西の善き魔女1 セラフィールドの少女
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)女王|生誕祝祭日《せいたんしゅくさいじつ》の朝
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)特権階級のかたがた[#「かたがた」に傍点]
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目  次
第一章 エディリーンの首飾り
第二章 ギディオンの失踪
第三章 子ヤギたちの行方
あとがき
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[#地付き]口絵・挿画 牛島慶子
[#地付き]カット   和瀬久美
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西の善《よ》き魔女 東の武王《ぶ おう》
賢者《フィーリ》と詩人《バ ー ド》を呼びだした
氷の都をおとずれた
真昼の星がおちたらおしまい
あなたの背中に立つ人だあれ
(フィニステール地方のわらべ歌)
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第一章 エディリーンの首飾り
それは春四月、女王|生誕祝祭日《せいたんしゅくさいじつ》の朝だった。グラールの最北端にあるセラフィールドの地で、一人の少女が目を覚ました。
少女の寝床《ね どこ》は小さな屋根裏《や ね うら》部屋にあり、ベッドの足をごく短く切ってある。羊毛のふとんに頭の先までくるまっており、まず最初に現れたのは片足だった。かかとの小さなピンクの素足は、床をさぐって冷たさにひるみ、急いでひっこみかける。四月とはいえ、外はまだ根雪《ね ゆき》が凍る寒さだった。依然《い ぜん》として寒波《かんぱ 》は去っていないのだ。
だが、しばらくすると、彼女は| 潔 《いさぎよ》くふとんをはねのけた。目をこすり、貴重なガラスがぽっちりとだけはまった明かり取りを見上げる。そこには銀の朝日がきらめいていた。
「お誕生日おめでとうございます、アストレイア。今日の日をお与えくださったことを感謝いたします」
少女はつぶやいた。ふだんの彼女は、星仙《せいせん》女王に祈りをささげる敬虔《けいけん》な娘ではないのだが、今日ばかりはわけがあった。女王生誕祝祭日には、ルアルゴー伯爵が開催《かいさい》する一大パーティがあるのだ。そして、少女は今年十五歳、はれて舞踏会《ぶ とうかい》へでかける資格を得たのである。
窓に背を向けると、彼女は縁《ふち》の欠けた手鏡《てかがみ》をとって顔をのぞきこんだ。昨夜《ゆ う べ》なかなか寝つけなかったので、目が腫《は》れているかと思ったのだ。そんなことはなかった。琥珀《こ はく》の深さをもつ瞳《ひとみ》はよく澄んで、栗色の睫毛《まつげ 》がいたずらっぽくまたたき、生き生きと見つめ返した。
尖《とが》った小さなあごのまわりには、赤みがかった金色の髪が波打っている。昨日念入りに洗ったので、いつも以上にふわふわして、光を中に取りこむようだ。かすかに浮いたそばかすや、希望より大きすぎる口もとなど、自分の顔に難《なん》をつけたい点は数あったが、今日のところは寛容《かんよう》になれそうだった。
(まちがいない。今日はあたしの一生で一番すてきな日になる……)
旧《ふる》い友だちにほほえむように、少女は鏡にほほえみかけた。少女の名前はフィリエル。十五歳のもつ限度《げんど 》を知らない期待をこめて、今日の舞踏会を思い描き、胸をふくらませていた。
水差しの水には氷が張っていた。冬のあいだは始終のことだ。フィリエルは手早く顔を洗うと、真冬と同じいでたちに着替えた。厚手のシャツに羊皮の胴着《どうぎ 》、毛織りのスカートに暖かい下ばきといったところだ。はしご段を降りていくと、下の居間|兼《けん》台所では、石のかまどに泥炭《でいたん》が燃え、鉄鍋《てつなべ》が白い湯気を上げていた。
低い梁《はり》の下には、古びたテーブル、ベンチ、道具|棚《だな》、水桶《みずおけ》……どれも使いこんで傷だらけであり、よぶんな飾りはいっさいない。壁に毛織りの壁掛けがかかっていたが、これとてすきま風を防ぐための実用品だった。北部高地に生活を営《いとな》む者として、質実《しつじつ》さは彼らの骨の髄《ずい》までしみこんでいた。
いつも薄暗いこの台所も、今朝のように晴れた朝には陽気に見える。まして今朝の窓辺には、この家で唯一《ゆいいつ》実用に向かない品が吊《つる》してあった。
「女王様のお誕生日、おめでとうございます。ホーリーの奥様」
ホーリーのおかみさんは、いつものようにかまどにかがみこんでいたが、フィリエルはおどけて、スカートを手でつまんでお辞儀《じぎ》をした。
「ああ、おめでとう。今、ボゥが食べたところだから、先に朝|御飯《ご はん》をすませておしまい。そのほうが片づくから」
タビサ・ホーリーは、少しもあらたまろうとしなかった。彼女は風焼けにほおの赤い、角ばった顔立ちの婦人だった。小さな黒い目は鋭《するど》くよく輝き、褐色《かっしょく》の髪をひっつめて固いまげにしている。体格は大きく頑丈《がんじょう》で、くびれのまったくない腰に前掛《まえか 》けのひもを結び、いつ見ても忙しげに働いていた。
「だんなさんにもおめでとうをいおうと思ったのに。どこへ行ってしまったの?」
フィリエルがたずねると、彼女はあきれた声を出した。
「何を言ってるんだい、羊を見に行ったんだよ。あんたを村まで送るのに、後にはできないだろう。あんたも家をでかけるときには早起きして、仕事をすませる心掛けがなくてはいけないよ。ボゥが気を変えても、あたしゃ知らないからね」
「はいはい」
フィリエルはちょっと舌を出しただけで動じなかった。ホーリーのだんなさんは、意固地《いこじ》になるときには果てしなく意固地だが、一度決めたことをひるがえしはしない。彼がフィリエルを舞踏会へ行かせることを渋ったのはたしかだが、ひと冬がかりの説得《せっとく》の結果、いいと言ったのだから、今さら変える人ではなかった。
飛び跳《は》ねる足取りで、彼女は窓辺に吊してある自分のガウンの前に立った。
昨夜《ゆ う べ》も飽きるほどながめたが、灯火《とうか 》と朝日のもととではまた違う。水色のガウンは、襟《えり》ぐりと袖とに透明なビーズ玉が縫《ぬ》い取ってあり、光にきらめいていた。
だれのものでもない、フィリエルのガウンだ。舞踏会へ行きたいと言い出したときにも、まさか自分のガウンがもてるとは思っていなかった。物持ちの友人、オセット家《け》のマリエに借りる手はずだったのだ。
人里離れた天文台に住まうフィリエルの父親が、そんな余分な出費《しゅっぴ》のできる人間でないことを、彼女はとっくに承知していた。なのに、ホーリーのおかみさんは、黙ってこの美しい水色の布地《ぬのじ 》をさしだしたのである。
(親にもできないことをしてくれた……)
「フィリエル、早くお食べったら。なんだろうね、この子ったら。見張っていなくてもガウンは逃げ出しやしないよ」
おかみさんはがみがみ言ったが、腹を立てているわけではなく、これが彼女の口ぶりなのだった。冬の夜長《よ なが》、フィリエルに劣らぬ熱心さで針を持ち、縫い取りを指導したのはおかみさんなのだ。心の内では、少女と同じに誇らしさを感じているに違いなかった。
幸せいっぱいのため息をついて、フィリエルはようやく自分の席に座った。
「こんなにきれいなガウンなのに、着てしまうと自分にはよく見えないのが残念だわ。だんなさんやおかみさんも舞踏会へ来られたらいいのに」
「その浮かれ調子、早いところ収めておくれよ。あんたがあんまり言うから作ったガウンだけれど、よかったかどうかわからなくなるよ。舞踏会なんて、一晩限りなんだからね。明日からはまた、同じ毎日が始まるんだからね」
おかみさんはことさら口調を厳《きび》しくしたが、フィリエルは意に介さなかった。
「舞踏会だけじゃないわ。今夜はマリエの家に泊まるんですもの。メレインと三人で、きっと夜明かしでおしゃべりするの。今日から明日まで、楽しみがずうっといっぱい詰まっているのよ」
「かなわないね、もう」
おかみさんは首を振ると、フィリエルの皿に鍋から挽《ひ》き割《わ》り麦の粥《かゆ》をよそった。
ホーリーのおかみさん、ホーリーのだんなさんと、他人行儀《た にんぎょうぎ》に呼んではいたが、フィリエルは二人に娘のようにかわいがられていることを知っていたし、娘のように甘えることもできた。ここはただのお隣さん――羊のはむ草さえとぎれた岩山の、唯一《ゆいいつ》無二《むに》のお隣さん――にすぎず、フィリエルの母親が死んだ後、天文台の炊事《すいじ 》や洗濯《せんたく》をホーリーのおかみさんが助けるようになった、それだけの間柄《あいだがら》なのだが。
面倒見《めんどうみ 》のよいおかみさんは、一日おきに足をのばし、もう一軒分の家事をこなすことを苦にしなかったが、まだ赤子といってよい子どもが、すべてに粗《そ》忽《こつ》な天文博士のもとに、母もなく残されていることには閉口《へいこう》した。結局、つれ帰って面倒を見ることが多くなり、いつのまにかフィリエルは、ホーリー家にいるほうが当たり前になってしまったのである。
「使用人としてたのまれた覚えはないし、養女を申し出るほどおこがましい考えもないけれど、うちには子どももいないしね。あんたが女の子でなかったら、こうもしなかっただろうけど、女の子には、してやらなければならないことがあると思うんだよ」
ホーリーのおかみさんは、口癖《くちぐせ》のようにそう言った。女の子で本当によかったと思うフィリエルだった。天文台の生活はとにかくルーズで、研究と観測が優先されるものだから、食事の時間さえ決まらない。けれども、女の子は常識ある育て方をするべきだというのが、おかみさんの持論《じ ろん》だった。
フィリエルが友人を欲しがったときに、ワレット村の学校へ行かせてくれたのはおかみさんだったし、今回こうして、家計をさいてガウンを仕立ててくれたのも、他でもないホーリーのおかみさんだった。
「あたしの実のおかあさんが生きていたって、こんなにしてもらえなかったかもしれない。なんといっても、ディー博士と結婚した人だものね」
フィリエルは粥をさじですくいながら、ちょっぴり思いをこめた。
「ばかをお言いでないよ。グラールの女親《おんなおや》だったら、だれだってこうするものだよ。高地育ちのあたしだって、十五になってはじめて踊りに行くとき、どんな気分がしたか、今でもはっきり覚えているからね」
おかみさんは、そっけない口調に気持ちを隠した。
「でも、あたしのおかあさんは縫い物がへただったんでしょう? おかみさんのようではないわよ。こんなすてきなガウンは作ってくれなかったと思うな」
フィリエルはほおづえをついた。二歳のときに死んだ母に関しては、ディー博士もホーリー夫妻も、ほとんど話すことがなかったし、知っていることはごくわずかだったので、それほど恋しいとも思っていなかった。
「……あたし、おかみさんの本当の娘ならよかったのに」
おかみさんは大きく鼻を鳴らした。
「めっそうもない。無学《む がく》な貧乏人の娘になって、何がおもしろいんだい。あんたは、偉《えら》い学者様の娘じゃないか」
「何一つ受け継いでいないもの、学者の娘といったって、ただの高地育ちとどこが違うの。今では博士にも有能な弟子がついていることだし、あたしは博士にとって、いてもいなくてもいい人間なんだから。あーあ、だれでもいいから、いい人を見つけて早く結婚したいな」
つまらなそうにフィリエルが言うと、おかみさんは拭《ふ》きそうじの手を止め、奇妙な顔つきで少女を見つめた。そして、深いため息をついた。
「……時のたつのは早いものだね。あの日、塔《とう》の床を破った紙くずだらけにしていた赤ん坊が、今ではこんなことを言うようになって。これから先は、どうなっていくんだろう」
おかみさんが急に深刻になってしまったので、フィリエルは困って笑った。
「いやね、おかみさん。今のはただ言ってみただけ。だって、学校の女の子たちは口をそろえてそう言うんですもの。舞踏会というのは、そういう意気込みでのぞむものなんでしょう?」
「そりゃまあ、そうだけどね」
「大丈夫、あたしにプロポーズする人はめったにいないから。学校のみんなは、あたしのこと、妖精《ようせい》の血が混じっているって言うのよ」
屈託《くったく》なく言うフィリエルに、おかみさんは複雑な顔をしたが、ふいにいつもの実際家《じっさいか 》に立ち返った。
「とにかく、食べ終わったら鵞鳥《がちょう》たちに餌《えさ》をやっておくれ。ボゥがもどってくるまでにまだ間があったら、裏口のそうじもたのむよ」
勝手口を出ると、たちまち息は白く上がった。風よけの生《い》け垣《がき》は、針のような葉を霜《しも》で覆い、その根元や木戸《きど》のある石囲いには、青い影をもつ雪が凍てついている。そびえる岩山の| 鋸 《のこぎり》状の稜線《りょうせん》も、まだ雪|模様《も よう》を筋《すじ》に描いていた。
それでも、セラフィードは厳寒《げんかん》地というわけではなかった。降雪《こうせつ》もそれほど多くない。湾岸を暖流が流れているせいで、冬の気温が内地《ないち 》ほど下がらないせいだ。ただし、夏の低温と強風のせいで、高地に樹木は育たなかった。裸の山頂のもとには、ところどころに岩の突き出た荒れ野が広がっている。低地には沼沢《しょうたく》が空を映して瑠璃《るり》色をたたえ、はるかな山稜《さんりょう》の消えるところには、海原を示す紺青《こんじょう》が、晴れた日には一筋の線を引いていた。
フィリエルが生まれてこのかた目にしているのは、一年中こんな景色だった。目をさえぎるもののない荒れ野が、雄大な空を視野に導く。この地方の色の主役はいつも青だった。蒼穹《そうきゅう》の青、山陰の青、湖の青、そして海――これらの静謐《せいひつ》な色合いを友とすることが、セラフィールドの高地に暮らすことだった。
慣れない者には荒涼《こうりょう》としか見えない風景だが、それでも、確実にめぐってくる季節はある。今、固い雪をきらめかす光は、真冬とは比べものにならないほど鋭い。大気を暖めることはできなくても、水晶の清澄《せいちょう》さで、春の訪れを物語っているのだ。
(アストレイアの光……星仙女王の光……)
いつものように、フィリエルは考えた。少女にとって、イメージの中のグラール女王は、この光のような人だった。春の初めにふりそそぐ、澄んでまばゆい光……単に、女王生誕祝祭日がこの時分だというだけのことなのだが。
(でも、どの季節にお生まれになるより、ふさわしくていらっしゃる。つらい冬を終えた国民が、盛大なイベントでわきかえるように、ころあいを見計らってくださったとしか思えないのよね……)
勝手に考えながら、フィリエルは餌桶を抱えて裏へと回った。鳥小屋の戸はすでに開け放ってあり、鵞鳥たちは、清水を引いた水溜りのほとりでガアガア鳴きたてていた。
フィリエルは気前よく餌をやり、きびすを返そうとして、ふと、丘をやってくる人影に気がついた。この先の岩山に、家を構えた羊飼いはいない。ホーリー家の裏手には、天文台の塔が建つのみだった。そして、斜面を滑りそうになりながら下ってくる小柄な影といえば、一人しかいなかった。
フィリエルは赤みがかった髪をかきあげ、逆光《ぎゃっこう》に目を細めたが、近づいたところで声をかけた。
「ルーン、いったいどうしたの。こんなに朝早くに」
天文台に住む博士の弟子だった。彼の名前は長くて呼びにくいので、ルー・ルツキンまたはルーンですませている。彼はフィリエルが八つのときにやってきて、それ以来ずっと塔で生活しているのだが、フィリエルはこの少年を見るにつけ、ホーリーのおかみさんが、女の子は常識を身につけなければならないと考えたわけが痛いほどよくわかるのだった。
少年が着ているのは、ディー博士のお古の黒服で、彼にはひざまでの丈があった。マントのように広がるその服のポケットに手をつっこみ、縞模様《しまも よう》のくたびれたマフラーを巻きつけて歩いてくる姿は、おせじにもスマートとはいいがたい。いつも寒そうに背を丸め、黒っぽい髪はくしゃくしゃで、いつ見ても異なる方向にはねている。
おまけに彼は、博士のおさがりの黒ぶちメガネを後生《ごしょう》大事にかけていた。フィリエルの知る限り、メガネをかけた若人《わこうど》というのはルーン一人だ。ディー博士の見てくれに頓着《とんちゃく》しない性分《しょうぶん》を、そのまま受け継いでしまった弟子なのだった。
(よかった、あたし……塔で育たなくて……)
フィリエルがしみじみ思っているとは知らず、ルーンは白い息を上げながら坂を下ってくると、彼女の前に立った。
「昨夜《ゆ う べ》、博士からことづかったんだよ。今日は女王生誕祝祭だから、ユーナにおめでとうをいいに行けって。だから、めんどうだけど朝一番に来たんだ」
「えっ……」
フィリエルはめんくらったが、ルーンは生真面目《きまじめ》に言った。
「女王誕生日、おめでとう」
「……おめでとう」
少年はうなずき、さも義務《ぎむ》をはたしたように息をついた。
「これで用が一つすんだ」
祝日のあいさつのような世間並みのことを、塔の住人がするとは思わなかったので、フィリエルはめずらしそうにながめた。
「どういう風の吹き回し? よく今日が女王様の誕生日だって覚えていたのね。なんでも簡単に忘れてしまうくせに」
ルーンは心外そうに見返した。
「他のことはともかく、天文学者が暦《こよみ》の日付を忘れることだけはないよ。ぼくらが何のために、夜ごとに星の運行《うんこう》を確かめていると思っているんだい」
そう言えばそうだった。彼らは精緻《せいち 》な暦を作るための研究をしているのだ。フィリエルは父親たちの仕事について、その程度にしか知識や関心を持ち合わせていなかった。ディー博士と弟子は、夜空に星がありさえすれば、ほとんど一晩中|屋上《おくじょう》の観測台に詰めている。だが、その熱心な観測と膨大な計算とが、実のところどれほど役に立っているかは、あまり聞いたことがないのだった。
(あたしも無関心だけれど、自分の娘の名前を取り違える博士も博士よ……)
罪はそのほうが大きいと、フィリエルは思うのだった。うっかり者の博士が、娘のことをひんぱんにユーナと呼ぶため、弟子のルーンまで疑問なく口にするが、フィリエルとしては、それは母の名前だろうと言いたかった。
ルーンはポケットの中をさぐった。
「もう一つ、忘れちゃいけないことがあるんだ。これを預かってきたんだけど……」
当《とう》の品が現れるまでには、少し時間がかかった。彼のポケットには、じつにさまざまなものがつっこんであったのだ。取り出すたびに手品《て じな》のように違うものが出てくるので、フィリエルは感心したくらいだった。
「……ああ、あった。これだ」
ルーンがようやく探し当てたのは、手の中に入るほどの布張《ぬのば 》りの小箱だった。少年はそれをフィリエルにさしだした。
「誕生日の贈り物だよ。きみにだって、博士が」
フィリエルはうけとったものの、まじまじと見返さずにはいられなかった。
「どうして? 今日は女王様の誕生日であって、あたしの誕生日ではないわよ」
ルーンはきょとんとした顔になった。
「そうだったっけ」
フィリエルは冷ややかに言った。
「思いっきり忘れられているようですけど、あたしの十五歳の誕生日は、半年も前に終わっていますの。塔にあたしの出生占星図《しゅっせいせんせいず》があるでしょう。それには、だれにでも読める大きな文字で、コンスタンス三十六年の十月十二日と書いてあります」
「ええと……」
さすがにルーンも弱った様子だった。彼がまばたきすると、睫毛《まつげ 》がメガネをこすっているかのように見えた。彼の瞳は嵐の灰色で、ばかに長い|漆黒《しっこく》の睫毛に囲まれているのだ。女神もむだな分配をなさるものだと、フィリエルはこの睫毛を見るたびに思う。
ルーンは苦し紛《まぎ》れの口調で言い出した。
「半年遅れでもなんでも、思い出したほうがずっとましじゃないか。博士がせっかくあげると言っているのだから、もらっておいたほうがいいよ。もらっておくれよ。まさか、突き返したりはしないだろう?」
フィリエルは少しばかり意地悪くほほえんだ。彼が本気でうろたえたのを見て、けっこう溜飲《りゅういん》が下がったのだ。博士の弟子は、たいていの場合|横柄《おうへい》で無愛想で頭にくるのだが、百回に一回くらいかわいく見えるときがある。
「まさか。女王様にあやかったのだとしても、もらっておくわ。こんなにめずらしいことってないもの。あの博士があたしに贈り物だなんて、いったい何が入っているのかしら」
はしゃいで小箱のふたを開けたフィリエルは、中のものに息をのんだ。そこに収まっていたのは、思いもよらない宝石細工だった。楕円形《だ えんけい》の澄んだ青い石を中央に、ダイヤのように鋭くきらめく小石をちりばめた、豪華《ごうか 》なペンダント。セラフィールドにまるで似つかわしくない輝きが、岩山の朝日に燦然《さんぜん》と光を放ったのだった。
青い石は湖よりも深い色をしており、フィリエルの親指の爪《つめ》ほどあった。その周囲に、輝く小粒のカット石が十数個、左右対称の模様を形作っている。フィリエルはそっともちあげたが、金の鎖《くさり》はしなやかに重く、かなりの値打ちものだった。
「どうして博士が、こんなものをもっているの?」
フィリエルはあからさまにたずねた。美しい贈り物がうれしくないわけではなかったが、意外すぎた。それに、ルーン相手にお礼を言っても益《えき》がないというものだ。
「うちにはお金なんてないのに、どこでこんなものを手に入れたの? 見事な細工物だわ、とっても高かったに決まっている。これが研究に必要なものなら、博士が出費にいとめをつけないのもわかるけど、首飾りだなんて、いったいどういうことなの?」
ルーンは気を悪くしたようだった。ぶっきらぼうに答えた。
「知らないよ。かなり前から塔にあったものだよ。博士が昨夜《ゆ う べ》、もの入れをさんざんひっくり返していたのは知っているもの」
「どこのもの入れ? あたしには覚えがないけど」
「思うんだけど、その首飾り、きみのおかあさんの形見《かたみ 》じゃないか?」
いきなり言われて、フィリエルはけげんな顔をした。
「なんですって」
「女親の形見は、その娘が大きくなったら受け継ぐものなんだろう」
「おかあさんの形見? これが?」
信じられないままくり返すと、ルーンはそっぽを向いてしまった。自分の言い出したことに気まずい思いをしているのだと、フィリエルにもわかった。母親に縁《えん》がなく育ち、その言葉に居心地《い ご こ ち》が悪いのは、彼も同じなのだ。フィリエルは片親だが、ルーンは両親どちらの顔も知らなかった。
八つのとき、突然《とつぜん》天文台に現れたやせ細った子どものことを、フィリエルは思い返した。ほとんど口をきかない少年だった。彼には親にもらった名前がなく、生年月日も知らなかった。出生占星図さえもらえないままに、旅芸人《たびげいにん》の一座に売られていたのだ。
今も昔も、およそ愛想と呼べるものがない彼に、人前でどんな芸ができたのかというと、暗算だった。命じられればものの数秒で、何桁《なんけた》の計算でもしてみせた。彼が天文台へつれてこられたのも、その見世物が人目にとまったからなのだろう。
そのころのルーンは、発育不良で六歳程度に見え、暗算以外は何もできない子どもだった。だが、ディー博士は少年に衣服を与え、名前を与え、おそらくはフィリエルと同い年くらいだろうと言った。
博士がルーンを弟子に取り立て、高等数学を教授しはじめると、見るまに彼は変わっていった。フィリエルには少しも興味がわかない数式を、むさぼるように学びとり、それに伴《ともな》って少しずつ、自分から話したり感情を見せたりできるようになったのだ。
ただ、不思議なことに、人並みなことができるようになればなるほど、彼の神業《かみわざ》のような暗算能力は薄れていった。ディー博士は、それでいいのだと言った。
一瞬に数字が閃《ひらめ》くようなことはなくなったにせよ、ルーンの計算は早く正確だったし、天体計算につきものの膨大な量を、少しも苦にする様子がなかった。数年もすると手堅《て がた》い助手となり、ディー博士と二人して、ますます研究に埋没《まいぼつ》するようになったのだ。今では実の娘のフィリエルより、よほど長い時間を博士とともにすごしている。
「あなた、博士から何かきいているんじゃないの。あたしのおかあさんのこと」
フィリエルは探りを入れてみた。
「形見だなんて、急に思いつくのは変よ。博士ったら、いくらたずねてもあたしにはおかあさんの話をしてくれないくせに、あなたになら話すわけなの?」
「ぼくだって聞いちゃいないよ。ただ、フィリエルにその品をわざわざあげることにしたのは、そういう意味じゃないかと、勝手に思っただけだよ」
ルーンは早口に抗弁《こうべん》した。
「博士に直接きいてみればいいじゃないか。その首飾りがどういうものなのか、どこからきたものなのか。博士だって、きみにくれたからには答えてくれると思うよ」
その後ろめたげな様子が、フィリエルには気に入らなかった。
(やっぱり、何か知っているのね。ルーンはずるい……博士もずるいわ。娘に言えないことも、弟子になら言えるわけなのね。そりゃあたしは数学の才もない、期待はずれの娘かもしれないけれど、あたしを産んだおかあさんのことくらい、最初にあたしに教えてくれてもいいのに……)
今までにも、ないがしろにされている気持ちになったことはあった。だが、今ほど強く感じたことはなかった。博士がそうなら、こちらにも考えがあるとフィリエルは思った。
「塔へ行くひまなんてないわ。アンバー岬《みさき》までは半日かかるというのに、出かける前に片づけておくことがたくさんあるのよ」
少女がつんとして言うと、ルーンは驚いた様子だった。
「アンバー岬へ出かける? 何をしに?」
「領主館《りょうしゅかん》の舞踏会へ行くのよ。話したはずでしょう、すぐ忘れるんだから。もうじきホーリーのだんなさんが、荷馬車でマリエの家まで送ってくれるの。そこからは、オセット家の屋根付き馬車で岬まで行くのよ」
ルーンはめんくらったように見つめた。
「きみが領主館なんかに行って、いったい何をしてくるんだい」
「ばかね、舞踏会といったらダンスをするに決まっているじゃないの」
フィリエルは、村で妖精じみていると思われている尖ったあごを、ルーンにむかって突き出した。
「あたしが踊れやしないと思っているんでしょう。おあいにくさま、学校で全部習ったわ。作法《さ ほう》も覚えたし、ダンス用の上靴《うわぐつ》はマリエが貸してくれるの。あたしは、博士やあなたの知らないところで日々学んでいるのよ」
「ダンスを学ぶことが、何の足しになるんだい」
ルーンは肩をすくめた。
