西の善き魔女5 闇の左手
荻原規子
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目 次
第一章 ポーンの言い分
第二章 ナイトの言い分
第三章 クイーンの言い分
あとがき
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[#地付き]口絵・挿画 きがわ琳
[#地付き]カット 和瀬久美
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西の善《よ》き魔女 東の武王《ぶ おう》
賢者《フィーリ》と詩人《バ ー ド》を呼びだした
氷の都をおとずれた
真昼の星がおちたらおしまい
あなたの背中に立つ人だあれ
(フィニステール地方のわらべ歌)
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第一章 ポーンの言い分
一
南国の森に今日の太陽が昇り、ただよう靄《もや》とからみあう梢《こずえ》をくぐり抜けて、黄金色の光線が地上に届いた。目覚めた少女は、籐《とう》細工のベッドを出ると、猫のようにしなやかな伸びを一つした。
少女の部屋にある家具は、衣服をしまう箪笥《たんす 》も背もたれのある椅子も、白っぽい籐を編んだ細工でできていた。彼女はハイラグリオンの王宮で、温室に似たような工芸品が置かれているのを見たことがあったが、このあたりではありふれた品物のようだった。
麻《あさ》のシャツを頭から被り、だぶつくズボンのベルトを細い腰にぎゅっと締める。それから窓の目隠しを巻き上げて、足どりをはずませて階下へ降りていった。石の堅牢《けんろう》な建物になじんできた者には、木材と植物のつるばかりでできた家は、ままごとのようでおもしろかった。風通しがよく、たよりなく、戸外に暮らしているような感じがする。
実際はこの家屋も、カグウェルの民家と比べればかなりりっぱな建物だった。岩壁に守られ、トンネルから出入りするという、いかにも山賊にふさわしい住みかではあったが、母屋《おもや 》は横に長く伸び、離《はな》れがいくつも並び、ちょっとしたお屋敷の様相《ようそう》である。
それというのも、これらが「研究施設」だったからで、研究者というものは、あまり一カ所に固まってものごとに取り組むことができないからだった。
屋根などの一部は大きな葉で葺《ふ》いてあったが、南国にあってはこれで充分だ。防寒を目的としなければ、家などいくらでも簡素になるものだと、北国生まれの少女はつくづく考えた。すぐに壊《こわ》れるとしても、補修《ほしゅう》や建て替えの材料には事欠かないのだから。
戸口を出て少し行くと、近くの泉をひいた水場がある。家のなかでも顔を洗うことはできたが、フィリエル・ディーは外の水場が気に入っていた。木陰の樋《とい》から澄んだ水が間断なくあふれ、鳥たちの合唱をシャワーのように浴びて、朝の気分を満喫《まんきつ》できるからだ。
こうした生活をするようになって、三カ月以上がすぎていた。わき水で洗顔をすませたフィリエルは、赤みがかった金髪をなでつけながら、ふと不思議な気分になって光さす木立を見上げた。
(……こうしていると、永遠にこのまま月日がたつような気がする……)
岩壁と三方の分厚い森にさえぎられて、この場所には世間の動静《どうせい》が何一つ聞こえてこなかった。隠者《いんじゃ》同然に暮らすヘルメス党研究部の人々が、世の中にうとくなるのはうなずける。うろつく竜さえも気にせずに暮らせるなら、この森は、禁じられた異端《い たん》の研究を続ける人々にとって、仕事に専念《らんねん》できる別天地《べってんち 》だった。
けれどもフィリエル自身は、それほどきっぱり忘れることはできなかった。かつてない大量の竜《りゅう》の侵入に、小国カグウェルは大|揺《ゆ》れに揺れているはずなのだ。弱体《じゃくたい》の王家はもちこたえられないかもしれず、竜退治と外交のはざまに立った騎士《きし》ユーシスは、おいそれとグラールへ帰国できずにいるかもしれなかった。
(どうしていらっしゃるかな、ユーシス様。そして、イグレインは……)
自分のとった道を後悔するつもりはないフィリエルだったが、彼らに二度と顔向けのできない身なのだと思うと、やっぱり胸が痛んだ。
(死んだと思われているなら、そのほうがいい。こうして生きていることのほうが、許せないでしょうから……)
考えにふけっていたフィリエルの耳に、鳥の声に混じって、あまり音楽的とは言えない野太い歌声が響《ひび》いてきた。フィリエルがここへ来た翌日に、早くも覚えこんでしまった歌声だ。
「いざ立て、いくさびとよ。いざ行け、すーすーめ……」
フィリエルの聞く限り、その歌が出だしから先へ進んだことは一度もなかった。熱心な話し声をはさみ、調子っぱずれの度合《ど あい》を少しずつ変化させながら、同じフレーズが三回くり返されたときに、バーンジョーンズ博士の姿が現れた。
「おはよう、フィリエル。今朝も美人だね」
がっしりした体格で、白い蓬髪《ほうはつ》と眉毛が逆立っており、目がいつもびっくりしているような印象を与える博士は、歌のように高らかに告げた。そのわきには、彼のしなびた影のようなエイハム助手がおり、こちらは黒い八の字眉をして、もの悲しげにおはようと言った。
「おはようございます、バーンジョーンズ博士、エイハム先生。今度の実験は、ずいぶんよい結果がでたんですね」
昨日もおとといも歌を聞いているので、フィリエルにもそう言うことができた。大柄な博士はからからと笑った。
「なに、これはほんの小さな一歩にすぎないがね。人類にとっては大きな一歩となることだろう」
実験が順調なときの彼は、だれにでも大声で話しかけ、この森の研究所で一番そうぞうしい人間だ。しかし、霊感《れいかん》にみちた彼の実験は、失敗することも多々あり、すると極端に打ちしおれて、まる一日くらい涙目《なみだめ》だったりした。
(まさか、思いもよらなかったわよね。ヘルメス・トリスメギストスが、こんな人物だったとは……)
バーンジョーンズ博士にほほえみかけながら、フィリエルはこっそり考えた。初めて紹介されたときには、かつがれていると思ったくらいだ。フィリエルが想像していたヘルメス党の最高指導者は、貫禄《かんろく》と威厳《い げん》に満ち、何ものにも動じることのない、高邁《こうまい》な老賢者《ろうけんじゃ》だったはずなのに。
バーンジョーンズ博士も高齢ではあるのだが、どこか子どもじみたところがあって、ささいなことでかんしゃくをおこした。それはあっというまに収まるのだが、気分屋の彼には、エイハム助手のような人間でもなければ、相方《あいかた》がつとまらないかもしれなかった。エイハム助手は、どれほど興奮することが起こっても葬式に出たような顔をしているが、落ちこむこともまた皆無《かいむ 》なのだ。
けれども、フィリエルにも、なぜバーンジョーンズ博士がヘルメス・トリスメギストスの地位にいるのかが、少しずつわかってはきていた。フィリエルの父親とは完全に異なるタイプだが、バーンジョーンズはひらめき型の学者であり、その鋭《するど》い洞察《どうさつ》を、自分の研究に使うのと同じくらい、他者の可能性を見抜くことにも発揮《はっき 》できるのだ。そして、見込んだ人物には惜しみなく強力に支援をそそいだ。
この森の住みかに集う、研究に従事する人間たちは、彼が集めたようなものだ。そして、老博士のさわがしい陽気さが、ときに迷惑がられながらも、人づきあいの悪くなりがちな研究者たちをつなぎとめていた。
「さてさてフィリエル。このところ、君の実験は順調に進んでいるかね」
老博士は、若い研究者にたずねるように少女にたずねた。
「あたしの実験――ですか?」
フィリエルはとまどってから、うらめしそうな顔で彼を見た。
「もしかして、あたしの料理のことをおっしゃっています?」
フィリエルはケインにはげまされて、少しずつ料理を習っているのだ。だが、今のところ、食卓デビューには長い道のりがありそうだった。ルーンに味見をさせようとすると、彼は決まって悲壮《ひ そう》な表情を浮かべるのである。
「おや、料理をしていたのかね? それは知らなかったよ。わしが言ったのは、君のユニコーンの飼育《し いく》についてだ」
まなこを見開いてバーンジョーンズ博士は言った。フィリエルはすばやく笑顔になった。
「ああ、ルー坊でしたら、すくすく育っています。少しは分別《ふんべつ》もでてきて、前ほど手もかからなくなったみたい」
ルー坊も今では、ほっそりした小馬《ポ ニ ー》程度の大きさになっていた。足腰も強くなっており、フィリエルがたわむれに背に乗ると、短い距離なら運べるくらいだ。だが、額の角《つの》はまだ影もなく、灰色の産毛《うぶげ 》も生え替わっていなかった。
「ユニコーンには謎が多い。成長の記録には価値があると、わしは考えておるよ。だれもができることではないのだから、これからも、こまかいところまで書きとめておきなさい。それもりっぱな実験記録だからね」
「ありがとうございます。そうします」
老博士の言葉に、フィリエルはうなずいた。彼女をお客さん扱いせず、ひとからげに研究|従事者《じゅうじしゃ》と考える、彼のふところの深さがありがたかった。だからこそフィリエルも、ここにいて役立たずの気分にならずにすむのだ。
それまで黙《だま》っていたエイハムが口を添えた。
「お嬢さん、仮説《か せつ》をたててみるといい。あなたが言うように、ユニコーンが見た目よりも鳥類《ちょうるい》に寄った生き物ならば、産毛は少なくとも生後一年以内に抜け替わるはずだからね」
「ええ。そのことですけど――」
フィリエルはルー坊の産毛を調べてみて、犬や馬の毛よりも羽毛《う もう》に近いと結論したのだ。それならユニコーンのたてがみは、鳥の冠毛《かんもう》と同じものかもしれなかった。しかし、フィリエルが言いかけたそのとき、朝の大気をふるわせて、ものすごい爆音がとどろいた。
「…………」
泉のかたわらにいた三人は首をすくめ、森に響きわたった音の残響《ざんきょう》がおさまるのを待った。もっとも、だれにとっても、これは初めて聞く爆音ではなかった。火薬の実験をしているスミソニアンの研究室からは、往々にしてこんな音が響いてくるのだ。
鼻のわきをかいてから、バーンジョーンズ博士がおもむろに言った。
「しかし……今朝のは、久しぶりにでかかったような気がするな」
エイハムが冷静《れいせい》な声で答えた。
「あの様子では、屋根が吹きとびましたね」
「それなら、また残骸《ざんがい》に埋まっているかもしれん。行って、掘り出してやるとするか」
彼らがおうような態度でスミソニアンの離れへと足を向けたところで、母屋《おもや 》から出てきたケインと出くわした。
「久々に、今のは大きくありませんでしたか?」
「ああ、行ってみようと思ったところだ」
やせた長身をし、いざというときには身ごなしがすばやく、研究者たちと違って現実の世界に生きているケインは、多少あわてた顔をしていたが、フィリエルがいることに気づくと、安心させるように笑みを浮かべた。
「おはよう、フィリエル。いい朝ですね」
「おはよう、ケイン」
フィリエルも、彼の気づかいに笑顔で応えた。ヘルメス党の人々のなかで、フィリエルがもっとも共感をいだいているのは彼だった。ケイン・アーベルは、研究に従事する人間を庇護《ひご》して、つつがなく実験|三昧《ざんまい》をさせるために、すすんで雑用係をこなす人物の長《おさ》だ。そのために要求される高い能力は、才能ある研究者に劣らないものだと、フィリエルはつねづね考えていた。
フィリエルがケインに好意をもつもう一つの理由は、彼が現在、おもにルーンのおもり役をつとめているからだ。彼の苦労はフィリエルの苦労でもあり、同情を禁じえなかった。
「もしかして、今の爆発に、ルーンがかかわっているなんてことはないでしょうね」
フィリエルはにこやかにたずねた。ケインは、ほほえみながら肩をすくめた。
「残念ながらと言っておきますが。実のところ、ルーンは昨日の夕方から、スミソニアンの研究室へ行ったきりなんですよ」
仲間の住みかからもっとも離れた建物にある――それが当然の措置《そち》だったが――スミソニアンの研究室は、今、もうもうたる煙《けむり》のなかから、崩壊《ほうかい》した様相を現しつつあった。壁《かべ》の半ばは崩《くず》れ落ち、屋根のほとんどは消失《しょうしつ》している。
とはいえ、彼の研究室の屋根が、乾燥《かんそう》させたヤシの葉以外で葺《ふ》かれたことはほとんどなかったので、だれもそれほど心配してはいなかった。爆音を耳にして集まった人々は、片づけなければならないゴミの山を見て、うんざりした表情になっただけだ。
「いやー、まいったまいった」
掘り起こされたスミソニアンは汚れきっており、打ち身程度はこしらえていたものの、みんなが予想したとおりのしぶとさだった。救助の人々を見回して、ひょっひょっと聞こえる独特の笑い声をもらした。三十代の小男だが、爆発慣れしてしまった代償《だいしょう》なのか、目つきが少々異様に見える。
「純化《じゅんか》の威力《いりょく》を見よ。君の計算上では、これほどの破壊力は予知《よち》できなかっただろう。しかしこいつは、最終段階のメモまで吹き飛ばしちまったようだぞ。ひょっひょっひょ……」
爆発で意識が混濁《こんだく》しているようなスミソニアンだったが、まもなく人々にも、彼がそばのだれかに話しかけていたことがわかった。少し離れた場所で残骸が崩れ落ち、黒髪の少年が現れたからだ。
頭をふってくずを払い落とし、ひとしきり咳《せき》こんでから、ルーンはむっつりした口調で言った。
「一つ前の段階なら、正確に数字を言ってみせるよ。最後のさじ加減は、あんたがいけないんだろう」
「何を言っている。もともと、火薬で武器を作ろうという発想がだね――」
スミソニアンは討論を続ける気配だったが、フィリエルは無視して、さえぎるようにルーンの前に立った。そして、彼もたいしたけがをしていないことを検分《けんぶん》してから、怒った声を出した。
「ルーンったら。いったいどこに顔をつっこんでいるのよ」
少年は、煤《すす》まみれの黒ぶちメガネをはずし、フィリエルがそこにいるのを見てとった。そして、眩《まぶ》しがるような表情になったが、メガネの跡だけ白く残ったその顔は、はっきり言って珍妙《ちんみょう》だった。
情況《じょうきょう》に左右されないバーンジョーンズ博士が、残骸のなかのルーンに身をかがめてたずねた。
「君は今度、火薬の研究にも手をつけはじめたのかね?」
「ちがいます」
ルーンは半身|埋《う》もれたまま老博士に答えた。
「ちょっと思いついたことがあったので、スミソニアンに試してもらっていただけです」
この少年が、行方不明になったフィリエルの父、ギディオン・ディー博士の愛《まな》弟子であり、彼の天文学を継承《けいしょう》した唯一の人物であり、ヘルメス党の最新の加入者、異端に抵触《ていしょく》する研究者として最年少のメンバーだった。
ディー博士が彼に与えた名前は、正確にはルンペルシュツルツキンというが、娘を含めてだれ一人、そう呼ぶ努力をする者はなく、もっぱらルーンで通っている。
フィリエルの幼なじみの少年は、最近少し背が伸びたようだが、いぜんとしてやせぎすで、身づくろいにも向上が見当たらなかった。無愛想な態度も万年同じだったが、それでもフィリエルには、彼がこの特異な隠れがで、水を得た魚のようにふるまっていることが、ひそかに感じとれるのだった。
アストレイアの教義に異端とされる研究を介《かい》することで、ルーンははじめて、積極的に他人とかかわることができたようだった。人見知りの激しい彼が、これほどわずかな期間のうちに、見ず知らずだった人たちと交流するようになるとは、今までなら思いもよらないことなのだ。
ルーンのために、ここへ来てよかったと心から思うフィリエルだったが、早朝から爆発現場に埋もれているルーンを前にすると、いくらか疑わしくなるのも事実だった。
「この爆発は、つまり、あなたがそそのかしたものだったの? 火薬にかかわるのはやめてって言ったでしょう。あなたの場合、そのうち自分を吹き飛ばすに決まっているんだから」
「決まっているなんて、どうして言えるんだい」
フィリエルの口ぶりに、ルーンは少々むきになった。
「無謀《む ぼう》だもの、あなたって人は」
「ぼくはスミソニアンよりも、もっと堅実《けんじつ》に計算していたんだよ。これは不慮《ふ りょ》の事故だったんだ」
フィリエルが彼に応酬《おうしゅう》する前に、ケインがすばやく口をはさんだ。
「不慮の事故でも結果は結果です。フィリエルお嬢さんの言うとおりですよ。これ以上、気の毒なスミソニアンを刺激しないでください。火薬フリークは一カ所に一人でたくさんだ。後始末が手に負えなくなるではないですか」
ルーンはうらめしそうにケインを見た。
「スミソニアンが到達しなくても、だれかがいつかははじめるよ。ぼくは、火薬を武器に応用できるかどうか、実験してみたかっただけなんだ」
バーンジョーンズ博士は鼻をこすりながら考えていたが、ヘルメス・トリスメギストスとして、ここはひとつ訓戒《くんかい》が必要と判断したようだった。
「ルーン君、われわれはどうあっても女王に罰される異端の集団ではあるが、それでも、越えてはならない一線というものがあるのだよ。つまり、自分たちですら正当と考えられなくなることに踏み出せば、協力する人々は離散《り さん》するし、転落はあっというまだということだ。すでに法を破ったわしらに残るのは、みずからを人類に価値ありとする、おのれの自負《じふ》だけなのだからな。研究による殺傷武器の開発は、われわれが危険視すべき転落のもとだよ。けっして推奨《すいしょう》はできんね」
フィリエルはたいへん納得できると思ってうなずいていたのだが、ルーンは不服《ふ ふく》そうだった。
「ぼくは、ただ、もっと『壁』の研究をしたいだけです」
彼は仏頂面《ぶっちょうづら》で老博士に言いつのった。
「ディー博士があばこうとした、世界の果ての壁の正体を、ぼくはもっと詳しく調べてみたいのに、そこの人が、もう一度壁を見に行くことを許してくれないんだ」
そこの人とはケインのことで、ルーンのおもり役の彼が、危険が大きすぎると言って禁止しているのだった。
「だから、ぼくは、携帯できる強力な武器を作ってみようかと思った、それだけです」
「ふーむ」
老博士は口ひげをいじって、うなり声を出した。
「世界の果ての壁に関しては、われわれが一朝一夕《いっちょういっせき》にどうこうできるものではないよ。女王|試金石《し きんせき》も同様だ。これらのものの存在と、われわれのもてる知識の間には、埋めねばならない隔《へだ》たりが、まだまだたくさんありすぎる。地道に研究を続けるしかないだろう」
「だからと言って、よく観察もせずにみんなで敬遠《けいえん》していたら、いつまでたっても、わかるものまでわからないままでしょう?」
ルーンが主張すると、老博士はころりと態度を変えた。
「それはたしかにそうだ」
「そういう安請《やすう 》けあいをなさらないでください、バーンジョーンズ博士」
ケインが苦い顔になった。
「カグウェルには今、竜にくわえて、グラールの兵士がうようよしているというのに。ルーンの安全を確保する身にもなってください」
「それもそうだ」
老博士は咳払いでごまかした。
「とにかくルーン君、君はその顔を洗ってきたまえ。それからみんなで、朝食前にこの場をできるだけ取り片づけるとしよう」
水場で顔を洗うルーンについていき、手ぬぐいをわたしてやりながら、フィリエルはたずねた。
「壁まで行きたいなんて無茶なこと、どうして言い出したの。今、出ていくことなどできないことは、わかりきっているくせに」
ルーンは顔をぬぐい、気むずかしくふいた布を見つめて言った。
「だれにも見られなければいいんだよ」
「そりゃそうでしょうけど、ケインの気苦労を考えてもみなさいな。あたしたちは、そうでなくとも彼らのお荷物になっているのだから、この上迷惑をかけるものではないわよ」
竜の道の存在をユーシスに明かし、多くのグラール兵を南の果てに呼び込んだのは、どう考えてもルーンとフィリエルなのだ。森の隠れがにひそむヘルメス党にとって、これが脅威でないはずがなく、フィリエルはその点を強調したかった。
「たとえバーンジョーンズ博士がいいと言ってくださっても、今はわがままを自粛《じしゅく》するべきよ。それともルーン、あなたには、切実な理由が本当はもっとほかにあるの?」
ルーンはしばらく黙って顔をこすっていたが、やがて、思いきったように言った。
「……ユーシスのことが、気になるんだ」
フィリエルはぽかんとして彼を見つめた。
「あいつには、その場のいきおいでバクダンをわたしてしまったし……」
ルーンは口ごもり、フィリエルは自分の耳が信じられない思いだった。フィリエルがそれを言い出したというなら、話はわかる。けれども彼女は胸に秘めて、そぶりにも見せなかったはずなのだ。なのに他でもないルーンが――貴族のいっさいを毛嫌いしているルーンが――赤毛の御曹司《おんぞうし 》を気にかけるとは。
(そんな、まさか……)
フィリエルがあまりにびっくりするのを見て、きまり悪げに目をそらしたルーンは、つぶやくように小声で言った。
「借《か》りをつくったような気がするんだ。きみのこと、結局ぼくがつれてきちゃったから……」
しかし、考えに夢中になっていたフィリエルは、その言葉を聞いていなかった。声をはりあげてたずねた。
「ルーン、あなた、本当はアデイルの小説を読んでいたんじゃないの?」
「何を読んだって」
「だって、小説に書いてあったのと行動がそっくりよ。知らん顔で別れておきながら、実は気になっていたなんて」
「だから、なんのことだって」
ルーンはめんくらって眉をひそめたが、フィリエルから詳しい説明は得られなかった。
「ぼくの理由なら、今言ったじゃないか。書いてあったってどういうことだよ」
「ルーンが行くなら、あたしも壁までついて行きます」
ふいにフィリエルはきっぱり言った。
「一人だけ行かせられやしないわ。あたしだって、外の様子を知りたいと思っていたのよ」
「フィリエルはだめだよ。いろいろ危険が増すばかりなのに」
ルーンは言ったが、琥珀色《こ はくいろ》の瞳《ひとみ》に射すくめるようににらまれた。
「ルーンと同じくらいには、だめではないわよ。これからはずっといっしょだって言ったのに、もう早くも無視する気?」
「二人で行くなんて、それこそ無謀《む ぼう》だよ。のんきに遠足じゃあるまいし」
「つべこべ言わないの。反対するなら、激辛《げきから》料理を食べさせるわよ」
フィリエルがすごんだのには、わけがあった。南方カグウェルの料理には、スパイスをきかせたものが多いが、ルーンはみんながおいしく思う辛さであっても苦手で、幼児のような舌の持ち主であることが発覚したのだ。
脅迫をうけたルーンは、瞬時に黙りこんだ。フィリエルの壮絶《そうぜつ》な料理人ぶりからすると、食べさせられたら悶絶《もんぜつ》するだろうということは、たやすく想像できたからだった。
二
意外なことに、彼らが二人で行くことに賛成したのはケインだった。考えなおしたケイン・アーベルは、ルーンにこれ以上研究所を爆破されるよりは、一度外へ出したほうがいいと結論したのだ。
「あなたがたを監禁《かんきん》する権利はないし、そうしたいと思っているわけではありません。楽観もできませんが、それはあなたがたも承知していると信じますし」
フィリエルが厨房《ちゅうぼう》にいるケインをたずねると、彼はそう言った。研究所には専業《せんぎょう》の料理人がいるのだが、ケインも料理が上手だったし、特にスパイスの調達《ちょうたつ》は、趣味と実益《じつえき》を兼ねたケインの役どころとなっているため、この場所に出入りしていることが多いのだ。
「別々に出て行かれるよりは、二人いっしょのほうが、一度ですむだけましでしょう。あなたがたのどちらも、グラール人に見つかってはことが大きくなる人物なのですからね」
ナツメグを削《けず》る手を止めて、ケインはフィリエルを見やった。彼はいつも疲れたような表情を浮かべているが、投げやりなところはなく、水青の瞳はどんなときにも辛抱強《しんぼうづよ》く穏やかだ。
「見つからないようにするわ」
フィリエルは請《う》けあった。
「今さら、知りあいの前に名のり出られないことは、よくわかっているのよ。それだけの覚悟をつけてここへ来たつもりですもの」
「あなたの覚悟はよくわかっています。いただいたダイヤモンドには、われわれ全員、おおいに助けられていますよ」
笑みを見せてケインは言った。フィリエルはせめてもと思い、エディリーンの首飾りから小粒のダイヤを全部はずして、費用にしてくれとたのんだのだ。バーンジョーンズ博士は無用の気づかいだと言ったが、ケインは言わなかった。彼らも決して、霞《かすみ》を食って生きているわけではなかったからだ。
ダイヤが役に立っていると聞いて、フィリエルはうれしかった。うれしさついでにテーブルに寄り添い、ケインに詳しい話を打ち明けた。
「ルーンがこんなふうに、自分と同じ立場でない人のことを気にしたのは初めてなの。いつだって、ぼくには関係ないって、かわいげのない態度でつっぱねていたのに。だからこそ、ルーンといっしょにもう一度壁を見に行く気になったのよ」
「彼も変わってきたということでしょうかね」
ケインはかるくうなずいた。
「わたしが見つけたころのルーンは、一番ひどい状態だったのでしょうね。満足に食べも眠りもしないようだったし、もちろんのこと、周囲の人間に目を向ける余裕などありませんでした。彼がこわばった目つきで人を見なくなったのは、ここ最近のことでしょう。彼の変化は、きっと、あなたが来てくれたせいなのでしょうね」
ケインがルーンに出会ったのは、少年がリイズ公爵の暗殺を実行した直後のはずだった。ルーンはいまだに、そのあたりのいきさつをフィリエルに語ろうとはしなかった。
フィリエルは小声でケインに言った。
「あたしは、なんでもするつもりよ。ルーンの背負ったものが少しでも軽くなるなら……それは一生かけても、忘れることのできないものでしょうけれど」
「安心していいですよ、お嬢さん。彼には探求の精神があり、大きな目標がある。そういう人間は、簡単には打ちのめされないものです。鈍感《どんかん》なくらいにね」
ケインは最後を強調して言い、それもそうだと思ってフィリエルはほほえんだ。それからケインは、さりげない口調でつけ加えた。
「あなたがたが、南の果ての壁をもう一度見ておきたいというなら、今のうちに見ておいたほうがいいのです。カグウェルの王権《おうけん》がこれ以上傾くと、この隠れがももはや安全な場所とは言えません。ここを動くとなったら、引っ越した先が壁の近くになる可能性は、まず少ないですからね」
そうしてフィリエルとルーンは公認のもと、つれだって壁を見に行くことになった。すると、だれも何も教えないのに、当然の顔をしてルー坊がついてきた。遠出の散歩ができることを喜んでいる様子だ。
ユニコーンの子は、柵《さく》に閉じこめておけないきかん坊になっており、ヘルメス党の人々もついにはあきらめて、壊れた柵を放置していた。そのため、自由気ままに出入りし、勝手に森へ行って遊んできたりしているのだ。
それでもルー坊は、この隠れががフィリエルの住みかだと、きちんと理解していた。日暮れには柵にもどって眠り、朝と晩には餌をねだった。野生に生きるつもりはさらさらなく、楽して食べ物を得ることが大好きなちゃっかり者なのだ。
ユニコーンの子はまた、フィリエルの周囲からルーンを完全|排除《はいじょ》できないことをさとり、やみくもな攻撃を控《ひか》えるだけ利口になっていた。そうは言っても、快くは思えないらしく、ときにはちょっかいを出し、よくても冷戦状態というのが、ルー坊とルーンの間柄だった。
「そいつまでつれていくの?」
ルーンはルー坊を見ていやな顔をした。フィリエルにキスしようとして、ユニコーンの子にいきなり突き飛ばされることが二、三度あってから、ルーンの側にも敵意がめばえている。
「行き帰りは綱《つな》をつけてみることにするわ。この子にとって、いい訓練になるから」
フィリエルはなだめるように答えた。このきかん坊のユニコーンを、なんとか騎乗《きじょう》できる生き物に訓育《くんいく》するのがフィリエルの課題であり、それを思えば、一つの機会かもしれなかった。
朝ごはんをたっぷり与えたせいか、ルー坊はそれほど革のおもがいをいやがらなかった。もちろんそれができるのは、今のところフィリエル一人なのだが、彼女が引き綱を引くと、灰色の小ロバのようにおとなしく従ってきた。
「エディリーンの首飾りをしてきたのかい?」
「ええ。だから、はぐれても大丈夫」
ダイヤを取り去ってしまったものの、王家の青い宝石だけは、あいかわらずシャツの下の金鎖《きんぐさり》に下がっている。こうしてユニコーンがなつくことの、どこまでが女王試金石の作用なのかは、いまだによくわからないことだった。
そういうわけで、緑濃い森の木陰を歩む二人と一匹の姿は、それをだれかに見られてしまったならば、実情にそぐわないほど牧歌《ぼっか 》的なものになった。フィリエルがお弁当をつめた籐《とう》のバスケットを下げているために、なおさら強調されている。
「やっぱりきみ、遠足だと思っているだろう」
ルーンがあきらめ加減にぼやいた。
「あら、いいじゃないの。それでも」
フィリエルは、うきうきした気分を隠そうともしなかった。
「楽しみましょうよ。二人きりでのんびり出かけることなど、このところなかったのだから」
「だから、のんびりじゃないって」
「ちゃんと気をつけているわよ。でも、竜だって兵隊だって、あたしたちよりずっと大きな音をたてるはずだから、出くわす前に隠れるだけのことよ」
それはフィリエルの言うとおりで、当面の道のりは静かなものだった。出会うものは、虫と鳥とトカゲがせいぜいだ。気をとられそうになるルー坊の注意をひきもどすこと以外、とりたててすることもなかった。
しかし、壁近くまで進んだあたりでは、草食竜の群に遭遇《そうぐう》した。以前にフィリエルが見た種類ではなく、ずんぐりした褐色《かっしょく》の竜で、短い首にひだえりのようなものをもっている。七、八頭が寄り集まって、猛烈な勢いで草木を噛《か》み砕いていた。
近寄りすぎなければ危険はないことがわかっているので、目にしたフィリエルも、今では落ち着いてふるまうことができた。肉食竜に出会っても平静でいられる自信はなかったが、それとて、狩りの現場に介入さえしなければ、必ずしも人間を襲ってくるものではないと知っている。
竜を見やったルーンが小声で言った。
「こんなにたくさん、のうのうと餌をはんでいるところを見ると、竜退治はうまくいっていないみたいだね。グラールの軍隊が来たと言っても、竜の道をふさぐほど思いきった対処はとれないでいるんだ」
「ここは国内じゃないもの。いろいろあるのよ」
フィリエルは言ったが、具体的にわかっているわけではなかった。
「竜の道が広がっているかどうか、確認したほうがいいな。このぶんだと、賭《か》けてもいいけれど、壁付近にグラールの兵士など来てはいないよ」
そのほうが自分は助かるくせに、ルーンは怒ったような調子でそう言い、先を急ぎはじめた。
竜の道――生き物の通行をはばむ目に見えない壁が、そこだけあったり消えたりする部分――は、以前とほとんど変わらずにあったが、あたりをよく観察すれば、竜の侵入が前よりひんぱんなことを示す痕跡《こんせき》が、そこここに見受けられた。食い倒された木々が目立ち、踏みならされた空き地もいくぶん広くなっている。
ルーンは草原を行き来して、そこに今も壁がないことを確かめた。綱をはずしてやったルー坊も飛び跳ねていたが、フィリエルは首飾りをしているので、念のため近づかなかった。二度とまちがいはおこらないと吟遊詩人《ぎんゆうし じん》が保証したものの、いい気持ちはしなかったのだ。
バスケットを木の下に置き、周囲の様子を見てまわっていると、少し先の低地を親子づれの竜が悠然《ゆうぜん》と歩くのが見えた。これもフィリエルの知らない種類で、あまり大きくはない黄色がかった竜だ。
幼竜は二匹おり、まだかなり小さく、親のそばをちょろちょろと行きつもどりつして、しぐさがかわいらしかった。
(竜であっても同じだ。どうして動物の子どもはみんな、こんなにかわいいんだろう……)
フィリエルが思わず注目していると、子どもの一匹が鼻づらを上げて口を開け、キーキー声を出した。親の竜は知らん顔で、通りがかりの木の葉を口にしていたが、二匹が合唱をはじめるとついに負けて、口移しに餌を与えてやった。その様子はどこか、ユニコーンの親子にそっくりだった。
(竜は邪悪《じゃあく》なものだと、あたしたちは深く考えもせずに決めつけてきた。それはどうしてだったんだろう……)
ふとフィリエルは考えた。こうして南へ来て、本物の竜を目の当たりにするまでは、竜というものが悪の権化《ごんげ 》にしか思えなかった。退治することが正義にかなう、不倶戴天《ふ ぐ たいてん》の敵のように感じていた。
(けれども、こうして見るとよくわかる。竜はたしかに迷惑なものかもしれないけれど、悪ではなく、善でもなく、それなりの生きものとして生きているだけなのだわ……)
竜たちは人間より巨大で、そのことが脅威になるのは避けられないが、人間が彼らに近寄らない限り、彼らは自分の食べるものを食べ、自分の営《いとな》みを営んでいるだけなのだ。
肉食竜であっても、基本的にはそうなのだ。生きものを襲う手段が残酷《ざんこく》に見えても、それは人間の勝手な見方であって、生存のための食物を得る彼らに、人間のつくった規範《き はん》とどんなかかわりがあるというのだろう。
壁の向こうで何百万もの竜が、そうして竜だけの世界に、人間の思惑とは何のかかわりもなく生きていることを思うと、なんだか不思議な気持ちになった。勝手に恐れ、勝手に大騒ぎをしている、自分たちのほうが卑小《ひしょう》なのかもしれなかった。
怖くないと思いはじめれば、竜は怖いものではない。同じ土地に共存はできないかもしれないが、人間に、恐るべき災厄《さいやく》や罰を与えようとやってくる破滅の使者でもないのだ。
(もしも、あたしたちと竜をさえぎるこの壁がいっさいなくなってしまったら、世界はどういうことになるのだろう……)
フィリエルはさらに考えた。たぶん、カグウェルは滅びてしまうだろう。だがグラールも――アストレイアの御手《みて》をもつ大国グラールも、滅びてしまうのだろうか。
この疑問に、ルーンなら何か見解をもっているかもしれなかった。フィリエルはルーンにたずねてみようと思い、竜の親子に背を向けてひきかえそうとした。そのときだった。
近くの茂みでかすかな物音を聞いた。フィリエルははっとして足を止め、耳をすませた。音はそれきりしなかったが、小動物がたてた音にしては、フィリエルの体を緊張させるものがあった。わずかながら、人の気配を感じとったのだ。
音をしのばせて、じっとこちらをうかがう人間がいると思うのは、気のせいかもしれないが、簡単にこのあたりを無人と決めつけるのも、まちがいかもしれなかった。
(……いたとしても、兵士ではない。それなら、今さっきまで何も感じなかったはずがないもの)
そう考えたフィリエルは、大きく息を吸いこむと駆け出した。一人で対決するのは不利だったし、何も知らないルーンに警告しなければならない。
やぶ陰から何者かがおどり出し、追ってくるのが感じられた。だが、人間相手のかけっこならば、すばしっこいフィリエルには自信があった。引き離して林から草原に飛び出す。だが、そのとき背中からつかみかかる者がいて、もんどりうってころがった。
「きゃっ」
驚きあせったものの、襲ったのがいかつい兵士でないことに気づく余裕はあった。いっしょに倒れこんだときに、相手もフィリエルと同じような悲鳴を上げたのだ。
ひじで思いきり払いのけ、反撃に向きなおったフィリエルは、襲撃者《しゅうげきしゃ》の顔を知っていることに気がついた。相手のオレンジがかって見える金髪もだった。
「リ――リティシア?」
フィリエルがあっけにとられると、十六歳にしては豊満な胸を押さえ、リティシアがわめいた。
「痛いわね。この赤毛ザル、くそチビ」
後方の林から走り出てきたのは、同じく見知った金髪――灰色がかった金髪のヘイラだった。
「早く捕まえて。その子を取り押さえるのよ、リティシア」
そして、フィリエルにはもう予想がつくことに、目尻の切れ上がった褐色の髪のラヴェンナが、肉食竜のように凶悪そうに現れた。しかし、あたりの威《い》を払うその登場のしかたが、レアンドラ・チェバイアットの亜流《ありゅう》であることは、どうしても否《いな》めなかった。
「逃げないように縛《しば》り上げておしまい。赤っ毛がどうしてこんなところにいるのか知らないが、捕まえておけばいい手みやげになる」
「あなたたちこそ、どうしてこんなところにいるのよ」
フィリエルは叫んだ。生徒会三人娘は、トーラス女子修道院付属学校における、フィリエルの最大の敵対者だったが、その関係は、どうやら現状までもちこされたようだ。
「愚問《ぐ もん》だ」
ラヴェンナは指を鳴らしてヘイラを見た。ヘイラはそそくさと、下げた袋から細い縄《なわ》をとりだした。リティシアに押さえつけられたフィリエルは、それを見てあわてた。
「やめてよ。やめてったら」
抵抗してみても、三人がかりにはかなわなかった。それほど時間をかけることもなく後ろ手に縛られ、草の上に座らされた。
「だれのおかげで、わたくしたちがトーラスを退学になったと思っている。レアンドラ様のご期待に応える機会をのがして、こんな場所へ飛ばされるはめになったのだと」
フィリエルを見すえ、ラヴェンナは吐きすてる勢いで言った。
「だれが自分から好きこのんで、竜などのうろつく未開地へ来たりするものか。トカゲはいる、刺す虫はいる、おまけにくそ暑い! おまえさえ現れなければ、わたくしたちはこれほど難儀《なんぎ 》な目に会わずにすんだのだ」
激昂《げっこう》しているラヴェンナを見上げて、フィリエルは思わず言ってしまった。
「そんなかっこうをしているから、暑いのだと思うけど」
生徒会三人娘は、グラールの騎士のように華麗《か れい》ないでたちだった。ブーツの飾り鋲《びょう》までが派手で、さすがにマントはつけていないものの、金糸銀糸をぬいとり、見ているだけで暑くるしいと思う。
「うるさい」
ラヴェンナはどなりつけると、腰におびた剣を抜き払った。
「ここで会ったが幸いだった。わたくしたちがなめさせられた辛酸《しんさん》のお返しを、今からすませてやる。おまえの身柄をだれに引き渡すにしても、そのくらいの見せしめはしてやっていいだろうからね」
フィリエルは剣を突きつけられたが、ここで怯えたら喜ばれるだけだと思い、顔を上げて、無理にも胸をはった。
「やってごらんなさいよ。あたしを傷つければ、黙っていない人がいるわよ」
ヘイラがいくらか気後《き おく》れした様子になった。
「ラヴェンナ、しゃくなことだけど、この子はあのかたと同じ血筋ではあるのよ。傷ものにするのは、やっぱりまずいわ」
「傷ものにしなくても、恥をかかせる方法はある」
剣の刃を指でなぞり、ラヴェンナはにやりとした。
「その赤っ毛を全部刈りとってやる。しばらくは日の下を歩けないような、みっともない坊主頭にしてくれよう」
髪の房をぐいとひっぱられて、フィリエルはついに悲鳴を上げた。自分で切り落とそうとしたときには、なんとも思わなかった髪だが、ラヴェンナに切りとられると思うとがまんできなかった。
「フィリエルから手を放せ」
そのとき、断固とした声が響いた。三人娘はふりかえり、そこにルーンが立っているのを見た。
少年の黒髪はメガネにかぶさるほどぼさぼさで、もとカグウェルの兵服だった茶褐色の上着は、少々ぶかっこうに大きすぎる。それでも、怒気《どき》をはらんでたたずむルーンの姿からは、かならずしも軽んじられない気配がただよった。
「おや、まあまあ」
ふざけたような声を上げて、ラヴェンナが言った。
「思ったとおりに自分から出てきたね。この女がいるなら、たぶん近くにいるだろうと思ったよ。ルーネット、かわいこちゃん。わたくしたちを、こんな地の果てへ来させる原因となってくれた、いまいましい張本人」
ルーンは返答しなかった。フィリエルは驚いて顔を上げた。
「それじゃ、あなたたちがカグウェルへ来た目的は、ルーンを探し出すことだったの?」
「他に何があると思っている。おまえを捕まえたことなど、おまけのおまけだよ。みそっかす」
フィリエルを鼻であしらい、ラヴェンナは冷ややかなまなざしをルーンにそそいだ。
「レアンドラ様が、これほど大きな裏切りを黙って見過ごされるはずがなかろう。地の果てに逃げこもうとも、見つけ出して報復《ほうふく》するさ。王族を手にかけたとして斬首刑《ざんしゅけい》にされてもいいところを、あのかたに助けていただいたくせに、爪の先ほどの恩にも着ないで。こうしてわたくしたちに探し当てられたからには、その身をどうされようとも、文句を言えないすじあいだよ」
ルーンは表情も変えなかった。無視した口調でくり返した。
「ぼくは、フィリエルから手を放せと言った。答えになっていない」
ラヴェンナはすっと目を細めた。
「女の子を甘く見ていると、後悔することになるよ。おおかた、わたくしたちには思いきったことはできないとふんでいるのだろうけど」
フィリエルのあごをぎゅっとつかんで引き寄せ、ラヴェンナは言葉を続けた。
「この子に痛い思いをしてもらって、おまえに言うことをきかせることくらいは、何の苦にもならないのだからね。すみやかな殺しの手段も知っている。おまえが、あのかたから手ほどきを受けた以上のことをね」
リティシアもルーンに声をかけた。
「抵抗するのはむだよ。ラヴェンナは一人でも大の男を倒すわ。その上に、わたくしたちは三人いるの。あなたに逃げ道はないわよ」
ルーンは三人の娘に順番に目をやったが、それから言った。
「知っているなら、話は早いのかもしれない。きみたちが、暗殺者用の針をもらったことがあるかどうか知らないが、ぼくは、レアンドラにもらった針をまだもっている」
ルーンは特別声を強めはしなかったが、フィリエルには、三人組がいっせいにぎくりとするのがわかった。
「きみたちは三人いるかもしれないが、このままだと、だれか一人はまちがいなく楽園行きになるよ。だから言っているんだ、フィリエルを放せって」
一瞬返す言葉をなくした生徒会組だったが、すぐにラヴェンナが声を荒らげた。
「こいつが言うのははったりだ。あのかたが、逆手《さかて 》にとられるような措置をなさるはずがない。暗殺用に使える針は、いつも一本きりと決まっている」
「自害《じ がい》用をくれたよ。口を割らないための」
ルーンは、嵐の色をした不穏《ふ おん》な瞳を向けた。
「きみが試してみるかい。たとえただの眠り針だったとしても、この場で眠るのはまずいことだと思うよ。草食竜に踏まれるかもしれないし、肉食竜が来て、拾《ひろ》い食いしてしまうかもしれない」
ルーンの言い方に、三人は腐ったものを口にしたようないやな顔になった。とはいえ、彼の脅《おど》しに屈したわけではなく、フィリエルを放そうともしなかった。双方が動かず、にらみあいとなった。
(いったいどうなるの……)
フィリエルは気が気でなかった。ルーンの言うことがはったりかどうか、フィリエルにも皆目《かいもく》わからなかったのだ。はったりでラヴェンナたちとわたりあうなら危ないが、はったりでないとすると、それもまた怖いような気がした。
どのくらいそうしていたのか、局面が変化したのは第三者の登場によってだった。集団を組んだ人々のざわめきと足音が、森の静寂をついて聞こえてきたのだ。
ラヴェンナがほっとしたように、得意げな口調で言った。
「グラールの兵士たちだ。どうやらわたくしたちの勝ちだな。おまえを罪人として、あの兵士たちにひきわたしてやる。個人的な報復はその後だ」
くちびるをゆがめてヘイラが言った。
「あなたにも縄をかけてあげるわ、ルーネット。それとも彼らの目の前で、わたくしたちを刺してみせるのかしら」
ルーンは一瞬ひるんだようだった。彼が何もできないうちに、ヘイラはすばやく動いてルーンの腕を後ろにねじりあげた。だが、彼女がねじったのは右腕だった。
「ルーン、やめて!」
フィリエルは大声で叫んだ。ヘイラに言ったのではなく、ルーンに言ったのだ。彼が左利きだということは、フィリエルだけが知っていた。
ルーンはぴくりと身じろぎして、目を見開いてフィリエルを見た。そのとき、茂った木立を抜けて兵士たちの姿が現れた。
「ラヴェンナ!」
ふいにリティシアがうわずった声をあげた。
「ちょっと何者なの。その人たち」
フィリエルも首をひねって集団を目にし、そして息をのんだ。一目見れば、グラールの兵士とは似ても似つかないことがわかった。かといって彼らは、カグウェルの兵士でもなかった。
鋭い切っ先のある長槍《ながやり》や、斧《おの》のような武器をそろえ、歩調をそろえて進んでくるところを見れば、組織された兵団にはまちがいない。だが、グラールやカグウェルの装備に比べると、一つ一つの武器が大ぶりで、形もいくらか違うように見受けられた。
どの男も、大型の武器を持つだけの長身とがっちりした体格をそなえている。多くは黒っぽい色の髪やひげをはやしており、その点ではカグウェル人に近いかもしれなかった。だが、決定的に異なる点は、もしもカグウェルの兵士であったら、兵服は茶褐色で統一されていることだ。
