西の善き魔女外伝2 銀の鳥プラチナの鳥
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)金の羽《はね》が一|枚《まい》
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目 次
第一章 君よ知るや東の国
第二章 亡国の王子|見聞《けんぶん》
第三章 影をふむ姫君
第四章 星の女神の笑《え》まう処《ところ》
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矢は鳥のつばさにあたって、金の羽《はね》が一|枚《まい》おちてきました。
王子はそれをひろって、あくる朝、王さまのところへもっていって、夜中《よ なか》に見たことを話しました。
王さまは顧問官《こ もんかん》をあつめました。すると、だれもかれも、このような羽は、たとえ一枚でも王国《おうこく》ぜんぶよりも値《ね》うちがありますといいました。
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第一章 君よ知るや東の国
一
アデイル・ロウランドは暖炉《だんろ 》の前にかがみこんで、燃《も》える炎をながめていた。小麦色に波うつ細い髪《かみ》や、幼く見られがちのほおの線を、炎が赤く照り輝かせていたが、そこに浮かび上がる表情は冴《さ》えたものではなかった。
ここはハイラグリオンの|環 状 宮 殿《かんじょうきゅうでん》の一郭《いっかく》、ルアルゴー伯爵《はくしゃく》家の塔《とう》だった。その上階では、二月といえども暖房に火を焚《た》く必要はない。特に、北部育ちのアデイルたちにとっては必要ない。陶製《とうせい》の模様タイルでできた豪華《ごうか 》な室内|装飾《そうしょく》でアデイルが燃やしているものは、頓挫《とんざ 》した原稿の束だった。
高価な紙と苦労のあとが、わずかなうちに灰に変わるのをながめ、アデイルはおとろえた炎の上に鵞《が》ペンを乗せようかと一瞬考えたが、やめにした。羽根は燃えると臭いからだ。
卓上にあるガラスの小さなベルを鳴らし、侍女《じ じょ》を呼び出すと、侍女頭のナスタースがやってきた。
「ねまきを出してちょうだい。もう寝るから」
「お加減が悪いのでございますか?」
古株《ふるかぶ》のナスタースは、心配そうに問い返した。まだ午後の五時なのだ。眠くなるはずがない。
「そうなの。頭が痛いしお腹が痛いし、だるくて息苦しくて死んじゃいそうなの」
「それでは、今夜の通産大臣|閣下《かっか 》の夜会には、急なおことわりが必要でしょうか」
「そういうこと。訪問者もあったらことわってちょうだい。心づけはあなたの裁量《さいりょう》でいいから」
お嬢様《じょうさま》の機嫌がよくないことをナスタースは察したが、ためらったのちに言った。
「それなら、これもお引き取り願うべきでしょうか……今ちょうどマリエに、彼女の友だちが訪れたので、お嬢様に取り次いでほしいとたのまれて来たのですが」
「マリエの友だち?」
寝室《しんしつ》に行きかけていたアデイルは、くるりとふり向いた。フィリエル・ディーを思い浮かべて、どきりとしたのだ。けれども、そんなはずはなかった。フィリエルは竜騎士《りゅうきし 》を追って南のカグウェルをめざし、もう国境の町に入っていた。
(フィリエルのはずはない……彼女はギルビア公爵邸《こうしゃくてい》に寄ったと、ミニアンから報告があったばかりだもの……)
だとすれば、マリエと同郷《どうきょう》の娘でも来たのだろうか。思いなおしてアデイルはたずねた。
「どんな人? 新しく侍女になる人かしら」
「新しい侍女が入るなら、奥方様からなりセルマからなり、一言あってよろしいものと存じますが」
今度はナスタースがいくぶん機嫌を悪くした。関心をもったとたんに、アデイルの具合がよくなったせいもある。
「手前はいっこうに存じませんが、マリエ・オセットの女学校での知りあいだそうですよ。今日、ロウランド家の丘のお館《やかた》に着いたばかりだそうで。お呼び寄せになりますか?」
(まさか……)
ふいにアデイルは色めきたった。もしかすると、不可能が可能になったのかもしれない。
「その人は今、どこにいるの? 応接間?」
「いいえ、マリエの部屋に待たせております。なにぶん地方出の――」
アデイルは彼女が言い終わらないうちに駆け出していた。
「呼ばなくていいわ。わたくしが行ってみたほうが早いから」
「お嬢様ったら。侍女の部屋へなどご自分から行くものではありません。まったく……女王候補ともあろうかたが……」
ナスタースの言葉の最後はぼやきに変わった。アデイルの走りぶりは、風のようにとは言いがたかったが、へたに引き止めるとこけそうだと判断《はんだん》したためだった。
アデイル・ロウランド十六|歳《さい》。きゃしゃな体に金茶色の髪と瞳《ひとみ》。得意なことは空想すること、小説を書くこと、笑ってごまかすこと。苦手なことは運動全般とその競技、熱血《ねっけつ》すること。北部貴族の宗主《そうしゅ》ロウランド家の養女《ようじょ》にして、女王コンスタンス直系《ちょっけい》の孫。ゆえに現在、姉のチェバイアット家養女レアンドラと次期女王位の争奪《そうだつ》中である。
アデイルは熱血することが嫌いだから、自分こそが女王にふさわしいと考えているわけではなかった。これは二大|派閥《は ばつ》の貴族の抗争であって、個人レベルの争いではないと考えている。とはいえ、レアンドラという人物を相手に回すと、何もしないでいることもまたできなかった。
(……階段ってきらいよ。ハイラグリオンの宮殿のよくないところは、どこへ行くにも階段ばっかりあるところよ)
淡《あわ》いオレンジの裾をからげ、アデイルはじれながら階段を下った。王宮にふさわしいドレスで装《よそお》った彼女は、ガラスのケースに飾《かざ》りたいほど愛らしいと人には言われるが、いつかそのドレスで首の骨を折りそうだった。
ようやくころばずに二階分を下りきり、アデイルは侍女の小部屋が並ぶ廊下《ろうか 》を見わたした。あやまたずにマリエの部屋の扉《とびら》をたたく。
「お嬢様?」
返事を待たずに引き開けたため、驚くマリエともう一人の人物が目に飛びこんできた。北部の田舎風《い な かふう》に黒っぽいドレスをまとっているが、まるでそぐわない少女だった。背筋ののびた立ち姿。切りそろえた薄茶色の髪。細くはねあがった眉《まゆ》。聡明《そうめい》で涼しげなまなざし。
その青い瞳が笑《え》みにきらめいた。
「いやだわ、アデイル。お呼びを待っていたというのに」
「ヴィンセント」
アデイルは駆け寄って、まずは友を抱きしめた。トーラス女学校の文芸部で、もっとも仲のよかった友だちだった。学年の首席《しゅせき》保持《ほじ》者《しゃ》であり、王侯《おうこう》貴族の子女が入り乱れるトーラスで、もっとも頭脳明晰《ず のうめいせき》な少女でもある。
「まさかと思ったら、やっぱりヴィンセントだったのね。でも、どうして。わたくし、手紙を書きはしたけれど、あなたに来てもらうことはあきらめかけていたのよ」
「どうしてあきらめるの? あなたに乞《こ》われたならわたくしが全力を尽くすことくらい、期待してくれてもよさそうなのに」
さわやかな声でヴィンセントは応じた。
「あなたの手紙がわたくしの気をそそるだろうと、思ったことは正しかったその証拠に、わたくしは正攻法《せいこうほう》が無理なら、画策《かくさく》を練ってでもあなたのもとへ来ようとして、いったんはヴィルゴー館の特待生《とくたいせい》資格を申請《しんせい》して、同期のマリアンを言いくるめて、個室にこもって論文《ろんぶん》を書くとシスターには見せかけてトーラスを抜け出してきたのよ」
これだけのことを、ひと息で言ってのけるのがヴィンセントだった。黙っていれば姫君然《ひめぎみぜん》としているのだが、口を開くと立て板に水なのだ。変わっていないと思いながら、アデイルは言った。
「おしのびの身だから、マリエの友だちとして王宮に現れたわけなのね。やっとわかったわ……あなたはだれが見ても、そして実際も、他家《たけ》におもむいて侍女になる人ではないもの」
栗色の巻き毛をかしげてマリエがうなずいた。
「そうなんです。わたしの昔のドレスが着られたのはよかったけれど、とてもワレット村の娘には見えなくて。セルマばあさ……もとい、教育係のセルマ様にあやしまれて、冷や汗をかいてしまいました。ヴィンセントもヴィンセントで、ばりばりの都言葉でいつまでも言い返すし」
ヴィンセントは肩をすくめた。
「とってもいやみな老嬢《ろうじょう》だったんですもの。それでも最初は我慢《が まん》したのよ。裾さばきを見せるために部屋を三周したし、おじぎも十回以上したし、貴族の名前をはじから暗唱《あんしょう》させられたけれども」
マリエがアデイルに説明した。
「丘のお屋敷には、今、地元から来た女の子たちが数人いて、セルマ様が教育しているところだったんです。そこへヴィンセントが現れたものだから……」
アデイルはため息をついた。
「セルマがどうあがいても彼女にかなうはずないわ。ヴィンセントは、このハイラグリオンで生まれ育った人なのよ」
トーラス女学校にいるあいだは、生徒同士はお互いの出自《しゅつじ》を知らされない。初めて聞いたマリエは目を見はった。
「ええっ、それ本当ですか。それじゃ、ヴィンセントはつまり――」
「ヴィンセント・クレメンシア・ダキテーヌ。王族の姫よ」
アデイルが静かに言うと、ヴィンセントが訂正《ていせい》した。
「傍系《ぼうけい》王族の娘よ。女王直系のあなたにうやうやしく言われるすじではないわ」
「とんでもない。王宮内の序列《じょれつ》はわたくしよりずっと高い人よ。わたくしはしょせん、一貴族の養女ですもの。女王家の人間が必ず養子養女になる以上、宮廷《きゅうてい》でもっとも格の高い一族は、どうあっても傍系王族よ。メニエール大僧正猊下《だいそうじょうげいか》がいい例でしょう」
それを聞いて、マリエは口もとを押さえた。
「わたし、とんでもない人にタメ口をきいていたんですね……」
ヴィンセントは顔をしかめてみせた。
「おばかなことを言わないで。そういう分けへだてをしないためにトーラス女学校があるんじゃないの。たしかにわたくしは、たまたまハイラグリオンの南の丘で生まれたけれど、わたくしはきらいなのよ、自分の家」
クレメンシア・ダキテーヌといえば、数々の高位《こうい 》聖職者《せいしょくしゃ》を出している、『女神《め がみ》の家』とも呼ばれる王族だった。メニエール猊下もまたこの家から出ており、それゆえにダキテーヌの館は特別に、大聖堂《だいせいどう》と森の聖神殿《せいしんでん》のある南の丘に建てられている。
「わたくしの母など、信心深さがすぎてほとんど狂信者《きょうしんしゃ》よ。館はまるで大聖堂の一郭のよう。わたくしを、ぜいたくをした人間だと思わないでちょうだい。女神に仕《つか》えて、清貧《せいひん》に生きるようしつけられてきたんだから。このままアデイルの侍女にだってなれるはずよ」
ヴィンセントはさばさばと言ったが、アデイルはためらうまなざしを向けた。
「そうは言っても、見つかったらただごとではすまされないわ。たとえ、あなた自身はかまわなくても、あなたのご家族は、女王争いなどという下世話《げせわ》なものごとを忌《い》み嫌っていらっしゃるはず。あなたを巻きこむことなど許してくださるはずがないわ」
少し口ごもってから、アデイルは続けた。
「それに……このところロウランド家は、聖職者のかたがたに評判がよろしくないの。大聖堂でライアモン殿下《でんか 》のご葬儀《そうぎ 》があってから」
「だいたいのことはマリエから聞いているわ」
落ち着きはらって、ヴィンセントはうなずいた。
「わたくし、自分がここにいることを家に伝えていないし、これから先も伝える気がないの。当然でしょう、何もわざわざ母に心臓発作をおこさせたり、憤死《ふんし 》にみちびくことはないのよ。大丈夫、わたくしの家族はめったに社交界に顔を出さないから、そうそう見つかる心配はないわ」
にやりとして、ヴィンセントはアデイルに目くばせした。
「もしも怪《あや》しまれたら、そしらぬ顔でトーラスへもどって勉学にはげめばいいのよ。今しかないチャンスに、やりたいことをやらせてちょうだい。わたくしにクレメンシア・ダキテーヌの娘という肩書きがつく前に、ただのヴィンセントでいるうちに、できることがあるはずなの。その実現のためには、アデイルのもとへ行くのが一番だと判断したわけなのよ」
アデイルもついほほえんだ。
「それなら、気にしないことにしてしまおうかしら。あなたが来てくれたことは、本音《ほんね 》を言えば飛び上がるくらいうれしいのよ。このところ、どうにも行き詰《づ》まっていたの」
「何に行き詰まっていたの?」
「……小説に」
アデイルは肩をすくめ、小声で言った。
「書けないのよ、このところ。スランプみたい」
「それはおおごとだわ」
まじめな顔でヴィンセントは明言《めいげん》した。
「あなたの文才《ぶんさい》は、わたくしが一番信頼をおく部分よ。作家エヴァンジェリンのほとんど第一号ファンであって、編集者でもあるのだから。あなたに次を書かせるためなら何でもできてよ。いったい何が問題なの?」
アデイルはもじもじし、そうしたそぶりが彼女を幼く見せることには無自覚《む じ かく》に答えた。
「トルバートとブリギオン帝国に自分の手で和平《わ へい》協定を結ばせたいと言ったら、反対されたの。ロウランド家|寄《よ》りの保守派《ほ しゅは 》の人々が、出かけることなどとんでもないと言うのよ」
「手紙にも書いてあったわね、トルバートヘ行きたいって。わたくしが出てくる気になったのもそのせいなのよ」
ヴィンセントはくちびるを引きしめると、きっぱり言った。
「ひと月以内にかたをつけましょう。わたくしが王宮におしのびでいられるのは、そのくらいが限度《げんど 》だと思うから。じつはわたくしも、前々からトルバートへは行ってみたいと思っていたのよ」
自分の黒いトランクを示して、ヴィンセントは続けた。
「あの中に、東海岸まで描かれた地図が入っているわ。砂漠から東が描《か》かれた地図が禁制《きんせい》で、もっている者は異端視《い たんし 》されるって、ばかげていると思わない? わたくし、トーラスの図書館から拝借《はいしゃく》してきちゃった」
アデイルは金茶の瞳を賛嘆《さんたん》に見開いた。
「さすがはヴィンセント、用意|周到《しゅうとう》ね。ここで広げるのは何だから、どうぞわたくしの部屋にあがってちょうだい」
ヴィンセントは、部屋の暖炉にある燃えかすを目ざとく見つけ、悲しげなうなり声を出した。
「これ、もしかしたら原稿なの? なんてもったいないことを。途中でいいから見せてくれたらよかったのに」
「見せられるものじゃないわ」
アデイルはそっけなくしたが、ヴィンセントはくいさがった。
「概略《がいりゃく》でいいから教えてくれない? どんな筋《すじ》? 主人公は少年?」
「そういうことも、書き上がるまでは言わないの」
「わたくし、赤毛の貴公子《き こうし 》と黒髪の少年の物語の続きが読みたいなあ。女学校内では、まだまだあの作品が大人気よ。絵心《えごころ》のあるクラリスが描いた馬上の二人なんて、祭壇《さいだん》にまつりかねない勢いよ。赤毛の貴公子が竜退治《りゅうたいじ》にご出征《しゅっせい》なさったと聞いて、またもや全体の熱が上がったし」
アデイルは声を強めた。
「やめて。わたくしはあの物語を書いたことを、今ではすっかり後悔《こうかい》しているんだから」
ヴィンセントはきょとんとした。
「まあ、どうして。あれこそエヴァンジェリンの最高|傑作《けっさく》なのに」
「あれを書いたときには、まさかお兄様が、本当に竜退治に出かけるほどマヌケだとは知らなかったのよ」
「マヌ……?」
ヴィンセントが聞き違いかと首をひねっているうちに、アデイルは言いつのった。
「おかげでわたくしは、身動きできなくなったのよ。竜騎士が命がけで闘《たたか》っているときに、乙女が無事を祈らずにどうすると、みんなが言うの。わたくしは何もせず、代理戦士に闘ってもらえばいいのだと言うの。こうなることは最初からわかっていたのに。だから、お兄様にやめてほしいと言ったのに――」
アデイルは、淡いオレンジのスカートをぎゅっと握《にぎ》った。
「わたくしの言うことなど、はなから相手にしないで出かけていったのよ。わたくしがどう思おうと感じようと、知ろうともしない態度で。だから、わたくしももう知らない。竜に食われておしまいになっても自業自得《じ ごうじ とく》よ」
「そうは言ってもね……」
ヴィンセントは少し間をおいたが、口調《くちょう》は歯切れよく続いた。
「アデイルが、勇者《ゆうしゃ》に守られることがとっても似合う女の子だということは厳然《げんぜん》たる事実でしょう。そこがレアンドラとあなたの違いで、それについては、あなたも早くから割りきっていたはずよ。今さらどうして、そんなに拗《す》ねているの? ユーシス様にも立場がおありでしょうし、やめてと言われてやめられるものではないでしょうに」
昔からヴィンセントの分析《ぶんせき》は、友人を相手にしてもクールで公平だった。アデイルが黙りこむと、彼女はさらに言った。
「何が目的であれ、竜退治を名のり出ることは、生半可《なまはんか 》な勇気ではできないことよ。ロウランド家に彼がいたことを感謝するべきよ。レアンドラは今、将軍《しょうぐん》を気どって軍事訓練《ぐんじ くんれん》をしていると聞くけれど、彼女の場合、立てるべき器量《きりょう》の男性がチェバイアット陣営《じんえい》にいなかったと見てとることだってできるわ」
アデイルの脳裏《のうり 》に、竜騎士の激励《げきれい》会の夜がよみがえった。ユーシスは宴《うたげ》を抜け出して、塔のこの階を訪ねてきた。裏地《うらじ 》は真紅《しんく 》、表は黒地に赤金の模様を彩《いろど》った竜騎士のマントをまとい、すらりと丈《たけ》高く、常夜灯《じょうやとう》の下で髪と目はいつもより濃く見えた。
だれもがほめそやす端正《たんせい》な青年。そして裏はらな、彼ならではの無とんちゃくさ。ユーシスは、王宮を出ていくことを喜んでいた。そしてそれを、如才《じょさい》なく隠そうとする努力もしなかった。
ユーシス・ロウランドは、あろうことかアデイルの頭をなでて、そのまま廊下を引き返していったのだ――頭をなでて。ここまで思い返すと、アデイルは必ずかっとするのだった。
アデイルは| 憤 《いきどお》った口調で言った。
「わたくしだって、急進派《きゅうしんは》の家で養女になっていたなら、軍服くらい着ていたわ。剣をとることくらいできたわよ」
ヴィンセントは、アデイルの人形のように小さな手を見やった。
「無理があると思うけれど」
「もう少し早く生まれたらよかったのよ」
アデイルは言いはった。
「そうしたら、お兄様がばかの一つ覚えのように騎士をめざす前に止められたのに」
「アデイル」
ヴィンセントはあらたまった口調になり、たずねた。
「ねえ、あなたは本当は、トルバートではなく南のカグウェルへ行きたかったのではなくて?」
「ちがうわ、どうして?」
「ユーシス様のもとへ駆《か》けつけたいように見える」
「まったくちがうわ。お兄様のもとへは、フィリエルが駆けつけているというのに、どうしてそんな必要があるの?」
心から驚いたようにアデイルは言った。ヴィンセントにとって、これは初耳だった。
「フィリエルがですって。あの浮《う》き世離《よ ばな》れしたフィリエルが、何のために?」
「愛のためによ。決まっているでしょう」
「え、うそでしょう」
ヴィンセントはけげんそうな顔で見たが、アデイルはあっさり言った。
「今にヴィンセントも、うわさや歌を聞くと思うわ。そうすれば、熱烈《ねつれつ》な婚約者たちのことがわかるわよ。わたくしが行きたいのはトルバート。ねえ、早く地図が見たいわ。うるさいナスタースに見つかるとやっかいだから、隣りの寝室で見ましょうよ」
マリエが気をきかせてお茶とスコーンを運んできたので、ヴィンセントはアデイルが隣室《りんしつ》へ移ったすきに、彼女にささやいた。
「フィリエルがユーシス様を愛しているって、本当のことなの?」
マリエは盆《ぼん》をもったまま肩をすくめた。
「もちろんちがいますけれど、アデイルお嬢様は、何が何でもそういうことにしたいみたいですね。バラッドを作って流したのは、お嬢様のアイデアですし」
「彼女、ユーシス様のことになると妙《みょう》につむじ曲がりになると思わない?」
「さあ……そうであっても、お嬢様はきっとお認めになりませんよ。絶対に」
少し考えて、ヴィンセントは質問を変えた。
「ユーシス様は、フィリエルを愛していらっしゃるのかしら」
「それは、わたしには何とも」
「ユーシス様は小説どおり、黒髪の少年を愛していらっしゃるのが一番ドラマチックで、すべての女の子に公平だと思わない?」
ヴィンセントは熱心に言ったが、巻き毛の侍女は黙って背を向け、盆をもって寝室へ行ってしまった。
マリエが戸口を見はってくれるというので、二人は禁制品の地図を寝台の上に広げた。大陸全土を示す線が、ランプの光に黒々と浮かび上がる。
「グラール国の|縮 尺《しゅくしゃく》を見て。中央砂漠はこれだけ広いのよ」
その地図は、北を未踏《み とう》の氷界、南を竜の森としてぼかしてあったが、西と東の海岸線はかなりはっきり描いてあった。ファーディダッド山脈東の高原にあるミルドレッド公国、チアレンデル国、それらの先から砂漠がはじまる。ここまでは見慣れた地図でも知ることのできるものだったが、アデイルは、砂漠の広さを推しはかることのできる地図を初めて見た。
「グラールの十倍以上の大きさが不毛《ふ もう》の土地になっているのね。このあいだを隊商《たいしょう》が通っていくの?」
「点在《てんざい》するオアシスには緑があって、そこをうまくぬって行けば、できないことではないのよ。これがメインの中央ルート。南寄りのルートもあるわ」
人指し指で示しながらヴィンセントは言った。
「砂漠の東の出口にあたるのが、以前はカラドボルスと言われた国よ。今はブリギオン帝国の一部だけれども」
「遠いわね……トルバート国はどこ?」
「ここよ」
ヴィンセントが示したしるしは、砂漠の西三分の一から四分の一といった位置にあった。アデイルが思っていたよりもずっと西側だ。
「帝国の軍隊は、大陸を半分以上|踏破《とうは 》してトルバートを脅《おびや》かしているわけなの?」
アデイルが顔をしかめると、ヴィンセントも真顔《ま がお》で言った。
「砂漠にあるオアシスの村は弱小ですもの、素通しに通すでしょうよ。抵抗するほど国として成り立っている場所は、トルバートより東の砂漠にはないのよ。そのトルバート国だって、アルスラット中心の都市国家にすぎないわ。あなたはこの国について、どのくらいのことを知っている?」
アデイルは少し考えた。
「商業国家。王はいるけれども、ほとんど共和制《きょうわせい》の国。貴族というべき人たちも全員が商人。グラール国は、東方の香料《こうりょう》が欲しくて彼らを後押ししているし、彼らはグラールの銀でうるおっている……くらいかしら」
「トルバート人が護衛《ご えい》としてやとうのは、ほとんどが東部出身の傭兵《ようへい》だということを知っていた? 言ってみれば、ここは東西の緩衝《かんしょう》地帯なのよ」
「あ、もう一つ思い出したわ。先代女王の時代に、トルバート王家にとついだグラールの女性がいたわ。たしか、リリセット王妃……」
アデイルが言うと、ヴィンセントはわが意を得たようににっこりした。
「そうよ。だから、あながちわたくしたちと無関係ではないのよ。彼女の旧姓《きゅうせい》はクレメンシア・ダステア。傍系王族だったのですもの」
アデイルは目をぱちくりした。
「外国へ行きたがる王族は、ヴィンセントが初めてではなかったのね」
「もちろんよ。もっとも、彼女が出向いた目的は布教《ふきょう》だったのかもしれないけれど。この王妃のせいで、トルバートは人口の半分以上がアストレイア女神を信仰《しんこう》するようになったそうよ。それでも、彼女のことはあまり語られないの。東へ出向いて、蛮人《ばんじん》と結婚するなどということは、女神の家にとってはスキャンダルだから」
アデイルは、楽しげに言うヴィンセントを見つめた。
「あなたも、本当は……スキャンダルをおこしてみたいの?」
「そうかもしれない」
つややかな髪を払って、ヴィンセントは笑った。
「わたくしね、このままこつこつ勉強して、シスター・ヴィンセントになって、トーラスに居続ければ、ゆくゆくは修道院長《しゅうどういんちょう》になるはずなの。清らかに気高《け だか》く美しく。でも、それは親の計画であって、わたくしが決めたものではないわ。わたくしは、そんなふうに人生の先が見えてしまう前に、世界を自分の腕に確かめてみたいの。修道女になるなら、シスター・ナオミのように世を見尽くしてからでも遅くはないと思うのよ」
二
アデイルは、ヴィンセントをルアルゴー伯爵に引きあわせることに関して、それほど心配していなかった。ヴィンセントの身分や事情も、彼にはつつみ隠さず打ち明けた。
ルアルゴー伯爵オーウェン・ロウランドは、眉間《み けん》に立てじわを刻んだ憂《うれ》い顔の人物で、容貌《ようぼう》からは謹厳《きんげん》に思われるが、じつはおちゃめ好きの人間だった。なんといっても、少年ルーンをトーラス女学校に入学させる人物である。
ヴィンセントもまた、伯爵の前で堂々とした態度をくずさなかった。ロウランド家には迷惑《めいわく》をかけないと言い切り、ひるむところがなかった。
「……もちろん、わたくしはここにいないはずの人間ですので、実家に物的援助《ぶってきえんじょ》を申し出ることはできませんし、庇護《ひご》もいっさい期待できません。けれども、わたくしを地方出の侍女と同じに取り扱ってくださればけっこうです。わたくしの望みは、アデイルといっしょに行動して、彼女に協力することだけですから」
この理知的《り ち てき》な少女は、親しい友人と接するとき以外には、冷たくとりすましたように受けとられがちだった。トーラスの学内でも、そのために彼女を崇拝《すうはい》する生徒と、敬遠《けいえん》する生徒の両方がいたものだ。
アデイルがちらちらと反応をうかがっていると、案の定、ルアルゴー伯爵は彼女が気に入ったようだった。彼は頭のいい娘が好きなのだ。
「ご息女がこうして王宮に出入りしていることを、クレメンシア・ダキテーヌ家のだれかが知ったら、ダキテーヌ家、ロウランド家双方にとって命取りだということはわかっているね。長くは伏《ふ》せられることではない……王宮の人々をそれほど簡単にあざむけると思わないほうがいい」
伯爵が口を開くと、ヴィンセントは真剣にうなずいた。
「承知《しょうち》しております。ひと月以上おじゃまするつもりはありません。成果《せいか 》があってもなくても去るつもりです」
成果があったら外国へ去るつもりだとは、口にしなかった。聡明なヴィンセントは、そこまで明かすにはまだ早いと承知しているのだ。
ルアルゴー伯爵はうなずいた。
「アデイルに、親身になってくれる友人がいるのはよいことだ。身元さえちがっていたなら、いつまででも喜んで滞在《たいざい》してもらうところだが。まあ、気のすむようにしなさい。匿名《とくめい》の女の子をあずかることにかけては、ロウランド家には前例があってね。彼女に用意したものごとがそのまま使えるだろう」
「これで晴れてお墨付《すみつ 》きとなったわけね。ルアルゴー伯爵って、渋《しぶ》くてすてきなかた……ものわかりがいいけれど、腹芸《はらげい》もなさっているみたいで、お相手していて緊張してしまったわ」
伯爵の居室を出ると、ヴィンセントはとりすました態度をぬぐいさって、うきうきと語った。
「うそばっかり。氷みたいに動《どう》じなく見えたわよ」
「わたくしって、かまえるとそういう顔になってしまうのよ。これでもう少し口数を減らせば、もう少し好意的に見てもらえるようになることはわかっているけれど、なかなかね。ねえ、わたくしの前例になる匿名の女の子ってだれのこと?」
「フィリエルのことよ」
アデイルはため息まじりに打ち明けた。
「彼女の家名はディー。異端の研究者ギディオン・ディー博士と、駆け落ちしたエディリーン王女の間の子どもがフィリエルなの。だから、彼女はわたくしの従姉妹《いとこ》でもあるのよ」
「なんですって」
ヴィンセントは仰天《ぎょうてん》した声を上げたが、それも大げさと言うことはできなかった。何度か息をついでから、ヴィンセントは押し殺した声で言った。
「ロウランド家は保守派で堅実《けんじつ》な家だと思っていたのに。それならルアルゴー伯爵は、極めつけに剛胆《ごうたん》なかたなのだわ。第二王女様のあれこれは、女王陛下の逆鱗《げきりん》にふれる禁忌《きんき 》だと聞いているわよ。わたくしの素性《すじょう》など、それに比べれば取るにたりないものよ」
「そうかもしれない」
アデイルは認めた。
「お父様って、見かけとかなりちがうの。女の子にはけっこう甘いこともたしかだし」
「あの、素朴《そ ぼく》なフィリエルがねえ……」
ヴィンセントは感無量《かんむりょう》の様子で頭をふった。アデイルは彼女を見て、念のために言った。
「魅力的な女の子でしょう。わたくしはフィリエルのファンよ。わが道を行くところも、純情なところも全部。あの子は強運の持ち主だから、お兄様のこともきっとなんとかしてくれる気がするの」
ヴィンセントはふいにほほえんだ。
「強運、それはたしかにね。フィリエルって、どこかかなわないと思わせる女の子よね。このことが聞けてよかったわ。彼女を南へ送り出すような家なら、わたくしたちのことだって、うまく水を向けることができそうだもの」
アデイルは、そのままヴィンセントをルアルゴー伯爵夫人レイディ・マルゴットに紹介したかったのだが、夫人はこのところ塔には不在だった。王宮の女官としての任務《にんむ 》が忙しいのか、ロウランド家のための奔走《ほんそう》なのかは、よくはわからない。
もっとも、養母の承認を取りつけるまでもなかった。レイディ・マルゴットもトーラス女学校の卒業生であり、このことに理解がないはずはないのだ。
そうして、以前にフィリエルの使っていた部屋が内装《ないそう》を少し変えてヴィンセントにあてがわれ、侍女との顔合わせもすんだところで、アデイルは言った。
「用意は万端《ばんたん》ととのったというところね。王立学院や宮廷の夜会に、またいっしょに出かける人ができてうれしいわ。あなたの情報収集には、どこからとりかかる?」
「そうね……」
ヴィンセントはあごに指をあてたが、すぐに言った。
「言わせてもらえば、『汝《なんじ》の敵を知れ』というところね。レアンドラを見てみたいわ」
アデイルはびっくりした。
「でも、レアンドラはこのところ、王宮にも学院にもほとんど顔を出さないのよ。アッシャートン州につくった練兵場《れんぺいじょう》につめているという話だわ」
「アッシャートンは遠くではないわ。彼女の訓練している軍隊が出国《しゅっこく》する見込みは、どのくらいあるのかしら」
アデイルは慎重に答えた。
「……トルバートに接近したブリギオンの軍隊は、もう何ヶ月も攻めこむ気配がなく、膠着《こうちゃく》してしまっているでしょう。王宮内では、これが遠征《えんせい》の限界だったという見方が強くて、だから、トルバートの要請《ようせい》に応じた派遣《は けん》も状況待ちになっているの。ましてや軍隊などはむだだと考える人々が、王宮の大半よ。それでも――」
くやしそうな顔でアデイルは続けた。
「王立学院の学生たちは、かなり彼女のすることにあおりたてられているみたい。参加した人数も多いし、練兵場の見物に行く人たちが引きもきらないのですって」
「それよ。練兵場は、ピンハットフィールドの野外競技場だったわね。わたくしたちも、一つ見物してみましょうよ」
陽気な声でヴィンセントは言い、アデイルは信じられないように見やった。
「わたくしに見学に行けと言うの? レアンドラの兵隊の訓練を?」
「お手並み拝見《はいけん》がかんじんなのよ。彼女がアピールするところを把握《は あく》すれば、その逆手《さかて 》に出ることもそのぶん的確になるでしょう。アデイルは気にならないの? 彼女がどんなふうに若い人の心をとらえているのかが」
アデイルはいくぶんためらった。
「気にならなくはないけれど……それでも、グラールを動かしているのは、まだまだお年寄りたちであって、彼らではないのよ」
「女王の世代交代があったあかつきには、支持者もまた若返るのよ。わたくしたちは、将来の予見《よ けん》としても知っておかなくては」
ヴィンセントの主張に、アデイルは困った顔をした。
「それでもわたくしは、保守派のアデイルなのよ。レアンドラの軍隊に興味をもっているなどと人々に知られたら、いったい何と言われるか」
ヴィンセントは意味ありげに見やった。
「保守派のマスコットのお姫様に行ってくれなどとは、だれも言っていないのよ。『女神の家』の娘が練兵場へ行きたがるはずもないのと同じくらいにね」
「……もちろん、そうだったわね」
アデイルは笑いだした。
「何もアデイルの顔で行くことはないのよね。そうだわ。わたくしも、あなたといっしょに変装《へんそう》するわ」
上流貴族たちは一般に、昼日中の散策《さんさく》やスポーツ観戦には軽快な無蓋《む がい》の二輪馬車をもちい、正式訪問や長距離の移動には箱形の四輪馬車をもちいる。今、幌《ほろ》をさしかけた二輪馬車にマフを手にして乗りこむマリエは、青ビロードの帽子をかしげ、やや情けなさそうに、後続のアデイルとヴィンセントを見やった。
「いいんですか、本当に。こんなので」
アデイルもヴィンセントもただ手をふって、不自然にふりむくなという合図をした。マリエが貴婦人で、そのお付きの田舎出の侍女(ヴィンセント)と小姓《こしょう》(アデイル)という筋書きなのだが、少々無理があるとマリエは思う。
けれども、馬車がメイアンジュリーの郊外《こうがい》を抜けて南部の平野を走り、アッシャートン州に入ると、各種の競技会で鳴らしたピンハットフィールドには、同じような目的の貴族がおおぜい来ていることがわかり、それほど目立たないことに、マリエも胸をなでおろしたのだった。
二月の半ばであり、春のきざしをながめるには寒すぎるが、グラール南部では穏やかな晴天が続き、日射しのふりそそぐ土手の散策は、こもりがちな季節にすがすがしい空気を吸うには最適だった。騎馬や馬車でやって来た人々は、小川に沿った並木道にそれらを停《と》め、思い思いにかたまって、広い芝草の競技場で行われる教練《きょうれん》を、土手の上からながめていた。
そのせいもあって、百人単位で訓練にいそしむ志願兵たちは、ユニフォームを着てスポーツを楽しんでいる人々のように見えた。行進、射撃《しゃげき》、集合|離散《り さん》。貴族の子弟《し てい》とおぼしき軽騎兵《けいき へい》たちは、馬をあやつって実際のところポロに打ち興じている。
「なんだか知らないけれど、ここに集まった兵士たちの食費や寝床は、アッシャートン侯爵が私費《しひ》でまかなっていらっしゃるのかしら」
ヴィンセントが冷めた指摘をした。
「これって、日が重なればけっこうな出費になると思わない?」
「アッシャートン侯爵は、スポーツ団体や選手への支援《し えん》を惜しまないかただから、その延長なんでしょうよ」
アデイルはつぶやいたが、何かがちがうと考えずにはいられなかった。
「スポーツのことはよくわからないけれど、小国の紛争《ふんそう》を鎮《しず》めるのでさえ、女王の騎士団で足りていたグラールなのに。これだけたくさんの人間が一度に闘うとはどういうことか、この人たちはわかっているのかしら」
「東の地に帝国ができたことが、眠れる何かを呼び覚ましたのかもしれないわね」
ヴィンセントは考え深げに言った。
「わたくし、かなりブリギオンのことを調べたのよ。帝国の成立は血で血を洗うものだったけれど、帝王エスクラドスを人でなしだと感じると同時に、興奮させられなくもなかったの。グラール国なら十年も二十年もついやして得る成果を、彼はたった一、二年でなしとげたのよ。かたっぱしから殺戮《さつりく》する方法でね」
「ヴィンセントったら、うれしそうに言っている」
アデイルがとがめると、ヴィンセントは心外そうにふりむいた。
「そんなことあるものですか。わたくしだって、すごくいやよ。そんな人物は、そばに寄りたくもないものだわ。でもね――」
これだけは言っておこうと決意したように、ヴィンセントは言った。
「ここにいる人たちが、そのような殺戮者を撃退《げきたい》しようと燃える気持ちは、意味のないことではないわ。トルバート国がどれだけ西寄りか、地図の上で見たでしょう。志願兵《し がんへい》をあおっているのは、レアンドラだけど」
レアンドラの姿は、練兵場の反対側に小さく見えていた。訓練には加わらず、検閲《けんえつ》の将校といったおもむきで、側近《そっきん》を従えて立っている。
彼女は、意外と地味な紺色の軍服を身にまとっていた。だが、乗馬|鞭《むち》を手にした立ち姿はやはり水ぎわだっている。| 冠 《かんむり》のように巻きつけた銀色の髪が、早春の光をそこへ集めたように輝いていた。
レアンドラは、しばらくその場で監督を続けていたが、やがて灰色の馬にまたがり、騎兵たちのいる隣りの馬場へ向かう様子だった。その、さっそうとした乗馬姿を見送ってから、アデイルは口を開いた。
「彼女、かっこいいかしら……」
ヴィンセントは少し遠慮して答えた。
「ええ、たぶんね」
「どこにいても目立たずにはいられない人だから、きっと極めてしまうのね。あの人は演出の力を知っているから。でも、これをかっこいいと感じて、本当に正しいのかしら」
小姓姿のアデイルは、えりの大きなブラウスを着て小麦色の髪をきつく帽子に押しこんでいたが、心地悪そうに帽子の具合をなおした。
「戦争は、どんな形をとっても殺戮することでしょうに。殺戮というのは、一人二人ではなくおおぜいが一度に殺されることよ。それは、鼓舞《こぶ》してよいものごとではないわ。わたくし、だから団体競技ってきらいなのよ」
ヴィンセントは小柄な彼女を見やった。
「そういえばあなた、トーラスで、一度ならずバスケットボールでころんで、ふまれてけがしていたわね」
「球技も駆けっこもきらいよ」
アデイルは口をへの字に結んだ。少し間をおいて、ヴィンセントも認めた。
「レアンドラが、少々やりすぎの感があるのはたしかね。帝国がそこまで迫っていて、国の守りが必要というなら話もわかるけれど、砂漠のトルバートでさえ、いまだに攻略《こうりゃく》されていないことを思うと。この軍隊を動かすなら、遠征に打って出ることになるでしょうし、他国へ侵出するとなったら、グラールの良心に照らして問題があるわね」
「そう思うでしょう。はでな宣伝のためだけなら、危なすぎてひんしゅくを買う演出だわ。それともレアンドラは遊びではなく、本気でこれを率《ひき》いるつもりなのかしら」
アデイルが言ったとき、それまで馬車のクッションから優雅《ゆうが 》に観覧していたマリエが、貴婦人らしからぬあわてふためいた態度で、車から飛び降りるのが見えた。しかし、いぶかしむひまもなく、彼女たちの背後で声が聞こえた。
「だれが遊びでしているですって。わたくしは何事も本気でかかることを知らないの?」
アデイルもヴィンセントも、まさかと思ってふり返ったが、そのまさかの人レアンドラ・チェバイアットが、乗馬用のブーツを光らせ、木の芽のふくらんだ柳《やなぎ》の陰で薄笑いを浮かべていた。彼女は馬場へ移動したのではなく、ぐるりと回ってここへ現れたものらしい。
ヴィンセントはあわてて帽子のつばを引き下げたが、まるでまにあわなかった。染めた髪の色も、田舎風のほお紅も、どうやら役に立ってはいなかったようだ。
「そこにいるのは、ヴィンセントじゃないの。トーラスを出てきてさっそく、わたくしの活躍を見にきてくれるとはうれしいよ」
「どなたか、お人ちがいでは……」
「だめだめ、とぼけるのは時間のむだよ。トーラス特待生のヴィルゴー館には、わたくしもいくらかコネがあるのだから。君が出奔《しゅっぽん》したことは、内々に耳に入れていたのだよ。どうせアデイルのところだとふんでいたけれども」
レアンドラは、蠱惑《こ わく》的とも見える笑みを浮かべて近寄ってきた。銀色のおくれ毛が日を透《す》かし、細めた眼《まなこ》は黒々と深い。どれほど反感をもつ人間にも、レアンドラが比類《ひ るい》のない美人であることは否定できなかった。
そばへ来ると、彼女が男性なみの身長をもっていることがあらためてよくわかる。紺色の軍服は、彼女のよく伸びた手足を強調していた。
「頭脳優秀な君のことだから、世間に出てきて情勢がわかれば、わたくしについたほうが有利なことに気づいたのではなくて? アデイルは同情をひくことには長《た》けてはいるだろうが、ついこのあいだ、フィリエルにも逃げられたばかりなのだよ」
ヴィンセントは顔を隠そうとするのをやめ、ひらきなおってぐいとあごを上げた。
「……スパイするのはご勝手ですけど、わたくしがここにいること、あなたの口からクレメンシア・ダキテーヌに伝わったとわかれば、もてる頭脳をふりしぼってでも報復《ほうふく》にかかりますよ。その点はお忘れなく」
おかしそうにレアンドラは笑い声をたてた。
「そんなに牙をむかなくてもいいのに。傍系王族のお姫様ともあろう人が。わたくしは、そうした君が女王争いに顔をつっこむ気になったことを、めずらしく思っただけ。そして、どうせつっこむのなら、わたくしに加勢したほうが得だと教えにきただけだよ」
アデイルは、簡単にレアンドラに見つかったことにさほど驚いてはいなかった。変装は、他の見物人をはばかるためで、レアンドラその人をあざむこうと思ったわけではない。見えない情報網をもつのは大貴族の常識だし、アデイルとて、レアンドラの動向を、たとえ目にしなくてもかなりのところまで知っているのだ。
それであっても、彼女にやすやすと目の前に立たれると、また異なるものがあった。レアンドラという人物は、他人の神経を逆《さか》なでするところを、たしかにもっていた。
「ヴィンセントは言葉にのせられる人ではないけれど、それでもよく、ぬけぬけと言えるものですわね。あなたの軍隊遊びは、苦々しく扱われるばかりか、宮廷内ではほとんど黙殺《もくさつ》されていることを、ご存じではありませんの?」
アデイルの反撃に、レアンドラは眉をあげてちらりと見た。
「ヒヨコちゃんは、列の最後についておいで。おままごとも君にならお似合いだ。でも、わたくしをいっしょにしてもらっては困る。現在の宮廷にしがみついている、涙目をしたお年寄りたちなど、数にも入らないことがわからないの? 変化に対応することが無理になった連中など、残滓《ざんし 》でしかないものを」
「それは、あなたが遠くから吠《ほ》えていらっしゃるものごとです。この国の中心にはいぜんとして老人がいて、現実に采配《さいはい》をふるっています。コンスタンス陛下のご意志のもとに」
アデイルが言いつのると、レアンドラはあわれむような顔をした。
「それをくつがえす能力をそなえる者が、次期女王たる者だろう。陛下も内心にはそれを期待しておられるのだよ」
「あなたに、陛下のご懐中《かいちゅう》を察することができるとは、とても考えられません。グラールの良識を破ったこの軍隊を、これから先いったいどうするおつもりです。教練が終わったら、トルバートの東までさし向けるとでも?」
アデイルが辛《しん》らつにたずねると、ヴィンセントも好奇心を抑えかねるように口をはさんだ。
「本当に、レアンドラ、他国を侵略せずに確立した大国というグラールの長年の自負を、あなたはあっさり捨て去るお考えですか? 周辺の小国家への波紋《は もん》を考慮《こうりょ》することなく?」
レアンドラは両腕を組み、わずかに体を傾けて柳の幹《みき》にもたれた。
「必要とあらば、捨てもしよう。そして今は、必要にせまられている時期なのだよ。君たちのんきなおチビさんは、ブリギオン帝国の勃興《ぼっこう》を耳にしても、何も感じるところがないのだろうね。帝国が生まれるとはどういうことか、わたくしはもう何年も考えているというのに」
思わずヴィンセントは背筋をのばした。
「そんなことはありません。わたくしだって、ずっと以前から注目していました。世界地史に興味があったのも、かの東国の動乱のせいですもの」
