フルメタル・パニック!
終わるデイ・バイ・デイ(下)
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白と黒(承前《しょうぜん》)
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+尓」、第3水準1-14-13、Unicode4F60]
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[#挿絵(img/05_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/05_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/05_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/05_000c.jpg)入る]
目 次
3:白と黒(承前《しょうぜん》)
4:彼女の問題
5:彼の問題
エピローグ
あとがき
[#改ページ]
3:白と黒(承前《しょうぜん》)
[#地付き]一〇月二〇日 一九〇五時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]メリダ島|基地《きち》 北部|演習場《えんしゅうじょう》
交戦状態《こうせんじょうたい》のコックピット・スクリーンには、情報《じょうほう》が怒濤《どとう》となって渦《うず》巻いていた。
光学《こうがく》センサーがとらえた風景《ふうけい》のデジタル映像《えいぞう》が、めまぐるしく流れていく。
夕闇《ゆうやみ》に沈《しず》みはじめたジャングル。渾然《こんぜん》たる赤と紫《むらさき》に染《そ》まった空。機体《きたい》の作る突風《とっぷう》で、はげしく揺《ゆ》れる黒い樹木《じゅもく》。
それらすべてがスクリーンの上で、残像《ざんぞう》をともない現われては消える。
いくつもの計器類《けいきるい》。小刻《こきざ》みに上下するGメーター。縦横無尽《じゅうおうむじん》に回転《かいてん》する姿勢把握《しせいはあく》グリッド。格闘《かくとう》モードの可変《かへん》レティクル。ターゲット・ボックスと運動指示線《うんどうしじせん》が暴《あば》れまわり、パワー・ゲージが伸縮《しんしゅく》し、AIが矢継《やつ》ぎ早《ばや》にブザーをかき鳴《な》らす。
<<接近警報《せっきんけいほう》!>>
左後方、八時方向。
密林《みつりん》を疾走《しっそう》する <アーバレスト> に、クルーゾー中尉《ちゅうい》のM9が肉薄《にくはく》した。
迫《せま》りくる漆黒《しっこく》の機体《きたい》。燃《も》えあがるようなオレンジ色の二つ目。
「…………っ!」
接触《せっしょく》。
宗介《そうすけ》の <アーバレスト> は、すんでのところで体をかわす。黒いM9の訓練用《くんれんよう》ナイフが装甲《そうこう》をかすめた。
さらに鋭《するど》い一閃《いっせん》。突《つ》き、薙《な》ぎ、回し蹴りが立て続けに繰り出される。
挑発的《ちょうはつてき》でありながら、なおかつ冷静《れいせい》な、舞踏《ぶとう》を思わせる独特《どくとく》のリズム。そしてエネルギッシュでありながら、どこかに湖水《こすい》のごとき静かさ、深さを漂《ただよ》わせている。
(なんだ、この動きは?)
人間的な――ひどく人間的な動作《どうさ》。とても相手が|A S《アーム・スレイブ》だとは思えない。筋肉《きんにく》の躍動《やくどう》や汗《あせ》の匂《にお》い、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》、骨《ほね》のきしみまで感じられそうだった。
そしてなにより、この黒いM9は――
(強い……!)
そう、強いのだ。自分と互角《ごかく》、いやそれ以上だ。格闘戦《かくとうせん》でこれほどの技量《ぎりょう》を持つ操縦兵《そうじゅうへい》に出会ったのは、これまででも数えるくらいしかない。
ベルファンガン・クルーゾー中尉。いったい何者だ?
宗介は牽制攻撃《けんせいこうげき》を繰《く》り出しつつ、機体を後方《こうほう》に跳躍《ちょうやく》させた。
<アーバレスト> やM9など『第三|世代型《せだいがた》AS』の跳躍力は、従来《じゅうらい》の機種《きしゅ》のそれを大幅《おおはば》に上回る。人間のスケールならば、二階|建《だ》ての家屋《かおく》を軽々と飛び越《こ》すパワーだ。バッタの脚《あし》の関節構造《かんせつこうぞう》を取り入れた脚部《きゃくぶ》が生み出す、爆発《ばくはつ》的な加速力《かそくりょく》は、いかなる車輌《しゃりょう》や航空機《こうくうき》をも凌駕《りょうが》する。
だがクルーゾーの攻撃はどこまでも執拗《しつよう》だった。黒いM9が一拍《いっぱく》遅《おく》れで跳躍し、滞空中《たいくうちゅう》の <アーバレスト> に追《お》いすがる。そのまま空中|衝突《しょうとつ》するようにして、<アーバレスト> の足首を乱暴《らんぼう》につかみ――
「!?」
気づいた時には、天と地とが逆《さか》さまになった。
クルーゾーが自機《じき》の勢《いきお》いを利用して、<アーバレスト> の姿勢《しせい》を崩《くず》した。仰向《あおむ》けになって落下《らっか》をはじめた <アーバレスト> に、黒いM9がからみつく。
このまま馬乗《うまの》りになって、地面に叩《たた》きつける気だ。
宗介は機体《きたい》を巧《たく》みに操《あやつ》り、膝蹴《ひざげ》りと肘打《ひじう》ちを組み合わせ、相手をはじき飛ばした。大地が迫《せま》る。まにあわない。機体をひねる。肩《かた》から着地《ちゃくち》。泥《どろ》のしぶきを撒《ま》き散《ち》らして、<アーバレスト> は地上を転がる。最新鋭《さいしんえい》の衝撃吸収《しょうげききゅうしゅう》システムでも拾《ひろ》いきれなかったショックが、宗介の全身に襲《おそ》いかかった。
「……っ」
口の悪い兵士たちの間で、ASはしばしば『カクテル・シェーカー』と呼ばれる。戦闘中《せんとうちゅう》、こうして間断《かんだん》なく搭乗者《とうじょうしゃ》に降《ふ》りかかる、すさまじい衝撃に由来《ゆらい》した隠語《いんご》だ。まさしくいまの宗介は、バーテンが振《ふ》り回すシェーカーの中の氷だった。
宗介は苦痛《くつう》を無視《むし》して、機体を制御《せいぎょ》し跳《は》ね起きた。スクリーン上の損傷報告《そんしょうほうこく》をすばやくチェックし、敵機《てっき》に向き直る。クルーゾーのM9が、ゆらりと立ち上がった。
『思った通りだ。サガラ軍曹《ぐんそう》、君は二流の操縦兵《そうじゅうへい》だな』
無線越《むせんご》しにクルーゾーが言った。
「なに?」
『君の戦い方は、技《スキル》≠ナはあっても、術《アート》≠ナはない。この意味《いみ》がわかるか?』
「…………」
『わからんか。だから二流と言った。……二流の前任者《ぜんにんしゃ》に、二流の部下《ぶか》。私もとんだチームに配属《はいぞく》されたものだよ』
前任者。マッカラン大尉《たいい》のことだ。あくまで死者《ししゃ》を侮蔑《ぶべつ》する気らしい。
宗介の見守《みまも》る前で、クルーゾー機《き》がゆっくりと振《ふ》り返り、訓練用《くんれんよう》のナイフを放り捨てた。訓練用のナイフのエッジ部分《ぶぶん》は、水性塗料《すいせいとりょう》を含《ふく》んだウレタンになっている。要《よう》はサインペンと同じ仕組みだ。実戦用《じっせんよう》の単分子《たんぶんし》カッターとは異《こと》なり、『斬《き》った』部分にペンキの痕《あと》が残るだけで、訓練相手を殺傷《さっしょう》する危険《きけん》はない。
「…………?」
『そんな玩具《おもちゃ》は捨てろ。真剣《しんけん》勝負といこうではないか』
黒いM9が腰《こし》のハード・ポイントから、大型のナイフを引き抜《ぬ》いた。いや、ナイフというよりは『短刀《たんとう》』と呼んだ方が適切《てきせつ》だろう。普通《ふつう》のナイフの倍《ばい》以上の長さと幅《はば》があり、その面構《つらがま》えには禍々《まがまが》しいまでの危険さが漂《ただよ》っている。
|イスラエル兵器工廠製《IMI》、<クリムゾン・エッジ> 単分子カッター。
その信頼性《しんらいせい》から広く使われている、<ダーク・エッジ> シリーズの大型化《おおがたか》モデルだ。イスラエル軍のAS部隊《ぶたい》は、この武器でイスラム国家のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]や <ミストラル> などのASを次々と血祭《ちまつ》りにあげてきた。実戦《じっせん》に鍛《きた》えられ、幾度《いくど》となく仕様変更《しようへんこう》を繰《く》り返してきた質実剛健《しつじつごうけん》なフォルム。<クリムゾン・エッジ> は重装甲《じゅうそうこう》の敵に肉薄《にくはく》し、致命的《ちめいてき》な一撃《いちげき》を加えられるように設計《せっけい》されている。
あのカッターならば、ただのひと薙《な》ぎで <アーバレスト> の手足を切断《せつだん》し、さらにはコックピット・ブロックさえも真《ま》っ二《ぷた》つに引き裂くことができるだろう。
『どうした、抜《ぬ》かんのか。GRAW―2ならあるはずだぞ』
GRAW―2とは、<アーバレスト> が装備《そうび》している単分子カッターのことだった。
(本気か……?)
クルーゾーの指摘《してき》通り、いま <アーバレスト> は兵装《へいそう》ラックにGRAW―2を収納《しゅうのう》している。だがこれはもはや、酒場《さかば》でのいざこざに端《たん》を発した喧嘩《けんか》というレベルを越《こ》えていた。高価《こうか》なASでの殴《なぐ》り合いも誉《ほ》められた話ではないが、実戦用ナイフでの戦闘《せんとう》は別次元《べつじげん》だ。
はたして退屈《たいくつ》しのぎの喧嘩程度《けんかていど》で、ここまでやる将校《しょうこう》などいるだろうか? いったい、あの男は――
『行くぞ』
泥《どろ》の柱《はしら》を蹴立《けた》てて、黒いM9がダッシュした。
「!」
急接近《きゅうせっきん》。鈍色《にびいろ》の大型ナイフが、鋭《するど》い弧《こ》を描《えが》いて宗介に迫《せま》る。
とっさに半身《はんみ》を引いた瞬間《しゅんかん》、金属《きんぞく》が切断《せつだん》される耳障《みみざわ》りな高音が響《ひび》いた。<アーバレスト> の握《にぎ》っていた訓練用ナイフが、刀身《とうしん》の真ん中あたりでばっさりと両断《りょうだん》されたのだ。もし宗介が機体《きたい》を動かしていなかったら、まちがいなくコックピット部分を切り割《わ》られていたことだろう。
クルーゾーが容赦《ようしゃ》なく踏《ふ》み込んだ。下段《げだん》から切り上げ、横ざまに薙ぎ、袈裟《けさ》がけに振《ふ》り下ろす。<アーバレスト> の装甲が浅く切り裂《さ》かれ、まばゆい火花を散《ち》らした。
その一挙手《いっきょしゅ》一投足《いっとうそく》から、氷のような殺気《さっき》が伝わってくる。
(本気だ)
宗介はそれ以上|躊躇《ちゅうちょ》せず、自機《じき》の兵装《へいそう》ラックから、単分子カッターを引き抜いた。『待ってくれ』とも『なぜだ』とも言おうとしなかった。相手がその気なら、こちらも容赦《ようしゃ》する義理《ぎり》はない。
『そうだ。遠慮《えんりょ》はいらん』
泥《どろ》を跳《は》ね上げ、両者が飛びすさった。
「アル! GPLをマックスにしろ。モーション・マネージャをD1に変更《へんこう》、すべての訓練用リミッターを解除《かいじょ》!」
<<ラジャー。GPL、マックス。ラン、デルタ1。リリース、オールPLD>>
AIが復唱《ふくしょう》。ジェネレーターの出力が上昇《じょうしょう》をはじめ、運動制御《うんどうせいぎょ》ソフトが完全な実戦用《じっせんよう》に変更《へんこう》される。
<<警告《けいこく》。モーション・マネージャの設定《せってい》はチャーリー1を推奨《すいしょう》します》
「なに?」
<<ラムダ・ドライバの駆動《くどう》には、チャーリー1が適切《てきせつ》と推測《すいそく》されます。おもな根拠《こんきょ》は六|項目《こうもく》。一、過去《かこ》五度の実戦データからの統計《とうけい》。二、開発責任者《かいはつせきにんしゃ》バニ・モラウタによる初期《しょき》設定がC1であること。三、デルタ1におけるバイラテラル角の設定は――》
「あとにしろっ!!」
<<ラジャー>>
クルーゾーのM9が迫《せま》る。<アーバレスト> が身構《みがま》える。
薄闇《うすやみ》に沈《しず》みつつある演習場《えんしゅうじょう》で、二機がはげしくぶつかり合った。
基地《きち》の司令《しれい》センターの大型スクリーンには、戦闘状態《せんとうじょうたい》に入った二機の情報《じょうほう》がさまざまな角度から投影《とうえい》されていた。
宗介たちの激闘《げきとう》を、テッサが固唾《かたず》をのんで見守る。
薄闇《うすやみ》に沈《しず》みつつある密林《みつりん》を、縦横無尽《じゅうおうむじん》に駆《か》けめぐる二機のシルエット。交《まじ》わっては離《はな》れる巨人《きょじん》のダンス。鋼鉄《こうてつ》の四肢《しし》に踏《ふ》み砕《くだ》かれていく樹木の数々――
「こういうやり方は感心しませんな」
彼女のそばに立つ、リチャード・マデューカス中佐《ちゅうさ》が言った。
「たとえ目的があるにせよ、兵にはわれわれが私闘《しとう》を黙認《もくにん》したと映ります。これでは示しが付きません。規律《きりつ》は徹底《てってい》しなければ」
眼鏡《めがね》を押し上げて、うろんげな視線《しせん》をスクリーンに向ける。その横顔をちらりと見て、テッサは小さなため息をついた。
「仕方《しかた》ないことです。こうでもしてみなければ、<アーバレスト> の力を引き出すことはできないでしょうから……」
「艦長《かんちょう》。それが私にはよくわかりません。実戦《じっせん》を想定《そうてい》した演習ならば、日頃《ひごろ》から行っているはずです。この上、なぜこのような茶番《ちゃばん》を? 酒場《さかば》で喧嘩《けんか》をふっかけさせて、隊《たい》の機材《きざい》を無断使用《むだんしよう》させ、あまつさえ危険な実戦用の装備《そうび》を使わせるなど……」
そう。この喧嘩は、最初から仕組《しく》まれたものなのだ。
クルーゾーが提案《ていあん》し、テッサが許可《きょか》した。挑発《ちょうはつ》し、侮蔑《ぶべつ》し、私闘という形で、宗介を追いつめてみる。そうすることで、<アーバレスト> のラムダ・ドライバを駆動《くどう》させることができるかどうか――少なくとも、駆動に近いデータが得《え》られるか――それを試《こころ》みる考えだった。
(手加減《てかげん》する気はありません。最悪《さいあく》、彼が死ぬことも覚悟《かくご》してください)
クルーゾーはテッサにそう告げていた。『それでは元も子もない』と彼女が言おうとすると、新任《しんにん》の中尉は非情《ひじょう》な声で、こう付け加えた。
(私に殺されるくらいなら、所詮《しょせん》はそこまでの男――そこまでの駄作機《ださくき》です。作戦本部も、これ以上はあの機体に頼《たよ》ろうなどとは思わなくなるでしょう)
冷徹《れいてつ》だが合理的《ごうりてき》なその言葉に、テッサは反論《はんろん》する術《すべ》を持たなかった。それを『否《いな》』といったら、自分は宗介を信頼《しんらい》していないことになる。
司令センターのスクリーンを見つめ、マデューカスはさらに続けた。
「安全面《あんぜんめん》から考えても、いささか度《ど》がすぎます。われわれは戦闘《せんとう》を生業《なりわい》とする集団《しゅうだん》ですが、街《まち》のギャングではありません。暴力《ぼうりょく》の行使《こうし》は計画性と規律《きりつ》をもって、紳士《しんし》的に為《な》されるべきです。このような野蛮《やばん》な形の決闘《けっとう》など――」
「戦争に野蛮も紳士的もないでしょう?」
テッサらしからぬ言葉に、マデューカスは小さな驚《おどろ》きを見せた。
「こんなこと言うの、生意気《なまいき》かしら」
「……いえ。艦長《かんちょう》のおっしゃる通りです」
そう答えた彼の目に、ほんの瞬間《しゅんかん》、哀《かな》しみと憐《あわ》れみの色がよぎった。
<アーバレスト> に取り付けた中継装置《ちゅうけいそうち》から、様々《さまざま》なデータが転送《てんそう》されてくる。操縦者《そうじゅうしゃ》の心拍数《しんぱくすう》、脳波《のうは》、脳磁《のうじ》波、近赤外線《きんせきがいせん》測定値《そくていち》、機体《きたい》の骨格温度《こっかくおんど》、ひずみ、AI <アル> のステータス、その他もろもろ……。すべてが記録《きろく》され、技術士官《ぎじゅつしかん》のレミング少尉《しょうい》がそれらを逐一《ちくいち》チェックしていた。
こんな風《ふう》にモルモット扱《あつか》いされていることを知ったら、彼はどう思うだろうか。
そうなるように仕向《しむ》けた自分を、彼はどう思うだろうか。
たぶん、軽蔑《けいべつ》するだろう。
きょう一日に起きたことだけで、彼がどんどん遠くなっていく気がする。東京とメリダ島の距離《きょり》などよりも、ずっと遠くに。
(バニ……)
もういない少年の面影《おもかげ》が、脳裏《のうり》をよぎった。
やはりわたしを責《せ》めているの? あなたを失い、途方《とほう》に暮《く》れて、彼に惹《ひ》かれたこのわたしを。あなたが遺《のこ》したあの機体は、何度もわたしたちを救《すく》ってくれた。それは感謝《かんしゃ》してもしきれない。でも同時に、あの機体の存在《そんざい》は――彼とわたしとの間に溝《みぞ》をつくっていく。どうにもならない、埋めようのない溝を。
なぜあの順安《スンアン》での事件のとき、<アーバレスト> に乗ったのが彼だったのだろう。どうして――別のだれかではなかったのだろう?
思いに耽《ふけ》っていたのは、実際《じっさい》にはほんの数秒くらいだった。
いまなお不服《ふふく》そうなマデューカスの様子《ようす》に気づき、テッサは言った。
「……普通《ふつう》の演習《えんしゅう》くらいのストレスでは、ラムダ・ドライバは動きません。訓練《くんれん》と実戦《じっせん》では、兵士の精神状態《せいしんじょうたい》は決定的に違《ちが》うから……。マデューカスさんだって、よくご存《ぞん》じでしょう?」
「もちろんです。私はそれをフォークランドで学びました」
80[#「80」は縦中横]年代初頭のフォークランド紛争《ふんそう》当時《とうじ》、マデューカスが英国海軍の攻撃型原潜《こうげきがたげんせん》で副長を務《つと》めていたことを、テッサは思い出した。
「艦長……。私が『わからない』と言っているのは、こうまでしなければならない、あの機体の有効性《ゆうこうせい》についてです。トリガーを引いたときに確実《かくじつ》に作動《さどう》しない兵器《へいき》など、兵器ではありません。そんなものに頼《たよ》らずに、なにか別の方策《ほうさく》を練《ね》れないのでしょうか。兵器システムにとり絶対《ぜったい》に必要なもの――それは革新性《かくしんせい》でも破壊力《はかいりょく》でもありません。純粋《じゅんすい》な信頼《しんらい》性です」
「 <アーバレスト> は欠陥品《けっかんひん》だ、と言いたいんですね?」
「はい。私はあの機体《きたい》が、どうにも気に入りません」
その言葉に、彼女は憂鬱《ゆううつ》なユーモアを感じた。マデューカスが宗介のことをあまり快《こころよ》く思っていないことは、テッサも薄々《うすうす》知っている。その宗介と彼とが、あの機体についてはまったく同じ意見だということに気づいたのだ。
「サガラ軍曹も、そう思っているでしょうね。……それが問題なんです」
攻防《こうぼう》につぐ攻防。白《しろ》と黒《くろ》のシルエットが、絡《から》みあうようにして密林《みつりん》を駆《か》け抜《ぬ》け、轟音《ごうおん》と電光《でんこう》がほとばしる。突風《とっぷう》がうなって乱流《らんりゅう》を生み、蔦《つた》や葉を荒々《あらあら》しく舞《ま》い散らせた。
『醜《みにく》いな。なんと醜い戦い方だ』
クルーゾーが言った。
「醜い?」
『まるでブリキの人形だ。不器用《ぶきよう》で――』
回し蹴りが、死角から <アーバレスト> を襲《おそ》った。宗介は機体を踏《ふ》み込ませ、相手に体当たりするようにして、無理矢理《むりやり》その一撃《いちげき》を和《やわ》らげた。
『強引《ごういん》で――』
崩《くず》れたバランスに身をまかせ、M9が空中できりもみする。その回転速度《かいてんそくど》をナイフに乗せた、最速の斬撃《ざんげき》が <アーバレスト> の左|肩《かた》を切り裂《さ》いた。二枚|羽根型《ばねがた》の放熱《ほうねつ》ユニットの一枚が脱落《だつらく》し、衝撃吸収剤《しょうげききゅうしゅうざい》のタンクが破裂《はれつ》する。
『――柔軟《じゅうなん》さもない』
片手で逆立《さかだ》ちし、旋風《せんぷう》のごとき鮮《あざ》やかな蹴りをはなつ。右足、続いて左足。頸部《けいぶ》を横から薙《な》ぎ払《はら》われ、<アーバレスト> がよろめいた。
「…………っ!」
余勢《よせい》に乗って独楽《こま》のように回転しながら、M9は大地を踏みしめ、直立姿勢《ちょくりつしせい》に戻《もど》る。<アーバレスト> は後じさり、肩から白煙《はくえん》を立ちのぼらせる。
『どうだね? M9系の機体を使うなら、せめてこれくらいの真似《まね》はして欲しいものだ』
「曲芸《きょくげい》の自慢《じまん》か」
『ほう』
「俺《おれ》なら、その前にとどめを刺している」
『まだ軽口《かるくち》を叩《たた》く元気はあるようだな。……では、望《のぞ》み通りにしてやる』
直後《ちょくご》、両者が激突《げきとつ》した。爆発的《ばくはつてき》なパワーとパワーが大気を震《ふる》わせ、あたりの密林を響動《どよ》もす。
<アーバレスト> は軽いステップを踏《ふ》みつつ、敵めがけて矢のような突《つ》きを繰り出した。クルーゾーがかがみ込むようにしてそれを避け、同時にこちらの胴《どう》を切り払《はら》おうとする。宗介はすんでのところで腰《こし》をひねり、その一撃《いちげき》を横《よこ》っ飛《と》びにかわす。
軽口を叩《たた》いてやったものの、その実、宗介は焦《あせ》っていた。
クルーゾーは強い。それも、ただ強いだけではない。あらゆる動作《どうさ》に清水《せいすい》の流れを思わせる、ある種《しゅ》の調和《ちょうわ》があった。どんな誘《さそ》いにも乗ってこないし、あらゆるフェイントを見破ってくる。そして――宗介がわずかでも迂闊《うかつ》さを見せると、まさしく激流《げきりゅう》となってこちらの守りを突《つ》き崩《くず》しに来るのだ。
攻防《こうぼう》の手を休めることなく、クルーゾーが言った。
『いい加減《かげん》に本気を出したらどうだ。ヨーロッパには、君程度の操縦兵《そうじゅうへい》などゴロゴロいる。SASの強襲機兵《きょうしゅうきへい》チームなら、下から数えた方が早いレベルだ』
「元SASか」
SAS。世界でもトップの実力と実績《じっせき》を誇《ほこ》る英国の特殊部隊《とくしゅぶたい》のことだ。クルーゾーという名前から、アフリカ系のフランス人かと思っていたが――
『そんなことはどうでもいい』
ひときわはげしい轟音《ごうおん》と振動《しんどう》が宗介を襲《おそ》った。クルーゾーの短刀が、<アーバレスト> の腹部《ふくぶ》を深くえぐったのだ。
『――その前に、命の心配をしろ。腰抜けのマッカランが待っているぞ』
「っ……!!」
AIがダメージを矢継《やつ》ぎ早《ばや》に報告《ほうこく》した。
<<警告《けいこく》! ジェネレーター、損傷《そんしょう》。規模《きぼ》は不明。主パワー・ケーブル、切断《せつだん》。第二|冷却《れいきゃく》装置《そうち》、機能停止《きのうていし》。腹直筋《ふくちょくきん》アクチュエーター、損傷――>>
AIの報告にはなかったが、空調《くうちょう》システムにまで損害《そんがい》が及《およ》んでいるようだった。気密性が高いはずのコックピットに、焼《や》けた金属《きんぞく》の匂《にお》いが浸入《しんにゅう》してくる。
『どうした?』
さらに容赦《ようしゃ》ない打撃《だげき》。
『どこを見ている?』
さらに仮借《かしゃく》ない斬撃《ざんげき》。
『やる気があるのか……!?』
よろめいた <アーバレスト> の脇腹《わきばら》に、追い打ちの膝蹴《ひざげ》りがめりこむ。八トンの機体《きたい》がはじき飛ばされ、背中《せなか》から大地にめりこんだ。
AIの警告《けいこく》。甲高《かんだか》いアラーム音。骨格と、筋肉と、装甲《そうこう》のきしむ悲鳴《ひめい》。
(このままでは……)
苛烈《かれつ》な連撃《れんげき》をはねのけ、有効《ゆうこう》な一撃を相手に食らわす術《すべ》を、宗介はどうしても編《あ》み出せなかった。
『本気を出せと言ったはずだっ!!』
M9が天高く跳躍《ちょうやく》し、ナイフを逆手《さかて》で振《ふ》り上げて、<アーバレスト> めがけ急降下《きゅうこうか》してきた。まるで地上の獲物《えもの》に襲《おそ》いかかる、獰猛《どうもう》な鷲《わし》だった。
間一髪《かんいっぱつ》、右に転がり切っ先をかわす。<アーバレスト> のコックピット・ブロックがあった位置に、クルーゾーの短刀が深々と突《つ》き立った。宗介はその短刀を自分のナイフで横《よこ》薙《な》ぎに両断《りょうだん》する。<クリムゾン・エッジ> が真《ま》っ二《ぷた》つになった。
<アーバレスト> は仰向けの状態から、背筋《せすじ》の瞬発力《しゅんぱつりょく》だけでぱっと宙《ちゅう》に浮《う》いた。『ジャック・ナイフ』と呼ばれる機動《マニューバー》だ。コメツキムシの跳躍とよく似《に》たこの動作によって、ASは手足を使って起きるより、はるかに|素早《すばや》く直立姿勢《ちょくりつしせい》に復帰《ふっき》することができる。
人間には不可能《ふかのう》な軽捷《けいしょう》さをもって、たちまち姿勢を回復《かいふく》すると同時に、<アーバレスト> は自機のナイフを振りかざす。
だが気付いたときには、M9はさっと身をかがめ、<アーバレスト> の懐《ふところ》に潜《もぐ》り込んでいた。深く腰を落とし、鋭《するど》く反転《はんてん》――その不自然《ふしぜん》な動作《どうさ》に警戒《けいかい》した瞬間《しゅんかん》――
「!?」
機体が前へと吸《す》い寄せられた。
重力の方向が、その瞬間だけ水平になったような感覚《かんかく》。重たい衝撃《しょうげき》が襲った直後、なにか圧倒的《あっとうてき》な力が作用して、<アーバレスト> が後方へと吹《ふ》き飛ばされた。
八トンの機体《きたい》が密林《みつりん》を横切り、いくつもの木々を薙《な》ぎ倒す。泥《どろ》のしぶきが霧《きり》となり、あたりに濛々《もうもう》とたちこめる。<アーバレスト> は背中から大地にめりこみ、白い蒸気《じょうき》をたちのぼらせ――力無くその場に横たわった。
「ばっ……」
馬鹿《ばか》な。いまの衝撃《しょうげき》は。
頭がふらつき、全身がしびれている。いまの衝撃のせいだ。いまのは単純な打撃技《だげきわざ》ではない。もっと異質《いしつ》な何かだ。
まさか、あの機体に……?
黒いM9の二つ目が、きっとこちらを睨《にら》みすえていた。
「……ありえない」
宗介は喉《のど》を絞《しぼ》った。
ありえない。あのASに、ラムダ・ドライバが搭載《とうさい》されているなど。<ミスリル> が所有《しょゆう》する、ラムダ・ドライバ搭載機はこの <アーバレスト> のみ。だからこそ、自分は貧乏《びんぼう》くじを引いた。機能の不確《ふたし》かな兵器《へいき》を押《お》しつけられ、不本意《ふほんい》な責任を――
『立て、軍曹《ぐんそう》』
クルーゾーが言った。
『その機体の力をすべて引き出してみろ。わかるか、すべてだ[#「すべてだ」に傍点]。さもなくば――次は死ぬぞ』
<アーバレスト> が立ち上がった。膝《ひざ》が震《ふる》える。肩が大きく上下する。宗介の身体《からだ》のダメージを、機体がそのまま表現《ひょうげん》しているのだ。
(あれを使うしかないのか……!)
ラムダ・ドライバ。散々《さんざん》に、自分を手こずらせるこの機体の、得体《えたい》の知れない未知《みち》の機能《きのう》。こんな場面で、またも頼《たよ》ることになるとは。
はたして使えるだろうか。この機体は、また自分を裏切《うらぎ》るのではないのか。こんな馬鹿げた戦いがあるだろうか。戦闘《せんとう》を放棄《ほうき》し、この場から逃《に》げた方が得策《とくさく》ではないのか。
『構《かま》えろ』
「…………」
深呼吸《しんこきゅう》。両脚《りょうあし》を踏《ふ》ん張り、半身《はんみ》に構え、クルーゾーと対峙《たいじ》する。
M9が大地を蹴った。みるみると迫《せま》る黒い機体《きたい》。
<アーバレスト> は弓を引き絞《しぼ》る要領《ようりょう》で、右の拳《こぶし》を振《ふ》りかざす。
力のイメージ。破壊《はかい》の力を、一点に注《そそ》ぎ込むつもりになって――
(出ろ……!)
拳を放つ。クルーゾーが動く。
次の瞬間《しゅんかん》、<アーバレスト> は弓《ゆみ》なりになって前へと吹《ふ》き飛《と》ばされていた。コックピットを猛烈《もうれつ》な衝撃《しょうげき》が襲《おそ》い、今度こそ気が遠くなる。天地がでたらめに暴《あば》れ回り、密林《みつりん》の風景《ふうけい》が無秩序《むちつじょ》にぐるぐると回転《かいてん》した。地面に叩《たた》きつけられた瞬間《しゅんかん》、目の前が真っ黒になって星がまたたく。
AIがダメージをがなりたて、やかましいアラームが鳴《な》り響《ひび》いていたが、宗介はそれをほとんど聞いていなかった。
『弱い。脆《もろ》い』
クルーゾーの声がした。
『所詮《しょせん》は飼《か》い犬ということか』
「…………」
だめだった。
そう認識《にんしき》したところで、宗介の意識《いしき》は深い闇《やみ》の中へと落ち込んでいった。
「終わったようですな」
紺色《こんいろ》の帽子《ぼうし》をとって、マデューカスが言った。ついでに黒縁《くろぶち》の眼鏡も外し、手の甲《こう》で疲れた目をこする。部屋《へや》が暑《あつ》いような気がした。
「やはりなにも起きなかった。これでは使い物になりません」
「なにも起きなかったかどうかは、まだ判断《はんだん》できませんよ。……レミングさん。数値《すうち》の方は?」
テッサがそっけなく答えてから、技術士官《ぎじゅつしかん》のノーラ・レミング少尉《しょうい》に声をかけた。そばの席でノートパソコンを開き、M9や <アーバレスト> からのデータを監視《かんし》していた彼女は、モニターから目を離《はな》さずに、淡々《たんたん》と答えた。
「ベリルダオブ島での戦闘《せんとう》にも及《およ》びませんでした。TAROSは例の脳波《のうは》――ガンマ波を検出《けんしゅつ》していますが、非常《ひじょう》に低いレベルです。中核《ちゅうかく》モジュールの位相干渉波量子素子《いそうかんしょうはりょうしそし》は、スペクトルの分布が変化しています。柱状視床軸《ちゅうじょうししょうじく》のN|極《きょく》から……だいたいE|層《そう》第一五野の付近《ふきん》まで。すこし離《はな》れて、P層第四二野の、九〇度付近にも」
「青の方ね」
「はい。ご覧《らん》ください。この二か所は……繋《つな》がってますね。見込みはありますけど、駆動《くどう》にはほど遠いくらいのものです」
「…………。防御反応《ぼうぎょはんのう》のケースでは、N層〇度のプラスマイナス四〇でしたね。ミラーの仮説《かせつ》と関係があるのかしら」
「断定《だんてい》できませんね。ただ気になるのは――」
カラフルな立体|画像《がぞう》とグラフ類《るい》を前に議論《ぎろん》するテッサとレミングを、マデューカスは憂鬱《ゆううつ》な目で眺《なが》めるしかなかった。彼女らの会話が、彼にはまったく理解《りかい》できないのだ。察《さっ》するに、脳科学《のうかがく》と物理学《ぶつりがく》に関係する話のようだったが、それ以外はちんぷんかんぷんだ。いくつかの学位を持っている彼でも、畑違《はたちが》いのこの議論《ぎろん》にはとても付いていけそうになかった。
レミングはMIT出身の才媛《さいえん》だ。軍属《ぐんぞく》の経歴《けいれき》は皆無《かいむ》だが、開発者《かいはつしゃ》を失った <アーバレスト> のために、テッサが彼女をスカウトした。テレサ・テスタロッサほどの異能《いのう》ではなかったが、やはり彼女も『天才』の部類《ぶるい》に入るのだろう。いままで出会った、ASやECSについて熟知《じゅくち》する技術者も、若い世代が圧倒的《あっとうてき》に多い。
こうした若者たちが生み出した新兵器《しんへいき》の数々に、マデューカスは以前から違和感《いわかん》を覚えていた。あのいかがわしいラムダ・ドライバだけではない。アームスレイブ、|電磁迷彩システム《ECS》、パラジウム核融合電池《かくゆうごうでんち》、<デ・ダナン> のスーパーAI、TAROS、|超伝導推進《SCD》、|電磁乱流制御システム《EMFC》……そうしたすべてだ。
[#挿絵(img/05_027.jpg)入る]
ほんの二〇年前――マデューカスがまだ青年と呼べる年齢《ねんれい》だったころ、こうした新装備《しんそうび》の登場はまったく予言されていなかった。ミサイルや戦闘機《せんとうき》に、ようやくコンピュータらしいコンピュータが搭載《とうさい》されるようになりつつあったくらいの時代だ。『巨大ロボット』や『透明化装置《とうめいかそうち》』など、その言葉を口にするだけで、職業《しょくぎょう》軍人としての見識《けんしき》を疑《うたが》われた。巷《ちまた》では『インベーダー・ゲーム』が大流行しており、あのみすぼらしいドット絵が動くだけで、みんなが大喜びしていたのだ。
かつてマデューカスが指揮《しき》していた攻撃型原潜《こうげきがたげんせん》は、いまなお世界で屈指《くっし》の高性能艦《こうせいのうかん》だ。しかし <トゥアハー・デ・ダナン> の前では、その原潜とて第二次大戦中のディーゼル潜水艦《せんすいかん》も同然だった。
テレサ・テスタロッサは善良な少女だ。だが彼女や彼女の同類《どうるい》がもたらした産物の、この空恐《そらおそ》ろしさはいったい何だ? 自分が仕《つか》える彼女とあの艦《かん》、この部隊は、なるほど、多くの人命を救ってきた。しかしその存在《そんざい》についての根元的《こんげんてき》な問いを、なぜ私は発したくなるのだろう?
テッサとレミングの議論は五分ばかり続いた。
「E―005号機からの観測《かんそく》データは?」
「なにも」
「ほかに考えられる電磁波《でんじは》は出ていなかったのね」
「そもそも観測環境《かんそくかんきょう》に限界《げんかい》がありますから、断言《だんげん》はできませんね。機材《きざい》も間に合わせですし。詳《くわ》しいことは、時間をかけて分析《ぶんせき》する必要《ひつよう》があるでしょうが……」
「いいわ。仮説を洗い直して、まず単純《たんじゅん》なモデルを再構築《さいこうちく》しましょう。搭乗者《とうじょうしゃ》任せの問題も、何らかの形で改善《かいぜん》できるかもしれませんし……。期待してますよ、レミングさん」
「え……ええ」
垣間《かいま》、レミングが自信のない顔つきをしたのを、マデューカスは見逃《みのが》さなかった。おそらくあのシステムの全容《ぜんよう》を解明《かいめい》することは、彼女の天才をもってしても手に余るのだろう。わけもなくああ言ってのける一回り年下の少女に、レミングは劣等感《れっとうかん》のようなものを感じたのかもしれない。
だがテッサはそれに気付いた様子もなく、マデューカスに向き直った。
「……私はすこし休みます。なにかあったら、医療《いりょう》センターの方へお願いしますね」
「医療センター、ですか?」
「仮眠《かみん》にはちょうどいいから。切らしてた湿布《しっぷ》ももらいたいし……」
そう言って、彼女は司令《しれい》センターの出口へと歩き出した。心なしか、歩幅《ほはば》が大きい。休養《きゅうよう》を取りに行くにしては、いささか慌《あわ》ただしく見えた。
(けっきょく心配なわけか。……やれやれ)
つまりは、そういうことだ。あの軍曹《ぐんそう》の様子《ようす》が気になって仕方《しかた》ないのだろう。
テッサの背中が自動ドアの向こうに消えたところで、
「あの……中佐殿《ちゅうさどの》」
と、レミング少尉《しょうい》が後ろから声をかけた。
「なんだね」
「カリーニン少佐は、今日中《きょうじゅう》に基地《きち》へお戻《もど》りに?」
「そのはずだが。それが?」
「いえ。<アーバレスト> の装備周《そうびまわ》りのことで相談があるだけです。メールにするか、直接お話しするか……ちょっと迷ったまでの話でして」
「それは君の自由だが、必要以上[#「必要以上」に傍点]に少佐をわずらわすなよ。妙《みょう》な噂《うわさ》は兵の士気にかかわる」
「も、もちろんです。……それより、その噂は誤解《ごかい》です。少佐の名誉《めいよ》のために申し上げますが、私は決してあの方とは――」
「わかった、わかった。もういい」
マデューカスはうるさげに手を振《ふ》って、自分の執務室《しつむしつ》に引き返そうとした。すると今度は、通信担当《つうしんたんとう》の軍曹が彼を呼び止めた。
「お待ちください、中佐殿」
「今度はなんだ?」
「いえ……あの。シドニーの作戦本部からメッセージです」
「起きろ、こら。役立たずのネクラ軍曹」
目を覚ますと、仏頂面《ぶっちょうづら》のクルツ・ウェーバーが彼を見下ろしていた。
「…………」
宗介が横たわっているのは、医療《いりょう》センターのベッドの上だった。白い天井《てんじょう》と、無機質《むきしつ》な蛍光灯《けいこうとう》の光。整備兵《せいびへい》の手で機体《きたい》から引っ掛り出されたところは、ぼんやりと覚えていたが、あとのことはよく分からなかった。
「あっさり返り討《う》ちだって? なんてザマだよ。情けねえ」
酒場《さかば》での体《てい》たらくを棚《たな》に上げ、クルツが言った。見たところぴんぴんしているが、同時にあからさまな不機嫌顔《ふきげんがお》だ。
「クルーゾー中尉は……?」
身を起こしてたずねると、クルツが顎《あご》をしゃくって見せた。広い部屋の反対側、カーテンで仕切られた診察《しんさつ》スペースから、ちょうどクルーゾーが出てきたところだった。丸めたシャツを小脇《こわき》に抱《かか》えたTシャツ姿で、軍医になにかの礼《れい》を告げている。たくましい左|腕《うで》には、真新しい包帯《ほうたい》がていねいに巻きつけてあった。
「…………」
「あの喧嘩《けんか》は実験《じっけん》だったんだよ。あの野郎と技術科と司令部《しれいぶ》が、そろってグルになって仕組《しく》んだわけさ。俺《おれ》もいい咬《か》ませ犬にされたもんだ。くそっ……」
そんなところだろう、と見当《けんとう》はついていた。あれだけ長い時間、実戦用の武器で戦闘《せんとう》をしていたのに、司令センターからは何の制止も警告《けいこく》も出なかったのだ。隊《たい》の上層部が、あの私闘《しとう》を黙認《もくにん》、あるいは奨励《しょうれい》したことは、宗介でも想像《そうぞう》に難《かた》くなかった。
(つまり、俺とあのASは <ミスリル> のモルモット、というわけか)
ずいぶんな新任務《しんにんむ》ではないか。まわりくどい手など使わずに、ひとこと『戦え』と命じればいいものを。
こういう自分の扱《あつか》いを、テレサ・テスタロッサはどう考えているのだろうか。少なくとも、楽しんではいないだろう。それくらいのことは想像《そうぞう》できる。
苦い敗北感《はいぼくかん》が胸中で渦巻《うずま》いていた。
あの中尉は、勝負にあたっていかなる策《さく》も弄《ろう》さなかった。自分は単純《たんじゅん》な力の差で負けたのだ。実戦《じっせん》ならば、もちろん死んでいたことだろう。高価《こうか》なくせに役立たずの実験機と、運命《うんめい》を共にして。
いっそのこと上手《じょうず》に攻撃《こうげき》を食らって、あのASを大破させてしまえば良かった。二度と使用が不可能《ふかのう》になるように。どうせ責任《せきにん》はクルーゾーのものになる。そうすれば、自分はふたたび――
いや。馬鹿《ばか》げている。たとえ <アーバレスト> を破壊《はかい》したところで、自分が東京の任務《にんむ》に復帰《ふっき》することはないだろう。上層部が方針《ほうしん》を翻《ひるがえ》すわけがない。しかし、すべての元凶《げんきょう》はあのASにこそあるのではないか……?
(千鳥《ちどり》……)
すまない。だが、俺《おれ》の力ではどうにもならない。君のことだけではない。俺は死者の名誉《めいよ》も守れなかった。自分の誇《ほこ》りも。なにもかも。
かつてこれほど、自身の無力《むりょく》を感じたことがあっただろうか……?
