[#表紙(表紙.jpg)]
角田光代
これからはあるくのだ
目 次
わたしの好きな歌
人を喜ばせるプロフェッショナル
記憶の食卓
「引っ越しました」最新版
これからは歩くのだ
記憶力塾
ネパールの友達
十数年後の「ケンビシ」
透けていた
バスの中
名の世界
空き地
天国
某月某日……
海
まなちゃんの道
飛行場
ドライブ・イン
バッグのなかの
だまされる
盗み聞く
わが青春のヒーロー・ヒロイン──ディバイン
才能なんて
すべての道はうちに続いている
歯医者通いで恐怖の日々
悪魔の家
夏のマリー
水のなかのオーティス
犬印と方向感覚
喧嘩上等
孤独三種
──あとがきにかえて
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わたしの好きな歌
スローバラード
作詞・作曲 忌野清志郎&みかん
昨日はクルマの中で寝た
あの娘と手をつないで
市営グランドの駐車場
二人で毛布にくるまって
カーラジオからスローバラード
夜露が窓をつつんで
悪い予感のかけらもないさ
あの娘のねごとを聞いたよ
ほんとさ確かに聞いたんだ
カーラジオからスローバラード
夜露が窓をつつんで
悪い予感のかけらもないさ
ぼくら夢を見たのさ
とってもよく似た夢を
この歌を初めて聴いたのは十五歳のときだった。ライブハウスで、あるバンドがコピーしていた。そのときは、いい歌じゃん、とそれしか思わなかった。けれど三年後、本物の「スローバラード」を聴いて私は実に驚いた。同じメロディ、同じ歌詞の歌が全然違ったのである。泣きそうになった。声、というものがいかに力を持つものかそのとき知った。
何度も何度も繰り返して聴き、ようやく泣きそうにならずに落ち着いて聴くことができるようになったとき、私は一つの決心をした。好きなひとができたら、絶対車の中で毛布にくるまって寝よう。絶対そうしよう。運のよいことにそう決心した私は女子校を卒業して大学生になり、同い年の男の子というものに接する機会を与えられた。いきなりたくさん現れた若い男の子たちに緊張しながらも、「車の中で一緒に手をつないでラジオを聴いて寝てくれるようなひと」を捜した。
男の子と口をきくのも慣れたころ、私にもボーイフレンドらしきひとができた。しかも彼は車を持っていた。けれど「どこへ行きたい?」と訊《き》かれても、さすがに「駐車場に行って寝たい」とは言えず、(それが多分大きな誤解を招くことは重々承知していた)なかなか理想は実現されなかった。あるとき彼は私に好きな音楽を尋ね、「清志郎」と答えると、彼には彼なりのイメージがあったらしく眉間にしわを寄せて、「ああいうのが好きなの?」と、こわごわ訊いた。このひとはあの歌を聴いても、多分何も感じないだろうと、若き日の私は冷めた気持ちで思ったのだった。
しばらくたって「スローバラード実践作戦」も忘れかけたころ、私は当時一番仲の良かった男の子と遠くまでお花見にいった。徹夜でいって夜桜を見て、明くる朝寄った牧場でいきなり激しい睡魔に襲われ、私たちはすこーんと眠ってしまった。すぐそばでは牛が草をはみ、あたりは家族連れで賑わっている。その真ん中で、無防備にも爆睡した。
目が覚めて私たちはなかなか恥ずかしい思いをしつつ、車に乗りこんだ。その車の中で彼はテープをかけた。何曲目かに「スローバラード」が流れてきた。牛と家族連れに囲まれて眠るのはさすがに比べものにならないが、私は充分楽しくて、幸せで満ち足りていて、それなのにふと泣き出したくなった。初めてこの歌を聴いたときのように。
年を重ねるにつれ、私の中でこの歌の意味はいろいろと変わり続けた。確かに恋愛は、ドライブして車の中で仲良く手をつないで寝るだけのものではなかった。愛しさも涙も嫉妬も汚さも美しさも、全部を乗せて時間はどんどん過ぎ去っていってしまう、その残酷さも、この歌には全部つまっていた。一番最初に聴いたとき、どうして泣きそうになったのかわかった。恋愛がどんなものか知らなかった私にも、この歌の持つかなしさだけはちゃんと届いたのだ。声と歌詞とメロディとがとけあって、こんなにも饒舌《じようぜつ》な歌を私はほかに知らない。
この歌を聴き続けてもうずいぶん時がたち、さすがに「スローバラード実践作戦」を真剣に練ったりはしていないが、「毛布にくるまってラジオを聴きながら車の中で一緒に眠れるひと」、つまりこの歌の良さを共有できるひとが好みなのは変わっていない。
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人を喜ばせるプロフェッショナル
人の記憶に貼りつくように残ることができるのは、間違いなくその人の才能である。
私の母は三人姉妹の真ん中である。私の幼少時代、末の妹が我が家に転がりこんできて一時期一緒に暮らした。彼女は私を呼びつけては、「私はおばあちゃんの子じゃないのよ、あんたのお母さんと大きいおばちゃんだけがあの家の娘なのよ、私は橋の下で拾われたのよ」と、赤い箱の煙草をすぱすぱ吸いつつ語った。そんなあからさまに嘘だとわかる台詞《せりふ》でも、幼い私を「かっこいい!」と思わせるには充分であった。
姉妹の中で一人だけずば抜けて気が強く、ずば抜けて背が高く、ずば抜けて風来坊的だった。それらは彼女にとって、つまらない嘘を言葉にするほどのコンプレックスに成りえたのかもしれないが、幼い私にはただただかっこよく思えたのだ。気に入らないことがあればデパートの中でもタクシーの中でも往来でも甲高い声を張り上げて怒鳴り散らし、相手に非を認めさせてから私の手を引いてすたすたと去った。そんなふうに、中学に上がるまで、私はこの人と非常に多くの時間を共に過ごした。彼女の部屋を捜すため一緒に不動産屋を回ったり、小学校を休んで二人で温泉旅行にいったりした。
しかし私がこの人を「忘れられない人ナンバーワン」に挙げる理由は、一緒にいる時間が長かったからではない。彼女は人(あるいは私)を喜ばせるのがプロフェッショナルにうまかった。
たとえばクリスマス。小学校にも上がらない私をデパートのおもちゃ売り場に連れていき、「何でも好きなもの一つ選んできなさい。クリスマスプレゼントに買ってあげる」と言う。私はひとり放り出され、このフロア全体が私のものになったような錯覚を覚え、ふらふらと吟味して回る。この中から一つである。パラダイスを散々回った挙句一番気に入った熊を選び出し、これで後悔はないのかと何度も自問自答をくりかえし、自らの答えを確認してから彼女を呼びにいった。しかし彼女は値段の札をちらりと見て、こう言い放った。
「ごめんね。私貧乏だからそれは買えないや。また今度にしましょう」
散々パラダイスを眺めさせられてそれである。それでも「貧乏だから」と言われては、子供心にも彼女をなじることも出来ない。私はうつむいて彼女の後に続く。彼女は相変わらず背筋を伸ばしてすたすたと歩き、ふと立ち止まる。失意のどん底にいる私に、「ちょっとトイレ」と言い残して一人でどこかにいってしまう。クリスマスだというのに、心に隙間風が吹き荒れる。世の中におもちゃはあんなにある。なのに私たちは貧乏なのだった。トイレから戻ってきた彼女と二人、無言でデパートを後にした。
その夜、トイレにいくのにお風呂場を通りかかると電気がついている。ちらりと覗くと、ぽつんとプレゼントが置いてある。リボンをほどき、包装紙を解くと、現れるのはさっき一番に欲しかった熊なのだった。驚きと喜びで跳ね回る私を、彼女が「勝った」的表情でにんまりと見下ろしている。
彼女が私にしてくれたいくつものことは、いつもそんなふうにちょっと捻《ひね》ってあった。私がもらうものは必ずただの品物だけではなかった。今思い出してもあれは職人芸のようだと思う。確かにあれは彼女の才能だった。もしかしたら、と時々思う。もしかしたらあんなに彼女が「うまかった」のは、自分がこの世から早く消えていくことをどこかで知っていたからなのではないかと。そんなこじつけを平気で思いつくほど、彼女が死んで二十年以上たっているのにまだあのいくつもの「勝った」的表情は生き生きと私の中に残っている。
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記憶の食卓
料理が趣味的に好きである。うまいかうまくないかは知らない。趣味的に一人で作り一人で食べて楽しんでいる。
しかし最近私は自分の作った趣味的な料理を人に食べさせることに夢中になりはじめた。昼間|暇《ひま》にしている人を呼んで「ロシアの貧しい食卓」「新妻《にいづま》の食卓」「純日本家庭的食卓」「日本生活の長いタイ人の食卓」となんとなくイメージだけでテーマを決めてむりやりもてなす。そうなると腕を磨きたくなる。ますます料理が好きになる。今度うちにごはん食べにきてね、と男の子にささやいてロールキャベツを作るのは何か魂胆がありそうだが、実は朝ごはん会や夕ごはん会を開く私にも魂胆がある。それはもちろんロールキャベツの魂胆とは異なるのだが、ときおりロールキャベツの魂胆を期待している人もいて申し訳なく思う。私の魂胆は手作り料理で一時の男を釣るほどヤワなものではない。それより数段自己本位で長期的な計画なのである。
二十代も中盤にさしかかった頃から、私を含む同世代の友人間に「記憶の変化」がはじまったように思う。ものをうまく覚えられないだけでなく、記憶するときに、個人の先入観やら希望的観測やら夢までもとりこんでそのまま記憶し、いったん記憶してしまったら最後、それをだれに何と言われようと訂正しないのだ。十代のときのあのスーパーで柔軟な記憶力に比べて私たちのそれは衰えてきているばかりでなく、何か記憶の芯みたいなところがかちかちに固まってきているのだと私は実感する。
先日も友達に「あんたはサナダヒロユキが好きだった」と圧倒的な威圧感で言われ、私はその人を好きだと思ったことがまったく記憶にないのだが、彼女は「いやあんたはあの男が好みのタイプだったんだ」と譲らず、サナダヒロユキが好みか好みでないかなどどうでもいいのだが、なぜかその変な記憶違いが気に障《さわ》って、私は必要以上に殺気だって自分の好みはどういう男かをこんこんと話し、従ってサナダは好みでないという結論を引っ張り出し、相手に認めさせた。それでも彼女は数日たつと「あんたはメンクイだから、なんたってサナダが好きなんだから」とはじめる。
旅行にいくと言っていた友達が街を歩いているので、旅行はいついくの、もう帰ってきたの、と尋ねると、旅行なんていく予定はないと答える。いやあんたは確かにこの間旅行にいくと言っていた、と言い張ると、向こうもそんなことは言ってないと譲らない。言った言わないでなぜかまた激昂《げつこう》し、なんとなくおたがいむかむかして別れた。帰り道、あの子が旅行にいくと言っていたのは夢の中の話だったのかもしれないと思い当たった。
こんな記憶違いが実によくある。私の実家に遊びにきたことのある友人はいくら否定しても「あなたの家の天井はぎょっとするほど高かった、二階がどんなになってるんだろうと心配するほどだった」と繰り返し言っているし、同年代の編集者は「そんな人は知らない」と何度言っても会う度に「年下の彼氏は元気ですか」と訊いてくるし、とっくに治ったといくら説明しても十年来の友達は十年前の私の持病だった便秘についてまだ心配してくれている。ああ歳をとるってこういうことなんだなあと、その度に実感する。
そんなすべては実にささいなことで、サナダが好きと思われようと年下の彼氏と暮らしていると思われようと便秘に悩んでいると思われようと一向に構わないのであるが、私たちは下手したらあと半世紀くらい生きてしまうわけで、その半世紀の間に、人々の記憶の中に残る私はどんな人になっているんだろうかと不安になる。私が先に死に、集まった友人たちは「あの人はメンクイで便秘で年下好きだったねえ」と語り合い、それだけならまだいいが、あと数年の間に起こるであろう記憶違いを言いあうかと思うと、恐怖すら感じる。話の中にいるのはきっと私とは全然別の、だれだか知らない人になりかねない。わざわざ先に死ななくても、生きていてさえそういうことはありえそうである。
そこで料理なのである。親と離れて暮らすようになってから、味覚だけは必ず正確に記憶に残る、という真理を悟った。母の作ったミートローフもちらし寿司も、姉がはじめて作った目玉焼きの味も正確に覚えている。
小学校一年のとき仲のよかったヒロミちゃんという女の子がいて、私たちはお弁当の取りかえっこをしたのだが、彼女のくれたハムがお昼時間までに悪くなってしまったらしく、もらって食べたらすさまじい味がした。あのすさまじい味とともに彼女のことはずっと覚えている。彼女と一緒に帰った帰り道を覚えている。
ちなみにそのすさまじい味のハムは私に恐怖感を与え、それ以来私はだれかのお弁当をもらうことをその後一度たりともしなかった。そのせいで、と言い切ることはできないけれど、とにかくほかの級友たちの記憶は、あのハムをくれたヒロちゃんより一色《ひといろ》薄いのである。
私の魂胆はここにある。まずいのだったらそのまずさを、おいしいのだったらそのおいしさを、友達に覚えていてもらいたいと願っている。ただ一皿の平凡な料理が、一緒に食事を囲んだときの光景をかなり正確に呼び起こす力を持つことを、私は信じている。そして私が先に死んだら、メンクイだっただの便秘だっただの言ったあとでいいから、私の披露したおのおのの料理について正確に話し合ってもらいたいと図々しくも願い、私は日夜台所に立つのである。
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「引っ越しました」最新版
年が明けてしばらくたつと、会った人にかならず言われる苦情がある。私あてに出した年賀状が戻ってきた、いったい今の住所はどこなんだ、というのがそれである。
引っ越しが好きか嫌いか、と言われたら、たぶん好きな部類に入るのだと思う。私の知り合いのほとんどは、なんらかの理由で引っ越す場合、陰鬱《いんうつ》な表情になり、荷造りや手続きや、引っ越しにまつわる面倒を切れ目なく語り出す。そうして本当にいやそうに引っ越しに挑み、引っ越したのちも、じつにだらだらと荷ほどきをし、新居がさりげなく日常に混じりあい、一か月もたてば引っ越しなどしていないように普通に過ごしはじめる。私にすれば信じられない。
引っ越しだ、となると私はまず、商店街のくじびきで海外旅行をあてたかのように、浮かれる。不動産屋でもらった間取りのコピーをかならず持ち歩き、会う人ごとに見せびらかし、引っ越ししたのちのことをあれやこれやと想像してはにやついている。浮かれすぎてじっとしていられず、引っ越しは一か月近く先だというのに早々と荷造りをしてしまい、日常生活に必要なものを段ボールから捜し出して使うという有様である。引っ越しが終わればフルスピードで段ボールをかたづけ、すぐさま引っ越しパーティだ。新居で引っ越しパーティ、外で引っ越しパーティ、人の家で引っ越しパーティ、連日の宴会が終わっても、それでもなんとなくまだうきうきしている。コンビニにいくのもうきうき、郵便局もうきうき、ああ夢の引っ越しである。
というわけで、引っ越しをまったく苦に思わない私は、人より引っ越し回数が格段に多い。しかし好きだということと趣味とは違う。趣味で引っ越しをできるほど、経済的にも時間的にも余裕があるわけではない。できれば更新までの二年間は、その引っ越し先をまっとうしたいと思っている。二十一歳で家を出てからこの十年間、引っ越した回数は六回である。平均して二年以内に引っ越ししていることになる。
