西の善き魔女3 薔薇の名前
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)領主|留守《るす》中
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(例)特権階級のかたがた[#「かたがた」に傍点]
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目  次
第一章 宮廷円舞曲
第二章 亡き王女のための|孔雀舞《パヴァーヌ》
第三章 幻想曲と遁走曲《フーガ》
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]口絵・挿画 牛島慶子
[#地付き]カット   和瀬久美
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第一章 宮廷円舞曲
曇《くも》り空と小雨《こ さ め》が数日続き、久しぶりに晴れたと思うと、海の青さは見違えるように深かった。風も今では、木々の色変わりをうながす冷たさだ。
ルアルゴーの九月は収穫《しゅうかく》月であり、干《ほ》し草と麦《むぎ》は、すでに刈り取られていた。漁場の水揚げも盛んで、林や生《い》け垣《がき》には果実が赤や紫に色づき、女たちの手籠《て かご》をいっぱいにする。
晴天だというのに、厩《うまや》の馬も引き出さず、領主館に居残っていることは、ユーシス・ロウランドにとってはめずらしいことだった。首都メイアンジュリーへの出発を数日後にひかえ、アンバー岬の飛燕《ひ えん》城では、今、領主|留守《るす》中の段取りづくりに余念《よ ねん》がない。
だが、最後まで多忙なのは伯爵《はくしゃく》のみであって、息子のユーシスには、もう手伝うことがなかった。すでに、代行《だいこう》で事足りる用件をこえていたのだ。
それゆえ彼は、風通しのよい東の一室に腰をおちつけ、ルーンを相手にチェスをしていた。これとて、考えようによっては暇《ひま》つぶしではない。ルーンを王立研究所《おうりつけんきゅうじょ》へ送りこむからには、少しでも多くの手になじませておくことは、ロウランド家の責任でもあったからだ。
「チェック」
騎士《きし》の駒《こま》を動かして、ルーンが攻勢《こうせい》に移った。序盤戦《じょばんせん》も整わないうちであり、破格《は かく》の早さだ。ユーシスは、貴族的な反応で|眉《まゆ》をひそめた。
「勝負にせっかちだと、品格《ひんかく》を疑われるぞ。いいんだな、本当に」
やすやすと騎士を討ち取り、攻めの手を封じる。ユーシスが向かいあう黒髪の少年は、伯爵家の大きな肘掛《ひじか 》け椅子に腰かけると、ふだん以上に小柄に見えた。椅子の刺繍《ししゅう》張りの表面に、なるべく触れまいとするような、ぎこちない座り方をしているからだ。
けれどもルーンには、その姿勢をくずしてくつろぐ気はないようだった。顔には、老人がかけるような黒ぶちのメガネ。知らない人間が見ると、ロウランドの若君《わかぎみ》が彼とチェスをさしている光景は、少しばかり滑稽《こっけい》だった。
たしかに外見からは、指先でひねるのも簡単だと思われる少年なのだ。ところが中身となると、意外なくらい油断《ゆ だん》がならず、思い切ったことをすると、ユーシスも最近知ったばかりだった。
相手の進めた駒を見て、ルーンはメガネを押さえた。そのしぐさに、わずかに満足げな色がかすめた。
「それなら、もう一度チェックだ」
無邪気に見せかけた、さりげないすばやさで、ルーンは女王を送り出していた。今度はユーシスも、余計な口をたたかなかった。両手を組んで口元を押さえ、真剣に考えこむ。その姿勢は父親の癖《くせ》によく似かよっていたが、本人は気がついていなかった。
ルーンが淡々《たんたん》と言った。
「こちらの女王を制《せい》する以外、道はないはずだよ。そしたらあと五手で、残った僧正《そうじょう》がチェックメイトだ。この勝負、ぼくの勝ちだね」
うなったあげく、敗北《はいぼく》を認めたユーシスは、不機嫌そうな声を出した。
「このところ君は、妙に奇襲《きしゅう》ばかりうまくなったな。いったい、女学校で何をしてくるとそうなるんだ」
さっきまでユーシスは、ふてくされた子どものようにチェスの相手を乞うルーンを見て、非常に気分がよかった。そういうときに、意地悪のできる彼ではなかった。
だが、ユーシスには、勝負に負けて笑うようなまねもまたできなかった。負ければ率直《そっちょく》におもしろくないのである。
ルーンは、皮肉《ひ にく》が聞こえなかったふりをした。速攻《そっこう》を研究した原因はフィリエルにあり、彼女に長い勝負をする根気がなく、たちまち眠いと言い出すからなのだが、そんなことまで、伯爵の息子に教えてやるいわれはないのだ。
「もう一勝負するかい」
「当たり前だ。このままにしておけるか」
二人があらためて駒を整えると、ルーンはおもむろに、指を三本立てた。
「三回。三回続けて勝ったら、相手の言うことを一つ聞くことにしないか」
ユーシスは一瞬乗り気を見せたが、すぐに疑わしそうな顔になった。
「君がもし、また天文台へ行きたいというのなら、今度はその手をくわないぞ。都への出発も間近なこのときに、危険とわかりきったまねはできない」
ルーンは肩をすくめた。
「危険とは限らないよ。ずいぶん時間もたったし、蛇《へび》の杖《つえ》の連中が、そうそういつまでも、用のない辺境《へんきょう》に人手をさいているはずがない」
「用のない場所なら、君はなぜ天文台へ行きたいんだ」
ユーシスが切り返した。ルーンの口ぶりは、いくらか歯切れが悪くなった。
「……今度は、博士の研究と関係ないよ。ただ、ルアルゴーを遠く離れてしまう前に、フィリエルをつれて行きたいんだ」
「フィリエルをだって。ばかを言うんじゃない。そんなこと、だれが承知すると思っている」
ユーシスは驚いて声を大きくした。
「君一人でも、充分大変だったじゃないか。身を守れない人間を二人もかかえて、同じ危険を冒《おか》すほど、わたしは愚《おろ》か者ではないぞ」
「フィリエルさえ守れたら、ぼくのことは考慮しなくていいよ」
「絶対に、だめだ」
ユーシスは、強調して言葉を区切った。
「今度こそ、どんなからめ手にも応じないぞ。君がそれを通そうとするなら、監禁《かんきん》に兵を回すことも辞《じ》さないからな。君には、まだわかっていないのか。フィリエルは女王にならないにしても、女王家の血をひく点において、アデイルと同じ、グラールの宝なんだ。細心《さいしん》の注意を払って、どんな危険からも遠ざけておくべきだ。あの子は、そういう娘なんだぞ」
灰色の瞳《ひとみ》にむっとした表情を浮かべ、ルーンはつぶやいた。
「わかっているよ。いいよ、それなら」
その拗《す》ねた口ぶりに、ユーシスは心配になって念《ねん》を押した。
「わたしたちに黙って、フィリエルを外につれだしたりしないと誓《ちか》えよ。君もあの子も、今はもう、護衛《ご えい》もつけずに出歩ける身ではないんだ」
「わかってる……誓うよ」
ルーンは口の中で答え、何やら考えこんでいるようだった。ユーシスは、少年がどんな戦法を練っているのかとひやひやした。チェスの才能があるということは、とりもなおさず、相手の裏《うら》をかく技能《ぎ のう》に秀《ひい》でているということなのだ。
思いめぐらせたあげくに、ルーンはたずねた。
「外へ出なくてすむことに限れば、きみも三回勝負に賭けるか?」
ユーシスは警戒し、慎重に言った。
「君の要求を先に言いたまえ。それがわかった上でなら、賭けに応じてもいい」
ルーンはだいぶしぶっていたが、ついには言った。
「三回続けて勝ったら、ぼくに剣を教えてほしい」
ユーシスは、聞き違いをしたのかと思った。
「もう一度言ってくれ。君は今、剣と言ったのか?」
「そう、剣だ」
はしばみ色の瞳をまるくして、ユーシスは少年を見つめた。ルーンが剣をふるう? そのメガネで? その腕の細さで? 女学校に潜りこんでもしばらく通用したほどの青白さで?
こらえきれずに吹き出し、ユーシスは大声で笑った。
チェス盤《ばん》が、駒を散らしながらユーシスの顔めがけて飛んできた。
フィリエルとアデイルは、西の居間《いま》で手紙を読んでいた。トーラス女学校のヴィンセントから、大量の手紙が回送《かいそう》されてきたのだ。
赤みがかった金髪と熟《う》れた小麦の金髪が、明るい窓を背にした長椅子に、つややかに並んでいる。|従姉妹《いとこ》同士の少女たちは、クッションの上に足を折って座り、ときおりくすくす笑っては、お互いの手紙の内容を見せあっていた。
たしかにそこには、女学校の内情《ないじょう》を知る者にしか伝わらないことが書いてあった。他人には悲恋《ひ れん》の事実があったとしか思えない、フィリエル宛《あ》ての悲嘆《ひ たん》の手紙。それを上回る妄想《もうそう》の入った、アデイルの小説に寄せた手紙。その数々が、機知《きち》に富んだヴィンセントのコメントで、笑って読めるものになっているのである。
しばらくして、ふと顔を上げたアデイルは、ユーシスが居間に入ってくるのを見つけ、あわててささやいた。
「隠して、隠して。お兄様よ」
フィリエルは便せんをかき集めた。アデイルの小説モデルたる赤毛の貴公子《き こうし 》に、読まれてしまっては極度《きょくど》にまずい内容なのだ。
だが、ユーシスは、少女たちのあわてぶりに気づかない様子だった。隅《すみ》の椅子に腰をおろした彼が、痛そうに額《ひたい》を押さえているのを見て、アデイルが不思議そうにたずねた。
「おでこをどうかなさったの、お兄様」
「いや、ルーンとチェスをしていたんだが――」
ユーシスが手を放すと、秀でた額の片隅が赤くなっていた。
「いきなりチェス盤を投げられた」
「まあ、チェスって、格闘技《かくとうぎ 》だったの」
妹はのんきな返答《へんとう》をしたが、フィリエルは飛び上がらずにいられなかった。
「ルーンったら、なんてことを。ごめんなさい――ひどく痛みます?」
「あなたがあやまることないわ。どうせ、お兄様が心ないことを言ったに決まっています」
兄が答えるよりも早く、アデイルが断言《だんげん》した。さすがにユーシスも、むっとした様子だった。
「わたしは何も言っていないぞ。ただ、笑っただけだ」
「それなら、何をお笑いになったの」
ユーシスは少し考えこんだ。
「……それほど怒るとは、思わなかったんだ。だれが想像したって、ルーンが剣をふるっているところなど、おかしいと思うだろう」
フィリエルは目を見はった。
「ルーンが剣を? どういうことです」
「剣を教えてくれと、彼が言い出したんだよ。人にはそれぞれ、向き不向きってものがあるのに」
「どうして、急にそんなこと」
困惑《こんわく》してフィリエルはつぶやいた。ルーンらしくないことであり、フィリエルにも唐突《とうとつ》としか思えなかった。アデイルは首をかしげ、フィリエルを見やった。
「トーラス女学校で、あなたが剣をふるったからではないかしら。だからルーン殿《どの》は、対抗して自分にもできると考えたのかも」
「どうして? わたくしは、ルーンがたとえ対数表を覚えたからと言って、向こうを張って覚えようなどと、少しも思わないのに」
憤然《ふんぜん》とフィリエルは言ったが、この言い分には、兄妹のどちらもあまり感銘《かんめい》をうけてくれなかった。アデイルは、ユーシスを見やった。
「やっぱり、お兄様がいけないと思いますわ。彼の気持ちを考えれば、笑い飛ばすなんてもってのほかですもの」
ユーシスは少々後ろめたい顔をしたが、それでも、意地になった様子で言い返した。
「あいつはあっというまに、チェスでわたしを打ち負かしたんだぞ。それだけの才をもっていながら、ないものねだりをしないでほしいものだ。剣は、このわたしの領分《りょうぶん》だ。彼のじゃない」
アデイルは、小鳥のように首をすくめた。
「まったく困った人たちね。それとも、けんかをするほど仲がいいと言いますから、これも、仲がいいうちなのかしら」
(けんかをするほど仲がいい……)
アデイルの言葉に、フィリエルは思わず座りなおした。それは、カーレイルから帰る道すがら、フィリエルがずっと気にかけていたことだった。
(……ルーンは嫌いな人間には、氷みたいに冷たく距離をおくタイプだ。避けることはあっても、ぶつかっていったりはしないのだ。それなのにユーシスとは、何度けんかをしても、結局いっしょにいるみたいなんだもの。ルーンがそんなふうにふるまう相手は、あたし一人かと思っていたのに……)
今日もつまりは、フィリエルを誘わずに、ユーシスのもとへチェスをしに行ったということなのだ。それを考えると、なんとなく穏《おだ》やかでないものがあった。
フィリエルは自信なくユーシスを見やった。
(彼に憧《あこが》れをもつ気持ちは、あたしだってよくわかるもの……)
ユーシスが、恵まれた容姿《ようし 》をもつことはたしかだが、この若者の絵になるものは、姿かたちのよさとは、少々別個の資質《し しつ》のようだった。もしも美男子を自負《じふ》する者だったら、ふつう体裁《ていさい》が悪くて、額を打った理由を言えないものだ。
彼は、へたにとりつくろうことを一切しなかった。ユーシスでもへまをするし、笑われることもあるだろうが、彼にはその全部を自身でひきうけるような、もって生まれた| 潔 《いさぎよ》さと明朗さがあった。言動に卑《ひ》屈《くつ》なくもりがないのだ。
その態度が、彼の笑顔や伸びやかな手足を、真に魅力的にしているのだった。生まれがよいからといって、そうなるとも限らないのに、ユーシスはその上、グラールで一、二を争う大貴族ロウランド家の跡取《あとと 》り息子なのだ。
(……それは同性のルーンにとっても、やっぱり魅力的に映るのかもしれない)
フィリエルは自分をひき比べて、そっとため息をついた。イグレインから剣技を習いはしたものの、フィリエルの場合は、ほとんどものになったとは言えない。ルーンの正当とはいえない応援で、かろうじてラヴェンナとの勝負に勝った情けなさだ。
勝手に思いわずらっているフィリエルをよそに、妹のアデイルは、口達者《くちだっしゃ》に兄をいさめていた。そしてついには、居間から追い立てることに成功したようだ。ユーシスは不承不承《ふしょうぶしょう》腰をあげ、廊下をひき返していった。その姿を見送ったアデイルは、やれやれといった口ぶりでつぶやいた。
「ユーシスお兄様って、どうしてああいう人なのかしらね」
「ああいうって?」
フィリエルはものうくたずねた。
「優秀《ゆうしゅう》なお父様と、優秀なお母様の、実《じつ》の子どもとして生まれたのだから、もう少し何とかなりそうなものなのに、って意味よ」
いくらかぎょっとして、フィリエルは従姉妹を見つめた。アデイルがロウランド家の養女であることは、すでに聞き知っているが、家族と血がつながらないことを、彼女がこれほど遠慮《えんりょ》なく口にするとは思わなかったのだ。
「あの――ユーシス様の、どこが優秀でないと言うの?」
不思議そうにたずねるフィリエルをふりかえって、アデイルもまた驚いた顔をした。
「お兄様のだめなところ、たくさん見ているはずなのに。フィリエルは本気でそう思っているの?」
「だって、優秀でなければ、あんなふうに登場できないはずよ。あんなふうに……白い馬に乗って。他のだれが演《えん》じても、笑い話になるでしょうに、ユーシス様は違っていた。あのとき、なんだかまるで、物語がそのまま形になるのを見たような気がしたわ。若君は、馬術も剣術も秀でていらっしゃるという話だし……」
言いながら、フィリエルはだんだん赤くなり、アデイルにめずらしいものを見るように見られて、さらに首まで真っ赤になった。
「ふうん、フィリエルにも、そういう向きがあることはあったのね」
「よしてよ。ばかなことを言ったと思ってしまうじゃないの」
熱くなったほおを押さえて、フィリエルは文句《もんく 》を言った。アデイルは静かに首をふった。
「ううん、少しもばかなことではないわ。たしかにだれに聞いても、お兄様を優秀でないと評価《ひょうか》するのはまちがいよ。ユーシスは、|額縁《がくぶち》に入れて飾ってもいいほど、模範《も はん》的な騎士になれる人ですもの」
「もしかして、アデイルにはそれが不満なの?」
信じられないままに、フィリエルはたずねた。
「ばち当たりかしらね。でも、そうなの」
アデイルはかすかにほほえんだ。
「女王候補を擁立《ようりつ》する、ロウランド家の跡継ぎとして、わたくしの騎士として立つ自分を、お兄様はかけらも疑ったことがないんですもの。そういう|機微《きび》に欠ける人なのよ。だから、わたくしがどんなにぶさいくな女でも、どんなに頭の足りない女でも、彼は考えを変えなかったでしょうね」
ぶさいくにはほど遠い、愛らしく小さな顔立ちのアデイルは、どこか寂《さび》しそうに瞳をそらせた。
「だからわたくし、いっそ、自分で書いた小説のように、お兄様が道ならぬ恋をしてくれたらとさえ、ひそかに思ってしまうのよ。彼には、そういう後ろめたい部分が、一カ所くらいあってもいいのではないかと思って」
「とんでもないと思います」
フィリエルには、とうてい賛成《さんせい》しかねる意見だった。
「悪いけれど、アデイルの気持ち、わたくしなどにはさっぱりわからないわ。いったい、ユーシス様にどうしてほしいというわけなの?」
「わたくしにも、よくわからないの」
アデイルは細い肩をすくめた。
「フィリエルにも、わかってほしいわけではないの。これはただ、女王候補の憂鬱《ゆううつ》なのよ。たぶんね」
フィリエルはルーンを問いただそうと、意気ごんで出かけていったが、彼の部屋は空《から》だった。こうなると、広大な館《やかた》はやっかいだ。しらみつぶしに探すには、部屋数が多すぎる。
階下のメリング医師にたずねたが、彼もルーンの居場所を知らなかった。フィリエルは、だれかに言わずにいられない気分だったので、老医師を相手にこぼした。
「もう、ルーンったら、何を考えているのかさっぱりわからないんです。願い出るなら、もっとましなことがいくらでもあるのに、いったいどういうつもりなんだか」
「それはたしかに、わからんことだな」
医師がまじめに案じてくれたので、フィリエルは少々|溜飲《りゅういん》を下げた。桃色の禿頭《はげあたま》をしたメリングは白い口ひげをなでながら、考えこむように言葉を続けた。
「そういえば、やっこさん、この前わしに薬の致死量《ち しりょう》をたずねおったよ。以前に比べ、いろいろな方面に興味がわいてきたのは、いい傾向だと思おうとしたが、考えてみれば少々|不穏《ふ おん》かもしれんな」
「え……」
フィリエルはどきりとした。思わず真剣になって聞き返す。
「どういうことでしょう。先生は、ルーンが何を考えているとおっしゃるのですか?」
メリングは首をふった。
「彼はわしなどに、本心を明かしはしないよ。だからわしも、憶測《おくそく》ではものを言わんことにしている。たとえあの子の考えが、極端《きょくたん》すぎるものだとしても、いずれ方向修正できるなら、それでかまわないのだ。今はまだ、受けた傷《きず》が回復する途中なのだ。あれこれ言わずに見守るべきだ」
さりげない口調《くちょう》だったが、年齢をかさね、多くを見てきた人の経験が感じられた。太い眉のかぶさる瞳に見入り、フィリエルは、老人がルーンの傷について、自分より多くを知っていることを直感した。
あの忌《い》まわしい傷を治療《ちりょう》し、ルーンが高熱にうなされるあいだ、看病し続けたメリングなのだ。ルーンの暗い思いについても、医師ならもっと理解しているはずだった。
小さな声で、フィリエルはたずねた。
「ルーンは、見たところすっかり元気になりましたけれど、本当はまだよくなっていないと、先生はおっしゃるのですね」
少女を安心させるように、老医師は顔つきをやわらげた。
「よくなっとるよ。ずいぶんとな。特に体は、青少年ならば、これから|鍛《きた》えるのはおおいにけっこうだ。しかし、完治《かんち 》するまでめんどうみるという、わしの信条《しんじょう》に従えば、わしはまだあの小僧《こ ぞう》っ子を自分の患者《かんじゃ》と見ておるわけだよ」
フィリエルは大きくため息をついた。
「ハイラグリオンへ行くのが、なんだか不安になっちゃった。同じ宮城《きゅうじょう》の中といっても、始終そばにいるわけにはいかないんですもの。どうしてこう、次から次へと、心配のきりがない人なのかしら」
もうじき十六になるばかりの、大きな琥珀《こ はく》色の瞳をした少女が、生き生きした顔をしかめ、母親のようにこぼす様子に、メリング医師は目を細めた。
「大丈夫だよ、嬢《じょう》ちゃん。そうして気づかってくれる人がいれば、たいていの人間は乗り越えられる。それに、じつをいうと、今回の王宮《おうきゅう》行きには、わしも伯爵《はくしゃく》のお供をすることになったのだ。王立研究所には知人もいることだし、表敬訪問《ひょうけいほうもん》をかねて、患者の経過《けいか 》観察もできるだろうと、わしはにらんでいるよ」
「本当ですか」
フィリエルは両手をあわせ、顔を輝かせた。
「先生が来てくださるなら、こんなに心強いことはありません。ああ、よかった、それを聞いてずいぶんほっとします」
「何がほっとするって?」
いきなり後ろで声がした。飛び上がってふりむくと、開けっ放しだった扉のもとに、ルーンがぬっと立っていた。
いつそこへ来たのか、さっぱりわからない。この少年には、そうした妙にひっそりしたところがあった。ルーンも今は、ディー博士のお下がりを着ているわけではないのだが、自分でそれを選ぶのか、いつ見ても黒っぽい服装をしている。
上着の大きさは彼には合わず、あまって袖長《そでなが》になっており、結果として、高地《こうち 》にいたころとあまり印象が変わらなかった。むっつりと徘徊《はいかい》する、小柄な影法師《かげぼうし 》といったところだ。
驚くフィリエルを見やり、彼はうさんくさそうにたずねた。
「そんなところで、何しているんだ」
「いやね、あなたのことを探していたんじゃないの」
フィリエルが出ていくと、ルーンは、医師に声が届かないところまでフィリエルをひっぱっていき、憤慨《ふんがい》したようにささやいた。
「メリング先生と、あんまり二人きりで話すなよ」
「どうして?」
「あの人は油断ならない。フィリエルのこと、変な目で見てる」
「ばかみたい」
フィリエルはあきれてルーンをながめた。
「何を勘ぐっているんだか。メリング先生は、本気でルーンのことを心配してくれるのよ」
「いらないお世話だよ」
ルーンはぷいと横を向いた。
「あら、そう。あたしもいらないお世話を焼きますけれど、あなたロウランドの若君に、剣を教えろと言ったのですって?」
フィリエルの詰問《きつもん》に、ルーンは険悪《けんあく》な調子で言い返した。
「言ったよ。ばかだったよ。あいつには今後、二度と、絶対、いっさい、何があってもものをたのんだりしない」
「はいはい」
ため息まじりにフィリエルは答えた。ユーシスに関しては、そうしてすぐむきになるところが、ルーンらしくないのである。
「それなら別にいいわ。ルーンが若君に剣を教わるくらいなら、あたしが教えてもらったほうが、よっぽどましだもの」
「なんだよ、それ」
「だから、ことわられてよかったと言っているの。もしも教えてもらうなら、あたしのほうが先よ。ルーンは、そうしたらあたしから教わればいいのよ」
ルーンはフィリエルをにらんだ。
「きみが、ユーシスに教えてほしがっているとは、ちっとも知らなかったよ。それ以上剣など習って、何にする気なんだ」
「それを言うならルーンこそ、剣を覚えていったいどうするつもりだったのよ」
フィリエルが言い返すと、ルーンは一瞬言葉につまった。都合が悪いときのいつもの癖で、彼がすばやくまばたくのを、フィリエルは目ざとく見てとった。
「……フィリエル、天文台へ行くのを、もう少しだけ待ってもらえるかい。都へ出発する前には、なんとか方法を考えるから」
話題を変えたルーンに、フィリエルは怪《あや》しむ顔をした。
「本気で出発前に、セラフィールドへ行こうと思っているの?」
「当たり前じゃないか。メイアンジュリーの都は、ここから馬車で五日も南にあるというのに。一度行ってしまえば、いつルアルゴーにもどって来られるか、保証のあったものじゃない。もしも帰れなかったら、きみは、永久にお墓参《はかまい》りの機会をなくすんだぞ」
ルーンは力をこめたが、彼がそれを真剣に言えば言うほど、フィリエルはどうでもよく答える気になった。
「二度ともどって来ないなんてこと、あるはずがないじゃないの。あたしは行かないわよ。今、領主館を離れてセラフィールドへ行くなんて、みんなに迷惑をかけるに決まっているもの」
ルーンは驚いてたずねた。
「行きたくないのかい。フィリエルは、おかあさんのお墓へ行かなくていいの?」
「もちろん、つれていってもらうわよ。いつかはね」
フィリエルは笑みを浮かべて言った。
「ハイラグリオンへ行って、あたしが、おかあさんの思いを本当に受け取ったときにはね。今はまだ、お墓にもうでたとしても、おかあさんの前に語る言葉がないの。ハイラグリオンへ行って初めて、おかあさんに報告したいことができると思うの」
フィリエルの言葉に、ルーンは考えこんだ。彼との間を一歩つめて、フィリエルは続けた。
「だからあなたは、あたしのことを、無事に都からルアルゴーへつれて帰ってよ。そして、約束どおり、セラフィールドへつれていって」
「どうしても――ハイラグリオンへ行ってからでなければだめかな」
ルーンは自信なげにつぶやいた。メガネごしの瞳を見つめて、フィリエルはうなずいた。
「そうよ。あたしたちは帰ってこなくては。あなたは言ったはずよ。絶対に、死ぬ前にエディリーンのお墓へつれていくって。あたしは忘れないわよ。キスをして交わした約束には、力があるんだから」
ルーンはフィリエルをしげしげと見返した。
「キスに拘束力《こうそくりょく》があるなんて、あのときフィリエルは、一言も言わなかったよ」
「ルーン!」
眉をしかめるフィリエルを見ても、ルーンはけろりとしていて、含《ふく》みのある口調で言った。
「だけど今なら、充分よくわかったかもしれないよ――」
ようやくフィリエルは理解した。ルーンはおやつをもらえる子犬のように、期待にあふれるまなざしをしていた。
(……こいつ……)
そう思っても遅い。ときどきしてあげると言ったのは、フィリエル自身なのだから。ルーンは、フィリエルが困惑するほど、字義《じぎ》どおりに待っていた。
(でも、なんだか、これって……)
えさを与える親鳥のようであっても、フィリエルが思い描くロマンチックとは、どこか少し違うような気がするのだが。
そうはいっても、嵐《あらし》の色をしたルーンの瞳を見ると、期待に応えてしまうところが大甘《おおあま》だった。フィリエルがつま先立って身を乗りだし、ルーンにくちびるを寄せたときだった。突然、耳をつんざくセルマの金切り声が響《ひび》きわたった。
「フィリエルさん! あ、あ、あなたという人は! どこまでわたくしの訓戒《くんかい》を破れば気がすむんです!」
ユーシスは、その場にルーンがいないことを幸いに、|絨毯《じゅうたん》からチェスの駒を拾《ひろ》い集め、ルーンが演じてみせた驚くべき速攻に、再び思いをはせていた。
(ルールを覚えて三月もたたないようなやつに、どうしてこんなまねができるんだ……)
ルーンに才能があると断じたのは、父の伯爵だが、ユーシスも、今では彼の非凡《ひ ぼん》を認めていた。天に授かったセンスとしか言いようがない、大胆《だいたん》で斬新《ざんしん》な駒はこび。彼はどう見ても、恐ろしいほどの軍師《ぐんし 》の素質《そ しつ》を秘めていた。
その才能は、平時《へいじ 》にはただの奇人《き じん》ですまされるだろうが、ひとたび有事《ゆうじ 》にあたっては、突出《とっしゅつ》するか、抹殺《まっさつ》されるか、きわどくどちらかを迫《せま》られるだろう。今これからの時勢に、どう育てるかが難しい資質でもあった。
(よりにもよってだな……)
この少年が、グラール女王の血をひくフィリエルの幼なじみとして育ったという事実が、そもそも、あなどれない因縁《いんねん》として感じられるのだ。だが、ユーシスには、それを吉兆《きっちょう》とも凶兆《きょうちょう》とも、判断はしかねた。
この事実を少年に告げれば、濃い灰色の瞳に軽蔑《けいべつ》の色を浮かべて、「公家《こうけ 》らしい考えかただ」と言うことだろう。それくらいは、ユーシスでさえ容易に想像がついた。だからこそユーシスは、ルーンには告げないまま、チェスの局面を前に考えこんでしまうのである。
没頭《ぼっとう》していた彼のもとに、小間使いの少女がやって来て、「ご来客です」と告げていった。ユーシスはほとんど上の空だったが、さっそうと入ってきた人物を見て、思わずほおづえをはずした。
「ロット……?」
ふいに現れたのは、ロット・クリスバード男爵《だんしゃく》だった。ユーシスが驚くのは当然で、彼は、四月の女王|生誕祝祭《せいたんしゅくさい》にルアルゴーを訪れたおり、こんなに寒い場所はいやだと文句をたれて都へ帰り、それきり、夏にも音沙汰《おとさ た 》がなかったのだ。
「冷たい男だな、ユーシス。遠路《えんろ 》はるばるやってきた親友を、立って出迎えてもくれないのか」
ロットは勢いよく言ったが、あきらかに、ユーシスの驚く様《さま》を楽しんでいた。グラールで一番年若い爵位《しゃくい》保持者《ほ じ しゃ》は、淡《あわ》い色の長髪をリボンで結ばず、その身なりは、長旅をしたとも思えない隙《すき》のなさだ。最上等のベージュのマントをはおり、季節がらに合わせ、黄金の葉のブローチをあしらっている。
「どうして今ごろ? わたしたちは、明日あさってにも都へ発つところなんだぞ。手紙にも書いておいたはずなのに」
立って|抱擁《ほうよう》をかわしながらも、ユーシスはあきれた声を出した。
「風雲急《ふううんきゅう》を告げる使者というのを、一度やってみたかったんだよ、わたしは」
にんまりしてロットは言った。ユーシスは友を見つめなおした。
「どういうことだ」
「わたしと道を同じくして、二台の馬車が南北街道をルアルゴーまで駆けてきたよ。どう考えても、伯爵と伯爵夫人のお使者だな。だから、お二人とも、館の向こうでそれぞれに、同じ知らせを受け取っておられるはずだ」
ユーシスの顔に緊張《きんちょう》が走った。
「チェバイアット家が動いたのか」
「そういうことだ。女王争いの戦いの火ぶたは切って落とされたよ」
ロットの言葉に、ユーシスは黙ったまま肘《ひじ》掛《か》け椅子に体を沈めた。すすめられなかったことをまるで気にせず、男爵はその向かいに座った。
「……彼らが時期を早めたいきさつは? ブリギオンのトルバート侵攻《しんこう》に、何か急変《きゅうへん》があったのか」
ユーシスが切り出すと、ロットはうれしそうに椅子から身を乗り出した。
「トルバート周辺のブリギオン軍に、目立った動きがあったわけではないんだ。もっとも、やつらをその場に居座らせること自体、政策の誤りだというのが、レアンドラ姫|陣営《じんえい》の主張だがね。急を要したのはむしろ、内輪《うちわ 》の紛争《ふんそう》だよ」
「内輪? 急進派内部の――分裂?」
ユーシスがまなざしを鋭くすると、男爵は、聞く者のない北の館だというのに、声をひそめた。
「リイズ公爵が発端《ほったん》だ。ライアモン殿下は、ご自分に王権をひきよせる画策《かくさく》を練りはじめたらしい。一世代分|空隙《くうげき》のあった、グラール女王政の安定のためには、空隙世代の彼が、現体制のつなぎをつとめる策もあると、| 公 《おおやけ》の席でうそぶかれたそうだ。あわをくったアッシャートン侯爵が、女王候補|擁立《ようりつ》を宣言したというわけだよ」
あっけにとられてユーシスは言った。
「ライアモン殿下? アストレイア玉座に男性が就《つ》くといわれるのか? そんな横紙破りがとおるくらいなら、グラールはどうにでもなってしまうぞ」
ロットは、少し眉を上げて同意を示した。
「たしかに大胆極まる意見だが、急進も行きつくところまで行きつくと、保守にはねかえるというのが世の不思議でね。殿下は、すでに宮廷のあちこちで根回しを進めているらしい。在位五十年を越えるコンスタンス体制が、根こそぎくつがえされるよりはと、ご老人たちの心が揺れはじめている。彼らは怖いんだよ。過激なレアンドラ姫に、その椅子から追い落とされるのが」
「まずいな」
ユーシスはうなった。
女王陛下の令息《れいそく》、アデイルの叔父《おじ》にあたるリイズ公爵の、後ろの闇《やみ》の深さについては、ロウランドの者としてユーシスもよく承知していた。一度、あやうく接触しそうにもなった相手だ。蛇の杖の異名をとる秘密結社の、周囲に見え隠れする名前は、つねにこの人物のものなのだ。
だからこそ公爵が、これほどの早期に、表舞台で目立った動きをするとは考えられなかった。誤算《ご さん》だった。
「まともに影響をこうむるのは、アデイルだ。彼女こそは、これからハイラグリオンに名のりをあげて、宮廷の保守派陣営を味方にひき入れなければならなかったものを」
「まあまあ。あわてているのは、チェバイアット家も同じだよ。ロウランド家のみを射程《しゃてい》距離においていたところ、とんでもない方向から足をすくわれたのだからな」
無責任に近い、純粋なおもしろがりようで、男爵はつけ加えた。
「アストレイア玉座の交代劇が、毎回|一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないことは、過去の歴史が語っていることじゃないか。急進派勢力分散の点から言えば、あながち悪いことでもなかろう」
ユーシスは同調せず、低くつぶやいた。
「最初から|修羅場《しゅら ば 》がくるのか……できることなら、アデイルに、そういう思いをさせたくなかったな。王宮に身を慣らす時間が、少しはあると思っていたのに」
「心配性だな、お兄様は」
からかう声音《こわね 》でロットは言った。
「アデイル姫は聡明《そうめい》な女性だよ。彼女の風にも耐えない外見の陰《かげ》には、鋭い頭脳が隠し秘められていると、わたしは見たね。それになにより彼女には、王宮に到着する前から、宮廷の誇る美男が、二人までも騎士についているじゃないか」
ユーシスは、初めて気づいたように顔を上げた。
「ロット、君は、それが言いたくてルアルゴーまで馬を飛ばしてきたのか。君はすでに、爵位を授けられた人物だ。女王陛下の騎士たる保証をなげうってまで、アデイルにつくと?」
「年寄り連中の最後尾《さいこうび 》につくのは、もともと性《しょう》に合わなくてね」
ロットはさらりと言ってのけた。
「吹けば飛ぶような男爵位にしがみつかず、己《おのれ》をまっとうしろと、早逝《そうせい》した父も言うだろうよ。父は迷わずそうして、地所《じ しょ》を減らした口だがね。だが、まあ、クリスバード家の家訓《か くん》だからな」
少しためらって、ユーシスは友を見た。クリスバード家の所領は、都に近いヘスターにあり、ユーシスは何度も遊びに行って、親族の顔も見知っていた。
「わたしには、ありがたいが……母君や姉君は、とうてい良い顔をなさらないだろう」
「領主はわたしだ。説得されてもらうさ。もっとも、なるからには、女王候補の四騎士に加わるくらいでなければ、うちの女性達は納得しないだろうが」
目くばせをして、ロットは楽しそうに言った。
「きみは、さしずめ、アデイル姫の『赤の騎士』だろうな。一の騎士はゆずるとしても、『白の騎士』になるのは、このわたしをおいて他はいないよ。なんたって衣装が似合う。左右の騎士は見栄《みば》えがしなくてはならない」
「先走りすぎだぞ。わたしが赤の騎士になると、いったいいつ決まったんだ」
あきれた様子で、ユーシスは言った。
「だれもまだそんなことは言ってないぞ。第一わたしは、赤がきらいだ」
「そりゃ知らなかった」
笑いをこらえて、ロットはたずねた。
「その髪で?」
「うるさい。とにかくわたしは、赤い上着など絶対に着ないからな。みっともない」
むきになって、ユーシスは言いつのった。
「選ぶ権利があるはずだ。色を言うなら黒のほうが好みだ」
ロットはしばらく笑っていたが、やがて言った。
「君はときどき、子どものようだな。『赤の騎士』は一の騎士の異名であって、全身真っ赤でいろとは言わないよ。古来、黒の騎士には、隠し玉がなるものだ。ロウランド家|嫡子《ちゃくし》の君には、赤はあっても、黒はないんだよ。切るカードが違うだろう」
ユーシスはむっつりと答えた。
「わたしが騎士として、隠れもないことは認めるよ。ものごころついたときから、内にも外にも、そのために育てられてきたからな」
ロットはうなずき、軽やかに言った。
「背後の騎士のもう一方は、『青の騎士』だ。青の呼称《こしょう》には、年輩者《ねんぱいしゃ》・賢者《けんじゃ》の含みがある。擁立家以外の実力者のなかから、青の騎士を抜擢《ばってき》し得たとき、その女王候補は、王位|請求権《せいきゅうけん》をまったきものにするわけだ。赤、白、黒、青の四騎士に、どれほど優秀な人物を集めるかで、女王候補の器量がはかられる。ふるいたつ話じゃないか。こんなにわくわくするゲームに、若いうちに参加できなかった世代の人間を、実際のところ、かわいそうに思うよ」
*  *  *
「フィリエル、あなたったら、どうしてそこまで不注意になれるの?」
ダーモットの買い物から帰ってきたマリエは、栗色《くりいろ》の巻き毛をふりふり、嘆《なげ》かわしげに言った。セルマに首ねっこを押さえられ、自室につれもどされたフィリエルを、前にしてのことだった。
「わたしが、ちょっと目を離すとこれなんだから。廊下《ろうか 》でキスして、セルマに見つかったですって――物陰に隠れるくらいの才覚《さいかく》がなかったの?」
ロウランド家の雇用《こ よう》の上では侍女《じ じょ》だが、フィリエルの旧友《きゅうゆう》でもある彼女は、二人きりのときには言葉に遠慮がない。言いまくられて、フィリエルは首をすくめた。
「だって……そんなに、やましいことだと思っていなかったんだもの。あれは、ただ、ルーンへの励《はげ》ましのつもりだったのよ」
マリエはため息をついた。
「あなたのその感覚って、少々問題ありなのでは。あのね、いつか聞かなくてはと思っていたけれど、はっきりさせましょう。フィリエルは彼のこと、どう思っているの?」
「どうって」
まごついてフィリエルは問い返した。
「いきなり言われても、なんて答えればいいのか。何をはっきりさせたいわけなの?」
マリエは背をかがめ、フィリエルの顔を観察した。
「恥ずかしがっているの? これは大事なことなのよ。わたしは友だちとしても、あなたの侍女としても、知っておくべきだと思うわ。正直に言って、彼ともう何かの約束をしたの?」
フィリエルは声を小さくした。
「ルアルゴーへもどったら、いっしょにお墓参りをしよう――って」
マリエは声をはりあげた。
「とぼけないでよ。わたしが聞いているのはそんな話じゃないって、わかっているでしょうに」
「正直に言っているのに。ルーンと約束したのは本当にそれだけなんだから」
マリエは勢いよくフィリエルの隣に腰かけた。
「それだけ? それだけであなたはキスをするの? そんなものを恋人の約束といえるの?」
「よく――わからないんだけど」
マリエに隠しごとをする気はさらさらなかった。だが、フィリエルにとっても不確かだったのだ。首をかしげたフィリエルは、おぼつかなげに答えた。
「たしかに……恋人と言ってしまうと、少しふんいきが違うかもしれない。だいたいルーンとは、八つのときからいっしょにいたし……」
「将来の話はしたことがあるの?」
「ええ、それはあるわ。ルーンは将来、博士を追って、赤道《せきどう》あたりの星を観測しにでかけるつもりなのよ」
何の含みもなく答えるフィリエルに、マリエはあきれた様子で少し黙った。それから、真剣な声で言い出した。
「ねえ、フィリエル。あなたが彼のことを、家族みたいに大事にしているのは知っているわ。でもね、あなたはもう、薄弱《はくじゃく》な理由でキスのできる立場ではなくなっているのよ。女王家の血をひく女性なのよ。あなたがどこでだれを選び、どんな男性を|伴侶《はんりょ》にするかは、今後、国をあげての関心事になるんですからね」
フィリエルは肩をすくめた。
「それはマリエの力みすぎよ。アデイルならともかく、あたしは王籍に入っているわけでもないのに。そこまで注目されるはずがないわよ」
