西の善き魔女2 秘密の花園
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)異端|審問《しんもん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)特権階級のかたがた[#「かたがた」に傍点]
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[#ここから2字下げ]
目 次
第一章 花園へのいざない
第二章 暗躍する花々
第三章 花飾りの舞台
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]口絵・挿画 牛島慶子
[#地付き]カット 和瀬久美
[#改ページ]
第一章 花園へのいざない
一
アンバー岬の切り立った突端に、美しい貝殻《かいがら》のようにおかれた灰青の城――ルアルゴー伯爵ロウランドの居館である。カモメの群れ飛ぶ夕暮れ、城の背面をとりまく西の木立に、まだ赤い太陽がかかっていた。
木々が青葉を輝かせるころから、ルアルゴーでは見る間に日が延びていく。夜がわずか数時間となる夏至《げし》の日を頂点に、きらめく北国の夏がやってくるのだ。
その明るい宵《よい》に、もっとも奥まった西翼の二階で、庭園に面した窓が慎重に開けられた。少女が一人顔をのぞかせる。左右をふりかえって人影がないことをたしかめると、少女はいきなり窓枠に足をかけた。
長い赤金色の髪に夕日が輝く。暗緑のツタを背景に、その髪とこそ泥のような身ごなしは、この上もなく目立っていたが、幸いなことに通りがかる者はなかった。ツタをつかんで器用に壁をつたい、軽々と着地する。飛び降りた際に広がったドレスは、令嬢にも似つかわしい品格あるものだった。
少女の名はフィリエル。今のところ、使用人でも客人でもない、領主館の風変わりな居候《いそうろう》である。一つため息をつき、肩の小さな荷物をかけなおしたフィリエルは、梢《こずえ》の太陽をちょっとうらめしげににらんだ。
(いやになっちゃう。こんなに明るくなっては、やりにくいったらない……)
伯爵令嬢アデイルの教育係であり、フィリエルの監督役もつとめるセルマは、口をすっぱくしてルーンに会うなと言うのだった。だが、フィリエルに言わせれば、この口うるさい年増女は何もわかっていないのだ。フィリエルが領主館の世話になる決心をしたのは、ここがルーンにとって安全に養生できる場所だからだというのに、本末転倒《ほんまつてんとう》もいいところではないか。
「言いつけを守ることができないなら、今度こそ伯爵様にご報告申し上げます。よろしいですね、フィリエルさん」
セルマは脅しをかけたが、フィリエルはとりあわなかった。ルアルゴー伯爵とフィリエルが「取り引き」したことを、セルマは知らない。
とはいえ、見つかって彼女に目の前でぎゃあぎゃあ言われるのも、双方の精神衛生によろしくなかった。だからこそフィリエルは、夕食前の一番監視がゆるむ時間をねらっては、人目をしのんでルーンに会いに行くのだ。苦労の多い話である。
(セルマがうるさく言う気持ちも、ぜんぜんわからないわけではないけどね……)
公平になろうとして、フィリエルは考えた。セルマは、辺鄙《へんぴ 》なセラフィールドで育ったフィリエルにお嬢様教育をほどこそうと必死なのだ。お嬢様というものは、まず、男の部屋にかよいつめるようなことをしないらしい。
「でも、ルーンは、あたしの弟のようなものですし……」
言い訳するフィリエルに、セルマは厳《おごそ》かに告げた。
「たとえ兄弟であっても、たとえ実父であっても、それなりの年齢がきたら、正しく節度ある距離を保つのが当然です。あなたは、聞きわけのない子どもと同じにふるまっていますよ」
言われてみればアデイルは、兄のユーシスや父の伯爵と何日も顔をあわせないで平然としている。たまたま出会ったときには、他人行儀にあいさつを交わしたりする。居住場所が広すぎて、家族といえども、いっしょに暮らしている気がしないのだろう。
(でも、このあたしに、すぐそうしろというのは無理だ……)
ルーンがもとどおり元気になってからなら、お嬢様風を試みてもいいかと思う。だが、季節が日に日に明るくなるというのに、ルーンの顔色はいっこうに冴《さ》えないように見えるのだった。
アデイルの部屋の並びにある西翼の居室と、ルーンのいる東翼の離れとは、ばかにならない距離がある。だが、庭を回ればセルマに出くわすことはなかった。気どり屋のセルマは、散歩用のドレスに着替えてからでないと、絶対に外を歩こうとしないからだ。
フィリエルは、自分で「ネコ道」と名付けたルートにしたがって庭園の植え込みをいくつかくぐり、壁の隙間をすり抜けて東側へ出た。こうすると、ほとんどだれの目にもふれずにメリング医師の薬草園へまぎれこめる。そして、薬草園まで来てしまえば、目的の場所もすぐそこだった。ルーンの部屋は、医師の居室の二階だったからだ。
風のない黄金色の夕方に、低い石垣《いしがき》に囲まれた茂みが静かに香りたっている。メリング医師は、この匂いのきつい草木で飲み薬や塗り薬を調合するのだ。フィリエルは香草の匂いが嫌いではなかったし、茂みの手入れをする老医師も嫌いではなかった。なんといっても、ルーンの傷を治してくれた、尊敬を欠くことのできない人物だ。
「メリング先生、こんにちは」
輝く髪と、ほっそりした活力あふれる手足をした少女が手をふるのを見て、老医師はかがめていた腰を伸ばした。片手にもった、摘《つ》み取った葉の束をふる。
「少しいるかね、フィリエル。| 快 《こころよ》く安眠できるぞ」
「あたしはよく眠れます、先生」
笑ってフィリエルは答えた。メリングは、がっちりした太鼓腹に禿頭《はげあたま》、ふさふさの白い眉《まゆ》と遠慮のないどら声をもつ。この医師が、館の人をどなりとばすのを目にしたときは、思わずおよび腰になったものだが、今のところフィリエルは少しもどなられず、すっかりうちとけていた。
「もらえるならお花のほうがいいな。セラフィールドじゃ、ほとんどの花は咲かなかったんですもの。あたし、まだ本物のバラの花を見たことがないんですよ。ここにはきっとあるんでしょう?」
「ふむ、たしかに伯爵夫人が育てているがね。だが、あれは門外不出の花だからな。めったなことで、秘密の花園には入れてもらえんよ」
医師の言葉に、フィリエルは目をしばたたいた。
「バラの花って秘密だったんですか? 絵や図案にはよくあるものなのに」
「大輪のバラは野バラではないからな。あるがままの野生でははえない。つまり、ある意味では異端に抵触するものなのだよ」
メリングはさりげない口調で言ったが、少女が琥珀《こ はく》に似た瞳で強く見返すのを感じた。
「異端は、さがせばけっこうたくさんあるものなのですね」
考えをまとめようとするかのように、フィリエルはゆっくりと言った。
「あたし、思うんですけど――もしかすると、同じことをしても、ハイラグリオンの王宮内でだったら、異端と呼ばれないんでしょうか」
「さてなあ。一介《いっかい》の医者には難しい質問だな」
メリングは答えを出そうとはせず、建物のほうをちらりと見上げた。
「あんたがよく眠れるのは、けっこうなことだ。おまえさんたちの年頃には、よく寝てよく食べて、よく日を浴びておくことが肝要《かんよう》だ。そうすれば根っこが太くなって、少しくらいの嵐には倒れなくなる」
フィリエルもつられて窓を見やった。
「ルーンの調子、あいかわらずなんですか」
「そうだな。傷はほとんどもうふさがっているのだが。|監獄《かんごく》ではないんだと何度言っても、部屋から出てこようとせん」
「すみません、あたしがよく言ってきかせます。そういう後ろ向きな態度がよくないんだって」
フィリエルは大まじめに言ったが、メリング医師はぷっと笑い、あわてて言い訳した。
「あ、いやいや。あんたの姿勢にはいつも感心しておるよ。うん、じつに」
「おかしいでしょうか、あたし」
「いやいや。あんたが活《かつ》を入れに来てくれて助かる。わしは、あんたに期待しておるよ。ルーンもあんたが来るのを心待ちにしているはずだ」
フィリエルは少し安堵《あんど 》し、笑顔になった。
「よかった。それなら、ちょっと行って来ます」
石垣をひょいと飛び越すフィリエルの姿を、老医師は感心したようにながめ、後ろ姿に声をかけた。
「そうそう、例のものをたのんだダーモットの知人が、返事をよこしたよ。もうじき届けるそうだ」
「ありがとう、メリング先生」
ひろった小石を注意深く投げ、角部屋のガラス窓を鳴らす。少し間があったが、窓が開いて、黒髪のやせぎすな少年が見下ろした。ただし、医師の言葉とは少々異なり、フィリエルが来たからといって、その顔にうれしそうな表情が浮かぶわけではない。
それでもルーンは、小さなバルコニーからフィリエルが登るための縄《なわ》を下ろしたし、手すりをのり越えるために手を貸しもした。体の傷がもうあまり痛まなくなったことが、よくわかる。
「これって、ごっこ遊びができるわね。今度から言ってみようか、『ラプンツェル、ラプンツェル、おまえの髪を垂《た》らしておくれ』って」
冗談半分にフィリエルが言うと、ルーンはますます不機嫌になった。
「いいかげん、窓から出入りするのはやめなよ。こんなにあたりが明るくなったというのに」
「それでも、廊下はこれよりずっと危険なのよ。セルマの出没範囲だもの」
「壁にぶらさがっている姿をひとに見られるほうが、よっぽど困ると思うけどな」
「大丈夫だって。だれもいないことをよく確かめているわよ。メリング先生のほかには、一人も見つかっていやしない」
フィリエルは明るく言ったが、ルーンはあきれた顔になった。
「メリング先生は見ているって?」
「うん、あいさつしてきた」
「二度とするな」
ルーンは言下に告げた。
「そうまでしてここへ来るんじゃないよ。これからもう、ぜったい縄を下ろしたりしないからな」
「そうはいかないわよ。あたしだって、ぬきさしならない事情があって来てるんだから」
フィリエルは肩に下げていた袋から紙束を取り出し、彼にさし出した。
「おみやげよ、はい」
ルーンは思わず受けとったが、紙に数式が書かれているのを見て、うさんくさそうに目を上げた。
「なにがおみやげだよ。これはきみの勉強だろう」
「このあいだの問題を解いたからって、もっと難しい問題を出されちゃったのよ。教師も意地になっているみたいね。ねえ、受けて立たなくちゃと思うでしょう」
「どうしてぼくが」
「このあいだの問題を解いたのは、ルーンだもの」
フィリエルがてらいもなく言うので、少年は眉をしかめた。
「だからこの前も言ったじゃないか。自分で解を出さなければ意味がないって。わからないなら、わからないまま持っていくべきだよ。教育をうけているのはきみだろう」
「あら、わからないなんて一言も言っていないわよ。ただ、あたしが解くとずいぶん時間がかかるというだけ。その時間がもったいないだけよ」
「嘘《うそ》つけ」
フィリエルは少しもひるまず、胸をはった。
「あたしはね、ルーン、数学ばっかり考えているわけにいかないのよ。他にも古典やら国史やら礼法やら、うんざりするくらいにたくさんあるんだから。せっかく夏が来たというのに、外へ遊びに行く暇もないくらいよ。それなのに、あなたはこんなに暇にして、ぜんぜん頭を使っていないじゃないの」
ルーンはむっとした。
「好きこのんで暇にしていると思っているのか。こんなやくたいもない場所で、何もかも取り上げられて……」
この部屋は、天文台よりずっと明るく風通しよく、寝台の敷布《しきふ 》は清潔で、出される食事も滋養《じ よう》のあるものだ。ただし、書物やペンや紙といったものは、一切置かれていなかった。まかりまちがっても天体観測の用具などはない。領主館の人々もメリング医師も、異端の研究になじんだ少年から、それらを忘れさせようとしているのは明らかだった。
「書くものならもってきたわよ、ここに」
フィリエルは手品のようにすばやくペンとインクをさしだし、気をひくように言ってみた。
「その問題、王立学院クラスですってよ。そう簡単には解けないって」
じつは、フィリエルにはよくわかっていた。犬が骨を見たように、馬がニンジンを見たように、博士の弟子は数式を無視できない。計算できるという誘惑《ゆうわく》に勝てないのだ。
「わけないよ、こんな設問。ひねったとすら言えないじゃないか。順を追って計算すれば答えが出てくるだけだよ」
ルーンが左手にかまえたペンをすらすらと走らせはじめるのを見て、フィリエルはこっそり息をついた。
(ひとまずよしと……)
宿題が片づくこともおおいに助かるが、それ以上に、ルーンがこのところ浮かべている、うちひしがれた表情を見ないですむことがありがたかった。数学をもってくるのは、そのためでもあったのだ。
(どうすれば一番よかったんだろうか……)
うつむいた横顔を盗み見ながら、フィリエルは考えこんだ。
異端の研究をねらう連中に拉致《らち》されたルーンが、ロウランド家によって助け出されたとき、フィリエルは、一も二もなく彼らに保護を求めるのが正解だと思った。伯爵が、少年を異端|審問《しんもん》に突き出すことなく、よこしまな連中の手からも守ってやると約束してくれたからだ。
だが、フィリエルの父親がセラフィールドで行っていた研究を容認することは、そのなかに含まれていなかった。こののち自分たちが、領主館の人々とともに暮らす道を選ぶなら、異端の思想は抹消《まっしょう》するとする世間にならい、生き方を根底《こんてい》から変えなくてはならなかった。
それしか、したたかに生きのびる方法はないと、フィリエルは考えていた。自分にはそれができると。だが、頑固に博士を信奉《しんぽう》する弟子の少年のこととなると、フィリエルの確信もゆらぐのだった。
(けがが重くて寝ているうちは、まだよかったのかもしれない……)
半月ほどは傷を治すことが先決で、それ以外のことに思いをこらす余地がなかった。だが、起き出せるようになってから、ルーンは確実に不幸な顔をするようになった。周囲の人々にうちとけず、捨てられた子犬のように所在なく、閉じこもって無為《むい》に毎日をすごしている。
そんな博士の弟子を、目にしていたくはなかった。第一、フィリエルが忘れようと努めていることを、目の前につきつけられるではないか――自分もまた博士に捨てられたという事実を。
フィリエルは思いつきで言ってみた。
「ねえ、あたしといっしょに勉強しない? 知らなかったことがたくさんあるわよ。退屈なこともいくらかあるけれど、もう一人生徒がいれば、その退屈も少しはまぎれるし」
少年は濃い灰色の瞳をちらりと上げた。軽蔑《けいべつ》するような目つきだった。
「気はたしかかい。そんなことが、まかり通るわけないじゃないか」
「申し出てみなければわからないことよ」
「自分のしていること、わかっていないんじゃないのか。伯爵がきみに、ぜひとも身につけさせたがっているのは、王宮に出入りする者の教養だろう。きみがエディリーンの娘だから、特別にほどこしていることだよ――ずいぶん、付け焼き刃の気はするけれど」
ルーンはしゃべりながらもペンを止めない。これが彼の特異《とくい 》なところだ。どう考えても、片手間に解くような問題ではないと、フィリエルならば思うのだが。
「もっと、ちゃんと自覚するべきだよ。きみは伯爵に同意したんだ。アデイルとともに王宮へのぼること――王家の血をひく者として、ロウランド家の戦力となることを。それを望んだのはきみであって、ぼくじゃない」
その口調の冷淡さに、フィリエルは眉をよせた。
「決めたのはたしかにあたしよ。でも、さしあたって、あなたには他にすることなどないじゃない。セラフィールドにもどることはできないし、博士は海の彼方だわ。今できることを考えるなら、あたしの手助けをしてくれても不都合はないんじゃないの」
「不都合だよ。ぼくは博士を追放した王宮が気にくわないし、野心のために隠蔽《いんぺい》したロウランド家はもっと気にくわない。何があったって彼らの手先になどなるもんか」
それは、ルーンがかたくなに言い続けていることだった。ため息をついてフィリエルは言った。
「ねえ、ちょっとは考えを変えてみようと思わないの。恩義を感じるとかしてみても、少しも悪くはないのよ。あなたやあたしを救ってくれたのは、この家の人たちなんだから」
「きみはいいよ」
フィリエルの顔を見ずにルーンは言った。
「王女を捨てたエディリーンの通った道を、逆にたどる権利だって、たぶん、きみにはあるんだろう。ずいぶん俗っぽい道だと思うけど、それなりに似合っているかもしれない。きみにはミーハーなところがあるし」
フィリエルは思わずむきになった。
「あたしのどこがミーハーですって」
「自分を知らなすぎると思うよ」
「偉そうに言わないでよ、年上みたいに」
「ぼくは年上だよ」
「どこにも証拠はないくせに」
ルーンはふいにペンをおき、紙をフィリエルに突きつけた。フィリエルが一瞬きょとんとすると、彼は抑揚《よくよう》のない声で言った。
「全部解き終わったよ。これからもう来ないでくれ。きみのためにも、ぼくのためにもならないから」
彼の怒りに驚きながら、フィリエルは言い返した。
「ばかを言わないでよ。あたしが来なかったらだれが来るというのよ。一日黙って座っている気なの」
「関係ないだろう」
フィリエルもいっしょに声を尖《とが》らせた。
「ないはずがないでしょう。あたしが何のために領主館へ来たと思っているのよ」
嵐の空のような灰色の瞳をフィリエルにすえて、博士の弟子は言った。
「わかっていないよ、フィリエル。そんなにはっきり言ってほしいのかい。博士の思想を抹殺し、ぼくをここに閉じこめている連中に、きみはもう加担《か たん》しているんだって。同じ立場なんだって」
「ああそう、わかったわ。最後の一人まで敵に回したいのね、あなたは」
ひとたび爆発すれば、感情の発散《はっさん》はフィリエルのほうがずっとうわ手だった。かんしゃくをおこしてフィリエルは大声で叫んだ。
「もう知らない、こんなばか。ろくでなしの博士よりもっと手がつけられない。勝手に拗《す》ねていればいいわ、二度と来ないから」
メリング医師はまだ薬草園に居座っていたため、フィリエルの怒鳴り声を聞き、憤然《ふんぜん》として縄をつたい降りた少女が、わき目もふらずに駆け出していく姿を目にした。
「おやおや」
口髭《くちひげ》をしごいて老医師はつぶやいた。
「今日もけんか別れだったか。あれで二日もすればけろりとしてやってくるのだから、実際、前向きな娘だよ、あのフィリエルって子は」
メリング医師の言うとおり、ルーンがもう来るなと言ったのは、今日が初めてではなかったし、フィリエルが二度と来ないと宣言したのも、初めてではなかった。それでも、当面の傷ついた気持ちはいやしがたく、フィリエルはまっすぐ自分の部屋へ帰ることができずに、なぐさめを求めて本館下の|厨房《ちゅうぼう》へと向かった。
半地下の広い空間を占める厨房では、夕食の準備が今たけなわであり、熱気と喧噪《けんそう》に満ちていた。奥のかまどで串にさした焙《あぶ》り肉が回され、大鍋がいくつも煮え立ち、焼けたパンが取り出されて、十数人の調理人が汗みずくになって立ち働いている。
「ホーリーのおかみさん」
菜園に面した戸口からのぞきこんだフィリエルは、猛然とタマネギを切り刻んでいる腰の大きな婦人を見分け、声をかけた。何度かくりかえし呼ぶと、彼女はようやくふりむき、目にたまった涙を袖《そで》でぬぐった。
「見りゃわかるだろう、今、忙しいんだよ」
「お願い、おかみさん」
「ああ、もう」
ホーリーのおかみさんは切ったタマネギをスープ鍋に放り込むと、青豆の入った籠《かご》をつかんで石段をあがってきた。
「手を止める時間はないんだから、話したいならあんたも剥《む》きなさい。ほら、いったいどうしたっていうんだい」
フィリエルはおとなしく青豆の皮を剥きながら、あったことをおかみさんに訴えた。
「意地悪としかいいようがないのよ。ルーンったら、どんどん虫のいどころが悪くなるの。あたしに思いやりなんて、てんでもっていないんだから」
「まあねえ」
おかみさんは、フィリエルの三倍の早さで豆と皮を取り分けながら言った。
「ルー坊の言うことが、まったくのまちがいでもないところが難なんだろう。でなければあんたも、そんなに腹は立たないはずだからね」
「でも、だったらあたしにどうしろと言うの」
口を尖らせてフィリエルはたずねた。
「この場所を一歩出たら、命の保証さえないのに。あたしのことを、牢屋《ろうや 》に入れた張本人みたいに言うんだから。だれのためにしたことだと思っているのかしら」
「あの子も、本当はいろいろわかっているはずなのさ。ただ、あんたに向かって認めたくないんだろうよ」
ホーリーのおかみさんはやさしく言った。
「どうして」
「あんたが心をくだいたおかげで、今の境遇《きょうぐう》にいるってことがさ」
「どうしてそれが悪いの」
「だんだん大人になるんだよ。あんたもそうだが、あの子もね。だんだん一人立ちするのさ」
おかみさんの言葉は、まるでセルマが言うことのバリエーションのようで、フィリエルはおもしろくなかった。少女の不服そうな顔を見て、ホーリーのおかみさんは軽く笑った。
「もう少し待っておやり。ルーンはもともと、あんたほど融通《ゆうずう》のつけかたがうまくないんだから。それでもあの子だって、じきにわかるはずだよ。無理にでも、今は情況にあわせなければならないことがね」
フィリエルはため息をついた。おかみさんにそう言ってもらっても、少しも気が晴れないことに気がついたのだ。
「ねえ、おかみさん。あたしたち、もしかしたら、ルーンを甘く見すぎているかもしれない。彼、ひとかけらも情況にあわせないまま、つっぱね通すのかも」
「どういうことだい」
「心配なの……」
ルーンのもっている真の望みは、ディー博士のあとを追って、赤道下の星を観測しに行くことだ。そのことは、フィリエルだけが知っていた。だが、フィリエルがそれを口にする前に、石段に腰かけている彼女たちに影がさした。だれかが背後に仁王《に おう》立ちに立ったのだ。フィリエルがひょいと見上げると、それは激怒《げきど 》にふるえるセルマだった。
「フィリエルさん、あなたという人は、あなたという人は……」
しまったと思ったが遅かった。ここが回廊から丸見えだということをすっかり忘れていたのだ。
「いったい何をしているんです。星仙《せいせん》女王の御名にかけて、わたくしはもうあなたに我慢できません。伯爵様にご報告申し上げます。あなたがここからいなくなるか、わたくしがお暇をいただくか、二つに一つです!」
二
当代ルアルゴー伯爵は、壮年で髪も黒々としており、その年齢にしてはスマートな体形を保っている。だが、表情ばかりは、老いた猟犬のように悲しげな疲れを浮かべ、執務室の大机で両手を組んでいた。
憂《うれ》わしげなしわを深く眉間《み けん》に刻んでいるが、この表情はほとんど彼の地顔となっているため、深刻さの度合がかえってわからない。机をはさんで正面に立ったフィリエルは、ふくれっ面で口を開いた。
「夕飯の豆を剥くことが、それほど悪いことだとは知らなかったんです」
応じる伯爵の口調は静かだった。
「悪いことだとは言わないが、わたしはアデイルにそれをさせようとは思わないよ。抜きさしならない場合はともかく、その仕事をむねとする使用人がいる間はね。君には、他にもすることがあったはずだが」
「今日の課題は終えてあります。自由時間になってからのことでした」
「ふむ」
伯爵は、一度手元の書類に目を落としてから言った。
「学習の面では、君はかなりよくやっているようだ。どの教師も、君の基礎学力にはほとんど問題がないと見ている。小さな村の学校で学んだだけにしては、たいしたものだよ。やはり学者の娘ともなると違うものだね」
「おそれいります」
ワレットの学校でも、人づきあいに苦心しただけで、勉強そのものに悩んだことなどなかった。身近にルーンがいるために、自分の頭がいいなどとはこれっぽっちも考えられないフィリエルだったが、結局、彼女も、たくさんの本を相手に大きくなっているのである。天文台には、遊び道具など他になかったのだ。
「一方で、セルマによる君の評価は、めったやたらに低い。君は禁止事項を守らず、守る意志もなく、改める試みすらしないそうだね」
フィリエルは口を尖らせた。
「何一つ守らなかったわけではありません。納得がいかなかったことだけです」
伯爵はやはり静かに続けた。
「セルマは腕の立つ教育係だ。これまでにも、何人もの優秀な若い女官《じょかん》を王宮へ送りこんでいる。たしかに彼女には、厳格《げんかく》すぎるという向きがないでもないが、王宮へ行ってから失態《しったい》を演じるよりは、はるかに本人のためだろう。そのセルマに、ここまで手を焼かせたのは、フィリエル、君が初めてだよ」
フィリエルは一瞬、ほめられているような気分になったが、やはりけなされているのだった。
「セルマは、アデイルと並べて君のめんどうを見ることは、とてもできないと申し出ている。現状のままなら、暇をとりたいとまで言うのだ。わたしとしては、得難《え がた》いアデイルの教育係を失うわけにはいかない」
ひるまずに、フィリエルはあごを上げた。
「それでしたら、あたしを追い出してください。あたしはそれでもけっこうです」
憂い顔の伯爵はため息をついた。
「こうも考えられる。思いのほか君には、この館の内で教えることが少ないのだ。君は、学問的にはすぐにもその上の段階に進める。あるいは、もっと荒《あら》療治《りょうじ》に今までの知りあいから引き離したほうが、生活を考え直すいいきっかけになるとも考えられる。だから、わたしは決めたよ。女学校に入りなさい。君には、アデイルの学んでいたトーラス女子修道院付属学校に入ってもらう」
「女学校?」
フィリエルは思わず叫んでしまった。寝耳に水の、あまりにも思いがけない通告だった。
「あたしが――このあたしが、女学校へ行くんですか?」
「トーラスは伝統ある女子教育校だ。この国のおもだった貴族の娘は、多かれ少なかれトーラスの学舎で一時期をすごす。そこでの学友関係は、公家の女性たちにとって、そのままハイラグリオンの王宮内にもちこされるものだと聞く。君には、学んでくることが山ほどあるはずだよ」
フィリエルは、いくらかへどもどしてたずねた。
「あの、女学校って、ここからかようことができるんでしょうか」
「それはできない、全寮制《ぜんりょうせい》だ。第一トーラス大修道院は、東部の山ふところカーレイルにあるのだ。アンバー岬からは、馬車で二日半かかる」
あっさりと言う伯爵を、フィリエルは信じられない目で見やった。
「そんな場所へ行けません、あたし」
「なぜだね」
彼の声が、ふと硬質をおびた。あくまでも穏やかななかに、鋼《はがね》を思わせるものがある。
「君は、すでに足をふみだしたはずだ。女王候補のアデイルとともに歩むと言ったはずだ。ならば、女学校程度にしりごみしてどうする。君はあの子を取り巻くものを理解する上で、またとない機会を与えられたのだよ。アデイルはトーラスに、十一の年から五年間いたのだ」
「それはそうかもしれません。でも、今……今すぐ行かなくてはなりませんか」
「今、動けない理由があるとでも言うのかね」
フィリエルは、負けん気な琥珀の瞳をついに伏せた。口ごもりながら言う。
「……ルーンのことが、心配なんです」
伯爵は、少女を憐《あわ》れむように見つめた。
「彼の身のふりかたは、彼にまかせなさい。君は少々思い違いをしているようだ。その一見過保護な感情は、君の甘え、君の依存《い ぞん》心の裏返しだよ。虻蜂《あぶはち》取らずにならないうちに、もっている迷いを絶ちたまえ」
(あたしがルーンに甘えている? ルーンに依存している?)
ショックをおぼえて部屋に戻ってきたフィリエルは、あらためて自問した。そんなわけがないと言いたかったが、現にフィリエルの手には、ルーンのすばやい筆跡で書きこまれた数学の答案があった。
(うーん。反論できない……かもしれない)
フィリエルが一人でうなっているところへ、鳥がついばむようなノックの音がし、隣のアデイルが顔をのぞかせた。きゃしゃで小柄なロウランド家の養女、第一王女の娘にして女王候補、フィリエルの母方の|従姉妹《いとこ》にあたるアデイルは、小麦色の髪を一方の肩にたらし、金茶色の瞳を見開いて言った。
「もどったのね、フィリエル。セルマが辞めると大騒ぎしたって聞いたけれども、本当ですの?」
「その件なら、もう片がついたのよ。彼女は辞めないわ」
げんなりした口調でフィリエルは答えた。アデイルは、おどけたようにまばたいた。
「なあんだ。わたくし、ちょっとだけ期待したかもしれないのに」
「あたしの負けなの。彼女でなく、あたしが出ていくことになったのよ」
「まあ、|嘘《うそ》でしょう」
アデイルはあわてて入ってくると、フィリエルの隣に腰を下ろした。
「お父様がそんなことをなさるはずないわ。たとえ、セルマがどんなことを言おうと」
「でも、実際にそうなのよ。ここを出て、トーラスの女学校に入れって、今言われてきたところだったの」
フィリエルの言葉に、アデイルは心から驚いた様子だった。腰かけたばかりの椅子から、はじかれたように立ち上がった。
「なんですって、そんなのひどい。お父様ったら、りっぱな約束破りよ。フィリエルにはわたくしのそばにいてもらうと言ったくせに。あなたをあんな危険な場所に放りこむつもりなら、わたくしもいっしょにもどります」
フィリエルはむしろ、アデイルの言葉に怖《お》じ気づいた。
「アデイル、あなたの女学校ってどういうところなの?」
「右も左も知らないフィリエルが行ったら、かっこうのえじきになるに違いないのよ。断固お父様に申し上げるわ。館へ来てまだ二カ月足らずのフィリエルには、無茶すぎるって」
夕食後、かなりの剣幕《けんまく》で談判《だんぱん》に出向いたアデイルだったが、伯爵の書斎で一時間ほど過ごした後は、うって変わってしおれた様子で帰ってきた。伯爵令嬢は、肩を落として言った。
「お父様って、ときどき聞く耳をもたなくなるの。女学校へもどるなどと言い出すのは、わたくしに、女王候補としての自覚がたりないからですって」
フィリエルは、アデイルの持ち帰った結果には、彼女ほどがっくりしなかった。伯爵が決定を変えないことは、うすうす察しがついていたのだ。そうなると、落ちこんでしまったアデイルが気の毒だった。
「あたしのせいで、あなたまで叱られてしまったのね。悪いことをしたわ」
「ううん。くやしいけど、お父様のおっしゃることは本当よ」
アデイルはしばらく口をつぐんでいたが、やがていくらか声をはげまして言った。
「あなたといっしょに女学校へもどれたら、どんなにいいだろうと、一瞬考えたことはたしかなの。あそこは、わたくしが隅々まで知り尽くした場所ですもの。独自のルールもしきたりも、落とし穴も知っている。あなたが苦労しないように、たくさんガードしてあげることができる。でも、わたくしのこの気持ちは、あなたのためというより自分の逃げなのね」
きゃしゃな指を組み合わせて、アデイルは続けた。
「トーラスはそこだけで世界が閉じたような場所だから、つい|錯覚《さっかく》するけれど、結局は世間の波風から守られている場所ですものね。わたくし、少しばかり腰がひけているんだわ。これから自分が王宮で、抜きさしならない立場に立つことに対して」
肩をすくめてから、アデイルはかすかにほほえんでフィリエルを見た。
「あなたに、本当に王宮まで来てもらうつもりなら、今は送り出しなさいとお父様は言うの。残念だけど、正しいわ。あなたは、きっとわたくしの力になってくれる人ですもの。トーラスで学んで、急いで階段をのぼってきてちょうだい。王宮で会える日を、わたくしは一日|千秋《せんしゅう》の思いで待っているわ。あそこはかなり特殊な場所だけど、ある意味では、グラール国全体のひな形とも言えるところですもの」
「あたしには、さっぱり想像がつかないみたい」
自信なく、フィリエルはため息をついた。
「トーラスの女学校って、一口に言うとどういうところなの?」
アデイルは小首をかしげた。
「わたくしはそこで育ってしまったから、相対化できないところがあるけれど……他の人のあいだでは『秘密の花園』だとか、『魔の巣窟《そうくつ》』だとか、いろいろにささやかれているようよ。完全に女だけの園《その》、男子|禁制《きんせい》の場所だからでしょうね。でも、そう言われるのも、あながちまちがいではないという気もするの。わがグラールは、他の諸国から『西の善《よ》き魔女』とあだ名されているでしょう。トーラスへ行けば、なぜそう言われるかも、多少うなずけるようになると思うわ」
フィリエルは思わず口ごもった。
「……それって、つまり、トーラスは魔女の学校だということに……」
アデイルはくすくす笑った。
「いやね、魔法なんてだれも教えないことよ。ただ、脅《おど》かしたくはないけれど、気をよくひきしめてかかってね。あそこにいきなり飛び入りするのは、たとえどんな女の子であっても、それほど楽なことではないと思うから」
メリング医師は、この日もまた禿頭を日光にさらしながら薬草園におり、フィリエルを見つけてにこにこと手を上げた。
「やあ、そろそろ来る時分じゃないかと思っていたよ」
「メリング先生、こんにちは」
いつになく、はにかんだ笑顔を返すフィリエルに、老医師は不思議そうに眉をあげたが、かまわずに言った。
「待っとったんだよ。あんたとアデイル嬢ちゃんのご注文の品が、ダーモットから届いたからね。ちょっと見てごらん、こんなものでよいかね」
彼は手についた土を服にこすりつけてきれいにすると、ポケットから布のつつみを取りだして、フィリエルの前に広げてみせた。黒いつるのついた、黒く丸い縁《ふち》のメガネが、彼の手の上に現れた。
フィリエルはぱっと顔を輝かせた。
「あ、これです。こんなのがほしかったんです。博士のおさがりとほとんどそっくり。これさえあれば、ルーンも外へ出てくるかもしれません」
「あの小僧っ子が、これをかけるというのかね。目も悪くないのに?」
メリング医師はいぶかしそうにたずねたが、少女はきっぱりとうなずいた。
「メガネがあれば、彼は気持ちが落ち着くんです」
「まあ、ひとの趣味をどうこうは言わんがね。そういうことなら、さっそくもっていってやりなさい」
老医師は品物をさしだしたが、フィリエルは急にためらい、受けとろうとした手をひっこめた。
「あの、できたら、先生からさりげなくわたしてもらえませんか。ルーンは、いやがるかもしれないから……あたしたちが特注で作ってもらったことを」
メリング医師は目を細めた。
「どうしたね。今日のフィリエルはやけに殊勝《しゅしょう》じゃないか」
「あたし、あさってから女学校へ行くんです。カーレイルにある」
唐突にフィリエルは告げた。少女の明るい瞳がいつもより沈んでいることに、医師もようやく気がついた。
「そりゃあ、ずいぶん残念だ。あんたがここへ来るようになってから、わしの楽しみが増えたと思っていたのに」
「ルーンのこと、先生にはよろしくお願いしますね。いろいろとだめな人だから、本当はだれかが気にかけていることが必要だと思うんです。でも、あたしは――」
フィリエルは一時言葉をとぎらせ、それから小声で言いなおした。
「――あたしはたぶん、ルーンにどんどん嫌われるものになっていくんです」
ガラス窓に石を投げると、黒髪の少年が窓を開けて見下ろす。そして、遠目にもわかるようなため息をついた。さすがのフィリエルも面《おも》はゆかったが、それをこらえて待っていると、やがて縄がするすると降りてきた。
「心配しないで。二度と来ないと言ったことを本当にするために、最後に言いに来たのよ。宿題ももってこなかったし、もういいの。あたし、女学校に入ることになったから」
窓|敷居《しきい 》につくやいなや、フィリエルはひといきに言ってのけた。ルーンが文句を言いだす前に、先手を打とうとしたのだ。
ルーンはけげんそうに眉をひそめた。
「何に入るって」
「女学校」
「――って何?」
驚くほど博識《はくしき》なところもある博士の弟子だが、これは守備範囲外のようだった。だが、フィリエルが知っているかぎりのことを伝えると、自分なりに統合《とうごう》するところがあったようで、寝台に腰をおろしながら言った。
「つまり、きみが行くのは、宮廷予備軍の学校ってわけだ」
「そうも言えるわね」
「伯爵がきみを送りこみたがるなら、まず、そんなところだよ」
フィリエルは、ちらりとルーンを見やった。
「気に入らないんでしょう。わかっているわよ」
「きみは?」
ルーンは意表をついてたずね返した。
「フィリエルはどうなんだい。カーレイルだかどこだかの女学校に押しこまれることを、どう思っているんだ」
「あたしは……」
口を開け閉めしてから、フィリエルは答えた。
「受けて立つつもりよ。セルマに追い払われたなんて、くよくよするのはしゃくだもの。上流貴族の社会では、どうやらトーラス女学校でうまくやることがステイタスらしいの。アデイルについていくつもりなら、どのみち通る関門なのよ」
「アデイルについていくことは、考えなおさないわけ?」
ルーンは静かにたずねた。フィリエルは一瞬つまったが、やがてうなずいた。
「これほど大変なことだと、知らずに返事をしたことはたしかだけど。でも、約束したからには期待に応《こた》えたいし、この国の高いところには何があるのか、王侯貴族の間ではどんなことが行われているのか、あたしは知りたいと思うの。ミーハーって言ってもいいわよ。あたしには、このチャンスをのがせないもの」
「きみの本音だね。ずっといいよ、そのほうが」
意外なことに、ルーンは眉を開いてそう言った。しかめっ面をせずにものを言う彼を、フィリエルはしばらくぶりに見た。
「中途半端がよくなかったんだ。だれにそしられてもいい覚悟があるのなら、それを貫けばいいよ。ぼくだってそのほうがやりやすい」
「何をやりやすいっていうの」
「……いろいろと」
フィリエルは、博士の弟子を見つめた。仏頂面をするのをやめさえすれば、見た目がいいと言えなくもない、灰色の瞳の少年。黒髪と黒い睫毛《まつげ 》をした、幼なじみと呼べるほどによく知った少年。息を吸いこみ、フィリエルは低く言った。
「どうせそうでしょうよ。あなたってそういう人よ。あたしがいなくなればせいせいするってこと、隠すことさえできないのね」
「フィリエル?」
彼にとっては予想のできない雲行きだったらしく、ルーンは驚いてまばたいた。そのことが、フィリエルの怒りをさらにつのらせた。
「あたしに二度と会えなくなろうと、どんなに遠くへ行ってしまおうと、どうでもいいことなんでしょう。たしかに、あたしが勝手にしていることよ。領主館へ来たことだって、女学校へ行くことだって。あなたが怒っていてもしかたないと、あたしも思っていたわよ。でも、喜ぶなんて許せない。あんまりだわ!」
ルーンは当惑した声で言った。
「反対してほしかったと言うのかい。そんなの変だよ。きみはどう言ったってきかない。いつだってそうだったくせに」
「あたしがあなたを置き去りにしていっても、何も感じないわけなのね」
フィリエルの言葉に、ルーンはかすかに眉をひそめた。
「しかたないだろう。きみに後ろめたくなんか思ってほしくないよ。王宮をめざすと決めたなら、専念《せんねん》してくれたほうが、ぼくにとってもよっぽどすっきりするんだから」
「わかったわよ」
フィリエルはようやくさとったような気がした。おそらくは、伯爵の言うことが正しいのだ。フィリエルは少年の寂《さび》しさを埋めようと、そればかりを願ってここへ来ていたはずだった。だが、実際のところは違っていたのだ。寂しいのはフィリエル自身、心細いのはフィリエル自身であって、その逆ではなかった。
「あたしがいないほうが好きにできるというなら、それでいいわよ。あたしも好きにするから。これから一切関知しない、何があっても気にしない。それでいいのね」
ルーンの表情は静かだった。口調はごくふつうに聞こえた。
「きみが好きでしようとしていることは、極めつけの難題だってこと、忘れないほうがいいよ。よそ見などしていたら一瞬で蹴落とされる、絶えずだれかが足をひっぱろうとしている世界だ。フィリエルは、そういうものを選んだんだよ」
「あなたに言われたくない」
不覚にも涙がにじんできたフィリエルは、さらに声を荒らげた。
「ルーンなんか、博士とまったく同じじゃないの。高潔《こうけつ》と鈍感とは次元が違うわよ。どこへなりと、星を探しに行っちゃえばいいんだわ。そんなふうに、身近な人の気持ちも考えないんだったら」
「どう言えばいいんだ、フィリエル」
「さよなら!」
最後までけんか別れだと思いながら、フィリエルは身をひるがえし、縄をすべり降りた。くやしいのか悲しいのか、自分の涙がはっきりしなかったが、一つだけわかることがあった。今は覚悟が必要なのだ。たとえルーンとこの先、分かちあうものがなくなってしまおうとも、フィリエルは、もう後に引けないところまで来ているのだった。
荷造りの必要はなかった。寮で必要なものは別便の馬車をしたて、にぎにぎしく送るのが貴族の令嬢のやり方だそうだ。フィリエルはごく小さなカバンに、こまごまとした必需品を入れるだけでよかった。
出発の朝、アデイルは、そのカバンに入れてはしいと、厚みのある紙束をさしだした。
「あなたのためにしてあげられることは、あまりないのだけれど。でも、せめてこれを、トーラスへもっていってもらおうと思って。二晩|徹夜《てつや 》で書き上げたのよ」
手わたされたフィリエルは、びっしり書きこまれた書類に驚いた。
「まあ、何が書いてあるの。トーラスでの心得?」
「ううん、それ、小説よ」
徹夜のせいか目を赤くしたまま、アデイルはほほえんだ。
「前に言わなかったかしら。創作意欲をかきたてる題材を見つけたって。この際だから仕上げたのよ」
「と、いうことは、あの……例の……恋物語?」
フィリエルがいくぶん警戒しながらたずねると、アデイルは声をたてて笑った。
「そうなの。あなたも覚えていたのね。ユーシスお兄様と、数奇な運命をもつ黒髪の少年が織りなす、波瀾万丈《はらんばんじょう》の恋物語よ!」
「うっ……」
体がこわばるフィリエルをよそに、アデイルの笑顔はまったく明るかった。
「文芸部で鳴らした腕は、まだまだ衰えていないみたい。自分でもかなりよい出来だと思うの。だから、もっていってくださいな。道中の退屈しのぎにもなるし」
「ええ、ありがとう……」
きっと怖くて読めないと思いながらも礼を言い、フィリエルは、大急ぎで小説をカバンにしまいこんだ。手にしていると不吉な気さえしたのだ。
「新しい文芸部長によろしく言ってね。レーリアか、ヴィンセントだと思うけれど」
「ええ、伝えるわ」