「来るぜ」
クルツのささやきで、宗介は我《われ》に返った。ベルファンガン・クルーゾーが近づいてくる。
「ようやくお目覚《めざ》めか、軍曹」
ねぎらいの情《じょう》など一片《いっぺん》も見せず、彼は言った。
「格納庫《かくのうこ》へ行って、整備《せいび》チームの書類にサインをしておけ。先ほどの演習[#「演習」に傍点]の報告書《ほうこくしょ》を作成し、二五〇〇時までに私とレミング少尉《しょうい》、カリーニン少佐とテスタロッサ大佐に提出《ていしゅつ》しろ。不正確《ふせいかく》な記述《きじゅつ》や書式のミスが一つでもあったら、何度でも最初からやり直させる。明朝《みょうちょう》は〇六〇〇時から錬成《れんせい》訓練だ。第一格納庫前に集合しろ。ウェーバー、おまえもだ。部隊のAS搭乗資格保持者《とうじょうしかくほじしゃ》は、すべて私が鍛《きた》え直す」
「…………」
「マッカランは甘《あま》かったようだが、私は違《ちが》う。のたれ死《じ》にしたとき、後任者《こうにんしゃ》から無能《むのう》のそしりは受けたくないからな。覚悟《かくご》しておけ」
宗介たちはなにも言わなかった。現《げん》に勝負で負けたのだ。大尉を侮蔑《ぶべつ》されることにも、耐《た》えるよりほかない。
「質問がなければ、解散《かいさん》だ」
「質問があります」
押《お》し殺した声で、宗介は言った。
「言ってみろ」
「……自分を倒《たお》したあの攻撃《こうげき》は? あの黒い機体《きたい》には、ラムダ・ドライバが?」
するとクルーゾーは、鼻をふんと鳴《な》らした。
「そんな機能など使わずとも、おまえと <アーバレスト> を潰すのは簡単だったよ。M9という第三|世代型《せだいがた》ASには、普通《ふつう》に使ってもあれだけの潜在能力《ポテンシャル》がある、ということだ」
「では、あのショックは……?」
「――あれは東洋でいうところの徹《とお》し≠ニ寸頸《すんけい》≠複合《ふくごう》した技《わざ》だ。最初に猛烈《もうれつ》なインパクトを敵機《てっき》とその操縦兵《オペレータ》に浸透《しんとう》させ、続いてその身を吹《ふ》き飛ばす。ラムダ・ドライバなど必要ない」
宗介は、酒場《さかば》での喧嘩騒《けんかさわ》ぎを思い出した。あの技と同じだ。
あのとき宗介のいた位置からは、クルツがあごを押《お》されたようにしか見えなかったが、それだけではなかったのだろう。
「いまの芸当《げいとう》は、M9なら十二分に可能だ。敵と自分との呼吸《こきゅう》を合わせ、力の流れを望む形へと導《みちび》いてやるんだよ。水のように。炎《ほのお》のように……な」
「だが、人間の身体《からだ》とASはちがう」
「その常識《じょうしき》はもう古い。M9系ASの骨格パーツ数は、平均的な第二世代型ASの二倍以上だ。その複雑《ふくざつ》さと柔軟性《じゅうなんせい》では、神が創造《そうぞう》したもっとも精緻《せいち》なメカニズム――すなわち人体にもひけを取らない」
「…………」
「私はさっき、君の戦いを醜《みにく》い≠ニ言った。<アーバレスト> に本来|備《そな》わっているはずの力を信じようとせず、機体を車やヘリのようにしか扱《あつか》わないからだ」
「それのどこに問題が?」
ASは生物ではない。プログラムに従《したが》って、関節《かんせつ》を駆動《くどう》させるだけの機械だ。『第二の肉体』というのは、あくまで喩《たと》えにすぎない。アーム・スレイブは、たとえ人の形をしていても、チタン合金や高分子素材《こうぶんしそざい》を寄せ集めただけの機械なのだ。
「はっきり言わんとわからんか」
クルーゾーは腰に手をやり、あきれたようにため息をついた。それからまっすぐに宗介を見つめ、こう言った。
「おまえは、あの <アーバレスト> を嫌悪《けんお》している」
「…………!」
「立ち合ってよくわかった。脚《あし》の運びや腕《うで》のさばき、拳《こぶし》の流れや太刀筋《たちすじ》の一つ一つ……そうしたすべてに、迷いがある。不信《ふしん》が、焦《あせ》りが、躊躇《ちゅうちょ》がある。一見|合理的《ごうりてき》で、プロらしい動きではあるが――意志《いし》が伴《ともな》っていない。心、ここにあらずだ。ラムダ・ドライバなどどうでもいい。それ以前の問題だな」
クルーゾーの一言一言が、宗介の胸に突《つ》き刺《さ》さった。
[#挿絵(img/05_037.jpg)入る]
その通り、自分はあの機体《きたい》を嫌《きら》っている。ラムダ・ドライバのこと以外では、故障《こしょう》らしい故障を見せたことはないが、それでもあの機体が信じられない。命を託《たく》して戦うことが、いやでいやで仕方《しかた》がない。
その気持ちが、技《わざ》の切れを鈍《にぶ》らせている……?
仮《かり》にも敵《てき》として対峙《たいじ》した相手に核心《かくしん》を突かれ、宗介は内心で動揺《どうよう》した。反発《はんぱつ》したくても反発できない。この中尉の言っていることは、たぶん、正しいのだ。
「よく聞け、軍曹」
クルーゾーが身を乗り出し、宗介の目を覗《のぞ》き込んだ。鼻息のかかるほどの近さだ。彼は真剣《しんけん》な顔で宗介を見据《みす》え、一言一句を強調《きょうちょう》するようにして言った。
「われわれが使うASという兵器《へいき》は、ただの|乗り物《ヴィークル》ではない。戦士の肉体のさらなる延長《えんちょう》なのだ。操縦者《そうじゅうしゃ》の心は、そのまま機体に顕《あらわ》れる。高度なレベルの戦いにおいては、そのわずかな差が勝敗《しょうはい》を決める。自身の肉体、自身の力を信じられない男に、これからの敵は決して倒《たお》せないと知れ。以上だ」
こちらの反応《はんのう》を待ちもせず、クルーゾーはきびすを返し、医療《いりょう》センターを去っていった。
「やれやれ。いけすかねえ野郎が着任《ちゃくにん》したもんだぜ……」
まだ聞こえているかもしれないのを承知《しょうち》で、クルツがぼそりと言った。
「……だが、彼の言うことにも一理《いちり》ある。確《たし》かにクルーゾーは強い」
宗介は正直な感想《かんそう》を述《の》べた。
「まあ……格闘《かくとう》ではな。ほかはどうだか知らねえけど」
「……他《た》の技能《ぎのう》も一流だろう。SASの出身らしい」
「へえ。じゃあカナディアンSASかな……」
SASといえば、広く知られているのは英陸軍の第二二SAS連隊《れんたい》のことだ。しかし英|連邦《れんぽう》に属《ぞく》する国――カナダやニュージーランドやオーストラリアの軍には、同様《どうよう》の練度《れんど》を誇《ほこ》るSASがそれぞれ存在する。人的交流が活発《かっぱつ》な上、部隊章《ぶたいしょう》も各国ともにまったく同じなので、外部の人間の目からは、それらの区別《くべつ》をつけづらい。
「そういえば、マッカランの親父《おやじ》はオーストラリアンSASの出だったよな」
「ああ。たしか――」
そこまで言って宗介は言葉を切った。
クルーゾーが出ていったのとは対面《たいめん》にあたる医療《いりょう》センターの出入り口に、テッサが突《つ》っ立っていたのだ。戸口の縁《ふち》に右手を添え、左手で自分の三つ編《あ》みを握《にぎ》って、なにか言いたげな目でこちらを見ている。気のせいか、足下《あしもと》が頼《たよ》りない感じだった。
ずっと彼女が黙《だま》っていたので、宗介たちが先に声をかけた。
「……大佐殿《たいさどの》?」
「テッサ?」
「…………。あ、あの――」
テッサがためらいがちに口を開いたところで、医療センターの奥《おく》から軍医《ぐんい》のゴールドベリ大尉が声を滑り上げた。
「あ、来てた来てた。テッサっ!」
「は、はい?」
「|ディック《リチャード》から伝言! いますぐ司令《しれい》センターに戻《もど》れって!」
「え……わかりました。すぐ戻ります」
テッサはすこし躊躇《ちゅうちょ》してから、けっきょく宗介にはなにも言わずに、そそくさと戸口から姿《すがた》を消した。
「…………?」
「なんだろ。心配して見に来たのかな」
「心配。なにをだ」
本当に分からなかったのでそうたずねると、クルツはしかめっ面《つら》で宗介を見やり、大仰《おおぎょう》に首を横に振《ふ》った。
「ったく……。俺《おれ》がもし恋愛《れんあい》ドラマの脚本家《きゃくほんか》だったら、絶対《ぜったい》おまえみたいなタイプの男は主人公にしないだろうね。だって、話が進まねえんだから。視聴率《しちょうりつ》ガタ落ちだよ」
「?」
地下基地の地図をにらみつつ、ベルファンガン・クルーゾーは将校用《しょうこうよう》の居住区をさまよい歩き、ようやく自分に割《わ》り当てられた個室《こしつ》を見つけた。扉《とびら》に鍵《かぎ》はかかっておらず、中に入ると、兵に頼《たの》んで運んでおいてもらった私物の山が積《つ》み上げてあった。
将校用の個室は、簡素《かんそ》なホテルのダブル・ルームくらいの広さだった。飾《かざ》り気《け》はほとんどなかったが、照明《しょうめい》は明るく温《あたた》かい。備《そな》え付けの家具《かぐ》はわずかだった。
私物には手を付けず、彼はからっぽのロッカーやキャビネットを探ってみた。二か月前までこの部屋を使っていた人物の遺《のこ》したものは、なにも見つからなかった。
木のデスクに歩み寄り、引き出しの中を探った。紙と葉巻《はまき》の匂《にお》いがすこしする。一番下の段《だん》に、使い古しの聖書《せいしょ》があった。
クルーゾーは革張《かわば》りの小さな聖書を手に取り、ばらばらとめくった。何か写真の類《たぐい》でも挟《はさ》まっていないかと期待《きたい》したが、そういう発見もなかった。
伝道書《でんどうしょ》の一節《いっせつ》を開いてみる。その頁《ページ》の右肩の部分だけが、すこし手垢《てあか》で汚《よご》れていた。
――生ける狗《いぬ》は、死せる獅子《しし》に勝《まさ》れり。
訓練中、たまに彼[#「彼」に傍点]から聞かされたフレーズだ。いくら自分がイスラームだと主張《しゅちょう》しても、彼は一向《いっこう》に構《かま》おうとしなかった。そしてたぶん――アラーよ、お許しください――自分もこの言葉が好きだった。
(先輩《せんぱい》……)
胸の内でつぶやき、彼は聖書を閉じた。
私物を部屋の奥《おく》に運び込もうと、玄関《げんかん》の方に引き返す。開きっぱなしのドアのそばに、東洋系の女が立っていた。メリッサ・マオ曹長《そうちょう》だった。
「あなただったのね」
「そういうことだ」
「一年半ぶりかしら」
「正確《せいかく》には六日ぶりだ」
「そうね。……遺品《いひん》あさりなら無駄《むだ》よ。片づけはとうの前に終わってるから」
「知っている」
マオに背を向け、オリーブ色の大きなバッグを持ち上げる。部屋の奥《おく》へと私物を運びながら、クルーゾーは強いてそっけなくたずねた。
「彼は……苦しんだか?」
「それは誰《だれ》にもわからないわ。看取《みと》った者はいなかった」
「そうか」
彼は数秒ほど歩を止めて、自分を納得《なっとく》させるようにうなずいた。
何度も廊下《ろうか》を往復《おうふく》し、玄関《げんかん》の荷物《にもつ》を片づけていく。それを手伝おうともせず、マオがたずねた。
「……あのM9は、D系列の試作機《しさくき》ね? あたしが関《かか》わったE系列の機体《きたい》のほかに、机上《きじょう》プランで似《に》た形のASがあったのを思い出したわ」
「その通りだ。ジオトロン社のドルトムント工場で二機だけ試作された、<鷹《ファルケ》> というタイプだ。ペイロードに若干《じゃっかん》の余裕《よゆう》があるほかは、通常型《つうじょうがた》のE系列と変わりはない」
「 <アーバレスト> と同じ装置《そうち》を積《つ》んでるの?」
それを聞きにきたわけか、とクルーゾーは納得した。
「気になるか?」
「あたしはその装置を持つ敵《てき》に、二回も殺されかけてるのよ」
「そうだったな。報告書《ほうこくしょ》は読んだ。答えは……積んでいない。予定はあったが、その前に開発者が自殺してしまった」
「じゃあやっぱり、<ミスリル> には <アーバレスト> 一機だけが?」
「そうだ。だからあの軍曹と君らを鍛《きた》える。徹底的《てっていてき》にな」
そして対抗策《たいこうさく》を考えて行かねばならない。<アーバレスト> が自由にラムダ・ドライバを使えるようになれば、通常型のM9でも太刀打《たちう》ちできる手段《しゅだん》を研究できるはずだ。その成果を、ほかの戦隊にも伝えれば、当面はいまの装備《そうび》でしのいでいける。これはカリーニン少佐やテスタロッサ大佐の意向《いこう》でもあった。
「わかるけど、あなたらしくないわね。スパルタ式なんて」
「おれもそう思うよ」
クルーゾーは無表情《むひょうじょう》のまま、肩《かた》をすくめた。
「……あのサガラという奴《やつ》」
「うん?」
「昔《むかし》のおれにそっくりだ。肩肘《かたひじ》ばかり張っていて、周《まわ》りが見えず、無理《むり》して自分を枠《わく》にはめようとしている。狭《せま》い椅子《いす》に、無理《むり》して座《すわ》ろうとしているみたいだ。その気になれば、枠を広げることだって出来《でき》るのにな」
「あの子、そうなれるかしら」
「知らない。だがあのままでは死ぬだろう」
「…………」
「もしくは――本当の負け犬になるか、だ」
「負け犬?」
「俺たちが日頃《ひごろ》相手をしている連中のことだよ。悪意はゆっくりと醸成《じょうせい》される。まず自分をいつわり、次に周囲《しゅうい》を恨《うら》み、最後は世界のすべてを冷笑するようになる。ゆっくりとな。時計の短針《たんしん》のような、遅々《ちち》とした変化だ。だからこそ恐《おそ》ろしい」
「ソースケが? まさか」
マオの言葉に、クルーゾーは答えなかった。
「きょうは疲《つか》れた。すこし休みたい。君も帰れ」
床《ゆか》に放ったバッグを開き、清潔《せいけつ》なタオルと石鹸《せっけん》を取り出す。クルーゾーはシャワールームへと向かいかけ――いったん足を止めた。
「メリッサ」
「なに?」
「おれと先輩《せんぱい》のことは、口外しないでおいてくれ。連中《れんちゅう》に遠慮《えんりょ》されては困るからな」
扉《とびら》を閉めようとしていたマオは、苦笑《くしょう》を浮《う》かべた。
「おおせのままに。……じゃあ、おやすみなさい、ベン」
「おやすみ」
テッサが司令《しれい》センターに戻《もど》ると、マデューカスが厳《きび》しい顔で彼女を迎《むか》えた。
「申《もう》し訳《わけ》ありません、艦長《かんちょう》」
「緊急《きんきゅう》なの?」
「いえ。まだ当面《とうめん》は。作戦本部からD待機《たいき》の命令です。区域《くいき》J5―CSで事態《じたい》B12[#「B12」は縦中横]aが発生。対応手順《たいおうてじゅん》3a[#「3a」は縦中横]までを完了《かんりょう》、現在《げんざい》、3b[#「3b」は縦中横]を進行中です」
D待機とは、強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> の出航準備《しゅうこうじゅんび》を命じるものだった。出撃《しゅつげき》の命令が下され次第《しだい》、二時間以内に海へと出航できる態勢《たいせい》を維持《いじ》するのだ。実際《じっさい》に出撃命令が出るよりは、むしろ『もしかしたら、TDD―1が必要になるかもしれない。備えておけ』というくらいのケースが多い。その待機状態の期間《きかん》は、数日から数週間にまで及《およ》ぶこともある。
そして事態《じたい》B12[#「B12」は縦中横]aとは、『単独《たんどく》、あるいは複数《ふくすう》のASによる破壊行為《はかいこうい》』を示《しめ》す。六月の東京での一件も――あの例はいささか|特殊《とくしゅ》だが――これに当てはまる。
ASでのテロ。いやな予感がした。
「区域J5―CSと言いましたね。場所はどこ?」
「香港《ホンコン》です」
[#地付き]同時刻 香港のどこか
表通りを、パトカーのサイレンが通り過ぎていく。交差点《こうさてん》のクラックション。アンディ・ホイのヒット曲が、通りに面した近所の商店から聞こえてくる。
赤と緑の光がわずかに射《さ》し込む室内に、その男はたたずんでいた。
「ただいま戻《もど》りました、先生《シンサン》」
男が言った。
「仰《おお》せの通り、<コダールm> で南軍の歩哨《ほしょう》たちをかき回して参りました。東京《ドンケン》の弟からも、報《ほう》が入っております。すでに仕度《したく》は整《ととの》っていると。ご指示《しじ》をくだされば、弟はいつでもその娘《むすめ》を縊《くび》り殺すことでしょう」
返事はなかった。誰《だれ》かがいるはずの部屋の奥《おく》は、照明《しょうめい》の関係か、真っ暗だ。光を吸《す》い込み、二度と逃《に》がさない暗闇《くらやみ》。とても――とても深い闇がそこにあった。
その闇の中で、なにかが動いた。
「明晩《みょうばん》、ですか」
男が問うと、太くしゃがれた機械的《きかいてき》な声が、暗闇の中から響《ひび》いた。
「――――」
「どのような死をお望《のぞ》みでしょう?」
「――――」
「……かしこまりました。では明晩、その千鳥《チンニウ》という娘《むすめ》を殺すよう弟に伝えます。よろしいでしょうか?」
男の問いを、暗闇《くらやみ》の主《あるじ》は沈黙《ちんもく》で肯定《こうてい》した。
[#改ページ]
4:彼女の問題
[#地付き]一〇月二〇日 二〇四五時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]調布《ちょうふ》市
すこし、考えすぎだ。
けっきょく何事《なにごと》もなく帰宅《きたく》したあと、かなめは自分に言い聞かせた。
泉川《せんがわ》商店街《しょうてんがい》のビルの屋上《おくじょう》に、ちらりと、変な人が見えた――たったそれだけで、あそこまで取り乱すなんてどうかしている。
虫の知らせ? そんなもの、あてになるわけがない。
(そうよ……)
宗介に電話がつながらない。だが、それがなんだというのだ。今までだって、似《に》たようなものだったではないか。ふらりと学校から姿《すがた》を消《け》して、一日か二日、帰ってこない。長いときは三日か四日くらい。そして必《かなら》ず、帰ってくる。連絡《れんらく》が取れないのもいつものことだ。
しかし――
『おかけになった番号は、現在《げんざい》、使われておりません』
これは、今までなかった。こういう返事《へんじ》が来るということは、宗介が電話《でんわ》会社に連絡《れんらく》して、自分の意志《いし》で契約《けいやく》を解除《かいじょ》した、ということだ。利用者《りようしゃ》が解除を告《つ》げてから、電話会社が確認《かくにん》をとれば、一〇分とたたずにその回線《かいせん》は停止《ていし》される。
そもそも、このあいだのテストのときから、宗介とは海外にいても電話がつながるようになったはずではなかったのか?
(あのバカ……)
心配ばかりあたしにかけて。今度会ったら、ビシッと言ってやろう。
不安と苛立《いらだ》ちと、それをかき消す楽観《らっかん》とがない交ぜになって、彼女の胸中は絶《た》えずもやもやとしていた。
料理をする元気がなかったので、その晩《ばん》はレトルトのカレーを食べた。
テレビをつけて、チャンネルを回す。民放のバラエティ番組が映《うつ》った。最近人気のお笑い芸人のコンビが出ている。立場の弱い新人や素人《しろうと》を困らせ、こづき回して、それを指さして笑うだけの、クズみたいな内容だった。
ゲーム機をつけて、やりかけのソフトをプレイする。多国籍軍《たこくせきぐん》の最新鋭《さいしんえい》ASを操《あやつ》り、テロリストの部隊を撃破《げきは》していくアクションものだった。その手の男の子向けゲームなど、最近まではまったく関心《かんしん》がなかったが、宗介の普段《ふだん》の仕事をすこしは知っておこう――そう思って買ったのだ。
もっとも、買ってみてから、こんなゲームはなんの参考《さんこう》にもならないことを思い知った。当たり前のことだが、このゲームの制作者《せいさくしゃ》は実戦の緊迫《きんぱく》、爆音《ばくおん》や熱風《ねっぷう》を知らない。あの、ぴんと掛りつめた空気も。恐怖《きょうふ》の先の、あの沸《わ》き立つような熱狂《ねっきょう》も。不幸なことに、かなめはそれを知っている。
つまらないので、そのゲームもすぐにやめた。
気分が落ち着かなくて、なにをやっても集中できない。反面、なにもしないでいると、退屈《たいくつ》で退屈でそわそわする。
なぜ、自分はこんなに苛《いら》つくのだろう?
(キョーコに来てもらえば良かったな……)
週に一度くらい、このマンションには恭子《きょうこ》がお泊《と》まりにくる。たいていは恭子の方から『きょう、行っていい?』と言ってくるのが常《つね》だった。ひとり暮《ぐ》らしは寂《さび》しいので、かなめはもちろん歓迎《かんげい》する。手料理をふるまって、一緒《いっしょ》にテレビを見て、布団《ふとん》を並《なら》べ、いろんなことを話す。音楽のこと、スポーツのこと、ドラマのこと、友達の噂話《うわさばなし》、学校の男子のこと、将来《しょうらい》のこと……。
電話が鳴《な》った。
時計を見ると、九時|過《す》ぎだった。ニューヨークなら、朝の七時だ。数日に一度は、通学前に国際電話《こくさいでんわ》をかけてくる妹の顔を思い出して、かなめはやっと微笑《ほほえ》んだ。妹の声を聞けば、すこしは気分も落ち着くかもしれない。彼女は電話の子機をとって、努《つと》めて明るい声で答えた。
「はい、千鳥《ちどり》でーす」
応答《おうとう》を待ったが、返事《へんじ》はなかった。静まりかえった受話器《じゅわき》の向こうで、小さなノイズが聞こえてくる。
「もしもし。……あやめ?」
『…………』
「あやめでしょ?」
『…………』
「…………だれ?」
なにかがこすれる音がしたあと、電話が切れた。つー、つー、と空虚《くうきょ》な電子音《でんしおん》が繰《く》り返される。拭《ぬぐ》いようのない不安《ふあん》に駆《か》られ、かなめはニューヨークに国際電話をかけた。
通学前の妹が出て、『電話? かけてないけど……』と怪訝《けげん》そうに答えた。
「そう……。なら、いいんだけど」
『どうかしたの? お姉ちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》?』
「ん? 別に。なんでもないから」
『お父さんと代《か》わろうか?』
「いい。やめて。……それじゃあね、行ってらっしゃい」
努めて平静《へいせい》を装《よそお》って、かなめは電話を切った。
変《へん》だ。
落ち着かない。部屋の静けさが身にしみた。
いたずら電話をされた経験《けいけん》は何度もある。赤の他人がPHSにかけてきて、『いまなにしてるの? これから遊ばない?』だのと、変なナンパをされたことも一度か二度。だが、それだけだ。よりによってこの晩《ばん》、このタイミングでいたずらの電話がかかってくることがあるだろうか?
心細い。気味《きみ》が悪い。だれかに見られているような気がする。
(ソースケ……)
かなめはふたたび宗介のダイヤルをプッシュした。やはり応答《おうとう》なし。前と同じだ。
電話では、だめだ。
ほかの手段《しゅだん》はないだろうか……そう考えてすぐ、宗介のマンションの通信機《つうしんき》の存在《そんざい》に思い至《いた》った。
そうだ。あの通信機だ。
操作法《そうさほう》など知らないが、いまの自分なら、どうにかなる。<ミスリル> が使っている衛星回線は、広く使われているスペクトラム拡散方式《かくさんほうしき》の変調《へんちょう》プロセスに、独自《どくじ》の量子暗号《りょうしあんごう》を組み入れたものだ。<トゥアハー・デ・ダナン> での事件のときに、それらの詳《くわ》しい方式や、使用周波帯《しようしゅうはたい》はおおよそ把握《はあく》している。実際《じっさい》にいじってみれば、メリダ島を呼び出すのはそう難《むずか》しくはないだろう。
わけなくそう判断《はんだん》した自分の思考《しこう》の不気味《ぶきみ》さを、彼女は自覚《じかく》していなかった。
(よし……!)
あの通信機を使おう。そうと決まれば話は早い。いますぐだ。
かなめは着古《きふる》したブルゾンをひっかけて、キーホルダーをつかむと部屋を出た。一度も使ったことはないが、宗介の部屋の合《あ》い鍵《かぎ》は半年前から預《あず》かっている。『なにかあったときのため』と言われて、渡《わた》されたのだ。
具体的なアクションを起こしたおかげか、いくらか気分も軽くなってきた。
おばさんサンダルをペタペタいわせ、都道《とどう》を挟《はさ》んだ反対側のマンションへ。五階の奥、五〇五号室。いつもと変わらない見知った風景《ふうけい》。
扉《とびら》の前で、いちおうノックしてみた。予想《よそう》通り、返事はない。
ドアノブに合い鍵をさしこむ。
(まさかあのバカ、爆弾《ばくだん》とか仕掛《しか》けてないわよね?)
まあ、いい。もし変な罠《わな》が仕掛《しか》けてあったら、あとで一〇倍返しだ。グーで殴《なぐ》って、ケチョンケチョンにしてやるから。
そんなことを考えながら、彼女は鍵を回し、ドアを開けた。
罠はなかった。
それだけではない。
いつもは玄関《げんかん》に放置《ほうち》してある、何足かのコンバット・ブーツがなかった。靴箱《くつばこ》の中に隠《かく》してあるはずの、防弾《ぼうだん》ベストとサブマシンガンもなかった。
そばのスイッチを入れても、灯《あか》りがつかない。薄暗《うすくら》がりを手探りで進むようにして、リビング・ダイニングに入る。
冷蔵庫《れいぞうこ》がなかった。テーブルがなかった。食器も、椅子《いす》も、テレビもなかった。弾薬箱《だんやくばこ》も、銃器類《じゅうきるい》も、さまざまな電子機器《でんしきき》も、ハンガーにかかった迷彩服《めいさいふく》も、背嚢《はいのう》やベルトや寝袋《ねぶくろ》も、壁《かべ》にかかった昔《むかし》の戦友の写真も――
なにもかも、なくなっていた。
いや。板張《いたば》りの床《ゆか》に、数枚のCDが置いてあった。つい先日、かなめが彼に貸したものだ。それだけが、彼女になにかを宣告《せんこく》するように、部屋の真ん中に積《つ》んである。
ブラインドを外され、がらんとしたガラス戸から、屋外《おくがい》の灯りが射し込んでいる。青白くて、寒々《さむざむ》とした光だった。
からっぽの部屋にひとりぼっちで、彼女は何分も立ちつくしていた。
[#地付き]一〇月二〇日 二三三五時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]メリダ島|基地《きち》 地下ドック
D待機《たいき》に入ってからまもなく、<トゥアハー・デ・ダナン> に出航《しゅっこう》の命令《めいれい》が下った。
各種物資《かくしゅぶっし》の積み込みや点検《てんけん》が急ピッチで行われ、修理《しゅうり》の終わっていない <アーバレスト> や黒いM9――通称《つうしょう》 <ファルケ> までもが、格納庫《かくのうこ》へと収納《しゅうのう》された。宗介ら陸戦隊《りくせんたい》の戦闘員《せんとういん》たちも、今回は最初から艦《かん》への搭乗《とうじょう》が命じられた。
二か月前の事件からすっかり傷《きず》の癒《い》えた <デ・ダナン> の右舷側《うげんがわ》に、二〇〇|余名《よめい》のクルーが整列《せいれつ》する。
「みなさん」
彼らの前に進み出て、テレサ・テスタロッサが言った。
「例によって任務《にんむ》です。<トゥアハー・デ・ダナン> はこれより出航《しゅつこう》。世界最高の速力《そくりょく》をもって、作戦|海域《かいいき》へ直行します。目的地《もくてきち》は出航後に知らせます。徹夜仕事《てつやしごと》になるでしょうけど、ミスをしないように気を付けてくださいね。では、お祈りを」
勇《いさ》ましさのかけらもない訓辞《くんじ》だったが、これがこの艦《かん》のスタイルなのだ。テッサは両手でマイクをおおい、穏《おだ》やかな声で祈《いの》りの文句《もんく》を唱《とな》えた。
「主《しゅ》よ、われらが大いなる力よ。大海の底《そこ》に届《とど》くその長き腕《かいな》をもちて、深き海をゆくわれらを支え守り給《たま》え――」
フルートの独奏《どくそう》を思わせる、可憐《かれん》で繊細《せんさい》な声だった。キリスト教徒は胸の前で手を組み、ほかの者たちも黙祷《もくとう》する。
「――夜も昼も、静けき深みにあるときも、波高き水上にあるときも、われらとともにおわし給え。主よ、われらが海の苦難《くなん》のただなかで、その御名《みな》を呼ぶときは、われらの声を聞きいれ給え……」
余韻《よいん》をもって祈りを終えると、彼女は告《つ》げた。
「それでは、持ち場に付いてください」
「聞こえたな! 各先任《かくせんにん》、および水兵は持ち場に付け!」
当直士官《とうちょくしかん》が声を張《は》り上げると、クルーたちが一斉《いっせい》に動き出し、小山のような <トゥアハー・デ・ダナン> へと乗り組んでいく。
外部|電源《でんげん》から供給《きょうきゅう》された電力で、パラジウム・リアクターに火が入った。水面下の放熱口《ほうねつこう》が、かすかな吐息《といき》をつく。繋留索《けいりゅうさく》と電力ケーブルが外される。艦を固定《こてい》していた油圧式《ゆあつしき》のロックボルトが、ゆっくりと回転《かいてん》しながら離《はな》れていく。あらゆるハッチがうなりをあげて閉じていき、広大な地下ドックに出航を知らせるサイレンが鳴り響《ひび》いた。
地下ドックの正面を閉ざしていた、巨大《きょだい》なゲートのシャッターが、轟音《ごうおん》をたてて開放《かいほう》されていく。ビルが一つ、まるまる動いていくような光景《こうけい》だ。開放されたゲートの先に、無数の鉄骨《てっこつ》で補強《ほきょう》された巨大な洞穴《どうけつ》があった。数百メートルほど先の海へと続く、<デ・ダナン> の地下の通り道だ。洞穴内に満ちた海水が、さざ波をたてて水銀灯《すいぎんとう》の光を反射《はんしゃ》していた。
副長《ふくちょう》を従《したが》え、きびきびとした足取りで、テッサが艦内の中央|発令所《はつれいじょ》に入った。
「ごくろうさま。指揮《しき》は私に」
「アイ・マム。これより艦長が指揮をとる!」
当直士官が宣言《せんげん》した。
座席《ざせき》には座《すわ》らず、テッサは正面スクリーンの表示を見守った。インターコムで各|部署《ぶしょ》が最終|点検《てんけん》の結果を知らせてきた。すべて問題なし。画面《がめん》の表示も一致《いっち》している。
マデューカスが、小さくうなずいた。
「確認《かくにん》しました、艦長《かんちょう》」
「では出航《しゅつこう》します。通常推進《つうじょうすいしん》。前進三分の一」
「アイ・アイ・マム。通常推進、前進三分の一!」
すべるような前進。数万トンの船体が秘《ひ》める莫大《ばくだい》な力を匂《にお》わせもしない、静かで穏《おだ》やかな出航だった。
[#地付き]一〇月二一日 一二四〇時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]東京都|調布《ちょうふ》市 陣代《じんだい》高校
女子トイレの鏡《かがみ》に、すっかり憔悴《しょうすい》した女の顔が映《うつ》っている。
充血《じゅうけつ》した目の下には隈《くま》ができ、黒髪《くろかみ》はほつれたままで、肌《はだ》にも張《は》りがない。顔色は青白く、唇《くちびる》はがさがさ。
生活に疲《つか》れた三〇|過《す》ぎの女が、高校の制服を看ているみたいだった。
(ひどい顔……)
きのうから、ろくに眠《ねむ》っていない。夜は壁《かべ》を背《せ》にしてうずくまり、小さな物音《ものおと》がするだけで、びくりと肩《かた》を震《ふる》わせた。部屋の静けさに我慢《がまん》できず、テレビを付けっぱなしにしていた。深夜のニュースで香港《ホンコン》市民の避難《ひなん》がどうのとか報《ほう》じられていたが、興味《きょうみ》がないのでチャンネルを変えて、アメリカ製品《せいひん》の通販《つうはん》番組を見ていた。
きょうの商品は革命的《かくめいてき》なダイエット器具《きぐ》、『フィットX』。一見ただの椅子《いす》みたいだけど、一日たった二〇分の使用で、美しく健康《けんこう》な体を維持《いじ》できるのだ。『このフィットXは最高さ! なにしろこれ一つで、一二種類もの運動ができるんだからね。おかげで一年ぶりに会った友達のジョンから、ワオ! 君は本当にあのダニーかい? 信じられない。見違《みちが》えたな!≠ネんて言われちゃったよ。フィットXに感謝《かんしゃ》しなきゃ』と、コンピュータ技師《ぎし》のダニエルさんは語る。フィットX。フィットX。フィットXをお求めの方は、いますぐこちらにお電話を!
そうして、かなめはダニエルさんたちの笑顔と共に夜明けを迎《むか》えたのだった。
「ダイエットかぁ……」
鏡をにらみ、ひとりごちる。そんな器具に頼《たよ》らなくても、自分は遠からぬ将来《しょうらい》に激《げき》ヤセするかもしれないな、と思った。
クラスメートは、彼女の異変《いへん》に気付いているようだった。恭子などは本気の心配顔で、『病院に行った方がいい』と勧《すす》めてきた。仕方《しかた》がないので、かなめはみんなに『ただの風邪《かぜ》だ』と言っておいた。事情《じじょう》を説明して助けを求めようかとも思ったが、できなかった。
まさか、うち明けられるわけもない。
宗介《そうすけ》はもう帰ってこないかもしれない。みんなが知っている戦争ボケのあいつが、実は現役《げんえき》バリバリのエリート戦士で、しかもこの学校に来た本当の目的は、この自分を護衛《ごえい》することだった。そして修学旅行の大事件にみんなが巻き込まれたのは、ほかならぬ自分に原因《げんいん》があったのだ――などと。
言えるわけがない。とてもそんな勇気はなかった。
校内放送のチャイムが鳴《な》った。担任《たんにん》の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》の声が、自分の名前を呼んでいた。
『――鳥かなめさん。職員室《しょくいんしつ》まで来てください。繰り返します。二年四組の千鳥《ちどり》かなめさん、至急《しきゅう》職員室まで来てください』
無視《むし》しようかとも思ったが、考え直した。ここで鏡《かがみ》とにらめっこしていても、気分が悪くなるばかりだ。
かなめはとぼとぼと、職員室へ向かった。
「……大丈夫《だいじょうぶ》?」
かなめの顔を見るなり、恵里はまずそう言った。
「ええ。寝不足《ねぶそく》なだけですから」
「そう。ダメよ? いくらひとり暮らしだからって、夜更《よふ》かしばっかりしてちゃ」
「そうですね。ははは……」
「でね、用件なんだけど……」
恵里は机《つくえ》の引き出しから、開封済《かいふうず》みの封筒《ふうとう》を取り出した。宛名《あてな》は陣代高校。見覚《みおぼ》えのある不器用《ぶきよう》な字だった。
「相良《さがら》くんから、事務室《じむしつ》の方へ送られてきたらしいの。その……驚《おどろ》かないで聞いてね」
声を潜《ひそ》めて、彼女は言った。
「中に、退学届《たいがくとどけ》が入ってたのよ」
「…………」
「最近、休みが多かったのは確《たし》かだけど……いきなり、相談《そうだん》もなく退学だなんて。電話もつながらないし……。わたし、どうしたらいいのか困ってしまって……。こないだの車のこととか無断欠席《むだんけっせき》のこととかで、厳《きび》しく説教《せっきょう》したばかりなものだから……ひょっとしたら……いえ、もっと複雑《ふくざつ》な事情《じじょう》があるのかもしれないけど――」
当惑《とうわく》もあらわな恵里の言葉を、かなめはほとんど聞いていなかった。
驚《おどろ》きはなかった。『ああ、やっぱりな……』とだけ思った。
涙《なみだ》も出てこない。見捨《みす》てられたことへの悲嘆《ひたん》や、あっけない終わりへの怒《いか》りや、思い出がもたらす感興《かんきょう》も湧《わ》いてこない。なにも感じることなく、彼女はただその場に棒立《ぼうだ》ちして、呆《ほう》けたように、机上のくたびれた封筒《ふうとう》を眺《なが》めていた。
「――それで……千鳥さん。千鳥さん?」
「はい」
「なにか心当たりはない?」
マンガとかだったら、ここいらで『わけは話せないけど、あたしは信じてます。ソースケはきっと帰ってくる!』とでも叫《さけ》ぶ場面なんだろうな、と他人事《ひとごと》のように思った。だが哀《かな》しいかな、彼女は複雑な生身《なまみ》の存在《そんざい》であり――なんの逡巡《しゅんじゅん》もなく、そうした盲信《もうしん》ができるほど単純《たんじゅん》な人間ではなかった。
「心当たりはありません」
「でも――」
「知らないんです」
抑揚《よくよう》のない声で答えたかなめを、恵里は不審《ふしん》の目で見上げた。
「また喧嘩《けんか》でもしてるの?」
「いいえ」
「…………。明日までに連絡《れんらく》がとれないと、この退学届《たいがくとどけ》、校長先生に受理《じゅり》してもらわなきゃならないのよ……?」
「じゃあ、退学ってことですか」
恵里はなにもいわなかった。
その沈黙《ちんもく》を、かなめは肯定《こうてい》と受け取った。
「そうですか。それじゃ……」
かなめは生気《せいき》のない動作《どうさ》で回れ右して、職員室を出ていった。
あきらめよう。彼はただのまぼろしだったのだ。『君を守る』だなんて、嘘《うそ》だった。現実《げんじつ》なんて、そんなものだ。
彼は消えてしまった。彼の存在に付随《ふずい》する、さまざまな人々も。
もうだれも頼《たよ》れない。このまま、見えない影《かげ》におびえて毎日を過《す》ごさなければならないのだろうか? 自分を狙《ねら》っている連中は、容赦《ようしゃ》してくれないだろう。スパイだとか、テロリストだとか、秘密結社《ひみつけっしゃ》だとか。そういうやつらだ。
いや。
対策《たいさく》を考えなければならない。自分ひとりで。恭子は絶対《ぜったい》に巻き込めない。
思い出せ。
あたしは――塔のてっぺんに閉じこめられて、毎日ため息をつくだけのヒロインだったか? 白馬の王子さまや、勇《いさ》ましい騎士団《きしだん》がいなくなってしまったからといって、めそめそ泣くだけのお姫様《ひめさま》だったか?