引っ越ししたくないのに引っ越しせざるを得ないことのほうが多いかもしれない。引っ越しから引っ越しまでの最短記録は三か月だが、この場合、マンションの管理人が毎日部屋を訪れてきて、画鋲《がびよう》を壁に刺すなだの、TVは壁から離せだのと逐一言ってくるのに耐えられず飛び出したのであり、見知らぬ人に連日部屋のまわりをうろつかれ、気味が悪くなって引っ越したこともある。こういう場合、引っ越しがとことん嫌いな人は我慢するなり改善するなりして住み続けるのだろうが、私は引っ越し以外の解決策を思い浮かべることができないのだ。
結果、ほぼ毎年のように私の知り合いのもとには「引っ越しました」という葉書が届くわけである。この引っ越し案内が問題で、私は六回の引っ越し通知をすべて同じ文章、同じ字体、住所だけ変えて出している。デザインなど考えるのは面倒だし、前の葉書を印刷屋に持っていけばむこうの手間も省けるというものである。しかしそのせいで前述の苦情がくる。手元に同じような葉書が何枚もあり、どれが最新かわからない、また最新だと信じていた住所に出したら戻ってきた、と言うのである。この苦情は今年はじまったのではなく、四、五年前から同じようなことを言われ続けているので、近ごろは、「引っ越しました'96」「引っ越しました'97」とライブツアーのように年号を入れているが、それでもみな混乱し間違えてしまうようである。これ以上どうくふうしたらいいのか? 私にはわからない。
現在の住まいに私はまる三年住んでいて、これは最長記録である。長く住んでいると、新しく引っ越してきた人から挨拶の品がもらえるということもここで学んだ。とくになんの不満もないが、今現在引っ越しを計画中である。おそらく四月ごろ、「引っ越しました」最新版がまた出まわるはずである。
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これからは歩くのだ
根性のない子供だったので、自転車から補助輪を取ることができなかった。あざや擦り傷をつくってまで乗れるようになりたくはなく、自転車に乗れないまま成長した。けれど数年前のある日、何気なく友達の自転車に乗ってみたら乗れたのである。少々ぐらぐらはするものの、補助輪なしで、転びもせずに乗りこなすことができた。
去年友達が新しい自転車を買う際、使い古しの一台をくれた。私は上機嫌で三色を駆使してペンキを塗りかえ、盗まれないように鍵をかけ、どこへいくにも自転車に乗った。自転車はじつに気持ちのいい乗り物だった。晴れた日、ひとけのない並木道でペダルをこいでいるときなど、まるでこの世界は私のために用意されているんじゃないかと思うくらい、気持ちがよかった。それでもやはり初心者、ハンドルさばきは下手で、人の歩いている道をすいすい走ることができない。前からくる人を、避けなきゃ、避けなきゃと意識しているうちに正面からつっこんでいってしまうからである。そんなこわい思いはいくどかしたが、それでもわりあい快適な自転車ライフだった。
先日、遊びに来た友達を自転車で迎えにいった。友達はコンビニエンスストアに入り、私はとめた自転車に寄りかかり、行き交う人を眺めながら表で待っていた。向こうから上品そうな老人と中年女が歩いてくるのを何気なく目で追っていた。彼らは私の後ろを通りすぎ、その瞬間、どこにどう足をひっかけたのか、老人のほうが私の真後ろでばったりと倒れた。ただの板きれみたいに、直線的に倒れた。驚いてふりむくと、その倒れた姿勢のままぴくりとも動かない。倒れかたからいって、顔面を直接打ちつけたのは間違いない。私がふりむくのと同時に、中年女はすさまじい金切り声をあげた。あっという間に周囲に人垣ができ、その中央に、叫び声をあげ続ける女と、ばったりうつぶせに倒れたまま動かない老人と、自転車に寄りかかっている私がいた。通行人の一人がどうしたのかと女に問いかけると、彼女は私を指差し、叫んでいたのと同じテンションで、
「この自転車が、この自転車が向こうから猛スピードで走ってきておじいちゃんにぶつかったっ! この自転車がっ!」
きっぱりと言い放った。周囲の人々は私に視線を移す。違う、そうじゃないと言う間もなく、女は倒れたままの老人に近寄り、大丈夫か、救急車を呼ぶかときんきん叫んでいる。老人はいまだ動かず、様々な思いがフルスピードで頭の中を駆けめぐった。
このおじいさんは死んでしまうのかもしれない。そうしたら私は殺人者になるのだろうか? 自転車は最初からとまっていたと警察の取り調べ室でカツ丼を食べながら証明しなくてはならないのだろうか? このおじいさんの家族は私を許さないだろうか? 私の人生は、いったいどうなるのか、それにしてもはじめて救急車に乗れるんだなととめどなく考えていた。周囲の人が遠巻きに私を見ているそのとき、私のできることはたった一つ、うつぶせの老人のそばにしゃがみこんで救急車、救急車と叫び続ける女とともに、大丈夫でしょうかと情けなく老人に問いかけることだけだった。
しばらくして老人はぴくりと動き、ゆっくりと起き上がった。したたかに打ったはずの顔には傷の一つもない。女は相変わらず甲高い声で救急車と叫び続けている。老人はすっくと仁王立ちになると、「そんなものは、呼ばんでいい」そう言ったのでほっとした。
きっとこの老人は事実を知っている。自分が勝手にどこかに足をひっかけて転んだのを知っている。周囲の一人がおずおずと近づいてきて、おじいちゃん、大丈夫? と訊いた。老人はゆっくりと口を開け、私は精一杯の期待をこめて彼の口元を見ていた。さあ今ここで、周囲の人々に聞こえるように大声で、自分は勝手に転んだのだと言ってくれ! そう願いながら。しかし彼は女と同じしぐさで私を指差し、
「この自転車が」そう言ったのだ。「この自転車が、うー、向こうからこう、猛スピードで走ってきて、うー、目の前で急ブレーキをかけた」
私はくもの糸から落とされたカンダタの気分だった。人の記憶とはまったくおそろしいものである。中年女は私に弁解の余地をまったく与えず、救急車だの、頭は平気かだの、歩けるかだの、しまいには私に詰め寄って名前と住所を言えだの、もはやねじのイカれたおもちゃみたいにわめきたてていた。平気だと言って歩きはじめる老人のあとを追いながらもふりかえって、せめて名前、名前だけでもと私に向かって叫んでいた。人もぱらぱらと去ってゆき、何も知らず買い物を終えて友人はコンビニから出てきた。私は恨めしげに、三色の自転車を眺めた。乗る気もせず、押して帰るのすらいやだった。
その後、「猛スピードで人に向かってつっこんでいく自転車」という彼ら二人の共通妄想と、指をさされおたけびをあげられたときの恐怖がことあるごとによみがえり、その逆イメージトレーニングの成果として今度こそ本当に自転車で人を轢《ひ》いてしまいそうな気すらして、乗る気がせず自転車を捨てた。
きっと今後私の人生に、自転車という乗り物は存在しないだろう。
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記憶力塾
小学校から高校までつながっている学校に通っていたので、その学校にいられるあいだは、勉強しなくてもいい、と暗黙のうちに親も私も思っていた。じっさい私は本当に勉強をしなかった。小学生のときがもっともひどかった。教室にいる思い出があんまりない。あのころの私はどうかしていたんじゃないかと自分でも思うくらい、始終騒いでいる子どもだった。口を閉ざすことがなく、じっとしていることがなかった。私一人の存在は充分な授業妨害で、先生は私を黙らせることをあきらめ、教室の外に追い出す作戦をとっていた。だから、私はいつも教室の外に出されていた。
おもに廊下で正座をさせられた。床の冷たさは今でも覚えているけれど、あんまりつらいおしおきではなかった。正座の姿勢を取っていなくてもばれないし、教室でよくわからないものごとを聞かされているよりは楽しかった。私ひとりではなく、友達数人とともに廊下に出されることも多かった。そんなとき私たちは廊下をそっと抜け出して、非常階段の踊り場でこっくりさんをして遊んだ。小学校は楽園だった。休みになると心の底からがっかりした。
おとなになってから、この楽園生活がたたって、当然人が知っているであろうことを知らずにずいぶん恥をかいている。海にいる生きものはすべて、鯨もイルカも魚類だと思っていたし、日本地図を描くことができなかった。もしくは描いても島が一つ足りなかった。未だになんとなく質問したことで、まわりの人に「えっ?」と深刻な面持ちで訊かれることもよくある。だから近ごろは不思議に思ってもあまり人の会話に口をさしはさまないようにしている。
そんなふうだったから好きな科目以外の成績はいちじるしく悪かった。どんなに成績が悪くても中学にはあがれるはずだったが、あんまりにもひどいと思ったのか、素行の悪さをなおそうと思ったのか、親が私を塾に入れたことがある。まことに風変わりな塾だった。
記憶力をのばそうというのが目的の塾である。私のクラスに生徒は二人しかいなかった。クラスを受け持った先生は大学生のアルバイトだった。
ものごとを覚えるのにはやりかたがある。そのやりかたさえ身についてしまえば記憶力はぐんとのびるし、学習能力もアップする、というようなモットーだった。それで私ともうひとりの生徒は、先生がでたらめに言っていく単語を、順番に覚えていくのである。不思議な覚えかただった。1、という数字を煙突に見立てる。2はあひる。たとえば先生が、1、鏡、と言えば、私たちは、鏡になっている煙突を思い浮かべる。2、桜、と言えば、桜のなかにいるあひるを思い浮かべる。こんなふうにして10、20、もっと多くの単語を、図案として思い浮かべるのだ。そうして数十分後、先生が言った単語を1から順に、紙に書いていく。それだけ。算数の公式も習わず、漢字の書き取りもせず、やかんだの靴下だの浮き輪だのたんぼの案山子《かかし》だの、脈絡のない単語をひたすら覚えていく。
もう一人の生徒はよく休んだ。私はよく先生と二人きりで、靴下だの浮き輪だのを覚えた。もう一人の生徒がくると、授業は休みがちになり、私たちは塾のあるビルの地下駐車場で缶蹴りをして遊んだ。大学生の先生はきっと記憶力塾に少々疑問を抱いていたのかもしれない。よく遊んでくれた。
この先生は毎週休まずおとなしくやってきて案山子だの鏡だのと覚えていく私を気に入ってくれたらしく、休みの日、恋人とのデートや、恋人が彼のアパートを訪ねてくるときに、私を呼んでくれた。学校ではそうとううるさい私は、外に一歩出ると極度の人見知りをして何もしゃべらなくなるという極端な性格で、このアルバイトの先生とも親しく軽口を交わした記憶がない。だから彼がなぜ私をいろいろと誘ってくれたのかわからない。私は黙って彼らのデートにくっついていった。
先生のデートにおともしたこの記憶は、ほかの思い出とは異なった場所にあり、ときおりふっとその光景を心に広げて私をたじろがせる。たとえば緑の広がる陸上競技場や、六畳一間の見知らぬ部屋や、そういうものが心のなかにあらわれたとき、それはまるでまぎれこんだ他人の記憶のようで、いったいいつの、どこの風景なのかわからなくて一瞬戸惑う。先生が何を思って自分のデートに呼んでくれたのかもわからず、そのとき私がどんな気持ちでそこにいたのかも思い出せない。
私の記憶力は現在でもあんまりよくないし、その後成績もまったくあがらなかったのだが、1は煙突、2はあひる、という奇妙な暗記法とともに、ほとんど見知らぬと言っていいひとりの大学生のデートにまぜてもらった記憶は、なんとなく好ましいものとして、心のなかの不思議な位置にはりついている。
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ネパールの友達
去年の話である。たまにいく近所のラーメン屋に新しい店員が入った。外見は日本人だが注文以外の複雑な文章(テレビのチャンネルをかえてくれだの水をもう一杯だの)はあまり理解できない様子である。そしてどこか不安気な顔つきである。どこからきたのかと英語で訊くと、ネパールだと答えた。その前の月、私はネパールを旅行していたのでそのことを伝えると、彼はひどく喜んでネパールの印象を訊いてきた。彼は先月ネパールからきたばかりだという。
旅行が好きでよく出かけるが、そのたび、その国の人々に信じられないほど親切にしてもらうことが多い。レストランで隣り合っただけで食事をおごる人もいれば、仕事を放り出してともに歩きまわりホテルを捜してくれる人もいる。遠まわりしても道に迷った私を目的地に連れていってくれる人もいる。私の異国の印象はほとんどそこで出会った人で決まる。帰ってくるたび自分の国を訪れる異国の人はどんな印象を持つのだろうかと考える。
次に例のラーメン屋にいったとき、ネパールの彼が、頼みがある、と真剣な面持ちで言った。日本語を教えてほしい。やっぱり真剣な顔のまま彼は言うのだった。快く承諾したのは、私が異国で受け取った様々な親切を少しばかり返せるような気がしたからだった。
彼はこの見知らぬ土地で友達がほしいのだろうと思っていた。お茶でも飲みながらわいわいと話し、そのうちなんとなく日本語を覚えることができたらいいと思っているのではないか。だから私は気楽に彼とまちあわせ、だらだらと話すつもりで出かけていった。
ところが、である。参考書にノート持参の彼は喫茶店の席に着くなり、さあ教えてくださいとペンを握りしめた。真剣そのものである。わいわいどころでなく、だらだらする暇《ひま》もなく彼は熱心に質問をし、単語を書きとめ、例文を繰り返す。こうして週に一度、私たちは真剣に額をつきあわせ、日本語を学んだ。
それにしても、日本語のなんと難しいことか。たとえば「やっぱり」。このニュアンスを英語でどう伝えればいいのか。それから「私|が《ヽ》やる」と「私|は《ヽ》やる」の明確な違いとは? 私はしばしば頭を捻《ひね》り、一つの言葉や言いまわしについてあれこれと考えなければならなかった。まるで小説を書くように。
今年になって彼は仕事をかえ、遠くへ引っ越してしまったので日本語レッスンは半年ほどで中止になった。
なぜ日本語を習いたいと思ったのか訊いたときの、彼の答えは忘れることができない。
あるとき電車に乗っていたら、近くに座っていた子供が彼を日本人だと思いこみ、不安気な表情で何かを訊いた。質問を繰り返すその子供がものすごく困っていることはわかるのだが、何を訊かれているのかさっぱりわからない。何もできない。これはまずい。本気で日本語を覚えなくてはならないと思った。それが彼の答えだった。
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十数年後の「ケンビシ」
正月に友人がくるというのでめったに買わない日本酒を買いにいった。棚にずらりと並んでいる瓶《びん》を端から端まで眺め、ふと、あるラベルの文字に目をとめた。剣菱。|けんびし《ヽヽヽヽ》、と小さくつぶやいて、思わず、ええっ? と声をあげそうになった。口をあけたままラベルの二文字をしげしげと眺めた。
今から十数年前、私は大学一年生で、演劇サークルに所属していた。今はどうか知らないが当時は、ほかの劇団が公演を行う際、初日にお祝いとして酒を贈る習慣があった。お祝いののし紙の貼られた酒が、受けつけのあたりにずらりと並ぶわけである。
そうしてあるとき私はその酒を買いにいくように頼まれた。先輩は私に金を渡し、「ケンビシにしてね」とまじめな顔で念を押した。
私は預かった金を握りしめ、ケンビシケンビシと心の中で繰り返して酒屋へ向かった。
酒屋で酒を買うのははじめてのことだった。大きな酒屋の自動ドアをくぐり、棚という棚に並ぶアルコール類に見とれ、数十分かけて一本を選びだし、ケンビシケンビシとつぶやきながらレジへいった。私は選んだ一本をレジにどんと置き、「これケンビシにして下さい」と胸を張って言った。店員はいぶかしげな顔をして、「は?」と訊く、「だからケンビシにして下さい」私は繰り返す。ケンビシだってば。わかるでしょ?