「わかっていないのね」
マリエはぷんとした。
「王宮へ行けば、あなたはアデイルお嬢様の片腕として、押しも押されもせぬ立場になるのよ。そんな人が、廊下で気安くキスしていてごらんなさいな。ハイラグリオンで、身持ちが悪いとレッテルをはられることほど、怖いことはないんだから」
「身持ちが悪いって……マリエ、言うことがだんだんセルマに似てきたわよ」
うらめしそうにフィリエルが言うと、マリエは大きく二度目のため息をついた。
「じつはわたしも、それを恐れているのよね。なのにあなたって、言わせるものがあるんですもの。それで、本家本元のセルマは、いったいなんだと言っているの?」
「セルマは――」
さすがにフィリエルもしおれた顔になった。
「今度という今度は、最終手段をとると言うの。伯爵様は女の子に甘すぎるから、伯爵夫人にじきじきに叱《しか》ってもらうですって」
「奥方様に?」
マリエは小さな叫びをあげ、口に手を当てた。
「まああ……叱られるのがわたしでなくて、本当によかった」
「どうしてみんなそう言うの? 奥方様って、そんなに怖い人なの?」
フィリエルは悲しげにたずねた。
「何回か、ごあいさつはしているけれど、いつもほほえんでいらして、とてもおやさしそうに見えたのに」
「おやさしいかたよ。奥方様が立腹《りっぷく》されたところを見たことがないと、領主館に働くだれもが言っているわ。伯爵様のなさることにも、一度も反対したためしがないのですって……けれども、奥方様の意に反したことは、一つもおこっていないという話よ」
フィリエルはまばたきした。
「それはつまり……本当のところは、奥方様がたづなを握っていらっしゃるということ?」
マリエは声をひそめた。
「そんな下世話《げせわ》なレベルの話ではないわ。ロウランドの奥方様は、宮廷婦人の粋《すい》をいくかたなの。粋の女性ともなると、にっこり笑っただけで、周囲を思いどおりにしてしまうのですって。もちろん、女官としての高い地位をお持ちで、王宮では、伯爵夫人の名によらない、ご自身の立場がおありなのですってよ」
フィリエルは落ち着かなくなってきた。
「……なんだか怖い人にきこえる」
「でしょう」
マリエは重々しくうなずいてみせた。
「セルマ婆《ばあ》さんだって、本当のところは奥方様をものすごく恐れているのよ。そこへ言いつけに行くなんて、よくよくのことだったのよ」
「どうしよう……」
フィリエルがうろたえているうちに、ノックの音がした。マリエが急いで扉を開けに行くと、針金のようなセルマが、勝利に瞳を輝かせて立っていた。
「フィリエルさん。レイディ・マルゴットがあなたのために、二、三、お話ししたいとおっしゃっています。すみやかに、|厳粛《げんしゅく》に、わたくしについていらっしゃい」
伯爵の叱責《しっせき》をうけるときよりも、ずっと緊張し、ずっと怖じ気づいて、フィリエルはセルマの後ろをすごすごと歩いていた。レイディ・マルゴットには、そのやさしげな笑みにもかかわらず、初対面から妙に近寄りがたかったことを、長い廊下で思い返さずにはいられなかった。
彼女がアデイルの実の母親なら、もう少し親しみがわいたのだが。そして彼女が、あれほど周囲に無関心に見えず、伯爵家のご夫婦として仲|睦《むつ》まじいところを、一度でものぞかせていたなら、また違っていたのだが。
領主館にフィリエルが来たことを、伯爵夫人がどうとらえているのか、実のところ、フィリエルにはさっぱりわからなかった。あいさつはしたが、たちいった言葉を交わしたことは一度もない。
そして、夫人の顔を見るたび、フィリエルはいつも、伯爵の書斎《しょさい》に大事そうに飾ってある、エディリーンの肖像画のことを考えてしまうのだった。気づまりにならないはずがなかった。
(やだなあ……何を言われるんだろう)
伯爵夫人の居室《きょしつ》は、西翼《せいよく》の塔の上にあるはずだった。だが、顔を上げたフィリエルは、セルマが階段を降りきって、地階の回廊《かいろう》を歩いていることに気づいた。不思議に思っていると、セルマは表に通じる扉を開け、フィリエルのほうへ向きなおった。
「レイディ・マルゴットは、伯爵夫人のお庭におられます。一人でお行きなさい」
日没が早くなっており、見上げた空はたそがれの金色だった。セルマのやせた手が指さす、薄闇《うすやみ》のおりた小道の先には、ツタの這う煉瓦《れんが 》の壁と小さな木戸がある。フィリエルは、観念する思いで小道をたどり、木戸を引き開けた。
最初に、ふわっと甘い芳香《ほうこう》がした。胸がおどるような、それでいて秘めやかな香り。みずみずしく、自然な高貴さの漂う香りだ。知らずにうっとり吸いこんで、フィリエルはあたりを見回した。
庭園にはまだ、古びた金糸のような光が射しこんでいた。四角に囲われた壁に沿って、青銅《せいどう》色の葉をつけた細い木々が植えつけてある。その一部が、見事な大輪の花をつけているのだった。巻き込んだ驚くほど多くの花弁をもつ、奇跡のようなピンク色の花――
(バラの花だ。本物のバラ……生まれてはじめて見る。これが王宮のバラの花……)
われを忘れて、フィリエルは見入った。荒れ野の奥地では想像もできない、豊かで過剰《かじょう》で、目にしみるように美しいものだった。心に明るいたいまつをかざしたように、うれしさがこみあげてくる。
静かな声がした。
「お気にめしまして? これは一番遅咲きのバラ、庭の最後のバラです。わたくしは毎年、これが咲くのを見届けてから都へ帰るの」
フィリエルはここへ来た理由を思い出し、伯爵夫人に向きなおった。だが、彼女の琥珀色の瞳は、バラのもたらした感嘆で赤ん坊のように輝いており、レイディ・マルゴットを思わずほほえませた。
「わたくしに見せてくださって、ありがとうございます。ずっと知りたかったんです。どんな絵を見るより本物のバラはきれい――それに、こんなに香るなんて」
「バラは、最初に香りで人々をひきよせたのです。香りこそ、この花の神髄《しんずい》。夜の闇も閉ざすことのできない、魅惑の本質となるものです。そしてそれは、王宮の美の奥義《おうぎ 》でもあるのよ。『目にあざむかれることなかれ』」
ふくよかな丸みのある声で、伯爵夫人は言った。彼女自身も、どちらかというとふっくらした人だ。色白の肌はクリームのようになめらかで、きめ細かなのどのあたりなど、大きな息子のいる人とも思えない。まげに結った髪は、やや赤みがかった栗色で、つやのある美しいはしばみの瞳をしていた。
フィリエルは、伯爵夫人が木綿の長手袋をし、実用本位の前掛けをつけていることに気がついた。片手に持つのは剪定《せんてい》バサミ、もう一方に持つのは柳籠《やなぎかご》だ。フィリエルの抱いていた夫人への気づまりは、この時点で消え失せた。
「奥方様は、ご自分で花の世話をしていらっしゃるのですね」
「わたくしは、このために夏のルアルゴーへ来るようなものですもの。後の季節は、ヘブンリーにまかせますけれど。生まれも育ちも南部のわたくしには、この庭だけが、ルアルゴーでわたくしのものだと思えますのよ。オーウェンには、はっきりそうとは申しませんけれどね」
オーウェンと呼ぶのが伯爵のことだと気づくには、少々時間がかかったが、フィリエルは彼女の気どりのない口調を、感じがよいと思った。
「夏はわたくしにとって休息の季節。王宮につめる冬の半年が、わたくしの活躍するときなのです。オーウェンの生き甲斐《がい》とは、ちょうど逆さまをいくの。それでこそ、ロウランド家はうまくいくのです。おわかりになって?」
少女を軽く見やってから、レイディ・マルゴットはあでやかに咲いているバラの一輪を切り取り、手早くハサミで棘《とげ》を落とした。
「あなたに――」
フィリエルはびっくりして息をのんだ。
「そんな、もったいない」
「いいのよ。摘むのも手入れのうちなのだから」
少女にバラの花をもたせて、伯爵夫人はほほえんだ。
「セルマはいろいろ言っていたようですが、さっきのあなたの顔を見ればわかります。あなたはまだ、本当にうぶなのね。まだ、どんな光と水がふりかかるかもわからない、青い蕾《つぼみ》の花。でも、ハイラグリオンへ行く人間は、純情だからといって、許してもらえるものでもないのよ」
フィリエルは困惑したが、夫人に何も言い返せないのも、間が抜けているような気がした。
「わたくしも、何の考えもなく王宮へ向かうつもりではありません」
「では、あなたがハイラグリオンへ行く目的は何? アデイルになら、わかりやすい目的があります。だれにとってもわかりやすい、女王候補という立場が。でも、あなたのことを正しく理解している人間は、まだずいぶん少ないのよ」
問いかけは柔らかかったが、厳しい問いだった。フィリエルが伯爵の計画だと言って、すまされるものではなかった。彼女ならば、夫の考えはとうに知っている。問いかけているのは、少女自身の理由なのだ。
「わたくしは――わたくしは、自分の母親がなぜ、あのようなことをしたのかが知りたいのです。それがわかれば、父のことも、今より理解できるような気がしますし」
フィリエルが気おくれ気味に言うと、レイディ・マルゴットは、注意深く瞳をむけた。
「それでしたら、何も王宮まで出向かなくても、わたくしがこの場で、あなたの気がすむまで語ってさしあげるかもしれませんよ」
フィリエルは口をつぐんだ。そして、前より小声で言いなおした。
「王宮へ行くのは、わたくしたちの安全がほしいからなんです。セラフィールドの天文台や――博士たちを――ずっと安全にするだけの力が」
伯爵夫人はかすかにほほえんだ。
「フィリエル、この地上に、真に安全な場所などあり得ないのよ」
「わかっています」
フィリエルはうなずいた。
「それでも、王宮には、力のあるかたがたが集まっていらっしゃいます。きっと何か、やりようがあるはずです。伯爵様も、そういう意味のことをおっしゃっていました。だから、わたくしは賭けてみたくなったんです」
夫人は片方の手袋をとると、腕を伸ばし、フィリエルの赤金色の髪をそっとなでた。
「あなたは知らないかもしれないけれど、あなたのそれは、りっぱに野心と呼べるものです。そして、野心を胸にもつ者には、つねに危険がつきまとうものです。あなたはそれでも、かまわないのね?」
「覚悟します」
「覇気《はき》のある女の子は、個人的には好きです――いいことかどうかは別として。あなたは、このロウランド家にとっても、それどころかグラール全体にとっても、ずいぶんな未知数なのね。ただ、これだけは、宮廷の先輩として言ってさしあげられるかもしれません。ご自分を大切になさい。バラにはなぜ棘があるとお思い?」
フィリエルは、手にもつピンクの花の、反《そ》りかえった花弁を見下ろした。
「……わかりません」
「棘も芳香と同じに、バラの本質なのです。大望《たいもう》をもつならば、うまく使い分けることが肝要《かんよう》です。それをさとらない人間は、ハイラグリオンという場所をわたってはいけません。王宮は実際、誘惑の多いところです――流されれば、利用されれば、とめどなく行きつくところまで行ってしまうところです。自力で泳ぐなら、賢く強くなりなさい。ご自分を安く売ってはなりません」
(安く……)
キスをしたことを言っているのだろうかと、フィリエルはいぶかった。
伯爵夫人はにっこりしたが、妙に、憐《あわ》れむ微笑に見えなくもなかった。
「大輪の花を咲かせるために、余分な蕾を摘みとることも多くあります。それは、バラを上手に育てる上での常識なのです。あなたはよくよく、自分がどんな蕾かを、見極める必要があるのですよ」
出発まぎわの喧騒《けんそう》のなかで、ロット・クリスバード男爵は、ユーシスと並んで馬のかたわらに立ち、あわただしく隊列を整備する領主館の人々をながめていた。
ルアルゴーの当主夫妻が、首都メイアンジュリーで冬をすごすのは例年のことだったが、今回の旅立ちには、アデイル嬢とそのお付きが加わっている。馬車のしつらえも人員も、通常ではなかった。
北のはての領主とはいえ、財力では南の侯爵家にひけをとらないロウランド家である。首都へひきつれていく配下の数も、並みではなかった。そうした大騒ぎを、ロットは楽しんで見守っていたが、ユーシスのほうは、いっこうに出発の合図が出ないことにいらいらしている様子だった。
ふと、ロットは、せわしく動き回る人々のなかに、妙に周囲から浮いた少年がいることに目をとめた。彼一人|所在《しょざい》のない様子で、ためらいがちに歩いているのだ。
黒髪の、体に合わない服を着た、黒ぶちメガネの少年で、驚くほど印象的だった。ロットが注目していると、少年は視線を感じたのか、いぶかしそうにこちらを見た。そして、ぎょっとした様子で足を止めた。
ロットは隣に立つユーシスを見やった。少年が、伯爵の令息に反応したことをさとったのだ。ユーシスも少年に気づき、苛立《いらだ 》った声で言った。
「君の馬車はこっちじゃないぞ。何のつもりでふらふらしているんだ」
彼が言い終わらないうちに、黒髪の少年はくるりと背中を向けた。こうまであからさまな拒絶《きょぜつ》だと、かえって愉快だとロットは考えた。伯爵家の領地内で、ユーシス・ロウランドに正面きって反発を示す人物を見るとは、思ってもみなかった。
そのとき、澄んだ高い声が響いた。
「ルーン、いったいどこへ行っているの。メリング先生が、ずっと探していらっしゃるというのに」
赤みがかった輝く髪の少女が、軽やかに少年のもとへ駆け寄ってきた。それがだれかを見極めると、ロットは口笛を吹きたくなった。セラフィールドの少女は、今は見違えるような令嬢になっていた。
上品なレースのついた茶のビロードを、個性的に、生気あるものに着こなしている。ドレスの押さえた色味が、少女の髪を、秋の焚き火のように暖かなものにしていた。大きな瞳も、つややかな木の実の色あいだ。感心したロットは、思わず口を開いていた。
「これはこれは、フィリエル嬢。しばらくお目にかからなかったあいだに、いちだんとお美しくなられましたね。わたしを覚えていらっしゃいますか」
フィリエルはびっくりしてロットを見、それからかなりたじろいで、優雅と言うには少し|敏捷《びんしょう》すぎるお辞儀《じぎ》をした。
「クリスバード男爵様……お久しぶりです。こちらから気づかずに、とんだ失礼を」
「いやいや、みなさんお忙しいときです。のちほどゆっくりお話しでもできれば、光栄のいたりですよ」
男爵がそつなく言ったので、フィリエルはほおを染めたものの、ほっとした様子だった。声をひそめたつもりで、少年をつついて文句を言っている。
「ほら、世話を焼かさないでよ。あなたがこんなほうへ来るから、困ったことになるじゃないの」
「ひっぱるなよ。わかってるよ。言われなくても、もどるところだったんだから」
少年は言い返したが、伯爵の子息にとった態度に比べればおとなしく、そのままフィリエルに補導《ほ どう》されていった。彼らを見送って、ロットはおもむろにたずねた。
「兄妹《きょうだい》にはとうてい見えないし、まさか夫婦ではあるまいが、フィリエル嬢とやけに親密な、あの少年は何者だね」
ユーシスは、少し驚いた顔で応じた。
「知らなかったのか。女王生誕祝祭のパーティにも来ていたはずなのに」
「気づかなかったな、あいにくと。このわたしは、相手がご婦人でなければ、めったに気にとめることはないんだ。君とは違って」
胸を張って言うロットに、ユーシスはため息をついた。
「ルーンは、フィリエルの父親が天文台の助手にしていた少年だよ。セラフィールドで、フィリエルと兄妹同様にして育っている」
「ほほう――」
ロットは考え深げに声をのばした。
「で、彼が、君を敵対視する理由はなんだね」
ユーシスは鼻をならした。
「知るもんか。いろいろあるんだろう。直接の原因は、わたしが彼を笑ったことだ。それから口をきいていない」
うなずいてから男爵は言った。
「つまりはこうだな。彼は、フィリエル嬢をめぐる、君の強力なライバルとして出現したというわけだ」
「彼がわたしのなんだって?」
「ライバル」
「何をめぐるライバルだって?」
「フィリエル嬢」
ユーシスは憤然として男爵をにらんだ。
「ロット、いまだにそれを言っているのか。ひと夏たったのだから、いいかげんに冗談も切り替えろよ。ひとつ覚えのやつだな」
「おや、そんなもの言いをしていいのか」
人の悪い調子でロットは言い返した。
「君がそんなに素直でないなら、これから君が指をくわえるところを、ほくそえんで見ていてやるぞ。このわたしが保証してもいい、あの子は、ハイラグリオンで磨《みが》きをかけたあかつきには、とびきり目をひく美人になるよ。夕日の色のあの髪を見てみろよ。大勢の男がふるいつくようになってから、あわててみても遅いんだぞ。まったく君というやつは、要領を欠いたやつだな」
「わたしは三歳からこちら、指をくわえたりしたことはない」
ユーシスは断言したが、あまりに文字どおりのことを言ったため、なんだかおかしく聞こえた。
「だいたい、これからのハイラグリオンで、このわたしに、女性の髪の色を気にしている暇があるとは思えないぞ」
「予言しておこう、ユーシス君。その考えは甘いよ」
猫のような緑の目を細め、ロットはにこやかに告げた。
*  *  *
「ふう」
宿のあてがわれた寝室に入り、ビロードのドレスを脱ぎ捨てて、フィリエルはやれやれとため息をついた。護衛《ご えい》を含めればたいした人数となる、ロウランド家の旅の一行は、そうそう路程《ろ てい》をこなすわけにもいかず、あっというまに泊をとる。
もっとも、ルアルゴー伯爵|御用達《ご ようたし》となっている宿泊所は、旅籠《は た ご》ではなく地方領主の屋敷らしかった。もてなしはいたれりつくせりで、岬の領主館と同じくらい、不便なことはほとんどない。
床に脱いだドレスを、思い直して椅子に掛け、フィリエルはしばし見つめた。まったく今日も、ルーンは機嫌が悪かった。フィリエルが新しい服を着た日、彼はきまってつっけんどんになるのである。
トーラス女学校から帰ってからこちら、アデイルとともに、ほとんど毎日ドレスやらガウンやらの仮縫いに明け暮れたことを考えると、フィリエルは気が重かった。
(会うたびに不機嫌ということになるかも……いやになっちゃう。ハイラグリオンへ行ったら、簡単に顔をあわせられないことくらい、わかっているくせに。せめて今のうちだけでも、いい顔をしなさいっていうのよ)
だが、彼への非難とは別の思いも浮かんできた。
(ルーンは頑固だ。けれども、このあたしは……慣れていってしまうのだろうか。以前なら考えることもできない、こうした贅沢三昧《ぜいたくざんまい》をすることに。伯爵家の一員として、下にもおかぬ扱いを受けることに……)
フィリエルも、慣れたいと思っているわけではなかった。そうなったら、万が一のときに、ホーリーのおかみさんのもとへ戻れなくなってしまうではないか。
おかみさんは、フィリエルのさそいを拒んで、ルアルゴーに残ると言ったのだった。
「二人とも行くなら、ついていってやりたいと思わなくはないけどね。あたしは、根っから荒れ野で育った人間なんだよ。せいぜいがんばっても、お館のお台所どまりだ。王宮などは、気が休まらないに違いない。ハイラグリオンでこの先、何があるかもわからないじゃないか。だから、ルアルゴーで待っていることにするよ。万が一にも、あんたたちが逃げて帰りたくなったときには、無条件に迎えられる人間がいたほうがいいだろう」
(……おかみさんが正しいのかもしれない。この先ハイラグリオンで、いったい何があるんだろう)
フィリエルは下着のまま、寝台に体を投げ出した。この自分、フィリエル・ディーは、これから先どうなってしまうのだろう。
レイディ・マルゴットの言ったことは、何度思い返してみても、バラの香りのようにつかみどころがなかった。だが、あの場ではさほど叱責されたと感じなかったのに、後から考えれば考えるほど、じわじわと怖いのだった。
(野心……あるのかな。あたしって……)
寝返ってあおむけになり、額に手を当てて、フィリエルは考えてみた。伯爵夫人は、フィリエルという娘が、ロウランドのためにならないことをしてのけるなら、剪定《せんてい》バサミで切り取る用意があると、暗にほのめかしたのだろうか。
急にノックの音がして、フィリエルは跳ね起きた。
「ど――どなたですか」
「わたくし」
声をひそめて言ったのは、アデイルだった。ドアからすべりこんできた彼女は、寝間着姿で枕を腕にかかえている。
「ねえ、こちらへ来てもいい?」
「いいけれど――どうしたの」
「慣れないベッドで、眠れないような気がして」
アデイルはフィリエルの寝台にあがりこんできて、うれしそうに言った。
「フィリエルって下着で眠るの? 色っぽいのね」
「違うのよ。着替えの途中だっただけ」
フィリエルは、あわてて寝間着に手を伸ばした。
「一人でするの? マリエは?」
「そういうのはやめようと、言ってあるの。わたくしは今まで一人で着替えていたし、これからだって、できる限りそうするつもりよ」
フィリエルが手早く寝間着を着るあいだ、アデイルは、枕を抱きかかえて待っていた。それからしみじみ言った。
「フィリエルっていいわ。あなたがいっしょに来てくれて、わたくしがどんなにうれしいか、きっと、あなたにも本当にはわからないのでしょうね」
フィリエルは髪を払って従姉妹を見つめた。明るい色の髪を肩に広げ、寝間着を着こんだアデイルは、暗がりで幼女のように見える。いたいけと言ってもいい様子で、とても女王候補たる女性には見えなかった。
「あなたでも心細く思うの? これからのこと」
思わず口調がやさしくなったフィリエルの質問に、アデイルは小声で答えた。
「当たり前でしょう。これからは、だれにもわたくしの肩代わりはできないんですもの。王宮へ行けば、人々が、わたくしを嵐《あらし》の中心核にして動きはじめる。けれどもわたくし自身には、その嵐を止めることも、制御することもできないのよ」
フィリエルはため息をついた。
「それでも、あなたはそんなふうに、これからのことがある程度見通せるわ。わたくしにはわからないの。何一つとして」
アデイルは柔らかく言った。
「あなたが、自分の立場を微妙に思うのは当然だわ。あなたは表向き、女王家の人間だと公表することはできないし、だからといって、ただの人でもないんですもの。でもね、あなたはあなたらしくしていていいのよ。わたくしもそう、わたくしらしくしているだけ。あれこれもくろんで演出するのは、別の人の役目ですもの」
「さばけているのね、あなたって」
フィリエルは感心してアデイルを見た。アデイルはほほえんだ。
「わたくしはたしかに、女王陛下の認知を受けた女王候補で、姉のレアンドラとアストレイア玉座を争うために王宮へのぼるけれど、これは、個人の争いを越えたものなのよ。王宮内にあらかじめ存在した権勢争いに、華やかでりっぱな名目を作るだけ。だからこそ、わたくしは生まれてまもなくロウランド家の養女になったのだし、そのときから、わたくしを支持する人々はほとんど決定されているの。もし、わたくしやレアンドラに全体への影響力があるとするなら、最後の数パーセントでしかないわ」
フィリエルは考え、首をかしげた。
「あなたはそう言うけれど――その、最後の数パーセントが重要なのではなくて? レアンドラという人に会ってみて、そんな感じを受けたけれど」
「わかるわ。あの人、強烈でしょう」
含み笑いをして、アデイルは言った。
「あらゆる点で、レアンドラは強烈なの。その強烈さで宮廷をかき回すものだから、不安になっている人が多いのよ。たぶん、女王陛下ご自身を含めてね」
レアンドラの戦闘的《せんとうてき》な言動を思い起こし、フィリエルもうなずかずにはいられなかった。
「陛下のお|膝《ひざ》に抱かれていては、グラールが滅びると、レアンドラは言っていたわ。そうあなたにも伝えろって」
「彼女はとっても楽しんでいるのよ。自分にふられた役割を。どんな女優もかなわないくらい」
アデイルはつぶやき、急にはしゃいでフィリエルの手をとった。
「ねえ、フィリエル。これからの勝負、たくさん楽しんだほうが勝ちよ。深刻に考えこんだとしても、結局なんの益にもならないもの。わたくしたちが行く場所は、この地上で一番華やいだところなのだから。レアンドラに負けず、わたくしたちも派手に楽しみましょうよ」
やはりアデイルには、今後のことがよくわかっているのだと、フィリエルは考えた。当然のことだろう。彼女は、生まれついての女王候補なのだから。
「あなたは、わたくしが来てうれしいと言ってくれたけれど、わたくしは王宮で、具体的には何をすればいいの? 奥方様も、あいまいなことしか言ってくださらなかったし、かろうじてわかることは、山ほどガウンを作るくらい夜会があるってことだけなのよ」
困惑ぎみにフィリエルがたずねると、アデイルはおかしそうに小声で笑った。
「そうね。さしあたって、わたくしとあなたは夜会に忙殺《ぼうさつ》されることになるでしょうね。でも、あなたのほうが、スリリングで魅力のある役どころよ。わたくしは女王候補として、お披露目《ひろめ》をするだけだけれども、あなたは、謎の美少女として登場するのですもの」
「謎の美少女って……アデイル」
あきれ返るフィリエルを、アデイルはいとおしくてならないように抱きしめた。
「きっとすごいわよ。宮廷の人たちは、気もそぞろな思いをするわよ。ロウランド家が女王候補にも劣らぬ扱いをしている、あの少女はいったいだれだろうって。それからが、あなたの魅力の発揮のしどころなの。わたくしたち、レアンドラ陣営とはまた違ったかたちで、ハイラグリオンに旋風を巻き起こしに行くのよ」
ルアルゴー伯爵の一行は、ファーディダッド連山にともなう針葉樹の多い森を抜け、国のなかほどを縦断《じゅうだん》する南北街道を一路南下していった。
主要な人々は四輪馬車に分乗しているが、その前後を多くの私兵が護衛につとめている。
この警護のものものしさは、中部地方の深い森に、以前、竜が出没したことに起因していた。もっとも、出たのはかなり昔のことで、ここ百年は目撃者がいないということだ。寒冷地で竜が繁殖《はんしょく》しないのは、まずありがたいことだと言わねばならない。
西海岸に半島としてつきだしたルアルゴー州を南に離れると、グラールの国土は一度くびれて狭まり、国の南端で再度海に大きく張り出している。エレイン州とアッシャートン州のある、この南の半島部には、世界の屋根に源を発する大河シーリーンがそそぎこんでいる。首都メイアンジュリーは、シーリーンの河口に位置し、運河をめぐらせて造営《ぞうえい》されていた。
南の小国家群のように、絶えず竜の脅威を受けるに至らなくても、メイアンジュリーの快適な気候は、昔は竜にとっても行動範囲だったようだ。今でこそ一掃されているが、都の建設当時には、竜退治の逸話がいくつもあったことを、フィリエルは道々馬車の中で聞かされた。
建国と同じ古さをもつメイアンジュリーは、当然ながら、国一番の港になっている。ダーモットの野心的な船乗りたちが、一様にめざす目的地も、まずはこの首都の港だった。
縫《ぬ》うように発達した運河に沿って街はにぎわい、肩を寄せあう建造物は海岸線に達している。そして、都のにぎわいを見下ろす東の丘に、ハイラグリオンが建っていた。
三つの丘陵《きゅうりょう》につらなる優美な宮城は、丘から丘へ、運河の上に白い橋を架《か》け、翼をかざして首都を守っているように見える。ハイラグリオンとは、王宮とそれに付随《ふ ずい》する一連の建物の総称であり、それのみで一つの街だった。白く聖別《せいべつ》された、高みの街なのだ。
最北地から、泊をかさねて旅してきた一行が、最後の平野をよこぎる前から、雪白《ゆきしろ》の目的地はなだらかな大地の果てに見えていた。それほどに、高く目をひくのがハイラグリオンだった。馬車の窓から身をのりだして、アデイルが示した。
「ごらんなさいな、フィリエル。あれがわが国の女王陛下のいらっしゃるところ。わたくしたちが、これから乗りこんでいくところよ」
フィリエルもその高い宮殿を、そして丘に広がるレース飾りのような白い建物群をながめた。初めて飛燕城を見たときには、シンデレラの城にたとえたフィリエルだったが、今度は類推《るいすい》が出てこなかった。
「……なんだか、人の住むところとも思えない。セラフィールドのことを、妖精の住みかだと言った人は多かったけれど、わたくしだったら、妖精はああいう場所にいるような気がするわ」
装飾的な建物群は、細部でそれぞれに自立性があり、生き物のように繊細で多様だった。それでも、総体の美しさを損《そこ》ねてはいない。白大理石の基部に銀の飾り、驚くほど数多くの窓という点で、どれもが一致しているせいだろう。全体をととのえているのは、三つの丘をケーキのふちどりよろしく取り巻く、白い回廊型の建物だ。三カ所で尖塔《せんとう》を高くそびやかし、天を突いている。音に聞くザラクレスの三つの大門を目にしているのだった。
こんもりした丘の斜面は森の緑でおおわれ、ハイラグリオンの雄大さがしのばれる。一番大きな中央の丘は、雪の宝冠をかぶったように、白く高い建物を頂上にいただいている。それが王宮だということは、だれに言われなくてもわかるものだった。
王宮の建築は、実際、宝冠に似かよっていた。ハイラグリオンで唯一円形に形作られており、大小さまざまな塔が周辺に建ち並んでいる。中央に、ひときわ高くりっぱな塔があり、高みで宝石を飾ったように丸くふくらんでいた。銀と白大理石とクリスタルにさんぜんと輝くその塔は、そこへ登れば、グラールの国中が見わたせるのではないかと思われた。
中央の塔からは、三、四方に吊り橋のような優雅に細い橋が出て、輪につらなる周囲の塔の一部とつながっている。それもまた、この世ならぬ、不思議な印象を与えるものだった。「天の回廊」というのだと、アデイルが教えてくれた。
「奇妙なながめでしょう。でも、中に入ってしまえば、遠目に見るほど異様ではないのよ。あんがい、ふつうの住居よ」
「でも、王宮のなかはすべて鏡ばりなのでしょう? ヴィンセントがそう言ったけれど」
「いやね、すべてというわけではないわ。よそよりは多いという程度でしょう」
フィリエルは、あれこれ思いわずらうのはよそうと考えた。それなのに、アデイルにいろいろ質問するのをやめられなかった。
「女王陛下はやはり、あの塔の高みに住んでいらっしゃるのかしら」
「象徴的にはね」
アデイルはにっこりした。
「塔の上はたしかに、最高星神殿だけれど、あそこに住むのは、うんざりするほど不便だと思いませんこと? ふだんの陛下は、もっと低くて居心地のよい、森の星神殿にお住まいなの。南の森の丘にあるのよ」
言葉を一度くぎってから、アデイルは考え深げにつけ加えた。
「昔は陛下も、王宮にお住まいになっていらしたと聞きますわ。でも、今ではめったに森を出てはいらっしゃらないのですって。もう何年も、宮廷をとりしきるのは、宰相閣下《さいしょうかっか》と大僧正猊下《だいそうじょうげいか》のお二人ですって」
「そうなの」
フィリエルは簡単にあいづちを打った。今の彼女の関心は、もっと直《じか》にかかわることで忙しかったのだ。
「それで――わたくしたちはどこに住むの?」
「ロウランド家には、王宮に定まった居室があります。お父様の側からもお母様の側からも、これは当然のことよ。北の丘に屋敷もあるけれど、お父様がたは、ほとんど従者の待機場所として使っていらっしゃるの。わたくしもあなたも、王宮から馬車で学院へかようことになるでしょうね。ほら、あの橋をわたって――北の丘の、こちら側にあるのが学院、森の向こうが王立研究所の建物よ」
窓から目をこらし、フィリエルはさらにたずねた。
「ルーンも王宮から?」
「研究所の人は、施設内に宿舎をもつものなのよ」
アデイルはさらりと答えた。そう言われたとたん、白い橋は遠くに見えた。馬車ならともかく、足で向かうにはそうとうの距離だ。うらめしそうにフィリエルは言った。
「アデイルったら、目と鼻の先だなんて言っておいて」
「あら、王宮とアンバー岬に比べたら、格段に目と鼻の先じゃありませんか」
アデイルはおかしそうにフィリエルを見た。
「何もあなたが、ルーン殿のことを見張っていなくたって。そんなに心配しなくても大丈夫よ。わたくしがお兄様に、しっかり彼のめんどうをみるように、よくよく言い含めておきましたからね」
もっと心配だと思ったが、フィリエルもそこまでは言えず、口をつぐんだ。
宮殿に到着してしばらく、フィリエルは地に足がつかない気分を味わった。しっかり者のマリエでさえ、息をするのも怖いともらしていたから、やはり同じ思いだったのだろう。
窓から港の景色が見える、西側の高い塔のまるまる一つが、ロウランド家に与えられた居室だった。この塔へは、天の回廊が通じていないことに、フィリエルは気がついた。
しかし、近くの窓からよくながめても、天の回廊は恐ろしい吊り橋にしか見えず、この橋を人間――ましてや高貴な人々が、渡ることはあり得ないと思えた。たぶん、象徴的な装飾《そうしょく》上のものなのだろう。
伯爵と伯爵夫人は塔の上階に、続き部屋が上下にいくつもある大きな居室をかまえ、フィリエルとアデイルもその下の階に、領主館と変わらないくらい大きな部屋をもらった。部屋数は多く、マリエたち侍従《じじゅう》の小部屋も充分あり、小ホールになりそうな応接間を使うこともできる。
下から三階分は、宮殿の回廊に接している部分だった。マリエとフィリエルは、つれだって回廊の探検に出かけ、結果ひどい目にあった。
回廊が、彼女たちの感覚以上に巨大だったことと、環状《かんじょう》だったことが敗因のようだ。さらに、決して単純なつくりの廊下ではなく、階段が多く、召使い用などが並行して幾本も通じ、複雑な枝道があることも知らなかった。方角がわからなくなり、迷子になって困り果て、さんざんな思いをして帰ってきたのだ。
「ここでは、荒れ野と同じにうっかりしたことはできないようね。王宮で行き倒れたら、荒れ野以上にみっともないことだし」
ようやくのことで見知った場所に戻ると、マリエはぶつぶつ言った。フィリエルもうなずいた。
「今度から、ポケットに小石かパンくずを用意して、まきながら歩くことにしたほうがいいかもね」
王宮の内装は、もちろんのこと最上美をつくしたものだったが、どこか軽やかに優美で、思ったほどの威圧感がなかった。フィリエルの想像上では、トーラスの礼拝堂のように荘厳《そうごん》なものだったので、ほんの少し意外だった。
ここはとにかく明るかった。ガラス窓が大きく数多いので、陽光がいっぱいに入ってくる。そして、室内の色づかいが明色や淡色で、草花や小鳥のやさしい模様にあふれていた。どちらかというと、むきだしの豪奢《ごうしゃ》さを抑制することに、美を見出しているようだ。
セラフィールドの家は言うに及ばず、アンバー岬の領主館でさえ、石造りの建物の内部は暗かった。フィリエルは、住居の内部がこれほど隅々まで明るいという経験をしたことがなかった。
日射しそのものも明るかった。秋が深まる様子は、まだメイアンジュリーのどこにも見られない。木々の枝先は青々として、海も空も明るい。当然のことながら、とても暖かだった。
だが、明るさで驚嘆するべきは、じつは昼間ではなく、夜だった。王宮の夜は、まるで眠ってはいけないかのように明るいのだ。
メイアンジュリーの港町も、ダーモットの何倍もの明かりがきらめいているようだったが、ハイラグリオンの比ではない。丘全体に、光輝くように照明がともしつけられた。さらに宮殿内のまばゆさといったら、闇を寄せつけないかのようだった。
王宮内では、明かりも、芸術的に見ごたえのあるものの一つだ。ガラス細工の意匠《いしょう》を競い、虹のように輝く、千の吊りランプ、千のシャンデリア、千のフロアランプ。妖《あや》しささえ輝きに添えて、昼よりもさらに華やぐのが、王宮の夜だと言えた。
それには、ヴィンセントの語った鏡も一役買っていた。夜になると多くの鏡が、照明を何倍もに増幅《ぞうふく》して、着飾った人影とともに映し出すのだ。
深夜になり、寝室の明かりを全部消しても、窓の外はくもりのない満月よりも明るかった。音楽や人々のざわめきも、絶え間なく聞こえてくる。当然のことながら、王宮の人々はとても夜更《よふ》かしなのだった。
この場所で際だったことはもう一つあり、それは芳香《ほうこう》だった。王宮内は、どこへ行っても香りに満ちあふれていた。
人々は、使用人に至るまでなんらかの香料を身につけていたし、部屋部屋には独自にくゆらせる香りがある。通《つう》になれば、個人や宮殿の特定の場所を、香りだけで当てられるようになるという。
フィリエルも、アンバー岬の領主館へ移ったときに、いくぶんは覚えたことだった。セルマに礼法として、きびしく教えこまれたことでもある。貴族たちは、衣装の色づかいと同じくらい、香りのおしゃれに気を配るものなのだ。
だが、なにごとも過剰になっては苦痛なものだった。最初のうちフィリエルは、頭痛がしてしかたがなかった。香りの攻勢に酔ってくると、北部高地の清冽《せいれつ》な空気を心ゆくまで吸いたいと、ひそかに思わずにはいられなかった。
まごつくことをたくさんかかえたフィリエルたちだったが、悠長《ゆうちょう》にかまえている暇は与えられなかった。都に着いて三日めには、早くも出席するべき夜会があると告げられたのである。
アデイルは、いくぶん憂《うれ》える調子で言った。
「レアンドラがすでに名のりをあげた以上、わたくしも、準備期間をとってはいられないのですって。こういうとき少しばかり、二歳の年の差が痛いかもしれないわ」
フィリエルは、むりにもほほえんで見せた。
「わたくしなら平気よ。たしかにまだ、頭がぐらぐらしているけれど、落ち着いてしまってからより、今の方が、なんでも思いきってできてしまいそう」
「そうね。勢いって必ずあるわね」
アデイルも言い、少し元気をとりもどした。
「二歳若いということを、こちらの武器だと考えなくてはね。女王候補アデイルは、まだデビューしたての十六歳で、右も左もわからないんですもの。考えなしで大胆でも、きっと、みなさんのお目こぼしにあずかるでしょう」
無邪気そのものの様子で言うアデイルに、フィリエルは笑った。この少女に、右も左もわからないなどということは、ほとんどの場合あり得ない。だが、そう見せかけることは抜群に上手なのだ。
「それで、あなたの戦略はどんなものなの?」
「そうね――最初のガウン、あなたはあの白いのを着てくださらない」
片目をつぶってアデイルは言った。
「わたくしは赤を着ることにするわ。知っているかしら、わたくしたち、二人で『雪白《ゆきしろ》とバラ紅《べに》』になるのよ」
鏡にあふれる王宮では、個室の鏡もたいそう大きい。フィリエルは、ドレスルームの鏡に全身を映し出している自分をながめた。
極薄《ごくうす》の布地をかさねた白のガウンは、身じろぎのたび、風を含んで揺れるほど柔らかで、自分が膨張したような感じがする。そして、水色とピンクのバラと真珠《しんじゅ》のつらなりが、際限なく広がろうとするガウンを押さえていた。全体として、色を押さえているはずなのに、なぜか派手に見える。
「本当にこれ、変じゃない?」
不信《ふ しん》をあらわに、フィリエルはマリエにたずねた。この衣装を一人で着ることはできず、さすがにマリエに手伝ってもらっているのだ。
「何を言っているの。夢の国のお姫様みたいよ、フィリエル」
膝をついて最後の造花をとめつけながら、マリエは答えた。
「あなたが以前、妖精娘と言われていたことを思い出すわ。今にも飛んでいきそうよ。あなたのウエストって、細いのねえ――さあ、できた」
立ち上がったマリエは、できばえに満足した様子で鏡にうなずいた。仕上げにもう一度、フィリエルの手首やえりあしに、淡いバラの香りのパウダーを軽くはたく。若い彼女たちには、調合《ちょうごう》した香水よりも、人々に好感をもたれる香りなのだそうである。
「これで準備万端よ。それじゃ、わたしも自分のおめかしに力を入れてくるわね。手袋をするのを忘れないで」
「うん……ありがとう、着付けてくれて」
確信なげに礼を言うと、マリエは部屋を出る前に釘《くぎ》をさした。
「しゃっきりしてね、フィリエル。会場では、わたしもあまり助けにならないわよ。わたし、たぶん、ロット様を探すことに専念すると思うから。じゃ、あとでね」
(……たくましいじゃないの)
思わず感心して、フィリエルは見送った。なんだかんだと言っても、マリエという少女は、決して自分を見失いはしないのだ。
(あたしは……?)
