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大人のままごと
荻昌弘
目 次
T つ く る
パリの空の下 はんぺんも作れる
女王陛下のカレーライス
あつあつスパゲティ
ケチ料理たァ何ごとだ
ビーフ・シチューを煮よう
PTAのその留守には
つくだ煮としぐれ煮の差について
ラーメン・スープは豚から来々
断ちきり・ねじきり
U あ じ わ う
食 い 自 慢
空腹な目覚めのために
だいこん、玄海灘を渡る
貝はどうしてうまいのカイ
ジンマシンなぞ出るもんか
鮭を見れば思い出す
すし食いねェ
女王にとって「弁当」とは何か
チューを見なおせ、飲みなおせ
ワインブームってほんと?
ムダではないぞ、食いしん坊
V あ る く
釣りならずとも要るアイスボックス
北のワイン
新しいたァいいことだ
食わず嫌い≠フ美味
ゲームの規則
肉食のエコロジー
『ミシュラン』がほしい
まわし食い
包んでちょうだい
美味のひそむところ
W 私のだいどこ白書
あ と が き
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T つ く る
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パリの空の下 はんぺんも作れる
その午後、私たちは中古のフィアットをとばして、スイスのジュネーヴからフランスへ、国境を越えた。田舎道を走りつづける。こんや七時半、リヨンの北にあるレストラン「ポール・ボキューズ」の店に予約がとってある。――あのボキューズの看板料理、待望の、鱸《すずき》のパイ包み焼き Loup en croute farci d'une mousse de homard sauce choron に本当に出会えるのかどうか。ハンドルを握る白戸輝昭君は、ものもいわず百十キロを保持しつづける。
若い友人の白戸君は、慶応を出て、三年前からパリで本格の映画修行をはじめた。好青年である。優男《やさおとこ》だが、根性持ちといっていい。ついにパリの国立映画学校の教科をがんばりぬいて、積年の恋人を日本から呼びよせ、結婚生活に入った。いま、車の後席で、他愛ないなァ、私と、ひたすら食いものの話に耽っているのが、まだ少女の気《け》の抜けない若奥さんである。
ボキューズの得意は鱸だというが、はたしてフランスの海に、われわれのいうスズキなんぞ棲んでいるのであろうか。――話は、そんなところからはじまった。当然のことながら、こんな場での、食の話題は、すぐ、パリで日本人居住者たちがふだん食える、ふるさとの味のほうへ傾斜していってしまう。
「豆腐は、やっぱり、例の|ほんとうふ《ヽヽヽヽヽ》使うワケ?」と私。
「うちで作るときはそうなの」と若奥さんがいう。「だけど、近頃じゃ日本料理店の大阪が自家製を希望者にわけてるわ。いきなり買いに行っても手に入らないくらいのハヤリ方なのよ」
「その店じゃ、かまぼこは作らないのかな? 作りゃ売れるだろうに」
「見たことないわ」
「とろろの山かけ、なンて品もパリじゃ駄目なンだろうなァ」
ワザと意地悪に故国をなつかしがらせると、
「いえ、それはできるの。だって、魚屋にはマグロがあるし、パリの食料品店には、ヤマイモ売ってるんですもの」
奥さんはおもしろいことを言いだした。なんたって、私みたいな素通りの旅行者は無知ですね。私はパリの八百屋がヤマイモを扱うとは、今の今まで知らなかった。
「それなら奥さん」私はいきなりワメきだした、「あなた、お宅の台所ではんぺんを作ったらいいじゃないの」
この瞬間、若い、まだ女子大生みたいな夫人の示した反応は、言いだしたこっちが、ぎくりとたじろいだほどのものである。
「はんぺん!? あのはんぺんを、パリで作れるンですか? 私が、ですか?」
「そうよ、そうとも。あんなものァ、誰にだって作れらァ。白身の魚とヤマイモさえありゃ」
はんぺんなぞ、一度だって本格には作ったことのない私が、思わず答えてしまったのは、奥さんの驚きと疑いの気迫が、想像をこえて強烈だったからである。
もっとも、断わるまでもないことだが、私としたって、故郷の味に飢えてる若い美女に向って、必ずしもいい加減な、ちゃらっぽこだけをぶったわけではない。少くとも理論的には、はんぺんはパリで日常、入手可能な素材だけを使って、充分製造できるはずの食品である。あとで帰国後、パリについて非常に詳しい、日本人のフランス料理専門家に念を押した。
「パリでもはんぺんは作れますよね」
「そらァ大丈夫です、完全に作れます」
太鼓判を押してもらったくらいである。私が胸を張って、知ったかぶりしたのも道理だ。
はんぺんという品は、あらァ何も、店から真空パック入りの既製品を買ってきて、オキシドール臭いのを食べる必要ばかりはない食いものなので、要するに白身の魚のすりみに、卵白と、やまいものすったのをまぜこみ、塩などで薄味をつけ、蒸すか、枠に入れて熱湯でゆであげれば、お宅でも充分できあがる品である。たしかに、すりみを本格に作るのは、簡単とはいえない。白身の魚の、肉をこき取り、叩き、まな板で|板ずり《ヽヽヽ》し、さらにそれをすり鉢ですって、と――キメを細かくするには相当ばかげた手間もかかる仕事だが、まァ、もしパリのお宅にすり鉢がおありなら、ぜひやってごらんなさい、と私は若奥さんをけしかけた。どっちみち、すりこぎで魚をする、などという重労働の部分は、亭主に委せるのである。その点でも若夫人はすっかり乗ってしまい、
「ね、それで、白身の魚とやまいもの割合はどのくらいの比率なのですか?」
これほどに問いつめられると、私ももはや、あとへひけなくなり、
「ま、四と二くらいが適当でしょう」
堂々と、ちゃらんぽらんを言い放って、その場を逃れたが、あとで専門書を調べたら、偶然にも当っていた。常識ッてなァ、過《あやま》たないものだ。私は思わず胸を撫でおろしたのである。
しかし、どうであろう、日本のギスややまいもを使うからこそのはんぺんでしょう、北海の鮃《ひらめ》、素姓も知れぬフランスのやまいも、ついでに、昆布だしがないからマギーの固型スープ、といった素材で一品を作りあげても、果してパリで本物のはんぺんなぞ仕上るものであるのか。できてみたら、「なンやこれ。結局フランス料理でいつも食う魚のクネールと同じではないか」みたいな徒労に終るやも図りがたい。そんな結果に終って、ガッカリした若奥さんから、生涯「あの人、私にウソ教えて帰った」などと恨まれつづけるのも、割のあわぬ仕儀である。私は少々恐ろしくなり、
「奥さん、はんぺんの正確な製法は、私、この次、パリのお宅をたずねる時までに、シッカリ勉強し直してきます。約束します。今回は|さつまあげ《ヽヽヽヽヽ》の製法伝授で我慢してくれませんか?」
妥協案を持ちだした。はんぺんは、想像するだに、パリで作るには、材料と調味が微妙すぎる食いもののような気がしてきた。自信が持てなくなったのだが、一方、さつまあげなら相当に俗な食品だからな。まかりまちがってこのパリ住いの若奥さんが、ゴマ油のかわりにオリーブ油を使って作っても、できそこなったところで、充分、味わうに足る品くらいは生まれるのではないか、と思われたのである。|さつま《ヽヽヽ》治郎八さんだっていたパリではないか。
奥さんは瞬間、女はそれを我慢できない、といった表情をしたが、それでも結局は折れて出た。さつまあげの製法伝授で妥協が成ったのは、彼女、よほど、故国の味がなつかしかったからにちがいない。心情は、いじらしいほどに、切なく、あわれである。
さつまあげの製法は、あれだって、難しい講釈をはじめたら、きりがない。だいいち、製品じたい、鹿児島人のいう|つけあげ《ヽヽヽヽ》と、東京でよぶ|さつまあげ《ヽヽヽヽヽ》は、ちがうのか、ちがわないのか。私はそれさえろくに知らないくらいで、作り方も、魚のすりみを蒸してから揚げるのと、蒸さずに揚げるのとどちらがウマいか、そんな基本的な決着さえ、いまだに私は、ようつかない。家人は、蒸さずに揚げるが、だからうちのはマズいのではないか、などと私は憎まれ口をたたくほどだ。鹿児島市中で売ってる、頬の裏がふるえるほどにウマい絶品でなくていい、東京は神田神保町の焼酎呑み屋「兵六」で自製してる優良品で、まったく結構である。一度でいいからああいうさつまあげをうちで作りたい、と念願するのだが、あれはやっぱり、俗なりに、作るのは面倒な食いものなのですね。
ウマくできもしないものを、人様《ひとさま》にお話しする、というのも無責任な感じだが、ただ、さつまあげは、自作の試行錯誤をくりかえすうち、少しずつは、希望するイメージに近いものへ接近した揚げものができてくれる。そのへんが、高級なはんぺんなどに比べると、何となく夢のもてそうな食いものである。――と、私は若奥さんに講義をはじめた。
さつまあげも、製造原理ははんぺんと非常に似ている。鱧《はも》やエソのような上物だったら、もちろんすばらしい。鯖《さば》、鯵《あじ》、鰯《いわし》など下魚さらに結構。鮫《さめ》も使えるらしいが、ともかく、魚肉をすりつぶして|しんじょ《ヽヽヽヽ》とし、みりん、砂糖と塩などをまぜて、入れたければせんぎりのニンジンなど加え、油で加熱すればできあがり、という食品である。ウマいですなァ。私は、揚げたてのさつまあげに醤油を振って、前歯で食いちぎるのが、食卓でいちばん好きな瞬間のひとつだ。わさびを添えれば上乗。家人は、このさつまあげの材料に、水気をしぼりきった豆腐などをまぜこんで揚げたがるのだが、あれァ、ひりょうずの作りそこないみたいになる。どうも、フカフカしてなじめないのですよ。
車は黙々たる白戸君のハンドルで、スイス風のジュラ山地から、緑のブルゴーニュの高原へ走りくだった。胸のとけるようにチャーミングな村々や、太い幹のそろった並木道が、絵に描いたようにフランスの田舎を教えてくれ、そして私たちは、道路に迫った崖に、巨大な、雲つくような婦人の石像が立っているのを眺めたりした。石像の下には文字がある。
「われ死するとき、祖国よみがえる――ルイ・アラゴン」
読みとって、三人が、同時に呟く。
「レジスタンスの碑ね」
強烈に、往年の戦争の記憶がつきあげて来、そして今度は、さつまあげが黙る番である。
*
これはすでに数年前のおもい出である。この件には、じつは、いくつかの後日談がある。
第一話。白戸夫妻は、その後、みごとにパリで、|はんぺん《ヽヽヽヽ》を開発しおえた。
この話の二年後、あわただしくパリを訪れたとき、御亭主のほうにだけ会う機会があって、
「どう? 奥さんはお元気?」
たずねると、
「ハア、一所懸命に|はんぺん《ヽヽヽヽ》を作ってます」
と、軒昂たる返事だった。むしろ、こっちが責任を直感して、びっくりし、これは、めちゃなものを作っているのではないか、と、
「それで、どうです? 味は日本と変りませんか?」
たたみこんできくと、
「ええ、それが……」と彼は、さばさばした表情で答えたのである。
「ぼくら、もう、日本のはんぺんの味のほうを、忘れちゃったんです」
さて、そのあとのある日。東京は麹町の村上開進堂で夕食する機会があったとき、当夜、最も私の舌を驚かし、かつ、感嘆させたのは、前菜のしょっぱな(この店では前菜が、冷と温と二段がまえになっている)に出た、小さな小さな自製の洋風|はんぺん《ヽヽヽヽ》であった。私は、明らかに、フランス材料と製法ではんぺんが製造しうることを、パリでなく、東京で実見し、ほっと安堵の胸を撫でおろすとともに、これが、日本料理のはんぺんとは、複雑さの点でくらべられぬ魅惑的なうまさをもっていることに、いささか動揺をまじえた驚愕の念を抱いた。白戸君夫妻が、パリで作りあげたはんぺんは、二人とも日本の味を忘れたことが却って幸いし、とてつもない逸品であるのかもしれない。――私は、あのときどうして亭主にだけ会って帰ってきてしまったのか。悔んだくらいだった。
第二話。ジュネーヴから車をとばしたその夜、私たちはもちろん、リヨンの北にある「ポール・ボキューズ」の美味にありついた。ありついただけでなく、たんのうしきった。数えてみると、私はその後、偶然が重なって、この店の主人、ポール・ボキューズ氏とは十回以上も、対談や面会のチャンスをもつことになったが、じつは初対面は、このときの、氏の店でだった。私たち三人が、南欧風の前庭に入ってゆくと、庭に面した回廊で、二、三人と談笑していた白衣の偉丈夫が立上り、わし鼻の立派な顔でこちらをけいけいと射すくめるように見おろしながら、握手を求めてきた。それが、現在、新しいフランス料理界がうみだした天才、といわれてレジョンドヌールまでもらうにいたったボキューズ氏であった。
「ポール・ボキューズ」の店内は、擬古典的な赤いどんすの壁といい、調度の重みといい、「マキシム」などより、さらに趣味の時代がさかのぼった印象である。ベル・エポックというより、明らかに十九世紀の匂いのほうが濃い。しかし、客にのしかかる圧感は、極度に軽くアンチームで、私と若い白戸夫婦は、奥まった出窓ふうのすばらしい席で、心からのびのびと、カシス風味のシャンパンという食前酒キルから、ボキューズ氏のぶどう園で生まれたボージョレのテイストへと、すすんでいったのであった。
待望の鱸《すずき》のパイ包み焼きは、これは私、率直なところ、うまさより何より、まず魚のでかさじたいに圧倒されて、既に食う前、いささか食欲が減退してしまった。そして、正直なところ、この料理の核は、ここでは鱸自身の味よりも、パイと中の詰物にある、と思わざるをえなかった。さすがの天才ボキューズも、あの鈍重な西洋の魚に向って、「もっといい味を出せ」と命じても、あんまり効き目はなかったにちがいない。
その後一年余――。ボキューズ氏が、東京銀座の「レンガ屋」や大阪の「ホテル・プラザ」をねじろに、日本でも定期的な調理の腕をふるいだしたことは、よく知られている。鱸のパイ包み焼きは、以降、「レンガ屋」の特選料理のひとつとなった。私に、銀座の店で、これ食ってみよう、と言いだしたのは吉行淳之介氏だったが、最初の白い肉片を味わったとき、それは、思わず二人が顔を見合わせたくらい、文句なく、淡彩にして高雅な美味であった。本店《ヽヽ》とは比べようもない品《ひん》のいい魚の味を、ボキューズは出店《ヽヽ》でだしてしまっていた。
そして、ボキューズ氏自身、私に言ったのである。
「東京で料理を作ってみて、驚いている。日本が、野菜はともかく、すばらしい魚を持っていることに。――なかでも、鮭《さけ》と鱸は、到底、われわれフランスの海のかなうところではない!」
日本のはんぺんがパリに渡り、リヨンの名物料理が東京で花咲いた。
東西文化交流実現じゃないですか。
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女王陛下のカレーライス
かつて、「女王陛下のカレーライス」を、うちで作ったことがある。むろん、うちで、私やかみさんや子供たちが食うために。――うちの女王陛下と亭主のデューク、いえ皇帝ネロとが、合作で製造した。あまりのウマさとカラさに、皇帝は、「あ、ホウ」と感嘆したっきり、口をつぐむこともあけることもできなくなった。二の句がつげずに、「そう」という言葉さえ出なかった。
最初、近所の知りあいの|なべもの《ヽヽヽヽ》店主、「なべや」の福田浩君が、うやうやしく、プラスチック容器なんぞに、少量のカレー粉を捧げ持ってきたときは、抱腹絶倒したものだった。
「エリザベス女王様が、バッキンガム宮殿で召しあがるカレーライスの、カレー粉だそうでございます」
と彼は真面目な顔をしていった。青かびチーズを、「ナポレオンが食べたチーズのお| 古《ふる》でございます」といわれたのより、おかしかった。あの気品高きイギリスの美人女王が、コップの水ン中へ、シャジを漬けてかきまわしながら、福神漬といっしょに、ふうふう泡ァ食ってライスカレーをかっこんでる、などという図は、どう想像力を働かせても、出て来にくかった。
まァ、うちには、アポロ11号の宇宙飛行士が最初の月旅行に携行した宇宙食――ではないが、あれと同じ製品の、しかも残念なことに、包み紙だけだが、大事大事に保存してある。それと並べて家宝にしましょう、と私は福田君にいい、じつは、白状すると、そのあと台所のスパイス類の棚にしまい収めたまま、使うのを忘れてしまった。拙宅では、カレーライスは、食う前日、さまざまな香辛植物の実やタネを、すり鉢や乳鉢ですり砕くところから調理がはじまる。市販のカレー粉は、いかに佐野周二、関口宏父子、伊丹十三夫妻といった面々がブラウン管ごしにウマさを説得してきても、ぜんぜん御用も御縁もないもの、と決めこんでいたからである。ハイッ。
――それに、わたし、節食、減量。コメはいっさい食わんぞ、などとかねて家人に宣言してきた手前もあり、男の建前からしても「今夜はカレーにしないか?」などと、こちらからは女房にきりだしにくい事情がある。余談だが、銀座東、有名なカレー店「ナイル」の、インド人主人ナイルさんが、久しぶりに会ったら、妙にスマートにほっそりしたのでビックリし、
「ナイルさん、どうかしましたか?」と訊くと、「あんたと同じように減量をはじめた」という。ヘエ、と驚き、「インドではどんな方法で減量をするの?」とたたみかけると、
「コメ、やめた」と言い、なンや、カレーライス屋のボスといえども、やることはオレと同じではないか、と思えば、いよいようちでは、ライスカレーを作る機会など逸する始末である。
ところが、ある日、フトしたはずみに、猛烈に、「うまいカレー」が食いたくなりだした。この欲望だけは不思議に抑えがたいのですね。卒然と、福田君の献上品をしまい忘れてたことに気付くと同時に、(何という天啓であろう)エリザベス二世女王陛下は、ぜんぜん肥っておられるようになど見えないではないか! という事実に、愕然と思いいたった。カレー食ってあの水準なのなら、わたしだって平気だ。――と、矢も楯もたまらずうちへ駆け戻り、いや、駆け戻る前に近所の鳥肉屋から、しこたま、鶏骨、骨付モモ肉、手羽先、などを仕入れて玄関へ飛込み、「カレーにするぞ、女王陛下のカレーだ」とワメいた。素材を買揃えてきたンだから、もはや、「アラ、お米たべていいの?」などとイジワルはいわせない。
拙宅で私が製法を固執する古典的カレー汁は、まず猛烈に濃いガラのスープを、鶏骨から採るところからはじまる。これには、フランス製の|S《セ》E|B《ブ》という圧力鍋を用いるのが最良である。この鍋については、いずれ本書のどこかで、知ったかぶりのうんちくを傾けなければなるまい。
そして、もちろんのことだが、カレーのトロミには、メリケン粉なぞいっさい用いない。濃度は、このブイヨンにジャガイモを煮とかすことによって、つけるのである。だからうちのカレーは非常にサラサラしており、これ即ち、悪意ある奴の表現をかりれば、なんてまあビショビショのカレーだ、と、私が見てさえその通りの結果になることもママあるわけである。
ブイヨンをとる間、鶏肉には、二十種ばかりの、香辛料類の複合的粉末化(つまり自製カレー粉)をまぶして冷蔵庫に寝かせておく。一方で、ギー(山羊の脂。「ナイル」製罐入り)を用いて、たまねぎをいためにいためぬく。ここが努力の仕甲斐であって、一時間もいためぬくと、すばらしい甘味になる。どうも途中、手を抜きたいあまり、「原理は同じだ」などと屁理屈をつけて、電子レンジで加熱したりすると、たぶん心理的な差ながら、じつにこくが減るのである。
これが終ったら、さいぜんのブイヨンと、カレー粉まぶしの鶏肉、大切りにしたたまねぎ、にんじん、ぜんぶを鍋にぶちこんで、さあ、煮こみに煮こむ。むろん、とろ火で。
カレー煮こみに用いる鍋には、三種類あります。いずれも一長一短、兄弟《けいてい》を判然しがたい――といいたいが、出来上りは全然べつの味になる。抜群に出来上りの早いのは、前記、SEBの圧力鍋を使って煮る行き方である。これは超高圧の威光、一時間足らずで、全素材がくたくたとなったカレー汁ができてしまう。香りは高いが、なにか、具《ぐ》ぜんたい、水分をびっしょり含んで、みずっぽいのがアキレス腱、という製法である。
逆に、煮込みだけが二日がかり、という、完成までの経過は超スローモーながら、これは、めしなしでカレー汁だけ啜りたくなるほどのウマ味が出てくる製法は、「クロックポット」と称する、陶製の電熱鍋を用いた場合である。このクロックポットという調理道具は、食品万事が薄味に仕上ってしまうが、使い出《で》も、料理の工夫し甲斐もあるおもしろい鍋ですなァ。これについても、いずれ、いい加減なちゃらっぽこ報告を、詳細に本書で述べなければならない。
最後の、三番目の作り方。つまりごく普通の、厚い琺瑯《ほうろう》びきの、巨大な深鍋を用いて、弱火でこってり煮こむテであるが、これはうちじゅうがカレー臭くなるご存じの欠点を除けば、やっぱり、いちばんカレーらしいカレーができる製法、といわなければならない。調理のプロセスの細部ごとに、思うさま微妙な手が加えられる、という、ごく当り前な事実が、結局は料理をいちばんウマくしてしまうのである。――むろん、女王陛下のパウダーを煮た場合も、拙宅では琺瑯鍋を御使用申し上げた。
あッ、そう、だ。めしを炊かねばなりませぬ。御案内の通り、カレーにぴたり合うのはパラパラめしであって、おかゆはいけません。和製国産の粘着的米粒を用いてこのパラパラなピラフを作るには、即席でバターライスを炊いてしまうのが、いちばん簡単である。中華鍋に少しのバターをとかし、といで水気をきった米を投げ入れ、やや透明感が出てくるまで、しゃっしゃっといためる。それを、あとは、普通の米通り、釜で炊けばいいわけである。
さて――女王のカレー。私は、一口、食って、ほんとうに驚愕した。すでに煮こみの最中から、香気の高さ、タダごとではなかったが、まさか、食べて、並みのカレーと、こんなに味も香りもカラさもちがう、いわば高貴の品が現存するのを納得させられようとは、予想もしていなかった。ノブレス・オブリージュ(貴族には高貴にふるまう義務がある)みたいなカレーだった。いったい、どんな香辛植物をどんな風に配合したら、こんな奥行きの深い複合感と、文字通り目にしみるようなこのカレー的|辛《から》さが、うまれるのであるか。――ウチへ運ばれてきた粉の外見は、そこらの街ッ児カレーパウダーと少しもちがってなかったのに。その心憎さこそ、いまいましい、と、私は焼ける舌を、さらに舌打ちせずにはいられなかった。
折しもロンドンヘ出かける用事ができた。
そうだ、あのダンヒルのそばにある「フォートナム・アンド・メイスン」(高級食料品店)に行けば、当然、英国王室御用達のカレー粉も買える勘定ではないか。私は出発前、浮足立って福田君に電話し、「いただいたあれァ、何という銘柄です?」と尋ねた。
「ブランドなど、ございません」と福田君はニベもなかった、「あれは、私の、焼きもののほうの知り合いから、おすそわけいただいたものの、さらにおすそわけで、なんでもその方は、マレーシアとかの、はて、サイさんだっけかな、まさかキムさんじゃァなかったナ、ともかくその方からおすそわけをいただいたのだそうで、じつはそのサイさんとかが、ご自分のおうちのものを、エリザベス女王に献上なさっておいでになる、その品だとかでございます。市販はいたしておりません」
やれ、サイさんとかは、よほど自分ンちに、いい|カレーの木《ヽヽヽヽヽ》を育ててるのだなァ、と私は植物学的に甚だ不正確な毒づき方をしたが、それでもなお気持がおさまらない。
私は今、ロンドンでこの原稿を書いているのだが、書き終えたらすぐ、ジャーミン・ストリートのフォートナム・アンド・メイスンに飛んでゆくつもりである。
"Could I have the curry powder favoured by Her Majesty the Queen?"
などとやったら、店員はどんなツラをするかなァ。
わが家では、私が頑として固執する上述の古典的方法のほか、もうひとつ、家人が「パレスホテルで田中徳三郎さんから教わってきた」と自称する、より能率的なカレー製作法がある。こらァ、出来上りも早いですね。
スライスしたたまねぎを、いためにいためる。ここまでは私と同じだ。彼女はそれに、ニンニクとショウガを加え、さらにいためる。それへブイヨンか水をさして、水のときはマギーの固形スープを放りこんだあと、小麦粉とカレー粉をまぜこんで、だまが溶けるまで、かきまわしながら煮るのである。ついで、表面を強火で炒めた肉片をぶちこみ、あとは、すりおろしたリンゴと、トマト・ピュレーで味の補整。以後三十分で火をとめてしまう。こんな安直さでいいのか、ときくと、これでいいのヨ、という。――食ってみると、何じゃこれは。私が二日ががりで大汗かいて作るのとは雲泥の差……彼女のほうがこくがあってウマいのである。これが困る。
パレスホテルなぞという名は、決して伊達についてるのではないな。バッキンガム・パレスでも、女王様はうちの女房とおんなじように作ってらっしゃるのかもしれぬ。――ちなみに、田中徳三郎氏の御説では、カレーライスはナイフとフォークで食うのが正式だとのことである。
ちゃんとバッキンガム宮殿にもふさわしいように、できとるのですな。
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あつあつスパゲティ
イタリア製西部劇を、名づけて「マカロニ・ウエスタン」と称した日本人。その御仁は多分、戦前派にちがいなかった。
私ら子供の頃ァ、じじつマカロニばっかりだったもの。西洋のめん類といえば、穴のあいたあれしかないみたいだった。口の中でハネる快感はわるくなかったが、半分は空気を食わされてる感じでね。してやられたような、物足らぬような、すうすう抜けちまうような、妙な気分を味わわされるのが心残りな食いものであった。――戦後、マカロニめ、すっかり日本での人気の王座をスパゲティに奪われたのは、空気よりは実《み》を食いたい、という、ご存じ実利主義が世間を圧倒したからである。
で、そのスパゲティ。
スパゲティのウマさを決定する要因は、ソモ、どこにあろう、――というのがこの章の追求課題である。
スパゲティのウマさを決めるものは何か。
いうまでもなく、粉のよしあしだ、という先生がある。たしかに、一理である。言わでもの講釈だが、スパゲティをスパゲティたらしめる小麦粉は、世界にただの一種である、といわれている。デューラムと呼ばれる硬質品種の、しかも、セモリナ搗《づ》きなる粗《あら》搗き――適種はこの超|強力粉《きようりよくこ》ひとつに尽きてしまう。私ら日本のいわゆるウドン粉(中力粉《ちゆうりきこ》)、あるいは天ぷら粉(薄力粉《はくりきこ》)はいわずもがな、日本でいう強力粉さえ、少しでもまぜこんだりすれば、もう、ほんとのスパゲティとは呼びにくくなる。
――てなことを得々としゃべるのは、これ全部、教科書からの孫引きです。ウチなどは、どの銘柄がほんとの粉だけを使ってるのか、それすらわからぬまま、六本本の「アントニオ」店主、イタリア人のアントニオさんが、「ウン、あれ、わるくないよ」と一言いったのを信じて、イタリア製ブランドであるBUITONIという品を常用してるにすぎない。赤と黄の包装のやつ。
以前、ミラノの「グラン・サッソ」という店で、手打ちスパゲティを味わったことがある。店の味ぜんたいがすべていいとは思わなかった。が、やたらにぎやかなうちでね。客たちのわんわんいう喧騒のかたわら、威勢のいいおにいちゃんが白い塊りをこねては、ピアノ線を並べたような大きな櫛で、|めん《ヽヽ》を即製していた。味は、スパゲティといわんよりは、むしろ徳島のたらいうどんの趣きであった。イタちゃんの怪力をもってしても、超強力のセモリナ搗きを本格にこねきるのは、至難のわざなのだろう、とおもわれた。やはりスパゲティは乾麺をゆでるのが本格だ。
さて、粉や銘柄も大事かしらんが、スパゲティの味なら、ぼかァヤッパリ、上にのっける具《ぐ》で決めるなァ――という御方もある。
道理である。スパゲティとは、ただバターをまぶすだけの食い方から、納豆、松茸、カレー、青じそ、しらすぼし、何をからめてもさまになる|めん《ヽヽ》である。とは、逆にいえば、この食品は具の選択のよしあしが決定的な意味をもつ、ことに他ならぬ。中でもボンゴレという、アサリの兄でハマグリの妹みたいな貝。あれをサッパリとゆであげ、トマトの味でからめた一皿なぞ、このパスタのあとに出るメイン・ディッシュなぞもうどうでもよろしい、と給仕の手元に残った最後の一本まで、お代りをせがまずにいられなくなるくらい、淡彩なうま味があとをひくけっこうな品である。
しかし、私にいわせるなら、スパゲティの味を|真に《ヽヽ》決定するものは、じつは粉(すなわち銘柄《ブランド》)ではない、まして上にのっける具ではない。ひたすらにただ一つ――|めん《ヽヽ》のゆで具合だけである。それに尽きる。
|めん《ヽヽ》をゆでる、という、この作業にこめる神経と、タイミングと、誠意のあり方ひとつで、同じ一袋が、世界の絶品ともなれば、どうにも締まらぬうどんのできそこないにも化けるのが、スパゲティである。――天下のササニシキ、コシヒカリ、いかに美味といえど、まま炊いたこともない女に扱わせりゃ、シャリはおろかお粥にもならぬ、のと同じ道理がここでもはたらく。
その点、ぼくら日本人、スパゲティをゆでるのは難儀である。袋に「ふっとうした湯で十六分」とか指定してあると、みんな右へならえで、指示を墨守する。しかし、あの命令通りやると必ず軟らかくゆだりすぎてしまうのね。日本の食堂やスナックのスパゲティは、袋の指示だけを墨守してるものだから、大半、ベットベトなのです。もっともあれは、スパゲティをうどんのつもりで食ってきた客のほうも悪いのだ、とおもう、きっと。
私はローマで知り合った、愉快なディーナおばさまに、スパゲティのゆで方をきいたことがある。この婦人は、行くたびに会うのだが気のいい奥さまです。私を、食いしん坊と知って以来、ローマでウマいと定評の小料《トラ》理屋《トリア》へ連れて行っては、まずツカツカと店内へ入って行き、呆気にとられる給仕やコックを尻目に、店の要点と台所と名物料理を説明し、そのまま椅子にも座らずサッサと出て、また次の店を無銭訪問するという、親切なガイドをやってくれる。
「吉兆」「瓢亭《ひようてい》」でこんなまねしたら、いかに温厚な「吉兆」主人湯木貞一さんでも目をまわしかねないが、おかげで私は、極めて能率的かつ無料で、ローマのうまい店をいくつも「視覚的」に覚えることができた。
で、そのディーナおばさま、私の問いかけには、次のように答えたのである。
「スパゲティのゆで方? それ、むずかしくないよ。たくさんたくさんの水、わかしますね。塩少し入れます。ふっとうしたら、スパゲティ入れて、かきまわしますね。いつもいつもかきまわします」――たえず攪拌する、の意である。
「火は強火ね?」
「そう強火。十分経ちますね。一本取って噛んでみます。中のほうナマ。まだダメね。次の噛みます。まだ硬すぎる。次の噛みます。ア、芯だけプツンと硬い感じ。OK。急いで火からおろして、お湯捨てます。できあがり。――ヤサシイデショ」
――私はディーナさんにこのコツを伝授されて以来、袋が教える方針のように、時計に頼ってスパゲティをゆでる従来のやり方は全廃してしまった。ひたすらに、ゆでながら一本を摘《つま》んでは前歯で噛んでみるのである。硬けりゃ、吐きだして捨てる。ほんとうに、おもしろいくらい刻一刻、湯の中のスパゲティは芯のゴジゴジを消失してゆくのであって、しかも、中心に一筋、プツンと硬さを残す「いい歯ごたえ」の頂点は、文字通り、一瞬、である。そこを通りこすや、|めん《ヽヽ》はたちまちにデレリめろめろと締りなく劣化して、男に惚れすぎた女みたいになる。その手遅れの寸前に、君は|めん《ヽヽ》を引きあげねば駄目なのだ。決断と反射神経だけなのだ、君にウマいスパゲティを食わせるのは。
ゆであげたスパゲティに水をぶっかけるのは、言語道断である。|そうめん《ヽヽヽヽ》とは、ものがちがう。
「さます場合にはサラダオイルをかけると|だま《ヽヽ》になりません」――などと料理本は教えてくれる。が、もともとスパゲティは、私、さます食品ではないように思える。ゆであげたら、とたん、かねて準備したソースにからめて、あつあつをすすりこむ。これ以外、最上の食い方はない食いものなのではあるまいか。――よほど何かをかけたい$lは、ゆで汁を少しかけたらいい。
スパゲティが「タイミングの食いもの」であることを体に覚えさせる、じつに適切な一種がある。ディーナさんに教わった「スパゲティ・カルボナーラ」である。これは製法も極めて簡単で、かつ、うまい。深夜、「少し腹へったなァ」などというとき、家族二、三人でかかれば、どの台所にもある材料で、発案後二十分目には、もう食べはじめることができるすばらしい一品である。作り方だけでも、おすそわけしよう。
一人は、たまねぎをみじんにきざむ。にんにくも一かけ、叩きつぶす。フライパンにかなりの油(ディーナさんとこでは当然オリーブ油である。うちらはサラダオイルや)を熱して、それらをいためる。ベーコンを刻んで入れてもいいが、私はないほうが好きだ。この作業に十分をかける。
同時に一人は、卵をうつ。一人あて一個ずつ、黄身白身とも泡立てする。塩、胡椒する。これを深いボウルに入れておく。――この人は、もし台所にパセリがあれば、刻んで待っている。
同時にもう一人は、さいぜん述べた要領で、湯の中のスパゲティを一本ずつ噛んでは吐き出し、噛んでは吐き出し、綿密に検討しながら、ゆでる。中心がプツンと一筋硬い瞬間だけが、汐どきだよ。そこへ至ったら、
「どけーッ!」一声叫んで、鍋持って、ガス台から流しへ突走り、湯をザーとあけて、|めん《ヽヽ》をざるに取り、チャッチャッと振って湯を切る間《ま》もあらばこそ、卵をといたボウルへ、ざっとあける。この機、待ちかねたりと相棒、じゅくじゅくに油で煮えたったたまねぎとにんにくを、上へザッとかけまわし、箸で、この三者をからめるのである。みるみる卵は、熱でスクランブル状と化し、|めん《ヽヽ》にからみつく。
さあ、そのまま駆け出して食卓へ運ぶ。好みで、パセリをかけてよし。粉チーズ振ってなおよし。温かくって、あっさりしてて、適当に油のこくがあって――冬の夜、これほど単純な基本的しあわせはあろうか、という味がある。
ディーナさんは、
「ほんとはこれ、バジリコが必要。日本にはない? 残念ねえ」と眉をくもらせるのだが、あれば幸い、なくったってへっちゃらさ。
ぼくら、スパゲティを食うのですもの。
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ケチ料理たァ何ごとだ
某日、某マスコミ媒体より電話あり。
「ご存じ、モノ不足、物価急騰の時節。折からお宅様では何か、『ケチケチ料理』の製作を御推進ありまするや、如何?」と。
ほうら来た、と思った。――モノがない、という。ではケチでゆきましょう、という。この発想。短絡が過ぎて、全然、気に入らない。
で、意地悪に、
「おたずねの『ケチケチ料理』とは、たとえば何ですゥ?」と問返すと、
「たとえば、だいこんの葉ッパも捨てずに御利用、トカ何とかですゥ」と答える。
そうら、ヤッパリ、と思った。――ケチ料理、といえば、たちまちだいこんの葉も捨てずに御利用、としか思いつかぬこの発想。硬直、老朽が過ぎて、全然、話にもなりませぬ。今どき、かりに八百屋の店先で、わざわざ葉ッパ切り落してだいこんを持ち帰る奥さんなどあるとしたら、そらもう、言語道断も驚天動地に近いほうの欠陥女房である。うちなら離縁の水準だ。そんな女には、「あたし、近頃は八百屋へ行って値上げのすごさを見るのが恐いんです」などと、新聞社社会部へ電話で直訴する資格なぞ、全くありはしないのだよ。
――そこで、電話口で、開き直った。
「うちではね。ケチケチ料理、などというものは、一品も作りもしないし、食いもしないのです」
「ハァハァ。お口がおごってらっしゃるから、朝晩、全部ゼイタク料理……」
「さよう。お口がおごってらっしゃるから、だいこんの葉も、余の葉をもって換え難いほどオイシくてオイシくて。だからあの葉も、非常にぜいたくなお料理として、いただいておるのです」
何ごとに限らぬ。ケチケチ、というこの発想が嫌《いや》である。無駄をせぬことは決してケチでも何でもありはしない。だいいち、だいこんの葉は堂々たる「菜《な》」の一種ではないか。どうしてだいこんを、あのウマい葉まで炒めたり飯《めし》に炊きこんだりして食うことが、ケチになるのか。
そもそも、こと、食いものに関して、ケチという観念、つまり俺は金がないのでしぶしぶイヤなものを食ってる、という考えを導入することは、気分までみみっちく滅入らせる。精神衛生は胃液の分泌まで、影響よろしくない、という信念が昔からある。
「マグロ暴騰。かなしい庶民は泣く泣くケチなサバを」という、例によっての感情論。「牛肉は高価です、腹をたてながらマトンでも食おう」というひねくれ。あれは、あらゆる意味で有害な論理におもわれる。第一、鯖《さば》や羊《ひつじ》は、鮪《まぐろ》や牛肉に比べて毫《ごう》もケチな下等品などではない。第二、貧しさのためやむを得ずこれを食う、といった心理状態では、かりにタダで天下の珍味を食わせてもらったって、美味にも栄養にもなるものでないこと、明らかだからである。
で、こちらから電話口へ、意地悪く居直った。
「では、豚のボウコウ、胃ブクロなぞ、これはケチケチ料理に入れていただけますでしょうか」
「ハハァ。あンなの、食べられるンでしょうか」
「あなたにはダメすか。では、牛の尻尾ならいかが?」
「ハァハァ。しかしアレはですね、近ごろ文士、音楽家の先生方、そろっておいしいおいしいとお誉めになるのが流行った結果、とみに品不足、高価となっておりまして……」
もはやケチ食品には入れられぬ、という。ホイ、これは一本やられたイ。
「ダメすか。では、イカの|わた《ヽヽ》の塩まぶし、魚の血合いの|そぼろ《ヽヽヽ》、鮭《さけ》の頭の|ひずなます《ヽヽヽヽヽ》……こういった、原料タダという食品なら、今でもケチの資格、ありますでしょうか」
「あります! あります! ぜんぶ、記事にいただきます!」
といったことと相成って、結果、私はまったく釣りだされの格好。コストはゼロながら味は絶品、という秘蔵のぜいたく料理を、ギャラも稿料もなしで電話口にぶちまくる仕儀となった。人のよいのは、どこまでも損だが、損してもウマさをお裾分けしたほうがずっといいわい。
並べたてた品々のうち、鮭の頭のひずなますとは、鮭の鼻っ柱の軟骨、あそこをそぎ取り、うすくスライスし、塩抜きのあと、酢でやわらかくしたおなじみの食いものである。だいこおろしにイクラを加えてあえたり、これくらい、作って安く食ってウマい酒のさかなも少い。
イカの|わた《ヽヽ》の塩づけはさらに簡潔である。肌が茶黒いほどの新鮮なイカ(とくにスルメイカ。ただしヤリイカはだめ)を魚屋でみつけたら、中の|わた《ヽヽ》もそのままに持帰って、ぜひ試みられたい。世の中には、それが鷹揚のつもりの、見当外れなムダ奥さまもまだ多くてね。魚屋にイカの|わた《ヽヽ》を残してくる始末のわるい女がある。すかさずその分もいっしょに貰ってくるのがこつである。
かつて「朝日新聞」家庭欄の片隅に、小さな記事がのった。このイカの|わた《ヽヽ》袋を慎重に引出し、中を破らぬように、〈醤油六、味醂四〉の液につけこむ。そして冷蔵庫に十日間。結果は、包丁で切れるくらいの、半固形のウマい酒のさかなができる、とあったので、そっくりまねたところヤッパリ新聞は真実の公器、嘘はつかないのだなァ。本当におっしゃる通りの「イカの|わた《ヽヽ》漬」が完成した。
これを得々と吹聴してまわったところ、仙台の或る先生が、うちの三陸の故郷では塩に漬けています、と教えてくださった。粗《あら》塩(今や、酒屋で「漬けもの塩」として売っている塩のこと。いわゆる食卓塩はだめです、あれは水を吸わない)を、くるむように|わた《ヽヽ》にまぶしつけて、そのまま、冷気にさらすか、冷蔵庫へ十日間。|わた《ヽヽ》は、溶けかけたチョコレート状に半固形化する。もっとも、これ、美味は美味だが、相当、漁協風味と申しましょうか、塩っぽさがきびしくなりすぎるのが、難点の食品である。高血圧、胃ガンに恐怖をもつ君には、残念ながら必ずしもおすすめできない。
近頃、私がひたすら凝っているのは、|そぼろ《ヽヽヽ》だ。心こめて自製した魚の|そぼろ《ヽヽヽ》、あるいは|でんぶ《ヽヽヽ》は、ほのかなうま味と感触、おんなのうぶ毛の魅惑にも、劣らない。
そぼろを能率的に作ろうと思ったら、夕食に寄せ鍋などを試みられるおり、あらかじめ、白身の魚を少し余分なくらい多量に、用意されることである。むろんそれも、鍋に入れて煮てしまう。鍋ものの夕食、果ててのち、箸で残りの濁水をかきまわすと、君がよほどの大|食《ぐら》いならべつだが、しらたきの断片とともに、魚肉が相当に泳ぎ残ってるはずである。それだけを丹念に引上げ、水気とともに、魚の皮、骨、および、白菜のかけらなどを丁寧に取除く。|そぼろ《ヽヽヽ》の中から、寄せ鍋の他の材料などが現れ出ては、女のうぶ毛もへったくれもなく、色消しだからにほかならない。からすぎる塩鮭も水煮しておくと、いい|そぼろ《ヽヽヽ》の素材になる。
さて、べつの薄い金属鍋をとろ火で熱し、ここへ、すりばちでほぐした魚肉を入れて、甘味が好きなら砂糖をほんの少し加え、水気いっさいなしで、空炒りするわけである。塩気は鍋のときついているから、からみはごく微量ふやすだけで充分である。菜箸四、五本で、心こめて炒りに炒る。何で男一匹、こんな、手首ばかりだるくなるばかげた作業をつづけなければならぬのか、暗たんたる気分でへきえきしてくるがね。やがてこれがおんなのうぶ毛に到達するのだ、と心励ますほどに、アラ不思議、手首はスッと軽くなって、作業はにわかになめらかさを増しはじめる。これ、君の至誠と情熱が鍋に通じたから――ではなくして、魚肉の水分が蒸発して、そぼろが乾いてきたからである。
魚屋で、マグロの血合いをわけてもらったときは、ゆがいて、ほぐして、同じく空炒りする。このときは醤油と砂糖で、比較的、濃く味つけるのがこつ。さらに魚臭を嫌うならば、カレー粉を振りこむという変形もある。何にしても丹念に丹念に、肉が乾ききってたんぽぽの綿毛みたいになるほどに、と炒りつづけるのが要諦である。
面倒だって? そりゃあなた、ウマいものを食うのだもの。コストを安く削ったうえ、手間まで抜こうなンて、そんな了見じゃ駄目だわサ。そういう不心得をこそ、言うのですよ。
ケチケチ、と。
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ビーフ・シチューを煮よう
客を、レストランへ招く場合――。おおかたの主人役《ホスト》は、必ずビフテキを提言し、推奨するのが、日本式礼儀≠ノかなうことだ、と信じておられるようである。
「ぼかァ、タン・シチューをいただきます」などと言おうなら、
「とんでもない。どうぞ、きょうは一向にかまいません、社長からも言われております。どうぞビフテキでも」とくる。メニューを眺めりゃ、なるほど、タン・シチューは千二百円で、ビフテキは四千五百円である。内心、せっかく、牛のべろに向って燃えていた食い気も、ぜんぶ、貧乏性からくる遠慮、と誤解されて、べつに食べたくもない席で、今度こそ社長を気にしいしい、肉の一片と、ナイフ、フォークで格闘を演じなければならぬ。わたし、ビフテキはむろん大の好物だが、肉ならばいつでも、どこの店ででも、ビフテキだけを食わなきゃ気が済まぬ、といった中毒症状からは、ひどく縁が遠いのである。
持論だが、日本人が、客を招く儀礼的な席で、とくにビフテキだけを尊重したがるのは、あれは煮魚よりも焼魚を、新鮮・貴重なものと信じこんできた、伝統的な〈サカナ民族思考〉の尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨的|類推《アナロジー》ではないか、とも考えられる。最も新鮮な品はナマで食う。そのあと、魚の調理は、ほぼ決定的に、新しい魚ほど焼く料理、古い魚ほど、煮る料理に傾く。その意識が、じつは鮮度など最重要でない獣肉調理にまで敷衍《ふえん》され、われわれは、古い肉を煮込んで客に出すなどほんと失礼だ、などと思いつめてしまったのではなかったのか?