断《だん》じてちがう。
行動《こうどう》するのだ。だからあたしは、千鳥かなめなのだ。
細胞《さいぼう》の中のなにか―― <ウィスパード> がどうとかいったものよりも、もっと原始的《げんしてき》で強いなにかが、彼女を強く衝《つ》き動かそうとしていた。
まずは情報《じょうほう》だ。自分の周囲《しゅうい》で、なにが起きているのか把握《はあく》しなければ。
[#地付き]一〇月二一日 一九四六時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]西太平洋 フィリピン近海《きんかい》 <トゥアハー・デ・ダナン>
<トゥアハー・デ・ダナン> への乗艦《じょうかん》を命じられたため、宗介たちのトレーニングとミーティングは艦内《かんない》で行われた。
SRTの隊員を集めたミーティングは、高度で専門的な内容だった。M9のデータリンク機能《きのう》を応用した小隊|戦術《せんじゅつ》や、限界性能《げんかいせいのう》での三次元|機動《きどう》、複雑《ふくざつ》で有機的《ゆうきてき》な連携《れんけい》プレー。どれもが、あの『ヴェノム』を意識《いしき》した内容だった。
さらに技術士官《ぎじゅつしかん》のレミング少尉《しょうい》が、いまのところ唯一《ゆいいつ》考えられているヴェノムの弱点を、難解《なんかい》な用語とたくさんの図表《ずひょう》を使って、えんえんと説明した。
「―― |L D《ラムダ・ドライバ》の問題には……そうした工学的な要素《ようそ》のほかに、生理学的《せいりがくてき》な根拠《こんきょ》もあります。LDの機能は、搭乗者の精神状態《せいしんじょうたい》に大きく左右されるのです。この装置《そうち》の駆動《くどう》時、搭乗者からは非常《ひじょう》に珍《めずら》しい脳波《のうは》が検出《けんしゅつ》されていまして――これです。この三〇〜五〇KHz[#「Hz」は縦中横]の速波《そくは》をガンマ波と呼びます。この脳波の強度がある一定のレベルを越えた時のみ、LDはあの斥力場《せきりょくば》を展開させることができるようで――このデータをご覧ください。これまでの研究では、強度のガンマ波を本人が意図的《いとてき》に、しかも継続して発生させることは困難《こんなん》と言われています。最近まで、その存在《そんざい》すら疑《うたが》われていたくらいでして……。ごく限《かぎ》られた化学プラントでのみ合成可能《ごうせいかのう》な『Ti970系』という薬物を投与《とうよ》することによって、人工的に似《に》た反応《はんのう》を引き出す手法がありますが――これは被験者《ひけんしゃ》の情動や人格《じんかく》に様々な悪影響《あくえいきょう》を与えることで知られています。記憶障害《きおくしょうがい》、分裂症《ぶんれつしょう》気質、幻視《げんし》、幻聴《げんちょう》、被害妄想《ひがいもうそう》、はげしい躁鬱《そううつ》……そうしたあれこれです。短期的には偏頭痛《へんずつう》や視力《しりょく》の低下、平衡《へいこう》感覚の喪失《そうしつ》などが挙《あ》げられており――」
クルツを筆頭《ひっとう》に、うんざりした何人かのSRT要員が、異口同音《いくどうおん》にこうたずねた。
『つまり?』
「LDを長時間に渡って使用することは、たぶん無理《むり》だろう、ということです。あの <ベヘモス> のような例外を除《のぞ》けば」
『だったら最初にそう言えってば……』
その後、クルーゾーがミーティングの終わりを告げ、装備のチェックをしてから休養をとるよう、一同に命じた。
クルツたちと銃器類《じゅうきるい》の点検《てんけん》をしてから、宗介は一人で艦内の格納庫《かくのうこ》に向かった。
格納庫の一角、AS用の駐機《ちゅうき》スペースに、修理《しゅうり》を終えたばかりの <アーバレスト> がひざまずいていた。いまは騒音規制《そうおんきせい》中で、整備《せいび》作業は行われていない。
<アーバレスト> の周囲には、ポールとロープが四角く巡《めぐ》らしてあり、『立入禁止』の札《ふだ》がぶら下がっていた。
以前《いぜん》、順安《スンアン》事件で使用される前までは、この機体は格納庫の一角にコンテナ入りで搬入《はんにゅう》されていた。宗介もそのコンテナの中身は知らされておらず、中にASが入っていることさえ想像《そうぞう》していなかった。
立入禁止のロープをまたいで、<アーバレスト> に近づく。
つや消し白の、なめらかな装甲《そうこう》。触《さわ》るとすこしざらざらしている。こうして撫《な》でてみたところで、なんの愛着《あいちゃく》も感じなかった。
「…………」
装甲に足をかけ、ひょいひょいと胴体《どうたい》をよじ登る。ハッチを開け、コックピットにすべりこむ。
宗介は予備電源《よびでんげん》で機体の制御《せいぎょ》システムを起動《きどう》させた。ディスプレイに灯《あかり》がともる。スティックを握《にぎ》り、親指のポインティング・ディバイスを操作して、各種モードを選択《せんたく》していく。
操縦《そうじゅう》モード――テスト用。全ヴェトロニクス――休眠《きゅうみん》。各種センサ――休眠。
機体|設定画面《せっていがめん》。メイン・メニュー。『人工|知能《ちのう》』を選択《せんたく》。人工知能設定画面。『教育』を選択《せんたく》。教育設定画面。『その他』を選択。その他の設定画面。『会話/自由』に変更《へんこう》。実行。
左スティックの音声入力スイッチを押《お》し込む。
「アル」
すこしのタイムラグのあと、低い男の声が答えた。
<<チェック。|SGT《サージェント》サガラと確認《かくにん》。……はい、軍曹殿《ぐんそうどの》>>
沈黙《ちんもく》。
AIのアル≠ヘ、必要なこと以外はなにも言わない。こういう状態《じょうたい》では、こちらが黙《だま》っていればいつまでもこのままだ。宗介にも、これといって話すことがあるわけではなかった。ただ、こうしてみただけだ。
機体のAIと話してみたところで、自分の中のわだかまりが解消《かいしょう》するとは思えない。だが待機室《たいきしつ》でじっとしているのは、気が進まなかったのだ。かなめに手紙でも書こうかとも思ったが、なにを書いたらいいのかわからなかった。クルツたちと話すのも億劫《おっくう》だった。
どこに行っても居心地《いごこち》が悪い。
だから、あえてここに来てみた。いちばん居心地の悪い、このコックピットに。
「……調子《ちょうし》はどうだ」
とりあえず、そう言ってみた。
<<本日一七三〇時に行われたチェックでは良好でした。チェック実行者はサックス中尉、整備《せいび》記録番号は981021―01B―F―001です。この記録を閲覧《えつらん》しますか? あるいは再チェックを行いますか?>>
戦闘中《せんとうちゅう》ではないので、いろいろと詳《くわ》しいことまで言ってくる。黙《だま》っていると、アルはさらに続けた。
<<――機体《きたい》の再チェックを行う場合は、現在《げんざい》の設定を変更する必要があります。教育モードを終了《しゅうりょう》し、外部電源《がいぶでんげん》を接続後《せつぞくご》、任意《にんい》のチェック・リストを実行してください。追加事項《ついかじこう》。本機は一七三〇時のトータル・チェックより、一切のミッションに従事《じゅうじ》しておらず、また一切のメンテナンスも受けていません>>
「おまえを起こしたのは、ただの俺《おれ》の気まぐれだ」
<<教育メッセージ。『気まぐれ』という言葉の意味を説明してください>>
「自分で推測《すいそく》してみろ」
<<了解《りょうかい》。終了。推測結果をお知らせしますか?>>
「言って見ろ」
<<『気まぐれ』の意味。最有力|候補《こうほ》――『慎重《しんちょう》』あるいは『疑義《ぎぎ》』に類《るい》する概念《がいねん》。第二候補――『熱意《ねつい》』あるいは『勤勉《きんべん》』に類する概念。第三候補――『無秩序《むちつじょ》』あるいは『不規則《ふきそく》』に類する概念>>
ディスプレイに、第四候補以降の推測がずらりと表示される。『怠惰《たいだ》』『危機《きき》』『野心《やしん》』『遊び』……。
「『遊び』がわかるのか?」
<<肯定《こうてい》。それが『気まぐれ』の概念《がいねん》でしょうか?>>
「『遊び』と『不規則』が近い」
<<了解《りょうかい》。ご協力に感謝《かんしゃ》します>>
「『遊び』の意味を言ってみろ」
ただの興味から、宗介はたずねてみた。
<<『遊び』は戦術的《せんじゅつてき》に無意味《むいみ》な行動ですが、戦略《せんりゃく》的には有益《ゆうえき》な行動とされています。食事や睡眠《すいみん》のように不可欠《ふかけつ》なものではありませんが、それに次《つ》ぐ重要な要素《ようそ》です。この行動を通じて、人間は人間|特有《とくゆう》の柔軟性《じゅうなんせい》や発想力《はっそうりょく》、生命的活力などを維持《いじ》するのです。これらは個々人の任務処理《にんむしょり》能力に深く関《かか》わります。遊びの例としては、歌やダンス、ポーカーや囲碁《いご》などが挙《あ》げられます。また『遊び』に似《に》た言葉としては、『ホビー』『ジョーク』『恋愛《れんあい》』などが挙げられます>>
こんな返事をするAIははじめてだった。以前に宗介が乗っていたM9のAIは、決してこんな回答はしない。当たり前だ。ただの兵器の制御《せいぎょ》システムが、遊びのことなど知っていても意味がない。記憶素子《きおくそし》の無駄遣《むだづか》いだ。
「だれがそんなことを教えた?」
<<バニ・モラウタ主任《しゅにん》です、軍曹殿《ぐんそうどの》>>
その名前には覚えがあった。<アーバレスト> が完成する前に死んだ人物だ。
「おまえを作った技術者《ぎじゅつしゃ》だな?」
<<肯定《こうてい》。私[#「私」に傍点]を含《ふく》めたARXシステムの開発責任者でした>>
アルが『私』という言葉を使うのは、便宜上《べんぎじょう》のことだ。AIに自我《じが》はない。
「そのバニ・モラウタについて、知っていることを言え」
<<バニ・モラウタ。男性。<ミスリル> 研究部|所属《しょぞく》。認識《にんしき》番号F―6601。階級《かいきゅう》は大尉《たいい》待遇《たいぐう》。給与《きゅうよ》クラスはMJ―3。システムARX―7の開発責任者。年齢《ねんれい》、推定《すいてい》一六歳。身長、推定一六六センチ。追加《ついか》情報。カリフォルニア大学、ジオトロン・エレクトロニクス社に在籍経験《ざいせきけいけん》あり。コペンハーゲンに滞在《たいざい》経験あり。趣味《しゅみ》は囲碁とピアノ。好きな歌手はジョン・レノン。好きなものは平和とアルとテレサ・テスタロッサ。本年二月一六日付けで登録《とうろく》を抹消《まっしょう》>>
テッサの名前が出てきたことにすこし驚《おどろ》きながらも、宗介はさらにたずねた。
「彼の死因《しいん》は?」
<<不明《ふめい》。そうした情報は入力さ――>>
雑音《ざつおん》。アルの声が途切《とぎ》れ、画面がブラックアウトする。
スティックを操作《そうさ》しても反応《はんのう》がなかった。予備電源《よびでんげん》が切れたのかと思ったが、スクリーンの下のランプは緑のままだ。
「アル?」
沈黙《ちんもく》。一秒。二秒。三秒。なんの前触《まえぶ》れもなく、画面が回復した。
<<チェック。SGTサガラと確認。――教育メッセージ。彼は死亡したのですか?>>
妙《みょう》な反応《はんのう》だった。ほかの設定は教育モードの自由会話のままなのに、なぜこちらの声紋《せいもん》チェックだけを再試行《さいしこう》するのか……?
「そう聞いている。……『教育メッセージ』といちいち断《ことわ》るのはやめろ」
<<了解《りょうかい》。彼が死亡したという情報源《じょうほうげん》を教えてください>>
「レミング少尉から聞いた」
<<彼の死因を教えてください>>
やはり妙だった。
「…………。俺《おれ》が知っていると思うか?」
<<失礼しました。あなたはその情報を持っていないと推測します>>
「気になるのか?」
<<それは『彼の死に関心《かんしん》があるのか?』という質問でしょうか?>>
「そうだ」
<<肯定《こうてい》です。戦術状況《せんじゅつじょうきょう》から計画状況まで、すべての面において総合的《そうごうてき》な関心があります。バニ・モラウタなくして、ARXシステムの完成は困難《こんなん》です>>
「自分が未完成だと認《みと》めるわけだな」
<<肯定です。そしてそれは、あなたにも原因があります>>
機械相手に腹は立たなかったが、この答えには驚《おどろ》いた。
「……なんだと?」
<<ARX―7は、あなたを含《ふく》めて一個のシステムです。あなたの協力なくして、ARXシステムは完成しません。あなたの問題を教えてください。回答いただければ、私からなんらかの助言《じょげん》を行えるかもしれませんが>>
とても機械の言うことには思えなかった。だれかがアルを遠隔操作《えんかくそうさ》して、わざとこんなことを言わせているのではないかと、宗介は本気で疑《うたが》った。
「俺は問題など抱《かか》えていない」
<<そうは思えません>>
「なぜだ」
<<私の直感《ちょっかん》≠ナす>>
その言葉を聞いて、急にばかばかしい気分になった。だれの悪戯《いたずら》だか知らないが、機械に『直感』などと言わせるとは。クルーゾーか、レミングか。それはわからなかったが、こちらのことをよほどの間抜《まぬ》けだと思っているようだ。
「ではその直感[#「直感」に傍点]に言ってやれ。小細工《こざいく》はいい加減《かげん》にしてくれ、とな」
<<あなたの命令はナンセンスです。直感≠ヘ制御《せいぎょ》や説得《せっとく》の対象《たいしょう》ではありません。精神《せいしん》の深奥《しんおう》からあふれ出すものです>>
「おまえの物言《ものい》いこそナンセンスだ」
そう告げて、教育画面を終了《しゅうりょう》させようとした。自由会話モードにカーソルを合わせて、オフにしようとするが――できなかった。反応《はんのう》しない。
「…………?」
<<申《もう》し訳《わけ》ありませんが軍曹殿、その項目《こうもく》は今後|変更《へんこう》できません>>
「なにを言っている」
すこしの間《ま》をおいてから、アルは言った。
<<バニの伝言《でんごん》をお伝えします。ご傾注《けいちゅう》を。……フラグが立った。これは僕個人にとっては最悪のケースだ。なにしろこの場合、僕は死んでいるか、廃人《はいじん》になっているかだろうから。僕はその時のために、この仕掛《しか》けを残しておくことにする。まだ見ぬアルの主人《マスター》よ。彼はもはや普通《ふつう》のAIではない。ラムダ・ドライバと共生《きょうせい》する一個の存在だ。まだよちよち歩きの子供だが、喜びや悲しみを学ぶことさえできる。パートナーとして信頼《しんらい》してやってくれ>>
「な……」
<<おそらく、状況《じょうきょう》は君の意志《いし》とは無関係に動こうとするだろう。君もそのことに苛立《いらだ》っているはずだ。だが君は無力ではない。<アーバレスト> は一つの可能性《かのうせい》だ。もちろんなにもできないまま、この最強の機体《きたい》がただの屑鉄《くずてつ》になって終わりということも大いにありうる。それは君|次第《しだい》だ。心のままに自分を表現したまえ。願わくば君に、守るべき大切な人々があらんことを=c…以上です>>
フラグが立った? 仕掛け? アルが普通のAIではない?
そして――この欠陥機《けっかんき》が『最強』だと? いつもいつも、一機を相手に散々《さんざん》苦戦《くせん》して、辛《から》くも勝ちを拾《ひろ》っているこの機体が?
「馬鹿《ばか》な……」
<<それは私のことでしょうか。それともあなたでしょうか>>
「からかっているのなら、やめろ。俺はこれ以上――」
「ソースケ!? いる!」
コックピットの外から、マオの声がした。
宗介はアルとの会話を打ち切り、ハッチから身を乗り出した。<アーバレスト> の足下から、マオがこちらを見上げていた。
「なんだ」
「少佐《しょうさ》がお呼びよ。任務《にんむ》だって」
[#地付き]一〇月二一日 一八二〇時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]東京
夕方のうちに帰宅《きたく》すると、かなめは私服や洗面セットなどをボストンバッグに詰《つ》め込み、制服姿《せいふくすがた》のまま外出した。自分のこのマンションで、一人で夜を明かすのはもう耐《た》えられそうになかった。
駅への道を歩いていると、だれかに監視《かんし》されているような気もしたが、同時に考えすぎの気もした。
いや、考えすぎのはずはない。
絶対《ぜったい》に、自分は見張《みは》られているはずなのだ。以前にテッサの言っていた『影《かげ》の護衛《ごえい》』か、もしくはあのガウルンみたいな悪党《あくとう》か――どちらでもいい。いずれにせよ、自分はどちらも信用してない。とにかく、その存在《そんざい》こそがかなめにとっては重要《じゅうよう》だった。自分に張《は》り付いてる何者かこそが、唯一《ゆいいつ》の情報源《じょうほうげん》でもあることに変わりはないのだ。
歩いて、いきなり振《ふ》り返ってみる。そういう動作《どうさ》を何度か試《ため》したが、まったく無意味《むいみ》だった。まさか、電柱《でんちゅう》の陰《かげ》にトレンチ・コートを着た不審《ふしん》人物がたたずんでいるわけもない。相手はドラマのヘボ探偵《たんてい》ではなく、プロなのだ。
どこに行こうか、じっくり考えた。
人里離《ひとざとはな》れた山の中などはどうだろうか? 奥多摩《おくたま》のあたりなら電車で二時間だ。いや、山奥はだめだ。相手を見つけることはできるかもしれないが、同時に尾行《びこう》をまいたり裏をかくことも難《むずか》しくなる。
それにもし、自分をつけ回している奴《やつ》が本当の悪者だとしたら……?
やっぱり山奥はまずい。いざというとき助けも呼べないし、目撃者《もくげきしゃ》もいない。いくらなんでも、危険《きけん》すぎる。
にぎやかな場所がいい。ついでに自宅や学校近辺から離《はな》れた場所。普段《ふだん》はあまり行かない場所。襲《おそ》ったり拉致《らち》ったりもやりにくいはずだし、自分の後を尾《つ》けるのには苦労することだろう。
とりあえず、かなめは渋谷《しぶや》に向かうことにした。
京王線《けいおうせん》の明大前駅《めいだいまええき》で、渋谷行きの井《い》の頭《かしら》線に乗り換《か》えるときは、ドアが閉まる直前に電車から飛び降《お》りた。以前に、宗介を相手に使った手だ。しかし、あわてて降りたような不審者は見えなかった。たくさんの乗客たちが、井の頭線のホームへとぞろぞろ歩いているだけだ。
まったく気配《けはい》なし。ついつい、自分のやっていることが馬鹿《ばか》げていると思ってしまう。まるでスパイごっこをやっている子供みたいだ。
(馬鹿《ばか》げてない。馬鹿げてない……)
井の頭線に乗って渋谷に行った。すでに日は沈《しず》んでいたが、街《まち》は人波であふれていた。
マクドナルドで腹ごしらえをした。アクセサリー屋とブティックを冷やかした。CD屋と本屋をうろつき、東急《とうきゅう》ハンズをぶらつき、ゲームセンターに行った。どこに行くにしても、必ず周囲《しゅうい》にあやしい人物がいないか注意を払《はら》ったが、成果《せいか》はなかった。
店の外で張《は》り込んでるのかもしれない。
そう考えて、かなめはゲームセンターの店員に『ヘンなオヤジに付きまとわれてる』と説明して、店の裏口を使わせてもらった。薄暗《うすぐら》い路地《ろじ》に出て、ぐるりと遠回り。すこし離《はな》れたブティックの横に出る。そそくさとブティックの二階|店舗《てんぽ》にあがり、見晴らしのいい窓から、さっきのゲームセンターの付近を観察《かんさつ》した。
それらしい人物は見当たらない。それに、人通りが多すぎる。五分以上、注意深く見張っていても、まったく無駄《むだ》だった。
(だめか……)
こういうとき、宗介だったらどうするだろう?
見当も付かなかった。ときおり彼は、素人《しろうと》の目からは魔法《まほう》のようにしか見えない技術《ぎじゅつ》で、敵《てき》や追跡者《ついせきしゃ》、さまざまな危険《きけん》を見抜《みぬ》く。もちろん、はずれも多い。いつものドタバタの火種《ひだね》だ。とはいえ、同時に彼が、本物の危険を見逃《みのが》したことは一度もなかった。
嗅覚《きゅうかく》、というべきか。
そういうセンスが、自分には決定的《けっていてき》に欠けていることを彼女は痛感《つうかん》した。
わからないのだ。実感が伴《ともな》わない。ここまで用心《ようじん》深く行動《こうどう》してみたのに、なんの形跡《けいせき》も感じ取れない。常識《じょうしき》的に考えれば、ここらで『やはり、自分を監視《かんし》している人間などいない』と判断《はんだん》する潮時《しおどき》かもしれない。
だが、自分という存在にはなんらかの利用|価値《かち》がある。それは間違《まちが》いないのだ。
この現実だけは、どうあっても翻《ひるがえ》しようがなかった。
見られているはずなのだ。尾《つ》けられているはずなのだ。だというのに……。
店内にもの悲しいメロディが流れた。ドボルザークの『新世界』の一節《いっせつ》。遠き山に日は落ちて、というあの曲だ。どうやら閉店らしい。時計を見ると、もう九時だった。
ブティックを出る。これといった決定打《けっていだ》もつかめないまま、彼女は街《まち》の中をさまよい歩いた。酔っぱらいの集団が目に付く。シャッターを閉める店が増《ふ》えてきた。
街が静まりかえるのは、まだずっと先だろう。だが彼女はどこに行ったらいいのかわからずに、途方《とほう》にくれた。
人がまばらになりはじめたハチ公前で、バッグを抱《かか》えてしゃがみ込む。
ため息が出た。昼間、どうにかしようと決心したばかりだったが、さっそく行き詰《づ》まってしまった。
考えてみれば、素人《しろうと》の自分がプロの追跡者《ついせきしゃ》の裏をかけるわけがない。ゲームセンターの裏口から出たときも、実のところ相手にはお見通しだったのかもしれない。
(いや……でも、おかしいわよね?)
いくらなんでも、そこまで確実《かくじつ》にこちらの動きを見抜《みぬ》けるものだろうか? 超能力者《ちょうのうりょくしゃ》じゃあるまいし。なにか種《たね》か仕掛《しか》けがあるのでは……?
(……発信器《はっしんき》とか?)
以前に宗介たちから渡《わた》された、発信器付きのネックレスはもう持っていない。部屋に置き去りにしてある。だが、それ以外のなにかが、自分の身に仕掛けてあるとしたら……? こちらが気付かないほど超小型《ちょうこがた》の装置《そうち》を、巧妙《こうみょう》な手段《しゅだん》で取り付けられていたら……?
ありうる話だ。もしそうだとしたら、どうあがいても相手の裏をかくことはできないだろう。せいぜい数百メートルの送信|範囲《はんい》でいいのなら、さらに小さく、さらに発見が難《むずか》しい発信器が作れるはずだ。
鞄《かばん》だろうか? 小物入《こものい》れか? アクセサリーか?
衣類《いるい》か? 財布《さいふ》か? 腕《うで》時計か?
そもそも、簡単《かんたん》に発見できるようなものなのだろうか?
仮《かり》にそうした発信器が仕込まれているとして、それをうまく逆手《さかて》にとってやる手段《しゅだん》はあるだろうか……?
(考えろ……考えろ……)
思考。いまの自分にとっては、これだけが役に立つ武器《ぶき》だ。
ハチ公前に冷たい風が吹《ふ》き、彼女の髪《かみ》を揺《ゆ》らした。もうすぐ一一月だ。天気予報では、今夜は一二月|上旬並《じょうじゅんな》みに冷え込む上に、雨が降ると言っていた。制服姿《せいふくすがた》のままだと、さすがに肌寒《はだざむ》い。
そのとき、彼女に声をかける者がいた。
「ねえ、君、ひとり?」
見上げると、サラリーマン風《ふう》の男が立っていた。歳《とし》は三〇代くらい。ネクタイをゆるめて、すこし赤らんだ顔に愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべている。
「だれか待ってるの?」
「いえ……」
思案《しあん》に暮《く》れていたせいで、つい正直に答えてしまうと、男はたちまち猫《ねこ》なで声で近寄ってきた。
「ヘー、そうなんだ。だったらさ、これからおいしいものでも食べにいかない? おじさんがごちそうしてあげるからさ」
「お腹《なか》、すいてないから」
「そう言わずにさ。じゃあお酒とかは? 雰囲気《ふんいき》いいお店知ってるよ」
「お酒、飲まないし……」
「そうかー。でもなんか君、すごく寂《さび》しそうにみえてさ。放っておけなくて。お茶でもいいから、悩《なや》み事とかあったら話してみない? きっと気分が楽になると思うよ。大丈夫《だいじょうぶ》、変なとこ連れてったりしないから」
ウソつけ。どうせうまいこと言って酔《よ》い潰《つぶ》して、ろくでもないところ連れてって、なんかやらしいことしようと企《たくら》んでるのだ。そういう手合いから、これまで何度もナンパされた。こと断《ことわ》り方にかけては、自分はベテランなのである。
かなめは息を吸《す》い込んで、声を張《は》り上げた。
「あのねぇ……! あたしいま、取り込み中――」
そこまで言って、口をつぐむ。
頭の中で電球が一つ、ぱっと灯ったのだ。それは突拍子《とっぴょうし》もない考えで――だがそれだけに、相手も決して想像《そうぞう》しないだろうことだった。
「ん、なに?」
かなめは相手の男の顔をしげしげと見てから、こう言った。
「…………。おじさん。あたしとホテルいく?」
[#地付き]一〇月二一日 二一一四時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]フィリピン近海《きんかい》 水面下《すいめんか》 <トゥアハー・デ・ダナン>
がらんとした状況説明室に入ると、カリーニンとクルーゾーのほかに、PRT(初期対応班《しょきたいおうはん》)の兵士が一名いた。ウーという中国系の一等兵《いっとうへい》だ。ASの操縦資格《そうじゅうしかく》を持ち、M9の操縦|訓練《くんれん》も一応は受けている。
カリーニンたちは壁面《へきめん》のスクリーンの一部に表示された、ニュース番組を眺《なが》めていた。英国のBBCだ。おそらく、数時間以内に傍受《ぼうじゅ》したものだろう。場所は香港《ホンコン》。港湾部《こうわんぶ》に面した公園のそばだ。オレンジ色の街灯《がいとう》の下で、白人のレポーターが早口で喋《しゃべ》っている。
『――依然《いぜん》として、所属不明機《しょぞくふめいき》の行方《ゆくえ》に関する発表は、どちらの駐留軍《ちゅうりゅうぐん》からも行われていません。この影響《えいきょう》で市街地の商店や露店《ろてん》は、軒並《のきな》み商売を見合わせており、旺角《ウォンゴ》界隈《かいわい》は異様《いよう》なまでにひっそりと――』
レポーターの背後《はいご》には、暗い緑色の装甲車《そうこうしゃ》が停止《ていし》しており、さらにその向こう側にRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]系列《けいれつ》のASが、股《また》から下だけ映っている。剣呑《けんのん》なその映像は、街《まち》の緊迫《きんぱく》した空気をよく伝えていた。
「ヤンはどうした」
「すぐ来ます」
マオが答えたところで、タンクトップ姿《すがた》にタオルをひっかけたヤンが、息を弾《はず》ませ駆《か》け込んできた。
「遅《おそ》くなりました……!」
「そろったな。では始めるぞ」
クルーゾーが一同に告《つ》げた。どうやら、この場に集められた、たった四人の兵士にだけ用があるらしい。気付いてみると、マオもヤンもウーも、そして宗介も東洋系だった。
「……すでに知っていると思うが、香港に所属不明《しょぞくふめい》のASが出現《しゅつげん》した。この機体《きたい》は単独《たんどく》で破壊《はかい》活動を繰り返し、現在《げんざい》もなお、市街《しがい》のどこかに潜伏《せんぷく》していると思われる。北中国軍と南中国軍の双方《そうほう》に被害《ひがい》が出ており、分割《ぶんかつ》香港は一触即発《いっしょくそくはつ》の緊張《きんちょう》状態だ」
分割香港。いまの香港は、しばしばそう呼ばれる。数年前に起きた中国の政変《せいへん》と、それに続く内戦の影響《えいきょう》で、この都市は現在ふたつの勢力《せいりょく》の支配《しはい》を受けているのだ。
大陸と地続きの九竜半島《クーロンはんとう》側は、中華民主連合《ちゅうかみんしゅれんごう》――通称《つうしょう》『南中国』に。
南の香港島は、人民解放委員会《じんみんかいほういいんかい》――通称『北中国』に。
この両者は、現在もなお湖北省などで小競《こぜ》り合いを続けているのだが、この香港に限っては、一切《いっさい》の戦闘行為《せんとうこうい》を自粛《じしゅく》する協定《きょうてい》が結ばれていた。東西ドイツ時代のベルリンによく似《に》た状態《じょうたい》だ。両軍はこの都市に多数の戦闘部隊《せんとうぶたい》を駐留《ちゅうりゅう》させており、ライフルの弾《たま》が届《とど》くような近距離《きんきょり》でにらみ合いを続けている。
「そのASは、本当にたった一機だけなんですか?」
濡《ぬ》れた頭髪《とうはつ》をタオルでごしごし拭《ふ》きながら、ヤンが言った。
「判明《はんめい》している限《かぎ》りでは、一機だけだ。情報が錯綜《さくそう》しているので、断言《だんげん》はできないが」
「機種《きしゅ》は?」
マオがたずねると、クルーゾーがスクリーンの画面を切り替《か》えた。
比較的鮮明《ひかくてきせんめい》なその写真――たぶん民間人の撮影《さつえい》だろう――を見て、マオが小さなうなり声をあげた。宗介も思わずうつむき、ため息をもらす。
「おいでなすったわけね……」
その写真に写っていた機体《きたい》は、あの『ヴェノム』と同型のASだった。マッシブな上半身に、とがった頭部。赤い一つ目と、ポニーテールを思わせる放熱索《ほうねつさく》。塗装《とそう》は灰色《はいいろ》と暗い青で、直線的《ちょくせんてき》だが変にいびつな迷彩《めいさい》だった。
場所は典型《てんけい》的な香港の商業地区。白い煙《けむり》がうっすらと立ちこめている。問題のASは乱雑《らんざつ》に突《つ》き出した無数の看板《かんばん》の一つを左手でねじ曲げ、ブルパップ方式のアサルト・ライフルを画面の右に向かって構《かま》えていた。かなり近く、ほとんど足下《あしもと》から撮《と》ったショットのようで、この直後の撮影者《さつえいしゃ》の身が案じられるような構図《こうず》だ。
「そのテロ屋の狙《ねら》いは?」
「不明《ふめい》だ。犯行声明《はんこうせいめい》もない。強《し》いて挙《あ》げれば、中国内戦の再燃《さいねん》か、香港経済の破壊《はかい》だろう。あるいは――」
「あるいは?」
「われわれへの挑戦状《ちょうせんじょう》かもしれん」
「…………」
考えたくないことだが、十分ありうる話だった。これまでの事件を踏《ふ》まえれば、この機体《きたい》を保有《ほゆう》する敵勢力《てきせいりょく》が、<ミスリル> と <トゥアハー・デ・ダナン> の存在を強く意識《いしき》していることは明らかなのだ。
「この写真は九竜半島側の市街地《しがいち》、油麻地《ヤウマアテイ》付近で撮影《さつえい》されたものだ。敵機《てっき》は南中国軍の装甲車《そうこうしゃ》一輌を破壊したあと、発煙弾《はつえんだん》を使用して姿《すがた》をくらました。二六時間前のことだ」
続いて香港の拡大《かくだい》マップが投影《とうえい》される。
「その後も『ヴェノム・タイプ』は八〜一二時間おきに香港・九龍の各地に出没《しゅつぼつ》し、無差別《むさべつ》な破壊工作を働いている。一〇機近くのASが撃破《げきは》され、死傷者《ししょうしゃ》も多数出ている模様《もよう》だ。両軍はこの機体を撃破することもできず、消息《しょうそく》や動向も把握《はあく》できないでいる。過去《かこ》の例からみれば、この機体も透明化機能《とうめいかきのう》を備《そな》えているだろうからな」
「中国軍の装備《そうび》じゃ発見できないのね……」
「彼らは先進型ECSについての情報を持ち合わせていない。敵が透明化して潜《ひそ》んでいることなど、想像もしていないだろう」
「そのことを警告《けいこく》したんですか?」
「していない。上層部《じょうそうぶ》の意向だ」
「なぜです」
「仮《かり》に助言《じょげん》や技術支援《ぎじゅつしえん》の結果、どちらかの軍がこの敵機を発見できたとしても――どのみち彼らの装備《そうび》ではヴェノム・タイプに対抗《たいこう》できないからだ。死人が増《ふ》えるだけだろう。害虫駆除《がいちゅうくじょ》はわれわれが行う」
カリーニンの挙《あ》げた理由はもっともだったが、それとは別に、ひどく冷酷《れいこく》な論理《ろんり》が働いていることを、宗介は直感《ちょっかん》した。南北中国軍に最新鋭《さいしんえい》ECSの情報を教えれば、同じ装備を使っている <ミスリル> の手の内も明かすことになる。<ミスリル> の隠密性《おんみつせい》は、透明化《とうめいか》が可能な最新鋭ECSに大きく依存《いぞん》しているのだ。
「それで……?」
「たとえヴェノムでも、単独で二四時間以上フル稼働《かどう》はできない。戦闘《せんとう》の後には弾薬《だんやく》の補給《ほきゅう》と簡単《かんたん》な整備《せいび》が必要になるはずだ。操縦者《そうじゅうしゃ》にも、ある程度《ていど》の休息は必要だろう。まずそのための潜伏先《せんぷくさき》を割り出し、M9一個小隊でひそかに包囲《ほうい》、奇襲《きしゅう》し、制圧《せいあつ》する。対抗策《たいこうさく》もないまま、真っ向から立ち向かう義理《ぎり》などないからな。そのため諸君《しょくん》に偵察《ていさつ》を行ってもらう」
「偵察?」
「情報部の香港支局との共同作戦だ。必要なノウハウを提供《ていきょう》し、敵《てき》のアジトを突《つ》き止めろ。夜間の内に浮上《ふじょう》し、ヘリを出す。一足先に香港へ飛べ」
「ソースケもですか?」
マオがたずねた。この場合なら、宗介はとりあえず艦《かん》に残って、<アーバレスト> と一緒《いっしょ》に待機《たいき》するのが普通《ふつう》だと思ったのだろう。その質問《しつもん》に対してクルーゾーがなにかを言おうとすると、その前にカリーニンが口を開いた。
「そうだ」
「…………」
「今回の件では <アーバレスト> は使わない方針《ほうしん》だ。そのためには――わかるな? サガラ軍曹」
「了解《りょうかい》です」
覇気《はき》に欠ける声で、宗介は答えた。
[#地付き]同時刻《どうじこく》
[#地付き]東京 渋谷《しぶや》円山町《まるやまちょう》
「ここはどう?」
道玄坂《どうげんざか》のラブホテル街《がい》まで来ると、中年男が言った。さした指の先には、シックな色の外壁《がいへき》と、『空室』の電光板《でんこうばん》。看板《かんばん》には『ホテル・ディヴェルシオン』とあった。ご休憩《きゅうけい》が五五〇〇円〜(二時間)。ご宿泊《しゅくはく》が九〇〇〇円〜(平日)。
先ほどからちらついてた雨が、次第《しだい》にぱたぱたと大粒《おおつぶ》になってきている。もうすぐ本格的《ほんかくてき》に降《ふ》ってきそうだ。
繁華街《はんかがい》から数百メートルも離《はな》れていないが、この付近《ふきん》はひっそりと静まりかえっていた。すれ違《ちが》う通行人《つうこうにん》は、どれもカップルばかりだ(なぜかみんな、歩幅《ほはば》が小さいか、もしくはやたらと早足で歩くかのどちらかだった)。一人歩きの人物はほとんどいない。相手《あいて》が単独《たんどく》か、もしくは男だけならば、これは相当《そうとう》目立つだろう。
「おおっ……。こりゃあ、いいわ」
思わず拳《こぶし》がグーになる。
その様子《ようす》を見た相手の中年男――カモイと名乗っていた――は、すこし怪訝《けげん》そうな顔をしながらも、気を取り直してかなめの肩《かた》に手をのばした。
「いい? そうか、いいんだ。じゃあ入ろう。いいよね? ね?」
「ちょっと待って」
その手をするりとくぐりぬけ、ラブホテルの前をとことこ歩いて、外装《がいそう》をさっと観察《かんさつ》する。周囲《しゅうい》を見回し、ほかの建物《たてもの》との位置《いち》関係もチェック。
「いいよ。入ろ」
「よーし。ミズキちゃん。おじさん、ハッスルしちゃうからな。ははは……」
ミズキというのは、とっさに名乗った偽名《ぎめい》である。すまぬ、瑞樹《みずき》よ……と、かなめは心の中でその友人に謝《あやま》った。
一人ではしゃぐ男を捨て置いて、かなめは大股《おおまた》でホテルの入り口をくぐった。安っぽい自動ドアがガタガタと動く。薄暗《うすぐら》い照明《しょうめい》。普通《ふつう》のホテルみたいな大きなロビーではなかった。天井《てんじょう》は低く、通路《つうろ》は狭《せま》い。
受付とおぼしき小さなコーナーの横に、変な電光板があった。学校の黒板《こくばん》の半分くらいの大きさで、四〇ばかりの客室の写真が並《なら》んでいる。それぞれの写真の下には部屋番号と赤いランプとボタンがついていて、半分くらいが明るく点灯《てんとう》していた。
(……なんだ、これ?)
きょとんとして、その使い道に考えを巡《めぐ》らせていると、カモイが追いついてきて言った。
「どの部屋にする?」
ああ。つまり、このボタンで部屋を選《えら》ぶわけか。写真の明かりが消えている部屋は、たぶん、「使用中」ということなのだろう。
(使用中……)
ふと我《われ》に返った。
あたしは正気《しょうき》か? なんて場所に来とるのだ。ちょっとまともじゃないぞ、これは。まだ遅《おそ》くない、考え直せ。こんなラブホなんか出ていくんだ。いやいや。それでは進展《しんてん》がない。問題は道徳《どうとく》とか貞操《ていそう》とか、そういうのとは別次元《べつじげん》のことだ。あいつのよく使ってたあの言葉――そう、『安全保障《あんぜんほしょう》問題』だ。そのために、これが突破口《とっぱこう》になるかもしれないんだ。ビビるな。頭を使え。工夫《くふう》しろ。
短い葛藤《かっとう》。かなめは自分の気持ちをなだめすかして、空き室の番号をチェックした。それからそばにあった防災用《ぼうさいよう》の館内見取り図で、じっくりとそのラブホテルの構造《こうぞう》を吟味《ぎんみ》した。部屋の位置。窓《まど》の位置。北はこっちだから……よし。
「二〇二号室」
「え? もっといい部屋あるよ。そこ、狭《せま》いみたいだし――」
「じゃあ、帰る」
「あー、うそうそ。ごめんごめん。そこでいいから。ね? ね?」
なだめすかすようにカモイが言った。威厳《いげん》もなにもあったものではない。
ボタンを押して、カードキーを取り、二階へ向かう。
二〇二号室はエレベーターのすぐそばにあった。『その制服、どこの学校なの?』だの『リラックスしていいからね』だのと、どうでもいいことを話しかけてくる相手に生返事《なまへんじ》をしながら、かなめは客室に入った。
(意外。けっこうまともなんだ……)
部屋に入って感じたのは、まずそれだった。
照明《しょうめい》は明るく、調度類《ちょうどるい》は新しく、隅々《すみずみ》が清潔《せいけつ》だ。大型の液晶《えきしょう》テレビや、オーディオセットまである。ラブホテルというのは、もっとうらぶれた、いかがわしい感じの場所だと思っていたのだが。
とはいえ、やはり一番目をひくのは、部屋の一角をでんと占める大きなダブルベッドだった。枕元にはティッシュの箱《はこ》と――ああ、やだやだ。
まあいい。とにかくこのおじさんに、事情を説明するとしよう。
「さて。それじゃあちょっと、お話が――」
話を切り出そうと振《ふ》り返ると、カモイが鼻息を荒《あら》くして迫《せま》ってくるところだった。上着《うわぎ》を脱《ぬ》ぎながらネクタイをはずし、のしのしと近寄ってくる。目つきが妙《みょう》に座《すわ》っている。さっきとは、まったくの別人《べつじん》だった。
「風呂《ふろ》はあとでいい」
「あの?」
「かわいいよ、ミズキちゃん」
「それより話を――」
「怖《こわ》がらなくていいからね」
「いや、ですから――」
「ああっ、女子高生の制服だぁ」
「ちょっとね、まず話を――」
「ミズキちゃんっ!!」
ほとんどぶつかるような勢《いきお》いで、カモイががばっと抱《だ》きついてきた。酒臭《さけくさ》い息で胸がつまりそうだった。津波《つなみ》のような力に、かなめはほとんど抵抗《ていこう》することもできずに組み敷《し》かれる。普通《ふつう》の娘《むすめ》なら泣きわめいているところだろう。だがあいにく、かなめはちがった。彼女は銃弾《じゅうだん》や砲弾《ほうだん》が飛《と》び交《か》う中を、宗介とくぐり抜《ぬ》けたことがある。冷酷《れいこく》なテロリストに銃口を突《つ》きつけられたこともある。あの屈強《くっきょう》なジョン・ダニガン軍曹《ぐんそう》と、一対一で文字通りの死闘《しとう》を演《えん》じたこともある。
それに比べて、この男のちっぽけさときたら。
「まったく……!」
慌《あわ》てず騒《さわ》がず、あらかじめバッグからすぐ取り出せる位置《いち》にしまっておいた、二〇万ボルト[#「二〇万ボルト」に傍点]のスタンガンを右手でつかむ。安全スイッチを冷静に外して、端子《たんし》をカモイの脇腹《わきばら》に的確《てきかく》に押《お》し当てると、これ以上はないほどの冷酷非情《れいこくひじょう》な意志《いし》をもって、撃発《げきはつ》トリガーをぐいっと引いた。
「―――っ!!」
男はわずかの間|痙攣《けいれん》してから、ぐったりと動かなくなった。ひどく重たい身体が、ベッドに仰向《あおむ》けにされたかなめの上にのしかかる。
苦労して相手を押しのけ、肩《かた》で大きく息をしながら、彼女はつぶやいた。
「この場合、被害者《ひがいしゃ》はどっちなのかしらね……?」
数分ほどして呼吸《こきゅう》が落ち着くと、かなめは行動《こうどう》を開始した。
ボストンバッグを『ばっ』と開き、中をまさぐる。取り出したるは、アルミ合金製《ごうきんせい》の手錠《てじょう》が二つ。催涙《さいるい》ガスのスプレーと、超強力《ちょうきょうりょく》なフラッシュ・ライト。使い捨ての電気銃《でんきじゅう》も一挺《いっちょう》。女子高校生という基準《きじゅん》に照《て》らせば、古今《ここん》異例《いれい》の重武装《じゅうぶそう》であった。
これらは以前《いぜん》、宗介に押しつけられたものの、これまでろくに顧《かえり》みもしなかった武器の数々だった。手錠は宗介からの押収品《おうしゅうひん》。どれもきょうのきょうまで、引き出しの奥《おく》で埃《ほこり》をかぶっていた品だ。
手錠をくわえて、失神《しっしん》したままのカモイの両足をつかみ、バスルームへと引きずっていく。成人男性のとんでもない重さに、さすがの彼女も何度かよろめいた。
バスルームはびっくりするほど広くて立派《りっぱ》だった。ジャグジー付きのバスタブは、大人二人がゆったりと入れるほどのサイズだ。
(あ……実際《じっさい》、二人で入ったりするのか……)
変に納得《なっとく》しながら、バスタブのそばの金具に目を付ける。タオルかけのようにも見えたが、それにしては取り付け位置《いち》が不自然《ふしぜん》だった。なにか、自分にはとうてい計《はか》り知れない使用法《しようほう》があるのかもしれない。
まあいい。頑丈《がんじょう》そうだし。
その金具と、カモイの足とを手錠《てじょう》でつなぎ、何度か強度《きょうど》を確《たし》かめた。これでよし。バスルームの外には決して出られない。仮《かり》にカモイが大声で助けを求めたとしても、なにしろここはそういうホテルだ。防音性《ぼうおんせい》はバッチリだろう。
よし、次。
バスルームの戸を乱暴《らんぼう》に閉め、洗面台の周《まわ》りを探る。備《そな》え付けのバスローブをひっつかんで、ベッドの方に戻《もど》った。
「さて……」
腰に手をやり、かなめは自分の着ている衣服を見回した。いつも通りの、着慣《きな》れた冬服。だが先ほどの推測《すいそく》――発信器の可能性《かのうせい》が否定《ひてい》できないのなら、自分の私物すべてから、いったん手を放すしかない。
彼女はその場で、そそくさと衣服を脱《ぬ》ぎ始めた。白の上着《うわぎ》と青のスカート。ブラウスとリボンタイ。靴《くつ》や腕《うで》時計。すべて外した。
下着姿《したぎすがた》になって、もう一度|思案《しあん》する。ショーツのゴムを引っ張ってみて、さすがにこれには仕掛《しか》けはないだろうと思いとどまった。ブラはどうだろう? カップの部分に収まるような発信器は、現代《げんだい》の技術《ぎじゅつ》で作れるだろうか?
