フルメタル・パニック!
終わるデイ・バイ・デイ(上)
賀東招二
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)沈黙《ちんもく》の掟《おきて》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)こちらは生徒会長|補佐官《ほさかん》です
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なんともならん[#「なんともならん」に傍点]よ、提督
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/04_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/04_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/04_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/04_000c.jpg)入る]
目 次
プロローグ
1:沈黙《ちんもく》の掟《おきて》
2:水面下《すいめんか》の状景《じょうけい》・U
3:白と黒
あとがきというか、なかがき
[#改丁]
プロローグ
北校舎《きたこうしゃ》の裏側《うらがわ》に、赤い軽自動車《けいじどうしゃ》が止めてあった。
四、五年前のモデルで、安っぽいデザインだ。数か所に小さな傷があり、タイヤはいくらかすり減《へ》っている。ここ数日の雨のせいで、ボンネットやルーフはずいぶんと汚《よご》れており、それがこの国産車をいっそう貧相《ひんそう》なたたずまいにしている。
「見慣《みな》れない車ね……」
二階の廊下《ろうか》の窓《まど》からその軽自動車を見下ろして、千鳥《ちどり》かなめが言った。
「そお?」
その隣《となり》に立つ、クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が言った。
借《か》りていた本を図書室《としょしつ》に返して、自分たちの教室に戻《もど》る途中《とちゅう》でのことである。
いまは昼休みだ。いつもはその校舎裏でボール遊びに興《きょう》じる生徒《せいと》の姿《すがた》が、きょうは見えない。二学期の中間テストの前日だからだろう。多くの生徒は、教室にこもって、教科書《きょうかしょ》やノートと格闘《かくとう》している。
「止めてある場所も変だし。あそこって、別に駐車場とかじゃないよね」
「だれかお客さんでも来てるんじゃないの?」
「そうかもね」
「そんなことより、さっさと教室に戻ろ。あしたテストなんだから」
「んー」
それ以上は気にせず、かなめと恭子は二年四組の教室へと引き返した。
その後、二人で教科書を開き、明日の試験範囲《しけんはんい》の問題を出し合いっこしていると、校内放送《こうないほうそう》のチャイムが鳴《な》った。
『テスト、テスト。……こちらは生徒会長|補佐官《ほさかん》です』
同じクラスの相良《さがら》宗介《そうすけ》の声だった。よくよく見れば、この教室に姿が見えない。
『北校舎裏に、赤い軽自動車を駐車した人。いますぐ生徒会室にご連絡《れんらく》ください。繰り返します。北校舎裏に、赤い軽自動車を駐車した人は、いますぐ生徒会室にご連絡ください。ナンバーは多摩《たま》50[#「50」は縦中横]の――』
念入りに、三回ばかりナンバーを繰り返してから、スピーカーは沈黙《ちんもく》した。デパートかどこかで流れるような、迷惑《めいわく》駐車をした客を呼《よ》び出す放送にそっくりだった。
「さっきの車のことだわ」
「……なにやってんだろ、相良くん?」
「さあ?」
よく分からなかったが、いまの放送は職員室《しょくいんしつ》や校長室にも流れたはずだ。ああ言われれば、あの車の持ち主はとりあえず宗介に連絡を取るだろう。
別に、問題《もんだい》はない。
それから三〇分ばかり、かなめと恭子は問題の出し合いっこを続けた。
「――じゃあねー。『in spite of〜』の意味《いみ》は?」
英語のテキストの構文《こうぶん》から、かなめが出題《しゅつだい》する。恭子がきょとんとした。
「え? 知らないよ、それ。どこに出てるの?」
「八八ページ」
「どれどれ……。それ、一〇|章《しょう》だよ。試験|範囲《はんい》じゃないよ」
「うそ? 範囲だよ」
「違うって。神楽坂《かぐらざか》センセ、授業《じゅぎょう》で言ってなかったもん」
「ええ〜? 入るって言ってたよ」
「言ってないって」
「言ってた!」
「言ってない!」
押《お》し問答《もんどう》を繰り返した挙句《あげく》、二人は英語科の神楽坂|恵里《えり》に直接《ちょくせつ》訊《き》きにいくことにした。教室を出て、職員室《しょくいんしつ》へ。『試験|準備期間中《じゅんびきかんちゅう》。生徒の入室を禁《きん》ずる!』と注意書きの貼《は》られた戸を開けて、職員室の外から恵里を呼ぶ。
「すいませーん、神楽坂センセー!」
「どうしたの?」
返事《へんじ》は背後《はいご》からきた。
振《ふ》り返ると、白いビニールの手提《てさ》げ袋《ぶくろ》を持った神楽坂恵里が、そこに立っていた。
「あ、出かけてたんですか?」
「ええ。ちょっと買い物。商店街《しょうてんがい》のディスカウント・ストアまで」
そう言って彼女はビニール袋から、自動車用|洗剤《せんざい》とカー・ワックスを取り出して見せた。
「それは?」
「こないだ免許《めんきょ》を取ったばかりでね。きょうは家のクルマではじめて通勤《つうきん》してみたの。ついでに校舎裏の水道を借りて、後で洗車《せんしゃ》をしてみようかなー、って思って」
にこにこして、恵里は言った。どうやら、彼女は昼休みに入ってから学校を離《はな》れていたらしい。
「…………。あの、さっきの放送《ほうそう》、聞きました?」
「? なんのこと?」
「それよりセンセ、カナちゃんに言ってあげてください! テキストの一〇章って、試験範囲じゃないですよね!?」
「ええ。一〇章は入ってないけど」
「ほら見ろ――。やっぱり!」
鬼《おに》の首でもとったように、恭子がふんぞり返る。
「うっ。そうか。ごめん」
かなめは素直《すなお》に負けを認《みと》めてから、すぐさま歩き出した。
「……カナちゃん?」
「いや、気になることがあって。お叱《しか》りはまた後でね」
恭子を置《お》き去りにして、大股《おおまた》ですたすたと職員室前を離れ、北校舎に向かう。なぜだか、変な胸騒《むなさわ》ぎがした。一階に下りて、非常口《ひじょうぐち》から校舎裏に出て、さきほどの自動車の場所まで来ると――
「…………!!」
そこには、ばらばらに分解《ぶんかい》された無惨《むざん》な軽自動車の姿があった。
地面に横たわる四つのタイヤ。塀《へい》にたてかけられたボンネット。きちんと並《なら》べられた合成革《ごうせいがわ》のシート。そして無数《むすう》の、ボルトとナットとエンジン・パーツ……。ドアもしっかり、外されている。
「そ……ソースケっ!?」
叫《さけ》ぶと、相良宗介が振り返る。彼は大げさな探知器《たんちき》を手にして、取り外したばかりのシートのひとつを調べているところだった。
「近寄《ちかよ》るな、千鳥!」
宗介は鋭《するど》い声で叫んだ。
「まだ安全を確保《かくほ》していない。死ぬのは俺《おれ》一人で充分《じゅうぶん》だ」
真剣《しんけん》なまなざし。こめかみに脂汗《あぶらあせ》を浮《う》かべたまま、彼は作業《さぎょう》を継続《けいぞく》する。
「あ、あんた……だれの車をバラしてると思ってんの!?」
「不明《ふめい》だ。だからこそ、こうしてこの不審車輌《ふしんしゃりょう》を調べている」
「ど……どういうことよ!?」
「車爆弾《くるまばくだん》だ」
大真面目《おおまじめ》に宗介は言った。
「プラスティック爆薬《ばくやく》を隠《かく》して積《つ》めば、こうした車輌は恐《おそ》ろしい武器《ぶき》になる。一九八三年、レバノンで、爆薬を満載《まんさい》した『|イスラム聖戦機構《ヒズバラ》』のトラックが、米軍|基地《きち》にカミカゼ・アタックを敢行《かんこう》した。そのテロの死者数《ししゃすう》を知っているか?」
「知るか!」
「二四一人だ! 勇猛果敢《ゆうもうかかん》な海兵隊員《かいへいたいいん》たちが、一瞬《いっしゅん》にして爆死《ばくし》した。その規模《きぼ》の悲劇《ひげき》が、この学校に降《ふ》りかからないという保証《ほしょう》はどこにもない!」
「保証だらけよっ!!」
まっしぐらに突進《とっしん》して、かなめは宗介を張《は》り倒《たお》した。探知器と工具類を放《ほう》り出して、宗介はアスファルトにたたきつけられる。
「千鳥、なにを――」
「これは神楽坂センセの車! あの人ついさっき、洗車をしようってうきうきしてたのよ!? だってのに、あんた、どーするの、この始末《しまつ》を!?」
「だが、高性能《こうせいのう》爆薬が――」
「ないわよっ!!」
起きあがろうとした宗介を、かなめはふたたび蹴倒《けたお》した。
「戻《もど》しなさい! いますぐ! バレたらただじゃすまないわ。いや、きっと気の弱いセンセのことだから、一瞬《いっしゅん》にして気絶《きぜつ》するかも。そっちの方が、よっぽど大問題《だいもんだい》よっ!!」
「神楽坂先生の? 本当か……?」
「嘘をついてどうなるのよっ!?」
「むう……」
宗介はきびしい目つきで、ばらばらになった軽自動車のパーツ群《ぐん》を見つめる。
「困った。すぐには戻せん」
「だったらバラすなっ!」
みたび叩き伏《ふ》せられたところで、宗介の懐《ふところ》から電子音《でんしおん》が鳴《な》った。
ぴぴぴ、ぴぴぴ……と。
「む……」
彼はいそいそと上着の下から、携帯電話《けいたいでんわ》を取り出した。通話《つうわ》スイッチをオンにして、ぼそぼそと英語で応答《おうとう》する。
『こちらウルズ7。……そうか、だが……。……2と6が?……了解《りょうかい》した。……わかっている。ルート10[#「10」は縦中横]で現地《げんち》に向かう。……ああ。了解した』
しばらく話し込んで電話を切ると、宗介はそばの工具類を大急ぎで片づけはじめた。
「ちょっと。なに?」
[#挿絵(img/04_013.jpg)入る]
「急用ができた。早退《そうたい》する」
「またぁ?……だって、ねえ? どうすんのよ、このクルマ!?」
「優先順位《ゆうせんじゅんい》を考えれば――」
宗介は苦悩《くのう》もあらわにばらばらの部品を見下ろした。
「やはり、この車は捨《す》て置くしかない。先生には、黙《だま》っておいてくれ」
言うなり、宗介は鞄《かばん》を抱《かか》えて駆《か》けだした。
「ソースケ!? もう、こらっ! あんた正気!? それに……明日から中間テストなのよ!? ああ、もう……また行っちゃった。ったく……」
すたこらと、逃げるようにその場を去った宗介を見送り、かなめは舌打《したう》ちする。
また『仕事』だろうか?
どうしてこう、あの組織《そしき》は容赦《ようしゃ》なく彼をこき使うのだろうか。
そう思って顔をしかめてから、彼女は軽自動車のバラバラ死体《したい》を見渡し、次に辺《あた》りを見回した。
(こ……これは、逃げるが吉《きち》ね……)
そうだ。いくらなんでも、自分がこれを組み立て直す義理《ぎり》はない。だいたいそんなこと、不可能《ふかのう》だ。
後の説明《せつめい》やらなにやらを想像《そうぞう》し、その面倒《めんどう》さに絶句《ぜっく》すると、かなめは『たっ』とその場から走り出した。
教室に戻り、五時間目のチャイムが鳴《な》ったころ、はるか彼方《かなた》から女性教師の悲鳴《ひめい》と号泣《ごうきゅう》が響《ひび》いてきたが――
かなめは机《つくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》して、とりあえず耳を塞《ふさ》いでおいた。
ごめんなさい、先生。
みんなあいつが悪いんです。
[#改ページ]
1:沈黙《ちんもく》の掟《おきて》
[#地付き]一〇月一三日 二〇五二時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]西太平洋 <ミスリル> メリダ島|基地《きち》 第一|会議室《かいぎしつ》
黒い円卓《えんたく》を、テレサ・テスタロッサと九つの幽鬼《ゆうき》が取り囲《かこ》んでいた。
青白く、薄《うす》ぼんやりとした男たちの姿《すがた》。どれも曖昧模糊《あいまいもこ》として、ノイズ混じりのヴェールの中に霞《かす》んでいる。
世界|各地《かくち》に散《ち》らばる高官《こうかん》たちが、オンライン会議《かいぎ》によって一同に会しているのだ。
彼らを映《うつ》し出すホロ・スクリーンの解像度《かいぞうど》が低いのは、衛星通信《えいせいつうしん》に高度《こうど》な暗号化《あんごうか》が施《ほどこ》されているからだった。そこで再現《さいげん》される動作《どうさ》も決してスムーズなものではなく、コンマ二秒くらいの間隔《かんかく》で切り替《か》わっていく映像《えいぞう》に過《す》ぎない。ぎくしゃくと動くその姿は、ずっと昔《むかし》の粘土《ねんど》アニメを彷彿《ほうふつ》とさせた。
『結果《けっか》として――』
報告書《ほうこくしょ》の概要《がいよう》を、えんえん三〇分も説明《せつめい》した挙句《あげく》に、情報本部《じょうほうほんぶ》の参謀《さんぼう》が言った。
『――ジョン・ハワード・ダニガンとグェン・ビェン・ボーの行動《こうどう》を事前《じぜん》に察知《さっち》することは、われわれ情報部でも不可能《ふかのう》だったと考えます。隊員《たいいん》個々人《ここじん》の過去《かこ》や気質《きしつ》、資産状況《しさんじょうきょう》を追跡調査《ついせきちょうさ》するのは、物理的《ぶつりてき》な限界《げんかい》があり……それゆえ、現場責任者《げんばせきにんしゃ》の資質が問われるかと存《ぞん》じます。……以上《いじょう》です』
九人の高官のうち、四人があざけるようなうなり声を漏《も》らす。三人はテッサと同じ各戦隊《かくせんたい》の戦隊長で、一人は作戦部長《さくせんぶちょう》のジェローム・ボーダ提督《ていとく》だ。
作戦部の彼らが、あからさまに不満《ふまん》を漏らした理由《りゆう》は明らかだった。<ミスリル> の人員をチェックするのは情報部の仕事だというのに、その情報部が『最終《さいしゅう》的な責任《せきにん》は作戦部にある』と遠回《とおまわ》しに主張《しゅちょう》しているのだ。作戦部としては、『ふざけるな』としか言いようがない。
実際《じっさい》、ボーダ提督はこう言った。
『ジョークひとつに三〇分かね。いい加減《かげん》にしてくれ』
日頃《ひごろ》は温厚《おんこう》な彼だったが、その声には珍《めずら》しいくらいの険が宿《やど》っている。三人の戦隊長たちは、その意見に真っ先に同調《どうちょう》した。
『まったくだ。もうすこし建設《けんせつ》的な見解《けんかい》を聞かせてくれたまえ』
『不良品《ふりょうひん》を出荷《しゅっか》した自動車《じどうしゃ》メーカーが、事故はお前の責任《せきにん》だ≠ニ言っている。では、われわれはどうしたらいいのだ。車を使わず、歩いて一〇〇キロを旅しろと?』
『もっとたちが悪い。安全装置《あんぜんそうち》の外れた手榴弾《しゅりゅうだん》を、胸に付けているようなものだ』
情報本部の参謀は、いくらかたじろいだ仕草《しぐさ》を見せたが、その上官――情報部長のアミット将軍《しょうぐん》は動じる風《ふう》もなかった。
『調査の限界は、厳然《げんぜん》たる事実《じじつ》だ』
彼は静かに言った。
『とりわけSRT要員《よういん》に選《えら》ばれるレベルの隊員《たいいん》は、経験《けいけん》も人脈《じんみゃく》も豊富《ほうふ》な上、知能《ちのう》も高く抜《ぬ》け目がない。なぜなら、われわれはそうした人材こそを必要《ひつよう》としているからだ。彼らのうち一人がその気になって、手の込んだ方法で隠《かく》し口座《こうざ》を作り、第三者からカネを受け取っていたとしても――それを察知《さっち》するのは至難《しなん》の業《わざ》だろう』
『それをなんとかならんのか、と言っておる!』
『なんともならん[#「なんともならん」に傍点]よ、提督』
情報部長はあくまで冷静《れいせい》だった。
『要職《ようしょく》に就《つ》く隊員に、二四時間の監視《かんし》をつけるかね? それとも密告《みっこく》を奨励《しょうれい》するか? ナンセンスだ。そうしたやり方を嫌ってこその、SRT要員なのだからな』
それは手痛《ていた》い反駁《はんばく》だった。作戦部《さくせんぶ》が採用《さいよう》している『|特別対応班《SRT》』という制度が、相応《そうおう》の成果《せいか》をあげている理由《りゆう》の一つは、彼らの卓越《たくえつ》した独立心《どくりつしん》・柔軟性《じゅうなんせい》・生存能力《せいぞんのうりょく》にもあるからだ。
『これは構造問題《こうぞうもんだい》だ。<ミスリル> が傭兵部隊《ようへいぶたい》である以上、忠誠心《ちゅうせいしん》には限界がある。どれだけ妥当《だとう》な報酬《ほうしゅう》を支払《しはら》っても――ウェーバー軍曹《ぐんそう》とやらの報告《ほうこく》を信じれば、五〇〇万ドルだったな――それだけの大金を上手《じょうず》にちらつかせれば、寝返《ねがえ》る者も出てくる。人間の良心は脆《もろ》いものだ』
『…………』
『それに、忘れてもらっては困る。あのブルーノ少佐《しょうさ》を使っていたのは、ほかでもない作戦部だろう』
ブルーノ少佐。ダニガンとグェンを <トゥアハー・デ・ダナン> に配属《はいぞく》させるよう取りはからった、作戦本部のスタッフである。そのブルーノ少佐が『敵組織《てきそしき》』の内通者《ないつうしゃ》で、テロリストを手引きしたという見解《けんかい》については、情報部も作戦部も一致《いっち》していた。
<トゥアハー・デ・ダナン> での一件の直後《ちょくご》、ブルーノは作戦本部から逃走《とうそう》した。
おかげで <ミスリル> は、多くの機密《きみつ》情報――暗号方式《あんごうほうしき》や保安手順《ほあんてじゅん》、補給《ほきゅう》ルートやセーフ・ハウスの所在《しょざい》などを変更《へんこう》しなければならなかった。メリダ島基地などの施設《しせつ》は、とうてい移転《いてん》できるものではなかったので、より厳重《げんじゅう》な保安|措置《そち》がとられるだけにとどまったが――すべての作業には気が遠くなるような予算《よさん》が必要《ひつよう》だった。
「もしTDD―1があのまま消息不明《しょうそくふめい》になっていれば、ブルーノが疑《うたが》われることさえ無《な》かっただろう。奴《やつ》は組織に居座《いすわ》り――失礼』
言葉を切って、情報部長は煙草《たばこ》に火をつけた。オンライン会議の立体画像《りったいがぞう》が、うまそうに煙《けむり》を吐《は》き出す。
『――組織に居座り、より大きな損害《そんがい》をもたらしていたかもしれん』
『だが、そうはならなかった。すべてテスタロッサ大佐《たいさ》の機転《きてん》のおかげだ』
『さよう。だからこそ、彼女の管理《かんり》責任は不問《ふもん》となった。それでは不満《ふまん》かね?』
漠《ばく》とした情報部長の画像が、ちらりとテッサを一瞥《いちべつ》する。彼女はなにも言わず、自分の手元を見下ろしたままだった。
『TDD―1が沈《しず》みかけたのだぞ。われわれの最大《さいだい》の資産《しさん》、最大の戦力といっていい、強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》が』
『それが兵器である以上《いじょう》、損失の可能性《かのうせい》は常《つね》にある。覚悟《かくご》は一年前に済《す》ませたはずだ。わずか一五歳の娘《むすめ》に艦《かん》を任《まか》せ、海に出すと決めたときからな』
『…………』
[#挿絵(img/04_021.jpg)入る]
ボーダ提督は小さく鼻を鳴らすと、憮然《ぶぜん》として黙《だま》り込んだ。
『……以上かね?』
ほかに発言《はつげん》する者がいないのを見て取り、それまで沈黙《ちんもく》していた一人――マロリー卿《きょう》が口を開いた。片《かた》めがねを着け、三つ揃《ぞろ》いのスーツを着た老紳士《ろうしんし》だ。かなりの高齢《こうれい》だったが、その背筋《せすじ》はまっすぐとしている。
『けっこう。では、私の意見《いけん》を述《の》べさせていただこう。……ミスタ・アミットの指摘《してき》した構造問題《こうぞうもんだい》は、創設《そうせつ》の当初から予想《よそう》されたことだ。正規軍《せいきぐん》と異《こと》なり、民族《みんぞく》や宗教《しゅうきょう》、国家体制《こっかたいせい》などに拠《よ》り所を持たないわれわれ <ミスリル> は、国際紛争《こくさいふんそう》の阻止《そし》≠ニいう、人によっては異論《いろん》もあるような理念《りねん》を信じなければならん。そのリスクを理解《りかい》し、その上で諸君《しょくん》は戦っているものだと私は考えていたが。……違《ちが》うかね?』
マロリー卿は一同を見回した。『否《いな》』と言う者は一人もいなかった。
『よろしい。では、この問題についての、糾弾《きゅうだん》の応酬《おうしゅう》はこれまでとする。もちろん、対策《たいさく》は打ちたまえ。一パーセントの危険《きけん》を〇・五パーセントにすることは可能なはずだ。現行《げんこう》の諸手続《しょてつづき》を洗い直し、実現《じつげん》可能な対応策《たいおうさく》を各自|提言《ていげん》するように。それと――』
彼はいったん言葉を切り、片めがねの位置を直した。
『敵組織の調査《ちょうさ》はこれまで通りに続行《ぞっこう》させる。……以上だ。では、ごきげんよう』
老人の画像が音もなくかき消え、なにもない空間《くうかん》に『交信《こうしん》終了。回線切断《かいせんせつだん》』の文字だけが残る。それを合図《あいず》に、他の高官《こうかん》たちも次々にオンライン会議《かいぎ》から消えていった。
最後に、ボーダ提督だけが残る。
ボーダは豊《ゆた》かな黒髪《くろかみ》に、白いものが混じり始めた初老《しょろう》の男だった。年相応《としそうおう》に貫禄《かんろく》のついた体格だが、顔や腕《うで》は日焼《ひや》けし、引き締《し》まっている。
テッサを見つめ、彼はいたわるように言った。
『不服《ふふく》だろうとは思う。部下《ぶか》を失《うしな》ったのは、ほかでもないおまえなのだからな』
<ミスリル> には、大きくわけて三つの部署《ぶしょ》がある。作戦部と、情報部と、研究部《けんきゅうぶ》だ。このうち作戦部は、<トゥアハー・デ・ダナン> を含《ふく》めた四つの戦隊と、作戦本部から構成《こうせい》される。彼らの作戦に必要《ひつよう》な情報を集め、分析《ぶんせき》・評価《ひょうか》するのが情報部であり――アミット将軍がその責任者《せきにんしゃ》にあたる。情報部はほかにも、各国《かっこく》の保安機関《ほあんきかん》への情報提供《じょうほうていきょう》や助言《じょげん》なども行い、作戦部による『実力行使《じつりょくこうし》』が最小限《さいしょうげん》で済《す》むように努める。
作戦部と情報部との関係は、あまり良好《りょうこう》とは言えなかった。反目《はんもく》し合っている……というほどではなかったが、さりとて袖《そで》すり合うほどの仲《なか》でもない。
作戦部は『おまえらが提供した情報に間違《まちが》いがあった。おかげで死にかけたぞ。どうしてくれる!?』と怒鳴《どな》り散《ち》らすのが日課《にっか》だったし、情報部は情報部で『あれだけの情報を集めるのに、俺たちがどれだけ苦労《くろう》してると思っている!? 贅沢《ぜいたく》ばかり言うな!』と怒鳴り返すのが常《つね》だった。
もっともこれは <ミスリル> に限《かぎ》らず、どんな組織《そしき》も抱《かか》える種類《しゅるい》の問題なのだが。
『だが、アミットの奴《やつ》の言うことも一理《いちり》ある。リスクは常につきまとうものだ。代償《だいしょう》を支払《しはら》わねばならない場面《ばめん》も、また多い……』
「わかっています」
テッサは力なく答えた。
『どうだろうな。やはり私は、いまの立場がおまえ向きだとは思えんよ。現場《げんば》でなくても、まだ学ぶことはたくさんあるぞ。作戦本部に戻ってこい。研究部にも大切な仕事はあるし、マデューカスたちはあの船をものにしつつある。どうだ、そろそろ――』
「それは何度も申し上げています。わたしはここを離《はな》れません」
彼女はきっぱりと言った。
『正式な命令を出すこともできるんだぞ』
「そうなれば、わたしは <ミスリル> を去るだけです」
立体|映像《えいぞう》のボーダ提督が、『ふーっ』とため息をついた。
『まったく、強情《ごうじょう》なところは親父《おやじ》ゆずりだな。奴も私を困《こま》らせたものだ」
「……ごめんなさい、おじさま。でも、みんな大切な仲間なんです。それに――」
『レナードのことかね』
ボーダに先読みされ、テッサはうつむいた。
「……ええ。彼が現《あらわ》れました。それも最悪《さいあく》の形で。彼に立ち向かうならば、わたしの力がきっと必要になります」
『だとしても、それでいいのか? 彼の意図《いと》はまだわからんが、少なくとも、われわれの味方《みかた》ではないようだ。レナードとの対峙《たいじ》は、おまえをもっと苦しめることになるだろう』
「…………」
『バニのことでも、おまえはまだ自分を責《せ》めている』
「…………」
『まあ、いい。……それよりあの裏切《うらぎ》り者、ビンセント・ブルーノの件《けん》だが』
そこでようやく、彼女は控《ひか》えめな微笑《ほほえ》みを浮《う》かべた。
「ええ。現在《げんざい》、進行中《しんこうちゅう》です。とても遠くで……」
[#地付き]一〇月一三日 二二三〇時(ヨーロッパ標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]地中海 シチリア島|南部《なんぶ》 アグリジェント市|郊外《こうがい》
古びたバロック様式の部屋に、恰幅《かっぷく》の良い親分《カーポ》が入ってきた。背後《はいご》に二人ほど、ファミリーの若い者が護衛《ごえい》として付き従《したが》っていたが、その二人は男の合図《あいず》で一礼《いちれい》して、部屋の外へと下がっていった。
すでに長椅子《ながいす》から立ち上がっていたブルーノは、ボスを出迎《でむか》え、まず温《あたた》かな抱擁《ほうよう》を交わした。
「ビンセンツォ・ブルーノ。ここでの暮らしには慣《な》れたかな」
カーポが言った。
「ありがとう、閣下《ボッシーア》。快適《かいてき》そのものですよ」
堂に入ったイタリア語で、ブルーノはそう答えた。
「親父《パーパ》でいい。わしはおまえのことを、実の息子同様《むすこどうよう》に思っておる。最近では、父親を『ボッシーア』と呼ぶ者は少なくなったしな。大学に通うような女が増《ふ》えたのと同じだ。まったく嘆《なげ》かわしい。だが、面白《おもしろ》くもある」
そういってカーポは豪快《ごうかい》に笑った。
実際《じっさい》のところ、ブルーノとカーポは親子と呼べるほど年が離《はな》れてはいなかった。ブルーノは四〇過《す》ぎのアメリカ人だ。中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》で、ブラウンの髪《かみ》。決して目立つような風貌《ふうぼう》ではなかったが、青い瞳《ひとみ》にはある種《しゅ》のふてぶてしさと悪戯《いたずら》っぽさが宿《やど》っていた。海軍士官《かいぐんしかん》学校を出て、国防省《こくぼうしょう》にも勤務《きんむ》していたエリートだったが、いまは自由の身だ。カネもある。
そしてつい数週間前まで、ブルーノはシドニーにある <ミスリル> 作戦本部のスタッフの一人だった。そして同時に <アマルガム> のスパイでもあり――組織から高額《こうがく》の報酬《ほうしゅう》を受け取っていた。
とはいえ、ブルーノはこれを裏切《うらぎ》りだとは考えていなかった。仕《つか》えていたのが祖国《そこく》の軍隊《ぐんたい》だったならまだしも、彼がいたのは警備《けいび》会社を大げさにしたくらいの組織である。決して忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》ったわけではない。ほかの組織に情報を売ったとしても、それはちょっとしたアルバイトに過《す》ぎないではないか。
それに――『国際|紛争《ふんそう》の阻止《そし》』だと? そんな正義《せいぎ》の味方《みかた》気取りのお題目《だいもく》に、大の大人《おとな》が付き合ってなどいられるわけがない。世界平和! 大いにけっこう。だがそれは、充分《じゅうぶん》に腹《はら》がふくれた連中《れんちゅう》の望《のぞ》むことだ。いま、世界の大半は飢《う》えているし、自分はまだ腹八分目だ。
もっとも、彼の行ったスパイ活動《かつどう》は数えるほどしかなかった。何度か <ミスリル> の暗号プログラムを横流ししたことと、二人のSRT要員《よういん》を西太平洋戦隊に転属《てんぞく》したことだけだ。
その懐柔《かいじゅう》工作に連《つら》なる事件のせいで、彼は <ミスリル> から逃げなければならなくなった。それは残念なことだったが、命があっただけでも儲《もう》けものだと思うべきだろう。
彼は <アマルガム> を頼《たよ》ろうとはしなかった。そうした得体《えたい》のしれない組織が、用済みの内通者《ないつうしゃ》をどう扱《あつか》うかなど、容易《ようい》に想像《そうぞう》ができる。いまや <ミスリル> も <アマルガム> も、彼にとっては同じ種類《しゅるい》の脅威《きょうい》だった。
だからブルーノは、ひとまず遠縁《とおえん》のシシリー・マフィアの元に身を寄せることにした。ヨーロッパから北アフリカ・中東に武器を流し、同時にヘロインを仕入《しい》れることで、急成長してきたバルベーラ・ファミリーだ。ブルーノも何度か、彼らの武器|密輸《みつゆ》に便宜《べんぎ》を図《はか》ってやったことがある。利口な人間は、こういう縁を大事にしておくものだ。
彼らの戦力は小国の軍隊にも匹敵《ひってき》する。さまざまな銃火器《じゅうかき》はもちろん、装甲車《そうこうしゃ》や武装《ぶそう》ヘリ、果《は》ては――使い道もないだろうに、第二世代型の|A S《アーム・スレイブ》までも保有《ほゆう》しているのだ。これではたとえ <ミスリル> といえど、そうおいそれと手は出せない。<アマルガム> もだ。
「安心していい。ここの人間は、皆《みな》わしの味方《みかた》だ」
『|ボスの中のボス《カーポ・デイ・カーピ》』、バルベーラ親分は請《う》け合った。
「警官《けいかん》にも、兵隊にも、たくさんわしの支持者《しじしゃ》がおる。それらしき男たちがこの島に来れば、たちどころに知らせが入るだろう」
「頼《たの》もしい限《かぎ》りです」
ブルーノはすでに、自分を捕《つか》まえに来る可能性のある男たちの人相風体《にんそうふうてい》を、バルベーラ親分に知らせていた。<ミスリル> の地中海戦隊 <パルホーロン> 。そのSRT要員の顔写真を盗《ぬす》み出すことはできなかったが、頭の中には入れてきた。彼らがこのシチリアに潜入《せんにゅう》して来れば、一日とたたずに殺害《さつがい》されるのは明らかだった。
五分ばかりの歓談《かんだん》のあとに、バルベーラは彼の肩《かた》を叩《たた》いた。
「ともかく、今夜は楽しめ。わしの娘《むすめ》の誕生日《たんじょうび》なのだからな」
「そうさせてもらいますよ。乾杯《かんぱい》だ。偉大《いだい》なカーポの愛娘《まなむすめ》に」
彼はワイングラスを掲《かか》げて、心からの敬意《けいい》を表《ひょう》した。
乾杯の後に親分と別れ、ブルーノは広大なホールへとおもむく。
一七世紀に建《た》てられ、何度かの増改築《ぞうかいちく》を経《へ》てきたこの豪華《ごうか》な邸宅《ていたく》は、荘厳《そうごん》かつ躍動感《やくどうかん》あふれる内装《ないそう》だった。壁《かべ》や天井《てんじょう》は落ち着いた金色に彩《いろど》られ、複雑《ふくざつ》な曲線《きょくせん》で装飾《そうしょく》されている。優雅《ゆうが》な楽曲《がっきょく》が流れていた。そしてそのホールで談笑《だんしょう》し、贅《ぜい》を尽《つ》くした料理を飲み食いする、たくさんの人、人、人……。時刻《じこく》は深夜にさしかかり、宴《うたげ》も最後の盛《も》り上がりを見せていた。
美しく着飾《きかざ》った女たちもいる。数多くの民族《みんぞく》が遺伝子《いでんし》を残していったこの地には、さまざまな容貌《ようぼう》の者が同居《どうきょ》していた。浅黒《あさぐろ》い肌《はだ》をした中東風の美女もいれば、金髪碧眼《きんぱつへきがん》の北欧風《ほくおうふう》の女もいる。見とれていると、彼女らはブルーノに微笑《ほほえ》みかけ、軽く手を振《ふ》った。
「|麗しのシチリア《ラ・ベラ・シチリア》……」
だれに言うともなく、彼はつぶやいていた。
まったく、ここは天国だ。逃げて来てよかった……!
