西の善き魔女外伝1 金の糸紡げば
荻原規子
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目  次
第一章 秋の異変
第二章 冬至の祝い
第三章 うつろいの季節
第四章 夏の嵐
断 章
解 説 酒寄進一
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むかし、あるところに、ひとりの粉屋がおりました。粉屋は貧乏でしたが、美しいむすめをひとりもっていました。
さて、あるとき、粉屋は思いがけず王さまとお話をしたことがありました。そのとき、ちょっといばってみたくなって、王さまにこういいました。
「わたくしにはむすめがひとりおりますが、このむすめは、わらを金につむぐことができるのでございます」
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第一章 秋の異変
フィリエルは、八歳になれば子どもではなくなると、単純に結論していた。
大人だと言い切るには、さすがにためらいがあるかもしれない。まだ、頭のてっぺんがホーリーのおかみさんの胸の下にしか届かないのだから。今後も身長を伸ばさなくてはならないことは事実で、ヤギの乳を飲めと言われ続けるのも、しかたのないことではあった。
それでも、八歳の誕生日をむかえれば、段ちがいに格上げされるものなのだ。女王の国民として認められる年齢であり、フィリエルはそのことを知って、胸がいっぱいになるくらい誇《ほこ》らしかった。
教えてくれたのは、ホーリーのだんなさんだった。世間では、七歳までに星の楽園へみまかる子どもは多い。ルアルゴー北部では、特にそういうものらしい。ホーリー夫妻の実の子どもも、残念ながらその一人だった。
だからこそ、アストレイア女神は八歳の子どもを祝福し、グラール国の一員として迎えるものなのだ。村の司祭《し さい》様がそういう話をなさったと、ためらいがちな口調で、ホーリーのだんなさんは聞かせてくれた。
「だんなさんは言ったもん。八歳になったら、司祭様にお祝いしてもらうんだって。礼拝堂の祭壇《さいだん》に、ろうそくをささげるんだって言ったもん」
フィリエルはじだんだをふんだ。彼が朝になってフィリエルを起こさずに、夜明けの荒れ野を行ってしまったとは、とうてい信じられないことだった。
ホーリーのおかみさんは、裏庭の大だらいでシーツの洗濯《せんたく》を始めたところだった。がっしりして体が大きく、角ばった顔に風焼けの赤いほおをもつ彼女は、忙しい人間ならではのけわしい表情で、ごねている少女を見下ろした。
「ばかだね。今日はまだ新月で、あんたの八歳の誕生日は満月前のはずじゃないか。ボゥが村へ出かけたくらいで、オンドリみたいにかっかしてどうするんだい」
タビサ・ホーリーは亭主より背が高く、頑丈《がんじょう》で力もちで、根っからの働き者である。おちびさんのくりごとになど、耳をかしている暇《ひま》はないのだった。
ただ、彼女は表情に見せないものの、赤みがかって輝く髪をした女の子を、内心うれしく目にしていた。お風呂に入った直後のフィリエルは、将来の美人を予感させなくもなかったのだ。
極上《ごくじょう》の髪質と肌の白さは、優雅《ゆうが 》だった母親の血をひいており、学者の父親ゆずりの眉《まゆ》と目は、暖かい茶色をして知性を感じさせる。この子は、もっとお風呂好きになってしかるべきなのだが、今のところ、脅しすかさないとお湯をつかわせることができなかった。
「まったく、思いこみばかり強いんだから。おかしな考えを追い払って、あんたのヤギのめんどうをみなさい。もう小さくないんだから」
おかみさんのそっけない態度にもめげず、フィリエルは声をはりあげた。
「違うもん。あたしの誕生日はもう来ているもん。博士の暦《こよみ》の計算ではそうなるって、ちゃんと聞いてあるんだから」
それが天文博士の言葉なら、尊重しなくてはならないとホーリーのおかみさんは考えた。たとえ、世間の暦には通用しないものであってもだ。
「ディー博士がお言いなら、そうなのかもしれないが。でも、ボゥが出かけたのは市《いち》に羊を出すためで、あんたとは関係ないよ。司祭様にお会いするなどとはもってのほかだ」
「つれていくって言ったのに……」
フィリエルの目に涙がわきあがった。
「ゆうべは、おかみさんだって言ったじゃない。明日だんなさんが出かけるから、その前に体をきれいにしなさいって……」
ホーリーのおかみさんは鼻先で笑った。
「あたしゃ、ボゥがあんたを村へつれていくなどとは一言も言った覚えがないよ」
フィリエルは憤慨《ふんがい》してどんどんと足をふみならした。
「あたし、もう二度とお風呂に入らないからね。この先、何があっても一生入らないから」
「ああ、うるさい。そうしたければ勝手にするがいいよ。臭《くさ》ーい、汚ーい、だれも相手にしない者になりたいんだからね」
おかみさんが取りあってくれないので、フィリエルは、少しのあいだ鼻をぐずぐずいわせていたが、やがて前かけをひるがえして駆け去った。タビサ・ホーリーはそのまま洗濯を続けた。少女のおかんむりは、長続きしたためしがないのだ。お腹《なか》が空《す》くころになれば、ころりと忘れて帰ってくるのがふつうだった。
「うちのぬけ作ときたら、まったく……」
おかみさんは、ぶつくさと一人でつぶやいた。ボゥ・ホーリーは、かんじんなことは何も言えないくせに、よけいなところだけ口を出す。八歳児に星女神の礼拝が必要なことくらい、彼女も|重 々《じゅうじゅう》承知していた。だが、フィリエルを、こんなに期待させてはならなかったのだ。
(そりゃあ、あたしだって、よくぞ大きな病気一つせず、セラフィールドで無事に育ってくれたと思っているよ。慈悲《じひ》深い女神に感謝の祈りを捧《ささ》げたいと思っているよ。けれども……)
けれども、フィリエルは、天文学者ディー博士の娘であって夫婦の娘ではなかった。たとえ、今日までフィリエルと一つ屋根に暮らし、その成長ぶりに一喜《いっき 》一憂《いちゆう》したのは、博士ではなく彼女たちだったとしてもだ。晴れがましくワレットの礼拝堂を訪れ、蜜《みつ》ろうのろうそくと若い家畜《か ちく》を奉納《ほうのう》して、健《すこ》やかさを祝福してもらう権利は、ホーリー夫妻にはなかった。
(それとも……やっぱり……あたしたちが代わりに行ってきてやるべきなんだろうか……)
タビサ・ホーリーは考えこみ、われにもあらず、長びつの底で年月の過ぎた自分の晴れ着はまだ着られるだろうかと、思いをはせていた。
むかっ腹を立てているフィリエルは、樅《もみ》の木立を抜けて坂道を駆けおりると、赤茶色に枯れたシダのはえた土手へ、いきなり身を投げた。犬たちが同じような衝動《しょうどう》にかられて、体を洗われた直後にころげまわることを、フィリエルはよく知っていた。
灰色の石積みのホーリー家の家屋は、裏手に岩山の崖《がけ》をひかえ、荒れ野を見下ろしながらうずくまるように建っている。表の木戸を通って斜面へ出れば、目をさえぎるもののない光景が広がっていた。
彼方までゆるやかにうねる高原は、窪《くぼ》みに小川といくつかの沼をやどし、その上をやせた草と灌木《かんぼく》が覆《おお》っている。ところどころに突き立って見えるのは、木々ではなく、むきだしとなった岩の肩だった。
この荒涼《こうりょう》とした起伏《き ふく》を越えて、大地の裂《さ》け目へと下った場所が、渓谷《けいこく》の村ワレットである。ルアルゴー州北端の村だが、風から守られた谷あいは緑で、地味《ちみ》が肥え、麦《むぎ》畑や牛の牧場や農家の集落など、セラフィールドにないものが全部あった。
セラフィールドにあるものは、ほんのわずかだった。ホーリー家とホーリー家の羊囲い、そして、裏の岩山に建つ塔――住民はその塔を天文台と呼んでいる――を数えれば全てだ。二世帯四人の人間が、荒れ野を隔てた奥地にぽつねんと住んでいるのだった。
フィリエルは、髪に枯れ草をからませて身を起こすと、わずかに跡をとどめる荷馬車の通い路を、うらみがましい目でたどった。もちろん、ワレットまで見通すことはできなかった。細い道筋は、くすんだ緑と紫と赤茶色のだんだらの、茫洋《ぼうよう》とした高地の風景に溶けこんでいる。
空は低く灰色で、よく晴れた日には望める岬《みさき》の山稜《さんりょう》も、その合間にのぞく海の青も、今日は隠されて見えなかった。霧《きり》ともなれば、全ては鼻先もわからないミルク色に変わる。高地の天気は、秋には目まぐるしく変わり、野の植物を追いたてるようにして枯らすものだった。
すでにミツバチは羽音をたてず、ヒバリも空へ飛んでいかない。荒れ野をわたってくる風はハッカのような味わいがして、冷たい季節の到来を告げていた。
(……べつに、それほどワレット村へ行きたいわけではないし)
つきものが落ちたように、フィリエルはそう考えた。秋風の冷たさは、フィリエルの頭を吹きさますにも充分だった。
一年に一度、夏の村祭りのときしか、フィリエルはワレット村へ行ったことがない。行けるようになったのもここ数年のことで、まだ三回ほどしか機会がなかった。最新の体験は、興奮しすぎたフィリエルが家へ帰って食べたものをもどしてしまうという、不面目《ふ めんぼく》な思い出となっている。
フィリエルにとって、荒れ野の向こうは異世界であり、村人に会うのは大冒険だった。そして彼女は、大冒険を拒《こば》まない勇敢な女の子なのだが――こういうことは、よく吉日《きちじつ》を選ぶべきだということも承知していた。
(今日は月のかたちがよくない……だんなさんは、今日しか出かけないわけでもないし)
少女は立ち上がり、スカートの汚れをおざなりに払った。早くも心は、別方向へと急ぎはじめていた。
フィリエルは、セラフィールドを淋《さび》しい場所だと考えたことが一度もなかった。ないものは多いが、ホーリー夫妻が骨おしみせずに働いて、ようやく維持《いじ》するにぎやかな大所帯なのだ。ホーリー家には、だんなさんとおかみさんとフィリエルが住んでいて、馬のシーザーと牧羊犬《ぼくようけん》のロブとロイが住んでいて、ヤギのエイメ夫人が住んでいて、五羽のいばった| 鶏 《にわとり》と四羽のやかましいガチョウもいて、数にふくめてよければ、巣箱《す ばこ》に小さな女王国を抱えるミツバチたちも住んでいるのだから。
さらに荒れ野の放牧場には、三十頭から四十頭の顔の黒い羊たちがしきりに草をはんでいるし、裏の岩山の塔には、星の研究を行う天文博士が一人住んでいる。ホーリーのだんなさんは、羊の群の世話を焼き、ホーリーのおかみさんは、天文台の炊事《すいじ 》も一手にひきうけていた。小さな子どもの見るもの聞くものは、ここにもたくさんあったのだ。
(……塔へ行ってこようっと)
赤金《あかがね》色の髪をした女の子は、ヤギのように確かな足どりで、岩の多い斜面を元気よく登りはじめた。
ホーリー家の裏手の土手には、シダやハリエニシダが茂っていたが、登ればまもなく岩の露出《ろしゅつ》が多くなる。段丘《だんきゅう》のようなその斜面を乗り越え、もう一度|急坂《きゅうはん》を登ったところに、人の意表をつく円筒形の石の塔が建っていた。知る人が見ればものみの塔とも見えるこの建物が、天文学者ギディオン・ディー博士の居住《きょじゅう》する天文台なのだった。
幼いフィリエルの目から見ても、ここは住みよい住まいではなかった。ホーリー家四つぶん積み重ねた高さがあり、その意味では大きな家なのだが、吹きさらしの岩場につきだしていて、風雨が壁をもろにたたく。冬のすきま風などには格別のものがあった。
けれども、この吹きさらしが研究者には必要なのだ。屋上に登れば、ここから海岸線までのルアルゴー州すべてを眼下にすることができた。ディー博士は、晴れた夜に屋上に立ち、広がる夜空の天頂や地平の星に観測器を当てて、その記録をとっているのである。
天文台の外見は陰鬱《いんうつ》そのものだ。灰色の石積みはホーリー家と同じ造りだったが、もっとすさんで見え、そびえる高さと胸壁《きょうへき》には、見る者を押しひしぐ重苦しさがある。この塔も、南面には縦長《たてなが》の窓がついているのだが、入り口の側から一つも見えなかった。塔の周囲には柵《さく》一つ納屋《なや》一つ見当たらず、それもまた、人の気配を希薄《き はく》にする原因となっている。
もっとも、セラフィールドの住人はそんなことを気にかけなかった。裏手に回れば、岩間から清水をひいた樋《とい》と水桶《みずおけ》が見つかるし、切り出した泥炭《でいたん》を積みおく庇《ひさし》も目にするのだ。フィリエルは、青銅の鋲《びょう》を打った重い扉を、両手両足をつっぱらせて引き開けた。そして、暗く湿った内部へとすべりこんでいった。
玄関口が、幽鬼《ゆうき 》でも現れ出そうに陰気なのは、地階の窓をつぶして物置に使っているせいだった。貯蔵用の木箱や雑多な道具が積みおかれ、長年の闇が巣くっている。だが、階上はもう少しまともな場所になった。フィリエルは壁にそって湾曲《わんきょく》した階段を足どり軽く駆け上り、食堂|兼《けん》書斎へ飛びこんだ。
この部屋には大きな暖炉があり、少なくとも人がいてよい気配がする。早朝にくべた炉の泥炭《でいたん》が、まだ暖かく匂っている。ホーリー家のものほど使いこんでいない木のテーブルがあり、汚れた食器と開いた本がのっていた。けれども、あとの空間は積んだ本と紙束が占め、ディー博士の姿は見えなかった。
フィリエルは驚かず、足音をそっとしのばせて、寝室兼書斎の三階へ上がってみた。少女がここを訪れたとき博士が眠っていることも、当たり前によくあることだったのだ。天文台の生活においては、食事の間隔《かんかく》も就寝《しゅうしん》の時刻も、まるで法則をもってはいなかった。
けれども、今日の博士は寝床にも見当たらなかった。のぞきこんだフィリエルは、わきに書物を積み並べたベッドが空で、上掛けが折りたたんであるのを見てとった。そこで安心して、再び足音をたてて四階へ上っていった。四階の書斎には――ここがまぎれもなく書斎であり、ホーリーのおかみさんの考えでは、本はすべてここにあるべきだったが――今度こそ天文博士の姿があった。
博士は書棚に囲まれ、細長い明かりとりの窓に面した書き物机に向かっている。周辺の床には、机の上と同じくらい本と紙が散乱していたが、その床からは斜めに天井へはしご段がさしかかっていた。彼は、書斎の天井の上げ蓋《ぶた》を開けて、屋上の天文観測台へと出ていくのだった。
少しの間、少女は鵞《が》ペンを走らせる博士の後ろ姿を見つめていた。上背のある体を少し丸め、黒い長衣の両肩が尖《とが》って突きだしている。くしゃくしゃの赤茶色の髪は後頭部で雑に束《たば》ねてあり、頭の頂きを無意識にかきまわした指には、銀の指輪が一つはまっていた。
フィリエルは、自分がフィリエル・ディーであることをよく承知していたが、親しさからいえば、ホーリーのだんなさんを何倍も身近だと感じていた。とはいえ、だんなさんを父親とみなしているわけではない。何といっても、セラフィールドで采配《さいはい》をふるうのはホーリーのおかみさんであって、それに比べると、男性二人は影が薄いというのが実情だった。
「ここの男衆《おとこしゅ》は、どっちも変わり者なんだからしかたないよ」
と、いうのが、ホーリーのおかみさんの弁だった。
ディー博士が極めつけの変わり者であることは、フィリエルにもそれとなく納得できた。彼は、地上のものごとにほとんど関心がないのだ。寝食に注意を払わず、ほこりにもカビにも上の空で、集中するのは細かい数字をならべた計算式を書きつけるときだけなのだった。
「奥方が亡くなられてから、あのかたは完全にあっちの人になってしまったよ。無理もない話だから、そっとしておいてあげたいけれどね」
おかみさんはそう言いながらも、乱雑さにはがまんがならず、ときどき手厳しいことを具申《ぐ しん》する。すると博士は心からうなずき、決して腹を立てないのだが、そのかわり改めもしなかった。そういうかたくなさは、ホーリーのだんなさんと共有しているかもしれなかった。
「こんにちは。こんにちは、博士」
フィリエルは息を吸いこみ、大きな声で二度言った。そして、手を後ろに組んで待っていると、ディー博士は夢見る顔でふりむいた。
いつもそうだが、音声反応でふり返っても、すぐにはフィリエルが目に入らないのだ。それから、徐々に女の子がそこにいることをのみこむと、今度は初めて見たように目をぱちくりした。これもまた、いつものことだった。
博士は額が高く、こめかみのはえぎわが後退しつつあった。ほおはそげたように肉がなく、赤みがかったひげが、あと少しでヤギひげになりそうな具合にあごを覆っている。それらは、彼によそよそしく近寄りがたいふんいきを与えたが、黒ぶちメガネの奥の瞳《ひとみ》は澄んだ茶色で、思慮《し りょ》深い穏やかさがあり、その注意が完全にこちらへ向いたときには、感じがよかった。
「ああ、きみは。ええと……何か用かね」
つぶやくように博士は言った。一人で来たフィリエルを見ると、彼はいつも困ったような顔をする。フィリエルは、八歳になった威厳《い げん》をこめて言った。
「こんにちは、博士。本を読ませてもらいにきたの。じゃまをしないで下の食堂で読むから、いいでしょう?」
ディー博士は気弱なほほえみを見せた。
「もちろんいいとも。とってほしい本があったら言いなさい」
フィリエルは書棚の前に立ち、しばらく目を走らせた。彼女は、気晴らしにもってこいの博物図鑑を数冊、すでに自分の蔵書としてストックしている。けれども今日は気まぐれに、昔なじみの本を手にとってみたくなった。
「青い物語の本をとって」
それは、フィリエルが一番最初に読むことを覚えた本だった。青く染めた子牛革の表紙は、幼かった彼女の手ずれでいたんでしまったが、厚|綴《と》じの本にもかかわらず、今日まで壊れることなく形を保っている。
博士はゆらりと立ち上がり、棚から本を抜きとった。そして、手にした本によって、ぼんやりと昔に返ったようだった。
「……わたしに物語を一つ二つ、読み聞かせてほしいかい?」
少女に本をわたす前に、博士はそうたずねた。フィリエルは目をまるくし、信じられないといった声を出した。
「ううん、いい。一人で全部読めるもの」
それから、はねつけたように聞こえるのは気の毒だったと考えなおした。そこで、愛想よく言い添えた。
「なんなら、あたしが博士に読み聞かせてあげてもいいけど。どれか読んでほしい?」
ディー博士はあごひげに手をやり、感慨深げに答えた。
「いや……遠慮しておくよ。わたしも一人で読めるようだ」
青い本をかかえて階段を下りながら、フィリエルは、ばかみたいだと思った。フィリエルが一人で本を読むようになって、いったい何年たつと思うのだろう。今ではホーリー夫妻に、『今日の日、西風が吹けばこの冬は暖かい。リンゴ酒を造るに吉』などといった、歳時暦《さいじ れき》の日々の言葉を読み聞かせてあげるフィリエルなのに。
けれども、ディー博士を本当に嫌いにはなれなかった。それは事実だった。ただ、彼が、フィリエルを目の前にいない人間のようにしてふるまうと、いらいらしてしまうだけなのだ。
食堂へもどってくると、フィリエルはほっと一息ついた。テーブルに寄せてある、高い丸|椅子《いす》によじのぼる。おかみさんにはふとどきな塔の乱雑さだが、片づけることを知らないこの住まいには、一種気のやすまる面があることはたしかだった。
フィリエルはもちろん、ホーリー家の居心地よさを好んでいたが、それと気づかないころから、ここへ来るのは息ぬきのためだった。毎日の暮らしのなかで、ちょっとばかりくさくさするできごとにあったときに、カビくさい書物にはさみこまれた神秘は、たのもしい盾《たて》になってくれるからなのだ。
テーブルに青い本をおいたフィリエルは、あてずっぽうに開いたページを見やって、確信をこめてつぶやいた。
「……カエルの王さま」
その本には短い物語がいくつも収められていたが、どの話も、すでにフィリエルにはおなじみのものだった。片側の挿《さ》し絵には、泉のふちに顔を出した緑色のカエルと、両手を組み合わせて立つ、黄色のガウンをまとった「お姫さま」が描かれている。彼女は髪の色も黄色で、宝石を飾った冠を頭にのせていた。
フィリエルは、以前から「お姫さま」に関心をもっている。その生態は、謎の生物「オオカミ」と同じくらい、ほんの少ししかわからないが、金のまりをもっていたり、金のお皿でごはんを食べたりして、たいへん豪華に暮らしているようだ。
内容は、ホーリーのおかみさんなら常識を疑うと言うものだったが――お姫さまはわがままで、かんしゃくもちで、約束を守ることもできずにカエルを壁にたたきつける。すると、カエルは若く美しい王さまに変わって、お姫さまに結婚してくださいと言うのだから――フィリエルは、痛快《つうかい》な気がしていた。話のなかに「王さま」が出てくるからには、どこか外国の話なのだろうが。
そのほかにも、読み出したらやめられない物語はいくつもあった。フィリエルが椅子に腰かけた足をぶらぶらさせ、夢中で物語の本を読んでいる最中だった。玄関の扉の開く音がし、重たげな足音をたててホーリーのおかみさんが上ってきた。
「やっぱり、こんなところにいた」
ほっとした気持ちを見せないようにして、おかみさんはフィリエルをにらみつけた。
「エイメ夫人を放ったらかしにして、何をしているんだい。あんたがそうなら、彼女のほうだって、もうお乳をくれはしないだろうよ」
フィリエルは仰天《ぎょうてん》して本を閉じた。
「ええっ、まさか。あたし、あとちょっとで行こうと思ってたのに」
「いったい、いつのことを言ってるんだね。もう、お昼になるよ」
まずいのは、本を読んでいるとフィリエルの体内時計が狂ってしまうことだった。ホーリーのおかみさんは、くびれのない腰にぐいと両手をあてた。これはお小言の前ぶれであり、フィリエルはあわてて物語の本を返しに走った。けれども、叱責《しっせき》を回避《かいひ 》するにはいたらなかった。
「あんたね、フィリエル」
もどってきた少女を前にして、ホーリーのおかみさんは厳しい声で言った。
「少しは役に立つ人間になりなさい。塔へ来たことを大目にみるとしても、あたしのかわりに、食堂の片づけくらいできるようになってもいいじゃないか。座りこんで、本など読んでる暇があるなら」
フィリエルは首をすくめた。
「ごめんなさい……」
「あんたはディー博士の娘だ。博士は、あたしらなんかと違って学のある偉いお人だ。博士の後を継ぎたいのかい。この塔で一生暮らし、博士のように学問に生涯《しょうがい》をささげたいのかい。それがあんたの生きる道だというなら、目がつぶれるまで本を読んでおいで。これ以上がたがた言いはしないよ」
「……したくないです」
フィリエルはしょんぼり答えた。この塔で博士といっしょに暮らすことはできない。それは、フィリエルにもはっきりわかっていることだった。ディー博士は、地上のことには一つも関心を払っていないのだから。
「あたしは、あんたにまっとうな女性になってほしいからこそ小言を言うんだよ。ここにある本は、まっとうな人間になるには害毒《がいどく》だ。あんたも、世間並みの幸福がほしかったら、そんなものに心を奪われないで働くことを覚えなさい。まったく読むなとは言わない。けれども、だれもが本ばかり読んでいたら、家畜は死ぬし、火は消えるし、食べるものは口へ入ってこないんだよ」
「はい……」
ホーリーのおかみさんは、猛然とテーブルの上を片づけはじめた。フィリエルはおとなしくそれを手伝った。やがて、おかみさんは怒りのとけた声で言った。
「じゃあ、帰ってお昼ごはんにしよう。ジャガイモをゆでてあるからね」
二人は並んで塔を出た。土手道にさしかかったとき、フィリエルは自分の小さな指を、ホーリーのおかみさんのふしくれだった手にからませた。
「あたし、まっとうな女の人になりたい。そのほうがずっと、人のためになることだものね」
顔を寄せてフィリエルが言うと、ホーリーのおかみさんは厳粛《げんしゅく》な面もちで答えた。
「あんたが星女神様に、自分のなりたいものを言えるなら、それでいいんだよ」
昼食のジャガイモとスープを食べ終えるころには、二人とも、このことをすっかり水に流していた。特にフィリエルは、礼拝堂のこともきれいに忘れ去っていた。自覚してはいなかったが、セラフィールドに暮らす以上、こだわりを忘れることは生き方の一部として学んでいるのだった。
天文台の塔が、ディー博士一人の住まいにしてはだだっ広く、何ごとも行き届かず、そのまま朽《く》ち果てていくわびしさを漂わせているのは、ホーリー家と対照的だった。
ホーリー家は隅々まで手入れをほどこされ、壁にはすきま風よけの壁掛けが吊《つ》られ、床はていねいに掃《は》き清められている。そして、大人二人と子ども一人が暮らすにやっとの広さしかないのだった。
表の戸口を入れば、そのまま居間兼台所となり、あっというまに作業具棚の向こうの裏口へと行きついてしまう。家の中心は石造りの大きな炉《ろ》で、煮炊《にた》きと暖房をかねて、たいていいつでも火が入っていた。
炉端《ろ ばた》には、だんなさん専用の椅子と、おかみさん専用の椅子と、フィリエルがいつも座る羊皮の敷物がおいてある。手前に武骨なテーブルとベンチがあり、奥には衝立《ついたて》を隔てて、ホーリー夫妻の休む寝台がある。屋内の床面積はそれですべてだった。
フィリエルの寝床は、梁《はり》へのはしご段を上った屋根裏にあった。大人が寝るにはきゅうくつな場所だったが、フィリエルは脚の短い自分の寝台に満足していたし、家中で一番高いこの場所が大好きだった。
ホーリー夫妻の住まいを、フィリエルはとても家らしい家だと感じていた。だんなさんやおかみさんや、テーブルの下へおねだりにくる犬たちのいる場所は、いつでも暖かい活気が感じられたし、表では樅《もみ》の木が風に枝を鳴らし、裏には納屋や家畜小屋や菜園《さいえん》や小さな池があり、何もかも整っている。
この家の清潔さと居心地よさは、おかみさんの手腕だったが、だんなさんも大工仕事は器用で、材料を村で仕入れてきては修繕《しゅうぜん》をおこなっていた。羊毛や子羊を売って、みんなの生活をささえているのもだんなさんである。そう考えると、何一つ役に立たずに生きているのは、ディー博士ばかりなのだった。
(あたしは、そういう人にはならない……)
フィリエルは、あらためてそう決意していた。ホーリーのおかみさんのような働き者の女性になるのだ。この決心は、三日を過ぎると次第にあやしくなるのだが、それまでは固いものだった。
そのとき、フィリエルは裏庭でエイメ夫人の囲いをそうじしていた。
この牝《め》ヤギの恩恵を、一番に受けているのはフィリエルだったから、礼をつくすのは当然だった。古い干し草とフンを、枝ぼうきでけんめいに掃きだしていたフィリエルだが、家の表からホーリーのおかみさんの驚愕《きょうがく》した叫び声が響いてくると、たちまちほうきを放り捨てた。
「ちょっと、あんた。これはいったいどういうことだい。あんたって人は、何を考えているんだい。常識をどこにおいてきたんだよ!」
フィリエルはいっさんに駆け出した。ホーリーのだんなさんが帰ってきたのだ。
村へ出ただんなさんは、決して手ぶらで帰ることはない。特に秋の外出は、冬を越すための必需品《ひつじゅひん》を山と仕入れてくるのがふつうだった。ところがだんなさんには、金回りがよくなると、魔《ま》がさしたようにおかみさんを仰天させるものを手に入れてくる習性があった。
突然ガチョウのつがいを買いこんできたときも、おかみさんは大騒ぎをした。今度はいったい何だろう――セラフィールドにおいて、これ以上刺激的な事件はめったになく、見のがす手はなかった。
坂へ走り出たフィリエルは、毛深い斑毛《ぶちげ 》のシーザーが、荷馬車の引き綱をはずしてもらえずに、鼻を鳴らしたり前脚で地面を蹴《け》ったりしているのを目にした。だんなさんはまだ御者台《ぎょしゃだい》に座っている。麦わら色の頭にひしゃげたフェルト帽を被《かぶ》ったボゥ・ホーリーは、貧弱《ひんじゃく》な猫背をさらに丸め、女房の大声を頭上に通過させようとつとめているようだった。
おかみさんはシーザーのかたわらで、泡《あわ》をふかんばかりになって両手をふり回していた。彼女をそれほど動転させた荷物を見ようと、フィリエルがそろそろと近づくと、木箱やかごを積んだ荷台の一番後ろに、その原因がうずくまっていた。ガチョウよりももっと大きな生きもの――なんと、人間の子どもだった。
(たぶん……)
フィリエルが、たぶんと考えたわけは、その子があまりに異様で、子どもに似た別種の生体《せいたい》かとも思えたためだ。黒っぽいぼさぼさの頭をして、もとは黄色や緑の模様があったと思われる色あせたマントをまとい、手足を縮《ちぢ》め、あごをひいて、目ばかりを皿のように見開いている。意思疎通《い しそ つう》のできない、どこか人外《じんがい》のものにさえ見えた。
ホーリーのだんなさんが、ようやく弱々しく口を開いた。
「まあまあ、おまえ。そんなに騒ぎたてなくてもいいじゃないか……わしは何も、この子に金を払ってきたわけじゃないよ」
「当たり前だよ、腹の立つ。ワレットの市場で人身売買《じんしんばいばい》があるなんて、だれが思うものかね。どこのどいつなんだよ、そんな浮浪児をあんたに押しつけたふとどき者は」
「捨ておけないわけがあって……」
「捨ておけない? あきれ返ってものが言えないよ、あんたって人は」
ホーリーのおかみさんの激昂《げっこう》は高まるばかりだった。
「この能なしのすっとこどっこい。あたしらのどこに、宿なし子を拾う余裕があるんだい。この家のどこに、もう一人寝かせる場所があるというんだい。いいからその子を、とって返してもとの場所へもどしておいで。今すぐ、そのまま、馬車から降ろして居着かれないうちに」
「おまえね、犬猫の子じゃないんだから……」
「犬猫のほうが、まだましだったよ」
おかみさんの言葉に応えて、ロブとロイが威勢よく吠《ほ》えたてた。この黒白毛並みの牧羊犬たちも、ご主人を出迎えに駆けつけてきたもので、荷馬車の周りをはしゃいで走り回っている。
「わしはこの子を、うちで引きとるためにつれてきたのではないよ」
ボゥ・ホーリーは静かに言った。
「これから天文台へつれて行く。ディー博士に会わせてみようと思ったものでね」
「博士に?」
これにはおかみさんも意表をつかれた。声量をいくらか落としてたずねる。
「博士がこんな子どもに、何の用事があるというんだい」
だんなさんは御者台を降り、荷台の後ろに回ると、子どもの両わきに手をさしいれて抱き下ろした。ほつれたマントがずり上がり、子どもの細い足がむきだしになった。ひっかき傷のある足は腿《もも》もすねも変わらぬ太さに見え、まちがいなく体重はフィリエルより軽かった。地面に立ったところを見れば、背丈もフィリエルより小柄であるようだ。
「この子は、わしらの何倍も計算ができるんだよ」
「何ができるって?」
ホーリーのおかみさんは、だんなさんがいかがわしいことを言ったかのように声を高くした。それから、鼻息荒く子どもの前に歩み寄った。
「ちょっと、あたしによく見せてごらん」
子どもはされるままになっており、目を見はった上目づかいの表情は、小さな顔にはりついたように動かなかった。だが、おかみさんが鼻先にかがみこむと、急に左手の親指をくわえてしゃぶりはじめた。赤ん坊のしぐさであり、とうてい頭がよさそうには見えなかった。
しげしげとながめてから、ホーリーのおかみさんはきっぱり断じた。
「栄養が足りない。それでもって、どちらかというと知恵遅れだね。あんたのめがね違いだよ、これが神童《しんどう》であるものかね」
しかし、いったん口にしたことに関しては、ホーリーのだんなさんは非常に頑固《がんこ 》になった。頭をふって言った。
「とにかく、わしは、この子をつれてディー博士に会ってくる。頭脳がどうこういうことなら、おまえさんの見立てよりも、博士のほうがものがわかっていらっしゃるに違いないからね」
おかみさんが反論を思いつけずにいると、彼は子どもの手をとって、やさしくうながした。
「さあ、少し歩こう。おまえさんの行くところは、もう少し先にあるんだよ」
ところが子どもは、体をこわばらせて指をしゃぶり続け、だんなさんの言葉が聞こえたそぶりも見せなかった。腕をひっぱっても少しも反応がない。ホーリーのだんなさんは、困って子どもの顔をのぞきこんだ。
「どうしたんだね、急に。わしのいうことがわからないかね?」
そばではロブとロイが、セラフィールドで初めて見る生きものに魅《み》せられて、しきりにうろうろし、隙《すき》あらば匂いを覚えようとしている。子どもの目が、犬たちをうかがうことに気づいて、だんなさんはうなずいた。
「もしかすると、おまえさん、犬が怖かったんだな。これは気の毒なことをしたね」
ロブとロイがまとわりつくことなど、セラフィールドではだれも気にしなくなっていたのだ。ホーリーのだんなさんが鋭い口笛を鳴らすと、犬たちはたちまち態度を改め、荒れ野へとつっ走っていった。
牧羊犬が去ってしまうと、子どもは指しゃぶりをやめた。そして、おとなしくホーリー氏に手をひかれて斜面をのぼっていった。とうとう最後まで一言も発しなかった。
フィリエルは、半ばぼうぜんとして彼らの後ろ姿を見送った。このセラフィールドに、自分以外の子どもを見るのは生まれて初めてであり、その小さな姿はショッキングだった。ましてや、その子が異様なふるまいをするとあっては。ましてや、その子が天文台の塔を訪ねるとあっては。
「あれ――あの子、いったい何なの。あれ、本当にあたしと同じ子ども?」
ようやく口がきけるようになり、フィリエルはつっかえながらたずねた。ホーリーのおかみさんは肩をすくめた。
「まあね。だが、よく見りゃわかる。ああいう子が、まっとうな育ち方をしているわけがないんだよ。うちの人もとんちきだよ。ディー博士がお目にとめるものかね……」
自分の娘さえ目に入らないのに、と続ける言葉を、タビサ・ホーリーは賢明にも口にしなかった。だが、フィリエルは微妙なところを聞きとった。
「そうだよね」
うなずいてフィリエルは言った。
「あんな子がいたら、研究がはかどらないって、博士ならきっと言うよね……」
だから女性たち二人は、その日の遅くに、疲れた顔で帰ってきたホーリーのだんなさんが、あの子どもをしばらく天文台であずかることになったと語るのを聞いて、あらためて驚きあきれたのだった。
翌朝。ホーリーのおかみさんは不機嫌《ふ き げん》きわまりなかったが、浮浪児を泊めた天文台をそのままにしておけるほど、いいかげんな人ではなかった。家の仕事をフル回転ですませてしまうと、手かごにあれこれつめこんで、いつもよりずっと早い時間に天文台へ出かけた。
もちろんフィリエルは、おかみさんの後ろにくっついていった。セラフィールドを急襲《きゅうしゅう》したこの異常事態を、自分の目で確かめずにいることなどできなかったのだ。
前の夜、フィリエルは早々に屋根裏へ追いやられてしまったが、興奮してなかなか寝つけなかった。ホーリー夫妻が下の部屋で口論を続けたため、なおさらのことだった。もっとも、この夫婦の言い争いは、一方的におかみさんがまくしたてるのが常だったが。
おかみさんは、なるべく声をひそめていたものの、鋭い言葉じりはフィリエルの寝ている場所まで届く。その調子からすると、彼女は、この情況をやっかいなばかりか有害と考えているようで、そのはっきりした嫌悪《けんお 》の口調がフィリエルの胸をさわがせた。すぐに冗談ごとに変わってしまったガチョウの件とは、かなり異なる事態なのだ。
(いったいどうして、ホーリーのだんなさんは、あんな子どもをつれてくる気になったんだろう……)
おかみさんが問いただしているのもその点だろうし、フィリエルもぜひ聞きたかったのだが、だんなさんは口ごもってはっきりしなかった。そして、翌朝にも聞き出す機会はなかった。妻といさかいを起こしたときはたいていそうだが、彼は夜明け前に家を出て、荒れ野の番小屋へ避難《ひ なん》してしまったのだ。
天文台に到着すると、フィリエルは好奇心と不安のないまぜになった気持ちで、おかみさんとともに階段を上った。二人は、二階の食堂に入ったとたん、テーブルをはさんで座っているディー博士と例の子どもの姿を見つけた。
フィリエルが訪れたとき、博士が食堂に下りていたことはめったになく、彼女は思わず目をまるくして見つめた。ディー博士はテーブルに両肘《りょうひじ》をついて、やせたおかしな子どもを見つめていた――夢見る目つきではなく、観察するまなざしでしげしげと。
浮浪児の子どもは、フィリエルがいつも使う高い丸椅子に、鳥がとまったように腰かけていた。もう仮面《か めん》をはりつけたような表情ではなく、昨日よりもくつろいで見えたが、フィリエルたちが部屋に現れると、一瞬また体を固くした。
(びくついているのね……)
フィリエルは軽蔑《けいべつ》して考えた。けれども、昨日とはだいぶ違うことに、相手はついと顔をそらしたと思うと、細くて高い声を出した。
「729」
ディー博士はうなずき、あわてる様子もなく言った。
「6561」
子どもは博士の顔を見た。
「59049」
「531441」
「4782969」
それから博士は、ようやくタビサ・ホーリーの非難のまなざしに気づき、急いで居ずまいを正した。
「これはお早いことです、ホーリーのおかみさん。ごきげんよう」
彼はかすかにほほえみ、来訪《らいほう》を感謝していることを示そうとした。
「来ていただいて助かります。ゆうべから、ちょっと……その、他のことに手がつけられない状態でしてね。もうしわけないが、水|汲《く》みすらまだでして」
おかみさんは、彼らのテーブルに下げてきたかごをどしんと置いた。それから、眉を寄せた顔でディー博士を見た。
「ゆうべから食事をなさいましたか?」
ディー博士はおとなしく答えた。
「ええ、少しは」
「ゆうべからお眠りになりましたか?」
彼の答えはやや不明瞭《ふめいりょう》になった。
「ええ……あの、少しは」
「あたしは、規則正しい食事と睡眠とを十年前からお願いしているはずです。それは、年若い人間にはとりわけても重要なことです」
ホーリーのおかみさんは、尖った口調でさらに言った。
「そして、この子どもに緊急《きんきゅう》に必要なものごとは、お風呂に入れることです。ノミ、シラミ、伝染病といったしろものをここへもちこむことは、このタビサが目の黒いうちは許しませんからね」
フィリエルは小声で、うへえとつぶやいた。今はじめて、よその子どもにかすかな同情を覚えるフィリエルだった。
ホーリーのおかみさんは、あっというまに暖炉の火をかきたて、水を運んでたくさんのお湯をわかした。フィリエルだったらこの間に逃走しているのだが、見知らぬ子どもは、自分の身にふりかかる災厄《さいやく》を感知《かんち 》できないらしかった。ぼんやりした顔で、大鍋《おおなべ》にたつ湯気を見ている。おかみさんが物置から大だらいを抱えてきて、床にすえ、そのなかにお湯をそそいでいても、まだそんな調子だった。
しかしながら、おかみさんがその子の着ていたぼろ布を脱がせにかかると、さすがに脅威を感じたらしかった。灰色の目がまた大きくなり、口のなかで、女神の祈りのように唱えはじめた。
「……13、21、34、55、89、144、233、377……」
ホーリーのおかみさんは聞く耳をもたなかった。着ていたものをはぎとってしまうと、裸になった子どもを見て、あきれた口ぶりで言った。
「おやまあ、男の子だったんだね。顔を見ただけじゃ、どっちかわからなかったよ」
「987、1597、2584……」
「……フィボナッチ数列だ」
ディー博士がつぶやいた。おかみさんは、彼がとっくに書斎へ上がってしまったと思っていたので、ぎょっとしてふり返った。
「え、なんですって」
「この子は、われわれと違う世界に住んでいるのですよ。数と数列だけが存在する。もちろん、そのほうが、ここよりずっと美しい場所であることはたしかです。星女神の調和そのものだ」
博士は夢見るように言った。ホーリーのおかみさんは彼を見つめ、こうも話しかけてくるディー博士を見るのは、小鳩《こ ばと》のような奥方が亡くなって以来だと考えた。けれども、そのことは、タビサ・ホーリーの気に入るところではなかった。
「それはようございましたから、あっちへ行っていてください」
ホーリーのおかみさんは冷ややかに言った。
「そこにいらっしゃると、石けん水が飛びます。あなたもこの子と同じに、頭からごしごし洗ってほしいとおっしゃるなら、待っていらしてもかまいませんが」
ディー博士はすごすごと階上へ退散していった。けれどもフィリエルは、安全圏にどっかり腰をすえて、よその子どもの受難を興味深く見守った。その子が盛大に咳《せき》こんだり、子犬のように身を震《ふる》わせるのを見れば、フィリエルと同じように、これを災難と感じていることはありありとわかった。
他人がひどい目に会っているところを見学するのは、なかなか有益だった。そのせいか、おかみさんが子どもの水気をよくふきとったときには、フィリエルも、ちょっとくらいその子にさわってもいいような気がしていた。
ながめて感心するほどに、フィリエルとは異なる子どもだった。額や首筋にへばりついている髪の毛は、煤《すす》のように黒々として、こんな髪の色を見るのはフィリエルには初めてだ。眉も睫毛《まつげ 》も同じように黒く、青白い肌に際だっている。
よく見れば、目鼻立ちはどこも変ではないのだが、表情のとぼしさが見る者に違和感を与えた。手足は細く、傷とあざがあり、きゃしゃな骨格に皮膚《ひふ》をはりつめたようで、関節がやけに大きい。その上、男の子なのだった。つまり、立ったままおしっこをする人種だ。
(なるほど、男の子だからか……)
異生物のように思えるのはそのせいだと、フィリエルはいくぶん納得した。この子は自分とは違って、男の腹から生まれてきたに違いない。セラフィールドには、大人の男と大人の女と女の子は住んでいても、男の子という生物はいなかった。
ホーリーのおかみさんは、手かごからフィリエルの古着をとりだし、手早くその子に着せつけていた。
「子ども服はこれしかないんだから、がまんしてもらうよ。少なくとも破れ穴はないからね」
あせた赤紫色のその服は、よその子どもには似合わないものだったが、ある程度体には合っていた。子どもは感想を言わなかったが、袖《そで》を顔に近づけて、ぼんやりと匂いをかいだ。動物みたいだった。
そばへにじり寄ったフィリエルは、好奇心に負けて、その子の黒い髪にさわってみた。ぬれた髪の毛の手ざわりがして、現実のものだと実感させられた。
この子の顔立ちで、もっとも印象的なのは大きな目だった。せいいっぱい見開く瞳に比べれば、鼻も口もちっぽけなものでしかなかった。色は吸いこまれそうな灰色。ホーリーのだんなさんも目は灰色だが、光の加減では灰緑に見える。けれどもこの子の目は、どんな色味も混じらない暗い灰色、翳《かげ》ると黒にも見える色あいだった。
顔を近づけてよく観察すると、嵐を呼ぶ雲のような灰色には透明な奥ゆきがあり、黒い瞳孔の周りに放射状の線がかすかに浮いている。そして、虹彩のふちも黒く、丸い輪になってくっきりと囲んでいた。
こうした両のまなこが、さらに放射状に長い睫毛《まつげ 》に囲まれて、無表情にフィリエルを見つめ返すのだった。フィリエルは、その長くそりかえった睫毛が現実のものかどうか、これもたしかめずにいられなかった。
睫毛にさわろうと指をのばすと、それまで無反応だった子どもも、さすがにぴくりとまぶたを閉じた。目を閉ざすと、睫毛はいっそう黒々として見えた。
「ねえ、あたし、フィリエルっていうの。あんたの名前は?」
フィリエルは、唐突《とうとつ》に話しかけてみた。子どもはまばたきして目を開けたが、話題に注意を向けはしなかった。何をされても気にしないといった態度だ。
「6765、10946、17711……」
子どもはつぶやいた。フィリエルは彼の目の焦点を合わせようと自分の位置をずらしたが、合わせてみても同じことだった。
「28657……」
「あたしの誕生日は十月十二日よ。あんたは?」
「46368……」
わざと無視しているんだと、フィリエルは思った。すると、にわかにくやしくなった。手をふりあげると、その子の頭をぽかりとたたいた。
「これ、フィリエル。おやめなさい」
おかみさんの厳しい声がとんだ。フィリエルは思わず訴えた。
「だって、この子、わざと返事しないんだもの」
「その子にかまうんじゃないよ」
ホーリーのおかみさんはいらいらして言った。
「あんたの遊び相手にはならないよ。ボゥがどういうつもりか知らないが、あたしはあの人をとっつかまえて、早いところ村へ返してこさせるからね。人さわがせだったらない……」
彼女はそれでも、自分のするべきことは全部やった。たらいを片づけてしまうと、その子のために持ってきたスープを温め、パンを切ってやったのだ。
「あとはごはんだよ。小さな子どもが腹をすかせているのだけは、がまんがならないからね」
子どもは、フィリエルにぶたれたところをさすっただけで、怒りもしなければお返しもしなかった。ただ、敵意と同じく親切に対しても反応を見せないようで、おかみさんがよそったスープとパンを、ほんの少ししか食べなかった。うれしそうな顔一つ見せなかった。
(つまらない子……)
フィリエルはまだむかむかしていたので、これにも腹が立った。自分と目も合わせないような、こんな子どもに、図々しくセラフィールドに侵入してくる権利はないのだ。