――と思っていた折しも、某誌で若林春子さんの所説を読んだ。膝を打った。それによると、日本とヨーロッパの味覚美学のちがいは、われわれが〈歯ざわり七、舌ざわり三〉なのに対して、西欧人の美味とは〈歯ざわり三、舌ざわり七〉なのだ、というのである。そうだ、これなのだった、事の真相は。これだからこそ、われわれはビフテキを前歯で噛みきるのを嬉しがり、紅毛のたぐいは、煮込んだ肉の繊維を奥歯で擦りつぶして舌つづみを打ちたがるのだった。
私はどちらかといえば、本干しの目刺し、おせんべ、おこうこの類いを噛むほかは、前歯を使いたがらぬほうに属する。いつまでも奥歯で噛みつづけちゃァ、舌の上で味をたのしむのが好きな欲張りだから、シチューには、まったく目がない。率直にいってニューヨーク・カットの大ビフテキが目の前でジュウジュウ鳴るよりも、とろとろの赤ブドウ酒ソースに塗りこめられた巨大な煮込み牛肉の塊りが、鍋の中でホテホテと湯気をあげてるのを見るほうが、格段に陶酔的、かつ感動的である。
先年、某週刊誌の連載企画で、毎週一軒、美味で著名なレストランを取材して回ったときだった。司厨長《シエフ》に面接して、「おたくは何がいちばん得意?」「どれが最も作り甲斐ある?」「最高に難しい料理は?」――同じ質問を、どう形をかえて訊いても、じつはどの店から返ってくるのも同じ答えであったことに、目をみはった体験がある。即ち、名コック長たちは、異口同音に証言したのである。
「そらァ、難しいけど、最高にやり甲斐のあるのは、肉の煮込み料理です」
――そこで本章は、煮込みのいちばん基本、おなじみ、ビーフ・シチューと、ポ・ト・フの製作法。
これまで私が、最も信頼してきた本格的な家庭向きビーフ・シチューの製作手引きは、少し古いが、静雄氏の『たのしいフランス料理』(婦人画報社)の中の記述であった。「牛肉のブルゴーニュ風煮込み」とある項目が、それである。もっと本格の作り方を、と張り切って、エスコフィエ著『フランス料理』なぞという詳密な大著をひもとくのも結構ですがね。あれァ、邦訳とは言い条、目次なンぞ、「ファルス・ドゥ・ヴォー・ア・ラ・グレッス・ドゥ・ブーフ」なんて、一事が万事この調子で、フランス語をカタカナに直してあるだけ、という正統本格調でなァ。私など、結局、肝心な本文へ辿りつくことすらむつかしい。
で、本調子を出されたい方には、辻氏のガイドをおすすめする。として、私、ここでは、うちでやっとる、わずか二時間弱で完成段階に到達という、辻氏などに知られると、かなり慨嘆されること必定の「ブーフ・ブルギニョン」を、即席でおしらせしたい、と考える。イヤ、手続きは相当にインスタントだがね、味は相当に、冬の夜をみたすに足るものです、これは。
じつは、この製法には完全な|虎の巻《アンチヨコ》がある。|SEB《セブ》というフランス製圧力鍋をデパートで買ったとき、おまけにくっついてきた『調理三百種《トロワ・サン・ルセツト》』というハードカバーの料理本である。私、このくらい克明に、フランス語の本を一語あまさず、二百数十ページの全巻読み通した体験なんて、三十年前、アテネ・フランセで入門教科書を読んだとき以来、なかったと白状する。近頃、SEBには、日本語の調理手引きがついてくるようだが、率直にいって、出来のちがいは、雲泥以上の差で、フランス版のほうが上である。業者は、このフランス語手引きのほうを、きちんと完訳して添えるべきである。
このフランス語手引きでは、ブーフ・ブルギニョンには、肉を、「塊りの肩肉八百グラム」とある。が、ウチはもう、肩にかぎらず体のどこの肉でも手当り次第、の感じや。明治屋なぞ、気取ったスーパーで売ってる、骨髄つきの骨ごと輪切りに切断してある冷凍シチュー肉、あれは腿か脛かしらんが、あれなンざ一キログラムくらい放りこむのに、まさに絶好である。だいいち、安いもの。
まず、市販ベーコン百グラムをサッとゆでて、塩気と煙臭を抜く。もちろん、あなたが少しはまめな人で、ふだん塩漬ベーコンを自製しておられるなら、当然それを使うべきである。塩漬ベーコンは子供にも作れる保存食品でね。つまり血抜きした塊りのままの豚ばら肉の全面に粗《あら》塩(これも、食卓塩やアジシオのたぐいは駄目)を摺りこみ、サランラップにくるんで重石をのせ、冷蔵庫に入れておけば、数日でできてしまう。水で塩抜きすれば、非常に豚臭い立派なベーコンである。これを刻んで、圧力鍋にバター五十グラムをとかし、牛肉といっしょにいためるのである。そこへ、乱切りにしたタマネギ二個を放りこむ。大さじ一杯のメリケン粉を加え、色づくまでいためつづける。わかるね? いくら男でも、このくらいの手順なら。
さて、そこへ、肉がヒタヒタにかぶるくらい、赤ブドウ酒を注ぎこむのである。一瓶の三分の二くらいだろうか。要するに、ビーフを煮込むのは、赤ブドウ酒(むろん、あの、世にいわゆる、甘いポートワインじゃない)だけなのである。水や湯やスープはいっさい用いない。控え目に、ここで塩胡椒。加えてブーケ・ガルニ(ロリエ、パセリ、セロリの柄など)と、にんにく一かけをポイと放りこんだところで、圧力鍋の蓋をきっちり閉じる。ピーッと安全弁が蒸気を吹きあげてからカッキリ一時間、とろ火でサワサワことこと煮込みましょう。
できあがりには、バターで軽くソテーしたシャンピニョンをまぜこみ、刻んだパセリの葉など散らして供する――。というのは、御承知のしめくくりであるが、じつは、私が書き加えようとおもうのは、そのことではない。このSEBの手引きに加えて、もう一段、最後に相当あらっぽくインスタントな加工をやってのけるのが、拙宅の開発なのである。
圧力鍋から(充分、蒸気をぬいて)とりだしたシチューは、(脂もアクも全部いっしょくたに煮込んだわけだから)、存分にギロギロどろどろである。そこで表面の、脂部分を、しゃくい捨てる。――と、どうもこれだけでは、まだひとつ、色も醜く、冴えないし、味も、こくが伸びてないのである。で、まずブランデー一さじを加えて味を補整。さらに、エイヤッと、次の日常的通俗化を敢行する。
ま、これは岡部冬彦さんが例の早口で、「あ、あれは便利よ」と教えてくださった商品なのだが、ご存じ固形スープのマギー、あそこが、罐入りで、粉末ドミグラス・ソースなる品を売り出しとるのですね。こいつをユックリ、水から温めてトロリととかし、できあがったシチューにまぜこむのである。塩気が足りなかったら、最終段の味つけは、塩でなく、マギーの固形スープを崩しながら、行う。味は、かなりよそよそしくはなるが、安定する。
次に、この「ビーフ・シチュー」よりさらに基礎的な、肉煮込みの原点――ポ・ト・フ。これも私流に即席で、しかもウマさだけはビーフ・シチューより保証つきの一品を、紹介する。私はこれをひとりで製作するのが、かなり得意でしてね。かねて、相当の自負を恃《たの》んでいたところ、或るフランス映画で、母親に家出された七つくらいの女の子が、憮然としょげかえった父親にこれを作ってやってる場面を目撃し、なんだ、向うではジャリの料理か、と愕然として、以降、あンまり、おもてでは自慢しなくなった。ここで洩らしてしまうのは、あなたと私の仲だからこその、さしの内緒話としてである。
ポ・ト・フをまちがいなくいい味≠ノ作るこつは、私の場合、鶏ガラでスープ(ブイヨン)をとってしまうことだ。これを少くとも二リットルは、用意したい。ガラで三羽分。
そして八百屋へ出むき次の品々を揃える。ねぎ二本、たまねぎ二個、西洋にんじん三本、蕪《かぶ》四個、セロリ一本、パセリ一束、丁子一粒、にんにく一カケ、そしてじゃがいも一キロ。帰りに肉屋へ寄り、ここでも、骨つき冷牛肉の塊りでかまわんです、肉の正味分、八百グラムくらいを仕入れる。
まず、SEBのなかへ、きれいに漉《こ》したブイヨンとともに、上述の野菜を(じゃがいもを除いて)、ぜんぶ入れる(むろん、皮は剥《む》き、面取りくらいはするのです)。蓋をせずに沸騰までもってゆくのである。アクをとったあと、はじめて肉塊を沈め、さらに沸騰までもってゆきながら、今回は、慎重に丁寧に、アクと脂をとりさり、塩、胡椒する。――これで準備完了である。あとは蓋をぴちっと締め、強圧の下で一時間あまり、とろ火に煮こむ。
蒸気を抜いて蓋を外してみると、野菜も肉も|くたあ《ヽヽヽ》ッとへこたれた感じになってるが、それでいいのである。そこへ、四つ割りにして水にさらしておいたじゃがいもを沈める。一キロも入れて大丈夫なのか、食いきれるのか、と必ず心配になるが、委せておきなさい、一キロを沈めて再び蓋をきっちり締め、ここでは十分間でいい――煮込む。
さあ、開けてごらんなさい。そしてアツアツの、唇が火傷で腫れあがるようなスープを一口、すすってごらんなさい。君は、心の底から驚く。俺でも――この、ブキッチョで鳴らした俺でも、あれほど日頃、台所の女房から、「だめねえ、あなた、どいて、邪魔だから」となめられきってきた俺でも、こんなウマい料理がつくりだせるのか! ほんとに、君はこの瞬間、なんでここまで、あの女にこの台所を委せきってなどきたのか、わが家のひだに隠れひそんでいた新技能の、あまりのすごさに呆然唖然と自失してしまう。
べつに、君は何の努力をした|わけ《ヽヽ》でもなく、べつに体内にエスコフィエの才能、ブリア・サヴァランの感覚が眠ってた|わけ《ヽヽ》でもなく、味のすべては、材料と鍋が出してくれただけにすぎない|わけ《ヽヽ》であるが、自分で自分に驚いてるぶんには、いっこう、差支えも起らない|わけ《ヽヽ》で、この、自分への驚きを、他人にもわからせようとするあたりから、ソロソロ、|わけ《ヽヽ》のわからないことが起りだす|わけ《ヽヽ》である。
これがポ・ト・フである。
そしてこのポ・ト・フは、じつにいやになってしまうくらい、さまざまなバリエーション料理の、一大出発点となる兵站《へいたん》基地でもある。ま、以上の量をいちど作ったら、派生料理で数日は暮せる、とみていい。
ポ・ト・フのままをカラシの味で食べたあと、肉だけをとりだして刻み、たまねぎのいためたのと混ぜ、ハヤシ・ルーでのばすと、即席ハヤシライスにもなるでよゥ。野菜だけをカレー粉で味つけても、非常に品のいいヴェジタブル・カレーがたのしめる。そして、スープの中にのこった肉屑や野菜屑は、すべてすり鉢であたって、スープでときのばすのである。このポタージュの複雑なうまみと舌ざわりは、何と形容したらいいのだろう。
ああ、即席。――権威と品格を重んじる正統派には、到底、召上っていただけぬ代物であるかもしれませぬ。
しかし、世間には、本当に今、われわれ素人の日常の食卓を賑やかすに足る、嬉しい品も存在してるのだね。骨付き輪切り冷凍肉然り、圧力鍋然り、粉末ドミグラス・ソース然り。これらは、たしかに、名レストランの調理場にあったりしては、おかしいかもしれない品々だ。私もあんまり、こんなものが台所においてあるレストランへは行きたいと思わない。だけど、われわれのだいどこへ降りてくると、それらは、何と、われわれに食いものをつくる自信≠もたせてくれる友人であってくれることだろう。
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PTAのその留守には
川崎敬三さんが出された単行本『えぷろんパパ』のなかに、世の亭主だったら一度は体験したことのありそうな家庭騒動の逸話がのせられている。
せんせい、テレビのホームドラマかなんかの仕事をすませ、夕方、腹ぺこになって我が家へ戻ってくる。今夜は何作って待っているのかなァ、なんて。
ところが、うちは真っ暗である。奥さんはいない。子供にきいても、要領を得ない。
「PTAじゃねェか」などと、人事《ひとごと》みたいな言い方をする。亭主は次第に怒りがスタンバイしてくるね。そこへ、当の奥さんが、髪だけ、きょうは立派で、バタバタと駆け帰って来、「アラ大変。遅くなっちゃって。まだ何も用意していないのよ。パパ、何にするゥ?」という風なきき方をする。――さあ、パパたるや、ついに怒りに本番の赤ランプがついて、「何にするゥ? たァ何たる言草かッ!」怒髪天を衝くアクション・シーンが開始されるのである。
氏は、その当夜の川崎家の悶着が、こういうプロセスで始ったのだ、とは書いてない。以上は、ウチの体験から類推したフィクションの叙述にすぎぬが、ともかく、このあと四時間、氏は夫人に向い、イカりにイカり狂って、女房たる者の使命論なるものをブッた、と同書にある。つまり、氏の出演作のなかでも最も巨大長編に属する名演が展開したごとくである。少くとも、役者は腹がへっても熱演できることを、その晩の氏はみずからの家庭で実証した。
以下は、川崎氏へ説教するのではない。食道楽の敬ちゃんにこんなことを言ってもはじまらないから、私は天下のお歴々の御同役と御相談するのだが、いったいこういう状況になった夕べ――つまり、俺はうちへ帰ってきたわ、女房は留守だわ、晩飯の用意はできてないわ、といった場合、われわれ亭主は、怒り猛る前に、どうやって急場をしのぐ、いえ、ひとりで、それなりにウマい夕食を作ったらいいのであろう? ママはPTAでお留守、の場合だけではない。この大事な奥さんがインフルエンザで寝こんでしまった晩なども、御同様である。
拙宅では、かねて、こういう晩が発生することもあろうかと、母親が留守でも即座に夕食が作れるよう、幼かった子供たちに二つだけ、それだけで一応家族の一食が成りたちそうなおかず作りを仕込んでおいた。これなら、子供たちのみならず、彼らよりもっとぶきっちょでものぐさな私でも、一人で作れる、という食いものである。
一つは、「シャケ鍋」――あるいは、もっと気取って言いたければ、「洋風石狩鍋」である。ま、これくらい簡単な鍋ものもないだろう。
台所の棚から、中華鍋を取り出してくる。油がついてても、一向にかまわない。拭け、といって拭く君ではないのだから。一方、野菜をさがす。煮える野菜なら、何でもよろしい。たまねぎは必須。白菜、キャベツなど、とくによろしい。洗ってザクザク切っておく。じゃがいもも皮をむいて、薄くスライスして、水にさらす。これらを、サラダ・オイルでシャカシャカといため、そこへ水をジューッとそそぐ。味つけにはマギーの固形スープを一、二個放りこみ、最後に、鮭罐をあけ、一罐分、鍋の直ん中へガバとぶちこみ、かきまわす。ぶつぶつ煮えてくる。最後に胡椒を振って、食う。それだけである。
なんでェ、たったそれだけかァ、と呆れる方もかなりおられよう。が、では敢えて御亭主に借問する。あなたはいったい、この水準以上の調理を、日常、いくつなさっておいでかね? いうならばこれは、あなたとか私程度のクラス、そして小学校四年級くらいの子供、この水準でも、決して失敗なく作れるミニマムの料理工作なのである。べつに文部省のカリキュラムに準拠したわけではないが、間接的には、PTAといった制度が家庭から母親を奪った結果、亭主に覚えさせた料理である。その点からは、ひどく教育的な調理とは申せるでありましょう。
このシャケ鍋は、煮えたては味も粗くて、べつにどうということもない。が、次第に時間がたち、鍋の中がくたくたになってくると、素材が固形スープと罐詰から成り立ってるとは信じられないくらい、ソフトでまるいウマ味が出てくる。つまり、母親が、けさセットしたての髪を早くも振り乱し、「アーラ、遅くなっちゃった。あの先生のお話、いつも長くッて」などと、自分の電話のかけ方は棚にあげるような弁解で駆け帰ってくる刻限が、最上の美味に達している料理である。即ち、非常に女房孝行な料理。かつ、亭主がこの時とばかり、奥さんに、君の潜在的実力を思い知らせることのできる調理といえる。
で、このとき、奥さんが一言でも、「あら、あなたにしてはオイシクできたわね」などと言おうなら、あなたはもう、いつもの位置と態度へ復帰し、ちゃぶ台の前でふんぞり返って、
「おう、はじめて知ったか。ではもう少しキャベツをきざめ」
てな調子に戻ればいいのである。すでに当人は腹がくちくなってるから、君の命令も口調がソフトに変っており、決して川崎敬三家のような長編悲劇は起きない。だいいち、ここで、キミがきざんだのとは格段にちがう、きれいなキャベツが出てくるのである。
もうひとつ、子供に教えたのは、「トン・シチュー」つまり、アィリッシュ・シチューのまがいものであった。いうまでもないが、これはおとなの女性が本格に作れば、充分、来客をもてなすに足る美味ができる。ことに骨付きの豚ばら肉が手に入ったとき、これをゆっくり、時間かけて深鍋で作ると、スープのこってりした味わいなど、わが家の手製とは思えぬレベルに達することもある料理である。シチューは、どんな肉にかぎらず、ともかく骨つきか軟骨つきを使うのが、それこそコツだ。ゼラチン質が出るからだろう。
トン・シチューは、さまざまな味つけの作り方をためしてみたが、結局は、あっさりした塩味、というゆき方にとどめを剌すようである。骨付きの豚ばら肉に塩胡椒し、一方、乱切りのたまねぎやじゃがいもも塩で揉み、これらを何段にも重ねて深鍋に入れる。煮立ったら、コトコトと気の済むまで弱火にかけつづける。うちの子供たちは、これでは味が少々アッサリしすぎている、と、まず豚肉の賽の目切りを、油で表面だけいため、ブランデーなどをかけて火でとばしてから、煮こむ。が、これではほんとうの豚の味はかえって殺されるようである。できあがったシチューにさらにバリエーションをつけてみようと、トマト・ピュレーをさして少々酸味がちにしてみたこともある。これもかえって、スープの味が類型的に平板化してしまった。ごたごたと、味の数を増せば、ものはウマくなるか、というと、これは全然そうではないのである。
むろん、トン・シチューは、夕方になってから、母さんの不在に気付いて、あわてて作る、といった調理ではない。圧力鍋なら一時間足らずで完成するが、もともとは、昼前後から作りはじめて、夜できあがる――その間、うちじゅうがシチューの芳香でいっぱいになる、といったところに、すべての身上があるような料理である。奥さんが不幸、病いに倒れられた時こそ、あなたの腕のふるいどころであろう。
それにしても、女房てえのは、いるべきときにいないと、ほんとに不便なものですな。料理のレパートリーの点でも、当然男の智恵だけでは、たちまちに思考が枯渇してしまう。それより何より、材料や調理道具や皿類が、うちでは台所のどこにどう分類され仕舞われているのか、われわれ男には、全然見当もつかない点が、参る。たとえば、わさびだけは、切れっぱしが、冷蔵庫の中でコップの水に潰けてあった、としても、肝心のわさびおろしは、どこに仕舞ってあるのか。こいつを発見できぬことには、二進《につち》も三進《さつち》もゆかぬのである。
察するに川崎敬三氏も、あの夜、怒り心頭に発せられたのは、この次元のことではなかったのだろうか。あの人が、奥さん抜きで、即席の手料理の二つ三つできなかった、などとは信じることも不可能である。
すりこ木はあるンだが、どうしてもすり鉢のありかが判らない。わが家でありながら、何たるザマか。これは俺のうちではないのか――といった次第で、氏は、ついにあたまへ来られたのではなかったか。
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つくだ煮としぐれ煮の差について
米のめしは、ほとんど食わない。
愚昧な農政へのハンストだ、などと称しているが、むろん、本音は、鏡の中に肥った自分を見るのが、堪えられないからである。「人間は自分を罰するために食を断つことがある」とアメリカの精神分析医が書いてるのを、読んだことがある。たぶん私は、沢田研二、西城秀樹、野口五郎よりやせてた、若いころの自分を思慕するあまり、あの細身を取落してしまった自分が許せなくて、われと我が身へ「めし断《だ》ち」の刑罰を加えているのであろう。
だのに、私、つくだ煮が好きである。白い熱いめしとはハッキリ手も未練も切ったはずなのに、お好みのつくだ煮店の前を通りかかると、立止ったまま、目がすわって動けなくなってしまうくらい、好きである。
柳橋のたもとにある店。ここは、東京に珍しく、あなごが名物だ。日暮里駅の西口近く。この店のはうちの寺に近いせいもあって、ものごころつくころから、よく食べた。鮒のすずめ焼きや小えびの鬼がら焼きは、ここのが特に好きであった。柴又帝釈天の参道にある店。ここは鰻《うなぎ》。
京都では、上賀茂の「なり田」であろう。もう一軒あるが、ここは(わるいけど)教えたくない。この二店でつくる、ちりめんいりこの極微なのを山椒の香とともにたきこんだ品は、舌の目が醒めるくらい、気品があって鮮やかである。国分綾子さんから最初に名刺をいただいたとき、御住所が上賀茂とあったので、
「ご近所の『なり田』のつくだ煮ァ、みごとですなァ」
お世辞をいったら、
「京都では、佃煮、言いしまへん」ぴしゃりときめつけられた、「時雨《しぐれ》煮、と申します」
ハア、さよか。
つくだ煮は周知のごとく、かつて旧幕時代、摂津の漁師たちが江戸佃島に移り住み、東京湾の漁獲物を煮つめたところから発生した。国分さんは、関西人が(あろうことか)江戸などで結構な食品を開発してしまったことに関してさだめし腹に据えかねる点も、あられたわけであろう。もっとも京都市の電話番号簿(職業別)を開くと、「つくだ煮」という店の項目はれっきと存在してましてね。「なり田」はちゃんと「つくだ煮」店のなかに分類されている。電話局員はいつの頃からか東京風になじんでしまい、国分さんの心くばりにもかかわらず、京都の誇りを忘れ果てたのであろう。頼りない郷土愛である。
東京で市販しているつくだ煮は、色や照りからして、動物、あるいは植物、海藻のたぐいを、醤油と砂糖で煮つめに煮つめたもの、としかみえない。じじつ、どんな料理指南書を開いても、「材料を水気のなくなるまで煮つめる」と、教えてない本は稀れなくらいである。
しかし、だからといって、それならつくだ煮は、燃料費など目もくれず、煮たいと思う品を醤油と砂糖で煮こみに煮こめばできるのか――といえば、ソレ、そこがそうは単純にいきませんのです。つくだ煮は、家庭で作りやすい食品の筆頭であって、私のような素人が手がけたって、煮かたと、調味材料の配分さえこまめに心をこめれば、大量生産店でパックなどにして売出している、色ァ真黒で、味は塩と砂糖の塊り、みたいな品より格段に上質なものができることだけは確実である。しかし、これにも年季は必要なようでしてね。先般、私は非常に初歩的な失敗を犯してウマいつくだ煮を作りそこない、くやしくて、二日くらい、寝つきの悪い晩をすごした。
北海道の旅での土産に、生海苔《なまのり》をいただいたのである。目のない大好物だから抱いて飛んで帰り、ごく少量を、酢醤油でサラッとかっこんでから、残りをじっくりとつくだ煮に煮こもうと、母親と半分わけにした。私の母も、そうざいのつくだ煮は、自分で作らないと、納得がいかないほうである。売ってるのは、高血圧の人間には味つけが強すぎる、という。
さて、当夜、東京へ着くのが、ちょいとおそかった。本来なら、材料をすぐ鍋に仕込んで、煮つめる最後まで、火についててから寝るのが、品物への礼儀なのだが、疲れていたのですね、ツイ、おっくうになって手を抜いた。じか火にかけるのはやめ、クロックポットという、電熱利用の、陶製の深い調理道具でゆるく熱することにした。生海苔のしぼったのを六〇〇グラムとして、醤油が一カップ半、日本酒一カップ強。スイッチを弱にした。さあ朝になれば、|こっくり《ヽヽヽヽ》とつくだ煮ができてるぞ、とこっちはぐっすり寝こんでしまった。
このクロックポットという、目を離してても、すべてが焦げずにゆっくり煮えあがってくれる電熱鍋は、調理によっては驚くべく調法便利な器具である。かたい材料を長時間かけて軟らかくするときなど、これくらい有難い深鍋もない。が、少くとも海苔のつくだ煮を作るには、こらァまったく不適な鍋であることが、翌朝わかった。海苔は、鍋のなかで、ぶわーッと、真黒な生クリームのようにふくれあがり、まさに、軟らかいことはフノリの如く柔軟化したとしても、何よりも肝心な海苔の香≠ェ、かき消すようにすっ飛んだ品ができあがっていた。私は、びっくり仰天して母親の元へ馳せ参じ、
「こちらはどうなりました?」問う間もあらばこそ、
「いい生海苔だったねえ。おいしいのができた」
さしだされた一品は、髪は烏の濡羽色。一口含むまでもなく、プーンと海苔の匂いがひろがってくるいまいましさに、私は改めて、妙な電気機械など用いたお先ッ走りの愚かさを噛みしめたことであった。何の奇もない鍋を何の奇もなく火にかけて、母は、あっさりと短時間で、まともな品を作ってしまっていた。
――このときは、じつは生海苔といっしょに札幌二条市場から仕入れてきた葉唐辛子も、上手なつくだ煮にできなかった。挫折感が数晩にわたったのはそのためである。袋いっぱいの若い葉を、家人が懸命に洗い、一葉一葉むしりとり、なまの唐がらしの実とともにサッと熱湯で一ゆがき。水にさらして、刻んでから、さて、醤油をさして弱火で煮はじめたのだが、どうしても青臭さとアクが取りきれない心配がつきまといましてね。しおどきで、気前よく火をとめる決心がつきかねた。ぐずぐず、くたくたと煮こんでいるうちに、できあがったのは、まるで胃弱の病人用に圧力鍋で煮すぎたホウレンソウみたいな、香りも歯ごたえもない煮ものであった。小鳥のスリ餌のような葉唐辛子なんて、締らないことおびただしい。
非常に落胆したのである。
「京都へ行って、時雨煮を作り直す」
と家内に言った。そして一人で新幹線に乗った。材料買込みの修行に旅立ったのである。
駆けつけた先は、三条寺町の「三嶋亭」である。ご存じ、すきやきの名店であるが、座敷には上らない。肉の小売部で、牛肉のいちばん安いとこ、つまり店で「切りこみ」と呼ぶコマギレに近いとこを買込む。ともかく、牛肉だったら、この店だ。そうだ、生姜も買わなくちゃ、と、近くの錦市場へ回ると、ここでは先ず、川魚専門店に、生きた小エビが、透明のままハネているのに目移りがした。大皿に一盛り百円である。予定にはない品だが、むろん、こいつも買込む。絶好の時雨煮の素材だもの。
――そして、駆け帰って、一心不乱に煮ました。こんどは、火につきっきりで、「アッサリと、アッサリと」と念じながら煮た。小エビをよく洗い、ひたひたの水で煮立てて、微量の砂糖味をつけ、煮切った日本酒と醤油をさし、弱火で炊くのである。もちろん、ひねしょうがを加えておく必要はある。煮つまる前に、火をとめた。うまくいきました。きちんとエビの香がいきていた。
牛肉の場合は、まず水と酒で煮るのである。煮ながらほぐして、アクをきれいきれいにとって、かなり肉が柔かく煮えたところで、ひかえめに醤油をさす。肉六百グラムだったら、半カップでも多すぎるくらいである。甘味はかくし味に、みりんと蜂蜜を少量。――いいのかなァ、こんな薄味で、と心配になる、その境目が限度である。そして肉も、煮込みの途中で鍋からひきあげてしまう。あとは汁だけを煮つめて、最後に肉へまぶす。味も、煮こみの時間も、ぜったいに過剰が禁物だ。ヤリスギが、いけない結果をうみます。
昆布もまた、昔、「過剰」がたたって、つくだ煮をつくりそこなったことがある。
昆布は、つくだ煮の教材として基本みたいな一品であろう。八木長といった専門店とか、たちのいい乾物屋へ行くと、つくだ煮に最適の切昆布をわけてくれる。近頃の昆布は、以前とちがって砂などほとんどついてないから、ウマ味を流してしまうほど丹念に洗う必要はない。一口大の短冊に切りそろえ、さましただし汁(原料は煮干でかまわない)を、かぶるくらい張って、おとし蓋のまま沸騰点までもってゆく。
煮たったら、火をとろ火に細め、好みに醤油と酒、黒砂糖を加えて煮つづけるのだが、ここでも醤油と甘味は、ひかえ目のうちにもひかえ目にしておいたほうが、あとでうまい。拙宅ではこのとき、かねて水でもどしておいた乾椎茸を刻み、むろんその水も、いっしょに加えるほか、あれば木の芽、なくても、山椒の実は、必ず添えて煮る。子供時分の好物だった糸こんぶ以来、山椒のひりひりした感じがかすかに舌にこないと、昆布を食った気になれないのである。
過剰でしくじったのは、ナマしかないと思いこんでたこの山椒の実が、じつは乾物の形で中国物産店に並んでいることを発見、欣喜雀躍、しかし、こうカサカサに乾いてては、よほど使わないことには味も匂いも出ないだろう、と早とちりして、多量を鍋へぶちこんだときであった。ああ恥ずかしい。これは、じつは中国の「花椒《ホアチアオ》」であった。これは、中の黒い種子でなく、枯れた皮みたいなカラの部分が効くのであり、しかも、煮こんだつくだ煮が、日が経つにつれ刺激の度が強くなってくる――ことを知ったのは、二、三日食いつづけたあとであった。まるで、べろの麻酔剤に、昆布と椎茸をまぜこんだつくだ煮、のおもむきとなった。
それにしても、昆布のつくだ煮は、作るほどにこつの上達も早く、つくり甲斐もあり、あっさりと薄味に仕上げれば、いくらつづけても飽きのこない、いい品である。問屋へ行くと、業務用に、すでにかんぴょうを巻いた「昆布巻」の素材を、袋詰で売っている。これなど、いちど品《ひん》よく淡い味で煮あげたら、もう、市販の昆布巻なんか甘辛くって食べられたものじゃないことを、保証する。幸せにも、白人たちの感覚にはない、昆布という、この海藻の極意を味わえる私たち日本人の特権――それを、塩と砂糖で消してしまうのは、もったいなさすぎる愚行、としかおもえない。
――私は、近頃、時雨煮という名称に、感嘆を持つにいたっている。ほんとうに、ものは、京都の秋を通りすぎる北山しぐれのように、簡潔に煮られなければいけないのである。東京でいうツクダニ≠フ語感は、最近の商品の印象のせいであるか、少々、カラさもアマさも色も、|もの《ヽヽ》の本体を見失わせるまでにくどくなりすぎてしまったのではないか。
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ラーメン・スープは豚から来々
伝統型のレストランで西洋料理の「定食」を、いわゆるコースでとるとき、しょっぱなにまずコンソメかポタージュのスープが出てくる、という、あの常識。あれは、日本の誰が、いつ、どこで決めてしまったことなのだろう。
御案内のように、フランス人は、われわれがふだん信じこんでるほどには、毎食毎食、われわれのような形でスープをとるとは限らない。洋食ならまずはスープだ、こいつがなくちゃ食事ははじまらない、などとは考えない民族のようである。
いい証拠に、国際線の機内食は、各社とも、ウチの献立《メニユー》こそ本格フランス料理の極め付、みたいなCMをしているが、二等《エコノミー》にはぜんぜん、スープがつかないでしょ。ほんとの本格フランス料理へのおよばれでは、前菜の幾品かが終って、スープらしいものもないままに、魚へ移ってゆくこともあれば、三皿目くらいに、甘くないゼリーみたいなニコゴリ状のプリプリが出て、「|こりゃ何じゃい《ケスクセ》」と聞く間もあらばこそ、「これ、すなわち今夜のコンソメ」と答えられることもある。つまり、ほんとの本場フランス料理では、スープは完全に「料理」の一皿である。
フランス人は、むろん、非常にみごとなスープ(彼らのいうポタージュ)を作る。こちらでいうポタージュも、当然作らせたらサスガ世界一ですね。フランスで、ポタージュのまずい名レストラン、などというものはありえない。心こめてたまねぎを炒めに炒めたオニオン・スープなぞは、これ以上ない冬の美味である。あれにチーズをかけて天火で焼いたオニオン・グラタン以上の、熱い美味がいくつあるだろう。
また、フランス料理では、さまざまな魚貝を渾然と煮出したあつあつの魚スープ。この、とろりと濁った褐色の汁に、にんにくを入れて食うウマみなど、こたえられるものではない。じゃがいもをきめこまかく摺ってつくった冷たいヴィシソワーズは、夏の食事の絶品である。野菜を刻みこんだ沢煮風のフランス・スープは涙がでるほど質朴だ。うずら豆をすりにすった「トゥール・ダルジャン」などの豆ポタージュは、まるで、塩味のおしるこのように、濃くノスタルジックである。
しかし、それでいて、日本のホテルやレストランで飲ませる<Rンソメとポタージュ。あんなふやけた無個性な飲みものは、必ずしも――というより、ほとんどの国が、さして必需品視してないようにみえるのは、どういうことだろう。ギリシャなどでも、魚や|もつ《ヽヽ》のスープは、もっと実《み》だくさんの煮込みだし、フィリピンのシニガングは、スープとはいうものの、これはもう、固形内容豊富なこと、ブイヤベース以上である。イタリアなどに至っちゃァ、日本みたいなスープは、全くといっていいほど、ない。完全にこの位置にとって替っているのは、野菜や豆のごった煮であるミネストロンか、あるいはスパゲティ、マカロニ、ラザーニャといったパスタ類である。イギリスやドイツだって、日本のコンソメなどとは比べものにならぬ濃いブロスを出す。
――思うに、日本でいうコンソメ、ポタージュ。あれを「西洋料理のおツユ」、つまり一汁三菜の「汁」にあたるものと信じているのは、じつはわれわれだけなのであるまいか。われわれはあれを西洋料理の一種と信じているが、実態は、ほぼ間然するところなく、あれァ日本独自の地方食ではないのか。極言すれば、日本人の意識にあるコンソメとは「澄し汁」の西洋もどき。ポタージュとは、|いも《ヽヽ》やとうもろこしを使った洋風味噌汁。――私、近頃、どうもそんな気がしてならなくなった。
スープのもとになるのは、いうまでもなく肉や骨や魚や野菜からとるだし汁(ブイヨンあるいはフォン)であるが、ヨーロッパの白人たちは、このだし汁を、決して「スープを作る|だけの素《ヽヽヽもと》」とは、考えてないように思える。むしろ彼らにとって、だし汁とは「ソースの基礎」でこそあるだろう。白いソース、茶色いソース。魚料理や肉料理の皿を彩る濃厚な液体は、あれこそ、このだし汁からつくりあげた西洋料理のエッセンスの極点だ。本音を言わせてもらえば、けっきょく洋食なんて、「ソースの味を食う」ことに、ウマさは尽きてしまうのではあるまいかと思うほど、彼らのソースだけはうまい。われわれはまたこの点でも、ソースといえば出来合いのウースター・ソースのこと、と思いこむ錯誤をおかしている。
先夜、銀座で真鍋博氏と食事をした。私がウサギの煮込みを「ウマいウマい」と誉めながら食べる。と先生、それが得意の、喜色満面といった茶目な表情で、
「ウォホホホ、こないだ、長野へ呼ばれてウサギ狩りをしてきたァ。ウッ、ファッファッファ。そのソース、泥みたいに濁ってますね。それ、血よ。そう、ウサギ料理は長野でもウサギの血で煮るのです。ハッハッハ。だからおいしいのね。血を使うのはここのフランス料理も同じだァ、ウッ、ヒャッヒャッヒャ」
博覧強記で、血だ、血だと私の食欲を励ます。ふだんは自転車に夢中になってるのに、このひと、いつ勉強するのだろう、と思える知識魔である。私、改めて、だしには血を加えると、とてつもなく官能的な刺激をもったソースが生まれることを、胆に銘ぜざるをえない。舌にチカチカくる酸味が、何ともいえぬ煮えた*。でね、血沸き肉躍る、というかんじ。ウッヒャッヒャッヒャ。
拙宅は、比較的まめに、西洋だし汁を自製するほう、といっていいかと思う。やたら街へ出かけて買物をしてみたいが、買物するほどの|ろく《ヽヽ》な金もない、といった日、妻とふたり、近所の肉屋へぼそぼそと出かけ、
「ホネ、ちょうだい」という。
そこは商売。わるい客が来た、とは思っても、お店は、たった今、威勢のいいにいさんが片胸や腿の巨大な塊りから切離したばかり、という、大きな骨を、ポリバケツから拾い上げて、ポイとわけてくれます。ふだんおなじみの客だと、多くの場合、タダである。「有難い、有難い」と舌なめずりしながら抱いて帰り、ともあれ、ヌルヌルする骨全体を、克明に点検するのである。切出しナイフかなんか使えば、少しは肉として食える部分がくっついてこなかったか。そのへんを、しらべる。
「あなた、およしなさい、もう。意地汚い」
叱られるまで、ためつすがめつひっくりかえすのだが、向うだって、切った兄さんはプロだァ。そうやすやすとは、チープな消費者に、肉片なンぞくっつけ残したまま渡してはくれないのである。――そこで仕方なしに、全体を、ああ、きょうは骨ばかしだ、と認定して、ブイヨンに煮込むこととする。
まず、出刃で関節を断ち割る。鋸で骨の真ん中をひく。ずん胴の大鍋に入れ、ひたひたの水を張って、中火で煮だす。熱が加わるに従って水は灰濁してくるよ。やがて、沸騰点が近づくと、気色悪い泡とアクがブクブクに浮びあがる。これだけは、お手間でも、きれいにしゃくい取らんと、あとが汚くなって、手に負えないのである。ウサギの血みたいに、すべてウマいと思うと間違う。
アクを除いたのち、台所にありあわせの野菜を、手当り次第ぶちこむ。たまねぎの芽が出たの。にんじんのつけね。ねぎの青いとこ。パセリのくき。あとはトロ火で、徹底的にコトコト煮こむだけだ。鍋の蓋をはずして煮れば品のいいだし汁ができる。少々ケモノ臭くっても、徹底的に骨の髄まで煮出すのだ、という決意なら、圧力鍋にとじこめ、一時間。――野菜などクターッと伸びちまうまで、蒸気で圧して煮上げれば、いい。骨髄でおもいだしたが、太い骨の中につまってるブヨブヨの髄のあぶらっぽいうまさは、鯛の目玉と双璧である。骨の一方をパシッと叩いて、こいつがずぼっと叩きだされてくるときの嬉しさは、形容を絶している。骨の関節や外周にへばりついているびろびろのゼラチン部分は、ミジンに切り刻み、メリケン粉で棒状に練りあげると、「おでん」に用いる例の「すじ」ができあがる。これもケチなチエのひとつである。中国の乾物屋には、豚の白い筋を干して売ってるが、あれは水にもどしたあと、油で揚げて好みの味に煮こむと、何の味もないくせに、妙にうまい。
さて、この骨煮だけでスープそのものができあがった、と思うのは、大間違いである。日本流のうすいコンソメだって、これだけの手続きじゃァ、まだまだできあがりません。あと、この液を漉したのへ、もう一度、新たに脛肉などを、だしの要素として加え、煮こむ。煮ながら水を足し、よくよくアクをとる。それを冷やして表面の脂を除く。そして、ほぐした卵の白身を流し入れながら静かに液をあたためてゆき、濁りかすを卵白に付着させることで、ブイヨン全体をゆっくり澄ましつづけるのである。あせると、せっかく卵白をまぜて、かきまわすのに、まったく液は澄んでくれないことがあり、こんなときは呆然として、男泣きしたくなってしまうほどである。当初鶏のガラや、牛骨を使ってスープを作る場合の、これは最低限の素材と手続きである。ほんとのプロは、最初の部分から、これを多量の高い赤肉で行う。
コンソメづくりのこういう面倒さにくらべれば、むしろ、いま述べただし汁づくりの第一段の手続きだけで、存外重宝にできあがっちまうのは、ラーメンの|つゆ《ヽヽ》だ、といってよい。この場合、用いるのは、もちろん、豚の骨である。どこの部分だってかまわんから、まずさっきの要領で肉屋から豚骨をわけてもらってくる。そして、上述の順序で、煮だしに煮だす。この際は、上品な気取りなどいっさい無用ですね。骨はぐだぐだに叩いて、髄をむきだしに煮込んだほうが、味も匂いも、濃くて、本場風である。白くミルク状に濁っただし汁が生まれでるとき、「ああら、うちでも、ワンさんちと同じおツユができたァ」と、狂喜乱舞せぬ人間がいたら――あなた、よっぽど、ラーメンのたのしさから、縁の遠い方である。インスタント・ラーメンの、銀紙の小袋を破るだけが男の能ではないのである。
豚の骨から煮だしただし汁は、しかしそのままの単品では、どうしても飲む気の起らない味と香りである。なンか、へんに動物園臭い。しかし、あれはどういう不思議だろうか。このだし汁に、少しラー油を加え、|めん《ヽヽ》と|叉 焼《チヤーシユー》を投げこみ、胡椒を振りかけ――たら最後ね。どんぶりの底の底の一滴まで、飲み干さない人はないくらい、なつかしいウマ味のこくが出てしまう。あれァ、どういう、味の混成の秘密なのかしら。
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断ちきり・ねじきり
包丁をさばくのと、ハサミを使うのとでは、まるでものを|切る《ヽヽ》感覚がちがう。
感覚とは、同時にこれ、力学の相違にほかならない。極度に刃先きを薄くといだ包丁は、「単位面積と圧力とは反比例する」とかいう、確か学校でそう習ったはずだがな、もしかすると私の独創にすぎないかもしれぬ物理学の原理に支配されて、食品の細胞を平滑に両断してのける。一方、鋏は、これとは全然べつの、テコの理を応用して、いわば物品を両端から締めあげ、細胞を、ねじきった形で、分断する。
男が、部分を女からチョンぎられるとき、包丁を使われるか鋏を使われるか。その両シーンを、痛みとともに想像すれば、この力学の差は、具体的に明らかである。前者が東映やくざ映画だ、とすれば、後者は日活ロマンポルノにひとしい、と思えば、かりに万一、料理に無関心な人であるとしても、容易に二つの実感は会得できようというものである。
「包丁」という日本語は、いうまでもなく、調理用の刃物のことだ、と誰でも考えたがる。が、手近な国語辞典をひくと、あの世界ではどうも常識がちがうのだ。今いったこの凶器的意義が記されているのは、むしろ説明の末尾である。字義の第一は、「食事の料理・調理」とある。第二は「料理人」である(金田一京助「明解国語辞典」)。こころみに英語の字引きで Knife をひいても、「料理」といった意味はぜんぜんあらわれない。わずか類推的な用法としては、ナイフという言葉が「外科手術」を意味することくらいである。これをもってしても、いかに、日本では包丁というこの用具の操作じたいが調理《クツキング》という行為と端的に結びついてきたか、つまり、食品を、平滑に、細胞をぐしゃぐしゃと壊さずに処理することが、調理の第一義であったか、が示唆されている、といえよう。
スペインの古都トレドを訪れたとき、観光バスがオートマチックに横付けになってしまうダマスキーノ細工の土産店へ、否応なく連れこまれた。女性用の細工物なンぞ、公私ともに、御用もお呼びもあるわけがない。目についたのは、店の一隅の壁に、さまざまな種類の包丁がぶらさがっていることであった。ここトレドから産する砂鉄を主原料に、きちんと鍛えあげた郷土名産品とのことである。
西洋を歩いて、いちばんウットリする一つは、台所用品の店ですね。ドイツの刃物店とか、アメリカのスーパー・マーケットなど、中でも圧巻である。せんせい方、ともかくぶきっちょでしょう。しかも獣など、塊りのまま肉屋から買ってくる|しきたり《ヽヽヽヽ》しかないから、家庭の台所には、大小精粗、無数の分断用調理道具が、必要となる仕組みである。
このときトレドで、結局私は、砂鉄製の包丁を二丁仕入れた。そのまま持ち運ぶとヒコーキに乗るときうるさいからね、小包で別送してもらった。一つは、ハガキくらいの矩形の、厚身の牛刀である。一種の出刃包丁的重量品で、こいつは、鶏骨《ガラ》などたちきるのに、力が集中してよろしい。|牛の尾《オツクステール》を関節部分でバラバラにする作業など、これをギロチンのように垂直に叩き落す。日本の出刃包丁は、非常にすぐれた有用な刃物だが、意外に、先端部分に重力がかからない。ああいう、「力まかせ」の代表みたいな出刃包丁でさえ、日本では平滑な「スッパリ両断」美学の影響を免れていないのである。
もう一本は、刃の片わきに、デリケートなさざ波が連続している中型。むろんパン切りとはちがう。チーズ用とも、グレープフルーツ・ナイフともちがう。――つまりハムとか、肉塊などをスライスするとき、身が包丁にはりつかず、非常に軽い手さばきで済む肉切り包丁である。もともと拙宅の台所なぞ、ネズミのおでこにも足らぬ狭小貧弱な場なのでね。たった包丁二本という、これだけの新設備を投資しただけで、以降、俄然、各種の調理法が、絢爛の比率を急昇させてしまった。
しかし、この二本を使ってみても、明らかに納得できるのは、西洋は、包丁まで、日本的な「スッパリ両断」タイプでなく、同じく摩擦力軽減に意は用いても、細胞をねじきるという「ぐっしゃり分断」論理に支配されている、というその東西の相違である。柳刃の刺身包丁のあの鋭さは求むべくもない。
なにしろ、あちらのせんせい方は、なまで食うのは野菜くらい。それも、包丁でせん切りにするよりは、手でちぎった菜ッパを食いたい、という人たちでしょう。刺身、しゃぶしゃぶの類いもなければ、ふぐの身を皿の模様まで見せるくらい、薄くそぐ意欲もない。要するに彼らにとって包丁とは、食品を、鍋に入れてもっとも煮やすい、合理的な形に裁断できさえすれば、御用がすんでしまう道具なのである。
なるほど、あっちでは、こちらとちがって料理鋏が発達普及するはずだなあ、と、私は、鉈みたいな包丁を見おろしながら、改めて自明の理を再認したのであった。
料理鋏は、ここ数年、ようやく日本のデパートにもひろく広がった台所用新兵器である。日本進出の大きな山は、万国博会場における、西独ヘンケル製の売出しだったと思う。当時二千円だった。今は倍ちかくに値上りしている。緑色の柄より、青い柄のほうが高級品である。しかし、強気の値上げほど、日本の台所での需要は急増したのかどうか。考えようでは、まだまだ日本の内部には、食いものを鋏で切って調理する、という感覚に対して、違和感こそ強いように見える。拙宅の家人などは、今なお身欠《みが》きニシンさえ包丁で刻みたがる。鋏を使えば苦労なしなのに。
しかし、ともかく、一丁のヘンケル製料理鋏は、いったん、「煮ものの材料などは、細胞をちぎっても、いっこうウマ味に支障など出ないのだ」と意識を割りきるかぎり、野菜や肉、魚をジャキジャキと切りわけるのに合理的この上ない、小型優秀兵器である。形態的にも非常にシンプル、頑強かつ万能にできている。ものを切る以外にも、瓶の栓を抜き、金属蓋をねじり、すきまをこじあける、といった機能も、ぜんぶ備わっている。私など、率直な話、それまで書斎で使ってた紙切り鋏さえ、この料理鋏に取り換えちまったくらいである。いや、べつに、原稿を書きながら、カニの殻など断ち割ってるわけじゃないですけど、段ボール箱の荷造りテープをサーッと一線に切り割《さ》くときなど、これ以上最適の武器もありゃしない、と思うのですよ。
このヘンケル製料理鋏の刃は、一枚が、外側にかなり角度の急な、波型の歯をきざんでいる。つまり刃でなく歯で、ものを噛みきるわけである。うちの女性の証言によると、このギザギザ歯のついた刃を、上から下へおろすか、下から上へあげるか、その持ちようで、切る材料も、切れ方もちがってくるそうである。なるほどドイツ人なら、その程度の合理的な知恵は考え出しそうだ。肉のときはどっちの刃を上にする、とか講釈してくれたが、忘れてしまった。私としちゃァ、ぶきっちょな手つきで、自分の指先の切断を恐れながらモタモタと包丁をつかう苦行から解放されて、ねぎを切るのも、肉の塊りからすじを外すのも、ぜんぶ、こいつ一つを駆使すればジョキジョキとできあがってしまう歓びだけで結構。上も下もへったくれもないからである。
驚いたことに、先日、新聞折込みのデパート特売品広告のちらしに、「料理バサミ千円」とあった。かのヘンケルまで、ついに消費者攻勢にたじろぎ、値下げ競争に加担してくれたのか。と泡ァ食って求めてみると、なんとこれが、外箱の隅に Made in Japan とその点だけは正直な告白があるのみ。製造会社名もブランドもマークもない、しかも形と色は双生児学級の先生だって見分けがつくまいと思える、ヘンケルそっくりの国産品である。発泡スチロールの枠にピタリと収まってる、そこへ、代りにヘンケル製の本物をあてがってみたら、日本の原品より気持よくはまりこんだのには、びっくりぎょうてんしてしまった。寸分のちがいもない、とはこのことである。