パーティ会場をさまよい、ほどよく酩酊《めいてい》してきたころ、ブルーノに若い女が近づいてきた。
いい女だ。たぶん、東洋系の血だろう。カールのかかった長い黒髪と、すこし吊《つ》り気味《ぎみ》の目が、エキゾチックな香《かお》りを漂《ただよ》わせている。黒いベルベット地のロングドレスは、一見《いっけん》、落ち着いたデザインのようだったが、よく見ると、どきりとするほど背中が大胆《だいたん》に開いていた。あと少しで、ヒップの上あたりまで見えてしまいそうなほど深いカットだ。
好色の虫がうずき、ブルーノは胸《むね》を高鳴《たかな》らせた。
「おじさま。楽しんでる?」
女が流暢《りゅうちょう》な英語で言った。すこし驚《おどろ》きながらも、ブルーノはにっこりと微笑み返した。
「ああ。ここはいいね。最初に着いたときは、貧乏《びんぼう》くさい町並みに辟易《へきえき》したが」
この邸宅のような豪華《ごうか》な場所は、シチリアではほんの一握《ひとにぎ》りだ。ほとんどの住民は、質素《しっそ》でのどかな生活を送っている。
冗談《じょうだん》にしては笑えないブルーノの言葉に、女は品のいい微笑《びしょう》を返した。
「あなたアメリカ人ね。わたしも二年、向こうに住んでたの」
「そうか。やっぱり分かるかね?」
「ええ。なんとなく。都会的《とかいてき》っていうのか……洗練《せんれん》されてるっていうのか……まあ、そんな感じ。こっちの男とは匂《にお》いが違うわ」
「困ったな。あまり目立たない方がいいんだが」
そう言いながらも、ブルーノは笑みがこぼれるのを止められなかった。都会者|特有《とくゆう》の優越感《ゆうえつかん》だ。女の目に、なにか下心のようなものがよぎったのを、彼は見逃《みのが》さなかった。
「どこに住んでたんだい?」
「ボルティモアよ」
「へえ! だったら、すぐ近くに私も住んでたよ」
「本当? ちょっと疑《うたが》わしいわね」
女はくすくすと笑った。
「本当だよ。もっとも、ずいぶん昔の話だがね」
懐《なつ》かしさと酒の力も手伝って、ブルーノは熱心《ねっしん》に女を口説《くど》いた。思い出話と地元《じもと》ネタ。もちろん、女を誉《ほ》めるのも忘れない。彼女はまんざらでもない様子《ようす》で、彼の話に相槌《あいづち》を打った。
そうして、彼女はこう提案《ていあん》した。
「場所を移《うつ》しません? ここ、騒《さわ》がしいわ」
一も二もなく、ブルーノは同意《どうい》した。
「いいね。そうしようか。私が間借《まが》りしている部屋がある。そこで飲み直そう」
なにしろあそこには、ベッドがある。バスルームもだ。相手もそれを知りつつ、物おじせずに彼の腕をとった。
二人はパーティ会場を出た。別館《べっかん》へと続く回廊《かいろう》に、大柄《おおがら》なファミリーの兵隊が二人、立っていた。それぞれ銃《じゅう》を肩に提《さ》げ、暗視《あんし》センサー付きのサングラス型ゴーグルを着《つ》けている。
「スィニョール。そちらのご婦人《ふじん》は?」
慇懃《いんぎん》だが、無機質《むきしつ》な声で兵隊《へいたい》がたずねた。
現代《げんだい》マフィアの装備《そうび》はハイテクだ。兵隊たちも専門《せんもん》の教育を受けている。彼らが持っている銃は、ギャング映画に出てくるようなトンプソン機関銃《きかんじゅう》などではなく、ベルギー製《せい》の最新型《さいしんがた》サブマシンガンだ。強化《きょうか》プラスティックの部品を多用《たよう》したコンパクトな箱形《はこがた》の外観《がいかん》をしており、その弾薬《だんやく》はきわめて高速《こうそく》で、普通《ふつう》の防弾《ぼうだん》ベストを楽々と貫通《かんつう》する。
「野暮《やぼ》なこと聞くなよ」
娘を連れて、ブルーノは警備兵《けいびへい》の前を通り過《す》ぎた。
警備が厳重《げんじゅう》なのはありがたいが、こういうときは困りものだ……と彼は苦笑《くしょう》した。
「すまないね。これでもVIP待遇《たいぐう》なんだ」
ささやくと、娘はきょとんとしてから、感嘆《かんたん》したような声を漏らした。
ほどなく自室に到着《とうちゃく》する。ブルーノはさっそく、彼女のほっそりとした腰《こし》を抱《だ》いた。肉付きはいまいちだったが、細めの女性が好みの彼としては、むしろ願ったりかなったりだった。
「さて、どうしようか? そういえば君の名前を聞いてなかったな……」
「ふふ……知りたい?」
謎《なぞ》めいた微笑を浮かべて、娘は言った。間近《まぢか》で見ると、その肌のきめの細かさがよく分かった。やはり、若い女はいい。期待《きたい》と興奮《こうふん》で、ブルーノの鼻息《はないき》が、自然《しぜん》と荒《あら》くなる。
「知りたいな。そうじゃないと、あの時に君の名を呼べないよ」
ぐいっと相手《あいて》を引き寄せる。ナイトドレスのスリットが開いて、すらりとした脚線《きゃくせん》がよく見えるようになった。
「名前だけ? もっといろいろ、聞きたくない?」
「聞きたいさ、もちろん。ゆっくりと、いろいろね……」
「全部、知りたい?」
「ああ、教えてくれ。全部。全部ね……」
「そ。じゃあ、教えてあげる」
次の瞬間《しゅんかん》に起きたことが、ブルーノにはよくわからなかった。
壁《かべ》に押しつけられ、前歯《まえば》に猛烈《もうれつ》な痛みが走ったかと思うと――口の中にどでかい拳銃《けんじゅう》が突《つ》っ込まれていたのだ。ヘッケラー&コック社|製《せい》の四五|口径《こうけい》。特殊部隊《とくしゅぶたい》の突入《とつにゅう》作戦向けのモデルだ。女が持つには、あまりにゴツすぎる武器《ぶき》だった。
「がっ……。っ?…………ぁ!?」
今度こそ、本当に驚くブルーノに向かって、銃を握った女が告《つ》げた。
「よく聞きな。あたしの名前はメリッサ・マオ。<ミスリル> 作戦部、<トゥアハー・デ・ダナン> 陸戦部隊、SRT所属《しょぞく》。階級《かいきゅう》は曹長《そうちょう》。コールサインはウルズ2……」
[#挿絵(img/04_035.jpg)入る]
ばかな。<トゥアハー・デ・ダナン> だと? あの、テスタロッサとかいう小娘《こむすめ》の指揮《しき》する西太平洋戦隊が? いったいどうやって、こんな場所に……!?
「っ……? っあ……!」
「ついでに言えば……つい先日、あんたのせいで、さんざん世話《せわ》になった上官《じょうかん》を殺されたばかりの――引き金を引きたくてウズウズしてる女よ」
冷たいその瞳《ひとみ》には、すさまじい憎悪《ぞうお》と殺気《さっき》がみなぎっていた。
野太《のぶと》い銃身《じゅうしん》をくわえたまま、涙《なみだ》を流して首を振《ふ》る相手《あいて》に、マオはどうしようもない苛立《いらだ》ちを感じていた。
どうか。どうか殺さないでください。
その目が一心に懇願《こんがん》していた。威厳《いげん》もへったくれもあったものではない。もうすこしふてぶてしい男なら、自分は喜んで引き金を引いたのに。あまりにみじめな有様《ありさま》が、かっとなっていた頭を冷ましてしまった。
彼女は自動拳銃をブルーノの口から引っこ抜《ぬ》くと、改《あらた》めてその銃口を喉元《のどもと》に突《つ》きつけた。
「殺さないでください。どうか、殺さないで……」
「うるさいよ。黙《だま》りな」
すぐ近くの廊下《ろうか》には、無線機《むせんき》を持ったマフィアの兵隊がうようよしているのだ。彼らバルベーラ・ファミリーは、マフィア史上《しじょう》で例を見ないほどの凶悪《きょうあく》さで知られている。
ボスのバルベーラ親分は、表向きは人なつっこい地元《じもと》の有力者《ゆうりょくしゃ》といった風情《ふぜい》だったが、本当の姿《すがた》は違う。買収《ばいしゅう》をはねつけた判事《はんじ》を誘拐《ゆうかい》させ、首を切断《せつだん》してその口に札束《さつたば》をねじ込み、その写真を家族に送りつけるような男だった。
こうして邸宅を警護している男たちも、良心をカネで売った軍人あがりのプロばかりだ。しかもその装備は、贅沢《ぜいたく》なハイテク兵器ばかりときた。誘拐の目標《もくひょう》に泣きわめかれては、マオもたまったものではない。
「撃《う》たないでくれ。なんでもするから。お願いです」
「だから黙れ、って言ってんのよ」
「黙る。黙るよ。だから勘弁《かんべん》して欲《ほ》しい。私が馬鹿《ばか》だった。<ミスリル> を敵に回すつもりはなかった。そう、ほんの出来心《できごころ》だったんだ。反省《はんせい》している。お願いです。ああ、どうか、どうか……」
「あのね、あんたね。……ったく」
マオは空いている方の左手でハンドバックから拳銃型の注射器《ちゅうしゃき》を取り出すと、相手の首筋《くびすじ》に押しつけ、引き金を引いた。十数秒もたったころには、ブルーノはろれつの回らない『|お願いです《プリーズ》」を繰《く》り返しながら、うとうととまどろみ、やがて意識《いしき》を失った。
「やれやれ……」
暑苦《あつくる》しいかつらと、付け眉毛《まゆげ》を外し、ベリーショートの黒髪をくしゃくしゃと掻《か》きながら、彼女はつぶやいた。
「こちらウルズ2。標的を確保《かくほ》したわ。これから警報装置《けいほうそうち》を解除《かいじょ》する」
耳に仕込んだ超《ちょう》小型|通信機《つうしんき》が、頭蓋骨《ずがいこつ》の振動《しんどう》を拾《ひろ》って、彼女の声を味方《みかた》に送信《そうしん》する。
彼女はハンドバッグから工具類を取り出し、警報装置の制御《せいぎょ》ボックスに細工《さいく》をはじめた。簡単《かんたん》なやり方で回路《かいろ》をバイパスしてやってから、窓の警報スイッチをオフにする。本来《ほんらい》なら赤に切り替《か》わるはずのランプが、青に点灯《てんとう》したままでいた。
これでよし。内側からいじれば、この手の警報なんてちょろいものだ。
マオは窓に歩み寄ると、ロックを外して窓|枠《わく》を開けた。
四階の小ぶりなテラスからは、石造《いしづく》りの別館《べっかん》と高い塀が見え、さらにその向こうには、月明かりの下にぼんやりと浮かぶ、なだらかな丘陵地帯《きゅうりょうちたい》が望《のぞ》めた。どこかの街《まち》の灯《ひ》が、地平線《ちへいせん》のあたりにぼんやりと横たわっている。
「さて……と」
手すりによりかかる。さわやかな夜風が頬《ほほ》をくすぐった。ここが敵地のまっただ中だということを、つい忘れてしまいそうになる。
「絵になるねぇ。夜の女神《めがみ》って感じかな」
すぐ後ろで声がした。
開け放たれた窓の陰《かげ》、テラスの隅《すみ》の薄闇《うすやみ》の中に、男が一人、立っていた。きざったらしく腕《うで》組みして、石柱《せきちゅう》に背中を預《あず》けている。
「いつからいたのよ」
そっけない声でマオは言った。
「あの野郎《やろう》が、姐《ねえ》さんのケツ触《さわ》ってた辺りから」
男が暗がりから進み出る。月明かりの下に現れたのは、タキシード姿のクルツ・ウェーバーだった。金髪碧眼《きんぱつへきがん》の美男子だ。こうして盛装《せいそう》していると、ほとんど貴公子然《きこうしぜん》とした風格《ふうかく》が漂《ただよ》っている。
「な、言ったろ? そのドレスの方が絶対《ぜったい》いいって」
「確《たし》かに。一発でたらし込めたわよ。でもこんな服、二度とごめんね。オスカーの授賞式《じゅしょうしき》にいそうなバカ女優《じょゆう》みたい」
「そんなことないぜ。似合《にあ》ってると思うなぁ」
優雅《ゆうが》な足取りで近づき、クルツが耳元にささやいた。
「あんたの趣味《しゅみ》は下品《げひん》なのよ」
「いやいや、素敵《すてき》だよ。妖《あや》しくも孤独《こどく》な、その後ろ姿。……知ってるかい? |夜の女神《ヘカテ》は復讐《ふくしゅう》の神でもあるんだ。今夜の君には、そんな麗句《れいく》がまさしく相応《ふさわ》しい……」
「酔《よ》っぱらってんの?」
「スィー、スィニョリーナ。君の魅力《みりょく》が俺を酔《よ》わせ、一人の詩人《しじん》にさせるのだよ。ふふふふふ……」
「あ、こら」
クルツが後ろから、彼女の肩をやさしく抱《だ》きすくめた。どんな香水《こうすい》を使っているのか、透《す》き通るようなシトラスの香《かお》りが漂ってくる。油断《ゆだん》したら、そのままうっとりと身を任《まか》せてしまいそうな仕草《しぐさ》だったが――
あいにくマオには、任務《にんむ》があった。
一度うつむいてから、いきおいよく首を反らす。後頭部がクルツの鼻柱《はなばしら》にぶつかって、ごつりといやな音がした。
「ぶっ……!」
「はいはい。わかったから仕事しよーね、仕事」
「痛ってェ。なにすんだよー」
「いい加減《かげん》、学習しなさいよ。だいたい場所|柄《がら》をわきまえたらどう? 周《まわ》りには怖《こわ》いお兄さんたちがウヨウヨしてんのよ?」
「悲しい現実《げんじつ》だよなー……」
「ほら、さっさと装備出す」
「ちぇっ」
涙目《なみだめ》で鼻を押さえながら、クルツはテラスの隅《すみ》に置いてあったデイパックに手を伸《の》ばした。前日のうちに、パーティの食材や装飾品《そうしょくひん》の中に紛《まぎ》れ込ませて持ち込んでおいた、いくつかの装備の一つである。
ここまで段取《だんど》りを付けた上で、パーティの列席者《れっせきしゃ》として忍《しの》び込むのは、けっこうな苦労《くろう》だった。<ミスリル> 内のどこかにまだ内通者がいる可能性もあったので、この任務《にんむ》はまったくの孤立無援《こりつむえん》で進めている。情報部や、北大西洋・地中海戦隊にも断《ことわ》りを入れていない。この不案内《ふあんない》な土地に潜入《せんにゅう》できたのは、彼らの上官・カリーニン少佐の個人的《こじんてき》なコネと、マオ自身のコンピュータ知識、クルツの傭兵《ようへい》時代の人脈《じんみゃく》のおかげだった。
バッグの中から超小型のウインチとワイヤーを取り出し、二人がかりで失神《しっしん》したブルーノをテラスまで運び出す。その間も、クルツはぶつぶつと不平《ふへい》を漏《も》らしていた。
「ったく、つれねーよなぁ。せっかく、妙齢《みょうれい》の美女が引き留《と》めるのを振《ふ》り切って、パーティ会場を後にしたっていうのに……」
「妙齢の美女?」
「おうよ。ミラノの大富豪《だいふごう》の未亡人《みぼうじん》さ。もー、こんなでっかいダイヤの入ったネックレス着《つ》けててよ。いいムードだったのに」
「ウソつけ」
「ホントだよ。切れ長の瞳を潤《うる》ませてさ、『あなたとなら、結婚《けっこん》したっていい』とまで」
「あー、そう」
ウインチを手すりに取り付ける。中庭には、警備《けいび》の兵隊は見あたらなかった。クルツがここによじ登ってくる前に、スタンガンで眠らせたのだろう。四階のテラスから地上の植《う》え込みへ、まずクルツが降《お》りようとするのを、マオが制止《せいし》した。
「待って。あたしが先に降りる」
「別にかまわねえけど。なんで?」
彼女は答えなかった。いま、こちらがノーパンだということを知ったら、このスケベはさぞ喜ぶことだろう。このドレスは薄手《うすで》な上、背中がギリギリまで開いているから、下着が着けられないのだ。しかもスリットが深いので、もしクルツが下にいるときに、強めの風でも吹《ふ》こうものなら……。
おしり丸見えである。
「気になるなー。どうしてだよ?」
「うるさい。なんだっていいでしょ」
ハイヒールを脱《ぬ》いで裸足《はだし》になると、マオはそそくさとテラスの手すりを乗《の》り越えた。さしたる問題もなく、するすると地上の植え込みに降りる。次にウインチでブルーノを吊《つ》り降ろしてから、最後にクルツが地面に足を踏《ふ》み降ろした。
「車までのルートは?」
「問題ない。この辺の見張《みは》りは眠らせといた」
「よし。ずらかりましょ」
来客用《らいきゃくよう》の駐車《ちゅうしゃ》スペースまでたどり着ければ、あとは乗ってきたフェラーリのトランクにこの男を押し込んで、そのまま大手を振って出ていくだけだ。
ぐったりとしたブルーノの体を、クルツが肩に担《かつ》ぐ。サイレンサー付きの拳銃《けんじゅう》を片手に、マオが来客用の駐車スペースへと歩き出すと――
「スィニョーレ!」
中庭にハスキーな女の叫《さけ》び声が響いた。
「げ……?」
「スィニョーレ・カリウス! 待ってちょうだい!」
別館の方角から、きらびやかな宝石類《ほうせきるい》を身に着《つ》けた中年女が走ってくる。ふくよかな体つきの、なんとも福々《ふくぶく》しいご婦人《ふじん》だ。たっぷりと肉のついたおなかやバストが、動くたびにゆさゆさと揺《ゆ》れるその姿《すがた》は、さながら巨大なゴムまりのようだった。
「もしかして……妙齢の未亡人《みぼうじん》って……あれのこと?」
「へ? い、いや……その……」
「それに、カリウスって?」
「ただの偽名《ぎめい》だよ。親父《おやじ》の田舎《いなか》で、薬局《やっきょく》やってた爺《じい》さんの名前でさ。夏休みに行くと、よく遊《あそ》んでもらったんだ。なぜか日本|製《せい》の戦車《せんしゃ》プラモを山ほど持ってて――」
「カリウス――っ!」
まっしぐらに突進《とっしん》し、うろたえるクルツに取りすがると、女はほとんど半狂乱《はんきょうらん》といっていい見幕《けんまく》で泣き叫んだ。肩に担《かつ》いだブルーノや、呆気《あっけ》にとられてるマオの存在《そんざい》など、まったく眼中《がんちゅう》に入っていない様子《ようす》である。
「ああ……カリウス、愛《いと》しい人。探《さが》したわ! あたくしを置いて、どこに行かれる気?」
「いや、えーと……」
「気に障《さわ》ることを言ったのでしたら、心から謝罪《しゃざい》しますわ。たぶん、あなたはとても傷つきやすい人なのね! あたくしにはわかるの。その青い瞳の奥に秘めた悲しみが! だからもっと話し合いましょう。愛は草木のようなもの。根を下ろし、花が咲くまでは時間がかかるの。でもきっとお互《たが》いに分かり合えるはずよ。だから、だから……!」
遠慮《えんりょ》なく声を張《は》り上げる相手に、マオとクルツはあわてふためいた。
「あのねオバさん。とりあえず静《しず》かにね? ね? ちょっと――」
「おねがい、カリウス! あたくしの前から立ち去らないで―――っ!! ペル・ファヴォーレ――! アーッ! アッアッアッ! アウ―――――ッ!!」
「いや、アウーって言われても」
「黙《だま》らせなさいよ……! こんな大声出されたら……」
そうやってあたふたしていたのは、せいぜい三〇秒くらいだっただろう。だがその声を、近くの者が聞きつけるまでには充分《じゅうぶん》な時間だった。
二〇メートルほど離《はな》れた角から、サブマシンガンを持った黒服の男が姿を見せる。
「なんの騒《さわ》ぎだ!?……あ」
泣きわめく大女と、拳銃を握《にぎ》った美女。そして――気絶《きぜつ》したVIP待遇《たいぐう》のアメリカ人を担いだ優男《やさおとこ》。彼らの姿を認《みと》めるやいなや、警備兵は血相《けっそう》を変えた。
「侵入者《しんにゅうしゃ》! 侵入者だ―――っ!」
相手が叫び、サブマシンガンを構《かま》えるのと、マオが拳銃の引き金を引くのとは、ほとんど同時だった。
肩と脇腹《わきばら》に弾《たま》をくらったマフィアが、前のめりに倒《たお》れながらも、地面めがけて引き金を引く。銃口《じゅうこう》の炎《ほのお》。舞《ま》い上がる土煙《つちけむり》。
サブマシンガンの銃声は、おばさんの泣き声よりもはるかに大きかった。
パトカーのサイレンによく似《に》たアラーム音が、広大な敷地内《しきちない》に鳴《な》り響く。
本館や別館、詰《つ》め所や宿舎《しゅくしゃ》から、マフィアの私兵《しへい》がどっと雪崩《なだれ》のように飛び出した。立て続けの銃声と怒鳴り声。訓練《くんれん》されたドーベルマンが、獰猛《どうもう》な声をあげて走り出す。数々のスポットライトが点灯《てんとう》し、侵入者の姿を追い求める。
いまや古風《こふう》な邸宅《ていたく》全体が、週末《しゅうまつ》のディスコさながらの喧噪《けんそう》に包《つつ》まれていた。
「まったく!」
雨あられと降《ふ》り注《そそ》ぐ銃弾に追い立てられ、マオは大声で悪態《あくたい》をついた。
「今回はエレガントに行けると思ったのに! けっきょくドンパチだわ。どーしてくれるのよ!?」
腰くらいの高さの石垣《いしがき》に隠《かく》れてから、ほとんど涙目で怒鳴りつける。
[#挿絵(img/04_047.jpg)入る]
「いや、あれは不可抗力《ふかこうりょく》だよ」
遅《おく》れて石垣に駆《か》け込んだクルツが抗弁《こうべん》した。重たいブルーノを担いだまま走り回ったので、ぜいぜいと肩で息をしている。
「ほら、俺《おれ》、優しいから。社交辞令《しゃこうじれい》で、あれこれとお世辞《せじ》言ってたら――なんか、あのオバさん、本気にしちゃって。でも旦那《だんな》が早死《はやじ》にした理由、なんとなくわかる気がするなー」
「しみじみと感慨《かんがい》にふけってる場合!? たぶん、これって絶体絶命《ぜったいぜつめい》よ!?」
ちなみに件《くだん》の未亡人は、突然《とつぜん》の銃撃戦に飛び上がって、その場で失神《しっしん》してしまった。彼女を置き去りにして、マオとクルツは敷地内《しきちない》をつっきり、大小の花が咲《さ》き乱《みだ》れる庭園《ていえん》の隅《すみ》にまで逃げてきたのだが――
「後ろは高さ三メートルの塀《へい》で、前は一〇〇人のマフィアたち。逃げ場がないじゃない! しかもこっちの武器は、|SOCOM《ソーコム》ピストル一挺《いっちょう》と電気銃《でんきじゅう》だけときたわ!」
「でも良かったな。その銃、高かったのに実戦《じっせん》ではまだ使ってなかっただろ? 姐《ねえ》さん、こないだ『バカな買い物した』って嘆《なげ》いてたじゃん」
「ちっともよくない!」
――などと問答《もんどう》している最中《さいちゅう》も、周りで敵弾が跳ね回る。石の破片《はへん》と黒土がはじけ飛び、ばらばらとマオたちの頭に降《ふ》り注《そそ》いだ。
「ええい、くそっ!」
物陰《ものかげ》から、問題の拳銃を突《つ》き出して五|連射《れんしゃ》する。こちらめがけてすっ飛んできたドーベルマン二頭が、銃弾を食らって次々に倒《たお》れ、その場でのたうち回った。
「あーあ。かわいそ」
「知ったこっちゃないわ。やつらの夜食になるのはごめんよ」
「そりゃあ、そうだが――なっと!」
ほんの数メートル、反対側の物陰から飛び出してきた男めがけて、クルツは電気銃をぶっ放した。鋭《するど》い電光が宙《ちゅう》を走り、男が地面に倒れ伏《ふ》す。
「くそっ、ライフルが欲《ほ》しいぜ。向こうの本館の窓に、指揮官《しきかん》っぽい奴《やつ》がいるんだがなー……」
クルツの腕なら、確実《かくじつ》にその指揮官を射殺《しゃさつ》できるだろう。『|短い《クルツ》』などという単語を連想《れんそう》させる名前だが、ライフルを持った彼は、どんな遠くの敵にも手が届《とど》く。
「この際《さい》、指揮|系統《けいとう》を寸断《すんだん》しても意味ないわ」
「でもヤバいな。こりゃあ、包囲《ほうい》されかけてる」
クルツはそう言って、電気銃のバッテリー・カートリッジを取り替《か》えた。
「あんたのせいよ。こうなったら、くたばる前にこの男を……」
マオは拳銃の弾倉《だんそう》を交換《こうかん》して、のんきに眠っているブルーノを見下ろした。
「殺す気かよ? こいつ誘拐《ゆうかい》しに来たってのに」
「冗談《じょうだん》よ。ただの願望《がんぼう》」
その直後《ちょくご》、二人が着けた耳の通信機《つうしんき》に、新たな声が入った。
『捨《す》て鉢《ばち》になるな。ウルズ2』
「え……?」
『間に合ったようだな。頭を低くしていろ』
「なに? そばまで来てるの? ソー……」
轟音《ごうおん》と衝撃《しょうげき》が、マオの言葉を遮《さえぎ》った。
背後《はいご》の塀《へい》が吹《ふ》き飛んで、猛烈《もうれつ》な爆炎《ばくえん》と破片《はへん》が飛び散《ち》る。
敷地《しきち》の外から、何者かが塀を爆破したのだ。
爆発で黒煙《こくえん》が舞《ま》い上がり、視界《しかい》が一時的にゼロになる。マフィアの私兵たちが怒鳴り合いながら、でたらめに銃器を発砲《はっぽう》した。
「……!?」
『壁を背にして、四時方向。走れ』
煙が目に染みる。涙がにじむのをこらえつつ、マオはクルツの肩を引き、言われたとおりに四時方向――右|後方《こうほう》へと駆《か》けだした。高い塀が、幅《はば》二メートルほど崩《くず》れている。爆弾《ばくだん》かなにかで、外から吹き飛ばされたのだ。
瓦礫《がれき》を踏《ふ》み越《こ》え塀の外へ出ると、煙《けむり》の向こうでブレーキ音がした。
「こっちだ!」
邸宅《ていたく》の外周《がいしゅう》を巡《めぐ》る路上《ろじょう》に、中古のフィアットが停まっているのが見えた。クリーム色の四角いクーペ。四人乗ればぎゅうぎゅうになるような、小さな車だ。
その運転手を見て、マオとクルツは目を丸くした。
「ソースケ!?」
車でその場に駆けつけたのは、彼らの同僚《どうりょう》、相良《さがら》宗介《そうすけ》だった。
ざんばらの黒髪で、むっつり顔にへの字口。いまは黒い戦闘服《せんとうふく》の上に、オリーブ色のフライト・ジャケットを着ている。
二人が驚《おどろ》いたのは至極当然《しごくとうぜん》だった。宗介は今回の任務《にんむ》には参加《さんか》しておらず、いまは日本にいるはずなのだ。
「どーしたんだよ。おまえ、今日は中間テストだろ!?」
後部|座席《ざせき》にブルーノを放り込んで、クルツが言った。
「肯定《こうてい》だ。しかし脱出《だっしゅつ》ルートが変更《へんこう》になった。少佐の命令《めいれい》で、その伝言《でんごん》と脱出の支援《しえん》に来た」
「変更だって?」
「海路《かいろ》でマルセイユ行きは中止《ちゅうし》だ。確保《かくほ》しておいた漁船《ぎょせん》の船長が、アル中で入院したらしい。別のつてを利用して、NATO軍の――」
煙を貫《つらぬ》き、飛んできた敵弾が、フィアットのバックミラーを吹き飛ばした。
「おわっ……?」
「……NATO軍の空軍基地から、空路でトルコへ向かう。シャトル便《びん》に相乗《あいの》りする、いつもの手だ。明朝《みょうちょう》、米軍の偽造《ぎぞう》IDと命令書《めいれいしょ》、それから海兵隊の軍服が、カターニア市の郵便局《ゆうびんきょく》に――」
「説明はいいから、早く出す!」
「了解《りょうかい》」
助手席《じょしゅせき》に乗りこもうとするマオに怒鳴《どな》られ、宗介がアクセルを踏《ふ》んだ。
エンジンが唸《うな》り、後輪《こうりん》が土と小石を巻きあげる。後ろから蹴飛《けと》ばされたようにフィアットが加速《かそく》して、マオは危《あや》うく開きっぱなしのドアから放《ほう》り出されそうになった。
「……っとっと。危ないじゃないっ!?」
派手《はで》に翻《ひるがえ》ったドレスの裾《すそ》を、血相《けっそう》を変えて押《お》さえながら、彼女は抗議《こうぎ》した。
「敵弾も危ない。それにしても……」
宗介がちらりと、彼女を横目で見た。
「変わった水着だな。マルセイユまで泳ぐつもりだったのか?」
「ちがう! 水着じゃなくて、これは社交用《しゃこうよう》!」
「そうか」
宗介が鋭くハンドルを切った。車体が大きく左に傾《かたむ》き、マオは助手席の窓に頭をごつりとぶつけてしまう。未舗装《みほそう》の道はでこぼこが激《はげ》しく、こんな大衆車《たいしゅうしゃ》ではすぐにサスがいかれてしまいそうだった。
「ひどい運転……!」
「問題ない」
「そーいえばよ、姐《ねえ》さん。駐車場に置《お》き去《ざ》りにしたフェラーリ、どうしようか」
クルツがぼやく。
「ほっときなさい。どうせレンタカーよ」
「でもさ。あの車のトランクに、衛星通信機《えいせいつうしんき》とかが入れっぱなしになってるから……」
「ええっ!? バッカ……」
「爆薬《ばくやく》も仕掛《しか》けておいたんだ。このスイッチを押《お》せば、一五分後にドカン。いちおう始末《しまつ》はできるんだけど……」
暗号《あんごう》の入った通信機が置き去りに。絶句《ぜっく》したマオの横で、宗介が控《ひか》えめにたずねた。
「どうする。引き返すか」
「……なわけないでしょ!? いまは――」
ちゅん、と空気を切り裂く音がして、彼らのぎりぎり頭上を、銃弾が飛び過《す》ぎていった。
彼らの後方、一〇〇メートルあたりの路上《ろじょう》に、黒|塗《ぬ》りの4WDが見えた。チェロキーだ。まっしぐらに追ってくる。サンルーフから上半身を出した男が、サブマシンガンをフルオートで撃った。がしゃん、と乾《かわ》いた着弾音《ちゃくだんおん》。フィアットのリア・ウィンドウに穴《あな》が開き、ガラスの破片《はへん》が車内にまき散《ち》らされる。
「こういう状態《じょうたい》なのよ! 押しなさい、起爆《きばく》装置! もういいわ。ドカンといって!」
「了解〜っ。……と」
携帯電話《けいたいでんわ》サイズの遠隔《えんかく》スイッチを、クルツが『ぽちっ』と押した。
「はい、作動《さどう》した。さらば、フェラーリ。ようこそ、フィアット」
「この車だって、捨《す》てたものではないぞ」
宗介は暴《あば》れるハンドルを押さえ込むようにして、さらに加速《かそく》した。だがフィアットのパワー不足《ぶそく》は、いかんともしがたい。しかも追っ手の4WDは、排気量《はいきりょう》がこちらの倍《ばい》以上もあるのだ。