カグウェルでは、王であっても戦闘時にはその色を身につけるくらいなのだ。それなのに、目の前の兵士たちは、てんでにばらばらの極彩色《ごくさいしき》の服を身にまとっていた。
その彩色のほとんどは、どぎつい原色で、グラール人なら夢にも思わない二色づかい、三色づかいの上下となっている。どれほど派手ないでたちを好むグラールの騎士であっても着たがらない――いや、王宮の騎士であればなおさら、ひとたび着ようものなら社会的失墜をまぬがれない、洗練《せんれん》とは無縁の色調であり、集団となった様子は猥雑《わいざつ》とさえ言えた。
「ブリギオンの兵士……」
フィリエルはぼうぜんとしてつぶやいた。彼女が今見ているのは、ひょんなことから遠い砂漠のふちで目撃してきた、ブリギオン人の兵士の記憶と寸分たがわなかった。
「なに寝言を言っている。ブリギオンだと」
ラヴェンナが腹立たしげに言い捨てた。フィリエルは言い返した。
「あなたも授業で聞いていたでしょう。彼らの服飾《ふくしょく》の特徴を」
「あれは砂漠の東の話だ。ここはグラールの南のカグウェルだぞ」
「でも!」
彼女たちが言いあっているうちに、集団の側も、自分たち以外の人間の存在に気づいた様子だった。槍をもった数人が列を離れ、隊に先行してフィリエルたちのほうへ駆け寄ってくる。
それを鋭く見つめていたルーンが、低い声で言った。
「フィリエルが合っているにしろいないにしろ、あれは、そちらの味方でもぼくらの味方でもなさそうだ。逃げろ。争っている場合じゃないぞ」
「おまえはそうだろうが、どうしてわたくしたちが逃げなくてはならない?」
ラヴェンナはルーンにくってかかったが、その彼女も、駆けてくる兵士たちの形相《ぎょうそう》を見てとると、いくぶんたじろいだ。
だが、ラヴェンナが考えなおす暇はなかった。男たちはあっというまに少女たちを取り囲み、光る槍の穂先をつきつけて、全員を身動きならない状態に追いやったのだ。
「どうしてこんなところにいる」
フィリエルとラヴェンナたちが互いに言ったことを、この男たちもくりかえした。
「わけを言え。用もなくこんな場所にいるはずがない」
フィリエルたちが目を見交わしているうちに、まとまった数の兵士たちも近くまでやってきた。先頭にいた数人とともに、黒ひげをはやした上官らしき太鼓腹の男が歩み寄ってくる。
「斥候《せっこう》なのか」
彼はものうげにたずねた。槍をつきつけた兵士の一人が、口調をあらためて問いに答えた。
「あまり斥候らしくは見えません。変わったかっこうをしているものの、若い娘たちであります。なぜこんなところにいるのかは、質問しても答えようとしません」
彼らの言葉にはおかしなアクセントがあり、それもまたフィリエルの記憶と合致するものだった。口を開こうか迷ったが、ためらっているうちに、負けん気のラヴェンナが先に言い出した。
「答えなかったのは、あなたがたが無礼だからです。これが人に質問をする態度なのですか。自分たちから名のりもしないで」
太鼓腹の男は、値ぶみするようにラヴェンナを見つめた。
「ただの娘なら、わざわざこんな辺境に出向くはずがない。正直に答えるのだ。ことわっておくが、遊びに来たなどという言い逃れは通用しないぞ。カグウェル人がこのあたりに近づかないことは、すでに調査済みなのだ」
「わたくしたちは、カグウェル人ではありません。女王陛下のもとにあるグラール人です」
相手に劣らぬいばった態度で、ラヴェンナは告げた。
「グラール人だと?」
「そうです。わたくしたちは、自国の罪人を追いかけてここまで来たのです。これとこれです」
ルーンとフィリエルを指さして、彼女は続けた。
「こうして逮捕し得たので、今はこの地に用がなくなったところです。あなたがたは、なぜ、わたくしたちがここにいるのをとがめるのです?」
「われわれがカグウェルの辺境にいるところを、西の人間に、そうそう早く知られてはならぬからだよ。グラール人においてはなおさらだ」
せせら笑うように太鼓腹の男は答えた。その口ぶりには不快な残忍さがあり、ラヴェンナもわずかに後ずさった。
「斥候がいれば、すべて抹殺《まっさつ》するよう指令を受けている。おまえたちも、だれであれこのまま帰すわけにはいかない。動く口は厳重に封《ふう》じないとな」
顔色を変えた少女たちを見回して、男はわずかに声の調子を変えた。
「だが――これはわしが、生まれて初めて遭遇《そうぐう》するグラール人だ。しかも女の子たちときている。西の魔女国の佳人《か じん》の評判は、砂漠を通しても伝わってきている。こうして見れば、たしかに美形がそろっているようだ……」
太鼓腹の男は最後まで言わなかったが、部下の男たちには通じたようだった。彼らは槍をもちなおし、かわりに少女たちの腕を両脇からつかまえて、ひきたてていこうとした。
皮肉なことに、歩きやすいようにと、フィリエルのいましめを切ってくれたのは兵士たちだった。ラヴェンナたち三人は、もっていた剣を取りあげられた。彼らにとっては、どちらもひとからげに「興味深いグラール人の女の子」となるらしい。
「わたくしたちを、どうするつもりなの?」
「心配するな、命はとらない。われわれの陣にご招待するだけだ」
声をひきつらせたヘイラの問いに、兵士の一人がおかしそうに答えた。別の兵士は槍の柄でルーンをこづき、上官にたずねていた。
「こいつはどうします。娘ではありませんが」
フィリエルは思わずくちびるを噛《か》んだ。ルーンとて、身ぎれいにしてかつらを被れば、そこらの娘より美人で通用する実績をもっているのだが、今の彼をそのまま娘に見なせるかと言うと、かなり無理があるのはたしかだった。
上官の返事は無情なものだった。
「娘でないものを招待するいわれはない。指令のとおりにしろ」
「そんな!」
フィリエルは叫び、ふいをつかれた兵士の腕をふりきった。そして、駆けもどってルーンにしがみついたが、あっというまに引きはがされた。
「いやよ! ルーン!」
フィリエルがパニックに陥り、徹底的に抵抗しようとしたその矢先だった。ルーンがかすめるようにささやいた。
『今は暴れないで。後で助けに行くから』
フィリエルは、わめき声をすんでのところでのみこみ、驚いてルーンを見つめた。殺される本人だというのに、彼は度を失ったようには見えなかった。やや青ざめてはいたが、思うところのある顔だ。
ルーンを捕まえた兵士は何も気づかない様子で、こともなげに仲間に言っていた。
「こいつはもともと、罪人だったそうじゃないか。他国の人間になりかわって、おれたちが処刑してやるだけのことだ。ちょろいものだ」
フィリエルは混乱したが、他に手だてもなく兵士にひきたてられて、しかたなくルーンから遠ざかった。この場で逆らっても無益《む えき》だと、ルーンが言うのだからそうなのだろう。
殺気をただよわせた武装集団を見わたせば、たしかに、逃げても逃げきれないばかりか、へたに苛立たせないほうが無難のようだった。フィリエルは後をふりかえりつつも、生徒会三人娘とともにつれ去られるより他はなかった。
三
軍隊は、少女たちを捕獲《ほ かく》して再び移動を始め、少年の後始末のためには、五人ばかりがその場に残った。彼らはルーンをこづいて歩かせ、丘のはずれの木の下までつれていって、縄をかけにかかった。
少年は抵抗らしい抵抗も示さず、あきらめてしまったように一言も口をきかなかった。けれども処刑を行う兵士たちは、上官が見えなくなると、それぞれ好き勝手なことをしゃべりはじめた。
「ここへくくりつけておけば、放っておいても、竜がやってきて始末してくれるんじゃないか?」
「そうはいかない。殺せと命令が下ったのだからな」
「こんな細っこいガキ、わざわざ手を下しても手柄にもならないのに」
「軍曹《ぐんそう》どのの立場としても、指令の完全無視はできないんだろうさ。ちくしょう、ずいぶん上玉の女の子たちだったが、どう見てもおれたちまで回ってこないだろうな」
「特権すぎるぜ。四人もいた」
「はりきりすぎて、卒中でも起こせばいいんだ」
彼らはひとしきり不平を言いあっていたが、やがて、彼らの一人がふと気づいたように言った。
「考えてみれば、これだってずいぶんもったいない話じゃないか。世の中には、男の子を趣味にする人間だって大勢いるものだぜ」
「おまえのことか」
「いや。だが、おれたちにはどうせ、あのかわいこちゃんたちは一人も回ってこないんだし――」
彼の言及《げんきゅう》に、同輩は一瞬静まった。そして、目の前の少年を、やや異なる観点からあらたにながめはじめたようだった。
「こいつを吊《つる》すのは、もうちょっと後にしろよ……」
くちびるをなめて一人が言った。
「試してみるかいはあるかもしれない。この小僧、顔に変なものをつけてはいるが、よくよく見れば女の子みたいな顔立ちをしているじゃないか……」
縄を回すのをやめ、しげしげとルーンを見つめた兵士は、手をのばして彼のメガネをはずそうとした。すると、それまでおとなしかった少年が、身をよじって逆らった。
とはいえ、わずかにもみあっただけで抵抗はかなわず、メガネを取りあげた兵士は、にやけた笑みを浮かべて少年を見下ろした。
変事はそのとき起こった。
「おい、ガーシュ!」
周りの兵士が動転した声をあげた。メガネを奪った男は、そのまま棒杭《ぼうくい》が倒れるように倒れたのだ。男の手からメガネをひったくり返した少年は、彼らがひるんだ一瞬をついて飛び出した。
「追え、逃がすな!」
血相を変えた兵士たちも駆け出した。
「そいつは妙なわざを使うぞ。始末しろ、手加減するな!」
追いかける側はまだ四人おり、少年の余命はすでにいくばくもないと見えた。逃げきろうにも全力で走れる場所はわずかしかなく、草原はとぎれて密生《みっせい》した木立がゆくてをふさぐ。
長柄のついた戦斧《せんぶ 》をふりかざして、一人が少年にせまった。兵士の一撃は頭をそれて木の幹に当たったが、ルーンもかわしたはずみにバランスをくずし、すべって倒れた。次の一撃からは逃げられなかった。
「そこまでだ!」
兵士は叫び、あらたにふりかぶった。たしかに彼の言うとおりだった。兵士の背後に黒い影のようなものが現れ、兵士はそれに気づく間もなく息の根を止められ、手にした戦斧は地面にすべり落ちたのだ。
他の兵士たちも、情況は似たようなものだった。林からわきだした黒い男たちを目にした者もいたのだが、わけがわからないまま次々と倒され、ついには全員動かなくなった。
ルーンはころんで手をついた姿勢のまま、しばらくは荒い息をついていた。だが、間一髪のところを助けられたというのに、ありがたがる表情も見せずに顔を上げた。
「遅いよ、ケイン。フィリエルがつれていかれたというのに、どうして見ていたんだ」
黒服のケイン・アーベルは、配下の男たちに合図を送って呼び集めると、もの静かな様子でたたずみ、ルーンを見下ろした。
「無茶を言わないでください。しがない山賊のわたしたちに、まともな軍隊とぶつかれと言うのですか。多勢《た ぜい》に無勢《ぶ ぜい》ですよ」
ルーンはあきらめなかった。
「それならば、まだラヴェンナたちしかいなかったときに、なんとかすればよかったのに」
「わたしは超人じゃありませんよ、ルーン。必要な加勢を集めて、なんとかこの場に間にあったんです。だいたい、二人だけでピクニックへ行きたがったのは、あなたたちではありませんか」
それを言われると、ルーンはふてくされたように口をつぐんだが、しょげているのははた目にもあきらかだった。少年がそれ以上言い訳しないのを見て、ケインも口調をやわらげた。
「もっとも、ここまで深刻な事態は、だれにも予測できなかったのはたしかです。このけばけばしい服装の軍団は、いったいどこからわいて出たものでしょうね」
「……ケインも知らないのか」
「見たことも聞いたこともありません。カグウェルにこんなものがいるという話は、情報部からもどこからも入っていません」
ルーンはしばらく間をおいてから、のろのろと言った。
「フィリエルは、ブリギオンの兵士だと言った。本当かどうかはわからない。でも、もし本当だとすると……」
「彼らが、大陸の東から遠征してきたというのですか。そんなことはあり得ないでしょう」
ケインはびっくりした声を出した。
「隊商が二カ月かけても渡れない中央砂漠が、西と東を隔《へだ》てているんですよ。ましてやここは、森に埋もれたカグウェルの果てです」
「でも、壁がある」
ルーンはつぶやいた。
「もしもやつらが、壁沿いに進んできたのだとしたら。竜に襲われないことを、ぼくたちより先に発見していたのだとしたら……」
「できますか、そんなことが」
「わからない、でも」
ルーンはようやく立ち上がり、濃い灰色の瞳に激しい色を浮かべてケインを見た。
「あいつらが何者であれ、早くフィリエルを助け出さなくちゃ。虫ずがはしるような連中だった。あんなやつらのもとに、フィリエルが捕らわれているなんて、一分だってがまんできない」
「そうですね」
ケインはうなずき、絶命して倒れている兵士を見やった。その目の奥になにがしかの感情が宿っていたとしても、それは注意深くしまいこまれ、忍耐《にんたい》強い表情はほとんど変わらなかった。
「ともあれ、この者たちはすぐに埋めてしまいましょう。竜に食い散らされてしまうのは、それがどんな人間であっても、やっぱり少々気の毒すぎますからね」
ケインが言うと、ルーンもそれには反対しなかった。手下の男たちとともに、埋葬《まいそう》する穴掘りを手伝い、しばらくは口をきく間も惜しんで作業にはげんだ。
かなりたってから、ルーンはぼそりとケインにたずねた。
「ケイン……ぼくがレアンドラの針を使うまで、待っていやしなかったか?」
ケインはあいまいに肩をすくめたが、否定することは言わなかった。
「あなたのことだから、たぶん、もっているだろうとは思っていましたよ」
「こんなところで使うはずじゃなかったのに。後がないのに……」
ルーンは暗い目をしてつぶやいたが、ケインは同情を示さなかった。
「そういう剣呑《けんのん》なしろものは、早いところ手放すことになってよかったんです」
「意地悪だ」
「ちがいますよ」
ケインは生まじめな表情でルーンを見つめた。
「あなたはね、たとえば、フィリエル姫を悪漢から救出するにふさわしい人物になるべきです。わたしに言えた義理ではありませんが、彼女がこれほど純粋に信頼を寄せている人物は、自害用の針を奥の手に隠し持っているような、陰険なことをしないはずでしょう?」
ルーンは怒ったようにそっぽを向いた。
「本当に言えた義理じゃないよ」
「それはまあ、わたしの場合は稼業《かぎょう》ですからね。汚れ仕事ではありますが、専業者としての誇りをもっています。けれどもあなたは、フィリエルが選択に責任を持つと言うからには、彼女を得た自分をもっと大切にしていいはずなのですよ」
ケインは言葉に力をこめた。ルーンはただ黙りこんだが、かたくなな表情は薄れ、どちらかというと考えこんでいるように見えた。
ふと気づいた様子で、ケインがたずねた。
「そういえば、ユニコーンはどうしました」
ルー坊は、影もかたちも見えなかった。自分の主人がこれほどたいへんだというのに、機敏に察知する能力もなく、遠くへ遊びにいってしまったらしいのだ。
「知るもんか。役に立たないことだけはよくわかったよ」
ルーンは仏頂面《ぶっちょうづら》にもどって言った。
* * *
フィリエルたちは、けばけばしい兵士とともに森の奥に分け入り、しばらくの間歩かされた。方角的には東へ進んでいるようで、どう考えても人家のあるはずのない地域へ向かっている。
だが、やがて、茂りあった木立がいくぶん開け、目の前が見晴らせるようになったとき、少女たちは見えてきたものにあっと言った。自分たちを捕らえた一行が、哨戒《しょうかい》するただの部隊だったことをさとらせる、驚くばかり大規模な野営地が出現したのだ。
簡単に森を斬《き》り拓《ひら》く頭数がいることは明白で、大きく囲った広場には、屋根に旗をかかげた円形の天幕がいくつも並んでいた。それらの色や意匠は兵士の衣服と同様、必要以上にけばけばしく稚拙《ち せつ》で、フィリエルたちに言わせれば、良識を欠くようなデザインだった。
「こんなに大勢で、あなたがたは何をしているの?」
疑問が率直に口をつき、フィリエルは自分のわきの兵士を見上げた。
「大勢だって。ばかを言っちゃいけない。われわれはここで静かに本隊を待っているのさ」
フィリエルの驚きを無邪気に思ったのか、その兵士は自慢げに答えた。
「今に万単位で移動してくるから、見ているがいい。漫然とトカゲを食らう連中には、絶対に不可能だろうがな」
「トカゲを食らう連中って、カグウェル人のこと?」
フィリエルは顔をしかめたが、兵士は冷たく笑った。
「そうだとも。指先でひねれるやつらだ」
陣地に到着すると、一行の兵士たちは、まるでしまいこむようにそそくさと、少女たちを一つの小屋に押しこんだ。縛られはしなかったが、逃げようとすればその場で殺すとたっぷり脅された。
その小屋の本来の目的は食糧|貯蔵《ちょぞう》のようで、隅に穀物の粉がこぼれ、粗末もいいところだった。だが、床がはってあるだけましなのだろう。窓は通風のためのものが、屋根の近くに小さく開いているだけだ。
暗く狭く、床や壁の板はささくれていて、四人もつめこまれては気のめいる場所だったが、今のフィリエルたちであれば、すぐにどうこうされないだけでも、助かったと言わねばならなかった。
兵士が扉にかんぬきをかけた後、彼女たちはしばらく無言で立ちつくしたが、そのうちに、だれからともなく座りこんだ。
「なんなのだ、このふらちな軍隊は」
不機嫌に口を開いたのは、まずラヴェンナだった。彼女は情況にくじけもせず、腹を立て続けていたらしい。
「目がつぶれるような色づかいの下品さだ。五歳児なみのセンスだ。いったいどこに生まれ育てば、これほど悪趣味な集団になりさがるのだ?」
「遠くから来た人たちだということはたしかよ。もっている感覚がまるで違うもの」
フィリエルは主張をくり返した。
「あたしは、やっぱりブリギオンから来たのだという気がする。この人たちは東の人間なのよ」
リティシアがわずかに肩をすくめた。
「わたくしには何とも言えないけれど。でも、まったく美感の違う人たちだとも思えないわ。わたくしたちが美人だということは、まっとうに理解したわよ」
ヘイラがつんと鼻を上げた。
「そのくらい、男ならサルでもわかるわよ」
「そのとおりだ。この男たちに美感があるとは思えない。こんなチビの赤毛を、わたくしたちと同列に扱うなんて、侮辱《ぶじょく》を受けたようなものだ。こいつらがサルの証拠だ」
ラヴェンナはフィリエルをにらんだ。
「そうよね。一人だけ色気がないことくらいは、わかってよさそうなものなのに。この子、胸だってろくにないし」
そう言ったのはもちろんリティシアだが、フィリエルはそっぽを向き、中傷《ちゅうしょう》を無視することに努めた。そして、こっそり、サルとは何だろうと考えていた。貴族が劣《おと》った人をののしる言葉だということは、フィリエルも知っているのだが。
少し間をおいて、思いなおすようにラヴェンナが言った。
「しかし、どこのサルかは正しく確認しておくべきだな。こんなところに陣営をはっている軍隊がいるなどと、だれも耳にしないことには違いない。受命した内容にははずれても、レアンドラ様がケイロンにいらっしゃるからには、詳しくご報告しておかないと」
ケイロンとは、城塞《じょうさい》に囲まれたカグウェルの首都の名前だ。フィリエルは思わずふりむいた。
「レアンドラがケイロンにいるですって」
ラヴェンナが眉をひそめた。
「不敬《ふ けい》な。レアンドラ将軍とお呼び。どうやらこの子は知らなかったらしい。この国はすでに、あのかたが覇権《は けん》を握ったも同然なのに。カグウェル王エイモスも、すっかりあのかたをたよりきっている。ロウランド家などは見る影もないものだよ」
初耳のフィリエルは、ショックを隠しきれなかった。
「グラールは、他国を侵略しない国ではなかったの?」
「だれが侵略などしている。あのかたは、王の要請を受けて大規模な竜退治にとりかかられただけだ。ロウランドの竜騎士たちも、その傘下《さんか 》に組み入れられた。だが、カグウェル王がふぬけになってしまったとしても、それは別にレアンドラ様の責任ではないよ」
ラヴェンナは鼻先で笑った。その一言で、フィリエルたちの案じるユーシスが、帰国できずにいることが確実となった。フィリエルは気をとりなおし、声を尖らせた。
「チェバイアットだロウランドだと、言っている場合ではなくなるかもしれないのよ。あたしのそばにいた兵士は、ここに、これから万という数の本隊が来ると言っていたのに。レアンドラが国から率いた軍隊は、どのくらいの人数がいるの?」
「万ですって。気はたしかなの、その兵士」
ヘイラが信じられない様子で聞き返した。
「いったいどこに、何万人ものサルがいるというのよ。そんな武装兵団は不可能だわ」
「それが帝国ならば、吸収した兵の数がそうなっていてもおかしくないのよ」
フィリエルは、暗がりで白っぽく見えるヘイラに向かって言った。
「だから言っているでしょう。この人たちはブリギオン――大陸の東で国を併合《へいごう》した人々ではないかって」
こんどはさすがの三人娘も、考えこんだように見えた。
「内偵《ないてい》の必要がありそうだ」
ラヴェンナがついに言った。
「この子の言うことがもし本当なら、見過ごすことのできない事態になる。今夜は、事実関係を明らかにしなくては」
「そのようね、相談しましょう」
ヘイラもうなずいた。フィリエルは、いくらかびっくりして彼女たちを見つめた。
「あの……まずは、ここから逃げ出す計画が必要じゃなくて?」
「どうして逃げ出すことがある。せっかく内ふところに入りこんだというのに」
本気でわからないように、ラヴェンナが聞き返した。リティシアが手をふった。
「だめだめ、ラヴェンナ。この子は、トーラスの授業を系統的に受けたわけではないもの。何をしたらいいか少しもわかっていないのよ」
「ばか娘」
ラヴェンナは軽蔑《けいべつ》を隠しもしなかった。
「こいつは使えもしないから、わたくしたちだけで計画を練ろう。だれが一番手になる?」
三人はしばし思案にふけった。それから、リティシアが手をあげた。
「今夜なら、わたくしが一番安全だと思うわ。先鋒《せんぽう》にはわたくしがなります」
「わかった。君にまかせる」
フィリエルは、驚いてしまってリティシアにたずねた。
「どうしてあなたが一番安全なの――何を安全だと言っているの?」
「いたって教養ないわね。あなた、安全日を数えたことすらないの?」
リティシアはからかうように問い返した。
「さっきのお腹の出た中年が、何を意図していたかくらいは、あなたにもわかっているでしょうに。もちろん、聞くことを聞いたら、一線を越える前にさっさと倒すわよ。安全日だろうと何だろうと、そのあたりにいる娼婦《しょうふ》じゃないんだから」
フィリエルは沈黙した。彼女たちの、トーラス女学校生徒としての徹底ぶりは、あっぱれと言ってもいいほどで、敬服できることをフィリエルも認めたのだった。
四
日が暮れたようだった。小窓の外がすっかり暗くなってから、少女たちの小屋のかんぬきがはずされた。表に出されたフィリエルと三人娘は、敷地をつれられて歩き、今度は小屋より大きめの天幕に入れられた。
たいした場所ではなかったが、さっきよりずっと待遇《たいぐう》がいいことはたしかだった。すり切れているとはいえ毛織の敷物が敷かれ、奥の柱に明かりがともされて、人間のいるところらしくなっている。
「これから食事を運んできてやる。他に、どうしても欲しいものがあるか」
彼女たちを誘導した兵士がたずねた。そして、矢つぎばやの注文を浴び――顔を洗う水、着替え、ジュース、果物、櫛《くし》、鏡、香水、クッション、などなど――後悔した顔をして帰っていった。
天幕を見回したフィリエルは、隣にいたヘイラに小声でたずねた。
「これはつまり、下心ありという情況なの?」
「当然そうね。見ていなさいよ。この後、何がどのくらいもってこられるかで、わたくしたちが対決すべき人物のランクがわかるから」
しばらくして、複数の兵士が食べ物を運んできた。野営地ならではのごった煮を、蒸した穀物《こくもつ》にかけただけの粗末な一品だったが、けちけちする気はないようだった。さらに、少女たちの要求もかなえるように、意外と努力がしてあった。デザートに果物がつき、小さな手鏡と櫛、水がめとかなり清潔な布なども運ばれてきたのだ。
「思ったとおりだ。あの太鼓腹、結局は上司におもねることを選んだらしい。こちらとしても、小物相手を省略できるのはおおいに助かることだ」
にやりとしてラヴェンナがささやいた。
「指揮官クラスを籠絡《ろうらく》できればしめたものだ。これはもしかすると、裏切り者の処罰などよりずっと大きな手柄をかかえて、あのかたのもとにもどれるかもしれない。挽回《ばんかい》のチャンスだぞ、みんな」
食事を運んだのは下っぱの兵卒ばかりだったが、ラヴェンナたちが愛想よくなって話しかけると、この場を立ち去りがたい様子で、なんと給仕までしていった。少女たちはいとも簡単に、これらが中隊長からの差し入れであることを聞き出していた。
フィリエルは、高慢な三人娘がいきなり花の笑顔に切り替わったのを、あきれる思いで見ていたが、ラヴェンナであっても、その褐色の瞳であだっぽく相手を見つめれば、どれほどの誘引力《ゆういんりょく》があるかは納得できた。そして気がついた。
(これは、宮廷の人々がいつもしていることと同じだわ……)
不安も野心も腹の底におさめ、笑顔と魅力で相手を骨抜きにしてかかる。宮廷の夜会で、貴族同士の攻防として行われていることと同じであり、グラールにおける戦闘の一つのメソッドだった。棘《とげ》を隠してあでやかに咲く、「西の善き魔女」のメソッドなのだ。
(自分の魅力に自信をもっていなければ、とてもできないことだ……)
そう考えれば、彼女たちの傲慢《ごうまん》も勇気のかたちと言えるかもしれなかった。三人娘を少し見なおす気になったフィリエルは、ラヴェンナたちをシンデレラの姉のようだと考えるのを、少し控えようと思った。
食事を終え、顔と手を洗って髪をとかし、グラールの少女たちは戦闘準備をととのえつつあったが、まだまだ不確定要素はあった。中隊長たる人物は、いっこうに姿を現さなかった。たぶん、来るのは深夜になってからなのだろう。
「聞き出しておくのは、軍団の規模、武器の数、武器の種類、将軍の名前、将軍の履歴《り れき》、それから何がある?」
退屈しのぎに美容体操をはじめながら、リティシアがたずねた。
「やつらの目的。それが一番重要だろう」
「軍をくりだす目的なんて、一つじゃないの?」
ヘイラはフィリエルに向かって言った。
「ないことだとは思うけれど、万が一あなたが指名されたら、うまくリティシアにふるのよ。それとも、自分で指揮官を攻略してみせる?」
「あたしだって――やろうと思えばできるわよ」
フィリエルは言ったが、思ったほど口調に力がこもらなかった。ヘイラは、彼女をいびれば暇つぶしになると考えたようだ。
「あら、みんな聞いてよ。この人、自分が一番手になりたいんですってよ」
「まあ、身のほどしらず」
「むだむだ」
ひっこみがつかなくなったフィリエルは、力んで言った。
「あなたたちにできることが、あたしにできないと思って?」
「それなら手順を言ってみるがいい。ABCも知らないとは言わせないぞ」
ラヴェンナがせまり、フィリエルはたじろいだ。もちろん、エービーシーとはなんのことだかさっぱりわからなかった。
「ええと……」
フィリエルが、どう切り抜けるか必死で考えている最中だった。天幕の外がさわがしくなったのに気づいた。
兵士たちが、何かどなりあっているのが聞こえる。何者かが侵入したと言っているようだった。たちまちフィリエルの心臓は跳ねあがった。後で助けに行くと言った、ルーンの言葉を思い浮かべたのだ。
「出口を押さえろ。そちらから囲め。まだ殺すな、正体を見極めてからだ。手を出すな、好きに走らせろ。そっちへ行くぞ。だれか綱をもってこい」
次々に飛び交う声を、フィリエルは身の縮む思いで聞き、とうとうがまんできずに天幕の扉をめくり上げた。そこには当然見張りの兵がいて、両側からもっていた槍をすばやく突きつけた。
「勝手に出るな。中にもどれ」
フィリエルはおとなしく動きを止めたが、交差された槍の柄ごしに、しばし表の様子に見入った。たいまつでほの明るい広場を男たちが走り、何かを追い回している。だが、追われているほうは、それをおおごとに感じていない様子で、優雅に跳ねていた。
(まずい……)
フィリエルはがくぜんとして、手で口を覆った。侵入者はなんとルー坊だった。ユニコーンの子は夜になったため、委細かまわずフィリエルを探しにきたのだ。
ユニコーンの子がこちらへ駆けてくるのを見て、見張りの兵士たちは不審そうに眉をしかめた。
「なんだ、あそこを走っている生き物は。小さい馬のように見えるが」
「ばかな。はなれ馬がここにいるはずはない。竜の出没する土地だぞ」
ルー坊は、主人の居場所に気づいた様子だった。フィリエルのいる天幕へまっすぐ向かってくると、手前でぴたりと足を止めた。頭を上下させ、うれしそうに甘えた鳴き声をたてる。
周囲のたくさんの兵士は、ルー坊の眼中に入らないようだった。彼にとっては、ヘルメス党の人々となんら変わりがないのだ。その徹底ぶりにフィリエルはあきれたが、やがて、ユニコーンの子が餌を催促《さいそく》していることに気がついた。今夜もフィリエルからもらえるものと、頑固に信じこんでいるのだ。
フィリエルはあわてて天幕の中をふりかえった。
「ねえ、何でもいいから、さっきの食事の残りをちょうだい」
リティシアが顔をしかめた。
「何もないわよ。食べちゃったもの」
「あんなにたくさんあったのに、全部たいらげたの?」
「何を言っているのよ。自分だって残しもせずに食べたくせに」
フィリエルもそれは認めた。器はどれも空だった。
「どうしよう。まずいわ」
「何がまずいですって」
「ルー坊が……」
それは、ヘルメス党の人々が肝に銘《めい》じたことだった。ユニコーンの子は、フィリエルから餌がもらえる限りは、他の人間にほとんど注意を払わないし、環境に気むずかしくならない。だが、その権利が侵されたと感じるやいなや、手のつけられない生き物になるのだ。
ルー坊は、どうも餌が出てこないとさとったようだった。のどの奥の鳴き声をぴたりと止めた。そんなユニコーンを取り囲んだ兵士たちは、綱を手にしてそろそろと近づいた。
「ようし、おとなしくなったぞ。今だ」
「見たこともない種類の馬だ。うまく生け捕れよ。国へのいいみやげものになる」
先を輪にした投げ縄が数本飛んだ。ルー坊はひょいと後ずさり、初めて彼らに気づいたように四方を見回した。そのとき、輪の一つが彼の首をとらえた。
「よし、かかった!」
さらにいくつかの輪が首にかかり、ルー坊は身動きがとれなくなった。フィリエルは息を止めた。ルー坊にとって、力づくで何かをされるのは生まれて初めてなのだ。
そして、フィリエルが声を上げる間もなかった。ぱっくり口を開けたルー坊は、その鋭利《えいり 》なナイフのような歯で、手近な兵士の肩に噛みついた。絶叫があがり血しぶきがあがる。
「うわあああっ」
周囲の兵士も叫んだ。ルー坊は同じく猛烈な一撃を二、三加えて、綱をもつ人間から身をふりほどいた。彼の灰色の産毛は背が完全に逆立っており、いつもののど声ではなく、口を大きく開け、血まみれの歯を見せたまま鋭く鳴いた。荒れ野の鷹《たか》が放つような、耳をつんざく声音だった。
フィリエルですら、そんなルー坊を見て血が凍る思いをした。兵士たちはそれ以上だった。
「竜だ!」
「こいつは馬なんかじゃない。竜だ!」
「待避しろ。やられるぞ!」
彼らはたちまちユニコーンから引いたが、ルー坊のほうは、こいつらが餌のじゃまをしたと、正確に理解してしまったようだった。報復に燃え、今や追いまわす側になっていた。
「もどりなさい、ルー坊!」
フィリエルが叫んでも、今はぜんぜん聞こえていなかった。餌がなければ、フィリエルであっても無力なのだ。
「なんなの、あのすさまじいのは」
三人娘も見物をはじめたが、ユニコーンに注意を奪われた見張りたちは、彼女たちを押し返そうとはしなかった。捕らわれた者も捕らえた者もひと並びにあっけにとられて、紛れこんだ怪物のゆくえを目で追った。
だが、このままですむはずがなかった。フィリエルは、追われる兵士の反対側から来たひとかたまりの男たちが、たいまつのもとに重たげな筒を運んでいくのに気がついた。
数本の筒は鋳物《い もの》でできているように見え、真っ黒で細長い。その筒口をルー坊の方向へ向けて位置を整え、隊長らしき男が、向こうの兵士に大声で散るように命じた。
そんなものは見たことも聞いたこともなかったが、直感的にフィリエルは、その筒の凶悪さをさとった。そして、彼らがたいまつの炎をとり、火口を筒の尻に近づけるのを見て、そこに何があるかを瞬間に理解した。
(火薬だ……)
轟音《ごうおん》がとどろき、硝煙《しょうえん》の匂いがたちこめて、フィリエルの勘を裏付けた。衝撃に目を閉じたかったが、そういうわけにもいかなかった。筒から煙とともに礫《つぶて》のようなものが発射され、矢よりも鋭くルー坊を襲ったのだ。
当たればそれは、簡単にユニコーンの体を貫いただろうが、当たりはしなかった。ルー坊は、自分をかすめたものにびっくりして立ち止まっただけだ。
「逃げなさい、逃げるのよ」
フィリエルは金切り声を上げた。ルー坊に届くものではなかったが、もともとルー坊は火薬の音と匂いが大嫌いだったので、回れ右をして駆け出した。
「今度ははずすな。よくねらえ」
筒を持つ兵士たちの隊長がどなっている。フィリエルが逆上して、阻止《そし》しに駆けつけようと思ったときだった。気がつくと、両わきの見張り兵が低いうめき声をあげて倒れていた。
目をぱちくりしていると、倒れた兵士にかわって、ルーンとケインが現れた。二人ともここの兵士の服を身につけており、ケインは黄色とオレンジ、ルーンは赤と緑という、お祭りのような色どりだった。
「今のうちに早く逃げ出すんだ」
ルーンが息を切らせて言った。フィリエルは思わず抗議した。
「ひどいわ。ルー坊を囮《おとり》につかったの?」
「あいつが、ぼくに協力して動くとでも思っているのか?」
ルーンはくってかかった。
「勝手に来たんだ。だけど、好き勝手にかく乱してくれたおかげで、動きやすくなったのはたしかだ。さあ早く。この機に乗じないのはおろかだよ」
「でも、ルー坊を見殺しにするの?」
フィリエルは必死で言った。
「あなたもあの筒を見たでしょう。あんなものが当たったら――」
ケインが落ち着いて彼女をなだめた。
「見殺しにはしません。大丈夫、手は打ってあります」
彼がそう言った矢先だった。発射の合図とともに再び轟音が響いたが、今度は何も飛んでいかなかった。白煙だけがもうもうと上がり、兵士たちは四方に飛びのいて、暴発だ、暴発だと叫んでいる。
「さあ、だれもがあっちに気をとられているうちに、ここを脱出してください」
「ちょっと待て」
ケインの言葉をさえぎったのはラヴェンナだった。ずいとルーンの前まで来て、眉を逆立てて言った。
「おまえたちはどういう了見だ。どうしてわれわれの計画を台無しにする」
ルーンがいぶかしそうに彼女を見た。
「逃げたくないのか」
「愚か者め。こんなにめちゃくちゃにしなければ、もっといろいろなことが探れたものを」
「じゃ、べつにきみたちは逃げなくてもいいよ。フィリエルだけつれていけばいいから」
ルーンはあっさりそう言い、フィリエルの腕をとって闇《やみ》の方角へ駆け出した。長身のケインも軽やかな動作で身をひるがえす。
ヘイラが不審そうにラヴェンナにたずねた。
「本気で残るつもりなの、ラヴェンナ」
「ばかをいうな。もちろん撤退《てったい》する。一人が逃げたというのに、残って言いつくろうのは酔狂《すいきょう》に決まっているだろう」
いまいましげにラヴェンナは答えた。
「だけど、これは断じて、わたくしたちの魅力が足りなかったせいではないからな。あのばか娘が、妙なものを引きこんでぶち壊したせいだ」
ルーンとともに、混乱に乗じて走ったフィリエルだったが、彼女たちの入れられていた天幕は、かなり陣地の中央にあったと見えて、だれにも見とがめられずに闇にまぎれるというわけにはいかなかった。
周辺の警備をつとめていた者のなかには、何があろうと持ち場を離れない、感心な兵士もいたようだ。彼らは、ルーンとケインが兵服を着ていてもだまされず、誰何《すいか 》して迫ってきた。
ふりきることはできず、フィリエルは肝を冷やしたが、つかみかかろうとした数人の兵士は、どこからともなく現れた黒い男たちに、実に手ぎわよく倒された。びっくりして立ちすくみそうになるフィリエルを、ルーンがせかした。
「いいから走って。味方だよ」
「いったいだれなの、あの人たち」
「ヘルメス党に決まっているだろう。ケインの部下だよ」
「ケインのですって?」
フィリエルはたずね返したが、ちょうどそのとき、ケインが自分に襲いかかってきた一人を、だれよりも鮮《あざ》やかに、最小の労力で仕とめるのを見てしまった。フィリエルが口をつぐむに充分な、熟練した手並みだった。
ケインがごくさりげなく、ヘルメス党には武ばった者たちもいると言っていたことが思い出された。まさか、ケイン自身のことを言っているとは思わなかった。だが、彼らが非合法な組織として存在しているからには、気づかないほうがおかしかったのかもしれない。
ケインと彼の部下の戦いぶりには、槍をかざして怒号をあげる、武骨な兵士たちとは違ったものがあった。静かといっていいほどの、研ぎすまされた身のこなし。蛮勇をかきたてる必要のない、冷めたまなざし。どう考えてもそれらは、専門的に訓練をたやさない人々、感情とは無縁に洗練した殺人を実行できる――たとえば、請け負い業としても実行できる――人々のものだった。
ようやくのことで追っ手から逃れ、柵を乗り越えて暗い木立に駆けこんだフィリエルは、汗みずくであえぎ、しばらくは口をきくことができなかった。けれども、兵士が見つけにこないことがわかると、吐息とともに感想をのべた。
「あたし――ケインの本業は、お医者かコック長だとばかり思っていたわ」
「ケインは優秀な医者だし、優秀な料理人だよ」
ルーンが応じた。彼が他人を本人の目の前で褒《ほ》めるというのは、なかなかめずらしいことだった。
「だからこそ、ぼくより優秀な暗殺者にもなれるんだと思うよ」
「がっかりさせてしまったとしたら、申しわけないことをしましたね。フィリエル」
ケインは、持ち前の穏やかさを失わずに言った。
「あえて言う必要もないと思って、今まで言わなかったのですが。そもそもルーンと出会うことができたのも、わたしはわたしでリイズ公爵《こうしゃく》を始末するために、王宮へしのびこんでいたせいなのです。ディー博士の弟子の存在は、公爵の一味だけが握っていましたから、そんなことでもなければ、つゆ知らずに終わったところでした」
「そうだったの……」
フィリエルは納得して、静かにうなずいた。けれども、ケインに対する考えを改めようとは思わなかった。彼が何に手を染めていようとも、この人物をたよりにした、自分の感覚がまちがっていたとは思えなかったからだ。
それからフィリエルは、ある可能性に思い至って目を見開いた。
「待って、それなら、リイズ公爵の暗殺は――実際にあの人に手を下したのは、本当はいったいだれだったの?」
「そんなのは、だれがやっても同じだよ」
ルーンは、肩に力を入れた様子で言った。
「ぼくたちはみな、あいつがこの世に生きている資格はないと思ったんだ。あいつはヘルメス党にとっても、放置できない人物だったということだよ」
フィリエルは、この場にまったくそぐわないと思いながらも笑いだした。見知らぬ軍隊の虜《とりこ》をのがれて、気がゆるんだせいかもしれない。笑いながら、衝動的にルーンに抱きついて、抱きしめた。
「ルーンって、かわいい」
暗がりではあったものの、ルーンはかなりたじろいだ。
「どういう意味だよ。かわいいって、ほめ言葉じゃないだろう」
「ううん、ほめ言葉よ。助けに来てくれてありがとう」
フィリエルが言うと、ルーンは一瞬しんとなって、彼女を強く抱きしめ返した。けれども、すぐに口を開いた。
「だけどフィリエル、ぼくが助けにいっても、きみはルー坊のほうが心配だったじゃないか」
「あら、それは当然よ。ルー坊は、何の下心もなくあたしを探しにきたんですもの」
「下心……」
フィリエルは、ルー坊が情況をわかっていないという意味でそう言ったのだが、ルーンはまた違った意味あいにとったようだった。
「そりゃ、ないとはたしかに言えないよ。でも、しかたないじゃないか。ゼロにはできないよ、ぼくだって男だし……」
かえってフィリエルはびっくりした。
「何をゼロにできないの?」
そのとき、ケインが咳払いをした。
「さしつかえなければ、もっと安全な場所に移動したいんですが。ここはまだ、ブリギオンの軍隊に近すぎますよ――立ち入った話をするには」
フィリエルはルーンから腕をほどき、彼の言葉に従ったが、歩きながらたずねずにはいられなかった。
「彼らがブリギオン人だということ、もうわかっているの?」
「しのびこんだときに、彼ら自身が口にしているのを耳にしました。まちがいありません。彼らは、東の帝国から来た侵略軍、その先発隊です」
「やっぱり……」
フィリエルはつぶやいたものの、それでも驚いていた。
「どうして、帝国軍がこんなところに出没するのかしら……」
ルーンがしかつめらしい調子で言った。
「この上考えられることは、ブリギオン軍が、きみの見てきたエルロイから南下して、果ての壁ぞいに進軍したということだよ。帝国が砂漠中央のトルバート国を攻略するという筋書きは、ただの虚像《きょぞう》だったのかもしれない。グラールをひっかける囮《おとり》だったんだ」
フィリエルは、しばらく黙って考えながら歩いた。すると、ことの重大さが徐々に身にしみてきた。
「東の国に、西へ侵略軍を送るほどの国力があるというのね。宮廷の偉い人でも、そうは考えていなかったはずだわ。ブリギオン軍の真のねらいは、カグウェル国を攻めることにあったというの?」
「たぶん、カグウェルじゃないよ」
つぶやくようにルーンは言った。
「真の目的というなら、それはグラール国だろう。文化の華《はな》となる女王国を望むのでなければ、彼らも、これほどのリスクをおかして進軍はしないよ。もしもカグウェルが彼らの手に落ちたなら、グラールは、のどぶえにくいつかれたも同じだ」
少し間をおいてから、ルーンは続けた。
「ぼくらは、東の帝国を甘く見すぎていたんだ。彼らが、戦争をくり返しながら独自に発達をとげていたことを見過ごしていた。あの、鋳鉄《ちゅうてつ》をつかった火薬の武器がいい証拠だ。女王の禁止のないところで、あいつらは、もうすでに新しい武器を実用化していたんだ……」
それからルーンは、木の根につまずいて勢いよくころんだ。闇に包まれた森のなかを、手もとの小さな明かりだけで歩くのは、だれにとっても骨の折れることだった。彼らはしばらく話をとぎらせ、足もとを見て歩くことに専念した。
やがて、開けて月明かりの射す場所に出たと思うと、どうやら竜の道だった。最初にブリギオン軍と接触した場所まで、ようやくもどってこられたのだ。近くには、ルーンとケインが自分の服や荷物を隠した場所があり、フィリエルのバスケットもいっしょに置いてあった。
追っ手がつかないのを確かめて、一行はひと息つくことにした。ラヴェンナたちの姿はなく、彼女たちがその後どうしたかは不明だったが、少しするとルー坊が、何ごともなかったかのような態度で現れた。
灰色のユニコーンの子は、バスケットのサンドイッチをいくつか与えると、目を細めて食べた。ルー坊が重視しているのは、フィリエルの手から食べ物をもらうことであって、餌が何かはそれほど問題にならなかった。何もないときには、あたりの葉っぱでも気がすむくらいだ。それでも、フィリエルの食べるものを分けてもらえると、彼は一番喜ぶようだった。
うれしそうにキュウリのサンドイッチを食べるルー坊は、兵士たちに見せた怪物ぶりがほとんど信じられない、じつに穏和《おんわ 》な生き物に見えた。のどの奥で小鳥のように鳴き、かわいらしいと言ってよい。
(まったく、なんて遠足だったのかしら……)
フィリエルはため息をついた。あれこれ動転したあげくに疲れきって、気分が悪いほどだった。もっともフィリエルに食欲がないのは、天幕で食べた量を考えれば当たり前だったのだが。
ルーンとケインは、その間にいそいそと着替えをすませていた。たとえ暗がりであっても、こんなに常識はずれの服は、一刻も早く脱ぎたいに決まっていた。もとの黒服におさまってから、ケインがため息とともに言った。
「われわれも、カグウェルを引き払う潮時がきたようですね。こうなったら、ぐずぐずしないで隠れがをたたみましょう。ブリギオン軍がどう出るにせよ、このあたりはもはや前線地です。グラールの古巣《ふるす 》のほうが、まだしも危険度が少ないというものです。あなたがたも、よろしいですね?」
フィリエルは少々驚いた。
「あたしたちは、このまま逃げるの?」
「他に何ができるというのです。われわれで、帝国軍の侵攻をくいとめるとでも?」
ケインは肩をすくめた。
「できない相談ですよ。わたしたちは、表立って動けるものではないし、対抗できるような数ではありません。この情勢を見極めるためには、とにかく一度この場を引かないと」
「でも、ブリギオン軍がここにいる事態を、あたしたちの他には、まだだれも知らないのよ」