この両者の使用差は、感触としてはじつに歴然としてる。しかも文章には表現しにくいのが、おもしろい。つまり国産品も、「切る」という作業ではほとんどあちら製と同じ働きはする、みたいだが、ヘンケルのほうが、あらゆるアクションの、手への伝わり方が、ソフトでまるくて、しなやかで、なまめかしいのである。何とかとハサミは使いよう、というがあれァ、嘘だな。女なら使いようかもしれんが、鋏は初手から、優劣が隠せない。
やがて、わが台所では、女よりもっと始末のわるいことが起りだした。
この国産料理鋏は、支点がたちまち、まったくガタガタにゆるみだしたのである。ぶっちがいの交差点にあるネジを、ぎゅっと締めてやる。と、とたんに、タハッとゆるむのである。締めてはゆるみ、締めてはゆるみ――あれは、じっさい、気分まで締らぬものですよ、ついに腹が立ってきて、「こりゃ、もう、女だったら離縁の|くち《ヽヽ》だァ」
毒づいた折しも、なんと、こんどは、刃の一本が、真ん中からポキリとへし折れたのには、あいた口がふさがらなくなった。
このざまでは、男としても離縁されるナ、と、私は呆然たるおもいで、短くなった鋏のきれっぱしを眺めたが、同時に、考えざるをえなかった。やっぱり、日本は、「たちきり」の国なのだ、と。
鋏まで、折れ方がキレイである。
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U あ じ わ う
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食 い 自 慢
霧のロンドン空港。――乗継客《トランジツト》の待合室でバッタリ、安岡章太郎先生と出くわした。開高健先生と御一緒に、講演旅行でパリから御帰国の途次だといわれる。講演もパリで、とは、遠出の講演旅行もせいぜい釧路どまりの私などとは次元がちがいすぎる。しかしそれにしても、私も同じパリから帰国の途中。「じゃァ、同じ飛行機に乗ってたんだなァ、気がつかなかった」といえば、「ハッハ、お前さんはエコノミーだろ。こっちはファースト・クラス」
と、最初から衝撃の告白である。
この直撃でイキナリ出鼻をくじかれた。このあと、そこロンドンと、もう一カ所アンカレジの待合室で、計二時間、哀れなこのエコノミー客は、二人のファースト・クラスの文豪から、コテンパンにダメージをくらうことになった。
クラス一のかわいいチビッ子が、学校きってのイジメッ子とガキ大将から、総身のあぶらを絞りとられたような、悲劇哀話的な態たらくだった。とくに開高先生ときたら、べつの記事で、焼肉四人前平らげた件を私にスクープされた(「新しいたァいいことだ」参照)のが、よほどこたえていたらしい。私が、「そんなにイジメると、また書いちゃうぞ」と女々しく呪咀しても、きくものではなかった。同僚と腕を組んで、完膚なきまでに私を猛爆した。ウインブルドンで、ダブルの相手にシングルで立向ったテニス選手みたいなものだ。こっちが敵うわけがない。あたまからしりまで二人に言い負かされた。
何を言い負かされたのだ、といえば、要するに、安岡・開高両先生は、パリの8区にある「ラマゼール」というレストランで、この世ならぬフォア・グラにありついてきた、というのである。ただそれだけのことで、イバッてるのである、この二人は。
「なに言ってるンだ。ぼくだってテンノーヘーカと同じように、『トゥール・ダルジャン』へ行ったゾ。フォア・グラだって食ったゾ」
と言い返そうと思ったが、いかんのですねえ、陛下が行幸遊ばした、というただその一事が生起した故に、逆に、今さら「ボクも『トゥール・ダルジャン』へ行ったぞ」などと威張る歓びが、ぜんぜん希少価値を失ってしまった。「トゥール・ダルジャン」で、ウマい鴨が少し残ってしまったので、もったいなくて、給仕さんにたのんで、折詰に包んでもらって、持ち帰った、なんてリアルな話は、おくびにも出せなくなってしまった。それでなくても、開高先生ときたら、
「えッ、君はパリに行ってまだ『タイユヴァン』で食べていないの!? それでいてあんな食いもののエッセイを書いとるの!?」
などと大振りにイジメるでしょう。あの人たちのように食通ならぬ私、本当に食いもののことを書く資格などあるわけがない、と、読者に申し訳なくて、返すことばもない。
――それにしても、二文豪が目を輝かしてこもごもレポートなさった「ラマゼール」のフォア・グラは、話だけでも魂が宇宙の外へ飛ぶようなものでしたね。パリのこの店は、ペリゴール地方の農家が、伝統的な素焼の壺に仕込んだそれを、摂氏四度の地下室へ運びこみ、一年間、寝かすのだそうである。冷気は壺を通して内容物に浸透し、周囲の黄色の脂は壮麗な白色に変って、中身の桜色もややうっすらと灰色に変じかける、という。
「つまり、少し腐りかけるわけだね。酸っぱくはないの?」――私が話の腰を折ると、
「君。私は今、そんな次元の低い話してるのやないのよ」開高先生はピシャリとエコノミー客をたしなめ、「発酵やないの。熟成。ほれ、アンコウの肝、知っとるでしょう、あれ」と説明をなさる。
アンコウのキモくらい、知ってらイ。
「つまりだなァ」、と、新たに傍らから安岡先生がプロレスのパートナーみたいに立ちはだかり、「君がパリで買ってきて食ってるような罐入りのフォア・グラなァ。あれァ、アメリカで、|たくあん《ヽヽヽヽ》をコウコウ・ラディシュと称して罐詰で売っている。あの思考水準なのだよ。わかるゥ?」と念を押される。
アンコウの肝とたくあん罐詰の比喩が出たおかげで、やっと、極上のフォア・グラの美味を察知する始末である。くやしい。
「君の食う罐詰のフォア・グラには、トリュフと称して既に黒い|しょうろ《ヽヽヽヽ》が刻まれてまざっとるでしょう。あれは駄目」
開高先生が聞き捨てならぬ断定をなさる。
「フォア・グラは作るのに一年。しかしトリュフはなまの茸。そんなに保つはずがない。『ラマゼール』では、食う直前、客が自分のほしいだけトリュフを塊りから切り取って、フォア・グラの上に載せるのや」
うひひ、ウヒヒと、二人は、呆然自失の生徒を前に、陶然たる追憶である。
「驚いたことに」――開高先生は、さらに専門的うんちくに接近し、「しかも出されたのが、甘口のソーテルヌや。その、合うこと! ヴァンを通して、フォア・グラの、ほろ苦きが如き……」
「あまきがごとき……」
「ねっとりと……」
「きめの細かい……」
「ああ、これこそフランス料理の真髄だ、という……」
「それが、口のなかへフワーッと……」
左右から交互にジャブを飛ばして、私に立直りの機会さえ与えない。
もっとも、あんまり一方的攻撃だけでは、かりにテレビ中継にしたって視聴者も気に入らんだろう、とばかり、開高先生、
「ところで、君は今度パリのほかどこへ行ったの?」
助け舟を出す。
「マドリッドへ行った」
「じゃァ、『カサ・デ・ボチン』は行ったのね」
「いや、行ってない」
「あれェ、この人! マドリッドへ行って、『ボチン』へ行ってない! あの、豚のはら子の丸焼きを食べてない! それでいてあんな食いもののエッセイを書いとるの」
「ううむ、この人! ヘミングウェイの『日はまた昇る』も読んでないのだろうか!?」
いやもう、メチャクチャでござります。
ついで、二文豪は乗りに乗り、ベルギーで、デザートに、ほんとのチョコレートを食った感動を告白し、
「君の食っている板チョコやねえ」ふだん、菓子なぞ食えるか、と大きな口を叩いてる開高先生が、
「あんなものは要するに、コーヒーにおけるインスタント・コーヒーなのよ」
「そうなんだなァ。ベルギーでオレたちが食ったのは、外ッ側をプチュと割ると、中からトローッと出てくるこれが、まさにチョコレートそのものの香りでなァ」
たいへんな文学賞を取っている大先生方が、チョコの味に雀躍しているこの無邪気さ。しかも機内へ入ったときの台詞《せりふ》が、怒らせたではないか。
「あ、きみは後方《そつち》だったね」
完全に|あたま《ヽヽヽ》へ来たのは、羽田へ着いたときだった。パリの空港免税店で、大枚六千円ばかり出して買ってきた巨大なハム一個と、白カビのサラミ二個。これを真正直に、動物検疫へ差出して通関の判コをもらおうとしたら、
「ははあ、パリからお持ち帰りですか。お気の毒ですがフランスの肉は、日本へ輸入できませんでね。没収します」
ポインと、カウンターの向うへしまわれてしまった。ヤダア、それじゃここで食う、と叫ぼうとしたが、後の祭りである。
税関検査で行列してる二文豪に、この件をイイツケに行った。
「フランスは汚《けが》れたる国なのですなァ」開高先生はさすがに暗然とし、
「お気の毒です。お見舞にこれを差上げますから、お気を落さず、もう一度パリへ行ってらっしゃい」
いい人だなァ、アンカレジ空港みやげの、アラスカの石ころ入りの小さな革袋を、私に手渡してくださった。
うちへ帰って驚いた。ホントの砂金が入ってた。
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空腹な目覚めのために
はなはだしい食欲とともに目覚めるのである。
「起きてけれ、起きてけれ」と、隣のベッドに向って叫ぶ。「腹がへってかなわん」
私のつれあいが、亭主にゆり起されるのは、この通り、朝食の催促のとき、と相場がきまっている。男として若干、気も差さぬではないが、こちら、起床時にくらべて、就床時などは、トンと、何の用事も思いつかないのだから、いたし方がない。お宅とはだいぶ欲の所在がちがう。
で、女房、しぶしぶではあるが、起きます。そして、使いに走らされる。豆腐屋へ。――ああ、わが家からホンの一またぎの場所に古くからの豆腐屋があってくれる、とは、何という朝のしあわせであるだろう。
女房が走っとる間に、私はだいどこで、昆布を水から、火にかけます。湯豆腐の準備である。朝は万事機能的にゆこう、と思うから、鍋も手近なパイレックスで済ます。湯呑み茶碗にかつぶしを投げこんで、醤油注いで、鍋の真ん中に置いて、あッためときます。湯がわきたつよりも早く、女房、豆腐と納豆《なつとう》をかかえて、駆け戻ってくる。
豆腐は、絹ごしにかぎる、などと、一つ覚えのごとく言う人あるけれど、湯豆腐は、決してなにも、絹ごしたるを要しない。武骨素朴な、ふつうの木綿とよばれる豆腐で充分である。鹿児島など、縄で縛れるようなやつだが、最も美味である。ひっきょうするに、ぐらぐらしない湯へ、静かに沈め、ふわっと浮きかけた瞬間にさえ、口ヘ運べば、豆腐さえインチキでないかぎり、いつだってウマい。あの、甘くも辛くも苦くもすっぱくもないブヨブヨ様《よう》のものが、なんで、ウマいなどという確かな実感を与えるのか。理由はさっぱりわからないが、ともかくウマい。昔は、万物すべてお定まりのごとく、これも、もっとウマかったそうで。
もっとも、豆腐から美味をひきだすには、味噌か、醤油――つまり同族の「豆の味」の存在が、必須のようである。他の調味料では(潮汁といった塩味を除けば)、確実に豆腐の味は、圧殺されるのみに思える。私、もともとトマト・ケチャップという液体は、どうにもあまり好きになれない。あれァ、まずいハンバーガーを喉へ流しこむ潤滑剤にはちがいないが、そのトマト・ケチャップでも、けっこう、ちくわなどに塗ると、魚の味がひきたつことを、発見する。しかし、豆腐には駄目である。豆腐にケチャップつけたら、豆腐たる何の味もしなくなってしまう。
――もうひとつ、この季節、朝の豆腐では、揚出《あげだ》しもいいですね。そう、これも絹ごしでは駄目。あンまり水気を抜いてから揚げると、てきめんにボソボソするので、これはもう、先に油をたっぷり熱しておいて、駆け帰ったなりの豆腐にカタクリ粉をまぶし、いや、まぶさなくたってかまわない。いきなり滑りこませて、あっさりと揚げ色がつくかつかぬか、で引き揚げる。淡いだしに生姜とねぎ、だいこおろしで、この揚出しのあつあつを味わうのは、かけがえのない日本の体験に思える。
たぶん、揚げることによって、豆腐の持つ味はすべて、逃げようもなく衣《ころも》の封筒に封じこめられてしまうのでありましょう。どんな食い方より、豆腐はこれが豪華だ、といった思いを、私は消しきれない。中国には、この揚出しに、飛切り美味なエビの卵ソースをまぶす|あんかけ《ヽヽヽヽ》料理がある。こたえられたものではない。
いうまでもなく、豆腐屋からは、納豆も買い添えてくるのである。好きだなァ、納豆は。私、米の飯は食わないが、納豆のためなら、毎朝、和風の食事をつづけて、かまわない。
米の飯を抜いて、しかも納豆を味わいつづけるには、若干の工夫を要します。つまりは、味つけを淡くして、納豆をたのしむ工作である。といって、これも最後には、醤油の手助けが必要な一品でね。私、時おり納豆には、辛子の代わりに、胡椒とか、タイム、セージ、オールスパイスといった類いを振りかけて、食べてみるが、結局、トドメのところでは、一振り、醤油で染めあげないことには、豆の味が、締まらない。
しかし、納豆は、ただ、上から和辛子と海苔、ねぎとかつぶしを投げこんで掻きまぜれば、糸をひいたうまいのができあがる、というだけの単純な食品ではないですね。豆粒のまま味わうか。すり鉢で摺るか。包丁でことこと叩いて割るか。――調理によって舌ざわりの質感はまるでちがう品に化ける。中には何の具《ぐ》をまぜるか。油揚に挟んで焼くか。味噌汁の実にするか。それによって、まったく別ものの料理に変化してしまう。めしはなくとも、飽きようがないです。
私、幼い頃は、納豆を摺って出されるのが、何か、純粋でなくて、嫌いであった。納豆は豆粒のまま噛み砕きたかった。味噌汁の実にしてさえ、そうだった。近頃は、これを、老い、と申しますのか。粒の形が半分残る程度には、摺るか、切るか、させることが多くなった。摺りすぎてペーストにしては色気がなさすぎる。が、半摺りくらいのを、同量のだいこおろしとまぜあわせ、もみ海苔をかけ、うすい醤油味にしてかっこむのは、じつに朝らしく、さわやかである。よろしい。
ばかげて凝るときには、この納豆に、思いつくかぎり、いろんな具をまぜてみるのである。
「納豆昆布」とかいう、ぬるま湯をさすと、ぬれて、ふくれて、糸をひくようになるせんぎり昆布を売ってますね。あれを、まぜてみることもある。そこへさらに、海苔のつくだ煮もまぜこむ。味が濃くなった、と思えば、だいこおろしを投げいれる。うずらの卵を入れたいが、あいにく買いおきがない、しかし、生卵をひとつ落すと、少々、水ぶくれて締らなくなりそうだなァ、と思えば、卵のかわりに、皮の柔かい梅干を入れて突き崩し、ミンチにして、まぜこんでしまう。何とも形容をこえたコングロマリット的味覚であります。しかも、ひとつにかたよってくどからず、味わいの筋は朝食らしくさわやかに通っている。
われわれ日本人は、醤油という、みごとすぎる万能調味料を開発したおかげで、却って、多様な味つけ・香りづけの感覚を開拓し忘れてしまった、という説がある。まさに、その通りであるだろう。外国にいても、現地の食いものに醤油さえかければ、日本が思い出せる。こちらにいるときも、食いものに醤油さえ振れば、味が|さま《ヽヽ》になってくる、というこの単純な便利さは、確かに或る面、われわれの舌を怠惰にした。トルコにしばらく滞在したとき、塩焼の魚にはレモンばかりかけて出してくる調理法に呆れはて、ついに「おお、この国にはソイ・ソースがないのかね」と叫んだことをおもいだす。
しかし、おもうに、この単純だが繊細な味覚をもつ国で、わが先祖は、大豆という愛嬌もない豆を朝から食うために、豆腐をゆでるには昆布を使ってみる、納豆をドレッシングするには梅干を投込む、といった手間ヒマの工夫を凝らしてきた。このあたり、われわれは、怠惰どころか、かなりに|まめ《ヽヽ》な可能性をもつ民族ではないか、とも思える。
醤油とは、このまめな工夫の頂点に位する絶品であるだろう。これにくらべれば、いま述べた湯豆腐、納豆などに、上からモミモミしてかける海苔――あれなどは、考えてみれば、口へ入るまでの香りだけの食いものでね。その香りも、白人に差出すと、百人が百人、コレ何デスカ、魚を包んできた紙ですか、とヘキエキして飛びのく程度のものに近い。
或る外人が、サービスに海苔巻を作ってくれたことがあるが、せんせい、わざわざ海苔を水でぬらしてから、外米に巻いてくだはった。タダの食用包装紙だと思ったのだろう。が、食えたものではないです。醤油と、昆布と梅干は、海苔などとはデキの深さがちがう。考えれば考えるほどに、日本人の味覚の智恵として、探るにあたいする、味の源泉である。
最近、テレビ司会者竹内千恵子さんから、さわやかな梅干ペーストを教わった。女優・浜美枝さんの母上からの伝授だそうであるが、私はいつも、早とちりで製法をききちがえるうえ、自製は簡略化のほうへ歪曲を重ねるから、以下の記述も、浜家の原型とは似ても似つかぬものであるかもしれない。しかし、うまい。
少量の酒を煮切る。醤油を好みにたらす。そこへ柔かい梅干を幾つか入れて突き崩し、とろとろに煮てピュレー状と化する。浜さんとこでは、ここで裏ごしにかける、とかきいた。うちではそんな面倒はしない。しないでも、夕方、このペースト化した梅干をさらに少量のダシ汁でのばしておき、しらす干を投げこんで、乾くまで空炒りする。これまた、絶品の常備菜。卓上に出しとけば、翌朝までには、私が、なにかにまぶしつけて、平らげてしまうからである。
ともかく、テーブルの上に何かあれば、一つ残さず食ってしまうほど、腹がへって、腹がへって、目がさめる。
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だいこん、玄海灘を渡る
当人自身はまったく気がつかないのだが、私の書く食いものエッセイに登場する料理および原材料は、北のものが多いのだそうである。
「こいつ、北方へ向って偏向しとる。南の味も教えてやらな、あかん」
こういって、ワザワザ、桜島だいこんを持ちこんでくださった御仁があった。いわずと知れた薩摩隼人である。嬉しいではないか、たまには偏向も余得があるではないか、と相好くずし、ついで、そのだいこんの、ボーリングの球よりデカい重量感に、
「これがだいこん!? こんなの、初めて見たァ」
と胆をつぶした。われから、南には無知であったことを告白する形だから、世話がない。
大きさにも驚いたが、もっと呆れたのは、このだいこんの甘さであった。こころみに、だいこんの調理ではいちばん好きなだいこおろしにすりおろして、四国は松山から頂戴したしらすぼしをのせてみたが、これァもう、魚を砂糖の水につけたみたい。ピリッともツンともこないおおらかさで、ぜんぜん舌が締らないのには、ふたたび仰天した。
「煮たらどうだろう」と、豚のばら肉とともに、水を張ったずん胴鍋に放りこみ、途中うすく酒と醤油をさして、トロトロと煮つづけること二日間――。これァ、うまかった。「溶けるよう」とは、このことを指さすか、と思うほど、だいこんの甘味に肉汁がからみついていた。私は、野暮だから、何でもこう、くたくた煮すぎるほど煮てしまうのが、好きだ。しかし、四人家族の一軒で、一個の桜島だいこんをいちどに食いきるのは、まったく不可能である。ことにハナから、私としていちばん目のないだいこおろしには、できないことが判然したので、あとは手も足も出ない感じ。
「鹿児島ではどうしてるのだろう。何か名案はないか」
思案投首のかたちで半かけの生首みたいな塊りを前に、アイデアを探すうち、主婦と生活社から出た『ホームメイド・クッキング』野菜編に、「朝鮮風ダイコン鍋」なる一品が紹介されてるのを、みつけだした。あの国は、人参のみならず、だいこんも、いいのを育ててるとみえる。それでなければ鍋ものの主材料にするわけがない。鹿児島と朝鮮半島とでは、若干、緯度にも風土にも違いはあるわなァ、とは考えもしたが、ともかく相手はなまものである。早く片付けてやらぬことには、乾いてもしまおう、|す《ヽ》も通ってしまうのではないか、と心配ばかり先に立ち、ついに、薩摩の名産品には、朝鮮料理の材料へ、化けてもらうことに決めた。
このだいこん鍋というのは(主婦と生活社版の完全な受売りであるが)、要するに、まず牛肉を、せん切りの形にたたいて、所定のタレ(後述)をまぶしつける。あとは、同じくせんぎりにしただいこん、たまねぎ、あさつき、えのきなどとともに、すきやき鍋に入れ、火にかける、という、私などには最適の、単純な料理である。割下などは、いっさいなし。野菜の水分だけで煮えてくれるのである。適当なところで、鍋に生卵を落して、ガシャーッととじてしまう。――このプロセスにいたって、若干、態様と色彩は、日本風美学を離れますなァ。いかにも混然|撩乱《りようらん》となるのが、これ即ち、「朝鮮風」である。
なにしろ、本をひろげたら書いてあった朝鮮料理を、日本の材料だけ使って、生まれてはじめて作るのだから、どんな味のものができあがるのか、当て推量で察しをつける以外、結論の下しようがない。だいいち、どんな味わいになるのがこの料理のスタンダードなのか。一度も、現地のサンプルをためしたことがないので、調味も煮かたも、五里霧中である。アッサリ煮るだけのほうが美味なのか。よくよく炒めたほうが肉の味もだいこんにしみだして、こってりとウマいのか。ままよ、自分の舌で決める以外ない道理ではないか、と、肉に色がつくそばから、ぱくぱくと食うことにしたが――ほう、と感じいったのは、今度はだいこんの甘味のほうではない、この鍋料理じたいの味が、まぎれもなく、嘘も隠しもなく、まごうかたなく、否も応もなく、例によって例の、朝鮮焼肉風の、あの決定的に特有な風味となってしまったことである。だいこんは、他のものの味を吸いやすい。やれやれ、桜島だいこんは、ちょいと朝鮮風に炒め直されただけで、たちまち全身、玄海灘を渡った味になってしまった。
――それにしても、何がこう、この鍋の味を、私たちの呼ぶ、いわゆる「朝鮮焼肉」ふうにしてしまったのであろう?
私はもう一度、肉にまぶしたタレを思い出してみる。本によると、醤油に、ねぎとにんにくの|みじん《ヽヽヽ》を加え、それに、砂糖、ごま油、すりごま、胡椒をまぜ合わせよ、とある。このうちの何が、いったい私たちに、味における「朝鮮イメージ」を決定づけてしまうのであろう。――私は改めて、一つ一つの民族を分別する「特有の味」の機微を考えこんだことだった。
多分、この鍋を「朝鮮風」の味にした張本人は、にんにくであろう、と推定するのはやさしい。やさしすぎて、これは全然、答えにならないほどである。にんにくを入れたらすべて「朝鮮」の味になる、のなら、フランス料理もイタリア料理も、スペイン料理も中国料理もフィリピン料理も、そう、土佐はカツオのたたきも、すべて、雰囲気は妓生《キーサン》ムードとなってしまうはずではないか。――にんにくでないとすると、いったい何なのだろう? 調味のどこが、和風でも洋風でも中国風でもない「朝鮮風」といった個性を決めてしまうのだろう?
私は、薩摩隼人には申し訳なかったが、若干、だいこんなど、もうどうでもいい心境になりだし、台所の本棚から資料をおろして、ウチで従来、「朝鮮式」焼肉、即ちプルコキをこころみるときは、どんなタレを自製していたか、カードを繰ってみた。朝鮮焼肉は、御案内の通り、タレの素材の、組みあわせと調合が面倒である。頭ン中へ暗記などしとくと、覚えたつもりでも、たいがい一つ二つは材料を落すので、カードに書きとめてあるわけだ。
秘蔵のメモによると、ウチで作る焼肉タレの使用材料は、と、ここでもったいをつけるのもバカらしいから、全部ぶちまけてしまうが、順不同にいって、胡椒、すりごま、赤ブドウ酒、醤油、砂糖、ごま油、辛味噌、生姜、にんにく、唐辛子、そしてねぎ、これだけをまぜ合わせるのである。――これを、ご存じ、薄切りの牛肉、羊肉にまぶして、格子の上でグリルするのが焼肉であるが、このとき、われわれ日本人が、非常に誤りやすい二つのキーポイントがある。
第一のポイントは、このタレに、決して肉を長く漬けこんではならぬこと、である。ミニマム五分、マキシマム十分間で充分だ。ともかく、漬けたらスグ、焼きだすことである。かなり多くの人は、長く漬けこめばつけこむほど肉はウマくなる、と信じこんでいるが、そんなことをすると、タレの焼けた味だけを食うことになる。
第二は、決して、肉を長く焼きすぎないこと、である。黒煙モウモウと天に沖し堂に満ち、カリカリに乾燥しちまったアラレみたいな肉片を、パリパリ音させて食う、のなぞ、あれァ、本場の人をびっくりさせるだけのタワケた食い方である。だいたい私は、誰かがプルコキを「焼肉」と翻訳してしまったのが誤りではなかったのか、とも考える。むしろ日本語としては、これは、「焙り肉」くらいの語感であって――。
ハテ、私、何の話をしてたのだっけ?
だいこんてェのは、じっさい、味が染まりやすいとみえる。桜島だいこんのウマさを絶賛して、南方人に大いにゴマをすろうと一念発起でこの章を書き出したにもかかわらず、いつの間にか、話は焼肉のタレとなり、関釜をフェリーで渡って、国外脱出してしまった。
やっぱり、北が好きなのかな。
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貝はどうしてうまいのカイ
日本の代表的な料亭の主《あるじ》であり、食に関しての文章もきこえ高いTさんが、ある人に、
「日本の味は?」
ときかれた。即座に、
「ハマグリではないでしょうか」
と答えた、という噂を耳にしたことがある。直話ではないので、この人の実名をあげるわけにはゆかないが、さすが、と思わず唸らされた覚えがある。禅問答みたいだが、それよりズッと腑におちる点がある。
タイやヒラメといった魚と、エビやカニなどの甲殻類と、ハマグリやミルガイという貝類とを出されて、さてどれか一つを選べ、と迫られたら――。私は大いに迷うであろう、などということじたい、じつはナンセンスで、むろんそれは、そのときいちばん食いたいもの、つまり、ウマそうな品を選ぶ――にはちがいないが、私が最後まで、捨てきれずに、とつおいつ手をのばしたがるのが、この中で「貝類」であることだけは、疑いがない。
地中海の絶品ムール貝は、われわれの近くまで来ると、たとえばタガログ語で「タホン」などと呼び、東南アジアの海辺の人もすべてこれを賞味する。あのひなびた、それでいてどうということないうまみは、賞味しない民族のほうがどこか抜けている、と思わざるをえない。しかし最高はハマグリ。
たしかにハマグリ、という、これほど、間然するところなく、みごとに完全な美味を、一粒に凝結した食いもの――こんなうまいものを、私たちはほかにいくつ持つであろう。
叩けばカツカツと澄んだ音のする、石のようにズシリと重い一粒を、気のせくときは、そのまま皿にのせて、電子レンジに入れる。前窓から覗くと危険だ、とかいうけれど、ウマさには敵わぬではないですか。パッと|から《ヽヽ》を開いた瞬間にドアをひき、間髪をいれず、口へはこぶ。ほのかに迫る潮の香につづいて、舌にぬるりと深い感触が来、その粘着の底でくきっと締まった歯ごたえがあって、塩っぽい熱湯のほとばしりのうしろから、貝だけの、甘いような、舌の根の横が、あまりのウマ味に目ェまわして引締まるような、なつかしい味が瞬間におっかけてきて――ああ、と思ったせつなには、もう喉へ、つるりと滑り入っている、あのくらい可愛い美味が、世の中にどれほどある、といったらいいだろうか。
初手はハマグリ、赤貝は何とかなり。
などというが、私などは、初手から夜中まで、ハマグリだけで結構だ、と答えたい。もうこの年齢では。
ハマグリ食うだけなら、朝からだっていい。
アメリカ人は、クラム・チャウダーが好きな種族で、やたらこのハマグリのポタージュに、クラッカーの砕片を散らしては、食いたがる。ハマグリはチャウダーに煮てしまうのがもったいないくらいの貝ではあるが、それだけにクラム・チャウダーは、誰がどう作っても、それなりにおいしくできあがるのが有難い料理である。アメリカの画一的な安レストランへ出かけての昼飯でも、ハムやコンビーフや穴あきチーズを重ねたサンドイッチと、このクラム・チャウダーとをオーダーするのが、いちばん無難な、失敗のない選択だからね。ましてやあなたがお宅で作れば、アメリカ人など及びもつかぬ逸品ができてしまう。
――はて、しかし、考えてみると、アメリカでクラムというのは、果して私らの呼ぶハマグリそのものなのであるか。イタリアでスパゲティの具に使うボンゴレは、ふつうわれわれ、アサリ、と訳しているけれど、あの実体はアサリともハマグリともちがう、その中間くらいの貝のようである。ま、いいや。難波の芦は伊勢の浜荻。ウマきゃ何でもいいではないか、ということにして、ここでアメリカ風クラム・チャウダーを盗作することにしよう。真似だから、材料は、ハマグリがなけりゃアサリでも結構、ということにしましょう。
貝は、剥身でもいいが、できればこの際、生きたのを、住居ごと買ってきてやりたい。少しの湯でサッとゆでて、ひらいたところを、身をはがし、むろん、汁もとっておく。
これとはべつに、熱湯でベーコンをゆで、煙臭と脂を抜く。毎度いうことだが、豚の三枚肉を粗塩にくるんで、ベーコンを自製された方は、それを塩抜きしてゆでればいいわけである。これを刻んでおく。さて、みじんのじゃがいもとたまねぎをバターでいためる。そこへ少し小麦粉を加えていためつづけ、さきほどの貝スープでのばす。火にかけたまま牛乳を注ぎいれて、最後に、ベーコンと貝を投げこめば、できあがりである。むろん仕上げには、塩、胡椒するがね。丹念な娘なら、充分、小、中学生の年頃で味つけまでできる一品である。あのアメリカ人でさえ作れる料理だもの。
娘ばかり働かせて、じくじたる方には、では、次に、どんなぶきっちょな父親にもできる貝料理、それも、安いシジミ料理を、お知らせしておきましょう。製造保証付。不器用に関しては絶大以上の自信にみちあふれる私が、これらだけは、何度作っても失敗しない品である。
――シジミという貝は、日本のほとんどの家庭にあって、しかも、味噌汁の具《ぐ》やつくだ煮のほか、ごくわずかの料理の素材にしかならないのが、ひどく不思議である。本場である松江あたりでも、味噌汁くらいにしか使わない、という。しかし私は、東京にある二軒の台湾料理店で、二種それぞれちがうシジミ料理の製法を教わり、改めてあちらの人たちの美味意識と栄養感覚を、再認せずにいられなくなった。
一つは、渋谷「麗郷」で見てきた、シジミからあげ。
中華鍋に充分の油を熱して、これににんにくのスライスを泳がせておくのである。そこへ、水気を拭った|から《ヽヽ》付きのシジミをジャッと投込む。しばらくかきまわせば、何をもってかたまるべき。シジミはパタパタと討死して殻を開くからね、とたんに網でしゃくいあげ、皿にひろげ、上からサッと醤油をかけまわす。この一粒一粒を、楊子で突いて、いただく。
スペインにも、あります。スペイン人は、アサリでこれをやる。スペインでは、そのものずばり、この種の料理を、称して楊子《ピンチヨ》。
新宿の十二社にある「山珍居」(この店のビーフンは天下の美味に属する)で教わったシジミ料理は、からあげより、やや手がこんで、味に複雑な品《ひん》がある。このシジミも上乗のつきだしといってよい。多量の湯をぐらぐらに煮たたせておく。これを、ざるにひろげた殻付きのシジミへ、ざわざわとかけまわすのである。かなりの量を浴びせる。と、やっとシジミは、蓋ァ、ひらいて死んでくれるワ。かけた湯は、タダたれ流してはもったいないからね。下で鍋に受ける。あとでおいしいシジミ・スープにする。
で、このひらいたシジミに、かねて用意のタレをまぶすのである。タレの味は、まったくのお好みだ。醤油に砂糖をとかして、そう、それに酒を加えてもよし、生姜を刻みこんでもよし、にんにく加えてもよし、ごま油をまぜてもよし。むろん、食うときは、日本人だから、箸でどうぞ。
あれは、考えてみるとどういう人間の本性なのだろう。われわれは、テレビを見ながら南京豆を食いだすと――テレビが終ったとこで、サテ食うほうも中止、とは絶対いかないのである。テレビはメデタシメデタシでおしまいになろうと、南京豆だけは、最後に皮の散乱のはざまに残った一粒が虫食いであることを確認しないかぎり、「またあとでお会いしましょうね。さいならさいならさいなら」などと、別れるわけにゆかないのである。甘栗しかり、枝豆しかり。
ピンチョのシジミは、まさに、水から生まれた南京豆である。最後の一粒まで楊子でほじって、残りの醤油をチュッと啜って、指の先をぺろぺろとなめないと、深夜放送は終っても、こっちの夜は終らない。
――初手はハマグリ、夜中はシジミなり。
かくてぼくんち、一万年後は、貝塚。
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ジンマシンなぞ出るもんか
鯖《さば》には、いつも驚かされる。
ウマいからである。いつ食っても、どんな食い方をしても、それなりに、ウマいからである。
私は鯖が好きだ。こんなウマい魚が、ほかのどこにあるだろうか――といった驚きではない。正直、これより味の微妙な、舌ざわりのすぐれた魚は、日本国中、いくらでもいるだろう。だいいち、魚くらい、鮮度と、食べる条件の双方に味が左右される食いものは少いわけだから――。たとえば、沖から金網でしゃくいあげてきたばかりのガザミ(カニ)を、浜でそのまま釜茹でにした人なら、誰でも知っている。最高。海の快《ヽ》、ここにきわまった感じさえする。
鯖のウマさは、あれとはちがう。何といいますか、そう、魚とはこんなしっかりした濃い味と歯ごたえ、つまり「質感」をもっていたのか、と確認させる――そんな頼もしさである。河野友美氏によれば、鯖の味はアミノ酸であって、要するに日本人はこの味さえ食っていれば喜んでられる、つまり民族にいちばんなじみの深い味覚なのだそうだが、だいいち、あの、噛むたびにいちいち、歯にキッシリまつわりついてくる律儀さなど、まったく頼り甲斐のある日本女性に養われている心地が、持てるほどじゃないでしょうか。
はじめてトルコのイスタンブールに着いた夜、ホテルですすめてくれた魚料理店にも、鯖があって塩焼にしてくれた。縞のぐあいが、少し日本近海育ちとちがう、という気はしたが、味はわるくなかった。もっとも、鯖の塩焼をナイフとフォークで食うというのもなにか気の乗らないものではあるね。ここはどうしても、箸がなくては様《さま》にならぬ。この、縞のちがう鯖は、ヨーロッパの日本料理店どこにもあって、しめさばなどは、ほとんど日本の味と変らない。
幼い頃は、嫌いであった。夕食の膳に、鯖の味噌煮なんぞが、メイン・ディッシュ然と正面に置かれたりすると、子供心に、なにか侮辱を受けた感じ――というのはオーバーとしても、今夜は一段、食事のグレードを下げられた、といった印象で、駄々こそこねなかったとしても(こねたかな?)、ひどい挫折感を味わったものだった。じじつ、ランクからいえば、相当程度、安上りのそうざいに属する魚であったことは、間違いない。
驚きの最初は、二十年近く前になる。まだ人気《ひとけ》も少かった伊豆の東海岸を、弟と車で走り、八幡野の浜の舟宿「港屋」へ飛込んで、昼飯を所望したときだった。
「サバしか、ないンすが」
「結構結構。ともかく腹がへってます」
「煮つけるだけで、いいすか?」
「結構結構。ともかく腹がへってます」
といったやりとりで、出てきた茶色い煮つけを一口食ったとたん、あっ、と二人は顔見合わせた。このウマさが鯖であるならば、戦前いらい、東京の俺たちンちでイヤイヤ食ってきたあの魚は、何であったのか。
驚きの第二は、すでに有名すぎる味となったが、京都は「いづう」の鯖ずしを、はじめて知ったときだった。デパート地下室などに置いてある、できあいではありませぬよ。きちんと祇園の店に伺候し、これから幾日後の何時頃に食う予定だ、と告げたうえで、味の練れのタイミングをその時刻に合わせた品を、作っていただく。十年ほど前は、京都へ行くたび妻を店へ走らせては、感嘆これ久しゅうしながら、ひとり賞味したものだった。家内は、かつて、いつ頃だか知らンが、一度だけ鯖にあたった、ジンマシンが出た、という記憶に頑強にしがみつき、この青肌の魚だけは死んでも口にしようとしない。そういう女を、涙ながら鯖買いに送りだす男の心境は、イカばかりであったろう。
三度目の驚きは、そうだ、あれはトラックに追突されて鞭打ちになって入院したときだった。病室の白い壁に囲まれてジッと天井を眺めてると、猛然、ああ外へ出たい、けちなスーパーでいい、なにか品物を眺めながら買物をしてみたい、といった衝動まで湧いてくるものなのですね。首に|たが《ヽヽ》をはめたまま、ソロソロと、地下の売店へ降りていった。
病院の売店たァ、しかし愛嬌のないものね。何とかコミックとかいう絵本のほかは、歯磨きと生理ナプキンしか売ってない、みたいな店で、私もせっかくの購買欲を活かしようがなかったが、隅の棚に、埃をかぶって、「鯖の水煮」なる罐詰があるのを、みつけだした。一個三十五円、が気に入ったじゃないですか。鯖の水煮とは、どう調理して食う品なのか、見当もつかなかったが、ともかく病室へ持帰り、首筋を気にしつつ罐切りを使って――意地汚く、罐をあけ、一かけ、摘んでみましたね。
驚いたのである。私はまったく率直にいって、こんなねっとりといいお味の罐詰が、一個三十五円で流布してる事実に、唖然としてしまった。罐詰に記してある銚子ナントカカントカ組合に電話して少しうちで買占めようか、と思ったくらいだった。鯖と聞き、真顔で反対した妻の真情を汲み、残念ながら折れて、やめたが。
――鯖の罐詰は、物価|爆昇《ヽヽ》の今日、一個三十五円では到底買えない。それでも、カニ罐がすでに千円を越して、もはやキャビア、フォア・グラ並みの特権食品と化したのに比べれば、鯖の罐詰はまだまだ十分の一以下。その味のごとく律儀に、みずからの節度を守り通している、といっていいのである。これでこそ鯖です。ういやつ、ではないか。
この魚はまた、乾しても、漬けてもうまい。ぬかと塩につけて強烈な酸味と塩味を付与した北陸の「へしこ」もユニークだが、私はかつて南九州は屋久島の、道ばたの店先に並んでた鯖のひらきほど、驚倒的な「一塩《ひとしお》」を、食ったことがない。質感ここにきわまる、といったアミノ酸的ウマミの充実だった。
文藝春秋の文化講演会で、北陸の小浜にまわった夜だった。講演を終えて夜空の下へ出、ビールで喉をしめそうと、ホールの向い側にあるすし屋ののれんをくぐった。
「きょうの|たね《ヽヽ》は、何?」
と虚心できくのに、ガラス・ケースの向う側のにいさん、すっかり頑《かたく》なになってて、
「何もあらへんのや」
の一点張りなのである。
「ない、ッたって、何かあるでしょう」「イエ、それがないのや」の押問答のすえ、にいさん、飾りケースの隅を指し、
「鯖のしめたので、よろしおまッか? きょうはこれきり残ってまへんのや」
一つ握ってもらって、これはもう、にいさん、あンた、|けち《ヽヽ》で隠してたのとちがうか、と詰《なじ》りたい気持になったほど、びっくりした。これきり残ってェしまヘン、どころではないじゃないか。歯ごたえ、酸味、あぶら気、肉の味――東京では駆けまわったって手に入りにくい、いい鯖が、飯のうえを引きしめていた。私はにいさんに、「明日ひる、この街を発つとき取りに来るから、一本、鯖ずしを棒にして、ばってらに作っておいてほしい」と約束し、やがて講演を終えて出てこられた丸谷才一氏をも店へ呼びこみ、食いねえ食いねえ、これはウマいですよう、とあの大食魔にPRをわめいて、最高の御機嫌と化したのだった。
翌日、私たち一行五名は、二台の車に分乗して、次の講演地、敦賀に向った。ほとんど交通量のない一本道を、車はぐいぐいと飛ばし、私は「オール讀物」のTさんと、「小浜では、水上勉氏描くごとき、ロマンチックな体験こそ、得そこなったにしても、私としては、それだけが欲望であるところの、美味に出会えて、ほんと、非常に本懐であった」といった会話をかわすうち、敦賀までの中程まで来て、
「シマッターッ」と悲鳴をあげた。
「おすし屋さんへ、鯖ずしを取りに行くの忘れちゃった」
――車内に、沈黙が来た。
「どうしましょうか。あきらめることにしましょうか、残念だけど」
とTさんは言った。
静寂を乗せて、車は、ためらいがちに走りつづけた。もう一台は、はるか先行し、距離はいよいよ開くばかりだった。
「すし屋さんにわるいです。あの人たちは、当然、きょうのひる、という約束を守って、鯖ずしを作ってくれてます。取りに行かなきゃ、こっちがいい加減なちゃらっぽこを言ったことになってしまう」
われながら鮮やかな理由が、口から出たなあ。
車は急旋回し、また小浜へひた走りに戻りだした。
車内には押殺した沈黙が流れ、私ひとり、また今夜もあの鯖が食える、と、きゃっきゃ、きゃっきゃ、子供のようにはしゃぐのであった。
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鮭を見れば思い出す
魚屋の店先に、新巻《あらまき》の鮭《さけ》がぶらさがりだした。卒然と、ある年の冬を思い出す。
「週刊文春」に誘われて、札幌二条市場へ、買い出しに行ったのだ。私が血眼になって正月用の水産品を探り回っているところを、グラビアの写真に撮ろうという。二条市場でおなじみの、本間、近藤両水産店で北の魚と対面できるよろこびに比べたら、写真に撮られる恥ずかしさくらい、何でもありァしない。シャケを筆頭に、あの品もこの品も、と買いまくって、さて、意気揚々と帰京の飛行機に乗ると、同行記者のYさんが、突如、いんぎんをきわめ――アノゥ、お許し願えれば、ソノォ、肩まで戦利品を背負いこんだ凄《すさ》まじいお姿も、羽田のタラップで写真に撮らしていただけまいか、と言い出された。
できればソノゥ、箱詰めの新巻も、二本ともむき出しにして振分けにかついでくださるまいか、との追加注文もあったが、いかに何でも、それではパンダが、中国ならぬソ連から来日したような風情になってしまう。鮭をむき出しにするのだけは御遠慮申上げることとして、いざ羽田のタラップで、全乗客が降りたあとから、エッサエッサ、魚類を肩に、カメラに向って歩き出すと、可愛らしいスチュワーデスが何も知らず、目を丸くして気の毒がり、
「あーら、そんなたくさんお抱えにならなくても。御一緒にバスまでお持ちいたします」
将来、きっといい世話女房になれそうな親切を言ってくれた。が、この際の私にはまったくの無駄|弾《だま》である。折角、鮭の持ちっこを通して仲良くなれそうだったチャンスを、グラビア写真一枚のためにムザムザ見送ってしまった。これだから写真はイヤなのさ。
鮭は、味のある魚だ。どうやって食うのが、最もウマいか。会う人ごとに尋ねてまわっているが、答えは、いかにもさまざまであって、その多様性が、いかにもわが民族に密着して生きてきたこの魚の、格の大きさ、味の深さを指し示すがごとくである。
獲れたての生肉を、雪の上で凍らせた「ルイベ」がうまいなァ、という人がある。いや、どうせ生《な》まなら、やっぱり刺身のまま食うべきだ、という意見もある。私には、双方ともウマい。鮭だったら、「イクラ」を酒と醤油に漬込んだ紅葉漬くらい、ウマい食いものが他にいくらあるか、とワメく人もいる。まったく同感だ。「メフン」を知ってる? あれくらいおいしいものもないわ、と断言する女性だってある。メフンとは、鮭の背すじや腎臓《キドニー》の塩辛で、実際、とてつもない珍味である。牛の腎臓にはギャッと目をそむける御婦人も、鮭のそれには目が輝くのだから、われわれ日本人、この魚からは終生、離れることができない。
もっとも、鮭はどうやって食うべきか、を問う前に、じつはわれわれ、現在、鮭と称して何を食わされているか、をこそ厳正に吟味しなければなるまい。デパート地下室。薄きことティッシュのごとく、しかしまァ、安いこともホンにお値打ち。さて、買って帰って焼いて食ったら、こらァ、塩漬けの海綿か……といった一きれがあったとしたら、じつはそれは鮭ではなく、いわゆる「セッパリマス」です。罐詰にして英名ピンク・サーモン。むしろ鮭と呼ばんよりは、これは常識では鱒《マス》である。あれァ夏、船団が北洋で獲るものだ。従ってぜったいに「アキアジ」などと呼ばれることはありえませぬ。
同じく夏、北の海で船団が獲るものでも、肉が真っ赤なレッド・サーモン(ベニマス)は、ベニザケともいわれて鮭の仲間に入る。いっぽう、船で獲るマスのなかでも、王とたたえられるマスノスケ(キング・サーモン)は、王子製紙苫小牧工場で作るスモークト・サーモンのうち、絶品と称してよい優秀種となる。あれァ、仕入れを選ぶいいレストランで食うとき、あるいは、帝国ホテル内の食品店「ガルガンチュア」などでいいのにあたるとき、溜息が出るくらい、気品と野趣が|あぶらこさ《ヽヽヽヽヽ》のなかに兼ねあって、美味な品である。
レストランでは、ワゴンにのせた巨大な片身を、給仕さんが器用に薄くスライスし(スモークト・サーモンは、|ふぐ《ヽヽ》や馬刺《ばさし》やしゃぶしゃぶと同じ、厚く切ったって少しもうまくならぬ)、冷した真白な皿に、べろりと広げてくれる。つけあわせはタマネギのスライスとケイパー。レモンをしぼりかけるだけで、他に何の調味も要らぬ。海の香と森の匂いが、北の味を作っている。
――これらはしかし、昔からの日本人の食慣行では、必ずしも「鮭」とは呼ばなかった鮭である。私たち日本人にとっての「シャケ」は、和名シロザケ、英名ドッグ・サーモン――あちらさんからは犬とさげすまれた白っぽい紅肉の魚である。犬といわれて何が口惜しいか。われわれの口にはこれが美味なのだ。晩秋、この成魚が、雌雄ともども、最初にして最後、ただ一回の生殖行為を果すべく故郷の河川へ立戻ってくるのを、特に北海道人が称して、これを「アキアジ」という。君なら四季アジだが。
もっともこのアキアジも、美味の発生地点には異説がある。川に潜入しようと海岸に辿りつく、そのとば口《くち》直前のシャケが最も味も充実、というのも定説。いっぽう、イヤ、十勝、石狩では、川に入って三日あたりモマれた時分が味も最高、というのも、土地の人々の定評である。入口がいいのか、中へ入ってからがいいのか。いまはシャケの話であるから、他の体験的実話からは類推のしようもない。いいえ、入り口なんぞへ着いちまってはモウおしまいなのよ。それに先立って、海ン中で故郷の川を夢みながら泳いでいるときの味が最高なのだ、と凝った説をなす北海道人もある。
生殖の性行為を終えて、精も根も使い果したシャケは、あとはもうグッタリと死に急ぐばかり。その陰々滅々たるわびしさは、文化映画で見るだけでも胸が痛むくらいの気の毒な姿であるが、味のほうもこれァ、もはや食べられたものではない、といわれる。人間たちは、従って、精子や卵を放つ前のシャケを捕えるわけで、だからあなた、現地で獲れたてのナマを一尾買取ると、驚くなかれ、腹ン中からは、ぜんぜん塩ッ気のない筋子が二条、溢れるばかりに出てくるのです。筋子とは、うまれながらにして塩ッぱいものだろう、と信じてた人は、ほんとうにびっくりする。雄から出る白子も、味噌汁にする味がこたえられない。味もさらなり、もう一方の効果もさだめし絶大なのだろうが、私などにはぜんぜん応えませぬ。
雄と雌と、シャケはどちらに味が乗ってるか、といえば、これは無条件に、雄である。これァね、シャケの世界でも、亭主はふだん、宴会の美食で栄養をつける、いっぽう、女房は、トイレットペーパー買いに走りまわるばかり、粗食以外摂るひまもないから――ではなくして、雌は全養分を卵に譲っちまうからである。それに比べりゃ、雄が彼女にお裾分けする精なンざァ、軽いもんさ。ぜんぜん、全身の栄養分に響いてこない。
で、貴女も、シャケを召上るときは、是非雄をお取りにならなければならないのですが、では、店頭であなた、どのようにしてシャケの雌雄を弁別するや。――これには、ご存じ、チェック・ポイントが二点ある。
一つは、例の「南部の鼻曲り」と呼ばれる鼻先であって、鼻先が、ハンガーの釣り金みたい、?状に口のほうへ曲りこんでいるのが、雄である。あれァ、何も南部鮭だけの特質でも何でもありはしない。二条市場で売ってる北海道のアキアジだって、雄は鼻先が曲ってる。