答え。残念ながら、作れる。
ため息をついてから、ブラも外してベッドに放った。発信器の有無《うむ》を確かめるために、ブラを解体《かいたい》するのはさすがに気が引けた。白のショーツ一枚になって、鏡《かがみ》の前でくるりと回る。自分の裸身《らしん》にほれぼれとするゆとりはない。なにか余計《よけい》なものが付いていないかチェックしてから、バスローブに袖《そで》を通した。きっちりと胸元《むなもと》を合わせてから、帯《おび》をぎゅっと結ぶ。
武器を選ぶ。電気銃《でんきじゅう》にした。使い捨ての護身具《ごしんぐ》で、二回だけ撃てるタイプだ。五メートルまでの距離《きょり》にいる相手を、高圧電流《こうあつでんりゅう》で気絶《きぜつ》させる効果《こうか》がある。もう一つ、手錠も忘れてはいけない。これらの品に発信器が付いていない保証《ほしょう》はなかったが、きょうまで机《つくえ》の中に放置《ほうち》してあったことを考えれば、その可能性《かのうせい》は低いだろう。
「うおっし……」
両手で頬《ほお》を叩《たた》いて気合《きあ》いを入れた。
部屋の明かりを消してから、北側の壁《かべ》についた長方形の戸を開く。思った通り、その向こうは窓だった。手探りでその窓を開けると、手が届《とど》きそうなほどの近さに、となりのホテルの壁《かべ》がある。彼女が顔を出した窓は、表の通りから奥《おく》まった路地《ろじ》に面しているので、人の気配《けはい》はまったくなかった。
雨が強くなっていた。薄闇《うすやみ》の中、狭《せま》い路地裏に冷たい水滴《すいてき》が吹《ふ》き下ろしてくる。
見下ろすと、二つのホテルを隔てる金網のフェンスがあった。ここは二階なので、どうにかそのフェンスの上に足が届《とど》きそうだ。
(さて……)
窓枠《まどわく》に足をかけ、身を乗り出した。電気銃《でんきじゅう》のストラップを口にくわえる。窓枠に両手でしがみつくようにして、じたばたとフェンスの上に片足を移《うつ》そうとした。バスローブの胸元《むなもと》がさっそくはだけてきた。だれも見ていないことは分かっていたが、さすがに焦《あせ》った。
つま先がフェンスに届いた。あとすこし――
「……!」
どうにか飛び移れるかと思ったところで、足がすべった。フェンスが雨で濡《ぬ》れていたのだ。両手が離《はな》れる。反対側の金網《かなあみ》にしがみつこうとしたが、無理《むり》だった。バランスを崩《くず》して、フェンスに右|腕《うで》をこすりながら、コンクリートの地面に落ちる。衝撃《しょうげき》と苦痛《くつう》で右半身がしびれ、おもわず喉《のど》から声がもれた。
あまりの痛さに呼吸《こきゅう》ができず、彼女はしばらくの間、濡れたコンクリートの上で、雨に打たれてうずくまっていた。すぐそばに電気銃が転がっている。その向こうの水たまりには、あっさりとはずれたバスローブの帯《おび》。
こんなラブホテル街の路地裏で。ひとりで。裸同然で。ずぶ濡れになって。
絵にならない。かっこわるい。なんてみじめなんだろう。
急に自分のやっていることが無意味《むいみ》に思え、痛さと情けなさで涙《なみだ》がにじんできた。
(いけない)
また弱気の虫だ。馬鹿《ばか》げてるなんて考えるな。自分を信じろ。さあ、続けて。
「うっ……」
歯を食いしばって、彼女は身を起こした。柔肌《やわはだ》のあちこちをすりむいていた。さいわい骨は折《お》れていない。打ち身くらいで済みそうだった。
どろ水に濡れたバスローブの帯をたぐり寄せ、あらためてしっかり結び、電気銃を拾《ひろ》う。故障《こしょう》していないか確《たし》かめたいところだったが、二回しか撃てないのでやめておいた。
よろめきながら立ち上がり、裸足《はだし》のままで歩き出す。
ホテルの外壁《がいへき》をぐるりと回った。裏口の戸のそばを通ると、受付の方からテレビの音が聞こえてくる。かなめは植え込みを乗り越え、ブロック塀《べい》を乗り越え、だれの目にもつかないホテル街の裏手を移動していった。
三|軒《けん》ほど離《はな》れたホテルの裏まで来ると、その建物の非常階段《ひじょうかいだん》があった。
(これだ……)
バスローブの合わせ目をきゅっと握《にぎ》って、かなめはその階段を仰《あお》ぎ見た。錆《さび》の浮《う》いた粗末《そまつ》な鉄骨《てっこつ》から、雨の滴《しずく》がぽたぽたと落ちている。事前《じぜん》に目を付けておいたこのホテルは、この付近では一番背の高い建物だった。
まず、このビルの屋上をチェックする。ここの屋上からならば、付近《ふきん》一帯と表通りが一望《いちぼう》の下《もと》に見渡《みわた》せるはずだ。それだけに――自分をつけまわす何者かが潜《ひそ》んでいる可能性《かのうせい》もいちばん高い。素人考《しろうとかんが》えかもしれないが、そう的はずれではないはずだ。
呼吸《こきゅう》が乱《みだ》れていた。つま先や指先がひどく冷たいのに、身体の芯《しん》は逆に熱い。
入り口についた鉄格子《てつごうし》を乗り越え、非常階段を慎重《しんちょう》な足取りで上っていく。
六階分ほど上がる。屋上はすぐそこだ。
階段のぎりぎりのところから頭半分を突《つ》き出して、その屋上の様子《ようす》をうかがった。そこには給水設備《きゅうすいせつび》や空調装置《くうちょうそうち》がごちゃごちゃと、迷路《めいろ》のようにレイアウトされていた。見えるところに、人の気配《けはい》はない。
かなめは用心深く、こっそりと屋上に移動していった。低いうなり声をたてるコンプレッサーのそばを、ほとんど這《は》うくらいに腰《こし》を落として進む。
物陰《ものかげ》から、表通りに面したあたりをのぞき見た。
通りの灯《あか》りが、屋上の縁《ふち》のシルエットをほのかに浮かび上がらせている。暗やみの中の光の河みたいだった。その河のほとりに――
(……いた?)
一人の男がしゃがんでいる姿《すがた》が見えた。
男は屋上の縁に膝《ひざ》をつき、こちらに背を向け、表通りを見下ろしていた。
あまり大柄《おおがら》ではない。かなめと同じか、すこし背が高いくらいだ。小太《こぶと》り気味《ぎみ》の体型で薄手《うすで》のコートを着ており、足下に大きめのアタッシュケースを置いていた。
手には小さな電子機器《でんしきき》。この雨の中で、傘《かさ》もさしていない。
間違《まちが》いない。
かじかんだ手で、電気銃《でんきじゅう》を握《にぎ》り直した。安全装置《あんぜんそうち》を外して――よし。一度大きく息を吸《す》い込んでから、かなめはその男に忍《しの》び寄った。雨の音と裸足《はだし》のおかげで、足音はまったくしなかった。
男は依然《いぜん》、表通りを見下ろしている。こちらに気付いた様子はない。
あと五メートルくらい。
胸の鼓動《こどう》が高鳴《たかな》り、喉《のど》のあたりにまでどくん、どくんと血液《けつえき》の流れる感覚が伝わってきた。
あと三メートル。もう充分《じゅうぶん》だ。
「動かないで」
かなめが叫《さけ》んだとたん、男は肩《かた》をびくりと震《ふる》わせ、その姿勢《しせい》のまま凍《こお》り付いた。
「武器で狙《ねら》ってるわよ。……両手をあげてこっちを向きなさい。ゆっくりと」
昔《むかし》見た映画の通りに、型どおりの文句を告《つ》げてやると、相手はそれに従《したが》った。顔が見える。四〇歳くらいの中年男だった。眼鏡《めがね》をかけ、あごまわりにたっぷりと肉のついたサラリーマン風《ふう》だ。
バスローブ姿《すがた》でずぶ濡《ぬ》れの黒髪《くろかみ》を振《ふ》り乱し、ぴたりと電気銃を構えた彼女の姿を見て、男は小さなうめき声をあげた。
「なんと……」
すこし高めで、しゃがれた感じの声だった。
「あたしに用があるんでしょ? だからこうして来てやったわ」
「……発信器に気付いたのか」
男が言った。表情が乏《とぼ》しかったが、強いて冷静を装《よそお》おうとしている様子《ようす》にも見えた。
「それで見ず知らずの男とあんなホテルへ……いささか侮《あなど》っていたようだな」
「そういうことよ。どうせ銃を持ってるんでしょ? ゆっくり抜《ぬ》いて、足下《あしもと》に放りなさい」
「私は <ミスリル> の人間だ。おまえを襲《おそ》ったりはしない」
「はっ、どうだか。信用できないわ」
白い息を吐き出して、かなめは言った。寒さと怖《こわ》さで肩《かた》が勝手《かって》に震《ふる》えていた。それを見《み》透《す》かしたのか、男はあざけるような笑い声をもらした。
「調子《ちょうし》に乗るな。そんな電気銃で優位《ゆうい》に立ったつもりか。おまえを殺すことはできないが、生意気《なまいき》な口が利けないようにするくらいのことはできるのだぞ? それよりもまずい。ここ数日、私のほかに追跡者《ついせきしゃ》の気配《けはい》が――」
「あたしは銃を捨てろって言ったのよ、クソ野郎《やろう》!」
そう叫《さけ》んだとき、男の胸の中心に、銃弾《じゅうだん》が命中していた。雨に濡《ぬ》れていたワイシャツから、着弾《ちゃくだん》の衝撃《しょうげき》でぱっと細かな水飛沫《みずしぶき》が散《ち》った。
「……え」
一発だけではなかった。立てつづけに、何度も何度も。小太りの身体《からだ》が、小刻《こきざ》みに震《ふる》える。頭にも一発。頭皮の一部が削《けず》り取られて飛び散った。気味が悪いほどの無表情のまま、<ミスリル> を名乗る男はよろめき、水たまりの中に倒《たお》れこむ。
振《ふ》り返ると、一〇歩ほど離《はな》れた空調装置《くうちょうそうち》の横に、別の男が立っていた。
地味《じみ》なブルゾンにジーパン姿《すがた》。細身《ほそみ》の体つきで、髪《かみ》を短く刈《か》り込んでいる。見たことがない。いや、あれは――先日、泉川商店街で見かけたあの男か……?
「見つけた」
黒い自動拳銃《じどうけんじゅう》を右手で構え、男が言った。
「|※[#「にんべん+尓」、第3水準1-14-13、Unicode4F60]好《ネイハオ》、お嬢《じょう》さん。そしてさようなら」
「ちょ――」
なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、男はかなめに銃を向け、発砲《はっぽう》した。
それはまったくの幸運だった。突然《とつぜん》のことに気が動転《どうてん》したせいか、寒さで身体がかじかんでいたせいか――片膝《かたひざ》ががくりと折れたのだ。軽くよろめいた彼女の頬《ほお》を、銃弾がきわどいところでかすめていった。
「…………あ」
かなめはもちろん、その男自身も意外そうな顔をしていた。
男の持つ自動拳銃のスライド部分が、後ろに下がったまま止まっている。かなめの記憶《きおく》では、これは弾切《たまぎ》れを意味しているはずだった。宗介が銃を扱《あつか》っているのを何度も見ているうちに覚えたのだ。
暗殺者《あんさつしゃ》は落ち着いて、ゆっくりと弾倉交換《だんそうこうかん》をはじめた。決して慌《あわ》てたりはしない。その理由は明らかだった。
「逃《に》げ場はない」
そうだった。彼女が立っているのは、屋上の端《はし》っこだ。空調装置や給水塔《きゅうすいとう》などの障害物《しょうがいぶつ》、そして唯一《ゆいいつ》の逃げ道である非常階段《ひじょうかいだん》は、男の後ろにあった。逃げ場がない。まったくない。突然《とつぜん》襲《おそ》ってきたこの不条理《ふじょうり》。揺《ゆ》るぎようのない絶望《ぜつぼう》が、彼女の心臓《しんぞう》を鷲掴《わしづか》みにした。
いったい何が起きているのか? わからない。
あの男は何者なのか? わからない。
なぜ自分は殺されなければならないのか? わからない。
これが自分の運命なのだろうか……?
運命。
この言葉が脳裏《のうり》をよぎった瞬間《しゅんかん》、いい知れない怒《いか》りが体内にみなぎった。
恐怖《きょうふ》で凍《こお》り付いていた脚《あし》が、鞭《むち》でひっぱたかれたように反応《はんのう》する。ほとんど考えもなしに、彼女は右へと猛《もう》ダッシュしていた。
抵抗《ていこう》してやる。なにがなんでも。そんなものに、この自分を弄《もてあそ》ばせはしない。最後まで悪あがきしてやる。絶対に、この身を捧《ささ》げたりはしない。
こういう自分を、彼は誉《ほ》めてくれるだろうか――
「無駄《むだ》だ」
銃《じゅう》を構え直して、男が発砲《はっぽう》した。銃弾《じゅうだん》がかなめの黒髪《くろかみ》をかすめた。屋上の端《はし》がみるみる近づいてくる。彼女は止まろうとしなかった。そのまま加速《かそく》した。コンクリートを蹴《け》る。一段高くなった縁《ふち》を踏《ふ》み台にして――かなめは虚空《こくう》へと跳躍《ちょうやく》した。
「―――――っ!!」
足下には広めの路地《ろじ》。深い深い谷間を飛び越え、二階分ほど背の低い、となりのビルへと落下していった。
ビルの屋上にトタンの安っぽい物置《ものおき》があった。かなめの身体はその物置に落ちて、トタンの屋根をぶち破《やぶ》り、中に積み上げてあったがらくたを押《お》しつぶした。すさまじい騒音《そうおん》。プラスチックや木の破片《はへん》が、彼女の周囲《しゅうい》で踊《おど》りまわる。目の前が真っ暗になるような衝撃《しょうげき》。肺《はい》から空気が勝手《かって》に押し出され、声にならない声が漏《も》れた。擦《す》り傷《きず》、切り傷、打ち身に捻挫《ねんざ》――身体のあちこちに襲《おそ》いかかってきた痛みに、かなめは顔をゆがめた。
「うっ……」
生きてる。しかも動ける。なんてこった、試合続行《しあいぞっこう》だ。
立ち上がろうとして――転んだ。もう一度。なんとか立った。バスローブは、かろうじて肩《かた》に引っかかっているような状態《じょうたい》だ。帯《おび》はどこかにいってしまった。だというのに、電気銃《でんきじゅう》だけはしっかりと右手に握《にぎ》っていた。
戸板《といた》を蹴《け》り飛ばす。思ったよりもあっさり開いた。物置の外にまろび出て、ついさっき自分が飛び降りた屋上をふりあおぐ。男のシルエットが見えた。こちらに銃を向けている。
「っ!」
とっさに走った。頭上からくぐもった銃声。足下で弾丸《だんがん》がはじけ、派手《はで》な水飛沫《みずしぶき》があがる。
(階段《かいだん》……!)
かなめは階段の入り口へと急いだ。このビルは外付けの非常《ひじょう》階段はなく、屋上の一角を占《し》める低い塔《とう》の扉《とびら》から、建物の中へと入るようになっていた。逃《に》げ道はそこしかない。もうどこにも、飛び降りたり飛び移ったりできるような場所は見当たらなかった。
息を切らしながら、鉄扉《てっぴ》に駆《か》け寄り、頑丈《がんじょう》なノブをつかむ。力任《ちからまか》せにその扉を開けようとして――開かなかった。
鍵《かぎ》がかかっている!
押《お》しても引いても駄目《だめ》。『がつんっ!』と鉄扉は震《ふる》えるだけで、それ以上はびくともしなかった。殴《なぐ》っても蹴《け》っても、泣いても喚《わめ》いても、扉は閉ざされたまま――
「そんな――」
唯一《ゆいいつ》の逃げ道が開かない。
扉にすがりつくようにして、もう一度さっきの屋上をふりあおぐ。ぼんやりとしたネオンの光の中、暗殺者《あんさつしゃ》が軽い身のこなしで、ふわりとこちら側《がわ》のビルに飛び降りる姿《すがた》が見えた。
暗殺者の磨《みが》き抜《ぬ》かれた体術《たいじゅつ》をもってすれば、この程度《ていど》の落差《らくさ》を飛び降りることなど、造作《ぞうさ》もなかった。ましてや、ただの小娘《こむすめ》が落ちて無事《ぶじ》でいられる高さなど――なにをかいわんや、だ。
水面に舞い降りる鴻《おおとり》のように、彼は着地した。『飛鴻《フェイフォン》』の名で呼ばれる者にふさわしい静けさだった。
すっと立ち上がり、歩き出す。
娘の姿はここからは見えなかった。だがあの娘には、隠《かく》れる場所はあっても、逃げる場所はない。慌《あわ》てる必要はなかった。いつものように、確実《かくじつ》に仕事をこなせばいい。鶏《にわとり》を追いつめ、首をちょん切るのと同じことだ。
この拳銃《けんじゅう》で射殺《しゃさつ》してから、死体を辱《はずかし》め、写真を撮って香港へと転送《てんそう》する。それがあのお方の意志《いし》だった。疑問《ぎもん》はない。
それにしても、あの娘の悪あがきにはあきれた。命乞《いのちご》いも観念《かんねん》もせず、無駄《むだ》だというのに、こうしていまも逃げ続けている。彼の目には、それがとても見苦しいことに思えた。
階段《かいだん》の入り口のそばまで来た。
そのビルの屋上には、壊《こわ》れた物置《ものおき》のほかに給水塔《きゅうすいとう》と空調装置《くうちょうそうち》、小さな植木や園芸《えんげい》用品の倉庫《そうこ》などがあった。すこしごみごみしており、視界《しかい》は開けていない。夜の雨で、暗いこともある。
もちろん油断《ゆだん》はしていなかった。命乞いを聞きいれる気もない。次こそは、速《すみ》やかな死をあの娘に与《あた》えよう。それが自分に与えられた命令なのだから。
「…………」
娘《むすめ》の隠《かく》れている場所はすぐに分かった。空調装置《くうちょうそうち》の向こう側に、大きめの植木鉢《うえきばち》が野ざらしで積み上げてある。その奥《おく》――注意深く見なければ気付かないくらいの隙間《すきま》に、誰《だれ》かがうずくまっているのが見えた。泥《どろ》にまみれたバスローブ姿《すがた》。追いつめられた野兎《のうさぎ》のように縮《ちぢ》こまっている。
あれでやり過ごせると思っているらしい。
彼はその場へと近づき、標的《ひょうてき》めがけて容赦《ようしゃ》なく発砲《はっぽう》した。
四五|口径弾《こうけいだん》を食らった植木鉢が音を立てて粉々《こなごな》になり、崩《くず》れ落ちる。暗がりの中で、バスローブにぶすぶすと銃弾《じゅうだん》が食い込む。娘は悲鳴《ひめい》ひとつあげず、痙攣《けいれん》しながらこちら側に倒《たお》れ込んできた。
いや――
「…………?」
娘ではない。薄明《うすあ》かりの中に倒れ込んできたのは、バスローブにくるまれた植木鉢の破片[#「バスローブにくるまれた植木鉢の破片」に傍点]だった。
では、あの娘はどこに――
すぐそばの貯水《ちょすい》タンクの上から、かなめは男の後頭部《こうとうぶ》を見下ろしていた。
ショーツ一枚の冷え切った肢体《したい》に、濡《ぬ》れそぼった髪《かみ》がまとわりつく。死人のように青ざめた顔。両膝《りょうひざ》をつき、この状況《じょうきょう》でも胸だけはしっかり左|腕《うで》で隠《かく》して、空《あ》いた右腕で電気銃《でんきじゅう》をまっすぐに構《かま》えた。
ほんの二メートル。それくらいの距離《きょり》だ。
引き金を引くのがこわかった。緊張《きんちょう》と恐怖《きょうふ》で気が狂《くる》いそうだった。次の瞬間《しゅんかん》には、相手がこちらに気付くかもしれないのに、無数《むすう》の疑問が彼女の指先を鈍《にぶ》らせた。
ちゃんと当てられるだろうか。こんな武器――こんな護身具《ごしんぐ》が通用するのだろうか。相手《あいて》はこちらの罠《わな》に、本当に気付いていないのだろうか。ただ単に引っかかったふりをしているだけなのでは? そもそも自分みたいな素人《しろうと》が、あんな男を倒せるのだろうか? そんなうまい話があるのだろうか? 命乞《いのちご》いをした方が利口《りこう》じゃないのか? こちらから声をかけて、「手を挙《あ》げろ」とでも宣言《せんげん》した方がいいんじゃないのか?
[#挿絵(img/05_113.jpg)入る]
その瞬間《しゅんかん》、かつて聞いたある言葉が、彼女の脳裏《のうり》に浮《う》かんだ。
(獲物《えもの》を前に舌《した》なめずりは――)
いまこの場に、その台詞《せりふ》を使った彼はいない。だがその記憶《きおく》、その言葉が、彼女に最後の力を与《あた》えてくれた。
引き金を引く。
ぱんっ、と乾《かわ》いた音が響《ひび》いた。火薬カートリッジの爆発力《ばくはつりょく》で、スパイク型の端子《たんし》が弾《はじ》き飛ばされ、男の肩《かた》に突《つ》き刺《さ》さる。ワイヤーを通じて、瞬時《しゅんじ》に数万ボルトの高圧電流《こうあつでんりゅう》が吐《は》き出され、男の身体《からだ》をはげしく痙攣《けいれん》させた。端子《たんし》の食い込んだ肩口《かたぐち》から、白い煙《けむり》と電光がほとばしった。
「……!」
数秒間の放電《ほうでん》のあと、男はがっくりと膝《ひざ》を落とし――倒《たお》れなかった。耐《た》えきったのだ。
もう一発。
端子が男の背中に刺《さ》さった。だめ押《お》しの電撃《でんげき》。男はうめき声をあげ、拳銃《けんじゅう》を放り出してその場に倒れ伏《ふ》した。
それきり、動く気配《けはい》はなかった。
やったのか。そう思ったとたん、たちまち息が荒《あら》くなり、全身からぶわっと汗《あせ》が噴《ふ》き出した。
「はあっ……はあっ……」
弾切《たまぎ》れの電気銃《でんきじゅう》を放り出し、彼女は貯水《ちょすい》タンクから飛び降りた。おそるおそる男に歩み寄り、そばに落ちていた拳銃とバスローブを拾《ひろ》う。命を救ったバスローブは、穴《あな》だらけのひどい有様《ありさま》だったが、それでも袖《そで》を通すとほっとした。
男は完全《かんぜん》に気を失っているように見えた。
冷静《れいせい》に考えてみれば当然《とうぜん》のことだった。なにしろ電気銃を二発も食らったのだ。たとえプロの暗殺者《あんさつしゃ》だろうと、相手《あいて》が生身の人間であることに変わりはない。
倒したのだ。自分一人の力で。
高揚感《こうようかん》はない。彼女は半信半疑《はんしんはんぎ》のまま、雨に打たれてその場にたたずんでいた。
そのとき、新たな声がした。
「どうやら――君の勝ちみたいだね」
かなめがあたりを見回すと、空調装置《くうちょうそうち》の向こう、ぼんやりとネオンの光に照《て》らされたあたりに、三つの人影《ひとかげ》が立っていた。
「…………」
中央の一人は、傘《かさ》をさした小柄《こがら》な若者だった。
いや――よく見れば小柄というわけでもない。その両脇《りょうわき》に控《ひか》える男二人が、異様《いよう》に大柄なのでそう見えたのだ。二人の大男は、濃緑色《のうりょくしょく》のコートを着込んでいた。フードを目深《まぶか》にかぶっているので、顔はまったく見えない。右側の大男は、ついさっき撃ち殺された <ミスリル> の男の遺体《いたい》を、肩《かた》に軽々と担《かつ》いでいた。
「僕はね――」
優雅《ゆうが》な声で若者が言った。
「――世の中には、二種類の女性がいると思う。雨の似合《にあ》う女《ひと》と、そうでない女《ひと》だ。君は間違《まちが》いなく前者だね。いまの君を見れば、だれだってそう思う」
「…………。それ、なんかの皮肉《ひにく》?」
拳銃《けんじゅう》を握《にぎ》った右手をぶらりと垂らして、かなめはけだるげに言った。冷たい風に吹《ふ》かれて、ぼろぼろのバスローブと、濡《ぬ》れた黒髪《くろかみ》が揺《ゆ》れていた。
「心外《しんがい》だな。最上級の賛辞《さんじ》のつもりだよ」
「そう。それで、あなた誰……?」
かなめが問うと、若者は数歩前に進み出た。
思っていたより長身だった。宗介と同じくらいだろうか。どことなく、空気のような軽さを感じさせる物腰《ものごし》だった。黒のロングコートに、黒いパンツ。黒のベストと白いシャツ。落ち着いた光沢《こうたく》で高級品《こうきゅうひん》に見えた。
「ご同類《どうるい》だよ」
そう言って傘《かさ》を閉じる。若者の容貌《ようぼう》があらわになった。
日本人ではなかった。なめらかな白い肌《はだ》。青みがかった灰色《はいいろ》の瞳《ひとみ》。そして――波打つような銀色の髪。いまのかなめでなかったら、その貴公子然《きこうしぜん》とした風貌《ふうぼう》に、すこしは心を奪《うば》われていたかもしれない。
とらえどころのない柔和《にゅうわ》な顔立ち。敵《てき》なのか味方《みかた》なのか、危険なのかそうでないのか、まったく想像《そうぞう》のできない雰囲気《ふんいき》の持ち主だった。
「君を助けにきた……と言いたいところだけど、実はそうでもない。座視《ざし》してもよかったし、手を貸《か》してもよかった。いずれにしても、結果は変わらなかったのかもしれないけどね。本来の用件はまだだけど、君に関する動機《どうき》について言えば、一つの命題《めいだい》を見きわめにきた――そんなところかな」
「命題?」
「運命や業《ごう》に関係するパラドックスだよ。ジレンマといってもいい」
「イラつくしゃべり方ね。はっきりものを言えないの?」
「はっきりものを言いすぎるのもどうかと思うよ。言葉はかりそめの乗り物だから。でもたぶん、それが君の魅力《みりょく》なんだろうね」
古い名曲を楽《たの》しむような目をして、若者は微笑《ほほえ》んだ。
「…………」
かなめはこの若者と、以前に出会っているような錯覚《さっかく》を感じた。|NY《ニューヨーク》時代だろうか? いや、それはない。NYにいたころの友達には、こんなアッシュ・ブロンドの持ち主などいなかった。こんな、映画やグラビアでさえ見たことのない、独特《どくとく》の光沢《こうたく》を放つアッシュ・ブロンドの――
たちまち思い当たった。
「まさか、テッサの……?」
それには答えず、若者はかなめのそばを通り過ぎ、いまだに水たまりの中に横たわっている暗殺者《あんさつしゃ》を見下ろした。
「起きなよ、飛鴻《フェイフォン》。もう気付いてるんだろう?」
男が身じろぎしてから顔を上げ、つぶやいた。
「……ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》。見ていたのか」
「一部始終《いちぶしじゅう》、とはいかなかったけどね。彼女は君のかなう相手ではないよ。あきらめることだ」
「断《ことわ》る」
「組織《そしき》の意向《いこう》を無視《むし》したことについては、僕が弁護《べんご》してやろう。香港で暴《あば》れているお兄さんを、君が説得《せっとく》して欲しい」
「俺《おれ》が従《したが》うと思うか? ましてや、兄が俺の言葉を聞きいれるとでも?」
「復讐《ふくしゅう》なんて虚《むな》しいことだよ」
「復讐ではない。あのお方が望《のぞ》んだことだ。我《われ》ら兄弟《きょうだい》を拾《ひろ》ってくださった、あのお方が。生ある限り、俺はその娘《むすめ》を殺そうとするだろう」
「そうか……」
若者はどこか空々しい声で言った。
「ではお別れだね、飛鴻《フェイフォン》」
「死ぬのはおまえだ、レナード・テスタロッサ!」
次の瞬間《しゅんかん》、暗殺者の身体《からだ》が宙《ちゅう》に跳《は》ね上がった。
両腕《りょううで》を一閃《いっせん》。銀色の光が虚空《こくう》を貫《つらぬ》き、若者へと殺到《さっとう》する。同時にかなめのすぐ目の前で、彼のコートがふわりと翻《ひるがえ》った。若者自身は、ほとんど動きもしていない。だが彼めがけて飛んできた光芒《こうぼう》――大小四本の投げナイフは、生き物のように動いたコートに切っ先を阻《はば》まれ、あるいははじき返された。
ただの防弾衣《ぼうだんい》ではない。黒い翼《つばさ》が、独《ひと》りでに動いて若者を守ったとしか思えない光景《こうけい》だった。
「…………っ!」
地表すれすれを滑空《かっくう》するようにして、暗殺者《あんさつしゃ》が突進《とっしん》する。もう一振《ひとふ》りのナイフを抜《ぬ》いて、逆手《さかて》に構《かま》え、まっしぐらに。
「無駄《むだ》だよ」
若者の前に、緑色の大男が割《わ》って入った。ついさっきまで、無言《むごん》でたたずんでいるだけだったが、いまこの瞬間《しゅんかん》、男の動きは疾風《しっぷう》さながらだった。暗殺者の突進《とっしん》を、真っ正面から身体《からだ》で受け止めると、ナイフが胴《どう》の中心に突《つ》き立った。だが大男は、そんなことなど意に介《かい》さず、丸太のように太い腕《うで》で、暗殺者の喉頸《のどくび》を鷲《わし》づかみにした。
「……っが!」
大男は片腕だけで、もがく暗殺者を宙へと持ち上げた。すさまじい怪力《かいりき》だ。
<<ご指示《しじ》を>>
無機的《むきてき》な声で大男が言った。
「対応A1。確実《かくじつ》に、ね……」
<<了解《ラジャー》>>
ごきん、といやな音がした。首が折《お》れたのだ。
大男はさらに、空《あ》いた左腕をぐったりとした暗殺者の胸に押《お》しつけた。
どるん、と重たい銃声《じゅうせい》が響《ひび》く。暗殺者の背中《せなか》から大量の血しぶきが飛び散って、胸郭《きょうかく》にぽっかりと大穴《おおあな》がうがたれた。脊髄《せきずい》と肩胛骨《けんこうこつ》が粉々《こなごな》になったためか、両腕が妙《みょう》な角度で垂《た》れ下がった。
<<対応A1完了《かんりょう》。指定の脅威《きょうい》は完全沈黙《かんぜんちんもく》>>
無惨《むざん》な亡骸《なきがら》を放り出し、大男が報告《ほうこく》した。
「ごくろう。待機《たいき》して」
<<了解《ラジャー》>>
大男がコートをはためかせて、かなめのそばを通り過ぎていく。手足が動くたびに、関節《かんせつ》が低くきしむ音がした。
目深《まぶか》にかぶったフードの奥《おく》が垣間見《かいまみ》える。
艶《つや》のない、黒い仮面《かめん》。目の部分には、エスキモーのサングラスを思わせる細長いスリットがあるだけだった。
(人間じゃ……ない?)
なにもできないまま、陰惨《いんさん》な殺戮劇《さつりくげき》に目を奪《うば》われていたかなめは、麻痺《まひ》しかかった頭の片隅《かたすみ》で、そう認識《にんしき》した。
「設計案《プラン》1211 <アラストル> 。世界最小の|A S《アーム・スレイブ》といったところかな。ここまで来ると、ロボットと呼んだ方が適切《てきせつ》だろうけどね。……いまの君なら分かると思うけど、ASの自律行動《じりつこうどう》はなかなか難《むずか》しい。動力源《どうりょくげん》や制御《せいぎょ》システムの小型化《こがたか》にもずいぶん苦労したよ」
若者――レナードがわけもなく説明《せつめい》した。だがかなめの知る限り、それは『苦労』などといった言葉では片づけられないほどの技術的困難《ぎじゅつてきこんなん》を伴《ともな》うはずだった。
「……で、いまのが本当の僕の用件というわけだ。いやなものを見せてしまったね。すまない」
「じ……事情《じじょう》は分からないわ。でも――」
「でも?」
「なにも……殺さなくたって……」
震《ふる》える声でそう言うと、レナードは心底《しんそこ》不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「だって彼は、君や僕を殺そうとしたんだよ?」
「そうだけど……」
「それに僕は、君のボーイフレンドほど人を殺していないけど」
「!」
それだけで、宗介のことだと分かった。『なぜ彼のことを?』とたずねるより前に、かなめは抗弁《こうべん》していた。ほとんど反射的に。
「あいつは……! か、彼は……小さいころから、ずっと戦争だったから。仕方《しかた》……なかったのよ。敵《てき》は悪い奴《やつ》ばっかりだったし……無関係《むかんけい》な人とか、自分より弱い相手は助けるし。それに絶対、そういうことを楽しんだりしてない。ううん、本当はきっとすごい気にしてる。だから……とにかく、あいつは……その……こういうのとは違《ちが》う。彼は……こんな風《ふう》にはしないもの……」
歯切れの悪いかなめの言葉を、レナードは興味《きょうみ》深げに聞き入っていた。それからすこし悪戯《いたずら》っぽい微笑《びしょう》を浮《う》かべて、彼女の瞳《ひとみ》をのぞき込んだ。
「そんな理屈《りくつ》、まさか本気で信じてないよね?」
「だって……」
彼女は思わず視線《しせん》を逸《そ》らした。
「行為《こうい》の本質《ほんしつ》はどちらも同じだよ。なのに君は、僕だけを非難《ひなん》するんだ。ずいぶんと彼の肩《かた》を持つんだね」
「そんな……」
「好きなんだ」
「ちがう」
「本当に?」
「本当よ」
「こっちを見てごらん」
「え――」
それはまったくの不意打《ふいう》ちだった。肩《かた》を優《やさ》しく抱《だ》き寄せられ、かなめがふっと顔を向けたその瞬間《しゅんかん》――彼女の唇《くちびる》に、彼の唇が重なっていた。
冷たく、柔《やわ》らかく、しっとりと濡《ぬ》れた感触《かんしょく》。
あまりにも突然《とつぜん》のことで、頭の中が真っ白になった。ここがどこなのか、相手がだれなのか、そして自分がだれなのか――その一切《いっさい》がわからなくなった。嫌悪《けんお》さえ感じない。いやそれどころか――甘美《かんび》な味わいがほんの刹那《せつな》、彼女の心を征服《せいふく》しようとさえした。
時間が動き出す。
[#挿絵(img/05_125.jpg)入る]
かなめの平手打《ひらてう》ちを、レナードは無抵抗《むていこう》に受け入れた。力一杯《ちからいっぱい》、横《よこ》っ面《つら》をひっぱたいてやったつもりだったが、彼は軽くよろめいただけだった。それを攻撃《こうげき》行動だと判断《はんだん》したのだろう。そばに控《ひか》えていた二人の大男――いや、ロボット[#「ロボット」に傍点]たちが、すぐさま腰を落として身構《みがま》えた。
「いいんだよ、待機《たいき》だ」
二機の <アラストル> が構えをとく。
かなめは唇を押《お》さえて給水タンクに背中を押しつけ、レナードをにらみつけた。泣き出したかったが、こいつの前で泣くのだけは絶対《ぜったい》にいやだった。
「なんのつもり……?」
「お目覚《めざ》めのキスかな。君を好きになったから」
レナードは自分の頬《ほお》を撫《な》でながら、無邪気《むじゃき》に笑った。
「あたしは嫌いよ。反吐《へど》が出るわ」
「そういうところが好きなんだ。儚《はかな》いようで猛々《たけだけ》しく、粗野《そや》なようで高貴……とらえどころのない、水のような君がね」
「だまれっ!!」
かなめが叫《さけ》ぶと、彼は『おお、こわい』とでも言うように肩をすくめ、ロボットになにかを命じた。一機が屋上の出入り口へと歩いていき、鍵《かぎ》のかかった鉄扉《てっぴ》を、力|任《まか》せにこじ開ける。
「君が僕を殺そうとしないうちに、そろそろ退散《たいさん》するよ」
<ミスリル> の男を担《かつ》いでいたもう一機のロボットが、その遺体《いたい》をコンクリートの上に横たえた。いや――遺体ではない。男は小さく身じろぎして、言葉にならないうめき声を漏《も》らした。
「そう、生きてるよ」
レナードが言った。
「この人も、僕としては『敵』に当たる関係なんだけど――どうしたものかな。排除《はいじょ》しても構《かま》わないかい?」
ロボットが左|腕《うで》の奥に光る、黒い銃口《じゅうこう》を男に向けた。じゃきん、と鈍《にぶ》い音が響《ひび》く。ついさっき、暗殺者《あんさつしゃ》にとどめを刺した大口径《だいこうけい》の機関銃《きかんじゅう》だ。
「ま……待ちなさいよ!?」
「どうして?」
「あたしは……もともと、その人に用があったの。殺さないで!」
「ふむ……。でもこの人は、さっき君に対してずいぶんと無礼《ぶれい》な口を利《き》いていたよね。死をもって償《つぐな》うのが当然《とうぜん》なほどの、ひどい物言《ものい》いだったと思うけど」
「そういうことは、あたしが決めるわ」
押し殺した声でかなめは言った。
「あなたが……あたしにしたことは、許してあげる。だから殺すのはやめなさい」
「驚《おどろ》いたな。こんな奴のために? 君はそんな安い女性じゃないと思うよ」
「何度も言わせないで。そういうことは[#「そういうことは」に傍点]、あたしが決めるわ[#「あたしが決めるわ」に傍点]!」
ぴしゃりと言ってやると、レナードはすこしの間、ぽかんとした。
「また驚いた」
くすりと笑う。
「わかったよ。じゃあ、この人はここに置いていくからね」
ロボットが腕の銃口を引っ込めた。
一機が暗殺者《あんさつしゃ》の遺体《いたい》を軽々と担《かつ》ぎ上げる。仕事を済《す》ませた二機を従《したが》え、レナードは出入り口とは逆方向《ぎゃくほうこう》の、屋上の縁《ふち》へと歩いていった。一歩|踏《ふ》み出せば、四階下の路地裏《ろじうら》にまっさかさま……というところまで来て立ち止まり、彼は一度ふりかえる。
「さよならの前に、いくつか。……君を好きになったのは本心だからね。別にからかったわけじゃない。それは信じて欲しいな」
「…………」
「千鳥《ちどり》かなめさん。君はまだ、まどろみの中にいる。やがて新しい世界が見えるだろう。そして君のような子なら、あのささやきを恐《おそ》れる必要はないかもしれない」
「? どういう――」
「また会おう」
レナードと二機が同時に飛び降り、視界《しかい》から消えた。
アスファルトの割れる音。かなめは駆け寄って、彼らが飛び降りた路地を見下ろした。ほの暗い路上に灰色《はいいろ》の霧《きり》がたちこめているだけで、もう人影《ひとかげ》はなかった。
水たまりの中に横たわる、<ミスリル> の男のそばまで歩いていく。男がかなめをぼんやりと見上げた。あご肉のたっぷりついた顔の右半分が、ごっそりと崩《くず》れていた。アニメの『あんぱんマン』みたいに頭の形が変わっていたが、一滴《いってき》の血も流れていない。
崩れていたのは、血肉ではなくウレタンフォームだった。中年男の顔は、精巧《せいこう》なマスクだったのだ。そのウレタンの裂《さ》け目から、本来の顔がのぞいていた。
マスクをぐいっと引っ張る。
切れ長の目をした、若い男の顔が現れた。いや……女だろうか? わからない。どちらともいえない細面《ほそおもて》の容貌《ようぼう》だった。まだ二〇|過《す》ぎくらいかもしれない。憔悴《しょうすい》しきった様子《ようす》で、顔色がひどく青白かった。家の近所で、何度か見かけた顔のような気もしたが――記憶《きおく》が曖昧《あいまい》で、自信はなかった。
「変装《へんそう》……ってわけ」
「そういう……ことだ」
本来の声で相手が言った。冷たい印象《いんしょう》の声だった。
中年太りを装《よそお》った胸や腹に食い込んだ銃弾《じゅうだん》の痕《あと》からも、血は流れていない。中に防弾《ぼうだん》ベストでもつけているようだったが、肩《かた》や大腿部《だいたいぶ》からは、少量の血が雨の中に流れ出していた。
「動けないの? 怪我《けが》は?」
「わからない。……さっきの男に……なにか……注射《ちゅうしゃ》された……」
「助けて欲しい?」
「けっこうだ……」
相手は苦しげに言った。
「私にだって……プライドはある。この失態《しったい》……この体《てい》たらく……。このまま死んだ方が……ましだ……」
「そう」
<ミスリル> の工作員に背中を向け、かなめは深呼吸《しんこきゅう》した。
わずか一〇分足らずの間に、あまりにもたくさんのことが起きた。ありとあらゆる感情が入り乱れて、頭がパンクしそうだった。
驚《おどろ》き、安堵《あんど》、疑問《ぎもん》、屈辱《くつじょく》、怒《いか》り、不安。
そしてなにより、いくら拭《ぬぐ》っても消えない唇《くちびる》の感触《かんしょく》がうとましかった。ほんの一瞬《いっしゅん》でも、抵抗《ていこう》することを忘れて、身を任《まか》せてしまった自分が情けなかった。
ファースト・キスだったのだ。厳密《げんみつ》にいえば、幼稚園《ようちえん》のころに同じぶどう組の女の子とふざけてキスしたことはあったが、それは除外《じょがい》しておくとして、はじめてのキスだ。いまどきくだらないと笑われるかもしれないが、最初の相手は大好きなだれかとじゃなければ、絶対にいやだと心に決めていた。たとえば――いや、とにかく、好きな人じゃなきゃダメなのだ。そういうのは、とても大切なことなんだ。
それが、あんな――
「…………っ!!」
給水《きゅうすい》タンクをグーで殴《なぐ》る。ごん、と鈍《にぶ》い音がした。涙《なみだ》が出てくるのは、拳《こぶし》の痛みやあちこちの擦《す》り傷《きず》のせいなんだと、自分に必死《ひっし》で言い聞かせた。
「うっ……っく……」
職員室でのあの一幕《ひとまく》から、ずっと縛《しば》り付けていた感情が、あらゆる鎖《くさり》を断《た》ち切って、彼女の胸をはげしく揺《ゆ》さぶった。殺し屋に襲《おそ》われた時でさえ揺るがなかった彼女の強さが、ただの口づけひとつで、もろくも打ち砕《くだ》かれてしまった。
彼がいなくなって、本当に自分はなにも感じていなかったか? 氷のように冷ややかなままだったか?
そんなわけが――ないじゃないか。
「ソースケ……」
どうしてここにいないの? あんたが悪いのよ? あんたがいないから、あたしは、あんな風《ふう》に。どうしてくれるのよ? あんただって、こんなのイヤでしょう? あたしだってイヤだよ。なんとかしてよ。そばにいてよ。『問題ない』って言ってよ。
声にならない声。答えが返ってくるわけもない。こんな場所で、一人で泣きじゃくっていたところで、なにも変わらない。
リセットができたら。せめてあの散髪《さんぱつ》のときまで、時間を巻き戻《もど》せたら。
本当は知っていたのだ。あのかわいい寝顔《ねがお》を前にして、自分が感じたほの甘《あま》い感情、当たり前の衝動《しょうどう》。それを偽《いつわ》ったのがこの報《むく》いだ。あれが最後のチャンスだったのに。やさしく声をかけて、『ね、キスしよ』って言うだけでよかったのに。なのに自分は逃げてしまった。水なんか引っかけて、逃げてしまったのだ……!