「追いつかれる」
黒い車体が、みるみると迫《せま》ってくる。マオは行く手に大きなカーブがあるのを見て取ると、フィアットのサンルーフから身を乗り出した。
「こなくそ……!」
がっちりと拳銃《けんじゅう》を両手で構《かま》えて発砲《はっぽう》する。敵の銃手《じゅうしゅ》が銃弾を食らって、車内に落ちた。
さらに発砲。チェロキーの車体が火花を散らす。防弾仕様《ぼうだんしよう》に改造《かいぞう》されているらしく、こちらの弾丸を受け付けない。それでも彼女は弾倉が空になるまで、拳銃をしつこく撃ち続けた。
一〇発あまりの四五口径弾が、運転席の前に集中《しゅうちゅう》する。
敵の防弾ガラスは、それら銃弾のことごとくをストップしたが――無数《むすう》の細かな亀裂《きれつ》が生まれて、ガラスの表面が真っ白になった。
急なカーブが近づいた。
鮮《あざ》やかな手つきで、最後の弾倉を装填《そうてん》して、なお発砲。左右にそれぞれ三発ずつたたき込んで、ヘッドライトを吹《ふ》き飛ばしてやる。
「曲がるぞ!」
直後、フィアットがサスをきしませ、コーナーに突っ込んだ。車体が大きく傾いて、右のタイヤがふわりと浮く。マオ、宗介、クルツの三人が一斉《いっせい》に、右へ体を動かして――
「わおっ」
車体が戻り、タイヤが接地《せっち》。グリップを取り戻したフィアットは、どうにかコーナーを曲がりきった。よたよたと千鳥足《ちどりあし》を踏むようにして、非力《ひりき》な車体がふたたび加速する。
一方で、フロントガラスをひびだらけにされ、ヘッドライトを破壊された追っ手の運転手には、そのコーナーが見えないようだった。ほとんど減速《げんそく》をすることもなく、カーブからはみ出し、道路沿《どうろぞ》いの急な斜面《しゃめん》に前輪《ぜんりん》を乗り上げる。
甲高《かんだか》いエンジンのうなり声と共に、黒い車体が夜空に舞い上がった。
わずかな滞空《たいくう》時間。
左に大きくロールしながら、地面に激突《げきとつ》。二回、三回と転がって、大小の部品をまき散らす。大破《たいは》して炎上をはじめた4WDが、みるみる遠ざかっていった。
「お気《き》の毒《どく》。翼《つばさ》があったら飛べたのにねぇ、ふふ……」
敬礼《けいれい》のような投げキッスを、彼女は送った。
「なんつーのか、きょうはスパイ映画の日だな……」
クルツがつぶやいた。
フィアットが未舗装《みほそう》の道路から逸れて、舗装道路に乗り上げる。
辺りは低い丘陵地帯で、右へ左へと道路がゆるやかなカーブを描《えが》いていた。夜のためか、対向車《たいこうしゃ》はほとんどない。
一分、二分。車は順調《じゅんちょう》に夜道を走る。
「もう終わりか?」
「なんか、あっけないわね……」
ずっと後方、丘の向こう側《がわ》から一対のヘッドライトの光が見えた。荒っぽい運転だ。飛ばしている。どうやら新たな追っ手らしい。
「また一台きりかよ?」
「一台でもキツいわ。もう拳銃の弾が……」
「いや。よく見ろ」
宗介が言った。
最初は、確《たし》かに一台きりだった。しかし道路を進んで角度が変わり、丘の向こうの見通しが良くなるにつれて、別のヘッドライトがもう一対、姿《すがた》を見せた。さらに一対。もう一対。ライトの列は途切《とぎ》れることなく、ぞろぞろと続き――
「じゅ……一三台……」
クルツがあんぐりと口を開ける。
「ソースケ、もっとスピード出ないのっ!?」
「これが限界だ。なにしろ荷《に》が重い」
淡々《たんたん》と宗介が答える。確《たし》かにこの車は、街向けの非力《ひりき》な小型車《こがたしゃ》だ。大人《おとな》四人を乗せて、カーチェイスをやるようには作られていなかった。しかも武器《ぶき》がない。脱出の際《さい》の万一《まんいち》のために、ひなびた教会に武器弾薬《ぶきだんやく》を隠《かく》してあったが、その教会はずっと離《はな》れた寒村《かんそん》にあった。
彼女は後部座席《こうぶざせき》でのんきに寝息《ねいき》をたてる男――ブルーノを、深刻《しんこく》なまなざしで見つめた。
「やっぱり殺して捨《す》てようかしら……?」
「ああ。だんだん名案《めいあん》に思えてきたぜ……」
クルツが答える。かなり本気のその相談《そうだん》を、問題のビンセント・ブルーノはまったく聞いていなかった。
「身を軽くするのか?」
宗介が訊いた。
「そうよ。じゃないと追いつかれるわ」
「ならば、その男だけでは不充分《ふじゅうぶん》だな。後部座席の下に、武器と弾薬がしまってあるから捨てるといい。アサルト・ライフルとショットガン、使い捨てのロケット・ランチャーと高性能|手榴弾《しゅりゅうだん》だ。合計で四〇キロにはなるだろうから――」
「なんだって?」
ブルーノを押しのけ、狭苦《せまくる》しい車内でじたばたともがき、後部座席を持ち上げる。
中はちょっとした武器庫だった。ドイツ製の突撃小銃《とつげきしょうじゅう》、イタリア製の散弾銃《さんだんじゅう》、アメリカ製のロケット弾。防弾ガラスもたやすくぶち抜《ぬ》く、至《いた》れり尽《つ》くせりの重武装《じゅうぶそう》だ。
『早く言えっ!! このバカっ!!』
怒《いか》りで顔を真《ま》っ赤《か》にして、マオとクルツは同時に叫んだ。
「言わなかったか?」
「言わなかったわよ!……ったく!」
二人は罵倒《ばとう》を切り上げて、それらの銃器を手に取ると、がちゃがちゃとレバーを動かして、装填済《そうてんず》みの弾薬を確認《かくにん》した。
穴《あな》だらけのリア・ウィンドウを破《やぶ》って、クルツがライフルの狙《ねら》いを定める。マオはふたたびサンルーフから身を乗り出し、スラッグ弾を詰めた散弾銃を構《かま》えた。
「さあ、パーティの続きといくわよ」
慣《な》れ親しんだ、鋼鉄《こうてつ》の肌触《はだざわ》り。その感触《かんしょく》に、ついつい彼女はうっとりとする。
「野郎《やろう》ども、覚悟《かくご》はいいっ!?」
「いつでも」
「どこでも」
追っ手が迫《せま》った。すぐそこまで。
「ロックン・ロールっ!!」
ああ。けっきょくあたしは、こういうノリが好きなのだ。
突風《とっぷう》に負けない声で叫んだ直後、マオは散弾銃をぶっ放した[#「ぶっ放した」に傍点]。
「こんな醜態《しゅうたい》ははじめてだ!」
全身に怒りをみなぎらせ、バルベーラ親分は叫んだ。
「わしの娘の誕生《たんじょう》パーティだぞ!? その会場で、客人《きゃくじん》がさらわれた。しかもその賊《ぞく》は、いまだにわしの兵隊を振《ふ》りきって逃げ続けておる」
「恐縮《きょうしゅく》です、カーポ・デイ・カーピ」
マフィアの警備隊長は、必要《ひつよう》以上にかしこまって言った。彼らがいる邸宅《ていたく》の駐車スペースは、停まっていた車の半分ほどが賊の追跡《ついせき》に出払《ではら》っていた。
「ですが、このまま逃がしはしません。包囲網《ほういもう》は縮《ちぢ》まりつつあります。必ずやブルーノ様を取り戻し、不埒《ふらち》な賊どもめを血祭《ちまつ》りに……」
「ブルーノなぞ、どうでもいい!」
とうとう親分は本音《ほんね》を口にした。
「奴《やつ》は厄介者《やっかいもの》だ。もろとも殺して構わん! どんな手段《しゅだん》でもだ! |A S《アーム・スレイブ》も投入しろ! 女子供《おんなこども》が立ちふさがろうと、邪魔《じゃま》する者は、残らず踏みつぶすのだ!!」
「え……ASもですか?」
「そうだ。こういうときのために、わしはあのロボットを買っておいた。いますぐ傭兵《ようへい》たちを急行《きゅうこう》させろ! いいか、殺すのだ!! わしの前に奴らの首を並べて見せろ!」
「ですが、ASが出たとなると、さすがに州政府《しゅうせいふ》も――」
「つべこべ言うな! 奴らを逃がしたら、貴様の頭もねじ切ってやるぞっ!?」
「はっ。失礼いたしました……!」
軍隊のころの習慣《しゅうかん》だろう。警備隊長が背筋を伸《の》ばし、まっしぐらに警備センターへと駆《か》けていった。
「ふん……!」
鼻息も荒く、その後ろ姿をバルベーラは見送る。彼は大儀《たいぎ》そうに葉巻《はまき》を取り出し、火を点《つ》けた。すこしは落ち着くかと思ったが、とてもそんな気分にはなれない。自分が受けた屈辱《くつじょく》を思うと、怒りで頭が爆発《ばくはつ》しそうだった。
これまで――この地位に登り詰めるまで、自分はことごとく敵を血祭りにあげてきた。どんな人間だろうと、その家族までも皆殺《みなごろ》しにした。もちろん、年端《としは》もいかない少年もいた。それでも自分は容赦《ようしゃ》しなかった。恐怖を、躊躇《ちゅうちょ》を、敵に植え付けるためだ。自分の息子《むすこ》や娘《むすめ》には、その光景《こうけい》をしかと見届《みとど》けさせた。
そうだ。娘を慰《なぐさ》めてやらねば。傷つきやすい我《わ》が子のことだ、ひどいショックを受けているに違いない。
バルベーラは思い直すと、護衛《ごえい》を引き連れ駐車スペースから立ち去ろうとした。
ずらりと並《なら》んだ、客人たちの高級車《こうきゅうしゃ》。ジャガー、ベンツ、ロータス、ポルシェ、ロールスロイス、ランボルギーニ。真っ赤なフェラーリF40の脇《わき》を、大股《おおまた》で通り過《す》ぎようとする。
そのとき、小刻《こきざ》みな電子音がした。すぐそばのフェラーリからだ。
「…………?」
みるみると、電子音のトーンが高まっていった。考えもなしに、バルベーラは立ち止まって、異音《いおん》を発するフェラーリの車体をのぞき込む。
車に仕掛《しか》けられた五キログラムのプラスティック爆薬が、次の瞬間《しゅんかん》、炸裂《さくれつ》した。
衝撃波《しょうげきは》が、一瞬で車体をばらばらにした。燃《も》え上がるガソリンが火の玉となって周囲《しゅうい》にすさまじい破壊《はかい》の嵐《あらし》を吹《ふ》き荒らす。吹き飛んだボンネットがフリスビーのように宙を切り裂《さ》き、五〇メートルも離《はな》れた本館の壁《かべ》に突《つ》き刺《さ》さった。
当のバルベーラは、自分が死んだことにさえ気付かなかった。
残念なことに、バルベーラが発した抹殺命令《まっさつめいれい》は、その後もしばらく有効《ゆうこう》なままだった。
[#地付き]同時刻《どうじこく》 日本 東京都 調布市《ちょうふし》 都立《とりつ》陣代《じんだい》高校
地球を半周《はんしゅう》した彼方《かなた》でのドンパチ騒《さわ》ぎなど、もちろん彼女――千鳥《ちどり》かなめには知る由《よし》もなかった。
ロングの黒髪《くろかみ》、制服姿《せいふくすがた》。活発《かっぱつ》な容貌《ようぼう》ながら、どことなく大人びた雰囲気《ふんいき》の持ち主だ。派手《はで》さはないが、シャープな美しさをたたえた瞳《ひとみ》。そのプロポーションはスーパーモデル級とはいかないまでも、ほっそりとして隙《すき》がない。
平和《へいわ》な日本の、平和な高校。天気も平和な、日本晴《にほんば》れ。
とうてい平和でないあいつ[#「あいつ」に傍点]がいないおかげか、きのうのテストもまったく平和そのものだった。
いまは、けさ最初のテスト科目が始まる直前で、かなめはその支度《したく》をしているところだった。そばの席で、クラスメートの一人が携帯電話《けいたいでんわ》をかけている。その声が、自然とかなめの耳に入ってきた。
「――あ、もしもし? あたし。……うん、これからテスト。うん、まあまあ。うふふ……ホントだよぉ。ぶー。……だって、がんばってるもん。ヒロくんだって、知ってるでしょ?……うん。……うん」
たぷん、相手は彼氏《かれし》だろう。確《たし》か、どこぞの大学生だとかいっていた。
「うん……。いま、なにしてるの?……徹夜《てつや》明け?……あはは、ごめん。そっか、レポートあったもんね。……うん。……うん。そうだよね。がんばらないと……」
いつもの彼女とはちがう、うっとりした声。
(ふん、いい気なもんよね……)
ひがみ全開《ぜんかい》で、かなめは内心つぶやいた。
朝っぱらから、教室《きょうしつ》で、いそいそと。どこかの彼氏と二人だけの世界に浸《ひた》って。まったく、あの顔の締《し》まりのないことといったら……!
……などと思いはするものの、ああいう相手《あいて》がいることが、うらやましくないと言ったら、やはり嘘《うそ》になる。こうやって試験《しけん》が始まる前に、わざわざ声を聞きたくなるような相手。そんな異性《いせい》がいるというのは、どういう気分《きぶん》なのだろう? 彼女はいま、どんな男の人と、どんな会話をしているのだろう?
もし、あたしがだれかとそういう関係になって、別々《べつべつ》の場所で暮らしてたら――やっぱりあたしも、こういう顔して、マメに電話したりするのだろうか?
たとえば、もし、仮定《かてい》として、相手があいつだったとしたら?
(ちょっと想像《そうぞう》つかないなぁ……)
かなめが短い物思《ものおも》いにふけっていると、クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が声をかけてきた。
「ねえねえ、カナちゃん」
「へ?」
「きょうの数学、どう? あたし、たぶん最悪だよう……ぐすっ」
「ああ……。それはご愁傷《しゅうしょう》さま。あたしは、まあまあかな」
試験勉強がバッチリの者|特有《とくゆう》の常套句《じょうとうく》で、かなめは質問《しつもん》をはぐらかした。
英語は、ほぼ満点《まんてん》だろう。古文、そこそこは狙《ねら》えるかも。化学《かがく》、絶対《ぜったい》に満点。数学U、確実《かくじつ》に満点。
今度のテストも、苦手《にがて》なはずの理数系《りすうけい》を完璧《かんぺき》にする自信があった。
テッサの予言《よげん》が現実《げんじつ》のものとなったのだ。<ウィスパード> としての覚醒《かくせい》。急激《きゅうげき》に高まっていく知識量《ちしきりょう》。
それについて気味《きみ》が悪いかというと、実はそうでもない。実感《じっかん》がわかずに、ただ首をひねるばかりなのである。
奇妙《きみょう》なことに、『自分の頭が良くなった』という感覚《かんかく》が、かなめにはまるでなかった。いまや彼女は、|A S《アーム・スレイブ》の駆動系《くどうけい》に使用される導電性《どうでんせい》・形状記憶《けいじょうきおく》ポリマーの化学式とその製法《せいほう》について、饒舌《じょうぜつ》に説明することができる。量子効果《りょうしこうか》を利用《りよう》した単電子素子《たんでんしそし》の原理《げんり》について語った上で、まだだれも気付いていないユニークな応用《おうよう》方法を提案《ていあん》することも、できる。
だがそれは彼女にとって、サバのみそ煮《に》の調理《ちょうり》方法について語るのと、そう違《ちが》わない感覚だった。しかも世間《せけん》の人々は、みそ煮にきざみ生姜《しょうが》を付け合わせると、ぴりりとした味が料理をいっそう引き立てることを知らないのである。
……その程度《ていど》の話だ。
くだらないお笑い番組《ばんぐみ》を観《み》てケラケラ笑うし、友達との会話もいつも通り。
あれこれ悩《なや》んでも気落ちするだけなので、彼女はこの問題《もんだい》について、深く考えないことにしていた。厄介《やっかい》なのは、おいしいみそ煮の作り方を、是《ぜ》が非《ひ》でも知りたがっている連中《れんちゅう》がいるらしいことだったが――
「あー、怪《あや》しい」
かなめのそこはかとない自信を察知《さっち》して、恭子が言った。
「カナちゃん、こないだの期末《きまつ》も数学トップだったじゃない」
「いや、まあ……マグレだよ」
「どんな勉強法なの? っていうか、むしろカンニング? どっちでもいいから教えて」
彼女はとんぼメガネの奥《おく》の、大きな瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせた。
「ないしょ。『君には知る資格《しかく》がない』。なんてね、ははは」
「ぶーっ。……って、そういえば相良くん、きょうも来てないみたいだね」
かなめの口真似《くちまね》から思い出したのか、恭子が宗介の話題《わだい》を切り出した。
大事《だいじ》な中間テストの期間中《きかんちゅう》だというのに、宗介は学校を欠席《けっせき》しているのだ。これまでも、いきなり二、三日学校に姿を見せなくなることはあったが、テストのときというのは初めてのことだった。
「そーね。あのバカ、単位《たんい》落としてもいいのかしら? ただでさえ問題行動《もんだいこうどう》ばかり起こしてるっていうのに……」
軽い口調《くちょう》で言ったものの、かなめは心配《しんぱい》だった。学生としての立場《たちば》というものを、彼は考えなさすぎるのだ。いつまでもこんな調子《ちょうし》では、いくらのんきなこの学校でも、教師《きょうし》たちが黙《だま》っていないだろうに。
「困《こま》ったもんだわ。あーあ……」
「ケータイにかけてみた? カナちゃんが脅《おど》してあげたら、ちゃんと来るかもよ」
そう言って、恭子は自分の新品《しんぴん》のPHSを、いそいそと取り出した。最近買ったばかりなせいか、なにかにつけて使いたがるのだ。
「ムダムダ。あいつ、こういうときは絶対《ぜったい》、連絡《れんらく》とれないんだから。きっとどっかのド田舎《いなか》か山奥で、釣《つ》りでもしてるのよ」
「わかんないよ? 案外《あんがい》、出るかも」
「ムダだってば。やめときなさいって」
投《な》げやりに止めたが、それでも恭子はPHSを操作《そうさ》して、耳に押《お》し当てる。彼女はしばらく無言《むごん》のままで、神妙《しんみょう》に応答《おうとう》を待っていた。
「……ね? ダメでしょ?」
「んー……」
「いっつもそうなのよ。留守電《るすでん》サービスさえつながらなくてさー。まったく、あいつときたら――」
「つながったよ」
「へ?」
「ほら」
恭子がPHSを差し出した。
そばでは例《れい》のクラスメートが相変《あいか》わらず、電話でどこかの彼氏と愛の言葉をささやきあっている。なぜかその姿《すがた》と自分とが、重ね合わさって見えた。根拠《こんきょ》のない気恥《きは》ずかしさを感じながらも、かなめはPHSをおずおずと受け取り、半信半疑《はんしんはんぎ》で呼《よ》びかけた。
「……もしもし?」
『千鳥《ちどり》か! どうした!?』
遠い叫び声。ばりばりとひどいノイズが混じっていたが、相手は、まごうことなき宗介だった。
「あ……ソースケ。どこいるの?」
『カニカッティだ!』
「カニ買って……なに?」
わけのわからんことを。なんのつもりだろうか? 返事《へんじ》が来るまで、やたらとタイムラグがあるのも気になった。
「あのさ……きのうから、テストなんだよ? 忘れちゃったの?」
『覚《おぼ》えているが、急用《きゅうよう》が入った! やむをえん!!』
「やむをえない、じゃないでしょ。例によってあんたがダメダメな古文、三時間もかけて教えてあげたのに。テスト、始まっちゃうじゃないの」
『そ――はすまなかった!』
ノイズが一瞬《いっしゅん》、大きくなる。
「すまなかったじゃ、すまないのよ、まったく……! それにねぇ! あんたがぶっ壊《こわ》したセンセの車のこと、あたしが適当《てきとう》にゴマかしといてあげたのよ!?」
かなめは神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》にこう説明《せつめい》していた。
『宗介《そうすけ》が親切心でこの車を整備《せいび》しようとした。ところがその途中《とちゅう》で気分が悪くなったらしく、一人で早退《そうたい》して、かかりつけの病院に行ってしまった。症状《しょうじょう》が回復《かいふく》して、戻《もど》ってきたら必ず車を元に戻す≠ニ言っていたので、数日の間だけ我慢《がまん》して欲《ほ》しい』
……と。かなり苦しい釈明《しゃくめい》だったが、人のいい恵里は涙目《なみだめ》で、『そうなの……。持病《じびょう》があるなんて初耳《はつみみ》だけど……そういうことなら、問題とかにはしないで待つことにするわ』と言ったのだった。
ばらばらの車は現在《げんざい》も、ビニールシートを被《かぶ》せられたまま校舎裏に放置《ほうち》してある。
「あんた、あたしの気苦労《きぐろう》、わかってるの!?」
しばらくの間、返事《へんじ》がなかった。五秒、六秒、七秒。イライラしてきたところで、短い言葉が返ってくる。
『わかってる!』
「わかってない! 誠意《せいい》がない! 人の善意《ぜんい》ってもんを、なんだと思ってるわけ!? だいたいねぇ! あんたときたら、どうしてそう、いっつもいっつも人に迷惑《めいわく》かけて――って、聞いてるの!?」
『ああ! 聞いて――』
直後《ちょくご》に、雷《かみなり》のような轟音《ごうおん》がした。がたがたと激《はげ》しい振動音《しんどうおん》の後に、甲高《かんだか》いノイズが干渉《かんしょう》する。一拍《いっぱく》おいて、宗介が告《つ》げた。
『聞いている!――直線《ちょくせん》に出るぞっ!!』
宗介が変なことを怒鳴《どな》ったので、かなめはきょとんとした。
「? な、なによ?」
『いや、こっちのことだ! 運転中《うんてんちゅう》でなっ!!』
その直後に、電話の向こうで大きなロケット花火が飛ぶような音がした。
[#地付き]同時刻《どうじこく》 シチリア島南部 カニカッティ近郊《きんこう》
ロケット弾《だん》を足下に食らったマフィアのベンツが、炎を噴《ふ》いて跳《は》ね上がった。
燃《も》える車体《しゃたい》が逆《さか》さまになって、石畳《いしだたみ》の道路《どうろ》を横滑《よこすべ》りしたところに、後続の追跡車《ついせきしゃ》がぶつかって派手《はで》にスピンする。絡《から》み合うようにして、無人《むじん》の市場に突《つ》っ込んだ追跡車を、宗介は一顧《いっこ》だにしなかった。
彼らが逃げ込んだのは、石造《いしづく》りの建物《たてもの》が身を寄《よ》せ合う、古い町だった。
深夜の街路《がいろ》をフィアットが走る。猛スピードで。躊躇《ちゅうちょ》なく。
「これで一〇台! あと三台!」
使い捨《す》てのロケット・ランチャーを放《ほう》り捨《す》てて、マオが叫《さけ》ぶ。彼女のドレスは煤《すす》だらけで、あちこちが破《やぶ》れ、ほとんど半裸状態《はんらじょうたい》だった。
「ロケットはいまので最後か!?」
ライフルの弾倉《だんそう》を入れ替えながら、クルツが叫んだ。すでにタキシードの上着《うわぎ》は脱《ぬ》ぎ捨《す》てたあとで、ブロンドの髪《かみ》はめちゃめちゃに乱《みだ》れている。
「肯定《こうてい》だ。あとは手榴弾《しゅりゅうだん》のみ!」
「くそったれ」
「グリルを集中攻撃《しゅうちゅうこうげき》! あたしは射手《しゃしゅ》の頭を押《お》さえる!」
さらなる追《お》っ手が撃ってくる。クルツとマオが撃ち返す。そして――すさまじい騒音《そうおん》のまっただ中、衛星回線《えいせいかいせん》の向こうで、かなめがのんきに訊《き》き返す。
『もしもし。運転中って、車を?』
「肯定だ!」
手荒《てあら》にハンドルを操《あやつ》りながら、宗介は通信用《つうしんよう》のヘッドセットに向かって怒鳴《どな》った。
『危《あぶ》ないなぁ。走りながらケータイ使うのって、交通違反《こうつういはん》なのよ? だいたいあんた、高校生でしょ。一度、どっかに止めなさいよ』
「そうもいかん! 止まると追試《ついし》も受けられなくなる!」
『はあ?』
彼のフィアットは弾痕《だんこん》だらけ、擦《す》り傷《きず》だらけの惨憺《さんたん》たる有様《ありさま》になっていた。まるで走るスクラップである。車のエンジンと宗介たちに目立った被害《ひがい》がないのは、まったくもって奇跡《きせき》としかいいようがなかった。
『まあ、追試は仕方《しかた》ないけどね。でもあんた、マジで単位《たんい》ヤバいわよ? 前からしょっちゅう、学校休んでるじゃない』
「任務《にんむ》だ! 仕方ない!」
道の脇《わき》に積《つ》み上げてあった野菜《やさい》かごの山を、フィアットが景気《けいき》良く突《つ》き破《やぶ》る。後輪《こうりん》を滑《すべ》らせるようにして、歩道《ほどう》を乗り越え、狭《せま》い路地《ろじ》へ。敵がしつこく追ってきた。酒瓶《さかびん》のケースやゴミ箱《ばこ》、自転車や荷車《にぐるま》をなぎ払《はら》って、ごついBMWがみるみる迫《せま》る。
『だけどそんな事情《じじょう》、先生には説明《せつめい》できないでしょ。単位《たんい》落としたら、進級《しんきゅう》できないのよ? 三年生になれないの』
「言われてみれば、そうだな!」
銃声《じゅうせい》、銃声、銃声。
くねくねと続く路地の壁《かべ》が、猛烈《もうれつ》な速度《そくど》で前から後ろへと流れていく。追跡車のフロント・バンパーが、フィアットの尻をがつんと蹴飛《けと》ばした。
ハンドルが暴《あば》れる。フレームがきしむ。
『ダブったらどうするの? あたしたちの方が、先に卒業《そつぎょう》しちゃうじゃない』
「それは困るなっ!」
追っ手のエンジンが煙を噴《ふ》いた。クルツのライフルが効いたらしい。よたよたしてから、スリップしてスピン。石壁にぶつかって、そのままリタイア。
「これであと二台!」
フィアットが路地を飛び出すと、先回りしていた敵の一台が、街路《がいろ》を突《つ》っ切り、追いすがってきた。
『……あたしだって困るわよ』
「なんだとっ!?」
マオとクルツが、なにかを怒鳴り合い、散弾銃《さんだんじゅう》とライフルをぶっ放す。
『ん……。なんでもない』
「聞こえなかった! もう一度!」
敵の前輪《ぜんりん》めがけて集中|砲火《ほうか》。ホイールキャップが吹き飛び、路面《ろめん》を弾《はず》む。T字路が迫った。宗介は素早《すばや》くハンドルを切る。
前輪を壊《こわ》された追っ手が、T字路を曲がりきれずに歩道に乗り上げ、そのまま無人《むじん》の飲食店に突っ込んだ。飛《と》び散《ち》るガラスの破片《はへん》と埃《ほこり》。クラクションの甲高《かんだか》い悲鳴《ひめい》。
「あと一台!」
マオが叫ぶ。
『どうしたの? だれかいるの?』
「気にするな! それで――なにが困ると!?」
タイヤをきしらせ、最後の一台が背後《はいご》から突進《とっしん》してきた。どでかいピックアップ・トラックだ。こちらを追い抜《ぬ》かんばかりのスピードで迫り、横につけると、乱暴《らんぼう》に体当たりをしてくる。
『いいわよ、もう……。どうせ、うわのそらなんでしょ?』
「いや、周囲《しゅうい》が騒《さわ》がし――っ!」
強い衝撃《しょうげき》。激《はげ》しい振動《しんどう》。小柄《こがら》な車体が壁をこする。
トラックがふたたび、フィアットに体当たりした。リアのバンパーが脱落《だつらく》しかけて路面をこすり、目が痛くなるような火花を散《ち》らす。
『ソースケ?』
「周囲が騒がしいんだ! もうじき片づく!」
『あーあ……。なんかソースケって、たまにあたしの話とか、ぜんぜん真面目《まじめ》に聞いてくれてないような気がするんだけど』
「俺はいつでも真面目だ! いまも――」
「ソースケ、ブレーキだっ!」
手榴弾のピンを抜き、併走《へいそう》するトラックの荷台《にだい》に放り込むと同時に、クルツが叫んだ。
宗介は即座《そくざ》に反応《はんのう》した。ブレーキ・ホイールが絶叫《ぜっきょう》する。がくりと前のめりになったフィアットの横を、敵のピックアップ・トラックが追い抜《ぬ》いていった。
「伏《ふ》せろっ!」
『もしもし?』
直後に、敵の荷台に置き去りにした手榴弾が爆発《ばくはつ》した。
破片がフィアットの方にも飛んできて、紙のような外板《がいばん》のあちこちに穴を開ける。
追っ手は車体の後ろ半分を破壊《はかい》され、たちまちバランスを崩《くず》した。そのまま黒煙《こくえん》を巻きあげ、横滑りしながら町の広場に突《つ》っ込み、中央の噴水《ふんすい》の縁《ふち》に激突《げきとつ》する。それでも勢《いきお》いは止まらず、車体が大きく跳ね上がり、横向きにくるくると回転《かいてん》しつつ、噴水の真ん中に落下《らっか》して――
ぐしゃりと、金属の裂《さ》ける悲鳴が響いた。
「…………」
広場の手前で急停止《きゅうていし》したフィアットから、宗介たちが噴水の方を見ると、黒|塗《ぬ》りのピックアップ・トラックが、尖塔《せんとう》のような彫刻《ちょうこく》に、上下逆さまで串刺《くしざ》しになっていた。
からからと回る車輪《しゃりん》を天に向け、ぶすぶすと煙を噴《ふ》いている。
「アートだな、うん。中世と現代の融合《ゆうごう》ってゆーか」
クルツが両手の指を合わせて、四角い写真のフレームを作る。
「これで、ゼロ台……と。しかしまあ……なんてデタラメな」
ずり落ちかけたドレスの胸元《むなもと》を直しつつ、マオがうめく。
開いたドアからマフィアの私兵《しへい》たちがわらわらと転げ出し、噴水の水を蹴立《けた》て、先を争って逃げ出していく。
これでひとまず、すべての追《お》っ手《て》が片づいた。
宗介は通信機《つうしんき》のヘッドセットを付け直し、そそくさと相手に呼びかけた。
「千鳥。いま片づいた。それで……なんの話だった?」
なかなか返事がこない。不機嫌《ふきげん》な沈黙《ちんもく》。
ややあって、かなめがぼそりと言った。
『……もう知らない』
「?」
『とにかく、なるべくはやく学校来なさいよ』
「ああ。わかっ――」
『バカ』