店員は明らかに困っていた。なにしろ私が選びだした一本はワインだったのであり、それをケンビシにしろと言っているのだから。店員はワインをどう剣菱にしたらいいのかわからず困惑していた。そこで私はいらつきながら彼に教えてあげた。だからね、これをラッピングして、祝公演と書いたお祝いののし紙を貼ってくれればそれでいいんです。
なんの根拠もなく私はケンビシ|=《イコール》のし紙つきの状態《ヽヽ》であると信じきっていたのだった。そしてその店員が私の言うとおりワインをケンビシ状にしてくれたおかげで、私はその後いくども、ワインや焼酎《しようちゆう》やウイスキーをケンビシにしろと堂々と要求するという、赤っ恥をまき散らし続けたのだった(ちなみにだれも訂正してくれなかった)。
十数年後にケンビシの謎はとけ、ひとつ物知りになった気分で正月を迎えた。
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透けていた
夕方から雷雨だ雷雨だと言われても、太陽が照りつけている昼日中は信じることがなかなかできない。つい先日も、所用があって出かけた帰り道、電車を降りたらひどいどしゃぶりだった。多くの人が、少したてばやむと思っているのか、それともすさまじい雨に圧倒されているのか、改札の屋根の下でぼんやりと立ちつくし、濁《にご》った色のおもての景色を眺めている。私も彼らの列に加わり、同様にぽかんと雨を眺めていた。
ふと、いやなことを思い出した。アパートの窓をすべて開け放して出かけてしまった。雨はますます強くなり、地面にたたきつけられる雨粒が勢いよく跳ね上がって、上下から同時に水があふれだしているようである。すべての窓からこの勢いで雨が吹きこむさまを、私は想像した。家じゅうが水浸しになり、その水がさらに階下に流れ落ちて、下の住人に多額の弁償金を支払わなければならないのではないか、と、妄想色を帯びてきても想像はとまらず、恐怖を感じた私は意を決して、どしゃぶりの雨のなかに飛び出した。
アパートに向かう道にひとけはなく、あまりの雨の激しさに、あたりはかすんで見えた。夢中で走りながら、ふと、妙なことに気づいた。数台の車が通っていくのだが、私のわきをすり抜ける瞬間、不自然に速度を落としていくのである。そのとき私は白の麻のワンピースを着ていたので、ああ、きっと私の白い服に泥はねがかからないように気遣ってくれているのだ、ありがたい、と思い、ちらりと我が身を見下ろし、仰天した。白の麻のワンピースは私の体にぺったりとはりつき、完璧に透けていた。自分でも感心するほどの、見事な透け具合だった。白い服を着るときには下着の色がうつらないよう、パンツもブラジャーもシュミーズも当然白を着るのだが、それが災いし、体にまとったすべての白を通してわが裸体がくっきりと見えるのである。パンツのかたちも見えたしへそのかたちまで見えた。それ以上、どのくらい見えるのかこわくて確認できなかった。まっ裸で雨の中を歩いているのとなんらかわりはない。なるほど、私のわきで速度を落として過ぎていく車は、どしゃぶりの中の丸裸女を眺めているのだった。
しかしどうすることもできない。なるべく速く走ろうと思うが息が切れ、あきらめてとぼとぼ歩いた。
あれだけ恐怖した窓は、そして私をこのような状態で走らせた窓は、しかしぴったりと閉まっていた。私は白いワンピースを脱ぎ捨てて、水をしぼってゴミ袋に放りこんだ。
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バスの中
私が生まれ育った町の主な交通手段はバスだった。学校にいくのも、お稽古ごとに通うのも、買い物や外食にもバスを使った。そのせいか、乗り物の中でバスが一番好きである。
先日、知人宅を訪ねてその帰り、終バスに乗った。バスの窓には見知らぬ町の明かりが浮かびあがって流れていく。窓に額をつけてそれを目で追う。子供のころもこうしていた。
小学校にもバスで通った。冬の日、少し寄り道をするとあっという間に日は暮れ、あわててバスに乗りこむ。闇に沈み、ところどころ看板や家の明かりを浮きあがらせた町は、見慣れた場所のはずなのによそよそしく見える。家は終点近く、四十分はかかる。席を埋め尽くしていた乗客は次第にまばらになり、やがて私一人になってしまう。
窓の外、妙に明るい車内、運転手の背中、交互に眺め、ふと、知らない場所へ連れていかれるような不安を覚える。知っているどこかに似ているのにまったく見たことのない場所、見たことのないバス停でドアは口を開き、私一人暗闇に放り出されるのではないか。けれどいつものバス停にバスは停まり、見知った場所に降り立つと、ほっとするよりがっかりするのだった。
バスの窓から見える景色はすぐ近くにある。天気ならば日にさらされてのっぺりと白く、雨なら霞《かす》んだ窓に夜の明かりがにじんで広がる。すぐ近くの景色がころころと表情を変える。時間通りにはこなかったり、思い通りに進まなかったりする不安定さもいい。遠まわりになったとしても私はバスを選ぶ。窓ガラスが見せる終わりのない光景を選ぶ。
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名の世界
つい最近まで、自分の名前があまり好きではなかった。べつに深い理由からではない、なんとなく、響きが実年齢より老けているような気がしたのだ。小学生のころ光代という名がとんでもなく婆くさく思え、もっと垢抜《あかぬ》けた、華やかな、漫画に出てくるような名前を切望したものだった。
二か月ほど前、女友達と二人でスペインを旅行した。夜行列車の移動中、私と彼女は列車のバーでしこたま飲み、かなり遅くにそこを出た。コンパートメントに戻る途中、通りかかったビュッフェで職員たちが食事をしていた。匂いにつられ思わず目をやると、陽気なスペイン人たちは一緒に食べていけという。遠慮なく同席して彼らの賄《まかな》い飯のお相伴《しようばん》にあずかった。
職員たちはスペイン語しか話せない。女友達は少しならスペイン語が話せ、その片言と、あとは身振り手振りの会話中、ふと彼らに名前を訊かれた。私たちは紙ナプキンに名前を書く。ローマ字と、漢字で。そこから彼女と彼らがしばらく言葉を交わした。説明を求めると、名前の意味を訊かれたから知っている単語を言ったと彼女は答えた。彼女はノートを指し示し、光の世界、と私の名前。海、と自分の洋子という名。
感動した。そんなふうに、一つの名に一つの世界があることなど、気づいたことはなかった。海という言葉も光という言葉も同様に美しい。日本語はそんな美しさを持った言葉だ。だれもが一つ、文字によって広がる世界を持っている。
親がくれる多くのものの中で、名前はもっともすばらしい贈り物だと最近思っている。もちろん、自分の名も。
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空き地
三十坪ほどのスペースである。いいかげんな囲いがしてある。囲いの中は、雑草が伸び放題、奥の中央に桜の木が一本ある。
私が以前住んでいた家の近くにある、放置された空き地である。駐車場になる気配もなく、新築物件が建つ気配もない。私が知る限りの東京じゅうで、一番好きな場所だ。
雑草に混じって、飛んできた種が実を結び季節ごとに様々な花が咲く。たんぽぽがあざやかな黄色をのぞかせたり、ヒメジョオンが風に揺られていたりする。四月に咲きほこる桜は、なんでもないただの空き地を豪華に彩る。以前とおりかかったとき、満開の桜の下で、作業着を着た二人の男が酒を飲んでいた。囲いを乗り越えて桜の根元に腰を下ろし、舞い落ちる花びらの下、ただ静かに酒を飲みながら語り合っていた。ぜいたくないい光景だった。
不思議なことがあった。ある冬、突然空き地の真ん中にひまわりが花を開いた。たった一輪だけ、巨大なひまわりがじっと顔を太陽に向けていた。桜の葉は落ち、あたりの雑草も枯れてしまっている中、堂々とした黄色い花は異様でもあり、魅惑的でもあった。きっとだれかのいたずらだろうと、友人たちと深夜、空き地に入り込んだ。けれど手に触れる冬の日のひまわりは造花ではなく、本物だった。次第に首をうなだれながら、ひまわりは一冬ずっと咲き続けていた。
そこに入りこんで遊ぶような年ではないが、なんでもない場所、というのはいいものである。そういう場所は少なすぎる。ときにその無駄な場所が、人の足を止めさせるほどの力を持つこともあるのに。
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天国
あなたの思う天国とはどんなところか、と訊かれたら私はたった一か所だけ、具体的な場所をあげることができる。
その島へは、タイのスラーターニーという南の町から、二つボートを乗り換えていく。舗装された道路はほとんどなく、電気も通っていない小さな島である。二十四のときこの島に数週間滞在した。私の泊まったバンガローは比較的島の中心部に近かったのだが、それでも町まで片道二十分は歩かなければならない。陽にさらされ白く光る道が、椰子《やし》の木をしたがえてまっすぐに続く。
夕方、バンガローの前の海岸は人でにぎわう。泊まり客や島の住民たちが皆毎日、海に沈む夕日を眺めにくる。昼間バナナを売ってくれた若い女も赤ん坊を連れ、バンガローを仕切る老夫婦も島の犬たちも、ただ砂浜に腰を下ろしている。最後の光が海に消えると彼らはそろそろと立ち上がり、薄闇の中自分の場所へ戻っていく。
日が暮れ、少し離れたレストランへいくときは懐中電灯を持っていく。帰り道迷いこんだ裏道で、枝という枝に集う蛍がいっせいに光を放っている大木を見た。懐中電灯を消し、しんとした心でそれを見上げた。波打ち際を歩けば足元で夜光虫がちらちらと青く光り、青い光の上で知り合いになった人たちと明日の約束をいいかげんに交わして──また明日、あの時間、このへんで──手をふりあった。
夢のような時間だった。人が快適に生きていくのに必要なものは、実はそんなに多くないということを知った。
心の中に一つ天国と呼べる場所があること、そういう場所に出会えたことは私の幸福である。
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某月某日……
某月某日
隣の町まで買い物にいく。ワンピースのベルトをなくしてしまったので、そのかわりを買うためにデパートへいく。ベルト売場の片隅で、ワンピースを広げ、似合うベルトを捜してベルト通しに通したり、鏡に映したり、ごそごそやっていたら、店員がぴったりとくっついて角度をかえて私のようすをじっと見ていた。見るというより、見張るというほうが正しい感じで。万引きすると思ったのかなあ。
ベルトを買って町へ出るとお祭りだった。はっぴを着た人たちがおおぜい行き来していて、お御輿《みこし》がほうぼうを練り歩いていた。どの路地に入ってもお囃《はや》しが聞こえた。空は秋らしくすこんと高いのに、真夏みたいに暑い。夏のあいだアスファルトにしみこんだ熱気が、お囃しに誘われてうろうろと町なかへ這い出してきたみたい。
帰ってワンピースに着替えたらベルトはなんだか似合わなかった。あんなに選んだのに、どういうことだ。がっかりして風呂で本を読む。
某月某日
胃が痛くてずっと寝ている。昨日飲みすぎたことを反省してみるけれど、飲んでいる最中は明日のことなんか考えない。胃のことなんて考えない。そうしたもんだ。だから胃の痛みをしっかりと受け入れなければならない。
ごはんを食べおえてひまなのでテレビを見る。ずっと見る。テレビを見ていると、この世の中でテレビを見ているのなんて自分だけのような気がしてくる。ト、モ、ダ、チ、はー、テレビだけえー、という歌を思い出す。
でもずいぶん長いこと見ていた。
某月某日
友達に今日見た夢の話をする。いつも身につけている、透明のGショックをはめたまま風呂に入ってしまい、体と一緒にざばざばと洗ってしまい、あっ、しまった、と思うんだけど、風呂から出てくるとGショックはぴかぴかになってるんだよ、というと、いーい夢だねえ、と返されて、なんだか得した気分になる。
某月某日
十二時過ぎにタクシーで荻窪まできて、友達と居酒屋へいく。閉店ですと言われるまで、まじめな話やくだらない話やとにかくいろんなことをしゃべる。その居酒屋で昔つきあっていた人とけんかしたことを思い出す。四時間半のあいだに私は二十回くらいトイレにいく。みんなはあんまりいかない。新陳代謝のよさを褒められる。
店を出ると明けがた近くで、虫の音が聞こえる。みんなは電車で帰ると言って駅へ向かい、私は歩いて帰ろうと駅に背を向ける。バイバーイと言い合ってしばらくしてふりむくと、まだ薄暗い、でもこれから一日をはじめようとしている町に友達のうしろ姿が並んで遠ざかっていく。
昔住んでいたアパートの近くをとおり、そのころに戻ったような感覚を一瞬味わい、さらに歩いていくうち、空がだんだん白みを帯びてきて、足取りが軽くなる。夜と朝が混じりあうこの時間に歩いていると、むやみにうれしくなってくる。二十歳のころなんかを思い出すんだろうな。おもてに出ると白々と明るく、それでもぜんぜん疲れていなくて、そのままだらだらと平気で歩いていられたころのことなんかを。
某月某日
文字の夢を見る。
文字だけの夢はときどき見る。本を読むときみたいに、夢が全部文字で構成されている。
その夢の中の文字は詩で、友達の作家が書いた、という前提で、長い長い詩だった。
トイレにいきたくて目が覚めて、いい詩だったので覚えていようと思った。出だしのところだけくりかえしながらトイレにいって、くりかえしながらもう一度眠る。
朝目覚めて、思い出そうとするが出だししか思い出せない。しかも実際思い出してみると、夢の中よりへんだ。こんなふうな詩。家の中、バスの中、電車の中は人でいっぱい、でもこの路地や、先の道や、あの通りにはだれもいない。その先は思い出せない。妙ちきりんな詩だけれど、夢の中ではもっといい雰囲気だった。夢の中で、私はその詩を書いた作家を尊敬したんだから。
でもそうだよなー、と、朝ごはんを食べながら思う。夢の中に出てくるってことは、私自身がどっかでつくりあげた詩なわけで、感動できるようなしろものではないのはあたりまえなんだよな。全部思い出せなくてシアワセなのかも。
でも文字の夢はわりと好きだ。夢の中でも本を読んでいるようで。どこにもない本を。
某月某日
今日、TVで忌野清志郎が歌うよ、と親切なSくんが電話をくれる。なのでTVの前で待機する。彼は十代のころからかわらず私のナンバーワン・スーパースターだ。
清志郎は二曲歌う。君が代と、少し昔の歌。しびれる。この人は本当にカッコよく、偉大だと思う。スタイルをかえず、でもつねにかわり続けている。ところで君が代という歌を私は知らない。もちろん出だしの部分は知っているけれど、全部聴いたのはこのときがはじめてだ。はじめて聴く歌が清志郎バージョンなんて、シアワセだと思った。
某月某日
深夜眠っていたらいきなり電話がきた。いたずら電話かと思ったが、友達の文芸評論家からだった。電話の向こうで彼はずいぶん酔っていて、突然歌いだすわ、猥褻《わいせつ》な言葉を連発するわ、私に失礼な発言をするわ、大人のくせに、何をやっているんだか、と、半分寝ている私をあきれさせる。切ってから眠れなくなり、考えごとをする。たとえば今の電話を三十人の人が受けていたら何人の人が怒るか。そんなことを考えてみたのは、まったくひどい電話のわりには私はさほど頭にもきておらず、そのことがちょっと不思議だったからなのだけれど、その人のひととなりを知っていたら、まあ、人はあんまり怒らないのかもしれないと、そんなことを考えて眠りを待つ。
某月某日
友達と新宿で飲む。二軒目にどこへいくか決めかねて、新宿じゅうを歩いているのではないかと思うほど歩きまわる。夜、酔っ払って歩くのは好きだ。歩きながら文句を言うのも好きだ。実際は、言うほど疲れていないけれど。
もう飲みたくないのに三軒目の店へいき、やっぱり飲めないと判断して私も友達も烏竜茶《ウーロンちや》をがばがば飲む。子供みたいに。飲み屋で烏竜茶しか飲まなかったなんて、はじめてだ。隣の席は、男二人、女一人のグループだったが、突然男の一人が泣きはじめた。泣きながら何かを必死に訴えていた。私と友達は聞き耳をたててみたが何を言っているのかさっぱり聞こえなかった。もう少し大きな声を出さなくちゃ。泣くくらいのことなんだから。
帰り道、どんな事情があって泣いたのかなあ、としつこく考える。
某月某日
ものすごいうまい料理を発明する。あんまりおいしいので我ながらどぎもを抜かれる。どうしよう、とすら思う。もし私がいつか飲み屋を経営することがあったらこれを看板メニューにしよう。