アデイルには、まだまだ自分の理解できないところがあると、フィリエルはしみじみ考えた。グラールの将来を左右する女王候補が、自分の兄とルーンの仮想《か そう》恋愛にうつつをぬかしていて、いったいよいものなのだろうか。僻地《へきち 》セラフィールドで育ったフィリエルにとっては、ほとんどさっぱりわからない問題だった。
馬車に乗るために、前庭に出たときだった。
フィリエルは東の建物へ目をやらずにはいられず、手伝いの少女が手提《てさ》げカバンを運んできたことにも上の空だったが、ふとふりかえって、驚きに口を大きく開けた。
陽気な青い目と栗色の巻き毛をもつ少女が、フィリエルのカバンを手に立っている。その顔は、館で目にするとはついぞ思わなかった、年来の友人のものだった。
「マリエ、マリエじゃないの。どうしてここに」
「えへへ」
肩をすくめてマリエは笑った。
「入れ替わりになっちゃうって聞いていたけれど、ぎりぎりで会えてよかった。あたし、これからお館で暮らすようにって呼ばれたの。まだ正式ではないけれど、アデイルお嬢様の侍女《じ じょ》として」
「それじゃ、マリエが選ばれたのね」
「フィリエルのおかげよ。舞踏会の日に、あなたがうまくお嬢様にひきあわせてくれたから」
ワレット村のマリエは、得体が知れないというフィリエルの評判をものとせず、友人になってくれた勇敢な少女だった。舞踏会へさそってくれたのも彼女なら、伯爵家の人々を知るきっかけをくれたのも彼女だ。フィリエルはマリエの大抜擢《だいばってき》が自分のことのようにうれしく、思わず声をはずませた。
「すごいわ、やったわね。あなたの念願がかなったのね」
「これから先がきびしそうだけれどね。夕べ着いたばかりなのに、さっそくあれこれ仕込まれているのよ。女官教育ですって」
「ははん、セルマね」
「そうそう、そのセルマって人が教官役」
事情がのみこめて、フィリエルはうなずいた。手のかかるフィリエルをやっかい払いすることができたので、彼女は次の仕事にかかったわけだ。
「あなたがあたしの知りあいだってこと、あの人には内緒にしたはうがいいわ。風当たりがきつくなるにちがいないから」
フィリエルが言うと、マリエは眉をあげた。
「そんなこと、このあたしが怖がると思って? 友だちのことを友だちと言って、だれにはばかるものですか」
「そうだったわね……」
いろいろな思い出がよみがえり、フィリエルは胸がつまった。少々感傷的になっているのかもしれなかった。
「あなたがあたしと入れ替わりだなんて、こんなひどい仕打ちってないわ。もしもマリエがいっしょだったら、ここの毎日も、もう少し楽しくすごせたはずなのに」
「あら、二度と帰ってこないわけじゃなし。あたしたちはいっしょに王宮へ行くのよ。これって、すばらしいことだと思わない?」
快活にマリエは言い、フィリエルの腕にそっとふれた。
「あなたが、アデイルお嬢様の従姉妹だとわかったときには、本当に驚いてしまったわ。そうとも知らず、始終あなたにいばっていたのではないかと、人知れず反省したくらいよ」
フィリエルは思わず笑った。
「これからも同じにして。あたしはおんなじフィリエルだから」
「そうもいかないわよ。あなたはトーラス女子修道院付属学校へ行くんじゃないの」
畏敬《い けい》をこめた声音で、マリエはその学校名を発音した。
「お館の侍女になるのとは、まるっきり別格よ。あなたって、他の女の子と違うとは思っていたけれど、こういうことだったとはね」
フィリエルは困って目を伏せた。
「本当のところは、まだよくわからないの。自分がそんなものになりたいのかどうか。伯爵様が行けとおっしゃるから行くけれど、そんなに自分に自信もないし」
マリエは少しびっくりして友人を見つめ、フィリエルが心底心細がっていることを発見した。
「無理ないかしら。ずいぶん急だったものね……」
やさしく言ってから、マリエはふいに手を打った。
「そうだ、こうしましょう。今は別れるしかないけれど、あたしはここで猛烈《もうれつ》に侍女の修業《しゅぎょう》にはげむから。そして、あなたの侍女になって、これから先はフィリエルを助けてあげる」
フィリエルは目を見開いた。
「あたしの侍女なんて、いないわよ。マリエ」
「何を言っているの。お嬢様の従姉妹君のくせして」
「友だちを召使いにするなんて、そんな気持ちの悪いことできないわよ、あたし」
マリエはほがらかに告げた。
「あたしがアデイル様に仕えていたって、事情はほとんど同じのはずよ。それに、今回選ばれたお嬢様の侍女は七人もいるの。一人くらいあなたのところに回ったって、大丈夫、大丈夫」
石だたみにがらがらと音をたて、黒塗り二頭立ての馬車がやってきた。制服の御者がフィリエルのために、うやうやしくドアを開く。いつのまにか執事のペントマンが見送りに出てきており、重々しいあいさつをのべた。アデイルは窓辺に立ち、純白のハンカチをふっている。
馬車が動き出した。最後にフィリエルは、もう一度マリエのために窓から身をのりだした。
「ありがとう、マリエ。あたしもがんばる。今度会えるときまで、あたしもトーラスで挫《くじ》けたりしないから」
「それでこそフィリエルよ」
マリエはうなずいた。そのあたたかい笑顔につられて、フィリエルはついに口走った。
「マリエ、あのね、ときたまでいいの。ルーンの様子を見に行ってくれる?」
「ルーン? ああ、わかったわ。天文台の助手だった男の子のことね」
マリエは答えて手をふり、その姿は馬車の後ろに遠ざかった。背もたれに体を沈ませたフィリエルは、少しばかり自分がいやになった。
(どうしてこう進歩がないんだろう……あたしったら)
三
「編入するフィリエル・ディーはあなたですか。ルアルゴー伯爵家の推薦状《すいせんじょう》のかた?」
「はあ……」
「淑女《しゅくじょ》らしくお返事しなさい。編入するフィリエル・ディーはあなたですか」
「はい、そうです」
「正確には『はい、そうです。シスター』と言うべきです」
(なるほど、これはセルマ流だわ……)
フィリエルはうんざりして考えた。入学の事務手続きからしてこの調子なのだ。先がおして量れるというものだ。
フィリエルが今いるところは、領主館のグレートホールに似た天井の高さをもち、柱廊が遠くまで並ぶ、厳めしい建物の一角だった。外は夏の日射しがまぶしいが、石に囲まれたなかは暗くひんやりして、別種の空気がただよっているような気がする。
大修道院というからには、そうとう大きいのだろうとフィリエルも予想してはいたが、トーラス大修道院が遠景に見えてきたときには、やはり肝をつぶさずにはいられなかった。領主館のような建物が、村一つ分あるように見える。
それらは、峻峰《しゅんぽう》の頂きを平らに切り落としたような、どうやって造成《ぞうせい》したのかわからない敷地に建っていた。何より驚かされるのは、トーラスの外郭《がいかく》をくぐる手段が、馬車一台やっと通るか通らないかの橋一本しかないことだ。橋からのぞきこめば、下は鋭く切れ込んだ谷川であり、水ははるかな底で白く泡立ち流れている。
(簡単には逃げ帰れないようになっているってわけね……)
どうしたって獄囚《ごくしゅう》になる気分はいなめなかったが、そのかわりと言ってよいものか、高みに並ぶ建物群は、薄赤い大理石ですべて統一され、優雅で装飾的だった。景観はまるで、まどろみの彼方にあるバラ色の王国のようだ。ひときわ壮麗《そうれい》な塔をもつ礼拝堂があり、その鐘の音は深い谷にこだまして、驚嘆するような調べとなる。
「朝と晩とのお勤めは、正《せい》修道女と同じに行ってもらいます。正午は免じます。あなたがた学舎《がくしゃ》に入る娘たちは、九時から十二時、一時から四時まで授業があるからです。課業の週予定は別紙ですので、よく見ておきなさい」
フィリエルの前で入学事務をとる修道女は、厳格を絵に描いたような四角い顔の中年女性で、感情を一切交えずにしゃべった。簡素な黒と白の服を身にまとい、黒の頭巾《ず きん》で髪を隠している。修道院の制服を間近に見るのも初めてで、フィリエルにはものめずらしかった。それに気づいたのか、彼女は言葉をついだ。
「あなたにも制服を用意してあります。頭巾は大目に見ますが、それでも礼拝のときは必ずつけるように。私服は一切許されません。よろしいですか、ここトーラスに一歩足をふみいれたからには、身分も育ちも捨てたとお思いなさい。ここでは女神の御前に、ひとしく平等に一人の見習い修道女なのです。貴族だという甘えは許されません」
「はい、シスター」
ずいぶん的外れな訓辞《くんじ 》だと思いながら、フィリエルは返事した。
「今日からあなたはただのフィリエルです。ともに学ぶ娘たちも、名前のみで呼び合うことになります。血筋や家筋の話をしてはなりません。たとえあなたの隣に王族が座っていらしても、尊称《そんしょう》をつけてはなりません。よろしいですね」
「はい、シスター」
「親愛、平等、平和がトーラスの理念です。和を尊《とうと》び、学友たちと仲良くしなさい。お互いの間で、トーラスのみの通称をつかうことは許します。けれども、身元を暗示するものではないことが条件ですよ」
(願ったりではないかしら。あたしにとっては、むしろ、すごしやすい環境みたいだなあ……)
フィリエルは思わずにいられなかった。どうもここは、気位《きぐらい》の高い令嬢たちに、平等を教えこむ場所のようなのだ。それだったらフィリエルも、育ちにひけめを感じることなく、令嬢たちの中にいることができるというものだ。修道女がじっと待っているのに気づき、フィリエルはあわてて言った。
「はい、シスター」
「では、寮を案内します。あなたの荷物はすでに運びこまれています」
女学校の寮は、そこからまだ延々と歩き、中門のアーチをいくつもくぐり抜けたところにあった。隔絶される感覚はますます強くなり、アーチを一つ抜けるごとに浮き世ばなれした静寂《せいじゃく》が深まる。
フィリエルが、もうどうにでもしてという気分になったころ、とうとう最奥の広場に出た。針葉樹のうっそうとした山肌の手前に、手入れがゆきとどき、目がさめるように鮮やかな芝生の庭がある。ところどころに枝を広げた樹木があり、読書によさそうな、涼《すず》やかな木陰をつくっている。澄みきった静けさのなかで、小鳥の声だけがさえざえと響いた。
「あちらがジェミニ館、十二歳までの低学年が入ります。こちらがエリーズ館、あなたは一応最高学年に編入するのですから、こちらに部屋を用意してあります。エリーズ館ではそれぞれ個室が与えられ、現在五十七名の学生が生活しています。その奥はヴィルゴー館、最高学年を終了後、専門課程にすすんだごく一部の特待生《とくたいせい》のものです」
修道女は広場を囲む建物を指し、てきぱきと説明した。
「あなたの荷物を入れたのは、エリーズ館三階の奥から二番目です。他の生徒は午後の授業ですが、長旅をしてきたことだし、あなたは明日からにして、準備をととのえておきなさい。夕食は七時半、礼拝堂でのお勤めの後です。くれぐれも頭巾を忘れぬように。何か質問は?」
「いえ、あの、いろいろ、ありがとうございました」
まだ頭がついていかず、フィリエルが急いで答えると、修道女は、初めてかすかに表情を動かした。
「あなたがたはここで平等ですが、それだけに、虚飾《きょしょく》をぬきにした個人の資質が問われるのですよ。お気を配りなさい。人々は意外と見抜くものです」
それがどういう意味なのか、彼女が浮かべた表情は何だったのか、フィリエルが考える前に案内人はすばやく歩み去っていた。ため息をついたフィリエルは、ともあれ自分の部屋へと向かった。
(国史、数学、古典、礼法……領主館でやらされたことと、それほど変わるわけじゃないのね)
机の上に積んであった教科書を手にして、フィリエルは思った。ぱらぱらめくってみたところ、多少は高度になるかもしれないが、まあ、なんとかなる範囲だ。
だが、セルマが選ばなかったものもあった。博物学《はくぶつがく》と銘《めい》打たれた本に至って、フィリエルは思わず目を見はった。
(あ、やだ。この本、博士の本棚にあった……)
博物学第一巻「竜の生態」という著書だった。幼いルーンのお気に入りだった本だ。図版がけっこう怖いので、フィリエルはあまり手を出さなかったが。
(貴族のお嬢様たちが、同じ本で学んでいるなどと知ったら、ルーンはなんて言うかしら……)
一人で笑みを浮かべたフィリエルだったが、むなしくなってすぐにやめた。彼女はあてがわれた部屋を見回した。
外観に比べれば簡素な部屋かもしれないが、それでも、壁と天井のあわいは草花を模した化粧|漆喰《しっくい》でふちどられ、卓上に置かれたランプは花をかたどって優美だ。寝台やドアの木材は上質で、やはり彫刻がほどこしてある。天文台に比べれば、ここも御殿のようなものだった。
芝生の広場に面して窓が開いており、窓に頭を向けて寝台がある。寝台の足もとに、伯爵家から送り込まれた大トランク三つが積んであったが、フィリエルはそのままにしておいた。上に着るものは制服のみだというのに、どうしてこんなにというほど下着がつまっているのだ。
フィリエルは窓辺に歩み寄って、広場を見渡した。同じように高地には違いないが、セラフィールドとここでは、やはりいろいろなものが異なっていると思った。
グラールの北部三州といえば、ルアルゴー、ドリンカム、カーレイルだが、カーレイルともなると、隣国アグレットと国境を分ける山岳地帯が大部分とはいえ、だいぶ南に位置するのだった。最北のセラフィールドであれば、この高さで芝や樹木は決して育たない。
(あたしは、アンバー岬の領主館からここへ来た。それでも、恋しくなって思い浮かべるとしたら、それはあの、何もないセラフィールドでしかないんだわ……)
しんみりしてフィリエルは考えた。しかし、同じように人を恋しがることは、今はまだ断固として拒否していた。
礼拝堂の荘厳《そうごん》な鐘とは違う、もっとかわいらしいチャイムが鳴ると、静かだった外の気配にざわめきが生じた。フィリエルが窓から身をのりだして並びの大きな建物を見やると、柱廊や広い階段に、娘たちがわきだすように出てきた。ころあいからいって、午後の授業が終わったらしい。
バラ色の建物にたむろす黒白そろいの少女たち。その色彩効果がめずらしくて、フィリエルは思わず見とれた。全員同じ制服を着ているために、かえって彼女たちのとりどりの髪の色がひきたつ。三々五々に話を交わしながら出てくる少女たちは、活気があって楽しそうだった。
(あたしも、あのなかの一人になるんだわ……)
少女たちは、髪型もとりたてて凝ることはなく、だれもがあっさりとお下げにするか束ねている。さすがは修道院、外見からは、だれ一人令嬢に見えないくらいだ。
フィリエルは、安心して寝台のわきにたたんであった制服を手にとった。のんびり着替えはじめたが、今度はまぎれもない礼拝堂の鐘が鳴り、途中からはあせって身じたくをした。
階段を下りて外へ出ると、頭巾を身につけた少女たちが、早くも礼拝堂のほうへ流れていた。黒い頭巾を被ってしまうと、いきなりだれも見分けがつかないほど同じに見える。
フィリエルは勝手がわからず、ポーチの階段でうろうろしたが、新顔がいるということも、頭巾のせいで隠れてしまうらしく、だれ一人フィリエルに関心をはらわなかった。
わからなかったら、聞けばいいのだ。フィリエルは何人かを見送ってから、伏し目がちに歩いてきた一人の少女に近づいた。
「ごいっしょしてもいいかしら。今日初めて来たもので、日課がよくわからないの」
ふいに明るく話しかけられて、少女は目を見開いた。うす青色で、かすかに紫がかったような瞳だった。容貌はさして目をひかない少女だが、澄んだ目の色だ。フィリエルはうちとけられる確信をもった。
「あの、わたくしにおっしゃったのですか。新しく編入していらしたかた?」
少女は声もしとやかだ。とまどいがちに問い返した。
「ええ、フィリエルといいます。礼拝堂でどうすればいいか、教えてくださると助かるんですけど」
「わたくしなどで、本当によろしければ」
悲しげに見えるほどきれいな瞳の少女は、謙虚《けんきょ》に答えた。修道院の鑑《かがみ》のような娘だと思い、フィリエルはほほえんだ。
「あなたのお名前は、なんておっしゃるの」
「シザリアといいます」
シザリアは、口数少なく奥ゆかしかった。彼女のふるまいを見習いながら殿堂へと入り、木組の席についたフィリエルは、このままずっと彼女を見習えば、自分の落ち着きのないところも多少なおるのではないかと、ひそかに考えたほどだ。
ともあれ、堂内には厳粛《げんしゅく》な空気が流れており、シザリアの楚々《そそ》としたふるまいが似つかわしかった。通廊の片側に丈《たけ》高い窓があり、五色のステンドグラスがはまっている。西日をうけてまばゆい色彩に燃え、礼拝堂の暗い内部に鮮やかに浮かび上がっていた。図柄は、人々を星の楽園に導くため降臨したアストレイア女神だ。
正面祭壇の像はもちろん慈愛《じ あい》の聖母《せいぼ 》であり、端正で穏やかな笑みを浮かべ、高みから子どもたちに手をさしのべていた。アストレイア女神は三種の形態をとると聖典にしるされているが、憤怒《ふんぬ 》態や獣《じゅう》態の女神を祭壇《さいだん》にまつるのは、やはり特殊な例だろう。清らかな乙女たちのためには、用意されるはずもなかった。
お勤めとは、夕べの祈りをあげ、今日一日の感謝をこめ、三つの賛美歌をオルガンにあわせて歌うことだった。シザリアは、フィリエルが驚くほど一心に祈り、フルートのような声で賛美歌を歌った。
歌っている彼女からは悲しげなところが消え、生き生きと情熱さえ感じられる。フィリエルはまだ歌えず、耳をすますばかりだったが、この合唱にはけっこう感動した。女性ばかりで堂を埋め尽くした人々の歌声は、清らかで敬虔《けいけん》に流れ、はるかな円屋根に鳴り響いたのだ。
(こういうのも、いいかもしれないなあ……)
きゅうくつかもしれないとは、まだ考えに浮かばなかった。本当に身が洗い清められるような気がしたのだ。フィリエルは、すっかり見習い修道女になった気分だった。
礼拝が終わると、馬車の疲れさえ吹き飛んだ気がして、フィリエルはシザリアにたずねた。
「このあとはどうします?」
「夕食の合図があるまでは、自由時間ですわ。わたくしたち学生は、講堂一階の食堂で食事をとることになっています」
「夕食もごいっしょしてかまわないかしら」
シザリアは、一拍おいてから答えた。
「わたくしなどで、本当によろしければ」
フィリエルは思わず声をたてて笑った。
「あなたはいつでもそう言うのね。それともここでは、それがふつうの言い回しなの?」
「え……」
シザリアはまばたきして見返した。さりげない調子でフィリエルは続けた。
「おいやなら、そう言ってくださってかまわないのよ。ぜんぜん平気、気にしないで。まだ何もわからずに申し出ているだけなの」
おとなしい少女の瞳の色が、少し動いたようだった。口ごもりながら、シザリアは言い出そうとした。
「あの、じつは……」
だが、言葉は立ち消えた。彼女はさっと顔をくもらせ、フィリエルがそのわけをたずねる前に、後ろから声がした。
「ちょっとよろしいかしら。そこのあなた、今日編入していらしたかたでしょう」
ふりかえると、背の高い少女が三人並んで立っていた。どう見ても最高学年生であり、あたりを払うような落ち着きをただよわせている。
「わたくしたちは生徒会役員です。新しく入られたあなたには、生徒会|規約《き やく》をおわたししなければなりません。今の時間、生徒会室へ来ていただけますか」
彼女たちはすでに頭巾をとっていたので、口を開いた少女が一番濃い、|褐色《かっしょく》の髪をしていることが、見てとれた。瞳と睫毛《まつげ 》も褐色で、目尻の切れ上がった、とても印象的な顔立ちをしている。両側の二人の髪は淡く、灰がかった金髪とオレンジがかった金髪だった。
三人ともそれぞれに、水際だった美人だった。彼女たちの大人っぽさに、フィリエルは目を見はった。すでに少女というより、完成された若い女性のように見える。
「あっ、はい。よろしくお願いします」
フィリエルはあわてて返事をした。ここのルールを一刻も早く覚えたかったので、規約をもらえるのはありがたかった。たぶん、シスターのお題目よりも、実際的なことがつかめるだろう。
「生徒会室というのは、どこにあるんでしょう」
「ヴィルゴー館です。いっしょにご案内します」
三人が歩きだしたので、フィリエルはシザリアに手をふった。
「それじゃ、あとでまたね」
シザリアは答えず、うす青い瞳をまばたかせただけだった。彼女はどうしていつも悲しそうなのだろうと考えながら、フィリエルは生徒会役員に続いた。
ヴィルゴー館は、広場からひっこんだところにある。フィリエルたちが進んでいくと、周囲からは、歩く生徒の姿がほとんど消えた。奥まった建物を見上げ、フィリエルはカーテンのない窓が多いことに気づいた。たぶん、特待生というのは数がとても少ないのだ。薄暗いポーチをくぐっても、まだ、空き屋のように人の気配がない。
「生徒会室はそのわきの部屋です。ノックはけっこうですからお入りください」
役員たちが、フィリエルを先にたててそう言うので、フィリエルはそれも作法かと、不思議にも思わずにドアノブを回した。
次に情況を把握したときには、何一つ置かれていない、ほこりのたった部屋にしりもちをつき、ころんだ衝撃で手のひらをすりむいていた。フィリエルを思い切りつきとばした生徒会役員が、後ろ手にドアを閉め、掛け金をおろすのが見えた。
「な……何?」
すっかりたまげて、フィリエルは叫んだ。
「何をするんですか、あなたたちは」
三人はつかつかと寄ってきて、フィリエルを取り囲んだ。最初に口をきった褐色の髪の娘は、制服の身ごろから細長い杖を取り出すと、剣術を知る者のあざやかな身ごなしで、フィリエルの鼻先にぴたりと突きつけた。フィリエルは立ち上がれず、ほうぜんと見つめた。
「召使い。召使いだ、おまえは」
明瞭《めいりょう》な口調で彼女は告げた。自分の耳が信じられずに、フィリエルは聞き返した。
「どういうことです、召使いって」
「しらばっくれるのはおよし。おまえが貴族でないことは、隠したって知れている。お言い、だれに仕えるために、こんな半端な時分に入学してきたのかを」
尊大《そんだい》なもの言いだった。美人だけに険《けん》がある。むっとしてフィリエルは言った。
「今さっきシスターに、身分の話はするなと言われてきたばかりです」
杖をもった娘は、細い眉をはね上げて見せただけだった。
「ここトーラスでは、身分が伏せられる。だが、何のためにそうなっていると思う? それでも高貴に生まれた者なら、人の中身を本質で見分ける能力をもっているからだ。気高《け だか》い生まれかそうでないかは、わかる者にはわかる。そうした現実をことさらはっきりさせるために、トーラスの決まりはあるのだよ」
フィリエルには、口を開け閉めすることができるだけだった。褐色の髪の娘は、冷ややかな態度をくずさずに続けた。
「おろかな編入生。門を抜けた最初の時点から試されていたことに、少しも気がつかなかっただろう。トーラスじゅうの生徒が、新しくきた生徒は一番最初にだれに声をかけるか、息を殺して見守っていたというのに。おまえは自分から、育ちの低さを学校全員の前で露呈《ろ てい》したのだよ――シザリアなどを話し相手に選んで。おまえの似合いは、その程度だからなのだ。おまえも中身が召使いだからだ」
(なんなの、この徹底した差別は……)
あきれかえる思いで、フィリエルはたずねた。
「親愛、平等、平和って。トーラスのモットーはそのはずではなかったんですか」
生徒会の少女たちは、それを開くと三人そろって大笑いした。あざけりを隠そうともしない笑い声だった。オレンジがかった髪の娘が口を開いた。
「この人って、本当にばかね。たてまえはたてまえだということも理解していないなんて。まったくもって、トーラスの門をくぐる資格も値打ちもない女の子だわ」
四
杖を突きつけた娘が、その先端にフィリエルの頭巾をひっかけた。黒い頭巾は脱がされて床に落ち、フィリエルの髪があらわになる。それを見て、彼女は軽く鼻をならした。
「ほう、赤っ毛か。ずいぶんな色合いだこと」
灰色がかった金髪の娘は、だまって歩み寄り、いきなりフィリエルの髪をつかんでぐいと引いた。
「痛いっ!」
フィリエルが声をあげると、少女は驚いたように言った。
「あら、いやだ。地毛だったのね」
「短髪でないことは、たしかなようね」
そっけない口調でもう一人が言った。杖をもつ少女は、突きつけたその先端をゆらした。
「さっさとお言い。だれに仕える気なのか。どこから送りこまれたのか」
フィリエルは彼女たちの横暴さに腹が立ち、ぐるりと三人をにらみ返した。
「あなたがたが身元を言うよう強要したことを、シスターに話してもいいなら、言いますけど。いくら生徒会といえども、こんなことが許されはしないはずです」
褐色の髪の娘は、すっと目を細めた。
「そう。あくまで表のルールを盾《たて》にとろうというなら、それでもけっこう。わたくしたちのほうで当てさせてもらうから。本人が口にしなくても、見分ける方法はいくらでもあるのだから」
彼女は杖を持ちなおし、木製の鞘《さや》の中から極細の剣を引き抜いた。なんと仕込み杖なのだ。鋼の白刃《はくじん》の物騒さに、フィリエルはさすがに息をのんだ。ひるんだところに、その抜き身を突きつけ、生徒会役員は命じた。
「お脱ぎ」
「なんですって」
「わたくしたちの目には、下着を見ればある程度のことは知れるのだよ。下ばきは特に一見のねうちがある。とっととお脱ぎ」
フィリエルは顔が赤くなるのを感じた。
「だれが脱ぐものですか。あなたたちに披露《ひ ろう》する義務などないわよ」
「この剣をなまくらだと思っているの。試してみる?」
切っ先をフィリエルの胸に触れんばかりにして、剣を持つ少女は楽しむように言った。
「その制服を切り裂いて中を見てもいいのだけど? もらったばかりの制服なのに、そちらにとって都合が悪くはないかしら」
フィリエルはしりごみしたが、少しさがっただけで背中は壁にはばまれた。
「時間をとらせないで。生徒会にたてつくことは、ここでは不可能なのよ」
ためらってから、フィリエルは小声で言った。
「……それなら、立たせて」
「いいだろう、見物しやすくなる」
彼女が剣をひいたので、フィリエルはのろのろと立ち上がったが、あまり時間かせぎにはならなかった。脅されて服を脱ぎ、他人に検分されることなど、女の子同士とはいえあまりに恥だ。いつのまにか手が震えていることに気づく。
(この人たち、どれほどのことをやってのけるつもりなんだろう……)
すらりとした少女たちを見回して、フィリエルは考えた。たぶん名のある家の娘たちなのだろうが、もしもフィリエルが暴れ出したら、剣を持つ少女には、相手の血を流してまで意を通す覚悟があるのだろうか。
(まだ、わからない……あたしには、この人たちのことがわからなすぎる)
傷害《しょうがい》の騒ぎをひきおこしても、もみ消すだけの権力を持っているのかもしれなかった。だが、フィリエルのほうは、ただちに放校《ほうこう》が確実だ。そしてルアルゴー伯爵が、眉間のしわをさらに深くするのだ。
(けがをするだけ、ばかを見るのかもしれない。でも……)
こんなふうに屈するのは、我慢がならなかった。ど田舎に育ったかもしれないが、フィリエルは、我《が》を曲げて他人に屈した経験はほとんどないのだ。あるとすれば一度きり、ルーンの救出のために、ロウランド家に頭を下げたことだが、身にしみて二度としたくないと思っている。
フィリエルの目の光に気づいたのか、褐色の髪の娘がやや身構えた。
「なによ。おまえ、やる気なの」
だが、そのときだった。彼女たちのいる部屋のドアが遠慮がちにノックされた。オレンジ金髪の娘がドアに歩み寄り、慎重に声をかける。
「だれか」
「しもべです。ご指示の通りに、編入生の部屋を調べてまいりました」
オレンジ金髪の娘はこちらに向かってほほえんで見せると、掛け金をはずし、ドアの外の人物から何かを受け取った。そして、再びふりむいたときには、意気揚々と手にしたものを振りかざした。
「もう、手数をかける必要はありませんわ。手に入りましてよ、その子の下着」
「な……」
フィリエルはあっけにとられ、彼女が得意げにひらひらさせる下ばきを見た。
「なんてことを。勝手に他人のトランクを開けるなんて。あなたがたには、そこまで礼儀知らずなまねができるの?」
「わたくしたち、そんな慎みのないふるまいはいたしません。でも、召使いの場合はわけが違いますのよ」
得々として言う彼女のわきから、灰がかった金髪の少女が盗みだされた下着をひっぱった。
「まあ、生意気。これ、縁取りが本物のレース編みよ」
「返して」
フィリエルは駆け寄ろうとした。伯爵家では真新しい下着をそろえてくれただろうが、それでも、人目にさらすものではなかった。そのフィリエルを、褐色の髪の娘が剣でさえぎった。
「どうやら、召使いにははけない下着をもってきたようだな、編入生」
「だから、召使いなんかではありません。だれにも仕えていないわ。それを返して。もう証明できたでしょう」
「たしかに、よくわかった」
剣を持つ娘は不気味に静かに言った。
「不相応な身じたくに、召使いの中身。そういう人物が何を示すか、わたくしたちはよく心得ている。おまえはこのトーラスへ、なんらかの魂胆《こんたん》をもって送りこまれた者だ。だれかに仕える召使いではなく、もっとさげすむべきものだ。そういう者を、わたくしたちは犬と呼んでいる」
隣へ来て、オレンジ金髪の娘が口を添えた。
「だいたいのところは予想がつきます。あと十日あまりで夏至祭《げ し さい》というときに、わざわざ最高学年に送りこまれるくらいですもの。祭の舞台をスパイするか、妨害しに来たにきまっています。だれに丸めこまれて派遣されたのやら」
「そんなのじゃありません。勝手に決めつけないで」
フィリエルは叫んだ。だが、居並ぶ三人の顔を見れば、まったく通じないことが明らかだった。色の濃い瞳をきびしくすえて、褐色の髪の娘は告げた。
「強情に白状しようとしないのも、犬のもつ特徴だ。だが、犬とわかれば、それなりの対処の法がある。トーラスを甘くみるなよ、編入生。今後一切、おまえと口をきく生徒はいないから、そう思え」
「こんなに違うと言っているのに、聞いてくれないんですか」
「生徒会の前に、魂胆を打ち明ける気になったら、そのときには聞いてやってもいい」
「思ってもいないことは、打ち明けられません」
「では、強情をはっていることだ」
彼女は剣をもとの杖に収め、一方の少女は下着を無造作に放り捨て、三人はフィリエルを後に残して部屋を出ていった。着いて早々、どうしてこんな目に会うのかと、思わずにはいられないフィリエルだった。
食堂へ行ってみて、生徒会の指示がどれほど徹底するものか、フィリエルは思い知ることになった。フィリエルがものをたずねようとすると、だれもが顔をそむけた。そして、何も気づかなかったように、友人同士の会話を再開するのだ。
大きな食堂には、布をかけた細長いテーブルが数列並んでいる。席の全部が埋まっているわけではなかったが、フィリエルにはどこに座っていいかわからなかった。シザリアの姿を見かけたが、彼女も今では二度とこちらを見ようとしない。
配られた器や皿に、スープや料理を給仕してまわっているのは、年の小さい少女たちだった。どうやら低学年のつとめのようだ。その子たちも同じに、フィリエルの姿が見えないふりをした。
フィリエルのほうも、小さな給仕人たちにはなんとなく気おくれした。居並ぶ先輩の少女たちに気に入られようと、ほおを赤くしてがんばっており、彼女たちの仕事は、なかなか気骨《き ぼね》が折れるように見えたのだ。
こうしたトーラスにおける下積みを経験せずに、いきなり最高学年に入った自分が、少女たちに心よく思われないことを、フィリエルはぼんやりとさとった。結局、しばらく立ちつくしたあげくに、末席の一つに腰かけたフィリエルだったが、すでに料理の給仕は回り終えたあとだった。
それでも卓上《たくじょう》の籠《かご》にパンがあったし、バターと蜂《はち》蜜《みつ》の壷《つぼ》があったし、水差しには気の抜けかけたリンゴ酒がたっぷり入っていた。ひとまずはそれでいいやと、フィリエルは思った。セラフィールドにいたころだったら、それだけでもかなりのごちそうだった。
(それにしても、まいったわね……)
部屋にもどると、さすがにがっくりした。明日からこの毎日が続くかと思うと、身も細ろうというものだ。ワレット村の学校にかよいはじめたときも、いっとき級友の無視にあったものだが、純朴《じゅんぼく》な田舎《い な か》とここでは、仲間はずれのパワーが違った。溶けこめないというレベルではなく、犬とまで呼ばれなくてはならないのだ。
(でも、今すぐ逃げ帰るわけにはいかない……)
寝台にうつぶせて、フィリエルは悲壮《ひ そう》に考えた。ルーンになんと言ったかを思い返せば、そう簡単に音《ね》を上げるわけにはいかないのだ。
リンゴ酒のせいか、あっというまに眠気がさしてきた。自分でどう思おうとも、二日かけて旅してきたのだ。体はずいぶん疲れていた。フィリエルは着替えもしないまま、ベッドカバーの上でうとうとした。
どのくらい眠ってからだろう、フィリエルはノックの音で目がさめた。寝ぼけまなこでどうぞと言ったが、領主館ではなかったことを思い出して、身を起こした。
「はい……?」
立ち上がって初めて警戒心《けいかいしん》が浮かんだ。窓の外はすでに真っ暗だ。フィリエルは机の上のランプを手にとり、あやしみながらドアまで行ってみた。
「どなたですか」
返事はない。細目に扉を開いたが、外の廊下に人の気配はなかった。
(いたずらなのかしら……)
いらいらしてそう思ったとき、再びノックが鳴り、フィリエルは飛び上がった。ドアをたたかれているのではない。天井から響くのだ。
(天井をノックしている……?)
真っ先に想像したのは、亡者《もうじゃ》が骨ばった指でたたく光景だった。フィリエルは、自分がどれほど神経質になっているか気づき、急いで頭をふったが、それでも恐怖が去ったわけではなかった。ここはまだ様子のわからない場所だ。何が起こるか知れたものではない。
部屋の隅の天井板がずるりと動いた。フィリエルは逃げ出しそうになるのを抑え、無理にもランプを高くかかげた。天井裏からのぞいた白い顔は、亡者ではなかった。シザリアのものだった。
「あの……よかったら、椅子をもってきてくださいます?」
フィリエルが、あきれながら机の椅子を真下にさしだすと、シザリアはなかなか身軽に降りてきて、椅子を足台にした。もう制服を着てはおらず、薄い水色の寝間着姿だ。
「いったいなんだって、そんなところから」
シザリアはおとなしく答えた。
「三階の部屋は、梁《はり》をわたって来られるんです。一歩まちがえると、羽目板《は め いた》を踏み抜くおそれはありますけれど」
「みんな、そんなところから出入りするの?」
「とんでもない」
ランプの明かりに、シザリアの瞳はまるで色がないように輝いて見える。お下げに編んだ髪の色も、彼女の場合は淡かった。
「生徒会のサインが出てしまった以上、わたくしは、この部屋のドアをたたくこともできません。でも、あのとき、わたくしがもう少し勇気をもって伝えていたら、少なくともあなたは、最初の日から夕食をのがすことにはならなかったのにと、そればかりを考えてしまって……」
寝間着のポケットからハンカチにくるんだものを取り出し、シザリアはさしだした。
「あの、代わりにならないと思いますけれど」
ハンカチを開いてみると、摘みとったばかりの野イチゴが手のひらいっぱい出てきた。思いもよらなかったフィリエルは、率直に喜んだ。
「まあ、うれしい。ありがとう、野イチゴは大好きなの。やさしい人ね」
首をかしげるようにして見つめ、シザリアは言った。
「あなたは公家の人には見えない。けれども、犬だと思うこともできない気がするんです。話しかけてきたあなたは、無邪気で|隙《すき》だらけで、あっというまに足をすくわれそうでしたもの。企《たくら》みをもつ者なら、そうも無心にはふるまえないと思うんです」
「企みなんてあるはずがないのよ。生徒会の人には頭にくるわ」
フィリエルは憤懣《ふんまん》をもらした。
「一番頭にくるのは、あの人たちがあたしをつるしあげる理由に、あなたに話しかけたことをもちだしたことよ。学内の平等がうたってあるのに、どうしてそういうことになるの。あなたは、あの人たちに召使いなどと言われることに、どうして甘んじているの?」
「変わったことをおっしゃるのね」
静かな表情でシザリアは言った。
「この女学校は、貴族の令嬢のためのものですが、なかには平民の娘もいます。ゆくゆくは王宮で、ときには身代わりさえ演じられるように、ここで令嬢と同じ教育を受けているのです。わたくしたちは、表向き分け隔《へだ》てされませんし、低学年のあいだ同じことをして生活します。それでも、エリーズ館に移って生徒会をはじめるころには、支配する者とされる者の差が歴然と生まれてくるのです。それを知ることは、命じられた主従よりも、ずっと奥深いところで納得できるものですわ」
フィリエルは眉をひそめた。
「あなたが言うのは、令嬢は人としても優れているから、当然のように支配者になるのだということ?」
シザリアは少しためらった。
「でも……実際、秀《ひい》でている人はいらっしゃいます。特にも生徒会役員のかたがたなどは。今、ラヴェンナが決定したことに、表だって逆らえる者はおりませんわ」
フィリエルはうなった。
「あの、髪の一番濃い人がラヴェンナ?」
「そうです。生徒会長です。あとは副長のリティシアとヘイラ――銀髪に近いほうがヘイラです」
うやうやしく言うシザリアを、フィリエルは見つめた。
「あなたはいやじゃないのね。彼女たちがああして人を見下していることが。この学校、居づらいと思ったことはないの?」
「居づらいだなんて……これほど名誉なことはありませんのに。貴族のかたがたに立ち混じって、アストレイア様にじかにご奉仕することができますのに。わたくし、星仙女王の御命令とあれば、命を捨てる覚悟だってあります」
礼拝堂で見せた情熱を見せて、シザリアはうっとりと言った。その心情には打たれたが、フィリエルはなんだか釈然《しゃくぜん》としないまま、野イチゴを食べることに専念した。
「あなたは、いったいどういうかたなのです」
少ししてシザリアはそっとたずねた。
「犬でもなく、召使いでもなく、令嬢でもないとしたら。そのどれかでない人は、トーラスに用はないはずなのに」
「そういう分け方、とっても気にくわないと思う」
フィリエルは答えた。
「どうして、そのどれかでなければならないの。たしかにあたしは命じられて来たのだけれど、べつに何をしろと言われたわけでもないわ」
「では、どうか、生徒会に正直に申し出てください。ラヴェンナたちが納得しない間は、あなたを仲間に入れることはできないんです。わたくしもこれ以上、力になってあげられないし、あなたにとってつらい毎日になりますわ」
懇願《こんがん》するようにシザリアは言ったが、フィリエルはくちびるを結んだ。
「簡単に頭を下げたくないの。あの人たち、本当に横暴だったのよ」
シザリアは悲しげにため息をついた。
「それならもう何も言いませんけれど。ただ一つだけ」
「なあに?」
「さしでがましいことでしょうけど、人前では『あたし』と言わずに『わたくし』と言ったほうが、数倍|賢明《けんめい》な女の子に聞こえますよ、フィリエル」
数日がすぎ、フィリエルはだんだん日課に慣れはじめた。相変わらず級友は一人も口をきいてくれなかったが、教師となれば別だ。いろいろなことは教師にたずねればよく、授業にさしさわるわけではなかった。
実際フィリエルは、人づきあいを一切かえりみなければ勉強ははかどるものだと、はじめて発見する思いだった。自由時間にだれも相手にしてくれないので、フィリエルは教科書を開いた。領主館にいたときも、これほど身をいれて勉強しようとはつゆ思わなかった。
トーラスの授業は、最初の見込みよりさすがに難しかった。フィリエルがまだ聞いたことがないようなことも自明《じ めい》として通り、ぐんぐん先に進んでしまうのだ。フィリエルは、理解できなかったことは何かを見極めることにつとめ、疑問点を抜きだして教師のところへもっていった。
そのやり方は、ルーンのせいで覚えたものだった。ルーンに数学を教わろうとすると、うるさいくらいに要点を絞れと言い、わからないところがわからないと答えてくれなかったからだ。
結果として、フィリエルは教師のあいだでずいぶん受けがよくなった。勉強熱心でのみこみのよい生徒に教えることを、喜ばない教師はいない。お茶の時間をのがしてでも教えたいのが、彼女たちのさがなのだ。そして、教師が喜べば喜ぶほど、同輩の生徒たちはひいていく。フィリエルもその構造を承知していたが、今は選べる状態ではなかった。
フィリエルたちが授業を受ける小教室には、いつも席が二十並んでいた。だが、その人数がそろったためしはなかった。生徒会役員も同級のはずだが、ほとんど見かけることがない。シザリアも最高学年であることがわかったが、彼女すらも二度に一度は欠席した。
欠席した生徒がどこで何をしているのか、さっぱりわからないが、ときに五、六名ということになっても、教師は何も言わなかった。かかさず出てくるフィリエルの受けがよくなろうというものだ。
だが、一週間が終わらないうちに、フィリエルは、ある一つの授業だけは全員さぼらずにそろうことに気がついた。そして、それはまた何とも不思議な授業だった。
「ノートはいけませんよ、そこの人。この授業はメモをとることを許されません」
いつもの調子でノートを開いていたフィリエルは、教壇から注意され、あわてて机の下に押しこんだ。周りを見れば、少女たちは全員机の上を片づけ、手を|膝《ひざ》においている。
「では、始めます。前回お話ししたのは、ベラドンナの三つの効果についてでしたね。今日はその応用に入ります。どのような場所で、どのような情況で、この薬を使い分ければよいのか。あなたがたが知っておくべきことをご紹介しましょう――」
(薬学の講義? どうしてノートを禁じられるんだろう)
わからないフィリエルは少しあせった。メモしておかなければ、後で教師にたずねることもできないではないか。前回の話も知らないのに、あんまりだ。
しかもフィリエルは、このような内容の教科書があったことを思い出せなかった。
(もらいそびれたのかしら、あたし……)
他の生徒たちは、いつになく神妙《しんみょう》に耳を傾けている。生徒会の三人もそろって席につき、いつも浮かべている、周囲をばかにした表情をひっこめていた。
講義をするのは、かなりの年配の小柄な修道女だ。その口元には細かなしわが無数によっているが、ほおはいまだにピンクで、声にも若々しいはりがある。その声に聞き入るうちに、フィリエルは、これが薬学の話ではないことに気づいた。老女は淡々と、女性のどういう魅力に男性が反応するのかを語っていた。
(…………?)