声が途切《とぎ》れた。日本に置き去りにした携帯電話《けいたいでんわ》から、衛星通信《えいせいつうしん》を経由《けいゆ》した回線《かいせん》が閉じる。宗介は通信機のスイッチを切ると、深いため息をついた。
追っ手の車はしのいだが、まだ安心はできない。地元の警察も来るころだ。替《か》えの車も無《な》かったので、宗介たちはぼろぼろの小型車のまま、その町を離《はな》れることにした。
相当《そうとう》にガタが来ていたものの、どうにかフィアットはまだ走ってくれた。
「とにかく東に向かって」
マオが言った。
「デリアって町の手前で、車を捨てるわ。そこで代車《だいしゃ》と着替《きが》えを」
「調達手段《ちょうたつしゅだん》は?」
宗介がたずねた。
「やっぱり盗《ぬす》むのがベストね。幹線道路《かんせんどうろ》を迂回《うかい》して夜通し走れば、昼前までにはカターニアに着《つ》くはずよ」
「あーあ、徹夜《てつや》かよ。……ったく」
ぼやくクルツのとなりで、相変わらず眠り続けていたビンセント・ブルーノが、くぐもった声を漏《も》らした。なにやら知らない女の名前をつぶやき、しまりのない微笑《びしょう》を浮《う》かべている。
「いい気なもんだな。本当にこいつがスパイなのかよ?」
「少佐とテッサはそう言ってたけど。あと、本人も」
マオが答え、ひびの入ったバックミラーをのぞき込んだ。いそいそと顔の煤《すす》を拭《ぬぐ》い、乱《みだ》れた髪《かみ》を整《ととの》える。
「泣けるね」
クルツはうなると、首にひっかかっていた蝶《ちょう》ネクタイをむしりとって、窓の外に放《ほう》り投げた。
がたがたと揺《ゆ》れる車体《しゃたい》の音と、タイヤが蹴立《けた》てる小石の音。
彼らの車は、なだらかな丘陵地帯《きゅうりょうちたい》のただ中を走っていた。昼間なら、緑|豊《ゆた》かな田園風景《でんえんふうけい》が望《のぞ》めることだろう。だが片目になったヘッドライトが照《て》らす農道《のうどう》は暗《くら》く、ほかの明かりは夜空の月と星だけだった。
(あさってまでに、日本に帰れるかどうか……)
宗介は独《ひと》り、胸の中でつぶやいた。
脳裏《のうり》にわだかまる、小さな焦燥感《しょうそうかん》。テストを休んだ。追試《ついし》は自信がない。担任《たんにん》の神楽坂《かぐらざか》先生に休んだ理由《りゆう》を追及《ついきゅう》されたら、今度はどう言ってごまかすか。分解《ぶんかい》した車の件も気がかりだ。進級《しんきゅう》できないのは困る。なぜだか――とても困る気がする。
そんなことを何分考えていただろうか。車が小高《こだか》い丘《おか》を越《こ》えたとき、彼は音を聞いた。
最初は空耳かと思った。だが違う。
車のエンジンの異常音《いじょうおん》かと思った。それも違う。
確《たし》かに聞こえる。遠くから。
きーん、とタービン・ブレードが高速回転《こうそくかいてん》する音。低く、くぐもった排気音《はいきおん》。断続的《だんぞくてき》な重たい足音。それらが渾然一体《こんぜんいったい》となって、次第《しだい》に近付いてくる。
「おい」
マオとクルツに呼びかける。だが声をかけるまでもなく、二人はすでに身を起こし、周囲《しゅうい》を警戒《けいかい》していた。フィアットが走る農道の両側には、真っ黒な低木《ていぼく》がうっそうと茂《しげ》っているので、視界《しかい》が悪い。
「五時方向だ」
クルツが言う。右後方、遠く離れた茂みの向こう側で、ぱっと木の葉《は》が飛び散《ち》った。なにか巨大なものが、木々をかきわけて併走《へいそう》しているのだ。
音が大きくなる。いまやはっきりとわかった。ガスタービン・エンジンを搭載《とうさい》した、二足歩行の物体《ぶったい》。それはつまり――
「ASだわ。まずい」
「マフィアが?」
「連中《れんちゅう》の商品の一つよ。東欧《とうおう》やロシアから中古の機体《きたい》を仕入《しい》れて、アフリカの独裁者《どくさいしゃ》やゲリラに売りつけるわけ。西側の機種《きしゅ》は規制《きせい》が厳《きび》しいけど、ソ連製《れんせい》なら最近は――」
「来るぞ!」
背後《はいご》の低木がなぎ倒《たお》され、巨大な人影《ひとかげ》が姿《すがた》を現《あらわ》した。
ソ連製のアーム・スレイブ、Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> だ。舞《ま》い散《ち》る枝葉《えだは》のただ中、八メートルの巨体が立つ。卵型《たまごがた》のずんぐりとした胴体《どうたい》に、蛙《かえる》を連想《れんそう》させる大きな頭部。右手には小型の機関砲《きかんほう》を装備《そうび》していた。
赤い二つ目がぼんやりと光り、宗介たちのフィアットを見据《みす》えた。次の瞬間《しゅんかん》、大地を蹴立《けた》ててASが走り出す。爆発的《ばくはつてき》な加速力《かそくりょく》だ。
「ったく……次から次へと。マジでしつこいな。これで最後にして欲《ほ》しいね」
「最後よ。このままじゃ、あたしたちがね……! もっとスピード出ないの!?」
「何度も言うが、これが限界《げんかい》だ」
この小型車で、四人乗り。しかも未舗装《みほそう》の悪路《あくろ》だ。どれだけ頑張《がんば》っても、時速《じそく》一〇〇キロくらいが関《せき》の山だった。対するに、追《お》っ手《て》の <サベージ> はこれくらいの地形《ちけい》でも、一三〇キロもの高速で走ることができる。しかもこの数字はカタログ上の安全な記録《きろく》にすぎず――機体のチューン・ナップ次第《しだい》では、もっと速く走ることも可能《かのう》だった。
追っ手は一機だけではなかった。二機、いや三機だ。次々に茂みを突《つ》き破《やぶ》って、路上《ろじょう》を跳《は》ねるようにして迫《せま》り来る。
「逃《に》げ切れない」
宗介がつぶやいた。進路《しんろ》ガイダンスや追試《ついし》どころではない。下手《へた》をしたら、永久に学校には戻《もど》れないかもしれない。
「降参《こうさん》――させてくれねーだろうな、やっぱり」
「まあ、あれだけ暴《あば》れた後じゃね……」
そうこう言っているうちに、最初の <サベージ> がフィアットに近付いた。前傾姿勢《ぜんけいしせい》の高速走行《こうそくそうこう》。濃緑色《のうりょくしょく》の機体が、野太《のぶと》い左|腕《うで》を振《ふ》りかざす。銃《じゅう》を使わず、殴《なぐ》る気だ。
「伏《ふ》せろ!」
宗介がブレーキを踏《ふ》む。<サベージ> の左腕が横なぎに迫《せま》り、車体の上部にぶつかった。フィアットの屋根《やね》が引き剥《は》がされ、車体が大きく右に傾《かたむ》く。
「っ……!!」
さらにもう一撃《いちげき》。宗介はハンドルを切って、車体を <サベージ> の足下に逃げ込ませる。危《あや》うく踏《ふ》みつぶされそうになったが、敵の殴打《おうだ》はかわすことができた。
しかし、フィアットはほとんど限界だった。前輪が異様《いよう》な悲鳴《ひめい》をあげ、エンジンルームから白い煙が噴《ふ》き出している。回転数《かいてんすう》が上がらない。減速《げんそく》する一方だ。
<サベージ> がわずかに走行速度を落として、姿勢《しせい》を立て直した。殴るのをやめて、発砲《はっぽう》する気だ。右腕の機関砲《きかんほう》がこちらを向く。
「だめだ――」
三人が観念《かんねん》しかけたとき。
その <サベージ> の正面装甲《しょうめんそうこう》に、細長いなにかがぶつかった。
同時に爆発。耳をつんざくような轟音《ごうおん》が、遅《おく》れて辺《あた》りに響《ひび》き渡る。
「!?」
一瞬《いっしゅん》しか見えなかったが、あれは対戦車《たいせんしゃ》ダガーだ――と宗介は瞬時に判断《はんだん》した。どこからか飛来《ひらい》したAS用の投擲爆弾《とうてきばくだん》が、敵機《てっき》のど真ん中に命中《めいちゅう》したのだ。<サベージ> がよろめき、火だるまになって転倒《てんとう》した。
後続の二機は突然《とつぜん》のことにうろたえながらも、鋭《するど》い動きで散開《さんかい》する。
「だれ? どこ?」
マオが周囲《しゅうい》をきょろきょろした。
彼らの正面、薄暗《うすぐら》い農道の先に、ぼんやりとした影《かげ》が浮《う》かび上がった。大気が歪《ゆが》み、青白い電光がほとばしり、見えない皮膜《ひまく》から染《し》み出すようにして――一機《いっき》のASが出現《しゅつげん》する。あれは不可視機能付きの電磁迷彩《ECS》だ。
「M9?」
よく見知った、敏捷《びんしょう》なシルエット。新たに姿を見せた機体《きたい》は、宗介たちが日頃《ひごろ》使っている第三世代型のAS、M9 <ガーンズバック> だった。
ただ、彼らのM9とは細部が微妙《びみょう》に違って見えた。大腿部《だいたいぶ》と上腕部《じょうわんぶ》にボリュームがある上、頭部の形はかなり異なる。むしろ <アーバレスト> に似ているくらいだ。塗装はグレーではなく、マット・ブラック。頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、黒づくめである。頭部のセンサー部分だけが、オレンジ色の光をかすかに放《はな》っていた。
「どこの所属《しょぞく》だ?」
「わからない」
『黒いM9』が疾走《しっそう》した。
二機の <サベージ> は、宗介たちのことを後回しにして、所属不明機《しょぞくふめいき》との交戦《こうせん》に入る。左右に別れ、高速で移動《いどう》し、M9を挟《はさ》むように襲《おそ》いかかり――
敵機が発砲する直前、黒いM9は跳躍《ちょうやく》した。
機関砲《きかんほう》の火線《かせん》を飛び越《こ》え、巧妙《こうみょう》に障害物《しょうがいぶつ》を利用し、地形《ちけい》を縫《ぬ》うような激《はげ》しい動きで、二機のうち一機に接近《せっきん》する。瞬《またた》く間に距離をつめると、M9は脇《わき》の下から単分子《たんぶんし》カッターを引き抜き、すれ違いざまに <サベージ> の胸部《きょうぶ》へと突《つ》き立てた。
装甲《そうこう》がすさまじい絶叫《ぜっきょう》をあげる。
コックピットへの正確《せいかく》な一撃《いちげき》だ。操縦者《そうじゅうしゃ》は即死《そくし》だろう。確実《かくじつ》だが、冷酷《れいこく》なやり方だった。
残った一機は、ひるむゆとりさえない様子《ようす》だった。機関砲を乱射《らんしゃ》しながら、黒い機体に向けて突進《とっしん》していく。M9は今しがた屠《ほふ》った敵を盾《たて》にして、その砲撃《ほうげき》を易々《やすやす》としのいだ。
両者が接近《せっきん》する。M9が盾を捨《す》て、ひらりと動いた。
次の瞬間、最後の <サベージ> が爆発《ばくはつ》していた。M9が至近《しきん》距離で対戦車ダガーをたたき込み、自身は爆風《ばくふう》の危険範囲《きけんはんい》から一瞬で待避《たいひ》したのだ。素人が見たら、なにが起きたかさえ判別《はんべつ》がつかなかっただろう。
盾にされた機体も、やがて燃料《ねんりょう》タンクが引火して爆発、炎上《えんじょう》する。
もはやのろのろ運転しかできなくなったフィアットの周囲《しゅうい》で、三機の <サベージ> が燃え上がり、黒い煙を立ち上らせていた。
最初の一撃から、わずか三〇秒あまりの戦闘《せんとう》だった。
「……ははあ」
クルツが感嘆《かんたん》する。火器《かき》を使わず、標準装備《ひょうじゅんそうび》のナイフ類《るい》だけで三機を倒すとは。たとえM9の運動性が <サベージ> よりも数段《すうだん》優《すぐ》れているとはいえ、あの機体《きたい》の操縦者は、相当な腕《うで》の持ち主だ。
フィアットのそばを、黒い機体が並《なら》んで走る。立ち止まる様子《ようす》はない。M9の頭部は、<アーバレスト> に似《に》たデュアル・センサーを装備していた。
猛禽《もうきん》のような鋭い目で宗介たちを見下ろしてから、ごおっ、とM9が唸《うな》った。冷却装置《れいきゃくそうち》の排気音《はいきおん》だ。それは戦闘直後《せんとうちょくご》の一時的な放熱処理《ほうねつしょり》に過《す》ぎなかったが、虎《とら》か獅子《しし》が喉《のど》を鳴《な》らす声によく似ていた。
「…………」
一度、M9が東を指さした。それから自身は南に向けて進路《しんろ》を変更《へんこう》。みるみる宗介たちから遠ざかっていく。まったく無言《むごん》。一声たりともかけようとしない。
「? ちょっと……」
機体のあちこちの装甲がスライドして、赤いレンズ状《じょう》の部品が露出《ろしゅつ》した。ECSが作動《さどう》。レーザー・スクリーンが大気《たいき》を焦《こ》がし、光のヴェールが機体を包《つつ》む。たちまち闇《やみ》にとけ込むように、M9の後ろ姿《すがた》がかき消えていった。
うすい紫色《むらさきいろ》の帯《おび》が、たなびくようにして痕跡《こんせき》を残す。
その場に静寂《せいじゃく》が戻ってきた。
「……どうなってる? 誰《だれ》が乗ってたんだ?」
「わからん」
「でも、<|ミスリル《うち》> の機体だろ?」
「そのはずだが……」
「じゃあ、あれ誰よ?」
三人は惚《ほう》けたように、消えた所属不明機《しょぞくふめいき》を見送るしかなかった。
[#挿絵(img/04_089.jpg)入る]
黒いM9の正体《しょうたい》はわからずじまいだった。
現在《げんざい》、最新鋭《さいしんえい》のM9を運用しているのは、世界中で <ミスリル> だけのはずだ。アメリカ軍でさえ、まだEMD(技術《ぎじゅつ》・製造開発《せいぞうかいはつ》)試作機《しさくき》のテスト段階《だんかい》にある。そしてマオたちのシチリアでの作戦を知っているのは、テッサとマデューカス、そしてカリーニンだけだった。
カリーニンがどこかから、さらに増援《ぞうえん》を寄《よ》こした……と解釈《かいしゃく》するのがいちばん自然だったが、こちらに所属も明かさず、一声もかけず、ああして消えてしまった理由の説明がつかない。けっきょくマオが、宗介の持ってきた衛星回線でカリーニンを呼び出し、説明を求めた。
『諸君《しょくん》には知る資格《しかく》がない』
カリーニンは、例によっての事務的《じむてき》な返答《へんとう》をよこしてきた。
「現場責任者《げんばせきにんしゃ》のあたしにも、ですか?」
『いずれわかる。いまは脱出に専念《せんねん》しろ』
「……了解《りょうかい》しました。では」
通信を切ったあと、マオはさっそく不平《ふへい》をこぼした。
「あー、むかつく! どうしてああ、いつもいつも、あのオヤジはアレなのかしらね。ったく……!!」
「いやまったく。だってのに基地《きち》の女どもには、陰《かげ》でキャーキャー言われてるんだよなぁ。俺《おれ》の方が若いしハンサムだし、ついでに優《やさ》しいのに」
クルツがぼやくと、宗介は意外《いがい》そうな顔をした。
「少佐《しょうさ》が?」
「そうさ。知らねえのか? 食堂で拾《ひろ》い聞きしてみろよ。兵站《へいたん》やら通信《つうしん》やらの姉《ねえ》ちゃんたちが、よく『少佐ってステキよねー』って騒《さわ》いでるぜ。最近は技術科《ぎじゅつか》のノーラちゃんと、しょっちゅう二人きりで密会《みっかい》してるって噂《うわさ》が」
「レミング少尉《しょうい》と? なんの密会だ?」
「密会は密会さ。少佐だって男だからな。なんだかんだで、よろしくやってるんだろ。ふっふっふ……」
「むう……」
クルツの言わんとするところが、宗介には今ひとつ理解《りかい》できなかった。ただ相手の笑い方から察《さっ》するに、およそカリーニンらしからぬ行状《ぎょうじょう》だということなのだろう。
カリーニンの女性関係といったら、宗介が知っているのはロシア時代に事故《じこ》で亡くなった細君《さいくん》のことだけだ。その妻《つま》・イリーナはそこそこに名の知れたバイオリニストで、ほっそりとした面立《おもだ》ちの、儚《はかな》げな美女だった。そういえば件《くだん》のノーラ・レミング少尉は、そのイリーナにどことなく似《に》ているような気もする。
「人の噂話《うわさばなし》もけっこうだけどね。それよりこの島から、はやいとこズラかりましょ」
「そうだな」
相談の末《すえ》、彼らはそれまでの予定《よてい》通り、カターニア市へと急ぐことにした。
その後の脱出行《だっしゅつこう》は、拍子抜《ひょうしぬ》けするほどスムーズだった。
近くの町で車を替えて夜通し走り、カターニアで偽造《ぎぞう》の身分証《みぶんしょう》と米軍の軍服《ぐんぷく》を手に入れ、その町からほど近いNATO軍の空軍基地《くうぐんきち》へ。マオが元はアメリカの海兵隊員な上、田舎の基地で警備《けいび》もゆるいので、潜《もぐ》り込むのはしごく簡単《かんたん》だった。
北イタリアのアビアノ空軍基地に向かう輸送機《ゆそうき》に乗り込むのも、なんの問題《もんだい》もなかった。
誘拐《ゆうかい》したビンセント・ブルーノは、ずっと眠らせたままである。退役将校《たいえきしょうこう》の軍服《ぐんぷく》を着せて車椅子《くるまいす》に乗せ、『中東での極秘《ごくひ》作戦中に重傷《じゅうしょう》を負い、ほとんど昏睡状態《こんすいじょうたい》』と説明《せつめい》してあった。このシチリアは彼の健康《けんこう》な時代の思い出の地であり、家族のたっての希望《きぼう》で彼を連れてきた。彼の家族はさる高名《こうめい》な上院議員《じょういんぎいん》であり、この旅行はお忍《しの》びのものである。しかし残念ながら、この土地の匂《にお》いに接《せっ》しても、彼の意識《いしき》が覚醒《かくせい》することはなかった……と。そういう名目《めいもく》である。
「意識|不明《ふめい》……ですか? これが?」
昏睡状態にしては肉付きのいいブルーノを見て、輸送機のスチュワードは、たいそう不審《ふしん》がった。
「そうです。でも、内臓《ないぞう》は健康《けんこう》そのものなの。……なに、その目は?」
中尉《ちゅうい》の階級章《かいきゅうしょう》をつけたマオは、伍長《ごちょう》の相手に向かって居丈高《いたけだか》に言った。
「いえ、その……」
「そんな目で彼を見るものではありません。彼は祖国のために戦って、こうなったんです。彼が見た地獄《じごく》のほんの万分の一でも、あなたにわかって? 彼を哀《あわ》れむことも、侮蔑《ぶべつ》することも、わたしは絶対に許《ゆる》しませんよ!」
「し、失礼いたしました、マム。ご無礼《ぶれい》の段《だん》、どうかひらにお許しを――」
「いいえ、あなたの態度《たいど》には度《ど》し難《がた》いものがあります。氏名と階級《かいきゅう》、認識《にんしき》番号と所属《しょぞく》を言いなさい!」
伍長は泣きそうな顔で自分の所属や認識番号を告げ、何度も何度も謝罪《しゃざい》し、ブルーノのことはそれ以上、決して追及《ついきゅう》してこなかった。民間《みんかん》の空港《くうこう》では、さすがにこうは行かなかっただろう。
「役者《やくしゃ》だねェ」
「見上げたものだ」
伍長が去ってからクルツと宗介が感嘆《かんたん》すると、マオはげんなりした顔を見せた。
「あー、お上品な将校のしゃべり方って、マジで疲《つか》れるわ。ついついF言葉とか混じりそうになって……」
あとはなんの問題も起きず、彼らを乗《の》せた輸送機は、予定より一〇分|遅《おく》れで離陸《りりく》した。
これで一安心である。
これから、マオとクルツはオーストラリアに向かい、<ミスリル> の作戦本部にブルーノを届ける予定だった。宗介は途中《とちゅう》で彼らと別れて、一人で日本に帰る。東京に着《つ》くのは明日になるだろう。
機内《きない》には、ターボプロップ・エンジンの爆音《ばくおん》が響《ひび》いていた。ひどい音だが、慣《な》れてしまえばどうということはない。
座席《ざせき》はがらがらで、五、六人の兵士が座《すわ》っているだけだった。
秋のシチリアの日差《ひざ》しが、輸送機《ゆそうき》の窓から射し込んでくる。まぶしくて眠《ねむ》れそうにない。昨夜《さくや》から一睡《いっすい》もしていないのだが、高ぶった神経《しんけい》が静まるのは、もうすこし時間をおかなければならないだろう。
戦闘《せんとう》の後の倦怠感《けんたいかん》が、三人の間にどんよりと漂《ただよ》っていた。
「それにしても――」
粗末《そまつ》な座席に沈《しず》み込み、クルツが言った。離陸してから一〇分ばかり、けだるい沈黙《ちんもく》が続いたあとの一言だった。
「おまえ、大丈夫《だいじょうぶ》なのかよ?」
「なにがだ」
世界史の単語帳をめくりながら、宗介はむっつりと訊《き》き返した。
「それだよ。テストのことさ。休んじまったんだろ?」
「ああ」
確《たし》かに、中間テストを休んだのは痛かった……と宗介は思った。
いきなり呼《よ》び出される海外での任務《にんむ》で、これまで何度も学校を無断欠席《むだんけっせき》をしている上、いくつかの教科は成績《せいせき》が芳《かんば》しくないのだ。このままでは、かなめの言う通り、留年《りゅうねん》してしまう可能性《かのうせい》もあった。
「だが、こちらの仕事も重要《じゅうよう》だ。現《げん》に昨晩《さくばん》、俺が来なかったらどうなっていた」
マオとクルツがマフィアの屋敷《やしき》で包囲《ほうい》されていたときのことを、宗介は指摘《してき》した。
「なんとかしたさ。なあ、姐《ねえ》さん?」
「んー。たぶんね」
前の座席にふんぞり返って、マオが答えた。
「正直《しょうじき》、いくつか次の手、考えてはいたけどね」
「そうか……」
わずかな疎外感《そがいかん》を覚えて、宗介はうつむいた。なんとなしに、『おまえは余計《よけい》なことをせずに、大人《おとな》しく学校に通っていればいいのだ』とでも言われたような気がしたのだ。
「いや、助かったのは本当よ」
それを察《さっ》したのか、マオが付け足した。
「でもね、あたしもちょっと気になるな。なんていうのか……」
「進級《しんきゅう》のことか?」
「そうじゃなくて。あんたのいまの状況《じょうきょう》全部よ。学校ではカナメの護衛《ごえい》やってて、こういう作戦にも参加《さんか》して、ついでにあの <アーバレスト> も押《お》しつけられて――これって、負担《ふたん》多すぎない?」
「…………」
「最初はあたしも、『まあ、一時的なものなら』って思ってたし、あんたは仕事を問題なくこなしてたからね。でも最近は――」
「俺はミスなどしていない」
「だから、そうじゃないのよ。純粋《じゅんすい》に物理的《ぶつりてき》・時間的な問題。現《げん》に、こうやって学校の方がまずくなってきてるじゃないの」
「それは、そうだが……」
「いくら人手不足《ひとでぶそく》だからって、限度があるわ。あたしがあんたの立場なら、絶対に少佐に食ってかかってるわね」
「でもよー」
クルツが投《な》げやりに言った。
「考えてみたら、まあ、いいんじゃねえの? 学校なんて、テキトーに通《かよ》っとけば。どうせ偽造《ぎぞう》文書で潜《もぐ》り込んだんだし、無理《むり》して卒業《そつぎょう》しなけりゃならない理由《りゆう》はないだろ」
宗介が陣代《じんだい》高校に通いだしたのは、あくまでかなめの護衛《ごえい》を円滑《えんかつ》にするためだ。彼の本職《ほんしょく》はいまでも <ミスリル> の傭兵《ようへい》であり、高校生というのは仮《かり》の立場でしかない。かなめやほかの生徒たちとの根本《こんぽん》的な違いは、そこにある。クルツの言う通り、宗介には無理をしてまで学校を卒業する必要《ひつよう》などないのだ。
「まあ、そうよね……」
浮かない声で答えてから、マオはちらりと宗介の方を振《ふ》り返った。
「立ち入ったこと聞くようだけど……あんた自身《じしん》は、どう思ってるわけ?」
「なにがだ」
「これからの身の振り方よ」
「命令《めいれい》に従《したが》う。それだけだ」
まばゆい光を放《はな》つ窓の外を見据《みす》えて、彼は淡々《たんたん》と答えた。
普段《ふだん》のマオなら、宗介のこうした朴訥《ぼくとつ》な返事《へんじ》に笑うところだったが――そのときの彼女は、なぜか苛立《いらだ》たしげにうなり声をもらした。
「あんたって、いっつもそれね。あたしが言ってるのは、あんたの人生設計《じんせいせっけい》の話よ。まだ一七|歳《さい》でしょ? これから先、どうするの? すこしは考えたりしないの? あんた、任務《にんむ》とか命令とか、そういう方便《ほうべん》に逃げてない?」
「逃げている。俺《おれ》がか」
「そうよ。人の言うことをハイハイ聞いてる方が、生きるのはずっと楽だろうしね」
「…………」
「なんか姐さん、妙《みょう》に絡《から》むね」
クルツが言った。
「別に。前から思ってたことよ」
それきりマオは黙《だま》り込む。
窓の外、はるか彼方《かなた》にエトナ山が見えた。ヨーロッパ最大《さいだい》の活火山《かっかざん》だ。きょうの大気はにごっているのか、その姿《すがた》は灰色《はいいろ》にかすんでいる。
(身の振り方……か)
マオにあれだけ言われても、宗介は腹《はら》を立ててはいなかった。むしろ考えさせられる気分だった。しかも似たようなことを、昨夜かなめに言われたばかりなのである。
人生設計。
その意味《いみ》の察《さっ》しはおおよそ付くが、よくよく考えてみると、初めて聞く言葉のような気がした。言い換えてみれば、個人的な長期戦略《ちょうきせんりゃく》のことだろう。五年後、一〇年後、自分はどうしているのか――それを見越《みこ》して、生活のガイドラインを決める。そういうことだ。
彼はこれまで自分の五年後など、考えたこともなかった。その存在《そんざい》すら、意識《いしき》していなかった。相良宗介の過去《かこ》の大半《たいはん》は、闘争《とうそう》と生存の苛烈《かれつ》な嵐《あらし》の中にあったのだ。明日の糧《かて》さえ知れない野生《やせい》動物が、五年後のことなど思い煩《わずら》うだろうか? 『未来』という言葉ほど、彼の耳に空々《そらぞら》しく響くものはなかった。
未来? どうでもいい。それよりも弾薬の確保《かくほ》が先決《せんけつ》だ。
いつもそういう気分だった。すくなくとも、半年前までは。
そんな荒涼《こうりょう》とした心理《しんり》状態に、変化《へんか》が訪《おとず》れつつあることを、彼はぼんやりと感じていた。陣代高校に通い、かなめたちと過《す》ごす生活が、宗介の心に見えない作用を及《およ》ぼしはじめているのだ。凍てついた氷床《ひょうしょう》が溶《と》けるにつれ、生命|豊《ゆた》かな大地がその姿をおぼろに見せていくように。
未来。俺にもあるのだろうか?
彼はときおり、意識《いしき》の片隅《かたすみ》でそう自問《じもん》する。答えはわからない。だが少なくとも、彼はそう問いかけるまでになった。これは変化だ。
日々は移《うつ》ろい、だれもが変わっていく。
どんな生活にも終わりがあり、その波は彼さえも押し流す。
終わる日々が、次の未来をもたらす――その漠然《ばくぜん》とした真理《しんり》は、宗介を落ち着かない気持ちにさせた。
「クルツ……」
「なんだ?」
「お前は五年後、なにをしている?」
いきなり宗介に訊かれて、クルツはきょとんとした。
「さあな。まあ……いい女と、いい暮らしでもしてたらいいけどな」
「そうなれると思うか?」
「さあな」
クルツは繰り返し、よれよれの野戦帽《やせんぼう》を目深《まぶか》にかぶり直した。それから腕組みして、一度大きくあくびをした後に、付け加える。
「わかんねえけど……そう思っておいて損《そん》はないさ。おやすみ」
それきりクルツは黙《だま》り込む。見ると、前席のマオも壁《かべ》に頭をもたれかけさせて、穏《おだ》やかな寝息《ねいき》をたてていた。
エトナ山が遠ざかっていく。
彼らの輸送機《ゆそうき》は、シチリアを離《はな》れつつあった。
[#改ページ]
2:水面下《すいめんか》の情景《じょうけい》・U
[#地付き]一〇月一六日 〇八五三時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]東京都 調布市《ちょうふし》 陣代《じんだい》高校
中間《ちゅうかん》テストの四日目、最初の科目《かもく》は世界史《せかいし》だった。
テスト開始《かいし》から二三分が経過《けいか》している。問題《もんだい》用紙をめくる音と、シャーペンの音。あまりに静かなので、学校前の都道《とどう》を車が走ると、そのエンジン音がやかましいくらいだ。
かなめの目が、問題用紙の表面を走る。
ローマ帝国《ていこく》の繁栄《はんえい》。五|賢帝《けんてい》。アウグストゥス。キケロ。シチリアの反乱《はんらん》。あれやこれや。記憶《きおく》はしているが理解《りかい》はしていない言葉の数々。その言葉も、試験《しけん》が終わったらきれいさっぱり忘れてしまうことだろう。まったく、定期《ていき》テストとは無意味《むいみ》で不毛《ふもう》な儀式《ぎしき》である。
彼女はちらりと、窓際《まどぎわ》の方を見た。
宗介《そうすけ》の席は空《から》だった。
おとといの試験前に電話して以来《いらい》、まったく音沙汰《おとさた》がない。きょうは来るかと思ったが、欠席《けっせき》したままだ。けっきょくテストの初日から、ずっと休みっぱなしである。
(まったく……)
なぜか、ため息が漏《も》れた。宗介がいないおかげで、学校内が静かなのはありがたいことだし、自分もくつろげるはずなのだが。この焦燥感《しょうそうかん》、この欠落感《けつらくかん》は何なのだろうか?