スツールに腰をおろし、フィリエルはしばらくぼんやりした。なんとなく、トーラスで挑戦劇の出番を待つときのような心地がした。
続き部屋で、衣《きぬ》ずれの音が聞こえた。マリエが戻ってきたのかとふりかえると、赤い色がフィリエルの目にとびこんできた。顔をのぞかせたのはアデイルだったのだ。
「まあ、フィリエル、とってもかわいい。お砂糖菓子みたい。このまま食べてしまいたいようよ」
はしゃいだ声で言い、アデイルは同じパウダーの香りをただよわせて近寄ってきた。彼女の真紅の衣装も、基本はフィリエルのガウンと同じ型だ。そのほかの装身具、銀のティアラやバラ型のイヤリングも、ほぼ同種のものをつけている。それなのに炎の色の鮮烈《せんれつ》さで、アデイルの印象は、フィリエルとはがらりと異なって見えた。
彼女は少し顔をしかめ、真紅の裾《すそ》をもちあげてみせた。
「わたくしはどう見えて? あまりに赤くて、さっきまで目まいがしたのよ。悪女のようではないかしら」
フィリエルはほほえんだ。
「悪女になるには、だいぶ無理があるわ。でも、とってもきれいよ、アデイル。情熱的なバラの花ね」
もしも、レアンドラがそれを身につけたなら、あまりにも見事な悪女になったかもしれないが、愛くるしいアデイルの容貌《ようぼう》では、さすがにそうは映らなかった。
けれども、その色は、意外なほどアデイルをひきたてている。彼女の柔和《にゅうわ》なイメージが、真紅によってひきしめられるのかもしれなかった。
鏡に並ぶ自分たちをながめてから、フィリエルは口を開いた。
「『雪白とバラ紅』って、あなたは言っていたわね――」
「ええ、そうよ。対《つい》にするなら、白鳥《オデット》と黒鳥《オディール》という案もあったのだけど、お父様がこれにしておきなさいって」
「どうしてなの」
フィリエルは低くたずねた。
「物語は異端ではなかったの? ワレット村でそんなことを言ったら、よくても寝言としかうけとってもらえないはずだわ」
「もちろん、異端よ」
落ち着きはらってアデイルは答えた。
「もしも物語の知識を、このハイラグリオンから持ち出したならばね。古い物語を知り、見立てに使うことができるのは、限られた人々の特権とされているの。王族か貴族――または王宮への昇殿《しょうでん》が許された人にのみ、できることなのよ」
「なぜ?」
フィリエルは息を吸いこんだ。立て続けにたずねずにはいられなかった。
「なぜ一般の人間だと、物語を聞いたり読んだりしてはいけないの? どうして禁止する必要があるの? ただのおとぎ話が、どうして王侯貴族の特権につながるの?」
フィリエルの剣幕《けんまく》に、アデイルは困った顔になった。
「あなたは天文台で、だれにも何も言われずに、お母様の本を読んだのでしたわね。わたくしは、ロウランドのお母様によくよく言い含められたわ。物語には精神《サ イ キ》があるから、みだりに口にするものではない、細心の注意で取り扱うものだ、って」
「精神《サ イ キ》?」
「何のことだと聞かないでね。わたくしにも、はっきりわかっているわけではないのだから。ただ、古くからあるということと関連があるみたい。古い物語には、何かがあるのよ。わたくしがこしらえた小説のようなものは別よ」
軽く首をすくめてから、アデイルは続けた。
「反対に、その人が王族や貴族ならば、古い物語を、どれほど知っていてどう生かすかは、試験になるのよ。今夜わたくしたちは、『雪白とバラ紅』を見立てるでしょう。これはゲームを仕掛けているわけなの。だれがどう気づいて、どう言い回すか。人々の反応をさそっているのよ」
フィリエルは眉をしかめた。
「どうしてまた、そんなに回りくどいまねをしなければならないの?」
「気持ちはわかるけれど、何ごとも、ほのめかしを良しとするのが宮廷の流儀なのですって」
アデイルは小さく笑った。
「今夜の夜会は、それほど大規模なものではないけれど、それでも宰相閣下の主催ではあるし、敵や味方が入り乱れて、たくさん集《つど》うことはまちがいないのよ。そのどちらもが、にこやかに笑って愛想をふりまいているわ。本音は、飾られた言葉の下にわずかにしか含まれていない。わたくしたちは会話のなかから、それらを拾《ひろ》い出す必要があるの」
フィリエルは細くため息をついた。
「……頭と胃が痛くなりそうなんですけど」
アデイルは、考え深げに金茶の瞳でフィリエルの顔をのぞいた。
「王宮ではね、古い物語に仮託《か たく》して何か言うことを、『楽園の言葉で語る』と言うのよ。そして、本当に重要なことを言うときにだけ使用するの。楽園の言葉は、生粋《きっすい》の王侯貴族にしか通じるものではないし、このサインを、気の利いたほのめかしに使うことができないようなら、その人は王宮にいる資格がないのよ。そう言えば、少しは特権の理由が理解してもらえるかしら。昔ならば、正真正銘の女王家しか使えなかったそうよ」
フィリエルは首をかしげ、それからしぶしぶ認めた。
「まだ、あまり納得できないけれど、そういうものだということは、なんとなくわかってきたわ」
「今に慣れるわ、フィリエルも」
柔らかい笑顔になって、アデイルは請けあった。
「わたくしたちは、最初から仕掛けているのだから、油断するわけにいかないのよ。フィリエルも、楽園の言葉で話しかける人がだれか、注意していてね。本当の味方か、本当の敵か、どちらかになるに違いないのだから」
その夜会は、宰相《さいしょう》ベリセントがルアルゴー伯爵と伯爵夫人の到着を祝うために開いたもので、環状回廊の一階にある広大なホールで行われた。
環状回廊のそこここには、大小のホールが点在し、日々、なにかしらの催しごとがあるという。だが、もし、それが女王主催のものごとならば、人々は階下のホールではなく、中央塔の上にある円形広間へ集うという話だった。
主賓《しゅひん》として招かれたロウランド家の人々は、まずは広間の階上で、宰相および宰相夫人と席をまじえて|晩餐《ばんさん》をしたためる。ユーシスとアデイルもこれにつらなり、フィリエルもまた同席した。
晩餐会に席を用意された人物には、伯爵夫妻より年配に見える男女が三十人ほどもいたようだが、緊張したフィリエルには、隣と前を見るのが精いっぱいで、あまりよくわからなかった。
最初は、満足にものが食べられるかとあやぶんだフィリエルだが、年配の貴族たちが和やかに自分たちの話をし、フィリエルに話しかけないことがわかってから、少し楽になった。アデイルに、若輩《じゃくはい》は目上の者に話しかけられるまで、黙っているのが礼儀だと聞いていたからだ。
どうやら晩餐の席で、彼女たちのガウンについて口にする者はいないようだった。斜め前のアデイルをちらりと見やると、彼女は心得顔《こころえがお》で沈黙を守り、上品かつ熱心にぱくついていた。
いく品もの料理が入れ替わり、デザートの皿も終わると、宰相が悠揚迫《ゆうようせま》らぬ態度で、部屋の移動をすすめた。階下の広間へとくりだすときなのだ。そこには、あらたな飲み物と入念《にゅうねん》な音楽とが用意されており、さらに多様な人間がすでに集っていた。
女性陣はホールへ出向く前に、化粧直しに控えの間へ寄る。アデイルとフィリエルもそうした。その機会をとらえて、フィリエルはささやき声でたずねた。
「ねえ、今、食事をしたかたがたは、全員味方と思っていいの?」
「ええと、まあね。ほとんどお父様とお母様の縁故《えんこ 》のかたがただから」
アデイルもささやき返した。
「みんな、お年寄りなのね」
「当然よ。現在要職にある人は、全員お年寄りですもの」
「宰相閣下も、ロウランド家の側の人なの?」
「お父様と血縁がおありなのよ。でも、簡単にそう考えていいかどうか、わからないところはあるわ」
慎重な口ぶりでアデイルは答えた。
晩餐の会場はかなり照明を控えていたので、そこから広間に続く踊り場へ出ると、茂みを抜けて夏の日のもとに出たような感じだった。ホールの柱は大理石の白。高い天井には空色が鮮やかな天井画が描かれ、目がさめるような明るさだ。床の色は淡い緑で、草原のように広々としている。
そこに集う、大勢のきらびやかな人々を見下ろして、フィリエルはおかしな気分になった。生まれて初めての舞踏会で、領主館のホールにたたずみ、階上のアデイルを見上げた自分を思い返していた。アデイルのことを、自分とは別世界に住む少女だと考えたはずだった。
(それなら、ここにいるあたしは、いったいだれなの……?)
今、赤い花と白い花になった少女二人をエスコートするのは、ルアルゴー伯爵だ。黒に金糸模様の上着をまとった伯爵が、いかめしい表情で少女たちに階段を下らせると、会場のざわめきが一瞬ひそまってから、にわかに大きくなった。華やかなこの会場にも、二人の少女ほど際だった色彩を放つものはないのかもしれなかった。
フィリエルは、自分たちが挑発していることが痛いほど意識され、面映《おもは 》ゆくてならなかったが、それでも顔を上げ、フロアを見回したのは、レアンドラが顔を出すにちがいないと、アデイルが予想していたからだった。
「敵に後ろを見せる人ではないもの。トーラスで不首尾が生じた今となっては、全面対決も辞《じ》さないに決まっているのよ」
気をひきしめなければと思ったが、それとは別に、フィリエルはぜひとも彼女を目にしたかった。心配なような、楽しみでもあったのだ。あのレアンドラが、王宮の華やぎのなかで正装したら、いったいどのように見えるものなのか。どのくらい、周囲を圧して映《は》えるのか。
(あれだけ美貌の人だもの。目立とうと思えば、どこまでも目立つにちがいない……)
フィリエルはそう考えたのだが、その考えはまったくまちがっていなかった。
王宮の夜会に集まる人々は、先ほどの晩餐会ほどではないが、フィリエルが思い描いたより、ずっと年齢層が高い。若者もいるにはいるのだが、装い華麗で目をひくのは、みな、落ち着き払った熟年の男女だ。だが、フィリエルたちからだいぶ離れた場所に、それとわかるほど、若い男性たちが群がり寄った一角があった。中央にいるのがレアンドラだった。
とり囲む男性たちに、見劣りしない背の高さをもつレアンドラだが、彼女はその上さらに、持ち前のプラチナに輝く髪を逆立て、離れていても突出して見えた。しかもその髪には、あっと驚くピンクと緑のメッシュが入っているのだ。
そして同じく度肝《ど ぎも》をぬくことに、レアンドラが着ているものはガウンではなかった。彼女が歩き出したため、とりまきの輪がくずれて全身が見えたが、レアンドラは、膝まである磨き上げた長靴《ちょうか》をはいていた。優美な肢体《し たい》にまとう、光る空色の衣装は男物で、軍服に似ており、長い脚をあくまでも長く際だたせている。
「……すごい」
フィリエルは、見入ったあげくにつぶやいた。レアンドラがピンクと緑の冠毛《かんもう》をふりたて、さっそうとフロアを歩むと、尾ひれのように男性たちが引きずられていく。目立つなどという、生やさしいものではないのだった。
アデイルもレアンドラを目で追ったとみえ、怒った声音でささやいた。
「まったく、気合いの入っていることったら。あの人の趣味って、本当に破壊的ですわね」
あれほど奇をてらったスタイルで、それでも魂が抜けるほどに美しいとは、考えられもしないことだった。レアンドラは、自分のずば抜けた美しさを心得ている。そして、おそらくはだれ一人、彼女の確信に異をとなえることはできないのだ。
(あたしなんて、たいしたことないものだわ……)
フィリエルは、目立つことに気のひけていた自分がばかばかしくなった。挑発的というのは、レアンドラのようなのを指すのだ。フィリエルの白いガウンなど、まるでお子様じみた、とるにたらないものだった。だが、そうさとったらさとったで気落ちするところが、女心の不思議ではある。
レアンドラは、これみよがしにフロアを行き来していたが、一定の距離を越えてアデイル側に近づいてはこなかった。たぶんそれが、親ロウランド派の夜会における、彼女のなわばりなのだろう。
それがわかると、フィリエルは気がゆるむのを感じたが、完全に気を抜いてしまうわけにはいかなかった。楽園の言葉で話しかける人を、見極めなければならない。
(それにしても、ちっとも知らなかったな――物語が、貴族同士の隠れた合い言葉だったなんて。博士は、一言も注意してくれなかったもの。あたしとルーンは、何の気がねもなく、気軽に日常会話に使っていたというのに……)
フィリエルは頭の片隅で考えた。それを言うなら、博士がつけたルーンの名前だってそうだ。略さなければ、ルンペルシュツルツキン――物語に出てくる、恐ろしくて少しまぬけな、最終的には主人公に幸せをもたらす、魔力をもったこびとの名前。ルーンの名を呼ぶごとに、自分たちは楽園の言葉を使っていたことになるではないか。
(博士ときたら、いったい何を考えていたのだろう……)
それが知りたくて、ハイラグリオンの王宮までやってきたはずだった。だが、知れば知るほど、フィリエルにはわからなくなるばかりだった。
自分はつくづく無知でちっぽけだと、思い知らされるばかりだ。今だって、すべてにめんくらったまま、自分の意志とも言えないのに、人形のように着飾らされて、王宮の夜会に参加している。
(こういうのは、ルーンだったら、一番毛嫌いする情況でしょうね……)
フィリエルは考え、こっそりため息をのみこんだ。
*  *  *
ユーシスは広いフロアを一回りして、しばらく会わなかった知人にあいさつをし、旧交をあたためあった。
南方に生息すると聞く極楽鳥《ごくらくちょう》のようなレアンドラは、彼の能力の限りを尽くして、巧《たく》みに避けて回った。彼女と再び言葉を交わして良いことは一つもないと、アデイルが明言していたし、ユーシスもかなりのところまで同感だったのだ。
ユーシスが宮廷に戻って、うれしいと言ってくれる人は多かった。学院からの知りあいはもちろん、なぜかしら年配の婦人たちに多い。ユーシスはつとめて、全員に同じようににこやかにふるまった。それがロウランド家の|趨勢《すうせい》にもかかわることを、彼の宮廷人としての教育が肝《きも》に銘《めい》じていたのだ。
そうして談笑し、冗談を受け流しながらも、ユーシスの意識の一部は、伯爵と二人の少女から離れなかった。薄緑のフロアのどこにいても、鮮やかな赤と白の少女たちは、容易に目に飛びこんできた。
実をいうと、ユーシスは気が気ではなかったのだ。伯爵の考えた、この思いきった演出に、ユーシスはあまり賛成できなかった。
アデイルと同列にフィリエルを並べて、女王候補のお披露目だと思っている宮廷人たちを|煙《けむ》に巻くこと――それは、趣向としてたいへんおもしろく、話題性にもことかかないだろうが、問題は、あまりに大役を背負うことになるフィリエルだ。
(あの子は、ひっきりなしにセルマに怒鳴《どな》られていたというのに……)
彼女がたとえ、文句のつけようがない優秀な娘だったとしても、その立場の微妙さと言ったら、薄氷《はくひょう》をふむ危うさなのである。エディリーンの名は、いまだに王宮では禁句だった。女王陛下が前言を撤回《てっかい》しない限り、今でもフィリエルの両親は、この国の反逆者なのだ。
フィリエルが宮廷での地位を確立すれば、女王陛下が考えなおすとふんでいる、父の伯爵のもくろみに、ユーシスはあまり確信がもてなかった。父のエディリーン王女への肩入れが、今も暗に存在することに――しかも伯爵自身は意外と無自覚なことに、ユーシスは気づいていたのだ。
(フィリエルは、それほど特別な女の子ではない。ごく当たり前に、辺境のセラフィールドで育って、当たり前に、宮廷のかけひきなどにはまったく慣れていないんだ……)
当の女王候補である、妹のアデイルも心配なことは心配だったが、それでも彼女がこういう場所で、どれほど高い能力を発揮するかは、だいたい察していた。
アデイルには、手に負えない我《が》の強さもあるが、情況を見極めることのすばやさに、いつもユーシスが舌をまくのだ。第一アデイルならば、セルマのような人物を手玉にとって、一度もわずらわせたことがないのである。
だから、気がかりなのは赤い花より白い花だった。フィリエルが貴族の一人に話しかけられるたび、ユーシスはひそかにはらはらした。
アデイルと違って、フィリエルには表情をとりつくろうことができないようだった。困惑した様子、自信のない様子が、遠目に見ても伝わってくる。しばらくのあいだ、ユーシスはじれてくる自分と戦っていたが、とうとうたまりかねて、まっすぐフィリエルのもとへ向かった。
そのときフィリエルは、年若いストー男爵の子息に話しかけられており、答えに窮《きゅう》していた。それなのに、それまでやんわり口をはさんで救っていたルアルゴー伯爵は、アデイルの側で宰相と話しこんでおり、救援に気づかない様子だったのだ。
「失礼。彼女と話してもよろしいですか」
にこやかに割って入ってから、ユーシスは、これがフェアではないことに気がついた。ストー家の若者は学院の後輩であり、ユーシスには相手をゆずるしかない。だからこそ、身内の女性には行使《こうし 》しない暗黙《あんもく》の了解があったはずなのだ。
男爵の息子は、はた目にもびっくりした様子で、ユーシスのそばから一歩しりぞいた。
「……ええ、どうぞ。なにも、たいした話をしておりませんから」
ユーシスが来たのを見て、フィリエルは見まちがえようもないくらい、助かったという表情を浮かべた。宮廷ではふつうお目にかかれない、その開けっぴろげな表情に、ユーシスは思わず心を打たれた。
(この子はまだ本当に、この宮廷のやり方に少しもなじんでいない……)
暗黙のルールをはりめぐらせ、裏の裏を読みあう、王宮ならではの陰湿さに、彼女はまだ少しも染まっていないのだ。
どことなく、初めて王宮へつれてこられた自分を思い起こすようだった。宮廷の流儀が理解できず、最初の何年か、ずいぶん苦労をしいられたものだった。
われにもなく、ユーシスは彼女に言っていた。
「少し踊ろうか。踊っているあいだは、だれにも話しかけられないよ」
その言葉を聞くと、少女の琥珀色の瞳が輝いた。
「ええ、わたくし、踊るほうが――たぶん、ずっと好きです」
会場に流れる音楽は、しばらく前から舞曲《ぶきょく》になっており、踊るにはなんの不都合もなかった。何組かの男女が、すでに心地よげに回っている。フィリエルの手をひいて中央へ向かったユーシスは、むぞうさに踊りの輪に加わった。
少女は一瞬のうちに、ふわりと音楽にのった。勘《かん》がよくないとできないことだ。好きだと言ったとおり、軽やかなことこの上なかった。前に踊ったときも、たいへん踊りやすかったことを、ユーシスはにわかに思い出した。
たいていの女性を、ユーシスは見忘れてしまうのだ。ユーシスであっても、一応美人と美人でない女性の見分けはついたが、だからといって、好悪《こうお 》の感情を分けようとは思わなかった。
ユーシスが女性を区分するのは、美醜《びしゅう》に関係なく、ロウランド家の益になるかならないかだった。そうして等しく敬意をはらった結果、当面の必要最小限しか、女性の顔が記憶にのこらないのである。
フィリエルのことも、最初の印象はもう薄れていた。しかし、なぜかしらこの少女は、以前も今も、ユーシスの目が離せなくなる効果をもっている。それがユーシスにとっては、なかなか不可解なことだった。
(以前は、彼女がエディリーンの首飾りをしていたせいだと納得できたんだが……)
今のフィリエルは、王家の青い宝石ではなく、粒のそろった真珠の首飾りをしている。それでも彼女は魅力的に見えた。その身にまとっている、ふわふわした白いガウンのせいなのだろうか。
「似合っているね、そのガウン」
踊りの途中でささやいて、ユーシスは自分にびっくりした。熟考したお世辞でもないのに、そんなことを言ったのは初めてだった。
「そうでしょうか……」
フィリエルはあやぶむ顔をした。あまり自信がないらしかった。だが、彼女の表情はくるくる変わる。音楽が高まると、フィリエルは会話をそっちのけでほほえんだ。ただダンスが楽しいのだ。ユーシスの相手をしながら、ダンスに没頭《ぼっとう》する娘もまた宮廷にはめずらしかった。
(この笑顔を、この子はこれからだんだんになくしていくんだ……)
そんな思いが、ユーシスの胸をよぎった。ふいに、守ってやりたくなった。北の高地の澄んだ空ばかりを見て育った、彼女のみずみずしい純粋さを、可能な限りとどめてやりたい。
今さらながらに、ユーシスは少女を美しいと思っていることに気がついた。フィリエルには、独特の清らかさがあった。その赤みがかって輝く髪にも、媚《こ》びのない琥珀色の瞳にも、優雅さと野趣《や しゅ》を同時にそなえた、細くしなやかな容姿にも。気づくとともに、心の奥底からぼんやりと浮かぶものがあり、ユーシスはそれを口にした。
「君を見ていると、なんだか思い出すものがあるよ。昔きいたことのある――白雪姫《しらゆきひめ》みたいだ」
フィリエルはその言葉を聞くと、栗色の睫毛《まつげ 》でまばたき、大きな瞳をさらに大きくした。
「白雪姫――そうおっしゃいました? あの、もしかして――」
驚くフィリエルに、ユーシスは小声で笑った。
「君は知らないかもしれない。たしか、お妃《きさき》の悪だくみに気づかずに毒リンゴを食べてしまう、白雪姫の話があったんだよ」
そのとき、一つの舞曲が終了した。踊り終えて足を止めたユーシスは、ごく自然に申し出ていた。
「話の続きをしよう。庭園を歩かないか」
フィリエルはまだ驚いた顔で胸を上下させていたが、彼のさそいを聞くと、こくりとうなずいた。
*  *  *
要人たちを相手に談笑していたレイディ・マルゴットは、|侍従《じじゅう》の盆に手を伸ばしたルアルゴー伯爵を見やると、さりげなく近寄っていって、一言ささやいた。
「内輪うけしているようですわよ、あなた」
「…………」
ゴブレットを手にした伯爵は、長すぎる間をおいてから、おもむろに答えた。
「まあ、それもまた、一つの方向性だろう」
レイディ・マルゴットは夫をちらりと見てから、軽く息をついた。
「たしかに、煙に巻くという点では成功しましたわね。ロウランド家にとって、あの子がどういう存在なのか、今晩、取りざたしない貴族はいないでしょうよ」
*  *  *
フィリエルは、多少頭が混乱していた。
ユーシス以上の味方は存在しないはずなのに、彼を見分けることにも、意味があるのだろうか。
(それに、どうも……違う物語のことをおっしゃっている気がするんですけど……)
それでも彼が、楽園の言葉を語ったことはまちがいなかった。それにフィリエルは、ユーシスが見るに見かねて自分をつれだしてくれたことを、かなり正確にさとっていた。
少々ふがいなかったが、一方では、泣きたいほどほっとしたのだ。これ以上見ず知らずの人々に囲まれて、へまをすることがなくなったと思うと、心底ありがたかった。
ストー家の令息に困りきって顔を上げたとき、ユーシスの丈《たけ》高い姿を見て、フィリエルは正直感動したのだ。王宮の広間に場所を変えても、ユーシスはやはり、会場で一番のハンサムに見えた。
彼は、上品な紺《こん》の上着で夜会に臨《のぞ》んでいた。公の場に立つユーシスには、年齢以上の落ち着きがそなわっている。何が起きてもびくともせず、軽くほほえんで対処できるように見える。
(……伯爵様になるよう、生まれてきた人なのだ。生まれ落ちたそのときから、星女神に格別に愛されている人なのだわ)
フィリエルはそう考えた。その彼のそばに寄り、あふれる女神の恩寵《おんちょう》にあやかりたいと、思わない者がいるだろうか。ユーシスにひきつけられる人間は大勢いて、自分も大勢の一人なのだと思うと、少々せつない気もした。なんといっても、ルーンでさえ軟化《なんか 》させたユーシスなのだから。
だが、フィリエルも、今このときはユーシスと二人きりだった。夜会のホールを抜けて、柱廊のある白いテラスを歩み、広い階段を下って夜の庭園をながめたとき、フィリエルは、われに返ったようにそのことに気づいた。
王宮の庭園は、周辺の森をところどころに配したまま造園した広大なものだった。並木をぬって、いくつもに枝分かれした小道が続いている。もちろん、たくさんの明かりがちりばめてあり、ベンチやあずまやのありかはひときわ明るく、夜の中に幻想的に浮かび上がっている。枝の重なる暗い木陰も、足元が危ういほどの闇ではなかった。
すでに夜は更けているので、南のメイアンジュリーといえども夜露が冷たい。それでも、寒すぎるというほどではなかった。フィリエルには涼やかな空気がうれしく、何度も胸いっぱいに吸いこんだ。
夜の木立の静かな闇が、大広間のきつい照明にささくれた神経をなだめてくれる。やさしい夜の匂い、湿った樹木の匂い、露の匂い。人工的に香らせなくても、世界はすばらしい香りであふれているものをと、フィリエルは考えた。
暗い葉の茂りあった彼方で、ふいに、さえずる歌声が聞こえた。フィリエルには初めて聞く鳥の声だが、巧みにさえずり、得意そうで、耳をすませると思わずほほえんでしまうようだ。
「……あの声は何かしら。こんな夜更けに啼《な》くなんて」
つぶやいたフィリエルに、ユーシスが律儀に答えた。
「小夜啼鳥《さ よ なきどり》かな。わたしも、あまり詳しくないんだが。声をたよりに歩いてみるかい?」
彼は小道を歩き出し、その腕を当たり前のようにとれることが、フィリエルにはうれしかった。この腕につかまっている間は、きっと、何ごとも心配しなくていいのだろう。
庭園をそぞろ歩きする人の姿は、多くはなかったが、ちらほらとは見うけられた。ユーシスは、そんな人影が見えるあいだは、ほとんど口を開かなかった。だが、やがて木立をだいぶ進み、人の気配も消えてから、彼はようやく切り出した。
「……話の続きをすると言ったね。わたしは君に、まだ一度もきかなかったことに気がついたんだ。君が、王宮で暮らしたいと思っているのかどうか。思っているなら、この先、君の素性を明かしてもいいと思っているのかどうか」
フィリエルは少しとまどったが、思ったとおりのことを口にした。
「それをきくなら、やっぱり、もうずいぶん遅いと思いますけど。こうして王宮へ来てしまったのだし、どう考えても、もはや引っこみがつかないのでしょ?」
「それはそうだ」
ユーシスは認め、言葉を探した。
「君は、ロウランド家の――父やアデイルやわたしを一切含めたロウランド家の、思惑にのったものだと考えていた。わたしたちは、アデイルを次期女王の座にすえることを、すべてに優先して考えてしまう。君もそれに加担《か たん》している――加担するべきだと、強引に考えていたんだ。でも、今日の君を見て、わたしは少し後悔したかもしれない。わたしたちは、君の意志を無理に曲げはしなかっただろうか」
「そんなことはありません」
フィリエルは小声で答えた。思わず目を伏せたのは、今日の夜会で、自分がよっぽどたよりなく、頭の空っぽな子に見えたにちがいないと思ったからだった。
「わたくしは、もの知らずかもしれませんけれど、自分のことが自分で決められないほど、優柔《ゆうじゅう》ではないつもりです。それに、お人好しでもありません。たしかに、まだ少しも王宮でうまくふるまえませんけれど、これから学びます」
ユーシスはしばらく考えているようだった。それから、声を落として言った。
「これは、決して他言できないことだが……君を王宮へつれてくることで、わたしの父が何を望んでいるか、知っているかい。君の存在がまきおこす波紋で、神殿の森の女王陛下をゆすぶり起こそうとしているんだ。陛下が、森からお出ましにならざるをえない情況を作り出そうとしているんだよ」
フィリエルはまばたき、ユーシスを見上げた。
「女王陛下はそんなに、森の神殿にこもっていらっしゃるのですか?」
「そうなんだ。今ではたまさか、新年の賀くらいにしか、お出ましになることはない。四月の生誕祝祭でさえ、大僧正猊下が代行したくらいだ」
「それは、つまり――」
「うん。陛下はすでに、お体が弱っておられる。そして、陛下の代行をすればするほど、メニエール猊下の発言力が増す。あってはならない日が来ないうちに、父は陛下の口から、ロウランド家の正当さを告げる御言葉を引き出したいんだよ。すなわち、追放された王女をかくまい、その血を保護したロウランド家のふるまいには、先見《せんけん》の明《めい》があったと」
なんだか寒々しい思いがして、フィリエルは少し身震いした。母が早くに死に、父が海に消えたことを、保護されたと言うことができればよいのだが。
かすかな声で、フィリエルはたずねた。
「陛下が……いったい、そんな日が来ると本気でお考えですか。わたくしを、孫だとお認めになるなんて」
ユーシスは少しためらって答えた。
「わたしにも、よくはわからない。けれども、フィリエル、ことはすでに始まっている。君の素性についての推量を、王宮内で口にするほど愚かな者はいないだろうが、それでも力のある貴族なら、いくらでも探り出すことは可能なんだよ。大貴族は、裏の情報網をもっているものだ。ましてやロウランド家では、暗示するふりまでして挑発している」
フィリエルははっとして、白いガウンを見下ろした。
「これ――そういうことなんですか」
「だれ一人口にしないことが、衆知の事実となったときに、均衡《きんこう》がくずれる。事実を根源から抹消《まっしょう》するか、さもなくば| 公 《おおやけ》に認めるしかなくなるんだ。君とともにロウランド家をまるごと抹消する力は、グラール広しといえどもないはずだ。たとえ、それが女王家であっても。だが、どのように認めさせるかが問題なんだ」
ユーシスはしばらく黙った。それから、ふっと肩の力をぬいてフィリエルを見やった。
「複雑な化《ば》かしあいの泥仕合ばかりだよ、この王宮というところは。君は、こういうものは好きじゃないだろう。実をいうと、わたしも好きじゃない。立場上、そんなことを言ってもむなしいけれどね。いくつになっても、王宮の広間は、あんなに広いにもかかわらず息がつまってくる気がするよ」
「本当に? あなたでも?」
フィリエルは思わずたずねた。伯爵の令息を「あなた」と呼んでしまったことに気づいたが、ユーシスはやさしく笑っただけだった。
「やっぱり君、わたしをそんなふうにしか見ていなかったな」
ユーシスの笑顔を見たフィリエルは、心がおどった。
(あ、どうしよう……すごく、うれしい……)
初めてほのかに仲間意識を感じた、最初のダンスのときのようだった。ユーシスのほほえみが、あのときと同じに親しいものに感じられた。しかも今では、当時の思いこみより、フィリエルはユーシスのいろいろな面を、ずっとたくさん知っているのだ。
「話してくださって、ありがとうございます。あなたが本意でなくても、ロウランド家のつとめをそれほどりっぱにはたしていらっしゃるのなら、わたくしも、自分にふられた役割をがんばってみることができそうです。ことはすでに始まっているんですもの、しりごみしてもしかたないし」
「| 潔 《いさぎよ》いセリフだね」
ユーシスはにっこりしたが、すぐにまじめな口調に切り換えた。
「君を、ある意味つなわたりのような危険な場所においていることは、重々承知している。君のことは、ロウランド家が全力をあげて守るから。君の身に何も不幸が起こらないように、君が一人で悲しむことのないように。星女神にかけて誓うよ、わたしが全力を尽くす」
鼓動《こ どう》が早まるのを、フィリエルは感じた。心地よいぬくもりが、体じゅうに広がるようだった。今だったら、ユーシスに何でも言うことができるような気がした。ふだんなら、恥じらってとても言えそうにないことでも、今夜の庭園でなら、フィリエルにも口にすることができるのかもしれない……
(言うのよ、フィリエル。今しかないのよ)
思いきって、フィリエルは口を開いた。
「ユーシス様。あの、どう思っていらっしゃいますか――ルーンのこと」
「ルーン?」
拍子抜けした声で、ユーシスは聞き返した。フィリエルもあわてた。本当に聞きたかったことは、もう少し他にあったかもしれないのに、口はそのようにすべったのだった。
「あの……ええと……」
フィリエルは言いなおそうとしたが、言いわけすればするほど変なところにおちいりそうで、とうとう試みを放棄《ほうき 》した。
「ええと、ルーンのこと――です」
「わたしが彼をどう思っているかが、そんなに大事なことなのかい?」
ユーシスがいぶかしむのは、たぶん当然だった。しかし、今さら違うとは言えない。フィリエルはしぶしぶうなずいた。ユーシスは、いくぶん顔をやわらげた。
「ああ、そうか。わたしがルーンを嫌っていると考えているんだね。そんなことはないよ。彼にはたしかに偏屈《へんくつ》なところがあるが、そんなに悪いやつだと思っていない。ただ――」
「ただ?」
「彼が接触した、異端の秘密結社。あいつらは本物の悪党だ。やつらまで容認することは、このわたしにはできない。根だやしにできるものならしたいところだ。ルーンと蛇の杖に接触点のあったことは、今でも気になるよ。やつらも、王立研究所までは手を伸ばせないとふんでいるんだが」
フィリエルはためらいながら言った。
「ルーンも、あの男たちのことは憎んでいます。心配になるくらい、ひどく――」
「そうかもしれないな」
「王立研究所は、本当に安全なんでしょうか」
ユーシスは注意深く答えた。
「まず大丈夫だ。あそこほど、厳密に女王の管理下におかれた研究施設はないからね。異端の人間が入りこむ余地はないはずだ。たとえ異端を行うのが、宮廷人であったとしてもだ。ハイラグリオンの奥深いあの場所へ、ふらちな連中を送りこむのは無理だろう」
「それならいいんですけど……」
「君がそんなに心配なら、わたしもよく目を配っておくことにするよ」
ユーシスが思いやり深く言ったので、フィリエルは驚いて顔を上げ、首をふって強く打ち消した。
「いいえ、とんでもない。別にいいんです。全然、若君のお手などをわずらわせなくて」
「そうか?」
めんくらったように、ユーシスは少し黙った。
小道をひとめぐりしても、とうとう小夜啼鳥には出くわさなかったが、フィリエルもユーシスも、それほど残念だとは思わなかった。フィリエルは初めての体験に心をときめかせ、充分に堪能《たんのう》した思いだったので、そのままユーシスと塔の部屋へ戻り、お休みを言って別れたことも、ごくふつうだと思っていた。
自分が、シスター・ナオミのメソッドの第二段階まで進みながら、およそ色気のない話をして別れたことに思い至ったのは、ぐっすり眠った翌朝だった。そして、そのころには、難攻不落《なんこうふ らく》だったロウランドの令息と恋仲の娘の評判が、王宮じゅうで火のついたうわさになっていたのだった。
「どうして、一足飛びにそういうことになるの?」
うわさを持ち帰ってきたマリエに、フィリエルはあきれてたずねた。
「だれだって信じるわよ。ロット様が、太鼓判を押していらっしゃるんだもの」
マリエは、どういう顔をしたらいいかわからない様子で答えた。
「わたし一人が逆らって、あなたは自分の部屋で朝までいびきをかいていたと主張しても、力劣るわよ。いっそこの際、そういうことにしてしまったら?」
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第二章 亡き王女のための|孔雀舞《パヴァーヌ》
メリング医師は、王立研究所の正門を入った白い石だたみを歩いていた。丸い禿頭《はげあたま》をぴったり覆う帽子を被り、ふちどりのある焦《こ》げ茶のマントを着て、一応よそゆきのいでたちである。頑丈な外股の足で、つっかかるように歩いているのは、腹の虫の居どころが悪いせいだった。
この研究所の門をくぐるときには、いつも感情を逆なでさせられる。今回、ロウランド家が取った正式な許可証があるというのに、所員の対応といったら、怒鳴りつけたくなるのをなんとか抑えたというものだった。
(……疫病《えきびょう》やみではあるまいし。訪問客をなんだと思っておる。まったく汚染物扱いしおって)
石だたみの前庭を歩ききるあいだ| 憤 《いきどお》って、ようやく彼は、しかたないという気持ちに落ち着いた。純粋|培養《ばいよう》の研究所員になる権利を蹴ったのは、メリングのほうなのだ。ここを飛び出して、再び戻る機会のある者はたいそう少ない。ほとんどないといってよいのだ。
階段で立ち止まり、彼は広い前庭を見わたした。高い塀の外は針葉樹の森に取り巻かれ、それほど遠くない場所に王立学院があるにもかかわらず、たいそうひっこんだ感じがする。活気よりは静謐《せいひつ》を、日常よりは高邁《こうまい》な思索を求める人々の住みかだ。
(若いうちは、そうもいかんがな……)
メリングは考え、階段を上って建物に歩み入った。
中庭を通り抜け、宿舎のある奥の敷地へ進んだときに、メリングの考えを裏付けるものが見つかった。
王立研究所は、けっして年寄りばかりのいるところではない。毎年何人かの若者が、見込まれてここに入ってくる。ことに、チェスマスターを志す若者は多く、彼らが共同生活を営みながら研究する点では、全寮の学校と大差ないところがあった。
今、メリングの視界に入ってきたのは、宿舎の裏の壁際にかたまり、何やら行っている数名の若者たちだった。全員、研究に従事する者の黒服をまとっているが、やっていることは、学校の腕白《わんばく》と変わるところがないようだ。
メリングが、近づきながら咳《せき》払いを響かせると、背を向けていた若者たちはさっとふりかえり、具合の悪そうな様子になった。彼らはあいさつめいたものをつぶやいて、そそくさと散ってしまい、後には、壁に背をつけてうずくまった一人だけが取り残された。
歩み寄った老医師は、服のあちこちに靴跡をつけられたルーンをながめて、思わず嘆息した。
「……予想しないでもなかったが、少しもとけこめないようだな。おまえさんというやつは」
黒髪の少年は、ありがたくもなさそうに医師を見上げ、ぼそりとつぶやいた。
「あんなやつら」
「何をしでかして、袋だたきにあっているんだね」
「別に――」
彼は言おうとしなかったが、その態度を見れば、おおよその見当はついた。年少で新入りのくせに生意気だということなのだろう。彼の灰色の瞳に、相手を立てる色が浮かんだことはついぞないのだ。
(たぶん、ディー博士を除いて、ということなのだろうが……それではこの国で生きていくことができまい)
ルーンはのろのろと身を起こしたが、わき腹を押さえて顔をしかめた。メリングはすばやくたずねた。
「診察してやろうか。あばらを痛めたのかもしれんぞ」
「平気です。折れてないことは、前にやったからわかります」
強情っぱりの口ぶりだったが、医師はほほえみたくなった。この少年は、あれほどの傷を負わされたにもかかわらず、痛みを恐れるようになってはいないのだ。見た目はひよわながら、妙に骨があることはたしかだった。
「メガネは無事だったようだな。そいつをまた壊したら、フィリエル嬢ちゃんを嘆かせるからな」
「あいつら、ばかではないから、人目につく部分はなぐりません。だから、腹をガードしていれば大丈夫です」
ルーンは落ち着いてそう言い、いくぶん得意げに、服の下から固い本を取りだして見せた。しかしメリングは、かえって思いやられる気がした。
「何度もこんな目にあっているのかね。おまえさん、それほどみんなとうまくやっていけないのか。研究所にだって、人間関係はあるのだぞ。それを無視するような者は、どうしたって疎《うと》まれる。ガードよりも、うちとける方法を考えるべきではないかね」
少年は答えなかった。黙って服の汚れをはらっている。老医師はさらにたずねた。
「研究所にいるのがいやかね。どうしてもいやだというなら、わしが伯爵に進言することもできなくはないぞ。チェスを学ぶことは、おまえさんには合わんかね」
「チェスはおもしろいです。ただ……」
ルーンは口ごもり、視線を地面に落とした。
「ここは星が見えない。王宮の照明が明るすぎて、星を消してしまうんだ」
「それこそ矛盾《むじゅん》した答えだな。チェスに打ち込む者が、どうして夜空を気にすることがある」
再び黙りこんでから、ルーンはやっとつぶやいた。
「何かがわかると思ったんです――ここへ来れば」
「博士のことかね」
メリング医師は太いため息をついた。
「おまえさんが師事した男の名は、ハイラグリオンでは禁句だ。むしろ、ここほど入念に排除した場所もないだろうよ。だが、研究所には、まだおまえさんの目にふれていないものもたくさんある。わしは、自分の体験なら語ってやることができる。だから来たのだ」
ルーンはさぐるように医師を見上げた。好意と受けとっていいものか、怪しむ顔だった。
「あなたもぼくの監視役なんでしょう。ロウランド家の」
「フィリエル嬢ちゃんに約束したという意味では、そのとおりだな。わしは知人に会いにきたのだよ。昔、ほんの一時期、わしもこの場所にいたことがあるのだ」
ルーンは驚いた様子でまばたき、いくぶん表情が素直になった。その顔を見ながら、メリングはゆっくりと言った。
「研究にたずさわる人間は、どうして生まれるのだろうな。ルーン、考えてみたことはあるかね。人生をなげうってでも知りたいと思いつめる、こういう人間の欲望は、どこから来るものなのだろう。博士やおまえさんは、その味を知ってしまった人間だし、言ってみれば、わしもその部類だった。そういう人間のとる道は、二つに一つしかない。王立研究所に埋もれて世間との接触を断ち、夢に暮らすか。在野の厳しい状況に身をさらし、たいていは早死にするかだ。わしは後者の道をとりながら、伯爵という奇特な男に拾われ、この歳になったまれな例だ。蛇の杖と言われる秘密結社の連中も、また、後者の一部ではあるのだよ。そんなふうに、考えてみたことはあるかね?」
ルーンには、不愉快な提案のようだった。|眉《まゆ》をひそめて彼は言った。
「同じだと言いたいのですか。博士やぼくも、あの連中も――結局のところは」
「連中も今のような、手段を選ばぬ手あいになりはてる以前は、真摯《しんし》な学究心をもっていたはずだ。蛇の杖の紋章は、かつて、そうした同志の無言の符丁《ふちょう》であるはずだった。進む方向を誤ったと思うが、一方的に蔑《さげす》むことはできん。多かれ少なかれ、研究者のふるまいは非道なのだ。そのことは認めねばなるまいよ。星女神のお喜びにならないふるまいだ」
ルーンは、医師を正面から見返してたずねた。
「メリング先生は、何をもって非道と名づけるんです」
白い口ひげにさわって、老医師は答えた。
「わしらの生き方は、女性を泣かせる。これは、わしの過去をふまえた言葉だと考えてかまわんよ。愛する女性を、たとえ愛していても、幸福にしてやることができないのだ。女神に祝福されるはずもない。愛よりも大切なものはないと、アストレイアの教義は説いているのだからな」
ルーンはいくぶんたじろぎ、よそよそしくうながした。
「だから――?」
「おまえさんにはまだ、ひきかえせるはずだよ。二つの道のどちらも選ばず、有用な人間になることもできるはずだ。なに、星空を見上げなくなればいいのだ」
声をやさしくしてメリングは言った。ルーンはじっと考えていたが、やがて、かすれた声でささやいた。
「無理です――ぼくには、これがある」
ルーンが服の胸の部分をつかんでいるのを、メリング医師は見てとった。その下の皮膚にある鮮やかな傷跡を、老医師もよく知っている。いたましさを感じたが、しいてメリングは言いつのった。
「どうして無理なのかね。おまえさんには、心からその身を案じてくれる、かわいい嬢ちゃんがいるではないかね。そいつは、あの子よりも大事なものなのか? そんなはずはないだろう。わしがおまえさんだったら、一も二もなくそう思うはずだ」
少年はくちびるをひき結んだが、|葛藤《かっとう》が顔に表れていた。もうひと押しかもしれないと、メリングは考えた。どれほどかたくなな態度をとろうとも、彼がさみしい子どもでしかないことは、まちがいないのだから。
「もしも――」
メリングが再び言いかけたとき、医師の名を呼ぶ声が背後から聞こえた。ふりかえると、正門の事務所にいた所員が、せかせかした足どりで近づいてくるところだった。
「こんなところにおられたのですか。あなたのお弟子が来ていますよ。大事な忘れ物を届けに来たそうで」
「わしの――弟子?」
弟子と名のつくものをもった覚えは一度もないと、メリング医師が言い返そうとしたそのときだった。所員の後ろから、元気のよい声が響いた。
「先生、先生! お困りのところだと思っていました。もう大丈夫です、ぼくが持ってきましたよ。ルアルゴーのおみやげ」