フィリエルがとまどっているあいだにも、話はどんどん進む。最初は広間で、男性の視線をどのようにとらえるか。次には庭園で、二人きりになってから、男性をどのようにじらし、その気にさせてゆくか。そして最後に、主導権は男性にあると見せかけながら、どのようにして床入りするか……
「――これらのメソッドはかなり確立されていますので、秘術《ひじゅつ》だと思うのはまちがいです。今お話しした手管《て くだ》は、ある程度男性側にも流出していることを心に刻んでおきなさい。知っていてなお、男性は、官能《かんのう》にほだされやすい生き物であることは確かですが。ただ、わたくしの言いたいことは、前々からお話ししているように、あなたがたが自分を磨き、型におちいることのない独自の境地を創造する必要性は、たえず出てくるということです。さて、ベラドンナですが――」
教師は小瓶《こ びん》を生徒たちに見せ、使用量の目安と扱いの方法を注意深く説明した。
「そして、この最後の段階が重要です。ベラドンナ使用の際のぬきさしならない情況が生まれます。あなたがたが、最初から彼のものになるつもりならば、それもよろしい。多くは申しません。けれども、これが感情の伴う交接ではなかった場合、あるいは妊娠を避けたい場合には、次の四通りの道があります。よろしいですか――」
彼女はにこりともせずに、その方策《ほうさく》を説明した。フィリエルが個人的に質問するくらいなら、舌をかんだほうがましだと思う内容だった。
「――媚薬《び やく》の助けなく、一連の誘惑を実行する自信のある者は、今日の講義を忘れてかまいません。ですが、心の用意はおこたらないほうがいいでしょう。あなたがたはもうすぐここを出て、実際に男性とわたりあわねばならないのです。それが公家のためであっても、国のためであっても、トーラスで学んだ誇りを忘れず、決して自分を安売りしてはなりませんよ」
小柄な教師はそのように講義をしめくくった。
「来週は、男性のタイプ別に話を進めましょう。あなたがたは国内ばかりではなく、国外の殿方のお相手をする機会も多いことですから、お国柄に関することを予習していらっしゃい。では、これで」
教師が教室を出ていくと、少女たちはいつもと変わらずに、楽しそうにがやがやしはじめた。フィリエルはどっと疲れて、机にへたりこんだ。
(つまり……今の授業って、誘惑の講義……)
それはフィリエルが、これまでそれとはなしに抱いていた、出会いと恋への憧れをみじんに砕くものだった。見事なまでに即物的、実践的な狩《かり》の方法を、老女は教壇から語ってのけたのだ。
腕に頭をのせて、フィリエルは考えた。
(伯爵様も男性だ。これを全部知っていらしたとは、とても考えられない。山奥の修道院のそのまた奥で、アデイルたちはこんなことを学んでいるなんて。たしかにトーラスは、たてまえ通りにはものごとが進まない場所なのかもしれない……)
五
フィリエルが、遠いカーレイルで日々学んでいる間に、アンバー岬の領主館でも、少しずつあらたな動きが起こり始めていた。
その日、ルアルゴー伯爵の嫡子《ちゃくし》ユーシス・ロウランドは、厩舎《きゅうしゃ》へ向かう途中、例の博士の弟子が外に出ているのを見かけた。
遠目だったが、少年がメガネをかけているのがわかる。黒っぽい服を着こんで、薬草園のふちに腰をおろしているようだ。何かに見入るか考えこむかしている様子で、こちらに気づきはしなかった。
(ふうん、けがからずいぶん回復したみたいじゃないか……)
赤い前髪をかきあげてユーシスは思った。何はともあれ、よいことだ。このところのユーシスは外出続きで、少年が領主館にいたことを、うっかり失念《しつねん》しそうになっていた。
フィリエルがいる間は、セルマの叱責《しっせき》が始終聞こえてきて、妙な活気とおもしろ味があったが、彼女が女学校へ行ってしまったために、館のなかは急に静かだ。アデイルは機嫌がよくないし、ユーシスを館にひきとめるものは、ほとんど何もなかったのだ。
そして、実際ユーシスは多忙だった。伯爵は、妹が王宮へ行けばしばらく領地へ戻れなくなる息子に、少しでも多くの領民に接する機会を与えるべく、平たく言えば、雑用にこきつかってくれるのだった。
(メリングとも、しばらく話をしていないな。あの後どうなったか、今度聞いてみよう……)
少年がひどくうなされるために、夜眠ろうとしないと医師が話していたことを、ふいに思い出しながらユーシスは考えた。
その足で、ユーシスはダーモット市長の邸宅へ行き、貿易問題と、外交政策に関する進言と、親戚《しんせき》の愚痴《ぐち》をたっぷり拝聴《はいちょう》する昼食をしたためた。背が高くハンサムな赤毛の貴公子を、園遊会へさそい出そうとする姉妹の画策(あるいは市長の陰謀)は、それとなくかわし、午後は市長の息子と郊外を回ることにして、今年の作柄《さくがら》に関する意見をいくつか拾ってきた。
空はまだ明るい。夜の短いこの季節に、北国の人々は二倍働き、二倍遊び、閉じこめられた冬の埋め合わせをするのだ。ユーシスにもこの後まだ予定があった。領主館に戻ったのは、単に夜会用の服に着替えるためだ。
馬を厩舎に戻して急ぎ足で歩いているとき、ユーシスは再び、博士の弟子の姿を見た。思わず足が止まり、いぶかしく眉をひそめたのは、少年が午前中に見かけた同じ場所に、寸分も動かなかったように座っているからだった。
ユーシスは少年のもとへ足を向けた。
「何をしているんだ。そこに何かあるのか」
小さなものを観察しているように見えたので、ユーシスは声をかけた。うつむいていた黒髪の少年は、びっくりしたように顔を上げた。その表情はまるで、自分は透明だと信じていたのに見顕《みあらわ》されたとでも言いたげだった。だが、相手がユーシスだとわかったとたんに全身を固くし、警戒して立ち上がった。
(そうだ、忘れていた……)
ルーンと自分とは非常に気まずいのだということを、面と向かってから思い出す忘れっぽいユーシスだった。博士の弟子が拉致《らち》されていたドリンカムから、領主館につれもどす馬車の中で言葉を交わして以来、二人は口をきいていなかった。
少年のかけているメガネは新品らしく、以前のものよりレンズがきれいに澄んでいる。だが、その奥の穏やかならぬ灰色の瞳は、前にもましてユーシスを忌避《きひ》していた。返答など考えられもしない、非難をこめたまなざしをユーシスに投げ、博士の弟子はきびすを返すと、そのまま建物に入ってしまった。
(無理もないか……)
腹は立てずに見送って、ユーシスは考えた。久々に彼の目を見て、ユーシスの脳裏に鮮やかによみがえったものを思えば、ルーンがいやがるわけもうなずける。泣き顔をユーシスに見られたことを、博士の弟子が一生の不覚と考えているのはまちがいなく、もしも立場が逆になったら、自分であってもそうだろうと思えた。
不愉快なことはすばやく忘れるユーシスだったが、あのときに見た少年の涙と、自分の感じた動揺とは、その気になればありありと思い出すことができた。だからこそ、双方の気まずさを思って、なるべくメリング医師を通して話すことにしていたのだ。
(そうだった。何か気になることがあると、前々から思っていたんだ……)
今にしてようやく、具合の悪さと居心地悪さとをすっかり洗い出したユーシスに、気になっていたことは何だったかが判明した。それは、少年が片意地なまなざしをわずかでも曇らすと、ひりひりするような彼の寂しさが透《す》けて見え、自分はそのことに気づいてしまったということだった。
翌日。厩舎へ向かうユーシスが注意していると、ルーンはやはり同じ場所に、同じようにぽつねんと座っていた。声をかけても背を向けられることはわかっていたので、ユーシスも今度は近づかず、回り道をしてメリングを探した。
メリング医師はいつもの野良着で、薬草園の隅で育った苗《なえ》の植え替えをしていた。ユーシスはあいさつもそこそこに切り出した。
「あれはどう見ても変ですよ。あの博士の弟子、毎日あそこで何をやっているんです」
「どうしたものだろうな」
老医師はくぐもった声でうなるように言った。
「何とか外には出したが、あのとおりでな。老人の手伝いにもならん。フィリエルがかよって来なくなったことは、やはりこたえていると見えるな」
「フィリエルは、ここにかよっていたんですか?」
「三日とあけずに来ていたよ。あの子の姿が見えなくなって、わしもつまらんわ」
ユーシスには不思議だった。トーラスの女学校へ発つ前から、フィリエルには令嬢教育をするべく、異端の少年と会うことを差し止めたことを、彼も聞き知っていたのだ。
「どうやって見つからずに来たんだろう」
「いやなに。庭を回って二階の窓から出入りしておったよ。あの子がまた、なかなか見事に綱を上り下りするものでな。わしは毎回、あれが楽しみで……」
「先生」
ユーシスは咳《せき》払いした。
「のぞいてたんですか」
「それほど奥まで見えはせん。しかし、なかなかの目の保養になったかもしれん」
想像して薄赤くなったユーシスは、怒ることでそれを紛《まぎ》らわそうとした。
「どうして止めないんです、そんなまねを。第一、落ちたら危ないじゃないですか」
「声をかけたら落ちるだろうから、黙って見守ったまでだよ。それに、彼女にはそうまでして来る価値があった。ささえになっとったからな、けが人の」
医師は口調を改め、低い声で気遣《き づか》わしげに言った。
「体表の傷はやがてなおる。だが、心にとどく傷は、そう簡単に癒《いや》せないのだ。あの少年の傷は深いと、わしは見ておるよ。あのようなことのあった後で、異端の研究にふれた自分を忘れ、新しい人生を切り開くことができるものかどうか、わしにもよくわからん」
「彼の傷……」
ユーシスはそっと口にした。メリング医師とごく一部の者しか、ルーンの傷跡を見ていなかった。フィリエルすらも知らないはずなのだ。
「残っていますか」
「鮮やかなものだよ。あいにくとな」
苗の土をふるい落としながら、メリングは言った。
「あの小僧っ子には、気を紛らわせるものが必要だ。よそに集中できるものを作らなくては、自分の深淵《しんえん》にどんどん陥ってしまう。土いじりを勧めているんだが、どうもだめだな。これほど楽しいものを嫌うとはけしからん話だ」
ユーシスは考えこんだ。
「彼の一番したいことは……やっぱり天文台でしていたことの続きなんでしょうね」
「わかってはいるが、許されんだろう。フィリエルは、ルーンを数学でつると言っておったよ。だが、それもわしが持っていったんではさっぱりだ。あの子だったから、解いてやっていたんだな」
ユーシスは、その日も忙しいスケジュールをこなしたが、ともすると考えは博士の弟子に戻っていた。夜半になって帰宅したときは、自分が一肌脱がなくてはならないという結論に達していた。
(たぶん、まだ寝ていないだろう……)
そう思って訪問すると、老医師はすでに就眠《しゅうみん》後だった。禿頭におかしな帽子を被った寝間着姿で、不機嫌そうに現れた。
「どういうつもりだ、このすっとび子馬め。急患でもなければこんな時間に顔を出すな」
「ルーンは起きているはずです。会わせてもらえませんか」
ルーンはたしかに、まだ着替えていなかった。ユーシスの不意打ちに驚いただろうが、それさえも顔に出さないようにしながら、二階の戸口で迎えた。
「入っていいかな」
「そっちの勝手だろう。ぼくの家じゃない」
そうつぶやいて、彼はしりぞいた。歓迎しない気持ちがこめられていたが、ユーシスは気にしないことにしてなかに進んだ。二脚の椅子のあるテーブルに、持ってきた荷物をどんと置く。
「これが何だか、君にわかるか」
ルーンは冷ややかに見下ろした。
「チェス盤だ」
「チェスをしたことがあるか」
「ない」
ユーシスは小箱を開くと、慣れた様子で駒を並べ始めた。
「わたしは、教育の一環として小さいころからチェスを仕込まれた。交互に駒を動かして、相手の駒をとるだけのゲームだが、名手になるには、頭脳と熟練《じゅくれん》とある種の才能が必要なんだ。王立研究所には、チェス専門の研究者がいるくらいだからな」
王立研究所の名を出すと、ルーンは注意を向けたようだった。ディー博士が以前に従事していた場所だったからだろう。ひきこむように、ユーシスは駒の説明にとりかかった。
「持ち駒はそれぞれ十六個。赤と黒に分かれる。一番力のある駒は女王だ。八方どこまででも進める。二つの城は前後、二人の僧正《そうじょう》は斜め前後に進める。この馬の頭型は騎士だ。一つ飛び斜めに進む。卒《そつ》は八個、卒は基本的に一目前進しかできないが、敵の最終ラインに達したら、女王にもなれる。これらの駒を駆使《くし》して相手の星を奪うんだ。星は至高の駒だが、八方に一目ずつしか動けない」
ルーンは盤を見つめていたが、やがて言った。
「強奪《ごうだつ》のゲーム、戦争のゲームだ。こんなもので遊ぶなんて公家らしいな。でも、それほど難しそうには見えない」
ユーシスはほほえみを押し隠した。ルーンをのせたことがわかったからだ。
「それなら、一度動かしてみたまえよ。二十手以内にそちらの星を獲《と》ってみせるよ」
ユーシスは何百という勝負をすでに経験している。今、駒の動きをおぼえた程度のルーンを制するのはわけなかった。三度あっさり星を獲られて、ルーンは改めて考えこんだ。
「まてよ……」
彼の表情が変わっている。負けてくやしいというよりも、不思議そうで、しかめっ面を忘れて子どもっぽい顔になっていた。
「打つ手を考えてみろよ。明日の夜また来てやるから」
ユーシスは機嫌よく言った。鼻《はな》っ柱《ぱしら》の強い相手をへこますのは、実際いい気分だった。
「夜中のチェスだったら、いくらでもつきあってやるよ。わたしから二度続けて勝ちをとったら、何か一つ言うことを聞いてやってもいいぞ」
まぐれ勝ちをとられることがあっても、二度続けてまぐれは起こらない。ルーンが自分の技量に追いつくには、少なくとも数年はかかると見ていたから、ユーシスはそう言った。少年は、素直な態度でこくりとうなずいた。
「わかった。二度続けてだな」
ユーシスの思惑が全面的に功を奏したことは、メリング医師も認めた。次の日からルーンは、庭の置き物のように座っていることはなくなったのだ。とはいっても、相変わらず医師の庭仕事には役立たず、放っておくと、地面に小石を並べてぶつぶつ言うだけなのだが。
それでも彼は食欲が出てきたし、なにより表情の暗さがとれてきた。ユーシスもひそかに驚いたのだが、このチェスの相手は、盤をはさんで座る前は無愛想この上ないくせに、ゲームに負けても、不機嫌には決してならないのだった。駒を指せば指すほど、どんどん無心な顔に返っていく。
ユーシスが巧《たく》みに相手を出し抜いて勝つと、少年はむしろおもしろがった。ちらっと笑ったことすらあった。そのめずらしさに、翌日の寝不足もかまわず、もう一戦申し出てしまったくらいだった。
そしてユーシスは、幾晩か続けてつきあった末に、自分が前にしているのは、チェスをするために生まれた人間ではないかと疑いはじめていた。ユーシスが使ったかわし技を、翌日にはルーンがものにしている。さらに別の手を使うと、見たこともない方法で巻きかえそうとする。あきらかに、自分独自の駒の動かし方まで考案しはじめたのだ。
(これは……ひょっとすると……)
うかうかしていると二連勝をとられるかもしれなかった。ほとんど信じられないが、対戦しての事実だった。知識と年季と公家の誇りにかけて、ユーシスもそう簡単に負けるわけにはいかない。彼らの真夜中のチェスは、夜毎に真剣勝負の色合いをおびはじめていった。
六
夏至の前日と当日は、国でさだめられた祝祭日だった。星女神の降臨に思いを寄せる日となっており、礼拝日としても大祭に数えられているが、それとは別に、共同体の夏祭りが各地で行われる。祭りは夏至の前夜から夜を徹して行われ、老いも若きも総出で夏を楽しむのだった。
フィリエルも去年までは、ワレット村の祭りに参加していた。いつまでも日の暮れない夜に、人々はカバの小枝を髪にさして集まり、エールやお菓子を楽しむ。そして、村の広場にかがり火をたいて、伝統的に演じられる聖劇《せいげき》を観るのだった。
この聖劇は決まりきった内容だったから、少女たちは抜け出して、占いに夢中になった。夏至前夜は一年で一番神秘な力の働く時であり、未来が見えるとされているからだ。怖いようなくすぐったいような気持ちで、麻《あさ》の種をまいたり、ろうそくを水に浮かべて、なんとか未来の夫を探ろうとした。
(あたしの場合、一度も見えたことがなかったけれどね……)
フィリエルは考えた。素朴な村祭りを、輝くばかりに楽しかったように思い起こしてしまうのは、トーラスの生徒会が、フィリエルを夏至祭から閉め出すよう願い出たことを、教師から告げられたせいだった。
「あなたはどうやら、みなさんとうまくいかずにいるようですね、フィリエル」
学年主任である古典の教師は、帳簿《ちょうぼ》を手に気むずかしげに言った。
「そういうことではよくありませんね。もっともわたくしは立場として、最高学年生のあなたに、低学年のような謹慎《きんしん》の罰を与えることはできないと、突き返しておきましたが」
「……すみません」
フィリエルは目を伏せて、主任教師のもとを去った。生徒仲間からつまはじきにされることが、つらくないわけではないが、教師に|庇《かば》われてしまったとなると、よけいに身にこたえる気がした。
一般の学校ならこの時期は夏休みになり、親元に帰って休暇を楽しむ。だが、ここトーラスの付属学校には長期休業がない。そのかわり、この真夏の夜の祝祭を、生徒主催の楽しみとして執り行うらしかった。講堂の中庭に舞台がすえられ、野外劇がもよおされる。
聖劇の舞台に立つのは、最高学年のほぼ全員であるようだった。聖劇の登場人物といえば、いけにえの王女、勇敢な騎士、騎士に倒される竜、秘跡《ひ せき》をさずける星女神、道化《どうけ 》、僧侶と決まっているが、それらをみな女の子が演じるのだ。一つ下の学年が裏方をつとめ、それより下の少女たちは観客にまわる。
演じるほうも観るほうも、そうとうな気合いが入っていることは、食堂や廊下で交わされる会話のはしばしから察することができた。夏至の日が近くなればなるほど熱は高まり、浮き立った気配は集団をあおって、あたりかまわず伝染するようになる。
フィリエルもようやく、長高学年のクラスの少女たちが、授業をそっちのけで何をしているのかがわかった。彼女たちは、秘密の下稽古《したげいこ 》に余念《よ ねん》がなかったというわけなのだ。下学年の少女たちはというと、役者にささげる造花の花束づくりに、これまた余念のない様子だ。
(すごく楽しそうなんだもの……)
今さら演じる仲間にはなれなくても、せめて下学年の少女にまじって見物できたらと、フィリエルは考えていたのだ。生徒自演のものとはいえ、裕福《ゆうふく》な学校だけのことはあり、舞台装置も役者の衣装も、田舎芝居とはけたちがいなものであるらしいのだ。観ることさえ許されないというのは、さすがに寂しかった。
そんなフィリエルのもとへ、生徒会役員が再び三人組で訪れた。夏至の前日、大礼拝の心得を、修道院長が念入りに説明した朝の礼拝堂でのことである。
フィリエルが顔を上げると、生徒会長のラヴェンナが口を開いた。
「編入生、おまえを夏至祭から排除する申し出は、学校側に受け入れられなかった。だから、わたくしたちは、次善の策をとることにする」
「そうですか」
フィリエルは気の抜けた返事をした。もうずっとだれとも話をしていないので、会話のこつさえ忘れたような気がする。褐色の髪の娘は、眉をひそめてフィリエルを見た。
「まじめに聞け。おまえが夏至祭の演劇を観ることを、阻止することはできない。だが、不穏《ふ おん》なまねができないように、監視役をつけることはできる」
背の高い三人の脇から、小柄な少女が進み出た。小柄だが、下級生のおずおずとしたところは見られない。絹《きぬ》のような茶色の巻き毛を二つに結び、意志の強そうな緑の瞳でフィリエルを見据えている。
「この子は、一級下の四学年だ。本来なら舞台裏に立ち会ってもらうのだが、特別に、編入生の監視を役目にする。今日と明日は、この子が手洗いまででもいっしょについていくから、その覚悟でいるように」
固い表情のまま、少女が名のった。
「ロゼリットです」
フィリエルはため息をついた。
「それであなたがたの気がすむのなら、どうぞ」
生徒会長は、警戒するように声を低くした。
「では、そうさせてもらう。ロゼリット、今から君はこの編入生につく。わずかでもおかしな動きがあったら生徒会に報告するのだ。いいな」
「お役目うけたまわりました」
彼女は形式ばって答えた。三人組が行ってしまい、ロゼリットが残ると、フィリエルはたずねてみた。
「あなたも、召使いなの?」
ロゼリットは目つきをさらにきつくした。
「わたくしは監視役としてあなたに声をかけますが、あなたの質問にこたえる義務はありません」
(おやおや……)
フィリエルは苦笑したくなった。彼女はまるで、毛並みのいい猟犬みたいだった。頭の高い位置で二つに分けた巻き毛の房が、垂れた両耳のように見えるせいかもしれない。
「いいのよ、今日と明日、よろしくね。どうせ鼻をつきあわせるなら、楽しくやりましょうよ。あなたのこと、好きになれそうだわ」
フィリエルは言った。どんな受け答えであれ、久々に自分の言葉に言葉を返す相手ができたことで、実際にうれしかったのだ。
ロゼリットは、先ほどのラヴェンナの表情をまねようとしているようだった。けんめいに眉をしかめて、彼女は言った。
「あなたについてはよく注意するよう、申しつけられています」
「ごめんなさい、それでもうれしいの」
笑ってフィリエルは言った。
「あなたといっしょなら観劇できるってわけね。下級生のなかで、どうしたらいいのかわからなかったけれど、あなただったらわかるでしょうから、ずいぶん助かるわ」
「変な人ですね、あなたは。プライドがないのですか。どういう出なのか疑います」
つっけんどんにロゼリットは言ったが、フィリエルの機嫌を悪くすることはできなかった。
「だめだめ、わたくしはね、すっごく不機嫌な人を相手にするのは慣れているの。あなた、かわいらしいもの。しかめっ面に年季《ねんき 》が入っていないわ。せっかくですもの、今日の日を楽しみましょうよ。舞台裏をはずされて、あなただって少しはがっかりしているのでしょう?」
少女は驚いて緑色の瞳を見開き、答えなかった。フィリエルは、思ってもみなかったことをしゃべっている自分に気がついた。
「しかめっ面なんて、わたくしは気にならないの。いつもそんな顔をしながら、ここ一番という大事なときには駆けつけてくれる人もいるのよ。反対に、にこやかに笑って人を陥れる人もいるでしょうし。だから、本当に信頼できるのは、こびを売らない人だと思うの。信念のある人。わたくしはそういう人が好きよ。たとえ、それがわたくしとは一致しない方向であってもね」
夏至前日の大礼拝は、田舎の教会の説教であってもそうだが、この世の終わりに人々を救済したもう女神の御技《み わざ》についてだった。人々の原罪の顕現《けんげん》でもある、竜に苦しめられる現世のしもべが、原罪なき星の楽園へといざなわれる過程について、そして、美しき真昼である星の世界についてだ。
年老いた修道女たちは、この礼典で恍惚《こうこつ》となっているようだったが、若い娘たちは、より具体的な熱狂を欲していた。礼拝堂での儀式が終わると、学生たちは我先に走り出ていった。演劇の始まる講堂の中庭へと。
フィリエルも、やはり突き進んでいった一人だった。女神の救済は泣かせる話ではあるが、いまいち実感あるものごととは思えなかった。自分たちは今ここに生きている。たとえ、もっとも豊饒《ほうじょう》な土地を竜たちにはばまれていようともだ。
最初は人波にもまれて見えなかったロゼリットが、いつのまにかフィリエルのわきにしっかりついていた。
「こっちです。観劇なら特等席があります」
フィリエルは彼女の遂行能力に半ば感心し、ロゼリットに従った。二人は、舞台すそに詰めかける少女たちの波から、いつしか離れていた。ロゼリットはさらに講堂の階上へとフィリエルをさそった。
「こっちへ。さじき席といってもいいところです。劇のせりふがとてもよく聞こえます」
彼女が導いたのは、講堂四階にある回廊だった。天井が高いため、四階といっても中庭からはかなりの高さだ。中庭にしつらえた舞台は裏の様子まで見通せる。
建物の上階にのぼることは、下級生には禁止されているらしく、彼女たちの他に下の回廊に見えるのは、裏方の四学年ばかりだった。いくつもの長い棹《さお》の先にかがり火を焚《た》き、舞台照明にしているので、その効果づくりに数人がかりなのだ。音響に耳をすまし、サインを送っている演出の女子や、花吹雪の籠《かご》をかかえた女子もいる。
はなやかな舞台に夢見心地になるのもいいが、そうした舞台をになっている人々の努力を見るのも一興で、フィリエルは眺めを楽しんだ。
「いい場所をありがとう。高学年にはこんな特権があるのね」
「ひき離すためにつれてきたのです。あなたを下級生のなかに置くわけにはいきませんから。影響がでるかもしれませんもの」
ロゼリットは、まだけんか腰の口調だった。
「はっきり言っておきますが、わたくしを懐柔《かいじゅう》しようとしてもむだです。ラヴェンナたちの劇を成功させるためなら、わたくし、本当に何でもしますから」
「当ててみましょうか。生徒会長の役どころは、勇敢な騎士様でしょう?」
フィリエルは言ってみた。たちどころに、ロゼリットは気負いこんだ。
「あのかたは、どんな役でもこなすことができるのです。かよわげな姫でも、道化でも。でも、下級生たちが、それではどうしても承知しないんです。あのかたの騎士の扮装を、夢にまで見ていた子たちがいますから」
「そのようね」
わきあがる黄色い歓声に、フィリエルはうなずいた。劇が始まり、生徒会長が舞台の上に登場したからだ。下級生の熱狂はたいへんなものだった。我を忘れて、早くも花を投げる子たちがいる。
「すごい人気なのね」
「彼女は変革《へんかく》する| 魂 《たましい》です」
ロゼリットは少々わけのわからないことを言った。
「この学校においても、この後の王宮においても、彼女は人々を感化します。わたくしたちの忠誠はあのかたのものです。あのかたの目指すところをわたくしたちも目指します」
きらめく兜《かぶと》を被り、魚の鱗《うろこ》のような鎖かたびらを身につけ、マントをひるがえした舞台上のラヴェンナは、たしかにたいへん魅力的だった。長い足を惜しげもなくひらめかせ、銀の衣装に褐色の瞳となめらかな肌が冴える。声も朗々として鋭く、少女とも思えなかった。
(でも……なぜ、彼女たちはこれをあたしに見せるのを阻止しようとしたんだろう)
急にそんな疑問がわいた。妨害されるとかスパイされるとか、神経を尖らすほどのものだろうか。
いけにえの王女役はヘイラだった。白っぽい髪に純白の衣装で、か弱くはかなげな乙女に扮するのに成功している。もう一人の副長リティシアは、星の女神役だ。ガラス細工なのか本物なのか、全身きらめく水晶の飾りで覆われ、かがり火の照明に、身じろぎのたびに光りさざめいていた。
これでもかという派手な舞台だったが、配役も何もかも、予想のつかないものではなかった。セリフが少々感傷的に長くなってはいたが、基本的に聖劇からはずれている部分はない。
(もしも、あたしにあんな舞台で演じることができるものなら、劇を骨格から変えておもしろくしたいな……)
ふっと舞台から注意がそれ、フィリエルは夢想《む そう》しはじめた。
(延々とかきくどくシーンを続けるよりも、出会いのひと場面をもうけたいな。いけにえにつながれた場所で一目|惚《ぼ》れをするというところが、ご都合すぎるのよ。それに、竜を倒したからっていい人とも限らないし……)
舞台には青緑に鱗の輝く、役者の二倍は丈があり、三人分の幅のある竜が出現していた。口から煙をふく芸も見せ、なかなかの力作だ。
「いけにえはどこだ。いけにえをよこせ」
竜が吠えた。さすがに竜の声が出せる娘はいないので、どう猛な竜にしてはちょっぴり甲高い。
(……どうしてこれが聖劇なのだろう)
突然、思ってもみなかったことをフィリエルは考えた。この決まり切ったストーリーはなんだろう。いつからグラールにあったのだろう。
舞台では、勇敢な騎士が竜と戦っている。客席の少女たちは立ち上がって歓声を送っている。やがて、騎士が宝剣をひと振りすると、ついに竜の首が落とされた。
同時に、舞台の照明だったかがり火にふたが落とされ、中庭は急に暗くなった。悲鳴をあげた少女たちがいるが、単に興奮しすぎただけのようだ。
その一瞬、フィリエルは何が起きたのかわからなかった。暗くなったときフィリエルは、夏至の前夜には一番神秘な力が働き、未来が見えるといわれたことについて考えていた。だから、超自然のことが起きたような気がしてしまったのだ。
だれかがフィリエルにつかみかかり、思い切り手すりに打ち当てた。痛さに息をつまらせたとき、みしりと大きな音がした。
(壊れる)
体がそう感じた。錬鉄《れんてつ》の手すりがはずれかかっているのだ。逃れようとすると、もう一度突き飛ばされた。目がくらみそうになったが、落ちたくなければその暇はない。
無我夢中で柱に手を伸ばし、体をひねった。その瞬間に、だれかが飛ぶような勢いで壊れかけた手すりに体当たりした。石膏《せっこう》の端が砕け、錬鉄の格子が宙に浮く。
フィリエルは、自分がかろうじてとどまったことに気づいた。目の前の手すりがぽっかりと抜け落ちている。そして――そして、かなりたってと思われるころ、階下の石だたみをうがつ耳障りな激しい音と、もっとこもった重たげな音が響いた。
音の残響が消え去るまで、会場の少女たちは一人として声をたてなかった。身の毛のよだつような沈黙だった。それからようやく、だれかが絹をさく悲鳴をあげはじめた。今度はまぎれもない恐怖の声だった。
「明かりを、早く明かりを」
舞台上から叫ぶラヴェンナの声がする。フィリエルはよろめいて座りこみ、震える手で顔を覆った。四階の回廊には自分一人しか残っていない。その意味を考えたくなかった。これから明かりに照らされるものを、見たくはなかった。
「いけにえよ」
恐慌《きょうこう》に陥った少女の一人が、裏返った声で何度も叫んでいた。
「いけにえよ。いけにえが出た。わたくしたちのなかから、いけにえが出たわ」
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第二章 暗躍する花々
一
親愛なるフィリエルさま
お元気ですか。トーラスの女学校にはもう慣れました? わたしはたいへん元気です。セルマ婆《ばば》あがときどき嫌味を言いますが、わたしはなんといっても優秀ですから、にっこり笑ってお返事します。
侍女はそのご主人の秘密を左右し、侍女の優秀さで主人の器量が測られると、セルマは毎日言うのです。だからわたしは、能力を証明するためにも、セルマが寝室に隠してだれも知らないと思っているスモモ酒を、全部飲んでやろうと思っています。
そのほか、アデイルお嬢様がなさった憂さばらしの話とか、始めればきりがないのですが、わたしもだらだら書いている余裕はさすがにないし、要件だけにします。フィリエルが気にかけていたので、これだけは伝えなければと思ったのです。
天文台のルーンのことです。
彼、うちの台所でシチューを食べたときから、ちょっと変わった子だなと思っていましたけれど、いったいどういう人間なのですか。このあいだ、彼がお館を脱け出したということで、兵士が駆け回る大騒ぎになりました。
でも、どうか心配しないで、翌日の夜には無事に戻ってきたんですから。そして、若君のユーシス様がいっしょだったことが判明しました。伝え聞きなのでよくわかりませんが、ユーシス様は彼とチェスの賭事《かけごと》をしていらして、それでこういうことになったらしいです。
ユーシス様は堂々と釈明なさったということですが、アデイルお嬢様はかなり憤慨《ふんがい》していらっしゃるし、伯爵様もきっとそうなんでしょうね。お館の中もあまり安心はできないから、別の手だてを考えなければならないとおっしゃったそうです。
わたしには、あの男の子が外に出ただけで、なぜ伯爵家のかたがたがこうも騒ぐのか、今はまだぴんときません。でも、優秀なわたしとしては、だれもが秘密にすることでも、裏から知る方法を考えようと思っています。
このようにわたしは日々|精進《しょうじん》しています。フィリエルもどうぞお元気で。また何かあったら報告しますね。
[#地付き]変わらぬ友 マリエ・オセット
「なにかやってくれると思っていたわよ……」
マリエの手紙をたたみながら、フィリエルは力なくつぶやいた。フィリエルがいなくなれば、ルーンがさっさと領主館を出ようとすることは、だいたい察しがついていた。
(好き勝手なことをしてくれて。ひとがどんな目にあっているかも知らないで……)
夏至祭が突然の惨事《さんじ 》となり、祭りの次第が急きょロゼリットの追悼式《ついとうしき》に切り替わってから、一週間がすぎていた。フィリエルにとってはげっそりする一週間だった。
少女の転落死は、かわいたばかりの生ま傷をえぐられる思いのするものだった。ホーリーのだんなさんの死を、思い出さずにいられなかったからだ。唐突さも理不尽さも、あのときと同じだった。胸をしめあげられる心細さ、世界が壊れていく怖さを、もう一度味わわずにはいられない。
それに加えて、自分より若い娘が死んだということも、フィリエルを打ちのめした。その日初めて知った娘だということは、あまり関係がなかった。たとえ、フィリエルを突き落とそうとしたのが、彼女であったとしてもだ。
だからこそ、よけいに平気になれないかもしれなかった。ほんのわずかな差で、石だたみに横たわったのは自分だったかもしれないのだ。
たった今、そこに息づき、将来の希望に燃え、憧れや夢や野心をうちに抱えていたものが、一瞬ののちに存在しなくなる。彼女は簡単に死んだ。自分であっても同じなのだ。
(安全な場所なんてどこにもない。いつ、どこで、どういう形でぽろっと死ぬことになるかわからない。あたしだってそうだ……ルーンだってそうだ)
「もう、いや」
声に出していい、フィリエルは立ち上がった。この一週間迷い続けていたことに、マリエの手紙を読んで決心がついたのだった。
(ここを出よう。シスターに申し出よう。女学校などへ来たあたしがまちがっていたのよ)
こんなにわけのわからない情況で、惨事の真相も解明できないまま逃げ帰ることはできないと、自分に言い続けてきた。だが、もうたくさんだった。
ルーンが安全をかえりみないなら、彼も死と隣り合わせにいるのだ。今このときにも、あっさりと彼は消されるかもしれない。そんなときに、遠い山奥の女学校で、性悪な女の子たちを相手どって奮戦《ふんせん》しても、いったい何になるというのだ。
(あたしがついていなければならなかったのに。ルーンがそこまで研究を忘れられないのなら、せめて、そばにいてやらなければならなかったのに……)
もどかしい思いで部屋を横切り、学長室へ行こうとしたときだった。フィリエルは勢いよくドアを開け、そこにいた少女たちとはちあわせしそうになった。
「まあ……今、ノックしようとしたところでしたのに」
中央の少女は、まさに片手をあげたかっこうで、驚いた口調で言った。フィリエルは目をぱちくりした。生徒会の通告がある限り、だれもこの部屋を訪れることなどないはずなのに。
「わたくしたちは審問団《しんもんだん》です。独自ですが、生徒会の容認のもとに組織しています。あなたのお話を聞くために来ました」
無言の疑問に答えて少女は言った。薄茶色のくせのない髪をし、|眉《まゆ》と鼻筋が細く、知的な濃い青の瞳をしている。彼女の顔はフィリエルも見知っていた。同じ最高学年のクラスで、毎回まじめに授業に出ていた数少ない少女の一人だ。
後ろにあと二人少女が立っていたが、こちらは学年が下のようで、知らない顔だった。どうもここの生徒たちは、三人組で行動することが多いらしい。
「ロゼリットのことでは、わたくしたちも心を痛めています。祭りの真っ最中に、生徒が一人死んだのですもの。寝覚めが悪いのは、だれもが同じでしょう。生徒会の指示に従っていたのでは、あなたの話を詳しく聞くことができません。ですから、今回の事件をうやむやに伏せてしまうよりはと、審問団を作りました。質問させていただいてよろしいでしょうか」
彼女は明快な、歯切れのよい口ぶりで話した。じつをいうとフィリエルは、この少女の教室での涼やかなふるまいに、淡いながらも好感をもっていた。だが今は、だれに好意を感じることにも疲れ果ててしまったような気がする。
「いやとは言いませんけれど。あなたがたが、新しい編入生があの子を突き落としたのだろうと、はじめから決めてかかっているのなら、話し合いはむだだと思います」
フィリエルが冷たく言うと、審問団を名のる少女は、すばやいほほえみを見せた。
「生徒会がそのように収めたがっていること、あなたもご承知なのね。だからこそ、彼女たちにまかせられませんでしたのよ。あの人たちはあの人たちで、何かしら後ろ暗いところがあるみたいですもの」
意外な発言だった。生徒会がすべての少女たちを牛耳《ぎゅうじ》っているとばかり考えていたフィリエルは、思わず見直し、彼女たちを部屋に招き入れていた。
フィリエルができるだけ率直に話し終えると、知的な瞳をした少女は、いくつか書きとめたメモに目を通し、うなずいた。
「ロゼリットは、生徒会に命じられたあなたの監視役だったのですね。これであの人たちの言いたがらなかったことがわかるわ。彼女のふるまいの、どのあたりまでが指示で、どのあたりまでが独断かは別としても、三役にも少しは責任があるのだもの」
目をまっすぐにフィリエルに向けると、彼女は感情をこめずにたずねた。
「それで、あなたはご自身の立場をどう理解していらっしゃるの。ロゼリットに殺されかけたと、ただ運よくまぬがれて、かわりに彼女が落ちてしまったと、そう考えているようですが。彼女がそういう行動に出る、心当たりがあってのことなのですか」
フィリエルは首をふり、重く口を開いた。
「心当たりはありません。それに、彼女が突き落とそうとしたと、断言することもできません。他の人間だったということも考えられなくはないんです。もしかしたら、あの子だって突き落とされたのかもしれない。あのとき、わたくしは周りを見てはいなかったんです。よそに気をとられていて……」
「舞台に夢中になっていました?」
「いいえ、考えこんでぼんやりしていて」
フィリエルが正直に答えると、少女はなぜか小声で笑った。
「あなたってたしかに、監視をつけたくなるような人物かもしれない」
「どうして?」
揶揄《やゆ》するような彼女の言葉に、ふいに鋭い怒りがわいた。フィリエルは、トーラス全体から自分の受けた、いわれのない仕打ちの憤懣《ふんまん》をぶつけているとわかっていても、激しい口調で言わずにいられなかった。
「あなたがたのことが、わたくしにはぜんぜんわからない。尋問したり監視したり、あげくのはてには簡単に殺そうとするなんて。そうまでされる何をわたくしがしたというの? 口さえきいてもらえず、締め出しをくいながら、それでも何かの脅威になることができると思って? この学校の女の子の陰険《いんけん》なことといったら、制服よりも真っ黒いわ。追悼式では不運な事故にされてしまったけれど、そうではなかったこと、わたくしは肝に銘じています。こんなこと絶対に許せない。死んだのはあの子だけど、だれかの心に必ず殺意があったのよ」
審問にきた少女は、意外そうな顔でまばたきした。
「わたくし、あなたのこと、もっとおとなしい人かと思っていました。こう、耐える人のイメージが……」
「わたくしのどこを見て? みんな顔をそむけて、正面から見ようともしなかったくせに」
「あなた、わかっていないんですね、本当に」
まっすぐな髪をゆらして、少女は笑い声をたてた。フィリエルがめんくらって口をつぐむと、彼女は小気味よい口調で言った。
「わたくしたち、全校であなたを避けねばならなかったのですよ。そうするために、全校のだれもが絶えずあなたに注目していたわけです。編入した生徒というものは、たいてい目をひくものですけれど、あなたほど際だって目立った人もあまりいません。生徒会の措置《そち》も、両刃《もろは 》の剣ではあったのです」
「目立って……いたんですか?」
フィリエルが驚くと、彼女は愉快そうに見た。
「そんなに不思議なことかしら。あなた、ご自分のことをかわいそうだとは思いませんでした? かわいそうな境遇というのは、年少の子たちに受けるものです。きれいな赤い髪をした、孤高《こ こう》の最上級生には、すでにちらほら崇拝者《すうはいしゃ》もついていますのよ」
フィリエルは口を開いたが、言うべきことは見つからず、情けないセリフになった。
「……何ですか、それ」
「孤立しているその人を観察すれば、たいがいのことは見てとれるとでもいうことかしら。だから、あなたは危険とみなされたのです」
「危険?」
「生徒会が、魅惑《み わく》のゲームをはじめた後に来たからですわ」
目を細めて窓の外を見やってから、審問団の少女はさらりと言った。
「わたくしなどに言わせれば、生徒会のやり方も子どもっぽいものですけれど。今のところは静観していますの。ある程度の引力があるのはたしかですし、彼女たちのバックに大物がいることもたしかです。わたくしたち、時代の流れに敏感にならざるをえないところもありますし」
さえぎるようにして、フィリエルはたずねた。
「はっきりさせてください。ロゼリットの死んだ理由が、その魅惑のゲームとやらのせいなら、あなたはそれをどう考えているの?」
「あら、わたくしが審問を受ける番ですか」
彼女はわざと楽しげに言った。後は静かに笑うだけだ。編入生には、腹の底まで打ち明けられないということなのだろう。フィリエルはその顔をにらみつけた。
「それならわたくしが言います。人を巻きこんで死に至らせるには、あまりにばかげた理由だわ。そんなことがまかり通るなら、たしかにここは魔の巣窟《そうくつ》よ。わたくしはもうたくさん。出ていくわ。こんなところに、これ以上つきあいたくないもの」
「まあ、本気? 今逃げたら、永久にあなたのせいだったことにされてしまうのに。それでもいいの?」
少女は濃い青の瞳を見開いた。フィリエルは言い返した。
「あなたがたの間での評判なんか、どうでもいいのよ。帰ればわたくしには、もっと大事なことがあるの」
「フィリエル」
彼女は初めて名を呼んだ。思わず口にしてしまった様子で、少し困ったように続けた。
「……測りがたい人ね、あなたって。シザリアの言ったとおりだわ」
トーラスの少女たちが、お互いの間ではどれほど情報をやりとりしているか、今の言葉でよくわかる。いきおいこんでフィリエルは言った。
「わたくしは、あなたの名前を知らないわ」
「聞いてくださらなかったでしょう。ヴィンセントです」
あっさりと彼女は名のった。
「文芸部長をしています。こちらは部の後輩たち。わたくしたちの部では、広報活動も手がけていますの」
たいへん寡黙《か もく》に控えていた後輩たちが、急いでフィリエルに会釈《えしゃく》をした。どうしてそんなに静かなのかと思ったら、一人は速記《そっき 》し、一人はヴィンセント部長とフィリエルのスケッチを描いているのだった。
「ヴィンセント?」
聞き覚えに気がついて、フィリエルは不思議そうに言った。
「それならわたくし、あなたによろしく言われてきたのだったわ」
「どなたに?」
「……ああ、そうだ」
今になってフィリエルは、手提げカバンに押しこんだままだったアデイルの小説のことを思い出した。読みもしないで悪かったが、このまま持って帰ったら、アデイルがさらにがっかりしてしまうところだった。寝台のすそに置きっぱなしだったカバンから、アデイルの紙束を取り出し、フィリエルはヴィンセントに言った。
「これ、まだ見ていないのだけど、きっとあなたがたなら楽しんでくれるでしょう」
ヴィンセントは紙束を受けとり、いぶかしげに最初の一枚をめくった。そのとたんに彼女は顔から血を引かせ、数秒後には、逆にみるみる真っ赤になった。声をつまらせて彼女は後輩たちに告げた。
「ちょっと、あなたたち。大変よ。これ、エヴァンジェリンの作品よ。彼女の自筆。しかも新作!」
後輩二人は、同時に手にしていたものを放り出した。
「ええええっ」
「うそっ」
フィリエルは、少女たちの反応のほうに度肝《ど ぎも》をぬかれた。後輩たちは原稿をのぞきこむと、奇声をあげて踊り出すし、ヴィンセントは息もたえだえな様子だ。少しして、文芸部長はようやくフィリエルに問いかけた。
「こんな決定的なものを持っていながら、どうして今まで隠して言わなかったの……」
「そんなことを言われても。今日まで、ほとんどだれとも話すことができなかったのに、機会があるはずないでしょう」
ヴィンセントは何度もうなずいた。
「本当にそうでした。ごめんなさいね。でも、これで情況は一変するのよ。わたくしたち、今後はあたりはばからずにあなたの味方です。あなたの立場が明快になった以上、もう隠し立てすることは何もなくなったの。エヴァンジェリンが去ってから、どうにも動きがとれなかったけれど、生徒会のやり方に納得がいかないと思っている者は、トーラスにまだ大勢いるんです」
日を輝かせて言うヴィンセントに、フィリエルはとまどった。この数週間、場外に置かれ続けたというのに、急にまくしたてられても困るというものだ。
「あの、まだ、よくわからないのだけど。エヴァンジェリンって………」
「もちろんアデイルのペンネームよ。わたくしたちの星であるあの人の」
文芸部長の声には、誇らしげな響きがこもっていた。
「エヴァがいる間は、あんな、まがいものの生徒会長に我が物顔をさせはしませんでした。今のトーラスは、本来のトーラスではありません。今までずっと、ここは外部からの介入を受けずに、自分たちだけの力で優れた者を定め、支配被支配を決める場所だったのに。もっとも――この移り変わりが、女王候補をもつわたくしたちの時代の趨勢《すうせい》だといえばそれまでですけれど」
彼女は、とまどい続けているフィリエルの手をとり、力をこめて握って続けた。
「やっぱり彼女は、この事態を見過ごしていなかったのね。代わりにあなたを送ってよこしたのね。ああ、いやだ、どうしてもっと早くに気がつかなかったのかしら。わたくし、文芸部長としての能力を尽くして、この事実をひろめてみせます。エヴァンジェリンの新作をもたらすんですもの、学内に旋風《せんぷう》を巻き起こすこと請け合いよ」
「ヴィンセント」
困り顔でフィリエルは言った。
「お気の毒だけれど、勘《かん》ちがいよ。わたくしはたしかに、彼女の作品を預かってはきたけれど、そんな目的ではなかったの。あなたがたの派閥《は ばつ》争いの力にはならないわ。これから学長に言って、退学の手続きをとるところだったの」
「まあ、嘘でしょう。これだけのことがはっきりしたのに、それでもあなたは帰るつもりなの?」
信じられない様子でヴィンセントはたずねた。フィリエルは、わずかな未練もなくうなずいた。
「ええ、帰るの。さっき言ったでしょう、もっと大事なことがあるんだって」
中門を出て学長室に向かうフィリエルに、なおもあきらめきれないヴィンセントがくいさがった。
「ねえ、本当に、本当に考えなおすことはできないの?」
フィリエルは先を急ごうとした。
「あなたにとって、ロゼリットの死がたいしたことではないのだとしたら、わたくしの気持ちを言っても、決してわかってもらえないわ」
「たしかに、人の死が重大なことではないなどと言えません。でもね、よくあることなのよ」
「よくあることですって」
フィリエルが思わず足を止め、あきれて見やると、ヴィンセントは真顔で言った。
「王宮へ行けば、暗殺はここ以上に日常茶飯事だということくらい、あなたもご存じでしょう。トーラスへ入った子なら、野心と危険が正比例することくらい承知しています。その上で、ロゼリットは危険を選んだのよ」
フィリエルは息を吸いこんだが、彼女の言葉にも一理あるということに気がついた。トーラスの女学校はただの学校ではなく、ハイラグリオンの宮廷に直結する場所なのだ。フィリエルも、それを承知して来たはずだったのだ。
「ますます、ここへ来たのがまちがいだったという気がしてきたわ」
「そんなことをおっしゃらないで。あなたは、エヴァンジェリンに見込まれた人なのでしょう」
「ちがうわ。わたくしは浅はかなミーハーだったのよ」
言い合いをしている間に、ヴィンセントの後輩の一人が走ってきた。息せき切ったその少女は、部長に向かって早口に告げた。
「ニュースです。最高学年に今度は二人、編入生が入るそうです。すでに入学手続きを終えたところで、今、事務長が二人を寮につれてきます」
ヴィンセントが青い目をまるくした。
「また最高学年の編入生? 前代未聞《ぜんだいみ もん》だわ。この学校はいったいどうなってしまったの。情報価値はどのくらい?」
「生徒会と同時に入手しています。現時点で先手を打つのは可能かと」
「そう、どうもありがとう」
礼を言うヴィンセントには、にじみでる威厳があり、ちらりと育ちをかいまみせた。それから彼女は、目を輝かせてフィリエルに言った。
「あなたのおかげで幸いしたわ。今回、生徒会より先にわたくしたちが接触できそうよ。どんな人が来たか、ここでしかと見極めましょうよ」
フィリエルも実際、好奇心を感じた。最初の日に案内をしてもらった、例の四角い顔の修道女が前方から歩いてくる。自分より新しく入った編入生とは、どんな女の子なのだろう。
修道女の後ろには、まだ私服の少女二人が従って歩いていた。どちらもトーラスに入学する娘にふさわしい豪華そうな衣装で、一人はぶどう酒色のドレスを、一人は紺色のドレスをまとっている。目をこらしたフィリエルは、息をのんだ。栗色の巻き毛を上品にまとめ、神妙に歩いてくるぶどう酒色のドレスの少女は、マリエだった。
「あっ……」
思わずつぶやきをもらしたフィリエルの反応に、ヴィンセントが目ざとく気づいてたずねた。
「お知り合い?」
「ええ。でも……」
(でも、どうして?)