「あら、たくさんの人と踊って、たくさんの人と知り合いになるのよ。今日のパーティには、ルアルゴー中の若い人が集まるんだから。紹介したりされたりして、すてきな人とめぐりあうんだわ。そういうことって大事なはずよ」
「くだらないよ」
フィリエルの言い分に、ルーンはすげない口調で返した。
「どれだけ人が集まるか知らないけど、その中に、今夜、惑星の|  合  《コンジャンクション》が始まることを知っている人間が何人いると思う? 何人集まろうと、くだらない連中はくだらない。無知な人間は、ただの浮かれ騒ぎしかできないんだ」
「まあ」
ディー博士がそう言うのを、口移しに聞かされるようだった。腹も立ったが、これにはしかたのない面もあった。フィリエルと違い、ルーンは天文台へ来てからの七年間というもの、村へ降りたためしもない。博士一人をひたすら仰ぎ、見習い続けている彼が、博士の人間嫌いまで忠実に写しとったからといって、責められないかもしれなかった。
「ルーン、あなた、領主館のパーティに行くべきだわ」
その瞬間まで思いつきもしなかったのだが、フィリエルは言った。このままではいけないと思ったのである。
「その凝《こ》り固まった考えを改めさせてあげる。いっしょにアンバー岬へ行きましょう。あなたがいつも言っているように、あたしよりも年が上なら、参加する資格は充分あるはずよ」
ルーンはひるんで一歩下がった。その間をフィリエルが二歩つめた。
「あたしの付き添いになってよ。どの女の子にも、一人は身内の付き添いがつくものなの。マリエのお兄さんが、あたしのぶんも引き受けてくれるというけれど、身内にこしたことはないもの。ねえ、あたしが水色のガウンを着たところ、見たくない? その上にこの首飾りをつけたら、きっとすごい美人になるんだから」
言っているうちに、フィリエルは本気でそう思えてきた。ルーンにいっしょに来てほしかった。自分の晴れ姿を、セラフィールドのだれかに見てほしかったし、個人の付き添いがいないのは、正直言って肩身が狭かったのだ。
「あなたに踊れとは言わないわ。ダンスをしなくたって、楽しいことはたくさんあるのよ。ロウランド家のおふるまいで、ごちそうやお菓子が山のように出るというし、一流の楽団が演奏するというし、お城の中を見学するだけでも、行くだけの価値があると思うわ。想像もつかない豪華なホールなのですってよ」
ルーンの気をひくように並べてみせた言葉だったが、どうやら逆効果のようだった。それを聞くと彼は、急に冷めた目つきになった。
「そんなものには興味がないよ。ぼくは行かない。今夜の観測は、今年の大事なものの一つなんだ。計測器の調整もすんでいないのに、博士を一人にするわけにはいかないよ」
自分でも認めたくないほどがっかりしたフィリエルは、思わず叫んだ。
「あなたったら一生そうしているつもり? 一晩も天文台から離れられないで、博士の顔しか拝んだことがなくて。それを一生のあいだ続けていくつもりなの?」
ルーンは、年取った学者のようにしかつめらしく少女を見返した。
「ぼくが大勢の人間を知らないと思っているなら、きみのまちがいだよ。ぼくはきみとは違う。ここへ来る前は、国の内も外も回っていたんだ」
ルーンが自分から過去にふれることはめったになく、フィリエルが驚いて口をつぐむと、彼は棘《とげ》のある口調で続けた。
「いろいろなことを見聞きしたよ。思い出したくもないことばかりだ。頭の悪い、下劣な、博士の足元にも及ばない連中ばかりだった。もう一度あんな連中に会うために、わざわざ出向いて行かなくたっていい。天文台ですごすほうが、その何倍も有意義《ゆうい ぎ 》だよ」
「伯爵《はくしゃく》家のかたがたのことまで、下劣と言うつもり?」
フィリエルはようやく反論を試みたが、ルーンはますます軽蔑《けいべつ》しただけだった。
「一番信用ならないのが、ああいう特権階級のかたがた[#「かたがた」に傍点]だよ。世襲《せしゅう》の上にあぐらをかいて、生まれ持った身分だけで世の中にのさばっているんだ。個人の能力は二の次三の次でしかない」
「どうしてそう決めつけるの」
フィリエルは、辛抱《しんぼう》できなくなって足を踏み鳴らした。
「どうしてそんなことが言えるの。自分だって、ロウランド家のかたがたと知りあったことなんかないくせに。ルアルゴーに生まれた人間に、悪い人はいないわよ。そりゃ意地悪な人もたまにはいるでしょうけど、こちらから心を開かなくては、だれだって親切になどしてくれないんだから」
「フィリエルこそ知らないんだ。自分がまるっきり世間知らずだってこと。伯爵家の舞踏会へなど出かけていって、おもしろいとでも思っているのかい。きっと場違《ば ちが》いだと気づくだけだよ」
「行ったことのないあなたに、どうしてそれがわかるのよ。余計なお世話よ。ただのやっかみじゃないの」
無心に餌をついばむ鵞鳥たちのかたわらで、フィリエルと博士の弟子は、怒りをこめてにらみあった。
「あたしは舞踏会へ行きます。まっとうに暮らしているルアルゴーの住民なら、行かない人なんていないんだから。天文台へ帰りなさいよ、ルー・ルツキン。好きなだけひきこもって、星だけ見ていればいいんだわ。でも、このあたしはまっぴらよ。あたしのすることに口をはさまないで」
「帰るよ、もちろん。言われなくたって」
ルーンは強く言い返したが、少女の手にあるペンダントに目をやると、いくらか悲しげにため息をついた。
「だけど、きみが博士の子どもだということは、動かせないんだよ、フィリエル」
フィリエルは| 憤 《いきどお》りをこめた。
「父親らしいことをしてもらった覚えはないわ。娘らしいことをして返す必要もないわよ。あなたにさしあげるわ。喜んで、あんな親」
「わからずや」
ルーンはぷいと背を向け、もと来た道を登りはじめた。
「二度と塔から出てこなくていいから」
フィリエルは憎まれ口を投げたが、怒ったルーンはもうふりむかなかった。
通う者のまれな原野《げんや 》の道は、踏み分けた跡一つつかない。一人で淋《さび》しい丘の向こうへ消えていく、やせぎすな少年の後ろ姿は、むかっ腹を立てているにもかかわらず、どこかわびしげに映った。
ルーンはあまり体が大きくない。同年の男の子なら、フィリエルよりずっと背が高くてもいいはずなのに、一インチ違うかどうかだった。彼はもっと食べなくてはいけないのだが、寝食を忘れる博士のそばにいては、忠告に従わせることは難しかった。
怒りは、わいたときと同じ急速さでしぼんでいった。フィリエルの胸に口げんかの後味《あとあじ》の悪さだけが残った。そうしてはじめて、自分の気持ちに気づいた。
水色のガウンを着た姿を、一番見せたかった人物は、本当は博士――徹底《てってい》した人間嫌いで、フィリエルが生まれてからの十五年というもの、一度も天文台から出たことのない父親だった。娘が塔を訪ねても、ろくろく顔を見ようともしない父親に、大きくなったと、なんて美しくなったのだと言ってはしかったのだ。
(でも、そんなこと、望んだってどうにもならない。ディー博士の性分がそんなに簡単に変えられるものなら、だれも苦労はしないはずね……)
気づくだけむなしいと考えなおし、ため息をつくフィリエルだった。
ホーリーのだんなさん、ボゥ・ホーリーは、やせて落ちくぼんだ目をし、つやのない麦わら色の髪をした男だった。おかみさんより一回り小さく、胃の調子が悪いため、いつも猫背《ねこぜ 》の姿勢を保っている。とはいえ、筋《すじ》ばった手足は頑丈《がんじょう》でがまん強く、寝つくことはめったになかった。つまりは可《か》もなく不可《ふか》もない、寡黙《か もく》な高地羊飼いだった。
たしかに陰気なタイプだが、彼は彼なりによく気のつく人だった。黙って学校の道具を買い求め、フィリエルの枕元《まくらもと》に置いたのは彼だ。同じように、天文台の研究者が鵞《が》ペンに困らないよう、さりげなく鵞鳥を飼い始めたのも彼だった。だから、たとえ陰気くさくはあっても、フィリエルはこのだんなさんが好きだった。
しかし彼は、ときおり非常に頑固になった。フィリエルが領主館の舞踏会に参加すれば、外泊しないと帰って来られないが、その外泊がけしからんというのである。
「おまえは預かりもののお嬢さんなんだよ」
その一点張りだったが、フィリエルに納得できるわけがなかった。実の親はといえば、フィリエルが何をしようとまるっきり関知しないのだ。彼女はひと冬ねばり、ねばり勝ちでだんなさんにうんと言わせたのである。
苦労のあげくに手に入れた、貴重な今日の一日である。万全の態勢で臨《のぞ》み、味わい尽くさなければ割りが合わないというものだった。フィリエルは、偏《へん》屈《くつ》な少年を頭から追い出すことに決めた。断固としてガウンを衣装箱《いしょうばこ》につめ終え、厚手のマントをはおったとき、だんなさんが羊囲いからもどってきた。
起伏《き ふく》のゆるい丘をいくつか越え、湖を正面に低地へ下っていく。岸辺が近づくと、樹木の立ち並ぶ様子も目にできた。尖った樅《もみ》やトウヒ、ところどころに裸のブナや白樺《しらかば》が続く。それらの並木に入るころには、もうセラフィールドではなく、渓谷《けいこく》の裾野《すその 》の村、ワレットだった。ワレットには農耕地《のうこうち 》があった。荷馬車が木立を抜けると、休耕《きゅうこう》地の野原が、鋤《す》き返されるのを待ちながら村を囲んでいる。
フィリエルの友人マリエは、地主のなかでもひときわ大きなオセット家の末娘《すえむすめ》だった。太い煙突の目立つオセット家の切《き》り妻《づま》屋根《やね》が見えてくると、ホーリーのだんなさんは馬車の速度をゆるめた。
「フィリエルや。何度も言ったことだが……」
少女は笑い声をあげ、だんなさんの肩をたたいた。
「大丈夫、大丈夫。おかみさんに誓ったことをくり返そうか? 何から何まで承知の上よ」
「そうは言っても、おまえ。よそ様のもとで夜をすごすのは、これが初めてなのだし……」
「あたしを行かせてくれてありがとう、だんなさん。とびきり感謝している。今日まで育ててくれたぶんをまとめたくらい、感謝しているの」
フィリエルは身を乗り出し、荒れてざらざらしたホーリー氏のほおに、衝動的にキスをした。彼は不意打ちに言葉を失ったようだった。フィリエルは愛情をこめてほほえんだが、次の瞬間に道の角にいる友人を見つけ、だんなさんのことは念頭《ねんとう》から消《き》え失《う》せた。
「ヤッホー、マリエ。ヤッホー、メレイン。二人とも元気? あたしもとうとう来たわよ。休みの間、みんなに会いたくてたまらなかった」
陽気な巻き毛のマリエと、大柄なブロンドのメレインは、うれしそうに荷馬車に手を振り返した。
「待ってたわよ。絶対に来るって思っていたのよ。そのぶんだと用意万端なのね」
「そうなの、まかせてよ」
少女たちの大騒ぎに、ホーリー氏は懼《おそ》れをなしたようだった。明日の昼に迎えにくるとだけ告げて、逃げるように荷馬車を返してしまった。だが、フィリエルはすでに夢見《ゆめみ 》心地《ご こ ち》だった。丸一昼夜の自由――初めて大人の世界への切符《きっぷ 》が手に入ったのだ。放たれた小鳥のように目がくらみ、ただただ有頂天《うちょうてん》だった。
セラフィールドには何もないが、ルアルゴーという、西海岸に半島として突き出た州を言えば、この北方の地は、決してさびれても貧しくもなかった。
もっともさかんなのは牧畜《ぼくちく》だが、ダーモット港はよく整備され、南北に走るファーディダッドの連山《れんざん》からは、良質の石炭も鉄鉱石も採れる。
北は、何事につけても有利な地方だった。気候の厳しさなど、竜《りゅう》に襲われる脅威《きょうい》に比べれば、どんなにかましというものだ。平均気温が二度上がるほど、赤道に一歩近づくほど、竜の出る頻度《ひんど 》は増す。
ルアルゴーで家畜が肥えるのは当たり前、人間が楽観的になるのは当たり前だった。実際、グラールが大陸で一、二を争う強国にのしあがったのも、北部西海岸という、有利な国土を押さえたことと無関係ではないのである。
当然のことながら、この地を領《りょう》するルアルゴー伯爵は、財産家《ざいさんか 》で実力者だった。そういうわけで、フィリエルたちがオセット家の箱馬車で向かったアンバー岬の領主館は、片田舎《かたい な か》の館《やかた》と見くびられるものではなかった。地元の人々は、岬の突端にそびえるたたずまいの美しさを評して、アンバーの飛燕城《ひえんじょう》と呼んでいた。
フィリエルにとっては、飛燕城を目にするはおろか、海を間近にながめるのも初めての体験だった。馬車は岬まで海岸沿いに街道を走り、梢《こずえ》がとぎれると、凪《な》いだ海に漁船《ぎょせん》の影がながめられる。潮風の匂いを嗅《か》ぎ、景色を楽しむドライブは楽しかった。道沿いには雪の跡もなく、高地との温度差に驚く。風は穏やかで、空は雲を溶かしたようにやわらかに青く、祝祭日和《しゅくさいびより》としても最高の吉日《きちじつ》だった。
おめかしした少女たちは際限《さいげん》なくはしゃぎ、四人乗りの馬車の中は耳が痛いほどかしましかったが、オセット家のマールは、忍耐《にんたい》強く笑みをたやさなかった。初々《ういうい》しい少女たちの引率《いんそつ》を、彼なりに楽しんでいたのだ。マールは六月に婚約中のリネットと式を挙げることになっており、独身ならではのばか騒ぎもそろそろ納めどきだった。
「切り通しを過ぎれば、ルアルゴーの誇る港町、ダーモットが見えてくるよ」
車窓《しゃそう》から見える景色をさして、マールは少女たちに教えた。彼は港の様子や船乗りの話にも詳しかった。
「大きな湾だろう。命知らずの集まる港だ。外洋に乗り出すことは、どんな重装備の船でも並大抵のことではないんだよ。大きな船は、竜の大きなやつを引き寄せるからね。自分のなわばりに入りこんだライバルだと思って、怒って攻撃してくる。出会ったら、まずは最期と思ったほうがいいんだ」
「いやだ、想像しただけで鳥肌が立ってくる」
メレインがマントの中で身をすくめた。
「海へ出たがる人の気持ちだけはわからないわ。足の下に地面がないということだけでも、あたしなら震えちゃうのに。その上、海の竜は小山みたいに大きいのでしょう。うう、ごめんだわ。どうして自殺行為をなりわいにできる人たちがいるのかしら」
「儲《もう》かるからだろうね」
マールは笑った。
「うまく渡れば、路程《ろ てい》は陸の比じゃないんだ。船乗り魂は、グラールの男の心意気さ。内陸の腰くだけどもとは出来が違う。湾の向こうに濃く見える、外海の海流は、人をさそっているようだと思わないかい」
妹のマリエが、冷めた口ぶりで後をついだ。
「オセット家らしいもの言いでしょう。だめなの、うちの一族は、代々一人は船乗りを出すと言われているのよ。ルアルゴーに生まれて何がいいかといえば、一生竜を見なくてすむことだのに、好きこのんで会いに行く人間が身内にいるなんてね」
「ルアルゴーにだって、竜が来ることはあるんだぞ」
マールは少女たちをおどかした。
「暖流に乗って迷い込むやつが、百年に一度くらい現れるってさ。前回はじいさんが子どもだったころで、そいつの大きさといったら、ダーモットの波止場《はとば》が風呂桶《ふ ろ おけ》に見えるほどだったそうだ。今日がたまたまその日だっておかしくないぞ。今、そこの海から、頭を出すかもしれないぞ」
三人は悲鳴を上げた。騒ぎに満足した彼は、窓の向こうを指さした。
「ほら、お城が見えてきた。領主館がこれほど海際《うみぎわ》に建っているのは、海を見張っているからなんだ。心配いらないよ、お嬢さんたち。どれほど大きな竜が来ても、岬の絶壁《ぜっぺき》を越えることはまずできないからね」
フィリエルたちが窓際にかたまって外を見やると、船の帆柱《ほばしら》が林立する波止場の向こうに、天然の防波堤となる崖《がけ》が湾曲しながら伸びている。その突端は波に洗われて高く切り立っており、崖の上には、いくつもの尖塔《せんとう》をそなえた灰青色の建物が、旗をひるがえして悠然とそびえていた。
「わあ……本当にお城だ」
フィリエルは感に堪《た》えずにつぶやいた。
「あたし、たぶんそうだと思っていた。シンデレラが行くようなお城だわ」
メレインが不思議そうにふりかえった。
「初めてじゃなかったの、フィリエル」
「初めてよ。あたしが言ったのは、シンデレラがカボチャの馬車に乗って行ったお城のこと」
「だれが、何に乗って行ったですって?」
きょとんとしてメレインは問い返した。フィリエルははっとして口をつぐんだが、メレインはしつこくたずねた。
「カボチャの馬車って聞こえたけど。フィリエルったら、いったい何の話をしているの?」
ワレットの学校では、読み書きと話し方を教えるが、フィリエルが幼いころから塔で読んでいる本の物語は、だれも見聞きしたことがなかった。先生も生徒も、「シンデレラ」や「白雪姫」や「美女と野獣」や「赤頭巾《あかず きん》」について、一度も聞いたことがなかったのだ。
フィリエルは最初それに気づかず、話し方の時間に「狼《おおかみ》と七匹の子ヤギ」を語るという、愚かなまねをしてしまった。だれ一人、狼などという不可解《ふ か かい》な生物は知らなかった。フィリエルは気味の悪い子だと思われ、しばらくはだれからも口をきいてもらえなかった。
「なんでもないの、忘れて」
フィリエルが小さくなると、マリエがはじけるように笑い出した。
「まにうけちゃだめよ、メレイン。妖精娘の本領《ほんりょう》が出たのよ。この子が浮かれたときに口走ることといったら、いつでも突拍子《とっぴょうし》もないんだから」
(人前で言わないように、ずっと注意していたのに。パーティ会場で口走ったら大変だったわ。もっと気をひきしめなくちゃ……)
フィリエルは額《ひたい》を小突《こづ》いた。本の話を顔色を変えずに聞くことができるのは、博士の弟子だけだった。塔へ来た当時にむりやり読み聞かせたため、免疫《めんえき》ができているのだ。もしも他人に嫌われたくなければ、天文台の外では、どんなに親しい人に話すのも禁物《きんもつ》だった。
岬の入り口には大きな蔓草《つるくさ》模様の鉄門があり、フィリエルには館にも見える門番の詰め所があった。そこを通ってしばらくは、海の景色が木立に隠れた。深く静かな林のなかを、整備のいきとどいた一筋の道が通っている。岬全体がお城の森なのだ。
門を通ってからは、渋滞《じゅうたい》するほどの混みようだった。前にも後ろにも、二頭《に とう》立ての黒塗りの馬車が延々と連なっている。その景観に、フィリエルはいくらか臆《おく》してきた。ルアルゴーの若者すべてが舞踏会に集まるものではないことが、ようやくわかりはじめたのだ。たとえ乗り合わせても、おかかえの御者のいる屋根付きの馬車が、この州すべての家にいきわたるはずがなかった。
(あたしって、もしかしたら、本当にシンデレラだったのかもしれない……)
貧富《ひんぷ 》の差というものを、これまでそれほど意識せずにきたフィリエルだが、さすがに今夜は気になった。だが、臆してどうなるものでもない。しばらく待つと、館の衛兵《えいへい》の誘導で、彼らの馬車は無事に車場へ入ることができた。マールは、少女たち一人一人に手を貸して馬車から降ろしてやった。
マントを馬車に残してきたため、初めての礼装《れいそう》を人目にさらす少女たちは、晴れがましくもあり、寒くもあった。正面のポーチまでは距離があったのだ。太陽は早くも木立の向こうに沈み、紫色のたそがれに、星がいくつか輝きだしている。
暖かなともしびをかかげた飛燕城は、それは華やかにそびえ立って見えた。フィリエルたちはときめきと寒さに身ぶるいし、装飾のある支柱にささえられたポーチを、衛兵に見守られながら通り抜けた。
彼女たちが顔を上げるよりも早く、海鳴りに似た人々のざわめきが耳を打った。開け放たれた巨大な空間に、つつましい村の少女たちが見たこともない大人数が集《つど》っていたのだ。
それにしても、なんという広大なホールだろう。吹き抜けの天井を見上げれば首が痛いほどで、アーチを連ねる雄大な梁《はり》に、その威容《い よう》がよくわかった。垂木《たるき 》から太い鎖で吊り下げられ、百本もあろうかという蝋燭《ろうそく》を立てた三つのシャンデリアは、カットグラスを輝かせ、人々の頭上に宝冠《ほうかん》のようにきらめいている。
照明は壁の柱の一本一本にもあり、ホール全体が明々と光り輝いていた。床は、チェス盤のような黒白の石のモザイク。まばゆく磨き上げられて、滑るように行き来する人々の影を映しだしている。
少女たちは目をまるくして、色彩の虹に見える人々をながめた。人々の礼装は北部ならではの重厚なものだったが、金糸銀糸をたっぷりととり、宝石を飾る者も多く、なかなか都にひけをとらなかったのである。
オセット家のマリエのガウンは、赤い薔薇《ばち》の刺繍《ししゅう》のよく似合うものだったが、このホールに立っては彼女のガウンもかすんで見えた。ダーモットの名家と思われる令嬢が、毛皮をあしらった桁《けた》違いなガウンに身をつつみ、悠然と通りすぎていったせいかもしれなかった。
フィリエルは、呆然《ぼうぜん》として見込み違いに気づいた。ホーリーのおかみさんが悪いのではない。彼女は、アンバー岬まで踊りに来たことなどなかったのだから。家ではあれほどすばらしいと思った、水色のガウンもビーズの飾りも、まるで子どもだましだった。ただ、輝くペンダントを|喉元《のどもと》に飾っていることが、辛うじてなぐさめになるかもしれなかった。これさえなかったら、おそらくフィリエルは回れ右をして帰ったことだろう。
「どうしたんだい、だれも君たちをとって食いはしないよ。さあおいで、仲間たちの場所へつれていってあげるから。地域ごとに集まる場所はだいたい決まっているんだ。知った顔を目にすれば、すぐにくつろげるよ」
マールが笑って言った。うぶな少女たちと違って、おのれの分を知り尽くしていたので、動じるものはなかったのだ。マールに導かれて進むと、ワレット村の人々はすぐに見つかった。学校の先輩や顔見知りの男女が数人いて、たしかにほっとすることができた。初めて加わる少女たちに、彼らはホールの続き部屋を案内してくれた。
そこには、樫《かし》の長テーブルが据えられ、大皿にさまざまな料理が盛られていた。リボンを添えた鳥獣《ちょうじゅう》のロースト、燻製《くんせい》ニシン、香草《こうそう》を飾った鮭《さけ》。色付きの卵に冷肉、焼き栗にクルミ、樽《たる》だしのリンゴ。女の子が喜ぶ甘味としては、シロップ煮の果物や蜂蜜《はちみつ》漬け、美しく並べたクリームの一口菓子などがあった。すべて伯爵家のふるまいであり、だれでも好きなようにつまんでいいのだ。若者たちの旺盛《おうせい》な食欲に、大皿はたちまち食べ尽くされるが、そのつどお仕着せを着た館の人々が、新たに盛られた皿を手にして仕切りの奥から現れる。
ロウランド家は、飲み物も惜しみはしなかった。麦酒《ビ ー ル》とリンゴ酒はどんな大酒飲みも飲みきれないほどあったし、州内では作ることのできない葡萄酒《ぶ どうしゅ》も、赤も白もが取りそろえてあった。ワレットの仲間たちは、少女たちのデビューを祝って乾杯をくり返したので、彼女たちはあっという間にほおが|火照《ほて》り、最初の気がねを忘れて笑えるようになった。
マリエもメレインも、おおいに楽しみはじめたようだった。だが、フィリエルは、個人の紹介が始まると気持ちが急にしぼんでくるのを感じた。自分が村の住人ではないことを、あらためて思い知らされずにはいられなかったのだ。
マールのせいではなかった。マールは妹とフィリエルを分け隔《へだ》てなく紹介したし、むしろ彼女を持ち上げさえした。みなに一目置かれるオセット家の紹介で、フィリエルは髪や首飾りを誉めてもらえたし、村にはもったいない美人だと言った人さえいた。
だが、だれもフィリエルにダンスを申し込みはしなかった。初めてのダンスの相手、将来にわたって意味を持ち続ける相手に、敢えてなろうとはしなかったのだ。
領主館の広大なホールに立ったといっても、基本的には村にいるのと変わりはない。むしろ、地域の結束をますます固めているようだった。その中でこそ、彼らは安心して求愛したり、鞘当《さやあ 》てをしたりできるのだ。
(あたしったら、ここへ来れば何があると思っていたんだろう……)
あいかわらずホールの照明はまばゆくきらめき、黒と白に磨かれた床は、楽しげに語らう礼装の人々を映し出している。だが、フィリエルにとって、驚きと興奮の時は過ぎてしまったようだった。
入り口の桟敷席《さ じきせき》では、六名ほどの楽団が、気の長い調弦《ちょうげん》をようやく終えようとしている。一流の楽器をそろえた一流の楽団、その奏でる音色を聞くことを、フィリエルはずっと楽しみにしていたものだった。だが、今となっては、彼らが曲を始めるのが怖かった。相手がいないことをみんなが知る前に、だれも知らない人々の中へ紛れてしまおうと思い、フィリエルはじりじりと後ずさりした。
「フィリエルったら」
ふいに腕にふれられて、彼女は飛び上がった。横を見るとマリエがいた。
「さっきから合図しているのに、気がついてよ。何をそんなにそわそわしているの」
「えっ、だって、あの……」
フィリエルは口ごもった。快活なオセット家の末娘は、もちろん引く手あまたであり、マリエは若者に忙殺されているとばかり思っていたのだ。
「いいのよ、あたしはあたしで楽しんでいるから」
フィリエルは小声で言った。マリエは驚いたようにフィリエルを見た。
「それでもあなたはメレインとは違うわ。そうでしょう」
くっきりと濃い|眉《まゆ》を上げ、マリエは言った。彼女が思わせぶりに見やるので、フィリエルがそちらに目を向けると、メレインが恥ずかしげにほおを染め、かたわらの若者と熱心に語らう場面だった。
若者はあまり見かけない顔だったが、ことによると、メレインが妙にむきになって避けたいと言っていた、彼女の従兄《い と こ》かもしれない。
「口ではどんなことを言っても、あの人はああなのよ。メレインの望みは、村の平凡でかわいい奥さんになること。それが幸せじゃないとは言わないわ。ただ、あたしは、そこに収まりかえってしまうのはいやなの。あなたはどう思う?」
フィリエルは思わずほほえんだ。
「マリエったら、あんなにたくさんいる候補の中から一人も選ばないつもり?」
「急いで決める必要なんてないわ。あたしはまだ十五で、先が長いんですもの」
つんとあごをあげてマリエは言った。愉快な気がして、フィリエルはうなずいた。
「そうね。あたしもそう思う」
「フィリエルならわかると思った。ねえねえ、じつをいうと、あたしが今日の舞踏会へ来た目的は、ダンスとは別にあるのよ」
瞳を輝かせたマリエは、一歩近寄って内緒《ないしょ》話の姿勢になり、早口に続けた。
「あのね、今夜この会場には、ロウランド家のお嬢様がいらっしゃるはずなの。知っている人だけが知っている情報……都のお屋敷に勤めているエリゼル姉さんから、直接仕入れたのよ。ロウランド家の下のお嬢様は、今度、修道院《しゅうどういん》付属の女学校から、王宮の高等学院にご編入なさることになったのですって。だから、準備にご領地へもどられているのですって。女王生誕祝祭日は、あたしたちといっしょにお祝いなさるはずなのよ」