フィリエルは声を強めたが、ケインはむしろ冷ややかになった。
「たしかにこれは、こちらにかなり不利な状況ですね。こうなることを、まるで予想せずにいたというのなら、グラール女王もやきが回ったと言わねばなりません。竜退治にすら手を焼くカグウェルに、帝国軍を迎撃する力があるとは思えませんし、大国グラールは今、一丸となって外敵に向かう態勢にはありません。次期女王争いのまっ最中だ」
「ケイン。あたしたちが東の帝国に攻め滅ぼされてしまってもいいと言うの?」
ケインは首をふり、疲れたようにほほえんだ。
「いいえ、積極的にブリギオンに加担する気にはなれないでしょう。たとえ彼らが滅ぼすものが、われわれの悲願と同じく、グラールの特権階級であったとしても。どうにもこうにも、あれほど色の趣味の悪い人たちではね」
フィリエルははっとした。ケインたちに愛国心を持てというのは、無理に決まっているのだ。女王家や貴族たちに、代々|迫害《はくがい》されて闇に生きるしかなかった人々が、彼らヘルメス党であるのだから。そうして考えてみれば、フィリエルだって愛国的になれる立場ではなかった。
口調をあらためてケインは言った。
「わかっていただけますか、フィリエル。わたしの最優先事項は、今もこれからも、研究部の人々の安全をはかることです。そして今後は、情報系のヘルメス・トリスメギストスの意向にも従わなくてはなりません。ひとたび事変が起きたとき、風向きをはかるのは彼の部局なのです」
フィリエルは口をつぐんだが、それでもやるせないものは、すぐにはおさまりそうになかった。
(何もできないなんて……)
ブリギオン軍のもっていた黒い筒が目に浮かんだ。彼らが容易ならない敵だということは、小娘にでもわかる。西の人々が何も知らずに眠っているうちに、彼らはさらに、何万もの軍勢となっておしよせてしまう。
さらには、ユニコーンに乗った竜騎士たちの姿が目に浮かんだ。帝国軍と一番接触しやすいのは、竜退治をする彼らだ。だが、ユーシスたちには、武装した軍団を相手どる用意がない。
両手を握りしめてフィリエルは言った。
「せめて、ユーシス様にはこのことをお知らせして。そのくらいはできるでしょう。お願いよ」
ふいにルーンが口を開いた。
「ぼくが知らせるよ」
フィリエルとケインは、一瞬きょとんとして彼を見つめた。
「あの……今、何て?」
ルーンは茶褐色のだぶだぶの服にもどっていたが、今はそのポケットに、入れられるだけのものを詰めこんでいるところだった。メガネすらもかけようとせず、ポケットにしまいこんでいるようだ。
「ぼくがユーシスに知らせに行く。あ、そのサンドイッチをくれないか」
気をのまれた状態でフィリエルがバスケットを手わたすと、ルーンはいくつかをハンカチでくるみ、それもまたポケットへ押しこんだ。
ケインが顔をしかめて言った。
「何を考えているんです。あなたこそ、ロウランド家の前に顔を出せない最たる人物でしょうに」
「それでもぼくは、ユーシスに借りがあるんだ」
断固とした口調で言い、ルーンはケインを見やった。
「陣地にしのびこんで、よくわかったよ。やつらには、女王国にふみこむだけの能力がある。初動のうちに叩《たた》かなくては、グラールが戦乱の地になってしまう。それは、ヘルメス党であろうとなかろうと、招いてはならない事態だと思う」
「しかしですね――」
言いかけたケインをさえぎって、ルーンは続けた。
「ケイン、フィリエルを無事にグラールへつれて帰ってくれないか。ぼくにはもう、つかなくていい。バーンジョーンズ博士もきっとわかってくれる。長い目で見れば、絶対にそのほうが有利なことになるはずだよ」
フィリエルは口をあんぐり開けて聞いていたが、そのとき、ようやくかすれた声を出した。
「ルーン……どうしてそういうことになるの?」
ルーンはフィリエルに向きなおり、その手をとった。
「ケインがいれば大丈夫だよ。フィリエル、彼はぼくよりもずっと確実に危険から守ってくれる。だから、研究部の人たちといっしょに、ひと足先にグラールへ向かってほしいんだ。ぼくはユーシスに話して、できるだけ帝国軍をカグウェルでくいとめてみるから」
「そうじゃなくて――そうじゃなくて……」
フィリエルはあえぐばかりになって言った。
「ルーン、いつのまに、研究よりもユーシス様が大事になったの?」
「きみがいるからだよ」
早口になってルーンは答えた。
「ぼくは今までずっと、自分さえよければ後はどうでもいいと思っていた。いや、その自分さえどうでもいいから、世界がどうなろうと知ったことではないと思っていた。でも、今では、きみがいる。きみが笑って暮らせるように、ぼくは努力しなければいけないんだ」
「それだったら、あたしがどうしたいかを先に聞いてよ」
憤然としてフィリエルはさえぎった。
「あたしは、ルーンのそばにいたいと言ったのよ。あなたがユーシス様のもとへ向かうというなら、あたしだってついていくわよ」
「今度ばかりはできないよ」
ルーンは迷う様子もなくそう言った。
「わかってくれ。きみが無事でいることが、ぼくの力にもなるんだ。ケインといっしょにグラールへもどっていてくれ。後から必ず行くと約束するから」
「わからないわよ。だれが保証するのよ、そんなこと――」
「約束する」
フィリエルの抗議をふさぐように、ルーンはすばやく口づけた。それから、急いで後ろに飛び下がった。それはもちろん、回りこんだルー坊が突きを入れるのを避けるためだった。
「時間がおしいから、ここで別れるよ。ケイン、後のことをよろしくたのむ」
あわててフィリエルは叫んだ。
「ルーン、待って。危険すぎるわ。せめて、夜が明けてからにして」
ルーンは聞こうとしなかった。月明かりのなかへ飛び出し、いっさんに走っていった。その様子はまるで、情熱にかられてひた走る――情熱的な恋人のもとへひた走る者であるかのように見えた。少なくとも、おきざりにされたフィリエルの目にはそう映った。
ぼうぜんと立ちつくして少年の姿を見送り、フィリエルはつぶやいた。
「どうして、こうなってしまうの……」
フィリエルのかたわらで、ケインは弱ったようにこめかみをかいた。
「どうやら、薬が効《き》きすぎてしまった観がありますね。さしで口をきいたむくいでしょうか」
それから彼は、とりなす口調になった。
「部下の数人に、後を追わせるようにします。当面の危険をとりのぞくように。けれども、ルーンのあの調子では、説得して呼びもどすのは難しそうですね」
フィリエルは、ルーンの姿の消えたあたりを見つめて、なおしばらく立っていた。それから、ふいに| 憤 《いきどお》りをこめて、一つ大きく足を踏みならした。
「これはどういうことなの。あたしは、『それから二人は末永く幸せにくらしました。めでたし、めでたし……』に終わらせるつもりで、そればかりを願って、王宮も知りあいも全部捨てて、ルーンといっしょにヘルメス党になることを選んだのに。世間から隠れなくてはならなくても、静かに暮らすことに決めていたのに。それなのに、どうしてルーンがそちらへ行ってしまうの?」
やり場のない怒りをこめたフィリエルの口ぶりに、ケインは首をすくめた。
「それはどうも、なりゆきと言いますか……」
「頭にきたわ、あたし」
フィリエルは不穏に宣言した。
「ルーンがそのつもりなら、あたしにだって考えがあるわ。そんなにユーシス様が大事だというなら、あたしだって浮気してやる」
「……フィリエル、あのですね。状況|把握《は あく》がいくらかまちがっていやしませんか?」
ケインは控えめに指摘したが、フィリエルは聞いていなかった。
「いいわよ、ケイン。ルーンの言うとおり、一刻も早くグラールへもどりましょうよ。そうしたら、あたしは王宮へ乗りこむわ。これだけはするまいと思っていたけれど、こんな展開になってしまったからには、もう止めるものなどないのよ。あたしはバードに会いに行く」
「バード?」
事情を知らないケインはめんくらった。
「女王陛下の吟遊詩人《ぎんゆうし じん》よ。彼は、ブリギオン軍の動向をすでに知っていた。こうして彼らがカグウェルの南に現れることも、早くから知っていたに違いないのよ」
くちびるを噛みしめ、フィリエルは決然として言った。
「彼が知っていたということは、女王陛下もご存じだったということよ。それなのに黙って見過ごしたとは、いったいどういうことなの。そのせいで、ルーンやユーシス様が危険な目に会うというなら、あたしは陛下を許さない。どうあってもバードを探し出して、脅迫してでも女王陛下に進言させる。ううん、直接陛下に奏上《そうじょう》するわ。すぐさま帝国軍に対処して、彼らをふせぐことができないようなら、アストレイアでいる資格がないって」
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第二章 ナイトの言い分
一
レアンドラ・チェバイアットは、決して派手に装っているわけではなかった。深いるり色の軍服を仕立てて彼女の制服とし、グラール=カグウェル合同軍最高司令官の権威を示すものとして、無地のマントに控えめな肩飾りをつけただけだ。
それでも、着るものを抑えれば抑えるほど際だつのが、彼女の容貌《ようぼう》に生来そなわった華やかさだと言えた。光さすプラチナの髪、白磁《はくじ 》の肌に紫檀《し たん》の瞳、熟《う》れた果実のように紅いくちびる。その鮮烈さに目を奪われない者はなく、生身の人として声を発せば、聞き惚《ほ》れない者はいない。
さらに加えて、軍服につつまれた肢体《し たい》の曲線もまた、同様かそれ以上の美術品に達していたために、マントの裾《すそ》がわずかにひるがえるだけで、多くの兵士が雲をふむ心地になった。自軍の総指揮をとってきたカグウェル王エイモスも、ごたぶんにはもれなかった。
そういうわけで、首都ケイロンの中央に位置するカグウェルの王城において、謁見の広間を仕切る人間は、だれの目にもレアンドラであるように映った。レアンドラは、ことさら人々を悩殺《のうさつ》するわけではなく、それを武器としてターゲットを定めない限りは、むしろ隙を見せない態度で通しているのだが、レアンドラより背も低く、丸顔で中年太りの王エイモスは、どう見ても美女の影にかすんで見えなくなっていた。
その見解を裏づけるように、レアンドラは王より先に口を開いた。彼女は来訪者に向かって言った。
「貴公は、合同軍の存在をいくらか誤解していると見受けられます。われわれの軍隊が、他国を侵略しないという確約の上に駐留する以上、行動は最小限にとどめるべきです。国の南端へ動かすなどとはもってのほか。世情不安を呼びこむようなものです」
王エイモスへの要請のため、城へ足をはこんだユーシス・ロウランドだったが、立ちはだかるレアンドラを見て、内心らちがあかないとさとった。それでも、言葉を重ねずにはいられなかった。
「現在国内を荒らしている竜が、一つの場所から侵入してきたことが、ほぼ確実となっているのです。わたし自身が調査に出向き、確認をとっています。どうかご再考ねがいたい。人数さえいれば、多大な危険を冒さずに道をふさぐことができるのです」
「おかしなことを」
レアンドラは、あざけるように軽く笑った。
「竜騎士たちは、よけいな加勢をたのまずに竜を狩ってこそ、グラールに誉《ほま》れを持ち帰るのではなかったのですか。ねえ、陛下」
エイモスはうなずいた。
「そうである」
「貴公は、何のためにユニコーンを得ているのです。もちろん竜退治のためでしょう。わたくしは、王様をお守りするためにだけ、このグラール軍を引きつれてまいりました。この軍隊はむしろ、内外の圧力をはらいのけ、カグウェル国の安定をはかるためのもの。竜に襲われた国は、何かと動乱の火種をかかえるものですから。ねえ、陛下」
エイモスはうなずいた。
「そうである」
黒光りする瞳をまたたかせ、レアンドラはユーシスを見た。
「むしろわたくしは、迅速《じんそく》な肉食竜の掃討《そうとう》を貴公に命じたいと思います。わたくしの目に、貴公らの活動は歯がゆいと映ります。まがりなりにも女王陛下の認可を受けた竜騎士ならば、とうに退治を完了しているべきではないのですか」
赤毛の貴公子はむっとして、はしばみ色の彼の目を、初めてまともに彼女にすえた。
「あなたの配下になった覚えはない。命令を受けるいわれはありません」
「わたくしが総司令官です。ロウランドのかた」
楽しそうにレアンドラは言った。
「ここがカグウェルであることをお忘れなく。貴公がグラールでどのような地位にある人物であっても、この国にあっては、王の任命に従っていただきますので」
レアンドラが目を向けただけで、エイモスは言った。
「そうである」
ユーシスは、王にひたと目をすえて言いつのった。
「陛下に申しあげます。カグウェルに侵入した複数の肉食竜が、これまでと同じ方法で退治できるものではないことを、陛下はご自身の目で確認しておられるのではないでしょうか」
ロット・クリスバードは、黙してユーシスの斜め後ろに控えていたが、そのときすばやく友人の肩をたたいた。むだだという意味だ。そしてそのとおり、王エイモスは目をそらし、たのむようにレアンドラを見つめた。
勝ち誇った口調でレアンドラは言った。
「貴公も今後は、しっかりと覚えていただきます。現在の最高司令官は、どのような名前であったかをね」
会見を終え、ユーシスと二人で廊下を歩きながら、クリスバード男爵はため息まじりに感想をのべた。
「どこから見ても、君に対して悪意があるよ。あの最高司令官は。この勝負は分が悪いな」
「そりゃそうだろう。彼女はロウランド家の仇敵《きゅうてき》チェバイアット家だ。一応の覚悟はしていたよ」
ユーシスは失意をおさえて言ったが、ロットは首をふった。
「甘いな。これは個人的悪意だ。レアンドラ姫は、王立学院の仮装パーティで、君が彼女の名前を忘れていたことが、今でもまだ許せないんだよ」
「わかるはずないだろう。あのときの彼女は、ウサギの耳を頭につけて、魚をとる網みたいなものでしか足を覆っていなかったんだぞ」
ユーシスが言い返すと、ロットは肩をすくめた。
「言いなおそう。君が彼女に悩殺されなかったことが、今でもまだ許せないんだよ」
「きれいな子だということを、認めるにやぶさかではなかったぞ」
「その平常心を分けてほしいと言いたいところだが、今回ばかりは裏目に出たな」
ぼやくようにロットはつぶやいた。
「王と彼女は、われわれをつぶしにかかっていると言っても過言ではない。このまま支援もなしでは、討ち死にしろと命じられたのと同じだ」
「そんなことはない」
ユーシスは強気だった。
「支援がもらえないなら、もらえなくてもいい。どうせ、チェバイアットの息のかかった兵士たちだ。今までどおり、地道に退治していくさ」
「今までどおりね……」
肉食竜が群で獲物を狩る以上、一頭をおびきよせて騎士が槍で倒す方法には限度があった。馬に乗ることができないために、囲いこむ兵士たちには、常に命がけの危険がつきまとう。じわじわと犠牲者が出たし、ユニコーンに乗った騎士たちであっても、この数ヶ月のうちに、あわやという場面は数えきれないほどあった。
しばらく黙って歩き、城の前庭に出てから、ユーシスは言った。
「ロット、国に帰りたくなったら帰っていいんだぞ。止める者はいない」
ロットはまたため息をついた。
「それを言うか。帰れないことがわかっていながら」
「わたしと君では立場が違う。どうにでも釈明ができるはずだよ」
「帰らんよ」
ごくかるい口調でロットは言った。
「ロウランド家の御曹司《おんぞうし 》が、向かうところ死のみの情況にいるときに、おめおめ帰って何になる」
「わたしは、死のみだとは思っていないよ」
ユーシスは応じた。それは本心からの言葉だった。
「どう言えばいいかわからないが、わたしは今の状態を、ある意味気に入っているとも言えるんだ」
ロットは考えこみ、それからたずねた。
「レアンドラ姫と覇《は》を競わずにいることを言っているのか? もっとも、われわれはどこにいようと、彼女に対抗してエイモスの気をひくことは難しかっただろうが」
ユーシスはうなずいた。
「そうだよ。この狭苦しい城塞《じょうさい》都市につめなくていいことを言っている」
彼らは、用意されていた馬車に乗りこみ、郊外へと向かった。ユーシスたちが城塞の内に暮らせないわけは、ひとえにユニコーンをかかえているせいだった。都市には馬の交通網が発達しており、狭いなかで、ユニコーンがいちいち馬たちを怯えさせていては、大混乱になってしまうからだ。
さらにユニコーンには、騎乗の条件として、乗り手が毎日餌を与えなければならないという拘束があった。これが馬なら、馬丁にまかせて自分たちは王城に居住することもできるが、飼育主のオーガスタ王女に厳しく言われたとおり、ユニコーンは馬とは異なる生き物だった。一日でも餌やりを欠かせば、その人間を乗り手と認めなくなるのだ。
ゆえにユーシスたち竜騎士は、城塞の外の森で暮らすしかなかった。カグウェル王のもとを訪れようにも、せいぜい半日が限度であり、当然ながらレアンドラの権力支配に遅れをとっていったのだ。
馬車のなかでロットはたずねた。
「しかし、このままでいいと思っているのか。地道に退治するといったって、侵入する入り口を断たねば、きりもなく続ける仕事になるぞ」
「そうだな……」
ユーシスは言葉をにごした。彼の内側のどこかでは、それでもかまわないと告げていたのだが、さすがにロットに言うのはためらわれたのだった。
馬車は南の城門で止まり、ユーシスたちはそこから徒歩で、自分たちの寝起きする場所へと向かった。竜退治者の拠点としてしつらえた施設はお粗末で、森のなかほどに、まにあわせの小屋をいくつか建てただけのものだった。
食事のための煮炊《にた》きも野外で行うしかなく、出先の野営地とほとんど変わるところがない。それでも、ユーシスに従ってきた兵士と、彼らに意気投合して参入したカグウェル兵の一団には、粗雑な陽気さが保たれていた。ほとんど無頼《ぶ らい》の生活であるものの、命のきずなを分かちあった者の結束が、日増しに強くなっていたのだ。
みなに迎えられたユーシスとロットは、従卒《じゅうそつ》の手を借りて宮廷用の衣装を脱ぎ、だれとも変わらぬ実用的な上下に着替えた。そして、ガーラントとウィールドという残りの騎士を伴って、ユニコーンの餌を狩る日々のつとめに出かけていった。
餌の第一候補となるのは、このあたりに多い、樹上を住みかとする太ったトカゲの一種だ。動作がややのろく、弓矢で簡単に仕とめることができる。
ユニコーンは雑食だが、栄養価の高いものを与えれば、かなり小食ですむ生き物だと言えた。体の大きなアーサーでさえ、中型のトカゲ一、二匹で丸一日走ることができるのだ。もっとも、ユニコーンたちは暇になると、虫だの木の実だのをつまんでいたが、空腹からというよりは、気分転換のように見えた。
アーサーにトカゲをもっていってやり、その美しい薄紫色の体を磨き、銀のたてがみを梳《す》いてやったユーシスは、今日も彼とのきずなをつないだことに、まじりけのない喜びを味わった。苦楽をともにするつどに、ユーシスは自分の騎乗するユニコーンに親しみがつのり、今では愛していると言ってもいいほどだった。
ユニコーンがいるせいで、あばら屋に寝起きしなければならないことなど、彼にとってはほとんど苦にならなかった。宮廷のあれこれとは対極にある、じつに単純素朴な毎日だ。日々危険にさらされてはいるが、明白で力強い目的があり、命運をともにする仲間がおり、苦労の成果が直接自分に返ってくる。
たとえカグウェルの王城で評価されなくても、彼ら竜騎士が駆けつければ、竜の被害にあわんとしていた人々は、涙を流してありがたがってくれた。カグウェル兵の味方ができたのは、ユーシスたちの闘いぶりを見て、地元の人間が発奮してくれたせいなのだ。
ユーシスは、こうした心からの同盟をうれしく思ったし、ともに命をはった男として、彼らと仲間づきあいをするのが楽しかった。ここに集う人々は、ユーシスをどこの御曹司かという色メガネでは見ない。国から率いた傭兵《ようへい》たちですら、毎日の闘いのなかで見方が変化していった。彼らは、長所も短所もある若者としてのユーシスと行動をともにし、自分の意志で闘っているのだ。
(他に何が必要だというんだ……)
ユニコーンの世話をしながら、ユーシスは思った。故郷の館にいたころは、専業の馬丁に乗馬の世話をまかせ、自分でめんどうをみることは思いも及ばなかった。けれども、今ならたいへんよくわかる。生き物同士が理解しあうためには、こうして手をかけ、同じ場所に寝起きして当然なのだ。
(なんだかこのまま、知らずに月日が過ぎてもかまわない気がするな……)
グラールの人々が、彼をうだつが上がらないと評することなど、かまわないような気がするのだった。レアンドラと争いたくないのではなく、ユーシス自身が充実してすごせる、今を失いたくない思いがあるせいなのだ。
(けれども、それでも、このままでいいはずはない……)
重い気持ちでユーシスは考えた。現状をよしと認めるのは、彼にとっては立場|放棄《ほうき 》と同じことだ。女王候補のアデイルを不利に追いやる行為だ。それだけは、ユーシスがしてはならないことだった。
「若君、夕めしのしたくが調《ととの》っています」
若いアレンが駆けてきて、明るい声でユーシスに伝えた。彼は、国内であればとても望めないユーシスの従卒という地位につき、たいしたはりきりようで駆け回っている。
「今行く」
ユーシスは応じて小屋へもどり、バケツに水を汲んでもってきた彼に、先に行っていいと言ってやった。
ユーシスの寝床《ね どこ》のある小屋は、ロットとの共用で、他の者たちの雑魚寝《ざこね》状態を思えば別格だが、とりたてて上等なものではなかった。食事の取り方も同様で、その他大勢と同じテーブルを囲んで食べることにしている。ロットはときどき、辛抱できないとわめいて、特別あつらえのものを食べたがったが、ユーシスは食べ物に文句をつけたことがなかった。
手と足を洗い、小屋に入ったユーシスは、明かりのない薄暗がりに人の気配を感じ、いくらか不審に思った。ロットは、灯火をむだにすることで有名なのだ。
「どうした、ロット」
声をかけ、敷居《しきい 》の奥へ足をはこんだユーシスは、寝台のある壁際に、ロットとは異なる者の立ち姿を見た。息をのんで立ちつくしたユーシスを、意外な人物は黙ったまま見返した。気まずさを隠すように怒ったまなざしをし、不遜《ふ そん》でありながら、どこか落ち着かなげな様子をしている。
その態度は、ユーシスが前にも見かけたことのあるものだった。異端の博士の弟子がそこに立っていた。
「わたしの部屋がどうしてわかった」
思わずユーシスはたずねた。いくつもある小屋のなかで、彼が正確にここへしのびこんだことがまず驚きだったのだ。少年は、部屋の隅をゆびさした。そこには木箱がいくつか積んであり、上に女王陛下の小さな額と、幼い少女の焼き絵とが並べてあった。アデイルの十歳のお祝いに、ルアルゴー伯爵が肖像画を焼かせた陶細工だった。
ユーシスは納得して、質問を変えた。
「何をしにきたと、先に聞くべきだったな。どうしてそこにいる」
少年はいくらか迷ったように、まなざしを伏せた。ぼさぼさの前髪が目の上にかかっている。ユーシスは、彼の顔に欠けているものに気がついた。
「メガネをどうした。なくしたのか」
たずねてしまってから、これもどうでもいい問いだったと思いなおした。ふってわいたようなルーンの出現に、多少ユーシスもあわをくっていたのだ。
「何のまねだ。悔悛《かいしゅん》して刑につくためにやってきたのか」
ユーシスが声を厳しくすると、ようやくルーンは口を開いた。
「フィリエルは元気だよ」
ユーシスは目を見はった。彼は、イグレインの案内のもとに竜の道をたどり、必死で壁のあるところまで行ってみたのだ。だが、そのときにはすでに、何の痕跡も残っていなかった。
「彼女は生きているのか」
ルーンはうなずいた。
「生きている。そして元気だ。イグレインにもそう伝えてほしい。フィリエルはけっこう気にしているんだ」
「君はそれを言いにきたのか。それならどうして、彼女をつれてこない」
ユーシスは思わずつめ寄った。
「どこにいるんだ、フィリエルは」
少年は、ひるまずに長身のユーシスを見上げた。薄闇に灰色の瞳がきらめいた。
「フィリエルはぼくがもらう。こればっかりはゆずれない。他にはこの世に何も欲しくない。でも、フィリエルだけは自分のものにしたい」
「勝手なことを言うな」
かっとなったユーシスは、少年の胸ぐらをつかんだ。
「彼女をだれだと思っている。貴様などに独占できる女性か」
つかみ上げられたまま、ルーンは大きな目でユーシスを見つめた。しばらくそうしていたが、やがてかすれた声で言った。
「ぼくは極悪人にだって、暗殺者にだって、簡単になれるんだ……」
「そのようだな。もっと早くに、二度と日の目を見ない牢獄に放りこまれるべきだった。そうしておかなかったことが、今では悔やまれるよ」
怒りをこめてユーシスは告げたが、ルーンは睫毛《まつげ 》を伏せただけだった。
「そうかもしれない。ものごころついたときから、悪事のなかにいた。ぼくを育てた旅芸人一座は、実際はあくどい盗賊団だった」
「旅芸人?」
「天文台へ行く前は、彼らと暮らしていたんだ。地方から地方へ、国から国へ回っていた。今でも回っているんだろう。なんでもやってのける人たちだった」
彼の声音に何かを感じて、ユーシスはつかんだ手を放した。ルーンがしゃべりたがっていると見えるのは、何とも奇妙なことだった。思ったとおり、ユーシスが手を放しても、少年は逃げようとしなかった。驚嘆《きょうたん》すべきことだが、ユーシスのもとへ、彼は話をしにきたのだ。
「その旅芸人たちは、何をやってのけたんだ」
ユーシスはつい、先をうながした。ルーンは息を吸いこんだ。
「なんでも。全部見た――強盗も、詐欺《さぎ》も、ゆすりも、誘拐も、殺人も。裕福そうなお屋敷をねらって、住人をわなにかけるんだ。どんなに汚いことをしても平気だった。それが一番有効とわかれば、子どもを相手のベッドへ夜伽《よ とぎ》に送りこむことまでした。ぼくは、少しも逆らわない子どもだったから、重宝《ちょうほう》されたんだ」
返す言葉を失うような内容だった。ユーシスはまじまじと彼を見て、ようやくつぶやいた。
「……そのころ、君はいくつだったんだ」
「知らない。いつ生まれたか知らないんだ。だれの子かも知らない」
あっさりルーンは言った。感傷はこめられていなかった。
「ぼくは暗算だけむやみにできる、少し足りない子どもだと思われていた。たしかに、いやと言うこともできない薄のろだったけれど、見聞きしたことは忘れなかった。彼らが他人にしたことも、ぼくにしたことも、全部覚えている。ああいう記憶は焼きつくものなんだ――」
ルーンは消え入るように言葉をとぎらせ、あらためて声をはげまして言った。
「だから、ぼくは彼らのようになれる。十中八、九はそうなっていたと思う。もしも、ぼくの前にディー博士とフィリエルが現れなかったら」
ユーシスは、たずねずにはいられなかった。
「その話、フィリエルは知っているのか」
「話したことはない。でも、博士もフィリエルも、細かいことを知らなくても察していただろうと思う。片手の数しか人間のいない場所で、それが伝わらないはずがないよ。博士は、ものすごく辛抱強くぼくを導いてくれた。そして、すばらしい学問の手ほどきをしてくれた。フィリエルは、ぼくらみんなの太陽みたいだった。彼女の髪は太陽みたいに輝くと、ずっと思っていた」
少々|気圧《けお》されつつユーシスは言った。
「それはわたしもそう思う」
「フィリエルは、ぼくがどんな人間かを知っている。知っているのに、とうとうぼくを見放さなかった。最後までいっしょに行くと言ってくれた。だから、ぼくは、フィリエルの信頼に応えなくてならない。彼女を手に入れるだけの男でなければならないんだ」
ルーンは言い、まっすぐにユーシスを見すえた。
「ぼくがそれを何とも思わなくても、きみを見殺しにしたら、フィリエルはきっと泣くんだ。だから教えにきた。ここにはもうすぐブリギオン軍が攻めこんでくる」
二
それはもちろん、ユーシスにとってすぐに信じられる話ではなかった。
「ブリギオン――軍? 正気でそんなことを言っているのか」
ルーンは腹立たしげな口調で言い返した。
「正気でないと思うなら、人をやって果ての壁まで行かせてみればいいんだ。竜の道の侵入口の東のほうだ。正気を疑うような軍隊が、そこに駐留《ちゅうりゅう》しているのが見えるから」
「わたしは、自分自身で果ての壁まで行ってきたぞ。そんなものはどこにも見かけなかった」
「軍隊が来たのは、つい最近のことだと思う。やつらも、まだそれほど用意を整えているわけではないんだ」
手を握りしめたルーンは、ユーシスから目をそらさずに続けた。
「まだだれも知らない。やつらも知られないように注意を払っている。けれども、これを放っておけば取り返しのつかないことになる。チェスと同じだ。最初の手をいくつか仕損じれば、後からどんなに努力しても、その勝負は終わってしまうんだ」
少年の言うことはもっともに聞こえた。その必死の表情は、とても嘘をついているようには見えなかった。ユーシスは一笑に付すことをやめ、さらにたずねた。
「ブリギオン軍は、現在トルバートを包囲していると聞いている。砂漠のオアシス国家とここでは、あまりに距離がありすぎないか?」
「その情報が囮《おとり》だったとしたら?」
ルーンはたずね返した。
「中央ルートの制覇をもくろんでいると見せかけて、帝国軍の本体は、砂漠を南に下る道を開発していたのだとしたら? 不可能なことじゃないよ。竜に襲われるという固定観念さえなければ、ぼくたちにだってできたことだ」
「壁――があるから、実際は竜には襲われずにすむということか?」
ユーシスがおぼつかなく言うと、ルーンはわずかに首をふった。
「完全にそう言えるかどうかはわからない。壁には、急に穴が開くことも閉じることもあるし、ぼくたちに理解できないことがたくさんありすぎる。ただ、ブリギオン軍にとっては、その道に賭けてみる値打ちがあった。彼らの野心はまちがいない。帝国は、女王国を手中に収めたがっている」
「無謀もいいところだ。連中に手が出せるものではないだろう」
ユーシスは思わずあざけった。彼にとって、東側の国々は未開もはなはだしく、グラールと肩を並べられるものではなかった。いくつかの国が併合して、帝国になったことは知っているが、トルバートの紛争でさえ、本気で重大事だとは思っていなかった。あくまでグラール国内における、政治的かけひきが貴族たちの焦点だったのだ。
「帝国軍の能力をあなどってはいけない」
ルーンは声を強めた。
「百年以上戦争をして、たたきあげてきたやつらなんだ。グラールは建国以来、本格的な軍事行動をおこなったことがない。国内で貴族の私軍がちょっと暴れるか、南の小国の紛争解決にくりだした程度だ。いざ全面衝突となれば、彼らのほうが手慣れているに決まっている」
ユーシスも引き下がらなかった。
「グラールに分がないなどと、よくも言えたものだな。われわれが軍事侵略をしたことがないのは、もっと洗練された統率方法があったからにすぎない。いざそのときが来れば、戦う胆力も機略も、そなえる武具の質も量も、東のいなか者に劣ることなどあってたまるものか」
ルーンは陰気な目でユーシスを見やった。
「帝国軍は、火薬の破壊力を制御して、武器に使用する方法をすでに考案していた。ぼくが、あったらいいなと思っていた、爆薬に耐える強度をもつ鋳鉄《ちゅうてつ》の筒が実在していた」
ユーシスはやや表情をあらためた。
「その火薬というのは、以前君にもらった、丸めた黒いやつのことだな」
「まだ、使わないでもっているのか?」
ルーンはたずね、そのとおりなのでユーシスはうなずいた。
「そら、きみたちはそんなふうに、火薬を有効利用する方法さえ知らない。それを、ブリギオン軍は縦横《じゅうおう》に扱えるようになっているんだ。製鉄《せいてつ》精錬《せいれん》の能力も高い。東の国を文化が低いと見なすのはまちがいだ。戦争技術にそったかたちで、彼らは彼らで発展を続けてきたんだ」
ユーシスは口をつぐんだ。ふと影が射すように不安がわいたのだった。ルーンの言葉をすべて認めるつもりはなかったが、それでもこの少年が、心の底からそう言っていることは感じられた。
「……見ないことには、何とも言えない。もしもこれで帝国軍が存在しないなら、どっちもどっちの世迷《よま》い言《ごと》だ」
間をおいてユーシスが言うと、ルーンは肩をおとした。
「だから、だれかが壁のそばへ行って見てこいと言っている。これじゃ堂々《どうどう》巡《めぐ》りじゃないか。なんて疲れる相手なんだ」
その言いようにユーシスはむっとしたが、ルーンがつらそうに壁で背中をささえるのを見て、彼が本当に疲労|困憊《こんぱい》していることに気がついた。
よくよく見れば、少年の衣服も靴もずいぶんくたびれており、顔に浮かべる表情も同様だった。もしもルーンが、帝国軍を見たという南の果てからケイロンまで、休みもせずに急いだのだとしたら、そうなっても当たり前かもしれなかった。
しばらくためらってから、ユーシスは結局言った。
「わたしはこれから夕食だ。細かいことはさておいて、とにかく君も何か口に入れろ。食べていないんだろう?」
ルーンはぶすっとして答えなかったが、黙っていることが答えになってもいた。ユーシスが戸口を出てふりかえると、案外おとなしくついてきた。
少し先の広場では、食事をとる兵士たちがひしめきあって、にぎやかな騒ぎとなっていた。露天につくった石のかまどに大釜《おおがま》が煮えたち、麦酒《ビ ー ル》の樽《たる》が持ち出されている。切り株に板をわたしたベンチとテーブルには、めいめいの椀《わん》と| 杯 《さかずき》を手にした男たちが鈴なりになっていた。
食べ終わった者も三々五々にそのあたりにおり、雑談をしたりカード遊びをしたり、楽器を持ち出す者もいる。かまどとたいまつの炎が燃え尽きるまでの憩《いこ》いの時間を、だれもがもっとも好んでいた。
少年が、多少色が褪《さ》めているもののカグウェルの兵服を着ていたので、ユーシスが彼をつれていっても、ほとんどの者は不審を抱かなかった。志願者を受け入れて徐々に数を増やした仲間であり、来る者は年齢出身を問わずに歓迎し、去る者は追わないという、暗黙の了解ができあがっていた。もっとも、ルーンの顔を知っている数人は、おおいにいぶかしんだに違いなかったが。
その一人であるガーラントを、食べ終えた人々のなかに見出したユーシスは、彼に合図を送り、かたわらの木立の陰まで呼び出した。
「いったい、こりゃどういうことなんです」
もとはロウランド家の傭兵隊長であり、今ではユニコーンの四騎士となって、だれよりもユーシスに忠誠をつくしているガーラントは、信じられない様子で貴公子にたずねた。
「あの小僧に、おめおめとわれらの仲間に加わる気があるとでもいうんですか」
「彼は、気がかりなことを言ってきたんだ」
ユーシスは答え、思った以上にルーンの話に身を入れている自分に気づいて、一瞬驚いた。
「君の部下二、三人を選んで、果ての壁付近の調査に行かせてくれないか。急を要するんだ。ルーンが、そこに駐留する軍隊を見たと言っている」
「ご冗談でしょう。あの子にかつがれていやしませんか」
「いや、まったくの嘘には思えない。少なくとも何かの根拠がありそうだ」
「若君、あんなやつを信用していては、これから長生きできませんよ」
ガーラントは、さも世慣れたふうに忠告した。ユーシスも、彼の目に映る自分が、いまだにお坊ちゃんであることは承知していた。
「味方として信用しているわけではない。だが、始末におえないやつだとしても、わざわざこの場所をたずねて言うだけの動機はあったようだ」
ルーンはレアンドラに告げてもよかったのだと、ユーシスは思いついたのだった。けれども、あえてそれをせず、ユーシスを見殺しにできないと言ったのだ。
「若君のお人好しが出たと、自分には見受けられますが」
遠慮会釈もなくガーラントは言った。彼は、だれかが同じようにユーシスをけなせば、即座に目にものを見せるくせに、自分には口にする権利があると思っていた。
「あんなやつは、野放しにしないで牢獄へつれていけばいいんです。これ以上わずらわされないですみますよ」
「いや」
優柔不断はいけないと思い、ユーシスはきっぱりと言いわたした。
「それをするとしても、帝国軍がいることの真偽をたしかめてからだ。万が一のために身辺に注意するように言って、部下を偵察にやってくれ」
「わかりました」
重ねてごねるのは、ガーラントのやり方ではなかった。彼が歩み去った後、テーブルに引き返すユーシスは、なぜ自分がルーンの肩をもったかを不思議に思った。ガーラントの言い分にこそ、一理ありそうなものを。
もどってみると、だれかがすでに少年のめんどうを見てやったようで、ルーンは椀を前にしてベンチに座っていた。体格よくがさつな兵士たちが、どなったり笑ったりして食べているなかに混じると、ルーンは意外なほど小さく見えた。ユーシスは小屋で向かいあっている間、そうも思わなかったのだ。
アレンから自分の椀を受けとり、ルーンの向かいに腰をおろしたユーシスは、ルーンの椀に残りがあるにもかかわらず、食べる手が止まっていることに気がついた。少年は、うつむいて涙ぐんでいた。
「なんだ――どうしたんだ」
ユーシスはあわてふためき、杯をひっくり返して立ち上がった。ルーンの灰色の瞳がうるむのを見て、以前、馬車のなかで遭遇《そうぐう》したことがよみがえり、同じようにたじたじとなったのだ。
ルーンは黒い睫毛をまたたかせ、ぼそりとつぶやいた。
「……辛い……」
夕食後にも、ユーシスが毎日片づけている仕事はいくつもあった。まずは班長以上の人々を召集して、明日の作戦会議を開かなければならない。状況報告を検討し、翌日の配置を調整し、哨戒《しょうかい》のコースを確認する。
彼らが解散した後には、財務担当から資金面での報告があった。カグウェル王はこのところ、追加資金をしぶる傾向にあり、このままでいくと、ロウランド家の個人名で物資を調達するより方法がなくなるだろう、うんぬん――
それから、規則違反の仲間に対する罰の適用の相談があり、小さなけんかの仲裁《ちゅうさい》があった。それらを処理する間も、ユーシスは放ってあるルーンのことが気になっていたが、あえて何もしなかった。どうせ、ガーラントが監視をつけたことだろうと思ったし、涙に動転させられたことを、少しばかり根にもったのである。
気がつくと夜が更けていた。最後の相談者が小屋を出ていき、ユーシスが机にもたれてひと息ついたときだった。やけに重たい足音をたてて、ロットが現れた。
クリスバード男爵は、横抱きにした少年をかかえていた。正体をなくしたルーンだった。ユーシスは、思わずぎょっとして立ち上がった。
「ロット――」
緑の目をした男爵は、こともなげに言った。
「木の下で寝こんでいたので、ちょいと拾ってきた。夜露《よ つゆ》にさらすこともないだろうと思ってね。だいたいこの御仁《ご じん》は、イグレイン嬢に見つかれば、その場でたたき殺されるんじゃないか?」
「そうだな……」
ユーシスも認めた。だが、イグレイン・バーネットは物資の調達のため、都へ出かけたばかりなのだ。
「彼女の留守中で、幸いだったと言えるな」
「まだしもわれわれの小屋が、一番スペースが空いているだろう。ひとまず寝かせてやったらどうだ」
ロットは言い、ユーシスは急いで寝室の床に毛布を敷いて、男爵が少年を運びこむ手伝いをした。ユーシスとロットの寝台の間に寝かされたルーンは、いくらか身じろぎしたが、好きな姿勢におさまると再び深く寝入り、とうとう目をさまさなかった。
「あきれたな……」
ユーシスは、ルーンの熟睡《じゅくすい》に感服する思いで言った。疲れきっていたのはわかっているが、それにしても信じられない無防備さだ。
「まるで子どもじゃないか。これで面と向かっては、どこぞの権威みたいな、えらそうな口のきき方をするんだからな」
「ふうん、恐るべき子どもというやつかな。それとも、ディー博士の霊《れい》でもとりついているのか」
おもしろそうにロットは言った。ユーシスは顔をしかめた。
「やめてくれ」
「たしかに変わった少年だよ。でも、顔がかわいいから許す」
ロットは、妙な断言のしかたをした。
「この子が加わるなら、わたしは従卒を変えようかなあ。イグレイン嬢はいつまでも冷たいし、恋愛に関して宗旨《しゅうし》変えをしてもいいかもしれん」
「おい、やめておけ」
思わず真剣になってユーシスは言った。
「おかしな考えをおこすと、君はまちがいなく死ぬことになるぞ」
ロットは、うさんくさそうにユーシスを見やった。
「君に殺されるというのか」
「どうしてそうなる。ルーン本人にだ。見かけにだまされると大変なことになるぞ」
少しも真剣になる様子がなく、男爵は楽しげに応じた。
「そういうのも一興じゃないか。ずいぶんと刺激的なつきあいだ」
ユーシスは口調に力をこめた。
「ロット。わたしは友人として、本気で言っているんだ」
「ユーシス。友人としてわたしも言うが、どうか冗談のわかる人間になってくれ。何年つきあっていると思うんだ」
けろりとしたロットの顔を見て、ユーシスは憤然とした。
「わたしは、冗談を解しない男だと言われたことはない」
「うん。君のはずし方が、うけていることはたしかだよ。わたしもそれは貴重品だと思う」
二人は一瞬沈黙した。沈黙すると、ルーンの寝息がことさら大きく響いた。何ものにもわずらわされない、その無邪気な呼吸。ユーシスとロットは思わず耳をすませた。
しばらくしてロットが言った。
「本当に赤ん坊みたいだな。こんなふうに眠ってみたいと思わないか」
ユーシスは、無言のうちに同意した。そして、ルーンの寝顔がかわいいことも、口には出さずに認めたのだった。
翌日からもユーシスは、ただガーラントの部下の報告を待っているわけにはいかなかった。彼の指揮下に入る者は、今では五百名ほどに増えていたが、ケイロン南部の広域をカバーするには、まず絶対に人手不足なのだ。
倍の人数がいれば竜を南へ押し返せるのにと、ユーシスはつくづく思うのだが、今は言ってもしかたのないことだった。築いても築いても壊される塁壁《るいへき》を、また積み上げるしかない。
彼らのユニコーンが健康で、よく走ってくれることが、今のところ唯一の救いだった。草食竜にとって、ユニコーンは天敵と同じ匂いがするらしく、竜騎士が駆けつければ、追い払えない草食竜はまずいないのだ。また、肉食竜が相手だったとしても、ユニコーンたちは機敏に危険を察知し、ふいを襲われるようなへまをしなかった。
しかし、そうはいっても、ユニコーンはたったの四頭しかいない。竜の群を局所的に片づけていくしか方法がなく、そうするうちに、まったく別の場所で塁壁が破られた。竜騎士たちには、一日も休む暇がなかった。
もっとも、彼らがそうして奔走するために、華麗なユニコーンの姿は、南部で知らない者がなくなっていた。藤色のアーサー、若葉色のメラニー、薄荷色《はっか いろ》のドーラ、海色のイゾルテと、幼児でも指さして名前が言えるくらいだ。それぞれの花のようなたてがみ――銀、黄色、赤、薄桃《うすもも》――を指しても同様だった。
信用ならないルーンを、自分の目の届くところにおきたいと思っても、ユーシスには無理な相談だった。従卒にしたいと言ったロットも、条件的には同じだ。竜の侵入が激しくなってからは、馬がほとんど使えず、ユニコーンの移動に付き添えるものは、何もなくなっていたのである。
結局ユーシスたちは、ルーンの監視につける人手すらさけず、彼を基地に残して整備作業をあてがった。ルーンは、命じられた作業に文句を言わなかった。どうやら彼は、前後不覚に眠ったことを反省しているようだった。数口の麦酒《ビ ー ル》がその原因だったからだ。
一週間ほどは、基地で何ごとも起こらなかった。ルーンはおとなしく働いていたし、周囲の人々も、彼を若い新入りと同様に扱っていた。だが、七日目、イグレインが都からもどってきた。
最初、ルーンはそれを知らず、せっせと洗濯ものの山にとりくんでいた。一つの課題が与えられると、むしろ彼は人一倍熱心だった。
「この石鹸《せっけん》、質が悪い」
ルーンは洗濯仲間に訴えた。
「ふつうだろう」
「そんなことない。油じみを少しも落とさないじゃないか」
ともにたらいで作業をする、若いそばかすの兵士は、のんびりした口調で応じた。
「てきとうにしとけよ。破っちまうぞ」
ルーンは眉をしかめて、石鹸を目に近づけた。
「自分で作ったほうがましだ。ケイロンにはこんなものしか売っていないのか」
「そりゃ、イグレインが買ってくる品だから、多少のことはしかたないさ。彼女、値切りたおしの名人なんだから」
相手の若者がそう言ったとき、背後で声がした。
「だれが、何の名人ですって?」
そばかすの若者は体をすくめ、地獄耳《じ ごくみみ》だとつぶやいた。
ルーンははっとして立ち上がり、後ろをふりかえった。そして、一瞬ひどくとまどって見つめた。イグレインは、かつて束ねていた赤茶色の髪をばっさり切り落としていた。ごく短い、兵役につく男のような髪型になっていたのだ。
彼女のほうは、異端の少年を見まちがえはしなかった。さっと気色《け しき》ばんだが、すぐには声を上げなかった。ただ、つかつかと歩み寄り、その勢いのままルーンを殴り飛ばした。
平手などというかわいいものではなく、しっかりとこぶしを握りしめていた。ルーンは宙を飛び、倒れるはずみにたらいをひっくり返し、石鹸水のしぶきがあたりに飛び散った。その環境はともかく、拳闘家がお手本に見せるような一撃ではあった。