彼女を無視できるものは、この界わいにいないはずだった。犬だってヤギだってガチョウだって、もう少しは関心を示したものだ。こんな生きものは、すぐにもだんなさんにつれ返ってもらうという意見に、フィリエルもまったく賛成だった。
「道ばたで拾ったのでなければ、返すところがおありだろう。世話をした人間がいないとは言わせないよ。一人で生きてこられる子どもじゃない。満足にしゃべれもしないじゃないか」
「いや……しゃべれないのとは違うんだよ。なんていうかね……」
フィリエルははしご段に頭をつきだして、下の話し声に耳をすませていた。ホーリーのだんなさんはおずおずと言っていた。
「あの子はただ、計算で生きてきたんだよ。旅回りの一座があってね。そこで、舌も回らないうちから暗算してみせていたんだそうだ。けれども、わかるだろう。こうした芸は、大きくなりすぎると花がなくなるもので……」
「旅回りの一座! ふん、芸人なんて、ならず者の集まりだよ。やっぱりあたしのにらんだとおりだった」
ホーリーのおかみさんは、盛大に鼻を鳴らした。
「あの高潔《こうけつ》な、そのぶん世間にうとい、ディー博士に押しつけていい人種であるものかね。このあたしたちだって、おおいに願い下げだよ。フィリエルに悪い影響が出たらどうしてくれるんだい」
「けれども、おまえね……」
だんなさんは、乞《こ》い願うように言った。
「博士は、今、何かを必要としていなさるんだよ。書物と研究の他に、あのかたの心を引きとめる何かを。でないと、ぎりぎりのところまできていると、わしには思えるんだよ……」
「あんたが言うのは簡単だろうがね」
荒々しくおかみさんはさえぎった。
「博士に子どものめんどうがみられると、本気で思っておいでかい。結局、あたしが全部ひきかぶるんじゃないか。この上まっぴらだよ、体がいくつあっても足りるものじゃない」
「でも、あの子は、もう大きいから……」
「だから、あんた、目玉をどこにつけているんだよ!」
口論はまだまだ続いていたが、フィリエルは姿勢が苦しくなって、枕の上にあおむけになり、ため息をついた。
ホーリー家のいさかいが二晩続くことは、めったにない。この騒動がどうおさまるか、即断《そくだん》はできなかったが、過去の経験からいえば、おかみさんに軍配があがりそうだった。彼女は、やかましいわりに気がよくて、たいていのことならだんなさんに花をもたせる。だからこそ、おかみさんがここまで強固に言いはるときには、いつまでも逆らえるものではなかった。
(あの子は、ここに長くない……)
おかみさんにうとまれて、セラフィールドに居続けることは不可能だ。フィリエルはほっとしたが、それでいて惜《お》しいような、奇妙な気分を味わった。それはたぶん、このような異生物がここへ紛《まぎ》れこんでくることは、もう二度とないとうすうすわかっているためだった。
きらいな虫を、だからこそ見ずにはいられないように、フィリエルは翌日も朝から塔へ出かけた。
本当は近づくなと言われたのだが、ホーリーのおかみさんは家を離れなかったので、行っても見つからないはずだった。彼女は一日おきに塔の用事をはたす原則を、浮浪児のせいで変更する気はなかったのだ。
(すぐにいなくなるんだから、見ておくのは今のうちだもん……)
フィリエルは寝床でよくよく考えて、いなくなる前にあの子によく言ってやりたいと思ったのだ――大きらいだと。あの子を不|愉快《ゆ かい》に思ったことを、しっかり表明しておきたかった。そうすればあの子も、なぜここにいられないか納得できるだろうから。
意気込んで階段を上ったフィリエルだったが、食堂で、昨日と同じにテーブルについている博士を目にして、たじろいで立ち止まった。これはたまたまなのだろうか――それとも、信じがたいことだが、博士は規則正しい生活をはじめたのだろうか。
「おや、おはようフィリエル。一人かね」
彼女に気づくと、ディー博士は穏やかに言った。少しも上の空なところのない口調であり、これも昨日と同じだった。
「ちょうどいいところにきてくれた。今、この子に……ちょっとね、文字の読み方を教えているんだよ」
フィリエルはあきれた声を出した。
「この子、まだ字が読めないの?」
「うん。きちんと教える人が、今までいなかったらしい。しかし、筋《すじ》はなかなかいい」
フィリエルが近づくと、彼らがテーブルに開いているのは歳時暦だとわかった。フィリエルが、ホーリー夫妻に読んであげているのと同じものだ。博士が計算した暦とは、日付がずれているはずなのだが、日々の言葉に季節の風物《ふうぶつ》が出てきて、対応する挿《さ》し絵もついているので、博士はとりつきやすいと考えたのだろう。
「これは何と読む?」
博士がページを指さすと、黒髪の子どもはじっと見つめ、驚いたことに小さな声で言った。
「霜《しも》……」
「これは?」
「プラム……」
「そう、よく覚えたね。これは『霜にあたる前に、プラムを摘《つ》みとる』と読むんだ。言ってごらん」
子どもは口のなかでもぐもぐと言った。フィリエルは勢いづいて、テーブルのふちから身を乗り出した。
「その下の囲んであるところは、プラムのシロップ漬けの作り方だよ。果実1に対して砂糖1、もしくは適量の蜂蜜《はちみつ》、少量のバラ水……」
ディー博士は、よその子どもに向かって言った。
「彼女はたいへんよく読める。フィリエルから文字を教わってごらん。まちがいはないからね」
フィリエルは息を吸いこんだ。雲間から光が射しこんだように、うれしさであたりがまばゆくなった。これほどはっきりと、博士がフィリエルの才を評価したのは初めてといってよかった。もっとも、その高揚感《こうようかん》は、博士が続けてあくびをしながら言ったことで多少減じたが。
「フィリエル、それでは後をたのんだよ。わたしは少しばかり、睡眠をとったほうがいいようだ……」
彼は立ち上がると、よろけながら上階へ行ってしまった。フィリエルはがっかりして見送った。もっともっと彼女に能のあるところを、博士に見ていてほしかったのに。顔をもどすと、身じろぎもせずに座る黒髪の子どもだけが残っていた。
「あんた、言葉をしゃべるじゃないの」
フィリエルは小声で言った。だが、相手はまばたきして見返すだけだった。ふと、心配になった。彼女を相手にしたら、この子はまた数字しか言わないかもしれない。
試みに、博士のまねをしてページを指さしてみた。
「これは何と読む?」
子どもは、ためらいなく言った。
「リンゴ」
「これは?」
「………」
「渡り鳥、だよ」
「……渡り鳥」
フィリエルは思わず考えこんだ。この子どもは、大人に指示されたことだけを口にするのだろうか。昨日は博士が数字のやりとりを行ったから、数字しか言わなかったのだろうか。ともあれ、フィリエルに特別意地悪をする気はなかったようだ。
(まあ、いいか……)
これほどの優位に立っては、相手に敵意を燃やすのもばからしかった。フィリエルは誇らしさにささえられ、しばらくのあいだ歳時暦のあちこちをめくって、子どもに単語を教えてやった。
けれども、あまりの単調さにすぐあきてしまった。生徒はまじめに取り組むものの、それ一辺倒《いっぺんとう》で、余分なことはいっさいしないからだ。
上階からはことりとも音がせず、ディー博士は本格的に眠ってしまったようだった。フィリエルは天井に耳をすまし、どうでもよくなってきて、自分勝手なおしゃべりに切りかえた。
「あんた、毒リンゴって読める?」
黒髪の子どもは、まばたきをしただけだ。けれども、この無反応には慣れてきたので、フィリエルはかまわずに続けた。
「リンゴじゃなくて、毒リンゴ。食べるとその場で死んじゃうの。白雪姫のままははのお妃《きさき》は、自分の娘が世界で一番美しいのをねたんで、白雪姫に毒リンゴを食べさせたんだよ。ねえ、オオカミって読める?」
テーブルの上に、フィリエルは指で文字を書いてみせた。相手はじっと見守った。
「オ、オ、カ、ミ。毛むくじゃらで、目も耳も手も口も大きい生きもののことだよ。女の子だって子ヤギだって、たった一口で食べちゃうんだから。森にはこういう生きものがいるって、知っていた? あたしはまだ見たことがないけど」
子どものまばたきが、いくぶん速くなったようだった。触角《しょっかく》のような睫毛だなと、フィリエルはとりとめなく考えた。
「子ヤギはわかる? コ、ヤ、ギ。うちにもヤギはいるんだよ。エイメ夫人。彼女の産んだ子ヤギは、どれも人にあげちゃったけれど、彼女はかしこいかあさんヤギなんだよ」
ふいにフィリエルは、じっとしていられなくなった。ぴょんとテーブルから離れると、声をはずませて言った。
「ねえ、エイメ夫人に会わせてあげる。あんたは明日にもいなくなるだろうけど、エイメ夫人に会っておかなかったら損《そん》をするよ。あたし、案内してあげる。そして、かしこいかあさんヤギの話を聞かせてあげる」
黒髪の子どもは、顔を輝かせることもなくぼんやりしていたが、フィリエルがその手をひっぱると、少しも逆らわずに席を立った。それで充分だった。大人たちの手とはまったく違う小さな熱い手。その手をぎゅっと握って階段を降りると、フィリエルは急に心楽しくなって、この子の無愛想さが気にならなくなったのだった。
外は小雨模様だったが、たちまちぬれるというわけではなかったので、フィリエルは気にとめなかった。この程度は、セラフィールドでは悪天候と言わない。一日のうちに天気がめまぐるしく変わることも多いのだ。
ただ、ぬれた岩場はすべりやすいということを、フィリエルは忘れていた。というか、あまりに自然に歩き方を身につけていたので、よく知らなかったというほうが正しかった。けれども、つれのほうはそうはいかなかった。
フィリエルが飛んで下りる場所で、彼は必ず転がった。三度目にひどくころんだのを見て、フィリエルはようやく先にたって進むのをやめ、後もどりしてのぞきこんだ。
「大丈夫?」
子どもはひざ小僧をすりむいていたが、痛いとは言わなかった。けれども、血がにじんできたのを見て、赤紫のスカートでぬぐおうとした。
「だめ、そんなことをしちゃ」
フィリエルはその手をはたき、草の葉にたまった雨露で傷を洗ってやった。
「……何もできないのね、あんた」
首をかしげてフィリエルは言った。フィリエルが前に一度、ワレット村の祭日に見た覚えのある芸人は、ものすごい勢いでとんぼを切っていた。彼女はその人がなんだか怖かったが、芸人とは身の軽い人間のことだと思っていた。
「旅芸人だって、本当のことなの?」
子どもは自分のひざに視線をおとしたまま、しばらく顔を上げなかった。
「1……4142135……」
それは昨日に逆もどりした状態、何も見ようとしない昨日の目つきだった。フィリエルはあわてて立ち上がり、叫ぶように言い聞かせた。
「わかった、もう聞かない。今のはなし。早くエイメ夫人を見に行こう。歩きやすい場所を教えてあげるから」
ふだんの倍以上の時間をかけて、フィリエルたちはホーリー家の裏の土手に行き着いた。ヤギ小屋は土手の下にあったが、斜面の上までエイメ夫人のつなぎ場になっている。今、牝《め》ヤギは上部の柵につながれて、アザミの葉をつまんでいた。
「ほら、美人のヤギでしょう。真っ白で、首飾りの鈴もすてきでしょう」
フィリエルは自慢してみせた。エイメ夫人はフィリエルの姿を見ると、もらえるものがあると信じてすり寄ってきた。
「あたしが毎日世話をしているから、こんなになつくんだよ。乳しぼりはおかみさんの役だけど、あとの世話はあたしがするの。朝と夕方には、両手いっぱいのふすまと塩を少しあげるのよ。お乳をくれる代わりなの」
前かけのポケットには塩の粒が少し残っていたので、フィリエルは指にのせて、エイメ夫人になめさせてやった。けんめいになめとろうとする牝ヤギを、黒髪の子どもはまじまじと見つめた。
「オオカミは、蜂蜜で声をやさしくして、小麦粉で手を白くして、かあさんヤギに見せかけることで、子ヤギたちをだましたのよ」
「……かあさんヤギ」
子どもはふいにはっきり言った。フィリエルは思わず胸をなでおろし、横目でうかがった。牝ヤギを見守る顔つきは、運動のせいか赤みもさして、さっきよりなんとなく明るく見える。
(ぜんぜん表情のない子だけど、今はわかる。数字をぶつぶつ言うときとふんいきが違う。エイメ夫人に興味をもったんだ……)
フィリエルは七匹の子ヤギの話をしてやった。この話は、オオカミから逃げまどう子ヤギたちが、家のあちこちに隠れるところを語るのがおもしろい。フィリエルが熱心に話すと、聞き手も耳をかたむけるようだった。
「そして、七番目の子ヤギは、時計のなかに隠れたの。時計って知ってる? あたしは知っている。天文台にあるんだよ」
「天文台……」
「塔のことを、天文台ともいうの」
子どもは、もと来たほうへ顔をふりむけた。同時にフィリエルも、そのとき時間が気になりだした。だれにもことわらずにこの子をつれだしたことを、大人たちは| 快 《こころよ》くは思わないだろう。
ホーリーのおかみさんに見つかることに気づくと、フィリエルは急にそわそわしだした。
「あとは、帰りながら話してあげる。もう行こう」
黒髪の子どもは素直に従ったが、数歩歩いてけつまずいた。
「ああ、もう。こんなにころんでばかりいないでよ」
フィリエルはげんなりして言ったが、子どもが立ち上がらないため、驚いてかがみこんだ。
「けがしたの?」
今度倒れたのは草地で、切り傷をつくる場所ではなかったが、子どもはへたりこんだように動かなかった。見ると目がおよいでおり、数字すら言えないほど異様な様子になってしまっていた。
「どうしたのよ……立ってよ」
フィリエルは怯《おび》えた声を出した。だが、すぐにただならないことがわかった。相手の腕はこわばり、痙攣《けいれん》して震《ふる》えている。ようやくのことで、フィリエルは気づいた――この子の手のひらは、はじめからずいぶん熱くはなかったか。ヤギを見に来る途中も、もしかしたら足がふらついていたのではなかったか。
(……たいへんだ)
仰天《ぎょうてん》したフィリエルは、不都合を全部忘れはて、ホーリーのおかみさんに助けを求めに走り出した。
裏口から血相《けっそう》を変えて飛びこんだフィリエルが、息せききって事情を話すと、ホーリーのおかみさんの眉はくもった。彼女はつかつかと歩み寄ると、何を言うより先にフィリエルのほおをぴしゃりとぶった。
こんなことはめったになく、フィリエルは痛みよりも驚きで目をぱちくりした。
「あの子にかまうなと、あたしは言っておいたはずだよ。だれがいっしょにつれ回せと言った。聞き分けがないにもほどがある!」
おかみさんが猛烈に腹を立てていることがわかったが、このときはフィリエルも夢中だったので、ひるんではいられなかった。
「わかったから、何でもおしおきを受けるから、お願い、おかみさん。早くあの子をみてやって」
「……こんなことになるんじゃないかと思ったよ」
うめくようにホーリーのおかみさんは言った。
「あんた、あの子から、はやり病《やまい》をうつされたかもしれない」
フィリエルはきょとんとした。
「はやり病って?」
「あの子、発疹《はっしん》がでていなかったかい――赤いぶつぶつは?」
「……よく見なかった」
これ以上、何を言ってもしかたないと思ったようで、ホーリーのおかみさんは大またに裏口を出ていった。フィリエルは急いで追いかけた。
柵のそばのぬれた草地に、黒髪の子どもは体を丸めて横たわっていた。目を閉じ、眠りこんでしまったかに見えるが、息づかいは浅くせわしい。ホーリーのおかみさんは手早くその体を調べた。発疹は見当たらなかったが、火のように熱いことはたしかだった。
ぐったりと力の抜けた子どもを抱きあげたおかみさんが、塔へ向かって歩き出すのを見て、フィリエルはびっくりした。
「うちへ運んだほうが早いのに、おかみさん」
「できるものかね、そんなこと」
息荒くホーリーのおかみさんは言った。
「あんたこそ、うちに入っていなさい。ついてなどこないで」
フィリエルは口のなかで、「できるものかね」とまねをした。そして、おかみさんにそれ以上ふりむく余裕がないのをいいことに、後ろからついていった。
塔にたどり着いたおかみさんは、死人であってもたたき起こす勢いで、寝ているディー博士の名を呼んだ。彼女が肺腑《はいふ 》いっぱい息を吸いこんで叫ぶ声はたいしたもので、塔の石壁に響きわたり、さすがのディー博士も時をうつさず階段を降りてきた。
「あなたの日頃のうっかりが、しでかす不始末をごらんなさい。子どもがこんなになるまで、あなたという人は、ほんのちょっぴりも気づかなかったというんですか」
髪を乱し、上着をはおっただけのディー博士は、いきなりくらった問責《もんせき》に目をしばたたいた。だが、おかみさんの腕のなかでぐったりした子どもに気づくと、見る間に顔色を変えた。
「いったい、その子は……」
「しかもあなたは、こんなに危ない子どもをフィリエルにまかせて、のうのうと寝ていらっしゃる。あたしは、今日こそはっきり言わせてもらいます。あなたがた男衆が何を考えていようと、あなたには、子どものめんどうをみる能力も資格もありませんよ。このフィリエルが、身をもって証明《しょうめい》したことじゃありませんか」
博士はおかみさんの怒りに逆らわず、何度もうなずいた。
「あなたが正しいよ、ホーリーのおかみさん。しかし、その子はその……ずいぶん悪いのかね」
「そんなことはまだわかりません。様子を見なければ」
「あなたにはすまないが、できることなら、介抱《かいほう》してやってくれませんか」
「言われなくてもしますけれども」
ホーリーのおかみさんは、まだけんか腰だった。
「この子が死なずにすむものなら、なおり次第、ボゥに村へつれ帰ってもらいますよ。あたしはばかで冷酷《れいこく》な女ですから、よぶんな憐《あわ》れみなどもちあわせていないんです」
おかみさんの声が震えた。フィリエルは、彼女が興奮のあまり涙ぐんでいることに気づいた。
「ここには、フィリエルがいるというのに。許せないのはそこのところですよ。このあたしだったら、フィリエルを大きくすることで両手とも手いっぱいですからね。こんな場所で子どもを育てる骨折りがどれほどのものか、あなたなどには少しもわかっていないんだ」
「たしかにそうだ、おかみさん」
博士は静かに同意した。彼のくぼんだほおはやつれて見え、茶色の瞳はわびしげだった。
「あなたにばかり苦労をかけている。その子どもが元気をとりもどしたら、あなたの言うとおりにしよう。看病はわたしがするから、その子を置いていってください」
「いいえ」
タビサ・ホーリーは激しく鼻をすすったが、きっぱりと言った。
「そんな寝覚めの悪いこと、だれがさせられますか。この子の寝床は、二階につくらせてもらいますよ。ここの暖炉が一番暖まるんだから」
彼女はわらマットレスを引っぱってくると、羊の毛皮とシーツと羊毛ぶとんといくつかの羽根枕で、食堂の壁ぎわに柔らかい寝床をこしらえた。子どもをしっかりくるみこんで寝かせると、その熱い額には、冷たくぬらした布きれをあてがってやり、炉にはお湯をわかして、暖かさと湿度を保つようにする。
その手ぎわのよさには、博士がさしでる隙はどこにもなかった。彼はぼんやりと立って見つめるばかりで、自発的に動くすべを知らない様子は、少しばかり黒髪の子どもに似ていなくもなかった。
当の子どもは、周りで何が起きているかもわからぬ様子で、目を開けることなく横たわっていた。身じろぎをほとんどしなかったが、浅い呼吸が苦しそうで、くちびるが半開きになっている。
フィリエルは離れた場所からおずおずとたずねた。
「あの……あたしにもできることある?」
きつい目でフィリエルをにらんだホーリーのおかみさんは、有無《うむ》を言わせぬ声音で言った。
「ああ、あるとも。今すぐ家に直行して、ボゥの帰りを待っていなさい。あの人が事情も知らずにいるのは、しゃくでならないからね。それから、あたしは今晩ここへ泊まりこむことになるだろうから、ごはんを自分たちで食べなさい。したくできるだろう、もう大きいんだからね」
ホーリー家へ駆けて帰ったフィリエルは、不安に胸をしめつけられていたが、ホーリーのおかみさんの腕前を信じてもいたので、あの子どもはきっと何とかなるだろうと思った。それにつけてもたいへんなのは、おかみさんが家を留守にするということだった。
だんなさんが幾晩も留守をすることは、当たり前によくあることで、フィリエルも慣れていた。だが、おかみさんが一晩でも家を空けたことは、覚えのあるかぎりないことだった。彼女がよそへ出かけるときは、夜までには帰ってくるし、羊のお産につきあう徹夜のときも、一度は朝のしたくに帰ってくるおかみさんだったのだ。
(たて続けに、なかったことばかり起こる……)
戸口に立って、フィリエルはくちびるをかんだ。おかみさんの姿のないホーリー家は、やけにがらんとして薄暗く見えた。今は、この家がフィリエルに一任《いちにん》されたのだ。
心細さに立ちつくしてしまったフィリエルだが、しばらくすると、おかみさんが出かける前にやりかけていたことが徐々にのみこめてきた。暖炉のわきには、パン種がふきんを被《かぶ》せて寝かせてある。これは、もう一度たたいて練って、蓋のある焼き釜《がま》で焼くものだった。
暖炉の自在かぎにかかっている大鍋は、中身がほとんどなくなっているので、水を足しておいたほうがよい。すぐにお湯が使えるように、おかみさんは決して鍋を空にしないのだ。だが、泥炭がかなり灰になっているので、先にこちらを継ぎ足すべきだろう。パンを焼くなら、特によく火をおこしておく必要がある。
(焼きたてのパンがあったら、夕ごはんは、豆と塩漬け肉で足りる……)
それらのありかは、フィリエルも知っている。垂木《たるき 》の上にしつらえた食料棚だ。おかみさんのように、踏み台にのっただけでは手が届かないが、もう一つ何かを重ねればなんとか届くだろう。
するべきことがわかったので、フィリエルは不安だったことを一時的に忘れた。むしろ、主婦としての責任感にふるい立ち、いそいそと仕事にとりかかった……
暗くなってから我が家にもどったホーリーのだんなさんは、戸口を入って出くわした惨状《さんじょう》に、思わずしゃっくりをした。
暖炉の周囲には灰と煤《すす》が散乱し、テーブルの上には煤まじりの練り粉が全面になすりつけてあった。それから、家のかなりの範囲に干したエンドウ豆がまき散らしてあり、破れた袋も落っこちていた。
「これは……何の匂いだね」
目にしたものもかなりだったが、それ以上に強烈に焦《こ》げ臭かったため、彼はたずねた。
「黒焼きになったパンの匂い」
フィリエルはしょんぼりと答えた。彼女の顔は、火にあぶられて真っ赤になった上に黒白の模様がついて、髪の毛の一房は、奇妙な具合に縮れていた。前かけにも腕にも、乾いた練り粉と煤がすじになってついている。
「……もしかすると、真ん中のところだけ食べられるかもしれないの。あたし、エイメ夫人や鶏を小屋に入れることを、途中で思い出しちゃって……暖炉の前を離れなければ、すごくうまくいってたのに」
「ああ、そうだろうね」
確信のない口調で、だんなさんは同意した。
「タビサはどうしたんだね?」
「おかみさんは天文台へ行っている。だんなさんがつれてきた子が、病気になったからなの。おかみさんは今晩、塔に泊まりこむって。だから、あたしが夕ごはんを作ったんだけど……どうしてこんなに汚れたんだか……」
疲れきって、泣きたい思いでフィリエルは言った。昼間から奮闘《ふんとう》しているのに、結局何一つできなかったのだ。まったくいたたまれなかった。おかみさんは、手のつけようもなく怒っているときであっても、帰宅しただんなさんに、熱い食べ物はかかさなかったのに。
ホーリーのだんなさんはフィリエルを見つめ、フィリエルの黒々とした作品を見つめてから、首をふりふり言った。
「やれまあ、どこか火傷《や け ど》をしなかったかね?」
「うん……それは気をつけた」
「大鍋で、ジャガイモをいくつかゆでようじゃないか。そのパンは、非常時用にとっておこう」
彼は、おかみさんがいないときは簡単な食事でいいのだと、やんわりさとしたが、すでにしょげきっているフィリエルを叱ろうとはしなかった。
二人で力を合わせると、ジャガイモがゆで上がるまでには、テーブルまわりもだいたいきれいになった。それから、だんなさんが保存用のびん詰め肉とタマネギの酢漬けを出してきたので、バターをのせた熱いジャガイモとそれらで、なかなかけっこうな夕ごはんになった。
だんなさんとともに入ってきたロブとロイは、干しエンドウ豆をちょっと味わってみたが、まずいということが身にしみたので、別にもらったあばら骨をくわえていそいそと庭へ出ていった。
フィリエルが、食べ物をお腹におさめてようやく笑顔を見せはじめたので、ボゥ・ホーリーはあったことを少女にたずねた。自分の失敗よりはよっぽど話しやすかったので、フィリエルは熱心にいきさつを語った。
「……そういうわけなの。あの子の病気、本当にはやり病だと思う?」
「さて、どうかな」
ホーリーのだんなさんは、眉を寄せて暖炉の火を見つめた。
「こりゃあ、困ったことになったね」
「あの子、死んじゃうと思う?」
「さて……どうかな」
だんなさんの目は落ちくぼんで深く、薄暗がりでは陰影をたたえて見える。肌は日に焼けて固くなり、目尻や鼻のわきに深いしわを刻んでいた。なでつけた淡い髪はこしがなく、まばらに首筋にかかっている。そして、歩くときに肩をまるめて前かがみになるので、ディー博士よりずっと老けて見えるのだった。本当は二つしか年上ではないはずだが。
口数の少ない人で、こみいったこととなると、すぐに話をにごしてしまう向きがあったが、フィリエルと二人きりのときには、わりと進んで話してくれる。そして今夜、彼らはずっと二人きりなのだ。フィリエルはたずねてみた。
「ねえ、だんなさん。どうしてあの子をつれてきたの?」
ホーリー氏は少しのあいだ黙っていたが、やがて口を開いた。
「……ここへ来なくてはいけないような気がしたんだよ。あの子を見てね。よそでは生きられない子だろうよ」
「どうして?」
「フィリエルも気がついただろう。あの子の人並みでないところを」
フィリエルはうなずいた。
「うん。あたしが名前をたずねたのに、あの子は数字しか言わないんだよ。憎らしくなって、ぶっちゃった」
だんなさんはため息をついた。
「あの子は、旅芸人にチビとか暗算小僧と呼ばれていたようだよ。それ以外に名はついていないようだった」
「どうして?」
ホーリーのだんなさんは、かみしめるように言った。
「子どもをそんなふうに扱う人たちもいるんだよ。世間は広くて、いろいろな人がいるからね」
フィリエルは首をかしげた。
「でも、おかみさんは、あの子の病気がよくなったら、もといた場所へ返すって言っていたよ」
「タビサも、本当のところはわかっているんだよ。あの子に帰る場所などどこにもないということをね。ただ、認めたくないんだよ」
「どうして?」
フィリエルにはこれしか言えなかった。いろいろと不可解《ふ か かい》なことが多すぎた。
「わしらは、あの塔で、息をひきとる人を看取《みと》ったことがある」
つぶやくようにゆっくりと、ホーリーのだんなさんは言った。フィリエルはまばたいて、ベンチの上で背筋をのばした。
「知ってる。それ、あたしのおかあさんのことでしょう。あたしが二歳のときのこと」
だんなさんはうなずいた。
「タビサはね、自分に落ち度があったと思っているんだ。あのころは、それほどしげしげとお隣へ行かなかった……行ったときには、もう手遅れだった」
彼はテーブルの上に両手を組み、それを見つめた。
「ディー博士も同じに、自分に落ち度があったと思っていなさる。それで、二人はうまくいかない」
フィリエルは反対側に首をかしげた。
「それとあの子と、どういう関係があるの?」
「思い出を刺激するんだよ」
彼は言ったが、ためらいながらもつけ加えた。
「だが、わしは、これしかないと思ってつれてきたんだ。たとえあの子が、このまま天文台で生涯を終えることになっても、今まで以上に不幸なことにはならないと。わしは、やっぱりそう思うよ。あの子にとっても……博士にとっても」
「博士にとっても?」
だんなさんはうなずいた。だが、それから急に両手で顔をこすった。
「とはいえ……こうはやばやと看取ることになってしまっては、タビサはわしを許さんな。困ったことになった」
「あの子、死ぬの?」
「さて……どうかな」
だんなさんの話に耳をかたむけるフィリエルは、それほど事態を把握《は あく》しているわけではなかった。彼女は、死んだ母親のおもかげも、母親が死んだときの様子も、ほんのわずかも覚えていない。だから、だれかに死に別れる悲嘆《ひ たん》を、本当の意味では知らなかった。大人たちが内に抱えた悲しみを、思いやるほどの力はなかったのだ。
けれども、自分なりに類推《るいすい》してみることはできる。フィリエルも動物の死なら、病死でも事故死でも、人の手による死であっても承知していた。幼いとはいえ牧夫《ぼくふ 》の家に育てば、死はあんがい身近なものなのだ。
動物の場合、慣れ親しんで心にかけた生きものかどうかで、その死の受けとめ方はだいぶ違うものになる。毎年まびかれる羊に、フィリエルはそれほど胸を痛めなかった。けれども、ロイの先代のタムに死なれたときには、なんともいえずつらかった。エイメ夫人が死んでもきっと同じになるだろう。
(あの子は、どちらだろう……)
フィリエルは考えてみた。黒髪の子どもを見知った時間は、売られる子羊よりもまだ短い。交わした言葉は数語で、実のあることは何も話していない。それでも、あの子が死ぬことを考えると、動物に対するのとは違うものがあった。
最初は、まるで異生物のように見えたはずだった。けれどもフィリエルは、あの小さな熱のある手を握ってしまった。あの手が冷たく固くなるのはいやだと思った。単語しか言わないくちびるであっても、あのまま動かなくなるのを見たくはなかった。
フィリエルは慎重に言った。
「あの子が死ぬのはいやだな。まだちっとも好きじゃないけれど、それでもいや。だって、死んじゃえば、これ以上考えなおすときは二度とこないだろうし」
「そうだね……」
ホーリーのだんなさんはうなずいた。
「もちこたえてくれるといいね」
フィリエルが寝ついた後の深夜、ホーリーのだんなさんは天文台へ行ってきたようだった。朝になると、病気の子どもはいまだに熱が下がらないが、ひどく悪化してもいないと教えてくれた。
はやり病かどうかは、まだはっきりしなかった。フィリエルは塔へ行くことを厳重にさしとめられ、おかみさんもまた、しばらく家へもどってきそうになかった。
ホーリーのだんなさんは、不在のおかみさんにかわって、意外と上手に家の用事をひきうけた。放牧場から早めに帰ってきて、フィリエルにシチューを作ってくれることまでした。おかみさんのシチューの味とは違ったが――彼は肉と塩を気前よく入れるのだ――それもまた、おいしいものだった。保存食も惜しみなく並べて、食卓はいつもより豪華だったくらいだ。
それでも、ホーリーのおかみさんの声が響きわたらないと、この家は性《しょう》が抜けてしまったようで、フィリエルは淋しくてならなかった。留守番を一人でがまんするのは一日で懲《こ》りてしまって、だんなさんに、自分も荒れ野へ行くと宣言した。彼はとやかく言わずに、弁当を二人前にして、シーザーの背に乗せてつれていってくれた。
羊たちは荒れ野を北にのぼった、上《かみ》の放牧場にいた。彼らはこのあたりで夏をすごし、寒波がやってくると、家の近くの羊囲いにもどってくる。今年もそれはまもなくのことで、ホーリーのだんなさんは、その前にしておかなければならない小屋の補強《ほきょう》や石垣の修理やらで忙しかった。
フィリエルのすることは、実際にはほとんどなかった。羊たちは退屈な連中で、最初は好奇心から少女を見学に来たが、すぐに見向きもしなくなる。そこで、若犬のロイと遊んだり、風にのって聞こえてくるシギの鳴き声に耳をすませたり、まだ実を残したコケモモがないか探したりしてすごした。
そうしながら、ふと考えた。羊の群を見ていて、思いついたことがあったのだ。
(この羊のどれかが死ぬことになっても、あたしがあまり悲しくないのは、どれもがただの羊だからなのだ。特別な名前がないからなのだ……)
それはフィリエルにとって、新発見と言ってよいものごとだった。死んだタムにはタムという呼び名があった。エイメ夫人も、エイメ夫人と呼ぶから単なるヤギではない。その動物に名前がついているからこそ、それを二度と呼ばなくなることは、とっても悲しいことになるのだ。
黒髪の子どもには名前がないということを、フィリエルは思い返した。それはつまり、彼のいた場所では、あの子どもは羊飼いにとっての羊のようなものだったということだ。
(今まであの子がいっしょにいた人たちは、あの子が死んでもそんなに悲しくなかったのだ……)
どういう気持ちがするものだろうと、フィリエルは考えてみた。自分が死んでも、だれ一人悲しまないとわかっていたら。天文台につれてこられても、彼にとってはまだ同じ情況だ。今すぐ死んだら、「この子」「あの子」でしかない子どもは、フィリエルたちからもすぐに忘れられ、本当に悲しんでもらうことにはならないのだ……
四日めの朝、とうとう天文台へ行ってよいとお許しをもらったフィリエルは、飛び立つ思いで出かけた。あんまり急いだので、めったにないことなのに、途中でころんでしまったくらいだ。
それでも、痛さもほとんど気にならなかった。ホーリーのおかみさんとこれほど離れていたことは、生涯になかった。フィリエルにとっては、信じられないほど長期のおあずけだったのだ。
塔へ着いたときには、フィリエルの息は見事に切れてしまっていた。のどの奥がゼイゼイ鳴り、ようやく二階におかみさんの姿を見出しても、すぐには声もかけられなかった。
ホーリーのおかみさんは入り口に背を向け、子どもの寝床にかがみこんでいた。子どもはクッションを背にして、半身起きなおっている。おかみさんは、挽《ひ》き割り麦のおかゆが入った木の椀《わん》を手にして、ひとさじずつ子どもの口に運んでいるところだった。
「だめだよ、ほら、こっちを向いて。もう一回あーんして……」
けれども子どもは、先にフィリエルに気づいて、食べるのをやめてしまっていた。フィリエルは進み出て、おかみさんのがっちりした腰に後ろから強く抱きついた。
「おやまあ、フィリエル。そんなことをすると、おかゆをこぼしてしまうじゃないか」
おかみさんは驚いた声をあげた。フィリエルは背中に顔を押しつけてささやいた。
「あたしも、おかゆ食べたい」
「朝ごはんを食べていないのかい? ボゥは何しているんだね」
「ううん、食べた。でも、おかみさんのおかゆじゃないもの」
フィリエルが答えると、タビサ・ホーリーはばかだねと言ったが、まんざらでもなさそうだった。フィリエルのぶんをよそいに鍋へ向かった。
黒髪の子どもは、目の下が黒ずんでいたものの、顔つきはさっぱりしているように見えた。フィリエルは、羊毛ぶとんの上に出ている子どもの手にさわってみた。やっぱり暖かい。このぬくもりだとフィリエルは思った。
「死ななくてよかったね」
フィリエルはささやいた。彼は、注意している様子で少女を見て、口を開いた。
「かあさんヤギ――エイメ」
口調は平板《へいばん》だが、どことなく得意げなふうがあった。覚えていると言いたいのだろう。
「エイメ夫人、だよ。尊敬される女性には夫人とつけるの」
フィリエルが訂正すると、子どもはまた言った。
「赤い髪――フィリエル」
「あたしの髪は金髪よ。赤金色でしょう」
フィリエルはこれにも文句をつけたが、だんだんおもしろくなって、ホーリーのおかみさんを指さした。
「じゃあ、その人は?」
「おかみさん――大声の人」
「驚いたもんだ。フィリエルの前ではずいぶん口をきくんだね」
ホーリーのおかみさんは、フィリエルにおかゆをわたしながら言った。
「食の細い子だよ。この子はどうやら、環境が変わったことに緊張して、数日ごはんがのどを通らなかったらしい。病気になって当たり前だよ。はやり病でなかったことは助かったけれども」
「それなら、ごはんをたくさん食べればなおるものだったの?」
フィリエルがたずねると、おかみさんはため息をついた。
「まあ、だいたいね。こうしてしつこく食べさせてやれば食べるんだよ。まったく、これでは手がかかりすぎだ。赤ん坊と同じだ。いったいこの子がまともに育つかどうか、あたしにはどう考えてもあやしいね」
フィリエルは子どもを見つめた。弱い子ども、弱い羊、まびかれてしまう羊。けれども、今ではすでに、セラフィールドで五番めの人物だった。
ホーリーのおかみさんがまったく口にしなくても、フィリエルにはちゃんと感じとれた。彼女は、もうだんなさんにこの子どもをもとの場所へ返してこいとは言わないだろう。心配していらだっているかもしれないが、それでも育てるつもりになっているのだ。
(そして、あたしも……)
フィリエルは晴れやかな声で言った。
「この子に手がかかるなら、そのぶんあたしが仕事をひきうけるから。大丈夫、もう、大きいんだもの。おかみさんの手伝いも、もっとたくさんできるようになるよ」
「殊勝《しゅしょう》だねえ、フィリエル」
ホーリーのおかみさんは感心した目で少女を見た。
「家を留守にしたのも、あながち悪いことではなかったね。少しのまに、まあ、こんなにしっかりするなんて」
フィリエルは、家のなかがめちゃくちゃになった初日のことは伏せておこうと固く決心した。そして、にっこりほほえんだ。
「この子に名前をつけてあげようよ。この子だけの、忘れられない名前を」
「わたしがつけたよ」
ディー博士がそれに応じた。彼は、もうしばらく前から入り口に立って、静かに様子をながめていたのだった。
「この子の名前は、ルンペルシュツルツキンというのだ」
ふりかえったホーリーのおかみさんは、ひどくけげんな顔をしたが、フィリエルにはぴんときた。目を輝かせ、勢いこんで言った。
「それは、青い本のお話に出てくるこびとの名前でしょう。粉屋の娘に名前を言い当てられた」
「そうだよ。名前を言い当てられたために、こびとは無力になってしまうんだ」
ディー博士の茶色の瞳に、かすかな笑みが浮かんでいた。フィリエルは思わず笑い声をあげた。博士がこれほど、青い本の物語に親しんでいるとは知らなかった。突然、彼と共謀者《きょうぼうしゃ》になった気がして、幸福感がおしよせたのだ。
ディー博士は言葉を続けた。
「わかるだろう。その名前を知っていたので、こびとにつれていかれるはずだった彼女の子どもは、救われることになったんだよ」
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第二章 冬至の祝い
「この日、冬至祭《ユールレイン》の準備を始めよ――」
ルンペルシュツルツキンと命名された子どもは、十二月の歳時暦を読みあげた。彼は、まだときどきつっかえていたものの、たいした速さで読み方を習得していた。
「冬至祭は、別名ミツバチの祭り、または、せ――聖家族の祭り。……と……を見つけておく。けれども、前日まで家に持ちこんではならない」
「ごまかしちゃだめよ、ルーン。『キヅタとヒイラギを見つけておく』でしょう」
フィリエルが鋭く指摘《し てき》した。彼の長たらしい名前――まったく、フィリエル・ディーやタビサ・ホーリーといった姓名よりもまだ長い――は、あっというまに短縮されてルーンになっていた。姓名ふうに呼べばルー・ルツキン。ホーリーのおかみさんは、ときどきルー坊と呼んだりもする。
「ミツバチの祭りには、キヅタとヒイラギを部屋に飾るじゃないの。そんなことも知らないの?」
「知らない」
黒髪の子どもはむっつり言った。しかしこれは、腹を立てたのではなく、そういう口調しかできないだけだった。応じる言葉を発するようになったのは、ずいぶんな進歩といえる。
「お天道様によみがえっていただくために、ときわの緑が必要なんだよ。これは、再生と復活のお祭りだからね」
暖炉の灰をかきたてながら、ホーリーのおかみさんが口をそえた。
「このままお天道様が、岩山から高く昇れないまま、暗い冬がいつまでも春にならなかったら、あんたたちは困ってしまうだろう」
朝はなかなか明るくならず、宵闇《よいやみ》はすばやくやってくるようになっていた。黄色い薄日の射す朝が来れば、きびしい霜で荒れ野一面が真っ白に覆われている。それでも日が射せばいいほうで、一日じゅうどんよりと暗いまま、氷雨《ひ さめ》まじりの風が吹く日もあった。
羊たちはとっくに下《しも》の羊囲いに移っており、身ごもった羊をはじめとして大切にされていた。ホーリー家のちっぽけな菜園にあるものは、地中のネギと霜に耐えるホウレン草程度になり、めんどりは卵を産まず、池の氷は日に日にふちが厚くなる。おかみさんは、ひ弱な天文台の子どもが冬を越せるようにと、毎日塔へ来るようになっていた。
セラフィールドの寒さははんぱじゃないと、ホーリーのおかみさんが言うように、ルーンはしじゅう鼻水を出したり咳をしたりしていた。それでも、黒髪の子どもは、来た当時より活発になったように見えた。三ヶ月がすぎて、周りになじんできたルーンは、こわばった態度を見せることが少しずつ減り、フィリエルを相手にして、前よりしゃべる回数が多くなってきたのだ。
今、ルーンは、毛織りのシャツに重ね着した大きなセーターと、厚い毛織りの長ズボンといったいでたちだった。ずんぐりむっくりの姿は少々笑いをさそうもので、服の袖が長すぎて、たくしあげてもすぐに指先まで隠れてしまう。ルーンはあまった袖でこっそり鼻水をふいていた。
フィリエルも毛織りのズボン姿だったが、うっとうしい着ぶくれは断固拒否していた。彼女は今まで、真冬であっても羊皮のベスト以上のものを着込んだことはない。第一彼女には、ルーンのように、寒さで顔色が真っ青になっても同じ場所に座りこんでいるという芸当はできなかった。
外で遊べなくなる季節がくると、フィリエルは遠慮なく家のなかで跳ね回ったので、ホーリーのおかみさんの頭痛の種になっていた。けれども今年は、フィリエルの関心が天文台の子どもに向いたので、多少のさわぎを見て見ぬふりをすることに決めていた。
「このままずっと冬だったとしても、あたしはぜんぜん平ちゃらだよ。だって、ミツバチの祭りがあるんだもの」
本から顔を上げたフィリエルは、威勢よく言った。
「夏の荒れ野もすてきだけど、ミツバチの祭りはもっとすてき。一年中ミツバチの祭りが続いたらいいなあって、いつも思うもの」
ホーリーのおかみさんは背のある椅子に腰かけ、かごから編み物の束をとりだした。
「のんきなものだね。そんなはめになったら、あんたは人より先に必ずあきるって保証してやるよ」
おかみさんが本気にしないのを見て、フィリエルは力説した。
「そんなことないってば。あたし、蜂蜜なら毎日だって食べられるし、贈り物は毎日もらってもうれしいし。お砂糖だって、絶対に毎日食べる。ケーキとミンスパイのごはんだったら、三度三度食べても、絶対に文句言わないんだから」
「はいはい、かなわないね。食いしん坊さん」
フィリエルは、ぽかんと聞いているルーンにうきうきと語った。
「ミツバチの祭りは十二日間、お天道様が元気を出すまでずうっと続くのよ。その間、とびっきり甘いものを食べて、楽しいことをしてすごすの。一年で一番すてきだってわかるでしょう。蜂蜜も蜜ろうも、このときのために貯《たくわ》えてあるの。そういうことも知らなかった?」
「知らない」
ルーンは、睫毛をまたたかせて言った。
「ミンスパイも知らないの?」
それでは、フィリエルが待ちこがれる気持ちもほとんどわからないに決まっている。フィリエルは身をのりだして歳時暦のページをめくった。
「作り方を読んであげる。この時期にミンスパイを食べないと、翌年の幸運に恵まれないんだよ」
彼女は、料理のレシピを読むのが大好きだった。そこには、卵一ダースとかクリーム二パイントとか、セラフィールドではとんでもないことが書いてあった。まるで知らない食品、レモンとかクローブとかカルダモンというものも出てくる。だからこそおもしろいのだが、調理するおかみさんが耳もかさないのはうなずけた。
「卵七個、黄身だけを五個、細かく刻んだ背あぶらを二ポンド、干しぶどう一ポンド、カラント一ポンド、プルーン一ポンド、クルミ半オンス、細かく切った青リンゴ八個、しぼった果汁、リンゴ酒、ブランデーを各一ジル、オレンジの皮、レモンの皮、シナモン、メース、クローブ……」
そのとき、ホーリーのおかみさんが編み棒から顔を上げた。だが、やっぱり聞いていたわけではなかった。
「ルーンがいるとなると、うちだけでミツバチの祭りを祝うわけにはいかないね……」
彼女の声がむずかしげだったので、フィリエルはびっくりした。
「祭りのあいだくらい、ルーンをホーリー家へ呼んだっていいでしょう、おかみさん」
「そのあいだ、ディー博士をお一人にして天文台へ残しておくのかい?」
フィリエルは少しぼうぜんとした。言われてみれば、ディー博士がミツバチの祭りを祝うところは見たことがなかった。新年を迎えると、ホーリー夫妻につれられて塔へあいさつに来ていたが、博士は機嫌よく応対するものの、すぐまたいつもの研究にもどってしまうのだ。
「だったら、博士もいっしょにうちへ呼べばいいじゃない」
そう言ってみたものの、狭いホーリー家のテーブルに、ディー博士がぎゅう詰めになって加わっている姿は、あまりに不自然でフィリエルにも思い描くことができなかった。
「……どうして博士は、一度も冬至の飾りつけをしないし、まきやろうそくも燃やさないの?」