フィリエルは耳を傾けたものの、あまりぴんとはこなかった。
「ロウランドのお嬢様がいらっしゃると……何かいいことがあるの?」
「大ありよ。お嬢様とお話しして、顔見知りになって、マリエ・オセットの名前を覚えていただくの。だってあたし、王宮でお勤めしてみたいんだもの」
「王宮?」
あっけにとられずにはいられなかった。グラールの首都メイアンジュリーは国の南部にあり、彼女たちの日常をはるかに越えた遠い場所だ。そればかりか、都の三つの丘を占《し》める王宮ハイラグリオン、その至高の場所を隔てるザラクレスの大門は、野望を抱くだけで通れる門ではなかった。
王宮に関して、フィリエルのもっている知識はごくわずかだったが、それでも、錆《さ》びない銀と白大理石で造られた、夢のような宮城のたたずまいは話に聞いている。広大な宮城の中心は、女王のおわしますアストレイア星神殿。家柄か才能か、特別|際《きわ》だった者だけが中に入ることの許される、想像もつかない別天地だということだった。
「そんな途方もないこと、どうして思いついたの?」
「だから、お嬢様が王宮へいらっしゃるからよ」
じりじりしてマリエは答えた。
「王宮でつつがなくご学業あそばすためには、お付きがたくさん必要でしょう? ロウランド家のかたがたは、同い年くらいの侍女《じ じょ》を探していらっしゃるの。都でなく、地元ルアルゴーで探すことはたしかだと、エリゼル姉さんが請《う》けあったわ。チャンスがあれば選んでもらえる。もちろん、一介《いっかい》の村娘には無理な話かもしれない。それでも、試してみることはできるでしょう?」
フィリエルは感心してマリエを見た。
「マリエが大胆なことは知っていたけれど、そこまで考えているとは思わなかったわ」
「オセット家の野心よ。船乗りになる血ね。もともと、学校を卒業したら都に出ようと考えていたの――エリゼル姉さんのように。でも、お屋敷の小間使いもいいけれど、可能ならその上をねらってみたいでしょう」
少年のようににやっとして、マリエは言った。
「そんなあたしでも、一人でホールを端から端までつっきるのは、まだちょっと心細いわけ。ワレット村の社交場が、こんなに入り口近くだったとはね。お嬢様がこの会場におられるとしたら、一番奥に違いないのよ。グレイトホールにはデイスといって、奥に一段高くなっている場所があるの。フィリエル、いっしょに行ってくれるでしょう。こんなところにまである、ばかげた区分に収まる人ではないわよね?」
フィリエルはますます愉快になってきて、声をたてて笑った。マリエの野望に素直に敬服《けいふく》できたし、がぜん興味もわいてきたのだ。学校を卒業した後のことなど、フィリエルはほとんど考えたことがなかった。塔の住人たちの世話を、ゆくゆくは自分が引き受けることになるのだと、漠然と思ってはいたが、そこには何の展望《てんぼう》もないし、わくわくするような刺激もない。
「マリエにつきあうわ。あたしも、ロウランド家のお嬢様にお会いしてみたい」
「いっしょに侍女の座をねらってみる? いいわよ、それでも」
太っ腹なところを見せてマリエは言った。
「二人とも侍女になって、ハイラグリオンを闊歩《かっぽ 》しましょうよ。まずは手始めに、領主館グレイトホールの縦断《じゅうだん》からね」
フィリエルの手をつかむと、マリエはワレット村の輪を抜けて一歩を踏み出した。慣れない数杯のアルコールも、じつのところはかなり二人に力を与えていた。
音楽は、彼女たちが果敢《か かん》に前進している最中に始まった。寄り固まっていた人々が分かれ、中央で規則的に回りだす。踊らない者たちは壁際にひいたので、二人にとっては好都合だった。
半ばより奥へ進んだとおぼしきあたりから、周りの人々の身なりは、それとわかるほど高価になっていった。フィリエルとマリエが迷子にならないよう、手をつないで通り過ぎるのを、いぶかしげにちらりと見る目も増えていった。
上流になればなるほど、令嬢や令息《れいそく》はそう簡単にダンスをしないもののようだった。彼らは踊るよりは壁際で、つくろったポーズをとってたたずんでいる。毛皮や宝石をあしらった豪華な衣装を、そうすることで顕示《けんじ 》しているようにも見える。このあたりへ来ると、フィリエルはかえって自分の貧弱なガウンを気にしなくなっていた。あまりに格差がありすぎて、比べる気にもならなかったからである。
一段高いという、デイスがようやく目に入るようになった。フィリエルは、会場の空気がそれとわかるほど暖かいことに気づいた。人々の熱気ですでに充分暖かかったので、暑いと言っていいくらいだ。奥の左手に、人の背をはるかに越える巨大な暖炉《だんろ 》があるのだった。蔓草《つるくさ》模様の鉄柵の向こうでは、薪台《たきぎだい》に大木がそのまま燃えている。ちっぽけな枯れ枝でさえ大切にする高地暮らしの者にとっては、目を見はるような贅沢《ぜいたく》だった。
デイスの周囲には柱廊《ちゅうろう》があり、二階の高さに張り出した回廊をささえている。そして中ほどからは、二つ折れの階段が|繊細《せんさい》な手すりとともに床へと下っていた。上階はたぶん、伯爵家のプライベートルームへと続くのだろう。階段には葡萄酒色の絨毯《じゅうたん》が敷きつめられ、明かりに映えて美しかった。
柱廊と階段のせいで、デイスはそこだけ奥まった、居心地のよい小部屋のように見えていた。段差のある部分には、見事な透かし彫りのある木製のスクリーンがあり、今はたたんで両端に寄せられている。正面奥の壁には巨大なタペストリーが掛けられ、グラール建国の歴史場面を精緻《せいち 》に浮かび上がらせている。
フィリエルがぼうっと見回していると、マリエが握った手に力をこめた。
「ね、気がついた? あの右手の柱のところにいらっしゃるかた、ロウランドのユーシス様じゃないかしら。いらしているとは聞いていたけれど、本当となるとどきどきするわね。あのかたは、女王生誕祝祭日をたいていはお父上とともに首都ですごされるの。なんといっても、ルアルゴーの次期伯爵様ですもの。今年ご領地にいらっしゃるのは、妹君《いもうとぎみ》が帰っておられるからですってよ」
気がつくも何も、フィリエルはロウランド家の若君《わかぎみ》を、以前にちらりとも見たことがなかった。柱廊のあたりをうかがったが、着飾った令息がたむろしていて、判別はつかない。左手の暖炉に近いあたりは、あでやかな女性陣のたまり場になっているようだ。いくつか小テーブルがしつらえてあり、特別にもてなす給仕人が、銀盆のゴブレットやお菓子をすすめて回っている。
「どのかたがそうなの? よく知らないの」
「一度お会いしたら忘れることのないかたよ。あの中で一番ハンサムなかた。右の二番目の柱のところよ、背の高い、髪の赤い。あっ、ほら今、笑ったかたよ」
最後の言葉で、フィリエルにも彼を特定することができた。いくらか意外に思ったことに、ルアルゴーの次期伯爵は、とりたてて派手な装《よそお》いをしていなかった。周囲の若者に比べれば、地味と言ってもいいくらいだ。控え目に銀糸を縫い取った濃緑の上着、|漆黒《しっこく》のタイツ、銀のバックルのある膝丈《ひざたけ》ブーツを身につけている。炎《ほのお》の色の前髪を見せて、上着と同色のふちなし帽を被っていた。
髪の色は本当に赤かった。フィリエルが、自分の髪を赤いと思うのはよそうと考えたくらいだ。だが、その冴えた赤毛が、装いをひきたてているのはたしかだった。眉や目は髪よりは濃い色、笑顔はとびきり感じがよい。
実際、その笑顔に気づけば、ユーシスは着飾った令息のだれより目をひいた。すぐ隣りには、亜麻色の長い髪をして金と白の装いをした若者がおり、彼は彼で眉目秀麗《びもくしゅうれい》なのだが、フィリエルの目から見ても、ユーシスには人をひきつける何かがあった。
「そう、あのかたがロウランドなの」
思わずどきりとさせられたことを、自分自身からも隠すように、フィリエルは目をそらした。
「それで、かんじんのお嬢様はどこにいらっしゃるの?」
マリエは残念そうな声を出した。
「実をいうと、あたしもお嬢様のお顔は存じ上げないの。でも、あそこの御令嬢の中にはいらっしゃらないようだわ。ユーシス様が知らん顔をしていらっしゃるんですもの、いらしていないのよ、きっと」
二人の少女は勢いを失った思いで、一瞬しゅんとなった。だが、マリエは気をとりなおした。
「でも、まだ、今夜は始まったばかりだもの。これからお見えになるかもしれないわ。希望は捨てずに、もう少しここで待ってみましょうよ。そういえば、デイスのかたがたも、だれかを待っているような御様子じゃない?」
フィリエルに見てとれたのは、デイスの優雅な人々が泰然《たいぜん》とかまえており、どこか退屈そうであることだけだった。彼らにとって、パーティなど星の数ほどあるものであり、そのすべてが今夜のように豪勢なものなのだろう。
フィリエルは、再び伯爵の若君に目をやらずにはいられなかった。
(ああいう男の人を、人はハンサムと言うのか……)
ユーシスからは、太陽の恵みをいっぱいに受け、すくすく育った若木のような、明るさと気楽さが放射していた。少なくとも彼の手足はすくすく育ったらしく、貴公子のだれより背が高く、体の均整《きんせい》がとれている。長い足の形のよさといったらなかった。
(ルーンとは正反対のタイプだな……)
かすかに胸が痛んだ。ユーシスの発散する豊かさが、自分たちには縁遠いことを感じたせいかもしれなかった。たとえばルーンのような少年――赤ん坊のうちに両親をなくし、旅芸人に売られ、北の塔にこもる学者と隔絶《かくぜつ》された暮らしを送る少年――には、ユーシスのように笑えるはずがないのだ。
やや身びいきな気分になって、フィリエルは考えた。
(でも、ルーンだって、目鼻立ちだけをとれば、ロウランドの若君にそれほど見劣りするとは思えないけど……)
たいていの人は否定するだろうが、ルーンがメガネをとって髪をまともに刈り、若者らしいかっこうをすれば、けっこう見映えがするとフィリエルは考えていた。ただし、そんな日は決して来ないから、否定する人が正しいのだろうが。
ルーンのメガネに執着する態度といったら異常だった。服がないよりも、メガネがないときのほうが大騒ぎをする。ところが彼は、目に支障があるわけではないのだった。博士のように近視の気はなく、むしろ遠視気味で、天体観測に都合のいい目をしている。彼のこだわりのほとんどは、頑固な思いこみだった。弟子のしるしだと思っているのだ。
そして、服装に興味をもたせることは、フィリエルが一生努力してもできそうになかった。似合うものをさりげなく着こなすことなど、生涯不可能だろう。本と観測器から引き離すことも、同じくらい不可能だった。あの無愛想な性格を直すことも同様だ。
(ただ、背丈だけはこれから伸びる望みがあるわよ……ルーンが博士と同じくらい大きく育てば、あの服もそれほどみっともなくなくなるのよ。年を取れば、人に紹介しても恥ずかしくない人物になっているかもしれない。ああ、でも、博士も本当に困ったものだ。どうして彼に、もう少しまともな名前をつけられなかったのかしら……)
夢中で考えこんでいたフィリエルは、マリエが袖を引っぱっていることになかなか気づかなかった。マリエは、なんとか人目につかずに彼女を正気に返らせようと、必死になっていた。
「ちょっと、フィリエル。ちょっと」
「どうかしたの」
ぼんやりふりむいたフィリエルは、マリエが目を見開き、恐怖に近い表情を浮かべていることにびっくりした。
「若君が、こちらへいらっしゃるわ。ねえ……なんだか……あたしたちを目指しているみたい……」
マリエの声はのどに詰まり、フィリエルはようやく事態に気づいた。伯爵の若君は話し相手の髪の長い令息とともに、目的ありげにデイスを降りようとしている。彼がこちらを見ていることが、フィリエルにもわかった。ルアルゴーの次期伯爵は、ためらいのない様子でホールを横切ってくる。
マリエは、意気込みも消し飛んだ様子で青ざめ、うろたえてささやいた。
「やっぱりあたしたち、ここにいてはいけなかったのかしら……おとがめを受けるのかしら。父さんの耳に入ったらどうしよう。二度とどこへも出してくれないわ」
「そんなはずないわよ。身分の上下なく祝うのが生誕祝祭日のパーティだって、あなた言っていたじゃない……」
フィリエルは言い始めたが、マリエはフィリエルに隠れるように背に回ってしまった。しかたなく、盾《たて》となって踏みとどまったが、マリエと同様にうろたえていることはたしかだった。顔をめぐらせて若君をすぐそこに見たとたん、舌も凍りついてしまう。そばで見ると、伯爵の令息は本当に背が高く、哀れな少女たちには天井にそびえるように映った。
ユーシスは、群《むれ》をまちがえた鳥をつつき出すように、正確にフィリエルたちを見出していた。上等な革《かわ》のブーツが踵《かかと》を鳴らし、フィリエルの面前で止まる。フィリエルの心臓も、同時に止まるかと思われた。
視界に入るのは高価な濃緑のビロードばかりだ。そして、フィリエルにはこれまでなじみのなかったもの――たぶんこれが香水なのだろう――|爽《さわ》やかな香りも彼から漂《ただよ》ってきた。フィリエルの舌も頭も、その香りに麻痺《まひ》したようになっていた。
(……白鳥に混じったアヒルの子だと言われるのね。せめて、機転だけでも利いたらいいのに。だめ、あたしったら、口もきけない……)
フィリエルが絶望して考えたそのとき、ユーシスが口を開いた。
「どこでお会いしましたっけ。先ほどから、思い出そうと努めてはいるのですが、申し訳ない、思い出せないのです。お名前を聞かせてもらってよろしいですか」
「……は?」
ユーシスの声は低く響《ひび》きがよかった。伯爵の若君は礼儀正しい口調で話しており、見たところ至極《し ごく》真面目だ。一瞬|脳裏《のうり 》が真っ白になる状態をすごした後、フィリエルはようやく自制をとりもどした。
「あのう……それ……あたしにおっしゃっているのですか?」
ほっそりした水色のガウンを着た少女を見下ろし、ユーシスは心外そうに答えた。
「先程からわたしを、意味ありげに見つめていたのはあなたのほうではありませんか。だからわたしも、早急に結論を出すべきだと思ったのですよ」
フィリエルは、じわじわと顔が赤らんでくるのを感じた。言われてみればそうだった。ルーンと比較しながら、若君の顔を穴があくほど見つめていたのだ。それがどれほど無遠慮《ぶ えんりょ》だったかは、慣れない身の悲しさで、考えつきもしなかった。
「すみません、あの、あたし……」
口ごもり、フィリエルはうつむいた。周囲の令息令嬢の鋭い視線が集中するのを、痛いほどに意識した。
(あたしって、どうしていつもこうなんだろう……)
ワレット村の学校でも、なぜかこういう立場に陥ることが多かった。努力して常識を学んでいるつもりでも、セラフィールドの高地で育っては、どこかうっかりはずすのだ。そして、一番|間《ま》の悪いときに悪《わる》目立ちをして、いたたまれない思いをする。
ユーシスは正しく言葉の続きを待っており、フィリエルはなおさら困惑してしまった。左右に目を走らせ、伯爵の若君とともにデイスを降りてきた若者に気づく。金糸を豪華にほどこした白の上着を着た彼は、ユーシスの肩越しに興味|津々《しんしん》、猫のような緑の瞳で彼らを見守っていた。若者はフィリエルの視線に気づくと、助け船を出すようにユーシスの肩をたたいた。
「まったく、君にはいつも驚かされるよ。言うに事欠《ことか 》いて、どこでお会いしましたかとはね。若い御婦人の気をひくには、一千年使い古した手口じゃないか。少しルアルゴーの乙女《お と め》をみくびってはいやしないか。ほら、彼女、あきれてものも言えないじゃないか」
彼の淡い髪はくせがなく、たいていの貴公子のように黒いリボンで結ばずに、さらりと肩に流していた。くだけた口調は歯切れよく、洗練されて耳に響く。どう見ても彼はルアルゴーの人間ではなく、よそに大きな所領を持つ、貴人の御曹司《おんぞうし 》というところだった。
「君は、茶々《ちゃちゃ》を入れるためについてきたのか。混ぜっ返すなよ、ロット。わたしは、本当に覚えがあるからそう申し出ただけだ」
ユーシスはふりかえり、迷惑そうに言葉を返した。彼の視線が自分からはずれたので、フィリエルは少しだけ勇気を得た。
「あの、お会いするのは今日が初めてです。岬へ来たのはこれが初めてなんです」
しかし、伯爵の若君はゆずらなかった。
「いや、わたしには記憶がある。たしかどこかで出会っているはずだ。たぶん、父について各地を回ったときにでも……君の家はどこですか」
そのとき、ようやく気後《き おく》れを脱したマリエが進み出て、深くお辞儀《じぎ》をした。
「若君がワレットへお越しいただいたときのことを、よく存じ上げております。オセット家のマリエと申します」
ユーシスは顔を明るくした。
「ああ、そのおりには世話になった。オセット家のことはよく覚えている。そうか、ワレット村へ行ったときのことだったのか」
マリエはためらったが、はっきりさせるべきだと思ったらしかった。
「あの、フィリエルはセラフィールドに暮らしているんです。あの日はそこにおりませんでした」
「セラフィールド」
不思議そうにユーシスはつぶやいた。
「あの高地に人が住んでいるとは、うかつにも知らなかったな」
そうまで言われて、口をつぐんでいるわけにはいかなかった。フィリエルは顔を上げて名のった。
「フィリエル・ディーと申します。セラフィールドの天文台に住む、ディー博士があたしの父です」
ユーシスの顔にかすかな驚きが浮かんだ。
「ああ、忘れるところだった。それでは、北はずれに建つ塔の住人だったのか」
ロットと呼ばれた若者が、興味をひかれた様子でたずねた。
「天文台だって? ルアルゴーにも天文台があるとは聞いていなかったぞ」
「あるんだよ。というか、話にはあるときいている。『世捨て人の塔』と呼ぶ人のほうが多いが、はずれの高地に建っているんだ」
ユーシスは言い、フィリエルに向きなおった。
「それなら君は、ずいぶんと遠くからここへ来てくれたんだね。今日まで一度もわたしに会ったことがない? 本当に?」
「ええ、本当に」
「おかしいな……」
ユーシスは前髪を指でひっぱった。
「それならどうして、わたしは覚えがあると思ったんだろう」
「なに、考えこむ必要はないさ」
ロットは緑の瞳に光を踊らせた。
「君たちは、目と目を見合わせた瞬間に閃《ひらめ》くものがあったということだよ。つまりだ、一千年前から使い回される永遠のパターンを、今ここで実現してみせたということだ。すごいことだぞ、ユーシス君。二千年前から存在する、落としたハンカチを拾うパターンに勝るとも劣らぬ典型例だ。おめでとうと言わせてもらうよ。こんなことを恥ずかしげなくやってのけるのは、君のようなやつにちがいないと、前々から思ってはいたんだ」
「くだらないことばかり、何をさえずっているんだ」
ユーシスが一蹴《いっしゅう》した。ロットの言っていることがさっぱりつかめなかったフィリエルも、かなりのところまで同感だった。
「耳のそばでうるさく言うものだから、思い出せるものまで思い出せなくなったじゃないか。見ろ、喉まで出かかっていたのに、やっぱり思い出せない」
ユーシスはため息をつき、フィリエルに言った。
「何かの思い違いだったのかもしれませんね。これからはもう少し、御婦人の顔かたちに気をつけるようにします。どうも失礼しました」
「いえ……」
フィリエルはつぶやいた。彼がきびすを返して初めて、このまちがいを幸運だと思うことができた。なんといっても、ロウランドの若君と言葉を交わすことができたのだ。彼もこれからしばらくは、セラフィールドが無人ではないことを覚えているにちがいない。
ユーシスはそのまま立ち去りかけたが、ロットが腕をつかんでひきとめた。
「待った。他に言うことはないのか。きみの顔を特別な瞳で見つめていた、可憐《か れん》な乙女を目の前にしているんだぞ」
いぶかしそうにユーシスはロットを見た。
「お詫《わ》びは言ったぞ。他に何がある」
「今日は何のパーティだ。仮にも御婦人の前に立ったなら、『お詫びに一曲踊っていただけますか』くらいのことは言うのが当然だ。この未熟者め」
一瞬ひるみ、ユーシスは言い返した。
「……今日は父にかわってこの場を預かる身だ。都にいるときとは違って、悪ふざけはできないんだ。軽はずみなふるまいは慎むことにしている」
「遅いね。それを言うなら、きみはデイスを降りる前に考えるべきだったのだ」
意地悪なほほえみを浮かべ、ロットは宣言した。
「舞踏会へ来たら、ダンスをして親交を深めるのが正しい行為だ。わたしは断然、こちらの愛らしいお嬢さんに踊っていただくことにする。御婦人の立場を思いやれない輩《やから》は、宮廷に出入りする資格もないからな。お手をどうぞ、レイディ」
最後の言葉は、マリエに向かって優雅なお辞儀をしながら発せられたものだった。マリエはみるみるほおを染め、彼のさしだす手に手をあずけると、フロアの中央へ進んでいった。
「この悪友め……」
見送ったユーシスはつぶやいたが、彼も思い切りはよかった。瞳をフィリエルにふりむけると、少しも悪びれずに言った。
「では、踊っていただけますか。フィリエル・ディー」
彼が発音すると、自分の名前もそうではないように聞こえた。そう、まるで貴婦人のようだった。フィリエルが我に返ったそのときは、もうユーシスに手をとられてダンスの輪の中にいた。
問題は、マリエに借りた上靴だった。白繻子《しろしゅす 》のすてきな靴ではあったが、フィリエルにはやや大きすぎたのだ。靴をころがすことだけは、何としても避けたかった。なにしろ二人のダンスは今や、満場の注目の的だったのだ。それに、たとえユーシスが後に残された靴を家来にわたし、この靴が足に合う娘を捜し出せと命じたとしても、それはマリエなのだから、おもしろくない物語になってしまう。
フィリエルの冷や汗をよそに、楽団は明るく軽快《けいかい》な三拍子を奏《かな》で始めた。一回転、二回転と景色が回りはじめるにつれて、フィリエルは靴の心配を忘れ去った。音楽はすばらしかった。それよりもなおすばらしいのは、ユーシスのダンスだった。
パートナーの技量《ぎりょう》一つでどれだけ踊りやすくなるか、不幸にしてフィリエルはそれまで知らなかった。体に羽根がはえたようだった。ロットに比べれば生《せい》硬《こう》に見えたユーシスだったが、それでも宮廷仕込みの貴公子ではあり、踊ればそのあたりの若者とはわけが違ったのだ。
(楽しい……)
そのことが意外でさえあった。彼は友人にそそのかされ、嫌々フィリエルの相手になったと思っていたのだ。だが、そうではなく、ユーシスもまたダンスを楽しんでいた。人々があっけにとられる中で踊ることを楽しんでいる。口では謹厳《きんげん》なことを言いながらも、彼にもそういう茶目つ気があるのだ。
フィリエルが思わずほほえむと、彼もほほえみを返した。仲間|内《うち》のような――共謀《きょうぼう》するような閃くほほえみだった。ユーシスの明るいはしばみ色の瞳に光が踊った。そのときフィリエルは、彼に好意がもてることをはっきり意識した。
曲が終わり、フィリエルが息をはずませながら、膝を曲げてお辞儀をしたときだった。かたわらに、背の高い黒服の老人が立つことに気がついた。髪はすっかり白く、肉の落ちた顔に高いワシ鼻が目立つ。姿勢の正しさからも品格《ひんかく》からも、館でかなりの地位にある人物だろうと思われた。彼は薄青い目で、ロウランドの若君を凝視《ぎょうし》していた。
ユーシスはたぶん予期していたのだろう、ことさら悪びれない顔でたずねた。
「どうした、ペントマン」
老人は咳払《せきばら》いをし、堅苦《かたくる》しく言った。
「打ち合わせの折りには、このような次第は予定されなかったように見受けられますが」
ユーシスは肩をすくめた。
「番狂《ばんくる》わせが一つもあってはならないと、父上にもそうやって注進《ちゅうしん》するわけではないのだろう?」
「若様のご評判を、ご案じ申し上げているだけです。ダンスをなさるなら、しかるべきご接待《せったい》もおありだったはずですが、あなた様は踊らないとおっしゃったのですぞ」
「これでよかったのさ。どの家の令嬢も、だれが最初に踊るかでしのぎを削《けず》らずにすむじゃないか」
老人が顔をしかめるのを見て、ユーシスは小言はたくさんというように続けた。
「わかっている。でも、踊ってしまったものはもとに戻せないよ。今夜は若者のパーティなんだから、融通《ゆうずう》のきかない判事《はんじ 》のような顔で出てこないでくれ」
ペントマンはもう一度咳払いをした。
「苦情をのべに出てきたわけではございませんでした。お出ましのご用意が整ったことを、お知らせしにまいったのです。若君におかれましては、どうぞお役目のほどを」
ユーシスは、はっとしたようにうなずいた。
「ああ、わかった。すぐ行く」
家令《か れい》が去ると同時に、踊りを終えたロットとマリエがもどってきた。マリエたちが踊っているところを一目も見なかったことを思い返し、フィリエルはきまりが悪くなった。
ロットは愉快そうに老人の後ろ姿に目をやった。
「ははん、さっそくお目付役《め つけやく》に叱《しか》られたか」
「違うね」
ユーシスは友人を横目でにらんだ。
「アデイルがその気になったことを告げにきたんだ。エスコートをつとめなくてはならない。まったくあの子も、いつのまにこれほど仕度に手間がかかるようになったものやら」
「アデイル嬢が? 本当なんだな?」
ロットは飛びつくような反応を見せた。急いで髪をなでつけ、金糸の入った上着をひっぱる。
「ついにお出ましになるというわけだ。いや、待っていたかいがあったものだ。これで、こんなやたら寒い地で今日の日を迎えたことを、死ぬほど後悔せずにすむ」
「そうだろうと思った。きみがルアルゴーへついてくると言い張ったのが、固い友情のためだとは思えなかったからな」
ユーシスは皮肉ったが、ロットはてらいなく笑った。
「|野暮《やぼ》なことは言いっこなしだ。ロウランド家|秘蔵《ひ ぞう》の姫君のお目見えだぞ。目端《め はし》のきく者こそ幸いなれだ。もちろんわたしは、自領よりも友情を大事にする男だが、彼女の重みはそれらより大きい。国の命運《めいうん》を左右する女性だ――何としても一番乗りでお目にかかりたくて当然だろう。考えてもみたまえ、うら若き女王候補のデビューにめぐりあえる人間が、一世代に何人いると思う?」
「しっ!」
ユーシスは厳しい表情で彼を制した。
「それはまだ公表していないことだ。口にしてはいけない。父上にはきめ細かい準備がおありなのだ」
「失敬《しっけい》。ちょっと上すべりしたようだ」
さすがのロットも調子を改めた。ユーシスは顔をゆるめてうなずくと、家令と同じ方角へ去っていった。
(女王……候補……?)