倒れたルーンの前に仁王《に おう》立ちになり、憤怒《ふんぬ 》のあまりのふるえ声で、イグレインはようやく言った。
「わたくしの目に入る場所に、よくももう一度現れたものだな。しかもわれわれの基地に、どうして入りこんでいる」
ルーンはのろのろと顔をこすり、血がしたたるのを見て、もう一度手を鼻にあてた。
「……だれかには殴られると思ったよ」
「答えろ!」
「フィリエルは無事だと言いにきた」
イグレインの表情が、しばし空白になった。眉を上げ、ぽかんとして見守る。
「なんですって……」
「彼女は元気だ。けれども、きみたちのもとへはもう返さない。つぐなえるものならつぐないたいが、彼女はぼくがもらう」
そう言ったルーンは、息をつめて待った。だが、イグレインの反応は一テンポ遅かった。彼女はふいに涙ぐみ、自分に言い聞かせるようにつぶやいたのだ。
「フィリエルが生きている……」
目を閉じ、イグレインは胸を上下させて深呼吸した。それから再びルーンを見たが、涙のにじんだ灰青の瞳は、いっそう激烈なものとなっていた。
「おまえなんか生かしておけない。この剣でたたき斬ってやる!」
抜きはなった刃が青白くきらめいた。ルーンは必死で起き上がり、突進する彼女をかわそうとした。そばかすの兵士は、イグレインの逆上にただ仰天し、止めに入ることもできずに蒼白《そうはく》になっている。
そのままであれば、ルーンはどう見てもイグレインの制裁を受けていた。だが、だれにも止められないと見えた彼女の切っ先と、ルーンの代わりに斬り結んだ者がいた。
激しい金属音が響き、イグレインは自分の剣が刃こぼれしたことを知った。目をみはる彼女の前に、ルーンをはさんで二人の男が立っていた。短剣を手にかまえ、その一人はイグレインの剣をはじき、もう一人は彼女にねらいを定めている。
「おやめなさい、お嬢さん。それ以上のことをすれば、こちらも手を出さずにはいられません」
場慣れした冷静な声で、男の一人が告げた。手足の長い、二十代と見える男たちで、そろってカグウェルの兵服を身につけているが、二人とも短い髪は金色で目は青い。そして彼らの顔立ちは、複写したようにそっくりだった。どうやら双子の兄弟なのだった。
「彼女を傷つけてはいけない」
ルーンがくぐもった声で言った。まだ鼻血が止まらなかったからだ。
「そういうわけにもいきません。われわれは、アーベル様の厳命を受けています」
一方の男がルーンに言い返した。
「何者だ、おまえたちは……」
驚ききってイグレインはたずねたが、彼女に答えたのはルーンだった。
「ぼくは、きみに何度殴られてもしかたないと思っている。でも、きみに殺されるわけにはいかない。それではフィリエルが喜ばない」
「わかった――これが――ヘルメス党の一味なのだな」
イグレインはくやしげにうなった。それから大きく息を吸いこみ、響きわたる声で叫んだ。
「みんな何をしている。出会え、出会え。われわれのふところに、紛れこんだ裏切り者がいるぞ!」
そのとき基地に残っていた面々は、ほとんどがカグウェル兵だったが、イグレインの声を聞きつけた者は、みな一散に駆けつけた。洗濯仲間の若者でさえ、今となっては身がまえている。彼女はここの人々にたいそう信用があるのだと、ルーンは思わず感心して思った。
「ぼくもこの二人も、裏切り者と呼ばれるいわれはない。きみたちが無事であってほしいからこそ、ここへ来たんだ」
ルーンはイグレインに言ったが、もちろん聞いてはもらえなかった。集まった兵士に取り巻かれ、じりじりと後ずさった。
双子の一人が、見切りをつけたように言った。
「この囲みを斬り開いて脱出します。よろしいですね」
ルーンはためらった。
「待ってくれ――」
「待っていたら死体になります。それがわからないのですか」
ケインの部下がそう言ったときだった。イグレインとは別の野太い声が、同じくさし迫《せま》った声音で叫ぶのが聞こえた。
「基地の者は何をしている。みんなどこだ、一大事だ。ばかものめ、だれも配置についていないのか!」
一同が声の方向を見やると、目を異様に光らせたグラール人の兵士が三人、肩をいからせて歩いてきた。最初からの仲間の顔だったが、どうしたものか見事に汚れきり、やつれた顔に黒い隈が目立つ。
「すぐさま竜騎士のかたがたを呼び戻すんだ。伝令を走らせろ。のろしを焚《た》け」
イグレインが、いくぶん毒気をぬかれて彼らに言った。
「何も、騎士のかたがたをわずらわせるほどのことでは――」
「ねぼけたことを言っている場合か。これ以上の大事があってたまるか。いいから、今すぐロウランドの若君にお知らせしてこい」
兵士があたりを見回してどなりつけたので、その役目をになっていた兵士は、脅迫を受けたようにあわてて走り去った。
しんとなった人々のなかで、ルーンはむしろ小さな声でたずねた。
「軍隊を見てきたんだな――?」
瞳をぎらつかせた兵士は、ルーンを見すえて答えた。
「おまえの話はまちがっていなかった。あのような一団が攻め寄せてくれば、ちょっとやそっとでは押し返せない。へたをすれば、死人の山を築く大惨事となるぞ」
おさまりがつかないイグレインが、なおも言いはった。
「どうしてです、ジャービス殿。ここにいるのは裏切り者です。わたくしが成敗《せいばい》するところだったのです」
ガーラントの部下は厳しく言った。
「内々で争っている暇はない。どんな人間だろうとこの少年も、敵の軍隊を目撃した生き証人だ。目にした情報には価値がある。隊長たちがもどられるまで、絶対に手を出すんじゃない。そんなことをすれば、君こそが裏切り行為だぞ」
「敵の――軍隊――?」
初めてその意味に思い至り、イグレインは目を見はった。
「そうだ。ブリギオンの軍隊だ」
ジャービスを見つめ、息を吸いこんだイグレインは、うわごとのようにつぶやいた。
「うそ……そんな。わたくしが生きている間に、軍隊が攻め寄せるなんて……自分の目の前で戦争がおこるなんて……」
ルーンはそのとき、聞きちがえたかと思ったのだが、イグレインは最後にたしかにつぶやいた。
「すてき……」
ケインの双子の部下は、情況の変化を読みとったようだった。一方が手を上げて穏やかに言った。
「打ち明ければ、われわれ二人も、彼とともに帝国軍の陣地へしのび入った経験者です。やつらの内部の様子を、かなり詳しく説明することができます」
ガーラントの部下は、顔をひきしめてうなずいた。
「わかった。竜騎士のかたがたの到着を待とう」
三
のろしの煙を見て、ユーシスたちはユニコーンのこうべを巡らせ、いつもより早く戻ってきた。彼らは、ガーラントの部下が偵察からもどったのだろうと、ある程度察しをつけていたが、それでも驚いてはいた。果ての壁まで徒歩で行ってきたにしては、帰りが早すぎたからだ。
「おまえたち、本当に壁の先まで行ったのか?」
あわただしくユニコーンを降りたガーラントは、半信半疑で部下にたずねた。
ジャービスは険しい表情で答えた。
「われわれは、果ての壁に着くより早く軍隊を見つけました。手前五十マイルといったところです。やつらは移動しています」
大急ぎで会議が開かれた。ガーラントの部下が報告をのべたが、かたわらにはルーンと双子も加わっていた。
「彼らの数は?」
「大ざっぱに見積もって――五千から七千」
重い声でジャービスが言った。
「たぶん、後続があります。移動は布陣のためと見てまちがいありません」
予想を上回る規模だった。その場にいた人々は、一瞬絶句した。
「信じられん――」
「しかし、この目で見ました。統制のとれた精鋭《せいえい》部隊を持ち、難路《なんろ 》を整然と行軍《こうぐん》しています」
「本当に、ブリギオン人の兵士なのか」
「それも確かめました。疑うことはできません」
詳しい話を聞くうちに、人々の焦燥《しょうそう》は濃くなっていった。今となっては事実を認めざるをえなかった。西の国々は今、東からの侵略の脅威にさらされているのだ。
ルーンは、ジャービスにうながされて口を開き、一大基地があると思われるエルロイからここまでの、想定されるブリギオン軍の動きについて、広げた地図をゆびさしながら説明した。彼らは南下して低地を切り開き、一挙に西をめざしたのだ。それは地図上で見れば、そこからトルバート経由で西に近づくよりも、はるかに容易に見えた。だれもが森を念頭に入れないうちに、裏をかかれたのだ。
しばらく黙って地図に見入っていたユーシスが、口を開いた。
「しかし実際には、それほど容易なことではないだろう。大人数を動かすのに、密林は不向きだ。ましてや、大規模な戦争のための資材や糧食を運ぶとなれば、どこも足場が悪すぎる」
「そうなんだ」
ユーシスを見上げてルーンが言った。
「だから、まだ時間はあると思う。ブリギオン軍は、兵をこちらへわたらせることで精一杯のはずだ。それほど一気に攻め入ることはできない」
「最初のうちに叩けということだな」
「しかし、どうする。竜もいるのに」
人々がざわめき出した。ロットが肩をすくめた。
「たしかに、竜退治どころの騒ぎではなくなってきたようだな。しかし、だからと言って、肉食竜が消えてくれるわけでもなし」
ユーシスはまだ、地図上のしるしを見つめて考えこんでいた。
「こんな場所に陣をしくというなら、帝国軍はどのように竜に対処する気なんだ」
双子の一人が、それに答えて口を開いた。
「彼らの陣地で厩舎《きゅうしゃ》を見かけました。多くの馬を引きつれているところを見ると、少なくとも最初は、カグウェルに竜がうろつく事態を想定していなかったに違いありません。けれども彼らは、竜を撃退するにたる武器を装備しています」
「それが火薬の武器なのか」
「あんなものが人に向けられるところは、できれば見たくありませんね」
かわるがわる説明が続き、その場にいた全員が、ブリギオン軍の容貌を徐々にはっきりと思い描けるようになっていった。そして全員がわかったことは、だれかが早期に動かなければならないということだった。
最終的に人々は、ユーシスの意志決定を待った。ユーシスは途中で質問をはさんでも意見はのべず、だれよりも慎重にかまえていたのだ。そしてたしかに、彼の立場にあっては、軽はずみな断定はできないところだった。
みんなの見守るなかで、ユーシスは切り出した。
「とにかく、今のわれわれにできることを、全部してみるしかない。この知らせは、一刻も早くカグウェル王の耳に入れよう。王を説得して、これに対処できる人数の軍勢を動かしてもらう」
ロットが横目で彼を見た。
「説得できると思うか?」
ユーシスはいくらか言葉につまった。
「……わたしが行かないほうが、むしろ話が通るかもしれないな」
ガーラントが手をかかげた。
「それなら、自分が王城へ行って食い下がってきましょう。軍隊を見てきたのは自分の部下ですから」
「だれが交渉しようと、信じさせるまでには時間がかかるだろうな。合同軍は、そう簡単に尻が上がりはするまい……」
「そのあいだ、われわれはどうするんですか」
カグウェル兵が緊迫した面もちでたずねた。
「まさか、手をこまねいているわけでは」
ユーシスは口もとをひき結んだ。
「じっと待っているつもりはない。だから、できることをする。帝国軍の動向をとらえた以上、少しでも彼らを封じるのはわれわれのつとめだ」
「しかし、どうやって」
「まずは見張りをおく。今後は哨戒の対象を、竜から帝国軍に切り替えよう。相手の正確な位置と動きをつかんでおくことが、何よりも先決だ。そして、王城の軍隊がまにあわないようなら――」
ユーシスは息を吸いこんだ。
「われわれが何とかしよう。方法は考える」
人々が席を立ち、ユーシスは地図をたたんだ。ふと見ると、ルーンがまだその場に居残っていた。ユーシスは悪びれずに彼に言った。
「君を疑ってかかったことを謝罪しよう。国の命運を左右するような、重大な知らせをもたらしてくれたというのに、すまなかった」
ルーンは、黙ってユーシスの顔を見ていた。それから、ごく率直にたずねた。
「ケイロンの軍隊は、きみには動かせないのか?」
ユーシスはわずかに肩をすくめた。
「ざっくばらんに言えば、レアンドラが頭を押さえている。もともとグラールにおける軍隊は、チェバイアット家の私軍の延長だからな」
少々びっくりした表情になり、ルーンはさらにたずねた。
「それなら、ここにいる人たちは?」
「言ってみるなら、義勇《ぎ ゆう》軍とでも。竜退治に、自分から協力を申し出てくれた人々の集まりだよ」
ユーシスは少し疲れているために、かえって饒舌《じょうぜつ》になる自分を感じたが、かまわず続けた。
「軍勢を組織して他国を制圧するのは、もともとはグラール国の理念に反する行為だ。少なくとも保守派のロウランド家なら、そういうものだと考えている。人が本質的に勇敢であり、不羈《ふき》の精神をもつことと、数をたのんだ集団的熱狂でもって、ゆきすぎた凶行に及ぶ行為とは、別ものだと思っている。やらずにすむならそれにこしたことはない」
ため息をつき、彼は頭をふった。
「しかし――そういった見解がもはや通用しないことを、今回は証明されたようなものだな。東の帝国が、それだけの数をそろえて侵攻してきたというのに、ただの理念では歯がたたない」
ルーンは静かに歩み寄ってきて、床几《しょうぎ》に腰かけたユーシスのかたわらに立った。そして言った。
「そういうものにしては、ここの人々は団結ができあがっているね。だれもがみな、きみの一言を待っていた」
ユーシスは少しほほえんだ。
「そうか? わたしはみんなの世話役のようなものだぞ。毎日けんかの仲裁に明け暮れている」
黒髪の少年は、生まじめな表情をくずさなかった。灰色の瞳を見開いてユーシスを見つめた。
「ぼくは、きみがもっと、名誉や名声のためにつっ走る人間だと思っていたよ」
少し考えて、ユーシスは答えた。
「わたし個人の問題なら、どうにでも好きなようにできる。命を投げ出して名をとるのも、考えようによっては好ましいだろう。けれども、わたしをたよりにしてくれる人たちの命は、一人としてむだにすることはできない。組織する者には、それだけの責任がつきまとうものなんだ」
「そういえば――」
少年はかすかに口もとをゆるめた。
「きみのチェスは、いつでも捨て駒をきらったな。そうして、勝てないんだ」
「悪かったな」
ユーシスは憤慨しようとしたが、うまくできなかった。眉を開いたルーンの表情に、一瞬注意を奪われたからだ。彼はほとんど楽しそうに見えた。
「ぼくも、軍隊に関して本当のところはよく知らない。けれども、人数をそろえること以上に、指導者の器量は大事なのだと思う。統率がとれてよく動ける集団なら、たとえ少人数でも突破口が開けるよ」
ルーンにはげまされるとは思いもよらなかったユーシスは、驚きながらうなずいた。
「そうだな。われわれには少なくとも機動力がある。ユニコーンに代わるものを、帝国軍がもっているとは思えないからな」
ルーンもうなずいた。
「そうだよ、ユニコーンがいる。必ずやりようがあるはずだよ」
それからのユーシスたちには、ブリギオン軍の動向をにらんでの緊迫した日々が続いた。ジャービス他を伴って王城へ出かけたガーラントは、予想がつきはしたものの、いっこうに帰ってこなかった。
待つ日々の間に、ユーシスも自分の目で帝国軍の布陣を確かめたし、他の人々も多くが目にした。敵軍の兵士たちは警戒《けいかい》を怠《おこた》らない様子だったが、まだ、自分たちが気づかれていることを知ってはいなかった。ユーシスが厳しくいましめて、だれも危険を冒さなかったからだ。
それでも徐々に、見ているだけでは話にならないという苛立ちが、彼らの間に高まりつつあった。ブリギオン軍がやすやすと森を拓《ひら》き、堀と頑丈な塀のある砦《とりで》を建設しだすのを目の当たりにしては、なおさらのことだった。
ひとたび戦闘が起これば――一同が少数をかえりみずに鬨《とき》の声を上げれば、眠っているグラール=カグウェル合同軍も耳目《じ もく》を開かれることだろう。そう考えるものの、ユーシスにはまだ、これほど確実な玉砕《ぎょくさい》に向かって仲間を駆り立てることに、今一度のためらいがあった。ガーラントの交渉の結果を待とうと思いさだめていた。
やがて、ついにガーラントが基地へ帰ってきた。大柄な傭兵隊長の顔つきを見れば、報告は語られずとも自明だった。ユーシスは小屋の前で彼を迎えたが、周囲に人々が集まってくるのを見て、平静でいようと決心した。
「動かないのだな、合同軍は」
「残念です」
ガーラントはくやしそうに認めた。
「王エイモスは、南方に関して眼中にないありさまです。国内の反勢力|派閥《は ばつ》に、隣国トルマリンをひきこむ動きがあるとかで――」
腕組みをしたロットが、感心したような口調で言った。
「ほう、帝国軍はもしかすると、居座っているだけでこの国がとれるかもしれないぞ。そういうことわざが、どこかになかったか?」
「もう、まにあわないな」
静かにユーシスは言った。
「肝に銘じよう。われわれだけで手を打つときがきたようだ」
ガーラントは、あらたまった顔をしてユーシスを見つめ、くちびるをなめた。
「合同軍を動かしてくることに、自分は失敗しました。しかし、じつを申しますと、この人物と飲み屋で知りあってきました。ご紹介いたします。カグウェル軍第十三部隊隊長、ボードウィン殿です」
ガーラントの背後から、やや小柄だが隙のない様子をした、四十前後と思われる黒髪の男が進み出て、人々の前に立った。背筋の伸びたその挙措《きょそ 》に、下にはおけない人物の貫禄《かんろく》を感じて、ユーシスは急いで腰掛けから立ち上がった。
「ユーシス・ロウランドです」
浅黒く日焼けしたボードウィンは、若々しい長身の貴公子を見つめ、堅苦しく口を開いた。
「ビルツ・ボードウィンです。こうして間近にお目にかかれて光栄です。貴殿の竜退治のおうわさは、わが部隊にも鳴り響いておりました。自国のことではあり、みずからも協力すべきことながら、今まで思うにまかせずにおりました。しかし、このたびのご窮状《きゅうじょう》を耳にはさんで、ついに決心がつきました。われわれは合同軍から離脱《り だつ》し、一志願者として馳せ参じます。率いてきた四百余名の兵たちも、ともに異存はありません」
突然の話に、ユーシスは思わず目を見はった。
「ありがたいお申し出です。しかしながら――貴公のお立場では、国王の機嫌を損じてはならないのでは」
「見切りをつけました」
ボードウィンは簡潔に断じた。
「ここで動けないようなら、今の王権はもうだめです。自分は一介《いっかい》の軍人ですが、将を見る目はもっているつもりです」
鋭利な黒い瞳をユーシスに向けて、彼は続けた。
「同朋《どうほう》の口からも耳に届いています。危険な竜を狩るこの部隊が、理想的な指揮官のもとにあることを。果敢で的確な判断を下し、犠牲を最小限としていることを。内においては、融和《ゆうわ 》と規律の維持をはかり、同国人にも他国人にも差別のないことを。それを可能になさるというのに、貴殿がグラール人であることで、麾下《きか》につくことに二の足をふむ理由はないと思われます」
ユーシスは内心、ガーラントは飲み屋でどんな吹聴《ふいちょう》をしたのだろうかと思ったのだが、讃辞はすなおに受けとめておいた。
「お褒《ほ》めの言葉にたがわぬよう、これからも努力したいものです。しかし、お聞き及びのとおり、われわれが現在直面しているのは、竜よりもたちの悪いものです。犠牲を最小限にとは、もうどんな形でも言うことができないでしょう。最悪の場合、ここにいる全員の| 屍 《しかばね》でもって、はじめて警鐘|《けいしょう》が鳴らせることになるのかもしれません。貴公は、それでもわれわれに加わるとおっしゃいますか」
ボードウィンはうなずいた。動じた様子はなかった。
「軍人にとって、そうした覚悟はいつでもできているものです。われわれが心底恐れるとすれば、この命がむだ死、犬死に終わることでしょう。貴殿はそれをさせないかただ。こうして直接お会いしても、自分はそう見込みましたし、見込んだ人のもとで死ぬのが本望《ほんもう》です」
彼が言い切ると、周囲で聞いていた人々は一瞬|神妙《しんみょう》になった。イグレインは、両手の指を固く組みあわせていた。
「すてき……」
ユーシスは、ボードウィンの熱意に負けたことを知り、大きくうなずいた。
「そこまで言ってくださるなら、お力添えは、われわれにとって願ってもないものです。ともにブリギオン軍をくいとめましょう」
ユーシスと握手をかわしたボードウィンが、ガーラントとともに歩み去ると、人々がそれに続いた。クリスバード男爵は緑の目をひらめかせて、ユーシスの顔をのぞきこんだ。
「ユーシス君、君は以前、宮廷には向かないと言っていたことがあったな。今になってその意味がわかったよ。君は軍隊でもてる男だったのだ」
ユーシスはむっとして、赤毛に指をつっこんだ。
「今ごろ感心してどうする。君も、わたしを見込んで死んでくれるんだろうな」
「わたしは軍隊に向かない」
「知っているよ」
ユーシスはとうとう重いため息をついた。
「命をあずけられるというのは、重いな。これでわたしにも逃げ道がなくなった」
「逃げる気はなかったくせに」
「ああ」
床几に座りこんで、ユーシスはつぶやいた。
「やってみるしかない。少なくとも、おかげで手勢は倍近くに増えた」
「どう動かす?」
何度もくり返し見た地図を、二人が小屋の前で再び広げているときだった。いつもの、どこかひっそりした態度でルーンが歩いてきた。
この少年は、笑いかけてもまず絶対に返さない。それを知っているくせに、ロットはこりもせずにほほえみかけた。ルーンが眉をよせる様子もまたおもしろいと、ひそかに思っていたからだ。
「どうした、もう眠くなったのか?」
ロットの期待どおり、少年は眉間《み けん》にしわをつくった。むっとして行ってしまいそうに見えたが、思いなおしてまた寄ってきた。
「帝国軍を攻撃するなら、裏をかかないとだめだよ」
ルーンはしかつめらしく言った。彼が意見しに来たことを知って、ユーシスは驚いて顔を上げた。
「それは、だれにでもわかっていることだ。互角にわたりあえる人数ではないのだから」
一蹴《いっしゅう》されても、ルーンはひるむ様子がなかった。地図ののったテーブルに手をついて、身をのりだした。
「人数差をおぎなうなら、得手《えて》を生かすことが一番だと思う。敵軍が不案内でこちらが得意なものを、すべて利用してしまえばいいんだ。地の利も、ユニコーンも、竜退治も」
ユーシスは思わず聞き返した。
「竜退治も?」
「言っていたじゃないか。倍の人数がいれば、竜を南に押し返せるって。今度の助っ人が加われば、その数に近づくんだろう?」
「それはそうだが、ボードウィン隊長が彼らを率いてきたのは、竜退治のための加勢ではないぞ」
不審そうに言うユーシスに、ルーンはきっぱりと断じた。
「いや、竜を狩るべきだ」
地図上を指でなぞり、ルーンはブリギオンの陣地を示した。
「竜をまとめて南へ追いやって、帝国軍にぶつけてしまえばいい」
ユーシスとロットは、一瞬めんくらってまばたきをした。一石二鳥をねらったような不まじめさにあきれたのだが、しかし、よく考えはじめると、捨てた案でもないような気がしてきた。
「なるほど――」
ロットがうなった。
「相手は大人数だから、身動きをとるのが遅い。暴走する竜がつっこめば、ダメージはそうとう大きくなるな」
ルーンは言葉に力をこめた。
「こんなことが可能なのは、ぼくたちの側だけだ。ユニコーンを四頭もっているからだ。竜を誘導することなど、あちらは考えてもいないはずだよ。彼らにできるのは、火薬で追い払うことだけだもの」
「しかし、その火薬の武器は、距離があっても使用できる強力なものなのだろう?」
ユーシスが指摘すると、ルーンは少し首をすくめた。
「火薬というのは、少しでも湿ると使いものにならなくなるんだ。知っていたかい」
「いや……」
「うまく潜入《せんにゅう》する者がいれば、だいなしにするのは簡単だと思う。そして、ぼくたちの中には潜入の適任者がいる」
「ああ、あの双子の――」
「ディルとダン。もっともぼくにも、まだどっちがディルだかわからないけれど。とにかく、彼らはプロなんだ」
あぜんとするような、単純で、大胆で、しかも意表をついた計画だった。自分たちの少ない頭数を、竜でおぎなおうというのだ。ユーシスは息を吸いこみ、ルーンにたずねた。
「君は、ずっと作戦を練っていたのか?」
「いや」
ルーンはふいにたじろぎ、やや自信を失ったように小声になって言った。
「チェスのようには、先の手が読めない。けれども、やってみる価値はあるかと思う……」
「かなりある!」
ロットは立ち上がり、興奮した声で言った。
「なんとなく希望が見えてきたぞ。ユーシスのために死んでやるのも一興だと思っていたが、大軍に竜をけしかけてやるほうが、もっとずっと爽快《そうかい》だ」
ユーシスもつられて立ち上がった。
「みんなを呼んで、もっと細かいところまで詰めてみよう。たしかにこれは脈がある」
四
基地はにわかにあわただしくなった。活気がみなぎったと言いかえることもできた。
まず、数日を留守にしたガーラントには、ユニコーンの騎士として、ドーラの信頼をとりもどす大仕事が待ちうけていた。ガーラントの不実が彼女に許されるかどうかは、隊にとっても死活問題であり、手をかえ品をかえ、彼のレイディのご機嫌をとりむすぶガーラントの姿は、いやがおうにも注目を浴びた。
ボードウィン隊長とその部下たちは、新しい部署における訓練をはじめた。彼らには、ユニコーンという生き物に慣れる努力も必要だった。古参の者は、ユニコーンに慣れれば竜に対しても平気になるものだと、彼らにわけ知り顔で説明した。
作戦会議が何度も開かれ、ルーンのアイデアにもとづく一連の作戦が、細かく練り上げられていった。どのように運んでみても、のるかそるかの部分が大きく、危険の度合から言っても、以前より少なくなったとは決して言えない計画だったが、賭けてみようという点では全員が一致したのだ。
多忙と緊張が熱気をまきおこすなかで、ルーンも急に忙しくなっていた。
竜を確実に走らせるためには、かなりの量の爆薬が必要になったが、その製作にあたるのは、ルーンただ一人だったからだ。材料はそろえてもらったものの、石を割ることからはじめていては、徹夜を続けないと、とても間にあいそうになかった。
もっともルーンは、何かをはじめれば、時間があっても徹夜をする口なので、人々が寝静まるころ黙々と作業を続けることに関しては、痛くもかゆくも思っていなかった。灯火は危険なので遠ざけ、やっと手もとが見える程度の暗がりで、熱心に石を削ったり、すり鉢ですったりしていると、ふと人影がさした。
「手伝おうか……」
イグレインの声だった。ルーンはかなり驚いて、手を止めて見上げた。
「いや、大丈夫だ」
ことわられたにもかかわらず、イグレインは近づいてきた。そして、身をかがめてすり鉢を見下ろした。
「そのイオウ、質がよかった?」
「うん。それほど混ざりものがない」
「かして」
イグレインはすり鉢をとりあげた。ルーンは逆らわないことに決め、硝石《しょうせき》を削るほうに専念した。
しばらく間をおいて、彼女は言った。
「殴ったことをあやまる気はない。でも、少し、考えなおすことにする」
ルーンは何も考えつかなかったので、何も言わずにいた。すると、イグレインは声音を変えてたずねた。
「ねえ、フィリエルは、どんなふうに暮らしているの?」
その声が妙にやさしかったので、ますますルーンは混乱した。けれども、なんとか質問には答える努力をした。
「どう言ったらいいか……ふつうに暮らしている。朝起きて、夜寝て。畑で野菜を育てたり、鶏やユニコーンの世話をしたり、日記を書いたり、本を読んだり、料理をしたり……ぼくは、本当は料理をしてくれないほうがいいんだが」
「ルー坊は、もう灰色ではなくなっているの?」
「いや、まだ前のままだ」
イグレインは口をつぐみ、しばらくすりこぎを回していたが、やがて言った。
「フィリエルは、どこにいようと、やっぱりフィリエルなんでしょうね」
「うん……たぶん」
イグレインはため息をついたが、もう、以前のように怒りだすことはないようだった。噛みしめるような口調で言った。
「今となっては、わたくしにもわかるような気がする。フィリエルの意志があるから、君がここにいるということが。ユーシス様のお命は自分が守るって、彼女は本当にずっと言っていた。わたくしには、それを途中で放棄していったとしか思えなかったけれど――結局、君がここへ来て、あのかたを守るために、こんなものを作っている。そうでしょう?」
ルーンは少し考えた。
「うん……たぶん」
「わたくしだって、似たようなものだ。フィリエルがいなければ、こんなことをしていなかった。けれども今は、ユーシス様のもとで働けることを心から誇りに思っている。フィリエルのひきあわせに感謝しなくては」
ルーンは探るようにイグレインを見た。
「でも、死ぬかもしれないよ。きみも、ぼくも、彼も」
「死ぬものですか」
イグレインはほほえんだ。
「むだ死、犬死はしないのよ。それが本物の軍人だから」
それから彼女は、夜が明けるまでルーンの作業を手伝ってくれた。腕力がある上に手先も器用なイグレインは、実際|巧《たく》みな助手だった。
(……女性はみんなたくましい……)
明け方までかかって、ルーンの達した結論はそのようなものだった。もう一度トーラス女学校に入学しろと言われるよりは、まだ、ブリギオン軍に立ち向かったほうが勝算があると、しみじみ思うルーンだった。
双子のディルとダンは、短い髪を黒く染め、別段たいした仕事と思わないのか、ひょうひょうとした態度でブリギオン軍へ潜入しに出かけていった。彼らの出発の翌々日、ユーシスたちは基地を出て、行動を開始した。
竜狩りの部隊は大きく三手に分かれたが、これとは別に、定点に身をひそめて、竜の走る方向をそらす工作隊が、爆薬をもって数カ所の位置についた。ユニコーンの騎士たちは、いつものように独立した遊撃《ゆうげき》隊だった。彼らなら、部隊から部隊へ風のように走り抜けることができるからだ。
怯《おび》えやすい草食竜の群を誘導することは、以前も今も、それほど難しいことではなかった。困難なのは、あまり早期に気づかれることなく帝国軍近くへ竜を寄せることであり、行動の予測のつかない肉食竜の出現だった。
つかの間なりとも敵軍の目を竜からそらさせるためには、ボードウィン率いる左翼の部隊が、正面攻撃をしかけることになっていた。彼らがそれを敵襲と見なすうちに、ユニコーンと残りの部隊は西に大きく回りこみ、竜の群を横腹からぶつけるもくろみだ。もちろん、地形を細かく計算に入れての攻略である。
一方の肉食竜に関しては、もう、悩むだけむだというものだった。彼らの食事どきは、夜明けか日暮れが多いとわかっているので、できる限りその時間帯を避け、その場で機略《きりゃく》を見つけるしかなかった。
ルーンは、当然のことだが、定点の工作に加わっていた。竜を最後にブリギオン軍へ飛びこませるための、重要な爆薬をかかえているのだ。敵の陣地にほど近いため、乱戦にそなえて槍と剣を用意しているが、基本的に戦闘部員ではない。
イグレインもまたここにいた。彼女は、火薬通だと思われたことにたいへん腹を立てていたが、敵陣を目にすることができる配置につけた点では、かなり喜んでいた。
「すごい。もうあんなに堀をつくっている。あんなもの、竜にとってはものの数に入らないのに」
葉陰から伸び上がってブリギオンの陣地を見やり、イグレインはうれしそうに言った。
「目立つのはやめてください。竜が来ないうちに見つかったら、もとも子もない」
同行の兵士が顔をしかめた。彼らのひそむ丘は、これまでにも偵察隊が利用して、敵の哨戒にぶつからない確認ができていたが、それでも油断はできなかった。
ルーンは景色を見ず、気むずかしく導火線をながめていた。
「少し長すぎる……もう少し、丘の下で待つことはできないかな」
「絶対に無理です」
「しかし、途中で消えるかも」
イグレインがふりかえった。
「消えるとどうなるの?」
ルーンはまじめな顔で彼女に言った。
「爆発しないから、きみが代わりに出ていって、その迫力で竜の向きを変えてほしい」
正午の太陽が一つの指標だった。ユーシスたちはすでに二日をかけて、じりじりと草食竜の群をまとめあげていた。この日の正午を合図に、一気に南へ駆けさせることになっているのだ。
真昼の森には風もなく、低地の草原にかげろうが立って見えた。鳥たちは鳴りをひそめ、空気は重く、短くなった影はことさら黒々と深く見える。暑さに静寂がまして感じられ、どんなに勤勉な者でも昼寝をしたくなるけだるさがあった。
ルーンたちのいる丘からは、低地をはさんだ向こうの風景として、帝国軍のはりめぐらせた塀が見えていた。陣地内を偵察するには遠すぎて使えず、それゆえ相手にも警戒されない場所ではある。
彼らの陣の背後には、再び小高い丘が黒い森をつらねて並んでいた。やや平らに開けているのは、北西と南東の方角ばかりだ。この低地を南東へたどれば果ての壁に至るはずで、つまりここは、竜のとおり道でもあるのだった。
帝国軍の塀のそばには、先ほどまで溝を掘る一団がうごめいていたが、さすがに休憩を入れたようで、いつのまにか見えなくなっていた。門の開いた一角ではないので、ここからでは、往来する兵士の姿もほとんど見えない。
ちょっとながめただけでは、武装してはるばる侵略してきた軍のねじろがあるとも思えない、のんびりした静けさがただよっていた。何ごとか起こるほうがおかしいと感じられるくらいだ。
それでも、徹夜続きのルーンであっても、今は眠くなどならなかった。この静寂がほんのいっときのものであることを、彼らは知っていた。
「来た……」
遠雷《えんらい》のようなかすかな鳴動《めいどう》を、いちはやく感じとったのはイグレインだった。
息を止めて耳をすます彼らに、その音はもどかしいほどかすかに続いていた。だが、やがて、あぶくが膨れあがるように高まったと思うと、いきなり軍勢のあげる鬨《とき》の声に切り替わった。
「ボードウィン隊長たちだ……」
目にすることはできなかったが、ブリギオンの陣地内がざわめくのは感じられた。ラッパの吹奏も聞こえてくるようだ。
「竜は?」
「竜はまだだ」
「早くしないと――」
彼らがあせってもどうにもならないが、竜の群はいっこうに見えてこなかった。帝国軍の喧噪《けんそう》がますます激しくなっていくだけだ。
「このままでは――」
イグレインが灰青の瞳を見開いた。彼女はしっかりボードウィン隊長のファンになっていたので、彼の犬死にには耐えられなかったのだ。
「見えた!」
木の枝によじ登っていたルーンが叫んだ。竜が見えたのではない、空の広がる北東の方向に、黄色い土煙が見えたのだ。だが、それが竜の蹴立てるものでないはずがなかった。
計り知れない体重をもつ生き物の、巨大な四つ足がいくつも合わさり、地面をふるわせる重低音。腹の底に響くそのうなりを、待ちわびる思いで聞いたのは、彼らもこれが初めてだった。竜の姿が見えてきた。一目で、予想を上回る数だということがよくわかった。ユーシスたちは、たいへんな努力をしたのだ。
「予備がいる」
ふりむいたルーンはすばやく言った。
「爆薬が足りないかもしれない。予備を仕掛けてくる」
だれにも答えができないうちに、少年はひとかかえの箱を手にして丘を駆け下っていった。兵士たちとイグレインは目を見合わせた。走りくる竜の群は、もう目前にせまっていた。
確信なげに、兵士がたずねた。
「導火線に火をつけろと、言っていましたよね……?」
「ルーンがそばにいる間はだめだ。彼まで爆破してしまう」
「しかし……」
爆薬のタイミングがどういうものか、真実わかっているのはルーンだけだった。業を煮やしてイグレインは叫んだ。
「わたくしが聞いてくる。あのばか」
丘を下っていくイグレインには、竜たちがまるで、まっしぐらに自分をめざしてくるように見えた。竜たちの目玉に、自分の影が映っている気さえした。その手前ではルーンが、遊んでいる子どものようにしゃがみこんでいる。だが、イグレインが彼のもとへたどりつく前に、ルーンはばねに弾かれたように飛びすさった。
「危ない!」
ルーンがイグレインを見て、あわてた顔で叫んだのと、轟音《ごうおん》が響きわたるのとは同時だった。吹きあがる黒煙、飛び散る土くれ、鳴り続ける破裂音。そのかく乱《らん》はこの世の終わりのようであり、天地がばらばらになったかのようだった。加えて大地がゆれ、竜のつんざく鳴き声、乱れた足音、地響きが続く。
煙が晴れてくるまで、イグレインには、世界の上下がどちらを向いているかもわからないありさまだった。だが、結局は、自分が草の上に倒れただけだということが、少しずつのみこめてきた。
彼女が咳《せき》こみながら身を起こすと、少し離れた場所で、ルーンもまた身を起こしていた。
「成功だ……」
少年は、どこかうつろにつぶやいた。爆風で髪が逆立っており、その先端から足のつま先まで、泥と煤《すす》で真っ黒けになっていた。成功という言葉も、とても誇らしげには聞こえなかった。
汚れの程度はイグレインもまったく同じであり、彼女もやっぱり誇らしくなかった。しかし、竜の群はたしかに尻を向けており、土煙の先にはブリギオンの陣地があった。
イグレインは群を見送り、黄色い砂塵《さ じん》の外側に、鮮やかな色彩を見せて駆けゆく優美なユニコーンの姿を、ようやく目にすることができた。四人の騎士たちは、最後の追い込みに入っているかと見えた。だが、目をこらしてよく見れば、翼のあるもののごとくユニコーンが疾走するのは、そのためばかりではなかった。
イグレインはするどく息をのんだ。
「肉食竜がいる――」
五
ユーシスは、オレンジまだらの凶悪な面《つら》つきをした、その大型の肉食竜が群につき従うことには、かなり早くから気づいていた。
しかし、気づいたからといって、手出しをする余裕はどこにもない。全身の注意をそちらに集めながらも、今は群を追いやることにつとめ、ともに走るしかなかった。
もっとも、肉食竜が後方から来るぶんには、群の速度をあげるために、かえって都合がいいものだった。横目で動向をにらみつつ、あえて、草食竜をかばうような位置にアーサーをおいて走り続けていた。
一気に南下の道をとったとき、肉食竜の姿は二頭に増えていた。彼らの脳裏にどんな考えがあるのか憶測もつかないが、しばらくの間、どう猛《もう》な竜たちは、まるで自分たちをユニコーンの一味と見なすかのように、いっしょに群を追ってきた。ほとんど並ぶほど近くへ来たが、襲う様子はなかった。
急変したのは、爆音がとどろいてからだった。ルーンが盛大にひきおこした爆発には、竜もユニコーンも極端に動転した。気位の高いアーサーでさえ、いっとき飛び跳ねてやまなかったほど、生き物たちは驚いたのだ。
草食竜たちは、一瞬方角がつかめずにぶつかりあい、怯えて口々に叫び声をあげ、たたらを踏んでから逆方向へと駆け出した。そして、同じ原因が肉食竜の興奮をひきおこした。
けんめいにアーサーをなだめたユーシスは、事態がただならないことをさとった。ここで肉食竜に襲いかかられては、せっかくブリギオン軍に向いた群の流れが変わってしまう。
他の騎士を集める時間はなかった。だが、ユニコーンのリーダーは雄のアーサーであり、妻たちはどこにいてもリーダーを見ている。だからユーシスは命じた。
「かかれアーサー。やつを倒す」
アーサーもまたひどく興奮しており、突進をものともしなかった。風のようにユーシスを運び、背中の騎士がその手に長槍をかまえ、力いっぱい鼻づらに打ちこむまでひるみもしなかった。
だが、凶悪な竜は二頭いた。
アーサーは見事な急|旋回《せんかい》をしたものの、二頭めの竜の攻撃範囲を離脱するには遅すぎた。竜の後脚の鈎爪《かぎづめ》が飛び、なめらかな藤色のわき腹を深く切り裂いた。
ユニコーンは一声だけ高く鳴き、たまらずにもんどりうった。同時にユーシスは地面に投げ出され、ころがって、肉食竜の前に逃げ場をなくした。
したたかに体を打ったものの、鎧兜《よろいかぶと》のおかげで、ユーシスはすぐに起き上がるくらいのことはできた。けれども、起きてもどうにもならなかった。まだらの竜はユーシスの直前にはるかにそびえ、その爪を振り下ろそうとしていた。
なすすべのないその一瞬に、ユーシスの胸には、無念という思いは浮かばなかった。自分は、まあ、この程度だと思った。けっこう、やるだけやったのではないだろうか……
(褒《ほ》めてはもらえないだろうが……)
アストレイア女神を思ったつもりだったが、ユーシスの目に浮かんだたおやかな姿は、どういうわけか宮廷風の紫のガウンをまとっていた。小麦色の髪に青白い星々をちりばめ、大きな金茶の瞳で、怒りをこめてユーシスをにらんでいた。
そして言った。
『当たり前でしょう!』
彼がはっとしたとき、紫のものが前をかすめた。立ち上がったアーサーだった。傷ついたユニコーンは、その憤怒《ふんぬ 》をこめて肉食竜に突撃したのだ。螺旋《ら せん》をもつ長い角が、うろこのある竜のわき腹に突き刺さり、深く沈んだ。
痛烈な一撃だったが、竜の即死には至らなかった。肉食竜は苦痛の叫びをあげたが、力つきることなく、身をよじって猛烈に暴れはじめた。にぶい、胸にこたえる音がして、ユニコーンの角が折れた。
彼のユニコーンが角をなくすのを見て、ユーシスは、何かとてつもないものを喪失《そうしつ》する思いに打たれた。目を閉じたいほどいたたまれなかった。
角を折ったアーサーは急激に弱ったが、それでも闘志をなくさなかった。ふらつく足で再び立ち上がると、最後の力をこめて相手ののどに食らいついた。そして、竜がどれほど頭をふっても、そのあごを離そうとしなかった。
アーサーが凄惨《せいさん》な闘いを見せるうちに、他のユニコーンも駆けつけ、騎士たちの手で、最初の一頭はすでにとどめが刺されていた。だが、深手を負いながらも二頭めはしぶとく、彼らの投げる槍も、うろこにさえぎられて致命傷をあたえない。
けれども、振り回されてぼろぼろになったというのに、アーサーはまだ離れなかった。その重みにたえかねて、竜はだんだんに頭が下がる。ユーシスは長剣の鞘《さや》を抜き払った。徒歩で竜に向かったのは初めてだったが、怒りがわれを忘れさせていた。
自分がどのようにして、それをなしとげたか、ユーシスはあとあとまで思い出せなかった。気がついたとき、彼の剣は竜の眉間に沈んでおり、肉食竜の目の色は濁って、二度と動かなくなっていた。
小山のような竜の体が冷たくなっていくと同時に、アーサーの体も冷たくなっていった。彼の牙は、あまりにも深く竜ののどにくいこんでいたために、こときれてもはずれなかった。死後もそのまま横たえるしかなかった。
美しかった薄紫の毛並みは、血と泥でむざんなものになり、角の折れた頭にかぶさる銀のたてがみも、今では血のりに固まっていた。ユーシスは座りこんでそのたてがみをなで、こらえきれずに泣いた。
他のユニコーンたちは、死んでしまった夫君に近寄ろうとはしなかった。遠巻きにして、どこか当惑したように頭をふっていた。メラニーを降りたロットが、ユーシスに歩み寄り、同情をこめてその肩をつかんだ。
「気持ちはわかるが、ここにいてはだめだ。ブリギオン軍との戦いには決着がついていない」
「わかっている……」
ユーシスは腕で顔をぬぐった。
「竜退治のための生き物だと、王女は言っていた。けれども――こんなふうに失うのではなかった」
「あっぱれだったよ」
めったにないやさしい口調で、ロットは言った。
「アーサーも、君も、両方な。だが、今はこの場を離れよう。中央と右翼の部隊がここを通って攻めこむところだ」
ユーシスは、ようやく竜の群の駆け去った方角をながめた。砂塵の向こうで、たいへんな混乱がおきていることはたしかだった。竜たちは、あやまたずに帝国軍を踏みしだいたのだ。
「あちらから、火薬の音は聞こえたか?」
にやりとしてロットは答えた。
「一度も聞こえないよ。双子はたしかに優秀だ」
徐々に気持ちがおさまり、ユーシスはロットにほほえみ返すことができた。だが、立ち上がろうとすると、あまり満足に体が動かなかった。けがにまるで気づかなかったので、ユーシスは驚いた。
よろめくユーシスをささえて、ロットは言った。
「君は、わきにのいていたほうがいいな。本日の分はもう充分戦ったよ」
「そうはいくものか」
憤然とユーシスは言い返した。
「少し休めば、こんなのはなおる」
ロットは、心配そうに見守るガーラントとウィールドの二人と、すばやく目で相談を交わした。それから言った。
「彼にはわたしがついている。君たちは、左翼部隊の様子を見て、加勢を見積もってくれ」
「わかりました」
二頭のユニコーンは鮮やかに駆け去った。若葉色のメラニーだけがたたずむ。ユーシスは少し苛立って言った。
「ロット。わたしにかまわず、君も行ってくれ。ユニコーンを遊ばせておくなんて、戦力のばかげた損失だ」
「まあ、そう言わずに」
こういうときのロットは、のらりくらりと言い抜けるのが上手だった。
「この場所で、わが本隊の勇姿《ゆうし 》を見届けるのも、なかなかおつなものだよ。大丈夫、ボードウィン殿なら引き際もこころえている」
二人は北の方角をながめていたが、思わぬ方向から一握りの兵士が駆けつけてきた。それは、ようやくこの場にたどりついた、イグレインとルーン、その他の工作部員だった。
イグレインは、血で汚れたユーシスを目にして顔をひきつらせた。
「ユーシス様、おけがのほどは」
「いや、たいしたことない」
「その鎧をお脱ぎになってください」
「いや、まだいい」
ユーシスにしてみれば、今すぐ手当てなどはじめられては、たまったものではなかった。押し問答し、なんとかイグレインの気をそらせようとして、北を指さした。