いけない、いまはテスト中だ。集中《しゅうちゅう》しなければ。
彼女は気を取り直して、問題に向き直った。
漢《かん》帝国の没落《ぼつらく》。匈奴《きょうど》の侵入《しんにゅう》。黄巾党《こうきんとう》の乱。霊帝《れいてい》。曹操《そうそう》。赤壁《せきへき》の戦い。あれやこれや。『三国志』の辺りの話は、漫画《まんが》で読んだことがあるので、こちらはよく知ってる。ただ、漢字《かんじ》が思い出せない。コウメイのコウの字は、どう書いたっけ……?
(あいつ、どこ行ってるのかな……)
解答《かいとう》に詰《つ》まっているうちに、彼女はふと思った。
(どんな仕事なのかな……。また、危《あぶ》ない目に遭《あ》ってるのかな……。大丈夫《だいじょうぶ》なのかな……それとも、あの娘《こ》と会ってるのかな……。そういえば、おとといの電話のときも様子《ようす》が変だったし……)
はっと我《われ》に返る。
いけない、まただ。テストそっちのけで、ついつい、考えてしまう。
(ああ、もう……)
あいつがいけないのだ。無断欠席《むだんけっせき》して、テストをサボったりするから。だから気になってしまう。あたしは学級委員《がっきゅういいん》だし、赤の他人というわけではないわけだし。理由《りゆう》はそれだけだが、それでも心に引っかかる。なんて迷惑《めいわく》なんだろう。あいつが休んだりしてなければ、あたしはテストに専念《せんねん》できるのに……!
そのとき、教室の戸ががらりと開いた。
「遅《おそ》く……なりました」
入ってくるなり、肩《かた》で息して、あえぐように言ったのは、ほかならぬ相良《さがら》宗介であった。
よほど急いで来たらしい。むっつり顔が汗《あせ》だくだ。しかもなぜか、彼は学生服ではなく、深い緑の迷彩服《めいさいふく》を着ていた。たまに彼が着ている野戦服《やせんふく》とは、デザインが微妙《びみょう》に違って見える。胸《むね》には『U・S・MARINE』の文字《もじ》。
「相良……。いまさら受けにきたのか。それになんだ、その格好《かっこう》は」
監督《かんとく》の教師《きょうし》がしかめっ面《つら》で言った。
「申《もう》し訳《わけ》ありません。着替《きが》える時間がなかったもので……」
「わかった。もういい。はやく席に付け」
「はっ」
宗介は早足で自分の席へと向かった。途中《とちゅう》でクラスメートの風間《かざま》信二《しんじ》が、ひそひそと彼に声をかける。
(相良くん。なんでそんな服着てるの……?)
(事情があってな)
短く答え、彼は着席《ちゃくせき》した。教師からテスト用紙を受け取り、筆箱《ふでばこ》を取り出し、あわただしく問題用紙をめくりはじめる。
かなめはその様子を、遠目《とおめ》にぼんやり眺《なが》めていた。ほっとして、胸のつかえが取れたような感覚《かんかく》が押《お》し寄《よ》せる。
一瞬《いっしゅん》、目が合った。宗介が挨拶《あいさつ》代わりに、シャーペンをちょっとだけ掲《かか》げて見せる。かなめは慌《あわ》てて視線《しせん》を逸《そ》らすと、テストに専念した。
[#挿絵(img/04_105.jpg)入る]
[#地付き]一〇月一七日 一六〇九時(オーストラリア標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]オーストラリア シドニー  <ミスリル> 作戦本部
こうしてカリーニン少佐と一緒《いっしょ》に、取調室《とりしらべしつ》に来るのは二度目だな……とテッサは思った。以前《いぜん》の相手は一五、六歳の少年だったが、今度の相手は中年男だ。
マオたちが誘拐《ゆうかい》してきたビンセント・ブルーノは、ふてぶてしい態度《たいど》でふんぞり返って、薄笑《うすわら》いを浮《う》かべていた。
たぶん、ただの虚勢《きょせい》だろう。ここは警察署《けいさつしょ》ではない。<ミスリル> の作戦本部《さくせんほんぶ》だ。彼を護《まも》る弁護士《べんごし》はいないし、裁判《さいばん》が行われることもない。マジック・ミラーの向こうにいるブルーノも、それを知っているはずだ。
テッサはいつもの制服姿《せいふくすがた》の上に、薄手《うすで》のコートを羽織《はお》っているだけだった。空港までは <ミスリル> のジェット機に乗ってきたし、そこからは出迎《でむか》えのリムジンに乗ったので、民間人《みんかんじん》の目に触《ふ》れることはなかった。カリーニンも同様《どうよう》で、オリーブ色の野戦服姿《やせんふくすがた》のままである。
二人はブルーノ誘拐ミッションの成功《せいこう》の報告を受けて、西太平洋のメリダ島|基地《きち》から、このシドニーまで飛んで来たのだった。
彼女の艦を絶体絶命《ぜったいぜつめい》の危機《きき》に陥《おとしい》れた一味《いちみ》を、この男が手引きした。それは間違《まちが》いなかったが、どうしてもテッサには実感《じっかん》がわかなかった。憎《にく》んで余《あま》りある仇《かたき》のはずだ。しかしいまの彼女の胸には、冷え冷えとした軽蔑《けいべつ》の気持ちがたれ込めているだけだった。
「信じられないわ」
テッサはつぶやいた。
「あんな……取るに足らないような人が、わたしの船を沈《しず》めかけたなんて」
「取るに足らないような人物だからこそ、ああした真似《まね》ができたとも言えます。敵の何者かが彼を抱《だ》き込むのは、そう難《むずか》しいことではなかったでしょうな」
カリーニンが言った。
マジック・ミラーの向こうの取調室には、ブルーノのほかに二人の男がいた。作戦本部|所属《しょぞく》の中尉《ちゅうい》と、同じく伍長《ごちょう》である。カリーニンの話では、中尉の方はペルーの情報部出身《じょうほうぶしゅっしん》で、この手の尋問《じんもん》はよく心得《こころえ》ているそうだった。
『簡単《かんたん》な質問《しつもん》からはじめようか、ミスタ・ブルーノ』
その中尉が切り出した。
『人事担当《じんじたんとう》の書記官《しょきかん》だった貴方《あなた》は、本年六月|下旬《げじゅん》、ジョン・ハワード・ダニガンとグェン・ビェン・ボーを、<ミスリル> 西太平洋|戦隊《せんたい》 <トゥアハー・デ・ダナン> のSRTに配属《はいぞく》されるよう工作した。より優先順位《ゆうせんじゅんい》が高い、ほか四名の現役下士官《げんえきかしかん》のデータ、およびベリーズ等《とう》の訓練《くんれん》キャンプの推薦《すいせん》データを格下《かくさ》げ、あるいは削除《さくじょ》し、人手不足《ひとでぶそく》の <トゥアハー・デ・ダナン> 側《がわ》に選択《せんたく》の余地《よち》がないよう仕向《しむ》けた。……相違《そうい》ないかね?』
『なんのことだかわからんな』
あさっての方向を眺《なが》めて、ブルーノがうそぶく。中尉は穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》むと、そばに控《ひか》えていた伍長に向かって告《つ》げた。
『やれ』
『イエッサー』
大柄《おおがら》な伍長は応《こた》えるなり、ブルーノの顔面に目の覚めるようなパンチをたたき込んだ。
『ぐっ……!』
椅子《いす》から崩《くず》れ落ちそうになったブルーノの襟首《えりくび》を、伍長がつかんで引き戻《もど》す。彼は相手の手首を机《つくえ》に押しつけると、その小指を握《にぎ》り、力|任《まか》せに逆方向《ぎゃくほうこう》へとねじり上げた。
『……や、やめ――』
ぱきっ、といやな音がした。小指の骨《ほね》が折《お》れたのだ。耳を塞《ふさ》ぎたくなるような悲鳴《ひめい》が、取調室に響《ひび》き渡った。
「ご心配なく。これで終わりです」
身をすくめて、その光景《こうけい》から目を逸《そ》らそうとしたテッサに、カリーニンが背後《はいご》から告げる。はたして、彼の言う通りになった。ブルーノは肩《かた》を震《ふる》わせ、むせび泣き、つづいて薬指《くすりゆび》を握られると、金切《かなき》り声で叫《さけ》んだ。
『やめて……やめてくれ! わかった、なんでも言う! だから……だから許《ゆる》して……』
『答えたまえ。ダニガンとグェンをTDD―1に送り込んだのは貴方《あなた》だな?』
中尉は冷酷《れいこく》に質問を繰り返した。
『そうだ! 私だ!』
『だれの依頼《いらい》だ?』
『知らない』
『嘘をつくな』
『待ってくれ! ほ、本当に名前は知らないんだ! 彼らは <アマルガム> の使いだと言っていた!』
『 <アマルガム> ? 合金《アマルガム》≠ニはなんだ』
『わからない。わからないんだ。私はたぶん、ソ連かどこかの諜報機関《ちょうほうきかん》だろうと思っていた。彼らも否定《ひてい》はしなかった。最初は……ほんの軽い気持ちだったんだ! 彼らから二〇万ドルを前金で受け取って……考えられるか、二〇万だぞ!? 断《ことわ》る理由などあるわけがない! 私は二つ返事《へんじ》で――』
「どう思います……?」
黙《だま》って聞いていたテッサは、カリーニンにたずねた。
「嘘を言ってはいないようですな。隠《かく》す理由も思い当たりません。もっとも、あまり多くのことを知っているようでもなさそうですが」
そばの液晶《えきしょう》スクリーンの表示《ひょうじ》を眺《なが》め、カリーニンが言った。
ブルーノの発する言葉は、リアルタイムでコンピュータが解析《かいせき》している。音声のストレスを逐一《ちくいち》チェックすることで、被疑者《ひぎしゃ》の証言《しょうげん》の真偽《しんぎ》を、かなり正確《せいかく》に知ることができるシステムだ。嘘|発見器《はっけんき》の発展形《はってんけい》である。最初の暴力的《ぼうりょくてき》な一撃《いちげき》は、被疑者の興奮《こうふん》をうながし、この解析《かいせき》をより容易《ようい》なものとする目的《もくてき》もあった。
「 <アマルガム> ……なにかの当てつけかしら」
<ミスリル> は架空《かくう》の銀の名前だ。それに対して、敵は『水銀合金《アマルガム》』と名乗《なの》っている。まるでたちの悪い冗談《じょうだん》だった。
『正体《しょうたい》は知らない! 本当だっ!』
ミラーの向こうでブルーノが泣き叫ぶ。彼は青ざめた顔にびっしりと冷や汗《あせ》を浮《う》かべ、こちらの暗室《あんしつ》をにらみつけた。
『これで満足《まんぞく》かっ!? 聞いているんだろうっ!? そんな場所から覗《のぞ》いていないで、姿を見せたらどうだ!! 私にこんな仕打ちをして……なにが <ミスリル> だ! なにが破邪《はじゃ》の銀≠セ! ヒーロー気取りの偽善者《ぎぜんしゃ》どもめっ!』
『落ち着きたまえ、ミスタ・ブルーノ』
『私がなにをしたというんだ!? 貴様《きさま》ら全員、悪魔に呪《のろ》われるがいい! 死んで当然《とうぜん》の人殺しどもが! くそ野郎《やろう》! どいつもこいつもくそ野郎だ!』
テッサはそれを聞き流そうと努めた。だがそれでも一言、押し殺したような言葉が漏《も》れるのを、止めることができなかった。
「よくも……」
あの事件《じけん》で失《うしな》った部下の顔が脳裏《のうり》をよぎると、全身の血液《けつえき》が沸騰《ふっとう》するような心地《ここち》がした。いますぐ暗室の照明《しょうめい》をオンにして、あの男の前に現《あらわ》れ、辛辣《しんらつ》な言葉を浴《あ》びせかけてやりたかった。
人殺しはあなただ。わたしの部下《ぶか》を返せ。おまえこそ呪われろ。なにも知らないくせに。こんな場所で、毒《どく》を吐《は》くだけのくだらない男が。身の程《ほど》も知らない、卑《いや》しい低能《ていのう》の分際《ぶんざい》で、このわたしになにかを意見《いけん》する気か? 思い上がるのもいい加減《かげん》にしろ……! そこの伍長《ごちょう》に命じて、残りの指をすべてへし折らせてやってもいいのだぞ……!?
どろどろとした激《はげ》しい感情が、彼女の中でふくれあがる。単純《たんじゅん》な怒《いか》りだけでなく、もっと傲慢《ごうまん》ななにかが、彼女を衝《つ》き動かそうとした。
「大佐殿《たいさどの》――」
カリーニンの声で、彼女は我《われ》に返った。
手のひらが汗でじっとりと濡《ぬ》れている。頭がすこしくらくらした。
ひどい自己嫌悪《じこけんお》を感じた。否定《ひてい》したくとも否定できない。自分はいま、あの男が苦しむのを見て喜んでいたのだ。
「大佐。あとは中尉に任《まか》せましょう。ボーダ提督《ていとく》がお待ちだそうです」
「……そう」
テッサは力|無《な》く答えて、怒鳴り散《ち》らすブルーノの姿《すがた》に背《せ》を向けた。
「いやなやり方ですね……」
向こうにとっても、こちらにとっても。心の中で、彼女はそう付け加えた。
「否定《ひてい》はしませんが、効果的《こうかてき》なのも事実《じじつ》です。命に別状《べつじょう》はありません。それに指など――すぐに直ります」
「それは、そうだけど……」
無表情《むひょうじょう》なカリーニンの横顔をちらりと見て、テッサは口ごもった。
この人は、なにも感じないのだろうか? ああした光景《こうけい》を目《ま》の当たりにして、感情が揺《ゆ》れ動いたりしないのだろうか? あの男に部下を殺されたのは、カリーニンとて同じなのに。
そう思った直後《ちょくご》に、ロシア人は涼《すず》しげな声で付け加《くわ》えた。
「私なら、指を切り落としている」
取調室を出て、テッサとカリーニンは作戦郡長のオフィスへと向かった。
彼らがいまいる <ミスリル> の作戦本部は、シドニーの中心街《ちゅうしんがい》の一角にある。
全世界|規模《きぼ》で活動《かつどう》する <ミスリル> の重要拠点《じゅうようきょてん》が、ここオーストラリアに位置《いち》することを聞くと、関係者のうち三人に二人は怪訝顔《けげんがお》をする。交通の便《べん》や他|機関《きかん》との連絡《れんらく》、そのほか様々《さまざま》な条件《じょうけん》に照《て》らしても、こうした拠点《きょてん》はヨーロッパに設けておいた方が有利《ゆうり》だと、『業界《ぎょうかい》』のだれもが信じているのだ。
とは言うものの、そうした常識《じょうしき》は二〇年前までの話である。衛星通信《えいせいつうしん》とネットが発達《はったつ》し、情報の洪水《こうずい》が世界中を覆《おお》い尽《つ》くしている今日では、本部の『物理的《ぶつりてき》な』位置《いち》はさして重要《じゅうよう》ではない。それにパリやロンドン、ブリュッセルやジュネーブなどは古くからの優秀《ゆうしゅう》な情報機関が幅《はば》を利《き》かせており――大げさな拠点を設置《せっち》するのは難《むずか》しい。
簡単《かんたん》にいえば、縄張《なわば》りの問題である。
<ミスリル> は若い組織だ。その原型が発足《ほっそく》した二〇年ほど前には、ヨーロッパに作戦本部を築《きず》く案《あん》もあったが、細かい問題が続出して、けっきょくお流れになった。現在《げんざい》、ヨーロッパにある <ミスリル> の活動拠点は情報部のものが大多数で、その規模はごく小さい。
シドニーの作戦本部は、『高層ビル』と呼ぶには少々|背《せ》が低い建物《たてもの》だった。
ビルの所有者《しょゆうしゃ》は名目上《めいもくじょう》、『警備《けいび》会社アルギュロス』となっている。『アルギュロス』は <ミスリル> の隠《かく》れ蓑《みの》として使われている企業の一つだったが、実際《じっさい》に世界|各地《かくち》で警備|事業《じぎょう》を経営《けいえい》しており、そこそこの収益《しゅうえき》も上げている。<ミスリル> の隊員《たいいん》の多くも、表向きはこの警備会社に勤務《きんむ》していることになっていた。除隊《じょたい》した軍人がその後、警備会社などに就職《しゅうしょく》するのはごくありふれた話なので、このカモフラージュはなにかと都合《つごう》が良いのである。
<ミスリル> はこうした企業《きぎょう》を、ほかにもいくつか保有している。
M9の動力炉《どうりょくろ》の製造元《せいぞうもと》『ロス&ハンブルトン』や、海運業の中堅《ちゅうけん》『ウマンタック』、航空産業《こうくうさんぎょう》の老舗《しにせ》『マーティン・マリエッタ』など、その分野《ぶんや》は多岐《たき》にわたる。急成長《きゅうせいちょう》した新進《しんしん》の企業から、経営|難《なん》で倒産《とうさん》しかけたところを救われた企業まで。息のかかった金融《きんゆう》機関や、有名無実《ゆうめいむじつ》のペーパー・カンパニーもある。
隠れ蓑、資金《しきん》の運用《うんよう》、装備《そうび》の調達《ちょうたつ》、人材の発掘《はっくつ》……組織を運営する上で必要《ひつよう》な諸々《もろもろ》の用途《ようと》に、<ミスリル> はこれらの企業を役立てている。企業に勤務《きんむ》する人間の多くは、<ミスリル> の存在《そんざい》さえ知らない。
作戦本部を納《おさ》めた『アルギュロス』のビルは見た目こそ古かったが、実際の警備システムは厳重《げんじゅう》をきわめていた。建物のあらゆる箇所《かしょ》に盗聴対策《とうちょうたいさく》が施《ほどこ》され、無数《むすう》の監視装置《かんしそうち》と私服の警備兵がビルへの侵入者《しんにゅうしゃ》を警戒《けいかい》している。
テッサたちが作戦部長のオフィスの前まで来ると、男の秘書官《ひしょかん》が応対《おうたい》に出た。
「お久しぶりです、大佐殿《たいさどの》」
「ええ、ジャクソンさん。お元気そうですね。でも、大佐殿はやめてください」
そういわれて、四〇前の秘書官は快活《かいかつ》に笑った。
「さりとて、前のように『お嬢《じょう》ちゃん』では格好《かっこう》がつきませんぞ。私の聞いた限りでは、あなたはここを去ってから、ずいぶんとうまくやっているそうですからな。敬意《けいい》を払《はら》うのは当然《とうぜん》のことです」
「それはどうも。まあ……つっかえつっかえ、どうにかやっています」
テッサは <トゥアハー・デ・ダナン> の戦隊長《せんたいちょう》に就任《しゅうにん》する前の一時期、この作戦本部でスタッフを勤《つと》めていた。ボーダ提督《ていとく》の補佐《ほさ》をする傍《かたわ》ら、水陸両用戦《すいりくりょうようせん》や特殊戦《とくしゅせん》、水中戦などの研究をしていたのだ。この秘書官――ジャクソン大尉《たいい》とはその時からの付き合いで、当時は『お嬢ちゃん』だの『小さなテレサ』だのと呼《よ》ばれていた。大佐という階級《かいきゅう》は、<トゥアハー・デ・ダナン> の戦隊長になってから授《さず》かったのだ。
「それで、提督は?」
「電話中ですが、入ってかまわないそうです。話のついでに、彼はたぶん、またあなたを引き留《と》めようとするでしょうな。しっかりガードを固めることです」
「ええ、そうします。ありがとう」
礼《れい》を言ってから、テッサはカリーニンと共にボーダ提督の執務室《しつむしつ》に通された。
部屋はちょっとしたカフェのように広かったが、その壁《かべ》のほとんどは背の高い書棚《しょだな》でぎっしりと埋まっていた。調度類《ちょうどるい》の多くは年季《ねんき》の入った木製《もくせい》で、黒ずんだ光沢《こうたく》を放っている。やわらかい自然光《しぜんこう》と白熱灯《はくねつとう》の間接照明《かんせつしょうめい》が、部屋を古い図書館のような雰囲気《ふんいき》に演出《えんしゅつ》していた。
ボーダ提督は執務|椅子《いす》に腰掛《こしか》け、電話中だった。
「ああ。……うむ。分かっとる。……ああ。……それは私の台詞《せりふ》だ。こちらの不始末《ふしまつ》はこちらで片づける。もちろん尋問《じんもん》の記録《きろく》は渡す。すこしは信用しろ。……身柄《みがら》? 話がよくわからんな」
だれかと会話しながら、ボーダ提督はテッサとカリーニンの敬礼《けいれい》に答礼《とうれい》し、応接《おうせつ》椅子を指さして、声を出さずに『座《すわ》っていろ』と口をぱくぱくさせた。
「……そうかね。好きにしろ。……そうだ。その問題は後日《ごじつ》、改めて話し合うべきだな。……うむ。よく考えておくことだ。……いや。客が来た。切るぞ」
一方的に告《つ》げてから、提督は電話のスイッチを切った。なにか汚《きたな》いものでもあるかのように受話器を卓上《たくじょう》に放り出し、おもむろに立ち上がる。
「よく来たな。なにか飲むか」
部屋の片隅《かたすみ》のミニバーへと歩き、提督がたずねた。
「どうも。でも、お水でいいです」
「少佐《しょうさ》は?」
「では同じものを」
「いやはや、味気《あじけ》ない注文《ちゅうもん》だな」
肩《かた》をすくめて、ボーダ提督は冷蔵庫《れいぞうこ》からペリエの瓶《びん》を取り出した。
「M9の使い心地《ごこち》はどうだね、少佐」
「はい、閣下《かっか》。改良《かいりょう》の余地《よち》はありますが、おおむね良好《りょうこう》です。ただし、整備性《せいびせい》の問題は残されたままです。部品の互換性《ごかんせい》があまりに低いので、在庫状態《ざいこじょうたい》がいざというときの火種《ひだね》になるでしょう」
挨拶代《あいさつが》わりの質問《しつもん》に、カリーニンがきびきびと答える。
「相変《あいか》わらずだな、君は。だが、覚えておこう」
そう言って提督は笑った。
<ミスリル> の作戦部長、ジェローム・ボーダの容貌《ようぼう》を一言で表すなら、どこにでもいる人の良さそうなおじさん……といったところだろうか。軍服《ぐんぷく》などよりは、ホットドッグ屋のエプロンの方が似合《にあ》っていそうな、穏和《おんわ》な物腰《ものごし》なのである。
年齢《ねんれい》は六〇近いはずだったが、白髪《しらが》混《ま》じりの黒髪《くろかみ》はふさふさで、一〇|歳《さい》は若く見える。孫《まご》ほど年の離《はな》れたテッサの目から見ても、この提督の顔つきは、どことなくチャーミングだった。本人には失礼なのだが、たれ気味《ぎみ》の目許《めもと》や口元が、小型犬の可愛《かわい》らしさを漂《ただよ》わせているのだ。
さりとて貫禄《かんろく》が無《な》いかというと、そうでもない。この人物が確固《かっこ》たる知性《ちせい》と経験《けいけん》、指導力《しどうりょく》と忍耐力《にんたいりょく》を身につけていることは、普通《ふつう》の人間ならば一度会うだけで想像《そうぞう》できる。実際《じっさい》、彼はアメリカ海軍に三〇年以上|在籍《ざいせき》し、水兵から提督の地位まで昇《のぼ》りつめた叩《たた》き上げである。その瞳《ひとみ》には、世界に対するある種《しゅ》の哀《かな》しみが秘《ひ》められており――そうしたところは、カリーニンのような男と何ら変わりがないのだった。
「いまの電話は情報部長からでね」
グラスに水を注《つ》ぎながら、ボーダ提督は言った。
「作戦部《われわれ》が、無断《むだん》でブルーノを誘拐《ゆうかい》したことにおかんむりのご様子《ようす》だ。連中《れんちゅう》も、ブルーノがシチリアにいることまでは突《つ》き止めていたからな。われわれに先を越されないために、わざわざ <パルホーロン> の活動状況《かつどうじょうきょう》にまで目を光らせておった」
<パルホーロン> とは、作戦部に属《ぞく》する四つの戦隊の一つである。シチリアでの誘拐作戦は、本来なら彼らが行うはずだった。そこをテッサ率《ひき》いる西太平洋戦隊 <トゥアハー・デ・ダナン> が動くことで、ブルーノと情報部、その両方の裏をかいたわけである。
もっとも、動いたのは戦隊の中のごく少人数だったが。
「情報部はブルーノの引き渡《わた》しを?」
テッサがたずねた。
「ああ。もちろん突っぱねたがな。ところで、奴《やつ》の尋問《じんもん》は見てきたか」
「ええ……」
「おまえはあれを見て、なにかを学んでおく必要がある。これからも戦隊長を続けていくつもりならな。――おまえが往くのは修羅《しゅら》の道だ。長く、険《けわ》しい戦士の回廊《かいろう》だ」
ボーダの口調《くちょう》が、どこか謎《なぞ》めいたものになった。
自分をあの場面に立ち会うように仕向《しむ》けたのは、他《ほか》ならぬボーダ提督なのだろう……とテッサは理解《りかい》した。このビルに到着《とうちゃく》するなり、出迎《でむか》えた下士官《かしかん》が『提督はいま、ちょっとした用で手が放せません。それまでブルーノの尋問でも御覧《ごらん》になりますか?』と告げたのだ。
なぜあんなものを見せるのだろうか? あれからなにを学べと?
戦いにきれいも汚《きたな》いもない――そういうありきたりな説教《せっきょう》を、彼が自分にするとは思えない。もちろん自分は、提督やカリーニン、その他多くの『大人《おとな》たち』に比《くら》べて、汚いものを見ていないのだろう。そんなことは、わきまえている。
だがこの初老の紳士《しんし》が伝えているのは、もっと抽象的《ちゅうしょうてき》な概念《がいねん》だ。複雑《ふくざつ》にして単純《たんじゅん》。あの場面《ばめん》には、言語や論理《ろんり》では表現できない、なにかが象徴《しょうちょう》されているのではないか?
不吉《ふきつ》な暗示《あんじ》。陰鬱《いんうつ》な縮図《しゅくず》。未来《みらい》の断片《だんぺん》。
あの情景《じょうけい》は自分に対して、いずれ直面《ちょくめん》するだろう苛烈《かれつ》なジレンマをほのめかしているのではないか……? どんな天才だろうと、一六、七歳の若さでは決して理解できない法則《ほうそく》が、事象《じしょう》の裏側《うらがわ》で働いていて――その法則が、提督を介《かい》して立ち現れたのではないだろうか……?
