フルメタル・パニック!
つづくオン・マイ・オウン
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)預言《よげん》と訪問《ほうもん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)損害|評価《ひょうか》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)君の言う死者の尊厳[#「死者の尊厳」に傍点]を
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[#挿絵(img/07_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/07_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/07_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/07_000c.jpg)入る]
目 次
プロローグ
1:預言《よげん》と訪問《ほうもん》
2:ヒート
3:損害制御《そんがいせいぎょ》
4:損害|評価《ひょうか》
5:石弓《いしゆみ》が砕《くだ》けるとき
エピローグ
あとがき(除湿仕様)
『つづくオン・マイ・オウン』スペシャル企画
四季童子イラスト・コレクション
[#改丁]
プロローグ
鉛色《なまりいろ》の空。彼方《かなた》で砕《くだ》ける波濤《はとう》の音。
ポーツマス近郊の海岸に面した、だれもいない墓地《ぼち》には、不規則《ふきそく》な十字架《じゅうじか》の列がどこまでも続いている。沈黙《ちんもく》する死者たちの中を、テレサ・テスタロッサはひとりで歩いていた。
手には二つの赤い花束《はなたば》。
一月の北大西洋の風が、頬《ほお》を冷たく刺《さ》す。
目的の場所はよく覚えていた。もうすぐだ。ほら……。
寄《よ》り添《そ》うように並《なら》ぶ、ふたつの十字架の前で、彼女はようやく立ち止まった。それぞれの表面に刻《きざ》まれた、両親の名前と生没年《せいぼつねん》。
テッサは膝《ひざ》を折り、そっと花束ふたつを左右に供《そな》えていった。
きょうで丸六年。
短いようにも、長いようにも感じる。
あれからたくさんの出来事があった。多くのものが変わってしまった。
暖かい団欒《だんらん》はもうない。無邪気《むじゃき》に学んだ膨大《ぼうだい》な知識《ちしき》を、自由に披露《ひろう》することもできなくなった。笑顔で挨拶《あいさつ》してくれた町の人々にも、もう会うことはないだろう。
そう、戻《もど》っては来ないのだ。
寄《よ》る辺《べ》をなくし、双子《ふたご》の兄の袖《そで》にすがって、ただすすり泣くだけだった幼《おさな》い少女も、どこかに消えてしまった。
狂《くる》ってしまった歴史の歯車《はぐるま》は、元には戻らないだろう。
力には責任《せきにん》が伴《ともな》う。だから自分は戦うことを選んだ。それがなにかを救うことにつながるかどうか――それさえ不確《ふたし》かなものだったが。
穏《おだ》やかな声がした。
「意外だね」
墓標《ぼひょう》の群《む》れの中に、若者《わかもの》が立っていた。波打つ銀色の髪《かみ》と、泉《いずみ》のように静かな瞳《ひとみ》。
彼――レナード・テスタロッサもまた、ふたつの花束を携《たずさ》えていた。
「でも、やっぱり来ていた」
「わたしも意外です」
特に驚《おどろ》いた様子もなく、テッサは言った。
[#挿絵(img/07_007.jpg)入る]
「あなたが、まだ父さんと母さんのことを覚えていたなんて」
「覚えているさ。それが問題なんだ」
レナードは無邪気なほほえみを浮かべた。
「大きくなったね、テレサ。前よりずっと強く、美しくなった。|あの玩具《TDD―1》を乗り回すのも、なかなかいい経験《けいけん》になったかな」
「ええ。とても」
テッサは目を据《す》え、口の端《は》を吊《つ》り上げた。
「部下を何人か失いました。これでわたしが何も学ばなかったら、彼らの命を侮蔑《ぶべつ》することになります」
「死人に名誉《めいよ》も尊厳《そんげん》もないさ」
「仮《かり》にそうだとしたら、あなたはなぜここに来たの?」
「テレサと話せると思ったんだ。それに――ここなら、君を連れていけるかもしれないとね」
「無駄《むだ》です。なぜなら――」
銀髪の少女は、首に巻いたマフラーに手をかけ、ゆっくりとほどいた。風を受けて、マフラーがはためく。
「兄さんはもう、わたしの敵《てき》だから」
次の瞬間《しゅんかん》、彼女の背後《はいご》の空間が揺《ゆ》れた。青白い燐光《りんこう》が生まれて舞《ま》い散《ち》る。そして大気の中からにじみ出るように、一機の白いASが出現した。ARX―7 <アーバレスト> 。
ECSを解除《かいじょ》した機体は、膝をついた姿勢《しせい》のまま、ショット・キャノンの銃口《じゅうこう》を、まっすぐ彼へと向けた。
だが同時に、レナードも優雅《ゆうが》に右手をかざしていた。まるでワルツの指揮者《しきしゃ》のように。
彼の背後でも、また同じ現象が起きた。小さな雷光《らいこう》をまとって、赤いASが瞬時《しゅんじ》に姿をあらわす。ヴェノム≠セ。
二人の兄妹がそれぞれ従《したが》える、二機の巨人《きょじん》。
向き合う銃口と銃口。寒風の吹きすさぶ中で、彼らは静かに対峙《たいじ》していた。
やがて、レナードがくすりと笑った。
「なるほど。覚悟《かくご》は済《す》んでるみたいだ。でも――きょうはやめておこう。ここでは君の言う死者の尊厳[#「死者の尊厳」に傍点]を汚《けが》すことになる」
ヴェノムが油断《ゆだん》なく銃口を構えたまま、レナードに左手を差し出した。彼は洗練《せんれん》された動作で、ASの手に腰掛《こしか》ける。
「さようなら、テレサ。そこの彼も」
ヴェノムが立ち上がる。舞い上がる風の中、テッサは叫《さけ》んだ。
「最後の警告《けいこく》よ。彼らに手を貸《か》すのをやめなさい」
「テレサ。君こそ、いい加減《かげん》に彼らを見限《みかぎ》った方がいい」
「思い通りなんて、ありえないわ」
「花束を頼《たの》むよ。置いてあげて欲《ほ》しい」
ヴェノムが後退《こうたい》しつつ、ECSを作動させた。
突風と粉塵《ふんじん》。閃光《せんこう》と衝撃《しょうげき》。
敵が消える。遠ざかる駆動音《くどうおん》。
だれもいない墓地《ぼち》に、テッサと <アーバレスト> は取り残された。
<<……大佐|殿《どの》。お怪我《けが》は>>
白いASの外部スピーカーから、その操縦兵《そうじゅうへい》――相良宗介《さがらそうすけ》の暗い声が響《ひび》く。
乱雑《らんざつ》に倒《たお》れた墓標の数々。彼が置いていったのだろう――落ちていたふたつの花束を拾いあげ、テッサは力なくつぶやいた。
「ええ……大丈夫《だいじょうぶ》です。撤収《てっしゅう》しましょう。ヘリを呼んでください」
[#改ページ]
1:預言《よげん》と訪問《ほうもん》
[♯990129_2342 IP:XX.XXX.XXX.155]
[♯title/パシフィと某《ぼう》都立高校]
[♯name/none]
[♯先月24[#「24」は縦中横]日のパシフィック・クリサリス号のシージャック事件《じけん》なのだが、けっきょくここの住人的にはスンアンのハイジャック事件と無関係ということになってるの? 同じ日にブッシュの息子《むすこ》が爆弾《ばくだん》で吹《ふ》き飛んだせいでほとんど報道《ほうどう》されなかったけど。同じ高校が偶然《ぐうぜん》巻《ま》き込《こ》まれただけってのは、いくらなんでも納得《なっとく》いかん]
[♯また陰謀厨《いんぼうちゅう》か。そのネタはうんざり。いい加減《かげん》にしろ]
[♯死ね!]
[♯マジレスすると、確かに不自然だわな。同じ高校が八か月の間に二度もテロに巻き込まれるなんて、普通《ふつう》はありえない。だが理由がないだろう]
[♯決まってます。某国《ぼうこく》の首席様のご意向です。我《わ》が国の大量の女子高生を悦《よろこ》び組に加えようと拉《ら》(以下略)]
[♯スンアンで最後に救助された女の子の詳細《しょうさい》希望]
[♯ただのブス。知る価値《かち》なし]
[♯そうか? 週刊誌《しゅうかんし》の写真は不鮮明《ふせんめい》だったが、かなり可愛《かわい》かったと思うが]
[♯しかも巨乳《きょにゅう》。俺は心の目で見た]
[♯気をつけろ。エシュロンが見張《みは》ってるぞ]
[♯最近のエシュロンは『巨乳』もキーワードに入れてるみたいでつね]
[♯エシュロンって何?]
[♯ぐぐれ]
[♯ネタではなく、マジでその娘《むすめ》が原因《げんいん》では? 父親が国連の高官だと聞いたが]
[♯千鳥《ちどり》環境《かんきょう》高等|弁務官《べんむかん》だろ。でもこの役職《やくしょく》は高官というほどのものではない。ニュースによく出る難民《なんみん》高等弁務官とは規模《きぼ》も予算も全然ちがう。出来たての小さな部署《ぶしょ》だよ。人質にするならもっと価値のある標的がたくさんいるはず]
[♯そもそも北朝鮮《きたちょうせん》とパシフィ号が繋《つな》がらん]
[♯つまりその千鳥タンは巨乳の美少女ということでOK?]
[♯写真アップ希望]
[♯初めてカキコします。大学時代の知り合いに某新聞の記者がいる者です。この前彼と久《ひさ》しぶりに飲んだところ、その話でグチってました。被害者《ひがいしゃ》の人権を考慮《こうりょ》して、問題の高校について取材するのを控《ひか》えるように上からしつこく言われたそうです。それでも取材をしようとした彼の同僚《どうりょう》は、タジキスタンの僻地《へきち》に左遷《させん》されました。あの学校には何かあります]
[♯何があるとw]
[♯だから言ってるだろ! 首席様が女子高生をご所望《しょもう》なんだよ! もし逆《さか》らったらテポドンが(以下略)]
[♯死ね]
[♯俺はむしろスンアン事件で生徒が撮《と》ったというM9の画像が気になる。最新鋭《さいしんえい》の高性能ASなんだろ?]
[♯あの写真はよくできた合成。M9はまだ米陸軍でもテスト段階《だんかい》だし、あんなデリケートな作戦で使うはずがない。だいたい持ってる単分子《たんぶんし》カッターがデカすぎるし、頭部のセンサーやブレードアンテナも、いまテスト中のM9と全然形状がちがう]
[♯だが初期のM9の計画案には、似た形の指揮官機《しきかんき》の想像図《そうぞうず》もあったはずでは?]
[♯それ。写ってるのはあの頃《ころ》発売された1/48[#「48」は縦中横]のイタレリのキット(絶版《ぜっぱん》)。名前もXM9のまんまなんだが。あのプラモは当時国防省が発表した想像図が元になってる。エッジがダルダルで不評だったんだけどねw 今のところ一番正確なのはタミヤのキット]
[♯F―19[#「19」は縦中横]を思い出すなあ]
[♯軍オタウザい。消えてくれ]
[♯俺の従兄弟《いとこ》がジンダイ高校の生徒なのだが、かなり変だと言ってるよ。従兄弟は三年生なので事件には巻き込まれなかったけど、その女の周りでは普段《ふだん》からトラブルが絶《た》えないそうだ。暴力《ぼうりょく》事件やボヤ騒《さわ》ぎも起きてるらしい。それがすべて不問《ふもん》に付されてる]
[♯そんなことよりイトコに聞いてくれ。その女は巨乳なのか?]
[♯うるせえよ]
[♯これはマジな話。千鳥氏は以前から医療廃棄物《いりょうはいきぶつ》の不法投棄《ふほうとうき》問題を調査してる。フィリピンの山中やらで、バイオハザードマークのついた袋《ふくろ》に入ってる注射針《ちゅうしゃばり》とかが大量に発見された件とかだ。日本の某企業や政府《せいふ》が組織《そしき》ぐるみで廃棄物を東南アジアに捨てているとも言われている。もともとNGO時代から敵が多かった千鳥氏は、何らかの勢力《せいりょく》から脅迫《きょうはく》されてるのではないか]
[♯だからといって娘の乗った飛行機や船をハイジャックか? いくらなんでも論理《ろんり》が飛躍《ひやく》しすぎ]
[♯その女は宇宙人《うちゅうじん》です。ベガ星からの電波を受信して、禁断《きんだん》のテクノロジーを地球にもたらしたのも彼女です。アーム・スレイブやステルス戦闘機《せんとうき》などは、すべてベガ星の技術《ぎじゅつ》なのです]
[♯電波|野郎《やろう》は消えろ]
[♯いずれにしても、その女は怪《あや》しい]
六時間目の体育館。大してやる気のない全校生徒たちの前で、壇上《だんじょう》の候補者《こうほしゃ》が、自身の抱負《ほうふ》を熱く語っていた。
『――しかるに! 現《げん》生徒会の閉鎖的《へいさてき》なやり方は、一部のクラブや委員会だけの利権《りけん》を守るためだけのものだと断言できます! ボクが当選した暁《あかつき》には、より自由な生徒会を実現し、明るい学校生活を約束します。どうか、この山田《やまだ》太郎《たろう》に清き一票を!』
まばらな拍手《はくしゅ》。坊《ぼっ》ちゃん刈りに眼鏡《めがね》をかけたその二年生は、肩《かた》を上下させ一礼すると、つかつかと演壇《えんだん》をおりていった。
『ありがとうございました。では次、二年五組の杉山《すぎやま》良一《りょういち》さんの公約です――』
舞台袖《ぶたいそで》のマイクに、生徒会書記の女子生徒がしっとりとした声で告げる。そのすぐ横を、アコースティック・ギターを肩に提《さ》げた軽音楽同好会の部員がすり抜け、演壇へと向かっていった。いつぞや、部室争いのナンパ合戦で宗介《そうすけ》に賭《か》けを持ちかけた生徒だ。
『ちわっす。立候補した杉山っす。俺が当選したら、この体育館で月イチのライブをやりたいっす』
(いいぞー!)
おもしろ半分の野次《やじ》が一部から飛ぶ。
『うっす。きょうはみんなのために、歌を作ってきました。聞いてください』
候補者はギターをつまびき、熱唱《ねっしょう》をはじめる。
教師《きょうし》たちは渋《しぶ》い顔だったが、口を挟《はさ》むことはできない。『民主的な選挙のため、演説の内容《ないよう》には一切《いっさい》口出しをしない』という取り決めが、いまの生徒会長と教師|陣《じん》との間で交《か》わされているからだ。
舞台|裏《うら》から素人《しろうと》のど自慢《じまん》を聞いていた千鳥かなめは、小さなため息をついた。
「……立合演説会っていうより、目立ちたがり屋の独演会《どくえんかい》ね、こりゃ」
「そうなのか?」
かたわらの相良《さがら》宗介が言った。油断《ゆだん》ない目つきで会場を見渡《みわた》し、手にした無線機《むせんき》にささやく。
「本部よりアルファ・ワンへ。異常《いじょう》はないか」
『こちらアルファ・ワン。異常はないですー。たぶん』
無線の向こうから一年生の備品係《びひんがかり》が応《こた》える。
「たぶん≠ナは困《こま》る。報告《ほうこく》は明確《めいかく》にしろ」
『了解《りょうかい》ー』
「そのまま警戒《けいかい》を続けろ。交信終了」
無線機を切った宗介を、かなめがちらりと横目で見た。
「……さっきから何をコソコソやってるの?」
「警備《けいび》だ。生徒会長選挙だからな。対立候補を狙《ねら》った暗殺《あんさつ》計画がないとは言い切れん」
宗介はこの学校の生徒会で、『安全|保障《ほしょう》問題|担当《たんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》』なる怪《あや》しげな役職を与《あた》えられていた。平たく言えばセキュリティ関係の責任者ということなのだが、実質は体《てい》のいい雑用《ざつよう》係である。だがこうしたイベントがあるたびに、宗介は自分の職務《しょくむ》をまっとうしようと、必要以上に努力してきたのだった。
「本来なら生徒全員に手荷物チェックと金属探知器《きんぞくたんちき》の検査《けんさ》を義務《ぎむ》づけたかったのだが」
「また厄介《やっかい》なことを……。暗殺計画なんてあるわけないでしょ? だいたいそんなことしたら、体育館にみんなが入るまで何時間かかると思ってんのよ」
「だから諦《あきら》めた」
「進歩してるんだか、してないんだか……」
とはいえ、宗介がこの学校に転入してきてもう九か月だ。さすがに最初のころほど、大げさな騒《さわ》ぎを起こすことも少なくなってきた。
「現生徒会での最後の仕事だ。最善を尽《つ》くしたかったのだが」
「最後の仕事、か……。まあ、これでようやく面倒《めんどう》な役職から解放《かいほう》されるけどね」
かなめは辛気《しんき》くささをうち消すように、強《し》いてさばさばとした口調で言った。
生徒会の副会長を務《つと》めてきた彼女は、今度の選挙には立候補していない。もうすぐ三年生になるし、そうなれば受験がある。もともと生徒会長や副会長は、一年生が三学期に就任《しゅうにん》して、二年生の大半を過《す》ごす慣例《かんれい》になっている。いまの生徒会長は三年生で、もうすぐ卒業することになるのだが、これはすこし変わったケースだ。
軽音部員の独演は続く。ちょうどサビの部分だった。どことなく尾崎《おざき》豊《ゆたか》のパクリっぽいメロディに、日本語ラップを混《ま》ぜたような感じだ。歌詞《かし》はいかにも素人臭《しろうとくさ》い。
君と過ごした毎日はまぶしく輝《かがや》く
ともに見た太陽のようで
交わしたあの笑顔のようで
でも時は流れもう戻らない
哀《かな》しみも怒《いか》りもいとしさもすべて
冬の体育館の空気は冷たかった。特に彼らのいる舞台裏《ぶたいうら》は、なぜか、ことさら寒かった。表で盛《も》り上がっている数百人の生徒たちから、ほんの一〇メートルくらいしか離《はな》れていないはずなのに。
「いやな歌だな」
いきなり宗介がつぶやく。彼がこんなことを言うのは珍《めずら》しかったので、かなめは少なからず驚《おどろ》いた。
「……これが?」
「ああ。不愉快《ふゆかい》だ」
「そうかなあ? 別に、どこにでもあるようなフツー〜〜って感じの曲だと思うけど」
「だが、いやな歌だ」
「そう……」
ひょっとして、機嫌《きげん》が悪いのだろうか?
かなめがそう思って、さりげなく半歩くらい距離《きょり》を置こうとすると、宗介がぽつりと言った。
「ただの感想だ。気にしないでくれ」
「うん」
演奏が終わった。拍手《はくしゅ》の中、軽音部員が壇上《だんじょう》から下がってくる。
「あと何人だ?」
「四人かな。すこし遅《おく》れてるけど、大丈夫《だいじょうぶ》そうだよ」
アナウンスの中、次の候補者《こうほしゃ》の女子生徒が演壇に出ていこうとする。前から生徒会の仕事を手伝っていた一年生で、水泳部にも入っている少女だ。さしずめ、お色気作戦というところだろうか――この寒い中で競泳《きょうえい》水着|姿《すがた》だ。小刻《こきざ》みに震《ふる》えるほっそりした肩。きゅっと引き締《し》まったお尻《しり》が、いかにも寒そうだった。心なしか、唇《くちびる》が紫《むらさき》がかっているようにも見える。
「あのー。大丈夫《だいじょうぶ》?」
「もちろん大丈夫です、千鳥センパイ!」
かなめがたずねると、少女は握《にぎ》り拳《こぶし》で不敵《ふてき》な笑顔を浮かべた。くるんと丸くて大きな瞳《ひとみ》の奥《おく》で、なにやら炎《ほのお》が燃《も》えさかっている。
「なんだか、震えてるみたいだけど」
「いいえ、これは武者震《むしゃぶる》いです! わたしはいまの生徒会から、未来を託《たく》された後継者《こうけいしゃ》なんですから。きっちり当選するためなら、これくらい全然平気です!」
「そ、そう。まあ、がんばってね」
「はい! 見ててください。必ず勝ちますから!……うっしゃあ!」
ぴしゃりと自分の頬《ほお》を両手で叩《たた》いて気合いを入れると、少女は颯爽《さっそう》と演壇に飛び出していった。
『こんにちはぁ! えっとお、今度会長に立候補したぁ、森川《もりかわ》唯《ゆい》でっす☆ わたしぃ、水泳部なんでぇ、ちょっぴり恥《は》ずかしいけど、こういうカッコで来てみましたぁ☆』
たちまち会場から、歓声《かんせい》やらどよめきやらが上がる。かなめが半《なか》ばあきれ顔でその様子を見ていると、宗介がぽつりと言った。
「学園祭のときのだれかに似《に》ているな」
確かにその少女の様子は、学園祭の『ミス陣高《じんこう》』コンテストで、かなめがみせたパフォーマンスを彷彿《ほうふつ》とさせるものがあった。
「……なにが言いたいのよ」
「いや」
そしらぬ顔で、宗介は無線機《むせんき》に手をのばした。
開票はその日のうちに行われ、六時|過《す》ぎには結果が出た。
窓《まど》の外がすっかり暗くなった生徒会室。かなめたちを含《ふく》めた生徒会の主要メンバーと、顧問《こもん》教師の立ち会いの前で、選挙管理《せんきょかんり》委員の二年生が開票結果を読み上げる。
「――高崎《たかさき》香《かおる》さん。一五七票。杉山良一くん。二一九票。えー……それで、森川唯さん。二四九票。無効《むこう》票が一二八票」
管理委員は言葉を切った。
「……以上です。よって、第五四代生徒会長は一年三組の森川唯さんに決まりました。これによって副会長は一年の佐々木《ささき》博巳《ひろみ》くん、書記は一年の曽我《そが》隆《たかし》くん、会計は一年の倉田《くらた》博史《ひろし》くん、会計|監査《かんさ》は二年の美樹原《みきはら》蓮《れん》さんとなりますー」
「おおー」
「お疲れさまー」
「よかった、よかった」
一同は儀礼的《ぎれいてき》な拍手《はくしゅ》を送った。当選《とうせん》した面子《めんつ》は生徒会室の常連《じょうれん》や、いままでもなんらかの役職についていた者ばかりなのだが、彼らは候補者なので席を外している。
「はい、けっこう」
顧問の教師――神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》がのんきに言って、執務椅子《しつむいす》に腰かけていた生徒会長に目を向けた。
「なんだかんだであなたの思惑《おもわく》通り、ということかしら、林水《はやしみず》くん?」
その生徒――第五三代生徒会長の林水|敦信《あつのぶ》は目を伏《ふ》せ、小さく肩をすくめた。怜悧《れいり》な容貌《ようぼう》の若者《わかもの》だ。長身・白皙《はくせき》。切れ長の目に上品な眼鏡《めがね》。鼻筋はまっすぐに通っている。
「私の思惑と生徒の票とは無関係《むかんけい》ですよ、先生。これはあくまで民主的な選挙です」
落ち着いた声で林水は言った。
下手な政治家などよりも、よほど優《すぐ》れた交渉力と人材運用力を持つ彼が、当選した森川唯を次期《じき》会長に推《お》していたのはだれもが知っている。演説会での水着サービスが効《き》いたのも確かだが、いまの生徒たちの多くが林水のこれまでの方針を選んだということも事実だった。
政策《せいさく》だの予算|運営《うんえい》だの、そんなに難《むずか》しい話ではない。
彼が会長を務めた二年間、実際《じっさい》に学校のみんなはいい目を見たのだ。
各クラブの備品や施設《しせつ》が改善《かいぜん》されたり、球技大会や体育祭や写生会にちょっとした優勝賞品が付いたり、文化祭の出し物についての数々の規制《きせい》が撤廃《てっぱい》されたり。図書室には音楽|雑誌《ざっし》やファッション雑誌が入るようになったし、パン屋の出張販売《しゅっちょうはんばい》も規模《きぼ》が拡大《かくだい》してメニューも充実《じゅうじつ》したし、昔は立入|禁止《きんし》だった屋上にも入れるようになった。休日の体育館やグラウンド、プールなどの開放もある。次年度からは、修学旅行の行き先についても生徒側に大きな発言権が与えられるようになった。
そうした諸々《もろもろ》の総和《そうわ》が、しっかりと評価《ひょうか》されたのだ。
「ただ、これで心おきなく卒業できる……というのも私の本音です」
林水の言葉を聞いて、神楽坂恵里は楽しそうに笑った。
「まったく、末恐ろしいわねえ。いずれは歴史に残るような名政治家! ってところかしら?」
「光栄ですな。もしそうなったら、晩年《ばんねん》の自伝には神楽坂先生についても恩師《おんし》として言及《げんきゅう》しておくとしましょう」
冗談《じょうだん》とも本気ともつかないような調子で、林水は言った。
「ありがと。でも、大人の社会をナメちゃいけませんからね?」
「肝《きも》に銘《めい》じておきます」
「それじゃ、選挙の結果は掲示板《けいじばん》にね。きょうはみんな、ご苦労様」
締《し》めくくると、恵里は生徒会室を出ていった。選挙委員たちやその他の数名も、めいめいに帰っていく。かなめも帰り支度《じたく》をしながら、林水に言った。
「やれやれ、終わっちゃいましたね」
「君もご苦労だったね、千鳥くん」
「いーえ。こちらこそ」
かなめはにっこりと笑った。
一年生の一学期、当時から会長だった林水に目を付けられて言いくるめられ、なんだかんだで生徒会の仕事を手伝わされて、しまいには副会長まで務めてきた彼女だったが――それも今週いっぱいで終わることになる。おおよそ一年半の縁《えん》だ。さすがに感慨《かんがい》深かった。
「相良くん。君にも感謝《かんしゃ》しているよ」
「いえ、会長|閣下《かっか》」
宗介が背筋《せすじ》を伸《の》ばす。
「会長閣下、か。だが来週からは私をなんと呼ぶのかな? ただの三年生だぞ」
すると宗介はわけもなく答えた。
「前・会長閣下です。来年|以降《いこう》は、元・会長閣下と呼ばせていただきます」
林水は苦笑《くしょう》した。
「では、君の敬意《けいい》に恥じることのないよう、今後の人生も振《ふ》る舞《ま》わなければならんな。だがとりあえずは、『先輩《せんぱい》』くらいで勘弁《かんべん》してくれたまえ」
「了解しました」
この二人が話すとき、かなめはいつも小さな疎外感《そがいかん》を感じる。単なる友情だとか、上司と部下の絆《きずな》だとか、そういうものとは違う関係なのだ。やはり『共感《シンパシー》』という言葉がいちばん近い。育ちも性格《せいかく》もまったく異《こと》なる、この二人の根底《こんてい》に流れるなにか――行動の規範《きはん》というか、価値観《かちかん》というか――情ではない基本《きほん》的な部分が、どこか通じているのだ。
だから互《たが》いに尊敬《そんけい》しあえる。
たぶん、もし万一、どちらかがその敬意に値《あたい》しない人間になったとしたら、そのとたん、この二人の関係は終わってしまうのだろう。
林水と宗介の関係は、クルツ・ウェーバーやメリッサ・マオ、アンドレイ・カリーニンなど <ミスリル> の人々とのそれと、本質的に同じなのだ。クラスメートの風間《かざま》信二《しんじ》や小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》、常盤《ときわ》恭子《きょうこ》、そして担任《たんにん》の神楽坂恵里たちとは違う。もちろん宗介はクラスの連中を侮《あなど》ったり疎《うと》んじたりしているわけではないが、彼らを『信頼《しんらい》』しているというのも違う。無垢《むく》なる友人として『信用』はしていても、『信頼』はしていない。いざというとき、彼は信二や恭子たちの力をあてにしようとはしないだろう。
だが、宗介は林水を信頼している。もしかしたら、頼るかもしれない。林水もまた然《しか》りだ。この九か月間に起きた珍騒動《ちんそうどう》の数々で、かなめはそれをよくわかっている。そういう意味で、林水敦信という人物はこの学校という社会の中できわめて異例《いれい》中の異例だった。
(強い者同士、つてことなのかな……)
漠然《ばくぜん》と、そう思った。
だったら、自分はどうなんだろう?
「千鳥?」
「へ?」
宗介の声で、かなめはわれに返った。
「どうした?」
「ううん、別に。……そういえは林水センパイ。さっき神楽坂センセとあんな話してたけど、ホントに政治家でも目指すんですか?」
「はっは。まさか」
林水は自嘲《じちょう》混《ま》じりに首を振《ふ》った。
「一〇〇〇人の相手と一億人の相手とでは、あまりに勝手が違いすぎる。中学の頃はそういう方面を考えた時期もあったがね。あの頃から、いろいろ経験して考えが変わった」
「って、いいますと?」
「人間に興味《きょうみ》を持った。政治|云々《うんぬん》とは違った、もっと別の意味での人間にね」
「…………」
かなめはふと、彼が死別したという、昔のガールフレンドの写真を思い出した。
「大学でいろいろ模索《もさく》しようと思っているよ。推薦枠《すいせんわく》で行ける国公立もあったのだが、ほかで気になる本を書いている助教授がいるのだ。彼のいる大学を受験しようと思っている。余興《よきょう》で模試《もし》も受けてみたが――まあ、まず問題はないだろう。入試当日に交通|事故《じこ》にでも遭《あ》わない限《かぎ》りは」
林水がそう言っている以上は、おそらく合格はまず確実《かくじつ》なのだろう。
「あ、なんかそういう余裕《よゆう》、ムカつくー。こっちはこれから、一年間勉強なのに」
「そうかな? 君も理数系の科目についてなら、どこだろうと[#「どこだろうと」に傍点]通用すると思うのだがね」
「え……」
かなめは一瞬《いっしゅん》、言葉に詰《つ》まった。
「定期テストの順位なら聞いているよ。二年の試験問題も読ませてもらった。悪質なひっかけ問題はさておいても――私でさえ、あんな完璧《かんぺき》な成績《せいせき》はとれないだろうな」
「…………」
林水の口調に、嫉妬《しっと》や嫌味《いやみ》はまったくなかった。そんな了見《りょうけん》の小さな男でないことは、かなめもよく分かっている。彼の口振《くちぶ》りは、単純な興味と疑問《ぎもん》から、かなめがどう反応するかを試《ため》しているような調子だった。
「……いや、失礼」
彼女の瞳《ひとみ》に浮かんだ深刻《しんこく》な色と、宗介のかすかな緊張《きんちょう》を察《さっ》したのだろう。林水はすこしだけ後悔《こうかい》したように目を伏《ふ》せ、小さく右手を振った。
「まあとにかく、自身の才能《さいのう》は大切にすることだ」
「あ……はい。そうですね。あははは」
後頭部を掻《か》いて作り笑いを浮かべる。
「じゃ、じゃああたし、そろそろ帰ります。ソースケは?」
「そうだな。帰るか」
「いや――相良くん。すこしだけ話がある」
帰り支度《じたく》を始めた宗介を、林水が軽い仕草《しぐさ》で制した。
「なんでしょう?」
「なに、簡単《かんたん》な用件だ。残ってくれ」
そう言って、彼はかなめと会計、ほか何人かの選挙管理委員たちを見渡した。かなめ以外の一同は、顔を見合わせてから『お疲《つか》れさま』とつぶやき、ばらばらに生徒会室を去っていった。残ったかなめに、林水の視線《しせん》が注がれている。
どうやら、自分も邪魔者《じゃまもの》らしい。
「はいはい。男の友情話って奴《やつ》ね。じゃあソースケ。玄関《げんかん》で待ってるから」
かなめは肩をすくめ、せめてもの親切心でそう言った。
「了解した」
「すまんね、千鳥くん」
宗介と林水を残して、彼女は生徒会室を出ていった。
かなめが出ていき、すこし待ってから林水が言った。
「立ち聞きはないかね?」
「ありません」
軽く意識を集中させてから、宗介は答えた。
「だが念のためだ。屋上に行こう」
林水は執務椅子から立ち上がり、生徒会室の片隅《かたすみ》にかけてあった鍵束《かぎたば》を手に取った。
「…………?」
二人は生徒会室を出た。開票作業に何時間もかかったため、すでに校内は真っ暗で、だれもいなかった。廊下《ろうか》は冬の空気で凍てつくようだ。二人は無言《むごん》のまま歩き、階段《かいだん》を上がり、南|校舎《こうしゃ》の屋上に出た。屋上への扉の錠前《じょうまえ》の開く音が、やけに大きく聞こえた。
冷たい空にはきらめく星々。もう夜だ。近くの都道を行き交いする車の、くぐもったエンジン音が響いてくる。
どろどろと不格好《ぶかっこう》な駆動音《くどうおん》をたてる空調装置《くうちょうそうち》のそばに立ち、林水が言った。
「相良くん」
コンプレッサーの微風《びふう》を受けて、彼の後れ毛が小さくそよいだ。
「これから話すことは、ただのお節介《せっかい》だ。細かい事情など何も知らない、ナイーブな友人の助言くらいに思って聞いて欲しい」
「…………はい」
引退間際《いんたいまぎわ》の生徒会長は、五、六秒ほど沈黙《ちんもく》してから、こう切り出した。
「そろそろ、無理《むり》だと思うよ」
その言葉の痛《いた》さ。その言葉の重さ。
予想通りの林水の言葉は、彼の胸をえぐるようだった。もちろん彼はこれまで、林水に <ミスリル> や自分、かなめの素性《すじょう》の話をしたことなどない。そうした会話は、一切なかった。避《さ》けてきた。
だが――
それらに関する様々な疑問に、この聡明《そうめい》な若者が思い至《いた》らないわけがない。
気付かないわけがないのだ[#「気付かないわけがないのだ」に傍点]。
「…………」
「君の問題ではない。もうすこし頑張《がんば》れば、君はまあまあ普通の男になるだろう。こちらの社会との折り合いを、君はもう充分《じゅうぶん》に学びつつある。じきに『ただの変わり者』――そういうレベルに落ち着くだろう。君がそれだけの努力をしてきたのは、私も見てきたからよくわかる。だが――」
ふと、林水は正面玄関の方角を見た。かなめが宗介を待っているはずの場所。
「――問題は彼女のことだ」
そうつぶやく彼の横顔は、これまで見たことがないほど暗く沈《しず》んでいた。
「彼女になにがあるのか、私は知らない。憶測《おくそく》や仮説《かせつ》を並べ立てる気もない。だが、君がここにいる理由や、いくつかの事件が起きた理由についてなら漠然《ばくぜん》と察しがつく。それはなにか? 彼女だ。すべて彼女が中心にいる。ハイジャックやシージャックだけではない。真に深刻な事件では、例外なく彼女が中心にいる」
[#挿絵(img/07_033.jpg)入る]
それは彼が少し調べれば――そして何人かの生徒に話を聞けば――すぐに分かることだった。
そう。
気付かないわけがないのだ[#「気付かないわけがないのだ」に傍点]。
「最初は、彼女の父親の役職が原因《げんいん》なのではないかと思った。だが違う。それでは説明がつかない。そして彼女を中心にした事件に出てくる、もう一つの要素《ようそ》は――必ず起きる君の不在《ふざい》と、所属《しょぞく》の知れないどこかの武装集団《ぶそうしゅうだん》だ」
「…………」
「それくらいのことしか、私は知らない。無理《むり》な詮索《せんさく》も控《ひか》えてきた。だが、私ごときでさえここまで感じたのだ。ほかの人々が騒《さわ》ぎ出すのは、時間の問題だと思う。……そして私も、来週からただの一生徒だ。来月には姿を消す。ただの好意から便宜《べんぎ》を図《はか》ることも、もうできなくなる。きょう当選した森川くんたちには無理《むり》だろう。さすがにそんな実力は彼女にはないし、それどころか、君たちの敵に回ることさえありうる。彼女らは、私がお膳立《ぜんだ》てしてきたこの楽園から、君たちを追放《ついほう》しようとするかもしれない。なぜか? わかるかね?」
「……俺と千鳥さえいなければ、ここはずっと安全になるからです」
「残念ながら、その通りだ。おそらく君の責任ではないのだろうが、クリスマスの事件を聞いたとき、私は本気でそれまでの自分の態度《たいど》を後悔《こうかい》しかけた。もし、生徒のだれかが傷《きず》ついたとしたら? 怪我《けが》をして、死んだとしたら? 私は――」
宗介の頬《ほお》が、ぐっとこわばる。
「あ……安全な作戦のはずだったんです」
とても我慢《がまん》しきれなかった。こと彼にだけは、弁明《べんめい》したくて仕方《しかた》なかった。機密事項《きみつじこう》など、もうどうでもいい。宗介は自らの狼狽《ろうばい》を抑《おさ》えつけるように、一方的にまくしたてた。
「彼女を……彼女を狙《ねら》う奴らの手がかりが必要だったんです。そのための作戦でした。俺たちはそれまでずっと後手《ごて》に回っていて……なんとかしたかった。連中の拠点《きょてん》や資金源《しきんげん》を潰《つぶ》せば、ちょっかいも止まる。なんとかなる。安全になるはずなんです。だから情報部と研究部が分析《ぶんせき》を進めています。もう少しなんだ。それだけの力が、俺の部隊にはあるんです。あとは時間だけが――」
「言っただろう。もはやその時間が尽《つ》きかけていると」
こんなに暗い林水の声を聞くのは、はじめてだった。
「そっ……」
「『だから出て行け』と言いたいのではない。最初に言った通り、これは助言《じょげん》だ。だが――事情を知らない私にも、結論《けつろん》は苦しいものになるのだろうと想像できる。……後継者《こうけいしゃ》も決まったいま、最後の気がかりが君と彼女のことなのでね。状況《じょうきょう》を伝えておきたかった。君は彼女と話し合うべきだと思う」
フェンスにもたれかかっていた林水は、どこか遠くを物憂《ものう》げな目で眺《なが》め、預言者《よげんしゃ》のような重たい声でこう言った。
「でないとこの後、ひどい後悔《こうかい》に苛《さいな》まれることになるぞ」
宗介は唾《つば》をごくりとさせた。
「俺は……ここが好きなんです」
「私もだよ。皆《みな》、愛すべき人々だ。彼らは素朴《そぼく》で善良《ぜんりょう》だが――やはり、普通の人間だ。おびえもするし、不安にもなる。そして――」
吐《は》く息が白かった。
「――残酷《ざんこく》にもなる」
一瞬《いっしゅん》、ぞっとするイメージが浮《う》かんだ。
敵意《てきい》だ。
クラスや生徒会、その他の人々の敵意の視線。寛容《かんよう》さのかけらもない、恐怖《きょうふ》の混《ま》じった敵意。陰湿《いんしつ》な敵意。恨《うら》みと責《せ》めと疎《うと》ましさ。その矢面《やおもて》にさらされる彼女の姿。
ひどく恐《おそ》ろしいイメージだった。
宗介の顔に浮かんだ苦悩《くのう》を読みとったのだろう。林水は小さく肩をすくめ、いつも通りののほほんとした口調に戻って、こう言った。
「だが、あまり悲観《ひかん》するほどの問題ではないかもしれんな。ここはあくまでただの学校だ。通過点《つうかてん》に過《す》ぎない」
「通過点……?」
「忘《わす》れがちなことだがね。人生は続くんだ。これから何十年も。……さて」
林水は宗介に屋上の鍵を手渡した。
なぜか、その鍵束はずっしりと重たかった。
「私は先に帰るとするよ。さっきから人を待たせている。鍵は君が返しておいてくれ」
林水は一人で屋上の出入り口へと歩いていった。戸口には、書記の少女が待っていた。会話を聞かれたようでもないようだ。
(待たせてすまない)
(いいえ、先輩)
(ここにいるとよく分かったね。探《さが》しただろう)
(ええ。実はちょっとだけ……ふふ)
黒髪《くろかみ》の少女がしっとりと微笑《ほほえ》む。彼女は遠くから宗介に軽く会釈《えしゃく》し、林水の後に続いて、屋上から姿を消した。
学校からの帰り道、宗介はほとんど無言のままだった。かなめの世間話に、気のない相槌《あいづち》を打つばかりだ。
(センパイと何の話だったんだろ?)
