フルメタル・パニック!
疾るワン・ナイト・スタンド
賀東招二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)異邦《いほう》の流儀《りゅうぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)すこしの間|沈黙《ちんもく》して
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)僕はあれ[#「僕はあれ」に傍点]を
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[#挿絵(img/02_000.jpg)入る]
[#挿絵(img/02_000a.jpg)入る]
[#挿絵(img/02_000b.jpg)入る]
[#挿絵(img/02_000c.jpg)入る]
目 次
プロローグ
1:異邦《いほう》の流儀《りゅうぎ》
2:ウルズ7にバトンが渡る
3:二兎《にと》を追うもの……
4:破壊《はかい》の導火線《どうかせん》
5:ベヘモス
エピローグ
あとがき
[#改丁]
プロローグ
昼休みの屋上《おくじょう》。そこは教師の目が届《とど》くことのない、ある種の聖域《せいいき》である。梅雨時《つゆどき》の真《ま》っ最中《さいちゅう》ではあるが、今日は快晴《かいせい》だ。
空は青く、強い陽射しが屋上を真っ白に染《そ》め上げている。
その屋上の一角に、二人の男女がいた。
一人はショートカットの女子生徒。屋上のフェンスに背中《せなか》を押《お》しつけ、困った顔でうつむいている。もう一人はロングの男子生徒。自分の身体《からだ》とフェンスとの間に少女を挟《はさ》みこむ格好《かっこう》で、右手のタバコから紫煙《しえん》をくゆらせている。
「――だからさ。なんての? やっぱノリコ、オレのこと嫌《きら》いなんだろ?」
ロンゲの男子生徒が言った。女子生徒――ノリコはすがるように顔をあげ、
「そ……そんなことないよ。あたし、ミキオのこと……好きだもん」
「じゃあ、なんでだよ? オレらさ、付き合い出してもう二か月じゃん。なのにどうしてキスだけなわけ?」
「そ、それは……。だって、やっぱり、その……こわいし」
答えに詰《つ》まる少女。ミキオと呼ばれた彼氏の方は、うんざりとしたような顔で、タバコの煙《けむり》をふーっと吐《は》き出す。
「なあ、中坊《ちゅうぼう》じゃないんだからさ。こう、もっと互《たが》いを知り合うべきだよ」
「ほ、ほかのことでも、分かりあえると思うの」
「それだけじゃ、ヤだよ。俺《おれ》さ、もっとノリコのこと――」
だんっ!!
突然《とつぜん》の銃声《じゅうせい》が二人の会話を遮《さえぎ》った。ミキオとノリコはぎょっとして、音のした方角、屋上から空に向かって張《は》り出した給水塔《きゅうすいとう》の上を見る。
「…………?」
給水塔の縁《ふち》に、うつぶせの姿勢《しせい》でライフルを構《かま》えた男子生徒がいた。むっつり顔にへの字口。銃身《じゅうしん》は校庭の方角を向いている。そばにはいくつかの工具類《こうぐばこ》と弾薬《だんやく》ケース、そして緑色のコーヒー缶《かん》のようなものが置いてあった。
二年四組の相良《さがら》宗介《そうすけ》だ。
海外の紛争地帯《ふんそうちたい》で育った帰国子女《きこくしじょ》であり、平和な国での常識《じょうしき》が完全に欠落《けつらく》している『戦争ボケ』の転校生《てんこうせい》だった。
「む……」
彼は双眼鏡《そうがんきょう》でなにか――今しがた撃った遠くの標的《ひょうてき》を観察《かんさつ》した。身を起こし、クリップボードになにかを書きこむと、新たな弾《たま》を取り出してライフルに装填《そうてん》する。
ふたたび校庭の隅《すみ》めがけて――発砲《はっぽう》。
重たい銃声が響《ひび》く。それから宗介はまた双眼鏡《そうがんきょう》で結果《けっか》を確認《かくにん》し、今度は不満そうに首をひねってから、クリップボードになにかを記入した。
二人の視線《しせん》に気付いたらしく、彼はミキオとノリコをちらりと見て、
「気にせず続けろ」
告げてから、次の弾薬《だんやく》をライフルに装填した。まったく二人には関心《かんしん》がない様子《ようす》だ。
すこしの間|沈黙《ちんもく》してから、二人はぎこちなく会話に戻る。
「……と、とにかくだ。そろそろいいじゃないか。俺《おれ》たち恋人同士だろ?」
「それは……そうだけど。でもぉ……」
どたんっ!!
「……俺だって、ノリコのこと大切にするぜ?」
「うれしいけど、だってミキオ……」
どたんっ!
「……好きな子ともっと絆《きずな》を深めたい、って思うの、自然なことじゃないか」
「あたしだって、そう思うけど……」
「本当? だったら勇気を出そうよ。俺さ、今夜――」
どたんっ!
「……だから今夜、うちの親が――」
どたんっ! どたんっ!
「今夜に――」
どたんっ! どたたたたたんっ!!
「……あー、ちくしょうっ!!」
騒音《そうおん》に耐《た》え切れなくなったミキオは、髪《かみ》をくしゃくしゃと掻《か》いて給水塔の下へと駆《か》け出していった。タバコを一息吸ってから、
「おい、こらっ!!」
給水塔の上の相良宗介を見上げて、彼は叫《さけ》ぶ。
「なんだ」
「うるせーんだよっ! ほか行ってやれ、そういうのはっ!」
宗介は彼を見下ろし、眉《まゆ》をひそめ、しばらく思案《しあん》する素振《そぷ》りを見せた。
「そうもいかん。試射《ししゃ》には、これくらいの距離《きょり》が必要なのだ」
「なにが必要だって? 言ってみろ、こら!」
「この屋上から校庭の隅《すみ》まで、おおよそ三〇〇ヤード。新しく購入《こうにゅう》したライフルの精度《せいど》を、各種《かくしゅ》カートリッジで確認《かくにん》しているところだ。妙《みょう》な銃でな。どういうわけだかエジプト製の弾と相性《あいしょう》がいい。いちおう、自分で火薬を配合《はいごう》した弾の具合《ぐあい》も試《ため》そうと――」
ミキオにはまるで理解《りかい》できない説明を、宗介が懇切丁寧《こんせつていねい》にしていると、
「ソースケっ!!」
給水塔の下の扉《とびら》が『ばあんっ!』と開き二人の少女が飛び出して来た。
「千鳥《ちどり》」
ロングの黒髪《くろかみ》に赤のリボン。白と青の制服姿《せいふくすがた》。この学校の生徒会副会長、千鳥かなめだった。彼女は宗介をきっとにらみ上げて、
「やっぱあんたね!? さっきからバンバンバンバンって、やかましいのよっ! テスト前でみんな勉強してるんだからっ!」
「最近、雨続きだったからな。晴れてるうちに試射をしたいのだ。あと一〇発でAグループの弾薬が終わる。それくらいなら――」
「全っ然、よくない! いますぐやめなさいっ!」
「しかし――」
「やめろって言ったのよ、このっ!!」
かなめは自分のうわばきを脱《ぬ》ぐと、それを頭上の宗介めがけて投《な》げつけた。
「む……」
うわばきは、身を反らした宗介の肩《かた》に命中してから、彼の足下にあった緑色の缶《かん》にぶつかった。衝撃《しょうげき》でふたの外れた缶が給水塔から落ち、空中に黒い粉末《ふんまつ》がぶちまけられる。そのすぐ下に、くわえタバコのミキオが立っていた。
きっちりと、火のついたタバコだ。そして落下《らっか》した缶のラベルには、『黒色火薬』の四文字があった。
「あ……」
ぼふっ!!
タバコを落として背《せ》を向けたミキオの背後《はいご》で、鈍《にぶ》い爆発《ばくはつ》が起きた。脹《ふく》れ上がる炎《ほのお》と硝煙《しょうえん》。ミキオは前のめりに吹《ふ》き飛ばされる。
「どう……うわあぁあぁぁっ!!」
彼は絶叫《ぜっきょう》して、屋上をでたらめに走り回った。背中が燃えている。まるでカチカチ山だ。
「た、助け……ひあぁあっ!! おがあざぁ〜〜〜んっ!」
「ミキオぉっ!」
女子生徒が悲鳴《ひめい》をあげる。その場に倒《たお》れ、ごろごろと転がるミキオの元に、消火器《しょうかき》を抱《かか》えたかなめが駆《か》け寄った。
「どいて!」
レバーを引き、噴射《ふんしゃ》。真っ白な粉末を吹き付けられ、ミキオの背中はたちまち鎮火《ちんか》する。白い煙《けむり》が晴れると、彼は床《ゆか》に這《は》いつくばったまま、手足をぴくぴくと痙攣《けいれん》させていた。
「ふう。ごほっ……」
かなめは額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐう。道具《どうぐ》をまとめてバックパックに押し込んだ宗介が、ひらりと屋上に降《お》りてきて、倒れたままのミキオに歩《あゆ》み寄《よ》った。
「迅速《じんそく》な処置《しょち》だな。軽度《けいど》の火傷《やけど》で済《す》んだぞ」
「いつものことではあるし、あたしにも彼にも責任《せきにん》があるのは事実だけど……」
かなめは静かに前置きしてから、空になった消火器を宗介の後頭部《こうとうぶ》に振《ふ》り下ろした。
ごんっ!
「……かなり痛いぞ」
「うるさいっ! 校内に爆発物《ばくはつぶつ》を持ち込むな!」
「校則では禁じられていないが」
「もー一発食らいたいの……?」
消火器を振りかぶるかなめと、じりじり後《あと》じさる宗介。一触即発《いっしょくそくはつ》といった状態《じょうたい》で、二人がキングコプラとマングースのように向かい合っていると――
ぴりり、ぴりり、ぴりり……。
宗介の胸から電子音が響《ひび》いた。彼は片手を差し上げて『しばし待て』とサインを送り、胸ポケットから小型の携帯電話《けいたいでんわ》を取り出した。
「ウルズ7だ。……わかった。……一三二五時、RVはポイント|E《エコー》。了解《りょうかい》した。すぐ向かう」
彼はぼそぼそと応答《おうとう》すると、荷物《にもつ》を背負《せお》って屋上の出入り口にすたこらと走り出した。
「ちょっと、どこ行く気よ?」
「急用《きゅうよう》ができた。君はあまり遠くには出かけるな」
「待ちなさいよ、あんた――」
かなめの言葉を聞こうともせず、宗介は扉《とびら》の向こうに消えてしまった。
「もう、ソースケっ!? それより今夜の約束《やくそく》、覚えてるのっ?……ったく!」
かなめは閉じた扉をしばらく眺《なが》めてから、腰《こし》に手を当てため息をもらした。それから、いまだに倒れたままの男子生徒と、半べそをかいたその彼女に向き直って、
「えーと。……保健室まで付き添《そ》う?」
申《もう》し訳《わけ》程度《ていど》に聞いてみた。
[#改ページ]
1:異邦《いほう》の流儀《りゅうぎ》
[#地付き]六月二四日 一四〇一時(日本|標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]千葉県 成田《なりた》市 新東京|国際空港《こくさいくうこう》
(ここはどこだ……?)
入国者の列に混《ま》じって歩き、キャスター付きのスーツケースをごろごろと引《ひ》っ張《ぱ》りながら、彼はふと疑問《ぎもん》に思った。
通路が、人が、窓の光がぐらりと採れる。
ここは――空港の税関《ぜいかん》だ。そうだった。僕は一年半ぶりにこの国に戻《もど》ってきたんだ。長い訓練《くんれん》と調整《ちょうせい》を受けて。あることをやりに来た。
(あること? なんだったろう……?)
次の疑問が浮かび上がる。
ああ――そうだった。僕はあれ[#「僕はあれ」に傍点]を操《あやつ》りに来たんだ。だれにも扱《あつか》えない、悪魔《あくま》のような機体《きたい》。一度動いたら絶対《ぜったい》に止められない。その力で、僕は破壊《はかい》と恐怖《きょうふ》を振《ふ》りまくんだ。たくさん殺す。たくさん壊《こわ》す。そう、僕は大嫌《だいきら》いなあの街《まち》を……。僕は……。
(だけど、僕ってだれのことだ……?)
いらいら[#「いらいら」に傍点]がつのる。ひどい嫌悪感《けんおかん》が喉《のど》を締《し》め付ける。
僕は――クガヤマ・タクマという名前だ。そうだった。たったいま、ニュージーランドの留学先《りゅうがくさき》から帰国《きこく》した、一五|歳《さい》の少年。そういうことになってる。でも本当はタテカワ・タクマという名前だ。<A21[#「21」は縦中横]> の中でも、特別《とくべつ》な存在《そんざい》なんだ。
(ああ……)
気分が悪い。腹《はら》が立つ。やっぱり、薬を飲むべきだっただろうか? でも大丈夫《だいじょうぶ》だ。すこしの間なら我慢《がまん》できる。
税関の係官が近付いてきた。いや、自分が近付いたのだ。
四〇|過《す》ぎの中年男。制服《せいふく》のネクタイが――微妙《びみょう》に曲がっている。せいぜい四度くらいか。でも気に入らない。直し欲しい。早く直せよ、おじさん……!
彼は相手の首に両手を伸ばしたい衝動《しょうどう》を必死で押《お》さえつけながら、柔《やわ》らかくほほ笑み、パスポートを差し出した。係官はなんの疑問《ぎもん》も抱《いだ》かずに――馬鹿《ばか》な人だ――パスポートを受け取り、ばらばらと中を見た。
「ホームステイ?」
係官がたずねた。
「いえ。短期留学《たんきりゅうがく》です」
彼――タクマは穏《おだ》やかな声で答えた。天使の調《しら》べだった。
「へえ。一人で?」
「はい」
当たり前だろ。ネクタイ直せよ。
「親御《おやご》さん、心配しなかった?」
「別に。信頼《しんらい》されてますし」
にっこりとしながら、タクマは思っていた。
無性《むしょう》にだれかを傷つけたい。ずたずたに引き裂《さ》いてやりたい。そうしたら、僕はとても気分がいい。姉さんもきっと誉《ほ》めてくれる。あれ……? ちがうかな?
姉さんはどう思うだろう?
姉さん。僕の大切な姉さん。先にこの国に戻《もど》ってるんだったよね。あの悪魔を動かす準備《じゅんび》をしてるんだ。僕のために。もうすぐ会えるね。姉さん。
係官がスタンプを押《お》した。荷物《にもつ》を改《あらた》めようともしない。
「――っていいよ」
「はい?」
「行っていいよ、って言ったんだ」
「ね……ネクタイがどうしました?」
はやく直せよ。ムカつくんだよ。なんなんだ、あんたは。頭に来るね。最低だよ。死んじゃえよ。
「なにを言っとるんだ? きみは」
「あ……。あぁ……」
姉さん。こいつ、やだよ。直さないんだ。
「きみ……? 大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「うぁ……あ……。ああ……!」
許せないよ。こいつ、僕のこと馬鹿《ばか》にしてるんだ。姉さん。
「おい――」
「ああぁあぁあぁぁぁっ!!」
タクマは絶叫《ぜっきょう》してカウンターを飛び越えた。係官を押し倒し、殴《なぐ》りつけ、何度も殴りつけ、馬乗りになった。相手の喉首《のどくび》を両手でつかみ、渾身《こんしん》の力を込めると、とても気分がよかった。もっと。もっと……!
「かっ……ひっ……」
「は……! あはっ……! あはははっ!」
ぎりぎりと締め付けると、係官は白目を剥《む》いてあがいた。そばにいた警備員《けいびいん》や係官が、彼を引き離《はな》そうとして一斉《いっせい》に飛びかかってきた。それでも、彼は力をゆるめなかった。
どうだよ? おまえなんか、物の数じゃないんだ。口をばくばくさせて、魚みたいに苦しんでるね。死にかけてるよ。間抜《まぬ》けな顔だね。おかしいよ。姉さん。
――姉さん。
[#地付き]六月二五日 二二五五時(マニラ標準時)
[#地付き]フィリピン北部 ルソン島 ヴィガン市の西四〇キロ
ジャングルの中にぽっかりと開けた、虚構《きょこう》の街《まち》があった。
弾痕《だんこん》だらけの安っぽい建物《たてもの》が、作りつけのライトに照らされている。そこは市街戦《しがいせん》の模擬演習場《もぎえんしゅうじょう》で、世界中のどんな街にも似《に》ていなかった。
「楽しもうなどとは思うな! 敵《てき》は一撃《いちげき》で仕留《しと》めろ!」
数々の銃声《じゅうせい》に負けない声で、中佐《ちゅうさ》は訓練生《くんれんせい》たちを怒鳴《どな》りつけた。
「のろのろ動くな! 猟犬《りょうけん》のように走れ! 喉笛《のどぶえ》を噛《か》みちぎるつもりでいろ!」
訓練生――各国から集《つど》ったテロリストの卵たちは、疲労《ひろう》も見せない。絶《た》え間《ま》なく足下に撃《う》ちこまれる教官たちの弾丸《だんがん》にも脅《おび》えず、てきぱきと役割《やくわり》をこなしていく。
「殺せ! 目に見えるものはすべて敵だ! 子供の標的《ひょうてき》でも容赦《ようしゃ》するな!」
窓や扉《とびら》や路地裏《ろじうら》から、使い古しのマン・ターゲットが飛び出す。叩《たた》き込まれる弾丸。乾《かわ》いた金属音《きんぞくおん》。どこかの屋内で手榴弾《しゅりゅうだん》が爆発《ばくはつ》する。
やがて銃声《じゅうせい》が止《や》んでいった。代わりにあちこちから無線機《むせんき》で『制圧《クリアー》』の報告《ほうこく》が入ってくる。右手にアサルト・ライフル、左手にストップ・ウォッチを握《にぎ》った中佐は、最後の銃声が途絶《とだ》えてから、秒針《びょうしん》をじっと凝視《ぎょうし》した。
『制圧!』
報告《ほうこく》と同時に、ストップ・ウォッチのスイッチにかけていた親指を弾《はじ》く。
「ふん……」
模擬戦終了までの所用時間を見てから、中佐は鼻を鳴《な》らした。
「整列《せいれつ》!」
そばにいた副官の大尉《たいい》が号令《ごうれい》する。演習場《えんしゅうじょう》のあちこちから訓練生たちが駆《か》け出してきて、中佐の前にずらりと並《なら》んだ。総勢《そうぜい》で一五名あまり。灰色を基調《きちょう》とした都市|迷彩《めいさい》の戦闘服姿《せんとうふくすがた》で、二割ほど女も混《ま》じっていた。民族《みんぞく》もばらばらだ。
「さて……」
中佐は咳払《せきばら》いしてから、訓練生たちに向かって切り出した。
「訓練をはじめて三週間。最初はどうしようもない無能《むのう》ぞろいだと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。二人がくたばり、二人が脱走《だっそう》したが――まあ、それはいい。貴様《きさま》らはまずまずの殺し屋になりつつある。しかし調子《ちょうし》に乗るなよ」
一日を終えるにあたっての説教《せっきょう》を、中佐は長々とぶった。いかに訓練生たちが未熟《みじゅく》なのか、どれほど装備《そうび》を使いこなしていないか、各国の治安当局《ちあんとうきょく》と渡り合うことがどれだけ困難《こんなん》か。そういったことを五分あまり。
「――わかったか。貴様《きさま》らには憎《にく》しみが足りない。もっと憎め。俺《おれ》を憎んで、この世界すべてを憎むんだ。そうすれば、腐《くさ》った軍や警察《けいさつ》の連中など敵ではなくなる。以上だ」
中佐が締《し》めくくると、副官の大尉が『質問《しつもん》はあるか!?』と訓練生に告げた。
わずかな沈黙《ちんもく》のあと、一人が挙手《きょしゅ》した。
「言ってみろ」
「先ほど、『ここを卒業《そつぎょう》すれば軍や警察と対等《たいとう》以上に渡り合える』と言われましたが。もし戦う相手が、軍や警察ではない別のもの[#「別のもの」に傍点]だった場合は?」
「どういう意味だ」
「 <ミスリル> です」
訓練生の言葉に、中佐は眉《まゆ》をひそめた。
「 <ミスリル> 。なんだ、それは?」
「いかなる国にも属《ぞく》さない、謎《なぞ》の特殊部隊《とくしゅぶたい》だそうです。ここに来る前、シンガポールの武器《ぶき》商人から噂《うわさ》を聞きました。化け物じみた腕利《うでき》きが揃っていて、その連中に狙《ねら》われたが最後、決して無事《ぶじ》ではいられない、と」
「ふん、馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。噂には尾ひれ背ひれが付くものだ」
「ですが。実際《じっさい》に彼らを見た者も多いそうです。こうした訓練キャンプを襲撃《しゅうげき》することもあると。われわれのような革命家《かくめいか》の活動を、あちこちで妨害《ぼうがい》して――」
「いい加減《かげん》にしろよ、貴様!」
中佐はとうとう激昂《げっこう》して、その訓練生の胸倉《むなぐら》をつかんだ。
「なにが <ミスリル> だ!? そんなデタラメを信じて、俺の訓練を愚弄《ぐろう》する気か!?」
「お、お許しを……」
喉をつかまれ、訓練生がひいひいとあえいだ。そのやりとりをよそに、ほかの訓練生たちが顔を見あわせる。
(俺も聞いたことがあるぞ――)
(俺もだ。なんでもこないだの順安《スンアン》事件は――)
(ここも狙《ねら》われるかもしれない――)
中佐がぎろりとにらむと、訓練生たちはひそひそ話をぴたりと止《や》めた。
「俺は大変な勘違《かんちが》いをしていたようだ!」
怒《いか》りを隠《かく》そうともせず、中佐は一同に怒鳴《どな》り散《ち》らした。
「貴様らはこの三週間、なにも学んでいなかったと見える。ここが襲《おそ》われるだと? 軍も手を出せないこの基地《キャンプ》を? よく見ろっ!」
そう言って、中佐は演習場の外、作りつけの基地《きち》に居並《いなら》ぶ兵器の数々を指さした。
戦車《せんしゃ》に装甲車《そうこうしゃ》、対空ミサイルに対空砲《たいくうほう》。旧式ながらも、攻撃《こうげき》ヘリまで二機ほどある。
そして、全高八メートルの人型攻撃兵器――アーム・スレイブも二機あった。濃緑色《のうりょくしょく》の装甲。それ一機で歩兵一〇〇人分の戦力になるともいわれる、現代最強の陸戦兵器《りくせんへいき》だ。
「この戦力に対抗《たいこう》できるほどの大部隊を、われわれに気づかれないように接近《せっきん》させることは不可能《ふかのう》だ。たとえアメリカ人の軍隊でもな!」
中佐の自信は大げさではなかった。
彼らの基地の周囲二〇キロには、信頼性《しんらいせい》の高いセンサー類が張《は》り巡《めぐ》らされている。この警戒網《けいかいもう》をくぐりぬけ、この基地を奇襲《きしゅう》するのは並大抵《なみたいてい》のことではない。
「よく考えろ! この基地は難攻不落《なんこうふらく》だ! だから貴様らをみっちりしごける。絶対に、どうあっても、ここを奇襲できる部隊など――」
次の瞬間《しゅんかん》。
彼らの右手一〇メートルのところに停《と》めてあった戦車が、天空から降ってきた炎《ほのお》の矢に射抜《いぬ》かれた。一、二、三発。けたたましい金属音《きんぞくおん》。
「なっ……」
戦車は火花を散らしてから、内側からはじけるように爆発《ばくはつ》した。
はげしい爆風《ばくふう》が中佐たちを殴《なぐ》り倒す。さらに戦車の向こうにひざまずいていた|A S《アーム・スレイブ》が、やはり直上からなにかに[#「なにかに」に傍点]撃たれてばらばらになった。まるで赤い豪雨《ごうう》が、この基地に降りそそいできたような光景《こうけい》だった。
空から? なにが? どうやって? こちらのレーダーはなにを見ていたのだ!?
中佐は空を見上げた。
最初、襲撃者《しゅうげきしゃ》の姿は見当たらなかった。しかし注意深く夜空に目を凝《こ》らすと、星の光がかすかに歪《ゆが》み、陽炎《かげろう》のようにゆらめいているのが分かった。
「あれは……」
その大気のゆらめきが、突如《とつじょ》、青い電光《でんこう》をほとばしらせた。うすい光のベールから、黒いインキが染《し》み出すように、三つの影《かげ》が出現《しゅつげん》する。
|電磁迷彩《ECS》。ホログラム技術を応用《おうよう》した、究極《きゅうきょく》のステルス装置《そうち》。しかし、完全な透明化機能《とうめいかきのう》など、まだどこでも実用化されていないはずでは……!?
三つの影は、パラシュートにぶら下がった兵士たちの姿だった。銃器《じゅうき》を構《かま》えた三人の兵士が、基地《きち》に向かって降下《こうか》してくる。こちらにむかって、断続的《だんぞくてき》に発砲《はっぽう》し――
たった三人?
いや、ちがう。あれは兵士ではない。それどころか、人間でさえない。あれは人間よりもはるかに大きい。そう、あれは――
「アーム・スレイブ!?」
降下してくる|A S《アーム・スレイブ》は、まったく見たことのない機体《きたい》だった。丸みを帯《お》びた灰色の装甲。きわめて人型に近く、華奢《きゃしゃ》なようで力強い。
だれも見たことのない灰色の機体《きたい》―― <ミスリル> がここに……!?
どこか優美《ゆうび》なシルエットを持つ三機のASは、基地の上空五〇メートルでパラシュートを切り離《はな》し、猛然《もうぜん》と自由落下してきた。その姿は、鎖《くさり》から解《と》き放《はな》たれた神話の中の巨人のようだった。
三機のASは基地のあちこちに荒々《あらあら》しく着地すると、縦横無尽《じゅうおうむじん》に暴《あば》れ出した。
巨大なライフルやショットガンを撃《う》ちまくり、装甲車やヘリをずたずたにする。混乱《こんらん》した兵士たちを、頭部の機関銃《きかんじゅう》で追い散らす。ジープを蹴《け》り飛ばし、監視塔《かんしとう》を叩《たた》き折る。
『逃げても無駄《むだ》だ! 投降《とうこう》しろっ!」
一機が外部スピーカーで警告した。驚《おどろ》くべきことに、若い女の声だった。
逃げ惑《まど》う訓練生《くんれんせい》たちめがけて、ASが手のひらから|電気銃《テイザー》を撃《う》つ。電撃に打たれた男たちは、次々に気絶《きぜつ》して倒れていった。
なにもしないうちに自分の基地が総崩《そうくず》れになっていくのを、中佐はただ傍観《ぼうかん》しているしかなかった。
<<主要目標《しゅようもくひょう》の破壊《はかい》、および捕獲《ほかく》を確認《かくにん》。索敵《さくてき》モードの切り替《か》えを?>>
低い男性の声で、機体《きたい》のAIが告《つ》げた。
「肯定《こうてい》だ。アクティブに切り替えろ」
<<ラジャー。ECS、オフ。|対ECSセンサー《ECCS》、オン>
操縦兵《オペレーター》の命令を、AIはすぐさま実行に移《うつ》す。
身体《からだ》をおおい尽《つ》くすコックピットの中で、相良《さがら》宗介《そうすけ》は油断《ゆだん》なく正面スクリーンの表示に目を配《くば》った。
この灰色のASは、宗介の所属《しょぞく》する傭兵部隊《ようへいぶたい》 <ミスリル> の主力機《しゅりょくき》で、『M9 <ガーンズバック> 』と呼ばれている。まだ一般《いっぱん》の正規軍《せいきぐん》には配備《はいび》されていない、最新鋭《さいしんえい》の高性能機《こうせいのうき》だった。
いまでも密林《みつりん》の基地は、あちこちで火の手をあげている。戦車や装甲車、虎《とら》の子のASなどを破壊《はかい》され、敵の兵員はほとんど投降《とうこう》していた。総勢《そうぜい》でおおよそ五〇名あまり。模擬市街地《もぎしがいち》の中央広場に集められ、両手を挙《あ》げている。
ときおり隙《すき》を見て逃げ出そうとする者もいたが、宗介や彼の僚機《りょうき》は容赦《ようしゃ》なく逃亡者に電気銃を撃ちこんでやった。
任務《にんむ》は終わりにさしかかっている。
あとはこの捕虜《ほりょ》の中から、目当ての日本人グループを選《え》り抜いて、残りはフィリピン政府に引き渡すだけだ。
基地の反対側、宗介のASと背中合わせで警戒《けいかい》にあたっていた僚機から、無線《むせん》が入る。
『意外とチョロいもんだったな。なあソースケ』
緊張《きんちょう》のない声で言ったは、宗介の同僚、クルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》だった。彼の乗る機体も宗介と同じ、M9 <ガーンズバック> だ。
「気を抜くのはまだ早い。重火器《じゅうかき》を装備《そうび》した伏兵《ふくへい》に気を付けろ」
実直《じっちょく》な声で宗介は応《こた》えた。
『心配いらねえって。この|機体《M9》はロケット弾《だん》くらいじゃ、ビクともしねえよ』
「俺《おれ》は捕虜《ほりょ》の心配をしている。流れ弾で死なれては元も子もない」
『あ、そう。冷てえんだよな、ホント。俺、病《や》み上がりなのに」
「それよりも目標の確認だ」
『ん……そうだな』
クルツのM9が捕虜たちの前に一歩進み出て、外部スピーカーで告げた。
『あー、こほん。この中に日本人の訓練生《くんれんせい》はいるか? <A21[#「21」は縦中横]> とかいうテロ・グループで、だいたい若い連中だ。殺したり痛くしたりしないから、出てきなさい』
捕虜たちは沈黙《ちんもく》を保っていた。となりの者と顔を見あわせ、『知っているか?』とでも言いたげな様子《ようす》でいる。
『いないのか? こら、そこ。覆面《ふくめん》とれ、覆面。おめーもだ。早くしな』
M9の電気銃を向けられて、何人かの男たちがバラクラバ帽《ぼう》をあわてて外した。宗介はスクリーン内の画像を拡大《かくだい》し、男たちの顔を一通り見ていく。
「いないぞ」
日本人に似《に》た顔立ちの者もいたが、手配書《てはいしょ》の顔写真にはどれも一致《いっち》しなかった。
『……ホントだ。どうなってんだよ?』
作戦前の状況説明《じょうきょうせつめい》では、ここに日本人のテロ・グループが潜伏《せんぷく》していると説明されていた。数年前に都内で爆弾《ばくだん》テロをたくらみ、直前でそれが発覚《はっかく》、海外に逃亡《とうぼう》した <A21[#「21」は縦中横]> という組織《そしき》。それが近々、新たなテロ計画を準備《じゅんび》しているということだったのだが――
「やはり、いない」
そこで密林《みつりん》まで逃亡者を追跡《ついせき》しにいっていた、メリッサ・マオ曹長《そうちょう》のM9が戻《もど》ってきた。電気銃を食らってぐったりとしたテロリストを、四名ばかり両腕に抱《かか》えている。
『こっちもよ。日本人は一人もいないわ。あたしら、はずれクジを引いたみたいね』
『またガセネタかよ、情報部め。くそっ』
操縦者《そうじゅうしゃ》の動きを追随《トレース》して、クルツのM9がそばのドラムカンを蹴《け》り飛ばした。捕虜たちがびくりと肩《かた》を震《ふる》わせる。
「よくある話だ。いないものは仕方《しかた》がない。さっさとこの連中をフィリピン軍に引き渡して、輸送《ゆそう》ヘリとの合流地点《ごうりゅうちてん》へ――」
言いかけた宗介は、いきなり苦渋《くじゅう》に顔を曇《くも》らせた。うめき声ともため息ともつかない声を洩《も》らし、左右に首を振《ふ》る。
『どうした?』
操縦者である宗介の首の動き、M9の頭部がそのまま再現《さいげん》したのだろう。彼の様子に気付いたクルツがたずねた。
「……忘れていた」
宗介は苦しそうに言った。それを聞いたクルツのM9は落ち着かない様子で、ライフルを左右に振りながら、
『なにをだ? 慎重屋《しんちょうや》のおまえらしくもねえ。まさか無線《むせん》の暗号化《あんごうか》を忘れてたとか、そういう大ボケじゃねえだろうな?」
「いや、ちがう。もっとまずいことだ」
『おいおい……!』
「実は……人と会う約束《やくそく》があった。きょうの一九〇〇時だ」
『はあ?』
「きっと怒《おこ》っている」
冷たい汗《あせ》がこめかみを伝う。つい数分前まで、冷静《れいせい》に戦闘任務《せんとうにんむ》を遂行《すいこう》していた人間には似《に》つかわしくないほど、彼の胸中は狼狽《ろうばい》していた。
『約束って……だれとだよ?』
「カナメ[#「カナメ」に傍点]だ。期末テストの出題範囲[#「期末テストの出題範囲」に傍点]を、彼女の家で教えてもらうはずだった。俺は日本史が苦手《にがて》なんだ」
クルツのM9ががっくりと肩を落とした。第三世代型ASならではの、複雑《ふくざつ》な関節構造《かんせつこうぞう》だからこそできる芸当《げいとう》である。
『あのな、おまえ……』
『大変ねえ。副業《ふくぎょう》持ちの兵隊は』
そう言って、マオが気絶《きぜつ》した連中を捕虜の輪《わ》の中に放《ほう》り込んだ。
『あと五分でフィリピン軍の輸送ヘリが来るわよ。それまでに尋問《じんもん》を。捕虜を引き渡したら、うちらの|合流地点《RV》まで移動開始《いどうかいし》。わかった?』
『ウルズ6、了解《りょうかい》』
「ウルズ7、了解……」
宗介は意気消沈《いきしょうちん》した声で応《こた》えた。
極秘《ごくひ》の特殊部隊 <ミスリル> の兵士・相良宗介のもう一つの顔。
それは東京の高校生だった。
[#地付き]六月二五日 一五一八時(グリニッジ標準時《ひょうじゅんじ》)
[#地付き]ルソン海峡 深度五〇メートル 強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン>
「はずれ、ですって?」
メリッサ・マオ曹長《そうちょう》の報告《ほうこく》を聞いたテッサは、眉根《まゆね》に小さなしわを寄《よ》せた。
<ミスリル> が保有《ほゆう》する、巨大な潜水艦の中央発令所《ちゅうおうはつれいじょ》。艦《かん》と戦隊《せんたい》の総指揮《そうしき》をとる、小劇場《しょうげきじょう》ほどの広さの空間である。三つの大型スクリーンと、一五名弱の発令所|要員《よういん》の座席《ざせき》を見下ろす艦長席《かんちょうせき》に、彼女はちょこんと座《すわ》っていた。
テッサ――テレサ・テスタロッサは、この強襲揚陸潜水艦 <トゥアハー・デ・ダナン> の艦長だった。
どう見ても一〇代半ばの少女である。大きな灰色の瞳《ひとみ》。アッシュ・ブロンドの髪《かみ》を三つ編みにして、左肩《ひだりかた》から垂《た》らしている。淡《あわ》いブラウンの略式平服《りゃくしきへいふく》には、『大佐《COL》』の階級章《かいきゅうしょう》が光っていた。
『イエス、マム。<A21[#「21」は縦中横]> とやらのテロ屋の姿は、影《かげ》も形もありません』
無線越《むせんご》しのマオの声が答える。
「関係者《かんけいしゃ》はいませんでしたか?」
『キャンプの指導者《しどうしゃ》を締《し》め上げました。似《に》たような日本人グループが一〇日前に一度、見学に来たそうですが』
「その後の足取りは?」
『マニラからゴールドコーストに向かうと聞いていたそうですが、まずガセね。あの男はなにも知りませんよ』
「キャンプに入ると見せかけて、ドロンというわけね。……してやられたわ」
情報部《じょうほうぶ》の報告《ほうこく》では、目当てのテログループは、そのキャンプで最後の訓練《くんれん》をしているということだった。その情報が、間違《まちが》いだったということだ。
「ごめんなさい。無駄骨《むだぼね》を折らせてしまいましたね」
『あなたのせいじゃないわ、テッサ」
マオは優しい声で言ってから、
『……では、これからRVに向かいます。よろし?」
「ええ。予定通りに帰艦《きかん》してください。待ってます」
『了解《りょうかい》。交信《こうしん》終わり』
艦長用のスクリーンの隅《すみ》、交信相手を示す窓の中で、『URUZ2』の赤文字が緑に変わる。テッサはため息をついて、座席の背もたれに背中を押《お》しつけた。
「まったく……」
「よくあることです」
すぐそばに控《ひか》えていた、副長《ふくちょう》のリチャード・マデューカス中佐《ちゅうさ》が言った。ひょろりと痩《や》せた技術者タイプの容貌《ようぼう》。黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》の奥から、陰気《いんき》な視線《しせん》を正面スクリーンに投げかけている。
テッサはその横顔をちらりと見て、
「『よくあること』では済《す》まない問題です。その <A21[#「21」は縦中横]> というテロ・グループはソ連製のASを入手しているのでしょう? 街中《まちなか》で暴《あば》れたら大変なことになりますよ」
「もちろんです、艦長。しかし、われわれは全能《ぜんのう》ではありません。『こういうこともある』と受け止める習慣《しゅうかん》は必要です」
「それは怠惰《たいだ》だわ」
これだけの装備《そうび》、これだけの人員を与えられているのだ。自分は、この部隊は限《かぎ》りなく全能《ぜんのう》に近付く必要《ひつよう》がある。
完璧《かんぺき》な情報。完璧な作戦《さくせん》。それは彼女が頭に思い描《えが》く、この組織《そしき》の理想像《りそうぞう》だった。
「怠惰ではありません。柔軟性《じゅうなんせい》ですよ」
ユーモアのかけらもない声でマデューカスは答えた。
そのおり、艦のマザーAIが、テッサを呼び出すアラームを奏《かな》でる。
「なんです?」
<<回線《かいせん》G1。A・カリーニン少佐です>>
「つないで」
<<アイ・マム>>
マザーAIがとりついだのは、別任務《べつにんむ》で日本に出かけていた作戦指揮官《さくせんしきかん》、アンドレイ・カリーニン少佐からの通信だった。ほどなく回線が開かれ、低い男の声が響《ひび》く。
『大佐殿。訓練キャンプの件はいかがでしたか』
「はずれです。問題のテロ・グループはいませんでした」
そう聞いても、カリーニンは特におどろいた様子もなく、
『その <A21[#「21」は縦中横]> なのですが。構成員《こうせいいん》の一人がナリタ空港で逮捕《たいほ》された情報が入りました』
「……それはけっこうなことですけど。でも、悪い知らせのようですね」
『はい。その捕《つか》まった少年に、例の反応[#「例の反応」に傍点]が出ているようなのです』
その言葉を聞いて、テッサは顔を曇らせた。
「……つまり?」
『その少年が「ラムダ・ドライバ」を駆動《くどう》させる能力《のうりょく》を持っている可能性が高い、ということです』
ラムダ・ドライバ。使い方を誤《あやま》れば、危険極《きけんきわ》まりない未知の装置《そうち》。使用者《しようしゃ》の精神《せいしん》を糧《かて》とし、核《かく》さえ無力化《むりょくか》しかねないポテンシャルを持つ。
それを扱《あつか》える特殊《とくしゅ》な人間を、凶悪《きょうあく》なテロリストの一味が握っているというのだ。
『身柄《みがら》は日本|政府《せいふ》が抑《おさ》えているので、精密検査《せいみつけんさ》ができません。大佐殿に直接《ちょくせつ》、ご足労《そくろう》願いたいのですが』
「わかりました。手筈《てはず》は後で」
答えてから、テッサは回線を切った。
まただ。いったいだれが? あんな危険なものを――
[#地付き]六月二六日 一〇〇一時(日本標準時)
[#地付き]東京 調布市 都立陣代《とりつじんだい》高校 校庭
金属《きんぞく》バットの切っ先をかわし、白球がキャッチャー・ミットに飛びこんだ。
「すとらいくぅ〜! ばったー、あうとぉー!」
体操服姿《たいそうふくすがた》の少女が、間延《まの》びした声で叫《さけ》ぶ。
「えーと……|3《スリー》アウトだよね? じゃあ、チェンジですー」
審判係《しんぱんがかり》が告げると、グラウンドの女子生徒たちが、ぞろぞろと攻守《こうしゅ》を交代《こうたい》する。
「ふしゅーっ……」
いましがた相手から三振《さんしん》を奪《うば》ったピッチャー――千鳥《ちどり》かなめは、ぶんぶんと右腕《みぎうで》を振《ふ》り回しながら、マウンドを降《お》りていった。
腰まで届く黒髪《くろかみ》、背丈《せたけ》は高めで、均整《きんせい》のとれたプロポーションが、体操服の上からもうかがえる。黙《だま》っていると、どこか強気でノーブルな雰囲気《ふんいき》が漂《ただよ》っている少女だった。
「カナちゃん、三者三振《さんしゃさんしん》じゃない」
クラスメートの常盤《ときわ》恭子《きょうこ》が、彼女の隣《となり》に座りながら言った。かなめは体育の授業《じゅぎょう》で活躍する者|特有《とくゆう》の、あの謙虚《けんきょ》なすまし顔を浮かべて、
「ふっ。あたしにかかれば、まあ、ざっとこんなモンよ」
投げやりなVサインを作ってみせた。
「そうじゃなくて……ただの授業のソフトボールなのに、あんなに本気だして、大人《おとな》げないんじゃない? シオリちゃんなんか、怖《こわ》がってたよ」
「うぇ? そ……そう?」
「そうだよ。なんかさ、今朝《けさ》は機嫌《きげん》悪くない? ちょっと話すとすぐにムッツリして」
「んー。やっぱそう見えるかー。キョーコは鋭《するど》いもんなぁ……」
入学式の日から仲良しになった恭子の目をあざむくのは、なかなか難《むずか》しい。
「相良《さがら》くんとなんかあったの?」
ますます鋭い。図星《ずぼし》どころか、ジャストミートだった。かなめが不機嫌なのは、まさしくクラスメートの相良|宗介《そうすけ》が原因なのだ。
ちょっとしたきっかけで、彼に期末テストの勉強を教えてやる約束をしたのがきのうの午前。夜の七時に、宗介が彼女の家を訪《おとず》れることになっていた。
ところが彼は来なかった。
携帯電話《けいたいでんわ》の番号にかけてみても、『電波《でんぱ》の届《とど》かない地域《ちいき》』にいるらしく、まるでつながらない。そうして八時が過《す》ぎ、九時が過ぎ、日付けが変わり、朝が来て……。帰宅《きたく》するなり、試験勉強《しけんべんきょう》そっちのけで作っておいた手料理《てりょうり》の数々は、いまも彼女の家の食卓《しょくたく》に載《の》ったままである。かなめは家の事情《じじょう》で一人暮《ひとりぐ》らしをしているのだ。
「ん……別に。関係ないよ」
そう答えても、恭子はかなめの嘘をあっさりと見抜《みぬ》いた。
「やっぱり。彼、今日は休んでるけど、理由知ってるの?」
背後《はいご》の体育館から、バスケをしている男子たちの声が聞こえてくる。その中に宗介の姿は見えなかった。
「知らない。あいつ、きのうの昼にいきなり消えたでしょ? それから会ってないもん」
「だったらなんで怒《おこ》ってるわけ?」
「だからぁ……関係ないってば。別にあたし、あいつがなにしようと興味《きょうみ》ないし」
嘘だった。そういう相手のために、あれだけのメニューを作るわけもない。鯵《あじ》の塩焼き、いかと大根の煮物《にもの》、ピータン豆腐《どうふ》、茶碗蒸《ちゃわんむ》しなどなど……。
ついつい、かなめはため息を洩《も》らした。そんな彼女の肩《かた》を恭子がつっついて、
「次、カナちゃんの打順《だじゅん》だよ」
「ん? ああ、そうみたいね」
かなめは立ち上がると、バットを持って打席《だせき》についた。
そのとき。
どこからかヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてきた。空を見上げるが、航空機の姿はない。しかし確実《かくじつ》に、大気を叩《たた》くローター音と、低くうなるようなエンジン音が近付いてくる。
(……? まあ、いいか……)
相手チームのピッチャーが、アンダー・スローでボールを放《ほう》る。ボールの凹凸《おうとつ》まで見えるような、ゆっくりとした放物線《ほうぶつせん》。かなめはそのボールに、宗介の生真面目《きまじめ》なむっつり顔が浮かんでいるような気がした。
(ソースケの……)
バットを目いっぱい振《ふ》りかぶり、
「ばかやろぉ――――――っ!!」
渾身《こんしん》の力でフルスイングする。きんっ、と小気味良《こきみよ》い音が響《ひび》き、打球はレフト方向へ高々とすっ飛んでいった。手応《てごた》えあり。外野があわててバックする。
チームの一同が歓声《かんせい》をあげた。
ボールはぐんぐんと伸《の》びていった。……が、なんの前触《まえぶ》れもなく上空で急停止《きゅうていし》し、そのまま真下――レフトの生徒がいる場所へ、力を失ったように落ちていった。まるで、なにかの壁《かべ》に当たったかのように。
「…………?」
ホームラン間違《まちが》いなしと確信《かくしん》していたかなめは、思わず二塁《にるい》の手前で立ち止まってしまった。ほかの生徒たちもぽかんとして、校庭の上空を眺《なが》めている。
なにも見えない。
いや、かすかに大気がゆらめいている……?