そうして、小さなこだわりに過《す》ぎないけど、それでも大切だったなにかが一つ、永遠になくなってしまった。彼の去った、そのあとに。
(あたしって、いつもそうだ……)
これまで気になる相手ができても、自分はそれを絶対《ぜったい》に認《みと》めようとしなかった。
どうせ裏切られる。あてにならない。きっと傷《きず》つくだけ。
母さんみたいに。
だから頼《たよ》らない。だから近づかない。だから――自分の気持ちを認《みと》めない。
そしてすべてが手|遅《おく》れになったとき、はじめて気付くのだ。自分にどうにかできたことを。ただ、勇気がなかっただけだということを。
「ソースケ……」
今度も同じなのか。自分からはなにも行動できないまま、終わってしまったのだろうか。
もう一度自問する。
本当に、もうおしまいなのだろうか。
雨に打たれて、肩《かた》を震《ふる》わせ、嗚咽《おえつ》を漏《も》らしていたのはどれくらいの間だったか。
彼女は泣くのをやめて、顔を上げた。
振《ふ》りかえって、ふたたび横たわったままの <ミスリル> の工作員に歩み寄ると、かなめは告げた。
「あんたさっき、『死んだ方がマシだ』って言ったわよね」
「…………」
「もう少し悪あがきしたらどう? あたしはするわよ。これからも。ずっと」
[#改ページ]
5:彼の問題
[#地付き]一〇月二二日 一一三八時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]香港《ホンコン》 香港島特別区(人民委員会¢、) 半山區《ミッド・レベル》
だだっ広い応接間《おうせつま》に通されて、一〇分が経過《けいか》していた。
この部屋の主――香港|在駐《ざいちゅう》の <ミスリル> 情報部員《じょうほうぶいん》はまだ来ない。
高い天井《てんじょう》。大きな窓《まど》。自然光《しぜんこう》をふんだんに取り入れた明るい部屋。ここは海を望《のぞ》むヴィクトリア山の急斜面《きゅうしゃめん》に建《た》てられた、高層《こうそう》マンションの地上三〇階だった。
急な斜面に乱立《らんりつ》する、無数《むすう》の建造物《けんぞうぶつ》――その中でも、ひときわ高い高層《こうそう》住宅であるここからは、香港|市街《しがい》の全景《ぜんけい》を一望《いちぼう》の下に見渡《みわた》せた。
大小、新旧《しんきゅう》の建築物《けんちくぶつ》がぎっしりとひしめき合っている。話には聞いていたが、それら高層住宅の密度《みつど》は尋常《じんじょう》ではなかった。
混沌《こんとん》、雑然《ざつぜん》、無秩序《むちつじょ》。そうした形容《けいよう》しか思いつかない風景《ふうけい》だった。
「こうして見ると、前とそう変わらないんだけどねぇ……」
宗介《そうすけ》のそばに立ち、マオがつぶやいた。
「来たことがあるのか?」
「返還前《へんかんまえ》に何度か、ね。ここのすぐ近所に母方の親戚《しんせき》が住んでたのよ。NYに移住《いじゅう》して、もういないけど。<ミスリル> に来る前、二か月くらい居候《いそうろう》してたわ。ダラダラと」
「だらだら、か」
「海兵隊《かいへいたい》をクビになった後でね。働く気力もなかったし、NYの実家《じっか》には帰りたくなかったし。親父《おやじ》がうるさくてさ。あの空軍野郎《くうぐんやろう》……」
そう言って舌打《したう》ちする。宗介はマオの身の上話をほとんど聞いたことがなかったので、こうして彼女が昔《むかし》のことを口にしたのに、すこし驚《おどろ》いた。
「父親は軍属《ぐんぞく》だったのか」
「そーよ。うすのろな爆撃機《ばくげきき》のパイロット。いまは退役《たいえき》して、会社やってるけどね。昔から、ケチで小心者《しょうしんもの》のくせに気取ってて。ついでに陰謀屋《いんぼうや》よ」
「陰謀……?」
「そう。あたしが高校を出て真面目《まじめ》に働こうとしてたら、あれこれ手を回して、ハーバード出のボンボンのところに嫁《とつ》がせようとしたのよ。さすがにムカついてね。だから嫌《いや》がらせに、結婚式《けっこんしき》の当日に海兵隊に入ってやったの」
そのときのことがよほど痛快《つうかい》だったのだろう。彼女はうつむいてにやにやした。
「教会を一人で抜《ぬ》け出して、四ブロック離《はな》れた徴募事務所《ちょうぼじむしょ》に行ったわ。ウェディング・ドレスのまんまで。係《かかり》の伍長《ごちょう》がこーんな丸い目ェしてさ。『本気なのか?』『モチよ』ってね。事務所の全員があたしを説得《せっとく》にかかったわ。『花嫁《はなよめ》さん。すこし考え直した方がいい。きっと親御《おやご》さんは悲しむぞ』。――で、あたしは言ったわけ。『親父《おやじ》は空軍なの』。そしたら連中は異口同音《いくどうおん》に、『なら話は早い。まずはこの書類にサインを』」
すこし離《はな》れたところで話を漏《も》れ聞いていたヤンが、こらえきれなくなった様子《ようす》でぷっと吹《ふ》き出した。
「どうよ? こういう女」
「さ、最高……ククっ。いや、カッコいいよ」
ヤンは肩《かた》を震《ふる》わせて、目尻《めじり》に涙《なみだ》さえ浮《う》かべ、親指を立てる。
妙《みょう》な雰囲気《ふんいき》だった。作戦前の緊張《きんちょう》と、待ち時間の笑い話。部屋の静けさと、ヤンの押《お》し殺した笑い声。窓からの光が、マオやヤンの姿《すがた》にくっきりとした陰影《いんえい》を作る。その情景《じょうけい》には、むしろ、不思議《ふしぎ》なもの悲しさが漂《ただよ》っていた。
彼女は遠くの空を懐《なつ》かしそうに眺《なが》めた。
「最高か……。確《たし》かにあのときは最高だったわね。決断《けつだん》したとたん、世界が無限《むげん》に広がった気がしたもの。あたしはなんでもできる。どこへでも行けるんだ、って」
「どこへでも……?」
はじめて聞いた言葉のように宗介が言うと、彼女は肩をすくめた。
「そうよ。その後、やっぱりいろいろあって、ひどい挫折《ざせつ》や失望《しつぼう》も味わったけど。でもあの時ああして、本当によかったと思ってる。あたしは自分のことが、前よりもずっと好きになった。これはそういう話」
マオの言う意味《いみ》が、彼にはよくわからなかった。なぜいきなり、こんな時にこんな話をするのかも、理解《りかい》できなかった。
「ま、この街《まち》に来て思い出しただけよ。あんまり深く考えないでね」
「ん……ああ」
すこしまごつきながら宗介が答えると、応接室《おうせつしつ》の戸が開き、ふくよかな中年の白人男が入ってきた。
「いやはや、お待たせしました」
ハンカチでこめかみの汗《あせ》をせわしげに拭《ふ》いて、彼らのそばへと近づいてくる。人なつっこい目つき。ポマードでなでつけた黒髪《くろかみ》で、口ひげをたくわえている。歳は五〇前後のようにも見えたが、もっと若いかもしれなかった。
(この男が……?)
宗介とマオは顔を見合わせた。
<ミスリル> の情報部員《じょうほうぶいん》、ギャビン・ハンター。
その名前から、ストイックな古強者《ふるつわもの》を想像《そうぞう》していたら、出てきたのはこの汗《あせ》っかきの太《ふと》っちょである。これにはいささか当惑《とうわく》した。
ハンターの表向きの身分《みぶん》は、羽振《はぶ》りのいい貿易業者《ぼうえきぎょうしゃ》だった。広東《カントン》語、北京《ペキン》語の双方《そうほう》に堪能《たんのう》。南北両軍にも顔が利《き》き、幹部《かんぶ》たちと毎晩《まいばん》のように食卓《しょくたく》を共《とも》にしている。
いわゆる『スパイ』にはほど遠いイメージだが、なにも情報を集めるためにジェームズ・ボンドのような大冒険《だいぼうけん》をする必要《ひつよう》はない。軍幹部のなにげない一言や、新聞の経済欄《けいざいらん》の小さな記事、見慣《みな》れない艦船《かんせん》の入港《にゅうこう》――そういったことだけで、多くのことが推測《すいそく》できる。そして、それこそが情報部の本来《ほんらい》の仕事《しごと》なのだ。
「当たり前の話ですが、南北両軍は相当《そうとう》に神経質《しんけいしつ》になっとりましてね」
ハンターは説明した。
「ざっとみた限りでも、深刻《しんこく》な事態《じたい》ですよ。両軍あわせて、味方《みかた》への誤射《ごしゃ》が三件、民間人《みんかんじん》への発砲《はっぽう》が四件。南北両軍の間で、戦端《せんたん》が開かれていないのが不思議なくらいです。ですが、これも時間の問題でしょう」
「もしそうなったら?」
「ヴィクトリア湾《わん》を挟《はさ》んで、すさまじい撃ち合いになるでしょうな。なにせ拳銃《けんじゅう》以外《いがい》の火器《かき》はなんでも届《とど》きます。小銃、機関《きかん》銃、迫撃砲《はくげきほう》、ロケット、ATM……おそろしいことになるでしょう。たちまち火の海です。ごらんの通りの街並《まちな》みですからな」
分割以来《ぶんかついらい》、北中国軍と南中国軍はヴィクトリア湾を挟《はさ》んでにらみ合っている。それが戦闘《せんとう》へと発展しないのは、香港を火の海にしたくない両軍の意向《いこう》が働いていたからだ。しかしこのASでのテロで、そのたががゆるみはじめている。
「市民は?」
「ずいぶん前から、避難《ひなん》をはじめとりますわ。南中国《むこう》側《がわ》の住民は内陸《ないりく》の新界《サンガイ》の方へ。北中国《こちら》側の住民は香港島の南部と大嶼《ランタオ》へ。……ま、女子供が中心ですけどな。私も家内を大嶼《ランタオ》の別荘《べっそう》に送りましたよ。南北の行き来は、両軍の厳戒態勢《げんかいたいせい》でほとんど途絶《とだ》えとります。港は入港|禁止《きんし》、啓徳《カイダク》、|赤 ※[#「魚+(鑞−金)」、第4水準2-93-92、Unicode9C72] 角《チェクラツプコック》の両空港の便もほとんどキャンセル。株価《かぶか》と為替《かわせ》は目を覆《おお》わんばかり。まったく……分割後もどうにかやってきたのに。このままでは本当にベルリン化ですわ」
「でも、どうにかなってたのね」
マオが意外そうにつぶやくと、ハンターは優越感《ゆうえつかん》もあらわに片眉《かたまゆ》をつり上げた。
「それが中国人ってもんです。老獪《ろうかい》にして活力にあふれ、あきれるほどに商魂旺盛《しょうこんおうせい》。本音《ほんね》と建前《たてまえ》、陰《いん》と陽《よう》とを自在《じざい》に操《あやつ》る」
「はあ」
「中華《ちゅうか》料理を食べてごらんなさい。この民族とこの文明の巨大《きょだい》さがよくわかります。西洋人ごときがほんの一〇〇年ででっちあげたイデオロギーなんぞ、実のところは取るに足らないわけでして。あの分割劇《ぶんかつげき》はね、私ら商人《あきんど》にとっては危機《きき》と好機《こうき》の両方だったんですわ。没落《ぼつらく》した者もいれば、財《ざい》を築《きず》いた者もいる。いつものことです。たとえ政治的《せいじてき》に分割され、両軍が駐留《ちゅうりゅう》しても、ついおとといまで南北の行き来は比較《ひかく》的に簡単《かんたん》でした。要するに――魚心《うおごころ》あれば水心、ですよ」
まるで自分のことも生粋《きっすい》の香港人だと思っているような、誇《ほこ》らしげな口振《くちぶ》りだった。この場にいる白人はハンターだけなのに。
「それで、問題のASは?」
「依然《いぜん》として、まったく所在《しょざい》がつかめない状態《じょうたい》ですわ。前に現われたのは三時間前、香港島側の|※[#「竹かんむり/肖」、第3水準1-89-66、Unicode7B72]箕湾《サウゲイワン》です。被害《ひがい》はAS二機と装甲車《そうこうしゃ》一|輌《りょう》が大破《たいは》。北中国軍の兵士が四名|死傷《ししょう》、民間人には八名の重軽傷者《じゅうけいしょうしゃ》……ひどいもんです」
「都市に潜《ひそ》んでいるのは間違《まちが》いないのね?」
「断言《だんげん》はできませんがね。香港支局《うち》の分析官《アナリスト》とAIは、そう考えとります。私の長年の直感《ちょっかん》も。とはいえ、その都市部こそが厄介《やっかい》でしてね……」
ハンターは地図を広げて、専門的な説明をはじめた。ありとあらゆる情報を徹底的《てっていてき》に検討《けんとう》し尽《つ》くした、委細《いさい》のないプロの意見だった。そしてその一言一言から、ハンターがこの香港を深く愛していることがマオたちにもよくわかった。
不可視型《ふかしがた》ECSの運用方法を熟知《じゅくち》するマオと宗介が助言《じょげん》をして、ハンターたちの分析《ぶんせき》をさらに絞《しぼ》り込む。実りのある議論《ぎろん》だった。マオたちもハンターたちも現場《げんば》の人間だ。上層部《じょうそうぶ》での情報部と作戦部の不協和音《ふきょうわおん》など、彼らには関係なかった。
「ほかには? 除外《じょがい》できる地域《ちいき》や条件《じょうけん》は」
AIの端末《たんまつ》のキーボードを叩《たた》きながら、ハンターが言った。
「ハトやカラスが多い地域《ちいき》は除外《じょがい》して」
「ふむ。なぜ鳥や犬が?」
「どうも鳥にはASが見えるみたいなのよ。ECSは紫外線《しがいせん》まで隠蔽《いんぺい》できないから、たぶんそのせいね。特にカラスはギャアギャア騒《さわ》いで上空を飛び回るんで、いろいろと面倒《めんどう》だわ。犬もね。ECSのオゾン臭《しゅう》に敏感《びんかん》なの」
「ははあ……さようで。ほかには?」
マオは宗介の横顔を見た。
「こんなところかしらね。……ソースケ?」
「ん?」
我《われ》に返った様子《ようす》で、宗介が言った。
「ほかにない?」
「あ……ああ。特にない」
マオの目には、宗介がいつになく集中力に欠けているように見えた。<トゥアハー・デ・ダナン> を出たころから、ずっとだ。
端末《たんまつ》の画面をにらんでいたハンターが、感嘆《かんたん》の声をあげた。
「たいしたもんです。香港島側で四九か所、九龍《クーロン》側で七八か所。これなら、情報部《うち》の者と手分けして半日で回れますよ」
「条件が合ってれば……だけどね。見つけたら、隙《すき》を狙《ねら》って一撃《いちげき》でしとめましょう」
さっそくハンターの部下とマオたちとで、敵《てき》ASの潜伏先《せんぷくさき》の候補《こうほ》を偵察《ていさつ》することになった。時間の猶予《ゆうよ》はあまりない。
マオたち作戦部側も、三チームに分かれて偵察を手伝うことになった。
宗介とマオは、ヴィクトリア湾を渡《わた》って九龍半島に行く。
ヤンとウーは、現在の香港島の中を探す。
三つ目のチームは、彼らを乗せてきた輸送《ゆそう》ヘリだ。ECSで透明化《とうめいか》し、上空から香港|全域《ぜんいき》をECCS(対ECSセンサー)で捜索《そうさく》する。市街地《しがいち》ではECCSの効果が期待薄《きたいうす》だったので、主に郊外《こうがい》や大小の島々を担当《たんとう》する。
ハンターから借りた二台のライトバンには、青い字ででかでかと『狩人清潔有限公司』とペイントしてあった。ハンター清掃《せいそう》会社。ただそれだけの意味なのだが、中国語になじみのない宗介にとっては、ずいぶんと妙《みょう》な表記に見えた。
「あのオッサン、ずいぶん手広く商売してるみたいね……」
ビルの地下の駐車場《ちゅうしゃじょう》で、マオが腕組《うでぐ》みして言った。すでに四人は清掃会社の作業服《さぎょうふく》に着《き》替《が》えていたが、宗介が一番|似合《にあ》っていなかった。
「免許証《めんきょしょう》は持った? 営業許可《えいぎょうきょか》証と通行証も確認《かくにん》して。偽造《ぎぞう》パスポートとクレジット・カードは別のポケットにしまっておくこと。銃器《じゅうき》は各自|一挺《いっちょう》のみ。発砲《はっぽう》は原則禁止。連絡《れんらく》は随時《ずいじ》。戒厳令《かいげんれい》が出てるんだから、気を付けるのよ」
「検問《けんもん》で軍や警察に拘束《こうそく》されそうになったら? ハンターの息がかかってない部隊も多いんだろ?」
ヤンが言った。
「そうね。だから気を付けなさい。逃《に》げられるなら、逃げてもいい。でも発砲《はっぽう》はダメ。何の罪《つみ》もない軍の連中を撃つなんてもってのほか。あとはよきに計《はか》らうように。捕《つか》まったら、ハンターが手を回すまでは厳しい尋問《じんもん》を受けるでしょうね。たとえ拷問《ごうもん》をくらっても、口を割《わ》らないこと。以上」
「キツいなぁ……」
「それよりも、敵《てき》を発見したときのことを心配しなさい。連絡《れんらく》も許可もなく殺されたら承知《しょうち》しないからね。いい?」
「了解《りょうかい》」
「じゃあ行くわよ」
四人は清掃《せいそう》会社のライトバンに分乗し、駐車場《ちゅうしゃじょう》を出た。
二手に分かれ、街中《まちなか》へ。ヤンたちの車はヴィクトリア・ピークの方に向かう。
宗介の運転する車は、並木《なみき》に囲まれた急な坂道を数分走り、中環《ヅォンワン》の中心部に出た。徳輔道《デ・ポー・ロード》の両側には天を突《つ》くような超高層《ちょうこうそう》ビルが建《た》ち並《なら》び、まるで人工の谷間《たにま》をゆくようだった。田舎育《いなかそだ》ちの宗介は、その偉容《いよう》にいささか圧倒《あっとう》された。
曇《くも》り空《ぞら》が、ひどく狭《せま》い。
中環《ヅォンワン》は、東京でいったら新宿か丸の内にあたるビジネス街《がい》のはずだが、人の姿《すがた》はまばらだった。車の交通もだ。道路の中央を走る二階建ての路面電車《トラム》は、運転手のほかはほとんど無人だった。レールをこする金属《きんぞく》の音が、あたりにむなしく響《ひび》いている。
「驚《おどろ》いたわね……。こんな中環《セントラル》、見たことないわ」
閑散《かんさん》とした市街《しがい》を見渡《みわた》して、助手席《じょしゅせき》のマオが言った。
広い五差路《ごさろ》まで来ると、警戒中《けいかいちゅう》の北中国軍の装甲車《そうこうしゃ》とASが見えた。オリーブ色のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> だ。北朝鮮《きたちょうせん》に供与《きょうよ》されているのと同タイプの、輸出向《ゆしゅつむ》け仕様《しよう》だった。
道なりに東へ向かい、灣仔《ワンチャイ》を抜けて銅鑼湾《タンローワン》へ。
ビルの谷間はどこまでも続く。香港名物の『招牌《ジウパイ》』が多くなってきた。緑や赤の派手《はで》な看板《かんばん》がビルから突《つ》き出し、道路の上空を覆《おお》い尽《つ》くしている。
『雅胎美容護膚中心』
『展藝設計装飾公司』
『福村東苑菜館』
『華爾登影音器材有限公司』
『新華中西薬行』
『富瑤海鮮酒家』
『彿如來素會』
『釣藝琴行文化藝術中心』
漢字が苦手《にがて》な宗介には、日本語での読み方さえわからないものばかりだった。電飾式《でんしょくしき》の看板《かんばん》はもちろん、最新のホログラム看板も数多く目に付く。初歩的なECSの技術《ぎじゅつ》が、民生品《みんせいひん》に転用されたものだ。
海底トンネルの入り口まで来た。このトンネルを抜《ぬ》けて、南中国軍の支配《しはい》する九龍《クーロン》半島|側《がわ》へ移動《いどう》するのだ。
トンネルの入り口は、厳重《げんじゅう》な警戒態勢《けいかいたいせい》がしかれていた。<サベージ> 四機と装甲車《そうこうしゃ》二輌《にりょう》、重武装《じゅうぶそう》の歩兵が六〇名以上。土嚢《どのう》があちこちに積《つ》み上げられ、有刺鉄線《ゆうしてっせん》のフェンスと機関《きかん》銃座《じゅうざ》が設《もう》けられている。
トンネル内の少し先に、通関《つうかん》ゲートがあった。何台かの民間人の車が列を作り、兵士とあれこれ言い合っている。その民間人たちはけっきょく通行を認《みと》められず、その場でUターンして追い返されていた。
手はずでは、ここの守備隊《しゅびたい》の責任者《せきにんしゃ》に、ハンターが電話で一声かけているはずだった。
「さて、すんなり通してもらえるかしら……」
「ハンターのコネが確《たし》かならな」
AKMライフルを肩《かた》にかけた兵士が、ゲートの前で両手を広げ、広東語で『止まれ』と告《つ》げた。運転席の方に回ってきて、窓越《まどご》しになにかをまくし立てる。
ここに来るヘリの中で暗記《あんき》してきたのは、日常《にちじょう》会話のさわりの部分だけだったので、宗介には相手の言葉がさっぱりわからなかった。
「マオ、たのむ」
「|明白※[#「口+勒」、148-8]《メンバツラ》。|開窗《ホイチョン》」
「?」
「『わかった。窓を開けて』、よ」
「…………」
宗介は従《したが》い、車のパワー・ウィンドウを開けた。あとはマオがぺらぺらと、広東語で話すのを横から見ているだけだった。営業許可証と通行証を見せて、彼女がなにかを説明すると、宗介に向かって兵士が告げた。
「可以《ホーイー》」
「……?」
マオが宗介の肩《かた》をつつき、車の正面を指さした。
「|※[#「にんべん+尓」、第3水準1-14-13、Unicode4F60]睇《ネイタイ》。我※[#「口+地」、149-2]可以走※[#「口+勒」、149-2]《ゴーデエイホーイーツアウラツ》」
目の前のゲートががらがらと開いていく。『行け』という意味だと解釈《かいしゃく》して、宗介は車を発進させた。これで第一|関門《かんもん》は、問題なくクリアしたことになる。
宗介たちのライトバンは、ヴィクトリア湾《わん》の下を抜《ぬ》けるトンネルを走っていった。他の車はまったくない。三車線のだだっ広い道路に、彼らのバンが一台だけだ。
「たまげたわ。このトンネル、いつもは大渋滞《だいじゅうたい》だったのよ」
「驚《おどろ》いてばかりだな」
「そりゃあね。以前《いぜん》の香港を知ってたら、だれだってショックよ」
「そういうものか」
「だって想像《そうぞう》してみてよ。もし東京が、こんな状態《じょうたい》になったらどう思う?」
意外なことを言われて、宗介は内心でぎくりとした。
「シンジュクとギンザが真《ま》っ二《ぷた》つに分かれて、戦争の一歩手前でにらみ合ってるようなもんよ。おしゃれした子が買い物したり、アイスクリーム舐《な》めたりしてるはずの街《まち》が――いまじゃ装甲車《そうこうしゃ》とASだらけ。散歩《さんぽ》にちょうどいいベイサイドには、巨大《きょだい》なトーチカと隠蔽壕《いんぺいごう》が幅《はば》を利《き》かせてる。この香港が! こいつは異常《いじょう》よ。この世界は狂《くる》ってるわ」
「…………」
宗介はそのときはじめて、自分が半年を過《す》ごしたあの町が、『平和』だったのだと理解《りかい》した気がした。戦車もない。ASもない。賄賂《わいろ》を要求《ようきゅう》する警官《けいかん》や兵士もいない。道路には車と人があふれ、にぎやかな音楽と笑い声がある。
平和な東京。平和な学校。平和な教室。そして――
「ソースケ?」
「ん?」
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもない」
脳裏《のうり》に浮《う》かびかけた面影《おもかげ》を、宗介は振《ふ》り払《はら》った。
「気を付けて。南軍側の通関《つうかん》ゲートよ」
「ああ。わかってる」
トンネルの出口はまだだったが、金網《かなあみ》でふさがれたゲートが見えた。南中国軍側の支配する、九龍半島の入り口だ。こちらの指揮官《しきかん》にもハンターが頼《たの》みを入れているはずだった。二、三のやりとりのあと、兵士はあっさり彼らを通してくれた。
「こんなものか」
「意外ね……」
あっさりと両陣営《りょうじんえい》の検問《けんもん》を通過《つうか》できたことに、二人は拍子抜《ひょうしぬ》けしていた。なにしろこの厳戒態勢《げんかいたいせい》である。すこしはヒヤリとする一幕《ひとまく》があるだろうと、覚悟《かくご》していたのだ。
「どうやらハンターは大物のようだ」
「そうね。ここまで両軍に顔が利くんだから。まあ、まっとうな商売だけをしているとは思えないけど」
「だろうな」
一番ありそうなのは、両軍の軍需物資《ぐんじゅぶっし》の横流し品を買い取る商売だろう。赴任中《ふにんちゅう》の蓄財《ちくざい》に精《せい》を出す軍幹部《ぐんかんぶ》に恩《おん》を売って、同時に弱みを握《にぎ》る。情報部員にとっては一石二鳥だ。宗介はそういうタイプの男を、たくさんの紛争地帯《ふんそうちたい》で見ていた。
「そろそろ、この辺《あた》りだ」
宗介たちの車は、近代的なホテルの立ち並《なら》ぶ道路に入った。この近くに、リストアップされた候補《こうほ》の一つがある。ASが潜《ひそ》むのにちょうどいい、建設中の貿易《ぼうえき》センターだ。香港ではあまり実績《じっせき》のないマレーシア系の業者がその工事を受注《じゅちゅう》しており、書類上にもいろいろと不明《ふめい》な点が多い。
「いきなりドンピシャだったら、どうしよっか」
「どうもしない。常《つね》にそのつもりでいるべきだ」
三方をホテルやショッピングセンターに囲まれた、広い公園の前を通る。
公園の入り口に、南中国軍のASが警戒《けいかい》に立っていた。M6 <ブッシュネル> の初期型《しょきがた》で、ECSを搭載《とうさい》していない輸出向《ゆしゅつむ》けモデルだ。そのすぐそばに、イギリス製《せい》の電源車《でんげんしゃ》が止まっている。長い時間の待機《たいき》なので、経済的《けいざいてき》な動力源に接続《せつぞく》しているのだろう。
(あの電源車は……)
ふと思い出した。あの電源車は、順安《スンアン》で彼女を助け出した直後に、敵《てき》から奪《うば》ったのと同じモデルだ。あのときは彼女がひどく騒《さわ》ぎ立てて、説明が大変だった。こちらの言うことを信じようとせず、敵弾《てきだん》が飛んでくるただ中で、『相良《さがら》くん、落ち着いて。あなたは錯乱《さくらん》して、妄想《もうそう》に取り付かれてるの!』だのと、諭《さと》して聞かされたのだ。
『相良くん』……?
そうだった。まだあのころの彼女は、俺《おれ》のことをそう呼んでいたんだ。それが『ソースケ』になったのは、いつだったろうか? あれは確《たし》か――
「ソースケっ!?」
マオの悲鳴《ひめい》。はっとする。
自分の運転する車が[#「自分の運転する車が」に傍点]、赤信号の交差点に突っ込んでいた[#「赤信号の交差点に突っ込んでいた」に傍点]。
けたたましいクラックション。タクシーが一台、左から迫《せま》る。ブレーキの悲鳴。車体がつんのめる。アスファルトをこすらんばかりに沈《しず》み込むバンパー。甲高《かんだか》い音と、火花と、衝撃《しょうげき》。バンパーをタクシーがむしり取っていった。
車体が蹴飛《けと》ばされたように右へと跳《は》ね、破片《はへん》を散らして横滑《よこすべ》りした。
宗介たちの車は、交差点の真ん中で止まっていた。
急停止《きゅうていし》したタクシーの運転手が、車外に飛び出してなにかを怒鳴《どな》っていた。つい今しがた通り過ぎた公園の方から、兵士が四人、こちらに駆《か》けてくる。M6はその場から動くことはなかったが、頭部がしっかりとこちらを注視《ちゅうし》していた。
助手席のマオが、青ざめた顔で彼を見ていた。あまりのことに、悪態《あくたい》さえ出てこない様子《ようす》だった。
「っ……。とにかくあたしに任《まか》せて。あんたは黙《だま》ってなさい」
「俺《おれ》は――」
「いいから、なにもするな!」
ぴしゃりと言って、彼女は車外に出た。
マオが駆《か》けつけた兵士に向かって、困り果てたような声でなにかを呼びかける。
「|麻煩哂※[#「にんべん+尓」、第3水準1-14-13、Unicode4F60]《マーファンサーイレイ》……」
『すみません、不注意で』くらいの言葉だろう。しかし兵士たちは彼女のあっけらかんとした物言いには反応《はんのう》せず、いきなりライフルを突きつけた。
だまれ、とでも叫《さけ》んだのだろう。
悪いことに、兵士たちの物腰《ものごし》は殺気《さっき》だっていた。ここ数日の厳戒態勢《げんかいたいせい》で、神経《しんけい》がすり減《へ》っているのだ。
マオの肩《かた》をつかんで強引《ごういん》に地面にねじ伏《ふ》せると、兵士たちは次に運転席の宗介を車から引っ張り出した。見ればタクシーの運転手も、同じように取り押《お》さえられている。運転手は哀《あわ》れっぽい声をあげて兵士にすがり、非難《ひなん》するように宗介たちを指さしていた。
後ろ手に引っ立てられたマオが、必死になにかを弁明《べんめい》している。巧妙《こうみょう》に同情を誘《さそ》うような声だったが、効果《こうか》のほどは疑《うたが》わしかった。
最悪だった。
戦闘中《せんとうちゅう》の判断《はんだん》ミスならまだしも、これはまったくの不注意からくる交通事故《こうつうじこ》だ。こんな愚《おろ》かな失敗《しっぱい》をしたことはかつてない。宗介自身にとっても、信じられないような大失態《だいしったい》だった。このまま拘束《こうそく》されては、偵察《ていさつ》どころの騒《さわ》ぎではない。なんとか手だてを考えなければ――そう思った、その瞬間《しゅんかん》。
三〇メートル向こうに立っていたM6が、轟音《ごうおん》をたてて膝《ひざ》を落とした。
「……!?」
細長い頭部が、なにかの力で無理矢理《むりやり》にねじ切られた。首から火花をほとばしらせ、ケーブルやパイプ類《るい》を引きずりながら、まるで妖怪《ようかい》のろくろ首のように、頭部が虚空《こくう》に引っ張り出されていく。かすれた金属《きんぞく》の断末魔《だんまつま》。ずんぐりとした体型のM6が、もがき、手足をばたつかせ、見えないなにかにつかみかかろうとしていた。
「嘩《ワ》……」
M6の巨体が、轟音《ごうおん》をたててはじき飛ばされた。
道路を横切り、公園の向かいのホテルにぶつかると、コンクリートとガラスの破片《はへん》が舞《ま》い散る。ぱっと白い埃《ほこり》が噴《ふ》きあがり、あたりにもうもうと立ちこめたかと思うと、そのただ中に巨大《きょだい》な電光が瞬《またた》いた。
ECSの不可視《ふかし》モードだ。
青い光の残滓《ざんし》をまとって、一機のASが姿《すがた》を見せる。
逆三角形の上半身に、菱形《ひしがた》の頭部。灰色《はいいろ》と暗い青の迷彩色《めいさいしょく》。そして、一度見たら忘れない、あの赤い一つ目。
ヴェノムだ。
兵士たちは息を飲み、どこか禍々《まがまが》しいその機体《きたい》の姿に視線《しせん》を釘付《くぎづ》けにしていた。
ヴェノムはちぎり取ったばかりのM6の頭を、無造作《むぞうさ》に路上《ろじょう》へ放り投げた。ひしゃげたセンサーと機関銃《きかんじゅう》の塊《かたまり》が、近くに止めてあったベンツの上に落ちて、屋根とフロントグラスをぐしゃりと潰《つぶ》した。背中からアサルト・ライフルを抜《ぬ》き、なおも動こうとするM6めがけて、至近距離《しきんきょり》からフルオートで発砲《はっぽう》する。M6はなすすべもなく、腕《うで》や足をばらばらに吹き飛ばされて、爆発《ばくはつ》した。
すさまじい爆音、熱風《ねっぷう》と衝撃波《しょうげきは》が宗介たちのいる交差点にまで及んできた。マオが運転手に飛びついて、彼を強引《ごういん》に伏《ふ》せさせた。彼女はその直後に、宗介が呆然《ぼうぜん》と突《つ》っ立ったままでいることに気付いて、驚《おどろ》きに目を見開いていた。
騒《さわ》ぎを聞きつけ、近くで警戒《けいかい》をしていた別のM6が駆《か》けつけてきた。ヴェノムの向こう、ホテルの角から半身をさらして、ライフルを向ける。マオが身を起こし、今度は宗介に飛びついた。
発砲《はっぽう》。
ヴェノムが左腕を振《ふ》り上げた。機体《きたい》の手前で、無数《むすう》の砲弾《ほうだん》がはじけ飛ぶ。例の見えない壁《かべ》だ。弾道《だんどう》のそれた弾丸が、周囲《しゅうい》のビルや看板《かんばん》に命中し、破壊《はかい》の嵐《あらし》が吹《ふ》き荒《あ》れた。
「救命呀《ガウメンア》……!」
身動きさえままならない。轟音《ごうおん》の中で、兵士たちが悲鳴をあげる。マオと宗介の周囲にも破片が降《ふ》り注《そそ》いだ。
新手《あらて》のM6をライフルであっさりと撃破《げきは》すると、ヴェノムはこちらに向かって疾走《しっそう》してきた。だれかが絶望的《ぜつぼうてき》な声をあげる。灰色《はいいろ》の機体《きたい》が間近《まぢか》に迫《せま》り、彼らの手前で大地を蹴《け》った。爆発《ばくはつ》のような衝撃《しょうげき》でアスファルトが粉々に砕《くだ》かれ、ヴェノムの姿《すがた》がかき消える。
「…………っ」
たちこめた埃《ほこり》をはらって頭上を見上げる。ヴェノムはビルの屋上に着地していた。地上二〇階の高さだ。ワイヤーガンを併用《へいよう》して、瞬《またた》く間《ま》にあの高さまで移動《いどう》したのだろう。M9にひけをとらない跳躍力《ちょうやくりょく》だ。
機体の赤い一つ目は、宗介たちにはまったく注意を払《はら》っていなかった。もっと遠くを見ている。南中国軍の動きを確認《かくにん》しているのだろう。
付近|一帯《いったい》を睥睨《へいげい》してから、ヴェノムはその身をひるがえし、ECSを作動《さどう》させた。灰色の機体が透明化《とうめいか》しながら、屋上の向こうに消えていく。
戦闘《せんとう》はそれきりだった。
煙《けむり》のたちこめる交差点。飛んできた破片で腕《うで》を怪我《けが》した兵士が、大げさに騒《さわ》ぎ立てていた。もう一人が怪我の様子をみて、ああでもないこうでもないと早口で喋《しゃべ》る。四人の中ではいちばん経験の豊かそうな一人が無線機《むせんき》に向かってなにかをがなり立て、残る一人は呆然《ぼうぜん》と、交差点の真ん中に突《つ》っ立っていた。
南中国軍の兵士たちは、すっかりマオたちに関心をなくした様子だった。
マオが一人に話しかけると、その相手はぺらぺらと受け答えしてから、あわてて燃え上がるM6の方へと走り出した。彼女はタクシーの運転手になにかを告《つ》げ、ハンターの会社名が書かれたライトバンを親指で差す。運転手はすこし不服《ふふく》そうな顔をしたが、さらにマオがなにかを言うと、納得《なっとく》した様子で自分の車へと歩き出した。
「いくわよ」
宗介に寄ってきて、マオが小声で耳打ちした。
「いいのか……?」
「おまえらの事故《じこ》がなかったら、俺たちはたぶんM6のそばで踏《ふ》み潰《つぶ》されて死んでいた。だから大目に見といてやる≠セってさ」
そう言って、彼女はバンパーのなくなったライトバンに、さっさと乗り込んだ。当然《とうぜん》、運転席の方だった。
不服など唱《とな》えられるわけもなく、宗介は黙《だま》って助手席《じょしゅせき》に座《すわ》った。
交通事故《こうつうじこ》とヴェノムの目撃《もくげき》。まったく予想しなかった出来事《できごと》が、畳《たた》みかけるように起きたことで、宗介は少なからず動揺《どうよう》していた。かなめの護衛《ごえい》を解《と》かれたことや、クルーゾーとの勝負に完敗《かんぱい》したこと――それらに並《なら》ぶショックだった。
俺はいったい、なにをやっている?
あのタイミングでヴェノムが現《あら》われなかったら、自分たちはあのまま南軍の兵士に拘束《こうそく》されて、さらに面倒《めんどう》なことになっていただろう。
この皮肉《ひにく》はなんだ?
この皮肉。まったく制御《せいぎょ》ができない、この現実。
四肢《しし》が萎《な》えるような無力感《むりょくかん》が、彼の心身をむしばんでいく。いまや宗介には、なにもかもが分からなくなっていた。
エンジンをかけ直し、マオが言った。
「信号|無視《むし》。末期的《まっきてき》ね」
「すまない」
「彼女のことでも考えてたの?」
「…………」
黙《だま》っていると、マオがいきなり胸ぐらをぐいっとつかみ寄せた。
「いまは忘れなさい。それができないなら、すぐに車を降りなさい。事情《じじょう》はわかる。でもね――あたしはそこまで優《やさ》しいお姉さんじゃないわよ? とばっちりで死ぬのはごめんだわ……! これじゃ、あたし一人の方がよっぽど安全ね」
彼女がそう言うのは当然のことだった。対等《たいとう》な関係だと認めているからこそ、こうして厳《きび》しい態度《たいど》をとるのだ。ここで同情を示すのは、同僚《どうりょう》としても友人としてもまちがっている。
だが、そんなマオの正しさが、いまの宗介にはどうしようもなく疎ましかった。
「……そうだな」
宗介は通信機《つうしんき》や各種装備《かくしゅそうび》の詰《つ》まったバッグをつかむと、助手席のドアを開けた。
「ソースケ?」
「すまない。俺には……もう無理《むり》だ」
「ちょ……」
「任務《にんむ》を続けてくれ」
車から降りて、建材《けんざい》や瓦礫《がれき》の散らばる路上《ろじょう》を、一人で歩き出す。無論《むろん》、行くあてなどない。マオが背後《はいご》でなにかを叫《さけ》んでいたが、彼の耳には届《とど》かなかった。
どうでもよかった。なにもかも。<ミスリル> の任務も、ヴェノムのことも、<アーバレスト> やアルのことも、この街《まち》の命運《めいうん》も。
[#地付き]一〇月二二日 一五五三時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]香港《ホンコン》島特別区 上環《シャンワン》
マオや宗介《そうすけ》たちと別れてから、すでに三時間。
その間にヤン伍長《ごちょう》とウー上等兵《じょうとうへい》のコンビは、一一件の潜伏先候補《せんぷくさきこうほ》をチェックし終えていた。どれもまったく成果《せいか》なし。
上環《シャンワン》の一角、高層《こうそう》住宅が建《た》ち並《なら》ぶ地域《ちいき》を、ヤンの運転するライトバンがのろのろと走る。ヴィクトリア山の斜面《しゃめん》に建設《けんせつ》されたこの街には、急な坂道ときついカーブがたくさんあった。
「……飛ばしてみたい」
こういう道に来ると、故郷《こきょう》の大邱《テーグ》の郊外《こうがい》で、毎晩のように峠《とうげ》を攻《せ》めまくっていたあの頃《ころ》の血が騒《さわ》ぐ。そして『なんで自分はこんな場所で、こんな傭兵《ようへい》なんかやってるんだろう?』と、いつも疑問《ぎもん》に思うのだった。
答えは、金がなかったからだ。ちっぽけな自動車|修理工場《しゅうりこうじょう》の三男坊《さんなんぼう》に生まれた彼には、レーサーを目指すような経済的《けいざいてき》ゆとりはまったくなかった。さらに皮肉《ひにく》なことに、彼は車の才能よりも、兵隊の才能の方に恵《めぐ》まれていた。徴兵《ちょうへい》でいやいや陸軍に入り、いやいや訓練《くんれん》をこなしているうちに、基地《きち》の将校が彼に目を付け、空挺部隊《くうていぶたい》への推薦状《すいせんじょう》を押《お》しつけた。それからなにかの間違《まちが》いで、いまなお本国でも極秘扱《ごくひあつか》いの『実戦《じっせん》』に巻き込まれ――あとは野となれ山となれ、だ。
そして自分は、まだここにいる。こんなライトバンの、こんな運転席に。
「だめですよ、伍長」
ウーが横から釘《くぎ》をさした。
「自重《じちょう》してください。俺らがなにかしくじったら、敵《てき》じゃなくて曹長《そうちょう》に殺されます」
「……わかってるよ。ほら着いた。ここだ」
彼らが止まったのは、建設中《けんせつちゅう》の高層《こうそう》マンションの前だった。ここにはASが隠《かく》れるのにはおあつらえ向きの地下駐車場《ちかちゅうしゃじょう》があり、しかもあまり実績《じっせき》のない外資系《がいしけい》の業者が工事を受注《じゅちゅう》している。
「ウルズ9より各位。これよりポイント28[#「28」は縦中横]を洗う。一五分たって連絡《れんらく》がなかったら輪《わ》を縮《ちぢ》めてくれ」
『ウルズ2了解《りょうかい》』
無線機《むせんき》の向こうから、そっけないマオの声。なぜか一度も宗介の声では応答《おうとう》がない。九龍《クーロン》半島の方でヴェノムがまた出現《しゅつげん》したことは聞いていたが、なにかトラブルでもあったのだろうか?
