角田 房子
一死、大罪を謝す
目 次
三十三回忌
二・二六事件の訓話
乃木将軍と小さな中学生
無色の将
徳義は戦力なり
積極の士
第二方面軍司令官
豪北戦線へ
孤独の決意
ビアク島死守
玉砕、待て
楠公精神むなし
航空総監として東京へ
陸軍三条件を負う
戦艦大和、海底へ
「世界情勢判断」と「国力の現状」
天皇の意志
ポツダム宣言
最後の闘い
あとがき
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一死、大罪を謝す
――陸軍大臣|阿南惟幾《あなみこれちか》
三十三回忌
昭和五十二年八月十四日、東京は朝から雨だった。芝|愛宕《あたご》、青松寺《せいしようじ》の黒々と濡れた石の門柱のかたわらに、
「阿南惟幾《あなみこれちか》 三十三回忌 法要」
と、つつましく書かれた白木の立札が墨の色をくっきりと浮かべていた。
「おや、阿南大将のご法事……」
五十がらみの女が傘をかたむけて、立札の前に立ち止まった。
「阿南って、誰?」
母親のうしろの長髪の青年が、気のない声で聞いた。
「終戦の時の陸軍大臣だよ。お名前も知らないの? あんたの生まれるずっと前のことだけど、あのときは……日本もいよいよ負けた、陸軍大臣は切腹なさったと聞いて……」
「切腹? 野蛮だなあ」
「野蛮だなんて……お立派じゃないか、ちゃんと責任をとったんだもの。
阿南大将は最後まで降伏には絶対反対で、何が何でも戦いぬこうと言い張って……徹底抗戦とかいうんだけど、もし阿南大将の言う通り本土決戦をやってたら、わたしなんか今ごろ生きちゃいなかったろうよ。女だって竹槍で敵を刺すけいこを、半分本気でしてたんだから。なにしろ軍人さんは……」
母親は息子にうながされて歩き出した。その親子とすれ違いに、阿南家の法要に向かう人々が次々に青松寺の境内にはいってゆく。
中門の右手に、若木ながら四方へ枝を張ったさるすべりが今を盛りの花をつけ、潔《いさぎよ》いほどに鮮やかな紅の色を雨脚ににじませていた。人々はその前を通り、本堂横の玄関にはいる。老齢ながら真っすぐに背筋をのばした姿勢に、一目で旧軍人とわかる男たちが目立つ。その中に、喪服の老婦人の姿が多いのは、すでに故人となった夫の代参であろう。
「ほう、今日はあなた方が下足番を……」
かつては閣下≠ニ呼ばれたであろう風格の白いひげの老人が、下足札を受けとりながら目を細めていった。この日、玄関番を勤めたのは高品武彦(当時陸上自衛隊東部方面総監、のち統合幕僚会議議長、陸将)、亀井健雄(もと陸上自衛隊北海道地区補給処長、陸将)、小川|諭《さとる》(もと陸上自衛隊調査学校長、陸将補)の三人で、いずれも阿南が東京陸軍幼年学校長時代の教え子である。
八十人を越す出席者の中には、阿南の同期生ですでに九十歳に達した沢田茂(もと参謀次長、中将)、河野巽《こうのたつみ》、恒吉《つねよし》秀雄の三人をはじめ、終戦時の文部大臣太田耕造、軍務局長吉積正雄(中将)、参謀本部第二部長有末精三(中将)、そして宮城事件=i終戦直前、一部若手将校のクーデター)の中心人物中ただ一人の生存者岩田正孝(旧姓井田、中佐)などの顔があった。
遺族席の前列には阿南惟幾の未亡人綾子――剃髪《ていはつ》して墨染《すみぞめ》の衣《ころも》をまとう七十八歳の善信尼が、色白のおもてを伏せて坐っていた。読経の声と香の匂いが雨の湿気を含んだ堂内に籠《こも》っていた。
≪あれから三十二年……時の流れの早さに驚くばかりでございます≫善信尼は心の内で亡夫に語りかけていた。≪ご自害なさいましたあと、わたくしも杉山元帥の奥さまのようにおあとを追って死にたいと、どれほど思いましたことか……。けれども末の惟茂《これしげ》が四つ、その上の惟道《これみち》が七つ……わたくしに残された母親のつとめを思えば、死ぬことは許されないと考えました。
あなたはわたくしに遺書をお残しになりませんでした。しかしそれはあなたがお与え下さった深い信頼と、わたくしは理解いたしました。身勝手をしないで、子供を立派に成人させることが、あなたの信頼に応《こた》える道とわたくしは信じました。……でも杉山元帥の奥さまを、しみじみ羨《うらやま》しいと思いました。
……終戦のころのあなたのお気持について、いろいろのことが耳にはいりますが、わたくしはあなたが心から本土決戦を望んでおられたと信じております。連隊長のころだったでしょうか……あなたがお座敷で車座になった若い将校たちに「刀折れ、矢尽きるまで戦うというのではまだ足りない。武器がなくても、歯があるだろう。その歯で敵に噛《か》みつけ」といわれたお声が今も耳に残っております。気性の強いあなたが、天皇陛下のご安泰に不安を残したまま、おめおめと敵に降伏しようとお考えになったとは、わたくしには思えません。さぞかし戦いたかったであろうと思い、それの出来なかったご無念をお察しいたしておりました≫
読経、焼香のあと、阿南と関係の深かった人々が次々に故人の思い出を語った。その言葉に誘われて、一座の人々はみなそれぞれの回想の中に阿南の姿を追った。
「……幼年学校の校長であった阿南閣下は」と、先刻下足番を勤めていた小川諭が、十三、四歳の少年の目で眺めた阿南を語っていた。それを聞く盲目の老将軍沢田茂の口許《くちもと》に、昔を懐しむ微笑が浮かんだ。沢田の追憶の中に、阿南は小さな軍服を着た広島幼年学校の同期生の姿で、また時には厚い胸いっぱいに勲章をつけた将軍の姿で現われる。沢田は思い出の中の阿南を昔ながらに貴公∞貴様≠ネどと呼んで、語りかけた。
≪貴公が死んで三十二年か……毎年八月には貴公の思い出にふけるのだが……、死んだ年には敗戦のどさくさの中で、翌年は単鴨《すがも》プリズンで……。それから俺は世の変遷の中で碌々《ろくろく》と生きながらえ……。今年は三十三回忌……特に貴様を思うことしきりだ。
もしもあの時、一歩を誤って軍が暴走していたら……または陸軍が抗戦派と和平派の二つに割れて友軍相撃となり、そこへ米軍やソ連軍がはいってでも来たら、日本はどうなっていたことか……、そしてどれほど多くの日本人が犠牲になっていたことか……。そんなことにならずに済んだのは、貴様のおかげだ。よくぞ無事終戦に導いてくれた。貴様は本土決戦を呼号する陸軍部内を納得させる態度で、よく手中に納めて暴走させなかった。継戦を主張する上奏電報をうつほどに強気の支那《しな》派遣軍に「阿南は弱い」の声を立てさせず押えきった。どれほどの心労であったか、俺にはよくわかっていた。
だが最近になって、割腹直前の貴様が「米内《よない》(光政)を斬れ」といった――ということを知った。確かなスジの話で、信じるほかはない。
早期和平を主張する米内が海相をやめようとした時、貴様は彼を翻意させようと努力し、成功した。この事実は、貴様も本心では早期和平を願っていた証拠だ、と俺は考えていた。また緊迫した情勢の中で陸海軍の統合が論議された時、賛成論者の貴様は米内が統合された軍全体の大臣となり、自分は米内の次官になってもよいといった。貴様は米内を尊敬していたではないか。それだのに、なぜ、いまわの際《きわ》に「米内を斬れ」などといったのか――これは謎《なぞ》だ。
それにしても、終戦時の陸軍大臣とは、貴様、何という貧乏くじを引き当てたものか……≫
終戦時、陸軍省高級副官であった美山要蔵元大佐は、いま(昭和五十二年)七十五歳となり、千鳥《ちどり》ヶ淵《ふち》戦没者|墓苑《ぼえん》理事長として奉仕するかたわら、書道を教え、静寂な日を送る――
≪八月十五日の早朝であった。私が「大臣自決」の第一報を受けたのは……。第二報で、まだ絶命されていないことを知り、同じく剣道五段でお相手をしたこともある私は、とっさに、介錯《かいしやく》申し上げねば……と心を決め、軍刀の柄《つか》を握って一人官邸へ走った……。だが私が着いた時、大臣は絶命されたところだった。
今に至っても、阿南大将はクーデターに心を動かしたという人があるが、あの時のクーデター計画は、陛下を脅迫して終戦のご決意を継戦に翻意させ申そうというものだった。忠誠一途の阿南大将が、一瞬たりともそんな気持になられたはずはない。戦後育ちの若い人にはわかりにくいだろうが、天皇と私たちとの間には、はっきり君臣という不動の関係があった。確かに阿南大将には誤解を受けるような言動もあったが、それは若手将校の暴発を防ぐためのご苦心から生まれたもの、いわば芝居≠セったのだ。
これ以上国民を犠牲にするに忍びない……という陛下のご決断によって終戦になったわけだが、阿南大将はその陛下の大御心《おおみこころ》を最もよく知っている一人だった。だが一方にはあくまで抗戦を主張する軍部があった。阿南大将は万難を排して、陛下のご意志が実現するようにと心を砕かれた。
そして最後には、武士の作法通り見事に割腹された。その時まで抗戦を唱えて気負いたっていた陸軍が、大臣の自決を知って粛然となった。阿南大将は、死をもって国をお救いになられた……≫
迫水久常《さこみずひさつね》は二・二六事件のとき首相岡田啓介を叛乱《はんらん》軍の包囲の中から救出する離れ業を演じた人だが、終戦内閣の書記官長として見せた智謀は再度の離れ業といえよう。戦後、参議院議員、経企庁長官、郵政大臣などを勤め、昭和五十二年死去した。阿南の三十三回忌に参列した七十五歳の夏は死の直前であった。彼の感懐――
≪あのころ世間ではあなたのことを、好戦的だ、頑迷|固陋《ころう》な主戦論者だといったものです。だが、何とか無事に終戦に導き日本を救わねばならぬと苦心しておられたあなたのご本心を、私は見ぬいていたつもりです。
……あなたが陸軍大臣でおられたからこそ、日本は国内の分裂もなく終戦ができたのです。終戦の最大の功労者は鈴木総理とあなたであることを、私はかたく信じています。
多磨墓地に行く度に、私はあなたの辞世の歌を刻んだ石に抱きついて、日本国民のためにお礼をいいたい気持にかられます≫
遺族席の竹下正彦は善信尼の弟で、阿南の義弟である。陸軍省の中枢軍務課員であった終戦時に、国体護持を大義名分にクーデターの計画者の一人として立った。戦後、陸上自衛隊幹部学校長を最後に引退し、六十八歳の今日は菊づくりを楽しむ境地である。しかし彼には激しい気概に生きた中佐時代の思い出がある。
≪阿南は最後まで抗戦継続を主張したが、あれは陸軍下僚に対するゼスチュアだった、腹芸で部下の暴発を防いだのだという説がある。私は不同意だ。我々は国体護持のため抗戦を続けようとクーデターを計画し、その先頭に立っていただきたいと何度か阿南と話し合った。同時に「大臣のいかなる命令にも服従する」と誓った。そういう部下に対して、腹芸などする必要はなかったはずだ。
戦後、私は米軍の戦史課に呼び出された。驚いたことにここでも「終戦直前の阿南陸相の強硬態度は、陸軍部内の狂信的な中堅将校に国内騒乱を起させないための偽態であったろう」とたずねられた。私はもちろんこれを否定した。
阿南は、自分に信頼をよせている部下を欺くような男ではなかった≫
阿南陸相の秘書官であった林三郎元大佐は、理性的に戦争を見てきた軍人らしく、いまはメッケル少将の研究に没頭している。(メッケルはモルトケの推薦で、明治十八年、日本陸軍最高顧問となりドイツ式軍制を指導した)白髪、七十二歳の学究は回想する。
≪阿南大臣が自決された直後、東久邇《ひがしくに》内閣の陸相に決った下村定《しもむらさだむ》大将をお迎えに私は北京《ペキン》へ飛んだ。そのとき私は下村さんに「阿南さんの態度が最後まであいまいだったのは残念です。クーデターを計画して気負いたつ将校たちに対して、阿南さんが初めから計画をはっきり否定していたら、宮城事件のような不祥事は起らなかっただろう……と私には思われます」といったことを覚えている。
北支那方面軍司令官であった下村さんは「私は玉音放送を聞くとすぐ筆をとって承詔必謹≠フ命令を下し、部下の動揺を押えた」といわれた。
阿南さんは本土決戦についても、クーデターについても、最後まで決心がつかず、迷いに迷っておられたと今も私には思われる≫
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二・二六事件の訓話
「阿南校長はこのように優しかった半面……」小川諭の思い出話はなお続いていた。「二・二六事件が起った時は、全校生徒を集めて厳しい訓示をされました。軍規の尊厳性と、天皇に対する軍人の服従の道をこんこんとお教えになったことを、私は今も忘れておりません」
昭和十一年、二・二六事件のあと、阿南が全校生徒を集めて訓示を行なったのは三月十日ごろのことで、事件終結から一週間以上がたっていた。これについて高品武彦は、「一般に叛乱将校への同情があり、この時期になっても生徒監の生徒への説明もあいまいだったので、校長はこの際はっきりと教える必要があると思われたのであろう」と語っている。
三十三回忌に出席した三人の教え子のほか、小田博正(会計士)、渡辺禎作(電通勤務)など、当時幼年学校の生徒だった人々はみな「最も強い印象を受けたのは二・二六事件後の訓話であった」と語る。
この日の阿南はいつもの穏かな態度とは違い、顔面紅潮、激しい口調で、まず「統帥権の干犯である!」と語りかけたという。生徒の年齢には十三歳から十七歳までの差があった。彼らの記憶に残る訓示の言葉から、阿南がそれぞれの理解力を考慮したあとがうかがわれる。
「これは軍にとって、非常に悪いことだ」という言葉は、おそらく一年生に向けたものであったろう。
「農村の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と述べた阿南は、繰返し軍人は政治にかかわるべきでないと諭《さと》している。
「叛乱将校は軍人として許されない誤りを犯したが、彼らにもただ一つ救われる道がある。己れの非を悟り、切腹して陛下にお詫《わ》びすることだ」と説く校長の言葉を、生徒たちは緊張に身をひきしめて聞いた。彼らにとって切腹≠ニは「赤穂《あこう》四十七士」など遠い昔のことではなく、自分自身が切腹の作法≠教える学校に在学しているのだ。
渡辺禎作は、叛乱将校に対する阿南の怒りの激しさをひしひしと感じ、≪校長閣下は侍従武官として天皇のおそば近くに仕えたお方だから、陛下のお心を悩ませた将校たちに対して、こんなに立腹しておられるのだろう≫と思ったという。阿南の天皇に対する敬慕の念には血がかよっていることを、生徒たちは感じとっていた。
阿南の幼年学校長時代とは昭和九年八月からの二年間で、彼の四十七歳から四十九歳にかけての時期である。
「幼年学校の校長という職は、陸軍三大閑職の一つ≠ニいわれたくらいで……」と義弟竹下正彦は語る。「阿南のような陸大出のポストではありませんでした。能力ではなく人格で選ばれるので、幼年学校長を勤めた人で後に有名になったのは橘《たちばな》中佐ぐらいなものでしょう」
「軍神橘中佐」と小学唱歌にうたわれた橘周太は、日露戦争の遼陽《りようよう》会戦で壮烈な戦死を遂げた軍人である。
周囲が幼年学校長を閑職と呼び、目八分に見ようとも、阿南はこれを非常に大切な役目と心得て、就任当初から張りきっていた。
昭和七年末からようやく恐慌をぬけ出した経済界は、農村を窮乏状態に置き去りにしたまま、八年、九年と次第に景気を回復し、それにつれて軍事費は増大した。昭和六年は四億六千万円であったが、九年には政府総支出の四十四パーセントを占める九億五千万円と、三年で二倍以上に上昇した。これは怖《おそ》るべき膨張であった。
現代との比較は――『ミリタリー・バランス』79〜80年版によれば、昭和五十四年の日本の国防支出の政府支出に対する割合は、五・四パーセント、アメリカは二十一・五パーセント、西ドイツ二十七・九パーセントである。
膨大な軍事予算をにぎり強大になった陸軍は、国家支配に手をかける軍閥と呼ばれる勢力圏をつくり、その権力が増大するに従って軍閥内の派閥争いが激しくなった。
軍閥の核となったのは「一夕会《いつせきかい》」のメンバーたちであった。「一夕会」は昭和四年に、当時の佐官級の俊秀と目された将校たちで結成された。のち軍務局長のとき統制派の実力者として斬殺される永田鉄山、支那派遣軍総司令官となる岡村|寧次《やすじ》、満州奪取の立役者で陸相となる板垣征四郎、太平洋戦争の火つけ役を勤める東条英機、満州事変で一時は時の英雄≠ニなる石原莞爾《いしはらかんじ》、阿南の同期生でシンガポール占領で勇名をはせる山下|奉文《ともゆき》、阿南の下で第二方面軍参謀長となる沼田|多稼蔵《たけぞう》など、一騎当千の面々である。
彼らは初め同志的結合で「一夕会」をつくったが、やがて分派し抗争しあい、その形づくる人脈≠ェ軍閥と呼ばれるようになった。
陸士十八期からは山下のほか二人が加わっていたが、阿南は「一夕会」とは関《かかわ》りがなく、従ってどの派閥にも属したことがない。阿南のように軍人勅諭を遵奉し、軍人は政治にかかわってはならぬという明治大帝のお諭し≠金科玉条にしているような将校には、声がかからなかった。四度目の受験ではいった陸大の成績もよいとはいえず、かつて鋭鋒《えいほう》らしきものを見せたこともない阿南は、おそらくぼんくら℃汲ウれていたのであろう。しかし阿南は、たとえ声をかけられても徒党に組することなどに色気を見せたとは思われない。
昭和六年十二月以来九年一月まで陸相を勤めた荒木貞夫(大将)は参謀次長真崎甚三郎(のち大将)と結んで派閥人事を行ない、一方にクーデターを企図する一部の青年将校を庇護《ひご》していた。これら青年将校は君側の奸《かん》≠倒せば、おのずと国体は明徴となり、天皇親政のもとに帝国の発展が期せられると考えていた。荒木・真崎派は、その天皇主義強調から皇道派≠ニ呼ばれた。
これに対し陸軍省、参謀本部などの幕僚層を中心とする統制派≠ニ呼ばれる勢力が進出してきた。その指導的地位にあった軍務局長永田鉄山少将らは、軍部が右翼テロなどに関係せず、合法的手段によって政治的発言権を強め、重臣、官僚、財界などをも利用して総力戦体制をうち立てようと画策していた。皇道派も統制派も、軍部独裁を目指していた点では同じであった。
昭和九年一月、陸相は荒木から林|銑十郎《せんじゆうろう》大将に替った。林と永田とは十年八月の異動で皇道派を一掃しようとした。これに教育総監であった真崎が強く反対したため、林は真崎の更迭を断行した。皇道派の青年将校は憤激し、相沢三郎中佐は十年八月、統制派を断罪しようと陸軍省軍務局長室で永田鉄山を斬殺した。
満州事変以来強大な存在となった関東軍が、満州支配の完璧《かんぺき》を期するため華北で盛んに事を構えているとき、東京では昭和十一年一月から相沢中佐の公判が開始され、皇道派、統制派の争いは猛烈な宣伝戦をまじえてさらに激化した。
皇道派の拠点である第一師団(東京)の満州移駐決定で、かねてクーデターを計画していた将校たちはその決行を急いだ。この決意の直接原因は皇道派、統制派の争いの激化だが、彼らはクーデターによって、農村の窮乏をはじめ日本が直面している内外の行詰りを一挙に打開しようと考えた。
二月二十六日午前五時、歩兵第一、第三連隊を主とする二十二人の将校たちは、千四百余名の部隊を率いて行動を起した。二・二六事件である。彼らは蔵相高橋|是清《これきよ》、内大臣斎藤|実《まこと》、教育総監渡辺|錠太郎《じようたろう》を殺し、侍従長鈴木貫太郎に重傷を負わせ、首相岡田啓介をも殺したつもりであったが、これは人違いであった。また前内大臣牧野|伸顕《のぶあき》を襲ったが目的を果たさず、元老|西園寺公望《さいおんじきんもち》の襲撃は中止された。
決起将校から要望事項をつきつけられた川島|義之《よしゆき》陸相はじめ軍首脳部は、それぞれのおもわくで、態度はあいまいだった。第一師団管下に戦時警備が下令され、師団命令で決起部隊は警備部隊に編入された。軍事参議官会議は荒木、真崎にひきずられ「要望の実現に努力するから帰営せよ」という言い方で説得しようと意見をまとめ、その趣旨で陸軍大臣告示が作られた。怪しげな是認ととれる。
決起前の将校の一部に向かい「岡田(首相)なんかぶち斬るんだ」と放言した軍事調査委員長山下奉文が、この告示を口頭で決起将校に伝えた。そのとき五項目の第二項「諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む」が正文であるのに、「真意」を「行動」といい換えて伝えた。「諸子の行動……」になると、ずるい言い方だが行動を認めたようでもあった。それでいて山下が、決起部隊の形勢非と見るや自分の態度を晦《くら》まし隠したことは、天皇の忌諱《きい》に触れたこともあって一生の傷になった。
このあいまいと混乱の中で、天皇は「みずから近衛《このえ》師団を率いて鎮圧に当ろう」と怒りを爆発させた。天皇が無謬《むびゆう》であるためには意思を示してはならないのだが、天皇はこの時と、太平洋戦争降伏の時と二度、定められた天皇の線を決然と踏み越えた。二十七日、占拠部隊の撤退を命じる奉勅命令が出され、二十八日、正式に「叛乱軍」と名づけられた。二十九日、事件は鎮圧された。
その後五ヵ月近く戒厳令が続き、この強圧の中で軍部は政治的主導権をにぎってしまった。しかし軍部の政治干渉を非難する世論は厳しかった。
幼年学校長であった阿南が全生徒を集めて、叛乱将校を厳しく批判したのはこの時であった。阿南は生徒たちに向かって、二・二六事件の青年将校の過失を許せぬと難じたが、内心では常に「気ノ毒ナリ」と同情していたことが日誌に見られる。若い者への思いやりは阿南の生まれつきの性質であって、彼の自刃の日まで消えないのである。
幼年学校長時代、阿南は三鷹《みたか》の自宅によく生徒たちを招いて、親許を離れている彼らをいたわった。これも三十三回忌の席での、小川諭の思い出話だが――
小川はある日級友数人と阿南家へ遊びに行き、ごちそうになった。そのとき一人の生徒が、「私のビフテキはよく焼けていません。少し血がにじんでいます」といった。阿南は妻にその肉を焼き直させてから、「ビフテキは西洋の本場では、血のしたたるようなナマ焼けがいいとされているんだそうだ。まあ、好きなようにして食べればいいんだが、そんなことも覚えておくがよかろう」と微笑を浮かべていった。
いかにも阿南らしい話である。彼は「焼けていない」といった生徒にいきなりビフテキの講釈をして、恥をかかせるようなことはしない。望み通り肉を焼き直してから、さりげない口調で教えている。阿南はこういう心づかいを自然にする人であった。むしろ、してしまう人であったろう。
そのころの阿南の家庭生活について、長男|惟敬《これひろ》(防衛大学校教授、昭和五十年没)が手記を残している。
「子供たちとよく遊んでくれてとてもよい父親だが、机に向かっている姿など見たことがなく、寝ころんで『キング』や『少年|倶楽部《クラブ》』を読んでいる時が多いので、これで仕事や勉強の方は大丈夫だろうか、とても大将や大臣にはなれないだろう。幼年学校の校長は退役前の人がなるように聞いているが、父もいよいよ退役か……と、失礼な心配をしていたものです。
しかし母は『お父様の若いころの勉強ぶりは、あなた方には真似も出来ない』と申しますから、そういう研鑽《けんさん》の時代もあったのでしょう」
「父と母との夫婦|喧嘩《げんか》も何回か経験しましたが、いつも烈しいのは母の方で、父はもてあましたように笑っているだけでした。我々子供はそれを見て、『父はやはり偉いんだな』という感じを持っていました。
これは両親それぞれの家庭の相違から来ていると思います。阿南の方は父以外一人も軍人は出ていませんが、竹下の方は母の父(陸軍中将竹下平作)も、弟三人も、妹二人の夫もみな軍人という家で、母は武士的なしつけを受けたわけです。竹下の祖父は気性が烈しく、天性勇猛果敢で、馬丁が『こういう人と一緒に戦争に行くのはいやだ』と泣いたそうです。父はよく『とても竹下のおじいさんのようにはなれん』といっていました」
また惟敬は「父は全く自由放任で、勉強しろといったこともなく、映画、雑誌、酒、タバコ、何でもいけないといったことはありません。……父は陸大の入試に三度落第し、四度目にやっと合格したと聞いていたので、私共も落第や浪人を苦にしなかった一方、『父は頭は余りよくないのだ』と漠然と思っていました」とも書いている。これには、秀才系であった竹下家との比較もあったという。
しかし子供たちは、剣道、馬術、水泳などの得意な父を尊敬し、子煩悩な彼に無限の温かさを感じて満足していた。惟敬は「少し度が過ぎるほどの」阿南の子煩悩の一例として、彼の色盲をごまかして幼年学校に入れてしまったことを書いている。
色盲は絶対に軍人にはなれない。だが阿南は学校の医務室から検査表を持ち帰り、「色盲検査など、昔はなかった。目が少々悪くても、心がけ次第で立派な軍人になれる。これを全部覚えてしまえ」と、惟敬に片っぱしから覚えさせて検査をパスさせたという。
「日曜日は大ていピクニック、デパート、映画、食事などに連れていってくれました。海水浴やスキー、また競馬、相撲《すもう》、サーカスなどもすべて父によって教えられた楽しみでした。
……夕食のとき父がいなかったという記憶は余りありません。それほど家庭好きで、食後は一緒にトランプなどをして遊びましたが、私共が勉強を始めると、羽織をかぶって寝ているのが普通でした」
野心も物欲もなく、家庭の団らんにこの上ない喜びを見出《みいだ》している平凡な、そして幸せな父親の姿である。十一年一月には次女|聡子《としこ》(現、大国姓)が生まれ、家庭内は一層にぎやかになった。
惟敬は最後に「父の生き方には、理想はあくまでも求めるが、平凡なもの≠ノ満足するという点があって……、要するに父は戦争がなかったら他愛《たわい》ない父≠ニして終ったであろうと思います」と書いて、手記をしめくくっている。
[#改段]
乃木将軍と小さな中学生
阿南の家庭が温かい空気に包まれていたように、彼の幼時も父母や姉たちの愛を一身に浴びた楽しい思い出に満ちている。阿南は昭和十八年三月に母が死去した直後、「母上ノ事思出ノ儘《まま》ニ」と題して、それを書き残している。
阿南の父|尚《ひさし》は内務官吏であった。父は大分県人だが職業がら転任が多く、阿南は明治二十年二月二十一日に東京市|牛込箪笥《うしごめたんす》町(当時)で生まれた。当時父は「裁判所検事等、高等官ニ列セラレ」ていた。阿南は母豊子の背に負われて暗い町を通りぬけ、明るい灯の連なる町へ出たというおぼろな記憶を残していて、「多分、神楽坂《かぐらざか》辺ノコトナルベシ」と書いている。
やがて「飯田町ノ大ナル邸宅」に移り、兄|惟一《これかず》は学習院に、長姉清子は華族女学校に、他の姉たちは富士見小学校に通い、末っ子の惟幾はよくこの小学校へ遊びに行った。休日には一家|揃《そろ》って宝亭の洋食を味わうなど、豊かで幸せな日々であった。当時の写真を見ると、三、四歳かと見える惟幾がヒダ飾りの多い女の子のような服を着て中央に立ち、左右の姉たちは花をあしらったボンネットに衿《えり》の高い洋服という小レディー振りである。明治十六年に内外人の社交クラブとして鹿鳴館《ろくめいかん》が設けられ、西欧風の服装が一部にとり入れられてから、まだ十年とはたっていない時である。
「其《その》頃ヨリ両親共ニ雲照律師ニ帰会シ……予モ母ニ伴ハレ参詣《さんけい》シ、雲照律師ノ講話ヲ聞キツツ前ニ乗出セシヲ、後ヨリ母ニ引戻サレ、聴衆一同モ大笑ヒセシコトシバシバナリ」と阿南は書いている。後年の彼は戦陣にあっても肉親の命日を忘れず、香華を供えて冥福《めいふく》を祈る人であったが、その宗教心はこうした幼時の家庭環境の中で芽生えたものと思われる。
やがて父は大分市へ転任した。阿南は「当時予ハ特ニ母ニ甘ヘタル記憶アリ。母ガ別府温泉ニ湯治ニ行キシ為《ため》、予ハ泣キ叫ビテ母ヲ慕ヒ、父ノ退庁後叱ラレナガラ人力車ニテ母ノ宿泊所|迄《まで》伴ヒ行カレシヲ覚ユ」と書いている。
明治二十七、八年の日清《につしん》戦争中は、戦勝を告げる号外の鈴の音を惟幾は大分で聞いた。
やがて父は徳島県警察部長となり、一家は徳島市に移った。惟幾は明治三十二年、徳島中学に入校した。そのころ惟幾はすでに軍人を志望し、両親も賛成していたが、しかしいかにも彼の体が小さかった。まず体を鍛えることだ――と、父は惟幾に剣道、弓、乗馬を習わせた。特に剣道は警察道場に通わせ、本人も周囲を驚かすほどの熱の入れ方で、めきめきと上達した。
明治三十三年、そのころ香川県善通寺の第十一師団長であった乃木|希典《まれすけ》中将(のち大将、伯爵)が師団管下の徳島市を訪れた。県庁が主となって歓迎会が催され、余興に中学生の相撲と撃剣試合が組みこまれた。中学二年生の惟幾は選ばれて撃剣試合に出場することになった。このとき彼の父は徳島県書記官であった。
試合が始まると、乃木は身を乗出して熱心に観戦した。一番体の小さい惟幾が大きな相手と一本勝負を争い、たちまち一本を取った。だが相手はそれを無視してしゃにむに打ちかかり、腹を立てた惟幾は「これでもか、これでもか」と声を挙げて遂に相手を打ち据えた。
乃木は「小さいがなかなか元気な子だ」とほめ、それがかたわらにいる今日の歓迎会の世話役である阿南書記官の息子だと知って、
「よいご子息をお持ちだ」と彼に声をかけた。阿南の父は、「息子は幼年学校の試験を受けたいと希望しておりますが、どうにも体が小さいので、あと一、二年剣道でみっちり体を鍛えた上で受験と考えております」と述べた。乃木は、「あの年ごろは急に成長するものだ。殊に幼年学校は規則正しい生活をさせるし、運動も激しい。体もきっと大きくなるだろう。勉強が出来るのなら、一年でも早く受験させた方がよい。ぜひ、そうなさい」と、しきりにすすめた。
これで阿南親子の心が決った。明治三十三年九月、惟幾は広島地方幼年学校に入校する。
もし乃木の助言がなく、惟幾の入校が一、二年遅れたら、年次序列が大きくものをいう陸軍で、彼は陸軍大臣にならなかったかもしれない。阿南には生涯乃木の影響が見られるが、これは悲劇の人乃木が与えた悲劇的な転機であった。
この年の新入生五十人はやがて陸軍士官学校第十八期生となるのだが、この年次は成績がよく、五人の大将が出る。そのうち藤江|恵輔《けいすけ》だけは大阪地方幼年学校の出身だが、他の四人――山下奉文、岡部直三郎、山脇正隆と阿南とは広幼で机を並べた仲である。
同期生であった今中武義は、昭和三十四年に催された阿南陸相を偲《しの》ぶ会≠ナ、「広島幼年学校当時の阿南大将の成績は、同期の山下、岡部、山脇三大将のように目立って優秀というわけではなかったが……」と語っている。
だが、阿南の熱心な剣道のけいこぶりは目立ったという。また後年の阿南の特徴の一つに数えられた「胸を張り、あごを引き、足をまっすぐに伸ばして大またに歩く」歩き方を、すでにこのころ彼は身につけていた。負けず嫌いで体の小さい少年が、立派に見えるように……と、意識した歩き方であったろう。
阿南は生涯、竹刀を振り続けた。陸軍次官、陸軍大臣の多忙な日々にも寸暇を見つけて道場に立ち、豪北で悪戦苦闘する第二方面軍司令官時代の日誌にも「早朝、素振リ二百回」などと書かれている。少年時代からの鍛練の結果か、後年の阿南は堂々たる体躯《たいく》を人から羨まれるに至っている。
幼年学校ではクラス一番のチビであった阿南の身長が、どこまで伸びたかを示す数字はない。しかし「家族の着物はみな私が仕立てました」という善信尼の記憶によれば、阿南の和服の丈は三尺七寸五分(くじら尺)であった。これから計算すると、彼の身長は一メートル六十八センチから一メートル七十センチぐらいである。日本人の平均身長が急速に伸びたのは戦後のことで、戦前にこれだけの身長があれば堂々たる体躯≠フ資格十分である。
沢田茂は「幼年学校時代は紅顔の美少年≠ニいう言葉がぴったりの阿南だったが、非常に意志が強く、それが少々度を越していて強情なところがあった。扱いにくい生徒だといって、阿南を嫌う教官もいたほどだ」と語る。
晩年の阿南は八方美人≠ニいう批判を受けた。少年時代の強情≠ニ後の八方美人≠ニは、どのようにつながっているのか――。
善信尼と竹下正彦とは「生来激しい気性なのだが、それを反省し、矯正に努めた結果、次第にカドがとれた」と語る。阿南の日誌にも「母上ノ御教訓ヲ体シ」「猪突《ちよとつ》ヲ反省シ」などと書かれており、自分の強情≠大欠点と認めていた。
幼年学校長時代に、阿南は生徒に向かって「顔を作れ」と語りかけている。それは――人から尊敬され、信頼を受け、愛される人間になろうと不断に心がければ、自然にそのような顔になる。そういう顔になる内容を作れ――というものであった。彼は日ごろの自分の心がけを語ったのだ。
このように、阿南の肉体も精神も、自己の叱咤《しつた》激励と努力によって作り上げられたものであった。
明治三十六年、十六歳の阿南は依然としてクラス一番のチビのまま広島地方幼年学校を卒業し、東京の中央幼年学校へ進んだ。三十五年末、父尚は金港堂教科書事件の嫌疑を受けて休職、阿南にとっては「一生ノウチ最モ不愉快ナル思出ナリシモ」、翌年夏「無罪ノ判決ニヨリ青天白日ノ身トナラレ」、三十七年、石川県内務部長となって一家は金沢に移った。翌三十八年、阿南は十八歳で士官学校を卒業した。日露戦争が終った年である。阿南の身長が急に伸びたのはこのころであった。
明治四十年、父は退官し、一家は上京して市谷《いちがや》加賀町に住んだ。少尉であった阿南は「生活ハ再ビ豊カナラザルヲ知リ、予モ営内居住ヲ止《や》メテ父母ト同居シ、漸《やうや》ク三十三円ノ俸給ナリシモ之《こ》レガ全部ヲ母ニ提供シテ」経済的には苦しいながら、久々の家庭の雰囲気《ふんいき》に心をなごませる日々であった。
だが一家はさらに打撃を受けた。東京帝大(現、東大)在学中から父母と意見の合わなかった兄惟一は外務省に勤めたが、放縦な生活のため遂に千円を越す借金をつくった。このため父は故郷大分県|玉来《たまらい》町の田畑を手放すなど、一家には暗い日が続いた。阿南は「……此《こ》ノ間、母上ハ父ト兄トノ間ニ立チ其苦心大ニシテ、予ハ母ノ最モヨキ相談相手トシテ御慰メノ役ヲ努メ……」と書いている。兄惟一はその後も親に心配をかけ続け、弟惟幾はその埋め合わせに生まれてきたような孝行息子であった。阿南の中には幼い時から強情≠ニいわれるほどに強固な意志と、無類の優しさとが共存している。
明治四十三年末、二十三歳の中尉であった阿南は中央幼年学校の生徒監になった。要領よく勤めればかなりの自由時間を持つことができるので、陸大受験準備のためのポストともいえた。阿南も上司の配慮でこの役についたのだが、彼は≪生徒の教育に当るのが公の務めで、陸大受験準備は私事≫と考え、その通りに実行した。模範的な生徒監だが、生徒にとっては煙たい存在であったらしい。
三週に一度まわってくる週番を、阿南は受験の日が近づいても決して人にかわってもらおうとはしなかった。彼一流の責任感だが、ほかにもわけがあった。週番の夜、彼は数学の出来の悪い生徒を呼んで噛んでふくめるように教え、その生徒の成績が上るまで続けたのである。
また、生徒の提出する日記を、阿南ほどよく読み、注意や批評、時には自作の和歌までを丁寧に書きこんで返した生徒監は他《ほか》になかったという。これも、ずいぶん時間のかかる仕事であったろう。
生徒たちは幼年学校に入校した時から、予≠ニいう一人称を使って日記を書き、それを提出することを義務づけられる。十三歳の少年ながら「僕の日記」でも「私の日記」でもなく、名実ともに「予ノ日記」でなければならなかった。それは年齢に応じた観察や哀歓の心情を率直に綴るものではなく、日々の行事や講話などの記録と、それについて≪こう書けば学校の教育方針に添うだろう≫と幼い頭からひねり出した模範的感想≠ニを書きつらねるものであった。軍という組織はすべて建前≠フ世界だが、その建前教育≠フ第一歩がこの日記だった。
旧軍人の一人が「生徒のころの私は、日記に嘘ばかり並べて書くのが非常に苦痛だった。この義務から解放されて以来、私は二度と日記というものを書いたことがない。子供の時から建前≠ナ書く習慣をつけられたので、もう本当の日記は書けなくなっている」と語った。阿南をはじめ軍人の日記を読む時に思い出すべき言葉である。
明治四十五年九月十三日夜、中央幼年学校の全生徒は赤坂御所前に整列して明治天皇の霊柩《れいきゆう》を送り、学校に帰って間もなく乃木大将夫妻殉死の報に強い衝撃を受けた。
九月十五日、幼年学校では全生徒に二つの講話――丸山教官の「明治天皇を偲び奉りて」と樋口教官の「君に捧《ささ》ぐるの命」とを聞かせた。樋口は乃木夫妻殉死の直後に乃木邸に駈けつけた人で、彼は生々しい感動をこめて二時間半にわたり語り続けた。当時の生徒の日記によれば、阿南はしばしば指で目頭を押えながら講話を聞き、その夜さらに樋口家を訪れたという。
翌日、阿南はいつものように生徒の日記を点検していた。どの日記も乃木大将殉死についての感動的な言葉に埋まっていて、阿南はその一つ一つに共感を覚えながら、「将軍死ストイヘドモソノ精神ハ朽チルコトナシ。吾人ハコノ不朽ノ精神ニ依ツテ自己ノ精神ヲ養ハザルベカラズ」などと書き入れていた。
そのうち、阿南は一生徒――二週間前に入校したばかりの野末一丸の許しがたい日記にぶつかった。
「午前中、大講堂において講話拝聴。午後外出禁止。校内において謹慎。間食に牡丹餅《ぼたもち》を給せらる。美味」
いちばん強く心に残った牡丹餅のおいしさだけを書いては「僕の日記」であって「予ノ日記」ではない。日ごろの阿南ならこの無邪気さにほほえんだかもしれないが、書きもらしたのが乃木大将の殉死≠ナは、とうてい寛容にはなれなかった。彼は赤インクで大きく、「感激|溢《あふ》ルル講話ヲ拝聴シ、何ラ所信ノ記述ナシ。子ハ日本人ナリヤ」と、怒りをこめた文字を書きつけた。
阿南と乃木の結びつきは、惟幾少年の撃剣試合を乃木師団長閣下が見てくれた徳島時代からである。士官学校時代も何度か乃木邸を訪れた阿南には、その触れ合いから親近感も生まれていただろう。しかし阿南の乃木崇拝は多分に、精神修養のために自分の姿を写してみる鏡としてであったろう。そして乃木の殉死という行為によって、崇拝は幾倍にも増幅されたのではなかったか。
のち軍神乃木≠ェこきおろされる大正時代になっても、阿南の乃木崇拝は変らなかった。それはまず第一に、乃木が明治天皇に捧げた忠誠心であった。この古典的な忠臣の姿に、阿南は常に感動し憧憬《どうけい》し、真似ようとした。単純で一途《いちず》な阿南らしいことだった。さらに乃木の最後は、阿南の羨望《せんぼう》の感情さえ誘ったであろう。常に天皇に命を捧げる覚悟の素朴な若年の中尉にとって、死は美であり、乃木の死は最高の美であった。天皇の心のかよった愛顧を受け、そのいつくしみが天皇の命とともに終った悲しみの中で自刃した乃木の死ほど美しいものはないと阿南は感じ、あやかりたいと思ったであろう。
だが阿南は、自分と乃木との違いをよく知っていた。彼は妻綾子に「私は平凡な男だから、乃木大将のような厳しい私生活はいやだ」と語っている。陽性の生まれつきで、平和な家庭を何より愛した阿南は、悲劇の氷室《ひむろ》に自分から閉じこもったような乃木の真似はご免だと、保留をつけていたのだ。
また乃木は自虐癖のある感受性の強い男だったが、阿南は出来れば年中指揮刀を振るっていたいたちで、それが出来なければ弓を引いたり竹刀をふりまわしたりしている人だった。二人の共通点は容儀を尊んだことぐらいで、乃木は天性の詩人であり、阿南にはそういう素質は全くなかった。いろいろと違いはあったが、阿南はもう一人の好きな男――楠木正成に戦いの中のロマンを感じるように、乃木にも古武士のロマンを感じていたのであろう。
「旅順開城約なりて……」と歌い出し、「昨日の敵は今日の友 語る言葉もうちとけて……」と続く乃木大将と敵将ステッセルとの「水師営の会見」は佐佐木信綱作詞の小学唱歌で、明治四十三年発表以来日本中で愛唱されていた。この歌に盛られた乃木の武士の情≠ノも、阿南は心の震えるほどの美を感じたであろう。
阿南が初めて陸大の試験を受けたのは明治四十五年で、このときは親しい陸士同期生の山下奉文、甘粕《あまかす》重太郎、中島鉄蔵らもみな再審試験で落ちた。この中からまず山下が翌大正二年に合格し、三年には甘粕、中島も合格したが、阿南一人は三度目も失敗してとり残された。幼年学校の少年たちは「あのチョビひげの中尉は三度陸大をおっこったんだって」と、無邪気にささやいていたという。阿南は当時の思い出を次のように書いている。
「……陸軍大学受験前、母上ハ最モ予ニ同情ト慰安トヲ与ヘラレ、扁桃腺《へんとうせん》ニ悩ミシ夜ハ終夜予ノ喉《のど》ト肩トヲ擦《さす》リ念仏ヲ唱ヘツツ天明後医師ノ来診ヲ待チシコトモ、有難キ涙ノ思出ナリ。再審三回失敗ノ苦杯ニ屈セザリシモ、母ノ激励ト優シキ慰撫《いぶ》ニ感泣セシ所大ナルヲ忘レ得ズ」
大正四年、阿南は四度目の受験でようやく合格した。陸大の受験資格は中尉までで、大尉になるとその資格を失なうので、阿南の四度目の受験は最後のチャンスであった。二、三回も失敗が続くとあきらめるのが普通であったため、阿南が四度ねばってはいったことは、当時ちょっとした話題になったという。
阿南がとうとう陸大にはいったという知らせに、彼の教え子たちは歓声をあげた。卒業|徽章《きしよう》が天保銭《てんぽうせん》に似ているため天保銭組≠ニ呼ばれた陸大出は、彼らにとっても憧《あこが》れの的であった。すでに卒業していた教え子たちが、早速阿南を招いて祝賀会を開いた。その中には、牡丹餅の日記≠ナ「子ハ日本人ナリヤ」と叱責されて以来心服している野末一丸もいた。この日、野末は阿南に向かって、「いまに将官になられたら閣下とお呼びするのが当然ですが、それではどうも隔りが感じられて、私の気持にピッタリしません。どうか、いつまでも生徒監殿≠ニ呼ばせて下さい」といった。
「ああ、いいとも」と阿南は嬉しそうに答えた。「だが、私は閣下にはなれそうもない。そんな心配はするな」
阿南は陸大入校の喜びの中で「私は閣下にはなれそうもない」と述べているが、単に謙遜《けんそん》ではなく、本当にそう思っていたのであろう。しかしその言葉には、早くも自分の将来に見切りをつけていた――などという目を伏せた姿勢は少しも感じられない。
大正五年一月二十六日、陸大在学中、阿南は竹下平作中将の次女綾子と結婚した。阿南二十九歳、綾子十七歳であった。
竹下中将は第一旅団長時代の部下であった阿南の人がらをよく知っていた。当時、幼年学校の受験準備中であった竹下の長男に家庭で数学を教えていた阿南は、綾子とも顔なじみで、改まった見合いをする必要もなく、縁談はととのった。
「阿南は身だしなみのいい人でしたが、結婚式の当日は陸大で馬術大会があり、それが終ってすぐ駆けつけたので、全身ほこりだらけで……」
と、長野県|蓼科《たてしな》湖畔の聖光寺の庫裡《くり》で、善信尼は六十余年前の思い出に静かな微笑を浮かべて語る。昭和四十七年に奈良の薬師寺で得度した善信尼は、その末寺である聖光寺に住み、夫や息子をはじめ、戦場に散った夫の旧部下たちの冥福を祈る日々を送っている。
阿南家に結婚記念の写真が保存されている。花婿阿南は鼻下にひげのあるりりしい男ぶりで、「なかなか十五貫(約五十六キロ)になりませんでした」と善信尼が語る通り、細身である。白菊模様の振袖を着た花嫁は五尺二寸(かね尺、約一メートル五十八センチ)という当時としては長身で、ふくよかな頬に初々しさの漂う美女である。髪が高島田でなく、大きくふくらませた束髪であることに、大正という時代が感じられる。挙式のため、日比谷の大神宮へ向かう綾子の乗物は人力車であった。
阿南の生涯には、陸相であった最後の四ヵ月をのぞいて、特に話題になるような行為も、劇的な出来ごともない。彼の結婚もまた、仲間が「きれいな嫁さんをもらったな」と噂《うわさ》する程度で、かつての上司に見こまれてその娘と結婚するケースは軍人社会ではザラであった。しかし、この結婚が阿南に与えた影響は大きい。五男二女の子供を持ち、嫁姑《よめしゆうとめ》の折合いもよく孝養の限りを尽し、終始円満であった阿南の結婚生活は平凡≠ニいえばそれまでだが、常に彼の精神に安定と自信をもたらす基盤であった。
偶然にも、山下奉文の妻久子と阿南の妻綾子とは幼い日から親しく、最後まで友情に結ばれた仲であった。まだ小学校へも行かないころの二人は、椿《つばき》の花を拾って糸に通し、それを首にかけて門の前に並んですわり、さっそうと自転車で走りぬける女子大生のたもとが風にひるがえるのを眺めていたという。将来そろって陸軍大将の妻となり、敗戦によって自刃と刑死で夫を失なうことになる童女二人は、女子大生に無邪気なあこがれの目を向けていたのであろうが、いかにも明治後半らしい情景である。
新婚の阿南夫婦は、東京市谷加賀町の両親の家に同居した。
後年の阿南について、長女喜美子は「父は『女は心の優しいこと、人に親切のできることが一番大切だよ』と、そればかりを申しました」と語っている。新妻の綾子は阿南の望む優しさと誠実さを具《そな》えていただけでなく、聡明な女性でもあった。
新婚のころの阿南が、地方の演習地から妻へ送った手紙は、「愈々《いよいよ》御機嫌よく御孝養御専念の御事、何よりも目出度存上候」と、感謝をこめて悦びを述べ、「日常の事、万事独断にて御さばきあつて差支《さしつかへ》無之《これなく》……」と、信頼しきった文面である。また阿南の胸いっぱいの悦びに彼生来の優しさを加えた感情は、野辺の花にまで及んでいる。妻への手紙に、「演習の野に咲く萩《はぎ》を馬蹄《ばてい》にかけまいと……」萩の野を騎馬で行く阿南の姿と、野戦食の献立が図入りで添えられている。自分の日常を仔細《しさい》に知らせたいという阿南の心情が、じかに伝わってくるスケッチである。
豊橋滞在中の阿南は、綾子を呼びよせることにした。毎週金曜日に配達される妻の手紙を何よりの楽しみにしていた彼は、「至急親展」の手紙に、「御来豊の日、鶴首《かくしゆ》待ち居候。……来週の金曜は、手紙の代りに君を待つことと喜ばしく……」と書いている。これではとても、乃木大将の私生活を真似ることなど出来るはずもない。
大正七年、阿南は三十一歳で陸軍大学校を卒業した。四度目の入試でやっと合格した話があまりに有名であったためか、阿南は学校の成績の悪い男≠ニ語りつがれているが、それほどではない。陸大卒業時の成績は六十人中十八番である。
後年の阿南は「私は学校の成績はよくなかった」と平然と語っているが、彼には秀才組に一目《いちもく》置く気持が初めからなかったらしい。
大正八年、阿南は参謀本部部員となり、第四課の演習班に勤務した。翌九年、父尚が死去した。十年、長男惟敬誕生、十一年、阿南は少佐に昇進した。
大正十二年、次男|惟晟《これあき》が誕生して間もなく、阿南はサガレン派遣軍参謀として樺太《からふと》へ渡った。単身赴任の彼は雪に閉ざされたアレキサンドロフスクの軍司令部で、周囲を驚かすほどの精勤ぶりを発揮し、夜は妻と愛児二人の写真を眺めながらせっせと留守宅へ手紙を書いた。
日本は大正九年以来の世界的な経済不況の中で、膨大な国費を費す軍隊は邪魔もの扱いされた。大正十一、十二年に、第一次、第二次軍備縮小が行われ、十三年には新陸相宇垣|一成《かずしげ》大将による第三次軍備縮小が行われた。陸軍部内には、日露戦争以後進めてきた拡充計画が大逆行を強いられたことに激しい不満が渦巻いた。半面に、庶民の生活苦の中で軍人は目の敵《かたき》にされ、帝国陸軍の威厳≠ヘ急速に色あせていった。
軍備縮小を決行して軍の反感を買った宇垣さえ、現役を去った将校の落ちぶれようを眺めて、「元来町人商売人と眼下に見下し居りし輩《やから》に助力を頼まざるを得ざるに至りし軍部の権威の降下、心外千万なりと深く感じたり」と日記に書いている。
大正十四年五月、阿南は東京に帰り、古巣である参謀本部第一部演習班の班長となった。同年八月、中佐に昇進した。当時、参謀本部第一部長は荒木貞夫少将(のち大将)、演習課長はのちに杭州《こうしゆう》湾敵前上陸の覆面将軍として名をなす柳川平助大佐(のち中将)で、班長阿南の下には本多|政材《まさき》少佐(のち中将)、尾崎義春少佐(のち中将)、田中隆吉大尉(のち少将)、有末精三中尉(のち中将)など、後年それぞれに名を知られる将校が揃っていた。
田中隆吉は戦後の東京裁判で検事側の証人となり、陸軍の裏面を暴露して旧軍人間で激しい反撥を受けた人物である。彼は若い時から人を非難攻撃する舌鋒《ぜつぽう》の鋭さで有名だったが、「阿南班長の悪口だけは言わなかった」と尾崎義春が書き残している。これも一例だが、阿南は癖の強い人物からもホコ先を向けられず、「阿南さんがそう言うのなら……」と、例外的に受け入れられる人であった。
「あのころは私も生意気盛りだったので……」と有末精三は語る。「柳川課長にタテついて、苦しい立場になったことがあった。そのとき阿南さんが私を課長の許《もと》へ連れて行き、両方の顔を立てて円満に納めてくれた。阿南さんのまわりには何か温かい雰囲気があって、もめごとも彼の所へ持ちこめば丸く納まるという具合だった」
演習班の仕事は、特別大演習の統監、大演習中の天皇の行幸に関する事項を担当するものであった。班はいつも、宮内省の主張と演習地に指定された地方庁からの申し出との間で、いかに参謀本部の計画を生かすかに苦心していた。
演習課では、演習地調査のための出張が年中行事となっていた。「外出には軍服を私服に着かえた」といわれるほど、軍人は人気のない時代であった。軍服姿の演習課の将校が旅館で玄関払いをくわされることも珍しくなかった。旅館の交渉はいちばん世間通り≠フいい阿南の役で、必ず成功したという。
旅に出ればハメをはずすのは当然とされていて、毎晩よく飲んだ。酒の強い阿南は乱れることもなく愉快に談笑したが、話が落ちる所まで落ちれば本多政材少佐の一人舞台であった。宿の女中たちを集め、本多が陸軍部内に鳴り響く猥談《わいだん》で沸かせたあと解散となるのだが、ここで一同に性病予防具が配られる。
「これをうっかり謹厳居士の柳川課長に渡そうものなら……」と有末は語る。「けがらわしいとばかり、渋い顔で突き返して座を白けさせる。だが阿南さんはそんなことはしない。やあ、ありがとう、と受けとって無雑作にポケットに入れる」
阿南の一穴居士≠ニいう評判を聞き知っていた若い将校がこれを見て、翌日、彼の相手をしたはずの女を追跡調査≠オたところ、女は、「お茶を一つ召し上っただけですぐお帰りになりましたが、お金だけはちゃんといただきました」と答えたという。
「この話を聞いて、なるほど阿南さんだ、とひどく感心したものだ」と有末は語る。「自分は濁遊をしないが、人に『やめろ』などと説教がましいことはいわない。座を白けさせず、水商売の女にも恥をかかせず、そのうえ営業妨害にならないように金を払っている。……実に阿南さんらしい話だ」
[#改段]
無色の将
昭和二年(一九二七年)八月、阿南はフランスを主とする欧州出張を命じられた。陸大卒の将校の多くが、一度は専修語学の国を主とした外国出張の機会を与えられる。見聞を広める£度の、のんきな出張であった。
パリに着いた阿南は十六区のラーンラーグ町一一一番地の下宿に落ちついた。第一次世界大戦から十年を経たばかりのパリには、まだ古き良き十九世紀≠フ余韻があった。
ラーンラーグ町の下宿からアヴニュー・モザール(モーツァルト)の地味だが落着いた通りを抜け、一キロほどのモリトール町に陸軍武官室があった。パリ人士の別荘地であったこの地域には、まだ何某屋敷≠ニ呼ばれる緑樹に囲まれたヴィラが残っていた。
阿南の下宿には、夜になればセーヌを上下する川舟の汽笛が聞えたはずである。セーヌ河岸へ出ればアポリネールの、
ミラボー橋の下をセーヌは流れぼくたちの恋が流れる
……恋はすぎゆく流れる水のように……
のミラボー橋が下流に見える。しかし阿南中佐には、つまらない鉄の橋に見えたのではなかったろうか。
それよりも、下宿からひと足のラーンラーグ庭園ともミュエットとも呼ばれる公園のほうを、阿南は好んだろう。そこにはいかにも山の手育ち≠フ子供たちが、鈴をつけた貸しロバに乗って笑っていたり、ベンチの母親に甘えたりしている。子煩悩の阿南には、アポリネールやモーツァルトより子供の情景のほうが、ずっと親しめたに違いない。
阿南は妻綾子への手紙に「……選定に苦しみつつ喜美子にも記念の指輪を求め居り、御身には先便申上候ダイヤを求め候」と書いている。
喜美子とは、男児二人のあとに生まれた初めての女の子で、阿南が日本を出発したとき生後三ヵ月であった。パリの阿南は赤ン坊が美しい少女に育った姿を楽しく思い描き、選定に苦しみつつ<泣rーの指輪を買った。この指輪は、のち喜美子の結婚式の二日前、昭和二十年五月二十五日の東京大空襲で焼かれてしまった。
阿南は明治二十年生まれの日本男子≠ニしては、珍しく女性の服飾のわかる人であった。身だしなみのいい母と三人の姉を持つ彼は、幼時から身辺に美しい品を見馴れていたのであろう。昭和十八年の日誌に、夢の中の母について「茶色ノオ召ノ着物ニ、黒ノ羽織ヲ召サレ……」と服装をはっきり書いている。
阿南はヨーロッパ滞在中、オルレアンにいちばん長くいた。彼が住んだ場所は、市街中心からロアール川を南へ渡ったムイエール町三番地であった。ムイエールとは湿地のことで、この地名から想像できる新市域にあった下宿を、阿南は妻への手紙に「町はずれの小ブルジョアの二室」と書いている。「かの勇敢なる少女ジャンダークが英軍の囲を解きしことにて有名なる地にて、片田舎の衛戍地《えいじゆち》に有之《これあり》、ただロアール河に沿ひ、平地|開豁《かいかつ》にていかにも明るき気分ある閑静の地に御座候」
オルレアンにはジャンヌ・ダルクの像が多い。市の中心のマルトロア広場、市役所の前庭、阿南が街へ出るために必ず渡らなければならないジョルジュ五世橋のたもとなどに立つ彫像を、阿南は見て暮したのであろう。ジャンヌ・ダルクは阿南の住んだロアール左岸を進軍し、オルレアンに入城したことを、彼は知っていただろうか。
その後、阿南はベルリンに行き、当時ドイツに駐在した中村|明人《あけと》少佐(のち中将)に頼んで、第一次世界大戦の東プロイセン方面戦跡を訪ねる旅行計画を作ってもらい、一人旅に出た。中村は十二月二十日、フリードリッヒ・シュトラーセ駅の思い出を書き残している。
「中佐(阿南)が樺太で求めたといはれた|獺※[#「けものへん+胡」]《らつこ》の襟《えり》をつけた黒のオーバーを着てホームに立ち中折帽子を高く上げられて別れられた其の時の姿は端正優雅|固《もと》より眉目《びもく》秀麗ではあるが一種冒すべからざる気品を感じた。……此の駅で友人を見送つて居た独逸《ドイツ》の紳士が居た。汽車が見えなくなるとその紳士は私のそばに来て『今出発した貴国人は貴族か』と私に尋ねた。私は彼は日本の陸軍中佐だと答へた。するとこの独逸人は『中佐ですかお立派ですね』……私は伯林《ベルリン》で此の時ほど日本民族の誇を感じた事はなかつた……」
阿南はこの旅行で、ヒンデンブルク将軍がタンネルベルク中心の東部戦線でロシア軍を撃破した大勝利と、二正面作戦がドイツの敗因となったことを、どう考えただろうか。またドイツ軍が西部戦線突破作戦に失敗するや、ヒンデンブルクが参謀総長として政府に休戦を要求し、秩序ある軍の退却と復員を断行した戦史を、阿南はどんなふうに心に留めていただろうか。のち昭和二十年、阿南は敗戦の陸軍を一身に背負って戦争終結への苦悩の道をたどる。
阿南は東部戦線の戦跡見学よりも、コンピエーニュの連合軍と独軍の休戦決定の舞台に強い印象を受けた。帰国後歓迎会の席で、「最も興味をひかれた場所は?」と問われた彼は、「コンピエーニュの森を歩いたとき、身のひきしまる思いであった」と答えている。
コンピエーニュはパリから約八十キロ、ドイツ寄りである。この小都市は同名の森の一隅にあり、その森の中に休戦空地≠ニ呼ばれる地点がある。阿南が訪れたころは、休戦協約にサインした連合軍総司令官フォッシュ元帥の特別|車輛《しやりよう》は名所≠ニして、入場料を払えば見られるようになっていた。
一九一八年(大正七年)十一月七日、仏独間の幹線鉄道に特設された引込線にフォッシュ元帥の列車が着き、数時間後にドイツ側休戦全権団の列車が着いた。ドイツの全権団代表は、四十三歳の国会議員エルツベルガーだった。彼は国会に講和決議を採択させ、休戦委員会議長としてここに来た。
フォッシュは立ったまま「貴下の訪問の目的は何か?」と問う。エルツベルガーが「我々は連合軍の休戦の提案をうけたまわりに来た」と答えると、フォッシュは「提案などはない」と高飛車である。続いて「休戦を求めるのか? それなら条件を知らすことはできる」と押しかぶせる。
阿南が勝者と敗者に何を感じて、ヨーロッパ旅行の最も強い印象となったのだろうか。
昭和三年五月、阿南は約十ヵ月の旅行を終え帰国した。
このヨーロッパ出張が、その後の阿南に影響を与えたと思われる跡はない。期間も短かく、ヨーロッパについての予備知識も余りなく、感覚も純粋に日本的であった阿南としては当然であろう。善信尼は「オープンカーのドライヴが好きになったこと、いっそう身だしなみがよくなりハンケチにオードコロンの一、二滴をたらすようになったこと……」の二つを挙げている。彼がオードコロンを使えば、周囲は武人のゆかしいたしなみ≠ニ感じる。何をしても、決してキザ≠ノならないところが阿南である。
ヨーロッパ滞在中に鹿児島の第四十五連隊付となっていた阿南は、帰国の年八月にその留守隊長を命じられ、兄惟一と同居していた八十二歳の母を同伴した。「母の思ひ出の記」に、彼は次のように書いている。
「鹿児島第四十五連隊付トナリシタメ、母上ヲ同伴、久々ニ苦難多カリシ東京ヲ去リ給フコトトナレリ。出来得ル限リ御慰安セントテ京都見物、嵐山ノ舟遊ビ、宮島参詣、紅葉谷ノ入湯ナド、幼年校入学当時ヲ物語リツツ楽シキ旅路ヲ宮ノ原|井芹《ゐぜり》(姉貞子ノ婚家)ニ辿《たど》リ、後鹿児島ニオ迎ヘシ、惟敬、惟晟、喜美子ノ孫ヲ相手ニ楽シクモ不足ナキ日ヲ送リ給フ」
年老いた母を楽しませようと心を砕く阿南と、そのひたむきな孝心を受ける母と、両者どちらの喜びが深かったことか。
阿南が留守隊長となった鹿児島の第四十五連隊は、このとき山東省|済南《せいなん》に派遣されていた。田中内閣が三次にわたって行なった山東出兵である。
大正十五年(一九二六年)、蒋介石《しようかいせき》を総司令官とする国民政府軍は北伐を開始し、十月には武漢を占領した。その間、各地で日本官民に対する暴行が頻発《ひんぱつ》したが、日本政府の抗議に対し国民政府は誠意を示さなかった。
対中国交渉に当る若槻《わかつき》内閣の外相|幣原《しではら》喜重郎はなるべく中国の内政に武力干渉することを避け、経済進出を計る道を選んだ。軍部はもとより各界から幣原軟弱外交≠非難する声が強くあがり、たださえ金融恐慌の激化におびやかされていた若槻内閣は倒れた。
昭和二年四月、新内閣首班となった田中|義一《ぎいち》陸軍大将は外相を兼任し、対中国外交は強硬方針に転じた。田中内閣は金融恐慌処理の見通しがつくと、五月二十八日に「居留民保護」を名目に山東に出兵した。
張作霖《ちようさくりん》爆死事件が起ったのは翌年の六月四日であった。奉天派の総帥張作霖は、中国全土に広がる抗日運動に突き上げられて態度を変え、日本の満蒙《まんもう》利権に対する要求をなかなか受け入れなくなった。国民政府軍が北京に迫ったため張作霖はやむなく奉天に引上げようとしたが、その特別列車は奉天に着く直前に爆破され、張は死んだ。爆破の主謀者は関東軍参謀|河本《こうもと》大作大佐であった。河本らはこれを機に一挙に全満州を占領しようと企図していたが、関東軍首脳がこれを押えた。
軍部はこの事件を北伐軍の仕業と宣伝したが、日本国民をのぞいて、世界中が真相を知った。軍部は河本を予備役に編入したが、間もなく彼は満鉄理事になった。満州を日本の植民地にするためなら、いかなる手段をとっても罰せられないという先例が、ここにつくられた。
七月七日、政府は「対支政策綱領」を発表して、出兵をも辞さないとする「現地保護政策」と、満蒙を中国本土から切り離して独立≠フ政権下におく「満蒙分離政策」とを内外に示した。このため、中国の排日運動はますます激化した。日本はその後の一年間に第二次、第三次と山東出兵を続け、華北を押えた。
張作霖爆殺事件は、阿南がヨーロッパから帰国した約一ヵ月後であった。彼は軍が厳秘に付していた事件の真相を知るはずもなく、老母の手をひいて鹿児島へ旅立ったのだ。
阿南の鹿児島第四十五連隊留守隊長時代の部下であった松本鹿太郎大尉が、当時の思い出を書き残している。
中隊長であった松本はある日、彼の部下の吉田という志願兵が酒の席で助教の中原軍曹をなぐった――という事実を知った。松本は≪酒の勢をかりて訓練の不平をぶちまけ、上官に暴行するなどは許しがたいことだ。これは軍規の問題だから上官暴行事件として検察処分に付し、軍法会議に提訴すべきだ≫と考えた。だが連隊本部の上官はみな「酒の上のこと」と反対し、連隊長も「連隊の不名誉」という理由で不同意であった。
このとき何もいわなかった阿南中佐が、後刻松本を呼んで、「連隊全員が反対でも、中隊長の決意は変らないか」とたずねた。
「連隊長が検察処分|取止《とりや》めの命令を出されない限り、やります」という松本の答に、阿南は微笑を浮かべて、「中隊長の意見に同意だ。思いきってやれ」といった。
松本が検察処分の書類を提出したことを知ると、阿南はまた彼を呼んで、「捜査は一段落したようだが、現在の君の心境は?」と問いかけた。
「酒癖の悪い吉田があわれでなりません。私が早くそれを知って教育すべきでしたが、知らなかったことを申訳なく思っています」
「そうか。では何か打つ手はないか。軍法会議では中隊長は司法警察官であるが、また特別弁護も出来るようになっているが……」と教えた。
判例などを調べた松本が、ぜひ特別弁護をしようと決心して、それを阿南に申出た。
「よかろう。弁護の草案が出来たら見せよ」と阿南は答えた。
軍法会議の前夜、阿南は松本の草案に筆を入れた上、冒頭に「本職は本件が軍の成立に関する重大問題と思考するが故に、司法警察官として峻厳《しゆんげん》なる検察処分にしたのであるが、今や捜査一段落し中隊長対部下の関係に立ち返るとき、被告に対し誠に憐憫《れんびん》の情に堪へざるものあり……」と書き加えた。
裁判は六ヵ月の禁錮《きんこ》刑が要求されたが、禁錮三ヵ月執行猶予一年半の判決となり、松本は吉田を連れ帰ることが出来た。吉田は初め松本を恨んでいたが、裁判後は深く感謝し、のち一般徴集で合格した時は、ぜひ松本の中隊に入れてもらいたいと願い出た。連隊長もこの件で上司にほめられ、面目をほどこした。
松本は「これは阿南中佐が軍刑法の要求と隊長の部下に対する愛情とを両立させるために熟慮されたうへ、私を指導して下さつた賜物であつた」と書いている。
昭和四年、張作霖爆殺事件によって田中内閣が倒れ、七月二日、浜口|雄幸《おさち》を首班とする民政党内閣が誕生したことを、阿南は鹿児島で知った。国民は依然としてこの事件の真相を知らされず、新聞は「満州某重大事件」と書いていた。阿南もまた、関東軍の一参謀の暴走が内閣を倒すに至った経緯など全く知らぬままに、志願兵の裁判にまで心を配りながら、留守隊長という地味な職務に励んでいた。
阿南が侍従武官を命じられ、一年ぶりで東京に帰ったのは、浜口内閣成立の一ヵ月後、昭和四年八月であった。このときから四年間、阿南は宮中に勤務することになるのだが、わずか三、四通の家族あての手紙のほかは、当時の彼の言動や心境、また天皇との関係を語る資料はない。
阿南の同期生沢田茂は、「阿南は侍従武官時代も熱心に剣道をやっていたが、『好きでやっているわけではない。私は陛下の最も近くにいる親衛隊なのだ』と言っていた。なにしろ醜《しこ》の御楯《みたて》の精神に凝り固まった男だったから」と語っている。
阿南が初めて海軍大将鈴木貫太郎を知ったのは、侍従武官になった時であった。海軍軍令部長であった鈴木が予備役編入とともに侍従長に任ぜられたのは、阿南より半年ほど早い昭和四年一月であった。のちに二人は終戦内閣の首相と陸相として降伏≠ニいう最難事にとり組むことになる。
阿南の侍従武官時代は、のち昭和二十年大日本帝国≠ェ破滅するに至る方向づけがなされた重要な時期であった。政・財界にも軍部にも悪質な事件が息つく暇もなく起った。その中で軍部は次第に暴力的な主導的地位を築いていった。
阿南は宮中という雲の上≠ナ暮した。しかしこの四年間は、のちの二・二六事件を契機に、思いがけなく阿南が陸軍の中枢に引き出され、遂に帝国陸軍≠フ最高責任者として自刃するに至るドラマの序幕といえる。その意味で、主人公が雲の上にいるからといって、時の流れに触れないわけにはいかない。
昭和四年七月に成立した浜口内閣がまず直面した課題は、緊縮財政の実施と対中国外交の転換であった。田中内閣の山東出兵による軍事費は財政を圧迫し、放漫な産業保護政策と相まって、国庫は底をついていた。
同年十月末のニューヨーク株式市場の大暴落は、世界史上|未曾有《みぞう》の経済大恐慌の発端となった。日本は第一次世界大戦後、一度も好況を経験していなかった。浜口内閣がうち続く不況を打開しようと緊縮政策と金解禁を実施した矢先、その出鼻を世界大恐慌にたたかれた打撃は大きかった。
恐慌が深刻になるにつれ、満蒙に対する各方面の関心は急速に高まった。日本と満州との貿易は低下の一途をたどっていたが、これを盛り返すことによって日本の経済をうるおしたいという希望が各界にあった。武力行使によって満蒙問題を解決しようとする軍部の動きも活溌になった。田中内閣時代、第二次山東出兵当時の満州占領計画が流産した直後から、陸軍部内には「政治家頼むに足らず」として、軍自身の手で満州問題を解決すべきだとの気運が高まっていった。
昭和五年一月からロンドンで海軍軍縮会議が開かれた。政府は海軍軍令部の反対を押し切って条約を締結したため、軍令部は「兵力量を政府が決めるのは天皇の統帥権を犯す」と非難した。このロンドン条約問題は、軍部や右翼が軍国主義をあおり立てる絶好の機会となった。
ロンドン条約に続いて、財政緊縮のため陸軍軍縮が論議にのぼると、陸軍の少壮将校はこれに強く抵抗した。最も激しく反撥を示した将校たちによって九月に結成された桜会は、クーデターに訴えても「国家改造」を計ろうと考えるに至った。
この年十一月浜口首相は、軍縮問題で煽動《せんどう》された右翼の一青年に狙撃《そげき》されて死に至る重傷を負った。軍部の政党政治に対する総反攻の第一弾であった。
このように昭和五年には、すでに戦争とファシズムの嵐を予測させる悪気流が流れ始めていた。作家|大佛《おさらぎ》次郎が「ドレフュス事件」を発表したのはこの年である。フランス陸軍がユダヤ系フランス人ドレフュス大尉にスパイ罪をかぶせた事件を扱った内容だが、著者は戦後次のように書いている。
「……軍部というものが近代国家でどういう地位を占め、誤った場合には、如何《いか》なる方向へ国そのものを曳摺《ひきず》って行くかを書こうとした。この昭和五年前後には、日本軍部が政治干渉のきざしを早くも示し始めていた。国家に於《お》ける軍の地位を、日本のように統帥権に依って『国家内の国家として』それだけ独立を許している国では、事情を充分に理解して戒める必要があった。共和国のフランスでさえ、軍が国の危急を口実に制限なく意欲をほしいままにする。……」
作家の、勇気ある警鐘であった。しかしそれに気づく人はごく稀《まれ》で、軍部もこの作品を全く問題にしなかった。
昭和五年秋、米は大豊作であったが米価は半額以下にさがり、農家は空前の豊作|飢饉《ききん》となった。次いで六年は北海道、東北地方は冷害のため大凶作で、農民の惨状は言語に絶した。親子心中、娘の身売り、欠食児童の増加が大きな社会問題となった。
兵の大部分は農村出身者である。彼らと接触する若い将校たちは、農村の惨状に強い関心を持った。彼らは、兵たちが貧窮にあえぐ家族に心を残して兵役についている実情を知り、農村が赤化≠フ危険を深めていると感じた。さらにその危険は、都市の貧困階級についても同じだと考えた。そして、それを放置してかえりみない国政の腐敗は政党と財閥の癒着《ゆちやく》が原因であるとし、こうした醜状を天皇の目から覆っている元老、重臣の罪は許しがたいと難じた。広い世界観の教育を受けていない彼らの意識には、簡単に右翼にアジられる弱さがあり、次第に矯激な手段による国家改造を考えるようになった。そして彼らは荒木貞夫、真崎甚三郎など軍の大先輩の同憂と支持を信じ、自信を深めていった。
昭和六年(一九三一年)四月、若槻礼次郎を首班とする民政党内閣が成立し、大恐慌による歳入減を切りぬけるため行政、財政の整理に着手した。大幅な財政整理のためには陸海軍縮を断行しなければならぬとする世論が一段と高まった。
陸軍はこれに対抗するため、新聞班や調査班を拡充し、ソ連の五ヵ年計画や満蒙問題の重要性を宣伝した。八月、陸相南次郎大将は師団長会議で満蒙の危機を強調して軍縮論を非難する演説を行ない、これを公表して政府に挑戦した。政府と陸軍との関係は険悪になった。
このころ満州では間島《かんとう》暴動、万宝山事件、中村大尉殺害事件など血なまぐさい事件が相次ぎ、中国全土の排日運動はますます激化した。遂に柳条溝《りゆうじようこう》事件が起った。
この年九月十八日夜、奉天北郊の柳条溝で満鉄の線路が爆破された。これもまた関東軍参謀の陰謀であった。早くから満州占領を企図していた板垣征四郎大佐、石原|莞爾《かんじ》中佐らは関東軍司令官本庄繁大将にも計画を明かさず、柳条溝爆破の直後、第一線中隊長らに命じて一挙に行動を起した。これが満州事変と、その後の十五年戦争の発端であった。
関東軍は政府の不拡大方針を無視して着々と満州占領計画を進め、十月八日には満州西南部の錦州《きんしゆう》を爆撃した。この暴挙に国際連盟の空気はにわかに硬化した。
その数日後、桜会の橋本欣五郎中佐らのクーデター計画が発覚した。この十月事件≠ヘ同じ橋本の三月事件≠ノ次ぐ二回目であった。もともと満州事変は「国家改造」の実現を目指して計画されたもので、十月事件≠烽サの一環であった。
三月事件、十月事件はいずれも未然に防止され陸軍はひたかくしにしたが、間もなく宮中、政界、財界の指導者間に知れわたった。特に十月事件≠フ計画は「……歩兵十数箇中隊、爆撃機十余機を出動させ、首相以下の閣僚を斬殺して、荒木貞夫中将を首相とする軍部政権を樹立」というもので、政党政治に対する国民の不満の高まりと相まって、指導層に強い恐怖感を与えた。
陸軍当局の橋本らに対する処罰は名目だけで、軍規は全くかえりみられなかった。政府もまた、この事件を放置した。
政府は十月二十六日、「中国の排日運動が納まらない以上は……撤兵は出来ない」という第二次声明を発表した。幣原外相は軍部の満州独立計画にひきずられ始めていた。
十二月、犬養毅《いぬかいつよし》の政友会内閣が成立し、青年将校に人気のある荒木貞夫中将が陸相に就任した。政府の対外政策は「積極方針」に転換し、陸相荒木は「満州占領」を中央で推進しようとした。閣議の承認を得て一箇師団が増派され、昭和七年初めには日本軍はほぼ満州全土を手中に納めた。満州の独立計画は、政府、軍中央部、関東軍の間で合作されつつあった。
満州事変から上海《シヤンハイ》事変へと戦争が拡大するにつれて、新聞、雑誌も軍国主義宣伝の色を濃くしていった。満州事変の前まではある程度軍部を批判していた新聞も、関東軍の行動を支持し、次第に「守れ満蒙、帝国の生命線」という筆法で、経済不況に痛めつけられる国民の感情に訴えた。軍人の人気は急上昇していった。
日本の農業恐慌がいちだんと深刻になる中で満州国≠ェ誕生した昭和七年は、テロ横行の年でもあった。
二月には前蔵相井上準之助が、三月には三井合名理事長|団琢磨《だんたくま》が射殺された。いずれも犯人は茨城県の青年で、ここから元老、重臣、政党や財閥の巨頭を一人一殺主義で暗殺しようとした秘密結社血盟団の存在が発覚した。血盟団を率いる井上|日召《につしよう》は陸海軍の青年将校とも連絡があり、犯行に使用したピストルは海軍大尉藤井|斉《ひとし》が渡したものであった。しかし軍人たちは処罰されなかった。
七年三月八日付で、阿南から長男惟敬あてに、「新国家の首都|長春《ちようしゆん》より、遥《はる》かに御|誕辰《たんしん》を祝ひ上申候」と書かれた絵葉書がある。
関東軍によって満州国≠ェつくられたのは三月一日であった。侍従武官であった阿南が差遣されたのも、そのためであったろう。満州国執政≠ニは皇帝見習い≠フ意味で、いずれ関東軍の知恵者がつけた名称だろうが、清《しん》朝の廃帝|溥儀《ふぎ》がカイライを承知で就任した。
昭和七年三月の長春で、阿南が満州建国の立役者$ホ原莞爾中佐に会ったという記録はない。しかし侍従武官と関東軍参謀という肩書きからも、二人が顔を合わせなかったはずはない。
石原と板垣征四郎が組んで進めた満州事変は、その謀略への批判は別として、作戦も戦争指導もすべて成功し満州建国≠ノ至った。石原は昭和十年、参謀本部に迎えられ、十二年には第一(作戦)部長に就任した。
「私は荒木(貞夫)大将に向かって、言ったことがある」と沢田茂は語る。「満州事変が成功したとはいえ、石原たちは軍紀上は大罪人ではありませんか。それを、処罰するどころか、英雄扱いしていいのですか――と。荒木大将はいやな顔をして、話をそらした。満州事変は後々まで軍紀の問題に重大な悪影響を及ぼすことになった」
石原の第一部長時代、彼の下で参謀を勤めた高山|信武《しのぶ》(のち大佐、旭化成工業KK顧問)は、石原について「頭脳万人に傑出し、才気|煥発《かんぱつ》、奇略縦横、まことに得がたい傑物であったが……」と書いている。石原には奇行が多く、また議論となると上司、先輩の見境なく徹底的に論破し、人を人とも思わぬ態度と相まって多くの敵をつくった。特に東条英機に嫌われた。
のち陸相になった板垣征四郎について、高山は「将《まさ》に将たる器《うつわ》というべきか、……清濁あわせのむ雅量の持ち主で、特に礼儀正しい」と評し、「板垣を離れた後の石原は、孤立独行、ついにその能力を発揮することも出来ず、あたら英才が若くして軍職を追われた」と書いている。
阿南と石原の性格は、およそ正反対である。それでいてこの二人の間には、生涯にわたって温かい相互理解が続くというふしぎ≠ェあった。阿南は石原の非凡な才に、石原は阿南の円満な人格に、いずれも自分にない|もの《ヽヽ》に強くひかれたのであろうか。めったに人の意見を肯定しない石原が、「阿南さんがそういうのなら、それでよかろう」と素直な返事をして周囲を驚かせたという。
昭和十六年三月、石原は東条陸相との確執で予備役に編入された。このとき陸軍次官であった阿南はそれを阻止しようと奔走し、最後には東久邇宮にまで相談した。
昭和十九年東条内閣が倒れ、次期首班と決った小磯国昭大将から陸相についての意見を求められた石原は、「阿南のほかに人なし」と答えている。
昭和二十年、故郷山形に隠棲《いんせい》していた石原が「ご聖断による終戦」を知ったのは八月十三日であった。石原は「阿南の気持は俺がよく知っている。きっと死ぬだろう。すぐ使いを出すが、果して間に合うか、どうか……」と、降伏の知らせをもたらした友人にいったという。
阿南と石原とは一緒に仕事をしたことがない。強いて二人が一緒だった時期を求めれば陸大時代である。士官学校は阿南十八期、石原二十一期だが、のろのろとはいった阿南と、さっさとはいった石原とは陸大では同期であった。だが陸大同期生は、陸士同期生のように親密にはならないといわれているので、この時期の二人の間に相互理解が生まれたとは想像しにくい。また阿南のどの時代の日誌にも石原の名はなく、阿南ほど人なつこい£jが石原と一夕を共にするようなつきあいもなかったらしい。それでいて、自決直前の阿南は石原への別れの言葉を残している。
二人の性格の余りの違いが、一定の距離をおいて互いの好意を感じ合う関係を自然に生み出していたのであろうか。昭和七年の長春でも、二人は公式の席で微笑を交し合っただけかと想像される。
五月十五日、一団の海軍将校が首相官邸に車を乗りつけ、犬養首相を射殺した。別動隊は牧野伸顕内大臣邸、警視庁、政友会本部、日本銀行などに手榴弾《しゆりゆうだん》を投げ、一同憲兵隊に自首した。五・一五事件である。
彼らの目的は市中を混乱におとし入れ、戒厳令を布告して軍部内閣をつくり、軍国主義体制をうちたてることであった。陸軍首脳部は戒厳令布告を要求したが、さすがに政府は受け入れなかった。しかし軍は「もはや政党内閣では中堅将校を抑えることは出来ない」と強く主張し、五月二十二日、海軍大将斎藤|実《まこと》が首相と決まった。こうして、八年間続いた政党内閣はファッショの嵐の中で終りを告げた。
五・一五事件は犯人たちの自首ですぐ落着したため、のちの二・二六事件の時のように天皇の反応が外に示されることはなかった。しかし側近くに仕える阿南は、首相が軍人の凶弾で殺害されたことに対する天皇の感情を、ジカに感じとったに違いない。
阿南は、人間であり神≠ナある天皇を次第に深く知り、彼らしく限りない尊崇の念と、四十五歳の彼より十三歳下の瑞々《みずみず》しく若い天皇への親愛の情を増していったのであろうと思われる。こうしたことが、のち幼年学校長時代の「二・二六事件についての訓話」をいっそう厳しいものにしたと想像される。さらに、終戦時の阿南の心境にも影響を与えてはいないだろうか――。
九月十五日、日本は満州国≠承認した。首都長春はこのとき新京≠ニ改められ、昭和二十年の日本敗戦までこの名称が用いられた。
初め政府は関東軍の先走りによる国際関係の悪化を恐れて「不拡大方針」をとなえたが、軍の冒険が成功すると見きわめると、この既成事実≠ノ便乗して国策≠ニいい出した。満州国≠ヨの期待は指導層だけでなく、大衆の間にも強かった。支持された軍人の鼻息はいよいよ荒くなった。
日本の満州侵略がたやすく成功したのは、このころ英米はじめ列強は世界恐慌の打撃を受けて、日本の軍事行動を抑止する余裕を持たなかったためである。
国際連盟は満州に調査団を派遣し、報告書を起草中であったが、その発表を待たず日本は満州国≠承認した。昭和八年二月の連盟総会で、紛争解決に関する提案は四十二対一(日本)で採択され、日本代表松岡|洋右《ようすけ》は芝居がかった大見得をきって退席し、三月二十七日、日本は連盟を脱退した。満州建国≠ノ沸く国民は松岡に大喝采《だいかつさい》をおくり、その興奮の中で、日本は国際的孤立への道を歩み始めた。
日本は国際連盟の解決提案を蹴《け》ったが、結局何の制裁も受けなかった。この昭和八年一月、ドイツではヒトラーが政権につき、三月にはヒトラー独裁をうちたてた。英、仏は身近の脅威のため、対日制裁に乗り出す余裕はなかった。
日本はこれを「強硬外交の勝利」と謳歌《おうか》した。「断乎《だんこ》として所信を貫けば英米おそるるに足らず」という思いあがりは、今や軍部だけのものではなくなった。
阿南は聖旨伝達≠フため地方へ出張するなど、ひたすら侍従武官の職務に励んでいた。十一月四日付で、久留米《くるめ》市から家族一同へあてた手紙は、「九州山野既に紅葉に飾られ、行幸を待上ぐるが如く……」と、彼の出張の目的が推察できる書出しである。さらに「本日、聖旨伝達後は……」自由の身になるので、「熊本の井芹に行き、さらに大分墓参……」と書かれている。
昭和六年に阿南は三鷹|下連雀《しもれんじやく》に家を建てた。「駅から十五分ほどの道を、雑木林をつっ切ってまっすぐに歩けた」というほど武蔵野の面影の残る時代だが、敷地二百坪の購入費と建築費の大部分を阿南は姉が嫁いだ井芹家から借り受け、俸給の中から返済していた。井芹家は終戦後の財産税が全国十位にはいる資産家であった。
阿南が建てた三鷹の家は戦災をまぬがれ、ほぼ五十年の歳月に耐えて残っている。今は阿南家の当主三男惟正(新日本製鉄、部長)が住み、左隣りには阿南の義弟竹下正彦が昭和五年から住み続けている。
阿南は東京生まれだが、本籍は「大分県|直入《なおいり》郡玉来町大字岩本」で、大分県人として扱われていた。阿南がたまに大分を訪れたのは先祖の墓まいりのためで、また滝廉太郎の「荒城の月」で名高い岡|城址《じようし》など、父が生まれ育った土地の風物を愛してもいた。秋の岡城址の石垣には、新婚の阿南が演習の野で馬蹄《ばてい》にかけまいと苦心した萩《はぎ》の花が咲き乱れる。
阿南一家と大分との縁は、阿南の死後の方が深い。昭和二十一年、阿南の一周忌をすませた後、未亡人綾子は子供たちを連れて大分県竹田市に移り、三男惟正の大学入試のため帰京する昭和二十六年までを過した。
戦後の一家は三鷹の家を四つに仕切って間借り人を入れ、その部屋代を生活費に当てた。竹田市に移ってからの綾子は椎茸《しいたけ》を仕入れて売るなど、自力で戦後の苦しい生活と闘った。また帰京後は遺族援護相談員として都民生局に勤めるなど、誇り高い遺族たちは人の援助に頼らなかった。
昭和八年八月、阿南は近衛《このえ》歩兵第二連隊長に転出した。
五・一五事件の後だけに、阿南は青年将校の精神教育に最も力を注いだ。青年たちとよく語り合い、三鷹の自宅にも度々彼らを招いているが、元来彼は若い者と膝《ひざ》つき合わせて語り合うことが好きだった。青年たちに煙たがられるような説教癖はなく、応接間の椅子、テーブルを隅へ押しやり、じゅうたんにあぐらをかいて談笑した。このように親しみやすい連隊長だが、五・一五事件には厳しい批判を加えていた。
五・一五事件には少数の陸軍士官学校生徒が加わっていた。この事件の公判は昭和八年七月から開かれていたが、陸軍側公判では検察官と被告が呼応してこれを美挙≠ニたたえた。軍部は過激な青年将校や民間右翼の暴走を押えようとはしなかった。公判中には減刑嘆願書が全国から殺到した。軍部はそれらの現象が支配階級に与える恐怖感に乗じて勢力を伸ばした。阿南はその逸軌を批判した。彼は皇軍≠ェ強くなることに全力を尽す根っからの帝国軍人≠セったが、逸軌は許さなかった。
昭和九年八月に阿南は陸軍幼年学校長に就任した。十年三月、少将に昇進した彼は、もはや校長殿≠ナはなく、校長閣下≠ニ呼ばれる身になった。
昭和十一年の二・二六事件で、皮肉なことに、叛乱《はんらん》将校を擁する皇道派の所期した軍部独裁は、対立勢力の統制派によって実現した。二・二六事件で岡田(啓介)内閣がつぶれた後は、前外相広田|弘毅《こうき》が陸軍の同意のもとに首相となり、閣僚の人選も強引な陸軍の意向と妥協した。軍部大臣現役武官制も復活し、軍が内閣の生殺与奪の権を握ったのも、軍の要求をう飲みにしたインフレ財政におちいったのも、この時である。
二年にわたる阿南の陸軍幼年学校長の、のどかな生活も終る時が来た。
昭和十一年八月、阿南は陸軍省に新設された兵務局の局長となった。兵務局新設の目的の中で特に重要なことは、厳正な軍紀風紀、典範令関係の監督実施であった。二・二六事件後、皇道派を弾圧する統制派が大義名分として借りた粛軍≠清潔な行為と見せるため無色の人格者∴「南を登用――という人事であった。新設の兵務局とその局長阿南は「粛軍」の看板である。阿南の無色ぶりと高潔な人格は、誰にも文句のつけようのないところであった。しかし結局は、石原莞爾、武藤章など強力な幕僚が実権を握り、「庶政一新」「軍備充実」を「粛軍」の前提として、また具体的内容として要求し、露骨に政治に足を踏み入れてゆく。
阿南は清潔な看板≠ナあったかもしれないが、いずれにせよ陸軍中枢の要職に引き出された。爾後《じご》、彼が負けたことがないと自負する国≠フ敗戦の陸相として、最も困難な任務を果し自決するまでの九年間には、一日も私人としてくつろげる日は与えられない。
もはや、子供たちの他愛《たわい》ないトランプ遊びにまじり、その子らに置きざりにされると羽織をかぶってうたた寝するような、安穏な時は二度とない。「阿南もぼつぼつ退役か」と噂《うわさ》されながら勤めた幼年学校長の二年間は、彼がこよなく愛した家庭の温かさを存分に味わった最後の月日であった。軍閥内の派閥抗争は、「派閥争ヲ生ゼシモ元来ハ利欲ニ始マル」とこれを不正視する阿南を、一挙に中央の舞台に押し出した。