そう思った時、さきほどから聞こえていたヘリコプターの音がいっそう激《はげ》しくなり、グラウンドに強風が吹《ふ》き荒《あ》れた。大量《たいりょう》のほこりが渦《うず》を巻き、グラウンドは数メートル先しか見えない状態《じょうたい》になる。
「い、いったい……!?」
叫《さけ》ぶが、自分の声さえも聞き取りづらい。すさまじい風で、目を開けているのも辛《つら》くなった。二塁ベースにしがみつくように、身体《からだ》を折って地面に伏《ふ》せる。
謎《なぞ》の轟音《ごうおん》はやがてピークを越えると、来た時と同じようにみるみると小さくなっていった。校庭に吹き荒れていた風もたちまち収《おさ》まり、あたりに静けさが戻《もど》ってくる。
かなめは顔を上げた。
前と同じく、空にはなにも見えない。ヘリコプターや、それに類《るい》するような機体《きたい》など、影《かげ》も形もなかった。
「なんだったのよ……ったく」
ぶつぶつ言いながら身を起こすと、いつのまにか、目の前に夏服姿の男子生徒が立っていた。
背丈《せたけ》は一七五センチ程度《ていど》、やや細身《ほそみ》で引《ひ》き締《し》まった体つき。右肩《みぎかた》に大きなオリーブ色のバックパックをひっ下げ、左手には通学用の黒カバン。
「ソースケ……?」
その男子生徒――相良宗介は油断《ゆだん》なく周囲《しゅうい》を見回してから、
「千鳥《ちどり》か」
愛想《あいそう》のかけらもない声で言った。
彼は端正《たんせい》な顔だちだったが、同時にきびしく、一分《いちぶ》の隙《すき》もない緊張感《きんちょうかん》の持ち主だった。いつも遠くを見ているような瞳《ひとみ》。眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、口をへの字に引き結んでいる。黒髪《くろかみ》は適当《てきとう》に刈《か》りこんであり、洒落《しゃれ》っ気《け》などとは無縁《むえん》のようだった。
宗介は自分の腕時計《うでどけい》を、次に校舎《こうしゃ》の時計を見て、
「二時間目は遅刻《ちこく》で済《す》みそうだ。急いで戻って来た甲斐《かい》があった」
「どーいうこと?」
さっそく殴《なぐ》り倒《たお》したい衝動《しょうどう》に駆《か》られながらも、かなめは押《お》し殺した声でたずねた。
「南シナ海から直通でな。たったいま着いたばかりだ」
「…………」
宗介は、彼女の体操服姿を無遠慮《ぶえんりょ》に眺《なが》めた。
「試合中だったのか」
「そーよ。誰《だれ》かさんが乗ってきた、怪《あや》しいなにかのせいで、あたしのホームランが台無《だいな》しになったところ」
「次からはヘリの音がしたら気を付けることだ。では、俺は男子の授業《じゅぎょう》に行く」
彼は体育館の方に歩き出したが、不意《ふい》に立ち止まって振《ふ》り返った。
「ところで千鳥……」
「なによ?」
「きのうの約束《やくそく》の件だが……怒《おこ》っているか?」
「ううん? 全っ然、怒ってなんかいないよ? ちっっっとも、気にしてないから!?」
かなめはわざと大げさに両手を広げ、嫌味《いやみ》たっぷりに首を振った。だが、その意図《いと》はまったく通じなかったようで、
「それは良かった。約束を思い出した時には、君が怒っているのではないかと案《あん》じていたのだ」
「……忘れてたの?」
「その通りだ。重大《じゅうだい》な用件があったものでな」
彼は心なしか軽い足取りで、バックパックを左右に揺《ゆ》らしながら体育館へ向かった。かなめはしばらくその場に突《つ》っ立ったまま、握《にぎ》りこぶしをワナワナと震《ふる》わせていたが、やがて足元の二塁ベースを拾《ひろ》い上げ、
「この……」
フリスビーの要領《ようりょう》で、ベースを力いっぱい投げつけた。狙《ねら》いたがわず、二塁ベースは宗介の後頭部《こうとうぶ》――どうあっても鍛《きた》えようのない部位《ぶい》にヒットする。悲鳴《ひめい》ひとつあげず、宗介はカバンとバックパックを放り出し、グラウンド上にくずおれた。
「トーヘンボク!! あんたなんか大嫌《だいきら》いよっ!」
怒鳴《どな》るかなめにボールを持った内野手《ないやしゅ》が近付いてきて、彼女をタッチアウトした。
[#地付き]六月二六日 一〇二八時(日本標準時)
[#地付き]埼玉県 狭山市《さやまし》郊外《こうがい》
太平洋上の <トゥアハー・デ・ダナン> からヘリで出発してから六時間。
一定のサイクルで聞かされていれば、エンジンの轟音《ごうおん》も子守《こも》り歌《うた》になる。窓からさしこむ空の光がうつろい、みしみしと機体《きたい》が震動《しんどう》し――そんな環境《かんきょう》の中で、テレサ・テスタロッサはまどろんでいた。
夢さえ見ない。意識《いしき》の奥の、さらに奥。いつもは忙しい思考の奔流《ほんりゅう》も、いまは湖《みずうみ》のように静まりかえっていた。
「大佐殿《たいさどの》」
それが自分を呼《よ》んでいるのだと気付くまで、ずいぶんと時間がかかった。
「大佐殿、あと三分です」
<トゥアハー・デ・ダナン> の陸戦要員《りくせんよういん》たちは、戦隊指揮官《せんたいしきかん》のテッサのことを『艦長《キャプテン》』ではなく、『大佐《カーネル》』と呼ぶ。『大尉《キャプテン》』と間違《まちが》えないための、<ミスリル> だけでの慣習《かんしゅう》だった。
「…………」
テッサは座席《ざせき》の上でみじろぎし、すっとまぶたを開いた。
「お休みのところをすみません、大佐殿。あと三分で到着《とうちゃく》します」
呼びかけていたのは、私服姿《しふくすがた》のヤン伍長《ごちょう》だった。韓国出身《かんこくしゅっしん》の青年で、マオらと同じ『ウルズ』のコールサインを持つ戦闘員《せんとういん》だった。いまはテッサの護衛《ごえい》を務《つと》めている。
「サガラさんは?」
言ってから、テッサは機内のキャビンを見回した。
「軍曹《ぐんそう》は先ほど東京で降《お》りました。大佐殿に礼を伝えてくれ、と」
「そうですか……」
相良宗介。目の前のヤン伍長《ごちょう》と同じく、『ウルズ』のコールサインを持つ戦闘員。最近はある特殊任務《とくしゅにんむ》で、東京の高校に通ってもらっている。艦長《かんちょう》の自分と下士官《かしかん》の彼とでは、あまり話す機会《きかい》もないので、特に親しい間柄《あいだがら》ではない。
ただ、なんとなく彼には興味《きょうみ》があった。自分と同じく、部隊で最年少だという理由《りゆう》もある。学校でどんな生活をしているのかも、すこし気になる。
「さて……」
テッサは手鏡をのぞいて身なりを整《ととの》えた。ブラウスの襟《えり》を直して、タイトスカートの裾《すそ》をぴっと引《ひ》っ張《ぱ》る。
窓から目的地《もくてきち》を見下ろす。
常緑樹《じょうりょくじゅ》におおわれた丘陵地帯《きゅうりょうちたい》の中に、白亜《はくあ》のビルが建《た》ち並《なら》ぶ敷地《しきち》が開けていた。一見、郊外型《こうがいがた》の大学キャンパスのようにも見える。ただ普通《ふつう》のキャンパスと違うのは、敷地を取り囲む高い塀《へい》と、その塀|沿《ぞ》いに迷彩服《めいさいふく》の男たちが見回りをしている点だった。
日本|政府《せいふ》・防衛庁《ぼうえいちょう》の管轄下《かんかつか》にある、技術研究所《ぎじゅつけんきゅうじょ》である。
一般《いっぱん》市民にはほとんど知られていない、きわめて機密度《きみつど》の高い研究を取《と》り扱《あつか》う場所だと、テッサは聞かされていた。
この施設《しせつ》に、問題の少年[#「問題の少年」に傍点]が収容《しゅうよう》されているのだ。
偶然《ぐうぜん》とはいえ、捕《つか》まってよかった。その少年が野放《のばな》しになっていたら、大変な災厄《さいやく》が起きていたかもしれない。
『着陸《ちゃくりく》します』
パイロットがヘッドセット越《ご》しに告げた。機体《きたい》は敷地内のヘリポートへと降下していく。この大型ヘリが着陸するにはいささか手狭《てぜま》に見えたが、弾丸《だんがん》が飛《と》び交《か》う中で急ごしらえの着陸地点に降りるのに比《くら》べれば、どうということはない。
ヘリが着陸すると、テッサはヤン伍長に手助けされてタラップを降りた。
ローターの作り出す強風の中、アンドレイ・カリーニン少佐が彼女を出迎《でむか》えた。<トゥアハー・デ・ダナン> の陸戦部隊を指揮《しき》する、四〇|過《す》ぎのロシア人である。彼はテッサより一足先に、この研究所に到着していたのだ。
背丈《せたけ》は一九〇センチ近くもあり、肩幅《かたはば》も広《ひろ》い。顔の彫《ほ》りは深く、灰色の髪《かみ》をひっつめにして、やはり灰色の髭《ひげ》をたくわえていた。テッサの髪がアッシュ・ブロンドなので、並《なら》んでいると親子のように見えないこともない。
「ご足労感謝《そくろうかんしゃ》します、大佐殿」
ヘリの轟音《ごうおん》の中でもよく通る声で、カリーニンは言った。
「そういう言い方、やめてください。必要《ひつよう》だから呼んだんでしょう?」
「はい」
当てこすりっぽく言われても、カリーニンに恐縮《きょうしゅく》した様子《ようす》はなかった。いつも艦内《かんない》にいる時はオリーブ・ドラブの戦闘服姿《せんとうふくすがた》だが、いまはブラウンのスーツ姿だ。そっけないが、不思議《ふしぎ》な気品が漂《ただよ》っている。
「それで、こちらの方は?」
テッサは、カリーニンの後ろにいる日本人を見た。見るからに役人然《やくにんぜん》とした、面白味《おもしろみ》のない紺《こん》のスーツ。年齢《ねんれい》は三〇過ぎ、やや太り気味《ぎみ》で、黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけている。
「運輸省《うんゆしょう》のシマムラです。この件の担当者《たんとうしゃ》です」
流暢《りゅうちょう》な英語で男は言った。
「どうぞよろしく、ミスタ・シマムラ」
「こちらこそ。ドクター[#「ドクター」に傍点]・テスタロッサ」
シマムラは慇懃《いんぎん》なお辞儀《じぎ》をした。テッサに対する、深い疑惑《ぎわく》と好奇心《こうきしん》は巧妙《こうみょう》に隠《かく》している。全貌《ぜんぼう》も定《さだ》かでない傭兵組織《ようへいそしき》 <ミスリル> の要人《ようじん》が、わずか一六歳そこそこの少女だと知れば――普通《ふつう》の人間は笑うか怒《おこ》るかだ。そうしないところを見ると、彼はカリーニンから何らかの説明を受けている様子だった。
「しかし驚《おどろ》きましたな、こうもお若く美しいとは。中学生かと思いましたよ。とても――三〇歳には見えませんね」
「は……?」
「いや、失礼。御婦人《ごふじん》の年齢《ねんれい》を口にするのは、どこの国でも御法度《ごはっと》でしたな」
シマムラは笑いもせず、彼らを先導《せんどう》して歩き出した。テッサはその場に突《つ》っ立《た》ったまま、横目でカリーニンをにらむ。
「少佐。どういう説明をしたんですか?」
「『普通の天才[#「普通の天才」に傍点]だ』と。年齢については、さすがに無理《むり》があるかと思いましたが――どうやら信じてくれたようです」
平然《へいぜん》とカリーニンは答えた。
「三〇歳……」
テッサは自分の小さな身体《からだ》を見回した。もしこの場に鏡《かがみ》があったら、穴《あな》が開くほど自分の顔を凝視《ぎょうし》したことだろう。
「……わたし、そんなに老《ふ》けて見えます?」
彼女は不安もあらわに、かたわらのヤン伍長にたずねた。
「さあ。いかにも苦労《くろう》してそうに見えたんじゃないですか?」
そう言ってヤンは笑った。
研究所から一キロ離《はな》れた林の中。
車の行き来もほとんどない、寂《さび》れた未舗装《みほそう》の道路に、黒塗《くろぬ》りの大きなトレーラーが停《と》まっていた。
そのトレーラーの傍《かたわ》らに、数人の男女が立つ。
どれも若い。二〇を越《こ》えるか越えないか、といったところだ。それなりに洒落《しゃれ》っ気《け》のある私服姿だったが、どこかに冷たい緊張感《きんちょうかん》が漂っている。
研究所のヘリポートの方角に大型の輸送《ゆそう》ヘリが降下していくのを、その若者たちは無言《むごん》で眺《なが》めていた。木立の向こうにヘリが見えなくなったところで、
「……アメリカ軍か?」
トレーラーの屋根に立ち、双眼鏡《そうがんきょう》でヘリを見ていた男が言った。下の路上に突っ立っている女に、判断《はんだん》を仰《あお》ぐような視線《しせん》を投げかける。
「ちがうわ」
女が答えた。やはり若い。初夏《しょか》だというのに、赤いロングコートをまとっている。
切れ長の一重《ひとえ》まぶた。マッシュルーム塾に切り揃《そろ》えた栗色《くりいろ》の髪《かみ》。そこはかとなく、古風な容貌《ようぼう》の持ち主だ。
「国籍《こくせき》マークもなかったし。それにあの型のヘリは、在日米軍には無いはずよ」
「じゃあ、どこのだよ?」
「知らない」
「知らないって……」
「どうでもいいことよ。わたしたちの目的は、あそこに収容《しゅうよう》されてるタクマを奪還《だっかん》すること。邪魔物《じゃまもの》がいれば排除《はいじょ》する。それだけ」
「……セイナはこんな時でもクールなんだな。あんたの可愛《かわい》い弟さんが捕《つか》まってるんだぜ? 心配じゃねえのか?」
からかうように、男が言った。
「心配よ。彼は計画に絶対《ぜったい》必要だから」
愛情のかけらも見せずに、セイナと呼ばれた女は言った。
「そうだったな……」
一人が薄笑《うすわら》いを浮かべた。
「タクマ――あいつがいなけりや、<ベヘモス> は――あの悪魔は動かない。あれさえ動き出せば、自衛隊《じえいたい》でも虫けらみたいに蹴散《けち》らせる」
「ああ。絶対に、だれにも止められないぜ」
「あのムカつく街《まち》も、残らず灰にできる。二日で都心は瓦礫《がれき》の山だ」
男たちが口々に言った。
「……。そろそろ襲撃準備《しゅうげきじゅんび》をはじめましょう」
セイナと呼ばれた女がそう言ったとき、林の中の通路を一台の車が走ってきた。白と黒。パトカーだ。このあたりを巡回《じゅんかい》していたのだろう。
「どうする?」
「運転手は任《まか》せるわ」
パトカーがトレーラーのそばで止まった。助手席《じょしゅせき》のドアが開き、巡査長《じゅんさちょう》が降《お》りてくる。運転席に座った若い巡査は、車から降りてくる気配《けはい》はなかった。
「君たち、ここでなにやってんの」
年配の巡査長が横柄《おうへい》な声で言った。
「知ってる? ここはね、一般車輌《いっぱんしゃりょう》は進入しちゃいかんことになってんのだよ。運転手は? 車検証《しゃけんしょう》出しなさい。それから積《つ》み荷《に》は?」
「がらくたよ」
セイナはコートのポケットに突っ込んでいた右手を、すうっと突き出した。サイレンサー付きの自動拳銃《じどうけんじゅう》。警官に向け、無造作《むぞうさ》に二発撃つ。
きゅきゅっ、と奇妙《きみょう》な銃声と共に、巡査長は即死《そくし》した。
パトカーの方の巡査は、なにが起きたのかわからない様子だった。二人の男がサプレッサー付きのサブマシンガンを構《かま》え、運転席めがけて発砲《はっぽう》する。銃声よりも、フロントガラスの割《わ》れる音の方が大きかった。
「死んだぜ」
運転席をのぞきこんで、男の一人が言った。言った直後《ちょくご》に、血の海に沈《しず》んでいた巡査《じゅんさ》が苦悶《くもん》のうめき声をあげた。
「た……たす……」
男はすこしばつが悪そうな顔をすると、さらに数発、至近距離《しきんきょり》から発砲《はっぽう》した。うめき声はそれきり途絶《とだ》えた。
「まあ、こういうこともある」
「これきりにしなさい。死体を片付けて移動《いどう》よ。わたしは機体《きたい》の点検《てんけん》をするわ」
言うと、セイナはトレーラーの後ろに回って、両開きの扉《とびら》を開けた。中には一機のアーム・スレイブがぴったりと収まっていた。
Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> 。ソ連製の第二世代型ASだ。
セイナがコートを脱《ぬ》ぎ捨《す》てた。素肌《すはだ》にフィットした、オレンジ色の操縦服《そうじゅうふく》があらわになる。しなやかな肢体《したい》。無骨《ぶこつ》な耐《たい》Gホースやハーネス、ロックボルトなどが付いていなければ、スキューバ用の潜水服《せんすいふく》に見えたかもしれない。
「破壊《はかい》の前奏曲《ぜんそうきょく》……か」
だれにも聞こえないほどの声で、彼女はつぶやいた。
[#地付き]六月二六日 一二三三時(日本標準時)
[#地付き]東京 調布市 陣代高校 南校舎
「ねえ相良《さがら》くん。頭のケガって、本当に恐《こわ》いんだよ?」
昼休み。四階の廊下《ろうか》を歩きながら、クラスメートの風間《かざま》信二《しんじ》が言った。
宗介《そうすけ》より頭半分ほど背が低く、おとなしそうな男子生徒だ。色白で、目鼻立ちはばっちりとしている。以前《いぜん》は貧相《ひんそう》な眼鏡《めがね》をかけていたのだが、最近はそれをコンタクトレンズに変えて――洒落《しゃれ》っ気《け》もすこしはアップしている。そういう感じの少年だった。
「俺は大丈夫《だいじょうぶ》だ、風間」
宗介は不景気《ふけいき》な声で答えた。どこか顔色が悪いのは、今朝《けさ》の後頭部のダメージだけが理由《りゆう》ではなさそうだった。
「本当に大丈夫かなぁ……。君が死んじゃったら、きっと千鳥《ちどり》さん悲しむよ。『あたしが殺したのよ!』だとか嘆《なげ》いて、バスルームで手首切っちゃうかも」
「いや、それはありえない」
彼の脳裏《のうり》には『大《だい》っ嫌《きら》い!』の一語が飛びまわっていた。
朝の一件以来、彼は千鳥かなめから完全《かんぜん》に無視《むし》されている。宗介はもともと無口《むくち》な若者なので、彼女に話しかけるきっかけも作れない。けっきょく彼は悶々《もんもん》としながら午前中を過《す》ごし、こうして昼休みになってしまったのだった。
「千鳥は俺を嫌っている」
「あー。また[#「また」に傍点]こんなコト言ってるよ……。戦場育《せんじょうそだ》ちだとかいっても、千鳥さんには全然アタマが上がらないんだから。情けないなぁ、もう」
「面目《めんぼく》ない」
宗介が海外――しかも危険《きけん》な紛争地帯《ふんそうちたい》で育ったことは、陣代高校の人々にはよく知られていた。そうは言っても、話半分に受け止められているのが実際《じっさい》のところで、校内での彼の立場は『風変《ふうが》わりな帰国子女《きこくしじょ》』、『ハタ迷惑《めいわく》な転校生《てんこうせい》』といったところだった。
その一方、彼が極秘の軍事組織 <ミスリル> に、いまでも在籍《ざいせき》していることは誰《だれ》にも知られていない。ましてや、その <ミスリル> の|特別対応班《SRT》に所属《しょぞく》する、エリート戦士であることなど、なにをか云《い》わんや、だ。
ただし、これも一人の例外《れいがい》を除《のぞ》いて、ではあるが。
二人は四階にある生徒会室の扉《とびら》の前で立ち止まった。
宗介はこの生徒会で『安全保障問題担当《あんぜんほしょうもんだいたんとう》・生徒会長|補佐官《ほさかん》』なる怪《あや》しい役職《やくしょく》を仰《おお》せつかっており、会議やらイベントやらの時は、体《てい》のいい雑用係《ざつようがかり》として駆《か》り出されている。
信二の方は、『文化祭実行委員会・副委員長』というまっとうな役職だった。文化祭シーズンはまだ先だったが、準備《じゅんび》やら予算配分《よさんはいぶん》やらの関係で、六月のいまから生徒会|執行部《しっこうぶ》の会議には出席する決まりになっているのだ。
「でも会長さんもキツいよね。来週から期末《きまつ》テストだってのに、きっちり会議はやるってんだから」
「いや、定例報告《ていれいほうこく》は必要な措置《そち》だ」
宗介は扉を開けて生徒会室に入った。
部屋《へや》には三人ほどの男子生徒しかいなかった。一年生が二人と、二年生の会計が一人。会長の姿は見えない。もうすぐ会議ははじまる時間なのだが――
「あれ、今日は会議じゃなかったの?」
信二が言うと、部屋の隅《すみ》の液晶《えきしょう》テレビを観《み》ていた生徒が、宗介たちを一瞥《いちべつ》した。
「中止だって聞いてないんスか? 会長が、特に議題《ぎだい》もないし試験前《しけんまえ》だから、今週はなしにするって」
「ええ。聞いてないよぉ」
「先輩、四組でしょ? 副会長は――千鳥センパイは知ってたはずだけど」
「なんだ、冷たいなぁ。じゃあ僕、教室に帰るよ。まったく……」
信一が不平《ふへい》たらたらで帰ろうとすると、ちょうど部屋に入ってきた女子生徒と鉢合わせになった。かなめである。今朝《けさ》の体育の授業《じゅぎょう》では体操服《たいそうふく》だったが、いまは青のスカート、白の半袖《はんそで》ブラウスに赤のリボンタイ、といった夏服|姿《すがた》だ。
「お、風間くん」
「千鳥さん。さっき教室で顔合わせてたのに、なんで教えてくれなかったんだよ」
千鳥かなめ――生徒会の副会長は、宗介をちらりと一瞥してから、つとめて明るく、愛想《あいそう》のよい声を出した。
「あー。ごめんね、風間くん。つい忘れてたの。今度、仕事《しごと》手伝ってあげるから、カンペンね、ホント。ね、この通り!」
「ま、まあ忘れてたんなら仕方《しかた》ないけど。き、気を付けてよね」
「ううん、仕方なくなんかないわ。会長に『伝えておきます』って約束してたのに[#「約束してたのに」に傍点]。ほんと最低よね、約束を忘れるなんて[#「約束を忘れるなんて」に傍点]。破《やぶ》られた人はホント気の毒よ。あたしだったら、絶対《ぜったい》に許せないわね。約束を破るような最低男[#「約束を破るような最低男」に傍点]は」
そのやりとりを横で聞いていた宗介のこめかみに、じんわりと脂汗《あぶらあせ》が浮かぶ。信二はなにか言い知れぬ、緊迫《きんぱく》した空気を察《さっ》したようで、
「いや。べ、別にそんな大げさな話じゃ……。と、とにかく教室に帰るよ、僕」
そう言って部屋を出ていった。
信二がいなくなると、かなめの顔はたちまち陰気《いんき》になった。険《けわ》しい視線《しせん》を宗介に向けてから、
「ふん……」
それだけ言って、議会室の奥に入っていく。
彼女は持ってきた備品《びひん》の書類を生徒会長の机《つくえ》に置いてから、大机の一角を陣取《じんど》って、勉強道具を広げにかかった。
宗介が青白い顔をして、肩にかけていたバックパックを降ろし、その中をごそごそと探《さぐ》っていたが――かなめはまったく関心を見せなかった。やがて何やら目当《めあ》ての品を見つけたらしく、宗介はそれを携《たずさ》え、かなめのそばにやって来る。
「うっとおしいのよね、そんなとこに突《つ》っ立ってられると」
真っ白なノートから目をそらすこともなく、かなめはとげとげしい声で言った。
一方の宗介は意を決したように、彼女の前に白い花束《はなたば》を差し出した。
「え……」
それは人の握《にぎ》りこぶしほどの大きさもある花だった。丸い子房《しぼう》を優《やさ》しく包《つつ》み込むように、四枚の花びらがふんわりと開いている。それが合わせて六輪。清らかなそのたたずまいに、かなめは思わずうっとりとしてしまった。
「昨夜《さくや》、摘《つ》んできたばかりのものだ。君に受け取ってほしい」
「あ……ありがと」
ついつい笑みがこぼれてしまいそうになるのを、我慢《がまん》しようと努める。自分もちょっと大人げなかったかもしれない。もうそろそろ許してあげようかな……などと思いながら、
「これ、なんていう花なの? きれいだなぁ……」
と、かどのとれた声でたずねた。
「いや、花そのものは重要《じゅうよう》ではない。さっさと散ってくれた方がいいくらいだ」
「え?」
「それはケシの花だ。花弁が散ったあと子房に刻《きざ》みを入れると、阿片《あへん》を分泌《ぶんぴつ》する。つまりヘロインの原料だ。日本でさばけば、それなりの額《がく》になるだろう」
「……………………」
[#挿絵(img/02_059.jpg)入る]
穏《おだ》やかになりかけていたかなめの顔が、ふたたび険しさを取り戻《もど》した。
考えてみれば、ご機嫌斜《きげんなな》めの女の子に花束を差し出すような知恵《ちえ》を、この戦争ボケ男が持っているはずがない。
「……あたしの記憶《きおく》が正しければ、こーいう花は東南アジアだとか中央アジアだとかの、ブッソウなところにしか生えてないはずだけど」
「フィリピンの一部でも栽培《さいばい》はされている。仕事のついでに失敬《しっけい》してきた」
「仕事……?」
かなめはなにかを問うように、宗介の顔を見上げた。
「ちょっと」
彼女は席を立ち、部屋の外まで宗介を引《ひ》っ張《ぱ》っていった。廊下《ろうか》に出て、あたりに人がいないことを確認《かくにん》してから、彼女は小声でささやいた。
(…… <ミスリル> の仕事[#「仕事」に傍点]だったの?)
(そうだ。緊急呼集《きんきゅうこしゅう》がかかってな。フィリピンまで行ってとんぼ返りだ)
宗介はあっさりと認《みと》めた。かなめこそが、彼の『本業《ほんぎょう》』を知っている唯一《ゆいいつ》のクラスメートなのである。
発端《ほったん》はおよそ二か月前のことだった。
平凡《へいぼん》な高校生であるはずの彼女が、狡猾《こうかつ》なテロリストに拉致《らち》されかけた。それを救ったのが、転校生としてこの学校に派遣《はけん》された宗介と、彼が属《ぞく》する <ミスリル> だったのだ。
彼女がテロリストに狙《ねら》われた理由――また、<ミスリル> ほどの組織が彼女をわざわざ守る理由は、いまだに知らされていない。かなめが <ウィスパード> と呼ばれる特殊《とくしゅ》な存在《そんざい》で、なにか重要な情報《じょうほう》の持ち主らしい、ということくらいだ。
宗介の立場は、彼女の生活圏《せいかつけん》に常駐《じょうちゅう》している『護衛』ということになる。
なのだが――昨夜のように、宗介が遠い海外に任務《にんむ》や訓練《くんれん》で出かけてしまうこともある。護衛もへったくれもあったものではない。『風呂《ふろ》でも寝《ね》る時でも身に付けていろ』と、超小型発振機付《ちょうこがたはっしんきつ》きのネックレスを渡されていたが――そんなものがどれだけ役立つかは怪《あや》しいものだった。
彼女はそれを訝《いぶか》しがり、また不安にも思ったが、時間がたつうちにそんな生活にも慣れてしまった。実際《じっさい》、二か月前の一件以来、彼女が何者かに襲《おそ》われたことは一度もなかった。
普通《ふつう》に暮《く》らしていればいい。とにかく、そういうことになっている。いまのところは。
すっぽかしの事情《じじょう》を理解《りかい》して、かなめはため息をついた。
「もう……。そういうことだったら、一言くらい話していってよ」
「急いでいたのだ。申《もう》し訳《わけ》ない」
「で、無事《ぶじ》に済《す》んだわけね?」
「滞《とどこお》りなく。クルツも現場《げんば》に復帰《ふっき》した」
「そう、それは良かった」
「良かったのだ。だからあのケシで、君も手を打ってくれないだろうか」
今度こそ、かなめの拳《こぶし》がうなった。あごをかすめるような強烈《きょうれつ》なフックに、宗介はたまらずよろめく。
「なかなか痛いぞ」
「うるさいっ! どうっっして、あんたってそうなのよ!? イバって麻薬《まやく》を差し出す前に、なんか言うことあるんじゃないのっ!? スゴ腕《うで》の傭兵《ようへい》だかなんだか知らないけれど、それ以前に人として欠けてるトコがあんのよ!」
「いや、俺は健康《けんこう》だ」
「心の問題よ、心のっ! だいたいねえ! はじめて会った時から、あんたってバカはどうしようもない非常識《ひじょうしき》のタコで、人に迷惑《めいわく》かけまくって、反省《はんせい》とかも全然しなくって、あたしなんか、もう――くぬ、くぬ、くぬっ!!」
上ばきを脱《ぬ》いで両手に装着《そうちゃく》、宗介の頭を乱《みだ》れ打ちする。
「わかった。やめろ。君の言いたいことはよくわかった」
なだめる宗介。かなめは肩《かた》で息しながら、
「ったく、本当にわかってるの!? あたしが言ってるのはデリカシーとか誠意《せいい》とかの問題よ?」
「誠意。つまり、こういうことだろう。東京ではヘロインよりもコカインの方が高く売れる。本気で悪いと思っているなら、コカのペーストを取ってこいと――」
宗介の首筋《くびすじ》に、かなめの上段回《じょうだんまわ》し蹴《げ》りが炸裂《さくれつ》した。
[#地付き]六月二六日 一三一〇時(日本標準時)
[#地付き]埼玉県 狭山市郊外 防衛庁《ぼうえいちょう》技術《ぎじゅつ》研究所
マジック・ミラーの向こうに、一人の少年がいた。
無味乾燥《むみかんそう》な取調室《とりしらべしつ》の、椅子とテーブル。少年はそこに座《すわ》り、卓上《たくじょう》の一点をじっと見つめていた。紫色《むらさきいろ》のパジャマ姿《すがた》で、小柄《こがら》な体つき。見たところテッサとさして変わらない年齢《ねんれい》のようだ。どこにでもいそうな平凡《へいぼん》な少年に見えたが、同時にどこにもいないような、ある種の異質《いしつ》さを漂《ただよ》わせていた。
この少年が、数年前に爆弾《ばくだん》テロを企《くわだ》てたテロ組織《そしき》 <A21[#「21」は縦中横]> の一員とは。どうも違和感《いわかん》のある話だった。
テッサのいる観察室《かんさつしつ》は、向こうの取調室からは見えないようになっている。しかし、少年はこちらの視線《しせん》に気付いているのではないだろうか、と彼女はなぜか思った。
「彼が成田空港《なりたくうこう》で拘束《こうそく》されたのは、まったくの偶然《ぐうぜん》からです」
薄闇《うすやみ》の中、テッサの後ろに立つカリーニン少佐《しょうさ》が説明《せつめい》した。
「ニュージーランドでの語学留学《ごがくりゅうがく》から帰国《きこく》した、というふれこみの少年を、日本の税関《ぜいかん》が慎重《しんちょう》に調べることはありません。手荷物のチェックさえ行わないことも多いのです。異常《いじょう》が起《お》きなければ、彼は難《なん》なく税関をパスしていたでしょう」
「ところが、その異常が起きたと。どんなトラブルです?」
「係官に飛びかかり、殴打《おうだ》した上で、絞《し》め殺しかけました」
こともなげにカリーニンは言った。
「彼が?」
原因を推察《すいさつ》できるテッサでさえ、その少年が凶暴性《きょうぼうせい》をむき出しにしている図は想像《そうぞう》できなかった。
「はい。取り押《お》さえられた後も異常な興奮状態《こうふんじょうたい》だったため、薬物検査《やくぶつけんさ》を。数度の精密《せいみつ》検査を行ったところ、血中から『Ti971[#「971」は縦中横]』の反応《はんのう》が出ました。|われわれ《ミスリル》がかねてから追跡《ついせき》していた薬物です。複雑なルートを経《へ》て昨日《きのう》、われわれに情報が入りました」
「そして、わたしがこうして呼び出された、と」
「そういうことです。彼が『ラムダ・ドライバ』のための矯正《きょうせい》を受け、それが成功《せいこう》しているかどうか――それを判断《はんだん》できるのは大佐殿《たいさどの》だけですので」
ラムダ・ドライバは、使用者の意志を拡張《かくちょう》し、物理法則《ぶつりほうそく》に干渉《かんしょう》する機能《きのう》を持つ装置《そうち》である。現代の科学技術をはるかに越《こ》えた、『|存在しない技術《ブラック・テクノロジー》』によって生み出された未知《みち》のシステムだ。
そしてそのブラック・テクノロジーをある程度《ていど》、理解《りかい》し使いこなすことができるのは、おそらく世界でテッサ一人だけだった。
いや。そのはずだった、と言うべきか。
なんらかの勢力《せいりょく》が同様の技術を保有《ほゆう》し、危険なテロリストや独裁国家《どくさいこっか》に供与《きょうよ》している疑《うたが》いがある。目の前の少年は、その勢力によって特殊《とくしゅ》な訓練と薬物|投与《とうよ》を受けた可能性《かのうせい》があるのだ。
そうした矯正には副作用がある。凶暴性の発露《はつろ》や記憶障害《きおくしょうがい》などがそれで、この少年にもその兆候《ちょうこう》が見られる……そういうことだった。
「日本|政府《せいふ》は彼の重要性《じゅうようせい》を認識《にんしき》していません。さすがに身柄《みがら》をわれわれに引き渡すことは拒否《きょひ》していますが、それも法律上《ほうりつじょう》の理由からです」
「そう」
少年の精密検査《せいみつけんさ》の結果を印刷《いんさつ》した書類《しょるい》を、テッサはぱらぱらとめくった。
書類の先頭に、パスポートに記載《きさい》されていた姓名《せいめい》がある。クガヤマ・タクマ。本名か偽名《ぎめい》かはわからない。ただ、住所や家族は虚構《きょこう》のものらしかった。
「詳《くわ》しい数値はさっき読みましたけど、否定的《ひていてき》な要素《ようそ》は見当たらないですね。彼がクロだとしたら、彼のための『ラムダ・ドライバ|搭載型兵器《とうさいがたへいき》』が用意されているはずよ」
通常《つうじょう》兵器ではまったく歯が立たない破壊《はかい》兵器――想像もつかないほど強力な機体《きたい》を、テロリストが保有しているかもしれないのだ。
「背後《はいご》関係のほかには、クガヤマ・タクマ以外の <A21[#「21」は縦中横]> のメンバーが、この国に戻《もど》っているかどうかも気になります」
カリーニンが言った。
「聞き出せそうですか?」
ほかの仲間の行方《ゆくえ》や背後関係のことを、である。
「黙秘《もくひ》していて、普通《ふつう》の訊問《じんもん》では無理《むり》のようです。彼の身柄《みがら》は日本政府のものですので、非人道的《ひじんどうてき》な手段《しゅだん》も使えません」
淡白《たんぱく》なカリーニンの言葉に、テッサはすこしむっとした。
「|こちら《ミスリル》が預《あず》かっても同じです。わたしはそんなこと、許しませんよ」
そのとき。
なんの前触《まえぶ》れもなく、マジック・ミラーの向こうの少年――クガヤマ・タクマが、テーブルを踏《ふ》み越《こ》え、テッサに向かって飛びかかってきた。
「ああぁあぁぁっ!!」
ばしん、とミラーにぶつかってよろめく。彼がこちらに来れないことを知っているにも関わらず、テッサは書類を取り落とし、その場に尻餅《しりもち》をついてしまった。
「…………!?」
無駄《むだ》なことがわかっていないのか、タクマはそれでも歯《は》を剥《む》いて、何度かミラーに突進《とっしん》した。別人、いや別の生物にでもなったかのように、マジック・ミラーを乱打《らんだ》し、狂暴《きょうぼう》なうなり声をあげる。
取調室に警備員《けいびいん》がどやどやと入って来て、タクマを押さえつけにかかった。
「大佐殿。お怪我《けが》は」
「だ……大丈夫《だいじょうぶ》です。ちょっとびっくりしただけですから」
テッサはカリーニンの手を借りて立ち上がった。心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が収《おさ》まるのを待ってから、落とした書類を拾《ひろ》い集めにかかる。カリーニンがそれを手伝った。
「たしかに、絞《し》め殺されそうですね」
軽口《かるくち》を叩《たた》いたつもりだったが、自分でもそうは聞こえなかった。
「……とにかく。本格的な検査をするなら、携帯型《けいたいがた》のNILSで反応を計測《けいそく》しなければならないわ。でも……たぶん、彼はクロです。勘《かん》ですけど」
「彼との面接《めんせつ》はどうしますか」
「やります。一対一は困りますけど――きゃっ!」
机《つくえ》の下に落ちていた書類を拾おうとして、机の角に頭を思い切りごつん、とぶつけてしまった。目の眩《くら》むような痛みが、爪先《つまさき》まで駆《か》け抜《ぬ》ける。
「あ、ああっ……」
よろよろと後ずさりした彼女を、カリーニンが後ろから支えた。
「大佐殿……?」
「だ……大丈夫です。これくらい、平気です」
涙目《なみだめ》で答える。自分の運動神経《うんどうしんけい》のひどさを、彼女はひしひしと痛感《つうかん》していた。知性《ちせい》・容貌《ようぼう》の二物を天から与えられた彼女だが、さすがに三つは無理《むり》だった。
「……もう出ましょうか。ここにいても仕方《しかた》ありませんし」
[#挿絵(img/02_069.jpg)入る]
「はい」
テッサとカリーニンは観察室《かんさつしつ》を出た。
廊下《ろうか》には護衛《ごえい》のヤン伍長《ごちょう》が待っていた。案内役のシマムラが取調室の扉《とびら》の前で、タクマの担当医《たんとうい》となにかを話しているのも見えた。
話が済《す》むと、シマムラが彼らに近付いてくる。
「すみません。彼に鎮静剤《ちんせいざい》を打ったもので。面接は夕方|以降《いこう》にして欲しいのですが」
だと思った、とテッサは心中で落胆《らくたん》した。
「……わかりました。ところで、失礼ですがここの警備体制《けいびたいせい》は万全《ばんぜん》ですか?」
「ええ。蟻一匹《ありいっぴき》入れませんよ。なぜです?」
「ひょっとしたら、侵入者《しんにゅうしゃ》が来るかもしれないと思いまして」
シマムラは彼女を見下ろし、『これだから素人《しろうと》は』とでも言いたげな顔をした。
「まさか。あのテロ・グループが彼を取り戻《もど》しに来ると? ただの薬物中毒《やくぶつちゅうどく》の少年でしょう? あなたたち <ミスリル> とやらが、どんな関心《かんしん》を示しているのかは知りませんが、さっさと警察病院《けいさつびょういん》に送り返したいのが本当のところなんですよ」
「そうじゃありません。わたしが言いたいのは、彼の重要性《じゅうようせい》のことで――」
シマムラは片手でテッサの言葉を遮《さえぎ》った。
「彼よりも、この研究所の方がはるかに重要です。つまり、警備《けいび》も厳重《げんじゅう》なんです。常《つね》に二個小隊――わかりますか? 六〇人が交代して見回りをしています。それにそもそも、あの少年がここに移送《いそう》されたことは部外秘《ぶがいひ》になって――」
シマムラの言葉を、突然《とつぜん》の轟音《ごうおん》がさえぎった。
大気を震《ふる》わす、たて続けの砲声《ほうせい》。巨大な機関砲《きかんほう》の音だ。続いてなにかの金属《きんぞく》が潰《つぶ》れ、爆発《ばくはつ》する音が響《ひび》いてきた。
テッサは窓の外を見た。
彼女のいるビルから離《はな》れた一角、研究所の敷地《しきち》のいちばん外れにある病院|棟《とう》の方から、炎《ほのお》と黒煙《こくえん》があがっていた。警備班の車輌《しゃりょう》が、爆発《ばくはつ》・炎上《えんじょう》しているのだ。
小火器《しょうかき》の銃声《じゅうせい》も聞こえた。たたん、たたたん、と断続的《だんぞくてき》に響いてくる。だれかの怒鳴《どな》り声と、助けを求める悲鳴《ひめい》と――
「なんてこと」
何者かがこの研究所を襲撃《しゅうげき》したのだ。おそらく、タクマを取り戻しに <A21[#「21」は縦中横]> がやってきた……?
「大佐殿、窓から離れてください」
いつのまにか自動拳銃《じどうけんじゅう》を引き抜いていたカリーニンが、テッサの腕《うで》を引いた。ヤン伍長もきびきびとした身のこなしで、廊下の角から向こうの様子をうかがっている。
「彼らの目的はタクマだわ。ここから移さないと」
彼女は我《われ》に返って、すぐそばの取調室に向かおうとした。
「賛成《さんせい》できません、大佐殿」
カリーニンが言った。
「なぜです」
「われわれは部外者《ぶがいしゃ》だからです。この場は隠れてやり過《す》ごし、敵がタクマを連れ去るのを待つべきかと」
臆病風《おくびょうかぜ》でないことは、テッサにもよくわかっていた。カリーニンはいつでも慎重《しんちょう》なのだ不必要な危険は必ず避《さ》けようとする。
しかし、彼女は首を横に振《ふ》った。
「彼ら―― <A21[#「21」は縦中横]> にタクマは渡せません。ここまでして奪還《だっかん》しようというのだから、彼の代わりはいないのよ。きっと――恐ろしい機体《きたい》に乗せるつもりだわ。彼らに渡せば危険なことになります」
「私とヤンだけでは、あなたを守るので精一杯《せいいっぱい》です。しかも敵は――」
「ちょ……ちょっと待ってくださいよ」
最初の動揺《どうよう》からようやく立ち直ったシマムラが言った。
「そのとおり、あなたがたは部外者です。勝手《かって》に少年を連れ出されては困ります」
「あなたたちが彼を守れなければ、そうするしかないでしょう?」
「さっきも言いましたよ。こちらの警備隊はプロですから。装備《そうび》も充実《じゅうじつ》してます。いくら連中が束《たば》になろうと、返《かえ》り討《う》ちです」
その言葉を裏付《うらづ》けるように、二〇ミリ機関砲《きかんほう》を搭載《とうさい》した装甲車《そうこうしゃ》が、ビルの前を通過《つうか》していくのが見えた。
「ほら。あの装甲車なら、ライフルくらいではびくともしません」
「いかん。下がらせないと――」
カリーニンがつぶやいた直後《ちょくご》、その装甲車が白い火線に貫《つらぬ》かれ、金属の破片《はへん》をまき散らした。そのまま煙《けむり》を吹きながら滑走《かっそう》し、爆発。テッサのそばの窓が、飛んできた破片を受けてがしゃん、と割れた。
装甲車を撃破《げきは》した敵が、病院|棟《とう》の蔭《かげ》から姿を現した。
炎の向こうに巨大な人影。
ずんぐりとしたたまご型の胴体《どうたい》。細長い手足。ソ連製の第二世代型AS、Rk[#「Rk」は縦中横]―92[#「92」は縦中横] <サベージ> だ。手には無骨《ぶこつ》な四〇ミリ・ライフルを持っている。
「アーム・スレイブ!? そんな馬鹿《ばか》な……!」
シマムラの声は悲鳴に近かった。無理《むり》もない。内戦中の不穏《ふおん》な国ならともかく、この日本で、いきなりASの襲撃《しゅうげき》である。上品な料亭《りょうてい》で食事をしていたら、いきなり一ポンドのスペアリブがどん、と出てきたようなものだ。
「目茶苦茶《めちゃくちゃ》だわ」
灰色の塗装《とそう》を施《ほどこ》された <サベージ> は、一歩、また一歩とこちらの病院に近づいていた。
警備班《けいびはん》を頭部の機銃《きじゅう》で掃射《そうしゃ》し、手近なビルにライフルの弾《たま》を叩《たた》き込む。死んでいく男たちの断末魔《だんまつま》が、テッサの耳にまで届《とど》いてきた。
丸く、赤い二つ目が、ゆらりとこちらを見た。
無機的《むきてき》な視線。なぜか彼女は、そのASが笑ったように思えた。頭部の重機関銃が、こちらに狙《ねら》いを定める。装甲車を撃破《げきは》した四〇ミリ・ライフルまでもが、いまや彼女に向けられていた。
撃《う》ってくる。
「大佐殿」
カリーニンとヤンが同時に、棒立《ぼうだ》ちしたテッサに殺到《さっとう》した。シマムラが這《は》うようにして逃げ出した。
「伏《ふ》せ――」
次の瞬間《しゅんかん》、おそろしい衝撃《しょうげき》が彼女を襲《おそ》った。
天井《てんじょう》が落ちてきた。ガラスが、鉄筋《てっきん》が、コンクリートがばらばらになった。
音はしない。破片の一つ一つが、ゆっくりと舞《ま》っている。すぐそばのヤン伍長《ごちょう》の身体に、ガラスの破片が突《つ》き刺《さ》さるのが見えた。それでもヤンは、彼女をかばおうと近付いてくる。テッサはどこかへと落下しながら、そこまでしてくれなくてもいいのに、と思った。
直後に、別の衝撃が彼女を殴《なぐ》りつけた。
◆
<サベージ> は目当《めあ》てのビルと、その周辺《しゅうへん》を制圧《せいあつ》した。警備隊《けいびたい》の姿はすでにない。逃げたか、死んだか、死にかけているか。そのどれかだ。
白煙《はくえん》とほこりが厚くたちこめる中、灰色の <サベージ> は半壊《はんかい》したビルへと近付いていった。がれきを踏《ふ》み潰《つぶ》し、くずれた壁《かべ》の奥に手をのばす。すべての関節《かんせつ》にロックがかかり、<サベージ> はその場で静止《せいし》した。
頭部の後ろにあるハッチが開き、オレンジ色の耐《たい》Gスーツを着込んだ操縦者《オペレーター》の女が姿を見せる。自分がもたらした破壊《はかい》の惨禍《さんか》に、たいした感想もないような――超然《ちょうぜん》としたまなざしだった。
女――セイナはハッチの裏に付いていたサブマシンガンを手に取った。<サベージ> の腕《うで》の上を、優美《ゆうび》な足取りで渡って、ビルの中へ入っていく。
建材《けんざい》の散《ち》らかった廊下《ろうか》を歩く。<サベージ> の機関銃《きかんじゅう》で引き裂かれた、だれかの肉片を踏みつけたが、セイナはそれをまったく意《い》に介《かい》さなかった。
目当ての部屋《へや》――タクマのいるはずの取調室まで来て――その扉《とびら》を開ける。
灰色の取調室には、だれもいなかった。倒《たお》れた椅子《いす》と、簡素《かんそ》なテーブルがあるだけだ。
「…………」
セイナの瞳《ひとみ》に、険《けわ》しい光が宿った。
「セイナ。タクマは?」
覆面姿《ふくめんすがた》の男がやって来てたずねた。襲撃《しゅうげき》チームの一人だ。
「いないわ」
「そんなはずは。発信機の反応《はんのう》じゃ、たしかにこの部屋に――」
「ちがう。連れ去られた」
取調室の入り口には、ぽつぽつと血の跡《あと》が残っていた。警備兵《けいびへい》のだれかが、負傷しながらもタクマを連れ出したのだろうか。
しかし、あの短時間で? 襲撃《しゅうげき》グループのだれにも見つからずに?
「発信機の追跡《ついせき》はできるわね?」
「できるが……受信範囲外《じゅしんはんいがい》だ。見つけるには時間がかかる」
「探しなさい。いますぐ。あの悪魔[#「あの悪魔」に傍点]を動かすには、絶対《ぜったい》にタクマが必要よ」
男はうなずいてから、
「それから……すぐそばに、負傷者《ふしょうしゃ》が一人いるようだ。どうする?」
「警備兵は殺しなさい」
「それが、どうも――」
覆面男が道を譲《ゆず》ると、ほかの仲間たちが負傷者をこちらに運んでくるのが見えた。
大柄《おおがら》な白人だった。ブラウンのスーツはぼろぼろで、身体《からだ》のあちこちから出血している。背中にガラスの破片《はへん》がいくつか突《つ》き刺《さ》さっていた。死んでいてもおかしくないような怪我《けが》だ。うつぶせのまま引きずられているが、意識《いしき》はあるようだった。
「この研究所の人間ではなさそうだな」
「そのようね」
「どうする、セイナ?」
セイナは答えず、白人男の頭をサブマシンガンの銃先《つつさき》で押《お》し上げた。彫りの深い、灰色の髭《ひげ》で覆《おお》われた顔。黒い瞳《ひとみ》は、この怪我《けが》でも強い意志の光をたたえていた。
彼女は直感的《ちょっかんてき》に、この男が戦いを生業《なりわい》とする者であることを察《さっ》した。だれか――昔、心を許しかけた人物。その面影《おもかげ》をふと思い出す。
「あなた、何者?」
「……おまえの敵だ」
そう言って、白人男は意識を失った。
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2:ウルズ7にバトンが渡る
[#地付き]六月二六日 一八三一時(日本標準時)
[#地付き]調布《ちょうふ》市 多摩川《たまがわ》町
夕刻《ゆうこく》の住宅街《じゅうたくがい》。千鳥《ちどり》かなめが、駅からの家路《いえじ》をずけずけと歩く。その五歩ほど後ろに、むっつり顔の相良《さがら》宗介《そうすけ》が続く。
「いつまで付いて来る気よ」
八百屋《やおや》の前でぴたりと立ち止まって、かなめが言った。
「ストーカーまがいの護衛任務《ごえいにんむ》なんて、もう必要ないんでしょ? だったらうるさく付きまとわないでくれる?」
「いや。ただ単に、俺《おれ》の部屋《へや》もこちらの方角なだけなのだが……」
宗介のマンションは、かなめの住む別のマンションから歩いて一分の近所にあった。かなめの護衛のために、以前《いぜん》 <ミスリル> が用意した部屋にそのまま住んでいるのである。
別に後を尾けているわけではない、と言われて、かなめはわずかな困惑《こんわく》を見せた。
「そ……そんなことわかってるわよ」
ふたたび、歩き出す。あくまでも意固地《いこじ》なかなめの態度《たいど》に、宗介もさすがに辟易《へきえき》してきたらしい。彼は彼女の後を追って、
「君に聞きたいことがある」
「なによ」
「どうすれば納得《なっとく》してもらえるのだ? 約束《やくそく》を破《やぶ》った事情は説明した。謝罪《しゃざい》の証《あか》しにケシの花も贈《おく》った。今後の安全のためにも、ここらで関係の修復《しゅうふく》を図《はか》るべきだと思うのだが」
こんな言い方しかできない宗介に、かなめははげしい苛立《いらだ》ちを覚えた。
「『関係の修復』? どんな関係よ? あんたとあたしは、ただの同級生《どうきゅうせい》じゃないの。別に無理して口きく必要なんかないでしょ?」
「俺《おれ》には君を守る義務《ぎむ》がある」
まただ、とかなめは思った。いつもこうやってふんぞり返る。エラそうに。
「はっ。ケビン・コスナー気取り? ただの迷惑《めいわく》な役立たずのクセに。だいいちね、護衛《ごえい》を頼《たの》んだ覚えなんかないわよ、あたしは」
こういう時のかなめの口ぶりは、とことん辛辣《しんらつ》でいやらしい。
「確《たし》かに君の同意《どうい》を得《え》たわけではない。だが――」
「だが、なによ? あたしが変な力の持ち主で、それを悪党が狙《ねら》ってるってだけでしょ? 別にあたしがどーなろうと、あんたには関係がないことよ」
「違う。君の身にもしものことがあったら――」
「保護者面《ほごしゃづら》はやめてっ!!」
通行人がそろって注目するほどの声を、かなめは張《は》り上げた。
「よーするに、仕事が一番大切なんでしょ? そりゃそうよ。あんたは任務《にんむ》第一の戦争バカなんだから。それを治せなんて言わないから、せめてあたしの目障《めざわ》りにならないところで、勝手に暴れて自爆《じばく》しててちょうだい」
相手の反論《はんろん》も許さず、彼女は一気にまくしたてる。
「つまり、それだけの関係よ。それでもって、くだらない任務であんたが死んじゃったら、線香《せんこう》の一本くらい供《そな》えてあげるわよ。そのうち彼氏でもできたら、ベッドの中で『昔、こーいうバカがクラスにいてさー』とか言って笑ってあげる。どう、満足?」
最後は怒鳴《どな》って、肩《かた》でぜいぜいと息をする。気が付くと、宗介は怒《おこ》るわけでもなく、その場に突《つ》っ立ってぽかんとしていた。
「あんたなんか別に……どーでもいいわよ」
言ったあと、急にいたたまれない気分になって、かなめは宗介に背中を向けた。
彼から離《はな》れ、早足で都道《とどう》を横切り、自分のマンションの玄関口《げんかんぐち》へと駆《か》け込んで、飛び乗ったエレベーターの扉《とびら》が閉まると――
「……もう。救いようのないバカよね……あたし」
上昇《じょうしょう》をはじめたエレベーターの壁《かべ》に、ごつんと自分のおでこをぶつける。
彼は彼なりに『ごめん』と言ってることなど、最初からわかっているはずなのに。
どうして素直《すなお》になれないのだろう?
[#地付き]六月二六日 一八四〇時(日本標準時)
[#地付き]調布市 多摩川町 タイガース・マンション
懊悩《おうのう》を抱《かか》えて、宗介はマンションの自室に向かった。
かなめの言動《げんどう》がどうにも理解《りかい》できない。
宗介のことを『嫌《きら》いだ』という。死のうがどうなろうが気にならないという。そばにいて欲しくないという。
(だが、それでは矛盾《むじゅん》するではないか)
勉強を教えてくれたり、たまに弁当《べんとう》を作って来てくれたり、彼がしでかした学校での失敗の後始末《あとしまつ》までしてくれたり。こういう行いは好意の表われではないのか?
なるほど、自分が昨夜《さくや》の約束を破ったのには怒《おこ》っているかもしれない。しかし、それについての説明《せつめい》と謝罪《しゃざい》は行った。だが、それでも許してくれない。
(つまり、やはり、嫌いなのか……?)
日頃《ひごろ》の親切は、単に自分の護衛任務《ごえいにんむ》に対する謝礼の意味だけなのだろうか。
そう思うと、後頭部《こうとうぶ》から肩《かた》にかけてのあたりに、ずうーん、と重たい感覚《かんかく》がやって来る。宗介は以前《いぜん》にもこんな感覚に襲《おそ》われたことを思い出した。
多数の敵に包囲《ほうい》されて、『援軍《えんぐん》は来ない』と無線《むせん》の連絡《れんらく》を受け取ったとき。
輸送《ゆそう》ヘリでの帰還中《きかんちゅう》、『燃料《ねんりょう》が足りない』とパイロットが叫《さけ》んだとき。
同僚《どうりょう》のクルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》が、『心配するな』と言ったとき。
なんともいやな感じなのである。
対人関係について無頓着《むとんちゃく》な宗介だったが、かなめとの関係は常《つね》に謎《なぞ》をはらみ、彼を当惑《とうわく》させる大問題だった。
『そりゃあ、恋だぜ。はっはっはっ。おまえは死んだ』
などと、クルツ・ウェーバーは愉快《ゆかい》そうに言ったりしたものだ。
宗介は相談《そうだん》したのを後悔《こうかい》した。恋というのが心地《ここち》よいものらしいことくらいは、彼でも聞き知っているのだ。これほど不快《ふかい》で胸がむかつく精神状態《せいしんじょうたい》が、恋でないことは論理的《ろんりてき》に明白《めいはく》だった。
そんな調子であれこれ思い悩《なや》みながら、彼は五階の共通廊下《きょうつうろうか》をとぼとぼと歩き、自室の扉《とびら》の前まで来た。
そこで気付く。
部屋の中にだれかがいる。一人、いや二人かもしれない。
どれだけ悩《なや》み事《ごと》があっても、鍛《きた》えぬかれた戦士の嗅覚《きゅうかく》は、その気配《けはい》を逃がさなかった。それまでの苦悩《くのう》は頭の片隅《かたすみ》に押《お》しのけて、腰の後ろから九ミリ拳銃《けんじゅう》を引き抜《ぬ》く。
「…………」
鍵《かぎ》は開いている。郵便受《ゆうびんう》けに隠《かく》してあったスペアキーを使ったのだろうか? だとしたらクルツやマオではない。彼らはこの部屋の合い鍵を持っている。
(では、だれだ?)