マリエがトーラスに入学してくるなどとは、今までの経緯《けいい 》からは考えられない。友人に出会えたうれしさよりも、まず面妖さが先に立つ。そして、マリエよりもう少し背の高い、紺のドレスの少女に目を移したフィリエルは、声も出せずに凍りついた。
マリエのほうがフィリエルに気づき、厳めしい修道女の後ろから、いたずらっぽい目配せを送ってよこす。だが、フィリエルには応えられなかった。卒倒《そっとう》するならこういうときだと、真剣に案じていたのである。
一目でかつらとわかる長い黒髪。切り下げた前髪の下に、万年変わらぬしかめっ面。紺色のドレスを着て不機嫌そうに歩いているのは、見まちがえようもない博士の弟子――灰色の目をしたルーンだった。
二
「わたくしはヴィンセントといいます。この学校の文芸部長です。新しいかたの紹介を広報にのせるために、少しお話をうかがいたいわ」
「マリエです。こちらはルーネットです。今日からよろしくお願いします」
ヴィンセントがさわやかに申し出、マリエがはきはきと答えている。だが、フィリエルはまだ固まったままで、ひたすら夢ならさめてくれと願っていた。
今さっき、トーラスを出ていく決心をしたところだった。ルーンは領主館にいられないということがわかったからだ。彼がもう一度|無謀《む ぼう》なまねをする前に、急いで戻るつもりだった。そのルーンが、どうして目の前にいるのだ。
(……しかも、女装《じょそう》して……)
「どうしたの、フィリエル。お知り合いなんでしょう」
にこやかにヴィンセントがふりかえり、フィリエルは、たいへんな努力をして表情をとりもどそうとした。
「ええ、あの、まあ」
「どうぞ、つもるお話をなさって。わたくし、後輩と打ち合わせしてきますから」
文芸部長は言い、立ち去る前にフィリエルにさっと耳打ちしていった。
「あなたが犬ではないこと、これで堂々と衆知《しゅうち》することができてよ。何人トーラスに送りこむことができるかで、バックの大きさが知れるの。並みの家なら三人はとても無理だわ。これで決まりね」
何が決まりだというのだろう。空恐ろしい思いでフィリエルは考えたが、トーラスを退学する機会をのがしたことは、たしかかもしれなかった。
途方にくれて、フィリエルはマリエたちと向きあった。
「どう……どういうことなの。これって」
マリエが歩み寄り、さっとフィリエルの手をとった。
「だめよ、フィリエル。あなたがそんな顔をしたら、たちまちに怪しまれてしまうでしょう」
「だって、すごく変よ。どう見たって」
ようやく舌のほぐれてきたフィリエルは、息をつめてささやいた。
「ドレスを着せればいいってものじゃないわ。ばれるに決まっているじゃないの。どうしてこんなところにルーンをつれてきたの」
「ルーネットよ。いいこと、フィリエル、絶対にばれてはならないの。あたしたち、しばらくトーラスを出るわけにはいかないのだから」
「正気なの。正気でルーンを女学校の生徒にするつもりなの?」
マリエは落ち着いてうなずいた。
「ルーネットよ。そう、伯爵様がそのように手続きをなさったわ。あたしは助っ人。あたしたちで知恵をしぼって、彼をかくまいなさいって」
フィリエルはあきれ返ってルーンを見た。ルーンはそっぽを向いていた。自分の立場を考える様子もなく、バラ色のトーラスの建物を、興味深げにながめ回している。
フィリエルはマリエにまくしたてた。
「絶対に無理よ。あの性格なのよ。女の子のまねごとができるほど、細かい神経があると思っているの?」
マリエは肩をすくめた。
「それでも、やらなくちゃ。彼、岬のお館のなかでまで命をねらわれたの。別の態勢が整うまで、置いておける場所がないのですって」
「そうだったの……」
パニックがおさまったわけではないが、フィリエルにも、ことの次第がほんの少しのみこめてきた。隔絶された、女の子しか入ることのできないトーラスの構内なら、どこにいるより外部の危険から守れるに違いない。だが、トーラス内部の危険となると話は別だ。
くちびるを噛み、フィリエルは少年の腕をつかんで注意をひきもどした。
「ルーン、あのね、言っておくけれど、ここは生やさしいところではないのよ」
ルーンはいぶかしむようにこちらを見て、口を開いた。
「知っているよ。暗殺がまかり通るところだって、きみの|従姉妹《いとこ》が言っていた」
フィリエルは目を見開いた。
「知っていて、来たの?」
むっとしたような顔でルーンは言った。
「きみのことだから、人につけいられても気づかなかったり、だれとでも仲よくして痛い目に会ったり、どじをふんで死にそこなったりしていたんだろう」
フィリエルは一瞬二の句がつげなかったが、顔を赤くして言い返した。
「ごあいさつね、このとおり元気よ」
元気だと宣言したことで、フィリエルは身の内に本当に元気がわくのを感じた。一人ぼっちでしおれたことや、ロゼリット・ショックで、今まさに逃げ出すところだったことを忘れ、急に背骨がしゃんとするような気がした。
「ふうん」
ルーンはフィリエルを見つめ、その言葉を肯定《こうてい》するとも否定するともつかない空返事をした。
「どうでもいいけれど、早くこのいまいましい服を脱ぎたいんだけど」
「あたしだって、長くは目の前に見ていたくないわ。とにかく言われた部屋へ入って」
精いっぱい威厳をとりつくろって、フィリエルは言った。
「こうなったらしかたないけど、制服姿がもう少しましなことを祈るしかないわ」
事務長に指定された部屋は、マリエがフィリエルの隣の三階の端、ルーンが二階の端から二番目だったが、取り替えることにした。なるべくルーンを他の生徒から遠ざけておくにこしたことはない。
フィリエルとマリエは、要領を知らないルーンに、二人がかりで着付けと頭巾《ず きん》のとめ方とを指導した。できあがってみると、ゆったりした修道院の制服は、ルーンの直線的な体型をかなりカバーすることがわかった。
もともと少年にしてはあまり背が高くないし、やせているルーンだ。黒い頭巾を深く被ると、これはけっこう女の子に見えた。灰色の瞳が意外なほどひきたち、ひょっとすると麗《うるわ》しいかもしれない。
マリエがうれしそうに言った。
「ほら、ぜったい大丈夫よ。フィリエルが彼のことを見慣れすぎているだけなのよ。ドレス姿だって、ここまで来る旅の間、怪しむ人など一人もいなかったんだから」
「この学校の生徒が、どれほどウの目タカの目で編入生を見ているか、知らないからそう言えるのよ。頭巾はいつでも被っていたほうがいいわね」
安心のできないフィリエルは言った。一挙一動を見ていたと、ヴィンセントが語っていたことを思うと、今から冷や汗が出そうだ。
「それからルーン、あたしやマリエのいないところへ行ってはだめよ。あたしたちのすることを見て、いつも同じことをするのよ。いい?」
フィリエルの口調に、ルーンは|眉《まゆ》をひそめた。
「ぼくが、自分の頭では何も考えられないと思っていやしないか。フィリエル」
「文句を言わないで。ここは女の園《その》なんですからね。正体を見破られたくなかったら、言うことに従ってもらいます」
フィリエルは、ルーンの顔に指を突きつけた。
「そんなふうにしかめっ面をしないこと。女の子は、始終|眉間《み けん》にしわを寄せたりはしないのよ」
「まあまあ」
マリエは、いつのまにかとりなす役に回っていた。
「一度に全部を言っても無理よ。礼拝までに間があるのだったら、少し休憩しましょう。あたし、フィリエルの部屋へ行くわ」
ルーンを残して部屋を出てから、マリエはくすくす笑った。
「フィリエルって、彼の前では強気になるのね。あんなきつい言い方、他のだれにもしないくせに」
「トーラスで、彼を女の子として押し通すなんて、気が遠くなるほど大変なことよ。あの融通のきかなさ、ここへ来るまでにマリエにもわかったでしょう。伯爵様も内情をよく知らないで、よくこんなことを思いついてくださったものだわ」
考えれば考えるほど、うめきたくなる。フィリエルは自分の寝台に体を投げ出して、情けない声をあげた。
「あたし一人でも、手に負いきれないごたごたがあったというのに。ここはふつうの場所じゃないのよ」
「彼がさっき言ったとおりだったの?」
隣に腰かけて、マリエが軽い調子でたずねた。
「……まあね。言ってみれば」
ベッドカバーにほおをつけて、フィリエルはやっと言った。
「それなら、死にかけたのも事実なんでしょう?」
「ええ。あたしの代わりに別の女の子が死んだけれど」
「あなたたちって、おかしいわねえ」
マリエはあきれたように、おもしろがるように言った。
「彼のほうもそうよ。あのね、ここへ来るまで、あたしは少しも彼に手を焼かされなかったの。本物の令嬢みたいにおとなしかったわよ。アデイルお嬢様がトーラスの内情を話して以来、一も二もなく女学校へ潜入する気になっていたんだから。それなのに、フィリエルの顔を見たとたんに、知らんふりをしたりして」
起きなおって、フィリエルはたずねた。
「そういえば、ルーンが領主館で命をねらわれたのって、どういういきさつだったの?」
「彼がお館を抜け出したこと、手紙に書いたでしょう。ユーシス様が馬を出したようだけど、どうやらセラフィールドの天文台へ行ったみたいだったのね。何をどうしたのかわからないけれど、若君ともども襲撃されて、兵士が探索に向かっていて幸いしたという状態だったようよ。傷もなく帰ってきたのはたしかだけど。数日して、今度はお館に賊《ぞく》が押し入ったの」
マリエの説明を聞くうちに、フィリエルの脳裏には、一つの光景が浮かびあがった。天文台に押し入った黒覆面の男たちが、居丈高《い たけだか》にルーンを詰問しているところだ。研究の内容を知る者が、あれほど大事なものを燃やすはずがないと言っていた。
(エフェメリスだ……エフェメリスを燃やすはずがないと言っていたのだ)
ルーンは燃やしたと言い張っていたし、フィリエルにもその後一言も告げなかった。けれども、エフェメリスは、やっぱりまだあったのだ。
そして、けがのなおったルーンは、ユーシスとともに天文台へ取りにいき、待ち構えていた例の男たちに見つかったのだ。
無事だったのは何よりだが、危険きわまりないことだったろう。つきあわされたユーシスこそ、いい迷惑をこうむったというものだ。
(なんてこと。ルーンって、やっぱりとんでもないやつ……自分と若君の命を、そんなものに平気で賭けたのね)
額《ひたい》を押さえて、フィリエルは先をたずねた。
「それで……お館の賊は?」
マリエは自分のことのように得意げに言った。
「あっさり片づいたわよ。侵入しただけほめてやると、伯爵様はおっしゃったそうよ。でも、二度目があってはならないでしょう。関係のない人に累《るい》が及ばないように、措置《そち》が必要だったの」
フィリエルは、マリエを見つめた。
「あなたにも迷惑をかけちゃったわね……関係なかったのに。ルーンのこと、あたしが不用意にたのんだのがいけなかったわ」
「何を言っているの」
マリエは笑った。
「オセット家の者はね、うちの台所でごはんを食べた人を最後まで見捨てないのよ。あなたにたのまれなくたって、彼のことはめんどうみたわよ」
(マリエがきてくれて本当によかった……)
フィリエルは感謝して考えた。自由時間に、気のゆるせる友だちとおしゃべりすることが、これほど心のうるおうことだとは忘れていた気がする。ほんの短い時間なのに、気持ちが柔らかくなり、ルーンにももっとやさしくできそうな気分だった。
意気をあらたにして、隣の扉をたたいたフィリエルだったが、なかからの返事はなかった。ぎょっとしてのぞきこんだが、ルーンの姿は消え失せていた。
「言ったばかりなのに……」
マリエも驚いた。
「いやだ、じっとしていられないような人じゃなかったのに」
(あの、へそまがり……)
一転して血管が切れる思いを味わったフィリエルだが、さらに別の懸念《け ねん》がわきあがった。
「大変。早く見つけないと、生徒会に見つかったらとんでもないことになるわ」
まだ事情のわからないマリエは、駆け出すフィリエルをあわてて追った。
「生徒会がどうするっていうの」
「ここの生徒会は、新しく来た人間を捕まえて、服を脱がそうとするのよ」
「何、それ。ちょっと、性格あぶなくない?」
「彼女たちがルーンを捕まえたら、どんな騒ぎになるか考えたくもないわ」
エリーズ館を走り出たが、表の人通りのなかにルーンの姿はない。広場へ行ったが、広場にもそれらしき人影はなかった。あせりは増すばかりだ。不吉な予感がどんどん大きく育っていく。浮き足だったフィリエルはついに言った。
「ヴィルゴー館へ行ってみるわ。そこで見つかるようなら、それでおしまいだけど」
心配に顔をゆがめて走るフィリエルたちの前方に、数人の人影が見えた。それはまさに、ヴィルゴー館のポーチに立つ生徒会三人組であり、手前にはルーンがいた。
「だめ、その人たちについていっては」
フィリエルは息を切らせて叫んだ。ルーンはきょとんとしたように立ち止まった。生徒会役員たちはこちらを見たが、意外なことにあっさり引いた。フィリエルたちに気づいて、敵視する顔つきをしただけで、さっさと自分たちだけヴィルゴー館のなかへ消えたのだ。
「どうかしたの」
ルーンは、そんなのんきなことをたずねた。駆け寄ったフィリエルは、あまりに息がはずんで、すぐには声も出なかった。
「……あの人たちと、話をしたの?」
「したよ。声をかけてきた。生徒会規約をわたすって」
「あのなかへ入ったら、危なかったのよ」
「もう、行ってきたけど」
不思議そうにルーンは言った。フィリエルは思わず彼の制服をつかんでいた。
「うかうかと行ってきたなんて。それで、何をされたの?」
見たところルーンはまったく平静で、むしろフィリエルのことを異様な目で見ていた。
「どうしたんだい、フィリエル。だれのために来たのかと聞かれたから、正直に、フィリエルのためだと答えただけだよ。ついでにマリエもそうだと言っておいた。三分もかからなかったよ」
体の力が抜けて、フィリエルは石だたみに座りこんでいた。安堵《あんど 》してもよかったが、フィリエルは、この先ルーンのいるトーラスで、自分の心臓がもつかどうかをじっくり思案したくなっていた。
ルーンとマリエの最初の礼拝と夕食を、どうにかこうにか切り抜け、フィリエルは、疲れ果ててもう何もできなかった。げっそりした顔で彼らにおやすみを言い、部屋の扉を閉めた。
新しく増えた二つの顔は、トーラスの生徒たちに目覚ましく働きかけたのだった。それまでフィリエルは、自分の行った先で少女たちが顔をそむけることは経験しても、その逆は知らなかった。
二人をつれて礼拝堂へ向かうときから、出会った生徒全員がふりむいた。つつきあい、ささやきあい、さざなみのように注目が広がる。今度無視するのは、フィリエルの側だった。今までだれとも目を合わせずに、一人で日課をこなしていたのだし、マリエやルーンにも、不用意な接触をしないよう固く打ち合わせていたのだ。
歩いても座っても、好奇にあふれた視線が三人にふりそそいだ。食堂に席をとれば、下級生の給仕たちが一目見たさに、コップの一つまで別の顔ぶれでもってくるありさまだった。無視も苦しいものだが、過剰《かじょう》な注目はもっと疲れる。特に、見抜かれては困る弱みをかかえている場合はなおさらだ。
ルーンのふるまいに気が気でないフィリエルは、何を食べたかおぼえてもいなかった。幸いぼろは出さなかったようなのだが、なかには勘のいい少女がいるだろうから、どこから何を見出すかわかったものではない。
(これからは、夜だけが心の安まるときになるのね……)
トーラスに着いた最初の晩と今夜と、どちらが悲壮《ひ そう》だろうと考えながら、フィリエルは手早く制服を脱いだ。もう、何も考えずに眠ってしまうつもりだった。
だが、寝間着になってベッドにもぐりこもうとしたときに、ノックの音がした。
「どなたですか」
「ルーネット」
ルーンは感心なことに、偽名《ぎ めい》を忘れなかった。フィリエルはドアを開けた。見ると、ルーンは頭巾まできちんとつけていた。
「……隣の部屋へ来るときくらいは、頭巾を脱いでいいのよ」
ルーンはなんとも思わない様子で、かまわずに切り出した。
「フィリエル、チェスの指し方を教わったかい」
めんくらいながらフィリエルは答えた。
「アデイルと雨の日に少しやったけど。でも、カードのほうが好きよ。あれって勝負が長いんだもの」
「チェスしようよ」
ルーンは、彼の表情で一番にこやかなものを浮かべて言った。
「来るときに一組もらったんだ。ほら」
誇らしげにチェス盤をとりだすルーンを、フィリエルは口をつぐんでながめた。彼はフィリエルの返事を待ちもせず、床に直接チェス盤をおくと、袋から駒を出して並べはじめた。
(だれよ、ルーンのゲーム熱を再発させた人は……)
そういえば、ルーンはゲームに激しくのめりこむタイプだった。飽きるのもすばやく、見切りをつけたらそれっきりなのだが、熱中している間はみさかいがないのだ。相手が気も狂わんばかりになろうと、ゲームをねだるのである。
「貴族はみんなチェスをおぼえて育つと、ユーシスが言ったよ。フィリエルももっとチェスに慣れるべきだよ」
「あなたにチェスを教えたのは、若君なの?」
「うん。あいつだ」
ルーンの口調に前ほどの棘《とげ》がないことを、フィリエルは耳ざとく聞きつけた。ロウランド家のユーシスに対しては、いつでも敵意のかたまりだったくせに、いつのまにか薄らいできたらしい。
「あなたとユーシス、チェスで賭けをしたそうね。マリエから聞いているわよ」
ルーンは灰色の目をあげたが、機嫌のいいままだった。
「そうだよ。それで、ぼくが勝ったんだ。だから、ハンデが欲しかったらそうしてもいいよ」
フィリエルは、ベッドへ入りたいのをあきらめて一手つきあうことにした。ルーンが、ここ久しくなかったほど明るくなっていることはたしかだし、けがの回復期のように、いらいらすることもなくなったようだ。それがひとえにチェスのせいなら、それもいいではないか。
駒を動かしながら、フィリエルはさりげなくたずねた。
「賭けに負けたユーシスに、どんな要請《ようせい》をしたの」
「マリエから聞いているんだろう」
「天文台へつれていってもらったのは知っているわよ。襲われることも、あらかじめ話しておいたの?」
ルーンはちょっとびっくりしたように、駒を運ぶ手を止めた。
「襲われることは、あらかじめ決まっていなかったよ」
「嘘《うそ》おっしゃい」
容赦なくフィリエルは決めつけた。
「予想しなかったとは言わせないわよ。エフェメリスを隠していたくせに。あなたって悪党ね。仮にもルアルゴーの次期伯爵を、だましてつきあわせるなんて」
ルーンはまばたきをし、妙に感心した声を出した。
「ふうん。フィリエルって、ぜんぜん見込みがないわけでもないんだ」
「何の見込みよ」
「チェスがうまくなる見込みだよ。複雑な推論《すいろん》をする力がないと、このゲームはやっていけないんだ」
フィリエルは顔をしかめた。
「はぐらかさないで。あたしは現実のことを言っているのよ」
「現実だって同じだよ。貴族はみんなチェスゲームをしているんだ。トップになればなるほど規模の大きくなるチェスさ。たとえばルアルゴー伯爵にとっては、きみもチェスの一駒だ。ユーシスやアデイルだって駒だろうし、たぶん、ぼくもそのつもりなんだろう」
単なる事実だというように、ルーンは軽い調子で言った。少し考えて、フィリエルは口を開いた。
「あたしにとってはゲームじゃないわ。あなたがあたしに一言も言わないで、隠したエフェメリスを思い続けていたのだったら、そのことは肝に銘じますからね」
さすがにルーンはしばらく口をつぐんだ。
「……ごめん。でも、言えないことだってあるんだ。フィリエルって、自分自身のことにはあまり用心深くないだろう。隠しごとがへただし」
「悪かったわね、ずるがしこくなくて」
「うん。そこが問題かもしれない。もっと裏をもつようでなくちゃ、貴族のなかで生きていけないよ」
ルーンはまじめに応じた。少々むっとして、フィリエルは皮肉混じりに言った。
「それなら、ルーンのほうがよっぽど貴族に似つかわしいみたいね」
少しして、ルーンがふいにほほえんだので、フィリエルはびっくりした。どうやらそれは、思い出し笑いらしかった。
「フィリエル、ユーシスって、大貴族のくせにわりと手が単純なんだよ。おかげで助かったけれども」
何を思い浮かべたのだろうと、フィリエルは怪しんだ。妙に楽しそうに見えたからだ。笑みはすぐに消えたが、それでも値ぶみするようにルーンは言った。
「でも、思ったよりは肝のすわったやつかもしれない。あのとき追っ手に取り囲まれても、少しも動じなかった。剣の技も馬の扱いもたしかだ。ああなるまでには、ずいぶん修練がいるんだろうな」
(なによ……)
馬にまたがり、剣をたずさえたハンサムな貴公子に、危ない場面で救出される経験なら、自分こそしてみたかったと、フィリエルは考えた。考えてみれば、ルーンは二度もユーシスに助け出されているではないか。
ここで、思い出したくもないのに思い出すのが、アデイルの書いた小説の主人公たちだった。何だか知らないがおもしろくないと、フィリエルは思うのだった。
三
教壇の上には、ピンクのほおをした老修道女が立っている。ノートをとってはならない、例の授業がはじまっていた。
「……前回まで、主に砂漠南部の小王国について、知っておかねばならない傾向と対策をお話ししてきました。今日から、東部人に入りましょう。東部海岸の国々に関して、予習のできている人はいますか――ヴィンセント?」
名指されたヴィンセントは動じもせず、そよ風のような声で話し出す。このクラスの首席は、どう見ても彼女のものだった。
「わが国の使節《し せつ》が、もっとも多く介入するのは内陸のトルバートです。東西の中継をする通商国家《つうしょうこっか》であり、王権は富豪《ふ ごう》によって左右されます。トルバートは西側の後《うし》ろ盾《だて》をもって列強の争いに関与せず、中立国を保ちました。一方で、百年以上の間、互いの弱体化にしのぎをけずったカラドボルス、ゴア、ブリギオン三国は、十六年前に三すくみの均衡《きんこう》がくずれました。今では、ブリギオンがゴアとカラドボルスを吸収し、さらに周辺の小国を統合して帝国をなしつつあります。ブリギオンの現国王エスクラドスは四十代、野心的で好戦的で剛力無双《ごうりきむ そう》。国民は彼を帝王の器《うつわ》と見なしているようです――」
彼女が述べ終わると、教師はおもおもしくうなずいた。
「いつもながら正しい概略です。彼女も指摘したことですから、東部における最重点国、ブリギオンから話を進めましょう。かの国の今後の出方次第で、トルバートに危機がおとずれるかもしれず、そうなればわたくしたちとて、砂漠の向こうのことと傍観してはいられないのです。
さて、わが国とはもっともかけ離れた風土と気質に富むブリギオンですが、かの国の人々の原色好み、武力崇拝、家父長制《か ふちょうせい》について理解するために、まず国の成立事情から見なければなりません――」
フィリエルは袖《そで》を口元にあて、こっそりあくびを噛み殺した。決して講義に興味がないわけではない。だが、どうしても眠い。
(もたないわよ。こんなに毎晩チェスにつきあわされるのでは……)
ルーンの昼夜は逆転しているのではないかと、気がついたのは数日してからだった。長年、夜間の天体観測をし続けてきたのだから、考えてみれば当然かもしれない。夜になると妙に元気で、チェスをしようと言い出し、いっこうに眠ろうとしないのだ。
そのかわり昼間はおとなしく、女学校の教室に座らせておくぶんには助かるのだが。
フィリエルは、列のむこうに席をとっているルーンをちらりと盗み見た。教室でただ一人きちんと頭巾をつけ、居ずまい正しく座り――そして、明らかに居眠りをしている。そんなルーネットがそこにいることに、フィリエルも他の少女たちも、少しずつ慣れはじめていた。
フィリエルとマリエの必死の努力のかいもあって、今のところ、だれもルーネットの性別を疑う気配はない。もっとも、恐ろしく変わり者だと思われる点に関しては、二人の力及ぶところではなかった。仮に男の子だとしても変わり者だろうと、フィリエルはこっそり考えた。
授業が終わり、生徒たちが席を立ちはじめると、マリエがフィリエルの机へやってきた。
「シスター・ナオミの授業はおもしろいのね。目的がはっきりしていて、あたしにもわかりやすい。はっきり言って他の授業は、とてもついていけそうにないわ」
フィリエルは苦笑した。
「くやしいけれど、最近はあたしもそうみたい。このところ、予習復習のひまがないんだもの」
ルーンを見やるフィリエルに、マリエはうなずいた。
「かもね。ルーネットもぜんぜん勉強熱心には見えないし、もしかするとあたしたちって、劣等生トリオなのかもしれないわね」
そこへ割り込んできたのは、さっそうたる秀才のヴィンセントだ。あけはなしの笑顔で、彼女は二人にさそいをかけた。
「ねえ、フィリエル、お昼ごほんを外の木陰で食べましょうよ。マリエもいかが?」
彼女の後ろで、数人の少女がにこにこと笑っている。風向きが変わりはじめていることを、フィリエルは痛感《つうかん》せずにいられなかった。生徒会の指示はいつのまにか無効になりつつあり、ヴィンセントを先頭に、少女たちは除《の》け者だったフィリエルを、急速に輪にとりこみはじめている。
「ええ、そうね……」
「ああ、もちろん、ルーネットもいっしょによ」
ヴィンセントはあわてたように付け加えた。ぬっとやってきたルーンは、ヴィンセントにちらりと目をやっただけで、フィリエルに向かって言った。
「図書館、行くから」
困ったようなほっとしたような思いで、フィリエルはうなずいた。
「いいけど、それなら後でね」
黙ってうなずいて、ルーンは出て行った。少女たちにもたらした一瞬の沈黙には、まったくの無関心だ。どれほど言い聞かせても、この無愛想だけはどうしようもなかった。
ルーンの姿を見送ってから、ヴィンセントがたずねた。
「あの人って、もしかすると、とっても意地悪なのかしら」
「ううん、単に、とっても内気なのよ」
「変わった子よね。みんなそう言うけれど」
確信なさそうにヴィンセントは言った。
「あの濃い灰色の目。あの目で見返されると、どうしたものやら、このわたくしでさえ舌が止まってしまうのよ。弁舌ではトーラスのだれにも負けないつもりなのに」
「お昼、行きましょうよ」
フィリエルはにこやかに話題を変えた。
食堂に全員が集まり、下級生の給仕が義務づけられるのは、夕食のみであり、朝食や昼食、そして放課後の一杯のお茶は、各自が気ままに取りにいってよかった。時間帯もゆるやかにしか決まっていない。
だから、ヴィンセントが提案したように、天気の良い日には外へもって出て、広場で食すのも一興だった。
夏の庭は日射しにあふれ、なめらかな芝生が目にしみいるような緑に広がっている。修道女たちが丹精した花壇は花盛りで、ものうい羽音のミツバチを集め、枝を広げた樹の下には、仲よし女の子たちの集いが、そこここにできていた。
ヴィンセントがさそった場所は、どうやら文芸部|御用達《ご ようたし》の木陰であるようだ。学年を問わない少女たちが座りこみ、一団体いるが、みんな親しげで楽しそうだった。この学校へ来て、妙に年功序列《ねんこうじょれつ》を感じていたフィリエルは、そうでない部分もあることがわかって、うれしかった。
パンと冷肉をかじりながら、ヴィンセントがしみじみ言った。
「エヴァンジェリンの新しい物語、感動のあまり三回続けて読んでしまいましたわ。どうしてあんな風に書けるのかしら。わたくしも修業しているつもりだけれど、エヴァの作品を読むと、いつだってうちのめされてしまう。あの人が描き出すものって、身震いするほどかっこいいのよね」
思わずフィリエルはたずねた。
「そんなに、すごいの?」
「あれが出回れば、学校内に、またしばらく妄想《もうそう》が一人歩きするでしょうよ。ねえ、背の高い赤毛の主人公についてはだいたい察しがつくのだけど、もう一人の主人公も、実在の人物なのかしら」
「……ええと……」
フィリエルはあせった。この話題は危険だ。
「じつは、わたくし、よく読まないでわたしてしまったの」
「まあ、悪いことをしてしまったわ。すぐにお返しできないのに。わたくし、もう原稿を写本《しゃほん》に回してしまったの。一刻も早く刷《す》り増しして生徒に配れるように」
「いいのよ、べつに。あなたがたが印刷したものを、みんなといっしょに読んだので」
急いでフィリエルが答えると、ヴィンセントはほっとした様子だった。ほほえんで言った。
「献辞《けんじ 》にあるあなたの名前も、すべて載せますからね。エヴァンジェリンの愛読者が全員、あなたに憧れることでしょうね」
「はあ……」
気のない返事をして、フィリエルはクレソンの葉をかじった。たいしたことだとは思えない。そんなフィリエルを見て、ヴィンセントは試すように言った。
「どれほど大勢があの小説を読むか、知らないのね。生徒会の役員だって、じつは隠れ読者なのよ。わたくしたちは、生徒数以上の冊数を刷るの。生徒だけでなく、その姉妹も欲しがることになるからよ」
「本当?」
ようやくフィリエルは目を見はった。
「のんきなのね、あなたって。そうね、ちょっと俗《ぞく》離れしたふんいきかもしれない」
感心したようにヴィンセントは言い、ふいに提案した。
「お皿をもどしたら、ちょっと舞踏室へ寄ってくださらない?」
フィリエルはためらった。だが、隣でマリエがささやいた。
「行っていらっしゃいな。他のみんなと仲よくするのも大切よ。図書館へはあたしが行くわ。声をかけないと、あの人がお昼を食べ忘れることくらい、あたしにもわかっているから」
フィリエルはうなずいた。マリエがいてくれて、本当に助かる。
「それじゃ、そうするわ」
マリエと別れ、フィリエルとヴィンセントは講堂の離れにある舞踏室へ向かった。少女たちはここで、女子体育とダンスの授業を受ける。重苦しい制服を脱いで、跳ね飛ぶことのできる唯一の機会であり、フィリエルがいつも楽しみにしている時間だった。もっとも、とうていルーンを参加させるわけにはいかず、目を離すのが心配な時間でもあったが。
広い板張りの床をもつ教室はがらんとして、人気がなかった。中央に進み出ながら、ふいにヴィンセントは言い出した。
「ハイラグリオンの王宮にはね、それはたくさんの鏡の間があるのですって。広間にも廊下にも、全面に鏡がはりつめられているので、慣れない者は迷いさえするそうよ。トーラスで等身大の鏡があるのは、この部屋だけだけれども」
正面の壁は大きな鏡になっており、近づいてくる少女二人を映し出している。ヴィンセントの意図がつかめないまま、フィリエルはさしさわりのないことを言おうとした。
「鏡はとても高価なのでしょう。王宮にしか許されないことよね」
「いいえ、よそでやらないのは、鏡に魔がやどるからよ。逆に、魔をうち破る要素も秘めていると言うけれどね」
思わずフィリエルは足を止めた。しんと静まる大教室。高い窓から射しいる日射しが、細かなちりを浮かび上がらせている。そういえば、ワレットの学校のちっぽけな鏡ですら、夜には思い出したくないようないわくがあった――
「怪談を聞かせるために来たの、ヴィンセント」
「違う、違う」
ヴィンセントは笑い出した。
「わたくしが言いたいのは、超自然的なことではないの。でも、同じ程度に怖いことかもしれないわ。王宮に暮らす人々はね、絶えず自分の姿を目にするのよ。自分のふるまい、自分の表情、なみいる廷臣《ていしん》のなかでの自分の位置。それらを見据えて正しく把《は》握《あく》する人でなければ、生き残っていけないの」
少し考えてから、彼女はまじめに付け加えた。
「王宮に鏡がはりめぐらされる理由には、違う説もあるわ。忍び寄る|刺客《し かく》に、その隙を与えないためだという説」
フィリエルは、鏡のなかのヴィンセントを見つめた。
「あたりに気を配れというご忠告なら、もう充分受け取っているつもりよ」
「ううん、わたくしはね、ここに立って、あなたに自分自身をながめていただきたかったの」
少し顔をしかめて、フィリエルは自分に目を移した。もちろんそこに立つのは、あきあきするほどよく知っている少女だ。ヴィンセントより少し背が高く、髪は赤みがかった金色に波うち、あごが小さく尖《とが》っている。瞳の色は古酒のように濃い琥珀《こ はく》色。まずいことに、夏の日射しのせいでそばかすが以前より目立っているようだ。
ゆっくりした口調で、クラス一の秀才は言った。
「いつかだれかがあなたに言うことでしょうから、わたくしが言うけれど。魅惑のゲームは、ただのお遊びごとではないのよ。トーラスのここで行われていることは、グラール王国をも左右しかねないこと。なぜなら、ここに入学した女の子たちこそ、グラールの先鋭武器だから。わが国には、他国にひけらかす近衛《こ の え》師団があるし、竜退治に貸し出すほどの騎士たちもいるけれど、基本的なふところ刀はわたくしたちなのよ。わたくしたちの魅力と知力が。そして、その事実を細心の注意を払って隠していることが」
「わたくしたちが武器? 女の子が?」
驚いて口をはさんだフィリエルだったが、突然に、シスター・ナオミの授業が腑《ふ》に落ちた。
「ねえ、気にはなっていたのだけど、グラールの外交政策は、基本的に色仕掛けだということなの?」
「よくできました」
楽しげにヴィンセントは答えた。
「殿方には、絶対ないしょよ。わが国の優秀な男性たちには、特に明かしてはならないのよ。わたくしたちはこれを、見込んだ同性だけに口頭で伝えるの。先輩から後輩へ受け継がれていく。わたくしたち女性が真に魅力的なら、グラールの殿方たちは、何も言わなくても、どの国の男よりも雄々《おお》しくなってくれるはずよ」
フィリエルが考えたのは、ルーンをどうしようということだった。トーラスがそれほどの『秘密の花園』だとしたら、紛《まぎ》れこんでちゃっかり授業を受けている男子など、知れたら、たちまちのうちに八つ裂きだろう。
黙りこんでいるフィリエルを見て、ヴィンセントは続けた。
「だから、わたくしたちは魅惑の力を学び、切磋琢磨《せっさ たくま 》する必要があるの。生徒会のしていることも、結局方向は同じだけれども、それでも対立はあるし、ときには命がけの厳しさもあるのよ」
理屈はわかる。けれども、感情的には承服できないと、フィリエルは思った。
「あなたがた全員、それですんなり納得ができることなの? 魅惑を追求するのは、たしかに悪いことではないかもしれない。けれども、その行き先が色仕掛けの外交員であって、それで平気でいられるの。お国のためだからということ?」
ヴィンセントは、おもしろそうに青い目を見開いた。解き下ろしたまっすぐな髪を少しゆする。
「女王陛下の御《おん》ためというのは、もちろんあるわ。貴族たるもの、この忠誠が血のなかに確実に流れていなくてはならないもの。でも、隠さずに言うなら、この国の王座は、直系の血をひく王女しか継ぐことができないということなのよ」
薄く色づいたくちびるを笑みに作ると、ヴィンセントは続けた。
「つまりね、この国には、本当の意味での王子様がいないということなの。だから、わたくしたちがよその国に野心をもつ、りっぱな理由があるでしょう。グラールは開国以来、他国を侵攻《しんこう》したためしがないのよ。戦闘《せんとう》で血を流さなくても、充分に国をおとせるからよ。ね、一挙両得でしょう」
フィリエルはうなった。それは、思わず知らず深く納得してしまうような言い分だった。
(そういえば、天文台の塔であたしが燃やしてしまった物語の数々。あのなかでは、ほとんどのお話で、どこかの王子様が窮地《きゅうち》におちいったお姫様を助けて、結末には結ばれて国の王様になっていた。ひょっとすると、だから異端にふれるのだろうか……)
そんな考えが心をかすめた。いずれにせよ、フィリエルにとっては、目からうろこが落ちるような考え方だった。
ヴィンセントは口調をあらためた。
「さて、本題に戻るとして。鏡の前に立っているこれなる素材。よく見て。どう、活用のしがいがあるとは思わなくて?」
鏡のなかのフィリエルが、いくぶん困惑した顔で自分を見返した。
「あなたのほうが美人だわ、ヴィンセント」
「あら、どこが。どのへんが?」
「大人びて、理知的で。まなざしに自信があって。あなたに人気があるわけがわかるわ。本当にきれいな青い瞳だし」
美人は青い瞳をしているという、根強い信仰がフィリエルにはあるのだった。ヴィンセントは、少しも照れずにほほえんだ。
「ほめられるのは、どんなときでもうれしいものね。でもね、わたくしが多少の魅力を放てるとしたら、それはおのれの分を知っているせいなのよ。そしてあなたは、まだ自分を知らないの。自分の取り柄を考えてみたことはあって?」
フィリエルは首をかしげた。
「さあ……何かに秀《ひい》でている人間ではないのよ、わたくしって」