かなめはそう思ったが、なぜか問いつめるのははばかられた。そういう空気が、宗介からはぷんぷんと漂《ただよ》っていた。
「……でね? そのシオリの彼氏が、急に『別れたい』って言い出してきたんだって」
「そうか」
「変でしょ? ついこないだまで、あんなにラブラブだったのに。あたしも何度か会ったことあるけど、すごく真面目《まじめ》そうな人なんだよ? もうシオリの奴《やつ》、すごいテンパっちゃって。わけわからなくなって。夜中の三時にあたしんとこ電話してきたりして」
「ああ」
「それで、やっぱり理由は聞いておいた方がいいと思って、あたしがわざわざその彼氏に電話して聞いてみたら、もー、笑っちゃうのよ。なんか誤解《ごかい》してたみたいで、こないだ映画《えいが》行ったとき一緒《いっしょ》にいたオノDが……って」
「そうだな」
「あー、もうっ」
帰宅《きたく》ラッシュで混《こ》みあう電車を降《お》りて、駅からしばらく歩いたあたりで、かなめはうんざりしたように立ち止まり、うめき声をあげた。
「どーしたっての? あんたヘンよ? いや、いつもヘンだけど」
業《ごう》を煮《に》やしたかなめに詰《つ》め寄《よ》られて、宗介はようやく彼女の声が聞こえたかのように、目をしばたたかせた。
「すまん」
「む。ひょっとして、生徒会の仕事が終わったのが寂《さび》しかったりするわけ?」
「いや。別にそれは……。すこし考え事があってな」
「どんな考え事よ」
すると宗介は唇《くちびる》を引き結び、何かを言おうとして――けっきょく、首を小さく振った。
「なんでもない」
「なんでもなくないでしょ」
「そのうち話す」
「? 変なの……」
二人はふたたび歩き出す。
夜の商店街は寒々としていて、家路につく人々の足も自然と早かった。
こうして並んで帰るようになって、もうどれくらいだろうか。最初のころは、距離《きょり》をとって宗介が後を付いてくるような感じだった。その距離がだんだんと――ほんとうに一日ずつ、ゆっくりと狭《せば》まってきて、いつのまにか並んで歩くのが自然になった。それからたまに袖《そで》が触《ふ》れ合うようになったのは、いつごろからだっただろうか。
ふと、宗介が口を開いた。
「千鳥」
「今度はなに?」
「手をつなごう」
唐突《とうとつ》なその言葉に、かなめは耳を疑《うたが》った。
「え……手を……何て言った?」
「手をつなごうと言った」
なんなのだ、こいつは。まるでわけがわからない。さっきから終始無言で、今度はいきなりこれだ。やっぱりおかしい。それに――
「いやか……?」
「ベ……別に。いやじゃないけど」
「なら、いいな」
宗介は右手を伸《の》ばし、彼女の左手をそっと掴《つか》んだ。最初はおそるおそる。やがて、しっかりと。非常事態《ひじょうじたい》に手を握《にぎ》ったことは何度もあるが、こんなのは初めてだ。
「〜〜〜〜〜〜っ……」
耳が熱くなった。
かなめは気恥《きは》ずかしくて、思わずマフラーに顔を埋《う》めてしまった。
「わ……わかんないよ。急に……」
「俺もわからん」
すこしぎくしゃくとした歩き方で、かなめの手を引き宗介が言った。
「なんか、ヘン……」
「変か。そうだな。変だ」
それ以上はお互い言葉も出ない。
商店街のはずれに、小さな焼鳥屋があった。その前を通り過ぎるときに、店内から演歌が聞こえた。『矢切《やぎり》の渡し』。ムードはないけど、なぜか強く印象《いんしょう》に残った。
包《つつ》まれているような安心感。
彼の手は大きくて、温かかった。でも同時に、どこか心細そうで、むしろ彼女にすがっているような感じもした。なぜかはわからない。
後はあっという間だった。
二人は商店街を出て、住みかのマンション近くまで来た。二つのマンションが都道を隔《へだ》てて建っている。いつもの風景だったが、それさえ彼女には違って見えた。
普段《ふだん》なら、ここで別れてそれぞれの部屋に帰るわけなのだが――手を放すのがひどく寂《さび》しかった。
「あのさ……なんか、食べてく?」
そう言いながら胸中《きょうちゅう》で自分自身の言葉に驚《おどろ》く。いまのこの雰囲気《ふんいき》で、こんなことを言ってしまったら、その、かなり、ヤバいのではないか?
宗介も意外そうだった。
「……いいのか?」
「え……まあ、うん。きょうは……二人で打ち上げってことで」
「打ち上げか」
「うん。そういうのも……いいかも」
宗介は小さくうなずき、きゅっとその手に力をこめてから、かなめのマンションの方へと歩き出した。
エレベーターに乗っている間、二人は無言だった。
どうなってしまうんだろう。
こわい。でもわくわくする。
視界《しかい》が狭《せま》くなってるような気がした。心臓《しんぞう》がぱくんばくんと鳴っている。彼の手のひらにも、じんわりと汗《あせ》が浮かんでいるのがわかった。
共通|廊下《ろうか》を歩く。
自室の前まで来た。
彼の手を放さないように、鍵を取り出すのにまごついた。
「ご、ごめんね?」
「いや、すこし、手を放そうか」
「う、うん」
鍵を差しこみ、扉《とびら》を開ける。
玄関に入った。もたもたと靴《くつ》を脱《ぬ》いでから、もう一度手をつないで、寄り添《そ》うようにリビングへと向かう。
瞬間《しゅんかん》――宗介が動いた。
かなめの肩を強引《ごういん》に引き寄せ、背中に隠《かく》し、腰《こし》の後ろから拳銃《けんじゅう》を抜く。彼の全身が、それまでとは違った意味でこわばり、緊張《きんちょう》していた。
「え……」
ようやく彼女は気付く。暗がりの中、ソファーに若者《わかもの》が腰掛けていた。
黒ずくめのスーツ。
流れるような銀色の髪《かみ》。
その若者――レナード・テスタロッサは待ちくたびれたように、小さくのびをした。
「お帰り。千鳥かなめさん」
自分の油断《ゆだん》――ただそれだけとは、宗介自身も考えられなかった。
かなめのリビングにゆったりと腰掛けている銀髪の男は、いったいどうやって侵入《しんにゅう》を果たしたのか?
彼女の部屋に侵入する者を察知《さっち》、あるいは撃退《げきたい》するために、宗介は数々の警戒《けいかい》システムや罠《わな》をしかけている。そのすべてを、この男はくぐり抜けてきたということなのだ。
いや。
くぐり抜けた、などという苦労は微塵《みじん》も感じられない。まるで『鍵が開いていたので、お邪魔させてもらったよ』とでも言わんばかりの余裕《よゆう》だ。その手際《てぎわ》に、宗介はまず打ちのめされた。
そして、この男。
この若者を、宗介はすでに知っている。
レナード・テスタロッサ。
ほかでもない彼の上官、テレサ・テスタロッサの兄だ。彼女の両親の墓参りに同行したとき、遭遇《そうぐう》した。帰りの道中、テッサ自身から聞いた。<アマルガム> の人間であり、またおそらく宗介たちがさんざんに手こずってきた敵機《てっき》 <コダール> シリーズの設計者《せっけいしゃ》とも目されている。
どうしてここに? なにが目的で?
そうだ。わからない。
なぜわざわざ――かなめの部屋に?
胸の中で沸《わ》き立つものを覚えながらも、宗介は銃口《じゅうこう》をレナードに向けた。レーザー・サイトを起動《きどう》させ、彼の胸にぴたりとポイントする。
「動くな。両手をゆっくりと挙げて、立ち上がれ。従《したが》わなければ――」
「射殺《しゃさつ》する、だろう?」
レナードはうんざりしたように首を振った。
「おなじみの外交|儀礼《ぎれい》だね。やめようよ。僕も同じことを言いたくない」
「どういう意味だ」
「こういうことだよ」
リビングの奥《おく》のバルコニーで、かすかに動くものがあった。宗介の嗅覚《きゅうかく》や聴覚《ちょうかく》、そして戦士|特有《とくゆう》の第六感は、それをかろうじて拾《ひろ》うことができた。
二体。
完全に音をたてず、うずくまっていた何かが、ゆらりと身じろぎした。普通の人間には、ほとんど感じ取ることもないくらいの――かすかな気配だった。
大きい。そして、人間ではない。
まったく殺気のない脅威《きょうい》。機械だ。
(あのロボットを伏兵《ふくへい》に……?)
忘れもしない。彼らを取り囲んでいるのは、<パシフィック・クリサリス号> で戦ったロボット――超《ちょう》小型の等身大《とうしんだい》ASだ。通称《つうしょう》は <アラストル> だったか。かすかに動いたのは、レナードの意志《いし》だったのだろう。あえてその存在《そんざい》を宗介に知らせた上で、彼は見透《みす》かしたようにこう言った。
「それでも護衛《ごえい》≠ェ動く前に、僕の眉間《みけん》を撃《う》ち抜けると思っているんだろう?」
「…………」
「無理《むり》だよ、相良宗介くん。君はなかなか優秀《ゆうしゅう》な殺し屋みたいだけど――」
宗介は相手の言葉など開かずに、躊躇《ちゅうちょ》なく銃の|引き金《トリガー》を引いた。レナードの言った通り、宗介は『優秀な殺し屋』だ。おとなしく敵の話に耳を傾《かたむ》けるような真似《まね》はしない。相手がテッサの兄であることさえ、まったく考えもしなかった。
だが撃発《げきはつ》と同時に、レナードの眼前《がんぜん》で影《かげ》が踊《おど》った。その頭部の真ん中に命中するはずだった弾丸《だんがん》は、火花を散《ち》らしてかき消えた。彼の着ていた黒いコートが、鞭《むち》のように鋭《するど》く動いて銃弾を阻《はば》んだのだ。
「!?」
形状記憶《けいじょうきおく》ポリマーの一種だろうか? 何らかの手段《しゅだん》で瞬間的に動体を検知《けんち》し、反応《はんのう》する『アクティブな』防弾衣《ぼうだんい》ということか? だとして、どれくらいの火器まで防御《ぼうぎょ》することができるのか? 手榴弾《しゅりゅうだん》の破片《はへん》に対しては有効《ゆうこう》なのか? 火炎《かえん》は? 衝撃《しょうげき》は? ライフル弾は――
「ソースケ!?」
かなめが叫んだ。話も開かずに発砲《はっぽう》した彼を責《せ》めるような口振りだった。宗介にとっては、正体不明の防弾衣よりも、彼女の反応の方が驚きだった。
「ほら。彼女も無礼《ぶれい》はほどほどに、ってさ」
そう言ってレナードは笑った。硝煙《しょうえん》の匂《にお》いが鼻をつく。自分と彼女の関係を嘲笑《ちょうしょう》されたように感じて、首の後ろがぴりぴりとした。
「なんのつもりか知らないけど、すぐにあたしの部屋から出てってちょうだい」
険悪《けんあく》なかなめの態度《たいど》に、レナードは大げさに傷《きず》ついたような顔をした。
「そのつもりだけど、今夜は話し合いに来たんでね。もし良ければ、そこの番犬くんにはすこし我慢《がまん》してもらえないかな?」
「ただの番犬かどうか、いますぐ思い知らせてやるぞ……」
拳銃のグリップに力がこもる。防弾衣の存在《そんざい》を踏《ふ》まえた二の手、三の手が、すでに彼の頭の中では完成されていた。
「やめて、ソースケ」
「この男は敵だ」
「テッサのお兄さんなのよ?」
「関係ない」
「ソースケ……!」
なぜ俺を責める?
宗介の苛立《いらだ》ちはさらにつのった。
「妹のことなら気遣《きづか》い無用《むよう》だよ。でも、この部屋での流血はどうかと思う」
「…………」
「銃口を下げろとは言わない。話を聞いて欲しいだけだ」
短い沈黙《ちんもく》のあと、宗介は言った。
「話せ」
「ありがとう、えーと……サガラ軍曹《ぐんそう》だったね。僕はレナード・テスタロッサ」
「知っている」
「ああ、そう。さて――千鳥かなめさん。僕の用件は単純《たんじゅん》だ。これから荷物をまとめて、僕のところに来てくれないだろうか」
かなめはしばらく絶句《ぜっく》した。
「……なんですって?」
「いまの生活を捨《す》てて、僕と一緒《いっしょ》に来て欲しいんだ。心配は要《い》らないよ。もちろん丁重《ていちょう》な扱《あつか》いは保証《ほしょう》するし、それなりに自由で裕福《ゆうふく》な生活も約束する。君の知的|興味《きょうみ》を満たすだけの施設《しせつ》も用意されてるし、なによりも――完璧《かんぺき》な安全がある」
「言ってる意味がわからないわ」
「そうかな? これで充分《じゅうぶん》だと思うけど」
「バカにしてるの?」
「じゃあ、もう少し詳《くわ》しく話すよ」
レナードは小さなため息をついた。膝《ひざ》を組んだ足をぶらぶらさせて、窓《まど》の外――どこかずっと遠くに目をやる。
「僕の組織《そしき》が、そろそろ本気になってきた」
その言葉はどこか、林水が宗介に告げたあの言葉――『もう、無理だと思う』と同じ響きに聞こえた。林水のときと同じ、胃のあたりがきりきりとしてくるような不快感《ふかいかん》が、宗介を襲《おそ》った。
「どういうことだ」
「 <ミスリル> は頑張《がんば》りすぎたんだ。特に西太平洋戦隊はね。これまで君たちが撃破《げきは》したこちらの機体を挙《あ》げてみようか。<コダール> タイプのASが七機。<ベヘモス> タイプのASが一機。<アラストル> タイプが一三機。盗品《とうひん》だけど <ミストラル2> 一二機もある。……こうして考えるとすごい。こちらのやられっぱなしだね」
「…………」
「そして <パシフィック・クリサリス> だ。あれはまずかった。あの船自体の価値《かち》は、すでにあまり高くはなかったんだけど……それでも君たちに渡《わた》った情報《じょうほう》は大きかったんだ。じきに君たちは <アマルガム> に関係する国家や企業《きぎょう》、テロ組織やマフィアを次々に暴《あば》いていくだろう。そうなると、あちこちに迷惑《めいわく》がかかる」
「当然だ。ただの『迷惑』ではすまない思いをさせてやる」
「その頑張《がんば》りがまずかった、と言ってるのさ。これまで組織《アマルガム》は <ミスリル> の存在を重視《じゅうし》していなかった。発足当時からおおよその実体は把握《はあく》していたし、出来ることと出来ないこともよく理解《りかい》していた。その力が大きくなってきた時、適度《てきど》な形で枝葉《えだは》を切り取ることも考えていてね」
「ペリオ諸島《しょとう》での罠がそれか」
「そう。君たちの潜水艦《せんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> は、なかなか良くできた兵器システムだ。通常の軍隊ではあまり意味のない装備《そうび》だけど――そう、<ミスリル> が備《そな》えた条件《じょうけん》についてなら、理想的だと言ってもいい。しかもあの白いAS……えーと? 『ARX―7』になるのかな?」
「答える必要はない」
宗介が言った。
「名前くらい、いいじゃないか。ニックネームは? やっぱりまた中世の武器《ぶき》の名前なのかな。できそこないの|6《シックス》は『ハルバード』だったんだけど」
「…………」
あくまで無言の宗介。
「残念だな。君とは友達になれそうにないね」
「それ以上|戯《ざ》れ言《ごと》を続ける気なら、対話は打ち切りだ」
レナードは『やれやれ』と肩をすくめた。
「わかったよ。とにかく、そういうことさ。順安《スンアン》でも有明《ありあけ》でも、君たちが発揮《はっき》した力は組織の予想外だった。だから、理想的な形で『退場《たいじょう》』してもらおうとしたんだけどね。ペリオ諸島で片付《かたづ》けられると思っていたら、君たちはまた切り抜けてしまった。そこに今度は幹部《かんぶ》の裏切《うらぎ》りだ。ミスタ・| Fe[#「Fe」は縦中横] 《アイアン》――ガウルンのことだけど――彼の独走《どくそう》で、香港《ホンコン》のあの事件は起きた。あれには組織も慌《あわ》てたみたいだね。おかげで <コダール> タイプのASを6機も失ってしまった。最後まで人騒《ひとさわ》がせな男《ひと》だったよ、彼は」
「奴《やつ》を知っているのか?」
「すこしね。君のことが大好きだったみたいだよ。順安で会えて、嬉《うれ》しかったってさ」
「ふざけるな」
「本当のことなのに」
レナードが目を細める。少女のような、可憐《かれん》な微笑《びしょう》だった。宗介は舌打《したう》ちしそうになるのを、かろうじてこらえた。この男は、こちらを苛立たせるのを楽しんでいる。さっき、こちらの名前をどうにか思い出したような顔をしていたが、からかっていたのだ。ガウルンのことを知っていて、こちらの名前さえ知らないわけがない。
「まあ、いいか。……そして、あの客船というわけさ。とうとう君たちは先手を取るようになってきた。『退場』だの『制御《せいぎょ》』だのと言っていられる段階は過ぎた。そこから出てくる結論は簡単《かんたん》だ。敵は叩《たた》きつぶす。彼女《ヨブ》は奪《うば》う」
「ヨブ……?」
「彼女のコード名だよ。気にしなくていい」
「ちょっと待ってよ」
かなめが言った。
「つまり…… <ミスリル> はつぶして、あたしは拉致《らち》するってわけ?」
「つい先日、そういう方針《ほうしん》になってね」
レナードはうなずいた。
「これまで、君についてはしばらく様子を見る……ということになってたんだけど、そうもいかなくなった。組織はすでに、手荒《てあら》な方法でも構《かま》わないから、君を押《お》さえておこうと考えている。わかるかな……ここで言う、手荒な方法というのが」
言うまでもないことだった。これまでの持って回ったやり方ではなく、もっと直接的な――場合によっては血なまぐさい手段《しゅだん》だ。
「もう充分だよね? 僕がわざわざ、こうして君を迎《むか》えに来た説明は」
「事前に説得に来た、ってわけ……?」
「ああ。君のことが好きだから」
今度こそ、レナードが天使のような笑みを浮かべた。自分のことなどまったく居ないものだと思っているようなその笑顔に、宗介は銃弾をたたき込みたい衝動《しょうどう》をおぼえた。
「よくもぬけぬけと……」
「待って、ソースケ」
「なぜだ」
「いいから、待って!」
ぴしゃりと言われて、トリガーにかけた人差し指を止める。かなめは宗介の銃口をそっと押し下げながら、落ち着いた声でレナードに告げた。
「……分かったわ。ご親切にどうも。でもあたしには学校があるし、この生活も気に入ってるの。そしてなにより、あんたに付いていくなんて真っ平ごめんよ。何度も言ってるけど、あたしはあんたが大嫌いなの[#「あたしはあんたが大嫌いなの」に傍点]」
「千鳥……?」
「さあ。すぐにこの部屋から出ていって!」
宗介の声には応《こた》えず、彼女は言った。レナードはすこしの間、無表情でたたずんでいたが、やがて小さく肩をすくめて、ゆっくりと立ち上がった。
「冷たいな」
「当然でしょ?」
「あのこと、まだ怒《おこ》ってるのかい?」
「っ……」
「許《ゆる》してくれるって言ったのに」
「聞こえなかったの? 消えて!」
顔を赤くしてかなめが叫ぶ。そのやりとりを聞きながら、宗介はまた違った意味で混乱《こんらん》していた。
あのこと? 許した?
いったい、なにを?
「もう一度だけ言うよ」
レナードは二人に背を向けた。右手を軽く動かすと、バルコニーに潜《ひそ》んでいた <アラストル> が、ゆっくりと起きあがる。
「いい加減《かげん》に受け入れたらどう? 君は選ばれた人間で、すでに天才以上だ。なのに人々は舌先三寸で僕らを利用することしか考えていない。彼らのあごで使われるのが君の望みなのかい?」
「やめて」
「もう気付いてるはずだ。君の周りの連中が、どうしようもなく愚鈍《ぐどん》で間抜《まぬ》けなことに」
「出ていって」
「彼らの血のめぐりの悪さに、本当はいらいらしてるんだろう?」
「出ていって!!」
そう叫ぶかなめの瞳には、涙《なみだ》さえ浮かんでいた。
「では、そうするよ。警告《けいこく》はしたし。これから何が起きても、僕のせいにはしないで欲しいな。……ああ。それから相良くん」
バルコニーへのガラス戸を開けてから、レナードは一度振り返った。
「さっき、君たちを待っている時にね。退屈《たいくつ》しのぎでテレビのニュースを見てたんだ。イギリスで大量殺人の犯人が捕《つか》まったんだって。三五人、殺したそうだよ」
「それがどうした」
「簡単《かんたん》に調べた限《かぎ》りだと、君はその三倍以上殺してるはずだ」
「っ…………!」
かなめが息を詰《つ》め、肩をこわばらせた。
「どうしてだろうね。なのに君はたくさんの人に好かれている。彼女にも。一〇〇人以上も人を殺してる君が。そういうこと、みんな知った上で付き合ってるのかな……。これって、不公平だと思うよ」
悪意に満ちたいたずら――それだけでは済《す》まない複雑《ふくざつ》な何かを残して、レナードは部屋から消えた。
二人はしばらく真っ暗なリビングに棒立《ぼうだ》ちしていた。かなめが小刻《こきざ》みに肩を震《ふる》わせている。頼《たよ》りなさげなその姿が放っておけなくて、宗介はそっと彼女の背中に手を伸ばした。
「千鳥……」
「!」
彼女がびくりと上半身をのけぞらせた。一瞬《いっしゅん》、怪物《かいぶつ》でも見るかのように宗介を見つめ、それから小さく首を振り、作り笑いを浮かべてこう言った。
「あ……ごめん。だ……大丈夫《だいじょうぶ》だから。あの……あんな奴の言うことなんて、気にするのやめよ?」
「いや……」
宗介はもう、それ以上なにも言えなかった。
メリダ島|基地《きち》の司令センターで、宗介からの報告を受けたアンドレイ・カリーニン少佐は、すぐさまこう応《こた》えた。
「わかった。明朝まで、なんとかしのげ。それまでにこちらから輸送《ゆそう》ヘリを送る」
東京にいるよりも、このメリダ島|基地《きち》にかなめを移《うつ》した方が、ずっと安全だろう――そぅ判断《はんだん》した宗介からの要請《ようせい》だった。彼女も、しぶしぶながら承諾《しょうだく》してくれたという。
『明朝、ですか?』
通信の向こうの宗介の声は、わずかに怒気《どき》をはらんでいた。
『所定のルートを使えば、もっと早くピックアップできるはずです。あのレナードという男に、こちらの警戒を突破《とっぱ》された事態《じたい》を考えれば――』
「だからこそだ、軍曹《ぐんそう》。|こちら《ミスリル》が前から準備《じゅんび》していた脱出《だっしゅつ》プランは、使わない方がいい。すべて読まれていることを|覚悟《かくご》すべきだ」
『は……』
「おまえもSRTだ。それなりの備えはしてあるのだろう? そちらを使え」
宗介とて、ただ無為《むい》に東京での生活を過ごしてきたわけではないだろう。こういう場合のために <ミスリル> には無断《むだん》で、独自のルートでいくつかの車輌《しゃりょう》と偽装《ぎそう》武器庫、身を隠《かく》すためのセーフ・ハウス、偽造免許証《ぎぞうめんきょしょう》や身分証明書を用意してあるはずだ。SRTレベルの傭兵《ようへい》なら、だれでもやっているはずのことだった。わざわざ尋《たず》ねたことはなかったが、おそらくクルツやマオも同様だろう。
自分の身は自分で守る。
組織はあくまでそのツールでしかない。忠誠心《ちゅうせいしん》も大切だが、それに依存《いぞん》してはいけない。
『了解。やってみます』
「わかっているだろうが、尾行《びこう》には充分注意しろ。彼女の今後のことは、こちらに戻ってから大佐殿と相談していただく」
『はい』
「今後の通信は最小限にとどめる。以上だ」
カリーニンが通信を終えると、それまで会話を黙《だま》って聞いていたテッサ――テレサ・テスタロッサ大佐が小さなため息をついた。
いつも通りの制服姿に、アッシュ・ブロンドの三つ編《あ》み。その眉根《まゆね》には、深い憂慮《ゆうりょ》が浮かんでいる。
「こういう時が来るかもしれない、とは思っていましたけど……。いささか予想の範囲《はんい》外でしたね」
カリーニンはうなずいた。
「はい、大佐殿。ですが、納得《なっとく》ずくの措置《そち》のはずです」
「そうでしたね。彼女の意志《いし》は尊重《そんちょう》しておきたかったから」
「…………」
「それにしても……兄《あのひと》の考えがわからないわ」
テッサは自分の双子《ふたご》の兄が、わざわざかなめの部屋に姿《すがた》を見せたことに――そして『自分に付いてこい』と告げたことに、少なからず驚いていた。どういう余裕《よゆう》だろうか? 敵が一枚岩《いちまいいわ》でない可能性《かのうせい》もあるが、なにかの罠を仕掛《しか》けているようにも思える。
(ちがうわ。そういうことではないはず……)
そうか。
兄は彼女を本気で手に入れようとしているだけなのだ。その身柄《みがら》だけではなく、心までも。そうするだけの動機《どうき》はあるはずだったし、彼は自分にそれができると考えている。テッサの目からみれば、ひどく愚《おろ》かなことのようにも思えたが、彼はそう考えていない。自分があの二人に出していたちょっかい――つまるところは恋愛《れんあい》ごっこだ――そうしたものよりも、もっと深刻《しんこく》でほの暗いにおいが漂《ただよ》っている。
輸送ヘリを向かわせるだけで充分だろうか? だがあの兄のことだ。そう易々《やすやす》と、二人を拾わせて逃《に》がそうなどとは考えていないのではないか? 仮《かり》に彼が二人を見逃《みのが》す気だったとしても、こちらの手の内など平然と読んでいるはずだ。それを『組織』の別働隊《べつどうたい》に話さない保証は、どこにもない。
「 <アーバレスト> も一緒《いっしょ》に送りましょう」
テッサが言うと、カリーニンは眉《まゆ》をひそめた。
「なぜでしょうか。あくまで隠密《おんみつ》に二人を拾《ひろ》うだけならば――」
「それで済まない場合のためです」
「…………」
「何かがあったとき、効果地点《LZ》を確保《かくほ》すみのにASがあれば安心でしょう? 敵にはあのロボット―― <アラストル> があります」
「それならばM9で事足《ことた》りますが」
「向こうもそう思うでしょうね。だから敵はあの <コダール> を用意している可能性《かのうせい》もありえます」
「市街地で、ですか」
「場所を選ばないのが不可視型《ふかしがた》ECS装備のASでしょう? いずれにしても、サガラ軍曹がいなければ <アーバレスト> は普通のM9と変わりありません。ここで出し惜《お》しみしても意味はないわ」
カリーニンはかすかな逡巡《しゅんじゅん》を見せたが、すぐにうなずいた。
「了解しました。そうなると空中|給油機《きゅうゆき》が必要です。発進のご許可《きょか》を」
「もちろんです。急いでください」
「はい」
司令センターの部下に、手早く必要《ひつよう》な指示《しじ》を出す。それが終わると、テッサがつぶやいた。
「……サガラさんは、『敵が本気になってきた』と言ってましたね。これは焦《あせ》っていると見てもいいの?」
「わかりません。ですが、根拠《こんきょ》はあります。われわれは彼らをいらだたせるのに充分な働きをしてきました」
「でしょうね。でも――」
テッサは三つ編みの先っぽを握り、自分の鼻先をくすぐった。
「この敵は、それで済むような相手ではないのかもしれません」
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2:ヒート
その朝のシドニーは、やけに暑かった。
<ミスリル> 作戦部長、ジェローム・ボーダ提督《ていとく》は、いつも通りのスーツ姿《すがた》で、作戦本部付きの護衛要員《ごえいよういん》が運転するセダンに乗り自宅《じたく》を出たが、途中《とちゅう》で運転手にエアコンを強くするよう頼《たの》まなければならなかった。セキュリティ上の習慣《しゅうかん》から、通勤《つうきん》時間やルートは毎日ランダムに変えている。セダンは最新の防弾仕様《ぼうだんしよう》で、対戦車ロケットの直撃《ちょくげき》にさえ、ある程度《ていど》は耐《た》えられるように作られていた。
車内で定例の報告書に目を通しながら、ボーダ提督のセダンは、中心街のビルの一つに入る。警備《けいび》会社 <アルギュロス> の本社という建前《たてまえ》だったが、このビルこそが <ミスリル> 作戦本部だった。世界各地の部隊を統括《とうかつ》し、運営《うんえい》するための通信|施設《しせつ》や情報施設がこのビルには集中している。
それだけに警備は厳重《げんじゅう》だ。
このビルに本気で侵入《しんにゅう》しようと思ったら、たとえ一個中隊の歩兵部隊でも、大口径弾《だいこうけいだん》や対人地雷《たいじんじらい》、その他数々の洗礼《せんれい》を受けながら、三〇分以上はゲートの前で釘付《くぎづ》けになる覚悟《かくご》が必要だ。面倒《めんどう》な手続きを済ませてから駐車場《ちゅうしゃじょう》で車を降りると、ちょうど出勤《しゅっきん》してきたばかりの幹部《かんぶ》の一人、ワグナー大佐に出会った。
「おはようございます、閣下《かっか》」
五〇前のアメリカ人だ。海賊《かいぞく》船長のようなアイパッチに、右|脚《あし》を引きずる独特《どくとく》の歩き方。いずれも正規《せいき》軍時代の負傷《ふしょう》と聞いている。
「おはよう、大佐。けさはやけに暑いね」
「はい。空調関係の点検を徹底《てってい》させます」
「ただの世間話《せけんばなし》だよ。そういえば――ジャクソンはどうしたかね?」
「尋問《じんもん》の結果は三週間前に提出《ていしゅつ》しましたが」
「彼個人の話だ」
「まだ入院が必要でしょうな。いささか非人道的《ひじんどうてき》な手段《しゅだん》でしたので」
彼とボーダはエレベーターに乗って、上層階《じょうそうかい》へと向かった。
二人きりになると、ボーダはつぶやいた。
「八割方裏がとれた。まだ断定《だんてい》はできないが――ジオトロン社もまずいようだ」
「は……」
その意味を察《さっ》したのだろう。ワグナーの体が、わずかに緊張《きんちょう》した。
「アミットの奴《やつ》も様子《ようす》がおかしい。情報部《むこう》の報告《ほうこく》はそのつもりで扱《あつか》っておけ」
「まさか、将軍が……?」
「わからん。マロリー卿《きょう》も相変《あいか》わらずだし、こちらもいよいよ我《わ》が家《や》を引き払《はら》う時期《じき》かもしれん。だが、当面はここでも大丈夫《だいじょうぶ》だろう。そのために、毎日こうして面倒《めんどう》なセキュリティ手続きの歓待《かんたい》を受けているのだからな」
「はい。爆撃機《ばくげきき》でも使わない限りは、そう易々《やすやす》と手は出せません」
エレベータが二六階に着いた。
二フロアを使って設《もう》けられた司令センターには、すでに十数名の本部スタッフが出勤《しゅっきん》していた。薄暗《うすぐら》い広間。窓は一切《いっさい》ない。その代わりに、超《ちょう》大型のディスプレイの光がぼんやりと輝《かがや》いている。イージス艦《かん》の戦闘《せんとう》情報センターを大きくしたような部屋だった。
「これから忙《いそが》しくなるぞ、大佐」
部下たちの敬礼《けいれい》に応《こた》えながら歩き、ボーダはワグナーに言った。
「敵の指揮系統《しきけいとう》が、既存《きぞん》のものとはまったく異《こと》なるからな。そうでなければ、われわれがここまで後手《ごて》に回るはずがない。普通の情報網も兵器システムも、彼らの前では無力だ。あるいはテレサの言っていた通り――」
[#挿絵(img/07_067.jpg)入る]
そのとき、猛烈《もうれつ》な衝撃《しょうげき》が部屋を襲《おそ》った。
なにかの巨大《きょだい》な爆発《ばくはつ》。壁《かべ》が吹き飛び、スクリーンや機器《きき》が粉々《こなごな》になって、炎《ほのお》が膨《ふく》れあがり、見知った部下たちがばらばらに引き裂《さ》かれ、それらがまとめて一斉《いっせい》に、死の壁となって彼へと殺到《さっとう》した。
それ以上のことは、ジェローム・ボーダにはまったくわからなかった。
すでに朝だったが、一睡《いっすい》もしていない。使い慣《な》れたサブマシンガンを抱《だ》くようにして、宗介《そうすけ》はライトバンの運転席に身を埋《うず》めていた。
調布市《ちょうふし》の北に位置する大きな植物《しょくぶつ》公園――そこに隣接《りんせつ》する駐車場《ちゅうしゃじょう》だ。場内は閑散《かんさん》としていて、何台かの車がまばらに駐車してあるだけだった。エンジンは切っているので、車内はひどく寒い。
昨夜、ああした侵入を許した後に、かなめのマンションでのんびりする度胸《どきょう》など、さすがにない。カリーニンの指摘《してき》通り、宗介は個人的なルートで緊急時《きんきゅうじ》のあれこれを用意していた。メリダ島との通信のあと、手短に荷物をまとめると、以前から用意しておいた車に乗って、二人はその場を離《はな》れた。首都高速などを利用して、徹底的《てっていてき》に尾行《びこう》の可能性を排除《はいじょ》し、車も二回ほど替えた。
とりあえず、いまは安全なはずだ。
同じ <ミスリル> の情報部員である『もう一人の護衛《ごえい》』、コード名 <幽霊《レイス》> は、昨夜から連絡《れんらく》が取れなかった。レイスがレナードの侵入に気付かないわけがなかったが――いや、ひょっとしたら、昨夜の時点で『無力化《むりょくか》』されてしまったのかもしれない。いずれにしても、宗介はあのエージェントをあてにしてはいなかった。ここ数か月、自分が東京から不在になる時は、同じ <トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊のPRT要員《よういん》から交代に来てもらっていたのだ。
「ん……」
後部座席でかなめが動く気配がした。アウトドア用の毛布《もうふ》にくるまって、身を丸めている。
「いま何時?」
「八時前だ。すこしは眠《ねむ》れたか」
「うん……」
かなめは目を擦《こす》り、のろのろと身を起こす。きのうからずっと制服姿《せいふくすがた》のままだ。
「お風呂《ふろ》入りたいな……」
「諦《あきら》めろ」
「朝ご飯、どうする?」
「これだ」
宗介はポケットからカロリーメイトを取り出し、無造作《むぞうさ》に後ろへ放った。「ちょっ……」
「牛乳と野菜ジュースがそちらに置いてある。飲んでおけ。体力勝負になるかもしれん」
「でも、迎《むか》えのヘリをよこしてくれるんでしょ?」
「そのはずだが、念のためだ」
<ミスリル> が派遣《はけん》した輸送《ゆそう》ヘリは、この駐車場に直接降下《ちょくせつこうか》してくるはずだった。前から定められていたランデブー・ポイント――調布飛行場やいくつかの学校の校庭、多摩川《たまがわ》べりのグラウンドなどは避《さ》けることにした。
数時間前の通信では、ヘリは <アーバレスト> を積《つ》んでいるということだった。テッサの計らいだ。最悪の場合に備《そな》えてのことなので、使う機会《きかい》はないだろう。そうでなければ、困《こま》る。
「あのさ。着替えるから後ろ見ないでね?」
「わかった」
バックミラーをぐいっと曲げて、宗介は言った。背後《はいご》でごそごそと衣擦《きぬず》れの音がする。
「……でも困ったわ。着替えもほとんど持ってこなかったし。ハムスターのエサも心配だし。エアコンの電源切ったかも気になるし」
まるで、いままで通りに数日の外出だけで、自分の部屋に帰れるとでも思っているような口振りだった。
「…………」
「また帰って来れるんでしょ?」
宗介の奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》に気付いて、かなめの声が不安に曇《くも》る。
「それは……」
「なによ?」
「いや……」
真実を告げる勇気が出なかった。
きのうの林水《はやしみず》敦信《あつのぶ》との会話。すでに無理《むり》が来ていることは、宗介にもよくわかっていた。
<ミスリル> はこの九か月間、あちこちに手を回して彼女の社会的立場を守ってきた。巧妙《こうみょう》な情報|操作《そうさ》と圧力《あつりょく》、買収《ばいしゅう》、誤《あやま》った倫理観《りんりかん》からくる自主|規制《きせい》ムードなどを利用し、マスコミをたやすく沈黙《ちんもく》させた。地方自治体の関係者もだ。
インターネットには <ミスリル> のAIシステムが誤情報を流し続けた。
かなり正確な根拠《こんきょ》から『これは陰謀《いんぼう》だ』と書き込む者がいれば、『また陰謀|論者《ろんじゃ》がきたぞ』と反応し、同時に別の人間を装《よそお》って過剰《かじょう》に反応する。うんざりするような論戦や中傷《ちゅうしょう》を適度《てきど》にばらまき、人々の関心や論点を曖昧《あいまい》にしてしまう。最後までもっとも大事な要点《ようてん》を見逃さないでいられる者は、一〇〇人に一人だろう。その聡明《そうめい》な一人が疑問《ぎもん》を呈《てい》すれば、AIはパターンを巧妙《こうみょう》に変えて、また同じことをくり返す。人間は疲《つか》れるが、AIは基本的《きほんてき》に疲れない。そうして結論《けつろん》は出ないまま、『問題の少女』はぼんやりとした想像のベールの向こうに消えていく。大半の人々の記憶《きおく》に残るのは、『ああ、そんな噂《うわさ》もあったよね』――それだけだ。
これはなにも <ミスリル> に限らず、各国の諜報《ちょうほう》組織や巨大企業が行っている情報戦の一つだった。予算の潤沢《じゅんたく》な組織が、しかるべき人材と装備《そうび》を使えば、そう難《むずか》しいことではない。
だが、それにも限界《げんかい》はある。巨視《きょし》的な社会のレベルなら、かなめはやはり無個性な一個人でいられるだろう。しかし、わずか一二〇〇人という学校社会では、圧力も買収も情報操作も――効果《こうか》はさして期待《きたい》できない。彼らの素朴《そぼく》さ、善良さに頼《たよ》っていたところがあるのは事実なのだ。林水の言葉は、学校の人々を俯瞰《ふかん》してきた人間からの『実感』だった。
かなめを当たり前の、敵にとって価値のない人間に戻す方法はあるのだろうか?
それ以外、彼女が今後まともな生活を送る方法はないはずだ。宗介はそのことを、ずっと前から考えてきた。
たとえば。
かなめが知るすべての情報をレポートにしてもらって、匿名《とくめい》で世界中に公開してしまうのはどうだろうか? 重要なのは彼女ではなく、彼女が持っていると言われる技術情報なのだ。香港《ホンコン》の事件《じけん》のあと、宗介はテッサにそう提案《ていあん》してみたことがあった。すると彼女は、ひどく哀《かな》しげな、それでいてなぞめいた微笑《びしょう》を浮《う》かべてこう言ったのだった。
(サガラさん。だれかがそれを試《ため》さなかったと思いますか……?)
テッサは詳《くわ》しい経緯《けいい》を話そうとはしなかったが、結果としてその試みは無駄《むだ》だったという。金の鉱脈《こうみゃく》にむらがる人々に、いくばくかの金塊《きんかい》を差し出して、『これで全部だ。後はない』と言ったところで――彼らは手にしたつるはしやスコップを捨てないだろう。
つまり <|ささやかれた者《ウィスパード》> は、『鉱脈』を掘《ほ》り当てた幸運な人物などではない。
本質的に『鉱脈』そのものなのだ。
天賦《ギフト》ではない。|呪い《カース》なのだ。
この宿命から逃《のが》れる術《すべ》はない。
まったくない。
いったい、どうして、そんな残酷《ざんこく》な事実を彼女に告げることができるだろうか?
ハンドルを握《にぎ》る手にじんわりと力が入る。
「千鳥《ちどり》……」
宗介はきのうの帰り道、彼女に『手をつなごう』と言う直前、どうしても彼女に切り出せなかった言葉を告げようと努力した。
――なにもかも捨てて、二人で逃げよう。
もう、どうだっていい。だれも俺たちを知らないどこかへ行って、そこで名を変えてひっそりと暮らそう。貧《まず》しくてもかまわない。金などはいらない。食うのに困ったら、盗《ぬす》めばいい。この世界で何が起きようと、耳を塞《ふさ》いで生きていく。いつかは本当の意味で落ち着くことができるだろう。そうして俺と一緒《いっしょ》に平穏《へいおん》に――
自分と一緒に――
そのとき、レナードの言葉が浮かんだ。
(君はその三倍以上殺してるはずだ)
(一〇〇人以上も殺してる君が)
(これって、不公平だと思うよ)
事実だ。
普通の戦闘《せんとう》だけではなかった。泣いて逃げる敵の背中も撃《う》ったし、不安げな新兵を満載《まんさい》したトラックを吹き飛ばしたこともある。自分たちの痕跡《こんせき》を隠すために、命乞《いのちご》いする捕虜《ほりょ》を射殺《しゃさつ》したこともある。
楽しかったわけではない。どうしても必要なだけだった。
だが、事実なのだ。
東京で過ごした九か月は、彼に善《よ》きものだけをもたらしたわけではない。自分のこれまでの人生が、どれだけ血なまぐさく、薄汚《うすよご》れたものだったのかも自覚《じかく》させてしまった。
こんな自分を慈《いつく》しんでくれる人間がいるだろうか? 彼女と逃げる資格《しかく》が、自分などにあるだろうか?