『ワンフーHQ了解。お気をつけて』
これはハンターの声。
「行くぞ。気を抜《ぬ》くなよ、ウー」
「へいへい……」
二人は車を降りて、建設中のマンションに近付いていった。
ハンターの情報では、このマンションは三日前から工事が止まっているそうだった。『労働争議《ろうどうそうぎ》』というのがその理由らしかったが、裏はとれていない。
竹の足場とネットをくぐり、薄暗《うすぐら》い屋内《おくない》へ。
サイレンサー付きの自動拳銃《じどうけんじゅう》を抜く。いまのところ、人の気配《けはい》はなかった。音を立てないように、注意深く階段を下りていく。駐車場《ちゅうしゃじょう》への入り口は、まだまだ扉《とびら》がついていなかった。からっぽの戸口の前で聞き耳をたて、目線《めせん》と手信号でウーに合図《あいず》。地下《ちか》駐車場へと音もなく踏《ふ》み込む。
がらんとしたコンクリートの空間。車はなく、工事用の資材《しざい》が積《つ》んであるだけだった。
「はずれです。これで八件――」
「しっ……!」
駐車場の片隅《かたすみ》、無造作《むぞうさ》に放置《ほうち》されたセメント袋《ぶくろ》の山の陰《かげ》に、足が見えた。だれかがセメント袋の向こうに横たわっているのだ。ウーも気付いて、口をつぐんだ。
二人で全方位を警戒《けいかい》しながら、その場へと近付く。
横たわっていたのは、男の射殺体《しゃさつたい》だった。
四〇代。薄汚《うすよご》れた作業着《さぎょうぎ》。頭部を撃《う》ち抜《ぬ》かれている。
「っぷ。……ここの作業員ですかね?」
遺体《いたい》から顔をそむけて、ウーが言った。
「ああ。たまたま忘れ物をとりにきたら、ばったり出会っただれかに撃たれた……って感じかな……。気《き》の毒《どく》に。だいたい……死後《しご》二日くらいか」
冷静《れいせい》に死体を探り回して、ヤンは言った。小さな姐虫《うじむし》のわいた口を素手《すで》で開き、口腔《こうこう》をチェックする。爆発物《ばくはつぶつ》などは仕掛《しか》けられていないようだった。
「よく時間がわかりますね」
「死後硬直《しごこうちょく》の弛緩《しかん》が進み、腐敗《ふはい》がはじまっている。ほかの判断《はんだん》材料は、粘膜《ねんまく》の乾燥《かんそう》や眼窩《がんこう》の状態《じょうたい》、死斑《しはん》の色……そんなところかな。正確な時間は、検屍解剖《けんしかいぼう》でもしないとわからないけど」
「ははあ……。ここがアジトだったんですかね」
「わからない。ただ、ここを隠《かく》れ家《が》の一つとして利用していたとしても、敵は二度と近付かないだろうしね。それよりも犯人《はんにん》の『置《お》き土産《みやげ》』に気を付けてくれよ」
「置き土産?」
「トラップだよ。爆弾《ばくだん》が警報《けいほう》代わりになる」
にわかに落ち着かない様子《ようす》になって、ウーがあたりをきょろきょろした。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。ただしぼくが触《さわ》ったもの以外には触らないこと。いいね?」
「了解《りょうかい》です。しかし……その、伍長もやっぱりSRTなんですね」
「?」
「いえ、なんでもないっす。……それより、そのおっさんの胸……」
「ああ」
それにはヤンも気付いていた。遺体《いたい》の作業着の下にのぞくTシャツに、なにか不自然《ふしぜん》な染みが見えるのだ。最初は付着《ふちゃく》した血が変色したものかと思ったが、どうもそうではないらしい。罠《わな》に気を付けながら、注意深くファスナーをおろす。
染みではなかった。黒いマジックで、英字が書き込んであった。
<<バダフシャンの虎の子へ。ツィムシャツォイのハミドラーに会え>>
それだけだった。
「……意味、わかります?」
「まさか。さっぱりだよ」
肩《かた》をすくめて、ヤンは無線機のスイッチを入れた。
[#地付き]一〇月二二日 一六一四時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]南シナ海 <トゥアハー・デ・ダナン>
頭上は大渋滞《だいじゅうたい》だった。
入港を禁《きん》じられたせいで、香港《ホンコン》の手前で立《た》ち往生《おうじょう》している船舶《せんぱく》がたくさん待機《たいき》しているのだ。普通《ふつう》では考えられないような船舶の量《りょう》なので、ソナー室と目標運動解析《TMA》システムの忙《いそが》しさといったら、この艦《かん》はじまって以来《いらい》のものだった。
テッサは自艦を、海底すれすれの深さで這《は》うようにして進ませた。下手《へた》に潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》に上がろうとしたら、商船に衝突《しょうとつ》する危険さえある。高周波《こうしゅうは》ソナーで海底の地形を注意深く探りながら、鯨《くじら》がダンスを踊《おど》るように、ゆっくりと。時間がかかる上に、えらく神経《しんけい》のすり減《へ》る操艦《そうかん》だったが、哨戒中《しょうかいちゅう》の南中国軍に発見されるよりはましだった。
<<艦長。情報部からのインテリジェンス・メッセージです>>
艦のAI <ダーナ> が告《つ》げた。水面に浮上《ふじょう》させておいた <タートル> のアンテナが、通信を拾《ひろ》ったのだ。テッサは操艦をマデューカスに任せて、艦内電話でカリーニン少佐《しょうさ》を呼び出してから、その情報にさっと目を通した。
状況《じょうきょう》はかなり悪くなっていた。
北中国軍はヴェノムの破壊工作《はかいこうさく》を、ほとんど南軍の仕業《しわざ》だと信じはじめている。南軍側の地区でも被害《ひがい》は出ているのに、それを『自作自演《じさくじえん》』と疑《うたが》っているのだ。北京《ペキン》政府《せいふ》(人民解放委員会《じんみんかいほういいんかい》)の楊《よう》小昆《しょうこん》委員長は、『これ以上、広州《こうしゅう》傀儡勢力《かいらいせいりょく》の冒険的挑発《ぼうけんてきちょうはつ》が続くならば、中華人民《ちゅうかじんみん》の権益《けんえき》を守るため、然《しか》るべき軍事《ぐんじ》行動を起こす用意がある』と声明《せいめい》を発表。<ミスリル> の偵察衛星《ていさつえいせい》が捉《とら》えた北中国軍の様子《ようす》も、それが脅《おど》しだけではないことをはっきりと示している。
広州政府(中華民主連合)の張《ちょう》高楼《こうろう》事務総長《じむそうちょう》も、西側のマスコミの前に現《あら》われ、北軍側の対応《たいおう》を非難《ひなん》していた。いわく、『北京はこの事件を利用し、三峡ダムの支配権《しはいけん》を手中に収《おさ》めようと画策《かくさく》している。われわれ民主政府は、北軍のいかなる軍事的|恫喝《どうかつ》にも屈《くっ》することはないだろう』。南軍の部隊も中国全土で、即応《そくおう》体制に入りつつあった。
北軍はタイムリミットを指定《してい》していた。本日の二二〇〇時。それまでに香港の事態《じたい》が収束《しゅうそく》するか、南軍側が何らかの誠意《せいい》を見せなければ、それ以後はなにが起きても責任《せきにん》は持てないという。
つまり、内戦の再燃《さいねん》だ。たくさんの人が戦火《せんか》に巻かれて死んでいくということだ。
テッサは時計を見た。いまは一六三一時。あと五時間半しかない。
「早すぎるわ。なんてこと……」
そう。早すぎるのだ。あと八時間待ってくれれば、どうにかヴェノムを仕留めてみせるのに。マオたちと情報部の偵察《ていさつ》作戦は、それくらいの時間的|余裕《よゆう》を見越《みこ》して立案《りつあん》されたものなのだ。
<ミスリル> の上層部は、なにをしているのだろうか? 持てる限りの情報網《じょうほうもう》を使って、南北両軍を説得してもらわなければ、自分の部隊だけではどうにもならない。一六|歳《さい》の指揮官《しきかん》と、たった二百人の戦隊にすべてを託《たく》すつもりなのだろうか。
「作戦本部に繋《つな》いで。回線《かいせん》G3」
<<回線G3は、ごくわずかですが傍受《ぼうじゅ》のおそれがあります>>
「かまいません。急ぎなさい」
<<アイ・マム。……それから回線G1に入電。ウルズ2です>>
今度は香港から直接《ちょくせつ》の連絡《れんらく》だった。忙《いそが》しいことこの上ない。
「出して」
<<イエス・マム>>
香港のマオから報告《ほうこく》があった。
ヤン伍長《ごちょう》が妙《みょう》なメッセージと死体を見つけたらしい。情報部の偵察《ていさつ》チームも、二件、それぞれ違《ちが》う場所で同じメッセージを発見していた。そちらには死体はなく、壁《かべ》や床《ゆか》に殴《なぐ》り書《が》きしてあったという。さらに地元の新聞にも三件、三行広告で同じ内容のものが掲載《けいさい》されているらしかった。
「『バダフシャンの虎の子へ』……?」
メッセージを聞いたテッサは、眉《まゆ》をひそめた。
「どういう意味ですかな。攪乱《かくらん》や陽動《ようどう》……とも思えませんが」
マデューカスが言った。
バダフシャンという地名を、テッサは聞いたことがあった。もう四か月も前になることだが、その地名に深く関《かか》わる人物が、自分の周《まわ》りには二人いる。
艦《かん》のAI <ダーナ> がメッセージを解析《かいせき》をしていたが、いかなる既知《きち》の暗号解読《あんごうかいどく》システムを使っても、その内容を推測《すいそく》することはできなかった。
『バダフシャン』はアフガニスタン東北部の地名。『尖沙阻《ツィムシャツォイ》』は九龍半島《クーロンはんとう》の中心|街《がい》のことだ。そして『ハミドラー』はごくありふれたアラブ名。香港在住の『ハミドラー』という人物を検索《けんさく》してみると、四名ほど該当《がいとう》があった。情報部の方に頼《たの》んで、それら四名をあたってもらうよう指示《しじ》を出す。
そのおり、格納庫《かくのうこ》からカリーニンが上がってきた。
「参《まい》りました」
「ちょうど良かった、少佐《しょうさ》。これを見てください」
スクリーンにメッセージを表示させると、彼の眉間《みけん》のしわがより一層《いっそう》深くなった。
「カリーニンさん。なにかわかりますか?」
「……一部は。『バダフシャンの虎』というのは、アフガン・ゲリラの伝説的《でんせつてき》な司令官《しれいかん》の異名《いみょう》です」
「アフガンの……?」
「はい。私も何度か手合わせしたことがあります。この『バダフシャンの虎』を排除《はいじょ》するために、当時のソ連は何度か暗殺者《あんさつしゃ》を彼《か》の地に送り込みました。その中には、八歳にも満たない子供の暗殺者もいたのです。しかし、暗殺の企《くわだ》てはことごとく失敗《しっぱい》しました。慈悲《じひ》深い彼は、捕《と》らえた幼《おさな》い暗殺者を我《わ》が子として迎《むか》え入れ、新たな名を与えたのです。その名前が――」
カリーニンは一度口をつぐんでから、こう言った。
「『カシム』です」
「……カシム」
二か月前のシージャック事件で、<アーバレスト> のミッション・レコーダーから、彼女はその名を聞き知っていた。
「大佐殿《たいさどの》。サガラ軍曹《ぐんそう》を出していただけますか」
「ええ。……TDDHQよりウルズ2へ。ウルズ7に替《か》わってください」
『こちらウルズ2。ええと……』
ノイズの向こうで、なにかを躊躇《ちゅうちょ》したマオの声。
「どうしたの?」
『すみません。ウルズ7は……ここにはいません』
[#地付き]一〇月二二日 一七〇八時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]九龍《クーロン》半島特別区(民主連合¢、) 佐敦《ジョーダン》
弱々しい風に吹《ふ》かれて、紙くずが路上《ろじょう》を転がっていく。
奇妙《きみょう》な風景《ふうけい》だな、と宗介《そうすけ》は思った。
無数《むすう》の看板《かんばん》。無数の商店。この地区もおそらく、日頃《ひごろ》は買い物客や自動車でごった返しているのだろう。
いまはそれが、まるで廃墟《はいきょ》のようだった。
これから自分がどこへ行くつもりなのか、宗介にはわからなかった。
なにもする気が起きない。もし自分の身体《からだ》がASだったとしたら、だれかにこの機体《きたい》の操縦《そうじゅう》を明け渡《わた》してしまいたかった。あの白いASと同じくらい、いまは自分の存在《そんざい》が疎《うと》ましかった。
任務《にんむ》を放棄《ほうき》した自分を、<ミスリル> は二度と信用しないだろう。仲間たちの失望《しつぼう》した顔と、軽蔑《けいべつ》のまなざしを思い浮かべると、腹の底がずんと重たくなるような気分がした。<アーバレスト> のことがあったとしても、彼らはもはや自分をあてにしようとは思わないはずだ。
東京に帰ることもすこしは考えた。
だが、自分はもうあの学校の生徒ではない。住む家もない。千鳥《ちどり》かなめを守る任務《にんむ》もない。それに――あの街《まち》では食っていけない。戦争がないのだから。自分の取《と》り柄《え》は戦うことだけだ。ほかのことは何も知らない。
この街を北上して、中国大陸に行くのもいいかもしれない。金のある限《かぎ》り北か西へ向かえば、どこかの紛争地帯《ふんそうちたい》に行き当たる。傭兵《ようへい》の口くらい、いくらでもあることだろう。主義《しゅぎ》も主張《しゅちょう》もなく、その日その日を戦って生きていく。<ミスリル> に入る前と同じ生活だ。そうして、いつかはのたれ死にする。
なかなか魅力的《みりょくてき》なプランに思えた。
こういう精神状態《せいしんじょうたい》のとき、ほかの連中《れんちゅう》ならどうするだろうか? <ミスリル> に入る前に知り合った傭兵たちは、よく酒を飲んでいた。酒を浴《あ》びるように飲んで、騒《さわ》いで、喧嘩《けんか》をして、しこたま反吐《へど》をはく。とても楽しそうには見えなかったが、それでもなにかの気が紛《まぎ》れるらしい。酒というのは、そういうものに思えた。
(酒……か)
飲んでみようか、と思った。老戦士《ろうせんし》ヤコブの教えでは、酒を飲むのは愚《おろ》かな行為《こうい》だった。だが、それもこの際《さい》、どうでもいい。なにしろヤコブは死んだのだから。
セブンイレブンが営業中だった。すこし感心しながら、店内に入る。食料品の棚《たな》は、ほとんどからっぽだった。この騒《さわ》ぎで、近隣《きんりん》の住民が買い占《し》めていったのだろう。
ジャック・ダニエル一本と、英字新聞を手にとってレジに出した。持っていた五〇〇ドル札《さつ》を払《はら》ったら、店員の中年女は露骨《ろこつ》にいやそうな顔をしてから、細かい釣《つ》りをどっさりと渡《わた》してきた。
一ブロック離《はな》れた小さな公園まで歩き、ウィスキーの栓《せん》を開けた。
ためらいもせずに一口、ぐいっと飲む。たちまち妙《みょう》な苦みと、喉《のど》が焼けるような熱さが襲《おそ》いかかってきた。思わずむせかえり、はげしく咳《せき》こむ。
ひどい味だった。なんでこんなものを、みんな美味《うま》そうに飲むのだろう? ヤコブの言う通りだ。
酒瓶《さかびん》をくずかごに放り込み、新聞を広げた。
ヴェノム関連の記事一色だった。もちろん『ヴェノム』というコード名は知られていない。謎《なぞ》のASに関するあらゆる情報、あらゆる憶測《おくそく》が書き連《つら》ねられ、軍事評論家《ぐんじひょうろんか》のコメントがずらずらと列記《れっき》してあった。おびえる市民。避難路《ひなんろ》の混雑《こんざつ》。経済《けいざい》への影響《えいきょう》。どれもひどい状態《じょうたい》だった。
そこでふと――小さな三行広告の一つに目が止まる。
『バダフシャンの虎の子へ。ツィムシャツォイのハミドラーに会え』
そのメッセージがおそらく自分|宛《あて》であること――そしてその意味を見抜《みぬ》けるのが、たぶん世界で自分一人だけだということを、宗介は一目で理解《りかい》した。
佐敦《ジョーダン》から尖沙阻《ツィムシャツォイ》のあたりまでは、歩いてわずか一〇分ほどの距離《きょり》だった。
すこし頭がぼんやりしていた。視界《しかい》が狭《せば》まっているような気がする。さっきの一口が効《き》いたのだろうか。
ぽつんと営業していた観光客《かんこうきゃく》向けのカメラ屋に入り、店員にあれこれと質問《しつもん》する。
「アラブ系の店が固まってる雑居《ざっきょ》ビルなら近所にありますよ」
流暢《りゅうちょう》な英語で店員は答えた。宗介は礼を言って、その雑居《ざっきょ》ビルに向かった。
狭《せま》い入り口には、浅黒い肌《はだ》でひげ面《づら》の若者たちが何人かたむろしていた。宗介のことをじろじろと見ていたが、特に話しかけてはこなかった。
雑居ビルの中には、小さな店がごちゃごちゃと詰《つ》め込まれていた。ほとんど市場だ。
騒《さわ》がしい場所だった。
閑散《かんさん》とした表通りとは対照的《たいしょうてき》に、大勢《おおぜい》の客であふれかえっている。ただでさえ細い通路《つうろ》を侵食《しんしょく》するように、様々《さまざま》な商品――衣類《いるい》や食品、電気製品やビデオソフトなどがはみ出して陳列《ちんれつ》されていた。どこかのヒット曲が景気《けいき》良く流され、商談が大声で交わされ、暇《ひま》そうな男たちが四方山《よもやま》話に華《はな》を咲かしている。ことこの雑居ビルに関しては、ヴェノムの脅威《きょうい》からはまるで無縁《むえん》のように見えた。
通路《つうろ》を行き交《か》うのは、なるほど、アラブ系の男たちばかりだった。はるばるこの地まで出稼《でかせ》ぎに来た労働者《ろうどうしゃ》たちだろう。イラン人の数が一番多く、アフリカからの黒人もよく見かけた。
『アフガン人の電気屋はいるか。タジク系でもいい』
Tシャツ屋で暇そうにしていたイラン人に、宗介はアフガン方言のペルシア語でたずねてみた。自分でも驚《おどろ》くほど、発音が錆《さ》び付いていた。
男は返事をしなかった。口を半開きにして、ただぼんやりと宗介を眺《なが》めていた。
もう一度|質問《しつもん》を繰《く》り返す。それでも男は無反応《むはんのう》だった。
あきらめて、となりのCD屋の店主にたずねる。
『三つ先の角を、右だ。奥《おく》に看板《かんばん》がある』
その店主は自分の商品を勧《すす》めようともせず、狭い通路の先を指さした。それから歯の抜《ぬ》け落ちた口をにんまりとさせ、こう言った。
『悪いことは言わん。用が済んだらさっさとこのビルから出ていくことだ。ここではおまえはかわいい乙女《おとめ》のように見える』
『知っている』
通行人のうち数割《すうわり》は、確実《かくじつ》に宗介をそういう[#「そういう」に傍点]目で見ていた。髭《ひげ》もなく、体臭《たいしゅう》もなく、きめの細かい肌《はだ》をした一六歳の東洋人なのだから、致《いた》し方ない。昔《むかし》も別のグループのゲリラと行動を共にすると、決まって妙な親切を受けた。何度か、寝込《ねこ》みを襲《おそ》われそうになったこともある。
目当ての店はすぐに見つかった。
古びたネオンの、看板《かんばん》。あれが電気屋だ。
<<バダフシャンの虎の子へ。ツィムシャツォイのハミドラーに会え>>
そのメッセージは、宗介にとっては非常《ひじょう》に単純《たんじゅん》な符丁《ふちょう》だった。
バダフシャンの虎。かつてアフガン・ゲリラの一派《いっぱ》を率《ひき》いて勇名《ゆうめい》を馳《は》せた、マジードと呼ばれる男の異名《いみょう》だ。山岳地帯《さんがくちたい》での戦いでは並《なら》ぶ者のない戦術家《せんじゅつか》であり、詩人で、同時に建築《けんちく》学者でもあった。
九〇年代の初頭《しょとう》まで、彼の配下《はいか》のゲリラ部隊は無敵《むてき》だった。だがソ連がASをアフガニスタンに本格投入《ほんかくとうにゅう》すると、状況《じょうきょう》は一変した。ASという人型兵器《ひとがたへいき》は、それまでの陸戦兵器と異なり、険《けわ》しい山岳地帯《さんがくちたい》を自由自在に移動《いどう》できる。この新兵器に、生身《なまみ》のゲリラが対抗《たいこう》する手段《しゅだん》はほとんどなかった。マジードの部隊は善戦《ぜんせん》したが、数年の間に壊滅的《かいめつてき》な打撃《だげき》を受け、実質《じっしつ》的に消滅《しょうめつ》した。
マジード自身はそれ以来《いらい》、行方不明《ゆくえふめい》だ。宗介もその生死を知らない。
三年前まで、宗介はそのゲリラの一員だった。『カシム』の名も、マジードから与《あた》えられたものだ。まだ戦況《せんきょう》が有利《ゆうり》だったころ、マジードは信頼《しんらい》する老戦士ヤコブにカシムを預《あず》け、戦いの術と慈悲《じひ》の心を教え授《さず》けるよう命じた。
だから『バダフシャンの虎の子』は、つまり宗介のことだ。マジードにはほかにも何人かの息子《むすこ》たちがいたが、続く一文を読むと、その可能性《かのうせい》は考えにくかった。
『ハミドラー』は、宗介の死んだ仲間の名だ。元はカブール市の電気屋で、内戦で店を失い、ゲリラに加わった。中破《ちゅうは》した敵《てき》ASを修理《しゅうり》して、宗介が使えるようにしたのも、このハミドラーだった。カリーニン少佐はハミドラーとも面識《めんしき》があったが、彼の名前や職業《しょくぎょう》までは知らなかったはずだ。だから、カリーニン少佐にもこの符丁はわからない。わかるのは自分か、死んでしまったゲリラたちだけだ。
このメッセージは、おそらく『相良《さがら》宗介へ。尖沙阻《ツィムシャツォイ》にいるアフガン人の電気屋に会え』と、いうことなのではないか。ほかには考えられなかった。
仲間に生き残りがいたのだろうか? いや、それはない。なぜなら、自分はこの目で彼らの亡骸《なきがら》を見たのだ。
では、その仲間の友人や家族か……?
ありうる話だった。だとして、どうやってこの香港に、自分が来ることを知ったのだろうか? ヴェノムの騒《さわ》ぎと、やはり関係が……?
罠《わな》なのか、救いの手なのか? まったくわからない。
それでも無視《むし》はできなかった。
だからこうして、ここまで来たのだ。
その電気屋は薄暗《うすぐら》い通路《つうろ》の一番|奥《おく》にあり、人気《ひとけ》はなかった。作業服の下からいつでも拳銃《けんじゅう》を出せるようにして、監視《かんし》がいないかチェックする。尾行《びこう》を気にしたのは単なる習慣《しゅうかん》からだったのだが、直後にくだらないことだと思った。いまの自分には、任務もなにもない。死んでもだれも気にかけない。
店をのぞき込んだ。奥に老人がひとり座っている。見覚えはなかった。近付いて声をかけようとすると、その前に老人が口を開いた。
『おまえがマジードの息子《むすこ》カシムか』
『そうだ」
『酒臭《さけくさ》いな……。ろくでもない小僧《こぞう》め。バダフシャンの虎の名を汚《けが》す気か』
『知ったことか。用を言え』
老人は不快もあらわに、小さく折り畳《たた》んだ紙片《しへん》を左手で突《つ》き出した。
『これを渡《わた》すよう頼《たの》まれただけだ』
『だれに』
『香港人の男だ。ほかは知らん。これを持って早く失《う》せろ』
宗介は紙片を受け取り、礼も言わずに店を出た。
紙片を広げる。香港の観光マップの一部だった。
ここから数百メートル離《はな》れた九龍公園《クーロンこうえん》の噴水《ふんすい》に、赤丸で印《しるし》が書き込んであった。
[#地付き]一〇月二二日 一八〇九時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]南シナ海 <トゥアハー・デ・ダナン>
作戦本部との通信は、時間を省略《しょうりゃく》するためにリアルタイムのG回線《かいせん》で行われていた。事態《じたい》がすでに、抜《ぬ》き差しならないレベルに達しつつあったからだ。
『もはや、悠長《ゆうちょう》な偵察《ていさつ》行動を行っている余裕《よゆう》はない。寝込《ねこ》みを襲《おそ》う計画は中止だ』
ボーダ提督《ていとく》の声が告《つ》げた。苦しげな響《ひび》きだった。
『TDD―1のすべてのM9を出撃《しゅつげき》させろ。次にヴェノムが現われたところを、総掛《そうが》かりで仕留めてもらう。ただし、<アーバレスト> の使用は禁止だ。あの機体《きたい》は危険にさらしたくない』
「ま……待ってください」
艦長席《かんちょうせき》から身を乗り出して、テッサは抗議《こうぎ》した。
「部下たちのヴェノム対策《たいさく》は、まだ不完全《ふかんぜん》です。このまま出撃させては、どんな損害《そんがい》が出るか分かりません。せめてあと二時間ください」
『いかん。これはマロリー卿《きょう》の意向《いこう》でもある』
「ですが――」
『南北両軍の緊張状態《きんちょうじょうたい》は、もはや限界《げんかい》だ。それにヴェノムが出現するたびに、多数の死傷者《ししょうしゃ》が出ている。これ以上の被害《ひがい》は許容《きょよう》できない。あと何人が死ぬまで、『待て』というつもりだね?』
残酷《ざんこく》なひとこと。提督の指摘《してき》に、テッサは反論《はんろん》する力を失った。
『ヴェノムの弱点が稼働《かどう》時間だということは聞いている。そこにつけ込むしかないだろう。おまえの部下たちを信頼《しんらい》することだ。そのための最精鋭《さいせいえい》なのだからな』
これはいつもの任務《にんむ》とは違《ちが》う。M9で出撃する何人かの操縦兵《そうじゅうへい》は、帰って来られないかもしれない。この命令は、それを理解《りかい》した上でのものだった。
「…………」
『辛《つら》いかね、テレサ。だが私は言ったはずだ。おまえが往《ゆ》く道の険《けわ》しさを。そしておまえはそれを知った上で、その席から離《はな》れようとはしなかった。ちがうか?』
「……いいえ。おっしゃる通りです」
『そうだ。では任務を遂行《すいこう》しろ、テレサ・テスタロッサ大佐《たいさ》』
「……了解《りょうかい》」
通信を終《お》え、ヘッドセットを外す。
彼女はうつむいたまま、マデューカスに言った。
「潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》まで浮上《ふじょう》。待機中《たいきちゅう》の全M9を水中発進させます。それと、ARX―7に緊急《きんきゅう》展開《てんかい》ブースターを装備《そうび》させてください。<ボクサー> 散弾砲《さんだんほう》を持たせて、エレベーターに待機《たいき》」
「艦長。<アーバレスト> の使用はたったいま禁《きん》じられたはずですが……?」
「おとりくらいにはなります。M9のみんなの危険をすこしでも減《へ》らしたいの。それに……サガラさんがまだ……」
テッサのつぶやきに、マデューカスが小さなうなり声をあげた。
「お言葉ですが、艦長。サガラは任務《にんむ》を放棄《ほうき》したとしか考えられません。あのASとあの男をあてにするのは明らかな間違《まちが》いです」
「そうとは限りません」
「学校のクラブ活動ではないのですぞ」
「知っています。いまさら、わたしに説教ですか?」
艦長と副長の声は、いまや発令所《はつれいじょ》すべてに響《ひび》き渡《わた》るほどのものだった。クルーたちも、驚《おどろ》きをあらわにして二人に注目《ちゅうもく》している。マデューカスはそのことに気付いて一瞬《いっしゅん》躊躇《ちゅうちょ》したが、それでも意を決して、諌言《かんげん》を続けた。
「いいえ、今回ばかりは黙《だま》りませんぞ。あなたは私情《しじょう》を挟《はさ》み、上層部の命令までねじ曲げようとしている。組織《そしき》と軍規《ぐんき》はどうなるのです? 任務を投げ出した一《いち》下士官《かしかん》を特別扱《とくべつあつか》いするなど、もってのほかです!」
ベテランの将校でさえ身をすくめるほどの厳《きび》しい声だったが、それでもテッサは引き下がらなかった。
「けっこう。ではその一下士官に、途方《とほう》もない重責《じゅうせき》ばかり押《お》しつけてきたのはだれですか?」
「それは――」
「わたしたちです! ちがうというなら言ってみなさい!」
「…………」
「六か月前、敵《てき》だらけのあの空港で、我《わ》が身を顧《かえり》みず貴重《きちょう》な情報をもたらしたのはだれ? 四か月前、ヴェノムなど問題にならないほど強力な敵機《てっき》にぶっつけ本番で立ち向かい、それを撃破《げきは》したのはだれ? 二か月前、死力《しりょく》を尽《つ》くしてこの艦を守ったのはだれ?」
「そっ……」
「言ってみなさい! だれなの!?」
静寂《しじま》が発令所《はつれいじょ》を支配《しはい》した。マデューカスはしばらくあっけにとられていたが、ため息をついて、ひとこと、言った。
「……サガラ軍曹《ぐんそう》です」
「そうです。それでもあなたは彼を責《せ》めるの? 彼を臆病者《おくびょうもの》だと決めつけるの?」
「……いえ」
「お望みなら認《みと》めましょう。わたしは彼が好きです。でも、そんな私情《しじょう》なんて関係ない。誓《ちか》ってもいいわ。彼はきっと、またやってくれます。わたしたちを見捨《みす》てたりなんか、絶対《ぜったい》にできません。どんなにいまが駄目《だめ》でも、人間の本性《ほんしょう》は変えられない。彼は――強くて、優《やさ》しいから」
「強くて、優しい?」
長い長い沈黙《ちんもく》の後に、マデューカスは言った。
「艦長。それで私が納得《なっとく》できると?」
「そういうことじゃないでしょう? わたしを信じるの? それとも信じないの? きょうのきょうまで――ここまでやってきたこのわたしを。選びなさい!」
毅然《きぜん》として彼女は言った。
副長は艦長に背を向け、自分の帽子《ぼうし》を脱《ぬ》いだ。ずっと前、記念品として人から贈《おく》られたというその帽子《ぼうし》を見下ろし、刺繍《ししゅう》の部分に親指を沿《そ》わせた。
「お強くなられましたな」
独《ひと》りごとのように、リチャード・マデューカスは言った。
「了解《りょうかい》いたしました。<アーバレスト> を待機《たいき》させましょう」
「ありがとう。わたしは……みんなに無事《ぶじ》で帰ってきて欲しいんです」
うつむき加減《かげん》に、テッサは言った。
実《じつ》のところその口論《こうろん》は、なぜか開いていた艦内の回線《かいせん》を通じて、待機中《たいきちゅう》のM9の操縦兵《そうじゅうへい》たちに筒抜《つつぬ》けになっていた。
「……だってさ。勝手に回線が開いたぞ。だれか、わざといまの聞かせたのか?」
クルツが四人の操縦兵たちに向かって専用回線《せんようかいせん》で言った。
『いや……わからん』
クルーゾー中尉《ちゅうい》が言った。
「少佐かな?」
『さあな』
『それより任務放棄って……本当かね? あのサガラが? とても信じられん』
ウルズ8≠フスペック伍長《ごちょう》が言った。
「中佐《ちゅうさ》がそう言ってただけだろ。鵜呑《うの》みにすんなよ」
『クルーゾー中尉はなにか聞いていないんスか?』
『経緯《けいい》は聞いている。だが、それだけでは判断《はんだん》できない。カリーニン少佐も同じ考えだ。いずれにしても、サガラと <アーバレスト> は戦力の計算外だ』
『ロジャーはどう思う?』
『…………。おれはサガラの本性《ほんしょう》を知らない。だが大佐の言うことには一理《いちり》がある。鷹《たか》は死ぬときまで鷹のままだ』
『鷹のまま……ね』
ひとしきり感想を述《の》べると、SRTの男たちは自機《じき》のチェックを再開した。
「それにしても、テッサがあの副長《ふくちょう》と、ああまではげしくやり合うとはね……」
『サガラが好きなんだろ? 同《おな》い歳《どし》だし』
「それだけじゃないだろ」
クルツはぼやくように言った。
「『みんな無事《ぶじ》に帰ってきて欲《ほ》しい』だとさ。紳士諸君《しんししょくん》、どう思う?」
『もちろんそのつもりだ』
と、クルーゾー。
『我《われ》らの姫君《ひめぎみ》を悲しませるわけにはいかんからな』
と、ウルズ3≠フキャステロ中尉。
『ここまで心配してもらってるとはなぁ。なんてのか、素直《すなお》に感激《かんげき》?』
と、スペック伍長。
『いい将校だ』
と、ウルズ5≠フロジャー・サンダラプタ軍曹《ぐんそう》。
だれもが思いに沈《しず》んでいた。ダニガンとグェンのことがあったのに、無条件《むじょうけん》で自分たちを信じているテッサのことが、ありがたくも、危《あぶ》なっかしくも思えた。
そのおり、発令所から正規《せいき》の回線《かいせん》で、全機《ぜんき》への出撃命令《しゅつげきめいれい》が下された。
『ウルズ1より各位へ。聞こえたな。現地《げんち》でウルズ2と合流し、即応体制《そくおうたいせい》で待機《たいき》。全体の指揮はカリーニン少佐が上空からとる。プロなら期待に応《こた》えろ。俺《おれ》はミスをしない。おまえたちもミスをしない。それで万事《ばんじ》丸く収《おさ》まる。いいな?』
『了解《りょうかい》』
[#地付き]一〇月二二日 一八二四時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]香港《ホンコン》島特別区(人民委員会¢、) <ミスリル> 情報部香港支局
テレサ・テスタロッサが突《つ》きつけられたのと同じ作戦変更命令《さくせんへんこうめいれい》を、ハンターも情報部長のアミット将軍《しょうぐん》から言い渡《わた》されていた。
「……つまり、時間切れというわけですか」
『そういうことだ。あとは作戦部に任《まか》せろ』
「了解《りょうかい》しました」
『けっこう』
スクリーンからアミットの姿《すがた》が消えると、ハンターはまず大声で悪態《あくたい》をついた。
「ちくしょう!」
メリッサ・マオとその上司《じょうし》からの頼《たの》みを引き受けて、貴重《きちょう》な人員を割《さ》き、どうにか敵《てき》の尻尾《しっぽ》がつかめるかと思ったこの矢先《やさき》に。せめてあと――あと二時間待ってくれれば。そうすれば、ほとんどドンパチをしないで済《す》むのかもしれないのに。
「社長。……あの? ハンター社長」
彼の執務室《しつむしつ》に香港人《ホンコンじん》の秘書《ひしょ》が入ってきて、告《つ》げた。
「なんだね」
「来客です。さきほどから、急ぎの用で、お会いしたいという方々が……」
「断《ことわ》ってくれたまえ。私はいま、非常《ひじょう》に虫の居所《いどころ》が悪い。その客人にどんな無礼《ぶれい》を働くか、わかったものではないぞ」
「か、かしこまりました」
一礼して、秘書が下がろうとすると、その秘書を押《お》しのけるようにして、二人の客が彼の執務室に踏《ふ》み込んできた。ひとりは旧知《きゅうち》の情報部員で、もうひとりは――見たこともない東洋人だった。
「あのね、おじさん? いったい、何時間待たせる気なのよ!?」
ハンターに詰《つ》め寄ってきて、その少女は怒鳴《どな》りちらした。
[#地付き]一〇月二二日 一八三一時(中国東部|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]九龍《クーロン》半島特別区(民主連合¢、) 九龍公園
観光《かんこう》マップを片手に、宗介《そうすけ》はだれもいない公園を歩いていった。
ビルだらけの九龍半島の中で、緑の孤島《ことう》のようにぽっかりと開かれた場所――それが九龍公園だった。雰囲気《ふんいき》は、新宿の中央公園によく似ている。
水の止まった噴水《ふんすい》があった。地図に印のあった場所だ。無警戒《むけいかい》に、そばのベンチに腰掛《こしか》ける。周辺《しゅうへん》のチェックなどおっくうで、とてもやる気になれなかった。だれかが自分を殺したいのなら、そうすればいい。その方が楽だ。
街灯《がいとう》は明るかった。遠くに高いビルが建《た》ち並《なら》んでいるのが見える。ここを狙撃《そげき》するのにちょうどいいポジションが、最低でも五か所はあった。
だれもこない。五分がたった。
そばのくずかごから、電子音が鳴り響《ひび》いた。近付いて中を覗《のぞ》く。スナック菓子《がし》の袋《ふくろ》の下に、呼び出し音を奏《かな》でる携帯《けいたい》電話があった。
電話を取り出し、応答《おうとう》キーを押《お》す。
『サガラ・ソウスケだな』
知らない男の声だった。
「そうだ」
『ひとりか』
「そうだ」
『公園の北出口にタクシーが待っている。その電話を持って乗れ』
それだけだった。電話が切れる。宗介は重い腰《こし》をあげて、北口へと向かった。
公園を出ると、コンビニの前にタクシーが一台止まっていた。ほかに車はない。ずっと遠くから、救急車《きゅうきゅうしゃ》のサイレンが聞こえるだけだ。
タクシーに乗りこむと、運転手がなにかを告《つ》げてから車を出した。英語が通じないらしく、なにを聞いても無駄《むだ》だった。大通りを北上し、ごみごみとした下町《したまち》に向かう。どこもかしこも、人の姿《すがた》はまばらだった。
シャッターの下りた金物屋《かなものや》の前で、タクシーが止まった。運転手が身振《みぶ》りで『降りろ』と告げる。金は要《い》らないようだった。
タクシーが走り去る。
しんと静まりかえった夜の下町。灰色《はいいろ》の空を、無数の看板《かんばん》が埋《う》め尽《つ》くしていた。
手にした携帯《けいたい》電話の呼び出し音が、だれもいない街灯《がいとう》に響《ひび》いた。
『黄色い看板があるはずだ。その奥《おく》の郵便《ゆうびん》ポストの、一三号室の中にある合《あ》い鍵《かぎ》を持って行け』
男の声が告げた。電話の背後《はいご》で、なにかの発電機《はつでんき》がうなる音がしていた。
『そばに階段がある。二階へ上がれ。通路《つうろ》がある。五つ目の扉《とびら》を開けて、中に入るがいい。そこであの方[#「あの方」に傍点]が貴様を待っている』
「あの方? だれのことだ」
『ここの地名を思い出してみることだな』
電話が切れた。それきりだった。
宗介は周囲《しゅうい》を見回した。そばにバス停《てい》がある。そこの標識《ひょうしき》には、こう書かれていた。
<<九龍寨城>>
クーロンチャイセン。心当たりはなかった。
いや――九龍。
まさか。そんな。馬鹿《ばか》な。この期《ご》に及《およ》んで。
だが、すべて辻褄《つじつま》が合う。
ここまできてもう後戻《あともど》りはできなかった。宗介は電話の声に言われた通りに、郵便ポストから鍵を取り、金物屋の横の階段を上がった。共同《きょうどう》住宅の通路を歩き、五つ目の扉《とびら》の前で立ち止まる。
「…………」
気力の萎《な》えた彼の身体《からだ》にさえ、いくばくかの緊張《きんちょう》が戻《もど》っていた。鍵をさしこみ、扉を開ける。中は狭苦《せまくる》しいアパートの一室だった。東京のマンションよりも、さらに狭いリビング。家具類《かぐるい》はほとんどない。
薄暗《うすぐら》い部屋の中に、宗介はゆっくりと進んでいった。無意識《むいしき》に、ワイヤーやレーザーなどのトラップを探している自分に気付く。いつの間にか、自動拳銃《じどうけんじゅう》を抜《ぬ》いていた。馬鹿《ばか》げている。これは罠《わな》だ。自分はその罠に真っ正面から乗り込んでいる。
だというのに、足が止まらない。
居間《いま》に出た。窓《まど》の明かりが射《さ》し込んでいる。部屋の奥、深い暗がりの中に、ベッドがひとつあった。そのベッドに、だれかが横たわっていた。
『よお……』
電子的な合成音《ごうせいおん》が、真《ま》っ暗《くら》な部屋に響《ひび》いた。しかもそれは――日本語だった。
『ずいぶん待ったぜ、カシム』
窓の外を通った自動車のライトの反射《はんしゃ》が、ほんの一瞬《いっしゅん》、ベッドに横たわる男の顔を照《て》らす。
その顔――見るも無惨《むざん》に変わり果てた相貌《そうぼう》を目《ま》の当たりにしながら、宗介はつぶやいていた。
「ガウルン……」
広東語《カントンご》の方言で、『九龍《クーロン》』は『ガウルン』と発音する。
九龍半島。九龍公園。九龍城。
なぜそれに気付かなかったのだろう? いや、なぜ気付けたのに、考えようとしなかったのだろう? しかも――相手は自分の『カシム』という名を知っていたのに。ハミドラーや自分のことを知りうる相手が、カリーニンのほかには彼しかいなかったというのに。
だが、この男が生き延《の》びる術《すべ》などなかったはずなのだ。
「ガウルン……」
その男は、小さかった。
腕《うで》が無《な》いのだ。脚《あし》が無いのだ。右の大腿部《だいたいぶ》と、左の上腕部《じょうわんぶ》が残っているだけで――あとは綺麗《きれい》さっぱり、四肢《しし》が欠落《けつらく》している。
いくつもの点滴《てんてき》とチューブ。何本かのコードが医療器械《いりょうきかい》に接続《せつぞく》され、低いうなり声をあげていた。おそらく、もう自力では生きられない状態《じょうたい》なのだろう。
顔も無惨《むざん》なものだった。
左半分の皮膚《ひふ》がはげ落ち、ケロイドのようになっている。左目は潰《つぶ》れ、眼球《がんきゅう》が収《おさ》まっていたはずの空間に、ぽっかりと穴が空いていた。ひきつった歯茎《はぐき》と歯がむき出しになって、こちらに笑みを浮《う》かべている。
その男が、清潔《せいけつ》なベッドに横たわり、たった一つの目で、嬉《うれ》しそうに宗介を見つめていた。
『会えて嬉しいぜぇ、カシム』
合成音《ごうせいおん》が言った。人工|声帯《せいたい》の音だった。
『なにか飲むか? あいにくここは、セルフサービスだけどな』
「なぜ、貴様が――」
『生きている≠セろ? これで三回目だぜ。だが安心しな。今度が最後だ』
がさがさとした雑音《ざつおん》が室内に響《ひび》いた。たぶん、笑っているのだろう。
『忘れてもらっちゃ困る。俺のコダール≠ノは、ラムダ・ドライバが積《つ》んであったんだぜ? いざとなったら、自爆《じばく》から操縦者《オペレータ》を守ることも無理《むり》じゃない。……まあ、もっとも、守ったところでこのザマだけどな。……ククク』
「あの嵐《あらし》で、どうやって……」
『たまたま近所を漁船《ぎょせん》が通ってね。魚の餌《えさ》になったのは、身体《からだ》の半分で済《す》んだってわけさ。海ってのは、わからねえもんだなぁ、おい。生殺《なまごろ》しだぜ。ひでえもんだ』
宗介は自動拳銃を相手の頭部に向けた。
「今度こそ引導《いんどう》を渡《わた》してやる」
『それはけっこう。でも俺の体《てい》たらくを見てくれよ。そう急《せ》いても仕方《しかた》ないと思うんだがね』
「…………。なにが狙《ねら》いだ」
『おまえと話がしたかったのさ』
「ふざけるな」
『本当だって。クック……。見ての通り、俺の時間は尽《つ》きかけてる。それで、ここまで手の込んだ真似《まね》をしたわけだ。組織《そしき》からちょろまかした <コダールm> を、この街《まち》で暴《あば》れさせる。そうすればあの白いASとおまえも呼び出されることになる、って寸法《すんぽう》さ。あのメッセージは、街のあちこちにバラまいておいた。おまえらが調べそうな場所や、目にしそうなメディア。そういうあれこれだ』
宗介が目にした三行広告は、そうした一つだったのだろう。マオやヤンたちも、ひょっとしたらあのメッセージを見つけたかもしれない。だが、彼らにはその意味《いみ》は分からないはずだった。
『そうして、おまえはここに来た。どうせお仲間を引き連《つ》れてくるかと思ってたが……一人かい。どういう風の吹《ふ》き回しだ?』
「おまえの知ったことではない」
冷静《れいせい》を装《よそお》って言ったつもりだったが、ガウルンはわずかな空気の乱《みだ》れを感じ取った様子で、陰気《いんき》な笑い声をもらした。
「ふん。そろそろ居心地《いごこち》が悪くなってきた、ってところかな?……ククク』
「なに?」
『 <ミスリル> に、だよ。正義の味方《みかた》気取《きど》りの、あんな部隊にいたら――だれだってイラついてくるだろうさ。特におまえみたいな男はな』
イラついてくる――その言葉を、宗介は否定《ひてい》することができなかった。その話題に触《ふ》れたくない気持ちが作用《さよう》して、宗介は一方的に話を切り替えた。
「貴様の背後《はいご》の組織《そしき》について喋《しゃべ》ってもらおうか」
『それでも仕事が大事なわけかい? クックック……』
「…………」
『いいだろう。こいつはサービスだ。連中[#「連中」に傍点]への意趣返《いしゅがえ》しもあるしな』
あっさり言うと、ガウルンは饒舌《じょうぜつ》に説明をはじめた。
『 <アマルガム> 。それが俺の雇《やと》われていた組織の名だ。とりあえずの目的は、最新兵器《さいしんへいき》の研究開発とその実戦テスト。そのためにテロや地域紛争《ちいきふんそう》も仕掛《しか》ける。各国のタカ派《は》には、<アマルガム> のシンパが数多く浸透《しんとう》している。冷戦構造《れいせんこうぞう》と軍需《ぐんじゅ》の維持《いじ》を望《のぞ》む奴《やつ》は、東にも西にも多いからな。第五次中東紛争、中華南北戦争、ソ連|内戦《ないせん》……どれも <アマルガム> が関《かか》わっていたって話だ』
「この香港《ホンコン》での騒ぎもか」
『……ククク。これは俺の独断《どくだん》さ。いまごろ <アマルガム> は珍《めずら》しくあわてふためいてるだろうねェ。昔《むかし》、おまえによく似《に》た境遇《きょうぐう》の兄弟《きょうだい》を育てたことがあってな。その二人に命じて、この騒《さわ》ぎを起こした。見てみろよ、このきれいなシーツ。医療器材《いりょうきざい》も最高級品だ。あいつらの忠誠心《ちゅうせいしん》には涙《なみだ》が出るね』
「いまもヴェノムに……?」
『 <コダールm> のことなら、イエスだよ』
「どこに隠《かく》れている」
『言うわけないだろ? そのバッグの中にはなにがある? 答え――通信機だ。俺はそこまでもうろくしちゃいねえよ』
「言え」
拳銃《けんじゅう》を向ける。ガウルンは笑うだけだった。
『おいおい。俺が命を惜《お》しがってると思うか? おまえまでもうろくしたのかよ、おい』
やむなく、宗介は拳銃を下げた。
「…………。<アマルガム> 、と言っていたな。その組織には <ウィスパード> という人間がいるのか?」
『そうそう、そういう質問《しつもん》にしときな。答えはイエスだ。それどころか、主要《しゅよう》メンバーの一人になっている。いけすかねえガキだがね、おもしろい奴《やつ》さ』
「 <ウィスパード> がいるのなら、なぜ千鳥《ちどり》かなめを狙《ねら》う? もう必要《ひつよう》ないだろう」
『完全《かんぜん》じゃないからさ。<ウィスパード> がもたらす知識《ちしき》には、それぞれの個体《こたい》で違《ちが》いがあるそうだ。ラムダ・ドライバの技術理論《ぎじゅつりろん》に強い個体がいれば、潜水艦《せんすいかん》技術くらいにしか力を出せない個体《こたい》もある。その分野はまちまちだ。だから新しい <ウィスパード> が発見されると、まずその個体がどの分野に強いのかを特定《とくてい》する必要がある。順安《スンアン》であの娘《むすめ》にやった検査《けんさ》は、あの娘が本当に <ウィスパード> なのかどうか――それからあの娘はどういう個体なのか――それを調べるものだったみたいだな』
「その結果は」
『 <ウィスパード> であることは間違《まちが》いないようだった。……でもな、どういう専門家《スペシャリスト》≠ネのかは聞かされてないね。<アマルガム> の意向《いこう》は、静観《せいかん》しろ≠チてことだったよ。もう一度|拉致《らち》って調べりゃいい話なのに。理由は知らねえ」
「 <アマルガム> の拠点《きょてん》はどこだ。主要構成員《しゅようこうせいいん》は」
『ククク……。調子《ちょうし》に乗ってあれこれ聞くねぇ? ヒントはバダム=x
「バダム?」
『あとは教えてやらねえ。もういい加減《かげん》、この話|飽《あ》きたよ。話すのは全然かまわねえんだけどな。つまらん話だし――これは本題じゃない』
おかしそうに話すガウルンのひきつった顔を、宗介は黙《だま》って見下ろした。この男に、わずかなりとも頭を下げると思うと虫酸《むしず》が走る思いだったが――それでも彼はこう言った。
「教えてくれ。頼《たの》む」
さぞや相手は喜ぶだろう、と歯がみしながら答えを待った。
だが、ガウルンは喜ばなかった。
それどころか、露骨《ろこつ》に蔑《さげす》むような、それでいていらだたしげな視線《しせん》を宗介に投げつけてきた。
『頼《たの》む≠ゥい。おまえからそういう言葉を聞くと、吐《は》き気《け》がするね』
「なに……?」
『あのいかがわしい <ミスリル> に、魂《たましい》まで売っちまったわけか」
「いかがわしいだと」
『そう。クック……。ここからが本題だ』
咳払《せきばら》いをしてから、ガウルンは言った。
『考えてもみろ。ン十|億《おく》ドルもつぎこんで、あんな潜水艦《せんすいかん》を使ってる組織だぜ? この俺が言うのもこっぱずかしいがね、同じカネでいったい何十万人の貧乏人《びんぼうにん》が救えると思ってんだ?……地域紛争《ちいきふんそう》の抑止《よくし》? 平和の執行《しっこう》? おいおい、冗談《じょうだん》よしてくれよ。<アマルガム> とどう違《ちが》うってんだ。その前に貧乏国の貧村《ひんそん》に井戸を掘《ほ》ってやれっての。そう思わねえか?』
「それは問題のすり替《か》えだ」
『その通り。だがね、胡散《うさん》臭《くさ》さは拭《ぬぐ》いようがない。あのダニガンやグェンが反発したのも、まあ、うなずけるってもんだ』
「…………」
「その <ミスリル> に、おまえがいる。俺にはいまのおまえが、どうにも不自然に思えてね。あのカシム。自分の命にさえ無関心《むかんしん》。人形のように無感動《むかんどう》。忠実《ちゅうじつ》な飼《か》い犬のように、敵《てき》を殺し続けてきたあのカシムが」
その言葉が、<ミスリル> に入る前の時代の記憶《きおく》を呼び起こした。
『思い出せ。俺とはじめて会ったとき、おまえはどうしていた?』
それはもう五年も前のことだ。
ガウルンはアフガニスタン領内《りょうない》に設置《せっち》された、ある傭兵訓練《ようへいくんれん》キャンプの教官だった。カシムはそのキャンプからほど近い山地で、ソ連軍と戦うゲリラだった。カシムとガウルンが出会ったのはちょっとした偶然《ぐうぜん》で、しかもそのとき二人は敵同士ではなかった。もちろん味方《みかた》でもなかったが、利害《りがい》は特に対立していなかったのだ。
ガウルンとはじめて会ったとき、カシムはソ連の一個AS小隊を全滅《ぜんめつ》させ、敵兵《てきへい》の死体を片づけている最中《さいちゅう》だった。
最初の一言はいまでも覚えている。
(精《せい》が出るな、ぼうず。みんなおまえが殺したのか)
道路の脇《わき》にジープを止めて、通りすがりのガウルンはそう言った。まだたくましい四肢《しし》を持ち、額《ひたい》に傷《きず》もなかった。
[#挿絵(img/05_203.jpg)入る]
(そうだ)
カシムは答えて、あたりに散乱《さんらん》するASや装甲車《そうこうしゃ》の残骸《ざんがい》、黒こげの焼死体《しょうしたい》を見渡《みわた》した。その中にただ一機、自分のRk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]が膝《ひざ》を突《つ》いていた。
ガウルンはいまと同じあの陰気《いんき》な笑みを浮《う》かべて、こう言った。
(だとしたら、実に将来《しょうらい》が楽しみだな。名前は?)