[#改段]
徳義は戦力なり
昭和十一年八月の五相(首相、陸、海、蔵、外相)会議は「国策大綱」を決定した。「北方ソ国の脅威を除去すると共に、英米に備え、日満支三国の緊密なる提携を具現し、南方海洋ことに外南洋方面に対して我が民族的経済的発展を策す」という精神分裂症的な内容で、後の太平洋戦争への進路が根本国策≠ニされたのである。
阿南が軍の中央に迎えられたのは、こういう時であった。
五相会議が英米との対立激化を覚悟の上で南洋への経済発展を期すと決定したのは、満州建国∴ネ後の戦争経済の必然性に裏づけられていた。満州国≠兵站《へいたん》基地とし軍需工業をおこしたが、一般の産業開発は進まず、満州を日本の市場として発展させることは出来なかった。そのうえ中国共産党の指導する抗日ゲリラ部隊の活動は激しく、関東軍はそれら匪賊《ひぞく》≠フ討伐に明け暮れていた。
軍事行動の拡大につれて軍需資材の要求は増大し、鉄、非鉄金属、石炭、石油、ゴムなど近代戦争に必要な資材の不足が甚《はなは》だしかった。この不足を解決しようというのが、南洋、特に外南洋に民族的経済的発展を計る¢_いであった。
この年十一月、日独防共協定が結ばれた。表面はコミンテルンの世界革命運動を日独共同で防衛するというものだが、日独いずれかがソ連と戦う場合を想定した秘密協定が付属していた。
昭和十二年一月末、宇垣一成大将に組閣の大命が降下した。これは「宇垣ならば……」と期待した議会と政界最上層部の軍部に対する抵抗であったが、かつての軍備縮小断行その他数々の理由で宇垣への陸軍の反撥は根強く、陸相を出さないことで組閣を流産させた。
このとき阿南は「陸軍が大命に抗するような行動をとるべきでない」と反対した。強硬派の将校は「阿南局長の態度は優柔不断」と反撥したが、当時参謀本部第一部長代理と作戦担当の第三課長を兼任していた石原莞爾が阿南の意見を擁護したという。これは阿南の幼年学校生徒監時代の教え子で、そのとき第二課の庶務将校であった猪飼秀熊《いかいひでくま》が語ったことである。
宇垣事件直後の三月、阿南は人事局長の要職についた。この頃から陸士十八期生の間に「同期に阿南あり」という認識が生まれた。
蘆溝橋《ろこうきよう》事件が起ったのは昭和十二年七月七日である。北京の郊外蘆溝橋付近で、夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。当初、局地的に解決されるかに見えたが、現地協定が成立した同じ七月十一日、東京では閣議で参謀本部の華北派兵案を承認し、北京、天津《てんしん》を占領した。八月にはいって戦火は上海に飛び、十五日、近衛首相は全面的な戦争の開始を宣言した。政府も軍中央部も、ここで威嚇すれば中国は屈服すると、たかをくくっていた。
蘆溝橋事件の七ヵ月前、昭和十一年十二月、張学良(爆死した張作霖の息子)が蒋介石を監禁した西安《せいあん》事件が起った。中国共産党は周恩来《しゆうおんらい》を西安に派遣して、蒋介石を釈放するよう張学良を説得し、蒋は内戦停止と抗日を誓わされて釈放された。翌年一月、毛沢東《もうたくとう》は西安に入城し、抗日民族統一戦線結成への道が開かれた。日本の相手は弱いシナさん≠ナはなく、「抗日」の旗印の下に団結した数億の中国民族と戦うことになったのだが、日本はその重大な事実の認識に欠けていた。
蘆溝橋事件直後から、当時参謀本部第一部長であった石原莞爾は不拡大説を強く主張した。彼は「日本は満州だけを固めるべきだ」と述べ、戦争拡大の危険を説いたが、青年将校たちには「石原が満州国で示した手本の通りにやって、どこが悪いか」と無反省な気負いがあった。満州事変を起したのは石原たちであり、中央の方針を無視して戦争を拡大し、遂に「満州建国」をなしとげて英雄≠ノなった。この石原パターンが軍部内に下剋上《げこくじよう》≠フ気風を植えつけ、軍規軽視の風潮を呼びこんだ。敗戦によって陸軍が消滅するまで、これが尾を引き続けてゆく。
石原は、阿南の奔走もむなしく軍中央から遠ざけられ、関東軍参謀副長に出されたのち、失脚した。
十二年末までに、日本は当時の陸軍全兵力の三分の二に当る十六箇師団を中国に投入し、華北の要地と上海、杭州、そして国民政府の首都|南京《ナンキン》をも占領した。政府と軍部は国民政府の屈服を期待したが、蒋介石は武漢《ぶかん》に移って抗戦を続けた。
昭和十三年一月、政府は、駐華ドイツ大使トラウトマンの仲介で進めてきた日中停戦交渉をうち切り、近衛は「爾後国民政府を対手《あいて》にせず」との声明を発表した。陸軍内にも拡大派と不拡大派があり、戦争指導に一貫性を欠きながら、ずるずると長期戦の泥沼にのめりこんでいった。
この年の秋、日本軍は武漢を占領したが、国民政府は重慶《じゆうけい》に移って徹底抗戦を叫び続けた。
十三年三月、阿南は中将に進んだ。同年十一月、第百九師団長に転出が決った阿南の日誌に、本省局長としての彼の足跡がほぼ洩れなく書かれている。
「十一月八日 火 晴
……約二年、寺内、杉山、板垣三大臣ニ仕ヘ、梅津、東条二次官ノ指導ヲ受ク。今去ルニ臨ミ感慨少ナカラズ。兵務局長トシテ真崎大将始メ二・二六事件後始末、宇垣大臣、林大臣、内閣組織問題ヲ始メ、日支事変ニハ戦時人事局長トシテ大本営ニ連リ、就中《なかんづく》小磯、香月問題、杉山大臣、次官更迭問題等ニテ或《あるい》ハ京城《けいじよう》ニ或ハ徐州《じよしゆう》ニ飛行ス。大過ナク過ギシハ先輩同僚ノ賜ト共ニ神助トモ言フベキカ」
第百九師団長として、司令部所在地の華北|太原《たいげん》へ向け出発の日の日誌――
「十一月十日 木 晴
愈々《いよいよ》首途《かどで》ノ日ナリ。
十一時参謀総長宮殿下ニ申告後、会議室ニテ首途ノ盃《さかづき》ヲ賜リ、皇軍ノ威武ヲ益々《ますます》宣揚セヨトノ訓示ヲ忝《かたじけな》ウス。
午後五時帰宅、母上始メ一同ト首途ノ膳ニ向フ。一同ヨリ餞《はなむ》ケノ辞ヲ頂ク。
惟幾出征ノ祝ニ 母 九十一歳
別れとは思はざりけりいづく迄《まで》も
つきそふものはおや心なり
尚《な》ホ、人ニ優《まさ》ランナドトテ名誉心ニカラレ却《かへつ》テ部下ヲ多ク損ズルガ如キ事アルベカラズ、汝《なんぢ》ノ心情ハ此《この》老母ガ詳知シアリ、何事モ焦ラズ沈毅《ちんき》ヲ第一トシテ自重セヨト訓戒セラル
返詞
たらちねの強き訓《をしへ》に今日よりは
誉れも身をも捨てんとぞ思ふ  」
人事局長の多くが転出に際してお手盛り人事≠するといわれるが、阿南は一級師団の第五師団長に一期後輩の今村|均《ひとし》中将(のち大将)を推し、自分は特設師団を選んだ。いかにも阿南人事局長らしい身の処し方である。
第百九師団は日中事変|勃発《ぼつぱつ》後間もなく、金沢で第九師団管下の後備兵を召集して編成されたもので、兵員、装備共に弱体な特設師団であった。ここには阿南の陸士同期生が三人いた。その一人で、当時旅団長であった山口三郎は次のように語っている。
「第百九師団の大隊長には二人しか現役がおらず、兵隊は八割が予備役で二割が補充兵という有様だった。連隊の歩兵砲は七、八発撃つと砲腔《ほうこう》が破裂するので、度々砲腔内の掃除をしなければならない。だが敵が突撃してくるとつい十発も続けて撃つので破裂して、こっちの兵隊が死傷する」
前面には山西《さんせい》軍の四箇師団と毛沢東、朱徳《しゆとく》らの共産軍がいて、第百九師団はその中に深くはいり込んでいた。補給のためにも山西省の鉄道を掩護《えんご》しなければならず、師団は九十ヵ所に分屯していた。巡視中の阿南は、線路沿いに並ぶ電柱の異常な背の低さに目をとめた。中には子供の背丈ぐらいしかない電柱も立っていた。山口は「毎晩のように敵が電信柱を根元から切り倒すので、その度に深く埋めて立て直します。それが繰返されて、こんなに背が低くなったのです」と説明した。
巡視の途中で、阿南は胸のポケットから一枚の紙をとり出して、山口に見せた。
大君の深き恵みに浴《あ》みし身は
言ひ遺《のこ》すへき片言《かたこと》もなし
という和歌が書かれていた。
「今度の出征に当って、陛下が直接私をお居間へお呼びになり、食卓を共に遊ばされた。陛下と私だけだった。私は四年間侍従武官を勤めたが、かつて前例のないことだ。この御高恩に報いるためには、戦場で死ぬほかない。私にはもう何も恐れるものはなくなった」と、阿南は感激をこめて山口に語った。
昭和二十年八月の自決に際し、阿南はこれを辞世の歌として、七年前の決意を終始変らず抱き続けていたことを示した。この歌は多磨墓地の阿南の墓の横に立てられた石碑に刻まれている。
十四年二月十二日からの北部山西軍|掃蕩《そうとう》と静楽攻略戦にはじまり、阿南は常に砲声の中にあった。彼は前線に司令所を進め、作戦第一日には適当な場所に出て師団長旗を立て、敵地に向かう将兵を見送った。
山西軍|殲滅《せんめつ》戦では、師団長以下二千人近くが投降してきた。収容所に向かう俘虜《ふりよ》列車が通過するとき、阿南は副官に命じてタバコと菓子を届けさせ、さらに「祖国のため互いに敵味方となって戦ったが、個人としては何の怨恨《えんこん》があるわけではない。今後十分な保護を与えるから、安心して命に従うように」と伝えさせた。これは師団の高級副官兼管理部長であった中村龍一中佐(のち少将)が書き残している。
阿南は相変らず、人と語り合うことの好きな人であった。師団参謀であった山本|新《あらた》(のち大佐、菊花貿易取締役)は、「阿南閣下から多くのことを教えられましたが、特に心に残っているのは徳義は戦力なり≠ニ繰返されたお言葉です」と語る。山本はのち豪北時代の阿南の下で、この教えを生かすことになる。
阿南は師団長時代の従軍日誌の終りに、次のように書いている。
「徳義ハ戦力ナリ。
軍ノ大小ヲ論ゼズ、情況判断ガ他隊ト関連セル場合ハ必ズ徳義ニ立脚シ、武士道的用兵ニ終始スベク、是《こ》レ皇軍タル所以《ゆゑん》ナリ。海陸軍ノ協力ノ如キ特ニ|※[#「玄+玄」]《ここ》ニ着意ノ要大ナリ」
これは指揮官としての阿南が常に心に刻んでいた信条である。
昭和十四年十月、阿南は陸軍次官の内命を受けて帰国した。野戦司令官としての十一ヵ月は、山西軍殲滅作戦で師団に感状が授けられるなど、阿南にとって満足すべきものであった。
阿南が陸軍次官になった昭和十四年(一九三九年)は、内外ともに多事多難であった。中国との戦争が拡大の一途をたどる中で、日本軍は五月から三ヵ月余りノモンハン地区でソ連軍と闘い、大敗した。
前年十一月からドイツは日本に、ソ連と英仏を敵とする軍事同盟を提議し、その交渉は近衛内閣から、十四年一月に成立した平沼内閣にひきつがれた。陸軍はドイツの提案を受け入れることを主張したが、海軍と外務省はソ連だけを対象とすることを主張し、四十数回の会議を重ねてなお結論が出なかった。ところが、日本軍がノモンハンで苦戦中の八月二十三日、ドイツはソ連と不可侵条約を結んで日本を置き去りにし、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という間《ま》のぬけた言葉を残して辞職した。
その直後の九月一日、ドイツはポーランドに電撃的に侵攻した。三日、英仏二国はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。阿南の帰国はその一ヵ月後である。
当時の首相は阿部信行陸軍大将で、陸相は畑俊六大将(のち元帥)、参謀総長は閑院宮《かんいんのみや》、そして参謀次長は阿南の広島幼年学校からの同期生沢田茂中将であった。
「阿南と私との第一の申合わせは人の和≠保つことであった」と沢田は語る。陸軍省と参謀本部は時に深刻な対立関係となり、それが陸軍の大弱点となることがあった。昭和十二年の東条英機次官と多田|駿《はやお》次長の衝突などがその一例で、阿南と沢田はまず二人の間で十分に意見の統一を計り、省部が一体となって進むことを約した。
「さらに阿南は陸海軍の協調を計って、大いに効果を挙げた」と沢田は語る。「そういう阿南を、私は新発見をした思いで眺めたものだった。人情の機微を洞察する明があること、物事の処理がいかにも世馴れていてうまいこと。いつの間に阿南はこんな力をつけたのかと私は驚いた。中年の雌伏時代の修養が阿南を大きくしたのだと、私は結論した」
阿南の陸海軍協調主義は、彼の日独同盟に対する態度にも大きく影響した。この問題は結論が出ないまま一時打切りになっていたが、昭和十五年にはいってますます圧倒的な強さを示すナチス・ドイツ軍に眩惑《げんわく》された陸軍は、再び同盟を主張し始めた。
開戦後間もなくポーランドを占領したドイツ軍は、やがてデンマーク、ノルウェーを占領し、十五年五月には西部戦線に転じ僅か一ヵ月でオランダ、ベルギー、フランスを制圧した。ここでイタリアがドイツ側に立って参戦した。さらにドイツ軍はドーヴァー海峡に大軍を集結して、イギリス進攻の準備を進めた。英本土空襲はこの年初めから開始されていた。
陸軍のドイツ傾斜に反し、海軍側は米内首相はじめ依然として強い難色を示していた。阿南と沢田はドイツの国力を分析した結果の消極論ではなく、「この問題で陸海軍が衝突するような事態は絶対に避けねばならない。そのためには陸軍が積極的に日独同盟を提議してはならない」との結論に達した。阿南は根気よく省内を説得して、同盟賛成派を押えた。
このころ日本の経済状態はますます悪化していた。基礎資材の欠乏が深刻になったばかりでなく、農村は働き手を兵隊にとられ肥料も不足して生産が減じ、それを補うため台湾、朝鮮の米を多量に移入し始めた。そのため台湾、朝鮮の食糧事情は悪化し、苛烈な弾圧にもかかわらず日本支配への反抗が高まった。
国民生活も窮迫してきた。十五年六月には砂糖が一人一ヵ月半斤(三〇〇グラム)、マッチ一日五本の切符制になった。やはり同月、綿製品の製造販売が禁止された。主食米の配給量が一日二合三勺(約四二〇t)になるのは翌十六年四月からである。闇≠ニ顔≠ェ蔓延《まんえん》した。
日本の経済危機が深まるにつれて、南方の資源、特に石油やゴムに対する要求から南進論が強くなった。ヨーロッパ戦線では自由主義国の敗勢から、イギリスも東洋を顧みる余力がないのに乗じて、日本軍は九月、北部仏印(仏領インドシナ)に進駐した。日本の南進の気配が強くなると、アメリカの対日態度は急速に硬化した。
これに応じ、陸軍も強硬意見一色となったが、日独同盟に反対する米内首相が相手では、陸軍の主張は通らなかった。
木戸幸一日記――
「七月八日(月)晴
葉山行幸|供奉《ぐぶ》の為《た》め、九時出勤。
阿南次官来訪、左の如き要領の話ありたり。
最近四、五日の中《うち》に政変を見るに至るやも知れず。軍は世界情勢の急激なる変化に対応し万|善《ママ》を期しつつあるところ、米内内閣の性格は独伊との話合ひを為《な》すには極めて不便にして、兎もすれば手遅れとなる虞《おそれ》あり、此の重大時機に対処する為めには内閣の交《ママ》迭も不得止《やむをえず》との決意をなせる次第なり。而《しか》して陸軍は一致して近衛公の出馬を希望す。十日に近衛公帰京の上は陸相会見せらるゝこととなるべく、之《これ》を契機として米内首相に重大進言を為すこととなるべし。
外務大臣の人選が最も困難なるべしとの余の質問に対し、軍はそれ等のことは一切近衛公に御任せする積りなりとのことなりき。
十時、宮城御|発輦《はつれん》、供奉して葉山に至る。車中、武官長より左の如き話ありたり。
最近の世界情勢に対処する為め現政府の陣容にては到底充分なることを為し得ずとの見透《みとほし》にて、政戦両略の見地より最近参謀本部にては中堅将校より首脳部に対し意見具申あり。其《そ》の結果、総長宮より陸軍大臣に御話ありし趣にて、陸軍大臣は之が善処方につき苦心せる趣なり。内情右の如きものある故、或は内閣側の出方一つにては陸軍大臣の断乎《だんこ》たる決意表明となるやも知れず云々《うんぬん》」
「七月十六日(火)晴
午前十一時出勤、松平官長より電話あり、今朝石渡書記官長より電話にて左の如き通知ありたり。
今朝九時過、畑陸相は米内首相に面会し辞表を提出したるが、首相は後任を出す様話たるに、夕刻返事すべき旨答へて別れたる由なり。陸軍が後任を出すとは予想し得ざる故、その場合には米内首相は本日中に臨時閣議を召集し辞表を取纏《とりまと》め、捧呈《ほうてい》の為め葉山御用邸に伺候することとなるべし、とのことなり。
……阿南次官より電話あり、陸相辞表提出の事情は左の通りなりしと。数日前、時局に対する陸軍の所見を文書にして首相に提出し置きたるところ、今朝、首相より陸相の来訪を求められ、其の席上にて首相より陸軍の所見は現内閣の考ふるところとは其所見を異にす、若《も》し都合悪しければ辞めて貰ひたいとあつさりと出られたので、陸相は辞表を直に出すに至りしものにして、尚、首相より後任を出されたしと希望せられたる故、午後二時半より三長官(原註《げんちゆう》・畑俊六、閑院宮|載仁《ことひと》親王、山田|乙三《おとざう》)会議を開きつつあるところ、事情右の如き次第なるを以《もつ》て後任の選定は困難なり」
こうして米内内閣は倒れ、七月二十二日、第二次近衛内閣が成立した。
近衛は組閣前に陸、海、外相に予定した東条英機、吉田善吾、松岡|洋右《ようすけ》と会談し、新内閣の基本方針を定めていた。その内容は――
(一)戦争経済体制の強化 (二)日独伊枢軸の強化 (三)日ソ不可侵条約を結び、その間に「対ソ不敗の軍備」を充実する (四)東南アジアの英、仏、蘭《らん》、ポルトガルの植民地を「東亜新秩序」にふくめるため「積極的な処理」をする (五)前項に対する「米国の実力干渉」はこれを排除する堅い決意をもつ (六)中国征服完成のため作戦の徹底と中国の封鎖を完全にする (七)国体精神をたかめ「全国民を統合する新政治体制」をつくる
というものであった。この申し合わせは、組閣四日後の閣議決定とその翌日の政府・大本営連絡会議決定の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」で正式に国策とされた。ここに、のちの大東亜戦争≠フ軌道が敷かれ、その後は、すべてがこの軌道の上を走った。
新陸相東条英機の許《もと》に、阿南は次官として留任した。前陸相畑俊六は次のように書いている。「阿南さんは留任はしたが、東条君とはまるで人格も貫禄も違い、加うるに僅か一期違いの後輩なので、東条君には大いに煙たがられた」
木戸日記「七月十一日」の項には「軍務局方面の見解等を聴く。陸相には最初は東条中将の論相当にありしが、昨今は阿南一色になれりとのことなり」と書かれている。畑陸相の辞表提出以前にすでにこうした下馬評があっては、東条も阿南に対して心おだやかではなかったろう。
「東条さんと阿南との間は余り面白くなかった」と沢田は語る。「阿南がカンカンに怒って『もうやめる』といってきたこともあったが、私は『そういう大臣だからこそ、貴公の存在が必要なのだ。己れを殺して、陸軍のためにがまんしてくれ』と、なだめたこともあった」
畑陸相時代には沢田を感心させた阿南の円熟した人がら≠焉Aいったん怒れば昔日の激しさがむき出しになったという。しかしこういう一面を、阿南は沢田以外の人には見せていない。
九月二十七日、日独伊三国軍事同盟がベルリンで調印された。近衛内閣によって定められた新国策が次々に実現してゆく中の一つで、これが日独伊ファッショ三国に対する全世界的な反ファシズムの戦争の起点であった。
この年の北部仏印進駐に続き、翌十六年には、それが日米戦争のひきがねになるとも気づかず日本軍はさらに南部仏印に進駐する。これに反対しながらも仏印派遣団長に任ぜられた|澄田※[#「貝+來」]四郎《すみたらいしろう》少将(のち中将)は、次のように語った。
「私は阿南さんが第十一軍司令官になられてからお近づきになったのだが、人間として非常に立派で、魅力のある人だった。だが東条陸相が日独伊同盟を積極的に進めているとき、そばにいる次官がその危険を警告できるような人だったら、日本もああまでみじめなことにはならなかったろう――という気持は常に持っていた。しかし阿南さんが特に国際問題にうとかったというわけではなく、陸軍の幹部はみなわからなかったのだ。阿南さんもその一人であった、というにすぎない」
海軍との協調のために日独同盟積極論を押えた阿南も、第二次近衛内閣では吉田海軍大臣も同盟に賛成なので、阿南の反対理由は自然消滅した。航空総監であった山下奉文が十五年末、ドイツ派遣航空視察団長として訪独し、ヒトラーに歓迎され、ドイツ軍の偉力に感嘆して帰国するなど、阿南の周囲はみなドイツに心酔していた。
昭和十六年四月、外相松岡洋右はモスクワで「日ソ中立条約」を結んだ。前年の日独伊同盟は表向きは対米同盟だが、裏では対ソ同盟でもあることを、松岡とリッベントロップ独外相は確認し合っていたので、松岡が「日ソ中立条約」を結んだのは「対ソ不敗の軍備」を充実させるための時間かせぎのつもりだった。
この年一月、阿南家には五男惟茂が生まれ、その後間もなく、阿南は親しい人々を招いて銀婚式を祝った。改めて夫から感謝の言葉を贈られた綾子は、五男二女の母となっていた。
[#改段]
積極の士
昭和十六年四月、阿南は第十一軍司令官として漢口《かんこう》へ転出した。その途中、十五年末から第十三軍司令官となって上海にいる沢田茂を訪れ、「東条大臣はよほどこの次官が煙たかったらしく、こちらも最後まで居心地が悪かった」といって笑った。東条から解放されたばかりか、もともと気に染まない陸軍次官という文官の職務を終え、最も気性に合った野戦軍の司令官になった阿南は、水を得た魚のように溌溂《はつらつ》とした姿だった。
阿南が第一次|長沙《ちようさ》作戦を開始したのはこの年九月十八日であった。
この日払暁、洞庭湖畔《どうていこはん》・岳州《がくしゆう》の南約三十キロを東西に流れる新墻河《しんしようが》北岸に、右翼から第四、第三、第六、第四十師団が、幅三十キロ足らずの狭正面に並列し、真南に長沙へ進撃する大兵力が動き始めた。
第十一軍司令部所在地の漢口から、岳州に前進していた阿南の当日の日誌――
「八時、二〇三高地ノ戦闘司令所ニ至ル。雲|漸《やうや》ク霽《は》レ殷々《いんいん》タル重砲、山砲ノ砲撃ノ間ニ機銃声盛ナリ。〇八三〇頃第四師団正面ハ一斉ニ煙幕ト共ニ前進開始……第三師団正面ハ、〇七三〇頃前進……第六師団方面砲声盛ンニシテ……一大野戦ヲ展開ス。軍ヲ統率シテ此ノ戦況ヲ親シク望見シツツ会戦ヲ指導スルハ今日ヲ以テ嚆矢《こうし》トス。光栄ニ慄《ふる》フ思ヒアリ。天ニ謝セズンバアラズ」
支那派遣軍中唯一の純野戦軍の司令官として、阿南はいま支那大陸の最前線に立っていた。
第十一軍は支那派遣軍の隷下にあり、その総司令官は、阿南の次官時代初期に陸相であった畑俊六大将であった。
阿南が指揮する第十一軍は、宜昌《ぎしよう》、岳州、南昌《なんしよう》の三点をほぼ西から東へ結ぶ約五百キロの線を敵正面としていた。昭和十六年当時、この軍は陸軍がおちいっている矛盾や行きづまりの影響を、まともに受けていた。第十一軍は「陸軍作戦指導要領」により、一方に占領地域に固定して維持を計り、他方に野戦軍として敵中央軍の撃破を計るという相反した任務を帯びていた。
昭和十二年度から五ヵ年計画の「軍備充実計画」で、大局的な戦力充実と延焼中≠フ日中戦争とのつじつまを合わせるため、第十一軍占領地域の放棄を予測させる不安があった。
一方に、陸軍統帥部には積極的な戦争解決策として、十六年夏秋の候に最後的な大作戦を行なうという空想的な計画も浮遊していた。
十六年春にはアメリカの武器貸与法が中国にも適用され、重慶政府は強化された。十六年末には、英中軍事同盟も調印される。
六月二十二日の独ソ開戦により、大本営は南部仏印進駐を決め、七月二日には対ソ警戒戦備を発令し、関東軍特別大演習の名目で陸軍史上最大の兵力、資材の動員を行なった。阿南の第十一軍は総兵力七箇師団のうち二箇師団、場合によっては四箇師団を対ソ戦に転用されると連絡を受けた。兵力として三分の二に近く、装備、精鋭度では軍の主力である。
七月の日本軍の南部仏印進駐への報復措置として、八月、アメリカは空軍五百機を人員と共に中国戦力として配置し、在米日本資産を凍結し、石油禁輸を断行した。
陸軍統帥部は独ソ戦の推移判断と、アメリカの出方の判断に重大な誤判を冒したことをさとり、対ソ戦を断念した。しかし南方には十一月末を目標として作戦準備を進めることになった。
支那派遣軍は前述のように中央統帥部に揺り動かされながらも、昭和十六年にはいってから中央の命令に基づき、南支方面軍と共に中、南支海岸の封鎖|遮断《しやだん》作戦と同時に、長沙作戦を主体とする総合圧力の強化を検討していた。阿南の第十一軍はこの具体案を練っていた。
しかし対ソ戦準備の兵力転用に絡んで、支那派遣軍の「夏秋の候の作戦は事変解決の機会作為のため国家全力をあげて行なう」構想は消滅した。そして中央と現地の間で、八月二十日までに兵力転用命令がなければ、九月十五日攻撃開始予定の長沙作戦は一応実施するという、あやふやなとり決めになった。
次に対ソ作戦は断念したが、今度は南方作戦の問題で、結局、地上部隊は十月上旬まで使用して差しつかえないなど条件つきで、作戦認可となった。手かせ足かせで、もはや大きな効果は期待できなかった。
軍の作戦思想は、敵第九戦区軍に痛撃を加えるのが目的で、地点や物資の獲得は目的としない。目標は長沙以北で敵撃滅を計るが、敵が退避作戦をとれば長沙の南まで追撃するなどであった。
第九戦区の兵力は十箇軍、約三十八箇師、兵力三十余万と判断された。日本軍は四箇師団、二支隊の兵力だった。戦区長官|薛岳《せつがく》は長沙に拠っていた。長沙は、いま阿南が立つ岳州の戦闘司令所から南へ直線距離で約百三十キロである。
九月十八日に新墻河を渡った阿南の軍団は、十九日朝から二十一日にかけて汨水《べきすい》を渡った。汨水はもと汨羅《べきら》と呼ばれ、紀元前三世紀に楚《そ》の憂国詩人|屈原《くつげん》が入水《じゆすい》した河である。汨水の両岸一帯の道路には戦車|壕《ごう》が掘られ、水田も野も水びたしにされ、朱色の泥水が視野の果てまで続いていた。敵の激しい抵抗を排除しながらの進撃だった。第四十師団の長径は二十五キロにも伸びてしまった。
二十三日、汨水左岸会戦の日の阿南日誌――
「本会戦ハ今夜ヨリ明朝ニカケテ大勢決スベク、次デ第七四軍ヲ如何《いか》ニ料理スベキカ……」
阿南は敵第九戦区の最精鋭第七四軍を求めていた。翌二十四日、阿南は全幕僚に申し渡した――
「次ニ来ルベキ問題ハ第七四軍ヲ如何ニ処理スベキヤニ在リ。敵ノ最精鋭部隊ナルヲ以テ之ニ一指モ染ムル事ナク引揚ゲ敵ノ逆宣伝ニ利用サルルガ如キコトアルベカラズ」
参謀長木下勇少将は、所在不明の第七四軍に向けられた阿南の闘志に、次の所感を記している――
「軍司令官は新来の第七四軍に対し一撃を加へ度き希望なるも、腹八分目と云ふ事あり。余りに欲を出さざる事なり。瀏陽《りゆうよう》の西方山地を越えて我《われ》が出る事は馬鹿らしい」
木下少将は幕僚に気合いを入れる強気な参謀長だったが、阿南の積極性には少々もてあまし気味だった。
二十五日の阿南日誌――
「第七四軍愈々永安市附近ニ進出、撃破ノ好機至ル」
二十六日、彼我戦線の錯綜《さくそう》混乱する中で、第三師団長|豊嶋房太郎《てしまふさたろう》中将は第七四軍主力が前面に現れたことを知り、同日午後攻撃命令を発した。第七四軍の捕捉《ほそく》を命じられていた第六師団も、同軍と遭遇戦になった。
同日の阿南日誌――
「第七四軍ハ同地(永安市)ニ一部、主力ヲ南方高地線ニ展開……第三、第六師団之レガ撃滅ヲ期ス。快哉《かいさい》!!」
第七四軍の抵抗は熾烈《しれつ》をきわめ、夜通し数次の攻撃逆襲が反復されたが、二十七日午後ようやく制圧した。しかし第三、第六師団とも大損害を受けた。
最右翼の早淵支隊は宜昌に所在し重慶に相対する第十三師団から派遣され、師団の名誉を意識して逸《はや》っていた。支隊の位置は真南に突進すれば長沙である。瀏陽河にはばまれたが、三名の兵が敵弾の水しぶきの中を泳ぎ渡り、敵の舟を奪って渡河のきっかけを作った。
二十七日午後十一時、早淵支隊司令部は長沙北東角から入城を果たした。
同日、第三師団長豊嶋中将は、長沙の薛岳長官司令部と大兵団が長沙南方四十キロの株州《しゆしゆう》へ移動するらしい情報をつかんだ。豊嶋師団長はこれを追尾撃滅する決心で「直路株州ニ突進セシメラレ度」と軍に具申したが、長沙入城で作戦目的を達したと判断する軍参謀部は許さなかった。しかし第三師団はすでに突進していた。
第三師団機密作戦日記――
「師団諸隊ハ疲労其ノ極ニ達シアリト雖《いへど》モ、目前ノ敵ヲ拱手《きようしゆ》傍観スルニ忍ビズ。今ニシテ追撃ヲ停止センカ九仭《きゆうじん》ノ功ヲ一簣《いつき》ニ欠クモノニシテ……猛訓練ニ猛訓練ヲ重ネ来レルハ今日アルガ為ナリ。追撃ノ気勢ハ一瞬ヲ忽《ゆるがせ》ニスベカラズ」
再度の具申は軍参謀部を困惑させたが、阿南はあっさり承認した。
二十八日の木下参謀長日記――
「(第三師団の行動は)独断にあらずして少しく専恣《せんし》に似たり。……作戦全般の関係上好ましからざるも、軍として承認せざる訳にも行かず承認せり。作戦主任はカンカンにおこり居れど」
激戦の末、第三師団が株州を制した二十九日の阿南日誌――
「株州ヲ占領シ得タルハ司令官ノ意図ニ合セルモノナリ。積極ノ士コソ戦勝ノ宝ナレ」
更に阿南は豊嶋師団長に祝電を送った。「積極ノ士コソ戦勝ノ宝ナレ」は、まさに阿南の確信であった。のちに昭和十八年末から敗戦の十九年末にかけて豊嶋中将は、阿南第二方面軍司令官の隷下第二軍司令官として、ニューギニアで悪戦苦闘することになる。阿南が最も好む積極ノ士≠ニして、おそらく隷下に望んだのであろうが、とにかく息の合った先輩後輩であった。
早淵支隊の長沙入城は整然と行なわれた。町は電灯をつけたままだった。当初からの作戦目的「敵第九戦区軍ニ一大痛撃ヲ加ヘントスルモノナリ。而シテ地点|竝《ならび》ニ物資ノ獲得ハ其ノ目的ニアラズ」が厳守された。逆に長沙は重慶空軍の爆弾三十個の投下で被害を受けた。アメリカ支援のシェンノート義勇飛行隊の第一回出撃であった。
次いで入城した第四師団|鵜沢《うざわ》連隊長は直ちに注意を発した――「一、……諸隊ハ厳ニ非違非行ヲ戒メ……。二、……調査ノ為命令ニ依リ長沙市街ニ入ルノ外……立入ルヲ厳禁ス。三、……外国権益多シ。迂濶《うかつ》ニ事ヲ処理シ国際関係ノ事端ヲ生ゼシメザルコト……」
十月一日、軍は早くも各兵団に反転を命じた。整然とした占領と撤退は痕跡《こんせき》を残さなかったため、重慶側に利用され「長沙は占領されず」と宣伝された。
十月二日、岳州の戦闘司令所に阿南を訪れた支那派遣軍総司令官畑俊六大将の記述――
「(長沙の)敵を清掃したる時期に反転するを可とし、一日夜より反転したるものなりとの軍司令官の説明なり。……反転が余り早かりし為……敵側にては長沙撤退は未《いま》だ発表せず依然固守しありと放送し……宣伝はいつもながら彼に一籌《いつちゆう》を輸するは忌々しき限りなり」
第十一軍の反転作戦の最中に、重慶軍は宜昌奪還作戦を開始した。蒋介石は十月二日、第六戦区陳誠長官に対し「如何なる犠牲をも顧みることなく三日以内に宜昌を奪回すべし」と命じ、敵の大兵力は六日までに宜昌を包囲しその輪をしぼってきた。
宜昌は第十一軍司令部所在地の漢口から西へ二百七十キロ、重慶へ向けて右腕を伸ばしたゲンコツの位置にある。重慶へは四百八十キロである。昭和十五年六月、阿南の前任者園部和一郎中将が第十一軍司令官であったとき占領して以来戦争が終るまで、大陸戦線最先端の要衝として彼我攻防の重点だった。
日本軍の長沙作戦の虚をついて、重慶軍の宜昌作戦が刺し違える形になった。宜昌は第十三師団の警備地区だったが、師団戦力の三分の一に師団作戦主任参謀を配した早淵支隊を長沙作戦に送り出していた。重慶軍はそれを知って突いてきた。十月六日夕刻から七日の戦況を、師団は軍に次のように報告してきた――「敵兵力北正面九箇師、西正面三箇師、南正面二箇師、……我ガ配備ノ間隙《かんげき》ヨリ潜入……」
同日ころ、第十三師団長内山英太郎中将は最後の準備をした。
「一、歩兵第百四連隊軍旗の奉焼。七日夜奉還されるや地下壕に安置し傍《かたはら》にガソリン一缶を準備。二、機、秘密文書の焼却。三、師団長、幕僚、各部長の自決位置の決定、設備及び死体焼却の準備。四、軍司令官に対する最後の電文の起案(原註・参謀長はこれを暗号化し内ポケットに収めた)」
八日、阿南は岳州から漢口に帰還し、宜昌苦戦の詳報を聞き即座に攻撃を決心した。同日の日誌――
「……宜昌ハ一両日ハ維持シ得ルモ第六戦区約十四、五師ニ包囲セラレ相当苦境ニアリトノ報告ナリシヲ以テ、断然、第三十九師団長ニ集メ得ル江北ノ兵力ヲ指揮シ、宜昌東側ニ進入セル敵ヲ捕捉スルニ決シ夫々《それぞれ》命令ス。即《すなは》チ南長沙ヲ撲《う》チテ第九戦区ヲ撃摧《げきさい》シ直チニ兵ヲ転ジテ宜昌ヲ打ツ。内線作戦ノ原則ニ依ルコト此機ハ天ノ与ヘル敵第六戦区撃滅ノ好機タルベク逸スベカラズ。自ラ明九日|荊門《けいもん》ニ前進スルニ決ス」
九日朝、阿南は幕僚を従え、宜昌東北百キロの荊門飛行場に戦闘司令所を設け、自ら攻撃を指導した。宜昌救援の消極策ではなく、集まった大敵を叩きのめす攻撃であった。まさに阿南流の発想である。
十日の木下参謀長の日記――
「軍司令官の判断は的中し、十日二時より猛烈に攻撃し来り、十時頃より近きは五十メートル前方まで近迫しありて師団司令部は壕内に在りと。市中にも盛んに対岸より砲撃を集中しありと。もう一、二日健在を祈る。……本夜が切迫しあり……」
十日から十一日にかけて重慶軍包囲陣に対する兵力配置がととのってきた。十一日には第三飛行団が戦闘に参加した。十、十一両日は雨が降った。重慶軍は悪天候を利用し撤退した。日本軍もそれの捕捉撃滅は間に合わなかった。
第十一軍が長沙を攻め、重慶軍が宜昌を狙う戦いは一応終った。第十一軍参謀部の発表によれば、戦死千六百七十、戦傷五千百八十四を出した。
人はどう批判しようとも、阿南自身は長沙作戦に満足していた。のち昭和十八年、第二方面軍司令官時代の彼は日誌に次のように書いている。
「九月十八日 土 降雨
本日ハ満州事変記念日ナルト同時ニ、十六年秋ノ本日コソ重大ナル決心ヲ以テ中央其他ノ反対ヲ押切リテ実行セシ第一次長沙作戦攻撃開始ノ第一日ニシテ、二〇三高地上ニ約五師団ノ兵力ヲ併立攻勢ヲ指導シテ、新墻河敵陣地線ヲ突破セシ本懐限リナク、且《かつ》忘レ得ザル記念日ナリ。武運目出度カリシヲ神仏ニ感謝ス」
義弟竹下正彦は「酒の席で、阿南はよく長沙作戦の話をしたものです」と語る。
阿南は戦闘の経過を語り、指揮官にとって最も大切なのは積極性であると説いて、右手を高く上げ楽しげに叫んだという。
「ドンドン行け。いいか、ドンドン行け、ドンドン!」
日米間の国交調整交渉はひき続き行われていたが、アメリカの態度はますます硬化し、九月六日の政府と軍首脳の御前会議は、「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合においては直ちに対米英蘭開戦を決意す」と決定した。十月十日を過ぎても交渉妥結の見込は立たず、東条陸相は対米開戦を主張し、九月六日の決定にためらいを示し始めた近衛首相の交渉継続論と対立した。近衛は十月十六日、辞表を提出した。
天皇は木戸内府の助言により、東条を首相に任命した。東条はひき続き陸相を兼任することとなった。
十一月二十九日、天皇は対米開戦について重臣たちの意見を聴取した。若槻、岡田、平沼、近衛、広田、阿部などみな懐疑的な答ながら、「開戦反対」を正面から主張した人はなく、米内も「……ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分の御注意を願いたいと思います」と述べるに止《とど》まった。
翌三十日、天皇は海軍大臣と軍令部総長に「日米戦に自信があるのか」とたずねた。木戸日記は「……何《いづ》れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様首相に伝へよとの御下命あり」と書いている。
十二月八日、日本は宣戦布告に先立って海軍航空隊がハワイの真珠湾を奇襲し、対米英戦争を開始した。政府はこれを大東亜戦争≠ニ名づけた。
阿南の日誌――
「十二月八日 月 雨 対米英開戦
歴史的ノ一大記念日ナリ。今八日五時「隼《はやぶさ》」即大本営ノ攻撃命令発セラル。三時海陸航空隊ハ先《ま》ヅ新嘉坡《シンガポール》空襲ニ向ヒ開戦ノ火蓋ヲ切ル。
花咲ク、花咲クノ電報ヲ早暁受領。七・三〇ヨリ英米権益接収ヲ開始シ、英米総領事館ヲ通ジテ当地居留民ヲ集メ国際法規ト日本国法ニ基キ保護ヲ加フルモ万一敵性行為アラバ直チニ監禁セラルベク厳達シ且ツ安心セシム。八・一〇、参謀長、島村参謀来舎、各兵団等ヘノ処置ヲ了《をは》ル。
一一・四五、宣戦ノ大詔ヲ下シ給フ。東条首相ノ決意|披瀝《ひれき》、十五時再ビ陸海軍人ニ詔書ヲ拝ス。一死奉公ノ時到ル、天機奉伺ノ電ヲ奏ス」
軍人の日誌は心のうちの記録ではなく、先にも述べたが、ことの建前だけを書くよう幼年学校生徒のころから教育される。殊に戦死などが予想される立場では人に読まれてもよいように、日誌の文面は一層立派になり、内心は一層隠される。阿南も大東亜戦争|勃発《ぼつぱつ》に何を感じたかは書いていない。
南方作戦を予想しての在中国兵力抽出問題は九月から提起されていた。支那派遣軍首脳は支那事変≠うやむやにして南方へ武力進出することに不同意であり、兵力を転用され中国を支作戦地域にすることに反対だった。
結局、第十一軍は第四師団を出し独立混成旅団で補充され、任務、作戦地域は変更なしと大本営から伝えられた。十一月六日、阿南は日誌に「雀躍《じやくやく》ス」と書いた。
十二月八日、広東《カントン》の第二十三軍は香港《ホンコン》攻略を開始した。重慶の暫編第二軍と第四軍は長沙付近から南下を始め、広東攻撃の兆を見せた。第十一軍木下勇参謀長は、その南下を牽制《けんせい》する必要があると考えた。
木下参謀長の十三日の日記――
「第二次長沙作戦は極めて迅速に決定した。一時間位で決心した」
即座に「よし」と決裁した阿南の同日の日誌――
「軍ハ決然立ツテ汨水《べきすい》方面ニ攻勢ヲ採ルニ決シ第六師団主力、第四十、第三師団ノ約半分ヲ使用スベキ準備命令ヲ下シ総司令官ニ電ス」
十五日、軍は会戦指導方策を決定した。「汨水ノ線ニ進攻シテ当面ノ敵ヲ撃破シ、第二十三軍ノ香港攻略及南方軍ノ作戦ニ策応スル」そして二週間で作戦を終るという簡単なものだった。
同日の木下参謀長日記――
「但し汨水の線にて何等敵に打撃を与へ得ざる場合また自然長沙まで行き度くなる事あらんも、之は先づ戒むべきか」
阿南はこれより先、総軍の中に「長沙作戦(第一次)ハ却《かへ》ツテ敵ノ逆宣伝ノ材料ヲ与ヘタル不利アリ(十一月二十三日、阿南日誌)」という批判があるのを知り激昂《げつこう》していた。この阿南の脳裡《のうり》には初めから長沙があっただろう。
十九日の木下参謀長の日記――
「第三師団長(豊嶋房太郎中将)来り……一寸《ちよつと》不平の様なり。長沙に行き度き様……」豊嶋師団長の肚《はら》は決っていたようだ。
阿南は二十二日、漢口から岳州へ発《た》った。
当日の木下参謀長の日記――
「一、軍司令官戦闘司令所に前進の為め、目下の状態に応ずる作戦計画を、も一度再確認し、兵団に会はれる際『長沙に行く行く』といはれざる様にする。二、今度の作戦は其の動機と策応対象の不確実なるためハツキリ行かず。更に後方等の準備の期間無き為め余り無理してもいかぬ。稍々《やや》不徹底なるもの也」
参謀副長二見秋三郎少将は「長沙進攻、方針ニ悖《もと》リ不可ナリ。第一線気分一致シアリヤ。軍全般果シテ可ナル自信アリヤ」と考えこんでいた。
真珠湾奇襲成功に続き日本軍の戦果が次々にもたらされた。マレー半島上陸、タイ進駐、比島上陸、マレー沖海戦、グアム島上陸、そして阿南が岳州に着いた翌二十三日にはウェーキ島を占領した。
薛岳第九戦区長官は第一次長沙作戦の経験に基づき「天炉《てんろ》戦法」と名づけた戦術を全軍に徹底した。それは道路を徹底破壊、中間地帯の空室清野=\―何ものも残さず、誘撃、伏撃地区を縦深配置し、日本軍を決戦地区に誘いこみ、四囲から天然の炉で鉄を溶解するように包囲|殲滅《せんめつ》する。決戦地区は長沙の西、撈刀河と瀏陽河の間と定められた。
薛岳軍の編成は三十五箇師以上であった。第十一軍の作戦師団は前出の通り第六師団主力、第四十、第三師団のそれぞれ半分であった。その兵は豪雨、強風、寒気、闇、敵襲の中を真南へ進撃した。
阿南は二十五日、香港の英軍の降伏を知ったが、もっぱら長沙進攻に熱意を注いでいた。
二十六日の日誌――「香港陥落ストモ……敵ノ牽制ヲ緩メテハ軍ノ任務ハ完全ト言フヲ得ズ。更ニ強硬ナル決心ヲ必要トス」。慎重な幕僚に阿南は不満だった。「作戦主任等長沙ヲ衝クベキヤ否ヤ未ダ決心定マラザルモノノ如シ。未ダ戦道ニ徹セザルニヨル」。阿南は吹雪の夜半、作戦参謀を説得した。
二十七日は吹雪、零下四度、汨水は増水し、敵弾は激しかった。第三師団を先頭に全軍が二十九日までに渡河を終った。
二十七日の日誌――「一、夜来ノ風雪|止《や》マズ零下四・五度ニ下リ結氷ヲ見ル。二、参謀長及島村参謀モ概《おほむ》ネ全般判断上長沙進攻ノ要ヲ認メタルガ如シ。……断アルノミ」
しかし作戦変更の認可を上申した総軍からの返電は「保留」を伝え、阿南の期待に反した。
二十九日の日誌――「十七時突如飛行機ヨリ敵ハ長沙方面ヘ退却中トノ報告ニ接シ総軍ノ指示ヲ待ツノ遑《いとま》ナク独断第三師団ヲ長沙方面ニ追撃(傍線は原文のまま)スベク決心下命ス。総司令官|宛《あて》独断ノ罪ヲ謝シ……」
防衛庁防衛研修所戦史室著の『香港・長沙作戦』は次のように記述している。
「この独断の事後承認については、畑総司令官は非常に不満のようであった。またこの突如の軍命令は、第三師団以外の他兵団にとっては全くの不意打ちで、物心両面に備えるところはなく、爾後《じご》終始足並みを揃《そろ》えることが出来なかった。特に情報および兵站《へいたん》の準備は全く欠け……」
後方責任者として漢口にいた参謀副長・二見少将は、二十九日夜岳州の戦闘司令所の木下参謀長から突然長沙進攻を告げられ、翌朝工兵、輸送司令官らを伴なって岳州へ飛んだ。二見少将は「ステバチ作戦也」と回想録に書いている。
戦争の必需品弾薬の集積さえ整わず、兵は汨水目標の応急出動の携帯銃弾百二十発で戦う苦況だった。兵站路は出発点新墻河以南は寸断され水没し、丘陵地帯に新道路を作るほかなかった。しかし長沙作戦に当てられた工兵は僅か二箇中隊、道路隊二隊であった。
第六師団長神田正種中将の回想――
「軍当初の計画は汨水左岸の敵線を掃蕩《そうとう》して帰還するといふことであつて……この思ひがけない作戦変更には少々困つたが……軍から長沙への追撃について意見を求められてゐたならば、準備もなく軽装備で行ける筈はないから、止めることを強く具申したであらう」
第四十師団長青木成一中将の回想――
「阿南将軍に『汨水を越えてはいけませんよ』と申し上げたところ、将軍は『よくわかった』と返事された。従って準備も全くしていない本作戦で長沙まで進撃するとは全然考えなかった」
防衛庁戦史室著『香港・長沙作戦』には「第一線の将兵には作戦目的は理解されなかった」と書かれている。
薛岳第九戦区長官は全軍に次の自筆命令を下達した。
「一、……薛岳は決死、必勝の信念のもと、戦機を把握《はあく》して敵を殲滅……。二、薛岳戦死すれば直ちに羅副長官職務を代行し……集団軍総司令、軍、師、団、営、連長戦死すれば直ちに副主官或は経験深き主任は職務を代行し……。三、各集団軍総司令、軍、師、団、営、連長もし作戦に努めず戦機を誤る者あらば、直ちに革命軍連坐法に照して議決処分し、暫時といへども寛恕《かんじよ》せず」
各所で正面衝突の戦闘があったが、日本軍は果敢な急進の成功と信じ、重慶軍は空室清野≠フ誘敵作戦の成功と思っていたであろう。
十七年元旦、第三師団は独走し長沙南部に攻撃をかけて激突となった。二日夕、第六師団も軍命令を受け長沙北部の攻撃にかかった。準備を完整していた重慶軍は重砲の集中射撃を含む火力を浴せてきたが、日本軍はたちまち弾薬の欠乏を来し攻撃は頓挫《とんざ》した。重慶軍約三十箇師は日本軍の背後を包囲した。
阿南日誌、一月一日――「第三師団敵ノ一部ノ抵抗ヲ排除長沙間近ニ迫ルト。敵将薛岳ハ全兵力ヲ四日頃|迄《まで》ニ撈刀河北岸ニ集メ軍ノ背後ヲ衝カント命令セリ。敵軍之ニ応ズレバ寧《むし》ロ好餌《こうじ》多キヲ喜ブ。……」
第六師団長神田中将の回想――「敵が四周から集まりつつあるとの情報が軍から伝えられた。また第三師団からは『攻撃が頓挫しているから来て呉《く》れ』との話を聞いたように思うが、自分で走っておいて『来て呉れ』とは虫がよすぎると思って相談に応じなかった」
二日午前二時ごろ、最前戦に突入した第三師団の大隊長加藤素一少佐は狙撃《そげき》され、遺体を敵に奪われた。重慶側の作戦史『抗戦紀実』によれば、加藤大隊長の遺体から出動以来の計画命令を押収した。これによって師団の企図、携行弾薬数、それが尽きようとしている実情などを知った。薛岳長官は「わずか紙一枚の軽さといえども、万|挺《ちよう》の機関銃よりも重し」と卓を叩いて喜んだと述べている。
『昭和萬葉集・巻六』に、小林弘という人の歌――
長沙には蜜柑熟《みかんう》るると戦友ら
今日も噂《うわさ》す長沙へ急ぐ
が収められている。
長沙市外の北、東、南面は蜜柑畑が点在する紅壌土の平原と、その赤い土が垂直に立ちはだかったような日乾《ひぼ》し煉瓦の民家の連なりである。第二次長沙作戦の時は、雪が降り続いたあとの赤い泥濘《でいねい》と汚れた雪がこねかえされた、すさまじい冬景色であったろう。赤い家々は全部トーチカ化され、その前面の数線の既設陣地とともに幾重にも抵抗線になっていた。
長沙は古来鉄壁城≠ニ称される堅固な城廓《じようかく》都市であった。しかし二千年の歴史を持つ古都の面影がないのは、長沙作戦の三年前に当る昭和十三年に、蒋介石が日本軍の来攻を予想して街に火を放ち、ほぼ全域を焼き払ったためという。若い日の毛沢東が学んだ第一師範学校もその時に焼けた。
今日(昭和五十四年)膨張した長沙では城壁の位置は市内中心部になってしまい、それも東側の一部が長さ約二十メートル、高さ八メートルほどの大きな記念碑のような姿で残っているだけである。昭和十六、七年当時、この城壁を楯《たて》にとった戦意|旺盛《おうせい》な重慶軍が、弾も尽きた日本野戦軍にとってどれほどの難敵であったかは想像に余りある。
さらに長沙の西側を流れる湘江《しようこう》の対岸、岳麓山の高みから狙い射つ重砲は、第三師団の砲兵観測所に立つ豊嶋師団長の至近距離に炸裂《さくれつ》した。水も船も見分けがつかぬくらい同じ泥の色をした湘江を距《へだ》てて岳麓山は今日、深い樹陰《こかげ》のあちこちに大きな赤地の毛語録を掲げた、静かな公園になっている。
阿南日誌、一月二日――「第三師団ハ……十四時頃南東長沙ノ一角ヲ奪取シ戦果拡張中……果シテ長沙ノ敵ハ第十軍ノ主力ニシテ……正ニ広東方面ヨリ第四軍、第十軍ヲ牽制シ軍今次ノ目的ヲ完全ニ果セリ」
阿南は楽観しても軍参謀部は次第に憂色に包まれ、同日夕刻、第六師団に対し第三師団の右翼、長沙の東と北の攻撃を命じた。神田第六師団長は軍が準備なしに作戦変更し長沙を攻めたことに不同意、第三師団の独走も不快だった。
一月三日午前十一時、戦闘司令所の参謀室に現われた阿南は参謀たちの焦燥を見て、黒板に書いた――「今更に驚くこともなかりけり 勝つも勝たぬも武夫《もののふ》の常」
空輸すべき銃砲弾も尽き、長沙占領は成らなかった。
重慶軍三十箇師の包囲網が日本軍の小兵力で維持する退路、瀏陽河渡河点に殺到するのは、五日と予見された。反転が遅れ渡河できなければ、日本軍は薛岳長官の天炉戦法≠ノまんまとおちいることになる。
同日――三日、第六師団は岳麓山の重砲に大損害を受けた。長沙の城壁は軽装備の工兵隊では破壊できないので、城壁に固着しないよう師団長命令を出さざるを得なかった。
第三師団の第一線は長沙東正門を攻めたが、弾がなく、重慶兵と刺し違えて戦死する兵も出た。左翼隊は南門の南一・二キロ地点をようやく奪取したが、左側面を岳麓山の重砲陣地に暴露し正面に優勢な攻撃を受けて、大隊長まで戦死した。
同日午後五時、参謀部は「戦闘中止、四日夜反転」を具申したが、阿南は却下した。そのころすでに瀏陽河渡河点の争奪戦は始まり、日本軍は苦戦していた。午後七時四十分、参謀部は再び同趣旨を具申し、阿南も遂に反転を承認した。
同夜、弾を持たぬ日本軍と黒山のように群がる重慶軍との紛戦のさ中、軍は「四日夜反転開始」を各兵団に命じた。
「この夜阿南は独り『吉田松陰殉国詩歌集』をひもときながら、ようやく苦悩の一夜をすごしたという」と、防衛庁戦史部著『香港・長沙作戦』は記録している。
反転命令受領の時、第三師団はすでに七百余の損害を出し、弾薬はなく、師団参謀は長沙攻略を絶望視していた。ただ豊嶋師団長だけが、攻撃続行の決心を変えず、阿南軍司令官に「今一息という所、反転開始を更に一日延期され度」と電報した。
豊嶋師団長は同時に第六師団に、自分と行動を共にしてくれと申し入れた。前出、豊嶋中将に対し腹を立て援軍さえ出さなかった神田師団長は今度も「軍命令通り行動するを可とする意見なり」と拒絶した。
第四十師団は最左翼にあったが重慶軍の包囲作戦に阻まれ、残弾もなく、一月四日ようやく撈刀河北方まで来たところで反転命令を受けた。途中、山砲弾の空中補給を受けたが、二見軍参謀副長の日誌――「アア第四十師団ニ山砲弾十発。アア無理ナル作戦|哉《かな》」
飛行部隊は当初二十三機が協力したが、反転作戦のピンチに南京(中支)の戦闘機二十二機、太原《たいげん》(北支)の軽爆機七機が急遽《きゆうきよ》飛んだ。
天炉戦法をとる重慶軍は二十九箇師の大兵力で日本軍を包囲してきた。薛岳長官は一月四日朝、次の命令を発した――「我軍は長沙から潰走《かいそう》の敵を汨羅江(汨水)以南、撈刀河以北の地区において徹底的に殲滅するに決す」
五日、第六師団は瀏陽河の|※[#「郎/木」]梨《ろうり》市軍橋を北へ渡った。同河東山軍橋を重慶軍に奪取破壊された第三師団主力は、豊嶋師団長をして「軍旗は俺が守る!」と叫ばせるような切迫した危機におちいりながらも、第六師団が死力を尽して守る※[#「郎/木」]梨市軍橋に迂回し、ようやく渡河した。
このころ戦場では、神田第六師団長は蝟集《いしゆう》する第二六軍に対し、第三師団と協力して一撃を加えようと闘志を燃やした。しかし今度は豊嶋第三師団長の方が拒否した。軍の戦闘司令所では無電通信が途絶し、第三、第六師団の動向がつかめなかった。※[#「郎/木」]梨市渡河点付近では、氷雨《ひさめ》の中で、第六師団の輜重《しちよう》連隊は約三百、第三師団は約七百の戦傷患者を擁して苦戦していた。
六日、岳州の野戦病院を訪れた阿南の日誌――「作戦以来患者六五〇名、本日二六五名。神経ヲ射タレシ者及腹部受傷者ハ苦痛大ナル如シ。同情ニ堪ヘズ。呻声叫声ヲ聞キテハ高級指揮官トシテ責任重大ナルヲ感ゼズンバアラズ」
その夜も岳州戦闘司令所の対岸の砲声は終夜続いた。大《おお》晦日《みそか》の夜以来絶えたことのない砲声だった。
七日は晴れ、軽爆一箇中隊が戦闘に参加し、各部隊の北への離脱を助けた。阿南は第六師団正面の隘路《あいろ》、栗橋地区を扼《やく》す第五八、第二〇軍を攻撃する決心をし、命令を発した。しかし軍参謀部は「第三師団の戦死者六〇〇柱に達しあり」と報告を受け、憂色に沈んでいた。さらに阿南が攻撃を命じた栗橋隘路には重慶軍第七三、第九九軍も第六師団に追尾し邀撃《ようげき》態勢を固めているとの情報に、いっそう弱気だった。
この中で、阿南一人は戦闘意欲をふるい立たせていた。しかし栗橋隘路強硬突破を憂慮する軍参謀部は同日――八日夕、阿南を説得した。阿南日誌――「復々《またまた》幕僚憂色アリ。自軍特ニ皇軍師団、軍旗ヲ擁スル歩兵連隊ノ戦力絶大ナルヲ信ズベシ!」しかし「已《や》ムナク」幕僚の進言をいれた。
作戦急遽変更に、北上中の第六師団は西へ転進した。その結果第三師団を追尾する重慶軍七箇師団の重囲におちいった。同夜、独立混成第九旅団の山崎大隊が影珠山《けいじゆざん》で全滅した。また第四十師団の最後尾、亀川連隊は反転作戦の最右翼を北上中、大山塘《だいさんとう》地域で敵の重囲におちいった。弾薬はなく、おまけに多数の傷病兵を抱えていた。影珠山――大山塘は東西に約十五キロ、その線をつないで倒三角形を描いたあたりに、軍命令により北から西へ転じた第六師団が敵の重囲の中で死闘していた。まさに薛岳長官の天炉戦法に焼かれる形になった。
この時の阿南について、防衛庁戦史部著『香港・長沙作戦』は次のように書いている。――「阿南司令官は……愕然《がくぜん》とした。反転以来泰然自若として、苦境に沈み勝ちな幕僚に接しては、春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》として慰撫《いぶ》激励に努めてきた阿南中将も、この日ばかりは憂色とみに深いものがあった」
阿南日誌、八日――
「昨夜第六師団ヲ其儘《そのまま》前決心通リ北進セシムレバ動揺中ノ第五八軍ニ大損害ヲ与ヘ、独立混成第九旅団ト併《あは》セテ一大打撃ヲ与ヘ得タルヤ必然ナリ。常ニ弱気ニテ石橋ヲ叩キツツ軍ノ作戦ヲ指導スルノ弊ハ、将来大ニ改善訓練ノ要アリ。但シ予ガ之《こ》レヲ悟リツツ已ムナク容認セシハ幕僚ノ動揺ト今夜以後ノ稍々困難|煩瑣《はんさ》ナル第四十師団ノ指導ニ頭ノ混乱ヲ来スヲ恐レシモノニテ、又重大不利アリトハ思ハザリシニヨル。高級指揮官ハ常ニ理知ト自己ノ戦略眼ノミニヨリ断行セズシテ……」
十日、麻林《まりん》市付近の重囲の中で死闘する第六師団の離脱を、秋山飛行団は全力を挙げて助けたが成功せず、軍は第三師団に救出を命じた。救援に向かった歩兵第十八連隊は神田第六師団長が少尉任官の時の母隊だった。神田師団長の自尊心は母隊に救われることを潔しとせず、憤激して援軍をことわった。
十日夜は吹雪だった。神田中将回想記――
「時々、匍匐《ほふく》前進により敵弾を避け夜半漸く福臨鋪《ふくりんぽ》に入つた。……福臨鋪に入る前、連行の大隊に夜襲決行を命じ、司令部も一緒に突込む積り。師団長自身抜刀を覚悟した。此《こ》の間、一、二時間暗中の寒い田圃《たんぼ》の中の佇立《ちよりつ》、しみじみ戦さの辛さを味はつた」
十一日の戦況に、軍はようやく「何トカ出ラレル如ク感ジ」と見通しの立つ状況になった。
福臨鋪の北方約十キロの飄風山《ひようふうざん》に収容陣地(長・松村大隊長)が設けられた。松村少佐の回想記――
「緩やかな坂道を喘《あえ》ぎ喘ぎながら、水や食物を求める者、足を引摺《ひきず》って行く者、戦友に肩を借りながら歩く者、腕を吊《つ》り頭に繃帯《ほうたい》をしている者の列が断え断えに続く。一〇〇〇(午前十時)ころ連隊旗が通りすぎた。一三〇〇(午後一時)ころ友成連隊長が姿を現わしたが、その軍服は真赤な血に染まっていた。松村大隊長が挨拶すると、ニッコリと肯《うなず》くのみで言葉はなかった。連隊本部の将兵の四分の一は負傷し、白い繃帯が目立ち、返り血の血痕の付いている者が多かった。かくて、友成連隊は一六〇〇(午後四時)ころ収容陣地内に収容を終った」
十四日、各兵団は一斉に汨水北岸を発進、北上を開始し数日後に原駐地に帰還した。
防衛庁戦史部著『香港・長沙作戦』は次のように評している。
「今次作戦は、香港作戦に策応する動機で行なわれた。……情報および兵站の備えなく、重慶軍の待ち構える陥穽《おとしあな》の中に飛び込んだ作戦であった。……完全に準備を整えた重慶軍三〇箇師に対し、前回に比し歩兵において三分の一以上少ない兵力で、且つ心理的にも戦力を統合するに至らないまま、種々の錯誤を重ねきわめて困難な状況に終始した作戦であった。
その最大の原因は彼我戦力の評価を誤った点にある。前回作戦は重慶軍に打撃を与えるところが少なく、かえってその大地および住民をあげての防衛準備を促進する結果をきたしていたのであった。……今次の主作戦におけるわが損害は戦死一五九一名、戦傷四四一二名に達した。それは策応対象である香港作戦の約二・五倍であった。
重慶政府は米、英両国からの祝電を報じて内外をあげ戦勝を謳歌《おうか》し……」
中華民国史政処編『抗戦簡史』は書いている――
「重囲の中に陥入した敵に対して、迅速に包囲圏を緊縮することができず、またその全部を殲滅することができず、離脱の機会を与えてしまったのは……すこぶる遺憾である」
第十一軍参謀長木下少将は、この問題について次の所見を記している。
「若《も》し、彼我位置を変じたならば、日本軍の位置にある支那軍を、支那軍の位置にある日本軍ならば、殆んど一人として生き残らぬやう殲滅し得たであらう」
「この様な状況で、前進には二日で行けた所が、帰りには十二日もかかつた状況からして、種々悲惨な状況も生じ……阿南軍司令官の態度は極めて立派で、其の積極的なること私以上、一寸ニクラシイ位であつた。阿南将軍は面白い事を云はれた。『人間が如何に積極過ぎると思ふ様にやつたとて神の線より数歩後だ』と……人はこの作戦を評して無駄だとか拙いとか言ふ事と思ふが、決して無駄でもなく拙くもないと思ふ。道義を第一とする阿南軍司令官にとつて、無駄といふことはない。……多くの戦死者を出したのは、誠に申訳ないが、実に立派な戦さであつたと思つてゐる」
第六師団長神田中将の回想記――
「本作戦は阿南将軍の統帥としては、一寸拙かつた。……敵は我が裏をかいて退避作戦に出た。ここで退いては何のための牽制作戦かサツパリ分らぬ結果になるから、急に長沙急襲を思ひ立つたと想像されるが、これがいかぬ。苟《いやし》くも軍が作戦をするのに途中から斯《かく》の如き大変化の出来るものではない。糧食のない現地調弁、即ち掠奪《りやくだつ》命令である。特に長沙の堅陣に、丸腰でぶつつけたのは何としても悪い。無茶だ。この作戦の結果、第一次作戦で敵に与へた恐怖が逆に、軽侮となつて返つてきた。予は阿南さんの人格に絶大の尊敬を持つものであるが……広東策応の道義心は可なり。然《しか》し……ピストン作戦は、支那の戦場に屡々《しばしば》行なはれたものであるが、何としても不徹底であること論議の余地がない。否、却つて害を生ずる事、第二次長沙作戦の如し」
支那派遣軍総司令官畑俊六大将の昭和十七年一月十二、十六日の日記――
「第十一軍ノ長沙進攻ハ前回通リノ作戦振リナリシヲ以《もつ》テ、敵ハ進路ヲ開キ反転ノ時之ヲ包囲スルノ作戦ヲ採リシヲ以テ反転ノ際相当ウルサク附キ纏《まと》ハレ、第六師団ノ如キ一時ハ稍々心配スベキ状況ニアリキ。又進攻ヲ咄嗟《とつさ》ノ間ニ決心シタル為《ため》、準備不十分ニシテ弾薬殊ニ砲兵弾薬ニ相当困難ヲ生ジタルモノノ如シ。独断進攻シタルコトナレバ、軍司令官以下モ稍々キマリ悪ゲノ模様ナリ」
阿南日誌――
「今回ハ撈刀河ノ第三師団、青山市ノ第六師団、影珠山ノ独立混成第九旅団ト心痛憂慮ノ事項続出シ、戦略、戦術以上ニ幕僚ノ苦心セル所ニシテ、真ニ肚ノ戦術|所謂《いはゆる》戦道ヲ錬磨スル機会多カリシヲ幸トス。然レドモ独立混成第九旅団ノ二百名ノ二中隊(長・山崎茂大尉)ハ、十名ノ外全部名誉ノ戦死ヲ遂グルニ至レルハ返ス返スモ申訳ナシ(傍線は原文のママ)。瞑福《めいふく》ヲ祈ルヤ切ナリ。池上旅団(註・独立混成第九旅団)ノ死傷ハ全ク予ノ不徳ノ致ス所……又全軍ニテ七十余ノ青年将校ヲ失ヒシハ痛心ニ堪ヘズ。謹ミテ敬弔ノ意ヲ表スルモノデアル」
また彼は総合所見として「一、徳義ハ戦力ナリ。将帥ハ利害ヲ論ズルヨリ先ヅ道義ヲ以テ判断ノ基礎トスベシ。二、勇怯《ゆうきよう》ノ差ハ小ナリ、責任観念ノ差ハ大ナリ。智謀ノ差ハ小ナリ、実行力ノ差ハ大ナリ。……五、積極ハ如何ニ努メテモ猶《な》ホ神ノ線ヨリ遠シ。……」と書いている。
「第二次長沙作戦は総軍も同意していないのに、あれほどの大犠牲を出してまでやる必要があっただろうかという疑問を、私は当時から持っていた」と沢田茂は語る。「阿南とは子供の時からの友だちだから、私は率直にこれを彼にいった。すると阿南は『あれはあれで大いに意義があったのだ』と、強弁≠ニしか思われないような返事をした。いつもニコニコとおだやかな顔をしていたが、シンの強い男で、自分の行為について弁解がましいことを言ったことがない。
それに引きかえ、山下奉文は豪傑≠ナ通っていたし、自分でもそういうポーズをとっていたが、本当は神経質で、人の評判を気にした。十七年二月にシンガポールを占領した時、敗将パーシバルを『イエスかノーかっ』とどなりつけた話は有名だが、あれを『武士の情に欠ける』と批判されて、『いや、あれは通訳をどなったのだ』と、我々同期生にまでしきりに弁解した」
[#改段]
第二方面軍司令官
昭和十七年七月、阿南は第二方面軍司令官に任命された。栄転である。長沙作戦は独断で行なわれた上に将兵に甚大な死傷を出し、批判されはしたが、黒星にはならなかった。当時陸軍中央部の高級幕僚として、部内事情に精通していた某大佐は語る。
「香港攻略の陽動作戦として第二次長沙作戦を行なったということですが、これは全然意味をなさないと思います。私は阿南将軍が地図を見間違えたのではないかと思うほどです。その約半年後に阿南将軍が栄転なさった事情は、私など末輩にはわかりません。しかし勝手な想像を許されるなら、二つのことが考えられます。一つは、陸軍部内にしばしば人事局閥は強い≠ニいう言葉がささやかれたこと。もう一つは、陸軍では勇み足をするぐらいの人物の方が高く評価されたということです」
第二方面軍司令官となった阿南は、漢口から満州国≠フ斉斉哈爾《チチハル》へ向かった。途中、青島《チンタオ》に二泊、ここで第一方面軍司令官となって同じ満州国≠フ牡丹江《ぼたんこう》へ行く途中の山下奉文と久しぶりで会った。十三歳で幼年学校にはいって以来の親友である二人は、この夜、互いの白髪に戦陣の苦労を察しながら酒をくみ交した。阿南五十五歳、山下五十六歳であった。
満州国≠ノ戦争はない。山下の第一方面軍も、阿南の第二方面軍もソ連に対する備えであり、日ソ開戦となればこの両軍が第一線部隊であった。阿南は隷下各部隊の訓練を強化する目的で、ハイラル、満州里《マンチユリ》、孫呉《そんご》、昂々渓《こうこうけい》などの各師団を視察してまわった。
チチハルの阿南の宿舎は、もとロシア人の教会を改築した建物が当てられた。この宿舎を、阿南の甥戸次《おいへつぎ》平蔵(大分県大野市在住)がしばしば訪れた。
阿南はよく身内の若い者を自宅に呼びよせて、世話をした。戸次は阿南より十七歳年下で、大正十年から阿南家に住み、ごく親しい叔父、甥の間がらであった。当時の戸次は製材会社に勤め、鉄道の枕木や馬糧を軍に納める仕事をしていたので、満州国≠フ日満双方の民心の動向をよく知っていた。彼は阿南に会う度にそれを語り、また帰国したあとは内地の物資欠乏の実情を話した。
阿南は「内地はそんなにひどいのか。大豆十万トンを日本へ送ったが、それ位ではうるおわぬか」と暗い顔であったという。戸次は何度か阿南の「支那との戦《いくさ》も、アメリカとの戦も、なんとか早く納めねばいかんなあ」という言葉を聞いている。
「阿南はやさしい人でしたよ」と戸次は語る。「長年世話になったが、叱られたことといえば、大正時代に枯すすき≠歌っていたら、『そんな亡国調の歌はやめろっ』とどなられたことがあるくらいなものです。
チチハル時代にも、阿南叔父はやさしい人だな、と思ったことがありました」
と、戸次はニュー・ハルビン・ホテルで催された月見の宴を語った。ホテルの屋上にすすきを持ちこんで日本の秋をしのぶ会が開かれた時、阿南は大佐で予備役になった陸士同期生を呼ぶように戸次にいいつけた。
「月見の会だなどといえば遠慮するだろうから、ちょっと用があるから来て下さいと頼んでくれ」と阿南は戸次にいった。阿南は自分の隣りの席をあけて同期生を待ち、生徒時代にかえったように肩をたたいて語り合った。勤め気ではなく、阿南自身が心から楽しそうだった、と戸次は語る。
昭和十八年三月二十六日、この日も戸次が阿南を訪れて朝食を共にした。彼を相手に東京留守宅の母と長男惟敬の全快、次男惟晟の出征など家族の消息を語って心を楽しませた阿南は、その数時間後に母の訃報《ふほう》を受ける。母豊子は九十六歳であった。当日の阿南の日誌――
「三月二十六日(金)小雪 マイナス四度
突如本二十六日一時二十三分母上御永眠ノ陸軍訃電ヲ受ク。悲嘆痛悼ニ不堪《たへず》、生来海山ノ御高恩ヲ拝謝シツヽ心ヨリ御|冥福《めいふく》ヲ祈リ奉ル。重要任務ノ第一線ニ在ル為メ御看護モナシ得ズ、御最後ニモ侍シ得ザリシ不孝ノ罪ヲ謝スルニ辞《ことば》ナシ。唯、年来余リ予及ビ予ノ家庭ニハ大ナル御心配ヲカクルコトナク、特ニ次官々邸ニ御迎ヘ申上ゲテ以来極メテ楽シク最後ヲ送リ給ヒシト、妻子皆熱誠孝養ヲ尽シ呉レタルハセメテモノ心|慰《いや》シナリ。
四十九日ハ勿論《もちろん》、当分|嗜好《しこう》ノ酒ヲ断チ、謹慎敬弔ノ意ヲ表ス」
このあと七ページにわたって細字でびっしりと、母にまつわる幼児からの思い出を書き、その後の日誌にもしばしば母に触れて、
久方の光も失せてたらちねの
御手《みて》を離れし闇ぞ淋しき
と、彼は少年のようにひたすら悲嘆にくれる。
阿南ほど死者を弔う心の篤《あつ》い人も珍しい。日誌を読むと、彼が三十三歳の時に死んだ父をはじめ、母や兄の毎月の命日には必ず霊前に香華を供えて冥福を祈っている。「今日ハ父上ノ御命日」「今日ハ母上ノ……」という書き出しに続くその記述は、いずれも「予ノ今日アルハ父母ノ慈愛ノ賜《たまもの》」という深い感謝に貫かれている。孝≠美徳の上位に置いた時代とはいえ、これは道徳心や義務感だけで書けるものではなく、行間ににじむ阿南の温かい人がらが胸を打つ。そして彼は、父母の恩に報いる道はただ一つ、力の限り国に尽すことと思い定めていた。忠≠ニ孝≠ニは一体となって、阿南の姿勢を定める精神の背骨となっていた。
母の死を契機とした阿南の禁酒は、昭和二十年八月の自決の日に禁を破るまで、多少の例外をのぞいて守られた。例外の内には次の一例も含まれている。
五月十一日、新京滞在中の阿南は満州国皇帝の宴に招かれた。「陛下予ニ杯ヲ挙テ乾盃《かんぱい》ヲ望マル。母上ヘノ誓アリシモ外ナラヌコトニテモアリ、母上モ許シ給ハント信ジ、四十九日ヲ二日後ニ迎ヘントシテ残念ナリシモ、二盃乾盃ヲナス」
長年酒豪として知られた阿南は、「ブドー酒又ハベルモットナド少量ニテモ欲シキ場合アリ」と苦痛を感じながら、「母上モ御心配アリシ様ナレバ」と、禁酒を母のいいつけであるかのように堅く守った。「物心ツキシヨリ父母ニ逆ヒシコトナク……」と日誌に書く人である。
五月一日、陸軍次官からの電報で、阿南は大将に親任されたことを知った。この日午後五時から「楡《にれ》ノ木ノ下ニテ将兵一同簡素ナガラ一席ノ祝宴ヲ催シクレ」たのを皮切りに、その後は連日祝詞を述べる客を迎え、祝賀会が続いた。
五月四日、関東軍の演習のため全幹部が新京に集った。ここで大将親任の官記を受けた阿南は感慨を新たにし、日誌に「特ニ御親筆ヲ拝シ恐懼《きようく》ニ堪ヘズ」と書いた。
八日、遼陽《りようよう》を最後に演習が終了した夜、阿南は関東軍総司令官梅津|美治郎《よしじろう》大将、三ヵ月前に大将に進級した第一方面軍司令官山下奉文と共に、湯崗子《とうこうし》温泉に向かった。湯崗子は満州国執政となる直前の溥儀《ふぎ》が、建国劇の黒幕♀テ粕《あまかす》正彦らにつき添われてひそんでいた場所である。梅津と山下は湯崗子の晩翠軒《ばんすいけん》で、阿南の大将進級を祝ってくつろいだ宴を開いた。のち梅津は終戦時の参謀総長として、阿南と深くかかわることになる。
これほど多忙な日々を過しながら、阿南は七人の子供たちの誕生日を忘れない父であった。五月九日の日誌には「喜美子ノ誕生日ナリ。多幸ナル未来ヲ祈ル」と書かれている。
七月十日の日誌には「米軍六月三十日以来ニューギニア方面ニモ上陸増強ヲ行ヒ……」と、遠隔の日本軍の健闘に思いをはせている。この時の阿南は四ヵ月後に豪北へ進出し、急坂をころげ落ちるような敗勢の中で指揮をとる身になることを、想像もしていなかった。
九月八日、イタリアは無条件降伏を声明し、三国同盟の一角が崩壊した。阿南は「……予期ノ段、アヘテ驚クニ足ラズ」と日誌に書いた。
[#改段]
豪北戦線へ
阿南の第二方面軍司令部が豪北転出の内命を受けたのは、昭和十八年十月十八日であった。豪北とはオーストラリアの北方、ニューギニア島を中心とする地域である。ここは東から進攻してくる米軍との正面戦場であり、日本側からすれば阿南の軍は絶対国防圏決戦方面軍≠ナあった。大本営第二十班の日誌――
「阿南将軍ヲ対米第一線ニ推戴スルニ至ル。皇軍ノ歓喜ナリ。真田《さなだ》少将(穣一郎、参謀本部第一=作戦=部長)ハ『将軍ノ出馬ハ一、二箇師団ノ兵力増強ニ優《まさ》ル』ト。宜《うべ》ナル哉」
太平洋戦争開戦半年後――昭和十七年六月のミッドウェイ空海戦は、日本敗戦の決定的な転機となった。それにもかかわらず日本の南方占領はずるずると拡大した結果、同年末のガダルカナル島の惨敗となった。
米軍はガダルカナル島を足場に、中南部太平洋の日本軍最大の拠点であるニューブリテン島のラバウルを目指すかに見えた。またニューギニア島東南岸ポートモレスビーに司令部を進出させたマッカーサー元帥の軍は、遠くフィリピン方面をうかがう意図を示した。
ニューギニア島は面積七十七万平方キロ、現在の日本全領土の二倍以上の広さである。
大本営はこの東部に大軍を展開し、ポートモレスビーを攻略して、世界第二の大島ニューギニアを絶対不敗≠フ一大基地にするという現実離れした案をたてた。
このためラバウルの第八方面軍(司令官今村|均《ひとし》大将)隷下の第十八軍(司令官|安達二十三《あだちはたぞう》中将)主力は米航空隊により大被害を受けながらも、ニューギニア東北部沿岸ラエ方面に展開した。だが米軍は十八年九月からラエをはじめその近くの数地点に上陸して、第八方面軍と第十八軍をそれぞれ孤立させた。この不利な戦況に、大本営は絶対国防圏≠バンダ海、トラック、マリアナ群島を結ぶ線に設けた。
中南部太平洋でこの線を守るためには、西部ニューギニアを絶対確保しなければならないが、ここはほとんど無防備の状況であった。このように、西部ニューギニアをはじめ豪北地域の防備強化は、中部太平洋方面と密接な関連を持つことになったため、両方面の防備を総合的に遂行する強力な統帥組織の必要が生じた。これが阿南出馬の理由である。
だが敵の反攻を受けてから準備を始める実情では、しょせん応急の弥縫策《びほうさく》でしかなかった。広い海域に点在する島々を対象とした豪北防衛は、空海戦力――特に航空戦力なしには出来ない作戦である。そしてすでに敗色濃い十八年末、日本軍の致命的な弱点は航空機と船舶の極度の不足であった。
それにもかかわらず、杉山参謀総長は東京出発前の阿南に「作戦準備ニ方《あた》リテハ航空優先ニ徹シ、航空作戦遂行ヲ容易ナラシムルヲ第一義トシ、方面軍|即《すなは》チ航空部隊タルノ概ヲ以テ万般ノ措置ヲ講ゼラレンコトヲ望ム」と、寝言のような指示をした。
阿南の豪北到着半年後の十九年五月、ビアク島に米軍が強襲上陸したとき、日本軍から出撃した戦闘機は第一日の十三機がすべてで、しかも九機を失なった。その後はこの島だけでなく、豪北はどこも航空協力なしの作戦を強いられることになる。
第二方面軍の任務は「海軍と協力して速かに反撃作戦の準備を強化し、来攻する米豪軍を撃破して豪北方面の要域を確保すること」であった。この大本営式作文がうたい上げた任務≠ェ初めから遂行不可能なものであったことは、その後の一年間に次々と立証されてゆく。
チチハルから東京に帰った阿南は、十一月一日参内した。
この日の日誌――「明勅ヲ拝シ恐懼感激ニ堪ヘズ。死力ヲ尽シ任務ノ達成ニ邁進《まいしん》シ、以テ聖旨ニ副《そ》ヒ奉ランコトヲ期ス」
文章は勅語を受けた武将の型通りだが、彼はこの日から第二方面軍司令官の任を離れるまでの一年余り、日誌の文字の通りに任務ノ達成ニ邁進≠オ、しばしば大本営や南方軍をてこずらせるほどの積極性を発揮し続けてゆく。
第二方面軍の当初の兵力は、第三十六師団を基幹とする新設第二軍と、第五、第四十六、第四十八師団を基幹とする既設の第十九軍、それに第七飛行師団主力を加えた総兵力約十四万人であった。
第二方面軍の作戦地域は、南北をオーストラリアとフィリピンに挟《はさ》まれ、東はニューギニア本島のほぼ中央を南北に通る東経百四十度の線まで、西はマカッサルとロンボック海峡までで、東西の距離は二千キロである。
この広大な豪北一帯は、地図に地名のある地点には現地人が住み、オランダやポルトガルの植民地拠点にはいくらかの施設もあるが、その他のほとんど全域は人跡未踏の地域である。このような所に近代軍を健在させ、しかも短時日に決戦準備をすることは至難の業《わざ》であった。
その責任者となった阿南は十一月十四日に東京を出発し、十七日からのマニラ会同≠ノ列席した。これは第二方面軍の統帥発動を円滑にするためのもので、秦《はた》彦三郎参謀次長も列席した。
「阿南閣下はマニラ・ホテルの、かつてのマッカーサー元帥の部屋に滞在されました」と専属副官であった酒向一二《さこういちじ》(当時大尉、のち少佐、岐阜県関市在住)は語る。「マッカーサー夫人の部屋は壁紙や調度などすべて華やかなピンクで統一され、目を驚かす大鏡などがあって、豪奢《ごうしや》な生活ぶりがうかがわれました」
阿南が次男惟晟の戦死を知ったのは、このマニラ・ホテルのマッカーサーの部屋であった。少尉に任官して間もない惟晟は、このとき満二十歳であった。
「十一月二十三日 晴一時雨 新嘗祭《にひなめさい》
副長訃電ヲ持参ス。惟晟、漆家河《しつかが》附近ノ宿敵一〇〇A(軍)捕捉殲滅《ほそくせんめつ》戦中二十日十八時三十五分戦線ニ於《おい》テ壮烈ナル戦死ヲ遂グ、部隊一同衷心敬仰ノ誠ヲ捧《ささ》ゲ哀悼ノ意ヲ表シ上グト。美シク散ラントノミ念願セシ愛児定メシ本懐ナラン。而《し》カモ予(第十一軍司令官当時)ノ最モ主張セシ常徳作戦中宿敵精強ナル一〇〇Aトノ戦闘中花々シキ戦死ヲ遂ゲシコト奇《く》シクモ亦《また》父ノ為ニ代リ戦死シ呉レタルガ如シ。五千五百ノ若キ赤子ヲ中支ノ野ニ散華《さんげ》セシメシ予トシテハ何ヨリノ花向ケナリ。
母ヤ弟妹、殊ニ睦《むつま》ジカリシ惟敬(惟晟の兄)ノ心情ヲ思フトキ断腸ノ念禁ジ得ズ」
阿南は自室に惟晟の写真を飾り酒や菓子を供えて冥福を祈ったが、私事である息子の戦死を周囲には告げず、この夜も予定通り偕行社《かいこうしや》の会食に出席した。そして翌日も方面艦隊との協定事項を検討し、飛行機でバターン半島南部やコレヒドールなどの旧戦場を視察したが、日誌には父親としての悲傷が率直に記されている。
「十一月二十四日(水)晴
目覚ムレバ惟晟ノ写真淋シク鏡ノ前ニ立ツ。胸ノ痛キヲ感ズ。潔ヨク散リシ人コソ本懐ナレ、後《おく》ルル身ノ苦悩|如何《いか》バカリカ大ナル」
このあとに防衛問題の記述があるが、彼の筆は再び惟晟に戻る。
「夜蒸暑キ為メカ、恩愛ノ情|已《や》ミ難キカ、還ラヌ惟晟ノ戦死ノ状《さま》ナド追想シ、死様ノ美シカリシコトヲ祈念シナドシテ眠ラレズ。予モ老タルカ?」
「母ヨ弟妹ヨ、嘆クヲ止《や》メヨ。決戦下皇国ノ武門ノ常ナリト繰返サザルヲ得ズ」と家族への言葉も書かれているが、これは阿南が自分自身へ向けたものでもあったろう。人一倍子煩悩な彼は悲しみに胸をかきむしられながら、それを克服して愛児の戦死を武門の誉れとして喜ばねばならぬと念じる。
阿南が惟晟と最後に会ったのは、この年三月十七日であった。その日の日誌――
「十三時五十分待望ノ北京行軍用列車到ル。惟晟元気ニ下車シ来リ、会談ヲ危ミアリシ丈《だけ》喜色|面《おもて》ニ現ハレ満足ス。ヨク肥エ丈《たけ》モ父ニ比スベク、態度言語ヨク整ヒ立派ナル青年将校ナリ。武校ノ訓育ト留守宅ノ躾《しつけ》トヲ感謝セリ。千人針ノ真綿チョッキ、ロシア菓子ヲ与フ」
十一月二十六日、阿南が戦死した惟晟の写真を身につけて到着した豪北の中心アンボンの街は、すでに連日空襲を受けていた。彼は「敵ノ爆音、爆撃ノ音ヲ聞キツツ」寝につく。
二十八日、阿南はここに軍司令官、兵団長を集めて部署を定め、第二方面軍作戦課長堀場一雄大佐が起案し、阿南が加筆した作戦計画と準備要綱を示した。大本営陸軍部は水際撃滅方針であり、また航空|要塞《ようさい》を強調していた。広大な地域に対して、兵力は極めて少ない。阿南は「守ればすなわち足らず、攻むればすなわち余りあり」を信条とし、「楠公《なんこう》精神を以て、任務を果そう」と訓示した。
楠木正成は現実的な武略智謀に優れた武将であったが、皇国史観の時代には殊更に悲劇的忠臣の象徴として皷吹《こすい》され、「楠公精神」は「七生報国」という言葉と合わせて、日本人の心を、特に苦境にある時、ふるい立たせた。
第二方面軍司令部は仮にフィリピン・ミンダナオ島のダバオにおき、十二月一日、統帥を発動した。
官邸は「瀟洒《しようしや》タル米国風ノ洋館ナレド、明《あかる》ク便利ニテ華麗」で、ワリンワリンという薄紫の花をつけた熱帯樹と芝生の庭に囲まれていた。阿南はコロニアル風の家具を配した六角形の広い居室に、「天照皇大神、神、仏並ニ母上、惟晟ノ写真」を祀《まつ》った。
次男の戦死から一ヵ月が過ぎた十二月二十日、初めての命日を迎えて、阿南は霊前に彼の好物の数々を供えた。
「一日思ヒ綿々トシテ尽キズ、十八時三十五分戦線ニ散リシ時刻ヲ期シ、思出消ヘヌ洞庭湖畔《どうていこはん》ヲ遥《はる》カニ偲《しの》ビツツ、殉国ノ英魂ニ合掌ス」
洞庭湖畔、岳州は昭和十六、七年、第一次、第二次長沙作戦の戦闘司令所を設けた、阿南の思い出深い地である。惟晟少尉戦死の漆家河(常徳)は、阿南が日夜目にしていた洞庭湖の遥かな対岸にある。
昭和十九年の元旦、司令部の表玄関には椰子《やし》の葉を添えた門松が飾られていた。
阿南は東京出発の直前、大本営に対し、豪北決戦に必要な部隊、資材、船腹など膨大な要請をしていたが、一月上旬、さらに幕僚を東京に派遣してこれを督促させた。だがそれから一ヵ月余り後の二月十七日、日本海軍の根拠地であり、絶対国防圏≠ニ称した線上のトラック島が大空襲を受けて撤退せざるを得なくなり、マリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアンが裸のままさらされることになった。こうした太平洋方面の戦況|逼迫《ひつぱく》に伴い、第二方面軍に対する二月、三月の輸送の大部分は中止され、さらに、決戦点と判断している北部ニューギニアのヘルヴィング湾地区に配置予定だった第十四師団は、パラオ方面に転用と決した。
配備計画は初めから大きく狂い、阿南は作戦計画を練り直さざるを得なかった。彼は、いきなり楠公の苦境に立たされた。
一月末、阿南は軍がセラム島の現地人百数十人を反乱罪で一挙に処刑したことを知り、その調査に乗り出した。その結果、日本軍に反抗的な島民への威嚇を目的に、不当な大量処刑が行われたことを知った。
一月二十七日の日誌――
「ソノ思ハザルノ甚《はなは》ダシキ。百数十名ノ親兄弟ハ之レニ畏縮《いしゆく》シテ、真ニ皇軍ヲ信頼協力スルト思フヤ。否、否、千載ノ怨情《えんじよう》ヲ呑ンデ皇軍ヲ鬼畜ノ如ク嫌悪セン」
こんなことで大東亜共栄圏≠フ建設が出来るかと、阿南は厳しく部下を叱責《しつせき》している。
阿南が、待ちに待った次男戦死の詳報を受けとったのは二月四日であった。
「……詳報ニ依ルニ、砲兵小隊長トシテ歩兵線ニ出テ敵前数十|米《メートル》ニテ敵ノ突撃ヲ撃退シツツ観測ニ任ジ、敵歩兵機関銃ノ弾丸ヲ胸ニ受ケシガ如キハ最モ理想的戦死ト云フベク、本人ノ本懐満足|左《さ》コソト思ハル。特ニ最後ノ一言大丈夫ダ<nヨク平素ノ七生報国ノ敢闘精神ヲ発露セルモノニテ、大丈夫ダ、マダヤルゾノ意気ヲ残コセシモノ、真ニ阿南家子々孫々ニ良キ教訓ヲ残シ与ヘタルモノトシテ、感謝ニ堪ヘザル所ナリ。我児ヨ、ヨクゾ戦ヒタリ、ヨクゾ言ヒ遺シタリト愛《め》デ賞センカナ。単《ひと》リ愚カナル親心ノミニアラザルナリ。
マニラ湾頭、訃告ヲ手ニシテヨリ唯最後ノ一場面ノミガ胸ニ支《つか》ヘ、蓊鬱《おううつ》トシテ散ジ得ザリシモノ今|濶然《かつぜん》トシテ開ケ、二月余ノ怏々《おうおう》ノ憂愁去ツテ明月ヲ望ムガ如ク、児ノ武運目出度カリシヲ喜ブト共ニ、神明ニ感謝|措《お》ク能《あた》ハザル所ナリ。
夜ハ飯村中将、秋山参謀長一行ト会食、飯村中将愛息大尉陸士区隊長ニ栄転ナド遠慮勝ニ話サレシモ、今ヤ唯慶祝ヲ念ズルノミ。惟晟ニツキテハ淡キ誇リヲ感ズル外ナキハ喜バシ」
日誌中の「飯村中将」はこのとき陸軍大学の校長で、約二ヵ月後の三月末からは南方軍総参謀長として阿南としばしば交渉を持ち、のち阿南の後任として第二方面軍司令官となる人である。惟晟の戦死を知っている飯村が、阿南の心情を思って遠慮勝ちに語った愛息大尉≠ヘ、阿南の幼年学校長時代の教え子であった。
この日誌に書かれているように、阿南はわが子の戦死を知って以来二ヵ月余り、それが壮烈なる戦死≠ニ呼ぶにふさわしいものであることを願い続けた。祈り続けた、といった方が阿南の心境に近いであろう。詳報によって、理想的戦死≠ナあったと判断できた彼は、それで納得し、満足しようとしている。
この時代には戦死≠ニいう一語に包括される死のすべてが同じ価値を持つものではなく、偶然によって支配されることの多い死に方によって、その戦死の価値は異なった。馬に蹴《け》られたことが死因と知った一兵士の父親が、そんなものは戦死ではないと恥じ入り、わが子の武運のつたなさを嘆き悲しんだという、むごい話も伝わっている。
阿南が、ある部隊の凱旋《がいせん》のニュース映画を見た夜の日誌――
「綾子ガ待テド還ラヌ愛児ノ奮闘ヲ日夜追憶スルヲ思フ時、戦死者ノ心境ハ本懐ナルモ、残リシ母、兄弟ノ悲哀ヤ大ナリ」
阿南は妻の悲しみを少しでも慰めようと、また一日も早く妻がその悲しみから立ち直るようにと、しばしば手紙を書いた。いずれも短かく簡潔な手紙だが、妻の背を撫《な》でさするような優しさがこめられている。綾子からも身を切られるような切なさと、それを乗り越えて名誉の戦死≠喜ぼうとする心の争いを率直に詠《よ》んだ和歌数首が、戦陣の夫の許《もと》へ送られた。愛児の死という共通の深い悲しみを通して、共に住むことも稀《まれ》なこの夫婦の心はいっそう固く結ばれていったと想像される。
二月二十一日、内閣の第二次改造に当り、すでに陸相、軍需相を兼任していた東条首相はさらに参謀総長を、嶋田海相は軍令部総長を兼任すると発表された。これについて秩父宮が東条に対し三回にわたって厳しい質問をするなど、各方面が疑惑を抱いたが、阿南もまた東条への批判を次のように書いている。
「遂ニ二十一日ニ至リ統帥、国政一致ノ名ヲ藉《か》リテ国務大臣、統帥権ヲ掌握ス。独逸並ニファシストニ倣《なら》フトセバ国体ヲ思ハザルモノナリ。素《もと》ヨリ一人ノ掌握下ニ独裁スルハ最便ナラン。然レドモ皇国ニ於テハ之レヲ陛下独裁シ給フ。而カモ独裁ノ害ヲ避ケ給フノ寛仁ノ大御心ヨリ、憲法ヲ制定シ万機公論ニ決ストシ給ヒシ御精神ヲ拝スル時、御親政ノ裡《うち》ニモ十分下民ノ意見ヲ聞召《きこしめ》サルノ余裕ヲ存シ給ヘリ。今回ノ東条内閣ノ処置ハ僭越《せんえつ》ノ誤謬《ごびゆう》ニ陥レリ。東条ニアラズンバ何事モ成シ得ズ、陸軍長老ヲ無能視セル嫌《きらひ》ナシトセズ。先輩必ズシモ人ナキニアラズ。万人ヲ喜ンデ国難ニ当リ且《かつ》楽ンデ協力セシムルノ雅量ナカルベカラズ」
阿南が豪北の指揮に任じたころ、大本営はこの方面に対する米軍の企図を「陸海戦力を統合してまずラバウルを攻略し、次いでニューギニア北岸沿いに西進を計るだろう」と判断していた。従ってニューギニア北岸のほぼ中央に位置するホーランジアは最も重要な地点の一つであった。