まして平穏など。
彼女にとって、やはり自分は怪物《かいぶつ》なのだ。
「……どうしたの?」
「なんでもない」
けっきょく何も言えなかった。
深い溝《みぞ》を感じた。
あれからなにも変わっていない。自分と彼女は、いまだに九か月前の北朝鮮《きたちょうせん》の山中――あの暗闇《くらやみ》と雨の中をさまよっている。
「よし、と……」
かなめが着替え終わったようだ。断《ことわ》ってからバックミラーを戻すと、私服姿の彼女が、野菜ジュースの栓《せん》を回しているのが映《うつ》った。
「静かだね……ラジオでもつけない?」
「そうだな」
音量を控《ひか》えめにして、FMをつける。
陰鬱《いんうつ》で物悲しいデュエットが流れていた。局を変えようとも言い出さずに、彼女は音楽が終わるまで、無言でカロリーメイトをかじっていた。
『……はい。やっぱりいいですねえ。お届《とど》けしたのはピーター・ガブリエルの『マーシー・ストリート』でした』
男性DJの落ち着いた声が告げる。
『……つづいてもう一曲お届けする予定だったのですが……えー、緊急《きんきゅう》のニュースが入ったとのことです。報道《ほうどう》センターの小林《こばやし》さんがお伝えします』
女のキャスターに切り替《か》わる。
『はい、小林です。つい先ほどオーストラリアのシドニー中心部で、大規模《だいきぼ》な爆発《ばくはつ》事件がありました。AP通信から入ってきました速報《そくほう》によりますと、本日の日本時間七時半ごろ、シドニー中心街で大きな爆発音と共に、ビルの一つの二五階付近から火の手が上がったとのことです。死傷者などがいるかどうかの情報はまだありません。問題のビルは……えー、『アルギュロス』という警備会社が所有する本社ビルですが、これが事故《じこ》かテロかは、いまのところ分かっておりません。またこの企業に日本人が在籍《ざいせき》しているという情報はなく――』
アルギュロスのビル―― <ミスリル> の作戦本部が?
すぐに宗介は携帯端末《けいたいたんまつ》を取り出し、地上波テレビの画面を呼び出した。
朝のオフィスビル街。その一つから煙《けむり》が上がっている。どこか、別のビルの屋上からの映像だ。一目見て、外からなんらかの爆発物――おそらくは一〇〇〇ポンド級の爆弾が飛び込んだのだと分かった。それも数発。
どれだけの警備システムを備《そな》えていても、作戦本部はひとたまりもなかったことだろう。高々度の遠距離《えんきょり》から、GPS方式の爆弾でも投下《とうか》したのだろうか?
「なによ、これ……」
後ろから身を乗り出し、端末の画面を覗《のぞ》いていたかなめの声が震《ふる》えていた。
衛生通信機《えいせいつうしんき》を使って、メリダ島基地に連絡《れんらく》をとると、司令《しれい》センターの女性下士官が応答した。
「状況《じょうきょう》は?」
『わからないわ。作戦本部が爆撃《ばくげき》されたことだけ。あちらとは連絡がとれない』
緊張した声。シドニーのことだというのは、承知《しょうち》している様子だった。
『しかも、それだけじゃないの。地中海戦隊と南大西洋戦隊の基地とも音信不通で……インド洋戦隊の基地から警告《けいこく》が来てるの。ほんの五分前、あちらの基地に多数の巡航《じゅんこう》ミサイルが接近してると――』
瞬間《しゅんかん》、通信に強いノイズが入った。すぐに回復《かいふく》。
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
『……答せよ。ウルズ7……ああ、大丈夫。電波|妨害《ぼうがい》がかかってるみたい。E回線もD回線も……ああ、なんてこと』
「シノハラ?」
『ごめんなさい。少佐も大佐も手が離せないの。いまクルーゾー大尉《たいい》が――』
『いま変わった。私だ、軍曹《ぐんそう》』
かちっと小さな雑音。男の声が入る。SRTの指揮官《しきかん》、ベン・クルーゾーだった。
「大尉」
『まだ状況は把握《はあく》できていない。ほかの戦隊基地が襲撃《しゅうげき》を受けているようだ。|メリダ島《こちら》も警戒《けいかい》体制に入った。考えにくいことだが、これは総攻撃《そうこうげき》だ。どうなるかわからん』
「総攻撃?」
『わかっている。好きにはさせん。貴様《きさま》は予定通りゲーボ|9《ナイン》と合流しろ。可及的《かきゅうてき》すみやかに戻ってこい。いや……』
クルーゾーが通信の向こうで口ごもった。
『……取り消しだ。いまからでは間に合わん。待機《たいき》だ。ヘリと合流後、ポイント・ロメオ13[#「13」は縦中横]でこちらの連絡を待て』
間に合わない。彼らはおそらく一分一秒を争っているのだろう。こちらから向こうに最高速で向かっても、六時間はかかる。それでは意味がない。それよりは『 <アーバレスト> と相良宗介』という強力な予備《よび》兵力を、中間地点のロメオ13[#「13」は縦中横]――小笠原|諸島《しょとう》にある小さな私有地で待機させた方が賢明《けんめい》だ。
『いいな、軍曹?  <アーバレスト> は絶対《ぜったい》に守れ。 <エンジェル> もだ』
「了解《りょうかい》。それから大尉。昨夜、カリーニン少佐に伝えましたが、連中は本気です。気を付けてください」
雑音《ざつおん》が強くなった。
『少佐に、なんだと?』
「連中が――」
『聞こえるか、ウルズ7! 復唱《ふくしょう》を――』
雑音のトーンがみるみると大きくなっていき、通信が途絶《とぜつ》した。
「…………」
沈黙《ちんもく》。眉間《みけん》に深いしわを刻《きざ》む宗介の横顔を、かなめが不安げに見つめていた。
(総攻撃だと? 正気か?)
市街地にある作戦本部はともかく、はかの <ミスリル> の基地《きち》は難攻不落《なんこうふらく》の、一種の要塞《ようさい》だ。少々の爆撃ではびくともしない。そもそも、爆撃機の類が接近することさえ難しい。さらに、その兵力と装備、練度《れんど》と備蓄《びちく》、索敵《さくてき》能力。本気でメリダ島を陥落《かんらく》させるつもりなら、海兵隊一個|連隊《れんたい》の規模《きぼ》が必要になるだろう。さすがにそれほどの兵力を動かせば <|ミスリル《こちら》> がこの段階《だんかい》まで気付かないことはない。
(いや……)
敵にラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASがあれば。ある程度の技術的|優位《ゆうい》があれば。
考えてもみろ。敵は <ミスリル> の通信網にまで、電波妨害《ジャミング》をかけてきたんだぞ? だが、本当にそんな電波妨害が可能なのだろうか?
「どうなったの……?」
控《ひか》えめな声でかなめがたずねた。どこか、腫れ物に触《さわ》るような調子だった。
「メリダ島行きは中止だ」
「え?」
「あちらもどうなるか、わからない。危険だ」
「危険って……どういうこと?」
宗介が応《こた》える間もなかった。もう一つのFM通信機から、呼び出し音が鳴る。二人をピックアップにきた、西太平洋戦隊の多目的《たもくてき》ヘリ――|MH―67[#「67」は縦中横]《ペイブ・メア》のコールサイン『ゲーボ9』からだった。
デジタル式なおかげで受信はできるが、かなり信号が弱い。いや――そうではない。テレビの映像も乱《みだ》れている。どこもかしこもノイズだらけだ。付近|一帯《いったい》に強力な電波妨害がかかっているのだろうか? それどころか、もっと広い範囲《はんい》に電磁波《でんじは》の障害《しょうがい》が?
「こちらウルズ7。着陸地点《LZ》は確保《かくほ》している」
『ウルズ7へ。ゲーボ9は現在、アツギの近郊《きんこう》上空を通過した。ETA、ファイブ・ミニッツ。引き続きLZの確保を頼《たの》む』
ノイズの向こうから女の声がした。航空《こうくう》ユニット所属《しょぞく》のエバ・サントス中尉。これまでも数え切れないほど世話《せわ》になっている。彼女の声は宗介たち『乗客』にとって、まさしく天使の歌声だった。
「ウルズ7了解。LZの状況は……」
宗介は口ごもった。
背筋《せすじ》を冷たいものが走る。
「状況は……」
車窓《しゃそう》の外に注意深く目をやり、サブマシンガンのグリップに力を込めた。無線機《むせんき》を持った左手で、かなめにゆっくりと『身を低くしろ』とジェスチャーを示《しめ》す。
『どうした、ウルズ7』
「……ゲーボ9へ。現在《げんざい》、ウルズ7は包囲《ほうい》されている。例の <アラストル> タイプが最低でも五機。アサルトライフルで武装《ぶそう》した歩兵も発見した。四……五……六……最低でも八名。八〇メートル程度《ていど》の距離《きょり》で、北東の茂みに隠蔽《いんペい》している」
『くそっ、なんてこと。メリダ島だけでなく、そちらまで……』
「急いでくれ。頼む」
『ゲーボ9了解。なんとか持ちこたえて、ソースケ!』
「やってみる」
彼はサブマシンガンの安全|装置《そうち》をかちりと外した。最低でも、一対一三。戦術の原則《げんそく》を考えれば、もっといるだろう。
(やれるだろうか……?)
ほとんど無理《むり》だ。
だが、ほかに選択肢《せんたくし》はない。
「ソースケ……?」
「すまない、千鳥」
彼はつぶやいた。
「長い五分になりそうだ」
駐車場《ちゅうしゃじょう》の車内にいる宗介とかなめを取り囲みつつある敵《てき》。その数は、わかる限《かぎ》りでは一三以上だった。しかもその半数は、あのロボットたちだ。まともにやりあったところで、勝てる戦力ではない。
「シートに横たわっていろ。絶対に体を起こすなよ」
後部座席で不安顔をしているかなめに、宗介は言った。
「どういう――」
「聞いていなかったのか? 敵だ、脱出《だっしゅつ》する」
エンジンのキーを回すのと同時に、宗介はすばやく助手席側に身を倒《たお》した。
直後に被弾《ひだん》。鋭《するど》い音をたてて、防弾仕様《ぼうだんしよう》のフロントガラスに放射状《ほうしゃじょう》のひびが入る。予想通りの、運転手を狙《ねら》った狙撃《そげき》だ。敵も馬鹿《ばか》ではない。防弾ガラスを貫通《かんつう》した銃弾は、数瞬前まで宗介が頭をあずけていたヘッドレストを引き裂《さ》いた。
「っ!!」
後部座席のかなめが、ばらばらになったスポンジと合成革を浴《あ》びて、短い悲鳴をあげる。
「伏《ふ》せていろ!」
宗介は伏せたままの姿勢《しせい》でギアを入れスロットルを踏《ふ》み込み、車を急発進させた。夜の間、一時間おきにエンジンを暖気《だんき》しておいたので、立ち上がりはそれほどひどくなかった。タイヤが煙《けむり》をあげ、車体が路上を小さくすべる。さらに数発、別方向から銃弾が来た。運転席側のドアとボンネットに被弾。にぶい金属音《きんぞくおん》が車体を次々と叩《たた》く。
ステアリングを切りつつ身を起こし、駐車場の出口とは反対方向へと車を向けた。出口には敵の伏兵《ふくへい》が待ち受けているに決まっているからだ。
続いて右手から機関銃の掃射《そうしゃ》。足回りを狙《ねら》っている。その発砲音から五・五六ミリ|口径《こうけい》のドイツ製《せい》機関銃《きかんじゅう》だとすぐにわかった。大丈夫だ、その口径ならこちらの防弾タイヤは破壊《はかい》できない。車はそのまま加速《かそく》。駐車場の奥、金網《かなあみ》のフェンスに突進《とっしん》する。
正面に三つの影が躍《おど》り出た。黒いトレンチコートを着た巨漢《きょかん》。
<アラストル> だ。
ロボットがこちらに腕部《わんぶ》のライフルを向ける。ヘッドライトをハイビームに。宗介はそのまま突っ込んでいく。敵はひるまなかった。人間とは違う。正確な射撃《しゃげき》が運転席を襲った。フロントガラスが真っ白になる。宗介は身を折って射線《しゃせん》をかわす。スロットルをさらに踏《ふ》む。三体の敵が迫る。
激突《げきとつ》。
「ひゃっ……」
かなめの体が後部座席で跳《は》ねる。<アラストル> のうち一体は左に跳ねとはされた。だが残る二体は、その怪力と耐久力《たいきゅうりょく》に任せて車体にしがみついてきた。ボンネットと助手席側のドア付近――つまりすぐ眼前だ。
止まるわけにはいかなかった。すこしでも止まれば、すべてが終わる。
暴《あば》れ出すステアリングを強引《ごういん》に押さえ込み、勢《いきお》いに任せてフェンスに飛び込む。耳障《みみざわ》りな騒音《そうおん》と、まばゆい火花。激《はげ》しく車体が上下する。<アラストル> は振《ふ》り落とされない。ぶち破った金網を引きずりながら、車体が横|滑《すべ》りする。
息つく間もなく、飛び出した市道をまっすぐ走る。車はふたたび加速しはじめる。
助手席側の敵が、至近距離《しきんきょり》から防弾ガラスにライフル弾を浴《あ》びせかけた。破片《はへん》が飛《と》び散《ち》り、見る間にガラスがぼろぼろになっていく。ボンネットの敵は拳《こぶし》を振り上げ、すさまじい力でフロントガラスを殴《なぐ》りつけている。ガラスの次は運転手だ――
宗介は車を加速させたまま、ハンドルを切って市道の左側――民家のブロック塀《べい》に押しつけた。助手席側の <アラストル> が挟《はさ》まれ、がりがりと揺《ゆ》さぶられる。それでもなお、敵は窓枠《まどわく》を掴《つか》んで放さない。完璧《かんぺき》な無表情のまま、なおも宗介を攻撃しようとする。
車体を壁から引き離す。勢いを付けて、もう一度ぶつける。その <アラストル> はゴム紐《ひも》が弾《はじ》け飛ぶように放り出されて、アスファルトに叩きつけられた。
「ソースケ、正面!!」
安心する間もない。かなめの叫び声で前を向くと、もう一体の <アラストル> がフロントガラスを突き破《やぶ》り、宗介の胸《むな》ぐらに手を伸《の》ばそうとしていた。いや、掴もうとはしていない。その腕に内蔵《ないぞう》されたライフルの銃口が、すでに彼の頭の中心をポイントしていた。
「っ……」
力いっぱいブレーキを踏《ふ》む。車体がぐっと前のめりになって、敵が姿勢《しせい》を崩《くず》した。眼前でまばゆい発射炎。ぎりぎりで弾は彼の頭を逸《そ》れる。
目を閉じることはできたが、至近距離での発砲――ほとんど衝撃波《しょうげきは》のような銃声で、右耳がやられた。きーん、と耳鳴りがする。平衡《へいこう》感覚がおかしい。さらに硝煙《しょうえん》が目に入り、一時的になにも見えなくなった。頭がくらくらする――
「まだ前にいる!」
かなめの声が頼《たよ》りだった。手探りで助手席のサブマシンガンを掴み、敵へとフルオート射撃《しゃげき》する。さらにのけぞる敵。だが離れない。相手の手首とおぼしき位置めがけて、残りの全弾をたたき込む。なにかの破片が車内をはね回り、左腕に鈍《にぶ》い痛《いた》みが走る。
敵の手首がちぎれた。
涙《なみだ》のにじむ目をぬぐい、正面を見ると、<アラストル> はボンネットの上で危《あや》うくバランスを取っていた。右へ、左へと。ハンドルを大きく切る。ついに耐《た》えきれず、敵は車体から振り落とされた。
すぐさま加速。サスが、ギアが、異音《いおん》を立てている。後ろを確認《かくにん》しようとしたが、バックミラーはもうなかった。
「千鳥、怪我《けが》はないか!?」
吹き込む風の音に負けない声で、宗介は叫んだ。右耳がほとんど聞こえなかった。
「だい……じょぶ」
確認しているゆとりはなかった。黒塗りのセダンが追ってくる。交差点で右折、都道に入ろうとしたときに、ハンドルを持つ手がずるりと滑った。自分の血だ。左の肘《ひじ》から下が、べっとりと濡《ぬ》れていた。切符《きっぷ》くらいのサイズの金属片《きんぞくへん》が腕《うで》に突き刺《さ》さっている。ショックはない。冷酷《れいこく》な経験が『まだ動く』と告げている。手当は後だ。
片手でサブマシンガンの弾倉を交換しながら、赤信号を突破《とっぱ》。きわどいところで通勤|途中《とちゅう》のOLをひき殺しそうになる。
「ソースケ!?」
「止まればやられる!」
「っ……でも……」
「聞こえなかったのか、伏せていろ!」
がんっ! と車体に銃弾がぶつかった。追跡車《ついせきしゃ》の銃撃だ。朝の市街地だというのに、敵はお構《かま》いなしだった。
「あ、あたしが撃《う》とうか?」
「だめだ」
宗介は言下に否定《ひてい》した。
「君は撃つな」
「そっ……なんで――」
「銃には触《ふ》れるな!」
訓練《くんれん》もしていない彼女が撃ったところで、当たるわけもない。
それに彼女は銃を持つべきではない。
持ってはいけないのだ。
インド洋戦隊との通信回線も、完全に遮断《しゃだん》されたようだ。担当《たんとう》の士官《しかん》はあらゆる手段を試みている。民間の電話回線を介《かい》した通信さえ使ってみたが、それも駄目《だめ》だった。
「ただの電波妨害ではない。商用の衛星《えいせい》回線も使えないなんて……どういうこと?」
メリダ島基地の司令センター、その戦隊長席に腰掛《こしか》け、テッサはつぶやいた。昨夜から着替えもせず、仮眠《かみん》だけで待機《たいき》していたため、いつもはぴしりとしている制服姿も、いくらかくたびれている。
実の叔父《おじ》のように慕《した》ってきたボーダ提督《ていとく》の安否《あんぴ》が気がかりだったが、いま、そうした懸念《けねん》はおくびにも出すことができない。宗介とかなめのこともだ。
「地球|規模《きぼ》で起きている現象です、大佐殿」
せわしくパネルをつつきながら、通信担当のシノハラ軍曹が言った。
「ほとんどの偵察衛星《ていさつえいせい》―― <スティング> も使用|不能《ふのう》です。われわれのものだけではありません。商用衛星はもちろん、航法衛星《ナブスター》や通信衛星《コムスター》、『|鍵の穴《キーホール》』シリーズなど、アメリカ軍の使用する衛星もわれわれ以上の被害《ひがい》を受けています。先ほどまで各局で報じられていたシドニーの様子も、転送が不可能《ふかのう》になって途絶《とぜつ》している状態です」
テッサは歯がみした。
「太陽風ね。しかも非常《ひじょう》にまれな規模の」
太陽から放射《ほうしゃ》される電磁波の嵐――これが太陽風である。特にその黒点活動が活発になる時期、時として大規模の電磁波が地球に降《ふ》り注《そそ》ぐことがある。現在では、黒点活動の活発化は、観測《かんそく》によってある程度は予測できるため、『注意報』のようなものが日常的に出されている。防護《ぼうご》手段も進んでいるので、ほとんどの場合、そうした電磁波は人工衛星や地上の精密《せいみつ》機器にわずかな支障《ししょう》や誤作動《ごさどう》をおよぼすくらいで済む。
いってみれば、地震のようなものだ。そしてそのほとんどは微震《びしん》にすぎない。
だが、ごくまれに『大地震』が起きる。
この『大地震』の正確な予知《よち》はまったく不可能だ。可能性を察知《さっち》し、リスクを下げる努力はできても、それが正確にいつ起きるのかだけは決して分からない。株価《かぶか》の大|暴落《ぼうらく》のように。疫病《えきびょう》の大量発生のように。
そうした桁《けた》外れの太陽風が地球に襲いかかった場合、その被害はある面で核《かく》爆発の電磁パルスにも匹敵《ひってき》する。人体への影響は軽微《けいび》でも、精密電子機器は相当のダメージを被《こうむ》るのだ。これは有線通信さえ例外ではない。
もちろん復旧《ふっきゅう》は可能だ。ごく短時間で誤作動や支障は改善《かいぜん》される。
それでも、ある程度は時間がかかる。
「現在、衛星回線や電離層《でんりそう》を利用した遠距離の通信手段は、軍用・商用を問わずほとんど使用不能です。VHFとELFは生きていますが……。またインターネットでも各所でサーバー・ダウンが発生しており、混乱《こんらん》と過負荷《かふか》の悪循環《あくじゅんかん》に陥《おちい》っています。米西海岸からインド洋西岸にかけての地域《ちいき》では、商用・軍用の双方《そうほう》の航空管制に大きな混乱が。いずれは復旧するでしょうが、こんな太陽活動は観測史上でも――」
「問題は太陽風そのものではない」
副長のリチャード・マデューカス中佐が言った。普段《ふだん》から気難《きむずか》しい男だが、いまはそれがさらに厳《きび》しく緊張している。
「似《に》たようなトラブルは私も経験している。こういう天災《てんさい》のときは、敵も味方も戦争どころではなくなるのだ。しかし、敵はそれに乗じてきた[#「敵はそれに乗じてきた」に傍点]。それこそが問題だ」
予測不可能な『電磁波の大地震』。
敵はそれに合わせた上で、<ミスリル> の各|拠点《きょてん》に総攻撃を仕掛けてきたのだ。
「敵がある程度の予測《よそく》手段を持っていたとしても――博打《ばくち》にしては分が悪すぎる。君はどう思うね、少佐」
SRT(特別対応班)のクルーゾー大尉と、基地の警戒体制についてやりとりをしていたカリーニン少佐に、マデューカスはたずねた。
「は……」
カリーニンは振り返り、すこし押し黙ってから、ごく無表情で首を横に振った。
「いまは……警戒あるのみかと」
「そんなことは分かっている。君の意見は?」
「わかりません。私は――」
彼らしからぬ態度《たいど》に、テッサは眉をひそめた。
「少佐?」
「いえ。いずれにせよ敵が来るとしたら、すぐでしょう。使用可能な多目的ヘリは、すべて哨戒《しょうかい》任務にあたるよう指示を出しました。対空|装備《そうび》も必要でしょう。|AMRAAM《アムラーム》装備のFAV―8を五機――」
そのとき、対空警戒システムを担当する士官が叫《さけ》んだ。
「来ました、超高速の巡航《じゅんこう》ミサイルです。8基。区域《くいき》D4。距離七〇マイル。マッハ6・3。着弾までおよそ――」
「六五秒よ。迎撃《げいげき》。第一警報発令。地上観測所の人間を、すべて待避《たいひ》させなさい」
すぐさまテッサは命令する。訓練《くんれん》以外では一度も使ったことのない空襲《くうしゅう》警報のサイレンが、ぞっとするような音色《ねいろ》で響《ひび》き渡った。司令センターの照明が赤色灯に切り替わり、スクリーン上には『RED ALERT 1』の文字が絶《た》え間なく流れていく。
「航空管制。滑走路《かっそうろ》のゲーボ6は機を捨て待避。周囲の地上|要員《よういん》もよ」
「りょ、了解。滑走中のゲーボ5は――」
「緊急離陸。可能な限り高度をとらせて」
「了解」
テッサが命じる間にも、スクリーン上の光点――超高速ミサイルはメリダ島に迫る。
亜音速で飛行する <トマホーク> 型の巡航ミサイルは、すでに一世代前の兵器になりつつある。最新鋭の <ファストホーク> は、高空から超高速――迎撃が困難な速度で追ってくる。こちら側の迎撃ミサイルでは、防ぎきれないだろう。警戒レーダーが半分以下の性能になっていなければ、まだ打つべき方策《ほうさく》はあったかもしれないが。
だが、敵がそんな装備を持っていることに驚いたり、こちらのハンデに泣き言をもらす時間さえ、テッサには与《あた》えられていなかった。いまの彼女に許《ゆる》されるのは、救える人員を救って、できるだけこちらの被害を抑《おさ》えることだけだ。
『――警報。複数《ふくすう》の超高速ミサイルが当基地に接近中。すべての地上要員は作業を放棄《ほうき》し、地下区域へ待避せよ。これは訓練ではない。繰り返す、これは訓練ではない――』
AIがアナウンスを淡々《たんたん》と告げる。
この司令センターを含《ふく》め、メリダ島基地の多くの施設《しせつ》は地下に設《もう》けられている。タイフーン級|潜水艦《せんすいかん》を運用するソビエト連邦《れんぽう》の、コラ半島・グレミカ基地に範《はん》を取った構造《こうぞう》だ。
テッサが細かい指示《しじ》を出している間にも、メリダ島の対空ミサイルが稼動《かどう》し、敵ミサイルを迎撃すべく発射されていく。映像はない。音もない。スクリーン上に表示された緑の輝点《きてん》が、けなげな速度で敵ミサイルに近づいていく図形だけだ。
大変な努力なのだろう。ごくごく冷静な声で、担当士官が報告する。
「三基の迎撃に成功。残りは依然《いぜん》接近中」
そこでもう一人の士官が言った。
「敵の第二波を探知《たんち》。区域E4。九から一二基。距離八五――」
「全弾で迎撃」
「了解。BOLで第六から第九まで発射」
発射可能な残りの全弾が、島の各所に設けられたミサイル・ランチャーから飛んでいく。出し惜《お》しみする理由はない。これから来る第一波の着弾で、いまある地上の迎撃システムはほとんど破壊されることだろう。
「だ……第一波、着弾まで五秒」
「落ち着きなさい」
やるべきことはすべてやった。
テッサは座席に背を預《あず》け、軽い吐息《といき》をつく。古強者《ふるつわもの》の指揮官でも、なかなか出せないような貫禄《かんろく》だった。
「核なら一瞬よ」
スクリーン上の光点がメリダ島と重なった。
はじめて――本当にはじめて、戦争らしい衝撃《インパクト》が司令センターを襲った。
黒塗りのセダンが真横につけてきた。
衝撃《しょうげき》。
力任せにぶつけられて、車体がスピンを起こしそうになる。抵抗《ていこう》するハンドルを片手でねじ伏《ふ》せ、宗介は窓からサブマシンガンを突き出した。
発砲。
徹甲弾《てっこうだん》が追跡車の運転席側に降《ふ》り注ぎ、防弾ガラスが穴《あな》だらけになる。敵も撃ってきた。その射線を急ブレーキでしのぎ、弾倉《だんそう》に残った全弾をたたき込む。
敵の車内で血しぶきが飛んだ。運転手だ。黒塗りのセダンがぐらりと傾《かたむ》き、遠のくかのように見えた。だがその直後、敵は路肩《ろかた》につっこむのを避《よ》けようと切り返してきて、こちらの右後ろに衝突《しょうとつ》した。車体の尻《しり》がけっ飛ばされ、一気にバランスを失う。
かなめが裏返った悲鳴《ひめい》をあげていた。
宗介は冷静にカウンターをあてて、なんとか回復を試みる。無理《むり》だった。正面にのろのろ運転のトラック。避けきれない。
巨大なハンマーで殴《なぐ》られたようなショックとともに、今度こそ車体が完全にコントロールを失った。外の景色――朝の都道が激流《げきりゅう》となって回転し、いつのまにか天地さえもが入れ替《か》わっていた。
さかさまでアスファルトに叩きつけられ、こすりつけられた天井《てんじょう》が、異様《いよう》な悲鳴をあげる。そのまま車は交差点まで滑り続け、やがてその中央で止まった。
「……っ」
頭が、肩が、ずきずきと痛んだ。金属の焼けた異臭《いしゅう》が鼻腔《びこう》をつんと刺《さ》す。
「千鳥?」
かなめは答えない。
「千鳥!?」
ゆがんだ運転席のドアは開かなかった。目に付いた装備をかき集めてから、窓から這《は》い出す。追跡車も横転して、六〇メートルはかり後方で水蒸気《すいじょうき》を吹き出していた。その向こうには、自分がぶつかったトラック。
「お、おい……きみ、大丈夫か?」
すぐそばに停まった車の運転手が、心配そうな顔でこちらに近づいてくる。傷だらけ、血まみれの宗介が手にしたサブマシンガンと、車体を覆《おお》う無数の弾痕《だんこん》に気づいて、サラリーマン風の相手はぎょっとした。
「どけ」
その男をおしのけ、サブマシンガンを両手で構《かま》える。追跡車から這い出してきた遠くの敵めがけて、立て続けに三|連射《れんしゃ》。敵は倒れ、動かなくなる。
「ひっ……!?」
男が腰を抜かし、遠巻きに様子を見ていた野次馬《やじうま》たちが悲鳴をあげて逃げまどう。自分の凶行《きょうこう》で起きた混乱《こんらん》に構いもせず、宗介は跪《ひざまず》いて後部座席をのぞき込んだ。かなめは逆《さか》さまになった天井の上で、ぐったりと横たわっていた。見た限りでは、目立った外傷はない。
「ちど――」
もう一度『千鳥』と叫ぼうとしたが、後ろの男に聞かれるのでやめた。そうすることで、まだ彼女が普通の生活に戻れる可能性が残るのではないか――そんな空《むな》しい考えが脳裏《のうり》をよぎった。
割《わ》れた窓から上半身をつっこみ、かなめの体を引きずり出す。
「しっかりしろ」
「これで何回目かしら……」
彼女は朦朧《もうろう》とした声をもらした。
「あんたの運転する車には……もう二度と乗らない……」
「悪いが、身を守るためなら何度でも乗ってもらう」
遠くでタイヤの悲鳴。さらに二台のライトバンが、事故現場へと近づきつつあった。
「立てるか」
「なんとか……」
「走れるか」
「そうするしかないんでしょ?」
「肯定《こうてい》だ」
かなめの鞄《かばん》を肩にかけると、宗介は彼女の腕《うで》をつかんで走り出した。ほっそりした脚《あし》をもつれさせそうになりながら、かなめはふらふらと後に続く。
路地《ろじ》に入って西へと向かう。車はこれでなんとかしのげるが――敵の包囲網《ほういもう》が心配だった。なんとか、一秒でも早く西へ急がなければならない。あとすこし走れば、大きな自然公園がある。そこならヘリが着陸できるだろう。
宗介は走りながら通信機を操作《そうさ》し、サントス中尉に連絡《れんらく》をとろうとした。
「ウルズ7よりゲーボ9へ、聞こえるか」
『こちらゲーボ9。聞き取れない。現在位置を報告《ほうこく》せよ。繰り返す、現在位置を――』
「LZを変更《へんこう》する。三キロ西の公園で拾《ひろ》ってくれ。繰り返す、三キロ西の――」
強いノイズとビープ音。そして沈黙。
だめだった。
破片か跳弾《ちょうだん》か衝撃か――なにが原因《げんいん》かはわからなかったが、通信機はそれ以上まともに作動しなかった。文字化けした意味不明の記号が、画面を埋《う》め尽《つ》くすばかりだ。
「くそっ」
通信機を放り捨てる。暗号データの保安など、構っていられる時ではなかった。
住宅街の中の細い市道に出て、さらに走る。どこかで犬が吠えていた。角で出くわした近所の主婦が、悲鳴をあげてゴミ袋《ぶくろ》を落とす。
「待って……足首が……」
かなめがよろめく。懇願《こんがん》するような声だった。
「だめだ」
「痛《いた》いの」
「我慢《がまん》しろ」
乱暴《らんぼう》に彼女の手首を引きながら、宗介は背後に銃を向けた。民家の塀《へい》を音もなく乗り越《こ》え、<アラストル> が一体、姿を見せる。
頭部を狙《ねら》って射撃。敵は両腕をクロスさせ、センサー部分を護《まも》った。その隙《すき》に手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出し、口で安全ピンを抜く。アンダースローで放り投げつつ、きびすを返してかなめの腕を引く。手近な電柱の蔭《かげ》へ。手榴弾が <アラストル> の足下《あしもと》に転がり、爆発した。
乾《かわ》いた爆音と衝撃波。飛び散《ち》った手榴弾の破砕片《はさいへん》が、電柱やブロック塀に当たってはね回る。
「っ……」
煙《けむり》が路上《ろじょう》にたちこめた。敵がどうなったか確認《かくにん》する間もない。宗介はすぐに走り出す。どうせ効《き》いたとしても、足止め程度《ていど》だ。
「あ……あああ――――! わあああ――!」
路上で中学生くらいの少年が倒《たお》れて、右足を押さえ、泣き叫んでいた。通学路を歩いていたところで、遠くから飛んできた爆発の破片を受けたのだろう。気の毒だが、構っている暇《ひま》はない。宗介はかなめの手を引き、両手を真っ赤に染《そ》めた少年の脇《わき》を駆《か》け抜ける。
「なんてことを……!!」
かなめの声はこわばっていた。
「巻《ま》き込んだのよ!? わかってるの!?」
「ではあのまま死ねば良かったのか!?」
「そっ――」
「考えるな、走れ!」
青ざめ、戦慄《せんりつ》する彼女に構いもせず、宗介はなおも道を急いだ。
敵の包囲網は完成しつつある。どの方角から襲われてもおかしくない。敵も馬鹿ではない。次に来られたらおしまいだろう。唯一《ゆいいつ》の逃げ道は西だけだ。そしてそのトンネルの出口さえも、いまや徐々《じょじょ》に閉《と》じていこうとしている。
遠くから救急車のサイレンが聞こえた。住宅街を抜けて、道路を横切る。
つつじの植え込みを乗り越《こ》えて、自然公園に入った。冬の桜《さくら》の木々が、寒空の下に裸《はだか》の枝《えだ》をのばしている。
上空から、ヘリのローター音が聞こえる。
味方のヘリだ。サントス中尉の <ペイブ・メア> 。天使のはばたきにも似た、妙《たえ》なる調べ。どうやってか、こちらの動きを掴《つか》んでくれたらしい。
「いいぞ……」
先ほど手榴弾を見舞《みま》ってやった <アラストル> が、ぎこちない動作でなおも追ってきた。左後方――七時の方向からは、ライフルを手にした人間の追っ手。
「もう無理。走れない」
「味方が来ている。がんばれ」
ふらつくかなめに肩を貸し、宗介は逃げながら応戦する。敵が発砲。銃弾が二人の周囲で踊りまわり、そばの樹《き》の幹《みき》が木片を飛び散らせる。
怪我の痛みと彼女の重み。
はげしい動悸《どうき》と息づかい。
視界がゆっくりと流れていく。
不思議な既視感《きしかん》をおぼえた。肩を貸《か》す相手は違ったが、こんな状況《じょうきょう》は前にも何度か経験している。どこかのジャングルで。遠く離れた絶望《ぜつぼう》の廃墟《はいきょ》で。
だが周囲にあるのは、この九か月で見知ってきた、当たり前の東京だ。
いや、違う。
ここはもう彼の世界だった。すなわち戦場だ。
並木道を横切る。木々の切れ目から、寒々とした広場が見えた。
広場の中央めがけて、発煙弾《はつえんだん》を放り投げる。味方にこちらの位置を知らせる必要があった。発煙弾が黄色い煙を盛大《せいだい》に吐《は》き出した。すぐさま身を翻《ひるがえ》し、大木を盾《たて》にして応射《おうしゃ》を続ける。
至近距離に着弾。右からだ。
かなめを引き倒し、撃ち返す。敵が倒れる。腹を押さえて、泣き叫ぶ。頭に撃ち込んでとどめを刺《さ》す。間髪《かんぱつ》いれず、別方向の敵へと発砲。血まみれの手で弾倉《だんそう》を交換《こうかん》する。
背後の上空一〇〇メートルのあたりで、青白い電光がほとばしった。ECSを解除《かいじょ》したヘリ―― <ミスリル> のMH―67[#「67」は縦中横] <ペイブ・メア> が姿を現し、重たげに旋回《せんかい》する。
ヘリが右舷《うげん》を敵側に向けた。機体に設置《せっち》された回転式の機銃が、追っ手めがけて発射される。<ミニガン> と呼ばれる武器だ。分速六〇〇〇発――つまり一秒に一〇〇発のライフル弾が、敵めがけて降り注ぐ。
「いいぞ」
確かにそれは、頼《たの》もしい援軍《えんぐん》だった。
上空からのすさまじい支援《しえん》射撃で、<アラストル> がずたずたに引き裂《さ》かれた。人間の歩兵たちも、何人かがその弾幕《だんまく》を浴《あ》びて血煙《ちけむり》と化す。装備ごとばらばらになった人間の破片[#「人間の破片」に傍点]が、朝の自然公園に舞《ま》い落ちていく。
「っ……」
かなめが凄惨《せいさん》なその光景からを目をそらし、悪夢《あくむ》を振り払うように首を振った。その顔は青ざめ、痛ましいほどに震えていた。
外部スピーカーからサントスの声。
『北側へ回り込め! 後部から収容《しゅうよう》する!』
<ペイブ・メア> が発煙弾の位置へと降下してくる。
ローターからの強風が、公園の草木をはげしく揺らす。渦《うず》を巻き、螺旋状《らせんじょう》に広がるスモーク。その間も、味方の機銃《きじゅう》は弾丸の雨を吐き出し続けていた。
「立つんだ」
かなめの腕を引く。
そのとき、視界の片隅《かたすみ》でオレンジ色の光が走った。敵の撃った大口径の携行《けいこう》ミサイルだと、すぐに分かった。
こちらへではない。
ミサイルはまっすぐに降下中のヘリへと飛翔《ひしょう》し、その機首の真ん中に命中した。
爆発。
全身に叩きつけるような衝撃。
青白い閃光《せんこう》と真っ赤な炎。
上空三〇メートルに滞空《たいくう》していた <ペイブ・メア> は、たちまちバランスを崩《くず》して、尻《しり》から大地へと激突した。
尾部《びぶ》がつぶれる。機体が折れる。ローターが弾け、巨大で鋭利《えいり》な包丁《ほうちょう》となって、でたらめな方向へと吹き飛んでいった。一つは地面に突き刺さり、一つはかなたへ飛んでいき、一つは近くの低木を真っ二つに切断し――
「……っ!」
ジェット燃料《ねんりょう》に火がついて、荒《あ》れ狂《くる》う炎がヘリを包んだ。燃え上がる大小の部品が煙の尾《お》を曳《ひ》き、あたり一面へとまき散らされる。
あっけなさすぎる。
だが受け入れなければならなかった。
サントスたちは即死《そくし》だ。
ゲーボ9の搭乗員《とうじょういん》たち――彼らと交《か》わしたなにげない会話。彼らの自信に満ちた笑顔が脳裏《のうり》をよぎる。クルーの一人が大事にしていた家族の写真。サントスがテッサをからかったパーティの一場面。
それらすべてが一瞬《いっしゅん》で。
たったあの一撃で――
「ああ……」
絶望的《ぜつぼうてき》なかなめの声。だが宗介はその光景を呆然《ぼうぜん》と見ているゆとりさえなかった。ミサイルの射手《しゃしゅ》がランチャーを肩に、あわただしく茂《しげ》みの向こうを移動《いどう》しようとしている。
正確に照準《しょうじゅん》。発砲。射殺。
次はどこだ。
次の敵は。
燃えさかるヘリの残骸《ざんがい》を背にして、宗介はなおもサブマシンガンを撃ち続けた。
「やだ。もうやだよ――」
「伏せていろ!」
「いやあぁっ!!」
半狂乱《はんきょうらん》で泣き叫ぶかなめを無理矢理《むりやり》ねじ伏せ、宗介は敵を撃つ。
残弾はわずかだ。
手榴弾もない。味方の救助も。
走って逃げられる場所も、もう残されてはいなかった。
ゲームセットだ。
いや――
<<ファイルX1―01[#「01」は縦中横]の特別|指令《しれい》に基《もと》づき、緊急避難《きんきゅうひなん》モードを起動《きどう》。外部音声の使用を強制実行しています>>
どこからともなく声が響き渡った。いや、背後《はいご》で燃え上がる残骸からだ。低く、落ち着いた男の合成音声。
<<本機はシリアルC―002[#「002」は縦中横]号機。ARX―7。コード名 <アーバレスト> 。半径一〇〇メートル以内に本機|所属《しょぞく》部隊の将兵《しょうへい》がいれば、口頭にて応答を願います>>
「アル、生きているか?」
<<チェック。サガラ・ソウスケ軍曹と確認。肯定《こうてい》です、ウルズ7>>
<ペイブ・メア> の貨物室に搭載《とうさい》されていたアーム・スレイブ―― <アーバレスト> がまだ生きている。
<<本機は実用|耐熱限界《たいねつげんかい》を超《こ》える高温にさらされています。待避《たいひ》の許可《きょか》を>>
「許可する。いますぐここに来い」
<<了解《ラジャー》>>
醜《みにく》くつぶれた貨物室の残骸が、内側から弾《はじ》け飛ぶ。
どす黒いシルエット。
赤熟した金属と炎をかきわけ、全高八メートルの巨人が姿を現した。
さいわい核ではなかった。
だが、照準はひどく正確だった。
敵ミサイルの飛来《ひらい》は第三波まで続き、おそらく合計で一八発の五〇〇ポンド爆薬が降り注いだ。対空レーダー・システム。通信システム。迎撃ミサイル・システム。滑走路と観測所といくつかの弾薬庫。それら施設が破壊され、地下にも無視できない被害が及《およ》んでいた。消火作業は始まったばかりだったが、それがいつ終わるのか――それ以上に、消火をすることに意味があるのか――それ自体が判然《はんぜん》としていなかった。
ほとんど使い物にならなくなったスクリーンのデータをむっつりと眺《なが》め、テッサは言った。
「人的|被害《ひがい》は?」
「軽傷二八名、重傷二名――」
すこし間を置いてから、警戒中隊の士官が言った。
「――死者五名です。第二観測所の連中が逃げ遅《おく》れました」
「そう」
明日の天気でも聞いたような声でうなずく。死んだ人々の顔と名前は覚えていた。好きな音楽のジャンルも。
「艦長《かんちょう》――」
「問題はこれからよ」
慰《なぐさ》めの言葉をかけようとしたマデューカスを、彼女は軽く片手で制した。自分でも意外なことに、指先の震えはわずかなものだった。
「敵の爆撃はまだ来ます。おそらく、上陸部隊も。今度は航空機を使って……。航空管制。滑走路の状況は?」
「手ひどくやられました」
航空管制の担当士官が基地のダメージをスクリーン上に表示させた。
「エレベーターもドームもです。基地の航空機が離陸可能になるまで、六時間以上がかかるでしょう」
「それでは間に合わないわ」
すでに基地の対空能力はほとんど失われている。メリダ島に接近する敵航空機を迎撃するためには、最新鋭の先進型中距離ミサイルを装備した <スーパー・ハリアー> を出撃《しゅつげき》させる必要があるのだ。