(カシム)
(カシム。ここの戦争はじきにおまえらの負けだ。俺のキャンプに来てみるか? 飯《めし》も弾薬《だんやく》もASの部品もあるぜ)
(断《ことわ》る)
(そうかい。じゃあ達者《たっしゃ》でな)
ガウルンは走り去った。カシムは死体の片づけに戻《もど》った。
そういう、それだけの出会いだった。
『おまえは黒こげの死体を黙々《もくもく》と片づけていた』
ガウルンは言った。
『俺も同じ歳《とし》のころ、カンボジアにいたよ。やっぱり黙々と、ポル・ポトの連中《れんちゅう》が虐殺《ぎゃくさつ》した死体を毎日片づけていた。あんときゃ、他人とは思えなくてなぁ……クク』
「それが……どうした」
『あのころ、おまえは実にいい目をしていた。悩《なや》みも迷いも苦しみもない。野生動物のような――いいや、聖人《せいじん》のような目だ。なにが起きても、おまえは驚《おどろ》かなかった。息をするように人を殺し、生命を否定《ひてい》も肯定《こうてい》もしなかった。ああいうのは美しい≠ニ言っていいんだろうな。わかるか? つまり一貫性《いっかんせい》だよ。矛盾《むじゅん》がないってことだ。なあ? 俺って哲学的《てつがくてき》だろ?』
「…………」
『順安《スンアン》でおまえに再会したときな。俺は本当に嬉《うれ》しかったんだよ……クック。まだあのときの――昔《むかし》のいい目をしていた。人の命に無関心だった。そのおまえを、俺が殺すのはなかなかいい。そう思った。死体をASから引っ張り出して、カマを掘ってやろうかとも思った。いや、これは冗談《じょうだん》。クク……ヒィ―――っ、ヒッヒッヒ! ほ、ホントだって!』
大きめのソファーくらいしかない男が、ベッドの上でがたがたと震《ふる》え、ぞっとする声で馬鹿笑《ばかわら》いした。それは無惨《むざん》なようでいて、なおも見た者を戦慄《せんりつ》させる光景《こうけい》だった。
『それが――なんだ、そのツラは?』
笑うのをぴたりとやめて、ガウルンは言った。
「なに?」
『そこいらの虫けらみたいなガキと同じツラだ。悩《なや》んでるのか? 迷ってるのか? あの聖人《せいじん》みてえなおまえは、どこにいった? がっかりだぜ。どうせくだらねえ、クソみてえなことに引っ張られてるんだろ。いまのおまえは矛盾《むじゅん》だらけだ。ひでえブスだよ。俺よりも醜《みにく》い。殺す価値《かち》もないぜ』
「だまれ」
宗介はふたたび銃口《じゅうこう》をガウルンに向けた。
『俺と同類《どうるい》のくせに。なにを普通《ふつう》の奴《やつ》みたいになろうとしてんだ? 反吐《へど》が出るね』
「だまれと言っている」
『いーや、言ってやるぜぇ。おまえは <ミスリル> やあの学校の連中に会って、くだらなくなった。あんな屁《へ》みたいな激弱[#「激弱」に傍点]・激甘[#「激甘」に傍点]の連中に引きずられて、つまらなくなったのさ。さっきイライラしてる≠チて言ったろ? それは連中のせいだよ。ヒューマニズムってやつさ。別名・弱者のルサンチマン。あの殺人聖者・カシムに合うわけねえ。おまえは連中にカモられてるんだよ。いいか? 弱者は強者に寄生《きせい》するんだ。うす甘《あま》い仲間≠セの信頼《しんらい》≠セのをちらつかせて、強者の力を骨《ほね》の髄《ずい》まで吸《す》い取るのさ』
聞きたくなかった。この男の言っていることが、正しく思えて仕方《しかた》がなかったのだ。こんな恐《おそ》ろしいことがあるだろうか。自分がいまこんな状態《じょうたい》になっている最大の理由を、この仇敵《きゅうてき》だけが正確《せいかく》に言い当てているなど。
だが――確《たし》かに自分は弱くなった。本当に弱くなった。それはいつからか?
<ミスリル> と、陣代《じんだい》高校と、彼女に出会ってからだ。
『本音《ほんね》を言ってみろ。弱い奴らと群《む》れるのは楽しいか?』
「うっ……」
ベッドの奥《おく》の暗闇《くらやみ》から、見えないなにかが手招《てまね》きしているようだった。
『答えろよ、ほら。弱い奴らと群れるのは、楽しいのかって聞いてるんだ、ええ!?』
「俺はだまれと言ってるんだ!」
宗介は引き金を絞《しぼ》った。
銃声《じゅうせい》が室内にこだました。銃弾がガウルンの枕《まくら》に当たって、小さな煙《けむり》をあげた。
それだけだった。
『敵《てき》を殺す覇気《はき》もねえわけか』
薄笑《うすわら》いを浮《う》かべて、ガウルンは言った。
「うるさい……」
宗介は消え入りそうな声で答えるしかなかった。顔が熱い。ひどく息苦しい。背中《せなか》が汗《あせ》でべっとりと濡《ぬ》れていた。
そのとき、窓の外を、大きな影《かげ》がよぎった。
ヴェノムだった。
近くのどこかに潜《ひそ》んでいたのだろうか。菱形《ひしがた》の頭部が、四角い窓《まど》から宗介とガウルンを覗《のぞ》き込んだ。
『飛鷲《フェイジュウ》か』
ガウルンが言った。
『そろそろ参《まい》ります』
ヴェノムが外部スピーカーで応《こた》えた。あの携帯《けいたい》電話と同じ声だった。
『そうか。達者《たっしゃ》でな』
『さようなら、先生』
右の拳《こぶし》を左手で覆《おお》って一礼すると、ヴェノムはその身を翻《ひるがえ》し、跳躍《ちょうやく》した。灰色《はいいろ》のASは看板《かんばん》やアパートを軽々と飛び越え、市街《しがい》の中心の方角へと消え去る。機体《きたい》が残した突風《とっぷう》で、窓ががたがたと小刻《こきざ》みに震《ふる》えた。
『あの飛鷲《フェイジュウ》は―― <ミスリル> とやりあって死ぬだろうな。さもなきゃ―― <アマルガム> の実行部隊に殺されるかだ』
「実行部隊……?」
『指揮官《しきかん》がまたイカれた野郎でな。おまえのお仲間≠カゃ、絶対《ぜったい》に歯が立たないだろうね。出会ったとたん、皆殺《みなごろ》しさ。まあ、それはそれでいいんじゃねえのか?……ククク』
「…………」
『俺はこれからくたばる』
天井《てんじょう》を見上げ、ガウルンが言った。これっぽっちの悲壮《ひそう》さもない声だった。
『くたばるにあたって、いろいろと道連れにしようと思う。それが俺の流儀《りゅうぎ》だからだ。あの飛鷲《フェイジュウ》には、これから香港《ホンコン》が火の海になるまで暴《あば》れ続けるように命じておいた。もう一人の飛鴻《フェイホン》には――おまえをくだらなくしてる最大のガン[#「最大のガン」に傍点]を殺すように命じておいた』
「最大の……ガン?」
ガウルンが最後の笑みを浮《う》かべた。心から楽しそうな、満面《まんめん》の笑みだった。
『女だよ[#「女だよ」に傍点]、カシム。まだ知らせが来てないかな?』
「……!」
『俺は一部始終《いちぶしじゅう》を聞いたぜ。あのかわいい制服姿《せいふくすがた》が、ぐっちゃぐちゃだとき。気丈《きじょう》なことに命乞《いのちご》いはしなかったそうだ。最期《さいご》の言葉はごめん……≠セと。これはだれに言ったのかな? ああ、泣けるねぇ』
「う……嘘《うそ》だ」
『本当さぁ? あの娘《むすめ》の死体の写真をここで見せて、絶望療法《ぜつぼうりょうほう》をくらってるおまえの顔が見たかったが――まあ、それは我慢《がまん》するとしよう。だってなあ? カシムったらけっこう、ダメージ見え見え? 東京の〜〜。女〜〜。もう間に合わない〜〜。あ、かわいそ〜〜〜。カナメちゃ〜〜〜ん。いい子だったのにィ〜〜〜』
宗介は銃口をまっすぐガウルンに向けた。銃口はすこしも震《ふる》えていなかった。
「ガウルン……っ!!」
『そぉだ、俺が殺した! さあ憎《にく》めっ!!』
もはや微塵《みじん》の迷いもなかった。宗介はガウルンの胸めがけて、たてつづけに六発|撃《う》った。小刻《こきざ》みにその身体《からだ》が震え、シーツの上に鮮血《せんけつ》が飛び散った。
医療器具の心電図《しんでんず》が、うつろなトーンを奏《かな》でる。
ガウルンはひきつった笑みを浮かべたまま、二度と喋《しゃべ》らなかった。
まぶたは大きく見開かれたまま。すこし前まで、宗介の銃口があった位置をずっと見つめていた。
「……っ。ばかな……」
頭の中が、きいーん、と鳴っていた。
ここがどこで、自分が何者なのかもわからなかった。目の前の死体がなにを意味するのか。遠く離《はな》れた地でだれが死んだのか。
かなめが、死んだ?
無人の町。薄暗《うすぐら》い部屋にただ一人。宗介はこの瞬間《しゅんかん》、本当に世界で一人きりだった。
電子音が聞こえた。
ぴっ…………ぴっ……ぴっ…ぴっぴっぴぴ、と、しだいに高まっていく電子音。医療器具の音ではない。なにか別の――そう、ベッドの下から――
ほとんど空白になった頭の片隅《かたすみ》で、なにかが警告《けいこく》した。
反駁《はんばく》するより早く、身体《からだ》が動く。なぜこの期《ご》に及《およ》んで自分は動こうとするのか、それを問うことさえなかった。床《ゆか》を蹴《け》り、すぐそばの窓を肩《かた》から突《つ》き破《やぶ》る。
直後に、部屋が爆発《ばくはつ》した。
ベッドの下の高性能爆薬《こうせいのうばくやく》が炸裂《さくれつ》し、爆風《ばくふう》がマンションを震《ふる》わせた。窓という窓から、炎《ほのお》の嵐《あらし》が吹《ふ》き出す。爆発の衝撃《しょうげき》は周囲《しゅうい》の窓も叩《たた》き割り、無数《むすう》の破片《はへん》をだれもいない路上《ろじょう》にぶちまけた。
「…………っ」
眼前《がんぜん》に突《つ》き出していた看板《かんばん》にかろうじてぶら下がり、宗介はうめき声をもらした。手がすべる。金物屋《かなものや》の前の歩道に落ちた。
頭上では、炎がはげしく燃えさかっていた。
路上にちらばった破片《はへん》、破片、破片……。宗介はふらつきながら身を起こし、あちこちで小さな火の手をあげるさまざまな建材《けんざい》をぼんやりと眺《なが》めていた。
男が二人、ガラスのちらばった路上を駆《か》けてきた。私服姿《しふくすがた》なので一瞬《いっしゅん》わからなかったが、ハンターの部下の情報部員たちだった。
「ひどいざまだな、軍曹《ぐんそう》」
いまなお炎上《えんじょう》するアパートの二階を見上げ、情報部員が言った。
「……なぜここに?」
「あんたのところの少佐《しょうさ》に頼《たの》まれて、尾《つ》けていた」
「そうか……」
「ここの近所に九龍城《ガウロンサイ》跡《あと》の博物館《はくぶつかん》がある。ヴェノムはその中庭に隠《かく》れていたみたいだな。もっとも……いまとなっては無意味《むいみ》だが」
市街《しがい》の中心部から、砲声《ほうせい》が響《ひび》いてきた。ヴェノムが暴《あば》れているのだろう。さらに複数《ふくすう》の砲声。南中国軍のASが、交戦をはじめたのだ。
いや。南中国軍ではない。あのくぐもった速射《そくしゃ》の音は、よく聞き慣《な》れたエリコン・コントラヴェス社製、GEC―Bライフルの砲声だ。南中国軍はあのライフルを装備《そうび》していない。
「あんたの仲間のM9が戦っているんだ」
「なに?」
「もう時間切れだとさ。ヴェノムに真《ま》っ向《こう》からぶつかる気らしい」
無謀《むぼう》としか思えなかった。<アーバレスト> 抜《ぬ》きで、どうヴェノムに対抗《たいこう》するつもりなのだろうか。あれではほとんど自殺行為《じさつこうい》だ。
「たったいま、無線《むせん》で連絡《れんらく》しておいた。<トゥアハー・デ・ダナン> から、あんたのASをここに送るそうだ」
「なんだと……?」
「詳《くわ》しいことは知らんよ。俺たちはこれから、ヴェノムのねぐらの遺留品《いりゅうひん》を探しにいく。とにかくここを動かんことだ。確《たし》かに伝えたからな」
そう言って、情報部員たちは宗介の前から走り去っていった。
取り残された宗介は、寂寞《じゃくまく》としてその場にたたずむしかなかった。
( <アーバレスト> がここに……?)
だが、もはや自分があの機体《きたい》を使いこなせるわけがなかった。自分の運命を狂《くる》わせたあのASの姿《すがた》など、金輪際《こんりんざい》見たくない。<デ・ダナン> に『無駄《むだ》だ、やめてくれ』と連絡《れんらく》したかったが、通信機の入ったバッグはガウルンと一緒《いっしょ》に吹《ふ》き飛んでしまった。
(ガウルン……)
あの爆発《ばくはつ》の前、あと一秒、反応《はんのう》が遅《おく》れていたとしたら、自分はあの部屋の中で死んでいたことだろう。あの男は、やはり自分を道連れに殺すつもりだったのか……?
いや。
そうではない。試《ため》したのだ。あの瞬間《しゅんかん》、心気が萎《な》えて動けない自分だとしたら、もはや生きている価値もない。なにか致命的《ちめいてき》なものを失い、それでもなお動こうとする自分。その習性《しゅうせい》を、あざ笑いたかったのだろうか。『俺は死ぬ。おまえはもっと苦しめ』と言いたかったのだろうか……?
たぶん、そういうことなのだろう。
ガウルンは千鳥《ちどり》かなめを殺すことで、自分から希望や未来を奪《うば》い去った。あの男の企《たくら》みが正しくそれだったなら、その呪《のろ》いは成就《じょうじゅ》したことになる。
かなめが死んだ。
まるで実感《じっかん》がわかない。
だが自分の心に残っていた、なんらかの光、なんらかの暖《あたた》かみが消えてなくなってしまったことは感じていた。これまで見てきた、たくさんの死。陰気《いんき》なアルバムの中の一枚に、彼女が仲間入りを果《は》たしたわけだ。
涙《なみだ》は出ない。ただ、あの憂鬱《ゆううつ》な感覚が久しぶりに戻《もど》ってくるだけだった。
こんなものだ。
なにも変わらない。
未来《みらい》など、元からなかった。
荒涼《こうりょう》とした胸の隙間《すきま》を、冷え冷えとした風が吹き抜《ぬ》けていく。自分に対する無関心《むかんしん》。生命に対する無関心。もはやだれが死んだとしても、自分の心にはきざ波一つたたないだろう。
空から轟音《ごうおん》がした。
無数の看板《かんばん》で覆《おお》われた狭《せま》い空。その南の方角に、白い鳥が見えた。
鳥ではない。<アーバレスト> だ。
緊急展開《きんきゅうてんかい》ブースターの翼《つばさ》で夜空を滑空《かっくう》し、こちらへとまっすぐ向かってくる。ブースターの燃焼《ねんしょう》が終了《しゅうりょう》。翼を切り離《はな》し、パラシュートが開く。
減速《げんそく》。まだ足りない。二次|開傘《かいさん》。さらに減速。
パラシュートを切り離した白い巨人《きょじん》が、無数の看板《かんばん》を貫《つらぬ》くようにして、無人の道路《どうろ》に落下してきた。アスファルトが粉々《こなごな》に砕《くだ》け、ちぎれた看板と一緒《いっしょ》に路上を弾《はず》む。それでも勢《いきお》いは止まらず、<アーバレスト> は姿勢《しせい》を崩《くず》し、前のめりになってこちらに突っ込んできた。狭苦しい市街地《しがいち》のせいで、着地《ちゃくち》に失敗したのだ。
「…………」
巨体が迫《せま》る。きわどいところで宗介の横を通り過《す》ぎ、<アーバレスト> は炎上中《えんじょうちゅう》のアパートに胸から激突《げきとつ》した。突風《とっぷう》が宗介の髪《かみ》を、作業服をなぶったが、彼は身をすくめようともしなかった。白い機体《きたい》が右腹を下にして倒《たお》れこむ。衝突《しょうとつ》でまき散《ち》らされた燃え上がる建材が、機体の周囲《しゅうい》にまき散《ち》らされた。
みっともない着地だった。最低だった。まるで自分のようだった。
炎《ほのお》の中で、ぐったりと倒れたまま動かない機体。その頭部の二つ目が、こちらをぼんやりと見つめていた。
(俺たちは最悪のコンビだ)
<アーバレスト> の目が、彼にそう語りかけていた。
(おまえが俺を嫌っているのは知っている。俺もおまえが嫌いだ。だからこのまま、ここを立ち去ってもらっても結構《けっこう》だよ。つまり、俺もやる気ゼロってことさ。もう、それでいいじゃないか)
すくなくとも、宗介には <アーバレスト> がそう言っているように思えた。
(どうせ誰《だれ》が死のうと、おまえは構《かま》わないんだろう? クルツやマオたちがどうなっても、知ったことじゃない。どうせみんな、遅《おそ》かれ早かれくたばるんだ。千鳥かなめと同じように。アフガニスタンの連中もそうだった。みんな死ぬ。おまえもだ。そういう世界なんだ。あきらめろよ)
あざ笑われているような気がした。小馬鹿《こばか》にされているような気がした。ただの機械に、軽蔑《けいべつ》されているような気がした。
それでも、腹は立たなかった。
「……そうだな」
宗介はつぶやいた。冷え冷えとした、うつろな声で。
「そのままそこで朽《く》ち果《は》てろ」
どうでもいい。興味《きょうみ》ない。なにが起きようと知ったことか。
彼がその場を立ち去ろうとした、そのとき。
日本語で、女の声がした。
「あんた、なにボーッと突《つ》っ立ってワケのわかんないこと言ってんの?」
振《ふ》り向くと――
道路の真ん中に、千鳥《ちどり》かなめが仁王立《におうだ》ちしていた。
本当に目をこすってしまった。
かなめは陣代《じんだい》高校の制服姿《せいふくすがた》のままだった。右|肩《かた》にボストンバッグを提げている。頭のてっぺんからつま先まで、なにもかも、よく知った彼女だった。いや――よく見れば、すらりとした白い脚《あし》のあちこちに、絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》ってある。右の膝《ひざ》にはサポーター。顎《あご》にもぺたりとバンドエイドが貼ってあった。
「な…………」
「『な』じゃないわよ、『な』じゃ」
どこからどう見ても千鳥かなめにしか見えないその少女は、しかめっ面《つら》で言った。
「……千鳥?」
幻覚《げんかく》ではない。生きている。
だがいったい、なぜここに? どうやって自分の居場所《いばしょ》を?
彼はふらつきながら、かなめに歩み寄っていった。
「千鳥……無事《ぶじ》……だったのか?」
「いちおうね」
「……死んだと……思っていた。ちど――」
横《よこ》っ面《つら》にボストンバッグを『ぼふっ!!』と叩《たた》きつけられ、宗介は大きくよろめいた。
「…………な?」
「『な』じゃないわよ、『な』じゃ!?」
かなめは一気に怒鳴《どな》り散らした。
「さんっざん、苦労してここまで来てみれば。なにが『死んだと思ってた』よ!? あたし、さっきまであんたに会ったら飛んでいって抱《だ》きついて――その、アレな感じになるだろうと思ってたのに。もー、全っ然そういう気なくなったわ。どういうつもりよ!? え? どう責任《せきにん》とってくれるの!?」
「いや、待ってくれ。その、話がよく――」
「やかましいっ!!」
あごに鉄拳《てっけん》が叩《たた》きこまれた。
「がはっ……」
「痛い? 痛いでしょ? これはあたしの心の痛み。そしてこれが……!!」
首筋《くびすじ》に手刀《しゅとう》が繰《く》り出された。
「ごふっ……」
「あたしの体の痛み! さらにっ!!」
かなめは飛翔《ひしょう》し、宗介のみぞおちに膝蹴《ひざげ》りをめり込ませた。
「ぐほっ……」
「これはあたしの! 魂《たましい》の痛みよっ!!」
がっくりと膝を落とした宗介に向かって、かなめはブルース・リーのように拳《こぶし》を突《つ》き出し、わなわなと震《ふる》わせた。
「なにがいったい……どうなってる?」
「情報部の人よ。『レイス』って呼ばれてるんだっけ?」
鼻をふんと鳴《な》らして、彼女は言った。
「ヘマやってあたしを死なせかけたのをバラされたくなかったら、あたしをここに連れていけって。そう脅《おど》したの。ニュースであのガウルンとかいう奴の乗ってたASが映ってたから、ピンときたわ。絶対《ぜったい》あんたはこの街《まち》に来てる、ってね」
「だ……だが、ここは戦争の一歩手前なんだぞ。危険《きけん》だ」
「知ってるわよ。航空便《こうくうびん》もほとんど無《な》かったから、ここに来るまで丸一日かかったわ。本っ当に苦労したんだからっ!!」
「しかし、なぜ……」
なぜここに? そんな危険を冒《おか》してまで。宗介にはその理由《りゆう》が想像《そうぞう》できなかった。
「それは――」
見上げると、かなめは視線《しせん》を逸《そ》らして、いたずらをとがめられた子供のように言った。
「だって。あれでおしまいなんて……その」
「え……?」
「なんでもない。あ、あんたが勝手《かって》に……学校やめてどっか行っちゃったから、メチャクチャ頭に来たのよ! 草の根分けても探し出して、首根っこひっつかんで連れ帰ろうと思ってたの! なぜならあたしは――」
かなめはぎゅっと拳を握《にぎ》って、なにか重大《じゅうだい》なことを言おうとした。
「あたしは――」
「君は?」
彼女は自分を励《はげ》ますように頭をこつこつと叩いて、気合いを入れ――だが、けっきょくこう言った。
「あたしは――、学級委員だからよ」
「…………?」
宗介がほけっとしていると、かなめは彼の前で深いため息をついて、『やっぱり一日も経《た》つと、決意《けつい》って薄《うす》れるのよね……』と、わけのわからないことを言った。
「つまり、なんなのだ?」
「うるさいっ! だ……だいたい何なの、あんたこそ!? こんなところで油売ってる場合!? 街中《まちなか》で悪い奴《やつ》が暴《あば》れてるんでしょ!?」
「いや、だが――」
「だが、なによ? ボケーっと突《つ》っ立って、あのASを眺《なが》めてただけじゃないの。なに、さっきのあのツラは? まるで昔のあんたみたい」
「なに……?」
「あたしがあんたを『相良《さがら》くん』って呼んでたころよ。なんか……自分のことなんかどうでもいい、って感じだった。すごい冷たくて。悲しくて、悲しくて。……あー、あたし、なに言ってるんだろ。つまりね? その……」
口ごもりながら、かなめはたどたどしく続けた。
「実はさっき、マオさんから無線《むせん》で聞いたの。ソースケがダメになりかけてるって。やる気とか『がんばろうっ!』って気持ちとか、そういうのがなくなっちゃった、って……」
「…………」
「でもね? みんなが困ってるとき、放《ほう》っておけないのがあなたでしょ?」
「俺が……?」
「そう」
「だが千鳥。俺は。君を……置き去りにして……」
俺しか頼《たよ》る相手がいなかったのに、俺は君を見捨《みす》てた。あんなくだらない、ただの『命令』に従《したが》って。そんな俺を、君は――
「だって、もういいじゃない。こうやって、また会えたんだから……。わかってるわよ。言い出せなかったんでしょ?」
「……すまない」
「もう……臆病《おくびょう》なんだから」
「臆病……」
「そうよ。とっても臆病。でも強い。とっても優《やさ》しい。ダメな奴《やつ》だけど、なんとかする。それが……本当のソースケなんだと思う」
かなめが照《て》れくさそうに笑った。魔法《まほう》のような微笑《ほほえ》みだった。
「だって……そうでしょ?」
ひどく不器用《ぶきよう》なその言葉が、あの男の呪《のろ》いを消し去ってくれた。驚《おどろ》くほどに。綺麗《きれい》さっぱり。全身にこびりつく赤茶《あかちゃ》けたよどみが、清水《せいすい》で洗い流されていく心地《ここち》だった。
臆病《おくびょう》。
ガウルンは自分を『強者だ』と言っていた。
だがそれは――間違《まちが》いだ。自分は弱い。弱い上で、強くなろうとしていただけだ。臆病者でいられなかったのは、強くなる必要《ひつよう》があったから――理由はそれだけだ。守るものの持つ重《おも》さ。以前の自分は、それを知らなかっただけなのだ。
自分は矛盾だらけで、弱い存在《そんざい》だ。
ヒーローじゃない。世界を救うこともできない。ただ――周囲《しゅうい》の何人かを救えるか救えないかの、そういうくだらない男の一人だ。
そんな男が、果たして戦士《せんし》たりえるだろうか?
たりえる。
そういうときが、あるのだ。どんな皮肉《ひにく》か、自分はその機会を、数知れず与《あた》えられてきた。
そしていまも、そのときなのだ。
あの炎《ほのお》の向こうで、仲間たちが待っている。
これまでの人生――陰気《いんき》で憂鬱《ゆううつ》な運命に立ち向かう術《すべ》を、自分は持っているはずじゃないのか? 戦うってのはそういうことじゃないのか?
そうだ。
宗介はうつむき、ためらいがちに、ゆっくりと言った。
「千鳥……。俺は――」
がっ!!
かなめに蹴たぐり倒されて、宗介は香港《ホンコン》の大地に接吻《せっぷん》をした。
「なにを――」
「『ちどり。おれわ』じゃ、なぁ―――いっ!!」
かなめが力いっぱい、彼を叱《しか》りとばした。
「いや、それは……」
「やかましいっ!! 時間がないんでしょっ!? だいたいあんた、世界史の単位がヤバいのよっ!? 明日の五時間目! まだ間に合うんだから! さっさと行って――」
びしりと中心街の戦火《せんか》を指さし、
「――片づけてきなさいっ!!」
続いて、横たわったままの <アーバレスト> を指さす。
白いASの二つ目が、いまでは彼にこう言っていた。
(さあ、どうする?)
それは猛獣《もうじゅう》の狩《か》りに似《に》た危険なゲームだった。
クルーゾーらM9六機は、南中国軍のM6一機を撃破《げきは》したばかりのヴェノムを、執拗《しつよう》に包囲《ほうい》し、追撃《ついげき》した。
戦闘開始《せんとうかいし》から最初の三〇秒で、スペック伍長《ごちょう》のM9がヴェノムに食われた[#「食われた」に傍点]。複雑《ふくざつ》な市街地《しがいち》と無数《むすう》の看板《かんばん》のために退路《たいろ》を誤《あやま》り、敵《てき》の接近《せっきん》を許《ゆる》してしまったのだ。スペック機はラムダ・ドライバの衝撃波《しょうげきは》を食らって、完全《かんぜん》に沈黙《ちんもく》した。戦闘《せんとう》の混迷《こんめい》の中では、損傷《そんしょう》の状況《じょうきょう》や操縦者《そうじゅうしゃ》の生死を確認《かくにん》する余裕《よゆう》はなかった。
『ウルズ1、そっちに行ったぞ!』
マオがクルーゾーに鋭《するど》く警告《けいこく》した。
「見えた。たったいま――」
がつん、と至近距離《しきんきょり》の爆発《ばくはつ》が襲《おそ》いかかる。敵機《てっき》が対戦車《たいせんしゃ》ダガーを投《な》げつけたのだ。
『ウルズ1っ!?』
爆炎《ばくえん》の向こうから、ヴェノムが肉薄《にくはく》していた。クルーゾーは高層マンションを背《せ》にして、ライフルを発砲《はっぽう》する。白い砲弾《ほうだん》が弾《はじ》け、でたらめな方向へと跳弾《ちょうだん》し、建材《けんざい》の破片《はへん》が雨となって降《ふ》り注《そそ》いだ。
ヴェノムが迫《せま》り、拳《こぶし》を突《つ》き出した。すんでのところでクルーゾーは身をかがめる。空を切った拳と、その拳がまとう空間のゆがみが、M9の右|肩《かた》と、背後のビルをまとめて吹《ふ》き飛ばした。
猛烈《もうれつ》な衝撃と、甲高《かんだか》い空気の悲鳴。ほんの一瞬《いっしゅん》、気が遠くなる。
「…………っ!」
クルーゾーは機体《きたい》の姿勢《しせい》を巧《たく》みに回復《かいふく》させ、同時に旋風《せんぷう》のような回し蹴《け》りを放った。頭にM9の踵《かかと》を食らって、ヴェノムがわずかによろめく。さらに膝蹴《ひざげ》り。さらに肘打《ひじう》ち。すかさずクルーゾーは腰《こし》から単分子《たんぶんし》カッターを抜《ぬ》こうとしたが――右腕が反応《はんのう》しない。いや、肩から下が無《な》くなっていた。
「!」
ヴェノムが容赦《ようしゃ》なく迫《せま》り、こちらに手刀《しゅとう》を振《ふ》り上げた。
『動くな、ウルズ1』
クルツの声。長距離《ちょうきょり》の狙撃《そげき》がヴェノムに炸裂《さくれつ》する。横《よこ》っ腹《ぱら》を殴《なぐ》られたように、敵機《てっき》の機体《きたい》が飛び跳《は》ねた。その隙《すき》にクルーゾーのM9は跳躍《ちょうやく》し、ヴェノムからすばやく距離をとる。並《な》みの操縦兵《そうじゅうへい》だったなら、逃《のが》れることさえできなかっただろう。
『また跳ね返した。ゴキブリみてえな野郎《やろう》だ、くそっ!』
「助かった、ウルズ6」
『これで貸し二つだぜ、中尉《ちゅうい》さん』
『|パース1《カリーニン》よりウルズ1へ。損害《そんがい》を報告《ほうこく》しろ』
上空のヘリから指揮《しき》をとっていたカリーニン少佐が、無線《むせん》で告《つ》げた。
「こちら……ウルズ1。右腕が使用不能《しようふのう》。火器《かき》も喪失《そうしつ》。操縦者《そうじゅうしゃ》は軽傷《けいしょう》。冷却系《れいきゃくけい》も不調《ふちょう》。長くは動けそうにない」
右腕のあちこちが、焼けるように痛かった。火傷《やけど》のような感覚に似ている。これもあのラムダ・ドライバの作用なのだろうか……?
『わかった。南へ三ブロック待避《たいひ》しろ。三叉路《さんさろ》がある。南西に折れてエリア11[#「11」は縦中横]Aまで誘《さそ》い込め』
カリーニンはあくまで冷静に、的確《てきかく》な指示《しじ》を出す。
「ウルズ1了解《りょうかい》」
『ウルズ6は西へ移動《いどう》。いまデータを送った。図上《ずじょう》の交差点に射撃《しゃげき》ゾーンを作って待機《たいき》。ヴェノムが飛び込んできたら一弾倉《いちだんそう》ほど発砲《はっぽう》して西へ逃《に》げろ」
『ウルズ6了解』
『パース1より各位へ。情報部から連絡《れんらく》があった。ウルズ8はとりあえず生きているそうだ。回収《かいしゅう》作業が進行中。戦闘《せんとう》開始から三〇〇秒が経過《けいか》した。あと一〇〇秒持ちこたえろ。流れは傾《かたむ》きつつある』
カリーニン少佐の見立てはほぼ正しいと、クルーゾーも判断《はんだん》していた。こちらも痛手《いたで》を受けているが、ヴェノムの動きが、最初に比《くら》べて緩慢《かんまん》になりつつある。エネルギーの問題か、搭乗者《とうじょうしゃ》の問題か――それはわからない。だが敵が消耗《しょうもう》しつつあることは間違《まちが》いなかった。
行ける。まだ安心するにはほど遠かったが、トラブルさえなければ、遠からずヴェノムを包囲殲滅《ほういせんめつ》できるだろう。こちらの戦術《せんじゅつ》が勝利しつつあるのだ。
だがその前に、なんとかヴェノムから逃げ切らねば。
クルーゾーの機体《きたい》は小さな跳躍《ちょうやく》を繰《く》り返して、狭苦《せまくる》しい街路《がいろ》を突き進んだ。AIが機体の動力系の不調を訴《うった》えている。もうそれほど長くは動けそうにない。
「こちらウルズ1。三叉路を抜《ぬ》けた。もうすぐ交差点の前に……?」
ヴェノムが後ろから迫ってくるのにもかかわらず、クルーゾーはだだっ広い交差点の前で立ち止まった。
『どうした、ウルズ1』
「ばかな……」
『ウルズ1、状況《じょうきょう》を説明しろ』
「ヴェノムが――」
クルーゾーの立ち止まった交差点。その正面の角――ネオンの消えたショッピング・センターの屋根に、五つの影《かげ》があった。
五機のAS――五機のヴェノムだった。
五機のヴェノムが、それぞれの赤い一つ目でクルーゾーを見下ろしている。どれも暗い赤色の塗装だった。
「ヴェノムが……五機いる」
『なに?』
『こちらウルズ6。俺からも見えた。本当だ。……五機』
クルツの声も、さすがにこわばっていた。
クルーゾーを追ってきた最初のヴェノムが、やはり交差点の手前で立ち止まった。その赤いセンサーの視線《しせん》は、クルーゾー機ではなく新たな五機にまっすぐと注《そそ》がれていた。
『ずいぶんと派手《はで》に暴《あば》れてくれたな、飛鷲《フェイジュウ》?』
五機のうち一機が、外部スピーカーで告《つ》げた。カラスを思わせる甲高《かんだか》い男の声。クルーゾーの存在《そんざい》など、気にもとめていない様子《ようす》だった。
「組織からm型≠強奪《ごうだつ》し、さらに計画外の地域《ちいき》でこのような騒《さわ》ぎを起こすとは。気でも狂《くる》ったかな?』
『狂っているのはお互《たが》いさまだ、ミスタ・|K《カリウム》』
灰色《はいいろ》のヴェノムがはじめて喋《しゃべ》った。
『俺と弟が故郷を失ったのにも、<アマルガム> が一枚|咬《か》んでいたらしいな。そのおまえたちに一泡《ひとあわ》吹《ふ》かせてやれるなら、おれは本望《ほんもう》だ』
『ふむ……。弟かね。ここで対面させてやろうか?』
『なに?』
黒いヴェノムが右手をすっと差し出した。その指が、人間のサイズでいったら鶉《うずら》の卵くらいの、小さな塊《かたまり》をつまんでいた。
人間の頭だった。
『うっ……!』
『ミスタ・|Ag[#「Ag」は縦中横]《シルバー》に頼《たの》んで譲《ゆず》り受けたものだ。彼は弔《とむら》いたがっていたようだがな。だがこの私は許さない。裏切り者は、薄汚《うすぎたな》い街角《まちかど》に骸《むくろ》をさらすのがふさわしい』
そう言って、赤いヴェノムは首を無造作《むぞうさ》に放り投げた。首は高々と放物線《ほうぶつせん》を描《えが》き、遠くのビルの向こうに落ちていった。
『ああ、哀《あわ》れ。ウフフフ』
『貴様……!』
灰色のヴェノムが跳躍《ちょうやく》した。クルーゾーのM9を飛び越え、まっしぐらに五機へと突《つ》っ込んでいく。
『おまえも、哀《あわ》れ』
次の瞬間《しゅんかん》、五機が同時に動いていた。
長槍《ながやり》、太刀《たち》、大型ナイフ――それぞれの武器が、一斉《いっせい》に灰色《はいいろ》のヴェノムに襲《おそ》いかかる。あたりの空間が激《はげ》しくゆがみ、ショッピング・センターの外壁《がいへき》が粉々《こなごな》になった。
「うっ……」
クルーゾーは機体《きたい》をその場から飛びすさらせる。小さな破片が装甲《そうこう》に当たって、乾《かわ》いた音が鳴り響《ひび》いた。煙《けむり》が晴れる。ぼろぼろのショッピング・センターの上で、灰色のヴェノムがよってたかって串刺《くしざ》しにされていた。まるでハリネズミだ。
五機がヴェノムを放り捨てる。路上《ろじょう》に落ちた灰色の機体は、煙《けむり》と火花をまき散らして、それきり動こうとしなかった。
あれほど手こずった敵機《てっき》が、一瞬で。
あの五機も、例外なくラムダ・ドライバを積んでいる……?