次の一点は、新巻や塩引きの場合、内臓を取出して塩を詰めてある、あの腹の割け目である。腹を見て、意外に肉の厚みが薄くて、「はらす」と呼ばれる縁《へり》が内ッ側へきゅっと激しく巻きこんでいるのは、まぎれもなく、雌である。雄は、腹の肉にぶてぶてと脂がのって、厚ぼったい。私みたいに。――この差異の原因は、わざわざここで、説く必要を認めない。
――それにしても、白い皮の下に脂ののった、あの「はらす」。あれァ、鮭でも、鰹《かつお》でも、どんな魚でも、目がくるくる動いてしまうほど、いい味の濃い部分である。私は二条の市場で、魚屋さんがドラム罐に捨てたはらすまで、もう一度取出して、払い下げてもらうくらい。塩の濃さが、またたまらなく、いい。もっとも、古くなると、ここはたちまち油がまわる。
そうだった、塩の濃さ、で思い出す。塩引きの鮭を一尾需められるばあい、くれぐれも気をつけなければいけないのは、腹に詰めこんである塩の重さである。こいつの詰めこみ加減一つで、たちまち一、二キロは全体の重さがちがってしまう。おおい、重たいシャケを買ってきたぞ、などと叫んで、じつは塩を買わされることもある、というご注意。
ご存じ西洋では、一頭の豚をほふると、脳みそから、腸、膀胱、尻尾まで、つまり皮を除いて全身ぜんぶ、食用に供してしまう。血はソーセージの中身となり、骨はスープのダシであり、骨髄はこれまた、すばらしい珍味のタネである。固くて食えぬ皮だけ、やむなく子供のランドセルにするのだわ。耳や鼻先、肢の先はブラジル名物料理フェジョアーダに必須の部分。
われわれ日本人、わずかにこれと似た徹底的な食い方を敢行する対象は(小魚の類いはともかく)、鮭だけではあるまいか、と思うことがある。北海道は旭川の博物館で、往時アイヌが自製して履いた沓《くつ》を見たことがあった。鮭の皮でできていた。あんなウマいところを履物にせざるをえないなんて――。アイヌの哀しさ、いかばかりであったか。
鮭は卵もとびきり美味であるうえ、成魚は、尻尾や背・腹の鰭《ひれ》を除いて、軟骨、背骨まで、食えない部分がない。エラまでも、塩につけて食っちまう(「ささめ」という)とは、魚ではまったくの異例に属するだろう。しかも、調理法じたい、凍らしてよし、生食よし、罐詰よし、焼いてよし、煮てよし、蒸してよし、摺ってよし、そぼろに炒ってよし、燻《いぶ》してよし、締めてよし、漬けてよし。――常識としてしないのはつくだ煮くらいであることに気付いて、今さら、唖然とする。オヤ、それにしても何故、鮭はつくだ煮に作らないのでしょう。
ただ、黄海、東シナ海には鮭が回遊しないとみえる。あのレパートリー豊富な中国料理にも、さすが生鮭の調理は少いようにみえるのは、気の毒である。戦美撲《せんびぼく》さんの北京料理店「王府」でも、メニューにのっけてるのは、塩鮭の上に豚挽肉や卵をかけて蒸した「咸魚蒸蛋《シエンユイチヨンタン》」くらいだ。アチラでは鮭を「咸魚」てエのかァ、勉強したなァ、など感嘆するのは早い。これは塩蔵の魚の意味である。もうひとつ、ポークビーンズの東洋版みたいな料理、つまり豚の代りに塩出しの鮭、うずら豆の代りに大豆を使う「咸魚燉豆《シエンユイトウントウ》」という料理もある。
中国には少いかわり、フランスには、あります。これは驚くくらい、料理法がある。今回、少々学問を示そうと思い、ラルースの料理百科事典『ラルース・ガストロノミーク』を広げたら、えんえん、細字のフランス語で九ページにわたって Saumon の記述がつづいていたのには、暗然として、一瞬で、ばたりとページを閉じた。こんなの七転八倒して一ページでも読むよりは、うちの新巻の塩抜きでもしたほうが、確実に暮しの役に立ちそうである。
魚は、獣肉とちがって、あくまで鮮度が勝負である。鮭といえども、おなじみの塩引きや罐詰は、あれァ、やむなく貯蔵および運搬の関係でおこなわれてる処理で、それが幸いにも、なおかつウマいからいいようなもの、できれば獲れたての生まを、そのままの刺身か、照焼か、うす塩の塩焼か、フライにして食うのが、味も最もほくほくと、リッチなのは当然である。フライにしたときの、あまいおだやかな口中へのひろがり方など、こたえられない味の大きさがある。片身のまま白ブドウ酒で蒸煮して、ホワイトソースやマヨネーズをかける英仏風。金属箱に入れてオガクズでいぶし焼きし、そのままフォークで崩しながら食う、北欧風のホット・スモークト・サーモン。この、クセのなさも、比類なく豪華である。私、札幌では、どこのホテルよりもよくグランド・ホテルに泊る理由の一つは、あそこが朝の洋定食に、必ず、鮭のステーキという一品をおいている、そのため、といえるくらいだ。
秋十月、帯広の教育関係の方々から、|わた《ヽヽ》も卵も抜いてない生ま一尾のアキアジを急送していただいたことがある。肉部分は思うさま前述の諸調理で賞味する一方、内臓、生殖器はもちろん、頭骨、目玉まで、野菜とともに大鍋で煮たてた。だしは昆布と味噌。ご存じ石狩鍋である。この生鮭を塩鮭に替えたバリエーションの一種が、つねに高島忠夫せんせい、「ボクのおじいさんが創始した」と誇ってやまない「三平汁」である。
さて、これだけ食っても、なおかつ尾の身が余る。ままよ、一か八か、冷凍してみようではないか、と、台所の家庭用冷凍庫に寝かせて二カ月。先日取出して一切れをフライにしてみると――助かった、味はほとんど落ちぬ……とまでは言えなかったにしても、ふだんうちの近所ではなかなか手に入れ難い水準の生鮭が、忽然と甦った。よかったよかった、もう一きれ、と、全部フライで食い終えた直後、アラしまッたァ、と、私は、食卓の前で棒立ちになった。最初、凍らすとき、今度こそうちの冷凍庫でも、鮭の氷上冷凍品であるルイベ、あの高級本格品のニセモノが作れるゾ、と張切って――サテその現物が既に目の前でできてたのも忘れ果て、私、そいつをぜんぶ揚げて食っちまったのだった(尤も、死後のナマ鮭を冷凍しても、ホントのルイベはできないそうだ)。
ルイベは、つめたい歯ざわりのきしみの間から、甘いとも辛いともいえる鮭独特の、刺すような感じが、ねっとり舌のほうへ動いてくる瞬間が、非常にいい。が、それ以上に官能的な鮭調理の絶品は、生まの腹子をひらき、粒をほぐして、酒と醤油に一晩漬けこむ、いわばイクラのマリネ、つまり「紅葉漬」である。時期は、晩秋。十二月も半ばをすぎると、もう、店先に並んだ腹子は、粒が硬くなる。そして、漬けこみも、絶頂は一晩である。札幌は二条の魚屋さんで作ってもらい、東京に飛んで帰って冷蔵庫で一夜を熟成させる――そのあたりが非常にみずみずしい食い頃である。もっと長く漬けろという向きも多いが、少々、陶酔感がわいせつになる。味に濃さと粘りがですぎる。ともかくこの美味は、今、日本の生活のなかで味わえる海の幸の頂点として、生ウニ(とくにボウズ)、このわた、このこ(ナマコの卵巣)、ホヤ、などだけが並び得るのではあるまいか、と思う瞬間がある。あと、あるとすれば、カニのミソ、南蛮エビの卵か。ふしぎなものだ。結局、神の創りたもう最高の珍味とは、小さな生きものの、アタマか、あっちか。上か、下。くさい両極に極限されてしまう、という事実を、発見する。肝心な場所ァ、生き物、みんな同じだ。
戦前、まだ中学生の頃、私は大晦日になると、たしか八重洲口か日本橋あたり、どこかの漁業会社の即売場へ、北からやってきた鱈《たら》と鮭を買いに行かされたものだった。場所も会社も正確に思い出せない。が、家に帰るやその鮭を、母が薄いそぎ身にし、酒を少量ふりかけて出してくれるのを、刺身代りに一切れ一切れ、なめるように味わい噛みしめた味覚だけは、今なお記憶が鮮烈である。皿の色まで、目に浮んでくる。
幼い頃、すべての魚が好きであった、とは、私、とうてい言えない。が、塩鮭の焼いた切身とは、時と所を選ばず、無性に気が合った。中でも骨のついたほうの身が得に思え、骨の間の、ぬるぬるした膜みたいなものも、ぜんぶ、しゃぶった。そして、あの、焦げて黒く、かつ、少し白く塩をふいた鮭の皮くらい、魚でおいしいところがほかにいくつあるだろう、と思いこんでいた。鯛の目の下や、|カマ《ヽヽ》や、まだまだ魚でウマいものはほかにいくつもあるのだ、と痛切に思い知ったのは、大人になって、他処へうまいものを食いに行けるようになってからである。――子供ができ、その子が、鮭を、身より先に皮から食いだすのを見たとき、血は争えないものだ、と思った。
もっとも、そんなこたァ、血のつながりでも何でもありはしない、お前の子に限らず、誰だって塩鮭は身より皮が好きなのだ、と反論してかかられる向きも多かろうが――広いのだ、世間は。この世の中には、稀れに、鮭を食って皮だけ残す、信じられないような人々も、生きているのである。
観光団体旅行でパリなどへ出かけ、昼食、日本料理店なぞへ連れこまれると、夏休みの林間学校よろしく、長机にズラーッと、せんべいより薄い塩鮭の切身が、並んでるわ。欧州の鮭は塩引きにしても、日本のより脂っこいが、ともかく、その皮を、残す人が、いる。私、パリの日本料理店には、ほとんど、大きな期待はないがね。この瞬間だけは、目の前で他人が、フォア・グラやキャビアを食い残したときと同程度、つらいおもいを味わう。フォア・グラなら、まだしも、「おや、それ、召上らない?」くらい暗示的示唆をほのめかすこともできるが、まさか、その鮭の皮、残すンだったら私にくれませんか、とだけは、さすが言えません。立つ瀬もないくらい、そこがつらい。
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すし食いねェ
|すし《ヽヽ》がうまい。めっぽう、うまい。
一年中で、春三月。四月もはじめにかけては、|すし《ヽヽ》が最もうまい季節の、一つなのではあるまいか。米ァ、まだいい時だし、魚にもあっさりと脂がのってるし、ことに、貝がうまい。獲る人は、まだまだ冷たい水ン中で、本当に大変だと思うけど、それにしても、陽春がやってくるまでの貝類は、なぜああ、唸りたくなるくらい、完全な味をしてるのか。私は、比較的近所の、本郷に近い初音町に、「わたべ」という、貝専門の小売店を知っている。折さえあれば、なまの味を求めて、そこへ走るのだ。そして、おかみさんが味を保証する日だけ、買う。
しかし、食に関しては、知ること知らないこと、恐れ気もなく書きつらねる私ではあるけれど、|すし《ヽヽ》、ことに握りの|すし《ヽヽ》についてだけは、気がさして、口も筆もちびらざるをえない。さすがの出しゃばりも、この領域だけは、しゃべることが恐くて、万事尻ごみばかりになる。黙って食べとくだけにしよう、という気。
なぜといって、私、昨今、自分でも呆れはてるほど、歯止め抜きで肥満化の一途。――それでもお酒だけはやめられないのなら、せめて、ごはんと砂糖だけはお捨てなさいよ、と、佳い|ひと《ヽヽ》が言ってくれたわけでもないので、仕方なく自分で、我とわが身に訓戒を垂れ、だから、|すし《ヽヽ》屋へも、月に二度とは暖簾がくぐれない。必然的に、行く店もおのずと、東京で三店、大阪で二店……と限定されて、斯界《しかい》の現状、まったく鳥瞰《ちようかん》が利かなくなってしまった。
加えて、この|すし《ヽヽ》の世界たるや、何とまァ、食通、店通《みせつう》の大権威たちでみちみちておることでしょう。
「キミは、五丁目の裏の『テヌキ寿司』ご存じでしょ?」
「いいえ、まだ」
「アラ、ほンとゥ。あそこほどの縁側《ヽヽ》は、他じゃァ、出ないなァ。じゃァ、柳通りの『高い勢《ぜえ》』には、いらっしゃる?」
「いいえ、まだ」
「ほんとゥ。あの卵焼は東京一だけどな。では、魚河岸《かし》の『木食《きく》う|ずし《ヽヽ》』、知ってるゥ?」
「いいえ、まだ」
「ホントゥ!?」
本当だからこそ、正直に白状してるのに、知ッてるゥ? たァなんだ。知ったことか。
こうして、私、|すし《ヽヽ》に関してだけは、口に出すさえ胸が|どきつく《ヽヽヽヽ》、劣等感の塊りに墜ちたのが現況である。じじつ、握りの|すし《ヽヽ》くらい、材料の|はな《ヽヽ》から食うことのしまいまで、つまり隅から隅まで、妙な「通」の完全主義が要求されるわがままな食いものも、いまどき珍しいのである。「江戸」風という、非常にきゃしゃなトリビアリズムの、魅力はあるがあまり底は深くない文化の、それは落し子であるからにちがいない。おれ、「通」だけは嫌いだァ、とがんばっても、これだけは「通」の美学のほうがたしかにうまい点もある、嫌味な食いものといわねばならない。
米は、やれ青堀がいい、とかうるさいのも、粘りすぎてもパラつきすぎても、あれは|すし《ヽヽ》のシャリになれぬからである。中にまぜる酢がまた肝心で、化学酢などはまったくの論外。とくに近頃は、これに加える砂糖がきつすぎて、菓子みたいなシャリがいろいろな店で増えている。これだけは参る。女性ファンの進出という、握りずしの郷ひろみ化現象である。
わさびは、粉なぞ、話のほか。太い軸のやつを鮫皮でねっとりと卸してほしい。醤油は、|たまり《ヽヽヽ》や人工合成品などもってのほかだよ、天然醸造も、赤く淡く、さらりと円い味の品でありたい。大湯呑の煎茶は……ときて、ガリは、バランは、となると、これはもう、考えてみれば、そんな純正品が今どきそのへんにあるわけがないではないか、みたいな品ばかりのオンパレードである。
しかも、それらがかりに全部揃ってサ。白前掛も威勢のいい、鉢巻のにいさんの、しかも腕っこきがズラリとまな板の前へ居流れた、として――サテ、なおままならぬは、当のお魚《とと》の現状であります、サカナの実態なのであります。私が、七夕《たなばた》の星のように、一年に回数を限って通う東京大田区のMという店は、築地の魚河岸を避けて、わざわざ他の水揚港に仕入先を求めており、そこで材料を精選したあげくですら、こちらが「今夜、いい?」と電話すると、「申し訳ございません。これなら、とおすすめできるタネが揃いませんで」
いんぎん且つ断定的に、ぴしゃりと断わってくる。きょうはヤメテ、の一言。しかし、ここが「今夜はぜひどうぞ」といってくれた晩の、アナゴのとろけぐあいなど、まさにスイスのチョコレートの舌ざわりである。
しかし考えてみなさい。今のおととの実状で、なお、こんな、「今夜なら最高よ」などと胸張れる日が、幾晩ありうるというのか。
女で思い出したが、「なぜ、女のひとはお|すし《ヽヽ》が握れないのですか」という女の子からの電話が、ラジオの「全国子供電話相談室」のスタジオにかかってきて、解答仲間の無着成恭先生と目を白黒させたことがあった。
「それは、にィ。女の握った|すす《ヽヽ》なンか、ウマくないからだよゥ」と、無着先生は勇敢な、しかし非常に正鵠を射た断定をくだしたが、よくよく話をきいてみると、この女の子は、将来、父親からすし屋を継がなければならない長女だった。
女の握った|すし《ヽヽ》がまずいのは、化粧品の匂いが移るからだ、ともいい、女の手があったかいからだ、ともいうが、根本は結局、女の掌の柔かさが、難点なのであろう。たぶん、肝心なポイントで、キュッと締まらないのだろう。元来、財布にしても何にしても、しめることは上手なはずの生きものであるが、|すし《ヽヽ》だけはウマく握れないところをみると、あらァやはり、しめる勘どころがちがうのだろう。
私、なじみの店で女流の職人に握ってもらったことはないが、どうイメージしても、|すし《ヽヽ》だけは、美学的にも、俗物の常識通り、男性が握るほうに軍配はあがりそうな気がする。かりに、女性でも徹底的に威勢のいいのなら、すし職人に向くか、といえば、たとえば水森亜土さんなんぞは、「包丁、どこ、どこゥ? アイタ、わさびおろしで手切っちゃった」などとかん高くワメいたあげく、茶碗ひっくりかえすのがオチのようだし、黒柳徹子嬢などは、カウンターの向うで、マグロ知識からパンダ情報まで語りに語って、結局、一時間に三個とは食わせてもらえないかんじである。とびきり生きのいい人でこれだ。その余のうら枯れにいたっては、まったく話にもなるまい。
拙宅が、まれに、夕食の卓で、ままごとみたいにを|すし《ヽヽ》握ってみるとき、握り方の指南書と仰いでいるのは、辰巳浜子夫人が婦人之友社から出された『娘につたえる私の味』の中の文章である。この記述と写真は、シャリの握り方、わさびののせ方、タネとの合わせ方を伝えて、簡潔である。もっとも、読んで、感心してるだけだと、ぜんぜん、握れない。たまに、写真をまねて、握ってみても、めし粒の大半は掌について解体してしまうか、強く握りすぎてオニギリになってしまうか、である。オニギリと「にぎり」と、ただ一字、オのあるなしで決定的なちがいとなる。微妙なトレーニング・ポイントといえよう。新入りの|すし《ヽヽ》職人は、ぬれぶきんを俵型にまるめて、握り方の練習をする、と言い、私も本気になって、日課としてはげんだこともあったが、結局は実物のシャリを何度も握りつづけなければ|こつ《ヽヽ》はつかめない。
じつは私は本に感服しただけでなく、この辰巳夫人がテレビの料理番組に出演しておられる勇姿を拝見し、「ああ、この方なら、女性にして|すし《ヽヽ》を握れる人ぞ!」と直観。以降、完全な信頼をその著書に捧げたのであった。相槌を打ちに現れ出た娘ッ子を、特訓でしごいておられるそのぶっとばし方の凄さ。凡百のホームドラマのおばあちゃん役なぞ、輝きも失う態の壮烈なしゅうとめぶりだった。
それにしても、タネが高いのである。先日、小豆島から、非常に味のたちのいい醤油を仕入れたのを幸い、久しぶりに夕食は握りずしでゆくか、と、デパートの魚小売部を探らせた。
しゅんのミル貝が、一枚三百円、生ウニが一箱二千円、生きた赤貝が一つぶ三百円……うちでやる一晩のままごとが、へたァすると、軽く一万円に近づいてしまう。うちでやってさえ、こんなに高いのに。みんな、まァ、よく、おもての一流|すし《ヽヽ》店へなぞ、食いに行けるなァ。
――さて、おまえ、うちでやるときは、誰が握るのか、ですって?
ううむ。――まァ、来てみなされや。
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女王にとって「弁当」とは何か
汽車のなかで、ものを平気で食う民族と、あまり食いたがらない民族がある――のかどうか、私にはよくわからない。
しかし、私たちの民族は、まァよく汽車の中でものを食べるほうの一代表、と誇って差支えあるまい。わが映画批評の先輩清水晶氏は、そのマニアックな鉄道随筆で、「どうも不思議に、山手線なぞ、シートが両側に平行で向い合った電車ではメシがひろげにくいものだ」と私にも非常に肯綮《こうけい》にあたる真実を述べておられる。が、汽車と名がつけば、こらァもう大っぴらである。先日、上越線では、上野から高崎まで、食いづめにものを食ってる小肥りの中年男を目撃した。持ちこみの罐ジュースをのむ、冷凍ミカンをむく、煎餅の袋をやぶく。さて駅弁をひらく、車内販売ののしいかを買う、キャラメルをしゃぶる、……いやはや、目を離すこともできない壮絶さで、私など、医学なぞまったくの素人であるにもかかわらず、このひと、間違いなく、糖尿病にだけは罹《かか》る、と、べろひとつ診ることなく診断できたほどだが、ふしぎにこういう人物がいるときだけは、私の裡《うち》なる日本人も、車中の食欲は沈黙しっぱなしとなる。たぶん、眠くってたまらない音楽会でも、わきで熟睡者の大いびきが発生したときだけは、ぜんぜん、居眠りの意欲が減退してしまうのと、同じ機微なのにちがいない。
どうも、フランス人などは、たとえば隣のイタリア人なぞと比べた場合、食堂車はともかくとして、列車の座席に食糧をひきこんで食う習慣をあまり持たない民族、と考えていいのではないか。プラットフォームにもチョコレートバーの類いを車につんで売りには来るが、イタリア名物の袋入り駅弁の類いには、フランスではお目にかかったことがない。人生、有限の食事ならば、その貴重な一回を、汽車の座席などでそそくさと果してしまうに堪えられない、そんな心境なのかとおもわれる。
イギリス人は、むしろ、「汽車のなかでものを食う」ことに、ためらいや恥ずかしさを持たないほうの人種、に属するかもしれない。私はこれまで、イギリスの汽車に乗ったかぎりでは、席の前のテーブルへ、パイか紅茶か、何かが「運ばれてこなかった」体験のほうを、持たない、という気がするのである。いまは廃止された名列車ゴールデンアロー号でも、ロンドンからドーバーまで僅かの走行に、座席の前の頑丈なテーブルへ、老給仕がうやうやしく、コンビーフ・サンドイッチなぞを運んできたものだった。客とは、汽車に乗れば食う動物なのだ、と決めてかかってる風情があった。
それにしても、一九七五年春、来日されたあのエリザベス女王に、日本では、汽車弁≠つかっていただこう、という名案が出された。五月十一日、京都から伊勢までのお旅では、御昼食に近鉄車内で「ランチ弁当」を召上っていただこう、という、この発想――誰の思いつきかしらんが、ともかく日本の官庁としては、大胆かつ民族的なアイデアと決断にちがいなかった。当の夫妻も目をむいたらしいあの日本流「すしづめスケジュール主義」が、これはついに産み落した窮余の一策であったことは目にみえている。
そうであるにしても、「夫妻に食堂にすわってもらう時間がとれないンなら、汽車の中でコンビニエンス・フードを提供して済ませよう」という、この役人の着眼は、能率的、かつ柔軟である。水平思考的に別のことばでいえば、昼夜兼行、寸時の空白もなく、秒きざみで細分された訪日日程のなかでは、女王にとっては乗り物に乗ってる間だけが、ホッと一息つける自由時間であるにちがいない、そのとき、ご亭主とさし向い、水いらずでとれる汽車弁とは、女王にしても、いわば来日中、唯一の、気楽なつまみぐい≠フチャンスとなりうるはずである――、こう思いいたったとすれば、官僚の決断には、人間解放の心くばりもあったわけである。
しかし、食うほうにとっては気楽な機会であるにしても、そのつまみ食いのご昼食≠作って差出すほうは、これはつらい。そもそも、王様とか、皇族、大富豪といった超VIPの賓客を正式にもてなす食事というのは(実際にそんな席へは、末端にすらつらなった体験がないから実例は知らないが)、大ホテルのシェフなどに話をきくと、どこでも、ウルトラゴージャスな「正統フルコース」料理ということに、常識がきまってしまうのだそうである。いかに|めん《ヽヽ》類がウマい土地だからといって、今夜はスパゲティだけ食わせておひらき、という具合にはいかぬ、のだそうです。とは、逆にいえば、超エライさんに出す食事は、ホスト側に、古風なフランス料理のフルコースを、最善の誠意と材料でこなし得る調理能力さえあれば、ことは足りる、ということである。
しかし「弁当」となると、そうは規矩準縄の公式パターン通り、簡単にはこびませぬ。エスコフィエの大著『フランス料理』を開けばわかる、とはいかない。弁当を食べる際の制限的空間、そして時間的制約、といった条件からおしても、弁当全体の設計《デザイン》から、素材、調理、そして給仕法――すべての面でのもてなしに関して、障壁が多く現れすぎる。そこには、「マキシム」でも教えちゃくれない%ニ創が、必要になります。べつの言い方をすると、女王さんを弁当でもてなす、とは、いかに、ホスト国の「ふつうの食いもの」をたのしく、おいしく、手軽につまんでいただけるか、その難問への挑戦であった。作って出すほうにとっちゃ、世話ァ焼けるが、やり甲斐はある挑戦だったわけである。
エリザベス女王と最愛のデューク・エジンバラは、来日中、二度、おもてで「弁当箱」を日本側から手渡される機会をもった。ともに京都における「昼食」である。東京では、女王の食事を弁当ですます、などという簡潔な離れ業は、一度もやらなかった。このことは象徴的であるとおもう。外国からの賓客にとっても、いかに京都は、かたっくるしい東京にくらべて、自由感あふれる個人の場≠ニなっているか。これはそれを教えてくれる。
五月十日、仙洞御所における昼食。このときは御所内の醒花亭の前に、京都フランス料理の老舗である「万養軒」がまず洋風の品々を、大皿へスモーガスボード(ニホン語でいえばバイキング・スタイル)風にもりあげて、大テーブルの中央に安置した、という。そして、その周囲を、あえて、つかいふるし、と称していい輪島塗の弁当箱(われわれの日常感覚でいうと、うなぎ屋で、うな重にかさなってくるご飯入れくらいの小箱)が、八十個、とりまいた。うるし塗りといっても、君のデュポンのライターごとき豪華品を想像されると困る。ともかくこの古ぼけた小箱におさめられたのが、即ち、上長者町でこの戦後三十年間、関西行幸啓なぞのたびに、御所へ食事を納めつづけてきた、仕出し割烹旅館「木藤」の、謹製創作にかかる和食弁当であった。
――女王は、この小箱の蓋をあけられたとき、そのかわいらしい美しさに、おもわず、内心、驚きの声をあげられたにちがいない。女王にとって、それは日本ではじめての和食だった。来日中、正式の和餐はあったが、それはこのあとの晩である。小箱の弁当は、宮内庁からの内々の注文によって、「おひな祭りのイメージ」でつくられていた。まことに、女性ごのみの、少女趣味的愛らしさにあふれた内容となっていたのである。
「木藤」をとりしきる水口キクさんは、小箱の左上をしめる三つの俵型の小さなおにぎりを、それぞれ、茶色のカツオでんぶ、紅のタイそぼろ、そして緑のエンドウマメで飾った。その三色が、右下におかれた「麩嘉《ふうか》」の手まり麩の華やかな色彩感と、照応するように。さらにはそれが、中央におかれたハジカミの赤や、豆類の青と対応しあって、甘く春のあかるさを出している。水彩画のように華やかなみずみずしさである。
――と見てきたようなことをいうが、じつは私は、この弁当を試食する機会に恵まれた。その折、しばし、狭い空間のなかにきっしりおさまりきった色彩配置をホホウと感嘆してみつめたあと、箸をとったものだった。味は、男の私には、かなりの甘口におもえた。色彩のごとく女性趣味である。しかし、品よく|だし《ヽヽ》のきいた丸型卵巻きや、甘味をおさえきった「茨木屋」製の紅白有平かまぼこには、京料理だけの軽いすずしさがある。なにしろ、品のいい弁当だった。
気がついてみると、私はまたたく間に、結局なにひとつ残さず、いい後《あと》くちで食べおえてしまっていた。小ぶりとはいえ、よそで出された弁当を全品食いきるのは、私にはまれなケースである。たいがい、どの品かに打線の切れ目が出る。けっこうな弁当だった、とおもい、中身の一品一品をふりかえって、ふっと気づくことがあった。前述のほかにあった、生湯葉や葉型カボチャのたきしめといい、野菜のうま煮といい、鶏の|ささみ《ヽヽヽ》の万年煮といい、鱒の利休焼のひときれといい――このなかには、一つとして、われわれ一般家庭が、ごくふつうの日常の食卓に、ふだん着の|おかず《ヽヽヽ》として採用してない品はない、という事実だった。私はあらためて感ずるものがあった。「木藤」はまさしく、「ふつうのお惣菜」に近いものだけで、女王をもてなそうとし――それをしてのけたのである。これは弁当の本義に叶うことだった。
話はとぶが、都ホテルというしにせ。京都を外へ向って代表するこのホテルの、高貴≠ニの近づきは、「木藤」より、さらに古く、そして広いことは、よく知られている。ごく近年に限っても、イギリスからだけで王族を五人、客に迎えている。来日のエリザベス女王は、このホテルで五人のスーヴニール写真を見せられ、「あらパパ!(と呼びかけたかどうかは、ききそこなったが)誰とか王子さんよ。あの人もこの国に来たのね」とか、ほほえまれたという話が伝わっている。いつも写真を撮られつけてる人間でも、映像に対する反応は、変らない。
だが、その誇り高きしにせ――この都ホテルでも、一九七五年浅春、同系列資本の近鉄(野球チームではない、電車のほう)から、お願いや、女王はんの汽車弁、引受けてもらえまへんやろか、と礼儀をつくしての御依頼があったときだけは、川名鍬次郎総支配人以下、同ホテルのキチンで三十五年のキャリアを持つ鬼塚末利料理部長も、サービス担当の今堀節治支配人も、格別の緊張に身をひきしめざるをえなくなった。近畿日本鉄道は、いうまでもなく直接の機構下に、誇るべき車内飲食販売部門を蔵している。乗りゃァ食いの乗客を相手に、長距離電車を走らせつづけてきた名門私鉄だもの、持たないほうが不思議である。その会社が堂々、名を捨て、実《じつ》をとり、系列下とはいえ、都ホテルに向って、女王さんへの車内供食とサービスの重責を委嘱してきたのである。頼む近鉄も偉いが、頼まれた都ホテルが、そら来た、と胸を張ったのも道理である。いちばんガックリし、かつ、安堵の胸を撫でおろしたのは、近鉄で毎《まい》ン日《ち》、車内客に飲食物をくばりつづけてきた、サービスのかわいこちゃんたちだったろう。
うやうやしく女王弁当の大任をおうけした都ホテルは、胸をはったあと、こりゃ大変なことをうけあった、と気がついた。京都から伊勢へ向う電車の車中で、女王、デューク以下、随員八十名に、同一弁当を供する。はて、何を作ってのけるか、は、それが商売だから委せといてもらう、として、さて、それ以外のことは、ホテルマンたち、一度もやったことのない仕事ばかりだ、と気付いたのである。そもそも、八十個の中身入り弁当箱を、駅まで運び、電車に乗っける、などという、そんな日本食堂みたいな芸当を、当ホテルは、いたしたことがございません。だいいち、PERTで作業行程を割出しても、ホテルのキチンで弁当を調理し終えてから、女王が蓋をあけるまで、六時間はかかってしまう。そのかん、鮮度とウマ味と衛生的安全性を保つためには、何を詰めたらいいのか。しかも、そいつを確実に車内へ運びこんだとして、走る電車の中でお客に食いものをくばるという、このサービスは、どんなふうにやるべきなのか。そういやァ、新幹線のかわいこちゃんたちは、あらァどんな腰のいれ方で、ああ巧く、スープやコーヒーをこぼさずに客へ渡せるのか? さすが、年季をいれた都ホテルのベテランたちも、この点に関しては自分たちはまったくの|ど《ヽ》素人――腰のつかい方ひとつ知らぬぶきっちょな処女にほかならぬ事実を、発見した。今まで、ええかっこで客にスープをついでたのは、ぜんぜん微動だにせぬ大地の上であった。
三月、四月、都ホテルでは、弁当の試作につぐ試作がつづいた。関係者たちは、二度も総出で、京都―伊勢―名古屋の全線を試乗してみた。ある地点へ来ると、電車は猛然と加速し、揺れもまた大きくなる、という鉄道当然の法則も、発見した。なら、そこまでの揺れンうちに、弁当を終らせちまわんと、あかン。
都ホテルでは、ああそうか、だいいちうちには、「木藤」はんみたいに、八十個という弁当箱のストックもなかったのだ、と気づいたが、今更、輪島の漆塗りなどは新作していられない。作るお金ならあるが、新品では漆の香が強烈に中身を染めてしまう。「木藤」が、いわば使いふるしの箱を用いたのは、まことに伝統の成果だったのである。都ホテルは、白木の秋田杉で箱を新製することにした。|かど《ヽヽ》を正倉院風に校倉《あぜくら》組みとし、蓋と底に輪切りの竹をはりつけた。カッコもええが、何よりこれで、八十が、崩れずに運べる。
料理は、匂いのでる魚は避け、肉中心でゆくことがきまった。エビならよかろう、とも考えたが、これは某その筋より、内々で、女王はエビや貝がお嫌いだから、お出しせぬよう、達しがきた。あとでわかったが、これはどうも、ガセネタであったようだ、という評判が立った。いずれ誰か、女王とお近づき≠ェ自慢たらたらの人間が、知ったかぶりの聞きかじりで、いい加減なチャラッポコを後生大事にその筋へ吹きこんだのだろう。来日の間、一、二の例外を除いて、女王にはまったく、エビも貝も出されなかった。生まにいたっては、もってのほかだった。さだめし女王は、帰国の飛行機の中で、首をかしげられたろうと思われる。
「パパ、そういえば、エビや貝が一回も出なかったわね。可哀そうな国。うちより広い海を持ってて、獲れないのかしら。全部、真珠にしちゃうのかしら。こんど、うちから、あの『スコッツ』で出すようなおいしいの、送ってあげましょうよ」
――で、けっきょく都ホテルでも、エビの代りには、王子製紙さんに得意のスモークト・サーモンを頼むこととし、以後、努力は、車内上陸および供食作戦に集中した。
五月十一日当日、払暁から夜明けにかけて夜なべで謹製つかまつった八十個は、断熱の大ケースに収められ、日本通運の手によって、近鉄京都駅へ運ばれた。ちょっとでも大ケースが斜めにかしいだら、中身は雪崩をうって片隅へ寄ってしまい、目もあてられぬ惨状となる。なにしろ、作って蓋をしめたら最後、女王さん自身が蓋をあけられるまで、作製者は内容を最終点検できないのだから、気が重い。
一方、先遣隊は、お召電車の出庫する西大寺駅に向う。ここから乗込んで、京都までの間に、卓上の白布、銀の食器、その他を万全にテーブル・セッティングし、高貴の御入来を車内でお待ちするのである。弁当を銀のフォークで食わせるのだからさすがだ。高貴御二方の、トイレ専用給仕まで配備する。用兵は重大であった。
お召し電車が京都駅ホームへすべりこみ、人払いが行われ、女王一行を迎え、一行八十名が粛然と乗込み、各人が所定指定席に座り、発車するまでが、十一分間である。その十一分の前半、女王がホーム階段下にさしかかられるまでの数分間が、弁当車内搬入に許された時間である。女王に弁当の大ケースを見られてしまい、アラ、おひるはあれを食べるのネ、などと御推量いただくのは、あまりにも畏れ多い。といって、ここで泡ァ食ってガタリとでも箱を揺らしちまっては、そこまでもってきた苦心も瞬時にパアとなる。ホテルは、あらかじめ近鉄のドアの幅まで測って大ケースの大きさを決め、「恐怖の報酬」さながら、ニトログリセリンでも運びこむ慎重さで、女王の目に触れる前に弁当を車内へ滑りこませる大作戦に成功した。
さあ、あとは、車内の販売カウンターを最前線本部とする実践サービス部隊が、発車三分後カーテンを越えて御夫妻にオシボリを出し、五分目にひっこめ、八分目には、これもどこかの誰かが、「女王の御好物」と吹聴してきたジン・トニックを、ここでもさしあげ、いよいよ十五分後、弁当本体をお供え申しあげる実弾作戦のみである。いや、途中、二十五分目にはコーヒーを御提供せねばならぬ。万が一、コーヒーをお膝におこぼしでも申しあげようなら、どないしょう。電車は、発車後キッカリ四十五分目に達すると、お線路の御都合で激しくお揺れもうす計算である。それ以前に、食い終ろうと終るまいと知ったことか、お膳はぜんぶ、おさげもうさねばならぬ。――まるでロケット発射のケープ・ケネディである。女王はジン一杯まで、深遠な計測の微調整で飲まされる。
「パパ、松の多い国だと思ったら、やはりよほどたくさんジンがとれるのね。ウィスキーやワインは出てこないでジンばかりだわ。帰ったら、ゴードンに、ジンは輸出してもムダだと言ってやりましょう」
都ホテル鬼塚料理部長が精魂こめて試作を重ね、ついに到達した杉箱入り洋式弁当は、(私はこれも試食したが)たしかに、蓋を開いた瞬間の、典雅でかろやかな品位と充実の立体感といい、中身の、ひと品として落ちこぼれない上質の味わいといい、極言すれば、ロイヤル弁当の世界的$譌痰ひらいたもの、と評していいものだった。中でも、調理後数時間、なお、サラダの生野菜や、クレソンが、つみたてそのままに緑のみずみずしさと張りを保ったのは、白木の杉箱という着眼の、鮮やかな成果であった。塗りや金属だったら、最高級の清浄野菜も、ひとたまりもなくクタクタッとしおれたろう。
味の傑作は、鶏ささみと獅子唐の串照焼である。これは鬼塚部長が、かつてアメリカで、日本風味として外人用に開発して大好評を博した逸品だった。醤油の風味が非常にさっぱりと、野性的な品格である。もう一品、ローストビーフ。私は、これまでの生涯、こんな、ソフトな歯ごたえで、上品な美味と香りのローストビーフを食ったことがなかった。想像さえしなかった。目を丸くしたら、これは最上但馬牛一頭から何キロとはとれない最高のフィレを、醤油とショウガ、ニンニクによる秘法の漬け汁にマリネして、ローストしたのだという。なんや、私はそんな牛などお目にかかれたこともないのはもちろん、われわれの常識だと、まちがってもローストビーフやシチューにだけはしない部位を、意識的にあぶりあげているのであった。ああ私だったらそのフィレは生まで食う、と、ふだんローストビーフは腿肉で作るのがせいいっぱいの、このダメ男は思った。もっとも、生まで食えばこのローストビーフよりウマいか、という自信は、全然私には、なかった。ひたすら日本独自のタレで、これだけ祖国の牛の美味をひきたてた創造には、文句なしに、敬意のみがあった。だいいち私は、ローストビーフにはグレービーソースなしでも、ヨークシャー・プディングなしでもこんなに美味で食える調理がありうるのだ、という発見に仰天したのである。プロ、とは驚きいった人たちだった。
あとは、トリの練りもの的ギャランティン、正式にスモークしたハムのサンドイッチ三切れ。筍まで配した季節の生野菜のサラダに、デザートとして、いちご、フルーツケーキ、シャーベット。よくぞ、走る車内の三十分間に出しきったものだが、食うほうもよくぞ食えた。
さて肝心の女王が、この二度にわたる和・洋弁当箱の、中身のどれとどれをつままれ、どれは残されたのか。知ったって全然意味はないことながら、意味ないことほど知りたがるわれわれの道理で、私はもちろんそこも二軒に尋ねたが、関係者は異口同音に、「じつは――」と前置きして、「なにしろ八十個を一斉におさげしたので随員がたのとまじってしまいました、今はもう女王は何を召上られたのか、何を残されたのか、誰にもわからないことになりました」と、秘宝は深海の底に沈んでしまった言い方をする。ただ双方とも、トリのつけ焼きだけは、随員を含めた全員が、きれいにお平らげになったそうである。女王以下、よほど日本はニワトリがうまい国だ、ホントアレダケハウマカッタ、Wasn't that quite delicious! と感銘をうけて御帰英になったかのごとくである。非常に業腹なおもいも、私は消しきることができない。この国、いま何が救いようなくマズくなったといって、チキンくらい駄目になったものが、ほかにいくつあるか? ――ハテ、そうだな、ありすぎるか。
女王は、御所での「おひなさま弁当」は、礼節正しく日本流に、箸をつかって召しあがられた。ただ、箸の持ち方は、われわれと若干、食の哲学がちがうせいか、西洋人がスープを口ヘ運ぶときのスプーンの持ち方だったそうである。横へ水平にしてしゃくう。スープだって、あれは飲む≠フではなく食う≠烽フなのだからね。箸も同じように使って、一向、かまわない道理である。
一方、近鉄車内での女王の食事ぶりは、まったく目撃されていない。カーテンで前後を仕切った一車両の中央部、夫妻には、通路の左右それぞれに分れた別々の窓際御テーブルにつかせられたまい、給仕《ボーイ》(課長級である!)はもちろん、接伴員ひとり御相伴にもあずからず、文字通りの水入らず≠おたのしみいただいたからである。もっとも、通路を遠くへだてての両側窓際では、これをも水入らず≠ニ呼ぶのかどうか、私にはわからない。少くともうちみたいに、「おほッ、このローストビーフは非常に結構。きみ、食べないのォ? もったいない。このサンドイッチ二つとトッ替えっこしよう」などと、サルカニ合戦のまねだけはしにくい距離であること、これは庶民水準で、充分にわかることである。
そもそも、「弁当」という食形式は、非常に日本的なユニークな開発である、と私はかねて考えてきた。弁当とは、一回の食事の全量が、片手で支え持つだけで、バラエティ豊かに一気に食えてしまう、という、この即席性が、まず早めしの日本人好みである。それだけではない。弁当とは、その場で食いたくなければ包みのまま、何のためらいも後ろめたさも、弁解すら必要とせずに、日本人が海外に出てさえ最も気づかうことの一つ、即ち、家郷への「オミヤゲ」とすることができる。しかも、こういった、ハンディな融通性が民族的であるばかりではない。もっと、食様式の本質として、弁当は日本人の心性に深く支えられてきた開発なのだった。
今、世間では、愛妻弁当とか称して、弁当とは、個人《ヽヽ》が愛情≠、手間ヒマという家事形式に託して個人《ヽヽ》へ伝達する様式である、と理解しがちである。妻は、朝、てれくさいキスのかわりに亭主へ弁当を手渡し、己れの存在を彼に刻印する。と同時に、少くともこのカラ箱がカバンの中で鳴っているかぎりは、彼も妙な目移りなど起さずに帰宅するのではないか、という、はかない浮気封じの護符とする。しかし、それはたいへんな誤解だ。浮気なンか弁当箱くらいでとまるものではない、という意味での誤解であるのみならず、それは、弁当《ヽヽ》それじたいの本質への誤解である。
弁当の起原に関しては諸説があるが、少くともその一つは、織田信長かが、軍陣で、兵士たちに一律に手渡した均一の兵糧≠ェ、本格化の大きな一歩であった。その「配当を弁ず」という意義から、このことばが起ったともいわれている。つまり、同じ食糧を多量につくり、上下の差別なく、その同一の品を、みんなが一斉に片手で持って食う、という、平等な平均主義、大量生産と大量消費の水平主義が、じつは弁当の発想と思考の原点である。隣の奴がもらえるものは俺も同様にもらえる。しかも、隣の弁当をのぞきこむと、やつはなんと、俺のとまったく色から形から配置まで同じものを、食っている、というこの完全画一主義の安堵感こそ、日本人に弁当を支えさせた基本原理であった。これは、「拡散された共食」である。同じ釜のメシを広がって食う思想である。会食の一人一人が個別にメニューを点検して、個人別に食事を注文する個人主義的なレストラン文化の国からは、こういう、蓋をとるまでは中に何が入ってるか判らず、蓋をとると全部誰のからも同じ品が出てくるという、魔の奇術にも等しい共食の料理文化は、育ちにくいのである。同じ団地の同じ間取りのDKに住み、テレビもピアノも進学熱もぜんぶ隣と同じじゃなくちゃァ嫌だ、というその風土にこそ、弁当は発展と洗練を重ねうる文化である。
エリザベス女王弁当を謹製する栄に浴した二店は、いったい、何を基準に晴れの選択に合格したのか。この二軒が他店を引離して|抜群の味《ヽヽヽヽ》を国内に誇りつづける店だから、にちがいない――と思いこむのは、新聞やテレビに名が出さえすればあれはエラい手合いなのだ、と無邪気に信じこむのと、まったく同水準の、浅慮である。たしかに、選ばれた二店は、私の舌に責任をもった言いかたをして、ウマいうち、であった。都ホテルはいうもさらなり。「木藤」の味も一品のこらず文句なしに平らげられるものであった。――しかし、それであってなお、二店が調製の栄に輝いたゆえんは、少くとも役所側の第一義として、抜群の味≠ニいう理由とはちがっていたのである。指名に踏みきった官庁の、最大にして至高の理由は、じつはこの二店が、まったく均一な箱入り食事を、八十個同一水準で、衛生的に何の憂いなく、作製し提出できる能力を持っている、という、その一点にかかっていた。もっとありていにいえば、あそこなら、店の者の全員はおろか、材料の仕入れ先はおろか、そちらの全従業員の衛生状態まで、保健所で完璧にお見通しが利く、という、その実績と保証こそ、役人に最後の判を押させたものだったのである。アソコの店はバツグンにうまいけど、店は狭いしキタネェなァ、なぞという、君や僕になじみのお店では、たとえかりに、世界、日本を代表する味が出せても、合格する気づかいはない。シンガポールのメイン・ストリートの一つであるオーチャード・ロードには、ひるの屋外駐車場が、夜に入ると一転、壮大な露天飲食広場に早変り。何百何千の市民たちが焼ソバからウドン、焼売《シユーマイ》、ヤキトリの類いを食いに食うという世界にも稀れなすばらしい場所が出現するが、いかにあそこが美味の大量生産場であるにしても、世には、おかわいそうに「そんなとこのものは召上っていただけない」お方がおいでになるということである。女王には、美味はともかくとして、もしかすると危いもの≠ヘさしあげられなかった、のだ。
もう一つ。弁当とは、「空間」を食う食事の一極致である、という点も、日本的な本質だといわなければならない。弁当とは、蓋をひらいて全容を一瞬に目撃する、その把握のせつなこそが充実の完成点であって、少くとも視覚的には、その美は卵焼一つを食いはじめたとたんに、方寸のフレーム内で、解体の一途を辿りはじめる。大皿のビフテキは半分食ってもビフテキであるが、弁当箱のカマボコは、半分食いちぎると、残りの形は汚い≠フだ。そして人は、|もの《ヽヽ》とは食えば消えるものだ、という東洋無常の美学を改めて確認しつつ――同時に、このフレームの中では、どこからどう食いはじめても、どの品でどう食いおさめても、すべてが自由である、という空間の利得をたのしむ。アントレは前菜のあとで食う∴ネ外ない西洋料理の時系列主義など、これにくらべれば何という不自由な束縛であるか。
弁当箱の蓋をひらかれた女王には、いったい誰か、こういう日本の弁当の美学と本質、即ち、拡大共食主義のたのしさと、視覚的空間主義の自由性を、お教えしたのかどうか。私はきいていない。箸の持ち方さえ、コーチした向きはなかったそうだから、わざわざ、弁当美学など御進講申し上げるお節介な閑人などは、いなかっただろう。私たちとしては、賢明な女王が、めざとく弁当のこの原点と機能美を直感され、のびやかな自由感のなかで、日本では他に得がたかった水入らず≠フ安らぎを、弁当をつまむたのしさの中にみつけだしてくださっていたら、と念ずるばかりである。
もっとも、近鉄の車内では、夫妻のみをカーテン内に孤立させるという同社せいいっぱいの遮断の配慮をこころみたにもかかわらず、私たちの希求する自由なつまみ食いの醍醐味のほうは、女王に味わっていただくことに成功したかどうか。必ずしもそれは、女王におかせられては、千載一遇の「自由時間」とばかりはいえなかったようである。
女王は、進行方向左側の円卓に向われ、右手で弁当をあやつりながら、一方の左手は、沿道にきれめなく待ちかまえてバンザイを叫ぶ、次から次への日本国民の歓声に向って、たえず振りつづけられていなければならなかった。
われわれにとって、左手は弁当箱を支えるためにある。女王のそれは、もともと、振るために備わっているのである。
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チューを見なおせ、飲みなおせ
小野田元少尉や横井庄一さんにとって、戦争は決定的に長いものだった。しかし、私なぞ、情ないものである。頭では、「戦争はまだ終らない」などとシャラくさいことを考えながら、それを裏切って、体は確実に、戦争をも戦後をも忘れてゆく。
いまは食うものすべて、嫌いな種類がない私にしてさえ、戦後、どうしてもこれだけは食えない、という偏食の素材が、たった一つだが、あった。
カボチャでした。戦前の子供時分は嫌いじゃなかったのに、戦時中、他のものいっさいが消え失せたあとも、庭の垣根に作ったこいつだけは生き残って、もうかんべん、という私の胃へ、いわばねじこむように毎日、侵入しつづけた。つまりは、いのちの恩人であって、恩を仇で返す言い方だけはしたくないけれど、御案内の通り、あんまり面《つら》を見すぎた相手は、恩のあるなしにかかわらず飽きるのである。農民の捨てた種芋を畑の畦道から拾って食ったほどの、貧しい貧しい兵隊生活から、解き放たれてわが家へ戻ったとき、私はもう一生、地面に捨てられた種芋と、カボチャだけは食わないぞ、とかたく心に誓っていた。想像するだけで身ぶるいが出た。
腐った種芋のほうは、おかげ様で、その後、実物じたいに出会えなくなった。が、近頃私は、フッとふりかえっておどろくのである。いつの間にか、カボチャへも箸をのばしてる自分を、発見して。私にとって戦争苦の一象徴だった、あのカボチャへの身ぶるいはどこへ消えてしまったのか?