だが、そうした航空機を地下|格納庫《かくのうこ》から地上へと運ぶ巨大なエレベーターそのものが破壊《はかい》されてしまった。残骸の撤去《てっきょ》だけでも、本来は一日以上かかることだろう。管制官の見積もった時間は、ASの助力《じょりょく》があればこそ、だ。
「ゲーボ5から連絡です。大型の航空機が一〇機、区域《くいき》F8から接近中。輸送機《ゆそうき》、ないしは爆撃機です」
基地のレーダーが破壊されたいま、先ほど離陸させたヘリ部隊のレーダーだけが頼りだった。
「本気みたいね……」
「そのようですな」
マデューカスが同意した。
敵は本気でこの島を占拠《せんきょ》する気だ。
迎《むか》え撃《う》つべきだろうか? それとも、尻をまくって逃げ出すべきか?……いや、いずれにしても選択肢《せんたくし》はない。テッサはそれをよく知っていた。
<デ・ダナン> は整備中《せいびちゅう》だ。きのうから作業を急がせてはいるが、やはりあと数時間は稼動《かどう》状態にならない。つまり今後数時間の間、テッサたちは島から脱出する手段そのものが封《ふう》じられているのだ。空も、海も。
見事《みごと》な奇襲《きしゅう》――そう認《みと》めざるをえなかった。通信網《つうしんもう》とレーダー網の混乱《こんらん》に乗じて、まずこちらの目と足を奪《うば》う。あとは好き放題に殴《なぐ》られっぱなしだ。
しかし、敵の思い通りにさせるほど、こちらもお人好《ひとよ》しではない。どうしてもやりたいなら、付き合ってやろうじゃないか。せいぜい痛い思いをさせてあげよう――
「カリーニン少佐。すべてのASをホットにしてください。訓練用のM6も含《ふく》めてすべてA装備よ。北岸に六機を配置《はいち》」
「はい」
「大佐殿。哨戒《しょうかい》中のゲーボ3から警告です……!」
緊張《きんちょう》した声で、士官の一人が言った。
「区域G2。接近中の……水上艦? はっきりとはしませんが、海からなにかが近づいています。赤外線探知で三機」
「報告は明瞭《めいりょう》にしなさい。なにが来てるの?」
「すみません。該当《がいとう》するカテゴリーがないので……ゲーボ3も説明しかねるようです。いえ、待ってください、映像が来ました。スクリーンに回します」
「急いで」
司令センターの地図画面が最小化して、代わりにゲーボ3の光学センサーがとらえた映像が表示された。
超《ちょう》望遠。リアルタイムの映像だ。
問題の区域G2は、メリダ島の北西、三〇マイルの海域になる。数十年前に海面下に沈《しず》んだ珊瑚礁《さんごしょう》があり、深度はごく浅い。そのオーシャングリーンの海を突っ切り、三つの『なにか』が南東を目指していた。
一瞬、三人の太った男が、腰《こし》まで海水に浸《つ》かったまま、粛々《しゅくしゅく》と波をかき分けているように見えた。なにか、物干《ものほ》し竿《ざお》のようなものを両手で抱《かか》えながら。
だがそうではなかった。
大きいのだ。とてつもなく大きい。そしてその『三人』は、無骨《ぶこつ》な青い鎧《よろい》を身にまとっている。古くさい板金鎧《ばんきんよろい》を着込んだような逆三角形。ガス貯蔵《ちょぞう》タンクにも匹敵《ひってき》するような、巨大な肩部《けんぶ》。
「ベヘモス……!?」
あの巨大AS―― <ベヘモス> だった。半年前、有明で暴れたあの <ベヘモス> 。それがまとめて三体|出現《しゅつげん》し、メリダ島に向かっている。
物干し竿のように見えたのは、巨大なライフル――大砲だった。どんな要塞《ようさい》でも、一撃で破壊してしまいそうな、超大口径の大砲。
ゆっくりと動いているようには見えたが、スケールが違う。その速度はおそらく三〇ノット以上だろう。つまり、あと一時間でこの基地に迫る。
三機の <ベヘモス> 。
ラムダ・ドライバを搭載し、あらゆる敵弾を跳ね返す超兵器。対抗できるのは <アーバレスト> だけだ。
その敵が、この基地に近づいている――
<アーバレスト> に乗り込んだ宗介は、かなめを抱《かか》えて自然公園を脱出した。
第三世代型ASの力ならば、二度三度の跳躍《ちょうやく》で済むことだ。墜落《ついらく》した <ペイブ・メア> の残骸は、放置《ほうち》するしかなかった。
デジタル・マップを呼び出す。
通勤《つうきん》時間帯のいまは、南北の幹線《かんせん》道路がひどく混雑《こんざつ》している。宗介はその渋滞《じゅうたい》を盾にして、機体を北へと急がせた。適度《てきど》なところでECSを使う。不可視《ふかし》モードが作動し、敵の追跡をさらに困難《こんなん》なものとした。その姿を見るたびに度肝《どぎも》を抜かれていた一般人《いっぱんじん》も、こうなると間近《まぢか》の駆動音《くどうおん》やイオン臭《しゅう》に怪訝顔《けげんがお》をするだけだ。
それでも町は大混乱だった。
パトカーのサイレンが鳴り響き、上空を警視庁《けいしちょう》のヘリが旋回している。
三鷹《みたか》を経由《けいゆ》し、吉祥寺《きちじょうじ》へ。道路は車で埋《う》め尽《つ》くされていたので、ビルの屋上から屋上へと移動する。JRの線路を飛び越《こ》え、<アーバレスト> はテナントビルの屋上に着地した。機体は透明化《とうめいか》させたままだ。
かなめを屋上におろし、ハッチを開放する。
「モード4で警戒待機。まちがってもアクティブ・センサは使うなよ」
<<教育メッセージ。『まちがっても』の語義《ごぎ》を教えてください>>
「っ……」
怒鳴《どな》りつけようとした宗介の気配を、まるで正確に察《さっ》したように、<アーバレスト> の人工知能―― <アル> が告げる。
<<冗談《じょうだん》です。緊張はほぐれましたか?>>
「きょうは借りだらけだからな。大目に見ておいてやる」
<<感謝します、軍曹殿>>
宗介はコックピットから滑り出すと、腕を伝い降りてかなめに駆けよる。大気がちりちりとしていた。<アーバレスト> が依然《いぜん》、ECSを作動させているためだ。不可視化のフィールドの中にいる限り、その対象は外から姿が見えなくなる。機体の手の中でぐったりとしている彼女も、だ。
憔悴《しょうすい》しきった様子でかなめが言った。
「もう……休めるの?」
「ああ。ひとまずだが」
「そう……」
「落ち着いたか?」
「表面上はね」
暗い声。ため息をつく。
痛む足首をさすってから、彼女は <アーバレスト> の指に手を置いた。
「ピンチのときに、いつも来るよね、これ」
<<それは本機のスペックを評価《ひょうか》する言葉でしょうか、ミズ・チドリ>>
アルの言葉に、かなめはぎこちない笑みを浮かべた。
「どうだろ。それより……」
彼女は口ごもった。
「あのヘリ、サントスさんのでしょ?」
かなめもサントスのことは知っている。去年の秋頃から、何度か顔を合わせていた。
「そうだ」
「やっぱり……だめなのかな」
「ああ。残念だが……」
かなめの拳《こぶし》に力がこもった。
「あたしを助けに来て、死んじゃったんだよね……」
「それはちがう。任務《にんむ》だ」
「でも、そういうことでしょ?」
「…………」
「たくさん巻き添《ぞ》えにして……」
両腕を抱いてうつむく。
「あたし、なんにもしてないのに……。ごめん……。でもね、もう……強がるの、無理っぽいんだよ……」
声が震えていた。肩もだ。
「千鳥……」
「こわいの。自分のことも。あいつらのことも。それに……やっぱりごめん」
前髪に隠れた彼女の頬《ほお》から、ばたばたと涙《なみだ》の粒《つぶ》が落ちた。
「あなたのこともこわいの」
「…………」
「もう、なにがなんだかわかんない。好きなんだけど、こわいの。好きで好きでたまらないんだけど、こわいの。もう、パニクっちゃって、どうしようもないよ……」
こんな弱気な彼女の言葉は、初めて聞いた。
だが、当たり前のことなのだ。
彼女がどれだけ強気を見せていたところで。どれだけお姉さん顔をしたところで。どれだけ『なんでも来なさいってのよ』と構えていたところで。
けっきょく、一七|歳《さい》の少女なのだ。
荒れ狂う暴力を前にして、どこまでも平然《へいぜん》としていられる――そんな人間の方が、異常《いじょう》なのだ。
そのとき、かなめの上着のポケットから、電子音がした。PHSの呼び出し音だ。メールの受信だった。
「……?」
うつむいたまま、彼女はPHSを取り出した。受信することで現在地《げんざいち》を察知される危険があることは、あえて考えなかった。
メールを読んでいたかなめが、打ちのめされたようなうめき声をあげる。
「やだ……いやだよ……っ!」
「どうした」
「キョーコが……みんなが……!」
かなめからPHSを取り上げる。メールには写真画像が添付《てんぷ》されていた。
場所は屋上。陣代《じんだい》高校の屋上。
猿《さる》ぐつわをかまされた女子生徒――クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、後ろ手に縛《しば》られていた。胴体《どうたい》にはブロック状のC4爆薬が、山ほど巻き付けてある。恭子の顔は真っ青だった。自分の身になにが起きているのか、まったく理解《りかい》できないでいる様子だ。
メールの文面はこうだった。
『同様の爆薬が校内の各所に仕掛《しか》けてある。友人を助けたければ、ASを放棄《ほうき》し学校まで来い。従《したが》わぬ場合は起爆《きばく》を実行する』
[#改ページ]
3:損害制御《そんがいせいぎょ》
クルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》は、メリダ島|基地《きち》の中央を走る『0号通路』での消火作業を手伝っていた。
朝のジョギング中に空襲《くうしゅう》を受けたものだから、スウェット・スーツ姿《すがた》のままだ。各所に備《そな》え付けてある酸素《さんそ》マスクをつけて、手斧《ちょうな》をふるって障害物《しょうがいぶつ》を除去《じょきょ》し、負傷者《ふしょうしゃ》を鉄骨《てっこつ》の下から引っ張《ぱ》り出す。消火班がぶちまけた大量の海水を頭からかぶって、全身びしょぬれのべとべとだった。
はげしい怒号《どごう》と叱咤《しった》が飛び交《か》う。照明《しょうめい》が切れたせいで通路は薄暗《うすぐら》かった。もうもうとたちこめた水蒸気《すいじょうき》。天井《てんじょう》から降《ふ》り注《そそ》ぐ豪雨《ごうう》のような水滴《すいてき》。五メートル先もろくに見えない状態《じょうたい》だ。
負傷者をかついで安全な場所までくると、衛生兵《えいせいへい》が待ち受けていた。
「右|腕《うで》に二度の火傷《やけど》! 炎は吸《す》ってない、意識《いしき》はある! 右足首が痛いと言ってた!」
「助かります、軍曹!」
負傷者が担架《たんか》で運ばれていった。
マスクを取る。むっとくるような大気を吸って、クルツは数回、せきこんだ。
「……ったく。朝の目覚ましにしちゃあ、派手《はで》すぎるぜ」
基地内用の携帯《けいたい》電話を使ってみる。ありがたいことに、回線はまだ生きていた。SRT指揮官《しきかん》のクルーゾーにかけると通話中。副官のメリッサ・マオ少尉《しょうい》を呼び出すと、今度はつながった。
『無事《ぶじ》ね?』
「ああ」
『敵の <ベヘモス> が三機きてるわ。第三|格納庫《かくのうこ》。ASAP』
「了解《りょうかい》」
簡潔明瞭《かんけつめいりょう》なそのやりとりだけで電話は切れた。部隊の主力AS、M9 <ガーンズバック> がある第三格納庫へ、『|可及的速やか《アズ・スーン・アズ・ポシブル》』に集合。お互《たが》いプロだ。安否《あんぴ》を気遣《きづか》いあったり、無事《ぶじ》を喜び合ったりする必要などない。細かい状況説明もあとだ。
しかし――
「 <ベヘモス> だって?」
あの巨大ASが? 三機?
いったい、どうやって迎《むか》え撃《う》つってんだ?
あのデカブツには、ミサイルも七六ミリ砲も通用しなかったんだぞ?
半年前の東京、有明《ありあけ》での戦いがクルツの脳裏《のうり》をよぎる。あの <ベヘモス> を前にして、自衛隊《じえいたい》のAS部隊はなすすべもなかった。対抗《たいこう》できたのは、宗介のAS――あの『ラムダ・ドライバ』を搭載《とうさい》した <アーバレスト> がいたからだ。それでさえ、散々《さんざん》な苦戦を強《し》いられた。
そしていま、<アーバレスト> と宗介《そうすけ》はこの場にいない。
第三格納庫に駆《か》けつけると、すでにその場は戦闘《せんとう》前の準備で大騒《おおさわ》ぎになっていた。
「三号機の換装《かんそう》は済んだか!?」
「まだです!」
「済み次第《しだい》、整体を実行しろ! 手順《てじゅん》Cまでは省略《しょうりゃく》して構《かま》わん!」
「了解!」
「馬鹿野郎《ばかやろう》! そこっ! 四〇ミリ弾《だん》は向こうに運べ!」
「え? ですが――」
「あー、くそっ、聞いてなかったのか!? GECは全部二番スポットで装弾《そうだん》だっ!!」
整備中隊長のサックス中尉が、部下に向かって怒鳴《どな》り散《ち》らす。空襲の損害《そんがい》を免《まぬか》れた格納庫でも、照明は非常灯《ひじょうとう》に切り替わっていた。ぼんやりと赤い光の中で、電源《でんげん》ケーブルをつないだままのM9 <ガーンズバック> が、低い駆動音《くどうおん》をたてている。
「悪い! 遅くなった!」
格納庫の片隅《かたすみ》にAS操縦兵《そうじゅうへい》たちが集まっていた。旧型《きゅうがた》のM6の操縦者を含めて、総計で一八名。インクの糟《かす》がこびりついたホワイトボードの前だ。
クルツと同じく、だれもが着の身着のままだった。メリッサ・マオも同様で、将校用の制服――テッサと同じカーキ色のスカートに、ブラウスをつっかけただけの姿で難《むずか》しい顔をしていた。見慣《みな》れた野戦服姿ではない。おそらく書類仕事の出勤前《しゅっきんまえ》だったのだろう。少尉に任官《にんかん》してから、彼女はテッサと同じ女性将校用の制服を着ることが多くなっていた。
「来たな!? 傾注《けいちゅう》!」
お世辞《せじ》にも立派《りっぱ》とはいえない格好《かっこう》のまま、マオが叫ぶ。そしてこちらは徹夜《てつや》だったのだろう、すこしくたびれた野戦服姿のクルーゾー大尉が、薄汚《うすよご》れたホワイトボードの前に出た。
「『おそらく』と断《ことわ》っても無意味だろう」
アフリカ系《けい》カナダ人の大尉は言った。
「例の <アマルガム> が総攻撃《そうこうげき》をしかけてきた。予想以上の戦力だ。<ベヘモス> が三機。区域《くいき》G2から接近《せっきん》している。四〇分後にこの基地は射程《しゃてい》内に入る」
クルツはかろうじて舌打《したう》ちをこらえた。
たった四〇分。ほとんど余裕《よゆう》などないではないか。そんな近|距離《きょり》にくるまで、どうして敵を見逃してしまったのか?
「周知《しゅうち》の通り、この <ベヘモス> は対AS用のガンボートとして設計《せっけい》されたものと考えられている。この三機の主要《しゅよう》目標は、われわれ最後の主要戦力――すなわち、ASだろう。近接航空支援《CAS》さえ困難《こんなん》な状況だが、迎撃《げいげき》を行う」
「おいおい、待ってくれよ」
クルツは挙手《きょしゅ》して言った。
「その『巨人』は例の <ラムダ・ドライバ> を搭載してるんだろう? そんな機体を、しかも三機も迎え撃つって――そりゃ、無理《むり》だぜ」
「それでも迎え撃たなければならない」
クルーゾーは静かに言った。
「この基地はかなりの規模《きぼ》の爆撃にも耐《た》えられるように設計されているが、それにも限界《げんかい》がある。<ベヘモス> 三機に上陸されれば、いずれドックで整備中の <デ・ダナン> も破壊《はかい》されるだろう」
「でもよ――」
「唯一《ゆいいつ》の脱出手段だぞ」
「…………」
「ここは絶海《ぜっかい》の孤島《ことう》だ。救援《きゅうえん》などないし、敵もわざわざ捕虜《ほりょ》を取ろうとは思わないだろう。<デ・ダナン> が失われれば、戦隊の人間すべてがこの穴蔵《あなぐら》で心中するしかなくなる。あの <ベヘモス> を倒すほかに生き延《の》びる方法はない」
重苦しい沈黙《ちんもく》がその場を包《つつ》み込んだ。
この場にいるAS操縦兵たちは、すでに有明での <ベヘモス> との戦闘報告を聞いている。宗介やクルツ、テッサが書いた詳細《しょうさい》なレポートも読んでいる。
まず勝ち目がない。だれもがそれをよく分かっていた。クルーゾーもマオもだ。
「じゃあ、こういうのはどうだ?」
その沈黙を破《やぶ》って、SRTのスペック伍長《ごちょう》が言った。二〇代半ばのアメリカ人で、海軍|特殊《とくしゅ》部隊の出身だ。
「こんな無茶《むちゃ》な負け戦《いくさ》に付き合うのなんて、やめてよ。これからテキトーなライフル持って司令《しれい》センターに行こうぜ」
その言葉だけでスペックのいわんとするところが分かったのだろう――マオが押し殺した声をもらした。
「やめなさい、スペック」
無視《むし》して彼は話を続けた。
「テッサと <デ・ダナン> を無傷で差し出すって条件《じょうけん》なら、敵も乗ってくるだろうな。やつらだって兵法のイロハくらい知ってるだろ。逃げ場をなくした敗軍《はいぐん》の抵抗《ていこう》ってのは……そりゃもう、すげえもんだ。相当の損害《そんがい》を覚悟《かくご》しなきゃならない。ビジネスライクな話し合いで済むなら、向こうも喜ぶと思うぜ」
「それ以上ざれごとを口にしてみろ。敵前逃亡《てきぜんとうぼう》と反逆罪《はんぎゃくざい》を適用《てきよう》するぞ」
クルーゾーが言った。
「雇《やと》われ兵になに言ってるんだ? 作戦本部が吹き飛んじまったんだぜ? 俺らのギャラを、あんたが払《はら》ってくれるっていうのか? え、大尉さんよ」
「貴様《きさま》……」
「部隊の仲間のために喜んで死ねってか? ハリウッドのバカな戦争映画じゃねえんだぞ? そういう単細胞《たんさいぼう》のヒーロー気取りが一番|始末《しまつ》に負えねえ。言っとくが、俺は犬死にはごめんだぜ」
彼の声はすでに殺気《さっき》だっていた。
すこしでも生き延びる可能性《かのうせい》があるなら、スペックもこんなことは言わないだろう。これまではそうだった。
だが、今回は違う。
あまりにも分《ぶ》が悪すぎる。スペックも決して悪い男ではない。テッサのことは好きだろうし、出来る限り力になりたいとも、前にパブで酔《よ》っぱらって口にしていた。だが、無条件《むじょうけん》で死んでいいとまでは思っていないだろう。スペック以外の何人かも、同様の考えに流されようとしていた。
空気が張《は》りつめ、緊張《きんちょう》が走る。
そこで新たな声が割《わ》って入った。
「わたしを売る。なかなかの名案《めいあん》ですね」
テッサだった。自動小銃を肩にかけたPRTの兵士を二名|従《したが》え、格納庫《かくのうこ》の入り口から歩いてくる。
「大佐殿……」
「そういう話も出ているだろうと思って、様子《ようす》を見にきました」
「聞いてたのかい」
スペックが憮然《ぶぜん》としてつぶやく。
「ええ。途中《とちゅう》からですけど」
「悪く思わないでくれよ。こっちも商売だからな」
「そうですね」
テッサはうなずくと、傍らの兵士に向かって、こう言った。
「拳銃《けんじゅう》を貸してください」
兵士は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》してから、腰のホルスターからスイス製の自動拳銃を抜いてテッサに手渡した。
「ありがとう」
彼女は銃のセイフティを外し、ハンマーを引き上げた。ゆっくりとした、確実《かくじつ》な操作《そうさ》だった。
落ち着いてたたずむ少女と、黒光りする一丁の拳銃。銃口は床《ゆか》に向けたままだったが、それだけでもその場の一同を緊張させるのに充分だった。
「スペックさんの考えに傾《かたむ》いてる人もいると思います。ですが、許《ゆる》しません。反逆を企《くわだ》てる者は、わたしがこの場で射殺《しゃさつ》します」
テッサは機械的《きかいてき》な微笑《びしょう》を浮《う》かべてそう言った。スペックはすこしの間ぽかんとしていたが、やがて小さなため息をついて肩をすくめた。
「おいおい、無理するなよ。あんたはいい子だと思うが――」
その場に銃声が響いた。
テッサが無造作《むぞうさ》に、スペックの足下《あしもと》に一発|撃《う》ち込んだのだ。コンクリートを削《けず》った跳弾《ちょうだん》が、ずっと背後の壁《かべ》に食い込んで、小さな埃《ほこり》を立てた。
「態度《たいど》をわきまえなさい、伍長[#「伍長」に傍点]」
さすがに肝《きも》を潰《つぶ》したスペックをまっすぐに見据《みす》えて、テッサは言った。
「もしかして、わたしがわざわざここまで足を運んで、涙ながらに協力を訴《うった》えるとでも思っていましたか? けなげな善意《ぜんい》を期待して、同情|混《ま》じりの忠誠《ちゅうせい》を請《こ》うとでも思っていたのかしら?」
「っ……」
「ここにいる以上は、あなたも『戦士の回廊《かいろう》』を歩む者でしょう。自分の意志《いし》でこの窮地《きゅうち》にやってきた。ちがいますか?」
「いや……」
「わたしを名ばかりのお姫《ひめ》さまだとでも思っていたの?」
「…………」
「言ってみなさい。わたしがだれか。その役職《やくしょく》と階級《かいきゅう》を」
いつも通りの柔《やわ》らかい口調だった。決して相手を脅《おど》すようなものではない。だがそれだけに、彼女の静かな言葉は異様《いよう》な迫力《はくりょく》を帯《お》びていた。
スペックはしばらく沈黙したあと、つばを呑《の》み込み、口を開いた。
「……テレサ……テスタロッサ大佐。<トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊の総司令官《そうしれいかん》です」
「よろしい。では、さきほどの発言を撤回《てっかい》して謝罪《しゃざい》しなさい。いますぐ」
「……撤回します。冗談《じょうだん》が過ぎたようです。申《もう》し訳《わけ》ありませんでした」
「けっこう」
テッサは拳銃のハンマーをおろしてから、護衛《ごえい》の兵士に押しつけた。
「あいにくですけど、敵は <ミスリル> の存在そのものを地上から抹殺《まっさつ》するつもりです。わたしたちが合理的《ごうりてき》なつもりの交渉《こうしょう》を持ちかけても、効果《こうか》はないでしょうね」
「…………」
「スペック伍長《ごちょう》。隊はあなたの技能《ぎのう》を必要としています。反逆を煽動《せんどう》した罪《つみ》は、みんなが生き残ったら帳消《ちょうけ》しにしてあげましょう」
戦隊長はきびすを返し、その場を立ち去ろうとした。パンプスの踵《かかと》が床《ゆか》を打つ音だけが、やけに大きく聞こえた。
スペックがうつむいたまま、絞《しぼ》り出すような声でつぶやく。
「…………生き残る? どこにそんな望みがあるってんだ……?」
「なければ作る。それだけです」
テッサが立ち止まった。
「もう一度わたしの報告書を読みなさい。頭を使って、工夫をしなさい。疑問《ぎもん》があるなら、わたしやレミングに助言《じょげん》を請《こ》いなさい。そんなこともできない木偶《でく》の坊《ぼう》なの?」
「っ……」
「どうも勘違《かんちが》いしているようですね。わたしは一度もあなたたちに『死ね』などと命令したことはありません。これまでも。そして――これからもです[#「これからもです」に傍点]」
その瞬間だけ、彼女の声に揺《ゆ》るぎない力がこもった。
決意。
何者にも屈《くっ》しない決意。
彼女だけが諦《あきら》めていない。なんとしてでも、部隊を生き延びさせようとしている。あの一七|歳《さい》の少女だけが。
おお、神よ。
この場にいるベテランの兵士たちでさえ弱気になっているこの時に、そう告げられる彼女の小さな背中が、彼らには何十倍にも大きく見えた。
全員が直立した。クルーゾーもマオも、スペックも。その他の将兵《しょうへい》たちも。クルツでさえも、自然な気持ちで同じ姿勢《しせい》をとることができた。
彼女は最後に、一度だけ振《ふ》り向いて言った。
「生き延びなさい。命令です」
彼らは一斉《いっせい》に応《こた》えた。
『イエス、マム!!』
「幸運を」
彼女は今度こそ心からの微笑を浮かべて、格納庫を出ていった。
整備作業の喧噪《けんそう》さえやんでいた。取り残された兵士たちは、まずスペックを見る。
「あー、わかってる」
彼は不機嫌《ふきげん》そうに――だが、どこかすっきりしたように言った。
「悪かったよ、くそっ。イラついてただけだ。でもよ、みんなちょっとは考えただろ? そんな目で見ねえでくれよ」
スペックの言葉もまた真実だったのだろう。大半の者が自嘲気味《じちょうぎみ》に笑った。彼らは次にクルーゾーを見た。彼も緊張がほぐれた様子《ようす》で笑っていた。
「……まったく、やられっぱなしだな。彼女の言うとおりだ。悲愴《ひそう》な覚悟《かくご》に浸《ひた》るのはやめて、もうすこし知恵を絞《しぼ》ろう。作戦の報酬《ほうしゅう》は己《おのれ》の命といったところか」
「妥当《だとう》なギャラだ」
「ま、なんとかなるかもしれねえし……」
「あー、たまらん。嫁《よめ》さんにしてえ」
最後のスペックの一言に、クルーゾーは肩をすくめた。
「残念だったな。彼女へのプロポーズは階級順だ」
今度こそ一同は大声で笑った。
こういった戦況の時に、いちばん必要なもの。人生の苦難の時に絶対《ぜったい》に失ってはならないもの――ユーモアが戻ってきた。笑いは思考を柔軟《じゅうなん》にする。人間の視野《しや》を広げ、創造性《そうぞうせい》を刺激《しげき》する。
そう。突破口《とっぱこう》はそこから生まれるのだ。
「さて……では対策会議《たいさくかいぎ》の続きだ。この中で <ベヘモス> と実際《じっさい》に戦って、一矢報《いっしむく》いた経験のある奴はだれだったかな?」
クルーゾーに続いて、全員がじっとクルツの顔を見つめた。
「え……? おれ?」
彼はきょとんとして自分の鼻先を指さした。
PHSを受信したため、位置情報の探知《たんち》を避《さ》けて、さらに吉祥寺から荻窪《おぎくぼ》付近まで移動《いどう》した。
開店前のテナントビルの屋上に着いてから、ふたたび待機《たいき》状態にさせた機体を降《お》りる。
不可視《ふかし》モードを使用して、透明《とうめい》な状態でビルからビルへと跳躍《ちょうやく》する <アーバレスト> の手の中にいても、かなめはずっと無反応《むはんのう》なままだった。いまもだ。
「千鳥《ちどり》」
彼女は答えなかった。
ASの指に背中を預《あず》けたまま、力ない目で虚空《こくう》を眺《なが》めている。ロングの髪《かみ》も乱《みだ》れるに任《まか》せたままだった。
「ショックなのはわかる。だが――」
「わかってたの。本当は」
ぽつりと彼女は言った。
「これまでの生活が、いつまでも続くわけなんてないって。いつか敵が来て、なにもかもめちゃくちゃになってから、あたしを連れ去ってしまうんだろうな、って」
「千鳥……」
「結論《けつろん》なんて半年以上前に出てたんだよね。あたしはここにいちゃいけなかったんだから。目を背《そむ》けてきた報《むく》いかな……」
彼女はうつむき、肩を震《ふる》わせた。
「あいつの……テッサのお兄さんの言う通りなんだよね。黙《だま》って付いていくべきだった。あたしが強情《ごうじょう》だったから、たくさん巻《ま》き添《ぞ》えの人が出て。全部あたしのせい。あたしが悪いの」
「それは違う。こうなったのは敵が――」
「きのうあいつに付いていけば、こうはならなかったわけでしょ? でもあたし『いつもみたいに、どうにかなる。きっと、また何日かで戻《もど》ってこれる』って、そう思ってたの。それでキョーコが……みんなが……」
「まだ彼らは無事《ぶじ》だ。取り乱すな」
「だって! 助ける方法なんて、どう考えてもないじゃない!」
「そうと決まったわけではない」
かなめはきっと宗介をにらみ上げた。目が充血《じゅうけつ》していた。はじめて見るような、恨《うら》みがましい目つきだった。
「なに言ってるの? あんたバカじゃない? 学校のみんなが人質《ひとじち》になってるのよ? キョーコだけじゃなくて、あちこちに起爆装置《きばくそうち》がしかけてあるって。プロが本気になって偽装《ぎそう》した爆薬を発見するのがどれだけ難《むずか》しいか、あんただって分かるでしょ?」
「 <アーバレスト> の電子兵装を使って電波《でんぱ》の発信源を特定《とくてい》できれば――」
「無理《むり》よ。あの敵レベルの装備《そうび》だったら、探知が困難《こんなん》な方式の通信を使って信号を出すだろうから。もちろん敵は学校の周りを警戒《けいかい》してるはずよ。ASが近づくことさえ難しいわ。あのヘリがなぜ落とされたかわからないの? あのヘリだってECSを使ってたはずでしょう。敵は超広帯域《ちょうこうたいいき》レーダーをそなえた誘導《ゆうどう》ミサイルを歩兵|携行用《けいこうよう》のサイズまで小型化してるのよ。広域分子スペクトルセンサや干渉逆探《かんしょうぎゃくたん》マイク、高感度|磁気《じき》センサを持っててもおかしくないでしょ? 仮《かり》にそのASで爆弾《ばくだん》の位置を特定できても、無力化《むりょくか》できると思ってるの? 中を調べることさえ無理ね。核磁気共鳴《かくじききょうめい》に反応する仕掛《しか》けくらいなら、いくらでも作れるじゃないの。そんな簡単《かんたん》なこともわからないの?」
しばしの間、宗介は言葉を失った。
目の前にいる少女が当然のように口に出した言葉が、半分ほどしか理解できなかったからだ。
「わからないの?」
「そっ……」
「そうなんだ。やっぱり、あなたもそうなのね[#「あなたもそうなのね」に傍点]」
かなめは苛立《いらだ》ちもあらわに鼻を鳴らし、吐《は》き捨《す》てるように言った。
「千鳥……」
背筋《せすじ》に冷たいものを感じながら、宗介はなだめるように言った。
「なに、その目は? あたしの頭がおかしくなったと思ってるの?」
「そうは言ってない。だが君は――」
「ええ、そうよ。あいつの言うとおりなの。イライラするのよ。そういう間抜《まぬ》けな顔されると、自分がからかわれてるみたいな気分になるの。どいつもこいつも、どうしてこんな簡単なことが分からないの? 頭悪いんじゃない?」
「千鳥。それは君の知能《ちのう》が常人離《じょうじんばな》れしてきたために感じる錯覚《さっかく》にすぎない。他人を見下すな。自分の病気を認《みと》めるんだ。思い出せ、君はいつも――」
「それよ。心配顔をすることで、自分を心理的な優位《ゆうい》に立たせる。はっ……そんなおためごかしで主導権《しゅどうけん》がとれると思ってるの? 単純ね」
「千鳥……!」
宗介はかなめの細い手首をつかみ、ぐっと引き寄せた。鍛《きた》えられた背力に抗《こう》することもできず、彼女はぐらりと彼にしなだれかかる格好《かっこう》になった。
「さっき君はこう言ったな。俺のことがこわいと。好きだが、こわいと」
鼻息がかかるほどの距離《きょり》で見つめ合い、彼は言った。
「俺もだ。君のことが好きだ。だがこわい。理解できない。だが惹《ひ》かれる。その繰り返しだ。はじめて会った時からずっとだ。こんなことは今までなかった。俺の世界をすべて変えてしまったのが君なんだ」
「…………」
「朝まで考えていた。学校や <ミスリル> や――そういうすべてを投げ出して、君を連れて逃げるべきなのではないかと。二人だけで。だが、なにかが引っかかって口に出せなかった。勇気がなかったのもある。しかし理由はそれだけじゃない。二人だけでは意味が無いんだ。常盤《ときわ》や学校のみんな、それから <ミスリル> の連中――そういう仲間の中で笑ったり怒《おこ》ったりしている君が、俺には必要なんだ。だから俺は――」
自分の饒舌《じょうぜつ》さに驚《おどろ》きながらも、宗介は喋《しゃべ》り続けた。
「だから俺は――すべてを守る。君だけではない。君に属《ぞく》する、すべての世界を護衛《ごえい》する。そうでなければ、俺の『任務』は終わらないんだ。絶望《ぜつぼう》はするな。一緒《いっしょ》に常盤を助けよう。学校のみんなも、もちろん君もだ。だから正気に戻ってくれ。君から見れば確かに俺は愚鈍《ぐどん》な男だろうが……戦う力はある。これまで何度もやってきただろう? ヒントが欲しい。諦《あきら》めないで、力を貸《か》してくれ」
[#挿絵(img/07_139.jpg)入る]
かなめは無表情のままで、彼を見つめていた。その瞳《ひとみ》に浮かぶ感情のかけらを、宗介にはまったく読みとることができなかった。
「本当になにもかも救えると思う?」
「肯定《こうてい》だ。俺と君なら」
長い沈黙《ちんもく》。
やがて彼女が言った。
「三文小説なら、ここで感動のキスシーンってところかしら。でも……」
老婆《ろうば》のように疲れ切った声で言うと、彼女は彼の腕《うで》から逃《のが》れていった。
「やっぱり無理《むり》だと思う。おとなしく降参《こうさん》するのが一番だよ……」
だめ押しの爆撃《ばくげき》が基地を襲《おそ》った。
対空ミサイルを搭載したM6を演習場《えんしゅうじょう》のジャングルに分散配置《ぶんさんはいち》させて、できる限りの迎撃を行ったおかげで、敵《てき》爆撃機の半数は撃墜《げきつい》することができたが――残りの敵機《てっき》が投下したコンクリート貫通《かんつう》爆弾と燃料気化爆弾が基地へと次々に降《ふ》り注《そそ》いだ。
「ウルズ2より本部《HQ》へ。損害を報告して」
すでに基地からM9で出撃《しゅつげき》し、演習場の外縁部――メリダ島の北端《ほくたん》にある密林《みつりん》の中にひそんでいたマオは、基地の方角から立ち上る黒煙を見つめながら呼びかけた。
『こちら本部。殴られ放題《ほうだい》だ。基地の上層部《じょうそうぶ》はほとんど機能《きのう》を失った。ただし、<デ・ダナン> のドックは無事だ。避難も済んでいたので人的被害もほとんどない。主要な大型エレベータは破壊されたので、撤退時《てったいじ》には無傷《むきず》の三号通路を使ってくれ』
三号通路は、地上の演習場と地下基地とをつなぐ建設《けんせつ》中のトンネルだ。敵はそのトンネルの存在《そんざい》までは知らない様子だった。
『ゲーボ3より全隊へ。<ベヘモス> が散開をはじめた。ベヘモスA≠ェ区域《くいき》E1へ。ベヘモスB≠ェ区域H1へ。ベヘモスC≠ヘ区域G1で停止《ていし》。メリダ島を包囲《ほうい》するつもりだろう。データを転送《てんそう》する』
島の上空で忍耐強く索敵を続けてくれていたヘリから、最新の敵情報が圧縮されて、近|距離《きょり》通信ですべての味方に送られる。
『こちらウルズ1。感謝《かんしゃ》する、ゲーボ3。もう充分《じゅうぶん》だ、退避《たいひ》しろ』
『ゲーボ3、了解。いまベヘモスC≠ェ発砲してきた。ゲーボ3は区域X0に移動《いどう》し待機を――』
強いノイズ。南の空から爆発音。
『こちらゲーボ3。エンジンに被弾《ひだん》した。緊急《きんきゅう》着陸を試みる。繰り返す。緊急着陸を試みる。敵は対空ミサイルを――』
ヘリからの通信はそこで途絶《とぜつ》した。
無事かどうかはわからない。だが、連中の腕ならなんとかなるだろう――そう信じておくしかなかった。
『ウルズ1よりカノ13[#「13」は縦中横]へ。墜落《ついらく》地点へ向かえ』
『カノ13[#「13」は縦中横]了解』
『ほかの全機はそのまま待機《たいき》。データは行ったな? ベヘモスB≠ェ獲物《えもの》だ。AとCは無視《むし》しろ。ウルズ1と2がそれぞれ引き受ける。ウルズ2、おまえの相手はAだ。俺はCと遊んでやる』
「ウルズ2了解。ダンスの相手にしちゃ、ダサいわね」
クルーゾーが無線の向こうで鼻を鳴らした。
『俺も同意見だ。ウルズ2はITCC―5の無制限《むせいげん》使用を許可《きょか》する』
「ウルズ2了解。せいぜい、かわいがってやるわ」
さて。
ECSをフル稼動《かどう》した機体の中で、マオは深呼吸《しんこきゅう》をした。すでに自分の相手――ベヘモスA≠ヘ捕捉《ほそく》している。島の北岸からおよそ四マイル。もう、すぐそこだ。<ベヘモス> は膝《ひざ》まで海水に浸《つ》かったまま、巨大《きょだい》な砲塔《ほうとう》をまっすぐ構《かま》えている。
あの巨人に、マオはこれから単独《たんどく》で立ち向かうのだ。もとより撃破《げきは》するつもりなどない。ありとあらゆる戦術を駆使《くし》して、徹底的《てっていてき》に時間を稼《かせ》ぐ――それだけだ。
同様にベヘモスC≠ヘクルーゾーが引き受けることになっていた。マオとクルーゾーのM9は、ほかの機体と違《ちが》って『ITCC―5統合《とうごう》戦術通信|管制《かんせい》システム』を搭載している。前線指揮官機《ぜんせんしきかんき》用の、強力なデータリンク装置《そうち》だ。戦場のあらゆるデータを統合・管理し、多数の味方機の管制と命令を瞬時《しゅんじ》に行うことができる。ASだけではない。ITCC―5に準拠《じゅんきょ》した制御《せいぎょ》システムを搭載した兵器ならば、いくらでも操《あやつ》ることができる。
たとえば戦車。たとえば対空自走砲《たいくうじそうほう》。
たとえば――ASもだ。
「うっし、いくわよ……。フライデー!」
<<|はい、少尉殿《イエス・ルテーナン》?>>
「操縦《そうじゅう》システムをXA―1に移行《いこう》。ベヘモスA≠攻撃するわよ」
<<了解。操縦システムをXA―1に接続《せつぞく》。ベヘモスA≠最優先ターゲットに指定>>
スクリーン上の最終|確認《かくにん》ボタンをクリックする。『実行』の表示が出て、『XA―1』を遠隔操作《えんかくそうさ》する態勢《たいせい》に入った。彼女のM9から八〇〇メートル離《はな》れた|茂み《ブッシュ》に待機《たいき》していた、無人《むじん》のAS――M6 <ブッシュネル> である。
そのM6は洋上の <ベヘモス> めがけて、肩のミサイル・ランチャーから対戦車ミサイルを発射《はっしゃ》し、すぐさま移動を開始した。無煙式《むえんしき》のロケットモーターが二発、敵めがけて飛翔《ひしょう》していく。
ミサイルの発射|源《げん》を感知《かんち》した <ベヘモス> は、すぐさま無人のM6に大砲を向け、躊躇《ちゅうちょ》無く発砲《はっぽう》した。
巨大な発射炎《マズルフラッシュ》。
頭部の機関砲《きかんほう》も火を噴《ふ》き、無数の三〇ミリ弾がM6へと降《ふ》り注《そそ》ぐ。M9に比べて鈍重《どんじゅう》なM6は、ろくな回避《かいひ》運動もできないまま、至近距離《しきんきょり》の着弾と、三〇ミリ弾の洗礼《せんれい》にはじきとはされ、二発目の大砲で粉々《こなごな》にされた。
「っと……」
まるで自機が撃破《げきは》されたような光景だったが、マオ機自体はまったく無事だ。通信が途絶し、操縦システムが自機に戻る。
ちょうどM6の撃ったミサイルが敵に迫っていた。
「XM―3を起爆」
<<ラジャー>>
直後、その <ベヘモス> の右足近くから巨大な水柱《みずばしら》が上がった。基地周辺に仕掛《しか》けていた自走|機雷《きらい》が爆発したのだ。
思わぬ攻撃に巨人がよろめく。ごくわずかに。その直後、対戦車ミサイルが命中した。
一発は右肩に。もう一発は腰に。
「さあ、これでどう……?」
マオは機体を隠蔽状態《いんぺいじょうたい》にたもったまま、別の無人のM6――XA―2がとらえた光学センサの映像をズームさせた。ITCC―5を使えば、他の機体をある程度は自機のように操《あやつ》れる。
初弾《しょだん》の命中した <ベヘモス> の右肩を、注意深く観察《かんさつ》する。
「くそっ……」
まったく無傷《むきず》だった。
あの『ラムダ・ドライバ』が起動したのだ。ありとあらゆる攻撃を防御《ぼうぎょ》し、ときには矛《ほこ》にもなる、究極《きゅうきょく》のシステム。
やはりあの敵を傷つける手段《しゅだん》はない。
胸の奥からわきあがる無力感《むりょくかん》。味方の全機にその事実を伝えようとしたそのときに、彼女はかろうじて気付くことができた。
<ベヘモス> の右足から、小さな白煙が立ちのぼっている。最初にかましてやった、あの機雷を受けた右足。微妙《びみょう》に装甲《そうこう》がゆがみ、塗装《とそう》が剥《は》げ落ちている。
「効《き》いてる……のか?」
半年前の有明。クルツはちっぽけなライフル一挺《いっちょう》で、あの機体に痛撃《つうげき》を与《あた》えることができた。
やはりそうなのだ。
不意《ふい》を打つことさえできれば。思わぬ瞬間《しゅんかん》に打撃を与えることができるなら。
つけ込む余地《よち》は残されてる。
絶望《ぜつぼう》するには、まだ早い……!