待ち伏《ぶ》せの気配はない。
彼は一度|深呼吸《しんこきゅう》してから、思い切って扉《とびら》を開き、室内に踏《ふ》み込んだ。獲物《えもの》に飛びかかる蛇《へび》のように、低く、鋭《するど》く、廊下を駆《か》けぬけ――
リビングに躍《おど》り出ると、その場にいた二人の男女に、ぴたりと銃口《じゅうこう》を向けた。
一人は見知らぬ少年だった。パジャマ姿で、痩《や》せている。
もう一人は薄汚《うすよご》れたスーツ姿《すがた》の少女だった。アッシュブロンドの髪《かみ》。青ざめた顔。細い指に不釣《ふつ》り合いな大型の自動拳銃を握《にぎ》り、その銃口を少年の方に向けている。
少女は驚《おどろ》きと脅《おび》えをあらわにして、その場に凍《こお》り付いていたが、宗介の顔を見て――深い安堵《あんど》のため息をついた。
「サガラさん。ああ……良かった」
宗介は目を丸くした。
「大佐殿《たいさどの》……!?」
その少女――テレサ・テスタロッサ大佐は緊張《きんちょう》の糸がぶっつりと切れたように、銃を下ろし、背後の壁《かべ》によりかかった。
「敵だったら、もうおしまいだと思ってました。わたしは……銃とかが苦手《にがて》で」
「どういうことです。それに、この彼は?」
「彼を逃《に》がさないでください。彼は……その」
沈黙《ちんもく》したままの少年と、宗介の目が合った。その視線《しせん》に、彼は強い違和感《いわかん》を覚えた。
どこを見ているのだ?
宗介がいぶかしんだ次の瞬間《しゅんかん》、少年がふらりと立ち上がり、一歩前に出た。
「…………?」
本能的《ほんのうてき》に、宗介は少年に銃を向けた。
「う……ああ。ああぁあぁあっ!!」
ぞっとするような叫《さけ》び声をあげて、少年が飛びかかってきた。宗介は銃を使わず、素早《すばや》い身のこなしで身をかがめ、突進《とっしん》してきた少年に背負《せお》い投げを見舞《みま》った。したたかに背中を打ちつけ、息が詰《つ》まった彼のみぞおちに、拳銃《けんじゅう》のグリップを叩《たた》き付ける。
「がっ……」
少年は失神《しっしん》した。
(なんだ、こいつは?)
当然《とうぜん》のように勝利をおさめておきながらも、宗介は内心で当惑《とうわく》していた。
「ぎりぎりだったわ。きっと鎮静剤《ちんせいざい》が切れたんですね」
テッサが言った。
宗介はテッサが連れてきた少年――タクマといった――に手錠《てじょう》をかけて寝室《しんしつ》に放《ほう》りこみ、パイプ椅子《いす》を引《ひ》っ張《ぱ》り出してきてテッサに勧《すす》めた。
彼の部屋には、ほとんど家具がない。もちろんソファーもだ。
テッサのような少女が、水陸両用戦隊《すいりくりょうようせんたい》 <トゥアハー・デ・ダナン> の総指揮官《そうしきかん》である理由は、宗介も知らない。ただ、彼女にその重責《じゅうせき》を務めるだけの知性と能力《のうりょく》があることは、彼を含《ふく》めた隊員《たいいん》のほとんどが認めていた。
だからこそ、宗介は彼女と話す時に緊張《きんちょう》する。
数百人の信頼《しんらい》と命を一身に背負《せお》うことに比べれば、一人で|A S《アーム・スレイブ》に乗って戦う方がはるかに気楽な仕事だ。彼にとって、テレサ・テスタロッサは別次元《べつじげん》の住人だった。
コーヒーはいるかと質問《しつもん》すると、彼女は『お願いします』と答えた。ぎくしゃくとした動きで敬礼《けいれい》すると、宗介はキッチンに向かった。
一〇分後――
おおよその事情《じじょう》を聞いた宗介は、驚《おどろ》きはしたものの納得《なっとく》した。
それにしても、一人の少年を強奪《ごうだつ》するために、政府《せいふ》の研究所をASで襲撃《しゅうげき》するとは。盲腸《もうちょう》の手術《しゅじゅつ》にチェーンソーを振《ふ》り回すような暴挙《ぼうきょ》だ。敵は手荒《てあら》なやり方が好きらしい。
テッサはカリーニン少佐を見失ってしまったことを語り、護衛《ごえい》のヤン伍長《ごちょう》と共にタクマを連れて逃げた経緯《けいい》を話した。
「それで、その研究所の重を拝借《はいしゃく》して脱出《だっしゅつ》したわけですか」
キッチンでことことと音をたてるコーヒー・メーカーを見張《みは》りつつ、宗介はたずねた。
「ええ。ASがいたから、ヘリを呼ぶのはむしろ危険だったし。通信機《つうしんき》も壊《こわ》れていて。怪我《けが》をしているのに、ヤンさんは無理《むり》をして運転を……」
「直接ここへ?」
「いいえ。そのまま車でこちらを目指したんですけど、途中《とちゅう》でヤンさんの具合《ぐあい》が悪くなって。彼も限界《げんかい》だったんですね。仕方《しかた》がないので、東久留米《ひがしくるめ》のあたりで彼を置き去りにしました。公衆《こうしゅう》電話で救急車《きゅうきゅうしゃ》を呼んでから、タクシーを拾ってその場を離《はな》れて……」
やはり賢明《けんめい》な人物だな、と宗介は思った。
東京には、<ミスリル> の恒久的《こうきゅうてき》な活動拠点《かつどうきょてん》がない。現在、情報部が東京支局の設置《せっち》を準備《じゅんび》しているらしいが、運転が始まるのはまだ先の話だ。つまり、テッサにとって完全に信用できる人間のいる場所は、この国ではこのマンションしかないのだ。
日本の警察《けいさつ》は信用できない。なにしろ、秘密《ひみつ》だったはずの研究所さえ襲撃《しゅうげき》されてしまったのだから。どこに駆け込んでも安全とは言えなかった。
「タクシーは二回ほど乗《の》り換《か》えて、ここまで来ました。鍵の場所はメリッサから聞いてたから」
宗介の同僚《どうりょう》。メリッサ・マオ曹長《そうちょう》は個人的にテッサと親しい。お互《たが》い女性でアメリカ人、しかも東海岸の出身だからだろう。しかし、スペアキーの場所まで教えているとは。いったい自分についてどんな話をしていたのだろう? と、彼は思った。
「なぜタクマが重要な人物なのです?」
「それは……。ごめんなさい。あなたにはその情報に接《せっ》する資格《しかく》がないんです」
申《もう》し訳《わけ》なさそうにテッサが言った。
「そうですか。失礼しました」
説明を拒《こば》まれても、宗介はとりたてて疑念《ぎねん》を抱《いだ》かなかった。<ミスリル> のような組織に属《ぞく》していると、こういう返事をされることは特に珍《めずら》しいことではない。
「ただ、彼らにとって重要なことは確かです。ああいう真似《まね》をするのさえ、ためらわないほど。彼が――タクマが敵の手に渡ったら、大変なことになるわ」
マグカップにコーヒーを注《つ》ぎ、リビングに戻《もど》ってテッサに差し出す。
「ありがとう、サガラさん」
「いえ。安い豆です」
「この部屋《へや》に着いてから、あのタクマと二時間近くにらめっこしていて……さすがに疲れました。あなたの通信機を使おうにも、起動《きどう》に必要なパーソナル・コードを知らないし」
「恐縮《きょうしゅく》です。それで……ヤンは助かりそうでしたか」
優秀《ゆうしゅう》だが、人が良すぎるのが欠点の同僚《どうりょう》の顔を、宗介は思い出した。
「ええ。急所《きゅうしょ》は負傷してませんでしたし。ただ、出血が多かったですから……」
彼女は上品な仕草《しぐさ》で熱いコーヒーをすすってから、ため息をついた。
「駄目《だめ》ですね、わたし。陸《おか》にあがるとまるで役立たずで。私がぐずなせいで、カリーニンさんが……」
テッサは口籠《くちご》もった。
「なんと言ってお詫《わ》びしたらいいか、わからないわ。あなたのお父さまも同然《どうぜん》なのに」
「いえ。少佐は必要な仕事をしただけです。それに戦死《せんし》と決まったわけではありません」
「もちろんそうですけど」
「生きているでしょう。おそらく」
「でも……」
「――はじめて会った時、少佐と自分は敵同士でした。あれほど手強《てごわ》い男を相手にした経験《けいけん》は、自分にもありません」
宗介なりに安心材料を与えたつもりだったが、テッサの反応《はんのう》はすこし違った。それまでとは別の意味での不安を見せて、
「敵同士……?」
「昔のことです。ソ連のアフガン再侵攻《さいしんこう》のおり、パンジシール渓谷《けいこく》で遭遇戦《そうぐうせん》を」
宗介はアフガニスタンのゲリラ出身である。一方のカリーニンは、ソ連の特殊《とくしゅ》部隊・スペツナズの指揮官《しきかん》だった。内戦中のアフガニスタンでこの二人が出会うには、敵味方という形でしかありえなかった。
「地形を熟知《じゅくち》していた自分が完敗《かんぱい》しました。彼を殺すのは至難《しなん》の技《わざ》です」
「変ななぐさめですね……。でも、たぶんあなたの言う通りなのでしょう。カリーニンさんは無事《ぶじ》だと思っておきます」
テッサは弱々しくほほ笑んだ。それから、宗介が直立不動《ちょくりつふどう》のままでいるのに気付いて、
「そんなにかしこまらないで、サガラさん。どうか座《すわ》ってください。ここはあなたの部屋なんだから」
「いえ、大佐殿。ここは <ミスリル> のセーフ・ハウスです」
「でも、あなたが住んでるんでしょう?」
「そうですが、購入《こうにゅう》したのは <ミスリル> の資産《しさん》によるものです」
テッサはやっと、声を出して笑った。
「やっぱり、メリッサの言ったとおりですね」
「は?」
「生真面目《きまじめ》で融通《ゆうずう》が利《き》かないけど、とってもいい人。さっきもああして、カリーニンさんのことでわたしを励《はげ》ましてくれました」
「は。いえ、それは……」
答えに窮《きゅう》した彼の顔を、テッサは下からのぞきこんだ。大きな灰色の瞳《ひとみ》が、わずかに悪戯《いたずら》っぽく輝《かがや》いている。
「知ってます? わたしとあなた、同《おな》い歳《どし》なんですよ」
「は。……それは、聞き及《およ》んでいますが」
「手をつないで歩いたら、きっと恋人同士に見えるでしょうね」
「は。その……光栄《こうえい》であります」
彼はかろうじて返答した。『自分と大佐殿では釣《つ》り合いがとれません』と言うべきだっただろうか、と彼は懸念《けねん》したが、テッサは特に気分を害《がい》した様子《ようす》ではなかった。
彼女は控《ひか》えめだが愛らしい笑顔を浮かべて、
「わたしも光栄です。まあ冗談《じょうだん》はともかく、こういう時はもうちょっとくつろいでください。そうやって肩肘《かたひじ》はっていられると、わたしだって困ってしまいます」
「了解《りょうかい》しました」
[#挿絵(img/02_093.jpg)入る]
「これ、命令じゃありませんよ?」
「はい。つまり、頼《たの》み、ですか」
「そんなところかしら。もしあなたが良ければ、『友達の頼み』ということにして欲しいです」
「はっ。ご命令とあれば」
テッサはおかしいような悲しいような、そういう複雑《ふくざつ》な表情を見せた。
「まあ、いいです。それと、もう一つ頼みがあるんですけど」
「なんでしょう」
「バスルームを使わせてください。見てのとおりの有《あ》り様《さま》ですから」
ほこりにまみれたブラウスと、ほつれた三つ編《あ》みの髪《かみ》を、指先でつまんでみせる。
「は……?」
「シャワーを浴《あ》びたいんです。使えるんでしょう?」
「……使えます。どうぞ。<デ・ダナン> との連絡《れんらく》はどうしましょうか」
「お願いします。たぶん今は深く潜《もぐ》っているでしょうから、メリダ島|基地経由《きちけいゆ》のELF通信で、潜望鏡深度《せんぼうきょうしんど》まで浮上《ふじょう》するように伝えてください。わたしの今週の識別《しきべつ》コードは『ナンタケットのおじいさん』です。艦が浮上して秘話回線《ひわかいせん》が開いたら、わたしが直接話しますから」
指示《しじ》を出すと、彼女はバスルームへ向かった。
自分の耳の良さは、こういう時には厄介《やっかい》だ……と宗介は思った。
バスルームの脱衣所《だついじょ》から、ごそごそと衣擦《きぬず》れの音がする。ばさり、ばさりと衣服が洗濯機《せんたくき》の上に放り出され――さらに小さめの衣擦れの音。するりと、彼女がなにか[#「なにか」に傍点]から足を抜いた。かちゃりと浴室《よくしつ》の戸が開き――閉まる。
「…………」
別に耳を澄ましているわけでもないし、彼女の一糸まとわぬ姿を想像《そうぞう》したりするわけでもないのだが――それでも、どうも落ち着かない。
雲の上の存在だと思っていたテレサ・テスタロッサでも、やはり入浴《にゅうよく》する。あの略式平服《りゃくしきへいふく》も、身体《からだ》の一部ではない。そう思うと、バスルームの扉《とびら》の向こうに安全装置《あんぜんそうち》の外れた巨大な爆弾《ばくだん》が置いてあるような、そんな気分になるのだった。
(仕事だ、仕事……)
彼は頭を振《ふ》ると、自分がするべきことに取りかかった。部屋に備《そな》え付けの衛星通信機《えいせいつうしんき》で、太平洋の <トゥアハー・デ・ダナン> と連絡《れんらく》をとる。
深海《しんかい》には普通《ふつう》の電波《でんぱ》が届《とど》かないため、直接の会話はできない。<ミスリル> の西太平洋基地を通して|極超長波《ELF》で手短かな電文を送ると、二分後に返事《へんじ》が送られてきた。
<<了解《りょうかい》。一〇二〇(GMT)に回線G3にて再度連絡されたし>>
およそ二〇分後だ。宗介は通信機を切った。
連絡が取れれば、<デ・ダナン> なり西太平洋基地なりから、増援《ぞうえん》がやってくることだろう。それからタクマを国外の安全な場所に移してしまえば、敵でも手は出せない。迎《むか》えが来るまで、テッサとタクマを守り続けることができれば、こちらの勝ちだ。
宗介は寝室《しんしつ》のタクマの様子《ようす》を見た。
手錠《てじょう》で質素《しつそ》なベッドにつながれたタクマは、すでに息を吹《ふ》き返していた。うってかわって落ち着いた様子で、部屋に入ってきた宗介を眺《なが》めている。
「腹《はら》は減《へ》ってないか」
試《ため》しに、宗介は言ってみた。
「いいえ」
思ったよりもはっきりした声で、タクマは答えた。
「言葉はわかるようだな」
「もちろんですよ。相良宗介さん」
タクマは彼のフルネームを口にして、薄笑《うすわら》いを浮かべた。この部屋に入るとき、表札《ひょうさつ》でも見たのだろう。『おまえのことを知っているぞ』とでも言いたげな、明らかな挑戦《ちょうせん》だった。
「頭もいいようだ」
それだけ言って、宗介はリビングに戻った。テレビをつけて、武器の手入れをする。
ちょうどNHKが七時のニュースを流していたが、研究所の襲撃事件《しゅうげきじけん》はまったく報道《ほうどう》されていなかった。日本|政府《せいふ》はこの事件を隠《かく》すつもりらしい。ASを保有した連中が野放《のばな》しになっている事実《じじつ》さえ、伏《ふ》せておく気のようだった。
(早めに場所を移るべきかもしれんな……)
サイレンサー付きのサブマシンガンを点検《てんけん》しながら、宗介は思った。このマンションを敵が知っているとも思えなかったが、だからといって安心していい理由はない。
クイック・ローダーで予備弾倉《よびだんそう》に九ミリ弾をこめていると、チャイムが鳴《な》った。
「…………」
宗介は点検したてのサブマシンガンと、防弾《ぼうだん》ベストを持って玄関《げんかん》に向かった。扉《とびら》の前に立って、防弾ベストを盾《たて》のように持つ。扉|越《ご》しに撃たれた場合を考えての用心だった。
そろそろと、のぞき穴《あな》から外をうかがう。
魚眼《ぎょがん》レンズの向こうに、ぐにゃりとひん曲がったかなめの顔が広がっていた。すでに私服姿だ。どこか落ち着かない様子で、そわそわと扉の前で身じろぎしている。
不審《ふしん》に思いながら、彼は扉を開けた。
「千鳥《ちどり》。どうした?」
「……また。そんなブッソーな鉄砲《てっぽう》持って」
「いろいろとあってな。あたりに不審《ふしん》な人物はいなかったか?」
「もう。いるわけないでしょ?……それでね、ええと……」
かなめは口籠《くちご》もり、うつむき、爪先《つまさき》で床《ゆか》をとんとんと蹴《け》り、
「その……さっきはちょっと言い過《す》ぎたと思って」
決まりが悪そうに、もごもごと言った。
「まあ……うん。ソースケだって、遊んでたわけじゃないんだよね。そんなことくらい、わかってるつもりなんだけど。あたしって……ほら、強情《ごうじょう》なトコあるから。だから、つまり……なんとゆーのか」
彼女はごくりと喉《のど》を鳴らした。
「その……ごめんね」
一度頭を下げてから、上目遣《うわめづか》いに宗介を見る。はねつけられたらどうしよう、と心配している顔だった。
よかった。この問題はこれで解決《かいけつ》した……と、宗介は思った。先刻《せんこく》の重苦《おもくる》しい感覚が、嘘《うそ》のように消えていく。彼女が自分に悪意《あくい》を持っているなど、考えすぎだった。
「いや。いつも君には迷惑《めいわく》をかけている。謝《あやま》られるとこちらが困る」
「……許してくれる?」
「許すもなにもない。悪いのはこちらだ」
「ほんと? ありがと!」
かなめは顔をばっと明るくすると、背中《せなか》に隠していた重箱《じゅうばこ》の包《つつ》みを差し出した。
「それでね、きのうのおかずが残ってるの。持ってきたんだけど、食べない? キッチン使わせてくれれば、おいしく温《あたた》めなおしてあげるから」
「それは……」
たちまち宗介は苦慮《くりょ》した。中にはテッサとタクマがいる。しかもテッサはいま……。
ひどく後ろめたい気持ちが、彼の胸中《きょうちゅう》で渦巻《うずま》いた。自分はなにも悪いことはしていないはずなのに。
「ごはん、もう食べちゃったの?」
「……いや、まだなのだが」
不安に曇った彼女の瞳《ひとみ》が、彼に嘘を付かせるのをためらわせた。
「じゃあ、一緒《いっしょ》に食べようよ。上がっていいかな?」
玄関《げんかん》に入ろうとするかなめの前に、宗介は立ちふさがった。
「どしたの……?」
「いや。君の厚意《こうい》には感謝《かんしゃ》しているのだが」
「え?」
「非常《ひじょう》に複雑《ふくざつ》で有機的《ゆうきてき》な事情《じじょう》がある。これは――説明に時間を要《よう》する問題でもあり、なんというのか、君が納得《なっとく》するかどうか確信《かくしん》が持てない」
「なに言ってるの?」
そのとき、玄関《げんかん》のすぐそばに位置《いち》する、バスルームの扉が開いた。
裸身《らしん》にバスタオル一枚だけを巻いたテッサが、扉の隙間《すきま》から上半身をひょこりと突《つ》き出す。彼女の濡《ぬ》れた髪《かみ》から、銀色のしずくがぽたぽたと床《ゆか》に落ちていた。
「サガラさん。なにかTシャツとかを……あら?」
テッサとかなめの目が合った。
二人とも、三秒あまりきょとんとしていた。宗介はその間に突っ立って、ぶわっと額《ひたい》から脂汗《あぶらあせ》を流し、首を小刻《こきざ》みに動かしていた。なにか良くないことが起きていることを、彼は本能的《ほんのうてき》に感じていた。そう、これは非常《ひじょう》に良くない……。
「こんばんは」
テッサはしっとりとした微笑《びしょう》を浮かべて、すこし照《て》れくさそうに挨拶《あいさつ》した。なぜかラブシーン直後《ちょくご》の洋画ヒロインの、はにかんだ雰囲気《ふんいき》に似《に》ていた。
「はあ。こんばんは……」
まのびした声でかなめが答えた。それから彼女は呆《ほう》けたように、重箱の包みを宗介に押《お》し付けた。
「これ……お二人でどうぞ」
「ち、千鳥……?」
「かわいい彼女ですね。お邪魔《じゃま》しました」
かなめは回れ右をして、とことこと共通廊下《きょうつうろうか》を歩いていく。
漠然《ばくぜん》と、事態《じたい》が深刻《しんこく》な方向に突進《とっしん》していることを察《さっ》して、宗介はかなめの後を追いかけようとした。しかし――
「付いてこないでくれる?」
底冷《そこび》えのする声で告げられて、彼はその場に釘《くぎ》づけになった。
「千鳥、君はなにか勘違《かんちが》いをしている」
「どんな勘違い?」
「彼女は……俺の上官だ。<ミスリル> の大佐で、強襲揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》の艦長を務《つと》めている。俺などおよびもつかない地位の人物だ」
彼がもうすこし冷静だったら、こんな途方《とほう》もない話をするのは控《ひか》えただろう。
「あなた、あたしのことバカだと思ってるでしょ?」
「そんなことはない」
かなめがぴたりと立ち止まった。肩《かた》が震《ふる》えている。後ろから表情はうかがえなかったが、怒《おこ》っているのだと宗介は思った。しかし――
「ごめん。なんにも知らないで、お節介《せっかい》して。ずっと迷惑《めいわく》だったでしょ……?」
「違う、千鳥。断《だん》じてそれは違うぞ」
「いいの、もう。無理《むり》しないで。あたし怒ってないし、悪かったと思ってるだけだから。これからは気をつけるから――」
「千鳥」
「とにかくごめん」
かなめは言うと、非常階段《ひじょうかいだん》の方へ走り去ってしまった。
大佐殿が悪いのではない、元々の原因《げんいん》はテロリストなのだ、と宗介は思った。もし問題の敵――その <A21[#「21」は縦中横]> とかいう連中と戦うことになったら、自分は手持ちの弾薬《だんやく》すべてを叩《たた》き込むまで、戦闘《せんとう》をやめないかもしれない。
テッサは衛星通信機《えいせいつうしんき》で、太平洋の <トゥアハー・デ・ダナン> と連絡《れんらく》をとっている。話している相手は、副長のリチャード・マデューカス中佐だろう。
替《か》えの服などないので、テッサはカーキ色のTシャツ一枚だけ、といった悩《なや》ましげな格好《かっこう》だった。はじめて見る彼女の、ほっそりとした素足《すあし》。愛らしく、小さな足の指。Tシャツの襟口《えりぐち》から白い胸元がちらちらと見えて、なんとも目のやり場に困る。
木石《ぼくせき》に手足の生えたような宗介だったが、さすがにテッサが魅力的《みりょくてき》な少女であることは理解《りかい》できた。その無防備《むぼうび》さにも参《まい》ってしまう。かなめとはまた違った意味で、テッサは彼を困惑《こんわく》させるのだった。
やがて相談《そうだん》が終わったらしく、彼女は通信機のスイッチを切った。
「いかがでしたか」
「ここに応援《おうえん》が来ます。メリッサとウェーバーさんが」
マオとクルツのことだ。
「いちおうM9も一機、持って来てもらいます。タクマは <デ・ダナン> に送って、それからあなたたちに仕事を」
「と、申《もう》しますと」
「敵の拠点《きょてん》を探す偵察任務《ていさつにんむ》です。<デ・ダナン> のマザーAIで、警察や自衛隊《じえいたい》の通信情報《つうしんじょうほう》を監視《かんし》するように頼《たの》みましたから、明朝までには手がかりも得られるでしょう。当たりをつけたら包み込んで、泳がすか制圧《せいあつ》するかを決めます」
指揮官《しきかん》の声でテッサは言った。
「では、大佐殿は?」
「わたしは東京に残ります。敵が持っている可能性《かのうせい》の高い、特殊な機材[#「特殊な機材」に傍点]の扱《あつか》いを知っているのはわたしだけですから」
その『特殊《とくしゅ》な機材』というのが何なのかは、聞いても説明は得《え》られないだろう、と宗介は思い、それ以上|質問《しつもん》しなかった。
「というわけで、しばらくは待つだけです。さて……」
テッサはパイプ椅子《いす》に腰《こし》かけると、軽く伸《の》びをした。
「さっきの人、チドリ・カナメさんですね」
「は?」
なんの前置きもなかったので、宗介は思わず聞き返してしまった。
「チドリ・カナメさんでしょう?」
「そうです」
「仲、良さそうですね」
「……いえ。それほどでは」
「そうかしら。わたしにはそう見えませんでしたけど。夕《ゆう》ご飯《はん》を作って持って来てくれるなんて、なんだか奥さんみたい」
「申《もう》し訳《わけ》ありません。今後は公私《こうし》を混同《こんどう》しないよう、注意します」
宗介の返事を聞いて、テッサは笑った。
「そうじゃなくって。確《たし》かにチドリさんの護衛《ごえい》を認《みと》めたのはわたしですけど、だからといって親しくなるなと言ったわけじゃありませんよ」
かなめの護衛を直接彼に命じたのはカリーニン少佐だったが、当然《とうぜん》、その上官であるテッサもそれを知っていることを、宗介は思い出した。
「ただ、なんとなく気になって。サガラさんでも好きな女の子がいるのかな……と」
彼女の口ぶりにはなにかを探るような、謎《なぞ》めいた響《ひび》きが見え隠《かく》れしていた。答える術《すべ》を知らず、宗介がその場で凝固《ぎょうこ》していると、
「やっぱり付き合ってるんですか? 彼女と」
なぜか神妙《しんみょう》な声で、テッサがたずねた。
「いえ、決してそのような関係では」
「本当?」
「はい。信頼関係《しんらいかんけい》の醸成《じょうせい》に手間取《てまど》っているのが実情《じつじょう》です」
「そう。良かった」
テッサは手を組み、にっこりとした。上官がなにやら納得《なっとく》したようなので、宗介も安堵《あんど》し敬礼《けいれい》しようとしたが――
(いや、待て……)
『良かった』だと……? どういう意味だ? 俺とかなめの関係がうまくいってないことを、なぜ彼女が歓迎《かんげい》するのだ?
テッサは変わらずにこにこしている。別に邪心《じゃしん》は感じられない。
(わからん)
まったく理解《りかい》できなかった。おそらく、下士官の自分には計《はか》り知れないほど深淵《しんえん》な意味なのだろう。なにしろ彼女は <トゥアハー・デ・ダナン> の指揮官《しきかん》だ……宗介はそう自分に言い聞かせることにして、話題を変えようと試《こころ》みた。
「それよりも――あのタクマですが。その重要さはともかく、彼を追っている <A21[#「21」は縦中横]> は、どれだけの戦力を?」
テッサはすこし拍子抜《ひょうしぬ》けした様子を見せた。だがすぐに気を取り直して、
「それは……まだはっきりとはわかりません。ですけど、かなり高度な機材を持っていて、しかも練度《れんど》が高いことは予想できます」
「情報力《じょうほうりょく》は?」
「それも不明《ふめい》です。日本|政府《せいふ》に内通者《ないつうしゃ》がいる可能性《かのうせい》はありますけど」
「タクマを訊問《じんもん》するべきでは」
「わたしもそれは考えましたけど……彼はとうてい協力的《きょうりょくてき》ではないんです。手荒《てあら》な真似《まね》はしたくないし。もうすこし様子《ようす》を見てから決めましょう」
「しかし――」
そこで宗介は口をつぐんだ。
「どうやら、動く必要があるようです」
その顔つきが、たちまち鋭《するど》く険《けわ》しいものになる。彼はサブマシンガンを拾《ひろ》い上げ、弾倉《だんそう》を二本、ベルトにねじ込んだ。テッサは眉《まゆ》をひそめ、
「どうしました?」
「キッチンへ。伏《ふ》せていてください」
伏せていてください――
そう告げただけで、テッサはすべてを察《さっ》したようだった。『わたしもなにか手伝いを』とさえ言わない。自分が足手まといになることを理解しているのだ。
「気を付けて……」
それだけ言って、彼女はキッチンの奥へと向かった。
チャイムが鳴った。かなめでないことは分かっていた。リビングの壁《かべ》に付いたインタフォンを取る。
『宅急便《たっきゅうびん》です』
「いま行く」
応《こた》えたが、宗介は玄関には向かわなかった。その場に突っ立ったまま、電灯《でんとう》のスイッチに指をかけて目をつむり、深呼吸する。静かな緊張感。ぴりぴりと大気を伝わってくる殺意《さつい》。自分の居場所《いばしょ》に戻《もど》ってきたな、と宗介は思った。
一〇秒ほど経過《けいか》したところで――
ベランダに面した窓ががしゃんと割れ、手榴弾《しゅりゅうだん》が飛び込んできた。いや。催涙弾《さいるいだん》だ。一秒と置かず、それは催涙ガスを噴き出した。催涙弾の次に、黒ずくめの戦闘服《せんとうふく》で身を固めた男が飛び込んできた。ガスマスクを付け、サブマシンガンで武装《ぶそう》している。
それを待っていたように、宗介はリビングの明かりを消して、男めがけて発砲《はっぽう》した。
突然襲《とつぜんおそ》ってきた暗闇《くらやみ》のせいで、侵入者《しんにゅうしゃ》の反応《はんのう》が遅《おく》れた。まともに銃撃《じゅうげき》を浴《あ》びてその場に倒《たお》れ――沈黙《ちんもく》。
まだ来る。隣室《りんしつ》。
リビングに広がっていく催涙ガスなどものともせず、宗介は無駄《むだ》のない動作で寝室《しんしつ》へと歩き、タクマに向かって、
「伏せろ」
告げるやいなや、その背後の窓に向かって、弾倉《だんそう》の残りの弾《たま》を残らず叩き込んだ。ガラスの破片《はへん》が飛び散り、窓のフレームが火花を散らす。短い悲鳴のあと、ベランダでだれかがどさりと倒れる音がした。
なめらかな手つきでサブマシンガンの弾倉を交換《こうかん》していると、玄関《げんかん》の方で小さな破裂音《はれつおん》がした。ドアの蝶番《ちょうつがい》と取っ手がプラスチック爆薬《ばくやく》で吹《ふ》き飛ばされたのだ。
ドアを蹴破《けやぶ》り、玄関から別の侵入者が踏《ふ》み込んでくる。
うす暗がりの中、催涙ガスの作り出した濃霧《のうむ》の向こうに、ガスマスクを付けた宅急便の配達員《はいたついん》の姿が見えた。手には大型の自動拳銃《じどうけんじゅう》。
「武器を捨てろ」
最大限の親切心から警告《けいこく》したが、相手はそれを無視《むし》した。リビングに立つ宗介に向かって、銃口を向ける。宗介は躊躇《ちゅうちょ》せずに引き金を引いた。
マズル・フラッシュが、催涙ガスの渦《うず》を作る。五発ほどの九ミリ弾を食らって、配達員は背中から倒れた。
共通廊下、ベランダその他を警戒《けいかい》して回るが、ほかに敵は見えなかった。
(三人か。どうも――)
厚みのない攻撃《こうげき》だ、と宗介は思った。挟《はさ》み討《う》ちを仕掛《しか》けるまでは良かったが、いまいち呼吸《こきゅう》が合っていない。練度《れんど》はまずまずだが、相手が悪かった。
「けほっ、けほっ……」
テッサが激《はげ》しくむせながら、キッチンの換気扇《かんきせん》のスイッチを入れていた。催涙弾に対する訓練《くんれん》を受けていない彼女にはきついだろう、と宗介は思った。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》です、大佐殿」
「ごほっ……は、はい……」
しばらくは話せないだろう、と見て取り、リビングに倒れた襲撃者《しゅうげきしゃ》に歩《あゆ》み寄《よ》る。防弾《ぼうだん》ベストを付けてはいたが、喉《のど》と頭に銃弾を受け、即死《そくし》していた。
「…………」
一瞬《いっしゅん》、憐憫《れんびん》に近い感情を催《もよお》したが、それもすぐに消え失せる。この連中は同じやり方で、研究所の職員や警備隊員を山ほど殺したのだ。この男が同じ目にあったとして、それは決して不公平《ふこうへい》ではない。
月並《つきな》みな言葉だが――殺《や》るか、殺《や》られるかだ。
襲撃者は屋上からザイルを使ってベランダに侵入《しんにゅう》してきたらしい。一度も火を吹くことがなかったサブマシンガンには、対テロ戦争用の特殊弾頭《とくしゅだんとう》が装填《そうてん》してある。この弾も銃も、暴力団《ぼうりょくだん》などから入手できるようなものではなかった。
ガスマスクをはがして、顔を見る。
「…………」
若い日本人だった。自分とさして変わらない年齢《ねんれい》のようにも見える。驚《おどろ》きに見開いたままの目が、宗介を虚《うつ》ろに見上げていた。
残りの二人――ベランダと玄関の死体を見る。どちらの襲撃者も、やはり同様だった。おそらくは日本人で、|二〇《はたち》を越《こ》えるか越えないか、といったところだ。
きのうの作戦で手配《てはい》写真を見た時にも思ったことだが、<A21[#「21」は縦中横]> というのはいったい、どういうテロ組織《そしき》なのだろうか? 構成員《こうせいいん》は、こんな少年ばかりだ。政治結社《せいじけっしゃ》というわけでもないらしいが……。
ようやく人心地《ひとごこち》ついたテッサがキッチンから出てきた。寝室《しんしつ》の窓際《まどぎわ》までやってきて、ベランダに横たわる襲撃者を青ざめた顔で見下ろす。
「なぜここが分かったのかしら?」
特に感想も漏らさず、テッサは言った。
「尾《つ》けられた、とは思えません。大佐殿とタクマを狙《ねら》う機会は、ここに来る前にも山ほどあったはずですから」
「そうですね。<ミスリル> に内通者《ないつうしゃ》がいるとは……ちょっと考えにくいですけど。敵の情報網《じょうほうもう》を侮《あなど》っていたのかもしれないし。ほかに考えられるのは……ほかに……」
不意《ふい》に、言いよどむ。声がうわずる。
「……ほかに……っ」
「大佐殿?」
「ごめんなさい。わたし……」
テッサはこらえきれなくなったように、宗介にすがり付いてきた。肩《かた》が小刻《こきざ》みに震《ふる》え、断続的に浅い吐息をつく。細い指が、彼のワイシャツを鷲《わし》づかみにした。
「い……いまさら、こういうのを見て……どうこう思う資格《しかく》がないのは……わかってるんです。たださっきまで……すこし……気が弛《ゆる》んでいたから……」
宗介の胸に額《ひたい》を押し付け、彼女は声を絞《しぼ》り出した。
『気が弛んだ』原因《げんいん》が他《ほか》ならぬ自分にあることなど、宗介にはとうてい知りようもなかった。普通《ふつう》の少女の気分になって、同年齢の異性《いせい》と語らっていたら――この始末《しまつ》である。自分の生きる世界を思い知らされて、感情が暴発《ぼうはつ》しそうになったのだろう。
「ごめんなさい。……すぐ戻《もど》りますから。ごめんなさい」
嗚咽《おえつ》が漏《も》れるのを必死《ひっし》でこらえて、何度も謝《あやま》る。どう答えたらいいのか分からず、宗介が棒立《ぼうだ》ちしていると、そばにいたタクマがくっくっ、と笑いを漏《も》らした。
「なにか楽しいことでも見つけたのか」
「いえ……。ただ、よく泣いている余裕《よゆう》があるな、と思いまして」
「どういう意味だ」
やんわりとテッサの身体《からだ》を離《はな》しながら、宗介は言った。
「だって、じきにあなた方もそうなる[#「そうなる」に傍点]運命なのに。どこに逃げても無駄《むだ》ですよ。僕を連れている限《かぎ》りは、同志たちはあなた方を追ってきます」
「よほどおまえが大事《だいじ》とみえるな」
「ええ。とても。だから、おとなしく僕を解放《かいほう》した方がいいですよ。これは親切心です」
「こういう解決《かいけつ》方法もあるぞ」
タクマの頭に、宗介はサブマシンガンの銃口《じゅうこう》を突《つ》きつけた。それは敵の手が届《とど》かない場所に彼を送る、もっとも簡単な手段《しゅだん》だった。
「僕を殺すと?」
「俺が必要ならそうする男だということは、すでに分かったはずだ」
「いけません、サガラさん」
後ろからテッサが制止《せいし》する。すでに嗚咽《おえつ》はおさまっていた。
「理由《りゆう》を教えてもらえますか」
「それは……。そうするのが、一番|合理的《ごうりてき》で安全なのは確かです。でも……わたしたちは、そういうやり方をしてはいけないんです」
テッサは自分自身に言い聞かせるように言った。
「わかりますか? もしそうしたら、わたしたちは彼らと同じになってしまう。こんな組織を作り上げ、こんなことをしている意味《いみ》がなくなるんです」
宗介はぴくりとも動かず、自分の銃《じゅう》と、その先にあるタクマの顔を見ていた。タクマは傲岸不遜《ごうがんふそん》なようだったが――わずかな感情が浮《う》かんでいた。普通の人間では気付くこともできないほどの、かすかな恐怖《きょうふ》。
「サガラさん、わたしは甘《あま》いですか?」
「いえ……」
宗介は銃を下ろした。
「彼女に感謝することだな」
告げると、きびすを返す。タクマは彼の背中を、次にテッサを見た。
「……これくらいで、僕があなたに恩義《おんぎ》を感じると思いますか?」
「いいえ。それに、そういうつもりで止めたのではありません」
「くだらない自己満足《じこまんぞく》ですね。そうやって自分を高いところに置いておくわけだ」
「そう思ってもらって結構《けっこう》です」
気のない声で告げると、テッサは宗介の後からリビングに入った。
「ありがとう、サガラさん」
「いえ。……それよりも、新手《あらて》が来ると厄介《やっかい》です」
「そうね。とにかくこの場を離《はな》れましょう」
「自分は遺体《いたい》を片づけます。大佐殿は <デ・ダナン> に連絡《れんらく》をしていただけますか。移動先《いどうさき》は――」
宗介はこれからどこに行くべきか考えた。
「『日本史を習いに行く』と伝えてください」
「日本史……?」
「そう言えばウェーバー軍曹《ぐんそう》がわかります」
[#地付き]六月二六日 二〇三一時(日本標準時)
[#地付き]調布市 多摩川町 メゾンK
かなめはソファーに横たわって、ぼーっと天井《てんじょう》を眺《なが》めていた。
最初は泣きたい気分だったが、それも収《おさ》まり、今ではどうしようもない倦怠感《けんたいかん》が彼女を支配《しはい》していた。
ショックだった。いつもぶっきらぼうで、融通《ゆうずう》が利《き》かなくて、ほかの女の子なんかには絶対《ぜったい》相手にされないと思っていたのに。
(あんな彼女がいたなんて……)
やっぱり自分は馬鹿《ばか》だった、と思う。
ちょっと生死を共にしたくらいで、特別《とくべつ》に彼を意識《いしき》して、あれこれと面倒《めんどう》を見ようとしていたなど。『彼の良さをわかってやれるのは、自分だけだ』などと思いこみ、身勝手《みがって》にひとりでうきうきして。なんて傲慢《ごうまん》だったのだろう。はたからでも見苦しくて、みっともない女に見えたに違いない。
そばにあった手鏡《てかがみ》を取って、自分の顔をのぞきこむ。
「すごいブス……」
少なくとも、いまの彼女にはそう見えた。それに比《くら》べて――
(かわいい女の子だったな……)
きらきら光る銀色の髪《かみ》に、大きな灰色の瞳《ひとみ》。フィギュア・スケートや新体操《しんたいそう》の選手《せんしゅ》のような、妖精《ようせい》のほほ笑み。自分には、ああいう雰囲気《ふんいき》はとうてい出せない。
しかもあの様子《ようす》はどう見ても――なにかした[#「なにかした」に傍点]後のようだった。きのう宗介が約束《やくそく》をすっぽかしたのも、あの女の子と一緒《いっしょ》だったからなのだろう。仕事なんて嘘《うそ》だったのだ。それでもって一晩中《ひとばんじゅう》、その、あれこれしてたのだ。朝になって、宗介は学校に行って、あの子はずっと部屋《へや》で寝《ね》ていて……。
その想像《そうぞう》は細かな点で矛盾《むじゅん》だらけだったが、いまのかなめにはそれを検証《けんしょう》する客観性《きゃっかんせい》がなかった。
(どういう関係で知り合ったのかな……)
死んだ戦友の娘さんだとか。昔、あたしみたいに助けたことがある人だとか。とにかく、劇的《げきてき》な出会いにちがいない。こないだ観《み》た007の最新作みたいな感じで。二か月前の、あたしと彼との出会いなんかよりも、ずっとロマンチックだったり……。
その想像《そうぞう》もまったく根拠《こんきょ》がなかったが、いまのかなめにはそれを反証《はんしょう》する冷静さがなかった。
(いま、どうしてるのかな……)
あの女の子と食事でもしているのだろうか。食卓《しょくたく》を挟《はさ》んで、あれこれと楽しい話をして。うっとりと見詰《みつ》め合ったり。『好きだよ』なんて言ってみたり。
まさにその同じとき、宗介がひどく陰気《いんき》な顔でテロリストの死体を片付けていたことなど、神ならぬかなめには知りようがなかった。
テレビを点《つ》け、消し、さらに一〇分ほどぼけっとしていると――チャイムが鳴《な》った。
(なによ、こんな時間に。ったく……)
かなめはけだるげにソファーの上で身じろぎし、居留守《いるす》を使おうかどうしようかと迷《まよ》った末《すえ》、けっきょく起き上がって玄関《げんかん》に向かった。
相手《あいて》を確かめもせずにドアを開けると、不景気《ふけいき》な顔の宗介が突《つ》っ立っていた。それ以上《いじょう》に不景気な顔をした、例の彼女もいる。さらに、見知らぬ少年が――やはり不景気な顔で立っていた。
「……なんなの?」
彼らの意図《いと》がまったくわからず、かなめは一言、たずねた。
「困っている。かくまってくれ」
むっつりと宗介が言った。
ぷりぷりと怒《おこ》り、『迷惑《めいわく》だ』だの『あたしの知ったことじゃない』だのと言ったりはするのだが――かなめはしっかりほうじ茶をいれてくれた。しつけが良いのか、単なるお人《ひと》好《よ》しなのか。とにかく、彼女にはこういう美点《びてん》があるのだ。
だが、かいつまんだ事情《じじょう》を話しても、かなめの不機嫌《ふきげん》はやはり収まらなかった。
「つまり」
かなめは湯呑《ゆの》み茶碗《ちゃわん》をとん、とテーブルの上に置いた。
「あんたたちは変なテロ屋に追われていて、その原因《げんいん》は、のっけから人を小馬鹿《こばか》にしたような態度《たいど》のこいつにあると」
かなめが言っているのはタクマのことだった。宗介は彼をバスルームにでも放《ほう》りこんでおきたかったのだが、かなめがいやがるので、しかたなく手の届《とど》く場所に座《すわ》らせておいた。いまのところはおとなしくしているが……。
「で、こっちの彼女は、あんたの上官の大佐殿《たいさどの》だって言ってるわけね?」
「そういうことだ」
「……あんたがウソとか下手《へた》なタイプだってことは分かってるけどね。いくらなんでもヒドすぎない?」
タクマがそばにいるので、あまり詳《くわ》しい <ミスリル> の内情《ないじょう》や組織構成《そしきこうせい》を話すわけにもいかず――そのせいか、かなめも得心《とくしん》するには程遠《ほどとお》い状態《じょうたい》だった。
「あなた、テスタロッサさんだったっけ? 年いくつ?」
「一六です。でも、あと半年で一七歳です」
テッサは答えて、ほうじ茶をすすった。いまはTシャツのほかに、だぶだぶのカーゴパンツをはき、ベルトでなんとかずり落ちないようにしていた。
「一六|歳《さい》の女の子が? 潜水艦《せんすいかん》の艦長? あたしだって『レッド・オクトーバーを追え!』は観たわよ。いわゆる艦長っていうのはね、ショーン・コネリーみたいな渋《しぶ》いおじさまなの。こういうコは、せいぜい電文を読み上げる下《した》っ端《ぱ》Aって相場《そうば》が決まってんのよ」
あまりにもあまりな言《い》い草《ぐさ》だったが、テッサはしみじみ『そうですよね……』と言わんばかりにうなずくだけだった。
「しかし、本当なのだ」
「あたしはね、あんたがこの子と……その、どんな仲だろうとなんとも思わないわよ。でもね、仁義《じんぎ》ってもんがあるんじゃないの? こうやって迷惑《めいわく》かけてる相手に、そういうウソをつく、普通《ふつう》?」
やはりここに来たのは失敗《しっぱい》だったか、と宗介は早々《はやばや》と後悔《こうかい》していた。
灯台下暗《とうだいもとくら》し、ということで、すぐ近所の彼女の家に潜《ひそ》めば、敵もこちらを見つけにくかろう、と思ったのだが。順を追って説明すれば、かなめも納得《なっとく》してくれるという考えが甘かった。
テッサは自分の立場を無理《むり》に説明しようともせず、静かにお茶を飲んでいる。宗介に助け船をよこしてくれる気はなさそうに見えた。『かなめの所に行く』と告げてから、妙《みょう》に態度が冷淡《れいたん》になったように思えるのは――気のせいだろうか?
「大佐殿《たいさどの》。……大佐殿?」
声をかけるが、反応《はんのう》しない。いや。たっぷり数秒置いてから、ようやく自分が呼ばれていることに気付いたように、顔をあげる。
「あ、わたしのことですね[#「わたしのことですね」に傍点]。なんです?」
その反応を見て、かなめはさらに疑惑《ぎわく》を深めたようだった。宗介は焦《あせ》りながら、
「……大佐殿からも、彼女に説明していただきたいのですが」
「なにをです?」
「大佐殿の、身分《みぶん》や境遇《きょうぐう》についてです」
「ああ。ええと……わたしがキョウシュー……潜水艦でしたっけ。その艦長で、大佐さんで、ソウスケ[#「ソウスケ」に傍点]の上官なんですよね。ええ、本当ですよ。チドリ・カナメさん」
彼は背中にぶわっと汗《あせ》が出てくるのを感じた。
なぜこんな時だけ、そういう歯切れの悪い説明をするのだ……? しかも、『ソウスケ』ときた。親しみだけではない、言い知れぬ悪意《あくい》がこもっている。自分は彼女に対して、なにか失礼なことをしたのだろうか?
「た……大佐殿」
「なにか不足ですか、サガラ軍曹[#「サガラ軍曹」に傍点]?」
今度は上品にほほ笑んでみせる。……が、思い切り含《ふく》みのある笑いだった。
「……いえ。……とにかく、千鳥。そういうことなのだが」
「そう。わかった、納得したわ」
なかなめは言った。まったくわかっておらず、納得もしていない声だった。
「あたしは忍耐強《にんたいづよ》い人間だから。あんたたちがそう言うのなら、そういうことにしておいてあげる。それで、次の問題だけどね――」
かなめはじろりとタクマをにらんだ。
「さっきから、ビミョーにニタニタしてるこいつは……なんなの? なんか、こう、そこはかとなくムカつくんだけど」
「すみませんね、千鳥かなめさん」
タクマが静かに答えた。かなめは鼻を鳴《な》らし、
「全っっ然、すみませんように[#「すみませんように」に傍点]見えないのよ。しっかも人が出してやったお茶に、口をつけようともしないじゃないの」
「喉《のど》が渇《かわ》いていないので」
かなめがテーブルを『どしんっ!』と叩《たた》いた。テッサが一瞬《いっしゅん》びくりとした。タクマもわずかな――ほんのわずかな驚《おどろ》きを見せた。かなめは卓上《たくじょう》を這《は》うようにして、相手の顔を下からのぞきこみ、
「礼節《れいせつ》の問題よ」
妙《みょう》な迫力《はくりょく》のある声で言った。
「飲みなさい。このお茶っ葉は高いんだから」
「いやだといったら?」
「冷蔵庫《れいぞうこ》に気の抜《ぬ》けたドクター・ペッパーがあるわ。それを泣いてやめてくださいと言うまで飲ませてあげる」
「…………」
「あたしは本気よ?」
タクマは湯呑《ゆの》みを手に取り、申《もう》し訳程度《わけていど》に口をつけた。
「これで満足ですか」
「……かっわいくないわねー。親の顔が見たいわ。よっぽど甘《あま》やかされて育ったのね」
かなめがそう言ったとたん、タクマの目付《めつ》きが険《けわ》しくなった。宗介は例の発作《ほっさ》が起きるのではないかと身構《みがま》えたが、まだその様子はない。ただ暗く、酷薄《こくはく》な目で、かなめを凝視《ぎょうし》している。
ところが彼女は脅《おび》えもせず、敵軍の弱点を見つけた将軍のような顔をした。
「ふん、怒った? ボクのママをバカにするなー、ってわけ?」
「母は……いない」
それを聞いて、かなめは一瞬《いっしゅん》だけ沈黙《ちんもく》した。
「奇遇《きぐう》ね。あたしもよ。そこのソースケも。もしかして、そういう人って世界で自分だけだと思ってた?」
「…………」
「当たらずとも遠からず、って感じかしら。どうりでね。いかにも甘ったれた顔してるものねぇ〜〜。あーあ、きっとロクでもない家庭環境《かていかんきょう》だったのねぇ……」
「う……あ……あぁあぁ」
タクマの目の焦点《しょうてん》が合わなくなってきた。異様《いよう》なうなり声。そろそろ来たな、と宗介は思った。詳《くわ》しい症状《しょうじょう》はわからないが、なんらかの感情を引き金にして、攻撃性《こうげきせい》がむき出しになるのだろう。
「あぁあぁあぁ〜〜〜つ!!」
錯乱《さくらん》してかなめに飛びかかろうとしたタクマを、宗介が横から押さえつけた。
「あ……あぁあぁっ!! こ、ころ……、うわぁあぁ〜〜っ!!」
テーブルから引き離《はな》されて、タクマは足をばたつかせる。一方のかなめはぽかんとして、暴《あば》れるタクマを眺《なが》めていたが、すぐににんまりとしてテッサにVサインを作ってみせた。
「キレた。あたしの勝ち」
興奮《こうふん》したタクマを床《ゆか》に押さえ込みながら、宗介は『やっぱり来るのではなかった』とあらためて後悔《こうかい》した。
タクマを押し付け、その左腕をつかんだ時――
(…………?)