ホーリーのおかみさんは頭をふった。
「必要ないとおっしゃるんだよ。祭りごとはお好きでないし、にぎやかしいこともお好きではない。だから、本当はうちも遠慮しておくべきなんだが、真冬に何の楽しみごともないのは、あんたがかわいそうだったしね。それで、なるべくこっそり祝っていたのだけれど……こうなってくるとね……」
恐ろしいほのめかしに、フィリエルは思わず顔色を変えた。
「まさか、おかみさん。今年は祭りをやめるなんて言い出さないでしょう」
「そうだねえ、やめたくはないね。聖家族の祭りだというのに」
おかみさんは思案げに、黒髪の子どもを見た。
「この子がまだそれを知らないなら、経験させてもやりたいし……」
フィリエルは、ふいにぴょんと立ち上がった。
「いいことを思いついた。ここでミツバチの祭りをすればいいんだよ。ここにあたしたちがキヅタやヒイラギを飾って、新年を迎える戸口を作れば、全員で集まってもきゅうくつじゃないし、博士も気がむいたときに参加できるでしょう」
「押しかけるなんて、めっそうもない。博士はにぎやかしいのは……」
ホーリーのおかみさんは、言いかけた言葉を途中でとぎらせた。そして塔の食堂を見回した。
この部屋は、ルーンが来てからいっそう雑然としたものになっていた。子どもの寝具はまだここにあったし、ろうそくのもえさしや脂《あぶら》をたらした跡が、あちこちに散乱している。
ディー博士がルーンに、読書のためなら灯火を許してやるためで、子どもの読む本も加わって、食堂の本の数は増えるばかりだった。以前から窓辺や棚に積みっぱなしの本は、やっぱりそのままほこりを吸っているのだから。
それでもこの部屋だけで、ホーリー家がまるまる入る広さがあるのだった。つかのま、タビサ・ホーリーは、この部屋が隅々まで手入れされていたころの幻影を見た。
壁には、透明なガラスのランプが明るくともり、棚には置き物が並び、窓辺に大きな緑の布張りソファーがすえてある。きゃしゃな奥方がそこに腰かけて、生まれてくる赤ん坊の衣類を一針一針縫っていた。たどたどしい自分の手つきを笑いながら……
緑のソファーが姿を消したのは、そこで奥方が亡くなってからのことだった。博士は、ソファーを木切れになるまで砕いて燃やしてしまった。同時にそのとき、奥方の目を楽しませた置き物の数々も煙になったのだ。
「博士も、一度もミツバチの祭りを祝われたことがないわけではないんだよ」
ホーリーのおかみさんは静かに言いなおした。
「もしかすると、ころあいかもしれないね。フィリエル、ここで冬至の祝いをしていいかどうか、ディー博士にうかがってきてごらんよ」
フィリエルは元気にうなずいた。
「うん。あたし、いいと言ってくれるまでお願いする」
それから彼女はルーンをつついた。
「あんたも来なさい。あんたからも、ここでお祝いがしたいって言わなくちゃだめよ」
ルーンは大きな目で見上げたが、立ち上がろうとしなかった。
「よく、わかんない……」
「何がわかんないのよ」
フィリエルが強い調子でたずねると、彼はいくらか当惑したように袖で鼻をこすった。
「あっ、ばかね。袖でふいたらだめだと言ったのに。ハンカチはどこへやったの?」
さわぎたてたフィリエルは、ルーンがもっていないことがわかると、自分のハンカチをひっぱりだして彼の顔にあてた。
「ほら、チンしなさい。チン」
ホーリーのおかみさんは、フィリエルの口調をおかしそうに聞いていた。
「あんたったら、おねえさんぶりが板についてきたね」
「だって、この子、一人で何もできないんだもの」
フィリエルはぷんとした。
「あたしがいちいち言ってあげなくては、することが少しもわからないのよ」
「あんたがその子をかまっているおかげで、こちらも助かるけれどね。あんたと部屋に閉じこめられて、うるさくてかなわないことがなくなったし」
フィリエルはちょっぴり傷ついた。
「あたし、そんなにうるさくしてる?」
「そう、あんたはだいたいうるさいんだから、あまりしつこくして博士を悩ませてはいけないよ。聞きにいくなら一人で、落ち着いた態度で話してきなさい」
「じゃ、そうする」
おかみさんの言葉にフィリエルはうなずき、一人で階段を上っていった。
「博士、博士」
フィリエルは、ホーリーのおかみさんに言われたように、落ち着いた上品な声を出した。書斎のディー博士は、細かく数字を書きこんだ本を机に広げて、しきりにメモをとっていた。
書斎にも暖炉があったが、泥炭を節約しているために、よほどのときしか焚《た》かなかった。階下の部屋でさかんに焚けば、熱が上に伝わるから暖かいと博士は言うのだが、フィリエルには、彼が泥炭を切り出しに行く手間を惜しんでいるように見えた。部屋のなかはかなり冷えていた。
鵞《が》ペンを持つ手がかじかむので、屋内でも指なし手袋を常用し、格子縞《こうし じま》の膝《ひざ》かけに足をくるんだディー博士は、このときも反応がにぶかった。
「なんだね、ユーナ……」
「あたしはフィリエルだよ」
名前をまちがえられると、フィリエルは頭にくる。彼女の特別な名前はフィリエルなのに、どのように呼んでもかまわないなら、名前がないのと変わらないではないか。群の羊になってしまうではないか。
ディー博士は、悪びれた様子もなく訂正した。
「ああ、すまない。フィリエル、何の用だね」
抗議することもできたが、かどをたてては後の要件にひびく。フィリエルはつとめて気持ちを抑えこんだ。
「あのね、ミツバチの祭りのことなの。今年はルーンもいるから、ホーリーさんのおうちじゃなくて、ここで祝おうって言っているの。二階の部屋に新年の戸口を作って、ろうそくを立てて、みんなでごちそうを食べたいの。やってもいい?」
ディー博士は顔をくもらせた。
「冬至の十二日間を……ずっと祝うつもりかね」
「それはもちろん、十二日間なくちゃ、ミツバチの祭りとは言えないもの」
少女の生き生きした顔を見つめ、ディー博士は困って髪をかきあげた。
「……天文台にとって、冬至の時期の天体観測は、欠かすことのできないものなんだよ。それにわたしは、にぎやかなことがあまり好きではないんだ」
「博士は、ミツバチの祭りをしたくないの?」
息を吸いこんでフィリエルはたずねた。彼の口から直接聞くまで、祭りの嫌いな人間がいることがフィリエルには信じられなかった。
ディー博士は重い口調で言った。
「……めんどうで、不経済だ。天文台で祭りをしようとは思わないよ」
「めんどう? 聖家族のお祭りなのに」
くやしくなったフィリエルは、思わず言ってしまった。
「博士は、子どもに贈り物をするのがいやなんでしょう。そういう人、ケチっていうんだよ」
ディー博士は急に疲れた顔になった。
「ホーリー家で祝ってもらいなさい、フィリエル。ルーンが必要なら、そちらの家へつれていけばいいから」
フィリエルにはうなずくことができなかった。すばらしい思いつきをもってしまった今では、例年どおりホーリー家で行う祭りでは収まらなかった。
「天文台で祝いたいの。いいでしょう……」
「ここは遊び場ではないんだよ」
ディー博士はきっぱり言った。その口ぶりを聞けば、彼がその気にならないことははっきりしていた。フィリエルは鼻の奥がつんとしてきた。
「どうしても、だめ……?」
博士は驚いたようにフィリエルを見ていたが、鵞ペンを置いて姿勢をあらためた。
「わたしは説明する言葉をもたないが。いいかね、フィリエル。祭りには、ふさわしい場所というものがある。天文台はそういう場所ではないんだよ」
これ以上は何を言ってもむだだった。フィリエルは、うなだれてきびすを返した。そして、ルーンにつき当たりそうになってぎょっとした。ルーンはいつのまにか階段を上ってきて、踊り場にじっと立っていたのだ。
「何しに来たのよ。ホーリーのおかみさんが行けと言ったの?」
フィリエルが小声でたずねると、着ぶくれした黒髪の子どもは、まのぬけた顔で見返した。
「……ちがう」
「なによ、それならやっぱり、あんたも天文台でミツバチの祭りがしたいってお願いに来たの?」
ディー博士もルーンに目をとめた。この子どもが何かを主張したためしはなかったので、不思議そうにたずねた。
「本当かね。きみも天文台でミツバチの祭りをしたいというのかね?」
二人に見つめられたルーンは、口を開けたり閉めたりした。とまどって言葉を忘れてしまったかに見えたが、ようやく声を出した。
「……冬至って、なに?」
意表をつかれて、フィリエルも博士もしばし黙った。ルーンは彼らの顔を見て、もう一度生まじめに言った。
「太陽の再生って、なに?」
「つまりきみは、なぜ冬至になると太陽の光が最も弱くなるかを知りたいのだね」
ふにおちた様子でディー博士が言った。博士の声は、急に興味をおぼえたように明るくなっていた。
フィリエルとルーンが書斎に並ぶと、ディー博士は説明をはじめた。
「わたしたちの世界が丸いことは知っているね。一個の星、正しくは惑星であることは。燃える恒星《こうせい》の周りを回る、いくつかの惑星の一つだ」
それは、アストレイア女神の星をたたえる言葉にも出てくるので、グラール国民ならたいてい承知していることだった。博士は書斎の隅のがらくたのなかから、ほこりのつもった地球儀を拾いあげた。金属足でささえた張りぼての球に、大陸の地図が描いてある。
「わたしたちの世界は、太陽の周りを回りながら、自分自身も回っている。一日に一回転、だから昼と夜が生まれる。ここまでは簡単だね。だが、この星は、自転する軸が太陽をめぐる軌道に対して、絶えず傾いているのだ。そうすると、どうなるかわかるかね」
外が暗いので、机の上にはろうそくがともっている。ディー博士が手にした地球儀をろうそくの炎にかざすと、ルーンは熱心に見守った。フィリエルはどちらかというと、ふいに活気をおびた博士の口調にひかれて、ぼんやり顔を見ていた。
「このろうそくが太陽だとする。すると、地軸に一定の傾きがあるせいで、太陽をめぐる軌道のこの位置に来たときには、北半球を半分より多く照らすだろう。グラール国は北半球にあるから、これが夏の季節になる。地上からは、太陽がもっとも北寄りの空をわたって、昼が長くなるように見える。極まったときが夏至《げし》だ。同時にそのときは、南半球にとっては冬至で一番暗い季節だ」
「え、うそ」
フィリエルは思わずつぶやいた。
「あたしたちが夏のときには、砂漠の向こうだろうと何だろうと夏だと思ったのに」
「砂漠の向こうのブリギオンは北半球だから、同じように夏だよ。わたしが言ったのは、赤道を越えた南の国のことだ……国があるかどうかは不明だが」
根気よく言ってから、ディー博士は地球儀をろうそくの反対側へもっていった。
「これが逆の位置、われわれにとっての冬至で、南半球にとっての夏至だ。この二つの中間点が、昼と夜の長さの等しい春分と秋分の時期になる。惑星の軌道が円を――わたしは楕円《だ えん》と信じているが――描いて回っている以上、一年に一度は必然的に起こるものごとなのだよ。同時にこれが、極地に近い地方ほど夏と冬の日照時間に差がある理由でもある」
博士は地球儀をもとへもどした。フィリエルは、こんなふうに説明する博士を一度も見たことがなかったし、その内容もなじみの少ないものだった。頭のなかでつかむには、なかなか厄介《やっかい》なものごとに思える。
「冬至とは何か、これで納得できたかね?」
ディー博士はルーンにたずねた。黒髪の子どもはいっとき考えこんでいたが、フィリエルを見つめて言った。
「大丈夫」
「何が大丈夫よ」
フィリエルが不審げに問い返すと、ルーンは不器用に言った。
「地球は軌道を回ってる――太陽は、祭りがなくても再生する」
「ちがうったら」
フィリエルは思わず声を大きくした。
「それだけじゃないもん。ミツバチの祭りは、そういうものじゃなくて、それだけじゃなくて……」
しかし、フィリエルには説明することができなかった。自分がただお菓子を食べること以上に大事だと感じているわけを、明確に語る言葉を知らなかった。そのため、さらにくやしくなって、ルーンの胸を乱暴につき飛ばした。
「どいてよ。あたし、帰る。あんたなんかきらい。あんたのためなんか思うんじゃなかった」
よろけたルーンは、階段を駆け下りるフィリエルをびっくりした目で見送った。しばらくそうしていたが、やがて博士にたずねた。
「……聖家族って、なに?」
今度はディー博士も頭をふった。
「ホーリーのおかみさんに聞きなさい」
あきれるおかみさんを残して、フィリエルは塔を飛び出し、ホーリー家へ帰ってきてしまった。岩場にすさぶ風の冷たさに身をすくめ、マフラーで鼻と口を覆《おお》いながら坂を下ってくると、裏手の庇《ひさし》の陰に、ホーリーのだんなさんの姿が見えた。
彼は煤《すす》けた小さい深鍋を火にかけ、羊の脂を煮溶かして、ろうそく作りをしているところだった。フィリエルが急いで寄ってきたのを見て、だんなさんはちょっとうなずいたが、どうしたとも言わずに作業を続けた。
それというのも、フィリエルは以前からろうそく作りが大好きで、手を出さずにいたためしがないからだった。むいた灯心草の芯《しん》を、溶けた脂につけては冷まし、つけては冷ましていくと、だんだん周りに固まってろうそくができあがる。その太っていく様子がおもしろいのだ。もっとも、蜜ろうのろうそく作りのほうが、匂いもよいし聖なる感じがして、さらに好ましかったが。
いつもなら今ごろは、祭りに使う蜜ろうのろうそくを作るころあいで、獣脂《じゅうし》ろうそくは作りきってあるはずだった。掛け具に下がっている作りかけのろうそくに手を伸ばしながら、フィリエルはたずねた。
「こんなにたくさん、どうするの?」
「そうだな……」
ホーリーのだんなさんは、彼らしいのんびりした答え方をした。
「塔で入り用になるかと思ってね……」
彼の作ったろうそくの大半は、天文台で消費される。ホーリー家が使う量はほんの一部で、油皿の明かりですませることもあった。針仕事をするおかみさんであっても、明かりのむだ使いは決してしないのだ。
けれども、夜通し起きていることもあるディー博士にとって、ろうそくは欠くべからざるものだった。博士はむだを考えない。こうしてだんなさんが寸暇《すんか 》を惜しんで作っていることを、ディー博士は承知しているのだろうかと、フィリエルはふと考えた。
「わかった、ルーンが余分に使うからでしょう。あの子のぶんなんか作ってやらなくていいのに」
再び憤慨がこみあげてきて、フィリエルは鋭い口調で言った。
「頭にきちゃう。あんな子、あたしはもう知らない。あの子には、貞操《ていそう》ってものがないんだから」
「……何がないって?」
「テイソウ」
フィリエルは、本で覚えた言葉をくり返した。たしか、仲のよい人に忠実でいようとする心がけを意味するはずだ。
「それは少し、使い方がちがうと思うよ」
ホーリーのだんなさんはあやふやに言ったが、フィリエルは頭をふりたてた。
「ちがわないもん。あたしやおかみさんが、せっかくミツバチの祭りを天文台でしようって言ったのに、あの子がなくてもいいなんて言うから、博士も許してくれなかったのよ」
少女が今日のいきさつを語ると、ホーリーのだんなさんは黙って耳を傾けた。そして、ときおりうなずきはしたが、フィリエルの憤懣《ふんまん》に対する最終的な感想は、あまり意味のない一言だった。
「そうだな……」
なるべく意見を言わずにすませるのが、だんなさんのやり方だった。そして、黙ってじっくり考えるのだ。フィリエルもそのことには慣れていたし、彼女の場合、ひととおりしゃべれば気がすむところもあった。
だんなさんの寡黙《か もく》につきあって、単調な仕事――実際は、溶けた脂の温度を加減する難しさがあるのだが――を手伝っていると、フィリエルの気持ちも徐々に収まって、彼と同じような静かさを映しはじめる。しまいには、自分がルーンに当たりちらしたことがわかるだけに、やるせなさがもの憂《う》く残った。
沈んだ口ぶりでフィリエルは言った。
「だんなさん。聖家族の祭りは、星仙《せいせん》女王の御子《みこ》がこの地へもたらされたことのお祝いでしょう。子どものお祝いでしょう。どんな子どもでも星の子どもだから、お祝いするんでしょう」
「子どもと家畜のお祝いだよ」
うなずいてホーリーのだんなさんは言った。
「毛皮や角をもった十二の動物たちが、御子をお守りして天下《あまくだ》ったからね」
「うん、それも知っている。ディー博士は……子どもが好きじゃないから、あんなふうなのかな」
フィリエルはぼそりと言った。ふだんはたいてい、あのような性分の人だからと片づけているのだが、大きくなるにつれて、気になる回数が増えてきたのはたしかだった。
「博士は、あたしのこと……」
ホーリーのだんなさんは、静かにすばやくさえぎった。
「およし、フィリエル。そうじゃないよ」
「……だって、めんどうで不経済だって言ったよ」
だんなさんは、しばらくまた黙りこんだ。そして、ろうそくを仕上げてしまい、残った脂を始末するころになってふいに言った。
「ミツバチの祭りは、天文台でしよう。わしからもディー博士に相談に行くよ」
「本当?」
フィリエルは息を吸いこんだ。ホーリーのだんなさんは、めったなことでは断言しないが、断言したことは、てこでも動かさない人なのだ。
それまでの様子と違い、やつれた顔のしわを厳しくひきしめて、だんなさんはうなずいた。
「弟子の一人が増えたくらい、わしらの負担でないことを、よくわかっていただかなくては。ミツバチの祭りをむだづかいと呼ぶとは、めっそうもないことだよ」
こういうときのだんなさんは威厳があると、フィリエルは両手の指をあわせて思った。もっともこれが、ホーリーのおかみさんの強固な反対に出会うと、たちまち青菜《あおな 》に塩の状態になり、彼女が根負けするまで、おどおど、こそこそ、願うはめになるのだが。
けれども、今回にかぎっては、おかみさんも同意見なのだから衝突は起こらない。だから、このことは決定したようなものだった。セラフィールドにおいて、フィリエルの意が通らないことはままあったが、ホーリー夫妻が一致したものごとが通らなかったことはないのだ。
大人たちの会合の次第は、だれもフィリエルに教えてくれなかったが、どのような進行だったかは、翌朝、ホーリーのだんなさんがシーザーを荷馬車につないだことから察することができた。
寝起きのフィリエルが表へ飛び出すと、寒さに強いシーザーは、足の下でパリパリと音をたてる霜にもめげず、運動不足を解消できることを喜んでいる様子だった。馬と御者の意気揚々とした気分はフィリエルにも伝わってきて、彼女も白い息を吐いてどこまでも駆けていけそうな気がした。
「ねえ、何をしに行くの。ねえねえ、何か買い物するの?」
「秘密だよ。帰ってからのお楽しみ」
だんなさんは、鼻の頭とほおを真っ赤にしたフィリエルの顔を見て笑った。彼の鼻も赤かったが、ひしゃげたフェルト帽子もその鼻も、長いマフラーでぐるぐる巻きに巻き込むところだ。
家のなかからおかみさんが、うちへ入りなさいとどなっていたが、フィリエルは聞く気がなかった。
「キヅタとヒイラギ、見つけてくれるの?」
「ああ、今年は盛大に飾ろうな」
「天文台にね」
「そうだよ、天文台にだ」
うれしくなったフィリエルは、声をたてて笑った。
「あたしもいっしょに行きたいな」
そして突然、何ヶ月か前の話を思い出した。
「いつか、つれていってくれるでしょう。あたしはもう八歳になったし、礼拝堂へ蜜ろうのろうそくをおそなえしに行くんでしょう」
ホーリーのだんなさんは、風よけの武装を終えていたが、ふと思いなおしたように口もとのマフラーを押し下げて、フィリエルのほうへ腰をかがめた。
「フィリエルや。今度、わしらといっしょに礼拝堂へ行くかい。そして、うちの子になるかい?」
彼の瞳の真剣さに、フィリエルは少しばかりびっくりした。
「今だってうちの子でしょう。だんなさん」
「礼拝堂へ行って、おまえさんがフィリエル・ホーリーになることもできるんだよ」
フィリエルの目がまんまるになるのを見てとると、ホーリーのだんなさんはあわてて首をふった。
「いやいや、今のはまだ考えなくていい。それで何かが変わるってことでもない。ただ、そういうこともあるというだけなんだよ」
奥から、おかみさんがまたフィリエルを呼んだ。だんなさんはすばやく御者台にのりこみ、たづなをとった。
「今のはタビサにないしょにな。行ってくるよ、フィリエル」
「いってらっしゃい」
フィリエルは急いで手をふり、荷馬車を送り出した。だんなさんは何を言ったのだろうと頭をひねったが、あまりよく考えられなかった。薄着のまま外にいたので、手足も頭もしびれてしまったのかもしれない。フィリエルは急いで家へ駆けこんだ。
「この子はどうして、上着も着ないで外へ出ていくんだい」
おかみさんに叱られ、熱いおかゆをすするうちに、ホーリーのだんなさんが言ったことも少しずつのみこめてきた。だが、そのことをどう考えたらいいかは、暖まってもまだよくわからなかった。
(つまり……つまり……あたしの名前のフィリエル・ディーも、思ったほど動かせないものではなかったんだ……)
また一つ確信のかけらを欠いたような気がしながら、フィリエルはさじをなめて考えた。
ルーンにきらいだと言い放ったからには、おめおめと天文台へ顔を出すことはできなかった。フィリエルはこの冬初めて、ホーリーのおかみさんが出かけるのに、ついていかなかった。おかみさんが戸を閉めたとたん、後悔しはじめたことはたしかだが、フィリエルにも意地というものがあった。
(去年までは、一人で遊んだもん……)
一人遊びの発明家として、フィリエルはちょっとしたものだった。千変万化のごっこ遊びができるし、歌や踊りを作ることもできるし、挑戦もできる――はしごの何段目から飛び降りられるかとか、いつまで右足だけで歩けるかとか。
(……ルーンといっしょにいたって、一人遊びのようなものだし)
黒髪の子どもは遊びを発明しなかった。本なら読むが、その他は、フィリエルがしなさいと言ったことをまねするだけだ。自分からは何もしない。
そのかわり、言われたことに逆らいもしなかった。フィリエルはこのところ踊りに凝《こ》っているので、ただ本を読み合わせていることにあきると、さまざまなダンスを考案する。ひとしきり踊って、ルーンにも踊れと言うと、すなおに彼女を見習った。
ただし、ルーンが踊ると、同じ振り付けがとっても奇妙なものになった。ホーリーのおかみさんが目にした日には、テーブルをたたいていつまでも笑っていた。
一人になったホーリー家で、フィリエルは回転のたくさんある創作ダンスを踊ってみた。けれども、だんなさんの椅子に向こうずねをぶつけただけで、得るものはなく、びっくりするほどつまらなかった。
(あの子が来てから、あたしは変わっちゃったのかな……)
フィリエルは考えこんだ。ろくにしゃべらず、笑いもせず、活発に動くこともない子どもを、本気で遊び相手とは考えていなかった。それでもルーンがいないと、遊びがこんなにつまらない。着ぶくれの子どもが何もしなくても、ばかにしたりけなしたりする相手でしかなくても、フィリエルは彼がいることに慣れてしまったのだ。
(それにあの子、何もしないわけではない……)
ふと思い当たった。昨日のルーンは、自分から書斎へ上ってきたではないか。冬至とは何かとたずねたではないか。
フィリエルは、ディー博士の顔つきが変わった瞬間を思い出し、落ち着かない気分を味わった。このもやもやしたものは、出かける間ぎわのだんなさんの言葉と同じように、あまり深くは考えつめたくないものごとだった。
一人の退屈さにすっかり懲《こ》りた半日が過ぎ、ホーリーのおかみさんがもどってきた。フィリエルはなるべくさりげなく、ルーンはどうしていたかとたずねたが、別に淋しがることもなく本を読んでいたと聞き、がっかりした。ふくれているフィリエルを見やって、おかみさんはおかしそうに言った。
「だけどあたしは、あんたが行ってやったほうがいいと思うよ。あの子はじっとしすぎるから、あんたに強制的に動かされるのがいい薬だよ。まねをしてよく食べるようになったしね」
「なんでもまねされて、困るの。あたし」
つんとしてフィリエルは答えたが、少し自慢に思わなくもなかった。明日は塔へ行こうと心には決めた。
日が暮れてホーリーのだんなさんが帰ってくると、フィリエルの退屈のなごりも吹き飛んだ。だんなさんは荷車に、今まで見たこともないほど巨大なたきぎを乗せてきたのだ。
「これを燃やすの? ミツバチの祭りのあいだ、天文台の暖炉で?」
感嘆にフィリエルは声をはずませた。木々の少ないこのあたりでは、たきぎは貴重品だった。フィリエルたちが暖炉にくべるまきのたぐいは、焚きつけ用の小枝がせいぜいなのだ。
「古いリンゴの木だよ。いい匂いで燃えるぞ」
だんなさんが言うと、ホーリーのおかみさんは額を押さえた。
「あきれたね。お城の暖炉じゃないんだから」
「城のようなもんさ、天文台は。少なくとも高さだけとって見ればね」
だんなさんはめずらしく陽気に言い返した。フィリエルは、この斬新《ざんしん》な考えにすっかり魅了されてしまった。
(お城……そうか、お城って考える手があったんだ……)
翌日のフィリエルは、大いばりで塔へ出かけた。すばらしい祝いのまきが自分たちのものになったのだから、仲たがいは簡単に解消できる。伝えるニュースではちきれそうになったフィリエルは、きらいだと言ったこともほぼ忘却《ぼうきゃく》していた。
「ミツバチの祭りをするのよ、ルーン。あたしの勝ちよ。もう、決まったんだからね」
「知ってる」
ルーンは本から目を上げて答えた。その灰色の瞳で、表情なくフィリエルを見つめる。一日あいたことに関しては、双方とも何のそぶりにも見せなかった。
「これでよくわかったでしょう。あんたは、なくてもいいなんて言ったけれど、ミツバチの祭りはとても大事なものごとなのよ」
ルーンはすぐさま言葉を返した。
「彼は、なくてもいいと言わなかった」
「博士のこと?」
フィリエルが顔をしかめると、ルーンもつられてかすかに眉を寄せたようだった。それから、一本調子だがよどみなく言った。
「彼はルーン。彼は、祭りがなくても再生すると言った。博士が、傾いた自転軸のことを教えてくれたから。でも、なくてもいいと言わなかった」
(あれ……)
フィリエルは、ルーンが自分のことを他人のように言うことに気づいたが、それよりも、一度にこれほど多くを言ったことが初めてだった。
「言いわけしているの? ルーン」
「説明してる」
まじめくさってルーンは答えた。
「説明しないと、フィリエルはぶつ」
フィリエルは、あわててホーリーのおかみさんを見やった。幸い、彼女には聞こえなかったようだ。
「変なことを言わないでよ。あたしは、ちょっと押しただけじゃないの」
ルーンは黙りこんでフィリエルを見た。それでフィリエルは、最初のときにルーンをぶったことを思い出さずにいられなかった。
「あたしは忘れたから、あんたも忘れなさい」
フィリエルはごまかすように言った。けれども、なんとなくわかったのだった。ルーンはルーンで、昨日一日、彼なりにあれこれ考えていたのだ。
「ミツバチの祭りがあってよかったって、あんたも必ず思うようになるよ。お祭りがどんなに楽しいか、きっとわかるから。準備のうちからずっと楽しいのよ。そういうことを全部教えてあげる。いっしょに準備をするでしょう?」
明るい声でフィリエルが言うと、黒髪の子どもはすなおに同意した。
「する」
ホーリーのおかみさんがそばへ来て、二人の肩に手を回して言った。
「それなら、さっそく今日から取りかかるよ。新年を迎えるには、この部屋は汚すぎるからね。まずはいらないものを片づけて、クモの巣を払って、ブラシで床を磨いて、ぴかぴかにしなくては――博士が目をまるくなさるくらいにね。あんたたちもできるだろう?」
「できるできる」
フィリエルは飛び跳ねて答えた。
「お城の広間のようにきれいにするのね?」
「そうだよ。リンゴのたきぎにふさわしくね」
大そうじが始まるので、ルーンの寝床は三階の寝室へもっていくことになった。ホーリーのおかみさんは、食堂にある余計な書物も、とりあえずはここへ運んでしまおうと考えていた。
フィリエルは、確かめておかずにはいられなくなって、おかみさんにたずねた。
「博士はここでお祭りをすること、怒っていないんでしょう?」
「大丈夫だよ。もう、わかっていただいたからね」
羊毛ぶとんを抱えたおかみさんは答えた。
「大丈夫……」
羽根枕を抱えたルーンがつぶやいた。言葉の響きを、口のなかで味わっている様子だった。
ちょっぴり不満なフィリエルは言った。
「それなら、あたしがお願いしたときに、うんと言ってくれればよかったのに」
「気にすることはないよ。あのかたは遠慮していらしたんだ。ミツバチの祭りを本気で嫌がる人間なんて、いるはずがないんだからね」
「そうかなあ……」
フィリエルには、そうとも言い切れない気がした。けれどもフィリエルも、すばらしい新年を迎える部屋を作り上げて博士に見せれば、考えなおすだろうということは信じていた。
三階の寝室兼書斎は、フィリエルもおいそれとは足を踏み入れない場所だ。寝台のある場所は、あまりうろうろしてはいけないと教わっているからで、狭いホーリー家であっても、フィリエルはきちんとそれを守っている。
しかし、塔の三階は、どちらかというと上階の物置といったおもむきの場所なのだった。壁の片隅にディー博士の寝台があるが、それ以外の空間は使うことがなかったので、必然的に、屋上から降ろした古い器具やら雑多な生活用具やら、それからもちろん書物たちが、あいた空間をわがもの顔に占領している。
「ああ、ここもまったく、手のつけられない有様だね」
羊毛ぶとんをおろしたホーリーのおかみさんは、嘆かわしげに言った。
「よくもこれほど、がらくたのなかに寝ていられるものだ。ルーンの寝床を置く場所にさえ事欠くじゃないか」
黒髪の子どもはしゃがみこんで、床に敷かれた敷物を指でなでていた。それはかなり大きなもので、三階の床をほぼ占めており、濃い青の地に小鳥と蔓草《つるくさ》の模様が織りこんであるようだったが、何にせよ手入れが足りないので、図柄もはっきりしなかった。
「跡がある……」
ルーンがつぶやいた。彼が見ているものに、ホーリーのおかみさんが気がついて言った。
「そうだよ。そこには、もう一つの寝台があったんだから。当然のことだよ、前は奥方がいらしたのだからね」
それから彼女はため息を一つついた。
「こんなになった様子を知ったら、あのかたはさぞお嘆きだろうね……」
フィリエルは、自分にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「ユーナ……」
だれに言われなくても、それはわかっていることだった。彼女がユーナ、想像もつかないことだが、ディー博士とともに天文台で暮らし、日々を過ごした女性なのだ。博士はいまだに彼女の足音を聞き、いまだに彼女のためにふりむく。
(あたしの、おかあさん……)
フィリエルは考えこんだが、こうした塔の亡霊じみた女性を、慕《した》っていいのか疎《うと》んじていいのかは、これまたフィリエルにはよくわからないことだった。
食堂の磨きたては徹底したものになった。ホーリーのおかみさんは、生きがいを得たように夢中になり、有頂天といってもいいほどだった。
彼女が長年、したいと思いながらも遠慮していた塔の大そうじなのだ。もって生まれたきれい好きに、使命感が火をそそぎ、どうにも止まらなくなったもようだった。
フィリエルとルーンも、おかみさんにのせられてこまめに働いた。持ち重りのする本を骨おしみせずに運び上げ、隅のほこりを払い、こびりついた汚れをブラシでこすり落とす。
ルーンはしばらくの間、自分のしていることがのみこめなかった様子で、無目的に見まねをしていた。けれどもホーリーのおかみさんが、きれいにするにはものの順序が大切だと申しわたすと、急にはっきり理解して、態度が変わった。
「順序……」
どうやら彼は、その言葉が気に入ったようだった。そうじをしながら何度もつぶやくのを、フィリエルは聞いた。
最初のうちフィリエルは、半分保守的な気分で、よく見慣れた場所が変化してしまうことに少々の残念さを感じていた。けれども、いらないものがなくなってしまうと、ここがどれほど広々としているかに、あらためて気づいた。お城の広間もまんざらうそにならないと思うと、それからは、おかみさんに負けずに熱心に働いた。
ただ、惜しいことにフィリエルの場合、その熱中度が長続きしないのだった。ホーリーのおかみさんが暖炉の本格的なそうじに取りかかり、煙突穴から真っ黒な煤《すす》が次々に落ちてくると、その黒さと羽毛のような柔らかさに抵抗できなかった。
おかみさんの目をぬすみ、バケツに手をつっこんで、煤《すす》のふかふかの手ざわりを楽しんでみる。そうすると、フィリエルは今度、ルーンにくっつけてみる誘惑《ゆうわく》にこれまた抗しきれなかった。ルーンはおめでたく近寄ってきて、何だろうと顔を突きだし、とたんに鼻をこすられて目をぱちくりした。
「ぶった?」
「ちがうったら」
けたたましく笑いだしてフィリエルは体をゆすった。
「おかしい――ルーン、変な顔」
ルーンはけっして笑わないので、他人がなぜ笑うかもわかっていないようだった。だが、フィリエルの様子を観察して、まねする価値ありと判断したのはたしかだった。
「きゃっ」
仕返しされると思っていなかったフィリエルは仰天した。彼の左手は、フィリエルの右ほおいっぱいに煤をなすっていた。
「あたし、そんなにたくさんつけてない」
憤慨してフィリエルは言い、これで、どちらが先に顔の全面を黒くするかの競争になった。暖炉に体ごと入りこんでいたホーリーのおかみさんが、何ごとかとつっこんだ頭をもどし、この収拾のつかない事態を目撃した。
「あんたたち!」
たちどころに| 雷 《かみなり》が落ちたことは言うまでもない。神聖な作業中に、ふらちなふるまいをされたおかみさんはかんかんだった。
「あんたって子は、いくつになったらものがわかるんだい。こんなにできの悪い子は、ミツバチの祭りをすることはできないよ。悪い子どもは贈り物をもらう前に、緑の年男《としおとこ》がつれていっちまうんだから。そうなっても、あたしは不思議と思わないよ」
反論の余地はなく、フィリエルは首をすくめて耳の痛い言葉を聞いた。ルーンはぼんやりしていた。おかみさんが大声を出すと、ルーンはたいていぼんやりしてしまう。
「いたずらの罰に、お湯をつかわせてやらないよ。冷たくても外で洗ってきなさい。それから、あたしが暖炉をそうじし終わるまで、ここへ入ってこないどくれ。悪さを見はってなどいられないんだから」
子どもたちは、戸口から追い出されてしまった。フィリエルはためていた息を吐きだし、照れくさい思いでルーンに言った。
「ひゃー、すっごく怒られちゃったね」
これが一人だと、叱られてしょげきってしまうのだが、同じ立場の者がいると思うと、案外しのげるものだった。しかもその相手は、今見たってふきだすような黒い顔をしているのだから。
やけに白目の目立つ顔をしたルーンは、考えこむようにフィリエルを見上げた。
「緑の年男って、なに?」
「ああ、それね。たきぎと蜜ろうのろうそくに火をともした最初の晩には、緑の年男が訪ねてくるの。緑の年男が来なければ、ミツバチの祭りは始まらないのよ」
裏手の水場に向かいながら、フィリエルは教えてやった。
「彼が新しい年を呼んでくるのだから、冬至の祝いになくてはならない人。だけど、とっても怖い思いをさせる人。見るからに恐ろしい姿なんだよ。ぼうぼうの枯れ枝の頭をして、たくさんの葉っぱの服を着て、顔も恐ろしいの――お面だけどね」
小さいころのフィリエルは、緑の年男が来るたびに泣いていたものだった。お面の下にホーリーのだんなさんの顔があることが、どうしても信じられなかったのだ。今では、扮装《ふんそう》を見抜けないということはなくなったが、それでも年男登場の瞬間には、少しばかり青くなることを否定できなかった。
「緑の年男は、悪い子やいらない子を旧《ふる》い年とともにさらっていくの。いらない子というのは、取り替え子のことだよ。ヨウセイやマモノの子で、人間の子どもと取り替えられた子どものこと。そういう子どもは、悪さにしか能がなくて、育てる苦労が水のあわになるんだって」
このあたり、フィリエルはホーリーのおかみさんに聞かされたそのままをしゃべっていた。けれども、おかみさんが本気でそう言うと思っていないフィリエルには、強がる余裕があった。
「でもね、緑の年男につれていかれる子どもは、セラフィールドにはいやしないの。だから、大丈夫、見かけほど怖くないの。つれていく子どもがいないとわかると、すごく親切な人になって、その家の子どもにすてきな贈り物をくれるんだよ」
結論的に、緑の年男はその一瞬の恐怖感でもって、ミツバチの祭りを倍も楽しいものにする儀式だった。不思議なことだが、楽しいことには、ほんのちょっぴり怖いことが混じっているほうが、さらにすてきに感じるのだ。緑の年男を迎え入れるひとときがなければ、甘いお祭りもこれほど刺激的にはならないだろう。
「あんたにもすぐにわかるよ。今年、緑の年男は天文台へやってくるはずだから」
フィリエルは元気に言った。ルーンはしばらく考えていたが、やがてそっとつぶやいた。
「大丈夫……」
「そういうこと」
しかし、水場にたどりついて、水桶にはる氷が、朝に割ったまま溶けないことを見てとったときには、フィリエルも大丈夫と請けあえなくなった。
「うわあ、冷たそう。これで顔を洗ったら、まちがいなく顔が凍っちゃうね」
岩清水は凍ることなく樋《とい》にあふれているが、吹きつける風が問題だった。フィリエルは瞬間、ホーリー家へ駆けていってお湯を汲むことを考えたが、自分たちのしたことが悪いと知っている以上、罰を回避するのはもっと悪いことだった。
決意を固めて、フィリエルはルーンに言った。
「おかみさんに、ごめんなさいって言いに行こう。これから星女神様に誓ってまじめにそうじをするって。そうして、お湯をつかわせてもらおう。いい? 言える?」
ルーンは無表情にフィリエルを見上げ、簡潔に同意した。
「言える」
食堂をすべてきれいにするには、結局三日がかりだった。けれども、きれいにし終わったときには、フィリエルがこれまで思ってもみなかったほど、ここの床が美しい寄せ木細工でできていたことが明らかになった。
暖炉もまた、煤を取り除いて初めて見てとれたことだったが、ただの石造りではなく、ところどころに模様入りの陶製タイルが使われている。その絵柄は草花が主体だったが、なかには空想を刺激する竜やユニコーンも描かれていて、フィリエルを夢中にさせた。はっきりした記憶はなかったが、昔これらをながめていたことを、頭のどこかが覚えているのだった。
ホーリーのおかみさんは、ホーリー家からパン焼き釜《がま》をたずさえてきた。これは、蓋付《ふたつ 》きで底の平たい鉄釜で、暖炉の熱い灰に埋《う》めて、蓋の上に火のおこった泥炭をのせて使用するものだ。
以前にフィリエルが、手痛い失敗をこうむった釜と同じものだったが、おかみさんに扱わせれば天下一品だった。彼女は、ミツバチの祭りに不可欠のジンジャー・ブレッド人形を、天文台の暖炉で焼くためにもってきたのだ。
食べ物には――とりわけ甘いものには――執着のあるフィリエルが、興奮しないはずはなかった。ジンジャー・ブレッド人形の材料には、ふだんはめったに食べさせてもらえない食材が、惜しげもなく使われるのだ。
まずは白砂糖。はるかな南の国から取り寄せる、この神秘的でたぐいまれな食品は、特別の時節以外には台所で見かけることがない。それから蜂蜜。小さな女王の家来たちが、夏のあいだに百万の花々から採集した甘味のたまものだ。
それから小麦粉。精製して真っ白にした、オオカミがかあさんヤギをまねるにふさわしい小麦粉。それから卵、粗塩《あらじお》のなかに保存して真冬に取り置いた、宝石のように貴重な卵。同じくらいに貴重なバター。それらのほかにも、ホーリーのだんなさんが市《いち》で仕入れてきた、少量のショウガやシナモン、人形の目鼻に使うカラントやオレンジの砂糖漬けがあった。
飾りつけ以外の材料は、よく練り合わせて固い生地に作り、打ち粉の上で薄めにのして、人形の木型で型抜きをする。そして、人形の目鼻と服の模様を生地の上に飾りつけ、焼き釜で香ばしく焼き上げる。
最後の仕上げには、色粉《いろこ 》を混ぜてピンクにした砂糖衣で、人形たちに服を着せるのだった。最初から最後まで、これほど愉快《ゆ かい》な作業をフィリエルは他に思いつかなかった。
フィリエルはもともと、ねとねとべたべたしたものをこねるのが大好きだった。なぜかと聞かれてもはっきりとはわからない。泥んこ状のものを見ると、自然にこねまわしたくなってしまうのだ。けれども、砂糖と小麦粉と卵といった聖なるべたべたは格別だった。手をつっこんだだけで、恍惚《こうこつ》となってしまう。
ホーリーのおかみさんは、それを充分承知していて、いつもほど小言を言わず、子どもたちのしたいようにさせていた。不器用なルーンには、いくぶんよけいに注意を払っていたが、彼は緊張してかまえていたので、突飛《とっぴ 》なことはほとんどしでかさなかった。
フィリエルは、夢中でルーンを指導していた。
「人形の服のボタンは、カラントを三つよ。目はカラント、口はオレンジの皮……笑っているようにね。けちけちしないで、笑っているように作るのよ……」
ルーンの作ったジンジャー・ブレッド人形は、あまり笑っているようには見えなかったが、焼き釜で焼き上がったときに、いちおう人の形をしているとはいえた。彼の作品はたいへん素朴《そ ぼく》だったので、工夫しすぎたフィリエルの作品とどっこいに見えるのだった。
砂糖衣の服を着せるには、焼き上がった人形を、一度よく冷まさなければいけない。このときに、フィリエルは例年しているおねだりを今年もおこなった。
「一つだけ、味見をしていいでしょう。今年のジンジャー・ブレッド人形の味が変だったりすると、緑の年男が嫌うもの。ねえ、いいでしょう」
「一つだけだよ」
ホーリーのおかみさんは例年のごとく言った。それから、今年の新しい指示を出した。
「ルーンと半分こしなさい。この子だって、自分がこねたものの味が知りたいだろうからね」
フィリエルは欲ばりはしなかった。今年作った人形の数はずいぶん多かったし、祭りの間にそのほとんどが子どものおなかに収まることを、すでに知っているせいだった。
まだぬくもりがとれず、湿ったジンジャー・ブレッド人形を、半分に割ってルーンに手わたすと、彼はうさんくさそうにそれを見つめた。この手のものを一度も食べたことがないのは、その顔つきからも明らかだった。
「食べてごらん。甘いから」
フィリエルがほおばるのをじっと見つめてから、ルーンは深刻な問題を考えるような顔つきで、ジンジャー・ブレッド人形をかみしめた。
「おいしい?」
フィリエルがたずねると、ルーンはじっくり味わった上で答えた。
「……ひりひりする」
「それはショウガの風味よ。でも、甘いでしょう?」
「……甘い」
彼は言ったが、確信なく聞こえた。砂糖衣をぬっていないせいだと、フィリエルは考えた。
ピンクの砂糖衣はまだ作られず、たいへん貴重な棒砂糖は、一部を粗砕《あらくだ》きにしたまま、布につつんでテーブルの隅においてある。勝手を知るフィリエルは、ホーリーのおかみさんの目をぬすんでかけらをつまみ出すと、黙っているように身振りをして、ルーンの口に入れてやった。
「これがお砂糖。真実甘いものよ。これならわかるでしょう?」
ルーンは最初びっくりした顔をしていたが、口のなかの砂糖が溶けてくると、さすがにうれしそうな顔つきになった。
「甘い」
ホーリーのおかみさんは知らん顔をしていたが、実はしっかりそれらを見ていた。いつも行者《ぎょうじゃ》のような表情を浮かべている黒髪の子どもが、今までで一番笑みに近い顔つきになったことも、目の隅にとらえていた。
(子どもらしい顔だって、やればできるじゃないかね……)
意外とかわいらしかったことに感心して、タビサ・ホーリーは考えた。灰色の瞳のしかつめらしさが消え去ると、ルーンは急に背丈に相応《そうおう》して見えた。
(だれのやさしい言葉でもなく、砂糖に反応するってところが、ずいぶん正直だけどね……)
おそらく、これまで、彼に甘いものを与えるような人間は一人もいなかったのだろう。タビサ・ホーリーは、自分を子どもに厳しい人間だと考えていたが、まだこんな年頃の子どもが、砂糖をなめただけで一番いい顔になるというのはいただけなかった。
(……人間不信ってことだね)
かえりみられずに育った、この子どもの小さな体には、たくさんの人間不信がつまっている。無感動や無反応は、たぶんこの子が処世《しょせい》で身につけた鎧《よろい》だった。そうしたことがだんだんわかってくるにつれて、彼女は、この素性の知れない子どもをまっとうに育てられるかどうかは、身体の問題ばかりではないことに、どうしても気づいてしまうのだった。
昼はいよいよ短くなり、正午からいくらもたたずに夕暮れがくると感じられるようになった。東風が厚い雲をつれてくると、太陽が昇らなかったとさえ思えてくる。降雪はまだないが、遠い山稜《さんりょう》が白くなったのは見てとれ、寒さは日を追って厳しさを増した。
とはいえ、真の猛威《もうい 》は年明けに来るとわかっているので、ホーリー夫妻にとって、これらは長期戦のさわりを告げるばかりのものだった。高地生まれの地道さとねばり強さをそなえた彼らは、冬将軍と戦う力を得るために、淡々と祭りの用意を行っていた。