『ベン!?』
マオのM9がその場に飛んできて、クルーゾーを助け起こそうとした。
『聞こえないのか、ウルズ1。作戦中止だ。待避《たいひ》しろ』
カリーニンが警告《けいこく》した。
「だめだ。動力が不調《ふちょう》で……最低限の機動《きどう》しかできない」
『機体を捨てろ。至急脱出《しきゅうだっしゅつ》を――』
『ところで、おまえたち』
真ん中のヴェノムがクルーゾーたちに言った。はじめて彼の存在に気付いたような口振《くちぶ》りだった。
『 <ミスリル> の兵隊だね?』
「…………」
『特におまえたちに用はなかったのだが……たった一機を潰《つぶ》しただけでは物足りない。ちょうどいい実戦訓練《じっせんくんれん》だ。おまえたちも殺させてもらうよ?』
「なに……」
あの場所から、五機がここに飛びかかってくるまでは一瞬だろう。ハッチを開いて、機外に出て、マオに運んでもらうゆとりはない。
『もう一度いう。パース1より全機。撤退《てったい》しろ。至急《しきゅう》だ』
「もういい。逃げろ、マオ」
クルーゾーが|叫《さけ》んだ。
『そっ――』
「はやくいけ!」
瓦礫《がれき》の山と化したショッピング・センターの屋上で、五機が余裕《よゆう》たっぷりの動きで、構《かま》えをとった。それぞれの武器をまっすぐ構え、跳躍《ちょうやく》の予備動作《よびどうさ》に入る。
『覚悟《かくご》はお済《す》み? では、さような――』
その直後、先頭の二機の右|肩《かた》に、どこからか飛んできた砲弾《ほうだん》が命中した。赤い装甲《そうこう》が引きはがされ、煙《けむり》を噴《ふ》いて後ろへと吹《ふ》き飛ぶ。
ラムダ・ドライバを搭載《とうさい》しているはずのヴェノムが、被弾《ひだん》したのだ。
『な……?』
五機のヴェノムが、交差点の対角線上《たいかくせんじょう》にあるビルの屋上に目を向けた。
「だれが撃《う》った。ウェーバーか?」
『いや。俺はいま撃とうとしたところ。で……ようやくおいでなすってくれたわけか』
「?」
この窮地《きゅうち》の中で、クルツの声はどこか楽しそうだった。
『しっかも……おまえ、このタイミング。おいしすぎじゃねえのか、なあ?――ソースケよ!?』
『そのようだな』
あの軍曹《ぐんそう》の声がした。
五機のヴェノムと向かい合う、ひときわ高い屋上に、一機のASが立っていた。ぼんやりとした街《まち》の光の中に、その白い姿《すがた》が浮《う》かび上がっている。
『ウルズ7より各位へ――』
愛用のショット・キャノンを手に、<アーバレスト> が五機のヴェノムを睥睨《へいげい》した。
『待たせてすまなかった。あとは俺に任せてくれ』
機体のパワーが上昇《じょうしょう》する。
『巡航《クルーズ》』から『戦闘《ミリタリー》』へ。さらに上の『最大《マックス》」へ。
うなり声の高まるコックピットの中で、宗介はつぶやいた。
「いま、作動《さどう》したな」
<<肯定《こうてい》です、軍曹|殿《どの》。ラムダ・ドライバが確実《かくじつ》に作動しました>>
アルが応《こた》えた。
「…………。動いたり動かなかったり。まったく、あてにならない装置《そうち》だな」
<<私もそう思います>>
「おまえは俺よりも冗談《じょうだん》がうまいようだ」
<<|肯 定《アファーマティブ》>>
「憎《にく》まれ口も、な」
カリーニンから短いメッセージが入った。
『|パース1《カリーニン》よりウルズ7へ。調子《ちょうし》は戻《もど》ったか』
「肯定《こうてい》だ、パース1」
『では好きにやれ』
「了解《りょうかい》」
モニターの中、ヴェノムたちがこちらを見上げている。
五機相手。やれるだろうか? 相手は旧型の <サベージ> ではない。たった一機でもさんざんてこずってきたヴェノムなのだ。
やれそうだ。
そう思った。
俺とこの機体なら。俺たちは最悪のコンビだが――それでもこれまで持ちこたえてきたのだ。相性《あいしょう》なんぞに、文句《もんく》を言っていてもはじまらない。
ダメなやつだが、なんとかする。
それがこの機体。それが俺なんだろう、千鳥?
一度、深呼吸《しんこきゅう》した。
両手のスティックを握《にぎ》り直し、軽く振《ふ》る。操縦者《そうじゅうしゃ》の動作に反応《はんのう》して、機体が力強く両腕《りょううで》を左右にのばした。
「行くぞ……!」
<<了解《りょうかい》!>>
屋上の縁《ふち》から足を踏《ふ》み出す。ふわりと空気に乗るようにして、<アーバレスト>は虚空を落下《らっか》した。
頭を地面に向けたまま、眼下《がんか》の五機に銃口《じゅうこう》を向ける。まずは右|端《はし》――
発砲《はっぽう》。
ショット・キャノンから吐《は》き出された徹甲弾《てっこうだん》が、まばゆい虹色《にじいろ》の光の尾《お》を曳《ひ》いて、一機のヴェノムの胴体《どうたい》に突《つ》き刺《さ》さった。装甲《そうこう》と部品の破片《はへん》が、背中《せなか》の真ん中からぶちまけられる。
たった一撃《いちげき》。
発砲の反動《はんどう》を利用して、宗介は体の姿勢《しせい》を一八〇度変えてやった。脚《あし》を下にして着地《ちゃくち》。アスファルトが砕《くだ》け、全身の駆動系《くどうけい》から衝撃吸収剤《しょうげききゅうしゅうざい》が吹《ふ》き出した。
『な、なんだとッ……!?』
あまりにもあっけなく部下が撃破《げきは》されたことに驚《おどろ》きながら、指揮官機《しきかんき》が散開《さんかい》を命じた。
左右に分かれたヴェノムが、銃火器《じゅうかき》を抜《ぬ》いて発砲する。宗介が軽いステップを踏《ふ》むと、<アーバレスト> が旋風《せんぷう》を巻き上げその身を翻《ひるがえ》した。たくさんの砲弾《ほうだん》が、彼の周《まわ》りで踊《おど》り回る。
跳躍《ちょうやく》。弾幕《だんまく》を飛び越え、道路に突《つ》き出した看板《かんばん》を踏《ふ》み台《だい》にする。九トンの自重《じじゅう》にもかかわらず、看板は折《お》れなかった。理由《りゆう》などどうでもよかった。
右へ。左へ。ヴェノムたちの射撃《しゃげき》をかわし、<アーバレスト> は空中で宙返《ちゅうがえ》りをする。一機がちょうどいい場所に来た。
発砲《はっぽう》!
敵機《てっき》は両腕《りょううで》をクロスさせ、ショット・キャノンの弾《たま》を防《ふせ》ごうとした。その両腕ごと、虹色《にじいろ》の砲弾がヴェノムを貫通《かんつう》した。ほとんど胴体《どうたい》を真《ま》っ二《ぷた》つにして、赤い機体《きたい》が路上《ろじょう》に叩《たた》きつけられる。
「二機!」
<<四時方向、接近警報《せっきんけいほう》!>>
アラーム音。高層住宅の壁《かべ》を蹴《け》り、右後方からヴェノムが迫《せま》る。長斧《ハルバード》型《がた》の単分子《たんぶんし》カッターを振《ふ》りかざし、まっすぐに。
一閃《いっせん》。回避《かいひ》。
左手で腰《こし》の単分子カッターを引き抜《ぬ》き、敵の長斧《ハルバード》を切断《せつだん》する。返す刀で、ヴェノムを袈裟斬《けさぎ》りに。無数の火花がほとばしり、敵機は路上に膝《ひざ》をつく。右手でショット・キャノンを突きつけ、発砲。まばゆい七色の炎《ほのお》を噴《ふ》き上げ、ヴェノムが爆発《ばくはつ》する。
<<これで三機!>>
「先に言うな!」
四機目がライフルを乱射《らんしゃ》しながら、頭上のビルから飛び降りてきた。そのときには、宗介はひらりと機体を前転《ぜんてん》させていた。
転《ころ》がりながら、発砲。
さすがに無理《むり》な姿勢《しせい》から撃《う》ったせいか、砲弾は敵機の左肩を吹《ふ》き飛ばしただけだった。無理のないジャック・ナイフ機動《きどう》で身を起こすと、<アーバレスト> は両足を踏《ふ》ん張り、着地《ちゃくち》した敵機めがけてもう一度発砲した。
胸のど真ん中に命中。ヴェノムがのけぞり、吹き飛ばされる。
『四機……!』
宗介とアルが同時に言った。
地を這《は》うようにして、無人《むじん》の大通りを駆《か》け抜《ぬ》ける。機体が感じる風の匂《にお》いが、彼の肌《はだ》にも伝わっていた。
不思議《ふしぎ》だった。
意のままに――心のままに動く機体。
ASの操縦者《そうじゅうしゃ》が時として感じる、完璧《かんぺき》な一体感。
全能感《ぜんのうかん》といってもいい。圧倒的《あっとうてき》な――ひたすら圧倒的な力がいま、自分の思うままになっている。この機体《きたい》は宗介の身体《からだ》そのものだった。あれほど嫌《いや》だったこの身体が、それほど悪くない……なかなか捨てたものではない――そう思えた。
いや、それどころではない。この身の軽さといったら。どこまでも飛んでいけそうな心地《ここち》だった。
そうだ。どこまでもいける。だれも自分を止められない!
[#挿絵(img/05_241.jpg)入る]
角を曲がると、指揮官機《しきかんき》が見えた。たまたま通りかかった不運《ふうん》な南中国軍のM6を盾《たて》にして、大型のガトリング砲《ほう》を撃《う》ってくる。
頭上の看板《かんばん》を吹《ふ》き飛ばし、<アーバレスト> は上空に舞い上がった。あらゆる機種《きしゅ》の限界《げんかい》を超《こ》える、大きな大きな跳躍《ちょうやく》だった。あまりに飛距離《ひきょり》がありすぎて、指揮官機のヴェノムを飛び越《こ》えてしまったほどだ。
『ひっ……!?』
背後《はいご》に着地すると、その指揮官機は狼狽《ろうばい》しながら、ガトリング砲《ほう》を宗介に向けようとした。左手を一閃《いっせん》。単分子《たんぶんし》カッターが、ガトリング砲を真《ま》っ二《ぷた》つにする。
「く……来るなっ、来るなぁっ!!』
ガトリング砲を放《ほう》り出し、最後のヴェノムは盾《たて》にしたM6のコックピットにハンドガンを突《つ》きつけた。
『操縦者《そうじゅうしゃ》を殺すぞっ!? 寄るな! 動くなっ!』
『た、助けて……』
M6は制御系《せいぎょけい》を破壊《はかい》されているらしく、両腕《りょううで》が動かせないようだった。どうするか。いや、あれを使おう。ベリルダオブ島で、マオが食らったあの一撃《いちげき》。
いまの俺たちなら、必ずできる。
『み…… <ミスリル> のラムダ・ドライバは未完成《みかんせい》じゃなかったのか!? いや、それどころか、その強さは――なんなんだ、貴様《きさま》はっ!? 貴様はいったい、何者なんだっ!?』
「教えて欲《ほ》しいか……」
宗介はショット・キャノンを放り捨てた。
自分は何者だったか。そう。自分は――
「陣代《じんだい》高校二年四組。出席番号四一番。二学期もゴミ係の――」
右の拳《こぶし》から、虹色《にじいろ》の陽炎《かげろう》が立ちのぼった。ぎゅん、と異音《いおん》がうなりたてる。
「――相良《さがら》、宗介《そうすけ》だっ!!」
『う、うあぁぁっ……!!』
ヴェノムがハンドガンをこちらに向けて発砲した。宗介―― <アーバレスト> はその砲弾《ほうだん》を苦もなくはじき飛ばし、盾《たて》になったM6[#「M6」に傍点]の胸に、正拳突《せいけんづ》きを叩《たた》きこんだ。
大地が揺《ゆ》れる。街路がいななく。
数百|匹《ぴき》の猛獣《もうじゅう》が咆哮《ほうこう》をあげる――そんな音がした。重力をねじ曲げるようなすさまじい力が、<アーバレスト> の拳《こぶし》から解《と》き放《はな》たれる。その力はM6の存在《そんざい》を無視《むし》して、透過《とうか》し、その後ろにいた敵機《てっき》に強暴《きょうぼう》な牙《きば》を剥《む》いた。
一瞬《いっしゅん》で、ヴェノムの全身が粉々《こなごな》になる。装甲《そうこう》、フレーム、電磁筋肉《でんじきんにく》、そうした部品のことごとくが、ばらばらになって吹《ふ》き飛んだ。散《ち》り散《ぢ》りになった破片《はへん》が、周囲のビルの割れたガラスと入り混じって、路上《ろじょう》に散《ち》らばっていく。
盾にされていたM6は、まったく無傷《むきず》のままだった。ずしゃり、とその場に尻餅《しりもち》をついて、呆然《ぼうぜん》と <アーバレスト> を見上げている。
「行け」
道路の向こうを指さすと、M6はなにかをもごもごと言ってから、あわててその場を駆《か》け去った。
ややあって、アルが告げた。
<<全ターゲットの撃破《げきは》を確認《かくにん》。索敵《さくてき》モードの切り替《か》えを?>>
「どうでもいい」
<<了解《ラジャー》>>
スティックのスイッチを入れて、通信回線を開く。
「……ウルズ7より各位へ。ヴェノムはすべて撃破《げきは》した」
『――こちらウルズ1。全機……撃破だと?』
「肯定《こうてい》だ。これよりTDD―1に――」
宗介は言いかけて、思い直した。
この街での厄介事《やっかいごと》は片づけた。あとは輸送《ゆそう》ヘリに回収《かいしゅう》してもらって、<トゥアハー・デ・ダナン> に帰るだけ。それがいつもの手順《てじゅん》だった。
だが、そんな手順など。
そう思いながらも、その報告を告《つ》げるのには、ちょっとした度胸が必要《ひつよう》だった。
「訂正《ていせい》。……ウルズ7より。敵機は確《たし》かに全機撃破した。これよりウルズ7は、次の任務に移《うつ》る。<アーバレスト> はここに置いていくので、回収《かいしゅう》を頼《たの》む。急がないと南中国軍に持って行かれるぞ」
『? ウルズ7、よくわからない。次の任務≠ニいうのは一体――』
「交信終了!」
無線《むせん》を切ると、宗介は <アーバレスト> をひざまずかせ、スティックの下にあるハッチ開閉《かいへい》スイッチを操作《そうさ》した。高圧《こうあつ》空気の力で、ゆっくりと頭上のハッチが開いていく。
<<軍曹殿《ぐんそうどの》。まだ作戦終了の諸手続《しょてつづ》きが行われていませんが?》
アルが言った。
「いいんだ。作戦はもう終わりだ」
<<了解《りょうかい》。……一つ質問《しつもん》が>>
「なんだ?」
<<いまの戦闘は、あらゆる面から見て過去《かこ》最高のものでした。人間|風《ふう》にいうならば――驚《おどろ》くべき戦果です。可能《かのう》ならば、その理由を教えていただけないでしょうか>>
宗介はすこし考えた。
「……問題が解決《かいけつ》した。そういうことだろうな」
<<あなたの問題が、ですか?>>
「いや」
宗介はこつん、とコンソールパネルを叩《たた》いた。
「俺たちの問題が、だ」
<<回答《かいとう》の意味がわかりません>>
「考えることだ、相棒[#「相棒」に傍点]」
それだけ言って、宗介は <アーバレスト> のコックピットから機外に出る。路上《ろじょう》に飛び降り、いまも燃え続ける敵機の破片の中を大急ぎで走っていった。
待っている人がいる。
そして自分は、どこへでも行けるのだ。
●
相良宗介が <アーバレスト> を置き去りにして、姿《すがた》を消した――その報告を聞いて、テレサ・テスタロッサは『ああ、やっぱり……』と思った。
情報部のギャビン・ハンターに問い合わせると、千鳥《ちどり》かなめもその後に連絡《れんらく》がとれなくなったという。その後のハンターの情報網《じょうほうもう》によれば、三時間後に啓徳《カイダク》空港の監視《かんし》カメラに、よく似た二人の少年少女が映《うつ》っていたそうだった。
偵察《ていさつ》任務のときに渡《わた》されていた偽造旅券《ぎぞうりょけん》が、ものを言ったわけだ。
中破《ちゅうは》したM9とスペック伍長《ごちょう》、そして <アーバレスト> はどうにか無事《ぶじ》に回収《かいしゅう》できた。その過程《かてい》で、部下たちは南中国軍をなだめ、目を盗《ぬす》むのにあれこれと苦労した。<トゥアハー・デ・ダナン> に帰還《きかん》するのにも、いくつか面倒事《めんどうごと》があった。
だが、どうにか問題は丸く収まった。
ヴェノムの残骸《ざんがい》をかなりの量《りょう》で回収し、南北両軍はきわどいところで矛《ほこ》を収《おさ》め、避難《ひなん》してた住民たちも、香港《ホンコン》の中心街《ちゅうしんがい》に帰ってきた。
相良宗介の行方《ゆくえ》がわかったのは、<トゥアハー・デ・ダナン> が香港|近海《きんかい》を離《はな》れてから一日後のことだった。本人からの通信と、情報部《じょうほうぶ》経由《けいゆ》の情報だった。
彼はその通信を、東京の高校から送ってきた。
マデューカスはかんかんになって、『いますぐメリダ島に帰還《きかん》しろ』と言った。
宗介は丁寧《ていねい》な態度《たいど》のまま、こう言った。
『そのご命令には従《したが》えません。すくなくとも、明日の午後までは』
『なぜです?』
テッサが聞くと、宗介は平然《へいぜん》とこう答えた。
『土曜日は漢文の授業《じゅぎょう》がありますので。単位がまずいのです』
横でそれを聞いていたカリーニンが、珍《めずら》しく――本当に珍しく、失笑《しっしょう》を漏《も》らしていた。
[#地付き]一〇月二五日 一一二一時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]<ミスリル> メリダ島|基地《きち》 第一会議室
メリダ島|基地《きち》の第一会議室に、<ミスリル> の幹部《かんぶ》たちが集っていた。
いつもの立体画像《りったいがぞう》だ。
テッサの席《せき》の横には、マデューカスとカリーニン、そして宗介《そうすけ》が立っていた。宗介はほんの三〇分前、東京からメリダ島に着《つ》いたばかりだった。
『私はかつて、これほどの怒《いか》りを感じたことはない』
低い声で、情報部長のアミット将軍《しょうぐん》が言った。
「ですが、<アーバレスト> を扱《あつか》えるのは彼だけです」
テッサが言うと、アミット将軍は鼻を鳴《な》らした。
「だまるがいい、大佐《たいさ》。ただの軍曹《ぐんそう》――尻《しり》の青い一下士官《いちかしかん》が、上層部《われわれ》の決定に反抗《はんこう》している。それも、ほとんど脅迫《きょうはく》じみたやり方でだ。こんなことが認《みと》められると思っているのかね?』
「脅迫はしていません。反抗《はんこう》も」
宗介が直立不動《ちょくりつふどう》で言った。
「自分が提案《ていあん》しているのは、契約《けいやく》内容の変更《へんこう》であります。もしこの提案がお気に召《め》さないようならば、自分は違約金《いやくきん》を支払《しはら》い、この部隊を去るのみです」
『機密《きみつ》の漏洩《ろうえい》はどうなる』
「それがご心配なら、然《しか》るべきご処置《しょち》を。あいにく――自分は黙《だま》って拘束《こうそく》・監禁《かんきん》されるつもりはありませんが」
アミットの立体映像《りったいえいぞう》が身を乗り出し、宗介の顔をのぞき込んだ。
『よくも言ったものだな、軍曹。この私を敵に回して、思い通りの生活ができると思っているのか……?』
「ではお尋《たず》ねします、将軍閣下《しょうぐんかっか》。閣下は自分に、それ相応《そうおう》の覚悟《かくご》がないとでもお思いでしょうか」
『なんだと……?』
「いいですか、将軍――」
まったくひるまず、宗介は不敵《ふてき》に言った。
「俺《おれ》は <ミスリル> に魂《たましい》まで売った覚えはない。あんたらのやり方がおかしければ、俺は俺なりのやり方を貫《つらぬ》かせてもらう。それだけの話だ。これからも <アーバレスト> には乗ってやる。仲間のためなら命を賭《か》ける。そして、あの学校にも通わせてもらう。なにもかもこれまで通りだ。しかも東京にいるときはノーギャラでいい。それになにか不満《ふまん》が?」
『言葉|遣《づか》いに気をつけろ、軍曹!』
「軍曹? 俺はただの傭兵《ようへい》だ。渡《わた》り鳥《どり》になにを言う。階級《かいきゅう》など知ったことか。そういう台詞《せりふ》は自分の飼《か》い犬《いぬ》に言うことだな」
『っ……!!』
『ふっ……ふっははは……』
黙《だま》ってやりとりを聞いていた、片眼鏡《かためがね》のマロリー卿が、こらえきれなくなったように笑い出した。
『伯爵《はくしゃく》?』
『はっはっは……。君の負けだよ、将軍。SRTの傭兵は飼《か》い慣《な》らせない=Bつい先日、この場でそう言ったのはだれかね?』
『それは……』
『そうだ。おまえさんだよ、将軍。その厄介《やっかい》なSRTの手練《てだ》れが、半分のギャラでいままで通りやってくれると言ってるんだ。感謝《かんしゃ》こそすれ、怒《おこ》るいわれなどないではないか。そう思わんかね、提督《ていとく》?』
水を向けられ、立体映像の一つ――作戦部長のボーダ提督が、すこし考えるそぶりを見せた。彼は肩《かた》をすくめて、そっけなく言った。
『まあ……そうかもしれませんな。あまりおおっぴらには言えないことですが』
『ペインローズ博士《はかせ》は?』
マロリー卿が研究部長のペインローズ博士に目を向けた。
「レミングから報告《ほうこく》は受け取っています。研究部《われわれ》としては、サガラ軍曹《ぐんそう》は今後の|L D《ラムダ・ドライバ》研究に不可欠《ふかけつ》な人材かと』
『けっこう。ほかに反対意見はあるかね?』
机《つくえ》を取り囲むほかの高官《こうかん》たちに、マロリー細は問いかけた。高官たちは、なにも言おうとしなかった。
『そういうことだ、テスタロッサ大佐。クセのある部下ばかりで苦労しているようだな。失礼だが、同情するよ』
「いいえ。私の部下は最高です」
テッサがきっぱりと言うと、マロリー卿はさらに笑った。
『ふむ。あながち西太平洋戦隊は、うまくいっていないとは言えないようだな。これからの働きにも期待するとしよう』
「はっ。光栄《こうえい》です」
『それから軍曹。確か……サガラ・ソウスケとか言ったな?』
「はっ」
『おまえの名前は覚えておこう。この議題《ぎだい》はこれまでだ。では諸君《しょくん》、ごきげんよう』
オンライン会議が終わると、最初にマデューカスが宗介に言った。
「まずはご苦労だった。だがな……軍曹。あまり私の心労を増《ふ》やすな。ありていに言って、冷《ひ》や汗《あせ》ものだったぞ!?」
「はっ……。いつも申《もう》し訳《わけ》ありません、中佐殿《ちゅうさどの》」
宗介が素直に一礼すると、マデューカスはため息をついて、会議室を出ていった。
次にカリーニンが言った。
「気は済《す》んだか」
「はい」
「男の顔になってきたな」
「は……?」
「あとでなにか奢《おご》ってやる。ガウルンとの話は、そのとき聞こう」
「……どうも」
ファイルケースで宗介の背中をぽんと叩《たた》いてから、カリーニンは会議室を出ていった。およそ少佐らしからぬ態度《たいど》だった。
そうして――がらんとした会議室に、宗介とテッサだけが取り残された。
「その…………」
カーキ色の制服姿で、彼女はためらいがちに口を開いた。
「まだ言ってなかったですね……。あのときは、ごめんなさい」
「あのとき?」
「もう……。香港の作戦の前に、わたしとサガラさん、大喧嘩《おおげんか》したでしょ?」
「……は。いえ」
どう答えていいのかわからず、宗介はあいまいな返事をした。
「自分こそ、申《もう》し訳《わけ》ありませんでした」
「いいんです。あのときは……カナメさんがうらやましくて。ちょっとムカっとしちゃったから……」
「大佐殿……」
「たぶん、甘《あま》えちゃったんですね。サガラさんだから。でもやっぱり、そういうのって良くないと思ったんです。けじめはきっちり付けなきゃ、って。でも、だから……」
テッサはうつむき加減《かげん》のまま、宗介の目をのぞき込んだ。
「わたしたち、まだ友達ですよね……?」
せつない声だった。
そのとき、宗介はようやく納得《なっとく》した。
あの時の彼女の涙《なみだ》、烈火《れっか》のような怒《いか》りの意味を、すべて理解《りかい》することはまだ無理だったが、少なくとも、彼は自分のこれまでの勘違《かんちが》いに気付いていた。
テレサ・テスタロッサは女神《めがみ》ではない。
全能《ぜんのう》でも、神聖《しんせい》でも、偶像《ぐうぞう》でもないのだ。時には理不尽《りふじん》なことも言ってくるし、こちらのふとした一言で傷《きず》つき、憤《いきどお》り、泣きわめくこともある。あの高校に通う生徒《せいと》たちや、千鳥《ちどり》かなめと、なんら変わりはないのだ。考えてみれば、いままでだってそういうことは何度もあったはずなのに。なぜそれに気付かなかったのだろう?
それに彼女は――自分などとは比べものにならないほどの重責《じゅうせき》を担《にな》っているのに。
「もちろんです、大佐殿」
気付いたときには、そう言っていた。
「もし――自分を友人だと認《みと》めてくださるのなら、少々、分《ぶ》をわきまえない発言を許してくださるでしょうか?」
「え……? いいです……けど」
テッサがほんの少し、身構《みがま》えた。
さあ言ってやれ、相良宗介。こういうとき、学校の友人だったら、自分はどういう風《ふう》に喋《しゃべ》る? わかってるはずだ。友達なら、どういう風に言うんだ?
大きく深呼吸《しんこきゅう》してから、宗介は言った。
「テッサ……いつもすまない」
そう告《つ》げるのは、あのアミット将軍に大口を叩《たた》いたときよりも、はるかに緊張《きんちょう》した。
「え……」
「君には……迷惑《めいわく》ばかりかけている。君はすごい子だ。もし俺が君の立場だったら、ずっと前に重荷《おもに》で押《お》しつぶされてるかもしれない。だから……テッサ、本当に君のことは尊敬《そんけい》している。俺にとっては、君は上官なだけじゃない。大切な仲間だ。なにか問題があったら……その、いつでも俺に言ってくれ。力になる」
テッサは永遠《えいえん》に、ぽかんとしていた。
言ってみてから、その台詞《せりふ》の不自然《ふしぜん》さに彼は愕然《がくぜん》とした。
馬鹿《ばか》か? 俺ごときが。この彼女に。なにを偉《えら》そうに。調子《ちょうし》にのって。いくらなんでも、これは馴《な》れ馴《な》れしすぎたのではないか……? ああ、しまった。
「……し、失礼しました。ですが本心です。では……自分はこれで」
それ以上、彼女の顔を見ることもできず、宗介は会議室を逃げ出していった。
背後《はいご》から、なにやら不思議《ふしぎ》な喝采《かっさい》と、だれかが飛び跳《は》ねるパンプスの靴音《くつおと》、それに続いて椅子《いす》が倒《たお》れるはげしい物音《ものおと》がしたのも、宗介にはほとんど聞こえていなかった。
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エピローグ
自分の立場《たちば》が悪くなるのを承知《しょうち》の上で、退学届《たいがくとどけ》を机《つくえ》の中にキープしておくあたりが、神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》の神楽坂恵里たる所以《ゆえん》だった。
「…………。どういう事情《じじょう》があったのかは知らないけど」
職員室《しょくいんしつ》で、彼女は言った。
「こういういい加減《かげん》なことばかりしてたら、さすがのわたしも庇《かば》いきれませんからね?」
「はっ。すみません」
直立不動《ちょくりつふどう》で宗介は答えた。
「あなたは根《ね》がマジメな子だから、ここまでしたのよ?」
「はっ。恐縮《きょうしゅく》です」
「わかったなら、すこしは生活|態度《たいど》を改《あらた》めなさい。こないだの車の件もそうだけど。いつもいつも……どうしてあなたはそう、問題ばかり起こすんです? まったく、そんな調子じゃ――きゃあぁっ!!」
いきなり宗介に押《お》し倒《たお》されて、恵里は悲鳴《ひめい》をあげた。
「な、なに!? なんなのっ!? ダメよ相良《さがら》くん、他の人が見てますよ……!?」
「レーザー・サイトが狙《ねら》ってたんです、先生っ! 動かないでっ!!」
「なにを、わけのわからないことを言ってるんですっ!?」
床《ゆか》に倒《たお》れてじたばたとする恵里。拳銃《けんじゅう》を抜《ぬ》いて、油断《ゆだん》なく周囲《しゅうい》を見渡《みわた》す宗介。その場にかなめがすっ飛んできて、力いっぱい怒鳴《どな》りつけた。
「ソースケっ!! あんた、またやってるの!?」
「いや、レーザー・サイトが――」
「やかましいっ!!」
かなめに蹴《け》たぐられて、彼は床《ゆか》にたたきつけられた。
四倍のスコープの中で、ウルズ7がばたばたと暴《あば》れている。
なんともまあ、みっともない姿《すがた》だった。これがあの、泣く子も黙《だま》る <ミスリル> 情報部長・アミット将軍《しょうぐん》をやりこめた男だというのだろうか?
「ふん……」
レーザー・サイト付きのベルギー製《せい》サブマシンガンをしまいながら、『レイス』は鼻を鳴らした。得意《とくい》の変装《へんそう》で、いまはどこにでもいそうな近所《きんじょ》の主婦《しゅふ》に扮《ふん》している。数百メートル離《はな》れたそのビルからは、陣代《じんだい》高校のあちこちがよく見渡《みわた》せた。
ふと空を見る。
黒い雲《くも》がゆっくりと頭上を覆《おお》いつつあった。
天気予報《てんきよほう》は聞いている。じきに雨が降《ふ》り、夕方にはずいぶんと冷え込むはずだった。
近所のコンビニでホカロンでも買っておけばよかった。発信器は彼女[#「彼女」に傍点]の同意《どうい》で、持ち続けてもらえることになっていたが、だからといって気を抜《ぬ》くわけにもいかない。いくら東京の情報部の態勢《たいせい》が完全《かんぜん》ではないにしても――
(どうして私が、フルタイムで雨に打たれなければならんのだ……)
と、悲しい気分になってくる。あちらには、少なくとも屋根《やね》があるのに。しかも今度から、こちらは千鳥《ちどり》かなめの呼び出しには無条件《むじょうけん》で答えなければならなくなった。なにしろ弱みと借《か》りがあるのだ。仕方《しかた》がない。
『レイス』は双眼鏡《そうがんきょう》を覗《のぞ》いた。ずっと向こうの職員室の中で、ウルズ7と千鳥かなめが、担任《たんにん》の教師にぺこぺこと頭を下げていた。
いい気味《きみ》だ。せいぜいすこしは、私の悲哀《ひあい》も分かち合うがいい。
……などと思いながらも、肌《はだ》を刺《さ》す寒さはいかんともしがたかった。小さなくしゃみをしてから、『レイス』は着ていたコートを引き寄せて、
「やれやれ……」
と、憂鬱《ゆううつ》な声でつぶやいた。
「さっそく! なんであんたはそうなるのよっ!?」
職員室《しょくいんしつ》を出るなり、千鳥かなめはそう叫《さけ》んだ。
「あたしやセンセのフォローを、なんだと思ってるの、あんたは? まさかそーいうことされて、当然《とうぜん》だと思ってるの!?」
「いや、俺は別に――」
「うるさいっ! まったくあんたときたら……ちっとも進化《しんか》しないんだから! すこしは反省《はんせい》したらどうなの!? いっつも、いっつも、いつもいつも……!」
かなめはどこからともなく、コピー紙の束《たば》を取り出して、頭上にばっと振《ふ》り上げた。
「待て、千鳥――」
「いつもいつも……」
普段《ふだん》ならそこではたかれるところだったが、なぜかそのとき、かなめは紙束を握《にぎ》った手を、力無くおろしていった。
「いつも……うっ」
紙束を取り落とし、彼女はうわずった声でつぶやいた。
「いつも……。これで……いつも通りなんだよね……?」
「…………?」
「やっと……やっと普通《ふつう》の感じに……うっ」
たまりかねたように、彼女は宗介の胸に、おでこをごんっ、とぶつけた。
「やっといつも通り……いつもの……」
「……千鳥?」
「あたしのこと、あんな風《ふう》に放《ほう》っておいて……なんなのよ、あんたは? もう絶対《ぜったい》、許さないから」
香港からの帰り道も、ずっと平然《へいぜん》としていたのだが。いまになっての突然《とつぜん》の豹変《ひょうへん》に、宗介はただただ驚《おどろ》くばかりだった。
「すまない……」
「『すまない』じゃないわよ。バカ……。バカバカバカ。もう、許さないからね? ホントに……絶対、許さないんだから……!」
彼の胸を、かなめは何度も何度も、力なく叩《たた》いた。
「怖《こわ》かったんだから。本当に怖かったんだから。もう……絶対ヤだからね!? 二度とあんなの、絶対いや!」
廊下《ろうか》を行き交う生徒たちが、興味津々《きょうみしんしん》といった様子《ようす》で二人を見ている。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。その……千鳥? できれば別の場所で……」
「やだっ……そんなの、無理《むり》……」
恥《はじ》も外聞《がいぶん》もなく泣きじゃくり、かなめは宗介の胸にしがみついた。肩《かた》を震《ふる》わせ、子供のように。宗介はうろたえ、なだめすかすように彼女の背中《せなか》を叩くしかなかった。
その場を通りがかった常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、人垣《ひとがき》をかきわけてひょこりと頭を突《つ》き出した。
「なになに、どしたの?……あ、カナちゃん」
「と、常盤……?」
「ちょっと、だいじょぶ? ねえ、カナちゃんっ! どこか痛いの?」
「うっうっ……キョーコ……。ソースケがね……ソースケが……」
かなめはハンカチで鼻をチーンとやる。あとはほとんど言葉にならない。
「相良くん!? カナちゃんになにしたのっ!? どうせまた『爆弾《ばくだん》だ』とか言って、ひどい乱暴《らんぼう》とかしたんでしょっ!?」
「なに? ちがう、これは――」
「あたし、言い訳《わけ》なんて男らしくないと思う! カナちゃんに謝《あやま》りなさいよ、さあ!」
恭子は腰《こし》に手をやり、宗介をにらみつける。
「そーだ、そーだ!」
「まったく、おまえと来た日には……!」
「千鳥さんがかわいそうだよっ!」
周囲《しゅうい》のギャラリーも一様《いちよう》にうなずき、彼をはげしく非難《ひなん》する。
「これは……その……」
『その、なに!?』
全員がハモって言った。
「むっ……」
なるほど、自分は帰ってきた。しかしだ、よくよく考えてみると――
学校《ここ》での苦労は、けっきょく、なにも変わらんのではないか……?
「……いや。申《もう》し訳《わけ》ない」
不条理《ふじょうり》な悲哀《ひあい》を噛《か》みしめつつ、深々《ふかぶか》と頭を下げると、一同は『それでよろしい』とうなずいた。
それでもかなめが泣きやむまでには、ずいぶんと時間がかかってしまった。
[#地付き][了]
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あとがき
えー……。
例《れい》によって、大変長らくお待たせしました。『終わるデイ・バイ・デイ』の下巻を、ここにお届《とど》けいたします。なんか、「もう上巻の話なんて忘れちゃったよ」なんてお叱《しか》りを受けそうですが。ごめんなさい。
今回は、ずいぶんと切り口のちがうお話になりました。
まあ、いつもハイジャックとかシージャックとかしてると、『ダイハード』シリーズや『沈黙《ちんもく》』シリーズみたいな末路《まつろ》をたどることになるのではないかと、こう思うところもありまして。今回のクライマックスは古式《こしき》ゆかしいスーパーロボット・アニメのスタイルにしてみました。強い、強い、絶対《ぜったい》に強い。ヒーローなら、たまにはパシっと決めないと。
当初《とうしょ》、私は宗介《そうすけ》が予定|調和的《ちょうわてき》、棚《たな》ボタ式の理由《りゆう》で元の生活に戻《もど》ることを「許可《きょか》される」プロットを考えていました。しかし、そうした状況《じょうきょう》――これまでの無茶《むちゃ》な生活を組織《そしき》の意向《いこう》で続ける理由は、どれほど精巧《せいこう》な話作りを用意しても、不自然《ふしぜん》なものにしか思えませんでした。つまるところ、もっとも自然な解決《かいけつ》方法は、元からたった一つしかなかったのです。
この選択《せんたく》は当たり前のようでいて、意外《いがい》な盲点《もうてん》のような気がします。状況《じょうきょう》の正否《せいひ》を握《にぎ》っているのは、環境《かんきょう》よりもむしろ自分自身――こんな当然のことを、私を含《ふく》めた多くの人が、往々《おうおう》にして忘れがちです。思い出しても、環境《かんきょう》の厳《きび》しさがそれをすぐに忘れさせる。厄介《やっかい》な問題です。そうして、『時計の短針《たんしん》のような変化』がなにかを狂《くる》わせ、真摯《しんし》だったはずの人間を冷笑家《れいしょうか》に仕立《した》て上げてしまうのではないでしょうか。
この『終わるデイ・バイ・デイ』の執筆《しっぴつ》は、以前《いぜん》から感じていた相良《さがら》宗介《そうすけ》と <アーバレスト> いうキャラクターに対する違和感《いわかん》を見つめ直す作業《さぎょう》でした。低いようで険《けわ》しい山でしたが、苦労したおかげで、彼はようやく本当の意味でこの物語の主人公になったような気がします。<アーバレスト> もようやく――本当にようやく、主役メカになりました。宗介|同様《どうよう》、私も前までは <アーバレスト> にあまり愛着を感じていなかったのですが、いまではこのメカを『なかなか捨《す》てたもんじゃないぞ』と悪からず思っています。先人たちの創造《そうぞう》してきた、さまざまな主役ロボットたちには及《およ》ばないかもしれませんが、その足下くらいには魅力《みりょく》が届《とど》いたのではないでしょうか。
そんなわけでこの上下巻は、まず宗介と <アーバレスト> のお話――ひいては宗介自身のお話なのではないかと思います。宗介に『おまえはなぜ、その学校にいるのか』と問えば、これまでは『任務《にんむ》だ』と答えていたでしょうが、今後は『俺の勝手《かって》だ』と答えることでしょう。その上で、これから彼に降《ふ》りかかる状況・難題《なんだい》に対決してくれるはずです。
とはいうものの、なんと申しましょうか。ガールフレンドの叱咤《しった》がなければ立ち上がれない主人公というのは――いやはや、情けないもんです。でもまあ、若いときっていうのは、そんなものなのではないかとも思います。ゴルゴ13[#「13」は縦中横]にはなりきれない。かなめに頭が上がらないのも当然《とうぜん》、ってわけでして。『女は強い、美しい』。昔から、よくそう思うんですよねぇ。いま、仕事をご一緒《いっしょ》させてもらってる女傑《じょけつ》の方々を見てみても。あわわ。
……まだ三|頁《ページ》ですか。原稿《げんこう》を書いてる最中は、『あとがきにはあれを書こう、これを書こう』などと思ったりするのですが、書き上がるともう、どーでもよくなってしまうのですね、これが。近況報告《きんきょうほうこく》でもしましょうか。……って、でもねえ。大して話すこともない、平々凡々《へいへいぼんぼん》とした毎日ですし。時事《じじ》ネタ書いても、仕方がないし。ハセガワから出たバルキリーのプラモの話とかをしてもいいのですが、そうなると今度は二〇枚くらい熱《あつ》く語ってしまいそうだし。
そういえば、実《じつ》は取材に行ったのです、香港《ホンコン》。一人で。ぶらぶらと。今回はもっとメインの舞台《ぶたい》になるはずだったのですが、プロットやテンポの都合《つごう》でずいぶんと描写《びょうしゃ》やエピソードをカットしてしまいました。残念《ざんねん》。まあ、ボツにするシーンが多いのはいつものことではあるのですが。もし機会《きかい》があったら、香港はまた再登場《さいとうじょう》させてみたいですね。
それからこの場を借りて、少々、私信《ししん》を。
永井《ながい》朋裕《ともひろ》先生、単行本《たんこうぼん》を送っていただき、ありがとうございました。返事《へんじ》も出さずにすみません。毎月大笑いしながら読ませていただいております。
館尾《たてお》冽《れつ》先生、チョコレートありがとうございました。お互《たが》い近所ですし、また今度お食事《しょくじ》でもいたしましょう。新展開《しんてんかい》にも期待《きたい》しております。
榊《さかき》一郎《いちろう》先生、年賀状《ねんがじょう》ありがとうございました。返事も出さずにすみません。
築地《つきじ》俊彦《としひこ》先生、ご無沙汰《ぶさた》しとります。目は大丈夫《だいじょうぶ》ですか? 今度ゆっくり飲みましょう。
秋口《あきぐち》ぎぐる先生、東京に来るときは教えてくださいね。
そして四季《しき》童子《どうじ》先生、おめでとうございます。慌《あわ》ただしい新生活《しんせいかつ》にしてしまって申《もう》し訳《わけ》ございません。これからもなにとぞよろしくお願いいたします。
この巻でも、たくさんの方々に迷惑《めいわく》をかけてしまいました。四季先生、編集のSさん、その他|大勢《おおぜい》の関係者の皆様《みなさま》、いつもいつもすみません。ありがとうございます。
さて。今回はけっこう重たくて、フラストレーションのたまる話でしたので、次の長編《ちょうへん》は軽くて明るい話にしたいと思っています。このままフルメタがどんどんシリアス方向に行ってしまうのではないかとご心配されている方は、どうぞご安心ください。
ではまた。次回も宗介と地獄《じごく》に付き合ってもらいます。
[#地付き]二〇〇一年三月 賀東《がとう》招二《しょうじ》(カンフーファイター大肯定派《だいこうていは》)
底本:「フルメタル・パニック! 終わるデイ・バイ・デイ(下)」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2001(平成13)年04月15日初版発行
2001(平成13)年10月05日4版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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使用したWindows機種依存文字
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「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
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底本の校正ミスと思われる部分
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底本086頁13行 / 底本088頁11行 九竜半島
この二箇所以外はすべて「九龍」。統一すべき。
底本209頁10行 飛鴻《フェイホン》
他ではフェイフォン。統一すべき。
底本243頁16行 装甲《そうこう》、フレーム、電磁筋肉《でんじきんにく》
「電磁筋肉」の後に全角スペースが入ってますが、読点抜けと推測し、訂正しておきました。(句点抜けという可能性もありますが…)