西を向いた大亀の姿に似たニューギニア本島の、ほぼ中央を南北に走る東経一四〇度線を境として、東側が今村均大将の第八方面軍、西側が阿南の第二方面軍の作戦地域であった。ホーランジアは一四〇度線の東側にあり第八方面軍の地域内だが、阿南はその重要性を考慮して自軍の戦闘部隊の一部を配置する研究をした。だが深刻な戦力不足の実情から、実施できないまま時を過していた。
「豪北に進出して以来の阿南大将の最大関心事は、すでにこの方面で作戦中の第八方面軍、その隷下の第十八軍との戦力の合一でした」と、当時第二方面軍作戦主任参謀であった加登川幸太郎《かとがわこうたろう》(大佐)は語る。「それは東部ニューギニアと、絶対国防圏である西部ニューギニアとの間に大きくあけられようとしている空隙《くうげき》を埋めることです。具体的には、東へ進んでいる安達中将の第十八軍を反転させ、西へ進ませて第二方面軍の兵力と合一させ、戦力の集中≠計ろうというものです」
十九年三月、米軍が思いがけず東部ニューギニアの北方に浮かぶアドミラルティ諸島に進出してきたため、大本営は三月二十五日以降、第十八軍と第四航空軍とを第八方面軍から第二方面軍の隷下に移し、東部ニューギニアも阿南の統轄下に入れると決した。米軍の蛙飛《かえると》び作戦≠ナ飛び越えられたラバウルに、今村の第八方面軍は半身を失なった形でとり残された。
この決定を第二方面軍の幕僚たちは「遅すぎた嫌いはあるが、いい案だ」と歓迎したが、阿南には阿南の受け方があった。
「今村方面軍ノ孤城落日ノ感濃キ際、マタ第十八軍ノ奮闘努力ノ最中、特ニ航空部隊ノ緊要欠クベカラザル急迫ノ秋《とき》トテ、此《こ》ノ隷属替ハ当然ノ如クシテ武士ノ情ニ欠クル所ナキカ。同情ニ堪《たへ》ズ。航空軍ノ如キハ、今村大将ノ使用ニ供スベク研究セシム」
近代戦においても、統帥の根本に武士の情≠ェなければならぬというのが、阿南の信念であった。阿南が常に口にした「徳義は戦力なり」もまた、彼の武士の情≠ニ結びつく。人間の感情を無視し、机上の計算だけで隷属替を決めては戦力の向上は望み得ないと、彼は考えていた。これが一部から「阿南は旧時代の指揮官であった」と評される原因の一つであろう。
ラバウルに孤立した第八方面軍の今村に対して、阿南は常に支援と友情を惜しまなかった。総司令官の寺内|寿一《ひさいち》元帥をはじめ南方軍の首脳たちと会えば必ず第八方面軍への好意ある配慮をうながし、たださえ不足している航空兵力を「制肘《せいちゆう》的注文ヲ附スルコトナク」第八方面軍へ派遣し、今村から苦衷を訴える電報が来れば、温情あふれる返事を書き、皇太后から贈られたお茶、ウイスキー等を添えて届けている。
東部ニューギニアまでを統轄することになった第二方面軍は、多くの困難に直面した。今やホーランジアの防備も第二方面軍の責任である。阿南は新しく隷下にはいった第十八軍に対し、「軍主力を逐次ホーランジア付近に集結して、同地を確保すべし」と命じた。
過去一年間の激戦と移動に疲れ果てていた第十八軍の将兵は、ホーランジアを目指して西へ五百キロ以上の、主にジャングル地帯を突破することになった。この大移動の行程中、ハンサとウエワク間にはセピックとラム両大河下流の、幅約百キロの一大湿地帯が横たわっていた。カラ身でさえこの湿地帯の横断は難事だが、重砲をはじめ大量の武器、弾薬、食糧までを運ぶ軍の移動は至難のわざであった。だが安達司令官は「至難≠ニは不可能≠ニいう意味ではない」と、あえて言いきった。
セピック河地域を見た秦郁彦《はたいくひこ》(もと防衛庁防衛研修所教官、大蔵省大臣官房参事官、法博)は『太平洋戦争六大決戦』の中に次のように書いている。「眼下は大密林でその中を世界一の蛇行《だこう》川とされているセピック川が蛇のようにのたうって流れている。河口付近はマングローブの密生した湿地帯で一度足を踏み入れると生きて帰れそうもない。第十八軍の兵士たちは、この世界第二の大島を東から西へ戦いながら足で横断したのだが、気の遠くなるような人間エネルギーの記録といえよう」
米軍主力がホーランジア上陸を開始したのは、四月二十二日早朝であった。この大跳躍作戦による一挙上陸は、比島南部までの全縦深一挙突破を企図する米陸軍が、中部太平洋戦域軍機動部隊の協力の下に開始した一連の上陸作戦の一つであった。日本の陸海軍首脳もこの作戦を予想してはいたが、しかし四月中の作戦開始には意表をつかれた。
この時から阿南の率いる第二方面軍の、豪北地域での戦闘が始まる。その戦闘経過を書く理由は、阿南の人間性がそこに浮彫りにされているというだけでなく、勝つはずのない戦に死力を尽す日本軍の典型的な姿と思われるからである。
作戦主任参謀であった加登川は、米軍のホーランジア来攻を知った時の阿南を「鬱積していた攻撃精神が、一時に噴出した観があった」と評している。
阿南は、かつて中国で野戦軍を指揮した時――百九師団長の時も、第十一軍司令官の時も、「積極ハ如何ニ努メテモ猶ホ神ノ線ヨリ遠シ」(昭和十七年一月の日誌)を信念として、勇猛果敢に中国軍に挑みかかる指揮官であった。戦機も勝利も、攻撃精神に徹してこそ、と信じて疑わない人である。その彼にとって、ホーランジア戦までの豪北初期の五ヵ月間は、生涯で初めて受身の指揮官の焦燥にかられた時期であったろう。
決戦の相手であるマッカーサーが豪北を目指していることは確かだが、阿南は戦勢がこの地域へ動いてくるまで、じっと待つほかなかった。主導権は米軍に握られている。
しかも、着々と戦備を整えて迎え討つなどという贅沢《ぜいたく》な戦法は、十九年の日本軍にはもはや夢であった。阿南は「少ない兵力をいかに無駄なく使うか」を日夜苦慮し続けたが、いつ、どこが戦場になるかは米軍次第であった。そして日本軍の守備はどこも手薄であり、攻撃された所へ増援を送るほか手段はないのだが、その輸送には絶望的な困難があった。
米軍はホーランジア上陸と同日に、その東約二百キロのアイタペにも上陸し、同地の飛行場を占領した。米軍のニューギニア北岸上陸作戦の開始は、日本軍の予想より数ヵ月早かったが、日誌によれば阿南はそれを今さら問題にしていない。米軍上陸が数ヵ月遅かったとしても、その間に日本軍の防備が進むという期待は持てなかった。日本軍にとって不足だったのは時間ではなく、兵員、兵器、兵站《へいたん》であった。阿南としてはむしろ一日も早く戦闘が開始され、ただ待つだけの苦痛から逃れたかったであろう。
米軍上陸時のホーランジアの日本軍は頭数だけは一万を越えていたが、純戦闘部隊は南洋第六支隊二百四十人だけで、あとは装備も訓練もない後方勤務部隊という実情であった。ここを目指して進む安達二十三の第十八軍は、遥かに遠い大湿地帯で難渋していた。圧倒的に優勢な米軍を迎えたホーランジアの日本軍は多くの犠牲者を出し、一週間後には未知のジャングル地帯を西方を目指して退却するほかなかった。
米軍のホーランジア上陸を知った第二方面軍司令部は、第二軍に歩兵二箇大隊、砲兵一箇大隊の増援を命じた。第二軍司令官は阿南が中支の第十一軍司令官当時、隷下の第三師団長で、イキの合った豊嶋房太郎中将であり、高級参謀山本|新《あらた》大佐は阿南が第百九師団長の時の参謀であった。第二軍の司令部はニューギニア島の西北部、亀の後頭部に当るマノクワリにあり、ホーランジアまでの直線距離は約八百キロであった。
「ホーランジアへ援軍を出せという第二方面軍命令が来たとき、これは阿南大将のお考えだな……と私にはとっさにわかりました」と山本新は語る。彼は師団長時代の阿南から「徳義は戦力なり」と教えられていた。今はホーランジアの友軍の危機を救うことが徳義≠ネのだと、山本は思った。ホーランジアを猛攻するアメリカの大軍に対して、日本軍の限界の数とはいえ、僅か歩兵二箇大隊と砲兵一箇大隊の援軍を送り、さらには微弱な兵力を分散させることへの戦術上の疑問も、徳義≠ニいわれれば解釈はつく。
山本はホーランジアの西約三百キロのサルミへ向けて出発した。兵力をさくことを渋るであろう第三十六師団に対して、電報命令では心もとなかった。マノクワリの東方海上に浮かぶヌンホル島まで小さな漁舟で八時間、そこからサルミを目指して山本が乗った戦闘機には被弾による多数の小穴があったという。
サルミはすでに艦砲射撃を受けている状態で、ホーランジアへ向かう将兵が海路をとることなど思いもよらず、約三百キロのジャングル地帯を歩くほかなかった。それに何日かかるかが大問題であったが、ようやく準備を終った援軍の出発とほぼ同時期にホーランジアは米軍の手に落ちた。
山本がマノクワリに帰着した翌日の五月七日、サルミとその周辺に米軍の上陸が開始された。
「私がマノクワリをるすにしている間に」と山本は語る。「阿南大将がここを通過されて、『山本がサルミへ行ったか。それなら大丈夫だ』と喜ばれたと聞いて、感激しました。それほど信頼して下さっているのかと思い、この将軍のためなら喜んで死のう……と改めて心に誓ったことを覚えています」
阿南の部下の中には、この時の山本のような心境を語る人が多い。階級、年齢の差を越えてじかに心の通い合う、その手ごたえの確かさが彼らをひきつけ、献身の感情が生まれるのであろう。
阿南の往々にして理窟《りくつ》抜きの作戦を批判する声は多いし、実際に多数の命を失なう用兵の失敗を見せられることもあった。しかしこの指揮官には私心がなく、自分が真先に死ぬ覚悟――というよりむしろ願望があることが人にはわかった。阿南は言葉数の多い男だったが、自分の覚悟や願望などを口にするような軽薄さはない。しかし黙っていても、そういう人格は空気のように全軍の末端へまで伝わるものである。
ホーランジアに対し阿南はさらに、サルミにある第三十六師団の主力をも投入しようと計った。だが大本営も南方軍も「サルミに敵が上陸したら、敗退するほかなくなる」とこれを制止したため、果せなかった。
これが最初の例だが、その後に続く豪北の戦闘のほとんどすべてが、このパターンの繰返しである。米軍の上陸によって戦闘が開始され、第二方面軍司令部が全力を集中して敵を撃退しようとすると、大本営は「それでは消耗戦にひきずりこまれる」と手綱を引いて制止する。阿南は「戦闘に勝てなくて、戦略に勝てるはずがない。いわんや戦争をや……」と歯がみしながら、自己の権限の許す限り積極的態度を貫こうと努力を続けてゆく。
[#改段]
孤独の決意
四月十五日、第二方面軍は南方軍の隷下にはいった。この決定は、南方軍直属になることで第二方面軍が有利になるという、大本営の配慮であったといわれる。だが阿南の、天皇直属の自負による態度に大本営がてこずって、もう一本手綱をつけようとしたのではないかとも想像される。
阿南の四月十五日の日誌――
「零時ヲ以《もつ》テ南方軍総司令部ノ隷下ニ入ル。天皇直属方面軍トシテ十一月以来半歳、大過ナク任務ヲ遂行シ作戦準備着々進ミ、今ヤ、ニューギニアニ対スル敵反攻ヲ好機トシテ一大打撃ヲ加ヘントスル際、南方軍ノ隷下ニ入ル。組織変更ハ中央部ノ考ヘアル所、別ニ所見ナキモ、空軍ハビルマ方面ト太平洋方面ト自《おのづか》ラ二方面ニ大別セラレ、大ナル統一運用ノ余地ナシ。稀ニアリトセバ大本営之レヲ規定セバ可ナリ。所謂《いはゆる》屋上屋ヲ重ネ、海上輸送|其《その》他業務ノ敏活ヲ欠ク等殊ニ甚シキ不利ノミ多キヲ感ズ」
右の日誌に阿南は「別ニ所見ナキモ」と書いているが、全文いたる所に彼の憤懣《ふんまん》が感じられる。それは「甚シキ不利ノミ」多くなったことが真の理由ではなく、天皇直属方面軍≠ナなくなったことへの落胆と憤懣ではなかったろうか――。
当然ながら、方面軍のすべてが大本営直属というわけではない。阿南と陸士同期で、マレー作戦で名を挙げ、彼より先に大将に進んだ山下奉文は、一度も大本営直属方面軍の司令官にはならなかった。第二方面軍もチチハル時代は関東軍隷下で、阿南はいわば陪臣司令官だったが、豪北進出を機に大本営直属となり、天皇から勅語を与えられた。これがどれほど阿南を感奮させたかは、そのころの日誌からも察しられる。彼は「大本営直属」とは書かず、常に「天皇直属」と書いた。その度に阿南は、天皇と直結している誇りと喜びに胸をほてらせたのであろう。
「直属方面軍の軍司令官とは、極言すれば、天皇以外の誰の命令も聞く必要なし……というものだった」と加登川は語る。「現実面ではなかなかそうはいかないが……とにかく天皇直属≠ノよる阿南大将の誇りは非常なものだったと思う。それをカサにきて威張るような人ではなく、むしろ、いっそう謙譲、至誠の人であらねばならぬと心がけているのが、側近の我々にもよくわかった。
周囲もまた、いったん直属≠フ軍司令官であった人に対しては、それなりの敬意を払い、丁重に遇したものだ。五月にシンガポールで開かれた軍司令官会同の時、秦参謀次長たちが阿南大将に確保要線後退を伝えるのをためらった態度にも、それが感じられる」
四月二十六日、第二方面軍司令部はセレベス島北部のメナドに移った。このころホーランジアは事実上米軍の手に落ち、阿南はしきりにその奪回を策していた。だが「ニューギニア攻勢作戦ハ上司ノ同意スル所トナラズ」という実情の上に、作戦用の舟艇を調達するアテもなかった。それでも阿南は、参謀長の沼田|多稼蔵《たけぞう》中将に「已《や》ムヲ得ザレバ六月上旬、海上逆上陸ニヨリ、ホーランジアヲ奪回スベキ」案を示している。
メナドについた阿南は、作戦地域内に前進したことに「真ニ落着ク思ヒ」を味わった。司令部は前戦にあるべきだという阿南の態度は、第百九師団長以来一貫している。メナドの官邸は戦前オランダ人が建てた宏壮なもので、かつてこの地を支配した人々の本国の住宅様式そのままだが、阿南を喜ばせたのは運びこまれていた長州風呂であった。
米軍のホーランジア、アイタペ占領に伴い、大本営は米軍の制空圏の拡大と、第二方面軍の積極的な統帥の傾向を考慮して、確保要線を後退させることに決した。五月二日「確保すべき第一線は、ヘルヴィング湾底要域、マノクワリ、ソロン、ハルマヘラ附近の線とす」という指令が南方軍へ発せられた。
阿南はこの大本営指令を知らぬまま、軍司令官会同に出席のため、南方軍総司令部のあるシンガポールへ向かった。あくまでもホーランジア奪回を企図する彼は、第三十六師団と第十八軍で同地を挟撃《きようげき》し、また六月上旬までに米軍の上陸が予想されるビアク島の防備を固めようという案をたずさえていた。
三月末から南方軍総参謀長となった飯村穣は、ホーランジア奪回に対する阿南の熱意をよく知っていた。同時に、ビルマ出張中の秦参謀次長あての大本営電と、それに続く大陸命第九九九号によって、サルミ、ビアクが確保要域からはずされたことも承知している飯村は、苦慮しながら阿南を迎えた。
南方軍参謀部の敵状判断は「六月以降比島来攻を予想」というもので、飯村は、ニューギニア北岸を当面の主戦場にしたい阿南を支持する立場にはなかった。四日シンガポールに到着した秦も、ここで初めてニューギニアの確保要線後退を知ったが、飯村と同じくそれを阿南に伝えることをためらった。いま阿南は南方軍隷下だが、つい半月前まで天皇直属方面軍司令官≠ナあり、陸士十八期で、二十一期の飯村、二十四期の秦の先輩であった。
軍司令官会同は五月五日、阿南に確保要線の後退を秘したまま、寺内総司令官以下の列席で始められた。当然ながら、阿南の強硬な意見と他の列席者の意見とは噛《か》み合わず、結論が出ないままで第一日を終った。
翌六日、二日目の会同は総司令官官邸のサロンで開かれた。なるべくなごやかに……という南方軍の心づかいであった。この日の懇談で秦参謀次長と南方軍は、阿南のホーランジア奪回の決心だけは翻意させることが出来たと了解した。
飯村が阿南に大本営の絶対確保要線変更(後退)を伝えたのは、会同が終了したこの六日の夜であった。
阿南の日誌――
「飯村総参謀長、甲斐崎《かいざき》参謀来訪、第二方面軍ヨリ東部ニューギニアノ持久任務ヲ解ク、本|防禦《ぼうぎよ》線ノ後退、ウエワクハ一部ニテ保持、ホーランジアハナシ得レバ奪回等支離滅裂、敗戦観ニヨリ頭ガ少々変ニナリ在ルニアラザルヤヲ疑ハルル程ナリ。第二方面軍ニテ何モ彼モ攻勢意識ヲ支持スベク決心シ、敢《あへ》テ弁ゼズ。
海岸ヲ散歩、明月ノ下ニューギニアノ戦況ヲ偲ベバ転《うた》タ感慨胸ニ迫ル」
阿南が散歩したのは、シンガポールのどこの海岸であったのか。彼の宿舎について、南方軍参謀であった今岡豊(大佐)は「シンガポールの東南部、カトン地区の海辺にあった南明閣《なんめいかく》」と記憶している。
ここは英領時代シンガポール一といわれたホテル・マウント・ヴァーノンを接収した、将官以上の兵站旅館であった。シンガポールという地名が昭南≠ニ変えられた時代で、ホテルも南明閣と改名していた。空を衝く椰子の木の立つ広い芝生にブーゲンビリア、ハイビスカスなどが色鮮やかに咲き乱れ、その彼方《かなた》に海が広がっていた。
阿南が散歩したのは、この小波《さざなみ》のたつ海辺であったに違いない。赤道直下の異様に明るい月を眺めてニューギニア戦線を偲ぶ阿南は、確保要線の圏外に棄てられたとも知らず死闘を続ける将兵の哀れさに、胸を噛まれていたであろう。
阿南はここで一つの重大な決意をした。あるいは宿舎を出る時すでに心を決していて、散歩はその決意をダメ押しするためのものであったかもしれない。
昨年末、豪北に進出して以来、サルミを含むヘルヴィング湾一帯を死所と定め、与えられた僅かな兵力と資材で孜々《しし》と決戦準備を進めてきた第二方面軍としては、唯々諾々《いいだくだく》と確保要線後退には従えなかった。大本営のこの指令は、海上輸送手段をはじめ何らの方法を持たない現地にとっては、不利であり実行不可能の点もあった。一例を挙げれば、確保要線からはずされた島々の将兵をうしろへ下げようにも、舟もない実情である。
阿南は統帥の混乱を避けるため、自己の責任においてこの命令を胸に納めたまま、後退に関する処置は保留しようと心を決した。
阿南が飯村から大本営の確保要線後退決定を伝えられた五月六日、第二方面軍にとって大痛恨事が起きた。大本営が豪北へ派した第三十五、第三十二師団は輸送船八隻による「竹一船団」を編成して南下していたが、四月二十六日の遭難に続き、五月六日またも米潜水艦の攻撃によって大被害を受けた。これを「竹一船団第二次遭難」と呼ぶ。
大本営はこれら二師団の残存兵力の前方進出を危険と考え、五月九日、またも確保要線を後退させた。
「西部ニューギニア方面要域に於て確保すべき第一線はソロン、ハルマヘラ附近の線とし、ヘルヴィング湾底要域、ビアク、マノクワリ附近要域は努めて永く之《これ》を保持すべき」旨を指令した大本営は、両師団をそれぞれソロンとハルマヘラ島に配置するよう指示した。
僅か一週間の間隔をおいて、大本営は再度の確保要線後退を命じたのである。
[#改段]
ビアク島死守
五月二十七日の阿南の日誌――
「今朝五時以後米艦艇十二、三隻ビアク南海ヨリ砲撃……沼田参謀長一行、昨日来該島ニアリ。却《かへつ》テ志気|昂《たかま》ラン」
この日、米軍が上陸を開始したビアク島は、西向きの大亀の姿に似たニューギニア本島の西北端近く、亀の首の部分に当るヘルヴィング湾の湾口をふさぐ位置にある。東西約七十五キロ、南北約三十五キロ、周囲は約四百キロで、淡路島の三倍ほどの面積である。
東南部の海岸地区だけがやや平坦で飛行場適地や上陸適地もあるが、あとは波打ち際から幅の狭い白砂の浜を隔てて棚状の崖《がけ》が立ちつらなり、その奥の最高約二百メートルの丘陵地帯は全面が竹やぶを混えたジャングルに覆われている。地形が複雑で大軍の作戦には不適当だが、散在する大小無数の洞窟を利用すれば、夜襲や白兵戦を得意とする日本軍にとっては絶好の陣地線である。ビアク島の重要性は次のアイケルバーガー中将の記述の通りで、日本軍にとってはフィリピン、パラオ、サイパンなどを防衛する要衝であった。
のち、日本軍の頑強な抵抗をもて余す米軍の作戦指導のためビアク島に来た第一軍団長アイケルバーガー中将は、回顧録『東京への血泥《ちみどろ》の道』の中に書いている。
「私は戦略的見地からの、ビアク島の重要性を知っていた。ビアクを占領すれば、八百マイル離れたフィリピン群島全域が容易に爆撃し得る圏内にはいるし、パラオ、サイパンをも戦闘機で攻撃し得ることになる。
ビアク島の日本軍は、重爆が離陸できる飛行場を三ヵ所建設中であった。ブルドーザーのない日本軍は、鶴嘴《つるはし》と円匙《えんぴ》とモッコで、粘り強く珊瑚礁《さんごしよう》の岩盤を掘削し、昼夜兼行で完成を急ぎ、このため、対敵のジャングル戦闘の演習はほとんど出来ない状態であった。
……ビアク島の、強烈な太陽の光で焦げついた様相は、なんだかこの世ならぬ恐ろしい失なわれた世界≠フように思い出される。珊瑚礁と石灰岩の段丘は、月世界の山脈のような峻険《しゆんけん》さで、南岸一帯を取り巻き、それには無数の洞窟が互いに繋《つな》がり、鍾乳洞《しようにゆうどう》と奇怪な形の石筍《せきじゆん》のある洞窟が多く、嫌な味の地下水が流れ、地上には全く水は乏しかった。今思い出しても、ビアクの地形は太平洋のいかなる島よりも困難であった。
私は、ビアクにおける米軍の損害を最少限にくい止めるためには、直接攻撃に出た場合の代償として、一平方メートル数トンという砲弾を撃ちこむことを敢えて辞さなかった。このことが、アメリカの納税者の大きな負担であることは百も承知であったが、それを敢行しない限り、ビアク島の占領は不可能であった」
アイケルバーガー中将は、のち連合軍最高司令官マッカーサー元帥の下《もと》で、第八軍司令官として日本占領の実際の衝に当った人である。
ビアク島を守備する日本軍の総兵力は、主力の歩兵第二二二連隊三千八百人、台湾人軍夫やインドネシア兵補など三千人を含む配属諸部隊六千八百人、海軍部隊二千人、その他を合わせて約一万二千八百人であった。陸軍は葛目直幸《くずめなおゆき》大佐、海軍は千田貞敏少将の指揮下である。
ビアク支隊の主力となった歩兵第二二二連隊は昭和十四年春、弘前《ひろさき》で編成された岩手県の郷土部隊で、ただちに北支へ派遣され、その後の四年間、東北人による精強連隊の名をはせてきた。これが海上機動反撃連隊に改編され、昭和十八年の状況下では国軍屈指の優良編成となって、第三十六師団主力と共に上海から豪北方面へ出航したのは昭和十八年十一月であった。
昭和五十四年、盛岡市のホテルに佐々木|仁朗《じんろう》(盛岡市在住)、上関義一《かみぜきぎいち》(大船渡《おおふなと》市在住)、今野良二(大船渡市在住)、斎藤徳太郎(岩手県玉山村在住)、伊藤|昌《あきら》(同県藤沢町在住)、早坂定吉(同県岩手町在住)の六人が集り、四月上旬の曇り空に舞う小雪を窓外に見ながら、亜熱帯の島ビアクを語った。いずれも三十五年前、この島の凄絶《せいぜつ》な戦闘に参加し、全滅≠フ中から生還した男たちである。
「当時としては当りまえのことですが、我々は行く先も教えられぬまま上海で訓練を受けました」と彼らは語る。「訓練には敵前上陸など全然なく、戦車攻撃や鉄条網切断など対ソ戦のためと思われるものばかりなので、我々はソ満国境へでもまわされるのかと思っていました」
豪北地区へ送り出すための上海集結であったが、そこでの訓練は対米戦に的をしぼったものではなかった、と彼らはいう。
これを聞いて思い当るのは、昭和十八年末まで陸軍大学校の教育は依然として対ソ戦術が主であったという一事である。
対米開戦から満二年を経た昭和十八年十二月一日、陸大第五十七期生の卒業式当日、戦術教育天覧≠ノは満州の地図を使い、対ソ戦が実施された。天皇は陸大からの帰途、側近の者に「対米戦たけなわの今、対ソ戦術ばかり研究していてよいものだろうか……」といった。これが動機となって、昭和十九年から初めて陸大や士官学校の教育に対米戦術がとり入れられ、しかも短期速成教育になったという。信じがたい話だが、十八年に陸大入試を受けた人は「試験問題は対ソ戦術ばかりだった」といい、十九年に士官学校の教官を勤めた人は「それまで全く研究していなかった対米戦術を、いきなり生徒に教えろと命じられて困惑した」と語る。
昭和十四年から十五年にかけて参謀次長の要職にあった沢田茂は、「太平洋戦争開始のころもその後も、陸軍首脳のアメリカ認識はゼロに等しかったといえる。豪北や比島、沖縄の戦いでアメリカの物量作戦に押しまくられたが、中でも土木工事――つまり機械化された工兵の力には全くかなわなかった。アメリカの兵器の研究など、ほとんど出来ていなかった」と語っている。
すでに敗色濃い十八年末まで、なぜ陸大で対米戦術が研究されなかったのか――。その理由として、陸軍の最大関心事は常にソ連対策であったこと、対米戦の主役は海軍だという考えが強かったこと、世界一精強なソ連陸軍との戦いを準備しておけば、|それより弱い《ヽヽヽヽヽヽ》米陸軍とは十分戦い得ると考えられていたこと、などが挙げられている。アメリカは海軍こそ超一流だが、陸軍は兵力も少なく弱いというのが日本陸軍の認識であったという。
「昭和十四年のノモンハンの惨敗という苦い経験が、その後いっこう生かされていませんが」と、防衛研修所戦史部教官の森松俊夫は語る。「しかし、敗因の研究がなされなかったわけではありません。参謀本部は国軍の戦力、戦備全般にわたる改善の資料を得るために、研究委員会を設置しました。中央からは陸大の兵学教官だった小沼治夫《こぬまはるお》中佐などが派遣され、関東軍の現地関係者と一緒に研究して、十五年一月には精密な報告書を提出しています。
また十七年のガダルカナル島の惨敗で、アメリカの戦術や兵器の性能は日本側によくわかったはずですが、この経験もその後の豪北や比島の戦いに生かされていません。なぜか――。兵器が劣っているとわかっても、金《かね》や資材や技術の面でどうにも出来ないので、これを精神力でカバーしようという方向へ流れたのだと思います。
しかしこれは同情的な見方で、根本の理由は、経験を生かすことの出来ない陸軍の体質≠ノあったというほかありません。それでは、なぜそんな決定的な欠陥のある体質が出来上ったのか――ということになりますが、これは今後とも研究しなければならない大きな課題だと思います」
陸軍の中にも「経験を生かさねばならぬ」と説く人は何人かいた。だが兵器の優劣についても、戦局の見通しについても、事実判断≠ノ基づいて冷静な意見を述べる者は、東条英機に代表される権力者に用いられず、敗北主義者≠ニさえ呼ばれる時代であった。
ビアク島の戦闘には日米とも戦車を出動させているから、歩兵第二二二連隊の兵たちが上海で対戦車戦の訓練を受けたことを的はずれとはいえない。しかし、その前提となるアメリカの戦車の性能について、指導層は全く無知であった。この根本的な弱点は、やがてビアク島の実戦の場で暴露されることになる。
第二二二連隊の兵たちをすし詰めにした三隻の輸送船は十二月二十日、無事にニューギニア本島の西北西にあるハルマヘラ島に到着した。兵たちはまだ自分の行く先を知らない。彼らがそれを知ったのは、ハルマヘラ島を出航して間もない洋上で、「第二二二連隊は第三十六師団長の指揮下を離れ、第二軍直轄のビアク支隊≠ニなる」という軍命令を受けた時であった。連隊は十二月二十五日、ビアク島に上陸した。この島は数少ない極楽鳥の生息地であった。
兵たちには、たちまち重労働に明け暮れる日々が始まった。東南部海岸地区のモクメルに第一、第二、第三と東から西へ並ぶ飛行場の建設が始められ、支隊長の葛目直幸大佐は「現在の一時間は、空爆下の百時間に優《まさ》る」と、作業を急がせた。病人が続出した。この島は道≠ニ呼べるものさえない文化果つる地≠ナ、マラリアやアメーバ赤痢が蔓延《まんえん》していた。
重点的に作業を進めたモクメル第一飛行場が完成し、開場式が行なわれたのは十九年四月三日、神武天皇祭の日であった。
「地表を覆っていた浅い土をとりのぞき、珊瑚礁を平らにならして造った飛行場はまっ白で、明るい太陽の光に輝いていました」と、主計少尉であった佐々木仁朗は語る。「見とれるほどの美しさでしたが、これでは敵の偵察機に目標を与えるようなものだと、重油をまいて汚したりしたものです。なにしろ一面珊瑚礁ですから雨が降ってもぬかるみにはならず、急造のものとしては理想的な飛行場でした」
飛行場の完成を待ち構えていたように、四月五日には米軍偵察機がビアク島に飛来し、その後はしばしば空襲を受けるようになった。
参謀本部は第三十六師団主力をビアク島に転用しようと計画した。しかし、ビアク島の東方約三百キロのニューギニア本島サルミ地区所在の同師団は、すでに延四百六十機の敵機と艦砲射撃の攻撃を受け、制空海権を米軍に握られて移動は不可能であった。
このころ、豪北地域の日本航空隊は最悪の状態であった。ビアク方面担当の海軍航空戦隊も次第に戦力を消耗したため、やむなくビアクを放棄して、ニューギニア本島西北端のソロンを基地としたが、同隊の使用可能機は零戦《ゼロせん》十二機、中攻六機にすぎなかった。
五月二十七日未明、海上に一発の砲声が轟《とどろ》き、曳光弾《えいこうだん》が尾を引いてモクメル第一飛行場に射ちこまれたのを合図に、日本軍陣地全域に天地も崩れるばかりの艦砲射撃が開始され、夜明けと共に空爆も加わった。それが日暮れまで続き、将兵はまず米軍の物量のほどを知らされた。
この日、米軍は艦砲だけでも六千発以上を集中させて、日本軍を各陣地に逼塞《ひつそく》させた。そして午前七時二十分、ヒューラー師団(第四十一師、六箇大隊基幹)はモクメル飛行場の東、海岸沿いに約十三キロのボスネックに上陸してきた。
米軍は偵察によって、ボスネックが無防備に近いことを知っていた。海岸線に沿って高さ百メートルを越える断崖《だんがい》がつらなり、北方に一筋の小道しかない地形から、日本軍はここに米軍が上陸することはないと判断していた。だが戦車十七、車輛《しやりよう》五百を伴う米軍の機動力は、この空想をくつがえした。さらに米軍はこの地形を逆に利用し、海岸線二キロにわたって橋頭堡《きようとうほ》の構築を始めた。
それと並行して、米軍の一部はボスネック北方に配備された一箇小隊の陣地を急襲し、付近の高地を確保した。
これはビアク島で日米両軍の地上兵力が初めて接触した戦闘だが、一箇小隊と共に中隊主力もここで全滅したという説と、中隊主力は同日の夜襲で全滅したという説との二つがある。これも一例だが、ビアクの日本軍は全滅≠オているので、数少ない生還者の証言をつなぎ合わせても、戦闘の経過には不明の部分、異説のある部分が多い。
この日、一部の陸海空軍がビアク島突入を決行した。ソロン基地の陸軍飛行第五戦隊が「米軍ビアク島上陸」を知ったのは午前十時ごろであった。かねて「ビアク島は豪北決戦の天王山」と信じ、また阿南の「徳義は戦力なり」を深く胸に刻んでいた高田勝重少佐は、独自の判断で、四機を率いてビアク島へ向かった。そして正午すぎ、ボスネック海上の米艦船に体当りを敢行、三隻に被害を与えて、全機玉砕した。海軍第二十三航空戦隊も手持ち零戦十二機のうち九機が出撃し、敵機三機を撃墜、上陸用舟艇数隻を炎上させたが、五機を失った。
日本軍は米軍上陸地点の判断を誤まったが、米軍にも誤算があった。日本軍の兵力を実数の半分以下と過少に判断した結果、一箇連隊の機動作戦によって、モクメル飛行場方面は一日で占領できると楽観していた。その予測がいかに甘かったかを、彼らはやがて痛烈に知らされることになる。
阿南の日誌に記されているように、第二方面軍参謀長である沼田多稼蔵中将は、米軍上陸の前日二十六日にビアク島に飛来していた。そして二十七日早朝、阿南が待つメナドの方面軍司令部へ帰任するため、宿営地の西洞窟≠ゥら自動車でモクメル第一飛行場に向かい、いま飛び立とうとするところで艦砲射撃を浴びた。軍曹一人が即死、沼田一行はジャングルに難を避けたが、搭乗機《とうじようき》が破壊されたため離島は断念するほかなかった。現地で作戦指導に当るため、沼田が危険を冒して西洞窟に帰り着いたのは午後四時であった。
戦闘が開始されたビアク島には、第二軍直属の支隊長である葛目大佐、海軍第二十九特別根拠地隊司令官の千田貞敏少将、第二方面軍参謀長の沼田中将の三人がいた。この事態に困惑したのは、第二軍司令官豊嶋房太郎中将である。作戦要務令によれば、葛目の上級官である沼田が現地部隊の指揮に当るのが建前であった。だがその通りにすれば、第二軍司令官である豊嶋が上級司令部の参謀長を指揮することになって具合が悪く、また両者の作戦指導上の意見に相違が生じた場合は統一を欠く恐れもあった。
結局豊嶋は折衷案をとり、沼田に現在地の西洞窟に近い第二、第三大隊と岩佐戦車隊の指揮をまかせ、葛目は支隊本部方面の第一大隊と安藤集成大隊の指揮をとり、作戦については沼田の指導を受けさせることにした。
これによって戦線は西部と東部に二分されて別々の指揮系統を持つことになり、しかも東部戦線では葛目は沼田の指導下におかれるという変則な形となった。この指揮命令系統の変則性は、敵状判断の困難、通信器機の被害などともからんでその後の作戦指導をひどく混乱させ、葛目の悲運にさらに屈折した陰影を添える結果となる。
葛目の拠る支隊本部は米軍の上陸地点ボスネック海岸の北方約五キロの丘陵斜面、海抜約五十メートルである。沼田の拠る西洞窟は葛目の支隊本部から西へ約十四キロで、米軍の猛爆を受けているモクメル海岸第一飛行場の北北西約二キロ、海抜百メートルのジャングルの中である。
これらはいずれも直線距離で、海岸線は米軍の猛攻にさらされており、実際には葛目の支隊本部――沼田の西洞窟間は、ジャングルの中を二日がかりの行程だった。西洞窟、海軍の千田の拠る東洞窟は、いずれもジャングル中の天然の大洞窟である。
二十七日、ボスネック北方五キロの複郭陣地にいた葛目は、米軍主力に対する夜襲の準備を進めていた。
この夜から二十八日の暁にかけての夜襲は各隊によって、ほぼ米軍の全陣地にわたって決行された。
米軍は、日本軍が緒戦以来何度同じ失敗を繰返しても戦法を改めない日本陸軍の体質≠熟知していた。日本軍の夜襲を予期していた彼らは、聴音器、電波探知器、軍用犬などによって即座に接近する日本軍の所在を知り、濃密な火力を集中してきた。このため夜襲隊は多くの死傷者を出しただけで、夜明けまでにそれぞれ撤収した。中国の戦線で戦えば必ず勝つ≠アとに馴れていた将兵は、米軍との初の戦闘でその物量と科学戦から精神的にも大打撃を受けた。
二十八日、この日も米軍はモクメル第一飛行場を占領しようと進撃してきた。接近戦であるため米軍の艦砲、爆撃による掩護《えんご》が一時不可能になったことに力を得て、肉迫攻撃を繰返し、一度は飛行場近くまで進出した米軍を東方へ後退させた。火力の掩護を不可能にする白昼接近戦が、米軍に対する最も有効な攻撃であることを示す戦闘であった。
二十九日、岩佐戦車中隊の軽戦車九輛が歩兵を伴って出撃し、米軍の中戦車三輛との間に日米戦車戦が展開された。両軍の戦車を比較すると、日本の軽戦車は試作段階であり、重量九トン、火力は三七ミリ砲一門と機関銃に対し、米軍の中戦車は重量三三トン、七六ミリ砲一門に機関砲、機関銃の装備で、装甲に至っては日本の三〇ミリに対し、米は五〇ミリという差であった。
岩佐戦車隊の三七ミリ砲弾はよく命中したが、空《むな》しくはね返るばかりであった。突入した七輛は米戦車の七六ミリ砲弾に貫通されて全滅に瀕《ひん》し、最後尾の二輛だけが退避した。砲の大小、装甲の厚薄が勝敗を決したこの戦闘で、隊長の岩佐中尉は戦死した。
「私はその場にいた」と斎藤徳太郎は語る。「轟々《ごうごう》と勇ましく進んできた戦車の先頭が私の近くで停り、天蓋《てんがい》を開いて隊長が上半身を見せて、『おい、そこの伍長、敵はどこにおるか』と声をかけられたので、私は飛行場を狙っているモクメル坂一帯の敵の方を指差して教えた。
ここは一方が断崖で、戦車は一列縦隊で進むほかない地形だった。間もなく敵戦車も出撃してきて戦闘が始まったが、日本の戦車はたちまち敵弾に貫通されて、先頭からボンボン燃え出した。手を握りしめて見ていたが、とうとう隊長は脱出して来なかった。戦車があんなによく燃えるものだとは、思いもよらなかった」
「ビアク島は空母十隻に価する」とこの島を重視する阿南は、すでに南方軍に対し、フィリピンに待機中の第二海上機動旅団(玉田旅団)のビアク増援を電請していた。南方軍は海軍南西方面艦隊との連名で、これを大本営に打電した。
約四千五百名の玉田旅団は昭和十八年十一月、絶対国防圏決戦≠フため関東軍が公主嶺で特別編成した海上遊撃旅団で、素質、装備とも極めて優秀であった。
フィリピンを重視する東条首相・参謀総長は玉田旅団を移動させたくなかったが、連合艦隊司令長官豊田|副武《そえむ》大将をはじめ、「豪北|即《すなわ》ちビアク」と極言するほどこの島を重視してきた海軍側は強くこれを支援した。だがこの時の海軍側にとって「ビアク確保」はむしろ添えもので、主目的はすでに発動している「あ号作戦」の端緒を開くことであった。
五月二日に決定した「あ号作戦」とは、米軍が西部ニューギニア方面に進攻する機会に米航空艦隊主力を捕捉《ほそく》撃滅しようとするもので、第一航空艦隊をマリアナ・ニューギニアの線に展開し、第一機動艦隊を比島中南部に集結待機させて決行しようという大作戦であった。海軍は玉田旅団の輸送に当る艦艇群を囮《おとり》として、所在不明の米機動部隊主力を誘い出そうともくろんでいた。
五月二十九日夜、大本営陸海軍部はこれを認可し、連合艦隊は玉田旅団のビアク艦艇輸送を命令した。この作戦は「渾作戦」と名づけられ、第十六戦隊司令官|左近允尚正《さこんじようなおまさ》少将が指揮官となった輸送隊は「渾《こん》部隊」と呼ばれることになった。「あ号作戦」と「渾作戦」とが一体となったこの時、ビアク島は陸海軍協力による大作戦の焦点であった。
六月二日夕、渾部隊と玉田旅団は、四日夜のビアク突入を期してダバオを出航した。
渾部隊の動きを知ったマッカーサーは、ホーランジアにあった第七艦隊を出動させた。この時点の米海軍は、空母十五隻を基幹とする機動艦隊の主力をあげてマリアナ進攻を企図し、九日マーシャル群島のメジュロを出撃と決定していた。米軍がビアク島攻撃に力を注いでいるのも、マリアナ進攻に呼応するための飛行場占領が当面の狙いであった。
このとき日本側はまだ米機動艦隊主力の所在をつかんでいなかった。六月三日朝、渾部隊はハルマヘラ島北方から東南東に進路をとり、ビアク島へ直進していた。玉田旅団をビアク島に上陸させ、その周辺の米艦船を撃滅し、ビアクの米軍に砲撃を加えて一気に戦勢を決しようという企図である。
このとき誰もが、戦況は刻々と日本軍にとって有利に展開していると信じていた。特に死闘を続けるビアク支隊将兵は、この強力な増援部隊の到着をひたすら待っていた。第二軍司令官豊嶋中将も渾部隊のビアク突入を信じていたからこそ、同島へ向かうはずだった西原大隊を周辺の他の島へまわした。この西原大隊は後日、ビアクの戦闘が峠を越してから到着し、全滅の悲運にあう。
阿南もまた渾作戦の決行を信じ、揚陸用舟艇の不足を補うため海軍側がゴムボートをダバオに空輸したことに対し、「海軍ノ徳義的協力ハ感謝ニ堪ヘズ」と日誌に書いている。
その阿南が「渾作戦中止」の報に愕然《がくぜん》としたのは、六月三日夜であった。
三日正午近く、ビアク島へ直進していた渾部隊はB24二機に接触され、つきまとわれたが、夕刻まで空襲も艦艇攻撃もなかった。まさに突入の好機と思われたが、午後八時二十五分、瀬戸内海の柱島にあった豊田副武連合艦隊司令長官は扶桑《ふそう》以下護衛艦の原隊復帰と、輸送艦艇のソロン入泊を命じた。
阿南は「後電ニ依レバ、渾作戦中止ハ三日十一時頃敵B24ニ発見セラレシ為《ため》ト。驚クベシ、最初出発時ハ敵飛行機ヲ扶桑ニ吸収シテ突入ストノコトナリシニ、意外千万ナリ。サキノZ一号作戦ト同様、煮湯ヲ呑マサレシ感アリ」と書いている。
彼は憤懣《ふんまん》を押えて、四日午前三時、渾部隊の指揮官左近允あてに「直路ビアクニ突入サレタイ」と要望した。左近允はこれに添って玉田旅団の二箇大隊をビアクへ急送しようと準備を始めたが、これを終らぬうちの四日午前十一時三十分、陸軍司偵から「空母二ヲ含ム敵機動部隊西進中」と報じてきた。これはマッカーサーが劣勢の不安にかられながらホーランジアから派遣した艦隊で、その中に空母などはない。しかし連合艦隊司令部はこの誤報に基づき「渾部隊ハ至急玉田旅団ヲソロンニ揚陸、ヒトマズアンボン<j避退セヨ」と命令し、渾部隊はソロンに急行し、夜半雨の中で玉田旅団は上陸を開始した。
「敵空母二ハ誤認、渾作戦ヲ再興スベシ」という連合艦隊参謀長電がソロンに届いたのは、玉田旅団の大部分がすでに上陸した時であった。しかも駆逐艦の燃料は不足していた。左近允は「揚陸作業を続行し、いったんアンボンに避退して燃料を補給した上で渾作戦を再興する」ことに決した。最も初歩的な誤認によって、玉田旅団はニューギニア本島西北端のソロンに足止めとなった。
ビアク島周辺海上での度重なる誤認と失策に、混乱の度は深まるばかりであった。
ビアク島の米軍は航空偵察によって日本軍の動きを手にとるように知り、守備の手薄な地点を的確に突いてくる。だが制空海権を奪われた上、昼夜を分かたぬ砲撃下にあった日本軍は偵察や通信連絡が極度に困難で、敵状の誤認、誤判が作戦を大きくつまずかせた。沼田と葛目とは味方の状況さえ十分には把握《はあく》できなかった。
西洞窟の沼田は三十一日からの米増援隊の上陸を知らず、また二十九日にモクメル飛行場地域から撤退した米軍の迂回《うかい》作戦による東進を知らぬまま、戦線東端の葛目に西進を命じ、それらを第二軍へ報告していた。西洞窟の沼田からの報告だけが判断材料であった第二軍司令部は、ビアク島の戦況を楽観して次々に実情に則さぬ命令を出す結果となる。
だが実情は斎藤第一大隊も安藤集成大隊も潰滅《かいめつ》状態に陥り、残余の各隊と支隊本部は米軍の後方にとり残された形になっていた。
米軍の進撃方法は、密林に火網を張ってなぎ倒し、ブルドーザーで清掃した後を機械化部隊で侵入してくるもので、蛮刀などで木を伐り倒しながら一歩一歩進む日本軍の手ぬるさとは比較にもならなかった。
三十日、葛目は軍旗を奉じて昼夜兼行の行軍で西洞窟に着いた。全員の疲労は激しかったが、二時間後さらに豪雨の中をボスネック北方台上を目指して反転した。ボスネックまで一足《ひとあし》のマンドン北方台上まで来たところで葛目は沼田からの再招請を受け、結果としては実現しない玉田旅団到着に関する協議のため、またも西洞窟へ向かって珊瑚礁の崖とジャングルの難路をたどった。五十三歳の葛目の顔は極度の疲労にどすぐろく隈取《くまど》られ、目だけ光っていたという。
この間、各地の部隊は地形を利用して白昼の奇襲肉迫攻撃をかけ米軍をたじろがせたが、大勢を挽回《ばんかい》するには至らず、死傷者を増すだけであった。東洞窟では海軍部隊と南部隊が、ここでも多数の死傷者を出しながら健闘していた。
四日、マンドン裏の竹やぶの中に孤立していた葛目支隊本部は、米軍有力部隊の攻撃を受けた。軍旗を守って反撃、果敢に撃退したが、またも多くの死傷者を出した。その直後、葛目は西洞窟の沼田から第二軍司令部発の「ボスネック攻撃命令」を伝えられて苦悩した。このとき沼田はまだ米軍主力が目と鼻の先のモクメル飛行場東北方面に進出したことを知らず、第二軍命令を実行するため、翌五日には同飛行場の守備に当っていた牧野大隊までをボスネック方面へ移動させた。
「渾作戦一時中止」の報がビアク島に伝わった日、西洞窟内の重傷者の多くが自決したことからも、ビアク支隊将兵の落胆の深さが察しられる。六月にはいって以来ビアク島の戦況は急速に悪化していたが、将兵は「玉田旅団さえ来れば……」という期待に支えられ、各地で孤立しながら健闘してきた。
誤認による連合艦隊司令部の命令で玉田旅団をソロンに上陸させた左近允尚正は、重ねての渾作戦再興命令に対し、「必成の確信なし」と答えた。二度にわたる中止で機を逸し、艦艇規模も縮小されたうえ、米軍に意図を知り尽されたこの時となっては、成功はおぼつかないという判断であった。この答は第二方面軍、第二軍両司令部を驚かせた。
だが第二方面軍と第二軍は渾作戦の再開を強く要請し、左近允も巡洋艦を使用しては敵機や潜水艦による攻撃の危険が大きいため、「駆逐艦六隻のみの輸送で決行」と方針を変えた。陸軍側は小人数しか運べない駆逐艦輸送に難色を示したが、結局六月八日、まず北井第一大隊六百名をビアクに上陸させることに決して、準備を進めた。これが第二次渾作戦である。
[#改段]
玉砕、待て
米軍上陸から十一日目の六月六日、ビアク支隊は飛行場のどれ一つも米軍の手に渡さず、健闘していた。マンドン北方の葛目は第二軍の命令に従い、牧野第二大隊の到着を待ってボスネックの米軍基地に夜襲をかけようと、準備を進めていた。牧野大隊の移動によって、モクメル飛行場の警備は極度に弱くなっていたが、この時もまだ日本軍は米軍主力のモクメル進出を知らなかった。
米軍主力もまた牧野大隊の移動を知らなかったが、七日朝、空巣を狙った形でモクメル第一飛行場に侵入した。残留していた迫撃第二中隊が砲門を開き、砲撃戦となった。正午ごろ、米軍は水陸両用戦車による海上からの増強を開始した。中隊はこれに目標を転じて猛射を浴びせたが、夕方までに火力の六十パーセントを失なった。
マンドン北方台上の葛目は遠く飛行場方面の砲声を聞いて事態を察し、ただちに夜襲計画を中止して、牧野大隊を反転させた。牧野大隊は前日たどった土人道《どじんみち》≠飛行場に向かって急行したが、米軍はすでに飛行場東端付近に厳重な陣地を構築していた。沼田、千田両将は、飛行場の夜襲を翌八日と予定して準備を進めた。
六月八日、この日は第二次渾作戦と、ビアク支隊主力を挙げてのモクメル飛行場夜襲が決行されるという、ビアク決戦のヤマ場の一つであった。
渾部隊の駆逐艦六隻は玉田旅団機動北井第一大隊六百人を乗せて、午前三時ソロンを出港した。正午ごろ、米機十数機に襲われ、まず「春雨」が沈没、「白露」も小破して、第二十七駆逐隊司令白浜政七大佐をはじめ約百人が戦死したが、海難者を救助して東進を続けた。さらに夜九時ごろ、ビアク島北方に米艦隊ありとの通報を受けたが、スコールを利用して、上陸地と定められたビアク島北岸のコリムに接近した。
午後十時、北井大隊長は上陸決行を命令し、各隊が大発(大型発動機付上陸用舟艇。積載量は武装兵七十名)に分乗しようとした時、戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦八と数えられる米艦隊を左前方に発見した。左近允はとっさに「算なし、反転」の命を下し、大発を切り離して、米艦隊に魚雷と砲撃を加えながら北西方に退避した。こうして第二次渾作戦も決行寸前で失敗した。
このときもなお、ビアク島の将兵は士気|旺盛《おうせい》であった。第二大隊第五中隊の軍曹だった早坂定吉は「アメリカに負けるとは思っていなかった。確かに苦戦だが、玉田旅団が来るまでがんばっていれば、あとは大丈夫だと思っていた」と語る。ただ、北支では自信のあった迫撃砲が、気温、湿度の高いビアクでは弾が遠くへ飛ばなかったり、またサイズの合わない弾を支給されたのには参ったという。
モクメル第一飛行場の夜襲が開始されたのは、海上で渾部隊が退避に転じた直後であった。
「私の属した第二大隊は本来この飛行場確保が任務だったので、この辺の地形はよく知っていた」と斎藤徳太郎は語る。「隠密に突撃準備線へ進んだ。こういう時は、死ぬかもしれないなどという気は全然起こらず、ただ敵の中へ突っこむことだけを思いつめているものだ」
彼の分隊は匍匐《ほふく》前進で敵前五百メートルに達したとき、突然猛烈な集中砲火を浴び一歩も進めなくなった。弾痕《だんこん》を利用して身を伏せていた斎藤の間近で、急に一人の兵がけたたましい笑い声をあげてすっくと立ち上り、敵の方へ歩き出した。「戻れ!」「伏せろ!」と叫ぶ斎藤たちの声は砲声にかき消され、発狂した兵の姿も暗闇に消えた。
夜襲は飛行場の米軍を包囲する形で海岸方面へ圧迫しようとする作戦であったが、米軍の強烈な火力に牧野大隊長はじめ多数が戦死して失敗した。これによってビアク支隊の戦闘主力は事実上失われ、五日ようやく戦場に到達した増援の小沢第一|梯隊《ていたい》(一箇中隊、機関銃小隊)だけとなった。
葛目は牧野第二大隊を反転させた後、残りの兵力を率いて飛行場地区に来たが、先に第一大隊を失い、今また第二大隊の主力を失ったことを知った。日本軍は最大の危機に直面した。
翌九日、米軍は初めて西洞窟を攻撃してきた。西洞窟では、新戦力となった小沢第一梯隊と海軍部隊が、傾斜変換線の陣地(敵からは見えない反対側斜面を利用した陣地)に拠って奮闘した。
ビアク島の戦況が危機に瀕したこの時、大本営は第三次渾作戦を決定し、九日深夜、連合艦隊はこれを発令した。
海軍は米空母十五隻を基幹とする機動艦隊がマーシャル諸島のメジュロにあり、九日その全艦が出動したことを知った。これは米軍のマリアナ進攻作戦のための出撃であったが、ようやく米主力の所在を知った大本営は「あ号作戦」決行の好機と判断した。このため従来の姑息《こそく》な作戦をすて、第一艦隊の「大和」「武蔵」両艦以下を大挙して「渾作戦」の掩護に出動させ、ビアク島への玉田旅団上陸と共に、米地上部隊に巨砲による砲撃を加え、いや応なしに米機動艦隊の救援出撃を誘おうとしたのである。
海軍側のこの方針は「あ号作戦」にかける熱意から生まれたものだが、ビアク島を失うことは豪北全域を失うに等しいという部内の大局観によるものでもあった。もしビアク島が米軍の手に帰し一大不沈空母として使われれば、ニューギニアはもとより、小スンダ列島からセレベス、ハルマヘラ、フィリピンにかけての要域がすべて米軍の制空権下にはいることになる。日本にとって、これは事実上の南方資源地域の喪失であり、絶対国防圏全体の破綻《はたん》である――と、海軍は考えていた。この点、海軍と阿南とは意見が一致している。
阿南は六月十日の日誌に第三次渾作戦決定に対する深い満足を述べ、さらに「安達第十八軍司令官ニ、ホーランジア地区奪回、握手スルノ外処置ナシ、アイタペ攻撃後ハ其《そ》ノ地附近ニ厳存自活シテ好機ヲ待ツベク、シタタム。土産品ナド調《ととの》ヘシム」と書いている。
阿南と、ニューギニア東北部に孤立して悪戦苦闘している第十八軍司令官安達とは、「皇国のため、指揮官たる者は常に積極的に、可能性の極限までをこころみねばならぬ」という心構えの基本で完全に一致していた。この二人は交渉を持つ度に、自分の理想とする武将像を相手の中に見出《みいだ》して、深くうなずき合っていたと想像される。このときも阿南は、常に言語に絶する困難と直面している安達をねぎらおうと、副官にこまかく指図して土産品をととのえている。武士の情≠最もよく解する相手と感じていたのであろう。
阿南は前日九日の日誌に「ホーランジア奪回ノ企図ヲ示シ」たことに対し、南方軍から「詰問ノ電」を受けたことを書いているが、彼は「後退主義者ニハ戦道ハ解セズ」と、頑として自説をまげようとしない。第三次渾作戦決定の報にわが意を得たり≠ニ血を沸き立たせた阿南は、早くもその成功を夢想し、さらにその夢をホーランジア奪回へまで広げて、安達に書き送った。
ビアク島の将兵もまた、第三次渾作戦決定の報に狂喜した。日本海軍の誇り「大和」「武蔵」の巨艦が自分たちの戦場に向かって来るということも、かねがね名前は聞き知っている宇垣|纏《まとめ》中将が総指揮官だということも、息がはずむほどに嬉しく、頼もしく思われた。これこそ、ビアク島の劣勢を一挙に挽回する最後の切り札だ――と、洞窟に横たわる重傷者までが生気をとり戻した。
そのころ西洞窟には三百人に近い重傷病者がいたが、食糧、弾薬は乏しく、極限の生命を支える水さえなかった。
「洞窟の天井からポタリ、ポタリと水が落ちていました……」と、当時曹長であった伊藤昌は語る。「それを飯盒《はんごう》のふたに受けて、僅かに喉《のど》をしめしたものでした」
まっ暗な洞窟内は亜熱帯の強烈な湿熱から発生する水蒸気、絶命した兵の屍臭《ししゆう》、傷兵の膿臭《のうしゆう》、糞尿臭《ふんにようしゆう》などで窒息しそうだった。天井から落ちる水滴にも、悪臭といやな味があった。うめき声、叫び声の中で、支離滅裂な希望的観測やデマが入り乱れていた。それらを耳にしながら「冷静に状況を判断し、いかに対処するかを考えることは、ほとんど不可能でした」と、佐々木仁朗は語る。
米軍はモクメル第一飛行場を占領したものの、日本軍の執拗《しつよう》な抵抗に妨げられて修復作業にも手がつけられず、新たな増援軍を待っていた。
日本側では増援の引地第五中隊が西南岸ワルドに上陸し、全速力で戦線に加わったが、この小兵力の投入ぐらいでは大勢の変化は望めなかった。将兵のたてこもる洞窟のほとんどが米軍に包囲され、弾も食糧も尽きかけていた。第三次渾作戦による玉田旅団の到着はいつなのか――。将兵はひたすらそれを待った。
六月十日西洞窟で、葛目をまじえ、砲声と地響きの中で作戦会議が開かれた。だが葛目と海軍の千田の意見が一致せず、会議は結論を得ないままで終った。
その直後葛目は、沼田と共に来島していた第二方面軍参謀|重安穐之助《しげやすあきのすけ》大佐に、「あなた方は方面軍の重要な仕事をすべき人たちだから、ここで死んではいけない。空海協力のない孤島の陸上戦闘がいかなるものか、その実情を伝えるためにも、どうぞ帰っていただきたい」と切々と離島をすすめた。千田もまた、強くこれを勧告した。この夜、増援隊を輸送する大発が北岸コリムに着くはずなので、戻り舟を利用すればビアクを離れることが可能であった。
だが沼田は、「将兵を見捨てて、我々だけが帰ることは出来ぬ。死所を共にする」と強硬にいい張った。葛目と千田は「今夜が最後の機会」と言葉を尽して説得し、重安も「私情にかられて公職を放棄すべきでない」と主張した。
遂に沼田は離島を決意した。沼田と方面軍参謀二人、この島に不時着した海軍航空隊の搭乗員四人、それに従軍記者一人を加えた一行は、警護に当る佐々木少尉以下十八人と共に西洞窟を出てコリムに向かった。
一行は二十日朝、無事マノクワリに着いた。だがここからビアク島へ引返した警護隊十八人はヌンホル島近くで魚雷艇に襲われ、全員が海へ投げ出された。斎藤徳太郎は「生き残ったのは、私ともう一人だけ」と語る。
沼田が西洞窟を離れた翌日、六月十一日にビアクの米軍は総攻撃を開始した。日本軍はそれぞれの洞窟にたてこもって、よくこれを防いだ。
この日、マリアナ方面では米機動部隊による大空襲が開始された。
東進していた「大和」「武蔵」以下の艦隊は六月十二日早朝、ハルマヘラ島西南部のバチャンに到着し、第三次渾作戦が策定された。十三日、出撃準備は完了し、輸送部隊との合流は翌十四日午前七時、ビアク突入は午後十時と決定した。
ビアク島には、すでに到着している小沢第一梯隊に次いで、第三、第二の順で同梯隊が到着し、戦線に投入されていた。
十四日午後六時――渾部隊ビアク島突入予定四時間前、「大和」艦上の宇垣司令は「敵サイパン泊地掃海中」というサイパン発の重大電報を受信し、柱島の連合艦隊も米機動部隊の所在捜索に懸命であることを知った。この時点の宇垣は「あ号作戦用意」の命令さえ受けていなかったが、マリアナ方面の異変を知った彼は、独断で「大発搭乗取リ止《や》メ」「北進準備」を発令した。第三次渾作戦の中止である。この宇垣の独断専行は、続いて連合艦隊が「あ号決戦準備」「渾作戦一時中止」の命令を発したため、問題にならなかった。マリアナ方面の状況変化がもう半日遅れていたら、第三次渾作戦は決行されたであろうが、宇垣の決心変更でビアク島の日本軍の見殺しは決定した。
この十四日、阿南は「渾作戦一時中止」に対して「統帥乱レテ麻ノ如シ」と慨歎《がいたん》しているが、翌十五日は冷静に次のように書いている。
「愈々《いよいよ》あ号作戦合戦用意令サル。同時ニ渾作戦一時中止ノ命ニ接ス。大局上|已《や》ムヲ得ザリシモ何等カ天佑《てんゆう》神意ノ存スルアランカ」
阿南はなおビアク島増援を考え続け、玉田旅団のかわりに他の部隊の派遣などを企図していた。右の日誌は「夜十時過ギ、ビアク島ノ奮闘ニ対シ、総長及軍令部長ヨリ感謝電来ル」と続いている。
六月十五日、米軍のサイパン島上陸が開始された。遂にこの日まで、ビアク島の米軍はモクメル飛行場から一機もサイパンへ飛びたたせることが出来なかった。同日、第一軍団長アイケルバーガー中将が作戦指導のためビアク島に到着し、現地の師団長ヒューラーは更迭された。米軍の軍紀、特に指揮官に対する厳しさを示す一例である。
六月十七日、阿南のビアク島増援方針の一環として、第二軍司令部所在地マノクワリにあった西原大隊主力約七百がコリムに上陸した。
十九日、今は十二箇大隊に増強されたビアクの米軍は総攻撃を開始し、夕刻には西洞窟を二重に包囲して、次第にその輪を締めつけてきた。
米軍の中戦車群は西洞窟に肉迫し、戦車砲で洞窟の入口を広げて、火焔《かえん》放射攻撃や爆薬を投入してきた。すでに爆薬もない日本軍は、空びんにガソリンを詰めた火焔びん≠抱いて戦車に立ち向かった。
洞窟の外に出た兵の大部分が帰らなかった。死体は蠅《はえ》、ウジ、兵たちが虫葬屋《ちゆうそうや》と呼んだ黒い昆虫《こんちゆう》に食い尽され、五、六日後には鉄帽、軍衣、脚絆《きやはん》、軍靴《ぐんか》をつけた姿で白骨になった。
未完成のモクメル第二、第三飛行場も遂に米軍に占領された。米軍が初めて第一飛行場の修復工事に着手できたのは、二十日であった。
二十一日、葛目は玉砕の時が迫ったと判断し、軍旗を焼いた。天皇から親授され統帥の象徴とされた軍旗は、最後の危機には焼却する建前であった。奉焼≠ニ呼び、軍旗を奉焼した連隊長は自決するという不文律があった。葛目は本部付の将校を身近に呼び、僅かに残ったウイスキーを分けて語り合った。憔悴《しようすい》しきった葛目の口許《くちもと》に静かな微笑があったという。彼は翌二十二日の夜襲で玉砕と決心していた。
弾丸も食糧も尽き、援軍の望みも断たれた西洞窟の将兵にとって、もはや玉砕以外の道はなかった。彼らの多くが自然にそれを望む気持になっていた。歩行のできる傷病兵はすべて夜襲に加わることとし、参加できない者には自決用の手榴弾《しゆりゆうだん》が渡された。
やがて日も暮れかけたころ、突然無線班が、西原大隊の百五十メートル高地方面到着を伝えてきた。救援の西原大隊は十七日に北岸のコリムに上陸したが、この日まで連絡がつかず、西洞窟ではその上陸さえ知らずにいた。
この報に力を得た海軍の千田少将をはじめ、連隊副官の鹿野大尉たちはこぞって玉砕を思い止《とど》まるよう、葛目を説いた。後方の複郭線に退き、西原大隊を加えて飛行場の使用を妨害しながら再起を期そうという意見である。すでに軍旗を焼いた葛目は容易に翻意しなかったが、遂に折れた。
「玉砕待てぇ」と叫ぶ鹿野副官の声が洞窟内に響いた。
脱出は二十二日午前二時、西洞窟北西約四キロの支隊高地≠ニ名づけた百五十メートル高地に転進と決った。米軍上陸から二十七日目である。敵中横断に等しい脱出に備え、本部と主力を掩護する決死隊の配置や周辺守備隊への連絡などが、あわただしく進められた。
午前二時、葛目以下ビアク支隊主力百六十人と千田以下の海軍幹部は、歩行不能で自決する将兵約二百人の狂ったような「万歳」と手榴弾の炸裂音《さくれつおん》の反響する西洞窟を出発、暗闇の中を支隊高地≠ヨ向かった。携帯火器は、小銃と僅かの擲弾筒《てきだんとう》だけであった。
長谷川高射砲隊をはじめ周辺各隊の必死の掩護の下に、一行が目的地支隊高地≠ノ到着したのはほぼ二日をついやした二十四日朝であった。この途中で、西原大隊との連絡もついた。やがて長谷川高射砲隊は弾を撃ち尽し、砲二門を爆砕して支隊高地≠ノ合流した。
二十五日、遂に日本軍の拠点は一つまた一つと潰《つぶ》され、残存の兵は支隊高地を目指してジャングルの中を逃れ、ビアク島の組織的戦闘は終った。この日、中部太平洋ではサイパン島が米軍に占領された。
葛目らと共に西洞窟を脱出した海軍の一行は、干潮時には徒歩で渡れる西北方の小島スピオリを目指して進んだが、予期した潜水艦の救援もなく、千田少将をはじめほとんど全員が次々に戦死してゆく。
西洞窟を脱出した葛目が支隊高地に向かっていた二十三日、メナドの第二方面軍司令部では阿南と大本営参謀とが、ビアク島防衛について大論争を続けていた。「渾作戦」が正式に中止された後も、なおビアク島防衛に対し積極方針を捨てない阿南を説得するため、大本営陸軍部は杉田一次大佐、美山要蔵大佐の両参謀をメナドに派遣した。
大本営が絶対国防圏域放棄を正式に決定したのは、六月二十五日である。遂に阿南はビアク島への兵力輸送を断念し、ビアク支隊に対しては「持久」に移るよう命令した。この命令がマノクワリの第二軍司令部からビアク支隊に発せられたのは六月二十七日だったが、すでに通信不能の状態であった。ビアクの将兵はこの命令を受領しておらず、従来通り「絶対確保」の至上命令下にあるものと信じて、行動し続けた。
「朝九時ごろ、葛目部隊長が突然『敵状視察に行く』といわれたので……」と、葛目の当番兵であった上関義一は語る。「私と本部付の崩《くずれ》曹長がお供しました。そのころの部隊長はすっかりやつれて、まるで七十歳ぐらいの老人のように見えました」
杖《つえ》にすがり足をひきずるように歩く葛目のうしろから、上関は≪敵は南にいるのに、なぜ北へ行くのかな……≫と不審に思いながらついていった。台地を下りた疎林の中で、葛目は初めて足を停めた。
「崩曹長、上関軍曹、よく聞け」と、彼は低い声で語りかけた。「戦闘はお前らの見る通りになった。陛下の赤子《せきし》多数を失なったことを、誠に申訳なく思う。この責任はすべて私にある。そのため……ここで自決する」
二人の兵は直立不動の姿勢で、茫然と聞いていた。
「ご苦労であるが、ここに穴を掘ってくれんか……」ちょっと間をおいて、葛目は「命令だ」と、押しかぶせるように言った。
崩は軍刀を、上関は銃剣を使って穴を掘り始めた。
≪俺たちが穴を掘り終ったとき、部隊長は死ぬ……≫と、いても立ってもいられない思いが上関の胸を駆けめぐるが、手を休めることはできなかった。葛目は立ったまま、部下たちの動きを見つめていた。兵二人は上官の命令に絶対服従する機械となりきることで、ようやく穴を掘り終えた。
葛目は二人の方へ大きくうなずき、「日本軍は必ず救援に来る。お前たちは生きのびて、お国のために尽してくれ」といった。そして「形見だ」と、崩には印鑑を、上関には双眼鏡を手渡した。
「退《さが》っていてくれ」といわれた二人は、息をつめて最後の敬礼をし、葛目に背を向けて足音をしのばせるように歩き出した。
間もなく銃声が起った。駆け戻った二人は、いま自分たちが掘ったばかりの穴の中に、すでに絶命した葛目を見出した。二人は合掌して、遺体に土をかけた。
埋葬をすませた上関は崩と共に支隊高地への道をたどりながら、しきりに葛目を思って泣いた。≪きまじめで、じょうだん一つ言わない隊長だったが、部下へのいたわりのある人だった≫と、今さらに葛目の温かさが胸に迫り、また方面軍参謀長の沼田がこの島にいた間の葛目の立場のつらさが思われた。
阿南の「ビアク支隊は玉砕することなく、極力ビアク島に健在し……」という持久移転の命令が、第二軍司令部を経由し、さらにコリム方面の海軍通信隊を通じて、ビアクに残存する将兵に届いたのは数週間後の七月中旬であった。
阿南が葛目の死について報告を受けたのも一ヵ月以上後で、その内容は不正確なものであった。阿南は日誌に次のように書いている――
「八月十五日
海軍根拠地ヨリノ書ニ依レバ、葛目支隊長ハ七月二日迫撃砲ニテ戦死セリトノコト。惜ミテモ余リアリ。真実ナラン。謹ミテ非凡ナル奮闘勇戦ヲ感謝シ、冥福《めいふく》ヲ祈ル」
葛目の自決後は、大森正夫少佐が支隊長代理となった。やがて大森は第二軍の「持久移転」の命令を知り、七月末には生き残りの将兵約千五百人のすべてを分散させて、自活を図ることとした。
食糧はとっくに尽き、ジャングルの木の実や草の葉をむしり、現地人の芋畑をあさるほかない状態であった。しかも大半が戦傷やマラリア、アメーバ赤痢の患者で、自決する者が続出した。さらに米空軍の機銃掃射や現地民を加えた掃蕩《そうとう》隊の襲撃などで、死者の数は急速に増していった。
「分散から十日ほどたった日の昼ごろ」と佐々木仁朗は語る。「前方にエンジンの音が聞こえるので、樹の間を用心しながら進んで行くと、突然、想像したこともない立派な自動車道路が見えたのでびっくりしました。さらに驚いたのは、この道の拡幅工事をしているブルドーザーの大きくて逞《たくま》しいことと、工事の早さです。しかもたった一人の兵隊が鼻歌まじりで動かしているのを見て、なるほど、アメリカと日本の差は万事がこの調子なのか、これでは負けるはずだと、大ショックを受けました。我々も飛行場の工事にちょっとブルドーザーを使いましたが、まるでケタ違いで……」
アイケルバーガーは「ブルドーザーのない日本軍」と書いているが、ビアク島にも日本で試作した新鋭のブルドーザー%台が運ばれていた。だがコンクリートのように堅い珊瑚礁《さんごしよう》のためたちまち破損し、交換部品もないままに、飛行場の片隅に残骸をさらしていた。
海岸線のすべてを米軍に押えられたビアク島で、分散後の将兵を最も苦しめたことの一つは、水と塩の欠乏であった。水は、スコールを空カンにため、ボーフラがわかないうちにすすることで何とかしのいだが、この唯一の水源である雨にもまた苦しめられた。
『ビアク支隊戦史』(ビアク戦友会編)の中に、浅野寛の次のような記述がある。
「雨が降らねば飯が食えぬ 雨が降れば薪が燃えぬ 雨が降らねば一口の水も飲めぬ 雨が降れば濡れて夜もねむられぬ……」浅野はまた「……屍《しかばね》の雨に打たるるを見る。感慨無量なり。死ぬる時は必ず顔を伏せて死にたし」とも書いている。彼の戦死認定は昭和十九年十二月十五日となっている。
今野良二は「正直いって、分散後のジャングル生活は、この世のものとも思われないほどでした……」と語っただけだが、『ビアク支隊戦史』に収められた彼の手記には、日本兵が日本兵を襲って掠奪《りやくだつ》した事実など、極限状態におかれた人間の姿が生々しく書かれている。常に米兵の射撃を恐れ、食も水も無くさまよった男たちの日々が、友情の美談≠セけに埋まっていたはずもない。
昭和二十年、終戦から一ヵ月後の九月、ビアク島に上陸した日本軍の捜索隊は、この時まで生存していた約九十人の将兵を収容した。
この島の守備についた時のビアク支隊兵力は一万二千八百人、その後に数回援軍が加わっている。捜索隊に収容された約九十人と、人事不省などに原因する幾らかの捕虜をのぞき、ほぼ全員がこの島で死んだ。
ビアク島作戦による米軍の被害は、戦死四百、生死不明五、戦傷二千と発表されている。
[#改段]
楠公《なんこう》精神むなし
「あ号作戦」と一体となった「渾作戦」は、ビアク島の将兵に三度《みたび》の希望と三度の絶望を与えて中止されたが、六月十五日遂に「あ号作戦」が発令された。日本海軍の基地航空部隊兵力のほとんどが、このマリアナ海戦に参加した。
この海上決戦は第二次大戦史上最も大規模なものであった。結果は、米軍の母艦空軍と潜水艦に圧倒された日本海軍が惨敗し、六月二十日に終った。
日本艦隊は基地航空戦力の大部を失い、参加空母九隻のうち大、中型三隻が沈没、四隻に損害を受け、無傷で残ったのは小型二隻であった。更に重大なのは母艦航空隊の損害で、海戦に参加した約三百六十機の母艦|搭載機《とうさいき》のうち残ったのは僅か二十五機にすぎなかった。日本の海空軍戦力の事実上の壊滅であった。日本軍は被害を極秘に付し、日米軍相討ち程度に発表したため、その反響はすぐには現われなかった。
サイパンでは南雲中将、斎藤中将が自決し、七月七日、残存兵力あげての総突撃を最後に戦いは終った。次いでテニアンは八月二日、グアム島は八月十一日、米軍の手に帰した。
四月下旬からの米軍の西部ニューギニアに対する矢継ばやの攻撃は、東部ニューギニアに在った安達二十三の第十八軍を完全に孤立させた。米軍は第十八軍を置きざりにして遥《はる》か西方で日本軍基地を攻撃していたが、第十八軍の戦意は挫《くじ》かれることなく、命ある限り抗戦を続けて、友軍の決戦に策応しようと士気旺盛であった。
五月二十六日の阿南の日誌――
「安達二十三第十八軍司令官ヨリ予ニ『アイタペ』攻撃ヲ決行セラレ度《たき》旨具申アリ。皇軍ノ真姿ヲ発揮シ楠公精神ニ生キ、今日ノ結果|如何《いかん》ヨリモ皇国ノ歴史ニ光輝ヲ残スヲ以《もつ》テ部下ヘノ最大ノ愛ナリトノ信念ヲ縷々《るる》述ベアリ。将帥ノ心情正ニ斯《か》クノ如クナルベシ。予モ武士道ヲ知リ、皇軍戦道ヲ解ス。之《こ》レヲ是認シ上司ニモ具申ス」
アイタペ攻撃のため約百三十キロの兵站《へいたん》線を推進しようと苦闘していた第十八軍は、突然第二方面軍の隷下から除かれ、南方軍の直接隷下にはいることになった。これを知った阿南は、「戦闘序列ノ乱ルルハ、上司統帥観念ノ混乱ヲ表ス」と、この決定に対する憤懣を数日にわたって激しい筆で書いている。互いに深い理解と共感によって結ばれていた阿南と安達との直接の関係はここに断たれた。
第二方面軍の隷下を離れた第十八軍は、南方軍から「東部ニューギニアの要域に於《おい》て持久を策し、全般の作戦遂行を容易ならしむるよう」命じられた。これは「現在の位置で持久策をとれ」という消極的なものと解された。
アイタペ攻撃は上から命じられたものではなく、軍司令官である安達一人の裁量にかかっている。安達は、すでに一年半にわたって辛酸を嘗《な》め尽した部下を思って苦悩し続け、さらに前線に出て一夜を考えぬいた。そして七月一日、彼は遂にアイタペ攻撃を決意した。
第十八軍の反撃企図を察知した米軍は、アイタペ付近の兵力を増強し、永久築城の構築を進め、六十機の飛行機と二十隻の艦艇で海空を制していた。
第十八軍のアイタペ攻撃は七月十日夜、開始された。一時はかなりの戦果を挙げたが、八月にはいって連続的な激闘による戦力の消耗が顕著に現われてきた。すでに一万三千人が戦死していた。これ以上の攻撃は軍主力をいたずらに餓死におとしいれると、安達は八月三日攻撃を断念し、ウエワク地区への撤退を開始した。
将兵は東を指して移動した。サゴ椰子《やし》に食を求め、衰えきった体で傷ついた友を支えての移動は、遅々として進まなかった。
この時、マリアナはすでに米軍の手に落ち、新戦場は比島(フィリピン群島)に移りつつあった。
昭和十九年の六月から夏へかけて、日本とドイツとは急速に敗色を濃くしていった。
欧州では六月六日、連合国軍が北フランスのノルマンディー海岸に上陸した。そして八月二十五日、パリのドイツ軍は降伏し、パリは解放された。この激戦最中の七月二十日、ヒトラー総統暗殺未遂事件が起り、ソ連軍はドイツが占領しているポーランドの首都ワルシャワのヴィスラ川対岸に達した。ドイツの敗戦は決定的になり、日本の軍部すら見切りをつけていた。
日本側はマリアナの惨敗で、中部太平洋方面の空疎な絶対国防圏≠ノ大穴があいた。六月十六日には在支米空軍が北九州初爆撃を行ない、七月八日またも九州西北部を襲った。国民は戦争の前途に対する不安の念を強めた。近衛文麿、岡田啓介を中心とする重臣層と、木戸幸一内府ら天皇側近は戦争終結へ動きはじめ、東条内閣打倒の謀議を進めた。まず東条参謀総長更迭が実現し、参謀総長に梅津|美治郎《よしじろう》大将が任命された。
七月十八日、追いつめられた東条が遂に辞表を出した。木戸は次のように書いている。
「重臣会議|顛末《てんまつ》
昭和十九年七月十八日午後四時より、御召により参集せる若槻、岡田、広田、近衛、阿部、米内の前首相、原枢相及木戸内大臣会合、東条内閣総理大臣辞表|捧呈《ほうてい》せしにつき、後継内閣首班の奏請につき協議し……」
出席者はまず後継内閣首班の条件について協議した。陸、海いずれかの軍人が適当であろうという多数の意見に、米内は、「軍は要するに作戦に専念すべきものなり。元来軍人は片輪の教育を受けて居るので、それだからこそ又強いのだと信じてゐる。従つて政治には不向なりと思ふ」と答えて反対した。
しかし次第に陸軍軍人に的がしぼられ、最後に寺内、小磯、畑の三人が最有力候補となった。だが第一候補の寺内については、第一線の総司令官を動かすことに東条の反対があり、結局、穏健派と目される朝鮮総督の小磯国昭大将が呼び戻されることになった。こうして、小磯と海軍の重鎮である米内光政大将との連立内閣が成立した。
東条内閣総辞職の前後には、阿南の耳にも折にふれて彼を陸相に推す声が聞えてきた。
阿南の日誌――
「七月十九日 水 晴
……内閣組織、陸海軍要路等ノ下馬評ニ花咲ク。……予ヲ陸相ニ擬スルモノ多キモ、重要作戦任務ヲ拝命シテ任ヲ尽サズ、豈《あ》ニ甘受シ得ンヤ。勿論《もちろん》ソノ器ニアラザルヲ自ラ識《し》ル」
「七月二十日 木 晴
東条内閣総辞職ノ情報局発表アリ。小磯、米内両大将ニ大命降下、相協力シテ組閣セヨトノ聖旨ナリト。何トカ人心ヲ新タニスル山下大将等ノ少壮内閣ハ見出シ得ザリシモノカ。小磯大将ハ策略多クシテ至誠ニ徹セズ、米内大将ハ正直ナランモ識見ニ乏シ。果シテ此《この》大難局ノ突破ニ聖慮ヲ安ンジ奉リ、国民ノ信頼ヲ繋《つな》ギ得ルヤ。彼小磯大将ノ浪曲的口演ヲ聞ク丈《だ》ケニテモ、真ノ至誠純真ノ国士ハ不快ヲ感ズルヲヤ」
阿南は六期先輩の小磯の人物を手きびしくコキおろしているが、小磯は組閣に当って、陸軍大臣には山下奉文または阿南惟幾を希望した。だが結局、教育総監になったばかりの杉山|元《はじめ》が陸相と決った。
東条は総理辞任後も陸相として留任するつもりでいたが、この希望はしりぞけられた。
阿南日誌――
「七月二十二日 土 快晴 涼風アリ
東条大将予備役|被仰付《おほせつけらる》ト、……今日一朝失脚スルヤ天下ノ怨声罵倒《えんせいばとう》ニ会ス。マコトニ同情禁ジ能《あた》ハザルモノアリ。然《しか》レドモ是《これ》、非常時突破ノ間常ニ野心的行動ヲ疑ハレ、純真至誠ノ見ルベキモノナク、驕慢《きようまん》ニシテ人事私ヲ事トセルハ世人特ニ陸軍ノ不満ヲ来シ、遂ニ自ラ参謀総長ヲ兼ヌルニ至リテ統帥権ノ混乱ヲ招来シ、大作戦ノ前途ニ暗影ヲ投ズルヲ患《うれ》ヘシメ、海相ノ分離就任ニ於テ全ク其ノ主張ノ一角崩壊シ、悲惨ナル結果ヲ以テ終幕セリ。至誠ノ不足ト困難ニ対スル言論界ノ謹慎トハ、東条其人ヲ驕慢|不遜《ふそん》ニ陥レタルモノニシテ、今日予備役ヲ見ルハ、大臣、次官ノ関係ニアリシ予トシテ一掬《いつきく》ノ涙ナキ能ハズ」
「八月一日 火 快晴
新内閣ニ対シテハ信頼薄ク、三月《みつき》内閣ニアラザルカ。海軍右翼ノ一部及陸軍ハ予ノ内閣組織ヲ希望シアリト。噂《うはさ》ニ過ギズ。予、素《もと》ヨリ一介ノ武弁、今日南方ノ作戦任務ヲ忝《かたじけな》フスルサヘ最大ノ光栄ナルニ、何ゾ国務政治ニ与《あづか》ルノ志アランヤ。ユメ斯ノ如キ言ニ迷フベカラズ。陸軍大臣ト雖《いへど》モ快シトセザリシ所、指揮官トシテ武人ヲ以テ報国ノ一途ヲ辿《たど》ランノミ。十二夜ノ月清シ」
小磯内閣誕生以来、陸軍部内には常に杉山陸相に対する不満があった。これについて書かれた『木戸日記』には、三笠宮はじめ皇族の推す陸相として阿南、山下の名が挙げられている。
七月末大本営が、千島―本土―沖縄、台湾―比島の線で米軍主力との決戦をもくろむ「捷号《しようごう》」作戦の準備を命令するころには、ニューギニア島を含む以東の戦域は、大本営に見棄てられたも同然であった。七月二十九日、大本営が決定した確保要線からはニューギニア島のすべてが除かれたも同様で、僅かに亀の鼻先をかすめているに過ぎない。
七月末以降の阿南の日誌には、「幕僚、戦況ヲ悲観シ、消極的トナリテ……」など、幕僚に対する不満が何度か書かれている。
「あのころは、よく叱りとばされたものだ」と、第二方面軍作戦主任参謀であった加登川幸太郎は語る。「我々が米軍の力を思い知らされたのも確かだが、それよりも実感としては、日本の戦力の急速な低下が胸にこたえて、どうしても弱気になった。
大本営は四月にホーランジアを奪われると、早くも『あとはフィリピンだ』という考えに傾いてきた。だが阿南大将は『豪北を突破されてフィリピンに火がつけば、到底守りきれるものではない。しかも南方資源圏と日本との連絡は切れてしまう』という考えで、中央や南方軍から手綱をしぼられながらも、必勝の信念≠「ってん張りで、ここを確保しようと我々を強く指導してきた。
五月、六月のビアク、ヌンホルの戦いは、ともかく陸上部隊、海軍部隊、陸海航空部隊の協同作戦として、戦争の態《てい》をなしていた。だが『あ号作戦』の大敗で日本海軍が無力となり、日本の表玄関をぶち破られた後は、我々ももう≪第二方面軍は持久作戦部隊……いい換えれば後方遺棄部隊にすぎない、戦場はフィリピンだ≫と思わざるを得なくなった。
こんな状況を、阿南さんはもちろん我々以上によくわかっていたし、また東部ニューギニアで孤立している安達中将の第十八軍のことを思えば暗い心境だったはずだが、そんなことはオクビにも出さず、弱気の幕僚の尻っぺたをひっぱたいて叱咤《しつた》激励……自分一人の気力で司令部の士気を保つ覚悟のようだった。
全く、気の強い人だったなあ」
阿南が気が強い男であることも事実であり、戦況がにっちもさっちもいかないことも明らかな事実であったが、豪北を任された方面軍司令官としては当然とるべき態度をとったといえよう。阿南が戦いの上手な指揮官であったか下手であったかは論ずる余地があるとしても、もはや時宜に叶《かな》った作戦など考えられる状況ではなかった。このとき、昭和十九年の夏、必勝の信念≠ネどという言葉は全く空疎な虚言のはずだが、それを唱え続けるのは軍司令官である阿南の職責であった。
必勝の信念≠ニは、彼我の兵力を冷静に踏まえ、作戦を練り、十分に計算した上で下した判断のことではない。兵力にどれほどの差があり、状況がどれほど不利であろうとも「必ず勝つ」と信じる心構えのことである。当然、現実とはかけ離れたものだが、帝国軍人たる者はすべてこれを持つことを要求された。また上位の者はこの信念で部下を統率する建前であった。
十九年末、阿南の後任として第二方面軍司令官となった飯村穣中将は、戦後催された「セレベス会」で、豪北で闘った当時の将兵に、「必勝の信念≠ニ、皆様をだまし抜いたことをここでお詫《わ》びいたします」と述べている。当時の飯村は、日本が勝つなどとは夢にも思っていなかった。彼は敗戦の日の近いことを見越して、非戦闘員のためのかくれ家をセレベスの山中に秘《ひそ》かに用意した将軍である。
阿南は日本の大半の軍人のように空想家でもなく、希望的観測に逃避する男でもなかったが、彼の必勝の信念≠ヘ筋金入りの強さで周囲を圧倒している。だがこれはあくまでも心構え≠ナあって、現実面では隷下の部隊の敗退を知っても、彼の日誌に驚きは表明されていない。阿南が「驚クノホカナシ」と書くのは、大本営の命令の変更や海軍の変心を知った時だけである。
十九年の夏が終るころ、参謀長の沼田と作戦参謀の加登川は、「豪北での次の決戦場と予測されるハルマヘラには空海の協力は望み得ないから、陸上だけの作戦をたてねばなるまい」と話し合っていた。だが阿南は南方軍に強く要請して、航空協力を確約させた。
だが九月十一日、フィリピン群島の南端ダバオが米軍の制圧爆撃を受け、海軍部隊がこれを敵軍上陸と誤認して大混乱が起ったため、第二方面軍に協力するはずだった第二飛行師団は急遽《きゆうきよ》引揚げた。それから四日後の九月十五日、米軍はハルマヘラに近いモロタイ島に上陸を開始、第二方面軍はまたも空海協力のない戦闘を強いられた。
十月二十日、米軍はフィリピンのレイテに上陸した。阿南はいよいよ火ぶたを切った比島決戦に最善の寄与をしようと、全軍に奮起をうながした。米軍にはモロタイ利用を許さぬため、この島を死守しなければならない。至近距離にあるハルマヘラ島の第三十二師団は、米軍のモロタイ島上陸以来相次いで斬込隊を派遣していたが、それをさらに強化した。
「所要に満たざる兵力を逐次使用するは大なる過失に属す」という原則は兵学の第一課だが、阿南には、フィリピンの防戦を掩護《えんご》するには他《ほか》に採るべき手段がなかった。
モロタイ島は豪北地区に対する米軍の最後の上陸作戦であった。二十年三月以後はモロタイ部隊とハルマヘラ本島との連絡は遮断《しやだん》されるが、同島の戦闘はなお終戦まで続く。
モロタイ戦闘開始から約十日後の九月二十四日、第二方面軍司令部はセレベス島北部のメナドから同島南部のシンカンに移った。メナドが八月半ばから激しい空襲を受けるようになり、阿南は幕僚から司令部の移転を進言されていたが、後退を潔しとしない彼はなかなか承諾しなかった。だが「統帥機能発揮不十分ニ傾ク」状況となり、遂に阿南は移転を決意した。
阿南の官邸は、戦前オランダの高級官吏が旅行のとき用いた宿舎が当てられた。官邸は丘の上にあり、眼下に「琵琶湖ノ如キ」テンペ湖を見下す景勝の地で、横書きの地名に漢字を当てることの好きな阿南は、日誌に「神歓」「天兵湖」と書いている。
シンカンはメナドより気温が高く、日中は三十五、六度になるが、丘の上の官邸は風通しがよく、「永住ニ適ス」と阿南の日誌にある。朝は窓外に冠の羽毛の美しい白|鸚鵡《おうむ》が飛び交い、庭のパパイヤが食膳にのぼった。人口七千のテンペ村は米の集散地で、映画館を中心に四方へ走る道に沿って、真紅の花をつけた鳳凰樹《ほうおうじゆ》の並木が見事だった。
「朝六時になると閣下のお部屋から、かしわ手の音が聞えてきます」と、当時の専属副官|酒向一二《さこういちじ》は阿南の日常を語る。「皇居|遥拝《ようはい》に続いて、ご両親や戦死なさったご子息の霊をおがまれ、四十分ほど弓を引いてから、私と一緒に朝食をとられます。
朝食がすむと、専属の憲兵下士官を連れて馬で司令部へ行かれ、昼は官邸に帰られます。午後、会議のある時はまた司令部へ行かれ、夜は幕僚を集めて会議や会食が多かったものです。
毎日、部厚い電報が来るのを副官の私が分類して差出し、閣下はその日のうちにすべて決裁なさいました。戦況が苦しくなってからは、夜中に何度も電報で起されたものです。どんなに悪い内容の電報が来ても、決して動揺の色などお見せになったことはありません。しかしおそばに仕える私には、いつも作戦のことばかり考えていらっしゃるのがわかりました。シンカンに移ったころは、モロタイ島の激戦の最中でした」
フィリピン方面の情勢が急迫し、「捷一号作戦」の発動も間近と判断した大本営は、これの地上作戦を主宰する第十四方面軍司令官に山下奉文を任命した。山下と阿南とは、満州と豪北と遠く隔たる戦陣にあっても、互いに激励の文通をする親しさであった。
十月十日、沖縄は米艦載機四百機の攻撃を受け、これに端を発して、十二日、台湾沖航空戦が開始された。
大本営海軍部は十二日から十五日にわたる台湾沖航空戦を「台湾及びルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して、これを潰走《かいそう》せしめたり」と発表し、「空母の撃沈十一、撃破八」をはじめ華々しい大戦果≠ナあるとした。
憂鬱な国民は、この戦果発表に沸きたった。小磯首相は国民大会で「勝利はわが頭上に」と声を張った。もちろん阿南の日誌にも赫々《かつかく》たる戦果≠ヘ力強い筆でくわしく書かれている。
だがその後の偵察で連合艦隊と大本営海軍部はこれらの戦果に疑問を持ち、入念な調査を始めた。そして、どう有利に見てもせいぜい空母四隻を撃破した程度で、撃沈は一隻もなかっただろうという結論に達した。
従って連合艦隊は、米軍はなお十隻以上の空母を持つものとしてその後の作戦に当り、大本営海軍部も当然これに同意であった。
しかし海軍は大本営陸軍部に、戦果調査の結論も、十六日以後の偵察により発見した米空母についての情報も知らせなかった。負ける戦争の末期症状だったろうか。これは、その後の陸軍の比島作戦指導に重大な影響を及ぼした。(戦後の調査によると、台湾沖航空戦による米軍の損害は巡洋艦二隻大破だけで、空母に損害はなかった。)
十月二十日、米軍はレイテ島に上陸、二十四日からフィリピン沖海戦が開始された。この海戦で、数ヵ月前ビアク島の将兵が死闘の中で待ちに待った戦艦武蔵が沈没、大和、長門の二戦艦も魚雷攻撃で大損害を受けた。帝国海軍≠ェ事実上消滅したこの二十五日、神風特攻隊が初出撃した。