フィリエルには、遠い先のことなど気にならず、目前のミツバチの祭りがすべてだった。おかげで寒さも暗さもちっとも苦にならなかった。昼が短くなればなるほど、その日が近づいてくるのだ。そうして、待ちに待った冬至がやってきた。
日が暮れたか暮れないかのうちに、ホーリーのだんなさんは、たきぎとキヅタとヒイラギを天文台の食堂へ運びこんだ。フィリエルとおかみさんも出かけた――両腕にこの上なくすばらしい荷物をかかえこんで。
興奮しきったフィリエルは、塔に着くなりルーンのもとへ飛んでいった。
「あたしたちがもってきたもの、なんだかわかる? 今晩のごちそうよ。なんだかわかる?」
さわぎたてるフィリエルを、ルーンは他人ごととして見つめ返したが、記憶力のよいところを見せた。
「……ミンスパイ?」
「そうよ。あたしのもってきた小さいお皿がそれ。でも、おかみさんがもってきた大皿はなんだかわからないでしょう。とてつもないものよ」
「わからない」
ルーンが答えると、フィリエルはほとんどうやうやしい口調になった。
「ガチョウの丸焼き。あんた、食べたことある?」
ルーンはまばたきした。
「ない」
「おかみさんが決心したの。家畜のお祭りでもあるから、本当はかわいそうなんだけど……博士に豪華に祝ってもらいたいんですって。あたしもまだ、一回しか食べたことがないのよ。あたしたち、今日は朝から料理にかかりきりだったの。あたしが焼き串を回し続けたから、皮も金茶色にきれいに焼けたの。今年のお祝いは最高よ」
フィリエルは興奮を分け与えようとやっきになったが、ルーンにはぴんとこないようだった。いつにないふんいきにのまれたのか、かえってぼんやりしてしまい、質問の一つも口をついてこなかった。
蜜ろうのろうそくは、だんなさんが色粉を混ぜて作ったためにほの赤い色をして、キヅタやヒイラギによく映えた。粗末な木のろうそく立ても、緑の葉を飾りつければ祭りにふさわしく変身する。テーブルの上や棚の上にろうそくを並べ、壁にキヅタをとめつければ、あたりは見違えるようになった。
それから、ホーリーのおかみさんが祭り用のたきぎに火を点じた。しかし、これがたいした大きさだったので、彼女はしばらくのあいだ暖炉の前で手こずることになった。もっともフィリエルには、いぶった匂いでさえいい匂いだと感じられたのだが。おかみさんに骨を折らせたたきぎだったが、一度しっかり燃えだすと、その炎は生き生きと踊ってやまなかった。
明るさと色に魅せられて、フィリエルはうっとりと暖炉を見つめた。泥炭の火では絶対にこうはいかない。暖炉に伸びあがる炎の舌は、たえまなく変幻《へんげん》し、濃い赤に| 橙 《だいだい》に薄黄色にと色を変えながら、楽しげに部屋を照らし出す。その熱は透明に暖かく、胸いっぱいに吸いこめる芳《かんば》しい香りがするのだった。
ちらちらと踊る光に照らされた周囲を、ふと見回して、フィリエルはこの部屋が実際りっぱに見えることにあらためて驚いた。
「ねえ、ここって……すごく、新年にふさわしい場所だよね」
ホーリーのおかみさんは笑って言った。
「博士を呼んでおいで、フィリエル。ろうそくに明かりをともそう」
書斎に駆け上がったフィリエルは、ディー博士が反対を唱えたことをもう考えていなかった。自分たちがすばらしいことをしていることに、ゆるぎない自信をもっていた。
「博士、博士。すぐに来て。準備がもうすっかりできあがっているの」
ディー博士も、この日はすぐにふりむいた。身なりはいつもの黒い長衣で、特別にそなえているわけではないが、彼もそれなりの心づもりはしていたようだった。
「ああ、今行くよ」
博士が言うのを聞いたフィリエルは、少しばかり息をのんだ。そして、自分の感じている感動をなんとか言い表したくて言った。
「二階のお部屋が、信じられないくらいすてきになったの。まるでお城のよう……ごちそうも、お城のようにあるのよ。あたし、お姫さまになったような気がする」
ディー博士はフィリエルを見つめた。そのまなざしに含まれたものがフィリエルにはわからなかったが、怒ったのでないことはたしかだった。彼はかすかに笑みを浮かべたのだ。だが、なぜか悲しげに見えた。
「それはよかったね。さあ、下へ行こう」
机のろうそくを吹き消して、博士は立ち上がった。
祭りの赤いろうそくが全部ともされると、祝いの場はいよいよ華やぎを増した。ディー博士はホーリーのおかみさんに、少々照れくさそうに祝いのあいさつをし、会場を美しく整えた彼女にねぎらいの言葉をのべた。
けれども博士は、ホーリーのだんなさんがどこにも見えないことについては、一言もふれなかった。フィリエルも気づかないふりをした。これは、祭りの初日ならではの、暗黙の了解事項であると言えた。
入り口のまわりにヒイラギの束を飾りながら、フィリエルはルーンに教えてやった。
「ここは新年を迎える戸口になったのよ。だから、だれもこの敷居をまたいではならないの。緑の年男が敷居をまたいで、ここへ新しい年をつれてくるまではね」
ルーンは黙っていた。彼は、フィリエルが手伝うように言っても、ヒイラギにもキヅタにも手を伸ばそうとしないのだった。ディー博士はすでに、いっしょに祭りを祝うつもりになっているというのに、ルーンのほうがさらにかたくなであるようだ。
(ごちそうを食べる段になれば、ルーンも考えなおすでしょうよ……)
フィリエルは考えた。テーブルの上は、見たこともないほどすてきになっていた。ろうそくの照明を別としても、目をみはるような純白のテーブルクロスがかけられていたし、藍《あい》色の絵模様のある陶器の皿が特別に食器棚の奥から持ち出され、磨かれたフォークとナイフとともに並べてある。
この晩餐《ばんさん》を目にして平静でいられる者は、まずいないだろう。ガチョウの丸焼きとミンスパイのほかにも、蜂蜜を好きなだけかけていい祝いのおかゆの大鉢と、実だくさんのスープと、香料入りの熱いリンゴ酒が供《きょう》される。これほどのぜいたくを、ルーンが味わったことがないのは決まっていた。
ただし、今はまだ食べ物の上に覆いがされ、食事のはこびにはなっていなかった。緑の年男が敷居をまたぐまでは、だれもお祝いをはじめてはならないからだ。
人々はいくぶんそわそわし、腰の落ち着かないひとときが過ぎた。毎年そうだが、この幕間《まくま 》には緊張感がみなぎった。扮装のことが頭の隅ではわかっていても、感覚は超自然のものを迎える身がまえをしてしまうのだ。
そしていつものことながら、このときだけフィリエルは弱気になるのだった――自分が本当にいい子であるかどうかに。
さりげなく耳をすませていた面々は、表の扉が荒々しく開けられた音にびくりとした。何者かが、つむじ風のような勢いで階段を駆け上がってくる。フィリエルは思わずおののいた。天文台で迎える儀式の効果満点なことといったら、ホーリー家で味わうものの比ではなかった。
明かりに照らされた部屋に、大いなる異形《いぎょう》の者が飛びこんできた。枯れ枝と枯れ葉で、体のかさは人間の倍あるように見える。片手にはこぶのあるトネリコの杖《つえ》を持ち、片手には麻袋《あさぶくろ》。お面は真っ黒で、フィリエルがこれまでに見た覚えのないものだった。赤くふちどられた両眼と口は尖った三日月形。その凍りついた笑顔は、威嚇《い かく》の表情よりはるかに悪夢に近いものだった。
太い耳ざわりな声で、異形の者は吠えた。
「ここには、いらない子どもがいるぞ。悪い子どもがいるぞ! 見つけ出して、袋につめてつれていくぞ。わしは、森の奥深くから来た緑の年男だ!」
フィリエルは半ば本気で悲鳴をあげた。いつにもまして迫真《はくしん》の年男だった。
けれども、それでも、次に何が起こるかを知っていた。ホーリーのおかみさんが進み出て、悪い子どもはここにいないから、代わりにジンジャー・ブレッド人形をもっていけと言うのだ。すると、緑の年男は急に態度をやわらげて、新しい年と贈り物をおいて去っていくのだった。
両手で口を押さえたフィリエルだったが、まだ悲鳴が鳴り響いていた。自分がどうかしてしまったのかと、あわててふり返ると、悲鳴をあげているのはルーンだった。
ルーンは、反対側の壁へすっ飛んでいって、そこにへばりついていた。そして、笛を吹き鳴らすようなかん高い悲鳴をあげているのだった。部屋じゅうの全員があっけにとられて彼を見つめた。いつもぼんやりと座り、無反応で話すこともろくにないルーンのことなので、だれもが目を疑ったのだ。
「いや――――」
今、黒髪の子どもは体をふりしぼるようにして大声をあげていた。彼が初めてむきだしにした感情は、全身をゆさぶる恐怖であり、初めて声に出した訴えは、なすすべのない絶望の叫びだった。われを忘れて助けを求める、哀《あわ》れな子どもの悲鳴だ。これを笑ってすまそうという思いは、叫び続ける彼を見るうちに消え失せた。冗談ごとではすまされないようだった。
「やれやれ……こりゃあ困ったな……」
緑の年男は、ホーリーのだんなさんの声にもどってつぶやいた。彼は少しのあいだためらっていたが、決意して黒いお面をとりはずした。
「よくごらん、わしだよ。そんなに怯《おび》えることはないんだ。これは新年を迎えるための、ただの扮装なんだから。わからないかい?」
フィリエルは思わず肩をおとした。ルーンのせいで、儀式はめちゃめちゃだった。緑の年男が途中で消滅してしまったら、後はどのように進行させればよいのだ。
(ばかだなあ……もう)
しかし、フィリエルの思いをよそに、ルーンのパニックは、ホーリーのだんなさんが正体を明かしてもいっこうに収まらなかった。よく顔を見せようとしてだんなさんが近づくと、彼の動転はかえって激しさを増したようだった。
「つれてかないで―――」
追いつめられた人間のように、ルーンは壁をたたき、体をのけぞらせて絶叫した。
「いや―――つれてかないで―――」
ホーリーのだんなさんは弱りきった。
「そうじゃなくてね……ちがうんだよ」
そのとき、ディー博士が進み出た。博士は気づかわしげな色を顔に浮かべていたが、声には深く落ち着いた響きがあった。
「ルーン、彼はちがうよ。きみをつれもどすことはしない。きみはどこへも行かなくていい。どうしたというんだね、今もまだ心配していたのか」
ルーンはくるりとふりむくと、やみくもに突進してディー博士の黒服に頭からつっこんだ。そのため、やや声がくぐもったものの、それでも悲鳴をあげ続けていた。自分からは叫ぶことを止められなくなっているのだった。
おぼれかけたように、必死になってしがみつく子どもを抱きかかえてやると、ディー博士は穏やかに彼に話しかけた。
「わかったよ。いいから、叫びたいときには叫びなさい。きみがためこんだ恐怖を、吐きだしてしまうといい。そうして楽になれば、わたしの言うことが信じられるからね。ルンペルシュツルツキンと名前をつけてあげただろう。だから、どんな人間も魔物も、きみをつれ去ることはできないんだよ」
ルーンは長いあいだ叫び通した。ついには息がつけなくなって、ときどき声がつっかえるようになったが、肩であえいでいたかと思うとまた叫びだすのだった。
「――行きたくない―――行きたくない―――行きたくない―――」
ルーンの顔には涙がつたい落ちていたが、泣いていると呼べるような状態ではなかった。悲鳴は全身を貫く発作のようだった。ホーリー夫妻もフィリエルも度肝をぬかれて、ただ見守るしかなく、ミツバチの祭りもそっちのけで忘れられていた。
やがて、とうとうルーンにも限界がきた。子どもが声を出せなくなり、ぐったりしてしまうと、ディー博士は彼を抱き上げてホーリー夫妻に言った。
「あなたたちは、どうか冬至の祝いを続けてください。この子は上に寝かせますが、しばらくだれかがついていたほうがいいようだ」
「あたしがやりましょう」
あわててホーリーのおかみさんが進み出たが、博士は首をふった。
「いいえ、どうぞ祝いの食事をはじめてください。フィリエルがこんなに楽しみにしていたのだから」
フィリエルは、まったくそのとおりだと思ったが、気がついてみると食欲が半減してしまっていた。胸をえぐるようなルーンの叫び声が、耳から離れなくなりそうだった。
「こんなことになるなんて……」
ホーリーのおかみさんは顔に手をあててつぶやいた。それから、ためらったのちに博士にたずねた。
「その子は、どこか悪いんでしょうかね?」
「ふつうの子ですよ」
抱えた子どもをゆすりあげて、ディー博士は答えた。
「ふつうに扱えばふつうになります」
おかみさんの声は、さらにためらいがちなものになった。
「もしかすると、その子……あたしがもとへ返してこいと言ったことを、ずっと忘れなかったんでしょうか……」
「あなたは悪くありませんよ」
ディー博士は静かに言った。それから、敷居を出て寝室へ上がっていった。ホーリーのだんなさんはまいった様子で頭をふると、年男の扮装を脱ぎに階段を下りていった。
案の定、ルーンはそれから熱を出した。ガチョウの丸焼きもミンスパイも彼ののどを通らず、おかみさんは再び看病をするはめになった。さんざんといえばさんざんな冬至の祝いだったが、これほど強烈な印象を残した年もないといってよかった。
そして、どうやら、来年からはまたホーリー家でミツバチの祭りを行うことになりそうだった。ホーリーのだんなさんが、ルーンの前では二度と扮装を行わないと断言したのだ。だんなさんはだんなさんで、かなり心を痛めたもようだった。
フィリエルは、ルーンが気の毒な子どもだということを身にしみて感じていた。ミツバチの祭りを楽しむこともできず、こんなときに体をこわして、年に一度のごちそうもぜんぜん食べられないなんて、世界一不幸な子どもといえるだろう。
(気の毒な子どもには、特別にやさしくしてあげなくては……)
ありがたいことに、ミツバチの祭りは十二日間ある。ふんだんな蜂蜜は彼のものだし、明けの祝いに作るケーキまでに、体を回復させるチャンスはあった。様子をうかがうために、フィリエルはルーンの枕もとにかよってすごした。
祭りの三日目は贈り物を開ける日だったが、ルーンが自分のぶんを開けたのは、もう二日たってからだった。その日ようやく起き出して、暖炉のそばで毛布にくるまりながら、フィリエルといっしょにジンジャー・ブレッド人形を一つ食べてよいとお許しをもらったのだ。
人形をかじりながら、フィリエルは言った。
「だからね、あんなにさわがなくてもよかったのよ。おとなしくしていれば、緑の年男は代わりにジンジャー・ブレッド人形をもっていったんだから。そのためにせっせと作った人形なんだからね」
ルーンは小声で同意した。
「うん……」
「もう、およしよ、フィリエル。すぎたことなんだから」
部屋の隅から、ホーリーのおかみさんが口をはさんだ。彼女は、なるべく初日の騒動にふれまいとしていた。ルーンがまた動揺するといけないと思ったからだ。
けれどもフィリエルは、そんなことはないと思っていた。マヨラナの煎《せん》じ薬を飲んでよく眠ってからは、ルーンはもとの状態にもどっていた。起こったことも、それほど気に病まないようだったのだ。
「まったく、どうして緑の年男がつれていくなんて思ったのよ。あんたがセラフィールドに居続けることくらい、あたしだって、一週間もしないうちにわかったというのに。あんたは、あのときもおかみさんに看病してもらったでしょう?」
「うん……」
ルーンはジンジャー・ブレッド人形を前歯で少しずつかじり、ピンクの砂糖衣を調べるように見つめた。
「それなのに、まだ、おかみさんがよそへやろうと思っていると考えるなんて、頭が悪すぎるよ。いくつになったらものがわかるんだい」
フィリエルは達者《たっしゃ》に口まねをした。ホーリーのおかみさんが苦笑いをしていることには気づかなかった。
「もう、思わない」
ルーンは認めた。あいかわらず平板な声で、にこりともしなかったが、自分の気持ちを説明するようになっていた。
「それならいいのよ」
フィリエルは人形の最後のかけらを口へ放りこむと、くるりと話題を変えた。
「ねえ、贈り物に何をもらった? 見せてちょうだいよ。あたしのぶんも見せてあげるから」
フィリエルがもらった贈り物は、あまりにかわいいので食べるのが惜しくなるような、ヒヨコの形の砂糖菓子と、青い毛糸のミトンと、銀色の模様のある指ぬきだった。最後の贈り物は、フィリエルが裁縫《さいほう》上手になるよう願いのこもったものだったが、今のところ縫い物は、フィリエル最大の難関の一つだった。
ルーンの贈り物は、ひょうきんなブタの顔をした砂糖菓子と、赤い毛糸のミトンと、木彫りの馬だった。けれども彼は、その他にもう一つ贈り物をもらっていた。
「博士がこれをくれた」
ルーンが見せたのは、布のケースに入った黒ぶちのメガネだった。フィリエルは目をぱちくりした。
「こんなもの、どうするの」
「ルーンがかける」
彼は実際にかけてみせた。けれども大人用のメガネだったので、ルーンの顔半分もあるように見えたし、彼の小づくりな鼻ではささえられず、みっともなくずり落ちた。
「無理よ。もっと大きくなってからでなくては」
「じゃ、大きくなる」
ルーンは、伸びちぢみができるかのように平然と言った。フィリエルはなんとなくむっとした。しかし、不機嫌になった本当の理由は、ディー博士が贈り物をしたことなど今までになく、フィリエルは何ももらった覚えがなかったからだった。
「そんなものをつけたあんたの顔、道化《どうけ 》みたいに変てこりんよ」
容赦《ようしゃ》のない口調で言ってから、彼女は少し後悔した。気の毒な子にはやさしくするはずだったことを思い出したのだ。
「……あんたがいいなら、別にかまわないけれど。あたしはメガネなんてもらっても、ぜんぜんうれしくないけれど、あんたはそれをもらって、本当にうれしいの?」
ルーンは少し考えた。説明の言葉をさがしたらしく、ゆっくりと慎重に言った。
「博士が言った――これは、ルンペルシュツルツキンの名前と同じもの。彼は怖くなったらこれをかける。今までの彼ではないことを思い出す。そういうものがあると安心する」
「ああ、そういうこと」
フィリエルは納得し、博士が例外的に提供したわけもうなずけるような気がした。すると、やっかみもやわらいで、ほほえむことができた。
「おまじないってことね。あんたはずっと怖かったの?」
ルーンは毛布のへりをさぐって、つぶやいた。
「彼は、見つからなかった……」
フィリエルには、この子どもが今までどんな暮らしをし、どんな思いをしてきたのかは想像できない。わかりたくても、おしはかるための材料を何ももっていなかった。それがルーンにとってひどいものだったということが、これまでのことからうすうす察せられるだけだ。
けれどもディー博士は、セラフィールドから一歩も出ないというのに、何から何まで承知している様子だった。フィリエルはその不思議さを考え、ルーンに聞いてみようかと口を開きかけたが、やめることにした。そっとしておいたほうがいいことを、直感的に感じとったのだ。
「今でも怖いの?」
のぞきこむようにしてフィリエルはたずねた。間をおいたが、ルーンはふっと明るい目になったようだった。
「博士がこれをくれたから、もう彼じゃない。もう少ししたら、なれるかもしれない」
「何になれるって?」
聞こえなかったと思って、フィリエルは聞き返した。すると、ルーンは、どことなく恥ずかしそうに口にしたのだった。
「――ぼくに」
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第三章 うつろいの季節
一月半ばに雪が舞った。初雪は、たいした量ではなかった。強い風が軽い雪を吹き飛ばしてしまい、荒れ野には痕跡《こんせき》も残らなかったのだ。
けれども、ホーリー家の生け垣や岩山のくぼみなどは、雪が吹き寄せられてしっかり白くなった。厳寒期のはじまりだった。これらの雪は容易に溶けず、根雪《ね ゆき》となって春まで残るのだ。
ミツバチの祭り明けの、十二夜ケーキも食べ尽くしてしまうと、フィリエルはゆううつにならざるをえなかった。日々の食事は、貯えの底をにらんでぐっとつつましいものになり、凍った雪のせいで、天文台への行き来もままならない。ホーリーのおかみさんでさえ危険な思いをしたために、フィリエルはさし止められてしまったのだ。
こうして、耐えることばかり多いときには、さすがにフィリエルも考えごとをする時間が増えた。特に今年は、ルーンがセラフィールドへやって来たために、考える内容がたくさんになったような気がしていた。
「ねえ、おかみさん」
くもった窓ガラスに指で絵を描いていたフィリエルは、ふりかえってたずねた。
「旅芸人の人たちのおうちはどこにあるの?」
ホーリーのおかみさんは、紡《つむ》ぎ車を回して羊毛を糸に紡いでいた。彼女は一年中、腰をおろしたときには何かしら編むか繕《つくろ》っていたが、冬になると紡ぎ車を炉端《ろ ばた》に据《す》えるのだった。おかみさんは手を休めず、フィリエルをちらりと見て答えた。
「あの人たちは、家をもたないんだよ。村から村、州から州へわたり歩いて、ずっと旅して暮らしているのさ。お祭りになるとお金をかせいでね」
「でも、今みたいな時期は、どこもお祭りをしないでしょう。そういうときはどうするの?」
「さあね、うまく何とかするんだろう。気前のいい領主様のお館《やかた》に泊めてもらうとかして。貴族のかたがたは、芸人をお好みになるものだからね」
フィリエルは、おかみさんの博識《はくしき》にびっくりした。尊敬をこめてたずねる。
「ワレット村にも、そういうお館があるの?」
「ワレット村で一番大きな家は、地主のオセットさんのところだろうが、とんでもない、貴族のお住まいというのはその程度の規模ではないんだよ。百人二百人が住むほど広くてりっぱで、そういうところなら、旅芸人が泊まったくらいはものの数に入らないのさ」
おかみさんが答えると、フィリエルは半分ほっとした。
「そうか。ワレット村にお館がないなら、ルーンをつれてきた人たちも、もうどこかへ行っちゃったね。きっと、ずっとずっと遠くへ行っちゃったね。二百人も住むようなお館って、ルアルゴー州のなかにあるの?」
「あるとも。ダーモット港の南側に、海に突きだしたアンバー岬という場所があってね。その突端にある、ロウランドの伯爵《はくしゃく》様のお館がそうだよ。飛燕城《ひえんじょう》とも呼ばれていてね、州内どころか、国全体でも五本の指に入るほど名高いお館なんだから」
ホーリーのおかみさんは、どこか自慢そうに言った。そんなに遠くのお館をおかみさんが自慢するなんて、変な話だとフィリエルは思った。
(ずっとずっと遠く……ずっとずっと遠いところの場所……)
ワレット村より遠くに思いをはせることは、今までのフィリエルにはあまりないことだった。物語のなかには、いくらでも架空の世界があったが、現実に地続きの遠い場所のことを考えはしなかった。
けれども、そういった場所にたくさんの土地が広がり、たくさんの人々が暮らしているということを、フィリエルも実感しはじめていた。ルーンがそこから飛びこんできたせいだ。
「おかみさんは、伯爵様のお館へ行ったことがあるの?」
「一度だけ、ちょっとね」
ホーリーのおかみさんは小声で言った。フィリエルは目をまるくした。
「おかみさん、旅芸人だったことがあるの?」
「何を言ってるんだね、この子は。あたしはペイレントン村の生まれで、ボゥと結婚するまでそこにいたって、教えたはずじゃないか」
少し気を悪くした声でおかみさんは言った。旅芸人に見なされるのは、よっぽど心外だったようだ。
「ペイレントンは、同じ高地であっても、ここよりずっとダーモット寄りにあるんだよ。だから、ときには港まで出かけて行ったし、お城をながめたことも一度や二度ではないんだから、このあたしは」
もちろん、フィリエルは前にも聞いたことがあった。けれども、セラフィールドにいないおかみさんというのは、なかなか像をむすばないものなのだった。
「ホーリーのおかみさんも、だんなさんも、ここではなく別の場所からセラフィールドへ来たんだよね……」
不思議さをこめてフィリエルは言った。
「博士もきっと、そうなんだよね。ルーンもそう。すごく変な感じ……そういうことなら、最初からセラフィールドにずっといるのは、あたしだけになるじゃない」
「言ってみれば、そうだね」
おかみさんも、初めて気づいたようだった。小さく笑ってから、フィリエルにたずねた。
「それがどうかしたかい?」
「なんだか、ちょっと、ずるい気がする」
フィリエルは口をとがらせた。
「あたしだけよそにいたことがないのに、みんな何かしら別の場所のことを知っているんだもの。ずるいよ。あたしも知りたい」
「今にわかるよ。いつかはあんたも大きくなって、広い世間に出ていくんだから」
おかみさんはつぶやき、しばらく口をつぐんで紡ぎ車を回していたが、やがて思いにふけった声音で言った。
「ペイレントン村は、知って自慢できるような場所ではなかったよ。ワレット村より小さいくらいの、山間《やまあい》のちっぽけな村でね。もっとも、セラフィールドよりはにぎやかで、同年代の若い衆が何人もいた。このあたしも、娘時代にはそれなりに、ちょっとした思いをしたものさ。最初からボゥ・ホーリーと結婚しようと、考えていたわけじゃなかったからね」
「それ、本当?」
フィリエルは息を吸いこみ、急いで窓辺を離れて紡ぎ車の前に座りこんだ。
「じゃ、だれと結婚しようと考えたの? ねえ、だれと?」
ホーリーのおかみさんはのどの奥で笑った。
「昔の話だよ。うちの人にも詳しく話しちゃいない。あんたがボゥにもらさずにいられるなら、聞かせてやってもいいけれど」
「言わない、絶対言わない。星女神様に誓うから」
フィリエルはせがんだ。ホーリーのおかみさんは、あまり信用ならない顔つきだったが、やがて、糸を紡《つむ》ぐ単調なしらべにのせて、昔語りを語りだした。
*  *  *
あたしが娘だったころ、ペイレントンには、同い年の若者が八人いたし、若い衆と言われる人々は、そうだね、ざっと四十名ばかりもいたかもしれないね。なかでも一番|器量《きりょう》よしだったのは、あたしの二つ上のリタ・ヘンルーダという娘だった。髪は亜麻《あま》色、目は澄んだ緑。彼女は器量を買われて、アンバー岬のお館の侍女に選ばれたんだよ。そのくらい美人だった。
あたしは、器量よしと言われる娘ではなかったし、あたしの両親も、行儀を教える育ちをしていなかった。ただ、同年の女の子で一番背が高くて、発育がよくてね。もちろん今よりはずっと細くて、とてもすばしっこかった。だから、ちょっとは目立ったんだよ。学校で二、三の付け文《ぶみ》をもらう程度にはね。
(「付け文って、なに?」とフィリエルはたずねた。男の子が秘密で手紙をくれることだと、おかみさんは答えた。)
あたしは、それらをけっこう愉快に思っていたけれど、どういうわけか、ピート・スターレンがどの手紙の主も撃退しちまった。ピートは二つ上の幼なじみで、あたしは、あの代の男の子は全員がリタに首ったけだと思っていたけれど、そうでもなかったんだね。
ピートはハンサムではなかったが、なかなか腕っぷしが強くてね。肩幅が広くて、焦げ茶の髪をして……つまり、あたしもまんざらではなく思っていたのさ。友人たちも、あたしとピートはお似合いだと言ってくれた。
だから、村では、あたしとピートが結婚するのは時間の問題だとみんな思っていたし、うちの親もそうだった。ピートの家は、代々が高地に根づいた、羊を百頭ももっている羊飼いでね。そこへ嫁《とつ》げばあたしは、ペイレントンから一歩も出ないで一生をすごすはずだった。
けれども、人間、ふとしたきっかけが訪れるんだよ。運命――とでもいうのかね。あたしの場合、それは、ロウランドの若殿様にご子息《し そく》が生まれたことからやってきた。
かの有名な飛燕城のご領主、オーウェン・ロウランド様は、遠い南の州から花嫁をお迎えになってね。当時はまだ爵位をお継ぎではなかったが、ご婚礼祝いの華やかなことといったら、ダーモットでは十日も祭典が続いたものだった。あたしらみんなも、こぞって町へくりだした。
そりゃあ、すてきなものだったよ。広場と大通りが全部花輪や色テープで飾られて、ずらりと露店が並んでね。そうした店ではご祝儀《しゅうぎ》に、儲《もう》けなしで飲み物や食べ物をくばっているんだ。見世物小屋もたくさん出ていて、目をみはるめずらしいものがたくさんあった。
あたしも若かったから、悪ふざけが好きな連中といっしょに遊んでまわった。いがみ合いのけんかでさえ、ああしたなかに入ると、愉快なばか騒ぎに思えてしまうのさ。
それから一年半の後、若殿と南部生まれの美しい奥方に、玉の男の子がご誕生だとの知らせが伝わった。ペイレントン村のあたしたちは、わがことのように喜びあったよ。そして、またのお祭り騒ぎのために、ふるってダーモットへ出かける用意をした。
けれども、あたしは、一年半前とは早くも違っている自分に気がついた。このときには、ピートと婚約していて、らんちき騒ぎに加わる立場ではなかったし、分別も生まれていたんだ。
ピートと二人になることが、幸せでなかったとはいわないが、何というか、年とった自分を感じたね。娘時代というものは、こんなふうにあっというまに過ぎ去るものなんだよ。
そんなさなかに、リタ・ヘンルーダが村へ帰ってきた。お館にご奉公していた器量よしのリタが。彼女は、岬のお館で暮らすうちにますます磨かれて、着ているものも、立ち居ふるまいも、上流のお嬢様のようになっていたよ。あたしなど、最初は気おくれして、リタが実家の戸口へ消えるのを口を開けてながめていたくらいだ。
それからあたしらは、彼女が祝祭の休暇をいただいたとばかり思っていたから、村の広場で若い衆のお帰りパーティを開いた。男にとっても女にとっても、リタは憧《あこが》れのまとだったからね。けれどもリタは、夕暮れのパーティ会場へ姿を現すと、あいさつ半ばで、両手で顔をおおって泣きだしたんだよ。
「ちがうの――ちがうの、あたしは――お暇を言いわたされて帰ってきたのよ」
その場にいた半分くらいの人間は、てっきりリタが、南部生まれの奥方の不興を買って追い出されたと思いこんだ。あとの半分は、若殿の赤子を産んだ本当の人物は、リタだったのだと考えたくらいだ。
(「それ、どういうこと?」と、すかさずフィリエルは追及した。
「貴族様とは、そういうものなんだよ」と、おかみさんはうるさそうに答えた。
「赤ちゃんを、だれが産んでもいいってこと?」
「よくはないけどね。まあ、先をお聞き」)
リタがひどく泣くばかりで、くわしく説明できそうにないので、集まった人々はだんだんに散っていった。このスキャンダルを、自分たちでじっくり話し合うためにね。そして、とうとうピートとあたしだけが残った。ピートはこのころ、村の若い衆の顔役で、あたしはそのパートナーだったからね。
お膳立《ぜんだ 》てがめちゃくちゃになり、ピートは途方にくれた様子でリタに言った。
「家まで送っていこう。リタ、そんなに泣くんじゃないよ。きみは気が動転しているし、体の調子も本調子じゃないんだ」
そのころ、ようやくリタは理性がもどったようだった。すすり泣きをやめてあたりを見回し、泣きはらした目でピートをにらんだ。
「どういう意味よ、ピート。あんた……まさかこのあたしを、オーウェン様のお手つきだと思っているんじゃないでしょうね」
その口調には、まったく上流お嬢様に似たところはなく、村の方言そのままだったので、あたしは愉快になった。もっとも、ピートはたじたじとなった。
「いや、そうじゃなくて……でも、きみ、その……本当に?」
「はりたおすわよ、ピート・スターレン。ロウランドの若様がそんなかただったら、そんなかただったら……どんなにかよかったのに――」
リタ・ヘンルーダは再びしくしく泣きだした。あたしはようやく口をはさんだ。
「リタ、どうか落ち着いて。いったいどうして、お暇をいただくようなことになったんです?」
「えらいわ、タビサ。よく聞いてくれたわ。どうしてだれもその点を聞いてくれないのよ。いつのまにか黙って帰ったりして、どういうことよ」
リタはわめいた。この一言で、彼女にはまったくやましいことがないことがよくわかったよ……少なくとも、ロウランドの若殿のお相手としてはね。彼女は気力をふるいたたせた様子で話し出した。
「あたしをくびにしたペントマンというじじいは、伯爵様のお耳に入れてもいないにきまっているわ。まったくの性悪《しょうわる》じじいなんだから。あたしは、ぬれぎぬを着せられたのよ。泥棒だというぬれぎぬを」
「いったいそれは?」
あたしとピートは身をのりだした。何といっても小さな村では、リタの災難は身内の災難とも思えるものごとだったんだ。
「お世継ぎの誕生騒ぎで、領主館のなかがごったがえしている隙に、盗難《とうなん》事件がおこったの。大広間の上の伯爵様の執務室《しつむ しつ》から、何か高価なものが盗まれたのよ。物が何か、あたしはよく知らないわ。持ち場ではなかったから、伯爵様の執務室には入ったことがないの。でも、盗《と》った人物は知っている……ジョシュという、髪の黒い男よ。彼、しばらくのあいだお館にいて、しばらくのあいだ、あたしとつきあっていたから……」
あたしは思わず言った。
「それで共犯だと思われて?」
リタはあたしにくってかかった。
「言ったでしょう、物が何かも知らないって。あたしはただ、冬のあいだにふらりと現れたあの男に、他の人より親切にしてあげただけよ。盗人《ぬすびと》だなんて、ぜんぜん知らなかった。いつも一人でいて、かわいそうだと思っただけだったんだもの」
ピートがたずねた。
「彼が盗ったと、はっきりしているのかい?」
「盗難の翌朝、大広間に館の全員が呼び集められたの。そうして、ジョシュだけがいないことが明らかになって……それからあたしは、さんざんな目にあったわ。あたしが彼にやさしくしたことは、みんなが知っているんですもの」
赤くなった目に、リタはまた涙をうかべた。
「そんな人だと思わなかったのに。教養があって、落ち着きがあって、さすらいの稼業《かぎょう》についていても、身分ある人の落とし子という感じだったのに」
「旅芸人だったの?」
あたしがたずねると、リタは大ちがいだとばかりに首をふった。
「吟遊詩人《ぎんゆうし じん》よ」
(「吟遊詩人って、なに?」と、フィリエルはたずねた。
「旅芸人と似たようなものだよ。ただし、徒党《と とう》は組まずに一人でわたり歩くようだがね。行く先々で歌を歌ってお金をかせいでいるのさ。旅芸人と同じで、大勢がつどう場所には、たいてい一人は見かけるものだよ」と、ホーリーのおかみさんは答えた。)
あたしはリタの意見を尊重して、似たようなものだと言わずに黙っていた。間があいて、ピートがとりなすように言った。
「きみのやさしさが、今回はあだになったんだね。そんなごろつきのことは、もう忘れてしまえよ。村ののんびりした暮らしにもどればいい」
「でも、このあたしまで泥棒だと思われたのよ。うちへ帰っては来たけれど、思い返すと無念で無念で……」
あたしらはいっしょになって、お館の連中に憤慨した。ペイレントン村の人間を盗人扱いするなんて、ふざけたやつらだとね。リタ・ヘンルーダはいくらか気が晴れたようで、その日はそれで家へ帰った。
あたしはすっかりリタに同情したけれど、いやな予感がしなくもなかったよ。そして、その予感は的中していた。ピートもリタにすごく同情したんだ……同情しすぎるくらいにね。
ピートは顔役になるくらいだから、なんでも率先してがんがんやるタイプだった。リタを慰《なぐさ》めるにもあけっぴろげだった。彼女が村へもどってきて、以前の恋心をよみがえらせた男は多かったろうが、まず、ピートに水をあけられていたね。
そんなこんなで、あたしはゆううつになっちまった。だから、みんながお世継ぎの誕生祝いにダーモットへ出かけるとき、一人だけ行かなかった。祭りもけんかも、もうたくさんだと言ってね。
ピートは驚いたようだったが、みんなの気がはやっていたので、ぐずぐずはできず、結局は仲間をつれて出かけていった。
村に残ったのは年寄りや子どもばかりで、広場を歩いてもひどく静かだった。この静けさのなかで、じっくり自分のことを考えようと、あたしは思った。ところが、見てしまったんだよ。てっきりピートたちと出かけたと思っていたリタ・ヘンルーダが、手かごを下げて、港へ下る道とは逆方向へ歩いていくのを。
あたしは、後をつけずにいられなかった。何であれ不可解だったからだが、リタの歩き方にはどこか気軽に声をかけさせないものがあったし、あたしはあたしで、一人残った理由を話したくなかった。だから、黙ってそっとついて行ったんだ。
リタは共有地の柵を抜けて、さらに奥の石切場へと進んでいった。その先には崖《がけ》があって、小川が滝になって流れ落ちている。羊の放牧には危険なので、だれもめったにやって来ないところだ。
滝のわきにある段になった場所を、リタは恐れげもなく下っていった。ここを下りられることを知っているのは、村の一部の者だけだよ。ちょっと目には切り立った崖だけに見えるからね。
あたしは少しためらったが、リタの姿が見えなくなると、やっぱり下りていくことにした。リタがどこへ行ったかは、だいたい見当がついた。崖下には穴があったんだよ。あたしたちが昔、冒険ごっこをしたときに使った穴が。
それほど深いものじゃなく、くぼみと言ったほうがいいような洞穴《ほらあな》で、入り口に立てば奥の壁は見えた。あたしは入り口に立ち、リタが飛び上がってふりむくのを見た。そしてもう一人――黒い髪をした、どこから見ても村の者ではない男を見た。
「タビサ、あなたったら。どうして祭りに行かなかったの?」
リタ・ヘンルーダはとがめるように叫んだ。あたしは、すぐには頭も回らないくらいびっくりして、得体《え たい》の知れぬ男を見つめていた。
「リタこそ……その人はいったい、だれなんだい」
男は口を開かず、吟味《ぎんみ 》するようにあたしを見た。あわてている様子はなかった。洞穴のなかに枯れ草をしいて座っているというのに、御殿で毛皮に腰をおろしているような風情《ふ ぜい》だ。あたしはリタが「身分ある人の落とし子といった感じ」と言ったことを思い出した。そして、疑問がとけた。
「もしかして、この男が泥棒?」
あきらめたようにリタが答えた。
「そうよ。この人がジョシュよ……」
ふいに、あたしは怒りがこみあげた。でも、怒って当然だろう、あたしらの同情をさそうだけさそっておいて、自分は泥棒とつるんでいたんだからね。
「リタ、あんたという人は。ぬれぎぬだなんてさんざん泣きくどいたのは、いったいどこのだれだったんだい」
「嘘をついたわけじゃないわ。誓って嘘じゃない。あなたたちに言ったことは、全部あたしの本心よ」
リタは両手を組み、必死になって訴えた。
「けれども、あのときはまだ知らなかったの。この人が、あたしをたよって逃げてくるなんて。もう一度彼の顔を見たら……あたしは、かくまわずにはいられなかった。やっぱりこの人が好きなんだもの」
あたしは耳を疑って、リタを見つめた。
「……好き? 冗談だろう。その男は罪人じゃないか。星女神がお許しにならないことをしでかした人間じゃないか」
「ジョシュが盗んだものは、お金でも宝石でもなかったのよ。そういう悪い泥棒ではないのよ」
「泥棒に、善《よ》いも悪いもあるはずがないだろう!」
あたしがどなったとき、その男、ジョシュが、初めて口を開いた。なるほど吟遊詩人らしいと思うような、音楽的な声だった。
「娘さん。わたしの行いはたしかに、聖なるアストレイアがお許しにならないことだ。それを否定するつもりはないよ。ただ、わたしが飛燕城から盗み出したものは、だれの私腹《し ふく》を肥やすことにもならず、ルアルゴー伯爵のお役にも立たずにそこにあったものだ。どこかで換金《かんきん》できるものではなく、今の若殿が新しい領主になる日がきても、やっぱり何のお役にも立たない。物が何だか知りたいかい?」
彼の顔はやつれて見えたが――洞穴にかくまわれる身では、そうなるのが自然だが――弁舌《べんぜつ》といったら立て板に水だった。あたしらのような北国言葉とちがって、蜜のようになめらかな発音でね。あまりに巧みなので、かえって警戒する気がおきたくらいだ。
あたしは顔をしかめ、油断なく男の顔を見たが、この男が何を盗んだかは知りたかった。用心しいしい言った。
「何の役にも立たないものなら、どうしてあんたがそこまで欲しがるんだい。飾った言葉を並べて、ごまかそうとしてもむだだよ。いったい何を盗ったんだい」
男は苦笑いのような笑みを浮かべて、着ていたマントのかくしから、四角いものを取り出した。そう、彼は、このあたりでは見ないようなマントを着ていた。地味だがいろいろな色が使ってあってね。
ジョシュがさし出したものをよくながめると、冊子のようだった。あたしは手にとり、表紙もなかもながめてみたが、てんでさっぱりお手あげだった。
変な言葉がたくさんの、とびっきり小難しい本だったんだよ。聞いたこともない単語なので、今では題を忘れてしまった。でも、たしか「二重らせん」がどうとかいったはずだ。
「これは、いわゆる魔道書《ま どうしょ》ってやつではないのかい?」
あたしがたずねると、ジョシュという男はおかしそうな目をした。あの男はとても青い目をしていて、おかしがるときらきらして見えるんだ。
「それを言うなら、娘さん。ロウランド家の伯爵様が、自室に魔道書を隠していたことになるけれど、それでもいいのかい?」
あたしが言い返せずににらみつけると、彼はうなずいた。
「安心しなさい、ルアルゴー伯爵はこれっぽっちも魔道師などではないよ。伯爵にもこの内容はわからないにちがいない。ただ、彼は、その身分によってこの内容を秘匿《ひ とく》しているんだ。それは罪悪《ざいあく》だとも言える」
こんな不遜《ふ そん》な言葉を吐く人間に、あたしはそれまでお目にかかったことがなかった。しかもそれが、よそ者とあってはなおさら腹が立つ。あたしはなぐりかからんばかりの勢いで言った。
「いったい、何の権利があってあたしたちの伯爵様にけちをつけるんだい。ことと次第によってはただではすまないよ」
そのときリタが、あわててなかに割って入った。
「やめてちょうだい、タビサ。この人は、人々の平等をめざしているだけなのよ」
「ビョウドウ?」
「ジョシュは、この国の貴族が占有《せんゆう》しているものは、必要以上に多すぎると言っているのよ」
あたしは、あきれかえってリタの顔を見た。
「あんたもそう思うというのかい、リタ・ヘンルーダ」
「ジョシュが正しいと思うわ」
男にぴったりと身を寄せて、リタは言った。
「あたしは、もう決めたの。この人についていく。これからおたずね者になってもかまわない。喜んで彼の汚名《お めい》をいっしょに負うわ。だって、遠い将来、彼は人々に感謝されるにちがいないんだもの」
あたしには、リタの正気が信じられなかった。何も理解できなかったが、リタの顔をまじまじと見て、感じ入ったことは一つあった。恋する女というのは、こういう目をするものだってことだ。してみると、あたしはピートに恋などしていなかったのだと、思わずにはいられなかった。
「どうして、わざわざ不幸になろうとするんだい。村にいれば、どこへなりとも引く手あまたのあんたなのに」
あたしが言うと、リタは少し悲しそうにほほえんだ。
「村には何もないもの。あたしはここでは暮らせない。だから、出ていくのよ」
彼女に腕を回して、ジョシュも言った。
「平民は無知《むち》であるよう義務づけられている。けれども、貴族たちもわれわれも、同じ一個の人間であるからには、能力に差などあるはずがないんだよ。差があるとすれば得られる知識、アストレイアによって限定され、平民には禁じられた知識の数々だ。いつかはだれかが、その不平等をたださなければならない。わたしはそう思うんだよ。君は、そう思ったことはなかったかい?」
あたしは黙っていた。めんくらってしまって、頭が回らなかったんだよ。こんなに学のある言葉を聞いたのは初めてで、正直言って、このとき初めて世間は広いと思った。こんな途方もないことを、捨て身で考えている人間もいるんだ、とね。
けれども、そこで思いわずらっている暇はなかった。洞穴のわきでは滝が音をたてていて、ほとんどの物音をかき消していたが、それでもあたしは気配に気づいた。複数の人間が崖を下りてきていた。
「ここにはいられないよ」
あたしは彼らに言った。
「このあたしでさえ、リタをつけてこられたんだから、他にも後をつけた者がいるにちがいない。あんたたちは、お館でも目立つ仲よしだったんだろう。それなら、リタが目をつけられていないはずがないよ」
リタ・ヘンルーダはびっくりした顔になった。
「村にあやしい人がいれば、あたしにわかったはずよ」
「この吟遊詩人だって、気づかれずにしのんで来たんだろう」
洞穴のなかには、焚き火のために切りそろえた枝がひとかかえ置いてある。あたしはそのなかから、なるべく太くて持ちやすいものを拾いあげた。
「タビサ……」
あたしは指をくちびるに当て、耳をすませるよう合図した。そうして二人とも聞いた。小石が崖をころがり落ちるかすかな物音を。
「あんたたちは、顔を見られないようにしているんだよ」
あたしはささやくと、ころあいを見計らって外へ飛び出した。思ったとおり、男が三人崖を下ってくるところだった。身なりを地味に装《よそお》っても、お館の手先だということは明らかにわかる。なにせ、みんな足が長くて腰高だったし、高地の者にしては歩くに石をころがしすぎたからね。
彼らはあたしを目にしても、まるで警戒しなかった。おさげ髪の、どこをとっても田舎娘のあたしを見かけたからといって、どうして警戒する必要がある?