戦後、金《かね》がなくて、しかもインフレで、だから降る星のごとく余ってたパンパンにさえ相手にしてもらえなかった私。純にして貧な大学生は、新宿や渋谷のバラック飲食店街で、ひどいカストリをあおる以外、効果的な|うつ《ヽヽ》の散じようがなかった。当時の映研仲間では、未来の渡辺祐介監督が、新宿西口に強かったな。ハモニカ的飲み屋街の一軒にすわっては、まず、コップになみなみとつがれた透明な液を縁《へ》りからチューとすすり、ついで受け皿にこぼれた分をコップへ戻し、さて、改めてコップのへりに、唇を寄せてゆく――。翌朝の、天地がでんぐりかえるような絶望的二日酔がいかに予感できても、何の抑制にもならなかった。けれど、ま、当時のこの「カストリ」くらい、ウマくも何ともなく、また、後年まで、陰湿な頭痛の記憶だけが残された飲みものも、ないという気がする。――戦時下のカボチャと並んで、これもまた、できればイメージから消えてもらいたい一品であった。
――その「焼酎」を、これまた、いまの私は、ひどく快適に、座右の友としつづけるのである。「チュー」と聞くだけで、反射的に頭がガーンときた、あの頃の実感は、きれいに雲散霧消した。焼酎といえば味も香りもまことに結構な飲みものだ、と今は、ひたすら礼賛の親近感だけが強くなってきている。もちろん、当時のカストリは、本来の意味でいう「カストリ焼酎」とは似ても似つかぬ不良アルコールである。いま日本で飲むことのできる焼酎も、昭和二十一、二年頃の「チュー」とは、まったくの別物であることは言っておかねばならない。しかしともかく近頃、拙宅の酒棚に関する限り、少くとも焼酎の消費量は、ジン、ウォトカのそれを、はるかに引離してしまった。
この結構なアルコール飲料との、再会、再認識のきっかけは、私の場合、すべて九州と結びついている。
もっとも、近年、この日本で、ほんものの焼酎との邂逅が、九州以外の地で行われることもあるのなら、私はこちらから出向きたいくらいだ。そもそも焼酎は中国の「焼酒《シヤオチウ》」からはじまって、まず沖縄へ伝わり、鹿児島に上陸して本土を北上したこと、周知の通りであるが、ほとんど今は、そのふるさと°繽Bのみが、律儀にも古い原型を守って、この、世界でも日本に一つだけの蒸溜酒を作りつづけるはずだからである。
ことわるまでもないが、私がここで言っているのは、「焼酎甲類」などと呼ばれる、あのアルコール・オンリーのホワイト・リカーのことではないよ。あれァうまみを飲む酒というよりは、梅を漬けるアルコールである。むろん、拙宅でも、梅酒は毎年欠かさず、九州焼酎のほか、甲類でも自製する。しかも、できる品は、これがナカナカ辛口の(なにしろ、ミニマム量の蜂蜜だけしか入れないのだから)逸品であるが、私がここで賛嘆こめて、舌つづみをうつのは、「乙類」と一括される、単式蒸溜の、つまり原料の穀類の香りがそのまま残る、土くさい三十五度、四十三度の品々のことである。
――再会の発端は、数年前、岡田喜秋さん、杉本苑子さんと熊本県に呼ばれて、「六調子」なる球磨《くま》焼酎を、熱燗で出されたときであった。焼酎たァ、こんなしたたかな、ひなびた円やかな味と香りを持つものか、と感嘆した。戦後のカストリたァ、似ても似つかぬ、大地の自然感をもつ味だった。
あンまり芳醇なので、帰京する日航機の機上、卓の上に「六調子」の、椿のデザインも美しい黒瓶を出して、岡田さんと二人、静かに舌の快感を味わっていたら、かわいいスチュワーデスが通りかかり、
「お客様の召上っていらっしゃいますの、アルコール飲料でございますか」
とニッコリした。こらァ察しのいい娘さんだなァ、おつまみでもくれるつもりですよ、いいお嫁さんになれるなァ、このひと、と、
「そうです! そうです!」
こちらも負けずにニッコリし返したら、
「機内では、アルコールは禁止です」
ピシャリと叱られた。
驚いたなァ、もう。じゃァ何故、同じ日航でも、国際線になるとワザワザ機内で酒を売って歩くのか。ファースト・クラスの客なぞには、タダで飲ませてるそうではないか。いまだに、差別の理由がわからない。
――この岡田喜秋さんに頼まれて、雑誌「旅」の取材で屋久《やく》島へ渡ったときだった。島の二つの町の役所の方が、心こめてあちこちへ車をとばしてくださったとき、私は路傍の古ぼけたよろず屋で、土地のサツマ揚げと、島うまれの二十五度イモ焼酎の一升瓶をみつけだした。車の中で、まずサツマ揚げを一口。あまりの美味にぎょっと仰天。当然、一升瓶のほうも開けずにいられなくなり、ハア、運転の案内者には申し訳ないことでした、とうとう、車ンなかで、ひとり酒盛りをはじめてしまった。イモ焼酎は、甘くてかなり匂うけれど、馴れると、この香りこそノスタルジックである。
「西日本新聞」に随筆を連載する機会があって、「私、かつて兵隊で壱岐の島へ行ったのだ」と書いたところ、あの美しかった島の観光会社の社長さんが、土地産の焼酎をブランドさまざまとりまぜて半ダース、ずらりと送ってくださったのは、狂喜乱舞、というほかなかった。壱岐の焼酎は、日本でも特に珍しい「麦焼酎」である。「ゴールド玄海」などといった諸銘柄の、ほのかな麦臭の香気は、たとえようがない。東京都の神津島で作る「盛若」なども麦酎《ばくちゆう》≠ナはあるが、こちらは甲類との混成である。
私がこころみた範囲で、目下、最も感嘆を覚える秀品の一つは、福岡の「博多小女郎」という米焼酎である。少し洗練されすぎた感もある甘口であるが、味にも香りにも偏りがない円い純粋感は、最初の一口で、ほう、と唸らされる。むろん、沖縄の泡盛も加えて、九州(あるいはその他)に、これ以上の名品はごまんとあるだろう。たとえば熊本でも、前述「六調子」のほか、「球磨焼酎」という、そのものズバリの銘柄は、みごとである。「太鼓判」もいける。宮崎の「雲海」といった、そば焼酎はあと口のすずしさがたまらない。イモ焼酎では、鹿児島産、四十三度の「無双」が好きだ。奄美大島には、「高倉」などという、拙宅ではもっぱら「健さん」と勝手に変称している甘蔗焼酎があり、つまりこれは、素材の共通性からいって、ラムそのものである。
焼酎は、熱湯で割って、つまりホット・チュー≠ノするのが最も難のない通常の飲み方であるが、「博多小女郎」には、湯の割り方のおもしろい示唆が書いてある。まずストレートで一口飲み、その分だけ湯を足す。また一口飲み、その分の湯を補充し、こうして、自分に最も合う薄さに達したら、その状態を保持しろ、というやり方。九州人は論理的だなァ、と感心するのだが、よく考えると、最良の状態に到達した頃は、もはやヒックリ返る直前かもしれず、だいいち、少くともこの方法では、いちばん最上の状態とは、総計何パーセントの湯で割った瞬間になるのか。計算し直そうにも、測定が、私などの数理能力をはるかに越えてしまうのが、恐ろしい。
明治屋から出ている『食品事典・酒類編』は、世界のアルコール飲料を網羅した権威と信頼の一冊である。が、「焼酎」の記載は、ない。高貴のお店は、たぶん、こんな下俗の酒を扱うことなど、はなから想像すらしなかったのにちがいない。
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ワインブームってほんと?
ワインが、たいへんなブームになってきた――などという噂が地表へ現れ出たのは、あれァ何年ほど前だったろうか。
ほんとかァ、という気もした。
じじつ、地下鉄などに乗ると、ワインの車内広告が増えてきたのは確かであった。歌舞伎もできりゃミュージカルもうたえる、という重宝しごくな美男役者さんが――あのひとはすごくきれいな奥さんをもらったのね――その絶世の奥さんと、それにしてはわりかしふつうのブドウ酒を仲よく飲んだりしてる広告が、つるされるようになったりした。もっとも、すべてコマーシャルとは、偉そうな人ほどわりかしふつうのものを飲んだり食ったりするもので、それでいてさえ「違いがわかる」ところに偉いゆえんがあるのである。このブドウ酒の場合も、飲んでるのは、うちもどこも同じだなァ、と私は安心したりもした。ブドウ酒会社としては、少くとも私に関しては広告効果あった、というべきだった。
しかし、それにしても、世間一般、いまの日本の実態としては、飲ませるほうも飲むほうも、これでワインがひろがった、などといえる現状なのであるか。だいいち、ワインなんて、ブームなど起すべき流行品であるのか、あるべきなのか。私は、大いに疑問を抱かざるをえない点も、あった。
そもそも、街には、レストランと自称しながら、ワイン一本置いていない店が、まだ、ごまんとある今の日本ではないか。どこの国へ行ったって、そんなふしぎな「レストラン」なんて、ありはしない。また主婦向けの料理書じしん、いまだに「ここでいうワインとは、いわゆる甘いポートワインではありません」などと注釈しなければならぬ、今の日本ではないか。もっとも日本でいうポートワイン(スイートワイン)なるものじたい、本物のポルトとは似ても似つかぬ代物で、なにしろアメリカの若者なぞは、あの日本製ポートワインをウォトカに溶かし、赤玉ならぬ「ヴォカダマ」と称して飲んでいる、というくらいの甘味料である――。また、いいランクの食いもの屋の給仕までが、「お食事中のお飲物は? 奥さまとお嬢さまにはコーラかオレンジジュースでもお持ちしましょうか?」などとばかげたことを言い出しかねない今の日本ではないか。いったいどこの国に、メシを食いながら砂糖水なぞ飲む阿呆がいるか。味おんちで有名なアメリカ人だって、「食事中にコーラを」などといわれたら、少し気のきいたのは目ェまわすだろう。うちのお嬢さまなどは、レストランでこれを言われるたび、まだ己れがお子様ランチ級の幼女としか認められないことに挫折感を味わって、口惜し涙にかきくれるのである。
ワインとは、じつは、いわゆる「酒」、たとえば日本酒とか、ウィスキーとはぜんぜん別の、そしてまた、ビールともまったく本質や用途のちがう、世界にこれと並ぶもの、或いは代るものは一つとしてない独自のアルコール飲料である。――何が独自といって、この飲みものが、主として、食事と結合するかたちではじめて最高の美味となり、かつ、食事に合う∴料としては、これしかありえない、という、この二点くらい、世にもユニークでかつ普遍的な独自性は、考えられもしない。今日、フランス料理はスゴい人間文化だ、などとわれわれは感嘆気味にいうけれど、フランス人としては、自分たちが二千年かけて作ってしまったこの飲みものの奥底知れぬ深さに、やっとやっと追いすがるため、料理のほうもあれだけの美味を、磨きに磨かなければならなかったのだ、とも解せるのではないか。
私たちの日本は、ブドウをナマでこそ食え、これをつぶしてアルコールにする文化は、ほとんど地表に出さなかった国で、それはそれで一向差支えないことなのだから、今なおワインが暮しの中にひろがりきれないことを、恥じたりする必要は毫もない、といっていい。ワインには、白と赤とロゼと、大別して三種あり、定石としては軽い白から食事をはじめて、コクのある赤で終るのがよく、簡便にどんな食事のコースにも使えるのが、値段も味もチープなロゼである――などという知識をだな、いくら|あたま《ヽヽヽ》で知ったって、食事じたいが、はなからワインに合わせて発想されてなかったのだから、習慣は広がりようもないのが、当然なのであった。
しかし、これだけ美味で、かつ、数多くの料理に柔軟に寄り添ってしまい、しかも、おおかたの料理の味をひきたててくれる有難い飲料がですね、いかにコーラ万能の国とはいえ、放りっぱなしに捨てられつづけてるわけもなかった、とはいえよう。ひと頃、新幹線の東京駅ホームには、国産ロゼの四分の一瓶を添えたサンドイッチが、一箱五百円で出はじめたくらいじゃありませんか。車内で飲むには、冷えの足りないのが何とも難ではあるが、あれは、シャレていかすアイデアであった。ああいう汽車弁がほんとに増えだす、とでもいうのなら、そのときこそ、ワインも、ブームなンぞは終り、ついに、足を地につけはじめた、といえるのかもしれないのである。
非常に嬉しいのは、ここ両三年、有益で、かつ読みやすい日本語のワイン解説書が、にわかに書店の棚に増えだしたことである。
そのなかで、数冊――これをこの順序でひもとかれれば、かなりワイン文化の概略もつかめ、この世界の奥深い恐ろしさへの察しだけは、私にもついてくる、という良書を、推薦しておきましょうか。
しょっぱなに読むにふさわしい入門書に、じつにいい本が出ている。なだいなだ氏の『ワイン七つのたのしみ』(平凡社)と、皆川達夫氏が主婦と生活社から出された『ワインのたのしみ方』という新書判である。
なだ氏のかわいい本は、「通ぶるな」という鉄則から書きだされている点が、まったく同感である。この日本に住み、生きて、いまのフランス・ワインの精髄が、「わかる」などという人がいたらそれこそ眉ツバを通りこしてほんとに嘘≠ネので、なだ氏は、まず徹底的にその実感だけで、|ワインよりも自分《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を書いている。そこがじつにチャーミングである。
皆川氏のハンディな一冊は、著者が自分のべろとディレッタンティズムの確信の範囲内だけで、しかも全力投球と形容できるまごころをもって、ワインへの愛と体験を語った、その体験性が非常にわかりやすく、快い。私たちはこのすばらしい一冊を持てたことで、どれほど鮮明に、ワインの世界の迷路が明快な基本線で解きほぐせるようになったか、わからない。この先生の、克明正確で有名なバロック音楽解説よりもっといいくらいではないか、と、無責任な言い方でベタぼめする向きまであり――ま、そんなこたァ、関係ないじゃないの。ともかく、はなに手にとるなら、この二冊である。皆川氏のは、必読だ。
もう少し丹念詳細に、ことフランス・ワインに関しては、すぐ索《ひ》いて調べがつくほどの、一応完全な知識がほしい。――そんな向きには、辻静雄氏が婦人画報社から、簡潔で精細な『ワインの本』を出されたのが、非常に有難く、かつ、有用である。やや教科書式に鳥瞰的であるが、ペダンティックな博識で大いに読ませる。もっとも、博識すぎるってなァ、若干、読む者に劣等感も起させかねないなァ。
ワイン文化とは、じつは、瓶にとじこめられたあの液体そのものにとどまるのではない。ワインの人間文化、それは、太陽と大地と、風が、人間の歴史のなかで播き、育て、こねてきた、エネルギーの総量の謂《いい》であるだろう。――この機微を、達意の文章と、うっとりするほどのカラー写真で展開してみせるのは、タイム・ライフからシリーズで出ている『世界の料理』の中の一冊、『ワインと酒』である。これはよくできた一巻、といっていい。ワインは人間が知恵と努力で磨いた「文化」なのだ、という、この一事を実感で手づかみさせるだけでも、これは価値ある一冊である。
そしてトドメに、これはほんとうに嬉しくなってしまう邦訳の大著が一冊。三洋出版貿易から出された『ラルース・ワイン辞典』を推そう。
まさにこれは、文字通りの辞典にはちがいない。Abondance(水割り)からはじまる、小項目表のワイン百科である。しかし、この本に字引き%ニ特の、木で鼻をくくった記述を予想されるとしたら、それは完全な間違いになる。最初のワン・センテンスから、ここには著者ジェラール・ドゥビュィニュの、身をもだえるようなワインへの傾倒と情愛が躍動していて、ついに全一冊を読みおえるとき、ワイン好きは、全文と全写真に、陶酔しきった自分をみつけださずにはいられなくなってしまう。
あと一冊、モウどうしてもワインの本なら全部揃えたいのだ、というなら、限定出版ではあるが『ワイン大全』(中央書院)をおもとめになるのもいい。凄い本だ。ワインのことなら全部出てる、ッて感じがする。感じがするだけで、肝心な、私の読みたいとこはどこに出てるのか、そこを探すまでに一瓶はあけちまうくらいの時間がかかる大著である。
もっとも、これまで私、何冊、「ヤセる本」を買ったかわからない。そして、本を買っただけでは、一キログラムも痩せなかった。
このワイン解説書数冊を買揃えて、ワイン文化の幅広さ、奥深さに感心するのも大切なことであろう。しかし、その前に、金をつかうなら、ほんとは、すごく楽に、ワインの瓶のコルクが抜ける栓抜き(オープナー)をはずむほうが、ワイン体験としては順序なのかもしれぬ、と私はおもう。
なぜといって、日本のワインは、多くの場合、中身以上にコルク栓が頼りない。そして、ワインを買うと|おまけ《ヽヽヽ》についてくるチャチな栓抜きは、もっと徹底的に、わるいからである。あんなオモチャみたいな、しかも栓を抜くのに面倒なバカ力ばかり要る栓抜きを撒いてるかぎり、ワインが国民の食卓の必需品に広がる道理は、ありえない。その点、栓抜きは、ぜったい次の一品をすすめる。西独ヘンケル製の、ねじこみ動作が二段がまえになったオープナーである。私は、べつに何のジャンルとかぎらず、コレクション趣味をもたない男だが、ワインの栓抜きは、フランス、イタリア、スイス、西独、日本と、各国の製品がいつの間にか十個あまりたまってしまった。少々ヤワだが抜きやすい機構のフランス製も、テコ動作を軽くするのにいいアイデアをもつイタリア製も、携帯至便なスイス製もある。カッコいいのはレストランでソムリエがポケットにしのばせている折り畳み形の薄い金属製だが、あれはわれわれ素人には、ちょっと使い方に習練がいる。その点、このスイスの携帯用は、二重に渦を巻いたねじこみが、ふだんは柄《え》のケースにすっぽり収まるよう作られていて、欧州旅行など、これさえ持って歩けば、どこの酒屋《リカー》でワインを買いこんでもホテルの部屋で試飲できる。同じくスイスには、瓶の中へ空気を注射してコルクを上へハネあげる珍なメカニズムのもあるが、最も確実に、わるいコルクをも抜いてみせる≠フは、このヘンケル製である。情ないことに、一方、いいコルクさえ壊す≠フは、同じ形をそっくりまねた日本製なのであった。
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ムダではないぞ、食いしん坊
京都の若い文化人類学者、石毛直道さんには、まだ一度も、直接お目にかかったことがない|。《(註)》東京の人間としては、私、比較的、京都へ行くほうだろう。月に一、二度は必ず出むく。が、なにしろ、錦《にしき》の市場を端から端まで歩いて、川魚や京にんじんの顔をみると、ああまだあった、まだ日本は生きていた、と、それだけで京都の用は済んだ気になってしまい、あとは食いたいものを食って、結局は何もしないでツーッと新幹線で帰ってきてしまう、という繰返しだから、お会いしたい方々にも、とんと面識がない。
この石毛さんが、本質的な意味で真の食いしん坊である事実は、じつは、お会いしなくたって、わかることであった。氏が、数年前、文藝春秋から出版された『食生活を探検する』というドキュメンタリー的エッセイは、一読、胸と腹が同時にわくわくグウグウしてくる豪放な快著であった。私はこれこそ男の書く・男にしか書けない「食」の本だ、と感奮した覚えがある。いや、あの本は、むろん中身でも著者の食いしん坊ぶりは歴然たるものだったが、じつは裏表紙にのってた著者近影こそ、食うことへの歓喜と気迫を、凝っては映像と化した、といいたい男らしさがあって、私はいちどに、氏および氏の著作・研究への傾倒を深めたのであった。食通は大嫌いだが、食いしん坊は、ほんと、なつかしいのさ。
その後、新聞で拝見したお写真では、やはり氏の隠れたファンであるウチノヤツが、「アラ、石毛さん、ひげをおはやしになったわ」と新事実を発見したが、はっは、ひげなぞはやされても、食いしん坊の本音は隠せるわけがない。それは私、懸命に髪をのばして、少しでも頬の肥満を遮蔽しようと、奮励努力したにもかかわらず、効果はぜんぜんないのと、少くとも現象的にはまったく同じことなので、ああ先生、あいかわらず食い気はきわめて旺盛であられるようだ、と私は氏のひげづらにホッと胸を撫でおろしたのであった。
たしか、大阪の中尾佐助教授からおききした。京都の学界では、海外の辺境へフィールド・ワークの探検行が計画されると、やたら石毛さんとの同行希望者が増えるのだそうである。せんせいと一緒にいれば、男の自炊でも確実にウマいものを作ってもらえる。砂漠やジャングルの妙な材料から、とてつもない美味を、調理でひきだしてくれる。学者たちは経験の集積から反射的にそれを知覚したわけで、そのへんの鋭敏さは、学者だってまったく猫とちがわない。
この石毛直道氏が編集された、『世界の食事文化』というじつに示唆的な労作が、いつのまにか出版されてた(ドメス出版)ことを、私は出てから二カ月ばかり知らなかった。これは、食うという人間行動に関して、ハウ・トゥや、料理店案内や、食通趣味とはちがう知的好奇心を抱く向きが、ぜひ備えられていい本である。最近も『食生活と文明』というおもしろい本を出した日本放送出版協会から、かつて中尾佐助教授の『料理の起源』が出たとき、料理に関して、日本でほとんどはじめて、「知る」でも「感じる」でもない、「考える」ための本が現れた、といった気がしたものだ。『世界の食事文化』は、その想いと手ごたえをさらに一歩前進させる一冊である。――幸せなことであった、食いしん坊な学者たちを持ったおかげで(あるいは、学者の中にさえ食いしん坊がいたおかげで)、日本や世界には、料理や食事を科学≠キるいとぐちが、次第にひらきかけているわけである。
――石毛さんも、この本の中で繰返し述べておられる。――料理や食事を、民俗の歴史や地理の視角から、あるいは栄養学や生理学の観点から追究する科学は、いうまでもなく、従来もさかんであった。また、料理に立向うフランス人の論理的な態度などから学んだのだろう、以前日本では最も欠けていた、調理を生化学から分析的に解説してゆくいい本も、近頃、現れだしてはいた。たとえば、杉田浩一氏の『「こつ」の科学』(柴田書店)。実際の話、「塩抜き」という作業ひとつにしても、これまでの日本の料理指南書は、「塩引きの材料を、淡い塩水にひたすこと」と、実用知識を、結論だけ指図するのみでね。なぜ淡い塩水に漬けると材料の塩気がぬけるのか、なぜ真水《まみず》では駄目なのか。つまり、「それは素材中の塩分濃度と塩水との、浸透圧の問題なのだ」といった、論理による説得は初手から皆無であったのだから、呆れかえる。そンな説明をしても台所に立つ女性たちにわかるわけがない、などという女性蔑視を口実にして、じつは解説者自身、保守的な体験主義以外の地点へ出ることを怠けていたのである。もっともまァ、相手の実態を考えりゃ、そんな気になるのもしぜんではあったのか。
たぶん、「読む相手はあの女どもなのだ」という偏見的蔑視、あるいは著者たちの挫折感が、従来、料理書から科学性を欠落させてた、と仮定すると、この『世界の食事文化』という本のよさ、おもしろさ、重味は、まったく女性読者という設定を初手から切り捨てた発想によって生まれたのだ、とも考えられよう。おんなへの想いを断ちきった男たちの手で、はじめて「食う文化」を正面から考える本が作りだされたのだ!
学問という衣裳は、有難いものだ、と私は思う。この本では、全編、大車輪で、書き、かつ語ってる石毛先生をはじめ、そうそうたる大の男の文化人類学者、文化地理学者、生態学者、民族学者、植物学者、記者たちが、胸を張って好奇心の目を輝かせ、われわれ人間は、どこで、何を、どんな風に料理して、いかように食い、そしてそれは何故であるか、といった課題を報告しあっている。学問、というライセンスのもつオーソリティである。ここには、男たちがふだん、食について語るときどうしても出がちな、照れや、やにさがりや、気取りや、お澄しや、不貞腐れが、全然漂わずに済んでいる。これが、気持よく――そして私には、ちょっぴりだが、うらやましい点である。セックスだって医学の口調で語れば、堂々と客観的になるあの道理でね。――私ももっと勉強して、早く学者になれるよう、がんばらなくチャ。
先日、街を歩きながらフッと、地球上の人類は、食品を口へ運ぶ装置を目下いくつ持ってるのだろう、と気になりだした。アジアのこのへんみたいに、箸《はし》で食事するシステムと、インドみたいにタブーでない方の手指でじかに食うのと、赤ちゃんみたいにサジで食うのと、ヨーロッパ系の人々のようにナイフ、フォークを使って食事をするのと――。現在、東京の学校給食では、スイカ用の、先の割れたサジ一つを生徒にわたして、おでんからスパゲティまで食わせてるところがあるという。散文的な不毛性もここにきわまった、という陰惨さであるが、ともあれ世界でも稀れな異色の食具文化を持った人間たちが、将来日本から巣立つわけである。西洋人はツイこないだまで、手づかみでものを食っていた。その習慣の痕跡は、まだパンのちぎり方に残っている。かれら、野蛮の尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨を今にかくせない。だとすると、箸でものを食う、という私などの東アジア型は、古風ながら人類のなかでも孤立してユニークな独創的文化であって、この清楚で巧緻な礼儀正しい|ふるまい《ビヘイビア》は、仇やおろそかに考えてはいけないことだな、と今さらのように思ったことがあった。
あれは、どこを歩いてて考えたのだっけ。そうだ、近所に「はし善」という看板が立ち、高名な天ぷら屋が私んちのそばまで進出してくれたか、と泡ァ食って建物の前まで飛んでったら、割箸工場だったので、憮然とし、われとわが早とちりに呆れかえった時だった。
『世界の食事文化』には、石毛氏の調査記録である各地民族の食具がのっている。この部分、つまり「台所文化の比較研究」という論文は、全編の白眉ともいうべき、いわば未来への突出点である。しかし残念なことに、多数の学者からのアンケート集である「世界の常食」という欄には、喫食具の記述が欠けている。世界中の人は、手に、何を、どう持って、食事をするのか。それが一目瞭然に書きしるされていたら、どんなに壮観であったろうに。
もっとも、石毛氏はそのへんへの研究意欲、赫々と熾烈のようで、編中にも、ハシとワン(椀)とマナイタとは不離の食具である、といった示唆的な指摘が、随所に出てくる。言われりゃまったくその通りだよ、コロンブスの卵。ヨーロッパの家庭にはマナイタのないうちがいくらでもあるが、たしかにあれは、彼らが食卓の皿の上で肉を切る習慣だからに、ちがいない。私は、読みながら、こういった仮説にみられる豊かな想像力のひろがりは、二つの条件をもった人間でなければ決して生めない、という事実にだけは、改めて敬意を表さなければいけないのだなと、つくづく考えたことだった。
二つの条件、とは何か。女を避けること。食いしん坊なコト。
[#この行2字下げ](註)石毛氏とは、この文章を書いたあと、お目にかかる機会をもてた。節度と抑制があり、そしてそれ以上に学殖と探求心旺盛な方で、想像以上にすばらしい男性であった。
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V あ る く
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釣りならずとも要るアイスボックス
市場《いちば》という名の街は、どこも、一見ちがった表情の下に、必ず共通の雰囲気をかくし持っているものだ。
京都の錦《にしき》と、東京の築地、大阪の黒門は別格にして、北から、釧路、札幌、函館、青森、八戸、秋田、仙台、塩釜、新潟、金沢、灘、広島、下関、徳島、高知、博多、長崎、熊本……。私は、これまで訪れた各地の代表的中都市が、街なかにかかえているシロウト向きの市場街、ここが胸ふるえるほど、気楽で、身近で、好きで好きで大好きである。買物籠をさげた奥さんたちにまじりながら、無造作に放りだされた珍魚に海をおもい、縄で縛ったままの露地ものの野菜に、まだ日本に残っている土《つち》をおもう。ざわめきと掛け声にまじる、土地の訛り。あれくらい、アットホームに旅を実感できる瞬間が、いつ、どこにあるだろう。
青森などという都市は、同じ県の弘前などとくらべたら、どこに味や風情があるのか、私などにはさだかな見当もつきかねる場所だが、ともかくここの|まち《ヽヽ》でいうところの「魚菜市場」だけは、圧倒的である。殊《こと》に、このまち最大の市場街という、駅前右手にひろがる一帯の壮観などは、全国どこの都市に類を求めても、これを越すものがそうざらにあろうとは、私、おもえない。北海道からの、日本海からの、太平洋の三陸沿岸からの、そして地元|陸奥《むつ》湾からの、海の幸が、一軒一軒あふれにあふれて、なんとこの物価メチャ高の時代に、生きた帆立貝が殻つき一個四十円である。万が一、これに、誰かが騒ぐような放射能が含まれている、と仮にしたところで、あなた、世界に、一個四十円で買える「核」があるなどとは、信じられることかね?