大きなふちなし帽を被り、地味な灰色のマントを着た細い少年が、手に包みをもって息を切らせていた。服も質素な灰色で、帽子からはみだした髪の毛は、濃い赤金色をしている。
たまげて目をむく老医師に、大きな琥珀《こ はく》色の瞳が、お願いと訴えていた。なんとか気をとりなおし、メリングはあやふやな口調で言った。
「うむ――ああ、助かったよ。せっかくの手みやげをむだにするところだった」
医師が包みを受け取るのを見届けた所員は、それ以上|詮索《せんさく》せずに行ってしまった。冷や汗をかかされたメリングは、うらめしげに自称弟子をにらんだ。
「どういうことだね、フィリエル嬢ちゃん」
「そうだよ。どういうことだよ」
ルーンも憤然と言った。フィリエルはうれしげに笑った。
「メリング先生が、ルーンの様子を見に行ってくださるとおっしゃったから、今か今かと待ちかねていたんです。幸いわたくしも、うまく学院に来ていたころだったし。ねえ、絶妙のタイミングだったでしょう?」
老医師と少年は口をつぐんで、大得意のフィリエルをながめた。たしかに、弟子の少年に見えなくもない。細身のズボンと長靴は適度にはき古したもので、変装として念が入っていた。
「何を考えているんだよ。そんなかっこうして」
ルーンが嘆かわしげに言うと、フィリエルは尖《とが》り気味のあごをつんと上げた。
「あら、あなたがトーラスへ来たときのかっこうに比べれば、どんなにかましだと思うけど。それともあなた、本当は美しい令嬢姿で訪問してほしかったの?」
「……だいたい、なんできみが訪問しに来るんだよ」
うなるようにルーンはたずねた。
「学院のほうはどうなっているんだ。抜け出して遊んでいられるほど、王宮は甘くないだろう」
「たいしたことないのよ」
フィリエルはすましたものだった。
「王立学院って、来てみてよくわかったけれど、ほとんど全部が自由課題なの。授業らしい枠組《わくぐ 》みはなくて、同じ興味をもつ人たちの自主サークルといったところよ。だから、気ままに行き来ができるの。言わせてもらえば、社交界の延長だわ。レセプションばかりが多いのよ」
少し肩をすくめて、フィリエルは続けた。
「演奏会やら、お芝居やら、仮装パーティやら。もうずっとそんなのばかり。周りの人が若いというだけの違いで、夜会続きの王宮とあんまり変わらないの。ああ、もう一つの違いは、レアンドラがすっごく幅をきかせているというところだけど」
気楽な口調の裏を見透《みす》かそうとするように、ルーンはじっと見つめた。
「派閥《は ばつ》があるのかい?」
フィリエルはにこりとした。
「まあね。でも、アデイルは負けているような子でないし。楽しんでいるわよ、あたしたち」
メリング医師は、思わず感心した声を出した。
「あいかわらず、前向きにやっているようじゃないか。その変装はやりすぎだが、あんたが元気でいることだけは何よりだよ」
フィリエルは老医師に明るく笑いかけた。
「そうでしょう、先生。きっと怒らずにそう言ってくださるって思っていました。けれどもルーンは、この人、社会性がないから、新しい場所でいじめられているに違いないと思って、来ないではいられなかったんです」
「勝手なこと言うなよ」
ルーンはつぶやいたが、けんめいに医師と目を合わせないようにしていた。メリングはそっと笑いを噛み殺した。
「来てしまったものは、もうしかたがないか。わしもすでに、嬢ちゃんの片棒をかついでしまったことだしな。これからルーンを、知人にひきあわせる気でいたんだが、嬢ちゃんもいっしょに行くかね」
「ええ、喜んで」
うれしそうにフィリエルは答えた。
「王立研究所のなかって、とっても見てみたかったんです。なんといっても、以前に父がいたところなんですもの。どんなに派手なレセプションだって、これほどの興味はわきません」
メリング医師は、研究所のさらに奥の敷地へと向かった。一番奥の裏庭は、陽が射しこまずに地衣《ちい》類《るい》の温床《おんしょう》になっており、高い石壁も変色して陰気だった。しかし、この北側の壁にだけ、蝶番《ちょうつがい》のさび付いた両開きの木戸がある。老医師は、少々苦労してきしむ扉を開けると、手入れのよくない小道に踏みこんだ。
「この先にあるのは、個人の研究所――隠者《いんじゃ》の庵《いおり》と言ったところだ。裏森に巣を作るほどの変人になるには、かなりの歳月を要するが、それでも常時いるものだよ。俗世間《ぞくせ けん》への興味をまったく失ってしまうやからというものがな」
メリングは説明したが、どちらかというとつぶやきに近かった。後もふりむかずに足を進める彼を、いそいそとフィリエルが追い、ルーンもそれにならった。もっともルーンは、承知した覚えもなくメリングに従うはめになったことで、かなり腹を立てていたのだが。
「よくないよ、フィリエル。きみがこんなところに来ているのは」
少年姿のフィリエルと肩を並べて、ルーンは小声で文句を言った。
「なんでもないふりをしたってだめだよ。きみはもう、名もない女の子じゃなくなっているんだ。今ごろ探されているに決まっている」
「探させておきましょうよ」
フィリエルは大胆に言ってのけた。
「あたしがここにいるって、見当をつけるくらいなら、その人を見なおしてあげてもいいわ。王宮のおつきあいって、表面をなでるばかり。その人の中身にまでふみこんで考えようとは、絶対にしないんだから」
彼女はさらに、鼻息荒くつけ加えた。
「ちやほやすれば、ひとが単純に喜ぶと思っていたら、大まちがいよ」
口ぶりは勇ましかったが、言うほどではないだろうとルーンは推測した。なんといっても、ミーハーなところのあるフィリエルだから。なるほど、彼女は王宮の貴族たち――たぶん、貴族の男ども――に、ちやほやされているらしい。それでも、彼女がいじめられて苦労しているよりはましだと、ルーンは考えなおした。
「今からたかをくくらずに、ちゃんとネコを被っていないと、ちやほやする人もいなくなると思うよ」
「それ、どういう意味?」
フィリエルは横目でルーンをにらんだ。
「あたしはあたしよ。あたしらしくしていればいいんだって、アデイルも言ってくれたもの」
長靴で大股に歩くフィリエルを見やって、ルーンは肩で息をついた。
「……らしくした結果が、それなのかい」
「あら、当然よ。あたしはハイラグリオンへ来たら、ぜったい知りたかったんだもの。王立研究所がどんなところで、ここに在籍していたころの博士が、何を見たのか――必ず自分の目で確かめて、自分の感触をもちたかったのよ」
それを彼女が掘り起こすのは、危険なことかもしれないと、ルーンが忠告しようとしたとき、フィリエルはふいに真顔でふり向き、脈絡《みゃくらく》をまったく無視してたずねた。
「ねえ、本当にあなた、いじめられていない?」
どうしてそこへ話が飛ぶのだろうか。ルーンは頭が痛くなったが、幸いなことにそのとき、木立の向こうに庵《いおり》と呼ぶには大きすぎる石の建物が見えてきて、フィリエルの関心がそちらにそれた。
「わあ、こんなところに。ここでは、何人くらいが研究しているんですか?」
「わしの知っているコーネルなら、今でも弟子はほとんどおらんだろうよ。建物が大きいのにはわけがある。まあ、ついて来なさい」
メリングは答え、木の根のでこぼこした小道を、入り口とおぼしき方向に進んだ。
それは、妙にのっぺりした四角い建築物だった。白い建物だが、ハイラグリオンの装飾的な様式ではなく、ごくシンプルにできている。窓もあるにはあるのだが、天窓を除いて鎧戸《よろいど》がおりていた。
周囲をめぐる石壁に沿って進むと、重たげな鉄門に行き当たったが、かんぬきはさしていなかった。入り口の扉も同様だ。医師がかまわずに入っていくので、フィリエルたちも続いたが、なかは深閑《しんかん》として、人の気配がなかった。出迎える者はもちろんいない。
だが、入り口をくぐったそのときから、屋内が雑多なもので満ちあふれていることは、容易に見てとれた。天井の高い広間は、そのまま物置化しているようだった。玄関ホールにまで進出した木箱につまっているものは、なぜかただの石ころだ。
フィリエルは、いぶかしむ思いでそれを見つめてから、奥の薄闇に目をこらした。
通路の両脇に大きな長机が置かれ、その上にさまざまな形のものが並べてあるようだ。その奥には、天井に届くほど巨大な、奇妙な形の物体――
「どれ、少し鎧戸を開けてやるか。ほこりっぽくてかなわん。いまだに、掃除をするような弟子に恵まれないらしいな」
メリング医師がぶつくさ言った。たしかに、咳《せき》がでるほどほこりっぽく、こもった空気に妙な匂いのする室内だった。彼が長い棒を手にして鎧戸の一つをあげると、舞うほこりをきらめかせて日光がさっと入ってきた。
フィリエルは、心の準備もなく奥の物体を見つめていたので、短い悲鳴をあげてルーンをつかんでしまった。暗がりから浮かび上がったそれは、巨大な眼窩《がんか 》をもつ巨大な頭蓋骨だったのだ。
ルーンも息をのんだが、それはどちらかというと、いきなりフィリエルがしがみついたせいだった。
「骨だよ、フィリエル。動きやしないよ。本物の竜の骨だ――初めて見る。なんて大きいんだ」
「知っているわよ、骨ってことくらい。ちょっとびっくりしただけよ」
照れ隠しにフィリエルは言い、怖がっていないことを示すために、一人で奥へ足を進めた。近寄ればますます、その骨組は見上げるばかりに巨大だった。
信じられないほどに大きなあぎと。そこにびっしりと並んだ歯は、ナイフのように反っている。いかつい大腿骨《だいたいこつ》で立ち上がっており、長い尻尾《し っ ぽ》が、少しずつ骨のかけらを小さくしながら後ろに続いていた。
怖くないと、自分に言い聞かせたフィリエルだったが、大骨格のかたわらに、その三分の一ほどの大きさではあるが、青緑にうろこの光る皮つきの竜がいたことを知って、たちまち硬直した。
「すごいね、これ。生きているみたいだ」
後から追いついてきたルーンが、感嘆をこめて言った。
「これなら動いてもおかしくないけれど、でも、無理だろうね。両の目がガラス玉だ」
「剥製《はくせい》というんだよ。腐らせないように、内臓を抜いて砒素《ひそ》を混ぜた詰めものをしている。もっとも、傷のない竜の死体を手に入れたからといって、剥製にするのはコーネルくらいのものだが」
メリング医師が淡々と言った。そのころには、フィリエルもだいぶ落ち着いて、竜の青緑の頭に、うっすらほこりがふり積もっているのを見てとることができた。
「挿《さ》し絵で見たことしかなかったけれど、本物はまた、なんとも言えなく凶悪な感じですね。これ、なんのためにこうしてあるんです?」
「しいて言えば、挿し絵を描くためかな。彼の研究だよ。竜とトカゲの親玉とは、どこがどれだけ違うということを知るためのね」
ルーンがふいに、うれしそうな声で言った。
「わかった。博物学第一巻『竜の生態』だ。あの本はたぶん、ここの人が書いたんだよ」
「そう、あれはコーネル博士の最初の著作だ」
メリングはうなずいた。フィリエルは怖かったことを忘れ、いっぺんにこの場所を尊敬してしまった。『竜の生態』は、トーラスの女学校で教科書になっていたほどの本だ。ということは、この国のトップレベルの人々のほとんどが目を通す、権威《けんい 》ある著作の主だということなのだ。
あらためて周りを見回すと、長机の上に並んでいたのは、みな竜にかかわる資料のたぐいであるらしかった。さまざまな色をした卵の殻《から》や、骨の一部、えさとなる植物や動物の標本といったものだ。小さなラベルがそれらを説明していたが、全体としては、やはり雑然と積み上げてあるようだった。
「すごいですね。これらをみな、コーネル博士が採集していらしたんですか?」
「いや、やつはここを出ておらんよ。一歩たりともな」
メリング医師はやけにすばやく答えを返した。
「だが、コーネルは女王陛下の恩寵《おんちょう》を得ておるからな。陛下の指示で、南へ下った人間が持ち帰ってくる。いやというほどな」
フィリエルは、植物のラベルを読みながら言った。
「おもしろいですね、これ。南のほうでは、はえている植物も北とはずいぶん違うんですね。だから、竜は北国にはいないのかしら」
「……おもしろいかね」
老医師はめんくらったような顔で、フィリエルを見つめた。
「ルーンなら、あるいはおもしろがるかと思っていたが。嬢ちゃんの口からそう聞くとは思わなかったよ」
「あら、どうしてですか?」
フィリエルは無邪気にたずね返した。ルーンは、かたわらでこっそり笑みを押し隠した。
メリングは不思議かもしれないが、ルーンは、フィリエルが興味を示すとわかっていた。彼女は数学が苦手だし、論理的思考力をもちあわせていないが、それでもルーンと同じものを喜ぶことができる。かわりに、あふれる好奇心と直感力をもっているからだ。ふつうに見えても、彼女は当たり前の女の子ではない。あのディー博士の娘なのだ。
そのとき、ドアを開ける音がし、不機嫌な声が上からふってきた。
「今時分に何をしている。ひとを起こしおって。届け物なら夜だと、よく言っておいたはずだぞ」
大骨格のそばの奥まったところに階段があり、中二階の扉に通じていたが、今そのドアが開き、白いひげを伸び放題に伸ばした老人が顔を出していた。
血色がよく丸いメリング医師と対照的に、やせて鋭い顔立ちをし、羊皮紙《ようひ し 》のように乾いた皮膚をしている。尖ったかぎ鼻に小さいメガネをのせ、階下を見下ろしたときには、顔をしかめてそのメガネをなおした。
「おや……おぬし、メリングだったか」
「久しぶりだな、コーネル。今日はちょっと、若いのを案内してきたよ」
穏やかにメリング医師は答えた。コーネル博士は、黒く長い上着がどこかに引っかかったらしく、ちょっと手こずってひっぱってから、階段を降りてきた。
「どういう風の吹きまわしだ。弟子はとらないという、おぬしの信条をついに曲げたのかね。もっともこの歳になっては――」
言葉の途中で、コーネル博士はふいに言いやめた。彼のやや斜視ぎみの目は、フィリエルの姿に釘づけになっていた。薄い色の瞳を見開き、ぽかんとした様子だ。フィリエルは少しうろたえた。博士の炯眼《けいがん》のもとでは、あっというまに女の子だとばれてしまうものなのだろうか。
「エディ……?」
ごく小さな声で、コーネル博士はたずねた。
「……わしの目は何を見ているのだ。そこにいるのは、本当にエディなのか?」
メリング医師は咳払いをし、重々しく言った。
「気をつけてものを言いたまえ。困るな、コーネル。この子の名前はフィルだよ。この秋にハイラグリオンへ来たばかりで、おまえさんとはまだ面識がないはずだ。こちらはルーン。同じく秋から研究院に来ている」
「そうか……そうだったな」
コーネル博士は目をしばたたいた。
「いやはや、もうろくしたものだ。あの子がいたのは、そうだ、二十年近くも昔だったな。わしがまだ、表の研究院にいたころだ。同じ姿でいるはずもなかった」
メリング医師は、さっきフィリエルに手わたされた包みをもてあそんでいたが、急にたずねた。
「ところで、このなかには何が入っているんだね」
「バターケーキとプラムケーキです」
フィリエルがはきはきと答えると、メリングはわずかに失望した様子になった。医師は辛党なのである。
「まあ、たまには、コーネルとケーキで茶を飲みあうのもいいか」
「どうぞ召し上がってください。よかったら、ぼくがお茶を入れましょうか」
にこやかにフィリエルは申し出た。ルーンは黙っていようかと思ったが、やっぱり黙っていられなくなり、メリングに耳打ちした。
「やめたほうがいいです。へたなんです、彼女」
だが、医師が口を出さないうちに、コーネル博士が断固として言い、ことなきを得た。
「茶のもてなし程度は、わしにもできる。そこの君たちも、わしの茶を一杯飲んでいきなさい。茶碗はそろっていないが、質のよさは保証する」
フィリエルは、同じににっこりしてうなずいた。
「ありがとうございます。ごちそうになります。でも、先生方のおじゃまにならないように、この部屋でもう少し資料を見学しています」
コーネル博士はうなずいた。
「好きにしなさい。老人たちの昔話は、君たちにはたしかに退屈だろうからな」
コーネル博士の雑然とした居間で、マグになみなみとお茶をついでもらい、階下へもってきたルーンは、フィリエルがなぜ、下にいることにこだわったのかを納得した。
二人きりになると彼女は、マントの下から、ちゃっかり別の包みを取り出してみせたのだ。
「えへへ。あたしたちのぶんは、ちゃんととってあるのよ」
包みを開け、大きなケーキから一切れだけ自分にとったフィリエルは、後の全部をルーンの手に押しつけた。
「もって帰ってね。日持ちするから。毎日、しっかりごはんを食べている? 食べないとだめよ。もっと大きくならないと困るでしょう」
「……食べてるよ。うるさいな」
少年はむっとして言ったが、わりあい素直にケーキを手にとった。それだけでもよしとしようと、フィリエルは思った。
この広間に椅子というものはないので、二人は長机の一つに腰かけていた。足をぶらぶらさせ、お茶を飲み、ケーキを食べながら、フィリエルは王宮へ来て見たり聞いたりしたことを、とりとめなくルーンに語った。そして、そのしめくくりに言った。
「……一番びっくりしたことは、そのこと、貴族たちがみんな古い物語を学んでいるということなの。王宮ではまるで、それらを隠語に使っているみたいなのよ。あたしにはよくわからない。あなたには、いつからあれが異端だってわかっていたの?」
ルーンはちょっと顔をしかめたが、それから認めた。
「博士がそう言ったわけじゃないんだ。でも、あの本は手書きの写本だっただろう。たぶん、エディリーンが自分で書いたんだよ。記憶をたどって一つ一つ……彼女が天文台の塔ですることは、あまりなかったに違いないんだ」
目を伏せて、ルーンは続けた。
「彼女の痕跡《こんせき》のあるものを、全部処分した博士にも、あの本を始末することができなかった。それは、彼女が、生まれてくる子どものためにあれを書いたからなんだろう。きみのために……あの物語を語り残したんだよ」
フィリエルも、うすうすそうだと考えていた。だが、口に出して言われるとつらかった。
「そんな二つとない貴重な本を、あなたは簡単に燃やしてくれたのね」
「ごめん……でも、あの場できみの素性がばれるよりはよかったはずだよ。ぼくも、もったいなかったと思っているよ」
「まあ、いいわ。あの本は、今でも隅から隅まで暗記しているもの。それで、おかあさんの意図は目的を果たしたはずね」
ため息とともにフィリエルは言った。
「おかあさんが、たしかに生きてこの地上を歩いていたこと、だんだんそうだと感じられるようになってきたわ。ねえ、ルーン……どう思う? コーネル博士の言ったエディって、もしかしたら、おかあさんのことなのかしら」
「あり得ないことじゃないね」
ルーンは慎重に言った。
「女王候補のエディリーンとディー博士とが、ふつうに生活していたら、いくら同じハイラグリオンのなかだといっても、出会う機会があるはずないよ」
「それじゃ、変装して王立研究所にしのびこんで、博士に会いに来ていたのは、おかあさんのほうなのよ。きっとそうよ」
フィリエルはうれしげに言い、くすくす笑った。
「あたし、好きになれそうだわ――おかあさんのこと」
ルーンはしばらく考えてから、切り出した。
「今のところ、ぼくがこの研究所に来て考えたことはね。ディー博士も、最初から天文学を志したわけではないかもしれないということだよ」
フィリエルは、まばたきをしてルーンを見た。
「天文学以外に、博士の興味をひくことなどあるのかしら」
「そりゃ、あるだろう。博士だってそのころは若かったんだろうし」
ルーンが言うと、少女は高い天井をあおいだ。
「うーん、そちらのほうは、まだうまく想像できないわ。若者の博士って……どうもだめよね」
「ここで、本格的な星の観測をするのは無理だよ。こんなに夜が明るいんだもの。見えてもせいぜい、惑星《わくせい》か明るい恒星《こうせい》だ。それだけでも、暦《こよみ》を作ることはできるだろうけど……ぼくは考えたんだ。博士とエディリーンが二人で脱出しようとした方角は、たぶん、北ではないんだろうって」
フィリエルは首をかしげた。髪を全部ふちなし帽子に押しこんでいるため、ほっそりしたうなじが際だった。
「それもそうね。もちろん、二人がセラフィールドの天文台をめざすはずはないわ。あれは、後からルアルゴー伯爵が、二人を隠すために建てたんですものね。それなら、あたしの両親はどちらへ行こうとしたと思うの。まさか南? 竜がいるのに?」
「竜がいるからだよ」
低い声でルーンは言った。
「竜がこの世界を解く鍵《かぎ》だって、前に博士がもらしたことがあった。それがどういう意味か、ぼくにもまだわからないけれど、博士がぼくたちを置いて南へ行くだけの何かは、きっとあるんだよ」
(……あたしは、この十月で満十六歳になった)
フィリエルはふいに考えた。それだけの年月、ディー博士は、不本意もはなはだしい北の果ての塔に幽閉《ゆうへい》されながら、じっと待ったのだろうか。彼の娘が成長し、まがりなりにも世間へ出て行けるようになるときを。自分がいなくても、一人で生きていけるようになるときを。
(……博士は無事に外海をわたって、南のどこかで生きているだろうか)
重い気分で、フィリエルは竜の剥製を見やった。生きている確率は、たいへん少ないように思えた。海の竜、陸の竜――どうして世界はこんなに危険に満ちあふれているのだろう。
かたわらの少年に目をもどすと、ルーンは無心に二切れめのケーキを食べていた。食べているときのルーンは、ひどく幼げに見える。しかつめらしい意見を吐いた同一人物に見えないくらいだ。
(でも、いつかは、ルーンも……)
フィリエルは考え、その考えをあわてて押し殺した。
小一時間ほどしてから、メリング医師とコーネル博士も再び階下へ降りてきた。お茶を飲んで寝起きの不機嫌がなおったコーネル博士は、うってかわってとっつきのよい人になり、フィリエルとルーンに、あちこちの標本を示して博物学の基礎を講義してくれた。
久しぶりに他人と話し、舌が止まらなくなった様子の老博士を、メリングが苦労して制した。礼を言って別れ、フィリエルたちが裏庭の木戸に戻ってきたときには、午後遅くなっていた。
「ははん、やっぱりここでしたか。いけませんね、お嬢さん」
裏庭に立っていた大柄な男が、おもむろに近づいてきて言った。フィリエルは思わず飛びすさった。
「だ――だれ? なんのことです」
「ご安心を。ロウランド家の手の者です。もっとも、あなたをここからつまみ出しに来たという点では、研究所の衛兵とそれほど違いませんがね」
口調に怒りは感じられず、むしろ愉快がっている様子だった。フィリエルはそれで、少し落ち着いて顔を見ることができた。そういえば、見たことのある顔だった。旅の護衛に付き従ってきた、一様《いちよう》に大きな男たちのなかで、隊長格だった男だ。
「どうして、わたくしがここにいるって、あなたには見当がついたんです?」
不思議に思ってたずねると、男は口もとを大きく曲げてにやりと笑った。
「あなたがたの行動パターンには、前に一度お目にかかっているので、こんなところかなと思ったまでですよ」
フィリエルは当惑した。首をひねっても、心当たりがなかった。彼は三十前後の年齢に見え、肩幅広く、二の腕は太く、りゅうとして立っている。短く刈った淡い髪と、日焼けして筋張った顔立ちは、フィリエルがこれまでご縁のなかったタイプだった。
だが、彼が単純な荒くれ男なら、変装したフィリエルをただちに見つけ出すはずがないのだ。フィリエルが真剣に考えこむと、男は様子を見かねたのか、助け船を出した。
「ドリンカムでお目にかかっています。どうです、思い出しましたか」
「あっ……」
フィリエルは声をあげ、思わず顔を赤らめた。かっこうのいい思い出とは、とても言えない。それなら彼は、ユーシスとともに森陰にひそみ、フィリエルたちを、赤ん坊のように追い返した男たちの一人なのだった。
男は目尻にしわをよせ、悪びれない笑顔になった。
「ガーラントと申します。以後、お見知りおきを。ロウランドの若君には、こちらの博士の弟子の身辺に、よく気を配るよう言いつかっています」
ルーンを見やると、彼はおもしろくなさそうにそっぽを向いた。フィリエルは、ガーラントを上目づかいに見上げた。
「……言いつかっているのは、ルーンのことなのでしょう。わたくしのことは、見逃してくださいませんか?」
ガーラントはおかしそうに言った。
「叱ったりしませんよ。自分にそんな権限《けんげん》はありませんし、柄《がら》でもない。ですが、この時間のおしのびは、やはりまずいでしょう。学院では、あなたのためにレセプションがあったのではありませんか?」
少々口をとがらせ、フィリエルは小声で反論した。
「違います。アデイルのです。アデイルがきっとうまくやってくれています」
「それでも、あなたがゆくえをくらましたことがみんなに知れたら、ユーシス殿はご心配なさるでしょう」
口調に思いやりをこめて、ガーラントは言った。
「ですから、あなたを会場へお戻しするのが、自分の責務だと判断しますね。あなたは、ロウランド家にとって重要なかたです。なんといっても、若君の大事な婚約者でいらっしゃるのだから……」
ガーラントの言葉に、老医師と少年が目をみはった。フィリエルは限界まで真っ赤になった。
「大嘘です! どうしてそんな根も葉もないことを、まじめな顔で言えるんですか」
憤慨《ふんがい》して足をふみならすフィリエルに、ガーラントは目をぱちくりした。
「おや、とんだ失礼を。王宮のうわさでは、すっかりそういうことだとばかり」
「嘘よ、尾ひれがついているわ。うわさになったのは、ただの――」
フィリエルは言葉につまり、あわてて言いなおした。
「とにかく、うわさはうわさでしょう。こんなところで変なことを言い出さないでください」
メリング医師が、フィリエルをまじまじと見てたずねた。
「うわさにうとい性分ですまんが、嬢ちゃん、王宮ではどんなうわさがたっているんだね」
「先生、ゴシップには一種の力があるけれど、それは実態とは何のかかわりもないことだって、わたくしはもう教わりました」
フィリエルは、返答になっていないことにも気づかずに、力をこめて言った。
「アデイルも、そう言ってくれました。それはそれで、わたくしの王宮における足がかりになるんだそうです。ユーシス様も、気にしていらっしゃいません。上に立つかたがたは、ゴシップに振り回されないわきまえを、しっかり心得ていらっしゃるんです。だから、わたくしも気にしないことにしました。王宮は、とにかくうわさの早いところだそうです。だったら、他のろくでもない殿方とうわさになるより、ユーシス様のほうが何倍もましですもの」
フィリエルが言い終えると、一瞬間があいた。後の三人は、どう言葉をついでいいかわからない様子だった。ようやくガーラントが、律儀そうに口を開いた。
「なるほど。たいへんよく心得ました」
彼の礼節はむくわれなかった。少女は冷たい目でガーラントをにらんだ。
「あなたがいけないんです。余計なことを言うから、わたくしも、言わなくていいことを言うはめになるではないですか」
「はいはい。自分が至りませんでした」
フィリエルは、ためらいがちにルーンをうかがった。少年は無表情を保ち、何を言う気もなさそうだった。知らない人間がいる場所では、彼はあまりあれこれ言わないのだ。
フィリエルとしては、文句をたれるルーンのほうが安心できたが、今この場で、耳の痛いことをたくさん言われるのもやっかいだった。一瞬迷ったが、ガーラントを許してやり、彼といっしょに退散することにした。
メリング医師とルーンは、フィリエルがガーラントにつきそわれ、学院へむかうのを見送った。その後で、ルーンは小声でつぶやいた。
「……フィリエルはすぐ、ひとの影響を受けるんだ。アデイルに影響されまくっている」
老医師は、黒髪の少年を見やった。
「それも一つの才気だと、わしは思うがね。おまえさんにはかけらもない才能と言えるな」
ルーンはむっと黙ったが、医師は続けた。
「あの子の芯の部分は、むしろ頑固者だろうよ。セルマがどんなに言おうと、変えなかったものをもっているではないかね。だが、その芯を貫くために、融通無碍《ゆうずうむ げ 》に表面を変えることも知っている。人間、その柔軟さがなくてはだめだ。学ぶ力を生かしきれない」
しばらくルーンは何も言わなかったが、ふいに医師に質問した。
「先生も、エディに会ったことがあるんですか」
メリングはゆっくり首をふった。
「いや、わしはとうにここを飛び出しておったよ。だが、コーネルが何を見まちがえたか、わしにも思い当たるところはある。おおよそのことは聞いている――コーネルからではなく、ロウランドの伯爵からな。彼の回顧談《かいこ だん》は、少々主観に走るきらいがあるが、事実を曲げてまでは語らない男だ。コーネルも、あんなに寝ぼけまなこでなかったら、名を呼びはしなかっただろうに」
ルーンは軽くうなずいた。それだ聞けば充分だった。
「フィリエルは、気がついていましたよ」
「ああ、嬢ちゃんには驚いたよ。今日は、驚かされてばかりだ」
うなるように老医師は言った。
「わしは、あの子がこれに懲《こ》りて、二度と来る気にならないように、コーネルの隠居場所へつれていったのだよ。悲鳴をきいて、やったと思ったのだが、なんだね、あの子は。たちまちけろりとしおって。いったい女の子が、あの剥製のそばでお茶を飲む気になるものかね?」
「フィリエルは平気です。図太いから」
ルーンが、こらえきれないようにほほえんだので、メリングは少々びっくりした。この少年の笑顔を、医師は初めて目にしたのだった。
だれに向けるでもない微笑は、はかなげで、ルーンが固い殻《から》の下に守っているものをかいま見せるものだった。つかの間メリングは、これほど無愛想な少年にフィリエルがなぜつきまとうのか、わずかながらも理解した。
「だが、ルーン、これはなかなかやっかいなことだぞ」
ますます憂慮《ゆうりょ》する気分になり、太い眉を寄せてメリングは言った。
「放っておくとあの子は、母親と同じになるのではないかね。学院をそっちのけで、この研究所に出入りして。やることなすことそっくりときている」
ルーンの笑みは、現れたときと同じにすばやくかき消えた。
「同じになる……?」
「そうだとも。これは、おまえさん次第かもしれんぞ」
メリング医師は、いかめしい声で告げた。
「おまえさんが博士と同じ道を志すなら、あの子はきっと、母親と同じように、おまえさんについていくだろうよ。あの子の母親が幸せだったと思うかね。おまえさんはあの子を、伯爵の息子よりも幸せにできると思うかね?」
フィリエルには、永久に冬が来ないかと思えたメイアンジュリーの都も、二、三度霜がおりてからはめっきり寒くなった。枯れ葉が舞い、裸の樹影が空の際《きわ》に目立ちはじめる。
王宮の社交界は、これからがシーズンのたけなわだった。ハイラグリオンの華やぎのピークは、冬至《とうじ 》を越えるときなのだ。新年を迎える王室行事とともに、宮廷人最大の関心事が待ちうける。
すなわち、新しい爵位の授与、叙勲《じょくん》の式典、王宮官吏の任命など、宮廷人事のすべては新年一月のうちに執り行われるのだった。女王|謁見《えっけん》の儀も新年のものであり、新参《しんざん》の人々は、これにかなって初めて宮廷に存続する資格をもつ。そして同時に、女王主催の王宮最大規模の舞踏会が開かれるのだった。
そつのない根回しがさかんに行われ、王宮の夜会は夜ごとに勢いを増すばかりだ。だが、フィリエルの気合いは落ちこみ気味だった。少し慣れてきたところで、疲れが出てきたのかもしれない。
マリエがよそから聞きこんできたところでは、王宮に顔を出す資格を得ながらも、この場所のストレスに耐えかね、気鬱《き うつ》の病《やまい》を得て去っていく者は意外と多いという。あり得ることだとフィリエルは考えた。
今のところ、フィリエルはよくやっていると言えた。夜会で大きなへまはしていないし、学院でも、アデイルとともに少しずつ、レアンドラの陣営を切り崩している。それなのに、なぜか気持ちは冴えなかった。何かが足りないのだ。
寒い季節になっても、王宮のなかは快適だった。階下から暖気がのぼってくるので、フィリエルはまだ、自分の部屋の暖炉に火を入れたことがない。居心地のよい部屋で、銀灰ビロードの長椅子の背に両ひじをつき、ガラスごしの曇り空をながめたフィリエルは、何が足りないのかを考えようとした。
(……せっかくルーンに会いにいったのに、あたし、キスしてこなかった)
メリング医師の弟子になるというアイデアは、たいそう秀逸だったので、衣装は可能なかぎりもち歩いている。だが、同じ手を使う機会はそうそう訪れなかった。これほどまれな機会なら、ルーンにキスしてくればよかったと思うのだった。
(でも、あのときは、いろいろとなんだかとり紛《まぎ》れて、そういうふんいきではなかったんだもの……)
正確に言うなら、フィリエルにはその気もあったのだが、ルーンのほうがとり紛れてしまったようなのだった。
(もしかしたら、あたし……ルーンにキスするのが好きなのかもしれない)
なぜなら、ルーンがめったになくうれしそうな顔をするからだ。彼は、世話を焼いてもあまり喜ばないが、たまに喜ぶとフィリエルもひどく誇らしくなるのだった。
王宮の暮らしはこの上なくきらびやかだが、ルーンのそばで、世話を焼いたり口げんかしたりできないからつまらないのだと、フィリエルは結論した。これはなかなか、おかしなことだった。
セラフィールドにいたころ、フィリエルは、博士の弟子を毎日見ないと気がすまないなどということは、決してあり得なかった。岬の領主館へ移ってからでさえ、トーラス女学校へ編入するときには、もう少し潔く思い切りをつけたはずなのだ。
(この気持ちは、なんなのだろう。あたしは……つまり……?)
一心に考えこんだフィリエルだったが、中断を余《よ》儀《ぎ》なくされた。部屋に、アデイルが入ってきたのだった。
「フィリエル、わたくし、今日は学院へ行かないことにしますわ。あの日だから。どうにもおっくうなんですもの」
キルティングをした部屋着をはおり、髪の手入れもしないままのアデイルが、冴えない顔つきでそう言った。フィリエルも、ほとんどためらわなかった。
「それなら、わたくしも行かないことにする。今日は二人で休みましょうよ」
一人で馬車を出そうと思うほどの誘引力は、学院にはなかった。アデイルがいなければ、抜け出す機会もほとんどないに決まっているのだ。
アデイルは、少し意外そうにまばたいた。
「あなたはもう少し、勉強熱心なのかと思っていましたわ」
「学院は、どう見ても勉強をしにいくところではないもの」
フィリエルはつまらなそうに答えた。
「ちょっとだけ年上の男の人だからといって、お説にさぞ感銘《かんめい》をうけているみたいに、うなずいたり目を見はったりして拝聴《はいちょう》しているのって、本当はわたくし、とっても苦手なの」
アデイルは短い笑い声をたてた。
「それなら、あなたもレアンドラみたいに、ひとの言うことは聞かずに、自説をふりまくほうに回ってみる?」
「今のわたくしにできることではないわ。今できることは、慎ましくひかえて、だれからも好感をもたれるようにすること。そうしながら、それとなく賛成しないことだけよ」
「それがきちんとわかっているだけ、あなたは勘がいいのよ。あなたって本当は、とても頭がいいのね。もう二年もすれば、わたくしたちだって、どうどうと意見をのべる立場になるわよ――そのほうが、自分に有利と判断した場合はね」
アデイルは柔らかに言ったが、フィリエルは顔をしかめた。
「二年も先にここにいるかどうか、わたくしの場合わからないわよ?」
「機嫌が悪そうね」
近寄ってきて、アデイルはフィリエルのかたわらに腰をおろした。
「ねえ、フィリエル。王宮じゅうに広まっている、あのうわさのことだけど――」
「ああ、やめて。お願い」
フィリエルはうめいた。ユーシスに関するあてこすりやら、からかいやら、ほのめかしやらは、毎日いやほど浴びせられている。学院を休める日くらいは、耳にしないでおきたかった。
「うわさに尾ひれがついたことは、もう知っているのよ。婚約者の次は何になるのか、考えたくもないわ」
「そう言わないで。ねえ、ユーシスお兄様とは、そのことでもう何かお話しした?」
アデイルがからかいをこめずにたずねたので、フィリエルも正直に答えた。
「あのあとすぐ、気にしないでいいって、親切に言ってくださったわ。それからずっと、内輪でお話ししたことはないわ。夜会でごいっしょしても、遠くにお見かけしただけ」
ユーシスはすでに学院を卒業し、王室の近衛《こ の え》師団に所属する身なので、同じ王宮にいるとはいっても、フィリエルたちとは行動範囲が異なっていた。
士官の勤務があるので、ロウランド家の塔でユーシスに出会うことはめったにない。フィリエルたちほどひんぱんに夜会に来なかったし、来たとしても、うわさが立ってからは、フィリエルと二人きりで話そうとはしなかったのだ。
アデイルは、小麦色の髪を指に巻きつけ、少し考えこんでいたが、ふいに軽く言った。
「本当のことにしましょうか、あのうわさ。フィリエル、将来ルアルゴー伯爵夫人になる気はない?」
フィリエルは、長椅子からころげ落ちるかと思った。アデイルを見つめ、息をつめてたずねた。
「具合が悪いの? アデイル」
「あら、それほど変なことではないと思うのよ。お父様が、そういう選択肢をもっていらしたとしても、全然おかしくないことだわ。あなたがだれの娘か、| 公 《おおやけ》に明かされたときのことを考えれば」
アデイルは真顔で言った。冗談のかけらもない様子に、フィリエルは肝を冷やした。
「ちょっと……待ってよ」
「あなたがもしも、正式に婚約発表したユーシスのフィアンセならば、新年に行われる女王謁見式で、わたくしたちとともに、女王陛下の御前《ご ぜん》に立つ権利が得られるわ。ロウランド家の次代の伯爵夫人に、陛下が関心をおもちにならないはずがないもの。あなたにとって、それは大きなチャンスになるはずよ」
戦略として語るアデイルを、フィリエルは信じられない目で見まもった。
「アデイル、婚約って――婚約って、そういうものではないでしょう。あんまりだわ。そんなことを言うなんて、ユーシス様にものすごく失礼よ」
アデイルは不思議そうに首をかしげた。
「そうかしら。わたくし、これでもよくよく考えて、あなたがルアルゴー伯爵夫人になるのは、なかなかよい案だと思ったのに。フィリエルだって、前にお兄様のことを、物語みたいだと誉《ほ》めていたじゃありませんか。あなたとお兄様、お似合いかもしれなくてよ」
フィリエルはこらえてみたが、やっぱりじわじわ赤くなった。
「たしかに言ったけれど……やめてよ。とっても無責任だわ、アデイル」
「あなたがお兄様のことをお好きなら、それでいいと、わたくしは思うの」
アデイルは両手を組みあわせて言った。
「わたくしの一番の理想は、ユーシスお兄様がルーン殿と結ばれることだったけれど、そうもいかないみたいだから、かわりに別の小説を考えることにしますわ。どうしても、悲恋ものになってしまうけれど……少女の場合は、やっぱり悲恋ものでしょうね。口にはできない傷心をおし隠して、主人公の少女は、身内で結ばれた恋人たちの幸せを祈りながら、カーテンの陰で涙を流すの。そういう設定にしてみても、案外ひたれるかもしれない」
「アデイル、あなた――」
フィリエルは大きく息を吸いこんだ。
「本当はそうだったの? わたくし、なんて鈍かったのかしら。本当はあなた、ずっとユーシス様のことを――」
アデイルは金茶の睫毛《まつげ 》でまばたいた。
「いったい何の話ですの? わたくしが想定しているのは、美しい従姉妹を兄に奪われた少女の、悲しみにくれるストーリーですのに」
返す言葉のないフィリエルだった。勢いこんだだけに、たいへん気まずいものがある。椅子の背に沈みこんで、フィリエルはつぶやいた。
「……冗談はもう少し、わかりやすく言ってね」
「フィリエルこそ、冗談がお好きね。あなたの思いつきは、エヴァンジェリンが死んでも書かない、最低につまらないお話よ」
妙にまじめくさってアデイルは言った。
「そうかしら――」
フィリエルはおそるおそる反論した。アデイルの感性は、ときどきどうしてもわからなくなると、あらためて思っていた。
「わたくし、それほど変ではないと思うのだけど。ユーシス様とあなたは、兄妹といっても血はつながらないのだし……あれほどりっぱなかたは、王宮にもそうそういらっしゃらないし……」
「わたくしは、女王候補なのよ。フィリエル」
アデイルはにっこりほほえんだ。
「ご存じだと思ったのに。アストレイアは処女女神であられるのよ。星仙女王は結婚しないものなの。もしもわたくしが女王になったら、わたくしも、生涯を独身で暮らすことになるわ」
「それは変よ」
今度はフィリエルも、きっぱり指摘することができた。
「歴代の女王様がみな独身なら、直系子孫がいるはずないじゃないの。あなたも、わたくしも、存在していないことになるわ」
「子どもを産まないとは言っていないわ。女王は結婚することがないと言っただけよ」
落ち着きはらってアデイルは答えた。
「わたくしやレアンドラが、あちこちの養子になっている理由もそれよ。女王陛下の直系は、絶対に必要とされながら、いないことになる子どもたちなの。オーガスタ姫は玉座につかず、今はギルビアの公爵夫人になっているけれど、やはり王女として、結婚前にわたくしたちを産んでいるわ。父親がだれかは、彼女と女神のみ知ることよ。憶測《おくそく》である程度は限定できるにしても」
フィリエルには、どう感想を言っていいやらわからないことだった。迷ってから、かろうじて言葉をついだ。
「……だからなのね。女王試金石の、あの青い宝石がなくてはならないのは。女王陛下の子どもたちは、家や格式に縛られないものだから……」
「現実においては、国内の力関係によって、トップの有力者が子どもを育てることになるけれどもね」
さらりとアデイルはつけ加えた。
「女王家はそのようにして安定を保つの。これがどれほど割り切った考え方か、よくわかるでしょう。だから、わたくしたちは、どんな禁忌《きんき 》にも縛られず、これぞという人の子どもを産めばいいのよ。それが遺伝的に優れた男性なら、だれを選んでも、国家全体が許してくれるの。どう、恐ろしくつまらないでしょう」
「つまらない?」
フィリエルがとまどうと、アデイルは長椅子の背にもたれ、繊細な絵模様の天井を見上げて吐息をついた。
「夢がどこにもないわ。スリルもない。つまり、ばかばかしいほど簡単なことなの――障害がないの。もしもわたくしが、お兄様の子どもを作ろうと思えばね。それは、たとえあなたがルアルゴー伯爵夫人になっていても、同じだというところが、またひどく幻滅《げんめつ》を呼ぶところなのよ。わたくしだって、胸をこがす熱い恋愛をしてみたい。まだしも、あなたへの悲恋を胸に刻んで生きるほうがすてきだわ」
(……なんて複雑な心理……)
フィリエルが、わかったようなわからないような思いながらも感じ入っていると、アデイルは額《ひたい》を押さえて起きなおった。
「ああ、ごめんなさい……こんなことをお話ししにきたはずではなかったのに。この日はわたくし、どうしても調子っぱずれになるみたい。今日はやっぱりベッドから出ないことにしますわ」
彼女はどこかたよりない足どりで、隣の自室へ戻ってしまった。あとに残されたフィリエルは、頭のなかが支離滅裂《し り めつれつ》になったような気がしたが、それでも思うことがあった。
(……否定ばかりしていたけれど、アデイルは結局、ユーシスのことが気になるのではないかしら)
ユーシスに関して、きてれつなことしか言わないアデイルだが、逆に言えば、彼女がわけのわからないことを言うのは、いつでもユーシスのことなのだ。他の場面では、そうとうに常識的なアデイルなのである。
(彼女自身も、はっきりと気づいていないのかもしれない……)
たぶん、兄妹として幼いころからいっしょに育っているせいで、気持ちの距離がうまくつかめないのかもしれない。その気持ちを恋だと自覚しないまま、知らず知らずに育てているのだ。
そう考えて、すんなり納得できたフィリエルは、それがそのまま、自分にも当てはまることに気がついてびっくりした。
(あたし……つまり……そういうこと?)