レアンドラはくちびるを曲げてほほえんだ。
「そうだね、君とは気が合うだろうと思っていたよ。それで、君は、この世に帝国ができることをどう解釈した? 破壊と荒廃《こうはい》の狂気のさただとしか思えなかった?」
「それもたしかにありますけれど……」
少しためらってから、ヴィンセントは固い口調で答えた。
「攻めおとされた国の当面は、たしかに荒廃した悲惨《ひ さん》なものです。けれども、全体として見れば、驚くのは復興《ふっこう》の迅速《じんそく》さです。東側では、加速してものごとが動いているように見えます」
レアンドラは満足げにうなずいた。
「そう、さすがにわかっている。つまり、活性化《かっせいか 》されるのだよ。戦争は闘うためのものばかりでなく、文化経済の活性化のためにも動き出すものだ。殺し合いは無益《む えき》と言いながらも、悲しいことにわれわれは、闘うことでもっとも効率よく活性化されるらしい」
アデイルは顔をしかめた。
「たとえそうだとしても、戦争による侵略は、グラールの人間が最後まで肯定《こうてい》してはならないことではありませんの?」
「そうして、自分をいつわっている間に、グラール国は宗主の地位を失うだろうよ。今に見ているがいい」
冷淡な声でレアンドラは言うと、ふいに後ろをふり返り、木立の陰にいる灰色の馬を見やった。
「……たとえば武器だ。君たちは、こういう弓を見たことがあるかい?」
彼女が愛馬の鞍《くら》袋から取ってきたものは、ただの小弓だったが、アデイルたちが知っている通常の弓とはちがい、水平にして台座に取りつけられているものだった。弓を引きしぼり、弦《つる》を台座のにぎりにある引き金にかけると、指一本で発射するようになっていた。
「これなら、鍛え上げた男性並みの腕力がなくても、目のいい者になら扱える。わたくしよりかよわい女性であっても遠い敵を撃つことができる。こうした武器を、グラールのわたくしたちは発明しようと思ってもみなかっただろう。けれども、じつに優秀なアイデアだ。命中の精度《せいど 》もいい」
台座を両手で持ち、片目をつぶってかまえると、レアンドラは遠くの木に向けて矢を放った。空《くう》を切って矢が飛ぶと、地面をさぐっていた彼女の馬がぴくりと頭を上げた。
「この弓は中央ルートをわたってきた品だ。このところ気に入っている。わたくしも、あまりこの腕に力こぶを作りたくはないからね」
ねらいにたがわず木の幹に当たったので、うれしそうに笑ってから、レアンドラは言った。
「これはほんの一例だよ。ぐずぐずと眠ったようなグラール国に甘んじた精神をしていると、いつか泣きを見ることになるという。それが確実にわかっているというのに、わたくしは、ものの見えない年寄りに従っていることはできない」
アデイルとヴィンセントが、つい気圧《けお》されて黙っていると、レアンドラは弓を肩にかつぎ、歌うような調子で言った。
「いつでもかまわないよ、ヴィンセント。気が向いたらわたくしのところへ来なさい。クレメンシア・ダキテーヌに反抗する気概《き がい》と能力があるなら、徹底的に反抗したほうが、君のためにもなるんじゃないの? アデイルは、友人をひっぱってくること以上に能のない子だよ」
ここまで言われては、アデイルも黙ってはいなかった。
「そうおっしゃるあなたは、友だちといるところを一度も見たことがありませんけれど。もしや、いらっしゃらないのでは? 手下のラヴェンナたちでさえ、姿が見えないようですわ」
「ラヴェンナたちには、重要な用をあててある」
レアンドラは落ち着きはらって答えたが、それでもむっとするところはあったようだった。会見を終えるしおどきと見て、きびすを返して灰色の馬に乗り、そのまま去っていった。
ヴィンセントは、ためていた息をはきだした。
「……彼女、あいかわらずの迫力ね」
「でも、いやがらせ以外のなにものでもないわ。わざわざわたくしたちを探し当ててのパフォーマンスですもの」
アデイルはくちびるを噛み、ばかばかしくなって小姓の帽子を脱ぎすてようとしたが、思いなおした。レアンドラが現れたせいで、かなり注目されていたのだ。
マリエが近寄ってきて、泣きごとを言った。
「早く帰りましょう。寿命《じゅみょう》が数年縮みました。ここはアッシャートン州なんですから、彼女が変装禁止と言えば、そのまま法律になることだってあり得るんですから。早く退散《たいさん》するにこしたことはありません」
従者の馬車に乗りこんでから、アデイルはヴィンセントに告げた。
「……レアンドラの言いぶんのほうが分《ぶ》があると思ったら、遠慮なくそう言ってね。わたくし、別にうらみはしないから」
ヴィンセントは、わざわざ帽子のつばをそらせてアデイルを見つめた。
「そう言うあなたは、どう思っているの?」
「武器はきらいよ」
きっぱりとアデイルは言い切った。
「レアンドラったら、優秀な武器が文明の進歩だと言っているみたいじゃないの。そんなのはおかしいわ。人殺しの道具がどれほど技術的に進んでも、それを文化の活性化だと考えるなんて、まちがっている」
「そうね……でもね……」
しばらく考えてから、ヴィンセントはたずねた。
「それなら、たとえば、その武器が人ではないものに向けられるとしたら? 竜退治の騎士が命を落とさずにすむような、とっても効力のある武器が作られるとしたら?」
「そんなもの……」
アデイルは勢いよく言おうとしたが、一瞬声がつまった。そして頭をふってから、げんなりしたように続けた。
「つまらないことを言わないでよ、ヴィンセント。竜騎士は、槍《やり》一本で竜に立ちむかうからそう呼ばれるのであって、簡単に殺せたら、もう英雄行為ではなくなってただの作業になってしまうのよ」
「あ、なるほど」
ヴィンセントが感心すると、アデイルはため息をまじえた。
「……竜騎士ほどおろかしい人たちはいないわ。でも、グラール国が敢《あ》えてそうして、槍一本に意味をもたせたかったとするなら、わたくしはレアンドラの論理にうなずけない。戦争に夢などもたせてはならないのよ」
「そうだったわね……体をはって理念を実行していらっしゃるユーシス様のためにも」
ヴィンセントが思わずしみじみと言うと、アデイルは突然つむじを曲げた。
「あら、いやだ。お兄様のためなどではないわよ。わたくしは、ブリギオン帝国の戦争の論理を遠ざけるためには、武力で対抗してはだめで、根本からちがう方法をぶつけるべきだって、そう言いたかっただけよ」
「はいはい」
逆らわずにヴィンセントはあいづちをうった。
「それなら、あなたは、トルバートへ和平使節として行くことをまだあきらめないのね?」
「ええ、そうよ。レアンドラのしていることを見て、前よりずっと急務《きゅうむ》だと思えてきたみたい」
「それでいいのよ」
ヴィンセントはにっこりした。予期せぬ反応にアデイルはまばたきしたが、ヴィンセントは、持ち前のさわやかな声で言った。
「レアンドラの言いぶんに、一理あると思えるのは事実だけれど、わたくしはあなたの路線がいいわ。どうせ国外へ行くなら、あなたといっしょがいい。わたくしにもグラールの伝統を尊重《そんちょう》する血が流れているって、はっきり思うのは初めてだけど、わたくしたちが学んできた道、女性の力を生かせる道を選ぶほうが、自分にかなっていると思うのよ」
アデイルは、盗み見るようにヴィンセントの顔を見やった。
「だけど、ねえ……もしかして、あなたはちらっとでも考えたのではなかったかしら。トルバートへ行くための手段に、わたくしとレアンドラを天秤《てんびん》にかけることを。だからこそ、軍事訓練を見に来たのでしょう?」
ヴィンセントは涼しい表情だった。
「あら、気にすることはないのよ。こうしてますます心が固まったんですもの。よしとしなくては」
「……ヴィンセントがクールだということ、忘れてはならなかったわね」
アデイルはため息をついたが、練兵場に来てよかったのは事実だった。アデイルもまた、自分が何をするべきか、前よりはっきりした気分なのだ。
「でも、ヴィンセントのおかげで、トルバート国へ出かけるための具体的な案を思いついたわ。わたくしが看板《かんばん》をおろせばいいのよ――次期女王候補の看板、ていのいい保守派のマスコットの看板を。ヴィンセントの方法にならって、わたくしも、聖堂におこもりして竜騎士の無事を祈っているとでも表向きを取りつくろえばいいのだわ」
アデイルが噛みしめるように言うと、ヴィンセントはおもしろそうに目をぱちくりした。
「あら、いいわね、逆転の発想だわ。それだったらわたくしにも、自分の実践《じっせん》をふくめていくらでも理論武装ができるわよ。本当にそれでいいの?」
くちびるを結んで、アデイルはうなずいた。
「お父様にもちかけてみるわ。レアンドラが日の下で注目を集めているからこそ、今はわたくしが影で行動するときだということ。手持ちぶさたに竜騎士の帰りを待つくらいのことは、それが身代わりの人間であってもつとまるということを」
三
アデイルは、ぐっすり眠っているところを呼び起こされてびっくりした。寝台のとばりの向こうにナスタースの影があった。
「お嬢様、お目覚めくださいませ。伯爵様がお部屋へお呼びになっておられます」
目をこすって見やると、ナスタースの背後の窓はもう薄明るい。けれども、夜ふかしな宮廷人にとって、時ならぬ時刻なのはたしかだった。
「……今、何時?」
「六時すぎでございます。伯爵様は、まだゆうべからお召し替えになっておられません」
アデイルはどきりとし、あわてて起き上がった。これは何か、特別にアデイルに申し伝えることがあるにちがいない。枢密院《すうみついん》会議の政策決定は夜半に行われるのが常で、明け方は、王宮における権謀術数《けんぼうじゅつすう》の時間帯だった。
(……ゆうべの夜会で、わたくしが重大なそそうをしたというのでなければ、これは例の件だわ……そうにちがいない)
部屋着に袖をとおすうちに、アデイルは胸がどきどきしてきた。ヴィンセントの協力のもと、こっそりあちらこちらに働きかけてはいたが、ルアルゴー伯爵は「考えてみよう」と言ったきり、今日まではかばかしい答えを返してくれないのだ。
髪にブラシを入れるのもそこそこに、アデイルは伯爵の居室へと急いだ。伯爵の側近は、アデイルが扉の前に来るとノックを待たずにさっと開き、彼女を迎え入れた。
「おはようございます……そう言ってよろしければ。いかがなさったのでしょう、お父様」
小麦色の髪を少し乱した少女が、先回りをして緊張しているのを見て、ルアルゴー伯爵は目を細めた。広い机ごしに見る彼は、ナスタースの言うとおり、昨夜の夜会服のまま襟《えり》もとだけをゆるめている。目の下には疲労のくまが見えた。
「……内密《ないみつ》の話だということはわかっているね。おまえを呼んだのは他でもない、トルバート情勢に新たな動きが出たためだ。というより、帝国軍の膠着《こうちゃく》状態をもたらした事情が、昨日入ってきた情報で初めて明らかになったといえる」
アデイルの動悸《どうき 》はさらに高鳴った。くちびるを湿《しめ》して、彼女は養父をうながした。
「はい。それは?」
「トルバート国は、すでにブリギオンとの折衝《せっしょう》の道を見出している。王家以下商才にたけた国であるだけに、機を見る手腕は敏《びん》なのだ。情報によると、軍事的衝突の危機は、当面去ったと見ていい。帝国側としても、この上に軍隊を補強するゆとりはなさそうだ」
勝手に平和になりそうだと聞いて、アデイルは少しばかり落胆《らくたん》した。
「……それはどうも、幸《さいわ》いなことでした」
伯爵は机の上で手を組んだ。
「しかし、憂慮《ゆうりょ》が去ったわけではない。この先トルバートがブリギオン帝国と手を結ぶ事態は、グラールとしては避けたいところだ。さらに、帝国軍がひきあげの条件として出してきた要求は、トルバートにとって、いろいろと問題があるらしい。金品は交渉次第で折りあうにしても、もう一つ、さる人物の引きわたしを要求している。トルバート政府はどういうわけか、この件をひた隠しに隠していてね、最近になって判明したわけだ」
「人物の引きわたし……そうとうな重要人物ですね。いったいだれなんでしょう」
無邪気に言ったアデイルに、彼女の養父は眉を動かした。
「想像することができるのではないかね。帝王エスクラドスが、砂漠を横断してまで探しにやらせた人物だ。しかも軍隊を放った方法からみて、おだやかな内容とは言いがたい」
アデイルが思い浮かべたのは、ヴィンセントが語っていた内容だった。
「聞いた話では、トルバート国には東方出身の傭兵がたくさんいるとか……」
伯爵はうなずいた。
「そうだろうな。その多くは、エスクラドスに敗《やぶ》れ、国を失って砂漠をわたった男たちだ」
「それでは、探されているのは……叛乱《はんらん》の指導者となる恐れのある人物。たとえば、敗れた国の王家筋とか……?」
声を殺してアデイルが言うと、伯爵はちらりと満足そうな表情を浮かべた。
「一人残らず殺されたと聞いているが、真偽のほどはわからないのだ。だから、この件は現地で調べる必要がある。グラール政府としても、こうした微妙な問題は、介入する前にぜひ詳細をつかんでおかなければならない」
組んだ指を何度か動かしてから、彼は続けた。
「特使として、コードウェル枢密院書記官が派遣されることになったよ。これは事前調査の段階であり、彼に国家間交渉の権限はない。だが、そのぶん私的に探《さぐ》りを入れることができるし、さらに細かな観察のできる者として、女性の同伴も妥当だと考えられているようだ」
アデイルが息を吸いこみ、そのまま止めていると、ルアルゴー伯爵は口調をやわらげて言った。
「その任が、おまえに要請されることはまずないだろう。適任者は掃《は》いて捨てるほどいる。だが、マルゴットは、おまえとおまえの友だちがそれほど熱心に望むなら、これを機会とするのもよいだろうと考えているようだ」
「……お母様が賛成してくださったの?」
「喜ぶべきことかどうか、わからんがね」
アデイルの顔が輝くのを見て、彼はさらに陰気なしかめっ面《つら》をした。
「おまえのような娘を、戦闘中の他国へやることだけはできないと思っていたが、そのことが避けられたとしても、危険は充分に大きいのだ。おまえにしても、クレメンシア・ダキテーヌのご息女にしても、名前を伏せて行動すれば、思わぬ危害にもみまわれる。それを敢えて行かせるだけの根拠を、わたしはまだ見出せないのだがね」
「行かせてください、ぜひ」
アデイルはたのみこんだ。
「わたくしたちに、やりとげる力があることを信じてください。ヴィンセントはとっても賢い女の子ですし、わたくしには業績が必要なのです。女王候補としても、グラールの一女性としても」
「……女王家の娘は必ずそう言いだすものだと、マルゴットは言ったよ」
オーウェン・ロウランドはぽつりとこぼし、かすかにほほえんだ。だが、しかめっ面のほうがよほどましだと思える笑みだった。彼はやつれ、老けこんだように見えた。
「言われてみれば、よくわかる。おまえも決して例外ではないのだ。そうと心を決めたならば、行くがいい。おまえのたてた計画通り、祈願《き がん》のために聖堂にこもっていると、保守派貴族たちには空《そら》とぼけてみよう」
「とうとうお許しがでたのね。すごいわ」
ヴィンセントがほおを上気させるのはよくよくのことだった。彼女は田舎風にほお紅をつけるのでもないかぎり、ほおに赤みはささないのだ。
「それに、ルアルゴー伯爵のおっしゃったトルバートの新情報も感涙《かんるい》ものね。期待したわたくしも、これほどのことに出会えるとは思ってもみなかったわ。考えてもみてちょうだい、あの国には亡国《ぼうこく》の王子様がいて、帝王エスクラドスに命をねらわれているのよ」
アデイルは、少しあきれて指摘した。
「はやまらないで、ヴィンセント。だれも一言も王子様だなんて言っていないのよ。年配者かもしれないし、女の人かもしれないし」
「いいえ、王子様にちがいないわ」
ヴィンセントは言いはった。
「カラドボルスの王族も、ゴアの王族も、一人残らず探し出されて処刑されたと言い伝えられているのよ。大の大人が見のがされたとは、まず考えにくいわ。こういう場合は定石《じょうせき》どおり、幼児か赤子が砂漠へのがれたと予想をつけるべきよ……忠実な乳母《うば》か従者の手でもってね。そして、それが男の子でなければ、帝国がこんなに血まなこになるはずがないわ。かの国は男子|世襲《せしゅう》ですもの、後を継ぐのは、男の子に限られているのよ。ゴア国が併合《へいごう》されて十九年、カラドボルス国が併合されて十七年。のがれた王族は最年少で十六歳、多く見積もっても二十代前半の若者よ」
まくしたててから、ヴィンセントはうっとりとため息をついた。浮かれたヴィンセントは高雅な姫君に見えにくかったが、賢いことにはかわりがなかった。なるほどそうかもしれないと、アデイルもだんだんその気になってきた。
「亡国の王子様だとしたら……ちょっと信じられないくらいドラマチックね。小説に出てきてもおかしくないくらい」
「そうよ、願ってもない華《はな》が加わったじゃないの。たとえ実物を探し出したらブ男だったとしても……いいえ、そんなことあり得ない、必ずすてきな人よ。何といってもブリギオン帝国の脅威となるくらいの人物だもの。小説にはもってこいの素材よ」
「本当にそうだわ。わたくし、今にも書けそうな気がするくらいよ。今までで一番すごい傑作が」
アデイルとヴィンセントは笑って抱き合い、その場でひとしきりダンスを踊った。どちらも十六歳、お互いの興奮が相乗して、たががはずれたようにはしゃいでしまう少女たちだった。
ルアルゴー伯爵夫人レイディ・マルゴットは、さすがにそのあたりをよく心得ているようだった。その日の午後になって、久々にロウランドの塔へ立ちもどった彼女は、アデイルを呼びつけ、絹《きぬ》の手袋を脱ぎながら開口一番に言った。
「この件について、あなたはよくよくの覚悟をもって臨《のぞ》むのであって、底の浅い浮かれた考えから出たものではないと思ってよろしいのね?」
アデイルはあわてて、にやけていた表情をひきしめた。
「もちろんですわ、お母様。わたくしは、トルバート国の和平を第一に考えています」
レイディ・マルゴットはそれには答えず、美しく結い上げた赤褐色の髪に手をやった。ふくよかで柔和《にゅうわ》な印象のある婦人だが、どうしてなかなか、ルアルゴー伯爵よりも手ごわい人物なのだ。
アデイルは、この養母から多くのことを学んでいた。表面的にはけっしてかどをたてない、けれども意思表示を明瞭《めいりょう》にする宮廷婦人の離れ技。それを、かるがるとこなしてみせるのがレイディ・マルゴットだった。アデイルにとっての遠い目標だ。
「……お父様を説得して、わたくしを特使に加えてくださってありがとうございます。思いもかけないお力添えでした」
アデイルが神妙に言うと、レイディ・マルゴットはすばやくほほえんだ。
「あなたはこれをチャンスと思っているかもしれないけれど、正しいと言ってあげられる力は、わたくしにもないのよ。これは、どう考えても危険きわまる賭けです。わたくしにできることは、お膳《ぜん》立てをいくらかととのえることだけ……トルバート国へつれていく侍女は、もう決めたの?」
「ええ」
準備はすでに万端ととのっていたので、アデイルは説明した。
「マリエには王宮に残ってもらうことにしました。彼女は、フィリエルを待っていたいだろうと思って……これはわたくし自身の気持ちでもあります。だから、トルバートへはマリー=ルルーとケイをつれていくことにしました。それから、ご存じでしょうけれど、トーラス女学校のヴィンセントを」
レイディ・マルゴットはかすかに顔をしかめた。
「どの子もあなたの同年かそのくらいの年じゃないの。年配者はいないの?」
「……砂漠へ行ってみたいと、本心から思っている人が少なくて……」
アデイルは口ごもったが、レイディ・マルゴットはぴしりと決めつけた。
「それはわかるけれど、名のある既婚《き こん》婦人か年配の修道女といった人物を前面に立てるのでなければ、あなたがた若い未婚の娘が、外交の場でスムーズに動く手段はありませんよ。身分を隠してのことならなおさらです。そのカモフラージュの具体策は、考えてはいなかったの?」
「あ……」
アデイルとヴィンセントの計画にそのことは入っていなかった。けれども、言われてみればそのとおりだった。
「そうでした。急いでたのむ人を考えます」
「その必要はありません。セシリア・ハルクマンをつれてお行きなさい」
レイディ・マルゴットはさらりと言った。
「わたくしの配下ですが、テルフォード男爵夫人を名のって特使の任務についてもらいます。彼女はチアレンデル国の生まれであって、東方にも詳しいし、さらによいことにはトルバートに嫁《とつ》いだ従姉妹をもっています。非公式の外交官になるには、もっともふさわしい人物ですよ」
アデイルは圧倒された。
「はあ……」
息子のユーシスによく似たはしばみ色の瞳で、レイデイ・マルゴットはのぞきこむように彼女を見つめた。
「それとも、あなたやお友だちは、平民の女性に侍女としてつく覚悟をしていなかったかしら」
やや居なおってアデイルは主張した。
「そんなことはありません。ヴィンセントは現に、ロウランド家で侍女として暮らすことに何の不平も言いませんし、わたくしだって、いろいろな演技は得意です」
「それなら決まりましたね」
レイディ・マルゴットの言葉に、アデイルは、おそまきながらセシリア・ハルクマンの同行に同意してしまったことに気づいたが、すでに反論はできなかった。
ヴィンセントは、アデイルに呼ばれてレイディ・マルゴットの部屋へ行き、青紫のビロードに身をつつんだ優雅な婦人を目にした。四十代になるはずだったが、きめ細かなクリーム色の肌にはしみ一つなく、その若さを保つ技量《ぎりょう》に、ヴィンセントは驚嘆《きょうたん》した。
さらにレイディ・マルゴットは、すべてを心得ているはずなのに、ヴィンセントに自分の娘の付き添いを暖かく歓迎する以上のことは、何一つ言わなかった。
面会が終わってから、ヴィンセントは舌を巻いてアデイルに言った。
「あなたが、母君に面会するほうが緊張して見えるわけが、よくわかったような気がするわ」
アデイルは肩を落とした。
「そうなのよ。それでもって、セシリア・ハルクマンの同伴もうまくことわれなかったの。辛抱《しんぼう》してくれる?」
「ロウランドの奥方様の、おっしゃることは妥当だわ。けれどもセシリア・ハルクマンって、たとえばセルマのような人なの?」
「さあ……」
アデイルは首をかしげた。
「わたくしも会ったことがないの。お母様の、女官としての仕事にかかわる配下の人だから。宮廷内でのお母様は、ロウランド家の人というよりも女王陛下のために働く人なのよ。仮の男爵夫人がどんな女性だったとしても、たぶん優秀な、社交界の裏も表も知り抜いた人だと思うけれど」
その答えは、旅立ちの朝になって判明した。セシリア・ハルクマンは当日まで音さたなく、旅の馬車が出発する直前になって、テルフォード男爵夫人のいでたちで現れたのだ。
少女たちは、ひそかに彼女がまにあわないことを願っていたので、男爵夫人の到来に少々がっかりした。けれども、うるさ型の中年婦人を予想した面々には意外なことに、セシリアはどう見ても二十代の若さだった。しかも、ほお骨の高い生き生きとした顔立ち、グラマーな体つきの、セルマとは正反対と言ってもいいタイプだ。
彼女の着ている薄紫の旅行服は、少しばかり体の線を強調しすぎていた。胴着の合わせは、胸のところではちきれそうだ。けれども足どりは軽やかで、立ちつくす少女たちの前にきびきびとやって来て言った。
「遅くなりましたわね、わたくしがセシリア・ハルクマンです。どうぞ以後お見知りおきを。お嬢ちゃまがたにはよろしくと、レイディ・マルゴットには申し伝えられておりました」
彼女の髪はとび色で、瞳は濃い青にきらめき、口調からは闊達《かったつ》さが感じられた。アデイルとヴィンセントは、彼女が「お嬢《じょう》ちゃま」と言ったことを耳ざとく聞きつけたが、二人とも、そ知らぬふりであいさつを返した。
「お二方の本当のご身分は、よくうかがっておりますが、今日からわたくしも、テルフォード男爵夫人で通すことですし、あなたがたの引率者《いんそつしゃ》ということにもなりますから、多少の失礼は帳消《ちょうけ》しに願いますわね。わたくしにとっては、この旅は里帰りのようなものです。よろしく気楽にまいりましょう」
セシリアは宣言し、彼女がつれてきた付き人たちは、男爵夫人の荷物を馬車へ運びこむと立ち去っていった。これからは、アデイルとヴィンセントが彼女の侍女となるのだ。男爵夫人その人はそのまま馬車の後部座席に座りこみ、気楽の手本を示して、くつろいで化粧《けしょう》直しをはじめた。アデイルとヴィンセントは目を見あわせた。
「……どう思う?」
「いいんじゃないかしら。少なくともセルマ型よりは、旅が楽しそうよ」
出発の時刻はせまっていた。宮殿の西通用門に横付けされた黒い箱馬車は、ロウランド家から出ていく者だけの乗り物だった。| 公 《おおやけ》にはできない旅立ちなので、彼女たちを送り出す使用人もごくわずかだ。枢密院書記官の一行とは、メイアンジュリー郊外へ出てから合流する手はずになっている。
マリエが旅路のなぐさめにと、ルアルゴー地方の焼き菓子をアデイルに手わたした。少女たちが別れをおしんでいると、ナスタースが近寄ってきた。
「国境シスリーのミニアンからの報告です。ぎりぎりで、アデイルお嬢様にお目にかけるにまにあいました」
アデイルは手袋を脱いで封《ふう》を開き、しばらく文面に目を通した。ギルビア公爵家のユニコーンに手を焼いたユーシスも、とうに国境の門を越えてカグウェルの首都ケイロンに向かっている。フィリエルとイグレインも無事国外に出ており、ミニアンの報告の大部分は、「あかがね色の髪の乙女」の流行歌が、シスリーに波及《はきゅう》した効果のあれこれだった。
(それならフィリエルは、ねらいどおりにバラッドといっしょに移動しているんだわ……)
そうであってほしいと、アデイルは願った。フィリエルが一途《いちず 》に探し求める少年ルーンは、どこに潜伏《せんぷく》しているか知れないが、この歌がかけらでも耳に入ったなら、たぶん、じっとしてはいられないだろうから。
彼はきっと確かめにいく。そして、本物の愛情を示してほしいと、アデイルはさらに願った。そうすれば、どれほどぼんくらのユーシスであっても、自分の無とんちゃくさに気づくこともあるだろうから……
(わたくしにできることは、ここまでだわ)
便せんをたたみながらアデイルは思った。このミニアンの報告も、ハイラグリオンに着くまでには五日ほどの時差がある。ユーシスやフィリエルがその後にどんな事件に遭遇《そうぐう》したかは、アデイルに把握できる能力をこえているのだ。そして、これからは、時間遅れの情報さえ手にとることはない。
「何の手紙?」
ヴィンセントが興味深そうにたずねた。アデイルはほほえんで、便せんをナスタースに返した。
「フィリエルたちは、元気でケイロンをめざしているようよ。王宮にいるかぎり、わたくしはこうした知らせに一喜一憂せずにいられなかったけれど……」
ため息をついてアデイルは続けた。
「もういいってことが、どんなにうれしいかわかるかしら。なまじ情報網があるから、知らずにはいられないんですもの」
ヴィンセントは同情せず、肩をすくめただけだった。
「わたくしに言わせれば、侍女をそこまで駆使することのできるお金持ちの、ぜいたくな悩みに聞こえるわ」
「出発します」
前方から声が響きわたって、ヴィンセントは口をつぐんだ。アデイルは一瞬、この場所に置いていくもろもろを思って胸を痛めたが、それもわずかのあいだだった。前方には朝の光があり、彼女が背負い続けた肩書きから解放された、新鮮な一日が手まねいている。
「これでよかったのよね……わたくしたち、たくさんのしがらみから、一度は旅立つ必要があったのだわ」
アデイルは、どちらかというと自分自身につぶやいた。
「そうよ、これでよかったのよ」
ヴィンセントは断言し、二人は馬車に乗りこんだ。
四
「……ハイラグリオンの名士がたは、ファーディダッド山脈の向こう側に住む人間など、蛮族《ばんぞく》のように思っておられます。だから、わたくしも、王宮ではめったに生国《しょうごく》の話を口にすることはありませんの。でもね、そりゃあチアレンデルは高原のちっぽけな国ですけれども、南方の小国家に比べれば、遜色《そんしょく》などないんですよ。彼らの国に物資《ぶっし 》がいきわたるのは、わたくしたちの、山脈の向こう側の流通路のおかげですもの」
帰郷がうれしいセシリアは、馬車のなかでうきうきとよくしゃべり、最初はなじめなかったアデイルとヴィンセントも、彼女の気さくな態度が快くなってきていた。セシリアは、レイディ・マルゴットの訓育のもと、ハイラグリオンで七年も暮らしており、都言葉と礼儀作法は完璧《かんぺき》の域に達しているのだが、今回はそれを脱ぎ捨てる決心をしているようだった。
ヴィンセントが異議をとなえた。
「そんな、わたくしたち、蛮族などと思っていなくてよ。ただ、東方はどうしてもなじみが薄いから……伝説がよくないせいかもしれないけれど」
「伝説って、砂漠に冒険を求めた騎士たちが帰ってこなかったことを言っているの?」
マリエにもらった焼き菓子をセシリアにすすめながら、アデイルはたずねた。
「そうよ。二百年前にあったできごと。そのときから、グラール国は砂漠を無視する態度をとり続けているわ。現在だって、たてまえ上は交易《こうえき》を禁じているから、東国から流通する品々は南方を迂回《う かい》してグラールへ入ってくるし」
「これ、おいしいですね」
セシリアは焼き菓子をほめた。アデイルは得意げにほほえんだ。
「バタがいいのよ。ルアルゴーの牧草で育った牛は、国一番ですもの」
「チアレンデルのヤギ乳のチーズもおいしいんですよ。もうじきお目にかけられます」
ヴィンセントも菓子に手をのばし、ほおばりながら考えこんだ。
「砂漠へ向かった騎士たちは、そのまま死んだのかしら……それとも、生きて砂漠の東に達したのかしら」
「彼らのたどった道筋が中央ルートになったという、古い話を聞いていますよ」
セシリアが言った。
「でも、グラール人にとって東は不吉の方角だということが、こちらへきてよくわかりました。チアレンデルは、敬虔《けいけん》にアストレイア女神を奉《ほう》じる国ですのに、グラールから人が訪れることは、商人をのぞけばまれですものね。わたくしたちのほうは、ハイラグリオンの大聖堂へ巡礼に出かけることを生涯の誉《ほま》れとしています。わたくしも巡礼者として都へ来たところで、たまたまレイディ・マルゴットのお目にとまったものです」
アデイルがたずねた。
「そういえば、トルバート国に嫁いだあなたの従姉妹というかたも、信心深いのかしら」
「それはもちろん。そうでなければ、あのような異教《いきょう》の混在する土地へお嫁にはいけません。もっとも、現在のトルバート王家は、王宮内にアストレイア女神の聖堂を建てるようなかたがたで、おかげで従姉妹のアメリアも女官として取り立ててもらっていますけれども」
(異教の混在する土地……)
セシリアが当然として言った言葉が、アデイルには耳新しく聞こえた。グラールのふところ深く育った彼女は、宗教面では箱入りだった。
「わたくし、異教に関する知識はほとんどないのよ。ねえねえ、星女神様を信じない人たちは、いったいどんな神様を生きるよすがとしているの?」
このあたりは、ハイラグリオン育ちのヴィンセントとは異なるらしく、彼女はセシリアといっしょになって目を見はった。
「何も知らなかったの? 御子《みこ》エルイエシスのことを聞いたことがないの?」
アデイルはまばたきをして、彼女たちを見返した。
「あら、エルイエシスを知らないはずがないわ。この地に最初につかわされた星女神の愛子《まなご 》ですもの。マゼンタの書でいやほど暗唱させられているし、バーミリオン聖典《せいてん》にも記載《き さい》があるわ」
ヴィンセントは慎重な口ぶりで言った。
「砂漠の東の人々にとっては、アストレイア女神よりも御子エルイエシスのほうが大事なのよ。いずこともわからぬこの大地の地下におられる、お隠れになった御子神が」
アデイルは、葬儀で必ずくり返される死者のための物語を思い返した。辺境のあわただしい埋葬であっても、中央の大聖堂の荘厳《そうごん》な儀式であっても、読み上げられるマゼンタの祈祷書《き とうしょ》の一節は同じだった。
……はるかな昔、星の楽園にお住まいになる女神アストレイアは、かわいがっておられた御子エルイエシスを地上につかわし、この地に生き物をはぐくむ可能性を調べるよう仰《おお》せられた。御子は楽園を離れて地上に降り立たれたが、どこも耐えられないほどに暑く、どこにも住むことができなかった。
そこで御子は地中深くもぐり、そこにわずかな涼しさをお求めになり、二度と外には姿をお見せにならなかった。
女神は長いあいだ、御子の帰りを待ちわびておられたが、あまりの便りのなさに不安になられ、しもべたちを探しにつかわされた。彼ら女神のしもべたちが人間の祖先《そ せん》である。
しもべたちは、四方八方に散って御子を探し求めたが、すべてはむなしかった。彼らはみじめだった。地上は乾《かわ》いて暑く、不毛でうるおいがなく、住めるところではなかった。人々は時に応じて、仲間の一人を女神のもとへ送り、探索《たんさく》が失敗したことを告げ、新しい指示をいただくよう求めた。
こうして多くのしもべが女神のもとへ送られたけれども、不幸なことにだれ一人、地上へもどってはこなかった。この、もどらない彼らが死者である。
そのため、地上の人々はいまだに探索を続け、いまだに待ちわびている。彼らの便りが楽園に届き、探索の終わりが告げられる日を。
アデイルはかすかに身震《み ぶる》いした。この神話は分かちがたく葬送《そうそう》と結びついているので、思いおこせば条件反射で不吉な気分になるものなのだ。
「考えてみると、マゼンタの書にある『乾いて暑く、不毛でうるおいがなく……』って、まるで砂漠のことのようね。でも、わからないわ。地中に消えたエルイエシスをあがめて何になるの?」
話が宗教|談義《だんぎ 》になってきたので、セシリアは座り方を改めた。見かけよりも信心深い娘であることが、その態度から見てとれた。
「……東方の聖人は、天にすがることをやめて、大地を愛せよと説いているのですわ。もっともらしく聞こえることは聞こえるものです。けれども、彼らは、エルイエシスを男御子として信奉《しんぽう》しているのです」
「男神をたてまつる人々なのね……」
アデイルは息を吸いこんだ。アストレイア女神は三つの違う顔をもち、そのなかには獣面《じゅうめん》の凶暴《きょうぼう》な破壊神もふくまれるのだが、それであっても男性神のことは考えられなかった。
「……そういうことなら、考え方もずいぶんちがうでしょうね」
「彼らは異教徒です。星女神の存在をなおざりにすることは、天に許されないことです」
セシリアはきびしい口調で言った。アデイルは、少し考えてから口を開いた。
「でも……同じ神話に立脚《りっきゃく》しているだけ、東の国の人々もわたくしたちと同根《どうこん》なのね。四方に散ったしもべ同士にはちがいないわ。わたくし、異教徒というのは、もっととんでもなく異なる神様を信じているのかと思っていたのに」
ヴィンセントがおかしそうな顔をした。
「まあ、たとえばどんな? 犬の神様とか猫の神様とか?」
「あら、あってもおかしくないでしょう。十二のけものは、御子のために空から降り立ったと言われるものたちだもの」
アデイルたちの言葉に、セシリアはやれやれと頭をふった。
「お願いですから、メリアデス司教《しきょう》の前ではそのようなふざけた話題を出さないでくださいね。お伴《とも》させてもらえなくなりますよ」
「メリアデス司教?」
「外交|顧問《こ もん》として、コーウェル書記官の馬車に同行していらっしゃるはずです」
「今回の特使に、聖職者が任命を受けているとは知らなかったわ」
ヴィンセントが目をまるくして言ったが、セシリアは力をこめた。
「異教に接触する土地へ向かうのですから、魂の救済《きゅうさい》のために聖職者のかたが付き添うのは当然です。それほどめずらしいことではありません」
「ああ、そういうこと」
ヴィンセントは肩をすくめ、隣りのアデイルにささやいた。
「……わたくしたち、なるべく離れていましょうね。万が一お母様の顔なじみだと困ったことになるわ」
「言われなくてもよ。お坊さまといっしょだなんて、思ったより堅苦しくなりそう」
アデイルがささやき返すと、ヴィンセントは口のはしを下げて見せた。
「なると思うわ。司教はたしか、厳格《げんかく》なローレイン派の僧院長よ」
都の東に抜ける街道をしばらく走ってから、シーリーン支流のフェラ河のほとりで、彼女たちは枢密院書記官の一行に追いついた。二台の馬車は控えめながらも仕立てがよく、もう一台は荷馬車で、護衛の騎兵が十名ほどついている。郊外の風景のなかではすぐに目についた。
男性陣が馬車を降りるのを見て、セシリアも御者《ぎょしゃ》に合図した。入念に化粧をした顔に笑みを浮かべ、帽子の羽根飾りをそらせて歩み出るセシリアには、たちまち男爵夫人の風格がそなわっていた。アデイルとヴィンセントはその後ろを、好奇心を顔に出すまいとつとめて用心深くついていった。
「テルフォード男爵夫人ですね。わたしが今回トルバート派遣特使の任命を受けたウィラード・コードウェルです」
名のり出た三十代と思われる男性は、くせのない茶色の髪で中背の、やさしげな目をした人物だった。だいそれた野心などはもたない、生《き》まじめな文官と見える。特命をおびた使節に指名されたのが意外に思えるが、つい最近まで戦争の懸念《け ねん》のあった国へ出向くには、このくらい当たりの柔らかな人がふさわしいのかもしれないと、アデイルは考えた。
「遠い砂漠までおもむく旅に、このようにお美しい同伴者を得られて光栄です。道中にご不便の点がありましたら、なんなりとこちらに申しつけてください」
腰の低さを披露《ひ ろう》して、コードウェル書記官はていねいに言った。本心からの言葉であることは、セシリアにそそぐ賛嘆のまなざしから見てとれた。
「ありがとうございます。国の重要なお役目を無事はたせるよう、微力《びりょく》ながらもご援助つとめさせていただきますわ」
セシリアは堅苦しいあいさつを、あでやかなほほえみでつつんだ。場慣れした、落ち着きはらった態度だった。彼女がその場に立つ他の人々にちらりと目を向けたので、書記官は彼らの紹介をした。
「お見知りおきとは思いますが、こちらが同行する外交顧問のメリアデス司教です。そしてこちらは、デイリス法務官です」
少し離れて立つ黒い長衣の人物がメリアデス司教であることは、初めからすぐにわかった。剃髪《ていはつ》の頭が光って見える、ややでっぷりした僧侶だ。太い眉は灰色で、造作の大きなその顔は苦々しげな表情を浮かべている。セシリアにあいさつを返すときには、しかめっ面がますますひどくなったように見えた。
デイリス法務官というのは、やせて色の黒い無表情な顔の男だった。法務官は僧院出の人間が多く就く役職なので、あるいは司教の付き人かもしれなかった。
その他数名の従者と同じく、アデイルとヴィンセントの紹介はなかった。ありがたくも得がたい体験だった。アデイルはわくわくしながら、侍女という定位置が、どれほど人から見られずに人を観察することができるかを感得《かんとく》した。男たちの視線は、つやっぽい男爵夫人の一挙一動に集中し、後方の地味な服装の若い娘たちなど、いないも同然なのだ。
(さすがはお母様。わかっていらっしゃるのね……)
アデイルたちからは、司教が婦人同伴を快く思っていない様子が明瞭《めいりょう》に見てとれた。けれどもセシリアは、敵意をものともしない態度で、むしろコードウェル書記官以上に司教に敬意をささげ、いろいろと話しかけている。馬車にもどってから、セシリアは満足そうに言った。
「チアレンデルに着いたら、特別礼拝を開いてくださるよう、司教にお願いしてしまいました。両親が喜びますもの。あのかたのお説教は、たいしたものなんですよ」
ヴィンセントは少しばかり顔をしかめた。
「わたくしはあの宗派があまり好きじゃないわ。高潔《こうけつ》な御説をご自分でどれだけ守れているのだろうかと思うのよ。戒律《かいりつ》ばかりが厳格で」
「まあ、そんなことを言うものではありません。星女神を深く信じることに救いがあるのですから」
セシリアはまじめな口調になった。
「世の中のすべての人に、ハイラグリオンのような贅《ぜい》を尽くした生活ができるわけではありませんのよ。貧しい辺境の土地で、細々と暮らしていく人間にとっては、女神に身をささげる信仰をなくしては生きていけないんです」
言い負かされるのがきらいなヴィンセントは、反論を試みた。
「でもセシリア、あなただって、王宮で暮らして王宮の生き方を身につけた女性でしょう。けれども彼らのような聖職者は、女性の魅力を否定して罪悪《ざいあく》とするのよ。自分の存在を罪深いと言われながら、その説を信奉することなどできるの?」
セシリアは、美しい藤色の旅行用ドレスに目をおとしてから、静かに答えた。
「ええ、たぶん。わたくしは罪深い存在だと思います。けれども、必要悪があるとしたらそれがわたくしで、たぶん、人殺しをするよりはましだからという部類なのですわ」
国境を出てミルドレッド公国をわたり、チアレンデル国に到達したときには、アデイルもヴィンセントも、セシリア・ハルクマンの心もちが少しわかるような気がした。ファーディダッド山岳地帯の道は険しく、馬車を通すのもやっとやっとで、町や村はひなびたものだった。
アデイルやヴィンセントにとっては、この東へ向かう街道の急速な変わりようが驚異だった。グラール国が、いかに南北の流通にのみ発達した国であるかを知らされる。距離的には同程度離れているカーレイルのトーラス女子修道院や、アデイルの育ったルアルゴー州も、これに比べれば文化的に都と同じレベルを享受《きょうじゅ》していると言ってよかった。
ミルドレッド公国のアッシェンド大公は、特使の一行を迎えて心尽くしの宴《うたげ》を開いてくれたが、これもハイラグリオンの面影かすかな亡霊《ぼうれい》のようなものだった。大公館を一歩出れば、東には原野が広がっている。
もっとも、少女たちはこの変容を楽しんでいた。旅の醍醐味《だいご み 》はこういった驚異に出会うことである。彼女たちはまだ若かったし、育ちがよすぎて、かえって美食などには無関心だった。たとえば環状宮殿の夜会にこれでもかと出されていた、凝った料理の数々をなつかしがることはあまりなかったのだ。
二人とも健康な食欲の持ち主ではあったが、グラールにいたときから、ドレスのウエスト幅を気にせずにものを食べることはほとんどなかったし、地方の正餐《せいさん》のよしあしに興味があるわけでもなかった。彼女たちが節制を忘れて食べすぎるとしたら、それは、道の途中で手に入った村のおばあちゃんの揚げ菓子とか、ポテトのスナックとか、カスタードだった。
正式な食事は、書記官一行と顔をあわせて気づまりだということも一因にはなっていた。彼女たちを含めた特使一行は、メリアデス司教の顔ききで、僧院付属の宿舎に泊まることが多かったのだ。
どんなに田舎の村にも礼拝堂はあり、聖職者の家はあった。みやびやかな会話や洗練されたスタイルを少しも必要としない人たちも、同じ祈りの言葉を星女神にささげることはできた。
こうした地域を通過してくれば、チアレンデル国で、一行のだれよりもメリアデス司教が熱烈に歓迎されることは驚きではなかった。チアレンデル国王の宮殿は、グラールの地方領主館程度の大きさだったが、礼拝堂はルアルゴー伯爵の館にあるものよりもりっぱだった。
アデイルは、考えこみながら言った。
「……こうして見ると、わたくしの育ったロウランド家は信仰心厚い家ではないわね。でも、それも当然かもしれない。生身《なまみ 》の女王陛下に接し、その子どもを養子にする家で、星女神信仰をそれほど高めることはできないかもしれないわね」
「それが貴族の特権ね。不信心であるということが。彼らには、人としてのグラール女王の顔を知り、人としての彼女に尽くす使命があるのだから」
チアレンデル国王のそびえたつ礼拝堂に、多くの人々が吸いこまれていく様子を見つめながら、ヴィンセントは言葉を続けた。