「やあ、ちょうどいいところに人がいた……」
一人めは、そんなことを言って近づいてきた。あたしは、彼が充分にそばへ来るまで待ってから、いきなり体当たりをくらわせて、男を滝壺《たきつぼ》に突き落とした。小さな滝の小さな滝壺だけどね、上がり口をよく知らなければ、やすやすとはい上がれないところだよ。それから、背中に隠しもっていた太い棒で、二人めの男になぐりかかった。
二人めも、ふいをくらってひざを払われ、簡単に滝壺に落っこちた。三人めはさすがに身構える余裕があって、腰にさしていた剣を抜いたが、背後からジョシュが加勢したので、これもわずかの後にはぶざまな落下を仲間と同じくした。
リタが駆け寄ってきて、あたしに抱きついて言った。
「なんてすばらしいの、タビサ。あなたはたよりになるって、あたしはずっと思っていたのよ」
「誤解しないどくれ。あたしには小難しいことはわからない。あんたたちを逃がすのは、自分のためだよ。あんたがこの人と行っちまえば、ピートはあたしのもとへもどってくるはずだもの」
あたしは彼女にそう言った。すると、リタは、目を見開くようにして言ったものだ。
「あら、ピート? あなたはピートにはまるっきりもったいないわよ。あごで使われる女の子ではないもの」
それから、あたしたちは急いで崖を上り、後ろを気にしつつセレスの峰まで登った。リタとジョシュは、そのまま山脈越えをしてカーレイルへ抜け、国境を越えてアグレットへ逃げのびる手はずだった。
峠《とうげ》でひと息ついたときに、ジョシュがあたしに言った。
「君のおかげで、危ういところを救われた。それにしても、これほどの度胸と腕っぷしを、君という人はどこで鍛《きた》えたんだい?」
あたしが口を開く前に、リタが自分の自慢のように言った。
「知らないでしょうけどね。タビサは、前のご婚礼祝いに、港で酔っぱらいの船乗りを五人のしたほどけんかが強いのよ。ペイレントンの女の子たちは、いやな男にからまれたらタビサをたよれって、今でも言いあっているくらいよ」
あたしはリタにそう言われて、ものすごく恥ずかしかった。ジョシュの理知的な瞳の前では、いいかげん野蛮《や ばん》に映るような気がしたんだよ。
「そういうのからは、もう足を洗ったんだよ。今度だって、祭りへ行かなかったくらいじゃないか」
あたしの弁明を、ジョシュは笑って受けとめた。
「君もまた、この小さな村にはもったいないような娘さんだ。よかったら、わたしたちといっしょに来ないか? この先には同志が待っている。まだ、数が多いとはいえないが、決して君を失望させない人たちだ」
あたしはジョシュの言葉に、本当に真剣になって考えこんだ。けれども、いっしょに行けるものではなかった。ついていったら、あたしとリタのあいだが気まずくなるって、はっきり予想できたんだよ。
「あたしは行けないよ。けれども、あたしが裏切ることが怖いのだったら、この場であたしを殺してもいいよ」
あたしは言った。そのときは、嘘いつわりのない心境だったよ。けれども、ジョシュはあたしを殺さなかった。やろうと思えばできただろうにね。
あたしの幸せを祈っていると、ジョシュは最後に言った。リタ・ヘンルーダも言葉を合わせた。あたしが二人を目にしたのは、峠で言葉を交わしたこのときが最後だった。
リタがいなくなったことは翌日に知れわたったが、「探さないでください」という置き手紙があったために、捜索隊が出るようなことにはならなかった。彼女がスキャンダルにいたたまれず、都へでも出ていく気になったのだろうと、ご両親もあきらめたみたいだった。
あたしは知らぬ存ぜぬで通し、村でそれを疑う者はいなかったが、心の中では、このままではすむはずがないと思っていた。滝壺に蹴り落とされた三人の男が、あたしの顔を見ているんだからね。そのうちアンバー岬から、あたしを問いただす人物がやってくるはずだった。
けれども、あたしは性根《しょうね》をすえたんだ。彼らはあの場でだれ一人、ジョシュもリタも目にしていない。だから、ものを知らない田舎娘がかんちがいして抵抗したと言いはれば、たぶん言いはれるはずだった。
そう覚悟していたのに、調査官らしき人物は、ちっともあたしを訪ねてこなかった。何ヶ月たっても音さたなしで、気ぬけしたくらいだよ。
このことで、あたしはかえって確信をもった。ジョシュが言ったとおり、あの盗難品は、表ざたにすることをはばかる後ろ暗いしろものだったということをね。ルアルゴー伯爵は、魔道書に類する本と知りながら、それでもお館に持っていらしたのだと、暗《あん》に証明されたような気がした。
このままことが終わったら、どうなっていただろう。あたしも思想家になっていただろうか。やがて老伯爵はお亡くなりになり、若殿のオーウェン様が当代ルアルゴー伯爵になられた。そして、こういうことがあったんだよ。
だれもがリタ・ヘンルーダを忘れたころになって、あたしのもとにひょっこりと、一人の男が現れた。若くて、足の長い――けれども、アンバー岬から来たにしては、遠くから旅をした身なりをしていて、乗っている馬の様子もそのように見えた。
馬はりっぱな栗毛《くりげ 》だった。まるで、たまたま水を欲しがったというように、あたしんちの木戸の前で止まった。あたしは、ずっとずっと警戒していたから、すぐにあやしいと見たけれど、ただ一騎だったので、井戸から水を汲んでやった。何かことが起きれば、どうにかできる自信があったからだよ。
「ありがとう、親切な娘さん。あなたにアストレイアの加護があるように」
男はそしらぬ顔で言った。ジョシュよりずっと若い男で、船乗りのように色あせた金髪を短く刈って、薄い色の目をしていた。
「どういたしまして」
あたしもそしらぬ顔で言った。沈黙して、お互いに相手をうかがいあってから、男が言った。
「娘さん。つかぬことを聞くが、ロウランド家のお世継ぎの誕生祝いに、君が出かけなかったというのは、本当のことかい?」
あたしは身構えて答えた。
「本当のことだよ。それが何か?」
男は、しばらく思案してから言った。
「どうだろうか。今、ダーモットでは、誕生祝いほど盛大ではないが、ユーシス様のお誕生日を記念して市を開いている。水をくれたお礼に、自分に案内させてくれないか?」
今度は、あたしが思案する番だった。けれども、ここで逃げを打っても、別の手が待っているのだろうと思った。だからあたしは、申し出を受けることにした。
「行ってもいいよ。あんた、領主館の人なんだろうけど」
あたしが答えると、男はにっこり笑った。まだ若いのに目尻にしわが寄って、なぜかそれが感じよかった。
「友人はおれを、ガーラントと呼ぶ。あんたの友人はあんたを何と呼ぶんだい?」
「……タビサっていうよ」
認めたくないけれど、あたしが彼の栗毛に乗っていく気になったのは、彼が感じのいい男だったからなんだ。お館の従者というものは、ぴらぴらした軽薄者《けいはくもの》だという話だし、あたしもそう信じこんでいたものだが、彼はどこか違っていた。ダーモットへ向かう道々聞いたところでは、生まれも育ちもルアルゴーではないと言っていた。傭兵《ようへい》として、わたり歩いて来たのだそうだ。
彼とめぐったダーモットの市には、たいした呼び物が来ていたわけではなかったが、あたしたちには充分だった。あたしたち、などと言っていいものかどうかわからないけれどね。
屋台で、食べきれないほどのお菓子を買って、射的《しゃてき》で、かかえきれないほどの賞品をとって。彼の腕前は本物だった。あたしは、これは覚悟しなければと、ちらりと心に思ったよ。けれども、だからこそ、この日はぞくぞくするほど楽しかった。こうした気持ちは、ちょっとわかりにくいところだろうけれど。
大勢の仲間でふざけたときよりも、この日のほうがよっぽど楽しかった。じつをいうと、この日も一度立ち回りがあったんだよ……彼、射的で賞品をとりすぎたものだから、後を追いかけてきたやつらがいてさ。それであたしも、まあ、ちょっとね。加勢の必要などなかったけれども。
日が暮れて、港に灯火が映えるころになって、海を見ながら彼が言った。
「タビサ。滝壺に落っこちたやつらを、おれはこっぴどくやっつけたものだが、今は少し思いなおしたよ。あんたはたいした娘さんだね」
「何のことだか、わからないね」
あたしは言ってやった。
傭兵の男は、にやりとした。
「それなら、吟遊詩人とリタ・ヘンルーダがその後どうなったかも、聞きたくはないだろうね」
あたしは彼をにらんだ。
「リタは、あたしの幼なじみだよ。知りたくないはずがないだろう。でも、悲しい話なら聞かせないでおくれ。あたしは、幸せに暮らしていると思いたいんだから」
「おれのしたことを、逐一《ちくいち》あんたに教える気はないよ。あんたがあんたのしたことを、話す気がないようにね」
彼は言った。その一言で、あたしは頭に血がのぼった。
「あんたなんか、伯爵家の犬だよ。裏でこそこそ嗅《か》ぎまわったって、真実には近づきやしないよ。どうしておおっぴらに名指ししてこないんだい。自分のやっていることの正当さも信じられないのだったら、泥棒に分《ぶ》があると思われてもしかたないだろう」
「それは違うよ」
伯爵の手先は、真顔で言った。
「おれは、自分のしていることがわかっている。平和を守っているんだ。ルアルゴー州の、ひいてはグラール国全体の。そのために、ことを荒立てずに運ぶかたちをとっている。名声を捨てて実《じつ》をとるというわけだ」
「正義の味方だといいたいの?」
「だれかがそれをしなくてはいけない」
彼がきっぱり言った口調は、ジョシュが信念をこめたときと少し似ていた。あたしには、それがとても意外だった。
「あんたは、貴族が多くをかかえすぎているとか、もっと平等であるべきだとか、間近に見て考えることはないの?」
柄《がら》にもない興味をもってたずねると、少し間をおいてから、彼は答えた。
「貴族に生まれついた人たちは、たしかに多くを占有している。けれども、そのぶん、多くの危険やら不安やら、知らなくてもいい苦悩《く のう》なども自分たちでひきうけている。同じ人間の能力であたうかぎり、できるだけ多くの人間がのんきに暮らせるように守っているんだ。そういう役回りは、たぶん、楽しいばかりじゃないだろう。彼らの肩代わりを肩代わりのままにまかせておくのだから、一人でも多くが彼らのもとに力を貸すのは、おれたちの義務だと考えるね」
これもまた、あたしにとっては新しい見解だった。貴族をそんなふうに考えたことは、それまで一度もなかった。思わず黙っていると、彼はさらに言った。
「例の盗賊が盗んだものは、ロウランド家がそんなふうにしてひきうけていた不安の一つだ。世間の人間は、知らなくても生きていけるものだ。だから、取り返すべきだった」
あたしはそれから長いあいだ、次に口を開く勇気がもてなかった。けれども、とうとう意を決してたずねた。
「……あの二人は……死んだの?」
「いいや、アグレットにいるよ」
その言葉にどんなに胸をなでおろしたことか、とてもうまくは語れないよ。あたしは肩の荷が一気におりた気分で、ため息とともに言った。
「そう、それならいい。それなら、後はどうでもいいよ……」
傭兵の男は笑いだした。
「それが君の本音だね。今日一日つきあって、よくわかったよ。あんたは、おれの昇給を賭《か》けてもいいが、ただのおぼこな村娘だ」
「悪かったね」
「いいや、喜びなよ。この先あんたを告発する者はいない。正真正銘の村娘にいいようにやっつけられたと上部に知れたら、だれも面《おもて》を上げて歩けやしないからな」
愉快そうに彼は言った。それを聞いて、あたしはちょっぴりぞっとしたけれど、結局は彼といっしょになって笑っていた。
「けんかからは足を洗うよ。もう、こりごりだ」
「それがいいかもしれない。けれどもおれは、あんたがとても口が固くて、しんから友情にあつい娘だということもよくわかったよ。それは、女だろうと男だろうと、体制派だろうと反体制派だろうと、望ましい気質だ。がんばって、いい人生を歩みなよ。どこかでまた会うこともあるかもしれない」
男はあたしを村の入り口まで送り届けて、あっさりと去っていった。あんまりあっさりしていて、正直なところ、ちょっとがっかりしたくらいにね。
そのころにはあたしも、この男を見なおしていた。ジョシュもいい男だったけれど、この男もたいしたやつだと。世間は本当に広くて、いろいろな人間がいるものだと思ったものだよ。
そういういきさつで、あたしはピートと結婚するのをやめたのさ。今でも、たまに考えることはあるよ。あのとき盗難が起こらなければ、リタ・ヘンルーダが村へ帰ってこなければ、今日のあたしはいなかったのだとね……
*  *  *
「すごーい、おかみさん。おかみさんって、ずいぶん冒険しているんだね……」
ホーリーのおかみさんが語り終えると、フィリエルは感心しきってため息をついた。そして、しばらく余韻《よ いん》にひたっていたが、やがて、かんじんの部分を聞かなかったことに気がついた。
「でも、おかみさん。それで、どうしてだんなさんと結婚する気になったのか、ぜんぜん話していないよ?」
ホーリーのおかみさんはそしらぬ顔だった。紡ぎ車を回しながら、一言で片づけた。
「あたしは口が固いから、そういう本当に大事なことを、ひとに語ったりしないんだよ」
その日は朝からどんよりした雲に覆われ、めったにないことなのに、風がそよとも吹かなかった。そのため、寒気は特に厳しく感じられなかったが、はりつめて壊れそうな無風の静けさは、何かの予兆《よちょう》をはらんで不気味だった。
動物たちは、様子がおかしかった。シーザーとエイメ夫人は小屋のなかで落ち着きなく足をふみかえ、いらいらしていたし、家禽《か きん》たちは身を縮め、隅のほうにうずくまっている。そして、昼すぎ、天の高いところで一斉に扉が開け放たれたように、羽毛の雪が舞い落ちてきた。
空中は一変して白いもので埋めつくされ、その勢いにフィリエルは歓声をあげたが、ホーリーのだんなさんの顔はくもった。
「いかんぞ、これは積もる。羊囲いの様子を見てこなくては」
「あんた」
とがめるように、ホーリーのおかみさんが呼び止めた。
「わかっている。すぐもどるから」
だんなさんが出ていったその後で、息をふきかえしたように風が吹きはじめた。それも猛烈な突風だった。楚々《そそ》として降下する小さな使者のようだった雪は、吹き乱されて白い塗り壁に変わってしまった。
「雪嵐《ブリザード》だよ。言わんこっちゃない」
心配にとがった声で、おかみさんがつぶやいた。
「こういうとき、外へ出ていくのはばかだよ。まったくもう」
ずいぶん気をもませてから、ホーリーのだんなさんは、吹雪のなかを雪だるまのようになって帰ってきた。彼とともに戸口から吹きこんできた雪は、奥の暖炉に届くほどだった。フィリエルはちらりと外を見たが、真っ白で何も見えなかった。
「犬たちがいなかったら、この慣れた場所でさえ帰りつけないところだったよ」
だんなさんは驚いた口ぶりで言った。ロブとロイはさかんにしっぽをふり、胴ぶるいして、家の者に溶けかけた雪をどっさり浴びせた。
「こりゃあ何年ぶりかの雪嵐になる。フィリエルが生まれて以来かもしれん」
「難儀だねえ」
おかみさんは眉を寄せた。
「荒れ野に雪が積もれば、泥炭掘りに行けなくなる。天文台に、燃料のたくわえが充分あればいいんだけど……まったく、ルーンには最初の冬だというのに」
しずくを落としはじめた帽子や上着を、火のそばの椅子に掛け、だんなさんは顔をぬぐいながら言った。
「そんなに気を回さなくても、博士が何とかなさるだろうよ。ディー博士とて、緊急の時にまでうかうかしているかたではないのだから」
おかみさんは言い返さなかったが、どうも納得した様子ではなかった。だからフィリエルも、安心する気持ちにはなれなかった。
それから丸一日とひと晩、彼らはうなりをあげる風の音に耳をすませながら屋内ですごした。雪という実体を得た風の力はすさまじく、屋根も壁もみしみしと音をたて、梁《はり》から煤が落ちてきて気が休まらない。万が一にそなえ、フィリエルは久々にホーリー夫妻といっしょのふとんにくるまって夜をすごした。
二晩めともなると、どんな風のうなりもホーリー夫妻の話し声も、フィリエルの目を開けておくことはできなかった。夢も見ずに眠りこけ、気がつくと、晴れわたった夜明けになっていた。
風の音は完全に途絶《とだ》え、おし殺したように静かだった。けれども嵐の前とはまた違って、どこかが妙だ。しんと冷たい気配のなかで起き上がったフィリエルは、妙に感じる理由に思い当たった。今しがた聞こえた鶏のときの声が、耳にくぐもるようだったのだ。
裏口の戸を開けたフィリエルは、うわあと叫んでしまった。ホーリー家の裏庭は、白くなめらかな凹凸だけでくりひろげる別世界となっていた。
ホーリーのだんなさんとおかみさんは、はやくも武装して雪かきにとりかかっている。かきのけた雪を見やると、平たいところでもフィリエルの背ほどに積もっていた。崖下の家畜小屋などは、屋根まで埋もれてひしゃげそうになっている。
「あたしも雪かきする!」
フィリエルがどなると、声は一面の白さと冷たさに吸いとられるようだった。だが、おかみさんはもどってきて、フィリエルにセーターとマフラーと頭巾を着せつけ、長くつした二枚とズボンと青いミトンと木靴をはかせた。
とにかく、雪を取り除かないと水汲みさえままならないので、朝ご飯も抜きだった。やがて日光が射してきて、あたりの景色が銀に燃え、雪かきをする体が汗ばむほどになったころ、ようやく裏庭の家畜たちに餌《えさ》を与えることができた。
三人がひと息ついたとき、裏手の土手から物音が聞こえた。初めは何だかわからなかったが、やがて、雪をかきのけて下りてくる博士の姿が見えた。その後ろでもぞもぞ動いているのは、どうやらルーンのようである。
「ごきげんよう。人足《にんそく》になりにきましたよ。雪かきはこちらのほうが必要だと思ったものですから」
ディー博士は、陽気といえる明瞭《めいりょう》な声音で言った。態度といい服装といい、いつもの彼とは別人だった。フィリエルは、目をまるくして見つめてしまった。万年着ている、黒の長衣を脱いだ博士を見るのは初めてだった。
今の博士は、だんなさんと同じような耳当てと庇《ひさし》のある帽子を被り、厚地の灰色の服とズボンに羊皮で裏打ちしたケープのようなものをはおって、鋲《びょう》を打った長靴をはいていた。手には大きな木製のスコップ。運動のせいで、ふだんよりも赤い顔をしている。
ホーリーのだんなさんも、かなりびっくりしたようで、あわてて帽子を手に取り、口ごもった。
「これはどうもご親切に……じつは、羊囲いのほうを、家内と二人でどうしたものかと思っていたところで……」
ディー博士は、さもあろうというようにうなずいた。
「さっそく、取りかかりましょう」
博士にくっついてきたルーンも、まずまず元気そうだった。ただ、彼は、毛織りのスカーフでほっかむりをし、毛糸編みの肩掛けをはおっているので、小さなおばさんのように見えた。赤いミトンをはめた手で、ちりとりなどを持っている。
ルーンの珍妙なかっこうに笑いだすと、フィリエルははしゃいだ気持ちを抑えられなくなった。久しぶりに彼の顔を見ることができて、自分でもびっくりするほどうれしかった。
そばの雪を両手にすくって丸めると、フィリエルはルーンをねらって投げた。彼はぼーっとしているので、三度も投げればもう当たった。
「やあい、のろま。あたしに当ててごらん」
フィリエルにからかわれて、ルーンもその手に雪玉をにぎった。けれども、投げてみるとフィリエルまで届かなかった。ものを投げたこともろくにないのか、ふりかぶるといった自然な動作が、ルーンにはできないのだ。
フィリエルのほうは手慣れているので、おもしろいように相手に命中する。女の子に一方的にやっつけられているルーンを見て、見かねた様子で博士が歩み寄った。
「もっとひじを引かなくては遠くへ投げられないよ。こうするんだ」
ルーンに投げかたの指南《し なん》をした博士は、雪をかぶった樅の木をさして言った。
「まずはあれにぶつけてごらん。フィリエルとちがって逃げないから」
博士が雪玉を命中させると、枝からざざっと雪がすべり落ちた。おもしろそうなので、フィリエルも駆けつけた。
「こうするのよ」
フィリエルが博士と並んで何度も投げると、ルーンにもこつがわかりはじめたようだった。そうするうちに、ホーリーのだんなさんも加わった。
「投げるなら、こうですな」
自慢そうに言うだけあって、だんなさんの投げる玉は一番正確で威力があった。それからは、全員がむきになって雪玉を投げ続けた。
ホーリーのおかみさんはしばらく見ていたが、とうとう大声を出した。
「雪かきをしなさい、あんたたち。まったく、四人とも子どもなんだから」
羊小屋のまわりの雪をどけ、羊たちに干し草を食べさせると、もう日暮れになっていた。セラフィールドの住人たちは、くたくたに疲れてお腹を減らし、急激に下がってきた気温に体を冷え切らせてホーリー家へともどってきた。
フィリエルはすっかりばててしまい、かじかんだ耳と鼻と手と足指が痛くて、泣き出す寸前だった。青い影をおびはじめた雪は、すでに魅力を失い、脅威にとってかわっている。
けれどもフィリエルが泣かずにすんだのは、ルーンがいたせいだった。彼にさまざまな見本を示した手前、先に弱音を吐くわけにいかなかったのだ。
ルーンはいろいろと劣る子どもではあったが、がまん強いことだけはたしかだった。彼もばててはいるようで、雪に足をとられてよろよろしていたが、最後まで黙って歩きとおし、大人たちの手を借りなかったのだ。
ホーリーのおかみさんは家につくと、食事を出す前に、ニワトコのワインを熱くして蜂蜜を入れたものを全員にふるまった。ふだんは子どもに飲ませてくれないワインだが、この日は特別にフィリエルとルーンにもついでくれた。
フィリエルは大人と同じ扱いを受けてわくわくしたが、湯気の立つ飲み物は甘みをつけても少々苦く、薬っぽい味がして、思ったほどおいしくないのにはがっかりだった。しかし効果はてきめんで、飲むとお腹が底のほうから熱くなり、さっきまで震えていたのが不思議なくらいになった。
充分暖まって、顔色をとりもどすと、ルーンも舌がほぐれたようだった。彼はフィリエルのそばへ寄ってきて、自分から話しだした。
「ゆうべ、丸椅子燃やしたよ」
「丸椅子? どうして」
「博士が、燃やしていいって」
ルーンはどうやら、得意なことに思っているらしかった。
「暖炉が、冬至の祝いみたいだった」
「やだ。聖なるまきと、丸椅子をいっしょになんかしないでよ」
フィリエルは顔をしかめた。隣で聞いていたおかみさんが、肩を落とした。
「……そんなことじゃないかと思ったよ。本以外は、何でもかんたんに燃しちまうかたなんだから。うちから少し、泥炭を持っていってもらわないと」
けれども、ぼやく彼女の声音にも怒ったところはなかった。ディー博士とルーンは強くすすめられるままに、ホーリー家のテーブルでいっしょに夕飯を食べていった。
手をかける暇がなかったので、質素な食事ではあったが、みんなで肩を寄せあって食べると、フィリエルには何倍もおいしく感じられた。そして、ぼうっとするほど幸せな気分になった。
大雪の非日常が、厳しい寒さが、重労働が、ふだんの垣根をとりはらってしまい、人々をこのように結びつけたのだ。災難だ災難だと口にするホーリー夫妻でさえ、見ようによっては浮き立っているように見えた。
(……災難にも、どこかしらいいことがあるものなんだ……)
雪かきがつらかったことを忘れて、フィリエルは夢見心地で考えた。体が疲れきっていたので、お腹がくちくなると、早くもまぶたがくっつきそうだったのだ。同じようにルーンも寝入りそうになっていて、博士は彼が身動き不能になる前にと、急いでゆり起こして天文台へ帰っていった。
彼らが白い坂を上っていくのを、なんとか目を開けたまま見送ったフィリエルは、この雪も一晩すぎれば固く凍りつくのだろうと思った。そうなれば、博士とルーンは、春がくるまでホーリー家に下ってくることはおそらくないだろう。
けれども、今このときは、何ごとも深刻には受けとめられなかった。明日の憂慮《ゆうりょ》は明日にすればよく、今日すばらしかったことに、水をさす必要は何もないのだ。
「この子ったら、立ったままで寝ている」
ホーリーのおかみさんは、話しかけても答えないフィリエルを見てあきれた。
「無理もない一日だったからね。湯たんぽをしてやるから、早くベッドへお行き」
暖かい寝床へもぐったフィリエルは、ため息を一つついただけで眠りにおちた。そして、雪の女王が真っ白な大広間で、盛大な舞踏会を開いているところを夢にみたのだった。
雪のせいで、この冬が苛酷《か こく》になったのはたしかだった。羊が三頭も続けて死んだ。ホーリーのだんなさんは手を尽くしたのだが、連日の冷えこみのなか、餌も運動も限られると、弱い個体は生きのびることができなかったのだ。
羊が死ぬたび、フィリエルはルーンのことが気にかかった。住人のなかに弱い羊がいるとすれば、それはルーンだったから。
その危惧《きぐ》は、多かれ少なかれホーリー夫妻も抱いているものだったので、彼らはいつも以上にお隣の食糧や燃料事情に気をくばっていた。けれども、これまた羊と同じで、してやれることには限りがある。その羊に生きる力がなければ、ものの乏《とぼ》しいこの場所ではどうにもならないのだ。
みんなの思いが通じたのか、ルーンはとうとう弱い羊にならなかった。もちろんすべて順調だったわけではなく、何度か胸に湿布《しっぷ 》薬《やく》をはられたし、寒さがゆるみかけたころになって、再び熱を出すということをしでかした。だが、しょっぱなに厳しい冬を迎えたにしては、がんばりがきいたと言えた。
高地の春は、一進一退をくり返し、ときに激しい風雨をともないながら、いやになるほどためらいがちにやってくる。その春と進行を同じくして、ルーンもまた、目にとまらないほど少しずつ変わっていった。セラフィールドを自分の居場所として、わずかずつ自信をつけ、ときどき逆行しながらも、自分からものごとにあたるようになっていったのだ。
それは、赤茶色に死にたえた草原が、氷雨《ひ さ め》にうたれるたび芽吹きの気配を増していくような、静かな歩みだった。寒い天候が続き、すっかり冬に逆戻りしたと思っていたのに、いつのまにか根雪がすっかり消えたことに気づくようなものだ。
そしてある朝、小鳥が鳴く。そしてある朝、初花が開く。枯れ草の覆いの陰に、みずみずしい若芽が一斉に吹き出していることに、突然のように目を開かされるのだ。
天文台へ遊びにいったフィリエルは、ルーンが「あとでね」という言葉を覚えこんだことに気がついた。
今までなら、フィリエルが何かをしようと言えば、とにかく逆らわずに従ったルーンだった。踊れと言えば踊ったし、ついてこいと言えばついてきた。彼はいまだに、正面きってフィリエルに「いやだ」と言えなかったが、ことを荒立てずに自分のしたいことを続ける方法を開発してしまったのだ。
「ルーン、たまごを抱かせためんどりを見に行こうよ。今日明日にはヒヨコがかえるのよ」
「あとでね」
――と、いう具合なのである。
どうして「あとでね」なのかというと、このごろルーンには夢中になっている本があるのだった。冬のあいだに、そうとう本が読めるようになったルーンは、今では独自の蔵書をもっていた。
しかたがないので、フィリエルのほうが譲歩して、本を読むのにつきあってやる。けれどもルーンが好きな本は、生きものがわずかも出てこない恐ろしく退屈なものだった。題名にも魅力がなく、「幾何学《き か がく》原論《げんろん》」という。
どこがおもしろいのかとたずねると、ルーンは、自分が前からこうだったらいいなと思っていたことが、みんなショウメイされているのだと答えた。数字に異常に強い子どもだけに、数と記号と線図だらけのこの本を開くと、心の安らぎすら感じるらしかった。
フィリエルには、そのどこに安らぎがあるのかさっぱりわからない。これが南国の鳥や花々なら、いっしょに興味をもつことはできるが、「無理数《む り すう》」や「虚数《きょすう》」のどこがすてきなのか、想像するのも難しかった。ところが、ルーンにとってはあまりに自明すぎて、うまく説明することもできないのだ。
そこでフィリエルは、ディー博士に教えを乞《こ》うことにした。ルーンがこれほど夢中になるのも、博士が手ほどきをしてやったせいなのだ。
博士は、意外なほどめんどうがらず、フィリエルにも懇切《こんせつ》ていねいに説明してくれた。彼女が数学に関心をもったことは、博士にとってもうれしいことのようだった。博士がフィリエルに教えていると、おかしなことにルーンもうれしく、自分は二度めに聞くのだろうに、そばを離れようとしなかった。
(ね、おもしろいでしょう)
ルーンはそう言いたいらしかった。フィリエルは、おもしろいと思おうと決心した。彼らの熱中の輪に入れたら楽しいだろうと、肌に感じるものはあったのだ。
日射しがどんどん明るくなり、外へ出る機会が増えるにつれて、ルーンの自己主張のきざしはもう一つ明らかになった。彼は大きくなるのが待ちきれず、博士のおさがりのメガネをかけることに決めたのだ。
ふつうにかけるとずり下がってしまうメガネを、ルーンは工夫を重ねて、紐《ひも》で固定するように改良した。そうまでしなくてもと、フィリエルはあきれたのだが、ホーリーのだんなさんが外へ出るときには必ずフェルト帽子を被るように、ルーンはメガネを着用して外へ出るようになった。
ずり落ちなくなったとはいえ、巨大なガラスの目玉をつけた子どもは、はっきり言ってうっとうしかった。このごろのルーンが、いくらか表情を見せ、少しかわいらしくなってきたところだけに、この扮装はいただけなかった。
「あたし、いやよ。いっしょにいる子が、そんなみっともないかっこうをしているなんて」
フィリエルははっきり意見を表明した。それなのに、ルーンは| 志 《こころざし》を変えなかった。
「ぼくは、これがいい」
「やめないなら、もう遊んであげないから」
「だって、これがいい」
ルーンは脅《おど》しにも屈しなかった。フィリエルはディー博士に訴えてみたが、あのメガネには度が入っていないから、かけても大丈夫だよと、見当ちがいの返事がかえってきただけだった。
ホーリーのおかみさんも、たいして気にしないようだった。ルーンははじめから変な子どもだったのだから、もう一つくらい変なところが加わっても同じだと言うのだ。
「好きにさせておやりよ。それで博士の弟子だと示したいなら、かわいいものじゃないか」
「かわいくない」
フィリエルはふくれた。
「あたし、いっしょに遊ぶ子はかわいいほうがいい。このごろルーンはかわいくないよ。前のほうがよかったかも」
「それは、ちがうだろう」
ホーリーのおかみさんは、やさしくさとした。
「よく考えれば、あんたにもわかるはずだよ。あの子は、自分らしくなろうとしているのさ。まあ、男の子が外見で生きるようになると、性根《しょうね》が腐っちまうから、あれはあれでいいんだろうよ」
フィリエルは不思議そうにたずねた。
「女の子は、外見で生きても性根が腐らないの?」
「女性にはね、直感力というものがあるんだよ。星女神のたまものといわれる」
おかみさんは少し笑ったが、やがてまじめな調子で言った。
「もちろん女にだって、身をもちくずす者はたくさんいる。容姿《ようし 》を鼻にかけるだけなら、いずれはそうなってしかたないだろう。そうではなくね、グラールの女には、アストレイアの恩恵としての『美人』に生きる道があるんだよ。知恵と直感力を磨いて、どんな器量でも有効に使う手段が」
考えこんだフィリエルは、ようやく思いついて言った。
「それは、おかみさんの話していたリタ・ヘンルーダのこと?」
「いいや。彼女が正しい道をとったかどうかは、この先もずっとわからないだろうね。リタも、教育を受けた娘ではなかった」
少し口をつぐんでから、おかみさんはさらに言った。
「この国のどこかには、そういう教育機関があって、よりすぐりの娘たちを集めると言われているよ。だから、女の子が美人になろうとするのは、必ずしも悪いことではないんだよ。いつか真の意味に近づくチャンスがある。けれども、男の子だとそうはいかないからね。あだな美貌《び ぼう》なら、いっそないほうがましなのさ」
目をまるくしてフィリエルは聞き入った。
「男の子と女の子って、やっぱり、そんなにちがうものだったんだ。それなら、女の子に生まれたほうが得だということにならない?」
「さあ、どうだろうね。それも、星女神様の御心次第だろうけど」
ホーリーのおかみさんは笑った。
「それでも、このグラールで女性に生まれついたことを、あんたは誇りにしていいんだよ。あたしたちの国は、アストレイアであらせられる女王陛下の治める国なんだからね」
季節はさらに美しくなった。フィリエルは、マゼンタの祈祷書《き とうしょ》に出てくる「星の楽園」とは、年中六月を迎えた荒れ野のようなところだと信じていたが、それも無理ないと思われるほど、晴れた空は澄み、夏の日射しは明るく、花開く季節を迎えた荒れ野は匂いたつものだった。
高原を埋めつくすヒースは赤紫の小花をつけ、その色で草原を塗りかえるようだったし、日光をあびたハリエニシダの花は黄金色の宝のようだった。小川のふちに、岩場の陰に、かれんな白や黄色や薄紫の花々が、その存在を主張する。
夏に渡ってきた小鳥たちは、つがいの相手を求めて鳴き交わし、そこここに愛の巣をつくり、シダが小さなこぶしの芽を開いて、彼らのために柔らかいうす緑の寝床をつくった。
ホーリーのだんなさんが戸を開け放った巣箱のミツバチたちは、いっせいに飛び立ち、ひとしずくの花蜜を集めるために毎日仕事にはげんでいる。同じようにホーリー家の人々にも、この季節には仕事が山のようにあった。けれども、それが苦にならないほど日は長く、心満ちたりる陽気だった。
春に生まれた動物の子どもたちが、すくすくと育つこの季節は、フィリエルが夢中になるものも増えた。茶色のめんどりは、黄色いヒヨコを首尾よく六羽もかえし、黄色い毛玉のヒヨコたちが、母鳥の後をくっついて歩く風景は、いつ見ても見あきないものだった。
フィリエルはいつも、一番最後に生まれたヒヨコの味方だった。このヒヨコは、たいてい兄弟のなかで一番とろく、母親が緊急避難の召集《しょうしゅう》をかけたときにも逃げるのが一番遅かった。ミミズのようなすてきなごちそうを見つけても、敏捷《びんしょう》な兄さんたちにたちまち奪われて、口に入らなくなるのがこのチビ助なのだ。
だから、フィリエルは、チビ助に特別に餌《えさ》をあげるのだった。それすら横取りする兄さんヒヨコは、憎らしくなることもあったが、色つやよく優秀な鶏になるのはそういう鳥だということも、よくわかっていた。
前の秋にお見合いをしていたため、エイメ夫人もこの春に子ヤギを産んだ。母親よりさらに白く柔らかな毛につつまれた子ヤギは、フィリエルにも抱きあげられる大きさで、声もしぐさも愛らしく、フィリエルをうっとりさせたが、エイメ夫人からお乳をもらうためには、いつまでも子ヤギを育てるわけにはいかないのだった。
ホーリーのだんなさんが子ヤギを村へもっていく前に、フィリエルはルーンを呼んできて、いとけない子ヤギを見せてやった。
「かわいいでしょう。でも、かわいい子には旅をさせろと、世間ではいうからね。親もつらいところだよ」
知ったかぶりをしたフィリエルが、しかつめらしく言うと、ルーンは乳のように白い子ヤギにさわりながらつぶやいた。
「横取り」
「何が?」
「かあさんヤギは、子ヤギのために乳を出す。だから、横取り。フィリエルは」
フィリエルはむっとした。意見を言うようになったルーンは、こんなふうにかわいくないところを見せた。今年からフィリエルは、エイメ夫人の乳しぼりを教わるようになり、ルーンに自慢したことはたしかだが、それを批判されるとは思わなかった。
「しかたないじゃない、あたしたちにはお乳が必要なんだから。そんなことを言うなら、あんたは彼女のお乳を飲まないでいなさいよ」
ルーンはかたくなな顔をした。
「じゃあ、飲まない」
「何言ってるのよ、あたしよりチビのくせに。お乳を飲まない子どもは、ぜんぜん背が伸びないんだからね。それでもいいのね」
「いい」
本当はいいはずがなかった。メガネが大きすぎることが自分でもわかっているルーンは、フィリエルが『カエル目玉』と呼んでからかうと、いやそうな顔になるのだ。けれどもルーンには、こうした意地っぱりが生まれはじめていた。ばかげたことでも、後にひかない。そのため、フィリエルとぶつかることが多くなった。
もっとも、お乳を飲む件については、ホーリーのおかみさんが圧力をかけると、ルーンもあっさり屈してしまった。彼の意地も、おかみさんに通用するものに鍛えるには、まだまだ修業がたりなかったのである。
光にあふれる季節がくると、フィリエルは、毎朝目ざめるたび、荒れ野に呼ばれているような気分になる。花も鳥も虫も、光の恵みを一日もむだにしないよういそしんでおり、フィリエルもそれを確かめずにいられないのだ。
丘も小川も、じくじくした沼地であっても、この時期なら楽しいものであふれていた。毎日出かけていっても、目をこらせば必ず新しい発見があった。
イチゴ類の白い花や、薬草類の青い花は、楽しむばかりではなく目にとめておく価値がある。鳥の巣や虫の巣やカエルのタマゴといったものも、フィリエルにとっては「発見」する価値のあるものだった。
そういうもののある場所は、目印をよく覚えて、次にも見回りに来られるようにしておく。こうして、夏の荒れ野に自分だけの散歩コースをつくるのが、フィリエルの楽しみの一つだった。
ルーンを散歩につれだすと、しっかりメガネをかけて出てきて、荒れ野にまったくそぐわないのが困りものだった。けれども、フィリエルの散歩コースはルーンも気に入ったようで、見どころを教えてやると、案外すなおに感心した。
丘になったところへ来ると、ルーンはあたりを見回し、そのたびにつぶやいた。
「だれもいないね……ここも、だれも見えない」
当たり前のことをくり返すので、フィリエルはあきれた口調で言った。
「荒れ野をわたってきたくせに、どこを見ていたのよ。ワレット村より東の高地に住んでいるのは、あたしたちだけよ」
「人が来ること、ない?」
「ないわよ。ここは、あたしたちの荒れ野だもん」
フィリエルは、いばって両手を広げた。
「この広い場所全部、あたしたちが好きに使っていいのよ。ここから見える花畑全部、あたしたちのものよ。だって、ホーリー家のミツバチが、この花全部から蜜を集めちゃうんだから」
「本当?」
ルーンは驚いたようだった。
「本当よ。金色のたくさんの蜂蜜、ルーンも食べたでしょう。あれはうちのミツバチが、荒れ野の花から集めたものなの。夏が来ると、ホーリーのだんなさんが樅の木陰に巣箱を置いているのよ。知らなかった?」
「知らない」
「じゃあ、帰りに見ていこうよ。ミツバチの家には、女王様がいるのよ」
気ままに歩いて、二人はホーリー家が見える場所までもどってきた。坂を登るだいぶ手前で、フィリエルは白黒の牧羊犬の姿に目ざとく気づいた。
「あっ、ロブたちがいる。ちょうどよかった、ホーリーのだんなさんが近くにいるよ」
暇そうに寝そべっている犬たちに、フィリエルは声をかけた。年季の入ったロブは、あいさつに耳を立てただけだったが、ロイは出迎え好きだったので、立ち上がって駆けてきた。
犬が向かってくるのを見ると、ルーンはたじろいで足を止めた。いまだに彼は、牧羊犬を怖がっていた。ルーンが必要なくびくついている様子がおかしいので、フィリエルにはわざとルーンのそばで犬とたわむれてみせるところもあった。
「たまには、なでてやったらいいのに。そうすれば仲よくなれるから。ほら、悪さなんてしないでしょう」
ロイの首筋をかいてやりながら、フィリエルは言った。ルーンは身を固くして立ったまま、首を振った。
「犬は、噛《か》みつく」
「噛みつかないったら。ロブもロイも、しつけのいい犬なんだから」
ルーンは黙ってから、ぼそりと言った。
「……ホーリーさんが命じれば、噛みつくよ」
「命じるはずないでしょう」
フィリエルはあきれた。
「噛みつかせて何になるのよ。あんたはまさか、そうして噛みつかれたことがあるの?」
「ある」
小声でルーンは言った。
「これ、噛んだあとだよ」
彼はすねの出るズボンをはいていたので、示した傷あとはよく見えた。ふくらはぎに、少しへこんだ傷が斜めについていた。だいぶ前のもののようだが、これほどに残るなら、そうとうひどいけがだったのだろう。
「どんな犬だったの。どうしてそんなことになったの?」
すっかり驚いてフィリエルはたずねた。だが、ルーンはかがみこんだまま、こわばった顔をして答えなかった。聞いてはまずかったことに、フィリエルは気づいた。
「ロイはそんなことしないよね」
あわてて犬に話しかけていると、ホーリーのだんなさんが歩いてきた。フィリエルはほっとする思いで立ち上がった。
「だんなさん。あたしたち、荒れ野を歩いてきたの。そして、ミツバチのことを話して、ルーンにミツバチの巣箱を見せてあげることになったのよ。いいでしょう?」
「別に、かまわんが」
ホーリーのだんなさんは、のんびりした口調で答えた。
「巣箱を開けるわけにはいかないよ。分封《ぶんぽう》がありそうだからね。わしも、昨日あたりから見張っているところなんだよ」
「分封?」
ルーンの目の色が動いた。心を閉ざして以前の状態におちこんでも、今の彼は、わずかな刺激で抜け出してくることができた。
「分封って?」
「ミツバチの巣わかれだよ。巣のミツバチが充分に増えると、新女王が生まれてくる。だから、前の女王バチは家来の半分とともに飛び立ち、新しい国を探すんだよ」
ルーンの問いに、ホーリーのだんなさんは機嫌よく答えた。フィリエルも初耳だったので、目を輝かせてたずねた。
「女王様が出てくるの? どこへ行くの?」
「どこかへ行ってしまわれては、わしらが困るのでね。空の巣箱を用意してお待ちするんだよ。それが女王のお気に召せば、新しい家に移り住んで、また蜂蜜をとらせてくれる」
「あたし、見たい。ミツバチの分封。女王様が家を移るところ、見たい」
飛び跳ねるフィリエルを見てから、ルーンが言った。
「ぼくも」
「うまく今日見られるとは限らないよ。明日かも、あさってかもしれない。しかし、おいで。ミツバチたちの話をしてあげよう」
通り道をはずれた、一番奥の木の根もとに、両腕でかかえるほどの大きさの巣箱が三つ置いてある。樅の下枝が涼しげな陰をつくるその場所に、小さなハチたちがしきりに出入りしているのが、フィリエルたちにも見てとれた。
ルーンは犬を怖がるくせに、ハチに対しては鈍感だった。すたすたと歩み寄ろうとするので、きつく止めなければならなかった。
「だめ、刺されちゃうでしょう。だんなさんだって、巣箱に近づくときには、網のついた帽子と手袋をつけるんだから」
じつは、フィリエルは前に刺されたことがあるのだった。巣のそばで刺されたら、まず一ヶ所ではすまない。そしていやな臭いの塗り薬を塗られて、一度で充分に懲《こ》りたのだった。
ホーリーのだんなさんが、巣箱の見える土手に腰をおろしたので、フィリエルたちもそのそばに座った。だんなさんは指さして教えた。
「分封しそうなのは、あの右端の巣だ。周りにたかっているハチが多いだろう。働きバチがああして時期をうかがうようになると、巣わかれが間近いんだよ」
「一番最初に女王様が出ていくの?」
「いや、固まりになってわっと飛び立つ。そうやって女王様を護衛《ご えい》するんだろうが、いつもハチの雲みたいで、どれがどれやらわからんな」