他のだれにも、彼らのやりとりは聞こえなかったにちがいない。だがフィリエルは、若君の友人が口をすべらせた言葉を耳にしていた。何とも奇妙に聞こえる言葉だった。
ぼんやりしていたフィリエルは、マリエに勢いよく抱きつかれて我に返った。
「ねえ、こんなことって信じられる? あたしたちったら、初めてのダンスをなんてかたがたと踊ったのかしら。あたしを誘ってくださったかた、どなただったと思う? ロット・クリスバード男爵とおっしゃるの。うかがったときには、手が震《ふる》えるところだったわ」
「男爵様? 御令息ではなく?」
「正真正銘《しょうしんしょうめい》、爵位をもっていらっしゃるの。あんなにお若いのに、ヘスターに御領地がおありなのですって。たしか都の近辺だわ」
興奮したマリエは、上気したまま続けた。
「まちがいなく、この会場で最高格の賓客《ひんきゃく》でいらっしゃるわ。ああ、まだ胸がどきどきしている。そんなかたのお相手をつとめただなんて、ワレットのみんなに言っても、だれも信用してくれないでしょうね」
「本当、すごいわね」
フィリエルが感心すると、マリエは笑って彼女を揺さぶった。
「この人は何をいっているの。自分はだれと踊ったと思って? どうだった、ロウランドのユーシス様は。デイスにいた女の人全員、目が転げ落ちそうな顔であなたたちを見つめていたわよ」
「どうって……」
フィリエルは口ごもった。
「少し違ったみたい。踊る前に思っていたよりも、いい人のような……」
「でしょうね。あなたったら、とろけそうな顔をしていたもの。これでまちがいなく半年は、ルアルゴーじゅうの女の子の|嫉妬《しっと 》の的よ」
「とろけそうな顔なんか、しなかったわよ」
フィリエルは抗議したが、人々の視線がいまだにちくちくするのをみると、嫉妬を買ったのは事実のようだった。だが、どうということはない。そのほとんどは、一年に一度も顔を合わせることのない人たちだ。
「男爵様はね、ユーシス様の学院時代からの御学友でいらっしゃるのですって。御領地にユーシス様をおさそいして、休日をよくすごされたのですって。ルアルゴーへいらしたのはこれが初めてで、遠くて驚いたけれど、海の眺めがすばらしいとおっしゃったわ。あたしは、夏にいらしてくださればグラール一ですと申し上げたの」
フィリエルは少しびっくりしてマリエを見た。
「ダンスのあいだに、ずいぶんたくさんお話ししたのね。ユーシス様とあたしは、あれから一言も交わさなかったのに」
「あのかたは舌が回りっぱなしよ。すごく愉快だったのよ。あたし、今までよりもっともっと王宮にお勤めしたくなってしまったわ。宮廷には、あのようなかたがいらっしゃるんですもの」
マリエはうっとりと言った。
「それにあのかた、ロウランドのお嬢様はきっといらっしゃると請けあってくださったの。勇気が出るでしょう。あたしたちは、兄君にもその御親友にも顔つなぎができたのよ。これって、お近づきになるにはとんでもなく有利になったということよ」
フィリエルはいくらかためらいつつ、「女王候補」について遠回しに探《さぐ》りをいれた。
「ねえ、マリエ。今日は女王陛下のお誕生日だけど、女王陛下も一年に一度お年を召《め》されるものなのかしら」
「どういう意味?」
「だって、ほら、アストレイアがお年を召すって、なんだかぴんとこないじゃないの」
マリエは笑い出した。
「かわいいことをいうのね、フィリエルったら。そりゃ、星仙女王は永遠の若さに輝いていらっしゃるでしょうけれど、今年がコンスタンスの五十二年と言われるからには、それなりのものがあるでしょうよ」
「御年《おんとし》五十二歳ということ?」
「違うって。在位五十二年であられるのよ」
今まで女王陛下のお姿といえば、フィリエルはワレットの礼拝堂《れいはいどう》に掲《かか》げてある絵を思い描き、深く考えることもなかった。だが、そういえば、あの肖像《しょうぞう》はすでに色|褪《あ》せ、額縁《がくぶち》も古ぼけているのだ。
「陛下はもしかして、かなり……」
マリエは声をひそめた。
「しっ、言ってはだめ。でも、かなりよ。みんなが大きな声で言わなくなって、ずいぶんたつそうよ。これほど長い在位は、グラール始まって以来なのですって。それというのも、陛下のお子様がたに、女王に立たれるかたが現れなかったからだと言われているわ。今では、女王|即位式《そくい しき》の祭典《さいてん》を覚えている国民は、あたしたちのおじいちゃんおばあちゃんだけになってしまったというわけ」
「あたし……女王様に代替《だいが 》わりがあることさえ、今まで思い及ばなかった」
フィリエルがつぶやくと、マリエはうなずいた。
「建国の始めからコンスタンス様の御代《みよ》だった気がしても、しかたないわよね。でも、世の中は動いている。これもエリゼル姉さんが言っていたことだけど、都では水面下の動きが出はじめたのですって。チェバイアット家のお嬢様が、次代の女王候補とささやかれているらしいの」
「チェバイアット家?」
思わぬところでその言葉が出たため、フィリエルは思わず聞き返してしまった。
「ロウランド家のお嬢様ではないの?」
マリエはびっくりした様子で見返し、うれしそうに言った。
「あら、あなたが言うこととは思えないほど鋭いわ。そうよね、チェバイアット家のお嬢様が女王候補になれるものなら、ロウランド家のお嬢様だって、なれてもおかしくないわよ。もしそうだとしたら、これ、すっごくおもしろいことになると思わない?」
フィリエルは何がおもしろいのか、今いちよくわからなかった。星々のあいだにおわしますアストレイア――その女神に目《もく》されるグラール女王に、だれでもがなれるわけではないだろう。だが、今さら無知をさらすのも気がひけて、フィリエルは口をつぐんでいることにした。
桟敷《さ じき》席の楽団が、あきらかに舞曲とは違う響きをもつフレーズを吹奏《すいそう》した。それを耳にして、会場に軽いざわめきが走った。何かが始まったのに気づき、フィリエルが周囲を見回すと、人々はみな顔を上げて奥の回廊を見上げていた。
「いらっしゃるのよ……お嬢様だわ」
マリエが緊張した声でささやき、フィリエルの腕にからめた腕を締めつけた。そのせいか、フィリエルまでどきどきしてきた。手すりをめぐらせた回廊を、固唾《かたず 》をのんで見上げる。そこは、ホールで最もまばゆいシャンデリアが間近に下がるところで、隅々まで光にあふれていた。
ほんのわずかに間をおいて、二階の正面奥から、ユーシスの背の高い姿が現れた。深緑の衣装は、この場を制する落ち着きを彼に添えている。それでいて、若く瑞々《みずみず》しくもあった。ユーシスは自分の体裁《ていさい》ではなく、導いている少女に全神経を払っていた。
続いて現れたのは、| 曙 《あけぼの》の空を染めるような淡紅に身をつつんだ、繊細《せんさい》可憐《か れん》な少女だ。二人が階段の上に並ぶと、会場から自然と拍手がわきおこった。
だれもがルアルゴーの誇りとしたいような光景だったのだ。階上の少女は、拍手に驚いたように伏せていた瞳を上げ、隣に立つ兄を見上げた。そして、そこに安心できるものを見出したのか、会場に向かってほほえんだ。バラの蕾《つぼみ》がほのかに開くようなほほえみだった。
「おかわいらしいかた……」
マリエが感動した様子でささやいた。
「予想もできなかったけれど、ロウランドのお嬢様が、これほど愛らしいかただったなんて。ねえ、ごらんなさいよ。ダーモットの高慢ちきの半分も驕《おご》っていらっしゃらないわ」
本当にそのとおりだった。伯爵の令嬢にどんな辛い点をつけようとする人でも、彼女に取り澄ましたところを見出すことはできないに違いない。彼女の顔立ちは、あどけないと形容《けいよう》したいほどのもので、かすかに色をさす肌、金茶の瞳、人形のように小さな鼻と口をしていた。その物腰《ものごし》は、風にゆれる優しい花のようだ。
兄に手をとられ、ロウランドのアデイルはゆっくりと階段を下ってきた。小麦色の髪を今にもこわれそうなまげにまとめ、ダイヤの輝く繊細なティアラをのせている。はかなげな首筋、その喉《のど》の|窪《くぼ》みにも、ダイヤをつらねた細い首飾りがきらめいている。
だが、デイスの御令嬢たちのように、ガウンに縫いつけた宝石や毛皮は一切なかった。彼女のガウンはため息が出るような美しい淡紅色をしていたが、胸元の薔薇色のリボンのほかは、すべて無地で装飾もなかったのだ。彼女はまるで春の女神のように、清らかに、かぐわしく、霊感《れいかん》に満ちて見えた。
フィリエルは、この会場で最も自分のガウンに似たガウンが、伯爵令嬢のものであることに気づいて、奇妙な気分を味わった。もちろん、彼女のまとう布地はそら恐ろしいほど高価で、リボンの幅の分だけでも、軽くフィリエルのガウンに相当するのだろうが。
光に満ちた階段を下ってくるアデイル嬢を見て、フィリエルは、別世界へと生まれつく少女がいることを実感したのだった。そして、その手をとるユーシスもまた、自分にははるかに遠い人物だということを。
(なんてことだろう……あたしはあの人と、初めてのダンスをしたのだ。何のお話もしなかったけれど、交わしたほほえみだけは、たしかにあたしのものだった……)
どうして胸が痛いのだろうと思いながら、フィリエルはそう考えた。
アデイル嬢が階段を下りきると同時に、人々が伯爵家の二人を取り囲んだ。その人垣《ひとがき》はみるみる幾重《いくえ 》にもふくれあがり、フィリエルたちからは完全に隔てられて、目にも映らなくなってしまった。その場にいたはとんど全員が、ロウランドの令嬢に紹介されたがっているようだった。
「しかたないわね、順番を待ちましょう」
マリエは言ったが、もしかすると、パーティがお開きになっても順番はこないかもしれなかった。それほどに群がる人々は多かった。
「ちょっと、ワレットの人たちの様子を見てきたほうがよさそうだわ。もう馬車を出すのかどうか」
深いため息をついて、マリエが言った。
「マールは酔っぱらうと、とたんに忘れっぽくなるのよ。置いていかれてはかなわないから、少しくらい姿を見せておかないと」
「あたしも行ったほうがいいかしら」
フィリエルが急いで言うと、マリエは首をふった。
「ここにいてくれたほうがいいわ。まだチャンスが消えたわけではないのだから。もしも動きがあったら、知らせに来てね」
マリエが行ってしまい、一人になると、フィリエルはどっと疲れを感じた。だいたい、セラフィールドで日々をすごしている者にとっては、人の多さだけでまいるものだった。その上、慣れないものを着て、慣れない靴をはいて立っているのだ。
(おかみさんのいれる、コケモモ茶が飲みたいな……)
疲れた足の裏が痛くてしかたがない。つやつや光るホールの石床は、今ではさっぱり魅力なく映った。
(帰ろうとマリエに言おう。お嬢様をいくら待っても、らちがあかないって……)
心を決めたそのときだった。まるで申し合わせたように、人垣が揺れ、かねて久しく見ることのなかった淡紅色のガウンがちらついた。フィリエルは息をのみ、目をみはった。
アデイル嬢が強固《きょうこ》な壁を脱しようと試みていた。その手を携《たずさ》えて誘導しているのは、今はユーシスではなく、クリスバード男爵だ。彼らはデイスを降り、ダンスフロアへ行こうとしていた。あのロットならやりそうなことだと考え、フィリエルはほほえんだ。それから、高みの見物のできる立場ではないことを、あたふたと思い出した。
(マリエを呼びに行かなくちゃ……それともここで、一人でもお嬢様に近づくべきなのかしら。どっちが肝心《かんじん》だろう)
ユーシスは、ロットに立場をゆずったものの、まだアデイルのそばについていた。彼自身、紹介にはうんざりしはじめたところだったので、デイスから逃げ出すことには賛成だった。だが、妹を心安らかに預けるには、あまりにも悪癖《あくへき》を知っている友人だったのである。
彼がふと顔を上げたとき、ちょうどその向こうを、行きつ戻りつしている少女が目に飛びこんできた。さっきいっしょに踊った少女だ。それがたちどころにわかった自分に、ユーシスは首をひねった。
「うん、やっぱりあの子は、どこかで見たことがあるんだ……」
彼のつぶやきに、アデイルが首をめぐらせた。ユーシスは妹にたずねてみた。
「こういうことは、いつもアデイルのほうが覚えがよかったな。君は、あの女の子に見覚えがあるかい。だいぶ昔のことのような気がするんだが」
アデイルのむこうで、ロットが嫌そうな顔をふりむけた。
「どうしてまだついてくるんだ、ユーシス。保護《ほご》監督《かんとく》のつもりか」
「さっきのお返しだよ。文句あるか」
アデイルは興味をみせて、兄に応じた。
「あの女の子って、どのかたのことを言っていらっしゃるの」
ロットは、急に愛想よくアデイルにほほえんだ。
「姫、兄君の一目惚《ひとめ ぼ 》れの相手をお知りになりたいですか?」
「一目惚れですって?」
ユーシスは眉をよせた。
「アデイル、この男爵は、よほどのことがない限り戯《ざ》れ言《ごと》しか言わないから、そのつもりでいるように」
「それが今夜の君の紹介なのか。そうか、あまりのありがたさに涙が出る」
アデイルは小声で笑い、見回した。
「話半分でも、気になるところですわ。お兄様が女の人にこだわることはめったにないんですもの。いったい、どのかたがそうなの?」
「ほら、その向こうにいる、水色の服を着て、青い石をつけた、髪の赤っぽい女の子だよ」
ユーシスは説明し、ロットはおおげさに天を仰いだ。
「もう少し美的な表現ができないのか。花咲く乙女もかたなしだ。君といっしょに詩歌《しいか 》を学んだと思うと、わたしは大きな顔で外を歩けないよ」
だがアデイルは、兄の無骨《ぶ こつ》な言いぶりで目指す少女を特定できたようだった。金茶の瞳を輝かせ、軽口をたたこうとした彼女は、突然はっと息をのんだ。
「アデイル?」
「まさか……」
伯爵令嬢は、体をこわばらせて足を止めてしまった。美しいほおの色も見るまに引いていくようだ。
「どうしたんだ、アデイル」
「あの首飾り……でも、まさか……」
「首飾り?」
「いいえ、ここから見たのでは断言できないわ。お願い、もっと、あのかたのそばへ行かせて」
アデイルは緊張した声で言うと、エスコートも待たずに裾をさばいて歩き出した。ユーシスとロットは顔を見合わせ、後に続くしかなかった。
マリエのもとへ駆けつけるべきか、右往左往していたフィリエルは、ロウランドのお嬢様がまっすぐにこちらへ来るのに気づいて、ぽかんと口を開けてしまった。若君と男爵もその後から来る。願ったり叶《かな》ったりではあるのだが、一度ならず二度までも、彼らが自分のほうへ出向くとは、どういうことだかわからなかった。
アデイル嬢の淡紅色のガウンは、そばで見るとほのかな光沢《こうたく》があり、よりいっそう美しかった。何枚かを重ねて、微妙《びみょう》な陰影《いんえい》を作り出していることもわかる。まさに花弁《か べん》を重ねた大輪の花だ。だが、アデイルの顔には、先刻見かけた晴れやかな色がなかった。ただならぬ表情をしている。不吉な予感に、フィリエルはおののいた。
とうとうアデイルは、フィリエルの正面に立ち止まった。ガウンの裾はいっぱいに広がるが、彼女自身は小柄な人だ。フィリエルよりわずかに背が低く、手なども愛くるしいばかりに小さい。彼女はその小さな手を胸に押し当て、よろめくように一、二歩後ずさった。後ろで男爵が、あわてて令嬢の肩をささえた。
「エディリーンの首飾り……」
ささやき声を耳にして、ロットがたずね返した。
「エディリーン? 今おっしゃったのは、消えた第二王女エディリーンのことですか?」
ふいにユーシスが息をのみ、あえぐような音をたてた。アデイルは、涙ぐみそうな顔で兄をふりかえった。
「お兄様。忘れていいことと悪いことがありましてよ。どうしてお気づきにならなかったの。お父様の書斎に掛かっている肖像画……小さいころから、何度目にしているかわからない肖像なのに。王国で一番大切な首飾りのことを、覚えていらっしゃらなかったの?」
「そうだ……」
呆然とした様子で、彼はつぶやいた。
「どうりでなんだか昔だと。見覚えがあったのは、首飾りだったんだ。うかつだった。それなら、その青い石は……王家の至宝の……」
アデイルはかすかにうなずいた。
「ええ、たぶん。失われたもう一つの女王|試金石《し きんせき》……」
ロットはあきれ返ったように二人を見比べた。
「君たちは何の話をしているんだ。女王試金石だって。そんなものが、簡単にころがっているわけがない。きっとよく似たまがいものだ」
ユーシスは険しい目で男爵を見た。
「だれがこれを言っていると思っている。わたしだって、アデイルが言うのでなければ、すぐに信用などはしない。だが妹は、ごく最近に陛下の指輪に接している。だれよりも女王試金石に関してはたしかな目をもっているんだ」
今度はロットが息をのむ番だった。
「そういうことか……つまり……?」
「そういうことだ」
彼らが目を見合わせている間に、アデイルは混乱した様子でつぶやいた。
「どうしましょう……どうしたらいいの。お父様も今ここにいらっしゃらないというのに」
はっと気をひきしめたユーシスは、妹の肩に軽くふれてから前に進み出た。
「われわれにできることをしておかなければならない。失踪《しっそう》した王女の首飾りが、わがルアルゴーで見つかったとなれば、国をあげての大騒ぎになってもおかしくない」
フィリエルは、石になったように彼らの言葉を聞いていた。話の内容は、ほとんどついていけるものではなかったが、彼らがどんどん深刻さを増し、ユーシスの表情がどんどん険《けわ》しくなるのはわかった。何か恐ろしくまずいことが起こっている。その渦中《かちゅう》に自分がいることは、たずねなくてもわかることだった。
今、フィリエルの前に立ったユーシスには、親しさのかけらもなかった。まるで別人だ。表情は厳しくひきしめられ、瞳に鋭い光を浮かべている。
「フィリエル・ディーといったな。君はその首飾りをどこで手に入れた」
すくみあがってフィリエルは答えた。
「父……父にもらったものです」
「では、君の父君は、それをどこで手に入れたのだ」
「わかりません……」
ユーシスの口調はいよいよ厳しくなった。
「正直に答えるんだ。もしも買い求めたのであれば、盗品売買《とうひんばいばい》のルートを追う必要があるし、拾《ひろ》いものであれば、その地点の調査が必要だ。もらい受けたものであれば、最悪の場合、王女失踪事件の秘匿《ひ とく》につながる。ルアルゴー伯爵不在の今は、わたしが代わって領地内の出来事を裁《さば》かなくてはならない。しかも、これは見過ごしにできないゆゆしい出来事だ。長きにわたって解明されなかった、王女の行方不明と国宝の紛失《ふんしつ》とが、ルアルゴー内で発覚したとあれば、ロウランド家の名誉《めいよ 》にもかかわる一大事だ」
楽《がく》の音はまだ続いていたが、周囲の人々は踊りを中断し、なにごとかと若君の周囲に集まりはじめた。館の人々も不穏さを感じとったようで、黒服の老人がいち早く駆けつけてくる。フィリエルは追いつめられた動物のようにあたりを見回したが、人の壁にはばまれて、マリエの姿はどこにも見えなかった。孤立無援《こ りつむ えん》で糾弾《きゅうだん》されていることを、さとらないわけにはいかなかった。
「本当に……知らないのです。博士……父も、たぶん知らないだろうと思います」
フィリエルは必死の思いで言った。ユーシスは眉をよせただけだった。
「そんなはずはないだろう。それほどの値打ちのある首飾りを、無造作に扱える人間などいないはずだ」
それがいるのだ。ディー博士を知っている人になら、わかってもらえるはずだ。だが、フィリエルには、この場の大勢の前で博士の人柄を説《と》くことはできなかった。せつなくて涙がにじみそうだった。博士はたしかにうっかり者だ。だが、娘がこれほど窮地《きゅうち》に立たされることを少しでも知っていたら、首飾りをくれはしなかっただろうに。
フィリエルが答えないのを見て、ユーシスは低く言った。
「どうしても君が話せないなら、北の塔へ同行して、博士という人を尋問《じんもん》することになる。それでもかまわないのか」
その言葉を聞いたとき、フィリエルはどういうわけか肝《きも》がすわってしまった。血がのぼって何も考えられなかった頭が急に冴え、うろたえるのをやめると、かわって体の芯が熱くなるのを感じた。恐怖ではなく怒りがわいてきたのだ。こんなかたちで追いつめられることへの怒り、尋問の不当さへの怒りだった。
青ざめていたほおをにわかに染めると、フィリエルは首飾りに手をやり、引きちぎる勢いで留め金をはずした。そして、瞳を燃やしてユーシスをにらみつけた。
「はっきり言いますけれど、この首飾りにどれほど値打ちがあるかなんて、セラフィールドの住人にはどうでもいいことです。暖めてもくれませんし、食べられもしませんから」
フィリエルは金鎖にさがるペンダントを突きつけた。
「人を罪人《ざいにん》のように決めつけるのはやめてください。王家の品なら、王家に返せばいいのでしょう。博士はおもちゃだと思ってあたしにくれたのでしょうし、あたしは、別に欲しがったわけではありません。ついでに言いますけれど、ロウランド家の名誉も、あたしたちにとってはどうでもいいことです」
ユーシスは、すっかり驚いて少女を見つめた。今初めて彼女の前に立ったような思いがしたのだ。見るからに質素ないでたちのこの少女は、まるで王侯《おうこう》のように、一歩も譲らぬ誇りで輝いていた。
彼は、このとき初めてフィリエルの容姿《ようし 》に真実注意をはらった。赤みをおびた豊かな金色の髪、尖ったあごをもつ、どこか神秘的な顔――それは、超然とした表情をもつ琥珀色の瞳のせいかもしれず、気まぐれそうに見える口元のせいかもしれず、双方のアンバランスのせいかもしれなかった。ほっそりとした水色のガウンを着て、実に世間離れした少女だ。美人の範疇《はんちゅう》に入れるとしても、まず当たり前の美人ではあり得なかった。
言葉をなくしたユーシスのかわりに、柔《やわ》らかい楽の音のような声が響いた。アデイルだった。
「このかたのおっしゃることはもっともです。わたくしたち、このかたに謝罪《しゃざい》をしなければなりません」
伯爵の若君は、とまどって妹をふりかえった。
「どうして謝罪を? わたしはまちがったことをしていないぞ」
「いいえ、お兄様。わたくしが不注意でした。たとえ、首飾りが本当にエディリーン王女のものだったとしても、このような場所でこのように、告発《こくはつ》するものではなかったのです。今日は女王生誕祝祭日だというのに」
令嬢は兄よりも前に進み出て、花の香りを漂《ただよ》わせながら、フィリエルの瞳をのぞきこんだ。
「許してください。生誕日を祝うために来てくださったあなたに、不愉快な思いをさせてしまって。これは兄ではなく、わたくしが至らなかったせいです。わきまえのないことをいたしました。あなたもあなたのお父様も悪くないことは、わたくしが保証いたします。どうかお気持ちをなおしていただけますか」
フィリエルはめんくらってしまった。令嬢の声には心がこもっており、瞳にもそれはあふれていた。このまなざしのもとで、怒り続けていられる人間はまずいないだろうというものだった。
「もういいです、お嬢様。それ以上おっしゃると、こちらが恥ずかしくなります」
アデイルは顔を明るくした。