「見なさい、今にも戦隊がぶつかる。それどころではないのだ」
ルーンは、彼の逆立った髪の毛をなびかせ、言われる前からそちらの方を見ていた。そして、つぶやいた。
「変だ……」
すでに行軍する人々の影は見えていた。思ったよりずっと大勢に見えるものだった。近づけば近づくほど、びっくりするような人の層の厚みがわかる。前衛部が自分たちの仲間であることはまちがいないのだが、後ろにさらに一大隊いるのだった。
「旗がある……」
ルーンは後方を指さした。
そこにはたしかに、ユーシスたちが資金ぐりのきびしいなか、入手したおぼえも掲げたおぼえもない旗が、いくつかはためいていた。真紅の地に金糸で、四つの星と両翼のある高坏《たかつき》をぬいとってある。そのような高坏の図案は、アストレイアの聖杯《せいはい》と呼ばれているものであり、四つ星と組み合わせなければ、女王家の紋章でもあった。つまり、ルーンたちは、グラール国の国旗を目にしているのだった。
軍勢は整然と歩をはこんできたが、巨大な肉食竜が二頭もながながと横たわる場所に来ては、さすがに全体の足を止めた。ユーシスの部隊の者のうち、竜騎士を目撃した兵士たちは、ぱらぱらと走り出して彼のもとに集まってきたが、お互いに詳しい話ができないうちに、大集団が中央で二つに割れ、後部から輿《こし》で進み出てきた人物があった。
(そうだろうと思った……)
いくぶんげんなりして、ユーシスは心につぶやいた。得意でうれしくてたまらない様子のレアンドラが、その輿に乗っていた。
彼女はユーシスたちの前までくると、かつがれた乗り物から優雅なしぐさで降り立ち、すっくとたたずんだ。
「お役目たいへん御苦労です。貴公のごりっぱな竜退治、たしかにこの目で見届けました。賞讃を惜しみませぬものゆえ、後はわたくしにおまかせください。けしからぬ侵略軍を討ち取るのは、このわたくしのつとめであると考えます」
響きわたる銀色の声音でレアンドラは言った。あまりに耳に快く言葉が発されるので、意味が聞きとれなくなるくらいだった。
ルーンは小声でつぶやいた。
「……ある意味、見事だ」
ユーシスは感心のできる立場ではなかった。
「あなたはこれまで、再三の要請にもかかわらず、軍隊の派遣をしぶったはずだが、どういうお心変わりなのか」
レアンドラは目を細めた。
「意向を変えたつもりはありません。この軍隊は、竜退治のためのものではないと、最初から申しあげていたはず。わたくしの兵はもともと、ブリギオン軍勢にぶつけるために、これまで準備してきたものでした。まさか、南の果てで相対するとは想定していませんでしたが」
「しかし、このこともまた早期にお耳に入れたはずだ。なのに、われわれが危険を冒さざるをえなくなるまで、動かそうとはしなかった」
ユーシスが怒りをこめて言いつのると、最高司令官は小さな声で笑った。
「いやですわ。火の鳥の羽根を、独り占めしてはいけませんことよ」
ほんの一秒に満たない間、彼女がしなをつくったために、周囲の人々は度肝を抜かれ、バラ色の夢でも見たかのようにまばたきした。しかし一瞬ののちには、レアンドラはもうとりすましていた。
「ここまで押さえた貴公の労、手厚くねぎらいたいと思います。後方に回って、わが陣中でご休息ください。敵軍はわたくしたちが、必ずや打ち破りますゆえ」
彼女の言葉に応えて、軍勢のなかから気勢が上がり、それが全体へと広まった。この意欲まんまんの集団ならば、竜に踏まれてあたふたしている、かなたの帝国軍を蹴散らすのは、すでに時間の問題だと思われた。
「……なんだか、わたしも、どうでもいいような気がしてきた」
ユーシスが額を押さえた。彼は赤毛をかきあげると、ロットを筆頭とする仲間を見やった。
「これで帝国軍を押し返せるなら、われわれも喜ぶべきなんだろう。掃討は彼女にまかせて、拝見していることにするよ。ひょっとすると……骨折しているかもしれない」
けがの具合を調べられたユーシスは、少なくとも肋骨を二本折り、右肘と左足首をも捻挫《ねんざ 》かそれ以上に痛めていることがわかって、仲間たちをあきれさせた。腫《は》れが出はじめると、もう戦場に立っているどころではなく、天幕へ運んでもらうはめになった。
ロットが彼をメラニーの背に乗せ、後方へと運んだ。そして結局、最初にユーシスの周りにいた面々は、全員彼につき添って、戦線からしりぞいてしまった。しかし、彼らがやる気を失ったのも、とがめられない話ではあった。
イグレインとルーンもそのなかに加わっていた。イグレインは一刻も早く汚れを落としたかったし、ルーンはひたすら眠りたかったのだ。戦況が一方的になったのを見てとったこともあり、彼らの欲求をさまたげるものはなかった。
レアンドラは合同軍の野営地を設け、その規模たるや、ブリギオン軍に負けてはいなかった。南にしっかり腰をすえ、徹底的に彼らを追いもどすかまえなのだ。
もっとも、帝国軍の陣地はすでに見る影もなかった。および腰になってからの、彼らの敗退は早かった。三日とたたないうちに、侵略軍は森の道を逃げ帰り、合同軍がそれを追撃する形になっていた。
ユニコーンたちはもはや参戦せず、陣の裏手の森で身づくろいして、人々の驚嘆をさそうものとなっていた。同じく竜退治の功労者たちも、特別な尊敬をもって遇《ぐう》され、彼らだけの天幕を与えられて、ちょっとした要人扱いだ。だが、まつりあげられるかわりに、司令官の命令系統からはずれた部外者であることはたしかだった。
ユーシスがあまり動けないまま天幕にいると、ルーンは思いのほか、よくユーシスのかたわらにいた。ルーンの立場では、天幕の外に居づらいという理由もあっただろうが、ユーシスが傷病人として養生していることに、ある種の気づかいをもっているようだった。
別に世話を焼くわけではなく、話をするわけでもなく、たのめばたのんだものをもってくる程度なのだが、以前ほどたびたびしかめっ面を見せない。それだけでも、ユーシスはめずらしいものを見たような気がするのだった。
「命びろいをしてみると、いろいろなことがわかるものだな……」
あるとき、ユーシスは話しかけてみた。天幕に寝かされてからこちら、ずっと頭にあったことだが、ロットにも言ってはいないことだった。
ルーンは濃い灰色の目を向けた。
「どんなことが?」
「何も変わってはいないということがだ。わたしは、少しだけ、変わることを期待したのかもしれない」
天井を見上げて、ユーシスは言葉を続けた。
「無頼《ぶ らい》の生活もいいかと思ったんだ。森のなかに住み、ユニコーンがいて、仲間がいて。きつい暮らしだったが、そのぶんみんなと分かちあえた。危険な目に会っても、ためになることをしている実感があった。このままでもいいかと思ったんだ……」
ルーンは黙って耳をかたむけ、何も語らないかと見えたが、しばらくしてから口を開いた。
「そういう生き方もある。前に、本で読んだことがある――義賊《ぎ ぞく》というんだ。きみにやれなくはないだろう」
「いや」
ユーシスは静かに否定した。
「わたしもそう思いはしたが、死にかけてみてわかったよ。結局はレアンドラとの対抗に、こうしておめおめと舞いもどってきて、なおさらによくわかった。わたしは、自分の持ち場を離れられない。それを貫くしかないんだ」
ルーンはいくぶん首をかしげた。
「持ち場とは、ロウランド家を背負って立つということか?」
「まあね」
「いやだったのか?」
たいへん驚くことを聞いたようにたずねられて、ユーシスは少々がっかりした。
「人にはそれぞれ悩みってものがある」
「でも、もう、悩まないんだろう」
「というか――」
少しためらってから、ユーシスは言いたかった本音を口にした。
「死ぬってときに、だれの顔が浮かんでくるかで、自分の本当のところがわかるものなんだな」
ルーンは急にのみこめた様子で、にわかに明るい顔になった。
「ああ、それならわかる。ぼくにも覚えがある」
ユーシスは少年を見つめた。そして、ほっそりして無愛想なこの少年が、どんなとき、どんなふうにフィリエル・ディーを思い浮かべたか、今は彼にもわかるような気がした。
「同じだな……きっと」
共感をこめ、ユーシスはつぶやいた。だが、ルーンはうってかわって冷たい目つきになった。
「いくらきみでも、許可なくフィリエルにキスしたら、遠慮なく殺すよ」
(ぜんぜん、わかっていない……)
自分より察しの悪い人間に出くわすことの、非常にまれだったユーシス・ロウランドは、深い感銘を覚えながらそう思った。
ひと月たらずで、レアンドラは追撃の兵を呼び戻した。捕虜の数もかなりにのぼり、いったんは引き上げて、国家間の交渉に入ったほうがいいと判断したのだ。
戦勝気分に浮かれる陣地で、レアンドラはさらに、兵をねぎらう宴《うたげ》を準備した。惜しみなく酒が運ばれ、たいまつが焚《た》かれて、夜の森をゆるがすにぎやかさだった。
竜騎士の天幕を訪れた者への応対に、イグレインが入り口の外へ進み出ると、彼女に見覚えのある人物たちが立っていた。ラヴェンナ、ヘイラ、リティシアという、もと生徒会三人娘だ。イグレインは思わずうさんくさい目つきになった。
「あなたがた、今でもそうして、がん首を並べているの?」
「よけいなお世話だ」
褐色の瞳にむっとした色を浮かべて、ラヴェンナが答えた。
「下っぱに用はないから、ロウランド家の者を呼べ」
「自分たちだって、たいした下っぱのくせに」
イグレインが負けずに言い返すと、ラヴェンナはおうへいな態度をつくった。
「わたくしたちは、司令官閣下じきじきのご伝言をたずさえてきたのだ。戦勝祝いの席に、竜退治の騎士たちをご招待したいと言っておられる」
「若君に、チェバイアットの天幕へ出向けと言うつもりなの?」
イグレインがにらむと、ヘイラが軽く笑った。
「いやね、この人。前からゆうずうがきかなくて。今となっては、北部も南部もないようなものよ。国としての圧勝ですもの」
「次期女王も決定したようなものよ」
リティシアがつけ加えた。イグレインはますますいきりたった。
「だれにそんなことが言えるものですか。アデイルが今ごろどうしているか、まだ知ってもいないくせに」
「遠吠え、遠吠え」
ラヴェンナがせせら笑った。
「そうそう、忘れないうちに言っておくけれど、レアンドラ様は、ルーネットちゃんにも来るように言っておられる。もう怒ってはいらっしゃらないそうだ。わたくしたちが使いとなって来たのは、それを示すためでもある」
リティシアが色っぽく睫毛をまばたかせた。
「つまり、わたくしたちも怒っていないというわけよ。こちらへ来たなら、飲み物くらいつくってあげてもかまわないのよ」
イグレインは彼女たちを見回して、くちびるをひき結んだ。
「あなたたちの言葉は信用できない。何かたくらんでいるんじゃないの?」
「そんなことあるものですか。勝者は敗者に寛容を示すものですもの」
イグレインは、煮えくりかえる思いで天幕のなかにもどり、彼女たちの伝言を伝えた。そこには、ユーシスをはじめ、主だった面々が顔をそろえていたが、みんな当惑半分の興味をもって招待の件を聞いた。
三人娘が来たことを知ったルーンは、けっこう感心した様子だった。
「しぶとい……もどっていたのか……」
ロットはユーシスの顔を見た。
「ご招待は、辞退まかりならぬという感じだな。行くのか?」
ユーシスは肩をすくめた。
「そろそろ、けがを理由にできなくなったからな。歩けるからには行くしかあるまい」
「行けば必ず籠絡《ろうらく》されるぞ。彼女の手管《て くだ》にかかるのも、それはそれで楽しみだが」
少し考えて、ユーシスは言った。
「あからさまな手に出るとは思えないよ。ここはまだ戦勝軍の陣中だ。彼女はむしろ、保守派と急進派の和解のような、政治的な話をふってくると思う」
「わたしは、あからさまなほうがいいなあ」
ロットはうそぶき、くせのない長髪を熱心にとかしはじめた。
ガーラントはしばらく考えこんでから、ユーシスにたずねた。
「ルーンをどうしましょうね。言われるままに、つれていっても無事なんでしょうか」
ユーシスは少年を見やった。
「君はどうしたい?」
「どっちでもいい」
ルーンはむっつり言っただけだった。自分にはかかわりないような顔をしていた。
「それなら、つれていく。君が今回の功労者だということは、わたしから全体に認めさせたいし、レアンドラが本当に君に目をつぶるなら、わたしも彼女が裏でおこなったことに目をつぶるという、意思表示をしておきたいんだ。いいね」
ユーシスが言うと、ルーンは黙ってうなずいた。
六
レアンドラの趣味――つまりはチェバイアット真髄《しんずい》の趣味――によって装《よそお》われた天幕は、だれの目にもたいへんすばらしかった。華やかにゆきとどいているが、野戦地にあって不評を買うほど金ぴかではなく、上手に抑制し、しかも高級感がある。
審美眼《しんび がん》において、南部に一日の長があることは、ロウランド家であっても認めざるをえなかった。ハイラグリオンの王宮の装飾も、この南部人のセンスに傾いたものであり、比べると、北部はどうしても重厚になりすぎるのだ。
出身は南部と言えるクリスバード男爵は、あっというまにくつろいだ様子になった。もっとも、緊張しているロットというものを、ユーシスは長年見たことがない。しかし、美的なものに囲まれたロットが、真にうれしそうなのを見て、親友がこの数ヶ月、ひそかに無理をしていたことが、改めてわかる思いだった。
それとは逆に、ユーシスは、くつろいでいるルーンというのも見たことがなかった。少年は、眠っているとき以外はいつも居ずまいを正していた。
今のルーンは、イグレインに北の名折れだとまで言われて、着たきりすずめだった服を脱ぎ、もっと体の線に合った黒い服を着ていた。髪にも久々に櫛を入れている。すると、いきなり、ルーンは小姓《こしょう》のように見えた。容姿で選んでつれてきた男の子のようだ。
「ようこそ、竜退治の功労者のかたがた。どうぞ上座《かみざ 》へ。今夜はお互いへだてなく、こころゆくまで戦いの勝利を祝いましょう」
レアンドラが気持ちよく声をかけた。ここには腰掛けがなく、敷物とたくさんのクッションがあるだけで、奥に座るレアンドラも、軍服の足をななめに伸ばしてクッションにもたれている。そういうスタイルが、彼女にはひどく似つかわしかった。銀色の髪は冠のように結いあげられ、一筋の乱れもないが、かすかにあだっぽい気配がただよう。
「どうぞ、腰をおろして飲み物を。なんなりとお申しつけください」
機嫌のいいレアンドラは、だれにも抗しがたいのはたしかだった。今夜の彼女は本当にうれしいらしく、瞳は星のように輝き、態度にくったくがない。
リティシアが宣言をはたすつもりか、ルーンのもとにすり寄った。
「メニューはよりどりみどりよ。何にする?」
「ジュース」
「わたくしは、お酒のことを言っているのよ」
「ジュース!」
レアンドラは、玻璃《はり》の杯に真紅のぶどう酒を満たしたものをユーシスにわたし、みずからも手にして、ほとんど無邪気そうに彼を見つめた。
「南に下ったブリギオンの動きを、いち早く察するとは、さすがのご炯眼《けいがん》でしたね。あなたはやはり、軍事的才能をもっていらっしゃるかたです」
「わたしの力ではない。すべてルーンがもたらしたものだ。情報も、作戦も」
ユーシスが堅苦しく答えると、彼女はほほえんだ。
「それはそんなことだろうと思っていましたけれど、それでもやはり、実行に移せるかどうかは、その人の技量にかかってきます。多勢を動かすには、どうしても必要なものがあるのです」
「あなたほどのものはない」
ユーシスは言った。お世辞のつもりではなく、事実だからそう述べたまでだった。
レアンドラは、小首をかたむけて少し考えた。
「たしかに、わたくしが理想とするのは、陰にまわることなく支配のできる、強さと明快さです。そのために、惜しみのない努力をしております。それでも、一人の才能には限りがあります。わたくしたちは、組むべきだとお思いになりませんか」
「それは不可能だ」
あっさりとユーシスは答えた。
「もって生まれたものがある。わたしにはこれを捨ててまで、自分をまっとうできるとは思えない」
「貴族間の派閥がなんだと言うのです。そんなものはこれから壊れていきます。グラールは、これから古い因習《いんしゅう》を捨てていかねばならないのです」
レアンドラの声には確信があった。彼女は、信念をこめて生き生きと語った。
「わたくしには未来への展望があります。今回のことで発覚した、カグウェル南の森を通ってエルロイへ抜けるルートは、封鎖するには惜しいしろものです。端緒《たんしょ》をつけたのはブリギオンですが、今後は、われわれの側から攻めていくべきです」
「攻める――東の国々を?」
そこまで考えていなかったユーシスは、思わず聞き返した。
「そうです。グラールが他国に進軍してはいけない理由は、いったいどこにあるのです? もしもこの大陸に統一国家を築くものがあるとすれば、それはブリギオンなどではなく、われわれのグラールであるべきです。東の人々が、これほどだいそれた野望を抱くというのに、どうして出遅れてなどいられます?」
「しかし――」
ユーシスは言葉につまった。彼が何を言おうと、レアンドラは古い因習と言うのだろうと思ったのだ。
「グラールは、もっと開かれなければいけません」
真剣な瞳をしてレアンドラは言った。ほんのわずかも媚《こ》びには逃げず、対等の者としてユーシスに論じるかまえだった。
「それをもっとも痛感しているのは、現在この南でブリギオン軍に直面した、あなたとわたくしではありませんか。このままでは――グラールが今の体制を続けるままでは――いつかわたくしたちは、東の帝国に遅れをとりはじめるでしょう。その兆《きざ》しを、あなたも感じとったのではありませんか?」
ユーシスは顔をしかめてうなずいた。
「たしかにそれは言える」
「わたくしが女王になったあかつきには、そんなことを絶対にさせません」
レアンドラはついにその言葉を放った。ユーシスは、美しい薄紅に染まった彼女の顔を見つめ、静かに応じた。
「すまないが、レアンドラ。わたしはあなたを女王にする努力はできない。それはあなたにも、わかっておられるはずだ」
レアンドラは透明な杯をかたむけ、ルビー色に輝く酒をのどに流しこんだ。それから、いくぶん苦い口調で言った。
「ロウランド家にはアデイルがいます。もちろん知っています。けれども、これまた因習に含まれた策略だとは思われませぬか。わたくしと彼女は姉妹で、二人のどちらも、ロウランド家ともチェバイアット家ともつかない、どこの馬の骨ともわからぬ父をもつ身だというのに」
「馬の骨はひどい――」
「女王家の父方は、みなそのようなものです。なのに、二つの家が二大派閥として争うのは、仕向けられた体制です。内部で力をそぎあって、外には目を向けられないように、最初から仕組まれた何かなのです。そういう大きな視点で、あなたはこれをご覧になったことが、一度もおありではないの?」
ユーシスは彼女の言葉を噛みしめた。そして、レアンドラの正しさを大筋で認めた。
「あなたは聡明なかただ。そのことはよくわかる。あなたはつまり、女王家そのものに挑もうとしておられるようだ。それはなまなかのことではない。けれども――わたしはやはり――グラールが他国を侵略していくのはどうかと思う」
「何ならよろしいの?」
レアンドラはたずねた。ユーシスは少し迷ってから答えた。
「他者を圧したり貶《おとし》めたりすることで、優越感をいだくのは、正しくない行為だ。われわれに発展する能力があるなら、そんなふうに使ってはいけない」
「現実的ではないご意見ですね」
レアンドラは顔をそむけ、少し拗《す》ねた言い方をした。
「グラール内に、貶められた人々がいないとでもお思いですか。すぐ隣にもいるではありませんか。闇でしか評価のされない人間が」
それまでルーンは、たしかに二人の会話に耳をかたむけていたのだが、いきなり視線を向けられると、やっぱりジュースにむせそうになった。レアンドラはまっすぐに彼を見て、ほほえんで言った。
「君の活躍がどういうものか、わたくしにはわかっているつもりだ。それらはたぶん、ありのままには公表できない――何一つとしてね。でも、なぜ、そうなるのだろう。何が恐れられているのだろう。君自身にはそれがわかる?」
ルーンはしばらく考えた。
「あんまり知ると不幸になるんだ――たぶん」
「だれが人々に不幸をもたらすというの。君が想定しているのは星仙《せいせん》女王?」
もう一度考えこんでから、ルーンは口を開いた。
「たとえばぼくは、ブリギオンの火薬の武器を見た。見たからには、もうその前にはもどれない。空想のうちは、考えているのも楽しかったけれど、それが本当のことになってしまうんだ。ぼくらは、簡単に竜が殺せる生き物だ――それができるなら、お互いを大量に殺すことだってわけはない」
「その武器に関しては、わたくしもぜひ欲しいと思っている」
レアンドラは、論点のずれたところで身をのりだした。
「分捕り品のなかにあるとは思うけど、見てくれないか。君ならいろいろ改良できるだろう?」
彼女がのりだした分、ルーンは後ろに身を引いた。
「……ぼくがやらなくても、だれかがやるよ。たとえ不幸になっても、こういうことをやらずにおれないんだから。ぼくたちは、たしかに恐れられてしかたのないものだと思う。文句は言わないよ」
レアンドラはあきれたように、銀の睫毛をまたたかせた。
「これは意外だ。ずいぶんと奥ゆかしいことを言うのだね。わたくしが女王になったら、すべてを解禁にしてあげるのに。そして、君が大手をふって、女王のもとで働けるようにしてあげる。どう?」
ルーンは体をすくめて答えなかった。レアンドラがさらに見つめると、瞳をそらせた。
「ふうん。君もわたくしが女王になるには反対だと言いたいの?」
ルーンはつぶやくように小声で答えた。
「そんなことは言っていない」
ユーシスが見かねて、念のために割って入った。
「ことわっておくが、ルーンは、ロウランド家の勲功《くんこう》者として遇することになっている。われわれのために、それだけの働きをしてくれたのだから」
レアンドラは黒く輝く瞳を貴公子にふり向け、くちびるを曲げて挑戦的にほほえんだ。
「それはお好きになさいませ。けれども、先ほども申しあげたように、わたくしはすでに家を関係あるものには思わないのです。貴公であれ、この少年であれ、優秀な人材なら喜んで採用したいと思います。わたくしたちの勢力比べは、すでに競《せ》り合ってさえいないと思われませぬか?」
宴が果てたのは明け方近くであり、ユーシスは横になる気がせず、酔いざましをかねてユニコーンの森のほうへ歩いていった。
白みゆく光のなかに静かにたたずむ、三頭の雌ユニコーンはそれぞれに美しかった。だが、アーサーの姿がないので、やはりどこか淋《さび》しげに映る。ユーシスは彼女たちを見ながら、あけぼのの空の見える斜面まで歩き、そこの倒木に腰をおろした。
レアンドラと語ったあれこれには、考えるべきことがたくさんあった。チェバイアット家の令嬢が、思った以上に柔軟で鋭敏な女性であることもわかった。ユーシスはそれをいさぎよく認めたし、そのことで、ひどくぐらついたわけでもなかったのだが、なんとく、やるせない思いにかられたのだった。
(わたしの頭は……感覚は、もしかすると固いのだろうか。まだ若者なのに……)
ふと気がつくと、一人ではなかった。後方から近づく静かな足音がした。ロットならば、こうもためらいがちには寄ってこない。ふりかえらなくても、ルーンだということはわかった。
「君も眠くならなかったのか」
薄赤く染まった空を見たまま、ユーシスは声をかけた。
「それもあるけど――言いにきた」
倒木のわきまで来て、ルーンは言葉を続けた。
「ぼくがここへやって来た要件は、もう片づいている。きみも元気になったし、とどまる理由はないんだ。ぼくは、フィリエルのところへ帰る。もうずいぶん留守にしてしまった」
ユーシスは一瞬驚き、そしてうなずいた。
「そうか――そうだったな。忘れていたわけではないんだ」
そうは言ったものの、ふいに淋しい気がした。かたわらにいて、なじむとも思えない少年なのに、いつのまにか、彼がいることになじんでいたのだ。
ルーンは、ユーシスの髪が朝日に映えていくのを少しながめ、彼にしては柔らかい口調で言った。
「勲功者と言われて、けっこううれしかったよ。でも、やっぱり柄《がら》じゃない。ぼくのしたことは、表彰されるようなことじゃないんだ」
「そんなことはない。現に、レアンドラでもあのように言っている」
ユーシスが言うと、ルーンは首をふった。
「ぼくは、フィリエルが褒めてくれるだけでいい。それだけのためだったんだ」
しばらく考えてから、ユーシスは言い出した。
「ルーン。レアンドラの言うことに真実があるなら、君たちが罰され、隠れることも、これからはなくなっていくんだ。それならフィリエルといっしょに、わたしのもとへ来ないか?」
ルーンはややあごを引いた。
「そんなにきみは、フィリエルに会いたいのか」
やっぱり誤解が生じるのを知って、ユーシスは大きく息を吸いこんだ。
「わたしは何がどうなろうと、グラールが侵攻しようとするまいと、この世界が壊れようと壊れまいと、一生アデイルの騎士だし、アデイルに女王になってほしいと願い続けるんだ。わかったか」
「本当か?」
ルーンは意外そうに目をぱちくりした。
「でも、アデイルには――」
「分がないなどと言ったら殴る」
「わかった、言わない」
頭の片側を少しばかりかいてから、ルーンはまじめな口調で言った。
「きみがそう思うならそれでいいよ。ぼくは、レアンドラの提案にのるのかと思ったんだ。きみは軍事力を否定するわりに、有能な指揮官なんだもの」
「それを言うなら、君はどうでもいいと言うわりに、有能な軍師だ」
ユーシスは言い返した。それから彼らは、お互いの言葉に肩をすくめたくなった。
「……君だってかえりみないのだから、わたしにも、好きにする権利はあるだろう。帰るかな――わたしも、国へ」
ユーシスはつぶやいた。ルーンと違って、そう簡単に帰らせてもらえると思ってはいなかったが。
「どうしているかな……」
ルーンは赤毛の貴公子を見つめ、思いなおした様子で言った。
「フィリエルがなんて言うか、さっきのことを話してみるよ。彼女がそうしたいと言えば、ぼくも考えてみる」
それから二人は、あたりがすっかり明るくなるのを、しばらく黙ってながめていた。輝きが増すとともに鳥の歌がにぎわい、新しい一日が、静かになめらかに歩みだすのが感じられた。
ところが、突然、彼らの背後でユニコーンが異様な声で鳴いた。二人とも、ぎょっとして立ち上がった。
成獣のユニコーンは、めったなことでは鳴かない。それなのに、駆けつけたユーシスとルーンの目の前で、ドーラがまた一声鳴いた。甲高く、ひっぱるような声音だ。彼女はせわしく足ぶみをし、メラニーとイゾルテも、目に見えて落ち着きをなくしている。
「いったい、何があったんだ……」
変事が起こるようないやな予感がして、ユーシスは眉をしかめた。そのとき、まるで予感が的中するように、梢《こずえ》の向こうであわただしい足音がした。
「大変だ! 大変であります! 司令官殿にご報告を!」
声は裏手の北門のほうから聞こえた。見張りの兵士が、何かの通報に走ったようだった。ユーシスたちは、とりあえず北門へと急いだ。まるで敵襲を見たようなあわて方だが、北の方角になど、竜もブリギオン兵もいるはずはない。
誤報ではないかと思っていると、また遠くで叫び声が響いた。
「ユニコーンが、ユニコーンが来ます!」
「なんだって」
たまらずにユーシスは声を上げた。
「どういうことなんだ、それは」
ルーンは口を開かなかった。見ればわかると思っていたのだ。
最初から裏森にいたのが幸いして、彼らはほとんどの兵士に先んじて北門にたどり着いた。そして自分たちも認めた。ユニコーンが来ることを。
後方には馬の五、六頭も従っていたが、先頭の三頭はまぎれもなくユニコーンだった。翡翠色《ひ すいいろ》、水色、赤紫という体色の鮮やかさ、螺旋の一角、赤や金に見えるたてがみなのだ。
真ん中の翡翠色のユニコーンは、一目でわかる雄であり、見るからに大きく、角も長かった。ユーシスはなじんだ者の目でそれを見分け、雄を御《ぎょ》す乗り手がたいそう小柄に見えることに、軽いショックを覚えた。
しかし、もう少しよく見えてくると、軽いショックなどとは言っていられなくなった。乗り手はなんと少女だった。それも、どう見ても雄ユニコーンが相手にするはずのない、きゃしゃな体つきの少女だ。
ユーシスは、今ほど、わが目を疑ったことはなかった。この世に驚くべきことは多々あるにしても、世の中がどうかなったとしか考えられないものを見てしまったのだ。
馬で庭の一周のできないアデイルが、翡翠色のユニコーンにまたがっていた。そして、危なっかしい手つきで、必死にたづなを繰《く》っていたのだ。
翡翠色のユニコーンは、速度を落としもせずに北門につっこんできた。すでに大勢の兵士が集まっていたため、彼らは今にも蹴り殺されそうになった。わっと四方に逃げまどい、さらに右往左往するなかで、ようやくユニコーンは足ぶみをし、荒い鼻息をふいて止まった。
緑の乗馬服のアデイルは、小麦色の髪を風に吹き乱し、革手袋の小さな手でユニコーンの首にしがみついたまま、気絶しそうになっていた。
「ごめんなさい……わたくし……止まってくれるまで止められなくて……」
ユーシスはしゃにむに人々をかき分けて、彼らの一番前に躍り出た。
「アデイル、大丈夫か」
ユーシスが叫ぶと、アデイルはすぐにその声を聞きつけた。色をなくした彼女の顔に、ほほえみが広がった。
「お兄様――」
ユーシスは心配のあまり、ひったくるようにしてアデイルを鞍《くら》から抱きおろした。ユーシスの手にかかった彼女の体は、羽根のように軽かった。
「いったいだれが、君にこんなことをさせたんだ」
それがだれだろうと殴ってやりたい思いにかられながら、ユーシスはたずねた。彼の妹は、根っから戸外には向かない女の子なのだ。アデイルが必死に走っていても、ユーシスには歩いているとしか見えなかったくらいなのだ。
「お兄様、お元気?」
大きな瞳で見上げて、アデイルはささやくようにたずねた。
「ユニコーンが死んだ話、もう伝わってきましたのよ。お兄様って、そういうことが、人よりこたえるかただから――」
「だからって」
ユーシスはまだ| 憤 《いきどお》りをおさえかねた。
「だからって、君がユニコーンに乗ることはないだろう。乗馬すらできないのに、どうしてこんな無茶を承知したんだ」
アデイルはユーシスに無事会えて安心したのか、少しずつ血色がもどりはじめた。やや得意そうな表情を浮かべて、彼に言った。
「だって、しかたなかったんです。ランスロットは、わたくしにしか乗れなかったんですもの」
「どういうことなんだ、それは」
「これをもらいましたのよ」
アデイルは左の袖口《そでぐち》をひっぱって見せた。細い手首に、幅広の黄金の腕輪をはめていた。中央には青い楕円《だ えん》の宝石がついている。その腕輪には、ユーシスも見覚えがあった。彼は息を吸いこんだ。
「これは、たしか――」
「ええ、オーガスタ王女の腕輪です。この石は女王試金石です。この石を持つ者は、彼女のユニコーンを受け継ぎ、御すことができるのです。王女殿下はわたくしに、ご自分の腕輪をゆずってくださいました」
アデイルは静かな口調で言った。ユーシスは、彼女をまじまじとながめた。
「それでは、君は会いにいったのか――君の実の母君に。ギルビア公爵邸へ?」
「ええ」
アデイルはちらとほほえんだ。
「さすがにというか、いやになるというか、手ごわい御婦人ですわね。この親子対決の次第は、いつか時間があれば、ゆっくりとお話ししますわ」
なんだかたいへん怖いことがあったように、ユーシスは受けとったが、今は聞かずにおくことにした。
「しかし、なぜ、君はそんなところへ行っていた。父上はどう考えておられるのだ」
アデイルは表情をあらためて、ユーシスを見上げた。
「お兄様は、まだご存じないのよ。グラール国内は、今、たいへんなことになっているんです」
そのころ、兵士に混じって走り出ていたイグレインは、馬から降りた人物に、見知った顔を見つけていた。トーラス女学校きっての秀才であり、文芸部長でもあるヴィンセントだ。
青い乗馬服に身をつつみ、さっそうと降り立った彼女に走り寄って、イグレインはたずねた。
「ヴィンセント、どういうことなんです。あなたは、トルバートへ向かったとばかり思っていたのに」
顔を上げたヴィンセントは濃い青の瞳を見はり、うれしげに声を上げた。
「まあ、イグレインじゃないの。かっこよくなってしまって。似あうわ、その短髪」
「ええ、その――いろいろあって」
「あなた、今からトーラスへもどったら、下級生に卒倒者が出てしまうわよ。あまりにりりしすぎて」
「もう、もどらないと思います」
「わたくしもよ」
楽しそうに笑ってヴィンセントは言った。
「あなたの言うとおり、砂漠のトルバートへ行ってきたわ。距離的には遠かったけれど、全力でぶつかるほどの強敵も見つからない肩すかしだったのよ。だから、ぐずぐずしている使節団を後に残して、わたくしたちだけさっさと帰ってきてしまったの。ブリギオン軍の真の目的が、トルバートでないことは、最初の三日ではっきりしたし」
「三日――たった三日で?」
イグレインは息をのんだ。
「それなら、彼らの南下は早くからわかっていたということですか。それなら、どうして……」
「わたくしたち――少なくともアデイルとわたくしには、早くからわかっていたのよ。でも、なかなか、物事がうまく運ばなくてね。手ひどい妨害《ぼうがい》工作があったりして」
ヴィンセントは表情をひきしめた。イグレインは耳を疑った。
「妨害工作って――いったいだれの?」
そのときになって、ようやくレアンドラがその場に姿を現した。少々登場が遅れたものの、レアンドラはそのぶん、明け方まで宴をはったとも思えない隙のない身づくろいをしていた。
最高司令官のマントをさっと払うと、レアンドラは、まだユーシスにささえられて立っているアデイルの前に進み出た。
「いったいこれは、何の騒ぎだ。わたくしの部下をわずらわせるのもたいがいにしてもらおう」
アデイルは、きっとまなざしを上げて彼女を見やり、ユーシスの手から一足歩み出た。
「チェバイアットのかた、わたくしが騒がせなくても、急報が今にも届くでしょう。南の果てで戦争ごっこを続けるのは、もうおやめになったらいかがです。グラール国内の世論が許しません」
レアンドラの銀の弓のような眉が、ぴくりと動いた。
「何のたわごとを言うか。保守派のどこに、そのような力がある」
「保守派の力ではありません。もしもそうなら、わたくしは駆けつけたりせず、笑って見ているはずですわ。超保守派の出現です。動いておられるのは、メニエール大僧正猊下《だいそうじょうげいか》です。猊下は、グラール女王の座にご自分がつくおつもりです」
アデイルの言葉に、レアンドラはたじろぎ、人々からもざわめきが上がった。ユーシスもまた衝撃を隠せなかった。
「猊下が、まさか。たしかに以前から、とやかく言われるものはあったが、しかし……」
衆前に姿を現さなくなった女王陛下に代わって、メニエール猊下が儀式をとりしきることで、聖職者たちの発言力の拡大があやぶまれたことは、ユーシスであっても承知していた。しかし、彼女が聖職者である以上、自身が女王になりかわるような、強欲な野望を表明することはないと思われていたのだ。
ユーシスをちらりと見やってから、アデイルは言葉を続けた。
「メニエール猊下は、時間をかけてことを進めておられました。リイズ公爵を裏で扇動《せんどう》していたのは、今となってみれば、かの人にまちがいありません。亡き公爵がつくった支持者の層を、そのまま猊下が吸収して、聖堂関係者は言うにおよばず、たいへんな勢いで広げています。年若い、たよりにならない女王候補に、この国をまかせられないというご主張ですわ」
レアンドラはさっと紅潮した。
「まかせられないだと。何というふざけた話だ。失礼ながらメニエール猊下は、大僧正になられたとはいえ、完全に傍系の王族のはず。まだしもライアモン殿下のほうが、直系という点では正しい血筋だったではないか」
アデイルは、ちょっぴり皮肉な声音になった。
「あら、因習にこだわらないのは、そちらのご主張だとばかり思っていましたわ」
レアンドラはむっとしてにらみつけたが、アデイルはそ知らぬ顔で、再びまじめな口調にもどった。
「とにかく、国内では、猊下に支持が集まりはじめています。女王代行をこれほどまでにつとめてこられたかたですもの。そして、女王陛下は沈黙を守っておられます。だれであっても、陛下のご意向もまたそこにあるのだと考えてしまうでしょう」
「ばかな……ばかな……」
レアンドラはつぶやき、一瞬ぼうぜんとしたように、宙を見すえた。
「それでは、わたくしたちが拝命した火の鳥の羽根は何だったのだ。これも謀略《ぼうりゃく》か?」
「あるいは――そうです」
アデイルの声はいくらか悲しげになった。
「聖職者であろうとなかろうと、猊下もまた、筋金入りのグラール女性ですもの。表に見えないところで、どこまで彼女が動いたのやら。あのかたはたぶん、ブリギオン軍の動向などはとっくにご承知でした。その上で、わたくしたちの目を外にそらせたのだとしか思えません」
「猊下の手の上で踊ったと……わたくしたちが?」
「少なくとも、あなたの軍隊は踊っています。これほど長く南に滞在したのはあやまりでした」
レアンドラははっとしてアデイルを見た。アデイルはうなずき、低く言った。
「隣国を巻きこんだカグウェルの暴動も、メニエール猊下が裏で糸をひいているに違いありません。カグウェル王家は倒れました――グラール軍の圧力を許さないとする王の反対勢力に、トルマリンとバーンが加わり、今度は二国が争いあって、王エイモスは夜逃げの最中です。ケイロンの都は、現在たいへんな混乱状態です。猊下は、こうした不祥事をひきおこした、私軍をかかえる女王候補の排斥《はいせき》を、国内に強く呼びかけています」
そこまで聞くと、レアンドラはかえって狼狽《ろうばい》しなかった。額を少しだけ押さえたが、軽く笑い声をたてた。
「いや――見事な手口だ。教本にでも書いておきたいような、あざとい足の引っぱり方だな。ブリギオン軍を、めくらましとして使えるとは恐れ入る。これだからグラールは、おちおち発展してもいられないのだ」
「わたくしもそう思います」
姉の反応を見守りながら、アデイルは続けた。
「わたくしがここへ来るにも、ずいぶん手こずりました。猊下ほどに年季がおありでは、影の伏兵《ふくへい》をどれほどかかえておられるか、考えただけでも寒気がするようです。それでも、正当な女王候補はわたくしたちです。負けたくないと思いませんか」
レアンドラは、初めて気づいたように睫毛をまたたかせ、妹を見つめた。
「すると――君は――協定をむすびにきたのか?」
「どう考えても、大僧正猊下は、わたくしたちのどちらよりも上手《うわて 》です。けれども、太刀打ちできない相手とは思いたくありません」
背筋を伸ばしてアデイルは告げた。
「まずはこの相手を倒して、それからあなたとわたくしで、だれが女王になるべきかを考えてはいかがでしょう」
レアンドラが、思案につかった時間はわずかだった。決断を迫られたとき、彼女がどれほどいさぎよいかを見せるものだった。
「提案をのんだ。とりあえずわたくしは、ここを引き上げる準備にかかる」
響きわたる声で言うと、マントをひるがえし、姉姫は大股に歩み去った。側近の兵士たちが、彼女をあわてて追いかける。アデイルはそれを見送り、大きく深呼吸してユーシスに向きなおり、愛らしくにっこりした。
「これで、よかったのですわね。きっと……」
ユーシスは、まだあれこれ驚きやまなかったが、なかでも一番衝撃的なことは、今やりとりを交わした二人が、まぎれもなく姉妹に見えたことだった。ことによると――気質は似ているのでは。
「……たいへんなことになったが、君はそれでいいのかい。レアンドラについてしまえば、メニエール猊下と正面きっての争いになるのだろう?」
気持ちの整理をするために、ユーシスはたずねた。アデイルはうなずき、ユーシスの手にふれた。
「ユニコーンに乗ってくださいな、お兄様。わたくしにできたのは、かろうじて一本道を走らせることくらいでした。でも、お兄様なら、すぐにランスロットを乗りこなせますわ。そして、わたくしのために、南方三国の平定《へいてい》をしていただきたいの」
アデイルの金茶の瞳が、深い信頼をこめて輝いていた。ユーシスはそれを見つめ、いっさいを言い立てるのをやめてうなずいた。
「――やってみよう」
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第三章 クイーンの言い分
一
フィリエルが、ヘルメス党の人々とともに、密かにグラール国境の北へもどったころ、アデイルはまさにそのギルビア州で、公爵邸を訪問して親子対決をしていたのだった。
だが、残念なことに、二人の少女にはお互いの消息を知る手だてがなかった。まったく出会うことのないまま、運命を握る少女たちは、反対方向へとすれ違っていった。
正体を隠してグラールへもどるため、フィリエルは、髪の色を焦げ茶に染めていたので(彼女の希望は、ルーンのような黒髪だったのだが、何の加減かうまく染まらなかったのだ)、たとえ街道で見かけたとしても、アデイルは気づかなかったに違いない。灰色の小馬をユニコーンの子と見分ければ別だが、ヘルメス党の人々は、かなり巧みに平凡な商人を装っていた。
フィリエルにサインをねだった国境の衛兵をはじめ、宿場町のだれ一人として、フィリエルを見て、かつてのバラッドの乙女だと見分ける者はいなかった。結局、髪の色だけが問題だったのかと思うと、フィリエルはかなりおもしろくなかった。
けれども、彼らはそんなふうにして、道中それほど大きな危険にも遭《あ》わず、メイアンジュリーの都までもどってきた。そして、数日間滞在して骨休めをした。
ここは女王陛下のお膝《ひざ》もとであるものの、同時に西岸|随一《ずいいち》の規模をもつ港町でもあった。雑多な人と物で日々あふれかえる、そのにぎわいに溶けこむことができるのだ。
海岸と運河に面した下町には、あらゆるクラスの商人館と宿屋がひしめき、怪しげなものまで売る店が路地裏に並び、青空市が毎日のように開かれていた。そのなかには、ヘルメスの同志も多く潜み、| 公 《おおやけ》にできない旅人たちが安心して泊まれる宿屋があったのだ。
とはいえ、研究部員はメイアンジュリーに留まるものではなく、めざす国内の隠れがは、都をさらに北へ抜けた、中部地方の森のなかにあるということだった。そこには竜のうわさがまだあったことを思い出し、フィリエルもなるほどと思った。
「わかったわ。でも、あたしはみんなといっしょに発つことはできない。これからバードを見つけ出して、女王陛下に進言するんですもの」
今も彼女が主張を変えないことを知り、ケイン・アーベルはがっかりしたようだった。
「お願いですから、おとなしくシンベリンの森へ向かってください。ルーンだって、もどってきてあなたがそこにいなかったら、どんな気持ちになると思います?」
「だけど、あなた自身は、しばらく都に残って用事を片づけていくのでしょう。だったら、あたしも残ってもいいじゃないの」
フィリエルが言い返すと、ケインはくちびるを結んだ。
「わたしの場合は、いやでもそうしなければなりません。情報部との連絡調整がありますから」
「ルーンなんて、少しは心配してみればいいのよ」
フィリエルは、いまだに拗《す》ねていることが明白な口調で言った。
「あたしのこと、目が離せないなどと言ったくせに、その舌の根も乾かないうちに、このありさまなんだから。どうして男の人の言うことって、こんなにあてにならないものなの?」
ケインは大きなため息をついた。
「ルーンの見解の甘いことは、わたしも認めますよ。再会後の意見調整まで、わたしがめんどうみると思ったら大まちがいですからね」
「それなら、再会するまでは、あなたはあたしについていてくれるのでしょう?」
平気な顔でフィリエルは言った。最終的には、ケインのほうが立場が弱かった。研究部のヘルメス・トリスメギストスであるバーンジョーンズ博士は、フィリエルが女王に進言すると聞いたとたんに、強力に彼女を支持してしまったのだ。
「それは、君、なんとしてでも意見するべきだ。それはほとんど、孫である君の使命とでも言うべきものだよ」
「ええ、そうだと思います」
フィリエルと博士は、しっかりと手を握りあった。ケインは目を押さえたが、二人は勝手にもりあがってしまった。
「わしらは先にシンベリンへ行っているが、君はケインとともに全力を尽くしてほしい。もちろんわしも、女王陛下の身辺には、いろいろ一筋縄ではいかない連中が群れつどっていることは聞き知っている。これをもっていきなさい」
バーンジョーンズ博士は、小さな茶色の小瓶《こ びん》をさしだした。
「王宮で使われる催眠薬《さいみんやく》の毒消しになる薬だ。まだ、動物でしか実験の確証を得ていないが、まずのところは効き目を保証するぞ」
「ありがとうございます」
フィリエルは感謝して受け取った。すると、エイハム助手も進み出てきて、悲しげに言った。
「それほど役に立つとは思えないが、お嬢さんにこれをもっていってもらおうかな。この丸薬のように見える粒は、水に投げ入れると、思いがけないほど大量の煙幕《えんまく》をはるのだ。もしもの場合に使ってほしい」
「ありがとうございます」
利用場面を想定できないまま、フィリエルはほほえんで受け取った。次には、スミソニアンもひょこひょこと歩み出てきた。