「だれ一人見たこともないような、赤金色の髪をしているというのに? わたくしが一番驚くのはそこのところなのよ。どうしてあなたは、この年になってまで、自分が美人だと気づかないでいられるの? あなたの周りの人は、だれも言わなかったの?」
「言わなかったわ」
セラフィールドで顔が問題になるはずがないと思いながら、フィリエルはきっぱり答えた。
「それじゃ、あなたは、自分がどんなに姿勢がいいかも知らないのね。ただの立ち居ふるまいにまでバネがあって、どれほど俊敏《しゅんびん》に動くことができるか。あなたがここで踊ると、同じ振り付けをする女の子たちのなかでどれほど目をひくか、ぜんぜん気がついていないわけなのね」
「そうだったの?」
フィリエルが見返すと、ヴィンセントはあきれたように腕を組んだ。
「それなら言いますけれどね、フィリエル。夏至祭《げ し さい》の日に命拾いしたあなたって、そうとうなものよ。直感力もだけれど、敏捷《びんしょう》さやとっさの判断や、もともとの身体能力に秀でていなければ、落ちずにとどまることなどできなかったはずなのよ」
忘れていたかったことがよみがえったので、フィリエルは顔をしかめた。
「あれは、運がよかっただけだわ」
「そうね。でも、どうして運があなたに味方したか、わたくしたち、今ではみんな納得しているの」
ヴィンセントは一息入れると、急に話題を変えた。
「あなた、トーラスの次の行事には、何があるかご存じ? 八月二十三日、麦穂《むぎほ 》の乙女祭よ。感謝祭前のちょっとしたお楽しみというところかしら。祭りのメインは合唱で、わたくしたち全員、星乙女のように麦の穂をもって、近隣の人々に合唱を披露するの。けっこう楽しみにして来る人が多いのよ。でも、これは単なる表の行事――」
彼女は意味ありげにひきのばした。ただごとではないのだろうと、フィリエルもわかっていたので、冷静にたずねた。
「で、裏では何がもよおされるの」
「夏至祭の舞台の仕切り直しが。これは伝統的にそうなっているの。夏至祭の聖劇に不満のある者は、麦穂の乙女祭で、挑戦者になれるのよ」
静かな声でヴィンセントは言った。フィリエルはその顔を見つめた。
「挑戦者は何をするの。もう一度、演劇をやり直しするの?」
「いいえ、ゲームをするの。竜殺しの騎士に挑戦して、試合をするの。今年の場合、聖劇は尻切れとんぼで終わってしまったわ。だれも納得していない。生徒会役員も、そのことを承知しているはずなのよ」
フィリエルは息を吸いこんだ。
「まさか、剣の試合をするというのではないでしょうね」
「いいえ、たぶん、剣の試合ね。ラヴェンナが選ぶのですもの」
「それなら、勝負は彼女のものだわ。見ればわかるもの」
肩の力を抜いて、フィリエルは言った。剣技をたたきこまれたラヴェンナの身ごなしは、最初の日でいやというほどわかったのだから。
「あら、忘れないで。わたくしたちは魅惑のゲームをしているのよ。男の人がするような、野蛮な殺生《せっしょう》ざたとはひと味違うのよ」
真剣な表情でヴィンセントは言った。
「もちろん、勝たなければ意味がないことはたしかだわ。負けた方がどう見ても不様《ぶ ざま》だもの。でも、ただ勝てばいいというものでもないの。ラヴェンナもそれを知っているところに、きっとつけいる隙があるわ」
フィリエルはおそるおそるたずねた。
「ヴィンセント。あなた、もしかすると、わたくしが挑戦者になると考えていたりしない?」
「よくできました」
「冗談でしょう!」
飛び上がってフィリエルは叫んだ。
「わたくし、剣なんて見たこともさわったこともないし、握り方一つ知らないのよ。向こうみずに決まっているじゃないの」
ヴィンセントは、それがフィリエルにとって喜べるかどうかは別として、たいへんたのもしげに、理知《りち》的な表情でうなずいてみせた。
「あなたにならできるわ。そして、剣をもったあなたがどれほど魅力的に輝くか、わたくしは確信しているの。ラヴェンナにひけをとらず、堂々挑戦できる女の子は、きっとあなたをおいて他にいないわ。まだひと月あまりあるじゃないの。試みることは、決してむだではないわ」
「それで、ひきうけてきちゃったのかい」
駒を動かしながら、ルーンがたずねた。フィリエルは肩をすくめた。
「まあ……剣技の型を教わるだけでも、得になるのではないかと思って。体を動かすのは楽しいし」
「まったく、のせられやすいんだから。フィリエルは」
ルーンは大仰《おおぎょう》にため息をついた。気に入らないといった声音だ。フィリエルはチェス盤を見つめる目を上げた。
「あたしが注目を集めた方が、いい結果がでるような気がしたのよ。隠れみのになって、みんなの目があなたにいかなくなるもの」
「踊らされているだけに見えるな、ヴィンセントに」
フィリエルはぷんとした。
「ルーンは知らないのよ。あたしは、ラヴェンナたちにひどい目にあわされたんだから。あの人たちをやっつけたいと思うのは、あたし自身の意志よ」
ルーンはそしらぬ口調だった。
「頭のいい子だね、ヴィンセントって」
「なによ、昼間は彼女をろこつに無視したくせに」
少年は不思議そうな顔をした。
「なるべく口をきくなと言ったのは、フィリエルだろう。それにぼくだって、陰謀を練っている女の子のなかより、図書館のほうが楽しいよ」
くやしさを隠してフィリエルは言った。
「あたしたち女の子が、画策をくりひろげているのが、本当は腹立たしいんでしょう。あなたもやっぱり男の子よね、ルーン」
「何言ってるんだい。きみがもう少し画策のできる人間になれるように、こうしてつきあっているんじゃないか」
偉そうにルーンは言った。今夜こそ負かしてやるとフィリエルは考えた。今のところ、深夜のチェスは全敗だった。
四
講堂の裏の空き地で、ヴィンセントは背の高い少女をフィリエルにひきあわせた。
「こちらはイグレイン。四学年よ。彼女は剣術なら、ラヴェンナと同格か、その上をいくかもしれない。交渉の結果、あなたの剣の稽古《けいこ 》に手をかしてくれることになったのよ」
四学年にはとても見えない少女だった。フィリエルは、二、三歳も年上の娘を見ている気がした。赤茶色の髪をきつく一つに束ね、やや面長の顔に静かな表情を浮かべ、灰青の瞳は落ち着き払っている。背丈もさることながら、肩幅も女の子にしては広く、すっくと立てば、微動だにしないふんいきがあった。
ヴィンセントが紹介を続けた。
「こちらはフィリエル。言うまでもない、最高学年うわさの編入生よ。剣術に関して、彼女はずぶのしろうとなの。めんどうがらずに一から教えてあげてね」
「よろしく、フィリエル。お手伝いできて光栄です」
容貌にふさわしい低音で、イグレインは言った。フィリエルは、とまどって紹介者をふりかえった。
「ヴィンセント、こんなにりっぱな人がトーラスにいるというのに、なぜわたくしが、間に合わせの訓練をしてまで、挑戦者にならなければいけないの」
ヴィンセントは辛抱強い口調で答えた。
「だから、言ったでしょう、挑戦は剣の試合にとどまるものではないって。イグレインは、たしかに簡単にラヴェンナから一本とるかもしれない。でも、みんなそんなことはわかりきっているのよ」
イグレインは、目にほほえみを浮かべて口を開いた。
「そうなんです。わたくしは卒業したら、たぶん、王宮の女性将校になるでしょう。なりたい望みも、それしかもっておりません。ガウンが似合う自分とは、はじめから思っていませんから。それに、軍隊に入りこめる女性が、女王陛下にとってどれほど貴重な存在かも、充分知っているつもりです」
フィリエルは驚き、そして感動した。たしかにイグレインは、女性美をもつ少女ではないかもしれない。しかし、ひとたび軍服をあてがえば、どれほど凛々《りり》しくひきたつか、制服の上からでも見てとれる気がした。
「見たいわ、あなたの将校姿」
「ありがとう。でも、わかっていただけますね。わたくしが剣をとっても、ラヴェンナから何も奪うことができないということが」
彼女はふいに陰のある表情をした。
「ロゼリットをひきとめることが、わたくしにはできませんでした。あの子とは、入学年からいっしょで――あの子のことは、とてもよく知っていました。かなうことなら、あんなことになる前に、あの子を取り戻したかった。わたくしがあなたに肩入れする決意をしたのは、だからなのです」
「そうだったの……」
フィリエルはいったん睫毛を伏せたが、すぐに強い光を浮かべて目を上げた。
「とてもよくわかったわ。わたくしも自分にできる最善をつくしますから、どうぞ、わたくしに剣を教えてください」
二人は、毎日放課後に舞踏室で待ち合わせ、練習を重ねることにした。彼女たちは体育着として、生成《き なり》木綿《も めん》の上着とスカートを支給されていたが、イグレインは黒のタイツと練習用の剣をもっていたし、フィリエルにも予備を貸してくれた。フィリエルが彼女のタイツをはくと、あちこちつめねばならなかったが、それでも、なんとかさまにはなった。
イグレインには、なかなか容赦のないところもあったが、フィリエルはすぐに彼女が好きになった。彼女は、外見以上に激しい性格の持ち主だったが、それをさらに上回る、鉄のような克己心《こっき しん》をもっているのだ。
初心者のフィリエルにくり返し注意することに、イグレインはいらいらしたそぶりを決して見せなかった。人に教えるセンスもよい。なにより、彼女が見せる模範の型は、いつでもほれぼれしてながめることができた。
「あなたは謙遜《けんそん》のしすぎね。だれもそんなに人を魅了することはできないわ」
フィリエルが心から言うと、イグレインは軽く笑った。
「わたくしがではありません、剣技はもともと美しいものなのです。むだな動きをそぎ落とせば、あなたにもなれます」
「ひと月で?」
「ひと月よそ見をせずにがんばってから、もう一度この話をしましょう」
練習を終えたフィリエルとイグレインが、つれだって歩いていたとき、ヴィルゴー館の角から生徒会三人組が出てきて、ばったりはちあわせした。
一瞬、気まずく双方の視線がからむ。舞踏室での練習は、秘密でもなんでもなかったので、生徒会も充分承知していることだった。
フィリエルはあわてて目をそらそうとした。生徒会役員は、いまだにフィリエルの無視を実行しているのだ。だが、このときは違った。褐色の髪のラヴェンナは、イグレインに軽蔑したまなざしを投げ、聞こえよがしに言い捨てた。
「ふん、召使い同士でいくらつるんでも、しょせんは召使いなのにね」
フィリエルたちは沈黙のまま行き過ぎたが、さすがに心穏やかではいられなかった。
「あの人は、どうしてああいうもの言いしかできないのかしら」
眉をひそめてフィリエルは口を開いた。
「ひとを召使いだと決めつければ、何かいいことがあるとでも思うのかしら」
「ラヴェンナは養女なのです」
抑制のきいた口調で、イグレインが言った。
「彼女のずば抜けた魅力は、あの人がはいあがったところに起因しています。全身|全霊《ぜんれい》をこめて、あの役割を演じきっているのです。でも――」
イグレインのまなざしの奥にある激情が、フィリエルにもほの見えた。
「それでも、ラヴェンナは小物です。ただのコピーにすぎない少女です。トーラスの生徒会長にすえる器だとは、わたくしには思えません」
そんなこともあって、フィリエルはさらに練習にはげんだ。最初は慣れない筋肉を使って体中が痛かったが、それも徐々にとれ、毎日毎日の運動に、食事までがおいしくなってきた。
イグレインは忙しい人のようで、放課後舞踏室へ来られないことも幾度かあった。そんな日も、フィリエルは一人で鏡の前に立って、自分の振りをなおすことに余念がなかった。
(これが、本当にあたしのとりえなのだろうか。こうして武器を操ることが……)
鏡に映る自分に自問する。剣を手にした赤金色の髪の少女は、表情こそ真剣だが、イグレインとは似ても似つかず、おぼつかなげなほっそりした体型をしていた。
(イグレインは、自分のとりえを自覚している。ヴィンセントも自覚している。ラヴェンナだって、そうなのだ。自覚しなければ魅力は生まれず、武器にはならないのだ……)
わかりたいと、フィリエルは痛切に思った。自分が何者かを知りたい。だが、どうしても、今はまだぴんとこないのだった。それでも今回の暴挙で、気がついたことが一つあった。
(あたしは、ラヴェンナたちを許せない。彼女たちの差別《さ べつ》のしかたを。抑圧《よくあつ》のしかたを。気の毒なロゼリットをあごで使い、その結果死なせたことを。そういう行動をとる少女を、一人でも生み出したことを……)
つまり、フィリエルは、自分のなかには少なくとも「闘志」があることに気がついたのだった。
練習を始めて数日したころから、放課後の舞踏室には、見学者が出はじめた。
マリエはもちろん、最初からつきあってくれた。フィリエルとイグレインのお茶を舞踏室まで運んでくれたりして、とてもかいがいしかったのだが、ある日、その役をどうしてもゆずってくれと、下級生に手を合わせてたのまれたと言って、手ぶらで現れた。
その日から、下級生の見学者が雪ダルマのように増えていった。最初のうちは、扉の外からのぞく奥ゆかしさだったものが、人数が増えるにしたがって大胆になり、今では我が物顔に壁際を占領している。
そして、フィリエルのもとには、何通もの手紙が届くようになった。直接わたされたり、人づてだったり、はたまたフィリエルの持ち物にこっそりしのばせてあったりする。
困惑気味のフィリエルは、マリエに相談した。
「どうもね……応援してくれているんだけれど、最後に必ず、あたしとイグレインの仲はどのくらい進んでいるのかと、書き添えてあるのよ。そりゃ、あたしはイグレインが好きだけれど、進むってどういう意味に使うの?」
「難しいところね」
寝台の上に散らかした便せんに囲まれて、しかつめらしくマリエは腕を組んだ。
「もっとかわいい手紙はないものなの。先輩に憧れていますとか、見守っていますとか、下級生らしい邪推《じゃすい》のない手紙は」
「そういう手紙もあるわ」
フィリエルは認め、便せんの一枚を取り上げた。
「これなんかそうよ。どうか二人きりで会える時間を作ってください、わたくしと星のテラスを歩いてくださいって、そう書いてあるの」
「問題が多いわね」
マリエはため息をついた。
「要するに、これが女学校ということかしらね。つまり、男の子がいないのよ。それともう一つ、みんなの目つきが変になったのは、これと関係があるとおもうわ」
マリエは冊子をさしだした。表紙にトーラス女学校文芸部の銘《めい》が入っている。ヴィンセントたちが刷り上げた、エヴァンジェリン最新作の普及《ふきゅう》版だった。初めて見るフィリエルは声をあげた。
「マリエったら、あなたまで読んでいたの?」
マリエはむしろ驚いて問い返した。
「あなたはまだ読んでいないの? あきれた。あなたくらいよ、まだ読まない人は」
「稽古にはげむと、夜眠いんだもの。このところ、ルーンがチェスをしにきても、目を開けていられないくらいなのよ」
「読みはじめたら、寝ないで読めるわよ。なにせおもしろいんだから」
請けあってから、マリエは考え深そうに言った。
「ただね、この小説のなかに、背の高い赤毛の貴公子が出てくるでしょう。この学校内で、とりあえず仮託《か たく》できそうな人といったら、イグレインになってしまうのではないかと思って」
「ぜんぜん似ていないわよ」
フィリエルは度肝をぬかれて言った。
「それはあたしたちが、ユーシス様を存じあげているから、わかることなのよ。身近にだれもいない女の子にとっては、剣の練習にはげんでいる、あなたたちこそいいカモよ。たぶん主人公の二人を、イグレインとフィリエルに見たてているのよ」
フィリエルはきょとんとしてマリエを見た。
「あたしのこの髪の色なのに?」
「あなたとイグレインが、なにやら親密に見えるのでしょうよ。まあ、気にすることではないわ。承知の上でのたわむれでしょうから」
マリエは言ったが、フィリエルは考えてしまった。マリエの持っていた冊子を借りて、ついにアデイルの小説を読んでみることにした。
(たしかに……)
たしかに物語はよくできている。そして、ロウランドの若君の造型には、ときどき思い当たるふしがなくもなかった。けれども相手の少年は、これがルーンだとは金輪際《こんりんざい》信じられなかったし、多発するラブシーンには、やっぱりくらくらめまいがした。
(あたしって、みんなと感性が違っていたりするのかな……)
すっかり自信をなくして冊子を閉じたとき、部屋の扉がたたかれ、ルーンが入ってきた。
「フィリエル――」
「なっ、何?」
その瞬間に実物のルーンを見ることは、この上なく気まずいことだった。フィリエルは我知らず飛び上がり、顔を赤らめて冊子を隠した。
ルーンは、フィリエルの態度を不審そうにながめた。
「なんだい、今のは」
「何でもないのよ」
「それなら、ぼくも見せるのやめようかな」
ルーンはへそをまげかけたが、思い直して言った。
「――手紙がきたんだけど」
「あたしに?」
「ぼくに」
フィリエルは一瞬のみこめなかったが、やがて息を吸いこんだ。
「ルーン――ルーネットに手紙ですって? どうして」
「知らないよ。たのまれたって、低学年が」
ルーンが手にしている封書を、フィリエルはあわてて取り上げ、便せんを開いた。それは、まごうかたなきラブレターだった。
いとしいルーネットさま
星のようにうるわしいあなたが、この学校へいらしてから、トーラスは何倍も美しいところになりました。わたくしの目には、あなたの面影《おもかげ》が焼きついて離れません。
あなたは品行正しく、深い信仰をもち、いつも物静かでいらっしゃいます。最高学年のなかで、慎み深く控えていらっしゃるあなたが、本当は、他のだれより驚異をそなえ、秀でておられることを、わたくしは知っています。
一人静かに書物に見入るあなたのお姿は、まるで一幅《いっぷく》の絵のようです。いつまでもながめていたいと、心を燃やして見つめています。あなたのお姿のあるところ、わたくしの目は絶えずさまよってしまうのです。
かなうならば、ずっとおそばにいたいと願ってやみません。こんなわたくしの気持ちを、どうぞお察しください。
[#地付き]L
「Lって、だれなのかしら。リティシア――まさかね」
フィリエルはうろたえてしまい、役にも立たないことを口走った。
「どうしてなの。あなたったら、いつも図書館で、いったい何していたの」
「だから、本を読んでいただけだよ」
マリエもこの手紙を読み、眉を寄せた。
「これはまったくのところ、大問題よ。恋する女の子の目はしつこいんだから。見破られたら、それこそたいへんだわ。ルーン、もう図書館へは行かないほうがいいわ」
「いやだ」
ルーンは頑固に口をまげた。
「この上に行き場所をとられて、どうしろというんだ。このくらいのことで、行くのはやめないよ。あそこには、ラグランジュの本があったんだ」
「何、それ」
「数論《すうろん》――解析《かいせき》学」
フィリエルは深くため息をついた。
「たしかに、これ以上目立たなくする方法なんてないと思うのに。どうして、ルーネットが注目されてしまったりするの。これだけあからさまに|偏屈《へんくつ》なのに」
マリエが肩をすくめた。
「一部の人には美女だと思われていること、一応知ってはいたけれどね」
「信じられないわね、その感性」
フィリエルは言ったが、手紙の内容が気になってしかたがなかった。
「『本当は、他のだれより……』って、この書き方は怪しいわ。何か、気づいていることがあるのかもしれない。困ったわね。たとえそうでなくても、それほど始終目をつけられていては、いつどこでばれるかもわからないというのに」
「たぶん、たいした意味じゃないよ。女の子って、すぐに手紙を出すみたいじゃないか」
ルーンは散らかった便せんを見ながら言った。マリエが、少々からかいをこめた。
「手紙がだれからのものか、気にならないの、ルーン。自分に気のある女の子なのに」
ルーンは真顔で見返した。
「どうして」
「あたしは気になるわよ。だれなのかを調べて、手を打っておかないと、やっかいなことになってからでは遅いんだから」
フィリエルは割りこんで叫んだ。
「ぜったいに見つけだすわ。すぐによ」
次の日、フィリエルははじめて自分から剣の稽古を休んだ。放課後を、犯人探しに費《つい》やす覚悟だったのだ。授業を受けながらも、そのことばかりが気がかりで、ろくに講義が聞けなかった。
考えてみると、このところルーンから目が離れがちだった。彼の周囲は油断なく見はらなくてはならないのに、自分のことにかまけて、ついつい手を抜いていた。彼の女装に慣れてはならなかったはずなのに、フィリエルまでが、いつのまにか見慣れていたのだ。
「あたしたちが図書館へ行くことは、ルーンにもないしょよ。隠れてこっそり見はるのよ。不審な女の子がいたら、名前をつきとめて、後でしっかりとあきらめさせるわ。災《わざわ》いの根は早くに絶つべきよ」
フィリエルがこわい顔でマリエに言うと、マリエはおかしさをかみ殺した。
「なんだかフィリエル、うちの息子に悪い虫がついたって、さわいでいる母親みたいね」
「へんなことを言わないでよ」
フィリエルは憤然とした。
「ルーネットの性別がばれたら、破滅するのはあたしたちなのよ。これ以上の大ごとは、どこにもないんだから」
図書館は、中門を一つ出たところにあった。学生ばかりでなく、修道院全体で使用する施設なのだ。蔵書数はかなりのもので、建物も大きい。それというのも、トーラス修道院で書かれる宗教論や注釈書《ちゅうしゃくしょ》には定評があり、図書館内部には印刷工房もあったからだった。
トーラス製の、美しく彩色《さいしき》をほどこした祈祷書《き とうしょ》は有名で、小金《こ がね》を持つ者なら必ず、我が家に一冊と願うのだそうだ。しかし高価で稀少《きしょう》なので、オセット家もまだ手に入れられないと、マリエは言った。
そんな図書館であるため、ここには礼拝堂ほどではないにしても、かなり厳粛な空気がただよっていた。
最初のうちこそ、礼拝堂の荘厳さを喜んだフィリエルだったが、シザリアの宗教的情熱はとてももてそうにないことが、だんだんはっきりしてきた。加えて、お説教がときに死ぬほど退屈なこともわかったため、このごろのフィリエルは、自分から求めて厳粛な場所に近づくことはなかった。自由な笑いにあふれた学舎の中庭のほうが、ずっといい。
そう感じる少女は少なくないと見えて、図書館に出入りする学生は、かなり限られていた。だからこそ、ルーンはここに避難するのであり、そのことにフィリエルたちも安心していたのだ。図書館がよいをする少女が皆無《かいむ 》ではないことを、考えておくべきだった。
階段をのぼって、暗い廊下から暗い広間に入る。図書館の壁には本棚が立ち並んでいるため、高窓の明かりしか入らず、昼でも照明が必要なほど暗かった。それでも、片側の一部は壁が開いており、蝋燭《ろうそく》をたてるようになった書見台がずらりと並んでいる。館内はひんやりして、古い革表紙《かわびょうし》や羊皮紙《ようひ し 》、インクやほこりといった、フィリエルも知っている多量の本の匂いがした。
フィリエルとマリエが、入り口の衝立《ついたて》に身を隠しながらこっそりのぞきこむと、ルーンは早くも書見台の一つに明かりをともし、足高の丸椅子に腰かけて、お気に入りの本に読みふけっていた。小さな蝋燭が、頭巾の影になった横顔を照らしている。
マリエが感心したようにささやいた。
「ああしていれば、そうそう見破られることはないと思うのだけど。彼って、メガネをかけていないと、なんだか美女に見えるのよね。男の子なのにねえ」
ルーンの居ずまいが妙に端正なことは、フィリエルも認めざるをえなかった。まるで、良家できちんとしたしつけを受けたかのようだ。天文台で、ディー博士がそんな指導をすることはあり得ないから、身につけるときがあったとしたら、その前の、旅芸人として舞台にたたされていた時期だろう。
(身近にいすぎて、あたしはもしかしたら、ルーンのことがよくわかっていないかもしれない……)
ふと、そんなことを考えた。どこかの女の子の、熱くこがれるまなざしを念頭に、ルーンの姿を見てみるのは、どうにも落ち着かない気分にさせられるものだった。
あちこち見回していたマリエが、おもしろそうにフィリエルの袖をひいた。
「見て、『慈愛の聖母』が歩いてくるわ。あの人も図書館で勉強したりするのね」
背の高い人影が、すべるように歩いてくるのをフィリエルも見た。聖母と呼ぶのが、少し気の毒なくらいの若さだ。シスター・レインは、フィリエルたちよりわずかに年上でしかない、最年少の教員だった。特待生の一人なのだが、優秀なため、この前ぎっくり腰になったシスター・ミードに代わって、博物学の臨任《りんにん》をつとめているのだ。
生徒たちがシスター・レインを聖母と呼ぶのは、ひとえに彼女の顔立ちが、礼拝堂の像を思い起こさせるからだった。のみで刻んだように通った鼻筋、伏し目がちの黒い瞳。美しい人であることはたしかだが、ただし、石像と同じくらいに生気《せいき 》がなかった。
若さがどこにも感じられない、亡霊のような歩き方。抑揚のない声に、平板《へいばん》な授業。まさに、彫像《ちょうぞう》が台座を降りたらこんな感じかと思われた。フィリエルたちはがっかりして、シスター・ミードが早く回復することを祈ったのだ。
「まさか、手紙にあったLは、シスター・レインのLではないでしょうね」
「よしてよ、もう。フィリエルったら」
疑ってかかるフィリエルに、マリエはため息をついた。だが、そのとき、一目で学生とわかる少女たちがつれだって入って来たので、二人はたちまち息をひそめ、シスター・レインのことは忘れ去った。
ルーンはページをめくろうとし、ふと、気配を感じて目を上げた。そして、頭巾を被った丈高い人が、彼の本に見入っているのに気づいた。
薄闇に立つシスター・レインは、礼拝堂の彫像そのものに見える。ルーンが思わず感心していると、彼女は低いささやき声で言った。
「この本がトーラスにあるのは、宝のもちぐされだと思っていたのに、読む人がいたのですね」
感情を見せない口調だったが、ルーンはその底に何かを感じ、彼女の顔を見なおした。
「何かご用ですか。シスター・レイン」
「隙のない人」
若い教師は目を伏せてささやいた。
「あなたのように、隙を作らずにすごせる人はまれです。ずっと見守っていましたが、あなたはただの生徒に見えました」
一瞬、ルーンの息が止まった。鋭いまなざしでシスターを見上げたが、にわかに思い直し、何も聞かなかったように書物のページをめくった。
「手紙を書いたのは、あなたですか」
「わたくしです。あなたのことが、とても気に入ったので」
やはり、何の感情もまじえずにシスター・レインは言った。
「ルーネット、生徒会にお入りなさい。優秀な生徒は、生徒会役員になる資格があります。わたくしは、生徒会|顧問《こ もん》でもあるのです。あなたのことを推挙《すいきょ》したいと思います」
「おことわりします」
ルーンはためらいもなく答えた。
「フィリエルをいじめた人たちの、仲間になる気はありません」
「赤い子猫ちゃんには、ないしょにしておおきなさい。あなたとわたくしとは、もっと大きな秘密を分かちあえるはずです。たとえば、あなたの持っているエフェメリス。たとえば、あなたを追っているヘルメス・トリスメギストス……」
抑揚がないだけに、その声にはぞっとする響きがこもっていた。今度こそ、ルーンは|驚愕《きょうがく》を隠せなかった。瞳に動揺を浮かべ、思わずたずねた。
「だれなんだ、あなたは」
シスター・レインは、銀に見える淡い色の睫毛をしている。彼女がその睫毛をゆっくりと上げると、そこには、見る者の心臓を止めるような瞳が現れた。蝋燭のたわむれに見えはしたが、それだけではなかった。
炎の映る黒玉《こくぎょく》の瞳でルーンを見下ろし、聖母はそっとささやいた。
「わたくしを止めることのできる者は、どこにもいないの。子猫ちゃんに何事もおきてほしくないのだったら、あなたは我を張らずに、わたくしに従いなさい」
五
翌日、ルーンは図書館へ行こうとしなかった。むっつりした顔で、部屋に戻ると言うのだ。フィリエルは驚いた。
「どこか具合が悪いの?」
「かもしれない……少し」
ルーンは言葉をにごした。
「部屋で寝ているよ。そのほうが、きみだって安心できるだろう」
「それはそうだけれど、どうしたの。熱があるの、頭が痛いの、お腹が痛いの?」
「単に寝不足なだけだよ」
そう言って、ルーンは本当に寮へ帰っていった。心配だったが、二日続けて剣の稽古を休むわけにはいかない。マリエに様子を見てくれるようたのんで、フィリエルはイグレインの待つ舞踏室へ向かった。
一日|空《あ》けただけで、フィリエルのつたない技術は、何日ぶんも後戻りしてしまった。イグレインは遠慮なくそれを指摘し、びしびししごいてくれた。何の成果も得なかった一日探偵にしては、代価《たいか 》はなかなか高くつくものだった。
「今日のあなたは気が散っていますよ。いったい何にかかずらわっているのです」
教師よりもよほど厳しく、イグレインは言った。
「ひと月しか猶予《ゆうよ 》のないあなたには、気を散らす贅《ぜい》沢《たく》はできないはずです。人々の期待を背負っていることを自覚してください」
フィリエルには、あえぎながらうなずくことしかできなかった。この日はまったくふらふらになった。
いつも以上に汗まみれになって、フィリエルとイグレインは、日参《にっさん》している浴場へ急いだ。修道院のお風呂は浴槽《よくそう》が小さく、それほど数がないので、時間によっては混みあってしまうが、夜遅くでなければ、たっぷりのお湯は用意されている。
湯気にまかれて浴槽にひたると、いつでもやれやれと思った。芯からくつろげるひとときだ。だが、今日のフィリエルは、絶対に浴場に来るわけにはいかないルーンのことを思った。
(そういえば、ルーンには、気を抜く瞬間はどこにもないのかもしれない……)
人目をしのぶルーンのために、フィリエルたちは、調理場から大きな金だらいをくすねて、なんとか自室で体を洗えるようにした。だが、水差しでお湯を運ぶにも骨がおれ、くつろぐにはほど遠いと思われた。
ルーンがどれほど無頓着《むとんちゃく》にうけいれようとも、男の子が女学校で生活するのはたいへんなのだ。顔色の悪かった今日のルーンを思い返し、フィリエルは、今まであまり思いやらなかったことを悔やんだ。
(具合が悪くなっても、当たり前だったかもしれない。もしも緊張し続けていなければならないなら、あたしだってそうなる……)
「あなたの心を占めていることは、何なのですか」
隣で湯につかっているイグレインが、仕切り越しに、少しからかう口調で問いかけた。仕切りは上下がすいているので、混んでいないときにはおしゃべりも可能なのだ。
「あなたには想像もできないことよ、イグレイン」
フィリエルは答えた。低いイグレインの笑い声が聞こえてきた。
「気になりますね、あなたの心をとらえる人がいるということは」
「人だとは、まだ言っていないのに」
「いいえ、そのくらいはわかります」
イグレインは思いをこめて言った。
「ロゼリットをずっと見てきましたから。女の子はそして、みるみるきれいになるんです。瞳にも肌にも声にも、今までになかった張りができてきて。あなたも同じですよ、フィリエル。編入してきた当時は、今ほど輝いてはいませんでした。たしかに非凡には見えましたが、編入してそのまま挑戦者になるほど、すごい人だとは思いませんでした」
「そう?」
フィリエルはいくらかとまどった。イグレインが、ルーンのことを考えている自分を見透かしたのだとしたら、おかしな話だった。フィリエルはルーンの世話ならば、ずっと昔から焼いているではないか。
「どうも、ぴんとこないけれど。たぶん、あなたが言っていることは意味が違うのよ」
「そうですか。それならそれで、わたくしとしてはうれしいですけれど――」
追及せずにイグレインは言い、湯船を出た様子だった。
「わたくしは、現在の気丈《きじょう》なあなたが好きですから。お先に上がりますよ、フィリエル」
(……つまりは、あたしだって、ルーンたちがトーラスへ来てからは、思った以上に気を張っているということなのよ)
フィリエルは、そういう結論を出した。そして、もう少しだけと念じて、心地よいお湯に沈んだ。
その真夜中に、フィリエルはぽっかり目をさました。ぐっすり眠るフィリエルにとって、そんなことはめったにないのだが、やはりルーンのことが気にかかっているのだった。
浴場からもどってのぞいてみると、ルーンは本当にふとんを被って寝ていた。礼拝にも出なかったし、夕食もことわったのだ。
(ちょっと様子を見てこよう……)
彼が病気になったのではないかと思うと、ひどく心配だった。修道院にも診療所はあるが、ルーンをつれていけば、まず正体を隠しとおすことはできないだろう。
伯爵家の送ってきた荷物に常備薬があっただろうかと、あれこれ考えながら、フィリエルは起きあがってランプに火を点した。そして、隣の部屋に向かった。
扉を細く開けたとき、うめき声が聞こえた。ぎょっとしたフィリエルは、あわててなかへすべりこんだ。
「ルーン、苦しいの?」
たずねかけても、返答はなかった。ランプをかかげると、ルーンは腕を投げ出し、上掛けをくしゃくしゃにしていたが、眠っている様子だった。頭巾もかつらもはずしているので、久々に見る短い髪が顔にかぶさっている。
(寝相はよくないのね、ルーンでも……)
らちもないことに感心していると、彼は寝返りを打って、再びうめいた。今度は心配がぶりかえすほど、その声はとぎれとぎれに長く続いた。
(うなされているのかしら……)
前髪をかきあげてやると、びっしょりぬれていることがわかった。それでも熱がある様子ではなく、汗をかいた額は冷たい。彼はまた身じろぎした。目をさまそうと、もがいているようでもあった。あまりに苦しそうに見えたので、フィリエルは起こすことにした。
「ルーン」
起こすのは難しくなかった。肩をゆさぶると、彼はぱっと目を開いた。フィリエルがびっくりしたのは、ルーンがそのままバネ仕掛けのように起きなおったことだった。
「ちょっと……」
息をはずませ、ルーンは呆然とした顔でフィリエルを見た。ランプの明かりに照らされ、彼の大きく開いた瞳孔《どうこう》がくっきりと見える。フィリエルはその瞳に、自分の姿が映っていないような気がして不安になった。
「大丈夫? 来てみたら、うなされていたみたいだったから」
フィリエルが弁明のように言うと、ルーンはようやく体の力を抜いた。寝台にうつ伏せに倒れこみ、彼は小声で毒づいた。
「夢だ……くそっ」
よほど恐ろしい夢だったのだろう。フィリエルは、ルーンが体の震えをしずめようとけんめいになっていることに気づいた。気の毒になり、ホーリーのおかみさんがなぐさめてくれるときのように、乱れた髪を何度もなでてやった。
「どんな夢だったの。ひとに話せば、あんがい楽になるものよ」
ルーンは答えようとしなかったが、フィリエルが髪をなでるうちに、息づかいと震えは徐々におさまっていった。やがて、彼はぼそりとたずねた。
「どうしてそこにいるんだ、フィリエル」
「具合が悪そうだったから、見にきたのよ」
「眠るんじゃなかった……わかっていたのに」
ルーンはつぶやいた。フィリエルもそれで、彼のいつもの夜更かしに思い当たった。
「あなた、まさか、眠らないでいるためにチェスをやっていたんじゃないでしょうね」
「夜中にチェスをもってきたのは、ユーシスだったよ」
ルーンはものうげに言った。
「だけど、ぼくにとってもそれは好都合だったんだ……」
「あきれた。眠らずに生きていける人間なんていないのに」
フィリエルは息を吐いた。夜、一睡もするまいとがんばっているなら、昼間に教室で居眠りをするのは当然だった。
「あたしがここにいてあげるから、お眠りなさい。へんな夢にうなされそうになったら、あたしが起こしてあげるから」
「そういうことは、気安く言うものじゃないよ、フィリエル――真夜中にぼくの部屋へ入ってくることだって、ほめられたものじゃない」
こんな場面でも、素直な返事はしないルーンだった。今にも泣き出しそうだったくせにと、フィリエルは腹立たしく考えた。
「だれの部屋にでも黙って入るわけではないわよ。ひとの親切をふみつけにすること、言うものじゃないわ」
ルーンは少し口をつぐんでから、小声で言った。
「フィリエルは、他人のことではいっしょうけんめいになるくせに、自分のことでは不用心なんだ。いつだってそうだ」
「何言っているのよ。あたしは、用心しなければならない人としなくていい人とは、ちゃんと見分けることができます。あんまり見くびらないでよ」
「変わらないね、フィリエルって」
ルーンはつぶやいた。
「今でもぼくを弟だと思っている?」
「たくさん譲歩《じょうほ》して、同年ということにしてもいいわ。でも、年上だとは思えない。お兄さんというものはね、もっとこうたのもしく――」
得々として説明をはじめたフィリエルだったが、最後まで話すことはできなかった。起き上がったルーンがいきなり彼女を抱きすくめ、くちびるにくちびるを押しつけたからだった。
(?????)