「ウルズ2より全機へ! 軽微《けいび》ながらも、巨大ASに損傷《そんしょう》を与えた!」
はやる心を抑《おさ》えながら、彼女は言った。
「いけるわ。ただし気を付けて。敵の火力は圧倒的《あっとうてき》よ」
各機から『了解』の応答。声が弾《はず》んでいる。すべての味方がこの報告《ほうこく》を待ち望んでいたことが、肌《はだ》で感じられた。
そのとき、司令センターのカリーニンから通信が入った。
『こちらパース1。いいニュースの直後だが、悪いニュースも伝えなければならない。敵の降下《こうか》部隊が南東から接近中だ。多数のASと歩兵部隊だろう。敵はこの基地の地下を制圧《せいあつ》するつもりだ』
いよいよ来たか。くそったれどもめ。
電子兵装を操作《そうさ》しながら、マオは内心で毒づいた。
『おそらく、一五分以内に白兵戦《はくへいせん》になる。それまでに <ベヘモス> をできるだけ片づけなければならない。さもなければ――』
カリーニンは言葉を切った。
『部隊は全滅《ぜんめつ》だ。<デ・ダナン> も出航《しゅっこう》できないだろう。地下ドックから出たところで、ねらい撃ちにされる』
その言葉はまったくの正論《せいろん》だったが、マオは強い苛立《いらだ》ちを感じた。
たった一〇分で?
あの三機を?
いくらなんでも、そんなの無茶《むちゃ》よ。
「でも、どうしても、やらなきゃならないわけでしょ?」
『肯定だ』
「はっ。まったく、気楽に……」
ベヘモスA≠フ頭部が、こちらを向いた。ECCS。マオ機を探知《たんち》したのだろう。
大砲がこちらを向く。機体のマスター・モードを変更《へんこう》。ECSを解除《かいじょ》して、戦闘機動《せんとうきどう》で身を起こす。
跳躍《ちょうやく》。敵機《てっき》が発砲。戦艦《せんかん》の主砲《しゅほう》を思わせるほどのすさまじい爆発。轟音《ごうおん》と衝撃《しょうげき》がマオのM9をはげしく揺《ゆ》さぶる。
「しんどい一五分になりそうだわ……」
機体をひねる。スクリーン上の着陸地点をにらみながら、マオはいまいましげにつぶやいた。
三機の巨大ASは、執拗《しつよう》な砲撃を遠距離《えんきょり》から繰《く》り返した。
ベヘモスの武装《ぶそう》は超《ちょう》大口径の榴弾砲《りゅうだんほう》――『物干《ものほ》し竿《ざお》』だけではなかった。肩部に追加装備《ついかそうび》されたランチャーから、大量のナパーム弾がメリダ島にばらまかれた。何機かのM6が、多目的、ミサイルの飽和攻撃《ほうわこうげき》で為《な》すすべもなく撃破《げきは》された。
演習場でよく目印に使われた奇岩《きがん》――『双子岩《ふたごいわ》』は爆撃で粉々《こなごな》に砕《くだ》かれ、その原型すらとどめていなかった。地上|施設《しせつ》は見る影もなく破壊され、熱帯雨林は炎に焼かれ、大量の黒煙《こくえん》が島の上空を覆《おお》い尽《つ》くした。
はるか彼方《かなた》の洋上からメリダ島を望む者がいたとしたら、炎に包まれ沈《しず》みゆく戦艦《せんかん》を連想したかもしれない。破壊の嵐《あらし》を充分にまき散《ち》らしたあと、ベヘモスたちは三方向からゆっくりと島への上陸を開始した。
「やりたい放題だな。くそっ」
猛烈《もうれつ》な砲撃が襲いかかる中、クルツのM9は基地南部の地下|壕《ごう》で、辛抱《しんぼう》強く息をひそめていた。断続的《だんぞくてき》な地響きが、コックピットにまで伝わってくる。スクリーンに映《うつ》るのは地下壕の薄闇《うすやみ》と、わずかな光の中に舞《ま》う土煙《つちけむり》ばかり。
<<ベヘモスBが区域H0に侵入《しんにゅう》。Cラインまで推定《すいてい》六〇秒――>>
基地にもっとも近い敵の一機が、有効射程《ゆうこうしゃてい》に入りつつあった。残りの二機は、それぞれクルーゾー機とマオ機が攪乱《かくらん》を試みている。強力なデータリンク機能で基地の余剰《よじょう》ASをすべて無人で使用し、また自走機雷などとも連携《れんけい》して、最大限の時間|稼《かせ》ぎをするのだ。
その間に残りの <トゥアハー・デ・ダナン> 戦隊のM9すべてが、ただ一機の『ベヘモスB』を待ちかまえ、迎え撃つ。
「さて……」
クルツはひとりでつぶやいた。
スペック伍長《ごちょう》ほか一名のSRT要員《よういん》が操縦するM9計二機は、メリダ島の南の海中に潜《ひそ》んでいる。M9には単独での揚陸機能《ようりくきのう》があるため、深度三〇メートルの水中までならば、支障《ししょう》なく行動することができる。
ゲーボ3が遠距離《えんきょり》から捉《とら》えた映像《えいぞう》を見た限りでは、今度の <ベヘモス> も対水中戦闘の装備はあまりないと判断《はんだん》されていた。整備中隊のサックス中尉や、研究部のヴィラン少尉も同意見だった――
――作戦前の会議で、ひげ面《づら》の大男サックスはむっつり顔でこうコメントした。
(対地装備は豊富《ほうふ》だが、爆雷の投射《とうしゃ》装置はないとみていい。ただし胸部に球形配列《スフィア・アレイ》のパッシブ・ソナーがある。それにあのサイズだ。おそらく曳航配列《トード・アレイ》のソナーもあるだろうな……)
攻撃型潜水艦が備《そな》えているのと同じ種類のセンサのことだ。
(……だが島の浅海域《せんかいいき》に入れば、そうしたソナーは使えないはずだ。なにせ上半身が海面の上に出ちまうんだから。だから……俺が設計者《せっけいしゃ》なら、臑《すね》か膝《ひざ》のあたりに近距離用の高周波《こうしゅうは》ソナーを付けるだろう。揚陸作戦が主任務なら、海底の地形に足を取られてもたもたするような真似《まね》はできないだろうしな。コンパクトな高周波ソナーで、海底の地形や機雷の位置を把握しようとするはずだ)
(その高周波ソナーはどの程度の性能だと思う?)
クルーゾーがたずねると、サックスは肩をすくめた。
(わからん。だが、あの巨人の装備はこちらがビビってるほど贅沢《ぜいたく》じゃないな。たとえばあの『物干し竿』。あれは電磁加速砲《レールガン》の類《たぐい》じゃない。<ミズーリ> みたいな戦艦の主砲を流用して自動化した武器だろう。わざわざ新規《しんき》にあの大砲を開発したとは思えん。そんな時間があったら、超高速の運動エネルギーミサイルをたんまり積《つ》んでやる方が早いしな……。なにしろ試射《ししゃ》をするだけでも――とんでもない広さの射爆場《しゃばくじょう》が必要になる。共産圏《きょうさんけん》でそうした場所が確保《かくほ》できたにしても、|こっち《ミスリル》に内緒《ないしょ》で開発するのは難しいんじゃないのか)
(つまり巨人のソナーも、同様のものだと?)
(断言《だんげん》はできんが、あのサイズの臑はちょうど八〇〇〇トン級の潜水艦の艦橋《セイル》と同じくらいのサイズなんだ。新しくソナーを開発する大変さを考えれば、俺なら既存《きぞん》の機材を強引《ごういん》にでも据《す》え付けるだろうな。信頼性《しんらいせい》に勝るものなし、だよ)
(……仮《かり》に、だ。敵が現用で最新鋭《さいしんえい》の高周波ソナーを搭載しているとして、その探知から自走機雷やM9を隠蔽《いんぺい》することはできると思うか?)
(わからん。それは大佐がいちばん詳《くわ》しいんじゃないのか)
そのときには、すでにマオが携帯電話で司令センターのテッサとなにかをやりとりしていた。おそらくテッサはすさまじい多忙《たぼう》の中で、手短に返答したのだろう。マオとの会話はひどく簡潔《かんけつ》なもののようだった。
(いま聞いたわ。『できる。デジラニ軍曹《ぐんそう》を行かせるから彼に聞け』だって)
(OK。海中から理想的な待ち伏《ぶ》せができるという仮定で、あの巨人に痛撃《つうげき》を与える手段はあると思うか?)
クルーゾーの言葉に、一同は渋《しぶ》い顔をした。敵が常識的《じょうしきてき》な『巨人』ならば、ここから突破口が見えそうなものだったが、あの <ベヘモス> はちがう。ラムダ・ドライバによって、ほとんどの攻撃を受け付けないのだ。
(以前にも言いましたが、ラムダ・ドライバも万能《ばんのう》ではありません)
今度はヴィラン少尉が言った。二〇代半ば、ブロンドに知的なブラウンの瞳。《ひとみ》研究部からの出向組で、ラムダ・ドライバについてもっとも詳しい一人だ。
(まず、搭乗者と集中力によって継続《けいぞく》時間に限界《げんかい》があること。そして――ある程度は、『防壁《ぼうへき》』の強度もその集中力によって左右されること。不意《ふい》を打つことさえできれば、敵にダメージを与えることも可能なはずです。ウェーバー軍曹がそれを実証《じっしょう》していますから)
クルツは有明《ありあけ》での <ベヘモス> との戦いのとき、狙撃銃《そげきじゅう》の一発でダメージを与えることに成功した。あれは操縦者が完全に油断していたからだ。そうした隙《すき》を作ることさえできれば――
(まあ、確かにあの時はうまく行ったけどな)
クルツが言った。
(行動不能《こうどうふのう》なほどのダメージってのは、無理だったよ。チャンスは一回しかないだろうからな。その一回で決めるんだったら……まあ、コックピットを狙《ねら》うしかないと思うが)
(サガラが撃ち抜いたっていう『腰の後ろのスリット』はどうだ?)
スペックが言うと、マオがうなった。
(それもあるわね。ただし――敵が有明での敗北を教訓《きょうくん》にしないで、八か月前の設計のままで、同じ敵のあたしたちに向かってきてくれてるなら、という条件付きだけど)
(論外《ろんがい》だな……)
(敵は対策済《たいさくず》みと考えるべきね)
(すると、やはりコックピットか)
(狙いやすいっちゃあ、狙いやすいターゲットなんだけどな……。あの巨人のコックピットは頭部にあるから。だが装甲《そうこう》がハンパじゃない。二重の複合《ふくごう》装甲に囲まれていて、パイロットは外装から何メートルも奥《おく》にいる。どんな火砲やミサイルを使っても、一撃で仕留《しと》めるのは無理だ)
だが、その一撃しかチャンスがない。
しかも敵は三機なのだ。
(それでも、なんとかできるはずだ)
辛抱強《しんぼうづよ》くクルーゾーが言った。
(脱出までの時間を稼ぐことさえできればいい。三機が二機になれば希望は出てくる。それでも苦しいだろうが、さらに二機を一機にできれば――可能性は大幅《おおはば》に増《ふ》える)
(そいつは高望みかもしれないけどな。まあ――少なくとも一機目は片づけられるかもしれないぜ。針《はり》の穴《あな》を通すことができれば、の話だけど)
(プランがあるのか?)
(ああ)
(言ってみろ)
クルツはそれを話した――
『ベヘモスB』が所定《しょてい》のラインを越《こ》えた。水中の警戒網《けいかいもう》とわずかに残った基地のセンサが、それをクルツのM9に伝えた。
「ECSを不可視モードで作動……」
<<はい、軍曹殿《イエス・サージュント》。ECS、オン>>
機体のECSが作動する。複数《ふくすう》のレーザー光の位相をずらすことによって発生するホログラムが、機体を可視光からも隠蔽させ、M9を透明化《とうめいか》させた。
クルツのM9は慎重《しんちょう》な動きで防空壕《ぼうくうごう》の縦穴《たてあな》から地上に出る。
砲爆撃《ほうばくげき》で荒れ果てた演習場だ。建造物《けんぞうぶつ》や樹木《じゅもく》はなぎ倒され、黒煙《こくえん》が付近にもうもうとたちこめていた。それでも用心に越したことはない。敵からの発見を避けるために、M9は狙撃砲を抱えて匍匐《ほふく》前進する。二〇〇メートルほど離れた小高い丘へ、注意深く、ゆっくりと。
爆発で削《けず》られた地形をうまく利用して、クルツはちょうどいい狙撃ポジションに付いた。
「こちらウルズ6。配置についた。チーム・レッド各員は状況を知らせろ」
『|ウルズ5《サンダラプタ》。いつでもいけるぞ』
『|ウルズ10[#「10」は縦中横]《マンデラ》。あと二〇秒』
次々に味方機から通信が入る。これから行う作戦の性質上、『ベヘモスB』に対する攻撃の指揮はクルツに任《まか》されることになっていた。
「|ウルズ8《スペック》、いけるか?」
『|ウルズ8《スペック》だ。やるしかねえだろ。……こちらもOKだぜ』
「よーし……。ほんじゃあ、まあ、一発あのデカブツにかましてやろうぜ」
『もうちょっとビシッと決めろよ、軍曹殿。リーダーなんだろ』
「無理言うなよ」
クルツは自機の狙撃砲を彼方《かなた》の敵機に向ける。たなびく黒煙の奥――島の海岸からさらに彼方の洋上に、<ベヘモス> が見えた。
「『妖精《ようせい》の目』を起動」
<<ラジャー。『妖精の目』を機動>>
クルツ機に装備された新型のセンサーが起動した。<ベヘモス> の姿に重なって、緑色の画像が投影《とうえい》される。暗視《あんし》スコープのそれによく似《に》ていた。
敵のラムダ・ドライバが効果《こうか》を示している領域《りょういき》が、表示《ひょうじ》されているのだ。
去年の一二月からの新装備である。開発者は聞いていない。
この装備を使うことで、クルツはバダム島での海賊討伐《かいぞくとうばつ》の際、宗介の <アーバレスト> がラムダ・ドライバを使うところをしっかりと観測《かんそく》できたのだった。
巨人の『防壁』は、いま機体すべてを覆《おお》うような形でうっすらと展開《てんかい》されている。スクリーン上では、緑色の濃度《のうど》でその『強度』もある程度|把握《はあく》できるようになっていた。さしずめ、敵は警戒しつつも自信たっぷりに、最後の上陸段階へと移《うつ》ろうとしている様子だった。
画面を光学に切り替《か》えると、<ベヘモス> は陽光を受けて白くきらめく海面の中を、悠々《ゆうゆう》と進んでくる。
距離二五〇〇メートル。
西南西の風、およそ一二メートル。
気温は摂氏《せっし》二二度、湿度《しつど》は八三パーセント。
その他の様々なデータが、狙撃モードのスクリーンの右下に投影される。通信スイッチを一瞬だけ切って、クルツは舌打《したう》ちした。
「くそっ……」
視界が悪い。逆光気味《ぎゃっこうぎみ》だ。
風が。大気の流れが。地上と洋上でかなり違う。ここで撃ったら弾道《だんどう》がふらつきそうだ。敵も動いてる。右へ、左へ。決して一定のテンポではない。動きが読めない。
火器|管制《かんせい》モードを変更《へんこう》。完全なマニュアル照準《しょうじゅん》にする。バイラテラル角を最低に。自分の手と勘《かん》で狙わないと、これは無理だ。
(くそっ……くそっ、くそっ!)
難《むずか》しすぎる。こんな射撃《しゃげき》を成功させられる人間など、世界でもほとんどいない。この距離と条件で、これから現れる的《まと》を射抜くのは――自分の技能では限界を超《こ》えている。
だが、やるしかないのだ。
『どうした、クルツ』
スペックがあざ笑うような声で言ってきた。彼のM9は <ベヘモス> にほど近い、海中に潜んでいる。
『まさかおまえ、ブルってるんじゃねえだろうな』
「けっ。ほざきやがれ」
『うまくいったら、あとで大もうけさせてやるぜ』
「また株《かぶ》か」
『ああ。この一|件《けん》で、さっき思いついたんだ。来週あたりから、絶対《ぜったい》にポテトの相場《そうば》が上がる。俺に五万ドル出せば、二〇倍にして返してやる』
こんな時に。バカか、こいつは。
「あのデカブツがこんな風に襲ってきてるのが、どうポテトにつながるんだよ?」
『それを話すと長くなるんだ。だから、まずは野郎《やろう》をファックしろ』
「へいへい……」
『頼《たの》むぜ? 大もうけできるんだ。前にも言ってたろ。フロリダに高級別荘、ロータスと水着美女だよ』
「ロータスは趣味《しゅみ》じゃねえなあ……」
『じゃあフェラーリだ』
「いいね」
敵が所定のラインに到達《とうたつ》しようとしていた。
スペックのヨタ話のおかげで、いい感じに神経《しんけい》がはぐれている。クルツは軽く深呼吸《しんこきゅう》してから、チームの全ユニットに告げた。
「ウルズ6よりチーム・レッド各員へ。敵がDラインを通過《つうか》する。準備《じゅんび》はいいな」
全員が『いつでもOKだ』と答えた。
「カウント5」
改めてスクリーン上の <ベヘモス> を見る。前より大きくなっていた。
「4……3……」
肩の力を抜いて、操縦桿《そうじゅうかん》をやさしく動かす。ごくわずかに。赤ん坊《ぼう》を撫《な》でるように。
「2……1……」
短くつぶやく。
「アルファ、GO」
まず、<ベヘモス> 近くの海中に潜んでいたスペックのM9が動いた。水中行動ユニットのウォータージェットが作動し、一気に海面に飛び出した機体が、飛び石のように跳《は》ねながら <ベヘモス> に接近する。巨人はすぐさま反応《はんのう》し、海上のスペック機へと半身を向けた。
『いくぜ』
海上を疾走《しっそう》しながら、スペックのM9が肩部《けんぶ》のロケットランチャーから、大量のロケット弾を発射した。駆《か》け上る炎《ほのお》の矢。それらが次々に <ベヘモス> に着弾し――いや、その手前で爆発し、青白い火花を散《ち》らした。
ラムダ・ドライバだ。やはり防《ふせ》がれた。だが、これは計算済みだった。『妖精の目』の映像からも、それは分かっていた。スペックのいる方角に向けて、ラムダ・ドライバの力場が『強く』形成されている。
「ベータ、GO」
『ベータ了解』
自走機雷の操作を受け持っていたチーム要員が告げた。ほとんど同時に、スペックとは反対側の水面から巨大な水柱が立ち上がった。
自走機雷の攻撃だ。数分前に、マオもこれをやってある程度は成功していた。しかし、致命傷《ちめいしょう》にはならない。敵は足回りに重点を置いて、『力場』を展開していた。若干《じゃっかん》のダメージはあっても、<ベヘモス> にとっては軽く撫でるようなものだっただろう。
だが――
クルツ機の『妖精の目』が捉《とら》えた映像は、敵の力場《りきば》――つまりは敵パイロットが注意を向けた方向を、はっきりと示《しめ》していた。スペック機に攻撃をしようとして、次に逆方向からの機雷に不意を打たれ――敵は眼下を警戒している。海中や、水面からの攻撃に最大の防壁を掛っている。緑色の画像の中で、下半身が濃い色に、上半身が薄い色へと変化していた。
そして、頭部付近が――
(いける)
瞬時に光学の狙撃モードに切り替えて、クルツは叫んだ。
「ガンマ、GO!」
その合図《あいず》と同時に、メリダ島南岸の各所に隠《かく》れていた味方の三機のM9が、<ジャベリン> と呼ばれるミサイルを発射した。
これが本番だった。
クルツのM9の頭部から、赤外線方式の誘導《ゆうどう》レーザーが照射《しょうしゃ》される。その照射点、『ベヘモスB』の側頭部《そくとうぶ》に向けて、三発のミサイルが殺到《さっとう》する。音速以下で、ゆっくりと飛ぶような旧式《きゅうしき》のミサイルではない。超高速の運動エネルギーで敵を破壊する大型ミサイルだ。
〇・一秒が永遠《えいえん》になった。
三発のミサイルが、同時に <ベヘモス> の頭部に着弾する。ばっと装甲の破片《はへん》が飛び散り、白い煙と衝撃波が広がった。わずかによろめく巨体。遠距離のため、爆音はまだ届《とど》いてこない。
いや。
音が聞こえてきた頃《ころ》には、もう手|遅《おく》れになっているはずだ。クルツに残された時間は、本当にそんなコンマ数秒しかなかった。着弾|箇所《かしょ》は煙に包まれて見えない。どこまで『抜けた』のかも、推測《すいそく》するはかない。角度も、位置も。自分の勘《かん》だけが頼りだった。
それでもクルツはトリガーを引いた。
冷静に。ほとんど自動的に。
三発のミサイルが命中した箇所《かしょ》。煙と大気と風の向こう、二五〇〇メートル先の、揺《ゆ》れ動くほんの数十センチほどの孔《あな》を狙って。
撃発。
伏《ふ》せ撃ちのM9の狙撃砲から、ダート型の貫通体《かんつうたい》が吐《は》き出される。眼前で真っ白な発射炎が生まれ、彼を取り巻く黒煙が、大気の一撃でばっと広がった。遠いミサイルの着弾音が、その直後に耳へと届く。
狙撃砲の一撃が命中し、スクリーンの中で、もう一度 <ベヘモス> が軽くよろめいた。
だが、狙った箇所に命中したかどうかは、まったく観測《かんそく》できなかった。
「やったか……?」
しばらくの間、<ベヘモス> は動かなかった。頭部から白煙を立ちのばらせたまま。その場に静止している。
その巨体がゆっくりと傾《かたむ》き――
倒れなかった。
<ベヘモス> は生きている。半壊《はんかい》した頭部をめぐらし、続いて黒光りする砲塔《ほうとう》をこちらへと向ける。
発砲。
とっさに機体か立ち上がらせて、跳躍《ちょうやく》した。直後に足下ですさまじい爆発が起きる。その衝撃波にあおられて、クルツのM9は空中できりもみした。
「くそっ!」
失敗だ。<ベヘモス> の頭部は相応《そうおう》のダメージを受けていたが、中のパイロットを殺傷《さっしょう》するまでには至《いた》らなかった。
肩部のミサイルランチャーが開き、その他の味方へと無数の対地ミサイルが発射される。
サンダラプタたちのM9が、迎撃と回避《かいひ》機動を試みていた。
南岸のあちこちで爆発が相次《あいつ》ぐ。味方がどうなったのかも分からない。半数は撃破されてしまったかもしれない。
なんとかバランスをとって着地したクルツ磯に、さらなる攻撃が襲《おそ》いかかった。
彼方の巨大《きょだい》な発射炎《はっしゃえん》。砲弾が飛来《ひらい》する。
これもかろうじて回避した。衝撃と振動《しんどう》で頭がくらくらする。並の操縦兵なら失神しているところだ。
全滅《ぜんめつ》。
この二文字が彼の脳裏《のうり》をよぎった。やはり無理だったのか。自分たちはこのまま、なすすべもなく敵の圧倒的な火力の前に蹂躙《じゅうりん》されるのか。
敵の砲口が三たびクルツ機を捉えた。彼のM9は舞《ま》い散る土砂《どしゃ》と煙の中で、両膝をついてふらふらとしていた。もう駄目《だめ》だろう。かわしきれない……。
『ウルズ6、まだだ、粘《ねば》れ』
無線のレシーバーから、スペックの鋭《するど》い叫び声が聞こえた。スクリーンに映る洋上の <ベヘモス> 。そのすぐそばに、水しぶきをあげて高速|移動《いどう》するスペックのM9が見えた。
あのバカ。なんで潜って逃げてないんだ。三〇ミリ砲の餌食《えじき》だぞ。
スペックのM9がロケットの残弾をすべて発射した。クルツを撃とうとしていた <ベヘモス> は、射撃を中止してスペック機へと注意を移した。
防壁を展開。ロケット弾はすべて四散《しさん》する。
スペックはそれでもうろたえなかった。もとより承知《しょうち》の上だったのだろう。そのまま巨人に突進《とっしん》し、水中行動ユニットを吹き飛ばす。身軽になるやいなや、彼のM9はその余勢《よせい》をかって、一瞬だけ宙《ちゅう》に浮かぶと、そのままM9の五倍以上はあろうかという巨大な <ベヘモス> の左足に飛びついた。
音は聞こえない。なにしろ遠かった。それにいまは、二度の砲撃でひどい耳鳴りがする。
『チャンスを作るぞ。もう一度』
スペック機は格闘用《かくとうよう》の単分子《たんぶんし》カッターを抜くと、それを敵の装甲に突き立て、ほとんど一瞬にしてその巨体を駆け上った。並《な》みの技能ではない。あんな真似《まね》ができるのは、世界中のAS乗りの中でもごく一握《ひとにぎ》りだろう。
「やめろ、スペック」
<ベヘモス> の肩部にとりつくと、スペックのM9は短銃身のカービン・ライフルを構え、敵の側頭部――四連発で中破した箇所にフルオート射撃した。その全弾が、ラムダ・ドライバの防壁でことごとくはじかれる。青白い光と、赤い火花がほとばしり、<ベヘモス> の右肩に深い陰影《いんえい》を作り出した。
『こういうの、ガラじゃねえんだけどな』
「もういい、逃げろ!」
<ベヘモス> がうなった。その動作に、はじめて感情らしいもの――怒《いか》りが見えた。
『大佐に謝《あやま》っといてくれ。別に本気じゃ――』
『妖精の目』が捉えた映像の中で、敵の防壁が強く光った。いや、それはもう防壁ではない。指向性のある圧倒的《あっとうてき》な力が、しつこく食い下がるスペックのM9めがけて襲いかかったのだ。
「スペック!!」
スペック機が <ベヘモス> の肩からはじき飛ばされた。腕がちぎれ、脚《あし》が曲がり、胴体《どうたい》が砕《くだ》け――すべてばらばらに分解《ぶんかい》していきながら。ゆっくりと四散し、海面へと落ちていく。操縦兵《そうじゅうへい》は即死《そくし》だ。はっきりと分かった。
その残骸《ざんがい》が落ちた海面に、<ベヘモス> はまだ生きていた頭部の三〇ミリ機関砲を一斉《いっせい》射撃しようとする。
虫けら風情《ふぜい》が。身の程《ほど》を知れ。
巨人がそう吐き捨てているように見えた。
わずか数瞬のことだ。
『妖精の目』が教えてくれた。海に落ちたスペック磯の残骸の方向に、敵の注意が完全に向いている。防壁の空白が見えた。頭部に。あの側頭部に。スクリーンに表示されたすべての照準データが、瞬間的に彼の頭脳を駆け抜けていった。
風と光、温度と湿度。
すべての条件が、彼に『殺せ』とゴーサインを出した。
発砲。
二発目の砲弾は、今度こそ <ベヘモス> の頭部を捉えた。装甲の孔を抜け、さらにその奥――顔も名前も知らない操縦兵の収まったコックピットに、貫通体が飛び込んだ。
<ベヘモス> が止まる。
白い煙がたちのぼる。
やがて、かつて有明で見たときのように、その巨体が震えはじめた。
腕が垂《た》れ下がり、巨砲が海水に叩きつけられる。すべての装甲が脱落《だつらく》をはじめる。自重《じじゅう》に引きずられるようにして、全身がいびつに歪《ゆが》みながら、垂直《すいちょく》方向へと|崩《くず》れ落ちていった。
一機を破壊。
だがこちらの損害も甚大《じんだい》だった。
地上からミサイルを撃ったサンダラプタたちは、直後の反撃で二機が中破していた。サンダラプタは重傷だ。
そして――
「スペック。馬鹿野郎《ばかやろう》……」
そうつぶやくのがやっとだった。
自分が初弾を当てていれば。自分がミスをしなければ。
しかし彼には自責《じせき》の念にひたる時間さえ与《あた》えられていなかった。マオから通信が入ったのだ。
『こちらウルズ2。右脚を損傷した。まだ回避《かいひ》はできるけど――長くは保《も》たないわ。どうにか止めてみる』
「姐《ねえ》さん……!」
同時に機体のAIが報告《ほうこく》する。
敵の空挺《くうてい》部隊が、すぐ近くまで接近していた。
ごく冷静に考えるならば、千鳥かなめの主張《しゅちょう》は正しい。まったく正しい。
降伏《こうふく》することなく、常盤恭子や学校の人々を救うことは、もはや『至難《しなん》』といったレベルではないのだ。ほとんど『不可能』といっていいだろう。
ここで愚《おろ》かな博打《ばくち》に出たところで、成功する確率《かくりつ》は限りなく低い。これが西部劇かなにかなら、それでも思いがけない騎兵隊がやってきて、彼らに手を貸《か》してくれて、一パーセントの可能性が実現するのだろう。そういう|奇跡《きせき》が、彼らには約束されている。だから、主人公たちが無分別ながら『美しい』選択《せんたく》をしても、許《ゆる》される結果が待っている。
宗介は違った。そういう期待など、一切無縁《いっさいむえん》な世界でこれまで育ってきた。暗殺者《あんさつしゃ》として、ゲリラとして、傭兵《ようへい》として。
たとえば、次のどちらを選ぶのが合理的《ごうりてき》なのだろうか?
一人を犠牲《ぎせい》にして、九九人を助ける可能性は九九パーセント。一人と九九人を同時に助ける可能性もあるが、それはわずか一パーセント。
どちらが賢明《けんめい》なのか?
決まっているのだ。
彼女は正しい。まったく正しい。
だがそれと同時に、相良宗介にはもう一つの命題《めいだい》があった。
その九九人と、犠牲になる一人の価値《かち》が同等以上だったらどうなるのか? その一人を差し出すくらいなら、世界のすべてを破滅《はめつ》させてもいい――自分がそういう立場なのだと仮定《かてい》するなら、どうなるのか。
もちろん九九人も大事だ。かけがえのない存在《そんざい》だ。ただし、その『一人』と同じくらいに。
考えてもみろ。
白旗《しろはた》をあげて、彼女を差し出す?
無理だ。
そんな勇気は自分にはない。それを勇気と呼ぶことができるのなら。
数学的には解決《かいけつ》できない問題。かつての彼なら、決して迷《まよ》わなかっただろう問題。すさまじいジレンマが、いま、彼に襲いかかっていた。
一パーセントに賭《か》けてみたい。
このおそろしい誘惑《ゆうわく》。
この誘惑にうち勝つことが、いったいだれにできるのだろうか? かつての彼なら軽蔑《けいべつ》しただろう。だが、もうできなかった。何かを愛するということは、こういうことなのかもしれない――宗介は漠然《ばくぜん》と思った。これまで出会ってきた、ひどく不合理《ふごうり》で、愚《おろ》かな人々――彼らの気持ちが、いまは痛《いた》いほどよく分かった。
嫉妬《しっと》に狂《くる》ってトイレに中傷文《ちゅうしょうぶん》を落書きした女子生徒。試合に負けるのを恐《おそ》れるあまり、脅迫《きょうはく》めいたファックスを送りつけたバスケ部員。職場《しょくば》の同僚《どうりょう》を想《おも》うあまり、立場を忘《わす》れて大騒《おおさわ》ぎした教職員。
だれが責《せ》められるだろうか?
理由ははっきりしている。なにかを愛しているからだ。恐れているからだ。
そう。
だれが責められるのか。
そのときの宗介が、そこまで冷静に自分へ言い聞かせたのか――それは彼自身にもわからない。
だが結果として、彼は誘惑に屈《くっ》した。
一パーセントに賭けてしまったのだ。
「時間がないよ。いこう……」
力なくつぶやき、敵から指定された場所に向かおうとするかなめ。その背中《せなか》に宗介は歩み寄《よ》り、スタンガンを抜《ぬ》いた。そのまま後ろから抱《だ》くようにして、彼女の腹部《ふくぶ》にそれを押《お》しあて、スイッチを入れた。
電流。軽い痙攣《けいれん》。
かなめはすぐに動かなくなった。
倒れる彼女をさっと支《ささ》えて、両手で抱き、横たえる。医療《いりょう》キットから鎮静効果《ちんせいこうか》のある薬物を選び、こなれた手つきで注射《ちゅうしゃ》してやった。これで数時間は目をさまきないはずだ。テナントビルの屋上、給水塔《きゅうすいとう》の上に彼女を運び、血と泥《どろ》に汚《よご》れた上着をかけておく。彼女のポケットを探《さぐ》って、PHSを取り出す。
その青白い頬《ほお》に指を遣わせたい気持ちを我慢《がまん》して、彼は立ち上がり、背を向けた。
「行くぞ、アル」
<<了解《りょうかい》>>
片膝《かたひざ》を付いて待機していたアーム・スレイブ―― <アーバレスト> のAIが答える。装甲のでっぱりに足をかけ、てきぱきと機体を登っていってから、宗介はコックピットに滑《すべ》り込んだ。
<<軍曹殿。質問《しつもん》が>>
「なんだ」
<<ミズ・チドリはここに放置を?>>
「それだ。忘れていい」
宗介はそっけなく答えた。
「これから陣代《じんだい》高校に行く。校内の爆弾を探して、それを無力化する」
<<戦術《せんじゅつ》状況をすべて把握《はあく》できたわけではありませんが、あなたの選択は間違《まちが》っています>>
「そうだな」
<<明らかに不合理な選択です。悪質と呼んでもいいでしょう。再考《さいこう》を提案《ていあん》します>>
「却下《きゃっか》だ」
<<仮《かり》に爆発物を無力化できたとしても、敵は同様の作戦を何度も繰り返すことでしょう>>
「何度でも阻止《そし》するまでだ」
<<不可能です>>
「可能にしてやる」
<<不可能です>>
不可能。不合理。無意味《むいみ》。悪質な選択。
彼女は自分を許すだろうか?