上腕部《じょうわんぶ》にしこりのような感触《かんしょく》があることに、宗介は気付いた。いや、ただのしこりならば、気には留《と》めなかっただろう。なにかもっと硬《かた》い、棒状《ぼうじょう》のものだ。人間の骨格《こっかく》を熟知《じゅくち》している宗介でなければ、骨《ほね》に触《ふ》れたと思うだけだったかもしれない。
タクマの腕《うで》に、なにかが埋まっている。
宗介は彼の後頭部に手刀《しゅとう》を叩《たた》き込み、器用《きよう》に失神《しっしん》させた。こう暴《あば》れられてはまともに調べることさえできない。
「大佐殿」
言うと、今度はテッサもすぐに反応《はんのう》して立ち上がった。
「どうしました?」
「これを――」
しこりの部分を示すと、彼女はそれを指先で押した。その感触《かんしょく》を充分《じゅうぶん》に確かめもせずに、テッサはたちまち深刻《しんこく》な顔をする。
「なるほど。うかつでした」
「心当たりが?」
「ええ。これは発信機《はっしんき》です。数分に一度、電波を出して場所を知らせるの。屋外で使役《しえき》する囚人《しゅうじん》の監視用《かんしよう》に作られたものです。しかも……部品のほとんどがアクリルとシリコンのようね。見つからないわけだわ」
テッサが説明をはじめた時には、すでに宗介はサブマシンガンを手に取って臨戦態勢《りんせんたいせい》に入っていた。敵はすでに、この場所を知っている。いつ仕掛《しか》けてきてもおかしくないのだ。
身体《からだ》に埋《う》め込まれているのでは、見つけようがなかった。情報の漏洩《ろうえい》ではなく、こんな単純な理由《りゆう》だったとは。
「どうしたの?」
かなめが怪訝顔《けげんがお》でたずねる。
「まずいことになった。窓と玄関に近付くな」
彼はマンションの外に意識を集中した。敵の気配《けはい》はない。最初の攻撃《こうげき》がひどい結果に終わったので、向こうも慎重《しんちょう》になっているのだろう。おそらく増援《ぞうえん》を待っているのか――
「あのー」
「なんだ、千鳥」
「よくわかんないんだけど、その腕になんか入ってるわけ?」
「そうだ。敵に位置を知らせる発信機だ」
わずかにいらいらして、宗介は答えた。ポケットを探って、
「大佐殿。取り出しますか? ナイフはここです。モルヒネも」
「そうね。そうするしか……でも、わたしには外科的《げかてき》な知識《ちしき》はないんです」
「では、自分が」
消毒《しょうどく》して、切開《せっかい》して、摘出《てきしゅつ》、縫合《ほうごう》。そんな時間を敵が与えてくれるかは、はなはだ疑問だった。しかし彼を連れ歩くなら、ここで発信機を無力化《むりょくか》しなければならない。
「あのさ……」
使い捨ての注射器《ちゅうしゃき》を取り出した宗介の肩《かた》を、かなめが横からつんつんとつついた。
「なんだ。いま忙《いそが》しい」
「その発信機、壊《こわ》せばいいわけ?」
「そうよ。あなたは下がっていてください」
宗介の代わりにテッサが答えた。
「それよりも。うちの電子レンジ、大きめだから。使ってみる?」
かなめの言葉に、宗介とテッサは顔を見あわせた。
電子レンジの扉《とびら》の合わせ目、その奥の小さな穴《あな》に、箸《はし》をつっこむ。単純《たんじゅん》な安全スイッチを騙《だま》せば、扉を開けたままでも電子レンジは作動《さどう》する。
気絶《きぜつ》したままのタクマの腕に、あらかじめ穴を開けたゴムパッド――絶縁体《ぜつえんたい》である――を巻き付け、発信機のある部位だけを露出《ろしゅつ》させる。準備ができたら、その肘《ひじ》を曲げて電子レンジの中に突っ込む。
「ほんの数秒でいいはずです」
「オッケー。じゃあやるわね」
かなめがタイマーのダイヤルをひねって、スイッチを入れた。たとえ短時間でも、精密機器《せいみつきき》にとっては致命的《ちめいてき》なマイクロ波が、腕の中の発信機に降《ふ》り注《そそ》ぐ。五つ数えてから、
「切るわよ」
ダイヤルを〇の位置に戻《もど》すと、チンと小気味《こきみ》のいい音がする。なんの変化もなかったが、それだけで発信機は壊《こわ》れたはずだった。
「こんな乱暴《らんぼう》なやり方って……聞いたことないです」
テッサがあきれるのも無理《むり》はなかった。下手《へた》をしたら、タクマの腕の血液が沸騰《ふっとう》していたかもしれないのだから。
「でも、助かったでしょ?」
「それはそうですけど……」
テッサはなんと言ったらいいのか、わからない様子だった。最初のころの、かなめに対するひそかな優越感《ゆうえつかん》――悪く言えば、彼女のどこかを侮《あなど》っているような態度《たいど》が、いまは鳴《な》りをひそめている。同時に、こんな初歩的《しょほてき》な理科の知識で遅《おく》れをとったことで、ひどくプライドを傷付けられたようでもあった。
「助かったと思うのはまだ早い」
キッチンの出口に控《ひか》えていた宗介が言った。
「発信機が無力化《むりょくか》されたと知ったら、連中はすぐに仕掛《しか》けてくる。急いでここを脱出《だっしゅつ》しなければ」
T……でも、この部屋《へや》がばれているとしたら、玄関先は監視《かんし》されているでしょうね」
無駄《むだ》な戦闘《せんとう》を避《さ》けるためには、敵に悟られずにこのマンションを脱出《だっしゅつ》する必要がある。
「千鳥。ベランダに火災用の非常口があるか?」
「床《ゆか》にある穴のこと? あるけど……」
「そこから逃げよう」
宗介はタクマの身体を肩にかつぎ、ベランダの方へ向かった。テッサがその後に続く。
カーテンの蔭《かげ》から注意深く外の様子をうかがう。対面《たいめん》に位置するビルから、だれかがこの部屋《へや》を監視《かんし》している感触《かんしょく》はなかった。敵はこのベランダを見張《みは》っては――いない、と思っておこう。
身を低くしてベランダに出ると、四角い戸板《といた》が床に取り付けてあった。これを開ければ、下の階に降りることができる。
「行くわけね。それじゃ、せいぜい気を付けて」
かなめが言った。ここで見送るつもりらしい。
「なにを言っている。君も来るんだ」
「はあ?」
「ここに残っていたら、敵は君を狙《ねら》ってくるぞ」
宗介たちの行き先を聞き出そうと、たちの悪い拷問《ごうもん》さえするかもしれない。
「ちょっと待ってよ? あたし、関係ないじゃない!?」
「そうなのだが。すまん。完全に巻き込んでしまった」
「冗談《じょうだん》じゃないわよ……! どうしてあたしが、あんたの恋の逃避行《とうひこう》にまで付いてかなきゃならないの!? なんかそれって……ひどすぎない?」
近所に響《ひび》き渡るような声で、かなめは抗議《こうぎ》した。
「千鳥。さっきも説明した通り、俺たちは――」
「はいはいはい! 苦しい言い訳なんか聞きたくないです。あたしは一人でも平気だから、あんたは勝手《かって》に自分の彼女を守ってればいいでしょ?」
こうなるとかなめは頑固《がんこ》だ。宗介はどう彼女を説得《せっとく》したら良いかわからず、途方《とほう》にくれてしまった。
「チドリさん。それは誤解《ごかい》です」
しびれを切らしたテッサが割って入った。
「サガラさんの話は本当です。巻き込んでしまったのは申し訳ないと思いますが、同行してもらわなければなりません。あなたの安全は <ミスリル> の意向でもあるんです」
それまでの柔《やわ》らかな物腰《ものごし》と違って、いまの彼女は凛《りん》としていた。彼女がふざけているのではないことは、だれの目にも明らかだった。もちろん、かなめにもだ。
「……って、でも。さっきは――」
「さっきは悪ふざけが過《す》ぎました。それは謝《あやま》ります。信じられないでしょうけど、わたしは彼の上官で、数百人の隊員を束《たば》ねる立場にあるんです」
「…………」
「 <ミスリル> というのは特殊《とくしゅ》な組織《そしき》なんです。信じてください」
かなめは宗介とテッサの顔を交互《こうご》に見て、次にタクマを凝視《ぎょうし》した。確かに、この状況《じょうきょう》、この組み合わせはおかしい。自分が考えているほど単純な話ではなさそうだ……そう思ったらしく、彼女は不承不承《ふしょうぶしょう》うなずく。
「やっぱりまだピンと来ないけど……行けばいいんでしょ、行けば?……ったく」
「助かります。さあサガラさん、行きましょう」
「はい」
宗介は内心で胸をなで下ろした。『あとで敵がこの部屋に踏《ふ》み込んで来て、あちこち荒《あ》らすかもしれない』とはあえて言わなかった。
「ちょっと待って。お出かけセットを――」
「そんな時間はない」
「|PHS《ピッチ》くらい、いいでしょ? あとでキョーコにドラマの録画頼《ろくがたの》みたいのよ」
かなめは寝室《しんしつ》に引き返し、すぐに戻《もど》ってきた。
床の戸板を開き、まず宗介が下の階に降りる。かなめとテッサがタクマの身体を穴《あな》に押し込み、下の宗介がそれを受け取った。次に残りの二人が降りる。テッサが妙《みょう》にもたもたとしたが、宗介とかなめが彼女に手を貸《か》した。
その部屋の住人は、宗介たちに気付いていないようだった。かなりボリュームを大きくしたリビングのテレビで、野球|中継《ちゅうけい》を観戦《かんせん》している。八回裏、二死三塁。四対一で――
「……うわ。阪神が勝ってる」
中継に耳を傾《かたむ》けていたかなめが、ぼそりとつぶやいた。
「もう一階下へ行こう」
同じ要領《ようりょう》で、彼らはさらにベランダを下に降りる。
その部屋の明かりは消えていた。留守《るす》のようだ。宗介はこれさいわいと窓を破《やぶ》り、部屋のリビングへと入っていく。タクマをかついで、暗闇《くらやみ》の中を玄関まで向かい、鍵《かぎ》を外し、扉をそっと五センチだけ開けて様子をうかがう。
マンションの面した都道に、黒塗《くろぬ》りのライトバンが止まっているのが見えた。スモークガラスの窓で、後部座席は見えない。運転席に男が一人。敵とは断定《だんてい》できないが――ともかく、こちらに気付いている様子はない。
「行こう」
宗介はその車のナンバーをしっかり記憶《きおく》してから、中腰《ちゅうごし》で共通廊下《きょうつうろうか》を歩き出した。かなめとテッサがその後に続く。非常階段《ひじょうかいだん》を降りてから、一階の通路の手すりを乗り越《こ》えて、裏手《うらて》の植《う》え込みに入る。
「きゃっ……」
手すりを乗り越えるときに、テッサが足をひっかけて背中《せなか》から地面に落ちた。宗介とかなめが助け起こそうとすると、
「だ……大丈夫《だいじょうぶ》です」
声を詰《つ》まらせ、彼女は答えた。涙目《なみだめ》だったが、怪我《けが》はしていないようだ。
「……で、これからどこに行くのよ?」
あじさいの茂《しげ》みから付近の様子をうかがっていると、かなめがひそひそ声でたずねた。
「それをいま考えているところだ。下手《へた》な場所では目立つしな……」
「まあ、そうね」
なぜかしゅんとしているテッサをちらりと見て、かなめは言った。
近くの駐車場《ちゅうしゃじょう》に <ミスリル> が所有《しょゆう》する自動車もあるのだが、できれば車での移動《いどう》は避《さ》けたい。昼間の事件で、警察《けいさつ》は警戒《けいかい》を強めているはずだからだ。タクマの人相も、すでに手配されているとみていい。
「ここの近くで、人を巻き込む危険の少ない、よく知った場所が好《この》ましいのだが」
基礎的《きそてき》な戦術的見地《せんじゅつてきけんち》から、宗介は条件《じょうけん》を挙《あ》げてみた。かなめはそれだけでぴんと来たようで、人差し指を夜空に向かって突《つ》き立てた。
「ああ、それならいい場所があるわよ」
「どこだ」
「学校」
「だめだ。すぐばれる」
敵は自分とかなめの部屋を探るだろう。そうすれば、陣代《じんだい》高校のことはすぐに露呈《ろてい》するはずだ。
「そうじゃなくて。もっと近くに別の高校があるの」
[#地付き]六月二六日 二一〇七時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東区《こうとうく》 赤海埠頭《あかみふとう》
アンドレイ・カリーニンは意識《いしき》を取り戻《もど》すと、まず自身の肉体を総点検《そうてんけん》した。
神経系《しんけいけい》は正常《せいじょう》のようだった。なにしろ、律義《りちぎ》に身体《からだ》の痛みを伝えてくる。
骨格《こっかく》はほとんど異常《いじょう》がない。ただ、肋骨《ろっこつ》の一部にひびが入っている。その内側の肝臓《かんぞう》もダメージを受けているが、生死に関わるほど深刻《しんこく》な損傷《そんしょう》はない。背中と両腕に六箇所の大きな裂傷《れっしょう》。その原因《げんいん》になったガラスの破片は取《と》り除《のぞ》かれ、出血もすでに止まっているが、それまでにかなりの量の血液を失ったようだ。
結論《けつろん》すれば――消耗《しょうもう》はしているが、死ぬのは当分先のようだった。
(……ここは船内だな)
それも港に停泊中《ていはくちゅう》の船だ。静かな波の音と、鉄骨《てっこつ》を反響《はんきょう》するわずかな足音。聴覚《ちょうかく》も問題はなさそうだった。
周囲《しゅうい》にだれもいないと判断《はんだん》し、カリーニンは目を開け、わずかに首を動かした。右半身にすさまじい痛みが走ったが、彼はそれを無視《むし》した。
彼がいるのは琥珀色《こはくいろ》の小さな船室だった。
粗末《そまつ》なベッド。天井《てんじょう》にはむき出しの白熱灯《はくねつとう》。鉄骨《てっこつ》や壁《かべ》には錆《さ》びが浮《う》かんでいる。ベッドの向かいに鉄扉《てっぴ》があったが、外から鍵をかけられていることは容易に想像がついた。
右の足首が、ベッドのパイプに手錠《てじょう》で繋《つな》がれていた。頭を動かし、身体《からだ》を見下ろすと、いちおうの手当てがしてある。ズボンははいていたが、上半身は裸《はだか》だ。引き締《し》まった筋肉《きんにく》の上に、幾重《いくえ》もの包帯《ほうたい》が巻き付けてあった。
未熟《みじゅく》な処置《しょち》だな、とカリーニンは思った。自分をここに運んだ連中には、専門《せんもん》の医師《いし》がいないらしい。
五分ほどすると、扉《とびら》の外で音がした。だれかが鍵《かぎ》を外し、鉄扉を開けて――船室に入ってくる。
入ってきたのは女だった。あの研究所で、意識《いしき》を失う直前《ちょくぜん》に会話した相手だ。あの時は、たしかセイナと呼ばれていた。
「お目覚《めざ》めのようね」
雪の結晶《けっしょう》を思わせる、冷たく繊細《せんさい》な声。セイナはいまもオレンジ色の操縦服姿《そうじゅうふくすがた》だった。線の細い顔と、マッシュルームカットにした栗色《くりいろ》の髪《かみ》。
「なにか用かね」
身を起こそうともせず、カリーニンは言った。
「あなたと話がしたいの」
「私が君なら、無駄《むだ》な会話などしないだろう。殺して海に放《ほう》り捨《す》てる」
「それはいつでもできるわ」
冷ややかにほほ笑み、セイナは戸口に寄りかかった。
「……あなたの部下は優秀《ゆうしゅう》ね。こちらの追手を三人|倒《たお》して、それから姿《すがた》をくらましたわ。秘書《ひしょ》の娘とタクマを連れて」
『秘書の娘』というのはテレサ・テスタロッサのことを言っているのだろう。
やはり大佐《たいさ》とヤンが、あの少年を研究所から連れて逃げたのだな、とカリーニンは見てとった。ヤン一人では荷《に》が重いが――同時に切り抜けるのも無理《むり》ではない。
「やはり部下なのね。相良《さがら》宗介《そうすけ》が」
セイナの言葉を聞いて、カリーニンはもうすこしで意外《いがい》な顔をするところだった。
ヤンではなく宗介。ヤンがどうなったのかは分からないが、テッサは宗介のところに逃げこんだらしい。
「だったとして、私からそれ以上|有益《ゆうえき》な情報《じょうほう》が引き出せると思うかね」
「あまり期待してないわ。その怪我《けが》だし、拷問《ごうもん》しても口を割《わ》る前に死ぬでしょうね」
「ではなぜ私を助けた」
「言ったでしょう? あなたと話がしてみたかったのよ。それにあなたたちが何者なのかは、さして重要ではないから」
「なぜそんなことが言えるのかな」
「見たところ、あなたたちも警察《けいさつ》や自衛隊《じえいたい》と距離《きょり》を置いているようだから。動きに厚みがなくて、点と線でしか行動《こうどう》していない。個人個人は優秀《ゆうしゅう》のようだけど、たいした脅威《きょうい》にはならないわ」
政府機関《せいふきかん》のように、物量《ぶつりょう》を背景《はいけい》にした組織的行動《そしきてきこうどう》をしていない、ということだ。まさしくそれが <ミスリル> の弱点の一つだった。
「君もなかなか優秀な指導者《しどうしゃ》のようだ」
「どうかしら。わたしはもっと優秀な人を知ってるわ」
セイナはあっさりと自分がリーダーであることを認《みと》めた。それから彼女はしばらくの沈黙《ちんもく》のあと、
「武知《たけち》征爾《せいじ》って名前を聞いたことある?」
たいして期待もしていない声でたずねた。
「いや」
「日本人の傭兵《ようへい》よ。ベトナム戦争が最初で、その後はコンゴ、イエメン、ニカラグア、レバノン……あちこちと。歴戦《れきせん》の勇者《ゆうしゃ》というやつかしらね。偵察《ていさつ》とサバイバル技術《ぎじゅつ》の|専門家《スペシャリスト》だった」
その声が、わずかに軽く弾《はず》んだ。
「第五次中東|紛争《ふんそう》でクルディスタン共和国軍に加わったあと、彼は日本に帰国して、ある事業《じぎょう》をはじめたの。なんだか想像《そうぞう》できる?」
「警備《けいび》会社ではなさそうだな」
「福祉事業《ふくしじぎょう》よ。<A21[#「21」は縦中横]> っていう変わった名前の組織でね」
なぜか自嘲気味《じちょうぎみ》にセイナは言った。
「目的は非行《ひこう》少年の更正《こうせい》。それも凶悪《きょうあく》事件を起こした札付きの連中の、ね。連続強盗《れんぞくごうとう》、傷害致死《しょうがいちし》、殺人、強姦《ごうかん》、放火、エトセトラ、エトセトラ……」
「…………」
「武知征爾はそういうろくでなし[#「ろくでなし」に傍点]を集めて、自分が買い取った無人島に放りこんだのよ。徹底《てってい》したスパルタ教育で、自分のサバイバル技術や戦闘《せんとう》技術を叩《たた》き込んで。最初は反発した者も、すぐに彼に従《したが》うようになったわ。電気や水道はもちろん、食糧《しょくりょう》さえ無《な》い場所だったから。彼の教えることを真剣《しんけん》に学ばなければ、生きていけなかった」
「効果的《こうかてき》だな」
カリーニンは感想を漏《も》らした。
「そう、効果的よ。彼は愛を説《と》いたりはしなかった。敵対的《てきたいてき》な環境《かんきょう》で生き延《の》びる手段《しゅだん》を教え、効率《こうりつ》よく人間を殺す方法まで生徒たちに授《さず》けたわ。結果《けっか》として、生徒は自信という財産《ざいさん》を手に入れた。もう犯罪《はんざい》に手を染《そ》める必要はなくなったのよ」
「けっこうなことだが――続きがあるようだ」
「そうよ。テレビ局が訓練内容《くんれんないよう》を嗅《か》ぎ付けてね。勝手《かって》に島に上がりこんで、離《はな》れの倉庫《そうこ》の装備《そうび》をいじって。それが原因《げんいん》で事故《じこ》が起きたわ。七人も死んだ」
セイナは軽く目を伏《ふ》せた。なにかを思い出しているような、そんな顔だった。
「あとはもう、ずたずたよ。事故原因なんてそっちのけで、マスコミの袋叩《ふくろだた》き。テロリストの養成所《ようせいじょ》扱《あつか》いを受けたわ。やれ虐待《ぎゃくたい》があった、やれテロ攻撃《こうげき》の準備《じゅんび》をしていた。こぞってハイエナのように。警察も出張《でば》って来て、けっきょく訓練所は解体《かいたい》された。生徒たちの過去《かこ》もことごとく暴露《ばくろ》されたわ」
彼女の声に、冷たい怒《いか》りがこもった。
「わたしのことも。人間の屑《くず》だった父親が、その娘になにをしたか」
ただの暴力《ぼうりょく》ではない。もっと醜悪《しゅうあく》な行為《こうい》だろう。その父親がすでにこの世に存在しないことも、カリーニンには想像《そうぞう》できた。それを実行《じっこう》した人物がだれなのかも。
<A21[#「21」は縦中横]> 。単なるテロリスト、過激《かげき》な武装民兵《ぶそうみんぺい》、というわけではなさそうだった。
セイナがつかつかと彼のそばまで歩いてきて、身をかがめた。横たわったままのカリーニンに、息が吹《ふ》きかかるほどの距離《きょり》まで顔を近付ける。
「どうしてこんな話をすると思う?」
能面《のうめん》のような無表情《むひょうじょう》だった。
「わからんな」
おおよその見当は付いていたが、彼はそう答えた。
「あなたが似《に》ているからよ。その武知征爾にね」
ロシア人とエストニア人のハーフであるカリーニンに、似《に》ている日本人がいるとも思えなかったが――同じ匂《にお》いを感じるのかもしれない。
「だからといって、私を逃がす気はなさそうだ」
「それはあなた次第《しだい》かしら。……ひとつ質問《しつもん》していい?」
「構《かま》わんよ」
「もしあなたがペテン師《し》呼《よ》ばわりされて殺されたとして、あなたの部下たちが、その仇《かたき》を討《う》とうとしたら――どう思う? 笑うかしら?」
「どうも思わんな。私は土くれに還《かえ》っている。土くれはなにも思わない」
「つまらない答えね。やっぱり殺すわ」
冷淡《れいたん》な声。腰から拳銃《けんじゅう》を抜く。
「言っただろう。無駄《むだ》な会話だと」
「そうね、馬鹿《ばか》だった。わたしたちはこれからすることがあるのよ」
「察《さっ》するに、復讐《ふくしゅう》かね」
カリーニンが言うと、セイナはすこし考えるそぶりを見せた。
「そういう呼び方をしたことはないわ。ただね――平和ぼけしたこの街《まち》を、わたしたちの色に染め上げたい――そういう気分を復讐というなら、その通りよ。徹底的《てっていてき》に破壊《はかい》をまきちらし、恐怖《きょうふ》の炎《ほのお》で街《まち》を食《く》らい尽《つ》くす。それが望み」
彼女の心は虚無《きょむ》に支配《しはい》されている。おそらく、ほかの者も同様だ。刹那的《せつなてき》なものではなく、長い時間をかけて蓄積《ちくせき》してきた冷ややかな憤激《ふんげき》。この世界に対する根源的《こんげんてき》な反発心《はんぱつしん》。それだけが彼女を衝《つ》き動かしているのだ。そういう人間を、カリーニンはこれまでたくさん見てきた。
セイナは彼に銃口を向けた。
「あなたの部下――相良宗介は、必ず探し出して殺すわ。ほかの連れも。そして、タクマを取り戻す」
「『ラムダ・ドライバ』のためにかね?」
その言葉を出したのは、生死の駆《か》け引きに精通《せいつう》したカリーニンの賭《か》けだった。今後の展開《てんかい》を考えれば、自分やその味方たちに興味《きょうみ》を持たせ、重要視《じゅうようし》させた方がよい。そうすれば万一の時に、テッサの安全も期待《きたい》できる。拷問《ごうもん》の材料になるからだ。
やはり驚《おどろ》いたのだろう。セイナの細い眉《まゆ》がわずかに動いた。
「そこまで知っているとはね。意外だわ」
「これで私に興味が湧《わ》いたかな」
彼女は銃をホルスターに戻《もど》し、超然《ちょうぜん》としたまなざしで彼を見下ろした。
「ええ。前よりもずっと」
きびすを返し、セイナは船室の出口に向かった。
「ところで――」
その背中にカリーニンは声をかけた。
「その武知征爾はいまどうしている?」
[#挿絵(img/02_145.jpg)入る]
セイナは立ち止まった。
「死んだわ。留置所《りゅうちじょ》で首を吊《つ》って。あっけないものだった」
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3:二兎《にと》を追うもの……
[#地付き]六月二六日 二一四〇時(日本標準時)
[#地付き]調布《ちょうふ》市 伏見台《ふしみだい》学園高校
「一年のころにね、生徒会の用事《ようじ》でよく来たのよ」
かなめが説明《せつめい》した。
「ランク高めの進学校なんだけど、制服がダサいのよね。先生もうるさくて、来るたびに『他校《たこう》の生徒がなにをしている』って」
「ふむ……」
その学校の外観《がいかん》は、陣代《じんだい》高校とたいして変わらないように見えた。飾《かざ》り気のない鉄筋《てっきん》コンクリートの校舎《こうしゃ》。
宗介の技能《ぎのう》をもってすれば、初歩的《しょほてき》な校舎の防犯装置《ぼうはんそうち》を潜《くぐ》り抜《ぬ》けるのはそう難《むずか》しいことではなかった。用務員室《ようむいんしつ》の近くは迂回《うかい》して、宗介、かなめ、テッサ、タクマの四人は北校舎の二階、この学校の生徒会室に忍《しの》び込んだ。かなめが『そこが一番くつろげるし、よく知ってるから』と主張《しゅちょう》したのだ。
一同はとりあえず椅子《いす》に腰かけ、一息つく。タクマはすでに息を吹《ふ》き返し、またも宗介《そうすけ》のとなりに座《すわ》らされていた。
「お茶は?」
うす暗《くら》がりの中、かなめがごそごそと部屋《へや》の一角に手を伸《の》ばした。
「いえ……もういいです」
テッサが答えた。きょうの彼女はどこかに逃げこむたびに、お茶ばかり飲んでいる。
「あ、そ。……とにかくまあ、ここで待ってればいいわけでしょ?」
「そうだ。味方の増援《ぞうえん》がこちらに向かっている」
宗介が肯定《こうてい》する。衛星通信機《えいせいつうしんき》での連絡《れんらく》は、すでに先ほど済《す》ませたところだった。マオとクルツ、そしてM9を載《の》せた輸送《ゆそう》ヘリはすでに太平洋の <トゥアハー・デ・ダナン> から発進し、二時間以内にはこの学校の校庭に降下《こうか》してくる予定だった。
「その前に僕の味方が来ますよ。どこに隠《かく》れても同じことです」
タクマが言った。
「その問題なら解決《かいけつ》した」
「?」
「あんたの発信機《はっしんき》を壊《こわ》したのよ。電子レンジで」
かなめが得意《とくい》げに言うと、タクマの顔にはじめて深刻《しんこく》な色が浮かんだ。
やはり、発信機のことを知っていたようだ。発信機を無力化《むりょくか》したことは教える必要がなかったのだが……と宗介は思ったが、さして問題もなさそうなので黙《だま》っていた。
いまのところ、敵にこの場所を探り当てる手段《しゅだん》はまったくない。陣代高校ならばともかく、ここは書類上ではまったく宗介たちとつながりのない高校だ。
まずは、安心しておいていいだろう。
「さてと……」
かなめがデニムのタイトミニの尻ポケットから、PHSを取り出した。それに気付いて宗介が眉《まゆ》をひそめる。
「どこにかける気だ」
「キョーコのとこ」
「用件は」
「さっき言ったでしょ? ドラマの録画《ろくが》を頼《たの》むの。もうすぐ始まるから」
「自分の居場所《いばしょ》は喋《しゃべ》るな」
宗介のぶっきらぼうな物言《ものい》いに、かなめはむっとした。
「……この部屋のテレビで、そのドラマを観《み》たっていいのよ? でもそうしたら、用務員《ようむいん》さんが気付いて厄介《やっかい》なことになるかもしれない……そーいう風に気をつかってあげてるの。無関係なのに巻き込まれてしまった[#「無関係なのに巻き込まれてしまった」に傍点]、あたしが」
「…………」
「そのあたしに対して、そういう口の利《き》き方しかできないわけ? ご立派《りっぱ》な相良《さがら》軍曹《ぐんそう》どのは? え?」
かなめをただの民間人、分別《ふんべつ》のない素人《しろうと》として扱《あつか》うと、こういう時に思わぬ反撃《はんげき》を受ける。宗介は返す言葉もなく、うつむいて、意味もなく手元のサブマシンガンをいじった。 その様子《ようす》を、テッサがぽかんとして眺《なが》める。
かなめはPHSのジョグダイヤルを回してスイッチを押《お》した。サイレント・モードにしてあるらしく、スイッチの電子音はしなかった。
「非常時《ひじょうじ》になると、自分が一番エラいんだって勘違《かんちが》いする。あんたの一番よくないクセよ。直しなさい」
刺々《とげとげ》しい声で言ったあと、彼女はいきなり朗《ほが》らかに喋《しゃべ》り出した。
「…‥あ、常盤《ときわ》さんですかぁ? 千鳥《ちどり》です、こんばんはー。あ、どうも。……はい、いたださました。とってもおいしかったですぅ〜〜。ははは。……ええ、お願いします。どうもどうも。………あ、キョーコ? あのさ、お願いあるんだけど――」
「サガラさん……いつもこんな調子《ちょうし》で怒られてるんですか?」
テッサがひそひそ声で言った。
「は。……いつも、というわけではありませんが」
「おかしいです。あなたの方が経験《けいけん》も知識《ちしき》も豊富《ほうふ》なのに」
「それは。そうとばかりも言えない場合がありまして」
「そうなんですか?」
「そうなのです。彼女はあれで機転《きてん》の利く面がありまして。……その」
心なしか肩《かた》をすぼめ、銃《じゅう》のリア・サイトの調節《ちょうせつ》つまみを、くるくると回す宗介の横顔を、テッサは不機嫌《ふきげん》そうに眺《なが》めた。
「…………。なんだか、わたしの言うことよりも、あの人の言うことの方がすんなり聞きそうに見えますね。いまのサガラさんは」
「いえ。決してそのようなことは」
「どうかしら。疑《うたが》わしいです」
テッサはそっぽを向いた。
これはしんどい状況《じょうきょう》だ、と宗介は思った。自分は義務《ぎむ》を果たすために、必要《ひつよう》なことをしているだけのはずなのだが。なぜか事あるごとに、かなめもテッサも突っかかってくる。
いったい俺《おれ》が、なにをした?
味方の増援《ぞうえん》が来るのが、こんなに待ち遠しいと思ったことは今までなかった。マオでもクルツでもいい、早くここに来てくれ。
ほどなくかなめが電話を切る。
「しっかしまあ……やっぱり夜の校舎ってブキミよね」
PHSを尻ポケットにねじ込んで、彼女はつぶやいた。それから身を乗り出して、
「知ってる? ここはどうか知らないけど、陣高《ジンコー》にもいろいろ怪談《かいだん》があるのよ。よくある『トイレの花子さん』みたいなネタだとか」
「その女のなにが恐《おそ》ろしいのだ。腹《はら》に爆薬《ばくやく》でも巻いているのか」
「なんだか、いかがわしいビデオのタイトルみたいですね……」
そういう方面には滅法《めっぽう》うとい二人が口々に言うと、かなめは肩《かた》を落とした。
「まあいいけど。ほかには妖怪《ようかい》エビぞり小僧《こぞう》しっていう壮絶《そうぜつ》きわまるエピソードがあるの。これは、陣高《ジンコー》にだけ伝わる恐ろしい怪談でね……」
「どういう話ですの?」
「ふふ。それはねぇ……」
興味《きょうみ》を示したテッサに、かなめが机《つくえ》の上を這《は》い寄《よ》っていって耳打ちした。ごにょごにょと話しているうちに、テッサは耳まで真《ま》っ赤《か》になって――次に顔面|蒼白《そうはく》になった。
「変態《へんたい》だわ」
「どう? 怖《こわ》いでしょ?」
「ああ、神さま……。そんな人が出てきたら、わたしは死んでしまいます」
「?」
肩《かた》を小刻《こきざ》みに震《ふる》わすテッサを見て、宗介は首をひねった。
そのおり、廊下《ろうか》に足音がした。
かなり遠くだ。階段のあたり。のんびりした足取りで、ゆっくりとこちらに近付いてくる。一部屋ごとに立ち止まって、扉《とびら》を開け、また閉める音。
「用務員《ようむいん》さんだわ。この部屋にも来る」
かなめが舌打《したう》ちした。
「隠れよう。机《つくえ》の下だ。急げ」
宗介はタクマに銃口《じゅうこう》を押《お》し付け、机の下に潜《もぐ》りこませた。
「声を出すなよ」
「さあ。どうしましょうか」
例によっての薄笑《うすわら》いを浮《う》かべて、タクマが言った。大机の下には書類の詰《つ》まったダンボールがいくつも押し込んであり、四人がなんとかすし詰《づ》めになって潜《もぐ》り込める空間しかなかった。
息を潜《ひそ》めていると、生徒会室の鍵《かぎ》がはずれ、扉《とびら》が開いた。
懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光が室内を照らす。通常の見回りなら、そう入念《にゅうねん》に調べはしないだろう、と宗介は踏《ふ》んでいた。だが――
「あー、そこ。出てきなさい」
しわがれた声が告げた。懐中電灯が照らした方に目を向けると、カーゴパンツをはいたテッサの小さなヒップが、机の下から思い切りはみ出しているのが見えた。
「頭|隠《かく》して尻隠さず、とはいうがね――」
暗い廊下を先導《せんどう》し、年老《としお》いた用務員は言った。
「その頭がこんなかわいらしい外人さんだとは思わなんだ。妙《みょう》な夜だよ。モデルガンで戦争ごっこかね?」
「はあ……」
打ちひしがれた様子のテッサを最後尾《さいこうび》に、四人がぞろぞろと老人に続く。
「まあ、入りなさい」
一階の用務員室の前までやってくると、老人は言った。意気《いき》のあがらない顔で、宗介たちは従った。狭《せま》いが、簡素《かんそ》で清潔《せいけつ》な和室だった。一同は靴《くつ》を脱《ぬ》いで部屋《へや》にあがり、ちゃぶ台を囲《かこ》んで座《すわ》る。
「お茶は飲むかね」
『いいえ』
タクマ以外の三人が、そろって首を横に振《ふ》った。もうお茶はたくさんだった。
「そう言わずに飲みなさい。いい葉があるんだよ」
それ以上は同意を求めず、老用務員は台所から湯呑《ゆの》み茶碗《ちゃわん》を持ってきた。ちゃぶ台のそばのポットから、茶葉《ちゃよう》を入れた急須《きゅうす》にお湯を注《そそ》ぐ。
「この学校は――」
なんの前触《まえぶ》れもなく、タクマが言った。
「伏見台《ふしみだい》学園といいましたか」
「それがどうした」
「いえ。なにか――以前に来たことがあるような気がするので」
「…………」
「たぶん気のせいでしょう。忘れてください」
タクマがこういう話をふってくるのは初めてのことだった。不自然だ。
「なにを考えている?」
「なんのことです」
「逃げられると思っているのか」
「まさか。あなたの強さは見ていますよ」
宗介の注意深い視線《しせん》を、タクマは平然《へいぜん》と受け止めた。
「ソースケ。そうやってすぐに人を疑《うたぐ》るの、やめなさいよ。まあ確かに、いけすかないし、変なキレ方するヤバめな奴《やつ》だけど」
考用務員がお茶を出した。
「どんな事情《じじょう》かは知らんがね、電車のあるうちに帰るんだよ。親御《おやご》さんが心配する。学校側には黙《だま》っていてあげるから」
「すみません。ご迷惑《めいわく》かけて」
かなめがぺこりと頭を下げた。彼女にも宗介にも、そしておそらくテッサにも、心配する親がいないことは、だれも指摘《してき》しなかった。
「タクマさん。あなた、家族は?」
テッサがたずねた。
「姉が一人。それだけです」
「お姉さんはどんな人?」
「そんなことを話すいわれはありませんね」
なぜか必要以上の苛立《いらだ》ちを見せて、タクマが答えた。
「そうね。でも、あなたを生かして逃げ回るおかげで、わたしたちはこんなに苦労しているんです。退屈《たいくつ》しのぎのお話くらい、付き合ってくれてもいいでしょう?」
「…………」
「わたしには兄が一人います」
湯呑みの底の茶柱《ちゃばしら》を見つめ、テッサは言った。
「いまどこにいるのかも知らないですけど。わたしよりも優秀《ゆうしゅう》な人だったわ」
「はは。手すりから滑《すべ》り落ちたり、お尻丸出しで机に隠れたりしない程度に優秀だったのね。そのお兄さんは」
かなめが笑って、身も蓋《ふた》もないことを言った。テッサは彼女をちくりとにらんで、
「では聞きますけど、チドリさん。あなたはアインシュタインの、あの十元連立非線形偏微分方程式《じゅうげんれんりつひせんけいへんびぶんほうていしき》の厳密解《げんみつかい》を出せますか? 予備知識《よびちしき》なしで」
「はあ?」
「わたしは六歳のときにそれができました。でも、兄は四歳でそれをやった」
かなめはすこしの間ぽかんとしてから、
「なんかよく分からないけど、スゴいの、それ?」
「ええ、とても。わたしはいつも、兄に劣等感《れっとうかん》を抱《いだ》いていました」
そう言って、のほほんとお茶をすする。
「それで?」
「え?」
タクマがいきなりたずねてきたので、テッサは思わず聞き返した。
「それで。そんなお兄さんと、どうやって付き合っていったんです?」
「それは……一番近いのは……保護《ほご》されてた、という表現かしら。あまり……健全《けんぜん》とはいえない関係だったかもしれません」
すこしかげりのある声で言う。
「まあ、昔のことです。……タクマさん。あなたもお姉さんに劣等感を?」
「な、なにを――」
「そうなんでしょう?」
我に返って否定《ひてい》しようとしたタクマの顔を、テッサがのぞきこんだ。
彼はすこしうろたえてから、むきになるのが馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと思った様子で、肩をすくめてみせた。
「そうですね。劣等感かもしれない。僕は……姉を崇拝《すうはい》しているから」
「はじめて自分のことを話してくれましたね」
「……」
タクマは口を固く引き結び、顔をそむけた。
肉親の話はそれきりだった。
それから四〇分は、なにごともなく過《す》ぎていった。
敵のくる気配《けはい》はない。ここを知る手段《しゅだん》はありえないのだから、当然《とうぜん》のことだ。
かなめは老用務員と一緒《いっしょ》に、テレビのドラマを観《み》ていた。テッサは『寝不足《ねぶそく》だから』といって、ちゃぶ台に突《つ》っ伏《ぷ》してうたた寝していた。
タクマは宗介のとなりで、あぐらをかいて瞑目《めいもく》している。一度、肩《かた》で息をして興奮《こうふん》の兆《きざ》しを見せたが、暴《あば》れ出すまでには至《いた》らず、なんとか理性を取り戻《もど》した。
ドラマが終わってCMが流れると、かなめは立ち上がった。
「どこに行く」
部屋《へや》の出口に向かった彼女に、宗介がたずねた。
「女の子にそれを聞く? 普通《ふつう》?」
「なんのことだ?」
宗介が眉《まゆ》をひそめる。本当にわからないらしい。かなめは顔を赤くして、
「トイレよ、トイレ」
「あ……。わたしも行きます」
テッサがむくりと起き上がり、彼女の後に付いてきた。
「念《ねん》のために自分も――」
『来ないで』
かなめとテッサは同時に言った。
「ホントにデリカシーがないのよね、あんたは……!」
「心配しなくていいですよ、サガラさん」
「……わかりました。ですが、明かりを点《つ》けたり大声で話したりはしないでください」
しぶしぶと座《すわ》り直す宗介を置き去りにして、二人は一階の女子用トイレに向かう。
廊下《ろうか》は薄暗《うすぐら》かった。窓から射し込む街灯《がいとう》の光と、消火栓《しょうかせん》の赤いランプ。青白い非常口《ひじょうぐち》の蛍光灯《けいこうとう》が、ぶうん、と陰気《いんき》な音をたてている。
やはり夜の校舎は薄気味《うすきみ》悪い。
「あわてて付いて来たわね。やっぱ一人で行くのは怖《こわ》い?」
「ええ、まあ。さっき、あなたがいやな話をしたものだから」
「ふふふ……。こーいう廊下に出るのよ。『エビぞり小僧』は」
「や、やめてください」
ほどなく二人は女子トイレに着く。
テッサと分かれて個室に入り、ミニスカートの裾《すそ》に手を伸《の》ばしたところで――
「…………?」
彼女はスカートの尻ポケットに差しておいたはずの、PHSが無《な》いことに気付いた。ほかのポケットを探ってみるが、どこにもない。
(用務員室で落としたのかな……)
それも考えにくかった。テレビの前から立ち上がったとき、畳《たたみ》の上にはなにも落ちていなかった。では、その前にいた生徒会室だろうか?
もやもやした気分のまま用を済《す》まし、外に出て手を洗う。テッサはまだ個室の中だった。
「あの、チドリさん。まだ行かないでくださいね」
扉《とびら》越《ご》しに、不安そうな声がする。
「さあ。どうしようかなぁ〜〜」
わざと意地悪《いじわる》く言ってやってから、トイレの外に出る。
ふと背後《はいご》になにかの気配《けはい》を感じて、彼女は振《ふ》り向いた。
鋭利《えいり》なコンバットナイフを持った男が立っていた。全身黒ずくめの戦闘服姿《せんとうふくすがた》で、覆面《ふくめん》をしている。
「…………っ」
悲鳴《ひめい》をあげるより早く、ナイフが閃《ひらめ》いた。研《と》ぎ澄《す》まされた切っ先が、彼女の喉《のど》を切《き》り裂《さ》く直前でぴたりと止まる。男は彼女の肩をつかんでぐいと引き寄《よ》せた。
(声を出すな)
殺気《さっき》だったひそひそ声。覆面の穴から露出《ろしゅつ》した二つの目が、『叫《さけ》ぼうとしたら殺す』とはっきり警告《けいこく》していた。
暗闇《くらやみ》の中で、もう一人、同じ黒装束《くろしょうぞく》の男が動くのが見えた。女子トイレの戸口の脇《わき》に立って、ナイフを胸の鞘《さや》から引き抜く。テッサが出てくるのを待ち構《かま》えているのだ。
粘《ねば》りつくような恐怖《きょうふ》が、彼女の心臓を鷲《わし》づかみにする。にもかかわらず『トイレに行った後で良かった』とのんきに思っている自分を発見し、彼女は驚《おどろ》いた。
水の流れる音と、戸板の開く音がした。
「チドリさん……? いないんですか?」
『逃げて』と叫ぼうとしたが、本能がそれを断固拒否した。
叫んだら死ぬ。だいいち叫んだところで、彼女は逃げられないかもしれない。逃げ道はトイレの奥の窓だけだ。あの子がドンくさいことはもう充分《じゅうぶん》わかったから、窓を開けて校庭に出ることさえ無理かも。
(ソースケ……)
本当だったんだ、とかなめは思った。宗介たちが何者かに追われていると聞いても、彼女はそれを話半分に受け取っていた。どうせまたいつもの調子《ちょうし》で、大げさに騒《さわ》ぎたてているだけなのだと。
だが、ちがった。どうやら自分は、またあの時――二か月前のあの事件の時と、同じ場所に迷い込んでしまったらしい。
ここは彼の故郷《こきょう》。すなわち戦場だ。
「チドリさん? もう、意地悪はやめて――」
なにも知らずに出てきたテッサに、待ち受けた男が腕《うで》を振《ふ》り下ろした。
(遅《おそ》い)
腕時計をにらみ、宗介は思った。
二人が出ていってから、すでに一五分が経過《けいか》している。校舎内をふらついているのか、それともなにかを話し込んでいるのか。用務員室の扉《とびら》を開け、廊下に出てみるが、かなめたちが戻《もど》ってくる気配はなかった。
「どうかしたのかね?」
ニュースを観《み》ていた老用務員がたずねた。
「二人の様子を見に行ってきます。おい……立て」
宗介はタクマに告げた。この部屋《へや》に彼を置き去りにするわけにはいかない。
その時《とき》、どこからか電子音が響《ひび》いた。軽快《けいかい》だが安っぽいモーツァルトのメロディ。かなめのPHSの呼び出し音だ。それはタクマのポケットの中から――
「ばれてしまいましたね」
勝ち誇った笑みを浮《う》かべ、彼はポケットからかなめのPHSを取り出した。スったのだ。おそらく、あの生徒会室で机の下にぎゅうぎゅう詰《づ》めで潜《もぐ》ったとき。
宗介はすべてを悟《さと》った。
さきほどのタクマの不審《ふしん》な台詞《せりふ》。『この学校は――伏見台学園といいましたか』。そう言ったとき、彼は電話を味方にかけていたのだ。回線《かいせん》を開きっぱなしにして、この学校の名前、つまり自分の居場所を口に出した。
「貴様《きさま》……」
うかつだった。ときたま狂《くる》ったように暴《あば》れ出しはするが、そうでない時のタクマは利口《りこう》なのだ。決して知能は低くない。
あれから一時間近くが経過《けいか》している。敵がこの場所を知ってから、一時間……! 用務員室の周囲《しゅうい》に敵の気配はなかったが、かなめとテッサは――
「出てみますか?」
タクマが呼び出し音を奏《かな》で続けるPHSを差し出した。サブマシンガンを油断《ゆだん》なく構《かま》え、宗介はそれを受け取る。受話ボタンを押すと、知らない男の声がした。
『相良宗介だな?』
「……そうだ」
『女二人を預《あず》かっている。「彼」を連れて校庭に出ろ。一分以内だ』
それだけで電話は切れた。
かなめとテッサが捕まっている――つまり、まだ生きてる。宗介はすこしだけ安堵《あんど》することを自分に許した。敵はむやみやたらに攻撃《こうげき》をしかけて、損害《そんがい》が出ることを嫌ったのだろう。それであちらは三人を失っている。だから、人質《ひとじち》をとった。
事態《じたい》は深刻《しんこく》だった。
校庭は見通しがよく、出ていったとたんに格好《かっこう》の狙撃《そげき》の標的《ひょうてき》になるだろう。いくら二人が人質になっているとしても、みすみす出ていくのは愚《おろ》かすぎる。宗介は『罠《わな》だとわかっていても、あえて立ち向かっていく』という選択《せんたく》を絶対《ぜったい》にとらない人間だった。
行くならこちらも方策《ほうさく》を練《ね》る必要がある。
しかし、どんな手だてが?
効果的《こうかてき》な手段《しゅだん》を準備《じゅんび》するには、一分という時間はあまりにも短すぎた。
(こうなったら……賭《か》けだ)
宗介は老用務員に向き直った。
「頼《たの》みがあるのですが」
「なんだね」
これからして欲しいことを説明《せつめい》すると、老人はうろんげな顔をした。
「つまり……大きな音が聞こえてきたら、グラウンドの照明《しょうめい》のスイッチを入れろ、というのかね」
銃声《じゅうせい》や爆発音《ばくはつおん》を合図《あいず》に明かりを点《つ》けてもらい、敵の夜目を眩《くら》ませる作戦だった。
「そんなことをしたら、わしが怒《おこ》られる」
「それはわかりますが――そうしてもらわないと、もっと困ったことになります」
これで断わられたら打つ手がない。固唾《かたず》を飲んでいると、老用務員はどこか思慮《しりょ》深いまなざしで彼を眺《なが》め、
「ま、いいじゃろ。すこしだけだよ」
それ以上はなにも言わず、腰をあげた。
「感謝《かんしゃ》します」
宗介はすぐさまきびすを返し、タクマを連れて校舎の出口に向かった。
早足で歩きながら、自分とタクマの手首を手錠《てじょう》でつなぐ。サブマシンガンは肩《かた》に提《さ》げる。ポケットから手榴弾《しゅりゅうだん》を取り出し、口で安全ピンを抜《ぬ》く。撃発《げきはつ》レバーにかけた指を離《はな》せば、それだけで手榴弾は爆発《ばくはつ》する状態《じょうたい》だ。
「諦《あきら》めたらどうですか? そんな悪あがきを……」
「貴様の機転《きてん》は誉《ほ》めてやるが、黙《だま》っていろ。俺は気が立っている」
暗い校庭に出ると、グラウンドを挟《はさ》んだ向こう側、鉄棒《てつぼう》の下に四人の人影《ひとかげ》が見えた。後ろ手に拘束《こうそく》されたかなめとテッサと、戦闘服姿の男が二人。
校舎の屋上にも人の気配があった。体育館の方にもひとり。いずれも狙撃《そげき》にはちょうどいいポジションだ。だが、それだけに発見も容易《ようい》だった。
宗介はタクマと自分とをつないだ手錠と、右手の手榴弾とを掲《かか》げて、声を張《は》り上げた。
「俺を撃《う》てばこいつも死ぬぞ」
宗介が撃たれれば、手榴弾は彼の手から離れ、爆発する。手錠でつながれたタクマも巻き込まれるのは明らかだった。
かなめのそばにいた男が前に進み出た。
「『彼』を渡せば危害《きがい》は加えない。手錠を外しな」
「それで交渉《こうしょう》のつもりか? もうすこしましな手順を言ってみろ」
宗介は挑《いど》むように告《つ》げた。人質をとったテロリストの気持ちがよくわかるな、と思った。
「……では、女の一人をそちらに送ろう。そうしたら手錠を外せるか?」
「いいだろう」
「その言葉をたがえれば、残った女の片耳を削《そ》ぎ落とすぞ」
「好きにしろ」
「では、どちらの女を先に解放《かいほう》する?」
男がたずねた。
宗介は迷《まよ》った。先に解放された者の方が、後に残された者よ。もはるかに安全なのだ。なにしろ、一人目は自分のそばに来る。二人目は危険だ。二人目とタクマを交換《こうかん》するときに、まず荒事《あらごと》が起きる。
かなめか、テッサか。
道理《どうり》からいけば、かなめが優先《ゆうせん》されるべきだった。彼女は <ミスリル> の人間ではない。特にこの件では部外者だ。被害者《ひがいしゃ》といってもいい。
しかし。
戦闘《せんとう》になったとき、残ったテッサが安全な場所に走れるだろうか? こう言ってはなんだが、彼女は運動神経《うんどうしんけい》がいいとはいえない。先に解放されなければ、助かる率《りつ》は低いのではないか。いや、ほとんど絶望的《ぜつぼうてき》かもしれない。
それに比べてかなめは俊足《しゅんそく》だ。学校の運動部から、いまでもよく助《すけ》っ人《と》を頼まれている。テッサを先に解放させて、残ったかなめの体力に賭《か》ける方が、二人を助けるには上策《じょうさく》ではないのか?