フィリエルは最初、キスをされているということもわからなかった。おしゃべりを封じる、新手の手段かと思ったのだ。ルーンを引き離そうとして、かえって彼の背中に腕を回す結果になったとき、ようやくフィリエルの念頭に、恋人たちのふるまいが浮かんできた。
しかし、それでもまだ解《げ》せなかった。いつのまにかフィリエルは寝台に押し倒されており、折り重なるルーンの体熱を体で感じている。ルーンはひたむきに、乞うような熱心さでフィリエルのくちびるを求め続け、舌をからめていた。天文台でこんなことを学べるはずがないと、フィリエルは断言してもよかった。
「どこでおぼえたの、こんなこと」
くちびるが離れたわずかな隙をとらえ、フィリエルは詰問した。ルーンは、はっとした様子で身動きを止めた。彼がつぶやいたときには、げんなりした調子があった。
「……ふつう、もう少し他に、言いようがあるんじゃないか」
それでもフィリエルは言い張った。
「だって、おかしいもの。だれに教わったのよ、あたしが知らない間に」
(まさかユーシス――あたしったらばかばか、こんなときにあたしって子は、なんてことを考えるのよ……)
フィリエルはフィリエルで、りっぱに動転しているのだった。ルーンが知らない顔を見せたこと、しかもそれを、フィリエルに見せつけようとしたことは、世界中がひっくり返るようなショックだった。
「きみが知らない間に、ぼくのしていることなんか、たくさん山ほどあるよ」
フィリエルから離れ、ルーンはいらだたしげに言った。ひどく不機嫌ではあるものの、もういつもの彼だった。ルーンは、脱ぎ捨ててあった制服を肌着の上にひき被《かぶ》ると、片手に頭巾をつかんで部屋を出ていこうとした。
「待ってよ、こんな夜中にどこへ行くつもりなの」
思わずフィリエルは声をかけたが、ルーンはじろりと見ただけだった。
「きみが勝手に入ってくるんだから、ぼくは外へ行くしか方法がないだろう」
とりつくしまがない。フィリエルもそれ以上は止められなかった。たしかに今は、二人で顔をつきあわせていられる状態ではなかった。
ルーンがドアを閉めて出ていき、一人で部屋に取り残されてから、フィリエルは考えた。
(じゃあ、なんて言えばよかったの……)
ルーンが一瞬どう猛《もう》に見えたことを、どう言えばよかったのだろう。今やさしく寝かしつけようとした子どもが、いきなり豹変《ひょうへん》して、びっくり箱よりも驚かされたことを、どう言えばよかったのだろう。そんなふうにおどかすほうが反則なのに、ルーンはルーンで勝手に傷ついている。
(勝手なんだから――不当にもほどがあるわよ。ひとより先に、恋人のキスのしかたを知っていたりして……)
そう考えると歯ぎしりしたくなるフィリエルだったが、それでもまだ、あのとき自分はどう言えばよかったのかと、もう一度思いあぐねるのだった。
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第三章 花飾りの舞台
一
「前回は、統治《とうち 》の面から男性と女性における異なった傾向についてお話ししましたが、今日はさらに拡大して、わがグラールそのものの女性的立場を考えてみましょう――」
小柄なシスター・ナオミが、あいかわらず淡々とした口調で講義をしている。午前中の授業が全滅だったフィリエルは、なんとかこれだけは集中しようとつとめたが、ともすると意識はそがれた。
「――男女差を国に当てはめることは、それほど無益《む えき》なことではありません。この大陸にあまたある国々のなかで、ほんの二、三の少数部族国家を除けば、グラールは、女性のみが玉座につく唯一の国家です。他の諸国は、継承《けいしょう》に問題さえなければ王を、男性を戴《いただ》いています。
つまり、人類がごく自然にふるまえば、最高権力を得るためにより力をそそぐのは男性なのです。わが国のユニークな機構がなければ、それはグラールの男性においても同じことです。
抽象概念《ちゅうしょうがいねん》のために一生を捧げる能力は、個人に差はあれども、男性が女性にたちまさっています。われわれ女性は、男性のその能力をあなどったり、うち消そうとしてはなりません。グラールの男性がおのれの勇敢さに誇りを持ち、けっして女性の尻にしかれていると考えないのは、女王陛下がまずそのことを深くご承知であられるからです――」
今日の講義はなかなか前置きが長かった。フィリエルは、ずきずきする目をそっとこすった。
真夜中に出ていったルーンは、どこでどうすごしたのか、明け方になってやっと戻ってきた。彼の部屋の扉が音をしのばせて閉まるのを、フィリエルは自分の部屋で、耳をそばだてて聞いていた。つまりは、彼女もあれから一睡もしなかったのだ。
今、この教室にルーンは来ていない。他の少女たちは、ルーネットの熱意のなさを充分知っているので、いなくても気にとめなかった。
(シスター・ナオミに相談しちゃおうかな……男の子の考えることがわかりませんって)
やけ気味になって、フィリエルは考えた。だが、老修道女の穏当《おんとう》な顔を見つめていると、その意欲はしぼんだ。シスターは、こちらが顔を赤らめるのもむなしいほど、きちんと男女の構造的、機能的違いを説明してくれるかもしれないが、フィリエルが悩んでいるのは、もっと微妙でこみいった問題だった。
(女学校の構内で、男の子に初めてのキスをされた女の子って、いったい……)
だれかにキスを許すことに関しては、フィリエルにもそれなりの好奇心と憧れと、しかるべく思い描くシチュエーションがあったはずだった。そういったものはいったい、どこへいってしまったのだろう。
ホーリーのおかみさんは、いきなりキスをせまるような男がいたら、横っつらをひっぱたいて目をさまさせなさいと言っていた。そういったフィリエルの誇りは、どこへいってしまったのだろう。
(だって……まさか、ルーンが……)
ルーンのことを、女の子と考えたことは一度もない。それだけはたしかだった。マリエがどんなに美女に見えると請けあったとしても、フィリエルの目には、やはり女装しているとしか映らなかった。ルーンの中身が女の子とどれほど違うか、フィリエルにはいやというほどわかっていたからだ。
ルーンには、女の子のやさしさや気配りがまるでないし、こまやかな情感もない。興味をもったことには熱中して突っ走るが、それはたいていの場合、人や人の輪に関することではない。他人の気持ちが読めず、愛想笑いもけっしてできない。
それらの全部が、フィリエルとはまったく異質の性格だった。そんなルーンがさほど目立ちもせず、よく女学校で日々を送ってきたものだと思うが、そうしてみると、彼も死活問題となれば、多少の配慮はできるのだ。フィリエルに対しては、何の配慮もしないようだったが――
(あたしが一番、ルーンは男の子だとわかっていたはずなのに……)
わかっていない面もあったのだと思うと、フィリエルはどうしても悔しいのだった。
「フィリエル、ルーネットはどこにいるか知っている?」
授業が終わってマリエがたずねた。
「知らない」
フィリエルが不機嫌に答えると、マリエは目をまるくした。
「いやだ、あなたたち、けんかしたの?」
「言っておくけれど、一方的にあちらが悪いのよ。あたし、しばらく顔を見たくない気分なんだから」
「しようのない人たちね、けんかのできるような情況じゃないでしょうに。あの人を放ったらかしておいて、いいことは一つもないわ。昨日のルーネット、なんだか様子がおかしかったじゃないの」
マリエは顔をしかめて言ったが、フィリエルはつむじをまげたままだった。
「あれなら、ぜんぜんたいしたことはなかったのよ。病気じゃなかったの。夜中に出歩くくらい元気なんだから、マリエも心配しなくて大丈夫よ」
驚いてマリエは息を吸いこんだ。
「彼女、夜中に出歩いたの? どうしてそんな危ないこと、止めなかったの?」
「危ないって、だれが」
「どちらにとってもよ。彼女の正体がばれても困るし、他の女の子に何かあっても困るわ。あなた、彼女の性別を忘れているんじゃないでしょうね」
よりにもよってマリエに、そんなことを言われようとは思わなかった。フィリエルは友人を一瞬見つめたが、急にくるりと背を向けて、度はずれた明るい声で言った。
「そうだ、わたくし、急いで舞踏室へ行かなくちゃ。後はマリエにおねがいするわね」
「フィリエルったら、もう、すごく変よ」
憤慨するマリエの声を背中に聞きながら、フィリエルは逃げるように教室を出た。いつかは、マリエにもこだわりなく話せるかもしれない。だが、今はまだとても、それ以上ふれることのできる自分ではなかった。
着替えをすませ、舞踏室へ行くと、久しぶりにヴィンセントが来ていた。彼女もたいへん多忙な女性なので、放課後をそうそう見学に費やすひまはなかったのである。
「麦穂の乙女祭実行委員会が、当日の次第を決定したから、あなたがたにお知らせしようと思って」
ヴィンセントはてきぱきと言い、メモをめくった。
「午前中は、いつもの祭日と同じ大礼拝、合唱は午後一時から礼拝堂で行います。正門はこの日、昼から開放よ。少なくとも三つ先の村まで、村人たちがトーラスの合唱を聞きにくるわ。大事なのはここ、挑戦の舞台は三時から、いつもの講堂の中庭ではなく、礼拝堂隣の外壁広場で行われることになりました」
イグレインが、赤茶色の眉をさっと寄せた。
「外壁広場ですって。公開するつもりなのですか」
「これがラヴェンナの画策よ」
落ち着いた声でヴィンセントは答えた。
「生徒会は、合唱に付け足すアトラクションとして、教師の賛同を得てしまったの。正門わきの高台ですもの、修道院の人々だって、村の人だって、通りかかればすぐに目につくところよ。あの人、生徒だけではもの足りず、公衆の面前で挑戦者をやっつけたいみたいね」
「目立ちたがり」
イグレインは口のなかでつぶやいた。ヴィンセントは同意するように目をやった。
「アトラクションだから、舞台はまた聖劇仕立てになるわ。生徒会の派手な衣装は、もう一度出番をもつわけ。けれど、中身は騎士が竜を殺したところからはじまるの。そこへよこしまな挑戦者が現れて、美姫《びき》を奪おうとするという筋書きですって。これについて、文句をつけることは一切できないの――挑戦される側の条件だから」
「ずいぶん……大がかりなことになっているのね」
初めて実感したフィリエルが、感嘆するようにつぶやくと、ヴィンセントは青い瞳をフィリエルへふりむけた。
「あなたが怖《お》じ気づけば、ラヴェンナは目的の半分を果たしたことになるのよ。彼女たちは、中断した夏至祭の聖劇の続きを行うことで、威信の挽回《ばんかい》をねらっている。しかも、校内にとどまらない大勢の目にそれを焼きつけようとしている。必死なのよ、彼女たちも」
「参考までに聞くけれど、もしも、挑戦者が挑戦を撤回したらどうなるの?」
フィリエルがたずねると、ヴィンセントは肩をすくめてから答えた。
「支障はないのよ、べつに。生徒会は、挑戦者が倒された後まで筋書きを用意しているでしょうから、まあ、アトラクションは楽しいでしょうね。完膚《かんぷ 》無きまでおとしめられる挑戦者の代役は、たぶん、赤金色のかつらを被っていると思うけれど」
フィリエルは黙りこんだ。観察するようにヴィンセントは見やった。
「わたくしたちは、ただ、あなたに賭けただけなの。あなたが引くというなら、やっぱりただ、賭けをやめるだけのこと。なんのことはないのよ」
「始めてしまったことは、終わらせなくてはいけないわ」
フィリエルは言った。ヴィンセントがどれほど気軽に言っても、それは表面だけのことだと、鋭く感じとっていた。
「怖じ気づいたりしていないわ。挑戦をとりやめるつもりはありません」
フィリエルのきっぱりした口調に、ヴィンセントは光が射したようにほほえんだ。
「そう言ってくれると、正直なところ、すごくうれしいわ。今度、広報にあなたがたのインタビューを載せますからね。とっても華やかに宣伝しちゃうから」
「……ほどほどにね」
フィリエルは、もっとうれしがることができればよいのだがと、思いながら応じた。ヴィンセントたちの広報ならフィリエルも読んだが、美辞麗句《び じ れいく 》の修飾語が多すぎて、少しばかりへきえきしたのである。
ヴィンセントがはずむ足どりで行ってしまうと、フィリエルとイグレインは、あらたな気合いとともに練習にとりかかった――少なくとも、フィリエルの意識上ではそのつもりだった。だが、フィリエルの手から三度剣をたたき落としたイグレインは、険しい顔で告げた。
「やめましょう、フィリエル。これ以上練習しなくてもけっこうです」
「イグレイン?」
剣を拾ったフィリエルは、あわてて顔を上げた。見下ろすイグレインの表情に、冗談を言っている様子はなかった。
「そんなことを言わないで。今、挑戦をあきらめないと誓ったばかりじゃないの」
「それなら、あなたのその、ミソサザイほども集中力のない態度は何なのです」
イグレインは厳しく問い返した。
「スランプと呼べるほど、あなたに技がついていたかどうかは疑問ですが、昨日今日のあなたは、そう言っていい状態です。退行《たいこう》してしまっている。そんなあなたを相手に、わたくしはむだな指導をしたくありません」
フィリエルは呆然とした。
「あの……そんなに……わかってしまうものなの?」
「当然です」
イグレインは声を荒らげたりしなかったが、ひどく怒っているのが感じられた。
「剣筋が完全にくもっています。あなたの瞳も同じです。そんなありさまで、ラヴェンナにうち勝つことができると、ほんのわずかでもお思いですか。それこそいい道化ですよ。あなたが公衆の面前で赤恥をかきたいのなら、わたくしは手を引かせていただきます。かつらを被った道化にまかせたほうが、まだしもましです」
拾ったはずの剣を、フィリエルはまた取り落としてしまった。イグレインにまで見放されるようでは、麦穂の乙女祭では、まずそのとおりになるのだろう。何もかもがうまくいかず、八方ふさがりで、めちゃくちゃだと思った。フィリエルはうつむいて、泣くまいとこらえた。
床板《ゆかいた》を鳴らして、イグレインの靴音が遠ざかった。立ちつくすフィリエルを残して、彼女は行ってしまう。フィリエルは動けなかった。だが、イグレインはドアを出ず、ただ見学者を全部追い出して扉を閉めてきた。
「泣いてはいけません、フィリエル。あなたは今すでに、見られる人なのですから」
戻ってきたイグレインの口調は、前より柔らかくなっていた。
「二度と指導をしないとは言っていません。あなたの問題を片づけてからいらっしゃいと言っているのです」
フィリエルは、涙のにじむ瞳を上げた。
「でも、イグレイン……山ほどあって、手がつけられないの」
「落ち着いて考えれば、そうでもないかもしれませんよ」
イグレインは、フィリエルの両肩をそっと押さえた。
「わたくしに言ってさしあげられるのは、その程度ですが。あなたは本来、素直な人だと、わたくしは思っています。だから動揺も人一倍出てしまう。それならば、その素直な本性にそってみたらいかがです」
着替えをすませると、イグレインは行ってしまった。フィリエルもそのころには気持ちが落ち着いて、平静に別れることができた。とはいえ、何かが解決したわけではないのだが。
一つ年下なのに、フィリエルよりよほど大人びた分別のあるイグレインが、本当にうらやましかった。彼女は、立ち入ったことを一切聞かなかった。それは、フィリエル自身で決着しなければならないことがわかっているからだろう。
(女友だちと告白ごっこをするように、彼女に打ち明けてみたいと思う、あたしが子どもっぽいだけなのかしら……)
イグレインにキスの経験があるかどうか、聞いてみたかった。どんな子とどんなときにしたか、どう感じたか。そして、思慮深い彼女なら、フィリエルの話を聞いて、何がいけなかったと思うか――
(……あたしの応じ方がまずかったのよね、やっぱり……)
木陰に座ってしばらく風に吹かれ、ふっと気を抜いたときにそう思えた。フィリエルは広場に続く並木道に目をやったが、見てはいなかった。
やぶからぼうだったとか、乙女の品位に傷がついたとか、フィリエルの側の都合を一切わきに押しやって考えると、昨夜のルーンは、どう見ても変だった。まったくルーンらしからぬふるまいだったのだ。
(様子が変だった。午後からずっとおかしかった。マリエでさえそう言っていたのだ……)
フィリエルも心に警鐘《けいしょう》を感じて、夜中に部屋を見にいったはずだった。ルーンに何事かがあって、あれが彼の出したサインだとしたら、フィリエルは、その応じ方を完全にまちがえたのだ。
(ルーンが口で言ったためしがないことくらい、あたしにはわかっていたはずなのに……)
ふいに鼓動《こ どう》が速くなり、いてもたってもいられなくなって、フィリエルはエリーズ館へと走った。今このときに、彼から目を離すなどと、なんというばかなことをしでかしたのだろう。マリエにまかせていいはずがない。ルーンは、フィリエルにこそサインを送ったというのに、フィリエルが思い至らなければならなかったのだ。
生徒たちが出払っているため、寮はひっそりしていた。この時間、病気でもない限り自室にこもる生徒などいない。深閑《しんかん》とした階段を一息に駆け上がりながらも、フィリエルは胸さわざがした。彼は部屋にいないだろうと思った。フィリエルの知らない、手の届かないところへ行ってしまったという、わけもなくつのる予感――
(あたしってばか。本当なら、先に図書館へ向かうべきだったのに……)
悔やみながら、ともかくも隣の部屋のドアを引き開けた。そして、その場に凍りついた。ルーンは部屋にいた。服を全部脱いで――下ばき一つつけないで。床の中央には、金だらいがすえてあった。フィリエルとしては、声も出なかった。
「……どうして性懲りもなく、黙って入ってくるんだ、きみは」
思い切り迷惑そうにルーンが言った。まず、当然すぎるほど当然である。
「ドアを閉めてくれよ。だれもいなくたって、やばいだろう」
フィリエルは、飛び上がるようにして扉を閉めた。だが、自分はしっかり扉の内側にいた。
「あのねえ、フィリエル――」
ルーンは抗議をはじめたが、ようやく口のきけるようになったフィリエルは、息を殺して言った。
「どうしてなの、それ――いったいどうやったら、そんな傷……」
気まずくはあっても、ルーンの裸そのものは、フィリエルにとって死ぬほどうろたえるものではなかった。見慣れているわけではないが、知らなくもなかったからだ。彼の肩胛骨《けんこうこつ》もあばらの見え方も、まったくはじめて見るというわけではない。
だが、今のルーンの姿は、だれが目にしようともぎょっとするものだった。背中にも、腕にも、脇腹にも、無数に、まるでかぎ爪《づめ》でかきむしったような傷跡がついていた。打ち身の|痕跡《こんせき》もあり、火傷のあともある。特に、胸の真ん中の焼けただれた傷痕はひときわ無惨だった。| 紅 《くれない》に浮きあがったそれは、二匹の蛇がからんだ杖の形を、見まちがえようもないほどくっきり残していた。
「もう、なおっている。出て行けよ。きみが気にすることじゃない」
ぶっきらぼうにルーンは言った。それでもフィリエルが動かないので、あきらめて下着を手にとった。
「女学校へなど、来るんじゃなかったよ。女の子のほうがプライバシーを尊重しないなんて、少しも知らなかった」
「プライバシーですむことなの、それが」
肌着の袖に手を通しはじめたルーンの腕を押さえ、フィリエルは声をつまらせて言った。
「どうして――どうして、今まであたしに教えなかったの。そういえば、あなた、絶対に見せようとしなかった。そんなたいへんなことを、このあたしに秘密にするつもりだったの」
「きみに言えることなどないよ。今だってそうだ」
ルーンは腹を立てていたが、それは、思いもかけず不利に追いこまれたせいのようだった。
「蛇の杖のやつらは、博士のもとへ送りこむために、旅芸人一座からぼくを買い取ったんだ。それは、フィリエルとは何の関わりもないことだろう。たとえあいつらが、持ち物には凡帳面《きちょうめん》に印を押す方針で、それをぼくに実行したとしても、それもきみには関係ないことだ」
フィリエルは息をつめた。
「それ以上、関係ないって言ったらなぐるわよ、ルー・ルツキン」
本当は問答無用でぶってもよかったのだが、あまりに傷だらけなルーンを見てしまっては、すぐにできなかった。間近に見ると、胸の傷跡はさらに生々しかった。この火傷が故意に作られたことを思うと、目がくらみそうだった。
「ひどい……こんなの、ひどすぎる」
涙がわきあがってきたが、その原因の半分は痛ましさであり、もう半分は、今ごろになって痛ましい思いをする情けなさだった。
「許せない。こんなことをする人たちがいるなんて、絶対に許せないわ」
フィリエルの涙がほおをつたい落ちるのを見て、ルーンは目を伏せた。怒りを示すのをやめ、芯からがっくりしたような声音で言った。
「泣かなくていいのに――フィリエルはやっぱり泣くんだ。だから見せたくなかったのに。同情しなくても、ぼくは大丈夫なんだよ」
「何が大丈夫よ、わからない人ね。あたしが泣きたいのは、あなたがそんなふうに何も言わないことよ」
フィリエルは顔を覆って、しばらく気がすむまで泣いた。その間に、ルーンは黙々と服を着た。かなりたって、フィリエルがハンカチで鼻をかみ、ぐすぐすいわなくなったころに、ようやくルーンは口を開いた。
「この傷はぼくの傷だよ。ぼくの因縁《いんねん》だ。フィリエル、きみまで許せないと言わなくていいんだ。きみが後押ししてくれなくても、ぼくは充分許せないと思っているんだから」
寝台に座りこんでいたフィリエルは、ルーンを見上げた。黒と白の制服と頭巾《ず きん》をきっちり着込んだルーンは、すでに傷だらけの少年ではなく、超然としたルーネットになっていた。その濃い灰色の瞳も、びくともしない沈着《ちんちゃく》さをたたえているように見える。
ルーンは言葉を続けた。
「きっと、フィリエルには想像つかないよ。殺す以外のあらゆることをして、あいつらはぼくの体に跡を刻んだんだ。二度と忘れないように――たしかに、忘れられないよ。あいつらを全員殺すまで眠れないと思うほど、忘れられないんだ。だけど、これが、どれほど暗い思念《し ねん》かということもわかっている。だから、きみは共有しようなどと思わなくていいんだ」
静かにあっさりと語られるだけに、内容の凄《すご》みが伝わってきた。フィリエルは身震いしたが、そうですかと言って引きさがれるはずがなかった。
「暗い場所だから一人で行こうと言うの。そういう考え、絶対にまちがっているわよ。だれも何も関係ないのだったら、どうしてあなたはここにいるの。その傷の原因をつくったそもそもの研究は、どこのばかがしていたの。あたしを除外《じょがい》しようとしてもむだよ。だいたい、どこをどうしたら、あたし一人が脳天気に笑っているという構図が出てくるわけ? |昨夜《ゆ う べ》も言ったけれど、あなたあたしを見くびっているのよ」
ルーンは睫毛《まつげ 》を伏せ、気の重い口調で言った。
「昨夜のことは、ぼくが悪かった――ごめん。どうかしていたみたいだ」
今度こそ問答無用だと、フィリエルは思った。勢いのよい平手打ちは、相手の頭巾のせいでだいぶ威力《いりょく》がそがれたが、それでもルーンはすっかり驚いて、ルーネットの仮面を脱ぎ、目をぱちくりさせた。
「これは正当ですからね。ルーンが悪いのよ。あやまったりするからよ」
「あやまって、どうしてぶたれなくてはいけないんだ」
「そんなことは自分で考えなさい。あたしはこれで、ふんぎりがついたから」
フィリエルは言い返した。泣いたことも、言ってみれば一種の感情の浄化《じょうか》だった。問題はまたさらに深刻なものが増えたわけだが、フィリエルは、前より思いまどわずにいる自分を感じることができた。
「あたしがあなたの心配をするのも、正当よ。やめさせようとするのが、あなた自身であってもね。これをしないと、あたしの体に悪いの。だから、自分のためにもやめないわ」
「どういう理屈なんだ、それは」
ルーンは、困惑して|眉《まゆ》をひそめた。フィリエルは琥珀《こ はく》色の瞳で挑むように見つめた。
「あなたはまだ、人殺しをしていないでしょう。あたしもそうだけど、あなたが殺したいと思う人なら、あたしが殺しても不思議はないのよ。自分だけだと思うのは思い上がりよ」
「ばかを言うなよ」
「あたしのほうが分があるわ――剣を習っているもの」
フィリエルはほほえんで言い、身をひるがえしてルーンの部屋を後にした。そのままイグレインを探すつもりだった。
ルーンはあっけにとられて見送ったが、やがて深くため息をついた。
「……できるわけないだろう。ばかだな」
二
ルーンはメッセージをうけとった。シスター・レインは博物学の授業中、一度たりともルーネットの顔を見なかったが、彼女が教室を出た後に、教科書にカードがはさんであるのを知った。
考える時間をあげたはず。一時すぎにヴィルゴー館三階の奥の部屋へ来なさい。
なるほどと、ルーンは考えた。一時からは、最高学年の授業が体育になるのだ。隅で見学しようと思っていたので、少々心残りではあった。男子としては当然のことだが、ルーンは、体育の見学が決して嫌いではなかった。
制服から解放された少女たちは、みな生き生きして、個性も体型も際だっている。そんななかで、ひときわ元気のよいフィリエルを見るのは、いつも心地よかった。
(ちゃんと、彼女が絶対に目を配らない時間を選んでいるな……)
カードをポケットに押しこみ、深呼吸する。フィリエルにさとられるわけにはいかなかった。彼女がどう言おうと、これはルーンの問題だ。自分にくいとめられる限りは、フィリエルを巻きこみたくなかった。
「午後は部屋に戻っているから」
ルーンが言うと、フィリエルは少しあやぶむ顔をした。
「まだ具合が悪いの?」
「いや、見学理由がめんどうくさいから」
「それもそうね……」
フィリエルは納得し、マリエや他の少女とつれだって、ルーンには不可侵《ふ か しん》の部屋、更衣室へと出かけていった。
授業が始まったのを見計らって、ルーンはひっこんだヴィルゴー館の建物へと向かった。両側を壁にはさまれた、しんとした石だたみの突き当たりにこの寮がある。初めてではないので、ルーンは足早に通りすぎ、人気のないポーチをくぐった。
階を上ったことはなかったが、なかの作りはさほどエリーズ館と違わない。違うとすればドアの数で、エリーズ館の二部屋か三部屋に一つしかついていなかった。
廊下の奥も様子が少し違った。エリーズ館なら部屋はすべて横並びだが、ここには突き当たって正面のドアがある。三階の奥の部屋といえば、この角部屋だった。今さらためらってもしかたないので、ルーンはノックした。ドアの取っ手を回すと、それは開いた。
「ようこそ、生徒会室へ」
声がかかり、ルーンはあたりを見回した。うそのように広大な部屋だった。窓辺までは、たぶん舞踏室と同じくらいあるだろう。鏡も舞踏室と同じようにある。ただ違いは、一角に厚い敷物がしかれ、布張りの長椅子や肘《ひじ》掛け椅子、衝立《ついたて》、テーブルといった優雅な家具が並べられているところだった。窓には、おそろしく丈のあるカーテンもひいてある。
ルーンに声をかけたのは、長椅子に美姫《びき》よろしく横座りしたヘイラだった。リティシアもいる。
「お茶をいかが、ルーネット」
ルーンは無視して、窓辺のほうへ視線を向けた。鋭く剣を打ち合わせる音がするからだ。ラヴェンナが剣の稽古《けいこ 》をしていた。驚くほどしなやかな仕草で、相手の剣を払っている。だが、どう見ても対する人物が師範《し はん》だった。ときおり、鋭い声がとんだ。
「甘い。肘《ひじ》。もっとよく見て」
ルーンは向きなおった。
「シスター・レインに呼ばれたんですが」
「ラヴェンナが来るまで、待って」
けだるい口調でヘイラが答えた。灰がかった金髪を手ですきあげ、目配せする。
「お座りなさいよ、ルーネット」
ルーンは最初、彼女たちが体育着を着ていると思ったのだが、まちがっていた。体育着と似ているのは白っぽいところだけで、ヘイラとリティシアは、もっと何というか、ろこつに体の線が出るものをまとっていた。
「恥ずかしがらなくてもいいのよ」
リティシアがあでやかに笑った。彼女はヘイラより胸の肉付きがよい。自分でもそれを承知して、誇《ほこ》っているかのようだった。
「恥ずかしいのは、そちらだと思いますけれど」
真顔でルーンは言った。生成木綿のほうがいいと、一瞬本気で思った。
長椅子の少女たちは、白けた顔を見合わせた。
「ねえ、授業の実践《じっせん》って、意外と難しいのね」
「校内じゃ、それらしい道具立てが少なすぎるのよ。きっと――」
「シスター・レインがいないのなら、帰ります」
ルーンがきっぱり言い、きびすを返そうとすると、遠くから声がかかった。
「だれがいないと言うの、ルーネット」
銀の声とでも、形容したいような声音だった。笑いをさざなみのように含みながら、澄んでよくとおる声、ひとの心臓をはじくような声音だ。ふりかえったルーンは、ラヴェンナの剣術師範が手を止めて、こちらを見ているのを目にした。
彼女は優雅に長い手足をしていた。ラヴェンナより頭半分背が高く、ということは、ルーンよりだいぶ背が高い。ほっそりしているが、やせてはいなかった。白いやわらかそうなシャツを着て、黒くぴったりしたタイツをはいている。真紅のスカーフを腰に結び、その胴回りの細さと、曲線的なくびれ具合は、男にはまねのできないもの――ほとんどの女にも、まねのできないものだった。
彼女の頭上にまとめあげた髪は、だれの髪より色がなく、プラチナに似ていた。窓の日射しに透けて、けぶるほどの白さだ。当然肌も色白で、今、運動に薄く色づいていても、まだ陶器のように冴えて見えた。くちびるは桜桃《おうとう》色。紅をひかなくても充分つややかだ。
まるで光に溶けこみそうな顔立ちだったが、瞳だけは、どこかで奇跡がおきたように黒かった。笑みを浮かべていたが、両の瞳はつらぬくような輝きを保っている。
「シスター……レイン?」
半信半疑でルーンは口にした。どちらかというと、類似点があるから言ったまでで、同一人物だと信じてはいなかった。目の前の人物には、それほどの躍動《やくどう》感があった。じっと立っていても、弦《げん》をかき鳴らす楽器のように、美をかなでる震えが伝わってくる。
「君を待っていたよ、ルーネット。来てくれると思っていた。君のような優秀な生徒は、生徒会にこそふさわしいのだから。性別を越えて……ね」
再び銀の声で彼女は言った。ルーンはその口調にもびっくりした。
かたわらで、ラヴェンナがいやそうな顔でルーンを見やった。
「シスター、本気でこの子を入れるおつもりですの。知り得たことをだれにも暴露《ばくろ 》することなく?」
「いつでもできるよ、ラヴェンナ。暴露すれば、手放すことになる。わたくしは、この子をつかまえておきたいの。まれに見る頭脳の持ち主だ」
涼《すず》やかに言うと、彼女は踊り子のように歩いてきて椅子に座った。肘掛けに寄りかかり、見事な足を組む。すべて目を離せないほど美しい一連の流れだった。
「だれなんです、あなたは」
ルーンは鋭くたずねた。
「慈愛の聖母」
答えて彼女はくすくす笑いだした。
「ここまで自分とかけはなれたあだ名がつくと、かえってうれしいのは妙なものだな」
「シスター・レインが化けの皮だということはわかりました。その下のあなたは、だれなんです」
ルーンは苛立ちをこめた。おもしろそうに、彼女はルーンをじっと見つめた。輝く瞳を見返すと、驚くべきことに、その色はいくらか紫がかっていた。
「エフェメリスをわたしてくれたら、教えてあげよう」
からかう声音に、ルーンはさっと無表情になった。
「なんのことです」
「むだだ。調べはついている」
「つまり、ヘルメスの手先ですか。あなたは」
そっけない口調でルーンは言った。
「トーラスまでは追いかけて来ないと、思ってはいけなかったんですね。蛇の杖の党員は、男ばかりではなかったんだ」
「ばかをいえ、男ばかりだ。あの手の偏執狂《へんしつきょう》のたぐいは、男と相場が決まっている」
彼女はくだけた調子で返した。聖母にも見まがう顔立ちからこの言葉が発せられると、かなりのインパクトがあった。もちろん、今となっては一秒たりとも彫像には見えない。肩をすくめ、目をむくと、まるでいたずらっ子のようだった。
「彼らを泳がしているのは、利用できそうな気がするからだよ。わたくしにとっても得策なのだ。でも、なんなら、君にくれてやってもいいよ。もしも君が、それほどにいい子なら」
しばらく黙ってから、ルーンは口を開いた。
「ヘルメス・トリスメギストスの正体が知りたい」
「ほう、なるほど」
「やつの表の顔は何なのです――貴族ですか」
「そうかもしれない」
「王族ですか」
「そうかもしれない」
ルーンは灰色の目でぐっとにらんだ。
「本当に知っているんですか」
退屈そうに彼女は答えた。
「知っているよ。顔見知りだ。もっとも、向こうはわたくしが知っていると思っていないがね」
「宮廷にいるんだ。そうなんでしょう」
「まあね、そのくらいは肯定してみせてもいい。だけど君、聞き出してどうするんだ。君に手が届くものでもなかろう」
片手にあごをあずけての質問に、ルーンは警戒して答えた。
「話す義理はないでしょう。あなたの正体すらつかめていないのに」
「そうだね。親戚だったりするかもしれないからね」
妙に意地悪そうに彼女は言った。虹のように多彩な彼女の表情に、ルーンはやはり、これが本当にシスター・レインなのかと疑わずにはいられなかった。
「あなたはどうして、エフェメリスが欲しいんです」
「わたくしが変革を起こすから」
間髪を入れずに彼女は答えた。
「ディー博士はつきとめたのだろう、見えない星の軌道《き どう》を。太古《たいこ 》の占星術《せんせいじゅつ》における、革命の惑星を。あの星が発見されることで、時代は変革する。だから、わたくしが見つけたいのだ」
電撃をうけたように、ルーンは呆然とした。ヘルメス・トリスメギストスがそれを知っていた経緯は、ある程度察しがつく。ボゥ・ホーリーが彼らに通じていたのだから。だが、いくら何でもこの女性が、致命的なまで正確に言い当てるとは思わなかった。
「どうして、それを……」
「子猫ちゃんでも知らないことをと、言いたいのだろう。わかるよ」
銀の鈴を振るように、彼女は楽しげな笑い声をあげた。
「だから、わたくしと組みなさいと言っている。君に子守は似合わないのだから。わたくしは博士のエフェメリスだけでなく、君の能力も買っているのだ。このグラールで、よくぞ育ったと思うほど特異な才能だ。それに、なかなかかわいらしいし」
ラヴェンナが、かっとしたように口をはさんだ。
「いやです、シスター。男の子などに」
「修業が足りないよ、ラヴェンナ」
軽くいさめ、彼女は椅子からひらりと立ち上がった。そして、生徒会役員たちを見回し、ふと気が向いたように言った。
「君たちはどうも、シスター・ナオミの奥義にまだ手が届いていないようだな。トーラスの最高学年生なら、もう少ししっかりしなければいけないよ。シスターのおっしゃるそれがどういう意味なのか、わたくしが少し手本を見せてあげよう」
彼女は両手をあげ、頭上のまげを押さえていた髪止めをはずした。そして、首を一振りすると、白銀の滝が生まれた。きらめく糸の、極細の、生き物のようにしなやかな髪。彼女の肩に、胸に、真紅のスカーフに流れ落ちてまだ足らず、腰のふくらみをすべり落ちてゆらめいた。銀砂《ぎんしゃ》のベールを被ったかにも見える。その場にいて、息をのまない者はなかった。
「真に魅惑《み わく》的なものには、男も女もひかれるもの。本当は、違いなどないのだよ」
婉然《えんぜん》とほほえむ彼女は、ほとんど人間にも見えない。精霊でなければ魔性《ましょう》のものだ。きらめく光にとりまかれて、瞳はさらに紫がかって見え、くちびるは濡《ぬ》れたようなつやをおびる。
彼女が近づくのを見て、ルーンは後ずさりした。目をそむけることができないが、危険だということは本能的にわかった。
「逃げないで――」
風のように彼女はささやいた。
「あなたにも、望むものがあるでしょう」
それでもルーンは、また一歩後ずさった。
「ぼくのユーナは、もう決まってますから」
「それはどうでもいいことなの。この場のユーナはわたくし。さあ、心をおあずけなさい。あなたの持っている悲しみもすべて」
くすぐるように快い声だった。ルーンが気づいたときには、銀に輝く髪房が自分にふれるばかりのところにあり、かぐわしい香りに満ち、あたたかな彼女の吐息が感じられた。
「わたくしがすべて受けとってあげる。あなたの悲しみも、憎しみも。つらかったのでしょう――あなたを抱きとめる腕はここにあるの。ほんの少し、力を抜くだけで楽になるの。あなたがなくしたものすべてが、今ここにかえってくる。わたくしと同じ夢を見ましょう……」
言葉はしだいに内容が失せ、歌う調べのようなものになっていった。体が溶けていくような気持ちにさせられた。眠たげな鳩《はと》の歌声を聞くような。ぬるい水に|溺《おぼ》れていくような――
(だめか……)
逆らえないと、ルーンがとうとう思ったときだった。にわかに、入り口の扉が大きな音をたてて開け放たれた。
「ルーネットから離れなさいよ。そこの、色魔《しきま 》みたいな人!」
フィリエルの憤慨しきった声だった。吹き飛ぶように目がさめて、ルーンはあわててふりかえった。木綿の体育着を着て、髪を乱し、顔を真っ赤にしたフィリエルがそこに立っていた。
「どうして――ここにいるって、きみにわかったんだ」
驚いたあまり、ルーンがとりつくろうのも忘れてたずねると、フィリエルは指を突きつけて叫んだ。
「女の直感よ。いくら複雑な推論ができなくたって、こういうことは、わかるときにはわかるのよ!」
三
「おやおや」
色魔と呼ばれたシスター・レインは、まばたきして言った。
「まるで、亭主の浮気現場をおさえたような登場のセリフだけど、それにしてもよくわかったこと」
褐色の髪のラヴェンナが、練習用の剣を手にしたまま、毛を逆立てた動物のように進み出た。