たぶん、許さないだろう。
それでも――
「ほかに、どうしたらいいのか分からない」
宗介は <アーバレスト> のスティックを握《にぎ》り、機体を立ち上がらせた。がらんとした駐車場で助走《じょそう》し、跳躍《ちょうやく》する。
眠《ねむ》り続けるかなめは置き去りだ。
これまでと同じ要領《ようりょう》で市街地《しがいち》を移動《いどう》し、数キロ離《はな》れたところで、宗介は機体をふたたび停止《ていし》させた。
コックピットを半分だけ展開させて、自由になった腕でかなめのPHSを操作《そうさ》する。わずか十数個のキーだけでメールの文面を打つのは、不慣《ふな》れな彼には骨が折れた。
『貴君の脅迫《きょうはく》は千鳥かなめには効《き》くが、自分には無意味だ。陣代高校の人間が何人死のうと、自分の任務《にんむ》に支障《ししょう》はない。最高|機密《きみつ》に属《ぞく》するASを引き渡すことは、どのような交渉《こうしょう》でも決してありえない。また、千鳥かなめを敵の手に渡す危険《きけん》があると判断《はんだん》した場合に、彼女を殺害するよう自分は命令されている。この電話にかけてこい。三分以内に応答がなかった場合は、その命令を実行に移《うつ》す』
送信。
さして待つまでもなかった。一分とたたずにPHSが着信音を奏《かな》でる。
『そちらの要求《ようきゅう》は何だ』
電子的に加工された男の声だった。
「俺の身の安全と、逃走経路《とうそうけいろ》の確保《かくほ》だ。そちらが指定する場所と時間では、安全が保証できない」
『分かっていないようだな。学校の爆弾を一つ炸裂《さくれつ》させてみょうか』
背筋が凍《こお》り付く心地《ここち》だった。だが宗介は超人的な自制心を動員して、ごく冷静に、完璧《かんぺき》な無関心を装《よそお》って告げた。
「では交渉は決裂《けつれつ》だな。好きにしろ」
あっさりと電話を切る。
液晶《えきしょう》画面を見つめて、待ち続けた。敵がまともなら、交渉に乗ってくるはずだ。苦しいのは自分だけではない。敵も――宗介とかなめがこのままどこかに逃走してしまうことを強く懸念《けねん》しているに違いない。常盤恭子や学校を人質に取ったのは、かなりの苦し紛《まぎ》れな行動だといえる。
本当に長い十数秒だった。
ふたたび着信音。
すぐにボタンを押したい衝動《しょうどう》をこらえながら、たっぷりと待って応答。
『こちらは千鳥かなめを確保できればそれでいい』
「だろうな」
『ASにも興味《きょうみ》はない。ただし脅威《きょうい》ではある。一時的であれASが無力化されているという保証さえあれば、そちらの安全は約束できる』
「いいだろう。では一一〇〇時、泉川《せんがわ》町二丁目の廃工場にASを移動させる。その場でオープンハッチで待機しよう。仲間のだれかに監視《かんし》させればいい。千鳥かなめは二キロ離れた泉川駅に一人で向かわせる。引き渡しが済んだら、俺はそのまま消える」
短い沈黙。こちらの条件を深く吟味《ぎんみ》してから、相手は答えた。
『けっこうだ。ただし少しでもその段取《だんど》りが狂《くる》った場合は、学校の爆弾をすべて起動させるぞ』
「何度も言っている通り、それは脅《おど》しにはならない」
『どうかな』
電話の向こうで男が低く笑った。
『こちらも部下を一〇人近く失ってるんだ。お互《たが》いプロ同士だが、俺はお前を苦しませたくて仕方《しかた》がない』
「興味《きょうみ》ないな」
背中にじんわりと汗《あせ》が浮《う》かんでくるのを感じながら、宗介は静かに言った。
『ミスタ・| Fe[#「Fe」は縦中横] 《アイアン》の言っていた通りだな。面白《おもしろ》いガキだよ、お前は』
「会話を引き延《の》ばす気なら、もう切るぞ」
PHSを切る。すでに敵はこちらの位置を把握して、偵察班《ていさつはん》なり強襲《きょうしゅう》班なりを急行させていることだろう。
「移動するぞ、アル」
<<ラジャー>>
ハッチを閉鎖《へいさ》し、操縦モードを復帰《ふっき》させる。陰鬱《いんうつ》な鉛色《なまりいろ》の町を、透明化《とうめいか》した <アーバレスト> は駆け抜けていった。
イニシアチブはある程度、取り戻した。
たとえかりそめのものだとしても。
これからが博打《ばくち》の本番だ。敵が恭子たちを殺すといっているのは、決してハッタリではないだろう。やつらは本気だ。
なんとかしなければならない。
たった一人で。
[#改ページ]
4:損害評価《そんがいひょうか》
はげしく揺《ゆ》れるコックピットの中では、マオとAIの声、そして複数《ふくすう》のアラーム音が飛び交っていた。
<<損害報告《そんがいほうこく》。右|大腿部《だいたいぶ》にクラスBの損傷。ADC(自動損害|制御《せいぎょ》システム)およびAML(能動動作|抑制《よくせい》システム)作動>>
「AMLはキャンセルしろ」
<<ラジャー。AMLオフ。損傷部の保護《ほご》を放棄《ほうき》>>
「あとどれだけ保《も》つ?」
<<質問。具体的《ぐたいてき》な箇所《かしょ》を――>>
「損傷部よ」
<<推定《すいてい》、四五秒から一六〇秒。戦闘機動《せんとうきどう》の即時《そくじ》中止を推奨《すいしょう》>>
「そんな余裕《よゆう》はない」
マオ機の右|脚《あし》に命中した敵の三〇ミリ砲弾《ほうだん》は、大腿部《だいたいぶ》のマッスル・パッケージと一部の衝撃吸収《しょうげききゅうしゅう》システムに損傷を与えていた。マッスル・パッケージは、その名の通りASの筋肉《きんにく》だ。導電性《どうでんせい》の形状|記憶《きおく》プラスティックを寄《よ》り合わせた繊維《せんい》の束《たば》で、人体と同様、伸縮《しんしゅく》することで関節を駆動《くどう》させる。
その右足の『筋肉』が、損傷と負担《ふたん》で破《やぶ》れかけていた。微細《びさい》な繊維が一本ずつ千切《ちぎ》れていき、やがては全体が一気に破断《はだん》するのだ。そうなったら、この機体は敵の前で歩くことさえできなくなる。じわじわとやせ細っていく右大腿部の筋肉の束――これがまさしく、いまのマオの『命綱《いのちづな》』だった。
機体のAIは損傷部の保護《ほご》を優先《ゆうせん》するよう提案《ていあん》していたが、マオはそれをはねつけた。壊《こわ》れかけた右大腿部を酷使《こくし》する以外に、敵の攻撃をしのぐ手段《しゅだん》はないのだ。
<<戦域外への即時|撤退《てったい》を推奨>>
「逃げる!? はっ、いったいどこへ――」
<<ミサイル警報《けいほう》。四時、距離四、三発>>
ひときわ大きなアラームが鳴る。海岸近くまで接近していた『ベヘモスA』から、三発の無煙式《むえんしき》ミサイルが接近していた。
「くっ!!」
全力|疾走中《しっそうちゅう》の機体を急|制動《せいどう》。焼けこげた大地をM9の左足が踏《ふ》みしめ、土砂《どしゃ》と土煙《つちけむり》が巻きあがる。猛烈《もうれつ》な衝撃《しょうげき》。内臓が体から飛び出していきそうな感覚。ミサイルが進路をわずかに変えた。頭をミサイルに向ける。頭部|機関銃《きかんじゅう》をフルオート射撃《しゃげき》。強制給弾式《きょうせいきゅうだんしき》なので薬莢《やっきょう》は出ない。大量の劣化《れっか》ウラン弾が弾幕《だんまく》となって吐き出される。一発が爆散《ばくさん》。もう一発もシーカー部分を吹き飛ばされて、誘導機能《ゆうどうきのう》を失う。
最後の一発がそこまで来ていた。回避《かいひ》するしかない。右に鋭《するど》くステップしてから、逆方向に全力で跳躍《ちょうやく》。損傷した右脚部が、さらなる負担《ふたん》に悲鳴をあげた。ミサイルはぎりぎりでマオ機をとらえ損《そこ》ねて、地表に着弾する。
滞空《たいくう》時間は短かった。マオのM9は煙を突っ切り、低い放物線《ほうぶつせん》を描いて、燃《も》え上がるジャングルへと飛び込む。脚《あし》から降《お》りたかったが、損傷部が心配だった。機体をひねり、左|腕《うで》から前回り受け身の要領《ようりょう》で着地。一〇トンの機体が木々をなぎ倒して回転する。容赦《ようしゃ》ないショックと回転運動で気が遠くなった。
だが休む間はない。同じアラームがマオの耳を打つ。
<<ミサイル警報。一一時。距離三。三発>>
また三発だ。ミサイルが接近。さらに『ベヘモスA』は機関砲も撃《う》ってきた。立ち止まって迎撃《げいげき》する余裕さえ与えてくれない。地面を転がりながら跳《は》ね起きて、ふたたび疾走、敵の掃射《そうしゃ》をかわす。右大腿部の『筋肉』は、もはやいつ破断してもおかしくなかった。コンピュータ任せの不規則《ふきそく》な乱数《らんすう》機動。敵の運動予測プログラムとの真っ向勝負だ。無数の敵砲弾が周囲に着弾し、走るM9を追い回す。
さらに三発のミサイルが迫《せま》った。走りながら迎撃。照準《しょうじゅん》がぶれる。かろうじて一発を破壊《はかい》。ECSを最大で起動しつつ、後方へ跳《と》ぶ。青白い光のベールが尾《お》を曳《ひ》く。電磁迷彩《でんじめいさい》システムが機体をステルス化させ、残り二発のミサイルが目標を見失った。
ミサイルが爆発。ぎりぎりで逃《のが》れる。尻餅《しりもち》をつくような格好《かっこう》で、マオのM9は地面にめりこんだ。
「っ……」
危機はどこまでも続く。『ベヘモスA』がなおもこちらを狙《ねら》っていた。すぐ動かなければ蜂《はち》の巣だ。ジャックナイフ機動で機体を起こし、さらに跳躍しようとする。
できなかった。パワーがない。
莫大《ばくだい》な電力を食うECSの起動と、はげしい戦闘機動を同時に行ったせいで、蓄電装置《コンデンサ》のパワーが瞬間《しゅんかん》的にほとんど空になっていた。チャージまで一〇秒は必要だ。
そして右大腿部のマッスル・パッケージが、とうとう破断していた。もはや立ち上がることさえできない。
(くそっ)
毒《どく》づき、機体を這わせる。追いつめられたマオのM9は、泥《どろ》の中を仰向《あおむ》けに後じさるばかりだった。
もはや打つ手はない。ITCC―5での遠隔操縦《えんかくそうじゅう》で使える兵器は、すべて使い尽《つ》くしている。上陸されたいま、自走機雷《じそうきらい》も役には立たない。海岸に埋《う》めた地雷も、とうの昔に執拗《しつよう》な砲爆撃でなぎ払《はら》われている。
残された唯一《ゆいいつ》の武装《ぶそう》――右手の四〇ミリ・ライフルを頭上に向け、フルオート射撃した。だめだ。まったく歯が立たない。すべてはじかれる。
山のような <ベヘモス> の巨体が迫る。
空が巨人のシルエットで覆《おお》われていく。装甲《そうこう》をしたたる大量の海水。圧倒的《あっとうてき》な、あまりにも圧倒的な暴力《ぼうりょく》のイメージ。
ベヘモスは巨砲をマオ機に向け、すぐに思いとどまった。弾薬の無駄遣《むだづか》いだと悟ったのだろう。そのまま悠然《ゆうぜん》と前進し、もがくM9めがけて右足を振り上げた。
一気に踏みつぶす気だ。ちょうどASが、人間の歩兵を虐殺《ぎゃくさつ》するかのように。
(おわりか。ちくしょう)
絶望《ぜつぼう》的な死を前にして、恐怖よりも悔《くや》しさ、無力感よりもなお尽きることのない闘争心《とうそうしん》が先に立っている自分に、マオは奇妙《きみょう》な安堵《あんど》を感じた。みっともない悲鳴が出てこない自分に、誇《ほこ》らしさを感じた。海兵隊からこれまでの兵隊生活も、なかなか捨《す》てたものではなかった――そう思えた。少なくとも、あたしは男どもが陰《かげ》であざ笑ってたような『お嬢《じょう》さん』ではない。それを証明《しょうめい》できた。
テニスコートほどはあろうかという広さの足の裏《うら》から、ねばねばした泥と海水がしたたり落ち、マオのM9に降《ふ》り注《そそ》ぐ。空がまったく見えなくなった。もう逃げられない。巨大なプレス機と化した敵の足の裏だけで、視界《しかい》がいっぱいになる。
衝撃《しょうげき》。
一瞬《いっしゅん》で機体の装甲がひしゃげ、コックピットが押しつぶされ、操縦兵《そうじゅうへい》はぐしゃぐしゃになる。痛《いた》みを知覚《ちかく》するゆとりさえ――
ちがった。
固く目を閉《と》じ、覚悟《かくご》したその瞬間はこなかった。
彼女の機体は一機のM9に抱《かか》えられ、地上を疾駆《しっく》していた。すぐにわかった。キャステロ中尉の機体だ。鉄槌《てっつい》となって振り下ろされた <ベヘモス> の足から、マオ機をぎりぎりですくいだしたのだ。同時に <ベヘモス> の頭部付近に、数発の砲弾が命中し四散《しさん》する。クルツ機の狙撃《そげき》だ。どこから撃っているのかは見えなかった。
一機の <ベヘモス> を片づけたクルツたちが、どうにか駆けつけてくれた――
『生きてるか、マオ』
キャステロの声が無線から響《ひび》いた。スクリーンに映る彼のM9は、ひどいありさまだった。頭部は半壊《はんかい》し、肩部《けんぶ》の装甲は吹き飛び、左腕は手首から先がなくなっていた。ほとんど動けないマオのM9を抱えているために、その移動《いどう》速度はひどく心細い。
「だめよ中尉、いますぐ――」
クルツの援護《えんご》にもかかわらず、怒れる <ベヘモス> が、機関砲の追い打ちをマオたちに浴《あ》びせかけた。回避《かいひ》運動。避《よ》けきれない。何発もの三〇ミリ砲弾が命中し、装甲板が吹き飛ばされる。キャステロ機が姿勢《しせい》を崩《くず》し、二機はもつれるようにして転倒《てんとう》した。
「うっ……!」
とどめを刺《さ》そうとする『ベヘモスA』に、クルツからの執拗な射撃が襲いかかる。致命傷《ちめいしょう》にはほど違いが、敵にとっては相当《そうとう》に神経《しんけい》に障《さわ》る攻撃なのだろう。<ベヘモス> は咆哮《ほうこう》をあげ、手にした巨砲をクルツへと向けた。
その巨砲の砲身に――
クルツ磯の放った砲弾が飛び込んだ。
針《はり》の穴《あな》を通すような驚異的《きょういてき》な照準だ。火花が散《ち》る。『物干《ものほ》し竿《ざお》』の砲身がゆがみ、機関部奥深くの榴弾《りゅうだん》が炸裂《さくれつ》し、<ベヘモス> の手元で大きな爆発が起きた。ぐらりとよろめき、
巨砲を手放す。木々を押しつぶし、轟音《ごうおん》とともに『物干し竿』がメリダ島の大地に落着した。
『へっ、またカマしてやったぞ。うすのろめ……』
悪意に満ちたクルツの声。
だが主|兵装《へいそう》は奪《うば》えたものの、いまだ『ベヘモスA』には強力な機関砲がある。クルツの援護ももう限界だ。
まだ動けるのだろう、キャステロ機はフルパワーでマオ機を手近な岩陰《いわかげ》へと放り投げ、反転するなり跳躍した。
『囮《おとり》になる。機を捨て基地へ走れ』
「無理《むり》です、それに――」
『命令だ、少尉!』
議論《ぎろん》の余地《よち》など許《ゆる》さず、満身創痍《まんしんそうい》のキャステロ機は単身で <ベヘモス> へと立ち向かっていった。
担当《たんとう》する敵を逆にすべきだった――
自機のM9を縦横無尽《じゅうおうむじん》に操《あやつ》りながら、もう一機の『ベヘモスC』を引きつけていたクルーゾーは歯がみしていた。
マオが戦っていた北岸地帯よりも、岩場のこちらは遮蔽物《しゃへいぶつ》が比較的に多い。パワーにも弾薬《だんやく》にも、そして操縦者の集中力にもまだ余裕《よゆう》があった。
マオたちの救援《きゅうえん》に向かいたいが、それもかなわない。こちらもいまの敵で手いっぱいだ。
それに敵機《てっき》は、自分の敵が単独の一機だということに気付きつつある。陽動《ようどう》もそろそろ限界だ。
はるか彼方《かなた》、島の西岸に敵の大型ヘリ十数機が、次々と降下《こうか》していくのが見えた。迎撃システムの破壊《はかい》されたいま、それを阻止《そし》することはまったく不可能《ふかのう》だった。
クルーゾーはスティックを握りなおした。
「ZA―3を並列操作《へいれつそうさ》。『ベヘモスC』を無制限《むせいげん》攻撃だ」
<<ラジャー>>
八〇〇メートル離れた岩地に待機させていた無人のM6――最後の一機が、超《ちょう》高速ミサイルで <ベヘモス> の攻撃をはじめた。
敵の注意が逸《そ》れる。クルーゾーのM9 <ファルケ> はすばやく遮蔽物から躍《おど》りだし、ライフルを撃ちながら高速で移動した。
司令センターのカリーニン少佐から通信。
『本部よりウルズ1へ。「ベヘモスC」を、あとどれくらい引きつけられる?』
「五分が限度《げんど》です」
『……わかった。限界が見えたら帰投《きとう》しろ。穴蔵《あなぐら》にもぐって白兵戦《はくへいせん》に持ち込む』
「奴《やつ》らはBC兵器を使うかもしれません」
地下基地にサリンやタブンなどの化学兵器を注入すれば、労せずしてこちらの将兵《しょうへい》を制圧《せいあつ》することができるだろう。ここまでやってくる敵が、いまさら人道を気にするはずもなかった。
『わかっている。C3区画の空調|施設《しせつ》を奪《うば》われたら終わりだ。戦力は集めている。いまは相手に集中してくれ』
「了解《りょうかい》」
撃破《げきは》。撃墜《げきつい》。不時着《ふじちゃく》。大破。火災《かさい》発生。
軽傷。重傷。重体。死亡《しぼう》。行方不明《ゆくえふめい》。交信不能。
そうした報告の絨毯《じゅうたん》爆撃が、司令官のテッサに襲いかかっていた。報告を受け取るたび、彼女は顔色一つ変えずに次の指示《しじ》を出し、すべての状況《じょうきょう》を頭の中で組み直していく。
スペックが死んだと聞いたときも、彼女はすぐに『一機のM9』と『一人の熟練《じゅくれん》操縦兵』を失った損害を評価《ひょうか》し、手持ちの戦力を修正《しゅうせい》し、それに基《もと》づいて今後に予想される状況と対策《たいさく》を練《ね》り直した。
彼の死について、彼女が考えたことは本当にそれだけだった。
付随《ふずい》してくるもっと大きな損失――彼の憎《にく》まれ口や、皮肉《ひにく》っぽい笑顔や、最後の時に見せた心からの直立不動の姿勢《しせい》などが、もう二度と帰ってこない事実は、完全に頭から閉め出した。
「大佐|殿《どの》――」
カリーニンが報告した。
敵の降下部隊が島の西岸に到達《とうたつ》したという。自分の予想より一〇分ほど遅かった。『ベヘモスB』が撃破されたおかげだ。三機のうちの一機とはいえ、敵にとってはまさかの損害だろう。その一〇分と敵への精神的《せいしんてき》ダメージは、いまこの状況《じょうきょう》で貴重《きちょう》な資源《しげん》だった。
降下部隊が地下に侵入《しんにゅう》するのはあと十数分だ。トラップで足止めしてもせいぜい三〇分。基地の陸戦ユニットが善戦してくれたとして――どこまで持ちこたえるのか? そしてどれだけの損害が出るのか?
『艦長――』
地下ドッグで整備《せいび》を監督《かんとく》しているマデューカスが報告した。
強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> が完全に出航《しゅっこう》可能になるまでは、あと二時間半かかるという。
一番の問題は艦の動力源《どうりょくげん》であるパラジウム・リアクターの燃料《ねんりょう》ペレット充填《じゅうてん》作業だった。この作業をあきらめることは可能《かのう》だったが――そうなると、<デ・ダナン> は出航してからわずか数週間で行動|不能《ふのう》になる。ひどい場合は、もっと短いかもしれない。一〇年以上|無補給《むほきゅう》で稼動《かどう》する通常《つうじょう》の艦船用原子炉《かんせんようげんしろ》と異《こと》なり、パラジウム・リアクターには『燃料切れ』があるのだ。いま進めている充填作業が完了すれば、<デ・ダナン> は八か月以上、潜《もぐ》りっぱなしで行動することができる(クルーの食料を度外視《どがいし》すれば、の話だが)。
問題はパラジウム・リアクターだけではない。操艦《そうかん》に不可欠な高圧《こうあつ》空気をコントロールするコンプレッサーも修理が完了しておらず、このまま海に出れば、いくつかの条件下で致命的《ちめいてき》な騒音《そうおん》をまき散《ち》らすことになるだろう。食料を含《ふく》めた各種補給|物資《ぶっし》の積み込みもまだ四〇パーセントくらいだ。
<デ・ダナン> がせめてまともな状態になるまで、あと二時間半。
あのマデューカスが言っているのだ。規定《きてい》の作業を終えるなら、それ以上は絶対に短縮できないだろう。
二時間半。
もちこたえられるのか?
(無理《むり》だわ)
溺《おぼ》れている人間が、這《は》い上がる岸の心配をする余地《よち》などない。彼女はすぐさまマデューカスに指示を出した。
「リアクターの充填作業は中止です。コンプレッサーの修理も中止。余《あま》った人員はすべて水密の点検に回しなさい」
『……やはり、それしかありませんな。了解です』
電話越しのマデューカスの声は苦々しげだったが、異論《いろん》を唱える気もない様子だった。
テッサの下した命令を漏《も》れ聞いたのだろう。カリーニンが彼女に目を向けた。
「大佐殿?」
「もたないでしょう? 二時間半なんて」
「はい。残念ながら」
カリーニンは少しの間、口ごもってから言った。
妙《みょう》だった。
ほとんどの人間は気付かないかもしれない。だが、きょうのカリーニンの様子はいつもと違っていた。命令や指示がおかしいわけではない。だれがどう見ても、的確《てきかく》で迅速《じんそく》、これ以上は考えられない指揮《しき》ぶりだ。
しかし、どこか不自然なのだ。
動揺《どうよう》?
そうかもしれない。だが、元スペツナズのたたき上げ将校の彼なら、もっとひどい修羅場《しゅらば》をいくつも潜《くぐ》ってきたことだろう。いまの状況もひどいものだが、だからといって彼が動揺する理由には思えない。常人離《じょうじんばな》れした鋼《はがね》の意志《いし》と冷徹《れいてつ》な思考《しこう》を備《そな》えた、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》のこの男が、わざわざ、いまこのときにうろたえるはずがない。
彼のたたずまいは、テッサから見てなんというのか――
逡巡《しゅんじゅん》。
そう、逡巡だ。カリーニンはなにか、もっと大きなジレンマ、もっと大きな命題に心を奪われているかのようだった。いまこの基地が直面している問題よりも、もっと向こうにあるなにかに。
それは遠い過去《かこ》を見ているようでもあり、また同時に灰色《はいいろ》の未来に日を凝《こ》らしているようでもあった。
「少佐……?」
「失礼しました、大佐殿。やれるだけのことはやってみますが――」
そのとき、戦闘中のクルツから通信が入った。
『ウルズ6より本部へ。現在も「ベヘモスA」と交戦中だ――』
その声には、当然あるはずの緊迫感《きんぱくかん》と活力がまるで感じられなかった。
『「ベヘモスA」の主要な兵装《へいそう》はほぼ無力化した。「物干し竿」は破壊《はかい》、|三〇ミリ機関砲《アベンジャー》も撃《う》ち尽《つ》くしたようだ。ほかのミサイル類も、確認できる限りでは残弾《ざんだん》ゼロみたいだな。ただ……』
明るい知らせのはずなのに、無力感と諦念《ていねん》に打ちひしがれた声だった。その理由をたずねようとする前に、クルツが言った。
『ただし、ウルズ3は撃破《げきは》された。キャステロのオヤジは戦死だ。至近《しきん》距離から三〇ミリをしこたま喰らって、ベヘモスの両手でばらばらにされた。俺が確認《かくにん》した』
「……本部了解。ご苦労だった、帰投《きとう》しろ」
カリーニンが告げる。
『いや。敵の降下部隊が見える。こちらの残弾もわずかだけど――できるだけ足止めしてから帰投する』
「必要ないわ。すぐ戻って」
『ありがとよ、テッサ。でもまあ、もうすこし粘《ねば》ってみるわ。そうでもしないと……』
無線の向こうでクルツがため息をついた。
『そうでもしないと、あいつらに顔向けできねえからな。姐さんもどうなったかわからねえし……。んじゃ、よろしく』
「ウェーバーさん!?」
テッサが制止《せいし》する間もなく、クルツからの交信は途絶《とぜつ》した。
冷え切った東京の空を、ヘリが横切っていく。
<アーバレスト> のデュアル・センサーがとらえた情報は、そのヘリが警視庁《けいしちょう》の所属《しょぞく》だと教えていた。その四キロ西には新聞社の報道《ほうどう》ヘリ。パトカーのサイレンも遠くから聞こえる。そして――肉眼《にくがん》では捕捉《ほそく》できないはどの遠距離さえ見とおす赤外線《せきがいせん》センサーは、陸上|自衛隊《じえいたい》のAS輸送《ゆそう》ヘリが規定《きてい》のルートを飛行しながら待機していることを教えてくれていた。
いまの西東京は、正体不明の戦闘|行為《こうい》に震撼《しんかん》し、大きく混乱《こんらん》している。
すべて自分と、敵が引き起こした騒《さわ》ぎだ。それでも街は呑気《のんき》に見えた。カブールやベイルートとは違う。ほとんどの人々は、不安を抱《かか》えながらもいつも通りの生活を送っていく。
だがちがった。そうではない。
あの学校はちがう。
宗介《そうすけ》の駆《か》る <アーバレスト> は、ビルからビルへと跳躍《ちょうやく》しながら、注意深く陣代《じんだい》高校への進路をとった。もとより、この機体を手放すつもりなどない。
一一〇〇時、泉川《せんがわ》町の廃《はい》工場に <アーバレスト> を移動させ、オープン・ハッチで待機させる――
敵と電話で交わしたその取り決めだったが、その約束を守る気など、宗介にはさらさらなかった。向こうもそのつもりだろう。ありとあらゆる手段《しゅだん》で、こちらを無力化して確保《かくほ》するつもりだ。拷問《ごうもん》、薬物、嘘《うそ》発見機。あとはどうとでもなる。
あの交渉で宗介が得たのは、時間だった。
すくなくとも一一〇〇時までは、敵の暴挙《ぼうきょ》を思いとどまらせることができる。それだけが重要な事実だ。もちろん敵もそれを自覚しているだろう。彼らが起爆スイッチを押さないのは、ただの義理《ぎり》ではない。向こうもこちらの身柄《みがら》を押さえるだけの準備《じゅんび》時間が欲《ほ》しいのだ。警察やマスコミが騒ぎ出したいま、彼らは前よりも動きにくくなっている。パトカーの二、三台を吹き飛ばす戦力はあっても、五〇台を蜂の巣にする力はない。
だが、爆弾の探知《たんち》を <アーバレスト> にやらせようという考えは、すぐに改《あらた》めなければならなかった。遠まきに偵察《ていさつ》をしてみたところ、かなめの辛辣《しんらつ》な指摘《してき》通り、敵は陣代高校周辺に何重もの網《あみ》を張《は》っている様子だった。光学センサ、赤外線センサ、超広帯域《ちょうこうたいいき》レーダー。人間の監視《かんし》はもちろんだ。
こちらがECSを使っているとしても、近づけば探知されてしまうことだろう。爆弾の探知に <アーバレスト> は使えない。
ASは。
(ならば……)
学校の一キロ北、オフィスビルの屋上に移動後、パッシブ・センサで周辺を入念に走査《そうさ》してから、宗介は言った。
「アル」
<<はい、軍曹殿《ぐんそうどの》>>
「完全|自律《じりつ》モードで移動した場合、ここから陣代高校まで最短で何秒かかる?」
<<約四〇秒です>>
「その移動後、対空用のECM(電子対抗手段)を最大出力で何秒間|駆動《くどう》できる?」
<<状況《じょうきょう》により前後しますが、約一五〇秒です>>
「…………」
宗介は頭の中で簡単《かんたん》な計算をしてから、コックピット・ハッチの開放スイッチを押した。ハッチ裏側のラックから、サブマシンガンと携帯無線機《けいたいむせんき》、デジタルマップを取り出し、軽い身のこなしで機外へと降り立つ。
「ECSは現状|維持《いじ》。モード4で警戒待機だ。呼んだらすぐに来い。座標《ざひょう》は――」
デジタルマップの表示を読みとり、座標といくつかの設定を指示する。
<<了解。ハッチを閉鎖《へいさ》します>>
<アーバレスト> の胸部がスライドし、がくん、とハッチが閉じる。依然《いぜん》、透明化したままの機体に背をむけ、屋上の出入り口に向かおうとする宗介を、アルが呼び止めた。
<<軍曹殿>>
「なんだ」
<<このまま私を、ここに置き去りにしないでください>>
奇妙《きみょう》なアルの言葉に、宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「『後で呼ぶ』と言っただろう。置き去りになどしない。待機していろ」
<<了解>>
「なぜそんなことを言う?」
<<予感がするからです>>
「予感?」
<<あなたとお別れする予感です>>
機を捨て脱出《だっしゅつ》し、サブマシンガンを片手に、燃え上がる密林《みつりん》を走るマオには、味方の損害など知るよしもなかった。
全身ずぶ濡《ぬ》れ、泥《どろ》まみれだ。
とにかく走る。そしてなんとか基地へたどり着く。いま彼女に出来ることは、ただそれだけだった。
絶海《ぜっかい》の孤島《ことう》とはいえ、メリダ島は相応《そうおう》に広い。東京都心部くらいの広さはある。そして負傷《ふしょう》した操縦兵が、すいすいと進んでいけるような地形もほとんどない。
野太い木の根を飛び越え、小川に飛び込む。どろどろの水をかきわけ、たちこめる煙《けむり》にむせかえる。
頭上にはジェットヘリの爆音。味方のペイブ・メアではない。敵《てき》の輸送ヘリ――おそらく、この音はスーパー・スタリオンだ。
こちらを探しているのだろうか?
いや、違う。敵の目標は基地の制圧《せいあつ》だ。自分一人にかまけている時間などないだろう。小川から岸にあがり、草をかきわけ、まとわりつく蔦《つた》を押しのけるようにして、彼女は南東を目指そうとした。
だが、その方角さえわからない。情《なさ》けない話だが、自分にとっては裏庭《うらにわ》に近いようなこの密林でも、コンパスがなくてはまともな針路《しんろ》をとることができなかった。
そして、この山火事だ。
息苦しい。体中が痛《いた》い。このままでは、敵に遭《あ》う前に死ぬ。
右|膝《ひざ》の捻挫《ねんざ》は昔の負傷以来、癖《くせ》になっていて――さっき大破《たいは》した機体から脱出したときに、またやってしまった。一歩一歩が拷問《ごうもん》のような責《せ》め苦だ。
基地はどこだ。弾薬《だんやく》がいる。
あたしはまだ戦える。
朦朧《もうろう》としたまま、よろめきながら獣道《けものみち》を進むと、白い虎《とら》に出会った。
しなやかな肢体《したい》。染《し》み一つない和紙に、墨汁《ぼくじゅう》で描《えが》いたかのような美しいしま模様《もよう》。森にたちこめる煙の向こうに、ぼんやりとその姿《すがた》が浮かんでいる。
幻覚《げんかく》でも見たのだろうか?
彼女がそう思って目をこすっているうちに、虎は軽々と跳躍し、風上の方角へと消えていった。その後ろ姿は、まるでマオに『ついてこい』とでも言っているかのようだった。
「くそっ……」
彼女は歯を食いしばり、手近の樹木《じゅもく》にすがりつくようにして、その幻《まぼろし》を追いかけていった。
ぎりぎりまで近づくことはできるだろう。
だが、敵の厳重《げんじゅう》な監視下《かんしか》にある学校へひそかに侵入《しんにゅう》するのは、ほとんど不可能《ふかのう》だった。登下校時ならまだしも、いまは授業中《じゅぎょうちゅう》だ。静まりかえった校舎《こうしゃ》に接近《せっきん》する人間は、だれであろうとひどく目立つ。
その姿を見られた段階《だんかい》で、アウトだ。
では、どうやって敵の仕掛《しか》けた爆発物をすべて発見すればいいのか? 学校のあちこちに配置された爆弾を。有効《ゆうこう》な場所は数限りなくある。全部でいくつなのかも分からない。それらをすべて、正確に探り当てるのだ。
そんな方法など、あるわけがなかった。
どんな余裕《よゆう》があったとしても、自分一人で無力化できる爆弾は、せいぜい一つだ。同時にすべてを解体《かいたい》することはできない。
ならば――
学校から数百メートルほど離《はな》れた商店街の一角まで来た宗介は、電話ボックスへと走った。かなめの携帯《けいたい》電話を開き、電話帳から然《しか》るべき番号を見つけると、それを公衆電話へ手早く打ち込んでいく。
ほどなく電子音声が告げた。
『おかけになった電話番号は、現在《げんざい》、電源《でんげん》が入っていないか、出ることができません。後ほどおかけなおしください』
まあ、そうだろう。向こうも授業中なのだから。それでも宗介は同じ操作《そうさ》をした。
『おかけになった電話番号は、現在――』
また同じだった。すぐに切って、繰り返す。電子音声は辛抱《しんぼう》強く繰り返した。苛々《いらいら》するはどの口調で。
『おかけになった電話番号は――』
『……はい』
やっと相手が出た。落ち着いた、低い声の男だった。
「先輩《せんぱい》。頼《たの》みがあります」
挨拶《あいさつ》もなく宗介が告げると、わずかな間を置いて、その相手――林水《はやしみず》はこう言った。
『トラブルかね』
「ええ」
『わかった。どうすればいい?』
細かい事情をまったく聞こうともせずに、相手はそう告げた。宗介は一度つばを飲み込んでから、なにをして欲しいのか詳《くわ》しく説明した。
『まいったな。停学《ていがく》ものだ』
「必要なんです」
『いや、冗談《じょうだん》だよ。喜んでやろう』
「助かります」
『構《かま》わんさ。ただ――』
相手は電話の向こうで、小さなため息をついた。
『――これでお別れということかな?』
「……おそらく」
『そうか。達者《たっしゃ》でな。……君との一〇か月は楽しかったよ。本当に楽しかった』
「俺もです。楽しかった」
『彼女にもよろしく言っておいてくれ。できる限《かぎ》り力になるとも』
「はい」
『幸運を』
電話が切れて、単調なトーン音が受話器の中で響《ひび》き渡った。
その男――クラマは、ただの一高校を爆弾で吹き飛ばすことに、大した意義《いぎ》や意味を感じてはいなかった。
大柄《おおがら》。短く刈《か》り込んだ頭と、灰色《はいいろ》の無精《ぶしょう》ひげ。小さく、丸い眼鏡《めがね》。
クラマは傭兵《ようへい》だ。戦う手段に選《よ》り好みはないが、だからといって安易《あんい》な残虐《ざんぎゃく》さや、その逆のヒューマニズムに流されることもない。
必要ならば、すべてやる。
ただそれだけだ。
そしてクラマの経験《けいけん》は、満場一致《まんじょういっち》で彼自身にこう告げていた。
容赦《ようしゃ》は要《い》らない。起爆《きばく》しろ。
ここでいい加減《かげん》な対応《たいおう》をすること、それ自体が後の憂《うれ》いを招《まね》く。ありとあらゆる言葉が、契約書《けいやくしょ》として機能する。脅《おど》した以上、実行ができなければ意味がないのだ。
それだけではない。宗介の抵抗《ていこう》で複数《ふくすう》の部下を失ったクラマには、報復《ほうふく》をする権利《けんり》があった。いや、すくなくとも、彼自身はそう思っていた。
そうしたすべてを踏《ふ》まえた上で――
クラマは起爆スイッチを押すことに、いかなる痛痒《つうよう》も感じていなかった。
それもいいだろう。
あの男はもっと苦しむべきだ。
彼の感じるものはその程度《ていど》だった。
「白いASは現《あらわ》れたか?」
廃《はい》工場に待機している部下に無線でたずねると、その部下は小さなうなり声をあげた。
『いえ、まだです』
「わかった」
彼は手元の起爆スイッチの安全|装置《そうち》を、ひっそりと解除《かいじょ》した。この装置から発振された暗号つきの電波を受け取ったとき、校内の八か所に仕掛けた爆弾が同時に爆発するのだ。
親指一本。それでけりがつく。
その後は、自分の知ったことではない。
戦って、殺して。いつものことだ。躊躇《ちゅうちょ》はない。
そのおり、監視チームから連絡が入った。『学校内で火災報知器《かさいほうちき》が鳴っている』と。
相良《さがら》宗介の仕業《しわざ》だろう。校内の人間に連絡をつけて、警報を発したのか。
だが――だとして、こんな避難《ひなん》が何の役に立つというのだ。年に一度の避難|訓練《くんれん》しかしていない高校生一〇〇〇人以上が、校舎から完全に退避《たいひ》するまで何十分かかると思っている? こちらはスイッチ一つなのに。
[#挿絵(img/07_205.jpg)入る]
集音マイクが騒動《そうどう》をとらえる。けたたましいベルが鳴り響いていた。さらに追い打ちをかけるように、校内放送。
『テスト、テスト。こちらは生徒会です』
しれっとした声でその人物は告げた。
『つい先ほど、北校舎で重大な災害《さいがい》が発生いたしました。当生徒会の補佐官《ほさかん》――えー、ご想像の通り、彼[#「彼」に傍点]です――彼が持ち込んだ化学兵器が、不幸な事故《じこ》により漏洩《ろうえい》しました。これから一〇〇秒以内に校庭まで避難してください。すこしでも遅《おく》れると死にます。お急ぎを』
化学兵器? ばかげている。ただの高校で、そんな話が通用するわけがないではないか。まだ普通に、『火事だ』と警告する方が合理的にさえ思える。
(相良宗介。これがおまえの作戦なのか?)
クラマは失望と共に、爆弾のスイッチを握りなおした。躊躇したのは五秒くらいだっただろうか。彼は小さなため息をついてから、問題のスイッチを押し込んだ。直後、用意した爆弾が炸裂するはずだった。
だが、爆発しない。
二回、三回。反応なし。
届《とど》くはずの無線信号が届かないのだ。
そうこうしている間にも、学校の生徒たちは避難活動を進めていく。それも普通の速さではなかった。先を争うような猛《もう》ダッシュだ。双眼鏡《そうがんきょう》から見える生徒たちは、だれもが必死の形相でいる。これも彼の予想外だった。
「どうなっている!?」
「非常に強力な電波|妨害《ぼうがい》です。D地点から」
北側のマンション屋上に設《もう》けた、ASの接近《せっきん》を警戒《けいかい》する監視ポイント。その場に、あろうことか、あの白いASがひざまずいていた。ECSを解除し、堂々とその姿をさらしている。なぜあの機体が近づくことに、監視員たち――おそらく、すでに制圧《せいあつ》されてしまったのだろう――は気付かなかったのか?
いや、それは後回しだ。あの白いASはECSを停止《ていし》して、すべてのパワーを電波妨害に注ぎ込んでいる。そう長い時間はもたないはずだ。せいぜい二分かそこらだろう。
「すぐに攻撃しろ」
クラマは部下に命じた。
「いまあの機体はまったく動けないはずだ」
一二〇〇名を、たった一人と一機で守る。
宗介が直面した東京での――おそらく――最後の作戦は、それほどに困難《こんなん》なものだった。
<アーバレスト> と別れたあと、宗介は敵の観測《かんそく》ポイントに生身で忍《しの》び寄《よ》り、ASの接近を警戒していた敵三名を、音もなく無力化した。観測機材を停止させ、敵の監視|網《もう》に穴《あな》を開け、その盲点《もうてん》をついて <アーバレスト> を自律操縦《じりつそうじゅう》モードで呼び寄せる。無人ながらも、『アル』は機体を迅速《じんそく》に誘導《ゆうどう》することに成功した。
宗介はそのまま観測ポイントのマンションを離れ、さらに学校へとぎりぎりまで忍び寄る。<アーバレスト> は制圧済みの観測ポイントで待機だ。
あらかじめ取り決めた時刻《じこく》まで待ち、そこで作戦を発動させる。
<アーバレスト> がフルパワーで電波妨害を行った。同時に宗介が学校の校舎内へと急ぐ。学校内の味方――林水|敦信《あつのぶ》がそれに先んじて校内放送で避難を告げた。
<アーバレスト> が最大出力の妨害をかけていられる時間は限られていた。せいぜい二分から三分。そんな短い時間に避難を完了できる学校など、まずないだろう。
だが、この学校は違った。
それが可能な日本|唯一《ゆいいつ》の学校なのだ。
それだけが、この問題の突破口《とっぱこう》だった。一〇か月の生活で、宗介が知らぬうちに築《きず》いてしまった、冗談のような事実だった。童話でいうところの『狼《おおかみ》が出たぞ』になることだけが心配だったが、その問題さえ、心強い味方の林水がなんとかしてくれた。みんなは――学校のみんなは、期待通りに、必死になって避難してくれている。我先《われさき》に。
(そこまで俺のやらかす事が恐《おそ》ろしいのか……?)