函館という町は、大正時代からここで営々と日本一のハムやソーセージやサラミを自製しつづけるカール・レイモンの逸品(「十字屋」という店で小売りしている)を入手するだけでも、訪れる値打ちをもつが、ここの朝市や、特に「自由市場」も、また見るに足る都市である。――こういう、日本中に散らばる「|市 場 街《マーケツト・プレイス》」の成立過程と現状と特色を調べあげたら、それだけで、すばらしい現代日本研究がうまれうるのではないか、というのが、私には夢のひとつだ。
かつて、パリのイエナ通りで泊った早朝。なに気なしに朝食前の散歩に出たら、わきの、ゆるく幅広い坂道の真ん中が、けんらん、目を奪う壮観で、朝市《マルシエ》の開場だった。見たい人は水曜の朝、行ってみるといい。塊りのままのウサギ肉。絵具を塗ったように真紅のピーマン――私は本気で、この熟れたトマトを一つ、日本へ買って帰ろうか、といった夢心地めいた酔いに、のめりこんでしまう。ましてや、世界にも類が少いと思える規模のイスタンブールのスパイス・バザールなど、私はマタタビの前の猫さながら、アーケードの下に入るだけで、もう、手の舞い足の踏むところを知らぬ有様になりはてる。香港も、あれは時計やライターを買うだけが能ではない街である。島側にそびえたつ「中央市場」ビルディングは、一階が魚、二階が肉で三階が野菜。ここでは生きた鳩から蛙、すっぽん、まるごとの豚、子牛のアタマまで、誰の手にも入る。さすが自由都市の名に恥じない壮観である。タイのバンコックの市場も、高い大天井の下は、南海の珍味でむせかえる芳香だ。
――ああ、これに比べたら、私の住んでる東京の、これでも、ほかより安い、とかいわれてる拙宅の近所の、つまり、「普通の商店街」とは、安いこたァ安いにしても、何という、類型的な個性の無さなのよ。
|市 場 街《マーケツト・プレイス》は、こういう普通の¥、店街やスーパーと、どこがちがうか。ひとことでいって、市場には空間の連帯感がはりつめている。|もの《ヽヽ》を接点にして、売る人間と買う人間が、双方、磁力に引かれるように、一空間へ近づきあい、生存の確認をとげる。スキンシップ。それが市場だ。
ある年、一年ぶりに、秋の新潟市へ行った。前の年は、やはり初秋、村上の奥の三面《みおもて》川に|やな《ヽヽ》でとれる鮎《あゆ》をごちそうになりに来たなァ、と思い出したが、天の無情よ、今年は夏の豪雨があの川の|やな《ヽヽ》を押流してしまったそうである。なンでまァ、雨も、鮎がぜんぶ終るまで降るのを待てなかったのか。
新潟市は、かつてのお堀の文化が、「鍋茶屋」とか「行形亭《いきなりや》」といった御大層な料亭を生みだしている。私は鍋茶屋の料理も踊りも結構だが、今回は、味のいいレストラン「イタリア軒」の近所に、小さなカウンター割烹を教えられたのが、収穫だった。小ぶり小ぎれいな飲み屋であるが、郷土料理店、などと呼ぶには、いささか、板前の腕が光っていた。菊の花のひたしや、のっぺい風に貝を盛りこんだ|おから《ヽヽヽ》が、田舎をつたえて、しかも味の洗練が都会になっていた。
帰京する寝台列車を待ってカウンターで盃をなめながら、土地の味をたのしんでいると、連れてってくれた新潟の映画の面々が、その|ひる《ヽヽ》、私のみせたあさましさを素っぱぬきはじめた。よせよ、こんな板前やおかみさんみたいな人たちの前で、それだけは勘弁、と私は、腹さえもう少し小さければカウンターの下へ潜りこみたい、と思うくらい身をよじって恥ずかしがったが、面々はやめるものじゃなかった。
その日の午前、ひとつの仕事を終えて、さあ昼飯にでもしますか、と彼らがいうのを、食事もさることながら今回はまだ御当地の市場街との御面会が済んでない、殊にけさは雨で名物の朝市へも行きそこなったのが残念であった。まずは本町《ほんちよう》通りの市場街を歩かないことには|めし《ヽヽ》ものどを通らない気持なのです、と申上げたのが事の起りであった。さてこのわがままが通って当の本町通りへ足を踏み入れ、魚屋を眺めたとたん、私は手のつけられぬ躁的状態となり、ああこれはナマで買って帰らなくちゃァ。近所にアイスボックスは売ってないだろうか。ドライアイスはドコで買えますでしょうか、などとわめきはじめたから、男たちはげんなりと顔を見合せた。
だが、想像してもごらんなさい。たとえばあなた、生きた殻付きのシャコが、ザルに山と盛りあがって、十数匹で、ただの百円二百円である。生きた足を荒縄でくくられたままのワタリガニは、まァ一ぱい二、三百円といったところ。ついでに一ピキおまけに持ってきな、といった調子で投げてくれるのである。
誰だってそうだろうが、私としては、新潟、北陸では、何よりもあの細くて赤い南蛮エビが絶対の好物ですね。シュンには少々甘さがこたえすぎるほどであるが、かつて中村武志さんと福井県によばれたとき、観光課の人々にふるまわれた品など、酔ってノボセがくるのではないかと思えるぬめりの美味だった。が、本格の御当地人と未熟のヨソ者では感覚がちがうのねえ、私が新潟は本町通りの魚屋サンに、「雌《めす》だけ選んでね、卵が大好きなのだから」と頼むと、「へえ、珍しい人があるものだ、こっちじゃみんな、身がノッてる、って雄《おす》を取るのに」と、持ってきな持ってきな、の雌安売りである。
この生きたままの南蛮エビを、苦心の冷却保存でともかく東京まで持ち帰り、家内と二人、黙々と頭や殻をはずす。まず、雌が腹に抱いている青い半透明の卵を、指で掻きだしては、鉢に溜める。溜めるッたって、量は知れたものだ。が、これにわずかの醤油と酢を落して、サラリと一口に飲みこんでしまうはかない快味は、形容を絶した和風キャビアのたのしみである。身からはずした頭や殻も、そのまま捨てるなンぞ、もったいないきわみです。さっと一煮立ち、これで|だし《ヽヽ》をとって、みそ椀を仕立てる。頭のぬけがらをシガレット・ホルダーみたいにくわえて吸うと、ちゅうッと、脳みそが飛出してくるわ。子供の頃のハッカパイプの呼吸。ここではじめて、「このシャブリかすは、猫が食うだろうか」と女房に話しかけるゆとりがうまれるのである。
女の小指に紅をさしたみたいな南蛮エビの身は、シュリンプ・カクテルはもちろん、グラタンにもフライにもできはする。が、フライなどは、甘く柔らかすぎてしまう。むろん、そのままの刺身が、これはズバぬけて、うまい。ぬめぬめした甘さは、似た味を持たない。ヨーロッパ通によると、ナポリ湾外、カプリ島でこれと同じエビの刺身を食わせるそうであるが、あっちァ、コレラの恐れがあるにしても、こっちゃ日本海は、含んでるにしても水銀、大腸菌の類いだからね。万一|あた《ヽヽ》ったって私自身さえ泣寝入りしてれば、政府は欣然と黙殺してくれる。気が楽である。
エビを買って、カニを買って、シャコを買って、アワビを買って、とれたてのスルメイカを、塩辛自製用に買って、ええとまだ他に何か買いますかい、といささか投げた調子で案内者がきくから、そうです、まだバイ貝を買わないうちは引揚げられません、と駄々をこねた。
東京のデパートでも、バイ貝を蒸して売ってはいる。が、あんなホラ貝みたいにデカくなったのを、しかも買う前にゆでられちまったら、こちらは調理の手のつけようがない。先日もデパートでムール貝を並べてるので、目を見はり胸ときめかせて近づいてみたら、これも既にユデてあった。何というお節介でしょう。貝こそ、生きてなければ、買い甲斐がない。バイ貝は、私にとっては小粒ほど、味も、食べるたのしみも大きいので、私は目を据えて店から店を駆けまわり、やっと、小指の爪くらいな小粒の群れをみつけだした。ここでも驚いたことには、味も歯ごたえも粗大な大粒のほうが、高価なのだった。御当地の食通には、そっちが本当の美味なのであろう。もっとも高価ッたって、百グラム十円とはちがわない。
バイ貝は、生きてるカラつきを何度も水道でゆすぎ洗う。鍋にごく薄味のダシを用意し、醤油と日本酒を軽く加え、これを煮たたせた中へ、サッと貝をあけて、そう、ゆでて二、三分。この身を、楊枝か竹串で、|らせん《ヽヽヽ》形にそって要領よく引出すと、最後の内臓部分までするりするすると抜けてくる。まァ怖くさえなかったら、少々生まの気が残ってるのを、ポイと舌へ放りこむと、これがスペイン料理の前菜で有名なアサリの揚物と同じ。最後の一粒まで、あなた、やめることができないのです。スペインのアサリとちがう点は、向うのはまさか、われわれ、皿に残ったオリーブ油まで飲みほすわけにゆかんが、こっちは行儀わるく、深鉢に残ったダシの一滴まで、飲みつくさずにいられなくなるその淡彩なウマ味である。いや、スペインでも食いしん坊は、皿のオリーブ油まで完全にパンにひたしてなめてしまう。われわれはそんなまねしたら、ヒマシ油と同じ効果になるのに。
さァあァた、もういいでしょう、これ以上買ったって食いきれンはずです、と訓戒されて、私たちはとどめの買物、アイスボックスを新潟市中に探すことになった。小林百貨店の釣道具のとこにあらァ、と知恵者がいい、じじつ私はそこまで走って、百円のシャコその他を収めるべく、五千円の四角い肩掛用器を買い、「この中の、餌箱は要らないや。かえって邪魔なだけだ」と店員に返却したのだが、そこだけ返されても割には合わぬとみえ、受取ってくれなかった。
しかし、ラストにいたって絶句した。ここまでは驚くほどトントンと買物が進行したのに、なンと新潟市ではドライアイスという商品が小売りされてないことを私は知らされたのである。ついにヤットコサ、その貴重な一塊りが、新潟港から新聞紙に包まれて運ばれてくるまでには、案内の映画人たちの、見るも涙ぐましい、感激に耐えぬ奔走が必要なのだった。
――夜、こいつをすっぱ抜かずには私を東京へ帰せなくなった男たちの怨念も、わかることはわかるのである。
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北のワイン
初秋の北海道へ行った。
帯広市で、北海道のPTA研究大会が開かれることになり、その講師として、「子供たちと映像」について話をすることに決った。――でかけるとき、主催者に一つだけ注文をつけた。講演が終ったら、何はともあれ、すぐ東隣の池田町へ行けるよう、御手配ねがいたい。
かつて札幌に出かけ、NHKにいる友人から「十勝ワイン」を飲まされたのは、あれはもう、何年前になるだろう。もう、十何年になるかもしれない。私はそのとき、味よりも前に、北海道でブドウ酒が作られている、という事実にびっくりした。
もちろん日本では、寒いはずの鳥取県東伯郡にある北条町でも、「ホージョーワイン」などというブドウ酒が、赤白、つくられている。近頃は、青森もブドウの産出がいちじるしい。フランス、ドイツや東欧ブルガリアの緯度をよくよく考えれば、鳥取はもちろん、北海道の十勝だって、ワインを産めるのは、当然のことである。しかし、固定観念とはふしぎなものだ。私の頭は、北海道はスコットランドと同じ! というニッカのテレビ・コマーシャルの見すぎ状態になっていたのかもしれない。日本のワインは山梨産だけ、と思いこんでたから、あの北の大地でブドウ酒ができる、などとは、事実からして信じ難かった。
「十勝ワイン」は、当時、手に入れるのがきわめて難しいことで、よく知られていた。あるとき東京から地元に三ダースの調達依頼があり、土地の有力者がさまざま手をまわしたが、どんなに顔をきかせても、集めることができたのはやっと六本だけだった、などという挿話が、たえず伝えられた。札幌では寿屋と丸井百貨店で扱っており、東京では伊勢丹で買うことができた――はずなのだが、ほとんどの時に、なかったのである。
それほどウマいのか――といえば、とてつもなく、奇跡みたいにウマい、といった極上品ではないのである。とくに最初に飲んだときは、私は赤がかなりあらっぽい気がした。白のほうが(味もコクがないし、香りにも伸びが足りないけれど)、堅実だ、と思い、以後数年は、手に入れば白だけを飲んできた。
飲みながら困ったのは、このワインは慢性的品不足に加えて、味の水準が不安定なことだった。上出来な瓶もあれば、ガタリと味が落ちてる時もある。もっともあらゆるブドウ酒にはその宿命がある。特に、私などが夕食ごとに飲む安酒は、当時、同じラベルの同じ等級でも、おもしろいくらい、瓶ごとに、ウマいマズいがちがっていたのである。一瓶あけるごとに、まるで、子供の頃、駄菓子屋の店先でやったメクリの当てものをするようなたのしみがあった。その中でも、十勝ワインは、当り外れのおたのしみが多すぎ、われながらこれは、異様に射幸心をそそる酒ではあるまいか、と警戒してきたくらいだった。
十勝ワインが品不足なのは、優秀すぎて需要過剰になるせいだ――とは必ずしもいえなかった。また、ここが非常に良心的な商策を守って、頑として一定量以上出荷するのを拒んできたからだ、という説をなす人もあったが、結果的にはその通りだったとしても、じつはこれも、一知半解、いささかひいきの引倒しの見解たるを免れなかったのであった。
正直に実情をいうと、当時、十勝ワインは、たくさん出荷しようにも出せなかったのだ、というのが正しい。なにしろここは、当初、わずか千二百万円の起債と、農民たちの無償の連帯感ではじめられた「町立」のブドウ園であり、しかも、永久免許がおりたのは昭和四十七年――それまでは試験免許をもつだけの一実験所にすぎなかったからである。永久免許後しばらくも、なお年ごとの蔵出し量は二百六十キロリットルであった。これでは、一年間ひとり百二十リットルのワインを飲むフランス人などに当てがったら、三千人分にも足りない。
――私がどうしてもここを訪れたかったのは、「町」の公営で酒を作ってる、などというイキなたのしさもさることながら、やはり本音は、希少価値に憧れてだった。北海道の池田町では、ブドウ酒を量り売りしててね、町民は一升瓶にワインを詰めてブドウ色の舗道を歩いてるのだよ、などと噂をとばす奴があり、へえエキゾチックもいいとこの気取り方だね、などと相槌を打ちつつ、じつは、私もその量り売りが手に入れたくてたまらなかったのだった。
私が行くという通知をうけて、日曜の午後というのに、名物の丸谷金保町長は、助役の石井明さん、研究所長の大石和也さんと、わざわざ役所に私を出迎えてくださった。こうお歴々に並ばれると、量り売りのブドウ酒を買いに来ました、ともいえなくなり、仕方なくおでこの汗を拭いていると、早速、研究所を見せてくださる、という。ワゴンに乗って、町外れの丘の坂をかけあがると、町長は路傍のうっそうたる茂みを、「これなのですよ。これが池田の|山ブドウ《ヽヽヽヽ》なんです」と指さす。
東京の私には本当に信じにくいことだが、この上地は、明治の開拓期当時から、野生の山ブドウが生えに生えていた。切っても切っても、絶滅できずに、あとからまた元気よく生えてきてしまうのだそうである。それほど、土地に合った生命力のある植物なら、逆に、これを醸造用の栽培種の基本として活用することはできないか? 町長の「ワイン作り」の着想は、じつにここから発火したものだ、という。どうも、言外に、じつは古くから、土地には、この野生山ブドウをめいめい勝手に採取しての、私家版ワイン製造の伝統があった、とも想像される言い方の雰囲気である。もし、そうじゃなかったら御免なさいよ。
――研究所、つまり醸造所は、成程、この規模じゃァ伊勢丹での品切れも当然だった、と思えるこぢんまりしたスケールで丘の上に眠っており、近所に本格工事で、新醸造所の建設が進みかけていた。研究所のわきは、畑一列ごとにちがう品種の、試験用ブドウ畑である。山梨県などに見る、日本独特の、あの棚架法ではない。ヨーロッパと同じ、ツルを上方へ伸ばしっぱなしにした栽培法である。町長と若い大石さんは、一株ごとをいつくしみながら、「今年はよさそうだ、ヴィンテージ・イヤーになるかもしれない」と、嬉しい予告をした。もっとも、ここでは、摘みとりも一霜《ひとしも》降りてからだから、まだまだ先のことだ。
地下のケラーを見せてもらいながら、私はこういう酒蔵を見るときの、いつもながらの陶酔的感銘とは一味ちがう衝動に、胸をつかれていた。ここまで、多分、壁もあったろう、中傷も危惧も攻めたてて来たろう。その中で、よくも、こんな北の国に、選りに選って「ワイン」などの生産を根づかせる男たちが出たものだ、という、その感銘である。
私は、ワインというものを、けっしてぜいたく品とは考えない。蛋白質が増えてくるこれからの食事に、それは(飲用としても調理用としても)必須の液体であって、いつかは私たちも必ずこの液体を毎日の暮しそのものへとりこむ事態になるだろう。そのとき、何より必要になるのは、この国じたいで作られる、安い、たちのいいテーブルワインなので、決してよその国から宝石然と輸入されてくる、一瓶何十万円のシャトー・ディケムでも、シャトー・マルゴー、ロマネ・コンティでもありはしない。――丸谷さんたちは、その一歩を、いま、確実に歩きだしたのだった。あるいはこれは、昔、北海道で米作りに成功した人と同じ功績、ということになるのかもしれなかった。
出発の時刻が迫ってきた。大石さんは(有るところには有るもンだな)、ヴィンテージである七〇年の赤と、白と、今年これから出すという若いロゼを、ぽんぽんと抜いてくれた。私は、少し淡い色ながら透明そのものの赤を口に含み、あっ、と思わず目を見はった。あの、以前の、荒れて|きすきす《ヽヽヽヽ》した赤とは、まるっきり別の、まろやかで癖のない良品が、口の中にあった。依然として伸びの足りない白など、この足元にさえ及ぶ味でなかった。
ついでにびっくりした、という言い方は変だが、これはこれは、と思ったのはロゼであった。これまでぜんぜん外国品でも体験したことのない、ナチュラルな個性味のロゼである。いってみれば、甘味をぬいたフルーツジュースのなまなましさをもつロゼだった。
「このロゼがね、じつは池田のワインの味なんです」町長が言った、「屑のブドウを、種類を問わずぶちこんで、作って、町の人に、甕《かめ》で分ける酒なんです。このロゼはわれわれだけの酒です。年越しと正月のためのね」
「つまり、町の外へは売りに出さないのですか」私は飲み残しの瓶を握りしめて、きいた。
「出しません。町のみんなに売るだけです。これだけはわれわれ自身の飲み分ですから、ね」
「この一瓶、いかほどでお売りになってる?」私は七百二十ミリリットルの町民還元用&rをかざして、叫んだ。
町長は泰然と答えて、動じなかった。
「町では、一瓶二百円で売っとります」
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新しいたァいいことだ
秋刀魚《さんま》の刺身、食ったことあります? ない? ――ないで当然です。もちろん少しも恥じられる必要などない。あなたが世間知らずなのではなくて、要するにあなたの住んでおられるところが、秋刀魚のすみかから遠い、それだけのことにすぎないからです。秋刀魚は、水揚げ直後の、まだ生命のあるような鮮度がないと、刺身にできない。
その、めったには食えない秋刀魚の刺身を、連続二回、べつの場所でふるまわれるはめになったことがある。北海道である。紋別《もんべつ》と釧路《くしろ》。やっぱり、現地には行ってみるものだ、と思った。
文藝春秋の文化(大)講演会で、秋の北海道東部をまわることになった。(大)と括弧せざるをえないのは、主催者の事前の社告には全然そんな形容などなかったにもかかわらず、釧路に着いて御当地の「釧路新聞」をひろげてみたら、いつの間にか、会は「文化講演会」から「文化大講演会」へ、呼称をLサイズに拡大していた、という事情がひそむからである。真打講師が新田次郎、開高健氏だったからな、新聞社は新田氏の気迫、開高氏の体躯などを連想しつつ、つい、クラス分けの区分を大きくしたにちがいない。
初日の旭川ではハタハタの石狩鍋をごちそうになった。二日目は、オホーツク海の漁業基地である紋別であった。人口三万の小都市なのに、目を見はるような、モダンで使いやすい設備の市民会館を持っている。こういう街は、食いものもおろそかでないのですよ。果せるかな、夜更け、街の青年会議所の若旦那方が連れていってくれた「爐《いろり》」という居酒屋での、キンキのひらきの焼きものは、頭までしゃぶりきらずにいられないくらいの、軽い甘味であった。あの赤皮の魚特有の、多量すぎるあぶらが、全然、くどくないことに驚く。新しいのである。
この|あぶら《ヽヽヽ》のことから、話はしぜんに秋刀魚へ移った。会議所の若い資本家たちは、「では、この秋、当地自慢の秋刀魚漁もまだまだの時節ながら、明朝、刺身をごちそういたしましょう」と申し出られる。その通り翌朝、私たちは、生まれてはじめて、秋刀魚に、刺身の形で対面した。無知|蒙昧《もうまい》な私ならともかく、大自然とともに生きる新田次郎、釣りのために生きる開高健、この両先生なら秋刀魚の刺身くらい既におなじみであろう、と想像する向きもあられようが、いずくんぞはからん、両氏とも、こらァはじめてだ、うまいうまい、と盤台を端から端まで平らげてやまなかったのだから、いかにこの一品が希少の価値をもつかが知られた。今年ァ秋刀魚の大豊漁、やっぱり当り年のはおいしいわね、などと、目は濁り、|わた《ヽヽ》は飛び出たようなのに感動してる拙宅の女性などは、まだまだ無邪気な消費者の域を出ない。
秋刀魚の刺身は、三枚におろして皮をはぎ、いわば鯵《あじ》や鰯《いわし》をそぐようなスライスにしてある。身の色はほとんど鯵と同じで、だまって出されたら、大部分の関東人は色で間違えるだろう。ワサビ醤油、乃至は、もみじおろしの醤油で食う。
俗説に、刺身で最もウマいのは秋刀魚である、といいます。私、この説を援護射撃するほど豊富な体験を持つわけではないが、なるほど、この説に根拠があるとすればここのことか、と思える、おどろきがこのとき、一つあった。秋刀魚の刺身は、想像のほか、といっていいほど、癖をもたなかったのである。びっくりするほどこれは、味に偏りのない魚だった。新鮮であるかぎり。
だいいち、焼くとあれほど出るあぶらが、ナマだと、まったく感じられないのである。鰯は、刺身や酢漬けほど、ギロギロあぶらぎってくるし、鯵だってナマは舌にねとつく。が、秋刀魚は、どこに消えたかと思うほど、あぶらッ気が失せていた。といって、白身の魚ほど素ッ気ないのではない。ひなびた野趣が歯にこたえて、しかも下卑《げび》た俗っ気がなかった。
私はしかし、秋刀魚という魚は、この刺身のままで食うのがいいか、塩ふって焼いたほうが好きか? ときかれれば、「やっぱり焼いていただきましょうかァ」と答えるにちがいない、という気がこのときした。何がなんでも、煮焼きするよりは生まで食うほうがウマい、などと信じこむのは、女は処女だけがいい、と思いつめるのと同じ、たわいなさすぎる偏見だろうと思われる。大事なのは、いかに|もと《ヽヽ》がイキイキと鮮度いいか、だけなのであって、あとは煮ても焼いても美味である点、女とサカナは、はなはだ相似ているように私には考えられる。似てない点は、サカナは酒の前にあって、女は酒のあとになる、ことくらいか。
余計な話はともかく、秋刀魚はどうしたって、私には焼いたほうが、味がでる。塩焼で、だいこおろしに醤油、とくる以外、ない気がする。秋刀魚にがいかしょっぱいか。癌が出るほど黒焦げにしてもウマいし、肌の青味をのこして、うっすらと塩気を感じさせるのも、いい。最上部分はいうまでもなく|わた《ヽヽ》である。身などは要するに、わたの苦味《にがみ》の、添えものにすぎないだろう。この|わた《ヽヽ》ひとつのためにも、秋刀魚は、焼く場合でさえ、極度に新鮮でなければならないので――そうだ、わかった。あの北海道で秋刀魚の刺身が、あんなに美味なのに私にはいまひとつだけ物足りなかったのは、紋別でも、二度目の釧路でも、|わた《ヽヽ》がついてこなかったせいだった。
紋別港の桟橋に近く、朝の魚の競り場には、二尺余の秋味の鮭が、ぬれた三和土《たたき》に銀のうろこを並べていた。雌をまるごと一尾、三千円でいいよ、という。東京だったら、腹のなかのナマ筋子だけで、そのくらいは飛びかねない。思わず目の色が変って手がでかかったけれど、このあと、三日目は北見、四日目は釧路、と講演がつづくのでは、この一尾を笹に刺して、熊みたいにかついで歩くわけにもゆかなかった。
釧路での仕事まですべて終えたその翌日、北海道でのお別れの晩をすごそうと、一行は札幌へ引揚げてきた。取るものもとりあえず、私は二条市場へ走る。北海道まで来て、ここに顔を出さないでは、東京へなど戻れないのである。
近藤昇商店で、ぜんぜん塩のからくない新鮮なモミジコ(北海道では、私たちがタラコと呼ぶスケソウの卵を、げんみつにマダラの卵と区別して、こう呼ぶ)を手に入れたあと、本間魚店にまわってみると、ほうら、ありました、母鮭の腹から出したままの生ま筋子が、鮮烈なうすい朱色の粒々を光らせて、ひろがっている。よだれを垂らさんばかりの表情でみつめていると、「持ってゆくかね?」店のにいさんは、いちばん色も形もきれいな一房をとりあげて、誘いをかけてくれた。これでこちらの買い気にも弾力がつくのである。この一腹の卵を、この店先で、イクラに仕立てて、「紅葉漬」にしてもらう。
にいさんは、筋子の外皮にさっと湯をかけて剥ぐと、じつに要領のよい指さばきで、なかの粒々を一つぶもつぶさずに、ほぐしてしまう。それを一洗い。あとは醤油と日本酒を適量にふりかけて、タッパーウェアいっぱいに仕舞いこむ。これで東京まで一飛び。練れますね、あすの朝食までには。ふだんは禁絶の白米も、明朝は雪の白さに炊きあげてその上にこのイクラを散らそう。燃える紅葉は晩秋の装いか。一粒一粒が鳥黐《とりもち》の粘りで、北の海の香を伝えるのである。新しい鮭は、鰓《えら》を除いて食えない部分がない、といわれる魚で、じじつ、みそ汁に仕立てた肝やはらわたのうまさなど、類を絶するものだけれど、それでも生まのイクラにかなう味は、他にみつけようとて、無理だとおもう。女ざかりだけが産みうる卵のうまさである。私、いちど、檜山義夫先生から、「あなた、魚がかわいそうです。卵を食べるのだけは遠慮してください」と強くたしなめられた。たしかにおおせの通りである。けれど、正直、魚で卵ほどうまい部分は、あるのだろうか、というおもいは消しようがないのだ。
さて、北海道の四日間は、ウマい秋刀魚や、鮭、帆立の類いばかり食いすぎた。札幌の夜はジンギスカンにしてほしい、という開高健氏のすばらしく適切な提案で、一行五名、即ち三講演者と文春のI、Y両氏は、足取りも軽く、サッポロビールは開拓史館のビヤガーデンへ赴いた。生ビールのジョッキを片手に、ここの名物料理はラムの焼肉である。
食いだしたとたん、驚いたな、もう。「肉、追加! 二人前や」――叫んでおられるのは開高健氏で、ま、食うなァ、このひと。食っては炙《あぶ》り、炙りかけては食い、「そう。ちょいと焼け色さえつけば、ええのです」。五名で平らげた計十二人前の肉のうち、先生ひとりで確実に四人前はぺろりと征服したのを目撃し、私、その、美しいとさえいえる壮烈さに、呆然、声も出ないくらい驚倒してしまった。ほんとうに「健」だァ。開高健啖だァ。
秋刀魚の刺身どころではないのである。
肉魔は冷凍ラムまで、生まのままで食う。
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食わず嫌い≠フ美味
「東京の魚屋、乾物屋じゃァ、簡単に塩鯨《しおくじら》なんぞ手に入らないのよ」などと告白すれば、関西や西日本の人々は、「ヘエ!?」と、信じられぬもののごとく首をかしげる。東京へ行きァ何でもあるサ、などとは嘘の骨頂である。肝心の東京では、シオクジラって何サ、どんなのサ、とききかえす若い女のほうが多そうな現状である。クジラとは、へりに紅を塗ったベーコンだけだと信じている。
某日、熊本への講演旅行。ここは私、祖先墳墓の地でもあるからね。仕事のあと、殊勝にも菩提寺の墓参も済ませ(住職さんにいただいた「加勢以多」という柿の菓子は品のある味でした)ると、さて主催者の「熊本日日新聞」氏、「次はお城へでも回りまッしょうか?」
御親切に誘ってくださる。が、
「イヤ、お城、あれはわかっとります」不孝にも先祖の勤務先の見学は、割愛させていただき、
「それより、|まち《ヽヽ》で奥さん方が夕方の買出しに行く市場《いちば》を、見せていただけませんか?」
例によって、食いしん坊まるだしで、現世的欲求を表明した。案内役の新聞記者氏ふたり、思わず顔を見合わせたのは、これまで来熊の外来客から、そんな注文の出たことが一度もなかったためである。だいいち、奥さんの行く市場なンぞ、この無冠の帝王たち、歩いた覚えさえなかったにちがいない。社会の木鐸《ぼくたく》はそんな場所で鳴らすものとも思ってない。
子飼《こがい》、という商店街へ連れてっていただいた。この長い長い一筋の雑踏の露路は、戦後、多くの都市がそうであったように、自然発生的に露天の市が立って、商人と市民との間に公然の民間取引が行われた、つまり、あのヤミ市の発展形である、という。背後はすぐに、以前の農村地帯で、そのかみ、野菜などは、ジカにそこの畑からこの市場へ運ばれたものだそうだ。その遺留品である、灰色の泥にまみれきったままのレンコンが、さすが熊本を証明していた。
「馬刺《ばさし》にできるような馬肉、どこかで手に入らんでしょうかなァ」
私がおずおず、名物の所在をきくと、
「ありますあります、あんなもの、どぎゃん肉屋でも売っとりますけん」
安心なさい、と自信満々。記者氏が「ほら」と指さす肉屋を見ると、なるほど、「馬コマギレ100g 50円」――。れっきとしたガラスケースに、牛や豚と対等の肉色をさらしているのが、馬肉であることが、私には目を見はるような驚きである。東京なぞあなた、馬の肉が目の前で手に入る肉屋なンて、五軒もありそうに見えませんことよ。
記者氏、大きくて立派そうな店構えの肉屋に近づき、そこは商売、こともなげに主人を手招きで呼びよせて、
「どうかね。奥に、サシミにできる霜降り、しまっておらんね?」ざっくばらんに問いかけると、
「霜降りばなかけン、ここがいい肉ですたい」
冷蔵庫をガッチャリとあけて、白い脂をかぶった片身の枝肉、どたりと大|まないた《ヽヽヽヽ》へ置いたのには、目をむいた。馬の脂は黄色、ときいていたが、あれァ食いものが悪い馬のことなンだッて。むろん、買って帰りました。百グラムあたり二百三十円。でかいロースの塊りを、乾いたタオルできっしり巻いてもらい、道中、ジワジワ血のにじみだしてくるやつを、そのまま抱いて帰った。|うち《ヽヽ》の玄関で靴ぬぐやいなや、
「シラガダイコの代りにタマネギさらせェ! 醤油は、ワサビじゃないぞ。ショウガじゃ、ショウガ」
服を着換えるのももどかしく、馬剌《ばさし》を製造させた。塊りではうっすらとピンクをしている色が、スライスにそぐと、たちまちに鮮烈な濃赤色に染るのが、華麗である。端っこの生肉を私から払下げてもらった猫が、目の色かえた焦り方で二片《ふたきれ》目を所望しだしたのは、よほどの味なのに相違ない。
私に負けず、食の好奇心旺盛な娘が、まず、一片を口へ放りこみ、
「これ、馬ァ? 柔かくて、甘くて、生の牛肉みたい」
欣喜雀躍なのは、若いッて、羨しいのう、歯がいいからである。私もまねて一片を口へ放りこむ。何の癖も臭みもない淡々たる甘味は、娘のいう通りではあるが、私はさすが、やや固めの|すじ《ヽヽ》を、歯が見逃さない。しかし、それにしても、何とあっさり、飽きのこない味だなァ、これは。黙ってりゃ即刻全量を家族皆で食ってしまいそうな勢いに、
「待ちなさい。止《や》めろ。ストップ。そこまででおよし。あとは、半分をスライスで味噌づけ、残りの半分は塊りのまま冷凍庫にしまうのだ」
あわてて命令を下す。まず少し辛目の味噌を、煮切ったみりんでうす甘くのばし、そいつを馬肉のスライスにぺたぺたと塗りつけて、タッパーウェアにおさめる。冷蔵庫に一日寝かせるわけだが、こういう際は必ず前面の扉に、適食日≠メモしてはりつけておくのが|こつ《ヽヽ》である。一ン日置き忘れると、味噌づけは、確実に辛味・酸味が濃くなりすぎてオリジンの妙味がすっとんでしまう。さて翌日、表面の味噌を掻き落し、直火でサッと軽く網焼きした馬肉は、ほとんど牛の赤身とかわらない。焼きすぎさえ注意すれば、これは非常に品のいい、しかも香りからして食欲をそそらずにはおかない、あじな突きだしとなりうる逸品であった。薄めのスライスを、短く味噌につけて、軽く軽くあぶるのが、要諦のようだ。味噌仕立ての割下でのスキヤキ(サクラ鍋)も、これはシシナベに迫る野性味である。
さらに、思惑、図に当ったのは、肉塊のままの冷凍であった。「凍らしてごらんなさい。馬の冷凍肉は、鯨尾肉の刺身と同じですけん」記者氏のそそのかしは、完全にガセネタでなかった。薄く冷凍用ナイフでそいで、ショウガ醤油にひたすと、鯨刺身とも、鮭のルイベともまったくちがう甘さが、氷点の冷気からしみだした。肉汁のチューインガムよ。
なぜ、東京では、こんなウマいうま肉が、やすやすとは手に入らないのか。かつては、サクラとたたえられ、蹴とばしと壮称《ヽヽ》されたこんな親しい味を、なんで、東京は遠ざけたのか。
いうまでもなくそれは、素材難、とか、原料高、といった例によっての件ではなくて、ただひとつ、街に広く行渡っている、馬肉に対するタブー感情、本能的拒否、つまりは親しい動物への「食わず嫌い」だけが真因、というほかないだろう。もったいないねえ、いちばんウマいとこが牛肉の半値以下で買える肉を、私たちは、ただそれが、天皇賞でも目にするおなじみ動物だ、というだけの理由で、そっぽを向いてしまうのである。天皇賞では千円ともうけさせてもらったこともないのに。
話は一見ちがうみたいだが、近頃、デパートの地階食肉売場あたり、とんと、牛の、べろ、尻尾、心臓、腎臓、後頭部、骨、といった――つまり、肉以外の部分が並ばなくなったのをご存じか。稀れに出ると、これこそご存じ、べらぼうな高さである。
「どうしたことなの、あれ?」
愛知県と北海道ででかでかと牛の酪農をやってる|いとこ《ヽヽヽ》に尋ねてみる。と、
「つまりは、日本の牛肉市場が輸入肉に押されてゆく悲劇さ。日本人は獣も肉の部分しか食わんおかしな民族だ、と、向うの商社は、ウマいが安い内臓や舌や尾は輸出してこないわけよ。割高の肉部分だけ送りつけてくる。結局、日本の都会では、国産の牛のわずかな内臓を、わけあう以外にないンだよ」
――だから、本来だったら、もっともっと安く安く食えるウマい牛の尻尾なぞも、日本では大事大事、宝物みたいに思わなければなりませんのよ。
と、私は、家人や子供に、いとこから受売りしてきた講釈をそのまま説教してきかせ、彼の農場からどっさり仕入れてきた牛の尾を、|こっくり《ヽヽヽヽ》とオックステール・シチューに仕立てて、味わわせたことがある。そして、ぺたぺたと、口のまわりをゼラチンでねばらせ、舌なめずりしながら、少し東京を恨んだのである。
「食わず嫌いの多い都に住んでいると、結局全員が損するのだよな」
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ゲームの規則
スペイン観光のバス旅行である。乗客はむろん、全員、日本人。
現地採用の日本人ガイド嬢にくっついて、ま、お目付け、と申しましょうか、何ひとつすることもないのにスペイン人がひとり、乗込んでくる。ガイド業という重要産業を、外人たる日本人にのみ奪取されてしまわないため、必ず一人は、言葉なぞわからなくても、スペイン人を「案内」に付添わせるという、苦肉の国家政策である。つまりは、優雅な商売≠絵に描いたような人物。
このとき乗ってきたスペイン・センセイ、ひょうきんなおしゃべりでね。次々とジョークを発しては、日本嬢に通訳させる。自分ではこれでも仕事をしてるつもりである。
バスの前を先導するように、一羽のハトが飛び去っていったときは、鉄砲で打つ真似までして、欣喜雀躍、翻訳をうながした。まじめな日本人ガイド嬢は、ジョークでも直訳せざるをえないの。
「ミゲルさんは、こう言っておられます。来週はいよいよ、狩猟解禁である。あの鳩だっておおっぴらに撃てるのだ。私の胃は今、よろこびのため、鳩のように鳴っている。くくう、くくう。ハハハハハ、ズドーン」
車内、全員、シーンとしちまって、寂寞、声がないの。
ミゲルさん、冗談もよその国の人間には全然通じない分野だってあることを、ご存じなかったみたい。あまりに冷淡な車内反応に、彼はハトが豆鉄砲食ったような顔をしたが、こっちはこちらで、「マア、鳩を殺して食べるなンて!」――心底、これがピカソの国の人間か、と呆れはてている。
熊本県の玉名へ出かけた。
九州有数の温泉場であるが、はて、あとで、振りかえってみると、私は結局、行ってから帰るまでいちどもお湯につからなかった。市民会館で講演して、めったやたら、うまい霜降りの馬刺《ばさし》を食わされて、焼酎を(私ひとりじゃないが)三本ほどあけて、頭ン中から足の先までアルコールにマリネされ、フカーッとした状態になって、いつの間にか、東京へ帰ってた。そうだった、この晩、出された焼酎は、それまで、こんなものがあるとも知らなかった、宮崎産の「雲海」というソバ焼酎≠ナあった。いけます。すきッとした気品があってね。のびはないが、あと口に、スッと|そば《ヽヽ》の香味だけが一瞬通りすぎる涼しさは、まったく推すに足る。二十五度のストレートが、特に佳良におもえた。
この夜、馬刺のあとに、鳩が出たのである。案内役の大記者氏、この方は、先般も熊本市を訪れたとき、子飼の市場をひきまわしてくれた御仁であるが、この夜は、かつて玉名の局長時代に知ったという、近郊の山家料理へ車を走らせたわけである。いかに新幹線時代とはいえ、店名を書いちまったって、関東関西の遠方からワッと殺到される恐れは少そうだからいうが、菊池河畔の「船山城」という店である。原っぱに、一軒、ぽつんと建ってた。
朱の大椀に盛られた、|のっぺい《ヽヽヽヽ》みたいなごった煮汁の、その醤油味の汁気が、じつに、素朴でウマい。薄骨のついた肉片が、汁のなかに数個。この肉の、ほのかに来る鳥の香りが、また、じつにひなびて自然である。こんな鶏なんて、当節ありァしない。
「アア、うまい。これァ何の鳥を使ったおつゆですか」恥ずかしげもなく尋ねると、
「鳩汁です」
即座に答えが返ってきて、私は反射的に、ミゲルさんを思いだした。なるほど、これなら胃も鳴るだろう。
おとなしい生きものは、肉までおとなしい、とはいえないだろうか。獣の中では、ウサギの肉が特におとなしいように、鳩の肉は、まったく、くせがなかった。繊維を噛んだ瞬間の、歯ごたえの弾力と、舌へほとばしり、降りそそぐ肉汁の動物感と、鼻の奥へやってくる、その鳥獣特有の匂いと――つまり美味を決定する三つの要点の、瞬間のバランスと統一感が、ひたすらやさしく溶け合って、過不足のない肉が鳩だった。
「冬場、解禁期間に仕留めたのを、冷凍しとったとたい。けさ、冷凍庫ば整理しとったら、たった一つ残ってたのが出てきよりました。もう今年は、これで、十一月になるまで、おしまいになりますけん」
はっは、私の食べたのが今年最後のひときれでしたと。よかよか。
とどめは、この夜、ちゃぶ台の上で焼いた鴨の肉であった。近頃は、座敷でつかう焼肉用の鉄板にまで、新機軸が現れてるのですねえ。テーブルのガスバーナーの上に置いて、その鉄板で肉をジュウジュウあぶっても、部屋には煙ひとつこもらない。脂も服へ飛び散らない。どういう理屈になっとるのか。ともかく世間には、知恵のある食いしん坊の発明者がおられるものだ。
鴨の美味は、結局、皮と脂部分につきてしまう。肉も極美だが、その肉にくらべてさえ、この部分はウマすぎるのである。|北京※[#「火+考」、unicode70e4]鴨《ペキン・ダツク》だってそうだ。「バスコ・ダ・ガマ」と呼ばれる、カモとオレンジ・ソースのフランス料理にしたって、しょせんは、皮ですよね、狙いどこは。広東料理におけるカモにいたっては、美味は皮のパリパリと脂身のニタニタにつきる、といいたいほどの絶品である。泣きたいほどマズい日本のブロイラーの鶏だって、食える味が残ってる、とすれば皮だけなのだ。あそこだけは、パリパリヌルヌルして、しかもまだトリ臭いのだ。
この夜、「船山城」で鴨の皮をじっくりと焼いてもらいながら、内心は、わたし先日、テレビ社会番組の司会にしゃしゃり出て、「野鳥を守りましょう。私たち日本人は、一年に、罪もない鴨を百万羽も殺して食ってるのです」などとしたり顔をしたなァ、と苦しく罪の意識にさいなまれ、しかし一方、ああそう、か、天皇だって鴨猟をよろこばれるのではないか、パリでは世界一有名な鴨料理の「トゥール・ダルジャン」へもお出かけになったほどではないか、と自答し、けっきょく、テレビより天皇をお慕いしているうちに、全部食ってしまった。「袞龍《こんりゆう》の袖に隠れ」た。
――皮を焼いてもらいながら、この夜はずいぶん、猟の話が出た。私は、自身、|猟 《ハンテイング》は、ぜんぜんしない。したいとも思わない。ガール・ハンティングもダメだが、私は、あの本ものの、鉄でできた鉄砲という長い玩具のほうにも、どうしても兵隊時代のつらい思い出がつきまとってね、なじめません。だいいち、撃ったとたん、肩の骨へ衝撃がくるのと、耳がキーンと鳴るのが、決定的に、こわい。こんなことで聴力が落ちて、高いサイクル数がきこえなくなって、ステレオを聴くたのしみが失われたら、兎や鴨の一、二匹にはかえられない損害である。二兎を追う者は一兎を得ない。
ここ熊本県玉名の話ではないが、或る冬、北九州に野鳥アトリの大群が来襲し、畑などに激甚《げきじん》な損失があった。鳥には哀れであるが、こう人間に被害がでては、ある程度は撃ち殺しても仕方ないではないか、ということになり、散弾銃を放ったら、三発撃って二百数十羽が落ちてきたそうである。ヘエ、それで後始末はどうしたのだろう、食ったのかなァ、ときいたら、
「うまかとですたい」
店の人は受売りで保証した。どこか現地へゆけば、まだ冷凍してあるかもしれない。
――たぶん、戦後平和思想の徹底のためであろう。私たち、今の日本人は、特に都会の市民ほど、みずからのハンティングの成果、つまり英語でいう「ゲーム」(狩の獲物)の食物を拒む性向がつよい。Game といえば野球かパチンコだということになっている。私たちに最も身近な魚釣りでさえ、「へえ、釣ってきた魚は食うのですか」などときかれる始末である。フランス製の圧力鍋を買うとついてくる家庭料理の手引書には、雁、家鴨、鴨、鳩、鷓鴣《しやこ》、猪、鹿、兎、と、いわゆる Gibier(獲物)の料理法が主婦向けにズラリと並んでいる。この西欧的(中国人だってまったく同じだが)食常識とは、対蹠《たいせき》的なメンタリティをわれわれは持つわけである。東京でも超豪華なフランス・レストラン、たとえば「レジァンス」などではウズラ料理が看板のひとつだが、あれも、メニューには Caille などと書いてるからお目こぼしなのでね。ウズラなんて明記したら、鶉とは卵だけを食うものだと信じてる市民からどんな反撃が出るか、はかりがたい。もっとも店では、「じつは日本の鶉ではございません。パリ製ウズラで……」とおっしゃるかもしれんが。
いま、日本で獲れるゲームのなかで、最も美味な鳥類は何か。小綬鶏(コジュケイ)ではないか、というのが一つの説である。
この鳥、もともと、日本にはいなかった。大正時代、撃って食うため、わざわざ放したのが、日本に野生するようになったはじめである。
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肉食のエコロジー
かつて私はドイツから、家の者へ「肉の筋切り器」を買って帰ったことがあった。
ご存じの通り獣肉は、白い脂部分と、赤い肉質部分のわかれ目に、白く硬い紐状の筋(すじ)を分布させている。かつ、肉の繊維には、一定方向の腱があったりして、これが長ければ、肉は歯でよく噛みきれない。いわゆる「きょうのビフテキは固い」現象をおこす。その点、この「筋切り器」は、ローラー状のドラムに幾枚かの歯車状の刃を平行で植えてあり、トゲみたいなこれを、柄で押してスッと肉の上に転がす、と、たちまち肉の筋や腱は無数に切断されてしまう、という便利な道具だった。
日本でも、もちろん売っているものだろうがね。ドイツで見かけたのが、めぐりあわせである。最愛の伴侶のために買ってってやりましょうと、一個を購《あがな》ったが、さて、帰国してみると、これが、伴侶、ぜんぜん喜ばなかった。子供の玩具みたいなブローチを買って帰ったときほどにも、喜ばなかった。便利重宝な実用品ほど、喜ばない。無駄な飾りほど、喜ぶのである。いまに至るまで、筋切り器は、だいどこの棚に、ドイツ語の外箱ごと放りあげられたまま、ほとんど、使った形跡がない。わざわざあちらで、苦心惨憺、独英語の片言をチャンポンに駆使して、機械の分解のしかた、さては、使用後の洗い方まで聞いてきた苦労の甲斐など、いずこにあろうか。洗うなどという段階に達するのはいつの日のことか、といった放りだしかたである。
――だって、使う必要が全然ないのよ、という。
「しかしトンカツを揚げるときだって、白い紐帯《ちゆうたい》は切る必要があるだろう?」
「だって。あんなもの、最初から肉屋さんが包丁で切ってくれるものゥ」という。
「ビフテキ肉だって、表面をロールしたほうが柔かく焼けるだろう?」
「だって。ビフテキのときは、最初から柔かい肉を買うものゥ」という。
ぜんぜん、ドイツの機械製造者の着眼を無視しちゃってて、話にもならない。
ギリシャへ行った。首都のアテネへやってきた。私はここで、なぜヨーロッパでは家庭に「肉の筋切り器」が必要であり、一方なぜ、日本の家庭はそんなものを一向にお呼びでないのか、改めて実感させられることになった。
ヨーロッパの街々では(田舎ではなおそうだろうが)、肉の小売店は必ずしもウインドー・ケースを必要としてないようである。日本の肉屋みたいに、磨きあげたガラスケースの中に、霜の花の咲いた白い管かなんか通しちゃって、緑のパセリの葉なんぞ飾っちゃって、赤い電気で照明する、みたいな装飾趣味は、彼らにはまったく無縁のようである。ぜんたいを白く塗った店の壁に、巨大な枝肉の塊りを、時には脚つきのまま、幾本かぶらさげて、その下で、主人が一人、何をするでもなくブスッと椅子にかけてる、といった小売店が、やたら多い。
アテネのアクロポリスの下にひろがるプラカ。ここは、現存するアテネ市の街区のなかでは最古の歴史を誇る、といわれる下町だが、ここの狭い道筋で出会った肉屋は、肉塊くらいじゃ済まなかった。威勢のいいにいちゃん連が、朝からもう店先に並んで、鉈で枝肉を叩ッ切っているその頭の上には、きょうの商品となる大小の鳥獣ども、さすが頭だけはどこかへ仕舞われたらしいものの、首以下の胴や四肢が毛皮つきのまま、生けるがごとく、さかさ吊りにつりあげられているのだった。
鴨もあった。兎はとくに多かった。羊もむろんたくさんあった。最も巨大なものは、どうみても毛の具合、色、大きさ、とも、鹿であって、あとで、英語のわかるタクシー運転手に、「君たちは、ディアも食うのか?」ときいたら、「でぃやァ好きだで」と答えた。羨しい話である。われわれには、日常、鹿が食えるなんて、信州の山奥でもないかぎり、夢の世界だ。
この運転手がワザワザ、「そんなに肉が好きなら行ってみろ」と教えてくれたのは、アテネの商業中心街であるオモニア広場、そこから南へくだるアテナスという大通りの、食肉市場街であった。行ってみた。私は、日本ではかなり各地のマーケットを歩いた気もするが、未熟未熟。これほどの感動をもって、強烈な食い気の雑踏のなかへ巻きこまれた体験は、数えるほどしか(イヤ、数えるほどもあったろうか、としか思えないくらい)、なかった。
広さは、上野のアメ横をはるかに越すだろう。ちょうどあのように街の幾ブロックかの一ゾーン全体を軽い大屋根でおおった大構造物で、天井、鉄骨の柱、すべて真白なペンキ塗りである。ここへE字形に通路を通して、その道路の両側は、オール裸――という意味は、ショーウィンドーも店の仕切りもありゃァしない、白い羽目板へじかに品物をつるし、並べた、ということだが――数百軒の肉小売店が勢揃いしているのであった。札幌の二条市場だって、築地の河岸だって、こうは盛大に、魚屋さんは並んじゃいない。
この数百軒の肉屋が、ぜんぶ、同じ白い荷台、白い服装。同じ品物を並べて、ずらッと果もなく一列横隊になってるところが、さすが西洋で、日本だったらこうは統一がとれませぬ。必ず、他店のアイディアの真似はするものの、隣の店とはちがうスタイルで客の目をひこう、と、相手の出し抜きに知恵をしぼるね。つまり、雑草型になる。それがアテネは、西洋風の単一植生型の、のっぺらぼうの数百軒だから、これじゃァ、店々で肉片を見比べたあと、結局前に見たあの肉がよかったようだ、さっきの店へ戻ろう、ったって、見当のつけようもなくなるのではないか、と、ギリシャのおかみさんたちのことまで心配になってきた。ときどき、ひどくずぬけて頭のいい店が、堂々、正面《フアサード》上方に鹿の生首を飾ったりして、自己主張を図っている。もっとも、現実には、さいぜんの店へ引返そうにも、引返しようのない、客の大雑踏である。ほのかに立ちこめる生肉と血の香りの間を、おかみさん、亭主ども、店員……織るがごとく縫うがごとくひしめいて、後から、どたんと誰かが突き当るから振向くと、じつはおにいさんが肩に担いだ羊の腿肉だったりし、その上を、「らっしゃ、らっしゃ、らっしゃい!」――発音だけは、完全に日本の夕方のマーケットと変らない、呼びこみの声が反響しあって、世にも壮観な交響を完成している。あの掛声だけは、ソクラテス、プラトンの国も、栄チャン角サン三木クンの国も全然変らんのね。一口でいって、完全に大晦日の京都は、錦小路を、ブルックナー交響曲クラスにボリウム・アップした、というほかない雰囲気。
で、店々に山とつまれた肉は、ここでは皮も剥いであるので、素人には一から十までは見当もつきかねる獣もあるのだが、時には蹄のついたままの長い長い羊の脚が並んだりして、彼らが、牛と豚以外にこそ相当の嗜好をお持ちのことを証明している。エリザベス女王を皇居に招かれた天皇だって、メインの皿には羊のあぶり肉を出されたのだものな。われわれシモジモだと、羊など客に出そうものなら、「あそこのおウチではごちそうがマトンなのよ。牛肉も買えないのね」などと大騒ぎになるのだが、さすが高貴の伝統をほこるギリシャ民族、好物まで天皇や女王に似ている。もちろん、ばら肉をはじめ、すべてが骨つきの大肉塊である。ときどきある、骨なしの肉片にしても、ビフテキだったらニューヨーク・カットが二人分はとれそうなくらいの、ぼでぼでの厚切りを、主人が女客に「奥さん、どや、シッカリしたもンやないか」と、わざわざ指で押させている。私たちは、魚こそ、魚屋の店先で押す習慣を持っているけれど、考えてみりゃ、肉を手でいじらせてくれる肉屋なんて、世にあることすら思いつかない。
それにしても、厚切りにみる肉の断面は、たとえ牛にしても、じつに脂気が少い。「霜降り」といった感触は、求めようもないほどの赤身ばかりである。ドイツやフランスの肉屋などでは、だからこそ、丹念に、肉の赤身の塊りへ、細長いコテようの金具で、白い脂身を挿しこんで売るのである。日本を除くほとんどの国では、当然客も、肉とはこういう塊りをそのまま買うものだ、と信じこんでいる。だからたとえば在留日本人が、その習慣を破り、祖国風に薄切りにして売ってもらいたいときなぞ、注文の意味を店主に納得させるには、かなりの年季と、御当地語の駆使が必要になるとのことである。
ここアテネでも、薄いスライス肉なんぞは全然売ってないわけだが、かりに売ってたとしたって、この赤身じゃ、スキヤキ、しゃぶしゃぶの類いにはなろうとも思えない。かつて、スイスで「フォンデュ・シノワーズ」なる鍋ものをオーダーしたことあり。要するに、調理としてはしゃぶしゃぶなのだったが、差しだされた赤身の片《きれ》のぼてっとした厚さを見たら、これではしゃぶしゃぶで食いようもない気がした。だいいち、肉屋がふりまわしてる包丁は、われわれみたいな、刺身をおつくりするような柳葉みたいな細身じゃない。文字通り|肉切り《チヨツパー》、むしろ鉈といった方が正確な代物なのである。
このアテネで驚愕したのは、価格であった。各々の肉塊には、ボール紙に48とか59とか、ほぼ80台どまりの数字が添えてあって、これがドラクマの意味だとは判ったが、計量単位が判然しない。やっと、それが一キロ当りなのだ、とギリシャ文字が判読できて、私ァ呆然としてしまった。一ドラクマは八円ちょっとであるから、ここに並んでる肉は、すべて、百グラム四十円から、高くて七十円なのだった!