専門の話をするのがうれしいようで、ホーリーのだんなさんはいつもより多弁《た べん》だった。熱心な聞き手を得て、ミツバチは新しい女王候補を一度に何匹も育てる話、けれども、最初に成長して個室を出てきた女王バチが、他の部屋の候補を全員殺してしまう話、若い女王と結婚飛行をする雄バチたちは、そのためだけに生まれてきて、一度も蜜を集めずに、他の働きバチに養われている話など、やたらにおもしろい話を聞かせてくれた。
フィリエルは息を吸いこみ、しみじみ言った。
「こんなにちっちゃいハチたちなのに、とっても工夫しているんだね。国をつくるって、たいへんなことだね」
ホーリーのだんなさんは目を細めた。
「わしらのグラールは、言ってみればミツバチの国のようなものだよ。同じように女王陛下が君臨しておられるし、雄バチはさしずめ、貴族たちといったところだな」
「でも、貴族は男の人だけではないでしょう?」
フィリエルは、少々自信なくたずねた。そうだと言われたら、女の子であることを考えなおさなくてはいけない。
「もちろん、グラールには女性の貴族もいるよ。ただ、女王陛下の騎士になる人物は、まあたいていは男たちだ。貴族は、女王陛下に尽くすために存在して、食うために働かないというところも雄バチと似ているな。そして、いつのときでも、国を本当にささえているのは、わしらのようなたくさんの働きバチなんだよ」
だんなさんが誇りをこめてそう言うところに、フィリエルは感心した。ルーンは遠慮がちにおとなしくしていたが、そのときふいに、ひとりごとのようにつぶやいた。
「……われらは女王陛下のミツバチ……美味《うま》き蜜の器《うつわ》なるグラールに、唯一の星なる君をかかげる民……」
ルーンを見て、だんなさんはほほえんだ。
「よく知っているね。それは有名な詩人のほめ歌だよ」
フィリエルは、この日ホーリーのだんなさんがしてくれたミツバチの話を、長いあいだ鮮明に覚えていた。この話は必ず、三人で土手に座りこんで巣箱を見守った、遅い六月の午後――純白の雲、ふりそそぐ金の光と蒼い樅の影の色あい、荒れ野から吹く風の甘い匂い、耳の奥でうなるミツバチの羽音などといっしょに思い出され、豊かな夏の記憶として心に残ったのだった。
だが、フィリエルが心に刻みつけたもう一つの理由は、この満ちたりた光景のどこかに、かすかな不安が予感されていたせいだった。それが何なのか、フィリエルはつかんでいなかったし、このときは意識にものぼらなかったのだが、そのひとしずくの不安のために、彼女は感覚を研《と》ぎすませていたのかもしれなかった。
分封は、結局この日におこらなかった。話しこむうちに太陽が傾いたのを知って、ホーリーのだんなさんは、決行は明日にもちこされただろうと言った。
立ち上がったルーンは、だんなさんを見た。
「明日の朝、もう一度来ていい?」
「かまわんよ」
だんなさんが答えると、ルーンはまじめくさってうなずき、駆け出して天文台へと帰っていった。
その後ろ姿を見送ってから、だんなさんは驚いた口ぶりで言った。
「あの子も変わったね。自分から見に来ると言いだすなんて。ここへ来たばかりのころを思えば、見違えるようだよ」
フィリエルは用心深くうなずいた。
「うん。まだちょっと、ときどき変なところがあるけれど、ルーンはたいてい自分のしたいことを言うようになったよ」
「ずいぶん元気そうになった。顔つきがよくなったし、このところ背が伸びているんじゃないかね?」
「うん、伸びてるかもしれない。あたしのほうがもっと伸びてるけどね」
フィリエルが答えると、ホーリーのだんなさんは深くうなずいた。
「博士の言ったとおりだったね。あの子もふつうの子どもだ。そういう場所をもてば、そうなれる子どもだったんだ」
フィリエルには、ルーンがふつうかどうか確信がなかったが、彼が急速に変わっていくことは認められた。毎日会っていると、見慣れて気づかないものだが、ふりかえってみると本当にそうだった。
「前は、あの子、もっとじっとしている子どもだったよね」
だんなさんは、ひどくうれしそうだった。彼がこの日、いつになくはりきって話を続けたのは、ルーンのせいだということがフィリエルにはわかっていた。黒髪の子どもが彼女とともに座って、ミツバチの話を興味深げに聞いていたせいだ。
「わしのしたことは、まちがいではなかった。最初はどうかと思ったものだが、あの子をつれてきてよかった。数学の才能はおりがみつきだし、あの子はきっと優れた弟子になるよ。ディー博士もこれなら安泰《あんたい》だ。研究も生活も、ルーンがいれば活気づくことになるにちがいない」
フィリエルは、だんなさんといっしょに喜んでもいいはずなのに、そうならない自分にひそかに驚いた。日が急にかげっていくように、急に気分が浮き立たなくなっていた。
少し考えて、フィリエルはたずねた。
「ねえ、弟子ってなに? 弟子と子どもはどこが違うの?」
フィリエルが頭を悩ませていることを知って、ホーリーのだんなさんはほほえんだ。
「弟子というのは、小さい子どものことではないんだよ。ルーンはまだ小さいが、大人だったとしても弟子と呼ばれるんだ。弟子とは、知識や技《わざ》に優れた人のもとについて教わり、それを受け継ぐ人間のことだよ。そういう者がいないと、優れた知識も技も、一代かぎりで途絶《とだ》えてしまうだろう」
フィリエルはじっくり考えてみた。
「そういうのって……子どものすることじゃないの……?」
彼女は、親子のことを考えていたのだった。たとえば、伯爵様に子どもが生まれると、その子どもは大きくなれば後を継いで伯爵になると決まっているらしいではないか。
「もちろん、その人の子どもが受け継ぐこともある。けれども、博士のように特別な才能が必要なものの場合は、血のつながりに関係ないこともある」
ホーリーのだんなさんは、フィリエルの顔がくもるのを見て、少しあわててつけ加えた。
「博士の学問は、小さいうちから訓練して身につける必要があるんだよ。だから、そのための特別な人間でなければならないんだよ」
フィリエルはつま先を見つめた。
「あたしのことは? あたしのこと、訓練したことは一度もなかったよ」
ホーリーのだんなさんは、いよいよびっくりして言った。
「おまえさん、天文学者になりたいと思っていたわけじゃなかろう?」
「そうだけど……」
そうだけど、最初からフィリエルを度外視《ど がいし 》して進める前に、一度くらい試してみてもよかったのではないかと思うのだった。望むかどうかは別問題で、その感情は理屈にあわないものだったが、心をかき乱すほどに強かった。
フィリエルを見つめていたホーリーのだんなさんは、やさしい口調で言った。
「天文学者になど、なるものではないよ。そうできるものなら、なるべくね。あの塔から一歩も出ない人生を送るのは、フィリエルにはふさわしくない。フィリエルは、セラフィールドよりもっと広い世間を見てほしいんだよ」
「ルーンなら、塔にふさわしいの?」
「あの子には研究者の資質《し しつ》がある。それに、ルーンはおまえと逆に、世間から逃げこむ場所が必要だったからね」
天文台のほうを見やって、ホーリーのだんなさんは言葉を続けた。
「あの子は塔を安息所にできる。まるで、博士のためにいたような子だ。ディー博士も弟子を育てることで、あのかたがもっていなかった心のやすらぎを、少しはとりもどせるだろう。そう思うと、わしも安心だよ。みんなが幸せになれる」
「幸せ……?」
フィリエルはつぶやいた。疑問をもつほどいろいろなことがわかってはいなかったが、なんとなく言葉に違和感があったのだった。
ホーリーのだんなさんは、そのことに気づかなかった。胸をなでおろす気持ちがあまりに強かったので、フィリエルもそうだと思いこんだのだ。
「ルーンがうまくやっていけるとわかるまで、しばらく話を進めることができなかったが。どうだろう、フィリエル、ワレット村の礼拝堂へ行くことを本格的に考えてみないかい」
フィリエルはびっくりして顔を上げた。
「でも、あたし、八歳の誕生日をずっと昔にすぎちゃったよ」
「八歳のうちなら、いつ行ってもいいんだよ。星女神様にささげる子羊もろうそくも、わしらはちゃんと用意できる」
両手の指を組んで、ホーリーのだんなさんはフィリエルを見つめた。
「博士がお一人ではなくなり、天文台がこれで大丈夫とわかったなら、フィリエルがホーリーに名前を変えても支障ないように思うんだよ。今までだって、ずっといっしょに暮らしているのだし、そうしたほうが自然ではないかと」
「そうだよね……」
小声でフィリエルは言った。名前を変えようと変えまいと、今すでにホーリー家の子どもなのはたしかだ。いつもの暮らしのなかで、変わるものごとは一つもない。それなのに、なぜ、自分は重苦しい気持ちになるのだろう。何が起きたというのだろう。
「……フィリエルがいやでなければ、この話、ディー博士にきりだしてみるよ。かまわないかい?」
少女の顔色を見てとって、ホーリーのだんなさんは急にためらいがちな口調になった。フィリエルは体をゆすり、あわてて沈んだ気分を追いやった。
「うん、いいよ」
必要以上にほがらかな声で、フィリエルは答えていた。
「あたしはずっと、ワレット村の礼拝所へ行ってみたかったんだもの」
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第四章 夏の嵐
フィリエル・ディーは気分屋の女の子で、興味の対象がチョウのように移り飛ぶ傾向はあったが、こうと決めたことを、やり抜く力がないわけではなかった。数学を好きになろうと決心したら、努力を続けることもできたし、理解力もあった。
最初は限りなく退屈に思えた数式も、線図も、記号も、塔へかよってルーンのかたわらで学ぶうちに、なぞなぞの楽しさと一種の美しさがあることが次第にのみこめてきた。
数学の世界には、絶えず問いかけがあり、その答えがある。正しい答えにあいまいさは許されず、唯一無二のものでなくてはならない。数式を解いて、ディー博士に合っていると言ってもらうと、それが絶対のものであるだけに喜びが大きかった。
フィリエルが熱意をもって取り組んだので、彼女は基本的な四則《し そく》計算をやすやすとマスターし、まもなく関数《かんすう》の概念がわかるようになった。ルーンが夢中になる「証明《しょうめい》」が何を語っているかも、だいぶ理解できるようになった。
このことは、ディー博士にとっても意外だったようで、それまで何の関心も払っていなかった博士が、フィリエルはたいへんよく学ぶとほめてくれた。村の初等学校だったら、フィリエルが理解したことを理解させるために、何年間も時間をかけるのだそうだ。
けれどもフィリエルは、今回、ほめてもらってもあまり誇らしくなれなかった。ルーンがいたからだ。
ルーンの進み方といったら、「よく学ぶ」どころの水準ではなかった。のどの渇《かわ》いた人が水を欲しがるように、あくことを知らない態度ですばやく吸収し、高等数学へとはばたいていった。ユークリッドの幾何学原論を読破《どくは 》してしまい、いまや微積分《び せきぶん》学を知る勢いなのだ。
(だって、ルーンには朝から晩まで勉強する時間があるんだもの……)
追いつこうとしても追いつけない理由を、フィリエルはそのように考えてみた。フィリエルには、朝も夕方も家畜の世話があり、家の手伝いもあるから、どれほど努力しても一日じゅう数学のことを考えているわけにはいかない。天文台に住んで学問にふける人々とは、同じに時間がとれないだけだ、と。
しかし、それが本当の理由でないことは、実はフィリエルにもわかっていた。ルーンとて、日がな一日本を読んで暮らしているわけではないのだ。塔の炊事は、あいかわらずホーリーのおかみさんが行っていたが、その他の水汲みや灰かき、部屋のそうじや洗濯などは、ルーンが進んでひきうけるようになっていた。
その仕事の分量は、へたをするとフィリエルより多いくらいだったが、ルーンは言われないうちからもくもくと行い、あまり苦にする様子もなかった。おかみさんに言わせれば、だいぶポカが多かったが――ルーンはいまだに、ときおりぼんやりしてしまうことがあったのだ――天文台に彼が来てよかったと、ホーリー夫妻に思わせるものごとの一つにはなっていた。
数学に関して、彼は根本的にフィリエルとは違うということを、フィリエルもだんだん認めざるをえなかった。ルーンにとって数の計算は、呼吸するのと同じくらい日常的なふるまいなのだ。
一呼吸のあいだに、ルーンは五|桁《けた》も六桁もの計算をすることができた。それには、彼の人並みはずれた記憶力も関係していた。彼が数字に正確なのは、焼き付ける記憶が恐ろしく正確だからなのだ。
五巻本にもなる幾何学原論を、ルーンはページ数まで口にして引用することができた。こんなことは、ディー博士にもまねできなかった。頭のなかで本を開けば、ルーンには、そのページの隅の数がはっきり見えるというのだ。
「星女神の恩寵《おんちょう》だね」
ディー博士はやさしく言った。その能力自体は、よいものでも悪いものでもない。けれども、よいほうに導けばすばらしいものになると言った。
ルーンほど極端ではなかったが、博士もまた、またたくまに計算する能力を小さいうちから身につけた人なのだった。だから、彼はルーンをだれより理解することができたのだ。
そんなとき、フィリエルはなかなか居心地の悪い思いをした。だが、あきらめはせず、毎日数時間は塔にかよい、ルーンのかたわらで数学をかじることにつとめた。一つには、学びはじめた数学が本当におもしろかったのであり、少々の意地もあった。
そして何より、数学という遊びなら(フィリエルにとっては、これも一種の遊戯《ゆうぎ 》だった)、博士が書斎を下りてきて、つきあってくれるよさがあった。ディー博士は、多少上の空だったり寝不足だったりすることがあっても、数学の質問に関してなら、いつだって辛抱《しんぼう》強く答えてくれるのだ。
博士は、それほど努力をしなくても、やさしくかみ砕いた説明ができる人だった。そして、相手に過剰《かじょう》な期待をかけないので、その点、教師としてよくできていた。初心者の理解力にいらついたり、声を荒らげることは決してなく、まちがって愚かな質問をしても、「もう一度考えてごらん」と言うだけだったのだ。
本格的な夏がおとずれても、フィリエルがいつもほど荒れ野へ出かけることなく、天文台へかよっていることを知ったホーリーのおかみさんは、あまりいい顔をしなかった。
「そんなことをして、何になるんだい」
疑わしそうに、おかみさんは言った。
「博士の弟子にはりあったって、意味がないだろう。家のなかでの暇つぶしなら、せっかくの夏の日にせずに、寒くなってからおしよ」
「意味がなくないよ」
フィリエルは言い返した。
「あたし、数学が好きみたい。こんなにたくさん、博士と話をしたのはこれがはじめてだよ。ルーンが来るもっと前に気がつけばよかった」
「あんた……」
言いかけて、ホーリーのおかみさんはためらった。
「博士に何か、言われたのかい?」
「言われないもん」
フィリエルはつんとした。
「自分から数学が好きになったんだよ。あたしにも、そういうところがあるの。乳しぼりも餌やりもちゃんとやってから行くんだから、天文台へ行ったってかまわないでしょう?」
「そりゃ、止めはしないけどね」
ホーリーのおかみさんは、ため息をついた。
「……長続きするとは、思えないんだけどねえ」
おかみさんの言葉は真実だった。さとりは突然にやってきた。
ディー博士は、決していらだたない教師ではあったが、そっちのけで何かを考えこむことはよくあった。そういう日は、子どもたちの数学を見に下りてきても、心ここにあらずのまま応対し、説明は的確ながらまったく気のりのしない声をしていた。
ルーンが弟子入りしてから、以前より注意深くなっていたディー博士だが、「地上のものごとを感知しない状態」にはまりこむことが、まったくなくなったわけではなかったのだ。ルーンが天文台の雑事をひきうけるようになると、博士はさっそく不規則な生活を再発させてしまったようで、覚醒《かくせい》状態に波があった。
その日、ディー博士は忘我《ぼうが 》といってもいい状態で、注意をひくのがひどくむずかしかった。子どもたちの数学程度で、彼がとりちがえることはめったになかったが、このときはうっかりした計算ミスさえしでかした。
師匠《ししょう》のこうした性分を、ルーンは早くものみこんでしまったか、彼自身、われ関せずの性格なので気にならないかのどちらかだった。博士がどうであってもルーンの態度は変わらず、せっせと自分で問題を解き、あわてる様子もうんざりする様子も見せなかった。
フィリエルはいらいらし、帰ろうかなと思いはじめていた。博士が心ここにあらずになると、フィリエルはどうしても平静でいられなかった。博士は本当はここにいたくないのだと――いつかは行ったきり帰ってこなくなるのだと、理由もなく感じてしまうのだ。そして当惑し、怒りたくなってしまう。だが、そのとき、小声でルーンがつぶやいた。
「できた」
取り組んでいた証明が終わったようだった。彼は席を立って、あらぬ方向に見入っている博士のもとへ行き、だまって解答の紙をさしだした。
そのように静かな方法では、ディー博士の注意はめったにもどってこない。博士は紙に目をやったものの、見知らぬ文字が書かれているように、うつろな表情でながめていた。
「うん?」
それから、博士の目の色に正気がもどった。彼は黒ぶちメガネに手をやり、もう一度しげしげとルーンの証明を読みなおした。
「このような解き方は、まだ教えなかったはずだが。これは自分で考え出したものかい?」
ルーンは少し口ごもった。
「……思いつきだけど……そのほうが早道だとわかったので」
「たしかに早い。そして、いい着眼点《ちゃくがんてん》だ。証明は合っているよ」
ディー博士は、それほどほめる師匠ではなかったが、このときルーンが出した解答はよほど感銘《かんめい》を与えたらしく、言葉を続けた。
「今から解析《かいせき》の概念を自由に扱えるとは、まったくたいしたものだ。きみには、アルゴリストの素質があるかもしれないね」
「アルゴ――リスト?」
「アルゴリストというのは、数の公式に秘められた関係性を見抜き、卓越《たくえつ》した算法を編みだす数学者のことだよ。天賦《てんぷ 》の才能がなければできるものではなく、その天才で、われわれが失ったものをとりもどしてくれる人々だ」
晴れやかにほほえんで、ディー博士は言った。
「ルーンには、わたし以上に数を扱うセンスがあるようだ。アルゴリストをめざしても、あながちまちがいではないよ」
ルーンは笑顔を見せない子どもだが、このとき彼がうれしかったことは、はたから見ても明らかだった。灰色のまなざしがゆれ、まごついたように両手をシャツにこすりつけた。
そしてこのとき、フィリエルにはわかったのだった。たとえこの後、何年間フィリエルが数学に没頭して暮らしても、彼女にこのようなことはできない。その解答で、ディー博士の注意をただちに地上へ呼びもどし、今のような言葉を吐かせることはできないということが。
決して、フィリエルに数学ができないのではなかった。それどころか、ふつうよりよくできるとディー博士も認めてくれた。だが、ルーンはあまりにも特別すぎるのだった。その特別なルーンが天文台へやって来たというのに、今から数学で博士の関心をひこうと考えるのは、ホーリーのおかみさんの言うとおり、まるで意味のないことだったのだ。
勉強が終わり、博士が階上に去り、ルーンが本を片づけはじめて、フィリエルはようやく固まった状態を脱した。そして幾何学原論の第一巻を手にとると、思いきり向こうの壁に投げつけた。
他人の雲ゆきを読むことのできないルーンは、予想もしないフィリエルの行状《ぎょうじょう》に、あぜんとしてふりかえった。
「だめだよ、そんなことしちゃ……」
「あたし、もう数学なんてやらない。絶対もうやらない!」
肩をいからせてフィリエルは叫んだ。
「夏なのに、お天気がいいのに、こんなことでつぶしているなんてばかみたい。あたし、もう二度と来ないからね」
ルーンは、理解できない顔でフィリエルを見つめた。彼にわからないのは当然で、その当然さがまたくやしさをあおった。
今、フィリエルは、まったく新たな目で見慣れたはずの黒髪の子どもを見ていた。とまどいながら立っているルーンは、ホーリーのおかみさんが雑に切ってやった髪がおかしなふうに逆立っているが、もう、棒をのんだようにしゃちこばることもなく、こっけいには見えない。
すでにフィリエルのお下がりを着ることもなく、生成《きな》りのシャツに黒い半ズボン姿のルーンは、ふつうに子どもらしくみえた。この子は、セラフィールドに現れたときには、何もできなかったはずだった。フィリエルが手とり足とり、ふつうの子どものすることを教えてあげて、ここまでになったのだ。
文字を教えた最初の日から、フィリエルはこの子の優位に立っていたはずだった。姉さんぶって、かわいがってあげたはずだった。それが今日になって、突然立場が変わってしまった。本当は突然ではなかったのだが、フィリエルにはそう感じられたのだ。
まさかこの子どもに、脅威を感じるはめになるとは、今の今まで思わなかった。無能力で、生いたちの気の毒な、かわいそうな子どもだとばかり思っていたルーンに、自分の居場所をとられることになるとは思わなかった。
ルーンは首をかしげ、たずねた。
「フィリエル……怒ってる?」
それは邪気のない質問だったが、フィリエルはかっとした。
「知らない」
「あ、怒ってる」
「あんたのせいよ」
フィリエルはくるりと背を向けた。顔を見ていても、憎らしくなるだけだとさとったのだ。そして、そのまま天文台を飛び出した。自分の気持ちに混乱して、少々パニックにおちいってもいた。
今までにも、ちょっとしたことでルーンを憎らしく思ったことはあった。だが、すぐに忘れる、とるにたらない腹立ちだった。けれども、今回の感情はそういうかたちで片づかないと、フィリエルもうすうす勘づいていた。なぜならフィリエルには、一つわかったことがあったのだ。
(今なら、わかる……どうしてホーリーのだんなさんが、ホーリー家の子にならないかと言ったのか。今になって、なぜ言ったのか。それは、博士がルーンに満足して、あたしをいらなくなったからだ。あたしのような娘はもういらないと、博士が言うにちがいないからだ……)
夕飯のしたくがととのっても、フィリエルがいっこうに帰ってこないので、ホーリーのおかみさんは裏の戸口を進み出た。
どこかで遊びほうけて、時間を忘れているに違いないと思ったが、それほど責める気にはならなかった。日のたいへん長い今の季節は、夕飯の後二、三時間も外が明るいままなのだ。
夕飯前に餌やりをすませる約束が破られても、この時期だけは大目に見てやっていた。貴重な夏の一日を、家畜であっても満喫《まんきつ》したがっているし、子どももそうに決まっているからだ。
「フィリエール、ごはんだよ」
二、三度呼んでみて、聞こえないようなら、先に食べてしまおうとタビサ・ホーリーは考えた。だから、ヤギ小屋のわきにうずくまっているフィリエルが目に入ったときには、驚いてしまった。
「聞こえたなら、返事をおしよ。どうしたんだい、そんなところで」
ひざをかかえこむようにして、むっつりと押し黙った女の子に、おかみさんは近づいた。そばでよく見ると、顔が汚れて赤くまだらになっており、どうやら長いあいだ泣いていたようだった。
「何かあったようだね。ルーンとけんかでもしたのかい?」
やさしくたずねると、フィリエルはいきなりわめいた。
「あんな子、大きらい!」
そして、再び泣き出した。
「あんな子、あんな子……セラフィールドに来なければよかったのに」
「やれやれ」
ホーリーのおかみさんはため息をつき、フィリエルの前にかがみこんだ。
「あんたが、あんまりしげしげ塔へ行くものだから、いつかこうなる気がしていたよ。しばらく塔から離れていなさい。ルーンと遊ぶなとまでは言わないが、天文台ですることに、あんたが首をつっこむのはおやめ」
「あたし、もうルーンと遊ばない」
フィリエルは言い切り、そのことでまた悲しくなって、ホーリーのおかみさんの首に抱きついて泣いた。おかみさんは、フィリエルの泣き声が少ししずまるまで、しばらく背中をなでてやった。
「ルーンが天文台で学んでいるのは、将来研究に役立つ人間になるためなんだよ。そのために、あの子はここで迎えられた。同じ子どもでも、あんたとルー坊の立場はまったく違うということが、どうやらわかっていなかったようだね」
「わからないもん」
「こういうとき、フィリエルは赤ちゃんにもどるんだね」
おかみさんは言ったが、太い腕でしっかりだきしめながらの言葉だったので、非難には聞こえなかった。
「絶対になれないものになりたいと願うことを、星女神様はいましめておられるだろう。あんたがしているのは、まさにそれだよ。ルーンが現れたせいで、ちょっぴり、ないものねだりがしたくなったんだよ。けれど、落ち着いて考えてごらん。あんたは研究者になりたかったかい?」
フィリエルは答えなかった。今は、ルーンがいなかったころなど考えることもできず、怒りや悲しみが渦をまいて、我が身をふりかえるどころではなかった。胸にあるのは、博士がルーンに心からほほえみかけたこと、それだけだった。
「あんたが礼拝堂へ行って、女神様の御前に立つのなら……」
ホーリーのおかみさんは、ふと言葉をとぎらせたが、思いなおして続けた。
「……真実なりたいものが言えなくてはならない。星女神様にお願いするときに、心に迷いがあってはならないんだよ」
(わからない……)
混乱してフィリエルは思った。フィリエルのなりたかったものは、たぶんいつのときも、ルーンの立場だった。ディー博士が期待をよせる人物だった。それに気づきはしたけれど、このことを表明するとしたら、ホーリー夫妻を悲しませてしまうということも、強く感じとっていた。
フィリエルが泣きやんだのを知り、ホーリーのおかみさんは腕を放すと、自分の前かけで少女のぬれた顔をぬぐってやった。
「さあ、ボゥがしびれをきらせている。今日のごはんは、あんたの好きな肉ダンゴだよ」
フィリエルはおとなしく彼女に続いたが、自分の本当の気持ちは、おかみさんにもだんなさんにも言えないことに気づいてしまい、さらに暗澹《あんたん》とした気持ちにおそわれたのだった。
晴れた日の多い七月だった。ホーリーのおかみさんは、洗濯どきにこぼすようになった。岩の下からあふれる泉に涸れる心配はなかったが、量が少なくなっていたのだ。
フィリエルが、散歩の途中であいさつする沼地のガマガエルは、不機嫌そうに居場所を水辺に移していた。沼が少しずつ後退しているのだった。
けれども、毎日がまばゆいようなお天気で、それが悪いことなどとはとても思えなかった。雲一つなく晴れた朝は、高地の霧をあっというまに追い払い、遠い海の一筋の紺青《こんじょう》を見わたせるまでに、のびやかに景色を広げる。人々にもまして晴天を愛するヒバリが、空の高みへのぼって歓喜の声でさえずっている。
ミツバチたちも、もちろん晴れの日が大好きだった。彼らはこの夏、あまりに精を出して働いたので、三つの巣箱全部に分封がおこった。ホーリーのだんなさんは、そのうち二つまでは巣箱に収めることに成功したが、あとの一つは、人間のあずかり知らぬ場所へ王国を移してしまった。
これほど輝かしい夏にふさいでいるのは、フィリエルにはまったく不本意だった。これまでの生涯で、晴れた夏の日を楽しめないほどの難問は、一度ももったことがなかったのだ。けれども、今のフィリエルは、朝目ざめても心に重しがあるようで、いつものように夏と一体になれなかった。
こんな自分はきらいだったが、脱する方法もわからなかった。曲がり角をまちがえて、迷路にまよいこんだようだった。いつのまにか歩く場所を見失って、何をどうしたいかもわからない。自分が手におえなくなっていた。
こういうときには、いやになるほど何ごともうまく回らなかった。鍋をひっくり返しておかみさんに叱られたし、エイメ夫人は頑固で意地悪になった。ロブにはけつまずくし、洗ったばかりの食器が灰の上に落っこちた。
(これもみんな、ルーンのせいよ……)
むしゃくしゃしてフィリエルは考えた。塔へは三日行っていなかった。行かないと決めたのはフィリエルだったのに、ルーンに追い払われたような気分になっていた。
この日、久しぶりに家の刃物類を研《と》ぐことにしたホーリーのおかみさんは、フィリエルのいつにも増したそこつぶりを見て、近寄らせないほうがいいと考えた。
「手伝いはいいから、おもてへ行っておいで。肉切りナイフにさわるんじゃないよ。指くらい、かんたんに落ちるんだからね」
「そんなこと、知ってる」
「知っているなら、そこつ者はそばにいてほしくないのがわかるだろう。危なくてしかたない」
フィリエルはふくれっ面で外に出た。おかみさんに無能あつかいをされたのがくやしかったが、とにかく、家にいるとあらゆることがうまくいかないので、荒れ野へ出かけることにした。花の咲く野原なら、少しは気分がなおるかもしれないと考えたのだ。
ところが、裏庭を抜けて坂を下りると、いらいらの主原因であるルーンが立っていた。
ルーンはどうやら、フィリエルが来るのを待っていたようだった。少女の姿を見ると、立っていた岩の上からぴょんと降りて言った。
「散歩、行こう」
「あたしの散歩道よ」
かみつくようにフィリエルは言い返した。
「ついてこないでよ。あたしが見つけたコースを、勝手に歩かないで」
ルーンはきょとんとして、ただ見返した。
「わかった? 行きたかったら自分で別なところへ行ったらいいじゃないの。あたしのコースに入ったらひどいからね」
少し考えて、ルーンは不思議そうに言った。
「フィリエル、博士が、フィリエルは塔へ来なくなったって言ったよ」
博士のことをもちだされて、フィリエルはさらにむっとした。
「もう、数学はやらないって言ったでしょう。あたしの言ったこと、聞いてないの?」
「フィリエル、数学も、散歩も、やらないのだったら……」
睫毛をまたたかせて、ルーンは言った。
「……顔を見るとき、なくなるよ」
「よくわかっているじゃないの。あんたの顔を見たくないのよ」
言葉を投げつけると、フィリエルは立ちつくしているルーンに背を向けて、荒れ野を歩き出した。しばらくしてふりかえると、その場所にたたずんだままのルーンが小さく見えた。
(まったく……)
これでは、少しも散歩を楽しめなかった。フィリエルは結局、一度も途中で足を止めることなく、生き物にあいさつすることも、新しく咲いた花を目にすることもなく、ただただ一周してもどってきた。
ホーリー家の坂下には、いぜんとしてルーンが立っていた。どういうつもりだろうと、フィリエルは憤然と考えた。彼がいるだけで心の負担になるということが、わからないのだろうか。
近づいたフィリエルは、鋭い口調で言った。
「なんでこんなところにいるのよ。塔へ帰って、数学をしなさいよ。解析だかなんだかを、死ぬまでやっていればいいでしょう」
ところが、ルーンにはこたえた様子がなかった。こんなとき、ルーンの無表情は鉄面皮《てつめんぴ 》のように見えた。一時間もおきざりにされたくせに、口を開いた態度は、フィリエルが通告した内容も時間の経過も、まるで気にとめないようだったのだ。
「フィリエル、博士が今度、天体のことを教えてくれるよ」
「天体?」
「星のこと――恒星《こうせい》、惑星《わくせい》、彗星《すいせい》、星雲《せいうん》」
どうやら、これをフィリエルに言いたくてしかたなかったようだ。ルーンの目が、急に生き生きと輝きはじめた。
「博士は天体の研究をする。数学は、天体の動きを計算する手段だ。ぼく、今度、屋上で天体観測の手伝いをすることになった。研究助手っていうんだって」
天文台の屋上は、フィリエルが絶対に行ってはならない場所だった。こわれやすい計器やら、さわってはいけない分銅やらがたくさんあるからで、子どもが立ち入ってはいけない場所だと言いきかされていた。
「ふーん、そう」
平静を装ったものの、胸のなかはまったく逆だった。フィリエルが能のない子どもで、ルーンは特別だということが、これで決定的になったように思われた。
「数学をしなくても、塔へ来られるよ。ぼくが読んでる本、今は天体の本だよ」
フィリエルの努力も知らず、ルーンは期待をこめて言った。彼は本当に、他人の雲ゆきが読めない子どもだった。これがフィリエルだったら、急いで相手から遠ざかっていただろう。フィリエルにとってはうすらまぬけな態度が、よけいに彼女の屈折した怒りを刺激した。
「いいかげんにしてよ。二度と塔から出てこなくていいから、あたしにつきまとわないで」
フィリエルが叫ぶと、ルーンは目を見開いたが、それでもまだのみこんでいなかった。
「でも、フィリエル、あのね……」
一刻も早くルーンに立ち去ってほしいと願うフィリエルは、底意地の悪い方法を思いついた。ちょうどそのとき、土手の草むらを嗅ぎまわっている牧羊犬たちが目に入ったのだ。
「ロブ、ロイ」
フィリエルが緊急合図の口笛を鳴らすと、犬たちは忠実に走り寄ってきた。ルーンと違って彼らは、フィリエルが本気で怒り、憎しみを感じていることを敏感に察知していた。そこでフィリエルの足もとに集結し、彼女に脅威を与えるものは、自分たちも許さないぞという態度をあらわにした。
「あたしが命じれば、この子たちはあんたに噛みつくかもよ。けしかけられたくなかったら、早く消えて。もう、ここへ来ないで」
フィリエルの言葉に、ルーンは顔色を変え、後ずさった。怯えて退散しようとする相手を見ると、若犬のロイは得意でたまらなくなり、吠えながらその後を追った。走るルーンの速いことといったら、飛んでいくようだった。
(あたしって、本当にいやな子だ……)
残酷なことをしたことはわかっていた。ルーンはさぞ傷ついただろう。それなのに、フィリエルはこれをいい気味だと思ってしまうのだった。もっと残酷なことがしてみたいとさえ思えた。
やり場のない苦々しさをかかえて、フィリエルは考えた。
(ルーンさえいなければ、あたしもこんなにならずにすんだのに……)
ベッドからはね起きたフィリエルは、汗をびっしょりかいていることに気がついた。窓の向こうはかすかに明るかったが、鶏も鳴かないところをみると、まだそうとう早い朝だった。
(夢、だった……)
全身の力が抜けるようだった。今、フィリエルは、ルーンを刺し殺したのだ。おかみさんの先の尖った肉切りナイフを握って、首筋の後ろを正確にねらって……ナイフをふりおろしたその手ごたえが、目が覚めてもまざまざと両手に残っているように感じられた。
どうしてそのようにするのか、フィリエルは知っていた。ホーリーのだんなさんが羊をほふるときのやり方だったからだ。そんなふうに刺せば、ただのひと突きで、羊は血を流して動かなくなる。よけいに苦しませることなく、死なせることができるのだ。
汗ばんだ手のひらを固く握りしめ、また開いてみる。夢を思い返すと、胸が早鐘を打つのがわかった。ルーンが目の前から消え去ればいいと、願ったのはたしかだった。けれども今の今まで、自分自身で何かしようとは思いつかなかった。それなのに、夢のなかのフィリエルは、その方法をちゃんと知っていたのだ。
(あたしって、なんてまぬけだったんだろう……ルーンがいなくなればいいと、ただただ願ってもむだなのに。大人はもうだれも、そんなことを考えていやしない。だからだれも、あの子をどこかへやってくれなどしない。それならば、あたし一人がそう思うのならば、あたしが一人で、なんとかしなければならないのだ……)
驚嘆《きょうたん》するような思いで、フィリエルは考えた。
(こんなにかんたんなことだったなんて。刃物をひとふりすれば、ルーンは完全にどこにもいなくなっちゃう。ここからあっちへ行っただけではなく、きれいにどこからも消えてしまう。こんな手段があったなんて……)
フィリエルは馬車も扱えないし、よその場所はどこも知らないから、自分でルーンを遠くへやることはできない。けれども、そのフィリエルにもできることがあったのだ。やろうと思えば、ルーンを目の前から消すことだってできるのだ。
夢のなかでルーンを殺せるなら、現実にルーンを殺すことも、わずかな一歩となったのではないだろうか。フィリエルはその考えに飛びつき、さらに押し進めた。そう、夢にみたなら、もうすでに手を染めてしまったも同然ではないか。
前の晩、フィリエルは、ものごとがすべてつまらなく思え、荒れ野にも塔にもホーリー家にも興味をもてなくなったことに悲観して、涙をこぼしながら眠りについたのだった。けれども夢からさめると、手足が冷たくなるほど興奮している自分がいた。胸が高鳴り、全身に活力がもどってきたように感じられた。
(あたしは、手をこまねいてなどいない。自分にできることをする。ルーンがいなくなれば……あたしがこの手で消してしまえば、セラフィールドはまたもとどおりのセラフィールドになるのだ。そして、あたしももう、あれこれ悩まなくてすむのだ……)
それは、すばらしい解決法に思えた。けれども、殺人は目がくらむような恐ろしいものごとだ。これほどのことに直面できるようになったという自覚が、このところ生彩《せいさい》のなかった、フィリエルの誇りをくすぐった。
(ううん、やろうと思えばできる。だれにも言わずに、自分の手で解決することができる。あたしが本気で怒って、本気で憎めば、ルーンを殺すことだって、きっとできるにちがいない……)
「フィリエル、どこか具合が悪いのかい?」
朝食のおかゆをよそいながら、ホーリーのおかみさんがたずねた。
「ううん。どうして?」
「なんだか、ぼんやりしているようだからさ」
フィリエルは夢をみてから眠れなかったので、朝ごはんに下りてきたときには、一日が半分もすぎたような気がしていたのだった。いつものような調子がでないというものだ。
「そんなことないよ。おなかすいた」
無理にもいきおいよくおかゆをたいらげてみせると、おかみさんも安心したようだった。
「そうそう、フィリエル。言っておくけれど、今日はお風呂をわかすからね。この前みたいに逃げるんじゃないよ」
「ええー」
フィリエルは賛成できない声を出したが、ホーリーのおかみさんは決然と続けた。
「きれいにならなくちゃ、だめ。明日は月のかたちがいいから、三人そろってワレット村へ出かけようと、ボゥが言っているんだよ」
ぎょっとして、フィリエルはおかみさんを見つめた。
「それじゃ……礼拝堂へ行くの?」
「そうだよ。あんた、前から行きたがっていたろう。みんなで星女神様にお参りして、ろうそくをともしてこよう。ただし、お風呂に入ったならばね。礼拝堂は、むさくるしいかっこうで出入りするところではないんだよ」
「うん……でも、あの……」
「どうかしたかい?」
「ううん、なんでもない」
フィリエルは首をふった。ホーリー家の子どもになりたくないとは言えなかった。第一、なりたくないと思っているわけではなかった。けれども、フィリエルは突然に気づいたのだった――今の自分が、星女神の御前に立てるものではないことを。
(ホーリーのおかみさんやだんなさんには隠すことができる。でも、星女神様に隠すことはきっとできない。どうしよう……見あらわされてしまう。あたしが殺人を、女神様が罪悪とされるものごとを、平気で行う子どもだということが……)
礼拝堂はとてもおごそかなお堂で、司祭様はとても高潔な人だと、話に聞くばかりのフィリエルには、そこが裁《さば》きの場所のように感じられた。星女神のお姿の前に心の汚れた者が立つと、ろうそくの火が消えるかどうかして、たちまちにそれがわかり、司祭がとどろく声で非を告げるような気がした。
(こんな子どもを、ホーリー家の子どもにしようとしたのがまちがいだったと、おかみさんもだんなさんも思うことだろう。恥に思うだろう。うとましく思うだろう……)
博士に見捨てられ、次にはホーリー夫妻にも見捨てられるのだと思うと、フィリエルはパニックに襲われ、どこかの穴に逃げこみたくなった。けれどもホーリーのおかみさんは、久々の外出にうきうきして少しも気づかず、明日着ていくものの話などをしていた。フィリエルがこれほどぶっそうなことを考えているとはつゆ知らないのだから、当然ではあった。
その日、フィリエルは日が暮れるまで、何とかどこかに活路を見出せないかと、必死になって考え続けた。だが、これからよい子になろう、正直になろうと思えば思うほど、ルーンを憎み、なきものにしようと願った自分をもみ消すことができなかった。それはすでに、真実となってしまったことであり、握りつぶして目をそむける態度をとれば、今以上に卑怯《ひきょう》なふるまいになってしまうのだ。
(しかたない……あたしはもう、汚れてしまった娘なのだ……)
夕方になり、大だらいにお湯がそそぎこまれて、そのお湯につけこまれるはめになったころ、フィリエルはついに結論に達した。どんなお風呂も、フィリエルを心まで洗い清めることはできない。彼女がみずからそれを選んだのであり、今からルーンが消えても消えなくても、フィリエルはセラフィールドに居続けることができないのだ、と。
(しかたない……ルーンを殺そう)
お湯のなかにゆらぐ自分の体を見つめながら、フィリエルは静かに考えた。明日、彼女は礼拝堂へ行くことができないのだから、ルーンを殺すしかない。そうなった原因をまっとうさせて、どこか一つはものごとを完遂させなければならないのだ。その行為が、すべてをこなごなにするものであっても。
フィリエルはその夜眠らなかった。眠れなかったといったほうがよかった。幸い、明け方は早々と訪れるので、あまり待ちくたびれずにすんだ。
薄明かりのなかで、フィリエルは服を着こみ、足音をしのばせて階下におりたった。ホーリー夫妻は就寝《しゅうしん》してまだ間がないので、いびきをかいてよく眠っている。フィリエルは注意して戸棚を開け、おかみさんの肉切りナイフを取り出した。
ナイフの刃は革のさやに収まっていたので、使いこんだ木の柄を握っても、べつに怖いものではなかった。なんとなく現実感がないまま、自分の手さげに押しこむ。フィリエルの注意はむしろ、戸棚の上に置いてあるパンにひきつけられた。
きのう焼いたばかりのパンは、香ばしい匂いをたててそこにのっていた。フィリエルは少し思案してから、大きいかたまりをちぎりとってスカーフにくるみ、これも手さげに押しこんだ。人を殺したら、二度とこの家へはもどれないから、旅に出ようと漠然《ばくぜん》と考えていたのだ。そして、旅には糧食がつきものだった。
最後に、フィリエルはテーブルの上にホーリー夫妻への手紙を置いた。まったくの説明抜きで出ていっては、二人に悪いと思ったのだ。紙にはフィリエルの丸っこい字で、『あたしは、礼拝堂へ行くことができません。旅にでます。ごめんなさい、二人とも愛してます。フィリエル』と記されていた。
外へ出ると、空はむらさきで、東のほうに金の輝きがあり、心にしみるような色合いだった。急に泣きたい気持ちになったが、フィリエルはくちびるをかみしめ、朝つゆの匂いのする空気を大きく吸いこむと、岩山の天文台をめざして歩きだした。
あたりは透《す》きとおるように明るくなってきたが、まだ日の出前だった。消え残った星がいくつか空に見えていた。天文台の塔は、赤い曙光《しょこう》を背後に暗くそびえたっている。
フィリエルは、なんとなく中へ入っていけなくなって、玄関の戸口からルーンを呼んだ。だが、ルーンは近くにいたようで、すぐに聞きつけて階段口に顔を出した。
「なに……?」
ルーンは一度階段の途中でためらったが、すぐにそのまま下りてきた。時ならぬ時間に彼女が来たことにびっくりしているが、それ以外は何の警戒心も抱かないようだった。