阿南は特攻隊について「体当リ決死的壮挙ハ吾人軍人トシテハ当然敢行スベキ要件ナリ。然レドモ上司トシテハ彼山本元帥ノ特別攻撃隊ヲ決心セル如ク、生還ノ処置ハ講ズルヲ武士ノ情ナリト信ズ。若キ勇者ヲ徒《いたづ》ラニ散サザル様努ムルハ先輩ノ義務ナリ」と記している。阿南のこの考え方は、やがて航空総監としての彼の主張へと発展してゆく。
比島決戦が苦境におちいっているこのとき、もはや大本営も南方軍も豪北に目を向ける余裕はなかった。だが阿南はなお、豪北死守の姿勢を崩さなかった。彼にとって、それは天皇から与えられた使命である。
大本営はこれまでに何度か豪北の確保要線を後退させてきたが、それには後宮《うしろく》参謀次長からの連絡にもあるように「兵力も物資も送れないのだから、広い地域の確保は無理だ。荷を軽くしてやろう」という配慮も含まれていた。だが阿南は日誌に「大本営ノ朝令暮改」「現地ノ事情ヲ知ラズシテ細部マデ干渉スル誤謬《ごびゆう》」「大本営ノ統帥乱レテ麻ノ如ク、防禦《ぼうぎよ》ニ重点ナキト共ニ、攻勢ニ各個撃破ヲ敢行スル勇断ナシ」などと書きつけながら、しばしば命令のワクを越えて兵力を動かしもした。阿南はその一例であるビアク島増援を回顧して、十月二十八日の日誌に次のように書いている。
「ソロン本陣地タルハ大陸命故アクマデ其《その》主旨ヲ厳守スベキモ、大勢ハビアクヲ放棄スベカラズ。命令ニヨリ此関係ヲ明シ得ズ、|腹芸ニテ《ヽヽヽヽ》(傍点は筆者)ビアク死守兵力注入ヲ軍司令官ニ口頭命令セシ所以《ゆゑん》ナリ。此苦衷ヲ豊嶋軍司令官ハヨク理解シアリ」
右の日誌中に腹芸≠ニいう注目すべき言葉がある。この場合の腹芸≠ヘ、さして重要な意味を持つものではない。「大本営決定のワクを越える派兵命令なので文書に出来ないから、口頭で伝える。理由の説明も出来ないが、わかってくれよ」というほどのものである。しかしこれによって、単純で一本槍と見られた阿南は時と場合によっては腹芸≠烽ナきる男だったことがわかる。これを終戦時の陸相としての阿南と結びつけると、その心の動きを推理する上で重大な意味を持ってくる。
十一月七日の阿南の日誌――
「加登川参謀第三五軍参謀ニ転出、後任ナキモ、比島決戦場ニ選バレシコト、第二方面軍トシテモ光栄至極ナリ。武運|弥栄《いやさか》ヲ祈テ止マズ」
阿南はレイテに赴任する加登川を、次の言葉で送ったという。
「敵上陸から半月以上たったレイテの戦況を想像するに、兵力分散していたるところ薄弱、にっちもさっちもいかぬという状況ではないかと心配される。まず、兵力を集めるんだ。そんなことは軍人なら誰でも知っていると思うかも知れぬが、人智の限りを尽して戦力を集中したつもりでも、それが神意に叶うほどのものでなければ、戦いには勝てないものだよ」
「私がレイテに行ってみると、阿南大将がいわれた通りの戦況なので驚いた」と加登川は語る。「別れに臨んで私に与えられた言葉は、兵学上の名言だと思う。阿南さんは戦争というものを、本当によく知っている将軍だったと、今も私は思っている」
昭和十九年終り近く、中央から見棄てられた豪北はなお局地的な戦闘が続いているものの、戦勢|挽回《ばんかい》など夢想も出来ない実情であった。また主戦場フィリピンの情勢も暗澹《あんたん》としていた。阿南の日誌にも、ただ一度の例外として苦しい心境が率直に書かれている。
「十一月十八日 土 晴 三日月
弓快調ナレドヤヤモスレバ心ハマピア、モロタイノ戦友ノ上ニ飛ブ。押へ難キ断腸ノ苦痛、戦場生活若キヨリ算シテ六年半ヲ越ユモ、今日ノ如キ苦杯ニ心ヲ痛メシコト未《いま》ダ之アラザルナリ」
十一月二十日は次男惟晟の一周忌である。二十三日の阿南の日誌――
「マニラホテルノマッカーサー室ニテ、惟晟ノ戦死ノ電ヲ寺田副長ヨリ受ケタル悪シキ記念日ナリ。数千ノ人ノ子ヲ散華《さんげ》セシメシ軍司令官トシテ、一人ノ愛児ヲ君国に捧《ささ》グルハ当然ノ事ナルモ、本人ハ父ノ身代リトモ思ハル。愛児ヲ身代リトシテ恬《てん》タルニ忍ビンヤ。老骨|何時《いつ》ニテモ数千ノ若人ニ代ハラン」
阿南はむしろ代ハル%の早いことを願っていたと思われる。
[#改段]
航空総監として東京へ
十二月十五日、米軍はフィリピンのルソン島の南、レイテ島の西北に当るミンドロ島に上陸した。これによってレイテ決戦に事実上終止符が打たれ、日本軍は南北に分断された。レイテ決戦の中途から大本営は、豪北、ボルネオ及び南部フィリピンを阿南に一元統帥させる案を研究していたが、実現しないままに阿南の東京帰還が決定した。
十二月二十三日、阿南は航空総監兼航空本部長兼軍事参議官に転出の内命を受けた。
阿南の出発を明日にひかえた十二月三十日、彼の後任である前南方軍総参謀長飯村穣中将がシンカンに到着した。
この日の阿南の日誌――
「……申送リ中特ニ、ニューギニア三十六師団、ビアク、ヌンホルノ空中連絡、無線器材投下等ニツキ一段ノ努力ヲ依頼ス。是レ予ガ出発ニ際シテノ最大ノ心残リニシテ痛心事タレバナリ。
二〇時ヨリ歓送御別ノ会食ヲナス。
更ラニ丘端ニ出《い》デテ十六夜《いさよい》ノ月ヲ賞シ、城ヲ譲リ丘ヲ下リ、今夜ノ宿舎パッサングラハンニ入リ寝ニツク。シンカン最後ノ夢モ、犬叫ト蜴《とかげ》ノ声ト衛兵ノ話声トニテ覚メ勝チナリ……」
この日、阿南は送別の席で「空海の協力もなく豪北各地で敢闘している将兵を思うと、この地を去るにしのびない」と、面《おもて》を曇らせて語っている。シンカン最後の夜の眠りが浅かったのも、野犬やトカゲなどのためばかりでなく、豪北地区に残してゆく将兵のことが重く心にのしかかっていたためであろう。第二方面軍隷下の将兵はもとよりだが、阿南は第十八軍とその司令官安達二十三中将のことで常に心を痛めていた。
このころ、東部ニューギニアに孤立して困難な自給生活を続けていた第十八軍の残存将兵約二万七千は、またも苛酷な砲火を浴びていた。アイタペ方面の米軍と交替したオーストラリア軍が、ほぼ半数は傷病兵である疲弊の極の第十八軍に対し、各地で攻撃を開始したのである。第十八軍は「一人三敵、病人一敵、動けない者もその場で戦う」覚悟で、十二月中旬から絶望的な戦闘にはいった。これが、阿南の東京帰還時の第十八軍の状況である。
この戦闘は翌年にもち越され、八月を迎えて食糧、弾薬の尽きる日も間近と判断された。安達は遂に全軍の玉砕戦決行を決意し、最後の部署を決めた。この状態で、彼らは終戦を知らされることになる。十四万を越えた第十八軍は、このとき一万三千になっていた。
敗戦後の八月末、第十八軍は再び今村均大将の第八方面軍の隷下にはいった。やがて軍主力は送還されたが、戦犯容疑者あるいはその証人として百三十八人がラバウルに移送された。安達もその一人であった。無期刑を宣告された安達は、戦犯容疑を受けた部下将兵を救うことに全力を尽した後、二十二年九月十日、この地で自決した。
安達は自決に臨み、戦犯として収容所にあった旧部下全員にあてて、次のような遺書を残している。
「私は今日を以て、最愛の諸君とも御訣《おわか》れをすることとした。……此三年の作戦間十万余の青春有為の将兵を喪《うしな》ひ、而《し》かも其大部が栄養失調に基因するものなるを思ふ時、御上に対し奉り何と御詫びの言葉もなく、只々恐れ入る許《ばか》りなり。又私は皇国興廃の関頭に立ちては最後の血の一滴|迄《まで》捧げ尽して奮闘に徹するを我等国民の、我等軍人の常の道なりと信じ、打続く戦闘と補給難に極度に疲れ飢ゑ衰へたる将兵に、更に要求するに凡《およ》そ人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難を以てせり。而して全将兵が之に対し黙々として此命令を遂行しつつ、力尽きて花吹雪の如く散り行く姿を眼前に眺めし時、君国の為《ため》とは申しながら我胸中に湧《わ》き返へる切々の思は唯神のみぞ知るべし。当時私は縦令《たとへ》陣没するに到らず、縦令|凱旋《がいせん》に直面するも、必ず十万の将兵と共に南海の土となり、再び祖国の土を踏まざることに心を決したり。
昭和二十年八月終戦の大詔を、続いて停戦の大命を拝し、聖旨の徹底、疲憊《ひはい》の極点にある将兵を無事に御手許《おてもと》に御返し申し上ぐるに万全を期し、且《かつ》戦犯関係将兵の先途《せんど》を見届くる事の甚《はなは》だ重大なるを思ひ、之等処理の為今日に及びたる次第なり。……私は純一無雑に初志に順《したが》ひ十万の陣没(一字不明)の殉国の部下将兵に対する信と愛とに殉ずるのである。……将兵の枯骨を此の地に残して私が生きて還るが如きことは、到底出来得べきことではない。之は理屈や是非得失を超越した思であり、無論其中には私の詩や哲学も含まれては居るが、更に将帥としての動かすべからざる情熱信念であるのだから……」
安達は今村大将と、当時復員局長であった上月中将の二人にあてて、右とほぼ同主旨の遺書を残し、その中で陣没将兵の遺族救援を依頼している。また彼は早く母を失なったわが子三人へも、困苦にうち克《か》って生きぬく心構えを愛情のこもった筆で切々と書き残している。彼は戦争終結後二年を経ても自決の初志に迷いを持たず、「殉国の部下将兵に対する信と愛」とに殉じた。
陣没した部下に殉じたい気持を抱いた点では、阿南もまた同じであった。帰京の内命を受けた十九年十二月二十三日の日誌――
「若人多数ヲ失ヒ、生キテ再ビ皇土ヲ踏ムノ面目ナシト迄覚悟セシ身ノ……」
阿南は自分を修飾することなど出来ない男である。
指揮官が部下将兵をあえて死地に赴かせるのは、世界の戦場の常である。アメリカ軍の例を見ても、ノルマンディー作戦、アルデンヌの戦い、硫黄島、沖縄をはじめ大小無数の戦場で、指揮官は将兵に死の犠牲を求めることを、ためらわなかった。
阿南もまた多くの部下将兵を死地に赴かせたが、死ぬことだけで義務を果し得るとは考えず、生きられるだけ生きて戦力となれと命じた。それが阿南の七生報国≠フ楠公精神だった。
阿南も安達も温情の男だった。だが二人とも少年期から軍人教育を受け、君国――天皇の国、国家と天皇とは一体であると信じて疑わず、天皇のためには自分がまっ先に死ぬ覚悟があった。その自信に基づいて、部下将兵に死に場所≠与えることは愛情であると信じられた。
兵たちの心理は、勿論もっと複雑だった。中には大東亜戦争を否定し、この戦争では死にたくないと思った兵もあった。特攻隊を志願したものの、訓練の余りの非情さ、つらさに、故意に不具者となってでも家に帰ろうとした若者もあった。何としても生きぬいて妻子の許に帰ろうと願う兵もあった。戦場の兵は名誉の戦死の覚悟≠捨ててウロウロしたら、もはや逃げ場がないという恐怖をはじめ、現実的な不安感や絶望感に追いたてられたのも事実だ。しかし、まっ正直に尽忠≠ノ身命を賭《と》した兵の多かったことも事実である。
確かに軍人の世界は、今から見れば偏執の世界であり、倒錯の世界であり、その神がかりの非論理を強制された無辜《むこ》の兵もまた多くはその世界を肯定した。今日どんなに批判され罵倒されようと、敗戦の日までは、これが聖なる事実≠ナあった。
阿南は安達から「皇軍ノ真姿ヲ発揮シ楠公精神ニ生キ……皇国ノ歴史ニ光輝ヲ残スヲ以テ部下ヘノ最大ノ愛ナリトノ信念……」と述べた手紙を受けとり、心から共感している。阿南は次男惟晟の戦死も部下将兵の戦死も、この考え方で悠久の大義に生きる=\―生命の不滅に結びつけ得た。四十年前の二〇三高地の乃木大将は、阿南にとってなお生き続ける戦訓であり、鑑《かがみ》であった。
第二方面軍司令部付の法務大尉だった原秀男(弁護士)は語る。
「阿南大将は非常に積極的な司令官だったから、結果としては確かに多くの戦死者を出した。だが阿南さんは一兵の気持がわかり、また一兵と心のかよい合う人で、済まないと心中で詫びながら心を鬼にして、互いの義務のために冷酷な命令を下していた。みな、言わず語らずそのように理解していた。だから誰も阿南さんを恨む者はいなかった。多くの部下を殺しながら恨まれなかった指揮官は、乃木大将と阿南大将ではなかったろうか」
また沢田茂は語る。
「乃木大将が多くの兵を殺したことは、戦争が下手だったことも大きな原因だ。しかし、あれほどひどいめに会わされた乃木軍の将兵から不平不満が起きたり、恨まれたりしたという話は、かつて聞いたことがない。これは乃木さんの偉さだったろう」
沢田の乃木評は、阿南にも通じると思われる。
昭和十九年十二月三十一日、阿南は南方軍の重爆改装機でシンカンを出発、帰国の途につき、この大《おお》晦日《みそか》の夜はスラバヤの大和ホテルに泊った。元日は飛行機の故障で足止めを食い、その整備に三日かかった。阿南はスラバヤで昭和二十年の正月三ガ日――彼の最後の正月を過した。
ようやくシンガポールまで来たが、ここでまた搭乗機が故障し、丸一日の足止めとなった。阿南に随行していた副官の酒向一二は、当時を回顧して「方面軍司令官をお乗せする飛行機がこのありさまでは、日本の航空機全体の性能、整備がいかに低下しているかが思いやられました。こんなことで、アメリカを相手に闘いぬけるのだろうか……と、暗い気持になったことを覚えています」と語った。
サイゴンに到着した阿南は、当時ここに移っていた南方軍総司令部で寺内元帥に離任の挨拶をした。
また阿南は、南方軍総参謀長として数日前に着任していた沼田多稼蔵に会い、ルソン島に行き山下奉文を激励したいが……と相談した。沼田は米軍の強烈な攻撃に苦闘する山下の第十四方面軍の実情を率直に語って、危険なルソン島行きを思い止《とど》まらせた。比島の戦局は、阿南の想像より遥《はる》かに悪化していた。
こうして、阿南がシンカン出発の時から希望していた山下との再会は実現しなかった。おそらく阿南は、少年のころからの親友と語り合うのもこれが最後……と思っていたであろうし、ルソン島行きを断念してからは、もはや山下と会う日は来ない……という思いを抱いたであろう。事実、阿南は二十年八月十五日に自決し、山下は二十一年二月二十三日マニラで処刑された。
阿南が福岡から東京へ飛んだ一月九日には、B29六十機が東京と名古屋に来襲し、彼の着陸予定地は調布から所沢に変えられた。この日午後の空襲では、阿南の自宅に近い中島飛行機武蔵工場が主目標として爆撃された。シンカンから東京まで、阿南が立ち寄った各地で日本の敗色はむごく露呈されていたが、東京もまた激しい空襲にさらされていることを、彼は帰国と同時に見せつけられた。
阿南が目にした東京の街はすでに神田も日本橋も焼かれ、主要駅には持てる限りの荷物を背負った市民が地方へ逃れ出ようとひしめいていた。その人々の整理に声をからしている駅員は老人ばかりで、どの職場からも青年の姿はほとんど消えていた。
大本営が本土決戦に関する作戦大綱を決定したのは、阿南の帰国から十日後の一月二十日であった。その準備を始めたばかりの二月十九日、米軍は硫黄島上陸作戦を開始した。硫黄島は、東京とサイパンへそれぞれ千二百キロの位置にある。
昭和十九年、捷号作戦を計画したころの大本営は硫黄島を本土防衛線の一環として確保する方針であったが、フィリピン方面の敗戦で航空戦力の精鋭を失なってからは、従来の積極的な作戦計画を断念していた。こうして硫黄島は、ほとんど空海の支援に見離された小笠原兵団が、孤立無援で守備していた。島内は各所に硫黄ガスを噴出して地熱が高く、日本軍陣地の洞窟《どうくつ》の温度は四十八度に達した。
米軍上陸から約一ヵ月間の小笠原兵団の勇戦は、敵味方の戦史に明らかである。この兵団の戦闘部隊の中心は、第百九師団の主力であった。阿南は昭和十三年から十四年にかけて第百九師団長であったが、師団は十四年にいったん廃止され、十九年に再編されたものである。
兵団長栗林忠道中将はこの死にもの狂いの激戦の中で、日々の戦闘体験、米軍の武器、用兵などを逐一書きとめた貴重な記録を大本営に打電し続けた。そして遂に三月十七日、栗林は二万三千人(うち海軍部隊約七千五百人)の中から生き残った八百人の将兵全員を率いて出撃し、玉砕した。
硫黄島の重要性を思い、最後まで激励電報を送り続けた阿南は、栗林の「想像に余る物量的優勢を以《もつ》て空海陸から攻撃してくる米軍」についての報告電報を、少なくとも何通かは読んだであろう。自分自身の豪北の経験と合わせて、阿南の米軍に対する認識はさらに深まったのではないかと想像される。
比島の戦況が決定的に悪化した昭和二十年初め、激化する一方の陸海軍対立問題はいよいよ捨ておけない事態となった。殊に本土決戦に取り組むためには、この問題の解決が必要であった。二月末、陸軍が積極的にこれをとり上げ、陸海合同の実現を計った。しかし海軍部内の空気は、「海軍戦力が著しく減少した今となっての陸海合同は、結局、海軍の併合を意味するから到底応じられない」というもので、「この際、陸海の指揮を単一化し、また軍需整備の一元化を図ることが先決だ」という意向が強かった。
陸軍は三月三日の陸海両軍首脳会談に、「陸海合同を速かに決定するためには、陸軍航空は全部海軍に入れてもよい」という提議をした。海軍の戦力が極度に低下した現在、日本の運命は我々の肩にかかっているという気持の陸軍としては思い切った譲歩だったが、これを提議するには当然、航空総監である阿南の諒解《りようかい》があった。
阿南からこの諒解をとりつけたのは、参謀本部第一(作戦)部長宮崎周一中将であった。宮崎が気がねしながら申し出ると、阿南は「結構ですよ」と、嬉しい誘いを受けたような笑顔で「喜んで豊田大将(連合艦隊司令長官)の指揮を受けましょう。すぐにも河辺(航空本部次長)を連れて、日吉台に挨拶に行ってもよい」と即答した。
豪北の第二方面軍司令官時代、海軍によってしばしば煮湯ヲ飲マサレシ思ヒ≠味わった阿南だが、その経験があればこそ一層、陸海軍一体化の必要を痛感していたのであろう。彼の頭脳は飛躍はしなかったが、極めて現実的で柔軟だった。
天皇もまたこの問題を憂慮して、陸海軍大臣に「陸海軍合同の可否」について質問し、軍事参議官であった朝香宮《あさかのみや》も両大臣に、合同の具体策である「大本営総長案」を提案したが、米内海相は即座に「不可」と答えた。三月十九日には、杉山陸相が二時間にわたって米内海相と懇談したが、米内は応ぜず、結論は得られなかった。
こうして、両軍合同への努力はあったものの、陸海軍は宿命的な対立のまま、敗戦による消滅への道をたどってゆく。
二十年早春、日本の陸海軍航空戦力はほとんど底をついていた。航空本部次長河辺虎四郎は、「パイロットの多くが死んでしまい、補充員の志願者の種子《たね》がきれぬにしても、操縦教育用のガソリンに極度の制限をしなければ、実戦用のガソリンが絶える。防空出動機の数にも行動にも手加減を加え……」と書いている。
一年前の十九年春以来、陸軍中央部は敵艦に体当りする苦肉の戦法をとった。だがこれには、特攻隊を正式の軍隊編成として、天皇に上奏裁可を仰ぐか否かの問題があった。
これについては二つの案があった。甲案は、特攻戦法を中央が責任をもって計画的に実行するためには、正規の軍隊編成とすることが必要というもの。乙案は、特攻要員と器材を第一線兵団に配属し、第一線指揮官が臨機に部隊編成すべきであるというものであった。乙案の主旨は、航空戦力不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当でないというものであった。
特攻隊の運用には、それまで乙案がとられていた。実際には一般の軍隊に準じて隊名、隊長などが定められてはいたものの、建前としては自発の意志による殉国同志の集団であった。
沖縄作戦準備のため、大量の特攻隊が編成されたのを機に、参謀本部はこの計画的運用のためには甲案を採用し、正規の軍隊編成にする必要があるという意向をかためた。この実施のためには、航空総監兼航空本部長である阿南の承認を得なければならない。
阿南を訪れた参本第一部長宮崎は、阿南と次長である河辺虎四郎に意見を述べた。これに対し、まず河辺が一本調子ともいえる正論を述べて「不同意」と強く反対した。河辺の言葉は、宮崎の胸に突き刺った。特攻の正式部隊編成を決意するまでには悩みに悩み、沖縄作戦が真に国の運命を左右する重大性を思って決断した宮崎であった。のち彼は、この時の河辺の言葉に、「ある種の反撥を覚えた」と語っている。
二人のやりとりを聞いていた阿南がおもむろに、「君の衷情は重々お察しする」と、宮崎に語りかけた。阿南の目には深い悲しみといたわりがこもっていた。次いで彼は「総司令官以下の特攻精神」を説き、「だが、任務を遂行するのに、死≠唯一の手段方法とする部隊を、軍令をもって正式に編成することは統帥の道に反し、皇軍精神の冒涜《ぼうとく》である」と説いた。論理も結論も河辺と同じ「不同意」なのだが、宮崎は「その温言と情熱に」心をうたれて頭を垂れた、と語っている。
阿南は特攻隊について語るとき、よく日露戦争の旅順口《りよじゆんこう》封鎖を例にして、その根本精神に疑問を投げかけたという。旅順口封鎖は決死隊ではあっても生還の道が講じられていたので、東郷司令長官はこれを許可したと伝えられている。それに反して、敵艦に体当りする航空特攻は、死によってのみ任務遂行が可能となる。それを命じることは、上司として余りに武士の情≠ノ欠ける、というのが阿南の気持であった。
だが今にも始まろうとしている沖縄作戦に、期待できるのは特攻隊だけというほど日本の戦力は逼迫《ひつぱく》していた。しかし阿南は航空総監の最後まで、特攻要員によって軍令上の正式部隊を編成する案には同意しなかった。陸軍特攻隊は終戦時まで、形式的には自発の意志による殉国同志の隊であった。
当時大本営は本土決戦のために航空戦力を温存し、残余を沖縄作戦に当てる意図であった。
「阿南はこれに大反対だった」と沢田茂は語る。「阿南は『本土決戦ばかり考えず、航空戦力のすべてを挙げて沖縄の敵をたたくべきだ。戦力を集中せずして、敵をたたけるはずがない。俺も特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ』と大へんな見幕で、この案を支持しない梅津参謀総長を痛烈に罵倒していた」
戦後に沼田多稼蔵は「南方軍の総参謀長のとき、阿南大将から『戦争を名誉ある終局にまとめたい』というお手紙をいただいたことがある」と語っている。この気持がいつごろから阿南の胸中にあったかは不明だが、航空戦力のすべてを沖縄に向けようとした彼の意図は、それによって米軍に痛撃を与え、それを機に名誉ある終局≠ノもちこもうというものであったろう。敵に一撃を与えるためには、彼自身が特攻隊の一員となって死に、本懐を遂げようと覚悟していたと想像される。
航空総監として帰国した昭和二十年一月以後、阿南は簡単なメモ以外、日誌を書き残していない。日誌を書くという少年の日からの習慣を、なぜ彼は捨てたのか。まず、多忙が考えられる。だが、理由はそれだけであったろうか。戦局が極度に悪化してから中央の要職についた彼は、もはや建前にこだわらず、君国≠フため、胸中ひそかにあらゆる可能性を探らねばならぬと覚悟したのではなかったか。そうとすれば、日誌は書けなかったはずである。
昭和二十年にはいって、日本本土に対する空襲は激化の一途をたどっていた。二月二十二日、東京は「気象台開設以来第二位に記録される三十八センチの積雪」という大雪の中で大空襲を受け、神田一帯は火の海となった。続いて三月十日零時すぎからB29三百三十四機(大本営発表百三十機)により、東京は夜間初の焼夷弾《しよういだん》による大空襲を受け、約二十五万戸が焼失し、死傷十二万、罹災者《りさいしや》百余万という被害を受けた。
十日は陸軍記念日だった。陸軍当局は軍楽隊を繰出し、煙と悪臭と焼死体が残る焼野原の大通りに、髪を焼かれ眉をこがした避難者やリヤカーが往《ゆ》きまどう中を縫って大行進を行なった。どういう神経がさせた行為であったのか。
その後も十三日名古屋、十四日大阪、十七日神戸と、息つくひまもなく大空襲は続く。米軍は占領したばかりの硫黄島を、B29を掩護する戦闘機や中型爆撃機の基地として、日本本土空襲の威力を一段と強めていた。
三月十八日、天皇は東京の戦災地を巡視した。身一つに焼け出された住民は遠ざけられていたものの、一望の焼野原は、常に生命の危険にさらされている国民の絶望的な状態を如実に示していた。
天皇巡幸≠フニュースは、ラジオによって遠い戦地へも伝わった。セレベス島シンカンでは、阿南の後任として第二方面軍司令官となった飯村穣中将が、テンペ湖を見下す官邸で、ラジオの雑音の中からかすかにこのニュースを聞きとった。このころの豪北地域は、ゲリラ化した日本兵がなお細々と残存するものの、すでに戦局の中心からは遥かに遠くとり残され、兵力は次々と他へ転用されてゆく状態であった。
「私は陛下が空襲直後の東京をご巡視なさったと知ったとき、ハッと胸を衝かれる思いであった」と飯村は、戦後昭和三十七年に開かれたセレベス会≠ナ語っている。「あれほど国民をおいつくしみ遊ばす陛下のことだから、身を切られる以上に耐えがたいお気持であったろう。戦争の結着は前線ではなく、東京でつくと、このとき私は直感した」
シンカンには阿南時代につくられた矢場も、飼育された小動物の類もそのまま残されていた。飯村は≪阿南大将は毎朝思う存分弓をひきしぼり、鹿やオウムをかわいがりなどして、心中の悶々《もんもん》をまぎらしておられたのだろう≫と、思うにまかせぬ戦局に悩んだであろう阿南の心境を思いやった。
豪北に大軍を動かした時代も去った。南方軍総参謀長であった飯村が作戦についての意見の相違から、第二方面軍司令官であった阿南と激論をたたかわせた時代も今は遠く、悲哀の影のある思い出となっていた。
三月二十六日、米軍は沖縄の慶良間《けらま》列島に、続いて四月一日には沖縄本島に上陸した。国民の多くが無気力にこの情況を受けとめ、目を光らせる取締り当局にも捉《とら》えようのない厭戦《えんせん》気分が蔓延《まんえん》していった。
四月五日、木炭自動車≠ニいわれた小磯内閣は総辞職した。
[#改段]
陸軍三条件を負う
小磯退陣の数週間前から、木戸幸一内大臣をはじめ近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎、若槻礼次郎たち重臣はこの内閣の崩壊を予測して、次期内閣の性格や首班の人選について、ある程度の事前の諒解を成立させていた。
まず第一に新内閣は早期和平を講じる性格で、総理はそれを遂行できる人でなければならない。戦争終結への道の最大難事は陸軍対策である。もし次の総理をこれら重臣が自己陣営から選べば、陸軍を刺激することになるので避けねばならない。また和平の大事を遂行する総理は、退役でもいいから陸海いずれかの軍人で、従来のゆきがかりがなく、天皇と国民から信頼されている人物でなければならない。これらを考慮して、重臣たちは枢密院議長鈴木貫太郎海軍大将を最適任として選んでいた。
四月五日午後五時から、後継内閣首班を推薦するための重臣会議が宮中で開かれた。出席者は木戸、近衛、平沼、若槻、岡田の前記五人のほか、広田弘毅、東条英機、鈴木貫太郎の八人であった。
長い論議の後に、東条を除いて全員が鈴木大将の出馬を願ったが、鈴木は軍人が政治にたずさわることの否を理由に受けなかった。東条は首相は現役の軍人であるべきと主張し、「さもないと陸軍がソッポを向くおそれがある」と恫喝《どうかつ》的な言葉を吐いた。これに岡田啓介が真向から噛《か》みついた。
重臣会議は、誰を次の首相に推薦するか決定できないまま終った。この会議の記録を読むと、ほとんど全員が「後継首班には、あくまで戦争をやりとげる人を選ばねばならぬ」と、徹底抗戦論者のような発言をしている。これは、鈴木内閣の書記官長となる迫水久常《さこみずひさつね》が書き残しているように、戦争継続論者である東条が陸軍を代表する形で出席していたためでもあるが、もともと重臣たちの間にはこの会議では和平問題に触れないという暗黙の了解があった。当時の指導層の人々の本心が、しばしば彼らの発言とは裏ハラのものであることの一例である。
重臣会議のあと、木戸はじめ数人が鈴木に首班を引きうけるよう、約一時間にわたって頼んだ。鈴木はかたくなに受けなかったが、ようやく天皇に会うことだけは承諾した。
ご学問所で、天皇は鈴木に組閣を命じたが、ここでも鈴木は固辞した。だが天皇は、「政治に経験がなくてもよい。耳が聞えなくてもよいから、ぜひやってくれるよう」といい、さらに微笑を浮かべて、「鈴木がそのように考えるだろうということは、わたしも想像していた。鈴木の心境はよくわかる。しかし、国家危急の重大な時期にさいして、もうほかに人はいない。頼むから、どうか、気持をまげて承知してもらいたい」といった。
もはや鈴木は組閣の決意を固めるほかなかった。
この席にただ一人侍立していた侍従長の藤田|尚徳《ひさのり》海軍大将は、その手記に、「……この君臣の、打てば響くような、真の心の触れ合う場面を拝見し、陛下と鈴木閣下との応答のおことばを耳にしたわたしは、人間として最大の感激に打たれた」と書いている。
鈴木は四月六日から、小石川の自宅を組閣本部として閣僚の選考にかかった。総理秘書官の第一号は鈴木の長男|一《はじめ》であった。
鈴木一は≪父が総理となり、戦争終結という国運の大転換を計った場合、必ずさらされるであろう青年将校のテロの銃口の前に、私は身をもって楯《たて》となろう≫と決意した。彼は農林省山林局長だったが、辞表を出し、総理秘書官になりたいと申し出た。父貫太郎は喜んでこれを受けた。
岡田啓介は『回顧録』の中に、次のように書いている。
「鈴木はどういうふうにして組閣をするのか、事務的なことはあまり知らないようだった。いきなり、六日の未明にわたしに電話をかけてきて、軍需大臣になってもらいたいというんだ。わたしを軍需大臣にしようなどと考えるようでは、これはどうにもならん。どんな内閣をつくるかわからんぞと心配になってきて、すぐ組閣本部へ行ってみた。行ってみると、電話のかけ方にもなれていない者しか周囲におらん状態だから、迫水久常を呼びよせて手伝わせた。迫水を書記官長にしようというのは、わたしの考えだった」
当時、大蔵省の銀行保険局長であった迫水は、岳父岡田からこの交渉を受けた時ためらいもあったが、「頼むよ。鈴木大将はわたしの昔からの親友で、りっぱな武人だ。このさい、君は自分自身のことを考えるな。国家のためだから頼む」と迫られて、決意した。
迫水にも、鈴木内閣が終戦内閣であろうとの予測があった。
後継首班と決定した時の鈴木貫太郎の胸の内は、いかなるものであったのか――。鈴木一編『鈴木貫太郎自伝』の中で、彼は次のように述べている。
「……余としては、いったん大命を拝受した上は、誠心誠意、裸一貫となってこの難局を処理して行こうと深く決意したのである。しかも余の決意の中心となったものは、長年の侍従長奉仕、枢密院議長奉仕の間に、陛下の思召《おぼしめし》が奈辺にあるかを身をもって感得したところを、政治上の原理として発露させて行こうと決意した点である。
ところで、陛下の思召はいかなるところにあったであろうか。
それはただ一言にしていえば、すみやかに大局の決した戦争を終結して、国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、また彼我共にこれ以上の犠牲を出すことなきよう、和の機会を掴《つか》むべし、との思召と拝された。
もちろん、この思召を直接陛下が口にされたのではないことはいうまでもないが、それは陛下に対する余の以心伝心として、自《おのずか》ら確信したところである。だがこの内なる確信は当時としては、深く内に秘めてだれにも語り得べくもなく、余の最も苦悩せるところであった」
また鈴木は戦局について――
「……日清、日露戦争の勝利などは、日本の徹底的勝利とはいい得ない。ただ小国が大国に勝ったといわれているのは、戦局の最も優位なる時に敵国と講和したことによって勝利の形をとったに過ぎないのである。
しかるに今次の大戦争においては世界の三大国米英支を敵とし、真に戦略戦術上勝利の見込みのない戦争を続けているのである。今日の戦局の惨憺《さんたん》たる有様は、余には理の当然で、むしろ着々として戦略の正しい推移を物語っているに過ぎないと考えられるのであった」とも書いている。
戦後に上梓《じようし》されたこの自伝の論旨は明快である。鈴木が組閣の時にもこう考えていたであろうことを、疑うわけではない。しかし、組閣の段取りで岡田啓介を呆《あき》れさせたようなおぼつかなさばかりでなく、内閣首班となった鈴木はその風貌《ふうぼう》も言動も茫漠《ぼうばく》として、つかみどころがなかった。
組閣の第一歩は、鈴木総理の陸軍省訪問から始まった。これは「礼を尽して、陸軍の協力を求めること」という岡田啓介の助言によるものであった。岡田は重臣会議席上での「陸軍がソッポを向く」という東条の言葉を肚《はら》に据えかねていた。しかし陸軍が強い支配力を持つ大組織であり、早期和平の道を塞《ふさ》ぐ壁であるという現実をもよく心得ていた。
老躯《ろうく》をひっさげてまっ先に市ヶ谷台の陸軍省へ出向いた鈴木を、陸相杉山|元《はじめ》元帥は恐縮しながらもすっかり気をよくして丁重に大臣室へ迎え入れた。鈴木は杉山に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と率直に希望を述べた。
これまでも、陸相候補として阿南の名は何度か出たことがあった。小磯内閣の末期、陸相であった杉山が第一総軍司令官に転出する話があった時も、杉山は後任陸相に阿南を推していた。
鈴木の希望を聞いた杉山は、別室で梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監と三長官会議を開き、阿南の承諾を得た後、大臣室に戻り、三条件を付して阿南入閣を承諾した。
陸軍の条件とは、次の三つであった。
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(一) あくまで戦争を完遂すること。
(二) 陸海軍を一体化すること。
(三) 本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇《ちゆうちよ》なく実行すること。
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条件の(一)は、国内に厭戦気分が高まり、各界上層部に和平論が広がっていたこのとき、新内閣がこれに引きずられはしないかという陸軍の懸念の現われであった。(二)は、陸軍の合併案に強く抵抗している海軍との紛争を、新内閣の下で解決したいという狙いであり、(三)は文字通りのものである。
鈴木は質問もせず、難色も示さず、杉山が拍子ぬけするほどあっさりと三条件を呑んだ。
難題をこうあっさり呑まれては、陸軍側はもうこれ以上言葉を添えることもなく、杉山は立ち上った鈴木に向かって「しっかりやっていただきたい」と激励しただけであった。
鈴木はその足で同じ市ヶ谷台にある陸軍航空総監部へまわって阿南に会い、三条件を含む杉山との会談を伝えて入閣を要請した。阿南はこれを快諾した。阿南が三条件を実行する陸軍の代表として入閣したことは、その後の彼の心理や言動を考える上で重大な意味を持つことになる。
入閣を承諾した時の阿南がまっ先に「誰が書記官長になるのですか」と鈴木総理にたずねた――と岡田啓介が書き残している。「迫水です」と鈴木が答えると、阿南は「いいでしょう。もしそれ以外の人が話に出てきた場合は、あらかじめ陸軍の同意を得ていただきたい」と述べたという。
阿南はいかなる理由で、迫水ならいいと答えたのであろうか。阿南が迫水を個人的によく知っていたという想像は成り立たない。迫水は戦後昭和三十四年に行われた阿南追悼会で、阿南が陸相に就任したとき初対面であった、と述べている。
二人は一面識もなかったが、阿南は迫水が岡田啓介の女婿であることは当然知っていたはずだ。そして、岡田が重臣中で最も和平色の強い一人であり、憲兵に目をつけられている人物であることも知らなかったはずはない。その岡田に近い迫水が内閣書記官長と聞いて阿南が賛成したのは、阿南もまた鈴木内閣がすみやかに終戦にもちこむことを期待していたのではなかったか。ただしこの時の阿南は、沖縄戦で米軍に一撃を与え、それを機に有利な条件での講和を期待していたと想像される。
鈴木はなぜ阿南を陸相にと望んだのか――その理由を鈴木は書き残していない。人事にうといといわれた鈴木だが、前陸相杉山は陸軍内で人気がなく、阿南は上下から信頼を受け特に中堅層の支持の強いことを知っていた。
小磯内閣が倒れた直後、陸軍省と参謀本部内の一部若手将校の間には、本土決戦遂行の見地から現役陸軍将官を首班とする後継内閣を望む空気があり、首班の下馬評には梅津大将、畑元帥、阿南大将が挙げられ、一番人気≠ヘ最も後輩の阿南であったという。陸軍との摩擦を避ける鈴木が阿南を望んだ理由の一つは、これなら陸軍側が抵抗なく受けると予測したからであろう。
だが、これだけが理由であったとは思われない。鈴木は「身をもって感得した陛下の思召を、政治上の原理として」心中|秘《ひそ》かに早期和平の達成を念じていた。この鈴木の真の意図を、表裏ともに支持する陸相など現われるはずもない。誰が陸相になろうとも、陸軍を代表して戦争完遂≠強く主張するであろう。≪だが、阿南ならば……≫と鈴木は彼にひそかな期待をよせたのではなかったか――。
昭和四年から同八年までの阿南の侍従武官時代を通じて、鈴木は侍従長であった。鈴木と阿南とが、天皇に直接奉仕する職務を通じて互いの忠誠心と誠実な人柄を知り合うのに、四年という歳月は十分であった。ここに鈴木が≪阿南ならば、私が政治上の原理≠ニする天皇のご意志を最もよく推察し、それを至上のものと遵奉するのではなかろうか≫と期待したという想像が生まれる。
さらに鈴木が新陸相に期待したものは、早期和平実現に至る過程で全陸軍を掌握する力量であったろう。和平実現のとき一歩誤まれば内乱だが、阿南ならば最後まで陸軍の秩序を保ち得るであろうという期待を鈴木は抱いていたのではないだろうか。
これらの想像の当否は別として、鈴木は陸相としての阿南の登場を積極的に望んだ。阿南は戦争完遂≠唱える陸軍からその代表として推され、同時に、まだ全くその意図を表面に現わしていない早期和平論者からも支持されて陸相となった。
陸軍部内で、阿南の|どこが《ヽヽヽ》これほど高く買われたのであろうか。
まず軍人の表芸である戦場の指揮官として、阿南はどう評価されていたのか。
阿南は必ずしも武運に恵まれた将軍とはいえない。師団長としては中国で目立たぬ討伐作戦に明け暮れ、太平洋戦争|勃発《ぼつぱつ》時には、軍司令官として香港攻略に呼応する陽動作戦を行なった。人を驚かすほどの積極性を発揮し、本人は満足だったらしいが、「あれほどの犠牲に価した作戦か」と批判も受けた。このとき同期の山下奉文はシンガポール攻略に成功し、マレイの虎≠ニ一躍勇将の名を馳《は》せたが、裏街道の阿南にはそんな華やかさはない。
豪北の指揮官としては、誰がやっても勝てるはずのない∴ォ条件を負わされていたが、結果だけを見れば「豪北地域確保」の目的は果し得ず、敗退を重ねた。その間、大本営との間にしばしば意見の相違があり、彼の積極性と徳義は戦力なり≠フ信念は、中央や南方軍を手こずらせた。
昭和四十四年刊行の『豪北方面陸軍作戦』(防衛庁戦史部著)の「むすび」に次の記述がある――
「阿南大将は、絶対国防圏域における決勝に全力を尽くし、一身に責任を負い作戦を指導した。このため、隷下の兵団部隊は、状況の逐次急変による大本営の方針の変動に基づく統帥混乱の渦中に入らず、絶対国防圏域決戦終了まで、一途の方針に基づき作戦、戦闘し得た」
戦史として正しい講評であり、讃辞《さんじ》であろうが、当時統帥混乱≠フ中央部が、こういう指揮官にいい点をつけるはずはなかったろう。
阿南の知性の面はどう評価されていたか。
陸相秘書官であった林三郎大佐は「阿南さんの欠点は何かと聞かれて、私は、『知性が高くなかったこと』と答えた」と語る。「阿南さんは程度の高い本はお読みにならなかった。しかしこれは軍の中で阿南さんがウケのよかった理由の一つでもあります。西欧の軍隊では勇気とともに、意志、人格、知性の三つが重視されますが、日本では『学問のある人間は勇敢でない』『知は優柔不断に通ず』などといったものです」
阿南の知性は将帥として、また陸相として、陸軍の中ではちょうどいい程度≠ナあったようだ。彼が読書家であったという資料はなく、酒向副官も「あまり読書はなさらなかった」と語っている。豪北時代の阿南の日誌に当時読んだ本の名を挙げてあるが、数はごく少ない。「楠氏《なんし》三代ヲ読ム。今日ハ桜井駅|訣別《けつべつ》ノ夕ナリ。延元元年五月十六日ヲ偲《しの》ビツツ、大東亜戦争ノ完勝ヲ誓フ」などと書かれ、この他《ほか》に『上杉|鷹山《ようざん》公』、『神皇正統記《じんのうしようとうき》』などがある。彼の読書は興味本位でなく修養を心がけたもので、その範囲は昔の日本だけに限られていたことがわかる。
当面の敵であるアメリカについて知識を得ようという努力は、読書面からは全くうかがえない。だがこれは阿南だけでなく、軍人一般に外国の知識をとり入れようという風潮、洋書に親しむ習慣はなかった。フランスの兵書を常に読んでいたという飯村穣中将や、陣中でもイギリスの小説を読んだという本間|雅晴《まさはる》中将などは、陸軍の中で特殊であり、決して誉《ほ》められなかった。
阿南は頭脳明敏、才気|煥発《かんぱつ》などといわれる人ではない。とかく仲間誉めをしたがる陸士同期生も、そうはいわない。林三郎は「阿南さんが『将官試験を受けたとき、こうするとはいえたが、その理由の説明はよく出来なかった。ビリだったよ』といわれたことがある。理論的な頭ではなかった」と語る。
阿南は理屈を|こねる《ヽヽヽ》ことが下手であり、嫌いだった。理論闘争をすることなど決してなく、次元の高い思想問題、哲学などについて語ったこともないという。これも、陸軍内で受けのよかった理由の一つであったろう。陸軍はそのような話題の好まれない社会であった。
「阿南は智将でもなく、政将でもないが、徳将であった」といわれる。一部で「八方美人でありすぎた」とはいわれたが、それ以上のケチをつける人はいない。公正無私、外柔内剛、挙措端正など、軍人の理想像を形づくる言葉がよせられているが、阿南を知る人はみなこれらを肯定する。
鈴木内閣が成立した昭和二十年四月、米軍はすでに沖縄に上陸を開始して戦局は極度に暗く、内は軍閥政治の破綻《はたん》に悩む陸軍が陸相となる人物に求めたものは、もはや智略でも政治的手腕でもなく、誰からも支持される人格ではなかったか。
林三郎は「体《からだ》全体が清潔感に包まれていて、これはなかなか魅力的だった」と語る。また「阿南さんは人と話すのが好きで、自分のいおうとすることを漢文調で、抽象的に表現するのが上手だった。徳義は戦力なり≠烽サの一例」と語る。「陸軍大臣という激務の中でも、朝は矢場に立って弓を引き、その当り具合で自分の精神状態を判断しておられた。文字通り自分に厳しく、人には寛容だった。時には、部下に対する厳しさに欠けるうらみはあったが……。次官時代の一部下が『私を弟のようにかわいがって下さった』といったが、こう思っている後輩はたくさんいた」
第二方面軍の作戦主任参謀であった加登川幸太郎は「阿南さんは幕僚勤めをしたことがないから、コセコセした幕僚的悪ずれがなかった。彼が仕えたのは、陛下だけだ」と語る。さらに「阿南大将は、軍人間でうけるタイプだった。ちょっと年代は違うが荒木大将や真崎大将も、荒木宗、真崎宗といわれて信者が多かった。何をいっているのかさっぱりわからず、煙に巻かれるところが魅力だといわれる大将もいたが、阿南大将はそういうタイプではない。口を開けば楠公精神を説くのだから、これは誰にでもわかる。また、人の話をじっくり聞いてやるから、相手は俺の考えをよくわかってくれたという満足感を持つ。誰からも信頼をよせられた」
「鈴木内閣には大きな特色があった」と、当時参謀本部第二(情報)部長であった有末精三(中将)は語る。「まず新陸相阿南大将と新首相鈴木海軍大将とが宮中関係の知己≠ナ、互いによく知り合っていたこと。次に、阿南大将と参謀総長の梅津大将が非常に親密な関係であったこと。政戦両略一致が何よりも必要なあの時期、これほど機宜に適した人事はないと、われわれ一同は心から喜んだものだ」
阿南と梅津とは大分県の同郷人であり、同じ青山の歩兵第一連隊の出身で若い時から親しく、梅津の陸軍次官の時に阿南は兵務局長と人事局長を勤め、また梅津の関東軍総司令官時代には、阿南は第二方面軍司令官としてその麾下《きか》にあった。日ごろから阿南が三期先輩の梅津に兄事していたことは、広く知られていた。
鈴木内閣には無任所国務大臣の椅子が二つあった。一つは商工相、貴族院議員などの経歴のある左近司政三海軍中将が決定していたが、鈴木はもう一人を陸軍から出したいと考え、その人選を阿南に依頼した。
阿南が推薦したのは安井藤治中将であった。安井は阿南の同期生で、二・二六事件のときの東京警備参謀長、のちに北満ハイラルにあった第六軍司令官となり、昭和十六年末に予備役になった。陸軍内部でも目立つ存在ではなく、まして内閣の中では鈴木総理をはじめ閣僚のほとんどが安井の名を知らなかった。しかしこの人選は即座に認められた。
当時を回顧して、迫水久常は次のように書いている――
「私が阿南陸相からのご推薦を鈴木総理に報告しますと、『それで結構だ。私は阿南陸相の言うことは万事無条件に承諾することにしておるから』と言われました。私は鈴木総理の阿南大将に対するご信任がこうまで深いのかと、その感を深くいたしました」
組閣に当って鈴木は重臣の入閣を希望したが、米内海相の留任以外は実現しなかった。外交の一大転換をひそかに考えていた鈴木は外相に広田弘毅を望んだが、広田は受けず、東郷|茂徳《しげのり》(元外相)を強く推した。
軽井沢にいた東郷が、鈴木総理から上京を要請されたのは四月七日、新内閣の親任式が行われた日であった。その夜上京し、鈴木に外相就任を懇請された東郷は次のように述べた。
「自分としては本戦争の発生を防止するため苦心を重ねてきたわけだから、できるだけすみやかにこれが終結を計ることには喜んで尽力したいが、戦争の終結も指導も戦争の推移から割り出して考察する必要があると思うから、諾否を決する前に今後の戦局の見通しについて、総理のご意見をうけたまわりたい」
これに対し鈴木は「戦争はなお二、三年はつづき得るものと思う」と答えた。
東郷は「近代戦における勝敗は、物資の消耗、すなわち生産の増否にかかわるところが大きく、この点からみても、もはや戦争の継続は困難で、今後一年も続けることは不可能と思う」と述べ、さらに「この点の見通しに総理との間に意見一致せざるにおいては、外交の重責を引き受くるも、今後の一致協力ははなはだ困難であるので、せっかくの申し出もおことわりするほかない」と答えた。
翌八日、東郷は岡田啓介に、昨夜の鈴木との会談を語った。岡田も、松平内大臣秘書官長や広田弘毅も、いちように入閣を勧告した。
同日午後、迫水書記官長が東郷を訪れ、前夜の鈴木との会談について「今の状況の下で総理が戦争を急速に終結するといっては、反作用も生ずるおそれがあるから、その言明を求めることは無理だが、総理の胸中を推測して、ぜひ就任を願う」と述べた。だが東郷は≪総理が自分と同意見ならば、昨夜は二人だけの内話だから、これを口に出せないはずはなく、またそのように水くさいのならこの難局に協力するのはむずかしい≫と思い、承諾しなかった。
しかし翌九日、松平内大臣秘書官長が来て「総理の戦争についての見通しは確定しているとは思えないから、入閣後にこの点を啓発してほしい。陛下も終戦をお考えのように拝察される」としきりに入閣をすすめ、木戸内大臣も強くそれを望んでいると告げた。さらに午後には迫水から望まれて再度東郷は首相官邸へ出向いた。鈴木は「戦争見通しについてはあなたのお考え通りで結構だし、外交はあなたのお考えで動かしてほしい」と語った。これで東郷はようやく外相兼大東亜相就任を受諾した。
鈴木と東郷のやりとりの場合もそうだが、鈴木の言葉にはしばしば解釈のつかないところがある。
四月九日――東郷が鈴木から戦争終結実現への白紙委任状をとりつけて外相に就任した日――陸軍は本土決戦のための陸軍高級人事を発表した。前陸相杉山元元帥は第一総軍(東北、関東、東海、総司令部は東京市ヶ谷台)の司令官に、畑俊六元帥は第二総軍(近畿、中国、四国、九州、総司令部は広島)の司令官に、河辺|正三《まさかず》大将は航空総軍司令官に、河辺虎四郎中将は参謀次長に、それぞれ任命された。参謀総長は昭和十九年七月以来引続き梅津美治郎大将である。
このとき軍務局長に就任した吉積《よしづみ》正雄中将は、参謀本部第一(作戦)部長である宮崎周一中将に、「勝利の目途|如何《いかん》」と質問したところ、宮崎は「目途なし」と答えた。「然《しか》らば速かに終戦に持ってゆくべきではないか」との質問に対して、宮崎は「統帥部はただ継戦あるのみ、統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」と答えたという。
作戦の責任者である第一部長が「勝つ見込みは全くない」と言い切っているこのとき、国民は竹槍で敵と闘う訓練を強制されて、空襲の度に栄養失調の弱い足をひきずって逃げまどい、多くが無惨な死を遂げていた。
初めから無視されている国民は、戦争についての意志を問われるはずもなく、自らそれを主張する力も方法も持ってはいなかった。軍隊の最高指揮権である統帥権は明治憲法で天皇の大権と定められ、政府権限からひき離されて孤立し、独り歩きして、「統帥部自ら戦争を放棄することは出来ない」ということになったのは、逆説的ではあるが、理にかなっている。
梅津も「私個人としては即時終戦だが、参謀総長としてはそうはいえない」と、もらしている。
本来国民を代表すべき内閣、議会は統帥権に触れることが出来ず、機能を失なったも同様であった。統帥権の平衡をとり戻し制御できるのは、大元帥として統帥の絶対権力を持つ天皇だけということになる。結果的には天皇の意志の発動によって戦争は終結したが、しかし神≠ノ祭り上げられていた天皇は実際の権能は持ってはいなかった。それが戦争終結の意志を表明したのは非常のことであり、異常のことであった。
開戦と終戦の不手際について、一部の軍人の間には「明治天皇ならば……」というささやきがあったといわれる。明治天皇は英明な豪傑だったようだが、それだけでなく、そのころの天皇はまだ余り神格化されず、自由意志を持つ人間ぽいところがあり、一方に軍の組織も小規模で動脈硬化を起していなかったので、相互に動きやすかったようである。
一部将校の中には直観的に、鈴木新内閣の和平指向を感じた者があった。四月六日夜には憲兵司令官|大城戸三治《おおきどさんじ》中将が吉積軍務局長に、「鈴木大将は日本にバドリオ政権の樹立を企図する算があるから、組閣を阻止しなければならない」と意見を述べている。しかし吉積も、また吉積から報告を受けた杉山陸相も、根拠のない憶測としてとり上げなかった。当時の陸軍は、新内閣の採るべき道は強力に戦争を遂行する以外にはないものと考えていた。
このときの鈴木が憲兵司令官の言動を具体的に知っていたわけではないが、しかし自分がどのような立場にあるかはよく心得ていた。彼は仮にも陸軍を刺激するような行動はとらず、誰を相手にも決して本心を口にしなかった。四月七日と八日の二回、鈴木は総理としてのラジオ放送を行なったが、その中には次のような一節がある。
「わが帝国が世界の大国米英を敵とするこの戦争でありますから、今日のごとき事態は当然起こることであり、あえて驚くには当りませぬ。われわれが必死の覚悟を以《もつ》て、すなわち捨身であくまで戦い抜いて行くならば必ずやそこに勝利の機会を生みまして、敵を徹底的に打倒し得ることを確信するものであります」また「わたくしの最後のご奉公と考えますると同時に、まずわたくしが一億国民諸君のまっさきに立って、死に花を咲かすならば、国民諸君はわたくしのしかばねを踏みこえて、国運の打開に邁進《まいしん》されることを確信いたしまして……」と激越な調子で呼びかけてもいる。
鈴木はのち『鈴木貫太郎自伝』の中で「国民よ我が屍《しかばね》を越えて行け≠ニいった真意には次の二つのことが含まれていた。第一に、余としては今次の戦争は全然勝ち目のないことを予断していたので、余に大命が降《くだ》った以上、機を見て終戦に導く、そして殺されるということ。第二は余の命を国に捧《ささ》げるという誠忠の意味から彼《か》のことをあえていったのである」と説明している。
だがこのラジオ放送を聞いた国民一般は、鈴木総理の真意など察知するはずもなかった。人々は鈴木内閣の方針も、これまでの小磯内閣や東条内閣と同じく、最後まで戦い抜こうというものと受けとった。
[#改段]
戦艦大和、海底へ
鈴木が組閣中の四月六日、連合艦隊は沖縄の米軍に大打撃を与える目的で、第三十二軍の地上総反攻と相呼応して航空総攻撃を実施することになった。菊水一号作戦である。さらに連合艦隊司令長官豊田|副武《そえむ》大将は残存海上部隊の主力――第二艦隊(戦艦大和、巡洋艦|八矧《やはぎ》及び駆逐艦八隻)によって海上特攻隊を編成し、沖縄米軍泊地に突入させる決意を固めた。
この第二艦隊の海上特攻作戦は帝国海軍のいさぎよさを誇示するためとも、米航空戦力を集中させ菊水作戦の効果を高めるためのオトリ作戦ともとりざたされた。いずれにせよ、豊田長官の決心に軍令部は反対であった。
結局、大和以下十隻の艦は片道燃料四千トンを積んで出撃した。この給油で呉《くれ》、徳山の重油タンクはカラになった。
第二艦隊司令長官伊藤整一中将も、この無茶苦茶な作戦に強く反対したが、主張が破れたのちは大和の艦橋長官席に坐り沈黙を通したと伝えられる。指揮放棄ともとれるが、司令長官がいるいないなど問題にならない作戦だった。吉田満は名著『戦艦大和』に「海戦史ニモ残ルベキ無謀愚劣ノ作戦」と書いている。一機の掩護機《えんごき》もなく四百機の米艦載機の猛攻を浴びた艦隊は出航二十時間後の四月七日午後二時過ぎ、九州西南岸を僅か五十|浬《かいり》離れたばかりで全滅した。大和だけでも約三千の将兵が海に沈んだが、このとき伊藤中将(戦死後、大将)も艦と運命を共にした。帝国海軍の海上勢力は消滅した。
沖縄の第三十二軍は航空隊と呼応して総攻撃を決行するため準備を進めていたが、四月七日午後、米船団百十隻が新たに牧港《まちなと》沖合に出現したので、両面からの敵の上陸を憂慮し、かねて持久戦略に固執していた作戦主任参謀の意見によって、決行寸前で総攻撃を中止した。このため、最も重要な地上総反攻の戦機は失われた。
菊水一号作戦の戦果と第三十二軍地上総反攻決行とを信じ、米軍に動揺の兆があると誤信した連合艦隊は、四月九日も引続き総攻撃を継続し、米艦船を全滅≠ウせようと次のような電命令を発した。
「連合艦隊はこの機に乗じ、指揮下一切の航空戦力を投入総追撃を以て飽くまで天号作戦を完遂せんとす」
海軍の天号作戦に対する熱意は三月ごろから急速にたかまり、遂に決戦思想に発展して、決号(本土)作戦は従、天号作戦が主という構想に変ってきた。しかも海上部隊が全滅した後は、残存の航空部隊が唯一の戦力である。そのうえ航空作戦の戦果を誤信していた海軍は、ひたすらに沖縄決戦を望んでいた。
第二次総攻撃は四月十日の予定だったが、十二、十三日に決行された。「沖縄進攻米軍の損害甚大」という外電報道は、大本営海軍部や連合艦隊首脳を昂奮《こうふん》させた。
離島作戦の徹底的失敗に懲りていた陸軍の沖縄作戦に対する考え方は、「本土決戦準備のため出血、持久作戦を行う」というものであった。陸軍にとっては今では本土決戦以外に打つ手がなく、そのため内地に約六十箇師団の兵力を準備しようと大わらわだった。この時期に離島へ増援を送る方途はなく、二箇師団余りの兵力しかない沖縄で決戦を遂行する構想など、とうてい持ち得なかった。
海軍は陸軍が本土決戦を重視する余り、天号作戦に航空戦力の出し惜しみをしていると不満だった。陸軍としては本土決戦という航空戦力温存の理由があった。
陸、海軍の関係が作戦構想の相違からますます溝《みぞ》を深める中で、沖縄の戦況は日一日と悪化した。特攻機の血の犠牲にもかかわらず、天号航空作戦の目的である米上陸軍の洋上撃破は完全に失敗し、僅か二箇師団の第三十二軍は、無疵《むきず》で上陸した敵の攻撃にさらされていた。米側資料によれば、沖縄に上陸した米陸軍と海兵部隊の総兵力は十八万三千人であった。
阿南が陸相に就任した数日後、彼の姪《めい》の夫で日頃から親しい野口正造が陸相官邸を訪れた。野口は阿南とほぼ同年輩であった。
「この重大な時期に陸軍大臣を引受けられたからは、さぞご覚悟のあることと思うが……」という野口の言葉に、阿南は次のように答えたと、野口は書き残している。
「今日の陸相は余りに重責の地位であり、身不肖で到底その任に非ずと思う。しかし陸海軍の一致した推挽《すいばん》と、上《かみ》大元帥陛下の皇命を仰いでは、身の最善を尽くしてその鴻恩《こうおん》に報いなければならぬ。
これまでにしばしば見受けたことだが、大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を免れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫《わ》び申し上げる覚悟だ」
陸相就任から終戦までの四ヵ月余りの間に、阿南周辺の何人かが彼の自決の覚悟を知り、また推察しているが、野口がその最初であった。阿南は鈴木内閣が終戦内閣になるであろうと予測し、終戦がどのような形のものにしろ、その時は全陸軍を代表し死をもって天皇に詫びようと覚悟して、陸相の座についたと思われる。
陸相秘書官の中には、杉山元陸相時代からひきつづいて松谷誠《まつたにまこと》大佐(戦後、自衛隊北部方面総監、陸将)がいた。彼は十九年、大本営十五課長―戦争指導班長の時代から、やがて来るであろうドイツ崩壊の時期に日本も終戦を計るべきであるとして、屈服和平と妥協和平の二つを想定し、研究を進めてきた。松谷は十九年六月、当時首相兼陸相兼参謀総長であった東条にこの意見を述べたのがたたって支那派遣軍参謀に飛ばされたが、同年十一月、杉山陸相の秘書官に迎えられて帰国した。
松谷は「軍部から終戦を発動すべきである」と信じ、杉山陸相も基本的には彼の意見に同意した。しかし杉山には陸軍部内中堅主戦派を押える自信がなく、積極性に欠ける性格でもあり、具体的には何の手を打つこともなく終った。
「阿南大将は陸相就任の当初から終戦を考えていて、私の意見にはっきり同意された」と松谷は語る。「しかし私との密談の席の言葉と、他への言葉とは全く違っていた。鈴木総理も阿南陸相も、その点では初めから腹芸をやっていたといえる」
五月十七日から四日間、阿南は松谷、林の両秘書官を伴って九州、中国の各地を視察した。鹿児島県|知覧《ちらん》では沖縄作戦に出陣する特攻隊員と会い、鹿屋《かのや》では連合艦隊司令長官と懇談し、広島では第二総軍司令長官畑元帥と夜おそくまで語り合った。
帰京直後の二十一日深夜、松谷は秘かに阿南と会い、改めて日本の国力、戦力についての意見を述べ、「国体護持以外は無条件で終戦に導くという決意を、陸軍が五月いっぱいにかためる必要」を強調した。
阿南は「君の意見の通りだが、私がそれを口にすると影響が大きいので、外部や部下に対して言わないだけだ」と答えた。さらに阿南は「しかし、下田にペルリが来た時の徳川幕府のようなブザマな態度は出来ない」と繰返したという。
松谷は「当時の阿南さんは何とか作戦の手段を講じて敵に一撃を与え、出来れば相当の打撃を与えた上で講和にもちこみたいというお気持だった。当時から国体護持と、軍の中堅層をいかに統制して終戦に導くか――について苦慮しておられた」と語る。
松谷は阿南の秘書官になってから約一ヵ月の後、内閣の要望によって総理秘書官に抜擢《ばつてき》された。その後も引き続き彼は木戸内府の秘書官長松平康昌、東郷外相の秘書官加瀬|俊一《としかず》、米内海相付の高木|惣吉《そうきち》(出仕兼海大研究部)少将らと連絡をとり、極秘|裡《り》に和平工作を進めた。
和平運動には、宇垣一成大将の一派、荒木貞夫、真崎甚三郎両大将、柳川平助、小畑敏四郎両中将、近衛文麿、また吉田茂など、いくつかの流れのあることを知りながら、松谷はどことも接触しなかった。鈴木と阿南の連絡係も勤めたが、深夜ひそかに陸相官邸の裏門からはいって阿南と二人だけで密談するなど、周到な注意を払った。もし和平工作が発覚した場合、阿南に累を及ぼして軍全体が動揺することのないよう、松谷だけが内閣の職員として処分を受けてすませるか、または取調べを受ける前に自決する覚悟であった。
「和平への大難関は陸軍だったが、その陸軍の内部が割れることを、東郷外相はじめ皆が心配していた」と松谷は語る。彼の和平工作は終戦まで続けられてゆく。
吉田茂(駐英大使、戦後首相)が憲兵隊に拘引されたのは、阿南が陸相となった一週間後の四月十五日であった。吉田は著書『回想十年』の中に「私は当時、鈴木貫太郎総理や阿南陸軍大臣とは懇意の間柄であったから、まさか死刑にはせんだろうと多寡をくくっていた」と書いている。
これについて、当時軍事課長であった荒尾|興功《おきかつ》(大佐)の言葉が残っている。荒尾は、阿南が陸軍の表舞台に登場して間もない人事局長のとき、彼の直属の部下であった。のちに終戦時のクーデター対処に深くからみ、また阿南から後事を托《たく》される信頼関係は、人事局時代以来生じたものと思われる。
荒尾は戦後、次のように語っている。「阿南閣下は吉田茂氏が逮捕されたことを聞かれますと、ただちに私を呼んで『すぐ釈放せよ』といわれました。『いやこれは兵務局長那須閣下の御任務です』と申し上げますと、すぐ那須閣下をお呼びになって、即時釈放を厳命されました」
阿南の次官時代その平河町の官舎は吉田と同じ隣組で、朝の散歩の時などたまに立ち話をする程度のつき合いであったが、吉田は「私に少なからず好意を持っていてくれたようだった」と書き、憲兵隊の取調べは厳重だったが、意外に丁寧な取扱いを受けたことを「これも阿南君の差し金であったろう」と想像していた。
憲兵隊の取調べは「近衛公の内奏文の内容を白状しろ」というところから始まった。この内奏文は二月十三日夜、近衛が吉田の家で草稿を示し、これを吉田が補校したもので、その夜遅くまで二人は語り合った。憲兵隊は吉田が牧野|伸顕《のぶあき》(伯爵、内大臣、吉田の岳父)に見せた内奏文の写しを、家宅捜索で押収してその内容はよく知っていた。憲兵隊が最も知りたかったのは「内奏後の近衛が、天皇のご下問に対し何と答えたか」、「近衛と吉田は深更まで何を話し、何を画策したか」の二点であった。
比島の戦況が絶望的となった一月から、天皇は重臣の意見を聞く必要があるといい、木戸内府の計らいで、二月にはいってから各重臣が日を異にして参内した。重臣の中で東条一人は戦争完遂を上奏し、岡田啓介は敗戦の現実に則して意見を述べたが、最も率直に戦争終結の要を説いたのは近衛であった。
内奏文は「敗戦は遺憾ながら最早《もはや》必至なりと存候。以下|此《こ》の前提の下《もと》に申述候」という書出しに続く長文で、一日も早く戦争終結を講ずべきである、との主旨に貫かれていた。そして終戦に至る前にぜひとも粛軍の必要があると述べている。
「職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり」、「無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと……」など、近衛が陸軍軍人をどう捉《とら》えていたかが率直に語られている。
他の重臣が上奏する時は藤田尚徳侍従長が陪席したが、近衛と牧野の場合は木戸内大臣が侍立した。「木戸幸一関係文書」によれば、近衛は上奏後、天皇の粛軍についての質問に対し、危険分子を一掃する人物として宇垣、香月、真崎、小畑、石原をあげているが、「これらを起用すれば当然摩擦を増大す。……これを敵前にて実行するの危険を考慮するとせば、阿南、山下両大将の中《うち》を起用するも一案ならん」と答えている。
吉田茂は憲兵隊の取調べに対し、天皇と近衛との一問一答の内容など、いっさい答えないことにハラを決めていた。
吉田が拘引中の五月十四日、米内海相は大臣室で高木惣吉に「吉田は取調べのとき陸軍の従来のやり方の悪かったこと、間違っていたことを忌憚《きたん》なく論破したということだ。かれこれ問題を惹《ひ》き起したらしい」と語っている。
吉田は収監中、空襲のため火に追われて「泥棒諸君と共に」四度移転した。彼がようやく仮釈放になったのは四十日後であった。
その一週間後に、また呼び出された。ここで吉田は、島田法務中将から閣下≠ニ呼びかけられ、苦笑しながら「どうやら無罪らしい」と、次の言葉を待った。
「実は閣下のことで、起訴にするか不起訴にするか、陸軍部内で大分問題になった。私は不起訴を主張したが、起訴を主張する人も多かった。最後に阿南閣下の裁断で不起訴と決定した」
こうして吉田は無罪放免となった。
鈴木内閣の第二回目の閣議の席で、岡田忠彦厚生大臣は、「現在、物動計画の真相はどうなっているか、主任大臣の許《もと》で慎重に調査して報告してもらいたい」と述べた。
その結果、豊田貞次郎軍需大臣兼運輸大臣の報告があった。それは岡田の予想通り、戦争継続は無理という結論を引き出すほかない内容であった。
数日後、岡田は意を決して陸相官邸を訪れ、人払いをして阿南にいった。
「もう戦争継続は出来ないと思うが、あなたは戦争をやめる気はないか」
戦争完遂を唱える陸軍の代表に対して、思いきった発言であった。岡田は阿南が激怒するかと思っていたが、阿南は静かに、「それはあなただけのご意見か、それとも他と相談した上でのお話か」とただし、岡田個人の考えであることを知って、「どのようにしたら、戦争をやめることが出来ると思うか」と問いかけた。
岡田は、中国にある軍隊を満州、朝鮮まで引揚げる案を示し、阿南はその困難を説明するなど、二人は具体的にこの問題を語り合った。結論はなく、岡田の「十分に考えて、断行していただきたい」という要望で話し合いは終ったが、岡田は「阿南大将の意のあるところを十分推察し得た」ことに満足した。
のち、閣議の空気が次第に終戦に傾いた時期、本土決戦を主張しながらも、辞職して鈴木内閣を倒し和平論を葬ろうとしない阿南を、岡田は心中でうなずきながら眺めていたという。
以上は昭和二十八年に、岡田が「阿南大将を憶《おも》ふ」の一文中に書いている。
「私は陸相に就任したばかりの阿南さんの所へ、『ソ連を通じて対連合国、特に対米和平を促進する案』を持っていった」と、参謀本部第二(情報)部長であった有末精三は語る。
有末は小磯内閣時代から和平工作の研究に手をつけていたが、思わしい案がなく、万策尽きた三月末に「ソ連を仲介とする案」をまとめたばかりであった。ソ連通の新参謀次長河辺虎四郎は「ソ連はなかなかの曲者《くせもの》だから、むずかしかろう」と容易に賛成しなかったが、有末の「愚案だが、他に方策の見出《みいだ》せぬ今、やむを得ない」という言葉にようやく同意を示した。
ソ連は四月、小磯内閣の倒れた直後に、日ソ中立条約を延期しないと日本政府へ通告してきた。この条約の有効期間は翌二十一年三月までだが、この冷やかな通告によって日本側のソ連不信はいっそうつのっていた。
「私がソ連との交渉案≠陸軍大臣に話したところ……」と有末は語る。「阿南さんの答は『不同意』と、まことにきっぱりしたものだった。『ソ連は信頼できる国ではない。和平工作なら、今もなお蒋介石政権との間で進めるべきだ』と、阿南さんはいわれた」
阿南はこの時だけでなく、折にふれて蒋介石政権との和平工作を口にしている。また彼は妻綾子に、「もし私をこの工作の責任者として派遣してくれたら、それこそ命がけでこちらの誠意を蒋介石に通じさせ、何としても話をまとめてくるのだが」と話してもいる。
有末は言葉を続けて、「阿南さんがなかなか同意されないので、私は『これまで蒋介石政権との間の和平路線はすべて失敗しており、もはや一刻もぐずぐずしていられないせっぱつまった情勢なので、ぜひ』と強く意見を具申した。それでようやく……」
ようやく阿南は「統帥部として、謀略としてやられるのなら眼をつぶりましょう」と答え、「しかし、梅津参謀総長は果してご同意かな?」と首をかしげた。思慮深くなかなか決断を下さないため一部からは煮えきらぬ男≠ニ評されている梅津が、この案に賛成するとは、阿南には思えなかったのだ。
すでに梅津の同意を得ていた有末は、すぐ彼の許へ行き、阿南の「眼をつぶろう」という返事を伝えた。
「これを聞いた梅津大将は、すかさず陸軍大臣室へ行かれ、阿南大将の了解をとりつけて下さった」と有末は語る。「このとき私は改めて、両大将が互いに深く信頼し合っておられるのを感じて、非常に頼もしく思った。参謀総長と陸軍大臣とは、いわば車の両輪なので、この二人がしっくりいかなければ陸軍という大きな車は進まない。梅津さんは慎重=A阿南さんは積極≠ニ、二人の性格は全く違っていたが、それが互いの信頼で結ばれていたので、かえってよい結果を生んだと思う。終戦時に特にその感が深かった」
四月二十二日、日曜日であったが、参謀次長の河辺と有末は東郷外相を訪問し、河辺が「ソ連側に、思いきって有利な条件を提示して、ソ連が不参戦中立の態度を保持し、和平|斡旋《あつせん》に乗り出すよう、一世一代の至芸をやっていただきたい」と述べた。外相は日本側がソ連に提示する条件についてこまかく質問したが、このとき東郷が餌《えさ》≠ニいう言葉を使ったことを、有末は記憶している。また東郷は二人に向かって、「これは陸軍全体の意見として受取ってよいか」と念を押した。それまで、多くの和平工作が陸軍の反対で失敗していた。
こうして東郷は「時機が遅きに失しているが、努力してみよう」と約束した。
最後に河辺は「この種の工作は必ず上層部のみで行われ、我々以下には示される必要はなかろう」という意見を強く述べた。横槍を防ぐための配慮であった。陸軍大臣と参謀総長の二人が承認しているので陸軍全体の意見≠ナはあるが、同じ陸軍内の憲兵にもれたら、どのような事態が起るか予断を許さぬものがあった。
この和平案が参謀本部第二部で研究されていたころ、その指導に当った秦彦三郎参謀次長も、その後任の河辺虎四郎も、共にソ連に対し強い不信感を持ち、阿南もまた初めは「不同意」と答えている。万策尽き窮余の策として取り上げられたこの案には、初めから相手国に対する不信という弱点があった。
東郷外相はすぐには対ソ工作に手をつけなかった。彼は日本の外交上の地位が沖縄作戦の好転によって改善されない限り、ソ連から具体的な言質《げんち》をとることは難しいと考えていた。大本営は沖縄で完全な勝利を得られないまでも、米軍に一撃を与えることに悲壮な努力を続けていた。だが五月上旬には最後の地上攻撃も失敗した。
四月三十日、ヒトラー総統自殺、五月二日、ベルリン陥落、七日、デーニッツ新総統は連合国軍に無条件降伏した。日本の軍部主流が軽率にも不敗を信じたナチス・ドイツは崩壊し、日本は世界の中で完全に孤立した。
ドイツの敗戦は前年一九四四年六月の連合国軍のノルマンディー上陸作戦、七月のヒトラー暗殺未遂事件以来、時間の問題とわかっていたが、いよいよ最後と判断された四月二十日、最高戦争指導会議は「独屈服の場合に於《お》ける措置要綱」を決定した。その中の「対内措置」には「反戦ないし和平的気運|擡頭《たいとう》のおそれあるを以て、此の際言論および策動に対する警戒取締を厳にす」という一項もある。
最高戦争指導会議とは、昭和十九年夏、小磯内閣が発足して間もなく設置されたものである。それ以前は大本営政府連絡会議と呼ばれ、政府側からは総理ほか必要な閣僚が出席し、実質的には戦争指導機関であった。鈴木内閣の初期には総理、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の六人と、内閣書記官長、陸海軍両軍務局長、内閣総合計画局長官ら四幹事の十人が集ったが、次第に六首脳だけの会議が多くなってゆく。
東郷外相は、ドイツが敗れた主な原因は連合国軍の空襲の効果であると考えた。日本本土に対する米軍の空襲はいよいよ激化し、損害は増大の一途をたどっている。これ以上和平工作の着手を延期すれば、日本の国力は急速に消耗し、対外地位が弱まるばかりで、無条件降伏よりも幾分有利な交渉≠ノよる講和の機会さえ失うことになろう、と判断した。
東郷はドイツ降伏について天皇に報告した際、このような判断に基づいて、今は日本も終戦の問題を考慮する必要があると上奏した。天皇は早期和平の意図を強く表明することはなかったが、平和がすみやかに到来することを望むと述べた。
予期していたこととはいえ、ドイツの敗北は日本の為政者たちに大きなショックを与えた。鈴木総理は「ドイツ降伏後にくるものは、ソ連邦をも加えた連合国のわが方に対する圧力である。ソ連邦はすでに四月上旬、日本に対して従来の日ソ中立条約を廃棄する旨を通告して来ている。もしソ連が参戦するとなったら、更でだに戦争終結の機を掴《つか》もうとする努力もその機会は遠のいてゆくことになる」と心中のあせりを書きとめている。
だが五月三日にラジオを通じて発表された首相談話では、鈴木は相変らず戦争完遂≠フ線に添って「ドイツ国民の今日まで五年有半にわたる敢闘と犠牲に対しては、深く同情の意を表するものであるが……われわれには万全の備えがある。……いうまでもなく、わたくしはすべてをささげて戦い抜く覚悟である。国民諸君もまた前線における特攻勇士のごとく、一人もって国を興すの気迫と希望とをもって勇奮邁進せられたい」と勇ましく呼びかけている。
このようにドイツの降伏を機に、日本も終戦に漕《こ》ぎつけたいという各人の思惑はそれぞれの胸の中で揺れ動いていた。だが早期和平への道には陸軍が立ちふさがっている。
東郷はかねがね講和についてアメリカと直接交渉することを考えていたが、米英及び重慶政府は日本に対して無条件降伏を要求していたため、軍部の絶対反対があり、動きがとれなかった。また中立国やローマ法王庁を通じての和平交渉を考えてみても、有条件講和をもたらすことは不可能と認められた。結局、和平工作の路線としては、ソ連を通じての交渉だけが残されていた。
しかし講和の問題を率直に最高戦争指導会議に持ち出すには、当時まだ機が熟していなかった。そこで東郷はかねて陸、海軍双方から申し入れのあった対ソ交渉の要望をとり上げ、これを最高戦争指導会議の討議に付すことを契機として、次第に終戦の根本問題に触れられるかもしれないと期待した。
出席者を、鈴木総理、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、及川軍令部総長の六人の構成員だけにしぼった最高戦争指導会議が五月十一日、さらに十二日、十四日と三回にわたって開かれた。
最初の会議で梅津は「ドイツ降伏後、東欧のソ連軍が続々とシベリア方面に送られている状況」を説明し、外交手段によってソ連の対日参戦を防止することの必要を強調した。この意見に一同が同意した。
次いで海軍側は、ソ連との交渉には、油の供給など積極的援助を求める目的をも含めたいと主張した。信じ難いことだが、これが海軍最高首脳の対ソ認識だった。これに対し東郷は、今日の情勢下でそこまで求めるのは無理だと反論し、さらに「現在の日本の地位は、終戦そのものについての手段を熱心に考慮しなければならないほどである」とつけ加えた。
ここで鈴木総理が、「ソ連の積極的友情を得ることは、すでに遅すぎるという東郷外相の見解は正しいと思う」と述べ、「ソ連との交渉は、連合国との一般的講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼もうという目的をも含めるべきだ」と重大提案を行なった。
極度に慎重な態度をとり続けてきた鈴木が講和≠口にしたのはこれが初めてであった。これは東郷の意図と一致するもので、鈴木の提案に対し軍部構成員からも反対の声はあがらなかった。
次いで議論は、ソ連との友好関係を更新する代償としてどのような利権を提供するかに移ったが、相当大幅な譲歩≠行なうという、例によって具体性のない申し合せで足ぶみした。最後に東郷外相は、一般的講和にソ連の仲介を求めるための条件について、具体的な了解をとりつけようとした。東郷は「もし日本が受諾しようとする一般講和の条件について一つの結論が得られれば、交渉を早速開始することができる」と述べた。
これに対し阿南陸相が、「講和条件は現在の戦況に基づいて決定すべきである。日本はまだ戦いに敗れてはいない。そして日本は、敵軍に占領されている日本領土よりも遥《はる》かに広大な敵の領域を占拠している」と発言した。強気の陸軍の代表者である阿南のこの客観情勢を無視した発言は、誰もが予想したことであった。東郷は「そのような条件では、とうてい問題にならない。講和条件は、現在の戦況だけでなく、合理的に予見できる将来の戦況をも考えて割り出すべきだ」と主張した。
ここで講和条件についての結論を求めることは、不可能だった。今この問題について対立を決定的にすることは、将来の討議に悪影響を及ぼすと判断した米内海相は、仲介問題についての審議は延期しようと提議して、会議は終った。
この五月中旬の三回にわたる最高戦争指導会議で、ソ連に講和の仲介を求めようという原則的決定はしたが、講和の条件については何も決まらなかった。また、今ただちに講和を求めるという意志の確定を見たものでもなかった。ソ連との交渉はまず参戦防止と好意的中立の獲得について行われ、仲介問題はその結果を見た上で要領を決定しようというものであった。
高木惣吉(海軍少将)のメモによれば、五月十四日と十七日に米内海相は大臣室で高木に、「陸軍はこのごろ戦局に自信を失ってきているように見えるが、しかし口に出しては言わない。特に梅津は、はっきりしない」、「陸軍はソ連の出方を非常に恐れている」などと語っている。
一日も早く戦争をやめるほかに手はない、と決意していた米内と海軍次官井上|成美《しげよし》中将(のち大将)が、終戦工作の担当者として選んだのが高木惣吉少将であった。井上から「報告は直接大臣へ……」といわれた高木は、しばしば米内と二人で語り合った。そんな折に米内は「陸相とはぜひ二人でとくと懇談してみたいと思っている」と語り、「外にもれると容易ならぬことになると思う」というほどの講和条件を口にして陸軍のハラを割らせよう≠ニ考えていた。
陸軍省衛生課長であった出月《いでづき》三郎(軍医大佐)は、当時の阿南について次のように書いている――
「この大臣が来てから、陸軍省内の従来のしこりが幾分取れたように思われた。大臣はときどき局長や課長を集めて会食し、その後でみなに何でも思うことを言わせて、それを聞いて喜んでいた。その席上、私は次のような意見を述べた。
『近時、陸軍ではむやみに兵を徴募する。そのため民間では食糧生産の労働力に事欠く状態である。一方軍隊では、兵に持たすべき銃はおろか、ゴボウ剣も不足している始末である。そして食糧不足は次第につのり、訓練はますます猛烈となってきた結果、カロリーの摂取と消耗の不均衡を来たし、部隊から栄養失調者を出している状態である。そして将来この傾向はますます強くなると思われ、国軍の戦力上重大な問題と思う。
そこで、愚見を申し述べる。それは兵員の数をへらし、さらに過剰の兵を徴募しないことである。たとえば百人の一隊のうち、健康状態の悪い二十人を召集解除し、これらは郷里で食糧や兵器の増産に当らせる。百人の一隊は八十人になるが、腹のへった栄養失調の兵が何の役に立つだろうか。私は精兵主義である』
それまで阿南大臣は誰の意見をもニコニコして聞いていたが、この時ばかりは反駁《はんばく》した。
『それは君のいった通り愚見だと思う。召集解除などする必要はない。軍隊は戦闘をする兵ばかりでなく、炊事や当番、また雑役に当る兵も必要だ。余り健康のよくない兵はこれに当てればよい』」
阿南と出月のやりとりはここで終っているが、もし二人だけの席であったら、阿南の答は違ったものではなかったろうか。大勢が聞いている席で、陸相としてはこうしか答えられなかったであろう。豪北時代の阿南は、前線に送るため現地の植物、魚介類の加工を研究させ、将兵の栄養にこまかく心を配る指揮官であった。出月は次のように書いている。
「公平無私、怜悧《れいり》を以て聞えたこの大臣も、陸軍兵員の健康状態については甚《はなは》だ認識不足であった。当時は托鉢《たくはつ》兵≠ニいう新語が出たほどで、これは空腹に耐えかねた兵が深夜ひそかに部隊を脱け出し、農家の裏口をたたいて飯盒《はんごう》に一飯の喜捨を乞うたことから生まれたものである。
しかしこうした認識不足は何も阿南大臣に限ったことではなく、科学を尊重せず、特に人間の科学である医学から強いて目をそらしていた軍人すべての欠点であった」
出月はのち、割腹した阿南の臨終に軍医としてつき添うことになる。
[#改段]
「世界情勢判断」と「国力の現状」
沖縄ではなおも死闘が続いていた。日本の航空特攻に悩まされていた米軍は、五月から沖縄の陸上基地を使い始めた空軍によって活溌な反撃を開始し、日本の特攻作戦に致命的な打撃を与えていた。もともと特攻機は粗悪で、操縦士は闘志こそ旺盛《おうせい》だが練度が低かった。そのうえ米空軍は基地を陸上に移して以来、空母艦隊を特攻機の航続力の圏外に退避させた。こうして日本の航空攻撃は回を追うごとに損害を増し、効率は低下した。
大本営は、挺身《ていしん》隊を米軍基地に強行着陸させて一時基地の使用を不可能に陥れ、その機に乗じて航空特攻攻撃を決行する作戦をたてた。なぐりこみ作戦≠ナある。これは義烈空挺隊、義号作戦と名づけられた。作戦指導要領の中の「能《あた》フ限リ飛行場附近ニ所在シテ敵ノ飛行場使用ヲ妨害ス」とは、飛行場付近に止《とど》まって死ぬまで抵抗せよ、という命令である。義号作戦には、生還の望みなど万に一つもなかった。
作戦の決行は五月二十三日と決定した。二十六歳の隊長奥山道郎大尉が、決行予定日の前日母あてに書いた遺書には「絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります。只々感謝感激の外ありません。幼年学校入校以来十二年諸上司の御|訓誡《くんかい》も今日の為《ため》のように思われます」とある。
陸士五十三期の奥山は幼年学校時代、阿南の教え子であった。彼の同期生の一人は「生徒の中でも特に純粋であった奥山は、阿南校長の教えを深く胸に刻んでいた」と語っている。
奥山は義烈空挺隊の部下に向かい、「阿南校長のいわれたことだが」と前おきして、「勇怯《ゆうきよう》の差は小さいが、責任感の差は大である。真の勇者とは責任感の強い者をいう」、また部下の小隊長や分隊長には「敵火の中に飛込んでいって、慌て者といわれても恥にはならない。しかし尻ごみして卑怯者といわれては、指揮官は勤まらない」と語ったという。
五月二十三日は沖縄の天候悪化のため決行中止となり、義烈空挺隊の重爆十二機が熊本の健軍飛行場を発進したのは、翌二十四日午後六時すぎであった。それから三時間余り、米軍の電探を避け、暗黒の波の上を這《は》うようにして沖縄へ飛び続けた。機上では、手榴弾《しゆりゆうだん》十発を詰込んだ弾帯、破甲爆薬のはいった雑嚢《ざつのう》、機関短銃、磁石、夜光塗料を塗った指揮棒、懐中電灯、呼子笛などを持ちこんだ隊員たちが、静かに床に腰を下していた。だが十二機のうち四機は、故障や被弾のため不時着または反転した。
送り出した側と義烈空挺隊との連絡は行動の秘密を保つため、隊長機の無線で「変針時」、「沖縄本島到着」、「只今突入」の三回だけ報告することになっていた。