「……傍系王族はまたちがうのよ。女王家も自分と同じ生身の人間であることを知っているからこそ、女王と星女神を分離して、さらなる高みへもっていかずにはいられないの。そういう人種よ」
「あなたもそうなの? ヴィンセント」
「分離という意味ではそうね。わたくしはあなたという女の子を知っているもの」
微笑をうかべてヴィンセントは言った。
「グラール女王の玉座がどれほど神秘的なものであろうとも、あなたがそれを手に入れたとたんに、人間以外のものになってしまうとは考えにくいわ。でも、ここに集う人たちにとってはそれが真実なのよ。グラール女王は女神アストレイアのうつし身よ」
アデイルは、今までそんなふうには考えてこなかったことを認めた。
「わたくしとレアンドラが争っているのは、ごく世俗的なものごとだと思っていたの。それ以上に宗教的レベルがあることは、あまり意識しなかったわ。貴族たちにとって、これは信仰とかかわるものごとではないものよ。それに、わたくし、だいたい……自分のおばあさまを女神と見ることはむずかしいことですもの」
ヴィンセントは興味深げにアデイルを見た。
「あなたは女王陛下にじかにお会いしているのだったわね。このごろは、ほとんどだれの目にもふれることのないおかたに」
「ええ、トーラス女学校を出てすぐのころ、中央塔の星の広間で拝謁《はいえつ》したの」
その場所で、アデイルは「女王|試金石《し きんせき》」と呼ばれる陛下の指輪にふれ、女王家の血の証《あか》しをたてたのだ。初代女王クィーン・アンの直系だけが、その青い石を真紅に変えるという。
石がみるみるうちに赤く輝いたことは、たしかに神秘的なできごとだったが、だからといって、アデイルに特殊な力がそなわったわけでもなく、指輪を持つ女王陛下も、自分にふつうの人とは違う能力があるわけではないとはっきりことわった。
「陛下はおっしゃったわ……これは孤独《こ どく》の証《あか》しですって。女王家は家のない家であって、わたくしたちはカッコウの娘ですって。まるで、石を赤く輝かせたわたくしを気の毒がるように、陛下がそうおっしゃったので、わたくしは、ああ、このかたは本当にわたくしのおばあさまなのだと思ったものよ」
「カッコウの娘?」
「カッコウは他の鳥の巣《す》に卵を生む鳥よ。肉親に育てられたカッコウは一羽もいないの。陛下はご自分をふくめて、そのことをおっしゃったのよ」
アデイルが沈んだ調子で説明すると、ヴィンセントはうなった。
「……いつも思うけれど、グラール女王制の不思議なところね。女王家という家は空洞《くうどう》で、けれども絶対の力をそなえている。見えないその力はどこからくるものなのかしら……そこに星女神からの恩恵《おんけい》があるのではないかしら」
少し考えてから、ヴィンセントは言った。
「その見えない何かが、直系女王家を決定的に傍系から分けるものなのだわ。信仰心などもたなくても、あなたがたに何の自覚もなくても、女神の神秘を身にまとう何かなのよ」
「言っていることがよくわからないわ」
アデイルはふくれたが、ヴィンセントはまだ興味しんしんでたずねた。
「ねえ、コンスタンス陛下はどんなかただった? 大僧正猊下がどれほど女王の儀式を代行なさったとしても、聖職者は一介《いっかい》のしもべであって、女神の神秘を引き受けることはできないのよ」
「陛下はお年を召していたわ」
アデイルはゆっくりと言った。
「年をとるというそれだけで、人はいくらでも謎につつまれるものだわ。足を少し悪くしていらして、それで人前に出るのがおっくうだとおっしゃっていた。小柄なふつうのおばあさまよ」
「想像力のあるあなたとは思えない描写ね」
ヴィンセントは不服そうだったが、アデイルは頭をふった。
「わたくし、自分自身のことでは空想しないのよ。家のない娘は、現実家になるしかないの」
「おもしろいわね、あなたがそんなふうに感じているなんて」
まじめな顔でヴィンセントは言った。
「わたくしが、家名が大きすぎて現実家になるしかなかったことを思うと」
二人とも、メリアデス司教の特別礼拝に加わるつもりがなかったので、鐘の鳴る礼拝堂を見つめただけで、別方向へと歩き出した。少し散策して宿にもどるつもりだったのだ。
ファーディダッドの山脈は西方に雪をいただいた稜線《りょうせん》となっており、高原の国チアレンデルは、すでに砂漠に向かって開けはじめていた。丘の谷間にごちゃごちゃとかたまって建つ白壁の家々は小さく、赤茶けた岩肌の多い草地を、鈴をつけた黒や白や斑《ぶち》のあるヤギたちが行く。
敷石をしいた大通りはわずかで、その通りもずいぶん人どおりが少なかった。城下の全員とは言わないが、大半の人は王家の礼拝堂へつめかけたようだった。
「……星女神の信仰は、空気のようにそこにあって、わたくしは今まで考えたことがなかったけれど、考えるべきなのかもしれない」
アデイルは口を開いた。
「やっぱり司教のお説教を聞いてみたくなった?」
からかうようにヴィンセントがたずねると、彼女は強い調子で答えた。
「ちがうわ。女王に直接かかわらない人々にとって、アストレイア女神が同一視されるものなら、彼らに一番影響力をもつ人々は僧侶だということを、頭にとめておく必要があると思ったのよ。ハイラグリオンにいたのではわからないことだったわ」
笑いをかみ殺して、ヴィンセントはきゃしゃな友人を見やった。
「レアンドラでもそう言うと思うわ。あなたたちって、骨の髄《ずい》から女王候補なのね」
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第二章 亡国の王子|見聞《けんぶん》
一
ここから先は砂漠という、チアレンデル最後の町トッホダウンには、すでに東方の匂いがあった。少女たちが注目したのは、衣服の染め方やデザイン、色づかいだった。通りがかる人々の衣服が、途中の道から直線|裁《だ》ちのゆるやかな長衣に変わってきたことには気づいていたが、ここへきて、いっきに色の鮮やかさが加わり、柄も大胆でめずらしいものが多くなったのだ。
「乾いて日射しが強いと、微妙な色あいはすぐに褪《あ》せてしまいますからね。メイアンジュリーの都やハイラグリオンで好まれるような、繊細《せんさい》な中間色は似合わないし、保てないんです」
セシリアがわけ知り顔に言った。ここまでの道中は、山越えの道で雪の難儀《なんぎ 》をしたし、チアレンデルに至ってもまだまだ気候は寒かった。けれどもこのごろは、夜は同じに冷えるというのに、日中の気温が上がるようになっていた。乾いた草の平原を越えれば、さらに昼夜の温度差は広がるという。
たしかに、あたりに何もなくほこりっぽいばかりになってくると、真紅や黄色や濃いピンクの布地が美しく見えた。アデイルとヴィンセントは、道すがらの市で衣服や小物をあれこれ買ったが、着替えるのはやめておいた。メリアデス司教が、険しい目つきでにらんでいたからだ。
市の品物をさして、セシリアは説明した。
「トッホダウンにこうした物品が豊かなのは、ここと南の小国家を結ぶ商業ルートがあるからです。トルバートを経由してきた品は、山越えしてグラールへ向かうよりも、ずっと多くがバーンやトルマリンなどとの交易に利用されているんですよ」
「南方の国々には、東方への禁忌《きんき 》はないものみたいね」
市場で売られる香辛料《こうしんりょう》の山を見ながら、ヴィンセントが言った。
「こういうものは、たぶん、暑い国には共通してうけるのよ」
砂漠の奥地には車を通せない砂丘の地域もあるが、トルバートまでは平らな岩石砂漠が続き、馬車を通すことも可能だということだった。彼らは草原が見えなくなってもそのまま走り続けた。だが、がれきと石の荒野が延々と続くようになると、それもなかなかたいへんだった。黒塗りの箱馬車はほこりで真っ白になり、乗っている者の口の中までざらざらになったし、振動の激しさに、半日で音《ね》を上げたくなった。窓を閉めれば、お互いの熱がこもり、暑さがかえってこたえる気がする。
少女たちには初めての試練だったが、見慣れぬ天地のものめずらしさが勝って、それほどへこたれずにすんだ。アデイルは、ひびわれた炎熱《えんねつ》の大地に立ちつくすエルイエシスを空想した。
「星の楽園におられる女神よりも、御子神に共感したくなる人たちの気持ちが、少しわかるわ」
扇子《せんす 》で顔をあおぎながらヴィンセントは言った。
「わたくしなら、絶望して地下へもぐっておしまいになった御子神の気持ちがわかるわ」
けれども、彼女たちの場合は絶望しないうちに、はてがないと思えた荒野に終わりを迎えた。数日後には大地がふいに下り坂になり、その先に、こんもりした黒い木立をしたがえた三日月形の湖が見えたのだ。木々を見るのも水面《みなも 》を見るのもひさしぶりで、少女たちは思わず歓声をあげた。ついに、オアシスの国トルバートへやってきたのだった。
トルバート王家の権威を示す大門をくぐると、平らに舗装《ほ そう》された広い通りがまっすぐに続き、変わった種類の街路樹《がいろ じゅ》が植わっていた。アルスラットの都は、小ぶりながらどこかの庭園のように整然と設計された場所だった。水盤《すいばん》のある中央の環状広場からさらに放射状に道がのびており、宮殿へ向かう通りのわきには、色天幕の鮮やかな活気あふれる市場も見える。
ひなびた国々を通ってきただけに、アデイルやヴィンセントの目にも、ここは財力をたくわえた豊かな都と見えた。湧水《ゆうすい》にさえ恵まれれば、砂漠の土はかえって肥沃《ひ よく》なものだそうで、薄緑の耕作地も湖畔《こ はん》に遠く広がっている。
ふりそそぐ光の強さに、敷石や建物は日なたでさらされたように白く、影は切り分けたように黒く見えた。民家の壁は塗装《と そう》のない砂色で、屋根の平らな四角いものが多く、炎熱《えんねつ》を避けるために窓を小さくうがってある。
そんななかで、見えてきた宮殿は、周囲の色合いとはだいぶ異なるものだった。グラールでいえば飛燕城《ひえんじょう》の規模の、充分みやびやかな、淡紅色《たんこうしょく》のふちどりのある白いアーチの建物だった。柱や扉の模様などは見慣れないが、全体の様式がグラール風だ。
王宮を門前からながめたセシリアは言った。
「従姉妹《いとこ》のアメリアから、手紙で様子をきいてはいましたが、わたくしも訪れるのはこれが初めてです。思った以上に折衷《せっちゅう》が進んでいますのね。砂漠に出てからのほうが、グラールに近いものを見るというのも不思議ですね」
「リリセット王妃の影響でしょう。彼女がいろいろなものを持ちこんだのではないかしら」
「そうはいっても、王家は代替わりしていますからね。ご存じのように、トルバート国の王位は世襲のものとは限らないんです」
王宮の鉄柵門《てっさくもん》は、グラールからの訪問客に広く開かれていた。書記官一行とともに要人《ようじん》として迎えられた彼女たちは、宮殿の奥深くにある一室に通された。遠い離宮や緑をしきつめた内庭を前にした部屋は、風を涼しく通し、照り返しのぎらつく大通りとは別世界の感があった。石造りの円柱がいくつもつらなり、軒先のベランダに続いているが、壁は最小限にとどめられている。
この開放性は、グラールの少女たちにとって慣れないものだったが、人目さえなければ気持ちのよいものだった。そして、人目などは絶えてなかった。庭はひっそりと静まっており、放し飼いにされた色鮮やかな小鳥たちが、ベランダの手すりにとまってのぞきこむくらいのものだ。
彼女たちは、何よりも先に浴室に案内してもらい、思うぞんぶん水浴びして、たまった旅のほこりを洗い流した。ようやくくつろいで部屋にもどってきたセシリアは、異国の王宮で大国グラールの粋《すい》を顕示《けんじ 》するべく、おろしたてのガウンをトランクからひっぱり出した。
「こういうときは、少しはでに決めたほうが効果が上がりますから。あなたがたもグラール風に着飾ってごらんなさい。けれどもお二方は、侍女のアディと侍女のヴィーであることを忘れてはいけませんよ。勝手なふるまいは禁物《きんもつ》です」
アデイルに青リンゴ色のガウンを、ヴィンセントにはコーラルピンクをわたしたセシリアは、自分には濃いバラ色の一着をあてがって言葉を続けた。
「わたくしたちの目的は、帝国に求められている人物をつきとめることであって、それ以外のすべてはカモフラージュですが、だからといって、女主人が敬虔に女神の礼拝をしているときに、侍女がふらふら遊んでいるのは変ですよ。司教の悪口も禁句です。グラール人として、われわれは一枚岩でなくては」
「承知しましたわ、奥方様」
少女たちははしゃいでいたので、陽気に答えた。新しいガウンには、それだけ魅力があったのだ。トーラスで演劇をするようにガウンを着るのは、妙でおもしろかった。
アデイルは、宮廷風に着飾ったヴィンセントを初めて目にした。思ったとおり、彼女には風格がそなわっていた。甘い色のガウンを気品あるものに着こなすことができるのだ。
けれどもヴィンセントは、ためらいがちに言った。
「わたくしにはこの色、映らないのではないかしら……」
「とんでもないわ。わたくしの見るところ、グラールの夜会でその姿を披露《ひ ろう》できなかったことが、かえすがえすも残念よ」
アデイルが心から言うと、ヴィンセントは鏡のなかの自分をじっと見つめた。
「わたくしは以前、トーラスに編入してきたフィリエルに、こんなふうに鏡の前で、自分は分《ぶ》をわきまえていると言い切ったことがあるのよ。でも……国の外だと例外ね。こんな色を舞台衣装以外で身につけることは、国内だったら考えることもできなかったけれど」
ちらりと笑って、ヴィンセントは言った。
「このためだけでも、国を出てきたかいはあったかもしれないわね」
アデイルは所感《しょかん》をのべた。
「衣装なんて、すべては舞台衣装と思えばいいのよ。その場の配役だと思えば、真紅のガウンだって着ることができてよ。はでな衣装ほど、かえって顔を隠すことにもなるし……これも、舞台に立つと同じ原理ね」
「そうね。お化粧もそうだわ。きれいな色を身につけることは、一種の武装のようなものね」
バラ色のガウンに身をつつんだセシリアを見れば、武装の意味もうなずけた。信心深くてざっくばらんなチアレンデル生まれの娘は、たちまち有能な宮廷婦人に生まれ変わっていた。媚《こ》びも尊大さも使いわける、ふるいつきたくなるような魅惑の御婦人だ。
つけぼくろをつけて最後の仕上げをするセシリアを、アデイルたちは感心してながめていたが、その男爵夫人の仮面は、つぎの瞬間にいくらかくずれた。扉を開けて入ってきた王宮の女官が、従姉妹のアメリアだったのだ。
アメリアはセシリアとよく似たとび色の髪をした、セシリアよりはずんぐりした女性で、ウエストをしぼらない長いこげ茶のドレスを着ていた。彼女はドアの前でていねいに身をかがめてお辞儀をしたが、顔を上げたとたんに叫んだ。
「セシリア、いやだ、あなただったの? わたくしはてっきり、テルフォード男爵夫人のお付きがあなただとばかり――」
「アメリアったら、大声を出さないで。これはじつは仮の身分なの。わたくしは大役を仰せつかってきたのよ」
セシリアはあわてて手をふり、侍女として女官に応対するつもりだったアデイルたちに扉を閉めさせると、従姉妹を部屋へ引きこんだ。アデイルたちには聞きとれない口調で、早口にレイディ・マルゴットから受けた任務を打ち明けている。チアレンデルの方言をまじえた話は、長くはかからなかった。
大きく息をつくと、都言葉にもどってセシリアは言った。
「そういうわけだから、これ以上くわしくは言えないけれども、ここにいるお二人は、ただの侍女よりもずっと身分の高いかたがたなの。あなたも協力して、この人たちに特別に気をくばってほしいのよ。悪いようにはしないから」
アメリアも宮廷の女官だけに、よけいな口をはさまずにセシリアの話を聞いていたが、少女たちに目を向けたときには、さすがにあきれた顔をしていた。
「この二人が――お二人とも?」
「そうなの。お二人ともよ」
アデイルとヴィンセントは、ここぞとばかり無邪気な笑みを浮かべて見つめ返した。無言の圧力に負けて、アメリアは肩を落とした。
「他ならぬあなたのたのみだから、できるだけのことをさせてもらうけれど……責任は負いかねますよ。あなたったら、とんでもないことを引き受けたものね」
「でも、そのおかげで久々の里帰りができたし、あなたに会いに来ることもできたんですもの、高くはつかないわ。けれども、わたくしの主となる使命は、これとは別にあるのよ。ブリギオン帝国軍が要求している人物をつきとめたいの」
従姉妹を椅子に座らせてセシリアが言うと、この国の女官はきょとんとした顔をした。
「つきとめるって、ルセル・エゼレットのこと?」
「ルセル・エゼレット?」
「彼はかくれもなく、この王宮で暮らしているわ。シャルド国王陛下が彼を庇護《ひご》しているの。カラドボルス前国王の落としだねとうわさされる人物のことでしょう?」
あまりにあっさり口にされたために、グラール側の三人は、いくらかぽかんとした。
「そうだけど……トルバート政府はこれを極秘《ごくひ 》扱いにしていると聞いてきたのよ」
「それはもちろん、いろいろ駆け引きもあるでしょうよ。けれども、陛下が彼を東方に引きわたすことは、まずあり得ないわ」
「なぜ?」
セシリアが勢いこんでたずねると、アメリアは口もとをすぼめた。
「傭兵に暴動を起こされたら、この国はめちゃめちゃになってしまうからよ。ルセル・エゼレットは、アルスラットの交易商人が護衛にやとう傭兵団の中にいたの。帝国軍に追われて、今はトルバート王家がかくまっているけれど、東方生まれの傭兵たちにとって、彼は御子神にもふさわしい人物なのよ」
「へえ……その彼、いくつくらいなの?」
「若いわよ。たぶん二十歳かそのあたり」
「美男子なの?」
「いうまでもなく」
息をつめて聞いていた少女たちも、アメリアの口ぶりが、最初に名前を発音したときからそれを示唆《しさ》していることには気づいていた。ふくみ笑いをしてアメリアは言葉を続けた。
「王宮内の人気のほどを見れば、国王陛下もうかつに彼の身柄を動かせないほどよ。もちろん、帝国軍は執拗《しつよう》に言ってきているようだから、気の毒に宮殿から一歩も出られずにいるの。会おうと思えば簡単に会えるわよ」
「そうね。本人に会えるなら……自分でじかにたしかめることにするわ」
もう一度鏡を見て、額髪のかかり具合を整えながら、セシリアは言った。
アルスラットの王宮では、特使を歓待する宴《うたげ》が用意されていた。国賓《こくひん》級のもてなしにはやや劣るというものの、大国グラールからのわざわざの来客に、シャルド国王やその家族も一時|臨席《りんせき》なさるという。
案内された大広間は、なるほど広大で天井高かったが、どうやらこれ一つのようだった。進み出たアデイルは、ざっと見わたしただけでそう思った。環状宮殿のように分散することなく、老いも若きも、王侯貴族も平民も、この一堂に会しているようだ。
そのことは、微妙な装いの差によって見てとれた。王家に近い婦人たちは、陛下の嗜好《し こう》を反映してか、グラール風のデコルテを身にまとっている。襟《えり》ぐりのカットや、ウエストを細く見せる切りかえ、スカートのひだの技巧は、現在ハイラグリオンに流行するスタイルをかなり忠実に模している。
けれども、これらが地元のファッションとかけ離れていることは、行き来する侍従や侍女の姿を見ればたやすくわかるものだった。ゆったりと長い衣をまとった人々は、鮮やかな染色を生かす着こなしをしていて、アデイルの目には、そのほうが新鮮で魅力的に映った。身分的には高くない人たちなのだろうが。
男性陣は、女性たちほど装いに色分けされず、各人の好みや体格で、たっぷりした被《かぶ》りものと長衣というファッションと、色を地味に抑えて体の線を出すグラール風のファッションとを選んでいるようだった。そのかわり、布をたらした被りものにグラール風の上下というような、妙な折衷《せっちゅう》を平気でしている人間も男性に多かった。
テルフォード男爵夫人とその侍女がホールに現れると、会場すべての視線が一瞬、値ぶみをこめて集中するのが感じられた。大国グラールの高きところでまかりとおるレイディの装いを、目に焼きつけようとするまなざしだ。
セシリアは視線にびくともしなかったし、アデイルたちもそれを見習った。男爵夫人は、迎え出てエスコートするコードウェル書記官にほほえみかけ、その腕をとって優雅に歩んだが、笑顔の陰で、後ろにひかえたアデイルたちにも聞きとれる、憤慨《ふんがい》をこめた声音でささやいた。
「書記官、王宮にかくれなきルセル・エゼレットの話はもうお聞きになりまして?」
「はあ」
コードウェルは落ち着いたというよりは、覇気《はき》のない返事をした。
「どうやら、彼の存在が秘密でも何でもないということは……わたしも聞きました」
「どうしてこれを、事前に探知することができませんでしたの。トルバートとブリギオンの対立点がこれほど明確であるならば」
「知らなかったわけではないのですが、なにぶんにも不明瞭で」
ためらいがちな口調で彼は言った。
「……トルバート政府は、要請の時点でこのことにふれはしませんでした。彼、エゼレットの語る血筋が正真正銘のものであるかどうかは、だれにも立証できないのです」
「それなら、この国がブリギオン帝国軍を追い払うよりも彼の身柄を庇護《ひご》することを選んだ理由は何なのです?」
「その件は、おいおいに……」
来客用のテーブルにたどりつき、大臣たちが歓待のしぐさで寄ってきたので、彼らの会話は立ち消え、応対に追われることになった。アデイルたちはそれを見定めてから、付き人に与えられる後方の席に向かった。
(……コードウェル書記官って、煮えきらない人ね)
ずっと離れた席につきながら、アデイルは、おそらくセシリアも思っているであろうことを考えた。一男一女の父だという話だが、このぶんだと恐妻家かもしれない。
(彼は、人当たりがいいだけの人物で、特使のブレインは別にいるのかもしれない……もしかすると、それがメリアデス司教なの?)
今晩の宴に、聖職者であるメリアデスの姿は見えなかった。かわりに無表情な法務官の列席は見てとれたが、彼はだれにも話しかけずにいるようだった。
広間の奥舞台では、薄絹のショールをひるがえすエキゾチックな舞姫たちが舞っていた。人々はしばらく鑑賞や雑談に興じた。その舞踊《ぶ よう》も終わったころ、ファンファーレが鳴りわたり、トルバート王家の人々が姿を現した。シャルド国王とその王妃、まだ年若い王子二人と王女一人が、全員起立の拝礼のもと、要人たちのテーブルに加わった。
予想はついたが、トルバート王家の人々はグラールの貴族に似た装いで現れた。黒髭《くろひげ》の国王はふちどりのあるマントに剣帯、厚化粧をした王妃は高い襟《えり》をもつガウンをまとっている。まだ幼顔の残る王子たちや王女も、領主館における子どもたちのように、上座の裾《すそ》に並んで来客をもてなしていた。
(……ああ、思い出すな)
まだ十か十一に見える少女が、水色のガウンをまとい、緊張した面もちでお辞儀するのを遠くに見て、アデイルは思いをはせた。
ルアルゴーの領主館を訪れる賓客《ひんきゃく》のもてなしが、アデイルは大の苦手だった。兄のユーシスがたびたび「まあ、お母様ゆずりの目を」とか、「先代伯爵のおもかげが」などと言われるのとちがい、アデイルはだれにも似ていなかったからだ。
その疑問をとうとう母親にぶつけたとき、レイディ・マルゴットは明快な口調で、養女であるアデイルの身の上を告げた。それは当面、アデイルを不幸のどん底に落とすできごとだった。
泣きじゃくりながら、ユーシスに訴えたことを思い出す。自分はこの家の娘ではないのだと。だから、両親に愛されることはないのだと――
「関係ないよ」
ユーシスはそう言って、アデイルの頭をなでた。彼は大柄で活発な少年で、館内よりも野山を駆け回ることを好み、ふだんは小さい妹のことなど気にとめていなかったが、アデイルが泣くときには不思議とそばにいた。
「ぼくがアデイルの騎士になるから関係ないよ。アデイルは、だから、ロウランド家で一番大切な女の子になるんだよ……」
「アデイルったら」
ヴィンセントにひじでつつかれて、アデイルはわれに返った。回想にひたっていて起こったことがよくわからず、たじたじしてたずねる。
「なに、なにがあったの?」
「あなたね……」
ヴィンセントはあきれてのぞきこんだ。
「関心がないなら、それでもいいのよ。あそこに見えるルエル・エゼレット、あなたはどう思うか聞きたかったのだけども」
そこでアデイルも、王族が現れたころに奥から現れ、今は貴婦人たちに取り囲まれている若者に目を向けたのだった。ほっそりした中背で、明るい金髪を肩のあたりまで伸ばしている。
「あら、本当にハンサム……」
それが高貴な血の証明なのかどうか、傭兵育ちと聞く人物にはとても見えなかった。トルバート国のまがいものっぽいグラール風宴席にあって、純グラール宮廷風と言ってもいいくらいだ。体にぴったりした着こなしは黒ずくめでつつましく、困難な身の上をものがたっていたが、なかなかどうして、かえって若者の整った顔と美しい髪をひきたてていた。
「ユーシス様とどちらが美男子だと思う?」
ヴィンセントが浮きたった口調でささやいた。
「ルセル・エゼレットのほうがハンサムだわ」
アデイルがすぐに言い切ったので、ヴィンセントは少しとがめるように見やった。
「あら、そんなふうに断言しなくてもいいのよ。もう少し考える時間をあげても」
「時間をかけても見解は変わらないわ。だって、あそこにいるのは、わたくしの想像を絶する人ですもの。今そこに、どんな気持ちで、どんなことを考えて立っているのか、あなたにはわずかでも想像できて?」
ヴィンセントは小首をかしげた。
「謎でしょうね。王宮の宴席に顔が出せるくらいだから、よい待遇《たいぐう》で暮らしているのでしょうけれど、微妙で複雑な立場なのはたしかだわ」
「こういう場に加わることは、彼にとってつらいことにはならないのかしら。彼はとても平然として見えるけれど。今は消滅した国の王族であることって……帰属する国のない思いからして、わたくしたちにはつかめないものごとね。一族を根絶やしにされることも同じよ。その酷《むご》くて悲しいできごとを背負っているだけ、彼はハンサムで当然なのよ。だれかがものすごくハンサムに見えるって、たぶん、外見だけの問題ではないのだわ」
アデイルの言葉に感銘を受けた様子で、ヴィンセントはうなずいた。
「本当にそうね。直接にあのかたの話をうかがってみたいものだわ」
「そうね。でも……」
ルセル・エゼレットは上座から離れた場所に席をとったが、侍女の末席とはホールの反対側で、そばへ寄る口実はあまりなさそうだった。アデイルは肩をすくめた。
「たぶん、わたくしたちにはお鉢《はち》が回ってこないわよ。体当たりで聞きにいくのは、テルフォード男爵夫人の役目でしょうね」
二
もちろん、セシリアはぐずぐずしてはいなかった。
王家や大臣高官との顔合わせをひとしきりそつなくやってのけた彼女は、国王が退席したと見るやいなや、コードウェル書記官がまだまだ酒宴の席を離れられないのをよそに、退出するふりをして目標に突進した。同じに外交の立場に立とうと、これが婦人の特権である。
給仕をしていた小姓を扇子《せんす 》を使って呼び寄せ、伝言を耳打ちする。さりげなく続きの間の長椅子に腰掛けて待っていると、やがて、ルセル・エゼレットが現れた。
彼女が立ち上がると、若者は腰をかがめた。
「お名前はうかがっております、奥方様。グラールからはるばるいらしたテルフォード男爵夫人ですね。お目にかかれることが光栄です」
礼儀にかなったものごしだった。ぎこちなさは見られず、やりすぎのところもない。観察するまなざしで見守りながら、セシリアは、彼はどうやって宮廷作法を身につけたのだろうと考えた。
「……いつごろから、この王宮にいらっしゃいますの?」
「昨年の暮れからです。四ヶ月ほどになりますか」
「宮廷慣れしていらっしゃるわ」
「とんでもありません。これは見よう見まねです。たぶん、どこかでぼろを出すことでしょう」
細おもての顔が笑顔になった。彼はほほえんだほうが精悍《せいかん》に見える。もの思わしげな様子が消え、意外と甘さのない笑顔だった。
(感じのいい人だわ……)
セシリアもそれを認めずにいられなかった。彼の瞳は、灰色にも茶色にも見える不思議な色合いだ。よく見ると肌には日焼けのなごりが見られるが、さらさらとこぼれる金髪は見事だった。
「岩にも砂にも眠る生活が、生涯の大半でしたから、こうした場所にはとまどいます。その昔に暮らしたはずの王宮は記憶にないんですよ。なにぶんにも小さすぎました」
「それでも、体で覚えていらっしゃるという感じですわ……なくされたのは、おいくつのときでした?」
「砂漠に出たのは三歳のときでした。帝国成立後、しばらくは地方領主の屋敷にかくまわれたそうですが、覚えていませんね」
少しためらってから、ルセルは言葉を続けた。
「ある意味、小さいうちになくしたことはありがたいことです……やりなおしがききますから……もちろん、生きていればの話ですが。わたしは、隊商護衛の荒くれた傭兵たちに育てられましたし、今でも彼らがわたしのすべてです。今回の追求をのがれることができたら、わたしはすぐに傭兵隊へもどりますよ」
「……あなたは、国の復興を考えていらっしゃるの?」
セシリアが単刀直入にたずねると、若者はふっと笑った。それは、多くを語ってもしかたないという笑みだった。あるいは、人に聞かれすぎた質問だったのかもしれない。
「まず無理でしょうね。それでも、傭兵たちにとっては、そして帝国にとっては、わたしのこの体が失われた国なのです」
「まあ……」
ぶしつけだった気がして、セシリアは思わずとりつくろった。
「最初から立ち入った質問ばかりしたことを、どうぞお許しください。わたくしは、グラールが国としてどう出るかの感触を得るためにまいりましたの。ブリギオン帝国を遠ざけたい思いは、あなたがたと同じですから、お役に立つこともできるかと思うのです」
「ご親切なお言葉をありがとうございます」
さらりとした口調で彼は答えた。信じてはいないのだと、セシリアは思った。ルセル・エゼレットは決して愚鈍《ぐ どん》ではなく、自分の生命が国家間でキャッチボールされている現状を、充分承知しているのだ。
「これをおたずねするのも、ぶしつけですけれど……もとカラドボルスの兵士だった傭兵隊の人々は、トルバート国王を脅かすほど大勢いるのですか?」
「そんなことはありません」
ルセルは簡単に認めた。
「それほどの人数が砂漠にのがれていたのなら、われわれは、シャルドに代わって国を一つ建てていたと思いませんか? 傭兵稼業《ようへいかぎょう》などには身をやつさずに」
「では……それならば、あなたを擁護《ようご 》することでシャルド陛下が得るメリットは何なのでしょう」
セシリアがたずねると、若者は瞬間|研《と》ぎすましたまなざしで彼女を見返した。けれども、一瞬ののちには乾いた笑みを浮かべていた。
「……わかりません。もしも、先ほどのお申し出が真実ならば、あなたにそれを探っていただけると、たいへんありがたいですね」
あとは他愛のない会話をいくつかまじえて、セシリアはこの亡国の若者と別れた。彼の背中を見送ってから、彼女は考えた。
(……血筋については、疑問の余地がないようだ。話にも信憑性《しんぴょうせい》があるし、あの金髪……東方の人々は黒髪が主流だと聞いているのに、かなり特別な家系としか思えないもの)
このことは、グラールから東方にわたった騎士たちの話を思い起こさずにはいられないものだった。もしかすると、カラドボルス王家の祖はその一人だったのかもしれない。
そして彼は、とにかく感じのいい若者だった。このように優雅で勇敢な人物の生命が、トルバートに宙ぶらりんにゆだねられている現状は、義憤《ぎ ふん》を感じてあまりあるものごとだ。
閉じた扇子でほおをかるくたたきながら、セシリアは考えこんだ。
(ルセルの言うとおりだわ……商魂たくましいトルバート王家が何を考えているか、星女神の御名にかけても、それを探り出さなければならない……)
アデイルとヴィンセントは、セシリアが席を動くのを見て、侍女らしくともに退出しようとしたが、顔を上げると目の前に、息をはずませた水色のガウンの人物が立っていた。
「あの……あの。わたくし、シャルド王の娘シェリルともうします。トルバートヘようこそおこしくださいました」
「まあ、王女様……」
まだ小さな彼女は、グラール国から来た人々には侍女に至るまで最大の礼をつくさなくてはと考えているのかもしれなかった。ほおを赤くした黒髪の少女にほほえんで、アデイルたちはお辞儀を返した。
「いたみいりますわ。短いあいだではございますが、滞在中はどうぞよしなにお願いいたします」
「みやびなごあいさつ。わたくしも、そういうのを覚えたいですわ。グラール国には、端から端まで一日で行けないような宮殿が建っているって、本当ですか?」
シェリル姫は瞳を輝かせ、両手を組み合わせた。
「いえ……たんに、宮殿に端がないだけの話ですが……」
「お話をたくさんうかがいたいんです。いっしょにいらしてくださいません?」
アデイルとヴィンセントは目を見合わせた。セシリアの動向に気がもめていたし、小さな王女はどう見ても勘違いしているとしか思えなかった。
にっこりほほえんでヴィンセントが言った。
「王女様、お呼びよせになるならレイディ・セシリアがふさわしいかと存じますわ。わたくしたちはただ、男爵夫人にお仕えする身ですから」
「あら、だめよ。わたくしに知らんぷりをしてもだめです。わたくしは、もう知っているのよ。だからこうしてごあいさつしているのに」
足ぶみして王女は言い、二人がぎょっとしているあいだにもすらすらと続けた。
「おしのびでトルバートへいらしたのでしょう。秘密だってことはわかっています。わたくしにだって、ちゃんと秘密を守れてよ。リリセット王妃を通してわたくしたちには、遠い血縁《けつえん》があるという話ではありませんか。仲間にしてくれなくてはいや。おねえさまにお会いすることを、待ちきれないほど楽しみにしていたんですから」
侍女たちはあっけにとられた。やがて、やや気をとりなおしたヴィンセントがたずねた。
「どこでそれを……だれからそれをお聞きになりました?」
「やっぱりそうでしょう」
歓声をあげて、シェリル姫はコーラルピンクのガウンにしがみついた。
「わたくしには、一目で見分けがついたのよ。おねえさまがただの侍女ではなくて、テルフォード男爵夫人よりずっとずっと高貴な人だって。本当に、遠くから見てもよくわかったのよ」
王女の暴露の対象は、どうやらヴィンセント一人に限られているらしかった。ヴィンセントは途方にくれた顔でアデイルを見やったが、アデイルが小さくかぶりをふるのを目にして、口ごもりながらシェリル姫に言った。
「……たしかに、わたくしはクレメンシア・ダキテーヌで、リリセット王妃様の血縁です。でも、このことが他のかたがたに知れると、人さわがせなことになってしまうんです。本当に秘密を約束してくださいますか?」
「ええ、約束するわ。でもそのかわり、わたくしのお相手をしてくださらなくては。お菓子を出すから、お部屋に来てくださる? そして、トルバートではわからないいろいろなことを、教えていただきたいの」
「やっぱり、わたくしって庶民顔《しょみんがお》なのかしら……」
鏡に映る顔を見つめて、アデイルがつぶやいたのは、翌日の昼下がりだった。トルバート国で迎えた初日のあれこれに全員疲れきり、眠りに眠った彼女たちは、昼の暑さがやわらぐまで起き出す気にもなれなかったのだ。
「ヴィンセント様が特別だと思いますわよ。見抜かれたのは、わたくしも少々不本意ですけれど」
薄物一枚のしどけないセシリアが、遅い朝食の飲み物を口にはこびながら言った。冷たくしたザクロ水だ。
ヴィンセントは憤然として薄茶色の髪をかきあげた。
「だれかが情報をもらしたにちがいないのよ。わたくしの顔のせいではないと思うわ。どうなっているのかしら。わたくしがこうしていることは、ロウランド家のごく一部の人しか知らないはずなのに」
「ロウランド家に、それを言いたがる人などいないわよ。だいたい、トルバート王家に教えて何になるの?」
「まさか、コードウェル書記官がもらすとも思えませんし……それに、シャルド陛下は、それに類することを何もおっしゃいませんでしたよ」
アデイルはふりむいてヴィンセントにたずねた。
「あのあと、シェリル姫のお部屋で何か聞き出せたことはなかったの?」
ヴィンセントはため息をついた。
「たずねても要領をえなくて。自分の情報源を秘密にしたいようよ。思うにあの子も、どこかでぬすみ聞きしたのではないかしら。細かく知っている様子ではなかったわ」
セシリアが思案顔に言った。
「少し時間をかけて、王女様につきあってみるべきですね。小さい子ですから、ひょっと口をすべらせるかもしれません」
「それはできるわ……今日も彼女の部屋へ行く約束をさせられたもの」
「ずいぶんと慕《した》われましたね」
「わたくし、お相手するならもっと大人のすてきな人のほうがよかったのに……できれば男性で」
ヴィンセントが言うと、セシリアはにやりとした。
「ルセルはあなたがたには荷が勝ちすぎます。お話したように、身の上は本物だろうと思われますけれど、まだまだ何が出てくるかわかりません。わたくしが調べを続けます」
「独《ひと》り占めしようとしているんでしょう」
「あら、ちがいますわ。できすぎの人には充分な用心が必要なんです」
そう言いながらも、セシリアはうきうきして見えた。
「彼を王宮におくメリットが、王家の私的理由だったりすると拍子抜けですけれど、今日は政府の帝国との折衝に、もう少し探りを入れてみます」
彼女たちのやりとりをよそに、アデイルは再び鏡をながめていた。
「……わたくしって、庶民顔よね」
ヴィンセントはあきれた声を出した。
「もう、アデイルったら、いつまでもこだわらないでよ。わたくしを困らせたいの?」
「そうじゃなくて。そういう顔ならそれなりに、自分の生かしようがあると思ったのよ。わたくし、今日は外へ行くことにするわ」
「外?」
「地元の人みたいな衣《ころも》を着て、長い被りものを被れば、けっこう目立たずにいられると思うの。トッホダウンで買ったものがあるし。わたくし、傭兵がどんなものかを知っておきたいのよ。市場や隊商も見てみたいし」
セシリアが息を吸いこんだ。
「とんでもない。あなたが一人で町中へ出ていくなんて。そんな危ないことは絶対にさせられません」
「一人じゃないわ。アメリアに案内してもらうの。彼女だったらよくわかっていて、危ないところへなどつれて行くはずがないでしょう」
有無を言わせぬほほえみで、アデイルは言った。
「ヴィンセントは王家を探りにいくし、セシリアは大臣を探りにいくし、わたくしは町の人を探りにいくのよ。ね、適材適所でしょう。むだのない調査はこのようでなくては」
アメリアは、歩きながらも文句たらたらだった。自分は外歩きをするような下級の女官ではないことを、さかんに強調した。
「少し行ったらもどりますよ。本当に少しだけですよ。まったく、育ちのよいかたは何をお考えになるやら、傭兵が見てみたいだなんて。傭兵なら、ここにもそこにもいるではありませんか。王宮の警備兵だって、一部は傭兵なんですから」
アデイルはわくわくしていたので、アメリアの愚痴《ぐち》も軽く聞き流せた。赤い肩布のついた直線裁ちの服をまとい、腰には色糸の帯をしめていたからだ。水玉もようの長いベールを被って、素足に革のサンダルをはいてもいる。まるで別人になった思いがして、楽しくてならなかった。
「わたくし、そういうこともよく知っておきたいのよ」
「女官の仕事は、衛兵と同じに立ち仕事なんですから、わたくしとしては、よけいなことをして足をむくませたくありませんのよ。本当に、市の通りを行くだけですよ」
「ねえ、傭兵の人たちにも階級があるの?」
「まあ、彼らにそんなものありやしませんよ。報酬《ほうしゅう》がすべての人たちです。お金ですよ、お金」
アメリアは、小さな子どもに説明するように言った。
「わかりますか。彼らの仕事は、換金《かんきん》していくらのものなんです。もちろん、危険の大きい仕事ほど報酬が大きくて、そう言う意味では、隊商の護衛につく傭兵がもっとも危険の大きい仕事でしょうね。そこで稼げる傭兵は、まあ腕がいいということになります」
「隊商は危険なの?」
「砂漠という場所は、ひからびずに往来するだけでも知恵と技術が必要です。その上に、盗賊たちが、中央ルートには虫がわくようにいますからね。西側にも東側にも」
ベールの陰で、アメリアは眉をひそめた。
「もっとも、傭兵と盗賊の区別があやしいという話もよく聞きます。どこまでが護衛で、どこまでが泥棒なのやら。双方がぐるの場合もあるそうですし」
「まあ、本当?」
「これだけは言っておきますけれどね、グラールのお嬢様。傭兵という人種は『とってもガラが悪い』んです。そばで話そうなどと思ってはなりませんよ。だいたい、任務についていない傭兵のいるところといったら、いかがわしい場所か酒場です」
(いかがわしい場所って、どんなところかしら……)
アデイルは興味をひかれたが、叱《しか》られそうなので質問にはしなかった。
「でも……そんな人たちのなかで育ったならば、ルセル・エゼレットがあれほど品のよい人なのはどうしてなの?」
「それが古い王家ということなのでしょう。だれが見てもわかりますものね」
「古い王家なら、顔つきに出るというものではないわよ」
アデイルは表情をひきしめてきっぱり言ったが、トルバートの女官は不審《ふ しん》そうな顔をしただけだった。
「あら、そうなんですか?」
夕方を迎えて、アルスラットの大通りは数段にぎやかさを増していた。人々が夕食に買うのか、日中はたたんでいた屋台がつぎつぎと開き、香辛料のきいた料理の匂いをただよわせている。食べ物ばかりでなく、装飾品や日用雑貨、服地に陶器に鍋《なべ》や刃物、さまざまな露店《ろ てん》が通りを埋めて、それらを物色して歩く、色布の被りものをしたさまざまな男女の姿が行き交っていた。
アデイルはこれでも、マリエとメイアンジュリーの下町へ出かけたことだってあるのだが(もちろん、ないしょでのことだ)、異国の市場通りには目を奪われる思いをした。グラールの首都なら、注意深く選《え》り分けられて入ってくる異端の匂いが、よきも悪きもここにはなだれこんでいる。
露店で売られていた、幻獣《げんじゅう》『ゾウ』の彫像《ちょうぞう》一つをとっても、めまいがするほど豊かで多様な世界の一端が見てとれそうだった。猫の神、犬の神をあがめる人々が本当にいたとしてもおかしくはない。
「まあ、アメリア、あれは何かしら」
他の露店のように品物を並べず、星の模様を描いた垂れ布でこれみよがしに周囲を覆った店を見て、アデイルは叫んだ。
女官はかなりうんざりして答えた。
「辻占《つじうらな》い師でございますよ。あれは、いかさまを行う連中です」
「わたくし、占いって大好き。観てもらいたいわ」
占いがきらいな女の子はいない。砂漠をへだてた場所でもその現象は共通しているらしく、店には順番を待つ若い娘の列ができていた。けれどもアデイルは、待つことが苦にならなかった。人気があるだけ的中しそうな気がしたからだ。
「もう、わたくしは知りませんよ。こんなことでお金のむだづかいをして」
アメリアは占い料の看板を見てこぼしたが、アデイルは耳をかさずに星模様の天幕をめくった。そこには、黒いベールを被って大きな水晶玉をかかえた人物がいた。
「尋ね人、失せ物、金運、健康運、恋のゆくえ……いかがなさいます?」
ささやく声でたずねられ、アデイルはしばし考えこんだ。
「ええとね……その人が、今、無事かどうかを知りたいのは、尋ね人のうちかしら」
「そのようですね。では、おかけになって、そのかたの名前と生年月日を」
アデイルは喜んで中へ入りかけたが、そのとき、目の隅をよぎった人物がいた。はっとしてふり向くと、ほんの一瞬だけ相手と目と目があった。
それはどちらかというと小柄な人物で、青い縞《しま》の入った被りもので頭を覆い、砂色のゆったりした上着を着て、白ズボンの足にはサンダルをはいていた。地元民にふさわしいかっこうだったが、その顔立ち、ぼさぼさな黒い前髪、思いつめたように見つめる表情は、アデイルが忘れようとしても忘れられないものだった。黒ぶちメガネをかけてはいなかったが、これは当然だろう。
(ルーン……?)