「これは、もっとも安全に使用できる爆薬なのだ。たとえば、鍵穴《かぎあな》につめて火をつければ、たいていの錠前を破壊できる」
「ありがとうございます」
それからは、研究部のメンバーのそれぞれから、激励《げきれい》の言葉とちょっとしたプレゼントが引きもきらずに続いた。フィリエルは、それほどまでに彼らの仲間に印象づけられていたとは、自分では考えてもいなかったので、たいそう感激してしまった。
「みなさん、ありがとう。あたし、がんばります」
フィリエルが花束とともに涙ぐんで言うと、大勢から拍手がわきおこった。ケインはとうとう観念したようで、まじめな顔をして人々を見回した。
「ええ――われわれのアイドルに関しては、このわたしが身をもって守ります。どうかみなさん、成果を期待して、もとの古巣へと向かってください」
ヘルメス党研究部の人々は、彼の言葉に満足した様子だった。フィリエルは、胸をときめかせてケインにささやいた。
「それなら、あたしが王宮へ行く手伝いをしてくれるのね?」
「他にやりようがないでしょう」
ケインは、情けなさそうに肩を落とした。
「どちらにしろ、ハイラグリオンへは行きますから、あなたも来てもかまいません。まさかこうなるとは、思ってもみませんでしたが」
フィリエルが、かつてメイアンジュリーの都を後にしたのは、竜騎士が華やかな出征《しゅっせい》をする冬の一月だった。今、もどってきたのは八月。石だたみは熱し、街路樹の葉むらは濃く、たわわに実った黒ぶどうが路頭で流し売りされる、夏の盛りの街並みだ。
だが、しばらくを南国ですごした身には、当たり前のような暑さだった。湿気が少ないぶん快適で、日暮れなどは涼しいと感じるくらいだ。
同じ宿に泊を重ねるとき、フィリエルは朝と夕方、ルー坊の散歩をかかさないようにしていた。そうしてたっぷりかまってやれば、ルー坊は昼の間、馬のおもがいをつけてもおとなしくしているようになったのだ。まずまずの成長ぶりと言える。
ユニコーンの子は、ブリギオン軍にこりたのか、前よりヘルメスの人々を仲間と見なして、言うことをきくようになっていた。だが、あのときの行状を見たからには、フィリエルも安心して放っておくことはできなかった。
メイアンジュリーの港町は、ルー坊にとっても寛容《かんよう》な町だった。フィリエルは、彼をつれて散歩していても、奇異《きい》の目で見られることがごく少ないことに気がついた。赤い革のおもがいをつけたルー坊は、遠国から輸入した、新種の小馬《ポ ニ ー》としか思われなかったようだ。
ルー坊が小さいので、通りがかりの馬たちが騒ぎ出すことはなかったが、いくぶん神経質にはなるようだった。港町にたむろしている野良犬や野良猫ならば、ルー坊を見かけるとただちに逃走した。ルー坊は無視していたが、興味を示したら最後、とって食うのかもしれなかった。
そんなふうにして、ユニコーンの子に町を散歩させながら、フィリエルには都のうつろいが、単なる季節の推移ではないことがわかり、徐々に当惑がわいてきた。
一月、人々は竜退治の期待にわきたち、竜騎士の関連商品が露店《ろ てん》に並べられ――フィリエルは、ユーシス人形があるのさえ見つけたのだ――彼らの武運を願う飾り灯籠《どうろう》が、大通りの軒下に延々とつらなっていたはずだった。
だが、今、涼《りょう》をとるため路地に出された茶店の席では、だれも竜退治を話題にする様子がない。露店で売り出されて目をひくのは、妙に宗教臭い小物ばかりだ。聖堂のアストレイア像を模した小像や絵画、香炉や練り香、マゼンタの祈祷書《き とうしょ》の聖句を入れた飾り額などである。
(どうしてなんだろう……)
香の匂いにトーラスの礼拝堂を思い出すフィリエルは、かすかに眉をしかめた。陽気で闊達《かったつ》な町の流行《はや》りものにしては、いかめしすぎないだろうか。
その疑問は、出先から帰ってきたケインによってほぼ氷解した。ケインは、まだハイラグリオンへ出かける段取りがつかずに、あちこちへと連絡に飛び歩いているのだ。おかげで、フィリエルがぶらぶらするはめになってもいる。
「フィリエル、女王陛下にもの申すには、時機を逸したようですよ」
宿へもどったケインは、顔をしかめて言った。
「どうして」
「予断がならないといううわさが出回っています」
「何の予断?」
「つまりですね。あと、いくばくもないご容態にあられるとか――人によっては、すでに崩御《ほうぎょ》あそばしたものの発表は伏せられているという、もっぱらのうわさなのです」
フィリエルは目を見はった。
「そんな。まさか、女王陛下が」
「前々から、ときどきうわさは立っていたんです。どう数えてみても、かなりのお年ですからね」
帽子をぬいでテーブルに置くと、ケインは疲れたため息をついた。
「今度のこれも、故意に広められた流言《りゅうげん》である可能性はあります。しかし、今までになく信憑性《しんぴょうせい》があるのもたしかです。お年寄りが亡くなるのは、暑寒《しょかん》の極まる時期が多いものですし」
フィリエルは少しの間ぼうぜんとしてから、息を吸った。
「だって、まだ女王候補のどちらが次期女王になるかも決定していないのに。もしも、陛下が言明なさらずにおかくれになってしまったら、どうなってしまうの?」
「そこですよ。ヘルメス党の情報部でさえ、先を読みきれずにあたふたしているのは」
宿屋の亭主が、泡立つ麦酒《ビ ー ル》を運んできてケインの前に置いた。顔なじみなので、注文しなくても察してくれるのだ。ケインはうれしそうに亭主と言葉を交わし、半分以上を一気に飲んだ。
「ことによると、第三の道がとられます。どちらの女王候補も女王にならない可能性が、大きく浮上しています。ヘルメス党にとっても、これは一大事です。われわれはかつて、亡きリイズ公爵を、あえて財運のヘルメス・トリスメギストスにまつりあげてまで、自分たちの活路を見出そうとしましたからね」
フィリエルはかたずをのんだ。
「そうすると――」
「あ、一杯やりますか、あなたも」
「いいえ、いいの、聞かせて。アデイルもレアンドラも女王にならなければ、だれが女王になるの?」
「もう、二人の姫君の子どもを待つことはできないでしょう。そうなれば、すでに女王代行をなさっているかたのことしか考えられません」
「メニエール大僧正|猊下《げいか 》……」
それを聞けば、フィリエルにとってさえ、すんなりと納得できるようだった。宝石のしゃくを手にした、猊下の威厳にあふれる立ち姿が目に浮かぶ。少なくとも象徴的な外観では、すでにグラール女王の威信は彼女の容姿をまとっていた。
フィリエルは、そっとたずねた。
「メニエール猊下が女王になられたら、ヘルメス党には都合がいいの?」
「いいはずがないでしょう」
ケインは眉をよせ、苦い顔をした。
「意見の分かれるところですが、わたしは大あわてで逃げ出す事態と考えますね。リイズ公爵とメニエール猊下とでは、考え方の基盤がまったく異なります。そして、もしも猊下が、リイズ公爵の秘密をかなり握っておられたのだとしたら、ヘルメス党にとっては命取りです。王族に手を出したことを悔やみながら、国外逃亡するしかありません――ことによれば、ブリギオンへでも」
「何を言っているの。あたしたちが問題にしているのは、ブリギオン軍が攻めてきたことなのに」
フィリエルはびっくりして言ったが、ケインは肩をすくめもしなかった。
「そのことなら、情報部が経過をつかんでいましたよ。竜騎士の活躍とグラール軍の迎撃とで、カグウェル南のブリギオン軍はすでに撃退されたそうです。だから、ルーンももうじき帰ってくるでしょうし、もう問題ではなくなっているんです」
フィリエルは、さしあたってまばたくことしかできなかった。喜んでいいことなのだが、すぐには対処ができなかったのだ。
「だからって……あたしが陛下に進言したいと思った内容が、変わってくるわけではないでしょう?」
ケインは顔をよせてフィリエルを見つめ、にこりともせずに言った。
「あなたも頑固ですね。こんなに事態が変わってしまったら、今さら何が言えるというのです。昨日の敵が今日の友であることは――その逆もですが――闇の世界ではよくあることなんですよ」
ケインと夕食をしたため、ルー坊にもごはんをやったフィリエルは、少々頭を混乱させながら、まだ空の明るい街へ散歩に出かけていった。
ルーンとユーシスが無事であり、もうじきルーンに会えるという吉報は、じわじわとうれしさのこみあげてくるものだった。そうするとフィリエルも、少々後ろめたいながらも、あとはどうでもいいやという気になった。一方、ケインからブリギオンに移住するかもしれないと言われたことは、少なからずショックを受けるものだった。
(ケインだって、彼らの原色の趣味は嫌いだと言っていたくせに……)
しかし、ヘルメス党とはそういうものなのかもしれなかった。しさいな選《え》り好みをしないことで、彼らは今日まで、地下組織として生きのびてきたのだろうから。
(あたしは、東の帝国の人たちに混じって暮らせるのだろうか。ルーンはどうだろう……あの国には鉄の筒があるから、彼ならかえって乗り気になるのだろうか……)
ルーンといっしょなら、どこであろうと暮らせると考えていたフィリエルだった。だが、さすがに東の国までは思いおよばずにいた。覚悟のほどが足りなかったのかもしれない。
(……だいたい、グラールに残っていても、この国もまたずいぶん変わってしまうんだわ。アデイルはこのことを、どう思っているかしら……)
あれこれ考えてみて、フィリエルは、自分が女王陛下に文句を言うことにこだわったのは、やはりどこかで、祖母である人に一目会っておきたかったせいだと、しぶしぶ認めざるをえなかった。
ルー坊とフィリエルが足を向けたのは、運河沿いにある公共の緑地だった。ルー坊は、やはり石だたみより草地が足にうれしいようで、こういうところを少し跳ね回らせておくと、翌日たいへんいい子になるのだ。
一時期より短いとはいえ、日はまだ長かった。太陽が運河の向こうに低く燃え、空は澄んだ青とスミレがかった青で、幅広くたゆたう水の上には、美しい赤金の照り返しができている。
水辺のそよ風は肌に心地よく、夕涼みに出てきた人影も多かった。堤《つつみ》に沿った道には馬車が等間隔に止まっており、お屋敷街からも夕暮れの散歩にくる人たちがいるようだ。
そぞろ歩く人々は、大部分がカップルのように見受けられた。座りこんで語らう人たちも同様だ。フィリエルはここへ来て、自分の相手はピーとしか言わないルー坊だと思うと、次第にルーンに怒りがつのってくるのだが、今日のところは、他の懸案に気をとられていて、怒りださずにすんだ。ユニコーンの子は、細長い緑地を端から端まで行くのが好きなため、いやでもフィリエルは、全カップルのかたわらを過ぎるのである。
あつあつの恋人たちには、とくに目をやらないように気をつけて、フィリエルが足早にルー坊を追いかけているときだった。意外なものを見て、思わずその足が止まった。
「ルー坊、待って」
待ってと言えば止まるようになった、賢いルー坊である。もっとも、フィリエルは何かくれるかな? という顔でふりむくのだが。
上の空でポケットのビスケットをやりながら、フィリエルは足を止めさせた対象を見つめ続けた。それは、馬車から降りてきた身なりのよい一組のカップルだった。
男性のほうは、フィリエルが染め違えたような焦げ茶の髪をして、背丈はあるが童顔の、気のよさそうな顔立ちをしている。着ているものは、フィリエルが宮廷のお仕着せとして覚えているものだった。
一方の女性は、はつらつとして、栗色の髪を小粋な形にまとめ、ピンクのストライプの入った、これまた小粋な夏のドレスを着て、かわいいサンダルをはいている。ころころと笑って馬車から助け降ろされたところを見れば、彼女のはずむ気持ちが伝わってきた。
「マリエ……」
フィリエルは、確信なくつぶやいた。ここでマリエを見るはずがないという思いと、目の前の少女が別人のように見えるのとで、半々だった。フィリエルが立ちつくしていることに、焦げ茶の髪の若者のほうが先に気がついた。
「わあ、めずらしい種類の小ロバだなあ。ごらんよ、マリエ、かわいいよ」
フィリエルよりルー坊に注目したようで、若者はそう言った。マリエはふり向き、二、三度目をぱちぱちさせてから、息をのんだ。
「まさか、フィリエルなの。うそでしょう。どうして……どうしたの、その髪」
あわただしく、ドレスの裾をからげて走り寄ってきたマリエは、間近にフィリエルを見て、もう一度驚きなおした。
「本当にフィリエルだわ。いつ帰ったの。どうして一人でこんなところにいるの。どうして髪を染めたの――いい色だけど――髪がいたむじゃないの。ろくな手入れもしないで」
フィリエルは胸がいっぱいになってしまい、ものも言えず、古い友の腕に身を投げかけた。マリエも固くフィリエルを抱きしめたが、ルー坊は彼女を突き飛ばしに来なかった。フィリエルが親密にしていても、同性ならば関知しないらしい。
われに返ったマリエは、いくらか具合悪そうに若者を見やった。若者は、気くばりに慣れた者の快活さで言った。
「ぼくは、いつものやつを買いにいってくるよ。もちろん、そちらのお嬢さんのぶんも」
「ええ、そうしてくれる、ジョアン」
彼はうなずき、身軽な足どりで木立を抜けて駆けていった。マリエはフィリエルにやさしく説明した。
「あのね、この向こうに、氷で冷やした飲み物を売る店があるのよ。夕日を見ながら飲むと、それはおいしいの」
フィリエルはようやくふるえる息をついた。
「マリエ、もう二度と会えないかと思っていたわ。まさか、こんなところで出会うなんて。本当にうれしい、夢みたいだわ。でも……あの人は、あたしの知らない人みたいね」
マリエは少しばかりもじもじした。
「知らないと思うわ。ユーシス様のご一行が発たれた後に、補充で王宮へ来た人だから。わたしも、まだそれほど親しいわけでは……この三カ月くらいよ、いっしょに出かけるのは」
フィリエルは、琥珀色《こ はくいろ》の瞳でまじまじと彼女を見た。
「マリエって、ロット様が好きなのかと思っていたわ」
「そりゃあ、玉の輿《こし》の夢は今でも捨てがたいわ。でも、幸せはそればかりでもないかもしれないと思えてきて。いやね――それを思わせたのは、あなただったというのに」
マリエは乱れてもいない髪を、しきりになでつけた。
「ジョアンは伯爵様のひらの従者だけど、でも、将来有望な従者なのよ。気が利くし、やさしいし、それに……今のところ、わたしに夢中なの」
「それは、とってもよく見てとれたわ」
思わずフィリエルはほほえんだ。
「文句を言ったつもりは少しもないのよ、すてきな彼だわ。あたしもそう思う。うらやましくてならないくらいよ。あたしも、そういう人を理想にしていたはずなんだけど――」
今度は、マリエがまじまじと見つめる番だった。「フィリエル、どうして『あたし』って、また言うようになったの。お姫様らしくないのに」
フィリエルは、きかん気にあごを上げた。
「いいえ、フィリエルはこんなものよ。もう、わかったの。以上でも以下でもないって」
「ルーンはどうなったの?」
マリエが質問を変えると、フィリエルは針でつついたようにたちまちしぼんだ。
「ここにはいないの。でも、もうすぐ来るはずなのよ……たぶん……」
「それなら、ちゃんと会えたのね。よかったじゃないの。わたしは、南へ行っても無理だとひそかに思っていたのよ」
「ええ、捕まえるには捕まえたの」
フィリエルは気をとりなおし、ほほえんでマリエを見た。
「ルーンにも、今のあなたを見せたかったわ。さっきはあたしも、別人かと疑ったくらい。都で生まれ育ったお嬢さんのようよ。とってもきれいになったし」
「本当? フィリエルが言ってくれると重みがあるわ――ジョアンより、ずっと」
マリエはぱっと赤くなったが、その言い方はすでに、自信をもっている人のものだった。恋人のいる女性の自信だと、フィリエルはうらやましく思った。
「あなたも変わったわ、フィリエル。そんな、路地裏の男の子のようなかっこうをして、髪を焦げ茶に染めて、変わっていないと言うほうがおかしいけれど。でも、それだけではないものがあるわ。何というか……野性味があるというか」
マリエがまじめな口調で言ったので、フィリエルは少しがっかりした。
「マリエ、無理して言わなくてもいいから。あたしはこの数カ月、きれいになれそうなことは、何一つしなかったんですもの」
「でも、違うのよ。言わせてよ」
マリエはむきになった。
「セラフィールドにいた素朴なフィリエルが、今のかっこうをしても、きっと似あいはしなかったと思うの。でも、今日のフィリエルは、王宮のガウンが似あうのと同じくらいに、そのなりでもさまになるのよ。そうさせる迫力が、今はあなたのなかにある……つまり、あなた、タイプはまるで違うのに、レアンドラ姫に似ているのよ」
二
ジョアンは、使い捨ての木の皮のコップを三つもってもどってきた。ハイラグリオン内ばかりでなく、一般の人々でも真夏に氷の恩恵が受けられるところが、メイアンジュリーのすごいところだった。フィリエルはありがたくおごってもらい、彼らといっしょに飲み物をすすった。蜂蜜《はちみつ》とレモンで味つけた飲み物は、きりりと冷たいとまた格別だった。
みんながゆっくり飲み終わったころ、マリエが言いだした。
「ジョアン、今日はとっても申し訳ないけれど、下町のお買い物、一人ですませてきてもらえるかしら。わたし、どうしても、この人と話しておかなければいけないことがあって――」
フィリエルはあわてた。
「あたしならいいのに。マリエ、帰るから」
焦げ茶の髪の若者は、そうちょくちょくはできないデートがだいなしになったと知り、たいへんがっかりしただろうに、顔にはちょっぴりしか浮かべなかった。
「うん――いいよ。なんだか、わけありみたいだし。ぼくが一回り行ってこよう。マリエが見つくろうものなら、だいたいわかるようになったつもりだから。そしたら、買い物帰りに君を拾いにくるよ」
「そうしてくれる? 助かるわ」
若者が馬車に乗りこむのを見て、フィリエルはついあやまった。
「ごめんなさい。ごちそうにもなったのに――」
ジョアンは、気持ちのよい笑顔を見せた。
「このくらい、何でもないですよ。まだ、ぼくたちには帰り道もあるし。お嬢さん、同郷のなまりがありますね。ルアルゴーのご出身ですか?」
「ええ、そうなんです」
「お姫様と同じお名前で、すてきですね。でも、その髪の色は、うちの妹のほうに似ているかな」
彼が馬車で走り去ると、マリエはため息をついた。
「やっぱり……わからないわよね。当のお姫様が目の前にいるのだとは」
「それでいいのよ」
フィリエルは馬車を見送った。
「べつに、彼を追い払ったりしなくてよかったのに。あたし、あの人とも楽しくすごせたわ」
「そうはいかないわよ。わかっていないのね、相変わらず。とにかく……わたしには、彼の前では言いにくい話があるのだし」
マリエは奥歯にもののはさまった言い方をした。フィリエルは、不思議そうに目を向けた。
「なんなの、話って」
「ロウランド家が、どれほど大変かという話よ。あなた、何も知らないんでしょう。どういうつもりで下町に潜伏しているのか知らないけれど、一時はわたしが侍女として仕えた人として、これだけは聞いてもらわなくては」
フィリエルは思わず表情を改めた。
「何かあったの? ユーシス様のお留守中に」
「あったなどというものではないわ。これ以上のことは起こり得ないわよ。伯爵様ご夫婦、前から仲睦《なかむつ》まじいお二方ではなかったけれど、とうとう決裂したの。奥方様は、ご自分の侍女や従者を引きつれて、ご実家のメロール家へもどっておしまいになったのよ――南部にある」
マリエはショックを思い返して、ふるえ声になった。フィリエルは、ただあぜんとした。
「なんですって――」
「あなたにもわかると思うけれど、奥方様の力は、ロウランド家を二分するほどに大きかったのよ。とくに南部にくいこむ戦力では、奥方様がいらしてこそのものがあったのに。もう、だめ、ロウランド家は、表面をつくろうのも無理なくらい、がたがたなの。伯爵様はこの夏、御領地に帰ることもできずに王宮にいらっしゃるわ。雑事に追われて」
「アデイルは、どうしているの?」
「アデイルお嬢様は、砂漠のトルバートへお出かけになったもの。使節団といっしょに」
「あ、そうか……」
フィリエルも、そのことには驚かなかった。ただ、だれもが留守中のできごとだったのだと思うと、ずいぶんいたたまれなかった。
「ユーシス様だって、アデイルだって、いっしょうけんめい力を尽くしている最中だというのに。どうしてそんなことになったのかしら……」
マリエは、もはや涙ぐみはじめていた。
「アデイルお嬢様が、わたしをトルバート組のなかに入れなかったのは、『マリエは、フィリエルを待っていたいでしょう』と、おっしゃってくださったからなのよ。だから残っていたのに、こんなことが起きてしまって。わたしの知っている女の子たちは、全員、奥方様についていってしまったの。けれども、わたしは――それはジョアンのせいも少しあったけれど――伯爵様がおかわいそうだと思って。だから、王宮に残ることにしたの。決裂の後も、ロウランド家の使用人は辞めていく一方なのよ。わたしとジョアンは、辛気《しんき 》くさいのはいやだから、毎日明るくすごそうって、二人で決めているけれど」
フィリエルは、少し自分を恥じた。マリエたちを、何のくったくもないカップルだと考えていたからだ。
「本当にそれは知らなかったわ。それほど大変だったとは。北のロウランド家は、不動のものだと思っていたのに、こんなこともあり得たのね」
「フィリエル、ユーシス様もアデイル様も、すぐにはおもどりになれないのだから、あなたが伯爵様をおなぐさめするべきではないかしら」
マリエはフィリエルの顔をのぞきこみ、たのむように言った。
「あなたはここにいるんですもの。この都に。王宮へ来て、顔を見せてよ」
フィリエルはたじろぎ、これは困ったことになったと思った。
「マリエ……話せば長いけれど、あたしはもう、エディリーンの娘としては、永久に立てない身なのよ。伯爵様のご希望は、かなえられないの」
「無理なことは言わないわ。変装してわたしの部屋に来てくれさえすれば、伯爵様お一人のところへお目通りさせることもできるわ。今のわたしには、そのくらいのことは可能なのよ」
マリエはフィリエルの両手を握った。
「わたしが望んでいるのは、このごろいつも沈んでいらっしゃる御前様を、少しでも元気づけてさしあげることだけ。あなたが無事にもどったことを、お喜びにならない御前様ではないもの。ね、それすらできないフィリエルではないでしょう?」
薄闇があたりを包みはじめるころ、ジョアンの馬車がマリエを迎えにきた。フィリエルはいっしょに行きはしなかったが、近いうちに王宮をたずねると、とうとうマリエに約束して、彼らと別れた。
宿まで駆けて帰ったフィリエルは、そのままの勢いでケインをせめたてた。
「どうしてあたしに教えてくれなかったの。これほどの話、ケインだったら、耳にしなかったはずはないでしょうに」
「たしかにうわさは聞きました」
ケインは認めたが、べつにあわてるふうでもなかった。
「けれども、ただのうわさですからね。あなたのように内部の人間から聞いたのでもないかぎり、たしかなことまで言えませんよ。それほど外聞の悪いものごとは、ふつう、ひた隠しに隠されるものですから」
「でも、うわさになっていたことはいたのね?」
「ええ」
ケインは表情をひきしめた。
「そんなことでも想定しないかぎり、ここへきてあまりにも急速に、保守派がふるわなくなったことの説明がつかないでしょう。しかし、おかげで事実関係がはっきりしましたよ。もしもメロール家が急進派に寝返るものであれば、今の情況下では、まず保守派には勝ち目がありません。その急進派であっても、軍隊派遣にかかわって日に日に旗色が悪くなりつつある……もしかすると、メロール家を吸収するのは、超保守派なのかもしれませんね。いずれにしても、天下はメニエール猊下のものでしょう」
フィリエルは小声でつぶやいた。
「伯爵様、どんなお気持ちかしら……」
しかしケインは、まったく別のことを考えていた。
「そろそろ、情報のヘルメス・トリスメギストスに直接の指示をとりつけるころあいですね。都の仕事を早くにすませて、われわれは急いで移転先の手配にとりかかったほうがいい」
寝室へ行こうと立ち上がったケインに、フィリエルはたずねた。
「ハイラグリオンへは行かないの?」
「行きますよ、もちろん」
「明日行きましょう」
断言するフィリエルに、ケインは水青の目を見はった。
「それはどういうことです。あなたには、もう行く理由はないでしょう」
「とんでもないわ。あたしは伯爵様に会いに行くんですもの」
最初からそう決まっていたような口調で、フィリエルは言った。
「このまま姿をくらませばすむと、思ってはならなかったのよ。あたしはロウランド家の伯爵様にお会いして、きちんとおわびを言わなくては。自分のぶんもルーンのぶんも、かかわりをもってくれた人々に、あたしたちがわがままを通したことを、よくあやまっておくのが筋だったのよ」
ケインは、もうまったく説得の余地がないとさとった上で、とうとうフィリエルをハイラグリオンへつれていくことを承知した。彼女が言い出したらきかないということを、ケインも身をもって知るはめになったのだ。
王宮行きが決まった翌朝、彼らがやとった辻馬車が宿の前まできた。フィリエルは、マリエが目にしたのと同じ、街の少年が着るような赤茶色の上着に薄茶のズボン姿で表に出たが、後から出てきたケインのいでたちを見て、思わず後ずさった。
「ケイン、それ……」
彼は、ふちの広いてっぺんの尖った帽子を被っていた。着ている上着は、くすんだ色を少しずつ使ったみすぼらしいもので、ひょろりとした体型をさらに際だたせている。さすがに竪琴《たてごと》はかかえていなかったが、その姿は、彼にはあまりにも似あいすぎていた。
「知っていますよ。これは、バードの衣装です」
ケインはフィリエルの度肝を抜かれた様子を見ながら、こともなげに言った。
「わたしが、王宮の連絡員に選ばれた理由の一つはこのせいです。この服装でわたしが歩くと、ハイラグリオンのたいていの場所に、なぜか自由に出入りができるんですね。そんなに似ていますか?」
「似ているもなにも……」
いっしょに馬車に乗りこみ、あらためて彼を見つめながら、フィリエルは頭をかかえた。
「ああ、だめ。バードの顔が思い出せなくなったじゃないの。すっかりケインの顔になっちゃったわ」
そうしてフィリエルは、自分が吟遊詩人の面影をほとんど喪失《そうしつ》していることに気づいたのだった。ケインに出会って、彼に似ていると思った時点で、早くも薄れつつあったらしい。今はどんなに思いをこらしても、ケインの印象しか浮かんでこなかった。
と、いうことは、もしもバードが違う服装で歩いていたら、フィリエルにもわからなくなったということだ。
フィリエルがそれを打ち明けると、ケインは考え深げに言った。
「聞けば聞くほど奇妙な人物ですね、女王陛下の吟遊詩人というのは。王宮内でも、彼の消息のわかる人物はほとんどいないそうです。風来坊《ふうらいぼう》のように、ふらりと現れては消えるそうで。それなのに、陛下の絶大な信頼を得ているのですからね。いったい、どんな男なんです?」
本人にしか見えない人物からそう聞かれるのも、困ったものだった。フィリエルはためらいながら、形容する言葉を探した。
「うまく言いようがないくらい、おかしな人なのよ。異様な感じがするというか……彼と話していると、こちらの頭のほうが異常じゃないかと思えてくるというか……」
ケインはまじめにうなずいた。
「どうやら、似ていてうれしい人物ではなさそうですね」
二人はしばらく口をつぐんだ。その間にフィリエルは、ふと鋭く思いをめぐらせていた。
(以前、メニエール猊下がアデイルたちに火の鳥の羽根をわたしに来たとき、バードはたしか、その場にいたのだった。もしかしたら、メニエール猊下を女王にするという思惑は、彼のものではないかしら。次期女王を選択する人物は、本当のところは、陛下ではなかったりするのでは……)
かなりたってから、フィリエルは口を切った。
「ケイン。あなたがこれから会いにいく人、当ててみていい?」
「いいですよ」
「ベリセント宰相《さいしょう》閣下?」
ケインはゆっくりこちらをふりむいた。
「そう考える理由でもあるんですか」
彼の表情にも声にも、まったく変化はなかった。フィリエルは少し首をすくめた。
「あたしはこれでも、夜会にはけっこう出ていたのよ。王宮にいる重要人物で、あなたがたに協力しそうにない人物を除外していったら、だいたいのところはわかるわ」
「それにしても」
ケインはまじまじと少女を見た。
「……勘《かん》がいいんですね、あなたは」
「やっぱりそうなのね」
ケインは帽子のつばに手をやっただけだったが、肯定したのと同じだった。
「あくまで、今のところはです。王宮の人々の意向は、風見鶏《かざみ どり》より早く変わるものですから。彼から宮廷内の情報をひきだすのは、これで最後になるかもしれません。いや、自身が王宮に居続けることも、もう長くはないかもしれないですね――彼は」
やがてハイラグリオンに着くと、ケインの扮装《ふんそう》は、彼の言ったとおり抜群の効果があった。いくつもの車が足止めされているザラクレスの大門で、彼は目線で合図するだけで、すんなり通してもらったのだ。
辻馬車は坂を登ったところで帰したが、歩き出してからもスムーズさは同じで、どの衛兵の前も、すたすたと通りすぎるだけですみ、言葉を交わす必要もなかった。
もっともフィリエルは、いかにも無関心そうな、いかにも吟遊詩人のような、ケインの歩き方に舌をまいていた。度胸がいいことこの上ない。フィリエルは最初びくびくしていたが、幸いなことに彼のつれと見られてすんだようで、だれにもとがめられなかった。だんだん、本物の吟遊詩人といっしょに、エルロイの町を歩いたときのような気分におちいってきた。
だが、環状の王宮までやってくると、フィリエルもいくぶん気持ちがゆるんで、かつてすごした場所へのなつかしさを感じた。はじめて白亜の宮殿を見たときの、驚きと感激がよみがえってくる。
右も左もわからずに、回廊でマリエとまごまごしたことや、アデイルと二人で、新入生としてつつましく王立学院へかよったことも、なつかしむほど過去のできごととして思い出された。わずかの間に大きく変わってしまった自分を、痛感せずにはいられなかった。
フィリエルの変化に比べれば、宮殿の回廊は少しも変わっていなかった。人々は同じように華やかで、冬場ほどのにぎわいはないにしても、やはり大勢が流れるように行き交っている。
「ここから先は、一人で大丈夫ですね?」
フィリエルが以前、よくアデイルといっしょに馬車に乗りこんだ場所に立って、ケインがささやいた。
「ええ、簡単に行けるわ」
「それなら、二時間後にここでおちあいましょう。わたしもわたしの用をすませてきますから、あなたも気がすむようにしていらっしゃい」
時は正午を回っていたが、王宮の流儀で言えばまだ朝のうちだった。夜更かしの宮廷人たちが、ようやくベッドを出て、自室でのんびりすごす時刻だ。
ロウランド家の塔にしのびこんだフィリエルが、マリエの部屋をたずねあてて、こっそり入りこんでいると、それほど待たないうちにマリエがもどってきて、フィリエルを見て手放しに喜んだ。
「うれしい、約束を守ってくれたのね。それに、ちょうどいい時間に来てくれたわ。今ならよほどのことがないかぎり、伯爵様のお部屋にだれも来ないもの」
ケインもまた、そこをねらって宰相の部屋へ行くのだろうと考えながら、フィリエルはマリエにうなずいた。
「ええ、でも、あまりゆっくりとはしていられないの。急いでとりついでくれる?」
マリエは、しばし黙ってフィリエルの姿をながめた。
「……着替える時間くらいあるでしょう。あなたのガウン、まだそのままとってあるのよ」
「お願い、マリエ、わかって。これが今のあたしなの。もう二度と、自分の意志に反して着飾りたくはないのよ」
フィリエルは声を強めはしなかったが、妥協のない口調で言った。
「これからあたしが着飾るとしたら、あたし自身がそうしたいときだけにするの。この人のために身を飾りたいと、本気で思うときだけ着飾るわ」
着飾った自分をだれより見せたい人のことを、フィリエルは考えた。それは、じつをいうとルーンではなかった。ルーンも次点で、かなりのところまでせまってはいたのだが。
その人は、フィリエルが、初めて手に入れた水色のガウンを見せたかった人だった。彼にもらった母の形見《かたみ 》の首飾りを、自分が喜んで身につけたところを、一度でいいから見せておきたかった。人間嫌いの、天文台の孤独な住人。背中の寂しい天文学者。今となっては、どんな思いも届かないであろう人だ。
そうしてフィリエルは、博士が自分にとってどれほど大切な人だったか、今ではすなおに認められることに気づいた。娘の目をまっすぐ見ないとか、弟子のほうがかわいがられるとか、そういったうらみはきれいに消えて、ただ哀惜《あいせき》だけが残っていた。
マリエは黙って見つめていたが、軽いため息をついた。
「たしかに、それもフィリエルらしいわ。残念な気もしないではないけれど、そのままでいいわ。何を着ていようと、あなたを見れば、伯爵様はびっくりなさるに違いないもの」
塔の最上階へのぼったフィリエルは、レイディ・マルゴットが使っていた部屋の奥にある、ルアルゴー伯爵の居室へと向かった。ここへ通されるのは、フィリエルとしても初めてだった。侍従に扉を開けられたとき、少しどきどきしたが、部屋の色彩は予想したよりも軽やかだった。
そこは明るい水色と渋みのあるオレンジで彩られた部屋で、伯爵は日除けの降りた淡い光線のなかに、白いシャツと黒いズボン姿で腰かけていた。テーブルは黒曜石《こくようせき》でできており、その上に、涼しげな飲み物がのっている。
伯爵の鋭い顔立ちは、フィリエルにはいくぶん影になり、細かい表情は見てとれなかった。それでも、マリエが言うほど、彼は驚いていないようだった。ただ、つくづくと少女をながめ、肩をすくめるかわりにひょいと眉を上げたようだ。
「……君は、奇妙な子だ」
「はい」
フィリエルは、少々間の抜けた返事をした。
「奇妙ついでに、あの、あやまりにきました。あやまってすむことではありませんが……ご期待を裏切ったことを申し訳なく思っています」
「わたしが君に、期待をかけたとでも言うのかね」
ルアルゴー伯爵は厳しくたずねた。フィリエルは思わず、回れ右して帰りたくなった。
「そんなことがなければ、とってもありがたいことです。最初に、御前とあたしがお約束したものごとは、ルーンが勝手に逃亡した時点で、すでに無効になってしまったことですし。ですから、ここへあたしがもどってくる必要も義務もないとは思いました。それでも、していただいたことのなかには、あたしが感謝しなければならないことが山ほどあります」
フィリエルは噛みしめるように言った。
「御前ばかりでなく、奥方様にも、ユーシス様にも、アデイルにも、たいへんお世話になりました。恩知らずの身ではありますが、陰ながら、ロウランド家のかたがたのご安泰を願ってやみません」
フィリエルの言葉に耳をかたむけた伯爵は、しばらく口をつぐんでいた。それから、低く響きのよい声で言った。
「不思議なものだ。君は見たところ、ほとんど青の姫君には似ていないのに、やることなすこと、母君を思わせるな」
彼はあごに手をかけ、視線を窓にそらせた。
「エディリーンも遠い昔、わたしにあやまりにきたことがあった。きゃしゃな体を、同じように少年の服につつんで……同じように思いつめた顔をして……」
フィリエルはそのときまで、口にするまいと思っていた。けれども、思いにふける伯爵の顔を見守ったときに、いつのまにかたずねていた。
「お聞きするべきことではないかもしれませんが、奥方様がここにいらっしゃらないことと、青の姫君とは、どこかに関係がありますでしょうか」
ルアルゴー伯爵がちらとよこしたまなざしには、いくらか皮肉な色があった。
「ないとは言えんな。要因はいくつもあるが、どれも古くから存在したものだ。しかし君は、君がロウランド家に入りこんだせいで、彼女が去ったと思っているのかね」
フィリエルは口ごもった。
「そうはお見受けしなかったのですが……」
「彼女が見切りをつけたのは、このままではメニエール猊下に、どんな対抗手段もこうじることのできないロウランド家だよ」
伯爵は固い声で言った。落胆《らくたん》を抑えているせいなのかもしれなかった。
「なぜなら、メニエール猊下は、ロウランド家がディー博士とエディリーンをかくまった事実をつかんでいるからだ。そして、これをいかに効果的に公表するかをちらつかせ、裏から巧妙に脅しをかけている。われわれとすれば、首根っこを押さえられたようなものだ。まあ、自業自得《じ ごうじ とく》だがな。しかし、マルゴットにとっては、まったくわりの合わない思いのしたことだろう」
フィリエルは沈黙しながらも、つきつめればやはり、伯爵が青の姫君を想い続けたことに原因があるのだろうと、考えざるをえなかった。
伯爵はまた窓を見つめた。
「君が王宮を去ったのは、賢明な判断だった。猊下の力がこれほど台頭してきては、ここにいては命も危ないところだった。その意味では、アデイルも、外に出すことができてよかったと思っている。わたしは幼いころ、猊下と遊んだ覚えがあるが、あれは怖い女の子だった」
伯爵にそう言われると、フィリエルはなんとなく、負けん気が頭をもたげた。
「何かお役に立てることが、あたしにありますでしょうか」
「いや、何もない」
伯爵はたいへんきっぱりと言いわたした。
「君は自分の安全と、幸せになることだけを考えればいい。エディリーンにできなかったことをするのだ。メニエール猊下はすでに、女王崩御の発表の時期をはかっているはずだ。彼女は祈祷《き とう》と称して、森の聖神殿につめ続けているが、たぶんそういうことなのだろう」
フィリエルは伯爵を見つめた。彼は以前より老けて見え、安楽を知らない精力的なものは薄れて、疲れた猟犬の悲しさばかりが際だっていた。
「では、陛下がすでにおかくれになったといううわさは、本当なのですか」
「森の聖神殿は不可侵《ふ か しん》だ。だれにも確かめられてはいない。だが、わたしは、たとえ森の聖神殿を訪れることができても、そこで見出すのは猊下お一人だろうと考えているよ」
伯爵は言い、つぶやくように付け加えた。
「あるいは、もっと以前からすでに……」
「それでは、かたりではありませんか」
フィリエルは思わず声を大きくした。
「女王陛下がおられないのに、おられるふりをして、代行者として采配《さいはい》をふるってこられたのだとしたら、それはかたりと呼ぶべきことではありませんか。そんなことは、大僧正猊下といえども、許されないのではありませんか?」
「もちろん、許されない。もしもそれが立証されればの話だ。だが、事実関係をあばくことのできる者は、どこにもいないのだ」
「あたしが確かめます」
フィリエルは言った。彼女の声音は、むしろ冷静な響きをもっていた。
「ここまで来たんですもの。森の聖神殿だって」
三
「フィリエル、考えなおしませんか」
「いいえ」
「どう考えてみても、無益な行いですよ」
「無益なものですか。あたしのおばあさまなのよ」
ケインとフィリエルは、南の森の丘へ来ていた。ハイラグリオンの三つの丘をつなぐ、南側の橋をわたったところだ。橋をわたり終えてすぐ、緑濃い丘には、鋭角のアーチを大から小へつらねた大伽藍《だいが らん》がそびえ立つ。これが至高《し こう》の大聖堂であり、リイズ公爵の葬儀がとりおこなわれたところだった。フィリエルは葬儀に参列しなかったが、その他の儀式で、二、三度はここの礼拝堂を訪れたことがあった。
雲をつく伽藍をにらんで、フィリエルは言葉を続けた。
「血を分けた人が、赤の他人に死に目まで押さえられて、いいようにされているなんて、絶対許せないことよ」
「……メニエール猊下も王族と聞きますが」
「それでもよ」
ケインはため息をついた。
「どうしてもと言うなら行きますが。この先は、わたしにも責任がもてませんよ。この扮装が通用するのかどうか、ためしたこともありませんし」
フィリエルは請けあった。
「大丈夫よ。バードは必ず森の聖神殿に来ているはず。あの人は、たとえ女王陛下のそばにいなかったとしても、猊下といっしょにいたことはあるはずだわ」
「わたしが気にしているのは、あなたのことですよ。わたし自身のことなら、どうにでもできます。あなたの場合は、捕まったらどう言い抜けるんです?」
ケインに言われて、フィリエルは少し思案した。
「いざとなったら……孫が見舞いにきたのだと言うわ。事実だもの」
「そんなのが通用しますかね」
ケインはぶつぶつ言ったが、実は彼も、森の聖神殿への潜入に乗り気なのではないかと思えるふしがあった。なんだかんだと言いながらも、彼らは奥地へと進んでいたのだ。
用心してあたりを見回しながら、フィリエルはたずねた。
「宰相閣下は、どうおっしゃっていたの?」
「国外退去をすすめられましたよ。猊下は容赦のない女性だそうです。彼女が女王の座につけば、粛清《しゅくせい》はコンスタンス陛下の比ではないそうです」
「伯爵様も、怖いとおっしゃっていたわ」
つぶやくようにフィリエルは言った。
「ロウランド家の伯爵様は、五歳のころ、一度だけ猊下をいじめたせいで、いまだに彼女から嫌がらせを受けるそうよ」
「それは恐ろしいですね」
彼らの分け入る森は深く、ルー坊をつれてくれば喜びそうな具合だったが、南方の雑多な森とは少々おもむきが異なっていた。根もとの幹がふたかかえ以上はある針葉樹が立ち並ぶ、古く静かな森だ。木陰は暗くひんやりして、夏の暑さをまったく感じさせなかった。
しばらく進むと、やがて、前方に高い真っ白な壁が見えてきた。上部には青銅の装飾的なしのびがえしがついている。どうやら聖神殿をぐるりと囲っているようだったが、ケインとフィリエルが警戒しながら近づいても、衛兵の姿は見当たらなかった。あたりはひどく静かで、鳥さえ鳴かないようだ。
時間をかけて様子をうかがってから、ケインは言った。
「聖神殿にしのびこもうなどという、だいそれた考えをおこす者が、この国にいったい何人いるでしょうね」
それは問いではなかったので、フィリエルは答えなかった。ケインはしばらく考えこんでから、バードに似せた上着のふところを探り、先に鉤《かぎ》のついた縄の束を取り出した。
彼が縄を放り上げると、一度で鉤は青銅の装飾にからみついた。ひっぱって試してみてから、ケインはフィリエルの顔を見た。
「あなたに登ることができますか?」
壁は垂直で足がかりがなく、背丈の五倍ほどはあったが、フィリエルはうなずいた。
「登れるわ。こういうことは、アンバー岬のお館で訓練しているのよ」
ケインが先に壁を乗りこえ、フィリエルが降りるときには手助けをしてくれた。乗りこえた内側も木立が厚く茂っていたが、壁のてっぺんに取りついたときには、小高くなった敷地の中央に、だれもがほとんど目にすることのない白い神殿を見てとることができた。
それは、大聖堂の荘厳《そうごん》さを見てきた者には、こぢんまりとして見える建物だった。屋根に高々とそびえるアーチはなく、直線的な傾斜がわずかにあるだけで、どちらかといえば平たく、高さも三階建ての建物程度しかない。装飾のある柱が立ち並ぶ柱廊《ちゅうろう》が見え、その様子はフィリエルに、どことなくトーラス女学校の講堂を思い出させた。
ただ、講堂はバラ色をしていたが、ここにあるのは、木々の緑を映して青ざめたような白さをもつ建物だ。フィリエルには、聖なるふんいきがどういうものか、本当のところはよくわからなかったが、目の前の建物には、訪れる者を圧倒する目的はないようだと感じた。人々にぬかずかれることさえ拒否して、ひっそりと沈黙を保つ何かなのだ。
二人は木立をぬって、さらに神殿に近づいたが、やはり衛兵の姿はなかった。あまりに人の姿の見えないことが、かえって強い不安をさそった。人間の力などで守る必要のない、アストレイアの御業《み わざ》で固められた場所なのだという思いが、どうしても浮かんでくるからだ。
「さて、どうします」
ケインがささやいた。柱廊に続く石段はもう目の前だった。
「その階段を登ると、われわれは天罰の落雷《らくらい》をうけて死ぬんでしょうかね」
「女王陛下がどんなかたであれ、人間でいらっしゃるわ」
フィリエルはささやき返した。
「でなければ、孫のあたしが、もう少し女神的な力を発揮しているはずよ。行きましょう。ここまで来てためらうなんて、ばかみたいだもの」
そこで彼らは、堂々としすぎるくらい堂々と正面入り口から入っていった。深い彫り物をした両開きの扉を押し開けると、さほど広くはないホールがあった。手前に大理石の水盤《すいばん》をもつ噴水があり、彫刻の乙女の水瓶から、涼しげに水が流れ出ている。床は緑と白のモザイクで、奥の壁は半円形になっており、白い四つの女性の立像《りつぞう》と三つの扉が交互に並んでいた。
二人は扉をながめ、しばし立ちつくした。
「どちらへ進む?」
ケインはあごをなで、うさんくさそうに扉を見やった。
「こういう場合、どの扉を開けても、ろくなことがないんですよね」
「そんなことを言っても、引き返すのでないかぎり、どこかへ行かなくちゃ」
フィリエルはあまり考えず、左側の扉に近づいて、取っ手を握って引き開けた。そして、開いた扉の向こうに、ぎっしり詰まった槍をもつ兵士たちの顔を見た。
「ほらね」