息をつめて待つ健軍飛行場に、「只今突入」の知らせがはいったのは午後十時十一分であった。これが義烈空挺隊からのただ一回の直接連絡であった。あとは米軍が乱発する生文の無電放送「北飛行場異変アリ」、「在空機ハ着陸スルナ」等を次々に傍受した。
義烈空挺隊が二十七日朝まで六十時間近く抵抗を続けたことは、米軍資料によって明かである。二十七日午後二時十分に米軍は「強行着陸シタ日本軍全滅。本日一〇〇〇(午前十時)以降北飛行場ノ使用支障ナシ」という無電を発している。
戦後発表されたいくつかの米軍資料を総合すると、次のようである。
沖縄に到達した空挺隊機は五機、うち四機は対空砲火により炎上しながら飛行場附近に突入し、一機は北飛行場に胴体着陸して、中から八|乃至《ないし》十二人の完全武装の兵が躍り出た。彼らは滑走路に沿って配置されていた米軍機を手榴弾や焼夷弾《しよういだん》で次々に爆砕した。このため総計三十三乃至三十八機が破壊損傷され、約七万ガロンのガソリンが炎上した。日本兵の死体は合計六十九名、海軍設営隊の手で埋葬されたという。
資料の一つには「この全く信じることのできない突発事と、それに続く混乱の模様をくわしく書くことはむずかしい。なぜならその大部分は、次から次へと語りつがれてゆくうちに、真実がわからなくなってしまったからである」と書かれている。
これらの米軍資料が正しければ、強行着陸に成功したのはただ一機ということになる。
当時北≠ニ呼ばれた飛行場は現在の読谷《よみたん》補助飛行場である。義烈空挺隊の碑は彼らの死闘の場であったここにはなく、喜屋武《きやむ》半島|麻文仁《まぶに》の丘の、かつての日本陸軍の複郭陣地近くに建てられている。
横長の巨大な碑の石材は義烈空挺隊発進の地熊本県|金峰山《きんぽうざん》から運ばれたもので、その正面に刻まれた義烈≠フ大文字は奥山道郎隊長の筆跡である。石碑のそばのプレートには、「……突如強行着陸セシ数機ノ爆撃機アリ 該機ヨリ躍リ出タル決死ノ将兵ハ飛行場ニ在リシ多数ノ敵機オヨビ燃料弾薬ヲ爆砕シ 混乱ノ巷《ちまた》ト化セシメタリ 為ニ飛行場ノ機能喪失スルコト三日間ニ及ビ ソノ間我ガ航空特攻機ハ 敵艦船ニ対シ至大ノ戦果ヲ収ムルヲ得タリ」と刻されている。英雄叙事詩《エポペー》としては、こう書かれなければ哀れ過ぎる。
しかし義烈空挺隊が出撃した翌五月二十五日、第六航空軍は百二十機の特攻機を準備していたが、朝七時ごろから視界悪く、発進できたのは技倆《ぎりよう》優秀者の七十機ほどで、うち突入の報告は二十四機にすぎなかった。台湾の第八飛行師団もこの日特攻機十機を準備したが、雨のため発進できなかった。第五航空艦隊は前日午後の出撃で、すでに余力がなかった。
宇垣長官は五月二十六日に「海軍側の特攻の参加|尠《すくな》かりしも、陸軍は……相当の成果を挙げたるは義烈作戦の手前|恕《じよ》するに足る」と弁解しているが、実情は義烈空挺隊の悲惨な徒労であった。
義号作戦が不幸にも徹底して天候に恵まれなかったのは事実だが、気象観測、後続特攻攻撃、陸海軍の協力態勢などの連携の不備は、とうてい作戦の名で呼べるものではなく、義烈空挺隊員を一例として多くの兵員がこの種の手ぬかりの犠牲となって非運の死を遂げた。
五月下旬、陸軍は天号作戦に見切りをつけた。国内には三百万の無疵の軍隊があると豪語する陸軍は、本土決戦に賭《か》け、望みのない沖縄でこれ以上兵力を消耗することを嫌った。だがすでに海上艦隊を失い、沖縄周辺の米艦隊に航空攻撃をかけるほか戦う方法のない海軍は、なおも天号作戦を継続した。だが沖縄はすでに絶望であった。
戦後の昭和二十一年十一月、米軍当局が行なった戦争資料収集のための審問に、河辺虎四郎(陸軍中将、航空本部次長、参謀次長)は特攻隊について証言した。彼は「特攻隊は操縦者の技術不足を埋め合わせる手段であったが、操縦者は喜んでやってくれたので志願者が不足することはなかった。連合国の工業力と我々の精神力は対等に戦うことが出来ると今も(敗戦後も)信じている。特攻隊員は光栄の死を遂げたので、自殺ではない」と強弁している。
これに対し米軍の審問者は「我々の国でも国家のために死ぬことは名誉である。しかし我々は帰還の可能性が五十パーセント以上の場合に任務を与える――ということを原則としている。それ以下の場合は絶対に与えない」と応じている。
五月二十五日夜、強い南風の吹く東京の街は、前夜の空襲に続き、またも十時半から二時間半にわたってB29に強襲された。その機数は、松戸基地B29邀撃《ようげき》夜間戦闘隊の整備兵であった原田良次の著書『日本大空襲』には「五百二機」とあり、「日本軍は二百五十機と発表しているが、その数字は故意に過少に粉飾されたものと考える」と書かれている。
投下焼夷弾は三千二百六十二トン、約十四万九千発に及んだ。このときまでで、東京の主要地域が焦土と化し、首都の機能はほとんど停止した。
この夜、皇居も焼けた。阿南は、皇居炎上の責任をとるため鈴木総理に辞意を表明した。鈴木は慰留につとめたが、阿南の辞意はかたく、やむなく彼の辞表を持って参内した。
天皇は「陸軍大臣の微衷はわかるが、今や国家存亡の秋《とき》である。現職に留《とど》まって補弼《ほひつ》の誠を尽すよう伝えよ」と総理にいった。阿南は陸相として留まるほかなかった。
陸相官邸もこのとき焼失した。永田町にある陸軍省高級副官美山要蔵の官舎が仮りの陸相官邸と決まり、阿南はここに移った。
空襲の二日後、五月二十七日は阿南の長女喜美子の結婚式であった。予定されていた帝国ホテルは空襲を受け営業を休止していたので、九段下の軍人会館が選ばれた。
阿南は嫁ぐ娘に「このつぎ喜美ちゃんに会う時は、戦争は勝っているよ」と語りかけたという。敗戦の日は近い――と、このとき阿南が知らなかったはずはなく、式後、呉へ行く喜美子に再び会う機会はないと覚悟していたであろう。彼はその悲しみを胸にたたんで、愛娘《まなむすめ》の心に一点の影もささぬようにと心を配る父であった。
軍人会館は焼け残ってはいたが電気も水道もとまったままで、花嫁の化粧の水は母が外から洗面器で運ぶありさまであった。急遽《きゆうきよ》集めたローソクに火をともした華燭《かしよく》の典≠ナあったが、そのほの暗さを補うほどに花嫁の父≠フ笑顔は輝いていた。
七人の子供を持つ阿南だが、≪わが子の結婚式に出席するのはこれが最初で、最後……≫と知っていたであろう。挙式の時間が迫っても神主が現われず、焼け出されたのかとその生死さえわからぬ不安に一同が困惑したとき、「靖国神社が近い。すぐあそこの神主さんに来てもらえ」と機転の号令をかけたのは阿南であった。大空襲の直後で困難山積のこの日、彼は八方に気を配って見事な指揮をとった。
喜美子は、淡青色の地に四季の花を刺繍《ししゆう》で浮きたたせたうちかけ姿であった。うちかけは婚家の姑《しゆうとめ》から譲られたもので、これも阿南の配慮で最も安全な陸相官邸の地下|防空壕《ぼうくうごう》にしまわれ、焼失をのがれた。阿南は招待客と談笑しながらも、喜美子の花嫁姿に嬉しさのあふれる視線を止めていた。
宴なかばに阿南はお銚子《ちようし》を持って客席をまわり、一人一人に酌をしながら出席の礼を述べた。二十五日の大空襲以来、交通機関はほとんど杜絶《とぜつ》していた。この華やかな結婚披露宴は一部から当然の非難を受けた。しかし阿南はそれを覚悟の上で、一世一代の父親の喜びを味わった。
五月二十九日、海軍では豊田副武大将が及川古志郎大将に代って軍令部の新総長となった。
米内は豊田に向かって、「終戦に導いても、軍令部は騒がずに納まるか」とたずねた。これに対し豊田は「責任を以《もつ》て引受ける」と答えている。日本の降伏が発表された時、果して軍の秩序を保ち得るかという危惧《きぐ》の念は、陸軍だけのものではなかった。
沖縄を攻略されれば、次はいや応なく本土決戦である。
かねがね本土決戦に即応する戦争指導の基本政策の立案が急がれていたが、五月下旬、迫水書記官長は「今後採るべき戦争指導の基本大綱」の内閣案をまとめた。この案は、四月十五日ごろ迫水の許に届けられていた陸軍案と、趣旨は一致していた。内閣案は基本政策立案の基礎となるべき「世界情勢判断」と「国力の現状」と共に、六月六日の最高戦争指導会議に上程された。
鈴木総理は組閣を終えた翌日の四月八日、迫水に国力調査を命じた。
「私は今後の戦争指導についてはとくと考えなければならないと思うが、陸相入閣のときに陸軍がつけた条件のこともあるので、ここしばらくは静観していかなければいけないと思っている。陸軍の連中は徹底抗戦を主張しているようだが、いまの日本には、ほんとうに戦争を続けていくだけの力があるかどうか調べてみる必要がある。和戦いずれの道をたどるにしても政府としては国力の現状をつかんでおかなければいけないので、なるべく広い範囲にわたって国力の調査をしてくれないか」
沖縄という庇《ひさし》が燃え始めている時期に、何という悠長なことかと驚くが、この問題に気づいた鈴木を誉《ほ》めるべきかもしれない。
迫水は、この調査には内閣総合計画局の機能をフルに発揮する必要があると考えた。それには全産業を押えている陸軍の協力が絶対に必要である。迫水は≪内閣総合計画局長官は、軍部からも信頼される人≫という条件で考えた末、秋永月三《あきながつきぞう》陸軍中将の起用を決意した。総理の命令による国力調査は最高戦争指導会議の事務局が担当し、希望的観測≠排し、現実に則して冷静に進めることになった。
こうして六月初めまでにまとめられたのが「国力の現状」と「世界情勢判断」である。この資料は終戦の日まで極秘の扱いをうけた。
迫水はこの調査結果について、次のように書いている。
「いくつかの例をあげてみると、次のようになる。鉄鋼の生産計画は、年間三百万トンを目標にかかげていたが、昭和二十年一月以降は月十万トン足らずしか生産されていなかった。初めの計画の三分の一以下に落ちている。飛行機の月産は千機の目標をたてていたが、実質的には五百機以下で、しかも機体の原料になるアルミニウムは底をつき、九月以降になると、計画的な生産の見込みはゼロという状態である。石油のストックはなくなり、海軍の艦船は、重油に大豆の油をまぜて使っているのが実情だった。敵機の空襲による被害は思ったより大きく、B29一機が飛んでくると二百七十戸あまりの家が焼失する計算で、このままいくと九月の末までには、人口三万以上の全国の都市は全部焼き払われるという数字がはじき出された。
また外洋を航行し得る船舶は次から次に沈められ、その数は加速度的にふえていたが、補充の見込みは全然つかなかったし、このままいけば、年末には外洋を走ることのできる船は一隻もなくなることが予想された。そのうえ、欧州戦線ではベルリンが陥落し、ナチス・ドイツはついに崩壊した。このときを転機にして、ソ連は欧州各地へ派遣していた兵力を極東へ回しはじめ、ソ満国境へ集結させているという情報が舞いこんできた。その状況から判断すると、ソ連は九月末あたりからいつでも満州へ出兵できる態勢をとりつつあることがわかった」
戦後、アメリカの経済学者J・B・コーヘンは次のように書いている。
「概括的にいって日本経済は二度重ねて破壊された、ともいえる。すなわち、一回目は輸入の遮断《しやだん》(船舶の喪失)によって、二回目は空襲によって……」
陸軍の物動関係者は十八年ころから予想外の船舶損耗、鋼材生産の低下などの現象が絶望的であることを知っていた。また二十年になってからは液体燃料は五十パーセントしか充足できず、食糧も米、塩ともに絶対量が足りなくなることを知っていた。しかしそれらは一つの国家の中の最重要問題とはいえ、軍部から外へ洩らしてはならぬ極秘事項であった。
六月六日の最高戦争指導会議は、鈴木総理の指名でまず秋永総合計画局長官の「国力の現状」の報告、迫水書記官長の「世界情勢判断」の朗読によって始められた。「国力の現状」中のすべての項目は戦争継続の不可能を示し、「世界情勢判断」も、希望をつなぎ得る客観的要素は一つもないことを語っていた。
これら二つの報告のあと、各構成員の発言に移った。当時、梅津参謀総長は対ソ作戦準備に関する重要命令の伝達と連絡のため大連《たいれん》に出張中で、代理として河辺参謀次長が「帝国陸軍今後の作戦に関する所見について」発言した。
この中で河辺は「……本土における作戦は沖縄、硫黄島、サイパン等の孤島作戦と本質的にその趣を異にし、なかんずく敵の上陸点に全軍を機動集中し大なる縦長兵力を以て連続不断の攻撃を強行し得、かつ地の利と忠誠燃ゆる全国民の協力をも期待し得ることは、本土決戦必成の根基であります」と述べている。
だが会議の冒頭に発表された「国力の現状」中の「民心の動向」には、「国民は胸の中に忠誠心を抱いてはいるが……」と前置きしながらも、「軍部及び政府に対する批判が次第に盛んになり、ややもすれば指導層に対する信頼に動揺をきたしつつある傾向がみられる。かつ、国民の道義がすたれてくるきざしをみせている。また、自己だけを防護するという観念が強く、敢闘奉公精神の高揚はじゅうぶんではない。庶民層では、農家においても、あきらめと自棄的な風潮がみられる。指導的知識層には、あせりと和平を求める気分が底流していることがみられる。このような情勢に乗じて、一部の野心分子は、変革的な企図をもって動いている形跡がある。沖縄作戦が最悪となったときの民心の動向に対しては、とくに深甚な注意と適切な指導とを必要とする」と書かれていた。
豊田軍令部総長は、本土決戦の具体的な見通しにふれ、「……敵は先ず九州南部、四国方面を奪取し、海空基地を整備して之《これ》が利用を計りつつ、関東方面に来攻するの算が大なりと認めております。その時機は九州四国方面に対しては七、八月の候に、関東方面に対しては初秋以降と判断いたしております」と述べた。
次いで会議は、基本大綱案自体の討議にはいった。
基本大綱案の主眼とするところは、戦争目的を国体の護持と皇土の保衛の二項目に限定し、この目的達成のため飽くまで戦争を遂行するという強硬な態度を決したことである。立案者の迫水と最高戦争指導会議の幹事補佐であった種村|佐孝《すけたか》大佐の二人は、終戦後に「戦争目的をこの二つに限定したのはある程度終戦思想を含んだもので、いいかえれば、この項目は終戦条件を意味したのである」と、語っている。しかし立案者の含みがどうであれ、当時この基本大綱は飽くまで戦争を継続するという強硬態度と了解された。
当然ながら構成員はみなこの案の内容を知らされていたが、東郷外相だけは事務上の手違いのためこの日になって初めて知った。東郷はこのような強硬政策の決定は、彼の抱く終戦構想の実現をさまたげると考えて、深く憂慮した。
東郷は基本大綱案に対し、二つの疑念を表明した。一は、対ソ外交にどこまで期待できるかというもの。二は、軍需生産の維持の見通しについてであった。さらに彼は、参謀総長代理としての河辺の発言に言及して、「戦争が本土に近づけば近づくほど我に有利であるとの議論は、我が空軍が優勢なる場合だけに限定されるべきである」と釘《くぎ》をさした。
この日、阿南と米内はほとんど発言していない。
会議は、内閣案の一部を増補訂正した上で、基本大綱を決定した。
心労のあまり東郷外相の髪が急に白さを増したと伝えられるのは、このころである。
翌六月七日、閣議は前日政府と大本営間で採択された基本大綱を決定し、八日、御前会議が開かれた。
この御前会議は、異議なく「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を採択した。会議の間、天皇はいつものように終始無言であった。
東郷外相は懸案の対ソ交渉に道を開くため、まず非公式の予備会談によってソ連の態度を打診しようとした。首相、外相を勤め、ソ連大使の経験もある広田弘毅を訪ねた東郷は、私的にマリク駐日ソ連大使と接触することを依頼した。
広田はマリクに会ったが体《てい》よくあしらわれ、マリクはその後の会見申しこみに応じようともしなかった。
六月九日、第八十七回臨時議会が戦時緊急措置法、国民義勇兵役法審議のため、二日間の会期で開かれた。そのへき頭、主戦派便乗議員が鈴木首相の演説の言葉尻をとらえ、天佑《てんゆう》天罰事件≠ニ呼ばれる大混乱が起った。二日間はたちまち空転し、腹をたてた米内海相は、審議未了でも閉会してしまえと主張したが、結局一日延長された。その延長された日に、再び鈴木首相の言葉が問題を起した。
衆議院内外の極右勢力は、総理の答弁は詔勅を批判したといいがかりをつけて、倒閣を企てた。彼らは陸軍の支持を期待し、事実陸軍のごく一部にはこの反政府運動を勇気づけるような動きがあった。だが陸相である阿南がこの反政府運動を支持しないことが明白となって、倒閣運動はしぼんだ。
これですべてが納まったわけではなく、戦時緊急措置法が難航を続け、会期をもう一日延長しなければならなかった。
会期の再延長をめぐって十一日夕刻から臨時閣議が開かれた。この時の模様を、左近司国務相は次のように書いている――
「米内海相は、首相が小山議員から反逆者とまで罵倒されたので、すっかり腐っていた。よほど腹が立ったのだろう。『だから、いわんこっちゃない。このありさまは何ごとか。こんな議会を相手にしていては、我々の主張を通すことは望めないから、断固として解散しようじゃないか』といった。豊田軍需相も同じ意見だった」
ここで左近司はじめみなが米内をなだめたが、「海相はよくよくしゃくにさわったとみえて、『みなさん、そんならそうなさい。私は私で善処するから……といって、みなさんにはご迷惑はかけませんよ』とたいへん厳粛な顔をしていった」
この言葉を聞いて、みながあわてた。米内が辞表を出せば、鈴木内閣は閣内不統一ということで総辞職しなければならなくなる――。
この時の米内は辞意を抱いていた。直接の動機は、九日以来の臨時議会の大混乱につくづく嫌気がさしたのであろうが、その奥には鈴木総理の政策と手腕に対する失望があった。米内にはどうにも鈴木の本心がつかめず、本当にはっきりした終戦意図を持っているのかどうか、疑問は深まるばかりであった。また仮に持っていたとしても、現実に見るような政治手腕では、果して終戦に導き得るかどうか――と、この点にも米内は疑いを抱いていたらしい。
十一日夕刻に臨時閣議が始まって以来、阿南はいっさい発言をしていない。米内が辞意をほのめかし、みなが彼をなだめている時さえ、阿南は沈黙を続けていた。やがて十二日の午前一時近くなって、阿南は初めて口を開き、「もう夜もふけたので、みんな帰って、あすの朝までによく考えてこようじゃありませんか」と、静かな口調でいった。
この言葉をしおに、一同は立ち上った。帰りがけに左近司は迫水に、「米内の態度は気になるが、閣議で一応の会期延長を決めたことだし、ひと晩眠れば、気持が変るかもしれない。私は今から米内を慰めに行ってもよいが、もう夜中だから、あしたの朝にするつもりだ」といった。
十二日早朝、左近司の家に陸軍中佐の階級章をつけた将校が来て、一通の手紙を家人に手渡していった。封筒の表には「左近司政三国務大臣殿」とあり、裏には「陸軍大臣阿南惟幾」と書かれていた。阿南自筆の手紙であった――。
「前略。昨夜の米内海相の一件は、こと、きわめて重大だ。このさい、もし海相が退却されるような決意をされるならば、前途は暗たんとして収拾すべからざる事態に陥るおそれがある。なんとしても思いとどまってもらわなくては困る。自分は、直接海相に会って翻意してもらおうと思っている。今日は臨時閣議が開かれるので、その席上で伝えるつもりだが、あいにく天皇陛下のおともをしていかなければならないところがある。それからもどってでは少し遅くなって、間に合わないかもしれない。それで、自分の意のあるところを海相に伝えて、ぜひとも諫止《かんし》してもらいたい」
左近司はすぐ海軍省へ行き、米内に会った。阿南の手紙を黙読した米内は、「ふぅむ、そうか」と短かくいって、しばらく無言だった。思いがけないことであったろう。
やがて米内は、吐き出すように次の言葉をつけ加えた。
「もうだめだ。鈴木さん、タガがゆるんできた。しっかりネジを巻いてやらなければいかん。総理がボヤボヤしているから、議会であんなことになってしまったんだ。もう一本とられたら大変だ」
ポンポンと鈴木総理をコキおろしていた米内の頭に、また阿南の手紙が浮かんだらしく、ここで彼は、「だが、阿南がこんなことをいってきたのか。感心だな」といった。
この言葉には、阿南の意外な手紙に心を動かされ、ムゲにはしりぞけられないという気持に傾きかけている響きが感じられる。服部卓四郎は『大東亜戦争全史』の中に「特に阿南陸相が左近司国務相を介して熱心に行なったところの申入れは、海相の辞意を柔らげた」と書いている。
やがて海軍省に、米内に翻意をうながす目的の豊田軍需相が現われた。三人で話し合った結果、米内は辞意を捨てた。そのかわり、三人で総理のネジを巻こうということになり、揃《そろ》って首相官邸へ向かった。
米内は鈴木に向かって、いきなりいった。「きのうは大変なことをいいましたが、なにも辞職しようというのではありません。しかし、議会のあのありさまは何ですか。みんなで力を合わせて、強硬突破しましょう」
ここまでのいきさつを、左近司はすぐ阿南に知らせた。
これで鈴木内閣の危機を思わせた米内の辞職問題はケリがついた。
阿南が米内を翻意させるためにとった積極的な行動は、当の米内をはじめ周囲に意外の感を与えた。阿南が本気で戦争を続けたかったら、なぜ和平派の米内の辞意を実行させなかったのか。それで鈴木内閣が倒れ、陸軍内閣をつくれば、戦争完遂には最も好都合のはずである。
阿南の死後、米内は「私には、阿南という男は遂にわからなかった」と語っている。そのわからない点の一つは、米内の辞意を押しとどめようとした時の阿南の心境ではないだろうか――。
[#改段]
天皇の意志
六月七日の閣議、翌八日の御前会議で決定された「今後採るべき戦争指導の基本大綱」は、官中方面に強い反響をひき起していた。
木戸内大臣は、天皇が戦局の推移を憂慮し、殊に都市が次々に空襲を受け、国民多数が衣食住はおろか生命までを奪われている状況に苦悩していることを知っていた。
八日の御前会議が開かれる前に基本大綱の内容を知った木戸は、≪このような強硬な政策が採択されては、いつまでも徹底抗戦の線に添って日を過すことになる。この際、政府と大本営の方針を終戦の方向に転回させる必要があるが、その手段は自分が天皇の意図を体してその衝に当り、まず政府側を同調させる以外にない≫と決意した。
この意図の下に木戸は、講和措置を中心とした十一項目に及ぶ時局収拾の対策試案を起草した――
「……恐懼《きようく》の至りなれども下万民《しもばんみん》の為め天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ、左の方針により戦局の収拾に邁進《まいしん》の外なしと信ず」
「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す。対手《あいて》国たる米英と直接交渉を開始し得れば之も一策ならんも、交渉のゆとりを取るためには寧《むし》ろ今日中立関係にあるソ連をして仲介の労をとらしむるを妥当とすべきか」
この試案の第二項には、「御前会議案参考として添付の我国国力の研究を見るに、あらゆる面より見て本年下半期以後に於《おい》ては戦争遂行の能力を事実上殆ど喪失するを思はしむ」とある。鈴木総理の命令でまとめられた「国力の現状」は、ここでも重大な役割を果している。
準備整った木戸は、九日午後天皇に拝謁して試案について述べ、この問題に関して総理及び陸海外三相と協議することの許しを得た。天皇は木戸試案に非常な満足を示し、速かに対策に着手するよういった。
こうして、日本の終戦についての具体的着手は先ず宮中から始められた。
この時は議会開会中で、しかも大もめにもめていたため、木戸は閉会を待つほかなかった。その間に天皇は、早期講和へ傾斜せざるを得ない報告を受けた。一つは大連から帰った梅津参謀総長の「関東軍の兵力は新編のものを加え二十四箇師団であるが、その実力はかつての精鋭師団に換算すれば約八箇師団に相当し、後方準備は約一会戦分の程度である」という報告であった。このとき天皇は「あの『国力判断』で、戦《いくさ》が出来ると思っているのか」とたずねたが、梅津ははかばかしい答が出来なかったという。
次は海軍特命検閲使・長谷川清大将の「海軍の水上特攻部隊の士気は昂揚《こうよう》しているが、実際の戦備は生産の関係上遅れている」という報告であった。
木戸案に鈴木、米内の二人が同意した。木戸は東郷外相に、急いで具体策の作成にとりかかるよう依頼した。
沖縄の戦闘はいよいよ終りを告げようとしていた。六月十三、十四の両日、太田実少将の指揮する小禄《おろく》地区の海軍地上部隊は全部隊突撃を敢行し、太田とその幕僚は十三日午前一時、地下の陣地で自決した。太田の遺書には、沖縄島民の多くが軍に協力して命を捨てた状況がくわしく書かれていた。
このころ阿南は信州の松代《まつしろ》と新潟方面に出張していたため、木戸がようやく彼と会談したのは六月十八日であった。阿南はこの席で、戦局の見通しについては木戸とほぼ同様の観測を述べたが、「敵が本土作戦を敢行する場合は一打撃を与え、その後に戦争を終結に導くを可とする」と答えた。しかし阿南はこの説を強く主張せず、木戸の「なるべく早くソ連を仲介として講和交渉を進める」案に同意した。
この日の木戸・阿南秘密会談の記録からは、八月九日以降降伏決定までの六日間、御前会議、最高戦争指導会議、閣議などの席で「本土決戦で敵に一大打撃を」と強く主張し続けた阿南の姿は想像できない。しかもこの日阿南は「陸軍のある一部が木戸の和平活動を察知して、内大臣の更迭を求めようとする空気がある」と好意的に語って、木戸に注意をうながしている。
ここで再び、阿南が米内の辞意をひるがえそうとした時と同じ疑問が湧《わ》く。もし阿南が真に本土決戦を望んでいたのなら、なぜそれなしに早期講和をと奔走する木戸の失脚を防ごうとしたのであろうか――。
ともあれ、木戸内大臣は天皇の意志に添い、総理と陸海外三相の同意をとりつけることに成功した。
鈴木総理はこの問題を最高戦争指導会議で討議することにした。十三日以来、まるで木戸内大臣が総理であるような状態が続き、政府と大本営との間はもとより、政府部内でさえ総理と陸海外三相との間の話し合いがほとんど出来ていなかった。
六月十八日夜開かれた最高戦争指導会議で、陸相と両統帥部長は「本土決戦で戦果を挙げた上で、和平交渉をなすが可」と主張した。しかし会議は結局、「日本は、米英が絶対的無条件降伏の主張を固守するようなら戦争を継続する必要があるが、こちらになお相当の戦力があるうちに第三国殊にソ連を通じて和平を提唱し、少なくとも国体護持を含む講和を米英に承知させるのが適当である。なお九月頃までに戦争が終ることが最も好都合なので、まず七月上旬ごろまでにソ連の態度を偵察した上で、なるべく早く戦争終結の方途を講ずべきだ」と、大体の意見が一致した。
米軍は六月十八日に日本上陸作戦を決定した。それは、昭和二十年十一月一日に九州に上陸、二十一年春本土上陸、作戦終了は二十一年末または二十二年というもので、米軍の犠牲は約百万と予測されていた。
二十日、鈴木総理は十八日の最高戦争指導会議の結果を木戸内府に通知した。また東郷外相はこの日天皇に、広田・マリク会談の経緯を報告した。
ここで木戸は≪講和に向かっての政策変更をいっそう明確にするためには、最高戦争指導会議の構成員を宮中に呼び、天皇が直接、外交的講和工作の開始を命令されるのが最も効果的である≫と考えた。
鈴木総理も同意見であった。二十日午後、木戸はこれを天皇に伝えた。
沖縄の喜屋武半島の複郭陣地による第三十二軍の最後の抵抗は、六月二十二日に終った。翌二十三日、軍司令官牛島満中将(戦死後、大将)と参謀長|長《ちよう》勇中将は割腹自決した。大本営が沖縄作戦の終焉《しゆうえん》を公表したのは六月二十五日であった。
この作戦の特徴は、空前絶後の大航空特攻作戦と国民の戦闘参加であった。日本軍は島民義勇兵を含めて約九万人が戦死し、島民非戦闘員の犠牲は十万にのぼった。米軍の損害も約四万九千に達し、米第十軍司令官バックナー中将も戦死した。
米艦船攻撃に使用された日本軍飛行機の延機数は、特攻機二千三百九十二機(うち陸軍機九五四)を含め七千八百五十二機(うち陸軍機二、二二〇)であった。戦後のアメリカ側資料によると米軍艦船の損害は沈没三十六隻、損傷三百六十八隻だが、航空母艦、戦艦、巡洋艦の撃沈は一隻もない。戦中の大本営発表と比べ米軍の損害は余りに少なく、ここにも台湾沖海戦のような戦果の誤判があったことがわかる。
沖縄は急速に、アメリカの日本本土進攻軍の大基地と化していった。
六月二十二日午後三時、最高戦争指導会議の構成員――鈴木総理、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の六人は、天皇に呼ばれて参内した。
天皇は、「これは命令ではなく、あくまで懇談であるが」と前おきして、「去る六月八日の会議で戦争指導の大綱は決ったが、他面、戦争の終結についても、このさい、従来の観念にとらわれることなく、すみやかに具体的な研究をとげ、これの実現に努力するよう希望する」との意を述べ、これに対する意見を各人にたずねた。
鈴木総理は「お言葉の通りで、その実現を計らねばなりません」と答えた。
米内海相は「これは外相から申し上げるべきですが」と前おきして、「先日来の腹案は、もはや実行に移すべき時期と思われます」とソ連を仲介とする和平工作にふれ、次に指名された東郷外相はこれを補足して意見を述べた。
「軍部はどうか」との天皇の問いに、梅津参謀総長は「異存はございませんが、これの実施には慎重を要します」と答えた。
重ねて天皇は次のようにたずねた。
「慎重を要することは勿論《もちろん》であるが、そのために時期を失することはないか」
梅津は「すみやかなるを要します」と明確に答えた。
阿南陸相は「別に申し上げることはございません」と短かく答えて、天皇の言葉に同調した。
この日、天皇が意志を明確に表明したことは、日本が和平への道に決定的一歩を踏み出したことを意味している。それまで暗中模索的であった政府の態度はここに決定し、六人の指導者は、それぞれの立場からその後の言動に微妙な違いを予測させながらも、一つの方向へ足なみを揃えることになった。天皇の意図は、この日出席した六人の間だけの極秘事項として、下部はもとより一般の閣僚にも知らせなかった。皇居から総理官邸に帰った鈴木総理は、迫水書記官長に向かって、「今日は陛下から、我々が内心考えていても口に出すことをはばからなければならないようなことを直接お聞きすることができた。まことに、ありがたいことである。陛下が、命令ではなく懇談であるとおおせられたのは、憲法上の責任内閣の立場をお考えになってのことと察せられ、恐懼にたえない」と語った。
迫水は戦後に「このとき鈴木総理は、組閣当初からの覚悟であった終戦の大業について一層決心を固くし、いよいよ本格的に着手するハラをきめた」と書いている。
「六月なかごろ……」と安井藤治国務大臣は戦後に語っている。「阿南大将が和平について初めて私にうち明けられました。おそらく、これは誰にもいっていますまい。そのとき初めて、どうすれば戦争を終結できるかということを、私と話し合ったのです。もちろん結論なんか出ませんでしたが」
天皇が和平への意志を表明する前に、阿南は天皇の心を見透したように終戦について安井と語り合っている。
二十二日の天皇のお言葉≠フ結果、広田弘毅は六月上旬以来中断していたソ連大使との会談をまた熱心に申しこんだ。広田は六月二十四日と二十九日にマリクと会ったが、二度目に持っていった具体的提案すら、どう扱われたかもわからず、最後はマリクの政治的病気≠ナ二人の接触は終った。
このころ憲兵隊はすでに、「広田元首相がソ連を通じて和平工作を進めている」ことをかぎつけていた。憲兵が広田家へ押しかけて事情をただしたり、マリク大使に会見を求めたりした。この行動は常軌を逸したものだが、当時は和平を口にしたり、戦局の見通しについて悲観的なことを言う者は、軍の意向にそむくとして逮捕された時代であった。
一方、東郷外相はモスクワとの直接連絡を計り、六月二十八日、佐藤尚武駐ソ大使に広田・マリク会談の経緯を知らせ、ソ連側の回答を促進するよう訓令した。だが一週間が過ぎても、ソ連からは何の回答もなかった。
天皇はこの回答の遅延を憂慮し、七月七日、鈴木総理に交渉の促進を督促した。そのとき天皇から「親書をたずさえた特使を派遣してはどうか」という案が出された。
鈴木総理は「特使の件は、いま東郷外相が近衛公に会うため軽井沢に行っております」と恐懼して答えた。
七月中旬から米英ソ三国の巨頭がドイツのポツダムで会談するという情報は、日本にもはいっていた。東郷が、その会談の前にソ連を通じて終戦交渉を進めようと決意したのは七月初めであった。
八日、東郷は近衛に特使の件を申し入れた。二人の意見は、無条件降伏では困るが結局それに近いもので纏《まと》めるほかないだろうという点で一致した。また近衛は白紙で行きたいと希望した。
七月十二日近衛は上京し、天皇に拝謁した。天皇から戦争終結についての意見をたずねられた近衛は、「最近陸軍からたびたび人が来て戦争遂行についての説明がありましたが、内容は必ずしも信用は出来ません。一方、民心は高揚しているとは申せません。……お上をお恨み申すというような言説さえ散見される状態でございます。このさい、すみやかに戦争を終結することが必要と信じます」と述べた。
近衛は天皇からソ連への特使を命じられた。
七月初めのある暑い朝、陸軍の係官が迫水書記官長の許に、「いよいよ本土決戦の時が近づいた。ついては、国民義勇隊に使わせる兵器を別室に展示したので、閣議が終ったら、総理大臣はじめ全閣僚に見てもらいたい」と申し入れた。
国民義勇隊とは、敵が上陸した場合に、一般国民によって組織される戦闘隊のことで、軍の管理下にはいることになっていた。去る六月の国会を通過した義勇兵役法によると、男子は十五歳から六十歳まで、女子は十七歳から四十歳までが服役を義務づけられていた。
閣議が終った後、兵器が展示してある部屋にはいった閣僚たちは唖然《あぜん》とした。そこには弓と矢、竹槍、江戸時代の火消しが使ったような鉄の棒などが並べられていた。銃もあるにはあったが、銃口から火薬を包んだ小さな袋を棒で押しこみ、そこへ鉄の丸棒を輪切りにしたタマ≠入れて発射するという原始的なシロモノであった。近代兵器の粋によって武装した米上陸軍を相手に、日本の民衆はこんなものを持たされて立ち向かうことを義務づけられていた。迫水は「私は狂気の沙汰だと思った」と書いている。
軍が棒切れや弓矢で戦わせようという国民は、疲弊の極にあった。都会では配給の食糧だけに頼っていては餓死のほかないので、何でも口に入るものを探し歩くことが重要な日課になっていた。
大臣室に戻った鈴木総理は迫水に「あんなものじゃ、戦争はできない。もう、まともな兵器は残っていないんだね。だからこそ、一日も早く終戦へ漕《こ》ぎつけなければいけないと思っているのだ」と語った。
モスクワの佐藤大使は六月二十八日に本国外務省から「不侵略条約に関する提案」の通報を受けていたが、これがソ連のハラを打診する目的のものとは知らず、当時の情勢からソ連が拒否することは確実と判断して、この回答を強く要求することを避けていた。
しかし東郷外相からの強い督促で、佐藤は数回モロトフ外務人民委員(外相)に会見を申しこんだが、ようやく実現したのは七月十一日であった。佐藤は日本の提案に対するソ連の態度の表明を求めたが、モロトフは「なおよく研究した上でなければ、回答できない」と答えただけであった。
東郷外相はこの佐藤・モロトフ会談を知らぬまま、同十一日佐藤あてに「対ソ交渉は日ソ関係の緊密化を目的とするだけでなく、戦争終結に対してもソ連を利用し得る限度を打診しようというもの」という主旨の電報を発した。
次いで翌十二日、近衛特使正式決定により外務省は佐藤大使あて、「近衛とその随員の入国許可、満ソ国境からモスクワまでの飛行機の準備を要請するよう」指令し、また近く迫っているポツダム会談の前に天皇の戦争終結の意志をソ連側に伝えるよう、緊急電報を発した。
この電文の書出しには「モロトフとの会談電報に接せず。従って偵察十分ならずして兵を進むる嫌いあるも、この際に歩武を進め三国会談開始前に……」とある。ソ連政府の意向は全くわからないが、回答を待つ余裕もなく、一方的に行動を起さねばならないほど日本はせっぱつまっていた。
モスクワの佐藤がこの電報を入手したのは七月十三日であった。佐藤はすぐモロトフに会見を申しこんだが、「ポツダムへの出発直前だから……」と断わられた。そこで佐藤は同日夕刻、外務人民副委員ロゾフスキーに会い、天皇の戦争終結意図についての文書と、近衛使節についてソ連政府の同意を求める文書とを手渡し、モロトフへの伝達を依頼した。ロゾフスキーは伝達を約束したが、モロトフの出発前に回答することは不可能であろうと述べた。
スターリンとモロトフはその翌日十四日に、ポツダムへ出発した。
日本では近衛特使派遣は決定したものの、まだ特使がたずさえていく和平条件などについての指導者たちの足並みは揃っていなかった。これについての会議が開かれたのは、スターリンがモスクワを出発した十四日であった。阿南陸相が「未《いま》だ決して戦争は敗れていないという観点に立って、条件を決すべきである」と陸軍の意向を強く主張したのに対し、東郷外相と米内海相は「最悪の場合をも考慮に入れる必要がある」と力説し、意見の一致を見ることは不可能であった。結局、和平条件の最終的決定は、近衛がモスクワに到着してスターリンと会談を始めるまで延期することになった。
七月中旬、陸軍次官は柴山兼四郎中将から若松只一中将にかわった。若松は次のように語っている――
「私が陸軍次官として着任直後、大臣の本土決戦構想をたずねたところ、徹底的水際戦闘方式であり、水際で敵に殲滅《せんめつ》的大打撃を与える。『目的は出来るだけ有利な条件で終戦のチャンスをつかむにある』と明快に答えられた」
陸相秘書官林三郎は、「それまでの本土決戦準備は、硫黄島や沖縄の経験で水際配置の兵力は艦砲射撃でやられることがわかっていたので、深部配置であった。だが、阿南さんが陸相になられてから、水際だけの前線配置へ方針が変った」と語る。「阿南さんはまたか≠ニ思うほど豪北のビアク島の戦闘を語られ、あの島では水際で敵を撃退したと、それを参考に案をたてられた。しかし、ビアク島は長くもちこたえはしたが、結局は負けた戦《いくさ》であり、また小さな島の戦闘と本土決戦とでは規模をはじめいろいろと違うはずで、阿南さんの米軍に対する認識はこの程度のものか……と、私は危惧の念を抱いていた」
阿南は「日本軍は強い」とその頼もしさを語るとき、しばしばビアク島守備隊を例にあげたというが、この島から故郷岩手県に生還した兵たちは、「兵器など同じ条件で闘うのなら、こちらは決死の覚悟でぶつかるから絶対に勝つ自信がある。だが子供の戦争ごっこではあるまいし、同じ武器で≠ネどというわけにはいかない。総力戦だから、兵器の優劣をはじめ物量に大差があったので、必勝の信念≠ヘあっても、結局は負けるほかなかった」と語っている。
阿南は五月十五日の参謀副長会同でも、その後の九州出張でも、また七月二十日ごろの北海道出張中にも、各地で水際作戦を指導している。これに参謀本部の一部は難色を示したが、第一総軍司令官杉山元帥は六月末に「水際撃滅作戦に徹底せよ」と呼びかけ、第二総軍の畑元帥も現地をまわって指導に当るなど、全国の部隊がいっせいに兵力を水際に移動させた。
参謀次長河辺虎四郎は六月末から七月にかけて各地をまわり、水際作戦準備を視察した。その「概観一括」には、「訓練=各兵団共ニ甚《はなは》ダ未熟/築城=総括的ニ見テ二|乃至《ないし》三割完成ト見ルベキカ/道路施設=早期|竣工《しゆんこう》ノタメニハ大馬力ヲカケル要アリ/通信=甚ダ不備ナリト認メラル」など、強気一方の河辺でも目に映る実情はこの通りだった。
阿南はなぜ兵力の深部配置を水際配置に変える決意をしたのであろうか。その理由を阿南は説明していない。彼が本心から本土決戦を望んでいたかどうかは別として、この時期にはそれが実現する可能性は大きかった。全陸軍がそのための準備に大わらわであった。本土に敵を迎えた場合、阿南には、内陸部での戦闘を避けねばならないと考える何らかの理由があったのだろうか――。
「本土決戦準備を見てきてくれといわれて、四国へ行ったとき、高知県知事に会った」と沢田茂は語る。沢田は第十三軍司令官を最後に現役を退き参謀本部顧問になっていた。
当時軍部は、「米軍は九月末以降、九州、四国方面に上陸作戦を強行し、同地区に大空海基地を獲得した後、二十一年春ごろ関東地方に上陸して、最終決戦を挑むだろう」と判断していた。従って四国は重視され、高知正面の一キロ当り戦力密度は全国最大であった。
「高知県知事は私に、戦場になると思われる地域の住民をどうすればよいか。避難させたくても、出来ない実情だがとたずねた。私は答えられなかった。本土決戦を叫んでいる軍に、住民対策はなかったのだ。
東京に帰って、陸相になりたての阿南と梅津参謀総長とにこれを話した。二人とも何も意見は述べなかったが、驚いた顔もせず、うなずきながら聞いていた。その様子から、阿南はすでにこの問題を考えているな……と私は察した。だがその後、二人の間でこれを話し合ったことはない」
沢田はこの問題を考え続け、研究もしてみたが、住民を守るいかなる方法も見出《みいだ》せなかった。そして彼は「このままでは、本土決戦は出来ない」という結論に達した。
「正直なところ、人道上の理由だけでそう思ったのではない」と沢田は語る。「日本のあちこちで戦闘が始まったら、それに巻きこまれて多くの住民が死ぬだろう。そこを逃れ出ても、身をよせる安全な場所はない。食糧もない。飢えに泣く子を抱えて、危険にさらされながら逃げまどう状態が続いたら、大衆はどういう反応を示すだろうか。もう戦争はやめろ! と叫びはしないか。上陸した敵と闘っている日本兵が、背後から日本人に襲われることにもなりかねない、と私は思った」
「住民のしまつがつかない限り、本土決戦は出来ない」という意見は、沢田一人のものではなかった。作戦の責任者である参謀本部第一部長宮崎周一中将も、東部軍参謀長高嶋辰彦少将も、これを口にしている。
東部軍は作戦実施部隊であるだけに、高嶋の認識は深かった。管内の敵上陸予想地点はすべて住居、生産地帯で、そこには一千二百万の住民がいる。敵が上陸してきたら、彼らはどうなるか……と思えば、一日も早くたちのかせたいのだが、移すべき土地も、雨露をしのぐ小屋も、食糧もないのが実情であった。放置しておくほかに手はないのだ。どのような状況下におかれても、軍に協力的な態度をとってくれるだろうという期待は、住民の大和魂《やまとだましい》≠あてにしてのものだが、高嶋は蔓延《まんえん》しつつある厭戦《えんせん》気分をよく知っていた。
応召中の作家司馬遼太郎はこのとき栃木県佐野にいた。東部軍の管内である。彼は『街道をゆく6』に、書いている――
「そのころ、私には素人くさい疑問があった。私どもの連隊(戦車部隊)は、すでにのべたように東京の背後地の栃木県にいる。敵が関東地方の沿岸に上陸したときに出動することになっているのだが、そのときの交通整理はどうなるのだろうかということである。
敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、おそらく家財道具を大八車に積んで関東の山地に逃げるために北上してくるであろう。当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北方から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進《ばくしん》してくれば、どうなるのか、ということだった。
そういう私の質問に対し、大本営から来た人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で――かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う――轢《ひ》っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか」
軍人勅諭はじめ、軍人の任務を規定し、または教えたものの中に「国民を守る」という一項はなかったのか。「それを明記した箇所はありません」と林三郎は答えた。あまりに当然のことなので、わざわざ書く必要もなかった――と解釈することは出来ない。現実に則して問いただせば、「轢っ殺してゆけ」という以外の答はなかったのだ。
だが、国民の生命を守る方策が講じられている面もなくはなかった。一例を挙げれば――陸軍軍医学校は空襲被害者対策として二つの救護班を編成した。第二救護班は皇居だけを担当し、国民一般とは無関係である。「皇居を除く都内全域」を担当する第一救護班は、軍医九人と看護婦十一人の編成であった。昭和二十年には民間医療機関の機能は麻痺《まひ》状態におちいっていた。三月十日の東京空襲を例にとると罹災者《りさいしや》は約百万人であったが、彼らの救護が僅か九人の軍医にゆだねられるという実情であった。
ソ連外務省から佐藤駐ソ大使あての回答は七月十八日夜、ロゾフスキーの親展|書翰《しよかん》の形式で届けられた。その主旨は「日本からの二つの文書は何ら具体的提議を含んでおらず、近衛特使の使命がいずれにあるかも不明瞭なので、これらに対し確たる回答をすることは不可能である」というものだった。
この回答についての佐藤大使の報告電報が東京に着いたのは、二十日の朝であった。佐藤は別電で「対ソ外交は具体案を以《もつ》て臨むほかないこと」と、「十八日のロゾフスキーからの回答は、ポツダムでの英米ソ三国巨頭の話合いの結果かもしれず、そうでなくても日本側の対ソ申し入れは会議中に英米側に伝わるであろう」と意見を述べてきた。
二十一日夜、東郷外相はロゾフスキーに伝えるための回答電報を佐藤大使あてに送った。その中には近衛の使命をくわしく書き、「我方においては無条件降伏はいかなる場合に於ても受諾し得ざるものにして」と日本の立場を述べ、さらに「無条件にソ連の和平の斡旋《あつせん》を依頼することはもとより不可能なると同時に、此《こ》の際ただちに具体的条件を示すことはこれまた対内関係上……」と苦しい文言が続いている。東郷としては、出来るかぎりの譲歩を具体的に示さなければ効果はないと知っているが、「まだ戦争は負けていない」とする陸軍の強硬な態度にはばまれて指導層の意見は一致せず、これ以上どうすることも出来ない苦境に立っていた。
この東郷電に基づいて、佐藤大使が天皇の戦争終結の意図と近衛特使受入れ要請とを再度ロゾフスキーに申し入れたのは、七月十五日であった。
[#改段]
ポツダム宣言
ソ連政府の回答を、鈴木総理や東郷外相らが一縷《いちる》の望みを託して待っているとき、日本の運命を決することになるポツダム宣言が、まず空から舞いおりてきた。
下田武三(のち駐ソ、駐米大使)は次のように書いている――
「七月下旬、連合国首脳がポツダムに参集し、対日戦略について重要会議を開いたと伝えられてから間もなく、日本上空に襲来した敵機は、米英支三国首脳の共同宣言の日英両文を大量に投下した。日本文は外人の作ったもので不正確だから、外務省で正訳を作れということになり、その重要性にかんがみ、当時条約局第一課長をしていた私自身が翻訳の任に当ることになった」
ポツダム宣言を読んで下田がすぐ気づいたことは、かねて連合国側が呼号していた「日本に無条件降伏を求める」という政策が変更されていることであった。この宣言は「(吾等は)協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり」という書き出しの四項目の前文の次に「吾等の条件は左の如し」として八項目にわたる終戦の条件を掲げたものであった。
条件を示してあるから、これは無条件降伏ではないと解すべきであろうか――と下田は考えた。ただ一ヵ所「無条件降伏」という言葉があるが、それは「日本国軍隊の無条件降伏」と書かれている。軍隊にだけこの言葉を使っているのは、連合国側の政治的含蓄を示すものと思われた。
さらに下田はポツダム宣言と、同年二月にドイツに対して出されたヤルタ宣言とを比較して、大きな差のあることを知った。
ヤルタ宣言はドイツ政府を全く無視しているのに反し、ポツダム宣言は日本政府を行動の主体として認め、これに対して終戦の呼びかけをしている。またヤルタ宣言では、ドイツに対する戦争終結の条件は「ドイツ国の最終的敗北が達成せられるまでは」発表しないとしているが、ポツダム宣言では「吾等の条件は左の如し」として、事前に条件を提示し、実質的には条件を示した終戦勧告というべきものである。
このような両宣言の建前上の大きな違いのほか、ポツダム宣言の実質的内容をなす諸条件を検討してみると、ヤルタ宣言では対独賠償の賦課が規定されていたが、ポツダム宣言では対日賠償に触れていないだけでなく、日本の平和産業の維持、原料、資源の入手、世界貿易への参加を認める旨を規定する等、ドイツに対する場合より寛大である――と下田は判断した。
ポツダムから米英支三国の共同宣言が正式に発せられたのは七月二十六日、これを東京の海外放送受信局が聴取したのは二十七日午前六時であった。
東郷外相は宣言文を検討した結果、次の二つの点に着目した。
第一は、ポツダムでソ連首脳がこの宣言について相談を受けたことは確実と想像されるのに、宣言文に名を連ねていないのは、ソ連が日本に対する法的中立を今もなお維持しているためと思った。だが、これは当っていなかった。後にわかったことだが、まず、米英は事前にソ連に相談してはいなかった。またソ連は約半年前、二月初旬にクリミヤ半島ヤルタで開かれた米英ソ三巨頭会談で、「欧州戦終了後三ヵ月以内に対日戦に参加すべきこと」を決めていた。
第二は下田武三と同じく、連合国側が従来の絶対的無条件降伏の主張を捨て、日本との平和回復のための特定条件八項目を提示していることであった。東郷は、米英支三国が日本側の戦争終結希望をソ連側から聞いて、それまでの無条件降伏を求める態度を改め、平和条件を提議したものと解した。
戦後発表された資料によって、この解釈も外れていたことがわかった。米英首脳は日本がソ連を通じて終戦工作を行なっていることを知っていたが、ソ連をまじえて相談した上で、これを無視することに決めた。ポツダム宣言は、日本が終戦工作を行なったために恩恵的に発せられたものではなかった。七月二日にこの基礎案を起草した米国のスティムソン陸軍長官の回顧録によれば、この宣言の主旨は次のようなものであった。
「アメリカ軍の日本本土上陸作戦準備は着々進行中であるが、この作戦を実行すれば、日本は気違いのように最後の抵抗をするであろう。本土上陸作戦を行なわずに、日本軍の無条件降伏と日本の戦争力の永久的破壊とに等しい結果をもたらす何等かの方法が他にありとせば試みる価値がある。……新聞等に述べているところとは違って、日本には戦闘を続ける愚を悟り、無条件降伏を受諾するだけの聡明さがあると信ずるし、日本を平和的な国際社会の一員として再建するに当って信頼し得る自由主義的な分子も残っていると思う。この点はドイツよりはましである」
米英支三国から提示された条件は非常に厳しく、特に「カイロ宣言の条項は履行せらるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」という日本の領土の削減は仮借のないものであった。しかし東郷は、極度に悪化した戦局を考えれば、これらの条件は日本として望み得る最大限に近いものであると判断した。
さらに東郷は、ポツダム宣言の最後に、「右以外の日本国の撰択は迅速|且《かつ》完全なる壊滅あるのみとす」とあるが、もしソ連政府が日本の仲介依頼を受け入れてくれれば、ソ連を通じてポツダム宣言の条件を日本に有利に緩和してもらえるだろうと考えた。ソ連に対する不信感は人一倍強かったはずの東郷だが、実は徹底的に甘かった。
ここで東郷はまず第一に、今後の和平交渉の道を残しておくためにはポツダム宣言を拒否しないことが必要であり、第二に近衛使節についてのソ連の最後的回答を待って日本の態度を決すべきであるという結論に達した。やがて示される回答は最悪の宣戦通告であるとも知らず、彼はこの結論を二十七日、天皇、鈴木総理、木戸内大臣に報告した。
ポツダム宣言に対する一般方針を決めるための最高戦争指導会議はその日のうちに開かれた。東郷外相は宣言についての自分の意見を述べ、鈴木総理がこれを支持した。異論もあったが、結局会議は「ソ連の出方を見た上で処理する」ことに大体の意見が一致した。
これに続く閣議ではポツダム宣言を対内的にどう扱うかが討議された。宣言を国内に発表するかどうかの問題では多くの議論が闘わされた。東郷外相は「発表延期」、下村宏国務相(情報局総裁)と岡田忠彦厚相は「発表」を主張した。阿南陸相は「政府として発表する場合は、断乎《だんこ》これに対抗する意見を添え、国民の戦意が動揺することのないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向を明らかにすべきである」と主張した。これでは、東郷が主張している「和平交渉の道を残しておくため、ポツダム宣言を拒否しないことが必要」という意図は崩れる。
結局閣議は、ポツダム宣言は発表するが、政府の公式な意見は添えず、出来るだけ小さく、また調子を下げて取扱う方針に決した。
この方針に従い内閣情報局は各新聞社に対し、宣言を抜萃《ばつすい》した形で発表すること、具体的には国民や兵たちの間に終戦を望む気運をかもし出させるような「連合国は、日本人を民族として奴隷化し又は国民として滅亡させようとしているものではない」という一節や、「日本国軍隊は、武装解除ののち家庭に帰ることを許され、平和的生産的な生活を営む機会を与えられる」などを削るよう指導した。また官辺からの出所を明記することなしに「政府は連合国の声明を無視しているらしい」とつけ加えることを許可した。
翌二十八日朝刊は、この指導に従ってポツダム宣言を扱った。論説もなく、見落すほど小さなこの記事は国民にあいまいな印象しか与えなかった。
ここまでは早期和平を念願する東郷らの意図にほぼ添ったものであったが、これでは軍部が納まらなかった。支那派遣軍総司令官岡村|寧次《やすじ》大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見に代表されるように、外地派遣軍はいっせいに反撥を示した。これを背景に、軍隊の士気に影響を及ぼすという見地から、二十八日午前、陸海軍大臣と両統帥部長は鈴木総理と会談して、発表する以上は政府がポツダム宣言を拒否することを明らかにすべきだと主張した。最高戦争指導会議や閣議の席で「もはや終戦以外の道はない」という態度を示す米内海相も、この申し入れに参加している。当然ながら、米内も海軍の代表者として、彼の判断だけに忠実な言動は許されなかったとも考えられるが、ここでは阿南、米内とも真意不明である。
この陸海軍の申し入れにより、鈴木総理は二十八日午後の記者会見で、「政府は宣言を無視しているらしい」というすでに新聞に発表されたことをさらに明確にするため、簡単な意見を述べようと約束した。
鈴木総理は約束通り「ポツダム宣言はカイロ会談の焼直しであり、政府としては何ら重大な価値ありとは考えない……」と記者団に語った。そして、「今後の方針は?」とたずねられた鈴木は「我々は戦争完遂に飽くまで邁進《まいしん》するのみである」と述べざるを得なかった。ここで軍部を刺激し硬化させては、何が起るか予断を許さない時期であった。
翌二十九日の新聞は、「政府はポツダム宣言を黙殺する」という総理の言葉を大きく取り上げ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。東郷外相は「総理の談話は二十七日の閣議の決定に反する」と、その影響の大きさを予想し激怒して抗議したが、あとの祭だった。
東京では、二十八日のポツダム宣言の新聞発表がその反響を現わし始めていた。軍部は総じて受諾反対の態度であった。だが政界、財界、言論界の有力者の多くが、個人的に木戸内大臣や閣僚たちに「戦争早期終結のためポツダム宣言を利用することが必要である」と進言した。特に内閣参議の会は八月三日、全員一致の意見として下村国務相に対し、「日本の採るべき唯一の方策はポツダム宣言受諾である」ことを、同日の定例閣議に報告してもらいたいと要望した。
下村はこれを閣議に伝えたが、鈴木総理はじめ閣僚の多くがこの時もなおソ連の回答を待って日本の態度を決しようという考えに支配されていた。また、ポツダム宣言の末尾で「右以外の日本国の撰択は迅速且完全なる壊滅あるのみ」と脅しをかけられてはいるものの、これを最後|通牒《つうちよう》とは受けとらず、それほど差迫った事態ではないと判断していた。原子爆弾の地上実験が七月十六日ニューメキシコで成功し、ただちにポツダム滞在中のトルーマン大統領やスティムソン陸軍長官に報告された――という事実を、当時の日本人は夢にも知らなかった。
七月三十日、佐藤駐ソ大使は再びロゾフスキーに回答を促し、また外務省の訓令に基づいて、「日本は無条件降伏という方式が避けられるならば、その名誉と生存とを保証されるかぎり広汎《こうはん》な妥協条件の下に戦争を終結することを希望している」旨を述べた。また、「この情報をポツダムのソ連首脳部に伝え、ソ連政府が平和|恢復《かいふく》のため尽力するにあたり、その前に横たわる米英支三国宣言という障碍《しようがい》を除去する処置をとるよう考慮してもらいたい」と依頼した。
佐藤はかねてから早期和平の意見を度々東郷に述べてきたが、このとき四千字を越える長文の電報で、国体護持以外の連合国側条件は容認して戦争終結を図るべきだと、切々と訴えている。彼は日記に「祖国の興亡この一電にかかるとさへ思はれ、書き終へて机に伏す。涙|滂沱《ぼうだ》たり」と書いている。
ポツダム宣言の末尾が単なる脅し文句でなかったことを、日本は思い知らされた。八月六日、広島に原子爆弾が投下された。
広島市の通信網が完全に破壊されたため、午前八時十五分の原爆投下が東京に伝わったのは同日午後であった。第二総軍司令部が呉鎮守府経由で送ったもので、内容は簡単であったが、かつてない破壊力の高性能爆弾が使用されたことを明らかにした。
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最後の闘い
原爆投下の八月六日から終戦までの十日間は、日本が亡国の瀬戸ぎわに追いつめられた、民族の歴史にかつてない危機であった。それはまた、「降伏か、本土決戦か」の選択の中心に位置した阿南にとっても、死の直前に生命を燃焼し尽した時期であった。彼は五十八年の生涯を、この十日間のために生きたともいえよう。
このときの阿南の心境については、終戦後三十五年を経た今も諸説があり、その一つ一つに裏づけ≠ニ呼ぶべきものがあって、結論は出ないままである。阿南自身はこれについて何も語らず、何も書き残していない。
諸説を大別すると、次の四つになる。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
(一)一撃説――阿南の公的発言の通り、本土決戦で敵に一撃を与えて日本の発言力を強め、国体護持その他の条件を認めさせて終戦に導こうとした、とする説。この説の支持者は阿南の義弟竹下正彦に代表される当時の中堅将校の間に多く、本土決戦で敵に一撃を与え得ると信じた人々である。
(二)腹芸説――本心では本土決戦を否定しながらも、陸軍の暴発(内乱、暴動など)による国家の致命傷を防ぐため、部内の強硬派に対するジェスチュアとして本土決戦を主張し続け、無血終戦をなしとげた、とする説。この説の支持者は終戦内閣の国務大臣であった安井藤治、同期生の沢田茂らと旧部下であった加登川幸太郎、山本新など阿南との接触が深く長かった人々の間に多い。ただし、最も強く腹芸説≠主張した迫水書記官長は、阿南が陸相であった四ヵ月間だけ接触した人で、例外である。
(三)気迷い説――ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるべきか、あくまで本土決戦を目指して進むべきか……阿南はそのいずれとも決しかねて迷い続けた、とする説。これは最後まで秘書官を勤め、常に彼のそばにいた林三郎の説だが、支持者の数は前の二説に比してずっと少ない。
(四)徹底抗戦説――阿南は、日本国民の最後の一人まで闘うべきだと主張した、帝国陸軍の軍人らしい石頭で狂信的な男であった、とする説。このように信じたのは一般大衆であったが、今はその大部分が終戦時の陸相についての記憶を残してはいない。だが当時のままの阿南観≠語る人々は意外に多い。
[#ここで字下げ終わり]
当時の国民大衆は終戦直前の政府が何を考え、何を議しているかなど、全く知らされていなかった。彼らの目に触れたのは、せいぜい八月十一日の新聞に発表された厳しく勇ましく徹底抗戦を号令する「陸相訓話」だけで、これによって阿南を一億玉砕を絶叫する陸軍大臣≠ニ判断したのは無理もない。
しかし阿南が鈴木内閣による終戦に、原則として異存のなかったことは、彼の公的な発言によっても明らかである。そのうえ阿南はかなり早くから、一度戦果を挙げたところで戦争終結を計るべきだという考えを抱いていた。これを示すいくつかの資料がある。
二十年四月、第二総軍参謀長に就任するため南方から帰国した若松只一中将(終戦時の次官)は、陸相になったばかりの阿南を訪れた。若松は阿南の旧部下である。このとき阿南は若松に向かって、「たとえ本土決戦に支障があっても構わぬ。敵に一大打撃を与えるために、このさい陸軍航空の主力を沖縄に投入すべきだと思うが、君はどう思うか」と問いかけている。
阿南が航空総監時代から抱いていた案で、彼は最後の特攻機で出撃しようという決意を秘めていた。これについて若松は、次のように書いている。
「阿南陸相は徹底的本土決戦論者の如く思われているが、陸相の悲願は国体護持の一事であった。これがためには極力本土決戦を避けんとした」
また東郷外相は七月、ポツダム会談が始まろうとするころ、戦争終結を計るためにはここで少しでも戦局を好転させ、日本の立場を強くしたいと考えた。東郷は戦後、次のように書いている。
「三国会談開始前に、少なくとも敵の機動部隊を捕捉《ほそく》して一大打撃を与えることにしてもらいたいと説き、陛下にも内奏し、陸海軍大臣にも要請した。阿南陸相はこの点に極めて同感の意を表し、統帥部に対し強く申し入れた旨の内話があった」
このとき阿南は航空総軍作戦参謀を呼び、「本土決戦は考えなくともよい。陸軍航空の主力をもって、敵艦隊を攻撃することは出来ぬか」と強く申し入れた。作戦は参謀本部の担当である。陸相という立場から、日ごろ作戦干渉的なことは一切しない阿南としては珍しいことであった。
しかしこの案は、梅津参謀総長の反対で実現しなかった。もしこれを実行したら、本土決戦は成りたちにくい。本土決戦構想を根本から変えねばならぬこの案を梅津が支持しなかったのは、むしろ当然であったろう。本土決戦による戦争完遂は、陸軍統帥部の大前提であった。
沢田茂は「大先輩であり、日ごろは尊敬している梅津さんを、この時ばかりは阿南が遠慮なく罵倒《ばとう》するので、ハラハラさせられた」と語っている。
また、阿南が徹底抗戦を望んでいたのなら、辞職することで、早期和平を目指す鈴木内閣を総辞職に追いこむことが出来たはずである。しかし六月以後の阿南は辞職のそぶりさえ見せなかった。また、六月に米内海相が辞職をほのめかした時は積極的にこれをひきとめて、鈴木内閣の崩壊を防いでもいる。
これらによって、阿南が戦争完遂論者でなかったことは明らかなので、彼の心境についての「徹底抗戦説」は否定される。残るのは「一撃説」、「腹芸説」、「気迷い説」の三つで、それぞれの説の裏づけとされるものは、ほとんどが終戦に至る十日間の阿南の言動の中にある。
阿南は御前会議、最高戦争指導会議、閣議などの席で、最後まで本土決戦の強硬意見を吐露し続けているので、これを裏づけとする「一撃説」は資料の上では最も強い。しかし阿南の言動の中には、「一撃説」ではどうにも割り切れないものがあることも確かである。だからこそ、戦後三十五年という時の流れの中で、主に旧軍人の間のことだが、「腹芸説」が次第に説得力を増してきたのでもあろう。
以下、終戦までの約十日間の、苦悩に満ちた首脳部の動きの中で阿南を捉《とら》え、彼の心境を推測してみよう。ただし、阿南の公的発言のほとんどが明瞭に「一撃説」と結びついているので、推測≠必要とする「腹芸説」の立場から彼の言動の意味をさぐることにする。その過程で、おのずから「気迷い説」にも触れることになる。
原爆が投下された翌日、七日早朝には米国のラジオが「六日広島に投下した原子爆弾は、戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏に応じない限り、さらに他の場所にも投下する」というトルーマン大統領の声明を伝えてきた。
同七日、参謀本部は第二部長有末精三中将を長とし、原子エネルギーの最高権威者である仁科芳雄博士(物理学者、理化学研究所長、文化勲章受章)ほか関係者数人の調査委員団を広島へ派遣した。一行の広島到着は、航空事故のため八日午後になった。
この調査団の報告を待たず、東郷外相は鈴木総理と相談し、ポツダム宣言の迅速な受諾方を天皇に上奏することに決めた。
八日午後、東郷は宮中の地下室で天皇に、原子爆弾についての米側発表とこれに関連する事項を上奏した。これに対し天皇は、「この種武器が使用せらるる以上、戦争継続はいよいよ不可能となるから、有利な条件を得るために戦争終結の時期を逸することはいけない。なるべく速かに戦争の終結を見るよう努力せよ」と述べ、その旨を鈴木総理に伝えるよう命じた。
これを知らされた鈴木は、すぐに最高戦争指導会議を開こうとしたが、構成員中に都合のつかない者があったため延期された。
「速かに戦争の終結を……」という天皇の意志が鈴木総理に伝えられた八月八日、日本の戦争指導首脳部は同日の真夜中(モスクワ時間では八日午後五時)に行われる予定の佐藤大使とモロトフ外務人民委員との会見の結果を、かたずを飲んで待ち受けていた。あまり期待はかけられないと知りながらも、もはやソ連以外に日本がすがりつく相手はなかった。
スターリンとモロトフは八月五日にポツダムからモスクワに帰った。佐藤大使はすぐモロトフに会見を申しこんだが「八月八日午後八時」と指定され、当日になって「午後五時」と三時間繰上げてきた。
指定時刻にクレムリンを訪れた佐藤の目的は、近衛使節の訪ソの承認を求めることであったが、モロトフは佐藤に口も開かせず、一方的に次の宣言をした。
「ソ連政府は明日、すなわち八月九日から日本と戦争状態にはいる」
対日開戦通告である。世界の中で孤立しながらもなお必死に闘ってきた日本の、救いようもないみじめな姿がクレムリンの一室で露呈された。
モスクワと当時の満州との間には五時間の時差があり、モスクワの午後五時は満州(および日本)の午後十時である。
佐藤・モロトフ会見開始の二時間後、満州国の八月九日午前零時に、ソ連軍はソ満国境線を侵攻した。
日本政府と大本営は八月九日午前四時、同盟通信が傍受したタス通信の放送によって、初めてソ連の参戦を知った。同盟通信社からの電話でソ連参戦を知った鈴木総理は、精鋭部隊を内地や南方に引き抜かれて弱体化した関東軍は二ヵ月とは持ちこたえられまいと考えた。彼は迫水に向かって、「いよいよ来るものが来ましたね」といった。
このあと、午前八時ごろ訪ねてきた東郷外相から「急速戦争終結の決意」を聞いた鈴木は言下に、「この内閣で結末をつけましょう」と同意した。ソ連を仲介とする終戦工作の大失敗により、内閣は総辞職するのが政治常識であるが、鈴木は事態の急速な収拾を必要とするこのとき、それを自分の責務と考えて総辞職を避けた。
広島への原爆投下に続くソ連の参戦は、天皇をはじめ、木戸内大臣、鈴木総理、東郷外相、米内海相、近衛公、重光元外相など早期終戦支持者に、急遽《きゆうきよ》ポツダム宣言受諾の決意を固めさせた。
同九日午前十時、木戸内大臣は天皇の質問に対して、「急速終戦が必要」と答えた。天皇は、「戦局の急速収拾を決定するため首相と十分懇談せよ」と命じた。十時すぎ参内した鈴木総理はこれを聞き、すぐ最高戦争指導会議の開催その他の手続きをとった。
こうして終戦派要人の急速終戦への態度は一致した。だが、ポツダム宣言をそのまま受諾するのか、日本からも条件をつけるのか、つけるとすればいかなる条件か――等の重要問題は彼らの間でも未決定のまま、最高戦争指導会議は九日午前十時三十分から宮中で開かれた。これが、八月十四日の御前会議で終止符が打たれるまでの諸々《もろもろ》の終戦会議の皮切りであった。
最高戦争指導会議が開かれると知った河辺虎四郎参謀次長は、すぐ阿南の部屋を訪れた。阿南は出かけるところらしく机の前に立っていたが、河辺にいつもの通りの明るい微笑を向けた。河辺が「ぜひとも本土決戦を……」と希望を述べると、阿南は、「よし、貴官の意見を参謀本部全体の意見と了解するぜ」といった。
「そう了解していただきます。……今日の会議は荒れましょう、大臣、ひとつ願います」
「うん、荒れるだろうね。命にかけて、ひとつ……」といいながら、阿南は刀掛けの方へ歩き、ひとりごとのように、「もし容《い》れられなければ、やめて支那の一部隊にでも召集してもらって、行ってやるよ」といって、大きく笑った。そして、刀と帽子を持って大臣室を出ていった。
河辺は次のように書いている――
「……破顔一笑、意気|軒昂《けんこう》タルヲ示セリ。短才ト云ハバ云ヘ、楽天ト云ハバ云ヘ、神ガカリト云ハバ云ヘ、斯《か》ウシタ難局ニ臨ミ斯カル意気ニテ進マルルコソ頼母《たのも》シト云フベケレ」
河辺のような本土決戦論者にとって、阿南は頼もしい限りの陸相に見えた。
会議の冒頭、鈴木総理は「四囲の情勢上ポツダム宣言を受諾せざるを得ないと思う」と述べて各人の意見を求めたが、この唐突な提案に対し、しばらくは口を開く者もなかった。やがて重苦しい沈黙を破って、米内海相が「いつまで黙っていても仕様がない」と発言した。
これで論議の糸口がとけたが、原子爆弾、ソ連参戦の事実の前で、ポツダム宣言の受諾を原則的に否認する意見は出なかった。やがて、受諾する条件についての長い論議の中から、問題の四条件≠ノ焦点がしぼられてきた。第一に国体護持(皇室の安泰)の条件は全員一致した。しかし第二以下の、保障占領はなるべく控えさせる、武装解除は自主的に行なう、戦争犯罪人の処分は我方で行なうという条件についての論議は、まとまらなかった。
東郷外相は「国体の問題は別として、それ以外の条件をつけることは、事態をポツダム宣言発表以前に還し、円滑な終戦を不可能にする」と、強く反対した。
阿南と梅津は東郷の単一条件案に反対し、他の三条件をもぜひつけるべきだと主張した。豊田軍令部総長もこれに同調し、続いてこの三人の軍部側構成員は、三条件について具体的に強い意見を述べた。
東郷は、「多くの条件をつけることは交渉決裂を意味し、その結果は連合軍の本土上陸となって、結局日本は今よりももっと悪条件で戦争終結しなければならなくなる。従って日本としては、絶対の条件だけを提出して和平成立を計ることが、この際とるべき方法だ」と軍部側の意見に反対した。
これに対し、梅津と阿南とは、「本土決戦の見通しは、究極的には勝つという確算は立て得ないが、まだ一戦は交えられる。うまくゆけば、上陸軍を撃退できる。ポツダム宣言を無条件で受諾するくらいなら、残された最後のチャンスを試みるべきだ」と主張して譲らなかった。
この会議の間に、軍令部次長大西滝次郎中将が来て、阿南を室外へ呼び出し、「米内は和平だから心もとない。陸軍大臣の奮闘を期待します」と強くいった。阿南はこれを承諾したが、「海軍大臣の立場もあることだから、この話は聞かなかったことにしたい」といった。
このころから米内は急速和平の態度を明瞭にうち出し、周囲をヒヤリとさせる発言を次々に行なってゆくが、海軍部内が彼の意見に統一されていたわけではない。まず豊田軍令部総長が(彼の真意は終戦後いろいろと伝えられているが)陸軍側と同じ立場に立ち、次いで特攻隊生みの親≠フ大西があくまで抗戦継続を唱え、その主張の強いと見られる陸相を頼みの綱≠ニして激励しに来ている。
(大西は終戦直後の八月十六日、阿南より一日遅く自決した。彼はレイテ決戦にあたり、第一航空艦隊司令長官として航空特攻作戦の指揮に任じた。その遺書は「特攻隊の英霊に申す 善く戦ひたり深謝す」と書き出し、「吾れ死を以て旧部下の英霊と其《その》遺族に謝せんとす」と結ばれている。)
最高戦争指導会議が紛糾を重ねていた九日午前十時五十八分、長崎に原子爆弾が投下された。この情報は午後一時前に会議の席に届けられた。会議は結論を出し得ず、鈴木総理は午後の閣議のあと再び開くことを提案して、ひとまず中断した。
閣議は午後二時半から開始された。東郷は初めてソ連を通じての終戦工作の経緯をくわしく報告し、またソ連参戦と原子爆弾に伴う連合国側の情報について説明した。
鈴木総理が各閣僚の意見を求めると、まず阿南が、「現状では敵側が皇室の安泰を口にし好条件を出しても、我方としては無条件降伏は忍び得ない。武装解除の後では、連合国側に向かって『それでは約束が違う』と抗議しても、もうどうにもならない。イタリアの先例もあり、その轍《てつ》をふんではならない。もちろん原子爆弾、ソ連参戦となった今、ソロバンずくでは勝ち目はない。しかし大和民族の名誉のため戦い続けているうちには、何らかのチャンスがある。武装解除は軍にとって、殊に外地派遣軍にとって不可能であり、事実戦争継続のほかはない。死中に活を求める戦法に出れば完敗することはなく、むしろ戦局を好転させる公算もあり得る」と主張して抗戦継続論を展開した。
これに対して米内は、「米英に対して勝ち目はない。さらにソ連に対しても同じだと考える。最後に一撃を加えて勝ち得る機会は、陸相の言うように一度は考えられるが二度、三度となると大いに疑問である。私は物心両面から見て、勝ち目はないと思う。
この際は降伏して日本を救うか、それとも一か八《ばち》かとにかく戦い続けるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである。負け惜しみや希望的観測はやめて実情に即し、堂々主張するものは主張して、談判に入らねばならぬと考える」と強い語調で述べた。
「負け惜しみや希望的観測はやめて」という米内の言葉は、阿南の発言に対する批判と聞こえる。阿南の意見は確かに合理的≠ナはない。彼は「ソロバンずくでは勝ち目はない」ことを認めながら、「戦い続けているうちには、何らかのチャンスがある」と述べている。この何らかのチャンス≠ノは予測としてさえ具体性がなく、僥倖《ぎようこう》を頼む以外の何ものでもない。
阿南のいう死中に活を求める≠フ死中≠ニは「広辞苑」によれば「死をまつよりほかない窮地」で、そこに生きる道を見いだそうとする緊迫感と悲愴美《ひそうび》は日本人の好みに合っていて、しばしば誇張されて愛用される。
阿南の場合も自分の精神の昂揚を表現し、具体的には「勝つ可能性のない条件下ながら、なお戦い続けることで戦局好転の機をつかもう」というのだろうが、それをつかみ得る保証はどこにもない。理外の理≠ノ頼った発言ととれる。かりに一撃を与え得たとしても、二度三度と敵が反撃してきた場合、米内は「大いに疑問」と遠まわしにいうが、「そこで日本は負けるだろう」という現実の予測である。
東郷は負けることを前提として「今よりももっと悪い条件の戦争終結」と予想している。阿南にとっても陸軍にとっても窮極の主張である国体護持、皇室保全がもっと悪い条件≠ナ処理されることになるという大問題を突きつけているのだ。これに対して、なお継戦を主張するには、「絶対に勝てる」という計算がなければならないはずだが、阿南自身「ソロバンずくでは勝ち目がない」ことを認めている。果して阿南は、本心から継戦を主張したのであろうか。
中国や豪北の戦場ではドンドン行け≠ェ口癖の積極戦法で押し通した阿南である。そのころはたとえ負けても次の戦場があり、その場の勝敗が日本の国体や皇室の保全を直接破壊する怖《おそ》れはなかった。だが本土決戦は、もうあと≠フない戦闘であり、その勝敗は、国体の存否を決める重大性を持つことになる。それでも死中≠フ一発勝負をやろうというのが、果して阿南の本心であったろうか。それとも矛盾を故意に暴露する逆手をとったのだろうか。
沢田茂は語る。
「われわれ軍人にとって国家と天皇は一体であり、それをお守り申すのが軍人の責務と信じていた。殊に侍従武官として四年も陛下の側近にあり、息の触れ合う親近感を持った阿南の忠誠心は非常に強く純粋であった。畏《おそ》れ多いが、深い愛情だったといえよう。その阿南が、陛下のお身を危くする怖れの強い本土決戦を本当にやろうなどと考えるはずはない。私は自信をもっていい切れる。阿南はそんな浅慮な男ではなかった。
阿南には、条件つきかどうかは別として、ポツダム宣言を受諾して降伏するほかはないことはわかっていたのだ。だがあの場合『勝ち目はないから降伏しましょう』といったのでは、彼のうしろに控えた陸軍が納まらない。もし陸軍が内乱でも起せば、それこそ国を破滅に導くことになる。国を護るべき陸軍が、国を滅ぼす行動に走っては――と、阿南はこれを防ぐために命をかけたのだ」
九日午後の閣議の席で、米内海相はさらに次の発言をした――
「総力戦である以上、軍需生産、糧食、運輸、思想など各方面から十分検討して、閣議において結論を出す必要がある。五、六、七月の実績について、関係各相から説明していただこう」
これに対して豊田軍需相、石黒農相、小日山運輸相の三人が答えたが、その内容は絶望的であった。その中には農相の「主食配給の一割減により本年端境期まではとにかくやってゆけるが、明年は随所に飢餓の発生を避けることが出来ない」というものも含まれていた。農相は「一割減により」といったが、実情は一割減≠ヘおろか、主食の配給は既になきに等しかった。
閣議は五時半いったん休憩にはいった。ここまでの閣議の記録を読むと、次のような阿南の発言がある。
阿南は原子爆弾について、「俘虜《ふりよ》から得た情報である」と前おきして、「次の投下目標は東京である。米国には原子爆弾はなお百発あり、一ヵ月に三発製造できる」等と報告している。
戦後の調査によれば、阿南のこの説明はすべて事実に反していた。この時点の米国は一発の原爆も持ってはいなかった。しかし広島、長崎に次ぐ三発目の原爆が投下可能になる日が目前に迫っている時期であった。同志社大学教授オーテス・ケーリは、論文「原子爆弾日本投下計画」に、次のように書いている。
「ポツダムから帰って来たマーシャル元帥あての、八月十日付のグローヴズ少将の機密メモに、次のようなものがある。……生産の過程で、また現場への運搬の過程で、または現場に到着後不測の困難が生じない限り、爆弾は八月十七日または十八日以後の良天候の日に投下可能となります」
また米国で「マンハッタン計画」と呼ばれた原爆の秘密がいかに厳重に守られていたかの例として、次のものが挙げられている。
「いかに最高上層部がマンハッタン計画を秘密にしたかということは、副大統領のトルーマンがルーズベルトの死の直後就任の宣誓をした段階では、まだ原爆の計画をまったく知らされていなかったということが物語っている。
就任式の後、ひっそりとした雰囲気《ふんいき》の中で、スティムソン長官は、閣僚が閣議の部屋から新大統領と握手しながら出て行くのを待って、最後の一対一になったところでかいつまんだ報告をし、のちほどくわしい専門的な報告に来ますと述べたのであった」
「グローヴズ少将からマーシャル元帥あての六月三十日のメモからわかることは、太平洋方面の両総司令官、すなわち陸軍のマッカーサー元帥と海軍のニミッツ元帥が、この段階でまだ原爆の存在を知らなかったということである」
常識で考えても、原爆研究やその使用計画は各国とも極秘に付すはずのものである。また日本の原爆研究を軍部がどう扱ってきたかを思い起せば、アメリカでもごく限られた最高上層部しか知らないであろうことは、阿南には容易に想像できたはずである。
日本でも大東亜戦争中、陸海軍によって仁科芳雄博士を長とする原爆研究が極秘|裡《り》に行なわれたが、その完成には莫大な費用と時間を要することがわかり、終戦前に実験はうち切られていた。
阿南が閣議で報告した原爆情報は、誰から入手したものであったか。この人物について、服部卓四郎著『大東亜戦争全史』には単に「俘虜」とあり、情報局総裁であった下村海南の著書『終戦記』に収められた当日の阿南の発言項目には「原子爆弾について昨日捕虜の米中尉の言」と書かれている。
阿南は当然≪前線に出ているアメリカの一下級将校が、本国の原爆保有量や生産能力を知っているはずはない≫と、この情報を信じなかったであろう。捕虜の陳述のように「一ヵ月に三発製造できる」とすれば、百発を作るには三十三ヵ月を要する。この計算では、米国は昭和十七年末には原爆を完成していたことになるが、それを阿南はウ呑みにしたのであろうか。なぜ阿南は信じるに足りない捕虜の言葉を、そのまま閣議で報告したのか――。
日本の指導層の間で急速和平の気運が一挙に高まったのは、原爆に起因する。天皇が「この種武器が使用せらるる以上……」と急速終戦の意志を表明したのも、原爆のためであった。
これとの関連で思い出されるのは、抗戦継続を主張する中堅将校が「原爆の威力は大したことはない」という情報を得て喜び、これを天皇に伝えようとした件である。竹下正彦中佐は『機密作戦日誌』に八月十四日付で次のように書いている。
「此《こ》ノ日畑元帥広島ヨリ到着。次官|之《これ》ヲ迎ヘ此ノ頃陸軍省ニ出頭セラル。白石参謀随行、原子爆弾ノ威力大シタコトニ非ザル旨語レルヲ以テ元帥会議ノ際、是非其ノ旨上聞ニ達セラレ度《たく》頼ム」
継戦を主張する竹下が「原爆恐るるに足らず」という情報を天皇に伝え、それによって天皇の翻意を促そうとした意図はよくわかる。しかし同じく継戦を主張する阿南がなぜ「米国には百発の原爆がある」などと、即刻終戦論を誘導するような発言をしたのだろうか。たとえ彼の意図にとって不利な情報でも、その確度が高ければ陸相として報告する義務があるが、情報提供者は、捕虜の一中尉にすぎなかった。
口では陸軍の総意として継戦を唱え続ける阿南だが、本心は≪陛下のご意志に従って、混乱なく終戦に導こう≫というものであった、という想像は成りたたないだろうか。
九日の閣議は午後六時半から再開されたが、これとほぼ同時刻から朝香、東久邇の両宮、杉山元帥、土肥原教育総監などが出席の軍事参議官会同も開かれ、梅津参謀総長から最高戦争指導会議の内容について説明があった。そして、ここから朝の会議の秘密が下部に漏れた。竹下の日誌には次のように書かれている――
「午前ノ最高戦争指導会議ノ内容ハ極秘ニ附サレアリシモ、軍事参議官会同席上、参謀総長ノ発言ヲ聞キタル軍事課高山大佐ノ洩《もら》ス所ニ依レバ、陸軍提案ノ和平四条件ハ (一)国体ノ変革許サズ (二)外地日本軍隊ノ武装解除ハ外地ニテ行ハズ、内地ニテ日本自ラ行フ (三)保障占領許サズ (四)戦争責任者ノ処罰許サズ ニシテ右条件ニツキ意見ノ一致ヲ見ザリシ模様ナリ(仄聞《そくぶん》スル所ニ依レバ、外相ハ第一項ノミニテヤリタキ意向)