フィリエルはルーンの顔を見つめ、一瞬言葉が出てこなかったが、なんとかふつうに言うことができた。
「ルーン……この前のこと、ごめんね。あたしといっしょに荒れ野へ行こう」
「今から?」
ルーンは目を大きくした。
「ぼくたち――ぼくと博士は、これから寝にいくところだよ」
「あたしもゆうべは寝てないの」
フィリエルはくいさがった。
「ルーン、荒れ野へ行こう。あたしはこれから、今まで一度も行ったことがない散歩道を見つけるつもりなの。だから、あんたも来てちょうだいよ。新しい場所へ、いっしょに行こう」
ルーンが思案したのは、わずかな時間だった。うなずいて彼は言った。
「うん。ちょっと待って」
フィリエルが止める隙を与えずに、ルーンは階段を駆け上っていった。フィリエルは思わず戦慄《せんりつ》した。このことが博士に知れたなら、ディー博士は疑問に思うに違いない。フィリエルを問いただすに違いない……
ところがルーンは、ただメガネを装着《そうちゃく》してフィリエルのもとへもどってきた。いつもの外出の用意をしただけだった。
「行こう」
無邪気な態度でルーンは言った。フィリエルは安堵《あんど 》してもよかったのだが、思わず気が抜けてしまってうなずいた。
「うん……行こう」
荒れ野にかかっていた薄いもやは、あっというまに吹き払われた。風の強い日になりそうだった。ときおり、何かが駆け抜けるような疾風《しっぷう》が草をなびかせていく。
フィリエルは、悲壮《ひ そう》な覚悟で歩き続けたわけではなかった。それどころか、時間がたつにつれて、愉快な気分になるあまり、何のために出てきたか忘れそうになるくらいだった。
ルーンにやさしく話しかけたのは、荒れ野へつれだす演技だったはずなのだが、なぜか、はまってしまったのはフィリエル自身だった。屈託《くったく》を忘れて仲よしのつもりになると、久々に楽しく、歌がでるほど陽気になれた。
ルーンは今でも口数の多い子どもではなかったが、彼も喜んでいるのはたしかだった。子どもだけで未知の場所を探検しに行くことは、ぞくぞくするような興奮をもたらした。自分たちが強く勇敢で、何でもできるような気がしてくる。
まっすぐどこまでも、たゆみなく歩いていくと、フィリエルが、馬車にでも乗らないかぎり不動のものだと思っていた遠い山の稜線も、次第に形を変えていった。ふだんなら、覚えのない地形に出ると極度に注意深くなっていたのだが、抑制《よくせい》がはずれた今は、気にせずに踏みこえていくことがやたらに痛快だった。
ときおり、二度と家へもどれないことを思い出してお腹の底がひやりとしたが、そのこともかえって、前へ前へと進む原動力になった。かつて覚えがないほどの疲れしらずの勢いで、フィリエルは丘を越え、沼地を越えて歩いていった。
「まだ、先まで行く?」
太陽が中天高く昇り、かなり暑くなってから、ルーンがたびたびたずねるようになった。へばってきたせいなのだが、彼は、お腹がすいたと口にしないところがあった。
「パンをもっているから平気、平気。もう少し行こうよ」
ついにここまでと、思い定めることが怖く、フィィリエルはがんばった。けれども、ルーンのお腹もフィリエルのお腹もぐうぐう鳴りだして、先のばしにできなくなった。
澄んだ小川を見つけ、早生りの実をつけたコケモモを見つけた。すっぱい実をいくつか味わうと、とにかく食欲がわいて、川べりに座ってパンを食べはじめた二人は、ひと山あったパンをきれいに平らげてしまった。
「遠くまできたね」
ルーンは感慨をこめて言った。
「うん」
「だれもいなかったね」
「うん」
「帰り道、わかる?」
「平気」
フィリエルは答え、小川の流れにそよぐ水草の様子をしばらく見つめた。
「……帰らないから」
ルーンはきょとんとして、フィリエルを見やった。
フィリエルはゆっくり言った。
「この小川、きっとワレット渓谷へ流れこんでいる小川だよ。あたしはこのまま、水の流れるほうへ歩いていく。旅に出るんだから」
ルーンは信じられないように見つめていたが、息を吸いこんで言った。
「ぼく、行かない」
「行かなくていいよ。あんたが死ぬから、あたしは旅に出るんだもの」
フィリエルは手さげを引き寄せた。パンのかたまりが全部なくなってしまった今、そこに入っているのは、革のさやに入ったナイフばかりだった。
ナイフを取りだしたフィリエルは、うやうやしい手つきで革のさやをはずし、初めて見るような気持ちで、砥石《と いし》で何度も研《と》がれた鈍く光るナイフの刃を見つめた。
「だって、しかたないじゃない。あんたを殺したら、もとのまま家にいることはできないもの。そして、あたしは、もう夢であんたを殺しちゃったんだもの。このナイフで」
夢で見たように両手で握りしめ、空でふりおろしてみる。しかし、まざまざと覚えていた感触が今では思い出せず、やけに持ち重りがして、どこか勝手がちがっていた。子細にはかまわないことにして、フィリエルは続けた。
「だから、もう、本当に殺すしかないの。ここなら、ホーリーのだんなさんも見つけにこない。きっと、どこかへ行っちゃったと思うだけだよ」
ルーンは、ナイフをふり回しているフィリエルを黙って見つめていた。あまりのことに体がすくみ、ぼうぜんとしていると思いきや、いやに冷静な声で言った。
「フィリエル。そういうの、黙ってなきゃ」
フィリエルは少しびっくりした。
「そういうのって?」
ルーンの口ぶりは、まるで忠告するようだった。
「人を殺すときには、黙ってやらなきゃ。教えたら相手は逃げるよ」
「夢では逃げなかったじゃない」
「逃げるよ。フィリエルに殺されるの、いやだもの」
「逃げてもむだよ。あたしのほうが、ずっとすばしっこいんだから」
「ためしてみる?」
ルーンは言ったが、まだ動かず、フィリエルも動きはしなかった。見つめあったまま、フィリエルはその情況を思い浮かべ、走りながらやみくもに切りつけるのは、ずいぶん気色悪い行為だと考えた。そういう気色の悪いことを、ホーリーのだんなさんはやらない。だれもやらない。
「夢のときみたいに、おとなしく首を出してよ。そうしたらひと刺しですむし、あんたはナイフを見ないですむんだから」
「やだ」
「いうことききなさいよ」
フィリエルは思わずどなった。
「あたしだって、いやよ。こんなのいやに決まっているじゃない。あたしは家に帰りたい、今までどおりに暮らしたい。あんたさえセラフィールドへ来なかったら、こんなことにはならなかったのよ」
ルーンは、少し目を見張っただけの無表情だった。口調も落ち着いていた。
「ぼくがいなければ、フィリエルはいいの?」
「あんたは、あたしの居場所をとったじゃないの」
他人ごとのように冷静な態度を見て、じだんだをふんでフィリエルは叫んだ。
「あんたは塔に住んで、あたしから博士をとったじゃないの。あんたがそんなことをするから、あたしはホーリー家の子どもにもなれなくなったのよ。もう、星女神様の前に行くこともできない。みんなみんな、あんたのせいなんだから」
涙がぽろぽろとこぼれて、ルーンの無表情な顔さえよく見えなくなった。フィリエルはナイフを握った手で顔をぬぐったが、ぬぐえば涙はもっとたくさんあふれてきて、フィリエルはとうとうしゃくりあげた。
「……あたしには、もう、これしかすることがないんだから。だから……おとなしく殺されなさいよ……」
ルーンは、そんなフィリエルをしばらく見つめていた。
「こういうの、へたくそだよ」
少し考えて、さらに続けた。
「打ち明けるのがばかげているし、相手がまだ動けるのに、首をねらうのがへたくそだよ。ここをねらわなくては」
ルーンが手でさわって見せたのは、自分の左胸だった。彼はていねいにも後ろを向いて、背中から刺す場合はこのあたりと示して見せた。
「黙って近づけば、ずいぶん簡単だったのに。人を殺すときには、刃物を見せたらだめなのに。それから、握り方がまちがっている。刃を水平にもたなければ。そうすれば、肋骨《ろっこつ》に当たらずに内臓までとどくから」
フィリエルはあっけにとられて、泣くのも忘れてしまった。ルーンの異様に詳しい解説ぶりに驚かされたのだが、さらに驚きだったのは、ルーンの口ぶりだった。そこに怒りが感じられたのだ。
ルーンは笑わないのと同じくらい、怒らない子どもだった。フィリエルが意地悪をしても、さんざんからかっても、怒ったためしは一度としてなかった。だからフィリエルは、この場に及んでさえ、彼が怒りだすとは思ってもみなかったのだ。
「あんた、もしかして……怒ってる?」
「当たり前だよ。フィリエルはばかだ」
決定的な言葉を吐いて、ルーンは続けた。
「人が殺せると思うなんて、ばかだ。こんなだったら、かえり討《う》ちされてしまうよ。人を殺すところ、一度も見たことがないくせに。どういうものかわかってもいないくせに」
「あたしにばかと言っていいのは、おかみさんだけだよ。あんたに言われることない」
かっとなってフィリエルはどなり返した。
「あたしは、セラフィールドの他はどこも知らないけれど、そのぶん、ずっとずっとずっとセラフィールドを知ってるもん。ここで生まれたのは、あたし一人なんだから。あんたみたいに、ちょっと来たのとわけが違うんだから」
ルーンがたじろいだので、フィリエルは勢いづいてさらに叫んだ。
「だからあたしの気持ち、あんたにわかんないのよ。セラフィールドにいられなくなった気持ちがどんなか、わからないのよ。あんたなんか、ぜんぜんよそ者じゃない。ばかにしないでよ、人殺しの方法を知らなくたって、ここではかまわないの!」
「かまう」
ぼそりとルーンは言った。
「フィリエルは旅に出たらだめだ」
「なんでも知っているからって、いばらないでよ。旅芸人の子どもなんて、まっとうじゃないくせに」
言ってしまってから、フィリエルは禁忌《きんき 》の領域にふみこんだことに気がついた。それを聞くと、メガネの奥のルーンの瞳がくもった。フィリエルも思わずひるんだが、今となっては後にひけなかった。
「本当のことじゃないの。文句があったら言いなさいよ」
今までのルーンなら、このへんで心を閉ざしているはずだった。だが、今回は逃げなかった。まだ、フィリエルのように全身で怒りを表す手だてを知らなかったが、ふみとどまって向かいあっていた。
「フィリエルはばかだ」
結局、うまく言葉を見つけることができずに、ルーンはくり返した。
「セラフィールドを出ていくなんて、ばかだ。旅なんてできっこない。どういうものかわかっていないくせに」
「だったら、あんたが出ていきなさいよ。あんたが来たからこういうことになったのよ」
「やだ」
ルーンは頑固に口をむすんだ。
「セラフィールドにいる。ルーンは出ていかないし、フィリエルは旅に出たらだめだ。ルーンもフィリエルもセラフィールドにいなければだめだ」
「だから、あんたね……」
フィリエルはげんなりしてきた。さっきからずっと言っているのに、叫んでまでいるのに、ルーンにはまだのみこめていないのだ。
「あたしの気持ち、少しはわかろうとしなさいよ。ちゃんと聞いていなかったの?」
「フィリエルの気持ちは変だ」
ルーンはきっぱり言い切った。
「どこが変よ」
「最初と最後が矛盾《むじゅん》しているから変だ。証明にならない」
フィリエルは顔をしかめた。
「いったい何のことよ」
「フィリエルはルーンに、『死ななくてよかったね』と言った」
「そんなこと、言わない」
フィリエルはつっぱねた。実際、言ったことなど少しも覚えていなかった。
「絶対言った」
ルーンは強気の声を出した。
「ルーンがセラフィールドに来て七日めに言った。フィリエルは、塔へ来て最初に『あたしも、おかゆ食べたい』って言った。それから『ううん、食べた。でも、おかみさんのおかゆじゃないもの』って言った。それから、『死ななくてよかったね』って言った」
あきれたことにルーンは、フィリエルの口調を抑揚《よくよう》までそっくりにまねた。ルーン自身の口ぶりは平坦《へいたん》なので、はっきり言って不気味に聞こえた。北国に極彩色《ごくさいしき》の鳥が飛んだように場違いだ。思わずフィリエルは後ずさり、めんくらって相手を見つめた。
「あんた、それ全部覚えているの?」
ルーンはしかつめらしくうなずいた。
「全部覚えている。ルーンがセラフィールドへ来て、フィリエルが最初に言ったのは、『ねえ、あたし、フィリエルっていうの。あんたの名前は?』『あたしの誕生日は十月十二日よ。あんたは?』それから、ルーンの頭をぶった」
フィリエルはあきれて声を高くした。
「あのときあんたは、あたしを見なかったし、数字しか言わなかったくせに」
「でも、覚えている。次の日、塔へ来て最初に言ったのは『この子、まだ字が読めないの?』それから、『その下の囲んであるところは、プラムのシロップ漬けの作り方だよ。果実1に対して砂糖1、もしくは適量の蜂蜜、少量のバラ水……』それから、『あんた、言葉をしゃべるじゃないの』――」
フィリエルがぼうぜんとしていたために、ルーンの証言はその調子で延々と続いた。ルーンはどうやら、フィリエルが彼の前で発したどんな言葉も正確に覚えこんでいるようだった。
(変な子……)
および腰になってフィリエルは思った。想像を絶する頭の構造をしている。こんなふうに、耳にした言葉のすべてをたくわえこんでいたら、そのうち頭がどうかなるのではないだろうか。
「あのねえ、あんたは、だれの言葉でもそんなに覚えこんでいるの? 生まれたときから全部?」
ついにフィリエルがさえぎると、そのときセラフィールドに来て十一日めにフィリエルが言った言葉をくり返していたルーンは、ばかにしたような目で見た。
「できるわけないよ。そんなこと」
「だったら、どうしてそんなに覚えているのよ」
「フィリエルがセラフィールドだからだよ」
少し間があったが、フィリエルがその意味を問いただす前にルーンは続けた。
「博士はぼくに、セラフィールドにいていいと言った。ぼくは、ああよかったと思った。だからルーンは、博士のところで勉強して、博士のような天文学者になる。フィリエルのいるセラフィールドがいいんだ。だから、旅に出てはだめだ」
フィリエルは息を止めた。ようやくフィリエルにも、ルーンの言いたいことがのみこめたのだ。
(この子……セラフィールドにとどまりたいのはあたしがいるからだと言っているのだ。こんなに意地悪ばかりしているのに。たった今殺そうとまでしているのに。この子は、あたしがルーンのセラフィールドだと言うのだ……)
ルーンはよそごとのような口調ながらも、自分の意見を明白にのべていた。
「殺さなければ、出ていかなくてもよくなるよ。ぼくはフィリエルがいるのがいい。ルーンもフィリエルも、セラフィールドにいるのがいい」
夢の中のルーンは、このような意表をつく反撃に出なかったはずだった。夢の中のルーンは、長い話などしなかった。黒髪の子どもは、いつのまに、こんなによくしゃべるようになったのだろう。いつのまに、フィリエルに言葉で気持ちを伝えるようになったのだろう。
フィリエルがセラフィールドにいる価値は、ルーンによって奪われたと思っていた。だから、彼のことが許せなかった。それなのに、ルーンがセラフィールドにいたい理由は、フィリエルがいるからなのだ。
思考の筋道《すじみち》がこんぐらがって、フィリエルは頭をかかえた。だが、もう、ルーンを殺せないのはあきらかだった。殺人をおかすには、一方的に強く怒り、強く憎んでいなければならないのだ。
ルーンは首をかたむけてフィリエルを見つめていたが、たずねるように言った。
「……まだ帰れるよ? まだ、何も起きてない。ぼくも死んでいない」
とうとう敗北を認めて、フィリエルは力なく肉切りナイフを下ろした。
「なんだか……いろいろわからなくなっちゃった」
「それなら、帰ろう」
ルーンはあっさりけりをつけた。それですべてが片づくと言わんばかりだった。
「今日は二人で帰ろう」
「うん……」
「帰り道、わかる?」
「…………どうだっけ」
フィリエルは、初めて気づいてあたりを見回した。
強い風が吹きすぎていった。太陽はまだ中天にあったが、やや西に片寄り、空には雲がしきりに流れている。
「のぼる太陽を背中にして、ずっとまっすぐ歩いてきたのだから、こっちへもどればいいのよ」
フィリエルが東と思われる方向をゆびさすと、ルーンは首をふった。
「沼地を遠回りしたときに北に曲がったよ。まっすぐ西には来ていないよ」
直立して足もとを見つめたルーンは、口のなかでつぶやいた。
「太陽が南中したとき影は北……今は少し修正して、このくらいが真北。曲がった角度はこれくらいで……」
それから彼は、顔を一方へ向けた。
「最後に見た沼を見つけるまで、こちらの方角へ歩いていけばいいはずだ」
ルーンがゆびさした方向は、フィリエルとはだいぶ違うものだった。フィリエルは肩をすくめた。
「あんたの記憶のほうがたしかだから、まかせることにする」
こうして二人は、今度はルーンが先に立ってもときた道をひきかえしはじめた。
ホーリー家にふたたび帰ることになって、フィリエルはひどく脱力したが、それが安堵だということにも気づいた。ここ数日のなかで、やっとはっきりものが見えてきたような気がする。つきまとった暗雲が吹き払われたようだった。
そして、今ほどルーンがたのもしく見えることはなかった。ルーンの尋常《じんじょう》でない記憶力をもってすれば、荒れ野にちらばるいくつもの沼も、ただちに違いが見分けられるのだろう。
沼地が見えてくると、ルーンは言った。
「やわらかい地面の足跡をさがして。ぼくたちしか通っていないんだから、それをたどれば来た道をもどれるよ」
「頭いいね、ルーン」
フィリエルは感心して言葉に従った。帰りを念頭におかず、恐ろしく遠くまで来てしまったことは身にしみていたが、この調子なら、迷うことなく家にたどり着きそうだった。
もしもこのままだったら、思惑どおり、二人の子どもは遅くなりながらも、まっすぐ家に帰りついたことだろう――天候がこのままだったなら。だが、晴天の続く天気はこれが限度だった。冷たい気団が交替しようと北から下ってきており、吹く風の強さに、フィリエルは気づいてもいいはずだったのだ。
沼地を離れるか離れないかのうちに、太陽がかげりはじめた。まだ音がするともいえない遠くの気配に、フィリエルははっとして顔を上げ、ふりかえった。すると、前方には青空があるというのに、西北の空には青黒い雲がたまり、みるみるその領土を広げようとしていた。
「たいへん、雨がくる」
さしせまった声で言うと、フィリエルはつれをうながした。
「急いで、ルーン。走らなきゃだめ」
「でも、よく見なくちゃ目印を失うよ」
一つのことに固執《こ しつ》するルーンは不満そうだったが、フィリエルはけんめいにかぶりをふった。
「だめ、隠れ場所をさがすの。こんなに何もない場所で雷にあったら、へたをすると命取りだよ」
子どもたちの足の遅さをあざけるように、雲は見る間に追いつき、追い越した。空は東のはてまで一面の灰色に閉ざされ、低くなった雲の下で不気味な光がひらめくようになった。光ってしばらくすると、巨大なのど声にも似た遠雷が響く。
今はルーンも、文句を言わずに走っていた。二人は丘を回りこんで、風をさえぎる崖下を見つけ、低い灌木《かんぼく》のなかに分け入った。そのときにはすでに、大粒の雨が落ちはじめていた。
ついに、ぶちまけるようなどしゃ降りが襲ってきた。裸岩にしぶきの膜がかかり、あふれた水たまりは茶色の急流をつくって低きへと流れる。灌木にしゃがみこんでも雨よけにはならなかったので、フィリエルもルーンも瞬時にずぶぬれだった。窪地にいるためにさらに悲惨であり、水が自分たちに押し寄せてくるように見えた。
それでも、頭上に踊るいなずまに打たれて黒こげになるよりましだった。空を明るいむらさきに変える雷光が、雲を裂いて青筋のようないなずまを照らし出す。そして同時に、世界を紙にして破り捨てるような大音響が耳をうがち、ものみなすべてを縮みあがらせた。
(どうぞ、星女神様……)
いつもならフィリエルは、こんなとき、憤怒《ふんぬ 》の顔をしずめて慈悲《じひ》のお顔をお見せくださいと、星女神への祈りを唱えるはずだった。けれども今日は、どうしてもそれができなかった。この怒りが星女神のものなら、教えをかえりみなかったフィリエルに向けられるとしか考えられなかったのだ。祈ればフィリエルは見あらわされてしまう。丘も灌木も星女神の前には盾《たて》にならないと思うと、生きた心地もしなかった。
それでも、一縷《いちる 》の望みはあった。ルーンはまだ生きている。祈りを唱えるかわりにフィリエルは、かたわらのルーンの手を握りしめていた。この手を放さないことを星女神様に知っていただくことが、重要ではないかと思えた。激しい雨と雷鳴のなかで、ルーンも口がきけない様子だったが、フィリエルの手を握りかえす力はたしかに感じられた。
やがて、何度めかの空の炸裂《さくれつ》の後で、ルーンはささやいた。
「怖いときのおまじない、教えようか」
枝をつたう雨にうたれながら、フィリエルがただうなずくと、ルーンは早口に数字を並べてみせた。
「1、1、2、3、5、8、13……これを続けるんだよ。前の二つの数字の和を、次にもってくるんだ」
雷鳴に首をすくめ、とどろき終わるのを待ってから、フィリエルは叫ぶように聞き返した。
「どういう意味があるの?」
「知らない。でも、気持ちよくなる」
それが大事とばかりにルーンは言った。
「たくさん続けると、数の比《ひ》がどんどん2分のルート5マイナス1に近づくよ。黄金比というんだって」
フィリエルにはてんでわからず、沈黙した。頭上で雷が暴れているというのに、比の計算など思いもよらない。
けれども、数列がルーンの恐怖を克服《こくふく》する手段だということは、これではっきりした。できるものならフィリエルも、唱えて平然としてみたかったが、ふいに雷光がひらめけば、やはり数字などは吹き飛んでしまった。
これ以上降ればおぼれると思うほどに雨が降り、しぶとく雷鳴が行き来した後で、ようやく雲の勢いが弱まった。やや明るくなり、雷が去ったと本当に納得してから、子どもたちは水につかった灌木からはいだした。そして、みじめな泥まみれになったお互いを、つくづくと見た。
「じっとしていたら、ずいぶん冷えたね……」
フィリエルは身震いをした。ぬれそぼった衣服が体温を奪う上に、気温もぐっと低くなっていた。
「まだまだ距離があるから、歩いて体を温めなくちゃ。たしか、こっちの方角だよね」
つとめて明るく彼女は言ったが、黒髪を額にはりつかせたルーンは、浮かない様子をしていた。
「わかんない……かもしれない」
ぬれて見えにくくなったメガネをついに取りはずし、ルーンはじかにあたりを見回したが、困ったように言った。
「遠くの山の形がぜんぜん見えなくなった。太陽も見えないし……足跡も、もうどこにもないし」
「でも、こっちの方向だったよ」
「うん……」
自信なさそうに彼は同意した。
「それほど誤差《ごさ》はないと思う……」
さらに歩くうちに、雨はひとまず上がったが、どんよりした空は二度と晴れなかった。そして、視界は悪くなるばかりだった。夕暮れとともにたちこめる霧《きり》に襲われたのだ。
歩いても歩いても、どこにも行き着かないようだった。見慣れた岩山はいっこうに見えてこなかった。霧にかすんで、ルーンの記憶が一致するものも見出せない。疲れきってどちらも不機嫌になり、話すのもおっくうで、足にはくびきがついているようだった。再び空腹を感じていたが、ぬれた手さげに食べものは入っていなかった。
フィリエルは、荒天の荒れ野が人や家畜を殺すという話を思い出さずにいられなかった。見知らぬ遠くへ行ってはいけないと、強くいましめられたのはこのためだ。気軽な野遊びに出かけた者を、ふいの霧が迷わせる。迷子になった者は判断力を失い、二度とはいあがれない底なし沼に引きこまれるのだ。
雨上がりは特に危険で、いつもは歩ける沼地でもこのような底なし沼に変わった。霧にまかれたら、なるべく動いてはいけない、動く必要があるなら、必ず犬をつれていなくてはいけないと、ホーリーのだんなさんは何度も言っていた。
「あたしたち、迷子になったと思う?」
フィリエルは小声でたずねた。
「たぶん。さっきから当てずっぽうに歩いてるもの」
ルーンの声はかすかに震えていた。メガネをかけない顔は青ざめていて、くちびるの色も悪い。
「寒いの?」
フィリエルも寒かった。服はぬれっぱなしで、お腹が空いているのでさらに寒い。くたくたではあるが、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。たいぎで動けなくなってしまう。
「犬はどうして、家の方角がわかるのかな。匂いなのかな……」
ため息をついて、フィリエルはつぶやいた。
「ロブかロイが、ここにいたらな……」
「犬がいなくても、ぼくがわかるよ」
ルーンはふいに、牧羊犬に挑戦するように言った。フィリエルがけげんな顔を上げると、ルーンは霧のなかの岩をにらんでいた。荒れ野でたまに見かける、地面からはえだしたようにぽつんと立った小岩だ。
「見覚えがあるの?」
「ううん、でも……」
岩に手をふれ、何度も周りを回ってから、ルーンはうなずいた。
「こっちが北だ。苔とシダでわかる。天文台の塔の陰と同じだよ。だから、東はこっちだ」
ルーンがゆびさす方向は、かすんでほとんど見えなかったが、フィリエルはうなずいた。
「ルーンは頭がいいね。たぶん、合っていると思う。でも、あたしたち、今はそっちへ行けないの」
ルーンはびっくりしたようだった。
「どうして?」
「あたしたちは、高いところから下りてはいけないの。沼にはまったら、生きて帰れなくなってしまう」
「でも、フィリエル。高いところしか歩けなかったら、永久に家に着かないよ」
ルーンが怒っているのを聞きつけて、フィリエルは当然だと考えた。ふりかかったこの災難は、すべてフィリエルのせいだった。結局、フィリエルは、当初の予定どおり、ルーンを殺してしまうのかもしれなかった――肉切りナイフによってではなく、荒れ野の危険につかまることで。
だが、彼女は一瞬の弱気をふりはらった。今は、ルーンに死んでほしいとこれっぽっちも思わない。星女神様も、フィリエルが考えなおしたことをくんでくださった。だから、今のフィリエルは、彼を無事につれて帰ることに全力を尽くせるはずだった。
「フィリエルがいやなら、ぼく一人で行くよ」
ルーンは腹立たしげに言った。フィリエルは息を吸いこむと、せいいっぱい思いをこめて言った。
「あたしを信じて、ルーン。あたしは判断力をなくしていないから。霧にまかれたら、どんなに心細くてもむちゃをしたらいけないの。あたしたち、地面の高いところでどこか、夜を明かせる場所をさがそう」
ルーンは突っ立ったまま、無表情にフィリエルを見ている。信用しきれず、だが、行ってしまうこともできないようだった。
フィリエルは言葉を続けた。
「霧が晴れるのを待とう。あたしたちはへとへとだから、休んだほうがいい。荒れ野にまどわされて沼にはまったら、お互いを助けられないもの。荒れ野で眠ったからといって、よその人が言うみたいに、気が変になったりしないよ。乾いた場所は期待できないけど……たとえ何があっても、あたしが起きていて守ってあげるから」
ルーンはだいぶ時間がたってから、ついにうなずいた。
「……いいよ」
「それなら、手をつないで行こう」
ありがとうと言うかわりに、フィリエルは言った。子どもたちは手をとりあって、霧雨のなかを、傾斜《けいしゃ》を上る方向へさらに進んだ。
「それにしても、お腹が空いたね……晩ごはんのまぼろしが見えそう」
フィリエルはしみじみとこぼしたが、ルーンはやっぱり、お腹がすいたとは言わなかった。
「荒れ野で眠ると気が変になるって、だれが言ってるの?」
「ワレット村の人はそう言うんだって。村の人は、セラフィールドを怖い場所だと思っているんだよ。悪いヨウセイがいて、帰れなくするんだって」
フィリエルが答えると、ルーンはなんだか納得した様子だった。
「ふうん……だから、人が来ないのか」
おしゃべりに、少しつらさを紛らわせていた二人だったが、ふいに何かのうめきが小さく聞こえ、ぴたりと口をつぐんだ。
たちこめる霧のせいで、音の遠近がわからない。あたりを見回したが、白いもやに閉ざされて、すぐ近くに何があってもわからないようだった。
「今の、なに?」
「さあ……」
フィリエルの背筋を冷たいものがはいのぼった。荒れ野でルーンと二人きりなのは怖くなかったが、得体の知れないものが他にもいるとなると、これは別問題だった。
「ヨウセイ、だったりして……」
口にしてみると、いっそう怖くなった。周囲がよく見えないことが恐怖をあおりたてる。身を守ることもできないほど近くから怪物が飛び出したり、背後から触れられることを考えてしまい、一度考えはじめると、どうにも止められなくなる。
フィリエルは、歯が鳴りだしそうな思いをぐっとのみこみ、やたらにつないだ手をふった。ルーンは霧を透《す》かし見るように、眉をひそめて前方を見つめた。
「この先に、なにかいる……」
「よしてよ」
「気配がする……」
「言わないでよ」
そのとき、ふたたびひっぱるようなうめきが聞こえて、フィリエルは大きな悲鳴をあげた。
ルーンは、彼女が手をふり放して飛び下がり、ルーンの背後に回りこむのを見て、不思議そうな声を出した。
「守ってあげるから、って言わなかった?」
ルーンの背中に体をすくめながら、フィリエルは言い返した。
「正体がわかったら、いくらでも守ってあげるわよ。でも、オオカミみたいのだったら勝負にならないもん」
ルーンは沈黙してから、ぼそりと言った。
「いいけど……あれ、羊だよ」
「え?」
羊の鳴き声くらい自分も知っていると、フィリエルは言いたかった。けれども、もう一度耳をすませてみると、それはまちがいなく羊の鳴き声だった。霧が音をゆがませていたに違いなかった。
「だんなさんの羊? まさか……それしかあり得ないけれど、でも、どうして? 羊たちは今、夏の放牧場にいるのに……」
顔を上げ、背伸びしてよく聞きとろうとしながら、フィリエルは驚いた口調でつぶやいた。
半信半疑ながらも、彼らが鳴き声をたよりにどんどん進んで行くと、しばらくして、ホーリーのだんなさん手製の柵に行き当たった。こうなると、もう疑いようがなかった。
「あたしたち、とんでもなく迷子だったんだ」
柵をつかんで、フィリエルはわめいた。
「家に帰るつもりで、半日ぶん岩山の北へ歩いてきちゃった。もう、ばかみたい。もう、まるっきり、今日じゅうに帰れなくなったじゃないの」
「でも、今はもう迷子じゃないよ。自分のいる地点が判明した」
ルーンは重々しく言った。
「これで帰り道もわかるようになった。だから、いいよ。ここで夜を明かすつもりになってたし」
「それもそうね……」
フィリエルは肩を落とした。もどれる場所にいることがわかったからには、一刻も早くホーリーのおかみさんの胸に飛びこみ、温かいものを食べて、暖かい毛布にくるみこんでもらいたかったが、今晩はとても無理だった。
それから、彼女はふいに顔を輝かせた。
「あ、そうだ。番小屋がある。乾いたところで眠れるよ」
放牧された羊の数頭は、雨も気にしない様子で、ぬれた草原をうろうろしていた。たぶん、りっぱな毛皮のおかげなのだろう。もっとも、遅い時間なので、多くは慣習にしたがって岩場の陰に寄り集まっていた。
そのそばに建つ、ホーリーのだんなさんの番小屋は、石垣と小枝を半々に使ったほったて小屋で、軒先が地面にとどきそうな貧相なものだった。だが、手入れのおかげで雨もりだけはまぬがれていた。
勝手を知ったフィリエルが、かんぬきをはずして扉を大きく開くと、思ったとおり土間はきちんと片づいていて、奥の壁には干し草が積んであった。乾いた草のいい匂いが小屋にこもっている。
「すてきすてき。干し草でベッドが作れる。ホーリーのだんなさんは、羊が病気になったときとか、ここに泊まっているんだよ」
フィリエルは声をはずませて言った。そばには羊の水飲み場があったし、小屋のなかをよく見れば、たたんだ毛布が見つかった。さらにありがたいことには、ホーリーのだんなさんが緊急のときにそなえた非常食一式が見つかったのだった。
麻袋の口を開くと、塩味だけの固いビスケットと、殻《から》つきのクルミと、小さな蜂蜜の壺とが出てきた。これを目にした子どもたちは、一も二もなく食事にとりかかった。今が非常時であることは、もう疑う余地がなかったのだ。
水を汲むすずのコップは一つしかなかったが、二人で交互に飲んでは、最後に飲みきったほうがあらたに水飲み場から汲んできた。そうやってのどをうるおしながら食べれば、蜂蜜をたらしたぼそぼそのビスケットは、女神の糧《かて》にも匹敵するものだった。
殻つきのクルミは、拾ってきた小石でたたけば中身をとることができた。さんざんたたいて、全部割ってしまい、フィリエルたちはかすかな渋《しぶ》みのある油性の実を味わった。
「ああ、助かった」
満足のため息をついて、フィリエルは言った。
「さっきまでひどい気分だったけど、こうなるとそうでもないね。服も少しだけ乾いてきたみたい」
「ぬれ続けなければ、自然に乾くはずだよ。人体には三十六度の体熱がある」
ルーンはしたり顔に言った。彼もなかなか元気をとりもどしたようだった。
「それなら、あたしたちが熱を逃がさなければ、もっと乾くよね」
フィリエルは言い、毛布に手を伸ばすと、干し草の山に飛んでのぼった。
「おいでよ、ルーン。二人で暖まればもっと早いから」
ルーンが続いてはいのぼると、干し草のなかに体を沈めたフィリエルは、二人の上に毛布を広げて、すきまなくくるみこまれるようにした。
「今にだんだん暖かくなるよ」
「うん」
ルーンは、しばらく黙って薄暗がりで目をぱちぱちさせていたが、やがて小声で言った。
「……助かったの、フィリエルのおかげだね」
「どうして?」
フィリエルはびっくりして彼の顔を見た。
「変な子ね。あたしのせいでこうなったって、言っても怒らないよ。事実だもん」
「でも、高い方へ行こうと言ったのはフィリエルだった。フィリエルは、よく知っている……」
彼は、横になったとたんに眠気をもよおした様子だった。早くも声がぼやけて間のびした。ルーンは最後に身じろぎして横向きになると、うとうとしながらにっこりした。フィリエルは目を疑ったが、それはまぎれもなく笑みだった。
「また、散歩行こう……」
ルーンはささやき、語尾《ごび》はそのまま寝息に変わった。見ていたフィリエルは、思わずあきれた。
(この子、まだ、懲《こ》りていない……)
笑みのなごりがわずかに残って、ルーンの寝顔は幸せそうだった。そして、彼に寄りそって寝ていることが、今はフィリエルも決して不快ではなかった。博士の弟子は、すでによそ者ではない。殺そうとまで思いつめて、そうできなかった者は、もう他人ではあり得ないのだ。
(だったら、この子のためにセラフィールドにいるのもいいかな……)
ルーンがフィリエルには成りかわれないものをもつように、フィリエルもルーンには成りかわれないものをもっている。セラフィールドという故郷をもっている。真の父親がいて、ホーリー夫妻という両親をもっている。まだ全部納得したわけではなかったが、今日一日で、ひとしずくはそのことが身にしみたのだった。
(だから、あたしは起きていて、何か起きたときのために、外の様子を見張っていなければ……)
使命感を感じたものの、寝不足と疲労がフィリエルを圧倒しないはずがなかった。いつしか眠りにひきこまれ、一度寝入ったら最後、朝が来ても霧が晴れても目をさまさなかった。
早朝、ほうぼうを探しまわったホーリーのだんなさんが、ロブとロイに導かれて夏の放牧場へ足を向け、ついに扉の開いた番小屋を見出したときにも、子どもたちはまだ眠っていた。そして、ロブを使いにやり、おかみさんが荷馬車で駆けつけたときにも、フィリエルとルーンはまだ眠っていたのだった。
フィリエルがようやくはっきり目ざめ、体を起こすと、そこはホーリー夫妻のベッドの上だった。
(あれ……)
朝になってから、荷馬車の荷台に乗せられた覚えがかすかにあったが、ひどく眠かったので、よくは思い出せなかった。夢を見たと思いたいところだが、雪嵐の翌朝のように階下のベッドで一人目ざめることが、変事《へんじ 》のあったことを告げていた。
(そうだ、あたし……)
夜明けに家を抜け出したことがよみがえった。だが、それが昨日の朝だという実感はなかった。まるで、大昔のことのようだった。
「目がさめたのかい」
衝立《ついたて》の向こうから、ホーリーのおかみさんの声がした。まもなく現れたおかみさんは、ミルクのコップをもっていた。
「お飲み。今朝の乳しぼりは、あたしがすませたからね」
フィリエルは暖かいコップを両手で受けとったが、まだなんとなく混乱していた。
「ええと、あの、ルーンは?」
「天文台へつれていったよ。よく寝ていた」
タビサ・ホーリーは静かに言った。何が変だといって、このおかみさんの態度が変だった。たいへんなことをしでかしたフィリエルを前にして、少しも怒っている様子がなかったのだ。それがかえって不気味に感じられ、フィリエルは体をすくめた。
「ごめんなさい……悪いことして……」
ホーリーのおかみさんは少女を見つめたが、やはり穏やかにたずねた。
「フィリエル、あんたが礼拝堂へ行くのをいやがったのは、ボゥがよけいなことを言ったせいなのかい?」
フィリエルが困ってうつむくと、おかみさんは返事を待たずに続けた。
「それほど気にすると知っていたら、もっと早くに話しておいたのに。へたにあらたまるのも何だから、お堂に着く前に聞かせようと思っていたんだよ。あんたはべつに、フィリエル・ホーリーにならなくてもいいんだ。星女神様は、なにも、村台帳《むらだいちょう》に記帳された子どもだけを祝福するわけじゃないんだから。ボゥがよかれと思ったことは、あたしにもよくわかるが、それでもあたしだったら、あんたに言いはしなかったよ。だいたい、博士がうんと言いなさるものかね」
フィリエルはあわてて顔を上げた。そして息を吸いこんだが、出てきた声はやけにかぼそいものだった。
「……博士はいいって、言わなかったの……?」
ホーリーのおかみさんは大げさに息をつき、肩を上げ下げした。
「どうしてあんたをよその娘にしていいなどと考えたりするかね。あんたは博士のたった一人の娘、亡くなった奥方の忘れがたみじゃないか。どれほど研究に忙しくしていらしても、あんたのことを愛していないはずがないんだよ」
「でも……」
小さくつぶやいたが、おかみさんはおしかぶせるように続けた。
「だから、あんたはいつまでもフィリエル・ディーだよ。博士の名前を大切にしていいんだよ。彼からりっぱな血を受け継いでいることを、あんたの誇りにしていいんだよ」
「……うん」
フィリエルはゆっくりうなずいた。どこかでかすかに、おかみさんは本当のことを言っていないと感じとっていたが、それでもいいと思った。力をこめてそう言ってくれる、おかみさんの心情は本物だったから。それがすなおにうれしかったし、感謝をこめてうなずくことができた。
(博士は、そういう人だ……あたしは博士の娘でいたい。だからいいんだ……)
「このまま変わらなくていい? あたし、どこも変わりたくなかったの。ルーンが来て、変わってしまうのがつらかったの」
思いきってフィリエルが言うと、ホーリーのおかみさんはほほえんだ。
「あんたがそう思うなら、それでかまわないよ。もっとも、あたしに言わせれば、あたしらを追い越して変わっていくのはあんたなんだけどね」
「あたし?」
フィリエルは目を見はった。それから、おずおずとたずねた。
「それ……悪くなったってこと?」
「おや、後ろめたいところがありそうじゃないか」
おかみさんは鋭い指摘をしたが、追求しようとはせずに続けた。
「あたしが言ったのは、いい悪いの問題ではなくね。あんたがどんどん成長していくということなのさ。今にあたしらを越えていく。今度はつくづく考えさせられたよ。そこに勝手な重しを乗せて、あんたが伸びるのをさまたげるようなことを、あたしらがしてはならない、とね」
フィリエルは、息もつけないほどびっくりした。
「あたし、おかみさんよりも大女になるの? それって、いやかも……」
「ばかだね、この子は」
突如としてホーリーのおかみさんは、いつものおかみさんになった。声の調子にしみじみしたところがなくなり、手を腰のわきにぐいと当てた。
「たとえあんたが、雲をつく大女になろうとも、うちの子だということは変わっちゃいないよ。それはあんたも望んでいるようだから、一つ言いたいことがある――」
フィリエルはあわてて首をすくめたが、遅すぎた。おかみさんのどなり声が耳に炸裂した。
「勝手に遠くまで出かけるなと、あれほど口をすっぱくして言っているのに、聞く耳ってものがないのかい。そこにくっついているのは鍋つかみかい。荒れ野がどれほど危険かってことが、この年になってわからないとは。たまたま番小屋にたどり着いたからよかったようなものの、いくつになったらものがわかるんだよ!」
だれもがそれを覚悟したのに、ルーンは熱を出さなかった。彼がそれほど丈夫になったのか、夏場だったのでたまたままぬがれたのかは、はっきりしないところだった。とにかくルーンは、翌々日にはぴんぴんした様子でやってきて、散歩行こう、と言った。
フィリエルは少しばかり、ルーンが大人たちに何を言うかひやひやせずにいられなかった。持ち出した肉切りナイフが、いつのまにかもとの戸棚に収まり、ホーリーのおかみさんもだんなさんも言及しなかったので、なおさらのことだった。
けれども、ルーンは一足《いっそく》飛びにおしゃべりになったわけではなく、フィリエル以外の人間に対しては、やっぱり口数の少ない子どもだった。だから、聞かれたことにしか答えなかったし、フィリエルに対しても、ナイフにかかわることを一切口にしなかった。警戒しているのかと思えばそうでもなく、彼はさらにフィリエルになじんだようで、いっしょに荒れ野を歩きたがった。
(考えてみれば、これって妙なことだ……)
フィリエルは思わずにいられなかった。フィリエルが忘れようとつとめるのは当然だが、逆の立場だったら、かんたんにそうはできない気がする。
思いつく理由があるとしたら、ルーンもすすんで忘れたいと考えているか、彼にはたいしたことないできごとだったというところだ。すると、フィリエルはぼんやりと、ルーンがいやに真に迫った口調で、刃を水平に持たなければと言ったことを思い出すのだった。
しかし、気になったのも少しのあいだだけだった。じきにフィリエルは、きれいさっぱり念頭から追いやってしまった。夏の日が続けば、そんなことはどうでもよくなるものなのだ。
子どもたちが一晩帰らなかったその日、ディー博士がどの程度心配し、また、どの程度にてんまつを伝え聞いたかは、フィリエルにはとうとうわからずじまいだった。その後彼女が塔をたずねたときには、博士の態度はいつも以上でも以下でもなく、話題にすることもいっさいなかったのだ。フィリエルとしても、わざわざ話題にしたいものごとではなかった。
ホーリーのおかみさんは、塔へ行くなとか本を読むなと言わないことに決めたようだった。フィリエルはそのことに気づいたものの、どういうわけか、かえって塔へ行かなくなった。博士はあいかわらず、フィリエルがルーンの勉強に割りこめば同じように応じてくれたが、こだわりがとれてみると、むきになって割りこむこともなかったのだ。
ルーンの頭脳が自分と違うことがはっきりしたせいもあった。数学や天文学は彼にまかせて、フィリエルは別のものを見つけたほうがよさそうだった。