日本の家庭では、肉はただ「調理《クツク》」すればいいものである。つまりうちのかみさんの手に渡るまでに、業者によって完全な下準備が行われきっている。西洋のかみさんはちがう。うちへ買って帰って、そのあと、彼女自身の手で、さらに小さく叩き切り、筋切りをおこない、さてそこから、調理にかからねばならぬ。――この手間のちがい。あるいはべつのことばで言えば、日本における「他人まかせ」。われわれの国で肉がやたら高いのは、この、いわばレディメードの「おまかせ」が、いつの間にか客への手数料に化けてることも理由の一つだ、とはいえないか。
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『ミシュラン』がほしい
パリの街を歩きながら、道ばたに駐《とま》っている車のリア・ウィンドーから、覗くともなく車内を観察する。あちらさんの車族は、後部座席の棚に何を置いとるかね。
決して、彼らはクリネックスの箱など放りだしておりませんですね。どの車にも、お定まりのごとく置かれてあるのは『ミシュラン』の赤本――かの著名なる、ホテルとレストランの名ガイドブックである。後部の棚に置かない人は、ダッシュボードにしまっとります。実際、この一冊を携行せずにフランスの街道を走ろうなんてフランス人ドライバーがいたら、お目にかかりたいくらいだ。
彼らに限らない。私ら日本からの観光旅行者、これだって、自分の目であのフランスを見、自分の舌でかの国の味を探る気ならば、少くとも、地図を除いて三冊の道案内は要ろうというものである。第一が、緑色の表紙の『ミシュラン』名所案内。これは、観光要地と、探勝ルートの、完全案内。第二が、ベルリッツから出てる『旅行者のためのフランス語』なる小冊子。便利たァ、この小型本のことです。特に、料理店へ飛び込んで給仕からフランス語のメニューを突きつけられたときは、この中のEating Out≠フ章が、唯一の救い。
そして第三が、前述、赤表紙のほうの『ミシュラン』である。――日本の洋書屋でも売ってるが、向うへ渡るのにワザワザこちらからぶらさげて行く必要はない。パリでもどこでも、本屋か、舗道のキオスクか、駅の売店でたちまち手に入る。
詳細正確、これは驚くばかりのホテル、レストラン案内である。赤表紙『ミシュラン』は、現在、フランス編、ドイツ編、イタリア編、ベネルックス編、スペイン編、グレート・ブリテン編、パリ編、ロンドン編などが刊行されている。近くニューヨーク編も出すつもりだ、と七三年版には予告が行われていた。各編とも年刊。毎年三月、新版が出る。この新刊の、とくに「フランス編」で、各料理店の評価表(いわゆるミシュランの星)が、さあ今年はどう変化するか。これが生つばをのむような注目の的となるわけである。
ミシュランとは、ご存じフランスのタイヤ会社である。だからこの本の表紙にも、芋虫みたいな服のおっさんが、タイヤと一緒に走ってる例のマークがついてる。ともかくこの赤表紙のホテル、レストラン案内も、緑表紙の観光地案内と並んで、名社長アンドレ・ミシュランいらい、同社の、半世紀をこえるユーザー・サービスの一環なのだから、嬉しくなる。ヨーロッパを走りまわる同社のタイヤ使用者、つまり一般の不特定多数ドライバーたちに、津々浦々のおすすめホテル、グッド・レストラン、そして見るべき観光ポイントを、厳選しぬいて御紹介申しあげようという親切心である。この親切は、凝って、みごととなりすぎ、今は、車ならぬ、他社のタイヤの飛行機で行く私たちにまで、聖書視されるにいたったわけで、どうせ作るならいいものを作っておけ、とは、まこと、これを指す教訓にほかならない。もっとも、辻静雄氏著『舌の世界史』によると、赤表紙本フランス編の各年の新刊は、発行部数約五十万部、中身の濃さからいって赤字の持出しであろう、という。七五年版も日本で二千円ほどで買える。
緑表紙の観光案内は英語版もある。が、それとちがって、食い気・泊り気専用の赤表紙『ミシュラン』のほうは、オール・フランス語である。が、安心されたい。「本書の使いかた」という明快な序文と解説が、あなたお得意の英語でもついており、あとは非常に視覚的な記号が重要なポイントを教示するから、絵しかわからない私などでも、かなりの程度に使いこなせるのである。かつて、リヨンからパリまで急行列車で走った四時間あまり、乗るときには、窓外のブルゴーニュのブドウ畑を眺めて行く気だったのに、あらためてこれを詳しく読みはじめたら、完全にやめられなくなり、むさぼるようにページをなめつくしたことがある。そして、読めば読むほどに、これが、驚くべき調査力と確信に裏打ちされた、泊りと食《しよく》の大ガイドであることを知りなおした。お手頃の宿屋や料亭の値段から、店の休日、設備、名物、雰囲気まで、簡潔豊富な記述は、あますところがない。ついでに、タイヤ会社のサービス本のくせに、平気でブドウ酒のおすすめまで展開してるお国柄にも、感嘆を禁じ得なかった。彼らにとって、ワインはアルコールに入らない。
解説の書き出しが、泣かせる。
「この『ギド・ミシュラン』は、すべてのホテルやレストランを網羅したものでもなければ、|いい《ヽヽ》ホテルやレストランの全部をつくしたものでさえ、ない。すべてのモータリストに奉仕する私たちの目的からして、当然、あらゆるカテゴリーのホテルやレストランを含めねばならず、ここではそのいくつかを示すにすぎない」
そして、そのあとに、断固として、
「私たちは、ホテルやレストランを次のようにクラス分けする」
と宣言し、例の有名☆星印を展開するのである。
(図省略)
『ミシュラン』の有名な☆星というのは、むろん掲載の全レストランについているのではない。じつは『ミシュラン』には、各店に前ページのようなさまざまなマークがついている。この店には犬を連れてっていいかどうか、までわかる仕掛けだが、味の点で肝心なのは、ごく選ばれた店にだけ押されている白い☆の印だけである。
たとえば、スプーンとフォークをぶっちがいにしたマークがいくつもらえても、それは店のぜいたく度であって、味とは関係がない。星が減ったため、店主かコックが自殺した、などという話が伝わるのも、すべて☆印のほうである。
七五年版によれば、パリのレストランで、☆が三つもらえてるいわゆる三つ星=Aつまり最上にウマいと同書が保証する店は六軒である。「ラセール」「マキシム」「トゥール・ダルジャン」「グラン・ヴェフール」「タイユヴァン」そして「ヴィヴァロワ」。君、何軒行った? ☆二つでさえ十一軒、☆一つの店もパリでわずか六十六軒にすぎないのだから、いかにシビアな選定かが知られる。若手の天才と呼ばれるポール・ボキューズが、しみじみ私に、「店の星が三つにあがった時より、最初一つもらえたときのほうが嬉しかった」と述懐した気持も、おぼろげながら理解できる印象である。店の名がこの本に載るだけでもどえらいことなのだから!
パリで三つ星を取ってる店は、ゼイタクさも高度なレストランばかりだが、『ミシュラン』の嬉しい点は、決して店の格や料理の金額には、惑わされてないことだ、といえるだろう。マークにも、十五フラン(千円)以下の店という記号がワザワザあるくらい。そしてパリの部には、三十フラン(二千円)でウマいメシを食って出ていかれる店が約四十店、各区ごとにリストアップされている。もっとも、残念ながらこの水準になると、☆はつかない店ばかりだ。
日本にも、『ミシュラン』と並ぶ食いもの屋案内がほしい――。
これは私たち、食いしん坊すべての切願だ、といっていいだろう。現在私たちは、大都市に関しては、『東京いい店うまい店』『京阪名神いい店うまい店』(以上文藝春秋)、そして山本嘉次郎氏の貴重な労作『たべあるき東京横浜鎌倉地図』『たべあるき京都地図』(以上昭文社)などという、便利しごくな網羅的ガイドをもっており、全国的規模でも幾つかの重宝な試みがおこなわれている。この昭文社のシリーズも、今や計十五冊という、全国都市へのひろがりを示している。
しかし、それらの関係者も、じつは日本の案内書の現状が『ミシュラン』と並ぶもの、とは、考えないのがふつうだろう。調査のスケールと深さがちがいすぎる。日本では、料理そのものの鳥観に関しては、毎日出版文化賞をうけた『日本の料理』(講談社)のような、圧倒的な名著もうまれている。が、料亭についてはまだ調査も不完全である。辻静雄氏によると、ミシュランでは、毎年八万通にのぼる投書を基礎に、三十名の覆面試食者が、さりげなく一般客を装って店々を探訪して回っており、そして半世紀、いちども、それが見破られたり、不明朗な事件を起したりしたことが、なかったのだそうである。
このスケールと深さのちがいは、何か。いうまでもない、二つの民族の、ただ、食い気に賭ける執念のちがいである。うまいものを食いたい――。この、人間なら当然の欲望は同じでも、それをみたすにふさわしい作業を、彼らは表だってやっており、私たちは充分人前でやってこなかった。おおっぴらに食い気を示すのは恥ずかしいこととして、個人の内部に隠してきた。じつに、それだけの差にすぎない。
そして、いまひとつ、私はこの案内書と関連して、ヨーロッパで非常に感心することがある。それは、この『ミシュラン』に掲載されているすべてのホテルやレストラン……たとえそれが天皇の行幸される三つ星の名店であろうとも、かれらは食と泊りをもとめて訪れてくる客を、必ず|すべて《ヽヽヽ》受けいれるという、その完全な平等主義である。彼らには、われわれのいわゆる「いちげんの客をことわる」思想がない、という、そのことの重要さである。
「ラセール」や「トゥール・ダルジャン」へ初めて行くのに、なにも紹介者は要らない。自分で予約をし、上着を着て出かけ、メニューに明示されてる飲食代金とチップを払う――私たちに要求されることは、それだけである。
『ミシュラン』という希代の名案内書がうみだせた原動力、じつはそれはこのひらかれた¢フ制そのものではなかったのか。
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まわし食い
レストランへ出かけて――メニューが配られる。分厚い皮の表紙をひらく。新刊書のぺージを開くのにもさして劣らぬ、期待と快感の一瞬である。
メニューに、料理名だけ書いてあって、値段が記されてない場合がある。騒ぐ必要はない。これはただ(渡されたあなたがもし女性なら)、あなたが綺麗な女だから、という理由にすぎない。きょうは貴女、値段など気にせず、差向いの席にいる連れの旦那にたかンなさい、という、店の配慮である。
なに、君は男だって? そうか。それなら君は、「きょうはこのひと、ホストならぬ招待客《ゲスト》なのだな」と店から認定されたのである。でなければ、「この人、様子からみても、勘定が払えるわけはないな、この席のスポンサーは、向い側にすわってる男にちがいないな」と判定されたのである。いずれにせよ、君はこの瞬間、きょうの勘定を持つ義務から完全に解放された。食事果ててのち、きょうは俺が給仕に「ではおあいそ!」と囁かなくちゃならんか、などという心配はぜんぜんする必要がなくなった。
ちなみにいうが、諸国には、当然のことながら、「おあいそ!」にあたる勘定書請求の独特の用語がある。英語は「ザ・ビル・プリーズ」、フランス語では「ラディシオン・シル・ヴ・プレ」、イタリア語なら「イル・コント・ベル・ファヴォーレ」、ドイツ語だったら「ディ・レヒヌング・ビッテ」、中国料理じゃ「チャンタン(※[#「貝+長」、unicode8cec]単!)」。君はもうこんな外国語なぞ、思い出しさえしなくてよくなった。情容赦なくスポンサー――つまり、値段の書いてあるメニューを、給仕から渡されちまった不運な奴に、おんぶすればよいのである。奴、その頃は、「前菜、フォア・グラ、トリュフ付、五千円」なんて個所を読みだして、前菜からこの調子では、あとはどんな工合に激しい値段が出てくるか、と完全に気落ちしてる。
――で、全員、それがあんまり、露骨にわかるものだから、ジーッと、スポンサーの手元、口元をうかがうわけである。
奴、「では|ぼく《ヽヽ》は、コンソメに……そうだ、おなかすいていないから、ビフテキの一番小さいの。それからサラダ」なんて小声で発言しようものなら、親切にも、全員、声を揃え、ユニゾンで叫んで、奴の窮境を救ってやろう、と決意するのだ。
「じゃァ、ぼくも、おんなじの!」
――あれァ、いやだね。まったく、つまらない。
じゃァ、ぼくも、おんなじの――という、この台詞《せりふ》が何で嫌か。といえば、世上伝えられるごとく、「そんな主体性のないことで、人間、どうしますか」といったお節介からでは、じつはない。めしを食うにあたって、自分はともかく、他人の主体性なぞ、なんら重大な課題であるわけがない。
それより、私、ひどく気になって、落ち着かないのは、会食の全員が、スープからサラダまで同じ品ばかり取り寄せると、高級レストランさえ、さながら臨海学校のおもむき、食卓が画一的なさびしさでしらけ返ってしまう、あのふしぎなわびしさがたまらないからである。
前菜からして、銘々の皿には、バラバラさまざまな品々が分散し、横目でチラッと他人のをうかがうと、ウム、せんせい、ウマそうなのを取りやがった、一切れお裾分けいただけないだろうか――などなど、ワクワクまわし食い≠フ願望に身を震わせる、あのたのしみがなくて、いったい、会食の意義など、どこに存するのであるか、というのが私の持説である。たとえ現実にはまわし食いなしに終えるとしても、理論上の可能性としては、それができる品数の多さで、食卓が賑わってる――そういう格好がつかないと、私、全然、ひとと食事をした気にならない。
はっきり告白して、私が自発的なよろこびをもって会食をともにするのは、気分的に「まわし食い」ができる人とだけだ、と断言してはばからない。性別、親疎は問うところではない。世間には、一つスープの皿の食いかけを回して、「これ、一口ためしてごらんなさい、よくできてる」と言える相手と、言えない相手があるのであり、私はそのうち、言える人とだけ、食事をたのしみたい、という意味である。「ま、失礼な、あの男。飲みかけのスープを|ひと《ヽヽ》に回してる」などと目くじら立てる向きとは、かなり、テーブルも人間の縁も遠くなる。
世界の料理文化のうち、現在最も徹底して、まわし食いの快楽と利得を制度化し得たのは、いうまでもなく、中国料理である。たとえば、ラーメン屋ならともかく、本格中国料理店へ、一人で飛込むほど阿呆らしいことはない。この真実は、食いしん坊なら、身にこたえて知ってることだ。あれだけ豊富多彩な献立表《メニユー》を目の前にしながら、一人だと、麺かチャーハンかの一品しか選びとれない。この不合理も、いっぽう友達四人と行くならば、近頃のランチシステムなどだったら、たちまち、べつべつの四、五品を各自でまわし食いできる合理性に変るわけでね。本場の本格店なら、給仕頭みずから、たちまちに、この人数で食いきれる最大限の品の献立表を作成して、「これでご満足であろうか」と納得を求めにくる。大昔はともあれ、いま中国料理のレストラン文化とは、「八人から十二人くらいの客が、全員、まわし食いに参加する」黙契を前提に、基盤を成立させているわけである。一人ずつは同じ会食費を払うにしても、気の合った十人ばかりが大卓を囲んだ日にァ、すっぽん、フカヒレ、燕の巣、乞食鶏……選り取り見取りで、文句のつけようのない盛況が眼前してしまう。
これに反し、世界には、ひどく取り澄した、おもしろみの少い国もあって――たとえばイギリスなぞは、家族同士でさえ、あまり賑やかにまわし食いなどしてはいられないような、行儀いい雰囲気に包みこまれてしまうのが、はかない。あの国では、レストランでみても、老若男女、よく訓練された犬みたいに、前肢《まえあし》、失礼、両手を卓のへりに揃え、背をシャンと伸ばして、皿が配られるのをジーッと待っておるね。ああいう国のレストランでは、どうも、
※[#歌記号、unicode303d]君は生ハム・メロンをとれ。俺はテリーヌ・メゾンとゆく。回して半分ずつ食おう!
――などと、メニューを指さしあっちゃ華々しい友情の協定に達する、ああいうたのしいプレーが、全然、場違いに思えてくるのが、かなしい。その腹いせで、あんなに誰も彼も、イギリスは食いものがまずい、などと、あとでこきおろすのではあるまいか。
イタリア、スペイン、ポルトガル、そしていうまでもなくフランスでは、どんな汎世界的に名の通った超有名レストラン、たとえばひどく上品を気取った「ラセール」「マキシム」だろうとも、システムとして、また雰囲気として、「まわし食い」は完全にオープン、かつフリーである。一皿の料理、とは何も一人が一人だけで食いきる必要など、全然ないものでね。たとえば恋人同士ふたりで出かけ、前菜一皿、魚一皿、肉一皿、サラダ一皿、それを半分ずつ食ってくれば堂々のディナーである。向うの給仕さんは、ハハアあの席の客たちは、それぞれの注文品をまわし食いで分け合っとるな、と知ると、痛み入るくらいこまめに、たえず新しい皿、新しいフォーク、ナイフを各自に取揃えてくれる。みごとな神経である。
ローマの下町、トラステベーレ。東京でいえば浅草か向島、といった街の小さなトラトリア(小料理店)へ数人で出かけ、パスタ数種を一皿ずつとって、まわし食いしたことがある。このときなど、こちらが「かまわぬ」とことわるのに、給仕はいちいち新しい皿に一種を少量ずつとり分けてくれる。というのも、私らには全部、同じトマト・ソースがかかってるとしかみえないパスタ類も、彼らに言わせれば(当然ながら)、スパゲティもラビオリも、ひとつひとつ独立異質の、味がまざってはいけない$Hいものだから、なのであった。ただ中国料理店は、どこも、椀はともかく、皿はあまり取りかえないようである。中国料理は味や色がまざったほうがウマいのか。やや研究していいテーマか、と思う。
さる秋、銀座に店をひらいた資生堂の「ロオジェ」は、味、雰囲気、給仕のマナー、できのいい高級上質なフランス料理店である。いい店が表通りにできたものだが、ああいう店にしても、ソニービルの「マキシム・ド・パリ」にしても、「レカン」にしても、六本木にあって今日本では最も美味な一軒に入るのではないかと思う「レジァンス」にしても、日本の高級フランス料理店は、くれぐれも、凝りすぎて客がまわし食いのたのしみも発揮しかねるような、つまり、大ホテルの天井の高いダイニング・ルームみたいな、息詰った儀式的緊張ムードの店には、してほしくないという気がする。不行儀、と、打ちとける、とはぜんぜん別なので、まず、「食うたのしみに打ちとける」空気が、店中にみなぎらなければ、街のレストランの身上はない。
渋谷の「シェ・ジャニー」をはじめ、霞町の「フィガロ」、鎌倉河岸の「エヴァンタイユ」、銀座の「レンガ屋」などがたのしいのは、味のよさもさることながら、前菜からデザートまで、仲間同士、好き勝手にちがう料理を注文してまわし食いができ――そうな、店そのものの気さくさが、味覚を、より解きほぐすからである。
私は近頃、幼かった日の、デパートの食堂を、貴重に思い出す。デパートの食堂では、誰も決して、「じゃァ、ぼくも、おンなじの!」などと、イマジネーションの枯渇まるだしに見えてしまう注文の出し方はしなかった。みんながまずガラス・ケースと首っぴきで、自らの好みを決定した。そして残ったものも、「じゃ、アタシ、食べてあげる」などと処理し合った。あの、つつましくにぎやかなよろこびを、なぜ、むだな緊張や気取りなどで捨ててしまって、いいか。
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包んでちょうだい
女性も、中年まで育つと、かなり、心臓もしぶとく硬直化する向きが出てくる、という。
先日、京都の街角でタクシーを呼びとめ、寄ってきた車に乗込もうとした。するてえと、後方からサアーッと私のわきを駆けぬけた二人の女、振りかえりざま私に向い、「すいません、すいません」、頭をさげたかと思うと、アッという間もなく先にシートへ滑りこんじまった。済みませんなら、こんな、車の乗っ取り、かっぱらいのたぐいのまねなどできぬはずではないか、と考えたが後の祭である。
また或る日は、東京の或る街角。交差点の向う側にいた空車とサインを交して、その接近を待っていたら、このときは、ひとりの女がワザワザ私より車に近い場所に先まわりして立ちふさがり、それこそ済みませんとも言わずに、正面きって乗りこもうとした。私より運転手が怒ってね。車をことさら私の眼前にとめて、こちらを乗せたうえ、
「女も、あの年になると、図太いっちゃないンだよ、お客さん」
と、私でも映画に向っては言わぬような苛烈な批評をくだした。冒頭に書いた中年女性の心臓観は、従って、私の創見ではない。むしろこの個人運転手君の独断から教示を受けたものであると知られたい。
私などはむしろ、女性とは中年になっても、ずいぶん気の弱い、遠慮深い生物なのだなァ、と思う瞬間も多いわけで、たとえば女は、外でめしを食って食い残しがでたとき、店で包んでもらって自宅へ持ち帰る――つまり「テイク・アウト」を、ひどく恥ずかしがりますね。デパートの包み紙なら、地下の魚売場で鰯を投げ入れてくれたビニール袋まで、しわをのばして取っとくほどの始末屋が、中華料理店では、鯉の丸揚一尾、箸もつけないまま、テーブルの上に残して帰ってしまったりする。――そして生涯、思い出しては、そのときの自分の満腹を恨むのである。鯉も入らぬほど腹いっぱいごちそうを食った満足感より、つねに、金を払いながら食いそこなった鯉一尾に対する失望感・怨嗟感・挫折感のほうが、極度に大きい。
私も、じつは正直に白状すると、昔、かりかりに痩せてた頃は、気のほうも身体に比例して小さかったわけで、給仕さんや女中さんに、卓上の残りものを、「これ包んでください、うちで食い直しますから」などとは、到底言えない人間だった。どうして、こんな簡単で、しかも理にかなった一言が口から出なかったのか。今振りかえって、どう頭をひねり直しても理解できない。ともかく、テレ臭くて、口に出せなかった。自分で金を払って買取った食品を、家に持ち帰っていいのは、当然しごくの商行為であるにもかかわらず、なにか、そんなことをする自分が、魚市場のわきでフグの|わた《ヽヽ》拾って、中毒にかかる気の毒なルンペンみたいに思えた――というのは、よほど私も、度し難い見栄っ張りであったのだろう。損だった、ずいぶん。
それが、何のきっかけだったろう、私は一瞬で知ったのである。「食い残しを持って帰りたい」とは、えらく言いやすい一言であり、そして、店からは、つねに欣然と受けいれられる一言であることも――。いらい私は、まったく心にゆとりがでた。店で食事をして、腹が張りだしたら、もう、持ち帰れそうな品には、故意に、箸をつけない。そしてはやばやと、テイク・アウトを宣言してしまう。さすが、ソニー・ビルは地下四階、「マキシム」などというすかした店では気が重いですがね。ブドウ酒の飲み残しなどは、恥ずかしげもなく持ち帰る。高いワインを注文して、底までぜんぶ飲んでしまうのは、ひそかに後始末のたのしみを期待している給仕君に対し、申訳ないことなのだ、という怪説があるが、私は、そんな、宮中晩餐会に出るような高貴な瓶など、注文するわけもないから安心である。気楽さとウマさがごひいきの、谷中・柳通り、洋食屋の「香味屋」とか、秋山ちえ子さんの息子さんがやってる「アキヤマ」などだったら、牛の煮込みだって、「ソースごと、アルミ箔に包んでちょうだい」などと、面倒なわがままを言ってのけるのである。
お客さん、ウチはそんなこたァ、お断わりだ――と、もし仮りに言う店があるとしたらですね、そんな店にァ、次から行かなきゃいいだけなので、少くとも私の相当数の体験に関するかぎり、そういう不快な拒絶に出会ったことは一度としてなかったことを、レポートしておく。
ただ、その際、客として金輪際言ってはならぬタブーの一言は、
「包んでちょうだい、帰って犬に食べさせますから」という、あの余計な注釈であって、考えてみれば、あの「ドギー・バッグ」という蔑称くらい、当の飲食店を侮辱した言いようは、ないのである。もっとも、侮辱は、したければしたっていいわけで、いかんのは、そう言いながら、うちへ持って帰るや、ぜったい犬なンぞには食わせず、自分でムシャムシャ食べてしまう、その嘘のつき方なのだ、といえよう。人にならともかく、犬に嘘をついて、ものを食ってちゃ情ない。堂々と、「いまは満腹だから」「あとで味わい直したいから」持って帰りたいのだ、と頼めばいい。
もっとも、あれはどういう心理なのだろう、店にいるときは、「食いたいけど、今は満腹で入らないからうちへ持ち帰りたい」と本心そう思うのに、イザ、包んでもらって帰宅すると、さいぜんの未来期待感は、かなり希薄になっている、というケースが、しばしばおこる。わたしは要するに欲張りなのだ、と納得するのは、じつにこの瞬間である。
だが、よくしたものですね。欲張りの家族は、これまた相当に全員がつがつしており、まず玄関に出迎えたのが、亭主の戦利品を目撃して、「アラ、きょうは『楼外楼』!」とか何とか、欣喜雀躍。その叫びをきくや、それまでひっそり自室にこもって、父親の顔なぞ見たくもねえといった仏頂面してた思春期反抗派まで、ぞろりぞろりと穴から這い出してきて、時ならぬ家庭晩餐会の開始が宣せられる。持参者としては大盤振舞の快感である。当人、腹はまだかなり張っててひどく鷹揚な心理がつづいており、食えよ、食いねえのお裾分けで、先日などは、新潟から持ち帰った一塩のカレイの焼きざまし――これに対する絶賛の謝礼が、隣に住む弟のところからまではねかえってきたくらいだ。六本木の「廬山」で食べ残したときなぞは、ウマいもンだから少々、頑張ってたくさん貰いすぎてしまい、あんまり重いので自宅から受取りに呼びよせ、その晩などうちの夕食はそれだけで済んでしまった、というあさましきありさま。
もちろん、店で食べ残したものすべて、もらってくるほど向う見ずではないので、それこそ、犬に食わせるのではないから、そこにはおのずから、取捨の原則がある。刺身など持ち帰るのは 無駄の最《さい》たるものですよ。生野菜もだめ。酢のものもいかん。が、すきやきの残りの生肉は、非常に用途が広くて、結構である。私、ジンギスカン鍋の残りの生羊肉を、札幌から東京まで持ち帰ったくらい。
形の崩れる、たとえば豆腐料理などは、うちであけたとき、見た目よろしくないから、いっさい敬遠するが、中華料理などは、ほとんど全料理がテイク・アウト可能かもしれない。私の場合、取捨の目安は、家へ戻って、電子レンジでこれを再加熱するとしたら、もとの味に接近しうるかどうか、それが、基準の一つである。電子レンジの効用は、いまだに賛否両論らしいけれど、少くとも、店で食いそこなった|かばやき《ヽヽヽヽ》をあっため直す、とか、鶏の唐揚げや春巻をもう一度熱くする、なんてときは、ほんと便利な機械ではありますね。焼売《シユーマイ》の温め直しなど最高。雨の朝、おもての郵便受けでずぶ濡れになった新聞を、乾かすだけの道具ではないのである。
お前、そんなさもしい、意地きたないまねばかりして、ほんと恥ずかしくないのか、という質問には、次の逸話をもって答えたい。
たしか扇谷正造氏の、『運・鈍・根』で読んだのだったと思う。だとすると、四谷「丸梅」(あらゆる種類の味を含めて、私はここで出されるほど美味な料理を、他に幾軒とは知らぬ)の、今は亡い女将、井上梅女のことになるが、ともかく味で名高い、或る名店の女主人は、他店へ重箱持参で食事に出かけては、みずから料理を持ち帰って、研究にはげんだということである。大プロフェショナルにしてしかり。私のような、ものの味を味わう入口にも達しない素人が、店の美味を自宅で吟味し直し、プロとはどのような存在であるか、を舌で考えぬくことが、どうして恥ずかしいのでありましょう。
まして、女房子供まで、余慶で、飢えをしのがせていただけるにおいてをや。
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美味のひそむところ
「世の中、いちばんウマいもの、って何でしょう?」
かつて、「文藝春秋」の座談会で、司会の記者氏から問われたとき、私は比較的、間髪を入れず、
「京都は『大市』のすっぽんじゃないでしょうか」
と答えた覚えがある。
――世間でいちばんウマい食いもの、という設問は、遊戯である。ことばのゲームにすぎない。食いものを歯で噛んで、舌にのせ、
「うまい!」
と思わず目をみはる瞬間の、驚愕と感動は、じつにその一回一回が、かけがえのない一つの絶対であって、AがBにまさる、といったものでは、ありえない。まして同じAが、二度くりかえせるものでもない。私は、満十九歳の春、兵隊にとられ、敗戦も間近で、もう鉄砲もろくにわたらない二等兵。朝から長い長い行軍をさせられて、目の回るような空腹で味わった、おかずもない、塩だけの握り飯の昼食――あの米飯の歯ごたえと、ねばりと、塩気と甘味の思い出くらい、じつに強烈な美味の記憶はほかに持たない。しかし、その強烈さと、リヨンの南、ヴィエンヌというローヌ河畔の小都市で知った、レストラン「ピラミッド」の庭園の晩餐――あの陶然たるフルコース三時間の悦楽と、どっちの美味が上なのか、などということは、じつは問うのも考えるのもナンセンスである。二つは全然ちがって、そしてどちらも「最高」なのだ。
このヴィエンヌの「ピラミッド」へ、家族と出かけたのは、夏の夕べであった。
日本をたつ前、辻静雄氏から、ひとり旅ならともかく、奥さんや子供さんと行かれるのに、あそこでテーブルを囲まない|て《ヽ》はないです――と強く忠告され、パリから、急行ミストラルに乗ったのだった。この一食のために、その夜はリヨンに一泊することになった。考えてみると私は、ポール・ボキューズの店にも、そこへ行くためにだけ、リヨン泊りをした。このフランスの第二の都会とは「食」だけでつながってる格好になる。夕食を摂るため東京から大阪へ行くくらいは、何でもない計算だろう。
ヴィエンヌは、東をきりたった断崖、西を川に挟まれた、細長くかわいい街道すじの街である。そのひなびた閑静な住宅地の一画、道路の真ん中に、ローマ時代の、オベリスク風のピラミッドが建って、その真ん前の石塀のなかが、今は亡い名料理人フェルナン・ポワンのレストラン「ピラミッド」であった。黒い鉄門の前で、十五、六の、黒い制服を着た、ミルクコーヒー色の美少年給仕が迎えいれ、いんぎんに、前庭で待つフランソワーズ・ロゼエみたいな老婦人に、私たちをわたすのである。うちの娘は、たちまちこの混血美少年に恋の炎を燃やしたが、私は、老婦人、つまりポワン未亡人マドの、掌のやわらかさに、唖然とする。
夏のことで、テーブルはすべて、庭である。西洋で目撃した名前のわからない樹木を原稿に書かねばならぬときは、葉が大きければプラタナス、中くらいだったらボダイ樹、葉が尖《とが》っていたらモミの木、と仮に統一しておく習慣なので、ここでも好い加減にプラタナスの木と呼ぶが、ともかく幹も葉も大きな木が亭々と茂るその下に、白布のテーブルが十卓ばかり、ひろびろと散らばせてある。照明は、グローブ球の高いスタンドである。七時前。南フランスはまだ昼のあかるさだ。
フランス映画の老優みたいな給仕頭が、ムッシュ・ツジから言われているが、献立はこれでいいか、と厚紙のシートを持って来る。こらァ、眺めたってただただ「ウイ、セ・サ。セ・ボン、トレ・ボン」としか答えようがない。凄い書きなぐりで、三分ぐらいは凝視しないと、ソーモンもフォア・グラも判読しがたい達筆だからである。つめたいカシスを口に含みながら、横をみると、低い石垣の一段下が、屋敷の広い広いバラ園になっており、緑の芝生にゆるくスプリンクラーの水炎が舞い、紅のバラの花の間を、漆黒のネコが滑るように横切るという、少しできすぎた舞台装置。
ほんとうに驚いたのだが、この夜は、前菜にあたる料理が、三皿出た。つづいてアントレに該当する料理が、三皿出た。プチ・フールをつまみ、「ああ、もう、おなかいっぱい」と、腹を叩いたとたんに、デザートが、三種、出た。そして、それを、家族四人で、ひときれもあまさず、食ってしまった。七時前からはじめて、十時すぎまでかかった。緑の前掛けをした謹厳な老ソムリエがすすめるワインを、白と赤と、二瓶のみほした。私は、出てきたものをこんなに完璧に食い、こんなに完璧に飲み、そしてこんなに完璧に、打線の切れ目なく食うものすべてウマく感じ、そして食事ぜんたいがたのしい満足感でふわっと浮きあがっていた体験を――じつは、人生に何度と持たなかった。四谷「丸梅」かしら、はたまた「柿伝」「吉兆」かしら、八日市の「招福楼」か、とも考えるが、あと幾軒あったか思いうかばない。「ピラミッド」の、四角いブリオシュにフォア・グラを詰め、上にトリュフをひろげた前菜を、私は生涯忘れないだろうと思う。鮭も鴨も、文句のつけようがなかった。
そして、それ以上に、「ピラミッド」は雰囲気であった。夜が落ちる頃、庭中のテーブルはすべて客に満ちて、明るいさんざめきが流れ、くっきりと光に照射された緑と紅のバラ園を、黒猫が遊びつづけた。そして一皿ごとに、給仕頭につづいて老いた女主人が卓へ近づいて来、娘の肩を優しくうしろから抱いては、四人ひとりひとりに、いまの料理は満足だったか、味にどこか不満はなかったか、を、ほほえみで問いかけるのである。ホスピタリティの模範演技を絵に描いたごとく堂に入っていた。――十一時近く、リヨンへの終列車を拾おうと駅へそぞろ歩くあいだ、私たちは、あまりの美味と食の満足感に、足が宙に浮いていた。
一九七二年の夏のはなしであるが、これで、この晩の料理が、ひとり七千円を出なかったことに、私は今なお、驚嘆をもっている。フランスも、七四、五年は、うんざりするほどものが高くなったけれど、それでも、「食いものが高い」実感が腹の立つほど迫る国は、日本を措いてないのである。だいたい日本は……ええと、何の話をしてるのだッけ――そうだった、高い安いじゃない、その、最高にウマかった「ピラミッド」の料理にしてからが、藤づるで編んだべんとう箱の、二等兵時代のあの塩むすびと、ウマさを競うわけにはゆかない、というのが、私の言いたいことなのだ――そうだった、あのオニギリはほんとうにウマかった!
――「文藝春秋」の記者氏は、いうまでもなく、そのこと――つまり、世の中|いちばん《ヽヽヽヽ》ウマいものなど、客観的に決定できるわけもないことを承知で、前述の座談会出席者に「最高の美味」を問いかけたわけであった。
そのとき私が、首をかしげる間もなく、「大市のすっぽん」と答えたのには、理由がある。この、すっぽんちゃん、むろん爬虫《はちゆう》類。私ら人間からは最も縁遠い、と申しますか、逆に遠い遠い祖先自身へ戻るような気持のする生物であるが、それだけに、肉は、ケモノに似て獣にあらず、トリに似て鳥にあらず、ウオに似て魚にあらず、エビとも、ウナギとも、つまりすべてとちがって、しかも、何らの偏《へだた》りがなく、まさにすっぽんはすっぽん、としか言いようのない、独自でしかも普遍的な味がする――そのユニークな統一感に、私は、まこと味の総合≠見るおもいがしていたからであった。
ところで、美味は「大市」が最高の一つであるにしても、すっぽんの食い方じたいは、何もあの店の流儀に限ったものではない――ことを驚きとともに知ったのは、じつは或る春、四月のあたま、仕事で京都にこもってた私と、早トチリで、咲いてもいない桜を見に京都へやって来た家内とを、先斗町の「ますだ」のおかみ、客の背中をどやすので有名な増田|好《たか》さんが、大津の膳所《ぜぜ》へ連れだしてくれたときである。――そこで私が出会ったのは、Kさん(特ニ名ヲ秘ス)という、一回に一客しか迎えない、まったくしもたや造りの、すっぽんの家≠フ主《あるじ》である。
Kさんは、六十歳をとうに越しているだろう。小柄だが、顔色はツヤツヤの、皮膚はテラテラという精気の塊りでね。すっぽんの蒸気で薫蒸《くんじよう》して、アブラで鞣《なめ》した感じの、口のほうも、しゃべりだしたら止まらないエネルギー型淀川長治氏タイプ。これが、着いた客に、まずは茶いっぱい出さぬ、のをモットーとして、
「さ、来なはれ」
座敷へ座ったトタンに立たせ、広い庭へ案内する。即ち――鍋に入れる椎茸からねぎ、すべて裏の畑で自製の野菜類を示して、
「奥さん、自分で|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いで、用意したらええがな」
つまり、自然のままをサービスするのである。
勝手口の外の裏庭に、二メートル四方のコンクリート水槽あり。Kさん、長靴でザブザブと、澄んだ水に踏込む。細い鉄棒で底の白砂を突つきまわすと、やあ出てきました、子供のお面くらいの、意外にでかいすっぽんちゃんが、可愛い手足をぼたつかせて現れ出ます。砂中に眠るもの五十匹。
きみ、すっぽんの|つら《ヽヽ》を見たことありますか。男性の一部に冠せられた医学用語を信じて、ああいう円満な面相をしている、と想像すると、ちがうのですよ。そう、むしろ君のごく幼い頃、あの頃みたいに、先端はストローみたいにとんがっとるのです。そのストローの先に鼻の穴がついとりましてね。これ、ちゃんと二つ。
Kさんは、すっぽんの雌(尾が短い)と雄を一尾ずつ台所へ運びこみ、片手で首をつかむ。後頭部と甲羅の間へぐいっと包丁を差入れ、長い首を喉首ごと、えぐるように切り落してしまう。そして、首なしの胴へ、ゴボゴボと深井戸の冷水を注ぎ、甲羅ごとひっくりかえす。と、中から溢れ出た紅の鮮血は、一瞬に下の白い丼をみたします。即ちこれ、すっぽんの生血――飲みくだしたさわやかな味覚は、まったく動物の生んだワインであります。
その間、切られた首は、ノドカな日曜の君自身の如く、ナガナガと弛緩《しかん》して伸びております。しかし、Kさんが、この切られた口にタオルを噛ませると、かっきと目を見開き、とがった歯で食いつくのね。私、タオルの端を全力でひいてみたが、放さばこそ。胴のない首だけが、Kさんの手からぐーッと伸びてくる気配は、まさに男の根性、かくありたい生への執念であります。
その生首ショーを見せ終ると、あとは、一瀉《いつしや》千里。Kさんは、上下の甲羅をはずし、雌の卵巣をひらき、雄のホーデンに塩をかけ、これらは、四肢の付根の肉とともに、生までお造り。卵と、とくに前肢のうまさは、目を見はるばかりです。胆|嚢《のう》と心臓は、冷水とともに一息で飲みこませる。女たち、さすがに「いやだわ、あたし」とたじろぐのを、
「ああ、もったいない」
私、雌雄二匹ぶん戴いて、飲みこんでしまった。が、だからって、こんな生きたピルでさえ、効かないこともあるのです。私、その晩も、翌晩も、翌々晩も、期待した一側面だけは完全に反応皆無で、ただ、肥るだけは、この日を境にてきめんに肥った、とは、これ、いかなる亀さんの祟《たた》りか。
味としてのすっぽんの生命は(むろん、鍋の火力も決定的ではあるが)、ほぼ素材のよしあしに限定されてしまうようである。
いわゆるすっぽん鍋は、捨てるところのないこの小動物の、肉から、骨から、甲羅から、甲をおおうニョロニョロの薄皮までを、水と、醤油と(無論、いい酒も入ってるだろう)、わずかのショウガの香りで、高熱に炊きあげた単純無垢の煮込みである。が、くどからぬ味の複雑さは、完全に人工的操作以外のところから生起してる、としか思えない。肉っ気を食いつくしたあと、きのう炊いたパラパラの冷飯を、のこりのスープと生卵でとじてつくる雑炊の味もまた、しかりである。このウマ味は、一から十まで、自然が自然の摂理によって、われわれに運ばれてきたものからのみ成りたっている、と思わざるをえなくなる。
――一体、美味に関して、人間がこういう自然に対して手助けできる領域、とは何なのか?