他人のことだとよくわかるのに、自分のことにはなかなか気づけないのは、いったいどういうわけだろう。フィリエルは一大発見をしたような思いで、胸の鼓動が早くなるのを感じたが、それがルーンの面影《おもかげ》を思い浮かべているせいかどうかは、今ひとつ確信がもてなかった。恋人とは、面影を描くだけで胸が苦しくなるものだと聞いているのだが。
(ルーンに会わなくては……)
ずっと会いたいと思っているのはたしかだった。はやくルーンに会って、この発見が正しいかどうか検証しなくてはならない。なんとかして会いに行く機会を作ろうと、フィリエルは考えた。
翌日になると、アデイルはけろりとして、フィリエルとともに機嫌よく朝食をたいらげ、前日の話題を忘れてしまった顔をしていた。
フィリエルにも、そのほうがありがたかった。本当に婚約するなどという提案は、あの日に特有の不安定さが言わせたと思いたかった。フィリエルも、そういう体調に覚えがなくはない。一晩すぎると、何を悩んだかわからなくなったりするものだ。
この日の二人はまじめに学院へ行ったが、顔見せ程度で引き返してきた。夜に、王族の主催する大きな夜会がひかえているからだった。女王家が少しでもかかわるなら、アデイルたちには抜かすことのできない戦場なのだ。
(女王家って、不思議なところだ……)
昨日もらしたアデイルの言葉も思い合わせて、フィリエルはしみじみ考えた。確固たる最高権力をもち、貴族たちの上に君臨《くんりん》しているというのに、女王家そのものは、アデイルの身の上がそうであるように、伏流《ふくりゅう》のように潜伏《せんぷく》して実体なく見えるのだ。
それはまるで、環状回廊の上に建てられた、この宮殿の構造に似ているかもしれなかった。大貴族の塔が林立し、妍《けん》をきそっているが、中心部は空洞で、その見上げるばかりの美しい塔に、女王陛下は不在なのだから。
フィリエルが、ルアルゴーの片隅で漠然と思い描いていた、星仙女王のイメージにもっとも近いのは、大僧正《だいそうじょう》のメニエール猊下《げいか 》だった。寺院の儀式に一つ二つ出席したが、金銀の衣装をまとい、星女神の象徴である宝石のしゃくをもった猊下が、まるで女王陛下のように見えた。猊下が四十代の威厳にあふれる女性だったからかもしれない。
もちろん、宮廷において女王家の血縁は幅をきかせており、傍系《ぼうけい》王族の数はたいへん多い。メニエール猊下とてその一人である。だが、まるで傍系のほうがいばってよいみたいに、直系の子どもは注意深く養子に出され、女王候補として名のり出るまで伏せられるというのも、変わっているといえば変わっていた。
(女王になるって、どういうことなのだろう……)
陛下ご自身は人々の前に立たれないが、女王の権威が王宮の隅々までいきわたっていることは、絶えず感じることができる。この場所の繁栄と統制とが、何よりそれを示している。つまりは、陛下が不在でも支障が出ないほどに、その力が絶大なのだ。
自分の祖母にもあたるその女性――コンスタンス陛下に、会ってみたいと思わないと言ったら嘘だった。ただし、そのために作った身分を利用してまで、拝謁《はいえつ》したいとは思わなかった。自分なりの方法が見つかればそれでいいと、フィリエルは思った。
夜会のあり方にも少しずつ慣れ、フィリエルも、王宮に集う人々との会話を楽しむ余裕ができつつあった。なんといっても、全国から領主クラスが集まってくる場所だ。同じグラールの国内といえども、さまざまな地域があり、さまざまな人がいるものだと毎度思わされる。その気になれば、得るものは大きかった。
徐々にわかってきたことだが、グラールにおいて、北部人と南部人は、一種対抗意識をもって成立しているらしかった。
フィリエルは初め、学院内で、南部の女性たちはなんて意地悪なんだろうと思ったものだが、原因はそういうことなのだ。北部の雄《ゆう》がロウランド家であり、南部の雄がアッシャートン侯たるチェバイアット家であることは、火をみるよりあきらかだった。
地元意識というものは、よそを知って初めて生じるものだ。フィリエルにとっては、かなり新鮮に自分たちを見なおせるものだった。南部の人に言わせれば、北部人というものは、意味のないプライドを持ち、倣慢《ごうまん》なくせに能天気で、そそっかしく突っ走るわりに考えは保守的な、けむったい人々なのである。
当然ながら北部の人に言わせれば、南部人というものは、日和見《ひ よ りみ 》でがめつく、ごうつくばりで、大騒ぎが好きなくせにやることは小さく、利を見ないことには動きのとれない人々なのだ。
この南北の気質の違いは、あらゆる文化面で取りざたされるらしかった。政治でも、経済でも、スポーツの試合でも。それがおもしろいこともあれば、やっかいなこともあった。
フィリエルは、アデイルが王宮へ来る前に語った、ほとんどの大勢がすでに決まっているという意味が、ここへきて理解できるようになった。北部と南部の対立は、そのまま保守派と急進派の対立であり、ロウランド家とチェバイアット家の対立でもあった。わずかに混合があるとはいえ、出身地ですでに色分けが終わっていたのだ。
王宮内の社交に限って言えば、北部はちょっぴり不利だった。メイアンジュリーそのものが南に寄っている上に、たくさん来ている南の小国家の使節たちは、やっぱり南部の人に協調したからだ。
お国自慢をたくさん聞くうちに、フィリエルがつかんだところでは、北の土地柄は英雄的に突出した人物を出すが、数が少なく、南の土地柄は、団体として優れたものを作り出すようだった。たとえば、訓練された兵団は南部のほうがずっと強いとか。
これらの地域差のおおもととなっているのが、竜の存在だった。それがわかったときには、フィリエルはいくらかショックをおぼえた。
南部人のもつ優越心は、北部のおめでたい人々と違い、自分たちが竜の脅威を身近によく知っていることだった。北部人の優越心は、自分たちが竜の心配をせず、人間的暮らしをしていることだ。だったらこの二者は、最後まで相容れるはずがないのだ。
(竜……竜のいた土地。竜の影の見える土地。たしかにあたしたちは、そんなものを考えてもみないで暮らしてきた……)
南の小国家群の人々にとっては、竜はさらになまなましい天災の一部だった。いきなり侵入してきた竜のために、軍隊が発動することが、それほどまれではなかったのだ。
(ルーンは、博士がなんと言ったと言っていたっけ。竜が世界の鍵をにぎる……?)
もっと竜について知ったほうがいいようだと、フィリエルは考えた。コーネル博士の研究室へも、もう一度行けるものなら行きたかった。
夜会の半ばで、フィリエルはぼんやりしてしまったようだった。彼女の前では、かっぷくのよい貴族二人が、そのままお国対抗の議論を続けていたが、フィリエルはいつのまにか、どうしたら王立研究所へしのびこめるかを考えて、上の空になっていた。
はっと気がつくと、貴族たちがしりぞくところだった。それは、さらに格の高い人物がフィリエルと話しにきたということだ。だが、今ではフィリエルも動じなかった。若い淑女はあわてずさわがず、ほほえんで迎えればそれでいいのだ。
「退屈しているようですね、お嬢さん」
「そんな――」
からかいの混じった声音に、笑顔で目を上げて、フィリエルは少々とまどった。目の前に立つ人物は、たぶん王族の一人だった。すばらしい服装といい、貴族たちの見せた敬意といい、そうに違いないのだが、一人でやって来て、フィリエルを「お嬢さん」と呼ぶところが変わっていた。
ロウランド家のひきたてがあるとはいえ、フィリエルは名もない新参の小娘なのだから、格の高い人々が直接声をかけることは、ないに等しかった。紹介者がともにつきそうか、かたわらの貴族に話しかけて、彼女の名をたずねるかが当然なのだ。
その人物は、風格からして三十代ではないかと思われ、面長の整った容貌をしていた。髪は黒褐色で、つややかな黒褐色の口ひげが、フィリエルにとってはものめずらしい。宮廷人はひげをきれいに剃《そ》っている人が多いのだ。
彼の瞳は緑がかった青で、冴え冴えと光っていた。ちなみに、彼の礼装用マントも瞳と同じ色合いで、深みをたたえて美しい。マントのなかの服装は黒で、大きなエメラルドの宝石飾りが輝いていた。総じてどこか冷たい感じだったが、かなりのハンサムではあった。だれだろうと、フィリエルはいぶかしんだ。
彼は、切れのよい都の発音でたずねた。
「お名前をうかがえますか。いばらの城で目をさましたお嬢さん」
(……楽園の言葉?)
フィリエルははっと緊張したが、あまりにさりげなく言われたので、物語の意味をこめていないのかもしれなかった。思わず自分のガウンを点検したが、今夜のフィリエルは、穏当《おんとう》な若草色のガウンをまとっており、意匠をこめてはいない。
「フィリエルと申します。ロウランド家でお世話になっております」
「では、フィリエル嬢、よろしければ少しの時間、外の庭園をごいっしょしませんか。わたしも今、やや頭をはっきりさせたくなったところでしてね」
フィリエルは無礼をするまいと思いながらも、ためらいを顔に浮かべてしまった。目の隅で人々のなかに、けんめいにルアルゴー伯爵の姿を探す。
「ええ、でも……」
王族の貴人は微笑した。
「外出には、伯爵のお許しが必要ですか?」
「いえ、そういうことでは……」
「わたしがだれかを、知らないからですか?」
フィリエルは恥じ入って目を伏せた。しかし、作法の上では、目下の側から相手の名をたずね返すわけにはいかないのだ。
「……申しわけございません」
「あやまることはない。わたしは、あまり王宮の夜会に近寄らない人間だから、あなたが知らなくても不思議はない。知らない男についていかないのは、よい心がけだ」
彼はさらにほほえんだが、礼儀上の笑みだとフィリエルは感じた。あたたかみはほとんどなかった。
「わたしの名はライアモン。リイズの公領を授かっている。女王家男子の伝統に従ってね」
(リイズ――リイズ公爵?)
どこかで聞いた覚えがある。それがひらめいたとたんに、フィリエルの胸に警鐘が響きはじめた。
ルーンをつれ去り、ドリンカムの森陰の館に閉じこめた蛇の杖の男たち。彼らが隠れ家とした、その陰湿な館のもとの持ち主が、たしかリイズ公爵だったのだ。
結局、フィリエルがリイズ公爵についていったのは、警鐘が鳴ったせいだった。彼がどういう男なのか、蛇の杖との関わりが探れるものなのか、たしかめずにいられなくなってしまったのである。
外は、さすがにもう寒い。上品なガウンでそう長くいるものではない。それは、短く切り上げる口実にもなるだろうと思い、フィリエルは足をふみだした。
テラスの階段を降りていった庭園は、フィリエルが最初にユーシスと歩いた場所とは異なっていた。あのときのホールは「花摘みの間」であり、今夜の会場は「水鏡《みずかがみ》の間」だからだ。
環状回廊には四つの大ホールがあり、それぞれ異なる庭に面している。残り二つは「青の間」と「望月《もちづき》の間」で、今ではフィリエルも、そのすべてを承知していた。
庭園の正面を、水鏡の間にその名を献上した、広く円い池が占めている。水のおもては澄みわたり、池の周囲には大理石の堤《つつみ》があって、ふちを回って歩いていくと、華やかにともった広間の明かりを、黒い水が宝石のように映し出していた。
片側は落葉樹の木立で、もうほとんど葉が透いている。夏にはどんなに涼やかだろうと思うが、今は少々寒々しい光景だった。
黙って足を運んでいたリイズ公爵が、池の水を見つめながら口を開いた。
「盛況な夜会だ。女王候補の登場をうけて、王宮内も、久々にわきかえっているようだな」
フィリエルは小声で言った。
「わたくしには、そういう比較は……」
「それはそうだ。あなたが以前の王宮を知るよしもない。新女王が生まれないとわかったときの、希望のないあわただしさなどはね」
公爵は、外へ出て初めてフィリエルをふりかえった。
「若いあなたは、どう見ている? あなたと同じくらい若い娘たちが、こうしてまつりたてられていく情況を」
少し迷ってから、これはアデイルの見解だと思いながらも、フィリエルは答えた。
「……宮廷の権勢争いに飾りつけた、一つのかたちだと思います。女王候補の本人同士の争いではなく、どちらの姫が女王にふさわしいかという点も、実際は本質をはずれるかと」
「よく教育されているな。北のロウランドらしい、模範的な解答だ」
リイズ公爵は目を細めた。
「これを、真夏の聖劇のような三文芝居と見るのは、ある意味で正しい見解だ。うら若い乙女の演じるあれこれが、人々に楽しみを与える。だが、なにゆえ彼女たちなのだ。血縁の少女の女王争いに、どんな意味がある?」
「……わかりません」
「あざむくためだよ。聡明な人物はあなたのように考え、さらにその裏をかくためだ。女王家のもつ真の力を|隠蔽《いんぺい》するために、隠して隠して、今日まで存続させてきたのだ。これは女のやり方だ。女のやり方は、いまだにグラール全土を支配している。だが、世界は変わりはじめているのだ」
どうしてそんな話を聞かせるのだろうと、フィリエルはあやしんだ。新参の娘をつかまえて、もちだす話題とも思えない。
(知っているのだろうか……あたしがだれか……)
見透かすような目でフィリエルを見て、公爵は言葉を続けた。
「騎士を表に立て、まといつく蔓草《つるくさ》のように支配する方法で、今まで女王家はグラールを動かしてきた。だが、今ではすでに立ちゆかない。世界的な情況が、そのなまぬるさを許さないのだ。わかるかね、フィリエル嬢。そうではなく、強力な指導者が必要なのだ。だからこそ、前代の女王候補は操《く》り人形に反抗したのだ。コンスタンス陛下は、その芽をつぶしておしまいだったがね」
フィリエルは思わず息をのんだ。リイズ公爵は、今は正面からフィリエルの目をとらえていた。
「そういうことだ。わたしは遅く生まれた子どもで、姉姫たちの身に起こったことが、幼すぎてわからなかった。だが、今ではわかる。そして、今度こそ、そうさせはしない。あなたも同じに思うだろう。わたしが男子ゆえに権利から除外されたように、あなたも除外された身だ。わたしは、エディリーン姫をひそかに尊敬していたよ」
体に震えがはしるのを、フィリエルは感じた。エディリーンの名前を宮廷で口にした人物は、彼が初めてだった。
「わたくしのこと、ご存じなのですね……」
「そう、わたしは今夜、あなたに会いに来た」
フィリエルをもう一度上から下までながめて、リイズ公爵は言った。
「死んだ姉にそう似ているわけではないが、あなたはきれいな娘だ。なかなかありがたいよ。わたしはあなたに、プロポーズするつもりだから」
フィリエルは数回まばたきした。突拍子がなかったので、その意味が浸透するのに時間がかかったのだ。
「今、なんておっしゃいました?」
「あなたを妻にしたいと言ったのだ」
リイズ公爵はうっすらと笑ったが、やはりそこにあたたかみはなかった。
「もう少し美辞麗句《び じ れいく 》が必要なら、この次に用意してこよう。だがわたしは、あなたをこの国初の『王妃』に望んでいるのだよ。女王候補の三文劇に人々の目が奪われているあいだに、わたしとあなたなら、玉座を簒奪《さんだつ》することができる。あなたは、それにふさわしく生まれついている」
「失礼ですが、酔っていらっしゃるのでは?」
たまりかねて、フィリエルはさえぎった。
「女王家のかたでも、口になさってはいけないことがあります。わたくしの耳に、まるで反逆のさそいのように聞こえますもの」
「なぜ、それを恐れる? あなたも反逆者の娘ではないか」
低い声で伯爵はささやいた。
「そうだろう。異端にまみれた娘ではないか。ディー博士のエフェメリスをもっているくせに」
フィリエルは一、二歩後ずさった。血の気がひく思いだったが、挫《くじ》けないことにした。彼が油断のならない人物だということは、最初からわかっていたはずなのだ。
「蛇の杖ですね。あなたも一味なのですね」
「ほら、そのような知恵がある。あなたもわたしと同じ種類の人間だ。いい子ぶるのはやめなさい。ロウランドの手の内になどいることはない。あれは、あなたには頭の固すぎる連中だ」
冷笑する声音だった。フィリエルは声をはりあげた。
「違います――わたくしは」
しかし、反論はそこまでだった。王族と言い争うのは不利だった。それになにより、くやしいが反論の中身がない。フィリエルは会話を打ち切り、きびすを返して帰ろうと思った。こんなに危険な会話をやめて、にぎやかなホールへもどるべきだ。
だが、それを察した公爵は手を伸ばし、フィリエルの二の腕をつかんだ。男性の力は強く、フィリエルは一瞬あらがったが、まったくふりきれなかった。
「はなしてください」
「聞きなさい。あなたを王宮にいられなくするのは簡単なことなのだぞ」
公爵の言葉に、フィリエルは怒りに燃えて相手をにらんだ。
「わたくしだって、あなたを追放できるかもしれません。今聞いたことを、みんなに告げれば」
「あなたにはできない。あなたはまだ十六の少女だから。この界隈《かいわい》において、握りつぶしがどういうものか、少しは耳にしていないのかね」
公爵はやんわりと言った。黙って|怯《おび》えたくないので、フィリエルは口にした。
「暗殺ですか」
「これほど若い娘が死ねば、人々の哀れをさそうだろうな。できることなら避けたいものだ。おろかな最期は、かわいいあなたに似合わないよ。わたしが王になる手助けをしてくれなくては」
感情のこもらないその口調を、フィリエルはむしずが走るほどいやだと思った。彼に触れられていたくなかった。
「グラールの玉座に男性が就けるなどと、正気でお考えですか」
「なぜ、就けない?」
息がかかるほど間近で、公爵はたずね返した。
「慣例以外のどこに、女性だけが玉座を占有する根拠がある。直系子孫を残すためか? そんなものは王妃が産めばいい。そう、あなたが産めばいいのだよ。あなたはその血をもっている」
「いやです」
歯をくいしばってフィリエルは言った。
「その手をおはなしください。わたくしは、もうあなたのお話を聞けません」
「わたしが、心の内をここまで明かしたのは、なぜだと思う。あなたを手に入れる見込みが、もうついているからなのだよ」
リイズ公爵は手を放そうとせず、自明のことのように言った。フィリエルは思わず身じろぎを止めた。疑いをこめて見上げると、薄闇のなかの公爵の顔に、水にたゆたう明かりが映えて、瞳ばかりがきらめいた。
「あなたを必ずわたしのものにする、そのしるしを、今ここで与えよう」
(いや……)
相手が顔を近づけるのを見て、絶対にいやだと思った。淑女らしさを脱ぎ捨てれば、さえぎる方法は何通りかある。だが、フィリエルの頭の片隅には、まだ、ここは王宮の庭園だという意識があった。
その一瞬のためらいが、まずい結果を呼んだ。抱きすくめられると、息がつまって悲鳴もあげられなかったのだ。もがきようにも身動きがとれない。強気に強気をかさねてきたが、とうとうフィリエルは怯えた。この腹黒い公爵を――彼の具体的な腕力とその背後にあるものを、芯から恐れた。
もうだめだとフィリエルが思った、そのときだった。
「ライアモン殿下」
暗がりの彼方で、ていねいに呼ぶ声が聞こえた。
「そちらに殿下はいらっしゃいますか。お呼び立ては、まことに申し訳ないことですが、宰相閣下《さいしょうかっか》が、退出前に、ぜひ殿下とお顔を会わせたいと申されまして」
それを耳にして、リイズ公爵がどういう表情をしたかは、フィリエルにはわからなかった。たぶん作為を感じたのだろうが、文句の言える呼び出しではなかったのだろう。
「……今行く」
彼は、やや乱暴にフィリエルをつき放した。そして、ひるがえったマントを引き寄せると、憤然として歩み去った。
虚脱《きょだつ》する思いで、フィリエルがそれを見つめていると、声をかけた人物が近づいてきた。近衛兵の制服を着たユーシスだった。
「大丈夫だったかい、フィリエル。これでも急いだつもりだが――間にあったかい?」
心配そうにユーシスはたずねた。フィリエルはただうなずいたが、明瞭にしておくべきだと思い、口を開いた。
「平気です……何もされなかったし」
「リイズ公爵の動向には、われわれもずっと警戒していたんだ。でも君は、こんな場所についてこないで、ホールで父を呼ぶべきだったよ。あの公爵は、君が一人でたちうちできる相手じゃないんだ」
(そんなことない。たいしたことじゃない……何もされなかった)
フィリエルは考えたが、気がつくとひざが細かく震えていて、足が動かなかった。押しとどめようとすると、今度は全身が震え出した。
「公爵に、何を言われた?」
のぞきこむようにして、ユーシスがたずねた。彼も少々困惑しているようだった。こういう場合、こういう情況で、女の子をなぐさめるのが上手な彼ではあり得ないのだ。
フィリエルは口を開いたが、冷静になど話せないことに気がついた。一方的にあしらわれたことに対する、くやしさやら恥辱やら傷つけられた気持ちやらが、いきなりあふれ返ってきた。
「……王妃にするって……わたくしのこと、異端にまみれた娘だって……手に入れる見込みが、もうついているのだって……」
涙がこぼれ落ちると、もう止まらなかった。フィリエルはわっと泣きだした。ユーシスは彼女の肩をひき寄せたが、しばらくじっと黙っていた。それからつぶやくように言った。
「公爵は、君にねらいを絞ってきたわけだ。こういう事態をひき起こす恐れが、ないわけではなかった。それでも君をつれてきた、わたしたちがいけない。彼は、はっきり言って邪悪な男だよ。けれども、女王陛下は常に彼に甘い。末の御子《みこ》だからだろう。いずれ、放置するわけにはいかなくなるに決まっているんだが」
(……あたしは、なんというところに来てしまったのだろう……)
今こそ痛烈に、フィリエルは思った。無邪気なら許されるものではないという意味が、これだったのだ。父と母の娘であることを負い目に感じたのは、これが初めてだった。今までは、どんなことを言われようとも、自分の誇りにしてきたはずだった。
(怖い……)
公爵の脅しがよみがえると、また体が震えた。女王の処罰をまぬがれる自信が、彼にそれを言わせているのだ。たしかにフィリエルの意志など、いくらでも握りつぶせそうだった。
「フィリエル、寒いだろう。その薄着で長く外にいてはいけないよ」
ユーシスが彼女の震えに気づいた。彼は自分のマントを脱ぎかけたが、急にそれを思いなおし、フィリエルをさらにひき寄せて、いっしょにマントでくるみこんだ。
ユーシスの制服の固い服地に押しつけられ、フィリエルは少しびっくりしたが、あまりあれこれ考えないことにした。心地よくあたたかいので、動く気になれなかった。彼のつけている、青い香りに包まれる。背の高いユーシスのマントは、フィリエルを頭まですっぽり包みこんでしまうのだ。
ふいに、ユーシスが言った。
「婚約しようか、フィリエル」
「え?」
フィリエルはぼんやりしていたので、つぶやいただけだった。
「君がその立場にあったほうが、君をよく守ることができる。このままでは危険だよ。公爵は、どんな汚い手でも使う男だろうが、相手がロウランド家の正式な許婚者となれば、それだけ周到な手はずが必要になるはずだ」
徐々に驚きが広がって、フィリエルは顔を上げた。
「あの――わたくしのことですか?」
「君とわたしの婚約のことを言っている」
きまじめにユーシスは告げた。フィリエルが見上げる端正な顔に、冗談の雲ゆきはない。だいたい、どんな場合でも冗談を言う人ではなかった。
「王宮で、それがうわさになっていることは知っていた。ロットをどやしつけておいたが……こういうこともあるものだな」
「こういうことって。でも、わたくしは……」
「君はいやかい?」
フィリエルは、おたおたしている自分を感じた。どう言っていいかわからず、口ごもりながら言葉を探した。
「いやとは……でも、身を守るために婚約するなんて……それでは、ユーシス様に悪いです。それでは……顔向けできません」
ユーシスはほほえんだ。
「何を言っている。このわたしが婚約しようと言っているのに、だれに悪いんだ。わたしは、君を守ると約束しただろう。その約束を貫きたいんだ。特に、リイズ公爵のような人物には、何をなげうってもわたすわけにいかない」
ユーシスの申し出は騎士道精神あふれるもので、少しもやましいところがないことが伝わってきた。だが、フィリエルは、ためらわないわけにいかなかった。アデイルの顔が浮かんできた。そしてもちろんのこと――ルーンの顔が。
しかし、ユーシスが今、現実的な立場でものを言っていることもたしかだった。フィリエルは、きっぱりした態度がとれない自分に情けなくなりながら、弱々しくたのんだ。
「少し――少し考えさせてください」
ルーンは、メリング医師の親身な助言にもかかわらず、あまり有用な人物になる道を歩んでいなかった。
宿舎をともにする若者たちは、いつのまにか、彼に手出しをしなくなっていた。ただ新入りいじめに飽きたのか、それとも、ガーラントのような人物がのっそり現れたせいなのか、はっきりとはわからない。だが、ルーンにはどちらでもいいことで、特に関心ももっていなかった。
チェス研究の同輩たちは、むしろルーンを避けるようになった。組む相手がだれもおらず、一人にされることが多くなった。ルーンはこれを幸いと、研究所内をぶらぶらしたり、裏木戸を抜けてコーネル博士の館へ行ったりしていた。
もっとも、コーネル博士と仲よくしたわけでもない。ルーンは、用具箱で見つけた古い羽根ばたきを手にコーネルの庵《いおり》へ行き、だれに断るでもなく、資料にはたきをかけていたのである。
コーネル博士は、放っておくと昼じゅう寝ている人物らしく、ルーンがはたきをかけている間、階上の部屋からはことりとも音がしなかった。だが、一週間以上も続けたころ、たぶん、たまたまなのだろうが、ルーンがまだ掃除をしている最中に扉を開けて、広間を見下ろした。
「ふん」
白髪のひげをくしゃくしゃにした老人は、羽根ばたきを持ち、顔の上半分をメガネに、顔の下半分を格子柄のハンカチに大きく占められた、黒髪の少年を見つめて鋭く鼻を鳴らした。単に、ほこりが猛烈に舞い上がっていたせいかもしれない。
「おぬしだったか。靴屋のこびとは」
鼻と口を覆っていたハンカチを押し下げて、ルーンは答えた。
「ぼく、靴屋じゃありません」
「そんなことはわかっておる。どうして、そこにいるのだ」
「……ひまだからです」
「おぬしの年頃の人間が、ひまでいいと思っているのか」
ルーンは答えなかった。答えが見つからないからではなく、どうでもいい質問には答えなくてもいいと思っているからだった。
コーネル博士は、斜視の瞳をしばらくルーンにそそいでいたが、相手に負けないぶっきらぼうさで言った。
「上がってきなさい。茶を入れる」
とりあえず、ルーンはその言葉にしたがった。老博士の居室には、あいかわらず雑多なものが積み上がっている。散らかっていると形容すべきでない、片づくことを最初から否定した、断固たる乱雑さだ。
だが、ルーンには、こういう乱雑さはかえってなじみがあった。お茶をうけとっても、テーブルにのせる余地はなく、博士以外の人間が座るところは木箱の上蓋《うわぶた》しかないが、それでも心地よい場所に思えた。
コーネル博士は、ふちを少々欠いた陶器の碗からお茶をすすり、ルーンにたずねた。
「おぬし、わしに取り入りたいと思っているのかね?」
それは率直な質問だったので、ルーンも思ったとおりを答えた。
「さあ、まだ――よくは」
「竜に興味があるようだな。だが、わしは、あのメリングがわしに弟子を紹介しにきたとは、これっぽっちも思っておらんぞ」
それはそうだろうと、ルーンも思った。メリングがルーンをここへつれてくることで、言外に匂わせたのは、決して肯定的な意味のことではなかった。おのれの探求心だけを満足させ、その結果、夢のなかに生を送る生き方を見せようとしたのだ。
しかし、医師がそれを否定まではしなかったように、これは一つの成功した生き方でもあった。ルーンにも、特に悪いことだとは思えなかった。研究者なら、充分憧れることのできる身分だ。熱中できる材料が苦もなく手に入り、それとともに研究|三昧《ざんまい》に暮らせたら、世間とかけ離れていることなど、なにほどにも思う必要はない。
(ただし……ここに住めば、セラフィールドの天文台と何もかも同じだ。王立研究所に囲われることは、北の塔に幽閉されることと、実質的には同じなんだ……)
閉じこめられた場所から出ることを願わなければ、埋没《まいぼつ》して暮らせる。だが、ディー博士はそうしなかったと、ルーンは考えた。
「メリングとわしは、まあ、けんか友だちみたいなものだ。お互いに正反対の道をとったせいで、かえってこうして、けんかを売りあって長く交流が続いておる」
まんざらでもなさそうに、老博士はカップの端でにやりとした。
「わしはくだらん弟子入りなど、それこそほうきで掃き出すことにしておるが、メリングの肝いりとあっては、おぬし、生半可《なまはんか 》なやつではなかろう。何が目的だ」
ルーンはたしかに掃除をしたが、それは気になったからしてみただけで、コーネル博士の弟子入りを考慮してのことではなかった。だが、言われてみると、思いつくことがあった。目を上げ、ルーンは質問した。
「もしも、ぼくが博士の正式な弟子だったら、秘蔵図書館の利用許可証がもらえますか?」
研究院に図書室は一つならずあり、ルーンも利用のしかたを覚えたが、奥の塔をまるまる一つつかった秘蔵図書館は、彼には近づけない場所だった。
そこは、王立研究所のなかでもさらに厳重な警備体制がしかれた場所であり、許可証がなければ入り口さえ入れなかった。さらに書庫へ足を入れることができるのは、博士以上の肩書きをもつ者に限られるのだ。
老博士は薄い色の目をむいて、異物でも見るようにルーンを見た。
「なんという生意気な小僧だ。来た早々から、秘蔵図書館の図書が見たいと言い出すのか?」
どうやら、だいぶまずいことのようだった。少し首をすくめて、ルーンは言い添えた。
「図書まで見たいとは言いません。目録か……閲覧《えつらん》記録のようなものでもあれば」
「そんなものを見てどうする。おぬしはいったい何がしたいのだ」
ルーンが黙って下を向くと、コーネル博士は息をついてお茶を飲み終えた。
「……十年に一人くらいは奇人が生まれる。わしも、そういうことはわかっておる。このわしも奇人だからな。おぬしが、他人には理解されない人間だということも、別に不思議には思わんよ。そういう奇人は、ここへやってきて博士になる。おぬしが博士になって、あそこの本を読みたいなら、わしが力になってやってよいとも思う。だが、よいな、若造。博士になったら二度とここを出ることはかなわないぞ」
きびしい口調で、老博士は続けた。
「メリングのように調子のよいやつは、例外中の例外だ。ここを飛び出して、異端の風にさらされて、闇に消えない者はごくまれだ。グラールは、表面穏やかな国だが、不要なものを音もなく消すことにかけては、世界のどこよりも技を磨いておるのだよ。それが女王の国だ。アストレイアは慈愛《じ あい》の顔の裏に、憤怒《ふんぬ 》の顔を合わせ持たれるのだからな」
星女神は一般に、処女ながら慈愛の聖母として親しまれているが、それは一つの様相であり、恐ろしい炎を宿した憤怒態と獣態もまた、女神のたしかな一面であると、正規の教義であっても伝えているのだった。
ルーンは、コーネル博士の言葉をよくよく吟味《ぎんみ 》するべきだと思った。うなずいて言った。
「図書館のことは取り消します。もう少し、よく考えてみます」
「それがいい。心が決まってから、わしに話せ。もっとも、わしの剥製のほこりを払うことに関しては、続けても文句は言わんぞ」
裏木戸からもどってきたルーンは、研究院へまっすぐ帰る前に、秘蔵図書館の前を回らずにはいられなかった。
その塔は、奥の敷地に、他の建物とはだいぶ離れて建っていた。正面の小さな出入り口以外は、壁をつたい登ることさえ不可能そうな、白くなめらかな建物だ。これみよがしに真っ赤な制服を着た警備員が常時いて、不必要な侵入者をはばんでいる。
用もないのにこのあたりをうろうろする研究員は、皆無《かいむ 》に等しかった。全体に、王立研究所は敷地の広さにくらべて人間が少ないのだ。若いルーンの姿は目をひくらしく、入り口の階段に足をかけただけで怒鳴られたことがあった。
すでに懲りているルーンは、立ち止まるにも注意深く警備員の死角をとり、巨大な棺が立ててあるような建物をふり仰いだ。
(ディー博士は、博士の資格を取った。そして、エディリーン王女とともに、あの書庫に入ったんだ……)
ルーンは、この手で燃やし、ひとかかえの灰に変えてしまった本の数々を思い浮かべた。あのなかには、大胆な二人が秘蔵図書館からもちだしたものが、混じっていたのかもしれない。
だがそれは、たぶんごくわずかのはずだった。逃亡する博士が、ふところに入れてきたとしても、せいぜい一冊か二冊だ。
それよりも考えなくてはならないのは、死んだボゥ・ホーリー氏が手に入れてきた禁制本だった。そのほうが、天文台にはずっと多かった。蛇の杖の紋章入りの本。あれらは、だれが持ち出したものなのだろう……
(閲覧記録を見れば、何かがわかるかもしれないのに……)
ルーンはしばらくぼんやりたたずんでいた。すると、意外なことが起こった。階段の上の詰め所に、いつも根がはえたように動かない赤服の警備員が、詰め所の扉を開け、小走りに階段を降りて、研究院へと向かいはじめたのだ。
彼は少年に気づかない様子で、一目散に歩み去った。ルーンはびっくりした目でその背中を追っていたが、じわじわとこれがチャンスであることに気づいた。
結局はつまみ出されるだけかもしれない。だが、試してみる価値はあった。おそるおそる進み出て、白い石段に足をかける。それからいっきに駆け登った。
重い両開きの扉は細長く、入り口は二重になっていて、ポーチを入ってまた扉がある。内部は採光が悪く、かなり薄暗いようだった。後ろめたい侵入者ならではの、すべりこむような方法で二回扉を通ったルーンは、突然わきから腕をつかまれて、息が止まりそうになった。
「おやまあ、見事に釣れたこと。つかまえた、ルーネットちゃん」
心臓が飛び出しそうで、気をとりなおすには少々時間がかかった。だが、その声も口調も、ルーンには聞き覚えがあった。ルーンをつかんだすらりとした人物が、身にただよわせる甘い芳香もたしかに知っている。
「なんなんです、あなたは……」
「ごあいさつだね。お久しぶりとは言ってくれないの。わたくしは君に会いたかったよ。君が研究所に来ていることは、よく知っていたから」
晴れやかな声でレアンドラは告げた。ルーンが心底ぎょっとしたために、たいへんうれしそうだった。長い黒のマントを着て、薄闇にうまく溶けこんでいる。だが、編んで| 冠 《かんむり》のように頭に巻きつけた銀色の髪ばかりは、小窓の明かりをとらえて月のように輝いていた。
「階段の窓から外を見たら、君がもの欲しそうに立っていたものでね。それにしても、そのメガネは、ここでの変装か何かなの? かわいい顔がだいなし」
最初の驚きがさめ、むっとする余裕の出てきたルーンは、レアンドラの指をふりはなした。
「あなたに言われることじゃありません。あなたこそ、どうしてこんなところにいるんです。また、何かのたくらみですか」
薄闇のなかで、レアンドラはほほえんだ。
「知らないの? わたくしはこの図書館の利用許可証をもっているのだよ。ここには、正式な書類を通して入っている。不審な行動者は君一人だけだ」
ちょっとつまってから、ルーンは問いなおした。
「王族には、ここに入る権利があるのですか?」
「いいや、王族とて同じに優秀な者だけだ。わたくしは優秀なのだよ。君だって、トーラスでわたくしの授業を受けた身じゃないか。お互い、他人には大声で語れない思い出だけどね」
ルーンは口をつぐんだ。トーラス女学校の臨時教師、シスター・レインの授業は、祈祷《き とう》会のように平板ではあったものの、たしかに恐ろしく正確無比だった。
「あのときは、君をとりそこねてしまったけれど、どのみち時間切れではあった。わたくしは学院の夏期休暇に、ちょっとした試みを行っていただけだから。でもね、わたくしは一度ねらった獲物はのがさない性分なの」
愉快そうにレアンドラは言った。
「君がハイラグリオンに来ると聞いて、楽しみにしていた。黒髪のルーネットはかわいらしかったから、王宮でわたくしの侍女にしたら、さぞ楽しかろうとか、いろいろ――」
「さよなら」
冷たく言って、ルーンは扉を出ようとした。レアンドラはすばやく押しとどめた。
「待ちなさい、君、もう少し会話を楽しむ技術を身につけたほうがいいよ。宮廷の作法をしめせとまでは言わないけれども」
灰色の瞳に怒りを浮かべて、ルーンは言い返した。
「あなたと話す内容など、ぼくにはありません。あえて言うなら、|金輪際《こんりんざい》、殺されたって女装はしないということです。さよなら」
「本当に?」
レアンドラは黒光りする瞳を細めた。
「本当にわたくしと話すことは何もないの、ルーネット。わたくしと、エフェメリスの話をしたことを覚えていないの?」
ルーンは顔をそむけた。
「ぼくは、ルーネットじゃありません」
「ヘルメス・トリスメギストスの正体を知りたいと、わたくしに言ったこと、覚えていないの?」
ルーンの体が思わずすくんだ。その耳に、レアンドラはやさしくささやきかけた。
「あのとき、わたくしは言っただろう。君がいい子なら、彼を君にくれてやってもいいと」
少しためらってから、ルーンは扉にかけた手を下ろした。あらためてレアンドラを見やったが、いくぶん困惑してもいた。
「そんなこと……あなたにできるはずがない」
「どうして?」
レアンドラは凄《すご》みのある笑みを見せた。彼女が悪意をもってほほえむときは、とびきりの妖艶《ようえん》さを発揮する。
「わたくしは、君を知っている。君の望みを知っている。わたくしがそこの守衛を追い払ったら、君は、釣り上げられた魚のように飛びこんで来たじゃないか。どうだ、わたくしが見せてあげようか。この秘蔵図書館の閲覧表。ヘルメス・トリスメギストスの本名がわかるかもしれないよ」
ルーンは再び身を固くした。見透かされたのがわかったが、彼女の得意げな様子は気に入らなかった。
「そして? おかげでわかったらどうなるんです。あなたに作った借りは、海より大きいものになるんでしょう」
「みもふたもないことを言うな。その率直な論点が新鮮ではあるが」
肩をすくめてから、レアンドラは続けた。
「わたくしは君を知るために、かなりの手間と労力を払ったのだよ。子猫ちゃんが知らないことまで、わたくしは知っているし、その上で君を評価しているのだ。君はこのわたくしとのほうが、分かちあうものがずっとたくさんあるはずだよ」
「そうは思いません」
無表情にルーンは言った。声を大きくはしなかったが、きっぱりした響きはもっていた。
「あなたはたしかに、さまざまな知識をもっているかもしれないけれど、それと好意とは別です。あなたには好意がもてません」
「それは君、君が自分自身に好意をもっていないからだよ」
レアンドラは涼やかに言ってのけた。ルーンの返答は、彼女を何一つ傷つけなかったようだった。
「理解こそが、のぞましい人間関係の第一歩だよ。君にもじきにわかる」
「それなら、借りをつくるのはそれからにします」
ルーンには、そう言い切るのが精いっぱいだった。この場にこれ以上いられない気がして、扉を押して外に飛び出した。だが、レアンドラも、今度は止めようとしなかった。
階段を駆け下りて、通路まで出たときだった。向こうから真紅の服を着た警備員がもどってきて、少年の姿を目にした。
「こらあっ、小僧、そこで何をやっとる」
遠くから怒鳴られ、ルーンは脱兎《だっと 》のように反対方向へ逃げ出した。追ってこないとわかるまでは、足を止めなかった。
研究院の陰にまわって、ルーンはようやく安堵《あんど 》の息をついた。だが、気持ちはずいぶんかき乱されていた。レアンドラの申し出がどれほど恐ろしいことか、ルーンにはよくわかっていた。そして、よくわかる自分を、なおさら恐ろしく思ったのだ。
(彼女は、たぶん、このままにしてはおかないだろうな……)
解決法が見つからないまま、足どり重く宿舎まで歩いて来たルーンは、目にしたものにびっくりして立ち止まった。裏口の登り段に、うずくまっている灰色のものがあるのだ。
よくよく見れば、それは、例の弟子のかっこうをしたフィリエルだった。いつからそこにいたのか、マントをひき寄せて寒そうに体を縮め、ひざを抱えて座りこんでいた。
「フィリエル――どうして、こんなところに」
ルーンの声に、フィリエルは目を上げたが、待ちくたびれて明るくなれなかった。非難をこめてたずねた。
「どこへ行っていたの」
「コーネル博士のところへ――あと、ちょっと――」
「コーネル博士の研究所は見てきたわよ」
「きみは、いつからここに来ていたんだ」
うろたえたような早口でルーンはたずねた。フィリエルは直感的に、自分にとって気分のよくないものを感じた。
「あたし、ガーラントにたのみこんで、どうしても、どうしても、どうしても行きたいと言って、一時間だけ許してもらったのよ。でも、その一時間を、もうほとんど使っちゃったわ」
ルーンはため息をついた。
「ぼくにわかるわけないだろう。ガーラントってやつなんか、信用するなよ」
「あら、ガーラントのせいではないわよ。彼はあなたが、研究院でチェスをしていると信じていたんだから」
ルーンはばつが悪そうに黙りこんだ。これ以上言ってもしかたないと思い、フィリエルは話を切りかえることにした。時間も少ないのだ。
「今日は、相談することがあって来たの。どうしたらいいのか、自分でもわからなくなって……ルーンがどう思うか、聞かせてほしいの」
ルーンはうなずいた。彼にも、前とはまるで態度の違う、フィリエルの思い悩んだ様子は見てとれるのだ。ルーンがかたわらに腰をおろしたので、フィリエルは、水鏡の間の庭園で起こったことを、とり急ぎ全部ルーンに話した。リイズ公爵の言ったことも、ユーシスが言ったことも、自分にできるかぎり主観をまじえず、正確に伝えたかった。
それでも、ずいぶん語りにくい話だった。ルーンは石のようにおし黙って聞き、フィリエルに、特にきまりの悪い思いをさせはしなかったのだが、それでもフィリエルは、話の途中で何度も言いよどんだり、言葉を切るはめになった。
(どうしてこんなに、話しづらいの……?)