(これは……ジレンマだ)
テッサか、かなめか。
うす闇《やみ》の向こうで、二人がこちらをじっと見ていた。なにを考え、なにを期待《きたい》しているのか――さすがにそれはうかがい知ることができない。
けっきょく。
宗介は二人同時に助かる率の高い方に賭けることにした。すなわち――
「白人の女を先にしろ。日本人は後だ」
宗介の言葉を聞いた二人は、そろって、同じように驚《おどろ》きをあらわにしていた。かなめが目をみはり、なにか問いたげな視線《しせん》を送ってきたようにも見えた。
(千鳥を信じるしかない。彼女なら……なんとかできる)
大声で彼女にそう告げたかったが、敵の前では無理《むり》だった。これからひと暴《あば》れするぞ、と宣言《せんげん》するようなものだ。
「いいだろう」
男は答えると、テッサの手錠を外して、その背中を小突《こづ》いた。彼女は抵抗《ていこう》するそぶりを見せたが、ふたたび強く突き飛ばされて、仕方《しかた》なくこちらに歩いてきた。
近付いてくると、彼女が怒《おこ》っているのがすぐに見て取れた。それも、深刻《しんこく》な怒りだ。
「大佐殿《たいさどの》。自分の後ろに」
「ありがとう、サガラ軍曹。でも、あなたの選択《せんたく》はまちがっています」
「自分は二人の安全を――」
「わたしにこういうときの覚悟《かくご》がないと思っていたんですか? 侮蔑《ぶべつ》に等しいわ」
そう言われると、宗介には返す言葉がなかった。道理《どうり》を翻《ひるがえ》して自分が優先されたことが、ひどくプライドを傷付けたのだろう。これまでどうにか築《きず》いてきた、テッサとの良好な関係は瓦解《がかい》したも同然《どうぜん》だった。
「お叱《しか》りは後で」
かろうじてそう言ってから、宗介はタクマに告げた。
「右のポケットに鍵《かぎ》がある。そこだ。それで手錠を外せ」
タクマは無言《むごん》で彼のズボンのポケットに手を突っ込み、鍵を見つけると手錠を外した。
「外したぞ」
男に向かって宗介は叫《さけ》んだ。
「では彼を歩かせろ。こちらの女も同時に歩かせる。それでいいか」
男が提案《ていあん》し、かなめの手錠を外した。言葉通りにするのなら、そうしておきたいところだが――宗介は連中の仲間を三人も始末《しまつ》しているのだ。素直《すなお》に取り引きを終わらせてくれるとは思えない。
「いいだろう。では行くぞ」
タクマという命綱《いのちづな》から手を放《はな》すときが近付いている。彼を敵に渡すことについて、テッサから異存《いぞん》は出なかった。『行け』と目線《めせん》で合図《あいず》すると、タクマが歩き出した。グラウンドの向こうで、かなめもこちらに向かってくる。
いつ狙撃《そげき》されてもおかしくない状況《じょうきょう》だ。まだ撃ってこないのは、タクマが充分に宗介たちから離《はな》れるのを待っているのだろう。
「合図したら校舎《こうしゃ》の方へ走ってください」
宗介が言うと、テッサは反発《はんぱつ》をあらわにした。
「わたしだけ隠《かく》れて震《ふる》えていろ、と?」
「そうしていただかねば、危険《きけん》です」
「あなたのマンションでは言われた通りにしましたけど、今度は事情がちがいますよ」
「大佐殿……!」
口論《こうろん》しているうちに、グランドの中央でかなめとタクマがすれ違いかけた。校舎と体育館の屋上、二つの狙撃《そげき》ポジションから、総毛《そうけ》立《だ》つような殺気《さっき》が打《う》ち寄《よ》せてきた。
もう時間がなかった。最悪だ。来る。いま。
手榴弾《しゅりゅうだん》のレバーから指を放し、宗介は鋭《するど》く叫んだ。
「走って!」
体育館の方角に手榴弾を投げる。狙撃手と自分の射線上《しゃせんじょう》。
空中で手榴弾が爆発《ばくはつ》した。体育館の狙撃手は爆炎《ばくえん》でこちらを見失う。そのときには宗介はすでに身を翻《ひるがえ》して、背後《はいご》、校舎の屋上にいるもう一人の狙撃手にサブマシンガンを向けていた。
サイトの向こうに狙撃手の姿《すがた》。自分を狙《ねら》っている。あちらの方が早い。いま撃って――
その瞬間《しゅんかん》、グラウンドの照明《しょうめい》が強い光を発した。老用務員がスイッチを入れたのだ。目を眩《くら》ませた狙撃手の姿が、屋上にくっきりと浮かび上がる。苦し紛《まぎ》れに敵が発砲《はっぽう》。宗介の右三〇センチの地面で弾丸《だんがん》がはじける。
宗介は冷静にサブマシンガンの狙いを定め、バースト射撃《しゃげき》した。三つの薬莢《やっきょう》が銃《じゅう》から吐《は》き出されて宙《ちゅう》を舞《ま》う。屋上の狙撃手はのけぞって倒れ、見えなくなった。
次、体育館側――そう思って首をめぐらした時に、気付く。
「…………!」
明るく照らされたグラウンドの中央では、かなめが信じられないことをしていた。走って逃げず、すぐそばのタクマに組み付いていたのだ。彼を盾《たて》にしようという気らしい。彼女の行動力に賭けたのは確《たし》かだが、やりすぎだ。いったいどうすれば――
「わたしが」
言うなりテッサが駆《か》け出した。止める暇《ひま》もない。もつれあって地面に倒《たお》れたかなめとタクマに向けて、一直線に走っていく。
「大佐殿!」
やめろ、と警告《けいこく》している時間はなかった。体育館の上にいたもう一人の狙撃手が、最初の爆発《ばくはつ》から立ち直ってこちらを狙っていたのだ。
「っ……」
彼は身を投げ出した。背後に着弾《ちゃくだん》の土煙《つちけむり》があがる。
地面を転がりながら、宗介は狙撃手に向けて応射《おうしゃ》する。しかし、距離《きょり》が遠すぎる上に動きながらの射撃だ。狙撃手に弾《たま》は当たらず、緩《ゆる》やかなカープを描《えが》いた体育館の屋根に火花を散《ち》らしただけだった。
あちらの武器はライフルだ。サブマシンガンより射程《しゃてい》が長く、威力《いりょく》もある。自分の優位《ゆうい》をよく理解《りかい》しているらしく、敵の狙撃手は移動《いどう》もせずに射撃してきた。
二発、三発、四発。宗介はなすすべもなく至近《しきん》距離の着弾に追い立てられ、花壇《かだん》の前を駆け抜けた。煉瓦《れんが》が割れて飛び、黒土と朝顔のつるが周囲《しゅうい》で跳《は》ね回る。あやういところで彼は手近な水飲み場に飛び込んだ。腰《こし》くらいの高さの、コンクリート製の流し台に隠《かく》れ、かなめたちの様子《ようす》をうかがう。
グラウンドの中央では、いまだにかなめとタクマが取っ組み合いをしていた。そこにテッサが駆けつけ、二人を引き離そうとする。
向こう側の敵も拳銃《けんじゅう》を手に、グラウンドの中央へと走っていた。
(いかん)
かなめたちに駆け寄ろうとする男に、宗介はサブマシンガンの狙いを定めたが――体育館からの射撃がそれを邪魔《じゃま》した。流し台に敵のライフル弾が当たり、コンクリートの破片《はへん》が彼の頬《ほほ》を切り裂く。
体育館の上の狙撃手は、かなめたちを撃つ気はないようだった。彼女がタクマと絡《から》み合っているせいもある。対象《たいしょう》の確保《かくほ》は下の仲間に任《まか》せ、こちらの頭を抑《おさ》えることだけに集中しているのだ。
(打つ手がない)
完全な誤算《ごさん》が二つあった。一つはかなめで、もう一つはテッサだ。どちらも逃げようとしなかった。一人が素直に逃げてくれれば、あの狙撃手を牽制《けんせい》しながら脱出《だっしゅつ》できたのに。
まさか、こんなことが裏目《うらめ》に出るとは――
体育館の様子をうかがうと、宗介は瞠目《どうもく》した。
「…………!」
問題の狙撃手が、ライフルの代わりに別の武器を構《かま》えていた。使い捨ての対戦車ロケット・ランチャーだ。ビルの壁《かべ》やトーチカに大穴を開ける威力《いりょく》がある。こんな流し台などひとたまりもない。
敵がロケットを発射《はっしゃ》した。煙《けむり》の尾《お》を曳《ひ》き、宗介めがけて成型炸薬弾《せいけいさくやくだん》が飛んできた。
爆発。水飲み場が、木《こ》っ端《ぱ》微塵《みじん》に吹《ふ》き飛ばされた。
その数秒前――
「離《はな》れて! 逃げるんです!」
「あ……あんた、なんで戻《もど》ってくんのよ!?」
タクマのほっぺたと耳をぐいぐい引っ張っていたかなめが、驚《おどろ》きの声をあげた。
「わたしが囮《おとり》になります。あなたは向こうに――」
猛烈《もうれつ》な爆発《ばくはつ》の轟音《ごうおん》がテッサの言葉を遮《さえぎ》った。腹にずしん、と衝撃《しょうげき》が響《ひび》き、温かい空気の壁《かべ》が彼女らを叩《たた》く。
「!」
グラウンドの隅《すみ》の水飲み場から、猛烈《もうれつ》な黒煙《こくえん》があがっていた。ばらばらになったコンクリートの塊《かたまり》が、雨のように降《ふ》り注《そそ》ぐ。破裂《はれつ》した水道管から、水が噴《ふ》き出し、あたりに濃《こ》い霧《きり》を作り出した。
[#挿絵(img/02_177.jpg)入る]
宗介の姿が見えない。どこにもいない。まさか、あの爆発の中に……?
「あ……」
唖然《あぜん》として棒立《ぼうだ》ちしたテッサとかなめの背後に、黒ずくめの男が駆け寄ってきた。手にはごつい自動拳銃。この距離では絶対に逃《に》げられない。
「死んだな、あれは」
「…………」
「逃げても、逃げなくてもいい。前から撃《う》たれるか、後ろから撃たれるかの違いだ」
するとタクマが立ち上がり、
「待って。まだ殺しちゃだめだ」
「なに言ってるんだ、おまえ?」
「この人は……いや、なんでもない」
タクマはそれきりうつむいた。男は首をひねってから、頭に付けたヘッドセットに向かって呼びかけた。
「確保した。あとは殺すぞ」
それに無線《むせん》の向こうのだれかが答えると、男は怪訝《けげん》そうに鼻をならした。
「なんだと? でもセイナ……いや、わかったよ」
男はため息をついてから、二人に手錠を放り投げた。
「つけろ。付いてこい。逃げれば殺す」
[#地付き]六月二六日 二三二七時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東《こうとう》区 赤海埠頭《あかみふとう》
アンドレイ・カリーニンはベッドに横たわったまま、赤茶けた天井《てんじょう》を見上げていた。
時計はなかったが、まだ日付は変わっていないことくらいはわかっていた。
耳を澄《す》ますと、工作|機械《きかい》の音が聞こえてくる。モーター・ツールやコンプレッサーのうなり声。クレーンの駆動音《くどうおん》。なにかの金属《きんぞく》同士がこすれ合う悲鳴《ひめい》。
(貨物室《かもつしつ》だな……)
カリーニンは推測《すいそく》した。ときたま低いタービン音も響《ひび》いてくる。かなり大型のジェネレーターの駆動|状態《じょうたい》をテストしているのだ。
貨物室で、なにかを組み立てている。いや、すでに組み立て作業は終わり、最終的なテストに入っているのか……? おそらく、ASだ。それも特殊《とくしゅ》な。その機体《きたい》を使って、街《まち》で暴《あば》れさせるつもりだろうか。
鉄扉《てっぴ》が開き、セイナが現れた。
「具合《ぐあい》はどう?」
「これがいいように見えるかね」
血がにじみ、くすんだ包帯《ほうたい》を見下ろしてカリーニンは言った。
「まだ死にはしないでしょう。あなたは紳士《しんし》のようだけど、まずタフだから」
「そうだな。首を吊《つ》らない程度《ていど》にはタフだ」
彼女の師《し》のことを引き合いに出すと、セイナは顔色ひとつ変えずに近付いて来て、彼の腕《うで》――傷つき、汚《よご》れた包帯を巻かれた左腕に手を置いた。
指先で、傷口をぐいっと押《お》し込む。猛烈《もうれつ》な痛みが左半身に走った。
「彼を卑怯者《ひきょうもの》だといってるの?」
「……それは君自身の問題だろうな」
鋼鉄《こうてつ》の意志《いし》で苦痛を無視《むし》して、カリーニンは言った。
「どういう意味?」
「君の師――武知《たけち》征爾《せいじ》は君の中にしかいない。君のふるまいが、彼の真実を決定する。それだけのことだ」
人間がこういう時に怒《おこ》るのは、自分の不安を真っ向から指摘《してき》されるからだ。卑怯者でなかったと信じていれば、静かに相手を冷笑《れいしょう》して――それで終わりだろう。
セイナもそれを理解《りかい》したらしく、手の力をゆるめて顔をそむけた。
「……おかしな人。戦士というより、聖職者《せいしょくしゃ》ね」
「そう言われたのは、はじめてだな。とはいえ、魅力的《みりょくてき》な転職先《てんしょくさき》だ」
カリーニンがそう答えると、驚《おどろ》くべきことに――セイナは微笑《びしょう》を浮《う》かべた。これまで、ときおり見せてきた冷笑や嘲笑《ちょうしょう》ではなく、ただのほほ笑み。
「僧服《そうふく》に聖書。意外と似合《にあ》うかも」
セイナは言った。
「そうかね」
「似合うわよ、きっと」
彼の胸に、彼女が手を置いた。今度はそっと。
「……残念ね」
「なにが」
「あなたともっと早く……いえ」
致命的《ちめいてき》な言葉を口にする直前に、彼女は一歩下がった。
「まだ遅《おそ》くはない」
「いいえ。遅すぎね」
すでにセイナの声は、氷の調《しら》べに戻っていた。戸口へと引き返しながら、
「最初から、あなたはわたしの敵。殺さなかったのはただの気まぐれ。ラムダ・ドライバについてどこまで知っているのか――それを聞き出したら用は無《な》いわ」
「私はなにも教えない」
「そうかしら?」
セイナは立ち止まった。
「相良《さがら》宗介《そうすけ》――あなたの部下は死んだそうよ。連れの娘二人は、いまタクマと|一緒《いっしょ》にこちらに向かっているところ。あなたの前で、彼女らの身体《からだ》に聞いてみるとしましょう」
「……………」
「タクマはあれ[#「あれ」に傍点]に乗せるわ。その力で、あの人を否定《ひてい》した世界に反逆《はんぎゃく》する。明らかよね。わたしはあなたの敵なのよ」
[#地付き]六月二六日 二三三四時(日本標準時)
[#地付き]調布市 伏見台学園高校
どれくらい意識《いしき》を失っていたのか。
宗介はうつ伏《ぶ》せの状態《じょうたい》から身を起こした。ガラスの破片《はへん》とコンクリートの粉《こな》が、背中からばらばらと落ちる。ダメージを確認《かくにん》。軽い打撲《だぼく》と小さな擦《す》り傷《きず》はあったが、それだけだった。戦闘服《せんとうふく》の防弾繊維《ぼうだんせんい》が、細かな破片《はへん》をストップしてくれたおかげだ。
「…………」
彼が横たわっていたのは一階の保健室の床《ゆか》だった。ロケット弾《だん》が爆発《ばくはつ》する直前、彼は水飲み場の後ろにあったこの部屋《へや》に、窓《まど》を突《つ》き破《やぶ》って飛び込んだのだ。それでも爆風《ばくふう》と衝撃波《しょうげきは》に殴《なぐ》りつけられ、ぶざまにも気を失ってしまった。
(千鳥《ちどり》は……大佐殿《たいさどの》は……?)
彼は立ち上がり、よろめいた。
煤《すす》だらけになった窓枠《まどわく》から、グラウンドの様子《ようす》をうかがう。照明《しょうめい》はすでに消え、かなめたちの姿《すがた》はどこにも見えなかった。タクマと共に連れ去られたようだ。
とにもかくにも、二つの死体が転がっていないことには安堵《あんど》したが――
(くそっ)
大失態《だいしったい》だった。どうあっても釈明《しゃくめい》できない失敗だ。<ミスリル> でも最高レベルの戦闘員に与えられる|特別対応班《SRT》のコールサイン、『ウルズ7』が泣いている。
実際《じっさい》のところ、凡庸《ぼんよう》な戦士ならば最初の撃ち合いで死んでいるのが普通《ふつう》なのだが、いまの宗介にはそういう考えは思い浮かばなかった。
「いったい、どうなっとるんだ……?」
その場にやってきた老用務員《ろうようむいん》が言った。
「見てのとおりです。してやられました」
「わたしゃ、校長になんて説明《せつめい》すればいいんだね」
「適当《てきとう》に。弁償《べんしょう》はします」
「ふむ……」
そのとき、かねてから待ち望んでいたものが飛来《ひらい》した。
ローターとタービン・ブレードの高速回転《こうそくかいてん》する音。グラウンドに風がそよぐ。それはたちまち吹《ふ》き荒《あ》れる強風となった。
ECSの不可視《ふかし》モードで透明化《とうめいか》したCH―67[#「67」は縦中横]輸送《ゆそう》ヘリが、校庭に降下《こうか》してきたのだ。
遅《おそ》い。あと一〇分早く着てくれれば……。
『ゲーボ|9《ナイン》よりウルズ|7《セブン》。プレゼントの到着《とうちゃく》だ』
無線機《むせんき》につながったイヤホンに、連絡《れんらく》が入る。ヘリのパイロットからだった。
「ウルズ7了解《りょうかい》。いま出ていく」
宗介はむっつりと答え、窓枠《まどわく》を越《こ》えて校庭に出た。
依然《いぜん》として姿は見えなかったが、輸送ヘリはすでに着陸《ちゃくりく》しているようだった。ほどなく、積《つ》み荷《に》とのドッキングを解除《かいじょ》したヘリは空に飛び立っていく。
校庭に夜の静寂《せいじゃく》が戻《もど》る。砂埃《すなぼこり》が晴れると、闇《やみ》の中に巨大な人影《ひとかげ》がひざまずいていた。立てば身長は八メートルに達するだろう。
<ミスリル> が装備する最新鋭《さいしんえい》 |A S《アーム・スレイブ》、M9 <ガーンズバック> だ。
暗い灰色。複雑《ふくざつ》な曲面と直線で構成《こうせい》された装甲《そうこう》。すらりと引き締《し》まったシルエット。機銃《きじゅう》二門とセンサー類を搭載《とうさい》した頭部は、ヘルメットをかぶった戦闘機《せんとうき》パイロットのようにも見えた。背中のハード・ポイントには短砲身《たんほうしん》のライフルと、余剰《よじょう》電力を貯《た》めておくためのコンデンサー・パックが取り付けてある。
そのM9の足下に、二人の同僚《どうりょう》――メリッサ・マオ曹長《そうちょう》とクルツ・ウェーバー軍曹《ぐんそう》が立っていた。
三人一チームの編成《へんせい》が基本の <ミスリル> で、この二人は宗介と頻繁《ひんぱん》に組んで行動する。
黒髪《くろかみ》・黒目の東洋人女性と、金髪《きんぱつ》・碧眼《へきがん》のドイツ人青年。二人とも、戦闘服の機能《きのう》も兼《か》ねた <ミスリル> 仕様《しよう》のAS操縦服《そうじゅうふく》を着ている。忍者《にんじゃ》の黒装束《くろしょうぞく》を連想《れんそう》させるシルエット。襟《えり》と肩《かた》の一部だけに極彩色《ごくさいしょく》がワンポイントで入っており――その色はマオがバイオレット、クルツがコバルト・ブルーだった。
まず、クルツ・ウェーバーが口を開いた。
「……で、俺のかわいい女たちはどこ?」
その尻に、メリッサ・マオが無言《むごん》で蹴《け》りを入れた。
[#挿絵(img/02_187.jpg)入る]
[#地付き]六月二七日 〇〇二一時(日本標準時)
[#地付き]東京都 調布市 国領《こくりょう》町 多摩川《たまがわ》河川敷《かせんじき》
詳《くわ》しい相談《そうだん》をする前に、三人は戦闘《せんとう》をやらかした高校から離《はな》れた。
宗介が撃《う》った狙撃手《そげきしゅ》の片割《かたわ》れは屋上にはいなかった。死体を仲間が運んだのか、それとも負傷《ふしょう》しただけだったのか。それはわからなかった。
M9は不可視モード付きのECSを搭載《とうさい》しているため、気を付けて移動《いどう》すれば街中《まちなか》でも民間人《みんかんじん》に気付かれることはない。ただ、例によって酔《よ》っ払《ぱら》いを蹴飛《けと》ばしそうになったり、電線をひっかけて切断《せつだん》してしまったりした。
途中《とちゅう》で宗介のマンション近くまで寄《よ》って、駐車場《ちゅうしゃじょう》から軽トラックも調達《ちょうたつ》した。<ミスリル> の情報部員名義《じょうほうぶいんめいぎ》で買っておいた中古車だった。
多摩川べりまで付くと、三人は車の前に集まった。
M9は透明化《とうめいか》させたままである。あたりにはECS特有《とくゆう》の、こげくさいオゾン臭《しゅう》が漂《ただよ》っている。河川敷は暗かったが、花火で遊んでいる若者たちが遠くに見えた。ぱん、ぱん、と花火の音が断続的《だんぞくてき》に襲《おそ》ってきて、宗介はどうも落ち着かなかった。
彼が事情《じじょう》をつまびらかにすると、マオはため息をついた。
「……もうすこし早く着いていたらね。M9を送り狼《おおかみ》にしたのに」
「ほかに増援《ぞうえん》のあては?」
「まだかかるわ。ここ数日、<デ・ダナン> は大盛況《だいせいきょう》でね。少佐もいないし……」
カリーニン少佐が行方不明《ゆくえふめい》のため、現場《げんば》の指揮《しき》は実質上《じっしつじょう》マオがとらねばならなかった。カリーニンを補佐《ほさ》する大尉《たいい》などの上官もいるにはいたが、彼らはいま極秘《ごくひ》作戦で中国南部にいる。ほか何名かの『ウルズ』ナンバーを持つ戦闘員もだ。
こんなに <トゥアハー・デ・ダナン> が忙《いそが》しい日は珍《めずら》しかった。しかも作戦|指揮官《しきかん》は行方不明、総司令官《そうしれいかん》は生命の危機《きき》に瀕《ひん》している。
「まったく人材不足ってのは、もう……」
人材不足。自分がかなめたちを守り切れなかったことを責めているのだと思って、宗介はうつむいた。
「面目《めんぼく》ない」
「勘違《かんちが》いしないで、ソースケ。あなた一人にできることには限りがあるからね。組織的行動《そしきてきこうどう》をする重武装《じゅうぶそう》の敵相手に、三人のお荷物。ジェームズ・ボンドでもない限り支えきれないわよ、ほんと」
マオはボンネットの上で伸《の》びをした。意外な感想に、宗介はきょとんとする。
メリッサ・マオについて、彼はそう多くを知っているわけではない。
二十代半ばだということだったが、実際にはもう少し若く見えた。猫《ねこ》を連想《れんそう》させる、吊《つ》り気味《ぎみ》の大きな目。ベリー・ショートの黒髪《くろかみ》が活動的な印象《いんしょう》をかもしている一方、普段《ふだん》はしなやかなで洗練《せんれん》された動作をする。ただ昔――少女のころは、もっと野生味《やせいみ》があったのかもしれない。
彼女はニューヨーク出身の中国系アメリカ人で、<ミスリル> の前は合衆国海兵隊《がっしゅうこくかいへいたい》にいたという。女性兵士が前線部隊《ぜんせんぶたい》に配置《はいち》されることは普通の軍ではありえないが、マオは <ミスリル> に入る前に実戦《じっせん》を経験《けいけん》しているはずだった。こと現場戦闘員については、<ミスリル> は実戦経験者しかスカウトしないからだ。彼女がわけありな過去《かこ》の持ち主であることはまず間違《まちが》いなかった。
戦闘|技能《ぎのう》についても宗介にひけをとらず、電子戦やAS技術については専門家並《せんもんかな》みの知識《ちしき》を持つ。対人関係《たいじんかんけい》も良好で、手堅《てがた》い判断力《はんだんりょく》を持つため、こうしていまもチームのリーダーを務《つと》めている。
そんな彼女は、宗介に対しそれとなく気を回す。いまがそうだ。彼が気付かない場合もある。もちろん、それらの言動《げんどう》はチーム・リーダーとしての責任感《せきにんかん》から来るものなのだろうが。
とにかく、マオはそういう女だった。
「……たいした支援《しえん》はあてにできないからね。あたしたちだけでどうにかするわよ。まずは追跡《ついせき》。それから監視《かんし》。たぶん制圧《せいあつ》、と」
「まあ、そうするしかねーだろうけど……ふぁ」
クルツがぼやいてあくびをした。それをマオがじろりとにらみ、
「なに。そのやる気なさそうな態度《たいど》?」
「いやあ。ンなことねえって」
「カナメもヤバいのよ? あんたの命の恩人《おんじん》でしょ?」
「知ってるよ。だからこうして眠いのガマンしてるじゃん。カナメとテッサじゃなかったら、もー俺、帰って酒|呑《の》んで寝《ね》てるよ。いやマジで」
「こいつは……」
「だいたい、そのタクマってガキは何なんだよ。変な特技《とくぎ》でも持ってるのか。ウォッカを尻《しり》から飲んで火を吹くとか、鼻の穴に十円玉を一〇枚入れられるとか」
「そーいう奴《やつ》を必死《ひっし》で狙《ねら》うテロ屋ってのとも、あんまり戦いたくないわよね……」
「冗談《じょうだん》だよ」
「本気で言ってたらあんた、外すわよ」
その言葉など聞いてもいないように、クルツは腕組《うでぐ》みした。
「マジな話だと、そのタクマってのは――カナメと同じアレか。あの、<ウィスパード> とかいう」
「ああ、それね……」
マオが考え込む素振《そぶ》りを見せると、宗介が口を開いた。
「大佐殿はそれを知っているようだった。ただ、俺はあのタクマはカナメのような人間とは違うような気がする。もっと異質《いしつ》ななにかだ」
「ソースケ、なにか根拠《こんきょ》があるの?」
「いや。勘《かん》だ」
「おまえが勘なんていうの、なんかはじめて聞いたような気がするよ。新鮮《しんせん》だけどブキミだ」
「……ほうっておいてくれ」
そのとき、三人がそれぞれ付けていた無線機《むせんき》のヘッドセットに呼び出し音が入った。すぐそばのM9からの通信《つうしん》だ。
「そら来た。……どう、フライデー?」
マオは舌《した》なめずりをして言った。『フライデー』というのは、この機体《きたい》のAIのコールサインだった。
<<曹長殿。<トゥアハー・デ・ダナン> から項目《こうもく》B―3の情報です。五〇秒前、警視庁《けいしちょう》の監視《かんし》システムから該当車輌《がいとうしゃりょう》を発見しました>>
かなめたちを連れ去った車は、マンションを抜《ぬ》け出す時に見かけた黒塗《くろぬ》りのライトバンのはずだった。その車を探させていたところ、警察《けいさつ》のオービスに該当する車が引っかかったのだ。<ミスリル> はたいていの警察や軍のコンピューター・システムに侵入《しんにゅう》する技術を持っている。
「場所は?」
<<首都高速《しゅとこうそく》11[#「11」は縦中横]号線。コウトウ区。レインボーブリッジ。ダイバ方面の車線です>>
「よしよし。網《あみ》を絞《しぼ》って監視を続行《ぞっこう》。周辺《しゅうへん》の監視システムに引っかかったら連絡《れんらく》しなさい」
<<ごほうびは?>>
「キャンディーよ」
<<ラジャー>>
AIは沈黙《ちんもく》した。
「……姐《ねえ》さん、またヘンな言葉教え込んだだろ」
「文句《もんく》ある? あたしのAIだよ。……さて、行き先はおおよそ見当が付いたわね」
「港ってとこか」
「たぶんね。周辺道路の監視にかからなければ、お台場《だいば》の近くよ。そこまで行けば――」
「彼女の発信機《はっしんき》がある」
「そういうこと」
追跡用《ついせきよう》の電波《でんぱ》発信機という古典的な手段を持っているのは、なにも敵だけではなかった。
拉致《らち》される危険を常《つね》に背負《せお》っているかなめには、超小型《ちょうこがた》発信機付きのネックレスを持たせている。ほかにもいくつか、<ミスリル> は彼女を守るための措置《そち》を施《ほどこ》しているのだが、それは彼女自身も知らないはずだった。
もし敵がそのネックレスに気付いたとしても、もうおそい。臨海地区《りんかいちく》だということはすでに分かったのだ。あとは倉庫なり入港中の船なりを <デ・ダナン> のマザーAIで超《ちょう》高速|検索《けんさく》してもらえば目星《めぼし》はつく。
「あたしはM9、二人は車で移動《いどう》。合流地点は後で通達《つうたつ》する。よろし?」
「了解《りょうかい》」
「へいへい」
二人がばらばらに返事する。
「では、反撃《はんげき》開始よ」
マオはボンネットの上からひらりと降りた。
[#地付き]六月二七日 〇〇二五時(日本標準時)
[#地付き]東京都 港区 首都高速《しゅとこうそく》一一号線
レインボー・ブリッジを通り過《す》ぎて有明《ありあけ》インターチェンジまで来ると、かなめとテッサを乗せたバンは首都高速を降《お》りた。
金曜日の夜だが、車の往来《おうらい》は比較的《ひかくてき》少なかった。
大赤字に終わった都市|博覧会《はくらんかい》から四年が経過《けいか》した現在でも、臨海副都心《りんかいふくとしん》の開発は続いていた。大きなビルやショッピングセンターがまばらに建ち並ぶ一方で、雑草の生えるがままになった広大な空き地も、いまなお目立つ。
バンの助手席《じょしゅせき》にはタクマが座《すわ》っていた。並んで座ったかなめとテッサの向かいに、銃《じゅう》を握《にぎ》った男がいる。まったく油断《ゆだん》する素振《そぶ》りは見せない。
テッサは陰《いん》うつな様子《ようす》でうつむいていた。か弱く、痛々しげな横顔。ときおり、なにかを堪《た》えるように身をこわばらせると、三つ編《あ》みにした髪《かみ》の先っぽを握《にぎ》って、自分の口元に押《お》し当てていた。
(ソースケ……)
あの時、人質交換《ひとじちこうかん》の場で、テレサ・テスタロッサを先に解放《かいほう》するように彼が告げたのは、やはりかなめにとってショックだった。自分の方が先に助かりたかったとか、そういうのとは別の次元《じげん》の話だ。もっと純粋《じゅんすい》な、『この子が先だった』という問題。
やっぱり、この子の方が大事《だいじ》なんだろうか? それとも、あたしのことを信頼《しんらい》したのだろうか? その二つの可能性《かのうせい》の間で、いまも彼女の心はゆれていた。
どっちだろう……?
知りたい。苦しい。しかし、結論《けつろん》は出そうにない。
宗介《そうすけ》ごと吹《ふ》き飛ばされた水飲み場の光景《こうけい》を、頭に思い浮かべてみる。
彼が無事《ぶじ》だと思いたい――素直《すなお》にそう感じる自分に、彼女はすこしだけほっとした。よかった。嫌《きら》いになってない。憎《にく》んでなんかいない。
その事実《じじつ》こそが、いまは一番大切なのではないか、と彼女はぼんやり思った。信じる意思は残っている。それはなにかを不滅《ふめつ》にする。こんなときでも。
車は台場を過《す》ぎて南に走り、うら寂《さび》しい埠頭《ふとう》へと向かった。
目に入るもの――居並《いなら》ぶ倉庫《そうこ》、橋型《はしがた》のクレーン、サイロ型の集配所《しゅうはいじょ》など、すべてが巨大で、オレンジ色の薄明《はくめい》の中にかすんでいた。
流通《りゅうつう》センターのゲートを抜《ぬ》け、だれもいない敷地内《しきちない》に入っていく。整然《せいぜん》と積《つ》み上げられたコンテナが無人《むじん》の街を作りあげ、車におおい被《かぶ》さるようにそびえていた。
いくつかの角を曲がると、埠頭《ふとう》に停泊中《ていはくちゅう》の貨物船《かもつせん》が見えた。
赤錆《あかさ》びた船体。全長は一〇〇メートルを越《こ》えるが、とりたてて珍《めずら》しいほどの大きさではない。車が船首《せんしゅ》に近付いていくと、船名が読みとれた。
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ジョージ・クリントン号。船内から明かりが洩《も》れているところを見ると、中には人がいるようだった。
バンは、船へと続くタラップの手前で止まった。男たちにうながされるがままに車を降《お》りると、かなめとテッサはそのまま貨物船へと連行された。
甲板《かんぱん》に一人の女が待っていた。オレンジ色の操縦服《そうじゅうふく》。その服がアーム・スレイブのための装備《そうび》だということを、かなめは経験《けいけん》から知っていた。
「タクマ」
女が言うと、タクマがかなめを追い越《こ》していった。
「姉さん。大変だったんだ」
それまでの様子《ようす》からは想像《そうぞう》もつかなかったような明るい声で、彼は言った。だが次の瞬間《しゅんかん》、彼は女の平手《ひらて》打ちを食らって、一度大きくよろめいた。
「姉さん……?」
タクマは狼狽《ろうばい》して右の頬《ほほ》を押さえる。
「なぜ機内《きない》で薬を飲まなかったの?」
「ごめんよ。トイレでばらまいてしまって。気持ち悪かったから、飲まずに捨てたんだ」
「そのせいであなたは捕《つか》まり、取り戻《もど》すために四人失ったわ。オオイとウエタとヤシロとハタノ。それが分かってるの?」
「だって、オオイたちはいつも姉さんに反抗《はんこう》してたじゃないか。僕のことも馬鹿《ばか》にしてたんだよ? 腰抜《こしぬ》けだって――」
左の頬《ほほ》がひっぱたかれた。
「それでもあなたを助けにいったのよ。そして死んだ」
「ご、ごめんなさい……」
言いながら、タクマはちらりとテッサの方を盗《ぬす》み見た。自分のこんな姿《すがた》を見られたくない、と思っている顔だった。テッサはなぜか、そのやり取りから目をそむけていた。彼のそうした姿を見たくない、というわけでなく、もっと深刻《しんこく》な――嫌悪《けんお》の感情が見え隠《かく》れしていた。まるで鏡《かがみ》の前に立っているような……。
情けない。なない。
(え……?)
だれかがなにかをつぶやいたような気がして、かなめは周囲《しゅうい》を見回した。いや、だれも喋《しゃべ》っていない。テッサの声のような気もしたが、彼女は口をつぐんだままだ。
ちが。ちち、ちが。わたしはちがう。
ふたたび、どこかからの声。一瞬《いっしゅん》、自分が喋っているのかと思って、かなめは自分の唇《くちびる》に手をあてた。いや、自分ではない。その仕草《しぐさ》にはだれも注目《ちゅうもく》していなかった。
いや、もっと遠くから。いや、恐《おそ》ろしいほど近くから?
わからなかった。けっきょく、声はそれきりだった。
「――でも、よかったわ」
女が無表情《むひょうじょう》のまま、タクマを抱擁《ほうよう》していた。はたから見ていると顔と身体の動きがちぐはぐで、この姉弟の関係にはなにか強い違和感《いわかん》があった。
「心配してたのよ。あなたの価値《かち》を知った奴《やつ》らが、あなたを傷つけるんじゃないかと」
「姉さん……」
「薬はもらった?」
「ああ。もう飲んだよ」
「では、下に行って休んでいなさい。あなたにはやることがあるんだから」
「わかった。そうする」
男の一人に付き従《したが》われて、タクマは甲板の下に降《お》りていった。
「さて、お二人さん」
かなめとテッサを眺《なが》め、女が言った。
「なぜあなたたちを生かしていると思う?」
「決まってるじゃない」
言いながら、かなめは頭の中で減《へ》らず口を検索《けんさく》した。
「悪者がやられる前に、自分の悪巧《わるだく》みを告白するのは基本中《きほんちゅう》の基本だからよ」
「くだらないことを言うのね、あなた」
女は笑いもせずに背を向けた。
「連れて行きなさい。彼の訊問《じんもん》も任《まか》せたわ」
指示《しじ》された男は、無言《むごん》でそれにうなずいた。
かなめとテッサは背中を小突《こづ》かれ、船の階段を降りていった。二人はそのまま両側に扉《とびら》が並ぶ通路《つうろ》を抜け、殺風景《さっぷうけい》な船室に監禁《かんきん》された。
[#地付き]六月二七日 〇一一〇時(日本標準時)
[#地付き]港区 首都高速|都心環状線《としんかんじょうせん》
「それで。テッサを先にしちまったわけか」
運転席《うんてんせき》のクルツが言った。
左手には伊藤園の緑茶の缶《かん》。ステアリングを右手の指先でちょいちょいと動かし、器用《きよう》にタクシーやトラックを追い越《こ》していく。乗っているのは中古の軽トラックなのだが、それでもスピードを容赦《ようしゃ》なく出していた。
「そういうことだ」
助手席《じょしゅせき》の宗介《そうすけ》が答えた。
もの憂《う》げな面持《おもも》ちで車窓《しゃそう》の景色《けしき》、目まぐるしく流れていく光の奔流《ほんりゅう》を眺《なが》める。さまざまな模様《もよう》。テールランプの赤。街灯《がいとう》のオレンジ。ネオンの緑。それらが渾然一体《こんぜんいったい》となって、彼の脳裏《のうり》に二人の顔を映し出す。
「俺は馬鹿《ばか》だったかもしれん」
「そうだな。馬鹿だ」
クルツはしれっと言った。
「おまえに言われると、妙《みょう》に不愉快《ふゆかい》だ」
「そうかい。俺はおまえを馬鹿呼ばわりできて、愉快痛快《ゆかいつうかい》だよ」
宗介はむっつりと窓の外をにらんだまま、
「……では、おまえならどうした。カナメと大佐《たいさ》、どちらを先にした」
「そうだな……。たぶん、好きな子を先にしたかな。熱くたぎった俺の愛を受け入れてくれる優しい彼女。やっぱこれ、大事《だいじ》よ」
クルツ・ウェーバーはこういう男だった。
年のころは|二〇《はたち》前後。金髪碧眼《きんぱつへきがん》。顎《あご》は細く、目鼻にぴしっと筋《すじ》の通った、文句《もんく》なしの美形だったが――とにかく言動《げんどう》に品がない。努力と規律《きりつ》が大嫌《だいきら》いで、任務《にんむ》に対する真剣《しんけん》さが足りない。
これで戦闘技能《せんとうぎのう》は宗介とまったく互角《ごかく》なのだから、なおさら始末《しまつ》に負えない。しかも狙撃《そげき》の腕《うで》は、宗介も遠くおよばない驚異的《きょういてき》な天才だった。一キロ先の五〇〇円玉をドーナッツ状《じょう》に射抜《いぬ》くような真似《まね》を、鼻歌混じりでやってみせる。
彼は正規軍《せいきぐん》にいた経験がなく、宗介|同様《どうよう》、傭兵《ようへい》出身だった。どこで訓練《くんれん》を受けたのか、どこで戦っていたのかは、まだ聞いたことがない。日本で暮らしていたころの話は頻繁《ひんぱん》にするのだが――その後、どういう経緯で傭兵になったのかは語ろうとしなかった。
その過去《かこ》について触《ふ》れようとしたときだけ、いつもは陽気な彼が、むっつりと押《お》し黙《だま》るのだ。憂《うれ》いにかげった彼の横顔を、宗介は何度か目撃《もくげき》したことがある。『まあ、ろくな目には遭《あ》ってないよ』というのが、そういうときの彼の口癖だった。もっともいまはいつも通り、同僚《どうりょう》を苛立《いらだ》たせる軽薄《けいはく》さの仮面《かめん》を被《かぶ》っているのだが――
「ナンセンスだ」
相棒《あいぼう》の解答《かいとう》に、宗介は眉《まゆ》をひそめた。
「好き嫌いの問題ではない。俺は効率的《こうりつてき》な選択《せんたく》のことを言っているのだ」
「だからおまえは馬鹿《ばか》なんだよ」
クルツはくっくと笑って、お茶をすすった。
「俺に言わせりゃ、どっちを選んでも、なるようにしかならなかったと思うね」
「しかし――」
「そういう時は直感《ちょっかん》に従《したが》うべきなんだ。霊感《れいかん》っていってもいいな。ま、チェスみたいになにからなにまで計算しようだなんて、ヘソが茶を沸《わ》かすってんだよ」
「…………」
「それともおまえ、変なハーレム願望《がんぼう》でもあるんじゃねーのか? 『ボクがみんな幸せにしてあげるからね!』とか。だとしたら、あっぱれだよ。俺も応援《おうえん》してやる。がんばれ、サガラくん」
「話すのではなかった」
不機嫌《ふきげん》な声で言うと、クルツはふたたび笑った。
「ま、おまえらしい、って言ったらおまえらしいけどな」
そこに無線《むせん》が入る。
『|ウルズ2《マオ》より|ウルズ6《クルツ》、|ウルズ7《ソースケ》へ。まずいことになってきたわ』
M9で移動中《いどうちゅう》のマオからだった。
「なんだい、姐《ねえ》さん」
『自衛隊《じえいたい》と警察が動き出したの。敵の位置をつかんだみたいね』
「それのどの辺がマズいんだ?」
『赤色灯《せきしょくとう》つけたパトカーが、堂々《どうどう》と埠頭に向かうのよ? 奇襲《きしゅう》もへったくれもないわ。テッサとカナメが危険《きけん》よ』
「なんてこった」
「妨害《ぼうがい》はできないのか」
宗介がたずねた。
『こちらから侵入《しんにゅう》して偽《にせ》の指令とか出してみるけど……時間|稼《かせ》ぎにしかならないと思う。とにかく急いで』
「了解《りょうかい》。くそっ」
クルツは緑茶の缶を座席《ざせき》の後ろに放り、ステアリングを握《にぎ》りなおすと、アクセルを踏《ふ》みこんだ。
[#改ページ]
4:破壊《はかい》の導火線《どうかせん》
[#地付き]六月二七日 〇一一〇時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東《こうとう》区 赤海埠頭《あかみふとう》 貨物船《かもつせん》<ジョージ・クリントン>
その船室は、長い間使われていないようだった。
ロッカーは空《から》で、二段ベッドにもシーツは敷《し》かれていない。部屋《へや》の隅《すみ》には古いブラウン管式のテレビがあったが、電源は入らなかった。
タクマが敵の手に渡ってしまった――
テッサはどうにもならない無力感《むりょくかん》と不安を抱《かか》えたままでいた。彼が敵と合流《ごうりゅう》してしまった以上、ラムダ・ドライバを搭載《とうさい》した兵器がいつ動き出してもおかしくない状態《じょうたい》だった。
どうにかしなければ。そう思っても、自分にはまったくなす術《すべ》がない。敵がすぐそこで、恐《おそ》ろしいテロ行為《こうい》の準備《じゅんび》をしているというのに。
馬鹿《ばか》だった。たくさんのミスを犯《おか》した。判断《はんだん》を誤《あやま》った。そして自分のせいで、彼は、宗介《そうすけ》は……
千鳥《ちどり》かなめが船室の家具《かぐ》をあれこれと調べている間、テッサはベッドの上にいた。膝《ひざ》を抱《かか》え、呆然《ぼうぜん》と壁《かべ》のしみを見つめる。かなめはこれといって便利《べんり》そうなものがないことが分かったらしく、彼女の向かいのベッドに腰《こし》を降《お》ろした。
重苦しい沈黙《ちんもく》。それを最初に破《やぶ》ったのはテッサの方だった。
「チドリさん」
「なに?」
「あなたは変わっていますね」
「そう? 別に普通《ふつう》だと思うけど」
天井《てんじょう》をぼんやりと眺《なが》めて、かなめが答えた。
「いいえ。だって、あなたは普通の人[#「普通の人」に傍点]のはずなのに。こんな状況《じょうきょう》で使えるものを探したり。あの女の人を挑発《ちょうはつ》したり。あの学校のグラウンドでも、タクマ……彼に飛びかかったりして」
どう考えても、なんの訓練《くんれん》も受けていない一般人《いっぱんじん》のすることではない。
「変かな?」
「変です。わたしは……」
テッサはうつむき、しばらく沈黙した。この際《さい》だ、言ってしまおう、と決心して、
「あなたといると、わたしはペースが乱れっぱなしなんです。普通だったら絶対《ぜったい》やらないような馬鹿な真似《まね》を、今夜は何度もしてしまったわ。意地悪《いじわる》をして部下を困らせたり、無意味《むいみ》な行動力《こうどうりょく》を示そうとしたり」
「行動力? どういうこと?」
かなめには彼女の言う意味がよくわからないようだった。
「わたしはあの校庭で、サガラ軍曹《ぐんそう》の指示を無視《むし》して飛び出してしまいました。あんな愚《おろ》かな選択《せんたく》をしたのは、これまでの人生で一度もなかった。馬鹿なことをしたあなたを助けようとして、わたしも馬鹿になってしまったんです」
かなめは馬鹿呼ばわりされてもむっとしたりせず、ただぽかんとしていた。
「はあ……そうなの。どうして?」
「それは……」
テッサは口ごもった。
なぜあの時、自分がかなめを助けようと飛び出していったのか。そんな行動が無駄《むだ》どころか害悪《がいあく》だと知っていながら、なぜそうしたのか。
悔《くや》しかったからだ。
自分は役立たずではないと、彼に証明《しょうめい》したかった。とても強く。
宗介がテッサを先に解放《かいほう》するように言ったのは、この千鳥かなめを信頼《しんらい》していたからだった。つまり、自分は信頼されなかった。彼から信頼されなかったのだ。自分の運動|能力《のうりょく》を考えれば、彼の選択《せんたく》は――そう的外《まとはず》れなものではなかったかもしれない。
でも、だとしても、なぜ自分よりこの子なのか?
よく訓練された理性《りせい》がいくつもの答えを用意してくれたが、そのすべてを感情が拒絶《きょぜつ》していた。思い通りに手綱《たづな》を握《にぎ》れない――未熟《みじゅく》な感情。
こんなのは自分らしくない。自分はもっといい人間で、この子とだって仲良くなれるはずだ……そう念《ねん》じてみても、なぜかかなめに好感《こうかん》が持てない。
(わたしって、こんないやな子だったかしら……?)
そう思うと、テッサは暗澹《あんたん》とした気分になった。自分の独善的《どくぜんてき》な面を思い知らされたような気がして、自己嫌悪《じこけんお》が押し寄せてくる。
そもそも。
この千鳥かなめというのは、一体どんな人間なのだろう?