[#ここから2字下げ]
右ニツキ飯尾、畑中等、陸軍ガ和平条件ヲ出シタルコトニツキ不満ヲ表セリ。徹底抗戦以外ニナシト云フ」
[#ここで字下げ終わり]
これも一例だが、極秘のはずの最高戦争指導会議の内容さえ、政府の方針決定に神経をとがらせている若い将校団に漏れることがあった。阿南を含む最高戦争指導会議構成員は、それぞれの思惑で自分たちの言辞が外に漏れることを計算しておく必要もあったし、阿南腹芸説≠ゥら見れば、いついかなる時も本心をのぞかれないよう警戒する日々であったと想像される。
右の日誌中の「畑中」とは、宮城事件の中心人物となる畑中健二少佐で、彼の名が資料に現われたのはこの『機密作戦日誌』の八月九日が最初である。
再開閣議は、午前中の最高戦争指導会議と同じ意見がむし返されるばかりで、結論に近づかなかった。遂に鈴木総理は各大臣に、東郷外相の「国体護持の一条件だけでポツダム宣言受諾」案に対する賛否の答を求めた。阿南陸相は反対、松阪法相と安井国務相がこれに同調した。米内海相は賛成、石黒農相、豊田軍需相、小日山運輸相、太田文相、左近司国務相も同意見であった。他の五人は態度不明だが、下村国務相は「国体護持以外の三条件をも希望として先方へ通ずる」という妥協案を出した。
午後十時半を過ぎたころ、鈴木総理は宮中へ向かった。前後七時間にわたって紛糾した閣議は、ここでまた休憩にはいった。
鈴木の参内上奏≠ヘ、実は予定されたものであった。午前の最高戦争指導会議の成行きは、一部の重臣と外務省を強く刺激した。鈴木はこの会議の内容を午後の閣議の前に木戸内府に報告し、また外務省筋からは近衛に伝わった。憂慮した近衛は木戸と懇談しただけでなく、高松宮、重光|葵《まもる》元外相を通じてさらに木戸に働きかけた。そのほか松平内府秘書官長、高木惣吉海軍少将、加瀬|俊一《としかず》外務事務官、松谷誠陸軍大佐にもそれぞれ相談し、木戸を動かして問題を聖断にまで持ちこむよう工作した。また米内海相と迫水書記官長は、御前会議での決定は多数決によらず、聖断に持ちこむよう鈴木に進言した。鈴木は午後二時半の閣議の前に参内し、「終戦論議の結論が出ない場合は、陛下のお助けを願います」と述べて、内諾を得ていた。
表面には現われないが、終戦への工作は着々と進められていた。そして、日本がどたん場に追いつめられていたこの時、和平によって国を救おうと考える人々の期待は、天皇の決断一つにかかっていた。
午後十一時ごろ、鈴木と東郷は参内し、鈴木は天皇に「御前で最高戦争指導会議を開催したい」と述べた。
鈴木は、日本国の滅亡を避け国民の生命を保持するためには、敵の本土来攻以前に戦争を終結する以外に道はないと判断し、明治憲法の定める責任内閣制としては全く異例ながら、天皇の意志によって国の方針を決定しようと心を決めていた。戦後、迫水は次のように語っている――
「御前会議というものは、総理大臣と参謀総長、軍令部総長の三者の花押《かおう》を押した署名入りの書類で上奏し、いわゆる親臨を仰いで開く最高戦争指導会議という形をとっていたものです。この日の昼間、私は参謀総長と軍令部総長に、『いずれ御前会議を開くことになると思いますが、その前に連絡はいたしますから、あらかじめご判をいただきたい』と花押を押していただきました。
そして私は、全く慣例に反し相すまぬと思いながら、陸海軍には連絡しないで、御前会議を開く措置をとったのです。予《あらかじ》め軍に連絡したら、この会議はとうてい開かれないだろうと判断したからです。
やがて宮中から陸海軍に会議開催の連絡があったとき、阿南大臣は初めて私の書記官長室にはいって来られて、『御前会議を開くというが、これは違式ではないか』と詰問されました。私は御前会議で聖断を拝する予定であることを秘して、『本日の会議は結論を出すという目的ではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくためのもの』と申し上げると、陸相はそれ以上追及されず、『そうか、それならよい』と部屋を出てゆかれました」
ポツダム宣言受諾をめぐる第一回の御前会議は、この夜十二時近くに宮中|防空壕《ぼうくうごう》内の一室で開かれた。従来の御前会議は、まず連絡会議または最高戦争指導会議で決定した議案について開かれるのが例であった。だが、この夜の御前会議は前もって決定された議案もなく、全く異例のものであった。出席者は通常の構成員六人に平沼騏一郎枢密院議長を加えた七人が正式のメンバーであった。これに最高戦争指導会議の幹事をつとめていた陸軍省の吉積正雄軍務局長、海軍省の保科善四郎軍務局長、池田正純内閣総合計画局長官、それに迫水久常内閣書記官長の四人が出席した。
特に平沼議長が出席することになったのは、ポツダム宣言受諾は形式上条約の締結になるので、憲法では枢密院にはかる必要があったからである。しかし切迫したこの時、そんな時間の余裕はない。そこで後に問題をこじらせないため、平沼議長を枢密院の代表として参加させようという迫水らの配慮であった。
八月十日
深夜の御前会議は、迫水のポツダム宣言朗読によって始められた。続いて鈴木が、東郷の起草した案文を読み上げた。
「客月二六日付三国共同宣言に挙げられたる条件中には、日本天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下に日本政府は之を受諾す」
鈴木は四条件案をも説明し、「閣議では東郷案賛成六人、四条件案三人、中間五人であったので、多数が賛成した東郷案を原案として提案する次第です」と述べた。
次いで東郷外相が立ち、「……皇室は絶対問題であるから、要望はこのことに集中する必要がある」と提案理由を説明した。
鈴木総理から意見を求められた米内海相は「東郷外相の意見に同意」と言明した。
次に指名された阿南陸相は「全然反対」とまず結論を出し、強く四条件案を主張して、「本土決戦に対しても、それだけの自信がある」と述べた。保科善四郎海軍省軍務局長のメモによると、阿南の発言中に「一億枕を並べて斃《たお》れても大義に生くべきである」という言葉がある。すべての日本人が死滅してしまったら、出席者全員が一致して主張する国体護持は不可能になるという、子供でも気がつくこの言葉の矛盾に阿南が気づいていないはずはない。
梅津参謀総長は「陸相の意見に全然同意」と述べた。そのあと平沼枢府議長と外相、参謀総長の長いやりとりがあった。
二時間余りが過ぎ、十日午前二時を過ぎてもなお決定には遠いその場の空気であった。ここで鈴木は、「意見の対立がある以上、甚《はなは》だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召《おぼしめ》しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と述べて、天皇の前へ進み出た。
鈴木の言葉に対し、天皇は、「それならば、意見を述べよう。私は外務大臣の意見に同意である」といった。
地下十メートルの防空壕には、もの音一つない。その静寂の中からかすかなすすり泣きの声が起り、それは次第に高まり、広がっていった。迫水の記述によれば、天皇も「はじめは白い手袋の手で、親指をしきりに動かして眼鏡を拭いておられたが、ついには両方の頬をしきりに拭っておられた」という。
やがて天皇は、腹の底からしぼり出すような声で「念のために言っておく」と前置きして、次のように述べた。
「大東亜戦争が始まってから、陸海軍のしてきたことをみると、どうも予定と結果とがたいへん違う場合が多い。……先日、参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後、侍従武官が現地を見てきての話では、総長の話とはたいへん違っていて、防備はほとんど出来ていないようである。また先日、編成を終った師団の装備について、参謀総長から完了した旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡っていない有様であることがわかった。このような状態で本土決戦に突入したら、どうなるか。私は非常に心配である。あるいは、日本民族はみんな死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。私の任務は、祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来ふたたび起ち上ってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。……」(天皇の言葉は迫水久常著『大日本帝国最後の四ヵ月』による)
高く低く、すすり泣きの声が続く中で天皇の言葉が終ると、鈴木総理は、「聖断をもって、この会議の結論といたします」と述べて、この重大な会議は午前二時三十分に終った。
天皇の言葉の中で国民の上を思う¥が初めて吐露された。軍閥ファッショの時代を通じて無視されてきた国民に一人でも多く生き残ってもらい≠ニ最初に言葉をかけたのは天皇であった。
出席者一同が退出して防空壕の入口にさしかかった時、吉積軍務局長が人々をかき分けるように前へ出て先頭の鈴木総理に近づき、「総理、これでは約束が違うではありませんか」と強い口調でつめよった。
鈴木がその方を振り向いた時、かたわらを歩いていた阿南が吉積の体を押しやるようにして、「吉積ッ、もうよいではないか」と鋭くたしなめた。これは、その場を目撃した迫水が書き残している。
吉積は、昼間、迫水が阿南の詰問に答えた言葉をそのまま信じて、御前会議に列席したのだ。ところが会議が始まると、一方的に東郷案を前面に押し出しての議事進行ぶりで、遂に鈴木総理はご聖断≠仰いでポツダム宣言受諾を決定した。このやり方は陸軍側にとって意外であり、高圧的と感じられたはずで、吉積はだまし討ち≠フ感さえ抱いたであろう。
もし阿南が本心から本土決戦を望んでいたのなら、彼こそ鈴木総理に抗議し、場合によっては辞職という切り札を使ってでも強い態度をとるはずではないだろうか。
しかし、すべてが天皇の意志によって決定された後、阿南は吉積をたしなめただけで、これについては何も言わなかった。
『大本営陸軍部10』に納められた「軍務局長吉積正雄中将回想口述」によれば、この直後に次のような会話があった。
阿南「私は陛下に対し、徹底的に陛下のご意志に反する意見を申し上げた。これは万死にあたいする。またポツダム宣言受諾となれば、この敗戦の責任は陸軍を代表して私が腹を切る。お前らは軽挙|妄動《もうどう》するな」
吉積「自決をお止めしようとは思いません。しかし、もし終戦となって、アメリカの軍隊が進駐するような場合、一発でも陸軍側から射つようなことがあれば、アメリカはどんな難題を持ち出すかわからず、国体の護持が出来なくなるおそれさえあります。そんなことが起らないように、軍を押えてゆけるのは閣下以外にないのですから、自決はもう少し待って下さい」
阿南「そうか、それではもう一度よく考えて、それから話し合うことにしよう」
降伏は全陸軍にどれほどの衝撃を与えることか。その動揺からいかなる事態が引き出されるか、予断を許さない。いかにして降伏発表後の軍を押えてゆけばよいか――。その最高責任者である阿南のかたわらで、吉積は耐え難い重圧を感じていた。
御前会議のあと、さらに午前三時から閣議が開かれた。九日午後二時半の第一回から数えて、三回目の閣議である。東郷は自分の案が平沼枢相の修正つきで採択されたことを報告し、鈴木と共に「この決定は聖断によるものである」ことを強調した。ここでも阿南は「もし連合国側が皇室保全の確証を示さない場合は、陸軍は戦争を継続する」と強い語調で述べている。午前四時、全閣僚は必要な文書に署名して閣議は散会した。鈴木や阿南など、最高戦争指導会議構成員であり閣僚である人々にとっては、九日午前十時半に会議が開かれて以来、間に短かい休憩があったとはいえ、十七時間半にわたる緊張の連続であった。
この日、安井藤治国務大臣と阿南との間に次のような会話のあったことを、戦後になって安井が語っている。士官学校の同期生である二人は、ざっくばらんな言葉づかいであった。
「阿南君、ずいぶん苦しいな。陸軍大臣として君みたいに苦労した人は他《ほか》にないな」
「けれども安井君、私は鈴木総理の内閣で辞職は絶対にしないよ。どうも国を救うのは、鈴木内閣だ。それだから私は、最後の最後まで鈴木総理と事を共にしてゆくんだ」
閣僚の多くが、八月十四日夜終戦の詔書に署名をする最後の瞬間まで、阿南が辞職することによって事を壊すのではないかという懸念を持ち続けた。だが阿南には初めから、この切り札を使う気はなかった。これは当時の阿南の心境を推測する上で、重大なカギの一つである。
御前会議のあと、午前三時ごろ参謀本部に帰った梅津参謀総長から、天皇の軍に対する不信任を聞いた河辺虎四郎参謀次長は、日記に次のように書いている。
「……要スルニ今後ノ作戦ニ御期待之無キナリ、換言スレバ軍ニ対スル御信頼今ヤ全ク喪《うしな》ハレタルナリ、而《しか》モ之|単《ひとへ》ニオ上御一人《かみごいちにん》ニ於《おい》テ然《しか》ルニハアラザルベシ、累積シタル君民一致対軍不信感ノ絶対的ナル表現ヲ、至上ノ大御言葉《おほみことば》トシテ端的ニ明示セラレタルモノナリ。嗚呼《ああ》、軍ニ職ヲ奉ズル者トシテ、ナンゾソレ痛恨ノ念ノ切ナル。而モ御前ニ居合ハス陸海ノ将相唯一人トシテ『断ジテ必捷《ひつしよう》ノ未来』ヲ申上ゲ得ザル軍ノ実態ヲ奈何《いかん》、大纛帷幄《たいとういあく》ノ両幕僚長共ニ今後ニ於ケル必成ヲオ誓ヒ申シ上ゲ得ザルヲ奈何、彼等ハ述ベタリト曰《いは》ク『必勝トハ申シ難キモ必敗ト断ズル理ナシ』ト、何ゾソノ辞ノ不的確ナル、否、予ハ其ノ表現ノ方法ヲ評スルニ非ズ、両総長ノ正直ナル表現ガ現実ノ姿ナルヲ奈何、予モ亦《また》断ジテ戦ヒ続ケンコトヲ主張シツツ自ラヲ激励シ来レルモ、必勝ノ確算ヲ訊《たづ》ネラレテハ其ノ返辞ハ両総長ノ右ノ辞ト大差ナカルベシ、只《た》ダ『降参ハシタクナイ、殺サレテモ参ツタトハ云ヒタクナイ』ト云フ感情ト、戦争終末ノ所期点ニ其限度ヲ目論《もくろ》ムノミ」
天皇が具体的な例までを挙げて軍に対する不信を言明したことは、天皇の軍隊≠ナあることを誇りとし、そこに存在の意義をおいている陸軍にとって、大衝撃であった。阿南はこれについて何も言い残していないが、おそらく彼は天皇の胸中にある不信感を早くから知っていたであろう。だがポツダム宣言受諾の決断に当って、あえて軍への不信をはっきりと言葉にした天皇の心中を思って、痛烈な衝撃を受けたであろうことは想像される。
外務省は日本のポツダム宣言受諾意志を連合国側に通告するため、かねての準備に基づいて、十日午前六時ごろまでに電文の起草を終った。主旨は、「条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解《りようかい》の下に、帝国政府は右宣言を受諾す。帝国政府は右の諒解に誤なく、貴国政府がその旨明確なる意志を速かに表明せられんことを切望す」というものであった。
この電文は十日午前六時四十五分から十時十五分にわたって、在スイス加瀬|俊一《しゆんいち》公使(当時、在日の加藤|俊一《としかず》とは別人)と在スウェーデン岡本季正公使に送られ、米英ソ支四国への伝達を指令し、同時に相手方の速答を得るよう要請した。
この公式通告と並行して、日本の受諾意図を海外特に敵側将兵に早く知らせる必要があると判断した松本俊一外務次官は、同盟通信社と日本放送協会首脳の同意を得て、十日夜ひそかに海外に放送させた。これを知った吉積軍務局長は「そんな放送をしたら、すぐ外地の日本軍に知れわたって、大へんなことになる」と反対したが、彼の予想通り、この放送は外地軍に大衝撃を与える結果となる。
十日朝の陸軍省内の空気は異常に緊張していた。午前四時まで閣議の席にいた阿南が疲労の色も見せず登庁して、「各課の高級部員以上は九時三十分に地下防空壕に集合せよ」と命じた。
全員を前にして、阿南は御前会議の内容を説明した。もしや……という予感はあったものの、「ご聖断によりポツダム宣言受諾」という報告に一同は愕然《がくぜん》とした。阿南は悲壮な面もちで言った――
「私が微力であるため、遂にこのような結果になったことは諸官に対して申しわけなく、深く責任を感じている。しかし御前会議の席で、私が主張すべきことは十分主張した点については、諸官は私を信頼してくれていると信ずる。このうえは、ただ大御心のままに進むほかはない」
私は陸軍を代表して出来るかぎりのことをしている。その点よくわかってくれよ≠ニいう意味の言葉を、阿南は最後の日まで、個人的に、また将校団に向かって、さらには外地派遣軍の司令官に対しても繰返してゆく。陸相である阿南と全陸軍は一体であると強調する彼の、「進むも退くも阿南と共にあれ」という呼びかけにほかならない。
さらに阿南は言葉を続けて、「ポツダム宣言受諾は、皇室保全の確証が得られて初めて実行されるのだから、もしこの条件が聞き入れられなければ戦争を続けることになる。陸軍は和戦両様の構えで、連合国側の回答を待つのだ」と述べた。
これについて、戦後、安井藤治は、「部下に対して和≠ニいう言葉が阿南大将の口から出たのは、この時がはじめてではないかと思う。これは『いかに軍隊のいらだちを導いてゆこうか』ということに打った第一石ではなかったかと考える」と語っている。
このあと、阿南はいくつかの注意を与えた――
「すべてを捨てて厳格な軍規の下に一糸|紊《みだ》れず団結し、越軌の行動は厳に戒めなくてはならない。今日のような国家の危局に際しては、一人の無統制が国を破る因をなす」
ここで阿南は声を励まし、「敢えて反対の行動に出ようとする者は、まず阿南を斬れ」と鋭く言い切った。彼の前に並ぶ将校たちの中に、なおも徹底抗戦を主張する者のあることを知っての言葉であったろう。さらに彼は言葉を続けた。
「国民の動向を十分に観察し、大御心に従うように指導することが肝要である。大和民族は未曾有《みぞう》の難局に立っているが、その方向を誤らせてはならない」
「軍の自粛はこの際ますます重要である。在外軍隊の処理は最痛心事である」
腹芸説≠主張する人々の多くが、その対象を中央の抗戦派中堅将校としているが、阿南の最大の心痛は在外軍隊の問題ではなかったか。具体的には百五万の大兵力を擁する支那派遣軍あたりが、中央の降伏命令を無視して現地で戦い続けるのではないかと、阿南は憂慮していたのかもしれない。もちろん中央の中堅将校の動向も阿南の最大関心事の一つに違いなかったが、もし彼らが火花を散らした場合、それが国内、国外の軍隊に引火し一挙に燃えひろがることを憂慮していたであろう。のちにクーデターを計画した将校たちは、彼らが中央でのろしをあげれば、国内の軍隊も外地軍も立ち上るという期待を抱いた。
阿南の訓示に次いで、吉積軍務局長が御前会議の経過をくわしく伝え、一同に「一糸紊れぬ統制保持」を要請した。
阿南と吉積の訓示が終ったとき、これを聞いていた将校たちの中の軍務局課員稲葉正夫中佐は、≪和戦両様に備え、軍の士気を維持するため、この際特に不退転の決意を示す陸軍大臣訓示を与える必要がある≫と判断した。彼はその場で軍事課長荒尾|興功《おきかつ》大佐と共に陸相に意見を述べ、阿南はこれに同意して、その趣旨の訓示を起草するよう命じた。
訓示の草稿は間もなく出来上り、荒尾はこれを承認したのち、自分で上司の決裁を得ようと持参したが、大臣、次官、軍務局長はいずれも多忙を極めていたため果せずにいた。この状態のとき、内閣情報局部員親泊朝省陸軍大佐が情報局総裁の談話が発表されることを知り、陸相訓示もすぐ発表する必要があると力説した。彼は稲葉の同意を得て、訓示の草稿を放送局と各新聞社に配布した。
情報局総裁の談話発表は、この日午後二時からの閣議で決ったものである。この閣議で、「ポツダム宣言受諾の件を、いつ、どのように国民一般に知らせるべきか」が論議された。早く公表すれば、民心の方向を決め損害を軽減し得るなどの利点があるが、いったん緊張感がゆるんだ後に交渉不調となったら、再び士気を回復することの困難が予測された。また詔書に先立って公表すれば、不測の事態が起る懸念があった。
結局、詔書によって初めて国民に公表することに決り、それまでは少しずつ終戦の方向へ民心を向けるような方法をとることになった。
こうして十日午後七時のニュースの時間に情報局総裁の意味不明瞭な談話と、陸軍大臣の「たとえ草を喰《は》み土を齧《かじ》り……」と、敢闘継続≠フ檄《げき》を飛ばす布告とが放送されて、国民をとまどわせた。
陸相布告はかなりの長文で、全軍玉砕の強烈な覚悟を促す内容である。ソ連の参戦をなじり、これに対しては「断乎《だんこ》神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ」と態度を示している。また「たとえ草を喰み土を齧り野に伏すとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず。これ即《すなわ》ち七生報国『我一人生きてありせば』ちょう楠公《なんこう》精神なると共に……」と、将兵一人残らず楠木正成になれと激励している。この布告は初めに「全軍将兵に告ぐ」とある通り、直接陸軍将兵に向けたもので、一般国民を対象とする総裁談とは全く性質の違うものであった。
布告の草稿が放送局や新聞社に渡されたことは、すぐ情報局と迫水書記官長に報告され、次いで外務省にも伝わった。
東郷外相はあえて行動をとらなかったが、情報局員と迫水とは布告の新聞掲載を中止させるよう下村総裁に強く進言した。その結果、下村と阿南の電話交渉となったが、このとき阿南は「とにかく陸相訓示も載せてやって下さい」と答えて、上司の承認もなく草稿を外部へ渡した将校たちの行為を黙認している。こうして方針が決らないままに時が過ぎ、吉積軍務局長の懸命な中止処置も間に合わず、十一日朝の各新聞には、「一億、困苦を克服、国体を護持せん、戦局は最悪の状態」という下村総裁談と、烈しい語調で徹底抗戦を呼びかける陸相布告とが共に掲載された。
竹下正彦は「阿南大将の自刃」中に、「これ(陸相訓示発表)は国内に対しては未だ戦争は終ったのではない事を示すものであり、国外に対しては、我が降伏受諾宣言にもかかわらず、我が国はなお継戦の意思を有することを表明するもので、和平|破摧《はさい》を狙った手段であった」と書いている。
陸相秘書官であった林三郎大佐は「終戦ごろの阿南さん」の中に、次のように書いている。
「この『将兵に告ぐる訓示』と、政治的な考慮から含みのある言葉で綴られた情報局総裁談とは、もちろん内容的に非常な違いがあった。内閣筋では陸相訓示の掲載を差し止めたかったが、結局時すでに遅く遂に八月十一日付の新聞に両方が掲載された。このことは、和戦の決定は政府の責任であることを一応は認めながらも、統帥は政治には従属せずとして独立するものなりとの陸軍伝統の考えを端的に現わしたものといえよう」
「この事件の直後、私は阿南さんに向かって」と林は語る。「課長や局長、次官、大臣など上司の知らぬ間に、大臣訓示を部外に出すような秩序を紊す者に対しては、断乎としてその責任を問うべきでしょうと意見を述べたが、大臣は『あの訓示は自分の意図にそうものである』と答えて、軍律を引きしめる措置をとろうとはなさらなかった」
十日朝、陸軍省の中堅将校を集めて「越軌、無統制な行動」をきびしく戒めた阿南が、なぜ彼らを許したのであろうか。
この時だけでなく、終戦の日までに阿南は何度か部下の取締りを怠っている。軍規について厳しかった彼とは別人の観がある。これは腹芸説≠フ立場からは――ひたすら静粛な終戦を念じ、その実現のためには手段を選ばなかった、と解釈される。同時に気迷い説≠ゥらは――阿南自身のハラが決らないため、部下を叱責《しつせき》する自信を失なっていた、となる。
「阿南は、部下の暴走を防ぐためにはいかなることもせねばならぬと考えていたのだ」と沢田茂は語る。「当時、若手将校の多くが非常に興奮していた。徹底抗戦こそが君国に尽す道と信じた者もあり、本土決戦で命を捨てて戦い、敵に一撃を与えて国体護持の保証をとりつけた上での終戦でなければという者も多かった。外地では玉砕だ、特攻だという戦いを続けてきたのに、内地だけがこのまま降伏しては、必勝を信じて戦死した人々に相すまぬという気持も強かった。とにかく、冷静な思考力、判断力を失なっている者がたくさんいたのだ。その乱れた頭で『やらねばならぬ』と判断し実行したことを、いきなり罰したら何が起るかわからぬ状態だった。阿南は興奮している連中を刺激しないように努め、また自分から離れて暴走することのないよう、自分の統制下におかねばならぬと苦心していたのだ」
阿南の敢闘継続の訓示≠ヘ電波に乗って、遠いセレベス島のシンカンにいる原秀男法務大尉の耳にも届いた。第二方面軍はこの年六月に解消していたが、彼らはひきつづきここにいた。短波放送で、日本がポツダム宣言受諾の交渉を進めていることを知っていた原は、それとは正反対の草を喰み土を齧り≠ニいう陸相訓示を聞いて、≪日本国内は荒れているな≫と思った。阿南の温かい微笑がしきりに思い出された。
原はシンカンで終戦を迎えることになる。中野学校出身の将校が中心となり、最後まで闘おうと一時は緊迫した空気に包まれたが、やがて彼らはここで武装解除を受けた。その時、かつての阿南の愛馬も競売された。
これらの馬はチチハルから連れてきたもので、メナドからの移転の時は馬を乗せる舟の余裕もなく、ジャングルを伐《き》りひらきながら二ヵ月がかりでシンカンまで歩かせたという。
「阿南大将がかわいがっておられた二頭の馬が、痩《や》せこけた、はだしのインドネシア人に手綱を引かれて、心なしか、悲しそうに連れ去られる姿を見たとき、≪ああ、戦争に負けたのだ≫という実感が胸に迫りました」と原は語った。
十日朝、ポツダム宣言受諾という阿南の報告で陸軍省高級部員一同は茫然としたが、その状態から二つの流れが生まれた。冷静に戦局の悪化を考えて天皇の意志のままに降伏の道を辿《たど》ろうとする者と、命をかけてそれに逆らおうとする者とであった。これらの流れは整然と二つに分かれていたわけではなく、時に交叉《こうさ》し、時に合流して、無秩序に揺れていた。
八月十一日の竹下日誌には、「省部内騒然トシテ、何等カノ方途ニ依リ和平ヲ破摧セントスル空気アリ。之ガタメ或《あるい》ハテロニ依リ平沼、近衛、岡田、鈴木、迫水、米内、東郷等ヲ葬ラントスル者アリ、マタ陸軍大臣ノ治安維持ノタメノ兵力使用権ヲ利用シ、実質的クーデターヲ断行セントスル案アリ。諸士横議|漸《やうや》ク盛ナリ」と、沢田茂の「何が起るかわからぬ状態」という言葉を裏づける記述がある。
新聞に発表された陸相布告について、阿南は天皇から叱責された。このとき阿南は「軍はあれでよいのです」と述べ、天皇もそれで納得したという。
阿南の「軍はあれでよい」という言葉はどういう意味であったのか。また天皇はそれをどう了解し、納得したのか。いま、それを説明する資料はない。だが当時は現人神《あらひとがみ》≠ナあった天皇と、かつて侍従武官であった阿南との心のふれ合いをうかがわせる話である。
外地にある陸海軍高級司令部は、八月十日夜の海外向放送を聴いた。南方軍はすぐ大本営あてに「十一日零時東京英語放送により、日本政府のポツダム最終|通牒《つうちよう》受諾の用意ある旨聴取せるが、その真相至急承りたし」と打電してきた。
八月十一日
外電が日本の全面的降伏申し入れを放送し始め、外地各軍の首脳部に深刻な不安を与えた。支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、日本のポツダム宣言受諾などあり得ないこととして、まっこうから否定する態度をとった。彼はただちに隷下各軍に「外電、日本のポツダム宣言受諾を伝えつつあるも、右は敵側の謀略宣伝なるをもって、之に乗ぜられざる如く厳に注意ありたし」と警告を発した。
十一日、梅津参謀総長は大本営直轄の各軍にあてて、「和平交渉が開始されたことは事実だが、国体の護持と皇土の保衛との為《ため》には全軍玉砕するとも断じて矛《ほこ》を収むることなき」ことを打電し、さらに陸軍大臣、参謀総長の連名で、二項目から成る陸機密電第六十一号を発した。その第二項には「右条件(国体の護持)の確約が多少にても疑義あるに於ては、帝国は断乎戦争目的の達成に邁進《まいしん》すべきこと勿論《もちろん》なり。念のため」とある。
実情を知った寺内南方軍総司令官と岡村支那派遣軍総司令官は、大臣と総長にあてて戦争継続の強硬意見を具申してきた。寺内の電文の初めには、「皇国真に非常の秋《とき》、敢て意見を具申す 惟《おも》うに今日の如き情勢は開戦当初より覚悟しある所、今にして聖戦完遂の意志|挫折《ざせつ》し、敵の提示せる条件に甘んじて之に服せんか、戦力なき後の国体の護持皇土の保衛誰か之を保証せん」とある。寺内の許《もと》には、隷下の各方面軍司令官から同じ趣旨の強硬意見がよせられていた。
現地軍首脳たちはまず第一に、「ポツダム宣言受諾と、国体護持は両立し得ない」と考えた。また連合国側が日本軍隊の無条件降伏を要求していることを知った彼らは、「敵軍の捕虜になる」という考えも及ばない現実に直面した。捕虜の屈辱を思う前に、捕虜になることの想像すら禁じられてきた軍人たちである。
岡村寧次の中央あて電報――
「数百万の陸軍兵力が決戦を交えずして降伏するが如き恥辱は、世界戦史にその類を見ず、派遣軍は満八年連戦連勝、未だ一分隊の玉砕に当りても完全に兵器を破壊し之を敵手に委《まか》せざりしに、百万の精鋭健在のまま敗残の重慶軍に無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対に承服し得ざる所なり」
陸相である阿南は、ポツダム宣言受諾の場合、こういう外地軍を押えて一糸紊れぬ統制下に終戦に導く責務を負っていた。
十一日、土曜日の夕方、阿南は三鷹の自宅へ電話をかけた。
「これから家に帰る。疲れているから、ゆっくり休みたい」
家族との訣別《けつべつ》と、心を決しての電話であったろう。
妻綾子はすぐ風呂をたてさせ、乏しい配給の材料をくふうして精いっぱいの夕食の仕度にかかった。子供たちはみな、はしゃいでいた。「お父さまと一緒にごはん」と、四歳になる末っ子の惟茂《これしげ》は歌うような大声をあげながら廊下を走りまわった。
帰宅した阿南は、下の子供たちと一緒に風呂にはいった。湯上りの血色のいい顔一面に微笑を浮かべた阿南が、庭に面した日本間で家族と共に食卓につこうとしたとき、玄関のベルが鳴った。元外相松岡|洋右《ようすけ》の来訪であった。
阿南は総合計画局参事官橋中一郎を介して、伊豆長岡に疎開していた松岡に「おいで願いたい」と伝えてあった。玄関に近い応接間で阿南は、「外交によって事態を収拾する余地がありましょうか」とたずねた。松岡は、軍の意想外兵器(殺人光線)がまだ開発できない実情を聞きただした上で、「もはや万策尽きました」と答えた。
「松岡さんとのお話が余り長びくので……」と善信尼(綾子)はその夜を語る。「とうとう子供たちだけ先に食事をさせました。松岡さんはひどく健康を害しておられたご様子で、お帰りになるとき、主人が抱きかかえるようにして車までお連れしたのを覚えております」(のち松岡はA級戦犯となり、昭和二十一年に病没するが、このときすでに彼の肺結核は悪化していた。)
松岡が帰ったあと、陸軍省軍務局の畑中孝二少佐と井田正孝(現、岩田姓)中佐がたずねてきた。二人とも阿南にかわいがられている将校で、訪問の目的は戦争継続を懇願するためであった。彼らも、この数日の阿南の多忙を、殊に九日以後はほとんど睡眠の時間さえなかったことを知っていた。だが≪あくまで継戦≫と興奮しきっている彼らには、阿南の疲労を思いやる余裕はなかった。
阿南は機嫌よく二人を迎え、夜のふけるまで彼らの話を聞いた。やがて二人が帰ろうとしたとき、空襲警報のサイレンが鳴った。綾子は泊ってゆくようにすすめたが、彼らは遠慮して門前に停めてあった車の中で寝た。
この夜、阿南家には護衛のため六人の巡査がいた。これを知った畑中は≪継戦を主張する陸相を、和平派が保護監禁するのではないか≫と疑い、憲兵二十人を引率してきて、強引に巡査と交代させた。畑中の頭の中で和平派は国賊≠ナあり朝敵≠ナあった。
ようやく阿南が寝室にはいった時は、すでに十一日は終っていた。彼がどれほどか望んでいたであろう家族との団らんの時も、休息の時も、遂に得られないままの最後の帰宅であった。
八月十二日
十二日朝は、九時に来るはずだった迎えの車が、五時に来た。日本の申し入れに対するアメリカ側回答が、夜半から放送され始めたという緊急事態のためであった。
「虫の知らせとでもいうのでしょうか……」と善信尼は語る。「いつもは玄関で見送るのですが、この朝は子供たちも起して、みなで門の外まで出て主人を見送りました」
阿南はいつもの通りのなごやかな微笑で、子供たち一人一人の顔を見て軽くうなずいた。
八月十二日午前一時近く、外務省、同盟通信、陸海軍の海外放送受信所はほぼ同時刻に米国回答の放送を傍受した。日本側が問題にしたのは、次の二項である。
(一)降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為|其《そ》の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の|制限の下に置かるものとす《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
(二)|最終的の日本国の政府の形態《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》はポツダム宣言に遵《したが》ひ日本国国民の自由に表明する意志により決定せらるべきものとす
これは外務省苦心の訳文で、軍部への刺激を最小限に止《とど》めようとする意図であった。だが陸海軍も直接放送を傍受し、それぞれ訳文を作ったので、外務省の苦心はあまり意味をなさなかった。
(一)の傍点の部分の原文は Subject to で、外務省の「制限の下に置かる」に対し、軍側は「従属する」または「隷属する」と訳した。また(二)の傍点部分は Ultimate form of government of Japan で、外務省は「最終的の日本国の政府の形態」と訳し、軍側は「日本国の最終的政治形態または統治組織」とした。
外務省はあわただしく回答の検討にかかった。最初は誰もが不満足な暗い表情であった。日本からは「共同宣言に挙げられたる条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの諒解の下に、これを受諾する」と申し入れたのだが、回答はこれに対する明確な意思表示を避けている。こちらの解釈や推測に委せた点が多く、諾否を決める根拠がぼやけていて、不安を誘った。
松本俊一外務次官は午前三時ごろ、迫水から「同盟通信社の安達鶴太郎が、傍受したばかりの回答を英文のまま持って、ここに来ている」という連絡を受けて、総理官邸へ急行した。松本は次のように書いている――
「迫水君と安達君はすでに回答文を読んでいたが、すこぶる落胆したような面持ちであった。私もだまって読んだ。第一項と第四項とがヒシヒシと神経に響く。これはいかんと思いながら、また読み返した」
何回も読み返し検討を重ねて、松本は「とにかく、敵も天皇の存続はいちおう認めて、この回答を送ったもので、多少かえりみて他をいうことによって、日本の通告を黙認したものと受けとれる」と考えるに至った。そこで彼は迫水に、「これで大丈夫だ。これをうのみにする以外に手はない。私は外務大臣をくどくから、君は総理をくどいてくれ」といって、東郷の私邸へ向かった。
迫水はこのときの心境を、次のように書いている――
「われわれ三人は英文の回答文をしさいに検討しながら、意見を交換した。回答文は正面きってこちらの了解を受け入れるような表現ではないが、といって、決して否定しているわけでもない。否定していない以上、こちらの了解は成立するものと解釈してよいわけだが、なんとしても割り切れない感じが残った。ことに第一項のサブジェクト・ツー≠ニいう文字が気にかかった」
こういう気持を抱いて迫水は鈴木の許に行き、ありのままを報告した。
「総理は胸中深く決するところがあったのか、ことば短かにこういった。――ともかく、戦争は終らせなければいけません」
鈴木総理のこの言葉はすぐ迫水から松本に伝えられた。
東郷外相は、この回答に対し軍部が必ず再照会を求めるであろうことを予測して、容易に態度を決めなかった。松本は東郷に向かって「この際ぜひとも戦争を終らせねばなりません。この上の交渉は決裂という結果を招くでしょう。回答は不満足ながら、大丈夫と認められます」と強く意見を述べた。十二日午前八時ごろ、東郷は松本の主張を入れて、回答をそのまま受諾する肚《はら》を決めた。
天皇制問題に対するアメリカの真意は、どうであったのか――。
戦後にわかったことだが、この時点ではまだ結論が出ていなかった。八月十日の日本からの申し入れについて、トルーマン大統領はバーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、リー元帥と協議したが、スティムソンとリーは「日本の申し入れを承認すべきだ」と述べた。しかしバーンズは、日本側が持ち出した条件を受諾する形はとりたくないという理由から、「回答の形式は連合国側から新たな条件を出した形にすべきである」と主張し、その場でペンをとって起草したのがこの回答であった。トルーマンがこれに賛成し、英支ソ三国の同意を得て日本に通達されたものであった。
東京では陸海軍両統帥部が回答の検討を始めたが、論議を重ねるまでもなく、即座に受諾反対の態度を決定した。梅津参謀総長と豊田軍令部総長は午前八時二十分、揃《そろ》って参内し、「天皇を連合軍最高司令官の意志に従属せしめんとする条件は、日本を属国化することにほかなりません」として「断じて受諾できない」旨を上奏した。
天皇は冷静に「敵側の正式な返信でもない放送を、あわてて論議すべきでない」と二人を戒めた。
陸軍は、十日夜の海外向放送を傍受した外地軍が強い反応を示したことを考慮して、今回はいち早く中央の態度を明らかにする電報を発した。大臣、総長連名の大本営直轄軍司令官あての電文は、「大東亜戦争終戦に関する帝国政府の敵側に対する申し入れに対し、本十二日早朝米国よりの放送に接したるも、陸軍としては右放送は国体護持の真意に反しあるに依り断乎|一蹴《いつしゆう》し、一意継戦あるのみとの態度を堅持して国策推進中なるに付、各軍また断乎作戦任務に邁進せられ度」と、継戦意志を明示した。これは、その後の阿南の公的発言に大きな影響を持つことになる。
竹下正彦中佐が連合国側回答の放送を知ったのは午前三時、中堅将校の宿舎に当てられていたお茶ノ水の渋井《しぶい》別館で、ここに馳《は》せつけてきた次官秘書官広瀬栄一中佐の報告によるものであった。竹下はじめ三人の将校が、広瀬の車でただちに陸軍省へ向かった。竹下の『機密作戦日誌』には次のように書かれている――
「軍事課長荒尾大佐ノ下ニハ課員皆在リ、極度ノ緊張ヲ呈シアリ。
九日ノ後手ニ鑑《かんが》ミ訳文不十分ニ拘《かかは》ラズ、局長ハ直チニ外務次官ノ許ニ、軍事課長ハ書記官長ノ許ニ、次官ハ侍従武官長ノ許ニ至リ、各々《おのおの》本回答ニテハ受諾シ難キ陸軍ノ意思ヲ通ジ、情勢|馴致《じゆんち》ニ努ムル所アリ」
若手将校たちは、こうした上司の動きをただ静観しているには余りに血の気が多かった。≪ご聖断≠ヘ純粋に天皇の意志であろうか。側近の影響ではないか≫という気持の彼らは、一刻も早く積極的な手段に訴えなければ、和平派によって国体護持の確約もないままに降伏が決定してしまうと心をはやらせて、計画を練った。
午後、中堅将校を代表して竹下は若松次官に彼らの案を説明した。「陸軍大臣の治安維持のための兵力使用権を利用し、東部軍と近衛《このえ》師団を動かして一挙に側近の要人を保護禁足し、大臣の上奏によって天皇に継戦の決意をしていただこう」という内容であった。このクーデター計画に若松は同意は示さなかったが、竹下のメモを阿南に渡そうといった。
次官室を出た竹下は、彼を待ち構えていた少壮将校十数人に囲まれた。彼らは直接阿南に意見を述べるべきだと主張して全員が大臣室にはいり、竹下が改めてクーデター案を説明した。このとき畑中が「軍内部にバドリオ通謀者がいる。このような者には即刻人事的処理を加えられたい」と、佐藤裕雄戦備課長に視線を据えて、烈しい口調でいった。佐藤はすでに次官室で、竹下の案に反対意見を述べていた。緊張した空気をやわらげるように、阿南が静かに「今のような時は、お互いが信頼し合ってゆくことが一番大切である」と畑中をたしなめた。
当時、若手将校たちは、イタリアのファッショ政権を倒し、連合国に降伏したバドリオ首相(元帥)の名を非国民∞裏切り者≠ネどの意味で使い、継戦に少しでも反対する者があれば「バドリオ斬るべし」の声で応じた。この実情を『大本営陸軍部10』は「課長以上の言動を非常に慎重にし、軍務局少壮課員の専行の様相を呈した」と書いている。
当時の陸軍部内の空気について、松谷誠は「断末魔になっても軍の抗戦意識は、平時の心理状態では想像もつかぬほど絶大なものであった」と書いている。
しかし、誰もが抗戦意識一色ではなかった。大本営参謀高山|信武《しのぶ》(大佐)は「大本営中堅幕僚の間では継戦思想が圧倒的多数を占めたが、一部には慎重論者、和平受諾論者もないではなかった」と述べ、その代表的意見の一つとして次のように書いている。
「これ以上戦争を続行することは、いたずらに禍害を累加するのみだ。……戦没したわが陸海軍の将兵に対しては、まことに同情に堪えない。しかし戦死者の霊も、おそらく妻子親族の住む日本本土をこれ以上破壊されることを望まないであろう。今こそ冷静に和平を考えるべきだ。それこそ大本営の最高の責務ではないか」
佐藤戦備課長が多数の継戦論者の前で述べたのは、この意見であった。卑怯者《ひきようもの》とのそしりを受けるだけでなく、命がけの行為であった。それをあえて行なった佐藤は、敬虔《けいけん》なクリスチャンであったという。
大臣室の竹下はさらに、外出のためすでに帯刀している阿南に向かって、「東部軍と近衛師団の参謀長を呼び、和平発表に伴う国内|騒擾《そうじよう》に備えるためといって、本計画の準備を命じていただきたい」と述べた。阿南は承諾し、次官にこれを命じた。
最後に、竹下のすすめで、広瀬中佐は一同を代表して阿南にいった。
「省部内将校は、右するも左するも一に大臣を中心として、一糸|紊《みだ》れず行動する決意ですから、その点は重々ご安心下さい」
当時を回顧して、竹下は「少壮幕僚の気持は、『起たば阿南大臣を首領として全軍一致。しからずんば個々の散発を避けて唯大命の儘《まま》に』というものでした」と語る。さらに「クーデターをやるにしても阿南なしでは成りたたず、またやった場合、陛下に軍の意志を伝える者も阿南以外には求め得ないのですから、計画案も大臣一人を頼りにして練ったものでした」
彼らは和平論を打破するには、東郷外相、米内海相をはじめ和平派の人々をある期間、戦争指導面から隔離する必要があると考えた。そのためには戒厳令が早道だが、これの公布には枢密院の同意がいる。だが枢密院は重臣や宮廷派と密接なので、その同意を得るのは至難であろうから、残された道はテロか、クーデターしかないという結論であった。そしてクーデターを選んだ。
彼らの構想は、二・二六事件のように軍の一部が秘《ひそ》かに計画して実行するものではなく、初めから計画を大臣、次官などに示して陸軍大臣を先頭に全軍一致≠ニいう大規模なものであった。その構想の中には、外地軍までが含まれていた。これは、陸軍の総意によって日本の運命を左右しようというにほかならない。
問題はまず阿南が決意するか否かであり、次に、たとえ陸相が決意しても、ポツダム宣言受諾と聖断が下っているとき、果して全軍が大臣につくかどうか、であった。彼らは、陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の同意があって初めて決行する、と決めた。
国体護持のため継戦≠ニいう目標は、軍上層部の主張と一致するものではあったが、クーデターによってそれを貫こうとする案に、これら四者が揃って同意する可能性があると、彼らは思ったのであろうか。これについて竹下はいう。
「非常にむずかしいとは知っていました。しかし国の進路を左右する大事ですから、そこまでの前提がなければ……つまり全軍一致でなければ、と考えたのです」
竹下はじめ十数人の将校が大臣室にはいったときその場にいた陸相秘書官林三郎は、次のように語った。
「朝の十時ごろだったでしょう、十数人の中佐、少佐らが大臣室に来て、竹下中佐が一同を代表して大臣に『宣言受諾を阻止すべきだ』といいました。みな非常に興奮している様子でした。さらに竹下中佐が『もし阻止できなければ、大臣は切腹すべきである』と激しくつめよったので、座は一瞬しいんとなりましたが、すぐ若松次官が中佐の言葉を強く押えました。
阿南さんは別に意見を述べようとはせず、間もなく外出されました。私も一緒に車に乗りましたが、いつもならすぐ話し出す阿南さんがこの時は沈痛な面持ちで、車が麹町《こうじまち》三丁目あたりにさしかかったころ、ようやく低い声で『竹下はひどいことをいう奴だ。腹を切れとまでいわなくても、よさそうなものに……。だが自分のような年輩になると、腹を切るのは左程むずかしいことではない』といわれました。竹下中佐の言葉は、よほど強くこたえたようでした」
林の見た阿南の沈痛な面持ち≠ヘ、子供の時からかわいがってきた義弟竹下の言葉が胸にこたえたためであったのか。それとも、血気にはやる部下たちを無分別な行動に走らせてはならぬ、慎重に導いてゆかねばという心痛のためであったのか――。阿南は何も語らず、何も書き残していない。
この日、陸軍省高級副官美山要蔵大佐は、阿南から「南大将の戦争についてのご意見を聞いてきてくれ」と命じられた。阿南にとって同じ大分県出身の大先輩である南次郎は昭和六年の陸相で、このとき大日本政治会総裁であった。
「国体護持は主張せねばならぬが、とにかく戦争はすぐやめろ――と阿南さんに伝えてくれ」と南はきっぱりと美山にいった。「軍部はあたかも単独で国家を背負っているような態度だが、国民の信を失っている。特に竹槍戦法は非難の的だ」
美山は、「私が南大将のご意見を報告したとき、阿南大将は黙ってうなずかれただけでした」と語った。
東郷外相は鈴木総理と話し合った後、午前十一時参内し、天皇に連合国からの回答とこれに対する措置とを上奏した。天皇は「先方の回答のままでよいと思うから、これを応諾するようにせよ。なお、それを総理に伝えよ」と命じた。東郷は十二時半、これを鈴木に伝えた。
阿南は午前十一時半ごろ鈴木総理を訪れ、「回答受諾反対」を申し入れた。十二時五十分には平沼枢相も総理を訪れ、「神《かん》ながらの天皇の地位を、国民の意志によって決めるなどとはとんでもない。これは国体の変革である」と述べて「受諾不能」を主張し、再照会を要請した。
これについて迫水は、「平沼枢密院議長が再照会論者であることを知った軍の連中は、大挙して平沼邸へ押しかけ、入れかわり、立ちかわり、もっとがんばってほしいとあと押しした。平沼邸は、あたかも抗戦派の本部のような観を呈した」と書いている。
海軍省では午前十一時半ごろ、米内海相が「自分に相談なく反対上奏したこと」について、豊田軍令部総長と大西軍令部次長を詰問していた。米内は「回答受諾」とハラを決めていた。
十二日の閣議は午後三時から開かれた。東郷外相は先方の回答を説明した後、全体として満足なものとはいえないが、戦争遂行が不可能である以上、この辺で交渉をまとめる必要があると述べた。
これに対して阿南陸相は、これでは国体護持の問題が不安であるから再照会すべきであると述べ、武装解除と保障占領についてもつけ加えるべきだと主張した。安倍内相、松阪法相も再照会論を述べた。
閣議が長びくにつれ鈴木総理も、このような回答では国体護持に不安があるから再照会してみよう、その結果が戦争継続ならそれもやむを得ないという意見に傾いてきた。この総理の発言は、東郷外相を苦境に陥れた。東郷は形勢不利とみて、正式の回答が来てから改めて論議しようと提案し、午後五時半閣議は散会した。
「国体護持」という言葉が、これほど多くの人々の口にのぼった時期は他《ほか》になかったであろう。閣議で、最高戦争指導会議で、将校の集合で、何十回何百回と繰返されたこの言葉の意味は「天皇制の継続」である。「国体護持」という言葉の魔力に分別を失なった一部将校は、神聖にして侵すべからざる天皇≠フ座を守るためには、いかなる手段も――と決意するに至る。
閣議開催とほぼ同じころ、宮中では皇族会議が開かれていた。
竹下日誌には「陛下ヨリ、レイテ以来ノ戦績ニ基ク軍不信ノ御言葉ノ後、和平ノ御決意ニ変リナキ由述ベラレ、タノムタノムト宣《のら》セラレシ由ニ承ル」とある。
阿南は夜八時ごろ、焼跡の防空壕《ぼうくうごう》に住む三笠宮をたずね、天皇の翻意を願った。
この時も、帰りの車の中の阿南は黙りがちであった、と林秘書官は語る。官邸に着く少し前になってようやく「三笠宮から陸軍は満州事変以来、大御心《おおみこころ》に副《そ》わない行動ばかりしてきたとお叱りを受けた。そんなひどいことをおっしゃらなくてもよいのに……」と低い声でいった。
中堅将校を含む陸軍部内は阿南の行動を仔細《しさい》に追って、陸相の継戦にかける熱意の度合を忖度《そんたく》していた。阿南の本心がどこにあったかは別として、三笠宮訪問もクーデターを計画する将校たちに十分満足を与えるものであった。竹下は「阿南は少壮将校の気持をよく理解し、それを受け入れ得る人で、必要によっては身を挺《てい》して非常の決心をする勇気も具《そな》えている――と、みなが満足し信頼していた」と語っている。
十二日午後九時半ごろ、木戸内府は宮中で鈴木総理と話し合った。木戸は天皇の和平に対するかたい意志を告げ、連合国回答の受諾断行を鈴木にすすめた。鈴木はこれに同意した。
この日、竹下は昭和八年ごろから師事していた東京帝国大学国史学科教授|平泉澄《ひらいずみきよし》(文学博士)を、陸軍大臣の名で陸軍省に招いた。
満州事変以後、国政に干与する軍部を批判する学界人の多い中で、平泉は積極的にこれを肯定した。駒込にあった平泉の青々塾には、帝大の学生のほか陸海軍の青年将校多数が集って彼の講義を聞いた。宮城事件の畑中、椎崎、井田と、直接行動には参加しなかったが計画の中心人物であった竹下の四人は、いずれも平泉門下である。
平泉は天皇絶対主義者で、青年たちに向かって常に国体と伝統的日本精神とを讃美《さんび》した。山崎|闇斎《あんさい》に始まる崎門《きもん》学の系列に属した平泉は、門下生に「闇斎先生は講義をしながら、時に脇差しの鯉口を切って『学で得た真理は、身を賭《と》して実行せねばならぬ』と、行学一致を厳しく諭された」と語りかけていた。
平泉と陸軍との公的な結びつきは昭和九年ごろ、陸軍士官学校の幹事であった東条英機から、同校の国史教程の編纂《へんさん》を依頼されたことに始まる。平泉は士官学校で講演するだけでなく、やがて陸軍大学校からも課外講師として迎えられ、彼の皇国史観は軍の中枢幹部の間にも浸透していった。
昭和十一年の二・二六事件のとき、弘前《ひろさき》第八師団歩兵第三十一連隊の大隊長であった秩父宮は、事件|勃発《ぼつぱつ》の夜|急遽《きゆうきよ》上京した。平泉は宮の東京着を待たず、汽車中に訪れて事件状況と意見を述べるほどの実力者であった。
クーデター計画中の竹下らにも、まだ迷いがあった。いったん天皇が決断を下されたら、ひたすらそれに従う承詔必謹≠ェ軍人のとるべき道なのか。それでは国体護持がおぼつかないと判断したら、聖断への反逆も許されるのか――。彼らは、日ごろ「忠は唯一無二絶対の道徳」と説く平泉に向かって、これを問いたかったのだ。竹下は阿南と共に平泉の言葉を聞きたいと望んだが、多忙の阿南は竹下ら三人の門下生に、代りに会うよう命じた。
竹下は「いま我々の採るべき道をお示し下さい」と平泉に迫った。竹下は『軍事史学』第五巻第一号の「平泉史学と陸軍」の中に、「先生は黙して語らず、遂に一語をも発することなく帰ってゆかれた」と、書いている。
この時期の阿南に寸暇もないことはいうまでもないが、もし彼がぜひとも平泉の意見を聞きたいと望めば、深夜陸相官邸に来てもらうことも出来たはずである。しかし彼は平泉に会おうとはしていない。当時の阿南は師たるべき人物を求めず、梅津はじめ先輩とも腹を割っての話し合いはなく、少年のころから親しい同期生にも心境を語らず、ただ自分の思考とそこから生まれた判断だけに従って行動していたと想像される。
平泉の私塾へ陸軍省機密費からの援助が始まったのは阿南の次官時代であり、盆暮の贈物を欠かさなかったことなどから、阿南は平泉学説の支持者であったと伝えられているが、長男|惟敬《これひろ》は次のように書いている。惟敬と次男|惟晟《これあき》は、陸士在学中に竹下に誘われて青々塾に入門している。
「私が平泉先生の薫陶を受けてから、父と議論したことがありました。父は『平泉先生は道は法に超越す≠ニ説かれるが、私は反対である。法は不変なものではないが、世にそれが生きている間は、法が絶対である』と強い信念をこめて言いました。これは父が五・一五事件や二・二六事件に対してはっきり否定の態度をとり得た精神の基盤でした」
「道といえども法を越えてはならぬ」という信条を、阿南は昭和十三年ごろすでに部下に語っている。
「百九師団長のころの阿南閣下が、『忠臣蔵の大石|内蔵助《くらのすけ》は忠臣の鑑《かがみ》とたたえられているが、私は同意できない』と話されたことがあります」と、参謀であった山本新は語る。「大石は法を犯している点でほめられるべきではない、というご意見でした。そして『道は法を越えず』でなければならぬと諭されました。
こういうお話を聞いていますので、私は阿南閣下がたとえ一時でもクーデター計画に心を動かされたとは思いません。若手将校の暴走をくいとめるための腹芸だったと思います」
スイスの加瀬公使とスウェーデンの岡本公使からの連合国回答の正式電報が到着したのはほぼ同時刻、十二日午後六時半前後であった。外務省は形勢の不利を挽回《ばんかい》するため時を稼《かせ》ごうと、同夜中はこれを発表しなかった。
八月十三日
十三日午前二時十分、スウェーデンの岡本公使から外務省の立場を有利にする電報が届いた。米国が四国政府を代表して対日回答をした経緯についての新聞記事の報告電で、「回答文はソ連の反対を押し切った米国外交の勝利であり、実質的には日本側条件を是認したものである」と書かれていた。外務省はこの電報を鈴木総理と木戸内府に届けた。
午前四時少し前、陸相官邸の隣りに住んでいる秘書官林三郎大佐は、大臣護衛の憲兵に起された。庭の芝生にはすでに軍服姿の阿南が、暗い空に残る星を仰ぎ見るような姿で立っていた。
阿南は「陛下にご翻意いただく方法をいろいろ考えたが、結局、陛下のご信任のあつい畑元帥から陸軍の総意を上奏してもらう以外には、もう方法がない。東京には杉山元帥がおられるが、ご信任がない」と述べ、梅津参謀総長にこれを伝えて、もし総長に異存がなければ、すぐ広島へ迎えの飛行機を出すように、と林に命じた。畑俊六元帥は広島の第二総軍司令官であった。
ねまき姿で林の前に現われた梅津は用件を聞き終ると、いつもの荘重な口調でいった。
「私個人としては、ポツダム宣言をこのまま受け入れるのはよい案だと考えている。だが、参謀総長としては……。
今となって畑元帥においで願っても無駄と思うが、大臣が最後の努力をしてみようというのなら、私に異存はない」
午前七時三十分、阿南は畑元帥上京の件を上奏した。そのあと彼は木戸内府に会い、ポツダム宣言中の「最終的の日本国政府の形態決定」について不安を述べ、受諾反対を主張した。
帰りの車の中で、阿南は林に「木戸さんの決心はかたい。また軍に対する反感も強い。軍だけが深い防空壕にはいり、国民は裸にされていると、軍を非難した」と語った。
竹下の『機密作戦日誌』に書かれている天皇から阿南への国体護持の確証≠ニいう言葉は、この参内の時のものであろう。阿南が、陸軍としては国体護持について不安がある以上、このまま宣言を受諾していいとは考えられません、と上奏したのに対し、天皇は、「阿南、心配スルナ、朕《ちん》ニハ確証ガアル」と、かえって阿南を慰めるような言葉をかけたという。竹下はこれに続けて、「通常は陸軍大臣≠ニお呼びになるのだが、阿南≠ニ姓を呼ばれるのは侍従武官時代のお親しい気持の表現だそうだ」と書いている。
天皇はその後も何度か「国体護持には確証≠ェある」といったが、それはどのような情報に基づくものであったのか。戦後三十余年がすぎ、アメリカ側資料も次々に公表されたが、天皇の確証≠ニ結びつくものはなかった。謎《なぞ》というほかない。しかし「天一」主人矢吹勇雄の次のような証言もあり、天皇と宮中は政府や軍部に負けないほど豊富な情報を得ていたという想像もできる。
「後藤隆之助さん(近衛文麿のブレーン)のお宅の地下室に秘密の短波受信装置があり」と矢吹は語る。「外国の情報を傍受しているのを、私は知っていました。ある日、後藤さんのお宅で石渡宮内大臣に紹介されましたが、そのわけはあとでわかりました。後藤邸でとった情報を宮中へ届けるお使い役に、私が選ばれたのです。なにしろ天ぷら屋のおやじですから、自転車に天ぷらの材料を積んで行けばツーツーに通れました。宮中では、黒の制服を着た宮内官に情報をお渡ししました。私の記憶では、ポツダム宣言が出た直後からのことでした」
世間話めくが、宮中にはこういう情報網もあった。
外務省は昨夕入手していた連合国正式回答を「十三日午前七時四十分到着」として、関係各方面に発表した。内容は放送と同じであった。
朝八時すぎ、竹下は菅波《すがなみ》三郎と一緒に陸相官邸に行ったが、阿南は外出していた。菅波は二・二六事件関係者の一人で、竹下の親しい友人である。二人は阿南の帰りを待った。
やがて阿南は帰ってきたが、最高戦争指導会議の始まる時間が迫っていたため、竹下は車のそばに呼ばれて立ち話をした。
竹下は、阿南が前夜三笠宮から非難されたことを知っていたし、そのほか阿南の前に山積する困難も、不眠不休でそれと闘っている日常もよく知っていた。だが竹下を見つけて車の窓ごしに手まねきをする阿南の顔には、疲労の影もなく、いつもの通りの温かい微笑が浮かんでいた。竹下はこのとき、義兄の体力と強靭《きようじん》な精神力に深い感動を受けた、と語っている。
連合国正式回答を審議する最高戦争指導会議は午前九時から、総理官邸地下壕で開かれた。この日も陸相と両統帥部長は「受諾反対」を主張したが、その主な理由は、「日本国民の自由に表明した意志により、政府の形態を決めるというが、ソ連を含む連合国の占領下に於《おい》てのことで、国民の意志は強制と圧迫によって枉《ま》げられる可能性がある」というものであった。外相はこの想像を否定した。総理と海相はあまり発言しなかったが、外相支持は明らかであった。会議は午後三時、結論を得られないまま、ひとまず散会した。
この会議の途中、東郷外相は午後二時に参内し、正式回答の到着と十二日以来の審議のもようを上奏した。
天皇は「外相の主張の通りでよい。その旨を総理に伝えよ」と命じた。
この十三日を、抗戦派の中堅将校たちはどのように過していたか。「もはや非常手段に訴えるほかなし」と興奮しきっていた彼らの動きを、竹下は次のように書いている。
「我ラ少壮組ハ情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデター<柱v画ス。
竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス。
今ヤ吾人《ごじん》ハ御聖断ト国体護持ノ関係ニツキ、深刻ナル問題ニ逢着《ほうちやく》セリ」
最高戦争指導会議に続いて、閣議が開かれた。ここで鈴木総理は、改めて各閣僚に賛否の答を求めた。多くの閣僚は外相案に同意、安倍内相は再照会を主張したが結局総理に一任し、松阪法相も再照会支持ながら聖断に従うと述べた。陸相は依然として「反対」である。
すべての閣僚が意見を述べた後、鈴木はいつになく力強い声で次のようにいった。
「私はあの回答では受諾できないと思い背水の陣の決意をしましたが、再三再四読むうちに、あれは実質的には天皇の地位を変える意図のないものと感じるに至りましたので、異議をいうべきでないと考えます。原子爆弾の出来た今日、背水の陣もすでに手遅れです。それでは国体の護持はできません。全く絶望的ではないかもしれないが、しかしそれは余りにも危険です。国民をいたわる広大な思召《おぼしめし》を拝察しなければなりません。
忠誠を尽す臣下の側からみれば、戦いぬくことも考えられますが、自分たちの気持だけは満足できても、日本の国はどうなるか、まことに危険であります。こういう危険をもご承知の上で聖断を下されるからは、私たちはその下にご奉公する以外に道はないと信じます。
私は本日のもようを陛下にありのまま申し上げて、重ねてご聖断を仰ぐつもりです」
迫水書記官長は阿南腹芸説≠最も強く主張する一人だが、その最大の根拠はこの閣議中の彼の体験である。迫水は昭和三十四年十月、東京千鳥ヶ淵|霊苑《れいえん》で行なわれた「阿南陸相追悼会」で、次のように語っている――
「十三日午後の閣議におきましては、閣僚の大部分が終戦に賛成し、阿南陸軍大臣だけが終戦反対の立場をおとりになるので、なんとか阿南さんを説得しようというような空気になっておりました。その際、大臣は席を立たれて、閣議室の隣りの部屋に出てゆかれました。そのとき部屋の隅におりました私に≪一緒に≫という合図をなさいましたので、私も隣室へ出ました。
隣室には電話がございます。阿南大将は電話をとり上げて陸軍省をお呼び出しになり、……私は軍務局をお呼び出しになったと今も思っておりますが、とにかく相手が出てまいりました。そこで阿南さんは、こういわれたのです。
『閣議においては、諸君の意向が逐次閣僚のみなの人に了解されつつある。こういうような状況では、諸君の意図が閣議において了解される希望も充分あるから、諸君はしばらく待っておるように、自分が帰るまで静かにしておるように』というようなお言葉がございました。
そして私の方を振り向かれて、『ここに内閣書記官長もおるけれども、必要ならば書記官長から閣議のもようを説明させてもよい』というお言葉がございました。私はびっくりいたしたのであります」
二・二六事件の岡田啓介首相救出事件以来、修羅場には度胸のついた迫水だったが、この時は本当に驚いた。
「閣議の実際の状況が全然反対の方向に向かっている際に、どうしてそういう電話をかけられたか、私は大そうふしぎに思いましたが、これは阿南陸軍大臣の非常な腹芸ではないかと思いました。そこで、万一私が電話に出ることになったら、しかるべく口を合わせねばならぬと考えたのですが、幸いにして私が電話に出る番がなく、その時は終ったのであります」
このような体験を持つ迫水が阿南腹芸説≠主張するのは当然だが、しかしこの電話には多くの疑問が投げかけられている。その中には「果して電話をかけた先は陸軍省であったのか、迫水の聞き違いか、誤解ではないか」という声もある。終戦前、特に七月、八月の記録は細部にわたってかなり多く保存されている。しかしこの中には「閣議中の陸相からの電話を受けたのは私だ」という証言はない。それがいっそうこの電話への疑念を深め、「初めからそんな電話はなかったのだ。阿南大将は嘘をつくような人ではない」と全面的に否定する声さえある。
迫水が聞いた通りの電話を阿南がかけたとすれば、誰かそれを受けた人がなければならない。当時陸軍中央部にいた人々をたずね歩くうちに、ごく一部で「閣議中の陸相と電話で話したのは吉積軍務局長」と信じられていることがわかった。だがこの説も、参謀本部第二部長であった有末精三中将によって訂正された――
「阿南さんからの電話に出たのは軍事課長の荒尾大佐だ。荒尾がすぐそれを報告した相手が吉積さんなのだ。これは私が吉積さんから直接聞いたことだから、間違いない」
やはり、この電話は事実であった。電話で阿南の言葉を聞いたのが荒尾では、証言のないことも納得できる。荒尾興功大佐については後述するが、彼は昭和四十九年八月死去するまで、終戦時の陸軍内部事情や阿南の心境について、いっさい語らない人であった。
阿南の電話の言葉は明らかに偽りである。なぜ阿南は、迫水を偽りの証人に立ててまで、このような電話をかけたのか――。「抗戦派将校の暴発を押えるため」という以外に考えようはない。この電話は、阿南がいかに部下の暴発抑止に腐心していたかを語っている。
竹下は「阿南と我々との間には強い信頼関係があった。したがって阿南は腹芸などする必要はなかった」と語る。抗戦派の将校たちは十二日に「大臣を中心に一糸紊れず行動する」と誓い、「その点は重々ご安心下さい」と述べている。だが、もし阿南がこれを全面的に信じて安心していたら、このような電話はかけなかったであろう。
日ごろからかわいがっている部下たちの誓いの言葉を疑うような阿南ではない。しかし阿南はこの緊迫した状況下、軍人として未曾有《みぞう》の国難に直面した彼らがどれほどの興奮状態にあるかを知り、その思考力、判断力に信がおけなかったのであろう。現にこの一団の中には、陸軍最後の暴発となる宮城事件(八・一五事件)の畑中、椎崎、井田の三人も含まれていた。結果から見れば、彼らは誓いを破っている。
閣議の途中で阿南に隣室へ伴われた迫水は、またも総理秘書官に外へ呼び出された。廊下には朝日新聞記者の柴田敏夫が、ただならぬ気配で立っていた。柴田は一枚の紙きれを迫水に示した。
「大本営十三日午後四時発表。皇軍は新たに勅令を拝し、米英ソ支四ヵ国軍隊に対し、作戦を開始せり」
顔色を変えた迫水に、柴田は「この発表はすでに新聞社や放送局に配られ、ラジオでは午後四時に放送されるはず」と告げた。
迫水は紙きれを掴《つか》んで、閣議室の阿南の許《もと》へ走った。
阿南は「いや、全然知らない。大本営発表は参謀本部の所管だから、念のため聞いてみよ」といった。
迫水は七月末に内閣総合計画局長官になった池田純久中将を閣議室の外へ伴い、紙片を見せた。ことの重大さに驚いた池田は、すぐ梅津参謀総長に会うため参謀本部へ車を走らせた。日ごろは悠々とした態度の阿南も、この時は何度も「総長との連絡はついたか」と迫水に問いかけている。ようやく池田から、参謀総長もこの発表を知らないという連絡を受けた迫水は、これを贋物《にせもの》と判断した。そして池田から梅津に、至急取り消しの手配をするよう頼ませた。その措置が終ったのは、放送予定の四時の数分前であった。後にこの贋物は、大本営報道部の若い将校が勝手に作ったものとわかった。
迫水は「もしこの発表が誤って公にされていたら、軍を中心として大きな混乱が起り、終戦の工作があのように円滑に運んだかどうかわからない」と書いている。
「若い将校たちは何を思いつき、何をするかわからない」という恐れが、人々の胸の中でますます強くなった。軍内部でさえ、兵務課幸村健一郎中佐の回想によれば、「陸軍次官以下陸軍省課長以上も、表面は少壮組に同調するやの態度を示しながら、慎重な態度で静観していた」という状態であった。
夕方近く、ニューヨーク・タイムズとヘラルド・トリビューンの、日本の皇室に関する論説がラジオで伝えられた。「皇室は廃止されるべきだ」という内容を知った竹下たちは、「それ見たことか」と意気ごんでこれを複写し、閣議の席の阿南に届けた。竹下は「山田大佐が持参したが、迫水書記官長に握りつぶされて配布できなかったもよう」と書いている。
この夜九時から梅津参謀総長と豊田軍令部総長は首相官邸で東郷外相と会い、二時間にわたって再照会を主張した。だが東郷の同意は得られなかった。「会談中に大西軍令部次長が入室し……」と、東郷は書き残している。
大西は両総長に向かい、「米国の回答をどうこう言うのは事の末で、根本は陛下が軍を信頼されないことである。それで陛下に、こうすれば勝てるという案を上奏した上で、ご再考を願う必要がある」と述べた。さらに彼は「今後二千万人の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として使えば、決して負けることはない」とつけ加えた。特攻隊を発案し、その作戦が遂行されてゆく過程で、大西は正常の思考力を失なったのかもしれない。その彼がいま二千万人の無辜《むこ》の国民を殺そうと提案した。
「さすがに両総長もこれには一語も発しなかった」と東郷は書いている。
両総長から答の得られなかった大西は、東郷に向かって、「外務大臣はどう考えられますか」とたずねた。東郷は、「勝つことさえ確かなら、誰もポツダム宣言など受諾しようとは思わぬはずだ。ただ勝ち得るかどうかが問題だよ」と答えて、首相官邸を去った。
大西は首相官邸に来る前に高松宮邸に行き、米内海相や永野元帥の説得を頼んでいる。また各作戦部員も海軍の先輩たちに尽力を懇請するなど、この夜、抗戦派の動きは最も活溌だったが、効果はほとんどなかった。
阿南の豪北時代から航空総監時代まで専属副官を勤めた酒向《さこう》一二は、このとき航空総軍司令官河辺|正三《まさかず》大将の専属副官であった。
酒向は陸相となった阿南を見かけることがあると、胸いっぱいの懐かしさをこめて挙手の礼をする。阿南は無雑作に礼を返して行きすぎるが、三、四歩の所で必ずふり返り、酒向に微笑を向けたという。
「ニコッとして下さるそのお顔がなんとも独特で」と酒向は語る。「こちらの胸の底まで光が射しこんでくるような……、閣下のお人がらの温かさがじかに伝わってくるような、そんな笑顔でした」
十三日朝、河辺の車に同乗して陸相官邸に向かう酒向は≪また阿南閣下にニコッとしていただける≫という期待に心を弾ませていた。
陸相官邸の玄関で、酒向は河辺と阿南の話のすむのを待った。やがて河辺を見送りに玄関に現われた阿南を見て、酒向はハッと胸を突かれる思いであった。かつて見たこともない厳しい表情だった。阿南は酒向に視線も向けず奥へ消えた。こんなことは初めてだった。≪何か、大変なことが起っている≫と、酒向は直感した。
車に乗ってからも、酒向の不安は納まらなかった。河辺に問いかけたかったが、阿南と違い無口な河辺には副官と気さくに話す習慣はなかった。≪セレベスで、次々に負け戦《いくさ》の電報をご覧に入れていたころでも、あんなお顔をなさったことはない≫不吉な予感に、酒向は八月の炎暑の中で震えた。
河辺正三はこの日の日記に、次のように書いている。
「八月十三日 月曜 晴
午前八時過ギ官邸ニ陸軍大臣ヲ訪《おとな》フ。……大臣ニ対シ時局ニ関連スル航空総軍当面ノ戦況ヲ報告ノ後、附ケタリトシテ(実ハ之《これ》ガ訪問ノ主目的ナリシガ、大臣ノ心事ヲ察シテ話ノ内容モ実際ヨリヤヤ緩和スルコトニ努ム)前日三笠宮殿下ヨリ洩レ承リタル御言葉ノ大要ヲ通告スレバ……」
三笠宮のお言葉≠ニは、前日、三笠宮航空総軍参謀が河辺航空総軍司令官に向けた苦言のことである。それは河辺の十二日の日記に次のようにある。
「……カツテ見ザル極メテ深刻ナル御面持ニテ、和平問題ト陸軍首脳ノ動キトニツイテ深キ憂憤ヲ洩ラサレタルハ恐懼《きようく》至極ナリ。即《すなは》チ和平ノ議ハ五月以来ノコトニシテ陸軍両長官ハ事ノ経緯ヲ十分承知シナガラ、今ニ至リテ状況ノ愈々《いよいよ》非ナル現実ヲ省ミズ、何カト之ニ反向《ママ》スル加工ヲ敢《あへ》テセントスルモノト観テノ御不満ナリ」
河辺の十三日の日記に戻る。
「後者(三笠宮の苦言)ニツイテハ、昨夜殿下ニ謁シテソノ間ノ事情ヲ申上ゲ置キタリトノ説明アリテ予ハイササカ安堵《あんど》シ得タリ――何《いづ》レニセヨ本朝ノ大臣ノ顔色ニテ大体事態ノ推移ハ判定セラレタリ」
阿南は前夜――十二日夜、三笠宮に本土決戦を懇願し逆に不信の言葉をぶつけられ叱責《しつせき》されている。その事実をどこまで河辺に打ち明けたかは、河辺の日記からは不明だが、酒向が震えるほど衝撃を受けた阿南の表情の暗さは察しられる。三笠宮に本土決戦遂行を訴えた阿南の真意はわからないが、宮の陸軍に対する不信表明は、忠誠の阿南には泣くにも泣けぬ痛撃だったろう。
酒向一二は次のように語っている。
「阿南閣下が本心から本土決戦を望まれたとは、私には思えません。まして、クーデターなどと……。閣下は本当に純粋な忠誠心を陛下に捧《ささ》げておられました。名誉を守ることは軍人の至上の使命ですが、閣下にとって名誉と陛下への忠誠心は一つのものでした。
閣下は侍従武官として長くおそばにお仕えになったから、陛下へのお気持も他の将軍たちとはどこか違うのかもしれません。その閣下が、陛下のお心に反することを本心から望まれるはずがないのです。
専属副官というのは女房のようなもので、私も閣下のことなら作戦以外は何でも知っているつもりです。殊に豪北時代は同じ家に住み、おそばを離れたことがないのですから、ご性格などは隅々までわかります。大事なことは熟慮に熟慮を重ねられますが、いったん決断されると、万難を排して迷わず実行されるお方《かた》でした。終戦の際、万一にも陸軍が叛乱《はんらん》など起しては……と、最後まで身をけずるようなご苦心をされていた――私はこう信じております」
十三日午後から、米国放送は「日本が故意に回答を遅らせている」という非難を繰返した。米軍の艦載機は、降伏決定を迫るかのように威嚇攻撃を続けた。第三の原爆を東京へ落すかもしれないという放送も流れた。和平派要人はこうした敵側からの圧迫に加えて、十二日以来の軍内部の不穏な空気にも不安をつのらせていた。秘かに終戦工作を続けていた総理秘書官松谷誠大佐からも「陸軍部内に不穏な動きがあるから、即刻終戦に漕《こ》ぎつけるべきだ」という意見が出された。
東郷外相は十三日の閣議のあとの状況を次のように書いている。
「自分は、陸相は結局クーデター≠ノ賛成することなきを信じていたが、部下の動揺は激しいので、その圧迫を受け辞職その他の困難なる局面発生の懸念あり、早急に決定の必要を認めたので、右散会ののち総理に荏苒《じんぜん》時を移すの不可なることを述べたが、総理は参内して御聖断のことをお願いしましょうといった」
このとき東郷が最も恐れていたのは、阿南が辞表を出して鈴木内閣を倒し、終戦交渉を不可能に陥れることであった。
十二日、松山市が焼夷弾《しよういだん》攻撃を受け、九州には戦爆二百機が来襲した。十三日、昼すぎに小型機約九百機が関東地区飛行場を攻撃、この編隊は東北地方をも襲った。午後五時から、B29の誘導する小型機が静岡地区を攻撃、続いて東京にも千八百機が来襲した。伊豆下田は艦砲射撃を受けた。
迫水書記官長は≪政府の終戦への努力があと一歩で実ろうとしている今、国民がこれ以上、無用の犠牲を強いられることは何としても防がねばならない≫と思い、同盟通信社の長谷川才次外信部長に電話で、次のように頼んだ。
「連合国側は、日本からの回答が来ない状態が続くと、さらに新しい作戦行動に出るだろう。ついては、海外向放送で、日本政府の方針はポツダム宣言受諾と決っているのだが、手続きのうえでひまどって回答が遅れていると流してもらいたい」
長谷川は承諾し、すぐ実行した。ところが、放送が終ってから十五分もたたないうちに、アメリカは日本が流したものをそのまま打ち返してきた。これを傍受した陸軍省では、激昂《げつこう》した若い将校たちが軍刀の柄《つか》を握りしめて総理官邸へ向かった。
彼らは迫水をとり囲み、なぜあのような放送をやらせたか、誰が許可したのかと詰めよった。迫水は、知らぬ存ぜぬの一点ばりで、とぼけるほかに手はなかった。同じころ、同盟通信社でも、長谷川外信部長が陸軍の将校たちにつるし上げられていた。
竹下たちはこの夜、荒尾大佐と共に阿南にクーデター計画を説明し、彼の承認を得ようとしていた。阿南は自分の方から彼らを呼びよせた。
竹下日誌に「夜八時ゴロ閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ椎崎、畑中ト同行官邸ヲ訪ヒ、相次デ来リシ荒尾、稲葉、井田ト共ニ、タトヘ逆臣トナリテモ永遠ノ国体護持ノ為断乎《ためだんこ》明日午前之ヲ決行センコトヲ具申スル所アリ。大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、『西郷|南洲《なんしゆう》ノ心境ガヨク分ル』『自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル』等ノ言アリ、時々|瞑目《めいもく》之ヲ久シウセラル。十時半頃散会トシ、一時間熟考ノ上、夜十二時登庁、荒尾大佐ニ決心ヲ示シ、所要ノ指示ヲセラレ度旨述ベ、三々五々帰ヘル」と書いている。
その場にいた秘書官林三郎は「終戦ごろの阿南さん」の中に、次のように書いている。
「荒尾大佐は低い声で簡単に来意を説明し、一枚の紙を大臣の前に差し出した。その紙をじっと見てから、大臣はおもむろに『通信の計画はどうなっているか』と尋ねた。はっきりした返答はなかった。その後、簡単な一、二の問答があったが、彼はその場では諾否を明らかにせず『今夜の十二時に陸軍大臣室で荒尾大佐に返事をする』と言った。かくして会談は僅か十分足らずで終ってしまった」
荒尾が阿南に示したクーデター計画は、大要次のようなものであった。
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(一)日本の希望する条件を連合国側が容認するまで降伏せず、交渉を継続するよう御裁可を仰ぐを目的とする。
(二)使用兵力は近衛《このえ》第一師団および東部軍管区の諸部隊と予定し、陸軍大臣の行う警備上の応急局地出兵権を以《もつ》て発動する。
(三)東京都を戒厳令下におき、和平派要人を兵力を以て隔離し、陛下を擁して聖慮の変更を奏請する。
(四)陸軍大臣、参謀総長、東部軍管区司令官、近衛第一師団長の全員同意を前提とする。
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竹下は、短時間だが一人だけ官邸に残った。彼は阿南と二人きりになったとき、クーデターに対する賛否を率直にたずねた。阿南は「人が多かったので、あの場では言うを憚《はばか》ったが」と答えたという。竹下はこれを「暗ニ同意ナルヲ示サル」と受けとっている。だがこれは竹下の推察であって、その一時間後に阿南が荒尾に与えた答からも、このときの阿南がクーデターに同意であったとは考えにくい。激しい気性の義弟に刺激を与えまいとしたのであろうか。
竹下日誌には「皆帰ヘル時、今日頃ハ君等ニ手ガ廻リ逮捕セラルルヤモ知レザルヲ以テ用心シ給ヘトノ注意アリキ。他ヨリ入手セル情報ニ基クモノノ如シ」とある。
内閣総合計画局長官であった池田純久中将は、『日本の曲り角』に次のように書いている。
「……軍が一体となってクーデターを行なおうとするのである。彼らは、陸軍次官や大臣にその意見を述べた。陸軍次官若松中将は、万一の事があってはならぬとて、憲兵隊に対して『過激な将校は監禁すべき準備』を命じた。また次官は直接近衛師団長に電話し、『クーデターを警戒せよ。中央の命令だからと言っても、予の署名なき命令には従ってはならぬ』とて、軍隊の慎重な行動を要求した」
また林三郎は「そのころ、阿南陸相は万一の場合を慮《おもんぱか》り大城戸憲兵司令官を呼び、大事な命令は大臣または次官が直接に下す旨の注意を与え(原註《げんちゆう》・偽の大臣命令に注意せよとの意)、また森師団長をも呼んで宮城守衛に手落ちのないよう注意を与えた」と書いている。林は気迷い説≠フ主張者だが、この記述は阿南の心境を考える上に重要である。
竹下が帰った後、阿南は林に「横で聞いていて、どんな感じを持ったか」とたずねた。
林は率直に「おそらく彼らはクーデターに対し、大臣は内心賛成のようだという印象をうけて帰ったでしょう」と答え、さらに「国民の協力のない本土決戦は、成功の可能性がまずないでしょう」と縷々《るる》と述べた。阿南はただ黙って聞いていたという。
陸相官邸から陸軍省に戻った竹下たちは、さらにクーデター計画を練った。竹下は次の案を示し全員が賛成した。
「明朝ノコトハ天下ノ大事ニシテ、国軍一致|蹶起《けつき》ヲ必須トス。苟《いやしく》モ友軍相撃ニ陥ラザルコトニ就テハ特ニ戒ムルノ要アリ。依《よつ》テ明朝大臣、総長|先《まづ》ハ協議シ、意見ノ一致ヲ見タル上、七時ヨリ東部軍管区司令官、近衛師団長ヲ招致シ、其《そ》ノ意嚮《いこう》ヲタダシ、四者完全ナル意見ノ一致ヲ見タル上立ツベク、若《も》シ一人ニテモ不同意ナレバ潔ク決行ヲ中止スルコト。決行ノ時刻ハ十時トスルコト」
前日から彼らの間で近衛師団長が問題になっていた。森近衛師団長の意向をさぐってきた軍事課の島貫中佐が「彼は大命でなければ、たとえ大臣の命令でも立たないだろう」と述べたためである。それがここでまたとり上げられ、結局「大臣が呼んでも森師団長は来ないだろう。そうなったらこっちから師団へ行き師団長を斬って、水谷参謀長で事を行なおう」という結論に達した。「四者合意ガ決行ノ前提」という一項は、ここで簡単に切り捨てられている。
クーデターには「天皇を擁して」という大前提があった。そのためには、まず近衛師団を抱きこむ必要がある。畑中、椎崎が近衛師団参謀の古賀、石原に働きかけた理由もこれであった。
近衛師団創設は明治七年にさかのぼり、一月二十三日に日比谷練兵場で、明治天皇は近衛歩兵第一連隊、同第二連隊に軍旗を親授した。
衛士《えじ》と呼ばれた近衛兵の歴史は古く、千年近く昔に大中臣能宣《おおなかとみのよしのぶ》の
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みかき守 衛士の焚《た》く火の夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ
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の歌がある。
近衛兵は毎年全国の市町村から壮丁一、二名が推薦を受け、警察の厳重な身許調べを経て選抜されたので、本人、家族、郷党の誉れだった。宮城の守護を任務とする近衛師団は、文字通り、天皇に直属する軍隊であった。
八月十四日、朝
十三日夜から十四日未明にかけて小雨が降り続いていた。
約束通り零時に、阿南は大臣室で荒尾大佐に会った。阿南と同行した林秘書官は次のように書いている。
「返事は間接的な否定であった。簡明|直截《ちよくせつ》に『いけない』とは言わず、クーデターに訴えては国民の協力が得られないから、本土の作戦は至難になろうとの意味のことを言ったのである。荒尾大佐は改めてクーデターの断行を力説しようとは試みなかった。かくして約束の返事は、非常にあっさり終った」
大臣室で荒尾との会見を終えた阿南は、深夜の雨の中を官邸に帰る車の中で林に、「自分がクーデターに不同意なことを、荒尾は了解してくれただろうね」とたずねた。
「多分了解したでしょう」という答を得て、阿南は満足の様子であったという。林は「返事の仕方に、阿南さんは苦心したらしい」と書いている。林はまた、この数時間前に大臣官邸を立ち去るときの荒尾について、次のように書いている。
「(荒尾軍事課長は)課員の熱意はどうしようもない旨を私に述べ、自分の立場を弁明した」
荒尾は血気の青年将校たちが深く信頼する先輩であったが、クーデター主謀者の一人であった竹下はいう。
「我々の同志というより、むしろ我々の意見を大臣に伝えるパイプ役という期待をかけていた」