某月某日
ライターが家のなかにごろごろあるのにどれも火がつかない。火のつくライターを捜しているうち午前中が終わってしまい、非常に疲れる。
夜、渋谷で飲んで、その後バスで移動してさらに飲みにいく。夜でも昼でもバスに乗るのは好きだ。
バスをおりて、しばらく歩いて、私はもはやそこがどこなのかまったくわからなかったのだけれど、坂を上がると、急に夜空にはめこまれた東京タワーが見えた。堂々としていて、ぴかぴかしていて、静かな光景だった。四歳のときおばと東京タワーにいったが、それは記憶しているのではなくて蝋人形《ろうにんぎよう》館のまえで撮った写真があるからそう知っているだけだ、と、ともに歩いていた人に話していると、ふっと、本当にふっと夜に吸いこまれるみたいに、東京タワーの明かりが消えた。
こういうことっていつまでも覚えているんだろうなあ。
某月某日
担当編集者の結婚式にいく。スピーチを頼まれてしどろもどろにあいさつをする。私のまえにスピーチをした某有名文化人が、いい格言を言っていたので、私も格言を言いたいなあと思うが、格言って自分で考えるのだろうか、どこかで読むのだろうか。
およめさんは肩の出るドレスを着ていて、なめらかなラインが本当にきれいでいろっぽくて、近くにいったときにさわってみた。うっとりするほどすべすべしていた。およめさんは怒らずににっこりとほほえんでくれてさらにどきどきした。
某月某日
隣の町にケルト・ミュージックのライブを聴きにいく。じつに正統的な、伝統的なアイルランド音楽だった。アイルランドの音楽は聴いていると心底気持ちよくなる。ライブハウスはすいていて、ゆったりと聴けて、よかった。いわしのオーブン焼きをつまみながらもちろんギネスを飲む。旋律とともにどこだかわからないがなつかしい光景が浮かび、何か思い浮かび、追いかけようとするとふたたび旋律とともにどこかへ飛び立っていってしまう、その心地よさ。
偶然きていた知り合いの編集者に声をかけられる。彼はついこのあいだうちの近所に引っ越してきたのだと言った。昨日も駅で見かけましたよと言われる。なんだか恥ずかしい。
某月某日
昨日会った人とはべつの編集者、Kさんと家の近くでばったり会う。彼は自転車に乗って家に帰るところだと言う。しかしこの人はいつ会っても驚いてくれない。まるで会うことを決めていたかのように「よう」と声をかける。私はいつでも驚くのに。いつどこでばったり会っても彼が驚かないことは私の不思議なことのひとつだ。きっとこの人は、たとえばサハラ砂漠なんかでばったりでくわしても、当然のごとく「よう」と言うのだろうなあ。
家に帰ってくるとポストに葉書。私が大ファンであるところの作家友達Fさんからで狂喜して何度も読む。しかし、ディカプリオのポストカードであるところが笑える。
友達が電話で「私髪型かえたの」と言う。「どんな」と訊くと、「なんていうかボンバーって感じ」と答える。ボンバー。彼女の夫も先ごろ「なんていうかボンバー」な髪型をしていたので、二人並んだところを見てみたいと思い、食事の約束をして電話を切る。
某月某日
長いこと(三年くらい)Aくんに本を借りていたのだけれど、とうとう、「ちょっと必要になったので返してもらっていいか」と言われる。ただ借りっ放しになっていたのでなく、何度も読もうとチャレンジして、数ページで挫折するくりかえしだったのだ、この三年。風呂で本を読む私のくせを知っているAくんは「風呂で読んでも可」と言ってくれたのに。昼過ぎにAくんがケーキを持って訪ねてくる。お、てみやげ、と言うと、「もう大人だから」と言った。
近所にマーケットができたのだと彼が教えてくれる。マーケットっていい響きだ。母親の誕生会があるので今日は実家に帰る、という彼を見送ってから、「新しいマーケット」にいってみることにする。高架下にかなり広いスーパーマーケットができており、私は興奮して店内を歩きまわった。スーパーって楽しい。
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海
毎年夏になると決まって海に泳ぎにいくが、子どものころはじつは海が苦手だった。
家族旅行で海にいった。それがどこで、いくつのときだったのか、まるきり覚えていないが、ただ一つ覚えているのは、雨降りだったのか日暮れどきだったのか、海岸にはまったくひとけがなかったことだ。私は波間で遊んでいて、ふとしたひょうしに、はいていたサンダルが脱げ、それはあっという間に流されてしまった。波打ち際に立つ私をからかうように、遠くへいってはすぐそばまで近づき、それでもかならず私の手からのがれて、また遠ざかってしまう。
そのとき私は、今まで感じたことのない恐怖を味わった。片方のサンダルが流されてしまっただけだというのに、声も出せず、その場に立ちつくして、徐々に遠ざかっていくそれを見ていた。ああもうだめだ、そう思った。サンダルが流されてしまって近くに靴屋がありそうになかったから、裸足で帰らなければならない、とも思ったし、母親に怒られるに決まっている、とも思ったのだが、私が心の中でつぶやいた、ああもうだめだ、は、もっと深いところからぽつりとでた言葉だった。
少し先を歩いていた父親がそれに気づいて、ざぶざぶと波間に入っていってサンダルをとってきてくれた。それでも私は一瞬感じた恐怖を取り払うことができなかった。
このささやかな事件は子どものころの私を海から遠ざけ続けた。たとえばどこかの旅館に泊まって、窓の外にどす黒い海が広がっていると、私は障子を閉めた。自分があの小さなサンダルみたいに、飲みこまれてしまう気がした。
海恐怖症は十八のときになおった。秋に近いころ沖縄にいって、透明度の高い海面に興奮して泳ぎまくって、いつのまにか流されかけたサンダルのことなど忘れていた。そのとき一緒に旅行した友達と私は夜になっても海へいき、真っ黒い海を背景にはしゃいで夜更けまで過ごした。
それ以来夏になるとかならず海へいくようになった。夏のあいだ私は子どもみたいに日に焼けている。日本の外へ旅するときも、日程を海中心に考えることが多い。ダイビングもシュノーケルもしない。バナナボートにもスピードボートにも乗らない。私は一日、海の水に浮かんでいる。
私は海で、棒切れみたいにまっすぐ浮くことができる。自慢するほどのことでもなく、だれでもそうして浮くことはできるのだが、案外そうして自分の体だけで浮かび続けることができるのを知らない人は多い。両手は頭のうしろで組む。足はまっすぐ伸ばす。そうすると、体は細長い浮き輪みたいにきちんと浮く。波の穏やかなところでは、そのままうとうとすることもできる。本当。
こうして海面に浮いていることは、本当に、うっとりするくらい気持ちのいいことだけれど、ときおりふと、私は体勢をかえて岸近くまで泳ぐ。岸が見え、人の姿が見えるところでもう一度浮く。どんなに波が穏やかでも、そうしないと不安になる。やっぱり私はどこかで、あのとき感じた恐怖を覚えているのだと、そんなときに思う。
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まなちゃんの道
自分で言うのもなんだけれど、なんでもそこそこできる子どもだった。実際ほとんどの授業のあいだ、しかられて廊下にいたにもかかわらず、親が呼び出されて深刻な注意を受けるほどこっぴどい成績をとった覚えもなく、体が小さかったので体育はすばしっこさだけでなんとかなったし、絵を描くのはもともと嫌いではなく、音楽の楽器演奏はうまいさぼりかたをよく知っていた。結果、私はなんでもそこそこできることになっていたし、自分でもそう思っていた。そこそこ以上になれないことは自分でもよく理解していて、けれどそれを目指すつもりは毛頭なく、そこそこ万歳、くらいの気持ちでいた。
ところで私の通った小学校は、上級生になると強制的にクラブに入らなくてはならなかった。美術部か、ブラスバンド部か、ソフトボール部、選択肢はその三つしかなかった。一番さぼれそうだったし、「そこそこ」のなかでもとくに美術は秀でているという自負がそれなりにあったので、私は美術部を選んだ。美術ではまた、油絵か、日本画を選ばなくてはならない。そのほうが自分の粗雑さで耐えうる気がしたので、私は油絵を選んだ。
美術部でも私はそこそこできた。私たちは油絵の具とカンバスを持って、学校の中や、ときには学校外の自然の中を歩きまわり、好きな場所で絵を描く。与えられた時間がたとえば九十分だとしたら、私がしていたのは、六十分間仲良しの友達としゃべりたおし、のこり時間が少ないとようやく気づいてあわててべたべたとカンバスに絵の具を重ねる、それだけだった。もちろんそれでいい絵など描けるはずはないのだが、絵らしきものはしあがった。そしていつもそれは、きまってそこそこの出来で、絵って楽しいじゃん、私、絵うまいんじゃん、などと、おろかしくも思っていた。
六年生の夏休み後だった。夏休みの宿題だった絵を各々《おのおの》持ってきて、品評会がおこなわれた。九十分中六十分をおしゃべりですごすように、夏休みも四分の三ほど遊んで過ごし、残りの少ない日数で描くべき何かを見つけることもできず、私が描いたのは自室の棚につっこんである羊のぬいぐるみだった。ずらりと並べられた生徒たちの絵を見ていって、先生は汚いなあ、とか、これはおもしろいね、とかいろいろコメントし、相変わらずそこそこの出来の私の絵の前で、ふうん、ぬいぐるみか、とかなんとか、とくべつ感慨もない声を出して通り過ぎていった。何枚目かにまなちゃんの絵があった。まなちゃんも油絵だった。
それほど大きくないカンバスに一本の道が描かれていた。舗装されていないその土の道は、雑草やすすきに縁取《ふちど》られ、ゆるくカーブを描きながらまっすぐ続いていた。私の目はその道に釘づけになった。
夏の終わりのだだをこねるような蒸し暑さ、草いきれ、日が暮れはじめる直前のさびしさ、乾いたかすかな風に舞う土埃《つちぼこり》、美術室に座った私を、そうしたものが一瞬にして包みこんだ。もう帰らなくてはならないのに、このゆるく曲がった上り坂の向こうの景色をたしかめにいきたい、そんな気持ちまで味わった。私はその絵のなかに突っ立っていた。
私はその絵を見たとき、そこそこであることを心から恥じた。憎んだと言ってもいい。小学生の女の子が描いた一枚の油絵は、何か奇妙な切実さに満ちていた。その切実さはこちらに触手を伸ばして、好むと好まざるとにかかわらず、見る側を絵のなかにひきずりこんでいく。切実さは力だった。力を持つ何かを私ははじめて間近で見た。そして、この世の中には圧倒的にかなわないことがあるのだと、はじめて知った。
夏休みのあいだに同級生の女の子が描いた一枚の絵は、あまりにも私を打ちのめしたものだから、実際の記憶のように心にはりついている。あの絵を思い出すとき、土埃も、生温い風も、傾きはじめた陽の光も、感覚として思い出すことができる。たしかにあのとき、私はあの絵のなかに入りこんだのだろう。
先日、美術館である絵を見て、私は足を止めた。岸田劉生《きしだりゆうせい》が昭和初期の原宿の道を描いた絵だった。絵の雰囲気はまったく違うが、それはまなちゃんが描いた絵と、よく似た構図だった。舗装されていない道路が雑草に縁取られてまっすぐに伸びている。
おそらく人は、こうして曲がりくねったりまっすぐ伸びたりしながら、先の見えないほど続いていく道に、どうしようもなくひかれる習性があるのだろうと、その絵を見て考えていた。この道の先が見たい、でも帰らなくてはならない、それでも先へいきたい、そういう気持ちは子どものほうがむきだしで、野蛮なほど強いんだろうと思う。私はそこに立ちながら、自分がするすると小さくなって、油絵の具のにおいを嗅ぎ、理由もわからないまま恥じ入り傷ついて、それでも目を外すことができずに、一枚の、奇妙な力を持つ拙《つたな》い絵を眺めている気でそこにいた。
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飛行場
ドラえもんという漫画にでてくる、様々な便利かつ|ずる《ヽヽ》グッズのうち、何が一番ほしいかと言われれば、どこでもドアである。断然どこでもドア。ときおり本気で、百歳まで生きていたら頭のいいだれかが発明してくれるのでは……と考える。
もしどこでもドアがあったら一日をどうすごすか、という話題で恋人や友達と何時間も話しこむこともある。まず台湾にいってお粥の朝ごはん、それから南の島のビーチにいって昼まですごし、昼過ぎにイタリアあたりでワインとパスタをたらふく食らい、ビクトリアパークでしばらく昼寝、夕方前にわんわん動物園にいって犬とたわむれ、帰ってきて友人数人に電話をかけて一瞬後にうちに集合、みんなそろってバンコクの屋台街へくりだして、ビールとタイ料理で長々としゃべり尽くす。完璧だ。妄想は終わらない。
ところがどこでもドアなんてものは実際存在しないのだから、この重たいからだを持ちあげて、様々な手続きをすませて、あちこちへと運ばなくてはならない。
移動すること、そのものは好きだ。電車やバスの窓の外に流れる見知らぬ景色は、一瞬のうちに、自分が重たいからだを持っていることを忘れさせる。私はただの塊《かたまり》みたいになって、自分がいくつであるとか、だれであるとか、そんなことをいっさい忘れて見入ることができる。
しかし唯一、嫌いな乗りものがある。飛行機だ。
あれはよくない。高い場所が嫌いだし、密室が嫌いで、それに、どう考えても、あんなに重たいものが空を飛ぶことが信じられない。信じられない、ということはつまり、信用できない、ということである。
飛行機嫌いで異国へはいかない、という人を何人か知っているが、私は異国を訪れるのが本当に好きなのだ。自分の知らないところで見知らぬ場所が存在している、ということを、どうしてもたしかめたくなるのだ。だから飛行機嫌いと異国好きをはかりにかけて、結局いつも飛行機の世話になる。離陸した直後にビールをもらい、眠れるまで飲んでひたすら眠る。飛行機に乗っているということを忘れるために。
けれど飛行場は好きだ。用もないのにいってしまうくらい好きだ。スーツケースを転がして人々が行き交い、どこかから帰ってきた人が不安そうにむかえの人を捜し、行き先案内板がかちかちと表示をかえる。その場に突っ立っているだけで、パスポートも現金もなにも持っていなくても、今すぐどこかへいくことが可能である、そんな気分になる。
行き先案内板を眺める。シドニーだとかペキンだとかアムステルダムだとかイスタンブールだとか。目をつぶれば今|垣間《かいま》見たその場所へすぐにでも到着する錯覚を抱く。
異国の飛行場も好きだ。町からバスや鉄道で飛行場に到着すると、その場所がいかに非日常なのかがわかる。町の喧騒や、猥雑さや、人いきれや、食べもののにおいと、どこまでもかけ離れている。手提げカバンを枕にして眠っている若い男や、家族親戚一同に見送られている女もいる。不安げにガイドブックを広げている旅行者も、免税品を夢中で買っている旅行者もいる。ここではないどこかへいくこと、というのが、かぎりなく非日常に近いことを感覚で知る。
飛行機が、というより、飛行場がたぶん、今現在の私のどこでもドアなんだと思う。
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ドライブ・イン
とても好きな場所なのに、けっして一人の力でいけない場所がある。それがドライブ・インだ。
理由は簡単で、私は免許を持っておらず、また免許をとる予定もないので、一人きりでいくことは不可能なのだ。
ドライブ・インは楽しい。縁日《えんにち》みたいに、いろんな屋台が出ていることもあるし、その場所でしか食べられないものもある。びっくりするほどおいしいラーメンやそばに出会うこともある。おみやげも売っている。なぜかみんな似たような服装のおばさんたちがはしゃいでいたり、ツーリングの若い人たちが地図を広げていたり、カップルがいちゃつきながらべつべつのトイレへ入っていくのもいい。一言でいえば、浮わついている。
建物の裏手にまわってみたら、本当にさりげなく、なんの主張もせずに海が広がっていたり、雪をかぶった山がそびえている。その場所で働いている人々にはもちろんいつも見る、どうということのない景色に違いなく、また、移動に浮かれた人々ものんびり山を仰いだりせずとおりすぎてしまうので、裏手のその景色は、それがどんなに雄大なものであれ、どこか遠慮がちに、ひっそりとそこにある。