相良《さがら》宗介ほどの戦士が、ひとかどの信頼《しんらい》を置くこの少女。一般人なのに、あの行動力。たまに無謀《むぼう》ともいえることをする。平凡《へいぼん》な少女がこんな状況《じょうきょう》に放《ほう》りこまれたら、わけもわからず震《ふる》えて泣くのが普通だろうに。
けっきょくかなめの『どうして?』という問いには答えずに、テッサはたずねた。
「やっぱりあなたは変わっています。……怖《こわ》くないんですか?」
そう訊《き》かれると、かなめは考え込むそぶりを見せた。
「どうかな……。もちろん怖いんだけど。……なんていうのか、そういうモノが目の前に出てくると、反撃《はんげき》したくなるの……かな」
「反撃?」
「うん。あたしをヘコませようとして、挑《いど》みかかってくるモノ……そういうの、『敵』っていったらぴったり来るかもしれないけど。ああいう、鉄砲《てっぽう》持った連中だけじゃなくてね。普通に暮らしてても、『敵』っているじゃない」
それは大量《たいりょう》の宿題だったり、朝の睡魔《すいま》だったり、夜の孤独《こどく》だったり、だれかの悪意だったりする。月に一度の苦痛もある。将来《しょうらい》の不安もある。失恋《しつれん》の不安も、ある。
「そんな『敵』が襲《おそ》いかかってきたら……まあ、ガマンするなり戦うなりして、どうにかするしかないでしょ? たぶん、あたしはそういうノリでやってるんじゃないかな」
「でも、日常《にちじょう》の苦労《くろう》とこれ[#「これ」に傍点]とでは、次元《じげん》が違います」
「そうよね……。あたしも不思議なんだけど。でもね、あなたがどういう育ちの人なのかは知らないけど――普通《ふつう》に日本で暮らしてても、死んだ方がマシだ、って思うようなイヤな目に遭《あ》うことはあるのよ」
テッサは意外に思った。
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
かなめは冗談《じょうだん》ぽく答えてから、壁《かべ》に背を預《あず》けた。
「中学の頃の話だけどね。あたし、帰国子女《きこくしじょ》なの。親の都合《つごう》で四、五年くらいニューヨーク行ってて。それで日本に戻《もど》って来て、地元の中学に転入《てんにゅう》して……まあ、あとはよくあるパターンなんだけど。ずけずけモノを言う習慣《しゅうかん》が身に付いてたせいか、周りのひんしゅく買ってね」
それが意味《いみ》するところを、テッサはおぼろげに察《さっ》した。
「…………」
「あたしも悪いところあったと思う。でもね……いくらなんでも、ああいう陰湿《いんしつ》なノリってのはね……。最低だったわ。死にたいと思った」
それこそ死人のような声で、かなめが言った。
「それ[#「それ」に傍点]とも戦ったんですか?」
「そうよ」
なんの気負《きお》いもなく、彼女はあっさり答えた。
「スマートなやり方じゃなかったけど。後悔《こうかい》してない、っていうと嘘《うそ》になるかな……。逃げた方が利口《りこう》だったんでしょうね。でも、おかげでいろいろ分かったかな。たぶん」
「分かった。どんなことを?」
「いろいろよ」
彼女にそれ以上|説明《せつめい》する気はなさそうだった。
「……ま、高校に入るなり環境《かんきょう》もガラリと変わって、いまのあたしはけっこう幸せだけどね。いいやつらばっかだし、のんびりした校風だし、親友もいるし。ソースケが落ち着いてくれたら、もっと幸せかな。ははは」
そこまで聞いて、テッサはようやく――やっと、かなめのことがすこしだけ好きになれそうな気がした。それはほんのわずかではあったが。
「サガラさんは、そんなにご迷惑《めいわく》を?」
「もう、ひどいモンよ。常識《じょうしき》ゼロだから、いっつもバカみたいな騒動《そうどう》起こして。悪気がないのはわかるんだけど。だからなおさら……困るのね」
かなめが目を細めた。ただの迷惑顔とは、ちょっと違うように見えた。
「不器用《ぶきよう》だけど、一生懸命《いっしょうけんめい》で。なんか、放っておけなくて……」
「…………」
不器用。一生懸命。放っておけない。
その通りだ。どうしてか彼は――相良宗介は、自分をそんな気にさせてしまう。カリーニンの生死の話をしたときも、『自分でも少佐は殺せなかった。だから無事《ぶじ》だ』などと言って。あまりにもひどい慰《なぐさ》め方だったが、それが彼の精一杯《せいいっぱい》なのだ。
おかしいし、かわいいし、ちょっとだけ頼もしい。
そんな彼の横顔――クールなようで実は必死な横顔を、あのときテッサは『いいな……』と感じてしまった。どうにも要領《ようりょう》が悪い彼のそばに、いつも居てあげたい気持ちになった。なのに、彼のそばにはかなめがいる。
だからだ。
先刻《せんこく》の疑問――どうして自分のペースが乱れっぱなしなのか――その答えがおぼろげにわかった気がした。
「確かに――」
テッサはぽつりとつぶやいた。
「サガラさんって、変な人ですよね……」
「そーね。とっても変」
二人の目が合った。なぜか、自然に互《たが》いから笑みがこぼれる。その瞬間《しゅんかん》だけ、二人は同じ気持ちを共有していた。
千鳥かなめはエイリアンではない。ただの女の子だ。自分と同じように。
それが分かって、テッサは妙《みょう》にほっとした。
「で、あなたは?」
「はい?」
「テスタロッサさんこそ、ずいぶん変わった子みたいに見えるけど」
「あ……。わたしのことはテッサでいいです。友達は……そう呼ぶから」
そう告げるのには、ほんの少しだけ勇気が必要だった。だがかなめはあっさりと、
「うん。じゃあテッサ。あたしのことは好きに呼んで」
「はい、カナメさん」
言ってみてから、しっくりする呼び方だな、と思った。
「で、けっきょく、テッサはなにしてる人なの? <ミスリル> の人みたいなのはわかるけど」
「ええ、それは前も説明した通り――」
テッサがそう言ったところで、船室の鍵《かぎ》が外れ、戦闘服姿《せんとうふくすがた》の男が顔をのぞかせた。
「出ろ。付いてこい」
アンドレイ・カリーニンの部屋《へや》に、男が入ってきた。
黒ずくめの戦闘服姿。覆面《ふくめん》はすでに着けておらず、素顔《すがお》を見せている。黒い髪《かみ》をドレッド・ロックにした若者だ。
「質問《しつもん》タイムだぜ、おっさん」
横柄《おうへい》な声で若者は言った。セイナの姿は見えない。ほかの用事があるのか、それとももう自分と顔を合わせたくないのか。
「涙《なみだ》の御対面《ごたいめん》。とっとと入りな」
一人の男に小突《こづ》かれて、テレサ・テスタロッサと千鳥かなめが入ってきた。包帯《ほうたい》だらけでベッドに横たわる彼の姿を見て、二人の少女はそれぞれ違う反応《はんのう》をみせた。
「カリーニンさん……!」
「だれ?」
まずは元気そうだ。どうやら保険《ほけん》は効《き》いたようだな、と彼は思った。
千鳥かなめはカリーニンを見たことがない。二か月前の事件で、気を失ったまま <トゥアハー・デ・ダナン> に収容《しゅうよう》されたかなめを、彼は医務室《いむしつ》で見舞《みま》ったこともあるのだが、当の彼女はそんなことなど知らないはずだった。
「カリーニン。それがおっさんの名前ってわけだ。よろしくな」
ドレッド男が言ってから、後ろの連中に目線《めせん》で合図《あいず》した。二人の男はテッサとかなめの肩をつかみ、むりやり床《ゆか》にひざまずかせた。
「さぁて。セイナの話じゃ、あんたは死にかけの怪我人《けがにん》で、拷問《ごうもん》しても無駄《むだ》らしいってな。……でよ、このお嬢《じょう》ちゃんたちに協力《きょうりょく》してもらおうと思ったわけだ。おわかり?」
カリーニンは沈黙《ちんもく》を保《たも》った。
「最初に言っとくけどな。オレ、こういう真似《まね》するの、そんなに嫌いじゃないんだよ。昔、ネンショーにブチ込まれた理由《りゆう》も、そーいうのでさ」
そこで、かなめの後ろにいた男が口を挟《はさ》む。
「気を付けな、おっさん。そいつホンモノの変態《へんたい》なんだぜ。中坊ン時に近所のOL、林に連れ込んでよ。五、六発入れた顔めがけて――」
「わー。やめて、はずかち〜〜〜!」
三人の男たちが笑い、二人の少女が嫌悪《けんお》に顔を伏《ふ》せた。
小部隊として統制《とうせい》のとれている彼らのことだから、自分たちで言っているほど刹那的《せつなてき》な犯罪《はんざい》をおかす習慣《しゅうかん》は、いまはないはずだ。実際《じっさい》、男はおどけるのをすぐにやめ、しごく真面目《まじめ》な顔で自動拳銃《じどうけんじゅう》を抜いた。すでに性犯罪者《せいはんざいしゃ》ではなく、戦士の顔だった。
「じゃあ教えてくれ。あんたの所属《しょぞく》はどこだ?」
銃口を、テッサの側頭部《そくとうぶ》にごつりと突きつける。さすがに彼女は覚悟《かくご》ができているらしく、まんじりと正面を見据《みす》えるだけだった。
「いけませんよ、カリーニンさん」
テッサが命令口調《めいれいくちょう》で言った。
「それは……私が判断《はんだん》することだ、テスタロッサくん[#「くん」に傍点]」
やや辛《つら》そうな声で答える。自分よりもテッサの方が重要な人間であることを隠《かく》すために、カリーニンは彼女をそう呼んだ。テレサ・テスタロッサが彼の秘書《ひしょ》などではないことを知ったら、この連中は直接《ちょくせつ》彼女を拷問《ごうもん》することだろう。
「いつから君は……この私に命令するようになったのかね?」
テッサは沈黙した。どうやらこちらに任《まか》せてくれる気になったようだ。
「ぐだぐだ言ってねえで、はやく答えろ。あんたの所属は? いや、その前にこっちが本気だって証拠《しょうこ》を見せてやろう。うん、そうしよ」
ドレッド男が銃口を、無造作《むぞうさ》にテッサの脚《あし》に向けた。本気で撃とうとしていることは明白だった。
「 <ミスリル> だ」
引き金が絞《しぼ》られる直前に、カリーニンは言った。
「なんだそりゃ」
銃口を下げもせず、男がたずねた。
「……地域紛争《ちいきふんそう》やテロリズムの抑止《よくし》を目的《もくてき》に創設《そうせつ》された軍事組織《ぐんじそしき》だ。各国の軍や警察《けいさつ》に対する情報提供《じょうほうていきょう》や訓練《くんれん》、必要な場合は……っ。……物理的《ぶつりてき》な作戦行動《さくせんこうどう》を行う。私はその作戦部に所属しており、日本|政府《せいふ》の人間と……意見交換《いけんこうかん》を……行っていた」
じっさい説明の途中《とちゅう》に、カリーニンは何度か言いよどみ、苦痛をこらえるようにあえいだ。実際、背中《せなか》の傷が焼けるようだった。
「痛むのか? ひどい怪我《けが》だもんな。気《き》の毒《どく》に」
まったく同情もしていない様子で、ドレッド男は言った。それから、テッサとかなめの後ろに立つ二人に、
「おまえら、<ミスリル> っての知ってるか?」
「噂《うわさ》は聞いたことがある。いずれの軍にも所属しない、凄腕《すごうで》の処刑部隊《しょけいぶたい》だとか」
片方が答えた。
「それは……っ。我々《われわれ》が……意図的《いとてき》に流している噂だ。……テロリズムの……抑止に役立てるために……」
「馬鹿くせえ。そんな噂でビビる奴《やつ》がいるかよ。では、第二問」
今度はかなめの脚に、男が銃口を向けた。彼女は真《ま》っ青《さお》な顔で、目の前の黒光りする銃身を凝視《ぎょうし》していた。わずかに瞳《ひとみ》がうるんでいたが、それだけだ。取り乱しもしない。
なるほど、強い子だ……とカリーニンは思った。
「『ラムダ・ドライバ』のことをどこまで知ってる? 対抗手段《たいこうしゅだん》を持っているのか?」
「それは……」
「撃つぞ」
「話す。ラムダ・ドライバは……。っ……。われわれが……われわれが……」
後半は消え入りそうな声だった。背中が、肋骨《ろっこつ》が痛い。それは確《たし》かだ。
「われわれが、なんだよ? 聞こえねえぞ」
ドレッド男は苛立《いらだ》ちながら、カリーニンのそばまで来た。
「保有《ほゆう》……している……技術《ぎじゅつ》の……」
「技術の?」
「技術の……存在《そんざい》しない……技術の……」
「ちゃんと喋《しゃべ》れ。女を撃つぞ」
カリーニンは喉《のど》を絞《しぼ》り、口を開けたり閉じたりした。男の仲間が顔を曇らせ、
「おい、ヤバいんじゃねえのか? 死にかけてるぞ」
「うるせえ、死ぬ前に喋らせる。おい、おっさん。てめえが全部喋らなかったら、後であの女、ヒイヒイ言わせるぞ。わかってんのか?」
ベッドの上にぐったりとしたカリーニンの首を、ドレッド男がつかんだ。
「われわれが知っているのは……」
ようやく漏《も》れた弱々しい声を拾《ひろ》おうと、男は身をかがめて、耳をそばだてた。
こんなところか。
カリーニンはみっともない演技《えんぎ》をやめると、男の右手――銃を握《にぎ》った方の手首を、無造作《むぞうさ》につかんでひねりあげた。
「お……」
反応する暇《ひま》など与える気はなかった。相手に銃を握らせたまま、銃口をその腹《はら》に押し付けると同時に――引き金を引く。たて続けに三度の銃声。銃弾が男の体を貫通《かんつう》し、空中に三本の赤い尾《お》を曳《ひ》いた。
テッサとかなめの背後に立っていた二人の男は、なにが起きたのかを理解《りかい》するまで数瞬《すうしゅん》を要《よう》した。
仲間に弾《たま》が当たる危険を侵《おか》してでもカリーニンを撃つか、目の前の少女たちを盾《たて》にするか、背後《はいご》の戸口から船室の外に逃げるか。三つの選択肢《せんたくし》が彼らにはあり――迷ったばかりにゼロになった。
ベッドに横たわったままの姿勢《しせい》から、カリーニンが二発、発砲した。機械《きかい》のように素早《すばや》く正確《せいかく》な速射《そくしゃ》で、頭に一発ずつ。釘《くぎ》を打つほどのたやすさだ。二人の男はなんの反応も示すことなく、その場にくずおれた。
銃口から硝煙《しょうえん》が立ち昇《のぼ》り、空薬莢《からやっきょう》がベッドの上からかつん、と落ちる。
テッサとかなめはそれぞれの両目を丸くして、銃を斜《なな》めに構《かま》えたカリーニンの姿を眺めていた。
「ご無事《ぶじ》でなによりです、大佐殿《たいさどの》」
本来《ほんらい》の口調《くちょう》に戻《もど》って、カリーニンは銃口を下げた。
「か……カリーニンさん。怪我は?」
「死ぬほどではありません。ただ――この件が済《す》んだら休む必要はありますな」
彼は身を起こし――猛烈《もうれつ》な痛みがあちこちに走った――足首に繋《つな》がれた手錠《てじょう》に銃口をあて、撃った。火花が散り、鎖《くさり》が弾《はじ》け飛ぶ。身体《からだ》が激《はげ》しく不調《ふちょう》を訴《うった》えていたが、短い時間なら、だましだまし使えそうだった。
カリーニンはいまだに混乱《こんらん》した様子のかなめに気付いた。
「チドリ・カナメくん」
死体の装備《そうび》を物色《ぶっしょく》しながら、彼は言った。
「は……はい?」
「部下がいつも世話《せわ》になっている。礼を言わせてもらおう」
「あ……どうも。でも、テッサとは……きょう会ったばかりです」
「そうではない」
敵のナイフと予備弾倉《よびだんそう》をベルトにねじ込み、拳銃《けんじゅう》を点検《てんけん》する。ぽかんとしているかなめに、テッサが横から説明した。
「カナメさん。彼の言ってる『部下』っていうのは、サガラさんのことです」
「へ? でも……」
「彼女は私の部下ではない。上官[#「上官」に傍点]だ」
めぼしい装備を奪《うば》うと、カリーニンは立ち上がった。
「行きましょう、大佐殿」
どうやら本当らしい。
かなめもさすがに認《みと》めざるをえなくなってきた。
このカリーニンというおじさんは、宗介の上官だそうだ。それは納得《なっとく》できる。そしてそのカリーニンが――テッサを『上官だ』といっている。言葉づかいもやたらと丁寧《ていねい》だし、彼女のことを『大佐殿』などと呼んでいる。
つまり、このドンくさい子が、いちばん偉《えら》いことになるのだ。
宗介の説明は本当のことで、彼は嘘《うそ》などついていなかった。テレサ・テスタロッサがトップ。艦長《かんちょう》とやらで、大佐殿で、総指揮官《そうしきかん》だと。
しかし――
「これは絶対《ぜったい》ヘンだわ」
テッサと並《なら》ぶようにして通路《つうろ》を歩きながら、かなめはつぶやいた。
「あんたたち <ミスリル> っていうのは、いったい何なのよ? 戦争ボケの非常識男《ひじょうしきおとこ》を転入《てんにゅう》させたり。歩いただけで『ずるべたーん』てすっ転《ころ》ぶような女の子を指揮官に祭《まつ》り上げたり。異常《いじょう》よ、これ」
「そんな言い方って……」
テッサが不服《ふふく》そうな顔をした。
「それを言われるとつらい」
先を歩くカリーニンの声には、どこか乾《かわ》いたユーモアが漂《ただよ》っていた。
貨物船《かもつせん》の通路は薄暗《うすぐら》く、狭苦《せまくる》しく、大男の部類に入るカリーニンの頭が天井《てんじょう》のパイプ類にいまにもぶつかりそうだった。逆三角形の背中には幾重《いくえ》にも包帯《ぽうたい》が巻かれ、茶色く変色した血液に染まっている。見るからに痛々しい様子だったが、その身のこなしはあくまで滑《なめ》らかで、ぎこちなさなど微塵《みじん》もない。
(この人の歩き方、ソースケによく似《に》てるな……)
ふと、そんなことを思う。
かなめが想いに沈《しず》みかけたところで、カリーニンが立ち止まった。
「どうしました?」
小声でテッサが言った。
「こちらへ。声を出さずに」
カリーニンはテッサとかなめの肩《かた》を押《お》し、すぐそばの鉄扉《てっぴ》を開けて中に入った。そこは窮屈《きゅうくつ》なトイレで、油と潮《しお》と排泄物《はいせつぶつ》の匂《にお》いが入り交じった、猛烈《もうれつ》な悪臭《あくしゅう》がたちこめていた。
「きっ……むぐ」
思わず悲鳴《ひめい》をあげそうになったかなめの口を、カリーニンが左手で押さえた。そっと扉を閉めて息をひそめていると、足音がした。
「……」
外の通路を、何人かの男たちが走りすぎていく。
どうやらやり過《す》ごせたようだった。
「我々が逃《に》げたことに気付いたようです」
「まあ、時間の問題でしたから。それよりも、気になることが……えほっ」
さすがに悪臭《あくしゅう》がこたえるのか、テッサは軽くむせかえった。
「この船の積《つ》み荷《に》のことですか」
「ええ。さっき音が聞こえたわ。大型のガスタービン・エンジンですね。それも、航空機用《こうくうきよう》じゃなくて」
「発電用」
「たぶん。トルク・コンバーターの音がそれらしかったから。でも…‥腑《ふ》に落ちないですね。ASのジェネレーターにしては規模《きぼ》が大きすぎるわ」
「ラムダ・ドライバと関係が?」
「はっきりとは言えません。ただ、普通《ふつう》の出力《しゅつりょく》では足りない機材のためでしょう。タクマは敵の手に渡ってしまったし……なんとかしないと」
会話から置いてけぼりを食らって、かなめは二人の顔を交互《こうご》に見た。
「あのー。なんの相談?」
鼻をつまんでたずねてみる。テッサは思考《しこう》を中断《ちゅうだん》されたことに気分を害《がい》したようだったが、すぐに気を取り直し、
「つまり……この船には、とてつもなく強力な兵器が積《つ》んであるかもしれない、ということです。常識《じょうしき》はずれの技術が使われた兵器が」
「はあ……」
「わかりませんか?」
「うん。あんまり」
「だと思いました」
かなめがにらむのを無視《むし》して、テッサは自分の細い顎《あご》に手をやった。
「やっぱり推量《すいりょう》だけではどうにもなりませんね。……カリーニンさん。貨物室《かもつしつ》の偵察《ていさつ》をしてみたいんですけど。できます?」
「やるしかないでしょうな。ラムダ・ドライバ搭載型《とうさいがた》のASなどがあったら――動かないうちに破壊《はかい》する必要があります」
「では行きましょう。いいですか、カナメさん?」
「え?」
「ちょっと寄り道したいんです」
「あ……そう。別にいいけど」
正直なところ、さっさとこんな船からは逃げ出したかったのだが、かなめは反対できなかった。素人目《しろうとめ》にも古強者《ふるつわもの》っぽいカリーニンを相手にして、対等《たいとう》以上の会話をしているテッサに、これまでとは違った貫禄《かんろく》を感じたのだ。
通路の様子をうかがってから、カリーニンが先導《せんどう》した。いくつかの扉をくぐりぬけ、階段《かいだん》を降りる。
さらに通路を進んでいくと、いきなり広い場所に出た。
「あ……」
そこは船底の貨物室だった。学校の体育館によく似た構造《こうぞう》で、そびえ立つ壁面《へきめん》の中ほどに、ぐるりと鉄製《てつせい》の細い通路――キャット・ウォークがめぐらしてある。空っぽなら、バスケット・ボールの試合《しあい》でもできそうな空間だった。
人の気配《けはい》はないようだ。なにかの燃料《ねんりょう》の刺激臭《しげきしゅう》と、焦《こ》げたプラスチックや金属《きんぞく》の臭《にお》いが漂ってくる。
室内は暗く、大小さまざまな機械《きかい》の影《かげ》が、窓からの薄明《うすあ》かりの下に浮かび上がっていた。
小型のクレーンやコンプレッサー、大型のバッテリーやなにかのタンク。無数のケーブルとパイプ類が、乱雑《らんざつ》に床《ゆか》を這《は》いまわっている。
その貨物室の中央に――いや、中央というより、貨物室全体を占拠《せんきょ》するような状態《じょうたい》で、なにか巨大な機械がうずくまっていた[#「うずくまっていた」に傍点]。
「…………?」
最初、かなめはそれを超《ちょう》大型の潜水艇《せんすいてい》かなにかかと思った。だが違う。もっと複雑《ふくざつ》な構造《こうぞう》のものだ。
ASではなさそうだった。目の前の機械は、ASなどよりはるかに大きい。普通のASだったら、この貨物室には一〇機くらいは収《おさ》まるだろう。しかしそれ[#「それ」に傍点]は、その貨物室のほとんどを占領《せんりょう》しているのだ。あまりに大きいので、かなめたちの立つ位置からでは、その全貌《ぜんぼう》を見渡すことさえできない。
それが海を移動《いどう》するものなのか、それとも空を飛ぶものなのか、地上を走るものなのか、それさえかなめにはわからなかった。
滑《なめ》らかな曲線を描《えが》く外装《がいそう》――装甲《そうこう》だろうか? その色は暗い赤だ。やたらと複雑《ふくざつ》なパーツ構成《こうせい》で――とてつもなく大きなアームがついているようにも見える。
「なに、これ?」
かなめが尋《たず》ねても、テッサは返事《へんじ》をしなかった。うす暗がりの中で、彼女の横顔は驚愕《きょうがく》と緊張《きんちょう》にこわばっていた。
「ナンセンスだわ」
テッサがつぶやいた。
「こんなもの[#「こんなもの」に傍点]が動き出したら……手の付けようがありません。たくさんの人が死んでしまう。どうにかしないと」
「しかし、手榴弾《しゅりゅうだん》程度《ていど》では傷ひとつ付けられません」
「燃料《ねんりょう》タンクがあるはずです。それをどうにか――」
そのとき、貨物室の照明《しょうめい》が点灯《てんとう》した。水銀灯《すいぎんとう》の光が、あたりを強く照《て》らし出す。
「…………」
カリーニンが身構《みがま》え、かなめとテッサを自分の背中に隠《かく》した。
キャット・ウォークに数人の敵。それぞれライフルとショットガンで武装《ぶそう》し、こちらに銃口を向けている。反対側の通路《つうろ》にも。背後の出入り口にも二人。
完全に囲《かこ》まれてしまった。
頭上に知った顔が一人、立っていた。タクマだ。|A S《アーム・スレイブ》の操縦服《そうじゅうふく》を着ている。その姿を見て、かなめは小さな驚《おどろ》きを覚えた。
(あのひ弱そうな子が、戦うっていうの?)
ASのすさまじい運動性や破壊力《はかいりょく》を見たことのあるかなめには、タクマがそれを使いこなしている図が想像《そうぞう》できなかった。
「ここに来ると思ってたよ」
タクマが言った。
「君には強い知り合いがたくさんいるね、テスタロッサさん。ヤンさんに相良さん、そしてこの傷ついた紳士《しんし》。男を乗り換えるのがうまいみたいだ」
「あなたでも皮肉《ひにく》は言えるんですね」
テッサが答えた。タクマはほほ笑むと、例の巨大な機械を眺《なが》めた。
「これ[#「これ」に傍点]、どう思う? <ベヘモス> って呼ばれてるんだけど」
どこか無関心《むかんしん》で、他人事《ひとごと》のような声。
「あなたたちは狂っています」
テッサが言った。
「こんなものの使い道は、ただの破壊しかありえないわ。戦術目標《せんじゅつもくひょう》もなにもない。核《かく》や化学兵器と同類で、ただ恐怖《きょうふ》を振《ふ》りまくだけです」
「それが僕たちの目的なんだよ。テスタロッサさん」
「…………」
「僕個人としては、別にこれを使って、なにかを得《え》たいわけじゃないんだ。ただの表現。ただの主張《しゅちょう》。その程度のものさ。一年もたったら、たぶんほとんどの人はこれのことも忘れてしまうと思う」
「武知《たけち》征爾《せいじ》のようにかね」
カリーニンが言うと、タクマや――ほかの男たちがわずかに驚《おどろ》いた。
「そうだよ」
すこしの沈黙《ちんもく》の後、タクマが言った。
「僕たちの父親代わりだったあの人を、否定《ひてい》した世の中が許せない。それもある。でも、それだけの理由じゃない。わからないだろうね、こういう気分」
「ええ、わかりません。それに、こんなものは実用性が皆無《かいむ》だわ。わたしなら使おうなどとは思いませんね」
「そんなことないさ。選ばれた戦士の僕が乗れば、これは無敵《むてき》になる。たくさん壊《こわ》して、たくさん殺すんだ。そうすれば姉さんも喜ぶし。僕も満足なんだ」
手すりに寄りかかり、タクマはにっこりと笑った。邪心《じゃしん》がまるで見えないので、その笑顔はいっそう不気味だった。
「……さて。急いで仕度《したく》を終わらせないと。警察がすぐそこまで来てるらしいんだ。自衛隊《じえいたい》のASも連れてね。あちらがこの <ベヘモス> になんの対策《たいさく》も講《こう》じてないってことが分かったんだから――君たちの尋問《じんもん》は必要なくなったんだってさ」
「やめなさい、タクマ。まだ遅《おそ》くはないわ」
「遅すぎだよ、テスタロッサさん。君のこと、僕はけっこう好きだった。でも、お別れだね」
タクマが命じたわけでもないのだが――男たちが銃の狙《ねら》いを定めた。
撃《う》たれる。
かなめがそう思った次の瞬間《しゅんかん》、貨物室を轟音《ごうおん》が襲《おそ》った。
それは爆発《ばくはつ》の衝撃《しょうげき》だった。
船体が上下左右に激《はげ》しく揺《ゆ》れる。
この貨物船のどこか、おそらくは船底の方だ。魚雷《ぎょらい》でも命中したような感じだった。
床《ゆか》が大きく左に傾《かたむ》く。室内にあったさまざまな機材《きざい》が、すべり、転がり、左舷《さげん》へ向かって殺到《さっとう》した。キャット・ウォークの敵たちも姿勢《しせい》を崩《くず》し、手すりにしがみつく。
「きゃ……」
かなめは転倒《てんとう》して床を転《ころ》がり、小型のクレーンに背中をぶつけた。
「隠《かく》れろ!」
カリーニンがすぐそばのテッサを抱《かか》えるようにして走りながら、かなめに向かって叫《さけ》んだ。
キャット・ウォークの上に、銃を構《かま》えた人影が見えた。
ここにいたら撃たれる――
そう思った瞬間《しゅんかん》、身体《からだ》が勝手に動いた。這《は》っているのか、転がっているのかわからないような格好《かっこう》で、その場から駆《か》け出す。
「わ……わっ……!」
銃撃《じゅうげき》が容赦《ようしゃ》なく襲《おそ》いかかった。銃弾《じゅうだん》が雨とそそぎ、かなめの周りで激《はげ》しい火花が跳《は》ね回る。彼女は一番手近な、小型のコンプレッサーの蔭《かげ》へと逃げ込んだ。
向こうでは銃撃戦が始まっている。カリーニンが応戦《おうせん》しているのだろう。彼とテッサはかなめとは反対方向に逃げたらしく、合流《ごうりゅう》のしようがない。
分断《ぶんだん》されてしまった。
船は揺れる。銃弾は飛《と》び交《か》う。最悪だった。
宇宙遊泳《うちゅうゆうえい》の最中《さなか》に命綱《いのちづな》が切れてしまったような、そんな恐怖と心細さが彼女に襲《おそ》いかかった。武器もない。逃げ場もない。一人でいったいどうすればいいのだろう?
どうすれば? どど、どすレばい? の、のノの……。
(あ……?)
耳の奥で、変な声がした。心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が首筋まで響《ひび》いてくる。その向こうで、だれかがなにかをつぶやいていた。
だいじょ……ブ? ぶブぶだ? すぐダいじょぶ。じょぶ。クル。
(え……? また……?)
近くで銃弾がはじけて、声はかき消えた。
「っ……!!」
ここにいても駄目《だめ》だ。
かなめは無我夢中《むがむちゅう》になって、貨物室の壁沿《かべぞ》いに走った。床を這《は》うケーブルにつまずいて、鉄柱《てっちゅう》にぶつかり、倒れそうになる。なにしろ揺れがひどい。なんとか弾には当たらずに、机《つくえ》ほどの大きさのツール・ボックスの蔭に隠れ、一息ついた。
「なんであたしばっかり……!」
涙声で叫《さけ》んでみるが、答えは来ない。
その代わりに、敵の一人が工作機械を乗り越えて、かなめの方に近付いてきた。
覆面《ふくめん》を着けた戦闘服姿《せんとうふくすがた》。こちらが武器など持っていないことを、よく分かっているのだろう。ちょろちょろ逃げ回る彼女を遠くから撃つより、近づいていって確実《かくじつ》に仕留《しと》めるべきだと思ったのかもしれない。
カリーニンたちは貨物室の反対側にいて、とても助けてくれそうにない。
逃げても無駄だ。背中から撃たれる。そう思ったかなめは、そばのツール・ボックスに手を伸ばし、重たいレンチをつかんで、
「この……!」
力いっぱい投げつけた。もうやけくそだった。
「!」
敵の肩にレンチが当たる。思わぬ反撃にひるんだ様子で、覆面男は身を反らす。
「覚悟《かくご》しなさいっ!」
自分の腕《うで》ほどの長さもあるバールを拾《ひろ》い上げると、かなめはその重さによろめきながら、男に向かって突進《とっしん》した。なぜか男は銃を撃とうともせず、あわてて片手を左右に振《ふ》った。まるで『やめろ』と言っているようだったが――
「くらえっ!」
バールを振り下ろす。覆面男はかろうじてその一撃《いちげき》をライフルで受け止めたが、それでも勢《いきお》いは止まらず、バールが首筋を直撃した。
よろめく覆面男。なかなかしぶとい。
「このっ!」
さらに一撃。それを受け止めたライフルがひしゃげた。男はライフルを取り落として尻餅《しりもち》をつき、鉄柱に背中を強く打ちつけた。
「ど、どうっ!? も……もう一発お見舞《みま》いするわよっ!!」
パールを構《かま》えて、かなめは叫んだ。脚《あし》ががくがくと震《ふる》えていたし、怖《こわ》くて涙が出そうだったが、そんなことに構ってはいられなかった。
男は『降参《こうさん》だ』とでも言わんばかりに、両手を挙《あ》げて首を振った。
「……やはり君は謎《なぞ》だらけだ」
「? なにを――」
「俺だ、千鳥《ちどり》」
そう言って男は覆面を脱《ぬ》ぎ、ゆらりと立ち上がった。うす暗がりの中に浮かんだその素顔《すがお》を見て、かなめはバールをかちん、と落としてしまった。
「ソースケ……?」
相変《あいか》わらず、貨物室の向こうでは銃撃戦が続いていた。船の揺れは最初ほどひどくはなかったが、今度は船体のきしむ不気味《ぶきみ》な音が響《ひび》いてくる。銃声と跳弾《ちょうだん》の音が反響《はんきょう》し、頭が痛くなってくるほどだ。どこから撃たれてもおかしくないし、安堵《あんど》するにはあまりにも早すぎる状況《じょうきょう》だった。
それでも彼女は、彼の胸に飛び込んでしまった。
考えなどなにもない。自然に、そうしたいと思ったのだ。彼が無事《ぶじ》だったのが嬉《うれ》しかったし、怖かったこともある。こんなタイミングで出てこられたら、変なわだかまりなど思い起こしていられなかった。
とにかく、なにかにしがみつきたかった。
「千鳥……?」
彼が当惑《とうわく》しているのが感じられた。かなめはすすり泣きをこらえながら、「こわかったんだから……」
「すまん」
「心配したんだよ……?」
「それも、すまん」
「ばか……。あたし、何度も死にそうな目にあって――」
そこで宗介が拳銃《けんじゅう》を抜き、頭上に向けて二発ほど撃った。キャット・ウォークからこちらを狙《ねら》っていた敵が悲鳴をあげて、離《はな》れたコンプレッサーの向こうにどすんと落ちた。
[#挿絵(img/02_237.jpg)入る]
彼はかなめを抱いたままの姿勢で、
「続けてくれ」
「…………」
にわかに馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなってきて、彼女は宗介から離れた。
「やっぱり、そういうノリやってる場合じゃないのよね……」
「む。そうだな」
すさまじい騒音《そうおん》と震動《しんどう》の中で、二人はそそくさと物蔭《ものかげ》に隠れた。
「で、どうやってここに?」
「場所はすぐわかったからな。海から侵入《しんにゅう》した」
「そう。この揺れはなんだかわかる? さっき、すごい爆発《ばくはつ》が――」
「ああ」
宗介はわけなくうなずいた。
「俺たちが仕掛《しか》けておいた爆弾だ。君たちが追いつめられている様子だったので、急いで爆発させた。じきにこの船は沈《しず》むだろう」
「また……荒《あら》っぽいことを」
「いや、効果的《こうかてき》だ。敵を混乱《こんらん》させた上に、装備《そうび》を一網打尽《いちもうだじん》にできる」
それはもっともな話だった。この船から脱出できればの話だが。
「ところで…俺『たち』って言ったわよね。だれかと一緒《いっしょ》なの?」
「マオとクルツだ」
「なるほど」
その二人とは、かなめも面識《めんしき》がある。宗介の同僚《どうりょう》で、腕利《うでき》きだ
「敵もそうそう俺たちばかりに構《かま》ってはいられないはずだ。脱出《だっしゅつ》しよう」
宗介はかなめの手を引き、小走りした。
ぐらりと床が傾《かたむ》いて、タクマは壁に肩《かた》からぶつかった。
「……うっ」
側頭部《そくとうぶ》を強く打ちつけて、よろめき、手すりにすがりつく。貨物室の向こうでは、いまだに散発的《さんぱつてき》な銃撃戦が続いているようだった。
この船が沈みかけていることを知って、タクマはほとんど投《な》げやりな気分になった。
もはや <ベヘモス> の起動《きどう》はできまい。自分が乗り込み、動かして、力を示す機会《きかい》がなくなった。自分はいったい、何のために……。姉さん。
こめかみが痛かった。いまぶつけた時に、切ったのだろう。わずかだが血が出ている。赤い血。自分の血……。痛いよ。
「タクマ」
キャット・ウォークを伝って、セイナと仲間の一人が走ってきた。
「姉さん……?」
「なにをしてるの? 早くコックピットに行きなさい。<ベヘモス> を起動《きどう》させるわ」
「だって……もう無理《むり》だよ。それに、さっき怪我《けが》をしちゃったんだ」
「その程度《ていど》の傷で泣きとを言わないで。機体《きたい》を動かすのには何の支障《ししょう》もないはずよ」
「でも、痛いんだ」
セイナが彼の襟首《えりくび》を、片手でぐいっとつかんで引き寄《よ》せた。
「あっ……」
「乗るのよ。あれを動かすの。<ベヘモス> を守りなさい」
「姉さん。だって、僕は……」
僕は怪我してるのに。僕のことが心配じゃないの? 僕より<ベヘモス>の方が大事《だいじ》なの? 僕は姉さんを喜ばせたくて、あれの操縦者《そうじゅうしゃ》になったんだよ? いやなことをたくさん我慢《がまん》して。武知のおじさんのことなんか、本当はどうでも良かったんだ。あの人と一番仲良くしてた姉さんが、とてもかわいそうだったから。姉さん――
「あなたのために、何人|犠牲《ぎせい》になったと思っているの?」
知らないよ。
「あれを動かさないで、あなたにどんな価値《かち》があるっていうの?」
やめて。その先は――
「ここで逃げ出すなら、あなたなんか要《い》らないわ」
目の前が真っ暗になった。
愛されてると思ってた。<ベヘモス> がなくても、いいんだと思ってた。それなのに。
僕が要らない。要らない。僕は……。
僕はただの操縦者《オペレーター》。侯は <ベヘモス> の部品。この人にとっては、ただそれだけ。
「いいわね? 乗るのよ。彼に手伝ってもらいなさい。わたしは起動用電源の確保《かくほ》をするから。急ぎなさい」
タクマの中にぽっかりと穿《うが》たれた空洞《くうどう》には気付きもせず、セイナは梯子《はしご》を滑《すべ》り降《お》り、<ベヘモス> の向こう側《がわ》へと走っていった。
その場に残った仲間の一人が、タクマの肩を乱暴《らんぼう》に叩《たた》いた。
「なにボーっとしてるんだ、こら!? 早くするんだよ! 船が沈《しず》んじまう」
男に急《せ》き立てられ、タクマは力なく歩き出した。
宗介とかなめが貨物室の出口まで走ると、カリーニンとテッサに鉢合《はちあ》わせになった。ちょうど敵を振り切って逃げて来たようだ。
「サガラさん……?」
テッサが驚《おどろ》きをあらわにした。
「救援《きゅうえん》が遅くなりました。申《もう》し訳《わけ》ありません」
「あ……」
テッサはすこし息を詰《つ》まらせてから、小さな顔に喜びを浮かべかけて――それをぐっと自制《じせい》した。彼の胸にすがりついて行きそうに見えたが――それも我慢したようだった。目をそむけつつも、背筋《せすじ》を伸《の》ばし、
「無事でなによりです。あの校庭での件は、もう怒《おこ》っていませんから」
淡々《たんたん》とした口調《くちょう》で言う。宗介はすこしきょとんとしてから、
「はっ。感謝《かんしゃ》します」
「彼女になにをしたのだね、サガラ軍曹《ぐんそう》」
カリーニンがたずねた。互《たが》いに生死不明《せいしふめい》だったのに、まるでその無事を喜び合おうともしない。よくあることだからだ。
「いえ。自分は……」
宗介がどう話したらいいのか迷《まよ》っていると、カリーニンは小さく首を振った。
「説明《せつめい》は後で聞こう。まずは二人を連れて脱出しろ」
「……了解《りょうかい》。少佐は?」
カリーニンは青ざめた顔で、貨物室の積《つ》み荷《に》に目を向けた。負傷《ふしょう》は決して軽いものではなく、はた目にも彼が消耗《しょうもう》しているのがわかる。
「私には……することが残っている。先に行け」
「指示《しじ》をもらえれば自分が参《まい》りますが」
「いや……いいのだ」
宗介はそれ以上の懸念《けねん》は見せずに、彼の命令に従《したが》った。カリーニンはテッサに向き直る。
「大佐殿は脱出《だっしゅつ》を。自分はあの <ベヘモス> とやらの起動を阻止《そし》します」
「危険《きけん》だわ。それにこの船が沈めば、起動は不可能《ふかのう》です。あなたも――」
「念《ねん》の為《ため》です。御心配《ごしんぱい》なく。もしあれが動いたら……できるだけ遠くに避難《ひなん》を」
「…………」
「では、のちほど」
カリーニンは拳銃《けんじゅう》の残弾《ざんだん》を確認《かくにん》して、貨物室に引き返していった。
「行きましょう、大佐殿」
宗介は銃を構えるとかなめとテッサを連れて通路を駆け出した。
船体の傾斜《けいしゃ》がひどくなってきた。貨物室にまで浸水《しんすい》がはじまっている。
「急げっていってるだろうが! やる気あんのかよ!?」
男に引《ひ》っ張《ぱ》られるように、タクマは巨大な <ベヘモス> の装甲をよじ登った。
山のようなその機体《きたい》のてっぺんまで来ると、足下のレバーをひねり、コックピットハッチを開放する。複雑《ふくざつ》に噛《か》み合ったハッチが高圧《こうあつ》空気の力でスライドした。二次装甲、一次装甲の順。
「じゃあ任《まか》せたぞ、タクマ!」
天井《てんじょう》から水銀灯《すいぎんとう》や鉄パイプが降《ふ》ってくる中で、仲間が叫《さけ》んだ。
「おまえにはこいつを扱《あつか》うくらいしか能がないんだ。手を抜くんじゃねえぞ?」
「…………」
「返事はどうしたんだ、こら?」
頭を小突《こづ》かれると、タクマは小さく、ゆっくりうなずいた。
「ったく。大丈夫《だいじょうぶ》かよ……!?」
男が悪態《あくたい》をついてから、あわてて機体を降りていこうとする。タクマは腰から小型の自動拳銃《じどうけんじゅう》を抜いて、男の背中めがけて発砲《はっぽう》した。
「!」」
棒立《ぼうだ》ちして振り返り、驚きに目をみはった男に向かって、タクマはさらに三発の弾丸を叩《たた》き込んだ。男はバランスを崩《くず》し、機体の上から転げ落ちていった。暗い赤色の装甲が、飛び散った鮮血《せんけつ》をうまそうに吸《す》い込んだ。
「馴《な》れ馴れしいんだよ。低能《ていのう》」
吐《は》き捨《す》てると、彼は使い捨ての注射器《ちゅうしゃき》を取り出した。静脈《じょうみゃく》の位置など熟知《じゅくち》している。無造作《むぞうさ》に針《はり》を腕《うで》に刺《さ》し、中の液体《えきたい》を体内に押し込む。
儀式《ぎしき》は終わった。
乗るよ、僕は。ほかにすることがないし。自分はこの <ベヘモス> の一部なのだ。ここしか来る場所がない。この中にしか、居場所《いばしょ》がない。
それから先は――知らない。
この貪欲《どんよく》な悪魔《あくま》が望むままに、身体を動かし、破壊《はかい》の炎をまきちらすだけだ。
「そこまでだ」
背後で声がした。振り向くと、包帯《ほうたい》だらけの白人男が、拳銃を手にして立っていた。テスタロッサたちの仲間で、この船に捕らわれていた男だ。
「君をそれに乗せるわけにはいかない。ゆっくりとこちらに来い」
片手で白人男が手招《てまね》きした。銃口はぴたりとこちらを狙っている。……が、髭《ひげ》をたくわえた顔に、深い疲労《ひろう》の色が浮かんでいた。これまでの激《はげ》しい運動で、あちこちの傷が開いて出血しているようだった。
放《ほう》っておいても死ぬんじゃないのかな、とタクマは思った。
「いやだといったら?」
「射殺《しゃさつ》する」
「困ったな。ほかに行き場なんかないのに」
「子供でも容赦《ようしゃ》はしない」
だったら、警告《けいこく》なんかしないで撃てばいいのに。甘《あま》い感傷《かんしょう》にでも浸《ひた》っているのだろうか? ほら、そんな調子だから――
「銃を捨《す》てなさい」
<ベヘモス> から一〇メートルばかり離れたキャット・ウォークの上に、セイナが立っていた。サブマシンガンを構えて白人男に狙いを定めている。
僕を助けようとしているんじゃないんだよね。姉さん。どうしても <ベヘモス> が動かしたいんだ。それだけなんだろう?
「君か」
銃口を下げずに、白人男は言った。
「彼の邪魔《じゃま》はさせないわ」
「こんなものを動かしたところで、なにも変わりはしないぞ」
「何度も言ったでしょう? 変えることなど望みじゃないのよ」
「まるでだだっ子だな」
「あなたも撃ちたくないの」
この二人の会話。こんな感じのやり取りを、タクマはずっと前に聞いたことがあるような気がした。あれは……いつだったろう?