「考えすぎるな」
テッサにグラスを差し出し、提督が言った。
「いずれ分かることだ。遅《おそ》かれ早かれな」
「……ブルーノはこれから、どうなるんです?」
「極刑《きょっけい》……と呼びたいところだが、われわれは正規軍《せいきぐん》ではない。私刑《リンチ》だな。規定《きてい》には銃殺《じゅうさつ》まで定められているが、それが実行《じっこう》された例は今までない。かなりの長期にわたって監禁《かんきん》されるのが普通《ふつう》の処分《しょぶん》だ。<ミスリル> の装備《そうび》や組織《そしき》、人材《じんざい》など、彼が知っているあらゆる情報が古くなって陳腐化《ちんぷか》するまで」
テッサもその規定は知っていた。監禁されるのは、五年やそこらでは済《す》まない歳月《さいげつ》だろう。一〇年、あるいは一五年か。だが、そんな未来までこの組織が存在《そんざい》しているのだろうか? 彼女はふと、そんな根拠《こんきょ》のない思いに捕《と》らわれた。
「仲良しクラブじゃないんだ。罰則《ばっそく》は適用《てきよう》されねばならない。まあ……実際《じっさい》の処分は、尋問がすべて終わってから、評議会《ひょうぎかい》で決定されるだろう」
ボーダは向かいのソファーに腰掛けると、話題を切り替《か》えた。
「さて……おまえたちを呼んだのは、それ以外《いがい》の相談事《そうだんごと》もあったからだ。体制《たいせい》の整理《せいり》が必要だと思ってな」
「と、申《もう》されますと……?」
「ペリオ諸島《しょとう》での事件《じけん》の報告《ほうこく》は、すべて目を通したよ。あの二人の日本人……チドリ・カナメという少女と、サガラ軍曹《ぐんそう》の果《は》たした役割《やくわり》は計《はか》り知れない。おまえも報告書で強調《きょうちょう》していたが、TDD―1は、あの二人に救《すく》われたようなものだ」
「ええ。その通りです」
「彼らの重要性《じゅうようせい》は、いまや動かしがたいものになりつつある。<ウィスパード> の件、ARX―7の件……。すでに『懸案事項《けんあんじこう》の一つ』として扱《あつか》うような段階《だんかい》ではなくなった、ということだ。そのことでも、情報部があれこれとクレームを付けてきている。<レイス[#「レイス」に傍点]> の問題もあるしな」
「…………」
「そろそろ、彼らの立場を見直さねばならん。そう思わんかね、少佐?」
ボーダに言われて、カリーニンはわずかにうつむき、控《ひか》えめな声で答えた。
「ごもっともです。しかし――」
ボーダがさっと手を挙《あ》げ、彼の言葉を遮《さえぎ》った。
「官僚的《かんりょうてき》な答えなど要らん。どう取り繕《つくろ》っても、いまのやり方が非効率《ひこうりつ》なことに変わりはない」
「はい」
「テレサ嬢の意見は?」
「……おっしゃるとおりです。ですが――」
ボーダは大げさに不機嫌《ふきげん》な顔をして、彼女をまっすぐに指さした。
「ですが? なんだね」
「いえ……」
「けっこう。では、具体《ぐたい》的な話をしよう」
[#地付き]一〇月一九日 一四五九時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]東京都 調布市《ちょうふし》 陣代《じんだい》高校
テストの翌週《よくしゅう》、学校で進路《しんろ》ガイダンスがあった。
もっとも、えらそうに『進路ガイダンス』だのと言っても、先生からの長ったらしいお説教《せっきょう》ばかりが続くイベントだった。
校長いわく。
「――みなさんは、『だって、まだ二年生じゃないか』と思っているかもしれません。ですが、その二年生のうちにこそ、しっかりと卒業後《そつぎょうご》の進路を真剣《しんけん》に考えていかねばならんのです。とりわけ不景気《ふけいき》の今日、企業《きぎょう》の採用《さいよう》では学歴《がくれき》よりも、むしろなにを修得《しゅうとく》しているか、どうした能力《のうりょく》があるのかが問われます。ですからね、その辺《あた》りをきっちりと考え、将来《しょうらい》の計画を――」
あれやこれや。
そんなこと言われてもなぁ……と、かなめたちは思う。
学年|主任《しゅにん》いわく。
「――いいかね? 浪人《ろうにん》して当り前、という考え方はやめなさい。そういう甘《あま》えは、もっと悪い結果《けっか》を生むんだ。横綱《よこづな》になろうと努力しても、なれない関取《せきとり》がほとんどなのに、『自分は十両《じゅうりょう》くらいになれればいいや』などと思っている関取が、果たして十両になれるか? なれないだろう。社会の厳《きび》しさとは、そうしたものだ。つまり――」
あれやこれや。
だってあたしら、相撲《すもう》取りじゃないし……と、かなめたちは思う。
体育館に集合《しゅうごう》した二年生・約三二〇名は、どうにもこうにも覇気《はき》がない。
かなめが退屈《たいくつ》のあまり頭をこっくりこっくりさせたところで、最後《さいご》のお説教が終わった。
「……以上を心がけて、よく考えなさい。進路指導室《しんろしどうしつ》前に、各種資料《かくしゅしりょう》を置いておきますから、必要《ひつよう》な人は持っていくように」
解散《かいさん》。一組から順《じゅん》に、生徒《せいと》たちが体育館を出ていった。
そのガイダンスは六時間目だったので、ほどなく下校《げこう》時間となる。
学校からの帰り道、がらがらの電車の席に腰かけて、かなめは大きなあくびを一発かました。
「カナちゃん、しっかり寝《ね》てたもんね……」
となりに座《すわ》る恭子《きょうこ》が言った。
二人の正面《しょうめん》には、むっつり顔の宗介が立っている。寝不足《ねぶそく》らしく、彼の目の下には隈《くま》ができていた。日曜からけさまで、ほとんど不眠不休《ふみんふきゅう》で神楽坂《かぐらざか》先生の自動車を組み立て直したせいだろう。
「そりゃそうよ。あんな進路指導《しんろしどう》、真面目《まじめ》に聞いてられないわ」
もう一度あくびをかみ殺し、かなめは言った。
ああいう精神論《せいしんろん》よりも、『弁護士《べんごし》は平均《へいきん》で年収《ねんしゅう》いくら儲《もう》かる』とか、『この有名企業《ゆうめいきぎょう》に入るのは、これくらい難《むずか》しい』とか、『アニメーターを目指《めざ》すのはやめておけ』とか、そういう実用的《じつようてき》な話をして欲《ほ》しいものだ。
「でも、けっこういいことも言ってたよ? あたし、すこし考えちゃった」
「うえっ。キョーコ、聞いてたの?」
「うん。だって、自分のことだもん。……あたし、卒業《そつぎょう》したら就職《しゅうしょく》するつもりだったけど、どうしようかな……」
「ふーん……」
かなめは曖昧《あいまい》なうなり声をもらす。いつもは子供《こども》っぽく見える恭子の横顔が、なぜかそのとき、自分よりもずっと年上に見えた。かなめの神妙《しんみょう》な視線《しせん》に気付いたのか、彼女はちょっとばつが悪そうに微笑《ほほえ》む。
「ま、そんな深刻《しんこく》な話じゃないけどね。それよりさ……」
恭子がふと、正面に立つ宗介をしげしげと見つめた。
「相良《さがら》くん。さっきから思ってたんだけど……。最近、髪《かみ》、伸《の》ばしてるの?」
「?」
宗介が怪訝顔《けげんがお》をする。
かなめも倣《なら》って、無遠慮《ぶえんりょ》に宗介を凝視《ぎょうし》する。
彼のへアスタイルはいつもと同じ、ざんばら刈《が》りの適当《てきとう》なものだった。だがよく見ると、全体的に髪が前より長くなっている。目にかかるくらいの前髪《まえがみ》の量《りょう》が、ますます多くなってきているようで――角度によっては、目が見えなくなるのだ。
見苦しい、というほどではなかった。顔立ちが精悍《せいかん》なおかげもあるし、そう極端《きょくたん》に伸びたわけでもない。ただ、なんとなく気になるくらいの伸び方だった。
「言われてみれば、そーね……」
かなめが言うと、宗介は片手で自分の前髪をつまんだ。
「変か?」
「いや、それほどじゃないけど。そういえば、あんたって普段《ふだん》、床屋《とこや》さんとか行ってるの?」
「トコヤとはなんだ」
「バーバー」
「……ああ。いや、利用したことはない。自分で切っている」
「はさみで?」
「これでだ」
そう言って、宗介は制服の下からごついコンバット・ナイフを抜《ぬ》き出した。
「なるほど……。なんか、納得《なっとく》」
彼の髪がいつも不揃《ふぞろ》いでぼさぼさな理由《りゆう》を、ようやく彼女は理解《りかい》した。
そこで恭子がなにやらぴんと来たらしく、人差し指を立てて声を弾《はず》ませる。
「ねえねえ! いま思いついたんだけど。だったらさ、相良くんを床屋さんに連れてく、ってのはどう? こう、ガラーっとイメチェンするの」
「ははあ。それは……なかなか面白《おもしろ》そうね」
「でしょでしょ。あたしはリーゼントがいいと思うなぁ」
「いや、そこは渋《しぶ》めに角刈《かくが》りとか」
「マッシュルーム・カットとかは? それでもって、カラフルなメガネをかけるの」
「ぶっ。……くくく。パンチ・パーマなんかも笑えるわね」
「本気と書いて『マジ!』みたいな世界?」
「犬の耳を付けるのもいいかな」
「それ、床屋《とこや》さんじゃないよー」
好き勝手《かって》なことを言って盛り上がる。
その話は最初、ほとんど冗談《じょうだん》のような提案《ていあん》だった。だが宗介が、ふとこう言ったことから、それはにわかに現実味《げんじつみ》を帯《お》びてきた。
「別に構《かま》わんぞ」
「へ?」
「トコヤだ。普通《ふつう》の高校生は、そこで散髪《さんぱつ》をするのだろう?」
かなめたちが宗介を連れて行ったのは、調布駅《ちょうふえき》の南口から、すこし歩いたところにある小洒落《こじゃれ》た感じの理髪店《りはつてん》だった。
(アフガニスタンの理髪店とは、ずいぶん違って見えるな……)
その外装《がいそう》を見て、宗介は思った。彼が育った紛争地帯《ふんそうちたい》にも、床屋はある。ただ、宗介はそうした施設《しせつ》に、これまでまったく無関心《むかんしん》だったのだ。いま、こうして床屋に来る気になったのは、彼なりの向上心《こうじょうしん》からだった。
もっとこの町での生活に、適応《てきおう》していかねば。
そんな動機《どうき》が、漠然《ばくぜん》と働いていた。先日《せんじつ》のマオの言葉がなかったら、わざわざそうは考えなかったかもしれない。
もちろん、単なる好奇心《こうきしん》もあったが。
「ここでいい?」
「うむ。任《まか》せる」
そういうわけで、三人はその理髪店に入っていった。
「カットで。彼をお願いします」
出迎《でむか》えた店員に向かって、かなめが言った。店員はそれだけで、おおよその事情《じじょう》を推察《すいさつ》したらしく、にっこりと笑って宗介に『こちらへどうぞ』と告げた。
「む……」
ぎこちない動作《どうさ》で、椅子《いす》に座《すわ》る。店員は彼の首にタオルを巻いて、ビニールのシートを被《かぶ》せる。
「さて、どんな感じにしましょうかね?」
そばに突っ立っていたかなめと恭子に、店員がたずねた。
「どうする、カナちゃん?」
「そうねぇ……やっぱり、モヒカンとかそういうギャグは、やめといた方がいいわよね」
「おっ、いいですね、モヒカン。私、一度やってみたかったんですよ」
店員が軽口《かるくち》を飛ばす。かなめたちは笑いながら、ああでもない、こうでもないと相談《そうだん》する。三分ほど話し合った挙句《あげく》に、けっきょく無難《ぶなん》な線《せん》に落ち着いた。
「じゃあ、眉《まゆ》が見えるくらいまで短くするってことで。あと髪の量が多いから、ざーっとすいてやってください。いい、ソースケ?」
「ああ」
「そういうことで。お願いしまーす。あっちで待ってるから」
かなめたちが手を振《ふ》って、待合《まちあ》い席《せき》へと去《さ》っていく。なぜか宗介は心細い気分《きぶん》になった。
いや、それだけではない。
嫌《いや》な感じがする。何の異常《いじょう》もないはずなのに、体の奥《おく》がざわざわとするのだ。長年|培《つちか》ってきた勘《かん》と嗅覚《きゅうかく》が、なにかの異変《いへん》を知らせようとしている。
(気のせい……か?)
わからなかった。それに彼の勘は、この平和《へいわ》な町ではよく外れるのだ。ほとんど信頼《しんらい》できないといってもいい。その勘を信じて、これまでどれだけたくさんの失敗《しっぱい》をしてきたことか……。
「……っと。じゃあお客さん、シャンプー入りまーす」
店員がボトル入りのシャンプーを、宗介の頭にひっかけようとする。
「待っ……」
声が出かけたところを、押しとどめる。
「はい?」
「いや……続けてくれ」
店員は怪訝顔をしながらも、シャンプーを頭頂部にかけた。頭髪《とうはつ》がかき回されると、みるみる泡《あわ》がたってくる。赤の他人――まったく面識《めんしき》がない男の、見知らぬ指が、頭皮《とうひ》をぐいぐいと押し立てた。
「痒《かゆ》いところないですかー」
「……いや」
本当は全身がむず痒《がゆ》かったが、宗介は短く答えるだけにした。
落ち着かない。ひどく落ち着かない。
もしこのボトルの中身が、経皮性《けいひせい》の猛毒《もうどく》だったとしたら? この店員が、指に毒針《どくばり》を仕込《しこ》んでいたら? この白衣の下に、小型の自動拳銃《じどうけんじゅう》を忍《しの》ばせていたとしたら……?
自分にはまったく抵抗《ていこう》する術《すべ》がないではないか。
(気にするな。これはただの石鹸《せっけん》……彼はただの店員だ……)
宗介は自分に言い聞かせた。この店員が暗殺者《あんさつしゃ》だという発想《はっそう》など、ナンセンスだ。この店を選《えら》んだのはかなめなのだし、自分がここに来ることにしたのは、ついさっきの、自分自身の気まぐれからなのだ。自分や彼女をねらう敵が、待ち伏《ぶ》せできるわけがない。
「はい、じゃあこちらにお願いしまーす」
正面《しょうめん》の洗面台でお湯《ゆ》を出しながら、店員が宗介を呼《よ》ぶ。
「?」
「シャンプー、流しますから」
「ああ……」
どうやら、あの洗面台に頭を突《つ》っ込めと言っているらしい。
だが、そんなことをしたら、自分の視界《しかい》はゼロになる。しかも、相手に対して、無防備《むぼうび》な頸部《けいぶ》をさらけ出すことになるのだ。この店員が自分の脊髄《せきずい》に武器《ぶき》を振《ふ》り下ろしたり、注射器《ちゅうしゃき》を突《つ》き立てたりするのは、わけもないことだろう。それよりも、店の外でだれかがこちらを狙っているかもしれない。
「どうしました?」
「その……どうしても、そうする必要《ひつよう》があるのか?」
店員はきょとんとしてから、困《こま》ったような笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
「そりゃそうでしょ。そのままじゃカットできませんよ。さあ、こちらに」
「…………」
宗介は大変な精神的苦痛《せいしんてきくつう》を伴《ともな》って、のそのそと身を乗り出し、洗面台へと頭を突っ込んだ。シートの下で、ホルスターから自動拳銃を抜いておく。せめてもの気休めだった。
宗介の頭をすすぎながら、店員がたずねる。
「お湯|加減《かげん》、いかがですかー」
「……普通《ふつう》だ」
そう答えながらも、彼は気が気でなかった。お湯の温度など感じもしない。
一瞬《いっしゅん》でも隙《すき》を見せれば、この男は自分の命を絶《た》とうとしてくるのではないか? こちらに『無防備になれ』とばかり要求《ようきゅう》してくるのは、妙《みょう》じゃないのか? なにか想像《そうぞう》を絶《ぜっ》するようなトリックでこちらの裏をかき、この理髪店《りはつてん》に先回りして、店員になりすましたのではないのか? それともほかに敵がいて、自分が完全に無防備になる瞬間を、狙いすましているのだろうか?
そうだ。自分が安全な理由などない。かなめはいまでも、だれかに狙われている。ここで自分が死んだら、だれが彼女の身を護《まも》る……?
「はい、けっこうですー。お疲れさまでしたー」
タオルで頭をくるみつつ、理髪師《りはつし》がゆっくりと彼を座席に戻らせる。タオルで視界《しかい》を塞《ふさ》がれたまま、ごしごしと頭を拭《ふ》かれるのは、ほとんど拷問《ごうもん》だった。
「じゃあカットしますねー」
理髪師がはさみをちょきちょきさせて、彼の髪を無造作《むぞうさ》に掴《つか》んだ。素性《すじょう》の分からない男が背後《はいご》に立って、刃物《はもの》を握《にぎ》っている。
頭の中のどこかが、はげしく警鐘《けいしょう》を打ち鳴《な》らした。
まずい。いいかげんにしろ。このままでは――
もう限界《げんかい》だった。
体が勝手《かって》に動く。はさみが頭に近付くより前に、宗介は相手の腕《うで》をつかみ上げ、椅子《いす》から立ち上がりざま、理髪師を正面の鏡《かがみ》に叩きつけた。
「な、なにを――」
「動くなっ!!」
鋭《するど》く叫《さけ》ぶ。驚《おどろ》くほかの店員や客に視線《しせん》を走らせ、銃口《じゅうこう》を全方位《ぜんほうい》にさまよわせる。
「…………っ」
だが、敵《てき》とおぼしき人物は見当《みあ》たらなかった。鏡に押しつけた理髪師は、か細い声を漏《も》らして、わけもわからずじたばたしているだけだ。
脅威《きょうい》などない。店の中にも、店の外にも。
また、外れた。いつもこれなのだ。
「ソースケ!?」
待合い席の方から、かなめがこちらに突進《とっしん》してきた。ファッション雑誌《ざっし》を棒状《ぼうじょう》に丸めて、まっしぐらに。間違《まちが》いなく、怒《おこ》っている。
(訂正《ていせい》。脅威は約一名……)
即席《そくせき》の棍棒《こんぼう》が自分の頭に振り下ろされるのを、宗介は潔《いさぎよ》く受け入れた。
「まったく……!!」
マンションへの帰り道、かなめはしばらく怒りっぱなしだった。
「『連《つ》れてけ』っていうから連れてったのに。どうしてあんたは、ああいう風にすぐ暴《あば》れ出すのよ!?」
「面目《めんもく》ない」
とぼとぼと、宗介がその後に続く。
騒動《そうどう》のあと、かなめが一緒《いっしょ》になって頭を下げても、店員は『申《もう》し訳《わけ》ないけど、他のお店行ってもらえます? いえいえ、もちろんお代《だい》は要《い》りませんから』だのと、ヤクザの類《たぐい》でも扱《あつか》うような態度《たいど》で、彼らを追い出してしまったのだった。その後、恭子は『まあ、仕方《しかた》ないよね』と笑ってから、二人と別れて家路《いえじ》についていた。
「だが刃物《はもの》を持った赤の他人に、あそこまで無防備になるのは危険《きけん》すぎる」
宗介が弁明《べんめい》した。
「あー、そう。だったら『床屋に行く』なんて言わないでよ。散髪《さんぱつ》するのにああすることくらい、最初っから想像がつかないわけ!? 一歩間違ったら、なんの罪《つみ》もない店員さんが、大怪我《おおけが》するところよ? 暗殺者《あんさつしゃ》だとか敵だとか、いい加減《かげん》、そういう発想《はっそう》を離《はな》れなさいよ!」
「そうはいかない」
その点についてのみ、彼は断固《だんこ》たる口調《くちょう》で言った。
「敵はいる。それは事実《じじつ》だ。いつ君を襲《おそ》ってきても、おかしくはない」
「それは……」
かなめは口ごもった。
こうして指摘《してき》されないと、ついつい忘れそうになってしまう。確《たし》かに、自分は狙われているのだ。自分が <ウィスパード> だとかいう、わけのわからない存在なせいで。
「ここでの俺の最優先課題《さいゆうせんかだい》は、君を敵から護《まも》ることだ」
ここまできっぱりと言われると、かなめもそれ以上相手を責《せ》める気にはなれなかった。代わりに、彼女はすこし愚痴《ぐち》っぽい声でつぶやく。
「だってさ……あれから一度でも、そういうことって無《な》いじゃない」
「そうだな。だが、気を抜《ぬ》くわけにはいかん」
「もう……」
修学旅行《しゅうがくりょこう》の一件|以来《いらい》、いわゆる『敵』が自分を直接《ちょくせつ》の標的《ひょうてき》にして、なんらかの行動《こうどう》を仕掛《しか》けてきたことは一度もなかった。少なくとも、かなめの目に付く範囲《はんい》では。その間、あれこれと危険な目には遭《あ》っていたが、いずれの事件《じけん》も『巻き込まれた」という形にすぎない。
この東京での日常《にちじょう》は、おしなべて平和なのだ。それはまあ、宗介がらみのドタバタで、普通《ふつう》の高校生よりは騒《さわ》がしい毎日かもしれないが。
本当に敵などいるのだろうか……? 単に彼と <ミスリル> が、必要以上に大騒ぎをしているだけなのではないか……?
かなめがそう疑《うたが》ってしまうのも、無理《むり》からぬことなのだった。
心なしか、二人の歩調《ほちょう》がゆるむ。
夕暮《ゆうぐ》れ時の住宅街《じゅうたくがい》は人気《ひとけ》が多かった。秋が深まり、空気の肌寒《はだざむ》さも増《ま》している。日が沈《しず》むのも早くなった。
「もう、半年になるのかぁ……」
宗介がかなめの前に現《あらわ》れたのは、春のことだ。ちょうどそろそろ六か月になる。
「あっという間だね」
「そうだな」
「でもソースケ、全然《ぜんぜん》、進歩《しんぽ》してないね」
「そうか?」
「そうだよ」
くすくすと笑うと、宗介が小首《こくび》を傾《かし》げた。けっきょくカットはせずじまいで、湿《しめ》ったぼさぼさ髪のままだ。いささか覇気《はき》がないその姿《すがた》は、くたびれた野良犬《のらいぬ》を連想《れんそう》させた。
なんとも、だらしがない。このまま放っておくのは、無責任《むせきにん》な気がしてくるくらいだ。
「あのさ……」
すこし考えてから、彼女は切り出した。
「なんだ?」
「うち、寄《よ》ってかない? どうせだから、あたしが散髪の続きやってあげようか」
その申《もう》し出が、よほど意外《いがい》だったらしい。宗介は珍《めずら》しく、目を丸くしてぱちくりとさせた。
「いやだ?」
「いや。それは……」
「あたしでも、襲《おそ》ってきそうで心配《しんぱい》?」
わざと言ってやると、彼は首をふるふると小刻《こきざ》みに振《ふ》った。
「そんなことはない。心配などない。君は別だ」
彼がむきになって否定《ひてい》するのが、かなめにはやたらと心地《ここち》よかった。
一家族が余裕《よゆう》をもって暮らせる3LDKのマンションでも、洗面所《せんめんじょ》は狭苦《せまくる》しい。その洗面所に椅子《いす》を運び込んできて、かなめが言った。
「はい、お客さーん。座ってください」
いそいそと腰かけた宗介の首回りに、かなめがタオルとビニール・シートを巻き付ける。彼女はすでに着替《きが》えを済《す》ませ、薄手《うすで》のTシャツにジーパンという格好《かっこう》になっていた。
「苦しくない?」
「ああ。問題ない」
「よーし、じゃあ行くわよ。ふっふっふ……」
はさみを手にして、かなめが不敵《ふてき》な笑みを浮かべた。宗介は、暗殺者やら敵やらとは、まったく別の意味《いみ》で不安になって、彼女にたずねた。
「千鳥《ちどり》。君は……その、散髪の経験《けいけん》はあるのか?」
「ないわよ」
かなめはあっさりと答えた。
「キョーコとかの髪の毛、いじったりすることはあるけど。切るのははじめてかな」
「…………」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。少なくとも、自分で切るよりはマシでしょ」
「耳を切り落とさんでくれ」
「うん。なるべくそうする」
笑ってから、彼女は宗介の髪をひとつまみして、ちょきんとカットした。さらにもう一度。最初は慎重《しんちょう》な手つきだったが、次第《しだい》にリズムよく、ちょきん、ちょきんと切っていくようになる。
「あのさ……」
手を休めずに、かなめが言った。
「テスト休んだの、仕事だったんだよね」
「ああ」
「また戦ったりしたの?」
「ああ。……それが?」
「別に。怪我《けが》とかしなかった?」
「かすり傷くらいだ。問題ない」
「そう……」
しばらくの間、かなめは無言《むごん》で散髪を続けた。
彼の頭と鏡《かがみ》とを交互《こうご》に見比《みくら》べ、たまに『ふーむ……』だのと唸《うな》っては、難《むずか》しい顔ではさみを入れる。ばらばらと、切った髪の毛が落ちてきて、ビニール・シートの上を滑《すべ》り落ちていった。
「あたしね……」
やがてかなめがぽつりと言った。
「テッサから聞いてるの。ソースケのほかに、別の人があたしを護《まも》ってるって」
この話題に彼女が触れるのは、はじめてのことだった。さっきの帰り道の会話から、彼女はずっとこのことを考えていたのかもしれない。
「そうか」
「でも、そういう気配《けはい》とかって……全然《ぜんぜん》ないでしょ? だから、たまに実感《じっかん》なくなるんだよね。なんか……これまでのこととか、<ミスリル> のこととか、全部ウソみたいで」
宗介の東京での任務《にんむ》は、基本的《きほんてき》に『かなめの護衛《ごえい》』ということになっている。だが、実のところは、彼一人が彼女を見ているわけではない。<ミスリル> の情報部《じょうほうぶ》からもエージェントは派遣《はけん》されており、常《つね》に彼女の近くに控《ひか》えている。宗介が別の任務で、かなめから離《はな》れて海外に出かけられるのは、そのエージェントがいるおかげだった。
宗介やカリーニンたち作戦部《さくせんぶ》の人間は、そのエージェントを <幽霊《レイス》> と呼んでいる。
「ソースケ、その人と会ってるの?」
「いや。話したこともない」
「だれだか知ってる?」
「いや。たぶん、君の知らない人間だ」
「信頼《しんらい》できるのかな、その人」
「…………」
「っていうのか……その、<ミスリル> とか全部」
その言葉には、濃密《のうみつ》な不安《ふあん》の匂《にお》いが漂《ただよ》っていた。
日頃《ひごろ》どれだけ明るく振《ふ》る舞《ま》っていても、彼女は脅《おび》えている――そうした当り前の事実《じじつ》を、宗介はそのとき実感《じっかん》した。何者かがかなめを狙《ねら》っているという現状《げんじょう》を真面目《まじめ》に考えれば、彼女が頼《たよ》れるのは <ミスリル> だけなのだ。警察《けいさつ》はあてにならない。
「もちろんだ。信頼《しんらい》しろ」
そう答えながらも、宗介は自分の言葉にまったく自信が持てなかった。
<レイス> はいつも遠くにいる。
授業中《じゅぎょうちゅう》は学校の外に。帰宅後《きたくご》は、このマンションから数ブロック離《はな》れたどこかに。つかず、離れず、彼女をどこかから見張《みは》っている。だからこそ、宗介は四六時中、かなめのそばに張り付かずに済《す》んでいるのだ。
そのエージェントは、絶対《ぜったい》にこちらからの呼びかけには応《こた》えない。どんなことがあっても。
<レイス> はかなめの身に危機《きき》が迫《せま》った時でさえ、行動《こうどう》を起こさない。これまで、彼女が街の不良《ふりょう》にからまれたり、素性《すじょう》の知れない人物の別荘《べっそう》に連《つ》れて行かれたり、『A21[#「21」は縦中横]』のテロリストたちに拉致《らち》されたときも、<レイス> は動かなかった。結果《けっか》として、いずれの場合《ばあい》もかなめは無事《ぶじ》だったわけなのだが――そうした事件の後、宗介はいつも強い苛立《いらだ》ちを感じていた。
なぜ動かない?
なぜ俺の代わりに、彼女を護《まも》ってくれなかった?
宗介は上層部《じょうそうぶ》に提出《ていしゅつ》する報告書《ほうこくしょ》に、『情報部からのエージェント――コード名 <レイス> の能力《のうりょく》には、強い疑問《ぎもん》がある』と何度も書いてきた。しかし、答えは決まって『検討中《けんとうちゅう》。これまで通りに任務《にんむ》を続行《ぞっこう》せよ』というものだった。
カリーニンもテッサも、その決定《けってい》については説明しようとしない。『いいから、続けろ』。この一点|張《ば》りだ。だから宗介は、かなめから離《はな》れる時に、いつも強い不安《ふあん》を感じる。<レイス> に任《まか》せておけばいい……そう命令《めいれい》されていても、<レイス> が義務《ぎむ》を果《は》たしているとは思えない。
<レイス> は本当の敵《てき》が現《あらわ》れるのを、辛抱《しんぼう》強く待っているのだろうか? かなめという餌《えさ》に大物が食いつくまで、どれだけ浮きが動いても、釣《つ》り竿《ざお》を上げないつもりだとすれば? ならば、これまで <レイス> が正体《しょうたい》を見せなかった理由《りゆう》も納得《なっとく》がいく。
いや、それはおかしい。
その前にかなめが死んでしまっては、元も子もないではないか。思い出すのもおぞましいことだったが、これまで彼女は、下手《へた》をすれば死ぬほどの危険《きけん》に何度もさらされたのだ。それでも救《すく》いの手をさしのべなかった、その理由はなんなのか……?
わからない。
得体《えたい》の知れない冷酷《れいこく》な論理《ろんり》が、どこかで働いている。情報部はなにかを確信《かくしん》した上で、こちらにそれを隠《かく》しているのではないのか……?
「ソースケ?」
物思《ものおも》いに沈《しず》んでいた彼に、かなめが呼《よ》びかけた。
「ん……?」
「どしたの? なんか、考え込んでるみたい」
「いや……」
「いまの話、あんまり気にしないでね。その……あたし、なんだかんだ言っても……」
かなめが散髪の手を止めて、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。それから思い切ったように――だが鏡から目を逸《そ》らして、こう言った。
「ソースケのことは、ちゃんと信用してるから」
「…………」
不思議《ふしぎ》な感覚《かんかく》が彼を襲った。
暖《あたた》かくて柔《やわ》らかい未知《みち》のものが、心臓《しんぞう》をきゅっと締《し》め付けるような――そんな感覚だ。顔が熱《あつ》い。なにかが、体の奥《おく》からこみ上げてくるような気がした。
なぜだろう。懐《なつ》かしい。
こういう感情《かんじょう》の名前は、なんというのだったろうか……?
思い出せない。
「……助かる」
辛《かろ》うじて、彼はそう答えた。
「どういたしまして」
さっぱりとした口調《くちょう》で言ってから、彼女は散髪を再開《さいかい》した。
「……っと。もうすこし右向いてくれる?」
「ん……ああ」
「そっちじゃない、逆《ぎゃく》」
かなめのほっそりした指が、彼の頬《ほほ》をそっと押す。すこし冷たい指先が心地《ここち》よかった。熱帯《ねったい》の密林《みつりん》に一瞬そよぐ、涼《すず》やかな風のようだ。
視界《しかい》の片隅《かたすみ》で、かなめの白いTシャツと黒髪が揺《ゆ》れていた。そのTシャツは安物《やすもの》らしく、薄手《うすで》の生地《きじ》が照明《しょうめい》に当たって透《す》けている。彼の前髪を切ろうとして彼女が正面に回ってくると、脇《わき》の下から腰《こし》にかけての身体《からだ》の輪郭《りんかく》が、うっすらと浮かび上がった。なめらかでほっそりとした曲線《きょくせん》。まぶしいものでも見たように、宗介は目を伏《ふ》せた。
[#挿絵(img/04_147.jpg)入る]
「ふふ。だんだん、コツがつかめてきたかな……」
かなめの手つきは、終始《しゅうし》ていねいで優《やさ》しかった。
梳《す》きばさみで髪を減《へ》らし、剃刀《かみそり》で毛先を揃《そろ》え、丹念《たんねん》に櫛《くし》を入れ――そうされている間に、彼は眠気《ねむけ》を感じた。
なんということだろう……と彼は思った。
刃物《はもの》を持った人物が、こんなそばにいるのに、眠くなるなんて。
この自分が、だ。
とても信じられない。
だが、この言いようのない安らぎはなんだ?
千鳥《ちどり》。俺はひょっとしたら――
「はい、じゃあシャワー入りまーす」
洗面台に頭を押し込まれ、いきなり大量《たいりょう》の冷水《れいすい》をぶっかけられて、まどろみの時間はあっさりと終わった。
「まあまあね、うん」
ドライヤーのスイッチを切って、かなめがしきりにうなずいた。
「あまり変わっていないような気がするが……」
神妙《しんみょう》な顔で鏡を凝視《ぎょうし》して、宗介はコメントした。
いちおう、カットする前よりは短くなっていたが、さほど雰囲気《ふんいき》が変わったようにも思えない。ただ単《たん》に、一か月くらい前の状態《じょうたい》に戻《もど》っただけのような――そんな頭だった。ざんばらカットで、ぼさぼさなのも相変《あいか》わらずだ。それになんとなく、左右の長さが非対称《ひたいしょう》のような気もする。
「なに言ってんの。見違《みちが》えたわよ」
「そうか……?」
「うん。ずっとよくなった。あした学校でみんなに聞いてみなよ」
「ふむ……」
宗介はもう一度、鏡の中の自分をしげしげと見つめてから、立ち上がった。
「ともかく、感謝《かんしゃ》する。機会《きかい》があったら、今度は俺が君の散髪をしてやろう」
「絶《ぜ》っ対《たい》、やだ」
しかめっ面《つら》でかなめが言った。
洗面所の片づけを手伝って、簡単《かんたん》な食事を一緒《いっしょ》にしてから、宗介はいとまを告げた。
なんとなく、かなめは名残惜《なごりお》しそうだった。
マンションを出ると、外はすっかり日が暮れていた。もう八時|過《す》ぎくらいだろうか。歩道には、まだ人が多かった。家路《いえじ》に付くサラリーマン。塾《じゅく》帰りの小学生。犬と散歩《さんぽ》する主婦《しゅふ》。そうした人々の流れを横切って、彼はかなめのマンションの向かいに建《た》つ、自分のマンションへと向かった。
なぜだか、足取りが軽い。いや、気持ちが高揚《こうよう》しているのだ。
士気《しき》が高まっている……と表現《ひょうげん》した方がいいかもしれない。<レイス> のことや任務のこと、マオの言っていた将来《しょうらい》のこと――つい数時間前まで、そうしたあれこれで頭が一杯《いっぱい》になり、余裕《よゆう》がなくなっていたはずなのだが。
いまはちがう。やってみようではないか、という気分になっていた。
かなめの護衛。この社会への適応《てきおう》。メリダ島での訓練《くんれん》。そして実戦《じっせん》。どれもこれも、うまくこなしてみせよう。
彼女は自分を頼《たよ》りにしている。その自分が、自信《じしん》を持たないでどうするのだ?