私がドライブ・インにいけるときはかならずだれかと一緒である。だから、そこで何時間も過ごすことはできない。これからどこかの場所の、おいしい料理を食べることを楽しみにしている人とともに、ドライブ・インの食事で腹を満たすことはできない。一度でいいから、一日の大半をドライブ・インでだらだらとすごしてみたい。おみやげ用の漬物をつまみ食いして、ビールを飲んで、芝生に寝転がって裏手の景色を眺めて、移動の途中に立ち寄る浮かれた人々を目で追っていたい。でもきっと、一時間もすぎるころ、私は早く車に戻ってどこかへいきたくなるんだろうな、と思う。ドライブ・インはきっと、そうした場所なのだ。
好きなときにドライブ・インへいけるように免許でもとろうか、と考えないこともないけれど、以前原チャリに乗っていたとき、一日に三回以上は、対向車および背後の車に、死にたいのか、ばかやろう、とどなられ続けていたから、ドライブ・インのために命を危険にさらす気にはなれない。
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バッグのなかの
つねづね不思議に思うことがある。私の家にだれかが泊まりにくるときでもいい、あるいは一緒に旅行をしたときでもいい、女の人はかならず、バッグのなかに小さなバッグを持っている。風呂に入るときや洗面所に入るとき、それを持っていくのである。
あのなかには何が入っているのだろう、と、ずいぶん前から私は思っている。洗顔|石鹸《せつけん》やブラシや口紅が入っているだろうとは容易に想像がつく。しかし、それにしては大きい。というより、そうしたものなら私も持っている。しかしバッグに入れるほどの量ではない。もっと何かが入っているはずなのだ。だから彼女たちの荷物はいつも私より多い。バッグのなかにバッグが入っているのだから。バッグのなかに必要最低限のものしか入れていない私は、驚くほど荷物が少ない。私とどこかへ泊まり掛けで出かける人はたいていが驚く。驚かれるたび、私はかすかに落ちこむ。タオルなら宿に、もしくは泊まる先の人の家にあるはずであり、ドライヤーもしかり、パンツなどはたためばかさばるはずがないし、ならばあとは何を持てばいいのだろう。
そうして夜になるとバッグのなかのバッグが登場する。いったい何が入っているのだろう。女同士だから遠慮はいらないはずなのに、なぜか私はいつも、その中身を見せて、と頼めないで何年も過ごしてきた。
女の人が持っている、バッグのなかのバッグは、非常に女らしいと見るたびに思う。先日も女の子が二人私の家に泊まりにきて、風呂に入る際、それぞれがバッグを持って脱衣所に消えた。バッグを抱えて、濡れた髪をまとめあげて風呂から出て来る女の子は、ジャージ姿でもなんとなく艶《つや》っぽい。
やはり私もバッグのなかのバッグを持つべきだ。そう決心し、小旅行の際に巾着袋《きんちやくぶくろ》などにいろいろ入れようと思うのだが、入れるものなどさほど思い当たらず、結局荷物が増えるのがいやで、手ぶらに近い状態で出かけることになる。
バッグのなかのバッグは永遠のなぞである。今度こそだれかに、思いきって訊いてみようか。中身を全部並べてもらおうか。そんなことを日々思う。
先日友達の家に遊びにいった。彼女の家には六歳になる女の子がいる。六歳にしてはしゃれたかばんを持っているので、そのバッグ、いいね、と褒めると、目を輝かせて答えた。
「私はバッグが大好きなの、だからこのなかにもバッグが入っているのよ、どこにいくにも持っていくの」
そして私の目の前に座り、バッグのなかからじつに、小さなバッグを取り出したのである。
「ねえ、何が入ってるの、見せてよ」思わず私は言った。
彼女は得意げに、バッグのなかのバッグの中身を一つずつ取り出して見せてくれた。これは鏡、これは口紅、これはネックレス、お揃いのイヤリング、それからお菓子、ハンカチ、これはだれだれちゃんからもらったメモ用紙、ビーズでしょ、魔法が使えるコンパクト、ぽぽちゃん(人形の名前)の靴下、延々と続く。なるほど! と私は感心した。おそらくバッグのなかの小さなバッグの中身は、三十をすぎた私の友達も、六歳の彼女とそうかわらないはずである。必要のあるものもないものも、とにかく気に入ったものを押しこんでおけばいいということだ、と、なんとなく納得した。気に入ったものは女の子らしいものでなければならない、という法則も理解した。彼女の小さなバッグには間違っても弟のミニカーなどはまぎれこんでいなかった。
ついでにもうひとつのなぞを、彼女にぶつけてみた。ねえ、なんでバッグのなかにもうひとつバッグを入れるのさ? 彼女はしばらく考えてから、こう答えた。
それはねえ、女の子だからよ。
なるほど、ふたたび私はうなった。バッグのなかからバッグを取り出す女の人は艶っぽいわけである。
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だまされる
ずいぶん前のことになるが上海《シヤンハイ》にいった。上海旅行はひどく短く、五日程度だったのだが、私はなんとなく上海の気分から抜け出せず、たとえば知人宅のエレベーターに乗れば知人の家は二階なのに四階のボタンを押していたり──上海のホテルの部屋が四階だったのだ──、バスや電車に乗るとき、人が並ぶべきところに並べずぐいぐいと先に進もうとしてしまったり、へんなぼけかたをしていた。
上海旅行から帰った二日後のこと。私は自分の家の周囲を散策していた。というか、歩いているうち、自分がどこへいこうとしていたのか忘れ、ただぼんやりと歩いていたにすぎない。
地理的なことに完全に無知な私は、上海の場所を地図で見て、それが沖縄に近いような気がしたので、勝手に暑い場所だろうと思いこみ、二月の終わりだったのだがかなりの薄着でいったのだった。しかし上海は驚くほど寒く、歩いていると数時間で歩けないほど腰が痛くなり、公園やデパートの階段や喫茶店で何度も休憩をとらなくてはならないほどだった。そんなことを思い出しながら、日本はずいぶんあたたかいなあ、と目的もなく歩いていた。
のろのろと歩いている私のわきに一台の車がとまった。丸顔の、中年にさしかかりはじめた年のころの男が顔を出し、駅へいくにはこの道でいいのか、と尋《たず》ねてきた。
毎度のことであるが旅から帰った私は妙にやさしい心持ちになっている。たいがいにおいて旅先で親切な人にやさしくされるからである。だからこのときも私は、駅までの車のいきかたを、かなりていねいに説明した。
私の説明を聞き終えた男は礼を言い、しかし車を出さず、どこか申しわけなさそうに、おじょうさん、着物って、着ますか? と訊いてきた。はい、着ます、素直に私は答えた。じつは私は着物が大好きで、十代のころひとりで着られるように着付け教室にも通ったくらいだから、駅までの道順と着物となんの関係があるのかまったく考えず条件反射的に答えていた。
それを聞いて男はさらに申しわけなさそうな顔をし、声をひそめ、運転席の窓から顔だけ出して、着物をもらってくれないか、と言った。
男の話によると、彼は某着物メーカーの社員で、晴海《はるみ》でおこなわれている着物の展示会のために先ほどモデル用の着物を届けにいったのだが、じつはサイズを間違えて作ってしまったことがわかり、モデルの着物はなんとかなったのだが、間違えて作ってしまったほうが手元に残ってしまった。これから会社に帰るのだが、これを持って帰ると間違えたことが上司にばれてしまい、こっぴどく叱られる、叱られるならまだいい、くびになるやもしれず、いっそのことこんなものそのへんのゴミ箱にでも捨てていってしまいたいが、やはり着物を捨てるのはどこか忍びない、もらってくれないかなおじょうさん。と言うのだった。
私はまだ旅ぼけのおさまらない頭で、日本はなんだかいろんなことがあるんだなあ、などとのんきに考えてそれを聞いていた。お願いします、人ひとり助けると思って、男は眉尻を下げてくりかえす。その男、本当になんというのか、運に見放されそうな弱々しい顔立ちをしているのだ。いいですよ、私は答えた。着物をもらうくらい、どうってことはない。
その答えを聞いて男は後部座席に積まれた着物を桐の箱からだして見せてくれた。たとう紙をするするほどき、これは色無地、これは大島|紬《つむぎ》、それから襦袢《じゆばん》、これは正絹《しようけん》ね、あと帯が二組、こちらは銀糸、こっちは金糸、これなんかね、買おうと思ったら五十万はするよ、と、くびにならずにすみそうでほっとしたのかどことなく生き生きと語りだす。はあ五十万ねえ、など心のなかで思いながら見ていたのだが、なにしろ、男はすばやく見せてすばやくしまってしまうから、品物がどんなものなのかよくわからなかった。それでも私は色無地を持っていないので、その薄桃色の色無地ならもらってもいいな、というか、もらいたい、とすら考えていた。
もらっていけばいいんですよね? と私は訊いた。おじさんのために。そうです、そのとおりです、男は大きくうなずき、ふと顔を曇らせ、ただし、と言う。私も身構えて次の言葉を待った。ただし五十万? ただしローン? そんな言葉を待っていたのだが、男はこう言った。ただし、これはけっこう重いんですけど、ぼくは大急ぎで帰らなくてはならないので、あなたの家まで運んであげることはできない、自分で持っていってくれますか。そんなこと、お安いご用である。なにしろそこは私の家の近所なのだし、重いと言ったって米俵《こめだわら》を何|俵《ひよう》も運ばされるわけではない。いいですよ、持って帰ります。私は言った。
ああー、助かったあー、本当に助かりました。男は幾度もそうくりかえし、ふと私を見て、自分から頼んでおきながらずうずうしいとはわかっているんだけど、お願いがあるんですよ、と続ける。仕立て代だけでも、もらえないでしょうか。そう言うのだ。なんでもこの着物を発注したのは自分だが、自分の部下が仕立て代を払っていて、もちろんこちらのミスなのだが、全額とは言わない、少しだけでも仕立て代を払ってもらえると非常に助かる、と言うのだった。仕立て代って、いくらですか、私は訊いた。全額なんて本当に言えないので、五万でいい、と男は言う。
悪いけどそんなに払えない、もらってあげることはできません。と私は答えた。実際、五万円なんて持っていない。すると男は、じゃああるだけでいいです、と食い下がる。財布を開けてみると二万円入っていた。二万円しかないと言うと、二万でいいと言う。なんだか申しわけないなあ、と、私は思っていた。実際の仕立て代の何分の一かの五万の、さらに半分以下なのである。残りはおそらく彼の部下か、彼が立て替えるのであろう。しかしないものはしかたない。じゃあすいません、これだけで、と私は彼に二万を渡した。ああ助かる、声をかけた人があなたでよかった。これで私も部下も、叱られなくてもすむ、くびになることもない、恩にきます、ちょっと待っててくださいね、紙袋に移しますから、言いながら男は紙袋に桐の箱から出した帯やら着物やらをつめはじめた。それを私に渡して、ありがとうとくりかえしながら去っていった。
紙袋一つ下げて私は家に帰ってきた。いろんなことがあるものだ、と感心しつつ、人助けをしたようなさわやかな気分を味わい、また薄桃色の色無地がこんなふうに手に入ったことを喜んでもいた。こういうことは中国なんかではないんだろうなあ、やっぱり日本という国は贅沢なものだなあ、間違って作った着物を捨てたいなんて言うのだから。などとひとりごちつつ、同じように着物好きの母親に電話をし、今ねえ、こんなことがあった、と報告した。日本てすごいよねえ、歩いているだけで着物がもらえるんだよ。
すると受話器のむこうから、ばっかじゃないの!! と叫ぶ母親の声が聞こえてきた。なんでそんなものに二万も払うのだ、今すぐそこで紙袋をあけてなかをよく見てみなさい、絹の襦袢のわけがない、大島紬のわけがない、と言うのだ。受話器をそのままにしてなかを確かめた。果たして確かに、襦袢は安っぽいアクリルだったし、大島紬は紬とは思えないへんな柄で、そして、色無地は入っておらず金糸を使った帯もなく、てらてら光る銀の地に奇妙な蝶の舞うど派手な、見たこともないような帯が入っているだけだった。
受話器に戻り、色無地に色気を出したなどと言えるはずもなく、確かに襦袢は絹ではないし大島紬というのもあやしいが、でもあの人は本当に困っていたんだ、私は人助けをしたのだ、五万と言われたところ二万で手を打ってもらったのだ、とむなしく言い続け、受話器からは合いの手のように、ばっかじゃないの!! という母親の声が響き続けた。
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盗み聞く
たまにはいい肉を食おう、ということになり、友人とつれだって松阪牛のしゃぶしゃぶを食べにいった。さすがは松阪牛だけあって、おとなっぽい店だった。薄暗く、店内には小川を模して水が流れ、それぞれの席は充分なスぺースをもって仕切られている。おとなっぽさに慣れない私たちはぎくしゃくしながら席につき、あたりを見まわしつつどこかびくびくと注文を終え、肉を待った。
着物姿の女の人が山盛りの肉だの蟹だのを持ってくるが、私たちが注文したものより格段に量、質ともに上等のそれらは、私たちの席を素通りして隣の席へと運ばれていく。私たちはふりかえって女の人の運ぶそれらを目で追っては生唾を飲みこんでいた。
松阪牛と蟹の運ばれた隣の席から声が聞こえてきた。仕切られているので隣は見えないが、若い女の声である。「でもさ、おじさんはさ」はりのある声のトーンを落とそうともせずよくしゃべっている。肉を待ちながら酒を飲んでいた私たちは、「おじさん」という若い女の声に反応した。二人で顔を見合わせ、山水画みたいな絵の描かれた仕切りに向かって聞き耳をたてる。
若い女の声に答えているのは渋みがかった低い男の声。ぺちゃくちゃとしゃべる女にくらべて男はあくまでも口数少なく、そっけなさを装っているような節がある。で、学校はどうなの、なんて訊いている。
これは! と、私たちは目配せしてうなずきあった。これはまさしく、世間一般でよく言われている、若いむすめさんがさびしいさえない中年男と食事をともにしたりもっとべつのことをしたりして金品をいただくという、例の、あれではないか、まさしくそれ以外のなにものでもないではないか、と、薄暗い照明のなか交わしあう私たちの目線は語った。
私たちの席にいよいよ松阪牛が運ばれてきたが、それどころではなく、はじめて遭遇した仕切りの向こうの現代的な状況に集中しながら、上の空で鍋に肉をいれ、しゃぶしゃぶとかきまわして口に入れては聞き耳をたてる。若い女は学校の友達のことを話し、先生のことを話し、男は低くうなずいて聞いている。
だってその子みなちゃんていうんだけどー、とにかく合コンが好きでさー、命かけてるわけ、そんでこの前なんかなおが人集めた合コンでさー、相手の男が超ぶさいくだってまじで怒ってんのー、でもね、あっ、これおいしいよ、おじさんも食べてみなよ、ねっ、おいしいでしょ? それでなんだっけ、そうそう、それでさー、と、軽快に話は続き、無口な男はときおりふっと低く笑い、私と友人は耳にのみ神経を集中して片っ端から肉を食べ野菜を食べ、ぐいぐいと酒を飲んだ。
このとき私たちの願いはただひとつであった。顔が見たい!! 夜もまだ更けないうちから若い女の子に松阪牛および蟹などを食わせている男の、そしてのこのことついてきてぺらぺらとしゃべり続けている女の子の、顔が見たい。
そのとき女の子が席を立った。私たちの席のうしろを歩いていく。顔までは見られなかったが、じつにわかりやすいことに彼女はセーラー服を着ていた。あの、スカート丈の異様に短いセーラー服で、脛《すね》にはくるくると太い靴下が巻きついていた。私たちは決定的な証拠をつかんだようににんまりとふたたび顔を見合わせた。さらに男もトイレにいくよう念じてみたが、男が立つ気配はなかった。ならば彼らより長居して、二人がともに席を立ってうしろを通るときを見るしかない。肉はもうすっかり食べ尽くしてしまっていたので、酒だけ飲み続けながら私たちは彼らが店をでていくのをひたすら待った。
しかし、若いというのはいいことである。若いというだけで人の金で松阪牛を食らい蟹を食らうことができるのだ。私は自分が制服を身につけていたころをなんとなく思い描き、いや、若いだけではだめだ、若くかつきれいでないとだめなんだなあと、シビアなことを一人悟ったりしていた。
トイレから戻ってきた女の子に男が何ごとか低く言い、女の子は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「えー、そうなのー? かずおおじさんってそういう人だっけー? 私ぜんぜん違うと思ってたー」
ここで私と友人は再度顔を見合わせる。なんかちがくないか?