アデイルが目をやったその瞬間に、かの人物はすっと顔をそむけた。そして、夕暮れの雑踏《ざっとう》にそのまま紛《まぎ》れこんだ。アデイルの手から星模様の天幕がすべり落ちた。
「ルーン!」
(こんなところにいたなんて……)
ルーンがトルバートに来ているとは知らなかった。ライアモン殿下の暗殺の後、下手人《げしゅにん》の彼が親衛隊の追求の手をのがれたことを知り、あるいはグラールの国外へ逃れたかと考えてはいたが、まさか砂漠をわたっていたとは思わなかった。
(それなら、彼は、わたくしの苦肉の策のバラッドを、かけらも耳にしていないじゃないの。一途《いちず 》なフィリエルが、身を投げ出す覚悟で南の国へ出かけたことだって、まるでわかってはいないじゃないの……)
やきもきしたアデイルは、全力疾走したつもりだが、本人の意志にかかわらず、その足はこびは悠長《ゆうちょう》だった。さらに、人混みをぬう技術にもたけていない。黒髪の少年がいたと思われる場所にたどりついたときには、影もかたちもなかった。
(……まかれてしまった)
そうでないことは充分あり得たが、アデイルはそう考えた。ふと気がつけば、いつのまにかアメリアともはぐれてしまっている。
しかたないので、もといた辻占い師の街角を探したが、これが何とも不思議なことに、魔法のように消え失せていた。
(……いいえ、大丈夫、ここは一本道だもの。帰ろうと思えば一人で帰れるはずよ)
自分に言いきかせてみたが、認めたくはないものの、アデイルは超がつく方向|音痴《おんち 》なのだった。すでに、通りのどちら側に向かえば王宮が見えたか、すっかりわからなくなっている。
口うるさいアメリアも、見えなくなってしまえば心細かった。女官が腹を立てていることは必至だが、心配して探してもいるだろう。アデイルは通りを右往左往して、ずんぐりしたアメリアの姿を探した。
(いない……)
かなり時間がたったというのに、アメリアの姿は見つからなかった。アデイルは人波にもまれてさまよったあげく、自分は違う通りに来たかもしれないと疑いはじめていた。そう思ってよく見ると、どの露店も見覚えがないような気がする。
だんだん足はくたびれてくるし、ほこりっぽさでまいってくるしで、アデイルはげんなりして立ち止まった。そのとき、ひょいと見やった方向に、今は探し求めていたわけではないものが目に入った。さっきの青い縞の被りものだ。
向こうの並びの金物屋の前を、砂色の服をまとったルーンが横切ろうとしていた。今はアデイルに気づかずに通り過ぎるようだ。今度こそと決意して、アデイルは人混みをかき分け、とうとう被りものの垂れ布をつかむにまにあった。
「あなたったら、いったいどうしてこんなところにいるの。フィリエルが、どれほどの思いで南へ出かけたと――」
相手は機敏な動作で向きなおった。その瞬間、アデイルには人違いが明らかになった。正面から見あわせた瞳は、深い緑色だった。博士の弟子の灰色の目とは異なっていた。
憤然とした声音でその人物は言った。
「おれは、童顔と言われたことがあるにはあるが、十二の女の子に同年あつかいされるほどじゃないぞ」
アデイルは一瞬二の句がつげなかったが、顔を赤らめて言い返していた。
「十二の女の子とは、だれのことです。失礼にもほどがあります。わたくしは今年十六歳です」
「おれは十八だ。まいったか」
何がまいったかなのか、わけがわからなかったが、漠然《ばくぜん》とくやしさを感じた。本気でルーンだと思いこんだために、がっかりする思いも大きかった。
「だったら人違いです。わたくしの会いたい人ではありませんでした。忘れてください、どうも失礼しました」
ふだんの彼女より、ずっとぶっきらぼうに告げ、アデイルはくるりと背を向けた。アメリアを見つけなければならないのだ。
太陽が広い地平線に沈むには、まだ間があるようだったが、影は怖いほど長くなっていた。建物の陰の店には、ランプを灯しはじめたところもある。あせる気持ちが、アデイルに今しがたの失敗をすばやく忘れさせた。早く王宮へもどらないと、セシリアたちに心配されてしまうだろう。
(一人では何もできないと思われたくない……初めから無茶だったのだとは、みんなに言われたくないわ……)
そうは言っても、方角が問題だった。たそがれて遠方がかすんでくると、アデイルの足の向く方向はますますあやしくなってきた。
(やっぱり、違ったみたい……)
きびすを返して、方向転換しようとしたときだった。彼女のわきを、先ほどのルーンもどきの人物がいっしょに歩いていることに気がついた。
「ねえ、きみ――」
アデイルが気づいたことを知り、彼は言った。
「のど渇《かわ》かないかい。よかったらおごってやるよ。おれ、今日は金あるんだ」
(まあ、ルーンとは似ても似つかない……)
感動的なくらい似ていないと、アデイルは心のなかでうめいた。これはただの与太者《よ た もの》だ。
「けっこうです」
あごを上げて言い切り、歩き出したアデイルを、彼はまだ追ってきた。
「さっき言ったことは訂正するよ。十二歳に見えるなんて、もう思っていないよ。同好《どうこう》のよしみ……っていうのはなんか違うな。とにかく、年齢以下に見られる悲しさは、おれにもわかるからさ」
返答はもとより、アデイルはふりむきもしなかった。
「ねえ、きみ。おれといっしょに行ったほうがいいと思うよ。おれなら、アルスラットのどんなに細い路地だって手にとるように知っている」
唐突《とうとつ》に足をとめ、アデイルは若者をせいいっぱいにらみつけた。
「はっきり言っておきますけれど、つきまとうのは迷惑です。あなたに声をかけたのは人違いだったって、さっき説明したでしょう」
少女の剣《けん》まくに一歩ひいてから、若者はおどけたように言った。
「知りたくないならいいけど――きみが向かっているのは、王宮とは逆方向だよ。じきに場末の歓楽街になる」
アデイルは目をまるくし、続いて眉をしかめた。
「……どうして、わたくしが王宮へ帰ると思っているのです?」
「きみ、グラールから来た人だろう。昨日、馬車が何台も王宮へ入るのを見物していたとき、ちらっと顔が見えたんだ。じつをいうと、同じ人物かなどうかなと、ながめていたところだった」
そう言って、彼はあっけらかんとほほえんだ。アデイルは、博士の弟子が笑うところを見たことがなかったので、こんな感じになるものかと、思わず見入ってしまった。この若者はきれいな歯をしていたが、惜しいことに、門歯の左の並びに少し隙間《すきま 》が空《あ》いている。そしてそのことが、ますます少年っぽさを加えてもいた。
「知っていたなら、もう少し敬意をはらってよさそうなものよ。わたくしたちだったら、他国からの訪問客にはていねいに接します」
アデイルがきびしい口調で言うと、相手は大げさに目をまるくした。
「だからこんなにていねいに、親切に申し出ているじゃないか。よかったらつきあわないか、って」
「よくありません。わたくしは、つれを探している最中です」
アデイルは向きを変えて歩き出した。知らない男についていってはならないことくらい、アデイルであっても知っていた。ルーンもどきの若者は、それでもめげずについてきた。
「きみさ。王宮で、ルセル・エゼレットに会ったりしたかい?」
「それが何か」
「彼はどうしていた? 元気そうだった?」
その声音には、本物の気づかいがこめられていたので、アデイルは思わずふり向いた。
「あなた、あの人を知っているの?」
「そりゃあ、ルセルを知らないやつなど、おれたちのなかにはいないよ」
いくらかまじめな顔つきになり、若者は言った。
「彼が宮殿に軟禁《なんきん》状態で、ろくろく顔も見られないものだから、みんな心配しているんだ」
アデイルはわれ知らず、相手を頭の先からつま先までながめていた。
「あなた、まさか――傭兵?」
彼は、尊厳《そんげん》を傷つけられたような顔をした。
「見えないと言いたいのか。おれはルセルと同じ、エゼレットの一員だよ」
よくよく見れば、この若者はたしかにルーンより年上だったし、ルーンより背が高かったし、よく日に焼けていて、機敏な動作ではずむように歩いた。快活な口調には耳慣れないなまりが強いし、大通りのナンパを当然と思っているようだし、学者のもとで育った無愛想な少年とは天と地ほどにも違う。
それでも、アデイルが彼をトーラスの女生徒になれるルーン少年と見まちがえたくらいだから、おしはかるべきものがあった。もっとも、一般的な傭兵の外見というのは、アデイルの想像の外にあるのだが。
「エゼレットの一員って。エゼレットは、ルセルの家名ではないの?」
「ちがう、エゼレットは地名だ。今はもうない地名で、おれたちの傭兵団がそう呼ばれている。すご腕のエゼレットさ」
(それなら、わたくしは、少なくとも傭兵を間近に見るという目的をはたすことはできたのだわ……)
アデイルは考えた。けれどもアメリアは、傭兵はガラの悪い人種だから話をしてはいけないと言っていた。たぶん、そのとおりなのだろう。
アデイルが口をつぐんでいると、彼はふいに言った。
「そっちの通りじゃないよ。こっちだ」
若者が指さすのを見て、一瞬あやしんだアデイルだったが、たしかにこちらのほうが露店の並びに覚えがあった。少し進むと、壁の高い路地のずっと向こうには、たそがれの空の下に王宮の屋根のアーチも浮かんで見えた。
帰れることにほっとして、そしてナンパな傭兵が正直だったことにもほっとして、アデイルは表情をゆるめた。
「アメリアったら、きっと先に帰ってしまったのね。歩くことをこぼしてばかりいたから。でも、これならわたくしも一人で帰れるわ」
縞の被りものの若者は、アデイルの顔をしげしげとながめてたずねた。
「きみ、名前はなんていうの?」
アデイルには、そこまでうちとける気はなかった。
「知る必要があるの?」
「ふうん。まあ、いいや」
彼はぴたりと足を止めた。王宮の門前の衛兵が見分けられるほどの距離に来ており、それ以上近づく気はないようだった。
「ま、めずらしい人に会えてうれしかったよ。この次は、もう少しましなおつれをつれてくるんだね」
若者が片手をあげ、あっさり背を向けるのを見ると、アデイルは急にひきとめたくなった。このまま別れるのが、なんだか惜しいような気がしたのだ。それに、彼は帰りの道案内してくれたというのに、アデイルはお礼の一つも言っていなかった。
「あの、待って」
声をかけると、彼はすぐにふり向いた。そこに期待の色を見て、アデイルはためらってしまったが、取り消すこともできずに言った。
「ありがとう、つれてきてくれて。なんなら……ええと……何か王宮のルセルに伝言があったら、伝えてあげてもいいわよ」
「本当かい?」
彼はさっと顔を明るくした。急いで歩みよってくると、勢いこんで言った。
「おれの名はティガ。ティガがこう言ったと言えば、ルセルにはわかるはずだ。たのまれてくれるかな――」
「変わった名前なのね」
アデイルが口をはさむと、若者はにやりとした。
「ティガは、大猫って意味だよ。牛をえものにして食っちまうようなどでかい猫のことさ」
(あら……)
アデイルは少しびっくりした。そのような幻獣《げんじゅう》のことを、彼女は伯爵の書斎にあった本で読んだことがあったのだ。
たしか、ゾウのことも同じ本で読んだはずだった。しかし、その本の内容は昔話と同じで、グラールでは貴族だけが注意深く秘めておく知識に属していた。それをあっさり口にするとは、傭兵とは、意外と物知りな人間たちなのかもしれない。
「ルセルの付き人に、ゴーガーというでっかい男がいるんだ。ティガからだと彼にたのめば、必ずルセルに会わせてくれるよ」
若者は考えこみ、伝える言葉を慎重に吟味《ぎんみ 》しているようだった。
「ルセルにこう言ってほしい。もしも――」
けれども、そこまで口にしただけでつかえた。ティガはあごに手をやって再び考えこみ、間をおいて提案した。
「……あのさ、手紙に書くから、それをもっていってくれるかな」
あまりに真剣なその様子を見て、アデイルは思わずからかいたくなった。
「わたくしに知られたくない内容なのね。もしかすると、恋文かしら」
「あんた、その言葉の意味を知って使っているのか?」
ティガはいぶかしげにたずねた。
小説の題材として扱うには、あまりに前作の同工異曲《どうこういきょく》になってしまい、望ましいとは言えないが、それはそれとして、この人物にはけっこう好感がもてるかもしれないと、アデイルは考えた。
王宮へもどれば、それっきりになってしまう。そしてたぶん、二度と外歩きをする機会は与えられないのだ。アデイルは暮れの空に浮かぶ宮殿の塔を見つめ、そして決意した。
「ねえ、わたくし、行ってみたい場所が一つあったのだけど。手紙を届けてあげるかわりに、ちょっとだけ案内してもらえないかしら」
彼は目をぱちくりした。
「今さっきまで、帰ることしか考えていなかったくせに。どういう風の吹きまわしだ」
「気が変わったの」
アデイルはにっこりした。
「交換条件があれば、わたくしにも強みがあるもの。ルセルに手紙を届けるためには、あなたはわたくしをもう一度ここまで送ってきてくれるはずよ」
若者は肩をすくめた。
「てんで信用されていなかったな。まあ、かまわないけど……どこへ行きたいって?」
「御子神エルイエシスの礼拝堂。あなたは信者なのでしょう」
アデイルが答えると、彼はのけぞるくらい驚いた。
「なんだって。グラール人のあんたが、どうして御子を拝みたいんだ」
「信仰のない人が入ってはならない場所なら、外から見るだけでもかまわないわ。わたくし、できたら知ってみたいの――東方の人たちの信じるものを」
ティガはまじまじと少女の顔をながめた。
「びっくりするな。グラールにも、そんなことを考える人間がいるんだ。おれはまた、女神信仰の連中というのは、だれもが目をつりあげて異教を排斥《はいせき》するものだと思っていたよ」
「よくわからないわ。だからなの。わたくしには、見るのもふれるのも初めてなんだもの」
アデイルは正直なところを言った。自分に拒否反応があるかどうかは、ふれてみるまでわからないと思ったのだ。
「人の言うことで判断したくないの。自分の目で見たいのよ」
その率直さが、この若者には通じるようだった。アデイルの言い分に腹を立てることなく、かえって関心をもったように見返したのだ。
「ふうん。きみって、見た目とちょっとちがうんだな。ねえ、なんて名前?」
「教えない」
アデイルは言ってから、少し意地悪くほほえんだ。
「あなたみたいに、気の利いた名前を思いついたら教えることにするわ」
「言ってくれるじゃないか。おれの名前は偽名《ぎ めい》じゃないぜ」
ティガはアデイルの顔をのぞきこんだ。接近しすぎる気がして、アデイルは思わず一歩下がったが、彼は顔を寄せてほほえんだだけだった。
「きみってさ、むかし飼っていた金茶色の子猫を思い出すよ。ちびで小生意気で、どこでも鼻をつっこむのが好きで……ミーミと呼んでいた」
「ずいぶん、ひねりのない名前だわ」
「まあね。おれもガキだったから」
笑いながらティガは言った。
「よし、決めた。あんたをミーミと呼ぶことにする。今さら本名を名のっても覚えてやらないよ。おれにとって、あんたはミーミだからね」
アデイルはあっけにとられ、予測のできない反応をする人だと思った。こんなふうに決めつけられるのは初めてだった。だが、一番予想できなかったのは、あまり不快にならない自分だった。
「呼ぶ必要があるなら、そうして。『あんた』よりはましな気がするから」
「どうしてさ、これは親しみをこめた呼びかけだろう?」
どうやら本気で言っているようだった。もっとも、言葉に独特の抑揚《よくよう》があって、聞きなれてくると、ただの地方色に思えてくるものだった。
「いいわ、つれていってちょうだい」
アデイルが言うと、若者はひらりと向きを変えた。ティガのしぐさには天性のばねがあり、見ていて気持ちがいいことに、アデイルは気づいた。
「ああ、ついて来いよ。御子の聖堂は道一本向こうの通りにあるんだ」
三
路地裏は急に狭くなり、ごちゃごちゃした様子は、アデイルにメイアンジュリーの港近くの裏通りを思わせた。間口の狭い家々が並び、それらは店のようでもあるのだが、慣れない者には、売っているものも売っている人も得体《え たい》がしれない。道ばたに座りこんでいる人も、これまた何をしているのかよくわからなかった。
「きょろきょろするなよ。目立つから」
ティガに注意されて、そのとおりだと思い、アデイルは確認するのをやめにした。ティガは急ぐ様子もなく歩いていくのだが、先に立たせるとやけに足が速い。わき見をするひまはなく、ついていくには努力が必要だった。
しばらくして、ふとふり返ったティガは、アデイルがほおを染めて息を切らせているのを見て、びっくりした顔をした。
「どうかしたのかい」
「……速すぎるのよ」
ティガの表情はうそだろうと言っていた。
「あんた……もしかして、病弱とか?」
「だったら何なの?」
アデイルはくやしかったので言い返した。
「世の中にはいろいろな人がいていいはずよ」
「そりゃそうだ。それにしてもさ……なんなら御子神に願《がん》をかけておまいりするといいよ。ここの社《やしろ》の御子神は、健康や安全の祈願に訪れる人が多いんだ。おれも来るのは久々だけど、祈っていくのも悪くない気がするな」
ティガがそう言ったのは、聖堂がすでに目の前にあったからだった。裏通りがさらに別れる街角に、柱を赤く塗った、小ぶりな三角屋根の建物があり、その構えが独特だった。しかし、お堂は小さく、大勢が集会するようなスペースはない。
「前には大きな礼拝所もあったが、取り壊されたという話だよ。女神の信者に排斥されて、最近は風当たりが強いらしい……もっともおれたちは、仕事中は礼拝などにかまっていられない、不まじめな信者だから、これに関して大きなことは言えないがね」
聖堂を見まもるうちに、いくぶん息がととのったので、アデイルは赤い柱の入り口をめざした。壁を漆喰《しっくい》で塗った建物に入ると、堂内はややひんやりしている。そして薄暗く、ランプの炎が輝くばかりに明るく感じられた。人影は少なく、四、五人の参拝者を見かけるだけだ。作り物の木立のような金色の装飾品が立っていて、間をぬって奥へ進むと、やがて、奥の祭壇に本尊《ほんぞん》の立像が見えてきた。
アデイルは息をのんで彫像を見つめた。そこに男神の像を見ることが、自分にとってどのくらいショックだろうかと身構えていたものだが、目にしたものは、まったく予想に反するものだった。
それは木彫りの像を彩色したもので、立っているのは慈愛《じ あい》の女神に見まごう女神だった。ただ、黒いフードのある全身を覆うマントをまとい、その両腕にまるまるとした赤子を抱きかかえていた。
赤子は澄んだまなざしを天上に向けている。母なる女神は、首をかしげるようにして赤子を見つめ、美しい満ち足りた表情を浮かべていた。
(御子神の信仰は、こういうものだったの……)
大きく息をつくと、はりつめた気持ちがみるみるゆるむのを感じた。これは、アデイルに反発心を起こさせる異教ではなかった。見つめるうちに、彼女の心にも敬虔《けいけん》な感情がわきあがってくる、心に響く母子像だった。アストレイアは、御子を愛しておられるからこそ、地上にお遣《つか》わしになった。そして、愛しておられるからこそ、しもべたちを彼のために送ったのだ。だからこの世があるということが、すんなりと心に落ちてきた。アデイルは感動し、感動できることがうれしかった。
(……わたくし自身は、こうした母を知らない。グラール女王家の直系はだれも、こうした母を知らない。そのことが、アストレイア女神の教義のどこかに反映しているのかもしれないけれど、だからといって、この偶像《ぐうぞう》に祈りをささげる人たちの気持ちがわからないことはないわ。これもりっぱな女神信仰よ……)
祭壇に並んだいくつもの灯明《とうみょう》を見れば、ここでは小さな香油《こうゆ 》のランプを供《そな》えて祈願するものらしかった。そのランプは入り口近くで売っているが、アデイルはお金をもちあわせていない。しかたなく、手を合わせて祈るだけにした。
かたわらのティガを見やると、彼もなかなかまじめな顔つきで手を合わせ、母子像を見上げていた。へらへらするのをやめると、やっぱりどこかルーンに似ていると、アデイルはその横顔を盗み見ながら考えた。
アデイルは、ディー博士の弟子だった少年をそれほど知っているわけではない。彼と幼なじみのフィリエルは、ルーンはべつに無口ではないと言っていたが、アデイルの前では、たいてい無口で警戒心が強く、ときにはとりつくしまなく思える少年だった。
ここにいる若者の軽さや人なつっこい態度は、ルーンには逆立ちしてもできない芸当だ。けれども、祭壇の前に立ったティガは、またずいぶん様子が違って見えた。眉をかすかにひそめて母子像に見入る表情には、だれも寄せつけない、きびしく内に秘めたものがあった。
(不まじめな信者だと言っていたくせに……)
アデイルも、親しい人々の無事や自分のことなど祈ってみたが、ティガのほうがずっと長かった。どれほどの内容かはうかがい知れなかったが、この陽気な若者にも、祈らずにはいられない切実《せつじつ》さはあるのかもしれないと、アデイルは思った。
(……わたくしたちはみんな、あてなくさまようしもべであって、だれもが等しく苦痛の子なのだわ……)
聖堂を出て、しばらくしてからアデイルはたずねた。
「ルセル・エゼレットのことを祈っていたの?」
「まあ、それもあるけれど、いろいろとね。久しぶりだったものだからさ」
夕暮れ空の下に出てきたティガは、もとの調子をとりもどしていた。うって変わって気楽な口調で言った。
「他にはもう、行きたいところはないのかい? この際だからつれていってやるぜ」
アデイルは空を見上げ、もうこれからは暗くなるばかりだと判断した。街に興味は尽きなかったが、今日のところは無理な相談だった。
「もういいわ、これで帰ります。ルセルにわたしてあげるから、手紙をちょうだい」
「そうだった、手紙を書くんだったな。まてよ、すぐ用意するから……」
上着のあちこちをすばやく探ってから、ティガはアデイルの顔を見た。
「書くものを何かもっている?」
アデイルがかぶりをふると、若者は前髪のはえぎわをかいた。
「おれももっていないんだ。こりゃあ、ひとっ走りデリンの店へ行ってこないとだめだな」
「文房具屋さん?」
「いや、行きつけの飲み屋だけど、亭主のデリンは学があるのが自慢で、代書屋《だいしょや 》もひきうけているんだ。あそこへ行けばペンと紙がある。行ってくるよ」
ティガは駆け出しそうになったが、きゅっとかかとで止まり、ふり向いてたずねた。
「それとも、いっしょに来るかい? おれが手紙を書くあいだに飲み物くらいおごれるよ」
じつをいうとアデイルは、さっき息を切らせたこともあって、ひどくのどが渇いていた。この場所でティガの帰りを一人待つことを考えあわせると、その誘惑《ゆうわく》はしりぞけられなかった。
「それなら行くわ。手紙を書くあいだだけよ」
細い路地をさらにぬっていった先に、ティガの「行きつけの飲み屋」はあった。方向音痴のアデイルは、王宮のどちら側に出たのかわからなかったが、そこにもまた一つ大きな通りが横切っており、あたりの建物に宿屋らしきものが多いことはわかった。大きな厩舎《きゅうしゃ》が並んでおり、馬のにおいがする。
「ここは、あなたの住んでいるあたり?」
「うん――まあ、そうだな。アルスラットに長居するのはめずらしいが、今は、住んでいると言っていいかもな」
ティガは、奇妙なことを聞かれたような口ぶりで答えた。
「ふだんは、どこに住んでいるの?」
アデイルが重ねてたずねると、ティガはにやりと笑った。
「どこにも住んでいないのさ。売れっこの傭兵団には、仕事が終わればすぐ次のお呼びがかかるからね。いつも動いている。東から西へ、西から東へ、一年に二、三回は砂漠を横断している」
「それは――隊商の護衛なの?」
「たいていはね。たいていは、あいつらが一番金ばなれがいいんだ。けれども、雇《やと》い主が相場以上に支払う場合には、他にもいろいろと愉快な仕事があるよ」
ティガは言ったが、「愉快」の口調からして、逆説であるらしかった。報酬の高い仕事の中には、まっとうでないものがあるのだろうと、アデイルはぼんやり考えた。
それからアデイルは、目にしたものに釘づけになり、次に何を言おうとしたかわすれてしまった。アデイルが見たことのある大型のけものは、馬と牛と羊のみだが、そのどれでもないものが建物の庭先につながれていたのだ。御子エルイエシスの十二のけものに数えられていながら、名前しか知らなかったけもの。砂漠へ行ったらぜひ見たいと思っていた――
「あ、あれ、ラクダなの? ねえ、そうでしょう、ラクダでしょう」
小さな子どものように思われることはわかっていたが、叫ばずにいられなかった。数頭のラクダは明るい砂色や褐色をしていて、背中に大きなこぶがあった。首が長く弓なりで、牛のようにしずかに口を動かしており、先の割れた平たいひづめをもっている。
ラクダの鼻先はすぼまり、まんなかで切れ上がった上くちびるのために、笑っているように見えた。まつげが恐ろしく長く多く、その陰からこちらをうかがう瞳には静けさがある。驚嘆はしたものの、アデイルは用心して、触れるところまでは近寄らなかった。
「ラクダを見たことが一度もないって?」
ティガは笑った。
「一度乗ってみるといいよ。馬とはぜんぜん違うから。たしかに砂丘をわたるなら、馬よりラクダのほうがずっと便利だ。ラクダは三日間水を飲まなくても元気なんだよ。使役《し えき》しなければ、もっと長い間だって水なしでいられる。この差は大きいぜ」
砂漠で生活しなれた人間にふさわしく、ティガは言った。
「もっともおれたちは、それでも馬に乗るけれどね。馬のほうが機動力があるし、おれたちの仕事では迅速《じんそく》さがものをいうし、馬のほうが人と信頼関係を結べるからだ。ラクダは怠け者の乗り物だよ。ただ、中央砂漠を馬といっしょにわたりきる知識と技術は、そんじょそこいらのやつらはもっていないのさ」
「馬のほうが信頼できるの?」
めずらしそうにアデイルはたずねた。アデイルは、球技と同じくらい乗馬が苦手だった。大きな生き物は、どれでも同じくらい触れるのが怖いのだ。あまり深入りのできない話題である。
「いい馬をもっていることは、いい傭兵の第一条件だよ」
機嫌よくティガは答えた。
「もとでのいらない稼業とはいえ、馬だけは優秀でなくては。そしてこの、草にも水にもありつけない砂漠で、どれだけ馬の体調をととのえておけるかが技量の分かれ目なのさ」
めざすデリンの店は、建物と建物の壁のくぼみに建っていた。ひっこんだ奥の店内はすでに明かりを灯し、暗がりを黄色っぽい光で照らしている。狭い前庭の粗末なテーブルには、早くも一杯ひっかけにきた男たちが席をとっていた。
「よう、ちびトラ。どうした、女の子づれで」
「お安くないぞ、おやっさんの留守だと思って」
「おいおい、かたぎの女の子に手を出しやがったのか」
彼らは全員ティガを知っている様子で、さかんに声をかけてきた。どうやらそれらは冷やかしで、ティガは捨てぜりふで通り過ぎた。
「うるせえぞ、てめえら。鼻をつっこむのは酒びんだけにしな」
店の戸口をくぐると、ここもまた同じだった。店内で飲んでいた十数人の男たちは、だれもがティガを知っていて、入るなり満場の目がそそがれた。ティガも今は覚悟して、ドアを開けるなり挑戦的な目で見回したのだが、四方八方から声がかかるのをふせぎきれなかった。
「こりゃあ見ものだ。ちびトラが女の子をつれてきたぞ」
「いけないなあ、ティガ。小さい子に手を出すものじゃないよ」
「いや、よくお似合いだ。二人並ぶと、ひな遊びのお買い得商品のようだ」
「おい、ちびトラ、素行《そ こう》が悪いとおやっさんが首ねっこをつるしにくるぞ」
アデイルは、とんでもないところへ飛びこんでしまった気がして、少々心配になってきた。男たちには巨漢もいればやせた者もいるが、一様に荒くれた気配を発散させていた。むさくるしくて、がさつで、節度というものを知らない。
アデイルをながめる目つきには、むきつけの好奇心と好色さえあった。思わず体をすくめていると、ティガが彼らに一喝《いっかつ》した。
「やっかましい。この子はそんなのじゃない。たとえそうだとしても、だれがてめえらなどに披露《ひ ろう》するかよ。おれは忙しいんだ、がたがたいうな」
ティガの声はよく響き、店内の喧噪《けんそう》を一瞬しずめた。怒った猫のように緑の瞳を光らせた彼は、りっぱに荒くれの一人に見えた。男たちをにらみつけて、ティガはさらにすごんだ。
「この子は王宮の人間だ。丁重に扱わないやつがいたら、たたんでのして、砂漠の屍肉《し にく》あさりにくれちまうぞ。この子には、手紙をもっていってもらう重要な役目があるんだ。そこをどきな」
カウンターの奥から、片足の不自由な年配の男が進み出てきた。しょぼくれた半白のあご髭をはやし、やつれた顔つきをしているが、態度には落ち着きがあり、見たところ彼がこの店の亭主だった。
「ティガ、王宮のルセルに連絡をつけるつもりかね?」
若者は顔つきをやわらげて彼を見た。
「そうだよ、デリン。代書屋の道具をちょっとかしてくれよ。それから、大ジョッキを二つ。この子にはアルコール抜きを」
亭主は、顔をしかめてアデイルを見た。
「このお嬢ちゃんは、信用できるのかね」
「おれは信用することにした。このあいだよりは、うまくいくさ」
ティガの返事をきいて、アデイルは思わずたずねた。
「前にも、こうして手紙をわたそうとしたの?」
「おれたちは、だれ一人ルセルとゴーガーに会わせてもらえないんだ。彼らには見張りがついていて、伝言も通じない。これが王家の策謀《さくぼう》だったことに、ルセルは気づいていないんだ」
表情をかげらせてティガが言うと、デリンは間をおいてから、しずかに言った。
「いいや。わしはルセルが、わなを承知して行ったのだと思うね。彼は死ぬ覚悟を決めている。だからこそ、エゼレットと連絡をとろうとしないのだよ」
ティガは眉を寄せ、鋭い目で見やった。
「だとしたら、それが大ばかだということを、おれがわからせてやる。むだ死《じ》にになりそうだってことも、まだルセルは知っちゃいないんだ。なんとかして情報を届けなければ」
壁ぎわの席についていた男たちが、あっさりと追い立てられ、ランプの明かりがもってこられた。ティガの向かい側に座ったアデイルは、デリンが運んでくれた、大きなしろめの器の飲み物をすすってみた。氷で冷やすほど冷えてはいないが、心地よく冷たく、レモンとミントの風味がして、渇きをいやすにはもってこいだった。
けれどもアデイルは、ティガが手紙にしたためる内容が知りたくてうずうずしていたので、飲み物にも半ば上の空だった。ところがティガは、用箋《ようせん》にいくらか子どもっぽい字で「ルセルへ」と書いたきり、なかなか続けようとしないのだった。
カウンターの中から、デリンがからかい気味に声をかけた。
「代筆してやるかね、ティガ?」
「黙ってろよ。このくらい、自分で書かないでどうする」
いらいらしてティガは言い返した。ふだんは、ものを書くことなどめったにない生活を送っているのだろうと、アデイルは考えた。
「ねえ、書くことを頭のなかにまとめるには、口にしてみるのもいいものよ。ルセルがむだ死になるかもしれないって、どういうことなの?」
「帝国軍のフェイントだよ。エスクラドスが軍隊を遠征させたのは、カラドボルス王家の末裔《まつえい》をひねりつぶすことが目的じゃない。もちろん、それもできたらしたいところだろうが、ルセルが投降《とうこう》しなくたって、ブリギオンがトルバートと戦うことはないんだ」
若者は低い声で言った。アデイルは慎重にうなずいた。
「それで、あなたがたには、帝国軍の真の目的がわかっているというの?」
「おれたちには、砂漠を縦横《じゅうおう》に旅する同輩がいるんだ。その一人が情報を寄せてきた。帝国軍の本体は南下《なんか 》している」
「南下?」
アデイルは目をぱちくりした。砂漠の南には国などない。あるのは竜の生息する森だけだ。
「南下してどこへ行くというの?」
「さてね。とにかく、トルバート王家はこれを知っていながら、ルセルの拘留《こうりゅう》を長びかせているにちがいない。こうなると策謀のにおいがする。おれたちが何もできないうちに、彼は殺されてしまうかもしれない」
ティガはため息をついて、薄黄色の用箋を見つめた。アデイルは考えこんだ。
「そんな……彼の身柄を帝国軍から保護しているのが、トルバート王家ではなかったの? ルセルを殺して何になるの?」
「もうけがあると見れば、どうにでもなびく王家だよ。彼らはむしろ、西側との駆け引きにルセルを利用しているのかもしれない」
「西側――って、グラールのこと?」
やや憤慨して、アデイルは若者を見すえた。
「まさか、グラールの者がルセルを殺したがっていると言いたいのではないでしょうね」
ティガは小さく首をふった。
「きみは、御子神の社に祈ることのできる人間だから、これを教えもするんだが、東へ来るたいていのグラール人は、強硬《きょうこう》に異教徒の追放を唱えるのがふつうだぜ。東方の人間すべては改宗《かいしゅう》するべきだと思っている」
アデイルは息を吸いこんだ。
「そんなことないわ……それはふつうじゃないわ。グラールの女王陛下は、信仰する宗教にはずいぶん寛容《かんよう》なおかたよ。きびしく罰するのは、異端の研究だけよ」
しばらく少女を見つめてから、ティガはゆっくり言った。
「ふうん。そうだとしたら、おたくの女王様には辺境で行われていることが見えていないんだよ。見ないふりをしているだけかもしれないけれど」
* * *
「おねえさま。こちらよ、こちら」
いつのまにか、おねえさまが定着してしまったヴィンセントは、かるくため息をつきながらシェリル姫の後に続いた。無邪気で活発で、かわいいところのある王女なのだが、かなり甘やかされているらしく、自分の好きなことしか話さず、しようとせず、人の言うことはほとんど聞いていない。
シェリル姫の好きな話とは、自分がいかにグラールの風俗を知っているかで、たずねることはハイラグリオンの流行についてだった。相手をするのがいやではなかったが、聞きたい答えが少しも得られず、ヴィンセントは頭を痛めていた。
今、彼女たちは、シェリル姫の部屋から少し離れた回廊へ、二人で出向いているところだった。そこは画廊になっており、王女がリリセット王妃の肖像を見せると言ってきかなかったからだ。
軽い足どりで一枚の絵に駆け寄ったシェリル姫は、うれしそうに手をさしのべた。
「これよ、これ。ごらんになって。これが先々代王妃リリセット様の似姿。王家としてはつながっていないけれど、わたくしは、お母様のほうから血を受け継いでいるの」
ひどく様式化された絵だと、ヴィンセントは考えた。典型的美人に描かれていて、実際の王妃の容貌は知るべくもない。けれども王女はうっとりとした声で言った。
「おきれいなかたでしょう。わたくしの憧《あこが》れの人なの。それに、お召し物もすてき。わたくしも一人前になったら、これと同じガウンを着てみたいの。無理なことだとお思いになる?」
それは豪華な金と紫の衣装だったが、ヴィンセントの目には、なにぶんにも流行遅れだった。
「うーん。ちょっと重厚すぎて、今の時代につり合わないのではないでしょうか。姫様のお顔うつりを考えても、もう少し明るい色のほうが」
シェリル姫はしゅんとなった。
「そうよね。わたくしの髪は、こんなに暗い色なんですもの。王妃様のように金色だったらどんなにかよかったのに」
ヴィンセントは、なぐさめるためにほほえんだ。
「もって生まれた髪の色など、たいしたものではありませんよ。グラールにも、髪の色を抜いて金髪に仕立てる貴婦人はたくさんいます。よい染め粉がいろいろありますし、明るい髪に暗い瞳は、かえって魅力的と言われるようですよ」
「本当?」
シェリル姫はたちまち元気づいた。
「好きに色を変えていいなんて、今初めて知ったわ。本国のかたとお話してみるものねえ。おねえさまの薄茶色の髪もとってもすてきよ。そういう色にもできるものかしら」
少し困ってヴィンセントは答えた。
「できると思いますけれど。わたくしの髪は、それほど流行するものではありませんのよ。じつをいえば、わたくしは、あまり流行に縁のない育ちをしているのです」
「わかりますわ。おねえさまは、もっと高貴なかたですもの……だれにでもできるおしゃれをするかたではないのよ。わたくし、おねえさまのようになれるなら、こんなちっぽけな王家も惜しくありませんわ」
ようやく、とっかかりがめぐってきたようだった。ヴィンセントは、機を逸《いっ》さないようにすばやく口をはさんだ。
「わたくしが高貴だなどというおたわむれを、いったいどなたが姫様のお耳に入れたのでしょう。面妖《めんよう》なことですわ」
シェリル姫は、無邪気な黒い瞳を見開いた。それから、おもしろそうに言った。
「それもゲームの一つなのかしら。だったら、わたくしもそのようにお相手しますけれど。でも、聖堂でゲームをするのは不謹慎《ふ きんしん》ですわよね。アストレイア女神の御前で語られることに、偽りがあってはなりませんもの」
ヴィンセントははっとした。
「姫様は、聖堂でこのことをお聞きになったのですか?」
「だって、あなたがたが到着なさった夕べに、お見えになった司祭様が執《と》り行う、内輪の礼拝式があったでしょう」
小さな王女は疑うこともなく言った。
「礼拝の後にわたくしは、司祭様がお父様に話しているのをたまたま聞いたのよ。でも、お父様があれほど知らない顔をなさっているのだから、わたくしもしてはならないことだったのかしら。でも、それではお近づきになることができないじゃない。そうでしょう?」
(メリアデス司教……)
ヴィンセントは額を押さえた。それなら、あのでっぷりした司教は、初めから承知していたのだ。ヴィンセントがクレメンシア・ダキテーヌの娘であることを。彼女が、きゅうきゅうとして侍女のふりをしていることを――
(このままにしてはおけないわ……)
司教は長い道中、一貫して男爵夫人の一行を軽蔑《けいべつ》する面もちで、彼女たちとは距離をおき続けてきた。それは独身主義の教義をもつ聖職者の、誘惑をしりぞける態度だと思ってがまんしていたのだが、それだけではなかったのだ。
知られていたということは、ヴィンセントの誇り高さが許さなかった。じか談判せずにはおくまいと、彼女は決心した。
「シェリル姫様」
つとめて動揺のない声で、ヴィンセントは呼びかけた。
「そのお話を聞いていたら、わたくしも、アストレイア女神のおまいりがしたくなりました。王家の聖堂には、わたくしも一度うかがってみたいと思っていましたのよ。案内していただけるでしょうか」
これが気の向かないことだったら、王女はたのみなど聞いてくれないのだが、このときはシェリル姫の気まぐれ心も聖堂へ向いていたようだった。小さな王女はこくりとうなずいた。
「ええ、いいわ。あそこには、すてきにきれいな壁画《へきが 》があるのよ。わたくし、見せてあげたいわ」
聖堂は、グラール様式に特徴的な高い鋭角《えいかく》のアーチにそそり立ち、淡いピンクと水色に彩られていた。装飾的な置き物や吊《つ》り飾《かざ》りは銀に塗られ、これまたグラールらしさを有している。本国であれば、ここにステンドグラスの大窓があるところだが、日射しの強すぎるトルバートにあっては、かわりに神話をかたどった壁画が壁を占めていた。
王家の通用口からヴィンセントが進み出ると、慈愛の女神を擁《よう》した祭壇には、蜜《みつ》ろうのろうそくが惜しげもなくともり、隅々の銀の装飾を星の光めいて反射させている。そして、くゆる香炉《こうろ 》のきつい香りがただよっていた。
説教壇を下りた中央通路には、黒い祭服のメリアデス司教その人の姿があり、ヴィンセントが入ったそのときから、待ちかまえるようにこちら向きに立っていた。ヴィンセントはひるむことなく、ガウンを裾びきながら、異国風な絨毯《じゅうたん》をしいた通路をしっかりした足どりで進んだ。
「メリアデス司教」
こんなときでもなかったら、高圧的ともとれる口調でヴィンセントは切り出した。
「はっきりさせていただきます。あなたは、どういうおつもりでこのわたくしを笑いものにしていらっしゃるの?」
司教は、意外に思うほどうやうやしい調子で答えた。
「めっそうもございません。御身《おんみ 》を危険から遠ざけることこそが、身どもの意図したことでございます。ダキテーヌのご息女」
「その名を呼ばないで」
ヴィンセントは一つ大きく足を踏みならしたが、絨毯のせいで音はあまりたたなかった。
「わたくしに、納得がいくような説明をしてください。あなたは、なぜわたくしの身元をご存じだったのか。そして、なぜトルバート王家にその事実を流したのか」
「あなたは、まだたいそうお若くて、聖職者の家をつなぐ組織にお気づきではないらしい。われわれは、大貴族にまさるとも劣らぬ地下の連絡網をもつものです。ちなみに言えば、身どもをここへ遣わされたのは、メニエール猊下《げいか 》のご意志です」
司教の脂《あぶら》ぎって光る頭と顔を凝視《ぎょうし》しながら、ヴィンセントは一歩後ずさった。
「猊下……?」