ケインはつぶやいた。ほとんど同時に、右側の扉も乱暴に押し開けられ、衛兵の集団が飛び出してきた。フィリエルはあわててケインのもとまで逃げ帰ったが、それがせいぜいで、二人はあっという間に殺気だった兵士たちに取り巻かれた。
「ふとどきなやつらだ。ひっとらえろ」
どなるような号令が響いた。どうやらここの警備兵には、ケインの服装もまったく通用しないと見えた。ケインは害意のないことを示して、彼らに両手をかかげて見せながら、フィリエルにすばやくささやいた。
「ひょっとして、目くらましができますか?」
フィリエルは必死でうなずき、上着のポケットを探ると、エイハム助手にもらった丸薬を取り出した。そしてそれを肩越しに、後ろの噴水に放りこんだ。
たちまち、爆発する勢いで白い煙が吹き出した。あまりに濃い煙だったため、何か形あるものが膨れながら襲いかかったかのように見えた。兵士たちはたじろぎ、数歩後ずさると、両手をやみくもに振り回して煙を避けようとした。
そのとき、ケインが電光石火の速さで動いた。たちまちのうちに数人たたきのめすと、フィリエルの手をとって、唯一残った真ん中の扉へ飛びこんだ。
そこは二人が並んで走れるくらいの廊下になっており、まっすぐ長く続いていた。彼らはけんめいに走ってつきあたりの扉にたどりつき、追っ手が来る前にその扉を通り抜けて内側から鍵をかけた。
つかのまであってもほっとして、フィリエルは額の汗をぬぐい、自分たちの飛びこんだ部屋を見回した。そこは礼拝所のようなところだった。窓はなく、薄暗いなかに太い蜜《みつ》ろうの蝋燭がともり、奥の壁の祭壇には、女神の像が三体並べられている。
近づいたフィリエルは、正面に立って像を見上げた。中央の大きな立像は、なじみの深い慈愛《じ あい》の女神だった。まぶたを伏せた穏やかで美しい顔立ちをして、手を下向きにさしのべている。けれども、その両脇のやや小さめの像は、彼女が今まで話にだけ聞いていたものだった。
憤怒《ふんぬ 》の女神と、獣態《じゅうたい》の女神だ。
憤怒の女神の髪は逆立ち、眉はつりあがり、口は開いて、まったく震え上がるような容貌だった。右手に抜き身の剣をかかげ、左手にはされこうべをもっている。それは凄惨《せいさん》な、血なまぐささのただよう女神であり、フィリエルは驚かずにいられなかった。それでも不思議なことに、その像からは、ある種のたいへん女性らしいものが感じとれた。
つまり憤怒の女神は、獣態の女神に比べれば身の毛のよだつものではなかったのだ。獣態の女神を見れば、これはすでに人の様相をしていなかった。肩から上が怪物だったのだ。
獣態の女神の耳は尖《とが》り、鼻面は長く伸び、顔を二つに割ったようにかっと口を開いていた。その口には鋭い歯がびっしりとはえている。そして、うろこを表すのか毛を表すのか、顔じゅうに細かく刻みこまれた跡があった。
その醜怪《しゅうかい》さに息をのんで見つめながら、フィリエルは、もしかするとこれは竜ではないかと考えた。竜でなければ、口を開けたユニコーンだ。獣態の女神の体は女人像であり、慈愛の女神と同じにしとやかなローブをまとっているのが、かえって不気味に感じられた。
顔に似あわぬしなやかな両手には、大きな高坏《たかつき》をささげもっている。その高坏には、取っ手のかわりに鳩《はと》の翼のような羽根がはえていた。
フィリエルが像に見とれていたのは、そう長い時間ではなかったのだが、はっとわれに返ったときには、ずいぶんたったように感じられた。あわててケインを探すと、彼は周囲の壁を調べていた。
「この部屋に入り口が一つということはないと思うんですが――見つからないですね」
「ここ、変な場所だわ」
フィリエルは思わずつぶやいた。どうしていやな気分がするのか、はっきりとはわからなかったが、その気分はだんだんひどくなるようだった。
ふいにどこかで物音がした。扉の背後ではなく、祭壇側の壁から聞こえたようだ。フィリエルは飛び上がり、あたりをくまなく見回した。三体の女神像が、今にも動き出すように思われた。
(……びくびくすることないわ。これは女神様ではなく、女神様をかたどった彫像《ちょうぞう》なのよ)
フィリエルは自分に言い聞かせた。それでも、視線をぬいつけられたように、女神たちから目を離せなかった。そして、そんなフィリエルの見ている前で、女神が実際にぴくりと動いた。
「ケイン!」
フィリエルは両手で顔を覆い、悲鳴を上げた。三体の女神が、自分に向かって進んでくるのがわかった。獣態の女神の瞳は血のように赤くきらめき、憤怒の女神の逆立つ髪が、ゆれる炎のようにゆらめく。大きな慈愛の女神は、フィリエルの目の前で、石のまぶたをかっと引き上げた。現れた瞳は輝く金色で、瞳孔が針穴のように小さく、慈愛のかけらも浮かばないものだった。
「祭壇が動いている」
ケインも仰天した様子で駆け寄ってきた。
「部屋が縮んでいる。フィリエル、ここを出ないと大変だ」
二人がきびすを返したときだった。まっさらな壁が上から降るように落ちてきて、彼らの唯一の出口を遮断《しゃだん》した。あわてて手で押し、たたいても、それはびくともしなかった。何がなんだかわからず、フィリエルが、わなにかかった動物のように怯《おび》えてふりかえると、祭壇とその両側の壁が、三方から人が歩み寄るようにせまってくるところだった。
慈愛の女神のさしのべた腕が、今にもフィリエルを抱きとりそうだった。フィリエルはそれを見て、もう一度悲鳴を上げ、体をすくめて目をつぶった。
そのとき、床に立っている感覚が消えた。自分がどこかへころがり落ちていくのを知ったが、黒く開いた四角い穴にのみこまれるのを見てとるや、フィリエルは急速に気が遠くなり、何が起きてもわからなくなった。
どこかで水のしたたる音がした。その音が、狭い空間に反響して、遠くから伝わってくるようだ。
フィリエルは目を開けたが、つぶっているのと似たような暗闇だった。けれども、頭はだんだんはっきりしてきた。体を動かして、けがをしていないかどうか探ってみる。あちこちが痛かったが、重大な傷はないようだった。彼女は身を起こした。
「ケイン……ケイン、どこなの。いないの……?」
勇気をふるって呼んでみたが、返事はもどってこなかった。フィリエルの声はうつろな響きでこだまし、やはりここが天井の低い、狭い場所であることを示していた。
体の下にあるのはたぶん自然の岩石で、ひんやりと湿っぽい。フィリエルは、ここが洞穴ではないかと考えた。ヘルメス党の南の隠れがにあった洞穴が、やはりこんな感じだったのだ。
(床から落ちこんだのだから、地下にまちがいないわね。神殿の地下にいるのだろうか……)
冷静に考えられることにやや満足して、フィリエルはポケットに手を入れた。そして、火打ち金と小さなろうそくを探りあてて、思わず笑みをもらした。人間は学習するものなのである。
明かりをつけて、周囲の岩肌をながめてみると、ますます居場所に確信がわいてきた。どう脱出するかが問題だったが、とりあえずは、ケインが見つけてくれることを願って、少し歩いてみることにした。
涼しい空気を吸って、頭がどんどん冴《さ》えてくると、祭壇のある部屋でとりみだした自分が、まるで他人のように思えてきた。どうしてあれほどやみくもに恐怖を感じたのか、今となっては不思議だった。壁や祭壇が動いたのは、何かのからくりあってのことに違いないのに。
(……人の意識を惑《まど》わせる薬があると聞いたことがあるわ。飲ませる薬だけでなく、煙にして吸引させるものがあると。香に混ぜこめば簡単に使えると、シスター・ナオミがおっしゃっていた)
フィリエルは慎重に考え、先ほどの礼拝所で、どんな香をかいだかを思い出そうとした。それはどうしても思い出せなかったが、自分に何らかの作用があったと考えるほうが納得できそうだった。
(さだかではないけれど……飲んでおいたほうがいいのかもしれない)
別のポケットを探って、フィリエルはバーンジョーンズ博士にもらった小瓶を取り出した。こうして、あちこちのポケットに変なものを仕込んでいると、まるでルーンになりかわったようでおかしかった。へたをすると、やみつきになるかもしれない。
バーンジョーンズ博士は、一口で充分だと言っていたが、たしかに二口とは飲めないしろものだった。フィリエルはさんざん顔をしかめ、舌を出して、これをもう一度飲んだら口が曲がったままになると思った。涙を浮かべて行く手を見やったとき、そこに、ろうそくの明かりが見えることに気づいた。
「ここよ」
てっきりケインだと思い、フィリエルは急いで駆けていった。かなり近づくまで、相手のことがわからなかったのだ。けれども、照らし出された人影を見れば、二つ寄り添うように立っていた。フィリエルは驚いて足を止めた。
その一人はかなり年配の女性で、骨張った尖った顔立ちをし、柄の長い明かりさしをもって、蜜ろうのろうそくをかかげていた。猜疑《さいぎ 》にみちたまなざしで、斜めにこちらを見ている。
フィリエルはその老婆を知らなかったが、もう一人の女性なら察しがついた。堂々とした体格の中年婦人で、豪華な壇上の衣装をまとわなくても、しっかり威厳を身につけていたからだ。
メニエール大僧正猊下は、ぼうぜんとするフィリエルをまじまじとながめて、口を開いた。
「今どき『ねずみとり』にかかる、奇特な者の顔が見たいと思ったが。ごらんよ、ベネット、こんなに若い子だよ。しかも、どうやら女の子のようだ」
「そのようでございます。おかたさま」
メニエール猊下の声は深々と響き、応える侍従の声は細く甲高かった。フィリエルは『ねずみとり』がなんだか知らなかったが、なんとなくばかにされたものを感じて、むっとした。
猊下は頭をそらせ、見くだすような視線で少女にたずねた。
「そこのねずみ。何ゆえあって、神聖不可侵のこの殿堂を汚《けが》そうとしやった。返答次第では、命はないものと思いなさい」
フィリエルは、負けまいとして胸をはった。
「あたしの名前は、ねずみではありません。訪れただけでどこかを汚すものでもありません。こんな場所に落としこむ、おもてなしを受けさえしなければ、この服だって汚れずにすんだはずですわ」
老婆はそれを聞いて顔をしかめた。
「鼻っ柱の強い小娘でございますこと。おかたさま、ご容赦《ようしゃ》あそばしますな」
「怖いもの知らずだね」
猊下は目を少し細めたが、笑ったようには見えなかった。
「それならば、本名を聞こう。名と身分を明かして、ここへ来た正当な理由を申し述べてみるがいい」
「あたしの名前はフィリエル・ディー。ギディオンとエディリーンの娘です。ここへ来たのは、女王陛下にお会いするため。陛下のお加減が悪いとうかがって、ご様子をたずねるために来たんです」
きっぱりとフィリエルが言うと、猊下と侍従はいくぶん態度を変えた。
「まことか……」
「信じられませぬ。この者の口先だけのことです」
フィリエルは老婆を見て、顔をしかめてみせた。
「証拠はあります。でも、今ここで、あなたがたにお見せするつもりはありません」
メニエール猊下は、つかのま動揺を隠せなかったが、やがて、広い胸に息を吸いこんで言った。
「なるほど。女王試金石は、手放してもいずれ女王のもとへ帰ってくるものだと聞いていたが、本当にそうなるようだね。エディリーンの娘か。なるほど、なるほど」
猊下はふいにローブの裾を払うと、向きを変えた。
「もっと明るいところで顔が見たい。ベネット、その子を階上まで案内しておやり」
彼女はすたすたと歩き出し、ベネットはいやいやながらふりかえって、フィリエルにあごをしゃくった。
「ついてきなさい」
この暗い地下を離れることに異存はなかったので、フィリエルは後に続いた。ほどなく頑丈《がんじょう》な扉があり、その扉をくぐると、赤い敷物をしいたきれいな階段があった。階段を登って廊下を行くと、礼拝所とはまるでおもむきの異なる、ベージュ色の壁をした明るい小部屋に出た。
中庭に面しているようで、窓の外に、純白の柱のまばゆいテラスが見える。神殿の一角には見えず、どこかの瀟洒《しょうしゃ》な別荘であるかのようだった。部屋にはテーブルと椅子、炉格子と鏡があり、淡色の敷物のほかは白い家具で占められている。
明るさに目が慣れてきたフィリエルは、メニエール猊下が自分を観察していることを知り、こちらも猊下をつぶさに観察した。こうして間近に彼女を見るのは初めてだった。
メニエール猊下は美人ではなく、若いころも美人とは言えなかっただろうが、一種風格のある顔立ちをしていた。目鼻立ちのくっきりした幅広の顔は、絢爛《けんらん》な衣装にもくすまない力強さをもっている。目の色も眉の色も濃いめの茶色で、髪は金色だが、染めているふしがあった。
今の猊下は、クリーム色の柔らかな下衣に、黄褐色の文様のある袖なしのローブをはおっていた。聖職者としての衣装には見えず、普段着に近い姿と見える。女王陛下が、もしも危篤《き とく》かそれに近いご容態にあるとするならば、くつろぎすぎているとフィリエルは考えた。
「陛下に会わせていただけますか」
フィリエルが切り出すと、猊下はかすかに笑った。
「そう、せくことはない。わたくしと少し話をしよう」
「せかずにはいられません。もしも、お命が危ないご容態ならば」
「ならば、もう一度言おう。せくことはない」
フィリエルは猊下を見つめた。
「それは――どのような意味あいでしょうか」
猊下は右手をひらりと動かした。
「ベネット、わたくしはのどが渇いたようだ。冷たいお茶を」
老婆はかしこまって出ていった。それを見送ってから、彼女は言った。
「そこに掛けなさい。わたくしとお茶を飲む時間もないと言うのは、無礼であろう?」
しかたなく、フィリエルはテーブルについた。しばらくすると、ベネットが丈《たけ》の高い陶器のコップによく冷やしたお茶を入れて、銀盆でささげもってきた。
一口お茶をすすってから、猊下は口をきった。
「エディリーンの娘や。三体の女神のもてなしをどう思った? そなたほどまともに、あれにぶつかっていった者は、もう何十年といないのだが」
「こけおどしです」
フィリエルはにがりきっていたので、ぶっきらぼうに答えた。
「聖神殿にあるべきものとも思えません」
「そんなことはない。ここが聖神殿であることの、真の意味を知っている者なら、そうは言わないものだ」
猊下は満足げにゆっくり笑った。
「そなたは女王家の娘らしく、ここに神秘はないと考えるようだが、神秘はたしかに実在するのだよ。わたくしはもう、ひと月あまりここにいるが、アストレイアの御業《み わざ》に日々驚いている」
フィリエルが黙っていると、彼女は言葉を続けた。
「そなたは女王候補ですらない娘だから、かわいそうに、いろいろな知識が欠けたまま育ったのだろうね。ロウランド家の者でさえ、そなたをどうすればいいか、とうとうわからなかったようだ。それなのに、がむしゃらにここへ来た果敢さは褒《ほ》めてつかわそう。わたくしは、不遇《ふ ぐう》な者にはやさしくしたいと思うたちだ。わたくし自身、若いあいだはたいへん不遇だったからね」
いろいろな反論がフィリエルの頭に浮かんだが、彼女はそれを口に出さず、お茶といっしょに飲みこんだ。メニエール猊下はそれを、好ましそうに見守った。
「そなたは、母親には少しも似なかったようだね。エディリーンは――あの猫かぶり女のことは――わたくしは少しも好かなかった。今のアデイルがあの女にそっくりだよ。もっとも、わたくしにとって、最高に虫が好かないのはレアンドラ・チェバイアットだが。しかし、そなたの地味な焦げ茶の髪は、とてもかわいい。もしかすると、そなたのことは、女王家で一番気に入ったかもしれないよ」
猊下はくちびるを曲げてほほえんだ。
「わたくしに気に入られるのは、よいことだよ。そなたをここに住まわせてもいい。女王陛下は、ここを好きにしてよいとおっしゃったのだから、わたくしの家も同然なのだ。今からわたくしにつくことが、どれほど見込みの大きいことか、その小さな頭でおわかりかえ? そなた――お茶のおかわりは?」
「いいえ、けっこうです」
フィリエルは椅子から立ち上がった。
「お望みならば、もう一杯でも飲み干しますけれど、あたしは眠りませんから、それ以上おしゃべりを続けていらしてもむだだと思います。猊下、女王陛下はどこにいらっしゃるのです」
「何を言う……」
メニエール猊下はさっと顔色を変えた。
「ベネット、ベネットはどこにいやる!」
フィリエルはテーブルを回って猊下につめよった。そして、とっておきの凶器をポケットから取りだした。相手が一服盛ったことは明白なので、この手を使ってもいいという気になったのだ。
「陛下のお部屋を教えてくれないと、これをくっつけますよ」
フィリエルは青緑色のひくひく動くものを、猊下の目の前につきつけた。カエルだった。
じつはそのカエルは、若い研究員がくれたプレゼントの一つだった。本物そっくりに動くので、秘密の合図に使うといいと言われたのだが、ロウランドの伯爵が五歳のみぎり、猊下にカエルをくっつけたという話を聞いて、用途を考えなおしたのだ。
メニエール猊下は、部屋の棚がふるえるほどの悲鳴を上げた。椅子を蹴倒して飛びすさり、後ろの壁に張りついた。
「おやめ……近づけるでない、そんなものを」
息もたえだえに彼女はささやいた。
「陛下のお部屋はどこです」
「上……階段の奥……」
猊下がその言葉を発したとたん、扉が開いて血相を変えたベネットが走りこんできた。
「うちのお嬢様に何をする!」
老婆はほうきのようなもので殴りかかってきたが、フィリエルはかいくぐり、開いた扉から飛び出した。そしてそのまま、いっさんに廊下を走り抜けたが、途中からわきにケインが並ぶのに気づいた。
「いたの?」
「もちろん、いましたよ」
何がもちろんか、フィリエルには今一つわからなかったが、彼が無事で、フィリエルを援護してくれていたことはありがたかった。
「階段を探して」
「たぶん、こっちです」
メニエール猊下の悲鳴があまりにもすごかったので、それまで非常に静かだった建物内にも、ざわめきが起こりはじめていた。ぐずぐずはしていられなかった。
奥の階段を探し当てて駆け登ると、登りきったところは、吹き抜けを取り巻く側廊《そくろう》になっていた。ケインとフィリエルがそこを走ると、はるか下に、衛兵たちが群がりだしたのが見えた。
だが、二人が最も奥まった扉に到達する時間はまだあった。フィリエルは息を切らせて両開きの取っ手を握ったが、それはゆすっても開かなかった。
「こうなると思っていたのよ。爆薬を使うわ」
瞬時もためらわずにフィリエルは言った。ケインはびっくりしたように彼女を見たが、何も言わなかった。
フィリエルはスミソニアンにもらった爆薬の包みを開き、紙巻きの細い棒を鍵穴につっこんだ。そして、たれ下がった導火線に火打ち金で火をつけた。あせっていたために、なかなかうまく火花が飛ばなかったが、何度もくりかえすと、線はしゅっと音をたてて燃えだした。
「フィリエル、下がって」
見守ることに夢中になっている少女を、ケインがあわてて引き離した。そのとき火薬に火がつき、派手な爆音がして、盛大に煙が吹き上げた。女王陛下の部屋の扉は、爆風にあおられたようにゆらりと開いた。
煙のなかに飛びこむようにして、フィリエルは部屋に走りこんだ。そしてそこに、思いもよらないものを見た。
一瞬、自分が何を見ているのかわからなかった。白くて粉状のものが、暗いなかに舞っているのだ。右を見ても、左を見ても同じだった。まるで雪が降っているようだと考え、氷のような風が吹きつけるのを感じて、実際にそれが雪だと気がついた。
そこは室内ですらなく、雪の降りしきる平原だった。かなたにぼんやり丘が見えるが、木々は少しも見えず、青ざめた白さを平原と同じくしている。空は鈍い鉛色《なまりいろ》で、細かな雪はときおりの強風に激しく舞い狂った。
その雪が輝いて見えるのは、平野の中央に明るい塔がそびえているからだった。先細りになりながらも上のほうで丸く膨らんだ、王宮の真ん中の塔に似た形をしている。そして、丸い部分には窓があり、その窓が吹雪のなかで、暗い平野を照らして赤に青に緑に点滅するのだった――なにものかのまばたきのように。
「ここは、どこなの……」
信じられずに、フィリエルはつぶやいた。彼女が声を出すと、雪景色は急速に消えていった。最後に赤と青と緑のまばたきだけが残ったが、その点滅さえも溶けるように消え去り、フィリエルの目の前には、ただ吟遊詩人が立っていた。
「バード……」
フィリエルは急いでふりかえり、自分の斜め後ろにケインが立っていることを確かめた。それからあらためて、吟遊詩人に向きなおった。彼は、やっぱりケインとよく似ていた。けれども、向きあってみれば、二人が違うことははっきりとわかるものだった。
ケインはどれほど力を抜いても、吟遊詩人ほど無造作に立つことはできないだろう。そして、どれほど表情をとりつくろっても、吟遊詩人ほど凡庸《ぼんよう》な顔つきはできないだろう。
くちびるを湿して、フィリエルは言った。
「夢でなくあなたを見つけたわ、バード。女王陛下はどこ?」
吟遊詩人は、かすかに笑ったようだった。
「たいした女の子ですね、あなたは。自力でここまで来てしまうとは」
フィリエルは、ようやく見えるようになった部屋のなかを見回した。四角い白い部屋には何もなかった。何も――何一つ。そこには柩《ひつぎ》さえもなかった。両手を固く握りしめ、フィリエルは挑むように吟遊詩人を見やった。
「はっきり言ってよ。女王陛下は、もうこの世にいらっしゃらないのでしょう?」
吟遊詩人はゆっくり歩み寄ってくると、フィリエルの肩に静かにふれた。そして、落ち着いた声音で言った。
「女王陛下はいらっしゃいますよ。会わせてあげましょう」
四
メニエール大僧正猊下は、憤激に顔を赤らめ、盾《たて》をかまえた衛兵たちに固く守られながら、階段を踏みしめて上がってきた。だが、猊下の足は、吟遊詩人の発した言葉でぴたりと止まった。
「この人に手出しはなりません。猊下、あなたは、ここで静かに裁断《さいだん》を待つ人です。そして、裁断を下すのはあなたではありません。わたしは、女王候補たちに召喚《しょうかん》の道を開きました」
猊下は一瞬あっけにとられ、それから大きく足を踏み鳴らした。
「バード――そなた。この、裏切り者」
「わたしは、だれも裏切ってはいません」
彼は淡々とした口調で言った。
「彼女たちは、火の鳥の羽根の課題をうまくこなしましたよ。そうしたからには、まずは女王候補に身のふりかたを決める権利があるでしょう。そしてこのフィリエルは、候補ではありませんでしたが、彼女ほど、単独でグラールの秘密に近づいた娘はいません。ですからその業績《ぎょうせき》に免じて、やはり召喚される権利があると考えます」
「だれが考えるだと? わたくしは認めるものか、そのような横紙破りを」
いきりたって猊下は言った。
「そのような、カ……カのつくものを、平気で握る女の、どこが女王にふさわしい」
吟遊詩人は、少し考えこんだ。
「そのご意見には、妥当《だ とう》な回答が見当たりません。ですが、まあ、コンスタンス陛下も会いたがっておられることですから、よいと思います」
フィリエルは、彼の言葉を聞いて息を吸いこんだ。
「それなら、本当に陛下は生きておられるのね」
「そう言ったでしょう。生きておられるし、あなたが思うよりもずっと、いろいろなことを知っていらっしゃいますよ」
吟遊詩人はやさしく言った。フィリエルは、彼を見上げてとまどった。
「でも、どこに……」
「あなたは、星の広間まで行かなくてはなりません。女王候補の召喚は、伝統的にあの場所なのです。なに、馬車に乗ればそう遠いこともないでしょう。わたしも付き添いますから」
そう言った彼は、フィリエルの背後に立つケインを、初めてまともに見つめた。ケインがたじろがずに見つめ返すと、吟遊詩人の顔に、興味深そうな表情が広がった。
「わたしのニセモノがいることは、前々から知ってはいたんですが。そうか、あなただったんですか。失礼ですがお名前は?」
「聞いてどうするんです」
ケインの返事は冷たかったが、吟遊詩人にはこたえた様子がなかった。
「姓をたどれば、同じオリジナルに行き着くのではないかと。わたしの体も、もとを正せばどこかにオリジナルがあるんですから。あ、言い方が不適切でしたね。一般には、どこかに祖先がいるのですから、と言うはずでした」
ケインが顔をしかめるのを見て、フィリエルはひそかに同情したが、ケインはしぶりながらも自分の名を名のった。
「……姓はアーベルです」
「どうもありがとう」
吟遊詩人は、子どものようにうれしそうに礼を言った。
「これはすてきな情報です。フィリエル、わたしはあなたに言われてからこちら、自己確認を急いでいるんですよ」
「はあ……」
彼のわけのわからなさが、ようやくよみがえってきたフィリエルは、力なく返事をした。けれども、吟遊詩人が無造作に進み出ると、猊下も衛兵たちも、黙って道を空けた。フィリエルとケインは彼に続いて進み、難なく神殿の外へ出ることができた。
そこは、フィリエルたちが侵入したのとは反対側で、車寄せに何台かの馬車が控えていた。吟遊詩人はてきとうに一台を選び、王宮へ行くことを告げた。
馬車に乗りこみながら、フィリエルは彼にたずねた。
「女王陛下が王宮にいらっしゃるのなら、あなたは森の聖神殿で、いったい何をしていたの?」
「ちょっと、後片づけを」
フィリエルは揺れる馬車のなかで、じっとバードの横顔を見つめた。それからたずねた。
「あなた、雪の降る場所から来なかった?」
吟遊詩人は、少し驚いたようだった。
「何か見ました?」
「雪の平原に塔が立っているのが見えたわ」
「ああ、それは| 幻 《まぼろし》です」
彼はなにげない口調で言った。だが、フィリエルははぐらかされなかった。
「あれは何の幻?」
吟遊詩人は肩をすくめた。
「それはですね。きっと、フィーリの幻です」
「賢者《フィーリ》ですって? あの塔に住んでいるの?」
フィリエルは聞き返した。彼女の故郷は北の果てだが、セラフィールドの真冬も、あのようには雪が降らなかった。輝きながら舞う雪の様子は、氷点下をはるかに下った気温を思わせた。かいまみたのは、もっともっと極寒の地域であり、たぶん内陸地のどこかなのだ。
「フィーリはあそこから動けないのです。だから、わたしのほうから、ときどきご機嫌うかがいをするんですが。あのような場所に一人でいては、根性が曲がってもしかたないですね」
バードはいくらか拗《す》ねた言い方をした。どうやら、おもしろくないことを言われてきたらしい。そして、それ以上は、フィリエルが探っても教えてくれなかった。
馬車はほどなく王宮へ着いた。三人は回廊に降り立ち、行き交う人々をつかのまながめた。それから吟遊詩人が、おもむろにケインをふりかえった。
「アーベル氏。一つわたしを信頼して、ここを動かずに待っていてくれませんか。フィリエルは必ず無事にお返ししますから」
ケインはまじまじと彼を見つめた。
「その保証は、どこにあるんです」
「保証は――わたしとあなたの、同じであろう遺伝子《い でんし 》にかけてと言いましょうか」
「なんですか、それは」
めんくらうケインに、吟遊詩人はまじめな調子で語った。
「こういう気持ちになったのは初体験です。今まで、血縁《けつえん》感情というものを、データとしてしか知りませんでした。けれども、わたしによく似たあなたを見ていると、わたしがこの地上に結びつく感じがして、うれしさを覚えます。そうすると、わたしは、あなたにわたしを忘れてほしくないようなのです」
ケインは帽子を脱いで、鉄灰色の頭をかいた。
「今日のできごとは、忘れたくても忘れられないだろうと思っていますよ」
「記憶操作の禁忌《きんき 》は、女王家の者にしかかかっていません。けれども、遺伝子に免じて――わたしはあなたを、そのままにしたいのです。もしもあなたがこれ以上の深入りをしなければ、可能と考えます。どうか、わたしを信頼してくれませんか」
ケインが迷っている様子を見て、フィリエルは口を添えた。
「この人を信用して大丈夫よ。変なことを言う人だけど、約束は守ってくれるの。必ずここへもどってくるから、本当に動かないで待っていて」
「わかりました」
彼はついに言った。
「三時間だけ待ちます。それ以上たったら、わたしの勝手にさせてもらいます」
「充分です」
吟遊詩人はほっとした顔で言い、フィリエルをうながした。
「行きましょう。中央の塔はもうご存じでしょう」
そうしてフィリエルは、吟遊詩人と二人だけで、中央塔の基部にある大ホールへ入っていった。いつか、アデイルといっしょにやってきた場所だ。モザイクの床に彫像が並ぶ様子は変わりなく、高みを見上げて、はるかに巻き上がる階段にうんざりするのも変わりなかった。
「疲れていますか、フィリエル」
吟遊詩人がたずねた。
「ええ、まあ、かなり」
フィリエルは認めた。どんなに少なく見積もっても、大冒険の一日だったのだ。
「それなら、階段はやめましょう。急いでもいることですし」
「やめましょうって……」
驚くフィリエルをしり目に、吟遊詩人は階段の裏側に回った。そこには引き戸があり、開けると明かりのともった小部屋が見えた。
「こちらへどうぞ」
フィリエルがあやしみながら足を踏みいれると、彼女の背後で、引き戸は勝手に閉まったようだった。ぎょっとしていると、小部屋はがたりと揺れた。フィリエルは短い悲鳴を上げて、吟遊詩人の腕をつかんだ。
「ね――ねずみとり?」
「ちがいますよ」
彼はあきれたように言った。
「少しがたがきていますが、まだまだ安全に動きますからね。これは女王の道です。特にコンスタンス陛下は、このごろ足がお悪いので、重用しています」
フィリエルは、ぽかんとして天井を見上げたが、耳の奥に異様な感じがして、思わず両手で押さえた。
「気持ち悪い。止めて」
「すぐですよ。もう星の広間です」
「嘘《うそ》ばっかり」
「本当です」
引き戸を開けて、吟遊詩人が示した。そこに見えた市松模様の通路は、フィリエルには見覚えのあるものだった。半信半疑で出ていくと、赤いじゅうたんの控えの間があり、そこはまぎれもなく中央塔のてっぺんだった。
赤いじゅうたんの上には、フィリエルの従姉妹《いとこ》が二人そろって立っていた。アデイルは緑の乗馬服を着ており、レアンドラはるり色の軍服を着ている。フィリエルは二人の、王宮にまるでふさわしくない服装に驚いたが、自分の赤茶色の上着だって、自慢のできたものではなかった。
フィリエルが入ってきたのに気づいて、アデイルとレアンドラは、一瞬きょとんとして見つめた。それからアデイルが、ぱっと顔を輝かせた。
「フィリエル。いやだ、フィリエルなのね。どうしてそんな色の髪にしたの」
「アデイルこそ、どうして……乗馬しているの?」
アデイルは急いで寄ってきて、フィリエルの両手を強く握ると、金茶の瞳をうるませた。
「山ほどお話があるのよ。でも、とりあえず、無事なあなたを見てうれしいわ。わたくし、まだ頭が混乱しているの……だって、ついさっきまで、たしかにトルマリンにいたんですもの。レアンドラも似たようなものなのよ。わたくしたち、南方三国の動乱を収める目星をつけたところだったのに」
フィリエルは、アデイルが「わたくしたち」とレアンドラのことを語ったことに驚いた。思わずレアンドラを見やると、彼女はいらだった様子で腕を組んだ。
「わたくしは、バーンにいたのだ」
レアンドラは非常に憤慨しているように見えた。
「いったいこれは、どうなっているのだ。わたくしのもとへ女王陛下の吟遊詩人が来て、女王選定の召喚があると告げた。それはべつにいい。女王候補は当代女王の召喚があれば、どこにいようと馳せ参じるものだと聞いている。しかし、受諾《じゅだく》した瞬間にここにいるなどとは聞いたことがないぞ」
彼女は、けしからんと言わんばかりに赤いじゅうたんの部屋を見回した。
「ひとの都合も考えず、あまりにも強引なやり方だ。バーンの平定が済んだばかりで、まだまだ片づけることがあったのに。後の者にろくな指示も残せなかったではないか」
フィリエルはアデイルに向きなおった。
「あなたとレアンドラは、もしかして味方になったの?」
「お話ししたいのはそのことなのよ。一言ではすまない事情があるの」
アデイルは訴えるように言った。
「でも、気がつけばハイラグリオンにいるなんて。何もかも、夢と吹き飛んでしまったかのようよ。どうしてこんなことが起きているのかしら」
(この二人、バードの道を通ったんだわ……)
フィリエルには、その情況がうすうすわかった。いきなり運ばれてきては、二人ともさぞ仰天したにちがいない。かぼそいアデイルを見つめて、フィリエルは具合をたずねた。
「頭痛がするのではない? 体の調子は大丈夫?」
「ええ、痛むところはないのよ。ただ、わけがわからなくて胸がどきどきするだけ。今ごろきっと、お兄様が心配していらっしゃるわ」
「それなら、ユーシス様もごいっしょなのね」
フィリエルは驚きながら念をおした。ロウランド家とチェバイアット家は、国内情勢とは裏はらに、外国で手をとりあったと見える。
レアンドラがきっぱりと告げた。
「今のわれわれには、共通の大きな敵がいる。その敵を倒すまでの条件で、わたくしとアデイルはお互いに手を結んだのだ」
アデイルもうなずいた。
「そういうことなの。フィリエルも今ではご存じでしょう。メニエール猊下が女王の座につかんとしていらっしゃることは」
「ああ、そういうこと……」
のみこめてきたフィリエルがうなずくと、レアンドラは額をおさえてため息をついた。
「当面は、王位がからになったカグウェルの国政に、わたくしたちの手で安定をとりもどさねばならないというのに。二人がそろってここに立っているのは、敵側の妨害工作か何かなのか? この大事なときに、なぜグラールに出もどっているのだ。しかも、何が起こったのかさっぱりわからないときている」
気丈な姉姫であっても、バードのしわざには動転するようだった。フィリエルは、思わずなぐさめの言葉をかけた。
「バードはきっと、すぐにもとの場所へもどしてくれるわ。そういうもののようよ。どんなに遠い場所だったとしても、たぶん、あさってには帰りついているはずよ」
レアンドラは、不審そうにまばたきした。
「何やらもの慣れたことを言うようだね。君もわたくしたちと同じ方法で、吟遊詩人につれてこられたのか?」
「いいえ、馬車で来たの……近くにいたから」
アデイルが不思議そうにたずねた。
「あなたはどこにいたの?」
「森の聖神殿に」
フィリエルが月にいたと語ったように、姉妹はたまげた顔をした。
「そんなところで、あなたはいったい何をしていたの?」
フィリエルは体をすくめた。
「ええと……じつは、メニエール猊下にカエルをくっつけてしまったの。猊下には一生許されないわ」
「まああ」
「ふううん」
姉と妹は声を合わせた。二人ともその声音には、隠しきれないうれしげな響きがあった。
そのとき、星の広間の扉が開いて、吟遊詩人が顔を見せた。彼は帽子をとって言った。
「姫君がた、どうぞなかへお入りください。女王陛下がお会いになられます」
フィリエルは、初めて訪れる最上階の広間に足を踏みいれた。そこは大きな半円形の広間で、高い天井は紺色に塗られ、銀の装飾がちりばめてあるので、たしかに星空のように見えた。床には複雑な模様を織りなした銀灰色の敷物が敷きつめられ、歩む者の足音を吸いとっていく。
明かりを全部ともせば、ホールは輝きわたるのだろうが、今は照明をひかえ、一番奥のあたりだけを柔らかに照らしていた。一段高くなったその場所は、紺のビロードのカーテンがうねる波のように取り巻いており、金と銀の飾り房が波の飛沫《ひ まつ》のようだ。
奥の壁はほんのりバラ色に照らされ、中央の真紅のつづれ織りを際だたせている。巨大なつづれ織りは、巨大な金の高坏《たかつき》を図案としていた。獣態の女神が手にしていたものと同じ、アストレイアの聖杯である。聖杯があまりに大きいので、その下の玉座に座った人物は、むしろ小さく目に映った。
フィリエルは深く息を吸って、とうとう出会うことになった祖母にあたる人を見つめた。コンスタンス陛下は小さな人だった。老齢ももちろんあるだろうが、もともとそれほど大柄な女性ではなかったに違いない。マゼンタ色の長いローブを身にまとっていたが、厳《いか》めしい肘掛け椅子に座ったやせた体は、人形のように乗せただけに見えた。
陛下は肖像画のような宝冠《ほうかん》を被らず、白髪の額に、あっさりしたダイヤモンドの額飾りだけをつけていた。首には真珠をつけていたが、のどのくぼみには、いつわりようのない老いの衰えがある。フィリエルは彼女が、ごく当たり前に加齢を重ねた、ごく当たり前の老婆《ろうば 》だということに、今さらながらに驚いた。
コンスタンス女王陛下は、鋭く光る青い目で、お辞儀をする三人の娘を見わたした。丈高く、銀髪を結いあげたレアンドラが、軍服に固めても優美な体を折り、誇り高く礼をするのを。小麦色の髪をたらしたアデイルが、きゃしゃな愛らしさと優雅さで、心をこめて頭を下げるのを。焦げ茶の髪のフィリエルが、少しとまどいながらも、王宮にはない率直な瞳で玉座を見つめてからお辞儀をするのを。
そして彼女は口を開いた。
「よくぞ今日の日を迎えました。そなたたちはそれぞれ、まことに女王家の末裔《すえ》にふさわしく、頭脳|明晰《めいせき》で容姿に武器をもち、したたかでたくましい娘たちです。わたくしはバードを通じて、フィーリを通じて、さらにさまざまな手段を通じて、そなたたちの動向を見守ってきました」
陛下はかるく言葉を切り、フィリエルに目を向けた。
「ことにフィリエル・ディー。あなたは、最初から女王候補に立っていたものではありませんが、あなたの根性と、女王試金石の活用のしかたには負けました。このままあなたを野放しにしておいたら、あまりにも危険人物になりすぎます。消すべきか、対処はいろいろに検討しましたが、わたくしが前回失敗したせいで、パワーアップしたあなたが育ってしまったことですし、今回は抱きこむ方策をとることにしました。この場へあなたを呼んだのは、そのためです」
フィリエルには、どう答えたものやらわからなかったが、コンスタンス陛下は思ったよりずっと、率直なものいいをするかただと感じた。
「お――おそれいります」
女王陛下は再び三人の娘を見回した。
「今日こうして、そなたたちと会見することを、わたくしは、じつをいえばためらっていました。女王選びのやり方に、そなたたちは疑いを差しはさんだことでしょう。それもそのはず、このわたくしは中途で気を変えたのですから。わたくしが到達した、そなたたちに申し伝えるべき結論を、今ここに告げましょう――」
彼女は間をおき、前に立つ孫娘たちは、一様に息をつめて次の言葉を待ちかまえた。コンスタンス陛下は胸に吸った息を、大きく吐き出すとともに言った。
「そなたたちの勝手にしなさい。わたくしはもう疲れました」
レアンドラとアデイルとフィリエルは、しばらくぽかんとして立っていた。女王陛下の口にした内容がしみこむのに時間がかかったのだ。それからようやく、レアンドラが質問を発した。
「お言葉ですが、陛下。それは陛下が女王指名をなさらないと受けとってよろしいのですか。わたくしたちに互選《ご せん》をしろと?」
コンスタンス陛下は、レアンドラの黒紫の瞳を見つめた。
「もう少しはっきり申しましょうか。わたくしは、メニエールが女王になってもよいと思っていたのですよ」
少女たちは思わず礼儀を忘れ、異口同音にさけんだ。
「そんな!」
「もちろん、そなたたちには不満でしょう。けれども、女王家の血統にどれほどの価値があるか、わたくしにはすでに自信がないのです。傍系《ぼうけい》の彼女ではなぜいけないのです。メニエールは、権力の大好きな、たいへんわかりやすい子です。たぶん、わかりやすい圧政をしいて、国民の反発を買うでしょう。女王家は形骸化《けいがいか 》し、いずれは男性も王位を継ぐでしょう」
女王陛下は、骨ばった手をあごにあてて肘掛けにあずけ、もの思わしげに言葉を続けた。
「やがては、宗教改革がやってきます。革命の指導者は、新しい王権をつくるでしょう。それは、女性よりは男性の欲しがる王座です。わたくしたちは、東の帝国とどこも変わらないものになるでしょう。けれども、そうなる以前の弱体化したどこかの時点で、ブリギオンが西に攻め入るでしょう。そしてグラールはあっけなく滅び、この世界も滅びるのです。それも悪くないことではありませんか。どうして流れのままにまかせてはいけないのです」
娘たちは絶句して、まじまじと陛下を見つめた。彼女が本気でそう言うと、考えるのは恐ろしかったが、どうやら修辞的な意味あいではなさそうだった。
フィリエルは驚き入って考えた。
(あたしたちのおばあさまは、もしかすると、あたしたちのだれよりも過激な人だったのかもしれないわ……)
* * *
「ケイン――」
宮殿の環状回廊にたたずんでいたケイン・アーベルは、小声で名を呼ばれてふりかえった。そして、そこに、黒い細身の服に身をつつんだルーンの姿を見つけて、思わず目をまるくした。
「いつ、もどったんです。よくここがわかりましたね」
「双子といっしょに来たんだ。港の宿で聞いたら、王宮へ向かったと言われて」
嵐の灰色をした彼の瞳は、隠しようもない懸念《け ねん》を浮かべていた。
「なぜこんなところに立っているんだい。フィリエルはどこ?」
ケインは少年を、ちょっとの間見つめてから言った。
「落ち着いて聞いてくださいね。フィリエルは今、星の広間で女王陛下と会見しています」
ルーンは最初ぽかんとケインを見つめ、それからぐっと眉をよせた。
「どうしてそうなるんだ。きみがそんなことをさせるとは、思ってもみなかったのに」
「よかったら、最初から経過を話してあげますよ。まだ、だいぶ時間がありますし」
ケインが言うと、ルーンはいらだたしげに頭をふった。
「そんなことより、見にいったほうがいい。フィリエルが何を言われているか心配だ。もしかすると、身に危険が及ぶかもしれない」
「行かないほうがいい」
真剣な声でケインはひき止めた。
「危険が及ぶとしたら、たぶん、あなたにです。ここはわたしといっしょに待ちましょう。フィリエルはこの場所へもどって来ますよ。そう約束したのだから」
「でも、彼女は一人なんだろう?」
「いいえ」
ケインは、何ともいえない顔で肩をすくめた。
「わたしにもよくわからないのですが、わたしの幽霊《ゆうれい》のような人物が、絶対の権威をもって彼女についているんです。まず、大丈夫でしょう」
「幽霊?」
「いや、吟遊詩人です」
ルーンの顔に、ほんのわずかだけ納得した色が浮かんだ。
「フィリエルが、前に話していたことがあった。それなら、バードにもう一度会ったんだ。でも、信用できるやつだとは言っていなかったよ」
「約束を守る人だと言っていましたよ」
ケインはつぶやいた。
「とにかく、わたしは守るつもりです。アーベル家は、昔から律義者《りちぎ もの》の家系なんです」
五
コンスタンス陛下はほおづえをはずし、その手の指にはめていた大きな指輪を、今、急に気がついたように見つめた。
「そういえば、アデイルは、ギルビアのオーガスタのもとへ出向いて、彼女の腕輪をゆずり受けたのでしたね」
「はい、陛下」
アデイルはつつましく目を伏せて答えた。
「あの子は、もとからああではなかったのですが。今となっては、ユニコーン以外は目に入らないでしょう。彼女はそのようにして、女王の義務に背を向けたのです。方法は違えど、エディリーンと似たようなものです。わたくしはどうも、ろくでもない子どもばかりを産んでしまいました。身から出たさびと言うものですが」
大きなため息をつくと、女王陛下は自分の指輪を抜きとった。
「レアンドラ、いらっしゃい。この指輪をあなたに授けましょう。フィリエルはすでに、エディリーンの首飾りをもっていますから、これをそなたが自分のものにすれば、三人がそれぞれに女王試金石を手にすることになります。長女の長女であるそなたは、コンスタンスの指輪をゆずられるにふさわしい人物ですよ」
レアンドラは神妙に進み出て、女王陛下から青い宝石のついた指輪を拝受した。彼女が感謝の言葉をのべると、陛下は首をふった。
「礼を言うにはおよびません。手放すことができて、どんなにうれしいか、そなたにはとうていわかりますまい。これでわたくしも義務を離れられます。ただの老後を送ってもよいのです」
陛下は一瞬、生き生きと血色をよみがえらせた。瞳を輝かせたその表情には、嘘いつわりのない喜びがあふれていた。
「――おお、なんと長かったことか。どうしてわたくしは、これほどに長く在位《ざいい 》を続けてしまったものか。子どもたちが女王位を継がないとわかったときに、なぜなげうたなかったかと、いくたび後悔してきたことか。けれども、とうとうこれで、わたくしの肩の荷はそなたたちに移されました。この重荷を、一人ではなく三人に分け与えることを、そなたたちは慈悲深いと思うべきですよ。後はどうなっても、わたくしは苦情を申しません」
「陛下……」
腕輪をそっとなでたアデイルが、不安にいくらか身じろぎしてたずねた。
「どうかお教えくださいませ。女王試金石をもつことの重荷とは、どのようなものなのです」
青い目でアデイルを見つめ、コンスタンス陛下は答えた。
「その青い石は、はるかな昔、初代女王クィーン・アンがフィーリと交わした血の契約です。フィーリがわれらを囲い込むにあたって、彼のもてる記憶を、クィーン・アンの子孫にだけは開示するとした、その約束の石なのです。初代女王の体の一部が石の内部に記憶され、その特徴に合致する者しか、フィーリの提供は受けられません。もっとも、今ではバードがここにいて、もう少し柔軟な対応もしてくれますけれども」
(……フィーリがわれらを囲い込む?)