それはフィリエルにとっても、少々予想外だった。同じ話を、すでにそっくりアデイルにしていたのだ。アデイルは、同情と共感をもって聞いてくれ、誤解もほとんど生じなかった。それなのに、フィリエルにとってさらに身近な人物であるはずのルーンに、どうして伝えにくかったりするのだろう。
それはつまり、ルーンが同性ではないからだ。そのことに驚きとともに気づいて、フィリエルは認識が変わるような気がした。ルーンは、たぶん、この事件を決してフィリエルと同じ目では見ない。なぜならルーンは、リイズ公爵やユーシスと同じ性、フィリエルにとっては異性だからなのだ。
話し終えてから、フィリエルは妙に自信がなくなり、こわごわたずねた。
「どう……思う?」
ルーンの顔をうかがうと、彼は考えこんでいたが、それ以外はふつうだった。憤慨したり、腹立ったりした様子はなかった。口を開いたときにも、声音は平静を保っていた。
「そのリイズ公爵は、たしかに危ない男だと思う。ユーシスの言ったことが正しいよ。きみは、用意もなくのこのこついていくべきじゃなかった」
「わかったわよ。それについては反省したわよ、もう何度も」
ひざを抱えなおして、フィリエルは少々ふくれた。
「王宮では、みんなもっと遠回しな話をするものだとばかり思っていたから、不意打ちだったのよ。王族のなかでも、あの人は特に甘やかされているんだわ。あんなの、スポイルされた中年よ」
ルーンは横目でフィリエルを見やった。
「それを言ったの、アデイルだろう」
「まあね……いいじゃないの」
フィリエルはふいにため息をついた。
「考えてもみて。そんな中年が、あたしたちの叔父にもあたるのよ。できることなら知りたくなかったわよ」
「たしかに、やっかいだね」
ルーンはつぶやいた。フィリエルは、声をあらためてたずねた。
「ルーン、あたしのおかあさんは、どうして博士と逃げることを選んだんだと思う?」
「わからないよ。今はまだ」
目を伏せてルーンは答えた。
「公爵が言ったみたいに、女王陛下のあやつり人形になりたくなかったからなのかしら……」
「外に――」
急にルーンは、確信ない様子ながらも言った。
「外に知りたいことがあったのかもしれない」
「外って、ハイラグリオンの外?」
「うん。もっと、何というか……アストレイアの恩寵《おんちょう》の外だよ」
フィリエルはしばらく考えてみた。やっぱり、よくわからなかった。だが、自分の母が、女王陛下の期待にそえない王女であったのだということは、ここへきて痛いようにわかった。
「あたしにも、同じ血が流れているの。ユーシスは、あの公爵は邪悪だときっぱり言ったわ。でも、公爵はあたしに、あなたも同じ人間だと言ったのよ。異端にまみれている……あたしには、それを否定できなかった。どこかで納得していた。公爵があたしに目をつけるからには、それだけのものが、あたしのなかにあるのだろうと思ったわ」
最後はつぶやくように、フィリエルは言った。
「それが怖いの。結局……一番怖いのは、公爵ではなく自分のことなのかもしれない」
「きみは邪悪じゃないよ」
ルーンは静かに言った。
「そういうことを言うものじゃないよ。その男は邪悪でも、きみはぜんぜん違う。だいたい、何も知らない頭をしているくせに、どうやって邪悪になるつもりなんだ」
「失礼ね。あたしだって、最近はいろいろ知っているのよ」
フィリエルは頭をふりたてた。
「王宮へ来てから、さまざまな話を聞くんだから。ロウランド家は、グラール全国を広く見回しても、高潔とされる家柄なのよ。よそから固いと言われるほどに。あたしは、そんなロウランド家の、かかえこんだ弱みになってしまうかもしれない。あたしがあの人たちの、汚点になってしまうかもしれない」
少し間をおいて、ルーンが言った。
「そう考えられるなら、きみも貴族になってきたということだよ。ルアルゴー伯爵も、危険は初めから承知の上だろう」
「あなたね」
いくぶん苛立ち、フィリエルは声を強めた。
「はっきり言ってよ。あたしがユーシスと婚約などして、いいと思っているの?」
「いいんじゃないか」
答えは即座に返ってきた。拍子抜けして、フィリエルは目をみはった。
「ルーン……それ、本気?」
「リイズ公爵の危険から身を守るには、一番有効な手段だよ。ロウランド家の名前が盾になる。その点も、ユーシスの言うことが正しいよ」
「でも、婚約なのよ? 婚約って、あの――将来結婚するということよ」
「守ってもらえばいいじゃないか」
ルーンは冷静に、よそよそしいと言っていいほどの声で言った。
「彼らがきみをつれてきたんだ。責任をとるというなら、責任をとってもらえばいいじゃないか。きみを守ると申し出る以上、理由も根拠もあるのだろうから」
彼は結局怒っているのだろうかと、フィリエルはいぶかしんで見つめた。口先と裏腹に、反対しているということなのだろうか。
ためしにフィリエルはたずねてみた。
「あたし、婚約しないほうがいい?」
「ぼくに、なんて言ってほしいんだい」
まずいことに、ルーンの声は格段に冷ややかになった。
「きみが聞きたいことを言わせるために、わざわざしのびこんで来たのなら、何でも注文どおりに言うから、それを聞いて帰ればいいだろう」
「なによ、それ」
そうまで言われて、腹が立たないほうがどうかしている。フィリエルは憤然と立ち上がった。
「あなたなんかに相談しようと思った、あたしがばかだったわ。ぜんぜん話にならない。まるで時間のむだじゃないの」
琥珀色の瞳を燃やし、くやしさにまかせてフィリエルは叫んだ。
「ルーンのおたんこなす。あたしのことなんて、剥製よりもどうでもいいことなんでしょう!」
ルーンが何も言い返せないうちに、フィリエルはくるりと背を向け、敷石に足跡がつく勢いで地面を踏みしめて去っていった。わき目もふらずに正門を目指すところを見ると、ガーラントが待っているらしい。
ルーンは、彼女の憤りに満ちた後ろ姿が見えなくなるまで、長い間見つめていた。そして、めったにつくことのない悪態《あくたい》をつぶやいた。
「――ちくしょう」
「まったくそうだね。憂慮する事態になったものだ」
ルーンの背後で、同意の声が聞こえた。ルーンは頭の片隅でずっと、レアンドラがまだ所内にいることを意識していたのだが、こうも露骨に立ち聞きされていたとわかると、やっぱり腹が立った。
そばの木立から現れた黒マント姿を見つめて、ルーンは思いきり眉をしかめた。
「あなたって人は。盗み聞きをなんとも思わないんですか」
「ぜんぜん」
平気な顔でレアンドラは答えた。
「有用なことは、えてして、隠れているほうがよく聞けるものだ」
「フィリエルが来たこと、あなたは知っていたんですね。知っていて――」
「そう。あの子にできることは、わたくしにもできるところを見せようと思ってね。しかも、わたくしのほうが、君をつかまえるのはうまかった」
「あれは、意地悪だったんですか」
ルーンがあきれて言うと、レアンドラはうれしそうににっこりした。
「ささいなものじゃないか。わたくしは、子猫ちゃんの側の内情が知りたかったの。あの子が君に、何を言いにくるのかなと思って」
「もう、全部聞いたんでしょう。だったら、あなたもお帰りください」
ぶっきらぼうにルーンは告げた。
「おや、話しあったほうがよくないか。それとも、一人で傷心をかこっていたい?」
「あなたに関係ない」
「関係はある。王族の問題だ。ライアモン殿下は、わたくしにとっても叔父だよ。しかもついこの間まで、彼は急進派の先鋒《せんぽう》だった」
レアンドラはふいにぴしりと言った。有無をいわせぬ口調には、彼女ならではの迫力がある。ルーンが黙りこむと、レアンドラは、思いなおしたように肩をすくめた。
「それにしても、あの男は、フィリエル嬢によくもぺらぺらと手の内をしゃべったものだな。女の子をはなから|侮蔑《ぶ べつ》しているぞ。もっともあの子が相手では、かさにかかりたくなる気持ちもわからないではないが」
ルーンは響きをたしかめるようにつぶやいた。
「ライアモン殿下――リイズ公爵……」
「彼の主張の前半は、わたくしにも同感できるものだ。世界はたしかに変わりはじめている。東海岸に、あれほどの帝国ができつつあるというのに、どうして今までどおりにすごすことができる。女王家は、何から何まで陰に回るやり方を、ここらであらためなければならない。もてる知識を人々に開放し、前面に立って、ブリギオンの侵攻をはばまなければならない――」
レアンドラの声は流れるようで、重くは聞こえなかったが、見事に冷ややかではあった。
「だが、彼は、ここへ来てついに逸脱《いつだつ》の一線をふみ越えた。玉座が手に入るという、古い誘惑に逆らえなかった。おろかしいにもほどがある。女王の世代交代ごとに、ああいう男が最低一人は出てくるものだよ。なぜ、女性にしか継承権がないのかと言い出す。そして、いつの世も、なるべく静かにご退場願われたのだ。わたくしもまた、もはや彼を泳がせておくわけにはいかない」
ルーンはそっけなくたずねた。
「なぜ、女性にしか継承権がないんです」
「君には、もう、わかっていると思ったのに? 継承権ではない、女の実力だよ。わたくしたちは、実力を駆使して玉座を勝ち取っているのだ。女王候補として立つには、そこまで徹底した覚悟が必要で、栄誉が降ってくるのを、寝て待つわけではないのだ。邪魔者を排除する能力が問われている」
レアンドラはうっすらと笑い、マントをはねのけて腕を組んだ。なかの装いは、これまた男物の軽装だが、フィリエルよりもよほど身になじんでいる。長い黒マントといい、怪盗じみていると言えば言えたが、彼女の場合、それがもっとも本来の姿ではないかと疑わせるふしがあった。
「王妃にむかえるだと、笑わせる。子猫ちゃんはたまげただろうが、それほどオリジナルな発想ではないよ。彼女の存在が誘発したという点では、たしかに問題があるかもしれないが。だが、わたくしは、あの子がまだ知らないことも知っている。彼は男色家だよ。妻にするとは聞いてあきれる」
ルーンはうまく呼吸ができなかった。ゆっくりと吐いて、平静な声を出そうとつとめたが、それは困難きわまることだった。
「……ライアモンが本名ですか」
レアンドラは、探るような目で少年を見やった。
「そういうことになる。もっとも、しっぽはだれにもつかませていない。君に彼の顔を見せてやったら、あの男を特定することができるか?」
「覆面していました。でも……」
ルーンは思わず目を閉じた。男の、虫の足をちぎって喜ぶような残虐さが浮かんできた。ドリンカムの館で、夜ごとに行われたことの数々。最終的に、あの男には、責め苛《さいな》む目的が特にないことがルーンにもわかった。獲物に恥辱を与えること自体を、彼の愉悦《ゆ えつ》としていたのだ。
両手がこきざみに震えるのを感じて、ルーンは固く握りしめた。
「あの男は許せない。絶対に」
「利害が一致したね」
やさしい声でレアンドラは言った。彼女はその気になれば、胸にしみいる慈愛の女神のような声が出せるのだ。
「わたくしはすでに、あの男を葬ることに決めた。彼は、この国の害毒になりはてている。ためらうものは何もないし、方法はいくつか考えられるが、でも、彼を君にあげようか。わたくしは、君の望みを知っていたもの」
ルーンは長い間口を開かなかったが、よくやく小声でたずねた。
「ぼくを使いたいということですか」
「協力と言いかえてほしいな。わたくしは、これでも、君に深く同情しているのだ。君に自分の手で自分のものを守らせてあげたい。今のままでは、どうにも身動きがとれないのだろう?」
レアンドラが言うと、ルーンは灰色の瞳に不信をこめた。
「他人のために動く人ではないでしょう、あなたは」
「わたくしのためと言えば、そのとおりだ。君に貸しをつくりたい。トーラスでも言っただろう、わたくしは、とっても君をわが陣営にひき入れたいのだから」
銀の三日月のような眉をあげ、彼女はさらりと言った。
「君は、ハイラグリオンで牙を抜いてしまわずに、確保したい人材の一人だよ。その歳までに、グラールの影の部分にふれている。表に立って光を浴び、舞踏を演じる人間たちが必要なように、影のなかで働く人間もまた不可欠なのだ」
「あなたはどちらの人間なんです」
「わたくしは、両方やる」
ルーンの問いに、レアンドラはいとも楽しげに答えた。
「騎士を操ってことを進めればよいとする、従来の方法は、性分的にもきらいでね。これからの女王は、表にも裏にも前面に立つ能力がなくては」
ルーンは少し考えていたが、やがて感想をのべた。
「もしもあなたがフィリエルだったら、ぼくは、フィリエルにそんなまねをしてほしくありません」
「なるほどね。子猫ちゃんは明るい光のなかだけに――きれいなままに?」
黒く輝く瞳をまたたかせ、からかうようにレアンドラは言った。だが、それほど意地悪な含みはなかった。歌うようなその声音には、むしろ、思いやりさえこめられていた。
「そう考える人間だけが、真に影のなかの人物になり得るのだよ。この原理、わかるかな?」
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第三章 幻想曲と遁走曲《フーガ》
(あたしはルーンに、なんて言ってほしかったのだろう……)
寝台に起きなおって、フィリエルは考えた。東の窓に並ぶ塔の向こうに、まぶしい銀の朝日がきらめいている。天蓋《てんがい》の紗《しゃ》のとばりの向こうは、澄んだ冬の日射しに満ちて、白と薄緑を基調にした彼女の寝室は、しらじらと明るかった。
日がたって怒りも冷めれば、まったく異なる目でものを見ることができる。夜半の霜も朝の光も、同じ大地に降るように。フィリエルもまた、感情の振幅《しんぷく》によることのない、自分の底流となるものに気づいたのだった。
そして認めた――自分がずるかったことを。
(ルーンに何が言えただろう。相談に行ったこと自体がまちがいだったのだ。このあたしだって、婚約が一番いい対策だと思うからこそ、すぐにことわれなかったくせに……)
王宮で力を得たいと思い、ここへ乗りこんできたからには、フィリエルも、知らなかったと言ってはすまされない。特別な技能ももたず、宮廷に立場を得たいと願うなら、それは、婚姻《こんいん》がもっとも有効かつ普遍的な手段であるということを。
(今でもやっぱり思う。あたしは、王族や貴族がもっているような力がほしい。博士の汚名を返上したいし、ルーンをもっと自由に安全にしてあげたい。そう……安全を確保するために、ここへ来たのだった)
フィリエルは、野花の模様の掛けぶとんを見つめた。自分以外にはどこにも、体をはって、ディー博士と博士の弟子を異端の弾劾《だんがい》から守ることのできる者などはいやしない。
だから、フィリエルはユーシスと婚約するべきだった。ここで二の足をふむなど論外だった。
「おはようございます、フィリエルお嬢様。とってもいい朝よ」
はつらつとした声をあげて、マリエが部屋にやってきた。栗色の巻き毛を形よくまとめ、彼女は最近少し大人っぽい。王宮へ来て、みるみる洗練されていく少女だ。
マリエはいつものように、楽しみながらフィリエルの今日の服を選び、フィリエルが着替えているあいだに、てきぱきとあたりを片づけ、隣で朝食がとれるようにテーブルの用意をした。
「ねえ、マリエ――」
フィリエルは、赤金色の髪を広がるにまかせたまま長椅子に座りこみ、彼女にぼんやり声をかけた。
「どうしたの」
続きをなかなか言わないフィリエルに、マリエはふりかえって手をとめた。
「――ルーンにキスしたのは、いけないことだったのね」
マリエは一瞬息を止めたが、ため息にして吐きだした。
「今ごろ、それがわかったの?」
「あたし、ルーンが好きなのよ」
フィリエルはぽつりと言った。
「――それがわかったのは、最近のことなんだもの」
「そうじゃないかと思ったわ」
マリエは近づいてきて、フィリエルの座る長椅子の前でひざを折った。彼女はもう、ルアルゴーにいたころのように、隣に座って話すようなことをしない。ひとが見ようと見まいと、礼節を重んじるようになったのだ。
「お嬢様、ユーシス様とのご婚約の決心がおつきですね」
フィリエルは、みじめそうにマリエの顔を見つめた。
「そうなの。だから、自分がいやになってしまうの。もっとよく考えてふるまうべきだったのに。ユーシス様に失礼なのは、このあたし自身よ。たぶん、ルーンにも――」
「わかったのなら、もういいのよ。そんなに責められることではないと思うわ。ありがちですもの」
マリエは思いやり深く言った。
「身分の高いかたがたというのは、たいていそうではないかと、わたしは思うのよ。恋と結婚が別でも、どうしようもないことだわ」
「あたしは身分が高くなどないわよ」
拗《す》ねるようにフィリエルは言った。
「だったら、玉のこしをねらったと思いなさいな」
マリエは提案した。
「王宮は、玉のこしをねらう女の子の巣窟《そうくつ》よ。このわたし自身を含めてね。あなたはその勝者だわ。相手がむくつけき中年でも、いたしかたないこともあるのに、ロウランドの若君のように麗《うるわ》しいかたを射止めたのですもの」
「勝者――だと思う?」
「当然よ。あのかた、落とせなくて有名だったそうよ。そのぶん、きっと誠実なかたよ。これから恋愛することだって、充分あり得るかもしれないのよ」
フィリエルは、ふいに泣きそうになった。
「でも、あたし、ルーンとキスしている。他の人としたいかどうかわからないわ」
フィリエルの衝動がおさまるまで、マリエはじっと黙っていた。それから柔らかくたずねた。
「ルーンは、なんて言っているの?」
深呼吸したフィリエルは、しぶしぶながら答えた。
「守ってもらえばいいじゃないか、つて」
「そうでしょうよ。いっしょに逃げようなどと言ったら、彼はとっても頭が悪いことになるわ」
ほっとしたように、マリエは続けた。
「だったら、あなたも、別に気がねしなくてもいいはずよ。彼にはよくわかっているのよ。あなたが自分を守るために、こうするよりほかないということを」
フィリエルはしばらく考えていた。それから、つぶやくように言った。
「あたしが気持ちの整理をつければ、それでいいのかしら……」
「整理は必要でしょうね。割り切りのよさが勝敗のかぎよ。もしもあなたに、ルアルゴーへ逃げ帰るつもりがないのだったら」
フィリエルは、またしばらく考えた。
「……帰ってもだめだわ。ものごとが悪くころがるばかりですもの」
しばらくすると、アデイルが顔を見せた。彼女はもちろん、自分の部屋で朝食をとることができるのだが、いつもフィリエルとともに食べることを好んだのだ。
フィリエルも、アデイルがそばにいてくれるとうれしかった。彼女はめったにふさぎこまず、さえずる小鳥のように朝から元気だ。罪のない話のなかに、ときおり機知をひらめかせて、さりげなく大胆なことを言う彼女の話術は楽しかった。
アデイルはまた、余計なことを言わない知恵ももちあわせていた。フィリエルがルーンに会いに行ったことを、彼女はもちろん承知している。だが、この数日もちださなかった。フィリエルの自発性を重んじているのだ。だから、フィリエルは口をきった。
「ユーシス様にお話しするのはこれからだけど……婚約披露の日取りの調整、すすめてくださってもかまわないわ」
アデイルは最初まばたき、それからにっこり笑った。
「本当? よかった、それが一番よ」
「ぐずぐずして、ごめんなさい」
「よく考えて決めるのは、いいことよ」
フィリエルは、少しばかり疑わしくアデイルの顔をうかがった。
「……念のため聞くのだけれど、カーテンの陰で泣くというあれは、ただの小説よね?」
「あら、そんなに気にしないでくださいな」
陽気な声でアデイルは言った。
「ユーシスお兄様があなたに恋しているとわかれば、わたくし、心おきなく燃えますわ。ぜひ、盛大な宴《うたげ》を開いて、ドラマチックに盛り上げてみせますわよ」
朝食をゆっくりとり、正午を回ってから、馬車を出して学院へ出かけるというのが、フィリエルとアデイルの王宮での日課だった。この日もそうするはずだったが、馬車がととのったと告げられた後で、マリエがあたふたした様子で現れた。
「フィリエルお嬢様。あの、奥方様からお話があるという伝言があって」
「今から?」
フィリエルは驚いて問い返した。
「ええ、すぐにお話ししたいそうです」
アデイルがわずかに肩をすくめた。
「きっと婚約のお話でしょう。フィリエル、行って、承諾したことを言って、お母様を安心させておあげなさいな。わたくしは先に学院へ行っているから」
なんとなく不安になりながら、フィリエルはその言葉に従った。レイディ・マルゴットと顔をあわせるときは、なぜかいつも不安になる。
王宮へ来てからも、塔の最上部にある、レイディ・マルゴットの部屋を訪れたことはなかった。すばらしい部屋なのだろうと思っていたが、実際にすばらしかった。
王宮は全体にそうだが、その部屋も、金ぴかというわけではなかった。豪華だが落ち着いており、薄紫とピンクの濃淡で統一されている。ただよう香りにバラを予想していたのに、そうではなく、もっと深みのある、瞑想《めいそう》的で複雑な匂いがした。
レイディ・マルゴット自身、青みの強い紫をまとい、にぶいピンクのビロードでできた肘《ひじ》掛け椅子に、やや斜めに腰をおろしていた。部屋の隅に木彫りの彫刻が美しいチェンバロがあり、おかかえなのか、顔の見えない楽士がしきりにかなでている。
「フィリエルです。仰せにしたがってまいりました」
夫人が音楽に聴き入っているようなので、フィリエルはあいさつした。彼女はちらりと目を上げたが、演奏を止める合図はしなかった。
「あなた、ユーシスの申し出た婚約の件は、どうなさいました」
「今度お話しするときに、お受けするつもりです」
「そう」
フィリエルの答えに、レイディ・マルゴットはあっさりうなずいた。いくぶんひやひやしていたフィリエルは、まるでもの足りないような、奇妙な気分を味わった。
「わたくしはけっこうです。うちの息子は堅物《かたぶつ》ですけれど、あなたにとっては賢明な判断だと思いますよ。なんであれ、本人の意向は大切ですから、わたくしはとやかく申しません。ただ一つ――」
椅子の背から頭を起こし、夫人はフィリエルを見つめた。
「あなたが、本当に母君とは違う道を歩む決心をつけたのなら、研究所に出入りすることをやめなければなりません。あなたはこれで二度、あそこへ出かけましたね」
すべて、つつぬけなのだ。フィリエルはおそれいったが、そういうものだろうと思わなくもなかった。
「はい――」
「三度めがあると思ってはいけませんよ」
やさしい口調で夫人は言った。
「今回のことの起こりが何だったかを、考えてもごらんなさい。ロウランド家はあなたを迎え入れますが、それには、あなたが異端につながる一切から身をひくことが条件です。共倒れの危険までは冒すことができません」
フィリエルはしばらく黙っていた。それから、小声になってたずねた。
「ルーンに会うなと、そうおっしゃるのですか?」
「必要はないはずです」
「でも、彼は、最後の身内なんです」
フィリエルの主張に、レイディ・マルゴットは答えなかった。いつまでも、答えなかった。チェンバロの軽やかなメロディだけが部屋に流れる。
とうとうフィリエルは瞳を伏せた。
「どうしても……いけませんか」
「いけない理由は、あなたにもわかっているはずです」
静かに夫人は答えた。
「あなたは、安全が欲しいのではなかったの。それでしたら、あなたが母君につながると、他人から思われるものの一切を断ちなさい。陛下は姿をお見せになりませんが、わたくし以上に多くのことをご存じですよ。陛下の御前に立ち、御言葉をたまわるつもりがあるなら、潔斎《けっさい》の覚悟をしなさい」
「潔斎……」
フィリエルは口のなかでつぶやいた。それではまるで、博士やルーンは汚れであるということだ。
「奥方様は、ルーンを、蛇の杖と同じもののようにおっしゃるのですね」
「あなたの、つけいられやすさを言っているのですよ」
同じにやさしい口調ながら、夫人の言いわたしたものは手厳しかった。
「摘まれる蕾《つぼみ》でありたいの? フィリエル、あなたはずっと、そのぎりぎりの場所にいる。それは婚約したからといって、すぐに改善されるものではありませんよ。ご自分を大切になさいと、わたくしは言ってさしあげたでしょう。高みから見れば、あなたに、他のだれかを気にする余裕などは、どこにもないはずなのですよ」
フィリエルは黙りこんだ。今の自分に、彼女に対抗する力はない。まだ、吹けば飛ぶような存在であることはたしかなのだ。
レイディ・マルゴットは体の向きを変え、正面からフィリエルを見つめて言った。
「あなたの母君は、言ってみれば判断をあやまりました。優秀なかたでしたが、奇矯《ききょう》だった。彼女をつき動かしたものが何だったか、わたくしは存じませんし、知りたくもありません。あなたも、知らないままでいることを願ってやみません」
(ルーンに、二度と会うなと言うのだ。ユーシスと婚約するなら――安全を手に入れるなら)
自分の部屋へもどってきたフィリエルは、混乱して、馬車を出すどころではなくなっていた。窓辺の銀灰色の長椅子に、何も見えないような顔で腰をおろした。
(二度と会えない? 生きていても、どこにいても……これから死ぬまで?)
好きだという気持ちを、あきらめていいと決心したフィリエルだった。何もかも手に入れることが不可能なら――好きだという思いと、守ろうという思いが両立しないものなら、実益をとるべきだと考えた。
それにユーシスは、マリエが言ったそのとおり、どんな女の子にとっても、隣に立って晴れがましい男性なのだ。だから、かまわないと思った。
(……でも、あたしがこれからすることは、そこまで我慢が必要なことなの?)
フィリエルの胸に、徐々に、理不尽だという思いがわきあがってきた。婚約しても、フィリエルは依然として危うい身だと、夫人は言ったではないか。それならば、手に入るものは何なのだ。ルーンに二度と会えないことだけだ。
(だめだ……)
何年も努力を重ねて、息をひそめて、すべてにうまくふるまえば、どうどうとレイディ・マルゴットに逆らう権威を身につけることも可能かもしれない。だがフィリエルは、自分がその日までおのれを殺せるとは思えなかった。
この宮廷で一生を、ルーンに二度と会わずに暮らしていくことはできない。それでは自分の何かが死んでしまう。なぜなら――
(あたしは、ルーンの見るものが見たい。ルーンといっしょにこの世界が見たいからだ……)
フィリエルは、セラフィールドの天文台で言った言葉を思い出した。博士の本を燃やした夜に、ルーンが、いつか自分も南の星を見にいくと言ったときのことだ。
『いいわよ、それでも。そのころには、あたしたちもいい大人になって、それぞれ自分でやっていけるでしょうよ……』
口にしたときは、まだはるかな先と考えていたし、自分が何をしたいかもよくわからなかった。ルーンの望みに、賛成してやりたい気持ちだけがあった。だが、今なら違う。ルーンのためと言わずに、自分のしたいことがわかる。
(力を得ることにしがみついた、あたしがばかだったのよ……)
そこまでわかってしまった以上、ユーシスに婚約するとは言えなかった。きっぱりだめだとわかると、ふいに、思いもかけないほどすっきりした。無理やりねじ伏せようとした自分自身の圧力が消え去って、体さえ軽くなったようだ。
(なんだ……そうだったのか)
このほうがずっと自分らしい。危険やもろもろの問題は山積みにあるが、今は、きっと何とかなると思えた。フィリエルは椅子からすっくと立ち上がった。
ユーシスにこのことを告げなくてはならない。よく説明して、おわびをしなければならない。周りに承諾するともらしてしまったからには、一刻を争った。
(ところで、ユーシスはどこにいるんだろう……)
右を見て、左を見て、フィリエルは徐々にあやしくなりつつあった。
塔の階下へ出向き、伯爵家の従者にユーシスの居所をたずねて回ったフィリエルだが、近衛の勤務についていることだけがたしかで、王宮のどこにいると、正確に言える者がいなかった。
しびれを切らし、二、三、可能性の高い場所をつきとめただけで、マリエをお供に飛び出してきたのだ。だが、マリエとて、まだ広大な王宮の隅々にまで通じているわけではなかった。
「……わたくしたち、やっぱり、また迷子になっているのでは」
フィリエルがおぼつかなげに口にすると、マリエは、むきになった様子であごを上げた。
「簡単に言わないで。侍女の沽券《こ けん》にかかわります。教えられた三カ所を回るくらい、絶対にできるんだから」
そうは言っても、さっぱりどこにも行き当たらなかった。フィリエルのほうは、すでに、何階にいるのかもわからなくなっている。もうしばらく歩いた後で、ついにマリエは半分認めた。
「もう一度下に降りて、大広間の一つからやりなおしましょう。そうすれば、今度こそ」
フィリエルはため息をこらえた。足が疲れはじめている。
「マリエ……あなた、まさか、思いなおさせようとして、あちこちひき回しているのではないでしょうね」
「それができるくらい、したたかに年季が入っていたらなあと、つくづく思うわよ」
嘆かわしそうにマリエは答えた。
「今朝の言葉は何だったのかしら。手のひらを返すとはこのことね。後悔しても知らないですわよ、フィリエルお嬢様」
フィリエルの口調はきっぱりしていた。
「しないわよ、後悔は」
「ユーシス様のおやさしい顔を目の前にしても、そんなに強気で言えるものかしら。わたし、あなたが口ごもるほうに賭けてもいいわ」
フィリエルはくりかえした。
「しないわよ、後悔は」
マリエは、しばらく黙ってから口を開いた。
「……あなたみたいな人が、本当にいるのね。富も力も若さも美しさも、三拍子も四拍子もそろった相手を蹴ろうなんて。そういうのはまだ知らないし、あんまり知りたくないわ。わけがわからなくなるもの。わたしたちは、毎日王宮で、何を力んでいるのだろうと思わせるじゃないの」
フィリエルは少し笑った。
「あなたの言うこと、奥方様がおっしゃったことに、なんとなく似ている気がするわ」
「奥方様がおっしゃった?」
マリエは少し目を見はったが、やがて納得したらしかった。
「そう、それなら、マリエ・オセットは王宮を正しく学んでいるのよ。言ってみれば、あのかたがたがハイラグリオンのルールですもの。だれもが競って、ルールにかなった優秀さを見せようとしている。それなのに、あなたときたら、来て早々にルールをすっ飛ばすのよ。奥方様、お気を悪くなさらないといいけれど」
「もう、許してくださらないかもしれないわ」
フィリエルはあっさり言った。
「でも、それでもしかたがないの。もしもあたしが王宮にいられなくなったら、あなたは最初の目標どおり、アデイル嬢のお付きになってね。アデイルによくたのんでおくわ。マリエは優秀なのだから、あたしのとばっちりなどをうけてはだめよ」
マリエは大きくため息をついた。
「あなたって、究極的に損《そん》をする人ね。わたしにはとうていまねできない。でも、あなたのその風変わりさは、最初の印象そのままね。ワレットの片田舎にいてさえ、あなたという人は俗離れして見えた――妖精みたいで」
言葉を切って、マリエはやれやれというように、親しみのこもった笑顔を向けた。
「アデイルお嬢様は、あなたのそういうところがお好きなんだと思うわ。その気持ちが、たぶん、わたしにもわかるわ」
あちらこちら巡り歩き、街頭で迷った旅行者のように、途中で場所をたずねたりして、フィリエルとマリエは、王族の塔の多い一角へたどり着いていた。
ここまで来れば、ユーシスの居場所を確定できるのもあとわずかだった。教わってきた士官たちの集会室が、すぐそばにある。
マリエが大きな扉をくぐって、再び人にたずねに行ったので、フィリエルは廊下のわきに立って彼女を待ち、ほっと息をついてあたりを見回した。
まったく、通廊といえども、ダーモットの街並と変わらない規模だった。フィリエルの立つ場所は、塔などの建物にまたがる廊下で、敷物が敷かれ、両開きの扉が通路に沿って並んでいる。だが、柱廊の向こう側にある環状回廊の主要部は、三倍ほども天井が高く、モザイクの床石に馬車でも通れそうな広さだった。
そして、人々は絶え間なく流れていた。どこへ行ってもそうで、王宮で働く人々の多さを実感させられる。夜会にひしめきあうように見える人々でさえ、全体のごく一部であり、軽く十倍は仕え人がいるのだ。
フィリエルは、ユーシスに会うことを思って落ち着かなかったが、人々に目をやり、身ぶりや歩き方で階級に予想がつくので、セルマがうるさく言ったことにも一理あると、感心することはできた。
そのときだった。
貴人の側近が着るような、細身で詰め襟《えり》の服を着た少年が、通廊の向こうを横切った。フィリエルの目は、たちまち彼一人に吸い寄せられた。
少年の黒い髪にはきちんと櫛《くし》が入り、黒ぶちのメガネをかけていない。それでも、他人のそら似ではあり得なかった。フィリエルには、それを断言することができた。
その歩き方、身ぶりのわずかなくせ、あごの起こしかた。フィリエルがこれほど心得ているものを、同じに示せる他人などいるわけがないのだ。
ためらったのは一瞬で、フィリエルは小走りに駆けていった。少年は、フィリエルがいた廊下と交わる通路を外側へわたっていく。つれはだれもいないようで、並ぶ扉をいちいち見上げては、たしかめるように足をはこんでいた。
追いついたフィリエルは、後ろから彼の肩をそっとたたいた。
「ねえ――」
「わっ!」
少年は文字どおり飛び上がった。フィリエルの顔を見て、またさらに泡をくった様子だ。
「なっ、なんで――」
「どうしたの、そのかっこう」
「しっ、だめだよ、フィリエル」
ルーンはあせって左右を見回した。フィリエルと話すところを見られるのは、よほどまずいことのようだ。
彼が扉の一つに駆けこんだので、フィリエルもあとに続いた。どうやらそこは用具置き場だった。細く狭い部屋に、はしごや清掃用具などの雑多なものが置いてある。
息をはずませ、ルーンはぼやいた。
「なんでこうなるんだ。どうして、こんなところできみに見つかるんだよ」
「あなた、しのびこんでいたの?」
不機嫌そうにルーンは答えた。
「ぼくが大手をふって、王宮を歩けると思うかい」
フィリエルは、上から下までまじまじと彼を見た。詰め襟の服は仕立てがよく、青と緑の中間色で、前あわせの銀の留め金も粋《いき》だった。いつも大きすぎる黒服しか着たことのないルーンが、こんな姿をするのを見たのは初めてだ――ドレスを例外として。
着丈《き たけ》のぴったりした服は、彼の細さを強調していたが、それはこの王宮では、がぜん引き立つことだった。フィリエルがびっくりするほどに、彼はまともに見えた。
「ルーン、それ、似合うわよ」
うなるようにルーンは言った。
「やめてくれ。ドレスと同じくらい|窮屈《きゅうくつ》なんだから。こんなもの、毎日着ているやつの気がしれないよ」
「あつらえたみたいに、ぴったりじゃないの。よく、そんな服が手に入ったのね」
ルーンは、少し間をおいてから答えた。
「……研修があるんだ」
「研修って、チェスの?」
「……うん」
そういうこともあるのだろうと、フィリエルは思った。研究所の人間が、王宮へ出向くこともあるのかもしれない。
ふいに愉快になってきた。とにかく、ルーンにばったり会えたことがうれしかった。レイディ・マルゴットは、フィリエルが研究所へ行くことを禁じたかもしれないが、ルーンが王宮へ来ることだってあり得るのだ。自分たちには、手も足もあるのだから。
「ねえねえ、ロウランド家の塔はもう覚えた?」
はずむ声でたずねると、ルーンは少し困ったように肯定した。
「……うん」
「今度、あたしのいる塔まで来て。伝言でもいいわ。マリエがいるから」
「フィリエル、きみは今、学院にいる時間だろう。どうしてこんなところをうろついているんだ」
ルーンは逆に問い返してきた。
「だれか知っているのか、きみがここにいるって」
「マリエがすぐそこにいるわよ。あたし、ユーシス様を探しに来たの。彼に言おうと思うの、婚約はしないって」
フィリエルは落ち着いて言った。
「婚約しない?」
ルーンは黒い睫毛《まつげ 》でまばたいた。いきなりで、すぐには理解できないといった顔だ。
「でも、それだと……」
「王宮にいられなくなるというなら、それでもいいのよ。今はもう」
フィリエルが先回りして言うと、ルーンは、とまどって眉をひそめた。
「でも、フィリエル。そんなことをして、これからどうする気?」
「最初から考えなおしてみたいの」
答えはすらすらと出てきた。フィリエルには、ほほえむ余裕さえあった。
「立場を守るために婚約するしかないなんて、何かがおかしい。何かがまちがっているのよ。あたしが力を手に入れようとするから、そんなはめにもおちいるんだわ。あたし、ルアルゴーへ帰る。セラフィールドへ戻って、おかあさんのお墓の前で、自分の気持ちをはっきりさせたいの」
「フィリエル……」
ルーンはつぶやいたが、それ以上続ける言葉はないようだった。フィリエルは彼の腕をつかんだ。
「ルーン、あたしをつれていってくれるでしょう。いっしょに行くと約束したでしょう。今がそのときなの。あたし、王宮を出るわ。おかあさんのお墓へ今こそつれていって」
「……本気でそう言うのかい」
かすれた声でルーンはたずねた。
「もちろんよ」
「何を捨てていくかが、本当にわかっているのかい。どんな危険に飛びこむことになるのかも?」
フィリエルはうなずいた。
「何をどうしても危険だわ。あたしたちは、どこへ行こうと結局危険なのよ。それなら、少なくとも、自分のしたいことをしていたほうがましよ」
ルーンは黙りこんだ。フィリエルは、思った以上に彼がためらうのを見て、初めて少し気がかりになった。
「ルーンはいや? ここにいたほうがいい? 今からハイラグリオンを出ていくのは、ばかげているとしか思えない?」
「そうじゃないよ」
首をふって、ルーンは小声で言った。
「……ぼく自身はそうじゃない」
「それならいいのよ」
ほっとしてフィリエルは言った。
「ねえ、塔へ来てくれる? みんなが出払った夜会のときが、一番人目につかないわ。あたしはこっそり準備して、どうにでも都合をつけて、夜会に出ないで待っているから。馬車も大丈夫、何とか調達できると思う。あたし、実行できもしないことを言っているわけではないのよ。本当にルアルゴーへ帰るつもりなの。塔へ来てくれるでしょう?」
「わかった、行くよ」
ついにルーンはうなずいた。フィリエルの本気が、とうとう信じられたようだった。
あわただしく日時を打ち合わせ、フィリエルは急いで用具置き場を出た。マリエが探しているに違いないからだ。思ったとおり、マリエはうろたえてあちこち行き来しており、フィリエルを見つけて、安《あん》堵《ど》と同時に腹を立てた。
「どうしてじっとしていられないの。一人でふらふらするなんて、お嬢様にあるまじきことよ」
「ごめんなさい。ちょっと人違いして――」
フィリエルが何度もあやまると、マリエは荒々しくため息をついた。
「ユーシス様の居場所が、ようやくのことでわかったのよ。ハイラグリオンを出ていらっしゃるの。港のほうで何かの式典があって、宰相閣下《さいしょうかっか》のお供をなさっているのですって。わたし、はっきり言って、もういや。こんなことをするのは、これっきりにさせていただきますからね」
「ええ、もう二度としなくていいわ」
フィリエルは首をすくめ、神妙にマリエに請けあった。
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心も空《そら》に奪われて
もののあわれをしる人よ
今わが述《の》ぶる言《こと》の葉の
君の傍《かたえ》に近づかば……
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階下で歌うアデイルの声が、窓を通って流れこんできた。今夜は大きな夜会がないので、アデイルは、塔の応接間に友人たちを招いているのだ。
彼女にはもてなしの才能があった。彼女の開くサロンは、今に王宮の人間を多く集め、一大潮流となっていくのだろう。
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心に思い給《たも》うこと
応《いら》え給《たま》いね洩《も》れなくと
あやにかしこき大御神《おおみ かみ》
「愛」の御名《みな》もて告げまつる……
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(……「愛」の御名もて告げまつる……)
フィリエルは、明かりを消した寝室の窓辺に座りこんで、一人くり返した。
学院へ行かなかった言いわけを、気分がすぐれないことにしたので、集まりに顔を出すわけにはいかない。さっさと寝間着に着替えて、退散しているのだった。
だが、少しも残念ではなかった。フィリエルには、一人で考えることがたくさんあった。なんといっても、上手な脱出計画をこと細かに練らなくてはいけない。
結局、一日ユーシスには会えず、目的がはたせていないのだが、ルーンに会ったのだからむだ足ではなかった。ルーンに話して、それを確実なことにできて、本当によかったとフィリエルは考えた。
(ユーシスは、あれほどいい人なのだから、あたしもまっすぐな気持ちで彼の顔が見たい。それができないのは、いつわりがあるからだもの……)
ふと、エディリーン王女のしたことは、だれもが言うほど、たいしたことではなかったのだという気がした。
彼女もたぶん、気がついたら自分の一部になっている人がいて、当然のようにそれを優先したのだろう。本人にとっては、それは二者択一《に しゃたくいつ》でもなんでもなく、ほかにころびようのないことだったのだ。
窓の外が明るいので、部屋のなかは青みをおびた静かな光に照らされている。音楽とざわめきを波のように遠くに聞き、フィリエルは、かつてないほど大人びた気分で座っていた。
それは、複雑な、少し孤独であり、満ち足りてもいるような気分だったが、一つたしかなことがあった。今はもう、この場所の華やぎにまどわされることのない自分がいるということだった。
そのとき、続き部屋でかすかな物音が聞こえた。そちらの部屋もすでに明かりをおとし、人はいないはずだ。マリエも階下の集いに参加して、ここへは顔を見せないはずだった。
不審な思いがフィリエルの胸をかすめた。すばやく部屋着をはおり、歩み寄って、間仕切りからそっとのぞく。南面の丈高い窓が半ば開いて、カーテンが風にゆらめいていた。さらにはその手前に、うごめく黒い人影が――
「だ……」
大声をあげようとしたその瞬間に、黒い人影がささやいた。
「フィリエルかい」
「ルーン?」
あまりにも意表をついた登場とはいえ、それはルーンだった。昼間の服装にマントをつけているようで、影に包まれて見える。一瞬、水を浴びせられたような思いを味わったフィリエルは、怒って言った。
「なによ、どういうつもり。天文台で襲われたときを思い出しちゃったわよ。そんな来方はまるで、あの男たちじゃないの」
どこを通ってやってきたのか、ルーンの髪は、昼間に見たほど整っていなかった。目にかぶさる髪をかきやって、ルーンは無愛想に答えた。
「ロウランドの塔へ来いと言ったのは、フィリエルじゃないか」
「今日中にだなんて、言わなかったはずよ」
フィリエルは言葉を切り、少々当惑して彼を見た。
「別に来ても悪くはないけれど……どうやって来たの? だれにも取り次がずにここへ来られるなんて」
「何度もできることじゃないよ」
ルーンはそれだけを言った。彼がどこかひどくはりつめた様子で、声も硬いことに、フィリエルは気がついた。
「どうしたの……?」
フィリエルが見つけたその場所から、ルーンは動こうとさえしないのだった。まるで、そこに立っただけで用がすんだかのようだ。
「せっかく来たんだから、座れば? 熱いお湯がとってあるから、あたしお茶を入れるわよ」
「……よしとく」
ルーンはつぶやいた。
「やあね。あたしだって、前より少しは技を磨いているわよ」
フィリエルは、キャビネットを開ける前に明かりに手を伸ばしたが、ルーンはふいに鋭く止めた。
「つけなくていい。すぐに行くから」
様子がおかしい。何か悪い兆候だとフィリエルも勘づいた。だが、彼女が口を開く前に、ルーンが言い出していた。
「フィリエル、言いにきたんだ。約束が守れない。きみを、エディリーンのお墓へつれていくことができないよ」
フィリエルは三回呼吸する間、彼の言葉を反すうした。それからたずねた。
「それ、どういうこと?」
「きみとの約束をやぶるということだよ」
「全部?」
「うん……全部」
ほおをぶたれたように衝撃が大きく、フィリエルは、まだ怒りすら感じないでいた。それを言っているのは、本当に自分の知っているルーンなのだろうか。
「あたし、何かまちがえた?」
おぼつかない口調になり、フィリエルはたずねた。
「あたしの言ったこと、そんなに迷惑だった? ルーンなら、いっしょに行ってくれると思ったのに。絶対に行こうねって言ったのは、ルーンだったのに……」
「そうだよ、ぼくが言ったんだ。死ぬ前に絶対……そうできたらいいと思った。今でも思う。でも、できないんだ」
ルーンはうつむいた。かきあげた髪がまた顔にかかった。彼は言葉を続けたが、何度も奥歯を噛みしめているのがフィリエルにもわかった。
「……今はもう、情況が違う。ここからきみをつれていくことは、ディー博士のしたことと同じだよ。ぼくは博士が、どんなに後悔したかを知っているというのに」
「嘘《うそ》よ」
思わずそばに寄り、フィリエルはルーンの腕に手をかけた。
「後悔しなかったわよ。だって、おかあさんの選んだことだもの。あたし、わかるのよ。博士よりもエディリーンが望んだってことが」
そのとき、気負うことなく、フィリエルは彼を前にして口にすることができた。
「わかるのよ――好きだからよ。あたしもルーンが好きよ」
ルーンの口調は重かった。
「きみはぼくに、博士を見ているんだよ。フィリエル、きみは博士が好きなんだ」
きょとんとして、フィリエルは彼を見つめた。
「あたしが博士を? ばか父の?」
「きみが本当に求めているのは博士だよ」
ふいに顔を上げて、ルーンは告げた。
「最初から知っていた。でも――それでもいいと思った。行ってしまった博士の代わりに、きみのそばにいれば。いつか、きみは気づくだろうけれど――そのときまでは」
「何を言っているの? なんのことかわからない」
フィリエルは声を鋭くした。薄闇に、ルーンは表情をゆがめたようだった――泣く前の子どものように。
「……もう、代わりになれない。ぼくは、きみの思っているようなやつじゃないんだ」
「ルーン、どうして」
フィリエルは急いで、まるでルーンを泣かせる何かから|庇《かば》うように、彼を抱きしめた。
「おかしいわよ。あたしの思っているルーンがどんな人だと言うのよ。言っておくけれど、これっぽっちも美化していないわよ。ユーシスに匹敵するなんて、一度も思ったことがないし」
ルーンはしばらく、押さえつけたような呼吸だけをしていた。それから、そっとフィリエルの肩に腕を回した。
「フィリエル、彼と婚約して、守ってもらうんだ。きみは、エディリーンがつかまなかった幸せを手に入れなければいけないんだから」
「やめたって、もう言ったはずよ。何度も言わせないで」
「ぼくはもう、いなくなる。ユーシスに守ってもらうんだ」
低い声でルーンは言い、フィリエルは息を止めた。彼の表情をうかがおうとしたが、ルーンは腕に力をこめ、頭を上げさせなかった。
「説明して、ルーン」
「きみのそばにいたかったよ」
切迫したフィリエルの声を無視して、ルーンはつぶやいた。
「それは本当にそうなんだ――こんなふうに、別れるつもりじゃなかった」
「ずるい、ルーン、説明して」
何か、とんでもないことが起こりつつある。それだけはフィリエルも肌で感じとれた。自分の逃走計画がつぶれたばかりではなく、もっと暗く、もっと恐ろしいことが起きようとしている。
ルーンが、フィリエルの知らない決意を固めている。そして、フィリエルのもとを一人で去ろうとしている。彼にそのわけを明かす気がなくても、明かす気がないからこそ、それが危険で陰欝《いんうつ》な方向であることが伝わってきた。
今度、泣きそうになるのはフィリエルのほうだった。
「そんなふうに言わないで。あたしも行くから。どんなところでもいい、いっしょに行くから」
苦痛を感じているように、ルーンはまた腕に力をこめた。
「ごめん――」
その声ににじむつらさに、フィリエルは努力して冷静になろうとした。震える声で言った。
「あやまったら怒るわよ。もう、許すはずないんだから。あたしに全部話して。納得させてもらうまでは、この手をいつまでも放さないんだから」
ルーンがとうとう腕をゆるめたので、フィリエルは頭を上げた。しゃんとして彼に向きあうつもりだった。だが、泣いてしまった。彼が今になってくちづけしたからだった。
「ずるい――」
首筋に、虫が刺したようなちくりとした痛みがあったが、立っていられなくなるまで、そのわけがわからなかった。
急激に眠くなり、フィリエルは、長くは泣くこともできなかった。くずおれる体をルーンがささえるのがわかった。彼がフィリエルの名でなく、ユーナと呼んだ気がした。だが、それ以上は何もわからなかった。
おかしなことに、遠くの歌声は最後まで聞こえていた。その時点で、アデイルたちはまだ歌っていたのだった。
[#ここから2字下げ]
妙《たえ》に清《きよ》らの、ああわが児《こ》よ
つくづくみれば、そぞろ、あわれ
かしらや撫《な》でて、花の身の
いつまでも、かくは清らなれと
いつまでも、かくは妙にあれと……
[#ここで字下げ終わり]
*  *  *
夜半を回った刻限――
リイズ公爵は、塔の自室にさんぜんと明かりをともし、卓上のゴブレットに、香料入りの葡萄《ぶ ど う》酒をそそいでいた。
公爵の部屋は、淡色が好まれる王宮のなかでは、彩りが重いと言えた。深い赤の絨毯《じゅうたん》。どっしりした紺のビロードのとばりが、大きな天蓋から床まで下がり、部屋の一角を占めている。窓のカーテンも紺で、|燭台《しょくだい》の輝きを外にもらすまいとするかのようだった。
「……チェバイアットに寝返ったとは、なかなか賢明な選択だったな」
彼はゆっくりした口調で言い、ゴブレットを片手に、壁ぎわに立っている人物をふりかえった。
「そう、固くならずに、こちらへ来て杯《さかずき》を取りなさい」
相手は答えようとせず、また、動きもしなかった。リイズ公爵は目を細めて、うまそうに酒をすすった。
「どうやら、不本意そうだな。レアンドラ姫にたばかられたかな? だが、わたしには、わかっていたよ。おまえが、いつか自分からもどって来るということは」
公爵が歩み寄ると、その来客は、目を泳がせて扉の方をうかがった。逃げ出すかとどまるか、決めかねている様子だった。不慣れな風情《ふ ぜい》に、部屋の主はほほえんだ。
「そうとも、わかっていた。もどって来られるように、しるしをつけてやったではないか。われわれの子飼いのしるしを――消えないしるしを」
灯火を吸いこむ濃い灰色の瞳が、ふいにリイズ公爵をつき刺すように射た。少年は部屋の主をにらみつけたが、まだ身動きはしなかった。壁に背をつけ、重心をあずけている。
リイズ公爵は彼の前に立ち、公爵自身の目の色のような、孔雀青の上着をまとった少年を見下ろした。公爵はそれほど大きな男ではないが、並べば少年はきゃしゃで、たいそう細身に見える。
「よく、おぼえているだろう」
手を伸ばし、少年の肩をつかんだ。さらにその手で蒼白なほおに触れ、指の背でなでた。少年は身を固くして反応を示さなかったが、あごを持ち上げようとすると、ついと逃《の》がれた。
「強情もいいが、もうすでに、わたしの前で泣いて懇願《こんがん》したことのあるおまえじゃないか。今さら失う何がある?」
せせら笑って言い、公爵は、相手の喉《のど》もとの銀の留め金に指を伸ばした。
「わたしのつけたしるしを、もう一度見せてごらん……」
ルーンは顔をそむけ、何度もうなされた悪夢を思い返した。どうしようもなかった。二度と見ないようにする方法を、他には思いつかなかった。
(この手――)
この手が地上から消えない限り、眠れる夜もルーンには訪れないのだ。
リイズ公爵が、銀の留め金を一つずつはずす間に、ルーンは、孔雀青の袖《そで》に仕込んだ銀の針を、その指でさぐり当てていた。
フィリエルが目を開けると、もう夜明けだった。
東の窓に、朝焼けのなごりがただよっており、外は少しずつ明るみゆくところだ。
彼女はきちんとベッドに寝ていた。あまりにふつうなので、一瞬何も思い出せなかった。
(あたし、いつベッドに入ったか覚えていない……?)