「では、謝罪を受けてくださいますのね。ああ、よかった。もののついでに、厚かましいお願いなのですけれど、その首飾り、ほんのしばらくわたくしに貸していただけないでしょうか」
フィリエルが真意をはかりかねていると、アデイルは生真面目に言った。
「もちろんすぐにお返しします。たとえその品を王家に戻す必要が出てくるとしても、そのときはあなたから戻すべきです。ただ、わたくしには、その首飾りが真のものかどうか、実際に判定することができるのです。少しの間だけもたせていただければ……」
いったん目を伏せ、アデイルは再び思いつめたように見上げた。
「その首飾りがエディリーン王女のものかどうかは、あなたにとっても、わたくしたちにとっても、たしかに知っておくべきことだと思うのです。いかがでしょう」
愛らしくひたむきな表情だった。フィリエルには、令嬢の願いを無下《むげ》に拒《こば》む理由はないように思えた。うなずいて、手にしていた金鎖を彼女に預けた。
「どうぞ。お嬢様のお気のすむようになさってください」
伯爵の令嬢がその場をうまく収めてしまったのを見てとると、ペントマンは、集まって見物していた人々を上手に散らしてしまった。デイスの人々は再び元の位置に戻り、なにくわぬ顔をしはじめた。
アデイルもまた、すぐに戻ってくると言いおいて柱廊の陰へ消えていった。楽団がよりいっそう陽気な曲を熱を入れて演奏しはじめ、ダンスが再びもりあがった。
フィリエルがようやく生きた心地をとりもどしかけたころ、マリエがひょっこり現れた。
「ねえ、何かあったの。もどろうとしたら人がいっぱいで、こちらへ来られなかったのよ」
「ここに、お嬢様がいらしたのよ。今まで……」
力なく答えるフィリエルに、マリエはぎょっとした様子で腕をつかんだ。
「本当、いやだ、それであなたはどうしたの。お嬢様とお話できた? あたしのことも、ちゃんと売り込んでくれた?」
「それどころじゃなかったのよ……マリエ、どうしよう」
友人の顔を見て気がゆるむと、ユーシスにくってかかった威勢のよさも腰くだけだった。マリエの肩に頭を寄せ、泣きつくばかりになってフィリエルは訴えた。
「あたしの首飾り……あの青い首飾りを、伯爵家のかたがたが盗品ではないかとおっしゃるの。それも、王家の品物だって。お嬢様に顔を覚えていただいたにしろ、最低最悪のかたちだったのよ」
さすがにマリエも顔色を変えた。
「なんですって。そんなばかなこと。あの宝石、きれいはきれいだったけれど、とても本物だとは思えなかったのに……なにかのまちがいよ」
「お嬢様は、あたしや博士は悪くないと言ってくださったの。でも、もしも本物だったら、このままですまされるはずがない。どうしよう、天文台にはたよりにならない人間しかそろっていないのに。上手な対処《たいしょ》なんてできないのに……あり得ない罪だって、着せられてしまうかもしれない」
考えるだに恐ろしく、フィリエルは震えはじめた。マリエはその背中をなで、なぐさめようとした。
「そんなに悪いほうにばかり考えるものじゃないわ。いいからちょっとお掛けなさい。あなた、少し休んだほうがよさそうよ」
壁際には、椅子《いす》がいくつか並べてある。しかし、若者のパーティにおいて、そこに座る者はめったにいなかった。フィリエルもまた考えつきもしなかったのだが、マリエに言われてみれば、なんだか足に力が入らなかった。
フィリエルがくずれるように椅子に座りこむと、マリエはほつれ毛をなおしてやり、親切に言った。
「飲み物をとってきてあげる。一杯空ければ、きっと気分がましになるはずよ」
「ううん、いいの。ここにいてちょうだい」
フィリエルは首をふった。もう二度と一人になりたくなかったのだ。マリエが気遣《き づか》わしげにのぞきこんだとき、マリエの横手から、自葡萄酒の入ったゴブレットがさしだされた。少女たちがびっくりして顔を上げると、杯をさしだしたのは、赤毛の貴公子、ロウランドのユーシスだった。
「どうぞ」
ひどくばつの悪い顔をしながらも、ユーシスは言った。
「どうも……」
フィリエルは受けとったが、警戒心を見せずにはいられなかった。さっき詰問《きつもん》した彼の口調は、たぶん一生忘れられないものだった。
「なぜ、そこにいらっしゃるんです。あたしが容疑《ようぎ 》人だからですか」
ぶっきらぼうな調子でフィリエルはたずねた。
「いや……」
ユーシスは口ごもり、それから、決心したように言い出した。
「わたしはどうも、性急《せいきゅう》にことを運びすぎるきらいがあるようだ。周りへの配慮《はいりょ》が足りないと、妹によく言われてしまう。君をはじめから犯罪人にしたてるつもりは、一切なかったんだ。思い出せなかった自分がふがいなくて、ついつい言葉がきつくなった。君の気持ちを傷つけてしまったなら、すまなかったと思う」
フィリエルは葡萄酒を一口飲んだ。そして考えた。
(なんて、わかりやすい人なんだろう……)
先程のユーシスは、次期伯爵の気負《きお》いのもとに、ルアルゴーに並びない権威を背負ってなんの疑問ももっていなかった。そして今は、同じくらいに疑問なく、人に許しをこう立場として、叱られた学童のように彼女のそばに立っている。素直といえば素直、虫がよいといえば虫がよかった。育ちがいいとそうなるものなのだろうか。
「あの首飾りが本物だったら、どういうことになります?」
フィリエルは謝罪にはふれずにたずねた。だが、その口調は穏やかだったので、ユーシスはいくらかほっとしたようだった。
「考えられることはいくつかあるが、今はアデイルを待ったほうがいいだろう。このことは、あの子にまかせたほうがよさそうだ。王家の宝石にかかわる、真の意味を知る数少ない人間だから」
妹のことでありながら、ユーシスの口ぶりにはかすかな畏敬《い けい》がこめられていた。
(女王候補……だからなのね)
フィリエルは考えた。アデイル嬢が、あのきゃしゃな体でグラールを背負って立つかと思うと、どうも想像しにくいことだったが。
「君は、エディリーン王女の事件を耳にしていたかい」
ユーシスがたずねた。フィリエルはかぶりを振った。名前も何も、生まれて初めて聞くことだった。
「そうかもしれないな。大変な不祥事《ふ しょうじ》だというので、あまり| 公 《おおやけ》にはされなかったそうだ。その名前も、事件後に王籍|《おうせき》から削られて、今ではなかったことになっている。父が小さな肖像画をもっていなかったら、わたしもアデイルも知らないところだったよ。王女の行方が知れなくなったのは、コンスタンス三十五年だというから、二十年ちかくも前のことになる」
「……その肖像画に、あの首飾りが描かれているんですね」
「そうだったと思う。わたしは気をつけて見ないほうなんだが、よくある首飾りではないからね」
ユーシスは少し考えこみ、つぶやくように言った。
「エディリーン王女は青いガウンを着ていた……瞳も青かった。そうだ、父がその絵を『青の姫君』と呼んだことがあったから、まちがいない」
青い瞳にあのペンダントは、さぞ映えたにちがいない。自分も青い瞳が欲しかったと思いながら、フィリエルはふと言った。
「あたしのおかあさんの瞳は、何色だったのかしら」
ユーシスはひどく真剣にふりむいた。
「母君の目の色を知らないのか、君は」
「知らないんです。二歳のときに亡くなったので」
「……だが、年の計算は合う」
フィリエルはとまどい、目をしばたたいた。
「何のことです」
「アデイルもたぶん、そう考えているのだと思う」
伯爵の若君は、低い声でそう告げた。フィリエルは思わず顔を上げ、ユーシスのはしばみ色の目と目を合わせた。ほんのわずかにためらってから、彼ははりつめた声で言った。
「君の母君の出自《しゅつじ》は、もしかしたら、隠されているのではないか?」
彼が言外に何を言いたいか、今はフィリエルにもわかった。だが、あまりに思いがけないことだったので、フィリエルは思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「そんなまさか……そんなことってありません」
「フィリエル」
そのとき呼んだのはマリエだった。彼女が向こうから来ることに、フィリエルはびっくりした。夢中で気づかずにいたが、マリエは仲直りを申し出るユーシスを見てとったおり、気を利かせてその場を離れたのだ。
マリエは困ったような表情を浮かべて戻ってきた。
「ねえ、見たことのない怪《あや》しげな男の子が、あなたに会わせろと言っているのですって。どうするって、兄さんが言うのだけど」
「男の子?」
フィリエルは眉をひそめた。
「心当たりがある?」
「ないわ。何かのまちがいだと思うけど」
「それなら、兄さんに追い払ってもらうわ。知らない顔だっていうもの。黒髪で、顔に変なものをつけた男の子なんて、このあたりにいやしないわよね。外国人じゃあるまいし」
ひきかえしかけたマリエの腕を、フィリエルはあわててつかんだ。
「待ってよ、待って。それ、もしかしてルーンのことなのでは」
「ルーン? だれ」
「天文台の助手なの。でも、行かないってはっきり言ったのよ。そう言ったら絶対に来る人間じゃないし、今夜観測があるのに、気を変えるなんてあり得ないし。ルーンのはずがないんだけど……もしメガネをかけているなら、そんな男の子は他にいないし」
しどろもどろになるフィリエルを、マリエはあきれてながめた。
「どちらかわからないなら、とにかくつれてきてもらいましょう。いいわね」
マリエが言ったそのときだった。フィリエルも迷うことはなくなった。ホールの向こうからルーン本人が、着飾った人々の間を異様に目立ちながら歩いてくるのが見えたからだった。
パーティはそろそろお開きの時刻だった。ホールの人々は出口へと流れはじめている。その人々も、流れに逆らって歩く黒服の少年には、ぎょっとした顔でふりかえった。
(本当だ、たしかに怪《あや》しい……)
フィリエルは思わずため息をついた。彼のいでたちが、セラフィールドにふさわしいとは言いたくないが、それでも荒れ野の丘では見慣れている。だが、それをそのまま瀟洒《しょうしゃ》な建物の内部にもってくるのは問題だった。メガネは明るいシャンデリアの光を反射して、彼の顔を昆虫《こんちゅう》めいて見せていたし、大きな黒服はまるで、悪だくみする人間のようだ。彼が着替えることなど、これっぽっちも期待してはならなかったが、それでも磨き上げた床に泥靴《どろぐつ》はよくなかった。
だが、気をもむのはフィリエルであって、当の少年が、周囲などとりあっていないのは明らかだった。大股にホールを横切ってくる態度は、奇妙ながら堂々としてさえいた。
ユーシスは当主《とうしゅ》代理として、当然うさんくさく少年を見つめた。彼がまっすぐこちらへ来ることを知り、近づくのを待って声をかけた。
「君、祝賀《しゅくが》に来たとは思えない時刻だし格好だが、いったい何の用があって来た」
ルーンは見向きもしなかった。彼が視野に入れたのは、フィリエルだけだった。
「探したよ。こんなところにいるとは思わなかった」
むっつりと言う博士の弟子に、フィリエルはどういう顔をしたらいいかわからなかった。
「……どうして? 行かないって言っておきながら、なぜあなたがここにいるの。それにあなた、どうやってここまで来たの?」
ルーンの表情は反射するメガネに隠れてよく見えなかったが、口元は固かった。
「来たくなかったよ、できることなら、ぼくだって。だけど、博士が――フィリエルが領主館の舞踏会へ行くことを話したら、博士が、きっときみが困った目に会うだろうと言うんだ」
どきりとして、フィリエルは喉元を押さえた。すると少年はいきなりたずねた。
「首飾りをどうした? フィリエル、あの贈り物は、見栄をはって舞踏会なんかでつけるものじゃなかったんだよ」
息をすいこんでフィリエルは見つめた。
「それじゃ……それじゃ、博士はあの首飾りが何か、ちゃんと知っていたのね。知っていながら、あたしにくれたのね」
ルーンはメガネに手をやった。
「そうだよ。言わないほうがきみのためだと思っていた……困ったことはもう起きちゃったのかい?」
「起きたわよ! 当然よ! それがわかっていながら、なんてことをしてくれたの」
いきなりかっとなり、フィリエルは弟子につめよった。
「あたしがどんな思いをしたと思うの。王家の首飾りを黙ってあたしにわたすなんて、いったいどういう了見《りょうけん》なのよ。あなたもあなたよ、今ごろ来たりして。弟子ならもう少しなんとかなさいよ」
「そんなことを言っても、半分は歩いてきたんだ……すぐには来れないよ」
歯切れの悪いルーンに、フィリエルは叫ぶようにたずねた。
「どうして博士は王家の品をもっているの? どうしてそれを、あたしにくれたの?」
ルーンは小さくため息をつき、やるせなさそうに言った。
「落ち着いたほうがいいよ、フィリエル。こんなところで語る話じゃなかったんだ。それもこれも、きみが舞踏会なんてものに出たがるからだよ。帰ろう……ここは、ぼくたちのいるところじゃない」
「話して」
フィリエルはすごんだ。
「話すまで、あたしはてこでも動かないから。第一、首飾りは伯爵のお嬢様がもっていらっしゃるわ。帰れるわけがないでしょう」
「頭が痛いな。どうして早くもそんな連中にかかわったんだ」
ルーンは顔をしかめた。かたわらでユーシスが咳払いをしたが、フィリエルは気がつかなかった。
「お嬢様には一目でわかったのよ。それに、もうすぐ本物かどうかも判定できる。それに……それに、あたし、首飾りの持ち主だった王女のことを知らなくてはならないのよ……」
ためらい、フィリエルは口の中で言った。
「……おかあさんかどうか」
「おかあさんだよ」
ルーンが言った。あまりにあっさり告げられたので、フィリエルはかえってぽかんとしてしまった。
「あなた、自分の言ったこと、よくわかっているんでしょうね」
「どうして聞くんだい。エディリーンがきみのおかあさんだよ。だから言ったじゃないか、形見の首飾りだって」
フィリエルが呆然とすると、黙っていられなくなったユーシスが割って入った。
「君、聞き捨てならない話だぞ。言っていることはたしかなのか。ここにいるフィリエル・ディーは、本当に第二王女エディリーンの産んだ娘なのか」
ルーンは、赤毛の若者に冷たい視線を向けただけだった。この少年が答えようともしないことに、ユーシスは驚いた。
「わたしはルアルゴー伯爵の嫡子、ユーシス・ロウランドだ。今日は父に代わってここを預かっている。エディリーン王女の行方は、領主家にとってもおろそかにできない謎だ。答えたまえ、王女は王宮から消えた後、ルアルゴー高地の荒れ野で暮らしていたのか」
ユーシスが正式に名のると、少年はしばらく間をおいたが、敵意《てきい 》をこめて答えた。
「エディリーンは王女じゃない。王籍から抹消されたはずだ。ただの女性が荒れ野で暮らそうと、本人の自由だろう。領主であっても口を出す筋合《すじあ 》いではないはずだ」
その口調に、ユーシスはまた驚いた。見れば自分より二、三歳若く、体も小さな少年だ。それなのに、どこにそのよりどころがあるのか、小面憎《こ づらにく》いほどの落ち着きようだった。
フィリエルがふいにつぶやいた。
「わからない……わからないわ。あたしのおかあさんは、ユーナという名ではなかったの?」
不思議でならないのは、エディリーンという名を、一度もきいたことがないことだった。それが自分の母親ならば、博士が一言ももらしたことがないなどということがあり得るだろうか。
「ユーナというのは、アストレイアの尊称《そんしょう》の一つだよ。『ただ一人の女性』という意味だ」
ルーンが答えた。彼は、いくらかためらいがちに続けた。
「博士はきみのおかあさんを、そう呼んでいたんだ。きみのおかあさん――エディリーンが女王候補だったから。王籍を捨ててもずっと、彼女は博士のユーナであり続けたんだろう。そのこと一つとっても、どれだけ大事な人だったかがわかるよ」
「あたし……わからない」
フィリエルは肩を震わせた。
「どうして、今までそのことをあたしに教えてくれなかったの。二人で秘密にしていたの。あなたったら、博士からたくさん聞いていたんじゃないの。あたしのことだけ、除《の》け者にして……」
ルーンは初めてたじろいだ。
「違うよ、フィリエル。除け者にしたんじゃない」
そのとき、柱廊の陰から淡紅色のガウンがすべり出してきた。アデイルが戻ってきたのだ。彼女は手にしたペンダントを握りしめ、興奮を抑えられないように瞳をきらめかせていた。そして、この少女にはめずらしいことなのだが、告げるのが待ちきれないように足を止める前から言い出した。
「まちがいありません、この品は真の王家の首飾りです。これでわたくし、お聞きする勇気が出たのですけれど……」
アデイルが足を止めたのと、フィリエルがわっと涙をこぼしたのとは同時だった。アデイルはびっくりして目を見開き、説明を求めて兄を見た。
「いったい何をなさったのです」
「|誓《ちか》って言うが、泣かせたのはわたしじゃない」
苦い顔をしてユーシスは言った。
「聞きたいことは、だいたいわかるよ。この子がエディリーンの娘ではないかということだろう。それはどうやら、解明したようだよ。彼女も今初めて知ったらしい。それで泣いているんだ」
「まあ……本当に?」
涙をぬぐうフィリエルに、ルーンはけんめいになって言った。
「黙っていたこと、そんなに腹が立つなら謝《あやま》るよ。でも、博士は、そのほうがきみのためだって。知らないほうが幸せに暮らせるだろうと言っていたんだよ。王女だった人の娘だとわかったところで、どうなるものでもないのだから」
「何言うのよ、大違いよ。おかあさんのこと、何一つ知らないでいるはうがいいなんて、どこのだれに言えるのよ」
フィリエルが涙声で言いつのると、ルーンは顔を暗くした。
「たしかにそうかもしれない。でもね、知ってしまったことで、きみはこれからいつも考えてしまうんだよ……エディリーンが王籍をはずれさえしなければ、きみには権利があったことを。大勢の人に大事にされたことを」
顔を上げたルーンは、そばで目につく見事な淡紅色のガウンをながめた。
「どんなばかばかしい贅沢でもできたことを……たとえば、そこにいる人みたいに」
フィリエルはようやくアデイル嬢が戻っていることに気づき、あわてて手提《てさ》げのハンカチを探した。
「そちらのかたは……あの……どなたなのでしょうか」
遠慮がちにアデイルがたずねた。無理もないことだと思い、フィリエルは努めて声を整えた。
「……天文台で助手をつとめている、博士の弟子のルー・ルツキンです。本当はもっと長い名前ですけれど、呼びにくいので。もっと短くしてルーンでもかまいません」
アデイル嬢は小首をかしげた。
「はじめてのご紹介ですもの、正式の御名でお呼びしたいわ。縮めなければ、何とおっしゃるの?」
フィリエルはあまり言いたくなかったのだが、しぶしぶ答えた。
「変だとお思いでしょうけど……ルンペルシュツルツキンです」
ユーシスが隣で声をあげた。
「ルンペル……何だって?」
「博士のユーモアは、ときどきわからないものですから」
フィリエルは思わず弁解し、心もとなくルーンを見たが、彼はそっぽを向いていた。
アデイルはしかし、笑う様子ではなかった。むしろ考えこんだような表情だった。彼女はしばらく黙ってから、慎重に口を切った。
「その名前、もしかしたら、ひげの長い小さい人からとったのでは?」
「ご存じなのですか?」
フィリエルは思わず大声になってしまった。
「まさか、この話を知っている人が他にもいるなんて、思ってもみませんでした」
ユーシスは奇妙な顔をして妹を見た。
「なんだい、アデイル。小さい人の話というのは」
「お兄様はいいのよ、気になさらないで」
アデイルはあわてた様子でさえぎると、フィリエルを見つめた。
「あなたの父君――博士というかた、とてもお会いしてみたくなりました。並々でないかたとお見受けしますもの」
フィリエルは少し肩をすくめた。
「うちの博士は人間嫌いなんです。塔から出てきっこありません」
ルーンはこうした情況《じょうきょう》に、だんだん苛立《いらだ 》ってきたようだった。フィリエルの腕に手をかけて言った。
「帰ろう、フィリエル。首飾りを返してもらえば用事はすんだだろう。いつまでもいることはない」
「いいえ、お帰りにならないで」
アデイルが叫んだ。
「まだまだお話ししたいことも、お聞きしたいこともたくさんありますのに。あなたがエディリーンの娘御《むすめご》ならば、どうぞお帰りにならないで」
そのとき、ルーンは初めてアデイルを見やった。アデイルはこの少年の瞳が、煙水晶《けむりずいしょう》のような灰色だったことに気づいた。そして、そこに燃える冷たい敵意に、心から衝撃《しょうげき》を覚えた。これほど拒絶《きょぜつ》した目を向けられることは、アデイルにはほとんどないことだったのだ。
声にも同じ冷たさをこめ、ルーンは令嬢に言った。
「フィリエルにかまうのはやめてほしい。さっきも言ったように、この子は王女の娘ではないんだ。そちらが気まぐれな興味本位ですることも、ぼくたちにとっては害になるばかりだ」
アデイルが傷ついた色を浮かべるのを見て、フィリエルはあわててルーンを小突いた。
「お嬢様にむかって、なんて口のききかたをするのよ。あなたって人は、少しも礼儀を知らないんだから」
小突かれたルーンは仏頂面《ぶっちょうづら》だった。
「まちがったことは言っていない。貴族などとかかわって、きみにいいことは一つもない」
「ありますわ……少なくとも、わたくしが申し出ているのは、興味本位だからではありません」
アデイルは両手を握りしめ、こらえきれなくなったように言った。
「あなたがエディリーンの娘御なら――それが本当なら、わたくしはあなたの|従姉妹《いとこ》なんですもの!」
これにはルーンもぎょっとしたらしく、フィリエルといっしょになって目をみはった。
「従姉妹?」
ユーシスが、口の重い様子で言った。
「そういうことになる。アデイルは、養女としてロウランド家に入っているんだ」
フィリエルは、母の身元を告げられたとき以上のショックを受けてアデイルを見つめた。母がもと王女だったとは驚きだが、それでも死んだ人ではあり、身近に実感する出来事ではない。だが、アデイルは生身《なまみ 》で、フィリエルがこれまでに見たなかで一番愛らしく、気品をたたえて目の前に立っているのだ。
「王籍を抜いたからといって、だれにも血のつながりを取り消すことはできません。わたくしは、あなたの母君の姉の娘なのです。わたくしもフィリエルとお呼びしてかまわないでしょう? いいお名前だわ……まるで、風が耳に呼びかけているよう」
アデイルは優しく言った。フィリエルには、まだ信じられない思いだった。
ユーシスは周囲に日を走らせた。会場の様子が気になりだした様子だった。
「アデイル、これ以上ここで話を続けるのはふさわしくない。残念だが、われわれには他にも礼を欠くことのできない客がいる。この二人に別室で待っていただいて、先に済ませてきてはどうだろう」
「本当。うっかりしていました」
令嬢は、フィリエルとルーンに向かって早口に言った。
「今、内の者に申しつけますから、どうぞ二階へいらして。今夜泊まっていただけるとうれしいのですが。それなら夜更《よふ》けまで、心ゆくまで話せますもの」
(このあたしが、まるで貴族の賓客かなにかのように、私的に領主館に招かれている……?)