「では遠慮《えんりょ》してくれ」
疲労《ひろう》が限界《げんかい》に近付いたのだろう。男が右手に力をこめた。
二発の銃声が重なった。
タクマは脇腹《わきばら》ににぶい衝撃《しょうげき》を感じた。殴《なぐ》られたような感覚に遅《おく》れて、焼けるような苦痛が襲《おそ》いかかってくる。すこしたって、彼は自分が撃たれたのだと理解《りかい》した。
視界《しかい》の片隅《かたすみ》で、男が前のめりに倒れるのが見えた。背中から血しぶきが飛び散っている。姉の弾《たま》が当たったのだろう。
「う……」
タクマは <ベヘモス> の装甲の上を這《は》い、コックピット・ハッチに飛びこもうとした。倒れた男が最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》って、彼を撃とうとしていた。
そこで船が一度、大きく揺《ゆ》れた。
白人男は傾斜した装甲の上を弾《はず》み、床下《ゆかした》へと転《ころ》げ落ちていった。船体がきしみ、キャット・ウォークが真っ二つに折れた。バランスを崩《くず》し、手すりにしがみついたセイナに、頭上から落ちてきた排気《はいき》ダクトが直撃《ちょくげき》した。
巨大なパイプに押しつぶされて、セイナの姿が消えてなくなった。
「姉さん……?」
助けに行こうか――そう思ってから、それが馬鹿げているとタクマは思った。
彼女は、そんなことなど望んでいない。それに自分だって怪我人なのだ。<ベヘモス> から降りていっても、あの人を助けることはできないだろう。
長い間に彼の心を蝕《むしば》んできた虚無主義《きょむしゅぎ》が、『姉は死んだ』と告げていた。
「さよなら……」
自分に残された道は一つしかない。
彼は激痛《げきつう》をこらえて、コックピット・ハッチにその身をすべり込ませた。
船が揺れ、通路が傾《かたむ》き、不気味《ぶきみ》な轟音《ごうおん》が響く。
「こっちだ」
宗介は銃をまっすぐ構え、通路をつつと進んでいった。テッサがよろめいて何度も転びそうになるのを、横からかなめがしぶしぶと支える。
あの校庭で、ああいう件があった後なのにも関わらず、二人の様子はそれほど険悪《けんあく》ではなさそうだった。絶対《ぜったい》に自分の判断《はんだん》を恨《うら》んでいるだろうと思っていたのだが。
(やはりよく分からん……)
結果《けっか》としては、正しかったということだろうか? あとでクルツに相談してみよう。
……などと思いながら通路を曲がり、階段へと走っていくと、階下の甲板《かんぱん》からライフルを持った一人の男が駆《か》け上がってきた。
「…………!」
宗介と相手が銃を向けるのは、まったく同時のタイミングだった。
「おっと」
すらりとした長躯《ちょうく》。ブロンドの長髪《ちょうはつ》。
「クルツくん?」
「ウェーバーさん」
かなめとテッサがそれぞれ言った。クルツはにんまりとして、
「よ、カナメちゃんにテッサちゃん。元気そうだね。うれしいよ。お兄さんが飴玉《あめだま》をあげよう」
「なにを言っとるのだ、おまえは……」
「特に意味はねえ。挨拶《あいさつ》のバリエーションだ」
「そうなのか」
「そうなのだ。……んでもってだな、思ったより浸水《しんすい》が早いみたいなんだよ。急ご急ご」
「うむ」
クルツが階段を上っていった。彼の言葉を裏付《うらづ》けるように、船が先刻《せんこく》とは違ってゆっくりと傾《かたむ》きはじめていた。下の階からは、荒《あ》れ狂《くる》う激流《げきりゅう》に似《に》た水の音が響いてくる。
「爆薬《ばくやく》の量が多かったのではないか?」
「うーん。俺、爆破《ばくは》はあんまし得意《とくい》じゃないんだよな」
「それは初耳だぞ」
「俺は破壊に美を求めるのだ。一点集中。だから狙撃《そげき》が得意なの」
二人の会話を後ろで聞いていたかなめが、『変な漫才《まんざい》……』とつぶやいていた。
やがて一同は上部甲板に出る。
そこはちょうど船首付近で、水没《すいぼつ》しかけた船尾《せんび》方向から、水面がみるみる迫《せま》ってくるところだった。甲板上のコンテナがくずれ、海に落ちていくのが見える。さらに歪《ゆが》んだ船体からコンテナ・クレーンが外れ、彼らのすぐそばに倒《たお》れこんできた。
「きゃっ!」
「はいはい、危ないぜぇ」
「急げ」
いまや <ジョージ・クリントン> 号は船首を反り返らせ、本格的《ほんかくてき》に沈没《ちんぼつ》をはじめようとしている。彼らは苦労して左舷《さげん》へと移動した。甲板がひどく傾いて、もはや『歩く』という状態《じょうたい》ではなかった。
舷側《げんそく》から埠頭《ふとう》の地面への距離《きょり》は、なんとか飛び移れそうなくらいだった。
「おさきっ!」
クルツがひらりと跳躍《ちょうやく》して、埠頭の地面に飛び降りた。ライフルを肩にかけて両手を差し出し、
「さあ来い。まずはテッサから」
甲板から埠頭まではおおよそ二メートルほど。テッサはすこしためらったが、宗介が手を貸すと思い切って飛んだ。クルツがしっかりと受け止めて、テッサの脱出《だっしゅつ》は成功する。
「次はカナメだ」
景気《けいき》のいい声でクルツが叫《さけ》ぶ。かなめはたいして躊躇《ちゅうちょ》もせず、さっさと地面に飛び移った。宗介が最後に舷側から飛び降りる。
四人は船から離れて、整然《せいぜん》と積《つ》まれたコンテナの山の前まで走ってから、沈《しず》みゆく貨物船を見返した。
「うーん、悪の最期《さいご》って感じだぜ」
クルツが上機嫌《じょうきげん》で言った。
「しかし何だね、こう、ちょっと爆発が足りなかったかな。ボスキャラの要塞《ようさい》は、やっぱり最後は炎上《えんじょう》しなきゃな。画竜点睛《がりょうてんせい》を欠《か》く、って感じ?」
「なんだ、それは」
「でも……」
首尾《しゅび》よく安全圏《あんぜんけん》に逃げたにも関わらず、テッサの顔は曇ったままだった。
「カリーニンさんがまだ脱出していません。心配だわ。あの沈み方じゃ……」
「なに? あのオヤジ生きてたの?」
「そうです。勝手《かって》に殺さないでください」
テッサがクルツをにらみつけた。彼はその視線《しせん》に気付きもせず、顎《あご》に手をやり、
「あー。ちょっとヤバいんじゃねえか? さすがにあの船の中にいたら……」
「そうだな。……ウルズ7よりウルズ2」
宗介が無線機《むせんき》に呼びかけると、待機中《たいきちゅう》のマオが応答《おうとう》した。
『こちらウルズ2。首尾《しゅび》はどう?』
「少佐が沈没《ちんぼつ》した船の中にいる。たぶん貨物室だ。救助《きゅうじょ》できるか?」
『大変。はやく言いなさいよ……』
その返事があった途端《とたん》に、彼らの背後の大気がぐらりと歪んだ。
「な、なに……!?」
かなめ一人がぎょっとした。
なにもない空間に青い電光《でんこう》がほとばしった。うすい光の被膜《ひまく》が膨《ふく》らみ、続いてインクが染み出すように、巨大な人影《ひとかげ》が姿を現す。光の粒《つぶ》がはじけ飛ぶと、そこには灰色のASがひざまずいていた。ECSで透明化《とうめいか》していた、マオの乗るM9 <ガーンズバック> だ。研究所を襲《おそ》った <サベージ> の出現《しゅつげん》を見越《みこ》して、この場に待機していたのだった。
あっけにとられるかなめに向かって、M9がVサインを作ってみせた。それから立ち上がって彼らをまたぎ、沈《しず》む貨物船へと駆け出していく。
「メリッサ、気を付けて。その貨物船にはまだ敵がいるかもしれないんです」
テッサが横から無線機に向かって喋《しゃべ》った。
『だいじょーぶよ。<サベージ> ごときにやられるほど間抜《まぬ》けじゃないわ』
「そうじゃなくて。そこにいるのは――」
遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。間近のコンテナに、赤色灯《せきしょくとう》の光が投げかけられる。警察《けいさつ》がやってきたらしい。
「うわ。来ちまった」
クルツが舌打《したう》ちした。マオがカリーニンを探しているうちに、この場に到着してしまうだろう。所属不明《しょぞくふめい》のASであるM9を見たら、警官隊は攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けてくるかもしれない。小火器《しょうかき》程度《ていど》でM9の装甲がびくともしないのは確《たし》かだが――
貨物船の方角から、金属の破《やぶ》れるけたたましい音がした。
ぎょっとして四人が振り向く。
九割がた水没《すいぼつ》した貨物船の甲板に、マオのM9が棒立ちしていた。いや。なにかがおかしい。直立したままの姿勢《しせい》で、背中を反らし、両腕をじたばたと動かしている。
「どうした、マオ」
『ちょ……なによ、これ……?』
無線の向こうに狼狽《ろうばい》した声。さらに金属が歪《ゆが》む音がした。M9の機体が背中を反らしたまま、ゆっくりと、宙《ちゅう》に浮かび上がった。いや、なにかに下半身をつかまれて、強引《ごういん》に持ち上げられているのだ。
M9をつかみ上げたもの。それは巨大な腕だった。M9の身長とほとんど同じ――いや、それよりもさらに長く、太く、力強い。指一本が、ASの腕と同じサイズだ。
甲板がいびつに膨《ふく》れ上がり、震え、めきめきと悲鳴《ひめい》をあげた。その『腕』の持ち主が、貨物室から立ち上がろうとしているのだ。
「な……」
やがて――金属の破片《はへん》を散《ち》らして、それ[#「それ」に傍点]が傲然《ごうぜん》と夜空にそびえ立った。
[#改ページ]
5:ベヘモス
[#地付き]六月二七日 〇二三六時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東区《こうとうく》 赤海埠頭《あかみふとう》
宗介《そうすけ》は自分がなにかの幻《まぼろし》でも見ているかのような気がした。
かなり距離《きょり》が離《はな》れているにも関わらず、それを『人型』だと判別《はんべつ》するには時間がかかった。あまりにも大きすぎて、脳《のう》がそれを認識《にんしき》できなかったからだ。
しかし、直感《ちょっかん》がどう異論《いろん》を唱《とな》えようと、それは人型だった。
海水に濡《ぬ》れた赤い装甲《そうこう》。野太《のぶと》い上腕部《じょうわんぶ》と大腿部《だいたいぶ》。頭部は――下からではよく見えない。胸部の張《は》り出しが邪魔《じゃま》なのだ。
宗介を含めた四人は、ただ呆然《ぼうぜん》としてその巨大|A S《アーム・スレイブ》を見上げるしかなかった。
「なんてこった……」
クルツがつぶやく。宗介は厳《きび》しい顔で眉根《まゆね》にしわを寄《よ》せ、うめいた。
「目茶苦茶《めちゃくちゃ》だ」
宗介も船の貨物室には足を踏《ふ》み入れていたのだから、あの機体《きたい》を目にしているわけなのだが――間近《まぢか》で見ても、それがなにかは分からないでいた。ただの大きな機械《きかい》。そうとしか認識できなかったのだ。
彼が間抜《まぬ》けだった、とは言い切れない。
普通《ふつう》の五倍以上の身長の機体など、いったいだれが想像《そうぞう》できるだろうか? ASというものを知っている人間ならば――いや、知っている人間だからこそ、そんなサイズの機体は、最初から考えようとしない。
ほとんどのASのサイズが、八メートル二〇トン前後なのには理由《りゆう》がある。
骨格素材《こっかくそざい》の耐久力《たいきゅうりょく》。電磁筋肉《アクチュエーター》の適性出力《てきせいしゅつりょく》。動力源《ジェネレーター》のサイズ。隠密性《おんみつせい》。整備《せいび》のしやすさ。生産の効率《こうりつ》。与えられる作戦目的。そのために必要《ひつよう》な火器《かき》のサイズ。エトセトラ、エトセトラ……。
それらの要素を考え合わせ、厳密《げんみつ》な計算を行い、もっとも効果的《こうかてき》に使えるように設計《せっけい》した結果のサイズなのである。
巨大ASの外見はシンプルだった。M9のような、複雑な形の装甲《そうこう》はほとんどない。神話の巨獣《きょじゅう》に、ありあわせの板金を打ちつけて鎧《よろい》としたような古めかしい存在感。科学技術ではなく、魔法で動くからくり人形のようだった。
M9の下半身――腰のあたりを鷲《わし》づかみにした巨大ASは、その手にぎりぎりと力をこめた。M9の装甲がみしみしとひしゃげ、いましも握《にぎ》り潰《つぶ》されそうだった。
『う……動きが……!!』
マオの悲鳴《ひめい》。我《われ》に返ったテッサが無線機に向かって叫《さけ》ぶ。
「メリッサ! 単分子《たんぶんし》カッターで親指を狙《ねら》って!」
『親指!? なんのことよ!』
マオは自分の機体が、巨大なASに握られていることが分かっていない様子《ようす》だった。近すぎて敵の全貌《ぜんぼう》が判別《はんべつ》できないのだ。おそらく機体のAIも、敵機の識別《しきべつ》ができずにパニックを起《お》こしていることだろう。
「あなたはいま、途方《とほう》もなく大きなASに――」
『き……きゃあっ!!』
巨人がもう片方の手で、M9の上半身をつかんだ。そのまま彼女の機体を横にして、めきめきと両腕をひねり――
「!!」
巨人が力任せに両腕を引き離した。M9の腰《こし》がねじり切られて、上半身と下半身の真っ二つに引き裂《さ》かれた。
乳白色《にゅうはくしょく》の液体――駆動系《くどうけい》の|衝撃吸 収 剤《しょうげききゅうしゅうざい》が、千切《ちぎ》れた胴体《どうたい》から鮮血《せんけつ》のように飛び散《ち》る。誤作動《ごさどう》を起こしたM9の下半身が、不気味《ぶきみ》な痙攣《けいれん》を繰《く》り返した。
「メリッサっ!!」
テッサが悲鳴をあげた。さすがのクルツも、その光景《こうけい》を見て顔面蒼白《がんめんそうはく》になっていた。かなめは目をそむけ、かたわらにいた宗介の腕《うで》をぎゅっと握《にぎ》った。
巨大AS――それをASと呼ぶこと自体|疑問《ぎもん》だったが――は、真っ二つになったM9を夜空にかかげてみせた。まるで、夜の神かなにかに生け贄《にえ》を捧《ささ》げるかのように。
フォ……。
こもった低音が埠頭《ふとう》に響《ひび》いた。
フォ、フォフォフォフォ……。
それは声だった。巨人が発する声。機体《きたい》のどこかに取り付けられた、|低音域スピーカー《ウーファー》から、搭乗者《とうじょうしゃ》の笑い声が漏《も》れているのだ。地の奥底から漏れてくるような、陰惨《いんさん》な響き。
初夏《しょか》の夜の風は生温かかったが、それでも背筋《せすじ》が寒くなった。
巨人がM9の残骸《ざんがい》を放《ほう》り捨《す》てた。上半身、下半身がそれぞれ空中でくるくると回って、力なく背後の海に落下し、二つの水柱を立てた。
「マオ……」
飛び出そうとする宗介の腕を、クルツがぐっとつかんで止めた。
「あいつの目の前で海に飛び込むのか? 握り潰《つぶ》されるぞ」
「しかし――」
「姐《ねえ》さんの心配より、まずこっちだ。見ろ」
巨人が腰をわずかに折《お》って、宗介たちを見ていた。胸に隠《かく》れていた頭部が、薄明《うすあ》かりの下に姿を見せた。筒型《つつがた》の兜《かぶと》を思わせる形だ。人間でいったら口にあたる部分に、四門の機関砲《きかんほう》が見えた。
「俺《おれ》たちのことが気に入ったみたいだぜ」
がらんどうのような巨人の目がこちらを眺《なが》めていた。いまにも襲《おそ》い掛《か》かってきそうな気配《けはい》だ。しかし――巨人は彼らから目を逸《そ》らし、その場に駆けつけた警官隊《けいかんたい》と自衛隊《じえいたい》の大部隊に、ゆっくりと上半身をめぐらした。
パトカーや兵員輸送車《へいいんゆそうしゃ》から降りていた人々が、ぽかんとして巨人を見上げていた。トレーラーで運ばれてきた自衛隊のAS―― <九六式> という第二世代型の機体だった――が三機、すでに起動《きどう》し、地面に足を踏《ふ》み下ろしていた。その三機も、足下の人々と同じように、呆然《ぼうぜん》と巨人を見上げていた。
「サガラさん、衛星通信機《えいせいつうしんき》は……!?」
テッサがたずねた。
「この無線機《むせんき》からでも転送《てんそう》できます」
「貸《か》して」
「どうぞ。とにかくこの場を離《はな》れましょう。車の方へ」
この埠頭《ふとう》に乗り付けた車を目指《めざ》して、宗介が走り出した。残りの三人も彼の後に続く。ただここで眺めていても、何の解決《かいけつ》にもならない。
「どうする気なの!?」
かなめがたずねた。
「増援《ぞうえん》を呼ぶか――巡航《じゅんこう》ミサイルでも使うしかない」
「増援? そんなもの、どこから――」
背後で警官隊が、逃げようともせずに拡声器《かくせいき》で警告《けいこく》を発していた。
『き……機体の発動機《はつどうき》を停止《ていし》して、いますぐ降りてきなさい! さもなければ……は、発砲《はっぽう》する! 聞こえるか!? 機体の発動機を――」
どしゃり、と鈍《にぶ》い音が聞こえた。
振り仰《あお》いでみると、天を衝《つ》く巨体が埠頭に足を踏み出していた。まるで解《げ》せないことだったが、アスファルトにはわずかなひびが入っているだけだった。破壊的《はかいてき》な自重《じじゅう》で、地面が崩《くず》れてもおかしくないはずなのだが……。
『う……撃てーっ!!』
堰《せき》を切ったように、無数《むすう》の銃声《じゅうせい》と砲声《ほうせい》が轟《とどろ》いた。荒々《あらあら》しい滝《たき》のような轟音《ごうおん》。大小の弾丸《だんがん》が巨人めがけて殺到《さっとう》する。
歩兵《ほへい》の小火器《しょうかき》はもちろん、ASの持つ四〇ミリ・ライフルでさえ、巨人の装甲《そうこう》を貫通《かんつう》することはできなかった。巨人の右半身に、小さな閃光《せんこう》がはじけるだけだ。
「あの程度では――倒《たお》せない」
つぶやくと、宗介は車へ急いだ。
無数の弾丸《だんがん》を浴《あ》びながらも、タクマはそれを霧雨《きりさめ》のようにしか感じていなかった。
怪我《けが》の苦痛《くつう》など、もはや感じない。
自分が空に浮かび上がったような高揚感《こうようかん》。通常の[#「通常の」に傍点]ASを玩具《おもちゃ》のように引き裂く力。自分が軽く腕《うで》を動かしただけで、ビルや鉄塔《てっとう》は粉々《こなごな》になるのだ。この巨体は自分自身であり、指先の隅々《すみずみ》まで自分の意志《いし》がみなぎり渡っている。
依然《いぜん》として、無駄《むだ》な一斉射撃《いっせいしゃげき》は続いていた。
「うるさいな……」
タクマはつぶやいてから、マスター・スーツのレバーを握《にぎ》り直し、親指で丸いスイッチをひねった。
<<ラムダ・ドライバ、B―ファンクション、準備完了>>
<ベヘモス> のAIが報告《ほうこく》する。
さあ、試そう。
おりしも、自衛隊のASの一機が大型のロケット・ランチャーを構《かま》えたところだった。新型というわけではないが、戦車の装甲さえ貫通するほどの威力《いりょく》を持つ武器だ。さすがの <ベヘモス> でも、そんな武器に耐《た》えるほどの装甲は持っていない。
彼は集中した。
訓練《くんれん》と薬物《やくぶつ》によって増強《ぞうきょう》――あるいは変容《へんよう》された意識《いしき》が、ひとつのイメージを形作る。
それは『盾』の形に近かった。厚《あつ》みや手触《てざわ》り、重さだけではない。もっと細かく。分子《ぶんし》の一つ一つまで思い描《えが》く。いや、分子というのは正しくない。自分が欲しいものは、分子では構成《こうせい》されていない。物質《ぶっしつ》の裏側《うらがわ》にある力。それを束《たば》ねて、操《あやつ》る知恵《ちえ》。そうしたものだ。それを表現する言葉は、まだどこでも発明されていない。
自衛隊機が大型ロケットを発射《はっしゃ》した。まっすぐにタクマの―― <ベヘモス> の胸へと突進《とっしん》してくる
だれも知らない、見たこともないイメージ。それを頭に思い浮かべることは、やはりだれにもできない。しかし彼は別だった。彼の精神《せいしん》は、それを一瞬《いっしゅん》で可能《かのう》にする。
そして『ラムダ・ドライバ』は、彼のイメージを実現《じつげん》する。
<ベヘモス> に向かって飛来《ひらい》したロケット弾《だん》が、機体に命中する直前《ちょくぜん》で爆発した。超高熱《ちょうこうねつ》・超|高圧《こうあつ》のジェットメタルが、見えない『壁《かべ》』に阻《はば》まれてむなしく四散《しさん》する。
<ベヘモス> の装甲にはまったくダメージが及《およ》んでいなかった。会心《かいしん》の出来《でき》だ。
「無駄《むだ》なんだよ」
タクマは酷薄《こくはく》な笑いを浮かべて、人差し指のトリガーを引いた。<ベヘモス> の頭部に四門|備《そな》え付けられた、三〇ミリ機関砲《きかんほう》が火を吹《ふ》く。この機体の技術者《ぎじゅつしゃ》はそれを『|龍の息《ドラゴン・ブレス》』と呼んでいた。
猛烈《もうれつ》な破壊《はかい》の雨が、敵の一群《いちぐん》に降《ふ》り注《そそ》ぐ。
パトカーが、特殊車輌が無抵抗に引き裂かれて、次々に爆発《ばくはつ》する。タイヤが三〇メートルの高さまで跳《は》ね飛んだ。燃えたガソリンが細い尾《お》を曳《ひ》き、黒煙《こくえん》が埠頭を覆《おお》い尽《つ》くした。男たちが逃げ惑《まど》い、泣き叫《さけ》び、這《は》いずっている。
「ははっ……」
こちらは息をひと吹きしただけなのに。
警察車輌《けいさつしゃりょう》のほとんどは吹き飛ばされてしまったが、まだ自衛隊のAS <九六式> が残っている。<九六式> は操縦者《そうじゅうしゃ》の動作を再現《さいげん》して、後じさり、狼狽《ろうばい》していた。先頭の一機はまだ戦う気のようだったが、右側の機体は足が震《ふる》えている。
タクマは機体の背中に手をのばし、そこにマウントしてあった『太刀《たち》』を抜いた。普通《ふつう》のASの三倍以上の長さで、チタン合金《ごうきん》とセラミックスを重ねて作られている。『太刀』とは呼ばれているが、ただ殴《なぐ》りつけるためだけの、木刀《ぼくとう》に近い武器《ぶき》だった。
<ベヘモス> は『太刀』を振《ふ》りかぶって、三機の自衛隊機へと襲《おそ》いかかっていった。
どうという作業ではない。歩いていって、ひねりつぶすだけだ。
『太刀』を振り下ろすと、先頭の一機がばらばらになった。なぎ払《はら》うと、もう一機が真っ二つになった。
最後の一機――尻餅《しりもち》をついて両手を挙《あ》げていた――は無造作《むぞうさ》に蹴《け》り飛ばした。ひしゃげた空缶《あきかん》のように、その機体は身を折《お》って吹き飛んでいった。
「あははっ……」
すばらしい爽快感《そうかいかん》。だれも自分を止められない。だれも自分から逃《のが》れられない。
ここに来て良かった。迷うことなどなかった。
自分はいま、間違《まちが》いなく世界の王なのだ。
コンテナの山の向こうで、ばらばらになったASの腕が宙《ちゅう》を舞《ま》っているのが見えた。自衛隊のASが巨人の餌食《えじき》になったのだろう。爆発の炎《ほのお》が夜空を焦《こ》がし、怒鳴《どな》り声や悲鳴《ひめい》が響《ひび》いてくる。
(ああ……どうして逃げてくれなかったの)
あの惨状《さんじょう》を招《まね》いた責任《せきにん》が自分にもあることを、テッサは受け入れるしかなかった。あのとき、宗介のマンションで――いや、ほかの場所でも――タクマを殺害《さつがい》していれば。そうすれば、こんなことにはならなかったのだ。こちらはカリーニンを失っていただろうが、敵はあの <ベヘモス> の起動《きどう》をあきらめ、そして……そして……。
無限《むげん》の選択肢《せんたくし》。無限の分岐点《ぶんきてん》。
だからといって、彼を殺せただろうか? 自分に、そんな決定ができただろうか?
(無理《むり》だわ)
自分が不完全《ふかんぜん》な存在《そんざい》だということを、今夜ほど思い知らされたことはなかった。宗介とのこと。かなめとのこと。いやというほど、自分の矛盾《むじゅん》や偽善《ぎぜん》がさらけ出された。一日前は『限《かぎ》りなく全能《ぜんのう》に近付こう』などとうぬぼれていたのに。いまのこの無力《むりょく》さは……!
苦悩《くのう》するテッサに、宗介が声をかけた。
「大佐殿《たいさどの》。増援《ぞうえん》は」
「え……」
「あの巨人を、どうにかしなければなりません。ご指示《しじ》を」
ご指示を。彼はまだ、自分を指揮官《しきかん》として扱《あつか》ってくれている。
「ご……ごめんなさい」
そうだった。まだやることはある。気に病《や》むのは来週にしなければ。テッサは無線機のスイッチを入れて、衛星回線《えいせいかいせん》を開いた。
『はい』
「テスタロッサです。<デ・ダナン> のマデューカス中佐につないでください。大至急《だいしきゅう》、最優先《さいゆうせん》よ」
『了解《りょうかい》。五秒ください』
きっかり五秒後、回線が切り替《か》わり、副長《ふくちょう》のマデューカス中佐が応答《おうとう》する。
『艦長《かんちょう》。ご無事《ぶじ》で』
「マデューカスさん、いま艦はどこまで来てます?」
『紀伊半島《きいはんとう》の南一二〇キロのあたりです』
やはりだめだ。
東京から五〇〇キロ以上は離《はな》れている。ヘリで新しいASを運んでもらっても二時間はかかるし、ASを射出《しゃしゅつ》する緊急展開《きんきゅうてんかい》ブースターも射程外《しゃていがい》だ。『順安《スンアン》事件《じけん》』のときのように改造《かいぞう》した弾道《だんどう》ミサイルに積《つ》むにしても、準備《じゅんび》に最低で一時間はかかる。
これから一〜二時間のうちに、あの巨人―― <ベヘモス> がどれだけの破壊《はかい》をふりまくだろう? 考えただけでもぞっとした。
どうにもならない。打つ手がない。わたしには――
『艦長。<アーバレスト> が必要な状況《じょうきょう》なのですか?』
抑揚《よくよう》のない声でマデューカスがたずねた。まるでASに搭載《とうさい》されたAIのようだった。
「……そうです」
『いますぐに?』
「ええ」
『では、打ち上げましょう』
「……なんですって?」
「許可《きょか》はいただいていませんが―― <アーバレスト> を積んだ弾道《だんどう》ミサイルを三分以内に射出できるようにしてあります。発射《はっしゃ》してから六分でそちらに届《とど》くでしょう。つまり、九分は時間をいただくわけですが』
弾道ミサイルの発射作業は、<デ・ダナン> をひどく無防備《むぼうび》な状態《じょうたい》にする。一定の時間|浮上《ふじょう》して、飛行甲板《ひこうかんぱん》を開きっぱなしにしなければならないからだ。最強・最大の|強襲 揚陸潜水艦《きょうしゅうようりくせんすいかん》 <トゥアハー・デ・ダナン> は、各国海軍の興味《きょうみ》の的《まと》でもあり――下手《へた》をすると拿捕《だほ》されかねない危険《きけん》がある。
「マデューカスさん……」
『申《もう》し訳《わけ》ありません。処罰《しょばつ》は覚悟《かくご》していますが』
テッサはマデューカス中佐の、痩《や》せこけた神経質《しんけいしつ》そうな容貌《ようぼう》を思い浮かべ、ほほ笑んだ。そうだった。わたしの周りには、こんなに優秀《ゆうしゅう》な人たちがいる。弱音《よわね》を吐《は》くのは彼らへの侮辱《ぶじょく》にほかならない。
「いいえ、よくやってくれました。すぐに射出して」
『はい、艦長。投下《とうか》地点は?』
「そうですね――」
ここはまずい。降下直後に巨人に迎撃《げいげき》される恐《おそ》れがある。もっと複雑《ふくざつ》な地形で、着地後、|操縦兵《オペレーター》が搭乗《とうじょう》するまでの数十秒が稼《かせ》げるような場所。視界《しかい》は開けていない方がいい。でも繁華街《はんかがい》はだめだ。民間人を巻き込んでしまう。照明《しょうめい》は暗め。限定的《げんていてき》な空間、それに高低差も欲《ほ》しい。ほかには――
最善の場所。<アーバレスト> がその能力《のうりょく》を存分《ぞんぶん》に発揮《はっき》できる場所。どこなの?
彼女はわずか一秒ほどの時間のうちに、ありとあらゆる可能性《かのうせい》を考慮《こうりょ》した。複雑《ふくざつ》な思考《しこう》の迷宮《めいきゅう》。それでもあちこちに不確定要素《ふかくていようそ》があった。これがベストだ、という結論《けつろん》はまったく見当たらなかった。しかし――
完全《かんぜん》などあるわけない。その中で自分はあがくしかないのだ。
(決めたわ)
テッサはかなめの肩《かた》を叩《たた》き、たずねた。
「あの建物《たてもの》はなんといいます?」
海の向こう、かなりの遠くにぼんやりとライトアップされてそびえる、逆ピラミッド型の建造物《けんぞうぶつ》を指さす。
「へ? あの国際展示場《こくさいてんじじょう》は……東京ビッグサイトっていうのよね。確《たし》か」
タクマは <ベヘモス> のセンサーを巧《たく》みに操作《そうさ》していた。
機体《きたい》各部、十数箇所のカメラや赤外線《せきがいせん》センサーがフル稼動《かどう》して、目当ての相手を探し求める。なにしろ数十メートルの高さだ。付近《ふきん》一帯で見えないものはない。
ほどなく、一ブロック離《はな》れた倉庫《そうこ》の蔭《かげ》に、四人分の熱源《ねつげん》を感知《かんち》した。走っている。二人は男、二人は女。
「いた」
テレサ・テスタロッサとその仲間たちだ。相良《さがら》宗介が生きていたのには驚《おどろ》きだったが、これから殺してやる。なにしろ、あの男は僕に銃《じゅう》を突《つ》き付けて『殺す』と脅《おど》した。正直いって、怖《こわ》かった。あの屈辱《くつじょく》は忘れていない。
そうだ。あいつを踏《ふ》み潰したら、もっと気分がいいだろう。
生意気《なまいき》でがさつなあの女――千鳥《ちどり》かなめにも思い知らせよう。
そのためだったら、テスタロッサも一緒《いっしょ》に殺したって構《かま》わない。いや、一緒に殺そう。どうせ彼女は、僕のことなんか馬鹿《ばか》にしてるだけなんだ。こちらの好意《こうい》なんか、あの娘は気付きもしなかった。
手に入らないなら、壊《こわ》してしまおう。
「そうだ……」
ぶりき人形のような無骨《ぶこつ》な足が、濃密《のうみつ》な黒煙《こくえん》を押しのけて前へと進む。ゆっくりと、<ベヘモス> は炎《ほのお》の中を歩き出した。
巨人の狩《か》り場から一ブロック離《はな》れた倉庫の蔭に、宗介とクルツの乗ってきた車は停《と》めてあった。中古の軽トラック。荷台《にだい》の横には『たかさわ魚店《うおてん》』の黒文字。
「こんな車しかないの……? なんか生臭《なまぐさ》いんだけど……」
かなめが小鼻をふんふんといわせた。
「文句《もんく》を言わんでくれ。非常時《ひじょうじ》だ」
「おい。あのデカブツ、こっちに来てるぞ……」
クルツが言った。巨人の足音が一歩、また一歩と大きくなってきていた。周囲のコンテナや街灯が、一定の地響きにあわせて震えた。コンテナが邪魔《じゃま》でその姿《すがた》は見えないが、近付いている。こちらに気付いたのだろうか?
「好都合《こうつごう》だわ」
テッサがつぶやく。なにか覚悟《かくご》を決めたように。
「はあ? 好都合って、あなたいったいなにを――」
「乗れ! 逃《に》げるぞ!」
宗介は運転席に飛びこみ、叫《さけ》んだ。かなめがあわてて助手席《じょしゅせき》に乗り込み、クルツとテッサは後ろの荷台に飛び乗る。
コンテナの山の向こうに、巨人の頭が見えた。シンプルなバケツ型の装甲に、丸い二つの目と口が付いている。古くさい玩具《おもちゃ》を思わせる顔が、ゆらりとこちらを眺《なが》め、首をかしげた。
「早く出して!」
巨人の視線にぞっとしたかなめが叫んで、ぽかぽかと宗介の肩《かた》を叩《たた》いた。
「分かっている。……かかった」
エンジンが回るやいなや、軽トラックが急発進《きゅうはっしん》した。倉庫の角を曲がると、四人分の重量で車体が左に大きく傾《かたむ》いた。
「いいですか、サガラさん」
テッサが荷台《にだい》から身を乗り出し、運転席の宗介に告げた。
「あの巨人―― <ベヘモス> をうまく引き付《つ》けるんです」
いきなりとんでもないことを言われて、宗介は自分の耳を疑《うたが》った。あの巨人を引き付けるだと? いったいどこに? どうやって? それこそ自殺行為《じさつこうい》ではないか。
「しかし、大佐殿《たいさどの》――」
「やるんです」
きっぱりと、沈着《ちんちゃく》な指揮官《しきかん》の声でテッサが言った。
「 <ミスリル> はそのために給料《きゅうりょう》を支払《しはら》っているんです。わたしの安全は考えなくてけっこう。あなたの腕《うで》に賭《か》けましょう」
そう言われただけで、宗介はなにか不思議《ふしぎ》な気分になった。信頼《しんらい》を受けた者だけが得《え》られる自信、そして挑戦心《ちょうせんしん》。そこまで言うなら、やってみせようじゃないか――そういう気分になる。
「いいでしょう。それで、どちらへ?」
「このまままっすぐ。交差点《こうさてん》で右折して、あの国際展示場まで走って。モノレールの高架《こうか》を盾《たて》にすれば、どうにかなるはずです」
なるほど、うまい逃げ方だな……と宗介は得心《とくしん》した。
「国際展示場の西側に <アーバレスト> が投下《とうか》されます。搭乗《とうじょう》までの時間は、残りのわたしたちで稼《かせ》ぎますから」
「自分が乗るのですか」
クルツの背中をちらりと見て、宗介はたずねた。
「そうです。あの機体《きたい》は、いまのところあなた向けにしか設定《せってい》されていないの。二か月前の一件で――」
「追ってくるわ!」
後ろを見張《みは》っていたかなめが叫《さけ》んだ。
[#挿絵(img/02_275.jpg)入る]
街灯《がいとう》と街路樹《がいろじゅ》を蹴散《けち》らして、巨人がこちらに歩いてくる。走ってなどはいないのだが、下手《へた》をすると追いつかれそうな速度《そくど》だった。なにしろあの大きさだ。歩幅《ほはば》が違う。
巨人の頭がまっすぐにこちらを向くのが見えた。あの機関砲《きかんほう》を撃《う》つ気だ。
「撃ってくるぞ……合図《あいず》したら切れ!」
クルツが叫んだ。
「わかった」
「来る、来る、来る……切れ!」
宗介は思いきりハンドルを切った。ほとんど同時に、巨人の掃射《そうしゃ》が雨と注《そそ》ぐ。敵の三〇ミリ機関砲弾は、一発が牛乳瓶《ぎゅうにゅうびん》ほどの大きさだ。それが一瞬《いっしゅん》で数十発、超音速《ちょうおんそく》で押《お》し寄《よ》せたのである。掃射《そうしゃ》というよりは爆発に近い衝撃《しょうげき》が、軽トラックの右手に襲《おそ》いかかった。
「きゃ……!」
アスファルトが粉々《こなごな》になって舞い上がり、手が届《とど》くほど近くのガードレールが、いびつなボロ雑巾《ぞうきん》のようになって空中で踊《おど》りまわった。
傾《かたむ》く車体。迫《せま》る街灯《がいとう》。宗介は奇跡的《きせきてき》なテクニックで、軽トラックの針路《しんろ》を回復《かいふく》させた。荷台《にだい》から放り出されそうになったテッサを、クルツがつかんで引き戻《もど》す。
(まずい)
このままでは引き付けるどころの話ではない。もう一度、しっかり狙《ねら》って撃たれたら、こんな軽トラックでは――
「ソースケ、まっすぐ走らせろっ!!」
クルツが叫んだ。
「どうする気だ!?」
「野郎《やろう》にカマしてやる。いいか、絶対《ぜったい》にまっすぐだぞ。スピードも変えるな!」
「了解《りょうかい》」
宗介は言われた通りに、車をまっすぐ、一定の速度《そくど》で走らせる。クルツは荷台《にだい》に膝《ひざ》をつき、軽トラックの後方、依然《いぜん》として追跡《ついせき》してくる巨大ASにライフルの銃口《じゅうこう》を向けた。
「な、なにするの?」
「お静かに、カナメちゃん。すぐわかるよ……」
クルツが薄気味《うすきみ》悪い笑みを浮かべた。
鷹《たか》かなにかの、猛禽類《もうきんるい》を思わせるまなざし。上唇《うわくちびる》を舐《な》め、ライフルを丁寧《ていねい》に、恋人を愛撫《あいぶ》するように構《かま》える。タイヤから伝わる震動《しんどう》で、銃口がぴりぴりと上下に揺《ゆ》れる。その震動《しんどう》さえ、彼は読み取っているように見えた。風の流れも。光の動きも。ほかのものすべて、一切合切《いっさいがっさい》――
「そうだ……さあ狙ってこい……クソ野郎」
巨人がもう一度機関砲を撃とうとして、こちらにまっすぐ、頭部を向けた。宗介はハンドルを切りたい衝動《しょうどう》に駆《か》られたが、相棒《あいぼう》を信じて針路を保《たも》った。
来る。そう思った瞬間《しゅんかん》、クルツがライフルを一発、撃った。
たった一発。軽装甲車《けいそうこうしゃ》の外板《がいばん》さえ射抜《いぬ》けないようなライフル弾《だん》である。
にもかかわらず、巨人の頭部に異変《いへん》が起きた。火花が弾《はじ》けたかと思った直後、機関砲のひとつが、ぽん、と金属《きんぞく》の破片《はへん》を散《ち》らす。さらに頭部の右半分から、わずかな炎と黒煙《こくえん》が吹《ふ》き出し――ささやかな爆発《ばくはつ》が起きた。
よろめく巨体。右手で頭を押さえ、低いうなり声をあげる。
「当たり」
クルツの弾《たま》が敵の機関砲《きかんほう》の砲口に飛びこみ、中の弾薬《だんやく》を誘爆《ゆうばく》させたのだ。
砲口といっても、わずか三センチの穴《あな》である。それを二〇〇メートル強の距離で、走行中の車上から命中させるとは……!
「クルツくん……スゴい!」
「ふっ、まかせな」
「あたし、てっきり口先だけの弱い人だと思ってたわ!」
「…………」
「安心するのはまだ早い」
宗介は言った。とりあえず敵の機関砲の半分は潰《つぶ》せたが、それ以上の損傷《そんしょう》は望むべくもない。かてて加えて、巨人はすぐさま混乱《こんらん》から立ち直り、咆哮《ほうこう》をあげて彼らを追い上げてきた。両手をあげて、早足で。くだけ散る道路。鋼鉄《こうてつ》の津波《つなみ》が押しよせて来る。
「…………!」
その巨体が、夜空を覆《おお》ってしまいそうに見えた。
「くそっ」
宗介は目いっぱいアクセルを踏《ふ》んだ。
[#地付き]六月二七日 〇二四一時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東区 赤海埠頭
埠頭《ふとう》のはずれ。小波《さざなみ》の打ち寄せる港の傾斜路《ランプ》に、アンドレイ・カリーニンは引きずり上げられた。
沈没《ちんぼつ》しかけた船の中で、背中から受けた弾丸《だんがん》は、彼の肩《かた》の一部をこそぎとっただけに留《とど》まっていた。しかし海水に血液と体温を奪《うば》われ、消耗《しょうもう》し尽《つ》くして、もはや動くことさえ難儀《なんぎ》だった。今度こそ、本当に。
「…………」
海中から彼を引《ひ》っ張《ぱ》ったまま、このランプまで泳ぎ着いた者がだれなのか――それを確認《かくにん》しようと、カリーニンは身を起こした。
ランプの斜面《しゃめん》に、セイナが仰向《あおむ》けで横たわっていた。下半身は水に浸《つ》かったままで、青ざめた顔を夜空に向けている。
その彼女が自分を助けた。
その事実《じじつ》は、カリーニンをそれほど驚《おどろ》かせはしなかった。彼女は彼を撃《う》ちもしたが、その弾《たま》は致命傷《ちめいしょう》をもたらさなかったのだから。彼を殺そうとしたなら、あの距離《きょり》で頭部を外すなど――考えにくいことだ。
「馬鹿《ばか》だと思ってる……?」
セイナが言った。
「いや」
カリーニンは答えてから、気付いた。彼女の背中からおびただしい量の血液が、いまも流れ出している。仰向けなので、傷の具合《ぐあい》は見えなかったが――それが深刻《しんこく》なものであることは容易《ようい》に想像《そうぞう》がついた。
手当《てあ》てなど、もはや意味がないことも。
「 <ベヘモス> は……動いた?」
「ああ。君の勝ちだ」
「もう、どうでもいいけどね……」
唇《くちびる》からようやく漏《も》れてくるような、弱々しい声。
「あれは……もともと……対AS用のガンポートとして設計《せっけい》されたの。……本来は……もっとたくさんの火器を積《つ》んで……ASを狩るための……」
「だが、あまりにも鈍重《どんじゅう》だ」
「そのためのラムダ・ドライバ……そのためのタクマだったのよ……」
たとえあのサイズの機体《きたい》でも、戦車砲《せんしゃほう》や超高速《ちょうこうそく》ミサイルの直撃《ちょくげき》には耐《た》えられない。盾《たて》と矛《ほこ》の競争《きょうそう》は、えてして矛の方に分《ぶ》があるのだ。その問題を解決《かいけつ》するために、ラムダ・ドライバという不安定なシステムを搭載《とうさい》した。それが <ベヘモス> の全貌《ぜんぼう》だった。
「あれを……破壊《はかい》するのは不可能《ふかのう》よ。……燃料《ねんりょう》は……四〇時間分……。それまでだれも止められない……」
「それはタクマ次第《しだい》だ」
「……彼には悪いと思ってるわ。記憶《きおく》がおかしくなって……。いつのまにか……わたしのことを、自分が殺した姉だと思いこんで……。利用したのよ。そのまま」
「…………」
「わたしに肉親など、いないわ……。ずっと……ひとり」
沈黙《ちんもく》。彼方《かなた》から爆音《ばくおん》が響《ひび》いてくる。それは豪雨《ごうう》が訪《おとず》れる前の、遠い雷《いかずち》のようだった。
「聞かないのね」
「なにを」
「助けた理由」
「察《さっ》しはつく」
カリーニンにだれかの幻影《げんえい》を見たのか。人との交流やつながりを、捨《す》て切れなかったのか。もしくは、自分を知る者を残しておきたいと思ったのか。
いずれにせよ、悲しいことだ。
「そうやって……知ったような口をきく。嫌《きら》いよ。……へどが出るわ」
「すまん」
本心からそう言うと、セイナはほほ笑んだ。一度だけ見せた、あの微笑《びしょう》だった。
「わたしの大嫌いなあなた……名前くらい、聞かせてくれる?」
[#挿絵(img/02_283.jpg)入る]
「アンドレイ・セルゲイビッチ・カリーニン」
「変な名前……」
それきり、セイナは喋《しゃべ》らなくなった。
「…………」
だれでもそうするように、カリーニンは開かれたままの彼女のまぶたを閉じてやった。それだけで、うつろな死に顔は美しい寝顔《ねがお》になった。彼女が破滅的《はめつてき》なテロリストだったなどといっても、だれも信じはしないだろう。
聖職者《せいしょくしゃ》――君の言う通りだな、と彼は思った。だれかの最期《さいご》を看取《みと》ることが、私にはあまりにも多い。
背後《はいご》で水を叩《たた》く音がした。このランプに、だれかが泳ぎ着いたのだ。
「けほっ……ああ……」
ざぶざぶと海水をかきわけ、近付いてきたのはメリッサ・マオだった。彼女は先刻《せんこく》からカリーニンの姿《すがた》に気付いていたらしく、彼の生存《せいぞん》に驚いた様子《ようす》ではなかった。
「……ったく、死ぬかと思ったわ」
言ってから、マオは傍《かたわ》らの遺体《いたい》を見下ろした。
「お知り合い?」
「そんなところだ」
[#地付き]六月二七日 〇二四四時(日本標準時)
[#地付き]東京都 江東区 有明《ありあけ》
かなめは自分が、意外《いがい》に冷静《れいせい》でいられることが不思議《ふしぎ》でならなかった。
さっきは怖《こわ》かった。どれくらい前かは覚えていないが。こめかみがごわん、ごわんと鳴《な》っていて、血管の中を血液がごうごうと流れる昔が聞こえていた。
しかし、いまはそれも聞こえない。
(ああ、これなのか)
かなめは妙《みょう》に納得《なっとく》した。
(ソースケって、いつもこういう場所[#「場所」に傍点]で暮《く》らしてるんだ)
考えてみれば、自分だってこういう状態《じょうたい》になるのは初めてではない。日常《にちじょう》のささいなことも含《ふく》めて――『敵』に出会って、それを怖いと思い、なおかつ受けて立つのなら――だれでもこういう状態《じょうたい》になる。脅《おび》えてばかりでは、必要《ひつよう》な行動がとれないのだ。
まったく、人間の心というのはよくできているものである。
ばかんっ、となにかの割れる音がして、コンクリートの塊《かたまり》が崩《くず》れ落ちてきた。巨人の撃《う》った機関砲弾《きかんほうだん》が、頭上を平行に走るモノレール――厳密《げんみつ》にはモノレールとは呼ばなかったが――の高架線《こうかせん》を破壊《はかい》したのだ。
針路上《しんろじょう》。避《よ》けられない。ぶつかる……いや。
「…………!」
落下してきた数十トンのコンクリートの下を、軽トラックはすんでのところで潜《くぐ》り抜《ぬ》けた。舗装路《ほそうろ》にぶつかって二つに割れた高架《こうか》の残骸《ざんがい》を、後から追いすがった <ベヘモス> が苦もなく蹴散《けち》らしてくる。殺人的な竜巻が、破壊をまき散らして追ってくるような光景《こうけい》だった。
「はーっはっはっはっ!! 飛ばせ飛ばせぇっ!」
ハイになったクルツが高笑いしていた。運転席の宗介が、
「笑ってる暇《ひま》があったら、もう一発撃て!」
「無茶《むちゃ》言うなよ。こんな風に……っと! 動いてちゃな」
敵はクルツの一撃《いちげき》で機関砲《きかんほう》の半数を失い、残りの二基も大幅《おおはば》に精度《せいど》が落ちたのだろう。数度の射撃はいずれも軽トラックをかすめるにとどまっていた。
しかし、周囲の被害はすさまじかった。
通りかかった数台のタクシーや乗用車が、爆発《ばくはつ》や流れ弾《だま》に巻き込まれて、スリップしたり横転《おうてん》したり――路肩《ろかた》のガードレールに激突《げきとつ》している。街路樹《がいろじゅ》や街灯《がいとう》がボーリングのピンのようになぎ倒《たお》され、アスファルトが耕《たがや》され、道路|沿《ぞ》いのビルのガラスが割《わ》れた。
車も決して無傷ではなかった。軽トラックのサスペンションが、異様《いよう》な震動《しんどう》を伝えてくる。エンジンもときたま、奇妙《きみょう》な高音ですすり泣いていた。外装《がいそう》はぼろぼろで、窓ガラスはすでになくなっている。
車は国際展示場《こくさいてんじじょう》のすぐそこまで来ていた。
いったいここに来てどうするつもりなのだろう? かなめがそう思っていると、
「あれか」
宗介がつぶやいた。彼女もつられて、視線《しせん》の先を見る。
前方のやや右、二時の方角の上空に円筒形《えんとうけい》のカプセルが見えた。三つのパラシュートに吊《つ》り下げられて、夜空をまっしぐらに降下《こうか》している。彼らの軽トラックの向かう先、巨大な銀色の建築物《けんちくぶつ》がひしめく国際展示場へと――
「あれ、前も見た……」
かなめは以前《いぜん》の事件で、同じようにしてあのカプセルが空から降下してくるのを見たことがある。カプセルが空中で弾《はじ》けて、中からASが出てくる仕組《しく》みなのだ。
「いかんな……丸見えだ」
うぉ……ふぉふぉふぉ……。
<ベヘモス> はそのカプセルを見逃《みのが》さなかった。くぐもった笑い声をあげると、カプセルめがけて機関砲を撃つ。大気《たいき》を切り裂き、白い光が空中のカプセルめがけて殺到《さっとう》した。
直激。
パラシュートが一瞬《いっしゅん》でずたずたになり、ワイヤーが千切《ちぎ》れた。被弾《ひだん》して穴だらけになったカプセルが、金属《きんぞく》の破片《はへん》をまき散《ち》らして、国際展示場に落下《らっか》していく。爆発《ばくはつ》こそはしなかったが――
「やられちまった……!」
「いいえ、まだよ」
確信《かくしん》に満ちた声でテッサが言う。
「あの機体はそう簡単《かんたん》に壊《こわ》れません。――サガラさん?」
「了解《りょうかい》。……千鳥《ちどり》、頼《たの》みがある」
「へ、なに?」
「運転を」
宗介はハンドルから手を放《はな》して、運転席側のドアを半開きにした。
「ちょ……あたし高校生よ!? 車の運転なんか知らないわよ!!」
あわててからっぽのハンドルを握《にぎ》り、かなめは抗議《こうぎ》した。車はちょうど国際展示場の手前、幅《はば》の広い陸橋《りっきょう》の下にさしかかろうとしていた。その下に入れば、一時的にあの巨人から軽トラックが見えなくなる。
「クルツくんにやらせればいいでしょ?」
「そんな時間はない。任《まか》せたぞ」
言い捨《す》てると、彼は車から飛び降《お》りた。身を投げ出し、路面《ろめん》を転《ころ》がる宗介の姿《すがた》が、みるみる遠ざかっていく。<ベヘモス> は身を起こした宗介の姿など気付きもせずに、どしゃり、と陸橋を踏《ふ》み台にして軽トラックを追ってきた。
「……って、なによ、それ!?」
「曲がれ、カナメ!」
運転席に移《うつ》ったかなめは、クルツの言葉で反射的《はんしゃてき》にハンドルを右に切った。軽トラックは国際展示場前の交差点《こうさてん》に赤信号を無視《むし》して突《つ》っ込み、タイヤをきしらせて右折する。さいわい今は深夜で、ぶつかるような車はなかった。
だけど、自分に運転なんて……!
ブレーキを踏《ふ》もうとした彼女を、テッサが後ろからどやしつけた。
「走り続けて! 止まったら最後です!」
「うっ……」
言われればその通りなのだ。暴力的《ぼうりょくてき》なほどデカくて、もう目茶苦茶《めちゃくちゃ》なASが、いまも追ってきているのだから。止まったら――踏み潰《つぶ》されて一巻の終わりだ。
大変なことになった。あたしも飛び降りて逃げようか? いや、そんなの無理《むり》だ。それにだいたい――
「ったく! 知らないわよ!?」
かなめは目いっぱいアクセルを踏《ふ》みこんだ。
なんと複雑《ふくざつ》な建造物《けんぞうぶつ》だ、と宗介は思った。
その国際展示場は入り組んだフロアが数層《すうそう》ほど重なり合った構造《こうぞう》で、内部に広大な空間が作りあげられていた。それぞれの階から階へと移動《いどう》しようとするだけで、妙《みょう》な遠回りをするはめになったり、閉鎖《へいさ》されたシャッターに突き当たったりする。
けっきょく彼は銃《じゅう》でガラスを叩《たた》き割り、シャッターを手榴弾《しゅりゅうだん》で吹き飛ばし、強引《ごういん》にカプセルの落下《らっか》地点へと突《つ》き進んでいった。
『西館』の表示の前を過《す》ぎ、沈黙《ちんもく》したエスカレーターの前で立ち止まると、目当てのカプセルが眼下《がんか》に見えた。
(あった……!)
普通《ふつう》のビルが一軒《いっけん》、まるまる収《おさ》まりそうなほど巨大なホール。
その中央に、焼け焦げ、穴《あな》だらけになったカプセルが横倒しになっていた。タンクローリーのタンクほどのサイズで、周囲にはひしゃげた鉄骨《てっこつ》とガラスの破片が散乱《さんらん》している。ホールの天井《てんじょう》はガラス張《ば》りで、このカプセルが落ちてきた時に突き破《やぶ》った風穴《かざあな》がうがたれていた。
宗介はエスカレーターを三段飛ばしで下りて、カプセルに駆《か》け寄《よ》った。この中にASが収《おさ》まっているはずだ。
被弾《ひだん》した穴から白煙《はくえん》が立ち上っている。カプセルを強制的《きょうせいてき》に三分割させる爆発《ばくはつ》ボルトを、手動《しゅどう》で作動《さどう》させるレバーがあるはずだ……。
ない。
一〇秒ばかりカプセルの周囲をうろつき、必死になって探してみたが、どこにもそういった手動レバーを収めたパネルは見当たらない。
(まさか、床側《ゆかがわ》に……?)
手動レバーを収めたパネルの面が、下を向いて倒れているのだ。これではカプセルを破裂《はれつ》させることができない。つまり、中のASに乗れない……!
五〜六発の三〇ミリ砲弾《ほうだん》を食らったにもかかわらず、カプセルは堅牢《けんろう》だった。素手《すで》でこじ開けることなど絶対《ぜったい》に無理《むり》だ。銃も役には立たない。爆薬《ばくやく》はもっていないし、手榴弾あとひとつ。
そのひとつで、カプセルの向きを変えることができるだろうか……?
まったく確信《かくしん》が持てなかった。だが、もたもたしている時間はない。こうしている間にも、かなめたちはあの巨人に追いつめられ、ずたずたに引き裂《さ》かれる瀬戸際《せとぎわ》にたっているかもしれないのだ。
(やってみるしかない)
彼は決意《けつい》すると手榴弾のピンを抜き、それをカプセルと床《ゆか》との間に押し込んだ。レバーをはずし、退避《たいひ》する。
数秒後に手榴弾が爆発した。
大きなカプセルがぐらりと揺《ゆ》れる。宗介が息を呑《の》む。金属《きんぞく》の筒《つつ》はすこしだけ傾《かたむ》いて――
また元の位置に戻《もど》ってしまった。
要《よう》はゴーカートと代わらないのだ、とかなめは自分に言い聞かせた。車なんて。さいわいこの軽トラ、オートマだし。
「そう……そうよ……」
先はやたら見通しのいい直線コースしかなかった。あんな場所を走ったらやられる。機銃掃射《きじゅうそうしゃ》だかなんだかで。もっと狭《せま》いところに逃げ込まないと……!
「曲がるわよ!」
彼女はハンドルを思いきってひねった。夜間《やかん》の一般車輌《いっぱんしゃりょう》の進入を防《ふせ》ぐため、国際展示場の駐車場《ちゅうしゃじょう》入り口は堅牢《けんろう》なゲートで塞《ふさ》がれていた。ぶつかったら駄目だ。彼女はさらにハンドルを切る。車は道路|脇《わき》の植え込みに突っ込んで、フェンスを強引《ごういん》にぶち破《やぶ》った。
横転《おうてん》しなかったのは奇跡《きせき》だった。
車体が恐ろしい勢いで上下左右に跳ね回り、ステアリングが恐ろしい力で彼女に逆《さか》らった。かなめは右手に鈍《にぶ》い痛みを覚えた。ハンドルにひっかけていた親指を突《つ》き指したのだ。
「っ…………!」
痛がっている暇《ひま》はない。強行突破《きょうこうとっぱ》で速度《そくど》の落ちたトラックに、<ベヘモス> の足の裏が迫《せま》っていた。空が見えなくなって――
「加速《かそく》をっ!」
「知ってる!」
踏《ふ》み下ろされた巨大な足の爪先《つまさき》が、車体の尻をかすり、ナンバープレートを剥《は》ぎ取っていった。ひいひい言いながらも、軽トラックはけなげに加速する。
普通《ふつう》の倉庫《そうこ》を数十倍にスケールアップしたような展示場の外壁《がいへき》が、眼前に迫《せま》る。
彼女はすんでのところで外壁に正面衝突《しょうめんしょうとつ》するのを避けた。車体の左側をこすりながら、なんとか制御《せいぎょ》を取り戻《もど》し、展示場のだだっ広い外周を爆走《ばくそう》する。
「ここじゃ……撃たれる!」
「中だ、中! シャッターを突き破れ!」
クルツが荷台と運転席の仕切り板をがんがんと叩いた。
<ベヘモス> の機関砲《きかんほう》が襲《おそ》いかかった。すぐそばの外壁が粉々に粉砕《ふんさい》され、だれもいない助手席《じょしゅせき》に、鋭《するど》い破片《はへん》が飛びこんで突《つ》き刺《さ》さった。自分がさっきまで座《すわ》っていた場所。ぞっとするより、おかしくなった。
「は……はは……」
知覚《ちかく》が拡張《かくちょう》されている。生きてる実感《じっかん》がみなぎり渡っていた。飛び散るガラスやアスファルトの破片一つ一つがゆっくりと見え、荷台《にだい》でテッサを押さえ込んでいるクルツの姿《すがた》がなぜか――自分の背後《はいご》なのに見えた気がした。
彼女は親指の痛みなど感じもせず、ステアリングをたくみに切ると、ハンドブレーキを一瞬《いっしゅん》だけ引いて、車体を横滑《よこすべ》りさせた。できて当然《とうぜん》だと思っていた。
ふたたびアクセル。まだ動く。巨人が迫《せま》る。まだ大丈夫《だいじょうぶ》。軽トラックは展示場のシャッターめがけて突進《とっしん》する。できる。できる。あたしならできる。
シャッターが眼前にみるみる近付いてきた。
衝突《しょうとつ》。
目の前がなにも見えなくなる。シャッターは思ったより頑丈《がんじょう》だった。シートベルトを締《し》めるゆとりなどなかったかなめは、ハンドルに頭を強打《きょうだ》した。
頭蓋骨《ずがいこつ》を陥没骨折《かんぼつこっせつ》したかもしれない。それほどひどい衝撃《しょうげき》だった。
それでも――車体はシャッターを突き破り、展示場の中に飛び込んだ。マフラーが脱落《だつらく》したらしく、すさまじい排気音《はいきおん》が響《ひび》き渡った。
朦朧《もうろう》としたまま、それでもかなめはアクセルを踏んだ。しかし軽トラックの耐久力《たいきゅうりょく》は、もう限界《げんかい》だった。ギアが完全にいかれたらしく、まったく加速しない。
展示場の中は、貨物船《かもつせん》がまるまる一隻《いっせき》収《おさ》まるほど広かった。展示物は見当たらず、がらんとした暗闇《くらやみ》が広がっているのみだ。なにもない。まったくない。
その闇の真ん中まで慣性《かんせい》で走ってから、車は動かなくなった。
「テッサ。おい、テッサ……!?」
クルツが叫《さけ》んでいる。
テッサが荷台で、ぐったりとしていた。気絶《きぜつ》しているのか、死んでしまったのかはわからない。しかし、彼女の額《ひたい》に一筋《ひとすじ》、血がしたたっているのは見えた。
頭の一部が、ぼおっとしている。周囲《しゅうい》のすべてが、どこかに遠ざかっていくような感覚。これは……なんだろう? 前にもこんな感じを……。
「あ……」
背後《はいご》の外壁《がいへき》、そして天井《てんじょう》がめきめきと音をたてた。鉄骨が引き裂《さ》かれ、コンクリートが崩れ落ち、外の月明かりが漏《も》れてくる。
バケツ型の頭部。がらんどうの、うつろな二つ目。外壁の裂け目から <ベヘモス> がこちらを見て――『終わりか?』とでも言うように首をひねった。
「ゲームセットだ……」
小刻《こきざ》みに浅い息をついて、タクマはつぶやいた。
コックピットの中で、下半身がぐっしょりと濡《ぬ》れていた。血だ。怪我《けが》のせいだ。目の焦点《しょうてん》が合わない。スクリーンの文字がぼやけて見える。
さんざん手間《てま》取《ど》らせてくれたな。でももう終わりだ。僕は――おまえらを踏《ふ》み潰《つぶ》してすっきりするんだ。そうしたら怪我も治る。きっとそうだ。
AIが警告《けいこく》する。
<<ラムダ・ドライバ、A―ファンクションが機能《きのう》低下《ていか》。骨格系《こっかくけい》に干渉波《かんしょうは》発生中《はっせいちゅう》>>
機体《きたい》が異様《いよう》な不協和音《ふきょうわおん》を発しはじめた。きしみと震《ふる》え。いけない。集中しないと。
タクマは小刻みに頭を振り、身体《からだ》の隅々《すみずみ》まで意識《いしき》を振り向けた。そうしなければ、この機体は動けなくなる。
<<A―ファンクション、機能|回復《かいふく》>>
よし。
彼は機体の手足を操《あやつ》り、展示場の外壁をさらに破壊《はかい》した。一歩、足を踏み入れる。
テスタロッサたちを乗せた軽トラックは完全《かんぜん》に故障《こしょう》した様子《ようす》で、もう走り出す気配《けはい》はなかった。
荷台に彼女がいた。気絶しているようだった。そのテスタロッサを、もう一人の白人男が抱《かか》えている。さっき、ライフルで小生意気《こなまいき》な真似《まね》をしてくれた奴《やつ》だ。あいつも許さない。
運転席のドアが開き、そこから千鳥《ちどり》かなめが出てきた。片手で頭を押さえ、よろめき、荷台によりかかる。怪我でもしたらしい。いい気味《きみ》だ。
「…………?」
そこでタクマは、相良《さがら》宗介《そうすけ》の姿《すがた》が見えないことに気付いた。
奴はどこだ? 運転席に座《すわ》っていたはずだったのに。あいつがいないなんて――そんなのいやだ。あいつを踏《ふ》み潰《つぶ》さなくちゃ、意味がない……!