もし荒尾自身もクーデター決行を望んでいたのなら、大臣室で阿南の賛否の明確な答を追及したであろう。剛毅《ごうき》果敢と評された荒尾が、この夜阿南との会談で示した態度は、子供の使いのようだった。
沢田茂は荒尾についての有力な証言者である。昭和十年に始まる沢田のポーランド武官時代、荒尾はその下で武官補佐官を勤め、それ以来二人は親しかった。沢田は語る。
「実は、終戦後何年もたってから、私は荒尾にクーデター問題をたずねたことがある。日ごろは何でも率直に私に話してくれる男だが、この時ばかりは黙して語らず≠セった。私も強いて追及しなかったが、これで一層自分の推測に自信をつけた。話さないには、話さないだけのわけがあるのだ。
荒尾が私に答えなかったことは、阿南が部下の暴発を防ぐために腹芸をやったという、私の考え方を裏づける。阿南がクーデター計画に対し諾否をはっきりさせない時期があったのは、迷っていたからという説があるが、私はそうは思わない。阿南は、なんとしても軍の暴発を防がねばならぬと決心していた。いきり立つ若手将校をはじめから『いかん』とどなりつけたら、彼らは阿南を斬るか、『陸相語るに足らず』と離反するかして、勝手に突っ走ることにもなりかねない。それを避けるために阿南は時間をかけたと思う。
阿南は、広島幼年学校以来親しかった私にも本心を語らずに自決したが、どうも私の見るところ、阿南は荒尾にだけは本心を明かし、二人は心を合わせて若い連中の暴発を防いだようだ。表面、荒尾は継戦を主張していたが……。
阿南と荒尾の間に『口外しない』という約束があったのか、荒尾自身が『この秘密は墓の下まで抱いてゆかねばならぬ』と心に決めていたのか――おそらく後者だろう。阿南が死に臨んで後事を托《たく》したのは荒尾だからなあ」
迫水久常は、昭和五十年に行なわれた荒尾の一周忌の席で、故人に向かい次のように語りかけている。
「私は早くから陸軍に荒尾興功ありと聞いていました。……終戦のご聖断以後における陸軍の動向は、陛下のご心情を最もよく知る阿南陸軍大臣の強い掌握の下に推移しました。私はこの間《かん》、阿南大将と、陸軍の実力的な中心であったあなたとの間において、全く|あうん《ヽヽヽ》の呼吸が合っていたので、あのように陛下の大御心《おおみこころ》に添う陸軍の行動がとれたのだと確信しています。
私は今日の日本があるのは、阿南大将とあなたとの相互の信頼関係が、一つの大きな要素であったと思っています」
しかし十四日零時の阿南の荒尾に与えた答は、聞く人によって不明瞭な否定とも、意思表示なしともとれるものだった。十四日早朝梅津と会談するまでの阿南の、クーデターに対する態度はあいまいである。
「阿南さん自身が迷い続けていたと思います」と、林は語る。「ポツダム宣言が出て間もなく、阿南さんは『こんなものを受諾するくらいなら、私は腹を切る』と、若い将校たちにいわれたことがありました。陸相のこういう言葉は少壮組をあおることになるので、八月十四日夜半から未明にかけての宮城事件≠ヘ、この言葉から起ったとさえ思われます。
阿南さんがクーデター反対を明確に示して若い将校を指導していたら、宮城事件は防げたのではないでしょうか。陸軍の将校はだいたい付和雷同性が強いから、上がピタリと押えればそれで治まったでしょう。宮城事件に対しては、阿南さんにも一半の責任があると思います。
梅津参謀総長の寡黙と阿南さんの多弁、この二人の差が、あのころ際立って感じられました。梅津さんはポツダム宣言に対する国の方針が決定するまでは、ご自分の判断や感情など決して洩らしておられません。参謀本部の若い将校の中にも、はじめはクーデター計画にかかわった者がいましたが、梅津さんがしっかりしていたので、最後は動きませんでした」
十四日午前七時、夜半来の三度目の警戒警報が解除になったころ、阿南と梅津は前後して登庁し、阿南は荒尾を伴なって総長室にはいった。
ここで阿南は、竹下たちのクーデター案を梅津に示した。実行手段は、この日午前十時に予定された御前会議の寸前に隣室まで兵力を入れ、待従武官に天皇をお居間に案内させ、会議の出席者を監禁しようというものであった。
梅津はまず宮城内に兵を動かすことを非難し、全面的に不同意であると述べた。
阿南は前日の朝、林に「梅津さんはクーデターに絶対反対だそうだ」と語っている。林は「クーデターという言葉を、阿南さんから聞いたのはこの時が最初である」と書いている。
阿南がもし本当にクーデターを考えていたとしたら、秘書官とはいえ肌合いも違い、陸軍きっての理性派であり、いわゆる腹心とはほど遠い林に、この言葉を漏すだろうか。
若い時から梅津の性格をよく知っている阿南には、彼の答は初めからわかっていたとしか考えられない。ここで注目されるのは、梅津と阿南とが、クーデター計画者に対する処罰について全く触れていないことである。まだ実行に移されていないとはいえ、謀議の事実は明らかである。梅津も阿南も部下への訓示では「厳正なる軍規」を求めているが、実際にはクーデター謀議者を逮捕する考えを全く持っていなかったのだ。終戦直前の陸軍部内の空気を示す一例といえよう。
安井藤治国務相は、昭和三十四年八月十四日に催された「阿南陸相を偲《しの》ぶ会」で、次のように語っている。
「……陸軍大臣は十四日の午前七時、参謀総長を訪うております。この二巨頭会談では、もちろん梅津参謀総長は兵力使用に頭から反対し、それで陸相も、それならば勿論《もちろん》その方がいいんだからといって同意しておる。どうも両巨頭は以心伝心か、その以前に意思が疎通しておったんじゃないかと思います。
もっとも、非常な曲事ですから、正当な頭を持っているなら誰でもはねつけます。……」
また安井は同じ談話の中で、中堅将校について、「軍隊ではご承知のように、中堅将校が起案するのですから、その力は非常な影響を持つわけです」と、軍部内での中堅層の実力と、暗に下剋上《げこくじよう》の弊風を語っている。
松谷誠は次のように語った。
「阿南さんは初めからクーデターを否定しておられたと思います。しかし、継戦派の将校に向かって『いかん』といきなり言うのは危険なので態度をぼかしているうち、部下に対する寛容の精神の行きすぎもあり、越規行動を黙認する気運になって、西郷隆盛のようにかつぎ上げられてしまった。もう自分の力では押えきれなくなったので、最後に梅津さんに『ノー』と言ってもらって、納めた――ということではないでしょうか。
阿南さんが初めから中堅将校を押えたら、どんな事態を招いたか……私もそれは非常に危険だったと思います」
総長室を出た阿南は、待ち構えていた竹下たちに、「兵力による非常手段計画の放棄」を告げた。竹下は「ココニ於テ計画崩レ、万事去ル」と書き、続いて「大臣自室ニ帰レバ東部軍司令官田中大将、参謀長高嶋少将アリテ待ツ。大臣ハ一般的ニ治安警備ヲ厳ニスベキ旨示サレタルニ対シ……」とある。
十四日の朝の阿南について、林三郎は次のように書いている。「阿南さんは、なおもクーデターが気がかりのようであった。八月十四日の朝も『どうも西郷さんのようにかつがれそうだ』と私語《ささや》いた」。阿南が大城戸憲兵司令官と森近衛第一師団長を呼んで注意を与えたのはこの言葉のあとであった。
田中大将と高嶋少将が帰った直後、井田中佐があわただしく大臣室に来て、「梅津総長が上奏に出かけられたというが、二課、総務課で訊《たず》ねても上奏案件がない。総長は我々の計画を暴露しに行かれたのではないか。また総長は、きのう、鈴木、東郷、迫水と会っている。今日の御前会議で和平論を唱えるらしいという風説もある」と述べた。
阿南は静かに「そんなことはない」と繰返すだけで動かず、若い将校たちの騒ぐにまかせていた。
竹下の『機密作戦日誌』――
「昨日ヨリノ計画ニテ、八時十分ニハ省内高級部員以上集合シアリ。大臣ハ不決行ト決マリシヲ以テ訓示内容ヲ変更シ、本日ハ重大時期ナルコト、全省ノ一致結束ヲ説カレタルニ止《とどま》ル。
本日午前ニ予定サレアリシ御前会議ハ午後一時三十分ニ延期セラレ、午前ハ閣議ノミトナル」
前日夕方から十四日朝にかけて、米軍機は東京はじめ各地にビラを撒《ま》いた。それには、ポツダム宣言受諾に関する日本の申し入れと連合国側の回答とが、日本語で印刷されていた。政府が国民に秘したまま進めてきた終戦交渉が、敵側から暴露され始めたのだ。
ビラには「日本国民は、軍人たちの抵抗を排除して政府に協力し、終戦になるよう努力するほうが将来のためになるだろう」とも書かれていた。
木戸内府は午前八時三十分、ビラの一枚を持って拝謁した。木戸は天皇に、「このビラは国内の継戦分子や軍隊を刺激し、その結果は混乱状態の発生も予想されますので、このうえ終戦を遅らせることは刻一刻と危険の度を増すことになると思われます」と述べた。そして、「至急終戦の手続きをご下命下さるように」と願い、天皇はこれを承認した。
その直後、木戸は鈴木総理の訪問を受けた。鈴木は前日の閣議の終りに「重ねてご聖断を仰ぐつもりです」と述べて以来、いかにして御前会議の開催に漕ぎつけようかと苦慮していた。前回、九日夜から十日未明にかけての御前会議を異例の方法で開いたため、両統帥部長が事前に連絡のない御前会議にはかたく反対しているので、通常の手続きによることは不可能な状態であった。
これの打開策を鈴木に進言したのは、例によって迫水書記官長であった。鈴木は、迫水の案である陛下からのお召し≠ニいう形式をとる以外に道はないと肚《はら》を決めて、その相談に木戸を訪れたのであった。
木戸と鈴木の意見は完全に一致した。二人は最高戦争指導会議構成員と閣僚合同の御前会議を開いて、一挙に終戦を決するよう天皇に願うことにした。
鈴木と木戸は午前九時、揃《そろ》って拝謁し、天皇から即座に明快な同意を得た。
畑俊六元帥は阿南に請われて、十三日に広島から上京する予定だったが、米軍機の頻繁《ひんぱん》な来襲のため、陸軍省に姿を見せたのは十四日早朝であった。畑の上京の理由は、阿南が畑の力によって天皇の翻意を計るためと、周囲にも知れわたっていた。
しかし阿南は天皇の終戦の意志が変らないことを見越して「承詔必謹」のほかないことに説得力を持たせるための策を用いたのではなかったか。畑は陸軍現役の長老であり、殊に十九年十一月まで三年余り支那派遣軍総司令官だったので、在支陸軍には強い影響力を持っていた。中国戦線でも日本軍の優位は崩れ始めていたとはいえ、在支兵力は依然として日本陸軍の主力であった。阿南は畑の重みで、在支陸軍の承詔必謹の意志統一を裏から計ろうとしたのではなかったか。
天皇は先手を打ち、午前十時に畑、杉山、永野三元帥を呼びよせた。そして天皇は「戦局急変してソ連は参戦し、科学の力は特攻も対抗し得ず、よってポツダム宣言を受諾するほかないことになった」と降伏の決意を告げ、軍はこれに服従するようにと命じた。
三元帥は改めて天皇の決意のかたいことを知り、「必ず陸海両大臣、両総長の協力をとりつけます」と答えた。この日、杉山と永野は天皇に「日本はまだ敵に一撃を与える力がございます」といったが、日本の西半分の戦力を統率する第二総軍司令官の畑だけは「自信はございません」と率直だった。
阿南は、噂《うわさ》のように畑を通じて天皇の翻意を計ったのか、それとも逆に、現実を冷静に見る畑と天皇の会話に期待したのだろうか。
「十四日の朝、参謀本部の私の部屋に森が来た」と当時第二部長の有末精三は語る。近衛師団長森|赳《たけし》中将と有末とは士官学校時代からの友人である。森はいきなり有末をとがめる口調でいった。
「お前、皇太子殿下に嘘をいったな。勝つと申し上げたそうだが、負けたじゃないか」
「嘘などつかん。こうすれば勝つと申し上げただけだ」
「めし、食ったか」
「腹が悪いので、いまカユを食うところだ」
「よく、めしなど食ってるな。死ね……」
「死ぬかどうか、俺の勝手だ。……人の世話より、お前、御所は大丈夫か」
「指一本ささせぬ。……とにかく早く、死ね……」
この言葉を残して森がたち去ると、有末はすぐ第一部長の宮崎周一中将の部屋へ行った。有末の顔を見て、宮崎が先に口を開いた。
「森が来ただろう。死ねといったろう?」
ここにも森は「死ね」という言葉を残していた。
宮崎は、「阿南閣下は死ぬだろうな……だが、梅津閣下は死なんだろう」といった。この推測に有末は全く同感であった。さらに宮崎は、「磯矢はひとことも、ものをいわん。あいつ、死ぬかもしれん」といった。磯矢伍郎中将は第三部長であった。ここで有末と宮崎は「死ぬ時は三人一緒に死のう」と語り合っている。降伏となれば、参謀本部の三人の部長が自決するのは当然という気持であったという。
この時期、異常だったのはクーデターを計画する青年将校だけではなかった。森は十日のご聖断≠知った後、身辺の整理や形見分けをすませたと伝えられているが、自分が死を覚悟しただけでなく、要職にある友人たちにも「責任をとって死ね」と説いてまわっている。この行為も異常であり、また有末と宮崎は森にいわれるまでもなく、すでに死を思っていた。この二人は、当然のこととして阿南の自決を予測している。この時期の軍人は、程度の差はあれ、みな異常な精神状態であったといえよう。
閣議に出席のため阿南が陸軍省を出てから、竹下はクーデター計画が放棄されたあとの空虚な思いを抱いて、自分の席に戻っていた。その彼の許に数人の将校が来て次の計画を立てるべきだと説き、特に真剣な畑中、椎崎の言葉が竹下の心をゆすった。
そこへ、梅津に関する新しい情報がはいった。先刻のものとは逆に、梅津が大臣と共に最後までやる決意をかためた、というものである。これに勇気づけられて、竹下は急ぎ「兵力使用第二案」の起案にかかった。彼らには情報の真偽を分析する余裕もなかった。
竹下はこの時も御前会議は午後と信じており、ご聖断≠ェ下る前に「兵力使用第二案」を阿南に届けようと急ぎに急いだ。その内容は「近衛師団ヲ以テ宮城ヲ警護シ、外部トノ交通ヲ遮断《しやだん》スル。東部軍ヲ以テ都内各要点ニ兵力ヲ配置シ、要人ヲ保護シ、放送局等ヲ押ヘ、タトヘ御聖断下ルトモ右態勢ヲ堅持シテ、聖慮ノ変更ヲ待ツ。四者ノ意見一致ヲ前提トス」というものであった。
午前十時少し前、閣議のため首相官邸に集っていた全閣僚は、「十時半に参内せよ」という不意の召集を受けた。
思いがけず急に参内することになったが、八月の暑い盛りで、多くの閣僚が軽装であった。豊田軍需大臣は官邸職員からネクタイを借り、隣席の岡田厚生大臣に手伝ってもらって開衿《かいきん》シャツのカラーを締め上げ、なんとか形をつけた。
「兵力使用第二案」を阿南に届けようと、竹下は総理官邸へ行き、さらに宮内省へまわった。ここで初めて彼は、御前会議の開始時間が変更され、すでに始まっていることを知って愕然《がくぜん》とした。
彼は日誌に「陸軍昨夜ノ計画ト思ヒ合ハセ、コノ御前会議ノ変更過程ハ何等カノ関連ヲ予想セラル。即チ、部内ニ政府ト通ズルモノナキヤヲ思ハシムルニ、十分ナリ」と書いている。竹下はじめ「兵力使用計画」の中心人物たちは、彼らのクーデターだけが日本の運命を左右すると信じて疑わず、発想も思考も判断も独善的だった。米軍機が撒布《さんぷ》したビラによって、一般の国民や軍隊が和平交渉を知り始めたという重大な事実は、この日誌の中で全く無視されている。
作家高見順は「敗戦日記」に次のように書いている。
「八月十四日
警戒警報。一機の警戒警報は原子爆弾出現前は問題にしていなかったものだが、――ちょうど警戒警報にまだ慣れなかった頃と同じように、真剣に警戒するようになった。
『――一機があぶない』
みんなこう言い出した。一機だから大丈夫、こう言っていたのだが。
新田が耳にして来た『巷《ちまた》の情報』ではアメリカは日本の申し入れに対して(国体護持を条件としての降伏申し入れ)――気持はわかる、しかしお前さんは敗戦国じゃないか、無条件降伏というのが当然だ、しかも国体護持というが、○○(原註・天皇)は事実戦争の最高指揮者ではないか、だのにそれに手を触れては困るというのはあつかましい、そういった返答だったという。そしてニミッツは原子爆弾による攻撃命令をさらに出したという。一方日本の陸軍は徹底抗戦をまだ主張しているらしいとのことだ。
原子爆弾といえば、新爆弾とのみ曖昧《あいまい》に書いていた新聞がいつの間にか原子爆弾と書き出した。新聞はもう、前のような当局から指示されたことだけをオウムのようにいうという箝口《かんこう》的統制から解かれたという噂もある。なんでも書いていいというわけだ。だが昨日の新聞などはまだ旧態依然。(今日の新聞は、|例によって《ヽヽヽヽヽ》まだ来ない)
思えば、敗戦に対しては新聞にだって責任がある。箝口的統制をのみとがめることはできない。言論人、文化人にも責任がある。敗戦は原子爆弾の出現|のみ《ヽヽ》によっておこされたことではない。ずっと前から敗《ま》けていたのだ。原子爆弾でただとどめをさされたのである。
……(国民酒場で)客はようやくふえた。酩酊《めいてい》したのもいる。声高にみな喋《しやべ》っている。けれど、日本の運命について語っているものはない。さような言葉は聞かれなかった。そういう私たちも、たとえ酔ってもそういう言葉を慎しんでいる。
まことに徹底した恐怖政治だ。警察政治、憲兵政治が実によく徹底している。――東条首相時代の憲兵政治からこうなったのだ。
……戦争が終ったら、万歳…万歳…と言って銀座通りを駆け廻りたい、そう言った人があったものだが。私もまた銀座へ出て、知らない人でもなんでも手を握り合い、抱き合いたい。そう言ったものだが。
……銀座は真暗だった。廃墟《はいきよ》だった」
宮中|防空壕《ぼうくうごう》で最後の御前会議が開かれたのは、八月十四日午前十一時少し前であった。出席者は全閣僚のほか、梅津、豊田両総長、平沼枢相、迫水書記官長、池田内閣総合計画局長官、吉積陸軍、保科海軍両軍務局長で、二十人を越す大人数であったため、いつもの長い机はとりのぞかれ、天皇に向かって三列に椅子が並べられていた。
この日は鈴木総理の発意で、ポツダム宣言受諾に反対の者だけが意見を述べることになった。陸相と両総長の三人である。
まず阿南が、ちょっと背を丸めるような姿勢で立った。彼の意見には特に新しい内容はなく、再照会論を訴えた。
「国体護持につき、もう一度連合国側に照会してみるべきと考えます。もし日本側の意見を入れてくれれば、私はいま政府が行なっている終戦の手続きには反対しない所存でございます。もし相手方が承知してくれなければ、死中に活を求め、戦争を続けるほかないと考えます」
続いて立った梅津の意見も、阿南とほぼ同じであった。「私個人としては、宣言受諾はよい案と考える」と林三郎に本心を語った梅津だが、参謀総長としての彼は終始一貫して「国体護持の確約が与えられなければ継戦」という阿南と同じ意見であった。
最後の豊田軍令部総長は、次第に和平色を強めている海軍を背景にあまり強い反対論ではなかったが、陸軍への思いやりをこめて、このまま和平を迎えることには反対である、と述べた。
鈴木総理の「反対の意見は、これだけでございます」という言葉に、天皇は静かにうなずき、「ほかに意見がないようだから、私の意見を述べる。みなの者は、私の意見に賛成してほしい」といった。
迫水は「ここまで発言されたが、そのお言葉はとぎれとぎれで、腹の底からしぼり出されるようなお声だった。陛下の苦悩がどんなに深く、大きなものであるかが最後列にはべっている私にもよくわかった」と書いている。
天皇は、ゆっくりとした口調で話した。
「三人が反対する気持はよくわかるし、その趣旨もわからないではないが、私の考えはこの前申したことに変りはない」と、十日の御前会議で表明した即刻戦争終結の意志を再び述べた。
一同は天皇の縷々と続く言葉に泣いた。特に「自分の身はどうなってもよいから、国民の命を助けたい」という言葉に、嗚咽《おえつ》の声が一段と高まった。天皇はこの日もまた、「国民」という言葉を繰返した。
一同が退出したのは、ほぼ正午であった。
「御前会議から出てきた阿南さんは、平素と少しも違った様子はなく、いつもの温顔にゆったりした物腰であった」と林三郎は書いている。「そして、その足で総理官邸に赴き、他の大臣と一緒に昼食をとった」
その昼食は、鯨の肉と黒パンだけであった。極度の食糧難であった当時、これだけでも上等の部類だが、誰もほとんど手をつけなかった。
竹下は阿南のあとを追って総理官邸に行き、御前会議のもようをくわしく聞いた。竹下の日誌――
「予ハ閣議室ヲ眺メ硯箱《すずりばこ》ノ用意ヲ見テ、大臣ニ辞職シテ副署ヲ拒ミテハ如何《いかん》ト申セシ所、意大イニ動キ林秘書官ニ対シ辞表ノ用意ヲ命ジタルモ、辞職セバ陸軍大臣欠席ノママ詔書|渙発《かんぱつ》必至ナリ、且又《かつまた》モハヤ御前ニモ出ラレナクナルト呟《つぶや》キ取止《とりや》メラル。
余ハ此《こ》ノ時『兵力使用第二案』ヲ出シ、詔書発布|迄《まで》ニ断行センコトヲ求ム。之《これ》ニ対シ大臣ハ意少ナカラズ動カレシ様ナリ。又閣議マデノ間ニ一度本省ニ帰ヘル旨言ハレシニヨリ、次官、総長ト御相談ノ上決意セラレ度旨述ベタリ。
之ヨリ先、『総長ガアレヨリ朝ノ案ニ同意セラレタリ』ト述ベタルニ対シ、『サウカ、ホントカ』トテ、兵力使用第二案ニ意動カレシヲ察セリ」
この日誌によれば、竹下は阿南がクーデター案にしばしば心を動かしたと感じているが、十三日夜と同じく、今回も単に竹下の推察である。心を動かしたとしても阿南が何をしたかといえば、実際には何もしていない。阿南の本心は、この日誌では判断できない。
また「林秘書官ニ対シ辞表ノ用意ヲ命ジタルモ」と書かれているが、林三郎は「昼間、総理官邸で大臣から、辞表の用意だの、紙を持ってこいなどと命じられた事実はありません。辞表について大臣から話のあったのは夜になってからで、私と二人だけの時でした」と語っている。その時は内閣総辞職が事実上決まっていた時で、阿南がいつ辞表を書こうと、もはや問題のない時間だった。
天皇が御前会議で「降伏」の意思表示をしたことは絶対の決定である。しかし御前会議は憲法上の正式機関ではなく、単に天皇の前で最高戦争指導会議構成員と閣僚とが連合会議を行ない、そこで天皇の意志が示されたというだけである。立憲政体下の責任内閣の建前から、これを閣議にかけ全員の賛成による閣議決定を行ない、形の上で、改めて天皇のご裁可を受けねばならない。そうなって初めてご聖断≠ヘ国家意志となる。
その手続きを妨害するために、竹下は阿南に辞表を書くことを求めたのだ。
阿南は御前会議直後総理官邸で竹下に「兵力使用第二案」をさしつけられても、「御聖断に反す」と叱りもせず、辞表を書くかと思わせるそぶりを見せた。阿南の去就不明の態度は前夜に続いて反復する。
阿南の腹芸を確信する迫水書記官長は「機関銃下の首相官邸」の中に、阿南の割腹の理由の一つとして次のように書いている。
「……純真一途国体護持の精神によって、手段を選ばず抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、|だましてひきずって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(傍点は筆者)遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかったろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって、軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである」
これに対し竹下は、「われわれ直下の部下として、同一庁内で行動を共にしたものから見ればこの(迫水の)見解には釈然たり得ないものがある」と強い抵抗感を述べている。
竹下が持ってきた「兵力使用第二案」を見て阿南は、今朝の梅津の不同意で断念させたはずのクーデターの火種が消えていないことを知った。しかし阿南の最大の関心事は、内地二百三十七万余、外地三百十万余、合計五百五十万の大軍を陸相としてどう誘導し、一つには天皇の意志に添い、一つには帝国陸軍の悲壮な最後を飾るにふさわしい秩序ある降伏をなし遂げるかであった。それは陸軍の最高統率者の最後の責任であり、彼に加えられている重圧であった。また彼を奮い立たせる美意識であったかもしれない。
≪聖断によるポツダム宣言受諾は、あと数時間後に――遅くとも二十四時間以内には公表される。クーデターや外地軍の不服従が暴発するとすれば、その時である。その時を計って自分が自決すれば、いま予想される危険は一挙に収拾できる≫と阿南は考え、かなりの自信を持っていたのではないだろうか。人間がいかに知恵と勇気を持っても、神には遠く及ばない≠ニいう単純な思考を行動に結びつけていた阿南としては、自刃によって押えることができなければ、もはや人間である自分には力及ばないところであった。しかし人間の限度まで力を尽そうとする阿南の決心は、自信につながったであろう。
阿南が腹芸≠やったとしても、迫水が書いたようにだましてひきずって≠艪ュなどという小細工は、彼の念頭にはなかったと思われる。彼が本心を誰にも語らなかったのは、若い将校たちへの思いやりであったろう。のちに、腹芸であったことが部下に漏れれば、裏切られた思いに彼らの心はどれほど傷つくことか。それを防ぐためには、阿南は決して本心を語ってはならなかった。阿南は自分のあいまいな態度が、終戦後いろいろに解釈され批判を受けることを予想したであろうが、それを甘んじて受ける覚悟であったかと想像される。
阿南の豪北時代の日誌の十九年一月十二日に「名ヲ惜シムノ言葉ガ、ヤヤモスレバ、武士道ヲ辱シメザルコト、道ニ違《たが》ハザルコトヨリモ、名誉ニコダハル憾《うらみ》ナカリシカ。名モ命モ惜マズ一途君国ニ殉ズル無垢《むく》清浄の心コソ大切ナレ。唯一誠奉公ニ帰ス」と自戒する記述がある。終戦直前の阿南は命を投げ出していたが、さらに名をも捨てようと覚悟を新たにしていた、と思われる。
御前会議から総理官邸に戻った時の阿南について、林三郎は次のように書いている。
「昼食後、彼は階下の便所で小用を足しながら、しばらく考えこんでいた。それから真剣な面持で『東京湾の近くに来ている上陸船団に打撃を与えてから、和平に入るという案をどう思うか』と、小さな声で私に尋ねた。この思いがけない質問に、私は驚いた。彼には、聖断がすぐに呑みこめなかったらしい。私は『第一に聖断が下った以上、これに従うべきである。第二に上陸船団に関する情報をしばしば聞くが、どこからもまだ確認の報告は一つもきていないから、そのような重大な決心の対象にはならない旨』を述べた。彼は、ただ私の顔を見つめながら聞いていた」
阿南の強靭《きようじん》な体力はのちの語り草になったほどだが、この時は彼の極度の疲労が思考を曇らせたただ一度の例外であったのか。それとも、≪せめて敵艦攻撃で、若い連中の思いつめた気持を発散させてやれたらなあ≫と、ふと頭に浮かんだことを口走っただけなのか。作戦は参謀総長の権限に属し、しかも終戦のご聖断≠ェ下った後に、梅津が阿南の敵艦攻撃≠ノ同意するはずもなく、この案が実現する可能性は全くないのだ。
「あのとき、私は阿南さんの動揺を肌で感じました」と林は語る。≪阿南さんが動揺しては、また下が動く≫と心配した林は、≪梅津さんに会わせて、阿南さんの頭を冷そう≫と思い、阿南と同乗して陸軍省に帰った車を参謀総長室に近い東口に着けさせた。だが梅津は不在だった。「陸軍省に帰った時は、阿南さんはすっかり冷静をとり戻しておられました」
阿南は最後まで本土決戦を主張し続けたが、本心からそれを望んでいたのか、または陸軍の総意を主張したが彼個人としては「やるべきでない」と思っていたか――の疑問がある。「クーデター計画に対し態度があいまいだったのは、部下を暴走させないための腹芸」という点では見方が一致している人々も、「本心から本土決戦を望んでいたか」についてはさらに二つに分れている。
旧軍人の大部分は、現在もなお阿南が本心から本土決戦を望んだと信じている。当然であろう。「敵に一撃を与え、日本の立場を有利に導いて、国体護持の保証を得てから終戦」という阿南の主張は終始一貫していた。これを阿南の本心と信じる人の多くは、一撃≠ヘ可能であったという仮定に立っている。また「私は本心からやる気でいたが、日本軍が敵に一撃を与え得たとは思われない。やらずに済んでよかった」という意見もある。
一方、旧軍人の中にも「阿南の本土決戦に対する本心はわからない」という人もあり、「彼にはやる気はなかった」と主張する人もある。
阿南が「本土決戦は考えなくてもよい。この際すべての航空兵力を沖縄に投じて敵に一撃を」と主張したことからも、沖縄戦闘当時の彼が本土決戦にもちこまず、その前に一度戦果をあげて終戦に導く考えであったことがわかる。しかし沖縄に思う手が打てなかった後は、すべて手遅れであることを、阿南は知っていたはずである。それでも敵に一撃≠フ機会を失したのちにポツダム宣言をさしつけられたこのとき、彼は本土決戦で死中に活を求める≠ルかないと考えたのであろうか――。
和平工作の秘密使命を帯びた一人であった松谷誠大佐は、次のように語る。
「阿南大将が陸相就任の時から終戦の意図を持っておられたことは、直接聞いているので確かです。しかし、それは敵に一撃を与えたのち、国体護持などの条件を認めさせた上で――というもので、自決の時まで、本土決戦に熱意を持っておられたと私は想像しています。
当時、本土決戦を主張する阿南さんに、木戸内府が『敵が上陸せず封鎖作戦に出て、艦砲射撃や爆撃ばかりやったら、どうなるか』といわれたことがありました。とにかく阿南大将は、敵に一撃≠ヘ出来ると思っておられたのでしょう」
安井藤治国務相は、昭和三十四年八月の「阿南陸相を偲ぶ会」で次のように語っている。
「ポツダム宣言後、八月一日の夜に私は官邸に行きまして、二時間以上、和戦の問題について、戦争をする方、また和を講ずる方、両方の問題を話し合ったのであります。そのときに私は、阿南君が心中、何とかして早く戦をやめたいと考えていることをはっきり汲《く》みとった。そのとき阿南君は戦争を継続するという考えを持っていなかったのです」
安井は、ここまで突込んで阿南の心境を語ったことはなかった。クーデターに対する腹芸説≠主張し続けながらも、「国体護持の保証が与えられなければ、あくまで本土決戦」という表むきの発言が阿南の本心であった――と語るにとどめていた。戦後十四年たって、安井は初めて心に封じこめていた言葉を語った。
十四年間これを語らなかった理由は、「本心から本土決戦を望んでいた」と信じる阿南家遺族への配慮であろうか。しかも安井は、阿南がどういう言葉で「継戦を考えていない」ことを語ったか――という裏づけはしていない。
安井は昭和四十五年に死去したので、阿南のこのときの言葉を知る方法はないと思われたが、のちにもう一人同席者のいたことがわかった。沢田茂であった。三人の同期生が陸相官邸で食事を共にして語り合った夜を、沢田は七月三十一日と記憶している。八月一日という安井との間に、一日の違いがある。
「あの夜は安井が私より先に官邸に行って、阿南と和戦の話を始めていた」と沢田は語る。
「私は本土決戦は勝ち目はないと思っていたので、まず何とかこれを避けるようにといった。だが、どうしてもやるというなら、私に一案がある。皇太子殿下を陸海軍の少尉にして、大本営に籍をおいていただく。こうして士気を奮いたたせ、また一般国民に天皇の意気ごみをわからせるのだ。国民の間に厭戦《えんせん》気分が広がっている現在、もうこれ以外に軍が国民の協力を得られる方法はないと思う、といった。
黙って聞いていた阿南が、このとき『いや、本土決戦はやらんよ。第一、陛下がお許しにならん』といった。
これを聞いて、私は阿南の肚がよくわかった。そうか……と思ったので、それ以上何も質問などしなかった。その後は、閣議の席などで勇ましく本土決戦を主張する阿南を、私はよそながら安心して眺めていた。だが次官の若松中将などは、戦後になっても『阿南は本土決戦をやる気だった』と話していた。
阿南は才走った男ではなかったが、じっくりと考え、いったん『これが国のため』と判断を下せば、ベラベラしゃべったりせず、断固やりぬく性格だった。大器晩成というのか、次第に人物が大きくなってゆくのが感じられた」
澄田※[#「貝+來」]四郎中将は語る。
「私は終戦のころ北支にいたので、当時の阿南大将を語る資格はないが、腹芸で軍の暴走を防がれたと思っている。
昭和十六年末、阿南さんが第十一軍司令官のとき、私は第三十九師団長でその麾下《きか》にいた。そのころ私は、日本軍の南部仏印進駐前後の事情をくわしくお話ししたことがある」
服部卓四郎は『大東亜戦争全史』末尾の「所懐の一端」の中に「開戦の動機としては、実質的には七月の日本軍の南部仏印進駐に伴う米英|蘭《らん》の対日全面禁輸であり、形式的には十一月のハルノートであったと見ることが出来るのではあるまいか。昭和十六年七月二十八日の南部仏印進駐に当り、松岡外相(進駐決定の七月二日当時外相だった)だけは、この行動が日米戦争に発展するぞと予言したが、其《そ》の他の政府、大本営の首脳は、今から考えれば迂濶《うかつ》なことながら、之が全面戦争になるとは判断していなかった」と書いている。
だが松岡洋右のほかにもう一人、しかも仏印派遣団長の将官が、これを予見していた。それが澄田である。彼は陸相であった東条英機に「日本が南部仏印に進駐すれば、おそらく全面戦争になるでしょう。そのご覚悟の上の決定ですか」と直言した。東条は激怒し、陸大首席卒業、フランスの陸大卒業の俊才澄田は仏印から中支の奥地へとばされた。
「中支時代、阿南さんは」と澄田は語る。「南部仏印進駐についての私の話を非常に熱心に聞かれた。失礼ないい方だが、阿南さんは国際問題についての知識はあまりお持ちでない。おそらく理解を越える話題であったと思うが、身を乗り出してあれこれと質問され、よくわかろうと努められた。その次お会いした時は、あちらからこの話をもち出された。ここが東条さんと阿南さんの違うところだ。阿南さんは、自分にはよく理解できないことも、また自分とは違う意見に対しても、それが大切なことなら、まず相手のいうことを理解しようと努め、よく考えてみようとなさる。
私は阿南さんに仏印進駐の話をした時を思い出し、終戦時の阿南さんが東郷外相や米内海相の言葉をよく考えて、大決心をされたと思う。終戦のころ私は北支にいたが、軍は、特に外地軍は日本の国力などいっこうわかっていなかったので、戦意|旺盛《おうせい》だった。阿南さんはご自分の肚は決まっていても、将兵の気持を最後まで天皇に訴え続け、自決によって納めるほかなかったのだろう」
阿南の豪北時代、第二方面軍作戦主任参謀であった加登川幸太郎はいう。
「阿南大将は、戦争というものを本当によく知っている人だった。あれほど戦争のわかる人が、あの時期に本土決戦が出来るなどと思ったはずはない。だが軍全体への影響を考えて、言えなかったのだ。
阿南さんは天皇絶対の忠臣だった。陛下がポツダム宣言受諾と意思表示されたからは、その線に添って終戦に漕《こ》ぎつけようと苦心し、抗戦派の連中を手の内に納めて暴走を防いだと思う。あの人だから、ああいう|よせ方《ヽヽヽ》が出来たのだ。他の誰が陸相でも、あそこまで掌握出来たとは思えない。
だがもしあの時、陛下が『最後の一兵まで闘え』とおっしゃったら、阿南さんはそれこそ阿修羅《あしゆら》のように闘って、屍《しかばね》を戦場にさらしただろう。阿南大将とはそういう人だった」
閣議で、「陸軍は勝算があるのか」とたずねられた阿南は「勝つと断言は出来ないが、戦争とは本来、死中に活を求める≠烽フだ」と答えた。これが阿南の戦争の哲理だった。イチかバチか、やってみなければわからない、ということである。
負けたら、国体護持の問題はポツダム宣言をおとなしく受諾した場合より、苛酷な条件をつきつけられることは確かである。天皇の安危を賭《か》けてイチかバチかの大ばくちを打つような無謀な本土作戦を、果して阿南は本気でやろうとしたであろうか。
しかも八月九日にはソ連が参戦した。鈴木総理は一日も早く終戦にしなければならない理由として、「ソ連は満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも来るだろう。そうなれば日本の土台を壊してしまう。相手がアメリカであるうちに、始末をつけねばならない」と語っている。
戦争が長びき、終戦処理にソ連が強権を持てば、皇室問題はどう扱われるか。阿南にそれがわからなかったとは思えない。
十四日、午後
十四日午後一時に閣議が始まるまでの短かい時間を、阿南は陸軍省に帰った。「大臣帰る」の報に、若い将校たち二十人ほどが顔をひきつらせて、大臣室に集った。
阿南は御前会議での天皇の言葉を簡潔に語り、「最後のご聖断が下ったのだ。今はそれに従うばかりである」といった。
「大臣は、国体護持の確証がなければあくまで抗戦、と主張してこられたはず。決心変更の理由をうかがいたい」と井田中佐がつめよった。阿南はしぼり出すような沈痛な声で答えた。
「陛下はこの阿南に対し、お前の気持はよくわかる。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰《おお》せられた。自分としては、もはやこれ以上反対を申し上げることは出来ない」
このとき突然、畑中少佐が火がついたように泣き始めた。途方もない泣声だった。
「我々はみな、あっけにとられて畑中を眺めていた」と井田は語る。「号泣≠ニはこれか……と思ったことを覚えている。とにかく、大人があんなものすごい泣き方をするのを見たのは、あとにも先にもあの時ただ一度だ」
閣議は予定通り一時から開かれた。ポツダム宣言受諾によって戦争を終結させる≠アとに、今は誰一人異議はない。全閣僚が閣議決定書に署名した。
玉音放送≠ヘこの閣議で実現の運びとなるのだが、その発端が阿南の発言であったことを、迫水が語っている。
御前会議の席で天皇が、「マイクの前に立ってもよい」といったのはその場の思いつきではなく、数日前に下村情報局総裁が内々で天皇に頼み承諾を得ていた。しかし天皇の提案は当時の常識では思いも及ばないことだったので、列席者は恐懼《きようく》するばかりだった。
午後の閣議で、「戦争終結」をどのような方法で国民一般に知らせるかが審議された。一般的な方法が検討されたが、それで収まるか……と誰もが強く危惧《きぐ》した。このとき阿南が、「畏《おそ》れ多いことだが、先ほど陛下がああおっしゃったから、陛下に放送をお願いしてはどうだろうか」といった。これに一同が賛成した。
迫水は「それで阿南大将が私を顧みて『書記官長、すぐに陛下の御放送文の起案をせよ』と言われたのです」と語っている。
当時の日本人には、たとえラジオを通してでも、天皇の声を聞くことがあろうとは、想像もできないことであった。宮城事件を起した畑中ら叛乱《はんらん》将校が玉音放送≠フ阻止を計ったのも、この天皇の声の権威を怖《おそ》れたからであった。阿南が玉音放送≠フ実現を願ったことは、彼の心境を考える上で、重要なヒントの一つである。
迫水から閣議室へ「終戦詔書に先ほどの天皇のお言葉を加筆、補正中」という報告があり、阿南は中座して再び陸軍省へ向かった。
参謀本部第一部長宮崎中将から参謀次長河辺中将に、「この際、陸軍首脳部の気持をはっきり固めて、将校全員に示達したいと思うが」と相談があった。
河辺は日誌に「大御心《おほみこころ》既ニ一点ノ疑ナキニ今更陸軍首脳部ノ気持ヲ確立スベシナドトハ、甚《はなは》ダ変的ノ事ト一瞬思ヒ惑ヒタルモ、之モ此ノ際効果的ナリト見タル部長ノ言ヲ容《い》レ……」と書いているが、陸軍次官若松中将の同意も得て、彼と共に大臣応接室へ行った。そこでは杉山、畑の両元帥、梅津参謀総長、土肥原教育総監の四人が会談中であった。四人の賛成を得た河辺は、若松と、さらに荒尾軍事課長を加えた三人で、「陸軍はあくまでも聖断に従って行動す」という簡潔な一文をまとめた。
そこへ阿南が帰ってきた。首脳五人とも異議はなく、揃って署名した。
梅津が「航空部隊の者が一番ざわつく心配が多いから、特に航空総軍司令官にもこれを見せておいた方がよいぞ」といった。若松はただちに航空総軍司令部に行き、司令官河辺|正三《まさかず》大将の署名|捺印《なついん》を受けてきた。
こうして「陸軍の方針」が明確にうち出された。これにそむく者は逆賊となる。
午後三時、阿南は課員以上全員を第一会議室に集めて、御前会議での天皇の言葉を伝えた――「国体護持の問題については、本日も陛下は『確信あり』と仰せられ、また元帥会議でも『朕《ちん》は確証を有す』と述べられている。
……ご聖断は下ったのだ。……陸軍はこのように重なるありがたいお取扱いを受けた。もはや進むべき道はただ一筋、大御心を奉戴して実践するのみである。
先ほど、三長官、元帥会合のうえ、皇軍は御親裁の下に進むことを決定した」
陸軍に対して天皇がどんなにありがたい配慮をされたかと、阿南はそれを繰返して語り、部下たちの心を慰撫《いぶ》しようと努めている。天皇の軍隊≠ニいう彼らにとっての全世界が、いま崩壊するのだ。阿南の心には、やる方ない無念や悲しみが渦巻いていたであろうが、しかし彼は涙も見せず、いつものように落着いてじゅんじゅんと説いた。
これより少し早く、梅津も参謀本部の将校たちを集めて承詔必謹≠フ訓示をしたが、日ごろは喜怒哀楽を全く現わさずお能の面≠ニあだ名された彼が、涙|滂沱《ぼうだ》として言葉もとぎれがちであったという。
阿南の訓示はなお続く――「今後、皇国の苦難はますます加わるであろうが、諸官においては……」
竹下は思わず阿南を凝視した。阿南の厳粛ではあるが慈父の顔にかげりはなかった。≪大臣は我々≠ニいわず、諸官≠ニいわれた。自分を除外して話しておられる……≫竹下は阿南の自決をさとった。
「……諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食《は》み、野に臥《ふ》しても、最後まで皇国護持のため奮闘してもらいたい」
閣議の席に戻るため部屋を出てゆく阿南のうしろ姿に、万感をこめた視線が注がれた。阿南の言葉によって彼の自決を直感したのは、竹下一人ではなかった。
この訓示の席に、三人の将校の姿が欠けていたことを、阿南は気づいていたであろうか。
井田中佐は大臣訓示の時間を承知していたが、どうにも出席する気になれず、陸軍省のむし暑い地下防空室のよごれた床に、ふてくされたかっこうでひっくりかえっていた。ここはきのうも、おとといも、同志たちと夜を徹してクーデター計画を練った場所である。その時の身内にみなぎっていた力は、いま吸いとられたように消えている。井田は身動き一つするのもいやだった。
畑中少佐は大臣室で人を驚かした号泣の後、椎崎二郎中佐と共に竹橋の近衛《このえ》師団司令部へ自転車で走った。今は決行あるのみと心を決した二人に、迷いはなかった。
畑中はこの日まで阿南が、「国体護持の確約がなければ、あくまで継戦」の主張を貫くと思っていた。だが阿南も降伏の聖断に屈した。≪志を貫くためには、阿南閣下の恩義をも捨てねばならぬ≫と、彼は自分に決意を迫った。
畑中を知る人々の話によれば、彼は京都の出身で言語態度がやわらかく、非常に礼儀正しい中背、やさ形の青年であったという。誰もが畑中を「純粋な人であった」というが、それだけに視野は狭く、その性格はあまりにも一途《いちず》で、「国民を救うためとはいえ、天皇には『私の身はどうなっても……』などという自由はないはず。天皇の神性は有史以来のもので、天皇自身も深く考慮されねばならない」という彼の言葉が伝えられている。
椎崎について、近歩一(近衛歩兵第一連隊)の大隊長であった村上|稔夫《なるお》は「非常に目が鋭く、背の高い偉丈夫で精悍《せいかん》≠ニいう言葉がピッタリ当てはまる人であった」と書いている。
十四日夕方、近衛師団で椎崎は静かな口調で村上に蹶起《けつき》の主旨を語ったが、その中で彼は「百歩さがって、連合国が日本将兵を裁くことは仮によいとしても、万一、恐れ多い事であるが、陛下にまで事が及んだらどうする。何のための陸、海軍か。日本人全部が腹を切っても相すまぬことになる」と述べている。
畑中、椎崎の二人は、午後三時の阿南の訓示も聞かず近衛師団へ走った。近衛師団には彼らに共鳴する二人の参謀がいる。古賀秀正少佐と石原貞吉少佐で、古賀は東条英機の女婿であった。すでに十一日以来、彼らとの間でいざという時≠フ案は練ってあった。
午後三時すぎ、椎崎を近衛師団に残した畑中は、軍服の背を汗でぐっしょりにして、日比谷の第一生命館の階段をかけ登っていた。六階の東部軍司令官室へ行き、田中静壱大将に蹶起を促そうという目的であった。
この建物の地下室には、放送のための予備スタジオがあった。放送会館が爆撃されたら、ここから放送できるように用意された秘密室である。その秘密室でこのとき二人の技師が、天皇の録音に必要な録音再生機を宮内省へ運ぶため、こちらも汗にまみれて働いていた。畑中はまだ玉音放送≠ェ行なわれることも、そのための録音がこの夜に予定されていることも知らなかった。
田中軍司令官は畑中に会ったが、彼に口を開かせなかった。
「何しに来たかっ。貴官の考えていることはわかっておる。何もいう必要はない。帰れっ」
東部軍は少壮将校の間に不穏な動きのあることを知っていた。田中の副官塚本清少佐は軍刀の柄《つか》に手をかけて、畑中をにらんでいた。
「畑中が私のところに来たのは午後四時ごろだった」と井田正孝は語る。「彼はその日の昼、大臣室で号泣した時とは別人のように明かるい表情で、私を屋上に誘った」
畑中は田中軍司令官に一喝され追出されたあと、まっすぐに陸軍省へ帰ってきた。
屋上の畑中は「近衛師団の古賀、石原両参謀と協議して、実行の計画は完了しました。中隊長クラスはみな賛成しています」と告げて、井田の協力を懇請した。だが井田は「大臣の話で、天皇に全く継戦のお気持がないことがわかった。今さら何をやっても無駄だ」と説き、畑中が「最後の直諫《ちよつかん》を試みることは、神州不滅を信じる者の使命です」と主張するのを、≪夢物語にすぎない。やれるものなら、やるのもよかろう≫と、たかをくくった気持で聞き流して別れた。
詔書の原案が出来上ったのは午後四時であった。閣僚たちは早速審議に入り、いくつかの修正が行なわれた。
まず阿南が「戦勢日ニ非ナリ」を問題にした。
「この言葉は穏当でない。これでは今日までの大本営発表がすべて嘘になり、また身命を投げ出して戦ってきた将兵が承服しない。日本は戦争に負けてしまったわけではなく、現在好転していないだけの話だから、ここは戦局必ズシモ好転セズ≠ュらいにして、おだやかな表現にしたらどうだろうか……」
これに対し、隣席の米内海相が語気鋭く反対した。
「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないといわれるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ。第一、戦勢日ニ非ナリ≠ニいう言葉には負けてしまったという意味は含まれていないではないか。ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私は戦局必ズシモ好転セズ≠ネどというまやかしの文を入れないで、原文のままがよいと思う」
阿南はあくまで自説をまげなかった。
「個々の会戦では負けたところが多いが、まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり戦局必ズシモ好転セズ≠フ方がふさわしいと思う」
阿南はもはや「死中に活を求める」や「最後の一兵」などの幻想的な言葉を口にすることはなかったが、この時もなお終戦詔書の文句を少しでもおだやかな表現≠ノして、将兵の受ける衝撃を緩和しようと、孤軍奮闘を続けていた。
米内は海軍省へ帰らねばならない用事が出来た。米内は閣議室を出るとき迫水の席に立ち止まって、「あの箇所は非常に重要だから、私のいない間に訂正するようなことは絶対にいけませんよ」と念を押した。
閣議は遅々として進まない。天皇の声を録音するため宮中に集った放送局の人々は、暑さの中で行儀よく待ち続けていた。
やがて米内が閣議室に戻った。彼は阿南と低い声で何か話していたが、突然、迫水に声をかけた。
「さっきから論議の焦点になっている戦勢日ニ非ナリ≠ヘ、阿南陸相のいわれるように戦局必ズシモ好転セズ≠ノしましょう。いろいろ考えたが、どちらでも大差はないように思われるので私は陸相の意見に賛成します」
一同、唖然《あぜん》とした。閣僚の中には米内の変心をなじる人もあったが、鈴木総理が丸く収めた。鈴木は詔書の完成を一刻も早くと念じていた。
最後に阿南が熱弁をふるったのは、国内に向けて降伏を発表する時期についてであった。
「いよいよ連合国側にポツダム宣言受諾を通達する段階になったが、国内向けの発表は夜が明けてからにしてほしい。もしこの詔書の内容を深夜に発表したら、国民全体はもとより、特に軍の衝撃は大きくふくれあがり、不測の事故が発生しないとも限らない。私の最後のお願いだが、詔書の公表は夜が明けてからにしてほしいと思うが、いかがなものだろう」
不測の事故≠ニは軍の暴発にほかならない。日本の降伏が最終的に決定したこのとき、≪陸軍全体が静かに降伏を受けいれてくれるように≫と、それのみをひたすら念じていた阿南の心情がうかがわれる言葉である。彼は初め、外地軍への伝達を理由に公表を十六日と希望したが、これは連合国への通達との関係上認められなかったと伝えられている。この期《ご》に及んでなお阿南が公表の時期を遅らせたいと望んだのは、彼のいう通り「敵地における武装解除には、外地部隊に十分納得させる必要がある」ことが第一の理由であろうが、さらに将兵の激しい反撥を諦《あきら》めに導くための時間がほしかったのかと想像される。
迫水は「阿南陸相が『最後のお願いだが……』といわれた言葉について、いろいろな感慨を抱いた」と書き残している。
ようやくまとまった終戦詔書の成案は、ただちに清書係にまわされた。ここで阿南はいったん官邸に帰った。
官邸には相次いで二人の訪問客があった。第一は東条英機大将で、「いずれ降伏となれば、我々は軍事裁判にかけられるだろう。その時はお互いに堂々と大東亜戦争の意義について述べよう。我々は防衛戦争を戦ったのである」といった。阿南はこれについて意見を述べていない。
第二の訪問客は畑俊六元帥であった。畑は昭和二十八年、巣鴨の獄中で次のように書いている。
「予はその翌十五日広島に帰任するため、同日夕刻阿南陸相を訪《おとな》い、その苦衷を慰め、且元帥拝辞の希望を述べ、とりなし方を依頼したるに、阿南陸相は何故か明確な返答をなさず、予は当時陸相がすでに決心しあることを看取したが、陸相は酒肴《しゆこう》を出して世間話をし共に数杯を重ねて辞去した。
玄関まで送りに出られ、いつもと変らぬ温容を以《もつ》て別れたが、何となく打沈んだ態度なりしは当然のことと思い合わされる次第である。
その翌早朝、予は広島に向かい出発、阿南さんが見事に自決されたることを聞いて、然《しか》るべしと別に驚きもしなかった」
畑は阿南の何となく打沈んだ態度≠、死を目前に控えていたためと解しているようだが、このときの阿南に暗い影があったとすれば、それは今この瞬間にも陸軍のどこかで暴発事件が起りはしないかという憂慮ではなかったか。
当日――十四日夕から宵のことを、作家|内田百※[#門がまえ+月」]《うちだひやつけん》は「東京|焼燼《しようじん》」の中に書いている。彼は空襲に焼かれて、市ヶ谷と四谷の間の外堀近く、畳三枚の小屋に雨露をしのいでいた。
「……夕晴れる。新月土手の松に懸かりて夏の宵らしき涼風わたる。土手の兵隊は今日|何処《どこ》かへ引き上げて居なくなつてしまつたさうである。(十四日、衛兵、憲兵などの集団脱走があった)午後八時過、表に消防自動車の警笛の音がしてゐると思つたが、その内|屏《へい》の外にて火事だと云ふ声あり。家内が出て見て市ケ谷本村町のもとの士官学校跡の大本営のうしろの方に火の手が上がつてゐると云つた。薬王寺の辺りは焼けてゐないさうだから、そこいらに火事が起こつたのかも知れない。普通の火事はこの頃珍らしく、太平の趣がある。門まで出て見たら大分大きな火の手である。土手の壕《ごう》のお婆さんの伜《せがれ》さんは火事を見に行つたとの事であつたが間もなく帰つて来て大本営の中だと云つた。左内坂《さないざか》から登つて大本営の屏のまはりを廻つて来たのだから間違ひないが、中に火の手が見えてゐるのに裏側の門は閉まつてゐて駆けつけて来た消防自動車が門の前でぶうぶう鳴らしても開けないし、門番もゐるのだが案外平気な顔をしてゐたと云つた。その話を聞いて何か焼き捨ててゐるのではないかとも思はれた」
侍従武官長蓮沼|蕃《しげる》大将は官舎も私宅も戦災で焼かれ、宮中の一室に起居していた。その蓮沼の部屋を、十四日夕方、近衛師団長森赳中将が訪れた。
蓮沼は十三期後輩の、同じ騎兵科出身の森の才幹を愛し、親しくつき合ってきた。
森は蓮沼に向かって「今朝から米軍飛行機がしきりにビラを撒布《さんぷ》していますが、あれは本当でしょうか」とたずねた。蓮沼は「日本は降伏することになった」と答え「こういう際だから、乱暴したり騒いだりする者があるかもしれない。近衛師団長の責任は重いぞ」と繰返し言った。森は「ご安心下さい。決してご心配をかけるようなことはいたしませんから」と明快に答えた。
立ち上った森に向かって、蓮沼はまた「しっかりやってくれよ」といった。「大丈夫です」と答えた森の口許《くちもと》に、明かるい微笑があったという。これが、蓮沼の見た森の最後の姿であった。
森は近衛師団長の内命を受けた時、義兄に当る山岡|重厚《しげあつ》中将に、次のように語ったという――
「現在の情勢から勘案すれば、米軍は東京に近い関東地区に上陸を企図するのではないかと思われます。そうなると近衛師団長は陛下を守護して、東京で討死することが出来ます。無上の光栄であります。しかし、政界の上層部には和平を策している者があるということです。そうなれば日本は満州の放棄どころではなく、日清戦争以前の状態に追いこまれるかも知れません。その場合軍部の中も、抗戦派と和平派に分れて争う事態も惹起《じやつき》しないとは限りません。そのとき近衛師団長の任務は非常にむずかしくなります。けれども私はいかなる場合でも大義名分を誤ることなく、軍人として最後のご奉公をするつもりです」
蓮沼はのちに「森はその時からすでに前途に横たわる大難を覚悟し、不退転の覚悟を決めていたものと思われる」と書いている。
午後六時近く、近衛師団の古賀参謀の命令で、クーデター実行部隊である近歩二(近衛歩兵第二連隊)の二箇大隊――第三大隊と第一大隊が前後して宮城内にはいった。新任の参謀石原は師団内の人とのつながりがなく、実行面の中心はおのずから古賀参謀であった。
教育担当の古賀は、十九年夏以来、教育隊長兼任を命じられた近歩二第三大隊長の佐藤好弘大尉(現、谷崎姓)と急速に親しくなった。近歩二が宮城事件≠ノ主力として参加する原因の一つがこれであった。古賀は佐藤を選び、すでに十二日にクーデター計画をうちあけた。佐藤は迷いに迷った末、≪国家を守るために≫と、参加を決意した。
十四日の守衛隊は第二大隊のはずであったが、佐藤は強引にこれと交替し、親友である第一大隊長北畠大尉と共に、二日続けて守衛隊司令官を勤めることにした。午後五時、古賀から「宮城に直行せよ」と電話で命令を受けた佐藤は、胸にピストルを下げオートバイに乗り、実弾武装の部下を従えて宮城内にはいった。彼は乾《いぬい》門と坂下門の中隊長に「午後十時以後、陸軍大臣以外は宮城内に入れず、宮城から出ようとする者はすべて逮捕せよ」と命じた。
十四日、夜
午後八時ごろ、宮城内の守衛隊司令所では畑中、椎崎、古賀の三人が協議を重ねていた。彼らは、この夜十一時に天皇の録音が行われるという情報をつかんだのだ。ここに佐藤、北畠の二大尉も集っていた。
畑中は「玉音放送≠ナ国民が終戦を知ってしまっては、万事休すだ。十一時に天皇が宮内省にお出ましになったところへ兵を入れて、録音を阻止しよう」と主張した。だが佐藤は「十一時以降、宮城内にいるすべての人の足止めをすれば、目的は達せられる。要するに玉音盤を宮城の外に出さなければ放送はできないのだから、そんな過激な手段をとらなくても」と反対し、北畠もこれに同調した。
佐藤は「そんなことをしたら、どれほど陛下をお苦しめすることになるかと、必死で止めた」と書いている。畑中らも実行部隊の指揮者二人の意見をむげにしりぞけることは出来ず、兵力による録音阻止は中止となった。もしこれが実行に移されていたら、どのような事態をひき起していたことか――。
宮城事件≠フ中心人物は、陸軍省の畑中、椎崎、井田の三人に、近衛師団参謀の古賀、石原を合わせた五人であった。その他は彼らが動かした近衛師団の将兵と他から駈けつけた上原|重太郎《じゆうたろう》ほか一名だが、偶然この日近衛師団を訪れたばかりに事件に巻きこまれた将校がいた。広谷次夫《ひろたにつぐお》少佐(もと陸上自衛隊富士学校長、陸将、三菱信託銀行財務相談役)と藤井政美大尉(藤井商店主)の二人である。
藤井はもと近歩一の所属であったが、このときは士官学校教官に転出していた。藤井が教育した五十八期生がこの年六月に卒業した後は、次の生徒の入校まで職責はなく、いよいよ本土決戦という緊迫した空気の中で「ブラブラしていた」と彼は語る。
八月十四日の昼すぎ、藤井は近衛師団の自分の連隊≠ヨ行ってみようと思いたった。「戦争も終りらしい」「麹町の憲兵隊で書類の山を焼いている」などという噂《うわさ》が伝わってきたが、座間に移転した士官学校にいては中央の様子は全くわからなかった。
藤井が近衛師団司令部に行くと、そこに二期先輩で顔見知りの古賀少佐がいた。古賀は「日本が降伏することなど、あり得ない」と強い口調で、藤井の語る噂を否定した。藤井は≪そうだろう、そのはずだ≫と思った。幼年学校以来彼が受けてきた教育のどの部分に照してみても、日本の軍隊が降伏などするはずはないのだ。
その場にいた体の大きい大尉が藤井に向かって「上原重太郎」と名乗り、「航空士官学校の生徒隊区隊長」とつけ加えた。上原はかねがね竹下たちの謀議に加わり、この日も「近衛師団蹶起」を知って参加しようと駈けつけたのだが、この時の藤井は彼がそんな勇ましい人≠ナあることを全く知らなかった。そして藤井が、青山の陸大跡に移っていた陸軍省補任課の小林友一少佐に会いに行くというと、上原も同行するといって立ち上った。小林は藤井が信頼している先輩で、竹下らのクーデター計画に深くかかわり、その歯止め≠ノなるとしか思われない「陸相、総長、東部軍司令官、近衛師団長四者の同意を前提とする」という一項を提案した人である。
小林は藤井と上原に向かって「国体護持のため継戦を主張して、出来るだけのことをしてきた。だが、もうだめだ。すべては終った。古賀に『動いてはならぬ』と伝えてくれ」といった。藤井は日頃尊敬している小林にじゅんじゅんと説かれて、≪なるほど、そうか≫と思いはしたが、まだどこか釈然としない思いを抱いて近衛師団に戻った。
藤井から小林の言葉を伝えられた古賀は、黙って暗い顔を伏せたという。そこへ畑中と椎崎がはいってきた。二人とも藤井の知らない顔であった。畑中は藤井と上原を前に、「蹶起の主旨」を激しい口調で語り始めた。
「畑中さんは涙を流しながら、胸の底からほとばしるような言葉を浴びせかけてくるので、私はすっかり、つられてしまって」と藤井は語る。「とうとう、蹶起せねばならぬ、という気持になってしまいました」
他の将校はたち去り、畑中だけが残った。畑中はなおも「帝国軍人たる者の使命」を語り続け、涙に濡れた顔をひきつらせて「森師団長は起たぬ、殺さねば」と強くいった。そして藤井と上原に「師団長を斬れ」と命じた。二人が承諾するのを見て、畑中は去った。
最後の聖断が下ったなどとは夢にも知らず、|ぶらり《ヽヽヽ》と近衛師団へ出かけてきた藤井は腰に指揮刀を吊《つ》っていた。指揮刀では人は斬れない。彼は走って自分の連隊≠ナある近歩一へ行き、「誰から借りたか忘れたが……」人の軍刀を吊って帰ってきた。
「私は士官学校の生徒のときも、任官してからも、ごく平凡にすごしていました」と藤井は語る。「自分は愛国心が強いなどと思ったこともありませんでした。それが、このときは『よし、やろう。やらねばならぬ』と、いま思えばまことに簡単に決心しました。師団長を殺せば、自分の身はどうなるか……そんなことは考えませんでした」
藤井と上原はその場で森師団長の帰りを待った。斬るためである。藤井は森の顔さえ知らないのを気にかけながら、待ち続けた。上原はどうだったのか……この二人はほとんど私語を交していない。
この日は森師団長の命がいくつあっても足りないほどに、あちこちで彼の殺害が語られている。夕方七時ごろ、古賀参謀は近歩一の第三大隊長村上稔夫大尉を呼び、「村上、師団長閣下を斬れるか」とたずねた。村上は「直属上司にそのようなことは出来ません」と断わった。
その夜、村上は同期の佐藤大尉に、「どうも師団長閣下は、継戦に同意されないようだぞ」といった。佐藤は「そういう場合は、師団長閣下に先にあの世へ行っていただかなければならないな」と答えている。
陸相官邸で畑元帥を見送った阿南は、総理官邸に戻った。いったん閣議の席についた彼は間もなく室外に出てきて、林秘書官に「辞表の書式や手続きを調べてくれ」といった。それを調べに行った林は、内閣の総務課長から「明十五日正午ごろ総辞職の予定」と告げられた。
午後十時ごろ阿南はまた中座して「陸軍省へ行く」といった。その途中で、林は総辞職の件を報告した。大臣室にはいった阿南は机のまわりを片づけ、その後で竹下中佐を呼んだが彼はいなかった。
次に阿南は荒尾軍事課長を呼んだ。総理官邸に戻らねばならぬ時刻が迫っていたため、短時間であったが二人だけで話した。
このときの阿南の言葉を、荒尾は翌十五日、阿南の自決後に、大本営参謀高山|信武《しのぶ》大佐に次のように語った。
「阿南さんは、自決は俺一人でたくさんだ。たとえ御聖断は下っても、軍内外を問わず、異常な混乱状態に陥ることは必至と思う。今や平静に終戦処理することこそ中央幕僚の最大任務だ。それに外地に残された多数軍人の復員を早急に実現しなければならぬ。君達はぜひこの二大事業を完遂してほしいと、固く言い残された」
荒尾も自決の覚悟であったが、阿南に強く止められた、と伝えられている。高山に語った荒尾の言葉から、それが真実であり、また十四日夜の荒尾は阿南の自決を知らされていたことがわかる。閣議の席に戻るよう林に促された阿南は、「軍を失うも、国を失わず」と独語《ひとりごと》をいいながら立ち上った、と荒尾は書いている。
その数日後、荒尾は妻千恵子あての手紙に次のように書いた。
「おれは、阿南陸軍大臣自刃の前夜遅く、数百万の将兵の後の世話や、御詔書の思召《おぼしめ》しを具現することを申し付けられ(偶々《たまたま》御遺言となつた)どんなに苦しくてもこの任を離れることは出来ぬ。
同封の葉巻はそのとき大臣が手づから渡され、これも遺品となつた」
本来、陸軍大臣の責務であるはずの終戦処理を托《たく》された荒尾は、生きながらえるほかない立場に置かれた。のち彼は、終戦直後の事務処理の中心となり、軍事裁判、復員、援護活動に力を尽して、阿南との約束を見事に果した。
陸軍省から総理官邸に戻った阿南は、閣議室にはいる直前、林秘書官に「半紙二枚を用意してくれ」といった。その何気ない口調にかかわらず、林は阿南の自決の時が迫っていることを直感した。
このときまで林は、阿南が自決を急がないだろうと思っていた。十二日に竹下が「ポツダム宣言受諾を阻止できなければ、大臣は切腹すべきだ」といった後、阿南と林はしばらく自決について話し合った。そのとき林は「日本の降伏は必至でしょう。陸軍大臣としては、停戦と復員とに最大の努力を払うべきであります。その見通しがついてから自決しても遅くはないと思います」と述べ、彼は阿南がこの意見に心から同意したと思っていた。
ようやく清書の出来上った終戦詔書が、天皇によって「裕仁」と署名され、御璽《ぎよじ》≠捺《お》されて総理官邸に届けられた。閣僚たちは副署をするために待っていた。最後まで副署を拒むのではないかと危惧されていた阿南が、何のためらいもなく署名の筆をとった。これで完成した終戦詔書は印刷局へまわされ、官報の号外として公布の手続きがとられる。すべてが終ったのは八月十四日午後十一時であった。
これに先だち、この日午後六時に阿南と梅津は連名で、大本営直轄の各軍に対し、左の電報を発していた。
「帝国は国体の護持、皇土の保衛を完遂し得ることを条件として交渉中なりしも、敵の提示せる条項は右目的達成を著しく困難ならしむるものあり。之《これ》が為《ため》小職等は敵側提示の条項は到底受諾し得ざるものなることを万策を尽して強硬に主張し、またしばしば上奏せるも、天皇陛下におかせられては四国宣言の条項を受諾することに御親裁あらせられたり。右は左の理由に基くものと拝承し奉る。(以下略)」
ここで阿南と梅津は改めて、陸軍中央部が唯々諾々とポツダム宣言受諾に同意したのではなく、全力を挙げてこれに反対したことを述べ、「この間の事情をよく了解し、納得してくれよ」と呼びかけている。そして今や承詔必謹のほかないことを説き、「小職等は万斛《ばんこく》の涙を呑んで之を伝達す」と書いている。
だがこの時に至っても、なお外地軍首脳部は強硬に継戦を主張し続けていた。第一部長宮崎中将は十四日の日誌に「ココ三、四日来各方面(原註《げんちゆう》・ビルマ方面軍、南方軍、昭南方面軍、支那派遣軍、第二総軍、第五方面軍)ヨリ敵ノ和平攻勢ニ対シ中央ハアクマデ敢闘ノ決意ヲ堅持スベキナリ、国体ヲ破壊スルニ至ルコト必然タリトノ激励ノ辞及意見具申来ル。第一線ノ服従ハ事実真ニ困難ナルヲ思ハシム」と書いている。
支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は十四日夕、参謀総長を通じて、「徹底的戦争遂行に邁進《まいしん》すべく御聖断あらんことを……」という上奏電を発した。天皇への直訴である。現地指揮官の上奏電は異例のことだが、陸軍中央の一部には岡村の強硬意見を拠点に継戦を主張しようという空気があり、上京中の支那派遣軍参謀西浦進大佐の奨めもあって、岡村は打電に踏みきった。この電報が宮中に提出されたのは、午後十一時四十八分と記録されている。天皇が放送のための録音をしている時刻である。
広谷次夫少佐が、近歩二の連隊長芳賀豊次郎大佐に会おうと市ヶ谷台から近衛師団に向かって歩き出したのは、午後九時すぎであった。
広谷が二十年二月に入校した陸大は間もなく甲府に疎開し、七月末には閉鎖となった。広谷の同期生百二十人は在校期間僅か五ヵ月ながら卒業の形式をとって、それぞれ任務についた。軍参謀と決った広谷ら十一人は、とりあえず参謀本部で現場教育を受けることになった。十日ほど前のことである。
この日、八月十四日午後七時ごろ、参謀本部地下室に彼ら十一人を集めた梅津参謀総長は「明日、降伏と決った。……各自、信念に基き行動すべし」と告げた。広谷はこの梅津の言葉を「自決せよ」という意味に受けとった。本土決戦で敵に一撃を……と思いつめていた彼だが、ご聖断によって降伏と決したと知り、それでは、自決は当然だ、と思った。彼は幼年学校生徒のころ、剣道場で阿南校長から切腹の作法を教えられていた。
≪近衛師団へ行き、芳賀大佐に会った上で、連隊旗の下で死のう≫と広谷は心を決めた。三年半を近衛師団で過した彼にとって、芳賀はかつての上司というだけでなく、仲人をしてくれた恩人でもあった。
近歩二で、広谷は芳賀が宮城内にいることを知った。宮城内にはいるには、近衛の星章のついた軍帽をかぶらなければならない。広谷はこれを借りて、彼のあとを追った。
「私が芳賀大佐に会ったのは、十時半ごろだったでしょう」と広谷は語る。「守衛隊司令室には芳賀さん一人で、隣りの部屋に畑中、古賀などがいました。そのとき芳賀さんは、すでに彼らにあざむかれたことを知っておられました」
芳賀は若い古賀参謀の言葉をう呑みにして、陸相も東部軍司令官も同意したクーデターだと信じ、まず近衛師団がその口火を切るのだと思って、宮城内にはいった。その時の彼は、自分の行為が国家や陸軍に対する叛逆であることを全く知らなかったのだ。
広谷の話は続く――。
「芳賀さんは宮城内にはいって間もなく『おかしい』と気づかれたそうですが、さらに神奈川県伊勢原の第五十三軍司令官赤柴八重蔵中将と、茨城県土浦の第五十一軍司令官野田謙吾中将から『蹶起せず』という無線連絡がはいったのだそうです。これで全軍一致の蹶起ではなく、近衛だけの暴発とわかったわけです。
いえ、その無線連絡は芳賀さんからの問合わせに対する返事ではなく、石原参謀あたりが両軍へ蹶起をうながしたのだと思います」
芳賀は広谷に「いま俺がうかつな動きをすれば、事態はいっそう悪化するかもしれない。一兵も損じることなく、無事に納めなければならぬ」と語った。さらに彼は「畑中たちは玉音盤を押えようとしている。重大放送≠ニ予告した時間には天皇のお声でなく、十日に放送した阿南大臣の敢闘継続の訓示≠、もう一度放送しようという計画のようだ」と語っている。
広谷は同じ京都出身である畑中をよく知っていたし、古賀とも親しかった。畑中、古賀の二人は広谷に「事ここに至って、誰を信用していいかわからなくなった」と語ったという。「国体護持の確証がなければ、あくまで継戦」と、この日の昼ごろまで誓い合った同志の離脱に対する憤懣《ふんまん》、と広谷は推察している。広谷は芳賀のそばにいつづけた。
「午前二時に近かったでしょう」と広谷は語る。「芳賀連隊長が『事件と関係のないお前は、もうここを出ろ』といわれたので、私は宮城内の守衛隊司令所から近衛師団に戻りました」
死所と思い定めた近衛師団であったが、広谷はここを去るほかなかった。
連合国に対するポツダム宣言受諾の通告は、終戦詔書が完成した午後十一時に、外務大臣からスイスとスウェーデン政府を通じて行なわれた。また会議の度に阿南はじめ軍側が強く主張して、もみにもんだ武装解除と保障占領については、日本政府の希望として連合国側に申し入れることになった。
阿南は閣議の後、東郷外相に、「先ほど、軍の武装解除と保障占領について、わが方の希望として先方に申し入れる外務省案を拝見しました。ご処置、まことに感謝にたえません」と、ていねいに礼を述べた。東郷はこれらを条件として入れることには絶対反対であったが、希望としてなら……という気持は早くから持っていた。外務事務当局は十四日になって、軍の要望をある程度|容《い》れる方が事が円滑に運ぶであろうと考え、実現したものである。
終戦詔書公布の手続きがすんで間もない午後十一時すぎ、鈴木総理は迫水書記官長と秘書官である長男|一《はじめ》を伴なって、閣議室から一室を隔てた総理大臣室へひきあげた。椅子に深く体を沈めた鈴木の両眼は赤く充血し、目のふちは腫《は》れていた。迫水は、間もなく八十歳を迎える鈴木がよくもこの激務に耐えてきたと改めて驚き、特にほとんど不眠状態であったここ数日を思って、痛ましく彼を眺めていた。鈴木の老いの目からときどき涙が透明の線となって流れ、それが迫水の涙を誘った。
このときドアがノックされ、阿南陸相の姿が現われた。軍帽を左小脇にたばさんだ阿南は、深々と一礼して、鈴木の机の前まで一直線に足を運んだ。そこで再び頭を下げた彼は、鈴木の顔にひたと視線を当てて静かな口調でいった。
「終戦の議がおこりまして以来、わたくしは陸軍の意志を代表して、ずいぶんいろいろと強硬な意見を申し上げてまいりました。そのため総理に大へんご迷惑をおかけしましたことを、ここに謹んでお詫《わ》び申し上げます。わたくしの真意はただ一つ、何としても国体を護持したいと考えただけでありまして、他意があったわけではございません。この点、どうぞご了解下さるようお願いいたします」
その場にいた迫水は、「その胸中を察して、もらい泣きした。本心では和平を願いながらも、陸軍の暴発を懸念し、これを押さえるため、心にもない発言を続けてきた阿南陸相の心情を察すると、私は居ても立ってもいられない気持に襲われた」と書いている。
阿南の言葉をうなずきながら聞いていた鈴木は静かに立ち上り、机を半周して彼のそばに立ち、その肩に手をかけた。
「阿南さん、あなたのお気持はわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間、本当にありがとうございました。国体はきっと護持されますよ。皇室はご安泰です。なんとなれば、陛下は春と秋のご先祖のお祭りをご自分の手で熱心に行なわれてこられましたからね」
「わたくしもそう信じております」と答えた阿南の頬に涙が流れた――と、迫水は書いている。
阿南は新聞紙に包んだ葉巻の箱を机の端に置き、「これは南方第一線から届いたものであります。わたくしはたしなみませんので、総理に吸っていただきたいと思い持参いたしました」といった。陸相から総理への贈物を包むにふさわしい紙さえ、手にはいらない時代であった。阿南はていねいに一礼して、静かに部屋を出ていった。
玄関まで阿南を見送った迫水が総理大臣室に戻ると、暗然とした面持ちで坐っていた鈴木が「阿南陸相は、いとま乞いに来たんだよ」といって、眼を閉じた。
鈴木総理が阿南にいった「皇室はご安泰である。天皇は春秋のご先祖のおまつりを熱心になさるお方だから」という言葉について、迫水は「その意味がよくわからないような気もするし、同時に非常によくわかるような気もする」と書いている。
『鈴木貫太郎自伝』に収められたこの時の鈴木の言葉は、「今上陛下はご歴代にまれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観しておりません」となっている。迫水の記述よりこちらの方がわかりやすいが、いずれにせよ鈴木の言葉は「神によって皇室は守られるだろう」という意味である。「わたくしもそう信じております」と答えた阿南の頬に、涙が流れなかったはずはない。
阿南は豪北時代の日誌に「われ一人生きてありせば」という楠木正成の歌を書きつけた人である。正成のように「わたくしが生きております限り、天皇はご安泰でございます」と、どれほど阿南は言いたかったことか。それの言えない申しわけなさ、情けなさ、悲しさが、このとき彼の胸にこみ上げていたであろう。国体護持の保証は不確かなまま降伏が決定したいま、阿南もまた神明のご加護≠ノ頼るほかはないのだ。
午後十時すぎ、畑中がまたも井田の前に現われた。畑中は井田に向かって「近衛師団では、計画は着々と実行に移されています。あとは森師団長の説得だけです」と述べ、さらに「森閣下は陸大時代の教官だったので、私では押しがききません。古賀参謀は年が若すぎて、子供扱いされます。そこで、説得役をぜひ中佐殿にお願いしたい」と懇願した。
初め井田は言葉を尽して中止をすすめたが、次第に気持を動かされてきた。「畑中のあまりに純粋な憂国の情とその熱意に、ほだされたというのか」と井田は語る。「師団長説得はまず望みなしと思ったが、やるだけはやってみるべきであり、またそれが我々の運命であろう、という気持になった。
国体護持の保証もないのに、軍人たるものがただ承詔必謹でよいのか。後世、何もしなかったと批判を受けるだろう。成算はなくても、とにかくやった≠ニいう事実が残ればいい……と考えた」
井田は、畑中の「師団長がどうしても同意されない時は、潔くあきらめます」という言葉に何度も念を押した後、遂に畑中と近衛師団へ向かった。
畑中は数時間前に近衛師団で藤井、上原の二大尉に「森師団長を斬れ」と命じ、ここでは井田に「森を説得してくれ」と頼んでいる。畑中は「森の説得は不可能」と見定め、彼を殺してクーデターを決行するほかないと思っていただろうが、それを述べては井田の賛意は得られない。畑中は井田のような有力な同志≠味方にひき入れるためには、どんな言葉も口にし、どんな約束もしている。何が何でもやらねばならぬ――と逆上している彼の言動が矛盾に満ちているのは当然であった。
近衛師団に着いた井田と畑中は椎崎を加えて、師団長説得のためその部屋へ向かった。師団長室の近くまで来たとき畑中は突然、「私は竹下中佐殿に会い、大臣説得をお願いしてきます」と駈け去った。
陸軍の軍装をつけた天皇が、終戦詔書の録音のため宮内省へ向かったのは、警戒警報発令中の午後十一時二十五分であった。録音は二階のご政務室で行なわれる。ここで石渡宮内大臣、藤田侍従長、下村情報局総裁らが出迎えた。隣室には録音関係者――情報局の加藤第一部長、放送協会の大橋会長、矢部局長ら数人がいた。
「朕《ちん》深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状ニ……」
天皇は詔書を読み、さらにもう一度繰返した。出来上った二組の録音盤は二個の罐《かん》に納められ、カーキ色の木綿の袋に入れられた。これを十五日正午の放送時間まで、どこに保管するか――一同は慎重に協議した。その結果、「陸軍の一部に不穏な動きがあるという噂だから、放送局は危い。また、深夜玉音盤を持ち歩くことにも問題がある。放送直前まで宮内省に保管しよう」ということになった。宮内省の筧《かけい》庶務課長はその案に賛成だったが、≪さて、宮内省のどこに置けばよいか≫と困惑した彼は、その場にいた侍従たちに相談した。そして、徳川義寛侍従が筧から録音盤を受けとり、彼が最も安全と思う場所へ運んだ。
その場所は第二庁舎の玄関に一番近い、もと雇員宿直室で、宮城戦災後は臨時侍従室兼皇后宮事務官室に使われている部屋だった。雇員便所に隣り合わせ、ペンキ塗りドアの粗末な外見だった。中央に机が置かれ、右側の壁に沿って整理戸棚があり、その横に粗末な書類入れの軽金庫があるだけで、とても大切な品を保管する場所には見えなかった。徳川はこの軽金庫に録音盤を入れ、カギをかけ、さらに雑多な書類をその前に高く積み上げた。
下村情報局総裁は録音盤が徳川侍従の手に渡るのを見とどけて、総理官邸に電話をかけ、迫水書記官長に「録音は無事に終りました」と報告した。迫水はほっとして、地下|防空壕《ぼうくうごう》で開かれている記者会見の席に戻った。
阿南が陸相官邸に帰ったのは、間もなく十四日が終ろうとする時刻であった。林秘書官は玄関で、閣議室に戻る直前に頼まれた半紙二枚を渡し、ていねいに敬礼して彼の官舎に帰った。
居間へ向かう阿南のうしろから、女中が「いつもの注射、すぐいたしましょうか」とたずねた。疲労回復のビタミン注射は毎夜の習慣であった。うなずいて、たくましい腕をさしのべる阿南の顔に苦笑いが浮かんでいるのを、女中はちょっといぶかしく思った。
八月十五日
午前零時半ごろ、竹下中佐は駿河台《するがだい》の渋井別館で畑中に起された。
近衛師団長の部屋の前で井田、椎崎と別れた畑中は、もう自転車ではなく、師団の自動車を竹下の宿舎に乗りつけていた。彼は興奮に血走った眼を竹下に当てて、いった。
「近歩二の連隊長芳賀大佐はすでに蹶起《けつき》の決意を固め、軍旗を奉じて宮城内にはいりました。午前二時を期して宮城を占領し、籠城《ろうじよう》することになったのです。私はこれから近衛師団に引返し師団長を説得しますが、もし同意しなければ、斬ってでも決行します。石原、古賀の二人の参謀は同意しています」
畑中の言葉はますます熱を帯びて、竹下に迫った。
「どうぞ大臣に、近衛師団の蹶起を機に、全軍に立てと命令するようお願いして下さい。全陸軍の先頭に立っていただきたいのです。それを大臣に説得できるのは中佐殿以外にないのです」
竹下はこのときまだ彼の心を大きく占めていた理性に従って、「大臣も承詔必謹≠命じられたではないか。すべては終ったのだ」と畑中に計画の中止を説いた。
だが畑中は一歩もひかない。
「事はすでに始まっているのです。今は森師団長だけが不同意ですが、それを説得しているのです。同意を得られるのは目に見えています。時間の問題です」
ここでも畑中は、「森を斬れ」と命じたことなど忘れたような言葉を口にしているが、あせりにあせっている彼は目の前の竹下を同意させること以外は頭にない。彼は至誠天に通ず≠ニいう言葉を単純に信じ、自分の発想だけが至誠≠セと信じていた。
「今は将兵みなが決断に迷っています。われわれ中堅が決意を固め、断じて事を行なえば、必ず全軍が蹶起します」
竹下は自分の気持が、阿南の説く承詔必謹≠ニクーデター決行の間で揺れ動くのを感じながら、畑中の熱した言葉を聞いていた。もし竹下が阿南の訓示に心から同意し、陸軍の進むべき道は承詔必謹∴ネ外にないと思い定めていたら、このとき彼は畑中と刺しちがえてでもその暴挙を阻止すべきであった。だが≪すべては終った≫と自分にいい聞かせ、無理にも納得しようと努めてはきたものの、竹下の胸に、なおくすぶる余燼《よじん》があった。その灰をかぶった火をかき立てたのは、畑中が最初に口にした近歩二の連隊旗≠ナある。
竹下はかつて近歩二の連隊旗手であった。連隊の名誉と伝統の象徴であるその旗に、このときも彼は限りない愛着を持っていた。かつてわが手で捧持《ほうじ》した連隊旗が、日本の滅亡を挽回《ばんかい》しようとする者どもに守られて、宮城内へはいったという。「参加せよ」と迫る畑中の声は、連隊旗が彼を呼んでいるようにさえ思えてくる。しかも、畑中は「大臣を説得してくれ」と必死で頼んでいるが、その阿南もまた、かつて近歩二連隊長としてこの軍旗を朝夕尊崇した軍人ではなかったか――
天意≠ニいう言葉が、竹下の頭にひらめいた。≪これは正《まさ》に天意≠ナはないか≫
理性を追い払うには、理性とは次元の違う|何か《ヽヽ》、より強力なものの介入が必要である。竹下は天意≠ニ手を結んだ。
「よし、大臣のところへ行こう」と竹下はいった。しかし彼にもまだ躊躇《ちゆうちよ》があった。「だが、あくまで近衛師団長と東部軍管区司令官の同意が先決だ。森師団長を斬っても、代理の者で師団が動くならともかく、東部軍管区司令官が動かない時は、大臣命令の発動を願うことは出来ぬ。もし両者が策応し蹶起となったら、力の限り大臣を説得しよう」
畑中の全身から湧《わ》き上る喜びが、顔一面の笑いとなって広がると見る間に涙があふれ、幼児のような泣き笑いの表情に変った。竹下は、抱きしめたいほどのいとしさを感じた。≪おれに、この男を突き放すことが出来るだろうか……≫
二人は連れだって外へ出た。空襲警報発令で灯火を消した駿河台の夜気の中に立って、このとき竹下は急に≪大臣の自決は今夜ではないだろうか≫という思いに捉《とら》えられた。
「同車出発、畑中ハチヨツト役所ニヨリ、軍事課ノ諸士ニ東部軍ヘノ工作ヲ依頼シ、直チニ予ヲ大臣官邸ニ送リ、自ラハ近衛師団ニ向ヒタリ」と竹下は書いている。
畑中が誰からも妨げられず、自由に行動を続けているのは奇怪とでもいうほかない。軍事課の誰に「東部軍ヘノ工作」を依頼したかは不明だが、これによって相手は畑中の危険きわまりない計画がすでに実行に移されていることを知ったはずである。それでも畑中の身柄を拘束しようとはせず、憲兵隊や上司に通告しようともしなかったのはなぜか。
中央の中堅将校の多くが、強弱の差はあれ、竹下と同じように迷っていたのではないかと想像される。承詔必謹≠ニ態度を決めた将校の中にも、≪それは軍人の義務の放棄ではないか≫という一|抹《まつ》の疑いを残していた者が多かったであろう。
参謀次長であった河辺虎四郎は戦後、米軍の審問に「日本人は最後の最後まで、あなた方と、精神的手段によって、対等に戦うことができると信じていました。われわれはその精神的信念は、勝利という点で科学的利点と差し引きできるのだと考え、戦闘を中止する意志は全くありませんでした。……われわれは全く最後の一人となるまで戦い抜くつもりでありましたし、今でもチャンスはあったと考えているのです」と答えた。米軍の係官は「この問題は、この辺で打ち切るべきですね。わたし自身どうも理解できないからです」とサジを投げている。