「ねえだって、のりこちゃんはかずおじさんのこと好きじゃん、いいおとうさんだと思うよー、私もかずおじさんがおとうさんだったらいいのにって思うもん、おじさんそれってさー、つくってない? おじさん、かずおおじさんとなか悪いのー、きょうだいなのにー?」
私たちは完璧に自分たちの誤解に気づいた。彼らは事実「叔父さん」だか「伯父さん」だかと、その姪《めい》だったのだ。二人は席を立ち、私たちの背後を通っていったが、申しわけなくて彼らの顔など見るどころではなかった。私は自分の下卑《げび》た想像力を恥じた。そしてめったに食べることのできない松阪牛をきちんと味わうことなく食べ尽くしてしまったことを悔やんだ。
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わが青春のヒーロー・ヒロイン──ディバイン
私は十九歳で、自分が何を好きで嫌いなのか、何をよく思い何を不快と感じるのか、どんなことに興味を持っているのかさえ、ちゃんとわかっていなかった。前の年に通いはじめた大学の、人の多さと多様さにまだ慣れることができず、ぼんやりしたまま「こんなものか」と言い聞かせて日を送っていた。自分を見失う、といえば格好もつくが見失うべき自分すら知らなかった。すすめられた本は読み、誘われれば映画も観、心に深く響かない程度に感動することはできた。
よく覚えている。その一九八六年の夏、どこかで見かけた一枚のチラシが私の心をひいた。映画のチラシだった。写っているのは男だか女だかわからない、派手化粧のデブで、理由もわからずひかれるままチラシを手にした。
ある日、そのチラシを手に、東京の外れにある映画館まで電車を乗りついでいった。それまで一人で映画を観にいくことなんてなかった。映画ばかりでない、一人で何かをするなんてことがなかったのだ。何をしたいのかすらもわからなかったのだから。だから、ひたすら映画館を目指しながら、そうしている自分に驚いていた。
超満員だと思っていた映画館は、がら空きだった。薄暗やみの中、私のほかに二人しか客がいなかった。どちらもさえない男で、にわかに不安を感じたが帰るわけにはいかない。観なくてはならない。
そしてはじまったのが「ピンク・フラミンゴ」だった。ばかばかしい、くだらない、えげつない、俗悪、下劣、下品、悪趣味、無意味、無秩序、無価値、それがこのB級映画を説明するのにふさわしい言葉である。興奮していた。全身の肉を震わせて動く最低にやかましいディバインに、それを観て動揺するほど喜んでいる自分がいるという事実に。そうなのだ、無だの下だの悪だので形容されるこの映画を観て、心に響くとはどういうことかを私は知ったのだ。
それはたとえば、波のプールでしか泳いだことがなかったのに本物の海を見たときのような衝撃。並カルビしか食べたことがなかったのにある日はじめて特上カルビを口に入れたような感動。今まで信じていたものがぜんぜん嘘っぱちだったと知るようなショックだった。そういう意味でディバインは私にとって「本物」だったし、このがら空きの映画館ではじめて私は自分が何を好きで何を嫌いかを知ることができたのである。
高い塀の中にちんまり座って、何も知らず、何も知ろうとせず、こんなものかと片づけて安心していた今までの私だったら、多分眉をしかめていたであろう、そうしなければいけないのだと信じきって。もし、目を引いたチラシを手にとらなかったら私はずっと自分自身を勘違いしたまま過ごしていたに違いない。
何も知らないのは今もさほど変わらないが、少なくとも、この目で見る前に何かを言おうとしてはいけないことだけは知っている。
存在そのものが虚構であるような、無秩序の象徴であるような圧倒的な力強さ。その無意味さで意味を感じさせ、かつ私を喜ばせてくれるスターは、ディバイン亡きあとまだあらわれていない。
*「ピンク・フラミンゴ」
1972年に製作されたアメリカ映画
ジョン・ウォーターズ=監督・製作・脚本
カルト・ムービーの源流と言われる怪作。
映画史上最もお下劣な映画として有名
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才能なんて
アイス・スケートでもいいし、麻雀でもいい。なにか新しいことをはじめるときに、かならず思うことがある。今まで知らずに過ごしてきたけれど、じつは私にはその道の隠された才能があって、これをきっかけに一気に開花してしまったらどうしよう、ということだ。
そんなことはまずない。オールナイトで一晩すべっても、すいすいと氷の上を進むことは最後までできず、何度卓を囲んでも八割がた負ける。隠された才能なんてめったにあるもんじゃない。けれど、やっぱり「もしや」と思ってしまうのだ。思うばかりか、どうしよう、などと心配してしまうのだから、よっぽど自意識の強い人間なのだろう。
これは子どものころからだ。子どものころは今よりも、新しいことをはじめる機会が多かった。習字や、絵画や、ダンスや、そんないろいろを、おのれの隠されているかもしれない才能を案じながらはじめてみたが、先生の目にとまるようなことはなにひとつなかった。私は平凡な初心者で、ときおりほかの生徒の足手まといになったりもし、隠された才能なんてなかったことにがっかりしながら、数か月でもうやめる、となるわけだが、そんなときも、だれも引き止めてはくれなかった。
印象に残っているのは習字教室である。私の住んでいた家は小さな町にあり、バスに一時間乗って、大きな町の駅ビルの習字教室に通いはじめた。今でいうカルチャースクールのようなところで、ビルのなかにはいろいろな教室があり、きている人も中高年が多かった。週に一度、そっけない教室で、おばさんやおじさんにまじって、小学生の私は習字道具を広げていた。生徒は少なかった。墨なんかすらなくていい、と先生が言うのでみんな墨汁《ぼくじゆう》をつかっていた。墨のにおいの漂う教室で、私たちは先生の書いたお手本を半紙の下に敷いて、それを何度も何度もなぞるのである。カーボンコピーのように。それだけの一時間。
生徒たちはそれぞれあたえられたお手本を黙ってなぞり続けるだけだから、当然先生は暇である。暇な先生は何をしているかというと、教壇に座って、あらぬところを見つめて酒を飲んでいた。静かだった。教室はビルの上のほうの階にあり、窓ガラスから見えるのは空ばかりだった。橙《だいだい》だった空は窓ガラスのなかで、だんだんと青みを帯びて、私たちの墨を吸いあげてしまったように深い紺にかわっていった。
先生が教壇のむこうがわに座ってぼんやり酒を飲んでいて、数少ない生徒たちがお手本をなぞり続けるその光景を、私はさほどへんだとも思わなかった。ときおり先生はやおら立ち上がって、机の合間をゆっくりと歩き、私たちの習字を見ては、うなずいて教壇に戻った。先生が近づいてくると酒のにおいが漂った。
先生の文字をなぞるだけだから、なんとなく、自分の習字がひどくうまいような気がしていた。本当に才能があるんじゃないかと思ったくらいだ。
数か月私はその習字教室に通った。ものすごく楽しいわけではなかったが、つらくもなかった。けれど学校の習字の時間に書く私の文字は、ちっともうまくならなかった。どちらかというと下手だった。お手本を半紙の下に敷けたらいいのに、と思った。
習字がちっともうまくならないことを不審に思ったのか、あるとき母親が、習字教室ではいったいどんなことをしているのかと訊いた。お手本をなぞっていると私は答えた。それで先生は何をしているのかと重ねて訊いてくる。前の席で、お酒を飲んでいると答えた。それがあんまりよくないことだとは思っていなかった。けれどそれを聞いて母親はなんとなくいやな顔をした。しばらくして、私は習字教室をやめた。習字は最後までうまくならなかった。
結局、かくされた才能なんてものを期待してわくわくしているから、なにごとも長続きしない。私はもう才能なんて言葉を信じてはいない。ものごとに長《た》けるということは、好きか、嫌いか、そのどちらかしかない。
じつは私は今、あることを習いたくてうずうずしている。才能なんて信じていないと言い切ってもやっぱり、ひょっとしてはじめてみたらものすごくうまいかもしれないなんて、あいかわらず子どもっぽいことを思っている。
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すべての道はうちに続いている
外でだれかと酒を飲むのが好きで、しょっちゅう飲んでいる。
二十代のころは、二日酔い知らずだった。どんなに飲んでも、つぎの日は気分爽快で目が覚めた。けれど三十になって、同じように飲んで明くる日、ひどく気分が悪かったので驚いた。病気ではないかと心配になった。気分の悪さは午後まで続き、きっと病気だろうと寝てみて、起きたらすっきりしていたのでまた驚いた。これが二日酔いかとそのうちわかるようになった。
だいたいは近所で飲む。私の住むアパートがある町は、飲み屋の数が異様に多く、ことかかない。近所でばかり飲んで、仕事は家のなかだから、めったにでかけなくなってしまった。ときどき用事があって繁華街へでると、人の多さにめまいがする。都会へきたなあ、としみじみ思う。
それでも飲む機会があるとなれば、繁華街でも見知らぬ町でもでかけていく。めったにいくことのない場所、あんまり好きでない場所、まったく知らない場所へいくのはおっくうだが、それでもそこでだれかが待っていてくれると思うとわくわくする。
近所で飲んでいれば、十二時だろうが真夜中の二時だろうが、歩いて帰ることができる。電車を乗りついできたような場所だと、そうもいかないわけだが、飲んでいるとどうでもいい。その場所がどこかなんて、関係なくなってしまう。帰るためには電車に乗らなくてはならないということが、わからなくなってしまう。
結局電車も走っていないような時間に店をでて、見知らぬ町の夜の空気を吸いこむことになるのだが、私はこの瞬間が、とても好きである。人通りがとだえ、ほとんどの店はシャッターをおろし、ときおり、コンビニエンス・ストアやチェーンの居酒屋が場違いににぎやかな光を放出して、水にぬれたような黒い道路がひっそりと続いている。
その場所がどこであるのか、完全にわからなくなっているのは、酔っぱらっているからではなくて、町の持つちからのせいだと思う。
どこの町の、どの通りも、どの路地も、ある時刻にがらりと様相をかえてしまう不思議なちからを持っている。夜のなかでぱっくりと隙間を開くような。おもてにでて、そこがどこかわからなくなって、それでもなんの不安も感じないようなのは、この隙間にふっと入りこんでしまったのだ。隙間のなかで、今まで見たことのある町並みが一瞬ごちゃまぜになる。生まれ育った町、好きな男の子と歩いた町、異国で迷ってうろついた町、バスで一瞬通りすぎた町。今私はどこにいるのか。どの時間軸の、どの空間にいるのか。
夜のなかに、そんなどこでもない場所が存在するのはほんの一瞬で、その気分が楽しくてだらだらと夜明けを待ってしまうと、ちからをなくした町でうろついているただの酔っぱらいになってしまうから、ころあいを見てきちんと帰らなくてはいけない。
タクシーのランプを捜して乗りこんで、自分の住んでいる町の名前を告げる。そうすると数十分後には、きちんと自分の家のまえについている。夜の隙間からきちんと抜け出して現実のアパートにたどり着く。タクシーは偉大だなあ、なんて思いながら階段をあがって、すべての道はうちに通じているんだなあ、なんて感心しながら鍵をあけて、ベッドに倒れこんで眠る。朝起きて顔を洗わなかったことをきっと後悔するだろうけど、まあいいや。
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歯医者通いで恐怖の日々
たとえてみれば一枚の馬券に百万もつぎこむような、鰐《わに》がうようよ泳ぐ濁った川に飛びこんで向こう岸に渡るような、そんな決心をして歯医者にいったのである。最後にあの恐怖の門をくぐったのは六年前、あたりめを食べていたら前歯が折れてしまったので、そのときは決心も何もなく駆けこんで前歯を入れてもらった。今回は事情が違う。前歯もあるし奥歯が痛くて眠れないわけではない。それでも虫歯持ちなことは重々承知していたので、一大決心をしていったのである。八本だった。私の口の中には、八本の虫歯があった。それからほぼ一年、私は歯医者に通っている。
考えてみたらひどい話である。私は甘いものはいっさい食べない、毎日きちんと、どんなに酔っ払っていようが歯を磨いている、なのに八本なのだ。
一年近く通ったからといって、歯医者に慣れるかというとそんなことはない。予約のある日は今でも毎回、鰐の泳ぐ川に身を投げる心持ちがする。最近の歯の治療は一昔前と比べてさほど痛くないという人もいるが、その人は多分痛みを感じるポイントが一つしかないに違いない。私は幼少期と同じく、耳が痛い、思い切り開く口が痛い、握りしめる拳《こぶし》が痛い、突っ張る足が痛い、そして何より心が痛い。歯、および歯茎、その神経が一昔前と比べて痛むのかどうかなど私に考えている余裕はない。一回の治療を終えるとぐったりしている。めまいすらする。医者に失礼だとわかっているがあえて言えば、陵辱《りようじよく》後、という気すらする。めったに長時間開けない口を開き、その中に得体の知れない(目をかたく閉じているため)甲高い音や鈍い音を出す機械を突っ込まれ、意志と裏腹によだれを垂らし、若く美しい歯科衛生士の手を汚して、極度の緊張に全身を硬直させている。三十分間も。
歯医者ってなんかずるいですよ、と、親しい編集者Kが言うので、その理由を尋ねたところ、治療に時間をかけすぎる、と言うのだ。私もそう思うとうなずこうとしたが、Kの言いたいことはつまり、八本なら八本の虫歯を、一年もかけずに、三日間でなんとかしてほしい、ということであった。たらたら通うくらいなら治療合宿をして集中的に虫歯をなおしたい、と彼は力をこめて言う。
編集者が私の何倍も忙しく、時間も自由にならないことは理解できるが、それにしても治療合宿。ものすごいことを考えるものである。朝起きて昼まで治療。昼飯後治療。夕食後治療。深夜歯の磨きかた教室。そんなことを本気で望む人もいるのか。一回五分の治療で五年通ったほうが私にはまだましである。
先日待合室で全身をこわばらせ雑誌をめくっていたら、治療室から走り出てきた子供が、大きくなったら私歯医者さんになる、と明るく言っていた。私は子供から目をそらし、先月なおしていただいた歯が、もうすでに痛いのです。と、おそろしさのあまりそう告白できない自分を恥じた。
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悪魔の家
今住んでいるアパートのちょうど裏手に、空き家がある。廃屋、という言葉の持つイメージそのままの、朽ちた木造の家だ。窓や戸はすべてとっぱらわれ、下見板《したみいた》はところどころはがれ、屋根はかしぎ、それでも二階建ての輪郭をかろうじて保っている。半分枯れかけた蔦《つた》が家全体を覆い、戸のあった場所から、がらんと薄暗い、いたるところに雑草が生えた内部が見える。
近所の子供たちはこの空き家を「悪魔の家」と呼んでいる。窓を開け放って仕事をしていると、そんなことを言うと悪魔の家に閉じこめるぞ、とか、悪魔の家まで競走しよう、とか、興奮しきった子供の声が聞こえてくることがある。なかなかいいネーミングだと思う。
そんな子供の声を聞いていると、打ち棄てられた家に興奮する、いやしないまでも何かしら感じるというのはある種、人の根源的な感情みたいに思えてくる。私が幼かったころ通学路にやはり廃屋があり、帰り道きまって友達とそのあたりをうろつき、ある日思いきって足を踏み入れたことがある。そのときの感覚は忘れることができない。
それはかなり広い平屋建てで、窓も戸もなく、畳の取り払われた板敷に簡単に上がることができたのだが、奇妙なことに、部屋という部屋の壁一面、着物がかかっていた。実際その廃屋に入りこむまで極度に興奮し、馬鹿騒ぎをしていた私たちは声をあげることも、冗談を思いつくことも逃げることもできず、時間のとまったようなその空間で、ぼうっと立ちすくんで周囲を見渡していた。人が両腕をあげるような格好でずらりと並んでいる着物が、私たちをじっと見下ろしている気がした。その廃屋に足を踏み入れたこと、得体の知れない光景を見たことは、けっして人に言うことができなかった。
子供のころばかりではない、つい先日も、秋川渓谷を歩いていて、川沿いに崩れかけた空き家を見つけ、私は同じようにわくわくと中へ入った。取り払われたものと残っているもののバランスが妙な空き家だった。畳も板敷もなく骨組みしかないのに、草の生えた地面に炊飯ジャーが転がっていたり、半分壁がないのに和式の便器がそのまま残っていたりした。窓枠もまた残っていて、そこから川が見下ろせた。
絶え間ない雨に似た、川の流れる音がひっきりなしに聞こえ、見知らぬだれかがここで米を炊いたり、和式便器にまたがったり、窓から川を眺めていたことを思った。やはり幼い日と同じように私は言葉を失って、時間の隙間におっこちたような感覚を味わっていた。