そして、昨夜の記憶がにわかによみがえった。ふとんを跳ねのけたフィリエルは、紗のとばりを払って寝台から飛び出し、部屋を見回した。
もちろんそこに、ルーンがいるはずもなかった。夜明けにふさわしい静寂があたりを支配し、家具も置き物も、冷たくおさまりかえっている。
続き部屋へも行ってみたが、南面の窓はきっちり閉まり、カーテンがひかれていた。裸足で一回りしたフィリエルは、つい考えた。
(寝ぼけたのかしら……)
塔の上階にあるこの部屋に、ふってわいたようにルーンが現れること自体、説明がつかないではないか。思い返しても、まるで夢を見たかのようだ。ルーンがここで言ったことも、したことも……
フィリエルは、手を握りしめて立ちつくした。自分がどれほど強く、夢であってほしいと願っているかがわかった。なかったことに違いない。ルーンが、別れを言いに来たなどということは。フィリエルの願いを無視して、去っていったなどということは。
朝日が射しそめて、東の窓に並ぶ塔が金色につつまれる。刻々とうつる夜明けの景色を、フィリエルはうつろな目で見つめた。新しい朝を、フィリエルがこれほど無感動に迎えるのは、ルーンが天文台からつれ去られた日以来だった。
フィリエルの窓からは、二つ隣の塔へわたっている、吊り橋状の天の回廊を見ることができた。朝日が照りわたり、今は天の回廊も、曲線のつくりを楽器のように際だたせて天空を横切っている。見るともなく見ているフィリエルの前で、この早朝に、回廊を軽々とわたっていく者がいた。
フィリエルは、とっさにどうとも思わなかった。ああ、実際に人が使うこともあるのかと、ぼんやり考えただけだ。
それほど慣れた落ち着きをみせて、人影が塔へとすばやくわたっていくのだった。空中高いにもかかわらず、手すりに手もやらず、わき目をふる様子もない。
遠目で顔などわからないが、ひょろりと背のある人物だった。つばのある帽子を被り、その下に、くすんだ長い灰色の髪が見える。服装もよくはわからないが、ひどく地味なことはたしかだ。男か女かはっきりしないが、高位の人物ではなく、使いか何かのようだった。
(あれ……?)
人影が塔の側に消えたあとになって、フィリエルは目を疑った。塔には主の在住を示す、紋章入りの旗がかかげてあるが、その旗の強いはためき方に気づいたのだ。朝風の強い上空の吹きさらしを、あれほど難なく、すべるようにわたることのできる人間がいるものだろうか。
われに返ると、急に、本当に見たという自信がなくなってきた。今のは| 幻 《まばろし》か、王宮の亡霊のようなものだったのだろうか。
(いいえ、見たと思っただけかもしれない。あたしの感覚は、きっと当てにならないのよ……)
そういうことにしようと、フィリエルは思った。とりあえずは、何もかも。昨夜のルーンの、不吉に胸を凍りつかせたものも全部、自分一人の思いすごしだと思いたかった。
マリエはいつものように朝食の席をととのえ、アデイルがやってきた。アデイルは嬉々《きき》として、昨夜の集いで起こった笑えるできごとを、フィリエルに報告しはじめる。
その最中に、部屋の扉が開いた。取り次ぎも待てない様子で入ってきたのは、ユーシスだった。彼は、すでに近衛の制服を着込んでおり、朝のくつろぎを楽しむ様子はなく、楽しんだことさえないような顔つきをしていた。
フィリエルは、飛び上がるように席から立った。彼に、まだ話していないことを思い出したのだ。
「ユーシスさ――」
言いかけたフィリエルをさえぎって、ユーシスは余裕のない口ぶりでたずねた。
「あいさつ抜きでたいへんすまない。だが、フィリエル、聞きたいんだ。ルーンはここにいるのか?」
めんくらって目を見はり、フィリエルは首をふった。するとユーシスは、さらに真剣にたずねた。
「最後に彼に会ったのは、いつになる?」
しばらくためらってから、フィリエルは小声で申告した。
「ゆうべだと思うんですけど――」
アデイルが驚いた顔を向けた。
「ゆうべですって。いったい、どこで?」
「あの、じつはこの部屋で。でも、長くはいなかったはずです」
「今、どこにいるかわかるか?」
ユーシスが鋭い声を出した。フィリエルがまた首をふると、彼はくちびるを噛み、しばらく黙った。不安をかきたてるに充分な沈黙だった。耐えきれずに、フィリエルはたずねた。
「ルーンがどうしたんです」
ユーシスは押し殺したような声音で言った。
「フィリエル……アデイルも……落ち着いて聞いてほしい。今朝未明に、リイズ公爵が遺体で発見された。暗殺の線が強い。今、王宮をあげて、下手人だと思われる人物の捜索が始まっている。侍従のなりをした、小柄な少年だったそうだ。そして、わたしのもとへは、今さっきガーラントから報告が入った。ルーンが研究所から姿を消している。どこにも見つからないそうだ」
アデイルが息を吸いこんだ。
「まあ、そんな、まさか。あり得ないわ」
だが、フィリエルには、あり得ないと口にすることができなかった。昨日、王宮で見たルーンの姿――彼のあの上着。ルーンには、目的がありそうだった。何かをするために、王族の塔のあたりをうろついていた。
ゆうべのルーンの決意を固めた口調も、よみがえってきた。どう考えてもおかしいことに、もっと鋭く気づかなくてはならなかったのだ。それを見過ごしたのは、彼の本心をもっと探れなかったのは、フィリエルが、あまりにも自分自身のことにかまけすぎていたせいだった。
床がゆれるような気がして、フィリエルは立っていられなくなり、くずれるように座りこんだ。暗殺――それは人殺しだ。ルーンがそれを、自分の手で下す決心をしたのに、フィリエルは何も知らなかったのだ。
フィリエルの表情を見守り、ユーシスは顔をくもらせた。
「君はそう思うんだね……ルーンがやったと」
ほとんど放心しかけながら、フィリエルは努力してうなずいた。
「……ルーンは、別れにきたんです。もういなくなるって、言っていました……」
「いったい、なんてことだ」
ユーシスは、困惑して|眉《まゆ》をひそめていた。
「宮廷警護をあずかる身として、わたしも下手人の捜索にあたらなければならない。リイズ公爵の死去を、しんから悼《いた》む気にはなれないものの、あの人は女王陛下の実子なんだ。フィリエル、ルーンの居場所に見当をつけることはできないのか」
「わかりません……」
「本当に? 庇《かば》いだてしているのではなく?」
アデイルが、怒った様子で割って入った。
「しつこいですわよ、お兄様。フィリエルからそれを聞き出して、どうするんです。それで、ルーン殿を捕らえるとでも言うなら、わたくし、お兄様のことをぶちますわよ」
ユーシスは、ややひるんで妹を見た。
「わたしを、そこまで気がきかないと見ないでほしいな。ルーンの動向を明らかにしたいだけだ。後手《ごて》に回っては、策をこうじるにしろ、わたしたちの手ではできなくなる」
フィリエルは、両手をきつく組み合わせ、気をしっかり保とうとした。
「……かくまっているのだったら、どんなによかったかと思うんですけど。ルーンは来ていません。どこにいるかも、まだ……」
少しためらってから、ユーシスは言った。
「フィリエル、彼に、単独でリイズ公爵の暗殺ができたとは思えないんだよ。たとえルーンにどれほどの能力があろうとも、王宮警備に詳しく、さらに公爵の私的な身辺警護の情報でもないかぎり、その遂行はとても無理だ。しかも逃亡できているところを見ると、だれかが今も、強力に扶助《ふ じょ》しているに違いないんだ」
アデイルが小声で言った。
「リイズ公爵には、敵がたくさんいました。だれがそれを行ったとしても、べつだん不思議ではないわ」
ユーシスは赤毛をかきあげた。
「ロウランドにとっても、やっかいな敵だったことを認めるよ。だが、誓って言うが、われわれは手を下さなかった。しかもルーンをひっぱり出して、だれにそんなまねができたというんだ」
そのときフィリエルには、かすかに思い当たるふしがあった。ルーンに接触したことのある公家なら、もう一つある。だが、それを思うとみじめになるばかりで、口にすることができなかった。
フィリエルが何もしゃべらなくなってしまったので、ユーシスも、これ以上は益がないとさとったようだった。居ずまいをただして告げた。
「それなら、フィリエル、わたしはもう行くよ。もしもルーンから、連絡なり何なりあったときには、必ずわたしに教えてほしい。わたしも、捜索を組織する身として、できるだけのことをするから」
フィリエルがうなずくと、ユーシスは部屋を出ていった。残った少女たちはお互いの顔を見あわせたが、もう、朝食どころではなかった。アデイルもまた席を立った。
「気を落とさないでね、フィリエル。わたくしも、できるだけのことをしてみますわ。ルーン殿のなさったことに関しては、わたくし、せいせいすることはあっても、嫌悪を感じていませんことよ。ことによると、お兄様のとった解決法よりずっとあっぱれですもの」
同情をこめた声音で、アデイルは言った。フィリエルはほほえんで見せたかったが、こわばった表情は、どのようにしても動かせなかった。
「……ありがとう……そう言ってくれて。でも、わたくしには、まだ……」
アデイルは気の毒そうに彼女を見て、言葉を控え、隣へ退散していった。フィリエルは、ほとんど手つかずになったお茶とトーストと卵を、ぼんやりと見つめた。
マリエはわきに立ち、フィリエルの様子を心配そうにうかがった。そして、おそるおそる口を開いた。
「ゆうべ、ルーンがここへ来ていたなんて、わたしも少しも知らなかったわ。彼はつまり、どんなことを言ったの?」
「マリエ――」
息を吸いこんで、フィリエルはふいに激しく言った。
「連絡なんて来ないわ。もう、わかるの。ルーンはあたしのこと、完全に切り離したのよ。きっと、何も言ってきてはくれない。たとえ、生き死にの問題があったとしても、あたしのところへは来てくれない。もう二度と――つまりゆうべ、つまりあたし、ルーンにふられたのよ」
フィリエルは、顔をおおってむせび泣きはじめた。
「どうしたらいいの。どうしてあたしは、ルーンに何もしてやることができなかったの……」
フィリエルには、生きた心地もしない日が続いたが、暗殺の下手人は、いぜんとして検挙されなかった。ルーンは消えてしまっていた――鮮やかに、跡も残さず。
まぬがれ得ないことではあったが、ルーンの研究所からの失踪《しっそう》が知れわたった時点で、王宮のあちこちに、主犯はロウランド家だといううわさが流れた。だが、この少年を暗殺者とする確かな証拠はあがらず、うわさが表面化することはなかった。
これを、ロウランド家の火消し能力が立ちまさったと、言いかえることもできた。事実とぬれぎぬとにかかわらず、力関係として、火の粉をはらう能力は、王宮で絶えず問われるものだった。
しかし、もともと大半の人々は、ライアモン殿下の急死を、冷静な態度で受けとめていたのだ。葬儀までに真相が解明されないとわかると、やがて、うわさも徐々に下火になった。
関心が長くひき続かないのは、ほとんどハイラグリオンの慣習だった。王宮に集う人々は、概して消された人間を長く悼《いた》むことがなかった。彼らはむしろ、公爵亡き後の宮廷人事の再編を、寄るとさわると語りあっていた。
公爵の葬儀は、ハイラグリオンの大聖堂とリイズの公領の二カ所で、壮麗に行われた。大聖堂での葬儀には、森の神殿をお出になった女王陛下が、黒のヴェールにつつまれて参席なさったという話だ。
だが、フィリエルは、陛下の御姿を拝見する機会になったその場に、出席していなかった。ベッドから出もしないで日々をすごしていたのだ。まともな食事もとろうとせず、何もかもしたくなかった。
ロウランドの一家は、もちろんそろって参列していた。フィリエルと違って、後ろめたいものはなかったし、それを周囲に見せつける必要もあったのだ。
葬儀を終えて、大聖堂から馬車をもどしたユーシスは、伯爵の部屋へ父とともにおもむき、しばらく親子さしむかいで話しこんだ。
彼がやがて降りてくると、そこに妹のアデイルが、喪の礼服を着替えもしないで待っていた。
小麦色の髪を清楚《せいそ 》にまとめ、きゃしゃな体を黒のドレスにつつんだアデイルは、にこりともしないでユーシスにたずねた。
「お兄様。フィリエルに一度申し出たこと、解決がなされたからといって、撤回《てっかい》するおつもりではないでしょうね」
「しないよ」
ユーシスはあっさり告げた。
「それほどふざけた態度で言うことではないだろう。公爵がいようといまいと、変える必要のあることだとは思わない。わたしは、自分の言ったことには責任をとるつもりだ」
「責任――責任。お兄様は、そればっかりね」
アデイルはさらに声を固くした。
「ご自分でもわかっていらっしゃらないのよ。誠実さを誇りにして、お兄様は、そのくせだれにも本当に心をかたむけはしないのだわ」
アデイルが何を怒っているのかわからず、ユーシスは少しびっくりして見つめた。
「わたしに、どうしろと言っているんだ?」
「これ以上フィリエルを泣かせたら、わたくしが承知しないということです。あの子の痛手は、そう簡単に消えるものではない――それを上回る気持ちの覚悟をきちんとなさってから、言うことを言っていただきたいということです」
ユーシスはかるく眉をひそめた。
「ルーンのことを言っているなら、それはわたしにもわかっているよ。だが今は、彼を見つけ出す手だてがない。それに、彼をつれてきて、フィリエルのためになるとも思えない。彼女を、これ以上泣かせたくないと思っているのは、わたしも同じだ」
言葉を切り、ユーシスは、罪のないはしばみ色の瞳でアデイルの顔をのぞきこんだ。
「君と同じだよ、アデイル。彼女を自分の手で守りたいんだ」
「そうですの……」
大きく息をしてから、アデイルは言った。
「わかりました。つまり、こういうことですね。お兄様は、この先わたくしのライバルです」
ユーシスは、聞き違いをしたのかと思った。
「ラ――なんだって?」
「ラ・イ・バ・ル。こうして宣言したからには、わたくし、手加減いたしませんわよ」
それ以上、ユーシスに何を言うひまも与えず、アデイルは肩で風をきって部屋を出ていった。何がなんだか、さっぱりよくわからないユーシスには、肩を落とすことしかできなかった。
ハイラグリオンのうつろいは早い。リイズ公爵の葬儀が終わって十日あまりで、国外から大きな知らせが二件立て続けに入り、人々の葬送気分は一気に吹き飛んだ。
一つは、予期していないことであり、一つは、いつか来ると言われていたことだった。
すなわち、南の小国カグウェルで、竜の一群が手に負えず、伝統的な騎士の派遣要請があったという知らせと、帝国ブリギオンのトルバート侵攻が、ここでついに始まったという知らせだったのだ。
通報が駆け抜けると同時に、人々は奔走《ほんそう》した。埋葬した公爵に、まだこだわる者がいたとしても、だれもがそのひまをなくしたに違いない。間近にせまった新年の人事でさえ、悠長に待つ情況ではなくなったのだ。
古い伝統による騎士の派遣に関しても、新興の帝国に攻められるトルバートへの援軍に関しても、保守派と急進派のそれぞれに、ゆずりたくない言い分があった。廷臣会議がもめにもめるのは必須であり、今後の国のあり方が問われていた。
ユーシスとアデイルも、これには巻きこまれずにはいられなかった。どこでも人々が熱い議論でわきかえっており、公爵暗殺の下手人の行方などは、忘れ去っているようだった。
フィリエルが、起き出して食事をとるようになったのは、ようやくこのころだった。
ひたすら泣いて待っていても、フィリエルを助けてくれる人も情報も、とうとう見ることができなかった。それなら、いつまでも現実から目をそむけてもしかたないと、ついに思ったのだ。
(……どんなに悔やんだって、起きたことはもとに戻らない。ルーンがいないことを、きちんと納得して、これからのあたしにできることを、考えなくてはならない……)
そう考えたが、それで元気が出たわけではなかった。こなごなに砕けた世界を、もう一度かけらから組みなおすほどの、たいぎさを感じた。どれほど自分の世界の根底にルーンがいたか、失って初めてわかるものだった。
しばらくぶりに、アデイルといっしょに学院へ行ってみたが、フィリエルには、学友たちの熱い論争に入っていけなかった。体力がないことも手伝ったが、フィリエル自身との大きな断絶を、うまく埋めることができなかったのだ。
いたたまれずに講堂を出たフィリエルは、外の空気を吸って、少し落ち着いた。
(どうしよう。まだ王宮へは帰りたくない……)
もう、ベッドにもぐって目と耳をふさぐのはやめようと、決心したはずだった。フィリエルは迷ってから、行き場所を思いついた。ロウランド家の馬車に乗りこみ、御者に告げる。
「……この丘の、ロウランドのお館へ行ってちょうだい」
メリング医師は、王宮ではなく、貴族の邸宅街にある伯爵家の持ち家で寝起きしていた。彼に会いにいこうと、フィリエルは決めた。
後ろ向きだということは、自分でも承知していた。これは、少しでもルーンとかかわりのあった人物に、まだ触れていたいという思いからきているのだ。けれども、今のフィリエルには、他にできることが思いつかないのだった。
「フィリエル嬢ちゃん、こりゃ、よく来たね」
メリング医師は、赤金色の髪の少女を入り口に迎えて、びっくりした顔で言った。
「やせたようだね。寝ついたと聞いて、わしも心配しておったよ。嬢ちゃんがくるとわかっていれば、用意もしたのに。あいにくと、自分の部屋をすっかり片づけてしまったところだ」
フィリエルはその言葉に目を見はり、老医師をうかがった。彼は研究所を訪問したときの、よそゆきの焦《こ》げ茶のマントをはおっている。
「先生、ルアルゴーへ戻られるんですか」
彼はわずかに肩をすくめた。
「今度のことでは、わしもこってり絞られてね。経歴上、まあ、疑われやすい位置にいるのだろうが。しかし、一応の嫌疑が晴れたところだし、これ以上むやみに居残って、伯爵の評判を悪くすることもあるまいと思ってね」
「すみません――」
フィリエルは声がつまった。
「ルーンのこと、わたくしが先生にたのんで、そのせいで、先生にまでご迷惑を……」
「違うよ、嬢ちゃん。そうじゃない」
医師はやさしくさえぎった。
「わし自身が、あの子を看《み》てやりたかったのだ。彼が気になって、都へついてきたようなものだ。だが、力不足だったとつくづく思うよ。むしろ、わしのおせっかいが、あの子を追いつめたのかもしれん。それを思うと、悔やまれてならないよ」
「他のだれのせいでもありません。わたくしが、最低のばかだったんです」
みじめな思いで、フィリエルは告げた。
「底なしのばかです。わたくしが、自分でルーンに話したんです――リイズ公爵が、蛇の杖にかかわることを。気づいて当然だったのに。ルーンの傷をつくったのがだれか、わかってよさそうなものだったのに」
うつむいたフィリエルは、暗殺を聞かされてからこちら、百回もくり返しベッドの中で考えたことを、医師の前で口にした。
「もっと早くにわかっていたら、わたくしが公爵を殺してあげたのに。本当に、そうすればよかった。ルーンにできたことが、わたくしにできないはずがなかったのに」
「それは、ちょっと不穏当《ふ おんとう》だよ。嬢ちゃん」
メリング医師は、ややたじろいで少女を見た。
「口にするものじゃない。だれが聞くとも限らないのだから。それに、そんなことをあんたが言って、ルーンが喜ぶとも思えないがね」
フィリエルは、不満そうに口をとがらせた。
「ルーンを喜ばせたくて、言っているんじゃありません。自分の気がすまないだけです」
老医師は穏やかに言った。
「わしは、ルーンが、あんたのためを思って今度のことをしたのだと思うよ。じつはね、フィリエル。ルーンに、あんたから身を引くようにすすめたのは、このわしだよ。彼の先達《せんだつ》のように、これ以上好きな人を、この忌まわしい世界にひっぱり入れてはならないと、そう言ったのだ。嬢ちゃんは、わしをたっぷり恨んでいい」
フィリエルには、どうにも答えられなかった。沈黙していると、医師は言葉を続けた。
「わしとしては、ルーンにもっと、まっとうに歩む道をすすめるつもりだった。だが、あの子には、できないことがわかっていたようだ……傷のことを言っておったよ。あの子はこの機会に、自分自身で決着をつけたかったのだろう。同時に、身の引きどきだと考えたに違いない。哀れな、かわいそうな子だ。だが、そんなふうに、運命に運ばれてしまった子だよ」
フィリエルは長い間黙ってから、ぽつりと言った。
「そうは……思いません」
メリング医師は、白い口ひげを吹いて嘆息した。
「嬢ちゃんであっても、運命に運ばれた子ではないかね。その身に女王家の血をもつことを、特殊でないと、だれに言えるかね。ごくふつうの家の、ごくありふれた娘であっても、ルーンのタイプの人間が、幸せにすることは難しいのだ。ましてやあんたは、伯爵家の息子が婚約したがるような娘だ」
フィリエルには、また何も言えなくなってしまった。じっとうつむいていると、メリング医師は、彼女の顔をのぞくようにして言った。
「ユーシスは、すっとびのぶきっちょ子馬だが、気のいいやつだ。鼻持ちならない大貴族のなかでは、ずいぶん愉快な若造だよ」
泣きそうになりながら、フィリエルはうなずいた。
「……知っています」
メリング医師はうなずき、なだめるように、節の大きな手でフィリエルの肩を何度もたたいた。
「わしはこれから、コーネルのやつのところへ行って、いとまごいのあいさつをしてくる。嬢ちゃんは帰りなさい。あんたの世界に身をおいて、わしらのことは忘れるのだ」
フィリエルは急に泣き出すのをやめ、老医師の服の裾《すそ》をしっかりつかんでいた。
「先生、これで最後にしますから……最後の最後にしますから、研究所へいっしょに行っていいですか。もう一度だけ、あの場所へ行って、最後の決意を固めてしまいたいんです」
フィリエルの嘆願に、とうとう根負けしたメリング医師は、しぶしぶながら、弟子を同伴して正門を通った。フィリエルが、いまだにその衣装を捨てなかったことに、心底あきれた様子だった。
コーネル博士は、この日も不機嫌そうに起き出してきて、来訪者を迎えた。メリング医師が北へ帰ると告げても、その機嫌はほとんど変わらなかった。
「いつものことだな、メリングが、来たと思えば帰るのは。また何か、ここにいては具合の悪いことをしでかしたのかね」
「わしが起こすのではないよ。いつものことだが」
医師が穏やかに答えると、コーネル博士は鼻を鳴らし、フィリエルを見やった。そして、ふと気がついたように言った。
「そう言えば、ここのところ見ておらんな。おぬしの、黒い髪をしたほうの弟子は」
メリング医師は、太いため息をついた。
「おまえさんは、そのままでいいから幸せに暮らしてくれ。何も言おうと思わん」
「あの小僧、はたきを持って現れおったぞ。わしが少し説教するまで、ここでほこりを払っとった。そら、少しばかりきれいだろう」
広間に並んだ資料を手でさし示して、コーネル博士は言った。メリングはうなった。
「わしには……あの子がわからん」
(あたしには、わかるような気がする……)
フィリエルは考えた。そして、長机の前をゆっくり歩き、資料を一つずつ見ていった。竜の剥製《はくせい》はていねいにほこりが取ってあった。
同じ人間ではないのだから、あずかり知らないことはある。けれどもフィリエルは、他のだれもしないようなルーンの行動を、ルーンがしたというそれだけで、意味のあるものに思うことができた。ほこりを取ったという、そのささいなことでも、胸が痛むようにいとしかった。
ふと、フィリエルの足が止まった。机の上の円形の資料が、とてもきれいにぬぐわれているのを発見したのだ。それは、星図盤だった。紺の地塗りに銀色の点で、全天の星座を隈なく描いてある――
(……ルーンは博士になれないと言った。それでもやっぱり、ルーンが望むことは、博士の研究を追うことだろう。ルーンという人間が、それほど簡単に変わってしまうことはないのだ。あたしの前から姿を消したという、ただ、それだけなのだ……)
その思いは、資料を見るうちに、ますます強くゆるぎないものになっていった。竜の骨、竜の足跡、竜の営巣《えいそう》した土手の復元。そして、フィリエル自身の気持ちもまた、ゆるぎないものになっていくのがわかった。
(……あたしが、ルーンに博士を見ているというなら、それも認めよう。それはルーンが悪いのだ。あたしに対して、そうふるまったのだもの。けれどもルーンは、自分でもまだ知らないのだ。まねをするまでもなく、博士と同じ変人だということを。気づかないほうがおかしいのに。二人して同じように、あたしを置いていったくせして……)
メリング医師が近づいてきて、静かにたずねた。
「気がすんだかね、フィリエル」
フィリエルはうなずいた。
「ええ、もう二度と来ません」
彼はほっとしたようだった。マントをひきよせ、だめ押しにたずねた。
「それなら、決意ができたんだね」
「ええ」
フィリエルはふいに顔を上げ、琥珀の瞳に、これまでになかった光を浮かべて、メリング医師を強く見返した。
「自分のしたことが、まちがいだったことがわかりました。ルーンが消えたといって、今まで泣いていたことです。彼が消えるつもりでも、わたくしが見つけ出せば、それでいいんです。ルーンが先生の言葉を真に受けて、わたくしを切り離そうとしたことが、そもそものまちがいだったということを、彼にも思いきりわからせてやります」
メリングは驚いて眉を上げ、あわてた口調でたずねた。
「どういうことだね、フィリエル、それは」
フィリエルは胸を張って答えた。
「人殺しだってできると思えば、他の何でもできるだろうということです、先生」
「またそんな、過激なことを……」
老医師は、禿《は》げ上がった額を手で押さえた。
「あんたのことも、わからんよ。素直かと思えば、なんて女の子だね。言いたくはないが、それが女王家の血なのかね? そうだとすると、わしは、なんだかこの国のゆく末が恐ろしいぞ」
「女王家……かもしれません」
フィリエルは、くちびるを結んでうなずいた。
「今のわたくしには、自分の敵がだれだかはっきりわかりますもの――レアンドラです」
学院へ馬車をもどしたフィリエルは、このくらいの時間なら、アデイルには差し障りがなかっただろうと考えたのだが、思惑がはずれた。もといた場所へもどってみると、アデイルの、フィリエルあてのメモが残っていた。
王宮から急ぎの使者が来たので、あなたを探しましたが、見つからなかったので、とりあえず先に帰ります。これを読んだら、すみやかに王宮へおもどりください。
フィリエルはびっくりして、伝言をわたしてくれた友人に礼を言い、外へひき返した。学院にいるあいだに、王宮から彼女たちに呼び出しが来たことなど、今までに一度もなかった。
何があったのだろうといぶかりながら、フィリエルは馬車を出し、橋をわたって王宮へと急いだ。これで、今日自分が研究所へ行ったことも、レイディ・マルゴットに知られてしまうなと、ちらりと思ったが、それほど気にしないことにした。
(あたしは、彼女のバラではない。彼女に咲かせてもらう花ではないのだ。あたしが本当にしたいことは、別のところにあるのだもの……)
ロウランドの塔へもどると、アデイルが、学院へ出かけたときの軽装ではなく、寺院へ礼拝に行くような、あらたまった装いに着替えていた。水青と紺に色を押さえた、ケープ付きの昼用ガウンだ。
アデイルはフィリエルの姿を見ると、怒りはせず、ほっとした様子で言った。
「ああ、よかった、もどってきてくれて。どこへ消えてしまったのかと、気をもんでいたのよ」
「ごめんなさい、こんなことになるとは思わなくて。あなたにひとこと言って出るのが、当然だったのに」
まずはあやまってから、フィリエルはたずねた。
「それで、急に何ごとなの、いったい」
アデイルは、金茶の瞳に緊張した色を浮かべて見返した。
「女王陛下のくだされた、女王候補への通達をたずさえて、メニエール猊下《げいか 》が王宮へお見えになったの。星の広間で、女王代理として会見をなさるわ。猊下はたぶん、火の鳥の羽根を持っていらしたのよ」
「火の鳥の羽根?」
フィリエルは思わず聞き返した。
「女王候補への課題よ」
アデイルは率直に言いかえた。
「いつか、この日が来ると思っていたわ。わたくしとレアンドラの女王争いは、ここから本格的に始まるの。今日はレアンドラも、同じに学院から呼び返されているはずよ。わたくしたちは二人で、陛下のお告げになる、一つの課題を拝命するの。それをどれほどうまくやりとげるかで、次期女王に認められる者が決まるんです」
「試験問題があるのね」
フィリエルが理解してうなずくと、アデイルは落ち着かなげに、暖炉の前と窓辺とを行き来した。
「……わたくしたちに告げられる課題が、一代前の女王候補に告げられたものと同じかどうかは、さだかではないわ。でも、わたくしたちの母親は、その課題に失敗している。そして妹姫であるあなたの母親は、課題そのものをなげうったのよ」
アデイルは、簡単に不安を見せる少女ではなかったが、今は不安を隠しきれないようだった。その心細さを思いやり、フィリエルはやさしく言った。
「どんな課題を出されたって、あなたなら大丈夫よ。あなたは女王になれる人だわ。いっしょにいて、わたくしもますますそう思うようになったもの」
「本当に?」
アデイルは悲しげに言った。
「わたくしにはよくわからないわ。踊らされているだけのような気のすることは、よくありますもの。こんなふうに自分に自信がないのは、女王候補として、たよりないことなのでしょうけど」
「いいえ、そう思うことのできるあなただからこそ、ふさわしい人だと思えるのよ。あなたこそ、グラールの女王にならなくては。レアンドラなどにならせては、絶対にだめ」
フィリエルは噛みしめるように言い、髪をはらって、決然とした顔でアデイルを見やった。
「わたくし、あなたを応援するわ。レアンドラなどに負けさせないわ。わたくしにできることがあるなら、なんでもあなたのためにしてあげる。だから、自信をもって課題を受けていらっしゃいな。必ず何とかできるはずよ」
急に強気なフィリエルの態度を、アデイルは驚いた様子で見つめたが、みるみる涙ぐむほどに感激して、両手を組みあわせた。
「フィリエルがそんなふうに言ってくれるなら、わたくしはもう、このまま死んでも本望ですわ」
「アデイル……それは少し、言いすぎだと思うわ」
「いいんです。気になさらないで」
フィリエルの意見を無視して、アデイルはしばらくひたっていたが、侍女の一人が猊下の予定を告げにくると、本来の彼女に立ち返った。
「まだ時間があるから、フィリエルも着替えてくださいな。間にあうようなら、あなたに付き添ってほしいと思っていたんですもの。中央の塔には、まだ登ったことがないでしょう? 星の広間はあの上にあるのよ」
環状回廊をわたるいくつかの廊下を通り抜け、中央塔の基部へと案内されたフィリエルは、見上げて息をのんだ。王宮の建築の、たいがいには驚かなくなっていたが、それでも度肝を抜くものだった。
それは、壮大としか言いようのない空間だった。大ホールに匹敵する大きさのモザイクの床に、いくつか彫像がすえられ、明かりに照らされて静まり返っている。だが、それらもただの通過点にすぎなかった。
奥に手すりの美しい階段があり、周囲の壁をめぐっている。目で追って見上げれば、階段はらせんを描いて昇り、幾重にも重なり、めまいがするような高みまで続いていた。
吹き抜けの高い天井をいくつも見てきたが、これは常識を越えている。巻き上がる階段だけのために、この途方もない場所が存在していた。階段には一定間隔で明かりがついていたが、王宮のその他の場所に比べれば暗く、最高部は闇に消えて、見分けることができない。
「これを……登るの?」
聞かずにはいられず、フィリエルは口を開いた。アデイルは小さく肩をすくめた。
「女王陛下がここにお住みにならないわけが、よくわかったでしょう。仕える人たちこそ気の毒よ。いちいちこれを上り下りするのでは」
彼女たちをここまで先導した伯爵家の従者は、階段には近寄らず、一礼してホールを去った。彼が扉を出るのを待って、アデイルは階段に向かった。この階段を登るところは、他人に見せるものではないのだそうだ。
「公然と登っていいのは、新年の賀のときだけ。そのときだけは、従者に明かりをかかげさせて、貴族たちがつらなって登るの。お年寄りなどはふうふうだけど、見上げるとなかなか壮麗よ」
アデイルは、最初あれこれ話したが、やがておしゃべりもしなくなった。階段の勾配はきつくなかったものの、そのぶん距離があった。長い裾を上品につまんで登りきるのは、彼女より足腰の強いフィリエルであっても、けっこうたいへんだった。
少女たちがようやく|行脚《あんぎゃ》を終えると、きめ細かなレリーフを飾った入り口があり、市松模様の通路があって、そのまま控えの間に続いていた。深い赤の|絨毯《じゅうたん》をしきつめたその部屋には、すでにレアンドラが待機していた。
大きな広間のわき部屋にふさわしく、壁を背にした椅子が並んでいたが、レアンドラは腰をおろそうとせず、下のホールの彫像のようにたたずんでいた。彼女は、あらたに入ってきた二人にちらりと目をくれたが、何も言わなかった。
フィリエルは彼女を見つめた。レアンドラは、装飾のない薄墨色のガウンをまとい、装身具も、極細の金鎖を首にかけただけだった。プラチナの髪は、一部に細い編みこみを入れて背に流している。
グレーを身にまとってもなお、なまめかしい女性がいるものだと、フィリエルはつくづく思った。余分に引き立てるもののないガウンは、彼女の鮮やかな女らしさを、率直に輝かせていた。細いネックレスのからむ鎖骨の美しさなど、男性が見ればくらくらするのは当然だろう。
レアンドラのように、目にしただけで威圧をおぼえるものは、アデイルにはなかった。えりの高い、水青と紺のガウンをまとったアデイルは、繊細そうで小づくりで、金茶の瞳ばかり訴えるように大きく、姉姫に比べると、かよわくすら見える。
(……でも、そのかよわさがアデイルの武器なのだ。王宮でアデイルを危険視できる人は、たぶんいないだろうけれど、彼女は、見かけほど単純な女の子ではないのだもの……)
フィリエルはそう考えた。そして、このように姉妹を並べて目にするのは初めてだということに、あらためて気がついた。
三人はしばらく、だれも口を開かずに立っていた。だが、やがて、とうとうレアンドラが言った。
「あいさつくらい、していいものではないの? ロウランドのアデイル。一応貴族の礼儀として」
「年上のかたが先に話されるのを、待っていたのですわ。一応貴族の礼儀として」
アデイルは答えた。冷ややかさでは負けていなかった。レアンドラは銀の弓の眉を上げた。
「そう、それなら、早急にすべてを年上にゆずることだね。時間のむだをなくすから」
「女王候補に序列はありません。陛下が認定をくださったことに、前後はないはずです」
アデイルは、言われたぶんだけ言い返すことに、きっちり決めているようだった。妹の口ぶりを聞き、レアンドラは脅すように声を低くした。
「これ以上、そちらが我を張ると、動乱が起こることになりかねないよ。チェバイアットとロウランドの力の均衡が破れないからこそ、女王陛下は、火の鳥の羽根を取り出されたのだ。今後の勝負で、破れなかった均衡が動く。わたくしとしては、頭の固い連中を早く一掃して、余力をブリギオンへふり向けたいのだが?」
「そうはさせません」
落ち着いてアデイルは言った。
「この国に、人殺しの軍隊を呼びこむことは許せません。わたくしたちが阻止します。グラールの兵団は、竜退治にのみ求められるものです」
「北の人間は、どうしてそんなに立てまえが好きなのだろうな」
冷笑を隠しもせず、姉姫は言った。
「グラールには、人殺しがいないとでも言うつもりなの? 表だってすることには、陰に隠れてすることよりも、よけいに罪が深いとでも? 君たちも、そろそろ目をさましたらどうだ。グラールの体制を形づくってきたものが、どれほどいやらしいかということを、その目でよく見るがいい」
「御説はよく拝聴しています。くりかえしていただく必要はありませんわ」
むしろやさしい口調で、妹姫は言った。このあたりが、アデイルたるところだった。
「伝統を尊ぶばかりがよいとは、わたくしも思っておりません。それでも、今までかかって築きあげられたグラールを、武王の率いる新興の帝国と同じものにおとしめようとするご意見は、おろかで浅はかとしか、申し上げようがありません」
レアンドラは少し黙ってから、くちびるをひねった笑みを見せた。
「では、やはり、全面対決しかないのだな。おとなしくしていれば、痛い目にも会わずにすむものを。まさか本気で、このわたくしと対等にはりあえるなどと思っているの? 一人でここへ来ることもできないでいる、お子様の君が」
「わたくし、負けません」
フィリエルの腕をさっととって、アデイルは言い返した。
「フィリエルは、わたくしに女王になれと言ってくれました。あなたには、そのような味方をつくることができないんですわ。いつだって、あなたのやり方はそうです」
レアンドラは軽く肩をすくめた。彼女の黒い瞳は、それまで無視するようにふるまっていたフィリエルを、初めて射止めた。
「子猫ちゃんも、本当に同意見?」
からかいとともに、含みをこめた声音だった。フィリエルは警戒して、固い口調で答えた。
「同じです」
「つくづく、おばかな女の子だね」
歌うように、何か楽しく口ずさむように、レアンドラは言った。
「かりにも女王家の血をひく身なら、この機に乗じて、ロウランド家をのっとるくらいの気概をお見せ。ルアルゴー伯爵は、君でもいいくらいに思っているというのに。まあ、目の前の障害ですら、よそで取り除いてもらうまで、どうにもできない君のことだから、そんな程度かもしれないが」
このときフィリエルは、本気で彼女に腹が立った。できるものなら、その白いほおを思いきりひっかいて、爪跡をつけてやりたいと思った。だが、そういうわけにもいかないので、手を固く握りしめて言った。
「わたくしは、たしかにばかでしょうけれど、たとえあなたが知っているとわかっていても、ルーンの居場所をあなたに聞くほど、救いようのないばかではありませんから」
フィリエルは声を鋭くし、レアンドラをにらんだ。
「勝手に、好きなことをおっしゃっていてください。あなたの思いどおりになどなりません。わたくしは、自力でルーンをとりもどします。あなたが何をくわだてようと、何をじゃましようと、それだけは、女神の名にかけてもやりとげてみせますから」
レアンドラは、しばらくフィリエルを見つめていた。それから、ふつうできないと思われるほど、見事に空とぼけた。
「何の言いがかりなのか、さっぱりわからないな……」
そのとき、奥の両開きの扉が開き、大僧正猊下の侍従が現れて、女王候補たちに中へ入るように告げた。
ここから先は、フィリエルにも立ち会うことはできない。アデイルはすまなそうにフィリエルを見つめ、無言で彼女の腕を一度ぎゅっと抱きしめてから、さっさと足を運ぶレアンドラに続いた。
後に残されたフィリエルは、レアンドラにたきつけられた怒りにまだ燃えていた。一人になったので、わきの椅子に腰をおろしたが、何度もくり返し考えた。
(とぼけたってだめだ。あたしには、見てきたことのようにわかる。あの人は、トーラスでルーンのことを欲しがっていた。彼女がルーンをつれ去り、都合よく利用したのだ……)
国の動向など、はっきり言って、フィリエルにはどうでもいいことだった。フィリエルが手に入れたいものは、グラールではない。たった一人の少年――傷ついた心を癒《いや》しがたく抱えた、一人の少年だけだった。
女王候補たちが扉に消えて、まだ、それほどときがたっていないと思われるころだった。
椅子に座り、頭をたれていたフィリエルは、扉の開く音に顔を上げた。いくら何でも会見の終わりには早すぎると思ったが、それはそのとおりで、出てきたのはアデイルたちではなかった。
(あれ……?)