「あなた様のご行状は、神聖なる猊下にはつつ抜けなのです。もちろん、母君のパルティシア様もご同様です。けれども、お二方は、ご息女のトルバート行きを一つの契機《けいき 》とご覧になったようです。そうでなければ、けっしてこのように意のままにされることはなかったでしょうな」
息がつまるような気がして、ヴィンセントは思わずガウンの胸を押さえた。
「わたくしは見逃されたと……そう言いたいのですか」
「当然です。東部一円およびトルバートは、われわれの手の内にある土地。それでいて、グラール女王の目の届くことのない土地ですから」
「われわれとは、だれのことです」
「ご存じでいらっしゃるものを。星女神のもっとも忠実なしもべ、それなのに、女王家に特権を独占されて、周辺にあることを余儀《よぎ》なくされている人々のことですよ」
かなり長い間黙ってから、ヴィンセントは口を開いた。
「……メニエール猊下が、グラール国女王位を望んでいらっしゃるというの? これらのことは、そういう意味あいなの? 宗教指導者と治世者は、今まではっきり分けてきたグラールなのに……」
「現在すでに分かれておりません。儀式のすべてをメニエール猊下が執り行い、枢密院会議でさえ、猊下のご意見を尊重するようになっています。平民の中には、猊下こそがアストレイアだと信じる者さえおります」
メリアデス司教の声は平静に響いた。
「国の周辺部、さらに小国家にとっては、見えない女王家よりも見える権威が尊いものです。コンスタンス陛下には後継ぎがおらず、彼女の治世下において女王家は形骸《けいがい》化しつつある。猊下は、グラール国の繁栄を維持するために決意なさったのです」
「後継ぎがいないだなんて」
ヴィンセントは、嫌悪を感じて声を高くした。
「しれしれとそんなことをどうして言えるのです。現に二人の女王候補が立って、堂々と女王の座をめざしているではありませんか」
「遅きに失しましたな、彼女らは」
眉を上げ、司教はヴィンセントの高ぶりをたしなめるように見やった。
「グラールの統治が、必ずしも女王家によって行われる必要のないことが、万人の目にさらされてしまった後に、やって来ても遅すぎますな。グラール国は、まやかしならぬ政教一致《せいきょういっち》をめざすべきであり、真の強国になるべきだと、聖職を得たわれわれは考えるのです」
女神に誓《ちか》いをたてるしぐさをして、メリアデス司教はおごそかにつけくわえた。
「それが、アストレイア女神の望まれる道なのです。教理《きょうり》に照らしてごらんに入れましょうか」
ヴィンセントがいくら弁がたつと言っても、本職の司教と教理問答を行ってかなうはずがなかった。頭をふって、彼女はもう一歩後ずさった。
「仮に……仮に、グラールが今以上に政教一致をめざすべきものだとします。それでも、初代女王クィーン・アンの設置した玉座につく人間は、その直系女子でなくてはならないはずです」
「なくてはならないとは、どなたの言葉でしょうか。聖典のどこにも、そのことは書かれておりません」
「国法があります」
「法律は、時の治世者が改変することのできるものです」
司教の口調は穏やかだった。親しみをこめた話し方だとさえ言えた。
「そして、ダキテーヌのご息女は、心の内に照らして、わずかな疑問もなくその言葉を信じているとおっしゃれますかな。ときには、なぜ傍系王族であっては女王位につくことができないのだろう、直系に限った女王家の、どこがそれほど優秀と言えるのだろうと、考えたことがおありではありませんかな」
ヴィンセントは顔をこわばらせ、司教をにらんだ。
「言質《げんち 》をとられるつもりはありませんわ。わたくしにそれを言わせて、どうするおつもり?」
司教は手を組み、悠々《ゆうゆう》と言った。
「じつを申せば、このトルバートへの旅で、ご息女にはそのことについてじっくり考えていただきたかったのですよ。聡明でおられるあなた様は、あらゆる場面で気づかれたはずです。女王候補になるなら、ご自分のほうがふさわしいと」
「何をおっしゃるの、あなたは――」
飛び上がって叫びかけてから、ヴィンセントはすっと青ざめた。
「……承知しているのね。わたくしの正体を知っているように、彼女の正体も……」
でっぷりした聖職者は、にこやかな笑みを浮かべてヴィンセントを見た。ヴィンセントは、じわじわとこの人物が恐ろしくなりはじめていた。硬い灰色の眉毛の下にある目は薄い灰色で、色がないように見え、笑っていても感情が浮かんでいない。
「身どもは、メニエール大僧正猊下じきじきのご意向でここへ旅してまいりました。アストレイア女神の信仰を高めるため、信仰の力を東方へ拡大するため。そして一方では、ダキテーヌのご息女の御身を安全にお守りするため……不注意な事故にあいやすい、軽率《けいそつ》な侍女と取り違えられないように」
ヴィンセントはさらに青ざめた。
「まさか、アデイルを……アデイルに、何をしようというのです」
「遅すぎますな」
メリアデス司教はあっさり言った。
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第三章 影をふむ姫君
一
「王宮では、もう晩餐《ばんさん》が始まっているにちがいないわ」
空には星がふるように輝いていた。ティガと道を歩きながらアデイルはこぼしたが、お腹が空《す》いてそう言っているわけではなかった。ティガの手紙が思った以上に時間のかかるものだったので、デリンがつまむものを出してくれたのだ。
練った小麦粉で、スパイスのきいた挽肉《ひきにく》と野菜をつつんで揚げた小料理だった。変わった風味がものめずらしく、アデイルはついひと皿たいらげてしまった。どちらかというと、早くも胸やけをおこしそうな気分である。
「マリー=ルルーが気をきかせて、わたくしの代わりをしてくれるといいけれど。それにしても、男爵夫人はかんかんでしょうね」
「切り抜ける方法、あるのかい?」
「笑ってごまかすのよ」
アデイルが元気をなくしていないのを知って、ティガは笑った。
「それが通用するとしたら、やさしいご主人に仕えているんだな。おれもゴーガーに、そんな手が通用するといいんだが」
「ゴーガーがあなたのご主人なの?」
「いや、父親がわりだ。げんこつにものを言わせて稼業をみっちりたたきこまれた。今はルセルに付き添っているが、岩石みたいな大男だ」
口調は軽いが、ティガの声音には誇るような響きがあった。
「ルセルもゴーガーも、エゼレットにとって失ってはならない人物だよ。ゴーガーに、ルセルをつれて王宮を出ろと言ってくれ。たとえ再び帝国軍に追われたって、おれたちには逃げ切る力があるって」
胸もとのかくしに手をやって、アデイルは託された手紙の手ざわりをたしかめた。帝国軍が南下しているという知らせに、どのくらい信憑性《しんぴょうせい》があるかさだかではないが、アデイルにとっても重要な情報だった。ヴィンセントの地図をもう一度よく見て、考えなくてはいけない。
「……それにしても、帝国軍が南へ行く理由がわからないわ。ブリギオンは、南方に新しい国でも築こうとしているのかしら」
少し考えて、ティガは言った。
「南へ行けば雨が大量に降り、砂漠がとぎれるのはたしかだよ。そのかわりに密林がはじまる……国をつくるのは、どう考えても至難《し なん》の技だな。密林の陰から、竜が襲いかかる」
アデイルは想像して、かすかに身ぶるいした。
「竜などというものがこの世にいなければ、みんなが幸せになれるのに」
「そうだな。竜さえいなければ、砂漠の南を回って、水に困らない東西ルートをつくることもできるのにな」
ティガは雑談以上の意味をこめなかったが、アデイルは考えこんだ。
(竜さえいなければ……)
竜退治の騎士は試練の旅に旅立たず、アデイルもここへ来ることはなかったのだ。それだけではなく、世界の様相も一変していただろう。東海岸はこれほど果てしない彼方《か な た》にあるとは思えず、多くの人々が、もっと気軽に行き来していたはずだ。
そして、どうなるのだろう。レアンドラが口にしていたような「活性化」がおこるのだろうか……彼女の口ぶりに従えば、それは大陸全土の規模をもつ帝国の勃興《ぼっこう》を意味するようだが。
アデイルのもの思いをよそに、ティガは快活にしゃべっていた。
「……砂漠にだって、種類は少ないが竜がいるんだぜ。一番手ごわいのは、サラマンドラといって真っ赤な角のある小型のやつだ。小さいと甘くみると毒にやられる。中央砂漠よりも周辺に多いから、旅が終わりかけてほっとしたころに、こいつに出くわすんだ。サラマンドラにやられないのが、傭兵の心得の一つでもあって――」
言葉の途中で、彼はいきなり口をつぐんだ。アデイルが不審に思って顔を上げたとき、黒い影が襲いかかるのが見えた。
王宮の門は、すでに前方に明かりを灯して見えている。だが、二人は大通りから向かってきたため、市場と違って、周囲に歩く人影はほとんどなかった。そんな通りの横道から、二人に体をぶつけるように走り出してきた人物がいたのだ。
ティガは身をかわしながらも腕を伸ばし、彼らはわずかにもつれあった。だが、次の瞬間、相手ははじかれるようにふっ飛んでいた。ティガが、強烈なひざ蹴《げ》りとかかと蹴りを立て続けに見舞ったためだ。問答無用の暴力にアデイルはあぜんとしたが、敷石に硬い音をたてて落ちたものに目をやれば、ぎらりと光る刃わたりの長いナイフだった。
「もの盗《と》りか? いや、そうじゃないようだな」
そのナイフをすばやく拾い上げながら、若者はつぶやいた。倒された男が体を丸めて後ずさると同時に、こんどは五、六人、似たような風体《ふうてい》の男が宵闇《よいやみ》のなかに現れた。だれもがズボンのすそを絞《しぼ》り、被りものの垂れ布で口もとを覆っている。
ティガは、男のナイフをむぞうさにアデイルにわたすと、自分自身の武器を抜いた。彼の大きすぎると見えた上着は、革帯に吊った短剣をその下に隠していた。
「ミーミ、衛兵のいるところまで走れ。こいつらはおれがひきつけておくから」
気が動転したアデイルには、それが自分にむかって言われたことだとは思えなかった。凶漢たちは、全員抜き身を手にして間をつめてくる。あまりのことに声も出ず、手も足も動かすことができない。
すべて夢のなかのできごとのようで、現実味をもって感じられなかった。星明かりを受けて閃《ひらめ》く、いくつもの白刃《はくじん》。振りかざされたその一つをティガが受け、胸もとをなぎ払った。さらにそのとなりの男を蹴りつけ、手首に斬《き》りつける。それでもアデイルが動けないのを見て、彼はかすかに舌打ちし、少女の腕をつかんで引き寄せた。
ティガにひきずられるようにして走っても、アデイルにはやっぱり、自分の手足のことだと思えなかった。握った刃物をふるうことなど、思いもおよばない。けれども、こうして男たちを突破しようとしたことは、そうとう無茶なことだったようだった。
二人はやすやすと回りこまれ、アデイルがあっと思ったときには、かざした刃が彼女の間近にあった。ティガは反射的に前に出たが、アデイルを押しやったぶんだけ対応が遅れた。
「ティガ!」
彼の袖が切り裂かれ、血が飛ぶのを見て、アデイルは初めてかん高い悲鳴を上げた。若者は一瞬体勢をくずしたが、つけいる隙を与える前に立ちなおった。踏みこもうとした男が、反撃にあわてて飛びすさる。とはいえ、傷ついたのはティガのきき腕だった。かまえなおした短剣の切っ先が、高さを保てず徐々に下がっていく。
もう、走って逃げることはかなわなかった。アデイルは若者に寄り添い、じりじりと寄る男たちにナイフをふりかざした。
「来ないで!」
(『窮鼠《きゅうそ》猫を噛む』という言葉がある……)
アデイルには、窮鼠が何なのかさっぱりわからなかったものの、本でこの言葉を学んでいた。と、いうのも、昔話にはよく出てくる幻獣なのだ。猫より小さくて、いつも猫にいじめられている生き物らしい。シンデレラのカボチャの馬車をひいたのは、たしかこの窮鼠のはずだった。
(わたくしには、爪のある猫ほどの力もない。それでも……やるときにはやるのよ)
しかし、決意が実を結んだかどうかは、永久にわからなくなった。アデイルが何をするよりも早く、周囲の男たちは地面にのびるか、傷をおって逃げ出したからだ。彼らに背後から襲いかかったのは、先ほどデリンの店で見かけた男たちだった。
その数は四人だったが、ティガに手こずったあげくの新手の出現に、暴漢たちは形勢不利と見たらしい。アデイルはおそまきながら、店にいた彼らも傭兵なのだと気がついた。たぶん、戦闘のプロなのだ。男たちはとことん闘おうとはせず、逃げられる者は逃げ去った。周囲で荒い息づかいが聞こえなくなったとき、ようやくアデイルは、助かったのだという実感がわいてきた。
「……後を追ってきてよかったようだな。じつは野暮《やぼ》とも考えたんだが。やられたのか、ちびトラ?」
傭兵の一人が、手をはたきながら近寄ってきた。ティガは、にがにがしげに笑った。
「傷は浅いよ。ちょっと、どじった」
別の男も言った。
「一人で多勢を相手にしたら、足を使うのが常識だぞ。囲まれるやつがあるか。女の子にいいところを見せたかったのか?」
もう一人は、倒れ伏した男をつま先でつっついていた。
「こいつら、どこの門下だ? おまえはまた、どこかの賭場《とば》でうらみを買ったのか」
ティガはため息をつき、押さえた右腕から血がしたたるのを見やった。
「おれにいちゃもんをつけたいやつは、ごまんといるだろうさ。いちいち覚えていられるか。ただ、こいつらは、ちょっと毛色がちがうな……」
アデイルはくちびるがふるえるのを感じたが、黙っているわけにはいかなかった。
「……ねらわれていたのは、わたくしです。今の男たち……ティガが庇《かば》ってくれて……」
「お嬢ちゃんが?」
傭兵たちが驚いて声をあげた。
「それなら、やっぱり、こいつがいいところを見せたかったんじゃないか」
アデイルは、ティガに堂々とあやまろうと思ったのだが、やっぱり泣くような声になってしまった。
「ごめんなさい……わたくしが、走れなかったばっかりに……」
ティガは、うつむく少女を見つめた。
「あんたには、襲われる心当たりがあるのかい?」
アデイルは首をふった。何かが起きていることはわかったが、どういうたぐいの刺客《し かく》かは思い浮かばなかった。
「そういうことなら、王宮へもどるのはやめたほうがいいな。何者か、かなり徹底してあんたに死んでもらいたいやつがいる」
アデイルはびっくりして顔を上げた。
「でも、だめだわ、帰らないと……」
ティガは、ふいに一番体の大きな男に声をかけた。
「サイラス……ちょっと来て肩をかしてくれよ」
「おいおい、浅い傷だと言ったじゃないか」
「浅いが、刃に毒がぬってある」
ティガの言葉に、その場の全員が氷水を浴びせられたような面もちになった。サイラスがあわてて飛んでいくと同時に、若者はずるずるとくずおれた。
アデイルは二度目の悲鳴をなんとか噛み殺し、そばへ駆け寄った。間近に見るとティガの顔はこわばり、額にたくさんの汗を浮かべて、ふるえるような呼吸をしていた。
「わたくし、どうしたら……」
「わかっただろう。あんたはいろいろととろいから、王宮内だといちころだよ」
苦しげな息を一瞬しずめて、ティガはにやりとした。泣くまいとしていたアデイルだったが、もう抑えきれなかった。
「ティガ、死なないで。こんなことで、死んではいやです……」
「おれなら大丈夫。あれこれ耐性つけているし、傭兵隊にはいい解毒剤《げ どくざい》もある……かすったのが、あんたでなくてよかったよ……」
彼の声はだんだん小さくなり、目を閉じてしまった。サイラスは手足の力の抜けたティガを軽々とかかえあげ、後の者に言った。
「毒に詳しいといえばデリンだ。急いで店へつれていこう。お嬢ちゃんもいっしょについておいで。ちびトラのしたことを、無にすることはないやね」
アデイルは、デリンの店へ逆もどりすることを何とも思わなかった。ティガが死ぬと思うと心臓がつぶれそうで、じつのところ他のことは一時忘れたと言ってよかった。
飲み屋の亭主は、人事不省《じんじ ふ せい》のティガが運びこまれても、険しいしわをつくっただけで、動じた様子は見せなかった。そうとう場慣れした人間であるらしかった。てきぱきと屋根裏の部屋に案内すると、狭い寝台に若者を寝かせ、脈をとり、周囲が腫《は》れはじめた二の腕の傷をしらべた。
「……いきがって、六人を一人で相手してこの傷をつくっただと。あほうにもほどがある。自分を何だと思っておるやら、超人トートかね」
デリンはつぶやくと、ついてきた面々を渋面《じゅうめん》でふり返った。
「……で、とにかく、こやつの体に入った毒物の特定が必要だ。卑怯《ひきょう》な連中が毒をぬったという刃物を、だれか持ち帰ってきただろうね?」
男たちがぎょっとして顔を見合わせるあいだに、アデイルは進み出てナイフをさしだした。必要だと意識したわけではなく、ただ捨てることができずに持っていただけだが、ティガにわたされたナイフを、彼女は今も握りしめていたのだ。
少女の顔を見て、デリンはいくらか表情をやわらげた。
「お嬢ちゃんか……あんたには、けがはなかったのかね?」
アデイルはうなずいた。夢中で逃げたとき、石壁でこすってすり傷をこしらえていたが、アデイルの目から見ても、これはけがのうちに入らなかった。
「ティガは……助かります? いい解毒剤があるって、彼は言ったんですけど……」
「いきがっとるのはたしかなようだな。しかし、お嬢ちゃん、そんな顔をしなくてもいいよ。ティガが耐性をもっていなければ、今ごろ呼吸困難でとっくにおだぶつだ。こやつはゴーガーに鍛《きた》えられている。それに、あんたが気をきかせてくれたおかげで、回復薬も的確に処方できそうだよ」
「本当に……?」
「信用できないなら、こやつがよくなるまで、そばにいてやりなさい。あんたも命をねらわれているという話じゃないか。この店ならかまわんよ……ティガが信用すると言った人物を、わしは信用するからね」
デリンはそう言うと、アデイル以外の付き添いを階下へ追い払ってしまった。そして、自分は片足をひきずって隣室へ行き、手に入れたナイフを用いて、刃を溶液にひたしてみたり、火であぶってみたりと、あれこれ試みはじめた。
アデイルは、ティガから目を離すことができなかった。彼はやっとという様子で息をしていて、いつ止めてしまうかと心配でならなかったのだ。かすかに胸が上下するほかは、身じろぎ一つせずに横たわっている。何度も手をかざして、呼吸がかよっているかどうか確かめずにいられなかった。
やがて、デリンが薬をもってもどってきた。嚥下《えんか 》しようとしないティガをあおのかせ、二人がかりでさんざん苦労して飲ませてから、デリンが言った。
「解毒がはじまると、たぶん高熱がでるだろう。それさえのりきればティガは助かる。看病してやってくれるね。洗った布はそこの長びつに入っているし、水は裏口の外の水がめで汲《く》むといい」
もちろん看病もだが、たんに水を汲むことさえ、アデイルにとっては生まれて初めての体験だった。けれども、今は役に立ちたいという願いのほうが強かった。足の不自由なデリンを見てはなおさらだ。
裏口を探して階段を下りていったアデイルは、夜がこれほど更《ふ》けたというのに、店内にぎっしり人がいることに気づいてびっくりした。小さなランプを残して明かりの消えた店内に、男たちはまるで、亭主が注文を取るのを待っているように辛抱強く居残っていた。
アデイルの姿を見ると、数人が飛びかかるように腰を浮かせたので、彼女は思わず後ずさった。けれども彼らを制して近づいてきたのは、先ほどアデイルたちを助けてくれた一人であることがわかった。ひきしまった体つきをして、額に向こう傷のある男だ。
「怖がりなさんなよ。おれたちはティガの容態が知りたいだけだ。あいつは死なないだろう?」
「……デリンが薬を飲ませたわ。あとは、様子を見ないと」
アデイルがささやき声で答えると、相手はうなずいた。
「それならいい。解毒がまにあうなら、なんとかなるだろう。だが、デリンが知らない毒だってこの世にはあるからな。とにかく、ちびトラがここまで汚いやり口にかかったとあっては、おれたちはこのまま黙っちゃいないぜ」
その声にあまりにすごみがあったので、彼が手をさしだしたとき、アデイルは一瞬自分が報復されるのかと思った。けれども、違ったようだった。
「手紙をまだもっているだろう、お嬢ちゃん。こちらにわたしなよ。荒っぽい手段に出てよけりゃ、おれたちにだって届ける方法はあるんだ」
たしかに、ティガのルセルへの手紙はアデイルのかくしに入っていた。アデイルは手にとったが、わたす前に一応たずねた。
「……荒っぽい手段って?」
「おれたちはふだん、むやみやたらに死人やけが人をつくらない主義だ。けれども、やられたらやり返すのが鉄則でね。ルセルとゴーガーが軟禁されていることには、かなり前から頭にきていたが、ティガまでこういうことになったからには、今後は実力行使だ」
アデイルは、言いにくくて口ごもった。
「でも……あの男たちは、ティガをねらったわけではなかったのよ……」
「それが事実かどうかは、今、当人に直接聞いているから、じきに判明する」
アデイルはめんくらってから、ようやく思い出した。乱闘の場に倒れ伏していた男がいたのだった。
「あの人、死んではいなかったの?」
「死人は、口をきいてほしくないときにつくるものだよ」
向こう傷の男は、ゆで卵は生卵をゆでてつくると言っているように、一般常識だという口ぶりをした。捕らえた男にどんな聞き方をしているか、想像ができそうな気がしたが、ティガが死にかけている状況下では、アデイルも気の毒に思う余裕はなかった。
「……だれが彼らをやとったか、わかったらわたくしにも教えてくださる?」
アデイルが小声ながらも鋭く言うと、男はにやりとした。
「ああ、いいとも。あんたがちびトラの看病をしてくれるなら、なんだって献上するね。やとったやつがどこのだれだったとしても、今は、あんたの敵がおれたちの敵にもなったんだ」
ティガは未明に麻痺《まひ》から脱して目を開けたが、そのときにはすでに熱が高く、鼻先まで顔を寄せたデリンもアデイルも、見分けることができなかった。それからは、さかんにうめいたりうわごとを言う、騒がしい病人になった。
この高熱が長びくと、命をとりとめても廃人《はいじん》になるとデリンが陰気に言うので、アデイルは気が気ではなかった。ティガがわけのわからないことを口走って飛び起きようとするために、アデイルとデリンは横になることもできなかった。
やがて、ようやくティガが安定した眠りに入ったのは、翌日も日が高くなってからだった。そのころにはアデイルも、ベッドの足もとに座り伏せの状態で寝入っていた。下の水がめが空になるほど水を運び、布をしぼって病人の額を冷やし、突拍子もないことを言う彼をなだめながら、枕に押さえつけてきたのだった。
小麦色の乱れ髪のかかる寝顔にほほえんでから、デリンは、重い足を苦労してはこびながら階下へ下りていった。片足の不自由な亭主を、向こう傷のある男ジェストがむかえた。
「どうだ?」
「とうげを越えたよ」
「上出来だ」
短いやりとりだったが、気心のしれた同士の分かちあいがこもっていた。二人はつかのま、相手の安堵《あんど 》のなかに無言で身をひたした。
「……ときに、小さいお嬢ちゃんはどうしている?」
「疲れて寝ている。いや、いいもんだな……わしも、女の子を二、三人つくっておくべきだったよ」
「どこかの女の腹にはいたんじゃないか? 足を悪くする前はお盛んだったと聞いているぞ」
軽口をたたいてから、ジェストは表情をあらためた。
「それなら、目が覚めたらお嬢ちゃんにも伝えてくれよ。あの子を襲った連中は、グラール人かグラールかぶれのアストレイア信者だ。数年前から、エルイエシス信教の指導者をつぎつぎ殺している、あの手合いだよ」
「口をわったのかね?」
デリンがたずねると、彼は首をふった。
「いや、女の子とそのつれをねらったことは認めたが、雇い主はとうとう吐かなかったね。日銭《ひ ぜに》で請《う》け負うたぐいじゃないと目星をつけたから、隙をつくったふりで逃がして、そっと後をつけたのさ。案の定、王宮の女神礼拝堂へ入っていった。子飼いの暗殺団ってわけだ」
デリンはちらりと階段を見上げた。
「あのお嬢ちゃんも西方人……かなり身分の高い家の子だ。言葉つきと手先を見ればわかる。こりゃ、大国内部の争いかね」
「詳しいことはわからんが、遅かれ早かれエゼレットと衝突する連中だろうよ。それから、朝になって、市場通りの横丁で女の死体が見つかった。尋問したやつが口にしていた、お嬢ちゃんの最初のおつれらしい。警邏《けいら 》隊《たい》が運んでいったが、そこらの女より身なりがよかったから、どうやらたしかだな」
「口封じか。気の毒に」
「ああ、気にくわねえ。女を簡単にやっちまうやつらは許せん」
ジェストは、もったいなかったとか何とかぶつぶつつぶやいていた。
アデイルが別室のベッドで寝なおし、数時間して起きてくると、ティガは目を覚ましていた。そして、デリンが慎重に、彼の頭や記憶がさだかかどうか質問すると、ばかにしたような目つきで見やった。どうやら、もとのティガだった。
「おれは、それほど前後不覚だったわけじゃないぞ。ときどきは周りの声も聞こえたし、ミーミがそばについていたのもわかった。ただ、体を動かせなかっただけでさ」
熱にうかされての大騒ぎは、さっぱり覚えていないようだった。デリンはむっとして言った。
「九死に一生を得たやつは、もっとしおらしくせんかい、まったく。まだ熱が下がりきったわけじゃないから、当分おとなしく寝ているんだぞ。わしとお嬢ちゃんは下で食事をしてくるが、起きようなどと思ったら、ベッドにくくりつけるからな」
ティガはうらめしそうな顔になった。
「えー、目が覚めたとたんに一人にすることないじゃないか」
「おまえのようなのについていると、看護人のほうが病気になる。わしらの食事が先だ」
デリンにうながされるまま、階下へ下りたアデイルだったが、彼が特別な意図をもって下へ呼んだことに、すぐ気がついた。デリンは、奇妙に静かな口調でたずねたのだ。
「お嬢ちゃんが、どのくらい肝《きも》がすわっているものか、わしにはまだ見抜けんのだが、わしの話を、食べる前に聞くかね、食べた後に聞くかね」
不吉な内容だということは、口ぶりで明らかだった。アデイルには、食べた後に聞くと答える度胸はなかったが、こうした前おきがあったおかげで、ジェストの伝言を最後まで取り乱さずに聞くことはできた。
「……思うんだが」
デリンは言葉を続けた。
「わざわざ殺し屋が動くのは要人の暗殺であって、一介の女の子のためとは考えにくい。あんたは、その見かけよりも重要人物なのではないかい?」
アデイルはしばらく答えなかったが、ついにはううつむいて言った。
「今は……聞かないでください。かくまっていただいて、言うのは心苦しいのですけれど、知っていただかないほうがいいんです。わたくしが死んだときを考えても……」
「そうかね」
デリンはため息をついたが、それ以上は追及しなかった。アデイルは湯気をたてているスープとパンを勇敢に見つめたが、やはり、口にすることはできなかった。じっとしていてもしかたないので、ティガに運んでやることにする。体は機械的にお盆を運んだが、心の中には叫びがうずまいていた。
(アメリアが、わたくしのせいで……わたくしがわがままを言って、つれだしたばかりに……)
聖堂関係者が暗殺に手を染めていたことは、心のどこかで、なるほどと思うものごとだった。予期していたわけではないが、うなずけるところがあった。だが、今はそれを憎むよりも、素性を隠せると安易に考えていた自分をのろいたかった。
聖職者たちが、貴族に負けずに情報網を操作していることに、気づいていなければならなかったのだ。彼女のうかつさが、罪のない人間を死に追いやった。ほんのわずかなかかわりだったのに、アデイルをひきうけたばかりに、アメリアは意味もなく横死《おうし 》をとげねばならなかったのだ。
そっと屋根裏部屋に上がると、ティガはいくぶんぼんやりしていた。緑の瞳にはまだ生彩がなく、やはり熱のある顔つきだった。お盆をちらりと見やってから、彼は気がなさそうに顔をそらせた。
「まだ食いたくないな。なんたって動いていないだろう?」
「それなら、おいておくわ」
自分自身が食べられないものを、無理にすすめる気はなかったので、アデイルはわきにあるテーブルに、ぎこちない手つきで盆をのせた。彼女が椅子に腰をおろすと、ティガは天井を見つめてつぶやくように言った。
「……夢を見たことを思い出したよ。アルスラットの宮殿が燃えている夢を見たんだ。炎が窓から吹き出して、黒い煙が暗い夜空に……あれは、それとも記憶なのかな……」
「あなたは明け方に、『燃えている』って何度も叫んだのよ。『逃げろ』とも」
アデイルが言うと、ティガは目をしばたたいた。
「そうか? ああ、そういえば、あんたがまだ炎の中にいると思ったんだ。それとも、あれは子猫のミーミのほうだったのか……おれはまだ、人にかかえられるようなガキだったから、ミーミを手から放してしまったんだ……」
夢の光景が天井裏に映っているかのように、彼は上空に見入った。
「……おれを抱いた人の顔が、もう少しで浮かびそうになるが、いつもだめなんだ。金茶の縞《しま》のあるミーミばかりを覚えている。ぼんやり浮かんだ女の人の顔立ちを無理して思い描くと、いつのまにか、御子神を抱いた女神の顔になっちまうんだな、これが」
ティガはふとアデイルを見やり、表情を変えた。
「どうしたんだい、泣いているの?」
「いいえ」
アデイルは反射的に答えた。
「……わたくし、|極 力《きょくりょく》泣かないことにしているの。泣いたらきりがないし、わたくしが泣くと十二歳に見られることはわかっているし」
「きのう、泣いていたよ」
「それは、あなたが死ぬかと思ったからよ。自分のために泣いたのではないわ」
ティガは、何を思ったか変な提案をした。
「おれが生きているから、泣いてみるのはどう?」
「ばかを言わないで。死んだ人がいるのよ」
「だったら、もっと泣いてもいいじゃないか」
アデイルは、病みあがりの人間に悲しみをぶつけるのは非常識だとわきまえていた。泣くなら席をはずすべきだった。そのはずだったのに、椅子から立ち上がることができなかった。ひざの上で握りしめた手の甲に、ぱたぱたと涙がこぼれおちた。
「わたくし……生まれてこなければよかった」
ティガはしばらく黙っていたが、やがて、ごく静かにたずねた。
「だれが死んだ?」
「市へつれていってくれた人……」
アメリアが死に、ティガが死にかけた。全部自分が悪いのだと、打ちのめされたアデイルは考えた――聖職者の造反も、ロウランド家の危機も、ユーシスが死地へおもむいたのも、すべてだ。
「どうして生まれてきたのかしら。どこへ行こうと、何をしようと、わたくしは争いや闘いの種にしかならないのに……そういうものはきらいだと、口で言うだけむなしいのに……」
肩をふるわせる少女をじっと見つめてから、ティガは口を開いた。
「死にたいとなんか思っちゃいけないよ。そうしたら、あんたは負債《ふ さい》をおうことになる。あんたのせいで死んだ人がいるなら、その人に悪いと思うなら、そのぶん岩にかじりついても生きなきゃ」
生還《せいかん》したばかりの彼が言うだけに、「岩にかじりついても」という言いまわしには真実味があった。アデイルが黙っていると、ティガは考え考え言葉をついだ。
「……そりゃ、生きている意味などわからないけどさ。生きるために闘うことは恥じゃないよ。あんたのために争う人間がいるってことは、あんたのために生きる人間がいるということだろう。それなら、彼らに応えて闘うのも悪くはないさ。おれたちの流儀《りゅうぎ》なら……死ぬときには刀折れ矢尽きてから死ねって言うよ」
二
晩餐の時刻になっても、アデイルとアメリアは王宮へもどってこなかった。晩餐が終わっても、彼女たちの姿はどこにも見えなかった。
この時点で、男爵夫人ことセシリアは何かがあったと判断し、警護《けいご 》の兵士に捜索を願い出ていたが、彼らからもはかばかしい報告がないまま、刻々と夜は更けていった。
ヴィンセントは、メリアデス司教との会話をセシリアに打ち明ける勇気がなかった。司教の言葉はほのめかしにすぎず、早合点と言われればそれまでだったし、確証がなければ軽率に口にできないほど、空恐ろしい内容でもあった。
けれども、事実アデイルは帰ってこなかった。夜半になって、いてもたってもいられなくなったセシリアは、服を着替えてどこかへ出ていった。一人、部屋に残されたヴィンセントは、いちおうベッドに横になってみたが、とても寝つかれるものではなかった。
(わたくしは……このわたくしは、いったい何をしているのだろう。アデイルに加勢して、彼女をここへつれてきたわたくしは……じつは陰謀の一端をになっていたの……?)
ヴィンセントは、生まれ育ったハイラグリオンの丘の大聖堂を思い起こした。空高くそびえる鐘楼《しょうろう》。中央の白い巨大アーチを中心に、音楽的調和を見せていくつものアーチがつらなる礼拝堂のたたずまい。内に立って、入り日に輝く薔薇《ばら》窓の明かりで堂内を見わたせば、人々を楽園へいざなう光の天使の、あるは舞い、あるはたたずむ姿が、虹の色にくるめいて栄光を歌いだす。
聖堂の壁をパイプで埋める風琴《ふうきん》が、厳粛《げんしゅく》さの基調を絶えずかなでていた。荘厳をきわめる色彩と音色。この世ならぬ救済を示す、僧侶の祭服のきらびやかさ。よしあしを論じるより前に、そこで祈り、そこで唱和して、ヴィンセントは大きくなっていた。大陸全土の女神信教の頂点に立つ、信仰の殿堂《でんどう》。セシリアが語ったように、巡礼をしてここへ詣《もう》でることを生涯の意義とする人々は、けっして少なくはないのだ。
(メニエール猊下《げいか 》が大僧正にお就きになったのは、たしかわたくしが三歳のときだ……)
後から聞いた話では、猊下の従姉妹にあたるヴィンセントの母パルティシアも、女子修道院にいたころは、いっしょに頂点をめざしたらしい。けれども道は分かたれ、パルティシアは傍系王族筋の公爵と、長続きのしない結婚をした。
一方で、すべての聖職者の上に立つ教主となったメニエール猊下は、年々衆人の前に立つことのなくなったコンスタンス陛下に代わり、儀式のすべてを取りしきり、国政に関与するまでになっている。信者の寄進《き しん》による彼女の財力、支持層の厚さをもってすれば、周辺の人々が彼女を女王と見なしたとしても、それほど解《げ》せないことではなかった。
(……猊下の世代の女王候補は、どなたも玉座をお継ぎにならなかった。飛び越えて娘の世代のアデイルたちが、女王候補として抜擢《ばってき》されることを、猊下が快く思われなかったとしてもおかしくはない。ただ、だれも考えてはみなかったのだ……)
星女神の第一のしもべたる彼女が、女王の玉座に野心をもつものと考えてはみなかった。たとえ猊下が輝く昼の太陽に見え、女王陛下がおぼろな夜の月に見えたとしても、そこには確たる一線が引かれていたのだ。メニエール猊下がその一線をふみこえる決心をするとしたら、これは、グラールの歴史を塗りかえるにふさわしいふるまいだった。
枕に顔を押しつけながら、ヴィンセントは権力について考えてみた。聖職にあろうとなかろうと、それが目の前にぶらさがっていたら、得たいと思わない人間がいるだろうか。自分、ヴィンセントも、権力がほしくて動いている人間ではないだろうか……
(信仰にすがって生きることしかできないお母様を、敗残者《はいざんしゃ》だと思っていた……わたくしは、決してああはなるまいと思っていた。昔から、リリセット王妃の逸話《いつわ 》にひかれたのも、外国へ来たかったのも、だからだったのだ……)
もんもんとして身を起こしたヴィンセントは、再び空のベッドをながめた。アデイルは帰ってこない――きゃしゃな体に愛くるしく波うつ髪をして、おっとりと笑う少女は。はかなげに見えるくせに、筆を取れば容赦なくしたたかな文章を書く、トーラス生《は》えぬきの少女は。
女学校でのアデイルは、それほど学科の成績のよい生徒ではなかったが、彼女の鋭い直感とユニークな発想力を、頭のよさと見なして疑う者はいなかった。アデイルに今回の策謀の裏を知る余裕があったとき、彼女は、友人もまた策謀者の一味だったと見なすだろうかと、ヴィンセントは考えた。
(そう見えないはずはない……わたくしは猊下の血族なのだもの。そしてわたくしの行動は、アデイルをトルバートへおびきだすこと以外の何ものでもなかったのだもの……)
何も知らなかったはずだった。けれども、これは、どこにも証明されないものごとだった。ヴィンセントは、身の潔白《けっぱく》を弁じる自分をあれこれ想像しながらも、自信がなくなってきた。
それは、言い訳がたたないだけではなかった。下心の一つもなくトルバートへやってきたと、自分は星女神に言明《げんめい》できるのだろうか。たとえ明確な意識にのぼることはなかったにしろ、こうした事態を、ほんのわずかも懸念しなかったと心の底から言えるのだろうか。
(メリアデス司教が口にしたことなど、毛頭考えたことがないと、わたくしはアデイルの目を見て言うことができるのだろうか……)
一睡もしないうちに外が明るくなり、庭園の小鳥が生気に満ちた声でさえずりはじめた。ヴィンセントは、焦点のさだまらない瞳で庭園を見つめたまま、放心して椅子にもたれていたが、かなりしてから、案内を乞う声が聞こえることに気がついた。
「はい……」
ようやくのことで、自分は侍女だったことを思い出し、ヴィンセントはあわてて立ち上がった。
扉を開けて顔をあわせたのは、まったく見知らぬ女官だった。アメリアでも、アデイルでも、セシリアでさえなかった。落胆をなんとか隠そうとつとめながら、ヴィンセントは言った。
「申しわけありませんが、男爵夫人はご不在です。ゆうべから所用あってお出かけになり……」
「けっこうです。わたくしが伝言を伝えにまいりましたのは、あなた様ですから」
牝牛《め うし》のような目をした、体格のいい女官は言った。
「シャルド国王陛下が、朝食の席をともにどうかと仰《おお》せでございます。王女殿下がたいそうご希望だとか。陛下におかれては、お小さいかたを喜ばせてくださったことに、感謝の意を表したいとお伝えするよう命じられました」
如才《じょさい》のない社交場である晩餐の会場とは異なり、朝食のテーブルは、王家といえども私的な空間におかれるのがふつうだった。国王の朝食に招かれるということは、公式ではなく、個人の知人として歓迎されることを意味している。本来なら、主人をさしおいて侍女に案内が来るはずもないのだが、今回のことにトルバート王家が一枚かんでいるとすれば、話は別だった。それらのことを忙しく考えあわせてから、ヴィンセントは答えた。
「つつしんでお招きにあずかります」
「それでは、今から一時間後にお迎えにあがります」
ヴィンセントは水浴びをすませ、昼用にデザインしたドレスのなかで、一番上等そうなのを選んで身につけた。この際、侍女らしくとは考えなかった。鏡の前で髪をととのえながら、ヴィンセントは、なんとかセシリアがまにあうように帰ってこないかと願った。もしも帰ってきたなら、いっさいがっさいを彼女に打ち明けるつもりだった。
けれども、とうとうセシリアはもどってこなかった。先の女官が言葉どおりに姿を現し、ヴィンセントを王家の私室へと導いていった。
東に向いた明るい部屋は、白と薄青に塗られ、調度の品もグラール風だった。窓の外の景色と、卓上の見慣れない花とくだものだけが、ここが遠い異国であることを示している。
「おねえさま、こちらよ。どうぞ隣りにお座りになって」
すでにテーブルについていたシェリル姫が、元気よく手で招いた。にこやかに朝のあいさつをしたヴィンセントは、自分よりも王に近い席にメリアデス司教がついていることに気がついた。
司教はヴィンセントを認めたが、わずかに目礼しただけで他の人々との話を続けた。ヴィンセントはすばやく顔ぶれを見回したが、王家の家族のほかには四、五名が加わっているにすぎなかった。見たところトルバートの貴族のみで、コードウェル書記官もいなければルセル・エゼレットもいない。
やがて、シャルド王が姿を現して彼の席につき、朝食がなごやかにはじまった。ヴィンセントは寝不足でこめかみがずきずきしており、食欲がなかったが、果物のジュースはありがたかった。
黒髭のシャルド王には権高《けんだか》なところがなく、なかなかにさばけた人物で、食卓の会話も活発だった。貴族も商人であるこの国だけに、内容も商業の話題が中心だ。どこの何が品質がよいとか、供給過多だとか、アイデアで利潤《りじゅん》を得た商人の話など。
これらは、メリアデス司教にとっては管轄《かんかつ》外の話であるはずだが、司教は意外に熱心に耳をかたむけ、ときには話に加わってもいた。ことによると、彼も隊商の出資者なのかもしれない。聖職者に対する思いこみがまた一つ壊れたと、ヴィンセントは考えた。
貴族の一人がふいに言った。
「王よ、南のエルロイを通過する軍隊の話を、うちわで耳にはさんだのですが。今度南にわたる一隊は、警護を増強させるべきでしょうか」
シャルド王は、気のない様子で手をふった。
「あ、それは問題ありません。すでに協定ができています。彼らは通り過ぎるだけですよ。もっとも、エルロイで商売するなら注意は必要ですね」
「儲けのわりに、危険な相手ですな。軍隊は」
(南のエルロイ? 通り過ぎる……帝国軍?)