かつてそこでだれかが生活していた、その空気をとどめたまま放置された家というのは、たしかに悪魔の支配する場所に思える。完全な無ではなく、ひっそりと何かが呼吸している。すぐ裏にある悪魔の家を、願わくば長くそのままにしてほしいと私は思っている。
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夏のマリー
その女の話は、中学のときも、高校にあがってからもしばしば耳にした。毛皮のマリーの話だ。
横浜駅周辺や、山下公園付近や、元町、中華街、そんな場所を一人の女が歩いている。夏だろうが雨だろうが彼女はかならず真っ白の毛皮のコートを着ていて、顔ばかりでなく、手も足も、毛皮から露出する部分はすべて真っ白に塗りたくっている。年齢不詳だが、かなり年をとっているのは確かである。それだけの話だ。もちろん、この話は一世を風靡《ふうび》した口裂け女ほどには迫力もなく、物語性も薄く、さほど恐怖心をあおらないから、あまり話題性のある話ではなかった。ときおり思いだしたようにだれかの口にのぼり、つぎの日には忘れられ、数年たってまただれかが見ただの見ないだのとぽつりともらす、その程度の話だった。
横浜にあった学校を卒業してしまうと、その場所にはなかなか足は向かなくなり、だから横浜をうろつく一人の風変わりな女の話も、すっかり忘れてしまった。
ところが高校を出てずいぶんたってから、私はその女を見た。
山下公園でお祭りがあり、友達のバンドが出演することになった。それで私は友人数人と車を借りて、山下公園目指して走ったのだった。桜木町を過ぎて、石川町にさしかかったあたりだった。夏のさなか、町にひとけはなく、走る車の数もさほど多くはなく、まっすぐに続く道路が生きているみたいに銀色に光っていた。赤信号で車はとまり、青にかわって走りだし、その瞬間、横断歩道の真ん中あたりに立っている人影を視線の隅でとらえた。後部座席に座っていた私は大きくふりかえり、マリーだ! と叫んでいた。
異様な姿だった。すりきれ、薄汚れた毛皮のコートを身にまとい、金髪に近いような茶色い長い髪の合間から、真っ白に塗りたくられた表情の読めない顔が見え隠れしている。小柄なその女は、強烈な陽射しを照り返す道路の真ん中で、放心したようにぽつんと立っていた。夏という季節からも、繁華街という場所からも、現在という時間からも、彼女は完全に浮いていた。それでも白塗の女が毛皮をまとってそこに立っていることの、異常さはさほど感じられなかった。それはたぶん、彼女の持つ圧倒的な雰囲気が、彼女の立っているその一部分の現実感を、まったく消し去っていたからだと思う。
マリーだ、と叫んだ私の声につられて、運転していた友達もふりかえり、車は左右に揺れ、それでもとまるわけにもいかず、マリーの姿はどんどん小さくなっていった。
ねえ、見た? と私は車に乗っていた友達に訊いた。何、見なかった、だれかいたの、友達は不思議そうな顔をした。おそらく彼女はその異様さで周囲に溶けこんでいたのだ。数人いた友達が気づかなかったほど。私の気分は奇妙に高揚していた。ひそかにうわさされていた女の姿を、学校を卒業してずいぶんたった今、私は見たのだと思った。毛皮のマリーは実在していた。その女の事情など、無責任なうわさ以外何も知らないというのに、ずいぶんあっていない幼なじみにあったような気分だった。
私が高校を卒業してもう十年以上たつから、現在も毛皮のマリーの話がだれかの口に上っているかどうかはわからない。私はときおり夏のさなかの白い人影を幻のように思い出し、実際私は幻を見たのかもしれないなどと思う。
けれど記憶とはそんなものなのかもしれない。自分自身のことだって思い出そうとしてみれば、日々はとぎれることなく続いているはずなのに、とぎれとぎれの場面に、マリーのはおる毛皮みたいな違和感を身にまとって、どこか放心したまなざしでさまよう自分が見え隠れする。
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水のなかのオーティス
大学に通っている四年間、授業とサークル活動の合間をぬって私が足繁く通ったのが、大学の近くにある区立図書館だった。わりあい大きなその図書館は、大学や予備校が近所にひしめいているせいで、いつも若い人でごったがえしていた。自習室はいついっても空席が見つからなかったし、館内の食堂もいつもにぎやかだった。
しかしどういうわけだか、図書館内にある試聴室はいついってもひとけがなかった。木製の長机が並び、一人ずつ木の板で区切られて、それぞれの席にヘッドフォンが置いてあった。私たちは聴きたいレコード名を用紙に記入して借り、席に座っていくらでも聴くことができた。
一番隅の席に座ると、ニスで塗られた木の囲いのなかに、窓から入りこむ陽が射す。ちっぽけな日だまりのなかに横たわるように頬をつけて、目を閉じて、レコード針が音楽を奏ではじめるのを待った。
一番よく聴いていたのがオーティス・レディングで、まず、遠くで雨が降り出したような心地よい雑音がしばらく続き、それからいきなり、どこかかなしげで、もろさと力強さを両方持っている、あの独得の声が聞こえてくる。私は目を閉じて、頬を机にくっつけたまま、じっと耳を傾ける。頭の上の陽射しが、ゆっくりと移動していくのが感じられる。そのまま寝こんでしまい、気づいたら針がレコードの真ん中あたりをまわり続ける、雨に似た音だけが聞こえていることもよくあった。
水のなかを漂うような時間だった。水のなかで、きらきらと光を反射する水面を見上げて、そこに響く歌を聴いているような。
私は大学が好きだった。大学生であることも好きだった。友達もいたし、恋人もいた。アルバイトも、サークル活動も、やることはたくさんあった。周囲のものはみなくっきりとした輪郭と、あざやかな色をもって存在していた。そこに溶けこむことは簡単だった。友達と学生食堂でランチを食べて、失恋したと言っては大騒ぎをして、サークルの練習に精をだし(私は演劇のサークルに属していた)、ときどき単位の心配をしていればよかった。休日は友達か恋人との約束、もしくはサークルの練習でつぶれ、何もないときはアルバイトをいれる。スケジュール帳はかなり先まで埋まっていたし、そのとおり行動していれば私は純然たる大学生だった。
それでも私は何かからのがれるように、授業を抜け出しては図書館へいき、いつも空いている試聴室の片隅で、レコードを聴いて目を閉じていた。そのことを思い出すとき、あの陽のあたる囲いのなかで、私は何ものでもなかったんだな、と思う。大学生でもなく若者でもなく、女の子でもなくだれでもなかった。
くっきりした輪郭から、どうしてもはみだしてしまう。意味もなくはみだして、はみだしたままでいる勇気も気骨もないくせに、もとの場所に戻ると息苦しくなる。オーティスのレコードがそろっていたあの試聴室は、私にとって、はみだすことやはみだして何ものでもなくなることを許してくれる唯一の場所だった。
午後の浅い眠りから覚めて、レコードの雨の音を聞きながらよだれを拭って、まだ完全にさめていない頭で、自分がこれからどこへいこうとしていたのか帰ろうとしていたのか、いくのならばどこへ、帰るのならばどこへ向かうべきなのかを考えてみて、すぐには思い浮かばず、ぼうっと斜めの太陽を浴びている。
学校という場所を出てしまうと、何ものでもなくなるのは案外簡単で、私はもうあんなふうな場所や時間を必要とはしていない。ときおり、大学生活の隙間にぽつんと存在しているような、水のなかを漂っていたような、ひとけのない試聴室で過ごした時間を思いだし、あの気分を味わいたいために、もう一度大学生になりたい、なんて矛盾したことを考えてみたりする。
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犬印と方向感覚
五年間住んでいる町の一角でも迷うくらいだから、そうとう方向感覚が欠如しているのだと思う。このあいだ自分の住む町で迷ったときは、はじめてこの町を歩くという知り合いと一緒で、どうやら迷ったみたいです、と私が言うと知り合いはひどくあわて、うそでしょう、ねえカクタさんうそでしょう、と言っていて、ああこの人は、方向感覚にすぐれた人なんだろうなあ、と思った。方向感覚のおかしい人は迷い慣れているから、迷った、という言葉にそんなに動揺しない。そうして歩いていればいつか、絶対に|いつか《ヽヽヽ》知っている場所に出るのだということを知っている。
私がはじめてひとり旅をするというとき、異国へ向かう私に、心配性の友人は、ふりかえるんだよ、と幾度も念を押した。ホテルを出て、そのまま歩いていかずに、しばらく先で立ち止まりふりかえって、ホテルへ続く道を頭にたたきこむ。駅やバス停についたらそのまま歩いていかずに、立ち止まりふりかえって、そこへ続く道を覚える。迷路状の場所──屋台街とか、市場とか、路地ばかりの場所とか──を歩くときも、角を曲がったり方向をかえたりするたびにきちんと立ち止まり、ふりかえって、そこを絵として覚えてしまう。そうすれば、朝ホテルを出てバスや鉄道に乗り、いろんな場所へいってもきちんと同じ道筋で帰ってこられるのだと、彼は力説した。私は言われたとおり、どこへいくときもかならず立ち止まりふりかえって、自分の足元から続く道筋を絵として覚え、覚えながら移動をくりかえした。彼のあたたかい助言には本当に感謝したが、しかし、無駄だった。私はかならず迷った。きっとふりかえっている時間が足りないのだろうと、私はずいぶん長いあいだそこに立ち止まって、ホテルへの道、周囲の店や看板、空の大きさ、そんなものを正確に覚えようとした。それでもきまって迷った。今でてきたホテルと自分の立つ位置の、数十メートルの光景と、これからいくそのほかの場所が、立体的に頭のなかで結びつかなければ、一枚の絵を眺めているのとなんのかわりもないのだということに、私も友人も、気づかなかったのである。
今でも私は一人で旅にでると、移動する際ふりかえる。ふりかえって、ホテルへの道、バス停への、鉄道駅への、きた道への道筋を、数秒間眺めている。それは迷わないためではなくて、癖になって半ば無意識にそうしている。まったく、なんの役にもたたないのだが。
くりかえしくりかえしその周辺を歩いて道を覚えるほかに、迷わない方法、というのがひとつだけあって、それは道に印があれば絶対に迷わないのである。
そう気づいたのは、ラオスを旅していたときのことで、私はルアンパバンという町に滞在していた。町の中心は十字の大きな通りで、そこからそれぞれに並行して、大小さまざまの通りがはりめぐらされている。北へ下れば茶色い流れの力強いメコン川にぶつかり、南へ上がれば山の輪郭が四方に広がる。それだけ知っていれば事足りるほどの小さな町だが、それでも私は迷うのだ。近道をしようとして大通りの三本手前の、でこぼこ道を入ったらもう滞在先のゲスト・ハウスへいけないのである。このあいだいった食堂へいこうとしてずんずん進んでいくとまったく見覚えのない場所を歩いているのである。
とにかく、町の東西南北どこにいても、どの方角からでも、ゲスト・ハウスにだけは帰れるようにしよう、そう決めて、まる一日、ゲスト・ハウスへ続くすべての道をいったりきたりしてみた。北へ向かう赤土のでこぼこ道を歩いている途中、ンメエエエ、と足元で声がして、見ると、道の端の生い茂った雑草に隠れるようにして、黒い、小さい山羊がいた。赤いひもを首に巻きつけて、それがそのへんの棒切れに結びつけてある。ンメエエ、ンメエエ、と体のわりに大きな声で鳴きながら、山羊は草をはんでいる。ゲスト・ハウスへのいきかた研究をやめて、私は山羊に見とれた。そうして実際その日から、その道を「ンメエエの道」と名づけ、どこへいくにも、遠まわりでもその道を歩き、山羊がいることを確認して、いつのまにか、道と町とゲスト・ハウスのなりたちを覚えているのである。黒い山羊がドナドナみたいにどこかへ連れ去られていたらどうなっていたかわからないが、とりあえず私の滞在中、黒い小さい山羊はンメエエと鳴き続けていた。
印というのはそういった、覚えやすい、親しみとかわいげのあるものが望ましく、電柱だとか看板だとかはだめである。
住んでいる町でなぜ迷うのかといえば、ラビリンスといって過言でない住宅街があるせいだが、このそっけない住宅街でも、そこの家で飼っている犬がいれば道は覚えられるのだ。猫はいけない。つながれていないし、人の家でも自分の家のような顔をしていてよけい混乱を招く。
自分の家と近所の大きな公園、この二か所には幾通りものいきかたがあって、この町へ引っ越した当初から迷ってばかりいたのだが、最近は、数か所にある犬印のおかげで完璧に幾通りものいきかたをマスターし、覚え、公園にいくのにどの犬が見たいかで道までかえるという高度なことをしている。
黒い小さい山羊もそうだったが、幾度も同じ犬を見ていると、それが知り合いのような気分になり、町が立体的に立ち上がって、しごく親しいものとして目の前に存在し、いつのまにか、その町ごと、所有した気分になっている。覚えたり、知ったりすることは、手にいれることなんだと、そんなときに思う。そうして幾度もふりかえって見た、用無しの数えきれない光景も、自分がいつのまにか持っていることに気づいてなんとなく、贅沢な気分になったりもする。
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喧嘩上等
かつて通っていた大学には、門を入ったところに長いスロープがあり、大学生だった私は友達と、このスロープを走って凧《たこ》をあげていた。凧をあげるにはじつに具合のいいスロープだった。スロープわきには小屋があって、そこに管理人のような人が常駐しているのだが、しかし凧をあげはじめてから三十分もしないうちにこの人が飛び出してきて、凧あげに興じる私たちを一喝した。おめーら子供じゃねーんだから凧なんかあげくさるなばかやろう、というような内容のことを、そのような言いまわしで、文字どおり声をかぎりに怒鳴ったのであって、今になってみれば、なぜ彼が凧ごときであれほど激昂したのか首をかしげてしまうのだが、そのときは彼のあまりの迫力に呆然と凧をかたづけてしょぼしょぼと逃げるしかなかった。怒られたことがショックで私は涙ぐんですらいて、それを友達に気づかれまいと必死だった。
凧をあげ、異様な勢いで怒鳴られ、二十歳を過ぎた女が涙ぐむ、というのは、まったくばかばかしい話だが、しかし私は、とくに成人してから、人に怒られたり怒鳴られたりすると反射的に涙が出る。人が怒る、ということは理解できる。もちろん私だって聖人ではないのだから怒る。けれど怒りが沸点に達すれば達するほど私は声が出なくなるたちで、拳《こぶし》なんか震えるが、いわばそれだけである。声も出せずにぶるぶる震えているだけ。病気の老いた犬とかわりない。だから、怒った時点で大声が出せる、理路整然と、怒っていることを相手にわからせるようにしゃべれる──例にとってみれば先ほどの管理人の、凧なんか|あげくさる《ヽヽヽヽヽ》、という部分が、非常に端的に怒りをあらわしていると思う──、ということが理解できないし、だから反射的に涙が出るのは、かなしいからではなくて、心底びっくりするからである。
ところでどのくらいが標準なのか知るよしもないが、私はわりあい、人の喧嘩を見る回数が多い。往来で何かに怒り、声をあげる人というのは、意外に多いのである。これまた私にしてみればまったく理解はできないが、それゆえ多大な興味をそそられる珍事である。
しかし奇妙なことに喧嘩を見ているのは私ひとりという場合が多い。いつだったか恋人とデートの途中喫茶店に入り、お茶など飲み、窓の外を眺めて談笑し、恋人がトイレへ立ったその直後、レジのあたりで騒ぎが起きて、何ごとかとふりむくと、支払いを終えたカップルの女が、連れの男を罵倒しながら殴る、蹴る、という大惨事が起きており、男は頭を守るように抱えておもてへ逃げ出したが、女は追いかけてさらに殴り続け、蹴り続け、何か叫び続けていた。恋人がトイレから帰ってきて、おもてを凝視している私に、なに、どうしたの、と訊き、ほらあれ見て、と窓の外を指したときには往来にはもうだれもおらず、のどかでうららかな、晴れわたった初夏の昼下がり、といった風情で路地はきらきらしていて、たった今の惨事は私の白昼夢ではないかと真剣に考えこんでしまった。
図書館へ本を返しにいくときに、図書館前の電話ボックスのなかに女の子がいて、ああ、電話しているんだなと通り過ぎようとしたとき、
「だからそれがあの女とやる理由にはならないって言ってんだろっ、このやりちん野郎、最低だおまえなんかっ、あんなかす女とやりやがってっ」
と、突然女の子が叫びだしたのでどぎもを抜かれたことがある。女の子は片足で電話ボックスのドアやらなにやらをがしがしと蹴り、たぶん恋人がほかのくだらないブス女と寝たことを大声でなじり続けていた。これもまた、穏やかな春の昼下がり、図書館へと続く緩やかな坂道にひとけはなく、私だけが、立ち止まってその喧嘩がどのように収束していくのか知りたいのをぐっとこらえて、不自然にならない程度の牛歩戦術で、そろそろと図書館へ向かったのだが、考えてみればなんとなくこれもシュールな場面ではある。