ふと冷静になってそう思ったりはしたが、それでもありがたいことだった。
全員が校庭に避難することさえできれば、校舎内で爆発が起きてもその生徒たちは無事《ぶじ》なはずだ。
ただ一名を除《のぞ》けば。
その一名を救うために、宗介は全力|疾走《しっそう》していた。
時間がない。
そしてその時間すら、いまは危《あや》うい。
<アーバレスト> やM9が搭載《とうさい》している電波妨害装置は、ECSなどのステルス化とはまったく逆の装置である。広帯域《こうたいいき》にわたって強力な電波を発信し、敵のレーダー探知や通信を邪魔《じゃま》するのだ。言ってみれば、スピーカーからすさまじいサイレンを流して、会話や足音をかき消してしまうようなものだった。
だが宗介たちが、この機能を使うことは滅多《めった》にない。なぜか。
これ以上はないほどはっきりと、自身の位置を敵にさらしてしまうからだ。闇夜《やみよ》でサーチライトをたくようなものである。学校に仕掛けられた爆弾の起爆信号を妨害するためとはいえ、これは <アーバレスト> にとってほとんど自殺|行為《こうい》だった。
陣代高校の周辺に、無感動な男の声が響き渡る。
『警告《ワーニング》。|重火器装備の歩兵《ヘビーアームド・インファントリ》、|一二名《トゥエルブ》。|距離1《レンジ・ワン》、|方位 3 0 5《ベクタースリーゼロファイブ》、|2 2 7《トゥートゥーセブン》、|1 6 4《ワンシックスフォー》』
学校の北にあるマンションの屋上から、<アーバレスト> が外部スピーカーの大音量で告げた。宗介はすでにそのマンションを離れ、北校舎裏の非常階段を駆《か》け上っている。広帯域の電波妨害を行っているいま、宗介と <アーバレスト> 自身も無線通信機が使えない環境《かんきょう》だった。専門的《せんもんてき》な英語なので住民や生徒のほとんどは理解できないだろうが、敵は別だ。それでも宗介は、『戦況』を把握《はあく》しておく必要があった。
敵が <アーバレスト> に迫《せま》っている。あの機体が動けないことが分かっているのだ。
(急がなければ……)
恭子《きょうこ》が捕《と》らわれている場所の目星は付いていた。学校|施設《しせつ》のあれこれについてなら、いまの宗介はどの生徒よりも詳《くわ》しい。この時間帯、生徒や職員が寄り付かない場所は、屋上の給水区画か体育館の地下|倉庫《そうこ》くらいだろう。そして地下倉庫には電波が届きにくい。残るのは給水区画だけだ。
残り時間は、せいぜい一〇〇秒。
サブマシンガンを油断《ゆだん》なくかまえ、北校舎の屋上に出る。敵の姿はない。発煙弾《はつえんだん》を発火させてから、屋上を突っ切る。狙撃《そげき》のリスクを最低限にするためだ。屋上の東四分の一ほどのスペースは、給水タンクがあるためフェンスで仕切られている。フェンスの前までたどり着いた。格子戸《こうしど》にかけてあった安物の南京錠《なんきんじょう》を、銃の台尻《だいじり》で叩き壊《こわ》す。
(いた)
フェンスの奥《おく》、貯水《ちょすい》タンクを支《ささ》える鉄骨《てっこつ》に、常盤《ときわ》恭子が縛《しば》り付けられていた。後ろ手に手錠《てじょう》をかけられ、猿轡《さるぐつわ》をかまされ、乱《みだ》れた着衣の上――鳩尾《みぞおち》のあたりにC4爆薬一ポンドが取り付けてあった。
恐怖に疲れ、憔悴《しょうすい》しきった青白い顔。眼鏡の奥の愛らしい瞳《ひとみ》は、涙も涸《か》れて真っ赤に充血《じゅうけつ》している。現れたのが宗介だと知って、彼女はすがるような声を漏《も》らした。
「んむ……」
「待っていろ常盤」
近づこうとして、踏《ふ》みとどまる。近づくものを感知する複数《ふくすう》のレーザーセンサに気づいた。無力化している時間はない。膝《ひざ》の高さに張《は》ってあるレーザーを慎重《しんちょう》にまたぎ、恭子の傍《かたわ》らになんとかたどり着く。
「俺が必ず助ける。動くなよ」
コンバットナイフで猿轡を解《と》くと、恭子は上ずった声で言った。
「し、知らない男の人たちが……カナちゃんの知り合いだとかいって……」
「嘘だ」
答えながら、すばやく恭子に仕掛けられた爆弾を観察する。
思ったとおりだ。それほど複雑《ふくざつ》な爆弾ではない。遠隔《えんかく》起爆の回路《かいろ》自体は単純で、それとは別にトラップがいくつか見受けられる。彼女の腰にくくりつけられたワイヤーを切れば、起爆装置が作動する。むき出しの信管を引き抜けは――いや、それも無理そうだ。信管そのものにセンサが取り付けてある。騙《だま》すには時間がかかるだろう。とても数十秒では――
恭子が涙声で言った。
「わからないの。なにがなんだか……か、カナちゃんは無事なの?」
「無事だ。安全な場所に――」
北のマンションから鋭い爆発音がした。<アーバレスト> が攻撃を受けたのだ。あの音はRPG――歩兵用の携行《けいこう》ロケット弾だろう。<アーバレスト> の複合《ふくごう》装甲ならある程度は耐《た》えられるはずだったが、敵の攻撃は一発だけではなかった。二発、三発。同様の爆音が立て続けに響く。
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『攻撃を受けています。ECMは作動中。あと三〇秒』
アルの声。損害はわからない。宗介のいるこの位置からでは見えない。それよりも作業だ。あと二五秒。
「さ、相良くん。あれは――」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。目をつむっていろ」
起爆装置本体の無力化はもう間に合わない。トラップもだ。いまできるのは、起爆信号を受け取る無線機を騙すことだけだった。工具とテスターを取り出し、むき出しにした回路に目を走らせる。知っているタイプだ。同じSRTのスペックから習った。回路図を思い出す。コードをつないで増幅《ぞうふく》回路をバイパス。下手をしたら爆発を引き起こすやり方だったが、選ぶ時間はない。
あと一五秒。
爆発はなかった。だがまだこれからだ。回路上のコンデンサの番号を読む。規格《きかく》と容量は覚えていた。テスターのクリップで端子《たんし》を挟《はさ》み、入出力を均等《きんとう》に調節。デジタル式のメーターがわずかに揺《ゆ》れ、安定する。
あと一〇秒。
前に見た刑事《けいじ》ドラマの再《さい》放送で、『赤と青の線、どちらかを切れば……』といったシーンがあった。だがそうではない。二分の一などといった、虫のいい話ならだれも苦労しない。宗介に突きつけられた博打《ばくち》は、もっと分が悪かった。
回路から伸びる一六本のリード線。
そのうち一五本はダミーだ。
あと五秒。
この爆弾を作った者の癖《くせ》を読まなければならない。回路の特性《とくせい》もだ。製作者《せいさくしゃ》の腕《うで》はおそらく自分と同程度だろう。ダミー回路には特有の匂《にお》いがある。熟練《じゅくれん》した爆弾製作者だけが感じ取れる匂いだ。苦手なもの、嫌《きら》いなもの。ある種の合理性と個人的な趣味嗜好《しゅみしこう》。製作者が『解体用《かいたいよう》』に残しておくラインはどこか。そう、俺ならどうする。
ニッパーを持つ手に汗《あせ》がにじむ。
あと三秒。
どれだ。
二秒。
どれなんだ。
一秒。
自分ならここにする。
ほとんど冷酷《れいこく》ともいえるような確信《かくしん》をもって、彼はラインの一つを切断《せつだん》した。
瞬間《しゅんかん》が永遠《えいえん》になった。
『ECM停止《ていし》。本機はこれより――』
爆発音がアルの声を掻《か》き消した。<アーバレスト> の被弾《ひだん》した音だ。目の前の爆弾ではなかった。
正解だ。間に合った。アルも持ちこたえてくれた。
無線の起爆装置だけは無力化することができた。宗介は深く息をついて、こわばった右手をほぐすように振った。
「相良くん……相良くん……」
「まだ動くな。無線装置を騙《だま》しただけだ。これから他のトラップをはずしていく」
そう、まだ安心するにはほど遠い。はかの施設《しせつ》が爆発しなかったところを見ると、敵も起爆そのものには意味がないと悟《さと》ったのだろう。はかの人質《ひとじち》である生徒たちは、すでに避難《ひなん》を完了している。
攻撃を受けていた <アーバレスト> からの交信はない。撃破されてしまったのか、あるいは戦域《せんいき》から退避《たいひ》したのか――
「わかんないよ……どうなってるの」
朦朧《もうろう》とした声で恭子が言った。宗介はどう答えていいのか分からず、ただ一言、
「すまない」
とつぶやき、残りの作業を急いだ。
「相良くん」
「ああ」
「ハイジャックの時の人なの? あの、カナちゃんを連れて行った悪い人が……」
「奴《やつ》は死んだ。もういない」
あの旅客機でのガウルンのことを思い出しながら、宗介は起爆回路の細工をてきぱきと続けた。
「じゃあ、なぜ? それに……」
震《ふる》える声。これまで蓄積《ちくせき》してきたすべての不安が堰《せき》を切ったように、恭子は質問を繰《く》り出した。
「やっぱりカナちゃんが誰かに狙《ねら》われてるんでしょ? だからみんなも巻《ま》き込《こ》まれてるんでしょ? みんな危ない目にあってるんでしょ? どうして――」
「千鳥《ちどり》は悪くない」
「じゃあ何でカナちゃん、あたしに一言も相談してくれなかったの? あたし、わかってた。カナちゃん、なにかすごく重たい悩《なや》み抱《かか》えてるみたいだって。何度も『話して』って言ったけど、絶対《ぜったい》に話してくれなかった。親友だと思ってたのに。なのに……」
恭子の胸《むね》が小刻《こきざ》みに上下する。
「あなた[#「あなた」に傍点]はそれを知ってるんだね。あの子とあなただけは知ってるんだ。あたしたち、友達じゃなかったの?」
「常盤」
ナイフで胸をえぐられるような痛みが、彼の心を締《し》め付けた。
「あたし、なにも知らずに死にたくない。死にたくないよ……。あなたたちはそれでもいいのかもしれない。だけど……あたしはどうなるの? あなたとカナちゃんにとって、あたしはただの部外者ってこと? そんなのやだ。ガマンできない。あたし、そこまでお人よしじゃない」
「常盤」
「みんなそうだよ。危《あぶ》なかったんでしょう? なんで黙《だま》ってたの? なにがおきてるの? あなたが来てからだよ。なにかおかしくなっちゃったのは。あたし、分からない」
「それは――」
「あなたはだれなの?」
「っ……」
「あなたは――いったい何者なの?」
いつもやさしかった恭子の言葉だけに、すさまじい辛辣《しんらつ》さだった。しかも彼女の表情と声色《こわいろ》には、一片《いっペん》の悪意もないのだ。彼女はただ、訴《うった》えるだけだ。必死に涙《なみだ》をしぼり出して。それはまったく異質《いしつ》で理解《りかい》できない存在《そんざい》と現象を前にした人間としては、あまりにも無垢《むく》で誠実《せいじつ》に過ぎる反応《はんのう》だった。いちばん残酷《ざんこく》な反応だった。
あなたは何者なのか?
「俺は……」
起爆装置の回路にクリップを入れる手を止めて、宗介は口ごもった。
「俺は……」
「殺し屋だ」
背後に男の声。
「……っ!?」
恭子が息を呑《の》む。
手を止めサブマシンガンに手を伸《の》ばしたかったが、解体作業をしているいま、それもかなわなかった。手を離せば起爆回路が起動《きどう》してしまう。
ゆっくりと首を巡《めぐ》らせる。
のんびりと給水タンクのそばに近づいてきた敵は三人。銃器《じゅうき》をこちらに向けている。こちらが手を離せなくなるタイミングを待っていたのだろう。
中央の男がリーダー格《かく》のようだった。大柄《おおがら》、短髪、無精髭《ぶしょうひげ》。黒のトレンチコート姿《すがた》。長くしなやかな指が印象的だった。鷹揚《おうよう》でありながら、どこか自分の力をよくわきまえた控《ひか》えめな物腰《ものごし》。物静かで哲学《てつがく》的なたたずまいは、狙撃手やハンターに特有のものだ。
(なるほどな……)
昨夜からの逃走劇《とうそうげき》すべてを思い出し、宗介は納得《なっとく》した。敵の追跡を指揮《しき》していたのは、この男だったのだ。宗介とて並の兵隊ではない。その彼を冷酷に追い詰め、包囲網《ほういもう》に絡《から》め、揺さぶりをかける。ここまで宗介が表をかけたのは、単純《たんじゅん》に土地勘《とちかん》のおかげだったとさえいえるだろう。
男が言った。
「たった一人でよくここまでやったものだ」
「そうでもない。間抜《まぬ》けどもが雁首《がんくび》を揃《そろ》えていたからな」
ふてぶてしく解体《かいたい》作業を続けながら、宗介は言った。
「憎《にく》まれ口もなかなかのものだな、相良宗介――いや、カシムくんとも呼ばれていたか」
「俺のことをいろいろ知っているようだな」
「すこしはな」
「ガウルンと組んでいたのか――クラマ[#「クラマ」に傍点]」
宗介がつぶやくと、その男は意外そうに片眉《かたまゆ》を吊《つ》り上げた。
「光栄だな。ご存知《ぞんじ》だったとは」
「レバノン時代にな。写真くらいは目にしたことがある」
「狭《せま》い業界だ。わかるだろう。あそこでは派手《はで》にやりすぎたからな。俺もおまえさん同様、転職したわけだ」
「SAS(英軍特殊部隊)を五人殺した傭兵のあんたが、何も知らない高校生を人質にするのか?」
「まさか『卑怯《ひきょう》だ』とでも言うんじゃないだろうな?」
「…………」
会話の意味が分からず、ただ震えるだけの恭子の様子に気づいて、クラマは鼻を鳴らした。
「……お嬢《じょう》さん。俺が代わりに教えてやろう。その男は現役《げんえき》の殺し屋だ。ある傭兵部隊の所属《しょぞく》で、あらゆる武器《ぶき》と戦術《せんじゅつ》に精通《せいつう》している。高校生なんてのは嘘《うそ》っぱちでね。書類を偽造《ぎぞう》してこの学校に潜入《せんにゅう》していたのさ」
「な、なにを言ってるの……?」
「その気になれば息をするように人を殺せる。そういう、われわれと同類の人種だ。ついさっきも俺の部下を三人、きれいに音もなく殺してくれた。大した腕だよ」
「相良……くん?」
恭子が震える瞳《ひとみ》で、宗介の胸元《むなもと》や頬《ほお》、手の甲《こう》を凝視《ぎょうし》した。シャツや肌《はだ》にこびりついた、生乾きの血糊《ちのり》――クラマの言葉を雄弁《ゆうべん》に裏付ける赤黒い染みに、彼女の目は釘付《くぎづ》けになっていた。
「まあもっとも――その <ミスリル> も、今ごろは壊滅《かいめつ》状態だろうがね」
「なんだと」
「おまえの基地も陥落《かんらく》しつつある。気の毒だとは思うが……捕虜《ほりょ》はとらない方針《ほうしん》だそうだ。どれだけ逃げても援軍《えんぐん》は来ない。逃走中のあの白いASもだ。こちらのASがもうすぐ到着《とうちゃく》するからな」
「…………」
「おまえはよくやった。だが、限界はある。あきらめることだ。素直《すなお》に千鳥かなめを引き渡すなら、その娘の安全は保証しよう」
恭子がはっとする。
「引き渡す? カナちゃんを? どういうこと?」
もはや反撃のチャンスなどなかった。ようやく作業を終えた回路から手を離すより前に、自分は恭子の眼前で、正確に頭を撃《う》ち抜かれることだろう。
そこで――
屋上に上ってきた者がいた。こつこつと頼《たよ》りないヒールの音。荒《あら》い息遣《いきづか》い。
「常盤さん!? どこにいるの? みんな避難しちゃいましたよ! いるなら返事して!」
女の声だった。
フェンスの向こうに女の姿が見えた。年齢《ねんれい》は二〇代半ば。ほっそりとしたスーツ姿にボブカット。校内を走り回った後らしく、肩をはげしく上下させている。
クラマが命じた。
「拘束《こうそく》しろ」
「はい」
部下の一人がきびすを返し、フェンスの向こうへと走る。
「な、なんです、あなたは……!? こ、ここは学校関係者以外は……やぁっ!」
女は悲鳴をあげ、逃げようとしたが、ほとんどなにも出来ずにつかまってしまった。
「痛い、放して……」
部下の一人に手首をつかまれ、女が宗介たちのいる給水タンクのそばまで連行されてきた。その顔は青ざめ、唇《くちびる》は恐怖《きょうふ》にわなわなと震《ふる》えていた。
「と、常盤さん……? それに相良くん? これはいったい? この人たちはだれなんです? なんで鉄砲《てっぽう》なんかを……」
「この学校の教師《きょうし》のようです」
クラマの部下が言った。
「ちょうどいい。ひざまずかせろ」
「あっ……!」
乱暴《らんぼう》に肩を押され、女はその場にひざをついた。抵抗《ていこう》するそぶりなどまったくない彼女の後頭部に、クラマの部下が拳銃《けんじゅう》を突《つ》きつける。
「や、やめて……」
「無理に千鳥かなめの居場所《いばしょ》を言う必要はない。まず、こちらが本気だと知ってもらおう。この先生には気の毒だがな」
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、常盤さん? 担任《たんにん》の私が、必ずこの人たちを説得してみせますからね? こわがらなくていいわよ?」
恭子はもちろんおびえていたが、それ以上に、まったく混乱《こんらん》した様子でその女性教師[#「女性教師」に傍点]の顔を凝視《ぎょうし》していた。
そして――こうつぶやいた。
「……だれ?」
「なに――」
ほとんど同時に女が動いた。
女の身のこなしは電光石火《でんこうせっか》だった。
後頭部の銃口を弾《はじ》き飛ばすと同時に、その手首をねじり上げると、半身を返して男を投げ飛ばした。その相手が地面に叩きつけられるよりも前に、スカートの下に隠《かく》していた小型の拳銃を抜き、敵の側頭部《そくとうぶ》に銃口を押し付けていた。
発砲。一瞬で男は絶命《ぜつめい》する。
宗介も同時に動いていた。すでにどうにか手を放せるところまで、処理《しょり》を済ませていた起爆回路を放り出し、ナイフを抜く。
一閃《いっせん》。クラマめがけてナイフが飛ぶ。クラマはとっさに左腕をあげ、喉《のど》をかばう。その腕にナイフが突き立った。
「…………っ」
もう一人の部下が女を撃《う》とうとしたが、間に合わなかった。女は倒《たお》したばかりの男を盾《たて》にしつつ、さらに発砲。宗介も腰から拳銃を引き抜き、男に銃弾を叩き込む。頭部に弾丸を食らって、男が崩《くず》れ落ちた。
ナイフが刺《さ》さったままの左腕で頭をかばいながら、クラマが飛び退《すさ》る。右手のサブマシンガンを連射《れんしゃ》。宗介と女は身をかがめる。給水タンクに銃弾が当たり、跳弾《ちょうだん》となって火花を散らした。二人が発砲。クラマの体にいくつもの銃弾が命中する。だが彼は軽くよろめいただけだ。
さらに発砲。弾倉のすべてを叩き込む。防弾衣《ぼうだんい》を着ているのだろう。決定的なダメージは与えられないままだった。その体格からは想像もつかない身のこなしで、クラマはフェンスの向こうへと逃げ去った。
(捕《とら》えて情報を引き出せば……)
すぐさま弾倉を交換しつつ、追いかけようとする。だが女が彼を止めた。
「待て、軍曹」
先刻《せんこく》のおびえきった芝居とは、まったく異《こと》なる冷静な声だった。
「もう追いつけない。それよりこちらの爆弾《ばくだん》が先だろう」
「っ……」
「ちがうか?」
ボブカットのかつらを捨《す》て、まっすぐに彼を見つめる女。彼女の姿を、宗介は改めて観察した。遠目には宗介たちの担任教師の神楽坂《かぐらざか》恵理《えり》に似《に》ていたが、そうではなかった。
無感動な切れ長の三白眼《さんぱくがん》に、ほっそりとした顎《あご》。日本人形を思わせるような、真っ白で小さな造型《ぞうけい》の顔だった。
「……それが素顔《すがお》か?」
「あいにくな」
「女だったとは……」
「ほかに言うことはないのか?」
その女―― <ミスリル> の情報部員『レイス』は不機嫌《ふきげん》な声で言った。
「時間がなかったのだ。そうでなければ、だれが好き好んで貴様《きさま》の前に素顔《すがお》で現れたりなどするものか」
宗介はほとんど放心状態《ほうしんじょうたい》の恭子の傍《かたわ》らにひざまずき、爆弾の最終的な解体作業に取りかかった。
「いままで何をしていた」
「貴様らを探《さが》していたのだ。昨夜、貴様らが下校したところで、いつも通り『エンジェル』の自宅《じたく》近くの監視《かんし》ポイントに移動《いどう》した」
「……そちらの基盤《きばん》を押さえてくれ。ライトはあるか。奥《おく》を照《て》らせ」
「まったく……」
「感謝《かんしゃ》はしている」
「心にもないことを」
「嘘《うそ》ではない。……それで?」
宗介の作業を手伝いながら、レイスは続けた。
「そこでまたやられた[#「またやられた」に傍点]。あの銀髪《ぎんぱつ》の男とその手下のロボットが、いつのまにか背後《はいご》に忍《しの》び寄っていた。なぜ奴《やつ》が私を殺さなかったのかはわからん。目を覚ましたら夜中の二時だった。それからずっとだ。足取りを追っていた」
信管《しんかん》のセンサを無力化させる。回路を安定させてから、ゆっくりと――粘土《ねんど》状の爆薬から電気信管を引き抜いていく。
[#挿絵(img/07_229.jpg)入る]
「これでいいのか?」
「いや……」
恭子の体に巻きつけてあるリード線を切る。テスターの針《はり》が跳《は》ね上がり、起爆回路が活《かつ》性化《せいか》した。だが、なにも起きない。すでに信管は除去《じょきょ》しているからだ。
「これで終わりだ」
「やれやれ……」
こうした爆弾の扱《あつか》いにはあまり慣《な》れていないのだろう。レイスは深いため息をつき、額《ひたい》ににじんだ汗《あせ》をぬぐった。
「……それでこれからどうする気だ、軍曹」
「彼女の居場所《いばしょ》が知りたいんだろう?」
厭味《いやみ》のつもりで言ってやると、無表情だったレイスの顔に、ふっと影《かげ》が差した。怒《いか》りも苛立《いらだ》ちもない。そこによぎったのは、ある種の悲哀《ひあい》だった。
「…………?」
眉《まゆ》をひそめる宗介から目を逸《そ》らし、レイスは鉄骨《てっこつ》とフェンスの向こうをうかがった。
「あの男は下がったが、包囲《ほうい》はまだ解《と》かれていない。態勢《たいせい》を立て直してまた来るだろう。生徒たちはあのまま避難できるだろうが、われわれは危険なままだぞ」
「わかっている」
「脱出《だっしゅつ》は困難《こんなん》だと言っているのだ」
「そんなことはない」
情報部のこの女は、<アーバレスト> の自律《じりつ》行動機能をよく知らないのだ。『アル』がまだ生きていれば――
「アル、聞こえるか」
無線機に呼びかける。
<<肯定《こうてい》です、軍曹殿>>
「損害報告《そんがいほうこく》を」
<<右|大腿部《だいたいぶ》および右|下腕部《かわんぶ》にクラスBの損傷。左肩部、左|腰部《ようぶ》にクラスCの損傷。ADC作動中。戦闘《せんとう》機動の維持《いじ》を優先《ゆうせん》し、AMLは休眠《きゅうみん》させています>>
「位置は」
<<近くです。学校の北、約八〇〇メートル。ECS装備の敵ASが三機、接近《せっきん》しつつあります>>
「振り切ってこちらに来られるか?」
<<やってみます>>
屋上からも見えた。北の市街地で爆発音。白い煙《けむり》があがっている。南の校庭からは、混乱した生徒たちの声。
住み慣《な》れた町は騒然《そうぜん》としていた。
こんな町は見たくなかった。
「あくまでも戦うつもりか、軍曹?」
「そうだ」
恭子を助け起こしながら、宗介は言った。
「まず敵を倒し、脱出《だっしゅつ》する。千鳥のところに戻って、彼女を連れて逃げる。どこまでも――どこまでもだ」
「彼女が『いやだ』と言ったらどうする?」
「言うわけがない」
「それがおまえの勝手な思い込みでない根拠《こんきょ》は、どこにあるのだ?」
宗介の拳《こぶし》に力がこもった。
「そんな根拠など知ったことか。彼女を守ること以外、なにも思いつかないだけだ」
「おまえ……」
「絶対《ぜったい》に守る。……守るんだ」
<アーバレスト> が近づいてきた。白い煙の尾を曳いて、屋根から屋根へ、ビルからビルへと飛び移りながら。
「 <アーバレスト> で、おまえと常盤を安全なところまで運ぶ。あとは好きにしてくれ」
「だが――」
「千鳥は渡さん。あきらめろ」
「…………」
それから宗介は、もの問いたげな恭子の肩に手を置き、努めて穏《おだ》やかな口調で語りかけた。
「怖《こわ》い思いをさせてすまなかった、常盤」
「相良くん……」
「俺は――あの男が言ったとおりの人間だ。もういままでどおりに学校に来るのは無理だろう。ここでお別れだ」
「え、だって、そんな――」
混乱するばかりの恭子に、宗介は鍵《かぎ》を渡した。かなめのマンションのキーだ。
「落ち着いたら彼女の部屋に行ってくれ。ハムスターの世話を頼《たの》む。千鳥が心配していたからな」
「あっ……」
屋上に突風《とっぷう》が吹き荒れた。甲高《かんだか》い駆動音《くどうおん》。コンクリートが割れ、<アーバレスト> が北校舎の屋上に着地した。
<アーバレスト> は満身創痍だった。白い装甲は薄汚《うすよご》れ、あちこちに被弾《ひだん》の損傷が見て取れる。複数の成型炸薬弾《せいけいさくやくだん》を食らっても辛《かろ》うじて無事なのは、最新の複合装甲のおかげだった。
『敵が近づいています。急いでください』
土下座《どげざ》の姿勢をとるやいなや、<アーバレスト> はハッチを開放する。宗介は機体に駆け出そうとして、一度立ち止まり、恭子に叫んだ。
「常盤!」
「えっ」
「楽しい毎日だった。ありがとう」
返事を待つ時間などなかった。宗介はほとんど飛び込むようにして、<アーバレスト> のコックピットに滑り込んだ。
「ハッチ閉鎖。モード4。マックス・パワー」
<<ラジャー>>
すぐさまコックピット内のマスター・スーツが調整され、ジェネレーターが最大で駆動する。ECCS(対ECSセンサー)に反応。敵AS三機が接近。北北西。距離《きょり》三〇〇メートル。
<アーバレスト> は、給水区画に駆け寄り、恭子とレイスをすくい上げる。恭子の悲鳴が外部音声から聞こえた。
<<照準波検知《しょうじゅんはけんち》。二、一……>>
「っ……!」
跳躍。直後に敵機の射撃が襲いかかり、屋上のコンクリートや貯水タンクに大穴を開けた。人間用の火器とはまったく比較《ひかく》にならない威力《いりょく》の砲弾だ。吹き飛ぶコンクリートと鉄骨の数々。鋭い破片《はへん》が装甲を叩く。<アーバレスト> は正門前の市道を横切り、町工場の駐車場《ちゅうしゃじょう》に着地。トラックの陰《かげ》に二人を下ろす。
そこで気づいた。
恭子がぐったりとしている。見えただけで頭と腕から出血していた。白い制服《せいふく》のわき腹《ばら》の辺りにも、じんわりと赤いものがにじみ出ている。いまの攻撃を回避したときの破片にやられたのだ。
「な……」
まるで自分の腕や脚が爆弾で吹き飛ばされたことに気づいた新兵のように、宗介はしばし呆然《ぼうぜん》とし、言葉を失った。
やってしまった。
とうとう起きてしまった。
なぜ彼女が。ここまで来て、どうして彼女が。どうすればいいのだ。
だれかが叫んでいる。
『――曹!……軍曹っ!!』
レイスだった。あちこちに傷を負いながらも、恭子を地面に横たわらせ、てきぱきと血で汚《よご》れた着衣を脱《ぬ》がせていた。
『手当てはする! おまえは急げ!』
「あ……」
『なにをしている!?』
ショックから立ち直るのにそれ以上の時間はいらなかった。考えるのは後回しだ。すぐに戦士の嗅覚《きゅうかく》が戻ってきた。
振《ふ》り返る。敵機はそこまで来ていた。
<<敵が散開《さんかい》しました。|M《マイク》2を最優先ターゲットに指定>>
「|M《マイク》1だ」
<<ラジャー>>
機体を疾走《しっそう》させる。
三機の敵ASは鉛《なまり》色の空を横切るようにして、敏捷《びんしょう》な動きで <アーバレスト> を包囲《ほうい》しようとしていた。
敵がECSを解除《かいじょ》した。
灰色の都市|迷彩《めいさい》。曲面|構成《こうせい》のマッシブなシルエット。もう分かっていた。ヴェノム・タイプ――向こうが言うところの <コダール> タイプだ。
(よくも……)
散弾砲《さんだんほう》は使えない。これ以上町を壊したくない。右手のスティックを操り、宗介は機体のウェポン・ラックに格納《かくのう》してあった単分子《たんぶんし》カッターを引き抜いた。
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5:石弓《いしゆみ》が砕《くだ》けるとき
どうしてこう、スムーズに事が運はないのか――
どうにか屋上から逃げ延《の》びたクラマは、悪態《あくたい》をつく代わりにコートの内ポケットのタバコを探した。だが、あるべきタバコはどこにもない。そういえば禁煙中《きんえんちゅう》だった。
仕方《しかた》がないので、ひそかに悪態をつく。
早足で学校を離《はな》れ、商店街近くの雑貨屋《ざっかや》のそばまで来る。町は混乱《こんらん》を通り越《こ》し、すでに閑散《かんさん》としていた。
学校の方角から大きな爆発音《ばくはつおん》。自分の仕掛《しか》けた爆弾ではない。ASの駆動音《くどうおん》もかすかに聞こえた。クラマは無線機《むせんき》で部下たちに手短な指示《しじ》を出す。
「増援《ぞうえん》のASはどうした」
『来ました。すでに敵機《てっき》を追跡中ですが――』
複数《ふくすう》の射撃音《しゃげきおん》がした。すぐ近くで、AS同士が戦闘《せんとう》している。空を横切る黒い影と、あちこちで壊《こわ》れる建築物。
「なんだ。どうした」
『敵機が学校に引き返しています。おそらくあのサガラと合流するつもりです』
「その前に撃破《げきは》しろ」
『いえ、達いました。間に合わなかったようです。現在《げんざい》、敵機が反撃《はんげき》に移《うつ》った模様《もよう》です。小隊長が――』
すぐ頭上で、ひときわ派手《はで》な爆発音がした。空中五〇メートルでぶつかりあった <コダールm> と敵の白いASが、ぶつかりあい、もつれ合うようにして落下してくる。
「っうお……」
とっさに身を投げ出す。電柱がたたき折られ、ガードレールがなぎ倒され、雑貨屋の店舗《てんぽ》の半分を押しつぶすようにして、二磯のASがぶつかってきた。コンクリートとガラスの破片《はへん》が飛び散《ち》り、あたりにもうもうと埃《ほこり》が立ち込める。
でたらめにもつれ合っているように見えたが、勝敗は明らかだった。白いASの単分子《たんぶんし》カッターが、<コダールm> の胸部に突き立っていた。墜落時《ついらくじ》に下敷《したじ》きになったのも味方の <コダールm> だ。
耳をつんざく甲高《かんだか》い騒音《そうおん》と共に、単分子カッターが引き抜かれる。残りの <コダールm> を迎《むか》え撃《う》つために、白いASはすぐさま起き上がり、南西の方角へと跳躍《ちょうやく》していった。
突風がクラマのコートを殴《なぐ》りつける。
「くそっ」
『小隊長機が撃破《げきは》されたようです』
「ああ。目の前でな」
クラマは尻餅《しりもち》をついたまま、破片の中に混《ま》じってそばに落ちていたタバコを拾《ひろ》い上げた。
「ASはASに任《まか》せておけばいい。あの娘はまだ見つからないのか」
『まだです。ただ、21[#「21」は縦中横]―31[#「31」は縦中横]のショッピングセンターの屋上に痕跡《こんせき》が。真新しいコンクリートの損傷《そんしょう》です。ASが着地した痕《あと》でしょう』
「それがどうした。敵も移動《いどう》はするだろう」
『店員に聞いたんですよ。その屋上は駐車場《ちゅうしゃじょう》にもなっているんですが、開店直後に、気を失った娘《むすめ》を車に乗せていった女がいると』
「…………? その女と車の特徴《とくちょう》は」
『女の方は若《わか》いくらいしかはっきりしません。車は白いアルファードです』
「警視庁《けいしちょう》の方にも網《あみ》を伸《の》ばせ。過去三時間のオービスの記録もあたらせろ」
『了解《りょうかい》』
無線を切って、無意識《むいしき》にタバコの封《ふう》を開けながらクラマはいぶかしんだ。
どういうことだ? だれかに引渡しを済ませたということなのだろうか? 標的を連れ去ったのはさっきの女なのか? だが、だとしてなぜこれまで支援《しえん》に現れなかった? いや、それよりもなぜわざわざあの場に現れたのか?
別の回線から通信が入った。レナード・テスタロッサからだった。
「何の用だ」
『苦戦しているようだね』
「おかげさまでな。いろいろと面倒《めんどう》なことになってきている」
クラマは封を切ったタバコの箱から一本を取り出し、口にくわえた。かまうものか、くわえるだけだ。禁煙《きんえん》を破《やぶ》ったわけではない。
「女がどこにいるのか、未《いま》だに掴《つか》めない。ほとんどお手上げだ」
『そうでもないさ』
「どういうことだ」
『彼女はたぶん、まだ遠くには行ってないだろうね。その彼女にとって、いちばん効果《こうか》のある人質《ひとじち》はだれだと思う?』
「? いや……」
『彼だよ。彼自身だ』
「無理《むり》を言うな。奴《やつ》はいまもああやって――」
遠くで爆発音《ばくはつおん》がした。部下が『味方の二号機が撃破《げきは》された』と別の回線《かいせん》で告げた。
「――暴《あば》れまくっている」
『そうか。あと三分でいいから、持ちこたえるように伝えておいてくれるかな』
「なんだと?」
『三分だよ。それだけでいい』
レナードの通信はそれきり途切《とぎ》れてしまった。クラマは舌打《したう》ちしてから、タバコに火をつけようとしてライターを探した。どこにもない。ポケットにも、周囲のがらくたの中にも。
「くそっ」
けっきょく彼はくわえていたタバコを指先でつまみ、遠くに放り投げた。
輸送機《ゆそうき》の薄暗い格納庫《かくのうこ》の中で、彼は薄手《うすで》のグローブの具合《ぐあい》を確かめた。
右手を握《にぎ》って、開く。
悪くなかった。
耳のレシーバーに機長の報告が入る。東京上空。高度五〇〇〇メートル。推定到着時刻《すいていとうちゃくじこく》、あとおよそ三分。
「ご苦労様。これから搭乗《とうじょう》するよ」
『あなたが行く必要があるのですか?』
レシーバー越《ご》しの別の回線から、落ち着いた女の声がした。相手はすぐ目の前にいるのだが、機内の爆音が彼女の声をかき消していた。
「たまにはね。運動もしておかないと」
自分の操縦服姿《そうじゅうふくすがた》を自嘲気味《じちょうぎみ》に見下ろし、彼は言った。
「それに、どうも彼らは僕《ぼく》のことを誤解《ごかい》しているようだから」
『そうですか。では、お怪我《けが》のないように』
「ありがとう。すぐ戻るよ」
きびすを返し、格納庫の薄闇《うすやみ》の中にうずくまる機体へと歩きだす。機体の振動《しんどう》を受けて、うっすらと光る頭部のセンサが小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。
満身創痍《まんしんそうい》の <アーバレスト> が敵ASとの交戦に入ると、レイスはその場で負傷した少女の手当を始めていた。
右頭部に打撲《だぼく》と裂傷《れっしょう》。こちらは見た目ほどの出血ではない。
それよりも気になるのは右|腹部《ふくぶ》の出血だった。
アーミーナイフで衣服を切り裂《さ》き、患部《かんぶ》を見る。おそらく小指の先ほどくらいの大きさだろう――なにかの破片が、肋骨《ろっこつ》の下から横隔膜《おうかくまく》の方向に向けて飛び込んでいた。盲管創《もうかんそう》だ。どこまで内臓《ないぞう》が傷ついているのかは、何とも言えなかった。応急処置《おうきゅうしょち》をして、すみやかに病院へ運ぶしかないだろう。
この騒《さわ》ぎで救急車はあてにできない。レイスはぐったりとした少女を抱《かか》え上げ、二ブロック離《はな》れた駐車場へと急いだ。
(ばかげている)
自分がここまで付き合う理由が、いったいどこにあるというのか?
この娘を放置《ほうち》して、車に走る。そして車で待っているあの娘に、『約束通り助けたぞ。私と来てもらおう』と言うだけでいいのだ。だが、レイスはそうしなかった。腕《うで》の中の少女が死なないように、注意深く支え、駐車場に止めてあった白いバンへと駆《か》け寄る。ロックを解除《かいじょ》すると、後部|座席《ざせき》の自動ドアが開いた。
「キョーコ……?」
車内に横たわっていた千鳥《ちどり》かなめが、恭子の姿を見てふらふらと身を起こした。
[#挿絵(img/07_245.jpg)入る]
右へ、左へ。上へ、下へ。
揺《ゆ》れ動くターゲット・ボックスと敵ASが、白昼の泉川《せんがわ》町を駆《か》け巡《めぐ》る。
見慣《みな》れた桜《さくら》の木がばらばらになった。
みんなでよく行ったドーナッツ屋が倒壊《とうかい》した。
学校に出入りするパン屋の軽トラが吹き飛んだ。
みるみる壊《こわ》れていく。彼を癒《いや》し、すこしは人間らしくしてくれた風景の数々が。
『接近警報《せっきんけいほう》!』
アラーム音。敵機《てっき》が迫《せま》る。ライフルがこちらを向く。
発砲《はっぽう》。
<アーバレスト> は左手を突き出す。空気がゆがむ。砲弾のことごとくが四散《しさん》する。高速で肉薄《にくはく》。すれ違いざまに身を沈《しず》め、敵の足を引っかける。並木や電柱を巻き添《ぞ》えにして、敵機が転倒《てんとう》する。
立ち直る時間など与える気はなかった。すぐさま身を翻《ひるがえ》し、対戦車ダガーを投擲《とうてき》。成型《せいけい》炸薬《さくやく》の爆発を脇腹《わきばら》に食らって、三機目の敵が動かなくなる。
町が静かになった。
陣代《じんだい》高校前の都道に立ち、アクティブ・センサで敵の残りを探《さが》す。反応《はんのう》なし。生徒たちの大半は、さらに向こうの住宅街に避難《ひなん》していたが、まだ何割かは校庭に残っていて、<アーバレスト> の姿を呆然《ぼうぜん》と見上げていた。
クラスメートも何人か見える。
風間《かざま》信二《しんじ》もいた。小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》もいた。
細かい損害《そんがい》をチェックすると、ECSユニットの半分近くが破損《はそん》していた。これで機体を透明化《とうめいか》させて、市内を好き勝手に移動《いどう》するのは難《むずか》しくなった。
(どうする……?)
強引《ごういん》に移動《いどう》してかなめを回収し、全速力で郊外へ逃走して――それから――
アラーム音。
『大型|輸送機《ゆそうき》が接近中。方位一八七。距離《きょり》二〇。一機。速度五〇〇。高度一〇〇〇から降下中』
頭が回ってくれない。視界《しかい》がぼんやりとしている。疲労《ひろう》と出血のせいだろう。
宗介は頭を振り、目をしばたたかせた。スクリーンの中、南の空から輸送機が近づいてくる。ターゲット・ボックスは『低脅威《ていきょうい》の航空《こうくう》ユニット』。機種は『C―17[#「17」は縦中横]』。敵味方の識別《しきべつ》は『不明』。
輸送機はみるみる近づいてくる。
かなりの高速だ。高度も下がっている。もう三〇〇メートルかそこらだった。ターボファン・エンジンの爆音が周囲の瓦礫《がれき》をふるわせる。まさか撃墜《げきつい》するわけにもいかない。ここは市街地だ。そうして身構《みがま》えているうちに、輸送機は宗介の頭上を一瞬《いっしゅん》で通過《つうか》していった。
その瞬間、輸送機とは別のなにかが、影となって頭上をよぎった。
視線が追いつく。北|校舎《こうしゃ》の上空に、切り離《はな》されたパラシュートがふわりと舞《ま》っていた。それ以外はなにも見えなかった。一方の輸送機はそのまま上昇《じょうしょう》し、西の空へと遠ざかっていく。
「…………?」
なにかがあの輸送機から降下《こうか》した。それだけは宗介にも分かった。
だが、いったいなにが――
『六時、距離ゼロ!』
すぐ背後にASが立っていた。
宗介が機体を動かすのと、『敵』が右腕を一閃《いっせん》させるのはほとんど同時だった。肩の装甲《そうこう》が切り裂《さ》かれる。脱落《だつらく》した部品が地面に落ちるよりも早く、<アーバレスト> は片手で受け身を取り、腰の散弾砲《さんだんほう》を抜きざま撃《う》った。『敵影《てきえい》』がぐらりと揺《ゆ》れる。砲弾はむなしく空を切り、彼方《かなた》の空へと消えていった。
「っ……」
飛びすさり、距離をとる。敵機は依然《いぜん》としてそこにいた。
静かに。息苦しいほど静かに。
暗い銀色の装甲。鋭角的《えいかくてき》なフォルム。
何度も相手をしてきた <コダール> と同じ系統《けいとう》のASのようだったが、はじめて見る機体だった。その四肢《しし》はすらりとして華奢《きゃしゃ》な印象さえあったが、決してひ弱ではなかった。肩まわりには何か――翼《つばさ》かマントを思わせる巨大《きょだい》なパーツがぶら下がっており、それがこの機体に、ある種の重量感《じゅうりょうかん》と荘厳《そうごん》さを与えている。
そう。
そのASは兵器というより、磨《みが》き上げられた銀の神像のようだった。傷だらけの <アーバレスト> rよりも、はるかに力強く、美しく、圧倒的《あっとうてき》な存在だった。
『データに該当《がいとう》する機種《きしゅ》はありません』
「スペックを推定《すいてい》してみろ」
『 <コダール> タイプと同等以上の出力、運動性、隠密性《おんみつせい》。おそらくラムダ・ドライバを搭載《とうさい》。他は推定不能です』
「俺と同意見か」
『|肯 定《アファーマティブ》。危険です。即時撤退《そくじてったい》を推奨《すいしょう》』
「できると思うか?」
『否定《ネガティブ》』
「それも同意見だな」
敵は徒手空拳《としゅくうけん》だった。ライフルなどの携帯《けいたい》火器は一切《いっさい》手にしていない。
その機体は、まるで宗介《そうすけ》のことなど見えていないかのように、校庭の人々へと頭部を向けた。ゆっくりと右手を腰にあてて。
『さて――相良《さがら》宗介くん』
敵の外部スピーカーから声が響《ひび》く。知っている若者《わかもの》の涼《すず》やかな声だった。
『――僕はそこの人々を人質《ひとじち》にするつもりはない。その意味さえ感じていない。でも、あえて言っておくよ。これが最後の警告《けいこく》だと。諦《あきら》めて彼女を渡す気はないかな?』
「答えなら分かっているだろう」
宗介も外部スピーカーで答えた。校庭に残っている級友たちに、その声が聞こえるのは分かっていたが。
『まあ、そうだろうね』
[#挿絵(img/07_251.jpg)入る]
レナードが言った。
『でもさ。そういう物分かりの悪さ……もしかして格好《かっこう》いいとでも思ってるの?』
「何の話だ」
『ちょっとね。そういうの、嫌《きら》いなんだよ』
静けさをうち破《やぶ》り、敵機が肩の『翼』を展開した。
つま先が浮《う》く。まるで重力がなくなったように。周囲の大気がゆがみ、砂埃《すなぼこり》が渦《うず》を巻き、機体がふわりと宙《ちゅう》を舞《ま》った。
大地を蹴るような跳躍《ちょうやく》ではない。
わけもなく浮遊《ふゆう》したのだ。
非対称《ひたいしょう》の角を持つ頭部とその目が、宗介を睥睨《へいげい》する。その後につづく襲撃《しゅうげき》は、まさしく濁流《だくりゅう》のごときすさまじさだった。
レイスが車内で医療《いりょう》キットを取り出し、恭子《きょうこ》の重傷の応急処置《おうきゅうしょち》をするのを、かなめは泣きながら見守っているしかなかった。
「た……助かるの?」
「助ける」
「大丈夫《だいじょうぶ》なの!?」
「見ての通りだ」
両手を鮮血《せんけつ》で真っ赤にして、レイスは黙々《もくもく》と作業する。
「キョーコ……ごめん、キョーコ……」
あたしのせいだ。
全部あたしがいけないんだ。なにもかも。あたしがもたもたしてたから。あたしが決断《けつだん》しなかったから。いちばん大事な友達が。あたしの幸せの象徴《しょうちょう》が。
あたしがいけないんだ。
だれか、たすけて。神様。あたしの友達を死なせないで。お願いです。なんでもするから。どうか。どうか――
そのとき、彼女は別の呼び声を聞いた。
もう一人の大事な存在を、殺そうとしている若者の声を。
なるほど、あの白いASは悪い機体ではないようだった。
運動性もパワーも、M9がベースの割には、まずまずのものだ。数々の損傷《そんしょう》を受けた上での稼働性《かどうせい》にも、素直に感心していいだろう。あのタフさは実験機のレベルではない。完全な実戦|投入《とうにゅう》を想定して設計《せっけい》されたのだろう。
「でも、ね……」
空中をスピンし、停止《ていし》し、ジグザグに動いて、彼の <ベリアル> は敵機《てっき》の背後へと飛んだ。ある意味、ありとあらゆる物理法則《ぶつりほうそく》が、いまは彼の思うがままだった。
背部の固定|武装《ぶそう》など使うまでもない。
手刀で充分《じゅうぶん》だった。
身を返した宗介機の左腕が、肩の下でぐしゃりと切断《せつだん》された。傷だらけのASはバランスを崩《くず》しながらも、右手の散弾砲をこちらに向けた。
発砲《はっぽう》。
レナードはその砲弾を苦もなく受け止め、そのまま相手に投げ返してやった。衝撃《しょうげき》が襲う。金属の破片《はへん》が飛び散《ち》り、敵の右|膝《ひざ》が逆方向に折れ曲がった。
勝てるわけがないのだ。
この自分に。『完全領域《オムニ・スフィア》』と自由に交感し、ラムダ・ドライバの力をすべて引き出せる自分に。
見えてるんだろう?