フィリエルはその言い回しにひっかかり、顔をしかめて考えこんだ。それから、あっと声を上げた。
「陛下、世界の果ての壁がフィーリなのですか?」
「フィーリの一部と言えます」
女王陛下はうなずいた。フィリエルは今まで、白いひげをはやした賢者ばかりを想定していたので、認識をひっくりかえされてまごついた。
「それなら……それなら、フィーリとは、あたしたちを竜から守っているもののことなんですね」
「それは少し違います。わたくしたちから、竜を守っているものです」
厳粛な顔でコンスタンス陛下は言った。
「もしも壁がなくなれば、竜が押し寄せてきてわれわれを滅ぼすと考えますか? それは大きな勘違いですよ。もしもフィーリが壁をつくらなかったら、われわれが全世界にあふれだしていって、竜のすべてを駆逐《く ちく》してしまうのです。わたくしたちは、そういうさがをもつ生き物なのです。フィーリのもっている過去の記憶と計算力が、このことを強力に裏打ちしています。けれども、ここは竜の星です。わたくしたちの星ではありません」
三人の娘は驚いた顔を見合わせた。だが、彼女たちの顔には、なんとなく納得できない表情が浮かんでいた。
それから、レアンドラがいさぎよく申し出た。
「お言葉を返すようですが、陛下。わたくしたちが全世界を人の国にして、どうしていけないのでしょうか。みんなが必死に働いて、よりよく生きようとして、その結果竜との争いに勝つなら、だれに悪いことをしたと申せましょう」
女王陛下は、かたわらにちらりと目をやった。玉座のそばに、いつのまにか吟遊詩人が来ていた。
帽子を脱いでいるので、彼のまっすぐな灰色の髪が照明に明るい。彼は緊張感のない顔で肘掛け椅子の隣りに立つと、椅子の背にかるく手をやって言った。
「陛下がお疲れになるので、わたしから今のご意見に対するご説明をしましょう。あなたがたに理解できる言葉で、うまく語れるといいのですが」
吟遊詩人は前おきしてから、そう考えるふうでもなく話しはじめた。
「レアンドラ姫の発言なさったことは、代々の女王候補が一度は発する問いです。コンスタンス陛下ご自身も発され、そして、娘御の姫君たちが発されたときには、みずからご説明なさいました。つまりですね。遠い昔の、そもそもの発端に、クィーン・アンとその仲間がこの地上にいたのは、事故だったということなのです」
「事故?」
「そうです。遭難《そうなん》事故です」
くちびるを結んでうなずいてから、バードは言葉を続けた。
「クィーン・アンたちは船に乗っていたんですね。ものすごく大きな船です。彼女たちはその船で、別の土地へ移住する途中でした。ところが……手っとり早く言えば、時間と空間の洞窟《どうくつ》に落っこちて、ころがり出たところが、この竜の惑星だったというわけです」
フィリエルは深く同情した。いきなりころがり落ちる気持ちがどんなものか、彼女にはよくわかったからである。
「この事故も、早くに救助できれば、それほど問題にはならなかったのです。けれども、本局の人々にとっても、当時は時間|軸《じく》の応用にまだまだ未開発の部分があり、発見に手こずりました。船が着陸したことで、新しい次元の新しい世界が生まれてしまっていたからです。そうして、ようやく船の座標《ざひょう》がわかったときには、現地時間で二百年近い時がたってしまいました」
少女たちが、鼻をつままれたような顔になってきたのを見て、吟遊詩人はあわてて先に移った。
「ええとですね。降り立った調査員たちは、クィーン・アンに出会って、事故の詳細を知りました。これも詳しいことは飛ばしますが、アンだけは、当時を語る者として延命の眠りについていたんですね。後の者は世代がわりをして、不時着さえ伝説だと思っている有様でした。アンはそれを見て、自分たちはもう、この星を動くことはできないと言ったのです」
吟遊詩人の口調はまるで、自分がクィーン・アンと会話してきたかのようだった。
「彼女の結論は、なかなかの物議をかもしだしました。なぜなら、ここには竜がいて、その方面で非常に注目されることになっていたからです。星に人間が入植すれば、竜は必ず絶滅すると、だれもが言いたてました。けれども、クィーン・アンは違うと言いました。竜を駆逐《く ちく》することのない人間の国をつくってみせると。そういう子孫を育ててみせると、彼女は決意をこめて言いました」
レアンドラはあっけにとられたようだった。
「それが……グラールの建国なのか?」
吟遊詩人はうなずいた。
「クィーン・アンの言葉は、一つの試み、一つの実験的|施策《し さく》として、本局の興味をひきました。本局の人々とて、自分たちの過去の歴史にうんざりしていて、新しい世界で新しい人間が生まれることに、いくらか期待をかけてみたかったからです。もっとも、過去をデータに入れた試算によれば、ことごとく否《いな》とでましたが。それでも、アンは国づくりを始めました。侵略をしない、戦争をしない、世界征服を欲しがらない女王制の国を」
バードは言葉を切った。レアンドラは、とてものみこめないといった様子で口を開いた。
「わたくしたちが、竜より後からこの世界に加わった生き物だということは、断言されるからにはそうなのだろう。けれども、後から来たというそれだけで、人間は竜より下位にある生き物として扱われるのか? 頭脳をもち、道具を利用して、環境を斬り拓くことのできるわたくしたちが、そうではない竜をさしおいて世界を支配したら、どうして罪になると言われねばならないのだ」
コンスタンス陛下が静かに口をはさんだ。
「人々にはすでに、世界を一つ破壊した過去があるのですよ。それは、フィーリの記憶を開いてもらえば、そなたたちにも明らかになることです」
フィリエルはびっくりして息をのんだ。
「世界を破壊するなんて。そんなたいそうなことが、どこをどうしたら可能になるんです」
「意外とあっけないものです」
沈痛な表情で陛下は言った。
「世界というものは、たいへん精妙《せいみょう》な均衡《きんこう》の上にできあがっているものなのです。ところが、人間はそこへ不用意に介入してしまう。動物も植物も滅ぼして、やがてはみずからさえ住めない環境をつくりだしてしまう。母星を滅ぼすという、取り返しのつかないことをしたその後で、人々は自分たちの心にも深い傷を負いました。二度とくりかえしてはならないと誓っているのです」
「それは、わたくしたちの犯した罪ではありません。他の世界の他の人間のしたことです」
レアンドラはやりきれない様子で反論した。
「そのことは、今ここでわたくしたちが悩むことなのでしょうか。ブリギオン軍を放っておけば、彼らは近い将来、技術においても勢力においても、必ずやグラールにたちまさります。それを前もって知りながら、彼らを制圧もせずにいることが、世界のためになることなのですか?」
「……いいえ」
グラール女王は深いため息をついた。
「ただ、過去の歴史に照らせば、人々のこれ以上の技術発展は、世界|制覇《せいは 》への歯車を回すものでしかありません。とはいえ、東の帝国の成立を押さえることも、代々の女王にはついにできませんでした」
つぶやくように、陛下は言葉を続けた。
「人はやはり、侵略をせずに生きていくことはできません。クィーン・アンが理想をかかげたのは、昔むかしの話でした。長くは続かないと、当時からすでに言われていたのです。グラール女王はここ数百年、文明の進歩を抑えるために力を費やすことしかできませんでした。後に残されたのは、いつやめるかという決断だけです」
(おかあさんも、きっとそう言われたのだ……)
フィリエルは閃《ひらめ》くようにさとった。
(きっと、終わりにする決断をしろと言われたのだ。そして、おかあさんは逃げたのだ。たぶんオーガスタ王女もそうなのだ……)
重い口を開いて、フィリエルはたずねた。
「いつ、どうなった時点で、クィーン・アンの試みは失敗だったと判定されるのですか。その判定はだれがするのですか?」
陛下と吟遊詩人は目を見交わした。それから、バードが問いに答えた。
「砂漠をまたがる戦争が起きたとき、つまり、この大陸の東または西の国が、大陸の統一をめざすようになったときが、フィーリに囲い込まれた世界の限界とされています。なぜなら、フィーリの壁は、かなりデリケートなものだからです。軍隊が東西に行き来するようになれば、もちこたえることができません」
「それなら、ブリギオン軍は……」
「ええ。ほとんど臨界点《りんかいてん》まできたと言うところでしょうね」
吟遊詩人は顔をしかめた。
「カグウェルにかつてない数の竜が侵入したのも、ブリギオン軍の動きが起因してのことなのです。ちなみに、判定するのはフィーリ、わたし、女王の三者となります。まあ、フィーリとわたしは、そのためにここにいるようなものですから」
アデイルが真剣な口調でたずねた。
「終わったら、わたくしたちはどうなりますの。存在してはならなくなるということですか。そうしたらわたくしたちは、これからどうなるのかご存じですか?」
少々すまなそうに、バードは答えた。
「その後のことは、わたしやフィーリの裁量《さいりょう》にはならないんです。ですが、たいしてひどいことにはならないと思いますよ。ただ、別の土地で別の暮らしをはじめるだけで」
「抹殺して始末するんじゃないのか?」
レアンドラが鋭く口をはさんだ。バードはあわてて首をふった。
「まさか。竜でさえ保護するのに、なにゆえあなたがたを始末するんです。もしかすると、この地の記憶はなくすかもしれませんが、後はたぶん優遇《ゆうぐう》されますよ」
コンスタンス陛下は、上体の力をぬいて椅子に寄りかかった。
「そなたたちに任せます。三人のうちのだれかが、この極限の情況で女王になるもよし、ならぬもよし。フィーリに詳しい過去を聞くもよし、聞かぬもよし。フィーリと話せる場所には、バードがつれていってくれます。わたくしは、悩むことにはとうに疲れはてました。もう、どうあってもいいのです」
星の広間に深い沈黙がおりた。グラール女王の最後の倦怠《けんたい》が、その場の全員にふりかかったかのようだった。
だが、しばらくして、フィリエルが毅然《き ぜん》として小さな尖ったあごを上げた。琥珀色の瞳をきらめかせて彼女は言った。
「あたしは、ここを去るのは絶対にいやです。ここが自分たちの生まれた場所なら、老いて死ぬのもこの場所です。試みに合わなければ世界から追い出すなんて、お話を聞いていると、そのどこかの偉い人たちは、傲慢《ごうまん》でむかつく人たちだと思います。よくもそんな、頭ごなしに他人の生き方を左右することを、平気で押しつけることができますね」
吟遊詩人は、彼女の怒りの向けられた方向に驚いたようだった。小さな声でつぶやいた。
「……なるほど」
フィリエルは勢いよく言葉を続けた。
「でも、ようするに、竜を殺さずに生きていけばいいのでしょう。そんなことくらい、どうしてできないことがありますか。ここが、竜のための竜の星であっても、あたしはちっともかまいません。竜が好きになれるかもしれないと思っています。世界中を自分のものにしなくたって、あたしたちは暮らしていけますし、この場所で、竜が竜だけの世界に生きているように、あたしたちも自分たちの世界を生きて、お互いを尊重《そんちょう》しながら暮らすことだって、できないことなどありません」
陛下はフィリエルを見つめた。
「だれもがそのように考えると思いますか?」
「わからない人たちは、きっと、竜を身近に見ていない人たちです」
けんめいにフィリエルは言いはった。
「竜はあたしたちを圧倒する生き物ですけれど、恐れたり憎んだりしないためには、竜をもっと理解しなければならないんです。よく知った上で、同じ生き物であることを実感すれば、同じ地上に住めないはずがありません」
フィリエルを見やったアデイルは、小麦色の頭をこくりとうなずかせた。
「わたくしは怖がりですけれど、フィリエルの言うことがわかりますわ。わたくしもこの世界を去りたくありませんし、試みを放棄するのはもっといやです。今日のお話を聞いて、覇権《は けん》をとってはならないグラールのあり方が、ますます深くのみこめました。これまでつちかった女王制を、もはや効果なしと断じるには、まだまだ早すぎますわ。わが国には、優秀な女性がたくさん育っていますし、クィーン・アンの理念を継承《けいしょう》できる人たちも、まだまだ大勢いるはずです。大僧正猊下に玉座をあけわたして、この国の自滅を早めようなどとは、どうぞおっしゃらないでください」
コンスタンス陛下は考えこんだようだった。
「そなたは、女性の力をまだ信じられるのですか。メニエールが、どれほど玉座を欲しがっているかを知った上でなお?」
「猊下は猊下で、たいへん女性らしいかたと存じ上げます。相手に不足はないと思っておりますわ」
「そなたはそうかもしれません。けれども、そなたの姉姫は同じことを言うでしょうか」
陛下の言葉に、アデイルは少し表情を固くしてレアンドラを見た。フィリエルもレアンドラを見やった。火花を散らす仇敵《きゅうてき》だったレアンドラが、二人と意見を同じくするとは思えなかった。
レアンドラは華やかにほほえんだ。そして、自信ありげに陛下の前に立ち、口を開いた。
「じつを申しますと、わたくしも同じことを申しあげます。そこにいる二人に劣らず、この勝負を投げたくないと思っているのです。グラール建国の意図がそのようなものだったと、わたくしにも納得することができたからには、いくらでも考えの変えようがあります。わたくしの手になる軍隊は、南国の平定が終われば散じさせましょう。けれども、見えない軍団をつくる手だては残っています。東の帝国を二度と西側に近づけないためには、| 公 《おおやけ》の軍隊派遣よりも隠微《いんび 》な方策だって、数えきれないほどあるはずです。今、世界中でもっとも危険な存在がブリギオンなら、帝王エスクラドスを片づければよろしいのでしょう。そうして、この世界が終わりそうだなどとは、どんな者にも言わせません」
(なんて、変わり身のすばやい……)
フィリエルは舌をまく思いでそう考えた。レアンドラは、あれほど固執《こ しつ》した軍隊をあっさり手放して、かえりみようともしないのだ。
そうとなると、この人目をひかずにおかない美貌の主を、将軍きどりの好きな、いつでも脚光を浴びなければ気のすまないタイプと見ていたのも、いくらかまちがいだったかもしれなかった。
アデイルも同じことを考えたようで、少しばかり皮肉をこめた口をはさんだ。
「そういえば、あやうく忘れそうになるところでした。チェバイアットのかたは、本来ならば、陰で立ちまわるやり方のほうが、いかんなく才能を発揮なさるかたでいらっしゃいましたわね」
「当然のことだ」
レアンドラは銀色の頭を尊大にそらせた。
「わたくしがトーラスを最優等で卒業したことを、知らないわけでもあるまい。特待生の資格はだてではないのだぞ。あまりに適性がありすぎるからこそ、わたくしは自分に、違う方法をためしてみたくなったのだから」
それから彼女は、妹姫の皮肉に一矢《いっし 》報いた。
「それを言うならアデイルは、いつも陰にまわるふりをしながら、本当はたいへんな目立ちたがりだということに、わたくしはずいぶん前から気がついているぞ。スタンドプレイに凝りまくるのは、いつのときでも君のほうだ」
アデイルは顔を赤らめた。
「わたくしのすることなんて、ささいなものでしてよ。本当の大舞台にのることができるのは、いつだってフィリエルです。彼女にとっては、型やぶりなど当たり前なんですもの。あなたには、メニエール猊下とじかに対決しに出かけることができまして?――しかも、カエルをもって」
女王陛下の視線を感じて、フィリエルはあわてて弁解した。
「誤解しないでください。本物ではなく、動くおもちゃだったんです。メニエール猊下は、そうは思われなかったでしょうけれど」
陛下はかるくため息をついた。
「そなたは、メニエールを生涯の敵にしましたね」
「ええ、肝に銘じています」
フィリエルは小声で答えた。
「そなたたち……」
コンスタンス陛下は、息を吸いこんで三人の顔を見回した。
「だれ一人降りるとは言わないのですか。そなたたちは、これほどまでの困難をかかえて、今なおグラールをグラールのまま維持しようなどと、だいそれたことが考えられるのですか?」
フィリエルは思わず口をすべらせた。
「いいえ、同じのままでは困りますけど」
その場の全員が、驚いたように彼女を見た。フィリエルはたじろいだが、自分をはげまして言葉を続けた。
「……異端の研究者として排斥されている、ヘルメス党のような人々を、どうかお許しいただきたいんです。彼らを国外へ追いやってしまうのは、どう考えてもグラールの大きな損失です。異端の知識を異端とせずに、よいほうに生かす道が、きっとどこかにあるはずです」
レアンドラが、生意気だという顔をして口を開いた。
「そのことだったら、このわたくしがとっくの昔から考えている。彼らの知識は貴重だし、帝国軍を撃退する上でもかかせないことを、実地で知ってきたのだから。君などの口から、今ここで言い出すことではない」
アデイルは、そのレアンドラを見やった。
「あら、あなたこそお株をとってはいけませんわ。それはロウランド家が体現したことですのに。ユーシスお兄様が、今後は彼らを庇護《ひご》すると、もうすでに宣言しておりますのよ」
三人の娘がわっとばかりに言い争いそうになったため、女王陛下は手をかかげて、彼女たちを黙らせた。
「わかりました。もう、よろしい。どうやらそなたたちは、まったく違うものを見ている、まったくタイプの異なる娘たちだが、折りあうところがないわけでもなさそうだね。三人とも、それなりに筋の通ったものをもっているからだろう」
そのとき初めて、コンスタンス陛下の顔に、孫娘を見る祖母の表情が浮かんだ。マゼンタ色のローブをまとった少女たちの祖母は、深く落ち着いた声で言った。
「そしてそなたたちは、まだ本当に若い。その輝くばかりの若さが、恐れ知らずの突進を生み出すのだろう。それでは、わたくしが、あるいはと思っていたことをそなたたちに話しましょう。これはあくまで、あるいはということで、だれにも保証はできないのだよ。フィーリに相談しても、そのようなことは不可能だと言われたのだからね――」
フィリエルたちが思わず耳をすませると、コンスタンス陛下は、かすかにからかいを含んだ口調になった。
「このグラール女王国にも、この星以前の歴史にも、女性が複数で統治して成功したためしは、古今にないと言われているのだよ。女はそういうことが不得意だとされ、わたくしも女として、事実そのとおりだと認めざるをえずにいる。けれども、今のこの国の危機、内憂外患は、とても一人の女が背負いきれるものでないことも、わたくしは知っている。強力な指導性を前面に押し出して、専制をとるなら別の話だが、グラールの方法論を継承するつもりならば、どんな女性にも乗り切ることはできまい。だが、しかし、そこに三者がいれば、ものごとは異なってくるかもしれない」
銀色と金茶色と栗色の睫毛が、それぞれ驚いた様子でまばたいた。
「それは、つまり……」
陛下は椅子の背から身をおこした。
「ブリギオンの軍隊は、今はいったん逃げ帰っても、必ず巻き返しをはかりにくるだろう。彼らはもともと、クィーン・アンと相容れずに東へわたった人たちの子孫で、女王の抑制を受けなかった、ある意味、過去の歴史どおりにまっすぐ育った人々だ。いつか彼らが、砂漠をわたる野望を抱くことは、もうずっと以前からわかっていたことだった。
一方で、大僧正のメニエールは、これからも女王の座をのっとることを執念深くあきらめないだろう。彼女はそれなりに優秀な女性であり、この国の機構をなめるように知りつくしているのだから、それを駆使して、何度となくそなたたちの足をすくいにかかるだろう。
そして、ヘルメス党を飼い慣らすことは、ブリギオン軍を相手どるに劣らない、危険な綱わたりだよ。彼らの推進させる力――科学力というものが、戦争と破壊につながらなかったことは、過去に一度も例がないのだからね。その方向を修正できるかどうかには、これも例のない手腕《しゅわん》が必要だ。
それらをすべて切り抜ける者は、この世のどこにもいないだろうが、そなたたちは三人いて、得意分野があるということだよ。おわかりかえ?」
「陛下、それでは――」
娘たちに負けずに仰天して、バードがおそるおそる口をはさんだ。
「もしや、三人まとめて女王にすえると、とんでもないことをおっしゃっているのでは」
「わたくしの三人の孫娘を見ていたら、不可能ではないという気がしてきたのだよ」
陛下はそう言って、先ほどまでの沈痛な表情はどこへやら、ひどく人が悪そうにほほえんだ。どうやらこちらのほうが、この年老いた女王の本領であるらしかった。
「もちろんこの子たちは、今すぐに女王になれるものではない。一人が女王に立つ場合以上の教育――高度な協調性の訓練と、今までにない情勢に対応する国内整備とが必要だ。彼女たちのこれからの教育には、わたくしがみずから教鞭《きょうべん》をとろう。その日を見るためなら、わたくしもあと五年くらいはもちこたえそうな気がしてきたよ。先の楽しみがあれば、もうしばらくは、引退を考えずにすむだろう」
もはや、孫娘たちの意向はまったく問われていないようだった。少女たちはあぜんとして立ちつくし、吟遊詩人を見つめたコンスタンス陛下は、フクロウが陽気になったような笑い声をたてた。
「バードや、そなたも協力しておくれだろう。前代未聞の女王トリオが立ったあかつきには、古代の文献にも負けない三人の魔女――過去、現在、未来に対応する、究極の『西の善き魔女』が完成するのだよ」
フィリエルは、あまりの話の運びに頭がぼうっとして、小部屋の仕掛けで一気に下まで降りたというのに、何の感想もわいてこなかった。吟遊詩人はかたわらにいたが、彼もまた考えこんでいる様子で、二人とも言葉少なだった。
自分が女王になるという話は、フィリエルにはまだぴんとこないものだった。レアンドラとアデイルとフィリエルの三人が、はたして団結できるかどうかも、まったく見当がつかない。
ただ、自分たちが、今まで想像もつかなかったほど大変な瀬戸際にいることを知り、女王とは、そうした世界規模の懊悩《おうのう》を背負って生きる人間なのだと、わずかながらに実感したというところだった。
吟遊詩人は、彫像のホールを抜けたところで立ち止まり、少女を見つめた。
「フィリエル、たいへん申しわけありませんが、ここから先、一人で行っていただいてかまいませんか。至急にアクセスしなければならない要件が、たくさんできてしまって」
「ええ、もう大丈夫」
フィリエルが答えると、彼はちらりとほほえんだ。
「いずれまた、ゆっくりお目にかかりましょう。あなたに会うと、いつでも発見することがあるようです。アーベル氏にも、どうかよろしくお伝えください」
そうあいさつをのべると、バードは急ぎ足で今来たホールへ引き返していった。見送ったフィリエルは、環状回廊をケインの待つ方向へと歩き出した。
(これからは、このあたしも、今いる世界にあたしたちが存続していいのかいけないのかを、絶えず考え続けることになるんだわ……)
考えこみながら、ほとんど上の空で歩いていたフィリエルだったが、ケインの姿が人通りの向こうに見えてきたとき、彼の隣にほっそりした黒髪の少年が立つことに、ただちに気づかない彼女ではなかった。
そのとたん、世界はフィリエルにとって善きところに変わった。光にあふれ、美しいしらべにあふれ、石床の回廊も、日射しのまばゆい草原のように輝きわたるかと思えた。これほど祝福に満ちたすばらしい世界に、自分たちの居場所がないはずがないと、いつにもまして深く確信することができた。
駆け寄るフィリエルに、ルーンも飛び出してきて彼女を抱きとめた。
「フィリエル……きみがすごく怒っていると、ケインが言っているけれど、本当なのかい?」
抱きしめたあとで、ルーンは心もとなさそうにたずねた。
「そうだけど、無事に帰ってきてくれたから、許してあげる。それにここまで、あたしをむかえにきてくれたから」
フィリエルが答えると、彼はほっとした様子になり、だれにとってもめずらしい笑顔を浮かべた。
「ユーシスは、ちょっとけがしたけれど、すぐにぴんぴんして、今ごろは二代目のユニコーンで駆け回っているはずだよ。イグレインも元気だった」
「ルーン」
フィリエルは琥珀色の目で探るように見つめた。
「あなただけ、どうしてあたしの髪のことを言わないの?」
ルーンは少し驚いた。
「染めたんだろう。一目見ればわかったよ」
「何色でも気にしないの?」
「いや、地の色がいい」
フィリエルは、もう少し声音を強めた。
「ルーン、あたしたちは、ほかのだれともキスしないって誓ったわよね」
「うん、誓った」
「あたしの知らないところで、ユーシス様とキスしないでね」
ルーンはのけぞりそうになった。
「どうして、ぼくが言わずにきみが言うんだ?」
ケインは帽子を被りなおし、咳払いをする気力も失せてぼやいた。
「帰りますよ……まったくもう」
メイアンジュリーの都に涼風が吹くようになり、さらには実りの秋が訪れ、晩秋の霧《きり》がたちこめた。気がつけばいつのまにか、街路樹の木の葉は、緑から金色に色変わりしようとしている。秋から冬への足並みとともに、グラール女王国はまた大きく変転しようとしていた。
ものごとが変わったのは、何といっても、感謝祭の大祭当日に、コンスタンス女王陛下がみずから国民の前におでましになり、人々をあっと言わせたことが大きかった。
女王陛下は、おみ足がやや不自由と見受けられるものの、かくしゃくとして大衆の面前に立ち、昔と変わるところのない、はりのある美声で収穫の祝辞を述べられた。
さらに陛下は、森の聖神殿にお住まいになるのをやめ、その場所を大僧正猊下にゆずって、旧来のとおり王宮でお暮らしになるとの宣旨《せんじ 》を下された。これを耳にして、態度を改める宮廷人は多かった。おもに、聖堂寄りの姿勢をとりはじめていた人々である。
ちょうど同じころ、メロール家のレイディ・マルゴットが、チェバイアット家とかなりの親交を深めた上で、ロウランド家へ舞いもどったことが宮廷内で明らかになった。
ルアルゴー伯爵との離婚がささやかれていたのは、超保守派をあざむくための煙幕であり、彼女はその陰に隠れて、保守派と急進派の協調をはかっていたのだというのが、もっぱらのうわさだった。
これらによって、宮廷内の派閥抗争は敵味方が入れ替わりはじめた。貴族間の結束ができつつある代わりに、貴族と聖職者の対決の様相が深まり、これはこれで深刻な緊張の生じるものだったが、もとより、内部抗争のとだえたためしのないグラール国ではあった。
小春日和《こ はるび より》の続くころ、南方三国の紛争をしずめていた竜騎士とグラール軍が、カグウェル国に新しい王権と平和をもたらして、凱旋《がいせん》する知らせが入ってきた。庶民はこれに熱狂し、貴族たちは、南北の協力を絵に描いたような成果を手放しで褒めたたえた。こうなると、メニエール猊下の主張もいくらか影が薄くなるものだった。
猊下は、聖堂関係で凱旋をたたえる儀式はできないとつっぱねたが、一般の人々はおかまいなしに、街頭にたくさんの灯籠を吊し、色とりどりの花づなをわたし、紙吹雪を山のように作りためて、凱旋パレードを待ちかまえた。
メイアンジュリーの大通りを進むパレードの見物には、フィリエルとルーンも混じって街角に立っていた。
華やかな一行を一目見ようとする人々で、大通りは埋めつくされていたが、そうしたにぎわいも、今のフィリエルにはなかなか快いものだった。付き添うルーンは渋い顔だったが、それでも、ユーシスたちの姿が見えてくるのを、わくわくして待つことができた。
やがて、五色の紙吹雪がいちだんと盛大に舞い上がるなか、隊列を先導するユニコーンたちが姿を現した。ひときわ大きな翡翠色《ひ すいいろ》のユニコーンに乗るユーシスは、輝く銀の兜《かぶと》を被り、裏が真紅のマントをまとって、だれの目にも凱旋にふさわしい華麗な騎士に見える。
彼はこうべをかかげ、進行方向しか目に入らない様子に見えたが、じつは注意深く街頭の人々に気を配っていたのだった。フィリエルとルーンの姿を認めるやいなや、後方に合図を送り、パレードの進行を一時的に止めさせた。
無蓋《む がい》の馬車から、アデイルがいそいそと降りてきた。今の彼女は、深いバラ色のガウンをまとい、高貴な姫君の気品をあますところなく漂わせていたが、それでいて、すましたところが少しもなかった。彼女が馬車を降りると、続いてレアンドラも降りてきた。姉姫はいまだにるり色の軍服だったが、装飾品はかなり派手になり、マントも竜騎士のものに負けてはいなかった。
「ただいま、フィリエル。早く会いたかった」
心からうれしそうに叫び、アデイルはフィリエルに両腕を投げかけて抱きついた。周囲の人々は目を見はったが、今ではフィリエルがもとの髪の色をしていることもあり、『あかがね色の髪の乙女』だと気づいたようだった。そして、細かい事情はわからないまま、勢いで拍手した。
「おかえりなさい。お疲れさま、アデイル」
フィリエルも心をこめて言った。
「レイディ・マルゴットがロウランド家にもどられたことは、もうご存じ?」
「もちろんよ」
アデイルは晴ればれとほほえんだ。
「わたくし、最初から少しも心配していなかったのよ。お母様はああ見えても、本当のところは、今でもお父様にめろめろなんですもの」
「なあんだ」
フィリエルはちょっぴり憤慨したくなった。
「ロウランドの伯爵様って、とってもタヌキだと思うわ」
「フィリエルったら、もの知りねえ。タヌキなんてわかるのね」
感心したようにアデイルは言った。
「いろいろなことをもう少し片づけたら、またあなたといっしょに暮らしたいわ。ロウランド家に来るって、約束してね。そのうちには、わたくしたち、女王陛下じきじきのご指導が入るのでしょうけど」
ユーシスもユニコーンを降りてきたが、アデイルがフィリエルをいっこうに離さないのを見て、かたわらのルーンに向かいあった。
「やあ、久しぶり。どうやら君とは、これからもいっしょにやっていくことができそうだな」
ユーシスは快活に言い、少年に片手をさしだした。けれどもルーンは、けげんな顔でその手を見つめ、それから彼を見上げただけで、自分の手を出そうとしなかった。
(他人行儀だったかな……)
考えなおしたユーシスは、握手をやめにして、ロットとかわすように気前よく抱擁《ほうよう》した。ルーンは固まってしまったためにされるままになり、ひたすら目を白黒させた。
メラニーに騎乗しているロットはつぶやいた。
「あっ、いいな。わたしもあれをやってみたい」
「やめてください」
隣に並んだガーラントは、不機嫌な声を出した。
「これ以上ユニコーンを暇にさせると、ろくなことが起きません」
実際、騎手がいなくなったランスロットは、早くも身勝手に動きたがっており、押さえる部下たちはたいへんな思いをしているのだった。
一方でアデイルは、目ざとくユーシスの行為に気づくと、フィリエルをゆすって視線をうながした。
「今の、ごらんになりました? わたくし、これから、続編を書いてしまおうかしら」
「ええ、ぜひ、書いてほしいわ」
フィリエルは、怒りを含んだ声音で答えた。
「それができたら、今度こそルーンにも読んでもらうから」
「あら、まあ、どうしましょう。燃えてしまうかもしれません」
アデイルが両手をほおにあててはしゃいだとき、そばにいたレアンドラが口をはさんだ。
「前のは、人物描写がいくぶん甘かったと思うぞ。次に書くなら、その点に気をつけたほうがいい」
フィリエルはのけぞりそうになった。
「レアンドラ……読者だったの……」
ケインはすぐ近くの場所で、双子とともにフィリエルとルーンを見守っていたが、少女たちの様子を見やった彼は、しみじみとつぶやいた。
「恐ろしい人たちですね、女王家の人々は。ミーハーで、私情で動いて、どんなはったりもきかない。敵に回すとむやみに危険なわけが、今となってはよくわかります。われわれがブリギオンにつくのは、やっぱり得策ではなさそうですね」
金髪の双子は、まじめに耳をかたむけた。彼らは、ケイン・アーベルの言葉なら、なんでも額面どおりに受けとるきらいがあった。
行列は再び動き出し、華やかなパレードはハイラグリオンをめざして、ゆっくりと遠ざかった。興奮冷めやらない見物の人々は、彼らが行き過ぎてしまうと、パレードを中断させてまで竜騎士と女王候補のあいさつを受けた、一介の少年少女にその興味を集中させた。
周囲の人々がわっとばかりに群がり寄ってきたのを見て、フィリエルはたじろいだ。われ先に話しかけられて往生《おうじょう》しそうになったとき、寄り添ったルーンが、上着のふところからすばやく筒状のものを取り出した。
それは、軽い爆発音を放ったと思うと、空に向かって三色の煙を吹き上げた。薄ピンクと白と薄緑である。都の人々が仰天し、わけもわからずに後ずさるなかで、ルーンはフィリエルの手をつかんだ。
「今だ」
拡散する煙にまぎれて、二人はすたこらと逃げ出した。小路に走りこみ、ジグザグに走り抜ける。路地裏はこみいっているので、難なく人々をまくことができた。
だれも追ってこない裏通りまで走ってきたフィリエルは、息をあえがせながら笑いに笑った。
「きれいだったじゃないの、今の煙。とっても安全だったし」
ルーンは声をたてて笑いはしなかったが、表情はずいぶん明るかった。
「エイハムとスミソニアンの共同製作だからね。かなり改良されたと思うよ」
「舞台装置にちょうどいいんじゃないかしら。夏至《げし》祭の舞台とかで使うと、きっと抜群の効果よ」
「うん。量産ができれば、これも商品として使えるかもしれないね」
二人はしっくいの壁に寄りかかって、はずむ息をおさえた。ようやく収まってきたころ、ルーンがふとたずねた。
「フィリエル、これからどうする?」
それは、今日の予定を聞いたものではなかった。彼らが都に出てきたのは、ユーシスたちの帰還を祝うためだったが、その後、フィリエルが王宮で暮らすことになるのか、シンベリンの森へ帰るのかは、だれにとってもさだかではなかったのだ。
「そうね……」
フィリエルは赤金色の頭をかしげ、しばし考えた。視線を遠くへさまよわせると、路地の向こうに、ケインと双子がやってくる姿が見えた。フィリエルとルーンはめちゃくちゃに小路を走り抜けたというのに、彼らはちゃんと見つけてくれるのだ。ケインたちのかたわらには、最近彼らにも綱を引かせるようになったルー坊がいる。
すてきな仲間たちだと、フィリエルは思った。ケインとケインの部下たちも、シンベリンの森で日夜研究にいそしんでいる、バーンジョーンズ博士とその他の研究者たちも。
ルーンがこれから先、どこで暮らそうともヘルメス党とともに生きるだろうということは、フィリエルにもよくわかったし、フィリエル自身もそうなるだろうと、かなりの確実さで信じられた――たとえ、自分の身にこれから女王修業がはじまろうとも。
ケインたちに明るく手をふってから、フィリエルはルーンに言った。
「とりあえず、あたしは一度、ルアルゴーへ帰りたいな」
「何しに?」
ルーンはたずね、フィリエルにあきれた視線を浴びせられた。
「まあ、ひどい。忘れたなんて言わせないわよ。あたしたちは、エディリーンのお墓へ行くはずだったでしょう?」
「忘れたわけじゃないんだ」
あわててルーンは言った。
「ただ、あんまりいろいろなことがあったから。きみが今でも天文台の塔へ行こうと思うかどうか、よくわからなかったんだよ」
「行きたいわ。決まっているじゃない」
かるい口調でフィリエルは言った。
「今こそあたしは、おかあさんの墓前に立てるわ。そして、ゆっくり静かに考えてみたいの。おかあさんのこと……博士のことも。二人の生き方や、考えていたことについて」
ルーンは感銘を受けたようで、深くうなずいた。
「そうだね、行こう。それがいい」
「ロウランドの伯爵様も、これからようやく御領地へもどられるのですってよ。そうなれば、マリエもお供に帰るのでしょうし。あたしたち、昔のように会うことができるわ。ホーリーのおかみさんにも会って、安心させてあげなくちゃ」
北の高地の天文台に帰って、空の青さと荒れ野の広がる、自分の生まれ育った風景のなかに立ち、その場所を見つめなおして、そこからまた出発しようとフィリエルは考えた。もう一度飛び立ったら、今度はもっと遠くまで行くのだ。
初めて天文台を出て岬の領主館へ行ったとき、フィリエルは、| 狼 《おおかみ》の腹のなかを出たようだとおかみさんに語ったはずだった。けれども、出た先もやはり大きな狼の腹のなかで、どうにかその皮を破ってみたものの、またもやひとまわり大きな狼の腹のなかにいるような気がする。お話のようには結末のつかない現実の、これが本当の姿なのだと、フィリエルは思った。
宿へ向かって歩き出しながら、フィリエルはほほえんで言った。
「ルアルゴーへ帰って、ホーリーのおかみさんに言うの。めでたしめでたしの結末には、ずいぶん遠い道のりがあるけれど、ずっとその道のりだけだったとしても、あたしはたぶん、がんばっていけるだろうって。だって、その道には、ルーンがいっしょにいてくれるもの――そうでしょう?」
ルーンはもう一度うなずいた。
「うん、ずっとだ」
琥珀色の瞳と灰色の瞳が出会った。二人は立ち止まり、お互いの目のなかに見出せるものをたしかめ、そこにあるものにさそわれるように、どちらからともなく口づけた。
それは奪って驚かすものではなく、してあげるものでもなく、ルーンにとってはついにと言えるキスだった。そのキスに有頂天になったルーンは、ルー坊がケインの手を離れたことにも、まるで気づいていなかった。
そして、ユニコーンの子に、ものの見事に道の端まではじき飛ばされたのだった。
[#地付き]終
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あとがき
西の善き魔女第五巻「闇の左手」をお届けします。
この巻をお手もとに届けることができて、これほどうれしいことはありません。
じつは、四巻の執筆以降に、よわり目にたたり目といったダメージがありまして――降れば必ずどしゃ降りというか、泣きっ面に蜂というか――もう、どうなるかと思ったのでした。十二月でしたが、「タイタニック」のサントラを聴いて、「氷の海に落っこちても生きのびよう……皮下脂肪があるし」と自分に言い聞かせたりして。
(わたしの友人は、キャメロン監督の作品を、皮下脂肪の勝利をものがたる映画だと主張してやまないのでした)
けれども、こうして最終巻を書き上げることができたのだから、もう何も言うことはありません。女神様に深く感謝したいです。
書いてみるまで、本当にわからない作品でした。
学生時代のわたしは、よもや「西の善き魔女」がこのような物語になろうとは、思いもよらなかったに違いないのです。書いていけばきっとわかると……それはたしかにそうだった気もするし、五巻ぶんの内容を書いたとはいえ、最初と同じ場所にいて当たり前のような気もします。
それはともかく、作者はこの物語を書くことを十二分に楽しみました。休講の時間に学部の読書室で、レポート用紙にレポートではなくお話を書くことに熱中しすぎて、顔のほてりを冷ましながらキャンパスを歩いていた、二十歳のわたしに負けないくらいに。
登場人物のほとんどは、学生時代に書いた物語の面影もない人々ですが、それぞれにみんな大好きです。
今でも鮮明に思い出す、大学構内の一場面があります。教育学部の一教室で、必修課目の授業の最中に、「源氏物語」夕顔の巻の講釈を聞きながら、わたしがルーズリーフの余白に「西の善き魔女」と書きつけたところです。
博学な読者はとっくにお気づきのことと思いますが、「西の善き魔女」という言葉は、ボームの「オズの魔法使い」に出てくる、「北、南のよい魔女」「西、東の悪い魔女」をふまえています。わたしはこの言葉を、SFの評論から拾ってきたのでした。そのころ「SFの女王」と称えられたアーシュラ・K・ル=グィンを評して、「西の善き魔女」(彼女が合衆国オレゴン州に在住していたから)とタイトルした一文があったのです。
妙に印象に残ったこの言葉をノートに書いてみたところ、空想にふけっていたわたしの脳裏には、「東の武王」という対句が浮かんできました。そして一つの童謡ができあがりました。それが物語の発端でした。
ですから、最終巻のサブタイトルが「闇の左手」になったのは、自明のこととも言えるのでした。楽屋落ちですみません。でも、ル=グィンの「闇の左手」は秀逸な作品ですし、このタイトルのもととなる作中の歌には、いまでも感動するものがあります。
刊行中にお手紙その他をくださったかたがた、全国から、本当にありがとうございました。お返事ができなかったことを申し訳なく思っています。伏し拝んで読ませていただいたので、どうかひらにご容赦ください。
「西の善き魔女」を書いたことで、うれしかったことが、この三年間にたくさんありました。そして、何がどうあろうともこの作品を最後まで書き終えたいと思えたことは、今後の自分のプラスになっただろうと思います。今では、試みたことを後悔していません。
また、どこかでお目にかかれるとうれしいです。では。
[#地付き]荻原 規子
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底本:「西の善き魔女5 闇の左手」中央公論社 C★NOVELS
1999(平成11)年05月25日第01刷発行
参考:「西の善き魔女Y 闇の左手」中公文庫
2005(平成17)年08月25日第01刷発行
※本文中、新書と文庫が食い違う場合、文庫版に拠った。
入力:TORO
校正:TJMO
2007年02月03日作成
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底本で気になった部分
※底本p12 04行目
弱体《じゃくたい》の王家はもちこたえないかもしれず、
―――「もちこたえられない」ではないか。訂正済み。