「相良宗介はどこだ……?」
その声を、<ベヘモス> が外部スピーカーで拡大《かくだい》した。千鳥かなめたちは答えない。聞こえているはずなのに。
「言え! 相良宗介はどこに行った?」
よろよろと、豆粒《まめつぶ》のような千鳥かなめが前に出て、タクマを見上げた。なにかを言おうとしている。彼は機体のセンサーのひとつ、高感度《こうかんど》・指向性《しこうせい》マイクを向けた。
『――知らないわよ、バカ。お姉ちゃんに聞いてみたら……?』
「…………!」
だったらいい。もう死ね。たずねた僕が馬鹿《ばか》だった。
頭部の機関砲を向ける。かなめたちが観念《かんねん》したように身構《みがま》えた。テスタロッサが気絶しているのは、まあ幸いだ。ばらばらに引き裂《さ》いてから、踏んでやる。そうだ、肉片ひとつ残さないぞ。
「思い知れ」
タクマはトリガーを絞《しぼ》った。
強い衝撃《しょうげき》。頭部ががくんと右に傾《かたむ》く。機関砲の反動《はんどう》ではなかった。なにか別の――
「…………!?」
頭部が被弾《ひだん》していた。横からなにかに撃たれたのだ。機関銃|程度《ていど》ではない。もっと大きな銃。そう、これはASの――
『俺に用か』
声がした。頭を向ける。
展示場の北側、屋根の上。月光の下に、一機のASがひざまずいていた。短銃身《たんじゅうしん》の|散 弾 砲《ショット・キャノン》を両手で構《かま》え、ぴたりと <ベヘモス> に向けている。
(……なんだ?)
純白《じゅんぱく》の機体《きたい》。
華奢《きゃしゃ》なようで力強いシルエット。兵器というより神像かなにかのような――そんな意匠《いしょう》だ。頭部の口にあたる部分に、兵装保持用《へいそうほじよう》の大型のハードポイントがある。巻き物をくわえた忍者《にんじゃ》を連想《れんそう》させる風情《ふぜい》だった。
『獲物《えもの》を前に舌《した》なめずり。三流のすることだな』
外部スピーカーから聞こえてくるのは、相良宗介の声だった。
「なんだと……」
『相手をしてやる。来てみろ』
白いASはショット・キャノンを向けたまま、左手の人差し指だけでくいくいと『手招《てまね》き』した。小馬鹿《こばか》にしたように。
生意気な。そんなちっぽけな機体で、この僕を倒《たお》すつもりか?
タクマの胸中で、暗い炎が燃え上がった。
「上等《じょうとう》じゃないか」
<ベヘモス> は向きを変え、白いASへとその巨体を突進《とっしん》させた。
ぎりぎりで間に合った。
『ARX―7 <アーバレスト> 』のコックピットの中で、宗介はひそかに安堵《あんど》のため息をもらしていた。
この機体が収《おさ》まったカプセルを、手榴弾《しゅりゅうだん》で動かすのには失敗した。だが、カプセル自体も相当《そうとう》のがた[#「がた」に傍点]が来ていたようだ。落胆《らくたん》した直後、ひとりでに爆発《ばくはつ》ボルトが作動《さどう》して、カプセルの外板《がいばん》が弾《はじ》け飛んだのだった。
さすがにその時はあっけにとられた。
中の機体―― <アーバレスト> は無事《ぶじ》だった。数箇所を被弾《ひだん》していたが、いずれも貫通《かんつう》はしていない。最新素材《さいしんそざい》を駆使《くし》した装甲《そうこう》のおかげである。ただ、落下のダメージで駆動系《くどうけい》がすこし不調《ふちょう》を訴《うった》えていた。
巨大AS―― <ベヘモス> が展示場を破壊《はかい》しつつ、こちらに向かってくる。その巨体のわりには、驚《おどろ》くほど敏捷《びんしょう》な動きだ。
<アーバレスト> のAI <アル> が警告《けいこく》する
<<接近警報《せっきんけいほう》!>>
知っている。両腕《りょううで》を伸《の》ばし、荒れ狂う大波のように迫《せま》ってくる敵機《てっき》の姿《すがた》が、スクリーンいっぱいに広がっていた。
「…………」
宗介はショット・キャノンを機体の両腕で構《かま》えさせ、反動《はんどう》を押さえ込むようにしてトリガーを引いた。<アーバレスト> の手のひらから高電圧《こうでんあつ》の撃発信号《げきはつしんごう》が発信され、ショット・キャノンがフルオート射撃《しゃげき》をする。だだだだだだんっ、と轟音《ごうおん》が響《ひび》き、残弾《ざんだん》すべてが砲口《ほうこう》から吐《は》き出された。
装甲車《そうこうしゃ》を一撃《いちげき》で破壊《はかい》する劣化《れっか》ウラン製の|徹甲弾《APFSDS》だ。それをまとめて六発。いくらなんでも、これなら効《き》くはずだろう……そう思ったが、甘かった。
<ベヘモス> の正面の大気《たいき》が歪《ゆが》んだ。見えない壁《かべ》。そのなにかに遮《さえぎ》られ、すべての砲撃《ほうげき》がはじき返された。六発の弾《たま》が火花となって四散《しさん》する。
「!」
巨大な腕《うで》が振《ふ》り下ろされる。危ういところで、<アーバレスト> は横っ飛びしてその一撃《いちげき》をかわした。屋根の建材《けんざい》が吹《ふ》き飛んで、破片《はへん》と埃《ほこり》が舞い散る。
(これは……!?)
知っている。二か月前、彼は同じような能力《のうりょく》を持つASと戦った経験《けいけん》あった。『ラムダ・ドライバ』とかいう、あの妙《みょう》な力場発生機能《りきばはっせいきのう》だ。どんなからくりかはしらないが、こちらの物理的《ぶつりてき》な攻撃《こうげき》を一切|跳《は》ね返す装置《そうち》だった。
展示場《てんじじょう》の屋根を転がりながら、<アーバレスト> は脇《わき》の下の武装《ぶそう》ラックから対戦車ダガーを引き抜いた。成型炸薬《せいけいさくやく》を内蔵《ないぞう》した、強力な投げナイフである。
鞭《むち》のようなアンダー・スローで投擲《とうてき》。対戦車ダガーが <ベヘモス> の首筋《くびすじ》に飛ぶ。
どたんっ、とダガーが手前の空中で爆発《ばくはつ》した。まただ。跳《は》ね返された。
ふぉふぉ……。
<ベヘモス> は笑うと、頭部の機関砲を撃《う》ってきた。雨とそそぐ三〇ミリ砲弾《ほうだん》。<アーバレスト> はその弾幕《だんまく》をかいくぐり――軽トラックにできてこの機体にできないわけがない――弾《たま》切《ぎ》れのショット・キャノンに予備弾倉《よびだんそう》を差し込んだ。
この図体《ずうたい》で、弾《たま》が効《き》かないとは。いったいどうやって倒《たお》せばいいのだ?
また来た……とかなめは思った。
この感覚だ。暗く、重たく、異様《いよう》な浮遊感《ふゆうかん》。
もう何度目だろうか……?
ここ一、二か月の間、彼女には何度もこれ[#「これ」に傍点]が訪《おとず》れていた。朝、目覚《めざ》める前に。授業中《じゅぎょうちゅう》に。休み時間に。入浴《にゅうよく》中に。ほかにも何度か。
だれにも話していない。恭子にも、宗介にも。不審《ふしん》に思われても『気分が悪い』。この一言で済《す》ませてきた。しかし、本当はそうではないのだ。
あれが来た。彼に必要だ、と思ったからか。わたしはいつ思っただろうか。
(また来た……ま、まきたった、まきたきた。きたた……)
こういう風に、自分のどこか、言葉をつかさどる力になにかが割《わ》り込んでくる。野放《のばな》しにすると、かなめをすべて乗っ取ってしまいそうな――
ささやき声。
(読んだ呼んだ四打。……よよんだよん?)
声は自分と同じ声だった。自分と同じ声だった、声だった、だったった。
うるさい。
(るさ、うるさっさ。カカカ。おめ、じゃま。死ね。ねえ、死んで)
だまれ。
(だだ、だままってイいの? のノ? あたあなナし必要で? ようででしょ?)
そうよ。必要よ。あなたがそう教えたんでしょ?
(そ、そそ。ソスケ、死ぬ。このまままだと。ししぬね、あれあわれ。かわーいソ!)
まともに喋《しゃべ》ったらどう?
(じゃ、しゃべららせて。あけわわして。たして。あんた死んで。ちょとよ、ちょっと)
頭を抱《かか》える。口を押さえる。胸のシャツを鷲《わし》づかみにする。
調子《ちょうし》に乗らないで……教えなさい。あの巨人にはなにがあるの。なにが彼を殺すの。彼はどうすればいいの。
(きもちちわわるいの?)
そうよ……最低。答えなさい。負けないわよ。けないわ。……ああっ。
(むぅりよ、むむり。カナメ、あなたむり、ばか)
ふざけるなっ!!
動物的な狂暴《きょうぼう》さを引《ひ》っ張《ぱ》り出してきて、彼女はそれ[#「それ」に傍点]に牙《きば》を剥《む》いた。それ[#「それ」に傍点]はおびえ、縮《ちぢ》こまり、すすり泣いた。
(お……おここ……んななくても、いい? じゃ、じゃじゃない、ないのよ。なにンもしないよ? わるくないヨ?)
へん、だ。ビビってんの。
彼女は獣《けもの》のように喉《のど》を鳴らしたまま、さらにそれを痛めつけようと――
(やめなさい、カナメさんっ!!)
それも自分と同じ声だった。しかし、ちがう。別のだれかだ。
だれ?
(あ……ニク。あのアマき、きた。ジャマ、じゃじゃしまにきた)
(今度彼女をそそのかしてみなさい。わたしが容赦《ようしゃ》しませんよ)
(プーっ。いるもん。オレいるもれもん。ももん)
(要《い》らないわ。この場にはわたしがいるのだから)
(……ちちがーう。ソレ、ごかっ。ごかいよ)
(消えなさい)
消えた。片方が。後から来た方[#「来た方」に傍点]が、彼女に語りかける。
(カナメさん……カナメさん?)
な、なによ……? あんただれ?
(そんなことはどうでもいいんです。あなたにお願いが)
お願い?
(彼に伝えてください)
伝える、なにを? だれに?
(ラムダ・ドライバを使って、巨人の背中……冷却装置《れいきゃくそうち》のひとつを……)
はあ……?
(ひとつを……敵のラムダ・ドライバの冷却……)
なにか、断片的《だんぺんてき》なイメージが浮かび上がりかけて――
ぶつん、と消えた。
「…………」
すうーっと、周囲《しゅうい》の景色《けしき》が戻《もど》ってきた気がした。
闇《やみ》に差す光の筋《すじ》。天井《てんじょう》のくずれた展示場。エンジンの息絶《いきた》えた軽トラック。
どこかから砲声《ほうせい》が聞こえてくる。遠くで宗介が戦っているのだ。
クルツ・ウェーバーが深刻《しんこく》な顔で、彼女の両肩をつかんでいた。いつものおどけた調子《ちょうし》ではない。かなめでさえ、どきっとするほど――青くて深い瞳《ひとみ》。
「な……なに?」
「あ?」
クルツがぽかんとして言った。たちまち間《ま》の抜《ぬ》けた感じが戻ってくる。彼は指の力をゆるめて、『ふうーっ』と深い息をついた。
「戻ったか……」
「なにが? え? あ……あたし、また?」
「ああ。なにやっても反応《はんのう》しなかったぜ。こう、ぶつぶつと……いきなり自分で、『やめなさい、カナメさん』とか叫《さけ》ぶんだから。ビビったよ」
『なにやっても』というあたりがちょっと引っかかったが、かなめは努めて考えないようにした。ただ、左右のほっぺたがひりひりしているのは――たぶんこいつの仕業《しわざ》だ。
テッサは軽トラックの荷台《にだい》に横たわっていた。生きてはいるようだったが。
かなめはいま見た――いや、聞こえたなにかを思い出した。あれはテッサの声だったのだろうか? それとも別のなにか?
彼に伝える。巨人の背中、冷却装置のひとつを、ラムダ・ドライバを使って……なんかする。敵のラムダ――なんとか。
どういうことだろう? ただ、それが重要なこと――とても重要なことだとはわかるような気がした。
巨人の背中。見てみればわかるかも。
(ちょっと……あたし、なに考えてるのよ?)
いくらなんでも危険《きけん》すぎる。もしあの巨人が自分を見つけたら、とりあえずひょいっと踏んづけていくことだろう。車もない今、一度|狙《ねら》われたら――もう逃げる手段《しゅだん》はない。ぷちっ、と潰《つぶ》されて終わりだ。
流《なが》れ弾《だま》もあぶない。建物が崩《くず》れてきたらどうする。死ぬわ。マジで死ぬ。
無関係《むかんけい》なあたしが、なんでそんな危険まで冒《おか》さなければならないのだ。もう散々《さんざん》な目にあったのに。充分《じゅうぶん》じゃないか。こんなことは馬鹿《ばか》げている。どこかに隠《かく》れているべきだ。そうだ。やめとこうよ……。
彼女は必死になって自分に言い聞かせた。もう結論《けつろん》は出ているのに。
その結論。
だって、彼が危《あぶ》ないのだ。そして、あたしが必要《ひつよう》なのだ。それに、自分の気持ちも。あいつがあの子とどんな仲だろうが、それは全然《ぜんぜん》動かない事実《じじつ》だ。彼が死んだら、ものすごくいやだ。やだよ。絶対《ぜったい》、やだ。
つまり、行くしかないじゃないか。
(なんてこと。……っっったく!)
恐怖《きょうふ》というのは、たちが悪い。気を抜くとすぐにぶり返してくる。彼女はぶるぶると首を横に振ってから、クルツに向かって右手を差し出した。
以前にもいったあのセリフ。
「クルツくん、通信機《つうしんき》を貸《か》して!」
<ベヘモス> は背中から長大な『太刀《たち》』を抜き、<アーバレスト> めがけて横なぎにした。鉄塔《てっとう》のような棍棒《こんぼう》が、猛烈《もうれつ》なスピードで襲《おそ》いかかる。
「っ…………!」
跳躍《ちょうやく》。爪先《つまさき》の下を、巨大な太刀が空振《からぶ》りしていった。
空中で一回転して身をひねり、器用《きよう》に一発、敵の頭めがけてショット・キャノンを撃《う》つ。機体の運動|制御《せいぎょ》システムと火器管制《かきかんせい》システムが、曲芸的《きょくげいてき》な射撃《しゃげき》を支援《しえん》した。
しかし、やはりその弾《たま》もはじかれた。
(手がつけられん……!)
あの障壁《しょうへき》――ラムダ・ドライバの機能。無制限《むせいげん》に使えるのだろうか? だとして、無効《むこう》にする方法はあるのか? 空からまっしぐらに振り下ろされてきた太刀を、きわどいところで避《さ》けてから、
「アル!」
宗介《そうすけ》はAIに呼びかけた。
<<はい、軍曹殿《ぐんそうどの》>>
「この機体にはラムダ・ドライバが搭載《とうさい》されている。そうだな!?」
<<肯定《こうてい》>>
そう、この <アーバレスト> にも、同種の装置《そうち》があるはずなのだ。使い方も機能もあやふやで、宗介自身、一度もその『ラムダ・ドライバ』について説明を受けたことはなかったが――
「敵機がラムダ・ドライバを搭載していると仮定《かてい》して、それに対抗《たいこう》する手段《しゅだん》はあるか?」
わずかな沈黙《ちんもく》。
<<不明>>
まただ。くだらん機密事項《きみつじこう》で説明を拒《こば》んでいる。
「現場《げんば》の下士官《かしかん》として情報を要求《ようきゅう》する!」
<<要求は了承《りょうしょう》。しかし、不明>>
本当に知らないらしい。このAI――アルさえも、ラムダ・ドライバというものが何なのか分かっていないのだ。
以前のことを思い出してみる。二か月前、敵地から脱出《だっしゅつ》する際《さい》の、ガウルンのASとの死闘。かなめの助言《じょげん》に従《したが》って、彼は『砲弾《ほうだん》に、意志を注《そそ》ぎ込むイメージ』でショット・キャノンを撃った。そのとき、この機体のラムダ・ドライバは作動《さどう》したはずなのだ。そしておそらく――敵の力場を相殺《そうさい》した。
(やってみるか……)
彼は大きく息を吐《は》き出した。屋根の上に機体を棒立《ぼうだ》ちさせ、銃《じゅう》を向け、集中する。
あわてるな……くだらないとも思うな……俺がこれから撃《う》つ弾《たま》は、奴の『盾《たて》』を突き破るんだ……そう信じろ……そう、あのときのように……。
展示場の屋根をかきわけ、<ベヘモス> が迫《せま》ってくる。
その首筋《くびすじ》に向けて、照準《しょうじゅん》。イメージ――
(行くぞ……!)
トリガーを絞《しぼ》る。ショット・キャノンが火を吹いた。一発。<アーバレスト> をとりまく大気が一瞬《いっしゅん》、ぐらりと揺らいだ。コックピット内になにかのアラームが鳴り、スクリーンの片隅《かたすみ》で赤い三角形のシンボルが明滅《めいめつ》した。
(できた……?)
砲口《ほうこう》から飛び出した徹甲弾《てっこうだん》は、<ベヘモス> の直前でぴたりと止まった。しかし、それまでのように四散はしない。砲弾《ほうだん》の形を保《たも》ったままだ。
奇妙《きみょう》な光景《こうけい》だった。矢の形をした徹甲弾が、じりじりと、強引《ごういん》に、ゆっくりと前進していく。ごわんごわん、と異様《いよう》な低音が響《ひび》いていた。見えない二つの手が徹甲弾をつかんで、押し合いへし合いをしているような状態《じょうたい》。
やがて――
ぱんっ、と音を立て、徹甲弾がなにか[#「なにか」に傍点]を突き破った。そのまま弾は <ベヘモス> の首筋に命中する。
「ぬけたか……?」
機体を素早《すばや》く後退《こうたい》させながら、宗介は戦果《せんか》を確認《かくにん》しようとした。巨人の首筋から煙《けむり》が出ている。しかし、それ以外の異変《いへん》は見られない。
当たりはしたが、たいしたダメージは与えていない。
敵が大きすぎるのだ。空母や戦艦《せんかん》に向かって砲弾を一発くらい撃《う》ち込んでも、簡単には沈《しず》んでくれないのと同じ道理《どうり》だった。
「だめか……っ!」
<ベヘモス> は一瞬《いっしゅん》ひるんだものの、すぐに <アーバレスト> に向かってきた。
展示場の東まで来ると、長さ二メートルの鉄骨《てっこつ》が飛んできた。かなめの鼻先をかすめ、地面をはずんで通り過ぎる。
「わ……!」
夜空の下。<ベヘモス> と宗介の白い機体は、国際展示場の東側、駐車場《ちゅうしゃじょう》に面したあたりで激闘《げきとう》を繰り広げていた。いや、激闘というのは正しくない。宗介の機体はなすすべもなく、巨人の攻撃をくぐりぬけ、ちょろちょろと逃げ回っているだけだ。
弱い。もう、全然弱い。
……というより、敵がデカすぎるのだ。あのサイズであの動き。ほとんど反則だった。その攻撃をなんとかしのぎ続けている宗介こそ、とんでもないのかもしれない。
「ああ……」
戦場は腰《こし》を抜《ぬ》かすほどすぐ間近《まぢか》だった。機体の運動が作り出す強風が、彼女の髪《かみ》をなびかせる。ビルより大きいその巨体が動くたびに、瓦礫《がれき》がぶちまけられ、嵐が吹き荒れ、大地がゆれた。あたりは埃《ほこり》と土煙《つちけむり》がたちこめていて、<ベヘモス> の背中はよく見えない。
「やっぱり下がろう! ヤバすぎる!」
彼女について来たクルツが|叫《さけ》んだ。
「ダメよ……! もうすこし近付いて見ないと!」
そう言ってはみたものの、正直、自分も回れ右して逃げ出したい気分だった。
「しかしだな――」
「あたしに付き合う必要《ひつよう》はないわ! 逃げてて!」
「そんなカッコ悪いマネができるかよ!?」
泣きそうな顔でクルツが言った。
「じゃ、じゃあ好きにしなさいよ! とにかく行くわよ、あたしは!」
「あー、なんてこった……!」
土煙にむせながら、かなめたちは展示場の外壁《がいへき》沿《ぞ》いに走った。つい数秒前まで立っていた通用口のあたりに、コンクリートの塊《かたまり》が落ちてきて粉々《こなごな》になった。
太刀《たち》がうなり、風を切って <アーバレスト> を襲《おそ》う。回避《かいひ》。しかし、そこに機関砲《きかんほう》の掃射《そうしゃ》が追いすがる。
「…………!」
足と胸に被弾《ひだん》。いずれも角度は浅く、貫通《かんつう》はしなかった。だが――
姿勢《しせい》をくずした <アーバレスト> に、<ベヘモス> が左手を伸ばしてきた。避《よ》けられない……そう思った瞬間《しゅんかん》、がっちりと左腕をつかまれてしまった。装甲におそろしい力が加わり、ぴしぴしとなにかの部品が圧壊《あっかい》する音が聞こえた。
(なんてパワーだ……!)
ごぅふぉ……ふおぉぉ……。
<ベヘモス> は <アーバレスト> を頭上に持ち上げた。目が回りそうな猛烈《もうれつ》なG。
このまま地面に叩《たた》き付ける気だ。いかなこの機体でも、そんな衝撃《しょうげき》にはとうてい耐《た》えられない。関節《かんせつ》がばらばらになってしまう……。
宗介は巨人の親指にショット・キャノンの砲口を向けて発砲した。これだけ至近距離《しきんきょり》で撃ったにもかかわらず、<ベヘモス> は親指と砲口との間に、またしても障壁《しょうへき》を生成《せいせい》した。弾《はじ》き飛ばされる徹甲弾。だめだ。これでは……!
やむなく、宗介はショット・キャノンを自分の―― <アーバレスト> の上腕部《じょうわんぶ》に押し付け、トリガーを引いた。
強い衝撃。
機体の左肩から下がちぎれ飛んだ。強引《ごういん》に自由を得た <アーバレスト> は <ベヘモス> の肩にぶつかり、さらに下の地面へと落ちた。運動|制御《せいぎょ》システムが必死になって姿勢《しせい》の回復に努め、なんとか足から着地する。下半身のあらゆる関節から、蒸発《じょうはつ》した衝撃|吸 収 剤《きゅうしゅうざい》が一斉《いっせい》に噴《ふ》き出した。
AIが矢継《やつ》ぎ早にダメージの報告《ほうこく》をはじめた。
かなめはオレンジ色のゴミ箱の蔭《かげ》から、必死になって巨人の背中に目を凝《こ》らしていた。
危ない。そう叫んだところで、彼がどうにかできるものでもない。心配したりハラハラしたりする前に、なんとかヒントを得なくては。
どこなの……どこ……?
巨人の背中ははるか頭上にあった。ばらばらと降《ふ》り注《そそ》いでくる細かな金属片。目を開けているのがつらい。
傾斜《けいしゃ》した <ベヘモス> の背中の装甲。いくつかのブロックで構成《こうせい》されている。冷却装置《れいきゃくそうち》はどこだろうか。冷却装置……たぶんその穴《あな》かなにかがあるはずだ。
「クルツくん、冷却装置ってわかる!?」
「たくさんある! あの横長のと……丸いやつ!」
たくさん。そのようだった。巨人の背中にはいくつもの小さな穴がある。背骨《せぼね》を挟《はさ》むようにして二列。横長のスリットが二つと、丸い穴が四つ。
どれ……どれのこと……?
ラムダ・ドライバの冷却装置。どういう意味だろう? 要するに、そのラムダ・ドライバには冷却が必要で……そのための穴があって……そこが弱いわけか? そこを、攻撃しろという意味なのだろうか?
でも、その穴って、どれなんだろう……!?
倒《たお》す方法がない。
死角《しかく》なし。どうあっても、こちらの攻撃《こうげき》を受けつけない。機体《きたい》の駆動系《くどうけい》も相当《そうとう》痛んでいる。ほとんど限界《げんかい》だ。死ぬ――このままでは。
宗介がそう思ったとき――
『ソースケ、聞こえる!?』
外部からの短距離通信《たんきょりつうしん》が入った。彼は回避運動《かいひうんどう》に専念《せんねん》しながら、
「千鳥か?」
『えーと、よく聞いて! なんだか知らないけど、敵の背中に――ラムダ・ドライバっていうのの冷却装置があるらしいのよ!」
冷却装置。それが機械なら、何にでもついているはずのものだ。
「それで?」
『その場所を、攻撃……するの、たぶん!』
「たぶん、だと!?」
『それしかわかんないのよ! それも、普通《ふつう》の攻撃じゃだめ……ラムダ・ドライバを使うの! その機体についてるんでしょ!?」
「大佐《たいさ》が言ったのか?」
『テッサのこと? よく知らないけど、あー……たぶん、そう! そういうことにしとくわ!』
「なんだ、そのいい加減《かげん》な――」
そこで宗介は気付いた。手が届《とど》くほどの間近《まぢか》、国際展示場の外壁《がいへき》の前に、かなめとクルツがしゃがんでいた。なんだってまた、こんな危険な場所に……!
その二人に気を取られたのがいけなかった。
左から巨大な蹴りが追った。視界《しかい》いっぱいに <ベヘモス> の足。よけきれない。接触《せっしょく》。<アーバレスト> は空中に低い弧《こ》を描《えが》き、かなめたちのいる方へと吹き飛ばされた。展示場の外壁に背中からぶつかり――
『きゃあっ!!』
かなめの悲鳴。良かった。潰《つぶ》しはしなかった。
身体《からだ》が麻痺《まひ》しかけている。頭がくらくらした。コックピットにアラームが鳴《な》り響《ひび》いている。視界《しかい》の片隅《かたすみ》に、かなめをかばって地面に這《は》いつくばったクルツの姿《すがた》が見えた。
ふぉ……ふぉふぉ……。
<ベヘモス> がこちらを見下ろしていた。かなめたちにも気づいている。もう後がない。ここから機体を離脱《りだつ》させたら、<ベヘモス> はかなめたちを踏《ふ》み潰《つぶ》すだろう。
ここでけりをつけるしかない。
「千鳥……どの穴だ?」
『え?』
「その冷却装置だ。どこなんだ」
『あ……それは……』
無線《むせん》の向こうで、彼女が息を呑《の》む声が聞こえた。
『細長いスリットよ。右側でも左側でもいいわ。そこを狙《ねら》って攻撃するの。ラムダ・ドライバを使って』
今度は自信に満ちた声だった。
細長いスリット。たしかにあった。背中の下側。腰《こし》に近い位置だ。下向きになっているので、狙いやすい。問題は、自分がそう自由自在にラムダ・ドライバとやらを使いこなせないことだったが――
「わかった」
宗介はゆらりと機体を立ち上がらせ、すうっと深呼吸《しんこきゅう》した。
ふぉ……アキラメナヨ……。
<ベヘモス> ――いや、タクマが言った。どこか疲《つか》れたような声にも聞こえた。いや、これは……弱っているのだろうか?
シンジャイナ……。
そびえ立つ巨人が太刀《たち》を両手で構《かま》え、渾身《こんしん》の一撃《いちげき》を振《ふ》り下ろした。
前に向かってダッシュ。ぎりぎりで回避《かいひ》。肩《かた》の装甲《そうこう》の一部が吹き飛ぶ。
<ベヘモス> の太刀が地面に当たり、中ほどで二つにぽきん、と折れた。
宗介は <アーバレスト> をまっすぐ、這《は》うようにして走らせ、敵の股《また》の間をくぐりぬけた。仰向《あおむ》けに身を投げ出し、地面の上をざあっと滑《すべ》る。
ショット・キャノンを上に向けると、その銃先《つつさき》に <ベヘモス> の背中があった。
横長のスリット。あった。単なる狙いやすさから、右側に照準《しょうじゅん》。
集中して――これは難《むずか》しくない。
[#挿絵(img/02_321.jpg)入る]
砲弾《ほうだん》に意志を注《そそ》ぎ込むイメージで――これが厄介《やっかい》なのだ。
弾《たま》が抜《ぬ》けると信じて――そうでなければ困る。
(くたばれ……!)
そう念じるのがいちばんだった。
発砲《はっぽう》。
前と同じように、<アーバレスト> の周囲の空間がぐらりと歪《ゆが》んだ。
徹甲弾《てっこうだん》が飛ぶ。やはり <ベヘモス> は見えない障壁《しょうへき》を発生させて、それを途中《とちゅう》でストップさせた。だが徹甲弾は、じりじりと前に押《お》し進み――
輪《わ》ゴムを弾《はじ》いたように、砲弾が <ベヘモス> の背中に命中した。ぱんっ、と金属片が散《ち》る。
スリットのど真ん中。抜けた。入った。
巨人の身体の奥深くで、なにかが潰《つぶ》れる音がした。それでもはた目からは、ほんの小さな損傷《そんしょう》にしか見えない。この程度のダメージで、この巨体がどうにかなるとは、とても思えなかった。
「…………」
数秒間、なにも起きなかった。<アーバレスト> も <ベヘモス> も、そのままの姿勢《しせい》で動かなかった。
直後。
<ベヘモス> の足下のアスファルトが割れて、その巨体が地面に沈《しず》みはじめた。まるで、自分の重さをはじめて思い出したかのように。
右膝《みぎひざ》ががくん、と曲がった。踵《かかと》がにわかに震《ふる》えだして、みしみしと音をたてて割《わ》れはじめた。自由自在に動いていた両腕も、大地に引《ひ》っ張《ぱ》られたように、がっくりと下を向く。骨格《こっかく》が、駆動系《くどうけい》が悲鳴をあげ、関節《かんせつ》からオイルが漏《も》れだした。あちこちの装甲が好き勝手《かって》に脱落《だつらく》し、地表めがけて落ちていった。
いまや <ベヘモス> の機体は、全面的な崩壊《ほうかい》をはじめていた。
股関節《こかんせつ》が壊《こわ》れた後は一瞬《いっしゅん》だった。<ベヘモス> は積《つ》み木が崩《くず》れるように、関節のあちこちをばらばらにして――地面に激突《げきとつ》した。
爆発《ばくはつ》は起こらなかったが、胴体《どうたい》の一部が炎上《えんじょう》していた。
舞い上がる砂埃《すなぼこり》。黒煙《こくえん》と炎《ほのお》。からん、からんと、小さな部品が地面を転《ころ》がる。
それきりだった。
まったく――あっけない幕切《まくぎ》れだった。
『驚《おどろ》いたわ……』
かなめが無線|越《ご》しにつぶやいた。
「?」
『「細長いスリット」って……デタラメに言ってみただけなのに。まさか当たるとは』
あまりのことに、宗介は機体のショット・キャノンを取り落としてしまった。
テレサ・テスタロッサが痛む頭をさすりながら、展示場の外へ出ていくと、すでに <ベヘモス> は崩壊していた。
(ほっ……)
自分があんなところで気絶《きぜつ》してしまったのは誤算中《ごさんちゅう》の大誤算だったが、宗介たちはなんとか切り抜けてくれたようだ。自分と同じ『|ささやかれた者《ウィスパード》』――千鳥かなめのおかげでもある。
あまり認《みと》めたくないけれど、彼女はたいした人だわ……テッサはそう思った。
<ベヘモス> が崩壊した理由。それは簡単《かんたん》だった。
あの巨人は、その破壊的《はかいてき》な自重《じじゅう》をラムダ・ドライバの虚弦斥力場《きょげんせきりょくば》で支えていたのだ。その機能《きのう》を停止《ていし》させれば、あとは勝手《かって》に壊《こわ》れてくれる。陸に上がったクジラが、たちまち死んでしまうのと同じ理屈《りくつ》だ。
ラムダ・ドライバによる自重の軽減《けいげん》。彼女の <ミスリル> にそんなノウハウはなかったが、そうした使い方がありうることは分かっていた。ただ、搭乗者《とうじょうしゃ》の精神力《せいしんりょく》を糧《かて》とするラムダ・ドライバを、休むことなく駆動《くどう》させるには――やはり特別な搭乗者が必要だった。訓練《くんれん》と薬物《やくぶつ》で精神を強化《きょうか》された、専属《せんぞく》の搭乗者。それがタクマだったのだ。
しかも自重を支えながら、同時に『障壁』――敵弾を防ぐ機能まで発現《はつげん》させるとは。この <ベヘモス> を作った勢力《せいりょく》は、<ミスリル> を越《こ》えるレベルの『|存在しない技術《ブラック・テクノロジー》』を保有《ほゆう》しているらしい。
いまだに炎上を続ける巨人の残骸《ざんがい》の前に、<アーバレスト> がひざまずいていた。軽自動車ほどのサイズの球形のカプセル―― <ベヘモス> のコックピット・シェルが、<アーバレスト> の前に鎮座《ちんざ》している。宗介が残骸の中から見つけ出したのだろう。
かなめたちもそのそばにいた。
「テッサ」
まず彼女に気付いたクルツが言った。
「いいのか? あんま無理《むり》してっと――」
「いえ。大丈夫《だいじょうぶ》です」
テッサは片手を軽く挙《あ》げてから、コックピット・シェルの前で立ち止まった。
「開けられますか?」
「いいよ。ただ、ちょっと下がってな」
クルツは腰《こし》から拳銃《けんじゅう》を抜いて、コックピット・シェルの強制開放《きょうせいかいほう》レバーを回した。数秒後、ぱんっ、破裂音《はれつおん》が響《ひび》いてシェルが弾《はじ》けた。
中にはタクマがいた。操縦者《そうじゅうしゃ》の動作を読み取る、宇宙服《うちゅうふく》のようなマスター・スーツに包《つつ》まれ、右半身を下にして横たわっている。
「まだ生きてるぜ。どうする?」
彼に銃口を向けているクルツの手を、テッサは横からそっと下ろさせた。
近づいて、身をかがめる。
「タクマさん」
静かな声でテッサが呼びかけると、タクマがわずかに首を動かした。
「負けたよ……。姉さん……。なぜだろう?」
消え入りそうな声。
『言ったはずだ。獲物《えもの》を前に舌なめずりは――』
「黙《だま》ってなさい、あんたは!」
宗介が <アーバレスト> の外部スピーカーから告げようとするのを、かなめが叱《しか》り飛ばした。白い機体が心なしか肩《かた》をすぼめ、沈黙《ちんもく》する。
テッサはそのやり取りを聞いてもいなかったように、答えた。
「あなたは負けてませんよ。ただ、こういうこともある[#「こういうこともある」に傍点]の」
「ひどいよ……そんなの……」
「そうですね。ひどい話だわ……」
「もう、なにもないよ。僕には、なんにもない……」
彼女はひざまずき、汗《あせ》に濡《ぬ》れたタクマの頬《ほほ》に手を触《ふ》れた。それから軽く目を伏せて、彼の耳元にささやいた。
「大丈夫よ、タクマ。わたしがいるわ」
「姉さん……」
「わたしがずっと、そばにいるから」
「本……当…‥?」
「ええ。安心して眠りなさい」
「うん……。ごめん……ね……」
タクマは眠った。それきり、動かなかった。
テッサは泣かなかった。自分はそこまで優しい人間ではない……それがよくわかっていた。自己満足《じこまんぞく》の、空しい演技《えんぎ》だ。しかし、それでも――
こうした方が良かった、と思った。
「さて……」
彼女は背筋《せすじ》を伸ばして立ち上がり、その場の一同を見渡した。
「ごくろうさま、ウェーバーさん。相変《あいか》わらずいい腕《うで》でしたね」
「ん。まーね」
クルツが片手をあげた。次にテッサは <アーバレスト> を見上げる。
今夜は彼に迷惑《めいわく》をかけっぱなしだったな……と彼女は思った。ただ、そんな風に甘《あま》えてみたくなるのは、彼のせいでもあるのだ。
「ごくろうさま、サガラさん」
『いえ、大佐殿《たいさどの》』
「その機体はもう、あなたのものです。大事《だいじ》に使ってくださいね」
『はっ。……は?』
白いASが敬礼《けいれい》しかけてから、いぶかる仕草《しぐさ》を見せた。テッサはそれ以上説明せず、今度はかなめに向き直った。
「それから……カナメさん。あなたには特別《とくべつ》に感謝《かんしゃ》しないと」
かなめは腕組《うでぐ》みして、ふんと鼻を鳴らした。
「そう思うんだったら、いろいろ説明《せつめい》して欲しいんだけど。納得《なっとく》いかないことだらけなのよね」
「そうですね。できる説明はすべてしましょう。また日を改《あらた》めて」
「はあ?」
「だって、わたしも疲《つか》れてるんですから」
彼女はうーん、と伸《の》びをしてから、
「でも……ひとつあなたに宣言《せんげん》しておいてもいいかしら」
「宣言?」
きょとんとするかなめをよそに、テッサはちらりと <アーバレスト> を見た。
「サガラ軍曹《ぐんそう》。聴覚《ちょうかく》センサーをすべてカットしなさい。これは命令です」
『? りょ……了解《りょうかい》』
あわてて宗介がしたがうと、機体のセンサーが停止《ていし》する。会話が彼に聞こえなくなったところで、テッサはかなめのそばに歩み寄《よ》り、そっとささやいた。
「わたしね……彼のことが、好きになったみたいです」
「……え」
「いちおう、『お互《たが》いがんばりましょう』とは言っておきますね。カナメさん」
そう言ってから、テッサほおかしそうにほほ笑んだ。それは邪気《じゃき》のまったくない、年相応《としそうおう》の少女の顔だった。
「あ……えと……? あ、あたし……」
どう反応《はんのう》していいのかわからず、しどろもどろになったかなめを、彼女はほったらかしにして歩き出した。
「さあ、撤収《てっしゅう》しましょうか。カリーニンさんたちは無事《ぶじ》だそうですよ」
◆
半壊《はんかい》した国際展示場《こくさいてんじじょう》から一キロ離《はな》れたビルの屋上。二人の男が双眼鏡《そうがんきょう》を手に立っていた。
「……寒いねえ」
初夏の夜だというのに、片方の男がそうつぶやいた。
「正直、もう少し頑張《がんば》ると思ったが」
もう一人の男が言った。丸い鼻の上に、丸い眼鏡《めがね》がちょこんと乗っている。
「ま、ボーイスカウトにオモチャをくれてやったようなもんだからな。そう期待《きたい》するのも間違《まちが》ってるか」
「だとしても、お粗末《そまつ》に過《す》ぎる。巡洋艦《じゅんようかん》二隻分《にせきぶん》のカネが、わずか一五分でパアだ。馬鹿《ばか》げた話だよ。上はなにを考えているのだ」
「そう言うな。データもとれたし、映像《えいぞう》もとれた。社会不安も増大《ぞうだい》した」
「欠陥《けっかん》もよくわかった。われわれ <アマルガム> には、あの機体は必要《ひつよう》ない」
「そうだな。くくっ。ほかにもいろいろ」
丸眼鏡の方が眉《まゆ》をひそめた。
「いろいろ?」
「ああ。ふふっ。俺の大好きなマイ・ダーリンとそのガール・フレンドに、こうして再会できたんだからな」
「…………」
「じきに彼らには挨拶《あいさつ》にうかがうとするよ。そう。とびきりの挨拶をしにな……」
にんまりと笑うと、男は義足《ぎそく》を引き摺《ず》るようにして屋上を去っていった。
[#改ページ]
エピローグ
有明《ありあけ》で市街戦《しがいせん》。謎《なぞ》の巨大AS、暴走《ぼうそう》の末に自爆《じばく》。東京ビッグサイト、復旧《ふっきゅう》の見通し立たず。自衛隊《じえいたい》も関与《かんよ》?
朝のニュースはそういった話題でもちきりだった。もちろん、教室でもその話題は取りざたされたりするのだが――なにしろ試験前《しけんまえ》である。そうそう世間話《せけんばなし》ばかりもしていられない。
クラスメートたちは試験|範囲《はんい》のプリントを見せ合ったり、ノートを貸《か》し合ったり、単語帳《たんごちょう》を一心不乱《いっしんふらん》にめくったりするので忙《いそが》しかった。
常盤《ときわ》恭子《きょうこ》はたいてい試験シーズン、かなめと問題の出し合いっこをしたりするのだが、きょうはどうも様子《ようす》が違った。
「ねえ、カナちゃん。ねえってばぁ」
机《つくえ》に突《つ》っ伏《ぷ》したかなめを、恭子は執拗《しつよう》にゆさゆさ揺《ゆ》する。
「きのう、英語教えてくれるって言ってたじゃない。起きてよ、ねえ」
「うー。お願い。もうすこし寝《ね》かせて……」
まるで取り合わないかなめの様子を見て、恭子はふくれっつらをした。
「……もー。きのう、そんなにメチャクチャ勉強したの? 徹夜《てつや》?」
「寝てないのはたしかだけど……。勉強……全《ぜん》っっ然《ぜん》、してない」
「じゃ、なにしてたの?」
「戦争」
「あ、そう……。ふんだ。もういいもんね。カナちゃんなんか、頼《たよ》らないから。……ねえねえ、相良《さがら》くん!」
恭子は海外育ちの宗介――つまり、英語ペラペラ――に頼ることにして、声をかけた。彼は教室の隅《すみ》の席に座《すわ》り、腕組《うでぐ》みしたまま、身じろぎさえしないでいた。
「相良くん?」
「…………」
彼はまんじりと、教室の前方をにらんだままだ。
「ねえ?」
無反応《むはんのう》。顔の前で手をひらひらさせてみても、宗介はなんのリアクションも示さなかった。さらに顔を近付けてみると、規則的《きそくてき》にすうすうと穏《おだ》やかな呼吸《こきゅう》をしている。
(ま、まさか……?)
目を開けたまま眠る。そういう異常な特技《とくぎ》の持ち主が、世の中には希《まれ》にいるらしいことを思い出し、恭子は額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべた。
「はいはい、席に着いて! 授業《じゅぎょう》はじめるわよ!」
教室の戸をあけて、教師の神楽坂《かぐらざか》恵里《えり》が入ってきた。生徒たちはわらわらと自分の席に戻《もど》る。起立、礼。神楽坂恵里はやる気まんまん、といった感じで、
「おはようございます、みなさん。なんだか物騒《ぶっそう》な世の中ですけど、そういう時こそ勉学にあれこれ励みましょう。さあ、テスト前最後の授業《じゅぎょう》よ! 気合い入れて行くわね! では、テキストの六一ページを開いてっ!」
なにしろ試験範囲《しけんはんい》の総《そう》まとめである。教室の生徒たちはみな一様《いちよう》に、さっとテキストを開いた。かなめでさえ、苦労《くろう》を伴《ともな》いながらもテキストを開いた。そしてただ一人宗介だけが、沈黙《ちんもく》して、腕を組み、机の上にはなにも出さず、むっつりと虚空《こくう》を眺《なが》めているのだった。
恵里はたちまちそれに気付いた。
「あら。相良くん、教科書忘れたの?」
「…………」
「どうしたの。答えなさい」
「…………」
「相良くん?」
「……」
「な、なによ……。そんな怖《こわ》い顔して」
ややたじろぎながらも、恵里はひるまず宗介の席まで歩いていった。
「相良くん。わ……わたしの授業が受けられないって言うの? なにか至《いた》らない点があるんだったら、わたしも改《あらた》める努力はしますよ。でもね、あなたのその態度《たいど》は――」
「…………」
「態度は……その、あんまりじゃないの?」
「…………」
「なにか言いなさい、相良くん。ねえ」
「…………」
恵里は半分|涙目《なみだめ》になって、テキストで思い切り机《つくえ》を叩《たた》いた。
「相良くんっ!!」
『?…………!!」
次の瞬間《しゅんかん》、宗介は椅子《いす》から飛び上がり、腰《こし》のホルスターから拳銃《けんじゅう》を抜《ぬ》きざま、目の前の女性教師の首根《くびね》っこをつかんで、床《ゆか》に引きずり倒《たお》し、その頭に銃口《じゅうこう》を押《お》し付けて――
横から飛んできたかなめの飛《と》び蹴《げ》りを食らって、昏倒《こんとう》した。
恭子があわててフォローに入らなければ、恵里は泣いて教室を飛び出していったかもしれない。
[#地付き][了]
[#改ページ]
あとがき
お待たせいたしました。陣代《じんだい》高校で平和な(?)日々を送る宗介《そうすけ》&かなめに、またもどえらい強敵が襲《おそ》いかかります。今回はほとんど都内が舞台《ぶたい》。しかもたった一日の出来事です。『冒険編』とでも呼ぶべきフルメタ長編の第二弾、『疾《はし》るワン・ナイト・スタンド』、たっぷりお楽しみください。
このお話は前回に比べて、人物の描写がいくらかクローズアップされています。そのせいか、筋《すじ》立てそのものはそれほど複雑《ふくざつ》でもないのに、またしても三〇〇ページを大幅《おおはば》に上回ってしまいました。分厚《ぶあつ》いです。当初は二六〇ページくらいを考えていたのですが……不思議ですね。
作者というのは気弱なものでして、本が分厚いと『売れないんじゃないかなあ……』と心配になったりするものです。しかしやっぱり厚かった『戦うボーイ・ミーツ・ガール』も売れ行き好調《こうちょう》のようなので(いやはや皆さんのおかげであります)、『よかった、日本は安心だ』などと胸をなで下ろしております。一般の書店さんでは常に品薄《しなうす》の状態《じょうたい》でして、各方面から『おまえの本、置いてないぞ』とお叱《しか》りを受けて恐縮《きょうしゅく》している次第《しだい》であります。『戦う〜』をあちこち探し回ったみなさん、ごめんなさい。
ほかに書いとくことは……うーん。思い付かん。しょうがないからゲストでも呼びましょう。本シリーズの主人公、相良《さがら》宗介さんです。はい、拍手《はくしゅ》。
そ「俺に用か」
――おう。俺の代わりに、なんか面白《おもしろ》い話をしてくれ。
そ「いいだろう。では、米軍でトライアル中の|次期統合戦闘攻撃機《JSF》について、ロッキード案とボーイング案の違いをあれこれ解説《かいせつ》する」
――するな。
そ「ならば、ASの頭部|機関銃《きかんじゅう》に劣化《れっか》ウラン弾が使用される理由について話そう。あれはATMの迎撃《げいげき》にも用いられるので――」。
――やめろ。
そ「…………。ベトナム帰りの知人から聞いた、韓国《かんこく》海兵隊のすさまじい拷問《ごうもん》テクニックについて話すというのはどうだ?
――やっぱ駄目《だめ》か。もういいよ。帰ってくれ。
そ「俺は話術の特殊訓練《とくしゅくんれん》は受けていないのだ。だが聞き役に回るくらいならできる。あんたの身の上話を聞いてやろう」
――ふむ。身の上話ねえ……。そういえば、おとといはバレンタインデーでな。ファンの子から、チョコもらったんだよ。富士見の編集部の人からも。うれしかったな。
そ「そうか」
――しかし。そのチョコ、俺の担当のSさんが打ちあわせの時、預《あず》かって持って来たんだ。で、Sさんも女性の人なんだけどさ。彼女からのチョコはなかったんだ。
そ「そうか(ぽりっ)」
――もちろん義理《ぎり》でいいんだけど。なんか寂《さび》しかったよ。
そ「…………。なぜそこまでチョコレートを欲しがるのか、俺にはよくわからん。しかし、この文をまず最初に読むのは、そのSという編集者だろう。明らかな当てつけだな」
――だってよ。きのう『あとがき、書くことが思い付かないっす』って言ったら、Sさん、『近況でも書いたらどうです? そう、バレンタインの話とか』って。にこにこして。
そ「……なかなか豪快《ごうかい》な女だな」
――繊細《せんさい》な男心がわかってないよなー。ったく。俺は悲しいよ。
そ「どうでもいいことだが、あんたと話しているとクルツを思い出す(ぽりっ)」
――あんな馬鹿《ばか》と一緒《いっしょ》にしないでくれ。
そ「奴《やつ》もそう言うだろうな(ぽりっ)」
――……ところで、さっきからぽりぽりとかじってるそれは、なんだ?
そ「チョコレートだ」
――……んだとお? だれからもらった!? え? 言え!
そ「それは言えん。本人から口止めされている」
――ふん。だいたい見当は付くけどな。どうせ『義理《ぎり》よ、義理!』だとか念《ねん》を押されて渡されたんだろう。
そ「(汗)……なぜそれを?」
お、もうこんなページ(なぜか腕時計《うでどけい》を見る)。
今回も原稿執筆《げんこうしっぴつ》にあたり、多数の皆さんの助言《じょげん》とご協力をいただきました。あらためて感謝いたします(ぺこり)。
では、また。次回も宗介と地獄に付き合ってもらいます。
[#地から2字上げ]一九九九年二月 賀 東 招 二
[#地付き]http://www.tk.xaxon.ne.jp/~irineseo/gatoh/index.html
底本:「フルメタル・パニック! 疾るワン・ナイト・スタンド」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1999(平成11)年3月25日初版発行
2001(平成13)年2月10日9版発行
※底本中で用いられている「《」と「》」は、青空文庫ルビ記号と被ってしまうため、それぞれ「<<」と「>>」に置き換えています。
校正:暇な人z7hc3WxNqc
2009年10月15日校正
このテキストは基本的に青空文庫形式ですが、感嘆符や疑問符が二つ並んだ文字(本来なら「感嘆符二つ、1-8-75」や「感嘆符疑問符、1-8-78」などと注記しなければならない所)はテキストビューアの「縦中横」機能を当てにして半角文字二つで表現し、注記は避けました。
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注意点
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あとがきの最後にURLが記載されていますが、現在2009年6月現在の賀東招二の公式サイトは http://www.gatoh.com/ です。