「だれがおまえなど呼んだ。ここは生徒会室だ、召使いなどが足をふみ入れる場所じゃない。それを侵《おか》すからには、相応の覚悟があるのだろうな」
フィリエルも負けずに毛を逆立てていた。
「あなたたちこそ何よ。授業中だというのに。それに、この部屋の悪趣味《あくしゅみ 》は何? ルーネットも、こんなふざけた場所には用がないはずよ。つれて帰ります」
ラヴェンナは今にも飛びかかりそうになったが、そのときシスター・レインが口をはさんだ。
「およしなさい、ラヴェンナ。君には麦穂の乙女祭があるのだから」
「でも、シスター」
「およし」
彼女はごく軽く言っただけだったが、ラヴェンナは身を固くして後ろにしりぞいた。フィリエルはあらためて、光の紗《しゃ》をまとったようなその人に注目した。彼女は、桜桃色のくちびるを曲げてほほえんだ。一度見入ると目を離すことができなくなる、磁力のようなものをもつ人だと、フィリエルは考えた。
「あなた、だれです」
「慈愛の聖母」
しばらく口をつぐんでから、フィリエルはたずねた。
「生徒会顧問は、ずっとあなたがしていらっしゃるのですか」
「いや。ただ、前に生徒会長だったことはある。知ってのとおり、わたくしの肩書きは特待生だから」
黒い瞳をまたたかせて、いたずらっぽく彼女は問いかけた。
「わたくしがだれか、わかる? 子猫ちゃん」
ルーンは、フィリエルが自分のようにとまどうと思っていたので、瞳を上げたフィリエルが、強気に口を開いたことに驚いた。
「レアンドラ。ただの直感ですけれど」
シスター・レインは頭をそらせて笑った。
「なんて直感!」
むっとしてフィリエルは言った。
「どうでもいいけれど、いいかげんにルーネットから離れてください」
まだ彼女と寄りそうように立っていたことに気づき、ルーンはあわててどこうとした。その彼を、丈高いシスター・レインがつかみ、肩を抱き寄せた。
「わたくし、この子の正体がかわいいの。この子はわたくしの手の内なのだよ」
「あなたって人――」
「まあ、少々お話ししましょう、子猫ちゃん。もう少しここにゆっくりしていって」
シスター・レインはルーンの肩を押して肘掛け椅子に近づき、彼を侍従《じじゅう》のように椅子のわきに引き寄せて、自分だけ腰をおろした。
強引ささえも磨き抜かれ、人を従わせるふんいきがあって、ルーンにはどうしても乱暴にふるまえなかった。それに、この人物に弱みをにぎられていることはたしかなのだ。
彼女の片手はルーンを手離さず、まるでルーンかフィリエルかの忍耐力をためすように、ルーンの腕や背中を這《は》うように上下した。しかたなく、フィリエルは敷物をふんで近づいたが、すぐそばの椅子には腰かけなかった。
その様子を好ましげに見つめ、シスター・レインはふりむいて、生徒会役員に声をかけた。
「お茶を。ねえ、もうこの子を召使いと言うものではないよ。たとえおばかに見えても、この子は違う。何の手続きもふまずに、わたくしの正体を見抜くことができるのだからね」
フィリエルはため息を吐きだした。
「……やっぱりそうなんですか」
「ねえ、わたくしの、どのへんでぴんときた?」
芯から興味のある様子で、彼女は身をのりだした。フィリエルは少々迷惑そうに答えた。
「あなたがすごく綺麗《き れい》で、しかもアデイルと正反対だから、そうじゃないかと思っただけです」
レアンドラは愉快そうに、玉をころがす笑い声を上げた。
「ただそれだけ? わたくしたち姉妹は、むしろ気質の上では似ているのだよ。おもしろい子だ、フィリエル。それで君はどう思う。わたくしたちのどちらが女王にふさわしいと思う?」
「知りません、そんなこと」
ルーンのおはこのぶっきらぼうを、フィリエルも時に応じては使うことができた。
「考えてみたいとすれば、どうしてあなたがここにいて、トーラス生徒会の糸を引いているのかということです」
「ふうん」
銀色の睫毛をせばめ、レアンドラは値踏みするようにフィリエルを見た。
「そういうことを言い出す人が、生きて帰れないということになっても?」
ルーンがはっと身をこわばらせた。フィリエルも多少色青ざめたが、負けん気で言い返した。
「生徒会がそういうところだって、もう充分知っています。たかが学校内の覇権《は けん》争いで、人を殺すことも何とも思わない。あんなふうにロゼリットを死なせて。でも、わたくしは黙って死んだりしませんから」
正面からレアンドラを見すえ、フィリエルは続けた。
「わたくしが今ここにいること、マリエが知っています。帰らなければ、彼女がヴィンセントたちをひきつれてヴィルゴー館へやって来ます」
「わかったよ、撤回《てっかい》する。仲直りしよう」
さほどこたえた様子もなく、レアンドラは言った。
「ついでに言っておくけれど、ロゼリットを殺したのは生徒会ではない。彼女はとても忠実な子だったから、われわれとても手放したくはなかったのだよ。あの子の死は、夏至祭の舞台を妨害した。考えればすぐにわかるだろう、反生徒会の組織によるものだということが」
「本当なのですか」
「わたくしは、たしかに|嘘《うそ》を言うこともあるが、この件について嘘に利益があるとは思えない。どうした、子猫ちゃんの直感は」
フィリエルは沈黙した。レアンドラは、銀の髪房をもてあそびながらフィリエルを見つめていたが、ふいに言った。
「決めた。わたくしは、この少年だけではなく君のことも欲しい。二人まとめて生徒会へ入れよう。こうして向きあうまでわからなかったが、君が、ちょっとよそにない、いい資質をもっているのは明らかだ」
「シスター」
生徒会の三人が、声をそろえて不満の意を示した。
「そんなことをしては、めちゃくちゃです。この編入生は、麦穂の乙女祭の挑戦者ですのよ。この子を生徒会に認定しては、祭りの意味がなくなります。こんな生意気な子は、みんなの前で制裁《せいさい》をうけて当然ですのに」
肘掛けにもたれ、レアンドラは涼しげに言った。
「舞台には代役が立つだろうよ。君たちは、用意した筋書きを演じたまえ。この子は挑戦をとりやめるだろう。それで汚名を着ることになっても、敢えて降りるしかないとすれば、それも一つの制裁かもしれないよ」
フィリエルは眉をひそめた。
「勝手に決めないでください。だれがそうすると言いました」
「それは頭の悪いふり? わたくしには、ルーネットの性別を公表する手段があることを忘れているの。君はそれでも、わたくしに逆らったりできるの?」
黒い瞳を意地悪く輝かせ、レアンドラはフィリエルを見すえた。フィリエルは両手を固く握りしめたが、どうすることもできなかった。くちびるを噛んでうつむくと、レアンドラはうって変わって、耳をなでるようにやさしい声で言った。
「汚名返上の機会なら、このわたくしがすぐにつくってあげる。わたくしのもとへ来れば、君のこと、とってもかわいがってあげる。そうすれば君は、さなぎから蝶《ちょう》に生まれ変わったように、あふれる魅力の持ち主になるだろう。わたくしにはわかる」
彼女の声の余韻《よ いん》だけが残り、だれもがしばらく口を開かなかった。フィリエルには、どう言葉を返せばいいかわからなかった。ここでほだされていいものか、どうせ言うなりになるしかないのなら、そのほうが賢いと言えるのか。
だが、ヴィンセントは、イグレインは、見学にきた女の子たちは、そんなフィリエルをこの先けっして許さないだろう。
ふいに口をきったのは、それまで、意志を封じられたように黙っていたルーンだった。
「フィリエル、彼女に迷わされることはないよ。その申し出をうける必要はない」
あまりに確信のこもった口調だったので、フィリエルばかりでなく、レアンドラまで驚いた表情で彼を見た。ルーンはさっと肘掛けから離れると、レアンドラに向かって言った。
「今のでわかった。あなたはたしかに、女学校にいてはならないぼくのことをつきとめたけれど、あなた自身はどうなのです。ここにあなたがいること、生徒にも外部にも知られてはまずいのでは? でなければ、シスター・レインの仮の姿は必要ないし、大急ぎでフィリエルを仲間にひきこむ必要もないんだ」
「何を言う――」
レアンドラは言いかけたが、ルーンをさえぎることはできなかった。
「フィリエルは、あなたがレアンドラだと見抜いた。あなたがアデイルの姉だと見抜いた。このことは、ロウランド家に知ってほしくないのではないですか。ロウランド家でなくとも、ひょっとすると、王宮の女王陛下には」
「おやまあ、かわいくないこと」
レアンドラは髪をなでて嘆息した。
「せっかく、気持ちのいいことをしてあげようと思ったのに」
ルーンはかえって腹を立てたようで、声を鋭くした。
「あなたには、陰でトーラスを支配しなければならない、何かのもくろみがあるんだ。だから、今の時点で正体を公表することができないんだ。それなら、ぼくたちとあなたがたは、お互いに同じような弱みを握っていることになります。立場は五分です」
「そう、もくろみはある。けれども、これは女同士の戦いだから、坊やには関係のないことだよ」
両の指をあわせてレアンドラは言った。彼女が声音を変えると、そこにびっくりするような冷ややかさが生まれた。同じ美しさを保っているのに、誘う甘さがかき消え、冷徹な指揮官が出現したかのようなのだ。
フィリエルは彼女を見つめ、爪の出し入れが自由にできる動物がいるように、色気の出し入れを自在にする大わざを、初めて目の当たりにしたことをさとった。天性《てんせい》なのか、修業のたまものなのか、どちらにせよ、あなどりがたい武器にはちがいない。
レアンドラは足を組み直して、フィリエルを見た。
「だが、君には少し関係があるかもしれない。君は、どんな形か未定にしろ、ゲームに参加する人間だから。ねえ、アデイルがまだ知らずにいるのなら、伝えておやり。星神殿の玉座は、戦わずしてとることはできないことを。女王候補がお互いに争うことを言っているのではないよ。そんなことは、当たり前すぎる。わたくしとアデイルの究極の敵は、グラール女王その人なのだ」
「女王陛下?」
フィリエルは息をのんだ。
「女王の代替わりが一世代抜けたおかげで、この国に、どれほど旧態依然《きゅうたいいぜん》として膠着《こうちゃく》しきったものがはびこっているか、君にはとうていわかるまい。どちらかというと君も、迷惑をこうむったほうだと思うがね。女王交代は、いつの世代においてもある程度動乱をもたらすものだ。だが、こうまで固まってしまったグラールでは、もはや根底から砕《くだ》くしかなくなっている」
「……アデイルは、あなたを戦《いくさ》好きだと言っていましたけれど?」
フィリエルが用心深く言うと、レアンドラはそれまでのように、笑みにまぎらせたりしなかった。
「戦を回避《かいひ 》できると思っているなら、妹には分がない。夢見るあの子には似つかわしいが、陛下のお|膝《ひざ》に抱かれているつもりなら、その間にグラールが滅ぶだろうよ」
急にたずねずにはいられなくなって、フィリエルは口をはさんだ。
「あなたはアデイルのこと――お好きですか?」
レアンドラはまばたき、酷薄《こくはく》な笑みを浮かべた。
「好きなはずがないだろう。言ったように、わたくしたちは気質的によく似ているのだよ。ただ、わたくしは先に生まれ、あの子に一歩先んじている。このトーラスにおいてもね」
「あなたがここでしようとしていることは、女王陛下に造反《ぞうはん》できる人間のスカウトですか?」
フィリエルが自信なげに問うと、レアンドラはおかしそうな顔をした。
「スカウトではない。君はまだ、群衆操作《ぐんしゅうそうさ》を知らないね。だが、君のことなら喜んでスカウトしてみたいよ。君もまた、われわれにふさわしい反骨《はんこつ》の魂を身のうちに秘めている。そこの坊やに釘をさされなければ、簡単にアデイルから奪えるところだったのに」
少し考えて、レアンドラは言葉を続けた。
「いいだろう――こうしよう。五分の情況は進展しないのだから、そちらが暴露しなければ、われわれも沈黙を守る。だが、このままではすまないよ。麦穂の乙女祭がある。舞台上の勝負に君が勝つなら、わたくしはルーネットを得ることをあきらめよう。だが、ラヴェンナが勝ったなら、君はルーネットを生徒会に引きわたすのだ」
フィリエルは一瞬言葉をなくしたが、彼女よりも早く、瞳を輝かせてラヴェンナが進み出た。
「それでこそです、シスター。わたくしは絶対に負けません。こんなにわかづくりの編入生、シスターに仕込まれたわたくしに、かなうはずがありませんもの。さんざんになぶってやります――たてついたことを芯から後悔するまで」
「期待するよ、ラヴェンナ」
レアンドラは、生徒会長にやさしい声をかけた。
ヴィルゴー館からルーンをつれて外へ出たフィリエルは、竜の巣から生還したような気分だった。ほんの短い時間だったのに、怪物と何時間もわたりあったように疲労|困憊《こんぱい》していた。
ルーンもまた、ため息をついた。
「女の人を怖いと思ったのは、これが初めてだ……」
「そう? けっこう鼻の下がのびていたくせに」
「嘘だよ」
むっとして言ってから、ルーンはそれでも、自分のくちびるの上をさわっているようだった。
「ラヴェンナが稽古をしているのを見たよ……フィリエル、本当に勝てるの?」
「しかたないじゃない。どうしても勝たなくてはいけないところに、追い込まれちゃったんだから」
やけ気味になってフィリエルは言い返した。
「ルーンは実質的ないけにえの王女なのよ。騎士に救出されるのを待つ。わかっているの。どうしていつもこうなるのよ」
ルーンは黒い睫毛でまばたいた。
「王女? いつも? なんのことだ」
自覚がないことがはっきりしたので、フィリエルはもう何も言わなかった。
四
フィリエルは博物学の授業に出たが、講義をするシスター・レインは、見る目を変えてみても、やはり見事に生気を欠いて見えた。黒い瞳は伏せた睫毛の陰になり、輝きをなくして見え、何事にもめりはりがきかず、歩き方は彫像が横すべりするように静かだ。ルーンの扮装などかわいいものだと、フィリエルは考えた。
麦穂の乙女祭が近づくにしたがって、フィリエルに届く手紙は、ますます数が増えてきた。朝晩の礼拝の帰りに、しのんでわたされた手紙を、複数持ち帰らない日はないほどだった。
困ったことだと思うのは、フィリエルに届く手紙が増えるにしたがって、ルーンやマリエにまで手紙が舞いこみはじめたことだった。三人はいつも並んで夕食の席をとったが、そうすると、どうしても低学年のあいだに争いが起こるようだった。
フィリエルの給仕をするために、しのぎを削《けず》る少女がいるらしいということは、少し前からわかっていたが、今や三人ともとなったため、フィリエルたちは、座ってもなかなかお皿を出してもらえないのだった。ときには料理が冷めてしまうこともあり、人気があるのも考えものだった。
昼食の木陰でフィリエルが思わずこぼすと、ヴィンセントがさとした。
「こういうことは波及するものなのよ。あなたにある程度票が集まると、あなたのそばにいる人のすてきさにも気づくのね。イグレインも手紙が増えたでしょうし、ちなみに、わたくしも増えたわ。これらはみな、発端はエヴァンジエリン効果だけど、それを盛り上げることができるのは、あなたのもっている力なのよ」
「わたくしの?」
フィリエルが困惑すると、ヴィンセントはにこやかに言った。
「あなたの勇敢さ、そして、あなたの気どりのなさ。あなたの魅力は、自分を選ばれた人間とは考えないところよ。この学校のなかに、どれだけ見えない垣根があるか、あなたにももうわかっているでしょう」
「そうね、たしかにあるわ」
フィリエルは、パンにチーズをはさみこみながら、シザリアと話したことを思い返した。同じようにサンドイッチをこしらえながら、ヴィンセントが続けた。
「わたくしたちのなかには、持つ者と持たざる者がいる。これは、どんなに隠蔽《いんぺい》しても出てきてしまうことだわ。お金や血筋の意味でも、才能や美貌の意味でも。でも、物語を夢に見ることだったら、だれもが平等にできるでしょう。読者には生まれの区別もなく、容貌の区別もないわ。エヴァンジェリンの考えたことは、それだったのよ。だから、あなたは、エヴァンジェリン効果の立て役者としても、とっても理想的なわけなの」
フィリエルは、今初めて気づかされたことに目をしばたたいた。
「アデイルは……そんなに奥深いことまで考えていたの?」
「ええ。あの人、垣根をとりはらうつもりだったの。最後までここにいてくれなかったことが、返す返すも残念でならないわ。あの人がいなくなったとたん、ラヴェンナみたいなのが台頭してしまって。それこそあっという間に、あの選ばれた集団を作り上げてしまったのよ」
ヴィンセントはくやしそうに、それが生徒会長であるかのようにパンに噛みついた。
「たしかに生徒会の言動は、まったく正反対のところにあるわね。特権意識のかたまり」
悪趣味な生徒会室を思い浮かべて、フィリエルはつぶやいた。まるでそこだけ宮殿のようだった。
「問題は、彼女たちが彼女たちのやり方で、垣根をなくそうとしているところよ。ラヴェンナたちが貴族の生まれなら、本当に鼻持ちならないけれど、そうではないところ。あの子たち、どういう後《うし》ろ盾《だて》があるのか知らないけれど、生徒会という選ばれた集団に入れば、生まれに関係なく特権が手に入ることをアピールしたのよ」
後ろ盾がだれか、フィリエルにはもうわかっている。トーラスの少女たちが行っているゲームには、思ったよりずっと底深いものがあるのだった。
(ここではすでに、二人の女王候補の対決が始まっているんだわ……)
「あなたが編入してきてくれなかったら、わたくしたち、盛り返すことのできないところだった。彼女の次の文芸部長としては、かなりふがいない思いを噛みしめたわけなのよ。あの夏至祭の日、あなたが手すりから落ちていたら、こうはことが運ばなかったでしょうね」
しみじみとヴィンセントは言った。そして黙って食べ始めた。
フィリエルも、食べ終えるまでは話題を出さなかった。パンの皮を噛みしめるように考えを噛みしめ、制服の膝のパンくずを払って立ち上がったときに、ようやく口にした。
「ヴィンセント。一つ聞きたいの。あの夏至祭の日、ロゼリットは、だれかに突き落とされたかもしれないとわたくしが言ったら、あなたはなんて言う?」
「命拾いしてよかったわねと言うわ」
ヴィンセントは青い目を見開いただけで、顔色を変えもしなかった。
「だって、ロゼリットはあなたのことを突き落とそうとしたのでしょう。そうではなくって」
「見なかったと言ったはずよ。だれがそうしたか知らないのよ」
フィリエルは声を抑えようと努力した。
「でも、ずいぶん都合よく夏至祭の聖劇はだめになったと思わない?」
「そうね、結果として、わたくしたちに都合がよかったことはたしかだわ」
ヴィンセントはごく冷静な声で言った。そして、軽い調子でたずねた。
「あなたの言いたいことは何? 殺人者がわたくしたちのなかにいるということ?」
「どこかには必ずいるのよ。そして、それが生徒会の側でなければ……」
「わたくしたちではないわ」
ヴィンセントは困ったような顔でフィリエルを見た。
「いやね、フィリエル。わたくしたちではないわ。それともそれだけのことで、わたくしたちを糾弾《きゅうだん》するの? 生徒会に挑戦するのをやめて、彼女たちに頭を下げるの?」
フィリエルは彼女の目に見入った。
「本当に違うと言えるの」
「ええ、本当に違うわ」
ヴィンセントはまじろぎもせずに見返した。ひるむ様子はなかった。先に目をそらせたのはフィリエルだった。
「気がすんだ?」
ヴィンセントがたずねた。フィリエルはうなずき、小さな声で言った。
「たとえそうだったとしても、わたくしには、ラヴェンナを打ち負かさなくてはいけない、別の理由があるのよ」
ヴィンセントはさわやかにほほえんだ。
「わたくしたちではないわよ。でも、あなたがそんなふうに疑いはじめるのだったら、挑戦に別の理由があってよかったわ」
何のこだわりもない様子で、ヴィンセントは皿をもって歩き出した。フィリエルは釈然としないながらも、真実が明るみに出る日は来ないのだろうと、思わざるを得なかった。ふいに、この学校では、全員が見たままの姿ではないという思いに打たれた。
(数限りない思惑や陰謀を、同じ型の制服と頭巾が、うわべだけ覆い隠しているんだわ。これがトーラスの女学校。これが女同士の戦い……)
怖いものだと、フィリエルも初めて思った。
フィリエルに来る下級生からの手紙には、「星のテラスで会ってくれませんか」とか、「星のテラスでお話ししてみたい」と、書いてくるものがずいぶんあるのだった。だが、日の浅いフィリエルには、それがどこのことかわからなかった。
麦穂の乙女祭にあと数日というところで、イグレインは、見学者を閉め出すため、練習場を講堂の屋上へ移した。すると、突然に手紙の過激さが増したため、ようやく星のテラスが講堂の屋上のことであり、トーラスの生徒にとって、ひそやかなデートスポットなのだということがはっきりした。
「憶測など気にしていてはつとまりません。見学者のなかには、生徒会側のスパイだって必ずいるんですから。これ以上、あなたの剣さばきを見せてやることはありませんよ」
イグレインはさばさばと言った。気にしているのは、フィリエルのほうだった。
「でも……わたくしたちが怪しい関係だと思われるのは、あなたに迷惑ではなくて?」
イグレインは、困っているフィリエルをおかしそうに見た。
「星のテラスは、星が出てはじめてその意味をなすものではありませんか。それまではただの、へんてつもない講堂の屋上です。わたくしたちは、夕食の後までここを占領する気はないのですから、堂々としていて平気ですとも」
戸外で稽古をつけるのは、なかなかいいことだった。空のひろがる高い場所は、動くにも気持ちがよかったし、髪をなぶる風や、目に射しいる光線が、勝負に微妙な影響をおよぼすものだということも、体でしっかり理解できた。
イグレインの指導は真剣で、ますます厳しさを増し、向きあうフィリエルは、すでに雑念にとらわれるひまなどなかった。一呼吸もおろそかにはできない、そんな練習が続き、だれがどう思おうとも、ロマンチックにひたる余地などあるものではなかった。
練習が終わると、それまではすぐに二人で浴場へ出向いていたものだが、今のフィリエルは、イグレインが今日はここまでと告げるときには、疲れすぎてすぐに動けなかった。座りこんで、しばらく気力をとりもどすのを待たなければ、階段が下りられなかったのである。
ある日、フィリエルは本当にくたくたになって、二度と手も足もあがらないのではないかと思った。見栄をはることもできず、仰向けになって手足をのばした。
上空のはるかなところを、山嶺《さんれい》から山嶺へと、雲がかろやかにわたっていく。その下を、黒い鳥影がかすめるように飛び過ぎていく。日は斜めに差し、日没の身にしむ秋がすでにせまっているのが、初めて感じられた。たそがれ前の空の色あいも、秋のように澄みきって青い。
息をおさめようとつとめながら、ふとフィリエルは、こうして屋上へ来てさえ、空をほとんど見上げなかったことに気づいた。
(いつからだろう……そう、アンバー岬の領主館へ移ってからのことだ。あたしが空の色を見上げなくなったのは。セラフィールドにいたころは、ほんのわずかな季節の変化でも、友だちのようによく知っていたはずのあたしが……)
あれからフィリエルには、そんなひまがどこにもなかった。目まぐるしい変化に自分をあわせていくことで、精いっぱいだったのだ。今だって、他の少女たちなら、語らったり眺めを楽しんだりするために屋上へ来るのだろうが、フィリエルには、剣の切っ先より他は見えない。
思いをはせていたフィリエルに、イグレインが話しかけた。彼女はすでに先に行ったと思っていたので、フィリエルは少しびっくりして顔を向けた。
「きつい練習は今日で終わりです。明日とあさっては、軽く体調をととのえて当日にそなえましょう。よくがんばりましたね、フィリエル。音《ね》をあげるのではないかと、じつは思っていました」
フィリエルは彼女にほほえみかけた。
「正直なところ、ラヴェンナに勝てると思う?」
「女神様が、あなたにたくさん運をはこんでくださるなら」
イグレインはほほえみ返した。楽観的ななぐさめの言葉は言わないのが、彼女らしかった。体を起こして、フィリエルはため息をついた。
「それなら、もっとお祈りを増やそうかしら。それとも、おまじないのほうがいいかしら」
「では、おまじないをしてみましょうか――」
イグレインは突然、彼女が言いそうにないことを言った。フィリエルは不思議そうに顔を上げたが、それが冗談なのか何なのか、読みとることはできなかった。
かたわらに膝をついて、イグレインは続けた。
「わたくしのもつ力が、あなたに授かりますように。下の階にいる女の子たちの期待にそって、おまじないをしてみます?」
言葉できくと何のことだと思うが、そういうことは、目が語るものだった。フィリエルは、イグレインの赤茶色した眉毛がどんなに形よいかに気づき、同時に、彼女が暗黙に言わんとすることにも気がついた。三秒ほど、せわしく心が駆けめぐったが、やがて、自分はそれがいやでないという結論に落ち着いた。
「わたくし、汗くさくないかしら」
「ぜんぜん」
「それなら、おまじないをしてちょうだい」
イグレインの顔がゆっくり近づき、そして、そっと離れた。とてもやさしく、隅々まで思いやりにあふれたキスだった。イグレインはやっぱり女の子なのだと、フィリエルは思った。キスしてくれたことがうれしかった。
「当日は、どんなふうにころんでも悔いがないように、精いっぱい戦うわね。あなたのために戦う。あなたと、いなくなったロゼリットと、後もう一人のために。それから、応援してくれる全員のために。わたくしは、みんなの代表として戦うのだから」
フィリエルが言うと、イグレインはほほえんだ。
「あなたらしい言葉ですね」
それから、少々からかうように続けた。
「ただ、後もう一人というのが気になりますけれど。それはこの前、気持ちを乱していた人のことなのですか?」
フィリエルは自分でもびっくりしたが、妙に恥ずかしくなって、あわてて顔をそむけた。
「いやになるのだけど、どうしてかそういう運びになってしまったのよ」
「うらやましいですね、思いなおすことができたのだから。その人を大切にしてくださいね。生きていなければ、仲直りすることもできません」
そう言ったイグレインは、寂しそうだった。フィリエルはそっとたずねた。
「ロゼリットは、ここへ来たことがあったのかしら……あなたと」
「ええ、そういうことも、あったかもしれません」
イグレインは低く答え、息を吸ったが、それはそのまま静かに吐きだされた。
「……礼拝に間に合わなくなる前に、浴場へ行きましょう。女神様に失礼のできるわたくしたちではありませんからね」
その夜、フィリエルは当然ながらぐっすり眠った。ちょっとやそっとでは目がさめるものではなかった。それなのに、そんなフィリエルを、執拗《しつよう》にゆり起こそうとする者がいた。さらに、息を殺した声で呼びかけられた。
「フィリエル、起きてよ。起きてってば」
深い眠りの淵《ふち》から、引きずり上げられるように目をさましたフィリエルは、何か緊急のことが起きたと意識が告げても、容易に体が応じなかった。
「ええ……何……なんで」
目を何度もこすり、窓から入るわずかな明かりに、マリエを見出すと思っていたフィリエルは、違うとわかったとたんに意識が冴えた。フィリエルをゆすっているのはルーンだった。
「何を――」
「しっ」
ルーンはすばやく制した。
「服を着て、外へ出られるかい」
「いったい何があったの」
目がさめた真夜中の部屋に、いつのまにか侵入した異性がいると、どういう気分がするものか、フィリエルは今こそよくわかった。ルーンが文句を言ったわけだ。自分ももう二度とするまいと、フィリエルは深く反省した。
ところが、ルーンにはその意識がない様子だった。フィリエルを驚かしているとは思っていない口調で、彼は言った。
「流星雨《りゅうせいう》を見せてあげるよ。冬の初めのやつほど派手じゃないけれど、必ず流れるから、見に行こうよ」
「……それだけ?」
脱力してフィリエルはたずねた。そういえば、流星雨のある夜になると、博士とその弟子はいつも興奮気味だった。そして、必ずフィリエルにも見せたがったものだった。もっとも、どちらかというと、流星の軌跡を確認するのに、一人でも多くの目があったほうがいいためなのだが。
「屋根に登るつもりじゃないでしょうね」
「いや、講堂の屋上がある。あそこからよく見えることは、昨日の夜確認したんだ」
放っておけば、彼が一人でも出かけることがよくわかったので、フィリエルは観念して制服の袖に手を通し、ルーンの後に続いた。
真夜中を回った講堂は、巨大な黒い影に包まれ、はっきり言って不気味だった。月は出ないか山陰になっているかで、星明かりだけが、石だたみをかすかに白く照らしている。なかへ入ると、だれもいないのに、なぜか気配に満ちている気のする回廊に、二人の足音がくぐもって響きわたった。
ためらいがちにフィリエルはささやいた。
「ルーン……あなたは知らないかもしれないけれど、この講堂で、ついこのあいだ人が死んでいるのよ」
「ロゼリットのことだろう。それがどうかしたのかい」
「……もういい」
話せばますます怖くなることに気づいて、フィリエルは打ち切り、なるべく中庭から顔をそむけるようにして、急いで階段を上った。
屋上へ出てしまうと、フィリエルの気分はがらりと変わった。広がる空に星が見えたからだ。深々と暗い、ビロードのような天空に、散らばる大小の星々。女神の帯、女神の冠、女神のための楽園。
フィリエルは、自分でも思ってもみなかったような開放感を味わった。まさか、頭上に星があるだけで、故郷に戻ったようにくつろげるとは思わなかった。
「まるで天文台みたいね」
「ここも標高《ひょうこう》がかなり高いからね、セラフィールド並みとはいかないけれど、空気がわりと澄んでいるんだよ」
ルーンは、自分で作り出したかのように自慢げに言った。そして、夜空の一角を指さした。
「あちらをずっと見ていて。いつ流れるかわからないから」
フィリエルは星空を見やった。なんだかかたわらに、ルーンだけではなく、博士もいるような気がした。博士が観測器を操作して、ルーンに記録しろと今にも声をかけそうな。そう思うと、見つめる星がふがいなくもにじんだ。
(……ずっとずっと、あたしは張りつめたままだったのだ。虚勢をはって、できるふりして、自分自身さえあざむいて……)
そんな思いが胸をよぎったが、それでもフィリエルは、まだ、今ここで張りつめていたものを緩ませるわけにはいかなかった。麦穂の乙女祭が終わるまでは。ラヴェンナとの勝負で、勝利を手にするまでは。
ルーンが口を開いた。
「ここ、星のテラスって言われているんだって。わかっていれば、最初から観測だってできたのに」
「ばかを言わないで。夜中に毎晩出歩いて、許されるものではないわよ」
「けっこう出歩いていたよ。フィリエルが早く寝るようになってから」
ルーンはこともなげに言い、フィリエルは、自分がチェスの相手をしなくなっても、彼が少しも素行《そ こう》をあらためなかったことを知って、がっかりした。
「あなた、何があっても夜は眠らないつもりなの」
「夜に眠る天文学者など、いるわけないだろう」
フィリエルは少し黙ってから、たずねた。
「今でもどうしても、天文学なの? ルーンには、他のことを始める気はぜんぜんないの? もっと、たとえば、安全にできる研究とか」
ルーンも少し間をおいたが、意外な答えを返した。
「もしもぼくが、天文学のことだけを考えていたら、こんなきゅうくつな思いをして、女学校にいたりしないと思わないか」
「あら、だって、これは伯爵様のさしがねだったのでしょう」
フィリエルは驚いて言ったが、そのまま自分で言いなおした。
「――たとえそうであっても、無理やりだったら、あなたが伯爵様におとなしく従うはずがなかったわね」
ルーンは答えず、かわりに唐突に切り出した。
「フィリエル、エフェメリスはね、きみのおかあさんのお墓に隠してあったんだよ。博士がそうするって、ぼくは知っていた。だれも知らない、きみやホーリー夫妻でさえ知らない場所だったから」
フィリエルはため息をついた。
「やっと教えてくれるわけなのね」
「うん――」
口ごもりかけて、彼はつぶやくように言った。
「エフェメリスは博士の研究の精華《せいか 》だし、とても大事なものだった。だけど、ぼくが、蛇の杖に捕まったときに、ドリンカムの館で考えていたことは、それだけじゃなかった。このままぼくが死んだら、きみに、おかあさんが眠っている正確な場所を教えてあげる人が、だれもいなくなるってことだったよ……」
「そうよ」
フィリエルはごくかすかな声で言った。
「あなたは、いつでも博士から何でも教えてもらって、本当にずるいんだから」
「絶対にもう一度天文台へ帰ろうね、フィリエル。そして、いっしょにエディリーンのお墓へ行こう。ぼくが死ぬ前に必ず」
ルーンはまるで、いつ死んでもおかしくないというように、力をこめて言った。
フィリエルは、これを告白めいたものと考えていいだろうかと、首をひねった。だが、どうも、はずれすぎている気がした。ふつう、そういうシーンでお墓の話題は出ないものだ。たぶん、ルーンにそんな含みはないのだろう。
「あっ、流れた」
夜空にちりばめられた星々のあいだに、あえかな銀線がすっと描かれた。続いてもう一つ。同じ一点から別の方角へと流れていく。
(どうせ、ルーンは、ここが告白のテラスだということも知らないんだわ……)
フィリエルは考えた。それはそれでいいような気がした。
「今のを見たかい、これから――」
「ルーン、ちょっとこっちを向いて」
フィリエルはかまわずに言うと、両手を伸ばして彼の顔をふりむかせた。そして、くちびるについばむようなキスをした。
一瞬言葉を失い、暗がりでまじまじと彼女を見つめてから、ルーンは怪しむようにたずねた。
「フィリエル、どういうつもり?」
「あたしはね、知っているの。キスは相手を喜ばせるためにするものよ」
大きな自信をもって、フィリエルは告げた。
「あなたがそのことを忘れないなら、ときどきあたしもしてあげる。そういうキスだったら、相手にあやまらなくてもいいはずでしょう」
ルーンはその言葉を聞くと、なんだか脱力したようだった。ほっとしたとも、がっかりしたともつかない声音で言った。
「……きみって、やっぱり、あんまりよくわかっていないような気がする。でも、それはそれでいいや。そのほうが、フィリエルらしいから」
「失礼ないいぐさね。もっとはっきり認めなさいよ」
フィリエルは多少むきになった。
「あたしの言うことのどこがまちがっているのよ。もう一回してみる?」
ルーンは反論をやめてうなずいた。
「してみる」
上空では星が大きくきらめき流れたが、ルーンもフィリエルも、その見事な流星をすっかり見逃したのだった。
五
麦穂の乙女祭二日前、フィリエルがうけとった手紙のなかに、差し出し人の名前のないものがあった。
麦穂の乙女祭は、再びいけにえを作るでしょう。
花飾りの舞台は、弔《とむら》いの花飾りに切りかわるでしょう。
あなたが挑戦をやめないのなら、弔いの花は、あなたのために捧げられるでしょう。
マリエがひどく憤慨して言った。
「まあ、なんて陰険な手口。生徒会側のだれかに決まっているわ。こんなあくどいいたずらをするなんて、抗議してやったらどうなの」
フィリエルも不愉快だったが、マリエの手前、気にしないそぶりで言った。
「こんなに安っぽい脅《おど》かしで、気持ちのゆれるあたしではないわよ。でも、趣味が悪いわね。どういうセンスの持ち主かしら」
その日はそれで過ぎたのだが、翌日、今日がピークとばかり、朝の礼拝で大量に届いた手紙のなかに、フィリエルは、もう一度ほとんど同じ内容の手紙を発見した。
麦穂の乙女祭は、再びいけにえを作るでしょう。
花飾りの舞台は、弔いの花飾りに切りかわるでしょう。
あなたが挑戦をやめないのなら、弔いの花は、あなたの大事な人のために捧げられるでしょう。
フィリエルは、薄い便せんに書かれたその文章をくしゃりと握りしめた。もう、マリエには見せられなかった。
(許せないわ、こんな脅し方。今ごろになって、こんなに|卑怯《ひきょう》な態度を見せるなんて……)
フィリエルは、自分の授業をそっちのけでシスター・レインの姿を探した。そして、他学年の講義に行こうとしている彼女を、回廊のかどで捕まえた。
「これ、どういうつもりなんです。かく乱ですか。わたくしもあなたがたも、舞台での勝敗にすべて賭けたはずではなかったのですか」
シスター・レインは、石のような無表情をくずさずに応じた。
「何のことを言っているのか、わかりませんが」
「覚えがないとおっしゃるのですか」
フィリエルは、しわにした手紙を突きつけた。
「あなたでなければ、これはラヴェンナですか、レティシアですか、ヘイラですか?」
銀の睫毛を伏せた控えめな態度で、シスター・レインはその手紙に見入った。そして、穏やかに口を開いた。
「生徒会役員の筆跡には見えませんね。あの子たちも、こんなに姑息《こ そく》なことはしないと思います」
「信用できません。あなたたちでなければ、だれにこんなことをする必要があります」
フィリエルがくいさがると、シスター・レインはさらりと言った。
「ここには二派の争いしかないと、どうして言い切ることができるのです。第三の動きが、表面化してきたのかもしれません」
「第三?」
「この際、とにかく、身辺《しんぺん》にはよく気を配っておくことですね。フィリエル」
フィリエルは急いで考えようとしたが、やはり言われたことは思いがけなかった。
「だれがいったい三番目などに? もしかして、女王候補には三人目がいるのですか」
シスター・レインは、哀れむようにちらりと瞳を上げた。
「君はときどき、本物のおばかに見えることはたしかだよ。フィリエル」
そう言った声はレアンドラで、フィリエルが思わずぎょっとしていると、彼女はたちまち取り澄まし、フィリエルが声をかけられないうちに、廊下をすべる足どりで行ってしまった。
(それなら、やっぱり、今のは嘘なの……?)