――やめて
もう、わかってるだろう?
――殺さないで
僕は苛立《いらだ》っている
――おねがいだから
君にしか止められないよ
――愛してもいいから
そのけなげさを、強さを
――努力するから
なぜこの男に……!
――忘れるから
まだ相良宗介は倒れなかった。
片足、片腕だけで転倒《てんとう》を防ぎ、遮蔽物《しゃへいぶつ》――学校の中庭に機体を逃げ込ませて、散弾砲を撃《う》ってくる。レナードはその射線《しゃせん》を軽々とかわしてから、ほの暗い激情《げきじょう》に任せて肉薄《にくはく》すると、散弾砲をはじき飛ばした。
すぐ背後で爆発。
遅延信管《ちえんしんかん》の指向性地雷《しこうせいじらい》だ。この期《ご》に及《およ》んで、こんなトラップを。なんというしぶとさ。なんというしたたかさか。さらに白いASは頭部|機関銃《きかんじゅう》を乱射《らんしゃ》しながら、右手で最後の対戦車ダガーを抜こうとしていた。
「見苦しいよ」
<ベリアル> が左|腕部《わんぶ》のウェポン・ベイを展開する。内蔵の40[#「40」は縦中横]ミリ砲が火を噴《ふ》き、敵機の右腕と右肩、そして頭部をずたずたに引き裂いた。敵のラムダ・ドライバの力など、微々《びび》たるものだった。
両腕と頭部、すべての攻撃|手段《しゅだん》を失った敵機の腹部を踏《ふ》みつけ、胸部装甲《きょうぶそうこう》を強引《ごういん》に引き剥《は》がす。ゆがみ、壊《こわ》れ、火花を散らすスクリーンの奥に、操縦兵《そうじゅうへい》の姿が見えた。
彼が期待《きたい》していたような狼狽《ろうばい》は、どこにもなかった。相良宗介はスティックから手を離《はな》し、自動|拳銃《けんじゅう》をこちらに向けていた。スクリーンの割れ目の向こうから。顔は血まみれだったが、その眼光はこの世界の何者にも屈《くっ》していなかった。
「…………っ」
拳銃が火を噴《ふ》く。
レナードの機体のセンサめがけて。ASの戦闘レベルからみれば、実に弱々しい一発だった。センサ部分に目障《めざわ》りな焦《こ》げ跡《あと》をつけるのがせいぜいだ。
敵機のAIの声が聞こえた。
『ジェネレータ……停止。コンデンサすべて破損《はそん》。機体を放棄《ほうき》し脱《だっ》……出《しゅつ》……を……』
沈黙《ちんもく》。
両手と右足、頭部を失い、機体|中枢《ちゅうすう》をも破壊され、ARX―7は完全に大破《たいは》した。学校の中庭に静かな微風《びふう》が吹く。命を失った一機の巨人と、それを踏みつけるもう一機の巨人。
『ご苦労だった。アル』
銃口をふるわせ、操縦兵が言った。
『除隊《じょたい》を……許可《きょか》する』
相良宗介はさらに撃《う》った。
目障りな焦げ跡は二つになった。
薮蚊《やぶか》かなにかが耳のまわりを飛び回っているような感覚。はじめてと言ってもいい種類の不快《ふかい》さ。
もうかまわない。叩きつぶそう――そう思った。そうしたところで、この男の存在を本質的に屈服《くっぷく》させることにつながらないのも、よく分かっていた。それが肌《はだ》で感じられた。
だが、それもいい。
君があくまで拒《こば》むなら――
『もうやめて……』
スクリーンの片隅《かたすみ》に一人の少女が見えた。二機を見上げ、肩で息して、中庭の植え込みの前に立ちつくしている。
千鳥《ちどり》かなめだった。
『終わりにして。ついていくから』
「だれにかな?」
彼女の黒髪《くろかみ》が微風《びふう》に揺《ゆ》れた。
長い躊躇《ちゅうちょ》。いや、もう答えははっきりしていた。
『あなたに』
レナードは機体の頭部を相良宗介に向け、つぶやいた。
「聞こえたね、相良宗介くん」
彼の <ベリアル> は <アーバレスト> の残骸《ざんがい》から離《はな》れ、彼女の前にうやうやしくひざまずいた。右手を差し出す。彼女はうつむいたまま、その手のひらにゆっくりと腰を下ろした。
立ち上がり、彼らは敗者《はいしゃ》を見下ろす。
『千鳥……やめろ……』
相良宗介はつぶやいた。その銃口がゆっくりと下を向いていく。
『もういいの』
『よくない……』
『あたしは大丈夫《だいじょうぶ》だから。あなたも……』
『絶対に……連れ戻す……』
彼の腕が力を失い、ゆがんだフレームにごつりと当たった。
『この場所に……連れ戻す……』
機体の触覚《しょっかく》センサは捉《とら》えていなかったが、彼女がふるえているのが、よくわかった。嗚咽《おえつ》を必死にこらえているのも。
『行こ……』
彼女がASの手の中から、スクリーン越しに告げた。レナードは肩をすくめ、機体を静かに操《あやつ》った。
背を向ける瞬間、千鳥かなめが相良宗介になにかをつぶやいていた。唇《くちびる》の動きしか見えなかったので、彼女がなにを言ったのかはわからなかった。
救急車のサイレンが聞こえる。
消防車も、パトカーもだ。レイスが手近な緊急《きんきゅう》病院へと車を走らせていると、学校の方角からなにかが飛来《ひらい》し、彼女の頭上を追い越していった。
暗い銀色の機体。ローター音や、ジェット音はまったくない。
(アームスレイブ……なのか?)
ECSが作動し、機体は鉛《なまり》色の空にかき消えていく。
その機体が腕にだれかを抱いてるのが、一瞬だけ見えた。それだけでも、その人物がだれなのかレイスには分かっていた。
車を出て行こうとした千鳥かなめを止めなかったのは、ほかでもない彼女自身なのだから。この判断は情報部の意向に明らかに反する。アミット将軍は自分を許《ゆる》さないだろう。
(やれやれ……)
後部|座席《ざせき》の娘《むすめ》を病院に預《あず》けたら、身を隠《かく》すしかあるまい。どこか遠くに。だれも知らないどこかに。北朝鮮《きたちょうせん》の情報部出身の自分が、組織《そしき》を追われるのはこれで二度目だ。実際、この稼業《かぎょう》は向いていないのかもしれない。
情に流され、任務《にんむ》を忘《わす》れるとは。
あの娘の言うとおりかもしれんな。売れない芸人の類《たぐい》の方が、まだ向いている。
メリダ島に上陸した敵部隊との戦闘《せんとう》は、地下|基地《きち》内部でもさらに続けられていた。すでに地表での戦闘はほとんど終わっている。
基地|要員《よういん》のほとんどが銃を手に取り、臨時編成《りんじへんせい》の下《もと》、敵を迎《むか》え撃《う》っていた。空調|設備《せつび》は爆破《ばくは》してある。その他の数々の施設《しせつ》も。敵に渡すくらいならば、そうした方がはるかにましだった。
基地中央の司令センターにも、銃声や爆音の振動《しんどう》が伝わるようになっていた。怒鳴《どな》り声も悲鳴も。
ここが落ちるのもあとわずかだ。
テッサはとうとう、司令センターの放棄《ほうき》を命じるところまで追いつめられた。残っていた発令所《はつれいじょ》要員に銃器を携帯《けいたい》させ、無傷の潜水艦《せんすいかん》ドックへと急ぐ。先導《せんどう》にはSRTのヤン伍長《ごちょう》が。しんがりはカリーニン少佐がつとめる格好《かっこう》になった。
潜水艦ドックの様子《ようす》は分からなかった。基地内の通信網《つうしんもう》は寸断《すんだん》され、各|部署《ぶしょ》の連絡を取り合うことさえ困難《こんなん》な状況だ。ドックへの撤退《てったい》命令だけは、基地内の放送で通達《つうたつ》することはできたが、応戦中の基地要員に、どれだけ伝わったかはほとんど把握《はあく》できなかった。
まだ安全なはずの3号通路を通って地下ドックへと急いでいると、思わぬ方向から攻撃を受けた。テッサのすぐそばにいた通信要員の少尉が、銃弾を受けて倒れる。悲鳴さえなかった。
大佐|殿《どの》をお守りしろ。
だれかが|叫《さけ》ぶ。盾《たて》になり、あるいは応戦し、部下たちが次々に倒れていった。
銃弾が通路を跳《は》ね回り、手榴弾《しゅりゅうだん》の爆発がすさまじい反響《はんきょう》となって、薄暗い通路にこだました。
カリーニン少佐がサブマシンガンを撃《う》ちながら、だれかに『かまうな、行け』と叫んでいた。ヤン伍長が煙《けむり》の中から戻ってきて、『こっちです』とテッサの手を引いた。
よろめき、むせ、足を引きずりながら、彼女は通路を走り続けた。カリーニンの姿《すがた》がない。ほか何人かの部下たちもだ。背後のずっと遠くから、正確で断続的《だんぞくてき》な銃声が聞こえてくる。彼が残って戦っているのだ。
いま自分といるのは、ヤン一人だけだった。
「少佐が――」
「無理《むり》です。急いで」
だが敵は思いのほか狡猾《こうかつ》だった。基地内の構造《こうぞう》も予想以上によく知っていたようだ。彼女らの行く手の角から、カービン銃を手にした四名の敵兵が飛び出してきた。
「!」
先回りされたのだ。潜水艦ドックまであとすこしのところだった。
それでも、まず先にヤンが撃った。先頭の一人が頭に銃弾を食らって、ばねで弾《はじ》かれたように後ろに倒れる。だが後続の敵兵は驚《おどろ》きもせず、ヤンめがけてサブマシンガンを発砲した。胸の真ん中に銃弾を受けて、ヤンがのけぞった。
「大佐――」
踏みとどまり、さらにヤンは撃った。二人目の敵が前のめりに倒《たお》れる。
「走って――」
無理《むり》だった。さらに数発の銃弾を受け、力無く倒れるヤンの背中を、テッサは支《ささ》えることしかできなかった。
いや、まだだ。
ヤンの手からカービン銃を奪《うば》い、その重さに驚《おどろ》きながらも銃口を正面に向ける。だが、残った敵は苦もなく彼女に肉薄《にくはく》し、カービン銃を横薙《よこな》ぎにけり払《はら》った。
「っ……!」
押し殺した怒りの声で、敵兵はつぶやく。
「このガキが指揮官《しきかん》?」
「らしいぜ。さんざん手こずらせやがって」
「落とし前だ。ひんむいてやれ」
「いいね。いただくか」
「生かしときゃ後は文句《もんく》ねえだろ。まだ時間はあるし――」
そのとき、横から別の声がした。
「時間? ねーっての」
反応した男たちめがけて、メリッサ・マオがサブマシンガンの銃弾をフルオートでたたき込んでいた。舞《ま》い散《ち》る硝煙《しょうえん》と薬莢《やっきょう》。二人の敵兵は、血煙《ちけむり》の中にくずおれる。
「メリッサ」
全身、泥《どろ》まみれの操縦服姿。彼女は息も荒《あ》らげに近づいてくると、短く言った。
「いくわよ」
「ヤンさんが――」
「大丈夫よ。ボディアーマーあるから。腹や足には食らってるみたいだけど――悪運の強さだったら、SRTでも文句なしダントツね、あんた」
「いっ……はは……」
二人でうつぶせに倒れたヤンを助け起こすと、彼は苦しげなうめき声をもらした。
「でも……またおいしいところ……横取りされたみたい……だ」
「バカ。歩ける?」
「ああ。へっちゃらさ。……っう!」
ぼたぼたと血を流すヤンを両脇《りょうわき》から支えて、テッサたちは潜水艦ドックへと急いだ。
「戦況《せんきょう》は?」
息もきれざれにマオがたずねた。彼女の消耗《しょうもう》もひどいのだろう。
「この基地は墜《お》ちます。基地要員は撤退中《てったいちゅう》です。ここにくるまでも襲《おそ》われて、最後までわたしと残っていた司令センターの人間が五人……」
テッサは唾《つば》を飲み込んだ。
「それから、カリーニンさんも後に残っています。もう……無理でしょう」
「……そう」
「キャステロさんも亡《な》くなりました」
マオの頬《ほお》がぎゅっと引き締《し》まった。
「クルーゾーさんとウェーバーさんも交信不能です。地上の状況《じょうきょう》を考えれば……」
「……どうにもならないわ。負け戦《いくさ》なんて、こんなものよ」
それでもマオの声はか細く、ふるえていた。
「ちくしょう。ツケは……払わせてやるわ」
「わたしもそのつもりです」
「ははっ」
はじめてマオは、小さな吐息《といき》ともつかない笑い声を漏《も》らした。
「そうこないとね。愛してるわよ、テッサ」
「わたしもです」
ヤンが朦朧《もうろう》としながら、うわごとのように『あの〜。僕は……』とつぶやいていた。
足が重い。息が切れる。体のあちこちが痛かった。ドックへの入り口が、ゆっくりと近づいてくる。
「がんばって」
「うん」
ドックの入り口のバリケードの向こうで、だれかが叫んでいた。ライフルを手にして、『急げ!』と手招《てまね》きしている。何人かのPRT要員に助けられ、潜水艦ドックに入っていくと、基地要員もクルーも含《ふく》めた数百名の部下たちが、彼女を待っていた。
「|気をつけ《アテーンション》!!」
[#挿絵(img/07_267.jpg)入る]
そして――なんということか――彼らはこの状況下で、一糸乱《いっしみだ》れず整列《せいれつ》していた。ドックへの注水が完了し、出航《しゅつこう》を待つ <トゥアハー・デ・ダナン> の前に、三列で、ずっと遠くまで。
「お待ちしておりました、|艦長《ミス・キャプテン》」
列の一番手前に立っていた副長、リチャード・マデューカス中佐が言った。
「七つの海を支配する、人類史上最強の艦《ふね》、<トゥアハー・デ・ダナン> はいつでも出航できます。どうぞ、ご命令を――」
ぎりぎりまで偽装《ぎそう》作業を手伝っていたのだろう。その姿《すがた》は油まみれ、ススまみれだったが、同時に揺《ゆ》るぎない威厳《いげん》と誇《ほこ》りを備《そな》えていた。
「……まったく。あきれました」
意識《いしき》を失ったヤンを衛生兵《えいせいへい》に預《あず》けながら、テッサは言った。
「こんな時に、まだ規律《きりつ》?」
「イエス・マム。こんな時だからこそ、規律がもっとも大切です」
マデューカスはにやりともしなかった。これ以上はないほど、彼らしい返事だった。
遠くではいまだに銃撃戦の音が聞こえ、ドックを抜けた島の外では、生き残りの <ベヘモス> が待ち受けている。
しかし、それでも、彼女は朗々《ろうろう》とした声で命じた。
「総員《そういん》乗艦《じょうかん》!」
『アイ・アイ・マム!!』
すべての部下たちが同時に応《こた》えた。
艦のジェネレータは良好だった。しんがりの守備隊《しゅびたい》を待てるだけ待ち、潜水艦ドックに侵入《しんにゅう》してきた敵を、使い捨てのM6で迎え撃ち、最後の一人が艦に飛び移《うつ》ろうとするその瞬間――
テッサは発令所の艦長席で命じた。
「前進、三分の一!」
「アイ・マム。前進三分の一!」
艦がゆっくりと動き出す。地下基地の外に待つ、大海原《おおうなばら》へと向けて。駆《か》けつけた敵兵が艦めがけてロケット弾を撃《う》とうとしたとき、ドックの天井《てんじょう》に仕掛けられていた爆薬が炸裂《さくれつ》した。無数の鉄骨《てっこつ》と岩石が敵兵の上に降《ふ》り注《そそ》ぎ、砂埃《すなぼこり》と煙が渦《うず》を巻いた。
「4番ハッチを開放しておきなさい」
「4番? なぜです」
甲板《かんぱん》上部のAS用大型ハッチ――順安《スンアン》のときに <アーバレスト> を収容《しゅうよう》したハッチだ――の開放を命じられ、マデューカスは怪訝顔《けげんがお》をした。
「彼らが生きてれば必ず来るわ」
「ですな。四番ハッチを開放!」
それ以上は躊躇《ちゅうちょ》なくマデューカスは命じた。
<トゥアハー・デ・ダナン> が、鉄骨に支えられた巨大な地下水路を進む。
加速。加速。また加速。
地下水路の出口が――真っ白な光がみるみると近づいてきた。地下水路の出口は、崖《がけ》の真ん中にもうけられている。岩石に擬装《ぎそう》したそのシャッターは、すでに開放されていた。
敵は必ず来る。待っている。
「一番から六番にADCAPを装填《そうてん》。発射管《はっしゃかん》に注水。すべてを開放」
「アイ・キャプテン。一番から六番にADCAPを装填。発射管に注水、すべて開放!」
副長が復唱《ふくしょう》し、火器管制士官《かきかんせいしかん》が実行する。
「警報《けいほう》発令! 発射管室および格納甲板のクルーは後方へ避難《ひなん》しなさい!」
「警報発令!」
全員がすべてを心得ていた。けたたましいサイレンが艦内に響く中、ソナー室が叫ぶ。
「高周波《こうしゅうは》アレイにコンタクト! どでかいのがいますぜ、真っ正面!」
「でしょうね、上等よ」
テッサはほほえんだ。
「一番から六番をすべて発射!」
<トゥアハー・デ・ダナン> の魚雷《ぎょらい》発射管から、六発ものADCAP魚雷が射出《しゃしゅつ》された。大型艦を一撃で行動不能にする、一発あたり三〇〇キロの弾頭《だんどう》。合計で一・八トンの爆薬が、高速でトンネルの出口めがけて射出される。メリダ島の沿岸《えんがん》、崖の前で待ちかまえていた <ベヘモス> へ向けて。
すべて命中。
すさまじい爆音と衝撃《しょうげき》が、<デ・ダナン> 自身をも襲った。床《ゆか》が跳《は》ね上がり、前後左右へと好き勝手に揺《ゆ》れる。
ソナー員が叫んだ。
「くそったれ、まだ生きてますぜ!」
潜望鏡《せんぼうきょう》からの映像にも見えた。トンネルの出口、真っ正面に怒《いか》れる <ベヘモス> 。『物干《ものほ》し竿《ざお》』はすでに失っていたが、頭部の機関砲《きかんほう》がある。けた外れの爆発によろめきながらも、両腕を広げ、こちらを迎え撃とうとしている。
「このままつっこみなさい!」
「そっ――」
「押し切るのよ!」
「アイ・アイ・マム! 地獄《じごく》までも!」
操舵員《そうだいん》が怒鳴《どな》った。総計《そうけい》一二万|馬力《ばりき》のジェネレーターが咆吼《ほうこう》をあげた。すべての推進機関《すいしんきかん》が歓喜《かんき》の声をあげ、数万トンの艦体をさらに加速させた。
「総員、衝撃に備えろ!」
そのとき、<ベヘモス> の頭部にいくつもの爆発が襲いかかった。刹那《せつな》、巨人がバランスを崩《くず》す。どこかからの攻撃だ。おそらくは、崖の上から――
衝撃。
<デ・ダナン> の舳先《へさき》が <ベヘモス> の腰に激突《げきとつ》した。金属のゆがむすさまじい異音《いおん》。巨大な構造物《こうぞうぶつ》同士のぶつかり合い。だが、勝算はこちらにあった。むこうはせいぜい数千トン。こちらは――四万四〇〇〇トン。どんな砲弾を防《ふせ》げても、この質量差《しつりょうさ》だけは止められない。トラックがプロレスラーを跳ねとばすようなものだった。
圧倒的《あっとうてき》な力の前に、<ベヘモス> は耐《た》えきれずはじき飛ばされた。大量の水しぶきをあげ、ゆっくりと回転しながら。
衝突《しょうとつ》の直前に受けた不意打《ふいう》ちのせいか、敵はラムダ・ドライバさえろくに機能《きのう》していなかったようだ。まともにダメージをくらった <ベヘモス> は、そのまま倒れていった。腰部と腹部の装甲が吹き飛び、ばらばらに脱落《だつらく》しながら、海面に向かって真っ逆様に――
いまや <トゥアハー・デ・ダナン> は、無限の大海原へと解《と》き放《はな》たれていた。
『……へっへ。やると思ってたよ。いざとなると荒っぽいんだから』
U1回線から、よく知った声が入った。クルツだ。方位は特定不能《とくていふのう》だったが、距離はゼロだ。
『今度ばかりは、こいつの意見に同意です。ぎりぎりで間に合ったようですな』
同じく、クルーゾーの声が入った。やはり方位不明、距離はゼロ。
潜望鏡の光学センサが自動的に動いた。
艦のマストの正面、開けっ放しの第四ハッチのそばに、二機のM9――傷だらけの装甲、黒とグレーの機体がしがみついていた。
「ウェーバーさん、クルーゾーさん……!!」
地下水路の出口の崖の上から、絶妙《ぜつみょう》のタイミングで飛び降りたのだ。<ベヘモス> への奇襲《きしゅう》も、この二人のものだろう。
『かっこいいだろ、俺ら?』
『これまた同意です。では……乗艦の許可《きょか》をいただけますか、大佐殿?』
まるで悪びれない二人の様子にあきれながらも、テッサは声を弾《はず》ませて言った。
「もちろんです。そこの第四ハッチからどうぞ」
『了解《りょうかい》、感謝します』
艦長席のとなりのマデューカスも、肩をすくめるばかりだった。
「まったく……しぶとい奴《やつ》らです」
「それがうちの強みです」
「かもしれませんな。ですが――きょうの損害は大きかった。あまりにも大きかった」
マデューカスは帽子《ぼうし》の鍔《つば》をつまみ、黙祷《もくとう》するようにうつむいた。
「ええ……」
たしかに、自分は多くを失った。あまりにも多くの人々を。あまりにも多くの事々を。
この呪《のろ》いは、いつまでも自分を苦しめることだろう。そしてこれから待ち受ける苦難《くなん》の数々も、まったく予想できない。
事態《じたい》はなにも改善《かいぜん》していなかった。そして目の前には、どこまでも広がる太平洋。
孤立無援《こりつむえん》だ。だが――
「悩《なや》むのは来週にしましょう。安心するのはまだ早いから」
甲板士官が二機の収容《しゅうよう》を告げた。第四ハッチが閉鎖《へいさ》していく。電子戦要員は、敵のヘリがこちらの追跡をはじめたことを報告していた。
彼女は一度立ち上がり、改めて艦長席に座りなおした。
「敵の包囲網《ほういもう》を突破《とっぱ》します。緊急|潜航《せんこう》。MBTベント」
「アイ・マム! 緊急潜航! MBTベント!」
けたたましく、それでいて心強いブザーが、艦内に響き渡った。
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エピローグ
残された宗介《そうすけ》にできることは、ほとんどなかった。
ぐしゃぐしゃになった機体《きたい》から這《は》い出して、壁《かべ》に肩《かた》を預《あず》け、よろめきながら歩くのが精一杯《せいいっぱい》だった。
それ以上の敵《てき》には出会わずに済《す》んだ。警察《けいさつ》や消防《しょうぼう》にもだ。彼はどうにかトレーラーに擬装《ぎそう》した市内の武器庫《ぶきこ》にたどりつき、そこで傷《きず》の手当てをした。どれも致命的《ちめいてき》なものではなかったので、二日ほど休養をとったところで、なんとかましな状態《じょうたい》には回復《かいふく》できた。
ニュースや新聞は見なかった。
見る気にもなれなかった。
いや。恭子《きょうこ》のことが気になって、一度だけネットを検索《けんさく》した。彼女は何人かの重傷者のリストの中に入っていて、覚えのある市内の病院に収容《しゅうよう》されていることを知った。それだけわかれば充分《じゅうぶん》だったので、彼はそれ以上、この事件《じけん》の報道《ほうどう》を見ようとはしなかった。
恭子を病院まで運んでくれただろう、レイスの行方《ゆくえ》は分からなかった。
だいいち、自分から探す気もなかった。たぶん、もう会うこともないだろう。ミスリルそのものの存続《そんぞく》さえ、すでに不確かなものとなっているのだから。
メリダ島|基地《きち》とはまったく連絡がとれない状態《じょうたい》が続いていた。もちろんシドニーも。その他の関係|拠点《きょてん》も同様だった。あらゆる通信|回線《かいせん》が死んでおり、危険を承知《しょうち》で呼びかけても、だれか味方が応じることはなかった。
いくつものライン、いくつもの手段《しゅだん》を徹底的《てっていてき》に試《ため》したあと、彼は結論《けつろん》するしかなかった。
<ミスリル> は消滅《しょうめつ》したのだ。
あらゆる基地、あらゆる拠点《きょてん》は殲滅《せんめつ》され、そこで任務《にんむ》に従事《じゅうじ》していた傭兵《ようへい》たちは消え去ってしまった。
死んだのかもしれない。
逃げおおせたのかもしれない。
それは彼にもわからなかった。ただの個人《こじん》が、あの規模《きぼ》の極秘部隊《ごくひぶたい》の動向を知る手段はほとんどない。クルツもマオも、どうなったかわからない。テッサもだ。もう死んでしまったのだろうか。客観的《きゃっかんてき》に考えれば、その可能性《かのうせい》の方が圧倒的《あっとうてき》に大きかった。
そして――カリーニン。
<ミスリル> とは別に、宗介とカリーニンは独自《どくじ》の連絡手段を持っていた。だが、その連絡手段も沈黙《ちんもく》を保《たも》ったままだ。
死んだ。
そう判断《はんだん》するほかに、何ら材料がなかった。
四日後の朝、宗介は自分のおかれた状況を慎重《しんちょう》に吟味《ぎんみ》してみた。すると驚《おどろ》くくらいにシンプルな結論《けつろん》が、彼の上にのしかかってきた。
ひとりぼっちだ。
自分は、完璧《かんぺき》に、たった一人になってしまった。
これまでに自分が得てきたと思っていたなにもかもが、あっという間にかき消えてしまった。頼《たよ》りになる戦友も。心を許《ゆる》せる級友も。力になってくれる組織《そしき》も。頼《たよ》りになる養父も。
そして、大切な彼女の笑顔も。
自分がまず、なにをすべきかわからなかった。いや、わかっていたのだろう。彼が守るべきものは、彼女の身柄《みがら》だけではない。彼女の世界に対して、彼はせめてもの誠意《せいい》を示《しめ》す必要があった。『なにも知らずに死にたくない』。無垢《むく》な少女の訴《うった》えが、いつも彼の胸を締《し》め付けていた。
だから、五日後の朝。
相良宗介は学校に行った。
授業《じゅぎょう》が再開《さいかい》した直後のようだ。
正門に入る前から、彼を見た生徒たちの目が驚《おどろ》きに見開かれるのを感じていた。その大半は驚《おどろ》きで、のこりは好奇心《こうきしん》と怒りだった。
巨人《きょじん》の戦闘《せんとう》で傷ついた校舎《こうしゃ》は、まだあちこちに大きな工事用シートをかぶせてあった。割《わ》れたガラスの修復《しゅうふく》も済《す》んでおらず、ダンボールとガムテープで塞《ふさ》いである状態だ。
中庭に置き去りにしてきたはずの <アーバレスト> の残骸《ざんがい》は、きれいに撤去《てっきょ》されていた。日本政府か、その息がかかった組織か。それはわからない。いずれにせよ、残骸はどこかに運ばれたのだろう。
皮肉《ひにく》なことに、靴箱《くつばこ》はまったく前のままだった。一三番。相良。一〇か月の年期《ねんき》が入った上履《うわば》きをつっかけ、彼は二年四組の教室へと向かった。
戸を開け、教室に入ると、室内の喧噪《けんそう》がたちまち静まり返った。みんなが彼を見ていた。小野寺《おのでら》孝太郎《こうたろう》も。風間《かざま》信二《しんじ》も。
千鳥《ちどり》かなめの席にはだれもいない。当たり前だ。彼女がいままでどおりに、この教室のその席に戻ることはもうないだろう。
恭子の席も空白だった。彼女はまだ入院中だ。
校舎にチャイムが鳴り響いた。
ホームルームのために、担任教師《たんにんきょうし》の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》が入ってくる。目の下に隅《くま》を浮《う》かべ、つかれきった様子の彼女は、宗介を見るなりその場で凍《こお》り付いた。どんな顔をしていいのか、まったく分からない様子だ。
(残酷《ざんこく》にもなる)
林水《はやしみず》の言葉が脳裏《のうり》をよぎる。
受験シーズンに入って三年生がいなくなったこの時期、林水はもうこの学校にはいなかった。
それでも、宗介は勇気を出して――そう、戦場のものとはまったく異《こと》なる勇気を出して、恵里に告げた。
「先生」
「……はい?」
「話があります。時間をいただけますか」
「え……」
恵里はすこし躊躇《ちゅうちょ》してから、うつむき、かなめの席を見て、無理《むり》に悲しみをぬぐい去るようにして応《こた》えた。
「ええ。大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「感謝《かんしゃ》します」
宗介は教壇《きょうだん》にあがった。なぜか、転入した日の自己紹介《じこしょうかい》のときを思い出した。
「もう、いろいろ言われてると思う」
静寂《せいじゃく》の中で、宗介はつぶやいた。
「あの白いASに乗っていたのは……その通り、俺だ。俺は……ある傭兵《ようへい》部隊の兵隊で、ああしたASの現役操縦兵《げんえきそうじゅうへい》だった。アメリカから転入してきたというのは嘘《うそ》だ」
彼らは静かに聞いていた。注意深い目で、宗介を見つめている。
その視線の中、宗介はすべてを話した。
自分が現役の極秘《ごくひ》組織に所属《しょぞく》していた傭兵《ようへい》であること。偽造《ぎぞう》文書で転入した偽《にせ》学生だということ。千鳥かなめを護衛《ごえい》する任務《にんむ》だったこと。かなめを狙《ねら》っていた巨大な組織の存在。二度の修学旅行でこの学校が被害《ひがい》にあった理由。
敵組織が、本格的にかなめを狙ってきたこと。
そのために、あの戦いがおきて常磐《ときわ》恭子が重傷を負ったこと。
そしてかなめが、最終的に連れ去られてしまったこと。
「黙《だま》っていてすまなかった」
静かに結ぶと、生徒の一人が一層をふるわせ、こう言った。
「待てよ……」
宗介と一番親しかった一人、小野寺孝太郎だった。
「『すまなかった』だって……? それ、常盤に聞かせてやれよ」
「…………」
「あいつ、いまも入院してんだぞ。体中|管《くだ》だらけになってよ。それで家族になんて言ったと思う? ずっと握《にぎ》ってた鍵《かぎ》渡《わた》してよ。千鳥のハムスター、面倒《めんどう》みろってよ。おまえに頼《たの》まれたって」
「そうか」
「常盤がかわいそうじゃねえか。おまえら、何にも感じないのかよ? そういうことやって巻《ま》き込《こ》んで、何とも思わなかったのかよ!?」
席から立ち上がり、目を赤く腫《は》らして、宗介につかみかかろうとする孝太郎を、何人かの級友と恵里が止めに入った。
「放せよ、こら!?」
「やめなさい、小野寺くん!」
「俺はこいつに用があるんだよ? 友達じゃなかったのかよ!? ふざけんじゃねえよ!?」
「俺は……」
「てめえ、なにしにここ来やがったんだよ!? おもしれえのかよ! もう用なんかねえだろ!? とっとと失せやがれよ!」
「俺は……言っておきたかっただけなんだ」
もうわかっていたのだ。こうなることも。これから自分がどうしたいのかも。それはあの敗北《はいぼく》のとき、自分自身の胸に響いた確固《かっこ》たる言葉だった。
「なにをだよ!?」
「彼女を、連れて帰る」
そう。それ以外、なにもない。
宣言《せんげん》しておきたかった。それで全部だ。
「彼女を連れて帰る。なにがあっても。どんなことがあっても。この場所に連れて帰ってくる。それだけが言いたかった」
だれもが黙りこんでいた。孝太郎さえも、意味がわからず呆然《ぼうぜん》としていた。
「悪いのは俺だ。彼女にはなんの咎《とが》もない。俺は彼女を、必ずここに連れ戻す。必ずだ」
あてなどない。方策《ほうさく》もない。ないない尽《づ》くしだ。
だが細胞の中のなにかが、彼に強く命じていた。
『できる』と。『たたかえ』と。
だから――
「だから、そのときは迎《むか》えてやってくれ」
もう返答を聞く意味などなかった。
宗介はきびすを返し、教室を出て、よく見知った廊下《ろうか》を歩いていった。そのまま中庭を出て、正門をくぐり、まっすぐに歩いていった。ずっと遠くへ。
そう。ずっと遠くへ――
それきり、彼は二度と校舎を振り返ろうとはしなかった。
[#地付き][次巻へ]
[#改ページ]
あとがき(除湿仕様)
えー。なにやら急展開になってまいりました。
最近の世の中では、こういう話の展開を「鬱《うつ》展開」などと呼び習わすこともあるようですが、私はこの言葉、あまり好きではありません。シリアスなだけで、別に鬱なわけじゃないし。だいたいみんな諦《あきら》めてないし。
物語の主人公が殻《から》に閉じこもってなにも行動《こうどう》せず、ウジウジと悩《なや》んでいる展開が「深い話」みたいに言われるようになってしまってから、もうどれくらいたつでしょうか。もうすぐ一〇年ですかねー(遠い目)。
宗介《そうすけ》はそういう主人公ではありません。
悩んだりはしますが、行動します。断固《だんこ》として。
短編世界の制限《せいげん》から解《と》き放たれた彼は、これからいよいよ本領発揮《ほんりょうはっき》です。それはもー、最初はオナラで空を飛んでいたキン肉マンが、超人《ちょうじん》オリンピックのころから異様《いよう》にカッコよくなったように!(←微妙《びみょう》に間違った例《たと》え)
そんなこんなで、作者自ら今後の展開予想をしてみましょう!
1:傷心《しょうしん》の宗介は、ただ一人東北の温泉街《おんせんがい》に向かう。人情味たっぷりの旅館《りょかん》での様々な人々との心のふれあい。やさしい自然の中でゆったりとした毎日を過《す》ごすうちに、宗介はかなめを追いかけることをあきらめ、この温泉街で余生《よせい》を過《す》ごそうと思い立つ。温泉旅館の素朴《そぼく》な一人娘と結ばれてハッピーエンド。
2:行方不明《ゆくえふめい》のかなめの情報を探るため、宗介は別の学園に潜入《せんにゅう》する。ところが宗介を生き別れの兄だと思い込んだ美少女が、彼のアパートに一〇八人も押しかけてきて大騒《おおさわ》ぎ。お風呂《ふろ》を間違えてのぞいちゃったり、朝起こしにきた女の子に布団《ふとん》をはがれて、「キャー! お兄ちゃん、フケツー!」とか言われちゃったり。あまりにうれしはずかしい展開に、宗介も作者もかなめのことはすっかり忘れます。
3:補給物資《ほきゅうぶっし》を失ったテッサとデ・ダナン御一行様《ごいっこうさま》。活動資金《かつどうしきん》を稼《かせ》ぐために、ドサ回りのサーカス団を結成《けっせい》。運動|神経《しんけい》ゼロのテッサが、血のにじむような特訓《とっくん》の末、すごい空中ブランコのすごい大スターになるまでを描いた、すごい感動|巨編《きょへん》。アニメ化の曉《あかつき》は、DVDは●ーソンのみで販売します。
4:アマルガムにとらわれたかなめは、ハリセン一本でレナードや幹部《かんぶ》を粛清《しゅくせい》。組織を掌握《しょうあく》してしまう。新たな大幹部となったかなめの掲《かか》げた目標は、関東|極道界《ごくどうかい》の完全支配だった! 手始めに泉川《せんがわ》町のシマ荒らしを始めた仁義《じんぎ》なき <アマルガム> に立ち向かうのは、知将《ちしょう》林水《はやしみず》閣下《かっか》を若頭《わかがしら》に迎《むか》えた美樹原《みきはら》組とボン太くんズ……宗介は知らずにどっか遠くをさまよってます。
……こんなところかな。まだ3ページかー。
あ、そういえば先日、台湾《たいわん》と香港《ほんこん》に連チャンで行きまして。台湾はサイン会だったのですが、えらく歓迎《かんげい》していただいてびっくりでした。飯《めし》はうまいし街《まち》はおもしろいし女の子はきれいだしで、楽しかったなー。矢野《やの》さん、施《シ》さん、シンディさんほか台湾角川の皆様、誠《まこと》にありがとうございました! また遊びにいきたいです!
で、香港の方は……アニメのスタッフと取材でした(ニヤリ)。時期《じき》や媒体《ばいたい》は未発表ですが、おかげさまで新作アニメが準備中《じゅんびちゅう》です。監督《かんとく》の武本《たけもと》さんと相部屋《あいべや》で、疲労《ひろう》のせいか大いびきかいて迷惑《めいわく》かけまくり。忙《いそが》しい取材でしたが面白《おもしろ》い珍道中《ちんどうちゅう》でしたな。
さて。本編は今後もどしどし続くので、次巻で最終巻とか、そういうことはありません。まだまだこれからです。きっちり、かっちり終わらせるのが最大の目標《もくひょう》。ダラダラ展開で尻《しり》すぼみとか、未完のまんま別シリーズ開始とか、そういうのやりませんので。ご安心ください。
今後どうなる? 話をどうする?
わかりません。私も宗介も困り果ててる最中《さいちゅう》です。
でもまあ、彼ならなんとかしてみせますよ。信じてやってください。
それではまた。
[#地付き]二〇〇四年九月  賀 東 招 二
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底本:「フルメタル・パニック! つづくオン・マイ・オウン」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2004(平成16)年10月25日初版発行
初出:「月刊ドラゴンマガジン」富士見書房
2004(平成16)年3月号〜10月号
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html