(そうだ……)
思い悩《なや》むのは来週でいい。
やることは山ほどある。まずは帰って、メリダ島へきょうの報告書《ほうこくしょ》を送る。それから装備《そうび》と銃器《じゅうき》の手入れ。この界隈《かいわい》に仕掛《しか》けてあるセンサー類《るい》のチェック。しかる後に、追試《ついし》に向けての勉強だ。
彼は足早に自室へ戻《もど》ると、衛星通信機《えいせいつうしんき》に接続《せつぞく》されたノートパソコンを起動《きどう》し、簡潔《かんけつ》な報告書を五分で書いた。強力な暗号化《あんごうか》を施《ほどこ》して、すぐに送信《そうしん》。ほどなく、メリダ島の通信《つうしん》センターから『受信完了《じゅしんかんりょう》』を知らせるメッセージと、もう一つ、別の暗号ファイルが送られてきた。
「……?」
そのファイルは、司令部《しれいぶ》からの『命令《タスキング》メッセージ』だった。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
最優先命令(98J005―3128)
191121Z
発=西太平洋戦隊司令部(メリダ島|基地《きち》)
宛《あて》=ウルズ7/サガラ・ソウスケ軍曹《ぐんそう》
A:作戦部|統合《とうごう》司令本部および戦隊司令部は、現行《げんこう》の優先命令98E001―3128(作戦名 <ガーディアン・エンジェル> )を本日一五〇〇時(GMT)付で解除《かいじょ》することを決定《けってい》した。
B:ウルズ7は現行のセーフハウスから撤収《てっしゅう》し、ルート3bでメリダ島基地へ速《すみ》やかに帰還《きかん》せよ。
C:潜入《せんにゅう》中の都立《とりつ》ジンダイ高校へは、郵送《ゆうそう》で退学届《たいがくとど》けを提出《ていしゅつ》しておくこと。退学の理由等《りゆうとう》はウルズ7の裁量《さいりょう》に委《ゆだ》ねる。
D:チドリ・カナメの護衛は、以後《いご》、コード名 <レイス> がすべて引き継《つ》ぐ。
E:本日一五〇〇時(GMT)以降《いこう》、チドリ・カナメとの接触《せっしょく》を禁《きん》じる。
[#地付き]――以上
[#ここで字下げ終わり]
宗介は目をこすって、もう一度その命令書《めいれいしょ》を読んだ。
内容《ないよう》に変わりはなかった。何度読んでも、どれだけ解釈《かいしゃく》をねじ曲げようとしても、そこに書いてあることは一つだった。
千鳥かなめの護衛任務を永久に解《と》く――そう言っているのだ。
作戦本部の決定ということは、テッサやカリーニンよりも高位の人物が関《かか》わっているということだ。宗介がどんな抗議《こうぎ》をしたところで、それが受け入れられることはないだろう。
「…………」
彼は液晶画面《えきしょうがめん》を見下ろしたまま、数分間、身じろぎ一つせずにいた。ひょっとしたら、一〇分以上じっとしていたかもしれない。
奥歯《おくば》がぎりっと音を立てた。
<<チドリ・カナメの護衛は、以後、コード名 <レイス> がすべて――>>
気付いたときには、ノートパソコンに拳《こぶし》を振《ふ》り下ろしていた。合金《ごうきん》のフレームがひしゃげて、台座《だいざ》から外れたキーがばらばらと宙《ちゅう》を舞《ま》う。気も狂わんばかりの焦燥《しょうそう》が、わずかの間、彼を駆《か》り立てた。
焦《こ》げくさい匂《にお》いを発するパソコンを置《お》き去りにして、まっすぐベランダへ向かう。ガラス戸を抜《ぬ》け、手すりを両手でつかんで、辺りを見回す。
「どこにいる……?」
肩《かた》を震《ふる》わせ、彼はつぶやいた。
夜の住宅街《じゅうたくがい》。なんの異変《いへん》もない、静かな夜の――
「出てこいっ、<レイス> !! 俺と話をしろっ!!」
力|一杯《いっぱい》、彼は叫《さけ》んだ。
腹《はら》を立てても意味《いみ》がない。だれかに不平《ふへい》をぶつけても、決定《けってい》が翻《ひるがえ》ることはない……そんなことは分かっていたが、とても黙《だま》っていられなかった。
「近くにいるのは分かっている! 返事《へんじ》をしたらどうだっ!?」
怒鳴《どな》り声が、付近一帯《ふきんいったい》に響《ひび》き渡る。市道を歩く眼下《がんか》の通行者《つうこうしゃ》が、『何事《なにごと》か?』とこちらを見上げていた。
応答《おうとう》はない。この程度《ていど》では、絶対に相手が現《あらわ》れないことなど、宗介もよく分かっていた。
だから彼は、続いてこう叫んだ。
「俺は相良宗介軍曹!  <ミスリル> 作戦部、西太平洋戦隊 <トゥアハー・デ・ダナン> 所属《しょぞく》! ある人物の護衛を命じられて、四月二〇日付けでこの東京に派遣《はけん》された! 彼女が何者かに狙われるのは、次の理由《りゆう》が考えられる! 一つ! 彼女は『|ささやかれた者《ウィスパード》』と呼ばれる特殊《とくしゅ》な人間である! 二つ!  <ウィスパード> は主に軍事分野《ぐんじぶんや》に関連《かんれん》すると思われる、未知《みち》の知識《ちしき》を――」
たちまち部屋の中で、電話の呼《よ》び鈴《りん》が鳴《な》った。
宗介はぴたりと口をつぐんで部屋に戻った。卓上《たくじょう》で、淡々《たんたん》と電子音《でんしおん》を奏《かな》でる受話器《じゅわき》を手に取り、スイッチを入れる。
まず真っ先に、電話の相手《あいて》が彼を怒鳴りつけた。
『キサマ、正気カ!?』
低く、野太《のぶと》い合成音《ごうせいおん》。電子的に音声を変換《へんかん》しているのだ。まるで怪物《かいぶつ》のような声だったが、それでも相手が泡《あわ》を食ってこちらに電話してきたことがよくわかった。
この相手が <レイス> ――情報部から派遣《はけん》された、もう一人のエージェントだ。
「機密《きみつ》情報ヲ近所ニ向カッテ怒鳴り散《ち》ラスえーじぇんとガ、ドコニイル? コレハ明確《めいかく》ナおぺれーしょんノ妨害行為《ぼうがいこうい》ダゾ!』
「貴様が俺を無視《むし》するからだ」
宗介は冷たい声で言った。
『コウシテ我々《われわれ》ガ会話スルコトノ危険性《きけんせい》ガ、キサマニ理解《りかい》デキナイワケハアルマイ。うるず7、オマエノシテイルコトハ――』
「答えろ。貴様の任務は千鳥かなめの護衛なのか。それとも単なる監視《かんし》なのか」
『答エル義務《ぎむ》ハナイ』
「一晩中《ひとばんじゅう》、ベランダで俺の知っている限りのことを叫び続けてもいいんだぞ。どうせお役|御免《ごめん》の身だ」
『私ヲ脅迫《きょうはく》スル気カ、うるず7。コノコトハ正式《せいしき》ニ作戦部へ抗議《こうぎ》スルゾ』
「好きにしろ。だが、質問《しつもん》には答えてもらう」
舌打《したう》ちのような音がした。しばしの躊躇《ちゅうちょ》の後、<レイス> は観念《かんねん》したように言った。
「……モチロン護衛ダ』
「信用できない」
「ソウ思ウノハ勝手《かって》ダ。ダガ、私ニ与エラレタ任務ハ、こーど名 <えんじぇる> ガ、他ノ機関《きかん》ノ手ニ渡ルノヲ阻止《そし》スルコトニアル。ソレ以上デモ以下デモナイ』
「では、なぜ彼女を助けない。これまでも危険な場面《ばめん》は何度もあったはずだ」
『ソシテ、ソノドレモガ、トルニ足ラナイちんぴらノ所業《しょぎょう》ダッタ。町ノ不良トノイザコザに、私ガ出テイク理由《りゆう》ナドナイ』
「なるほどな。だが『A21[#「21」は縦中横]』との一件はどう説明《せつめい》する? あの時でさえ、おまえは彼女を助けようとしなかった」
そう言ってから、宗介はふと『おまえ』ではなく『おまえら』かもしれんな……と思った。
『…………』
「どうなんだ。答えろ」
『敵《てき》ヲ泳ガセルツモリデイル内ニ、事態《じたい》ガ私ノ手ニ負エナクナッタノダ。伏見台《ふしみだい》学園デノ戦闘《せんとう》ノ時ニハ、私モ冷汗《ひやあせ》ヲカイタガ、結果《けっか》トシテ手ヲ出サズ正解《せいかい》ダッタ。アノてろりすとタチハ、彼女ノ重要性《じゅうようせい》ヲ認識《にんしき》シテイナカッタソウデハナイカ。ツマリ、本質的《ほんしつてき》ニハちんぴらト同ジトイウコトダ」
「詭弁《きべん》だな。俺には、おまえが本気で彼女を護る気があるように思えない」
『オマエニ気ニ入ッテモラオウトハ思ワンヨ。セイゼイ気ヲ揉ンデイルトイイ』
合成音が、彼をあざ笑った。
『本来コノおぺれーしょんハ、順安《スンアン》事件|以降《いこう》ハ、情報部ガ担当《たんとう》スベキモノダッタ。ソコニ作戦部カラ横槍《よこやり》ガ入ッテ、オマエヲ居座《いすわ》ラセタノダ。囮《おとり》トシテ有効《ゆうこう》ダトイウノガ作戦部ノ言イ分ダッタガ、私ニトッテハ迷惑《めいわく》以外ノ何物《なにもの》デモナイ。何度オマエヲ事故《じこ》ニ見セカケ、抹殺《まっさつ》シテヤロウト思ッタコトカ』
「今からでも遅《おそ》くはないぞ。やってみろ」
『冗談ダ。オマエトヤリ合ッテ、無傷《むきず》デ済《す》ムトハ思ットランヨ。モットモ、気晴ラシハサセテモラッテイタガナ』
「なに?」
『遠クカラらいふるノ銃口ヲ向ケタリ、物陰《ものかげ》デさぶましんがんノぼるとヲ動カスダケデ、オマエハヒドク落チ着カナイ様子ニナル。戦士トシテハ素晴《すば》ラシイ嗅覚《きゅうかく》ダガ、ソノセイデズイブント失敗ヲシタダロウ。今日モ、床屋デノ騒ギハ楽シマセテモラッタゾ』
「貴様《きさま》……」
『ソウ怒ルナ。済ンダコトダ』
<レイス> の声には、勝ち誇《ほこ》ったような響きがあった。
『イズレニセヨ、ソウシタ遊ビモ今日デ終ワリダ。オマエハ基地《きち》ニ帰ッテ、本来《ほんらい》ノ任務ニ戻レバイイ。私ハ仕事ヲ続ケル。オタガイぷろダ。ツマラン諍《いさか》イハ、ヤメテオコウデハナイカ』
「そうはいかん。千鳥の安全はどうなる」
『モハヤ、オマエガ気ニスルコトデハナイ。撤収《てっしゅう》ノ命令ガ、正式ニ出タノダロウ? ヨモヤ、命令ニ逆《さか》ラウ気デハナイダロウナ?』
「それは……」
宗介は言葉に詰《つ》まった。
『オマエノココデノ生活ハ、<みすりる> ガ提供《ていきょう》シタモノダトイウコトヲ忘レルナ。オマエハ本来《ほんらい》、高校生ナドデハナイ。タダノ傭兵《ようへい》、殺シ屋ダ。戸籍《こせき》モ、学籍《がくせき》モ、スベテ偽造《ぎぞう》サレタイツワリノ身分《みぶん》ダ』
「…………」
『ソモソモ、オマエハ私ヲ批判《ひはん》スルガ、オマエノヨウナ人間ガ彼女ヲ護ッテイケルト本気デ信ジテイルノカ? コノ半年、オマエハ日本社会ニ、マッタク適応《てきおう》デキナカッタ。オマエノ存在《そんざい》ハ、ムシロ彼女ヲ不必要ニ危険《きけん》ニサラシテイル』
軽い衝撃《しょうげき》。身の回りの空気が、一気に重たく、粘《ねば》っこくなったような気がした。
<レイス> の指摘《してき》は、あながち間違っていないのだ。
『残念ダガ、オマエハ護衛官トシテハ三流以下ダ。彼女ニトッテモ、結局《けっきょく》ハ害悪《がいあく》ニシカナラン。ソレドコロカ、周囲《しゅうい》ノ人間マデ巻キ込ムカモシレナイ』
「…………」
『ママゴトハ終ワリダ、うるず7。命令ニ従《したが》イ、帰投《きとう》シロ』
彼がなにも言えずにいると、電話が一方的に切れた。
力無く受話器を置く。
すこしたってから、どん底にたたき落とされたような無力感《むりょくかん》がやって来た。
[#改ページ]
3:白と黒
[#地付き]一〇月二〇日 〇八一〇時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]調布市《ちょうふし》 陣代《じんだい》高校
「おはよ、キョーコ!」
朝の泉川《せんがわ》駅で顔を合わせるなり、かなめは恭子《きょうこ》の背中《せなか》をぽんと叩《たた》いた。
「おはよー。なんかカナちゃん、元気そうだね」
すこし眠《ねむ》たそうな恭子が、口をむにゅむにゅとさせる。
「そお?」
「うん。なんかいいことでもあったの?」
「いや、別に。……あったかな? それほどの話でもないかな? ふふ」
「? 変なの……」
かなめと恭子は、通学中《つうがくちゅう》の生徒《せいと》たちでにぎわっている通学路を歩き出す。
きょうの天気はあいにくの雨で、空気もずいぶんと肌寒《はだざむ》かった。恭子と並《なら》んで傘《かさ》をさすと、かなめは少し落ち着かない。この友達は彼女よりずいぶんと背《せ》が低《ひく》いので、傘の露先《つゆさき》の部分が、ちょうどかなめの目の高さにくるのだ。
「きのうは大変《たいへん》だったね。相良《さがら》くん、相変《あいか》わらずなんだから」
しばらく歩いてから、恭子が言った。かなめはうなずき、
「ほんと。進歩《しんぽ》がないのよねー、あいつ。いくら言っても、バタバタと。もー、頭かどっかにリモコン式の電気《でんき》ショックでも付けてやりたくなるわ。なんか粗相《そそう》するたびに、バチバチっとやるの。案外《あんがい》効果《こうか》あるかもなー」
「ははは。犬じゃないんだから。……そういえば、あのあと、どうしたの?」
「ん? か……帰ったわよ。それが?」
彼女はすっとぼけた。わざわざ自分の部屋《へや》まで連《つ》れて行って、散髪《さんぱつ》してやったと話すのは、なんとなく気が引けたのだ。
考えてみると、けっこう大胆《だいたん》な真似《まね》をしてしまったのではないだろうか? 普通《ふつう》、ただの男友達には、あそこまでの親切《しんせつ》はしないのでは……? きのうのことをクラスのみんなが知ったら、また変に冷《ひ》やかされるんじゃないか……?
(……ま、いいか)
あとで宗介《そうすけ》に会ったら、なるべく早めに、『散髪は自分でやった』と口裏《くちうら》を合わせるように言い含《ふく》めておこう。それで解決《かいけつ》。問題《もんだい》なしっと……。
「でもなんか、機嫌《きげん》良さそうなんだよなー」
「だれが?」
「カナちゃん」
「ええ? き、気のせいだよ。うははは……」
「あー。なんか、怪《あや》しい」
その話題は、それまでだった。今年の日本シリーズの話題《わだい》で盛《も》り上がりつつ、二人は学校の正門《せいもん》を抜《ぬ》け、上履《うわば》きにはきかえて教室に向かう。
鞄《かばん》を自分の机《つくえ》に置《お》いて、教室をぐるりと見回す。
宗介の姿《すがた》はない。
(まだ来てないのか……)
時計をちらりと見る。時刻は八時二七分だった。もうすぐ始業《しぎょう》時間だ。
(なにしてるんだろ?)
あいつの頭を見た、みんなの反応《はんのう》が知りたいのに。
ほかのクラスメートと世間話《せけんばなし》をしているうちに、チャイムが鳴《な》った。わらわらと、生徒《せいと》たちが席に付く。
宗介の席は空のままだった。
(また遅刻《ちこく》?……ったく、あのバカ。もうすぐ追試《ついし》なのに……)
かなめはすこし拍子抜《ひょうしぬ》けした気分《きぶん》になって、教科書《きょうかしょ》を開いた。
その時間も、次の時間も、宗介は姿を見せなかった。
ずっと、現《あらわ》れなかった。
[#地付き]一〇月二〇日 一七一九時(西太平洋|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]メリダ島|基地《きち》
テッサが基地の執務室《しつむしつ》で書類《しょるい》に目を通していると、卓上《たくじょう》のインタフォンが鳴《な》った。となりの部屋の、秘書官《ひしょかん》からだ。
「はい?」
「大佐殿《たいさどの》。サガラ軍曹《ぐんそう》が参《まい》りました」
直接《ちょくせつ》の上司《じょうし》であるカリーニン少佐《しょうさ》が基地《きち》に不在《ふざい》なので、こちらへ帰還《きかん》の報告《ほうこく》に来たのだろう。少佐はまだシドニーの作戦本部《さくせんほんぶ》にいる。ロス&ハンブルトン社のエンジニアたちと、装備関係《そうびかんけい》の相談事《そうだんごと》が残っていたのだ。
「…………。通してあげて」
「はい」
受話器《じゅわき》を置いて、テッサは机上《きじょう》のホロ・スクリーンに投影《とうえい》されていた書類を一時的に消去《しょうきょ》する。新型《しんがた》の潜水艦通信《せんすいかんつうしん》システム――VMEバス受信機のテスト計画書《けいかくしょ》は、まだ機密文書《きみつぶんしょ》扱《あつか》いだ。相良宗介には閲覧《えつらん》する資格《しかく》が与《あた》えられていない。
気が重かった。
帰還の命令《めいれい》を下したのは、他《ほか》ならぬ自分なのだ。それはもちろん、提督《ていとく》や作戦部の意向《いこう》を反映《はんえい》しての、やむを得《え》ないものだったが――まるで、彼とかなめとの生活を引き裂いたような格好《かっこう》になってしまった。あの二人の関係《かんけい》に自分が嫉妬《しっと》していることは事実《じじつ》なので、なおのこと後ろめたい気持ちになってしまう。
ここにカリーニンがいてくれたら……そう思ってしまう自分の弱きに、彼女は落胆《らくたん》した。自分で命令を下しておいて、部下の蔭《かげ》にこそこそと隠《かく》れたいなどと思うとは。それこそ指揮官失格《しきかんしっかく》ではないか。
だが、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう?
シドニーの作戦本部から帰ってきて以来《いらい》、彼女はそのことをずっと考えていたが、けっきょく結論《けつろん》は出ていなかった。
「失礼します」
宗介が入ってきた。まっすぐ彼女の執務机の前まで歩いて来て、ぴしりと敬礼《けいれい》する。彼女が答礼《とうれい》すると、彼はすぐさま右手を降《お》ろして『気を付け』の姿勢《しせい》をとった。
「ご苦労さま。休んでください」
「イエス・マム」
宗介はさっと『休め』の姿勢をとった。
宗介の上官への態度《たいど》は、いつでも誰《だれ》にでもこんなものだったが、今日は必要以上《ひつよういじょう》に馬鹿丁寧《ばかていねい》な感じがする。まるで――はじめて会った将校《しょうこう》に接《せっ》するような態度に思えるのは、自分の考えすぎだろうか……?
しばらくの間、二人は無言《むごん》でいた。
長い、長い、沈黙《ちんもく》だった。
彼はテッサを見てはいなかった。彼女の背後《はいご》の大きな地図《ちず》を、背筋《せすじ》を反《そ》らして、まっすぐに見つめていた。
知らない仲ではないはずなのに。同《おな》い歳《どし》なのに。
この折《お》り目正しさそのものが、彼による無言《むごん》の抗議《こうぎ》のようにさえ思えた。
「カナメさんに、お別《わか》れは言ってきましたか……?」
沈黙に耐《た》えきれなくなって、テッサが言った。
「……は」
宗介は曖昧《あいまい》に答えてから、
「ご説明《せつめい》していただけますか」
と、地図を見たまま言った。
テッサは拳《こぶし》にぎゅっと力をこめて、苦痛《くつう》きわまりない説明をはじめた。
「…………。これは上層部《じょうそうぶ》とわたしの決定《けってい》です。トーキョーでの情報部《じょうほうぶ》の態勢《たいせい》も整《ととの》ったいま、もうカナメさんにあなたを付けておく意味《いみ》は、ほとんど残っていないの」
「自分には、そうは思えません。彼女の護衛《ごえい》は情報部だけでは不十分《ふじゅうぶん》です」
「いいえ。あなたは自分の立場《たちば》の重要性《じゅうようせい》を過小評価《かしょうひょうか》しているようですね。これ以上《いじょう》、効果《こうか》も定《さだ》かではない任務《にんむ》につかせておくのは、むしろ戦隊指揮官《せんたいしきかん》としての責任放棄《せきにんほうき》になります。あなたには、もっと集中《しゅうちゅう》すべき仕事があるわ」
「なんの仕事でしょうか」
かなめの護衛よりも大事《だいじ》な任務があるのなら、いますぐ聞かせてみろ……とでも言いたげな風情《ふぜい》だった。
「 <アーバレスト> です」
テッサが言うと、宗介の口元が、わずかにぎゅっと固くなった。
「あの機体《きたい》の扱《あつか》いに専念《せんねん》してもらいます。<アーバレスト> は、あなた以外《いがい》の操縦兵《そうじゅうへい》を受け付けませんから」
「…………」
「順安《スンアン》事件で、ラムダ・ドライバにあなたの脳波《のうは》パターンが登録《とうろく》されてしまったんです。いえ、『すり込み』とでも呼んだ方が適切《てきせつ》ですね……。それまで真《ま》っ白《しろ》だった全システムが、最初の実戦《じっせん》のときに、あなたに合わせて自己組織化《じこそしきか》されたの。……はじめてシステムが駆動《くどう》した瞬間《しゅんかん》、機体《きたい》の骨格系《こっかくけい》が構成《こうせい》する擬似神経《ぎじしんけい》ネットワークが、TAROSを通じてあなたの神経系を模写《もしゃ》したんです。その構造《こうぞう》を、後から変更《へんこう》することはできません」
「よく理解《りかい》できないのですが」
「あなたが乗ったあの時から、<アーバレスト> はあなたの分身《ぶんしん》になった……ということです」
そう言って、テッサは椅子《いす》の背《せ》もたれをきしませた。
「いまの <ミスリル> には、新たなラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》ASを建造《けんぞう》する力はありません。つまり、あの『ヴェノム』や『ベヘモス』のような敵機《てっき》に対抗《たいこう》できるのは、あなたと <アーバレスト> だけなんです。カナメさんの護衛は、情報部が引き継ぎますから。だから……あなたには、<アーバレスト> を使いこなすことに集中して欲《ほ》しいの」
忍耐《にんたい》強く説明《せつめい》してやると、宗介はうつむき、小さなため息をついた。
「選択《せんたく》の余地《よち》はないわけですか」
「ええ……」
テッサは力なく答えた。
「どうかわかってください、サガラさん」
「それはご命令《めいれい》でしょうか?」
辛辣《しんらつ》さのこもったその言葉を聞いて、テッサは金槌《かなづち》で頭を殴《なぐ》られたような気分になった。
わざと言っている。彼はわざとこんなことを言って、わたしを非難《ひなん》している。こちらが精一杯《せいいっぱい》に理解《りかい》を求めているのに、『それは命令か』だなんて。友人としての関係を、きっぱりと拒絶《きょぜつ》しているのも同然《どうぜん》ではないか。
しかも、彼が怒《おこ》っているのは――これがあの子の問題《もんだい》だからだ。
「ええ、そうよ」
知らず知らず、語気《ごき》が強まった。
「あなたが……それで納得《なっとく》してくれるなら、命令でもなんでも出します。だって、そうするのが当然《とうぜん》なんだから。わたしは絶対《ぜったい》、ひいきなんかしません。カナメさんからあなたを取り上げることになっても、必要《ひつよう》な措置《そち》なら、そうします」
「大佐殿《たいさどの》……?」
宗介がわずかに狼狽《ろうばい》を見せた。だがそれでもテッサの言葉は止まらない。
彼女は一気にまくし立てた。
「あなたには分からないんです。上層部で、どういう力学が働いているのか。わたし一人じゃ、どうにもならない。見ての通りの小娘《こむすめ》ですから。でもあなたは組織《そしき》とか政治《せいじ》とか駆《か》け引きとか、そういう話なんて知らないでしょう!? 気楽でいいですよね。そうやってわたしを恨《うら》んでいれば、気が紛《まぎ》れるんだから。だけどわたしはちがう。わたしは彼女の安全だけじゃなくて、クルーの安全も考えなければならないんです!! いいですか? すこし考えてみなさい。『ヴェノム』や『ベヘモス』と戦ったなら、その危険性《きけんせい》は分かっているでしょう!? ラムダ・ドライバ搭載型ASには、M9でさえ歯が立たないのよ!? 今度、あの敵が出てきたら、まただれかが死ぬかもしれません……! わたしの部下が! 今度こそメリッサかもしれない。ウェーバーさんかも。陸戦隊《りくせんたい》すべてが一瞬《いっしゅん》で壊滅《かいめつ》する危険だってあるわ。だけどわたしは、絶対《ぜったい》にそんなことは許容《きょよう》できないんですっ!!」
宗介の姿《すがた》がぼんやりとかすんできた。言葉が堰《せき》を切ったようにあふれ出してくる。声がうわずってきて、抑《おさ》えがきかない。
ああ、情《なさ》けない。自分は泣いているんだ。こんな指揮官《しきかん》、前代未聞《ぜんだいみもん》だ。最悪《さいあく》じゃないか。
いくらそう思っても、はじけた感情《かんじょう》は止められなかった。
「そっ……」
「あなたはなにを見てるの? 彼女のことしか頭にないの? ほんのちょっとでも、わたしの気持ちを考えてくれた?」
「も……申《もう》し訳《わけ》ありませんでした、大佐殿。自分は――」
「やめてください!!」
目を真《ま》っ赤《か》に腫《は》らして、彼女は言った。
「あなたって最低《さいてい》。従順《じゅうじゅん》で優しいふりをしてるけど、本当はひどいエゴイストなのね。しかも自分を偽《いつわ》ってる。どうせなら、はっきりこう言ったらどうですか? 『俺はあの子と一緒《いっしょ》にいたい。邪魔《じゃま》をするな』って!」
いまでは、宗介の方が金槌で殴られたような顔になっていた。ほとんど茫然自失《ぼうぜんじしつ》の体《てい》だ。目を瞬《またた》かせ、首を小刻《こきざ》みに動かし、なにを言ったらいいのかわからないまま、口を閉じたり開いたりしている。
「だって……そうしてくれた方が……ずっと楽です……」
[#挿絵(img/04_171.jpg)入る]
後は言葉にならない。いつの間にか自分が立ち上がっていたことに気付いて、テッサは力をゆるめ、執務|椅子《いす》にぺたんと腰を落とした。
「すみません……大佐殿。猛省《もうせい》しております。自分は……その……状況《じょうきょう》が……なにがなにやら……認識《にんしき》の甘さというか……その……」
宗介が全身を強《こわ》ばらせ、一語一語を絞《しぼ》り出すようにしていると、卓上《たくじょう》のインタフォンがふたたび鳴《な》った。
彼女は袖口《そでぐち》で涙《なみだ》を拭《ぬぐ》いながら、のろのろと受話器を手に取る。
「なんです……?」
『大佐殿。クルーゾー中尉《ちゅうい》がお見えです』
秘書官《ひしょかん》のヴィラン少尉が告げた。
「すこし……待ってもらってください。すぐ呼びますから」
『はい』
受話器を置いてから、テッサはポケット・ティッシュを取り出して、ちーん、と鼻をかんだ。ぐすぐすしながら、もう一度袖口で目を拭《ふ》いて、恨《うら》みがましくつぶやく。
「サガラさんなんか、大嫌い……」
「……すみません」
「そうやって、すぐに謝《あやま》るところも嫌いです……」
「……恐縮です」
「もう話すことはありません。解散《かいさん》です」
「……はい」
すごすごと、宗介は執務室を出ていった。
扉《とびら》が閉《し》まると、またしてもひどい自己嫌悪《じこけんお》が、彼女を責《せ》めさいなんだ。
部下に噛《か》みつかれたくらいで、逆《ぎゃく》ギレして泣きわめくなんて。みっともないなんて話ではない。最悪だ。こんな醜態《しゅうたい》を演《えん》じたのは初めてだった。ほかに目撃者《もくげきしゃ》がいなかったのは、幸運だったとしかいいようがない。
いずれにせよ、あれだけ遠慮《えんりょ》なく、ずけずけとひどいことを言ってしまったのだ。もう完璧《かんぺき》に嫌《きら》われてしまったかもしれない。
テッサが落ち着きを取り戻《もど》し、居住《いす》まいを正すまで、三分を要《よう》した。鏡《かがみ》を覗《のぞ》いて身なりをチェックしてから、秘書官に来訪者《らいほうしゃ》を通すよう伝える。
先ほど宗介が出ていった扉《とびら》から、長身の黒人男性が入ってきて敬礼《けいれい》した。
「ベルファンガン・クルーゾー、参《まい》りました」
「西太平洋|戦隊《せんたい》へようこそ、中尉。わたしが戦隊長のテレサ・テスタロッサです」
さっきまでのいざこざはおくびにも出さず、テッサは返礼《へんれい》した。
「大佐殿のご武名《ぶめい》はかねがね。お目にかかり恐悦至極《きょうえつしごく》に存《ぞん》じます」
「こちらこそ。……もう新しい職場《しょくば》は見ましたか?」
「いえ。ところで……さきほどの軍曹が、サガラ・ソウスケでしょうか?」
隣室《りんしつ》で待っているときに、鉢合《はちあ》わせしたのだろう。男が確認《かくにん》をとるようにたずねた。
「……ええ。紹介《しょうかい》しておけば良かったですね」
「それには及《およ》びません。彼ら[#「彼ら」に傍点]には、すでに会っておりますので」
男はにこりともせず言った。
「……で? つまり、今度はテッサを泣《な》かせちまったわけ?」
基地で唯一《ゆいいつ》の居酒屋《いざかや》の、カウンター席の隅《すみ》っこで、クルツが目を丸くした。
「その……肯定《こうてい》だ」
となりの席《せき》で宗介《そうすけ》が言った。肩《かた》を落とし、頭をうなだれ、卓上《たくじょう》のグレープフルーツ・ジュースのグラスをぼんやりと見つめる。
「おまえって……実はジゴロの才能《さいのう》とかあるんじゃねーのか?」
「ジゴロとはなんだ?」
「気にするな。それにしても……うーむ。いやはや。なんとも」
なにやら腕組《うでぐ》みして感慨《かんがい》にひたるクルツを、宗介は横目でちらりと見た。
「なにやら楽しげだな……」
前にかなめを泣《な》かせた時は、いきなりぶん殴《なぐ》ってきたくせに。この相棒《あいぼう》の行動原理《こうどうげんり》が、宗介にはたまにわからなくなる。
「別に。悪いとは思ってるんだろ?」
「それは……そうだが」
「じゃあ、あんまり深刻《しんこく》に考えねえことだな。テッサも悪い子じゃないんだ。そのうち許《ゆる》してくれるさ」
気軽《きがる》に言うと、クルツはスコッチのグラスをくいっとあおった。
店内は訓練《くんれん》の終わったPRT(初期対応班《しょきたいおうはん》)や、仕事を終えた整備《せいび》チームの兵士たちでにぎわっている。他愛《たあい》のない自慢話《じまんばなし》や、休日にグァム島でひっかけた女の笑い話。粗野《そや》な笑い声と、様々《さまざま》な母国語が飛び交い、もうもうと煙草《たばこ》の煙《けむり》が立ちこめる。
「大佐《たいさ》にはかなわない」
すこしたってから、宗介は言った。
「俺は彼女の重責《じゅうせき》を、なにもわかっていなかったようだ。その彼女が、あんな風に……よほど俺の態度《たいど》に腹《はら》が立ったのだろう」
「それだけで泣くとも思えねえけどな」
クルツが皮肉《ひにく》っぽい調子《ちょうし》で、唇《くちびる》の片方をつり上げた。
「? どういう意味だ?」
「いんや。なんとなく癪《しゃく》だから、教えてやらね」
「…………?」
「本当にわかんねえのか。まったく……そりゃあ、彼女も怒るわな」
あきれ声で言われて、宗介はさらに肩《かた》を落とした。
「やはり……俺が馬鹿《ばか》だったようだな。大佐の主張《しゅちょう》は正しい。確《たし》かに俺が……無理《むり》にカナメを護衛《ごえい》する理由《りゆう》はない。適材適所《てきざいてきしょ》を考えれば、これまでの措置は……やはりおかしかったのだろう」
宗介の独白《どくはく》を聞いて、クルツはしばらく顔をしかめていたが、やがて肩をすくめて、独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「だめだ、こりゃ」
「? だから、どういう意味なんだ?」
「別に。もういいよ」
そうとだけ言って、クルツは話題を宗介の方に合わせた。
「まあ、いくらSRTだからって、試作型《しさくがた》ASのテストと女の子の護衛、同時にやらせるのは無茶《むちゃ》な話だもんな……」
「その通りだ。しかし……」
「しかし?」
クルツが続きを促《うなが》す。だが宗介はグラスをぐっと握《にぎ》って、
「いや。なんでもない」
と、強《し》いてつぶやき、口をつぐんだ。
ここでクルツに話しても仕方《しかた》がないことだ。自分の直面《ちょくめん》したジレンマ。命令《めいれい》。義務《ぎむ》。彼女とのこと。見通《みとお》しの悪さ。そうしたあれこれ。そんなことを話しても、なんの解決《かいけつ》にもならない。
だが本当は、この同僚《どうりょう》に向かって一切合財《いっさいがっさい》ぶちまけたかった。
かなめは自分を信用していた。情報部の連中《れんちゅう》ではなく、この自分を頼《たよ》っていた。だというのに、こんな形で、あっさりとその信頼《しんらい》を裏切《うらぎ》ることになるなんて。<アーバレスト> が必要《ひつよう》なのは分かる。大佐《たいさ》の言うとおり、『ヴェノム』や『ベヘモス』に対抗《たいこう》できるのは、自分とあの機体《きたい》だけなのだ。かなめの護衛は、情報部《じょうほうぶ》の専門家《せんもんか》に任《まか》せておけばいい。だが、しかし、それでは。
納得できないのだ。道理《どうり》だけでは。合理性《ごうりせい》だけでは。
この単純《たんじゅん》な方程式《ほうていしき》は、何度解いても同じ解《かい》しか出てこない。その解答は、戦術的《せんじゅつてき》に正しい。だがその正解に、なぜ自分はこうも苛立《いらだ》つのか……?