これが多くの将校たちの感情であったろう。彼らは承詔必謹≠ノ服従したが、しかし「まだ終ってはいない」と興奮に震えて説く畑中の心情にも心のどこかでは共感を覚えたであろう。それが結果としては黙認となったのではなかったか。
その背景には、降伏と知って以来の放心状態と軍紀の弛緩《しかん》があった。一例を挙げれば、陸軍省の庭の各所から書類の山を焼く煙が上る中で、この夜、警備憲兵や衛兵が集団逃亡した。彼らは、東京湾外に待機中の連合軍が明日にも上陸して戦闘が始まるという噂におびえ、「降伏後に死んで何になるか」という声に、たちまち我先にと走り出した。長年彼らをしめつけていた責任感のタガが、はじけとぶ一瞬であった。林三郎は、「はしなくも、情況の激変に処しては脆《もろ》いものを持っている日本軍の一面を曝露《ばくろ》したのである」と書いている。
東部軍管区司令官田中大将も十四日午後面会に来た畑中の胸中を知っていたが、彼に口を開かせず、一喝して退去させた。田中もまた、畑中を拘束してはいない。降伏となれば、中堅将校の一部が騒ぐであろうとは誰もが予想したことで、田中は、その一人である畑中を叱りつけて追い返しただけで、それ以上の処置は必要ないと思ったのであろうか。
田中は第一総軍司令官杉山元帥から正式に終戦の通告を受けた後、六月にセレベスから帰国して東京防衛軍司令官、東京師管区司令官に就任した飯村穣中将、高射第一師団長金岡|※[#「山+喬」]《たかし》中将、近衛師団長森赳中将らを集めて、これを伝えた。
「皇軍は聖断にしたがい行動することに決した。しかし終戦に際していかなる混乱が起るか予測しがたい。われわれは治安を維持し、あくまでも……」
といくつかの注意を与えた後、田中は森に向かって、「こういう時は、ともすれば陛下の争奪が起りやすい。近衛師団の任務は重大であるぞ」といった。これは「万一にも、どこかの部隊が天皇を擁して終戦を妨げようと宮城へ向かったら、天皇を守護する近衛師団の任務は重大だぞ」という意味で、これに対し森は力強くうなずいた。
近衛文麿が木戸に「近衛師団に不穏な計画があるというが……」と告げたのは、十四日午後五時すぎであった。このとき近衛は、情報の出所をいわなかった。
木戸はそれまでも陸軍の暴発情報が伝わる度に憂慮していたが、「近衛師団」という情報を耳にするのは初めてであった。まさか、と思いながらもこれが頭から離れなかった彼は、天皇の允裁《いんさい》を受けた詔書を持って退出する鈴木総理にこれを語った。
鈴木は「近衛師団にかぎって、そんなバカな」と一笑に付した。「近衛師団は、宮城守護を任務とする部隊ではないか」といわれてみれば、木戸も改めて「そんなバカな」と思い、極度に軍を恐れる近衛のとりこし苦労であろうと、苦笑した。
こうして、近衛師団と名差しの情報を入手した人々も何らの処置をとらなかった。
藤井政美、上原重太郎の二人の大尉は、森師団長を斬ろうとその帰りを待ち続けていた。どれほどの時間が過ぎたのか、藤井は記憶していない。
突然、隣りの部屋の非常電話が鳴った。下士官も誰もいないので、藤井がこの電話をとった。守衛隊司令官である第二連隊第三大隊長の佐藤大尉からで、彼は藤井の同期生である。
佐藤は「宮内省の者をたくさんつかまえたが、手が足りないから応援をよこしてくれ」といった。藤井は即座に「誰もいないから、おれが行こう」と答えて電話を切った。彼はまたも、師団司令部の裏手にある自分の連隊≠ヨ走って近衛の軍帽を借り、それを頭にのせて、乾門から宮城にはいった。
「森師団長は、私が宮城内にはいって間もなく、帰ってこられたらしい」と藤井は語る。「もしあのとき佐藤大尉の電話がなかったら、上原大尉と一緒に私も師団長を斬っていたかもしれません」
乾門を一歩はいると、玉砂利を敷きつめた広い道がまっすぐに伸びて、その両側にうっそうとした大樹が立ちつらなっている。藤井にとってはかつて守衛勤務のたびに通った道だが、門一つを境に外界と隔絶した独特の静けさがあって、火災で減ったとはいえ虫がすだいていた。宮城内の地理に明るい藤井は迷うこともなく、二重橋そばの守衛隊司令所へ行った。
「司令所の将校室には、十人くらい軟禁されていました」と藤井は語る。「その中に下村情報局総裁がおられたことは、あとで聞きました」
守衛隊司令所に軟禁された人数は、録音関係者や運転手などを加えて最後には十六人になった。下村総裁の一行四人が一番早く、彼らは天皇の録音がすんだ後、坂下門から出ようとしたところを、着剣の兵に車を停められた。
坂下門の中隊長から「乗用車一台捕獲」の報を受けた大隊長佐藤大尉は現場に急行し、下村総裁のいることを知って、≪この車の中に玉音盤がある≫と思いこんだ。彼は一行を乗車のまま司令所へ連行し、軟禁したが、車の中を調べようとはしなかった。玉音盤≠ヘ車中にあると確信していた佐藤は「これで降伏の御放送はなくなり、全近衛師団が蹶起し、東部軍が立ち上るならば、全軍これに呼応すること疑いなし……」と思ったと書いている。
従って佐藤は宮内省で玉音盤≠捜索したこともなく、それを部下に命じたこともないという。彼が古賀の命令により、部下と共に宮内省で捜し求めたのは木戸内大臣であった。
森師団長の部屋の前から畑中が去った後は、師団長説得は井田一人に委《まか》された形になった。井田と椎崎は森に面会を求めたが、来客中ということで、しばらく待った。だがいつまでも客の帰る気配はない。グズグズしていられる場合ではない――と、井田と椎崎は師団長室にはいった。
ゆかた姿の森中将は、くつろいだ様子で客と語り合っていた。彼は機嫌よく井田、椎崎の二人を迎えたが、とっさに意図を察したらしく、彼らに向かって抽象的な人生観を語り出した。
井田は気が気でない。師団長説得は一刻を争うのだ。「実は」と切り出してみても、その度に森は「まあ、聞け」と井田の発言を封じた。話は次第に宗教問題へ移ってゆく。和尚さん≠ニあだ名のある森の話は内容豊富であったが、井田はそれどころではなく、あぶら汗をにじませて話の終るのを待った。
ようやくその時が来たのは、森の宗教談を四十分余り聞かされた後であった。井田は国体護持の問題から説き、森に蹶起を促した。
森はまっこうから反対した。手ごわい相手と覚悟して乗りこんできた井田は屈しなかった。そして、両者ともに言うだけのことを言い尽したあとには、重苦しい沈黙が淀《よど》んでいた。
やがて森は、「諸君の気持は十分わかった」と、井田を驚かす言葉を口にした。「率直にいって、感服した。私も一人の日本人として、これから明治神宮へ行き、神前にぬかずいて最後の決断を授かろうと思う」
この言葉に、井田は感激した。森の最後の決断がたとえ「否」であっても、ここまで心を動かしてくれたことで、自分の努力は報いられた、と思った。この時から三十余年が過ぎた現在も、井田は「師団長の言葉を疑う人もあるが、私は今も、あれは本心でいわれたと信じている」と語る。
果して、そうであったろうか――。森の性格や言動、「近衛師団についてはご心配なく」と周囲に示した覚悟、また井田が抱いていた説得の意図を察して機先を制するように人生論を語り続けた態度などから、彼は初め時間を稼《かせ》ごうと試み、次に明治神宮に行くことで東部軍へ連絡する機をつかみ、叛乱《はんらん》計画を潰《つぶ》そうと考えたのではなかったか。もしこのときの森が本当に叛乱に心を動かしていたのなら、畑中の凶弾に命を落とすことにはならなかった、と想像される。
「明治神宮へ行く」という森の言葉に井田が感激しているとき、偶然、参謀長水谷|一生《かずお》大佐が部屋にはいってきた。「参謀長の意見も聞くように」と森に指図された井田は、素直に立ち上った。
竹下を陸相官邸に送り届けた畑中は近衛師団に戻り、師団長室へ向かった。このとき上原重太郎大尉と、近衛師団の蹶起に加わるため駈けつけていた陸軍通信学校付のX少佐(名前を伏せる理由は後述する)の二人が畑中と一緒であったともいわれ、また上原だけが、あるいはXだけが畑中と並び、そのうしろに他の将校がいたとも伝えられている。これについて井田は「灯火管制下の暗い廊下であったし、私は畑中と一緒に来た二、三人の将校が誰かということに注意を向けなかったので、わからない」と語る。
畑中は、もう井田が森師団長の意向を確かめたころであろうと興奮していた。ドアをノックしようとした時、中から井田と水谷参謀長が出てきた。井田は、明治神宮へ行こうという森の言葉に満足して、明るい表情であった。
「参謀長と話してくる。しばらく待っていろ」と声をかけられた畑中は、入れかわりに師団長室にはいった。
井田が参謀長室にはいって十分ほどたったとき、突然隣りの師団長室に異様な物音が起り、続いて銃声が響いた。廊下へとび出した井田の前に、拳銃を手にした畑中が走りより、「時間がなくなりましたので、やりました。東部軍説得を頼みます」と蒼白《そうはく》の顔をこわばらせて懇願した。井田は、師団長を殺してしまった畑中に激しい怒りを感じた。そして、≪もうだめだ≫と急速にさめてゆく気持を意識したが、≪畑中はもうここまでやってしまったのだ。とにかく、やれるところまでやるほかはない。どうせ、最後は刺し違えて死んでゆくのだ≫と気をとり直した。師団長室をのぞいた井田は、床に折り重なった二つの遺体のそばに、椅子に腰かけて身じろぎもせず茫然と前方に顔を向けている椎崎の姿を見た。
水谷参謀長が極度の驚愕《きようがく》に言葉をもつれさせながら「とにかく、事件報告に東部軍へ行く」というのを聞いて、畑中は井田に「ぜひ一緒に行って説得して下さい」と重ねて頼んだ。井田は≪東部軍に師団長殺害を知られては、望みはなかろう≫と思ったが、畑中はそれを考える余裕もないほど逆上していた。井田は水谷と一緒に東部軍へ向かった。
師団長殺害を知った古賀は、かねてから用意していた師団命令を作成した。それは、
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近作命甲第五八四号
近師命令 八月十五日〇二〇〇
一、師団ハ敵ノ謀略ヲ破摧《はさい》  天皇陛下ヲ奉持 我カ国体ヲ護持セントス
二、近歩一長ハ其《そ》ノ主力ヲ以《もつ》テ東二東三営庭(東部軍作戦室周辺ヲ含ム)及本丸馬場附近ヲ占領シ 外周ニ対シ皇室ヲ守護シ奉ルヘシ 又約一中隊ヲ以テ東京放送局ヲ占領シ 放送ヲ封止スヘシ
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をはじめ十一項目で、その最後には「予ハ師団司令部ニ在リ 近師長 森赳」と書き、そこに畑中がいま殺害したばかりの森中将の印を捺した。偽命令は完全な形を整えた。
こうして兵たちに異変を秘したまま、近衛師団の支配権は畑中ら叛逆者の手に握られた。森師団長殺害と、命令がニセであることが発覚する前に、井田が東部軍の説得に成功し、竹下が陸相の出馬を実現させてくれれば、すべてはうまく運ぶ――と彼らは考えていた。
東部軍司令部は井田、水谷の二人が到着する前に、古賀少佐からの電話で叛乱|勃発《ぼつぱつ》を知った。この電話を受けたのは、東部軍参謀不破博大佐であった。
「近衛師団は蹶起しました。東部軍もぜひ立ち上って下さい。お願いします。東部軍司令官が直接号令をかけて下さい。お願いします」と、それだけを繰返す古賀の言葉が何を意味するものか、不破は解しかねた。彼は「古賀参謀は興奮して、電話口で泣いている模様であった」と書いている。
不破はこの電話をすぐ田中軍司令官に報告したが、田中も古賀の言葉を信じかねて、詳しい情報を入手するまでは何もいわなかった。
不破は十数時間前の十四日昼ごろに会った森師団長の言葉を改めて思い浮かべて、ますます古賀の電話が信じられなくなった。森は不破にとって、陸大時代の教官であった。「この重大な時に、東部軍はいかなる態度をとるべきか」と教えを乞いに訪ねた不破に向かって、森は説き聞かせた。
「ひと度終戦と決った上は承詔必謹、断じて盲動すべきでない。実は本朝来中央の若い連中が入れ代り立ち代り、近衛師団の蹶起を強要してくるが、私は陛下の命令なくば一兵と雖《いえど》も動かさぬとて、その都度追い帰している。
しかし彼らの信念は固く、私の説得を入れようとはしない。これからもまた来るに相違ない。あるいは私の身に万一のことが起るかもしれないが、私の信念が彼らの強要に屈することは断じてない。東部軍もこの際腹をきめて、仮りにも陛下の御心に叛《そむ》くような動きをしてはならぬ」
この言葉を思い起せば、不破は≪あの師団長がいるかぎり≫と、古賀のいう「近衛師団蹶起」を否定する気持に傾いていった。
そこへ井田と水谷が、転げるようにはいってきた。この二人をとりまいたのは東部軍参謀長高嶋少将、参謀不破大佐、同板垣中佐などであった。顔面蒼白の水谷は、森師団長が殺害されたことと、叛乱軍による宮城占拠とを報告した。「午前二時であった」と不破は記録している。
森師団長殺害を知った東部軍幕僚たちの厳しく冷たい表情は、彼らに蹶起を促そうと乗りこんできた井田の、すでに衰えかけていた気勢をさらにそいだ。それでも井田は、彼らの奮起を要望し、国体護持のための継戦の中軸となってくれと説いたが、彼自身がのちに「巨大な鉄筋コンクリートの箱の中で、独り相撲をとっているような空虚さを覚え、いつしか声もとだえて、後には寒々とした沈黙のみが残されていた。声涙ともに下る古賀参謀の電話連絡も、今や空《むな》しき葬送曲でしかなかった」と書いているような有様であった。
また不破参謀から見れば「井田中佐の態度は、この重大決心を促がさんとする者としては迫力なく、ただ通りいっぺんの要望を述べたのみで……」というものであった。
間もなく井田は、板垣参謀に逆に説得され、叛乱軍に中止を勧告する役を自ら引受けて、近衛師団へ向かった。
その直後、近衛第七連隊長|皆美貞作《みなみていさく》大佐が東部軍司令部に現われ、「ただ今、電話で師団司令部から重要命令が下達されましたが、不審の点があるので、万一の場合を考慮して軍司令官のご意向を伺いにまいりました」といった。彼の報告で、叛乱将校が偽命令を下達したことと、その内容が判明した。皆美への命令は、「近歩七ハ宮城|外苑《がいえん》ヲ占領シ、外部トノ交通ヲ遮断《しやだん》スベシ」であった。
東部軍司令官田中大将は事の重大をさとり、近衛師団に駆けつけて事件を終結させようと決意した。だが高嶋参謀長はこれを押し止《とど》めた。叛乱将校はすでに森師団長を殺害している。その直後、田中軍司令官がまっ暗な混乱の現場で説得に当れば、血迷った彼らがさらにどんな暴挙に出るか計り知れない。そうなっては、いっそう事態を悪化させる。もう少し確実な情報をつかんでから出馬していただきたい、と高嶋は説得した。田中は焦慮の色を見せながらも、参謀長の言をいれた。
高嶋は東部軍司令部が直接近衛師団の諸隊を指揮して事態を収拾しようと決心し、各連隊長との電話連絡を試みたが、数多い近衛師団の電話のどれもが不通であった。電話線は午後十時に、第三大隊長佐藤大尉の指図で切断されていたのだ。だが高嶋はあきらめず、何回となく電話をかけ直し、遂に第二連隊長芳賀大佐を電話口に呼び出すことに成功した。この電話は叛乱主謀者たちが、計画成功の場合に外部と連絡するため一本だけ残していたものであった。
やっと電話は通じたが、通話状態は極度に悪く、高嶋は芳賀の声をほとんど聞きとることが出来なかった。高嶋は一方的に「師団命令は偽である」と繰返し、軍司令官の意図を説明したが、果して芳賀がそれを了解したかどうかも心許《こころもと》なかった。
高嶋は情報を集めるため、不破、板垣の両参謀を近衛師団に急行させた。午前三時であった。
不破と板垣は、叛乱軍に占領されている竹橋を突破して、近衛師団司令部にはいった。二人は灯火管制下の暗がりの中にものものしく歩哨《ほしよう》の立ち並ぶ廊下を手さぐりで進み、ようやく参謀室にたどり着いた。そこには石原参謀が一人残っているだけで、畑中はじめ他の叛乱将校は宮城内にはいっていた。
石原はわずか十日ほど前に近衛師団の参謀になったばかりの少佐である。彼は不破、板垣の激しい詰問に対して一語も答えず、軍刀の柄《つか》に手をかけて彼らを睨《にら》みすえるばかりであった。やむなく両参謀は凶行現場である師団長室へ向かった。不破は、次のように書いている――
「師団長室の内部は酸鼻を極めていた。森師団長は寝衣のまま肩先きに一刀を浴び且《かつ》拳銃弾を受けて血海の中に斃《たお》れていた。また第二総軍参謀|白石通教《しらいしみちのり》中佐は一刀の下に美事に首を打ち落されて、全身血を浴びて倒れていた」
白石中佐は第二総軍司令官畑俊六元帥に随行して、十四日朝広島から東京に着いたばかりで、竹下中佐に「原爆の威力は大したことはない」と語った人である。白石は森の義弟であった。白石がとっさに森をかばったため斬殺された――とまでは明白だが、誰が白石を斬ったかが、のちに問題となる。
畑中の車で駿河台の渋井別館を出た竹下が陸相官邸に着いた時刻は、竹下の日誌に「十五日午前一時半」と書かれている。しかし、ここで彼と別れた畑中が近衛師団で森師団長を殺害し、井田と水谷参謀長が東部軍司令部へ行ってこの事件を報告したのが「午前二時」と記録されているから、竹下の陸相官邸到着は一時半より前であったろう。
この夜は零時三十分からB29四目標百五十機〜二百五十機が侵入し、東日本の七都市を四時間余にわたり攻撃していた。七十四パーセントを焼尽した熊谷市、四十パーセントの伊勢崎市をはじめ七つの都市が燃えあがっている最中だった。
竹下は出迎えた護衛憲兵の表情に、予感の通り大臣の自決の時が迫っていることを悟った。
阿南の部屋の前で入室の許可を乞うと、「何しに来たか」とちょっと咎《とが》めるような声が返ってきたが、すぐ語調を変えて「よく来た」と呼び入れられた。
部屋は次の間つきの十畳の日本間で、この二部屋には庭に面して四尺幅の通し廊下がある。空襲警報発令中で、雨戸は閉められ、電灯は黒い布で覆われて、次の間寄りに吊《つ》られた白い蚊帳《かや》が影のように浮いていた。
阿南は床の間を背に机に向かい何か書いていたが、それを違い棚の地袋に入れて、にこやかな顔を竹下に向けた。阿南は帰宅後入浴して体を潔め、丁度このとき遺書を書き終ったところであった。机の隅には簡単な膳と酒が置かれていた。
竹下は、阿南の疲労の色もなく溌剌《はつらつ》とした顔に、改めて平素の鍛錬を見せられた思いであった。のちに、陸軍次官であった若松只一中将は、阿南が「進退堂々、挙措典雅、悠々迫らずいつも微笑をたたえた温顔を最後の日まで変りなく保ちつづけたことに驚きを禁じ得ない」と述べている。追悼の美辞ではないようである。
阿南は、平常のにこやかな表情で「かねての覚悟の通り、今夜腹を切るつもりだ」と淡々といった。
「ご覚悟、ごもっともと存じます。あえてお止めしません」と義弟は答えた。
「そうか、君が来たので妨げられるかと思ったが、それならいい。かえって、よいところへ来てくれた」と盃《さかずき》をさし、酒を注いだ。
竹下はこの部屋にはいった時から、畑中らの蹶起をすぐ阿南に伝える気持を捨てていた。≪武人らしい最後を遂げようとしておられる今、急いでクーデターの事実を伝えても、静かな心境を乱すだけだ。また、畑中は「午前二時蹶起」といったが、その前に陸相がこれを知れば、職責上中止を命じる責任も生じるだろう。そんなことで自決の時を乱すべきではない。それに、クーデターを支える最大の柱である陸相の自決は、事の拡大を防ぐことになるだろう≫と考えた竹下は、注がれた酒を飲み干して、盃を阿南に返した。
二人の義兄弟はよく飲み、よく語り、時に声を合わせて笑った。竹下には、死別の時が目前に迫っているという現実が、夢のように思われる一瞬もあった。阿南が母の死以来ほとんど酒を断っていたことを知っている竹下は、ふと心配になり、「飲みすぎて、仕損じるようなことがあっては……」と注意した。
だが阿南は「なあに、飲めば血の循環がよくなり、出血も十分になるから、早く死ねるだろう。私は剣道五段だから、腕は確かだよ」と明るく笑った。「だが、もしバタバタするようなら、君が始末してくれ。そんな心配はまずなかろうが……」
阿南は二ふりの短刀を出して、その一つを「形見に」と竹下に与えた。他の一ふりが自刃に用いたものだが、これについて阿南の長女喜美子は「私が嫁ぎますとき、父から秋富へ贈った短刀でございます」と語る。喜美子の夫秋富公正(日本鉄道建設公団副総裁)は当時、海軍主計大尉であった。その軍装用に作り直すため、短刀はこのとき阿南家に戻っていた。阿南がそれを自刃に用いたのは、嫁いだ愛娘《まなむすめ》への思いをこめた選択ではなかったか――。
「ここで、何か書いておられたようですが……」という竹下の言葉に、阿南は地袋から二枚の半紙を出して彼に見せた。遺書と辞世の和歌であった。
一死 以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾 花押
という簡潔な遺書で、このとき阿南は、「神州不滅を確信しつつ」と書き足した。
阿南は竹下に「もう暦の上では十五日だが、自決は十四日夜のつもりである。十四日は父の命日だから、この日と決めた。それでなければ、二十日の惟晟の命日だが、それでは遅くなる。また十五日には陛下の玉音放送があることになっているが、私はそれを拝聴するに忍びない。辞表の日付も十四日にしておいてもらいたい」といった。
肉親の誰かの命日に死にたいという発想は、いかにも阿南らしい。彼は常に家族の愛情の温かさの中で生きた人で、孤独とは生涯無縁であった。素朴な仏教徒であった阿南には、あの世≠ェあると思えたのであろう。彼は竹下と酒を酌みながら「惟晟はよい時に戦死してくれた。私も惟晟の許へゆく」と語っている。あの世≠ナ愛児と再会する楽しみを思った阿南には、死もまた孤独ではなかった。
阿南の遺書の中の大罪≠ニは何を指すものか――。十五日朝、阿南自決の詳細を若松次官に報告した竹下は、大罪≠ノついて質問を受けた。竹下は、畑中らの叛乱事件と阿南との関連を含む質問と解し、「後日のため、阿南の自決と昨夜の事件とは関係のないことを明らかにした上で」次のように答えた、と書いている。
「私は大罪≠ノついて大臣にたずねたわけではないが、おそらく、満州事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に入り、遂に今日の事態に陥れた過去及び現在の陸軍の行為に対し、全陸軍を代表してお詫《わ》び申し上げたのであろう。遺書には陸軍大臣阿南惟幾とあり、辞世には陸軍大将惟幾と書いて、これを区別してある。遺書の方はもとより大臣としての職責に基いたものであるが、それは八月九日からの終戦論議で、聖慮は即刻和平であることを知りながら、あえて継戦ないしは条件付講和を主張し、聖慮に反した行為をとった事を主としたのかもしれない。
昨日、政府がポツダム宣言受諾を通告したことで、日清、日露の戦役を経て、赫々《かつかく》たる名誉と伝統に輝いた帝国陸軍は亡んだのである。陸軍は名誉と共に、幾多の罪償をも担っていた。阿南大将は亡びゆく陸軍の代表者として、その罪償を負うて自刃したのであると、私は思っている」
後日、阿南の遺書中の大罪≠ノついて、多くの人が多くの意見を述べている。だがそれらのほとんどが、この竹下の一文に含まれている。
阿南が竹下に見せた他の一枚の半紙には、
大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すへき片言もなし
八月十四日夜 陸軍大将 惟幾
と書かれていた。遺書には大臣と書き、辞世には大将と書いて、二つの立場をはっきり区別しているのが、いかにも阿南らしい。彼は竹下に「これは戦地に出る時のいつもの心境だ」と語った。
この歌は、このとき詠んだものではない。前述のように、七年前の昭和十三年、彼が第百九師団長として中国に向かう時、天皇と二人だけで食事をした後に、その感激をこめて詠んだものである。
午前二時を過ぎて、竹下は初めて畑中らの行動を阿南に告げた。阿南は驚きもせず、「東部軍は立たないだろう」と静かに答えただけであった。このとき阿南はまだ森師団長が殺害されたことを知らない。阿南が畑中らの蹶起を聞いても少しも動揺しなかったのは、田中大将はじめ東部軍幹部と、近衛師団長森中将への信頼の深さを示すものであったろう。日時は不明だが、終戦直前に阿南が森師団長と二人だけで会談したという、荒尾軍事課長の証言もある。
竹下は話題を変えて、「何か家族にいい残すことは?」とたずねた。阿南は相変らず盃を重ねながら、家族一人一人への言葉を残した。
「綾子へは、信頼し感謝して死んでゆく、と伝えてくれ」
妻への遺書はない。一心同体の夫婦であると信じ、妻もそう信じていることに疑いを持たぬ阿南は、今さら何を書き残す必要もなく、自分の気持をよくわかってくれると思ったのであろう。遺書のないことが、二人を結ぶ絆《きずな》の強さを思わせる。しあわせな夫であった。
「惟道がお父さんに叱られたと思っていてはかわいそうだが、この前帰ったとき風呂に入れて洗ってやったから、よくわかっただろう。兄や弟と同じようにかわいがっていると伝えてくれ」
四男惟道(現、野間姓、講談社副社長)は満七歳であった。
「惟敬(長男)はああいう性格だから、思いつめて自決したりすることのないよう、過早に死んではならぬとくれぐれも伝えてくれ」
「総長には『書き残しませんが、閣下にはお世話になりました』と申し上げてくれ」
「安井国務大臣に、お世話になった、といってくれ」
「林秘書官に礼をいってくれ。よい秘書官だった」
このほか阿南は、畑、荒木、板垣、石原などに「厚意を謝す」といいのこしている。
やがて阿南は純白のワイシャツを恭しくとり出して着かえ、「これは侍従武官時代に拝領したもので、お上《かみ》がお肌につけられた品だ。これを着て逝《ゆ》く」といった。ほんのりと赤味のさした顔に、いかにも満足そうな微笑が浮かんでいたという。
さらに阿南はすべての勲章を軍服に佩用《はいよう》してそれを身につけ、竹下に向かって、「どうだ、堂々たるものだろう」と、ちょっとおどけて見せた。彼は天皇の肌にふれたワイシャツを身につけ、天皇からいただいた勲章で自分の死を飾ろうとしていた。これは、阿南が意識したかどうかはわからないが、乃木大将の自刃の時と同じである。
阿南は勲章で重い上着を脱ぎ、きちんと床の間に置いてから両袖を前で交叉《こうさ》させ、その中に戦死した次男惟晟の写真を抱くように置いた。言葉もなく義兄の動作を見守っていた竹下は、「終ったら、体の上にかけてくれ」という声に、はっと居ずまいを正した。
ここに一つ、阿南の不可解な言葉がある。彼は竹下に「米内を斬れ」といった。これは竹下の『機密作戦日誌』に書かれている。
「思いがけない言葉でした」と竹下は語る。「私はかねがね阿南が米内さんを尊敬していると思っていたので……」
「米内を斬れ」といった理由は何であったのか――。阿南は≪敗戦の責任をとるため自分は陸軍を代表して自刃するが、海軍もまたその代表者である米内が自決すべきではないか≫と考えたのであろうか。
「いや、それほど意味のある言葉とは思われません」と竹下は否定した。「そのとき、阿南はもうかなり酔っていましたし、『米内を斬れ』といったあと、すぐ他《ほか》の話に移ったことからも、深い考えから出た言葉でなかったことがわかります」
林三郎が阿南の部屋にはいったのは、それからしばらく後のことだが、林は「私が会った時の阿南さんは少々ろれつが廻らないほど酔っておられましたから、『米内を斬れ』という言葉も単に口走っただけで、意味はなかったと思います」と語る。
松谷誠も「その場にいた竹下さんのいう通り、意味のない言葉だったでしょう」と語る。「日ごろから阿南さんは、深く考えてものをいう人ではなかった。自分の言葉の影響も余り考えず、瞬間的に頭にひらめいたことをすぐ口に出す人でした。それだけに、無邪気な、気のいい人だったと思います」
阿南が「米内を斬れ」といったのは、夜の閣議で阿南と米内とが詔書の文言「戦勢日ニ非ナリ」をめぐって激しくやり合ってから、まだ数時間しかたっていない時であった。数日来のこうしたやりとりの度に、阿南は米内に対し「余りに武士の情がない」という憤懣《ふんまん》を抱きながら、それを押えてきたのではなかったか。それが酒の勢でつい口に出た、ということであろうか。
この夜の阿南はよく飲み、よく語った。母の死以来、ほとんど禁酒して重責に耐え続けてきた自分に「もういい。存分に飲め」といたわりの声をかけ、この世の飲み納め≠フ酒をあおったのかと思われる。力の及ぶ限りをなし遂げた満足感と、すべての苦悩から赦《ゆる》される解放感に、思わず「ああ済んだ!」と叫びたいほどの喜びがありはしなかったか――。連隊長時代に若い士官から「切腹の作法を教えて下さい」といわれた阿南は、「何よりも大切なのは、切腹の時を誤またぬことだ」と教えている。八月十四日の夜こそ、まさに自分が切腹すべき時だ――という阿南の自信には揺ぎがなかった。自決前数時間の阿南の心は高揚し、陽気≠ナさえあった。
昭和二十三年に死んだ米内光政は、阿南の「米内を斬れ」という言葉を知らなかったであろう。竹下は戦後長く『機密作戦日誌』のこの一行を公表しなかった。阿南の自決を知った米内は、秘書官も連れず一人で陸相官邸へ弔問に行った。
終戦間近のころ、米内は次のように語っている。
「私が自決するとの噂《うわさ》があるが、自重してくれと……しかし私は自分の手では死なん。こんなありさまにしてしまった国をそのまま見捨てて、陛下だけ残して死ねない。けれども私の命がお国のために必要だというのなら、喜んでいつでも差し出すよ」
畑中が竹下への連絡のため派遣したX少佐が、肩から下半身にかけて多量の血を浴びたどす黒い姿で、陸相官邸に現われたのは午前三時ごろであった。応接室に出て来た竹下に向かって、Xは「森師団長は同意されないので、やむなく殺害しました。計画は着々と実行されています。東部軍がどう動くかはまだ不明ですが、井田中佐が説得に行っていますから、間もなく蹶起《けつき》するでしょう」と報告した。そして「急いで守衛隊本部に戻らねばなりません」と、たち去った。
竹下はXの説明で、畑中が師団長を射ったことは明瞭なので、それ以上、誰が森に一刀を浴びせ、誰が白石の首を打ち落したかなどを、詮索《せんさく》してはいない。
それどころではなかったのだ。遂に森師団長を殺してしまった畑中たちは、これからどうするつもりなのか。X少佐は「東部軍は間もなく立つでしょう」といったが、このとき竹下は阿南の言葉の通り、それを否定する気持に傾いていた。阿南は「東部軍は立たぬだろう」といったのだが、その言葉にこもる確信が「東部軍は立たぬ」といい切ったような印象を、竹下に与えていた。
部屋に戻った竹下が「森師団長殺害」を告げると、阿南は静かに盃を下におき、「そうか、森師団長を斬ったか。今夜のお詫びも一緒にする」と、表情を翳《かげ》らせていった。
終戦から数日たって、森師団長と白石参謀を斬ったのは上原重太郎大尉であったと発表された。上原がクーデター計画の初期から主謀者たちと連絡があったこと、当日の彼の行動、剣道四段の腕前、そして生一本で激しい性格を知る者は皆それを信じた。航空士官学校叛乱事件の主謀者の一人でもあった上原は、八月十九日に自決している。周囲は、上原が森と白石を斬った責任をも合わせてとったものと思った。
ところが数年後に「下手人はX少佐であった。だが彼の周囲が相談して、事件の四日後に自決した上原大尉の罪として、Xを救ったのだ」という噂が流れた。防衛研修所戦史部に保存されている『東部軍終戦史』も、いつの間にか上原重太郎の名を抹消《まつしよう》して「某」と書き改めてあるところから、噂≠ヘよほど信憑《しんぴよう》性の高いものであったろう。
週刊誌『サンデー毎日』が昭和四十三年八月二十五日号でこれをとり上げ、X元少佐を直接取材している。Xは記者の質問に「私が犯人だ」と答えている。
宮城内の守衛隊司令所で、藤井は下村情報局総裁はじめ十数人の捕虜≠フ見張りを続けていた。何時ごろから、何時ごろまでこの役を勤めたのか、藤井は覚えていない。藤井だけでなく、宮城事件に参加した人々の語る時間はみなあいまいで、くいちがっている。彼等には時計を見る気持の余裕もなく、むしろ時間さえ停止しているような異常な状態であったろう。
藤井の前に突然畑中が現われ、「石渡宮内大臣を捜して、つかまえてこい」と命令した。今度も、藤井は石渡の顔など全く知らないのだが、とにかく宮内省へ向かった。
真暗で迷宮のような宮内省の中を手さぐり足さぐりで動きまわるほかなかった。カギのかかっている同じような部屋が並んでいて、戸を破ってはいってみても、ゴタゴタと物が置いてあったり、空室であったり、どこをどう捜せばよいのか、雲を掴《つか》むような頼りなさである。宮城内の地理に明るい藤井も、守衛隊の警備範囲に含まれていない宮内省の中など、かつてのぞいたこともなかった。
周囲に多くの兵がいたが、彼らもこの複雑な三階建ての内部を闇雲に軍靴《ぐんか》で踏み荒しているだけで、指揮をとる将校の声はいらだちにかすれていた。「誰か、石渡宮内大臣の顔を知らんか!」と、めくら滅法にどなってみても、答えはない。
このとき木戸、石渡の二大臣は、徳川侍従によって地下の金庫室にかくされていた。ここは三階の女官室の納戸《なんど》とだけ隠し階段でつながっていて、よほど宮内省内部の様子に通じている者でなければ知らない場所であった。
同じ廊下、同じ部屋を何度めぐり歩いても石渡宮相は見つからず、むなしさに気が沈んでくるにつれて、藤井大尉の動きもにぶくなった。
「あのとき、玉音盤≠捜している者もいたとは後になって聞いたことで、当時の私は、総がかりで大臣を捜していると思っていた」と藤井は語った。
当夜、「旧本丸方面に赴き、宮城を守護せよ」という命令を受け、東部軍司令官が鎮圧に来る十五日早朝まで、呉竹《くれたけ》寮の前を警衛した近歩一第三大隊長村上稔夫大尉も、「世上に伝わっている玉音盤£D取の話は、どうもおかしいように思う」と語っている。
また古賀参謀の命令で、約一箇中隊を率いて木戸内府を捜した佐藤好弘大尉は、「私は、玉音盤は下村総裁の車の中にあると信じきっていたので、宮内省でそれを捜すはずもなく、部下に捜せと命じたこともない。私は一生懸命木戸内府を捜した。古賀参謀があれほど木戸内府に執着した理由は、私にはよくわからなかった。もし陛下にご翻意を願うことになれば、木戸内府には価値があるということだったが……」と語っている。
宮内省で木戸内府、石渡宮相を捜したという証言は多いが、玉音盤を捜したという証言はごく少ない。古賀が、軟禁されている放送局の矢部局長から「玉音盤は宮内省にある」ことを聞き出し、一大尉にその捜索を命じたが、他の部隊へは命令が伝わらず、玉音盤を捜した兵の数は少なかった。両大臣と玉音盤の捜索は同じ宮内省内で行われ、時刻もほぼ同じであったため混同され、両大臣の捜索が主であったにかかわらず、玉音盤の方だけが大げさに世上に伝わったのであろう。
東部軍の説得に失敗した井田中佐は、逆に畑中らのクーデターを中止させようと近衛《このえ》師団に戻った。
井田が車を乗りつけた衛兵司令所は、このとき叛乱軍の総司令部と化していた。宮城完全占領に成功した畑中は、まさに意気|軒昂《けんこう》≠フ顔つきであったが、井田は心を決して「畑中、もう駄目だ」と、いきなり否定の言葉を浴びせた。「東部軍は冷却しきって、全く立つ気配はない。早く兵を引け。これ以上宮城に籠城《ろうじよう》していたら、東部軍との一戦は避けられなくなるぞ。友軍相撃になる」
畑中はたじろがなかった――
「一戦恐るるに足らずです。我々は宮城を占領し、うしろには陛下がおられます。天下無敵です」
「バカをいえっ」と井田も必死だった。「師団長を殺しておいて、何が一戦だっ。森閣下の死が伝われば、近衛師団の指揮はいっぺんに崩れる。夜が明ける前に兵を引けよ。我々だけで責任をとろう。畑中、それでいいじゃないか。やれるところまでやったのだ」
うつむいていた畑中が、小さくうなずいた。
井田はこのとき≪事件を大臣に報告せねばならぬ≫と思った。
「いいか、暗いうちに必ず兵を引けよ」と、もう一度畑中に念を押して、井田は陸相官邸に向かった。
井田の言葉にうなずきはしたものの、畑中の狷介《けんかい》な精神から生じた継戦の願望はなお燃えていた。彼は椎崎、古賀を呼んで協議を始めた。そして彼らは――この上は十日でも二十日でも宮城占拠の態勢を崩さず、東部軍はじめ全軍に呼びかけて、戦争継続に持ちこまねばならぬ。東部軍も説得を重ねれば必ず立つに至るだろう。我々は陛下を擁している。状況の変化に臆することなく、既定の計画を推進するのみ――という結論に達した。
しかし、このころまで彼らを支持していた、実力行使部隊の指揮官である佐藤大尉は動揺していた――≪古賀参謀は、東部軍の様子をたずねてもはっきり返事をしない。どうもおかしい。我々は二・二六事件の蹶起部隊のように、孤立しているのではないだろうか。陛下が昨夜来の事件を聞かれたら、宮城占拠部隊を自ら討伐すると仰せられはしないか。もしそうなったら、我々が命を捨てて国を守ろうとした真心は、どういうことになるのか≫
佐藤は遂に「協力中止」を決意した。中隊長以下幹部全員を集合させた彼は、初めて叛乱計画を告げ、自分の新たな判断を述べた。彼は「責任はすべて私にある。お前たちには全く責任はない」と繰返したのち、実弾などを所定の位置に回収するように命じた。
そのかたわらにいた椎崎は、佐藤の行為を止めようともせず、静かに見守っていたという。彼にはすでにクーデターの結末が見えていたのであろう。
東部軍司令官田中大将が事件鎮圧に乗り出そうと待機していたこのとき、叛乱軍はすでに内部崩壊を起していた。
このころ、空襲警報が解除された。
藤井大尉は真暗な宮内省の中をいくら捜してみても石渡宮相は見つからず、気落ちした足どりで屋上に登ってみると、そこに同期生の機関砲中隊長広川正信大尉が一人、コンクリートの床に膝《ひざ》を抱いて坐っていた。藤井も同じ姿勢で彼の隣りに坐り、ボソボソと話した。やがて藤井は、黒々とした大内山の森のはしに、ひとすじの青い曙光《しよこう》が射し始めたのに気づいた。彼は時間を忘れていたが、初めて時計を見た。四時であった。烏《からす》が鳴きはじめ、空は見る見る烏の飛びかうさまが見えるほど明るくなった。この日、早朝は曇っていた。
藤井は腰を上げる気にならなかった。彼は地上の動きをいっさい知らない。ただ気がめいるままにじっと坐っていた。十四日午後からの藤井の感情の起伏は、叛乱軍主謀者たちのそれと同じカーブを描いている。
畑中に「兵を引け」と勧告した井田が陸相官邸に着いたのは、東の空に青い光が美しくにじみ始めた午前四時ごろであった。玄関にいた憲兵下士官から「大臣は自刃直前ですから、面会はできません」と告げられた井田が茫然と立ちつくしているところへ、竹下が顔を出した。
井田は阿南の許へ導かれたが、廊下に膝をついてただ涙を流した。このとき井田は≪陸軍軍人のあきらめきれない思いを断ち切るために、大臣は切腹されるのだ≫と思った。≪クーデターなど、初めから幻のようなものだったのだ。東部軍は蹶起に同意しないばかりか、たちまち鎮圧の手を打ち、大臣もまた微動だにせず、自決という行為で諭されている≫
「井田中佐、よく来た。中へはいり給え」
阿南は機嫌のいい声で呼んだ。井田はうながされるままに、阿南と膝が触れ合うほど近く坐った。
「いま死のうと思うが、君はどう思うか」という阿南の言葉に、井田はためらわず「結構であると思います」と答えた。
「そうか、君も賛成してくれるか」
阿南が例の、人の心を引きこむような温かい微笑を浮かべて、井田の手を握った。
井田が殉死≠思ったのは、この瞬間であった。彼は宮城事件を報告するために官邸に来たのだが、すでに失敗と決まった事件を報告して、自決直前の阿南の心を乱す必要はない、と心を決めていた。井田は事件に参加した責任をとり、畑中、椎崎と共に死ぬつもりでいた。それがこのとき、阿南に殉じて死のうという気持に変った。その決心が、口をついて出た――
「わたくしも、あとからお供いたします」
途端に井田は、目もくらむ激しさで二つ、三つと頬をなぐられた。
「何をバカなことをいうかっ」と阿南の大喝が頭上に響いた。「おれ一人、死ねばいいのだ。いいか、死んではならんぞっ」
阿南は両腕で井田の肩を抱き、顔をのぞきこんで「わかったか、わかったか」と繰返した。
井田は目を閉じて、畑中や椎崎を思った。だが、「どうしても死なねばならぬわけがあるのです」と本心をいえば、事件とそこで自分が果した役をうちあけなければならない。彼は阿南の両腕の中で「わかりました」と答え、その厚い胸に顔を押しあてて泣いた。心服してきた大先輩への、最後の甘えであった。
やがて阿南が「もう泣くのはやめて、酒を飲もう」といった。三人は改めて盃をあげ、阿南一人が機嫌よく話した。
「六十年の生涯、顧みて満足だった」阿南は桜色に染まった顔をあげて、ここちよさそうに笑った。
林三郎秘書官が、枕許の電話の音で目をさましたのは、午前四時すぎだった。「近衛師団が偽命令で動き、部隊は宮城につめかけている」という陸軍省からの知らせで、林は報告のため、すぐ陸相官邸に行った。
玄関にはいると、阿南の酒気を帯びているらしい大きな話し声が洩れていて、林は《めずらしいことだ》と思った。
林が座敷にはいると、雨戸の隙間から暁の微光が洩れる薄暗い中に真白なワイシャツ姿の阿南が坐り、その前に竹下と並んでいる井田が何か諭されている様子であった。胸いっぱいに勲章をつけた床の間の軍服が、林の目をひいた。自決直前であることは一目でわかった。林が事件を報告すると、竹下が「クーデターは失敗した。東部軍が動かない」と説明した。
林は次のように書いている――
「私には、別に彼の自決をとめようとの気は少しも起らなかった。しかし、何ともいいようのない複雑な気持に襲われた。また具合の悪いところへ入ってきたものだと、少しく後悔しはじめた。ところが阿南さんから『君はあちらに行っておれ』といわれたのを幸いに、すぐ座を外し、その足で偕行社の若松次官の許へ急行した。偕行社から若松次官の跡を追い、すぐ陸軍省に廻った」
午前四時すぎ、黎明《れいめい》を待ちかねていた東部軍司令官田中大将は、不破参謀と塚本副官を従えて車で宮城へ向かった。
田中は乾門に直行する予定を途中で変更し、まず近衛歩兵第一連隊に向かった。田中が到着したとき、約千人の将兵は完全武装し、鉄カブト姿の連隊長渡辺|多粮《たろう》大佐の指揮で宮城へ出動しようとしていた。田中はそれを中止させ、渡辺を連隊長室に伴なって、「師団命令は偽であり、森師団長は殺害された」と告げた。ここには、偽命令で渡辺を動かしていた石原参謀がいた。田中は石原を激しく叱責《しつせき》し、不破に彼の逮捕を命じた。不破は、間もなく到着した憲兵に石原をひき渡した。
師団命令が偽であることを知った渡辺連隊長は、久松第一大隊長を呼び「ただちに放送局へ行き、小田中隊を撤収せよ」と命じた。小田中隊は午前二時半ごろから放送会館を占拠していた。
久松がサイドカーで内幸町《うちさいわいちよう》の放送会館に着いたとき、そこでは畑中が激しい見幕で東部軍幹部といい争っていた。叛乱《はんらん》軍にとって絶望的な状況の宮城からぬけ出した畑中は、ラジオを通じて全国民に、日本がポツダム宣言を無条件に受諾してはならないと呼びかけようと必死であった。だが放送局員は勇敢に彼の要求を拒み、放送会館を叛乱軍の手から奪回するため出馬してきた東部軍も、それを受け入れるはずはなかった。畑中は、そこに駈けつけた近歩一の久松大隊長にいきなりピストルを向けるほど、逆上していた。
遂に放送をあきらめた畑中は、久松のサイドカーに乗って近衛師団に帰るほかなかった。
近歩一の渡辺連隊長に師団命令が偽であることを告げた田中軍司令官は、そこから宮城内の芳賀連隊長に電話をかけ、乾門で軍司令官を迎えるよう命じた。
田中が、乾門の守備に当っている中隊長らから情報を聴取しているところへ、佐藤、北畠の二大尉に守られて芳賀大佐が現われた。一兵も傷つけず事を収めたいと苦慮し続けていた芳賀は、畑中、古賀から師団長殺害を告げられ、「森閣下に代って、指揮をとって下さい」と迫られて、いっそう苦境に立っているとき田中軍司令官からの電話を受けた。田中は芳賀に「以後は田中が近衛師団の指揮をとる。ただちに撤兵して、原配置に帰れ。それが終ったら、軍司令官まで実行報告せよ」と命令した。
午前五時、憲兵司令官大城戸三治中将が、近衛師団の事件を報告するため陸相官邸に来た。これを機に、阿南は竹下に「そろそろ始める。憲兵司令官には君が会ってくれ」と彼を去らせた。
井田もこの部屋を出たが、そのまま官邸を立ち去るにしのびず、そっと庭に出て阿南の部屋の前にまわった。雨戸がしめ切ってあったが、その廊下で間もなく阿南は切腹するはずである。井田は庭に正座し、土に両手をついて薄墨色の雨戸を見上げた。
応接室で竹下が憲兵司令官と話しているところへ、林秘書官が兵務局長那須義雄少将と共にはいってきた。
近衛師団の事件を知った陸軍省幹部の中には、阿南が血気にはやる青年将校たちにかつぎ上げられたのではないか、と懸念する者があった。その一人であった那須は、若松次官と相談して、官邸に駈けつけたのだ。≪大臣を西郷隆盛にしてはならない≫と那須は思った。≪もしそうなったら、全陸軍の代表者が国賊と呼ばれることになる≫
だが陸相官邸は何事もなく、誰もが息を殺しているような異常な静けさに満ちていた。
林が「大臣に登庁を願わなくては」と一人で阿南の部屋へ行った。彼はすぐ戻ってきて、「大臣自刃」を告げた。
駈けつけた竹下が見たものは、皇居の方角に向かって廊下に端座し、すでに割腹を終って、左手で右|頸部《けいぶ》をさぐっている阿南の後姿であった。竹下はその背後に膝をつき、静かに見守った。阿南の右手の短刀が首に押し当てられ、一気に強く引かれた。血がほとばしった。
「介添えいたしましょうか」と竹下が低くいった。
「無用だ。あちらへ行け」
竹下は部屋を去った。
庭に土下座して雨戸越しに阿南に別れを告げた井田は、近衛師団に戻って撤兵を促そうと思ったが、待たせておいた車が姿を消していた。そこへ那須兵務局長が出て来た。井田はいや応なく那須の車に乗せられて、陸軍省へ向かった。このころ、五時三十分、警戒警報に続いて空襲警報のサイレンが鳴りわたった。
乾門の田中軍司令官は、芳賀大佐とその大隊長たちを前に諄々《じゆんじゆん》と説いた。
「潔く、我々は敗れよう。そして責任をとろう。お前たちだけが責任をとるのではない。軍司令官も立派に責任をとる覚悟を決めている。散りぎわだけは軍人らしく散ろう。これが日本陸軍最後の姿だ」
このとき門外に一台の車が停り、三人の将校が降りた。阿南に別れを告げて陸軍省へ行った井田中佐と、畑中らの行動を即刻中止させようという意図の軍事課長荒尾大佐と島貫中佐であった。だが田中軍司令官は、彼ら三人の入門を峻拒《しゆんきよ》した。
田中は宮城内にはいり、何の抵抗も受けず、お文庫≠ニ呼ばれる天皇の居所へ直行した。このころ侍従たちは「間もなくここにも兵隊が乱入する」という知らせを受けて、天皇を起し、それを伝えたところであった。蓮沼侍従武官長は宮内省の武官室に軟禁されたまま連絡はつかず、途方にくれていた侍従たちの前に田中軍司令官が現われ、力強い声でいった――
「只今、軍司令官が参上いたしました。もはやご憂慮遊ばされることはございませんと、言上していただきたい」
侍従たちは初めて安堵《あんど》した。
田中は侍従と大隊長の案内で、宮内省へ向かった。「軍司令官だ。道を開け」と叱咤《しつた》する田中を乗せて、車は次々に歩哨《ほしよう》線を突破し、武官室はたちまち解放された。田中は蓮沼武官長を車に乗せて、お文庫≠ノ送り届けた。さらに彼は宮城内を一巡し、軟禁されていた人々の解放など、事件の完全な解決を確認した上で東部軍司令部に帰った。
(この日午後五時、田中は天皇に呼ばれ、感謝の言葉を受けて深く感激した。その言葉を書きとめた紙片を軍服の胸ポケットに入れて、彼は八月二十四日夜、自決した。)
東部軍参謀不破博大佐は「宮城占拠事件は田中軍司令官の旺盛《おうせい》なる責任観念とその挺身《ていしん》行動によって鎮圧せられたと説く者が多いが、事件の経緯を具《つぶ》さに観察するに、経過そのものは必ずしもそうではない。あの際田中軍司令官の挺身行動がなくとも、事件は間もなく終熄《しゆうそく》したものと断じてよかろうと思われる」と書いている。
しかし不破は田中の行動を高く評価している。
「事件は最初に憂慮した如く大事に至らずして鎮圧し得たが、それは結果論である。いかなる大事に発展するか不明のあのとき、田中軍司令官は単身宮城内にとびこみ単刀直入事件の核心に体当りを以《もつ》て臨まんと決心したのである。もちろん生死を超越した境地であり、達人にして初めて行い得る大決心である」
また森師団長については「森中将の死こそ、事件を大事に至らしむることなく終熄せしめ得た最も根本的な要因であった」と書いている。
さらに不破は「宮城事件は誰が起したかというに、私は畑中少佐一人の強烈な意志によるものと考える。椎崎中佐といえども畑中少佐に引摺《ひきず》られたものと判断する」と書き、畑中の人間的魅力にふれて、「平常畑中少佐と親交のあった者は最後の場で彼を離れることは出来まい」と述べている。
東部軍は田中大将はじめ幹部一同、叛乱軍の鎮圧に努めて乱れがなかった。その経過を『東部軍終戦史』中に冷静な筆で記録したのは参謀不破博大佐だが、彼さえも叛乱主謀者たちを「いずれも皇軍将校としては立派な人たちであり、その心事においては遠く我々凡俗の及ぶところではない」と、たたえている。当時の軍人の多くが畑中らを「叛逆者」「不心得者」と断じるにしのびなかった一例である。阿南自身の心境は別として、阿南はこういう軍人たちを率いる陸相であった。
陸相官邸に若松次官から電話がかかった。このとき初めて竹下は「大臣自刃」を告げた。竹下が再び阿南の許へ行くと、体が少し前のめりになっているが、呼吸音は十分に聞こえた。竹下が「苦しくはありませんか」とたずねたが、すでに意識はないらしく、答はなかった。だがときどき手足が動くので、竹下は短刀をとり、右頸部深く介添した。そして、床の間の軍服を阿南の体にかけた。
再度、陸軍省から電話があり、竹下は「すぐ登庁するよう」命じられたので、三たび阿南の部屋へ行った。廊下はすでに一面の血潮で、微《かす》かながらまだ阿南の呼吸音は聞きとれたが、竹下は死の時の近いことを見定めて、陸軍省へ向かった。
阿南の自決について、「時期尚早」という批判の声は多い。
秘書官であった林三郎も「無血終戦≠ニいわれるが、私は宮城事件を二・二六事件以上の大不祥事と思うので、この言葉には同意できない。忠誠の人≠ニいわれた阿南さんが、自刃の前にこの事件を知りながら、なぜ自分で宮城へ駈けつけて鎮圧に当らなかったのか。『東部軍は立たないだろう』といっただけで、何の処置もとらなかったことに、投げやりな感じさえ受ける。
また陸軍大臣として、なぜ終戦処理という重大な任務を果さなかったのか。自決はその後にすべきではなかったか」と語る。
「自決は終戦処理をすませた後に」という意見は、林も、吉積軍務局長も阿南に直言している。「過早に死んではならぬ」とは、阿南がたびたび部下を戒めた言葉ではなかったか。このとき、彼がそれを考えなかったはずはない。考えた上で、阿南が八月十五日に自決した理由は何であったのか――。
阿南は竹下に「陛下の放送を拝聴するに忍びない」と語っている。しかし、どれほど辛かろうとも、そのあとに陸相として果すべき責務があれば辛さに耐えるべきで、これが自決の時期を決める理由であったとは思われない。個人の感情問題など、この場合取るに足りないものとすべきであろう。
また阿南は「惟晟の命日二十日では遅くなる」とも語っている。なぜ二十日では遅すぎるのか――。
想像されるのは、阿南が≪玉音放送によって日本の降伏が発表される前に、死なねばならぬ≫と考えたであろう、ということである。それによって、外地を含む全陸軍将兵が日本の降伏を知ると同時に、陸軍大臣の自決をも知ることになる。陸軍の代表者の自決によって、彼らの熾烈《しれつ》な継戦意欲を一挙に解熱することが出来ると思ったか、またはその一助ともなろうと思ったかは不明だが、そこに彼の狙いがあったのではないだろうか。
旧軍人の中には「我々は天皇の軍隊≠ナあった。従って天皇が終戦とお決めになれば、それに従うだけで、陸軍大臣が自決してもしなくても、そんなことは関係ない」という意見もある。また一方には「戦局が絶望的だから、もう戦いを放棄しよう、降伏しよう、では国家にも国民にも相すまない。ぜひ本土決戦で敵に一撃を……と思いつめていたが、陸相の自刃を聞いて一時に力が脱け落ちる思いだった。もう駄目だ、と思った」と語る人もある。五百五十万という陸軍大集団にいろいろの意見があるのは当然で、右の二つだけに分けても、それぞれが全体の中で占める割合を知ることは不可能である。
軍事課長であった荒尾興功は、昭和四十八年四月十七日、フランスのテレビ局の質問に次のように答えている――
「陸軍は昭和二十年八月十四日朝までは、戦争を継続すべきであると考えていた。然しこの日から、ポツダム宣言受諾の天皇の命令に即刻添わねばならぬことになった。この天皇の命令に全陸軍が直ちに従うためには、単なる命令だけでは徹底しない。電撃的ショックを必要とするのである。全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最も強いショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之《これ》により全陸軍は、戦争継続態勢からポツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。それまで激烈な戦争継続要請の電報が前線から来ていたが、ピタリと止《や》んだ。換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった」
米内海相の許で軍務局長だった保科善四郎(海軍中将)は、後年「米内を斬れ」という阿南の言葉を知った後にもかかわらず、戦争終結の功績者として鈴木、米内と並べて阿南を挙げている。保科は阿南について「誠忠無比の人であった。終戦決定後自刃されて、五百万将兵が無事に復員するキッカケをつくられた」と述べている。
宮城事件の中心人物の一人であった井田正孝中佐は、次のように書いている。
「当時、畑中たちのみならず、全陸軍の心の中にあきらめ切れぬ何ものかが残っていた。その残滓《ざんし》を断ち切るためには、陸相の自刃が最大の切札であった。もし陸相の死が六時間早かったら、宮城事件は起らなかったと確信する」
さらに井田は、「大臣の眼中にあるものは全陸軍であり、宮城事件の二つや三つは当然起るであろうが、そんな局部的現象で進退を決しては大局を誤る」と阿南が考えていたと推察し、「阿南大将には、自分が死ねば全陸軍が慴伏《しようふく》するという確信があった」と断じている。いかにも井田らしい推論だが、阿南にここまでの自信があったかどうかは不明である。阿南は何も語らず、何も書き残していない。
多くの資料を読み、多くの人の意見を聞いた後に改めて終戦直前の阿南の心境を考えると、次のように思われてくる。
まず、本土決戦について――。
昭和二十年初め航空総監になった時から陸相の初期にかけて、阿南は沖縄を最後の戦場とし陸空軍の主力を注ぎこんで敵に痛打を与え、そこで終戦にもちこむ考えであったと想像される。しかしその機会もなく沖縄は占領され、六月二十二日には天皇が「戦争終結」の意思表示をした。天皇の心について阿南は特に敏感であったと想像されるし、それに添うことが彼の思考の基本であったろう。
そのうえ、日本の国力、戦力について厳秘扱いの調査報告書を読みよく知っていた彼は、遂に本土決戦を断念したと思われる。その裏づけの代表的なものは、陸相官邸で安井藤治、沢田茂と会食した七月三十一日(安井の記憶によれば八月一日)の、「本土決戦はやらぬ。陛下がお許しにならない」という阿南の言葉である。阿南にとってこの二人は最も信頼できる相手であったろうし、わざわざ本心とは逆のことを告げる必要などなかったはずである。
阿南が本土決戦を断念した時期には、おそらく決定的瞬間はなく、熟慮に熟慮を重ねてそこへゆき着いたのであろう。心情的には最後まで闘いたかったであろう阿南にとって、勇気のいる決断であったはずだ。
しかし最後まで国体護持の問題が阿南を悩ませた。ポツダム宣言を拒否して本土決戦をやり失敗したら、国体問題はより苛酷な条件に落ちるであろうし、宣言をそのまま受諾すれば、それはそれで確約のないままの終戦である。「本土決戦はやらぬ」と決意した後も、彼は最後までよりよい方策を求め、あらゆる可能性をさぐり続けたのではなかったか。松岡洋右や南次郎の意見を求めたことも、その現われかと思われる。
この仮説は気迷い説≠ノ近いが、本土決戦をやるべきか否かと迷ったのではなく、「やらぬ」と決意した上で、よりよい方策を模索し続けたと見る点に相違がある。
一方に阿南は内、外地の大軍隊を、即刻終戦という天皇の意志に従わせねばならない困難な責務を負っていた。閣議をはじめあらゆる発言の機会に阿南が継戦を主張したことは、全陸軍の代表者である彼として当然であり、またそうしなければ収まらなかったであろう。阿南は八月十四日の最後の御前会議の時までも、継戦を主張している。本心では本土決戦を否定する阿南がこうまで強く継戦を主張したのは、彼は天皇の和平への決意の固さを知り、自分がどれほど継戦を主張しても天皇によって否定されることを知っていたからではなかったか。
安井藤治も戦後に「私の忖度《そんたく》だが」と前置きした上で「あの時期に、あそこで(御前会議)陛下が阿南の主張を聞かれて、そうか、それなら戦いを続けようといわれることは絶対にあり得なかった。それでも阿南としては、多数の軍隊を押えてゆくために、あくまでも軍の総意を主張し、出来る限りのことはしたという手を打たねばならなかったのだ」と述べている。
次に、クーデターについて――。
五・一五事件、二・二六事件に対する厳しい批判と、忠誠心の強さから、阿南は初めからクーデターを否定していたと想像される。彼の態度があいまいであったのは、腹芸説≠フ人々がいう通り、頭ごなしに抗戦派将校を押えることの危険と、さらには彼らの将来を思う愛情であったろう。
どのような形にしろ、終戦は必至の時であった。阿南が第一に考えたのは国家のために軍の暴発を防がねばならぬということであろうが、それと同時に、青年たちを無傷のまま無事に戦後の世界へ送り届け、日本の再建に力を注ぐ後半生を送らせたかったのではないだろうか。この点、阿南の心境は、思慮の浅い息子たちを善導しようと腐心する父親のそれに近いものかと想像される。
将校たちがどのような教育を受けてきたか、幼年学校長を勤めた阿南には、自分の経験を振り返るまでもなく、よくわかっていた。彼らは十三、四歳から親許《おやもと》を離れ、一般社会からも隔離された全寮制の学校で教育された。さらに士官学校へと、教育の基本は一貫して軍人勅諭≠ナあった。これにいささかでも反する思考は、生徒たちの世界には存在しない。無菌状態の試験管の中で、軍人勅諭≠フ培養液に漬けられ、朝に夕に「君国への忠誠」をたたきこまれて成人した。米内光政の「軍人はかたわの教育を受けているので……」という言葉はこれを指すもので、彼は「それだからこそ日本の軍人は強いのだ」と述べている。
軍人勅諭≠フ中の「朕《ちん》は汝等を股肱《ここう》と頼み」などを少年の日から胸に刻んできた軍人が、戦争終結の決意をした天皇の「私の身はどうなっても」という言葉を、どのような思いで聞いたか――阿南は自分にひきくらべて、痛いほどによくわかったはずである。股肱≠スる者が、天皇のこの言葉をただ「ありがたい」と受けては、申しわけがたたぬ――という者に対する阿南の理解は深かったであろう。それでも阿南は、「日本の軍隊に降伏はない」という長年の教えのままに、継戦を主張する部下に対し、「降伏せよ」と命じなければならない立場であった。
情の人≠ナある阿南には、西郷隆盛のような立場になる危険性があった。しかし阿南の本心がクーデターに傾いたことはないと想像されるのは、天皇に対する血のかよった忠誠心が、彼の中で何よりも上位におかれていたと思われるからである。
クーデターに訴えても……と気負いたつ中堅将校とご聖断≠フ間に立った阿南の苦悩は、深刻なものであったと思われる。沢田茂は「私は阿南が腹芸≠やったと信じているが、しかし初めから『腹芸でさばこう』などという余裕のあるものではなく、もうこれ以外に道はないという、せっぱつまったものであったと推察している」と語った。
宮内省屋上の藤井大尉はようやく腰を上げ、のろのろと守衛隊司令所に戻った。そこで初めて叛乱が鎮圧されたことを知り、同時に陸相自刃を聞かされた。「体中の力がいっぺんに脱け落ちる思いであった」と、彼は今日述懐する。
畑中にあおられ、師団長を斬る決心をするほどに昂《たか》ぶっていた藤井の精神も、宮内大臣逮捕≠ノ見切りをつけたころから次第に下降線をたどり始めた。その気落ちの中でまだ|何か《ヽヽ》が胸に残っていたのだが、それが陸相自決でいっぺんにけし飛んだ。一時は命を賭《か》けた叛乱が駄目になったというだけでなく、「私の足を支えていた大地の底が抜けたように、何もかも、もうお終《しま》いだ」という喪失感に襲われたという。藤井の心理は、「陸相自決の影響」についての井田の推論通りに動いた。
藤井が幼年学校にはいって間もなく、阿南は校長から陸軍省兵務局長に転出したのだが、藤井は「戦後の社会で生き抜くために悪戦苦闘した時も、折にふれ阿南閣下の訓話を思い出し、それに力づけられた」と語っている。
十五日未明、総理官邸は、横浜警備第三旅団司令部付の佐々木武雄大尉以下五十数人の兵と、横浜高工(現、横浜国立大工学部)の学生数十人に襲われた。迫水書記官長は地下道を通って難をのがれ、私邸に帰っていた鈴木総理は、迫水に頼まれた官邸職員からの急報ですぐ実弟の家に移った。
暴徒たちは総理を求めて私邸へ行ったがそこにも鈴木の姿はなく、家に火を放ち、さらに平沼枢密院議長の家を襲った。平沼も間一髪で脱《のが》れた。
四谷にある陸軍省医務局員の合宿所の門前に黒塗りの大型車が停ったのは、十五日午前六時ごろであった。衛生課長出月三郎大佐は運転手から、林秘書官の「至急陸相官邸においでを乞う」という手紙を渡され、非常の事態を直感して車に乗った。
官邸の玄関は広く開け放されていた。出月が林から「大臣自決」を告げられたのは、そこへ一足踏みこんだときであった。
出月が導かれた廊下は一面の血で、彼はそこに、体を少し右に傾けて仰臥《ぎようが》している阿南を見た。出月が部屋にはいった時、阿南は低いうめき声を洩らした。
出月は阿南の右手首をとったが、脈搏《みやくはく》は全く伝わらなかった。顔面は蒼白《そうはく》で、両眼を閉じ、顔の皮膚は乾いた感じであったという。意識はすでにないが、腕などがときどき動いた。傷口を調べると、内外頸静脈は全断されていたが、頸動脈は離断していなかった。静脈には溢血《いつけつ》がかたまり、傷口からは黒い血が光りながら静かに流れ続けていた。出月はすでに手の施しようのないことを知り、武人の安らかな大往生を願った。
やがて、静かな臨終の時が来た。陸軍省高級副官美山要蔵大佐のメモには「七時十分、絶命」とある。出月は先着の指田軍医少佐と共に、阿南の屍《しかばね》を清めた。
出月は「下腹部|臍下《せいか》一寸の所に、左から右へ引いた創《きず》があった。全く作法通りの武人の自刃であった」と書いている。また彼は「血潮で濡れた下着類を着かえさせる必要があり、林秘書官が箪笥《たんす》の中を探したが、洗いざらしの古いものしか見つからなかった。陸軍大臣の威光で、被服|廠《しよう》あたりから新しいワイシャツの一枚や二枚は何でもなく入手できたはずだが、それをしなかったこの人に、私は改めて好感と尊敬の念を抱いた。のち阿南夫人と共に官邸に来た令息たちの服装も、古ぼけた、きわめて質素なものであった」とも書いている。
三十余年がすぎた現在、出月三郎は東京荻窪の隠居所で、「阿南大将の、割腹から絶命までの時間が長かったのは、頸動脈が切れていなかったためです」と語る。「頸動脈を全断すると血は天井まで飛び、死に至る時間もずっと短かくなります。しかし、動脈と静脈は医者でなければなかなかさぐり当てられないものですよ」
遺体を清め終った出月たちは、のどの傷に厚く繃帯《ほうたい》を巻き、林の手伝いで床の間の前にのべたふとんに移した。そのころ、出月の知らせを受けた神林医務局長、次いで若松次官が官邸に来て、共に遺体の前に両手をついたまま、言葉もなく涙を流した。
竹下が綾子に電話で阿南自決を知らせたのは、陸軍省へ向かう直前であった。彼は「まだ息はあるが、急いで来ても仕方がない。適当な時に迎えの車を出すから、仕度をしておくように」と告げた。綾子の落着いた応答は竹下の予期したものであったが、改めて彼は安堵を覚えた。
綾子はその前夜、十四日夜に、中支で戦死した次男惟晟の戦友の訪問を受けた。「松山というお名前の、朝鮮の方《かた》でした」と善信尼は語る。松山は惟晟戦死の状況を目撃した人で、それを語るために阿南家を訪れたのであった。「ぜひ、夫と共に話を聞きたい」と思った綾子は、陸軍省や官邸に何度も連絡したが、阿南を電話口に呼び出すことは出来なかった。綾子は一般家庭の主婦と同じく、八月十四日がいかなる日であるかを知らなかった。
十四日夜、松山は綾子のすすめで阿南家に泊った。十五日朝、竹下から夫の自刃を知らされた綾子は、松山には何も告げず、朝食を出した後、静かに彼を見送った。彼女は前夜愛児の戦死の模様を聞き、そしてこの朝、夫の自刃の報を受けたのだ。
綾子は実母竹下梅子と、手許の子供たち四人を連れて、陸相官邸に向かった。
「阿南は扁桃腺《へんとうせん》が腫《は》れると、よく、のどに湿布をしておりましたので……」と善信尼は語る。「官邸の部屋で、首に真っ白な繃帯を巻いて横たわっております姿を見まして、また扁桃腺が……と、ふとそんな気がいたしました。死顔は、それほど安らかでございました」
喪服姿の綾子は蒼白の顔を伏せて、ひっそりと夫の遺体のかたわらに坐っていた。畳に両手をついて弔問の言葉を受ける時も、彼女の姿は静かだった。その膝《ひざ》に片手をのせた四歳の末子惟茂(のち外務省情報局広報課主席事務官)の無心な視線を受けて、人々は改めてこれからの未亡人の多難な生活を思い、新たな涙を誘われた。
弔問者の中には、十三日朝陸相官邸の玄関で阿南の表情に異常を感じ、彼の身を案じて眠れぬ二夜をすごした前副官酒向一二の、うちひしがれた姿もあった、この朝、「大臣自決」を知らせる陸軍省からの電話を受け、河辺正三大将に報告したのは酒向であった。
阿南の遺体に対面するため陸相官邸に向かう梅津参謀総長は、車中で秘書官井上忠男中佐に「阿南は立派な武将であった。しかし政治家ではなかった」と語ったという。
河辺虎四郎は日誌に書いている――「大臣の遺体の前にぬかづいた。林三郎大佐の手によつて面上の白布が除かれた。瞑目結唇《めいもくけつしん》、端然たる相貌《そうぼう》、まさに神々しさを感ぜしめた」
十五日午前十一時、朝来の曇り日は真夏のあぶら照りに変っていた。宮城の鉄橋《てつばし》の上に、四人の将校がより添うように立っていた。鉄橋は二重橋の上手《かみて》にある。椎崎中佐、畑中少佐、古賀少佐の叛乱主謀者と、実行部隊の指揮をとった佐藤大尉とが、再び会うことのない別れの握手を交していた。
十一時二十分、椎崎と畑中の二人は二重橋と坂下門との中間の芝生で自決した。古賀は近衛師団に帰り、玉音放送中に森師団長の棺の前で自決した。
(このとき憲兵隊に留められていた石原少佐は、釈放されたのち初めてこれら三人の死を知った。十八日、航空通信学校の生徒たちがなおも継戦を主張して上野公園にたてこもったとき、石原は彼らの説得に行って一少尉に射殺された。≪説得が命がけの役目と知って出向いた石原は、死所を求めていたのだ≫と周囲は彼の心情を察した。)
同じ午前十一時ごろ、宮内省は静まりかえっていた。昨夜来の騒ぎは嘘のようだった。宮内省総務局書記官加藤進は国民服の肩から斜めにかけた国防色のスフのカバンをしっかりと手で押えて、玄関へ向かった。そこへ外からはいってきた迫水書記官長は、一目で加藤のカバンの中味を察したが、「どこへお出かけですか」とたずねた。
「いろいろご心配をかけましたが、録音盤は無事守りぬきました。わたくしはこれから、録音盤を放送局へ届けにまいります」
迫水は胸が迫り、言葉が出ずにただうなずいた。加藤は小さなボロ車で宮城を出た。その直前に予備の録音盤を乗せた大型車が、万一に備えて先行した。
高見順の「敗戦日記」から――
「八月十五日
警報。
情報を聞こうとすると、ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
『何事だろう』
明日、戦争終結について発表があると言ったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜わるのだろうか。
それとも――或《あるい》はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに……。
『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね』
と妻が言った。私もその気持だった。
ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。
十二時近くなった。ラジオの前に行った。
佐藤正彰氏が来た。……点呼の話になって、
『海軍燃料廠から来た者はみんなに殴られた。見ていて、実にいやだった』
と佐藤君が言う。海軍と陸軍の感情的対立だ。
『誰が一体殴るのかね』
『点呼に来ている下士官だ』
十二時、時報。
君ガ代奏楽。
詔書の御朗読。
やはり戦争終結であった。
君ガ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
――遂に敗《ま》けたのだ。戦いに破れたのだ。
夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線、烈日の下に敗戦を知らされた。
蝉《せみ》がしきりに鳴いている。音はこれだけだ。静かだ」
正午の陸相官邸――綾子はまだかすかに血のにおいの漂う部屋で、玉音放送♀J始を告げるラジオの声に体を固くして坐り直した。国難に殉じた夫に心を添わせて天皇の放送を聞きながら、彼女は初めて涙を流した。
畳三枚の小屋に住む、内田百※[#門がまえ+月」]の日記の一節――
「ラジオの前に坐る。天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙|滂沱《ぼうだ》として止まず、どう云ふ涙かと云ふ事を自分で考へる事が出来ない……」
高見順の十五日の日記はなお続く。
「電車の中も平日と変らなかった。……ドタ靴の男は軍曹だった。
軍曹は隣りの男と、しきりに話している。
『何かある、きっと何かある』と軍曹は拳《こぶし》を固める。
『休戦のような声をして、敵を水際までひきつけておいて、そうしてガンと叩くのかもしれない。きっとそうだ』
私はひそかに、溜息《ためいき》をついた。このままで矛《ほこ》をおさめ、これでもう敗けるということは兵隊にとっては、気持のおさまらないことには違いない。このままで武装解除されるということは、たまらないことに違いない。その気持はわかるが、敵をだまして……という考え方はなんということだろう。さらにここで冷静を失って事を構えたら、日本はもうほんとうに滅亡する。植民地にされてしまう。そこのところがわからないのだろうか。
敵をだまして……こういう考え方は、しかし、思えば日本の作戦に共通のことだった。この一人の下士官の無知|陋劣《ろうれつ》という問題ではない。こういう無知な下士官にまで滲透《しんとう》しているひとつの考え方、そういうことが考えられる。すべてだまし合いだ。政府は国民をだまし、国民はまた政府をだます。軍は政府をだまし、政府はまた軍をだます、等々。
『司令官はこう言った。戦いに敗けたのではない。戦いが終ったのだ。いずれわしが命令を下すまで、しばらく待っておれ。こう言った。――何かある。きっと何かやるんだ』
と軍曹は言った。一面頼もしいと思った。戦争終結で、やれやれと喜んでいるのではない。無知から来るものかもしれないが、この精神力は頼もしい。また一方、日本人のある層は、たしかに好戦的だとも感じた。
アメリカが日本国民を好戦的だと言ったとき、決して好戦的ではない、強制されているのだ、そして好戦的に見えるのは勇気があるからだ、勇気と好戦的とを一緒にしては困ると、そう考えたものだが……」
十五日夜、阿南の遺体は、陸軍の本拠地である市ヶ谷台上の広大な敷地の東端近く、かつてここが士官学校だったころ生徒の訓練に用いた海岸重砲の西側で、野戦の方式にならって荼毘《だび》に付された。長い夏の日も暮れた市ヶ谷台上では、この夜も書類を焼く煙が各所からあがっていた。「八時ごろでした……」と、林三郎は記憶している。棺を埋めた薪にガソリンがそそがれ、航空士官学校から駈けつけてきた阿南の長男惟敬が火をつけた。威圧的な音をたてて炎の柱があがった瞬間、綾子の母、阿南の岳父竹下将軍の未亡人梅子は前へのめるように土に膝をつき、そばにいた次官秘書官広瀬栄一中佐に助け起された。
このとき、他の二つの遺体――宮城前から竹下がひきとってきた畑中、椎崎の遺体も、ここで火葬にされた。阿南の言葉に背いたあげくに死んだ二人だが、彼らを焼く煙は、阿南を包む煙と一つになって勢いよく空に昇り、やがて風に吹き散らされていった。
参謀次長河辺虎四郎中将は、日誌に次のように書いた――
「カクテ我ガ大陸軍七十余年ノ歴史ハ、阿南大将ノ自決ヲ以テ終止符トナスベキカ」
[#改段]
あとがき
昭和二十年の夏≠ふり返ってみると、生後一年の痩《や》せた赤ン坊を抱いて、放心したように坐っている自分の姿が浮かぶ。
新聞は小さな紙っぺらではあったが、とにかく発行されていた。しかし私は何を読んでいたのか、敗戦まぎわの軍部や政府の動きなど、ほとんど知らずに過していた。戦況については、大本営発表は嘘八百だという常識だけはあって、かなり前から読まなかった。ラジオは大本営発表の前後に、陸軍は「分列行進曲」、海軍は「軍艦マーチ」がむなしい勇ましさを響かせていたが、疲れ果てていた私にも、戦死者の発表などに使われた信時潔《のぶとききよし》の名曲「海|征《ゆ》かば水漬《みづ》く屍《かばね》……」の悲痛なメロディーだけは心にしみた記憶が鮮明である。
敵が今にも上陸してきて、本土決戦が始まるかもしれない――などという声も、日常のこととして聞いていたが、全く実感にはならなかった。連日のようにどこかが空襲を受け、その度に多くの犠牲者が出たと聞いても、「やがては私も、子供も」という恐怖心さえ鈍くなっていた。生命に関する意識は、よほど鈍化していたらしい。こういうのを心神|耗弱《こうじやく》の状態というのであろうか。これは私だけのことではなく、多かれ少なかれ一般化した状態であったと思う。
敗戦という重大な事実について、その渦中にあった私の認識はこの通りあいまいである。敗戦について、私はいろいろな年代の人と話し合ってみた。こんにち四十歳から下の人は体験としての記憶がなく、同時代感すら持っていない人が大半である。昭和二十年の敗戦は、日本の近代史の上でおそらく最も重大なことのはずだが、学校でも教わらなかったという答も多く、要するに無知が実情のようである。しかし、敗戦は日本人の今日の生活の基盤であるはずだ。それを無視して、今日の日本、将来の日本の問題を考えることが出来るだろうか。たとえば平和のための国土の安全を考えるにしても、三十五年前(歴史の上ではごく新しい)に日本がどのように敗れたのか、帝国陸軍≠ェどのような役を果していたのかを知らないでは、どうしようもない。
その渦中で生きていたにかかわらず、あいまい模糊《もこ》とした認識しかない私は、自分の足場を確認する必要からも敗戦の時期≠ノついて知らねばならないと思った。それには書いてみるのが一番確かな方法だというのが、いつもながら私の考え方である。
敗戦の時期≠ノ手をつけることは、非常に気が重かった。とても私などには無理な仕事(これは本当だ)というたじろぎと、まるで濃霧にでも包まれていたように、私には手がかりがないと感じられたからである。しかしここを避けては私の歩く道は途切れ、私の思考は行き詰ってしまう。
戦争終末期を鈴木内閣の四ヵ月に限ってみても、記録は山ほどある。それを読み進むうち、「私はこんなに危険な状態の中で生きていたのか」という驚きに何度もぶつかった。陸軍が呼号していた本土決戦に突入していたら、または陸軍が和平派≠ニ継戦派≠ノ割れて内乱が起り、そこへ米軍やソ連軍が上陸してきたら……、どうなっていただろうか。女の私には、「日本がどうなったか」という問題より、わが子も無惨に軍靴に踏まれたのでは……という戦慄《せんりつ》のほうが先に立つ。
膨大な終戦資料の中から大きく浮かび出てきたのは、陸軍大臣阿南惟幾大将の姿だった。二十年春から夏にかけて、私はひどく健康を害し入院をくり返していたせいもあろうが、時の陸相についてはほとんど何も覚えていない。ただ、私たち市民の常識からは全く逸脱した、陸軍のファナチズムの代表者として、私たちをおびやかす存在と感じていたように記憶する。
こんなわけで、私は終戦資料を読み続けながら、白紙の状態で阿南陸相の像を捉《とら》えていった。彼には国民をおびやかしていた狂信的な面は少しも感じられず、常識人という印象が次第に濃くなった。
私が手さぐりする戦争終末期≠フ解明のために、太いたて糸になるのは阿南大将だと、私は思い定めた。その企図が成功するか失敗するかは私の技倆《ぎりよう》の問題だが、彼を選んだことは間違いなかったと思っている。
阿南惟幾は若い時から、自分が平凡な人間であることを自覚している男だった。功罪は別として、とにかく非凡な人材の大集団であった陸軍の中で、自分の平凡さを素直に謙遜《けんそん》に自認していた。しかし彼は、ひけめ≠ネどはみじんも感じていない。平凡を自認したうえで少しもたじろがず、明治育ちの男らしく絶えず自己鍛練を心がけ、与えられた任務に精いっぱいの努力を傾注した。
彼は立派な平凡人≠ニ呼ばれるべきだろう。私は天才的な人間に強い魅力を感じあこがれもするが、同時に立派な平凡人に深い尊敬を感じる。天才がごく稀《ま》れなように、立派な平凡人も稀れであり、私の信頼と親近感は後者に対して遥《はる》かに強い。
そういう私の性質も手つだって、私は資料を読みあさるうちに、阿南が好きになった。しかし彼には主人公になるだけのドラマがない。八月十五日未明の切腹によって、全陸軍を粛然と戦争終結に導いたのは劇的であったといわれる。だがそれも平凡人の誠実な着想の帰結であったといえよう。
西洋古代史の中で、シーザーとシャルルマーニュは二大英雄であるに違いないが、シーザーばかりが話題になる。彼には「ガリア戦記」があり、ルビコンがあり、クレオパトラがあり、暦法改正がある。だがシャルルマーニュには、シーザーのようなドラマもロマンもない。シェークスピアも、全ヨーロッパを治めたこの偉大な帝王には一顧も与えなかった。
同じくドラマもロマンもない阿南だが、彼の人柄の温かさはかたい記録文からも伝わってくる。私が温かさを感じ好意を持つ阿南は、軍人らしくない男であったかといえば、軍人になるために生まれてきたような典型的な帝国陸軍軍人≠ナあった。彼は自決の直前に、「六十年の生涯、かえりみて満足だ」と言い切っている。この深い満足感も、軍人になったからこそ得られたものであった。
阿南には才気にまかせた飛躍などというものはどこを捜してもないから、その折々の心境は必ずしも推測しにくいものではない。だが、戦争終末期の心境ばかりは不明というほかない。私が本文中に繰返したように、彼は「何も語らず、何も書き残していない」のだ。
今度ほど証言の聞きとり方、資料の読み方のむずかしさを痛感したことはなかった。歳月を経る間に人々は事実を忘れ、それだけならまだいいのだが、補修し、整理し、美化し、誇張し、想像を加え、つじつまを合わせ、感傷をまじえ、友情や儀礼を加え、意図的に自分の意思に引き寄せ――など、ありとあらゆる加工≠ェされている。証言、資料とは本来そういうものなのだろうと思いはしたが、その選別、識別は大変な苦労だった。
しかし海軍の保科善四郎中将のメモをはじめ、最後まで陸相とやり合った東郷茂徳外相の手記など幾つかの、スナップ写真で現場を押えたような、疑う余地のない資料もあった。
私の阿南惟幾伝は、画布の上に無数の点で彩色してゆく点描画のようにして、力及ばずながら、ようやく形をなした。
別項記載の証言者、資料提供者の方々に、厚くお礼を申し上げる。
[#地付き]著 者
昭和五十五年夏
[#改ページ]
主要参考・引用文献
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『大本営陸軍部(10)』(防衛庁防衛研修所戦史部著、朝雲新聞社、昭和50年)
『大東亜戦争全史』(服部卓四郎著、原書房、昭和40年)
『帰らぬ空挺部隊』(田中賢一著、原書房、昭和51年)
『参謀本部作戦課』(高山信武著、芙蓉書房、昭和53年)
『最後の参謀総長梅津美治郎』(上法快男編、芙蓉書房、昭和51年)
『有末精三回顧録』(有末精三著、芙蓉書房、昭和49年)
『終戦史録一〜六巻』(江藤淳解説、外務省編、北洋社、昭和52〜53年)
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『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(河辺虎四郎著、時事通信社、昭和37年)
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『東京大空襲救護隊長の記録』(久保田重則著、潮出版社、昭和48年)
『高見順日記』(勁草書房、昭和39年〜52年)
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『作戦の真相』(サンケイ新聞社、昭和53年)
『終戦への決断』(サンケイ新聞社、昭和53年)
『岩波講座・日本正史(19)(20)』(岩波書店、昭和38年)
『終戦ごろの阿南さん」(林三郎著、『世界』昭和26年8月号)
『濠北日誌』(阿南惟幾)
『阿南惟幾関係資料』(阿南惟正所蔵)
『海軍大将米内光政覚書』(高木惣吉写、実松譲編、光人社、昭和53年)
『一皇族の戦争日記』(東久邇稔彦著、日本週報社、昭和32年)
『岡田啓介回顧録』(岡田貞寛編、毎日新聞社、昭和52年)
『日本のいちばん長い日』(大宅壮一編、角川文庫、昭和48年)
『阿南惟幾伝』(沖修二著、講談社、昭和45年)
『戦艦大和』(吉田満著、角川文庫、昭和43年)
『原子爆弾日本投下計画』(オーテス・ケーリ著、『中央公論』昭和54年9月号)
談話および資料提供者
阿南善信(綾子)、阿南惟正、阿南康子、秋富喜美子、浅野祐吾、
甘粕三郎、有末精三、飯村繁、生田惇、出月三郎、伊藤(旧姓、熊谷)昌、
稲垣克彦、今岡豊、岩田(旧姓、井田)正孝、小川諭、小田博正、
加登川幸太郎、上関義一、葛目陸雄、今野良二、斎藤徳太郎、酒向一二、
佐々木仁朗、沢田茂、澄田※[#「貝+來」]四郎、高品武彦、高山信武、竹下正彦、
辰巳栄一、早坂定吉、林三郎、原秀男、広谷次夫、藤井政美、
戸次平蔵、松谷誠、美山要蔵、村上稔夫、森松俊夫、山崎重三郎、
山本新、渡辺禎作
[#地付き](五十音順・敬称略)