ヴィンセントは首をかしげたが、意味がわからなかった。なおも耳をかたむけていると、彼らは帝国相手の商売について、いろいろぐちを言いはじめた。シャルド王はちらりと司教を見て、口調はにこやかに言った。
「われわれが苦労して東の相手をするのも、あと少しグラールの関税が低ければ、なくてすむものごとですね」
「それはいずれ……」
司教もにっこりと答えた。
「同様に星女神を信仰する兄弟国に、敷居を高くもうけるのは恥ずかしいことです。ぜひとも撤廃《てっぱい》するべきと、ともどもに考えておりますから」
(あきれた……まるで、この人が国代表の外交官のようだわ。コードウェル書記官は、どこで何をしているのかしら……)
ヴィンセントはくちびるをかんだが、たぶん、このことはグラール政府も知らないのだろうと思った。王宮から伸ばした腕よりも、もっと深いところに聖堂関係者が入りこんでいることは。
シャルド王はテーブルの上でかるく手を組んだ。
「それは、いつのことになりましょうかな。つまりわが国はいつまで、かの人物を宮殿にとどめることに?」
「問題は片づきかけています。もう、ほとんどは。これさえすめば、そちらの事情で処理してくださってけっこうですよ」
何の感情もまじえずに司教は言った。黒髭の王は頭をふった。
「そうはおっしゃっても、帝国軍にひきわたしたのではかどが立ちますし、このままでは女神信教の国にとって不穏の種です。これは、やはりですな……」
「そういうことでしたら、おまかせを」
「よい青年なのですがね」
「そうですな」
王と司教は声を落としたが、ヴィンセントには聞こえたし、意味するところまでわかるような気がした。息を止めていると、ふいにシェリル姫に手をひっぱられて、飛び上がりそうになった。
「ねえ、わたくし、とっくにごちそうさまをしたわ。お父様にごあいさつをして、席をはずしましょう。大人の人たちって、話しこむときりがないのよ」
王女ははずむ足どりで王の椅子のわきに寄り、ヴィンセントはたじろぎながらもそれに続いた。シャルド王はたちまち満面の笑みを浮かべ、抱きつく王女の髪をなでてやった。それから、その笑顔のままヴィンセントを見やった。
「これはこれは、たしかにどこかリリセット王妃のおもかげを宿しておられますな。わが家の姫が心酔《しんすい》するのもうなずけるようです。いや、ご心配なく、秘めたご身分のことはだれにももらしませんよ。それなりの手配を尽くすつもりですので、どうぞ宮殿では充分おくつろぎいただきたい」
「ご親切なお言葉をありがとうございます」
ヴィンセントは平静に見えるよう努力し、実際そう見えただろうが、内心は必死になって勇気をかき集めていた。
「でしたら、同行したもう一人の安否《あんぴ 》もお気にかけていただけるでしょうか。じつはゆうべ、王宮の外へ出たまま帰らないのです。陛下におかれては、何かお耳になさったことはございませんか?」
黒髭の王はびっくりした表情になった。
「いやいや、わたしは知らないようだ。しかし、ご心配でしょうな。報告に気をつけて、なにかあったらお知らせしましょう」
善良そうな口ぶりだったが、腹の底はわからないとヴィンセントは考えた。表情を硬くしていると、王はやんわりと言った。
「あなたには、ぜひわが家と親交を深めていただきたいものです。宮殿のこちらに部屋を移されるとよろしい。司教からうかがっているが、これからは大国グラールも変わっていくとか。わが国は、教主国グラールに、深い敬意をささげているのですぞ」
シャルド王は明らかに、ヴィンセントを共謀者の一人と見なしていた。これ以上は何を言ってもむだのようだった。彼女は黙っておじぎをし、王女に寄り添われてその場を後にしたが、急に心細さがこみあげ、泣きたくなってきた。
(アデイル……)
ルセル・エゼレットの身柄をつかって、彼らが帝国軍のトルバート侵攻にグラールの注目を集め、アデイルをおびき寄せたことは決定的に思われた。ルセル・エゼレットが無用になるということは、目的が果たされたということであり、アデイルの身に何かがあったということなのだ。
そして、ルセルもまた消されるということなのだ――
(……わたくしは、どうすればいいの。こんなはめにおちいるために、トルバートへ来たかったわけではなかったのに……)
シェリル姫がいぶかしげな顔を上げた。
「おねえさま、なんだか悲しそうなお顔だわ。お花をながめに木陰へ行く? それとも音楽のほうがお好きかしら」
* * *
セシリア・ハルクマンはくちびるをかみしめ、青ざめた顔で足をはこんでいた。足にはズボンのすそを押しこんだブーツ、上着は衛兵の借り物を着こんでいる。よく見なければ、あでやかな男爵夫人と同一人物とも思えなかったが、じつのところ、グラールの貴婦人が懐中におく侍女は、この変わり身ができなければ一流とは言えなかった。
セシリアは空が白み始めるやいなや、だれが何と言っても聞かず、王宮の兵とともに町中の捜索に出かけたのだった。そして、狭い路地の隙間に横たわっている、変わりはてたアメリアの姿を発見した。
一行はさらに念を入れて付近を探し回ったが、見つかった遺体は一つきりだった。警邏《けいら 》隊《たい》は、このような凶悪な犯罪をおかすのは、土地の者ではなく流れ者にちがいないと言った。
「王宮の女官を手にかけるような人物なり集団なりを、何か思い当たって?」
セシリアが険しい表情で問うと、警邏《けいら 》の一人はつばを吐いて言った。
「流れ者は、たいがい人には言えない後ろ暗い仕事で銭をかせぐものですて。強盗も人殺しもへでもないやつらだ。心根《こころね》がすさんでいる上に、まっとうな職がないから、ああいう根なし草は」
そして今、王宮へもどってきたセシリアの胸にうずまいているのは、激怒《げきど 》に近い怒りだった。従姉妹を殺された怒り。自分の任務がとんでもない不首尾に終わる怒り。嘆き悲しむのは後でいい、この怒りを前向きに使おうとセシリアは思った。
(……少なくとも、アデイル様の遺体はどこにもなかった。遺体がないなら生きている可能性もある。見つけ出して、身勝手の罰に、思いきりおしりをひっぱたいてあげるときだって来るかもしれない……)
セシリアは、その勢いに廊下ですれちがう人間がふり返るのをものともせず、宮殿の翼《よく》の一角をめざした。離れに近い建物だったが、彼女たちの泊まった部屋と同じに開放的なつくりだったので、女官のうかがいも無用に思える。セシリアはつかつかと部屋へ歩み入り、鋭い声音で呼ばわった。
「ルセル。ルセル・エゼレットは在室ですか」
声に応えて、続き部屋からぬっと現れたのは、ルセルとは似ても似つかぬ褐色の大男だった。眉びさしの高いいかつい顔に猪首《い くび》、はげているのか剃《そ》っているのか、頭頂に至るまで同じなめし革で革張りしたかのように毛が見当たらない。
胸板の厚さはあきれるばかりで、腕は丸太のようだった。いびつな耳の片方に小さな金の耳輪をつけていたが、これほどしゃれっ気に見えない例もめずらしい。そして、簡素な袖なしの上着とゆるいズボンを身につけただけの手ぶらの男が、これほど隙なく見えるのもめずらしかった。
大男が現れると、急に部屋が縮んだようだった。どう見てもこれは腕っぷしに訴える用心棒で、心づもりをしなかったセシリアはたじろいだが、すぐに気丈さをとりもどした。
「わたくしが呼んだのはルセルです。あなたではありません」
「取り次ぎを通していただかないと」
褐色の男は、見かけよりは穏やかな声で言った。そして相対的に小さな黒い目で、セシリアの服装をいくらか興味深げに上から下まで見た。
「たかが傭兵と思っておいでのようだが、彼はそれでも特別でね。わしはルセルの従者です。まずはご用件をうかがいましょう」
セシリアは胸をそらせた。
「本人にしかお話できない用件です。グラールのテルフォード男爵夫人が来たと伝えてください」
従者の男はまだ何か言いたそうに口を開いたが、ルセルの声にさえぎられた。
「あなたでしたか、男爵夫人。何もわざわざ来られなくとも、お呼びいただければ出向きましたものを」
警戒した大男とはちがい、金髪のルセルはにこやかに進み出てきた。しわの寄った白いシャツを襟《えり》をはだけて着ていたが、それほどくだけた身なりをしていても、やっぱりどこか優雅に見える。セシリアを前にして、青い瞳にぶしつけでない程度の賛嘆を浮かべる点も同様だった。
「いかがなさいました。しかし、お美しいかたは、とりたてて装いをこらさなくてもお美しいものですね。その髪型はなかなかですよ」
セシリアが今回髪を結《ゆ》いあげたのは、街中で動きまわるためでしかなかったから、賛辞は当然からかいをおびて聞こえた。むっとして彼女は口調を鋭くした。
「お愛想はけっこうですわ。時間が惜しいので単刀直入にもうしあげます、よろしいですか」
「はい」
ルセルはすなおに答えたが、うっすらとほほえんだ表情は変わらなかった。その顔をセシリアはにらみつけた。
「今朝、王宮近くの市の通りで女官の死体が見つかりました。きのうの午後、わたくしのもとを出かけた二人のうちの一人です。もう一人はいまだに行方が知れません」
「それは……ゆゆしいできごとですが、どうしてわざわざわたしに知らせを?」
「二人が、傭兵に会いに行くと言って出かけたからです」
ルセルはかるく肩をすくめただけだった。
「傭兵なら、アルスラットのちまたにはいくらでもいるでしょう」
「会いに行って、殺されるような傭兵は多くはいません」
「エゼレットがそうだとおっしゃるのですか?」
「あなたがここにいるということが問題なのですわ」
腰に手をあて、セシリアはたたみかけるように言葉を続けた。
「あなたのお仲間が、王宮に敵意をもっていないと誓って言えるのですか? あなたはわたくしに、トルバート王家の思惑が知りたいとおっしゃった。ならばお教えしますけれど、大臣たちに接したかぎりでは、どこをめくってもあなたがたへの好意などありはしません。帝国軍とことをかまえるつもりは毛頭なく、どちらかと言えば、グラールの人間の目を引いたことを喜んでいます。それだけの人々ですわ」
「それは、そんなことだろうと思っていました」
ルセルは平静に応じた。
「トルバートに、好意で守ってもらおうと考えたわけではありません。多少、めずらしがられましたが……これは、飽きがくれば終わりですからね。ただ、わたしはここへ拉致《らち》されて来たわけでも、強制されて来たわけでもないのです。そのことは仲間たちも承知の上です。険悪な敵対関係にはないはずです」
「わかりませんわ。あなたのことが」
セシリアはつい、率直に不思議さをこめて言った。
「なぜ、ここにいらっしゃるの? トルバートが帝国軍の盾《たて》になってくれないときには命取りだとわかっていながら。それともあなたは、ご自分がなくした王宮生活を、どんな形でもいいから手に入れたかったのですか? 傭兵でいることにうんざりして」
「いいところを突いていらっしゃる」
彼は気を悪くした様子ではなかった。一瞬|破顔《は がん》して髪をかきあげた。
「そうですね。トルバートがわたしに利用価値を見るなら、わたしもその点を利用したかったのはたしかです。一生逃げ隠れするのはうんざりしますし、成年を迎えれば、逃げ隠れも徐々に無理になります。それならいっそ名のりを、とね。帝王エスクラドスの安眠の何分の一かは妨げになったかもしれませんから」
淡々とした口ぶりのどこかには、かすかに投げやりな含みがあった。セシリアには、無力をかみしめる彼の気持ちがわかるような気がした。
「あなたがたの敵は、あくまでブリギオン帝国なのですね」
「当然でしょう。その他のすべては賃受け仕事ですが、こればっかりは悲願です。実際、われわれには、それほどあちこちで敵を作っている暇はないんですよ……流れ者への評価は知っていますけれどね」
セシリアはしばし黙りこんだ。彼女が迷っているのを見|透《す》かしたように、ルセルは瞳に興味を浮かべた。
「それにしても、ご自分のお付きが襲われたことで、ただちにわたしを訪ねて来られたのはなぜです。しかも非常にお腹立ちだ。襲われる理由に思い当たるふしがおありだったのですか?」
セシリアはつんとして顔をそむけた。
「ここへ来たのは……先日、わたくしが図らずもさしあげた好意を、踏みつけにされたかと思うと口惜しくてならなかったからです」
「ご同情くださっていたとは光栄だな」
ルセルはにこやかに応じたが、瞳の奥には研《と》ぎすまされたものがあった。
「どうやら、大国グラールの人々は、全員が意を同じくした人間とは言えないようですね。あなたは他の高官とはどこか異なっておられるし、あなた自身もそれをご承知なのではありませんか?」
「異なっているのは当然です。わたくしは、チアレンデルの生まれです。真のグラール人ではありませんから」
はぐらかすためにセシリアが告げると、ルセルはどこか満足げな顔をした。
「ほう、チアレンデルから嫁がれたのですか。あの土地の人間は、たいそう直情的な人たちだと聞いていますが」
「直情で、もつれたクモの巣のようなグラールの宮廷を生きぬくことができるとお思いですの? でも、とにかく、わたくし自身のことなどどうでもいいのです。侍女が行方不明になったことに比べれば」
つとめて気持ちを抑えてから、セシリアは続けた。
「……グラール人が一枚岩になり得ないと言われたのなら、そのとおりと申しあげますわ。わたくしが、これを同国人のしわざかと考えはじめたのも、そのとおり。ただ、わたくしは、グラール人を疑うことはできても、直感どおりにあなたを信用してよいかどうかの確信がないのです」
ルセルは目をぱちくりした。
「……侍女の一人がいないことが、あなたには、大変な一大事であるように聞こえますね」
「大変な一大事です」
セシリアは覚悟を決め、息を吸いこんで言った。
「もしも彼女を無事にとりもどせるならば、わたくしの命にかえてもいいものごとなのです。あなたにはおわかりにならないでしょうけれど、これがわたくしの本音ですわ」
ルセルはしばし間をおいたが、考えこむように言った。
「それは少々、大仰《おおぎょう》なお言葉ですね。命にかえてもいい他人などは、そうそうは存在しないものです。あなたがおっしゃるのは、ただ、かわいがった侍女を失いたくないという意味にすぎないのでしょう」
きっとしてセシリアは、ルセルを見つめた。
「ご自由に考えてくださってけっこうですわ。あなたはさっき、自分たちは帝国に敵対するけれども、その他は金次第だとおっしゃった。それなら、お金の話をしましょう。わたくしの侍女を襲ったのがエゼレットではないなら、あなたの配下に彼女を探し出すよう命じていただきたいの。わたくしは他に、トルバートの市井《し せい》をくまなく探せる人たちを知らないからです。報酬は言い値を払います――即金が必要なら、チアレンデルの国庫を開けることだってできましてよ」
「本気ですか?」
ルセルの表情がいくらか動いた。
「くりかえしはしません。わたくしには、彼女を見つけることがどんなことよりも優先するのです」
セシリアは言い切った。もうしばらく彼女を見つめてから、ルセルは後ろをふり返った。
「ゴーガー、この御婦人のお申し出をどう思う?」
ルセルしか眼中《がんちゅう》になかったセシリアは、じつをいうと、大男の従者がいたことをほとんど失念していた。けれども彼は部屋のすみに、家具のように身じろぎもせず立っていたのだった。
褐色の大男は、組んでいた腕をほどいて言った。
「彼女は本心を語っていると思うね。やって来たときなど、返答次第でおまえさんを殺しかねない目つきをしていた。なんと言っても、この人はチアレンデル生まれだ。産声《うぶごえ》をあげたときから二枚舌のグラール人とはわけがちがう」
ルセルはうれしそうな顔をした。
「それなら、わたしに好意を持ってくれたというのも本心だろうね」
「それは、おまえさんがしょっているだけだ。チアレンデル人に駆け引きができないとは言っとらん」
主従とも思えない二人の会話を聞いて、セシリアはびっくりしたが、彼女も傭兵のことはよく知らなかった。彼らのあいだでは、この程度にざっくばらんな会話がふつうなのかもしれない。
大男は、金髪の青年にむかってあごを動かした。
「この御婦人は、性悪《しょうわる》なたくらみをもつグラール人の同胞《どうほう》ではないだろう。しかも、申し出られたのは正当な商談だ。われわれの知っていることを教えてさしあげるといい」
ルセルは、あらためてセシリアに向きなおった。
「今だから申しますが、わたしも初めてお会いしたときから、あなたを慕わしい女性だと感じていました。よこしまなグラール人の一味でなくて、うれしいかぎりですよ」
「そのお話はまたあとで」
少しいらだってセシリアはたずねた。
「あなたがたは先ほどから、性悪だとかよこしまだとか、ずいぶんなおっしゃりようですけれど、どうしてグラール人は、そこまであしざまに言われなければなりませんの?」
「われわれのあいだではずいぶん飛び交う話ですが、たぶん、それでも水面下なのでしょうね。グラール人の聖職者が、虫も殺さぬ顔で刺客をやとうというもっぱらの話は」
さらりと言ったルセルの言葉に、セシリアは顔色を変えた。
「聖職者?」
「そう、僧侶ですよ。中央ルートに沿って女神信仰の勢力をのばした説教者たちのことです。わたしもあまり、聖職とは口にしたくないですがね」
セシリアは動揺を隠せず、口を開けてはまた閉じた。国を出る前にレイディ・マルゴットが口にしていた数々の懸念が、今はじめて焦点を合わせたのを感じたのだ。けれどもこれは、セシリアが、けんめいに否定して見ないようにしていた局面でもあった。信じたくない暗黒の局面――聖職についた者たちが、その立場を利用して野心をのばすとは。
「……それでは……」
目の前が暗くなる思いで彼女はつぶやいた。それでは、無防備なアデイルは助かる見込みがない。彼女は最初から、同国の暗殺者たちのいい標的だったのだから。
セシリアはたぶん、ショックのあまりよろめいたのだろう。気がつくとルセルが彼女の手をにぎっていた。
「お気をたしかに。大丈夫ですよ。あなたの女の子はたぶん生きています。じつは今朝がた、わたしのもとに若干《じゃっかん》のとんでもない情報が届きましてね。エゼレットの数人が、刺客に襲われたグラール人の女の子を助けたそうなのです」
青ざめた額に手をあて、乱れた髪をなでつけて、セシリアは元気なく彼を見上げた。
「……できすぎた話に聞こえますわ」
「それはそうでしょう。わたしとて、あなたが話をもってこられたときには、何かのわなかと疑ってしまいましたから。しかも、この知らせはエゼレットにとって、めでたいものではないんです。代わりに仲間の一人が負傷しています――命にかかわるかもしれない」
ルセルがそれまで絶やさなかった、本心を見せないほほえみが、最後の一言を言ったときに消え去った。セシリアは、ルセルが彼女の必死さに、最初からきちんと共感していたのだということに気がついた。なぜなら、彼も本当のところは必死だったのだ。
「この知らせを受けた時点で、わたしが王宮にいる意味はなくなりました。何とかして、エゼレットのもとへもどらなければならない。けれども、王宮の人々は今さら簡単にわたしを解放してはくれないでしょう。あなたを信頼できるとふめば、これはわれわれにもわたりに船となるわけです」
宮廷向けの笑みとは異なる精悍《せいかん》な笑い方をして、ルセルは言った。
「取り引きということにしませんか? われわれはあなたを、無事に保護した女の子のもとへつれていってさしあげる。そのかわり、あなたのもっている権限で、わたしとゴーガーをこの王宮から脱出させてほしいのです」
取り引きをのんだ上で、セシリアは策略を練るために一度自分の部屋へもどった。着替えをして貴婦人にふさわしい身づくろいをしながら、ヴィンセントはどこへ行ったのだろうと考えていたが、本格的に心配をはじめるよりは早く、彼女は部屋へもどってきた。
ヴィンセントが、昼の装いとしては最大限に身を飾った白いシフォンのドレスをまとい、のどもとに見知らぬルビーの首飾りをしていることを、セシリアは目ざとく目にとめた。
「どこへ行っていらしたのです。あなたにまで消えられたら、わたくしは立場もないというのに」
セシリアが少々きびしくとがめると、ヴィンセントは意気消沈した様子で口を開いた。
「セシリア……わたくし、ルセル・エゼレットが王宮でどういう立場にいるか、発見したわ」
「わたくしも発見しましたよ」
セシリアの言葉に、ヴィンセントは少し驚いてまばたきをした。
「本当? 彼が消されそうだってこと、もうあなたも知っているの?」
セシリアも目をまるくした。
「いったいどこでそこまで聞きこんだのです?」
「国王の朝食の席へ行ったの……メリアデス司教がそこにいたわ……」
両手の指を組み合わせ、ヴィンセントはこらえきれないように言った。
「わたくしに聞かれてもかまわないと、彼らはそう思っていたのよ。彼らは……わたくしがだれかを知っているの……」
いたましいような思いで、セシリアはヴィンセントを見つめた。
「ヴィンセント様。あなたは……それでは、アデイル様とアメリアを襲わせた人物がだれか、もう見当がついていらっしゃるのですね」
ヴィンセントは体をふるわせ、うなずいた。そしてかすかな声で言った。
「今さっき、知らせを聞いたわ。アメリアが死んでいたって……」
うつむく彼女に近寄り、低いがきっぱりした声でセシリアは言った。
「そうです。わたくしは彼女の死に顔を見てきました。アメリアのうらみは、必ずどこかではらすつもりです」
ヴィンセントはうるんだ瞳で見上げた。
「アデイルは……?」
「アデイル様は生きています」
泣き出しそうだったヴィンセントの表情は、その一言で一変した。目を見開き、ほおに赤みはささないまでも、明るく輝いた。
「本当……それは本当に本当なの?」
「完全に信用できる情報ではありませんけれど、望みをかけていいふしがあります。ルセル・エゼレットがそう言っているのです。彼の傭兵仲間がお嬢様の身を救って、自分たちの居場所にかくまっているのだと」
「アデイルは、まだ無事なのね。よかった……」
大きく息をついたヴィンセントだったが、その表情はすぐにまたくもった。
「でも、これからだって、何があるかわからないわ。あの人たちは、すぐに問題は片づくという言い方をしていたのよ。それに、アメリアを殺したのはルセルの仲間だと発表するつもりらしいの。だからルセルは、このままだとぬれぎぬを着せられてしまうわ」
「たいてい、そんなところでしょうね」
セシリアは| 憤 《いきどお》りのため息をついた。
「大丈夫ですわ、ルセルはこれ以上ここにぐずぐずしている気はないそうですから。わたくしもです。悪だくみのグラール人といっしょにされたのではたまりませんもの。今夜ここを出ます」
ヴィンセントはまばたきをした。
「出る?」
セシリアはくちびるをむすんでうなずいた。
「ルセルを王宮から逃がすつもりです。そうすれば、わたくしも彼と同罪にされるのでしょうけれど、アデイル様さえご無事なら、他はどうとでもなります。何としてでも、お嬢様をグラールへつれてもどらなければ……そして奥方様のお耳に入れなくては。ここで起きていることは、そのまま女王陛下への反逆ですよ。星女神がお許しになるはずがありません」
反逆という言葉に、ヴィンセントはふたたび身をふるわせた。
「わたくし……」
「夜半に動くことになります。気をしっかりもって、わたくしについてきてくださいますね?」
セシリアはおしかぶせるように言ったが、ヴィンセントはいきなり座りこみ、頭をふった。
「わたくし、どういう顔をしてアデイルに会えばいいかわからない。彼女……アデイルはきっと、わたくしのことを信じてくれないわ」
その心痛がわからなくはないセシリアも、口にしては否定しないわけにいかなかった。
「そんなことがあるものですか。あなたがたは長い間よいお友だちだったのですし、今度の件にあなたがかかわっているはずもないのですから」
「それを証明できる人がいる? わたくし自身、身の潔白を説明できそうにないのよ。考えれば考えるほど混乱してくるの。わたくしは、だれから見ても無邪気な女の子じゃないわ。わたくしさえ知ろうとしなかった、別のわたくしがいるのかもしれない。自分でもわからないのよ」
激しく言ってから、ヴィンセントはぼんやりとつけ加えた。
「疑いをはさんだら、友情はおしまいだわ……疑っているのはわたくしのほうかもしれない」
「アデイル様に会いたくないと?」
思わずセシリアも声がふるえた。
「もしもあなたが、王宮に残るとおっしゃるなら……そうなったら、そのときこそ、疑いも何もかも決定的になってしまうのですよ。もしもあなたが、王宮を捨ててアデイル様に会いにいく勇気をお持ちでないなら」
ヴィンセントは長い間うつむいたまま考えこんでいた。それから、ようやく口を開いた。
「いいえ、行くわ。わたくしも彼女の無事が知りたい。アデイルの顔が見たいもの」
「それでしたら、夜半の一時をめどに計画を進めますから、それまでに――」
ほっとして話しはじめたセシリアを、ヴィンセントはふいにさえぎった。
「ねえ、セシリア。わたくし、別行動をとっていいかしら。ちょっと気になっていることがあって」
「どこへ行くつもりです。あなたは侍女なのに」
「シャルド王は、すでにそう思っていないわ。わたくし、シェリル姫の向かいの部屋をたまわったの」
ヴィンセントは静かに言った。
「だから、平気よ。一人でも行動できるわ。夜になったら抜け出してくるから、わたくしはあちらにいたほうがいいと思うの」
セシリアの胸を不安がよぎり、もう少しでひきとめそうになったが、結局は彼女を行かせた。裏切りを考えたくはなかったが、これはヴィンセントの問題であり、ヴィンセントの意志がなければどうにもならないものごとだった。
三
「ルセルとゴーガーをつれもどす。今夜すぐにでも」
ティガは宣言した。身じたくをはじめた彼を、とうとうデリンも止めなかった。多少熱が下がりきらないくらいで、ここまで気力の回復したティガをベッドにとどめておけないことを、彼も思い知ったのである。
ジェストが亭主をつついた。
「おい、いいのか」
「わしゃ知らん」
デリンはしかめっ面になった。
「店を壊されるよりは、王宮へ出かけてもらうことを選ぶよ、わしは」
ジェストはティガに声をかけた。
「なあ、二人を王宮の外へ出すことくらい、おれたちだけでやってやるよ。ふらつくやつなど必要ないぞ。現にカイトたちは明け方にも潜入したんだ」
「そんなことをするから、おれが行くはめになるんじゃないか」
ティガは大声で返した。
「ひとがちょっとだけ寝ている隙に、もう勝手な行動をおこすんだからな。衛兵|殴《なぐ》り倒して連絡とっても、立場を悪くするばかりで意味がないんだよ。おまけによけいなことまで伝えやがって」
「そうは言っても、おまえの容態《ようだい》、ゆうべはどっちにころぶかデリンにもわからなかったんだぜ」
「おれが死ぬはずないだろう」
ティガはかっかとしながらも、指と歯を動員して革ひもを結び、手慣れたしぐさで革の胸当て、膝《ひざ》当て、手甲、短剣の吊り帯を身につけていった。最後にそれらの上に、大きな上着を頭からひき被る。
「この街を出ていくしおどきだ。ルセルのやつも、もう気がすんだだろう。だが、もてなしのお礼として王さまの度肝を抜くくらいのことは、してみせなくちゃな」
ティガはしばし体操のような身ぶりをして具足《ぐ そく》のおさまりをたしかめると、にっと笑って部屋を飛び出していった。少なくとも、ふらつきはしないようだった。
彼は、階段を下まで下りきることさえしなかった。途中の手すりをひょいと越え、店のカウンターに飛び下りた。
「いよっ、復活のちびトラだ」
下でたむろしていた男たちの野次や笑い声があがり、そうぞうしく壁とテーブルが打ち鳴らされた。意気|揚々《ようよう》とティガは告げた。
「お兄《あに》いさんたち、待たせたな。出かけるぜ」
「どっちへだ」
「まずは、ルセルとゴーガーを無理やり引っぱりだしてくる。王宮の門でも壁でもぶっ壊していいぞ」
再び男たちがどっと笑う。
(たいした暴れん坊だわ……)
アデイルはこれらを、あきれたまなざしでながめていた。たしかにティガは、たたいても死なない人物らしかった。思えば、アデイルに最初に声をかけてきたとき、彼はあれでも行儀よくしようと努力していたのかもしれない。
ルセルに直接会いにいく決心をした以上、アデイルは彼にとって用のない人間かもしれなかった。けれども、アデイルにもまたするべきことがあった。ティガとその仲間が今少し真剣な打ち合わせを終えるのを待って、アデイルはカウンターの上で足を組んでいる若者に近寄った。
「ティガ、わたくしも王宮へつれていって」
「え?」
「王宮へ帰りたいの。わたくしもつれていって」
「どうしてさ」
ティガは驚いてアデイルの隣りに着地した。
「刺客に襲われたことを忘れたわけじゃないだろう。のこのこ出ていって、同じ目にあいたいのか?」
「一人じゃ無理だから、いっしょに行きたいのよ。王宮には、わたくしの安否を気づかっている人たちがいるの。無事を知らせないと、このままにはできないわ」
アデイルの言葉に、ティガは眉をよせた。
「ついてきても、まともに走れもしないくせに。あんたはじっとしているのが無難だよ。知らせなら、おれが伝えてやる」
「あなただって、自分自身で行こうとするじゃないの。それは、他人の伝言では伝わらないことがあるとわかっているからなのでしょう?」
指摘されると、ティガは少しつまった。
「それとこれとは……」
「同じよ」
アデイルはきっぱり言った。
「わたくしは、自分に何も持っていないの。腕力も権威も、天の威光《い こう》も何一つ。だからこそ、こんなわたくしについてきてくれた人のためには、誠実を返さなくてはいけないのよ。わが身がかわいいと言ってはいられないの」
ティガは不思議そうに少女を見つめた。
「あんたは、ときどきおもしろいことを言うな。迷い猫みたいな女の子だと思っていると、いきなりこれだものな。殺されることが怖くないって?」
「怖いわ。たしかにわたくしはとろいもの。でも、行かなくちゃ」
アデイルは瞳をそらさずに見返した。
「わたくしにできることは、それくらいだから。大事なのは、わたくしのために尽力してくれる人がいるということよ。わたくしが逃げ隠れするばかりなら、そういう人も今にいなくなってしまうわ」
先に視線をはずしたのはティガだった。彼は顔をそらし、黒いぼさぼさの頭をかいた。
「……危険など冒《おか》さなくても、あんたの場合、他人は喜んで尽力すると思うぜ。できる限り安全に囲って、無事を見るのがうれしいって思うだろうな。家に帰ってあんたがそばにいたら……看病してくれたときみたいに」
アデイルは返事に窮《きゅう》したが、ティガは答えを求めず、さばさばした調子で続けた。
「だが、まあ、おれには家ってものがないから、それもかなえようのない夢話だ。あんたに流れ者の暮らしができるとは思えないし、自分たちが帰りもしないこの店へ置いても行けないし。もったいないけれど、結局、もといた場所のもといた人たちに返すしかないんだろうな。つれていってやるよ、王宮へ」
彼らは、真夜中を待たずに行動を開始した。宮殿のホールでは晩餐後のにぎわいがまだ続いており、楽団が音楽をかなでている時刻だった。ホールに続く棟の角部屋から突然煙と炎が吹きだし、衛兵が呼び子を吹き鳴らし、怒号《ど ごう》が飛び交《か》う騒ぎになった。
ホールの音楽はとだえ、たちまち優雅な人々も浮き足だち、近衛《こ の え》隊長が取りしずめと誘導《ゆうどう》に大わらわになる。だが、これはエゼレットの陽動にすぎなかった。ティガたちは、敷地の反対側から壁を乗りこえての侵入をはかっていた。
アデイルには細かいことがわからなかったが、要所に配された仲間が、ひどく組織的な働きをしていることはたしかだった。彼女は壁をのぼれなかったが、いくらも待たずに使用人の通用門が開けはなたれた。
(この人たち、かんたんに強盗団になれるわ……)
その手慣れたふるまいに、アデイルは思わずにいられなかった。王宮の警備はたぶん強化されているはずだが、どんな衛兵をもものともしないのだ。出会った人物はたたきのめすといった態度で、しのびこむ立場の緊張感すらうかがわせない。
それに、王宮の兵士の側にも問題がありそうだった。エゼレットの手強《て ごわ》さを目のあたりした後は、体をはって阻止する兵士は少なく、やり過ごして人が集まるのを待っているようなのだ。けれども火災があったため、こちらへ駆けつける人数は少なかった。
ティガはアデイルのそばを離れなかった。彼女を伴っていることで、二人は男たちにさんざん下品にからかわれたが、ティガも少女も頑《がん》として考えを変えないことを知ると、実際にことに当るときになれば、もたもたするアデイルを意外なほど辛抱強く守ってくれた。
「ティガ、こっちだ」
ルセルたちのいる建物は、カイトという男が知っていた。
「庭園をつっきってまっすぐ行け。今、時間差でもう一カ所の火の手が上がるから、その隙に合流できる。ゴーガーはすでにさとっている。おれたちの花火は特別だからな」
カイトはそう言って、彼らとは別方向に駆け去った。何か知られていない発火装置があるのだと、アデイルはぼんやり考えた。そうでなければ、これほどねらいすまして勢いよく燃やせるはずがない。
月光のふりそそぐ庭園は、燃えている現場からかなりへだたっているため、建物にさえぎられて煙も見えず、集まる人々のざわめきも遠かった。庭に衛兵の姿が見えなかったので、ティガとアデイル、数人の男たちは、思いきって木陰を出てほの白い草の上を走った。
と、そのとき、彼らの向かう前方の建物が轟音《ごうおん》と光を放った。アデイルはたまげて足を止め、それはさすがにティガたちも同じだった。そして、輝く赤い炎が窓から吹きだす光景に見入ったとき、それらを背後にして走ってくるいくつかのシルエットに気がついた。
先頭の影は、近づけばあきれるほどに大きくなった。門番にさえ見かけなかったような巨漢だ。アデイルは息をのんだが、隣りのティガは逆に警戒をゆるめて息を吐いた。
「ゴーガー」
髪の毛が一本もない大男の、開口一番のセリフはののしり文句だった。
「なんてえざまだ。この、能なしの悪たれ小僧」
ティガも負けてはいなかった。
「なんだよ、くそじじい。だから迎えにきてやったんだろうが」
「だれが来いと言った。わしはルセルと楽隠居《らくいんきょ》をきめこむつもりだったのに、後を任せることもできないのか。しかも、今夜のとち狂ったこのばか騒ぎ、むだ骨折りとしか思えん」
「ほざいてろよ――よう、ルセル」
一足遅れて到着したほっそりした影に、ティガは片手をあげた。背後の炎で頭部の輪郭がほのかに輝き、アデイルにも金髪のルセルだということがわかった。
「死にそこねたって。ちびトラ」
ルセルは笑いを含んだ声で言った。
「んなことないよ。そっちはどうなのさ」
「うーん、貴公子は三日やったらやめられないね」
彼のかたわらにはベールをつけた女性が寄り添っていて、ルセルがゴーガーに遅れたのは、どうやら彼女を気づかってのことらしかった。
「しかし、これでは前回に増してのおたずね者だな。まあ、美女にも会えたし、しかたなしとするか。そうそう、おまえからの手紙、赤を入れておいてやったから文章なおせよ」
「まったく、どいつもこいつも……」
ティガはぶぜんとしていたが、アデイルはベールの女性にはっとした。彼女の装いは王宮の下級女官に見えたが、ベールをもちあげるしぐさに似かよったところがある。相手もまた、月明かりに立つ少女を見定めようと顔を上げたところだった。
「……セシリア?」
セシリアはあまりに激しくベールをはねのけたので、被りものは頭からぬげ落ちてしまった。それを意にもとめず、彼女は小柄な女の子に駆け寄った。
「まさか……どうしてここに。こんなに危ないなかを、あなたというかたは、王宮へもどってきたというのですか?」
「ええ、心配をかけてしまったから、あなたにあやまりたくて」
「ばかなことを」
ふるえる声でセシリアはささやいた。
「どこもおけがはないですか? 怖い思いは?」
「このとおり無事よ。この人たちがよくしてくれたの。無茶をしてごめんなさい、セシリア」
アデイルが両手をさしのべると、セシリアは声も出せずにひしと抱きしめた。
ゴーガーがひと呼吸待ってから、声をかけた。
「さあさあ、まだ気を抜いてはならん。まわりがさわがしくならないうちに抜け出すこった。おまえたち、先回りで裏口確保しておけ」
大男の指示に、ついてきた男たちがさっと散った。ルセルもていねいな口調でセシリアに言った。
「どうやらわれわれは、どちらも契約|履行《り こう》の前に目的をとげてしまいましたが、たいしたことじゃありませんね。いっしょに行きましょう。あなたがたも、ここへ残っては不都合が多いはずです」
セシリアは見上げてうなずいた。
「ええ、そうします。このかたは今もねらわれているはずなのです」
「待って」
アデイルは声を上げ、セシリアの腕をおさえた。
「ヴィンセントは? ヴィンセントはどこにいるの?」
セシリアの表情を影がかすめたようだった。わずかなためらいののちに、彼女は低く言った。
「……このまま行きましょう。ヴィンセント様はもどりませんでした」
アデイルは驚きに目を見開いた。
「もどりませんでしたって、どこへ行ったの。何かあったの?」
「あきらめましょう。そのほうがいいのです。あなただってご存じのはず……あのかたは反逆をくわだてるメニエール猊下のお血筋です」
血がひくのを感じながら、アデイルは小声で言った。
「ヴィンセントはわたくしの友人よ」
セシリアは頭をふった。
「それを言ってももうむだでしょう。あのかた自身がそう口にしていました。疑いをはさんだら、おしまいなのだと」
四
それは、時間にすればわずかの間だったが、さまざまな場面がアデイルの胸に浮かんでは消えた。トーラス女学校の低学年寮ジェミニ館で相部屋になり、はじめて顔をあわせたヴィンセント――彼女には当時からどこか超然としたところがあり、四人部屋のあとの二人は、ヴィンセントを敬遠する態度をとっていた。けれどもアデイルは、この少女のたぐいまれな聡明さに、尊敬をまじえた好意をもったのだった。
アデイルの優柔不断《ゆうじゅうふだん》をなじるヴィンセント――少し仲よくなると、彼女は、アデイルが年長女生徒の言いなりになりすぎると言って非難した。当時のアデイルは、最上級生のマスコットだったからだ。二級上にレアンドラがいる以上、アデイルは保身の上でも他にやりようがなかったが、怒ってくれる友人がいることが、なぜかうれしかった。
エヴァンジェリンがアデイルの筆名だと見破るヴィンセント――アデイルが、ぜったいだれにもばれないと信じていた投稿の真の作者を、ヴィンセントは見破ったのだった。その能力にも驚かされたが、彼女が顔を赤らめてファンだと言ったことにも驚かされた。すべてにお堅いと思われていた少女の、意外に純真な告白だった。
文芸部をしきるヴィンセント――アデイルをしたう形で入部した彼女だったが、またたくまに別方面、つまり編集者の天分を発揮しはじめた。情報誌の発行から舞台演劇の演出まで、トーラス生徒会が独占するかと見えた機能を、彼女は在野《ざいや 》でやってのけたのだ。
(だれよりも才気|煥発《かんぱつ》な友人だった……その才気が、今はあだになったというの……?)
セシリアが、ぼうぜんとしたアデイルの手をとった。
「ぐずぐずしていてもしかたありません。これはこうなる運命だったのです。もっと早くに発覚しなかったことが悔やまれますが、今は、この場をのがれないと」
アデイルはそのまま引っぱられそうになったが、かろうじてその手をふりきった。
「だめよ」
「お嬢様?」
「ヴィンセントを呼びよせたのは、わたくしなのよ。それなのに、わたくしから先に見捨てることなどできない。ヴィンセントが行った先はどこ? 来ないなら迎えにいくから」
セシリアはせっぱつまった表情になった。
「お願いですから、お嬢様。今さら何をしてもむだです。ヴィンセント様は、シャルド王ご家族の住まう奥の宮殿へ招かれたのです。司教のいる礼拝堂も間近にある――とても近づくことなどできません」
「それでも、行かなくちゃ」
セシリアと同じくらい、アデイルだってせっぱつまっていた。それでも、ヴィンセントの顔も見ずに脱出することはできないと心が決まっていた。
「ヴィンセントがわたくしに、価値がないと思ったとしてもしかたのないこと。それでも、わたくしの好意はあの人のものなの。離反《り はん》しなくてはならないときは、本人の口からそう告げられるのを聞くわ」
ティガは二人のやりとりに耳をかたむけていたが、ふいに声を発した。
「ルセル」
「なんだい」
「そちらの御婦人を、壁の外へ無事につれていってくれないか。人数は最少ですませる。おれは、この子の気がすむようにしてやるよ。ゴーガーは来るんだろう?」
巨漢はうなった。
「なんで、わしが」
「あ、別にいいよ。そうかなと思っただけだから。ミーミ、それなら行こう。王宮の中心だからって、恐れるには足りないさ。王家の人間ってのは、火事を見たらいち早く避難するものだからな」
ティガは、ものみ遊山《ゆ さん》に出かけるような口調で言い、うなずいたアデイルの手をとって走り出した。あわてて後を追おうとするセシリアを、ルセルがひきとめ、ささやいた。
「案じることはない、ゴーガーが行きます。それに、あのやんちゃ坊主も、見た目よりは分別があるんですよ、あれでもね」
アルスラットの宮殿は、ルアルゴー州ロウランド家の居館に相当する規模であって、大陸で破格の大きさを持つ環状宮殿のように、どこを探すも容易ではないという建造物ではない。
それでも、どれが王妃の部屋でどれが王女の部屋と、初めて訪れる者にも特定できる小さなものではなかった。飛燕城《ひえんじょう》であっても、納戸《なんど 》を含めれば百を越える部屋があるのだ。
と、いうわけで、ティガにつれられて、こんかぎりの速さで王家の居室にたどりついたアデイルも、そこから先は、おおよその見当で歩いてみるしかなかった。もっとも、宮殿のこの棟は、廊下のところどころに明かりがともっており、足もとを恐れずにすむ。さらには絨毯が敷きつめられているので、もの音をたてる心配も少しですんだ。彼らは姿を隠す手間をはぶいて進んだが、火事騒ぎで手薄といっても、衛兵が皆無《かいむ 》ではなかった。
「……!」
廊下の角をまがった彼らは、武装した兵士の数人とはちあわせしそうになって、思わずたじろいた。絨毯のおかげで、出くわす相手のもの音にも気づかなかったのだ。兵士たちも一瞬ひるんだ様子だったが、怪しげな風体《ふうてい》と見て、すぐに剣を抜きにかかった。
「こいつら、くせ者だぞ」
ティガも短剣を抜いたが、一秒の何分の一か出遅れていた。あわやというその瞬間、王宮の兵士たちは、投げ矢を腕や顔に受けて叫び声を上げた。ダーツ競技に使うその短い矢羽は、正確に全員を射止めたのだった。
アデイルは壁にへばりつき、たまげながらゴーガーという男のすごさを実感した。褐色の大男は、のっそり行動を起こすと見えた瞬間には別の場所にいた。結局、ティガが一人を倒す間に、ゴーガーは三人を床にのばしていた。
「ふがいないと思えよ」
言われたティガは、投げ矢を回収するゴーガーを肩で息をついてにらんだ。
「ゆずってやったんじゃないか。なんだよ、その子どもだましの武器は」
「王宮であんまり退屈なとき、こいつで暇つぶししていたから、披露したのさ。せっかくだから」
「楽隠居が聞いてあきれるよ」
ゴーガーはふり返ってアデイルを見た。
「お嬢ちゃん、だれとかを探すなら大急ぎに急ぐこった。うちのは反応がにぶくて使いものにならない。本人、わかっているようだがね」
「あ……」
アデイルは思わず口もとをおさえた。ティガがどれほど元気者でも、そして、そのようにふるまってみせても、毒に倒れて高熱を出してからいくらもたたないのだ。しかも、右腕は傷ついている。気づかってよさそうなものを、自分の心配ごとのあまりに忘れていたのだ。
「ごめんなさい。わたくし……」
ティガは何のことだといった表情で見返した。
「だれにあやまっているんだよ。おれは今だって、あんたよりよっぽど速く走れるぜ。あんたは早く、ヴィンなんとかって男を探してきなよ」
「おとこ?」
アデイルは一瞬絶句した。
「ヴィンセントをいったいだれだと思っているの。わたくしより女の子らしい女の子なのよ?」
「うそだろ――それじゃ、誠実がどうのこうのって、あれ、女の子相手に言っていたのか?」
ティガのあきれた口調に、アデイルはむきになった。
「女の子同士だと、言ってはいけないの?」
「いや、かまわないが。こういうとき――」
ティガが言いかけたとき、廊下の向こうに、薄物の白い衣装をまとった少女が浮かぶように見えた。はっとしてティガは言葉を切った。
白い少女は、最初は亡霊のように揺れて見えたが、それは彼女が、背後をふり返りふり返りやってくるせいだった。こちらを向いて、前方の不審者に立ち止まったときには、生身の人間になっていた。壁のランプが彼女を照らし、白いシフォンが、ふわりとスカートにおさまる。なめらかなのどのくぼみには、盗賊がよだれをたらしそうな血色のルビーが収まり、長くのばした髪の毛は、明かりが光の輪をつくるつややかさだ。
少女が怯《おび》えた表情を見せ、きびすを返しそうになったのは、当然ながらゴーガーの巨体を目にしたからだった。けれどもそのとき、アデイルが喜ばしげに叫んだ。
「見つけたわ、ヴィンセント!」
息をのみ、声の主をふり返った彼女は、薄汚れた少女を暗がりに透かし見て、さらに目をまるくした。
「そこにいるのは――本当にアデイルなの。なぜ? いつから? どうしてあなたがこんなところにいるの」
被りものを脱いで顔をはっきりさせると、アデイルは前に進み出た。
「セシリアに、あなたがここにいると聞いたから来たのよ」
「セシリアは、あなたが来るなんて言わなかったわ……」
ヴィンセントはぼうぜんとつぶやいたが、ふいに身ぶるいしてわれに返った。
「なんて無謀《む ぼう》なことをするの。せっかく危険から逃れたものを、自分から飛びこんでくるなんて。ここにいたらどんなに危ないか、わかっているでしょうに。だれが陰謀をたくらんでいるか、あなたにもすでに見当がついているのでしょう?」
アデイルはうなずいた。
「ええ、でも、王宮を出ていくなら、あなたといっしょでなくては。わたくしたちは、いっしょに旅して来たのだから」
ヴィンセントは、アデイルの穏やかな表情を不思議そうに見つめた。
「わたくしを疑わないの? あなたを殺そうとしている人間の身内なのよ」
「わたくしにはそういうこと、わからないもの。もともと身内というものがないから」
アデイルは言ったが、ふざけているわけではなかった。ヴィンセントは、淡い光の映える彼女の瞳が清明《せいめい》で、むしろ静けさをたたえているのを見た。
「わたくしは他人の中で育ったの。血縁の人々も他人なら親も他人。実の姉となれば最大の敵となる身の上よ。だれに裏切られて、だれに殺されたっておかしくないわ。だから、わたくしにできることは、この人ならと思う自分の好きな人を見つけて、とことん信じることだけなの。あなたは身内がいる人だけど、あなたには選ぶ権利があるけれど、わたくしはあなたが大好きなのよ」
ヴィンセントは、もうしばらくアデイルを見つめていたが、肩をおとしてため息をついた。そればかりではなく、絨毯にかがみこんでしまった。
「力が抜けちゃうわ……おばかなのは、わたくしね。あなたはこういう人なのに、そんなあなたを信じずに、これほどじたばたするなんて。最初からすなおにセシリアと行けばよかったのね……」
アデイルがその手を取ろうとすると、顔を上げたヴィンセントは、スカートのかくしから封書を出してさしだした。
「わたくしのほうが疑っていたのよ。あなたに信じてもらうためには、何か物証《ぶっしょう》がなくてはならないと思いこんだの……わたくしが猊下の一味ではないと証明できないと、あなたとの友情もおしまいだろうって」
「これ、手紙?」
明かりにかざして表書きを見たところ、宛名はメリアデス司教になっていた。
「司教に賛同するふりをして、多少の内情が聞き出せたのよ。それから、タイミングよく火事騒ぎになったものだから、彼の部屋を家探《や さが》ししたの。陰謀の一部が載っているはずよ」
アデイルは友人の顔をまじまじとながめた。
「あなたって、もしやすごい人なのでは……」
「でも、惜しいことに、その手紙はメニエール猊下|直筆《じきひつ》のものではなかったわ」
ふたたび立ち上がって、ヴィンセントは言った。
「直筆がどこかにあるはずなの。わたくしたちが逃げのびて、あなたが暗殺されそうだったことをみんなに訴えたとしても、メニエール猊下が陰で糸をひいたという証拠がなくては、真の告発にはならないでしょう。だから、わたくし、これから礼拝堂へ行くところだったの。猊下の書状はあそこにあると思うのよ」
アデイルは思わずティガを見た。ティガは、感心したまなざしでヴィンセントを見ていた。
「頭がいいんだなあ、あんた。あんたの言う親玉が書いた手紙ってのは、本当に礼拝堂にあるのかい?」
「だれ、この人」
眉をひそめたヴィンセントは、にべもなく言った。あわててアデイルが口を添えた。
「彼は味方よ、わたくしを暗殺から救ってくれたの。この二人はエゼレット、ルセルの仲間の人たちなのよ」
「行くなら行こう、おれは興味が出てきた。証拠ってやつは大事だぜ。そいつでミーミをねらったやつらがぎゅうの目にあうならあわせてみろよ」
ティガはどういうわけか、はしゃいで見えた。申し出はうれしいが、この状況下ではしゃげる人の神経が知りたいと、アデイルはひそかに考えた。
「そうだろう、ゴーガー。もうこの際だったら、つれていく女の子が一人いても二人いても似たようなものだよな」
「だれ、ミーミって」
眉をひそめたまま、ヴィンセントが問いつめた。後ろではゴーガーが深々とため息をついていた。
「……どこでまちがえて、こんなお調子者に……」
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第四章 星の女神の笑《え》まう処《ところ》
一
危険の大きい賭《か》けだったが、アデイルであっても、ここまでふみこんだからにはあと少し冒すのも同じだと思われた。司教たちに命を下したメニエール猊下《げいか 》の書状は、たしかに手に入れる価値がある。このままグラールへ逃げ帰って泣き寝入りするのは、どう考えてもしゃくなことだった。
彼らはヴィンセントの案内のもとに、アストレイア女神の礼拝堂へと走った。幸い途中の廊下は、それ以上人に出くわさなかった。聖堂へのわたり廊下を通ったときに、壁のすぐ外で足音と怒鳴り声が聞こえたが、それらの人々も駆け去る様子だ。
王家の通い口まで来ると、ゴーガーが他の三人を押しのけ、用心深くあたりをうかがいながら最初に入りこんだ。彼はしばらく身をかがめて、短い階段の登り口から動かなかったが、やがて扉の外の三人に来いと合図した。人影はなかったようだ。
礼拝堂に入ると、まずは上質な香の匂いが鼻孔《び こう》をさした。ここではグラールの内地よりもふんだんに香料を使うことができるらしい。そして、暗がりに目を慣らした者にとって、礼拝堂の内部は真昼のようにまばゆかった。百ではきかないランプやロウソクがともっている。そのほとんどは祭壇のまわりに集中し、壇上は、アーチを描いた高い天井を照らすほどに明るく輝いていた。
進み出てすぐに、一般参列席のベンチの前部にもうけられた、華美な間仕切りで仕切った席がある。これは王家のための特別席だろう。
「へえ、これが――」
ティガはものめずらしそうに輝く祭壇を見上げ、暗いかなたまで続く参列席を見わたした。
「ずいぶん広いけれど、どこから探すんだい」
「わたくしにまかせて」
ヴィンセントがスカートを手にたぐりよせて進み出た。
「説教壇には、聖典や祈祷書を入れておく文箱《ふみばこ》があるの。さぐってくるから、あとの人は見はっていてちょうだい」
ヴィンセントは軽い足どりで駆けだしていき、アデイルでもためらうような聖なる祭壇の上へ、苦もなく上っていった。
「さすが大聖堂で育った人ね……」
アデイルは口のなかでつぶやいた。ヴィンセントが、女神像に拝礼一つしないことに感心していたのだ。ここにあるのは模倣《も ほう》の偶像だと、彼女の背中が語っている。
ふいにティガがたずねた。
「あんたは『星の楽園』を信じているの?」
アデイルが顔を向けると、彼は油断なく周囲に目を配っていたが、考えているのは別のことのようだった。アデイルも、参列席の並びに目をやりながら答えた。
「もちろんよ。楽園を否定したら星女神の教えはなりたたないわ」
「おれたちは、楽園を認めない。今ここ、エルイエシスの身体となった大地がすべてだと聖者に教えられた。おれたちはどこへも行かない。死ねばこの大地にかえるんだ」
ティガの言葉に、アデイルはめんくらってまばたきした。
「初めて聞いたわ……それでは、救済はいらないということなの?」
「エルイエシスが望んだ救済じゃない」
短く言い切ってから、ティガは言葉をついだ。
「あんたは御子神に手をあわせてくれたから、おれも、あんたたちの星女神に敬意を表するべきだと思うが、アストレイア女神って、やっぱり遠くて冷たい感じがするよ……ぜいたく好きに見えるし」
アデイルは壇上の巨大な立像を見上げた。彼女にはよく見慣れた、端麗《たんれい》な慈愛の女神が手をさしのべている。この前訪れた小さな路地裏のお堂とは、比べものにならない壮麗《そうれい》な天蓋《てんがい》と壁画の装飾に囲まれ、光り輝いてはるかな楽園世界の約束を示し――
天上の星女神は、エルイエシスという御子をもちながらも処女神なのだ。グラールの歴代女王が、子どもをもうけながらも制度上未婚を通すのは、このことを象徴している。
(地上に降りたエルイエシスは、星女神がお生みになった御子ではないと、わたくしは教えられた。だからこそ、アストレイアの慈愛は影のない光のように、偏《かたよ》りもなくすべてのしもべにそそがれるものになるのだと……)
アデイルは考えたが、ティガが見ているものを見ることもできるような気がした。両のかいなにその子を抱いて、一心に見守る母に比べれば星女神は遠い。そして、この堂内の壮麗と華美のどこかには、聖職者が権力に触手をのばす余地があったのだ。
「今は反論しないでおくわ……でもね」
アデイルは小声で言った。
「それでも、だからといって、わたくしの信仰が薄いとは思っていないの。アストレイア女神がじつは無慈悲《むじひ》で残酷《ざんこく》でさえあるということ、けっこうわかっているのよ、わたくしたちは。星女神信仰の中心にあるものは、たぶん、そのさとりだと思うわ」
「甘えないってか」
「ええ、そういうこと」
ティガは、おもしろそうな顔でアデイルをちらりとふり返った。
「あんたはやっぱり、ただものじゃないんだな――そういう答えがすぐに返ってくるところ。おれは思ったんだが、あんたって――」
アデイルはやや身がまえてティガを見た。彼がアデイルの正体について何か言うなら、自分もティガについて気づいたことを話そうと思った。けれども、ティガはするりとかわした。
「見ていると、グラールの女の人が『西の善き魔女』と言われるわけがよくわかるよ。魔女ってきっと、怖い顔をしていないやつのほうが怖いんだろうな」
アデイルはあっけにとられた。
「どこが魔女よ」
そのとき、壇上のヴィンセントが重い聖典の表紙を音をたてて閉じ、一枚の紙をふりかざした。
「あったわ」
「――かかわった人間にばかなことをさせるところだよ」
一瞬間をおいてティガが言った。それは、王家の通い口から姿を現したメリアデス司教を目にしてのことだった。
もちろん司教は一人では現れなかった。この前アデイルを襲ったに似た男たちが全部で五人、すばやく走り出てきた。
「取り囲め。逃がすな」
ヴィンセントは、壇を下りてくるのが精いっぱいだった。彼女とアデイルとティガは、あっというまに退路をたたれ、刃物をかざした男たちに囲まれて、三人で寄りそうことになった。
「……いけませんな。高貴なかたがたが、そろいもそろって火事場泥棒とは」
もの慣れない少女たちの青ざめた顔を見てとったメリアデス司教は、手をあげて男たちを制すると、薄笑いを浮かべて近寄ってきた。
「予感がしてもどってみれば、まあ、なんという悲しむべき有り様でしょうな。お母様がお嘆きになりますぞ、ダキテーヌのご息女。その書状をこちらにおわたしなさい」
司教は手をさしだしたが、ヴィンセントはためらって後ずさった。それを見て、アデイルは苦しい思いでささやいた。
「……司教にわたして、ヴィンセント。ここにいる男たちの刃物は、ふれただけで人を殺してしまうのよ」
メリアデス司教は侮蔑《ぶ べつ》をこめ、かわいた笑い声をあげた。
「さすがは女王候補の姫君、ものごとの本質を深く見抜いておられますな」
ティガがそのとき小さく口笛をふいたが、殺気だった男たちの目が集中したので、たちまち引っこめた。メリアデス司教が、ヴィンセントの手からメニエール猊下の書状を奪い取ったのを見てから、アデイルは言った。
「このままでは済まされませんよ、メリアデス司教。あなたは、わたくしがだれかを充分ご存じの上で、抹殺《まっさつ》することを企《くわだ》てた。その書状がこちらの手になければ、あなた独断のたくらみということになります」
司教は、色がないように見える目を細めた。
「脅《おど》しているおつもりかな、かわいらしい姫君。はるかなオアシスの国で、名もない侍女が不慮の死をとげたとて、だれがさわぎますかな。あなた自身がそうお膳立てしてきたのではありませんかな?」
アデイルは胸をはった。
「そうお思いなら、あなたはグラールの上流階級には入れませんわ。裏の裏、フェイントのフェイントにお気づきではないの? わたくしがこの地で殺されたと伝われば、たとえそれが誤報であっても、ロウランド家の手配したすべてが動き出します。標的はもちろん、最近、東方で好き勝手なふるまいをしているローレイン宗派のかたがたですわ」
「見た目によらず、鼻息が荒くていらっしゃる」
やれやれというように、メリアデス司教は首をふった。
「ローレイン修道院の面々は、もっとも星女神に忠実なしもべであって、一のしもべの大僧正猊下のもと、|殉 教《じゅんきょう》精神に満ちあふれておりますのに。あなたにはたぶん、星女神の天罰が下りましょうな。異端者のほこらにも、平気で詣でるようなあなたには」
金茶色の瞳を怒りにきらめかせて、アデイルは司教をにらみつけた。
「アストレイアの化身といわれる女王家の者に、天罰を下せるというなら下してみせなさい」
メリアデス司教は、にやりと笑った。
「では、そのように。あなたはたしかに、闇に葬られるよりもこの聖堂内で、星女神に罰されてしかるべきでした」
アデイルが強気に出られたのは、この場にいる敵のだれもが、ゴーガーの存在に気づいていないという一点にかかっていた。けれども、ゴーガーは気配すらみせなかった。彼はひそかに加勢を呼びに行ったのかもしれない。それにしても、状況はメリアデス司教の思うがままだった。
司教が命じると、男たちは細なわを取り出して、三人をまとめてくくり上げ、祭壇前の参列席の手すりに縛りつけた。少女たちには抵抗のしようもなかったが、ティガもまた、やけにおとなしくされるままになっていた。毒物を一度味わっただけに、懲《こ》りているのかもしれない。
メリアデス司教はヴィンセントに言った。
「若気のあやまちとはいえ、分別の足りなさは、身をほろぼしますな。あなたに関しては残念でなりませんが、聖なるしもべには、一度の裏切りも許されないのです」
「裏切り者はどちらです」
ヴィンセントは激しく言い返した。
「あなたがたは、玉座に目がくらんで頭がおかしくなっているのだわ。帝国軍を利用して動乱をおこそうなどと。わたくしは手を貸すつもりはありませんし、それこそ女神の御手《みて》を恐れぬ恥知らずな行為だと思っています」
司教は目を細めたままだった。
「どちらがより裏切り者で、どちらがよりグラールの国のためを考えているか、星女神のお裁きを待とうではありませんか」
メリアデス司教は男たちに退去を命じ、縛りつけたままの三人を残して、自分もこの場を立ち去る様子だった。足音高く歩み去る司教を見て、アデイルは首をねじり、ヴィンセントにささやいた。
「何が起こると思う?」
「わたくしにもわからないわ。天罰だなんて、きっと脅しでしょうけど……」
ヴィンセントは答えたが、声の不安は隠せなかった。彼女たちが身を固くして待っていると、司教が王家の扉を出て行ったしばらくあとに、ぎゃっという悲鳴が聞こえてきた。
(ゴーガー?)