フィリエルは思わず夢見心地になった。あの葡萄酒色の階段を上って、奥へ導かれることを考えるだけでもぞくぞくする。
「どう思う、ルーン」
「ぼくは帰るよ」
ルーンは思いきりすげない答えを返した。
「なによ、お城に泊まることなんて、もうないかもしれないのよ」
フィリエルは声を大きくしたが、ルーンは頑《がん》として意見を変えなかった。
「それなら、フィリエルだけ泊まっていけばいいよ。でもぼくは、伯爵家に寝食《しんしょく》の借りなどつくりたくないから」
「何をさっきから意地になっているの。ロウランド家のかたがたに、何か特別な恨みでもあるの」
博士の弟子は目をそらした。
「別に」
「それなら、その拗《す》ねた態度を改めなさいよ。だいたいあなたは、今夜どこに寝るつもりなの。セラフィールドまで、今日中に帰れるわけがないでしょう」
「……朝まで歩けばいつかは着くよ」
「ばかを言うのはおやめなさい」
憤然としてフィリエルは言った。
「あたしをおいて帰ったりできないはずよ、ルー・ルツキン。あたしが困ったはめに陥らないように、送り出されてきたんじゃなかったの。あたしは今、困ったはめの真ん真ん中にいるの。とってもショックなことを聞かされたの。もっと泣きわめいてもいいのよ――そうしようと思えば簡単にできるのよ」
つめよられたルーンは、さすがにひるんだ。
「それ、脅迫《きょうはく》してる?」
「あたしを思いやる気持ちがあるのなら、ちょっとゆずってお城に泊まることくらいがなによ」
フィリエルが決めつけた。ルーンはまだ少しぶつぶつ言ったが、結局は観念した。
「わかったよ……泊まっていくよ」
フィリエルはアデイルに招待を受けることを告げ、マリエを探した。マリエは詳しい話が耳に届かないところで気をもんでいたので、フィリエルが帰れなくなったことを知ると、心配そうに言った。
「大丈夫? その……まだ首飾りが盗品と疑われているわけじゃないんでしょうね」
判明したことを口にするのは気がひけた。フィリエルは|嘘《うそ》にならない、あたりさわりのないところだけを言った。
「ええ、疑いはすっかり晴れたの。でももう少し、詳しい話を聞きたいのですって。心配しないで、あたしなら、ルーンがいっしょにいてくれるから大丈夫。明日、ホーリーのだんなさんが迎えにくるまでには、あなたのお家へ戻れると思うわ」
そして、まだいろいろ聞きたそうなマリエの腕をすばやくとった。
「お嬢様にごあいさつするなら今よ。さあ、行きましょう」
思ったとおり、マリエは後の質問をすっかり忘れ去った。最後の最後に伯爵の令嬢と言葉を交わすことができ、大喜びだった。上気《じょうき》した顔で、余韻《よ いん》とともに馬車で帰っていった。後に残ったフィリエルの気持ちは複雑だった。打ち明けられない真相をかかえてしまった自分が空恐ろしく、大事な友人に対して後ろめたかった。
通された一室をフィリエルは見回した。廊下を長く案内されたことを考えると、ホールのある建物中央部ではなく、翼《よく》にある部屋の一つだ。外の景色はすでに闇の帳《とばり》が隠しているが、どうやら海に面しているようだった。崖の下から響いてくる海鳴りが、ガラス窓を伝ってはっきり聞こえてくる。
床にまで届く窓は、地紋《じ もん》のある重たげなカーテンで飾られ、化粧板《けしょういた》で覆った壁には、さらに柄《がら》のある布地をはってある。彫刻のあるテーブルと椅子の下には絨毯が敷かれ、マントルピースの上には色|鮮《あざ》やかな絵皿が飾ってあった。
フィリエルもルーンも、布張りの椅子がりっぱすぎてくつろげなかった。腰を下ろさずに部屋のあちこちをながめていると、案内した女性が再び入ってきた。彼女は今度は、銀のお盆をささげもっている。
「どうぞ。お二人がお見えになるまで、軽いものなど召し上がっていらしてください。もうしばらくはお時間をいただくことと思われますので」
女性は、テーブルの上に陶器の皿と銀の食器を並べた。そして、部屋はランプと暖炉の火で十分明るいにもかかわらず、さらにテーブルの上の燭台《しょくだい》に火を点《とも》して去っていった。
好奇心に負けて、フィリエルはテーブルについた。蓋《ふた》をとると、いい匂いのスープと、冷肉のゼリー寄せと、温かなパンが現れた。パーティ会場ではごく上品にしか食べなかったので、見るなりお腹がすいてきた。
「ねえ、食べましょうよ」
博士の弟子は言われて席についたが、皿には手を伸ばさなかった。少女が食べるのをしばらくながめていたが、口の中でつぶやいた。
「女の子って、図太いのか何なのかわからないな……」
「何か言った?」
「いや、よく食べられると思っただけだよ」
フィリエルはきょとんと見返した。
「あら、おいしいわよ。こんなお料理は初めてだけど、味はなかなかよ」
「……きみはショックを受けていると思っていたんだけど」
「それとお腹とは別の話だもの」
フィリエルは言い、また食べはじめた。
「お食べなさいな。あなたって栄養足りないんだから」
「大きなお世話だよ」
腹立たしげにルーンは言い、ため息をついて窓辺を見やった。
「観測日和《かんそくび よ り》だと思ったのに……明日にはまた雲がかかってしまうに違いないのに」
「博士は、あなたがいないと何もできない赤ちゃんじゃないわよ。一人でだって観測してるわ」
「ぼくが自分で計算したかったんだよ、木星と見えない惑星の| 合 《コンジャンクション》を。それは、何かが起こる前触《まえぶ 》れなんだ」
言ってしまってから、ルーンははっとしたようだった。
「今のは、なしだよ。だれにも言っちゃだめだ」
フィリエルは肩をすくめた。
「あたし、つくづく思うんだけど、あなたたちって秘密好きすぎるわよ。なんでもそうやって隠すんだから」
博士の弟子は何か言いかけたが、あきらめて椅子の背に沈みこんだ。
「今日のところは言い返さないよ。きみはずいぶんな事実を知ってしまったばかりだし」
「本当、ずいぶんな事実よね」
しばらく黙ってから、フィリエルは静かに言った。
「まだ嘘のことみたい。一晩たったら夢を見たと思いそうだわ。考えられることではないもの……一国の王女だった人が、なぜ、よりにもよって博士みたいな人と結婚したの? 顔がハンサムとか、気持ちが優しいとか、そういうできた男性ならともかく、ロマンスになり得ないのに」
「断言することないのに……仮《かり》にもきみの父親だろう」
ルーンはあきれて眉を上げた。
「それに、そういう質問はぼくにではなく、博士に直接するべきだよ。今日、きみが塔へ来ていればよかったんだ。物事はまるく収まったのに」
フィリエルはあごを起こした。
「あら、あたしは舞踏会へ来たことを後悔しないわよ。そのおかげで、お嬢様のことまでわかったんですもの。博士だって、まさかそこまで知らなかったでしょう。出てきて幸運だったのよ」
「ぼくはそうは思わない。ことがいっそうわずらわしくなっただけだよ」
ルーンはむっつりと言った。
ユーシスとアデイルが部屋に姿を現したのは、もうしばらくしてからだった。ユーシスは帽子《ぼうし 》を脱いだだけだったが、アデイルは小花模様の部屋着に着替え、髪を解《と》き下げてやってきた。それでようやく、フィリエルの晴れ着と釣り合うかというところだった。
伯爵家の兄妹《きょうだい》は、待たせたことを礼儀正しく詫びてから、同じテーブルについた。さっそくにアデイルが言い出した。
「あなたがお持ちの首飾りを、どうしてわたくしが本物だと請け合うのか、ご存じですか。王家の宝石はただの宝石とどう違うのか、知りたくはありませんか」
首飾りは、もう二度とつける気になれずに手提《てさ》げの中にあった。フィリエルは、なんとなくためらいながらうなずいた。
「ええ……それを教えてくださるなら」
「出していただけます?」
ペンダントをテーブルの上に取り出すと、青い石とちりばめた小石は、蝋燭の光を間近にうけてきらきらと輝いた。アデイルは静かに言った。
「はかりしれない値打ちがあるのは、その中央の青い石だけです。周りはただのダイヤモンドです。陛下がはめておられる指輪と同じ石……この世に三つしか存在しないと言われる石です。王家の者が誕生すると、必ずもってこられる石なのです」
ユーシスがそわそわと身じろぎした。フィリエルが感じたいわれのない不安を、彼もまた感じるようだった。
「アデイル……そんな秘密を、われわれが聞いていいものだろうか。君が女王候補として、内々に知らされた知識なのだろう?」
金茶の瞳をまばたいて、アデイルは兄を見上げた。
「たしかに、めったに口外《こうがい》しない話ですけれど、絶対の秘密というほどの秘密でもないのです。なぜって、この宝石はただ一つのことしかなさないんですもの。王家の他では意味をなさないし、見た目のにせものを作っても何にもなりません。この宝石の値打ちは、王家の血を推定《すいてい》するところにあるのです」
「推定って……石が?」
ユーシスは思わず聞き返した。アデイルはうなずいた。
「初代女王と同じ血をもつ者にだけ、反応するのです。血族《けつぞく》ということですけど……不思議なことに、血が濃くても男性が介在《かいざい》すると反応しないのですって。女王の血を、女性のみの直系《ちょっけい》で受け継いだ者に、この石は反応するのです」
「……どういう理由で」
「わかりません。そこまでご存じなのは、たぶん、女王陛下お一人でしょう。ただ、それでこの石は女王試金石と名付けられるのです。この石を反応させることが、グラールの女王になる条件の一つを満たすからです」
アデイルが言い終えたとき、初めは自分にかかわりないといった態度を示していたルーンが、いつのまにか身をのりだしていた。
「グラールの王座が女性で固く守られている理由――よそから『西の魔女』と呼ばれるほど女王|専制《せんせい》国家になった理由が、まさか、その石のせいだというんじゃないだろうね」
「『西の魔女』ではありません、『西の善《よ》き魔女』です。他国のかたがたは、グラールをそう呼んでいるのです。訂正《ていせい》していただきたいわ」
アデイルは少しだけつんとして答えた。
「歌があるのです、『西の善き魔女、東の武王……』という。それをもじっているだけでしょう。陛下は星仙女王であらせられても、魔女ではありません」
「どっちでも、それほど変《か》……」
言葉の途中で、ルーンは言いやめた。フィリエルがそしらぬ顔で、テーブルの下で蹴りつけたからだった。
アデイルは気をとりなおして続けた。
「とにかく、この石はそういう石なのです。わたくしは、第一王女オーガスタの娘として、陛下の指輪にしるしをたまわりました。そして、先程はその石にも同じものが現れました。フィリエル、あなたであっても、同じ反応を引き出せるはずよ」
まっすぐに見つめて、アデイルはうながした。
「ためしてみてはいかが。あなたも、ご自分がエディリーンの娘であることの、確かなしるしを見てみたいでしょう」
フィリエルはとまどい、こわごわたずねた。
「……どうすれば、ためすことになるんです」
「血を一滴だけ」
アデイルはこともなげに答えた。フィリエルはますます尻込《しりご 》みしたくなってきた。
「血……血ですか?」
「どうぞ、これをお使いになって」
アデイルは胸元にとめていた小さな銀のブローチをはずし、フィリエルにさしだした。
「この針で指先をちょっと突けば済みます。わたくしもそうしたの。平気よ、ほんの少しあれば事足りますから」
フィリエルがしぶしぶ針をかまえたそのとき、横からルーンが口を出した。
「待って。こういうことには、対照《たいしょう》実験が必要だと思う。先にぼくがやってみるよ。だれにでも反応するわけではないことを、しっかりおさえておかなくては」
フィリエルがなじりたくなるくらい、ルーンは目を輝かせていた。興味をそそられると、彼は人が変わるのだ。とんだ積極性をみせて彼女からブローチをさらうと、さっさと自分の指を突いた。
「で、どうすればいい?」
アデイルも彼の豹変《ひょうへん》には驚いたようだが、それでも冷静に示した。
「青い石の真ん中に、そっと血を置いてください。何も起きないでしょうけれど――起きては困りますけれど」
四人は額《ひたい》を寄せて首飾りを見守ったが、たしかに何事もなかった。十分待ってから、ユーシスが目を上げた。
「それでは今度は君の番だな、フィリエル」
もうじたばたすることはできなかったので、フィリエルはおとなしく、人差し指に小さな血の滴《しずく》をしぼりだした。そしてそれを、ルーンがしたと同じように、青い宝石につけた。
最初、石はなんだか色を暗くしたように見えた。目の迷いかと、疑いながら目をこらしていると、だんだん|紫 《むらさき》に見えてきた。
「紫になったわ」
フィリエルが声をあげると、アデイルは押し殺した声で制した。
「いいえ、違うの、もっとよく見て」
そのとおり、石の変化はさらに続いていた。息をつめる若者たちの前で、ペンダントの石は鮮《あざ》やかな紅色を宿し、またたくまに広げ、とうとう輝きわたる真紅《しんく 》のなかの真紅になった。どんな炎よりも色の深い、目のくらむような赤――
「すごい。どうなっているんだろう」
子どものように無邪気な歓声をあげたのは、ルーンだった。
「すごいよ、フィリエル。この首飾りはたしかに珍品《ちんぴん》だ」
「おめでとう、フィリエル」
目をうるませてアデイルは言った。
「石が反応したときには、みんなでおめでとうを言いあうものなの。初代女王のたしかな血筋は、何人もいないのですもの。あなたはわたくしの生粋《きっすい》の従姉妹……本来なら、ないがしろにされてはならないかただったのね」
フィリエルは当惑《とうわく》して彼女を見返した。
「お嬢様……そんな」
「お嬢様などと呼んではいやです。アデイルと呼んで」
ユーシスが、大きく息をついて言った。
「たしかにこれで、首飾りも君も、疑いの余地なく本物だとわかったわけだ。たとえ王籍になくたって、そんな君の待遇をこのままにしておいていいものか、考えものだと思う。ルアルゴー伯爵が、生誕祝祭の式典を終えて戻るのはもう少し先だが、父とて放ってはおけないはずだ。きっそく早馬《はやうま》で知らせよう。父の処断《しょだん》が届くまで、君たちには館の客になってほしい。かまわないね?」
フィリエルには、どう考えていいかわからなかった。口をつぐんでいると、彼女にかわってルーンが言った。
「早馬はむだだよ。伯爵はもう知っている」
驚いてユーシスは問いただした。
「どういう意味だ」
「言葉どおりの意味だよ」
ルーンの声は、再び冷ややかになっていた。
「伯爵はこのことを十分知っている。高地の奥の隔絶された塔に、エディリーンがいたことを。知らないはずがないじゃないか、彼女と博士をそこに住まわせたのは、当の伯爵なんだから」
「なんだって……」
ユーシスは絶句し、アデイルとフィリエルもあぜんとして彼を見た。博士の弟子は、抑揚《よくよう》のない口調で続けた。
「だからあなたたちは、本当はこのことで大騒ぎをしてはならなかったんだ。ルアルゴー伯爵は、王家には許されない結婚をした二人を、世間からかくまった――一方、見方を変えれば幽閉《ゆうへい》したんだ。二度とその名が出ないように、セラフィールドに封印《ふういん》した。もしも伯爵がこのことを知らされたら、賭けてもいい、あなたたちに掘《ほ》り起こすなと告げるだろう。だから最初に、この子にかまうなと言ったんだ。フィリエルを傷つけるばかりだから」
「そんな……わたくし……」
うろたえた様子で、アデイルは手をもみしぼった。
「一言もそんなこと……いったいどうして」
急にどうしていいかわからなくなった伯爵家の二人を前にして、フィリエルは反対に落ち着いてしまった。ルーンの言葉でさっぱりできたような――かえって足を地につけることができたような気がした。
「あたしのことを壊《こわ》れもののように言うなんて、変よ、ルーン。そんなにやわではないこと、わかっているでしょうに」
ほほえんでフィリエルは言った。
「真実を知るって、やっぱりありがたいことね。多少は痛くても、ようやくいろいろなことが腑《ふ》に落ちるもの。あたしがしなくてはならないことは、博士の話を聞きに行くことね。今こそ、そのことが本当によくわかるわ。後の話は博士からじかに教えてもらう。だれからでもなく、自分の父親から、事実あったことを」
向きなおり、アデイルを見つめて、フィリエルはしっかりと言葉を継いだ。
「ご厚意《こうい 》をいただいて、本当にありがとうございました、お嬢様。一晩だけ泊めていただいて、明日早くにセラフィールドへ帰ります。これでもうお目にかかることがなくなったとしても、今夜していただいたことは、決して忘れません」
アデイルは涙ぐんでいるようだった。がっかりした様子ながらも、彼女はまだあきらめないように言った。
「……今はそのお言葉をお受けしますけれど、伯爵がお帰りになったら、わたくし、意見することがありますから……必ずいたしますとも」
令嬢は扉へ向かい、ユーシスも続こうとしたが、彼は急に思いなおし、フィリエルのそばへやってきた。そして、小さくたたんだ布をさしだした。
「これは君のだろう。さっきホールで見つけたので、拾っておいた」
「すみません……いやだ、いつ落としたのかしら」
たしかに自分のハンカチだった。フィリエルはあわてて受けとった。そして、彼が妙に顔を赤らめてそう言ったことには、最後まで気づかなかった。
天蓋《てんがい》から降りる紗《しゃ》の帳《とばり》。サテンのシーツに羽根ぶとん。それはフィリエルにとって、考え得る最高の寝台《しんだい》だったが、どうにも眠れなかった。手触りを楽しむことはできても、目はいよいよ冴えわたるばかりだ。
響いてくる海鳴りも、慣れないため耳につくものだった。夜更けて館の中が静まりかえると、よけいに音高く感じられる。波の音はたえず変化し、すすり泣くように弱まったかと思うととどろく声をあげ、まるでだれかに向かって怒っているように感じられた。
(あたしのおかあさん……こんな寝台にしか寝たことのない、王女だったおかあさんが、あの寒い塔でどうやって生活できたんだろう……)
天蓋の裏貼りを見上げながら、フィリエルは考えた。湿気の多い石積みの塔――荒れ野に建つ天文台。壁の|窪《くぼ》みの寝床は恐ろしく固く、藁《わら》ぶとんでさえ満足なものではない。
だが、その粗末《そ まつ》な寝床に入ることさえせず、博士は今夜も屋上にいるはずだった。星を目にとらえるために、どんな小さな火も焚かず、真っ暗ななかで、ときどき指に息を吐きかけているはずだ。そして、今夜の博士は独りぼっちなのだ。寒さをまぎらす話し相手もいない。そう考えると胸が苦しかった。サテンのシーツもまるで居心地が悪かった。
(だめだ……眠れない)
フィリエルはとうとう起きなおった。カーテンを透かして静かに射す月光を見やり、思いきって寝台を降りてみる。
借り物の寝間着《ねまき》は長く、フィリエルが着ると床をこすった。窓辺に寄り、そっとカーテンを開けてみる。思ったとおり、窓の外には手すりのある張り出しがあった。掛け金は簡単にはずれたので、フィリエルは窓を押し開き、バルコニーへと歩み出た。
潮風《しおかぜ》が髪をなでるのが感じられた。海鳴りはほとんど真下からくる。空にはたくさんの星があり、地上にもいくつか――ダーモットの港が見えているのだろう――細かな明かりがきらめいていた。なかでもひときわ大きな明かりは、湾の向こうの灯台に違いない。きれいな光景だった。それに、思ったほど寒くなかった。けれどもフィリエルは、荒れ野が恋しい自分に気づいた。匂いが違うのだ。
手すりから思いきり身をのりだすと、下の階の張り出しが見えた。そちらはずっと大きくて、屋根にもうけたテラスとも言うべきものだ。その隅っこに、小さな影があった。手すりに両|肘《ひじ》をのせ、身じろぎもせずに夜空を見上げている。
「ルーン」
フィリエルはうれしくなって、声を殺して呼びかけた。少年は不思議そうにあたりを見回した。月影に、彼がメガネをかけていないのがわかった。星を見るには、実はメガネはじゃまなのである。
「上よ、上。こっち」
フィリエルは手をふった。
「ねえ、こっちへ来てよ。おしゃべりしよう」
「行けるわけないだろう、何言ってるんだい」
ルーンも声を殺していたが、怒ったように言い返した。
「どうしてよ」
「寝室の階が分かれている理由を、考えてみればわかるじゃないか」
フィリエルは首をかしげ、考えてみたがよくわからなかった。部屋がたくさんありすぎるからだろうか。
「いいわよ、来ないなら。こっちから行くから」
「フィリエル」
動転してルーンは止めようとした。少女が手すりに足をかけ、乗り越えはじめたからだ。彼女は寝間着の裾をひらひらさせてぶらさがり、思い切りよく飛び降りた。
かろうじて手を取り、ルーンはフィリエルの着地につきあった。フィリエルは息を切らせて笑った。
「ほら、このくらいは簡単よ」
「始末に負えないよ。むちゃくちゃだ」
盛大《せいだい》に文句を言うルーンに、フィリエルは笑いかけた。
「一人より二人がいいじゃない。ね、どうせ眠れないんだから」
「きみの従姉妹はきっと嘆くぞ、こんなふるまいが人に知れたら」
「いいのよ、明日はセラフィールドよ」
ルーンはふいに黙った。そして二人がテラスのふちに腰を下ろし、しばらくたったころに、重い口調でたずねた。
「ぼくが、余計なことを言い出さなかったら……そしたらきみは、あの子ともっと仲良くできていたかい」
メガネをかけていないと、彼はなんだか感じやすく見える。不思議なことだが、いつもそうだった。
「どうかしら」
膝《ひざ》をかかえて、フィリエルは答えた。
「育ったところが違いすぎるでしょうね。あたしは、セラフィールドのフィリエル。背伸びをしても同じ。そのことが早くわかっただけよかったと思う。鼻もちならないやつにならないうちに、帰れてよかったわ」
ルーンはうつむいた。
「ぼくは……きっと、ぼくにはわからないんだ。天文台しかないから……ぼくの居場所はそこしかないから」
「もちろんよ。あたしだって、本当のところはそうなのよ。ディー博士があたしの父親、天文台があたしの生まれたところよ」
フィリエルは少年の顔をのぞきこむようにした。そして、笑《え》みを含んだ声で言った。
「家の人がいてくれるって、いいものね。あたしね、ルーンがいるから大丈夫って、マリエに言ったの。あたしがだれの娘かなんて、あなたはとっくに知っていたんですものね。マリエには、打ち明けられなかったの……あたしを見る目が変わりそうで、怖くなったの。でも、もともとあたしが何であろうと、あなたにとっては同じでしょう。身内って、血のつながりではないと思う。そういう人のことを言うのよ」
「身内……?」
「そう、身内」
座る場所をずらして、フィリエルは博士の弟子に身をすりよせた。少し寒かったのだ。
「あたしはお嬢様と従姉妹かもしれないけれど、ルーンとはきょうだいよ」
少し考えて、ルーンは慎重に聞いた。
「兄と妹?」
「姉と弟よ」
「兄と妹だろう。世話を焼かすくせして」
「それはあたしの言いたいセリフです」
相変わらずの口論になったが、その夜は二人とも、寄りそったままでいた。遠い空の下で博士が一人で星を見ており、そのことが、どちらの心からも感じとれるせいかもしれなかった。
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第二章 ギディオンの失踪
翼を広げたような雲の見える空の下、毛並みのそろった灰色毛の引く二頭立ての馬車が、北街道を軽快に走ってワレット村の方角へ曲がっていった。黒光りする車体にはいかめしい紋章《もんしょう》がつき、持ち主がだれかは一目|瞭然《りょうぜん》だ。馬車はもうしばらく走り、オセット家の前の通りで停止した。
御者《ぎょしゃ》は御者台から降りると、折り目正しく後部座席のドアを開け、乗客を降ろした。中から出てきたのは、馬車の高級さに似あわない少年と少女だった。
「セラフィールドまで、このまま送ってもらえばよかったのに」
引き返していく馬車を見送りながら、ルーンが残念そうに言った。
「マリエの靴を返さなくてはならないもの」
フィリエルは肩をすくめた。
「それにこの時間では、絶対にホーリーのだんなさんと行き違いになっちゃうわ。それだけはできない相談よ」
そのとき、マリエの声がした。
「やっぱりフィリエルだったの。言った時間に帰ってきたのね。どうなることかと思っていたけれど、困ったことにはならずにすんだみたいね」
今朝のマリエは農家の娘にもどり、前掛け姿で道のわきまで出てきていた。他にもちらほら通りへ出てきた人が見える。伯爵家の大型馬車は、どうしたって人目をひいたのだ。一張羅《いっちょうら》を着込んだままのフィリエルは、きまり悪く周囲に目をやった。
「そうなの、マリエ。ホーリーのだんなさんは、もう顔を見せたかしら」
「ううん、まだよ」
「よかった。それならなんとかなる」
フィリエルは両手を組み合わせ、友人にたのみこんだ。
「お願い、マリエ。昨夜《ゆ う べ》はあなたのお家に泊まったことにしてくれない? ホーリーさんには、余計な心配をかけたくないのよ」
「あたしにも覚えがあるわよ、そういうの」
マリエは笑った。彼女が渋らないので、フィリエルはとにかくほっとした。
「ひと肌脱ぐのはわけないわ。そちらの彼のことも、言い訳する?」
「ルーンはいいのよ。だんなさんがうるさいのは、女の子の外泊に関してだけ」
マリエは青い目に押さえきれない好奇心を浮かべ、少年のほうをちらちらと見ていた。
「天文台に助手が一人いるって、あなたの話によく聞いていたけれど、こんなに若かったなんて。まだ、あたしたちと同じに学校へ行く年頃じゃなくて?」
「本人は年上だと主張しているけどね」
フィリエルは危《あや》ぶむように彼を見たが、人なつこいマリエは、さっそくルーンの前に進み出、ほがらかに話しかけた。
「昨日は何も知らないで、兄がおかしな態度をとってしまってごめんなさいね。あたし、マリエ。お近づきのしるしに、中でお茶をいかが?」
「別に何も」
ルーンは目をそらせた。マリエに敵意があるわけではないようだったが、にこやかな応対にはほど遠い。顔の全面に苦手《にがて 》と書いてある。
かわりにフィリエルがあわてて言った。
「お勝手《かって 》で十分よ。よければそこで、ホーリーさんが迎えにくるまで待たせてちょうだい」
「そうね、台所からなら、おもての様子がすぐにわかるわね」
三人はオセット家の裏口を入った。そこはしっかり踏み固められた土間|《どま》で、藁《わち》を敷き、詰めれば二十人は座れる大型のテーブルとベンチがある。心地よい熱を放つ大きなかまどがあり、いつでも鍋で何かが煮えていた。真っ黒に煤《すす》けた梁《はり》には、大量の香味野菜が束ねて吊り下げられ、壁の棚いっぱいに、大家族を養う調理用具、皿や壷《つぼ》が並んでいる。フィリエルにとって、ここの家庭的なにぎわいと暖かい匂いはひそかな憧《あこが》れだった。
二階で着替えをすませ、フィリエルはルーンとともにテーブルについた。マリエに強くすすめられて、彼らはお茶だけでなく、カブ入りシチューまでごちそうになった。ルーンがそれをぺろりとたいらげたので、マリエはうれしがり、お代わりまでよそった。
「セラフィールドの天文台で、あなたは毎日どんなことをしているの?」
皿をわたしながらマリエはたずねた。ルーンは答える努力をし、食べ物にほだされたことがありありとわかった。
「……時間を定めて、星の位置を観測して、そのデータをとっている。それから、過去のデータと照合《しょうごう》して修正して……なんらかの法則《ほうそく》を見つけるんだ。できればの話だけど」
「難しいことにたずさわっているのね」
マリエはさもわかったようにうなずいた。
「研究にたずさわっていないときは、何をしているの」
ルーンは意表《いひょう》をつかれた顔をした。
「たいていは寝るけど……起きていたら、計測器の手入れをしたり、そのへんを片づけたりしているよ」