近所の住宅街を歩いているときだが、泥棒っ、金を返せ、この泥棒がっ、という叫び声を聞いて、すわ、日本の安全神話も崩壊かとふりむいたところ、奇妙な図柄がそこにあって、一軒の瀟洒《しようしや》な家の前で、道路に座りこむ若い女の子(裸足)、立ち尽くしている男(裸足)、道端に落ちたかばん、泥棒と連呼しているのは男でそう言われているのは女の子、二人の関係は父と娘、であるらしかった。父親は、女の子のかばんを拾いあげて中身を道端にぶちまけ、金、金、どこに隠した、泥棒がっ、と叫び、女の子の髪をひっつかもうとし、女の子は立ち上がって逃げ、家からおばあさんが飛び出してきて娘をかばい、という、すさまじい場面が展開されていた。私はあわてて家に戻り、遊びにきていた友達に手短に事情を話し、連れだって見にいったのだが、事件はどのようにか知らないがおさまったあとで、瀟洒な家は何ごともなくつんとすまして建っていた。
ところで、凧あげにしてもしかり、ほかの数種の喧嘩にしてもしかりだが、本当に怒っている人の言葉づかいというのは、かぎりなく幼稚である。毎日仕事をしていろんなこと──ときには難しいことなんかも考えて、気の合わない人とも会話する術を身につけ、ものすごくつらいことやかなしいこともやりすごしてきて、それでも怒りに身をゆだねてしまえば、泥棒金返せだし、凧あげくさってだし、このやりちん野郎なのである。人というものはとても信用できるのだ、と思うのは不思議とそんなときである。私自身は、そのようなわかりやすい言葉づかいで、つまり純度の高い怒りで、もう二度とだれにも怒られたくはないんだけれど。
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孤独三種
孤独、と書くといやに大袈裟で、独房でひとり膝を抱えて鉄格子を見上げている、そんなイメージすら浮かびそうになるが、私がここで言うのは、もっとなじみぶかい、身近な、ささいな、だれにとっても長いつきあいであるはずの、あのコドクである。
孤独には種類がある、と気づいたのは旅先で、だった。暇な夜だったので、ほかにだれもいない薄暗いホテルのレストランで、ココナツの焼酎を飲みながらその分類をはじめてみた。その種類は人によって無数にかぎりなくあるのだろうけれど、私にとって大雑把に言えば、みっつだ、みっつにわけて考えてみる。
旅するときはひとりのときが圧倒的に多く、それは好きでそうしているのだから、孤独に打ちのめされて帰りたくなったことはあんまりない。実際のところ、孤独ということを感じることもあんまりない。
ひとり旅で私がもっとも好きになれない時間というのがふたつあって、ひとつは、深夜に近い時間に空港につき、タクシーで市街地へ向かうときと、もうひとつ、夕飯をひとりで食べるときである。タクシーで市街地を目指す場合、周囲に家や集合住宅があればそれほどその時間はきらいではない。町へ入ってしまえばもうわくわくしはじめている。夕飯時も、その食堂の従業員が何ごとか話しかけてきたり、ほかの客がおいしいか、と訊いたりしてくれれば、ひとりでいることを忘れる。というよりも、会話がある食事はひとりとは言えない。
見知らぬ場所でさらに外は真っ暗闇、人の気配もしない通りを眺めてタクシーに乗っている時間と、だれも話しかけてくれず、テレビもなく読む本もない、たったひとりの食事時間。私のもっとも苦手とする、このふたつの時間は孤独という言葉にとても近いようにも思えるが、とんでもなく違う。前者は不安だし、後者は退屈である。不安も退屈も孤独とまるっきり関係がない。郵便局と格安チケット屋くらい違う。
ではひとりの旅がまるっきり孤独とは無縁かというときっとそんなことはなくて、いわば、手に手を取り合って移動し続けている、そんな感じなんじゃないかと思う。ひとりでいるということ。それはときには興奮的に自由で、あまやかなことにもなりえる。
異国に、移動ではなく滞在を目的としてとどまると、しかし孤独の様相はまったく違ってくる。
移動をくりかえす旅ではなく、一度旅先に滞在してみたいと思い、一か月間、アイルランドの田舎町の英語学校に通いながら学生アパートに住んだことがある。アパートには小さな個室がついていたが、台所や居間やシャワールームは四人でシェアしなければならなかった。三人のルームメイトと暮らすわけだ。そして私のルームメイトは、二十歳のアメリカの女の子たちだった。彼女たちは三か月間、文化や文学やそんなものを学ぶため、アイルランドの大学に短期留学しているのだった。その一か月、私はいつもだれかと一緒にいた。学校にいけば友達にあえたし、週末は彼らとパブで飲んでは大騒ぎして、アパートに帰ると三人の女の子たちがいろいろと話しかけてくれた。
滞在が移動と違うのは、自分の位置がある場所で徐々にできあがるということだ。四つの個室のうちのひとつは日本人の部屋、とルームメイトたちは理解するし、学校へいかなければクラスメイトはどうしたのかと思う。そればかりでなく、居心地のいいお茶屋やパブが見つかり、通ううちに言葉を交わさないまでも従業員は私の顔を覚え、私も彼、彼女の顔を覚え、それはスーパーマーケット、映画館、川沿いの道、路地裏、どこでもそうである。こちら側は「それ(もしくはだれ)がそこにある」ことを認め、あちら側も「私がそこにいる」ことを認める。そして奇妙なことに、位置ができると、その位置とまったく同じくらいの孤独がいつのまにかはりついている。そのことに、三人のルームメイトとともにテレビ放映されている「スクリーム」というホラー映画を見ていて、ふいに私は気づいた。つまり私はそのとき、一か月という量、質にふさわしい孤独を感じていた。決して長くはない、それでもある程度はまとまった期間。決して重すぎず、それでも確実にそこにある孤独。言葉が思うように通じないからではない、去ることが前提でそこにいるからではない、ただ位置ができあがるということだけが、いつのまにか孤独を呼び寄せている。それは移動しているときのそれと、質感も感触もまったく違うものだった。
一か月が過ぎて、ルームメイトとクラスメイトにわかれを告げ、のちの数日旅する予定でひとり長距離バスに乗りこんだ。見知った通りを抜けて、バスの窓がたいらに広がる緑の大地を映し出すころ、一か月間からだに巻きついていた孤独から解放され、数時間後、まったく見ず知らずの町の光景が見えはじめて、馴染みぶかい、幾度もつきあってきた移動の孤独が、ちょこんと隣の席に腰かけていることに気づいた。
どこかへいけばかならず帰ってくる。自分の暮らす町の、自分の暮らすアパートにたどり着くころには、移動の孤独も滞在の孤独も、影もかたちもなくなっている。ではまったく孤独から解放されるのかといえばそんなことはなくて、これまた違った形態なり感触なりのそれが、きちんと玄関先で私を待っている。
旅が終わって日常がはじまる。何日もひとりきりということはありえないし、意味は伝わっているのかとびくびくしながら不慣れな言葉を使う必要もない。電話をすれば、一分もかからずだれかしらつかまり、そうしようと思えば三十分以内にはだれかに会うことが可能だ。最近、たるいっすね、で言葉以外の意味も無意味もかなり正しく伝わる。言うことと言わないことでこちらの状態を理解してくれる。そういう人を選んで友達になってきたのだ。もしくは大勢で酒を飲み、馬鹿騒ぎをしてはめをはずす。騒いで、笑って、ときに失礼なことなんかも言ったり言われたりして、何がなんだかわからなくなってそれでも馬鹿笑い。何をしても何を言ってもだいじょうぶ。そういう人を選んで酒を飲むのだ。
友と手をふってわかれて上機嫌でベッドにもぐりこみ、幸せな眠りをむさぼって、それでもときおり、ずうずうしい同居人のように部屋に居座った孤独と、しみじみ顔をあわすことがある。まさに自分の位置と同じ質量の孤独である。すぐに話せたりすぐに会えたりする友達がいて、確固とした自分の位置があるこの場所で、まったく孤独は、私と同じ存在感でもってそこにあるのだ。笑ってしまうほど当然のように。呆れてしまうほどのさりげなさで。
旅にいく理由はいろいろあって、またときには理由なんかないこともあるが、そのいろいろの理由のなかにひょっとしたら、私と等身大のよく見知ったこの孤独から、のがれたい、のがれてひとりになりたいという、矛盾した奇妙な理由も含まれているのかもしれない、などと、ほのかに甘いココナツの焼酎を飲みながら考えていた。
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──あとがきにかえて
間違ってもいい意味ではなく、かわったこどもだった。幼稚園のときがひどかった。どうしてあんなだったのか、自分で不思議に思うことがある。とにかく、かわったこどもだった私はだから、「かわっている」という言葉があんまりすばらしいものには思えずにいる。かわっている、へんであるというのは、徹底的にかなしく、さびしく、かっこうわるいことで、私にとっては絶望と近しい言葉ですらある。
泣かないし、しゃべらなかった。黙りこんだままお迎えバスに乗り、黙りこんだまま家に帰ってきた。しかし毎日はけっして平坦《へいたん》ではなかった。暴力的なほど冒険とスリルに満ちていた。私はほかの子のすることができず──はさみなんか使えなかったしひらがなだって読めなかった──、できない、と申告することもできずにいた。トイレにいきたいという一言が言えないために、しょっちゅうおしっこを漏らしていた。
泣きもせずしゃべりもせず、幼稚園的世界を諦観していたのではけっしてない。ふて腐れたクールさを持ち合わせていたのでもなく、感情を抑える術を知るほどおとなびていたのでももちろんない。私はただ、かわったこどもだったのだ。そうしたくてそうしていたのではなくて、そうすることしかできなかったのだ。
お迎えバスの補助いすを折り畳むとき、どうしてか指をひっかけてしまい、生爪がはがれても私は泣かず、声ひとつたてないで、おりるべきところで静かにバスをおりた。迎えにきた母親が娘の一本の指の爪がないことに気づいて仰天し、どうして黙っているのか、どうして放っておくのかと叫びに近く問い詰めるが、私にだってわからない。どうすれば泣けるのか、どうすれば痛いと声をあげることができるのか。
すべり台のてっぺんから(すべる台をとおらず)落ちて顔面をしたたかに打っても泣かないのだった。私は起き上がり、そのまま先生たちの部屋の前に歩いていき、そこでじっと突っ立っていた。目の前にある扉をノックすることができない、先生の名を呼ぶことができない、しかしそのまま帰るなり遊び続けるなりするにはあまりにも痛みが激しいので、いつか開かれるであろう扉をそこで待っていたわけである。
扉はなかなか開かなかった。私はずいぶん長いあいだ、そこに突っ立っていた。そこはおもてで、頭の上にはビニールのひさしがあり、降りそそぐ陽射しはひさしを通過して黄色じみた色で足元に落ち、遠く、グラウンドで遊ぶこどもたちの声が聞こえていた。私は四角い扉を凝視していた。
こどもでいるのなんかもういやだ、と願うほど私はおとなびてはおらず、ただ途方にくれてその場に立ちつくしていただけだったが、のちのち、この場面を思い出すたび、はやくおとなになってしまいたい、という一言を知らず知らずその光景につけ加えている。
はやくおとなになりたい。泣くおとなになりたい。絶望的で、ときには屈辱的ですらあった幼稚園をでて以後、理由もなく「泣かない」記録を更新しながら私はそんなことを思っていた。平均的であること、いびつであること、枠内にきちんとおさまること、はみ出てしまうこと、そうなってしまうのでも、そうさせられてしまうのでもなくて、それらをきちんと自分で選びとることのできるおとなになりたい。泣くことも泣かないことも、しゃべることもしゃべらないことも、走る、歩く、休む、ズルをする、ばっくれる、うそをつく、笑う、闘う、ああ今日は楽しかったと、もしくは今日という日を呪いながら眠りにつく。それらひとつひとつをおとなは選べるのだと思っていた。
たしかにおとなはたいていのことを選ぶことができる、と、年齢を重ねていくにつれ思う。人に怒られただけで泣く、夢を見て泣きながら目覚める、数秒のコマーシャルに泣く、いつかそう願ったように、私はよく泣くおとなになった。本当に、どうしていいのかわからないくらいかなしいことがあって、泣くしかなくて泣いたとしても、それでも私は、泣けるおとなになってよかったと思うことがある。
泣いたり、憤慨したりにやついたり、だれかの手を握ったり離したり、バスに乗ったり道ばたに寝転がったりしながら、どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことができるのだと思う。どの現実を、もしくは現実の隙間を、どんなリズムで、どんな足どりで。
──さらにあるくのだ
どの現実を歩いていくのかも私たちには選ぶことができるのだと思う。
と、そう書いてから、まる三年がたった。この三年間のあいだに、世のなかにはいろんなことが起きて、私にも些細ながらいろんなことがあった。
しかし、である。このエッセイを、文庫化するにあたってしみじみ読み返してみたのだが、私及び私の周辺の事情・ことがらは、まったくなんにもかわっていない。そのかわらなさ具合に、びっくりぎょうてんした。
もちろん、住んでいる家はちがう、好んで着ている服だってちがう、昨日ともに酒を飲んだ人の顔はちがう、カラオケ屋にいってうたう歌はちがう。かわってしまったことはいくらでもある。けれど、なんていうか、かわらないことは、おそろしいほどの揺るぎなさでかわらないのだ。毎日毎日ちいさい音でロックを聴きながら机に向かって文字を書き連ね、ごはん何食べようかとそればかり考え、歩いてどこへでもいき、どこででも酔っぱらい、三年前とかわらない友人と笑ったり話したりし、カレンダーをひっくり返して旅行日程をひねり出し大嫌いな飛行機に乗り、三年前とまるで同じ強度でだれかを好きでいる。
この偉大なる退屈と呼べそうな私の日々は、三年前も今もまったくかたちをかえていない。そのことにあきれつつ、しかし一方で、なんとたのもしいことよ、とも思う。
だって、これから先、私の過ごす毎日には、否応なく大小のできごとが起き続ける。幸とか不幸とか、そんな意味づけを無視できるほど私は仏陀的成長をしていないから、そのひとつひとつに、きっと幸と不幸のラベルを貼りつけていくにちがいない。思い通りにならないことは不幸だし、欲しいものが手に入れば幸だと、単純に。そういうことを考えると、私は十代のむすめのように少しこわくなる。いったいいくつのことが思い通りにならず、いったいいくつのものが手に入るのか。どのくらい予想外のことが待っていて、どのくらいコントロール不可になってしまうのか。何かが思い通りになっても、ならなくてもこわい。
それでもきっと、なんにもかわらないのだ。タイのバンコクにいこうとしてパラグアイに着いてしまったとしても、一生独身の職業婦人になるつもりだったのに子だくさんの肝っ玉かあさんになったとしても、失うはずのない人を信じられない理由で失ってしまったとしても、質素に暮らしたかったのに石油を掘り当ててしまったとしても、目指したところと似ても似つかない地点にいると気づいても、でも、なんにもかわらない。
今の日々が好きだとか、満ち足りてるとか、そういう理由で、かわらないことを望んでいるわけでは決してない。そうじゃなくて、私たちは、外側で起きるどんなできごとも手出しできないくらい頑丈なのだと、きっと信じていたいのだ。これは、この三年、世のなかのほうにあんまりにもどでかい事件が続いたから思ったことだ。
泣けなかった子どもは阿呆みたいに泣く大人になり、そしてこれからふたたび、一滴の涙もこぼさない癇癪《かんしやく》婆になるかもしれない。それでも何も、かわらない。今と同じ足どりで、歩いているんだろう。それは私のささやかな願望であり目標である。
二〇〇三年
[#地付き]角田光代
初 出
わたしの好きな歌/「MOE」 93年6月号
人を喜ばせるプロフェッショナル/「MOE」 94年6月号
記憶の食卓/「すばる」 93年9月号
「引っ越しました」最新版/「現代」 99年3月号
これからは歩くのだ/「群像」 96年2月号
ネパールの友達/讀賣新聞 98年6月13日 夕刊
十数年後の「ケンビシ」/「週刊文春」 99年1月28日号
透けていた/「小説新潮」 99年10月号
バスの中/朝日新聞 96年12月19日 夕刊
名の世界/朝日新聞 96年12月17日 夕刊
空き地/朝日新聞 96年12月18日 夕刊
天国/朝日新聞 96年12月16日
わが青春のヒーロー・ヒロイン──ディバイン/朝日新聞 97年9月13日 夕刊
歯医者通いで恐怖の日々/「東京人」 98年5月号
悪魔の家/「群像」 99年6月号
ほか書き下ろし
単行本 2000年9月 理論社刊
〈底 本〉文春文庫 平成十五年九月十日刊