私は、渾然たるすっぽんスープを啜りながら、ふっとそれを思ったことだった。
人が自然を手伝える領域とは、つまり、自然が内部にひそめている美味を、外へ切りひらき、われわれの舌へ届けやすくすることにだけ全力を傾けるその伝達の努力、良心、こけの執念、それだけではないのか。
私はKさんが手渡してくれたまるのままのねぎの、その先端をスープに漬け、煮えどきの瞬間を、待ち構えながら、それを考えた。
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W 私のだいどこ白書
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1
生まれつき、かどうか。ともかく物ごころついていらい、非常なぶきっちょだった。ハンドクラフトに関して、思い出は屈辱にのみみちている。
中学初年級の工作の時間には、先生がついに笑いだした。先生が命じたのは、粘土の湯呑み茶碗制作だったのに、教室中で私だけが懸命に平皿をつくっていた。自分では皆と同じ茶碗をめざしてる気なのにもかかわらず、どうしても私のだけ縁《へり》の土が垂直に立上ってくれないのである。一様に外側へタレさがって、皿になりたがってしまう。バーチカルがホリゾンタルに次元をかえてしまうのであった。
今なお、ぶきっちょである。本の小包を二個つくるのに、大汗をかいて二時間かかったことがある。やっとの思いで郵便局へ持っていったら、これでは速達に重すぎる、包み直して分割するように、と突っ返された。目の前がくらくなってしまう。スペインのアルタミラ洞窟には、八本脚で疾走する野牛の壁画がのこっており、これは映像史の原点を示す重大な資料だが、大学の映画講義でこの絵を学生たちに図示しようとすると、私としては学問的良心を持し正確に原画を模写してるつもりなのに、教室が失笑の渦になる。巨大なノミがハネてるとしか見えない、という。二万五千年前の古代人にすら、作画技術がとどかないのである。人間、いかに自分の能力を客観視することはむずかしいとしても、これでは、己れの不器用さを疑うこと不可能である。
ぶきっちょに輪をかけて、モノグサなのである。幼い頃、熱心に読みふけった「日本おとぎ話集」のなかで、何度読みかえしても一番大好きで気に入った人物は、「物臭太郎」だった。後年、兵隊にとられて敗戦になり、中隊は全員内地へ引揚げたのに、船の都合で私ひとりが壱岐の島の掘立小屋に取残された。九月、台風が襲って兵舎をぺしゃりと叩きつぶした。柱を引起す体力も技術もないから、仕方ない、私は毎晩、這いつくばった屋根と地面の間へ潜りこんで、寝ていた。首を出して、犬みたいな格好でおもてを跳めるうち、これは「物臭太郎」で親しんだ挿絵とソックリだ、と気付いたが、いまさら動きようもなかった。ただにお伽話の創作人物の内面に共鳴したのみならず、実践まで踏襲したわけだった。
――そういう男が、あるとき、なにかのきっかけで、食うものを「つくる」こと、がおもしろくなりだした。突然、というより、気がついたらいつの間にか、この工作に関してだけ、われながらまめな人間に変っていたのである。恐らく深層心理にかかわった現象なのかもしれない、と思うほかない。俳優で食い魔の金子信雄氏などは、食の自作に手をそめた動機を、非常にハッキリ自己解剖しておられる。「結婚してみたら、カミサン(丹阿弥谷津子さん)が料理に関してサッパリだったんでね」と。
いうまでもなく、これは韜晦《とうかい》の弁だ。が、私の場合、理由は少くとも氏と同じではない。私のかみさんは、金子氏の令夫人とちがい、新劇の演技力こそゼロであるが、料理への熱意と技術は、私など足元におよぶところではない。今日にいたるまで私など、ただ彼女に、サジェストという名のちょっかいを出して、台所のお手助けをさせていただくにすぎない。ただ、「ウマいものを食いたい」という欲は、人間だれしものことだから、そんな上手な女房の調理にすら口を出すのも当然である、として、さて私の場合は、あれだけ徹底したぶきっちょのものぐさ男が、よそで、食ってきたウマいものをうちで作り直す作業にだけ熱を入れだしたのだから、真因は深いところにある、といわなければならなかった。
生来、見栄っ張りで気も小さいから、人目に立つ、とおもわれる行為は、じつは一から十まで避けたい性格である。しかも人前では、せめていい格好をしていたい、という面倒な気質をもっている。そうでありながら、一方、たとえばスーパーマーケットの通路を、何かいいものないか、と手押し車で徘徊し、安い品のなかでも最も安い豚の|もつ《ヽヽ》をあさったりする有様は、誰に見られても恥ずかしくないのである。いや、ある時期から、忽然と、恥ずかしくなくなっていた。帰り道に八百屋で、緑の冴えた枝豆やニラをみつけ、包みもせずに持ち帰るのも当然平気である。魚屋でアラをもらい、むきだしのビニール袋に入れたまま、さげて歩くのも、|はた《ヽヽ》が気にするほどには、当人は気にもならない。私の母は古風な家に生まれ育ち、古風な軍人の夫にかしずいて古風な姑にしごかれ、徹底的に男性優位の武家思想にのみ鍛えられて、一生をつらぬいてきた。母は私が幼かった頃、「お豆腐屋さんへ行ってちょうだい」と使いを言いつけたのを、姑である私の祖母に聞きとがめられ、「お前は、男の子、しかも長男を店屋《みせや》へ使いに出すのか」と叱りとばされたそうである。だから今でも、早朝、私がひょこひょこと近所へ豆腐を買いに出かけ、できたてのアツアツを両手で持って、離れへ、母上様、半丁進上、とお裾分けに行くと、なかばは喜びながら、五〇%は情なさそうな表情をし、礼のついでに「あなたが自分で買いに行ったのかね」と、いかにもげんなりしたような感懐を述べる。
母としては、「世の中、変った」とただ感嘆したいだけなのだが、私のかみさんとすれば、この言い方はひとこと余計である、と蔭で鼻白むわけで、次からはあたくしが買いにまいります、あなたはうちですわって待っててちょうだい、と力《りき》むのだが、なに、こちらとしては、豆腐を買ってポタポタ水垂らしながら道を歩くくらい、何ほどの大儀でもなくなったのである。ただ、豆腐一丁の買物で骨肉相食む騒動を起すのも大人げない、ヨシヨシとかみさんをなだめて、翌朝は彼女を店へ走らす。豆腐一丁ぶらさげただけで、どうして日本男子の威厳が下落するのであるか。男の沽券《こけん》なんて豆腐よりもろいものであるのか。そんな沽券では、どっちみちどう救いようもないわけではないか、と翌々日は、また結局は私が納豆など買いに出る仕儀となるのだが、しかし日本では、豆腐買いに出る気の男をさえ、女が抑えて放さない、とは、これは何という不可解な国なのであろう。
2
私は、なぜ、食うこと、いや、酒のさかなからシチューまで、かまぼこからコンビーフまで、食いものを自分の手でつくってみることに、興味と関心を抱きはじめたのであろう?
いま、最も制作の熱意をこめているのは、ベーコン、それも塩漬ベーコンは一応わかったので、市販と同じスモークト・ベーコンの自製である。親切な方がフィンランド製の薫製鍋をみつけてくださった。戦力百倍勇気千倍。ただ、ベーコンは、薫製でも冷熱法の食品で、四十度くらいを二日間保っていぶす方法がむずかしい。あれかこれか、手段に迷いながらも、むしろ興味が集中するのは、他の遊びには何ひとつ手を出す気も技《わざ》もないのに、こういう無償の些事にだけは熱心になる私自身の内面についてである。
たぶん、私自身の内部に確実にうごめく衝動のひとつは、戦前の幼時から成長期にかけて、男が食いものにじたばたするのはみっともない、はしたない、そういう禁欲主義でだけ育てられてきた記憶への、潜在意識的な反発であるにちがいない。食事と台所に関してはすべて怖かったオバアチャマへのお返しを、いま私は、おこなっているのかもしれない。そしてその反発には、少年だった戦前の、つつましいが豊かではあった味覚へのノスタルジーとか、その味覚から絶望的にもぎはなされた戦中・敗戦期の恐怖への回想、といった屈折した心情が、白和《しらあ》えの豆腐のようにまぶされているのだろう。
これが、おとなげない感情であることは、とくと承知している。戦後、アメリカ漫画のまねをして、暮夜ひそか、執筆に飽きダグウッド・サンドイッチを作ったのを手はじめに、瓢亭《ひようてい》の半熟卵を盗作したりして、食いもの自製への興味をわれながら自覚しはじめた最初から、私は、これは、大人のままごとなのだ、趣味とさえ呼ぶにあたいしない非生産的な男のいたずらにすぎないのだ、と判断してきた。亭主のしろうと料理などは、もともとその程度のお遊戯なのだ。
作って食う遊びが趣味の名にもあたいしない以上、私は、どんなに食うことをたのしんでも、せめて「俗物」になるのだけは、注意しようと思った。それでなくても、食う、とは、それじたいがあまりに魅惑的な肉体の快楽なので、ごく簡単に、追求が、まともな生からの逃避行になってしまいがちな分野だからである。
同じく快楽でも、性のそれは、相手の納得と合歓を獲得するのに、はげしい努力と誠意と責任感を必要とする。それでもなお、あふれる愛情と労務をもってしてさえ、必ずしも相手がよろこぶ結果になるとばかりかぎらないことを、男たちはたえず目撃させられつづけてきた。よほどの人間でないかぎり、自己満足はできかねる分野である。
これにくらべれば、食う、なんて作業は、他人のつくってくれたウマいものを、アアウマカッタ、と嬉しがり、自分でつくったマズいものも、自分の舌で心理的補正をおこないつつ、アアウマカッタ、と自己満足していれば済んでしまう領域である。これほど、誰にもちょろりと無責任に自己陶酔できる「ひとりよがり」の快楽などありえない。過度のマスターベーションは体をそこねる、かどうかしらないが、少くとも、タガのはずれた食へののめりこみは、体を肥満させてそこなう以上に、精神の戦闘性を崩落させる。「食通」などといわれる手合いは、象徴的なそれだろう。遊びのままごとが、このエスケープになってしまっては、それこそ大人でなさすぎる、と私はかんがえた。
思いもかけず、ひょうたんから駒が出たかたちで、文藝春秋から食に関する感想と体験集『男のだいどこ』を上梓した結果、正当に読んでくださった多数の読者を得た半面、私は、ありがちなことだが、若干の誤解もうけた。ひとえに筆力不足のせいである。いちばん数多く、そして大きかった誤解は、私が食事や、食いものの自製に関して「異常な」執心を抱いている、という見方、さらには、これを「食通」だとする曲解であった。これはちがう。何をどう解されようと仕方ないが、少くともこの二つだけは、実態とちがう。私は日常、まったく「異常な」食生活だけはしていないし、「食通」というのは、最もなりたくない、最も嫌悪し最も自戒するタブーの領域である。かさにかかった言い方かもしれないが、こんな程度の食いもの作りが「異常」にみえる世の中とは、世間のほうが異常なのではないか、とさえ私はおもった。
3
食のたのしみ、とは、私にとっては、具体的にどういうことなのか、をきいていただきたい。それはもう、ごく平凡なことなのだ。
夜明け、べッドでめざめる。空腹だからこそ目ざめる。さて、きょうは何からどう食って、身心を充実させるか。考えがすとんとまとまれば、気持はすわりがいい。はつらつと洗面へ飛んでゆける。が、どこかに、未解決の案件がのこると、なんと申しますか、心に、いわば残尿感が、はさまる。どうしてもスッパリ考えがまとまらないときは、かみさんにきき、長男と長女にたずねるしかないのである。「きょうは何を食いたい?」――家族とは、こういうことを会議し、納得しあうのも、存在理由の一つではないのか?
たのしみの第一は、食いたい食事をこのように考えつくこと、である。第二は、ではそれを、何と何をどう組合わせてつくるか、を思案すること、につきるだろう。もっともこれは、私がアマチュァであればこその快楽だ。辻静雄氏などにいわせると、専門家は、決して、何と何を組合わせて何を作ろうなどと思案はしないものだそうである。プロは、そんな、素材や料理の組合わせなど、そこまでの修練のつみ重ねのおかげで、頭と腕の引出しからオートマチックに出てきてしまう。たのしみのうちになどは入りかねる、とのことである。さもあろう。専門職は、ままごととそのくらいちがわなくては、張合いがないだろう。
たのしみの第三は、材料の買いだしだ。――なかでも、市場歩きのたのしさは、他の章で語った通りである。魚に出会い、人に出会う。もっともここでも、私など、プロでない証拠には、店先に立ち、予定以外の新鮮な品・安い品を目撃すると、とたんに、目がくらんで想いは千々に逆上し、気が多くなってしまうこと、毎度である。ツイ買うたのしみに負けて、方針外の衝動買いへつっぱしる。結果、夕食の膳には、うなぎの蒲焼と|どぜう《ヽヽヽ》の柳川を並べてしまったりするへまが、今もおさまらない。「食通」と呼ばれる人々は、こういうばかだけは、野暮と称して、遠ざけるのにちがいない。
第四。私にはやっと、自分でこねあげたものを、他人に食べてもらうたのしみ、が来るだろうか。家族に食べてもらうのも、友人に口へ運んでもらうのも、スリルの大きさだけは同じである。しかももちろん、家族よりも友人にうけいれてもらえたときのほうが、よろこびは確実に深い。――そして率直な話、そのとき他人に「おいしい」と言ってもらえることには(安堵を感じない、といってはまったく嘘だが)、私はそれほどに得意さを味わわないのである。ほめてもらえる自信など持てない、というほうが正しい。幻想の抱ける調理の腕ではない。だいいち、できあがった結果の味というのは、私などの場合、つねにまぐれ以外の何ものでもないからである。たまたまそれひとつはウマくできた、としても、次にも同じものが、同じ、あるいはそれ以上の味でつくれる保証など、まったくない。
おそらく、プロと、私などのままごととの決定的な相違は、ここである。プロはつねに、他人《ひと》に「ウマい」とよろこんでもらえる、その一言を第一の目標として、身心をすりへらす。そのためにこそ、まず、同じ味を連続して作りうる腕前に向って、修業に修業をかさねる。それがプロのスタートなので、この「同一水準の維持」の上に立った「飛躍」という特技以外に、プロなどというものは、ありはしない。ままごとは、そうではないのだ。製作品はいつも偶然の産物にすぎない。遊びのゆえんである。ままごと料理づくりが、いちばん安易に、逃避のほうへ堕落しがちな罠も、じつはここに穴をあけている。
――悲しいかな、私のたのしみとは、ここまででつきてしまうのだ。包丁をふるって肉や魚を割くたのしみ? 粉をいためてルーをつくるたのしみ? そんな作業が、ぶきっちょなものぐさにとって、なんでたのしみになどなるものか。せいぜい言って、料理しながら、そして食ったあと、道具や食器を洗って片づけるあの面倒さにくらべれば、まだしも調理のほうが苦は少い、という程度だ。
自分で食うたのしみは、どこにいった? 正直に白状したほうがいい。じつはこれまで、私には自分でつくった食いものを、こころの底から、「ウマい!」と賛嘆できたことなど、一例とてなかった。自作品を前に、毎晩家族に向って「うまいゾ、これは」と叫んできたのは、まったく、みずから虚に吠え≠ツづけてるにすぎなかった。内心では、たかだか、そうか、私にできるのは結局この程度の味か、と自ら合点するだけのことだった。まれには、作ったものが、自分の「口に合う」できになっていた、ということ以外にない。「ウマい料理」とは、こんなちゃらっぽこな水準のものではありはしない。
よく女たちが、自分で揚げたてんぷらは食べる気がしない、胃がもたれてしまって、という、あれとは少し機微がちがうようである。私たちはすべて、自分の製作品に対してだけは、少くともできあがった瞬間、純粋な客体としての評価をすることができない。――これは、そちらの原則のほうに近いかなしさであるだろう。まずく作りそこなった料理、これはすぐわかる。ちょうど、できわるく書きあがった原稿なら、編集者に渡す前から自分でも不出来がよくわかるように。ただ、わかりながら、直すことができない。直せるくらいなら、最初からそんな原稿を書きはしない。手料理も、同じことである。原稿を渡し、活字になり、十年二十年、ふと読みかえしたとき、そうか、当時はこれだけ書けたか、そう思うことも文章にはありうるかもしれない。手料理にも、まれには、それもありうるだろう――、しかし、料理は二十年待ってくれない。|いま《ヽヽ》、それをみずから知ることは不可能である。
文章も料理も、つくりあげたその瞬間は、作り手にとって、目の前にある客観的《オブジ》対象《エクト》なのではない、じつはまだなかばみずからの肉体に埋没しつづける存在である。精神のへその緒は、まだ、作り手と生まれたものとの間で、切れていない。書き手が原稿を読みかえすとき、彼《ライター》は、構築しおえた全文を、主観で一応納得して、編集者にわたすにすぎない。同様、自分でつくった料理を口へはこぶときも、彼の舌は、とめようもなく無意識のフィードバックをくりかえすものだ。しかも始末のわるいことに、必ず|いいほう《ヽヽヽヽ》へだけ、心理的に味を補正してしまう。他人なら「もっと塩けがあっていいのに」と評する、その塩けを、当人には心がふりかけてくれている。フェイル・セーフ、あまえ、でもあるだろう、私などの舌は、今になってもまだ、この無意識の自己弁護≠ゥら脱却できない。
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意地のきたない食いしんぼうであることは自覚しているが、私はけっして、これまでいわゆる美食家ではなかった。今も、ないし、今後も、ないだろう。えらびぬかれた定評の美味だけを食う、といった人間ではないことはもちろん、特定の土地や店が精選した、特権的食品だけを食卓にのせる、という態度からも、私は縁遠い人間である。まず、あらゆるものから、公害的汚染の明白なものをエリミネイトする。当然である。これをパスしたものはすべて口に含んでみる。舌の上でよく味をかんがえ、どう考えても、マズかったら、やめる。あたりまえのものだったら食う。私の選択はそれだけである。
「自然食を食おう」という。この掛声は近頃とみに大きい。意思はまったく同感だ。どこに、大自然の恵んでくれる本物を食いたくない人間などいるだろう。また、どこに、人工的な化学薬品などで汚染されたものを食って、「それでも安全」な人間など存在しうるだろう。私たちは今、どんな抵抗にであおうと、権力や資本はもちろん、食関係のあらゆる面にひそむ横暴や横着を指弾し、排除して、食の素材や調理を「自然」状態へ直さなければ、子孫はおろか自身が毒死しかねないところにきている。水俣やその他の日本の土地では、げんに、「人間が食えるはずの品物」を食って、それで体が破壊され、殺された人がでているのだ。この罪悪と恐怖を、「他人の悲劇」としかみないのでは、認識があますぎる。いま、私たちが日常、恐れ気もなく食っている米も魚も野菜も、じつは、本質的には、水俣の汚染魚と同じ化学環境で獲れ、あの犯人と相変らず同じ精神構造や機構によって私たちに手渡されている、というこの暗黒――これに気づかない人間は、ひとが好すぎる。また、ひとの好すぎる無知と無気力によって、子孫を殺す加害者になっている。有吉佐和子さんが『複合汚染』で叫ぶのはこのことだろう。
しかし、自然食を食うというこの意思は、ただひとつ、全国民、全人類ともそれを食う、ぜんぶがそれを食える地球にするため全員が力を揃えてゆく、という方向にエネルギーが集中されなければ、何の意味も持たないものだろう。
そこをつきつめもしないで、選びぬかれた特定の「自然食」を、自分にだけ確保することへエネルギーを集中して、たわけたお前はコマーシャルにだまされながら公害に汚染された大量生産品を買いなさい、俺はひとり本来の人間らしく、あの土地に隠れ残る自然食を確保することに力をつくしますから――という、こういうエゴイズムは、私はとれない。このようにしてでも自然食を食えば、たしかにその人は健康かもしれない。が、それは「自分ひとり健康であればいい」思想だ。お前は金がないのだから、工場できあいの安い規格品を食うがいい、わたしは舌が肥えてるからあの名店特選の別格の本物でなければ食いません――私はこういったスノビズムの排他性には、堪えられない。食う、とはそんなことではあるまい。
むしろ、別の言い方をすると、私は、なんでも自分の口と体に合わせてしまうことに力をつくしたい。口と体に合わせるように、みずからの手でもってゆく。正直に告白すると、私はもともと幸か不幸か、けっきょくは何でも口に合ってしまう人間であった。どこの店に行き、何を買っても、また、どこの国へ行き、何を出されても、舌は、それなりの驚きとよろこびの充実感をもって、その一々をうけいれてしまえるただの人間であった。
だからこそ、もちろん、例の、紙コップに熱い湯をそそげば、中の一見、めん類のような紐がぶくぶくにふくれあがる、といった、ああいう商品には、手を出したくないのである。もっとも、ぜんぜん食わずに文句をいうのでは、宮本顕治氏のポルノ批判と似たことになるから、一度だけ、深夜、空腹にたえかねたとき、こころみてはみた。一口で、ああこれはいけない、と思い、以後やめたのである。外皮をみるからに一色の紅で染めあげた赤色何号的ソーセージ、砂糖と香料と色素だけをとかした水、こういうものも口へはいれまい、と考える。マズい、せいだけではない。こわい、からだけでもない。健康にももちろんこわいが、それらは、食う、という行為にかかわっていくのに必要な精神的努力の、いちばんの堕落を象徴する怠惰をそそのかしている点が、危険におもえるからである。省力、という以上の手抜きを人に勧め、われとわが目をごまかすあまえを人に教え、こういう「食品の飼料化」を公然と美徳のように誘いかけてくる悪徳性。そこを、自分に許すと危いからである。おそらくこの悪徳の害毒は、工業毒、薬毒以上に、われわれを汚染し、いつかはとり殺すものであるにちがいない。食う素材を大地や水中からうみだし、それを食物につくり口へはこぶ、という作業は、もともと、どえらい手間も時間もかかることこそ本質なのだとおもう。手抜きなどというウマ味はありえないのである。
しかし、手抜きの悪徳の毒は、何よりも私たちに食いものの本質を忘れさせることで、人間を崩壊させるだろう。私はもう、|ここまでの公害《ヽヽヽヽヽヽヽ》で「殺される」だけで、たくさんだ。ここまでの公害に関しては、むろん、それを撒いたやつも、私といっしょに死んでもらう。私が先に毒殺され、|やつ《ヽヽ》だけが生きのこる、ということはありえない。天に唾したのは、|やつ《ヽヽ》なのだから。しかし、私は今後食いもので「自殺」だけはしたくない。自分で食うものくらい、せめてワンストロークは自分で手をかけて毒を抜き、自分の納得した中身を、自分の味と形と色にこしらえあげて食う。――その人間的防衛をこわしにくるやつに、やすやすと身をまかせたくはない。私は、それらの悪徳商品を私にわかる範囲で、慎重に丹念に、拒絶し、排除し、そしてそのあとは、覚悟をきめたうえで、冷凍肉から味噌まで、日に三度の食の素材は、特権の場所ではない、まったくあたりまえの市場、小売店、スーパー、デパート地下室にある、あたりまえの品のなかから、自分の目と知識でえらびたい。子供の頃、女のコとするままごとの素材は、庭の雑草であった。プロとはちがう大人のままごとに、この基本が崩れていいわけはない、と私はかんがえるのである。
5
素材がこう俗に雑多である以上、それを組合わせてできあがる私の食膳のレイアウトも、統一の美学を構成する気づかいはないのである。うちの食卓は、一見、国籍喪失もいいところの撩乱《りようらん》を呈している。もっとも、私にいわせれば、この一世紀、われわれが日本の家庭のだいどこにとりこんできた調理とは、たとえ名称こそカレーライスのようにカタカナだろうと、焼飯《チヤーハン》、雲呑《ワンタン》のごとく漢字だろうと、しょせん実質は、すべてわが民族が、我流で他処からの盗作を、新創作に化しおえた「日本料理」にほかならなかった。私たちはこの伝統百年の成果を認めてこそよけれ、マカロニ・グラタンと酢豚を食膳へいちどきに並べるのは野暮だ、カレーライスのおかずに八宝菜とはおかしい、といった通ぶりの卑下をおこなう必要など、まったくありはしないのである。どっちみち、それらも、われわれが作れば、ぜんぶ「和食」なのだ。私が撩乱の食膳の上で気をつけるのは、ひとことでいえば、全体のつりあい、それだけである。
書かでものことだ、と最後までためらうが、拙宅はふだんのごく平凡な食事に、どんな皿を目の前にひろげるか、言ってしまおうとおもう。一九七五年五月のある二日間、偶然にもメモをとった日、私は家で次のようなものを食って、すごした。
〔A日〕
〈朝〉 ・塩スジコのおろしあえ ・鱒バタ焼 ・ウド二杯酢 ・コゴミのクルミあえ ・モヤシ豚コマ切れ中華風炒め ・イナゴつくだ煮 ・みそ汁(ナス、ワカメ) ・ハーフグレープフルーツ〔米飯やパンなし〕
〈昼〉 ・スパゲティ(アサリ) ・生タラコ ・シイタケと昆布の淡味炊合わせ ・リンゴ
〈タ〉 ・てんぷら(キス、ナス、タラノメ、オクラ、冷凍小エビかき揚げ) ・ワカメとウドのひたし ・コゴミ味噌焼 ・イカつけやき ・かきたま汁 ・白ワイン 〔米飯やパンなし〕
〔B日〕
〈朝〉 ・牛スネ肉と大根の朝鮮風スープ ・タケノコと昆布土佐煮 ・ナガイモのかつおぶしかけ ・アジ干物〔米飯やパンなし〕
〈昼〉 ・サンドイッチ(自製コンビーフとキャベツ炒め、ゆで卵マヨネーズあえ、キュウリ、トマト) ・魚のアラ潮汁《うしおじる》
〈夕〉 ・おぼろ昆布 ・きんぴらゴボウ ・鶏肝南蛮煮 ・野菜(オクラ、タマネギ、ネギ、ピーマン、キャベツ、セロリ、ニンジン、シイタケ)と昆布の炒め煮中華風 ・アサリのチャウダー ・白ワイン ・イチゴ〔米飯やパンなし〕
比較的アッサリしたものを食いたかった二日である。私も年齢で、次第に好みが淡彩になったことは否めない。このなかに都会ではゼイタク品にもおもえる山菜が加わっているのは、たまたまこの二日間の直前、仕事で新潟へ行き、私自身が本町通りで安く仕入れてかついできたからにほかならない。量は、おのおの少量ずつである。いやあなたは大食いなのだ、という家内の反論は、あたらない。私としてはただ、こういう安いものが、賑やかに目の前へひろがってくれないと、頼りないのである。これをしも美食大食と罵られるならば、仕方ない。当人にしてみれば、「雑多食」なのだ。金魚のように、麩だけ食う≠の単食に、私はたえられない。どんなに高価美味でも、ビフテキだけ食ってすます、という食事が、私には、さびしくってできないのである。
こういう雑多食は、さぞかし、当人に手料理の調理技術を熟達させるものであろう、と思われがちだが、それは無邪気な誤解にすぎない。もともと調理の技巧とは、大別して、「割」と「烹」、つまり、包丁さばきの冴えと、煮焼きの妙に二分されるだろうが、このように平凡安価な品々をあれこれ並べたてる調理は、決して、包丁さばきの冴えだけではうみだされないものである。私は幾年かのままごとのなかで、魚を三枚におろし、刺身をつくりにする、これくらい、われわれ素人に至難の技術はないことを、思い知ってきた。私など、いまだに、刺身とかスシだねなど、じつは、つくることも不可能な料理である。ではシチューはつくれるのか、煮焼きはたやすいのか、といわれれば返す言葉もないが、煮炊きのほうには(心さえこめて挑戦すれば)、時にはマグレの合格品も生まれうるかもしれない。いっぽう刺身には、心もマグレもない。私などが魚を切れば、つねに断面の細胞はぐしゃぐしゃになるほかないのである。――ぶきっちょの素人なればこそ、私は、雑多な煮炊きものをつづけてゆきたいのだ、とおもわざるをえない。
雑多食に方向をさだめると、家庭のだいどこは、一種、備品の倉庫、あるいは整理のわるい理科の実験場の観を呈してくる。築地「田村」の調理場を田村平治さんに見せていただいたとき、鍋や包丁が空間の無駄もなく一ヵ所に集積されている簡潔さに驚嘆したことがある。立派な料理店へ行くほど、調理場は、一見、何も置いてないようにみえるものだ。素人の雑多食いは、これこそがむずかしい。
かつて、いったい私たちは、ふだんどれだけの基礎食品を台所に常備しておけば、突然、何かの料理を作りたくなって、肉や魚を仕入れてきたとき、あわてずに、一皿の料理を仕上げられるだろう、と考え、必須素材を数えあげてみたことがある。「揃ってますか?」と題して、常備品一覧表をだいどこの壁に張りだした。
〔野菜〕タマネギ、ネギ、ジャガイモ、ニンジン、ダイコン、キャベツ(サワークラウトとも)、キュウリ、トマト(あるいは罐のホールトマト)、セロリ、パセリ、できたらエシャロット、ワカメ、寒天。
〔蛋白、油脂〕卵、バター、チーズ、ラード、ベーコン、牛乳(少くともスキムミルク)、ブイヨン(少くとも固形スープ)、麩。
〔スパイス〕原形のままの月桂樹、粒コショウ、花椒、八角、丁子、タイム、瓶詰の諸スパイス・パウダー、ニンニク、カラシ、ワサビ、ショウガ。
〔めん類〕スパゲティ、はるさめ、ビーフン、乾そうめん、乾うどん、乾そば。
〔だし材料〕コンブ、乾シイタケ、貝柱。
いわずもがなの、塩、砂糖、かつぶし、醤油、酢、粉類、オイル類を除いて、これである。
「揃ってますか?」という題を読んで、とたんに、家内が、「なにいってるのよ、さがせばどっかに置いてあるでしょ」と、鼻であしらった。女とは欲張りなものだ。なるほど、丹念にだいどこを隅々まで探すと、どこの家庭にも、この程度の素材は必ず備蓄されているものなのである。ただプロはそれを整然と仕舞うために、調理場は広闊をきわめている。が、わが家のそこは、雑然としか評しようのない、二人と人間が立てないような物置き場となっている。
雑多についてさらにいえば、今日、私どもの食生活で心から驚かされるのは、とくに食具、なかでも鍋類の雑多であることだ。これだけは、日本の食事が、やや無原則に各国各民族、各地方から調理法をとり入れつづけた、その収穫の成果、あるいは形骸というほかない。頃日《けいじつ》、「オール讀物」からの示唆で、拙宅のだいどこに常置および死蔵されている「鍋」という鍋を、総ざらいにあらいだしたことがあった。在庫調査の結果、数にして五十、種類にして三十をかるく越す鍋が仕舞ってあったのには、ふだん、鍋を増やすことに猛反対しつづける妻はもちろん、買ッテ買ッテとねだりつづけてきた私自身が、呆れてしまった。本やレコードと同様、持ってることすら忘れていた%逞゙までいくつか現れ出たのは、慚愧《ざんき》にたえなかった。ばかげたことに、フォンデュ鍋まで、二つ出てきた。ひとつは確かに、スイスからかついできたのを覚えているが、同じようなひとつは、いつ、どこで、何のきっかけで買ったのか、も思い出せない。
私たちが毎日、その厚みや重さ、柄の握り具合までなじんでしまう常用の鍋は、むろん、そんなに多いものではない。アメリカ製の厚いフライパン(伊丹十三説によると、「うまいオムレツのできる鍋は、これだけ」であり、そしてそれは事実である)、横浜中華街で手に入れた柄つきの中華鍋、同じ、中国の|せいろう《ヽヽヽヽ》、赤銅《アカ》鍋、アルミの巨大なズンドウ、フタも鍋として使える厚い無水鍋、ホウロウびきの深いソトワール、透明なパイレックス、そしてSEBの圧力鍋と、電熱のクロックポット、こういう、余品をもって替えがたい品がまずあるだろう。そのほかは、ごくありきたりの、皮のうすい、全体がでこぼこになってる大中小のアルミ鍋で、ほぼ用は足りてしまう。にもかかわらず、どうしてだいどこの棚には、数十の鍋が格納されなければならなかったのか。――理由は、信じ難いことだが、私たちの民族が、江戸、明治いらい、「鍋もの」という、つまり食卓で火をたいて調理をおこないながら食事をすすめる、という、せっかちと気楽を両棲させた共食形式を、普及させ嗜好し、さらに新開発を拡大しつづけたからにほかならなかった。いささかの例外はあるが、私たちの食生活は、不便なことに、台所用の煮炊き鍋と、食卓にもちだすための食事用鍋とが画然と峻別され、そして後者が、ほとんどすべての民族よりも、群を抜いて多いのである。
すきやき鍋、しゃぶしゃぶ鍋、水炊き鍋、アルミ浅鍋、土鍋、鉄鍋、おでん鍋、てんぷら鍋、電熱平鍋、ほうろく鍋、陶板鍋、湯どうふ鍋、オイル焼鍋、ジンギスカン鍋、火※[#「火+咼」、unicode7171]子鍋、フォンデュ鍋……。おそらく、この雑多で「無体系」な無駄の底には、かなり深い、そして複雑な民族の美意識が、ひそんでいるのにちがいない。おでん鍋は、たとえアカでできているにしても、私たちはそれを、西欧人がアカ鍋を愛するようには、他の煮炊きには流用しない。ひたすら、おでんという単種の調理にしか用いない。てんぷら鍋は、しようとおもえばフォンデュにも使えるだろうが、私たちは、「それでは気分がでない」という。西欧人はフォンデュ鍋ひとつで、チーズもとかせば、フォンデュ・ブルギニョーヌの揚げものもつくり、しゃぶしゃぶにも使ってしまう。が、私たちは、すきやき鍋で天ぷらは揚げない。ここには明らかに、私たち独自の、強い単品指向性がはたらいている。
ほとんどすべての食事を、箸という、二本の細い木片で食えてしまう私たち日本人は、じつはおそろしく包括的な柔軟性をもってきた民族であろう。「弁当」という、一つの空間枠のなかに全量をおさめてしまえる食事が開発できたのも、そのおかげであろう。かつて欧米人だけのグループと、アメリカのいなかを旅したとき、私はセルフ・サービスのカフェテリアごとに、興味深い体験を味わった。彼ら欧米人たちは、好みの幾皿かの料理をコックから受取り、大きなトレイにのせてテーブルに運ぶと、必ず、すべての皿を、いったんぜんぶ盆の外のテーブルへ出し、盆を片づけ、あらためて一皿ずつを目の前に置いて、順序よく、時系列に従って食いはじめるのであった。私なら、皿はぜんぶ盆のなかへ並べたまま、食いたい品から箸をつけてしまうのに。
私たちは、こういう、「箸」という簡単な食具でものを口へ運ぶために、口へもっていくまでのプロセスである「鍋」などという中間の食具を複雑にするのであるか――といえば、それもちがうようである。中国人は、あれほど、おそろしく多彩華麗複雑な美味を、獲れるかぎり、考えつくかぎりの多様な素材と、その組合わせと、調理からうみだしてきたにもかかわらず、彼らの調理具、そして食具は、驚くほどに簡潔、かつ体系的である。ぶあつい円形のまないたの上で、たった一丁の四角い包丁を器用に駆使しわけ、すべてを一個の中華鍋と|せいろう《ヽヽヽヽ》で調理して、二本の箸で食ってしまう。それでいて、あの絢爛の料理群だ。
すると、いったい私たちの鍋の複雑さ、あるいはだいどこの常備食具の雑多さ、などはどこから由来するのであろう? おそらくここからは、ほとんど無限といっていい、文明論、あるいは生態研究の、示唆の種子がうまれ出てきそうである。たとえば、私たちが、「鍋」という食具をこれだけ多彩に分化させながら、いまだに、オーブン調理ひとつ、充分に、日常の料理にとりいれようとしないのはナゼか、といった……。たぶん、百年、私たちは諸国諸地方の料理を営々と「日本流そうざい」へ帰納しつづける作業の中で、その形の多彩化にほれぼれと自己陶酔し、一方、肝心な、素材のどんらんな新拡大とか、調理基本体系の新開拓といった側面には意をもちいることを比較的おろそかにしてしまった、これはその結果にちがいない。考えてみると、中国人は、どこの土地に住もうと、そこでとれる材料はどれでも全部自分流儀の食いものにしてみよう、といった意欲がある。が、われわれは結局、西洋料理、中華料理、といった完成体系から、ほぼ昔から食いなれてきたものになるべく近い素材を探しだし、これまでの方法で煮焼きできる範囲でだけ食卓の鍋の中で変容させているにすぎないのではあるまいか。
6
日曜日の朝、家族で、おそいブランチをとる。わきのテレビに目をやると、黛敏郎氏が、ポール・ボキューズを紹介しつつ、フランス料理の、現代と、ベル・エポック期と古典時代とを、音楽の変遷になぞらえながら比較してゆく番組が現れる。氏のスノビズムや気取り方は評のほかとして、わが家族全員、箸をとめ、まじろぎもせず、唾をのみこみながら凝視がとめられないのは、つまり、画面に現れる料理が、いやもおうもなく、今や自分たちにきわめて身近な、現在のわが身の食生活に近い、実感領域にあるからである。たとえ、いま現に、自分の手元に並んでいる食いものが、ボキューズの料理とはかなり味のちがいすぎる、ゆうべの残りのビーフ・ストロガノフであるにしても、若い息子や娘まで、ブラウン管上の高価精緻なぜいたく西洋料理が、|わが世代のもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》であることを知っている。
とたんに、番組がかわり、今度は三国一朗氏が現れて、昭和回顧をはじめる。――戦時中にイモのツルや、コーリャン、フスマを口へねじこまれた思い出の食談義である。あの、味はおろか、満腹感さえなかった食生活。息子や娘は、これを見ると、カンケイねえ、とばかり、音もなく立上り、自室に消えてしまう。なおも、まじろぎもせずブラウン管を強烈に凝視しつづけるのは、私と、妻のみになる。私の手元のぬかづけは、それにしても、この朝、この瞬間、なんという美味に感じられることだろう。
私は、この時世に生きてしまった者として、この番組が二つながら示す、両方の時代の食いものを口にいれてきた人間であった。ほぼ同年配の三国氏と同様、色だけは赤飯のようにうまそうなコーリャンめしも、信じられぬほどのマズさながら、食いつづけた。十九歳で入隊の前日、私は父が部隊長をしていた熊本の兵舎をおとずれ、アズキ入りの|おこわ《ヽヽヽ》をふるまわれた。軍隊とはこういう立派なものを食う場所か、と驚嘆した。さて、二等兵の初日、壱岐の島でわれわれに出されたのも赤飯だった。ヤッパリ! と、予感的中の感激にふるえながら一口食ったら、これはコーリャンだった。私は瞬間、大仰な言いようかもしれぬが、日本軍の「みせかけ」の実態を噛んだおもいがしたのである。それからは、毎日だった。朝から晩までがコーリャンだった。あの、しめしのつかないマズさは、それを食いつづけた人だけが知っている。当時はイモのツルはおろか、地べたに放り出された種芋のかすの、その腐ったのまで食わねば、腹がたもてなかった。それが三十年後、私も黛氏と同年配の身だから、今はボキューズのソースや詰めものやフォア・グラに、身ぶるいするほどの満足感で、フランス料理文化の豊かさを賛仰したい人間になっている。今もなお、地球には、コーリャンに劣るものさえ食えない人が、充満していることを知りながら、その人々からうばった食料を飼料とする牛肉に、私はなじんでいる。
そして正直なところ、いつか、私は、この後者を味わいえた自分を、人なみに栄華としつつ、ここまでわれしらず体内に蓄積させられた人畜有害の工業毒を総身にまわらせ、自身、食いに食った報いを当然のことながら身心にうけて、死ぬ順序になるのだろう。たぶんそのとき、私ははじめて、これは腐った種芋まで食って戦争に負けた自分、その帰結が当然のごとくやってきたにすぎないのだ、という事実を、納得するにちがいない。日本は負けても奇跡のように立ち直り、繁栄しました、などという、そんな念仏は空の空であり、やはり私は日本といっしょに負けていたのだ、負けをひきずって、私たちは敗戦後の国土と海を荒しに荒し、その結果カネや海外旅行を得た領収書のように、毒の判コを体に押されて、いま死ぬのだ、ということを、そのときはじめて、思い知るのかもしれない。毒を撒《ま》きに撒いたやつといっしょに。
しかし、そこまでは、私は、けっきょく、食えるだけのものを食うだろう。食事というこのあたりまえの日常事は、それをしないでは生きていられない以上、それに真剣にかかわるほどに、いきいきした刺激にみちすぎている。美味におどろけるその衝撃は、私に、自分を含めた人間やいのちへの関心をたかめさせるだけである。同時に食を毒で汚す人間への怒りを、ふとらせるだけである。鍋や箸や煮焼きの仕方ひとつひとつをながめて、自分のうちの日本人を考え、世界の人の生き方に思念をはしらせることは、知的な意味でも意志的な面でも、私にとってスリリングな刺激でありすぎるのである。
「通」に閉塞したら、この刺激だけは、もはやすべてまひ状態になって、終りを告げるだろう。ぶきっちょでものぐさでも、私はどこまでも、毎日が新しい驚きの、ままごとでゆく。
[#地付き]〈了〉
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あ と が き
食に関しての前著『男のだいどこ』のあとがきで、私は今後、「鍋もの大全」なる研究をみのらせるまで、食いものに関するおしゃべりを閉じることにする、と、大きな口をたたいた。
その舌の根も乾かないうちに、またもやぬけぬけと、この『大人のままごと』を上梓する。言行の不一致、恥じるばかりである。たぶん、女房に「あの女とは手を切る」と宣しながら、またぞろ愛人の元へ戻ってゆく男性は、このような重い気分ではあるまいか、と察すると、いよいよ恥ずかしさは複雑になる。私はまだ、食をかんがえ・語る未練が、たちきれない。
もともと、私はひとりで美味をあじわうたのしみは持たない男で、食の素材をさがすのも人ごみの市場でおこない、食をつくるのも家族全員と協力しあい、それを味わうのも、友人・知己と、和気あいあいの談笑をもってする、いわば「共有」をこそよろこびとしてきた。その一念は本書にも流れているはずで、つまりは、前述のような恥ずかしい事情にもかかわらず本書を書きあげてしまったのも、たえず誰かと、この、食を共有する快感をたしかめあっていたい衝動が抑えきれなかったため、それだけだった。それを、あやまりなく読みとっていただきたい、とねがうのは「あまえ」であることはよくわかっているが、少くとも私がここでおこなったのは、「通」の披露でもなければ、(どう誤解されても仕方ないが)美味体験のうんちくを傾けての、わが舌の謳歌でもなかった。「造詣の深さ」などにいたっては、まるでここにはありはしないのである。
本書の基礎になったのは、「週刊文春」の連載「ウチのかまぼこ」(昭和四十八年十月八日号〜昭和四十九年五月六日号)である。当初、それに数章を加えて一書にまとめる案を、文藝春秋出版局の小田切一雄氏から出されたが、結局は、新たに書きおろした章のほか、連載分の各章にもそれぞれ|ぼう大《ヽヽヽ》な補筆・改訂を加え、なかば全巻書きおろしに近い長期の単行本づくりとなった。担当の小田切氏、何回も初校そのものを組みなおされた印刷所におかけしたお手間と御苦労は、はかり知ることができない。週刊誌連載中の担当である茂木一男氏、および小田切氏、印刷所関係各氏には、心からの感謝とおわびとお礼を申し述べなければならない。なおまた「女王にとって『弁当』とは何か」の章は、「週刊朝日」の依頼で取材し、同誌に掲載した小文を基礎に、その取材で得た見聞・感想・意見を大幅に加筆し、新たな一文にまとめたものである。このような措置と、本書への収録とを快諾された「週刊朝日」、とくにその取材を完璧に設営された同誌・重金敦之氏には、お礼の言葉もないくらいである。
実践できない口約束など、しないにこしたことはないが、率直な話、近頃の私は、いよいよ、食通と誤解されかねないたぐいの文章を、敬遠したい気持が強くなっている。手ばなしで、どこそこの何はウマいウマい、とわが舌の栄耀だけに雀躍する食味礼賛は、する意思もないし、文章がそう受けとられる危うさをもつことにも、たえられない。ただ、私にとっては、まだ「鍋もの大全」は非常に強く心にひっかかるおもいがあり、また全国から世界各地にわたっての、市民の「市場《マルシエ》」、その探訪と研究への夢だけは、年月を追うごとに深くなってくる。食の共有の、出口と入口、への関心である。いずれの日か、時間を得て、「鍋もの大全」と、この「ギド・マルシェ」をものにでもできたならば、そのときやっと、私のようなただの食いしん坊にすぎぬ素人も、もう少しは、まぎれようのない文章で、人間にとっての食の語りあいの本当のたのしみを、書けるいとぐちがつかめるかもしれない。日本と地球の現状をみわたしても、少くとも今は、最小限その程度の自制をみずからに課さないで、食を快楽だけで語ることには、かなりの危険と罪がともなう時点に私は立っているのではないか。
そんなことを、かんがえる。
一九七六年春
[#地付き]荻 昌 弘
追 記
今回、文庫本へ稿を移すにあたって、明らかな誤記、読みにくい文章などに改訂をおこなったほかは、ことさら原文に手を入れることをさしひかえた。従って、食品価格などの諸数字は、単行本出版時の一九七六年春当時のままであり、中には今や既に消えてしまったレストラン名なども残っている点を、御了承ねがわなければならない。この文庫本化については文藝春秋出版部藤本一男氏に多大以上のお手数と御面倒をおかけした。心からお礼を申上げる。
一九七九年八月
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年九月二十五日刊