彼女があまり顔を見せなくなったために、埋めあわせに、ルーンが前よりしげしげと外へ出てくることになった。このことを、ホーリーのおかみさんもだんなさんも好ましいと考えているようだった。丈夫になって冬にそなえるためには、彼はもっと日焼けしたほうがいいと思っていたのだ。
荒れ野の歩き方もすっかり身につけたルーンは、彼らの期待に応えつつあった。ルーンは、ほんのちょっぴり牧羊犬と和睦《わ ぼく》さえした。番小屋に案内したのは犬たちだと、ホーリーのだんなさんに聞かされてから、ロブとロイをいくぶん見なおす気持ちになったらしい。
フィリエルももう、犬たちをけしかけることなど考えなかったので、二匹のほうにも異存はなかった。ルーンはまだぎこちなかったが、牧羊犬がいきなり走って来ることさえしなければ、平気な顔ができるようになってきた。
けれども、とうとうミツバチには刺された。ハチの個体を見分けるために、インクで目印をつけようとしたという彼の説明を聞いて、全員がため息をもらした。そして、くさい塗り薬を塗られてからは、ルーンも巣箱には慎重に近づくようになったのだった。
ひと月ほどたって、夏も終わりに近づいた日、ホーリーのだんなさんは歳時暦を調べながら言った。
「明日は市《いち》の立つ日だし、月のかたちもいい。ワレットの礼拝堂へお参りに行ってこよう。フィリエルも、あとふた月もすれば八歳をすぎてしまうからね」
テーブルごしに、ホーリーのおかみさんがにっこりした。
「それがいい。明日こそ行こうね、フィリエル」
フィリエルは、少々あやぶみながらその笑顔を見返した。
「……あたし、ついこのあいだお風呂に入ったし、昨日もおとといも水浴びしたよ?」
「だめ。今夜はお風呂だよ」
「あーあ」
肩をおとしたフィリエルだったが、ひと月前、お風呂で洗っても落ちない汚れが自分にあると感じた気分は、もう思い出せなかった。忘れてしまったようだが、本当に忘れたわけではなく、自分のそういう部分を知り、認めた上で平気になってしまったのだった。
それでもやっぱり、お風呂は苦手だった。髪を洗ってもらうのが特にわずらわしかった。ホーリーのおかみさんにお湯をかけられ、頭に石鹸《せっけん》を塗られて、忍《にん》の一字でたらいに座っていたフィリエルは、ふと思いついて口を開いた。
「おかみさん、ルーンは八歳だと思う?」
「どうだろうね。本人も知らないって言うしね」
せわしく石鹸を泡だてながら、おかみさんは答えた。
「たいていの子なら見当がつくんだが、ルー坊は、フィリエルより年下なのに大人びているのか、年上なのに体が小さいのか、よくわからないところだよ」
「……でも、礼拝堂にお参りしたことがないのはたしかだよ。アストレイア様のことを『その女のひと』なんて言ったもん」
考え考えフィリエルはたずねた。
「ねえ、あたしが先に八歳のお参りをすませたら、あたしが年上になれるかな?」
「お参りは、そういうものじゃないよ」
おかみさんは一言で片づけようとしたが、思いなおして続けた。
「八歳を一つのくぎりとして、感謝をささげる習わしになっているけれど、星女神様は何歳の子どもだって祝福してくださるんだよ。世間には、お参りをしない子どもだっているけれど、そういう子どもをかえりみてくださらないということはないんだよ」
フィリエルは、ふいに元気な声を出した。
「なんだ。それなら明日、ルーンもいっしょに礼拝堂へ行けばいいじゃない。あたしといっしょにお参りをすませればいいんだよ」
ホーリーのおかみさんはほほえんだ。
「ボゥとあたしも、そう考えたんだよ。あの子もずいぶん活発になったから、フィリエルといっしょに行くなら、村の市も楽しめるようになったんじゃないかとね」
「すてき。それがいい」
フィリエルがはしゃいで言うと、おかみさんは自慢そうな声を出した。
「じつをいうとね、あんたの新しいベストをこしらえるついでに、ルーンのぶんも作ってあるんだよ。それからボゥが、よそゆき用のひも付き靴を二人に買ってある。あんたたちがおそろいで出かけたら、きっとかわいらしくなるよ」
「それ、本当?」
フィリエルは勢いよく頭を動かしたので、たちまち石鹸が目に入った。そして、痛い痛いと騒ぎだした。
「……毎回こうなんだから。一度くらい最後までじっとしておいでよ」
ホーリーのおかみさんはしかたなく、水差しのお湯をそそぎはじめた。
「ルーン、いる?」
次の朝、呼びながら塔の二階へ駆け上がってきたフィリエルを見て、ルーンは思わず後ずさった。別人のような女の子になっていた。
彼女は、のりのきいた白いブラウスの上に、色糸で伝統模様を刺繍《ししゅう》した若草色のベストを着ていた。レンガ色のスカートはふだんより長めの丈で、新品の柔らかい革靴をはいた足がのぞいている。
赤金色の髪の毛はいつもより色が冴《さ》え、さらに広がっており、細い黒ビロードのリボンをヘアバンドにして押さえていた。同じリボンをえりにも蝶《ちょう》結びにしていて、髪の色によく映える。
「どう、かっこいい?」
フィリエルはそりかえって得意がってみせた。頭から泥まみれになっても気にとめない、ふだんの彼女とは大ちがいだった。
「……何があったの」
ルーンがおそるおそるたずねると、フィリエルは勢いこんだ。
「ワレットの礼拝堂へ行くのよ。星女神様にろうそくをささげてくるの。それから帰りに市場を見て、屋台でお菓子を買ってもらうの。あんたも行くのよ」
めんくらったルーンは、固い顔をした。
「ぼく、行かないよ……」
「行ってきなさい」
部屋の奥で二人を見守っていたディー博士が、静かに口をはさんだ。
「話は聞いているよ。ホーリーさんたちが、せっかくそう言ってくれるんだから、きみも行ってくるといい」
「ほら、ごらんなさい。博士だってそう言うのよ」
勝ち誇ってフィリエルは言ったが、ディー博士のひとごとのような口ぶりが、ちょっぴり胸を刺した。こんなときにも博士は、自分が行くべきだとは考えないのだ。天文台を留守にする気はこれっぽっちもない。
(もしも、あたしがアルゴリストになれる娘だったら、博士の態度は違っただろうか……)
けれども今は、その気持ちをルーンにぶつける気にならなかった。当のルーンは、喜ぶどころかしぶってしりごみしているのだ。
後ろだてをなくして、ルーンはうらめしそうに博士を見やった。
「ゆうべ、手伝わなくていいと言ったのは、だからなんですか?」
「そうだよ。わたしはこれから寝るつもりだから、後片づけは気にしなくていい。行ってきなさい」
「でも、ぼく……」
「ワレット村に、きみを知っている者はいないよ。大丈夫だ。もう平気になっただろう?」
ルーンは黙りこんだ。彼が自分をつれてきた旅芸人たちを怖がっていることに、フィリエルも気がついた。
「大丈夫よ、ルーン。メガネよりもずっといい扮装があるから。おかみさんがルーンのために特別に作ってくれたから。とにかくうちへ来てみてよ」
フィリエルがさかんに手をひっぱると、ルーンはついにその強引さに屈し、しぶしぶながらもフィリエルに従って塔を出た。
二人がホーリー家への坂道を下ると、ホーリー夫妻はすでに荷馬車の準備をして待っていた。夫妻のどちらも、とっておきの晴れ着を着こみ、髪型を整えて、いつもとまったく違った様子に見える。
おかみさんは、薄紫の花模様のドレスに黒い模様編みのショールをはおり、だんなさんは、純白のシャツに灰色の霜降り柄の上着を着て、深緑のタイをしめていた。目をぱちくりしているルーンに、ホーリーのおかみさんは笑ってベストを着せかけた。
「ほうら、これであんたもいっしょにおめかしできるよ。みんな、これなら星女神様の御前に立つにふさわしいいでたちだ」
ルーンのベストは、フィリエルの色違いのおそろいで、明るいベージュ色をしていた。それを着て、新しい靴にはきかえれば、洗いざらしのシャツも黒い半ズボンも、別物のようにひきたって見えた。
「ルーン、かわいい。すごくよく似合う」
フィリエルは感激して叫んだ。お世辞のつもりではなく、ルーンは本当にかわいく見えたのだ。黒髪も灰色の瞳も、きれいなベージュのベストがひきたてていた。うっすら日焼けした肌が金色味をおびて、ルーンは健康で生き生きした子どもが、たまたま仏頂面《ぶっちょうづら》をしただけに見えた。
けれどもルーンはうつむき、しげしげとこの扮装を検討したあげくに言った。
「……メガネ、とってくる」
「どうしてよ。メガネなんてつけたら、ぶちこわしじゃないの。あんたのこと、見分ける人なんていないったら。あたしの弟でもおかしくないんだから」
フィリエルは説得しようとしたが、ルーンは頑固にくり返した。
「メガネ、とってくる」
「好きにさせておやりよ、フィリエル。メガネがあれば安心するというなら、気がすむようにするといい」
ホーリーのおかみさんは今日、ひどく寛容《かんよう》な気分だった。彼はその言葉を耳にすると、待ったも聞かずに駆け出していった。
「あーあ」
フィリエルはうなった。おかみさんは知らないかもしれないが、フィリエルは、ほほえんだルーンがどれほどかわいいかを知っていた。しかつめらしいメガネが隠してしまえば、その半分も見えないではないか。
時間が貴重だったので、ホーリー夫妻とフィリエルは、先に馬車に乗りこんでルーンを待っていた。ルーンの姿が見えると、フィリエルは馬車の荷台の上から手を伸ばした。
「早く早く。出発するよ」
メガネをかけたルーンは、その手をとろうとして、突然にひっこめた。
「やっぱり、行かない」
「今さら、何を言ってるのよ」
「行かない」
とうとうフィリエルはかんしゃくを起こした。
「ばかじゃないの、あんたって。行かないなら、あんたみたいな子、もう知らないから」
けれどもルーンは強情な顔になり、後ずさりながら言った。
「やだ」
「いやなら、乗りなさいよ」
「やだ」
フィリエルに加わって、おかみさんがいろいろに口を添えたが、ルーンは「やだ」の一点ばりで、とうとうさそいにのらなかった。ホーリーのだんなさんは、しばらく様子を見ていたが、らちがあかないとさとったようだった。あきらめて、シーザーのたづなを取りあげた。
「いいさ、ルーン。無理だと言うのなら、来年になったらいっしょに行こう。今日はロブたちと、セラフィールドの番をしていておくれ」
「ルーンのいくじなし!」
フィリエルはこぶしをふって叫び、シーザーは胸帯に力をこめて歩き出した。馬車の車輪がガラガラと音をたて、むっつり顔で見送るルーンはみるみる後ろに遠ざかっていった。
走り出してしばらくのあいだ、フィリエルはぷりぷりしていた。
「もう、ぶってやればよかった。博士だって、平気だろうって言ったのに。あのルーンったら」
「あと少しだったのにね……少しはその気になりかけたようだったのに」
おかみさんも残念そうだった。新しいベストはそれだけ彼女の自信作だったのだ。
「けれど、あの子も変わったものだよ。最初のころは、人に逆らっていやだと言いはることなど、まるでできない子だったじゃないか」
フィリエルは、顔をしかめてうなずいた。
「そう、どんどんかわいくなくなっていくの。前はなんでもいうことをきいたのに」
「なんだか、昔のフィリエルを思い出すよ」
おかみさんはそう言って、少し笑った。
「ことあるごとに、やだ、やだ、って、そればっかりを言うようになって、困りはてたときがあったよ」
フィリエルはびっくりして荷台からのりだし、前の座席のおかみさんに体を寄せた。
「ねえ、それ、いつのこと? あたし、そんなことした覚えないよ」
「そりゃ、覚えていないだろうよ。あんたが三つか四つのときだからね。ルーンはきっと、今までに、そういう時期を通ってこなかったんだろうね」
「なあんだ、三つのとき」
自尊心をもちあげられて、フィリエルは思わずにっこりした。すると、ルーンへの腹立ちもいつのまにか消えてしまった。
(いろいろとだめな子だから、ルーンって……)
あれこれ考えあわせても、フィリエルがこれまで、あまりに自然に身につけて意識もしなかったようなことを、ルーンは知らずに育っていた。おもに、体を動かしたり、言葉に表したり、騒いだり笑ったりすることに多い。
ルーンは、大人にうまく甘えることもできなかった。今回だって、ホーリー夫妻の思いやりがむだになり、フィリエルも怒ってしまったが、お互いが暖かい気持ちになるために、もう少しやりようがあるものを、はねつけることしかできないのだ。
数学の天才能力があっても、そういうことができなければ、本人が幸せな気持ちになれないのではないかと、フィリエルは考えた。すると、双葉《ふたば 》が開くようにみずみずしい、新しい考えが胸のなかでふくらんだ。
(……あの子のだめな部分は、あたしが二人分埋めればいいのだ。ルーンが村へ出ていくことができないなら、あたしがそのぶん見てくればいい。幸せな気持ちになれるよう、あたしがめんどうをみなくては。ルーンに加勢してあげなければ……セラフィールドの子どもは、あたしたち二人きりなんだから)
*  *  *
荷馬車が荒れ野のはてに見えなくなるころになって、ようやくルーンはつぶやいた。
「……ぼくは、いくじなしじゃないよ」
そう言い返してから別れたかったのだが、言いそびれたのだった。いっしょに残されたロブとロイが、置いていかれたわびしさを分かちあおうと寄ってきたが、ルーンが関心を示さないのを見て、早々に自分たちの場所へひきあげていった。
けれどもルーンは、フィリエルの怒りがそれほどこたえているわけではなかった。怒るほうがおかしいと思っていたのだ。
(フィリエルは、どうしてあんなに、すぐ忘れてしまえるんだ……)
ルーンはしばらく、その場に立って考え続けた。彼が不思議でならないのは、フィリエルの忘れっぽさだった。一貫していないことを、平気でつぎつぎと行う。考えがくるくると変わる。いつも小さなつむじ風のようだ。
(ぼくが星女神の前になんか立てないこと、気づいているかと思ったら、そうじゃなかった……)
フィリエルには、人の心を見抜くような鋭さがあったが、ただの自分よがりであることも多かった。賢いことを口にするが、何も考えていなかったりした。どこまで本当に知っているのか、てんでわからなかった。
彼女にも悪意や殺意があり、それを知ったルーンは、かえって安心することができたのだが、それらの暗い思いも、フィリエルは簡単に飛び越えてしまうようだった。彼女には、身にしむということがなかった。
殺すとフィリエルに言われたときには、一瞬尊敬したルーンだった。本当によくわかっている人間なら、ルーンをしまつしようと考えるのが早道だったからだ。博士はどうやらその結論を却下《きゃっか》したが、身内のフィリエルが思いつくのは当然だった。
ところが、そのあとはめちゃくちゃだった。彼女は結局、何も計画できていなかったのだ。ただのもの知らずだった。気がつくと、ルーンは殺されたくなかった。それよりはこの子のそばにいたくなっていた。
(最初は、声が聞こえてきた……)
フィリエルの声は、外界の恐怖から身を守ることで手いっぱいなルーンの内部にもしみこんできた。抵抗のない、光のように澄んだのびやかな声だった。彼はその場で応じることができなかったが、いつまでも耳に残って、あとで何度も再生してみたものだった。
それから、あの赤い色の髪の毛が目に入った。この淋しい土地に、彼女ほど輝く色をして絶えず踊っているものはなかった。この女の子は、一瞬目を離すともう違う表情をしている。気分変化の諸段階は百通りもありそうだった。自分の気持ちに徹底的に正直なその活力で、いつも輝いて見えるのだと、ルーンにもだんだんにわかってきた。彼の知らなかった生き方だった。
フィリエルは、この荒れ野に似ているとルーンは思った。凍てつく寒さも雷鳴のとどろく嵐も知っているが、人の足にふみにじられたことだけはない。だからいつでも、吹く風にすがすがしい香りがする。
(フィリエルが知らないことは、たぶん、いっぱいある……)
ルーンは考え、自尊心をふくらませた。
(そしてフィリエルは、いろいろ疑う前にまた忘れちゃうんだ。でも、フィリエルは、それでいいや。そのぶん、ぼくがひきうければいい……)
セラフィールドは陰気くさい、人の住みたがらない果ての地でしかないに違いなかった。それなのに、彼女が一人いるせいで、みんなが明るく照らし出され、楽園のような避難所にいると思うことができる。
(ここで暮らすんだ……)
ルーンはそのことをかみしめた。彼が大人になるまで、大人になっても、ずっと。ここは、初めて見つけたそういう場所、逃亡して流れ歩かずに住んでいられる場所だった。
(だから、守ろう……ぼくが)
赤紫の小花にいろどられた荒れ野のふちをながめ、青くかすむ山々をながめながら、ルーンは考え続けた。
*  *  *
中央広場の片手にある礼拝堂は、国の標準からするとこぢんまりした建物なのだが、フィリエルの目から見れば、空にそびえるように映った。鐘を鳴らす塔も会堂も、美しい斜線とアーチでそそり立ち、装飾に縁のないセラフィールドの建物とはまるで異なっている。
段を上った正面入り口の巨大な扉は、彫刻がいかめしかった。けれども、招くように両側に開かれていて、ことわりなく入ることができた。なかは薄暗く、少しひんやりして、高い天井に音が吸いとられていくようだ。
入って最初の奥の壁に、丈高い窓の光を受けて、にぶい金縁の額にはまった大きな絵がかかげてあった。抑えた色味で、宝冠をかぶった等身大の女性が描かれている。だれに言われなくても、その威容《い よう》、すばらしい衣装や手にした宝石のしゃくで、フィリエルにも肖像画のぬしがわかった。コンスタンス女王陛下――アストレイア女神の現世の化身、今のグラール国を治めていらっしゃるかただ。
(このかたが、女王陛下……)
たまご形の美しい顔をした、若々しい女性であり、星女神の化身であるのもうなずけるようだった。目はどうやら青く、金色の髪は固く結いあげられて宝冠の下に収まっている。装身具をかざった手や首は優雅に細く、水鳥を思わせるものがあった。
ただ、陛下の瞳は遠くを見つめ、口もとには決意をこめた固い線があった。そのため、やさしい外観ながらも、どちらかというと厳《おごそ》かに見えた。
フィリエルがいつまでもぼーっと見ているので、ホーリーのおかみさんが、とうとうこづいた。
「早く頭を下げなさい、フィリエル。陛下にごあいさつがすんだら、先へ行くんだよ」
左側に通路があって、隣は広い集会所だった。木のベンチがたくさん並んでいたが、今はちらほらとしか人影がない。横長のその部屋を横切るときに、フィリエルは初めて色つきのガラス窓を見た。鮮やかな赤や青や黄色の模様を見守るうちに、彼女は気分が不安定になってきた。
それには、女王陛下のきびしい表情も影響していたかもしれなかった。怖いことは何もないと言い聞かされたのに、落ち着かなくなってきたのだ。
「平気だよね、あたし……ろうそくをささげて、いいんだよね……?」
不安をこらえきれなくなってたずねると、おかみさんが手をつないでくれた。
「いいんだよ。ルーンのぶんまでお祈りをしてくればいい」
集会所の続き部屋が祭壇だった。透かし彫りのしきりの向こうは、明るく火がともっていた。ろうそくが何十本と並べられているのだ。お参りにきてろうそくをささげる人は、一日に何人もいるようだった。
じきにフィリエルにも、心配することはないとわかってきた。ぴったりしたふちなし帽をかぶり、薄紫の長衣を身につけた司祭様は、穏やかにほほえむ白髪眉のおじいさんだった。想像した恐ろしげなところは少しもなく、ホーリー夫妻と気安く言葉を交わし、フィリエルの頭をなでて、よい子におなりと言ってくれた。
司祭に導かれて、フィリエルは光のきらめく祭壇に上った。持参した蜜ろうのろうそくに、巨大な礼拝堂のろうそくから火をとり、周りに並ぶろうそくの列に加えるのだ。
くっきりと浮かび上がる女神像をおそるおそる見上げると、そのお顔は、伏し目がちにフィリエルを見下ろし、その両手はさしのべられていた。たちどころに、フィリエルにはわかった。許されているのだった。
だれがそこに立とうと、どんな考えをもっていようと、その腕に抱きとめようとして、星女神はほほえんでおられる。その静かな微笑が、小さなフィリエルの体にも満ちてくるようだった。
今はフィリエルも、落ち着いて呼吸することができた。そして考えた。
(……やっぱり、ルーンはばかだ。ここへ来ようとしないなんて……許されることを知らないなんて。だから、ルーンのぶんもあたしが祈ろう。あたしたちがよい人間になれますように。りっぱな人物になれますように……)
フィリエルは、アルゴリストにはなれない。特異な才能は何もない。父親に自慢してもらいたいばかりに、わらを金に紡ぐことはできないのだ。
けれども、それでも、フィリエルにできる何かがあるはずだった。探せばどこかにあるはずだった。それが見つかる人間になれますようにと、フィリエルは祈った。いつかはディー博士が、誇りにできる娘と思ってくれますように……
(それから、ルーンは、最高の天文学者になれますように。出かけることを怖いと思わなくなりますように。あたしたち二人とも、広い世間でたくさんのことを知ることができますように……)
いつか広い世間へ出ていくことになるのだと、ホーリーのおかみさんは言った。だから、フィリエルはそのことを疑わなかった。たくさんの場所を知って、たくさんの人に会いたいと、フィリエルは思った。そのなかにはきっと、フィリエルの目標にかなうものがあるだろう。
ほおを赤く上気させて祭壇を下りてきたフィリエルを、ほほえむホーリー夫妻が出迎えた。飛びついたフィリエルを強く抱きしめながら、ホーリーのおかみさんがたずねた。
「いったい、どんなことを星女神様にお祈りしたんだい?」
「ひみつ」
得意満面にフィリエルは答えた。
「でも、とってもソウダイなことなんだよ」
[#改ページ]
断章
「ああ、うれしい。とうとう来ることができた」
あと、ふた月もすれば、十八歳をむかえることになるフィリエル・ディーは、両腕をひろげて何度も大きく息を吸いこんだ。
もう長いあいだ、この香りをかぐことを待ちこがれていたのだ。夏の荒れ野を埋めつくす、赤紫のヒースと黄金色のハリエニシダの匂い。山稜の向こうの海まで吹きわたる涼やかな風の匂い。
生まれたときから知っているこの清冽《せいれつ》な芳香は、グラール国を南に縦断してもどこにもなかった。首都メイアンジュリーにそびえるハイラグリオンの宮殿の、どれほど高価な香料をあたっても、味わえるものではなかったのだ。
「なんてすばらしいお天気。夏まで待ったかいがあったわ。ねえ、そう思わない?」
とびきり明るくたずねたのに、黒服のルーンはしかめっ面のままだった。機嫌の悪い声で彼は答えた。
「待ったのは、そこにいる役立たずのせいだろう。そんなやつ、放っておけば、去年の秋のうちに来られたはずなのに」
役立たずのそんなやつというのは、フィリエルのかたわらにいるユニコーンのことだった。南国育ちのルー坊が、冬のルアルゴーには旅立てなかったために、半年近く遅らせることになったのである。ルーンとしては、にこやかに喜べるものではなかった。
フィリエルは、そしらぬ顔でユニコーンに話しかけた。
「ルアルゴーの夏はグラール一よ。ルー坊、あなたも荒れ野が気に入ったでしょう?」
若いユニコーンは、全身で賛意を示し、駆け出したくてうずうずしていた。フィリエルは笑って、彼のたづなをといてやった。
「ほら、しばらく遊んできなさい。呼ぶまでもどってこなくていいのよ」
放たれたユニコーンは、優雅に跳ね飛んでいった。この春に角がはえだしてから、ルー坊の容姿は見違えるようなものになっていた。灰色の産毛がとうとう生え替わったのだ。
ギルビア家のユニコーンは、馬と一線を画《かく》すところとして、その鮮やかな体色があげられたが、ルー坊もまったくその例にもれなかった。新しく生えた彼の体毛は、この上なく目立つ空色をしていたのだ。たてがみは銀色味のある白で、死んだアーサーのたてがみに似ていたが、異なるところは、角のそばの一房が濃紺《のうこん》色をしていることだった。しっぽの毛にも、一房紺色が混じっている。
ギルビア家に伝えたところ、ユニコーンの「三毛《みけ》」はきわめてめずらしいということで、わざわざオーガスタ王女が出向いて、たしかめにくるほどだった。彼女は、育てにくい雄のユニコーンを、よくここまで大きくしたとほめてくれたので、フィリエルは大得意だった。ルー坊にかけた苦労と愛情だけは、だれにも負けないつもりだったのだ。
ただ、ここまでりっぱになったユニコーンに、ルー坊という名前はふさわしくないというのが、だれもの一致した意見だった。文学家のアデイルが、「ルーシファー」という名前はどうかと提案したが、フィリエルはその語源をよく知らなかったので、ひとまず保留にしてある。
しかし、単独で育てたせいか、彼はやっぱり風変わりなユニコーンになった。一番の好物がゆでたまごだというのは、その一例だ。成獣《せいじゅう》のユニコーンは小食で、新鮮な肉を好むのがふつうだというのに、ルー坊はいつまでたっても大食いで、ゆでたまごやパンやお菓子を好んだ。うっかり出しておくと、つまみ食いをされてなくなってしまう。
この若いユニコーンが、ルーンを最大のライバルとみなして攻撃することも、同じような一例だった。フィリエルはあまりに恥ずかしくて、このことをとうとうオーガスタ王女には言いだせなかった。とはいえ、ルーンにとってこれは死活問題だった。ルー坊に螺旋《ら せん》状の角がはえてきたからには、フィリエルと仲よくして頭突きをされたら、そのまま命にかかわるのだから。
と、いうわけで、ルーンにはこの場で不機嫌になる理由が、ありすぎるほどあるのだった。
(……フィリエルと二人きりで旅行できると思ったのに。そうしたら、あんなこともこんなこともできたはずなのに……)
フィリエルはそういうことに鈍感なので、感知《かんち 》せずに言った。
「ねえ見て。ルー坊は、セラフィールドの荒れ野によく似合っている。そう思わない?」
荒れ野を駆けゆくユニコーンは、南国の花のように場違いのはずなのに、彼は不思議とそうではなかった。北の高地の青い風景に、空色のユニコーンは難なく溶けあっていた。
「本当に来てよかった……そう思うでしょう?」
ルーンはため息をついた。
「こんなふうに、よけいなおまけがつかなければね……」
よけいなおまけのもう一人、長身のケイン・アーベルは、つば広の帽子を頭にして後ろに立っていた。
「ここは、たいへん興味深い土地ですね。この場所にギディオン・ディー博士が、十五年以上もおられたと思うと」
ケインはにこやかに、当然の口ぶりでつけ加えた。
「部下たちに付近を当たらせましたが、現在あやしい者はどこにもいないようです。ホーリー家も天文台も、まったくの無人のようですから、行ってもさしつかえありませんよ」
「……」
ルーンは| 憤 《いきどお》りをあらわにして、ぷいと離れて行ってしまった。もっとも、ケインは彼のこうした態度にはよく慣れていた。
「彼は、ご機嫌ななめのようですね」
「ごめんなさい……あたしたち、この土地に他の人がいることに、慣れていないのよ」
フィリエルは弁解した。彼女もちょっぴり不快に思ったことを、否定できなかったのだ。
「わかっていたはずなのに……メニエール猊下《げいか 》の反感を買ったのは、このあたしなんですもの」
真実を言えば、セラフィールドへ来るのに半年かかったおもな原因は、ルー坊のせいだけではなく、第三の女王候補に上がったフィリエルをめぐるごたごたのせいだった。そのために、しばらくは遠方へ旅行するなどもってのほかだったのだ。
夏がきてようやく、フィリエルとルーンはアンバー岬のロウランド家へ逃げこむことができた。そこへ、ケインがヘルメス党の手勢をひきつれてきて、やっとのことでセラフィールドへ出かけるはこびになったのである。
「今の状況下で、ルーンと二人きりで気軽に出かけられる場所など、グラールのどこにもないってことは承知しているの。女王陛下のご決定に従うつもりなら、それもしかたないって、もう肝にすえたはずだったし、こうして警護してもらってありがたいと思っているの。ただ……」
何度も息を吸ってから、フィリエルはやっと言った。
「あたし……なんとなく、ここへ来れば、博士がもどっていて迎えてくれるような気がしていたの。ルーンもきっと、同じなのよ。だから、態度が悪いのは許してね」
ケインはうなずいた。
「故郷の土地には、だれでも特別の思い入れがあるものです。わたしは気にしてませんよ、まいりましょう」
がらんどうのホーリー家をちょっとのぞいてから、フィリエルはケインとともに天文台へと向かった。塔の書斎へ上ると、ほこりが降り積もっているにもかかわらず、そこは以前とほとんど変わらなく見えた。窓に向かった机。床に散らかった書物。斜めにかかるはしご段。一気に駆け上がったフィリエルは、上の空でふりむく博士のまぼろしを、ほとんど見たような気がしたくらいだった。
けれども、ディー博士はそこにいなかった。書斎の暖炉には、フィリエルたちが必死で燃やした禁書の灰がそのままに残っていた。もう何年も人のいた気配はなく、しずまりかえったなかに、響くのは彼女たちの靴音だけだった。
(博士はいない……南の星の下へ行ったのだから。ううん、違う。博士はあの日、おかあさんのもとへ出かけて行ったのだ……)
初めてフィリエルは、疑念をはさまずにそう考えた。
今のフィリエルなら、理解することができる。ディー博士が夢中で研究に没頭した理由。泥炭を掘りに出かける以外、決して塔を離れなかった理由。
博士にはそれしか許されなかったのだ。
すべてを捨てて、博士とともに生きることを選んだ女王候補エディリーンは、だれからも忘れられた北の果てで、ひっそりと淋しく息をひきとった。フィリエルの顔を見るたびに、博士はそのことをつきつけられたに違いない。
いちはやく文字を覚えたフィリエルが、エディリーンの書き遺《のこ》した青い本――挿し絵もたぶん、彼女の自筆だったのだ――を、熱心に読むのを見て、博士が何も感じなかったはずはないのだ。
そして、ホーリーのだんなさんは、看守の立場を承知しながら、ディー博士に賛同し、こっそり闇の組織にも参入していた。組織を通じてルーンをつれてきたことを、おかみさんにもだれにも言えなかった。気のいい彼は、相反するさまざまな思いに一人で苦しんだに違いない。
それにしては、彼らは、フィリエルにやさしかったではないか。小さな女の子が傷つく言葉を一度も口にせず、ここで生まれ育った子どもに、セラフィールドの深い絶望には気づかせまいとした。フィリエルの前では、淡々と穏やかに日々を送ってみせ、できるかぎりのことをしてくれた。フィリエルは実際、十五歳になるまで、何一つ気がつかなかったのだ。
(それが、愛情だったのかもしれない……)
ほこりの積もった塔の書斎に立って、フィリエルは切なく考えた。あの博士の上の空が、愛情だったのかもしれない――と。
ケインが静かに寄ってきて、ハンカチをさしだした。涙がほおをつたっていたことに気づいて、フィリエルはあわてて手でぬぐった。
「平気……泣くつもりじゃなかったの。ただ、ちょっと、なつかしくて」
無理にも明るい声を出して、フィリエルは彼に言った。
「ここにいても退屈でしょうから、先に下へ行っていてくれる? あたしはもう少しだけ、天文台をなつかしんでいたいから」
ケインは少々気づかわしげに見たが、そっとしておくべきだと判断したようだった。
「それなら、部下たちといっしょにホーリー家の付近にいます。ルー坊から目を離して、あまり遠くへ行かれても困りますからね」
彼は軽い足音をたてて階段を下りていった。フィリエルは、その足音が消えてからもしばらくたたずんでいたが、やがて、斜めのはしご段に手をかけた。
上げ蓋を上げて屋上にはいだすと、雨ざらしになった観測器具は、さびがういて目もりも動かないものになっていた。大時計は針が折れ、雨よけと文字盤のすきまに鳥が巣をつくっている。それらの計器をすりぬけて行くと、思ったとおり、胸壁に寄りかかっているルーンの背中を見つけた。
隣に並び、同じように胸壁に寄りかかると、はるかに広がる荒れ野の眺めのなかに、嬉々として駆け回るルー坊の空色の姿があった。
「ルーン……」
フィリエルが呼びかけると、ルーンはようやくこちらを向いた。灰色の瞳がほの暗く見えた。ほんの小さいころから、悲痛を知っていた者の顔。でも、それだけではないはずだった。
彼もまた沈黙を知っていた。それを、自分のやさしさとしていた。そういう意味で、ルーンはまったく正しくセラフィールドの男衆だった。そして、今はその最後の一人だった。
「……あたしたちが、二人だけで来られなかったこと、残念だけど、あたしはエディリーンのお墓にまで他人をつれていく気はないのよ。たとえそれが、忠実なケインであっても」
フィリエルがささやくように言うと、ルーンは疑わしそうに見つめた。
「ケインがいたほうが安全だよ。そう思っているんだろう?」
「彼は有能だから、だしぬけないかもしれないけれど、何ごともやってみないと」
フィリエルはほほえんだ。
「それとも、いや? 女王になるかもしれない女とあぶないことをするのは」
ルーンの表情がわずかに変わり、彼は向きなおった。
「いやじゃない」
「あたしがすることは、これから先、とってもあぶないことばかりになると思うの。そういう人間のそばにいるのは、もう、いや?」
「いやじゃない」
ルーンはもう一度言った。
「だいたい昔っから、フィリエルのそばにいるのは、いつだってあぶなっかしいことだったじゃないか。わかっていたよ、最初から」
「そう?」
フィリエルはわからないふりをしたが、なんとなくわかるような気もした。それから、フィリエルは書斎でかみしめていたことを口にした。
「ルーン。博士は行ってしまったけれど、きっと安心したからなんだと思うの。ルーンが後に残っているから、ルーンが天文台へ来たから、博士は出ていくことができたのよ」
「ぼくも、そのことについて考えていたよ……」
手すりに目をやってルーンは言った。
「ディー博士の志を最大限に継ぐには、どうしたら一番いいかということを。研究のこともだけど、そのほかも。ずっとフィリエルのそばにいることは、たぶんその一つなんだ」
フィリエルは息をのんだ。
「本当? それ、おかあさんのお墓の前でもう一度言ってくれない?」
「言わない。フィリエルが、そんなにおとうさんっ子でなくなってからなら言う」
「なによ」
ルーンの返事にフィリエルがむっとすると、ルーンはかすかに笑ったようだった。そして、フィリエルの手をとった。
「行こう、エディリーンのお墓参りへ。そこではもっと別なことを言うよ。悪魔がじゃまをしに来ないうちに」
手をひかれながらも、フィリエルはめんくらった。
「何がじゃまをするですって?」
「ルーシファーのことだよ。フィリエルって本当に不勉強だな」
二人はこそこそと塔の階段を下り、ケインが見ていないのを見すまして、手をとりあって岩山の上《かみ》へと駆けていった。その墓がどこにあったかは、いまだに二人しか知らない。
[#地付き]終
[#改ページ]
解説  情と知の黄金比
[#地付き]酒寄 進一
文庫版『西の善き魔女』は、いよいよ次の「真昼の星迷走」をもって完結する。本書「金の糸紡げば」を読んだら、最終巻が出るまでのすこしのあいだ、第一巻「セラフィールドの少女」にもどって余韻につかり、来るべき大団円にむけて気分を高めておくのがいいかもしれない。ぼく自身、ハードカバー版の外伝としてこのパートを読んだとき、衝動にかられて物語のはじめに立ちもどって読みなおした思い出がある。
この巻では、幼い頃のフィリエルとルーン、そしてふたりを取り巻く身近な人々の心情が、秋から冬、春、夏へと季節をめぐる美しくも厳しいセラフィールドの自然を背景に見事に描きだされている。本編の前史のようなものだから、当然、これまではりめぐらされたいくつもの伏線の意味が明かされる。それを踏まえながら、本編を読みなおすと感慨がまたひとしおだ。
第七巻の冒頭にはルーンの名前のもとになる『グリム童話集』の話「ルンペルシュティルツヘン」からの引用がある。その一節に「このむすめは、わらを金につむぐことができるのでございます」という「父」の言葉がある。もちろん「娘」にそんな能力はない。一方、ディー博士は娘のフィリエルに過大な期待をしないが、当のフィリエルが自分から「わらを金につむぐ娘」になろうと懸命に背伸びする。愛されたい一心で空回りする、そうしたフィリエルのいじらしさと葛藤を、十五歳以後のフィリエルの生き方と重ね合わせてみてもおもしろい。
名もない少年としてセラフィールドに連れてこられ、ディー博士の弟子となるルーンはどうだろう。かたくなに閉ざしていた心の殻を破って、しだいに癒され自分を取りもどしていく。そうした心の軌跡を追い、彼のその後の行動に納得したりやきもきしたりしてみるのもいいだろう。
だがぼくがはじめて本書を読んだときにまず振り返ったのは、フィリエルのことでもなく、ルーンのことでもなく、ふたりが子ども時代を過ごしたセラフィールドの風景だった。第一巻にこんな風景描写がある。
「この地方の色の主役はいつも青だった。蒼穹の青、山陰の青、湖の青、そして海、これらの静謐な色合いを友とすることが、セラフィールドの高地に暮らすことだった」
これがフィリエルの目から見たセラフィールドだとしたら、ルーンはすこし違った風景を本書で見いだしている。
「あの赤い色の髪の毛が目に入った。この淋しい土地に、彼女ほど輝く色をして絶えず踊っているものはなかった。この女の子は、一瞬目を離すともう違う表情をしている。(中略)フィリエルは、この荒れ野に似ているとルーンは思った。凍てつく寒さも雷鳴のとどろく嵐も知っているが、人の足にふみにじられたことだけはない。だからいつでも吹く風のすがすがしい香りがする」
人の足にふみにじられてきたみなしごのルーンの目に、フィリエルがどんなにまぶしく映ったかよくわかる。この引用を例にとれば、このシリーズ全体の底流をなす色は「青」、あこがれの色は「赤」ということになるだろう。そのイメージはフィリエルとルーンがそれぞれ冬至の祝いでもらう青と赤の毛糸のミトンとも重なるし、「青」はフィリエルの母の形見「エディリーンの首飾り」や母の肖像画「青の姫君」にも通じる。
そしてもうひとつ、「青」の代名詞ともいえるセラフィールドを、ルーンが「楽園のような避難所」ととらえていることも重要だろう。「楽園」という言葉は「星々の楽園」というフレーズでなんども目にするし、その意味するところは最終巻で明かされるが、ここでは人が心の中に見いだす「楽園」、人に生きる力をあたえるものという、「星々の楽園」とはまったく違った意味合いが浮かびあがってくる。
本書を読むと、ふたりをつなぐ絆がすでにこんな幼いときにできていたことがよくわかる。その絆をはぐくんだのがセラフィールドの荒れ地であるとすれば、それをさらに強固なものにしていくのが、そこでふたりが体験するさまざまな事件だろう。
ひとつ例をあげるとすれば、荒れ地でふたりが迷子になるという事件がある。フィリエルが、ルーンさえいなければいいんだと思い込み、ルーンを殺して、自分も家出しようとして、結局迷子になったのだ。このときルーンはフィリエルに「怖いときのおまじない」を教える。
「1、1、2、3、5、8、13……これを続けるんだよ。前の二つの数字の和を、次にもってくるんだ。(中略)たくさん続けると、数の比がどんどん2分のルート5マイナスlに近づくよ。黄金比というんだって」
ふたりの関係はまさに、安定した美しさの比率とされるこの黄金比に近づいていくふたつの数字のようだ。この黄金比をキーワードにして、ふたりがどうやって自分たちの関係を自覚していくかを本編で味わいなおしてみるのもおもしろいかもしれない。
ところで、第二巻の解説では「楽園の言葉」をこのシリーズの切り口として考えてみた。セラフィールドという「楽園」で心がつながるフィリエルとルーンは、もはやグラールの宮廷に伝わる「気の利いたほのめかし」である「楽園の言葉」などまったく必要としない境地に達しているともいえるが、ここでは今一度、このシリーズのもうひとつのおもしろさとして「楽園の言葉」に目を向けてみたい。
というのも、ハードカバー版で外伝として収められている本書、「銀の鳥プラチナの鳥」(文庫版第五巻)、「真昼の星迷走」(文庫版第八巻)の三編ではふたたび『グリム童話集』との親和性が図られているが、第二巻以降、右の三編をのぞく他の巻ではもうすこし趣向を凝らした意味深長な副題がつけられているからだ。列記すると第二巻「秘密の花園」、第三巻「薔薇の名前」、第四巻「世界のかなたの森」、第六巻「闇の左手」となる。
じつはこの四つの副題には他の作家によるオリジナル作品がある。バーネットの『秘密の花園』は、いうまでもなくアメリカ児童文学の古典とまでいわれる作品。もちろんフィリエルが送り込まれたトーラス女子修道院付属学校という「花園」の「秘密」はバーネットがイメージした「秘密」とはちがうが、閉じた空間という「花園」の重なり具合と「秘密」のずれをくらべながら読んでみるのも楽しいだろう。
イタリアの作家ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、中世の修道院で「ヨハネの黙示録」をなぞるように起こる連続殺人事件を中心に展開するミステリアスな歴史小説だ。血なまぐさい事件の果てに「薔薇」は美しい村の娘に結びつく。「楽園の言葉」として使われる『グリム童話集』の「雪白とバラ紅」、真紅のドレスに身をつつみ、円舞曲を舞い踊るアデイル、そして暗躍する宮廷の人々を思いだせば、さまざまな連想ができるだろう。
『世界のかなたの森』は、未知の世界を求めて旅に出た若者が、貴婦人と乙女と小人という謎の三人連れに導かれ、「地の裂け目」から不気味な森に踏みこんでゆくイギリスのウィリアム・モリスの古典的なファンタジー作品。「若者」をいさましく竜退治に向かうユーシスに、「貴婦人」をアデイルに、「乙女」をフィリエルに、「小人」をルーンに、そして「不気味な森」を竜の出没する「世界の果ての壁」に当てはめてみるのは深読みのしすぎだろうか。
『闇の左手』は、定期的に男性性と女性性がいれかわるという種族が暮らす星を舞台にして「男性と女性」とか「光と闇」という対立項を根本から問い直すアメリカのアーシュラ・K・ル・グィンのSF作品。第六巻の章の内訳を見ると「ポーンの言い分」「ナイトの言い分」「クイーンの言い分」。ポーンが一定の条件でクイーンになれるチェスになぞらえた話の展開でグラールにはびこるさまざまな対立項が重層的に描かれていくところがおもしろい。
先ほどフィリエルとルーンの関係が黄金比にたとえられると指摘したが、シリーズ全体を眺めわたすと、その魅力は登場人物たちのこうした情の深さに加え、「楽園の語り部」たる荻原規子さんの知的な遊びの裾野の広さにもあるように思う。『西の善き魔女』は情と知の両面を和合して、黄金比に近づこうとする作品だともいえそうだ。
[#地付き](和光大学教授)
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底本:「西の善き魔女Z 金の糸紡げば」中央公論新社、中公文庫
2005(平成17)年10月25日第01刷発行
2006(平成18)年04月15日第02刷発行
入力:TORO
校正:TJMO
2007年04月28日作成
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※底本p017 13行目
段丘《だんゆう》のようなその斜面を乗り越え、
―――段丘《だんきゅう》。ルビ振りミス。訂正済み。