フィリエルが口をはさんだ。
「|嘘《うそ》ばっかり。塔の中が片づいているところなんて、生まれてこのかた見たことないわ」
「努力はしているんだ、一応」
マリエが笑った。
「そんなにすごく散らかっているの?」
「壁にも本、床にも本、テーブルにも椅子にも本よ。あとは書き散らした紙ばかり。床が見えなくなるほどよ」
「たいへんなのねえ。空の星が動いていることが、どうしてそんなに重要なのかしら。あたしたちと何かかかわりがあるの?」
無邪気に発したマリエの問いだったが、ルーンは用心深く構《かま》えなおした。
「もちろんあるよ。アストレイアの国にいて、人が星に関心をもつのは当然じゃないか」
「それなら、星女神様のためにやっているの?」
「……そうも言えなくはない」
マリエはうなずいた。
「ああ、わかった。修道院のおつとめと似たようなものね。隠者《いんじゃ》みたいな生活を送るのも、それでうなずけるわ」
フィリエルは少し違うと思ったが、マリエは納得しているし、ルーンは反論せずに黙ってしまったので、敢えて言い出しはしなかった。ルーンはそれきり会話に加わらなかったが、女の子同士にはいくらでも話の種がある。昨日のことだけでも興味は尽きず、夢中でおしゃべりを続け、時が立つのも忘れていた。
マリエの母と住み込みのエルザは、少し前からお勝手仕事に取りかかっていたが、外から男の衆《しゅう》が戻ってくるに及んで、フィリエルはようやく我に返った。
「あらっ、もうこんな時間」
「いつになったらその舌が止まるかと思った」
ルーンがげっそりしてつぶやいた。
「ホーリーのだんなさんは来ないみたいだよ。何か用事ができてしまったんだ。荒れ野を歩いて渡るなら、早いところ出たほうが賢明《けんめい》だと思うけど」
フィリエルは驚いた顔であたりを見回した。
「本当だわ。だんなさんがすっぽかすことなんて、今まで一度もなかったのに」
マリエの母が、かまどの前でふりかえった。
「お迎えがこないって? 今時分から、子どもだけで荒れ野を歩いては危ないよ。天気は下り坂なんだから。農場のだれかに送らせるから、ちょっとお待ち」
「おや、来ているのはセラフィールドのフィリエルじゃないか。いつも元気そうだね」
裏口を入り、長靴の泥をぬぐっていたマリエの父が、彼女に気づいて声をかけてくれた。オセット氏は恰幅《かっぷく》のよい、血色《けっしょく》のよいワレット村の郷士《ごうし 》だ。面倒見のよさは、その血に流れる天性のものといってよい。彼は状況を聞くと、すぐに言った。
「あの律儀者《りちぎ もの》のボゥ・ホーリーが、理由もなく約束を破るはずがない。わしとマールとで、送りがてら様子を見てこよう。羊か家の人に|厄介《やっかい》ごとが起きていたとしたら、余分な手がいるに違いない」
「いいんでしょうか、そんなことまでしていただいて」
フィリエルは目をまるくした。村一番の農場主が、みずから出かけようと言うのだ。オセット氏は肉付きのいい顔をほころばせた。
「困ったときにはお互い様だよ。ボゥ・ホーリーが真っ正直な働き者だということは、よく承知している。あんな奥地に住んではさぞ不便だろうと、つねづね思っていたところだ。奥さんにはしばらくあいさつを欠いていることだし、ここはひとっ走り行ってこよう」
(……ご近所づきあいって、大切なことなんだ)
感激しながらフィリエルは考えた。こんなときに親切な手がさしのべられるのも、ホーリーのだんなさんがなるべく村に顔を出し、内気ながらも交流を大事にしていたからこそだ。たとえディー博士に何かあったとしても、村人たちはさっぱり気にならないに違いない。
マールも一つ返事で承知し、馬に鞍《くら》を用意すると、オセット氏がフィリエルを、マールがルーンをいっしょに乗せていくことになった。少年の顔を見ると、マールは笑い声をあげた。
「いやいや昨夜《ゆ う べ》は悪かったよ。だけどきみ、あのときは、本当に外国人みたいに見えたんだよ」
「……どうも」
ルーンは無表情に答えた。何が「どうも」なのか、だれにもわからなかった。
高地には霧《きり》がかかりはじめていた。マリエの母が言ったとおりで、こんな日にのろのろ歩いていたら、慣れた者でも遭難《そうなん》しかねなかった。視界が悪くなると、荒れ野は突然|変貌《へんぼう》する。なめてかかって命を落とす人も|家畜《か ちく》も、少なくはなかった。
オセット氏とマールが馬を急がせたので、道のりははかどった。あたりが暗くならないうちに荒れ野を渡り終え、ホーリー家のある斜面を登っていた。このあたりで唯一の樹木である背の高い生け垣は、霧にかすんでぼんやりと見える。その奥に建つ軒《のき》の低い石造りの家は、ミルク色のよどみのなかで灰色に陰気だった。
それでも、ここが帰ってくる我が家であり、フィリエルにはほっとする風景だった。ホーリーのおかみさんが心配していると思うと、どうしても心がはやった。オセット氏が馬を回して囲いに寄せるのが待ちきれず、鞍の前から飛び降りた。
「おやおや、身の軽いことだ」
「先に行って、ホーリーのおかみさんに教えてきますね」
フィリエルは明るく言い、斜面を突っ切って登っていった。木戸が見えてくると、来訪者に気づいたおかみさんが、戸を押し開けたのがわかった。
「ただいま、おかみさん。ルーンといっしょに帰ってきたの。だんなさんが迎えに来ないから、どうしたんだろうって、マリエのお父さんとお兄さんが乗せてきてくれたのよ!」
「フィリエル……フィリエルかい?」
タビサ・ホーリーが念を押す様子も、棒立ちになった様子も、どこかおかしなものだったが、フィリエルはかまわずに抱きついた。
「無事に帰ってきたわよ。変な男の人になんか、一度もついていかなかった。これで安心できた?」
「おお、フィリエル」
震える声で言い、おかみさんは少女をきつく抱きしめた。その際に、かまどの火かき棒が重い音をたてて落ちた。人を出迎えるには妙な持ち物だ。さすがにフィリエルも異変《い へん》に気がついた。
「どうしたの、おかみさん。どうして震えているの。だんなさんはどこへ行ったの。だんなさんに何かあったの?」
彼女はがっくりと地面に|膝《ひざ》をついてしまった。
「こんなことに……こんなことになってしまって、どう話せばいいんだか……」
まだ理由がつかめないながら、フィリエルは初めて怯《おび》えた。
「ねえ、教えて。何があったの」
オセット氏とマールとルーンもそこへ追いつき、フィリエルと同じ内容をたずねた。おかみさんはつっかえながら、ようやく言い出した。
「オセット家のご主人……ご親切に来てくださらなかったら、あたしはもう、どうしていいやらわからないところでした。あたしは……うちの人が天文台へ向かったきり、戻ってこないので、気になって行ってみたんです。そして、見つけたんです……うちの人が、倒れて死んでいるのを」
その場の全員が、しばらくのあいだ、凍りついたように身じろぎをしなかった。それから、オセット氏がなるべく落ち着いた声を出した。
「ボゥ・ホーリーが死んだ? 事故だったのかね」
おかみさんはつらそうに頭をふった。
「それが、さっぱり、あたしには……頭から血を流していて、触《さわ》ったときには、とうに冷たくなっていました」
フィリエルは、思わず彼女の腕をつかんでいた。
「おかみさん、それで、博士は……博士はなんて言っているの」
急に老《ふ》けたような表情で、ホーリーのおかみさんはフィリエルを見つめた。
「博士はどこにもおられない……屋上にも付近にも。探したけれど、見つからないんだよ。消えておしまいになった」
フィリエルが息を吸いこむと、後ろでマールがせいた声を出した。
「すぐに行ってみよう、そりゃ、どう見てもおかしなことが起こっている。ホーリーさんが亡《な》くなっているのに、天文台の住人が、何もかまわずに出て行ってしまうことなどあるだろうか」
「まさか……そんな……」
ルーンがつぶやいた。彼に気づくと、ホーリーのおかみさんはうめくように言った。
「どうして昨夜《ゆ う べ》に限って、塔を留守にしたんだい。弟子のあんたがそこにいれば、こんなことは起こらなかったかもしれないのに」
ルーンは蒼白《そうはく》になった。まるでおかみさんの言葉が、直接肉体に打撃をもたらしたようだった。いつもふてぶてしい彼が、これほど青ざめたところは、食当たり以外に見たことがない。見つめるフィリエルの胸に、ようやくことの忌《い》まわしさが浸《し》みてきた。ふってわいた凶事《きょうじ》に目がくらみ、まだ何も考えられずにいたのだ。
ルーンは一言も弁明《べんめい》せず、くるりと背を向けて、やみくもに塔へと走り出した。フィリエルは、彼の見せた動揺《どうよう》にひきずられるように駆け出した。
「待ってよ、ルーン。あたしも行く」
オセット氏が意を決した。
「われわれも行こう。気の毒なボゥがどうして看取《みと》る人もなく死んだか、われわれが見極《み きわ》めなければならん。奥さん、つらい心中をお察し申しあげるが、その場に案内していただけますか」
天文台は丘の肩を登りきり、少し下って、再び斜面を登ったところにあった。あたりにはごつごつした岩が突き出し、標高《ひょうこう》の高さを示している。今は岩のあいだを白い霧がただよい、陰々滅々《いんいんめつめつ》とした効果を生み出していた。
荒れ野に建つ天文台――湿気の多い石積みの塔。その塔は、岩山に唐突《とうとつ》にそびえていた。付属物のなにもない灰色の筒《つつ》状の建物で、広さはないが四階建ての高さがある。屋上には胸壁《きょうへき》をそなえており、観測台でなければ、物見《ものみ 》の塔のようにも見えた。雨も風もこの塔にはまともにあたり、地面に近い部分には、このへんに多い地衣類《ち い るい》をまとわりつかせている。
「セラフィールドを、ホーリー家の奥まで来たのは、これが初めてだな」
足を早めて歩きながら、マールが小声でつぶやいた。霧の寒さに首をすくめている。
「小さいころは、ばあさんの話を本気で信じていたよ。この奥には妖精が住んでいて、行ったら二度と帰れなくなるってのを」
「子どもの足には遠すぎるからな。手の焼ける腕白《わんぱく》どもには、そう言ってきかせるとも」
オセット氏が応じた。
「だが、わしは妖精話を信じないぞ。現に、フィリエルは羽根などないふつうの女の子だし、塔に住んでいるあの少年も人間だ……身なりは少々変わっているが」
「だけど、話のとおり、ホーリーさんは二度と帰れなかったわけだ」
マールはつぶやいた。オセット氏もそれには答えなかった。
塔が間近になると、ホーリーのおかみさんは足を止め、気の進まない様子で指さした。
「あの突き出た岩の向こうに倒れているんです……天文台の入り口のすぐ右手のところです」
オセット氏とマールは目を見合わせ、顔をひきしめた。フィリエルが彼らに続こうとすると、ホーリーのおかみさんは、少女の腕をとらえてひきとめた。
「およし。あんたは見るものじゃない」
「どうして、だんなさんじゃないの」
フィリエルは言い返したが、声が震えた。ホーリー家からここまでの陰気な道のりは、恐怖をしっかり呼び覚ますに充分だった。フィリエルは、駆けつけたことに突然自信がなくなり、ルーンを追うのをやめて大人たちを待ったのだ。
おかみさんは深刻《しんこく》な声で言った。
「死に顔なら、この後いくらでも見ることができるから、今はおよし。このあたしだって、腰が抜けそうになったんだよ」
「でも、知らなくてはいけないのよ。あたしも」
フィリエルはあえいだ。できることなら見たくはない……それでも、見なくてはならないことはわかっていた。
「博士がいないんですもの。博士のしたことだなんて信じないけれども、もしも他の人が、博士のしたことだと言うようになるなら、その前に、ぬれぎぬを着るようなことのないように、娘のあたしが見ておかなければならないのよ」
必死の思いでそう言うと、ホーリーのおかみさんは口をつぐんだ。その黙りこむ様子に、フィリエルは、彼女がかなりの程度まで博士のしわざと考えていることを感じとった。
「おかみさん、どうして……」
フィリエルの問いをさえぎって、ホーリーのおかみさんはふいにむせび泣いた。
「本当に、どうしてこんなことになったんだろう」
フィリエルが思わずその肩を抱くと、おかみさんは嘆《たん》じた。
「もう二十年近いつきあいだ……その間、いさかい一つ起こさなかったのに。荒ごとをひき起こすような血の気も、みさかいをなくす若気もない男の衆だと思っていた。二人とも静かで、生きているかいないかわからないようで、男として物足りなく思ってたくらいだったのに……」
十分後、フィリエルはとことん後悔しつつ遺体《い たい》から離れ、塔の壁際によろめきながらかがみこんだ。急いで頭を低くしないと、そのまま倒れそうだった。遺体は無惨《む ざん》に頭を砕かれていた。人体があまりにもろいことを知り、自分自身も卵の殻《から》のようにたよりない心地がする。
(昨日の朝、村まであたしを送ってくれた、やさしいだんなさんはどこへ行ったの。たった昨日のことなのに、どうしてすべてがこれほどに違ってしまうの。あたしはだんなさんに、最後に何を言ったの……)
言葉は思い出せなかった。だが、フィリエルは彼にキスをしたのだ――それが死出《しで》の別れになるとも知らず。
あまりのことに涙が出なかった。気をゆるめると吐きそうだったし、この胸のつかえをどうしたらいいか思いあぐねていると、そばにだれかが立った。フィリエルが見たのは泥靴の先だけだったが、ルーンだということはわかった。
彼はフィリエルを見下ろして、おもむろに声をかけた。
「どうしたんだい。そんなところでぐずぐずして」
博士の弟子が遺体に見向きもせず、まっすぐに塔へ走りこんだことは覚えていた。そこでフィリエルは躊躇《ちゅうちょ》し、オセット氏たちを待ったのだ。恨めしげにフィリエルは目を上げた。
「……よくそんなセリフがはけるわね」
「どうして」
ルーンは本気でわからないようだった。人の顔色を読むことが、彼には少しもできないらしい。
「ぼくの後についてくるとばかり思っていたのに。どうしてそんなところで道草をくっているんだ」
「道草」
フィリエルは一時的に気分の悪さを忘れた。立ち上がってわめこうとすると、ルーンはその鼻先に一枚の紙切れをさしだした。
「見つけたよ。博士の置き手紙だ。博士は知らない――博士じゃないんだ」
フィリエルは思わず大きく息を吸った。抗議を後にまわして、ひったくるように紙を奪《うば》い、目を通す。まごうことなきディー博士の筆跡《ひっせき》だった。数字ばかりを書き慣れた人の、角《かく》張って直立した独特の文字。走り書きにしても、その特徴は消えない。
わが娘と、わが弟子へ
わたしはちょっと出かけてくる
南の星座を見てくるつもりだ
戻らなくても、気にしないように
ギディオン・ディー
開いた口がふさがらなかった。それがフィリエルの実感だった。あまりにも人をくった、あまりにも簡潔な、涙が出るほど博士らしい書き置きである。
「なんなの、これ。『戻らなくても、気にしないように』というのは。いついつ帰ると書くのが常識でしょう。こんな雲をつかむようなこと、書き置きにして何になるの」
「少なくとも、博士が何を考えていたかはわかるじゃないか」
忠実な弟子は冷静に言った。
「博士は出かけてしまったんだ。その後、塔で何が起こるかは一切関知せずに。ホーリーのだんなさんが、たとえ他殺《た さつ》であったとしても、それは博士とは関係のないことだ。関係があったら、博士もこうは気楽な書き置きを残さないはずだよ。もっとぼくたちに知らせるように書くか、何も書かないか、どちらかだ」
ルーンは今ではすっかり落ち着いていた。顔色ももどり、さっきまで地に足がつかないほどうろたえていたのが、まるで嘘のようだ。フィリエルには、この書き置きでそこまで安堵《あんど 》を覚えることはできなかったが、彼の様子につられて、少しずつ胸が収まってくるのを感じた。とにかく、娘以上に博士を知り抜いている弟子の言うことだ。信じられるかもしれない。
「……博士は何もしていないのね」
「ディー博士は、ここからでは観測できない赤道《せきどう》付近の星座が見たいと、いつも言っていた。あるいは赤道を越えた南半球の星座を。セラフィールドでは展開できない研究の可能性について、いつも嘆《なげ》いていたんだ」
つぶやくようにルーンは言った。うなずこうとしてフィリエルは、それがおいそれとうなずける内容ではないことに気づいた。
「ちょっと待ってよ。赤道って熱帯にあるのでしょう。竜が群れなして住んでいる場所のことじゃないの」
「博士は、竜なんか怖くないよ」
ルーンは薄《うす》く笑いを浮かべた。そして、フィリエルの言いたいことをはぐらかすように、きびきびと言った。
「それじゃ、ホーリーさんの様子を見てくるよ。事故なのか、下手人《げ しゅにん》がいるのか、よく見れば手がかりが残っているかもしれない」
ルーンが向こうへ行きかけたので、フィリエルはあわてて彼の袖《そで》をつかんだ。
「だめよ。よく心の準備をしてからでないと」
見返したルーンの灰色の目には、まるでおもしろがるような色があった。
「何も怖いものはないよ。博士がやったのではないとわかったんだ。ぼくなら、あそこにいる二人より、ずっと多くのことを見てとれる」
フィリエルはあきれて手を放した。彼の自信は本物だったようで、しばらくたたずんで遺体をながめた後は、平気でオセット氏とマールにあちこちを指さし、彼らと談義《だんぎ 》を始めた。
(結局、男ってだれもかれも無神経なのよ……)
気にくわない思いで背を向け、フィリエルは考えた。博士もそうだし、ルーンもそうだ。八つ当たり気味に言えば、オセット氏とマールもそうだ。女より男のほうが勇敢《ゆうかん》さを発揮するとすれば、それは、彼らのほうが心が鈍感《どんかん》で雑にできているからだ。そう思って自分をなぐさめたフィリエルだった。
オセット氏たちはしばらく話し合った後、三人で塔の階段を上がっていった。
彼らは屋上まで登り、そこでまたなにやら話していたが、やがて、確信を得た表情でもどってきた。
オセット氏がホーリーのおかみさんに説明している間に、ルーンはフィリエルにことの運びを語った。
「ホーリーのだんなさんの死因《し いん》がわかったよ。屋上へ行くと、倒れている場所の真上の石の隙間に、ホーリーさんの服の毛がはさまっている。博士やぼくのものではない足跡もある。ホーリーのだんなさんは、天文台の屋上から誤《あやま》って落ちたんだ」
フィリエルはまじまじとルーンを見た。
「だんなさんが、どうして落ちなくてはならないの。屋上の手すりはそんなに低くない……特別なことでもしない限り、うっかり落ちるものじゃないのに」
ルーンは言いにくそうにした。
「誤ってと言ったのは、たしかに正しくないよ。ホーリーのだんなさんは、昨日きみを村へ送ったついでに、紙とインクを買ったんだ。下の階に新しい包みがあった。彼は訪《たず》ねてきて、博士がいないことを知った……そして、屋上まで登って……発作《ほっさ 》的に飛び降りた」
「そんなばかな話、ありますか。博士がいなかったからって、どうしてだんなさんが自殺するの?」
フィリエルは口調を強めたが、ルーンは首をふった。
「オセットさんは、あり得ないことではないと言っているよ。こんな淋しい場所で一人だと、気鬱《き うつ》に襲われることは話にきくって。魔《ま》がさしてもおかしくはないって」
フィリエルは冷ややかにルーンを見やった。
「あなたったら、それに同意したわけ? あたしは知っている。ホーリーのだんなさんは理由もなく死ぬ人じゃないわよ」
「理由はあったと思う。あの人は、何でも胸の内にためこんでしまう人だから、だれにも見せなかったに違いないけど」
ルーンは何か含む調子で言った。そして、フィリエルが反論する前に釘《くぎ》をさした。
「きみが騒いではだめだよ。見ていてごらん……ホーリーのおかみさんはうなずくから。オセットさんはおかみさんに、これを事故と見なそうと申し出ているんだ。そのほうがだんなさんのためだもの。自殺した人間は、|賢者《フィーリ》の列に入れてもらえない……信者《しんじゃ》の墓地《ぼち》に埋葬《まいそう》できなくなってしまう」
彼の言葉は当たっていた。ホーリーのおかみさんは、聞かされたことで取り乱しはしなかった。何度も鼻をかんで彼女がうなずくと、オセット氏は今度、フィリエルとルーンのもとへやってきた。
「わたしは、ワレットでは治安《ち あん》判事を兼ねている。セラフィールドに判事はいないから、わたしの判断をここに適用《てきよう》することで、監察官《かんさつかん》は文句を言わないだろう。ボゥ・ホーリーの死は、一つのことを除いて穏便《おんびん》に収めることができると思うよ。ただ一つの問題は、きみたちの博士だ」
二人の顔を見比べ、オセット氏は慎重に言った。
「一人の人間が死んだのだ。同じ晩に姿がかき消えている理由を、納得したいのはやまやまだが、その書き置きが| 公 《おおやけ》に通用すると思えない。ボゥを突き落としてから出かけたのではないという、確固《かっこ 》たる証拠が欲しいのだ。博士の口から証言が欲しい。でないと、万が一監察官が不審《ふ しん》をいだいたときに、わたしの力では庇《かば》いきれないだろう。博士の出先に何か心当たりはないかね。これほど辺鄙《へんぴ 》な場所を出たのだ、まだ、追いかけて追いつく望みはあるはずだ」
フィリエルは困った。今まで、博士が天文台を出ることなど考えもしなかったので、思いつくことがなかったのだ。ルーンを見ると、博士の弟子はためらっている様子だった。
「ぼくが教えたことがわかったら、博士はたぶん許さないだろうな……」
フィリエルは彼の肩をゆさぶった。
「言ってよ、ルーン。博士の潔白《けっぱく》を証明するためなのよ」
ルーンは口の中でつぶやいた。
「うん……どうしてももう一度話がしたい。どんなに嫌われても、ぼくはもう一目博士に会いたい」
博士に二度と会えなくなるような口ぶりに、フィリエルはぎょっとした。ルーンは決意したように顔を上げ、オセット氏を見た。
「ディー博士はダーモット港へ向かったはずです。あの人なら、国を出るのに陸路《りくろ 》を行くようなことはせず、さっさと海を目指すと思います」
マールが口笛をふいた。
「外海へ出るって? 学者さんにも、そんな命知らずなまねができるとは知らなかった」
オセット氏はうなずいて言った。
「それなら、たぶん何とかなる。季節がまだ早いから、外海を目指す船はほとんどないはずだ。明日の朝、できるだけ早くダーモットへ行ってみよう。博士は、港で船を待っているはずだ」
あたりは暮れかけて灰色になり、霧は小雨になっていた。そぼ降るなか、彼らは苦労して遺体をホーリー家へ運びこみ、通夜《つや》をかねて一晩をホーリー家で過ごした。夜中に雨は強くなったが、人がたくさんいることが救いで、フィリエルたちはホーリーのだんなさんを失った空虚《くうきょ》に打ちのめされずにすんだ。
夜通し明かりをかかげ、人々は眠らずに、ときおり故人のことを語ったり、お茶を飲んだりした。恐怖をそそるようなことは何も起こらなかった。気がかりはといえば、翌朝、博士に無事会えるかどうかということだ。
(博士が船に乗る? あの博士が……)
思い返すたびに驚きをこめ、フィリエルは考えた。波止場に立つディー博士の姿など、想像できるものではなかった。だが、ルーンの口調では、おかしなこととも思っていないらしいのだ。
(あたしが知らないだけなのだとしたら、いったいあたしは、今まで何を見ていたのだろう……)
ホーリーのだんなさんにしてもそうだった。彼に悩みがあったことなど、フィリエルには思い及びもしないことだった。今まで無邪気にあっけらかんと暮らしていた世界――人けのないセラフィールドの、自分がよく知っていると思っていた世界は、フィリエルが伯爵家の舞踏会へ行ったことを境に、砂が崩《くず》れるように壊れはじめている。この通夜の夜にフィリエルが恐怖を感じるとしたら、一番怖いのは、そのたしかな予感かもしれなかった。
夜明けが来た。雨はやんでいたが、そのかわり濃い霧がたちこめている。霧が晴れるのを悠長《ゆうちょう》に待っているわけにはいかず、オセット氏とマール、フィリエルとルーンは、ホーリー家を出発した。幸い、馬は道をあやまたずに荒れ野を戻り、ワレット村へ着くことができた。オセット氏は時を移さず、街道に馬車を出すことを命じた。
朝になっても薄暗いため、馬車はカンテラを吊《つ》り下げて街道を走った。視界《し かい》がきかず、近くの木立が亡霊《ぼうれい》のように通り過ぎる。向かいの席に座った少年と少女に、オセット氏は言った。
「この天候では、湾内の漁船《ぎょせん》でさえ海に出るのを見合わせるだろうよ。大丈夫だ。間に合うよ」
それを聞くと、うっとうしい霧でさえなかなかありがたかった。霧にぬれ、馬上で冷えきった体が少しずつ温まると、フィリエルは眠くてしかたがなかった。前の晩もその前の晩もろくに眠っていないのだ。博士のことがどれほど心配でも、このへんが起きている限界だった。
それは弟子のルーンとて同様だった。彼ら二人は、馬車に乗るやいなやこくりこくりしはじめ、そのうちに頭を寄せあって、いつか幸せそうに|熟睡《じゅくすい》していた。
その様子は、本人たちにとってどれほど心外でも、いかにもあどけなく目に映るものだった。オセット氏は、無心《む しん》な寝息《ね いき》をたてる二人をつくづくとながめ、息子に言った。
「なあ、こんないたいけな子どもたちを残して、出かけようとするディー博士の気が知れんよ。二人ともまだ、放り出していいような歳ではないじゃないか。目をかける大人が必要だ。港で博士を見つけたら、わしは意見を惜しまんね」
馬車が街道を離れて港への坂を下り、潮《しお》の香りがきつくなったところで、いたいけな子どもたちはようやく目を覚ました。フィリエルは港がミルクのような霧にとざされ、以前とまったく様相を変えているのをながめた。手前のダーモットの市街《し がい》は大きく活気のあるところだが、これも天候の悪い午前中とあって、人々は静かに籠《こ》もっているようだ。
音がくぐもったように聞こえる町の石だたみを走り抜け、馬車は波止場までいって止まった。係留《けいりゅう》した船がずらりと帆柱を並べ、波止場は立ち働く人も少なく、霧だけが流れて淋しかった。
オセット氏はドアを開けてしばし見渡し、御者に指示を送った。再び動いた馬車が横づけしたのは、軒先《のきさき》のランプがにじんで黄色く光る、何軒かの店の一つだった。オセット氏が馬車を降りて店に入っていくと、マールが少年少女に、波止場にはこういう居酒屋《い ざかや 》兼|宿屋《やどや 》がいくつかあるのだと説明した。出航日《しゅっこうび》を待つ船乗りやその客を相手にしているのだ。
「博士、ここにいるかしら……」
フィリエルは小声でつぶやいた。むだ口はきかないとばかりに、ルーンは無視をした。だが、オセット氏が戻ってきてディー博士の人相をたずねると、すらすらと答えたのは彼だった。
「博士は大きな人で、六フィートは背丈があります。太ってはいないけれど、幅《はば》もあります。髪と目は濃い茶色で、それより赤っぽい色の髭《ひげ》をたくわえています……博士の性分なら、たぶん剃《そ》ってはいないでしょう。|眉《まゆ》は太いほうで、少し肩を左にかしげて歩きます。メガネをはずしていたとしても、それで見分けがつくはずです」
オセット氏はもっていたイメージが違ったとみえて、少し驚いた顔をした。
「偉丈夫《い じょうぶ》ではないかね。もう少し、求道者《ぐ どうしゃ》めいた学者さんだと思っていたがね」
ワレット村の治安判事は引き返し、今度はしばらく戻ってこなかった。馬車の者たちがやきもきしはじめたころ、ようやく氏は帰ってきて、ドアの外に立ったまま、気落ちした様子で言った。