扉を開けたのは男性で、先ほどの侍従でもなかった。なんとなく奇異な感じがしたのは、その男が、こんな場所で見るには、ずいぶん風采《ふうさい》のあがらない人物だったからかもしれない。
若いとも年寄りともつかない男で、やつれた感じの面長の顔には、これといった特徴がなかった。ひょろりとしているが、節の大きく頑丈そうな手足をしており、さまざまな色を使っているが全部がくすんだ色合いの、変わった上着をまとっている。
フィリエルがはっとしたのは、彼が扉を出てからおもむろに、手にしたつば広の帽子を被ったからだった。帽子の下の髪はつやのない灰色で、まっすぐ背中におちている。
(この人……)
天の回廊をわたっていった人物に、よく似ているのだった。フィリエルは思わず目をこらした。だが、確信はまるでなかった。頭の尖ったその帽子は、フィリエルには見慣れないものだが、同じ帽子を他で被っていないとは言い切れない。
フィリエルがそこにいることに気づいたのか、男は、少し驚いたようにこちらを見た。それから愛想よく会釈をしたが、それだけで、彼女に話しかけてはこなかった。フィリエルも、見ず知らずの人間に、天の回廊を通りましたかとたずねるのは、こんな場所では気がひけた。
男はそのままフィリエルの前を通り過ぎ、階段への通路に消えた。フィリエルは、彼の顔をおぼえておこうと努めたが、立ち去るやいなや思い出せないことに気づいた。それほどにごく平凡な、快でもなく不快でもないといった顔立ちだったのだ。
(だれなんだろう……)
フィリエルがぼんやりしていると、また扉が開いて、今度こそアデイルたちが出てきた。
「もういいの? 早かったのね」
立ち上がってフィリエルが言うと、アデイルは、考えこんだような顔で答えた。
「ええ、そうなの。猊下のお話は、長いものではありませんでしたわ……」
レアンドラは、わずかに苛立っている様子だった。フィリエルたちを見て、横柄な態度で言った。
「年上が優先されるなら、わたくしが先に階段を降りるぞ。君たちは、わたくしの姿が見えなくなるのを待つんだな」
二人が反対しないで黙っていると、何を思ったか、レアンドラは意地の悪い口調で言った。
「どうしてこの階段は、人に見られずに上り下りすることになっているか、知っているか? だれにも知られずに消されるのは、この階段でのことが多いのだよ。途中の壁を、何のへんてつもない壁だと思わないほうがいいぞ」
そう言いながらも、レアンドラはさっそうと出ていった。非常に彼女らしいことだった。フィリエルはため息をつき、アデイルを見たが、火の鳥の羽根については、アデイルから言い出すまで聞くまいと考えた。
「ねえ、アデイル。あなたたちより先に、この扉を出てきた男の人だけど、あれはだれだったの」
「え? ああ……」
アデイルは他の思いに気をとられていたようで、一瞬間をおいてから答えた。
「女王陛下がそばに置いている吟遊詩人《ぎんゆうし じん》よ。バードとか御使《み つか》いとか、いろいろに呼ばれているわ。今日はメニエール猊下に従って、王宮へ出向いてきたみたいだけど」
「吟遊詩人って、あの、各地を旅して回って、歌を歌う職業の人?」
話にしか聞いたことがなく、フィリエルはまだ、実際にそのような人物に接したことはなかった。
アデイルはうなずいた。
「ええ。才能だけで王宮へ出入りする人々の極みをいく人たちよ。彼らの究極の目的は、旅することではなく、高貴の人にやとわれて長く安楽に暮らすこと。あのバードは、たぶん優秀なのでしょうね。もうずいぶん長く、女王陛下に付き従っているそうですもの」
ロウランドの塔へもどってくるまで、アデイルは女王候補の課題について口にしなかった。だが、部屋について腰をおろすと、唐突に言った。
「きっと何か裏があるに違いないわ」
「裏……?」
フィリエルが彼女の顔を見つめると、アデイルは、いくらか困惑しているようだった。
「だって、あまりにも直截《ちょくさい》な課題なんですもの。メニエール猊下の読み上げられた、女王陛下の火の鳥の羽根とはこうよ――『西の善き魔女の名において、ブリギオンの侵攻を止めた者を、この国の女王にふさわしいとみなす』――これではまるで、今の情況への対応そのものだわ。ぎょうぎょうしい名で呼ばなくても、わたくしたちが対処せざるをえないことなのに」
指をほおに当て、アデイルは考えこんだ。
「でも、もしかすると、『西の善き魔女の名において』というところに、意味があるのかしら……」
「メニエール猊下は、その他に何もおっしゃらなかったの?」
「猊下は、これが女王陛下の言葉に一字一句たがわないことを、女神の前で誓われただけよ」
会見が短かったはずだと、フィリエルは考えた。あれほど長い階段を登ったわりには、あっけないような気がする。
アデイルがとまどっているくらいだから、フィリエルにはもっとわからなかったが、その短い指示の意味するところは、どうみても明瞭だった。
「……つまり、あなたとレアンドラのどちらが東の帝国の脅威をしりぞけるかで、玉座につく者を決めるということなのね?」
言いながらも、それではレアンドラが完全に有利だと、思わずにいられなかった。彼女は今からすでに、ブリギオンと戦いたくてうずうずしているのだ。
「レアンドラは、当然そう受けとるでしょうね。そして今以上に、対ブリギオンの軍隊づくりにはげむでしょうね。でも、わたくしは、その点で彼女と覇《は》を競うわけにはいかないわ」
アデイルは静かに、しかし、迷うところのない意志をみせて言った。
「グラールは、他国を軍事侵略することのなかった国よ。それがグラールの豊かさのあかし、知力と機略をもつことのあかしだわ。女王国家における本当の力は、軍事力ではないのよ」
フィリエルはうなずいた。初めて耳にすることではなかった。
「わたくしにも、ヴィンセントが話してくれたわ。この国の真の武器は女性――女性の外交力だということを」
椅子の背にもたれ、アデイルは考え深げに言った。
「女性だけに限るわけでもないのよ。ただ、名よりも実《じつ》をとる精神とでも言うのかしら。グラールの豊かさや実力を、他国の脅威になるように、声高にアピールしなくていいの――そうできるのが、本当の実力だから。そういった考え方に基づいて、この国はできているはずなのよ。もちろん、いいことばかりではなく、弊害《へいがい》もあるわ。レアンドラの言ったとおり、平和の装いの下であれこれ行う、とっても陰険な部分もあるわ。それでも、それがわたくしたちの『西の善き魔女』たるところであるはずなのよ。無意味な人まで多く殺す戦争をはじめるのは、最後の最後であるべきよ」
(戦争はよくない……)
フィリエルもそう考えた。アデイルの言うことは、たぶん正当だった。
(でも、グラールにも人殺しはいる……)
そして、表だって行わないだけだという、レアンドラの言葉もまた、まちがいではなかった。フィリエルは、彼女がそう言ったときの刺されたようなつらさを思い出した。ルーンのとった行動は、言ってみれば、西の善き魔女らしいものだったのかもしれない。だが、|隠蔽《いんぺい》されることがなければ、フィリエルも、これほどに彼を見失わずにすんだのだ。
「あの人だって――レアンドラだって、ずいぶんな魔女のくせに。ほとんど、善いかどうかも疑わしいくらいに」
フィリエルがふいに激しく言うと、アデイルは、彼女の思いをくみとったように、ただうなずいた。
「そう、そのとおりよ。だからわたくしは、彼女にばかり分があるとは考えないの。結局は、同根の争いですもの」
それから小さなため息をつき、着替えにいくために立ち上がった。
「でも、この、女王候補の課題が知れわたってすぐは、どうしてもロウランドに旗色が悪いでしょうね。たいていの人は――特に殿方たちは――表だった晴れの場があることを好むものですもの」
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西の善き魔女 東の武王
賢者《フィーリ》と詩人《バ ー ド》を呼びだした
氷の都をおとずれた
真昼の星がおちたらおしまい
あなたの背中に立つ人だあれ
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フィリエルは、このよく知られた、意味不明のわらべ歌を思い返してみた。女王陛下ご自身が、グラールを西の善き魔女になぞらえるとは、いくらか意外だったのだ。
これでもしも、東の武王がブリギオンを指しているなら、このわらべ歌は、グラールとブリギオンの両国が会いまみえることで、何かが起きると言っているみたいなのだが。
(でも、その何かが、意味不明なのよね……)
大陸の中央には砂漠が広がり、細々とオアシスをつたう通商ルートがある他は、東海岸と西海岸をつなぐものは、ほとんどなかった。南の低地に道を開くことも、物理的には可能だが、竜に出くわさずに通過することはできなかったからだ。
グラールが西海岸に国を築いた九百年間、世界と言えば、砂漠のこちらのことだった。西よりのオアシス国家であるトルバートと同盟を結んだ際に、南の小国家群が東海岸と交易――おもに奴隷貿易――をしていることがわかったが、東は未開の地であるという認識は変わらなかった。
フィリエルは、国史の授業を思い出した。二百年ほど前、竜退治以外の冒険を求めた騎士たちが、砂漠を越えて東へ旅し、二度ともどらなかった。そのときから、グラール女王は自国と東のかかわりを断ち、いっさいを封鎖したのだ。
そうはいっても、南の貧しい小国が、グラールの優れた物品を横流しして、東方から奴隷を得ることまでは、ふせげるものではなかった。やがて、東の蛮族はいくつもの国家のまとまりを見せはじめ、お互いの間で、百年以上もしのぎをけずり、現在のブリギオンが台頭するに至ったのだ。
(女王陛下は、ブリギオンの侵攻を脅威と見ておられるのだろうか……)
東海岸は遠い。あまりにも遠くて、フィリエルなどには、侵攻もぴんとこないものだった。トルバートでさえ、砂漠の危険をおして、内陸に半月も旅したところにあるのだ。
女王候補の課題が王宮の人々に伝わると、みんなはやはり、その疑問を口々にとなえた。しかし、コンスタンス陛下が、ブリギオンを真剣に危険視しておられるのか、それとも、今回の女王候補の試験に手ごろと考えておられるのかは、だれにもわからないことだった。
アデイルは、課題が出てからも変わった様子なく学院へかよい、罪のないおしゃべりを楽しそうにすることをやめなかった。だが、いつもいっしょにいるフィリエルは、彼女が前より、ふと考えこむことの多くなったことに気づいていた。
フィリエル自身も、あれこれ考えることが多かった。大勢の人々と別れた学院の帰りなど、馬車のなかで、二人は黙って座っているようになった。
けれどもそれは、気まずい沈黙ではなかった。ルーンとならば、平気で続けられるたぐいの沈黙だ。お互いの心を占めるものを尊重し、分かちあわずにはすまない状態を越えて、相手を信頼できるからこその無言だった。いつのまにかアデイルも、フィリエルにとって、そういう存在になりつつあったのだ。
早めに学院からもどった日のことだった。フィリエルとアデイルは、いっしょにお茶を飲んだ後、そのままくつろいでいた。
正確には、アデイルはクッションにもたれて詩集を広げ、フィリエルは隅の書き物机に腰をおろして、ホーリーのおかみさんに手紙を書いていた。そこへ、ユーシスが現れた。
フィリエルは、ぎょっとせずにいられなかった。この前いきなり現れたユーシスが、どんなに不吉だったかを、そう簡単に忘れられるものではない。
「どうかしたんですか――」
「いや――」
ユーシスは、長椅子にいるアデイルのほうをちらりと見やってから、具合の悪そうな顔をした。
「そんなに、とんでもないような顔をしないでくれ。たまにはわたしも、君に会いに来たっていいだろう?」
驚いたことに、ユーシスは花束を手にしていた。それを少々もてあまし気味にさしだして、彼は言った。
「こんなのでよかったら、もらってくれ。わたしは詳しくないのだが――」
花びらが大きく、金色の花心をもつ白い花が、ふくらんだ蕾を混ぜて十ばかり、暗緑のつややかな葉とともに束になっていた。フィリエルは受けとって目を見はった。
「まあ、この季節に、よく花が」
「温室咲きの椿《つばき》だよ。冬場になると、ご婦人の飾りものに人気が出るんだそうだ。そうだというのは、ロットの言だからなんだが」
フィリエルは、ようやくほほえむことができた。
「ありがとうございます。すみません、また何か、知らせがあるのだとばかり思ってしまって」
「知らせが、ないことはないんだ……」
ユーシスはそう言って、少し口ごもった。彼の本性がたとえ不器用だとしても、ユーシスは宮廷の貴公子であり、余計なところで恥じたりためらったりはしない。もしもルーンに関する知らせなら、前回のようにずばりと口にするだろうと、フィリエルは考えた。そこで、そっとうながした。
「あの、婚約のこと――ですか?」
「わたしは君に婚約を申し出たし、その気持ちは今も少しも変わらない」
急いではっきりさせることのように、ユーシスはやや早口になった。
「その点を取り違えないでほしい。君が承諾してくれさえすれば、いつでも発表することをためらわないよ。ただ――君には、よく考える権利がある。そして、わたしは、これを君に話さないのはフェアじゃないと思ったんだ」
一度言葉を切って瞳をそらし、ユーシスは、あらためて慎重にフィリエルを見つめた。
「ロウランド家の男子として、わたしは女王候補の騎士になるべく定められた者だ。そして、女王の一の騎士の条件は、伝統的に竜退治だ。ちょうど今、カグウェルから被害の知らせが届いている。志願の申請が今日、やっとかなえられたよ。わたしはカグウェルへ行って、グラールの伝統に基づいて竜を倒してくる」
フィリエルは、聞いてもぽかんとするばかりだった。目の前のハンサムな若者に、血なまぐささは縁遠いものに見えたのだ。
「竜退治――あなたが?」
そのとき、部屋の隅で物音がした。アデイルが詩集を床に取り落とした音だった。勢いよく立ち上がった彼女は、声を尖らせて言った。
「お兄様。それではサギではありませんか。フィリエルを守るとおっしゃりながら、どうして竜退治の申請などできるのですか。信じられない」
ユーシスは、あきれた顔でふりむいた。
「サギとはなんだ、人聞きの悪い。そりゃ、多少の危険が伴うことだが、騎士であるかぎり、安穏《あんのん》と暮らせるはずないだろう。しかもこれは、ロウランド家の威信を含めて、内外に認めさせるよい機会なのだから」
「多少の危険ですって。今までに何人が命を落としているか、充分ご存じのくせに」
「わたしは死なないよ」
「そんなとんまなセリフはひっこめてください」
アデイルは目をきらめかせ、足をふみならした。これほど|激高《げっこう》した彼女を見るのは、フィリエルには初めてのことだった。
「わたくしは認めません。アデイルの名において竜退治の騎士が立つなんて、まっぴらです。伝統がすべてではないと、前にもしっかりお話ししたはずです。そんな時代がかったこと、レアンドラに笑い飛ばされておしまいですわ。どうして――どうして、カグウェルの要請をひきうけたりなさったの」
「わたしが、そうしたいからだ」
ユーシスはやや表情を固くした。
「つけ加えるなら、今の情況に必要だからだ。チェバイアットが提唱する、対ブリギオンの戦闘に代わるものが、国民たちには必要だ。われわれを認めさせ、目をこちらへ向けさせなければ、ロウランドに指導力は生まれず、女王争いにおいても、ぬきんでることはできないからだ」
「擁立の騎士など、つくらなければいいんです。これからの時代は必要ないと、レアンドラならうそぶいていますわ。そういう人を相手にして、どうして正攻法で、遠くの竜を倒しにいかなければならないんです。よりにもよってお兄様が。ロウランド家の跡継ぎには、代わりが用意されてはいませんのに」
「いや、どこかにはいるよ」
意外にもユーシスは、あっさり言った。
「知っているわけではないが、そういうものだよ。もしもわたしが死んだときには、突然現れ出るだろう。その、どこかにいるわたしの兄弟は、わたしほど騎士には向かない男かもしれない。だが、わたしはそうなんだ」
確信をこめ、ユーシスはアデイルを見やった。
「わたしは、騎士として育てられたことを誇りに思うし、変える必要も感じない。命を賭けた勝負の一つもして、男を上げたいと思う。それがわたしだし、やりとげて帰ってくるよ。わたしがそういう者だという説明を、フィリエルにしなかったのは悪かったと思うが、アデイル、君に怒られる筋合いではないよ」
「筋合いですって。わたくしが女王候補ですのよ」
アデイルは上気した顔で叫んだ。彼女の怒りはあおられこそすれ、少しも収まっていなかった。
「わたくしが認めないかぎり、騎士など存在しませんのよ。お兄様の騎士なんて、わたくしはいりません。いらない――いらない!」
「アデイル……」
弱った様子で、ユーシスは赤い髪をかきあげた。
「もしかすると、それは意地悪なのか――ライバルの?」
フィリエルは首をすくめて小さくなっていたが、思わず顔を上げ、ユーシスを見やった。
「ライバル?」
「アデイルがそう言ったんだ」
「お兄様なんて、大きらいよ!」
押しかぶせるように、アデイルが叫んだ。
「わたくしが何を言っても、何をしても、お兄様はなんにも感じずにやりたいことをなさるのよ。自分で、こうあるべきだと決めてしまって。そしてきっと、後悔するのはいまわのときなのよ。そういう人、辞書でひけば愚直《ぐちょく》と申しますのよ。わたくし、お兄様のための言葉かと思いましたわ。それでいて、フィリエルに婚約を申し込むなんて。今も変えないと言えるなんて。あきれはてて、これ以上ものが言えません!」
アデイルはそれだけ言い切ると、駆け出すように部屋を出てしまった。後に残された二人は、どちらもたいへん気まずかった。
「アデイルは、どうしてあんなに怒るんだ……」
ユーシスは、低い声でぼやいた。
「いろいろあるような気がします」
フィリエルは考えてから、一つ提言した。
「ユーシス様。竜退治を決めた件は、わたくしより、アデイルに先におっしゃるべきでしたよ」
「なぜ?」
ユーシスは困惑して、フィリエルを見た。
「わたしがカグウェルで死んだら、君には不利かもしれないが、女王候補アデイルにとっては、彼女のために命を捨てた騎士がいることは、生還した騎士がいるのと同じくらい、名をあげることなんだよ」
「だからこそなんだと思います」
フィリエルはユーシスを、まじめな顔で見上げた。ユーシスは赤い前髪を少し乱して、途方にくれた様子をしており、なんだかいつもより話しやすかった。
「ユーシス様。もしもわたくしが婚約を承知して、晴れて婚約者となったら、カグウェルへ出かけるご決心が、少しでも鈍りますか?」
「いや。そういう問題ではないんだ」
彼はいくらか気がとがめるのか、重い声で言った。
「わかってほしい。ここで臆して竜退治をのがしたら、わたしは、君を守ることのできる自信もない男になるだろう。アデイルに対してもそうだ。わたしは、グラールの女王を擁護する、だれよりも強い男でありたいんだよ」
フィリエルはうなずいた。そして、軽くほほえんだ。
「わかりました。それならわたくしも、あなたをおひきとめする手段に婚約を考えるのは、やめておくことにします」
ユーシスは、少しびっくりして聞き返した。
「それはもう、ことわられたということかい?」
「もっと早くに、はっきりさせなければならないことだったんです」
フィリエルは静かに言った。今は落ち着いて、迷いなく言えることを女神に感謝したかった。
「わたくし、安全が欲しくはないんです。ちょうど今のユーシス様が、ご自分を考えていらっしゃるのと同じように。今までは、守りたい、安全にしたいと思う人がいましたが、それもむなしくなりました。今はわたくしも、自分に自信をもつためには、守られた場所にいることはできないんです」
充分に時間を見計らってから、フィリエルは、アデイルの寝室のドアをノックした。
「わたくしよ、アデイル。入ってもいい?」
少しすると、アデイルが扉の鍵をはずした。髪が乱れ、目が真っ赤になっていたが、もう泣いてはいなかった。
「ごめんなさい……切れたりして。いやな思いをさせたでしょう」
フィリエルはほほえんだ。
「そういうこともあるでしょうよ。アデイルの暴言って、すごく新鮮だったわ」
「あきれたでしょう……」
「飲み物をもってきたのよ。いっしょに飲みましょう」
フィリエルはやさしく言って、手にした盆を見せた。
蜂蜜を入れた甘くあたたかい飲み物を、アデイルはおとなしくすすった。両手をあたためるようにカップをかかえ、いとおしげな小さな子どものようだった。
今までに一度も、フィリエルの前に、これほど滅入った様子を見せたことのないアデイルだった。彼女の線の細さが際だった。打ち倒れる寸前のぎりぎりの場所で、彼女はいつも踏みとどまっているのだと、フィリエルは胸にしみて思った。
(……女王候補に生まれることは、生やさしい運命ではないのだ……)
カップをもどすと、アデイルはようやく口を開いた。
「わかっていたのよ……わたくし。だから、とりみだしたりして恥ずかしいわ。カグウェルの知らせを聞いたときから、うすうすこうなる気がしていたのに。いいえ、わたくしが女王候補として陛下に認められた時点で、いつかこうなるだろうと思っていたのに……」
「竜退治のこと?」
フィリエルがたずねると、アデイルはうなずいた。
「女王の国グラールの、一番華々しいイベントよ。華々しい、そしてもっとも死亡率の高い。女王が、実力をもちつつ陰に隠れているためには、脚光を浴びる英雄が、人々の目をひきつけなければならない――その構造はよくわかっているの。男性が勇気を示す場をつくらないことには、女性も力を発揮できない。でも……」
アデイルは震えるため息をついた。
「どうしてお兄様は、ああいう人なの。まっ先に飛んでいくのではと、わたくしが思ったとおりのことをしてくれて。たまには、裏切っていただきたかったわ。命を落とすことが、どうしてそんなにうれしいの。わたくし、前々から思っていたわ。こういう人が、何でもよくできて、だれからも好かれて、そうして一番に死ぬのだって……」
涙が一筋、アデイルのほおをつたったが、彼女はぬぐいもしなかった。その深い悲嘆が、フィリエルにも伝わってきた。なぐさめを言おうとしたが、アデイルは荒々しく言葉を続けた。
「グラールがグラールである限り、ああいうばかな男の人が必要なのよ。それがよいことかどうか、わたくしには、もう、わからない。いっそ、レアンドラに降参して、全員で戦《いくさ》をしに行ってしまったほうがいいのかもしれないわ」
「それでは、ユーシス様の立つ瀬がないわ」
フィリエルは柔らかくとがめた。
「アデイル、本気でそう思っているわけではないのでしょう」
「フィリエル、聞いて。わたくしの父は竜退治の騎士だった人なの」
顔を伏せたアデイルは、細い声で言った。
「……だれも公然とは言わないけれど、そういうことは、どこからかわかるものよ。フェリックスという名なの。竜退治に出かけて、あっけなく死んだ女王候補の騎士よ。オーガスタ王女は、彼が亡くなってからわたくしを産んで、これに懲りて、さっさと公爵夫人になったらしいのよ……」
「アデイル」
フィリエルは身をのりだして、アデイルの手を握った。
「あなたが心を痛めていることが、よくわかったわ。わたくし、何とかしてみるわ。ユーシス様が死んでしまうことのないように、わたくしが守る」
アデイルは、すぐには身じろぎをしなかった。それから顔を上げ、まばたいた。
「え……?」
「わたくしもカグウェルへ行くわ。そして、あなたのためにもユーシス様を守る」
フィリエルは力強く言った。アデイルはますます不思議そうな顔になった。
「あの……フィリエルって、とっても変わった発想をする人なのね。どうしてそういうはこびになるの?」
「アデイル、わたくしね、南へ行きたいと考えていたの。でも、どうすれば一番いいかがわからなかった。今、わかったわ」
「南へ行く――ですって? いったいどうして」
アデイルの瞳よりも赤みがかった琥珀色の瞳で、従姉妹の少女は見返した。
「ルーンは、必ず南へ行くと思うの。彼が今、どんなふうにしているのかはわからない。無事かどうかも、自由になる身かどうかもわからない。でも、生きているなら、彼はその枷《かせ》をのがれて、いつかは南を目指すと思うのよ」
「だから――?」
フィリエルはうなずいた。
「彼が見ようとするものを、わたくしも見るわ。ルーンを見つけ出すというのは、そういうことだと思うから」
「それは全部、ただの憶測でしょう」
驚きあきれて、アデイルは声を大きくした。
「そんなたよりないもので、ルーン殿に会える見込みなど、万に一つもないでしょうに。ばくぜんと南というだけで、あなたは出かけるつもりなの。南には山ほど国があって、気が遠くなるほど広いのよ」
「わかっているわ」
「いつまでも、ルーン殿が南へ行かなかったらどうするの。彼だって、ぬきさしならない都合もあるでしょうし、気を変えることだって充分あるのよ」
「わかっているわ」
フィリエルの声は少し震えたが、それでも態度を変えなかった。
「そのときには、わたくしの思っているルーンは死んでしまったということなのよ。死んだ人のことは、あきらめることができるわ。でも、望みがある限り、探したいと思うの」
アデイルは、怯えたようにフィリエルを見つめた。
「まさか――帰ってこないつもりなの。あなたは、ルーン殿を探して、ルーン殿に会えるまで?」
「――そうかもしれない」
「いやです。そんなのはひどい。ひどすぎるわ」
今度、相手の手を握るのはアデイルのほうだった。彼女はそれではあきたらず、だだっこのようにフィリエルの手を揺さぶった。
「そんなこと、絶対にさせられません。あなたはご自分が何を言っているか、よくわかっていないのだわ。南の恐ろしい土地で、あなた一人で――のたれ死にをしに行くと言っているようなものだわ」
「たとえそうだとしても、行きたいの」
充分考えてあると言わんばかりに、フィリエルは告げた。
「それしか、これからしたいことはないの。お願い、わたくしを行かせて。そのかわりわたくしは、ユーシス様が無事にあなたのもとへ帰るように、手段を尽くすから」
アデイルは口を開け閉めしただけで、何度も肩で息をした。
「……もう、正気の沙汰《さた》とも思えませんわ。フィリエル、あなたにいったい何ができて? ユーシスお兄様は、剣術も馬術も体術も、国の第一級の腕前を誇っていますのよ」
「たぶん、わたくしだからできることが、どこかにあるはずだわ」
フィリエルは少し肩をすくめた。
「たとえば――ユーシス様は騎士道精神をもつ人だから、わたくしがそこにいれば、守らずにはいられないでしょう。それを、逆手《さかて 》にとることは可能だわ。手段を選ばなければ、そばにいて、できることはたくさんあるのよ。薬を食事に入れるとか――」
アデイルは、しばらくきょとんとした。乱れた髪をかきやり、あらためてフィリエルを見つめて、おそれいった声を出した。
「フィリエル……あなたって……ただものではないのね。それはあまりにも『西の善き魔女』的な考え方ですわ。でも……」
「わたくしを行かせてね、アデイル」
決まったという口調でフィリエルは言った。そしてにっこりした。
「あなたって、つくづく、本当のことは小説にしようと言わない人なのね。アデイル自身がそうだから、わたくしのルーンへの気持ちを、とうとう一言もたずねなかったのね。言葉に語らなくても、真実は揺るがないものですもの。あなたのそういうところが、とても好きよ」
あまりないことだが、フィリエルに言われてアデイルは赤くなった。恥じらうように目を伏せて、赤面に耐えていたが、やがて口を開いた。
「わたくしの言ったことを、全部口から出まかせだと思うなら、きっと勘違いですわよ。でも、あなたはそういう人ね。あなたがお兄様の後を追っていってしまったら、わたくしはたぶん、カーテンの陰で泣き暮らすでしょうよ。王宮のうわさは、きっと大恋愛とわくでしょうけれど、それでもかまわないの? まだ、お兄様の婚約者と思われているのよ」
「真実は変わらないもの」
フィリエルは明るく答えた。
「大恋愛をしている自覚はあるわ――ユーシス様が相手ではなかっただけよ」
それを聞くとアデイルは、ふと疑わしそうな顔をした。
「恋愛に関して、あなたが本当にわかっているとは、今ひとつ思えないんですけど」
しかし、フィリエルはめげなかった。
「そんなことないわ。わたくしは、ルーンがいないとだめなの。もしも世界のあらゆるものが、わたくしとルーンを引き離す方向に動くとしても、まちがっているのは世界のほうなのよ。そう信じることができるのが、大恋愛じゃなくて?」
*  *  *
「あなたには、まったくあきれました」
レイディ・マルゴットは、陶製のマントルピースの前に立ち、こめかみをさすりながら言った。どうやら偏頭痛がするらしい。
「どうして、そう非常識なのですか。ルアルゴーへ帰ると言い出すなら、わたくしも、まだしもわかりますが」
「これが一番いいことなんです」
彼女の向かいに立つ、赤みがかった金髪とほっそりした肢体をもつ少女は、歯切れよく言った。
「わたくしの望みがかないますし、ロウランド家のかたがたに、今までしていただいたことのご恩も返せますし、こういうのを、たしか世間では一石二鳥とか――」
「俗なたとえはおよしなさい。淑女の口にはふさわしくありません」
レイディ・マルゴットは、トーラスのシスターのようにぴしりとたしなめてから、あらためてたずねた。
「あなたには、そこまで博士の弟子が大切なのですか? 彼が二度と更生《こうせい》できず、さらに深い闇間に入っていくばかりだと、わかった今になっても? 王宮に築くことのできるすべてを捨てるほどに?」
「大切です」
フィリエルはうなずいた。
「やっとわかったんです。わたくしが、王宮の光に浴するところへ行きたがったせいで、ルーンと会えなくなったんです。彼と同じ場所へ進むことを、ためらわなければよかったんです」
「後もどりはできませんよ」
「わかっています。もう、ハイラグリオンへはもどりません」
少し口をつぐんでから、伯爵夫人は切り出した。
「ロウランド家はまだ、エディリーンの首飾りをあずかっています。あなたはこれを、自分で女王陛下にごらんにいれる機会を、永遠に逸してかまわないと言うのですね」
フィリエルのまなざしは揺るがなかった。
「かまいません」
「どうしてあなたは、そんなに変わっているの」
レイディ・マルゴットは、とうとう深いため息をついた。
「母君を上回っているかもしれない。理解不能な気がするけれど……それでもあなたは、自分から恩という言葉を使ったのね」
「はい、奥方さま」
フィリエルが答えると、伯爵夫人は手を伸ばし、前に領主館の庭でしたように、彼女の髪をふわりとなでた。
「たとえ、あなたがだれであれ、それをすすんで言える人には、きっと女神のご加護があることでしょう――」
ふいに変わった声音に、フィリエルが少し驚いて見上げると、夫人のはしばみ色の瞳には、言葉以上の思いがこめられていた。その瞳の色といい、ユーシスがどれほど彼女ゆずりの容貌を持っているか、フィリエルはあらためて気がついた。
「――つつみ隠さずにお話しすれば、アデイルと同様、わたくしもあなたの申し出を、心の内にうれしく思っています」
「ありがとうございます」
フィリエルの緊張がなごんだ。レイディ・マルゴットが今初めて、有能な宮廷婦人ではなく、母親としての一面をかいま見せたのだ。
「ユーシスをよろしくお願いしますね」
「はい」
フィリエルは元気のよい返事をした。自分が領主館から王宮へ来て、この人々とかかわったことも、決してむだとばかりは言えないのだと思った。
みずみずしい少女の顔を見つめてから、伯爵夫人は静かに言った。
「園芸家のわたくしたちには、あなたは計り知れないところがある。けれども、あなたはあなたなりに、よい香りを放って咲く花なのでしょう。たとえ王宮から見えなくなっても、その香りを、わたくしは覚えていようと思いますよ」
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あとがき
西の善き魔女第三巻「薔薇の名前」をお届けします。
最初の発売予告よりも早い刊行です! 自分も担当さんも「(勤めをもっている)荻原には無理だ」と考えていました。とても信じられない快挙であります。でも、これは、喜んでくれる人がいたからこそです。応援してくれたかたがた、ありがとうございました。個人的なお返しができなくて、ごめんなさい。そのぶん精魂こめて書こうと思います。
章タイトルを音楽で遊んでおりますが、クラッシックは好きなほうです。(最近はアニ・ソンとクラッシックのCDしか買わないといううわさも……)
ピアノを八年習って、中学の吹奏楽部で第一クラリネットで、市民吹奏楽団に二年ほどかよって、大学で混声合唱団に入って、あと、職場のつきあいでも「第九」を歌ったりしましたから、門外漢なりには、なじんで大きくなったと言えるかもしれません。
しかし、音楽の適性はないです。わたしの音楽歴は、そのまま挫折の歴史なので、じつはあまりうれしくありません。でも、それぞれの場所で「ぜんぜんかなわない」と思う人たちを見てきたことは、悪いことではなかったかもしれません。彼らのように、「魂まで魅入られたように、あくなき練習をくり返す」ことが、わたしにはできませんでした。
それは、人よりうまくなりたい功名心や、ただの根気とは別次元のもののようでした。今ならそのことがよくわかりますが、わたしも若かったので、けっこう悩みました。「わたしは飽きっぽい、根気がない」という、このころの自己評価がかなり徹底していたため、この前ふと口にしたら、友人たちに笑い飛ばされました。
そりゃわたしは、「鈍」「根」そのもので長い話ばかり書いていますが、わたし自身の内部感覚では、今もやっぱり飽きっぽいのです。すぐに飽きる自分をどうやってつなぎとめるか、いろいろ試した結果、結局これしか続かなかったのが、ファンタジーを書くことだと言えそうです。
自分を探すうえでの回り道ということなのでしょうけど、不思議とわたしは、音楽を鑑賞の対象とはとらえず、いつも演奏する側に立つことを望んでいました。手が小さすぎてピアノに限界を感じ、ブラスバンドに飛び込んだときには、自分が一パートとなって大きな音楽を作る楽しさに夢中になりました。自分に向いていると、大学の合唱団までは信じていたのですが、やがて、そうではないとわかりました。このわたしの自己表現を音楽に求めること自体、まちがいだと気づいたのでした。
そういう経緯をもつせいか、物語を編もうとすると、それがまるで音楽のように思えることがよくあります。リズム、テンポ、メロディ。そして、よくできた物語の構造は、シンフォニーに似ています。印象的な音色の主題があり、第二主題があり、変奏があり、リピートがあります。ソロ・パートがあり、和声の重なりがあり、通奏低音があり、剛柔とりあわせた楽章が存在します。主題は、水面下に隠れても必ずよみがえり、最終楽章で鳴り響きます。
登場人物にそった視点をもうけるとき、わたしはパート演奏をしています。そこにはたいていサブメロディがあり、ハーモニーを生じます。和音がうまく鳴らないときは、キャラクターがうまく相対していないときなのです。
今では開き直って、わたしは言語中枢のある左脳で音楽をきいているか、もしくは女性に多いという、右脳にまで言語機能が進出しているタイプなのだと考えることにしています。どちらにしろ、純粋に音楽に接することができないので、音楽愛好家としては伸びないでしょう。
まあ、とどのつまりは、お話づくりに頭が煮詰まるとクラッシックのCDをかけるという、ずいぶんノーマルなつきあい方に収まっています。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、いい曲ですよね。ネーミングもすてきで。
「幻想曲とフーガト短調BMV542」も、好きです。バッハのオルガン曲は全体に好きです。しぶいところでは、オルガン小曲集の「主イエス・キリスト、われ汝に呼ばわる」を、むかし、執念で探し出しました。映画「惑星ソラリス」で使われていて、忘れられなかった曲です。
しかしながら、なぜかワルツはあまり好きではありません。ヨハン・シュトラウスが苦手なわたしです。特に、ニューイヤー・コンサートの定番となるあたりがだめです。
作中、アデイルの歌う歌詞は、二巻のあとがきにも書いた、上田敏訳詩集「海潮音」から拝借いたしました。文語体の、リズムのよさと意味の圧縮は、今のわれわれがもたないものだなあと、つくづく思います。本来は旧かなづかいで記し、そのほうがもっとみやびです。フィリエルにとっては、それどころでない一幕なのですが。
次の第四巻は、南方編ということになりそうですね――力なく笑ってしまいますが。はまりすぎのユーシス君の運命やいかに。消えたルーンの再登場やいかに。……まだ何も考えていません。このシリーズは、全五巻のお約束ですすめていますので、折り返し点を過ぎたところなのですが、この大風呂敷ははたして収束するのでしょうか。作者としては、登場人物の運命と同じくらい、そちらに手の汗を握っております。
[#地付き]荻原 規子
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底本:「西の善き魔女3 薔薇の名前」中央公論社 C★NOVELS
1998(平成10)年04月25日第01刷発行
参考:「西の善き魔女V 薔薇の名前」中公文庫
2005(平成17)年02月25日第01刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2006年07月17日作成