「なんだよ。愚痴《ぐち》なら聞くぜ。言ってみろよ」
「いや……いいんだ」
「…………。おまえってホント不器用《ぶきよう》だな。まあ、俺はそういうところが――」
そこまで言って、今度はクルツが口をつぐんだ。
「なんだ?」
「なんでもねーよ」
投《な》げやりに笑ってから、彼はスコッチを飲《の》み干《ほ》した。
「……で。カナメにはなんて言って別れてきたんだよ?」
「ん……ああ」
「やっぱり泣かせた? まあ、笑って別れてきたとは思えねえけど」
「それは……話したくない」
本当は、彼はかなめになにも話していなかった。一言も――なんの別れも告《つ》げていない。散髪《さんぱつ》のときの、あんなやり取りがあった直後《ちょくご》で、どんな釈明《しゃくめい》ができるだろうか? 彼女に顔を合わせる勇気《ゆうき》など、彼にはとうていなかった。退学届《たいがくとど》けは送っておいたが、部屋《へや》の荷物《にもつ》のほとんどは、市内の別の場所に移《うつ》しただけである。
踏《ふ》ん切《ぎ》りが付かず、すべてほったらかしのまま。
自分はこれから、どうしたらいいのだろうか?
かつての戦場では、こんなことに悩《なや》まないで済《す》んだのだが。
「あ、そう……」
意外にあっさりと、クルツは引き下がった。居酒屋のマスターに『もう一杯《いっぱい》』と告げて、他愛《たあい》のない悪口を交わし、覇気《はき》のない笑い声をあげる。
そのとき、やかましい店内のトーンが、一段《いちだん》ばかり低くなった。
荒《あら》っぽい罵声《ばせい》や、食器のぶつかり合う音、歌声や嬌声《きょうせい》が途絶《とだ》えて、かすかな警戒《けいかい》の空気がその場をよぎったのだ。西部|劇《げき》によくあるような、場末《ばすえ》のバーでの敵意《てきい》とは違《ちが》う。だいいちここは、そこまでひどいごろつきのたむろする酒場ではない。もっとさりげない、小さな異変《いへん》に対《たい》する反応《はんのう》だ。
理由はすぐにわかった。将校《しょうこう》が――見慣《みな》れない将校が、店に入ってきたからだ。
その将校は、野戦服姿《やせんふくすがた》の黒人だった。
肩に『FLT』と刺繍《ししゅう》されたワッペン。中尉《ちゅうい》だ。肩回りのがっしりとした、逆《ぎゃく》三角形の体つきと、まっすぐで長い足。遠目《とおめ》に見てもかなりの長身《ちょうしん》で、身長一八〇センチのクルツよりも、一〇センチは高そうだった。
「見ねえ顔だな。どこの中尉どのだ?」
クルツがつぶやく。宗介はあの男を、どこかで見たような気がした。あれは、テスタロッサ大佐《たいさ》の執務室《しつむしつ》の外にいた男だったか……?
男は店内を横切ってくると、宗介たちの背中を押しのけるようにして、カウンター席のいちばん奥、クルツのとなりの椅子《いす》に腰《こし》かけた。
「水を」
卓上《たくじょう》に五ドル札を一枚置いて注文《ちゅうもん》する。酒場《さかば》のマスターは露骨《ろこつ》に不愉快《ふゆかい》そうな顔をした。
「ばかもん。ここは飲み屋だ。酒を注文《ちゅうもん》せい、酒を」
「酒はアラーの教えに背《そむ》く。水を」
「だったら飲み屋なんぞ来るな、ばかもんが」
そう言いながらも、初老《しょろう》のマスターは手元のタンブラーにボルヴィックを注《つ》ぐと、どん、とカウンターに突《つ》き出した。男はグラスを受け取りながら、無遠慮《ぶえんりょ》な視線《しせん》を宗介たちに向けた。それからすぐに関心《かんしん》をなくしたように、正面《しょうめん》を向いて水を飲《の》んだ。
どことなく、哲学的《てつがくてき》な匂《にお》いの漂《ただよ》う人物だった。ブラウンの肌《はだ》。知的《ちてき》だが隙《すき》のない目つき。唇《くちびる》は薄《うす》く、きゅっと引き締まっている。もしかしたら、白人かアラブ系《けい》の血が混じっているのかもしれない。
「あー……。すんません、中尉」
クルツが言った。
「あんたが誰だか知らねえし、しみったれたこと、本当は言いたくないんだけど。別の席に移《うつ》ってくれませんかね?」
「なぜだね」
「このカウンターの、隅《すみ》っこから三席分は、俺らSRTのささやかな指定席《していせき》なんですよ。それでもって、あんたはその指定席のいちばん奥《おく》に座《すわ》ってるわけ」
「それは隊《たい》の規定《きてい》かな?」
男はクルツではなく、むしろマスターに向かって問いかけた。マスターは顔をしかめて、かぶりを振《ふ》った。
「こいつらが勝手《かって》に決めとるだけよ。もっとも、向こうのテーブル席も、カウンターの反対側《はんたいがわ》も、全部ほかの部署《ぶしょ》の連中《れんちゅう》が同じように領有権《りょうゆうけん》を主張《しゅちょう》しとるがな。そうやって、ここに来るもんは適当《てきとう》に居場所《いばしょ》を割《わ》りふっとるわけだ」
「慣習《かんしゅう》ということか」
「そういう言い方もある。だが若いの。おまえさんの座っとるその席は、なるほど、指定席《していせき》と呼《よ》んでもいいかもしれん」
「意味《いみ》がわからんな」
「そこは死んだ上官《じょうかん》がよく座ってた席でね」
クルツが言った。
「悪いんだが、見ず知らずのあんたにケツをのっけて欲しくないんだ」
「なるほど」
男は目を伏《ふ》せうなずいた。
「亡《な》くなった上官のコールサインと名前は?」
「ウルズ1。ゲイル・マッカラン大尉《たいい》」
「なら、席を移る必要《ひつよう》はないな。その男は腰抜《こしぬ》けだった」
そう言って、男は冷《ひ》ややかな笑《え》みを浮《う》かべた。
「なんだって……?」
クルツが身を乗り出す。それまでのやり取りを横で静観《せいかん》していた宗介は、ショットグラスを握《にぎ》った相棒《あいぼう》の手に、ぎゅっと力がこもるのを見逃《みのが》さなかった。
「腰抜け? あんたいま、腰抜けって言ったか?」
「そうだ。無能《むのう》な小男だった」
「わお。はっは……キョーレツだな。おい、聞いたかよソースケ? 無能な小男だってよ。でもまあ、確《たし》かにあのオヤジときたら――」
軽口《かるくち》を叩いていたクルツがいきなり、男の顔面《がんめん》に酒をひっかけ、同時に右の拳《こぶし》をたたき込んだ。宗介でさえ、止める間もないほどの早業《はやわざ》だ。だがその拳は、男の右|頬《ほほ》にめり込まなかった。文字通り紙|一重《ひとえ》の差で、男がその一撃《いちげき》をかわしたのだ。
「…………」
男が身体《からだ》をぴたりと密着《みっちゃく》させ、クルツのあごをぐっと押《お》した。
たったそれだけの動作《どうさ》にしか見えなかったが――次の瞬間《しゅんかん》、クルツの身体は派手《はで》に後ろへ吹《ふ》き飛ばされていた。彼は宗介を巻き込むようにして、数メートルほど背後《はいご》にあったテーブル席に背中《せなか》からぶつかった。
食器とガラスが床《ゆか》に落ち、けたたましい音をたてて割《わ》れる。マスターが顔をしかめて首を振《ふ》り、店内の兵士たちがさっとその場に目を向けた。
「お粗末《そまつ》な忍耐力《にんたいりょく》だな、軍曹」
顔にかかった酒を紙ナプキンで拭《ぬぐ》い、中尉が言った。
「狙撃兵出身《そげきへいしゅっしん》だと聞いていたが。これはなにかの冗談《じょうだん》か?」
「クソ野郎《やろう》……。気合《きあ》いが入ったぜ」
ひっくり返ったテーブルに手をかけ、クルツが立ち上がろうとした。ところが、腰《こし》を半分ばかり上げたところで、
「……!?」
クルツの膝《ひざ》が、がくりと折《お》れる。まるで見えない手に、後頭部《こうとうぶ》を殴《なぐ》りつけられたかのようだ。彼はその場に尻餅《しりもち》をついて、そのまま仰向《あおむ》けに|倒《たお》れ、『くそっ』とつぶやいたきり動かなくなった。
「クルツ……!」
「放《ほう》っておけ。軽い脳震盪《のうしんとう》だ」
介抱《かいほう》しようと駆《か》け寄《よ》った宗介に、中尉が背後《はいご》から声をかけた。
「あの一撃を食らって立ち上がったのには驚きだがな。酔って将校に殴りかかるような愚か者には、いい薬だろう。その軍曹といい、死んだ大尉といい、ここのSRTは間抜《まぬ》けぞろいのようだな。まったく、失望《しつぼう》したよ」
軽蔑《けいべつ》を隠《かく》そうともしない男に、宗介は刺すような視線《しせん》を向けた。
[#挿絵(img/04_185.jpg)入る]
「なんだ、その目は?」
「あなたが何者かは知らない。この同僚《どうりょう》の無礼《ぶれい》は謝罪《しゃざい》する。だが、マッカラン大尉への侮蔑《ぶべつ》は撤回《てっかい》してもらいたい」
日頃《ひごろ》はたいていの罵倒《ばとう》にも無反応《むはんのう》な彼だったが、さすがに黙《だま》っていられなかった。
「面白《おもしろ》い冗談だな、軍曹。私に命令するのか」
「…………」
「私がいやだと言ったらどうする。上官に殴りかかるのか? できんだろうな。見たところ、君は真面目《まじめ》な男だ。いや、ただの臆病者《おくびょうもの》かもしれんが」
内心の葛藤《かっとう》を見透《みす》かされたような気がして、宗介は舌打《したう》ちした。
この男を殴《なぐ》ったら営倉《えいそう》行きだ。だが、それ自体《じたい》は取るに足らないことだった。クルツだって、そのつもりだったのだろう。
宗介がこの期《ご》に及《およ》んで躊躇《ちゅうちょ》するのは、懲罰《ちょうばつ》のせいではなかった。もっと根元的《こんげんてき》な『規律《きりつ》を破《やぶ》る』という行為《こうい》そのものに、強い抵抗《ていこう》を感じるのだ。
上官を殴る。命令に背《そむ》く。そうした行為を一つする度《たび》に、自分を取り巻く世界の秩序《ちつじょ》が、ばらばらと崩《くず》れていく――そんな危機感《ききかん》が、彼の心に歯止《はど》めをかける。いつもだ。
ここまでされているのに。なぜ俺は動けない……?
そう自問《じもん》していると、中尉が言った。
「命令がなければ、なにもできんと見えるな。だったら、軍曹。軽いゲームにでも誘《さそ》ってやろうか?」
「ゲーム……?」
「マッカラン大尉とやらの名誉《めいよ》を守りたいのだろう? 私もちょうど退屈《たいくつ》していたところだ。付いてこい」
一〇〇ドル札《さつ》をカウンターに置《お》いてから、中尉は歩き出した。
「どこへ――」
「ASの格納庫《かくのうこ》だよ。操縦資格《そうじゅうしかく》は持ってるんだろう?」
まんまと挑発《ちょうはつ》に乗ってしまったな……と宗介は思った。
彼はいま、ARX―7 <アーバレスト> のコックピットに収《おさ》まり、メリダ島の地上へと上昇《じょうしょう》するエレベーターに乗っていた。
錆《さび》の浮《う》いた鉄骨《てっこつ》がむき出しになった、質素《しっそ》で巨大なエレベーターだ。
この基地《きち》の施設《しせつ》の大半は、地下に建設《けんせつ》されている。居住区《きょじゅうく》、各種通信施設《かくしゅつうしんしせつ》、武器弾薬庫《ぶきだんやくこ》、そして <トゥアハー・デ・ダナン> の整備《せいび》ドックなどなど……ほとんどすべてだ。地上の大部分は、いまだ手つかずの密林地帯《みつりんちたい》となっており、滑走路《かっそうろ》や通信アンテナなども巧妙《こうみょう》な擬装《ぎそう》で隠《かく》されている。島の面積《めんせき》は東京都のJR山手線の内側ほどもあり――日頃《ひごろ》は陸戦隊《りくせんたい》の演習場《えんしゅうじょう》として存分《ぞんぶん》に活用《かつよう》されていた。
彼の <アーバレスト> は、また白色に戻《もど》されている。八月末の、艦内《かんない》でのあの戦闘《せんとう》が終わったときには、ダーク・グレーの塗料《とりょう》がすっかりはげ落ちていたのだ。それを見た技術《ぎじゅつ》士官《しかん》は、『ラムダ・ドライバが駆動《くどう》した証拠ね』と言っていた。あの得体《えたい》の知れない力場《りきば》と、なにか関係があるらしく、普通《ふつう》の塗料は <アーバレスト> の装甲《そうこう》に定着《ていちゃく》しないのだという。
機体《きたい》をチェックする。M9とほとんど同じ手順《てじゅん》だ。
ジェネレーター――正常《せいじょう》。
制御系《せいぎょけい》――正常。
電子兵装《ヴェトロニクス》――正常。
センサー、駆動系《くどうけい》、衝撃吸収系《しょうげききゅうしゅうけい》、冷却系《れいきゃくけい》、火器管制装置《FCS》、各種警告《かくしゅけいこく》システム――すべて正常。
武器《ぶき》は左|脇《わき》の下、兵装《へいそう》ラックに格納《かくのう》された訓練用《くんれんよう》ナイフのみ。
エレベーターが地上に達《たっ》した。
[#挿絵(img/04_189.jpg)入る]
密林《みつりん》と同じ葉やツタで覆《おお》われた、高さ一二メートルの|鳥かご《ケージ》の中から、湿《しめ》った大地に機体《きたい》を進ませる。ずしゅん、ずしゅんと足音が響き、泥《どろ》が派手《はで》に跳《は》ね上がった。
真っ赤な空。亜熱帯《あねったい》の黄昏《たそがれ》。
全高八メートルの巨人が出現《しゅつげん》したことに驚《おどろ》き、付近《ふきん》の野鳥《やちょう》たちが一斉《いっせい》に空へと飛び立つ。
スティックの音声命令スイッチを押《お》し込み、宗介は言った。
「アル」
<<イエス、サージュント?>>
機体《きたい》のAI、<アル> が即答する。
「周辺《しゅうへん》の気温《きおん》と湿度《しつど》が知りたい」
<<気温、摂氏《せっし》二六度。湿度、八三%>>
「マッスル・パッケージの平均《へいきん》EOF値《ち》は?」
<<チェック。……九九。最高|水準《すいじゅん》です>>
無感動《むかんどう》な、低い男の声。この音声|認識《にんしき》システムの声は、自由に変更《へんこう》することができるが、宗介は初期設定《しょきせってい》のままで使っていた。ちなみにクルツは自機《じき》のAIに、わざわざサンプリングしてきた日本のアイドル歌手の声をあてている。
(クルツ……)
居酒屋《いざかや》のマスターに任せたまま、彼を置いて出てきてしまったが。本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか? あの中尉が彼に食らわせた技《わざ》は、掌底《しょうてい》かなにかだ。だが、あれほどさりげない仕草《しぐさ》で、クルツほどの男をノックアウトするのは並大抵《なみたいてい》のことではない。ただの打撃技《だげきわざ》というよりは、もっと深遠《しんえん》で、東洋的なマーシャル・アーツの一種《いっしゅ》だろう。
一度|下降《かこう》していたエレベーターが、ふたたび上昇《じょうしょう》をはじめた。中尉が <アーバレスト> とは別《べつ》の格納庫《かくのうこ》から、M9を持ってきたのだろう。
そう――あの黒人の中尉はAS乗《の》りなのだ。そしてそのASでのケンカを、宗介に持ちかけた。酒場での侮蔑《ぶべつ》を撤回《てっかい》する条件《じょうけん》で。
(機体《きたい》の無断使用《むだんしよう》が恐《こわ》いなら、命令してやってもいいんだぞ?)
そうとまで言われては、宗介もためらいはしなかった。
いいだろう。あんたが何者で、何が狙《ねら》いかは知らないが、目にもの見せてくれる。俺をそこいらのルーキーと同じだと考えているなら、大変な間違《まちが》いだ。俺は一〇|歳《さい》のときからASに乗っている。アフガニスタンのゲリラ時代、ソ連軍から略奪《りゃくだつ》したRk[#「Rk」は縦中横]―89[#「89」は縦中横]を、ハミドラーと一緒《いっしょ》に改造《かいぞう》して、子供の手足でも動かせるようにした。そうしたハンデにも拘《かか》わらず、当時《とうじ》の最新鋭機《さいしんえいき》――Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横]を十数|機《き》となく撃破《げきは》したのだ。
あれから七年。自分は数々の実戦《じっせん》を戦い抜き、ありとあらゆる機体《きたい》に乗ってきた。このASという兵器《へいき》は、自分の第二の身体《からだ》も同然《どうぜん》になっている。
(後悔《こうかい》させてやる……)
宗介は胸の内でつぶやいた。
なにしろ、こちらは最近、あれこれあってむしゃくしゃしているのだ。
待つことしばし。エレベーターが昇《のぼ》りきった。
『待たせたな』
外部スピーカーから中尉の声。ケージから踏《ふ》み出し、夕闇《ゆうやみ》の中に姿《すがた》を現《あらわ》したASを見て、宗介は目を丸くした。
その機体は、漆黒《しっこく》のM9だった。
大腿部《だいたいぶ》と上腕部《じょうわんぶ》の増加装甲《ぞうかそうこう》。頭部に光る二つ目のセンサー。口の『巻物《まきもの》』が付いていないことを除《のぞ》けば、<アーバレスト> にそっくりだ。
黒いM9。
まちがいない。シチリアでの作戦中に出会った、あの機体だ。
『自己紹介《じこしょうかい》がまだだったな。地中海戦隊 <パルホーロン> から転任《てんにん》してきた、ベルファンガン・クルーゾー中尉だ。本日付けで、<トゥアハー・デ・ダナン> のSRTに配属《はいぞく》された。ちなみにコール・サインはウルズ1≠セ』
ウルズ1。あの事件《じけん》から空席《くうせき》のままだった、マッカラン大尉の後任《こうにん》ということだ。
「サガラ・ソウスケ軍曹。カリーニン少佐《しょうさ》の話だと、君はAS同士の格闘戦《グラップリング》で右に出る者はいないそうだな。お手並《てな》み拝見《はいけん》といこうか?」
黒いM9が左脇の兵装《へいそう》ラックを解放《かいほう》し、訓練用《くんれんよう》のナイフを引き抜《ぬ》いた。
[#地付き]一〇月二〇日 一八四三時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]東京都 調布市《ちょうふし》 泉川商店街《せんがわしょうてんがい》
けっきょくその日、宗介《そうすけ》は学校に来なかった。
試験《しけん》のときもそうだったが、彼がいないと、学校はずいぶんと静《しず》かになった気がする。実際《じっさい》のところは、宗介は四六時中、銃器《じゅうき》を振《ふ》り回して暴《あば》れているわけではない。一日に一度か、二日に一度、予想《よそう》もしなかったような理由《りゆう》で非常識《ひじょうしき》な真似《まね》をしでかして、周囲《しゅうい》を当惑《とうわく》させるくらいの話なのだ。
しかし、それでも、彼のいない学校は静《しず》かだった。
ほかの生徒《せいと》はともかく、かなめはそう思う。普通《ふつう》に級友《きゅうゆう》たちと世間話《せけんばなし》をして、騒《さわ》いで、げらげらと笑っても、なにかしっくりこない物足《ものた》りなさを感じるのだ。
「あたしにも、あいつの病気が感染《かんせん》したのかもね……」
すっかり日が暮れた学校からの帰り道、かなめがそうつぶやくと、恭子《きょうこ》がけらけらと笑った。
「なによ?」
「だって。そーいう風《ふう》に言うと、なんか変な病気みたいなんだもん」
「はあ?」
その意味《いみ》が本当にわからずに、かなめはきょとんとした。
「わかんなきゃ、いいんだけど。……でもカナちゃんって、考えてみると不思議《ふしぎ》なタイプだよね」
「そう?」
「そうだよ。なんていうのかな……大人《おとな》っぽいんだか、子供《こども》っぽいんだか分からないっていうのか。ぱっと見は女子大生みたいなのに、なんか、小学生みたいなノリもあるし」
「ふーむ……」
仲良しの彼女にそう言われると、かなめもついつい考え込んでしまう。だが、そんなことを言う恭子の方こそ、自分とは対照的《たいしょうてき》に変わっているような気がした。見た目は小学生みたいなのに、たまに大学生みたいに大人びたことを言うのだ。
もっとも、そういう彼女だからこそ、かなめは恭子のことが気に入っているのだが。
常盤《ときわ》恭子。かなめに比べてずっと小柄《こがら》。趣味《しゅみ》もそれほど合っているわけではない。性格《せいかく》は、かなめは強気《つよき》で彼女は控《ひか》えめ。運動神経《うんどうしんけい》バツグンのかなめと、それほどでもない彼女。並《なら》んで歩いているだけで、二人は対照的なのである。
しかし、かなめは恭子を見ていて、よく『こいつには、かなわないなぁ……』と思うことがあった。きのうの進路《しんろ》の話題もそうだし、ほかのことでもそう感じる。たまに、『なんでキョーコは、あたしみたいなバカにニコニコしながら付き合ってくれてるんだろう?』と思うこともあるくらいだ。
テッサから、宗介とは異なる『情報部の護衛《ごえい》』の話を聞いて以来《いらい》、かなめは何度《なんど》か『まさか、キョーコが?』と思ったこともあった。だが、どう考えてもそんなことはありえない。かなめは彼女の家に遊びにいったことが何度もあるし、彼女の母親や兄弟とも、何度か顔を合わせている。
「カナちゃん?」
「ん……?」
「あー。また相良《さがら》くんのこと考えてるんじゃない?」
「……ンなわけないでしょ。もー、いい加減《かげん》にしてよ」
かなめが笑ったそのときに、きらりと、視界《しかい》の片隅《かたすみ》でなにかが光った。
「?」
二人が歩いていたのは、泉川駅前の商店街だった。車一台が通るのがようやく……といったくらいの道路《どうろ》である。人通りも多く、そばの八百屋《やおや》のかけ声が、あたりにやかましくこだましている。その商店街の、行く手に建《た》った文房具屋《ぶんぼうぐや》のビルの屋上《おくじょう》から、鋭《するど》い光が視界《しかい》をよぎったのだ。
あれは……レンズの反射《はんしゃ》だろうか?
夕刻《ゆうこく》なので、その屋上《おくじょう》は暗かった。距離も遠い。
だが――かなめは見た。うすぼんやりと、夕闇《ゆうやみ》に溶《と》け込んだその屋上で、黒い人影《ひとかげ》がさっと動くのを。
たぶん、一人。顔がちらりと見えた。一瞬《いっしゅん》だけ、視線が出会った気さえした。
痩《や》せた体つきで、短髪《たんぱつ》の男だ。糸のように細い目。無機質《むきしつ》な顔立ち。夏休みにあの艦内《かんない》で出会った、ナイフ使いのあの男に雰囲気《ふんいき》が似ていた。
かなめには、その男が笑っているように思えた。
男の姿《すがた》が見えなくなる。
立ち止まり、じっとその場所を凝視《ぎょうし》したが、なにかの動きはそれきりだった。
「どしたの、カナちゃん?」
「ん……? いや、別に」
ビルの屋上を見上げたまま、かなめは答えた。
「なんでもない。行こ」
「…………?」
かなめはふたたび歩き出した。
(なんだろう?)
胸騒《むなさわ》ぎがした。どう表現《ひょうげん》したらいいのか分からないが――なにかが変だ。具体的《ぐたいてき》な身の危険《きけん》だとか、そういうことを感じたのではない。だが、いまのささいな出来事《できごと》に対する、この違和感《いわかん》はなんだろう?
そう。違和感だ。
この半年間、ずっとひそかに脅《おび》えていたなにかが、とうとう来たような違和感。ずっと――ずっと『いつかは来るだろう』と思っていた、言い知れない死神《しにがみ》の足音。
あのビルの屋上の、たったあれだけの白い光で、かなめはそれを思い出した。
六月末の青海埠頭《あおみふとう》。
八月末の潜水艦内《せんすいかんない》。
あそこで感じたあの匂《にお》いが、彼女の脳裏《のうり》によみがえる。
変だ。まずい。このままでは――ひどくまずい。
いいや、そうじゃない。こわいんだ。
「カナちゃん……?」
恭子が呼びかけるのもそっちのけに、かなめは鞄《かばん》からPHSを取り出して、よく使う電話の番号をコールした。
<<サガラソースケ>>
PHSの液晶画面《えきしょうがめん》に、その男の名前が表示《ひょうじ》されていた。
大丈夫《だいじょうぶ》。こないだだって、通じたんだ。キョーコの電話でさえ、通じたんだから。きっと出てくれる。すぐに答えて、あっという間に来てくれる。それで――それで――『問題《もんだい》ない』と、言ってくれる。
(ソースケ……)
どうかしている。なぜ自分は、こんなにうろたえているのだろう? なぜ自分は、呼び出し昔がいつまでも鳴らないことに、苛立《いらだ》っているんだろう?
(ソースケ……!?)
かちっ、となにかが切り替わる音がした。
「もしもし? ソー……」
『おかけになった電話番号は、現在《げんざい》、使われておりません。番号をお確《たし》かめになって、おかけなおしください。おかけになった電話番号は、現在、使われておりません。番号をお確かめになって、おかけなおしください。おかけになった電話番号は――』
その声の、なんと冷たく酷薄《こくはく》なことか――
[#地付き][下巻につづく]
[#改ページ]
あとがきというか、なかがき
お待たせいたしました。とうとう上下二分冊という体裁になってしまいましたが、『終わるデイ・バイ・デイ』の上巻、ここにお届《とど》けいたします。少ないお小遣《こづか》いをやりくりされている学生の方々にとっては、分冊《ぶんさつ》はいたくコストパフォーマンスが悪いかと存《ぞん》じます。さりとて諸般《しょはん》の事情《じじょう》やら、私の実力不足《じつりょくぶそく》やら、やむにやまれぬ理由《りゆう》がございまして――どうかご容赦《ようしゃ》ください。すんません。
この巻は、どちらかというとインターバルっぽいエピソードが集中《しゅうちゅう》しています。ITBの後始末《あとしまつ》やら、<ミスリル> 内部の事情《じじょう》やら、ドタバタ抜《ぬ》きの学校生活やら、普段《ふだん》はやれないドラマが中心ですね。『終わる〜』などといったタイトルですが、実のところはまだ[#「まだ」に傍点]終わりそうにないこのシリーズ。短編とは異なり、長編の宗介《そうすけ》たちは変わっていきます。あれこれと。激変《げきへん》はまだすこし先ですが。
しかし、この上巻だけを読み返してみると――不思議《ふしぎ》とみんな気分《きぶん》がささくれ立ってますね。出てくるキャラ出てくるキャラ、片《かた》っ端《ぱし》から不機嫌《ふきげん》で、イライラしたり逆《ぎゃく》ギレしたりしてるし。いや、別に作者の私が不機嫌なわけではないんですが。
ところで劇中《げきちゅう》に登場するジェローム・ボーダ提督《ていとく》は、実在《じつざい》した(数年前に『かなり不審《ふしん》な自殺《じさつ》』でお亡《な》くなりになりました)軍人さんがモデルになっていますが、ご存《ぞん》じの方は彼をとりあえず別人と考えておいてください。あくまでモデルで、『フルメタ世界で彼が生きていたら』という作者の不謹慎《ふきんしん》な妄想《もうそう》の産物《さんぶつ》です。性格《せいかく》や話し方なども、彼を知る人の話から賀東《がとう》が想像《そうぞう》しただけのものです。
下巻はなるべく急いでお届けしたいと思っていますが、来年の早い時期《じき》くらいになるかと思われます。遅《おそ》い? いやホント、ごめんなさい。なにとぞご辛抱《しんぼう》のうえ、どうにか彼らの旅路《たびじ》におつきあいください。
話が終わっていないこともありますし、今回はこれくらいにさせてもらいます。
力が出し切れない宗介。かなめに迫《せま》るホンモノの魔の手。真打《しんう》ち登場の強敵たち。はたして、二人は再会できるのでしょうか?
短編読んでるみなさんの『だって、罰《ばち》当たりな〜≠ナ……』とかいうツッコミは置いといて、まて次巻。とりあえず忘れて。ね?
謝辞《しゃじ》を捧《ささ》げるのは下巻にしましょう。
ではまた。次回も宗介と地獄《じごく》に付き合ってもらいます。
[#地付き]二〇〇〇年一〇月 賀 東 招 二
底本:「フルメタル・パニック! 終わるデイ・バイ・デイ(上)」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
2000(平成12)年11月15日初版発行
2001(平成13)年10月05日6版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
----------------------------------------
使用したWindows機種依存文字
----------------------------------------
「U」……ローマ数字2、Unicode2161
「」……縦書き用の二重引用符の始め
「=v……縦書き用の二重引用符の終り
縦書き用の二重引用符は多くのフォントで位置が(場合によっては向きも)間違っていて、大抵は二重引用符が中身の単語と離れすぎていて間抜けな印象に見えると思います(MS明朝やDFパブリフォントで確認しました)。これはフォントの問題ですので、フォント製作者によって修正されるのを期待するべきでしょう。
参考:http://www.geocities.jp/hiroki_mighty/hp1-01filespec.html
----------------------------------------
底本の校正ミスと思われる部分
----------------------------------------
底本37頁15行 ハンドバック
ハンドバッグ