戸口を見つめる三人の前に、はたしてゴーガーが飛び出してきた。大男は走りながら叫んだ。
「逃げろ、ティガ。わきによれ」
「はいよ」
ティガが答えたときには、三人のなわは解け落ちていた。けれども、彼らの頭上で物音がしたのもまた同時だった。目を上げたときには、星女神の立像が巨大にせまっていた。
倒れてくる石像の影は、彼らの居場所をおおってあまりあった。空を切ってせまりくる重量が全身を圧して感じられた。覆いかぶさる女神の顔に浮かぶ巨大な笑み。さしだした太い腕。
ティガが少女たちを両腕でかかえこみ、水に飛びこむように身を投げ出した刹那《せつな 》だった。女神像は参列席をたたきつぶし、轟音《ごうおん》と木《こ》っ端《ぱ》と粉塵《ふんじん》を巻き上げ、床石を割り砕いて沈みこんだ。
もうもうたるなかで、一時は目を開けることもできなかったが、どうやら三人とも手足は無事だった。ヴィンセントは、石の像がやぶれたドレスの端をはさんでいるのを見て身ぶるいした。
「なに、これ……これが女神の天罰だというの?」
アデイルも身ぶるいした。一番考えたくない死に方の一つだと思った。
「ティガは、また命を救ってくれたのね」
「礼を言うなよ。これはゴーガーが余裕をかましたせいだ。危ねえだろう、まったく」
咳こんだティガは、近寄ってきた大男を非難の目で見上げた。平気な顔でゴーガーは言った。
「いちおう、公平を期して様子をうかがったがね。やつらが、あんたたちを問答無用で殺すつもりで、うちの小僧を除外する気もさらさらないとはっきりしたからね――」
一番手近にいたアデイルをまず助け起こしながら、彼は続けた。
「やられたらやり返すのが、わしらの鉄則だ。あの性悪な坊さんは始末したが、心が痛むとは言わないだろうね、お嬢ちゃん」
「言わないわ」
小声でアデイルは答えた。彼らの鉄則が正しいのだろう、たぶん。
「ただし、書状はあきらめたほうがいい。探す前にこちらへ急いだものでね。もどって取ってくるひまはなさそうだ」
「おれもけっこう、頭にきたぜ」
ティガは宣言した。
「ここはともかく聖堂だと思って、ちょっとは遠慮していたんだが、坊さんが自分でぶっ壊しているようなら、おれだってやってかまわないだろう」
上着の下から、なにやら黒く四角い箱のようなものを取り出したティガは、底についたひもを引っぱりながら言った。
「これが最後の発火装置。三つめの火事場はどうやらここに決まりだな」
彼が箱をふりかざし、放り投げたのは、王家の扉から先ほどの男たちが走り出てきた、その目の前だった。床に落ちた黒い箱は、一瞬黄色い光を放ち、それから大きな音とともにはじけて、盛大な炎を周囲にふりまいた。
ティガのふるまいで襲撃をまぬがれたものの、あたりはあっというまに燃えさかり、彼らは自分たちもほうほうの体《てい》で逃げ出さなくてはならなかった。ようやく火の手から遠ざかったときには、アデイルは煤《すす》にまみれ、服を裂き、髪は逆立ってぼろぼろになっていた。それでもヴィンセントよりはましで、もとが美しいドレスだっただけに、彼女の姿には悲惨なものがあった。ヴィンセントもそれを知ってか、かなり腹を立てていた。
「この人たち、とことん非常識じゃなくて?」
「わたくしもそう思う」
「あなたがいなかったら、わたくし、絶対についてこなかったわよ。こんな粗暴な人たち」
なんとか王宮の裏手に行き着くと、先ほどの仲間が援護をしてくれた。門を抜け、さらに走ると、そこには別の仲間の手で馬が用意されていた。
このころになると、少女たちは息が切れてへとへとになっていた。ゴーガーはきびしい顔で二人を見た。
「馬には乗れるかね、お嬢ちゃんたち」
「乗れます」
顔を上げたヴィンセントは、きぜんとして馬の鞍《くら》に手をかけた。彼女は秀才のわりに運動もできるのだ。わたくしだってなんとかなるわと、アデイルは考えた。今は、しりごみなどしているときではなかった。けれども、ヴィンセントにならおうと続いたとたん、ティガにあっさり腕をつかまれた。
「あんたはこっちだ、ミーミ」
斑《ぶち》のある大きな牡馬《お うま》を選んだティガは、アデイルを自分の後ろに引っぱりあげると、寸秒を惜しんで馬を出した。他の男たちも、合図を待たずにめいめいの馬で走り出していく。
アデイルが疲れはて、感覚もすりきれて追っ手の恐怖を感じなくなった今になって、ティガはむしろ真剣の度合を増したようだった。むだ口をきかなくなり、声を出すのは馬をはげますためのみだ。
彼の乗馬はかなり荒っぽく、スタイルを無視していたが、馬をせめるよりははげました。牡馬は急ぐティガの気持ちに同調し、全速力で走り出す。なんであれ、アデイルにもふり落とされない努力が必要だった。
ティガの背中にしがみつくと、上着の下の装備がごつごつと体に当たって痛かった。そうでなくとも硬い背中だ――丸みがなく、硬く、熱い。女の子にはあり得ない背中だ。今は夢中になって馬を走らせているが、アデイルには、この背の持ち主が怯えていないのが感じとれた。たとえ怯えることがあったとしても、彼はそれを高揚感に変えることができるのだ。
(生きている……)
ふいに実感してアデイルはそう思った。ティガのもつ律動を通してのことだが、自分自身にもはね返ってくる驚嘆だった。胸の底が熱くなり、だれに感謝するでもなく感謝した。アストレイア? エルイエシス? だれでもよかった。
危険のあご先をかすめながらも、こうして熱い血をかよわせ、ゆるがずに生きている。ティガの内にあるような、しなやかで熱い生命には、どんな女神であろうと喜びたもうにちがいなかった。
(……そうして、わたくしも生きている……わたくしも喜んでいる……)
ゆっくり考えるひまはなく、一寸先のこともわからなかったが、星明かりの下を飛ぶように駆け抜けながら、アデイルはそんなことを思っていた。
市街を離れ、耕地や木立を抜け、砂漠へふみこんだ場所までやって来てから、彼らは残りの仲間と合流した。三十から四十ほどの人数と見えるエゼレットの一隊がそこに集結していて、幌《ほろ》のかかった荷車一つと荷駄《にだ》の数頭を準備して彼らを待っていた。
ルセルとセシリアも、すでにこの中にいた。セシリアは駆け出してきてアデイルを探し、その無事な姿を見てほっとすると、今度は馬上のヴィンセントを見て、胸をつかれた顔をした。
「ヴィンセント様……わたくしには、おわびの申しあげようがありません。お嬢様に、心ない進言をしてしまいました。幸い、聞き入れてくださらなかったのですけど……」
「いいのよ。わかっているから」
ヴィンセントはにっこりして言った。
「何も言わないで。言えばわたくし、だんだん後悔しそうよ。アデイルが、あんまりならず者っぽい人と来たから、びっくりしてついてきてしまったの。やめておけばよかったかもね」
ヴィンセントが馬を降りようとするのを見て、ゴーガーが止めた。彼はずっとヴィンセントに付き添ってきたのだった。
「降りてはいけない、すぐ出発する。ここへは王宮の追っ手もたどりつける。装備なしのやつらが引き返す距離まで砂漠を逃げないとだめだ」
ヴィンセントはげんなりした顔になった。
「ええ、まだ休まないの? わたくし、もう死にそう」
「あんた、なかなかいい乗りっぷりだよ。しかし、だめなら馬車に乗ってもいい」
ゴーガーは幌のかかった荷車を示した。すると、その御者台からうなるような声がかかった。
「まったく――ゴーガーがついていたとも思えん嘆かわしい展開だよ。こんなに派手にやらかして、後のことは考えてあったのかね」
はげ頭にちょっと手をやって、ゴーガーは応じた。
「まあ、ときには、なりゆきもある。元気だったかね、デリン」
足をひきずってやってくる影に目をこらし、アデイルは驚いて声をあげた。
「デリンさん。あなたもいっしょに行くの――お店はどうなさるの?」
「この先、あの場所で無事に営業を続けられるとでも思うかね?」
デリンはむっつりと言い、相乗りのティガを見やった。
「わしが、何度静かな余生を送ろうとしても、そこのドンパチ小僧がぶちこわしよるのだ。今回もまったくの散財《さんざい》だよ。こやつには、まだまだエゼレットをまかせておけんな。ゴーガー、あんたもそのへん深く身にしみただろう」
「――まあな」
ティガは何を言われようとも平気だった。
「しみったれたことを言うなよ。また稼《かせ》げばいいじゃん」
「おまえさん、これだけ思いっきりおたずね者になっておきながら、雇《やと》い主が見つかると思っているのかね」
デリンは眉をしかめたが、そのときルセルが口をはさんだ。
「いや、それがいるんだよ。願ってもない大口スポンサーが。くわしい話は出発してからだ。そこのお嬢さんがたは、デリンの馬車に乗せてもらうといい。なにしろ大切な顧客だからね」
ルセルのとりなしで、アデイルとヴィンセントが荷台に乗りこんだところで、一行はかなりの速度で進みはじめた。まだまだ油断のできる状況ではないのだろう。けれども、かつてない活劇的な一日をすごした少女たちは、馬車のゆれに身をゆだねられるだけでもうれしかった。
とはいえ、デリンが積みこんだ木箱や樽《たる》や酒びんの並ぶ荷台は、座れる部分もわずかなものだった。食料品を主とした雑多な物資のようで、幌の中は野菜や脂《あぶら》、他の物が混り合った妙な匂いがした。ヴィンセントは暗い内部を見わたして苦笑した。
「こんなところに座って喜ぶ自分が、信じられないわね。でも、実際はありがたいわ」
「そうね。生きていて、こんな体験ができるのがうれしいかもしれない――とくに、あなたといっしょにできると思うと」
アデイルが言い、二人はぐったりして荷物に寄りかかったが、すぐに眠れる状態ではなかった。きわどい思いをした余波が胸にあるし、今もまだ逃亡の真っ最中だ。おまけに、ゆれる荷台の板敷きは固くてクッション一つないときている。
しかし、最後の一点は、デリンが木箱の衣類を使うといいと言ってくれたので、それを下に敷くことで多少は緩和することができた。ヴィンセントが小さく笑って言った。
「体が痛いのも、生きているからこそね。わたくしたち、生死をともにする、ということをしたのね。通りすぎた今だから言えることだけど、これってずいぶん強い絆《きずな》になると思わない?」
「でも、あなたはこれから後悔するかもしれないわ」
アデイルはまじめに言った。
「今から言うのもへんだけど、あなたが血縁を捨ててわたくしについてくれたこと、不思議な気がするくらいなのよ。たとえあなたが逆を選んでも、うらむことはできなかったわ。こういうことは理屈じゃないもの」
「わたくしがセシリアに言ったことを気にしているのなら、あれは言葉のあやよ。そういえば、セシリアは馬車へ乗ってこないのね」
ヴィンセントに言われて、幌の小窓を伸びあがってのぞいたアデイルは、しばらく外を見つめた。
「彼女、ずいぶんタフなのね。ルセルの隣りで馬に乗り続けているみたい」
ヴィンセントはやれやれといった声を出した。
「と、いうことは、彼女はずーっとルセルにくっついているわけね。まあねえ、今回のトルバート行きで一番おいしいところを拾ったのは、結局セシリアだったのかしら」
アデイルは笑った。
「しかたないわ、わたくしたちは侍女ですもの。でもね、ルセルは亡国の王子様ではないのよ」
ヴィンセントはまばたきしてアデイルを見た。
「どうして、そんなことを知っているの?」
「ちょっとね」
肩をすくめ、アデイルは理由を言うのを避けた。
「でも、崇高《すうこう》な心根をもっている人が王子様だとしたら、彼も王子様なのかもしれない」
「ねえ、小説になりそう?」
ヴィンセントにたずねられて、アデイルは首をふった。
「彼らは生きているの。とてもわたくしには歯が立たない気がするわ。わたくしって、自分がかかわらないことしか――空想したことしか、書けない人間だから」
そう答えてから、アデイルはしみじみつけ加えた。
「でも、わたくしのこうした態度は、自分自身に努力をしていないということではなかったかと、今回つくづく考えさせられたわ。わたくしって、たぶん、けんめいになるのが怖かったのよ」
ヴィンセントはアデイルを見つめてから、別の質問をした。
「エゼレットは、どうしてあなたの味方になったの?」
「あら、味方というほどのものではないのよ。本当に、ただの通りすがりだったのだから。でも、いつのまにか、こういうことになって」
「あなたらしいわねえ」
ヴィンセントはため息をついた。もっと説明しなくてはならない気がして、アデイルは急いで続けた。
「あ、そうだわ。ティガとルーンを見まちがえたのよ。それがきっかけだったの。あなたにも明るいところで見てほしいわ。ティガって、ずいぶんルーンに似ているのよ」
「ねえ、アデイル――」
ヴィンセントは注意して聞いておらず、ぼんやりと言った。それから、やや頭をかしげてアデイルを見やった。
「わたくしが今回つくづく考えたのは、グラール女王制とはいったい何だろうということよ。あなたはいったいだれだろうということ。何といっても、こんなことになってしまったでしょう、傍系王族の意味を考えずにはいられなかったわ。あなたは正直に言ってもきっと怒らないと思うから言うけれど、もちろん、わたくしが女王になる権利をもっている場合のことも考えてみたの」
アデイルが驚いて黙りこむと、ヴィンセントは乱れた髪を少し照れたようにかきあげた。
「困らないでね、そこまで考えた上で心を決めたということを伝えたかったのよ。あなたが、がらの悪い異国の傭兵といっしょに王家の私殿に現れたときに、はっきりわかったの。わたくしにこんなことはできない、メニエール猊下にもおできにならないって」
「でも、あの人たちが来てくれたのは、本当にたまたまよ……」
「そうではないと思うわ。あなたは前に、女王家の娘はカッコウの娘だと言っていたでしょう。コンスタンス陛下がそうおっしゃったと。たぶん、そのとおりなのだわ。そうあるべくして、女王家直系の人は近親をもたないような機構ができているのよ。何ももたないように……だから、だれもかれもが手をさしのべずにはいられないように。敵対者でさえ思わず協力してしまうような、そういう人物が生まれてくるように」
暗がりでヴィンセントの表情ははっきりしなかったが、声にほほえみが宿っていた。
「あなたの身一つの勇気が、それを立証している。それだけでも、優れて選ばれた女の子だわ。あなたが女王にふさわしいと気づくことができて、わたくしは心からうれしいの。女王制の支配力には、権力をからめてはならないのよ。たぶん、それがグラール女王国という国なのよ。これらは、小賢《こ ざか》しいわたくしの口上《こうじょう》だけど、つまるところは、あなたが好きよと言いたいだけでしょうね。だから、後悔なんてするはずがないのよ」
「……ありがとう」
アデイルは小声で言った。
「ヴィンセントったら……本当に、あなたらしいのね」
二
エゼレットの一行は、太陽が高く昇るまで休みなく先を急ぎ、彼らの知っている小さな井戸に行き着くと、馬に水を飲ませてようやくひと息を入れた。
周囲には草一本見当たらず、岩ばかりのころがる乾いた平野が続いていたが、はるかな北の高山に降った雪や雨が伏流となって地下を流れており、探せる者には探し出せるのだ。井戸に近い小ぶりな丘のふもとへ陣どった傭兵たちは、丘の上に当番制で見張りをたて、簡素な日除けをつくって地べたで寝入った。馬車の荷台の少女たちは、それよりずっと早くからこんこんと眠っていた。
西の地平に赤い日が沈むころ、起きだしたゴーガーが、しばらく使わなかった自分の大刀の手入れをしていると、ルセルがやってきた。彼はもう、貴公子の姿をしていない。どの傭兵とも似かよった布目の粗い砂色の兵服に、肩と左胸を保護する革具をつけている。
「少しは眠れたかい、ゴーガー」
「たたき起こされなかったからな。トルバートのやっこさんは出足が遅い。帝国とはちがうな」
ゴーガーが答えると、ルセルは両腕を上げて伸びをしてみせた。
「おれもよく寝たよ。悲しいねえ、あっというまに岩の寝床で眠れてしまうこの身が。四ヶ月はなんだったんだろうな。ティガは?」
「あれでも少しは反省しているのか、見張りをかって出たが、叱りとばして寝かせた。死んだみたいに寝てるぞ、今も」
くすりと笑って、ルセルはゴーガーの隣りに腰をおろした。
「お嬢さんがたも、まだ眠っている様子だね。しかし、驚いた話だよな。エゼレットの手中にころがりこんできたあの女の子たち、二人が二人ともグラールのお姫様だっていうじゃないか。信じられないような取りあわせだな――傭兵のおれたちと、大国のお姫様だぜ。ちっぽけなオアシス国家の連中にさえ、足げにされるおれたちなのにさ」
ゴーガーはしばらく刀の刃を調べてから、おもむろに言った。
「大国グラールに恩を売るのは悪くない」
「大国グラールに、脅迫を入れるという手もあるかもしれんぞ」
ルセルが言うと、ゴーガーはちらりと見た。
「ティガはやりたがらん」
「そうか」
ルセルは肩をすくめた。
「じつをいうと、おれもそのほうが助かるんだ。セシリアを泣かせるのは、ずいぶん気がすすまないからな」
「あの御婦人なら、泣いてすませはしないだろう」
「うん。そういうところが気に入った。実際、ぐらっときたな――彼女が男爵夫人ではないとわかったときには」
大刀をさやに収めたゴーガーは、さりげなく言った。
「チアレンデルは、住むにいい国だぞ。奥のほうなら、人知れず静かな暮らしもできる」
ルセルはおかしそうにゴーガーを見やった。
「彼女を家に居つかせる自信なんて、このおれにはないね。だいたい、せっかく売りに出したおれの顔をどうしてくれる。この高貴な顔立ちはまだ、いざというときの切り札だぜ。本人があれだから」
ゴーガーははげ頭をなで上げると、ため息まじりの口調になった。
「わしは今回、一生つけねらわれ、一生闘って暮らしてもいいかと考えはじめたよ。それでいいとあれが言うのならな。そういう生き方しか教えられなかったのはたしかだ。それならば、よる年波でこの剣が振れなくなるまでそばにいて、闘って死ぬのは悪くない」
「ふうん」
そばにあった小石を拾い、投げ上げて、意味もなく見張りを驚かせてからルセルは言った。
「それならおれは、あんたが死ぬところを見とどけるまではいてやるよ。おれみたいな変わり種《だね》も、エゼレットには必要だろう。でないと、あいつはますます野生馬みたいになっちまうぞ」
ゴーガーがぶぜんとしていると、ルセルはにこにこして幌のかかった馬車を見ながら言った。
「思えば残念な話だよな。本物のお姫様に二人も出会って、しかも似合いのお年頃だというのに。育て方をまちがえたって、真剣に思うだろう?」
「婿《むこ》になどやらん。ティガはあれでいい」
ゴーガーはうなり声で言った。
「生きていてくれるだけでいい。だが、あれには、仲間を率いる能力がある。傭兵団の長としてわしの後を継げば、屈強の男たちがさらに集まるだろう。いつか、ブリギオン帝国を逆に憂《う》き目にあわす日がくるかもしれん」
「夢のようだが、いい夢だな。おれも、あいつになら夢を見てもいいと思っているよ」
ルセルが答え、ゴーガーはたそがれに青く澄みわたった東の地平を見つめた。
「……砂漠では育つまいと思う、ひ弱な子だったがな……どうしてここまで、あの子にわしらのなくした国を見るようになったのやら。ティガは生きのびるだろう――お調子者がなおればの話だが」
ルセルは笑い、話を切りあげた。
「ところで、おれは腹がへったよ。しかし、お嬢さんがたが起きてくれないと、デリンにたのむこともできないな……」
馬車に目をやった二人は、お嬢さんがたがすでに目覚め、活動していることに気がついた。幌から顔を出したアデイルは、まだ寝ている人間にも気づかずに、あわてた様子で叫んでいた。
「セシリア、セシリア、来てちょうだい」
呼ばれたセシリアは、ヴィンセントがひきつけでもおこしたかと飛んできたが、見れば彼女は元気そうだった。破れたドレスを脱ぎかえ、デリンにもらった大きな男ものを着ていたが、眠ったおかげで気力を回復しているようだ。
「いったい何ごとです」
セシリアは、男ものがさらに大きく見えるアデイルをふり返った。アデイルが目を見開き、ただならぬ表情をしているのはたしかだった。
彼女は手にした便せんをさしだした。
「これなの……ヴィンセントが手に入れてくれた、メリアデス司教あての手紙よ。今までしっかり読む機会がなかったのだけど、この文面――」
「アデイルお嬢様をなきものにせよと書かれていても、わたくしは驚きませんよ」
セシリアは先回りして言ったが、アデイルは首をふった。
「ううん、暗殺には残念ながらふれていないのよ。司教も死んでしまったし、これに関する告発はもう無理だわ。トルバート王家だって、たぶんもみ消しにかかるでしょうし」
「アメリアに手を下した人ですから、死んで当然でしたけれど、告発できないのは残念ですね……それ以上に大変なことってあるのですか?」
セシリアは書状に目をやった。けれどもアデイルは、待ちきれないように言った。
「セシリア、ここに書かれている指示は、どういう手段をつかってもいいから、グラール国内に帝国軍がトルバートを侵攻するものと見せかけろというものなのよ――帝国軍の本体が南下して、カグウェル国の南部に到達するまで」
「カグウェル国の南部?」
思わずセシリアはあきれた声をあげた。
「そんなばかな話があります? カグウェルといえば、南の小国家の中でも最南端で、だからこそ竜の被害にあっている国ではありませんか。その南になど、どうやってたどり着くと。そこには竜の森しかないというのに」
「わからないわ。ハイラグリオンを出ることのかなわない大僧正猊下が、どうしてそれをご存じなのかもわからない。でも、事実だと思うの。砂漠をわたる傭兵の人たちは、このことをすでに聞き知っていたのよ。帝国軍が南に向かっているって、もう前から言っていたのよ」
アデイルが言うと、それまでくちびるをかんでいたヴィンセントも口を開いた。
「じつはわたくしも聞いているの――メリアデス司教本人がそれを言っていたのよ。東の帝国軍など取るに足らないものだから、こちらにひきよせて、彼らの征服欲を利用するのですって」
セシリアは息を吸いこんだ。
「帝国軍を砂漠のこちらに招き寄せることで、どんなメリットを得られるというのです?」
「わたくし、わかるような気がするわ……」
そう言ったのはアデイルだった。
「わたくしがトルバートで客死すればいいと画策した人たちなのよ。レアンドラのことだって、必ず視野に入っている。さらに手強い敵として目に映っているはずだわ。猊下の思惑にあるものは、たぶん、レアンドラの軍隊なのよ。あの、戦場へ行ってみたくてうずうずしているピンハットフィールドの志願兵たち。彼らを南へおびきだすつもりなのよ」
「そうだわ、それよ」
ヴィンセントが手を打った。
「彼らが実際に戦闘をくりひろげれば、猊下は世論をおこすことができるわ。グラールの伝統を強く主張して――そしてそこに、逆勢力につく女王候補もいないとなれば、かきたてられた世論の支持は、すべてメニエール猊下のものになるにちがいないのよ」
「もとから計画的だったのかもしれないわね――」
アデイルはため息をついて、ほおを押さえた。
「レアンドラとわたくしに女王候補の課題をもっていらしたのは、メニエール猊下だったの。ブリギオン帝国の侵攻を阻止しろという。そこからすでに、陰謀がはじまっていたのかもしれない」
一面に純朴《じゅんぼく》さをもつセシリアは、ただただ驚くばかりだった。大陸全土の女神信教の教主ともなるこうごうしい御方が、そこまで悪質な、星女神の教えをないがしろにした邪念をもつとは考えられなかった。そのことを言うと、ヴィンセントが首をふった。
「一族として言うけれど、セシリア、これはあり得ることなの。これほどの誘惑に手がとどく、現在の猊下のお立場がまずお気の毒と思うけれど……わたくしだったとしても、きっと二の舞を演じるでしょうよ。もしもアデイルという人がここにいなかったなら」
セシリアは黙し、それから気を取りなおして顔を上げた。
「……かくなる上は、一刻も早くグラールへもどりましょう。大僧正猊下の向こうをはるものごとであっても、レイディ・マルゴットの御方ならきっと的確に対処してくださいます。奥方様のお耳に入れてご指示をあおぎましょう」
決意すると、セシリアの口調は歯切れよくなった。
「すでに、チアレンデルに直行することはルセルを通して傭兵たちの了解をとりつけています。この人たち、今はわたくしが大金で雇っていますのよ。きっと無事に送り届けてくれるはずです」
セシリアがたのもしく請けあったのに、アデイルの金茶色の瞳からは懸念が消えなかった。
「だめよ、セシリア」
「お嬢様、エゼレットは、ひとたび契約を結べば誠実な人々ですよ」
「そうじゃないの。そのことじゃないの。山脈を越えてメイアンジュリーへもどって、それから南への使者が向かったのではまにあわない――まにあわないわ」
アデイルは必死の表情を浮かべていた。
「カグウェルには、お兄様がいらっしゃるのに。フィリエルもイグレインも行っているのに。きっとだれもが、竜退治のことしか頭になくて、軍隊が侵攻するなどとは夢にも考えていないのよ。あの人たちに知らせないと、だれかが知らせないと」
セシリアはたじろいだが、言い聞かせるように言った。
「ここは砂漠です。チアレンデルを抜けていくのが、グラールへの最短の道です。次に打つ手を考えるためにも、ハイラグリオンへもどるべきです。こうなると王宮内の情勢だって心配ですもの」
「もしもわたくしが女王候補からはずされていても、わたくしは気にしないわ。どうでもいいのよ」
アデイルはきっぱり言った。
「でも、こんなわたくしのために無駄死する人がいるのはがまんできない。放っておくことはできないわ」
セシリアは息をのんだ。
「アデイル様。まさか、グラールへ帰らないおつもりですか」
「そうは言っていないわ。でも、そう、せめてグラール国境の町シスリーへ行けないかしら……あそこに行けばミニアンがいるわ。王宮への通信手段があるもの」
困りはててセシリアは言った。
「無茶をおっしゃらないでください。これだけ危ない目にあって、まだ懲りておられないのですか。あなたの安全をお計りすることができるのは、ハイラグリオンの壁の内だけです。直行して帰るべきです。南へ飛ばす使者ならいくらでもいますから」
「いや」
アデイルは両手を握りしめた。
「だめなの、わたくし自身が行きたいの。わたくしが南へ知らせに行きたいのよ。こんな知らせを手に入れた以上、ただお母様にどうにかしていただくために帰ることなど、とうていできない」
「お嬢様――」
なんてわがままなと考えた、セシリアの表情を察したように、ヴィンセントが冷静な声で言った。
「セシリア、あなたの言うことは理にかなっているようだけど、一つだけ訂正しておくわ。ハイラグリオンの壁の内を安全と言うのはまちがいよ。グラールの歴史上、いくたび要人の暗殺があの中で行われたかを数えれば、壁の外のほうが安全と言えるくらいなのよ」
セシリアはきっとして傍系王族の少女を見た。
「あなたまで、アデイル様に賛成とおっしゃるのですか?」
「よく考えてほしいの。ハイラグリオンを、生まれてから墓場までの根じろにしている人間を甘く見てはだめよ。いかにルアルゴー伯爵夫人が優秀でいらしても、メニエール猊下はそういうかたなのよ」
忠実な侍女は一瞬憤慨したが、ヴィンセントの口ぶりは彼女にも考えこませるものをもっていた。黙りこんだセシリアは、しばらく間をおいてから自信なげに口を開いた。
「……傭兵たちに契約変更の交渉をしてみますわ。もっとも、彼らもけっしていい顔をしないと思いますよ」
「お願い、説得して」
アデイルは言ったが、セシリアは答えずに歩み去った。彼女の背中を見送ってから、ヴィンセントは軽くひじをかかえてアデイルを見た。
「……今のが本音でしょう、アデイル。あなたは最初からずっと、南の国へ行きたかったのよ」
「ばかよね、わたくし」
アデイルは、観念したように友の顔を見た。
「わたくし、生きるか死ぬかの問題だということをなるべく考えたくなかったの。そのことから考えをそらせていたかったのよ。死んだらすべてがそこで終わるというのに。一度あったら二度目はないというのに。だから、絶対に死なせることはできないはずなのに――ユーシスお兄様を。そして、お兄様にもう一度会うわたくし自身を」
ヴィンセントはにっこりした。
「それがわかっただけでも、今度の旅はかいがあったわね」
アデイルはどぎまぎして、顔を伏せた。
「ただ、本当の問題は、お兄様にとってわたくしが単なる妹だということなのよ……」
「でも、あのかたは一の騎士だわ。これからだって、時間はたくさんあるわよ」
ヴィンセントが言うと、アデイルは顔を赤らめた。それからくすりと笑って、取りまぎらすように肩をすくめた。
「今言ったことは、砂漠を出たら全部忘れてはててね。わたくしの本性は、こんなにひたむきに見える女の子ではないのよ。生死をともにしたヴィンセントだから教えたのよ……『旅の恥はかきすて』と言うじゃないの」
「どうでもいいけれど」
吹きだしながらヴィンセントは答えた。
「わたくしは、絶対にあなたがユーシス様に再会するところまでついていくわよ。見のがせない見ものだもの」
セシリアは、ゴーガーとルセルを見つけて彼女たちの意向を伝えたが、予想したとおり、二人はいい顔をしなかった。
「そりゃあ、話がちがうだろう」
ゴーガーはいかつい顔をしかめたので、かなり凶暴に見えた。
「わしらが引き受けたのは、チアレンデルまでの仕事だ。あの国までの距離ならたいしたことない。だが、砂漠をうろうろするとなると危険度がまるでちがう」
ルセルはもう少し当たりが柔らかかったが、言葉の内容としては同じだった。
「なるべく気持ちに沿いたいが、現在の事情が事情ですよ。われわれもまた、手っとり早く国境を越えて当面のなりをひそめる必要がある。南方ルートはトルバート商人に知りつくされた道です。今はもたついている追っ手であっても、追いつかれることになりますよ」
「そうですわね……当然ですわね」
セシリアはほおに手をあてた。
「危険報酬の割り増しをはずむと申しあげたいのですけれど、予想できる危険にも限度がありますしね。わたくしも、のり気でこう言っているわけではないのです。何といっても、お嬢様がたの身柄の無事が第一ですもの。それなのに、あのかたは言いだしたらきかないところがあって……もう一度説得を試みてみますわ」
そう言って、セシリアが簡単に意見をひるがえそうとしたそのときだった。かたわらで声がした。
「稼げばいいじゃないか」
ふり向くと、そこにいるのは起き出したティガだった。ぼさぼさの頭をかき、あくびをかみ殺していたが、話の内容は聞こえていたもようだった。
「金、稼ごうぜ。おれはチアレンデルには行かないよ」
「ねぼけてるだろう、ちびトラ」
ルセルに言われて、ティガの表情はもう少しはっきりしたものになった。
「ねぼけてねえよ。このままおれたちがチアレンデルまでつっ走るのは、だれでも考えつくことだと思わないか。そういう場所へ逃げてはいけないものだと、おれに教えたのはゴーガーだろう」
ティガがゴーガーを見ると、ゴーガーは知らんぷりをきめこんだ。そこでティガは、緑の瞳をセシリアに向けた。
「あんたは、チアレンデルまで行けば無事だと思っているらしいけれど、その先の道には自信があるのかい。グラールからの山越え道っていうのは、宣教師《せんきょうし》の道だろう。あの司教みたいに刺客を使う連中が、うようよ出入りするんじゃないの?」
「あ……」
セシリアは思わず顔色を変えた。信心深い人々の素朴な国々。それはとりもなおさず、聖職者が力を増す地域だということなのだ。
「おれたちは、刺客の扱いにもけっこう慣れているんだぜ」
ティガが胸をそらせて自慢するので、隣りでルセルがため息をついたが、若者はかまわずに続けた。
「ああいう連中の前では、命惜しみをして一番の安全策をとらないのがコツだ。フェイントってやつだけど、あの女の子は同じようなことを言うからおもしろいんだ。あんたより、あの子のほうがわかっているよ」
セシリアはそうではないはずだと思ったが、黙っていた。結論を同じくしているのはたしかだった。けれども彼女は、アデイルに驚くよりは目の前の若者に驚きをおぼえていた。傭兵たちの平均よりひとまわり小さく、おさな顔のこの若者を、セシリアはこれまでそれほど注意して見なかったのだ。その彼が、ゴーガーを黙らせて百戦|錬磨《れんま 》の口のきき方をする。
「山越えの道は勝手を知らないから、ついていってやるとは言えないが、砂漠ならおれたちの領分だ。しかも大金がころがりこむとあれば、おれは南へ行く道に賭けるぜ」
陽気な声音でティガは言った。
「そうすれば、デリンがまた店を開けるしさ。たまには気を変えて、南の小国に開業してみたいと思うよな、デリン」
「そんなことは言っておらん」
大鍋の上にかがみこんでいたデリンが、じろりとティガを見た。
「勝手にひきあいにだすな。自分がもっと長くお嬢ちゃんたちといたいんだと、正直に言え」
ゴーガーがようやく口を開き、すごみのある声で言った。
「遊びではないぞ、ティガ。トルバートが追っ手をつかわすなら、それはわしらの同業者だ。そして、かたぎの御婦人をひきつれているぶん、こちらに分が悪い。それでも南ルートに身をさらす気か」
「ここらで勝ち名のりをあげないとね。四ヶ月のブランクがある。だが、おれたちはやってのけるよ。泣く子も黙るエゼレットさ」
ティガの瞳が生き生きと輝いた。セシリアは、ふいに彼を信じていいような気がした。根拠はどこにもないのだが、そういう心もちになったのだ。正面からティガに向きあったセシリアは、あらたまった口調で言った。
「わたくしたちを無事にシスリーへ届けてくださったら、これまでに目にしたことがない額をお支払いすることを請けあいますわ。そしてさらに、グラール女王とロウランド家の好意は長くあなたがたのものとなるでしょう」
全員が食事をすませ、出発の準備がととのったころ、荷馬車の積みこみを手伝うアデイルのもとへ、ティガがやってきた。
「ミーミ、ちょっと来いよ」
彼も今では、アデイルの名前も素性も知っているはずだが、態度は最初と変化がなかった。本名を知っても呼んでやらないと言ったとおりに、ミーミで押しとおすつもりなのだ。
「わたくし、忙しいのよ」
働いていることを自慢したくて、アデイルはそう答えたが、ティガは気にもとめなかった。
「あっちのおねーさんは馬にがんがん乗るし、そっちの女の子だって、そこそここなしているから、いい家の女の子は乗馬を知らないというわけではないんだろう。どうしてあんただけ乗れないんだ?」
『そっちの女の子』ヴィンセントは、かちんときた様子だった。
「無視しなさい、アデイル。そんな子としゃべると粗暴がうつるわよ」
けれども、弱点を指摘されたアデイルはそれほどすましていられなかった。
「わたくしだって、これでも、ひととおりの訓練はつんだのよ。ただ――あなただって、わたくしは走るのが遅いこと知っているでしょう」
「とろいことはわかっているよ。だけど、馬に乗るのはまた別だろう」
「同じよ。わたくし、腕の力もないんだもの」
アデイルは拗《す》ねて言ったが、ティガはきっぱりと返した。
「馬を御《ぎょ》すのは腕力の問題じゃないよ、ミーミ」
「そんなことを言っても、だめなものはだめなのよ。馬って、わたくしがいうことをきかせるには大きすぎる――怖いんだもの」
「乗ってみろよ」
ほほえみもせずにティガは言った。
「おれが教えてやるから、ここから先は馬で行くんだ」
アデイルはあきれて息を吸いこんだ。
「そんな悠長なこと、しているときではないでしょう。追っ手にねらわれているって、セシリアが言って――」
「こんなときだからこそ、教えるんだよ。デリンの馬車はできるかぎり軽くするべきだ。わずかな足の遅れも命取りになるんだからな」
アデイルはわれ知らず青ざめた。
「わたくし、できない。そんなの無理よ。それなら、この計画全部が無理だったんだわ。中止してもらうしかないわ」
「おれはすでに引き受けた。引き受けたからには、おれのやり方でやらせてもらう」
「そんな」
アデイルは半泣きになったが、ティガはその手をとって言った。
「あんたは逃げ足を鍛えるべきだよ。走れないのなら、せめても馬で逃げることを知らなくては。これからだって、命をねらわれることはあるんだろう。それなら、動物を味方につけなきゃ」
ティガに強引に手をひかれ、アデイルは休息を終えた馬たちが馬具を締め、鞍をのせられている中へつれていかれた。鼻息の荒い馬たちをやすやすと扱う数人の兵士が、手をつないだ二人を見てにやにやしたが、アデイルには、それにこだわる余裕すらなかった。
「この馬の名前はテトラ。ほら、ここの白がきれいなひし形だろう。牝馬《め うま》だから性質はやさしい。けれども、けっして駄馬《だば》じゃない。駄馬じゃないということは、乗る人間を見るということだ」
ティガが示したのは、薄茶と白の毛色をもったほっそりして機敏そうな馬だった。ティガの乗っていた牡馬《お うま》のように大型ではないが、並み以下に小さいわけでもない。近づけば顔も体も大きくて、アデイルはすぐに気圧《けお》され、無理だという気分になった。
「乗る人間の体が小さいと、馬がばかにしやすいのはたしかだ。でも、気にしなくていい、要は気迫だから。相手に負けない気迫があれば、馬はさとって従う。あんた、その気になったときにはけっこう迫力があるから、馬と心をかよわせることさえできれば可能なはずだよ」
ティガが首筋をかいてやると、テトラは喜んで大きく鼻を鳴らし、顔をすり寄せた。さらにはティガの肩口にふざけて噛みついた。牝馬がくちびるをめくると長い歯が見え、アデイルは肝が冷えた。けれどもティガはのんきに交流を続け、ポケットからオレンジ色の切れ端をとりだして、アデイルに手わたした。
「あんたの手からやってごらん」
見ると切ったニンジンだった。しかたなくアデイルがさしだすと、テトラは遠慮せずにばりばりと噛み砕いた。および腰になっているアデイルに、ティガは言った。
「馬の気心を知ることなど、そんなにむずかしいことじゃないんだ。三日三晩いっしょに寝起きすれば、いやでもわかってくるようになるよ。馬は尊敬する生き物であっても、恐れるものじゃない。おれたちが天から授かったけものなのだから。御子神を守った十二のけもののうちでも、もっとも品位の高いのが馬だよ」
(そんなことを言っても……)
怖いものは怖いのだと言いたかったが、領主館の馬術教師がこんな言い方をしなかったのはたしかだった。庭へ出ると手入れされた馬が待っていて、練習が終わると馬丁が厩《うまや》へひいていく。アデイルは、馬が喜んで歯をむくところも初めて見たのだ。
けれどもティガの口調に含まれたものは、傭兵たち全体の態度にも現れていて、彼らはこのきびしい環境のなか、起き伏しにも食事にも、自分たちより馬を優先しているように見えた。
思い出すのは兄ユーシスのことだった。同じにルアルゴーの領主館で大きくなりながら、彼は馬術競技会で毎回受賞する人間に育った。そんなユーシスは、小さいころ、勉強をさぼったときやいたずらの罰に、よく厩のそうじをさせられていた。父の伯爵は、息子を御曹司《おんぞうし 》として甘やかしはしなかったのだ。
アデイルといえば、セルマに臭くなると言われて近づくことさえ禁じられていた。アデイルも、逆らってまで行こうと思わなかった。けれどもユーシスは、罰を苦にする様子もなく、そのうち罰がなくても行くようになった。馬といっしょにいるのは気持ちがいいと、彼は妹に打ち明けた。
ユーシスは犬も好きだった。どう猛《もう》な猟犬《りょうけん》でも彼の寝室で眠ったし、少年のころはトカゲでも虫でも気に入れば部屋へもちこみ、侍女に悲鳴を上げさせていた(そして執事のペントマンに叱られて、罰を受けるのだ)。
馬に乗り犬をつれて、戸外を駆け回ることがユーシスは何より好きだった。アデイルにはついていくことのできない遠くまで、いつも出かけてしまうのが彼だった。考えてみれば、今に至るまで同じことのくり返しだ。最終的に、出かけていく場所がカグウェルになったというだけだ。
(わたくしにも馬を御すことができたら、そうしたら、何かがちがってくるかしら……)
これまで、アデイルが乗馬をならおうと思いたった切実な理由は、レアンドラに負けまいとするその一点だった。一つの技術だと思っていた。けれども、愛情をこめて馬をあやすティガを見ていると、そういうものではないような気がしてきた。
たどたどしく馬に乗ったアデイルのかたわらで、寄り添うように馬を操るティガを後方から見やって、セシリアは言った。
「ほほえましい光景ですわね」
隣りでルセルが応じた。
「若い者の特権ですね。ああいう無邪気なふるまいができるのは」
「ええ」
「――という、見守るおとーさんとおかーさんのような会話を交わすには、われわれもまだ若すぎると思いませんか?」
セシリアは横目で金髪のルセルを見やった。
「わたくしに、最初に語ったほど若くないのでは? 国をなくしたとき三歳だったとおっしゃったのは、あの子のことでしょう。さばのよみすぎですわよ」
「ああ、いや、まあ」
ルセルは頭に手をやった。
「それでも二十歳くらいには見えるでしょう。もとカラドボルスの人間は、一般に若く見られがちなんですよ」
「あなたは本当に、もとカラドボルスの人間?」
「さあ。それもどうでもいいことなんです」
あっさりとルセルは言った。
「帝王エスクラドスにうらみのある点では、わたしと彼らは同じですから、出身地には関係ないんですよ。エゼレットの傭兵隊には、そういうふところの深さがある。わたしのような者が、これからもここにはどんどん集まってくることでしょう」
セシリアはため息をもらした。
「おかしな人たち、あなたがたって。刃物のふちをわたるような生き方をしているのに、あっけらかんとして、悲壮《ひ そう》になりもせず楽天的ですのね」
「砂漠に暮らすと、涙がもったいなくなるものですよ。水分としてね」
ルセルはにっこりしてセシリアを見た。
「しかし、これでも広い世間をわたったつもりですが、ふれこみより素顔のほうがお若い御婦人に出会ったのは生まれて初めてでしたよ。逆がふつうです。フェイントですね、これは」
「百万人と交際なさったのでしょう、あなたなら」
セシリアはつんとして答えたが、気になってもう一度彼を見た。
「わたくし、化粧すると老けて見えます?」
「素顔のほうがかわいいですね。クモの巣だという王宮へやるのはしのびないくらいに」
しばらく間をおいてから、セシリアは言った。
「……あなたは、この危険な暮らしをやめようとは思わないのでしょう?」
ルセルの笑顔はしかたなげに変わった。
「そうなんです。そこのところが残念ですが」
「わたくしもです。わたくしも、レイディ・マルゴットのもとへもどらないで仕事を放り出すことはできません。でも――」
セシリアは言葉を続けた。
「この仕事を無事に終えたときには、おひまを願い出るのかもしれません。もっとも、故郷のチアレンデルへもどれるとは思いませんわ。わたくしのために従姉妹が亡くなりましたし、素朴で静かに信仰|篤《あつ》く暮らすには、いろいろなことを知りすぎてしまいました。もしかすると、あっけらかんとした危険な暮らしがしたくなるかもしれませんわ……」
一方、ヴィンセントは腹を立てて、二組の男女のどちらからも離れて馬を駆けさせていたが、彼女には鈴なりについていく連中がいた。
アデイルが、最初町娘としてエゼレットのもとにころがりこんだのに比べ、ヴィンセントは男たちの思い描く高貴な姫君そのものだった。彼女の高飛車《たかび しゃ》な態度でさえものめずらしく、かしずきたい人間がたくさんいて、ゴーガーに追い払われているのだった。
三
行軍するエゼレットは、暑い真昼に休息をとり、凍える夜更けにわずかな火をたいて休憩し、朝方と夕方は駆け続けた。
中間の小休止は馬に給餌《きゅうじ》するためであって、人のためではなかった。荷物の大半もかいばや馬に飲ませる水であって、とぼしくなれば人間ががまんする。地平まで目をふさぐものなく見通せる、広大な不毛の大地をわたっていくのは馬たちであり、人はその背を借りているだけなのだ。
ティガはアデイルに、三日三晩同じ馬と寝起きすれば、いやでも呼吸が一つになると言ったが、アデイルはこの厳しい環境についていけず、二日でダウンして馬車で半日寝込んだ。手袋をしても手はまめだらけで、鞍でこすれて足もすりむき、体じゅうがきしみを上げていた。毎日馬に乗り続けるようなまねはとてもできない。
もっとも、半日遅れでヴィンセントもダウンしたのだから、少女たちにはきつすぎる生活だったことはたしかだった。アデイルは、自分一人がかけ離れてふがいないわけではないとわかって、わずかになぐさめられたが、それで何かが楽になるわけではなかった。
乗り馬のテトラとは、さっぱり気心が通じなかった。落馬は一度もしないですんでいるが、それはティガが目を離さないからであって、彼と彼の大きな牡馬トルクがにらみをきかさなければ、背中のアデイルなどばかにしきっている感じを受けた。
(わたくしには無理だ。先天的に何かが欠けているのよ、きっと……)
暗澹《あんたん》たる思いでアデイルは考えた。半日寝た後にしぶしぶ起き出したのは、ひとえに、馬車の荷台に二人も乗せては引き馬に負担がかかりすぎるからだ。意欲をあらためて復帰するわけではなかった。だいたい、二日でだめにしてしまったからには、また一からテトラとやりなおさなければならないのだ。
いやいやながらテトラにかいばを運んだアデイルだったが、彼女が近づくと、薄茶と白の牝馬は注目して前足を踏みならし、鼻を鳴らした。まるで歓迎しているように見えて、目をぱちくりしていると、ティガが笑って言った。
「ミーミのことを覚えているよ、こいつは」
「本当に?」
「うん。重たい男よりもあんたがいいと言っている。半日あんたの代わりに、サイラスが乗りまわしたものでね」
策略のせいなのかどうなのか、アデイルとテトラの関係はそれから少しよくなった。アデイルが自信をもちはじめると、牝馬もそれに応えるようだった。応えてくれると、アデイルの目には、このほっそりした牝馬がすべての馬のなかで一番きれいな馬に見えてきた。もっときれいにすべすべに磨いてあげたくなった。
今はエゼレットは、砂漠の端を南南西に向かって通る隊商の南ルートを下っていた。どこにも道らしい道はなく、土ぼこりのあがる地面は足跡やわだちの跡も残していないが、わずかな丘や特徴のある岩をめじるしにして、広がる大地に一つの通い路を見つけるらしい。
そこが道である証拠に、まる一日ほど進んだところで、反対方向へ向かう一隊に正面から出くわした。彼らが前方に豆つぶ大に見えたときから、エゼレットの男たちは緊張をはじめた。アデイルとヴィンセントは馬車のかたわらまで下がっているように言われ、ティガと体の大きな数名が前面に立つ。
「あの人たちは追っ手ではないでしょう? 商人なのでしょう?」
アデイルはとまどって、御者台に座るデリンにたずねた。
「まあ、そうだな。商売者だろうな。だが、相手次第で強盗になれるのはどこのどいつも同じだ。この道で行き会う者なら、だれだって承知している。わしらも人のことは言えない」
デリンの答えに、アデイルは息をのんだ。
「まさか、襲うの?」
「相手次第だ。最初は、隊長格の人間があいさつを交わす。これは基本ルールだ。だが、その後血をみるか、円満なすれちがいに終わるかは、なりゆきを見るしかないな。どういうことでも起こりうる」
ヴィンセントが顔をしかめた。
「わたくしたち、ここでけんかをしている場合ではないでしょう」
「一方的に売られることもある」
デリンはさとりすましたように言った。
「わしらは後ろに引き返せない身だからな。弱みを見られるなら打ってでるしかあるまい。うわさの伝播《でんぱ 》は意外と速い。隊長の判断がものをいう――はったりの力量もな。交渉に立つ者とわしらは、一蓮托生《いちれんたくしょう》なんだよ」
正面の隊商はみるみる大きくなった。縦に長いのではっきりとはわからないが、土ぼこりを見れば、かなり大勢いるようだ。彼らは一定の距離まで近づくと速度をゆるめ、先頭の数人が進んできて、さらに中からりっぱな黒馬に乗った一人が歩み出てきた。垂れ布の長い被りものをし、縞の衣装がゆったりと体を覆っている。
双方の隊列は停止し、アデイルたちも今は足を止めていたが、彼女は、こちら側からティガが進み出るのを見てどきりとした。
「あの……ゴーガーじゃないの?」
「指揮権はゆずっとる。王宮へ行く前にな」
相手の男は大きく、ふんぞり返って見えた。どう猛そうでもある。対峙《たいじ 》するティガは、猟犬の前の子猫のように見えた。
「……なめられてしまわないかしら」
はらはらしたアデイルが思わず言うと、デリンはまじめに答えた。
「慣れとるよ、ティガは。見くびられるたび手を出していたら命が足りないくらいにな。そういうことは、口八丁のルセルからも教わっとる」
結局、交渉の結果は何も起こらなかった。ティガは相手にデリンの酒びんを十二本贈り、樽二つぶんの水をもらって、事なくすれちがった。エゼレットの男たちは、相手が行ってしまってから、もっと分捕ればよかっただの闘いたかっただのとわいわい言ったが、本気で不満を言うわけではなく、緊張ほぐしのようだった。
再びくつわを並べてきたティガに、アデイルはたずねた。
「ああいうとき、どうやって相手の出方を見るの? 判断するきっかけをまちがえることはないの?」
「いや、まちがえないな。人を見るのは簡単だよ」
ティガは朗らかに言った。
「のまれないで構えれば、たいていのことは見抜ける。あわてなくても、相手が自分からぼろを出すんだ。それに、強面《こわもて》は見飽きているし……げんこつを握ったゴーガーより恐ろしげなやつって、まだお目にかからないからな」
「用心とは別なのね」
「相手を見ながら、言葉で調節していけばいいんだ。黙っているうちはわからなくても、話をはじめてもわからないはずはないよ」
アデイルは小声で言った。
「わたくし、最初にあなたと話したときには、わからなかったわよ……」
ティガはぴんとこないようだった。
「何がわからなかったって?」
(そうでもないか……)
アデイルは思いなおした。考えてみれば、ティガ自身はこれっぽっちも変わっていなかった。町中で見かけた元気な若者のそのままだ。変わったのはアデイルの見方であり、見えるものに目が開かれなかったのは、アデイルのほうなのだった。
あと二日行けばグラール南東部にあるトルマリン国の国境だと、ティガが告げた朝のことだった。彼らはついに後方の地平に影を見た。じりじりと追いすがってくるトルバートの追討軍《ついとうぐん》だった。
「引き離すのは無理だな。あとは差をつめられるだけだ」
ティガは爪を噛んで一瞬考えた。
「追いつかれる前に国境へ逃げこめるかな……二昼夜休みなしは、ちょっときついなあ」
「デリンと御婦人だけ先に行かせて、迎え撃とう。どこかで戦闘はまぬがれないんだ」
ゴーガーが言った。これは予想していたことで、だれもたじろいではいなかった。
「そうだな。しかし、ここはそれほど足場がよくないよ。もう少し先まで進もう」
ティガが決定し、彼らが馬の足を速めたそのときだった。前方にまた別の隊商の影が見えた。先頭集団を走っていたジェストが下がってきて、ティガと馬を並べた。
「まずいぞ、こりゃ。どうする」
折衝に使う時間は彼らに残されていなかった。ティガは肩をすくめた。
「あいさつ抜きで突破だな。だけど、おれたちの後ろのやつらを見て、わかっているんだろうな……やっぱりね」
彼がやっぱりねと言ったのは、前方の相手も穏当《おんとう》なあいさつを交わす気がないことを態度で示したためだった。騎馬の男たちが横に散開をはじめ、足止めの構えだ。闘いを挑む男たちだった。
「やだねえ、利にさといやつばっかりで」
「おおかた、懸賞金《けんしょうきん》のうわさでも出回ったんだろうよ。あり得る話だ」
ティガは片手を高くあげた。
「戦闘用意。追いつかれる前にあいつらを吹っ飛ばす」
合図を受けて、エゼレットも散開をはじめた。体勢をととのえる男たちのなかで、ティガはルセルを呼んだ。
「ルセル、デリンの馬車と女の子たちを左手に誘導しろ。左直進だ」
「しかし、ティガ」
「そうだよ。だから行ってくれ」
「わかった」
ルセルはくちびるを引きしめると馬を返した。大きくまわりながら後尾へつき、デリンにティガの指示を伝える。
「やな方向だな。本当に左か」
「ティガが言うんだ。しかたないだろう」
「ええくそ」
彼らがたづなを繰《あやつ》り、南ルートと言われる方向から直角にそれていくのを見て、わけがわからないもののアデイルたちも急いだ。武力衝突となる今は、足手まといにならないよう、せいいっぱいのことをすることしかできない。アデイルは、牝馬のテトラをすんなり左に導けてうれしく思ったが、この程度で喜んでいては、らちがあかないことは明らかだった。
「お嬢さんがたは馬車の前に回って。セシリアも。そう、前に見える、あの赤い岩をめじるしに直進するんだ。決して足を止めないで」
ルセルはてきぱきと命じたが、声の硬さは彼らしくないものだった。彼は、後方の部隊とともに闘いたかったのかもしれないと、アデイルは思った。
熱をおびた風が前から吹きつけ、ひづめの響きと背後の馬車が石を飛ばす音で、戦闘の物音などは聞きとれなかった。しかし、馬を操りながら後ろを見ることがかなえば、まだティガたちの様子は目にできるのかもしれなかった。追討軍がどのくらいせまったのかも。自分たちに追っ手がついたかどうかも。けれども、アデイルには技術的に無理だった。まっすぐ前を見て走るしかなかった。
(……いつもいつも、そうだった。わたくしには、戦闘を直視する能力がないし、そこに加わる能力はさらにない。けれども、ティガは最初から逃げずにそれらを見ている。暴力をふるう人間の行為もそうでないものも、瞳に焼きつけている。やられたらやりかえせと言うためには、目をそむけることは許されないのだ。だからこそ、ティガは人を見るのは簡単だと言うのだわ……)
前方に、だれの姿も認めずに荒野を駆けるのは心細いものだった。目的地からどんどん遠ざかる一方と思えばなおさらだ。泣きたい気持ちになっていると、ヴィンセントが馬を寄せてきた。
「元気を出して、アデイル。ああいう悪たれは、容易に死んだりしないわよ。わたくしが請けあってあげる」
アデイルはあわててはなをすすった。
「それ、なぐさめているの?」
「いいえ、ただの実感よ」
ヴィンセントはきっぱり言った。
「彼らは、砂漠をわたることでお金を要求できる人間よ。それを思い出しなさいな。危ないのは、不慣れなわたくしたちだけよ」
めじるしにしていた、墓標《ぼひょう》のような赤い岩を通り過ぎると、そのあたりは、風化作用によって屹立《きつりつ》した赤い岩石があちらこちらに見える、風変わりな場所だということがわかってきた。ひび割れた地面がいつのまにか細かい砂に変わり、馬たちの足並みが遅くなる。
「そこまでだ、馬を止めて」
後ろからルセルの声がかかった。
「われわれに追っ手はつかないようだ。やっぱり、トルバートの連中も心得ているらしい。このあたりは、サラマンドラの巣だから――」
(サラマンドラ……の……巣?)