丈高い後ろ姿を見送りながら、フィリエルは聞くのではなかったと歯がみした。
当日の礼拝は大礼拝で、昼近くまであった。昼食のすぐ後にもう合唱がひかえているので、このとき手紙をわたす生徒は、さすがにあまりいなかった。それなのにフィリエルは、自分のポケットのなかに、例の手紙が入っているのを見つけた。
これが最終の通告です。
わたくしも、死者を欲しているわけではないのです。
二行だけのメッセージだったが、その切迫《せっぱく》した書き方に不気味なものがあった。フィリエルは考えこんでしまった。
(レアンドラだって、こんなことまでするだろうか。こんなふうに書くだろうか。あと数時間で勝負がつくというのに……)
「フィリエル、食欲がないみたいね。やっぱり緊張している?」
マリエが手のつかない皿を見やって、心配そうにたずねた。フィリエルはあわてて笑顔をつくろった。
「違うのよ。食べすぎて体を重くしないようにって、イグレインに言われているの」
「それならいいけれど」
正面の席から、ヴィンセントが話しかけた。
「あなたの活躍、期待しているわね。ぞんぶんにやってね。でも、わたくしに言わせれば、あなたは今日までの動きをつくったことで、すでにりっぱに役割を果たしおおせているのよ。たとえ、午後の舞台であなたがラヴェンナに負けようとも、この学校は、すでに生徒会一色には還《かえ》らない。魅惑は一つでないことに、みんなが気づいてしまったもの」
ヴィンセントはフィリエルに陽気に目配せした。
「ただ、もしもあなたがラヴェンナに勝ったら、今度は校内あなた一色という事態が起こる可能性はあるわね。それはそれで、わたくしはけっこうよ」
「わたくしは負けないわ」
フィリエルは冷静に言った。フィリエルの勝負は、ヴィンセントの言う意味あいにはない。それが付随《ふ ずい》したのはたしかだが、ほとんど、関係ないとさえ言えるものだった。
ルーンはいつものように寡黙《か もく》に食べていた。フィリエルはマリエを引き寄せて、声をひそめた。
「ねえ、たのみがあるの。あなたとルーン、祭りの間はずっと離れないでいてほしいの。それから、これはたってのお願いなんだけれど、舞台を見にこないではしいの」
「ええっ、|殺生《せっしょう》な。あなたの晴れ姿をこのあたしに見るなというの?」
当然ながら、マリエは不服の声をあげた。フィリエルはさらに声を低くした。
「おかしな手紙がまだ来るのよ。どうしても気になるの。あなたたち、もしかすると危険かもしれない。舞台を見にくれば、夢中になってどうしても隙ができるでしょう。夏至祭のときがそうだったのよ」
フィリエルの真剣な目の色に、マリエは息をのんだ様子だった。
「まさか……ロゼリットの二の舞ってこと?」
「あってはならないことよ」
「わかったわ」
マリエはため息をついた。
「でも……ああ、がっかりだわ。アデイルお嬢様に、どんなにすばらしいみやげ話ができるかと思ったのに」
「あったこと全部、心ゆくまで話してあげるから」
「しかたないわね」
マリエが|承諾《しょうだく》したので、フィリエルもほっとした。一つ肩の荷がおりた思いだった。後は、舞台を待つだけだった。
合唱は、礼拝のつどに練習を重ねているアストレイア讃歌のうち、五曲が演目で、ほとんどとちるはずがなかった。入退場のしかたまで、ばっちりリハーサルができている。
それでも午後になり、厳《おごそ》かな礼拝堂を、ふだんとは異なるざわめきが支配しはじめると、少女たちの気分は次第にうわずるのだった。付近の村の人々は本当に楽しみにしているらしく、子どもやお年寄りまで手を引いて、一家総出でやってきている。
しばらく女性しかいない生活をしてしまうと、素朴な村の男性でさえ、その存在が鋭く意識されるものだった。それに、いつもはともに歌う年配の修道女たちが、「今どきの若い者は」と決めかかっている顔つきで、正面の椅子にずらりと並んでいる。
それゆえ、修道院長のスピーチの後、合唱の隊形に並ぶときには、少女たちもかなり固くなっていた。だが、緊張して目を伏せた表情はむしろ修道院にふさわしい。熟《う》れた黄色の麦を一本ずつ手に持ち、しずしずと聴衆の前に立ち並ぶ生徒たちの姿は、全員が星乙女のように清純《せいじゅん》に見えた。
トーラスの少女たちの三声ハーモニーは、村人たちに「天の歌声」だとか、「星々の響き」だとほめそやされていた。実際に、そう言われてもおかしくないものはもっていた。フィリエルだって、最初に聞いたときは掛け値なしに感動したのだから。
曲が始まるとフィリエルは、アーチ型に並び、行儀よく口を開けた少女たちを、そっと見回しながら考えた。
(一糸乱さずに歌える……澄んで響きわたる声の女の子たち。同じ頭巾を被り、同じ制服をまとい、一点の汚れもなく見える女の子たち。きっとだれも思わないに違いない。その後ろで何が起きているか。どれほど深いたくらみがあるか。どんな手段で、人をおとしいれようとしているか……)
このなかのだれかは、人を殺すとまで脅迫《きょうはく》しているのだ。そう思うと、合唱が清澄で美しいだけに悲しかった。
(……もっとも、この清らかな乙女の合唱団に、男の子が一人混じっているなんてことは、だれも思わないでしょうけどね)
もちろん声の参加はしないが、ルーンは大胆にも合唱に加わっていた。わざわざ抜けるほうが目立ちそうだったので、しかたがなかったのだ。見たところ、みんなにあわせて口を動かしているし、神妙に麦穂もささげもっている。きちんとして見えるが、これは見かけ倒しのことが多いのだった。フィリエルは、彼が飽きて居眠りを始めませんようにと、心ひそかに女神に祈った。
しかし、演目はそつなく無事に終了した。ルーンもとうとうぼろは出さなかったようだ。聴衆のなかには、歌声に感動するあまり、涙を流しているお年寄りもいる。少女たちは、あくまでつつましげに退いたが、心の中ではみな快哉《かいさい》をあげていた――勤めは終わった、次こそは自分たちのお楽しみ、待ちに待った挑戦劇だと。
(さあ、次だ)
フィリエルも思った。合唱を聞いて泣いてくれた人たちは、この実態を知れば腰を抜かすかもしれない。けれども、これが自分たちであり、たぶん、変えようのないものなのだった。
(……これは二面性ではない。どちらも、本当のあたしたちなのだ。人々に清らかさの夢を与えるのも、その裏で互いにしのぎを削るのも。二つのあわいに生きていられるのが女の子たちであって、このあたしもその一人なのだ……)
挑戦することに、フィリエルも今は迷いがなかった。踊らされてこうなったわけでなく、これが自分らしいことなのだと、今では思うことができるのだった。
フィリエルの舞台衣装は、一週間ほど前から、一部の少女たちが大騒ぎして縫っていた。お針子《はりこ 》志願の少女たちを仕切ったのは、レーリアという娘で、フィリエルはこの子の名前を、アデイルがヴィンセントと並べて口にしていたことを思い出した。
「ええ、そうなんです。でも、わたくし、書きものよりもモードに興味が移ってしまって。もともと裁縫が得意だったし、モードにはなんといっても、宮廷でさえも牛耳《ぎゅうじ》る、はっきりした効果がありますもの。今はおもしろくてならないんです」
小柄な黒髪のレーリアは、生き生きとそう語った。フィリエルの衣装デザインをしたのも、彼女だった。
「どうせラヴェンナは、これ以上派手にはできない衣装で舞台に立つでしょうから。あなたは対照的に、落ち着いた黒で上品にまとめたほうがいいわ。そのほうが、あなたの磨いた銅のような髪がひきたつし、制服からあまり浮かないほうが、役割にふさわしく見えますものね」
レーリアの考案した衣装は、腕の動きをさまたげないよう、袖ぐりを大きくひだをとって付け、ひじから先は細いカフスで締めたものだった。上着丈は短く、裾《すそ》から下の衣装がのぞくほどで、タイツは柔らかな生地でできた銀灰色《ぎんかいしょく》だ。
仮縫いをしてみて、フィリエルは動きやすさに満足した。それに、膨《ふく》らんだ袖が上半身を際だたせて、たしかに凛々しく見えるような気がした。
合唱を終えてから舞台の準備にかかるあわただしい時間に、フィリエルはレーリアから舞台衣装をわたされた。だが、少々めんくらった。たしか、自分の衣装は、この上なくシンプルで地味だったはずなのだが――
「レーリア、これ……」
基本はたしかに同じものだった。だが、裾やえりから白いレースがふんだんにこぼれ出るし、カフスにはずらりと真珠が並んでいる。前あわせや袖口には金糸の刺繍《ししゅう》、肩には銀糸の肩章《けんしょう》、胸には水晶の露《つゆ》をやどした赤いバラ、房飾りのある若葉色をした、腰にしめるサッシュまでついてきた。
「だれもがみんな、一つずつ付け加えたがったの。わかるでしょう、そういう気持ち」
むしろなぐさめ顔に、レーリアは言った。
「地色を黒にした、わたくしに先見の明があったと思ってくださいな。これが赤だったら、大変なことになっていたと思いません?」
「でも、もしかして……ラヴェンナよりも派手なのでは」
フィリエルは懼《おそ》れをなしたが、それが先見の明なのか、レーリアはさほど気にとめなかった。
「舞台衣装ですもの、派手すぎるということはありません。みんなの気持ちをうけとるつもりで着てくださいな」
舞台となる外壁広場とは、トーラス大修道院をぐるりと取り巻く胸壁《きょうへき》の内側が、正門のわきで少し広がり、長方形に高台となっている場所だった。門の反対側には、鐘楼《しょうろう》のある礼拝堂がそそり立つ。高台の下は、馬車が数台ゆうに回れるほど広い石だたみがあり、トーラスの全生徒が寄り集まっても、まだたくさん余裕があるほどだった。
胸壁の上には、用心と装飾を兼ねた鉄柵《てっさく》がめぐっている。今、外壁広場の背となる鉄柵には、低学年の手で、彩りもはなやかな造花が結びつけられていた。夏至祭の聖劇のように、その他の舞台装置はなく、後はよく晴れた空だけが背景の、まさに花飾りの舞台だった。
(考えるのはやめよう……)
フィリエルは、不吉な予告の手紙を頭から追い払うことに決めた。当面の敵はラヴェンナ。今は、それだけに心を絞らなくてはならなかった。
体裁は聖劇の続きであるため、長方形の舞台には死骸《し がい》であるはずの竜が置かれ、騎士がそれを屠《ほふ》ったところから幕が落とされる。銀ずくめの衣装に身をつつんだラヴェンナが、いけにえの王女をともなって現れ、生徒たちの歓声に迎えられた。
竜を倒した騎士は、王女に自分のマントを着せかけ、そうすることで愛を誓ったことを示す。そして王女を中央奥の場所へいざない、彼女を座らせたところで、挑戦者の出番なのだった。
フィリエルがひらりと舞台に飛び出すと、少女たちはさらにわいた。高い場所に来て、フィリエルは初めて観客の多さに気づいた。どうやら修道女たちも村の人々も、見物できるものはちゃんと逃さないようだ。やや遠巻きながらも、しっかり足を止めてながめている。
(見せ物よね、やっぱり……)
あらためて思いながら、フィリエルはセリフを思い出そうとした。一応、ヴィンセントに口上を覚えさせられていた。だが、舞台下の騒ぎようを見れば、聞こえていないのは明らかだ。
「セリフなど期待していないよ。みんなが待っているのは、勝負なのだから」
歩み寄ってきたラヴェンナが言った。さすがに落ち着いたものだった。彼女は剣を鞘《さや》から引き抜いて宣言した。
「ひといきに決めてしまおうとは思わない。これは、華麗な舞台なのだから。さあ、かかっておいで。踊らせてあげるから」
ラヴェンナも今回は、騎士の鎧兜《よろいかぶと》のような重い衣装を着ていない。銀糸の衣装は、胴着と袖が別パーツになっており、額に銀の帯だけをしめ、彼女自身は羽がはえたように身軽に見えた。
もう何も言わないことにして、フィリエルも剣を抜いた。暗黙のかけひきは三度まで。四度目に、相手の剣を打ち落とすか、舞台上でまいったと言わせるかして、勝敗が決まるのだった。
剣を打ちあわせても、最初のうちは小手調べだ。だが、そうするうちに、主導権がどちらかに握られてしまうのも必須《ひっす 》だった。ラヴェンナとフィリエルは、太陽に有利な足場をめぐってぐるぐる回った。
ラヴェンナの衣装のまばゆさに、フィリエルは歯がみをしたが、一方で、ラヴェンナもまた顔をしかめるのに気がついた。胸の造花に露《つゆ》を飾ってくれた女の子に、感謝しなくてはならない。
フィリエルより背が高く、手足の長いラヴェンナは、たしかにそれだけ有利だった。だが、ずっとフィリエルの練習相手だったイグレインも、負けずに背は高いのだ。イグレインは、二人で外壁広場の下見をしたときに言った。
「あなたの身上は、その敏捷《びんしょう》さです。最後は、思い切って相手の| 懐 《ふところ》に飛びこみなさい。運がよければふいを突けます」
舞台下の少女たちには白熱した試合に見えても、フィリエルにはまだ考える暇があった。イグレインの言ったこと、ここにはいないマリエやルーンのこと。それはラヴェンナも同じのようで、彼女は突いたりかわしたりの合間に話しかけた。
「とうとう挑戦をやめなかったのだね、おまえは。手紙をもらったくせに」
フィリエルははっとしたが、急いで気をひきしめた。この勝負には、言葉で相手を動揺させる手だてもあることを、考慮しなくてはいけなかったのだ。
「あなただったのね。卑劣《ひ れつ》なことを」
「違う」
フィリエルの剣を打ち払って、ラヴェンナは言った。
「手紙は生徒会にも来た」
「嘘よ」
「夏至祭のときも来たのだ」
フィリエルはけんめいにラヴェンナの突きを払いながら、腹立たしくなった。こんなときでなく、もっとじっくり考えられるときなら、教えてほしかったものを。
「それであなたたち、手紙を無視して、彼女が死んだの?」
「今さら後にひけるものか」
ラヴェンナは瞳をきらめかせた。褐色の瞳には、まぎれもなく強い決意が燃えていた。
「今この時だって後にひけない。あのかたの寵《ちょう》を得るのは、このわたくしだ。間違ってもおまえなんかじゃない」
「だれが、寵なんか」
フィリエルも歯をくいしばって言い返した。
「わたくしだって、負けないわよ。ルーネットをわたすものですか」
その時が訪れたことを、二人は同時にさとった。勝負が演劇から真剣になりかわったことを。もう、なりふりも観客も問題ではなかった。フィリエルは、今や両手で剣を握って打ちかかり、全力で飛びすさり、ラヴェンナの隙をねらってさらに打ちかかった。
舞台下の少女たちにも、真の勝負に移ったことは伝わるものらしかった。黄色い声をあげていた女の子たちが、ふいに静まった。全員、息をつめて刃《やいば》のゆくえを見守る。
フィリエルのバラの造花がちぎれて飛んだ。サッシュも切れた。袖も切れたし、たぶんかすった程度には、皮膚も切れていると思われた。ラヴェンナは、明らかに楽しんでいた。
「まいったと言わないの? 本当に死ぬ気?」
(届かない……)
フィリエルの切っ先はラヴェンナに触れない。いつのまにか、太陽を背にとられてもいる。二人の技量に違いがありすぎた。
「今度は膝? それとも髪かしら」
からかうようにラヴェンナが言った。そのとき、フィリエルは地面を蹴っていた。光が走ったような気がしたが、気のせいかもしれない。ただ夢中で、ラヴェンナが足払いをかけた剣を飛びかわし、そのまま突っこんだ。
ほとんど真下から剣を払い上げたとき、手応えがあった。柄《つか》を当てられたラヴェンナの剣が高く跳ね上がり、呆然としたラヴェンナの顔が見えた。
「勝負あったわ」
息をはずませてフィリエルは言ったが、ラヴェンナはまだ信じられないようだった。剣をもぎとられた手を見やっている。
一瞬遅れて、舞台の下からどよめきがあがった。悲鳴、歓声、拍手。興奮した女の子たちが、飛び上がったり抱きあったりしている。一番前に陣取っていたヴィンセントやイグレインや、その後輩たちも同じだった。手にした花束が舞台に向かって投げ上げられる。いくつかは、よけることもできずにフィリエルを直撃した。
(ええと……)
フィリエルは、どうやって退場したらいいか忘れていることに気づいて、しばし顔がひきつった。勝負に勝った後のことは、言われてもほとんど頭に入ってこなかったのだ。
(たしか、筋書きがあったはずよね……)
筋書きでは――そう、いけにえの王女の愛を得なくてはならないのだった。王女とともに、花束をかかえて堂々と舞台を去らなくては。フィリエルは、ひきもきらずに飛んでくる花束のなかから、いくつかを適当にひろいあげ、これでいいのだろうかと怪しみながら、舞台奥にうずくまる王女に近づいた。
フィリエルが勝利に酔っていたら、そうもいかなかったかもしれない。けれども、反射的に体が動いた。フィリエルが花をさしだした王女は、けもののような素早さで挑戦者に飛びかかったのだった。
フィリエルは足をすくわれて倒れたが、それでも、ほんのわずかに身をかわしていた。自分のかたわらの石だたみに、短剣が振り下ろされ、刃が鈍い音をたてて欠けるのを聞いた。
一瞬にして血をひかせる音だった。ラヴェンナとの試合が、ただの児戯《じぎ》だったと思い知らされるような、刺殺《し さつ》のための一撃。短剣を突き立てた人物が、フィリエルの耳もとにささやいた。
「運の強い人なのね、あなたは。今度もまた」
いけにえの王女を思い切り突き飛ばし、その顔を見て、フィリエルは再度息をのんだ。王女に扮していたのは、夏至祭のときのヘイラではなく、悲しげな瞳のシザリアだった。
「……どうして」
声を殺してフィリエルはささやいた。
「あなたは、野イチゴをくれたのに……」
観客の少女たちも、フィリエルが王女を突き飛ばすに至って、さすがに歓声が下火になった。あちらこちらで顔を見合わせ、ひそひそ話が始まった。
「ねえ……これ、どういう筋書きなの?」
シザリアは今、その薄青い瞳に熱にうかされたような表情を浮かべていた。フィリエルを見つめて、彼女はささやいた。
「あなたが、かわいそうなままだったらよかったのに。それだったら、わたくしも、やさしくしてあげられたのに。あなたのことが嫌いではなかった。だから、ロゼリットがあそこにいてよかったと思ったのに……」
フィリエルは、胸の底が凍りつくような気分を味わった。
「それなら、あなただったのね……」
そのときには、ラヴェンナも気をとりなおしていた。ラヴェンナはかっとしてシザリアに走り寄ろうとし、短剣に威嚇《い かく》されて、フィリエルの隣にとどまった。
「シザリア。われわれの劇をじゃまする張本人はおまえだったのか。いったい何のために」
ラヴェンナの問いに、シザリアは激しく言い返した。
「何のために? 笑わせるわ。あなたがた、女王陛下への反逆をもくろんでいながら、何のためにですって。わたくしはこのトーラスを、あなたがたがそんなものに変えてゆくのは許せなかった。フィリエルたちも同じよ。陛下への忠誠をゆるがそうとする、あってはならない魔手の手先。どんなことをしてでも止めてみせたかったわ」
フィリエルは息を吸って、なんとか落ち着こうと努めた。
「わかっているの、シザリア。そのために、あなたは人を殺したのよ……」
「そんなこと、かまわない。わたくし自身の命だって、少しも惜しくはないもの」
舞台中央に立ち、淡い髪をなびかせ、王女の衣装の裾を広げたシザリアは、そのとき未《いま》だかつてなく美しく見えた。折れた短剣を放り捨てて、彼女は言った。
「あなたがたの罪は、いけにえをもってしかあがなわれないの。この舞台もまた、死者を弔って終わるしかないの。悔い改めることができない、あなたがたのせいなのよ。あなたがたが悪いのよ」
さっと頭上に手を伸ばしたかと思うと、シザリアの手は造花で飾られた柵をつかんだ。驚くような身軽さで、胸壁を乗り越える。
「シザリア、やめて!」
フィリエルは叫んで飛び出し、舞台下の観客からも悲鳴があがった。だが、フィリエルもラヴェンナも、取り押さえるには距離があった。
シザリアが、外壁の目もくらむ谷底に身を投じようとした刹那《せつな 》だった。だれも間に合わないと思われた彼女の足首を、一つの手がしっかりつかんでいた。その手は、舞台奥に置かれた竜の陰から出ている。つかんだ手の持ち主は、さらに、少女よりも低い声で言った。
「きみなんか、死んでもこれっぽっちもかまわないやつだが、これ以上、フィリエルをいじめるんじゃないよ」
思いもよらぬできことに、シザリアは硬直し、甲高い悲鳴を上げた。舞台の下では少女たちが、再び顔を見合わせていた。
「ねえ、これ……本当に、どういう筋書きなの?」
「はなして、お願い――」
シザリアがうめいた。その間に、フィリエルとラヴェンナも彼女をひき止めることができた。三人がかりでシザリアを鉄柵からひきずり降ろし、むしり取られた造花の散るなかで押さえつける。
フィリエルは、泣きそうになってシザリアを叱りつけた。
「自分から死ぬなんて、許さない。あたしも許さないし、女神様だってお許しにならないわ。わかっているでしょう、あなたなら。たとえ何をしたのであっても、生きなくてはだめ――償《つぐな》いなさい。生きて償わなくてはだめよ」
突っ伏したシザリアは、大きく息を吸いこむと泣き出した。フィリエルは冷や汗と涙を片手でぬぐい、ようやく隣にいるルーンを見つめた。
「あなた……どうしてここにいるの」
「観客になるなと言っただろう」
「マリエはどこ? どうしてあなたが舞台にのっているのよ」
「いけにえの王女だと言ったのは、フィリエルだったよ」
ルーンはとぼけた返事を返した。ラヴェンナも、最初はわけがわからなそうに、舞台衣装もつけずにそこにいるルーンを見つめた。だが、それから突然顔に血をのぼらせ、飛び跳ねるようにして立ち上がった。
「おまえ――おまえは……」
かまわずに、フィリエルはルーンにたずねた。
「こういうことになるって、わかっていたわけではないのでしょう?」
「全部はね」
ルーンは肩をすくめた。
「でも、きみの命をねらったやつを突きとめられなかったら、ぼくがここへ来た意味がないんだよ」
「そのために来たの?」
「まあ、そんなところ」
そのとき、憤激のあまり言葉の出なかったラヴェンナが、ようやくルーンに指を突きつけて叫んだ。
「おまえだったのだな。わたくしの目に光を当てたのは――大事な勝負のときに、ひとの目を眩《くら》ませたのは」
ルーンはラヴェンナを見上げ、けろりとして応じた。
「うん。でも、フィリエルは剣術を始めてひと月ちょっとだったから、ハンデがいると思ったんだよ」
これには、フィリエルもあきれた。ラヴェンナに同情するべきかと忙しく考えたが、逆上したラヴェンナは、そんなひまを与えなかった。
「もう、我慢できない」
一声叫ぶと、彼女はルーンの頭巾をかつらごとむしりとった。そして、舞台下に向かって声をはりあげた。
「みなさん、ごらんなさい。ここにいるルーネットは男の子よ。わたくしたちのトーラスに、あつかましくも侵入した男の子がいるのです」
六
ルーンもフィリエルも、動くことができなかった。逃げ出すことはかなわない。舞台を取り巻いて、何重にもひしめく女の子たちがいる。その外側には、さらに修道院や村の人々がいるのだ。
ラヴェンナの告発が響きわたると、その観客たちに、一瞬水を打ったような静けさが広がった。それから、つぶやき声が始まり、徐々に大きなざわめきとなった。
「男の子?」
「男の子ですって」
「嘘、どうして」
「どういうことなの」
舞台の上では、シザリアが倒れ伏して涙にくれている。だが、そのシザリアが望んでもかなわなかったくらい、挑戦劇はめちゃくちゃになりつつあった。
短髪をさらしたルーンは、途方にくれてフィリエルを見やった。
「ばれちゃったけれど……どうする?」
「どうするもこうするもないわ」
フィリエルはきっとなって立ち上がると、銀色の騎士をにらみつけた。
「ラヴェンナ、この裏切り者。よくも協定を破ったわね」
「不正を働いたのはそちらが先だ。ざまを見ろ」
ラヴェンナは言い返し、フィリエルは憤激したまま彼女につかみかかった。二人の素手による第二ラウンドが始まったと、だれもが思ったそのときだった。上方から、柔らかいがよく透《とお》る声が降ってきた。
「みなさん、少しも騒ぐ必要はありません。この挑戦劇は、もとから無効のものなのです」
声は、舞台よりも高みから聞こえた。つかみあったラヴェンナとフィリエルは思わず動きを止め、声のするほうをふり仰いだ。舞台を見つめていた少女たちも、二人の視線にそって顔をふり向ける。
すると、礼拝堂の鐘楼のもと、塔が鋭角《えいかく》のアーチに刳《く》り抜かれた高屋根の張り出しに、純白の裾長いドレスを着た少女が、天から降りてきたように立っていた。
遠目には、彼女のドレスもいけにえの王女のように見える。だが、その少女は小麦色の長い髪を輝かせ、そこに花を飾っていた。アデイルなのだった。
「アデイル?」
「エヴァンジェリン!」
「エヴァンジェリンよ。あそこにいるのは」
彼女を認めるつぶやきが、さざなみのように生徒の間を伝わっていくと、アデイルはにっこり笑って手を振った――謁見《えっけん》する女王のように落ち着きはらって。そして、しずまるのを待って、再び声をはりあげた。
「今日ここに、わたくしは、現生徒会の無効を告げに参りました。トーラス女学校の生徒会規約には、いかなる教員も、いかなる卒業生も、生徒会運営に外部からの圧力をかけてはならないと、明記してあります。それが長年のトーラスの誇り、王宮に直結するトーラスが、独自の自治を保つための条件でした。それなのに、現在の生徒会は自分たちだけで立ってはおりません」
アデイルの声の余韻《よ いん》が消える前に、ラヴェンナの腕がフィリエルから離れ、力なく下がった。フィリエルは、観客のなかにシスター・レインの姿を探したが、見出せなかった。アデイルの声は、レアンドラほど研ぎすまされてはおらず、小鳥のように軽やかで、言葉尻が柔らかかったが、それでも隅々まで聞き取ることができた。
「だれが黒幕かは、今ここでは申しません。おそらく、みなさんも薄々はご存じのはずでしょう。そして、たぶん、恐れている人もいらっしゃるのかもしれません。けれども、それは無用のことと申し上げます。トーラスはトーラスの生徒のものです。何が起ころうと、それだけは変わりません」
一呼吸して息をととのえ、アデイルは続けた。
「わたくしもまた、今後のトーラスには介入いたしません。今回の挑戦の結果は無効です。生徒会そのものが無効ですから、舞台上のことはすべて、なかったことなのです。そこに男の子がいることも、すべてなかったこと――このことには、わたくしが責任をとらせていただきます」
アデイルが言い終わらないうちに、ひづめの音が聞こえてきた。それはまるで、舞台の特殊効果音《とくしゅこうか おん》のようだったので、なかなか現実とは思えなかった。だから、正門の影を通り抜けて真っ白な馬が姿を現したときには、びっくり仰天した者が少なくなかった。
白い馬は、豪華な鞍《くら》に金と赤の手綱をつけ、すらりと丈高い若者を乗せていた。紺のぴったりした上下を身につけ、無帽の髪は、燃え立つように赤く輝く。
度肝をぬく人々をしり目に、ハンサムな騎手はわずかも馬の足をゆるめず、外壁広場の下までやってきた。少女たちは競《きそ》って道を空け、目をまるくして見入るばかりだ。人々の先頭まで出ると、若者は舞台上をふり仰いだ。
「ルーン」
彼はただ一声呼ばわった。声にかすかな苛立ちがある。フィリエルは、ルーンが自分のかたわらから飛び出し、わずかなためらいも見せずに宙に踊り出すのを見た。
舞台を蹴って飛び降りたルーンを、馬上のユーシスが腕を伸ばし、巧みにその体をうけとめた。落ちまいとしがみつく少年をそのままに、騎手は、見事な手綱さばきで向きをひるがえし、馬の脇腹を蹴った。乗り手の意を汲み、白馬は矢のように来た道をひき返していく。
その姿が正門に吸いこまれたときになって、ようやく人々の呪縛がほどけた。
「今の見た? 赤毛の貴公子と黒髪の少年よ」
「本物よ。本物のあの二人よ」
「きゃあっ、あなた、よく見た?」
少女たちのどよめきは、みるみる悲鳴にまで膨《ふく》れ上がった。叫び声をあげ続ける彼女たちは、橋をわたって駆け去る二人の姿を一目見ようと、正門に殺到し、胸壁に折り重なってむらがった。村人があっけにとられようと、修道院長が目を回そうと、まったくおかまいなしだった。午後の渓谷《けいこく》に、少女たちの嬌声《きょうせい》が、鐘の音よりもはなやかに耳を打ってこだました。
「アデイルって……」
フィリエルは力なくつぶやいた。自分の|従姉妹《いとこ》でありながら、ただものではないと思えてならなかった。それからフィリエルは、さらに気落ちする事実に思い当たった。レアンドラもまた、フィリエルの従姉妹なのだった……
この日のすったもんだに、ようやくけりがつき、騒動がなんとかおさまったときに、フィリエルは、ロウランド家の四輪馬車に乗って橋をわたっていた。マリエも隣に座っていた。
アデイルは、舞台衣装を脱いだフィリエルのもとへやってきて、穏やかに告げたのだ。シスター・レインはもう現れず、シザリアと現生徒会役員は退学することになったと。シザリアは、みずから納得して、悔悛《かいしゅん》の修道院へ行くことになったそうだ。
「そしてね、あなたも、家へつれて帰ったほうが賢明だろうと、学長から丁重に言いつかったの」
「つまり、わたくしも退学ということなのね」
「ええと、まあ、そういうことかしら……」
もう、何を言う元気も出ないフィリエルだった。おとなしくアデイルに従って馬車に乗りこみ、トーラス修道院を後にした。だが、向かいの座席に座ったアデイルはいたって陽気で、クッションを抱きかかえながら楽しげに言った。
「三カ月足らずで、あなたは、よくもまあこのトーラスをかき回したものね。レアンドラは、さぞ悔しい思いをしたことでしょうね」
フィリエルは目を上げ、ものうくたずねた。
「あなたは、レアンドラがたくらんでいたことを、どうやって知り得たの?」
「なんとなくは、そんな感じがしていたのよ。でも、マリエからの手紙を読んで、ほとんど確信をもてたの」
フィリエルの隣で、マリエが自慢そうに言った。
「ほとんど毎日、お嬢様に報告を書いていたのよ。フィリエルは知らなかったでしょう。それが、ここへ来るときのお嬢様とのお約束だったの」
「隔絶されているから安全だとは、ほんの少しも思えなかったのよ。自分もトーラスにいたから、よくわかっていますもの」
アデイルは真剣味をこめて言った。フィリエルはやや座りなおし、さらにたずねた。
「安全でないなら、どうして、わざわざルーンをこんなところに送りこむことにしたの?」
アデイルは答える前にくすくす笑い出した。
「だって――あのかた、いやだと言わないんですもの。冗談で提案したのに、行くって。それなら、こんなにおもしろいことを見逃す手があって?」
「ばかなんだから、もう」
フィリエルはげんなりしてつぶやいた。笑われているとも知らずに、トーラスへ乗りこんできたわけなのだ。
「もちろん、決断したのはお父様よ。どこも同じに危険なら、まだしも女学校ならば、彼もおとなしくせざるをえないだろうですって。彼が見かけによらず無茶をすることに、お父様もよくよく懲《こ》りたのね。もちろん、一時的な場しのぎにしかならないことは、よくわかっていたの。でも、あのときは、講堂から転落した子の話が伝わってきたばかりで、わたくしたちも緊張していたのよ」
「お嬢様はね、すぐにあたしに行けと言ってくださったの。そうこうするうちに、どうせならということで、ルーンも同じ場所へ行くことになってしまったわけ」
マリエが後を引きとった。彼女たちは、顔を見合わせてうれしげに笑った。
「彼にドレスを着せるの、とっても楽しかったわよね!」
フィリエルは、コメントを保留《ほりゅう》することにした。マリエがすっかりその調子なので、どれほど神経をすり減らしたか、今さら言うのもむなしい気がしたのだ。最後はあっけなく、全員の目の前で正体がばれたこともある。フィリエルは思わず、大きなため息をついた。
「いろいろしてもらったというのに、結局むだになってしまったのね。伯爵様には会わせる顔がないわ。三カ月足らずで、トーラスを追い出されることになるなんて。どうせあたしが帰ればまた、セルマが目をつり上げるのよ」
アデイルはにっこりした。
「ええ、あなたは、どこにいようと騒ぎをおこすことを、りっぱに証明してみせたわ。天下のトーラスにおいてさえ、そうだったんですもの。だからお父様も、この際多少のことには目をつぶって、最初から王宮へつれて行ったほうがましだとお考えのようよ。そこなら少なくとも、ご自分の目が届きますものね」
フィリエルは目をしばたたいた。
「それ、本当?」
「本当ですとも。マリエもたぶんいっしょよ。今回の手紙で、侍女の本領を充分発揮してみせましたものね」
「きゃあっ、やったわ。フィリエル」
両手を組みあわせてマリエがはしゃいだ。フィリエルもいっしょに喜びたかったが、その前に、聞いておかねばならないことがあった。フィリエルは、ためらいながら口にした。
「でも、あの、それでルーンは――」
「彼こそは目を離すことのできない人物よ。今回わたくしとお兄様が出向いてきたのは、一つに、彼を送りこむ場所に目星がついたからでもあったの」
アデイルは勢いよく言った。フィリエルは不安にかられ、胸の鼓動が早まるのを感じた。
「送りこむって――いったい」
「どこだかわかる? 王立研究所よ」
いたずらっぽく打ち明けるアデイルに、フィリエルは息をのんだ。
「そんなまさか。いくらなんでも、異端の研究をさせてくれるはずがないのに」
「あわてないで。そう、いくらなんでも、天文学をさせることは、わたくしたちにはできないわ。彼はね、王立研究所でチェスをするの。たぐいまれなチェス・マスターの才能があることを、お兄様が発見してしまったんですもの」
フィリエルには、なかなか信じられなかった。疑り深く聞き返した。
「チェスをすることが、そんなにたいしたことだとは思いませんけど?」
アデイルは笑って言った。
「それがどうして、たいしたことなのよ。あなたにも、そのうちわかるわ。チェスのグランドマスターは、この王国でもっとも名誉ある地位の一つよ」
フィリエルは首をかしげた。
「でも、ルーンがそういうものになりたがるかどうか……」
「当面は、かまわないのではなくって? だって、王立研究所は、ハイラグリオンの宮城内にあるんですもの。王宮や学院とは目と鼻の先よ」
目配せしてアデイルは続けた。
「あなたもマリエも、わたくしも、お父様もお兄様も、そしてルーンも、この秋にはみーんなうちそろってハイラグリオンへ出発するの。そういうのはおいや?」
フィリエルは深く息を吸いこみ、にっこり笑った。
「……いやじゃありません」
わきでマリエが、ひじで小突いた。
「いやあね、フィリエルったら、顔つきがまるで変わっちゃうんだから」
「そんなことないわよ」
フィリエルが、赤くなった顔をあわてて窓に向けると、遠ざかる青い山稜《さんりょう》に、バラ色のトーラスがのっているのが見えた。たそがれに沈み、今にも色を失いゆくところだ。こうして見ると、あのトーラスの毎日も、いつかは思い出深いものにできるような気がした。自分たちはこれから、いっしょにハイラグリオンへ行くのだから。
埋もれた辺境地《へんきょうち 》に育った子どもたちが、今度は、国の至高の場所へとおもむくのだ。国中の人々が憧れやまない、グラールの粋美《すいび 》を集めた銀白のハイラグリオン。首都メイアンジュリーの三つの丘をしめる広大な宮城。アストレイアの星神殿を中心に抱く聖地でもあり、国政と司法の中心地でもあり、文化の華《はな》でもある。この国のすべては、ハイラグリオンで決するのだ。
そこはまた、フィリエルの父と母が出会い、お互いのために、手に手をとって逃げ出した場所でもあった。王宮には、そうせざるをえない何かがあるのだろうと、フィリエルも察しはする。たぶん、自分にとっての危険も、想像がつかないくらいたくさんあるのだろう。
それでも、フィリエルは行ってみたいという気持ちを抑えられなかった。自分の日でたしかめなければ、何事も理解することはできない。ルーンに何と言われようとも、母のたどった道を逆行せずにいられない。そこで何があったのかを知りたい。
俗っぽいとけなしたルーンも、ハイラグリオンへ送られるのだと思うと、フィリエルは我知らずほほえんでしまうのだった。それなら、ルーンも彼女をくさすことはできないはずだ。彼は仏頂面をするだろうが、それでも拒まないことはわかっていた。女学校へ来ることさえ、いやとは言わなかったルーンなのだから。
(……ただ、今度はユーシスもいっしょというのが、少し気になるような……)
ふと、わずかに、フィリエルの懸念が生じた。
(本当に、いつの間に仲よくなったんだろう。あの二人って……)
* * *
そのころ、体を寄せあって馬に相乗りした二人のほうでは、ユーシスがルーンにたずねていた。
「アデイルが、どうしても白馬でなければだめだと言い張ったんだが、どういう意味があったのか、君にはわかるか?」
「ぼくが知るもんか」
ルーンは、輪をかけた無愛想にもどっていた。彼の主観では、女の子のふりを続ける間に、にこやかな顔を一生分使い果たした気分なのだ。
ユーシスは不服そうに言った。
「これだけの期間、女学校に潜入《せんにゅう》したのだから、わかってよさそうなものじゃないか。それにしても、そのかっこう、一番最初に着ていた服とあまり変わらないな」
「何が言いたいんだ」
「ドレスを着ていると思っていた」
「おまえとは口をきかない」
ルーンはいきなり宣言した。
冷たい沈黙のおりた二人を背に乗せ、白馬は意気も上がらない様子で、美しく暮れかかる晩夏《ばんか 》の並木道を通り過ぎていった。
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あとがき
西の善き魔女第二巻、「秘密の花園」をお届けします。中公の編集者さんが、「一巻と二巻は間をおかずに出します。でないと目立ちません」と、きっぱりおっしゃるので、遅筆なわたしが必死で書き上げました。熱出ました。
でも、書いてよかったと心から思える二巻です。とりかかるときには、まだ予感だけだったけれども、書き終わってみて、暗中模索ではじめたことは正解だったのだと、しみじみ思いました。今ようやく、一巻を書いてよかったとも感じています。
好きです、この二巻。
* * *
ファンタジーとは何だろうという疑問は、書き手であるかぎり、一生つきまとってくる問題ですが、ときどき、ランボーの詩「酔いどれ船」のことを考えます。
わたしは韻文が苦手なほうで、詩には詳しくないのですが――それに、かなり明確なイギリスびいきで、フランスが好きではないのですが――一番多感な高校生のころに、一時期フランス象徴派にはまりました。もっとも、少々へそまがりなところのあるわたしは、ランボーやヴェルレーヌの詩そのものより、翻訳した堀口大學《ほりぐちだいがく》の日本語のファンだったのですが。上田敏《うえだ びん》の「海潮音」とかが大好きで。
そのころ知ったのですが、大詩人たちを感服させた海の描写をもつ「酔いどれ船」、しかしその詩を書いた時点で、ランボー少年にはまだ、海を見た経験がなかったということです。その後、詩人であることなどあっさり放り捨て、実践に走ってしまう彼ですが。
ランボーが不世出の天才だったのかもしれません。でも、それにしても、ランボーが海を謳《うた》い上げるのに必要だったものは、彼自身の想像力と、彼の先人がつちかった海のイメージ――たぶん、古代から人類そのものに脈々と受け継がれてきた、人間が心にいだく海のイメージ――だけだったのです。人々の心を震わせるために、具体的な体感や体験が、必ずしも必要でなかったことがわかります。それを考えると、つまり、ファンタジーとはそういうものだと思いたくなるのです。
ファンタジーとつきあっていると、自分のそのイメージはどこからきたのかということに、絶えず向きあわずにいられません。それが、いつまでも飽きないほどおもしろいことなので、わたしはファンタジーが好きみたいです。ふつうに設定する小説ならば、通りすごすような根本的なところで、疑問をもったりします。たとえば、われわれのもつ、男または女のイメージとはいったい何であるか――とか。わたしが一生つきあっても、回答の出ない疑問。そこがいいんじゃないかと思います。
もう一つ、過敏にならずにはいられないのが、西洋文明とは何かという、これまた普遍的な疑問です。ファンタジーには、発生にも形態にもはっきりした西洋産のしるしがあります。わたしはそれを受け入れ、それに惹かれているわけですが、日本人であり女であるわたしがファンタジーを書くことについて、考えずにはすまされないところがあるのです。
べつに、しかつめらしい思想をこらしているわけではないのですが、そうはいっても、日本はじつに変な国で、今ここにできあがっているわたしも、じつに変てこです。うーん……もしも日本のアニメがさらにさらに世界に広まって、世界じゅうに通用することがはっきりしたときには、もっといろいろなことがわかるかもしれないと、何となく予感するのですが……
日々そんなことをぼんやり考えながら、TV放映時から「新世紀エヴァンゲリオン」のファンだったわたしですが、この前、たいへんよく似た問題点を論じたエヴァの評論本(小谷真理《こ たにま り 》さんの本でした)に出くわして、めずらしく深くうなずいてしまいました。そっかー、だからあの作品に惹かれるのか。「もののけ姫」ではなく。
* * *
さて、話を戻すとして、「秘密の花園」を書いて何がうれしかったといって、それは学園ものが書けたことでした。一度、学園ものを手がけてみたいと思っていたけれど、このわたしの傾向では、絶対にごくふつうの学園小説になってくれないと考えていました。事実、ずいぶん風変わりになったみたいですが、いちおう初めての学園ものです。
このなかで、ルーンがどういった行動をとるか、書いてみるまで作者にもわかりませんでした。書いてみると、けっこう一人前にむっつりなんとかでした。合掌……
次の第三巻は、ようやく王宮編です。フィリエルとアデイルとレアンドラが、同じ土俵に立ちます。展開も、それだけ派手になるのではないでしょうか。……と、ひとごとのように言うくらい、まだめどは立っておりません。しかし、書くのがとっても楽しみです。ルーンを鈍感と言いながら、自分が鈍かったりするフィリエルちゃん。彼女が今後、何をどう選択していくかも興味の尽きないところです。
と、いうわけで、次回は二ケ月後にお目にかけるわけにはいきませんが、どうか見捨てずに待っていてください。可能な限り急いでがんばります。ではまた。
[#地付き]荻原 規子
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底本:「西の善き魔女2 秘密の花園」中央公論社 C★NOVELS
1997(平成09)年11月25日第01刷発行
2000(平成12)年01月30日第02刷発行
参考:「西の善き魔女U 秘密の花園」中公文庫
2004(平成16)年12月20日第01刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2006年06月03日作成