その情報が頭の中で意味をなすには、少々時間がかかった。アデイルは、以前にティガが話していたことにようやく思い至った。砂漠のふちに棲《す》む小型の竜――毒をもつ竜。
ルセルは続けて言っていた。
「やつらは多少にぶくて、最初に巣のなわばりを通過した者を襲うにはまにあわない。けれども、二度目に通った者には確実に毒を吹きかける。あまり奥へふみこんではだめだ。帰ってこられなくなる」
(そんな……)
アデイルは、今はじめてテトラがひどく神経質になっていることに気づいた。馬は、アデイルの感じない匂いを嗅ぎとり、何かを察するのだ。
停止を命じても、テトラはおろおろと歩を進めた。
「だめよ、テトラ、止まって」
困惑したアデイルが叱りつけたそのときだった。かたわらにある丈の高い赤い岩の陰から、跳躍《ちょうやく》した生き物がいた。大きさは中型の犬くらい。けれども胴体は虹色がかった光沢のある緑色で、青味がかった鞭《むち》のような長い尾をもっている。首から上は鈍い赤、額に三本の角《つの》が立ち、一番長い中央の角は鮮やかな真紅をしていた。さらには、首から背中には目立つ背びれのようなものが突っ立っている。
どんな図鑑にものっていなかった異様な姿に、アデイルは悲鳴を上げたが、テトラも激しくいなないた。牝馬が前に飛び出したために、サラマンドラは後ろの地面に着地した。
テトラが恐怖にかられて疾走するのを、アデイルには止められなかった。気持ちはいっしょだったし、首にしがみつくことでせいいっぱいだったのだ。
「アデイル」
ヴィンセントが叫ぶ声もすでに後方だった。あっというまに、テトラはただ一頭で駆けていた。周囲をいくつもの赤い岩が飛びさっていく。点々とあるどの岩陰にもサラマンドラがひそんでいそうだった。ふり落とされたら最期なのだと、アデイルは自覚した。
(このままじゃだめだ……)
牝馬は目をむき、泡を飛ばして駆けている。テトラを自分でしずめることができなければ、アデイルは早晩《そうばん》落馬するだろう。地面はめまいのする速さで飛んでいくが、気分を悪くするようなぜいたくはできなかった。
「テトラ、おまえは砂漠の子でしょう。賢い馬でしょう。落ち着きなさい、あんなものはただのトカゲよ」
風に負けずに何度も言っていると、アデイルの声はしっかりしてきた。本当にただのトカゲだ――ユーシスなら館につれてくるかもしれない。彼が現在相手にしているのは、馬よりも巨大な竜なのだから。
「落ち着いて。おまえにはわかるでしょう。トカゲのいないところで止まって。止まって大丈夫よ」
冷静に考えれば、サラマンドラが馬を餌に生きているとは考えられなかった。それに、もしもヘビやトカゲと同じなら、自分が脅かされないかぎり攻撃しないはずなのだ。
アデイルが恐怖を押し殺すと、テトラの速度も落ちてきた。そして、アデイルがほめてやり、信頼してたづなをゆるめてやると、牝馬は少しのあいだ並足で歩いてから、ふるえる息を吐きだして止まったのだった。馬のわき腹は汗にぬれ、アデイルも冷や汗でびっしょりだった。
(止まれた……けれども……)
額をぬぐって後ろをふり返れば、百もの赤い岩が見えるばかりだった。それほどはるかに来た気もしないのに、ヴィンセントたちもデリンの馬車も見当たらない。アデイルはようやく、これが遭難《そうなん》であることに気づきはじめた。ヴィンセントたちは岩場を通ることができない。そして、アデイルにはもどることができなかった。
砂漠をわたる者の常備として、アデイルの鞍には満たしたばかりの水筒一つと、四分の一食分のかいばを入れた鞍袋がついていた。男ものの服のポケットには、ひとにぎりの干し棗《なつめ》も入っている。日よけに使う布もある。
だが、当面これらでしのぐとして、動きだすべきなのか、この場にとどまるべきなのか、アデイルには判断しかねた。サラマンドラの巣を迂回してみんなのもとへもどる試みは、慣れない身にはあまりに不確かに思えたし、ここで待つのもひどく不安だ。戦闘の後、はたしてエゼレットが無事かどうかを知るすべもないのだ。
さんざん迷ってから、アデイルは動かないことに決めた。方向も定まらない砂漠をうろついたほうが、だれにも会えない公算が大きい。出会えなければ、即、日干しの運命である。アデイルに可能なのはここを動かず、まっすぐひき返すことだけだった。
(サラマンドラにとっては、いつまでが二度目なのだろう……)
赤い岩のつらなりを見つめ続けていると、だいぶ離れたところで、岩から岩へすばやく走る彼らの姿が見てとれた。岩の上に彫像のように座っている一頭もいる。どちらも、テトラが動じないほど遠くではあったが、まず今日中に通過することはできないと思わせた。
長丁場になりそうなので、テトラの鞍を降ろしてやって、たづなの先を地面においた鞍に結びつけた。後は、牝馬のわずかな影に入って、暑い日射しに耐えるほかなかった。ぼんやりとながめていると、砂漠には案外生き物がいる。サラマンドラの他にも上空を滑空《かっくう》する鳥がいたし、砂の上を移動するヘビを見たし、大小のいろいろな虫もいた。傭兵たちはそんなものを気にもとめずに地面で寝ていたが、アデイルはさすがに横になる気になれなかった。
やがて、太陽が西に大きく傾くと風が強まり、岩のあいだを吹き抜けて、泣き声のように淋しい音をたてた。ひどく気のめいる音色だった。アデイルは夕陽の落ちていく西の空をながめ、その地平に淡青の山影が見えることに気がついた。ファーディダッド山脈の南端だろうか。知らないうちに、目的地にこんなに近くなっていたのだ。
(あと少しで帰れるのに……)
空がたそがれの紫に染まると、アデイルは耐えられなくなって鞍に手をのばした。これほどの不安をかかえてただ一人で座っているよりは、どんなことでもましな気がした。毒をもつサラマンドラよりも、彼女をしめ殺すようにじわじわと圧する、顔のない広大な空間のほうが恐ろしかった。ここにいるのはがまんできない――
けれども、テトラが鼻面をすり寄せるのを見て、ふとわれに返った。アデイルは一人ではなかった。心細さを分かちあう、暖かい血の脈打つ友がここにもいるのだ。
「明日の朝までがんばろうね。夜が明けたら、そのときには全力で駆けようね」
アデイルは牝馬の首を抱きしめて、自分とテトラに言いきかせ、せめてものなぐさめに水筒の水を分けあって、食糧を少しお腹に入れた。けれども、食べ物を口にふくむと、かえってヴィンセントやセシリアやティガや、その他の仲間たちを思い浮かべてしかたなかった。
日が暮れると、いつものように急速に気温が下がった。深夜には凍える寒さになるのだ。ふくらみかけた月が昇り、青ざめた光をなげかけて、地表の赤い岩から色を吸いとって闇に浮かばせる。冷たく澄んだ空気の中、砂が輝いて岩の影がくっきりと見えた。
上空を見上げれば、全天が金銀の星くずで織りなされていた。空のふちに近いあたりでは、大小の星が笑いさざめくようにまたたき、頭上を仰げば、透明な水底を見るように奥行きのある夜空に星ぼしが浮かんで見える。
砂漠へ来てからも、これほどしっかり星をながめるのは初めてだった。驚嘆するばかりの星の数だった。本当に星女神を信仰するなら、グラールの空ではなく、ここまできて星を見上げないといけないわと、アデイルは考えた。星の光が自分にふりそそぐのがわかるようだった。
(……星の楽園はこのなかにあるのだろうか……本当にあるのだろうか……)
女神の御子エルイエシスは、灼熱《しゃくねつ》の地上に降り立たれ、地中深くお隠れになった。アデイルは、砂漠にあった深く暗い井戸を思い起こし、そこから汲み上げられた水の驚くほど冷たかったことを考えて、御子のお気持ちはよくわかると思った。
けれども、地中へお隠れになったのはそのためだけだろうか。この怖いほどに美しい星空を目にすることを拒まれたせいではないだろうか。
やさしい雨を手に受けるように、星の光に手のひらをかざしてみながら、アデイルは考えた。
(拒むことはない……否定することはないわ。星ぼしの光は、たしかにわたくしたちに何かを語りかけてくるもの……)
そのとき、突然テトラが大きく鼻を鳴らし、足ぶみをしたので、アデイルはあわてて自分を叱りつけた。呆《ほう》けていては危険に対処できない――
「なにしてるんだ、ミーミ」
「え?」
まばたくとティガが立っていた。怪奇《かいき 》現象かと思い、もう一度まばたいたが、その姿は消えなかった。
「なにしてるんだ。テトラは遠くからわかったけれど、あんたが見えないから、どこにこぼれ落ちたかと――」
アデイルは飛び上がり、駆け寄り、ティガの首筋に抱きついた。天から降り立ったのでもなければわけがわからなかったが、その姿を見た喜びは抑えがきかなかった。
「よかった、元気じゃないか。みんな心配しているんだぜ」
抱きつかれたティガは言い、アデイルの背中をかるくたたいてなだめた。その手つきは、馬を愛撫《あいぶ 》するのと同じようだった。
「みんなはどうなったの。闘いは?」
「大丈夫、仲間うちで死んだやつはいないよ。傭兵は機を見るのが速いんだ。トルバートで雇われた連中だって同じさ」
得意そうにティガは続けた。
「やつら、ルセルが首謀者だと思っているだろう。そのルセルを逃がしちまったから、はりきって闘う意欲をなくしたんだ。そして、サラマンドラのねぐらにふみこむ勇気のあるやつなど、あいつらの中にはいやしない。要領がわかるのは、砂漠を追われてさまよったことのあるエゼレットくらいのものだよ」
「わたくし、あれはトカゲだと自分に言いきかせていたのよ」
アデイルが言うと、ティガは少女をひどくやさしく抱きしめた。
「えらかったな。それ、合っているよ。あいつらは怪物みたいなご面相をしているけれど、魔ものでもなければ呪《のろ》われてもいない、砂漠のふちで生きるつつましい生き物なんだ」
アデイルの恐怖はその言葉で完全にとけた。彼の声と体熱があれば、砂漠の無辺の空間にもうるおいが宿るようだった。
「でも、ルセルが言ったのに――あなたは、わたくしの通った後を通って平気だったの?」
「トカゲみたいだと自分で見抜いたくせに。あいつらは、トカゲと同じで寒くなると動けないんだよ。夜になって冷えきれば、何度ふみならしたって出てこないさ」
ティガは水とニンジンをたずさえていたので、テトラの喜びもひとしおだった。まずは馬の気づかいをするところが砂漠の人間だ。牝馬にニンジンを食べさせてやって、ティガは笑った。
「これは、二人乗りさせてもらう賄賂《わいろ 》だよ。テトラには少し重すぎるけれど、帰り道に時間をかけるのもいやだしさ」
そういうわけで、アデイルは二度目にティガと相乗りをすることになった。三度目はたぶん生じることがなく、これが最後だとわかっているからかもしれないが、アデイルはなんだか相乗りがうれしかった。
きらめく星の下、二人はテトラの背にまたがり、墓標のような岩の間を進む。ティガの背中に安心して体をあずけながら、アデイルは言った。
「わたくしはね……金の鳥の羽根を見て金の鳥を探しに来たの。だから、トルバートへ来る気になったのよ」
「金の鳥? なんだい、そりゃ」
ティガにはぜんぜん通じない様子だった。
「あのね、金のりんごを盗んだ金の鳥を探せと、王様が三人の王子にいいつけるのよ。そして、三番目の王子だけが、金の鳥と金の馬と金の城のお姫様にたどりつくの」
「金の馬っていうのは、かっこいいかもな」
せいいっぱい想像力を働かせてティガは答えた。アデイルは思わず笑ってしまった。
「それでね、わたくしは今考えているの。金の鳥の羽根がすばらしいと言われているけれど、世界は予想よりもものすごく広いって。求めるべきものは、金の鳥とはかぎらないのかもしれない。この世には、輝くような銀の鳥も、金より貴重なプラチナの鳥もいるというのに――ってね」
ティガはとうとう困惑した。
「ミーミ……やっぱりあんた、一人でいるあいだに熱射病か脱水症をおこしたんじゃないか?」
「あら、いやね。正気で言っているのよ。ティグリスの名前をもつあなただから言うのよ」
しばらく間をおいてから、ティガはつぶやくように言った。
「おれの正式名は、たしかにティグリスだ。でも、あんたが知っているとは思わなかったな」
「知っているのよ」
アデイルはさりげなく言った。ティガは最後までアデイルにミーミと呼びかけるように、最後まで自分の口からは言わないのだろう。だから、アデイルも口にするまいと思ったのだった。
けれどもアデイルは、本人が思ってもみないところで聞いてしまったのだ。デリンの店で熱にうなされたとき、ティガはうわごとで、ルセルにむかって言っていた。『おれの名前で死ぬな』とくり返していたのだ。
「……あなたのように闘って生きている人たちのことを、わたくしは今まで知らなかった。きびしい生き方、きびしい場所ね。何もかもが荒々しくて、苛酷《か こく》で、闘わないと砂漠では生きていけないのね。でも、それを知ることができただけ、わたくしも強さを分けてもらえる気がするの」
「あんたは、あんたの方法で強いよ」
ティガの背中が答えた。アデイルはほほえみ、言葉を続けた。
「グラールの人間だって、今までに闘っていないはずがないのよ。ただ、わたくしが大事にされて、守られて、目をそらすことを許されていただけ。だから、砂漠を出ることができたら行くつもりなの――わたくしのために闘っている人のところへ」
「それでいいんだろうな」
根ほり葉ほり聞かずにティガは同意した。言わないし聞かない――世の中にはそういう強さとやさしさもあるのだと、アデイルは思った。
その間、ティガはティガで別のことを考えていたようだった。
「さっき、あんたが立っているのを見たとき、お告げを受けているのかと思ったぜ。星女神に祈るって、ああいうことなのか?」
「わたくし、見上げていただけよ。星があんまりすごいから」
「星の楽園が見えたとか?」
「ううん、見えなかった。でも、感じられるような気がしたの。わたくしたちが、裏切りや流血や欺瞞《ぎ まん》で信仰さえ汚して、地上をみにくくしてしまったとしても、星の光までは汚すことができないって」
アデイルが答えると、ティガはしばらく考えこんでいた。それから、彼らしいながらもどこか神妙な調子で言った。
「おれはたぶん、一生砂漠をあっちへ行ったりこっちへ行ったりして暮らすだろう。どこで死ぬことになっても、砂漠に埋められるだろう。そうして、地下へ行ってはじめて動かずに、ほっと一息つくんだろうな――御子神がそうだったみたいにね。けれども、この先、星女神のことを考えるときには、礼拝堂の女神でなくさっきのあんたを思い浮かべるよ。星空の下の女の子を――たぶんずっと」
四
グラールが南の国境に築いた壁が見えていた。シスリーの城門まで、彼らはとうとうたどり着いたのだ。
トルマリンとカグウェル北部を結ぶ街道に入ってからは緑も増え、久々に目にする樹木が生《お》い茂って、旅はかくだんに楽になっていた。宿に泊まることができ、食糧の心配もなくなった。
久々にテーブルで給仕をされると、アデイルたちは奇妙な気がするくらいで、ここしばらくは作法もおろそかになっていることに気づいた。けれども、まだまだ細かいことにこだわってはいられず、先を急ぐ必要があった。
デリンはあちこちを物色する目でながめていたが、最初に入ったトルマリンの町リングルに店を出そうかと言いだしていた。アデイルは熱心に賛成を唱えた。そうなれば、彼らが少しでも身近にいてくれるような気がしたのだ。
ヴィンセントは、以前にましてティガにつんけんしていた。サラマンドラのねぐらでアデイルを迎えに行くとき、彼女が行くと申し出たのに、ティガが自分で行ってしまったからだ。聞けば、ティガは最終的にコインの賭けでヴィンセントを負かしたらしかった。あれはいかさまだったのであり、一生許さないとヴィンセントは言っていた。
不思議なことに、ヴィンセントのこうした気性のきつさはゴーガーを感心させるらしかった。ティガが彼女にけんつくをくらうと、ゴーガーはおもしろがっていた。そして、いつからかヴィンセントを「お嬢さん」と呼ぶようになった。アデイルはいつまでも「お嬢ちゃん」のままである。
ルセルとセシリアは、少なくともみんなの前では二人の世界をつくることもなく、どちらかといえば互いにそっけなく接していた。用がないのに近づきはせず、必要な会話しか交わさない。それでも一行の全員が、承知していることはしていたのだが、口の悪い男たちもわりと野次を飛ばさなかった。それが真実となると、彼らは言わなくなるものらしい。
セシリアは、リングルの町から早便を出してミニアンに連絡をとってもいた。そのおかげて、エゼレットの一行がシスリーの城門へたどりつくその前に、開いた門の前には、出迎えの兵士を引きつれたミニアンが待っていた。
「お帰りなさいませ。よくぞご無事におもどりになりました。奥方様をはじめとして、みなさまさぞかしお喜びのことでしょう」
ミニアンはセシリアと同じくらい若かったが、結い上げた髪といい、感情に流されない言葉つきといい、見事なほどきりりとして、いかにも宮仕えの女性であることを思わせた。彼女は馬から降りたアデイルたちに深くおじぎをし、セシリアとは心のこもった抱擁《ほうよう》をかわした。
セシリアは、安堵《あんど 》の思いをありありと顔に浮かべてアデイルたちをふり返った。
「お嬢様がた、ひとまずはミニアンの世話を受けてシスリーでお待ちください。わたくしは、あと少しエゼレットとともにいて、報酬の件をつめてまいりますから」
アデイルが傭兵たちを見やると、彼らはグラールの兵士を警戒してか、遠巻きにして立ち止まっていた。ティガはいくらか手前に進み出ていたが、彼であっても用心深い距離を保っている。砂漠の道で、すれちがう相手に出会ったときとそっくりだった。
(ああ、そうだ。今この瞬間に契約が終わり、わたくしたちは彼らの仲間ではなくなったのだ……)
そうした思いに打たれ、アデイルは胸の痛みに驚いた。まさか彼らとの別れが残念になるとは、旅のつらさを味わっているあいだは思いもよらなかったのだ。
ティガと目を合わせると、彼はにこりと笑い、片手をかかげた。
「それじゃ。元気で暮らせよ。あんたのとろいところは、そっちの女の子とたして二で割るとちょうどよくなる。せいぜい二人でがんばりなよ」
アデイルは思わず言った。
「わたくしたち、いつかもう一度会うときがくるわね。きっと、どこかで会えるわよね。わたくしもこれからは、じっとしていないつもりだから」
「うん、会えるよ」
根拠がないながらも、ティガは請けあった。ヴィンセントは彼にきっぱり告げた。
「わたくしは二度と会わなくていいわよ、あなたがこの次までにその口をなおさないなら」
「じゃ、なおさないよ」
アデイルへの返事と同じくらい機嫌よく言って、ティガは馬の向きを返した。彼のしぐさを見てとって、エゼレットの後列の人間が動き出す。
「ティガ」
アデイルは叫んだ。彼が背を向けるとひきとめたくなるのは、アルスラット宮殿の前と同じだった。この人物は、あまりにあっさり行ってしまう気がするのだ。けれどもティガをふり向かせても、たくさんのことが言えるわけではなかった。
「あの、一つだけ、最後に教えて――」
口ごもって、息をついでからアデイルはたずねた。
「あなたには兄弟が――弟がいた?」
馬を止めたティガは、意表をつかれた顔をした。
「おれは末っ子だった。兄と姉は死んでいるし、弟はいないよ」
「そう……」
アデイルががっかりしたのを見てとったのか、ティガはなぐさめるように言った。
「そういう期待はもたないことに決めたんだ。あれこれむだだとわかったし――エゼレットの連中、昔は探したけれどね。死んだ母はお腹が大きかったが……とうてい助かるような|情 況《じょうきょう》ではなかったよ。おれはおれ一人で充分だと思っている」
快活に手をふって、ティガは今度こそ歩み去った。今のはたぶん、彼としては最大限に譲歩した打ち明け話なのだろうとアデイルは考えた。
去っていくティガと傭兵団を見やって、ヴィンセントがふいに言った。
「わたくしも思うわ」
「え?」
「わたくしも思うわよ――似ていると。ぜんぜんちがう顔のときもあるのだけど」
「……これは、だれにも立証できることではないのでしょうね」
アデイルはため息をついて言い、それからほほえんだ。
「わたくしとあなたの秘めた思い出にしましょうよ。少なくとも、ふさわしい時をむかえるまでは。すてきな秘密、すてきな思い出だと思わない?」
南方の情報をロウランド家の奥方へ届けるために逗留《とうりゅう》しているミニアンは、さすがにいろいろとよく知っていた。城門を通行する商人をつかまえては、最新情報を入手しているのだ。
アデイルとヴィンセントは、彼女が滞在している宿屋へつれていってもらい、食事をとると、着替える時間も惜しんで話をねだった。そして、ミニアンの口から、すでにカグウェルの最南端でブリギオン帝国軍との接触があったことを知ったのだった。
レアンドラ率いる志願兵団は、もうかなり前から出国してカグウェルの首都ケイロンに駐留していた。そのため、帝国の兵士がいくらも侵略しないうちに、カグウェルの軍隊と合流して迎撃することができたのだそうだ。現在彼らは、打ち破られて敗走する帝国軍を追討する側に回っている。
ユーシスは、彼の竜退治をはたした後も帰国の途《と》にはつかず、この戦闘に加わって大きな功績をたてていた。彼がカグウェルを去らずにいたのは、群をつくる竜がカグウェル内に侵入していたためで、義務感の強いユーシスがその対策を講じていたことが、今回の戦《いくさ》に幸いしたと、ミニアンは語った。
「見事な武勲《ぶ くん》をおたてになったと、だれもがほめそやしております。ユーシス様に倒された竜は山をなすとかで、グラール建国の初代騎士に並び称される働きですわ。ただ、お乗りになっていたユニコーンが、最後の竜をしとめたときに死んだそうです。美しいユニコーンでしたのに……わたくしも出国のパレードを拝見しましたが、全身が薄紫、たてがみが銀色で、堂々と大きく見映えして、御するユーシス様のお姿もこうごうしいばかりでした。でも、けものであっても名誉の死になりますわね。ユーシス様も少々手傷を負われましたが、ユニコーンが身を挺《てい》したために、軽傷であってお命に別状はないそうです」
フィリエルがアデイルとレイディ・マルゴットにあてて手紙を出していたことも、このとき初めて聞かされることになった。その手紙はすでにハイラグリオンへ送られており、封がしてあったのでミニアンは内容を確認していないと言った。
一連の話を聞き終わって、アデイルはため息をついた。
「……少なくとも、聞いたかぎりでは、案じていた人たちはみな無事のようね。それだけでもよかったわ」
ヴィンセントもうなずいた。
「そのようね。事態はずいぶん動いてしまったようだけど、最悪のものごとにはなっていないわね」
「それでも、たぶん、猊下のもくろんだとおりにことが運んでいると言えるでしょうね。レアンドラが南のはてまで進軍しているのだから」
アデイルはつぶやいた。レアンドラは広い展望のもてる女性だが、おそらく新しい地平へ目をはせるあまりに、足もとにしのび寄る昔ながらの姑息《こ そく》な策謀に気づかなかったのだ。
ヴィンセントは、表情をあらためてアデイルを見た。
「わたくしは思うの。あなたはここから、一刻も早くハイラグリオンへもどるべきよ。女王候補が二人ともいないうちに、王宮はメニエール猊下の思うがままよ。レアンドラの失脚はもうはじまっている――それは同時に、あなたが有利に運ぶものごとでもあるわ。もしもあなたが先に王宮へもどり、しかるべきときに、猊下のもくろみをあばくことができたなら」
アデイルはためらいがちに見返した。
「もしもわたくしが、表にたってメニエール猊下を告発する事態になれば、あなたはつらい思いをするはずだわ」
「アデイルったら、実際に暗殺されかかったというのに、そんなことにかまっていられるの?」
ヴィンセントはむしろ憤然とした。
「わたくしのことを言うなら、今現在とっくにダキテーヌ家とは絶縁状態よ。こちらからも切りたいし、あちらからもそうでしょうよ。でも、それでかまわないの。わたくしはあなたを選んでしまったのだから。これは、選ぶなと言われても選ぶしかないのよ、わたくしのとりえは『参謀《さんぼう》』なんですもの――トーラスにいるうちから、そうだという気はしていたけれど」
「参謀?」
女学校ではあまり使わない言葉だ。アデイルが目をぱちくりしていると、ヴィンセントはじれったそうに続けた。
「レアンドラだったらすぐわかるでしょうけれど、将軍と参謀よ。チェスで言えば、女王《クイーン》の駒と僧正《ビショップ》の駒――けれど、この比喩《ひゆ》は気持ちよくないからやめておくわね。つまりは、補佐に立つことで最大の能力が発揮できる人間だということよ。わたくし自身がトップになる必要はないの。でも、自分の上に立てるすばらしい人を見つけておかないと、やっぱり変なところにはまってしまうのよ」
「わたくしは、あんまりそう思えないけれど……だれだって、あなたという人を見てそうは思わないわ」
アデイルは言ったが、ヴィンセントは首をふった。
「見かけは関係ないのよ。本人の心情よ。たとえばね、ルセルはそういう人よ。同類だからわたくしには見てとれる気がするの。あの人はきっとティガのもとを離れないわ――どうしてあの暴れん坊なのか、理解に苦しむところはあるけれど、まあ、欠けた部分をおぎなう喜びは大きいのでしょうね。彼にはティガが必要なのよ。だから、もしもセシリアがルセルといっしょになりたかったら、彼女もエゼレットに加わるしかないでしょうね」
「セシリアって、やっぱりそうだと思う?」
「当然よ。わたくし、人物を見る目は鋭いのよ」
平然とヴィンセントは言った。
「人を見るに鋭いし、頭も回るし、知識と総合力はかなりもっているつもりなの。大僧正猊下を敵に回して闘う覚悟もあるわ。そういう参謀として、あなたに提言したいの。帝国軍の侵略計画を伝える必要がなくなった今、あなたは手に入れた陰謀の書状をもって、可能なかぎり王宮へ急ぐべきよ」
「あなたの言うこと、よくわかったわ」
アデイルはうなずいた。けれども言葉を続けた。
「……でも、もう少しだけ考えさせてちょうだい。明日の朝には結論を出すわ」
夜になるとセシリアももどってきて、ミニアンの宿でいっしょに夕食をとった。エゼレットへの報酬として換金できるものは換金し、足りない額は、今後ロウランド家から運ばれたときに、デリンの店へ届けることに落着したそうだった。それだけのことを取り決めて、デリンをリングルの町へ残し、ティガたちは再び砂漠へもどっていったそうだ。
セシリアはおもな報告を終えてから言った。
「この際ですから、記念にテトラをお嬢様のために買い取ろうかと迷ったのですけれど……そのほうがよろしかったでしょうか」
アデイルはにっこりして首をふった。
「ううん、あの子を砂漠に返してあげて正解だったわ。環境がちがって淋しがるでしょうし、それに、わたくしはもう他の馬とも仲よくできそうな気がするの」
「この旅一番の収得でしたわね。お嬢様が馬に自信をもてるようになったことは」
そう言ってセシリアもにっこりした。
「思いもよらないことの連続でしたけれど……こうしてみんな無事にもどれたということだけは、彼らに感謝しなくてはなりませんね。でも、ああいう人たちですから、記念にどうのという考えはさっぱり浮かばないみたいでした。風のように行ってしまって……どこまでもがさつな人たち」
セシリアの口ぶりには、ヴィンセントがくさす口調とはちがったおもむきがあった。いちまつの淋しさと、いとしさをこめて「おばかさん」と口にするような調子。
アデイルは心をこめて言った。
「わたくしたちが帰って来られたのは、あなたのお手柄でもあるのよ。セシリアは、ハイラグリオンのだれにも劣らない侍女の中の侍女よ。わたくしからもお母様に申しあげるわ。これから、署名して書状を書くわ――あなたがどんなに尽くしてくれたか、それから、あなたへの特別な報酬の必要を」
セシリアは顔を赤らめた。
「そこまで言っていただくようなことは、何もしておりませんのに。おやめくださいな――」
アデイルは無邪気そうな笑い声をたてた。
「一刻も早くお母様にお会いするべきだわ。あなたがここにとどまったことをむだにしないために。エゼレットに報酬が必要ならあなたにも必要よ。旅の軍資金は多ければ多いほどいいし――持参金だって同じでしょう?」
翌日の朝、起き出してくるなりアデイルはヴィンセントに告げた。
「セシリアに、書状をもってハイラグリオンへ馬を飛ばしてもらうことにするわ。陰謀の手紙は、わたくしよりも、お母様のほうが上手な切り札にお使いになると思うの」
ヴィンセントは肩を落とした。
「――けれども、あなたは南へ向かうと言いたいのでしょう。はいはい、わかりました。ゆうべから、たぶんそうではないかとあやぶんではいたのよ」
「いいえ、今から向かうところは南ではないわ。ギルビア公爵邸よ」
アデイルがきっぱり言ったので、あくびをしかけていたヴィンセントも、眠気がふきとんだ顔になった。
「なんですって。それって、まさか……」
「お兄様には、代わりのユニコーンが必要よ。今は敵を倒すより何より、そのことが大事だと思えるの」
「で、でも、公爵夫人は」
「ええ、わたくしの実母よ」
「まずいのではなくて?」
ヴィンセントは怖《お》じ気《け》づいた声音で言った。
「それは一番まずい出方ではなくて? 今ここで、あなたがオーガスタ王女に会いにいったことが、レイディ・マルゴットのお耳に入らないはずがないわ。あなたにとって、養母のあのかたの支持ほど失ってならないものはないはずよ……」
アデイルは真剣な表情でうなずいた。
「わたくしも、ずっとずっとそう思っていたわ。でも、お母様がわかってくださることを信じることにしたの。そして、わたくしの中にある、生みの母へのうらみを捨てようと思うの」
両手を組み、金茶色の瞳を伏せてアデイルは言った。
「……真の母がいないことが、長い間わたくしの引け目だったわ。血縁を否定する生みの母と、利害を優先する育ての母。どちらも母ではないと、いつも感じていた。一人でいじけていたのかもしれない。でも、それはまちがいで、どちらもわたくしの母だという気がするの。今回の旅で、だれがそう言ったわけでもないのに、思えるようになったみたいなの。だから、わたくし、オーガスタ王女に会いにいって、ユニコーンをくださいとお願いすることにするわ」
「あなたって、どうしてそこまで予想外に飛ぶ人なの?」
ヴィンセントはあきれはてた様子で言ったが、それから気をとりなおして、しかたなさそうにほほえんだ。
「わたくしの予想範囲で動く人なら、わたくしはつまらなくなったかもしれないけれど……それにしても、まったく……」
「いっしょに来てくれる?」
「他にどうすればいいの? あなたがユーシス様に会うところを目撃すると、宣言してしまったのに」
ヴィンセントのいかにもしぶしぶな承知に、アデイルは笑った。迷いはなかった。
(大丈夫……ティガが教えてくれたもの……)
美しいユニコーンに自分も会ってみようと、アデイルは思った。ユーシスが見たものを自分も見て、それから明日のことを考えよう。
いつかまた小説を書こう。その小説には、もっと魅力的な赤毛の貴公子と、もっと魅力的な黒髪の男の子が出てくるはずだった。
「ギルビア公爵邸へ行きましょう、ヴィンセント。そして、なぜ今ごろ来たと言われたら、笑ってごまかすのよ」
顔を上げたアデイルは自信をこめて言った。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
この作品はC★NOVELSファンタジア『西の善き魔女外伝2 銀の鳥プラチナの鳥』(二〇〇〇年九月刊)として発表され、単行本『西の善き魔女4 星の詩の巻』(二〇〇〇二年七月刊)に収録されました。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「西の善き魔女X 銀の鳥プラチナの鳥」中央公論新社、中公文庫
2005(平成17)年06月25日第01刷発行
入力:TORO
校正:TJMO
2007年05月10日作成
[#改ページ]
※底本p160 10行目
東海岸はこれほど果てしな彼方《か な た》にあるとは思えず、多くの人々が、もっと気軽に行き来していたはずだ。
―――果てしない彼方《か な た》。脱字。訂正済み。