「三軒目でとうとうわかったよ……女王生誕祝祭日当日に、出航した船があったそうだ。船首に女神像をもつ、『アストレイアの腕《かいな》』号といって、セインズという船長の持ち船だ。縁起《えんぎ 》をかついで、いつも生誕祝祭日に港を出ていくそうだよ。その乗船客に、博士とそっくりな人相《にんそう》の男がいる。博士が港へ来たのは、われわれより一足も二足も早いころだったんだ」
(では、博士は、あの夜には観測をしていなかったのだ……)
フィリエルは考えたが、不思議と気持ちは静かだった。心のどこかでは、港で博士がつかまると思っていなかったことに、今になって気がついた。塔に籠《こ》もって二十年近い博士が、出ていく決意をしたのだ。気まぐれではなく、よほどの覚悟があったに違いない。フィリエルたちが未練《み れん》がましく追いすがっても、追いつけるものではなかったのだ。
強行軍《きょうこうぐん》で来た人々はさすがにがっくりしてしまい、オセット氏はすぐに馬車を返さずに、宿屋の一室を休憩《きゅうけい》に借りた。彼はフィリエルに女の子用として別室をとってくれたが、フィリエルは一人で横になっている気になれず、宿屋を出て波止場を歩いた。
昼になっても気温は上がらず、霧はマントの下にすべりこんで肌寒く身をさした。遠景《えんけい》は何も見えず、風に吹かれて渦巻く霧のまにまに、ときおり| 幻 《まぼろし》のような岬が影さすだけだ。フィリエルはとぼとぼと船着き場の端まで歩き、そこから足元のたゆたう水を見下ろした。
(外海を渡るなんて、みんなの言うとおり自殺行為だ。後に残される者のことを考えたら、きっとできることじゃない……)
暗くよどんだ水は、得体の知れないつぶやきとともに打ち寄せていた。この水ははるかにはるかに、この世の果てまで続いているのだ――その深みに億万の竜を泳がせながら。生臭《なまぐさ》く塩辛《しおから》い匂いが鼻をつき、フィリエルは嫌悪《けんお 》をこめてそのことを思った。人間の力の及ぶ場所ではない。
(一人の親には死に別れ、一人の親には生き別れ……ううん、ほとんど死に別れたのと同じ。あたしって、ほとほと親子の緑に恵まれない子だったんだなあ……)
ぼんやり考え続けていると、後ろで人の気配がした。船着き場の板がたてる足音で、フィリエルはだれが来たのかわかった。だから、ふりかえらなかった。
「簡単に捨てられちゃったわね、あたしたち。あたしはもちろん、あなたまで。博士は最初から計画していたのね。女王生誕祝祭日の朝に首飾りをわたして、あなたを岬に使いに出して……そうして、自分はさっさと出ていったのよ」
博士の弟子は進み出て、フィリエルと並んで突端に立った。
「知っていたとは言わないよ。でも、いつかこんな日が来るような気がしていた。本当はつれていってほしかったけれど……博士がだれにもじゃまされずに国外に出られて、たぶんよかったのだと思う」
ルーンは淡々《たんたん》と言った。それでもわずかに声が沈んでいるのを、フィリエルは聞き逃《の》がさなかった。
「よかったと言って、何になるの。このままでは博士は疑われたままよ。罪を犯《おか》して国外|逃亡《とうぼう》をしたと思われることが、そんなによかったことなの?」
「ある意味では、そのとおりなんだ」
ルーンはくちびるをなめ、ためらってから言った。
「ディー博士の自由は、天文台の塔の中にしかなかった。博士の天文学研究は、禁忌《きんき 》であり異端《い たん》なんだ。王宮の象牙《ぞうげ 》の塔から持ち出してはならないものだった。だから……囚人《しゅうじん》だったんだよ、博士は。エディリーンとの結婚が許されなかったのも、彼女の死後まで封印されたのも、すべて原因はそこにあるんだ」
フィリエルはかたくなにふりむかず、じっと海をにらんだ。これ以上何を聞かされても、驚く余地など残っていないと考えた。ルーンは、落ち着かなげにメガネをはずした。どんなにぬぐっても霧でくもり、前がほとんど見えなかったのだ。
「きみに母親のことを話さなかった、本当の理由はそれなんだ。一つを知れば、みんな知らなくてはならなくなる。きみは嫌だろうと……きっと悲しむだろうと、そう思って博士は言えなかったんだ。ぼくだって言いたくなかった。博士は囚人で、天文台はていのよい牢獄《ろうごく》で、ホーリー家が看守《かんしゅ》を勤めていたということなどは」
「看守!」
フィリエルは小さく叫び声をあげた。だが、考えてみればおかしなことではない。あれほどの僻地《へきち 》に、天文台の隣に一軒だけ家をかまえていることのほうを、おかしいと思うべきだったのだ。
「でも……でも、それが本当でも……ホーリーのだんなさんも、ホーリーのおかみさんも、あたしたちにこんなによくしてくれたじゃないの……そんな名前では呼ばせない。あの二人は、ほとんどあたしの親代わりだったのよ」
両手を固く握りしめてフィリエルは言い切った。ルーンはその言葉にうなずいた。
「わかっているよ。彼らがいい人でないなんて言ってない。ぼくたち、お互いしかいない場所で、ずっと助け合って暮らしたんだ。でも……これでわかっただろう。ホーリーのだんなさんの抱えていた悩みは、どういうものだったのか」
フィリエルは当惑し、初めてルーンを見やった。少年の髪は湿って目の上にかかり、その陰の灰色の瞳は憂《うれ》いをおびて、これまでで一番大人びて見えた。静かな口調で彼は言った。
「何年も暮らすうちに、ホーリーさんは博士に共鳴《きょうめい》していたんだ。博士の研究が罪だと思えなくなっていた。こっそりいろいろな協力をしてくれた……天文台の資料は、初めからあれほどたくさんあったわけではないんだよ。ホーリーさんが少しずつ探してきてくれたものが、ずいぶんある」
そういえばと、フィリエルは思い返した。ホーリーのだんなさんは、何日か家を留守にすることがよくあった。羊の売買で出かけているとばかり思っていたが。
「だんなさんって、そういう人よ。他人が必要としているものがすぐにわかるの」
フィリエルはささやいた。彼の内気そうな笑顔が目に浮かび、胸が強く痛んだ。
「博士が塔を出ることを、だんなさんは知っていたのだと思う。知っていただけではなく、手助けもしたのだと思う。そしておととい、博士が本当に脱出したことを確かめて、飛び降りたんだ」
言葉を切って、ルーンは黙りこんだ。フィリエルは霧の冷たさに身震いし、マントの前をかきあわせた。そしてそっとたずねた。
「看守だから……?」
「うん。責任をとったんじゃないかな……」
ひどく寒かったが、その場を動きたくはなかった。むごい現実に顔をつきあわすことなく、このまま白いものに溶けてしまいたい。そう思いながら、フィリエルはつぶやいた。
「そうなることがわかっていたら、博士は出ていきはしなかったかしら……」
ルーンはしばらく間をおいたが、決意したように口調をあらためて言い出した。
「博士は博士の信念の向かうところへ行動したし、だんなさんはだんなさんの信念をもって、この行動をとったんだ。ぼくは、起こったことに博士が負《お》い目を負うべきではないと思う。そのことで、だんなさんが浮かばれるとは思えないよ。このぼくだって、そう思うんだ。弟子とはいいながら、ぼくだって看守の一人だもの」
今度こそ、フィリエルは衝撃を隠せなかった。呆然とルーンを見つめ、しどろもどろになって言った。
「何、それ……何言うのよ。いったい……」
ルーンは困ったように睫毛《まつげ》を伏せた。
「だれにそう言われたわけでもないんだ。でも、考えれば考えるほど、博士が弟子をとったことが変だと思えてくる。どうして博士が弟子を欲しがったりする? ぼくを天文台へつれてきたのは、ホーリーのだんなさんなんだよ。彼に手を引かれて、塔への道を登った。あのときは何もわからなくて、一座の人間がつれもどしにくるのが怖くてならなかったけれど」
「やめてよ」
フィリエルはたまらなくなってさえぎった。
「あなたったら、一から十まであたしに話してしまうつもりなの。そんなこと、しなくてよかったのに。少しは残してくれればよかったのに。今のであなたは、最後のかけらを砕《くだ》いたのよ。あたしがもっていたもの全部……全部」
「真実を知るのはいいことだって言ったのは、たしかきみだよ」
ルーンは、当てがはずれたように言った。フィリエルは思わず叫んだ。
「限度があるのよ、ものごとには。こんなにたくさん、こんなにいっぺんになくしてしまって、明日からあたし、どうすればいいかわからないじゃないの!」
フィリエルがその場にうずくまり、顔を押さえてしまうと、ルーンもかたわらに膝をつき、心配そうにうかがった。
「ごめん……また泣かせた」
ため息をつき、ルーンは肩を落とした。
「ぼくが言いたかったのは……きみに言っておきたかったのは、どんなかたちで弟子になったとしても、ぼくはディー博士の弟子なんだということだよ。そのことには自信がある。博士だけがぼくを導ける人だ。これまでも、これからもずっと」
言葉を噛みしめるように間をおいて、彼は続けた。
「本当は、博士につれていってほしかった。きっと、つれていってくれるだろうと思っていた。そのときには、外海だろうと熱帯だろうと行くつもりだった……でも、博士はぼくをつれていかずに、フィリエルのもとへ送り出したんだ。ぼくは、そのことの意味を考えなくてはいけない。博士はあれでも、きみのことはずいぶん考えていたんだよ」
「あれでも?」
フィリエルは皮肉に笑おうとしたが、できなかった。どうしても涙が止まらなかった。ルーンは恐る恐る手を伸ばし、フィリエルの肩にふれた。
「身内って、きみは言っていたよね。博士が考えたのもそれかもしれない。ぼくが残れば、少しは身内になれるから……きみが一人にならないようにできるから。きっとそうだという気がするんだ。ぼくが、そのための弟子なら……そのために博士がぼくを育ててくれたのなら、ぼくはここにいるよ」
彼がそう言うのを聞いたとき、フィリエルは思ってもみなかったことをした。ルーンの黒服をひきよせて、涙も鼻水もかまわずに顔を押しつけ、声の限りに泣いたのだ。悲しさも、寂しさも、苦しさも、不安も、ある限りをまとめあげて吐き出した。泣くべき理由はたくさんあったが、これほど手放しで泣いたのは幼いとき以来で、それがいくつのときだったのか、覚えてもいなかった。
ルーンはびっくりしたのか、硬直《こうちょく》して何も言わなくなった。なぐさめの言葉はなかったが、そのかわり、フィリエルの気がすむまでじっと動かず、あえて服をぬらし続けていた。声がかれるまで泣いて、泣いて、とうとうすすり泣きに収まったとき、ようやく自分を取り戻したフィリエルは、少しきまりの悪い思いで考えた。
(ルーンがいなかったら、あたしはこうして泣くこともできなかったのだ。あたしを捨てていった博士だけど、博士が考えたことは、ちょっとだけ正しかったかもしれない……)
ホーリーのだんなさんの葬儀《そうぎ 》はしめやかにとりおこなわれた。ディー博士の証言をとることができなかったものの、オセット氏は情状にかんがみて、事故死の手続きにふみきったのだ。ワレットの共有墓地にホーリー氏の墓が作られたし、司祭《し さい》にきてもらうこともできた。ただし、参列する人の数は少なかった。告別《こくべつ》の鐘《かね》を鳴らさず、身内だけの式を望んだためだった。
それでも、オセット家の関係者はかなり立ち会ってくれた。彼らは、礼にかなった喪服《も ふく》を着てきている。フィリエルは喪服などもってはいなかった。できるだけ身なりを整えて、黒い記章《きしょう》をつけるのが精いっぱいだった。ルーンも普段着で参列しているのだが、彼のかっこうはそのまま喪服で通ってしまうので、フィリエルはずるいと考えた。
寡婦《かふ》となったホーリーのおかみさんは、さすがに黒を身にまとっていた。悲しみを示す薄墨《うすずみ》のベールで顔を覆い、ハンカチを手にして立っているおかみさんは、今までで一番女らしく見えた。
薄紫の祭服祭帽《さいふくさいぼう》を身につけた司祭が、人々の前に厳《おごそ》かに歩み出る。だんなさんの|棺《ひつぎ》の前に立つと、『マゼンタの祈祷書《きとうしょ》』を開いて読み上げはじめた。
「……かくて安住《あんじゅう》の地を見出すことあたわず、御子《みこ》あらしめたるを見出すことあたわず、深き悲しみにくれししもべたちに、女神の先に示したもうたごとく、そのまなざしが星々の間にみそなわす楽園を与えたまえ。今ここに、星の母の腕《かいな》を目指して旅立ちたるボゥ・ホーリー、彼の魂に、幼子《おさなご》の母に抱かれたがごとく、かつてあるべき安寧《あんねい》と充足《じゅうそく》をもたらしたまえ。地上を離れし者の叡知《えいち 》を開かせ、|賢者《フィーリ》の列に加えたまえ。彼こそは女神のもとへ還《かえ》りし者、足たゆく探しあぐね、御子あらしめぬことを伝え戻りし者なれば、嘆きと涙もて天上の迎えを待ちわびししもべの数々を、今こそどうかかえりみたまえ……」
単調に響く祈りの言葉は、初めて聞くものではなかったが、身にしみたのはこれが初めてだった。死のまごうことなき厳粛《げんしゅく》さにふれて、ようやく意味をもちはじめる言葉なのだろうと、フィリエルは思った。
(……お坊さんや尼《あま》さんになる人の気持ちが、今まではさっぱりわからなかったけれど、悪いものではないのかもしれない。人の死に毎日のように立ち会って、いつでも厳粛で|謙虚《けんきょ》な気持ちに立ち返るのはいいことなのかもしれない……)
そのように考えたことで、フィリエルは自分がぐっと大人びたような気がした――翌日まで同じ考えでいる保証はなかったが。
棺《ひつぎ》が穴に降ろされ、土をかける段になると、タビサ・ホーリーは泣いたし、フィリエルもやっぱり泣いてしまった。それでも、ひどく取り乱さずにすんだのは、すでに波止場で大泣きをすませてきたせいかもしれなかった。マリエの母親などは、それを知らないから、「えらいね、フィリエル」と言ってくれた。人前でしゃんとしていられるのは、ありがたいことだった。
葬儀がとどこおりなく終わり、人々が解散すると、祭司への謝礼をすませたおかみさんは、荷馬車を御《ぎょ》してセラフィールドへ帰った。馬を操るとなると、おかみさんはだんなさん以上に荒っぽい。荷台に座ったフィリエルとルーンは、その威勢のよさをあらためて思い知ったが、家路を急ぐおかみさんは、喪のベールを被っていようといまいとおかまいなしだった。
小さな石造りの家に着くと、さすがにホーリーのおかみさんは疲れたようだった。ベールのついた帽子を投げ出すと、重たげに座りこんだ。
「やれやれ……あっけないもんだ。これでうちの人も、見事に片づいちまったね」
「あたし、お茶を入れようか」
気をきかせてフィリエルは言った。めったに申し出ないのだが――それというのも、フィリエルがお茶を入れると、たいていはひどくまずいのだ。
「飲みたいけれど、今はおよし。火種《ひ だね》が消えているから、あんたじゃ手間がかかるよ。それからルーン。あんた、どこへ行くつもりなんだい」
戸口を出ようとしていたルーンは、びっくりした様子で立ち止まった。
「どこへって……天文台に決まっているけど」
ホーリーのおかみさんは怖い顔で言った。
「あんた、まさかあんなことのあった場所で、まだ一人で研究を続けるつもりじゃないだろうね」
フィリエルがさかしげに口を添えた。
「そうよ、だめよ。気鬱になったり魔がさすわよ」
「あるはずないだろう、このぼくが」
憤慨《ふんがい》してフィリエルに言い返してから、ルーンはホーリーのおかみさんを見た。
「博士は、戻ってこないとは言ってないでしょう。天文台には、やりかけの研究がたくさんあるし、もう少しで結果が出そうなものもある。できるだけ整備しておきたいし、それに、ぼくは今さら変えようったって、他にすることを知らないんだ。そうだってこと、おかみさんだってわかってるくせに」
ホーリーのおかみさんは長いため息をついた。
「そんな悠長なこと、言っていられないんだよ。あたしたちは、できるだけ早くここから逃げ出さなくちゃいけない」
「逃げ出す?」
「フィリエルもルーンも、いいからここにお座り」
彼女の口調には、有無《うむ》を言わせない何かがあった。二人がベンチに並んで腰をおろすと、ホーリーのおかみさんは、あらたまった調子で言った。
「あたしたち夫婦がお手当《て あて》をもらっていたこと、あんたたち二人とも、もう知っているんだろうね。そう……領主様からいただいていたのさ。けっして、細かいことまで知らされていたわけではなかった。高地はどこも実入りのいいものではないし、割りのいい仕事だと思って引き受けたんだよ。深くは考えずにね……」
傷だらけのテーブルの上に、おかみさんはふしくれだった指を組み合わせた。
「お隣の下働きのめんどうを見て、そのお手当をもらっているつもりだったんだよ。自分たちのしていることが薄々わかったのは、奥様が亡くなられたときだった。博士が、お葬式を出そうとなさらなかったからだ。フィリエル、あんたのおかあさんのお墓は、天文台のそばのどこかにあるんだよ。博士はご自分で、たった一人で埋めなさった。あたしたちにさえ、その墓のありかを教えてはくださらなかった……」
このところ涙腺《るいせん》のゆるいフィリエルは、また泣きたくなってきたが、今回はどうにかこらえることができた。おかみさんは組んだ指を見つめ、思いつめた口調で続けた。
「……あたしはまるで学がないから、ボゥがのめりこんだものが何かはよく知らない。ただ、あの人はのめりこむタイプだったよ。そして、生き下手《べた》な人だったね。うちの人のことが、心配にならないわけじゃなかった。けれど、あたしはまたあたしで、ぜんぜん別のところで抜き差しならないことに気づいたんだよ。フィリエル、あんただ……あんたのことが、これほどかわいくなるとは思わなかったんだよ」
フィリエルは、なんとかほほえむことができた。
「わかっている……おかみさん。言わなくたって、してくれたことで十分わかっているから」
ホーリーのおかみさんは弱々しいほほえみを返した。
「ボゥが黙って死んだのも、落ち着いてよく考えれば、あたしには死ねないってことが、あの人にはよくわかっていたからだろうね。まだ、あんたたちがここにいるもの。だから、あの人は罪を一人で負う気になったんだ。あたしは生きのびて、これから起こることからあんたたちを助けなくてはいけない。だから言うんだよ、ルーン。研究を続けるなんてもってのほかだ。あそこは大急ぎで、|痕跡《こんせき》が残らないまで始末しなければならない。そして、あたしたちはルアルゴーを出て、あるいは、この国を出ていかなければならない」
「そんなこと、ぼくは嫌だ。そんなことをしたら、いつか博士が戻ってきたとき、迎える人がだれもいないじゃないか」
ルーンが声を大きくした。ホーリーのおかみさんは、あわれむように彼を見つめた。
「博士が戻ってきなさると、本気で思っているのかい。それとも、そう思いたいだけなのかい。利口なようでも、ルーン、あんたもまだまだ子どもだね。研究が異端だったことは、よく承知しているんだろう。博士が天文台にいなさる間は、伯爵様の庇護《ひご》があったけれど、そこを出て逃亡なさったとあっては、だれも|容赦《ようしゃ》はしてくれない。ほとんどまちがいなく、ここへは異端|審問官《しんもんかん》がやってくるよ」
「なに……異端審問官って」
うろたえてフィリエルがたずねた。聞くからにまがまがしい名称《めいしょう》だ。答えたホーリーのおかみさんの口調も、陰鬱《いんうつ》そのものだった。
「異端をただし、罪を判定し、人物を矯正《きょうせい》する人たちのことだよ。そう言えば聞こえはいいが、実のところ、彼らに捕まった人は最期だと言うよ。拷問《ごうもん》のむごたらしい死か、一生日の目を拝めない牢獄しか待っていない」
ルーンは眉をひそめた。
「そういう人たちのことは、聞いたことがあるけれど、でも……」
「でもじゃないだろう、この子は。一番危ないのは、だれでもなくあんたなんだよ。あたしやフィリエルも疑われるにきまっているが、審問を受けても真実知らないという強みがある。だけど、あんたは言い逃れがきかない。だれがどう見たって、異端の教えを引き継いでいるんだよ」
ホーリーのおかみさんにぴしりと言われ、ルーンは言葉を返せずに黙りこんだ。
おかみさんはかまどの火をおこし、お茶と種入りのビスケットと少しのチーズで、いつもより早めの夕食を整えた。三人が食べ終えると、残りのビスケットとチーズをあるだけ籠《かご》につめこみ、フィリエルにさしだした。
「これを持って、ルーンについて天文台へお行き。あたしは、今からここを引き払う準備をする。だけど、天文台のほうがもっと手がかかるに違いないからね。重要そうなものは、全部|暖炉《だんろ 》で燃《も》してしまうんだよ」
フィリエルは籠を受け取りながら、ためらった。
「ええ、でも……」
そっとルーンをうかがうと、彼はふくれっ面ではあるものの文句を言わなかった。フィリエルはひそかに舌を巻いた。
(おかみさんって、やっぱりすごい……)
二人は天文台に向かったが、ルーンは不機嫌に黙ったまま口をきかなかった。おかみさんの言葉がこたえたことはよくわかっていたので、フィリエルもあえて話しかけなかった。フィリエルの察するところ、『利口なようでも、子どもだね』の一言が、ルーンにはかなり痛かったようだ。
脇目《わきめ 》もふらずに歩くルーンのかたわらで、籠をぶらぶらさせながら、フィリエルは何度かふりかえった。西の空に夕映えが美しかった。雲は二つ三つこんもりしたのが浮かんでいるだけで、金色にふちどられていたそれらが、みるみるバラ色に染まっていく。遠い山陰は、今日見た司祭の祭服のような薄紫だ。
暮れれば降るような星空になると、フィリエルでさえわかる空模様だった。よりにもよってこんな夜に……フィリエルはそっとため息をついた。ルーンにとっては最悪だった。その相手をする自分もまた、ある程度の覚悟をしなければならないだろう。
塔の重い扉を開けて中に入り、明かり差しの蝋燭《ろうそく》に火を点《とも》す。地階はがらんとした物置で、階段を登った上が台所と食卓、その上の階が寝室だった。寝室の上には書斎があり、はしご段と上げ蓋《ぶた》で屋上の観測台に通じている。
フィリエルが二階に上がったときには、ルーンはさらにその上へ姿を消した後だった。しばらくはそっとしておいてやろうと、フィリエルは考えた。これが最後の観測になるのだろうから。
あたりを見回すと、相変わらずの散らかりようだった。本を山と積んだテーブルに、さらに食べ終えた食器が重ねてある。命を賭けて外海へ乗り出すにあたっても、ディー博士には後片づけというものができないようだった。フィリエルは洗われることのなかった器を見つめ、考えた。
(博士は行ってしまったんだ……本当の本当に。とうとうあたしに、何一つ語ってくれないまま。真相を教えてくれる日のこないまま。そしてこれからは、ここも住む者のいない場所になる……)
手近な本をばらばらとめくってみたが、彼女にはそれが何なのか、どの程度異端のものなのか、さっぱり見当がつかなかった。ここで何が行われていたのか、フィリエルは見事に知らなかった。むしろ、意地になって知ろうとしなかったと言えるかもしれない。博士が少しも教えるそぶりをしないから。博士の弟子が、あまりに興味を見せるから……
それでもここは、フィリエルの生まれた場所だった。こことホーリーさんの家しか、自分が本当に知っている場所はない。そして、この近くのどこかには、悲劇的な一生を送った母親がひっそりと埋められているのだ……そう考えると動揺しそうだったので、フィリエルはつとめて気持ちを押さえこんだ。
(……問題は過去にあったことではない。あたしたちのこれからにあるのよ。ホーリーのおかみさんがあれほどふんぎりをつけているのに、あたしが感傷《かんしょう》的になっている暇はない……)
なんとか少しだけ食卓の周りを整理したフィリエルは、そろそろいいだろうと思って最上階へ行き、はしご段を登った。
上げ蓋は開いており、上空には、思ったとおりたくさんの星がきらめいていた。屋上の観測台には、ここでしか見られない奇妙な形の装置や器具が並んでいる。大きな弓状の板や定規に囲まれた、博士の天体観測器。太陽高度を記録する、差し金つきの日時計。したたる水時計。大きな星座表。アストロラーベとよぶ、腕にのせる観測器。遠メガネ。水盤。すりガラス。決して広くはないスレートのテラスに、そんなものが雑然《ざつぜん》と置いてあった。周囲の手すりには、一つ一つに方位を示す目盛りが刻みこんである。
フィリエルの予想に反して、ルーンは観測をしていたのではなかった。観測器の腰掛けは空で、少年は西側の手すりのそばに立っていた。両手をたれ、何をするでもなく、ぼんやりと背を向けている。フィリエルは、できるだけやさしく声をかけた。
「ルーン、そろそろ始めないと。どれを燃やせばいいか、あたしにはわからないのよ」
「どれも燃やさない」
ルーンは低く答えた。
「逃げ出したりするもんか。ぼくはここに残る」
(……言うだろうと思った)
フィリエルは進み出て、冷静に指摘した。
「異端審問官に捕まれば分《ぶ》がないこと、初めからわかっているんでしょう。博士の行ったことは罪だったって、あなたも認めているんでしょう」
「簡単に言わないでくれ。フィリエルなんかにわかるはずがない。ぼくたちは、酔狂《すいきょう》で研究を行っていたわけじゃないんだ。本当に重要なことだから行っていたんだ……禁じる国の支配者のほうがおかしいんだ」
歯ぎしりする口調で、ルーンは言い返した。
「どれほど苦労をしたか、どんな思いをしてここまでこぎつけたか、とうていきみになんかわからないよ。誓ってもいい、この成果を燃やすなんて、世界そのものにとっての損失だ。ぼくにはできない。ぼくたちのしたことは咎《とが》められることじゃない。異端審問官の前でだってそう言ってやる」
「言えばその人たちを説得できるの? あなたの考えはよそでも通用するの? 死ぬまで拷問されるなんて、あたしはまっぴらよ」
「怖くないよ、そんなこと」
ルーンはくちびるをひき結んだ。
「脅《おど》しに負けて信念を曲げることのほうが、あってはならないことだ。どんな状況におかれても、ぼくだけは、博士を裏切ることをしてはならないんだ。きみはかまわないよ。ホーリーのおかみさんといっしょに逃げればいい。ぼくはここに残る。そのほうがきみたちだって、どんなにか安全に暮らせるはずなんだ」
フィリエルは頭ごなしに決めつけた。
「寝言は寝てから言いなさい、ルー・ルツキン。あたしにまで聞かせないで」
ルーンはむっとしたが、フィリエルは口をはさませなかった。
「あなたね、博士にあっさり置いていかれたくせに、どうして考えを変えられないの。捨てられたことがまだわからないの。信念ったら何よ。何一つ責任をとらずに行ってしまった博士の、どこに信念や節操《せっそう》があるのよ。あんな自分勝手の、いい加減で後の考えなしの、無神経で独りよがりで無精《ぶしょう》な変人に、あなたが信義を立てようなどと思うのだとしたら、あたしは大声で笑ってやるわよ」
「……父親をそこまで言うか、ふつう?」
ルーンは信じられない顔をしたが、フィリエルは意に介さなかった。
「その一つでも違うと言えるの? 言えないでしょう。あたしのばか父は、自分が出かけてしまえば異端審問官が来ることくらい、とっくに承知していたはずよ。知っていて、あたしたちをそのまま放り出したのよ。後を守って研究に殉《じゅん》じるまぬけがいるなどと、思ったはずがないでしょう」
博士の弟子はフィリエルをにらんだが、やがて目をそらせた。
「それでも、ぼくには……他にどうしていいかわからないんだ。ここを離れて、研究を忘れて暮らすことなんてできない。博士からもらったものを無にすることなんてできないよ」
フィリエルは声音《こわね 》をやわらげた。
「忘れろなんて、言ってやしないわ。あなたの頭脳は優秀なのでしょう。それさえ携《たずさ》えていけば、いつかはどこかでまた研究を続けることができるわよ。だけど、ここは今、引き払わなくてはいけない。博士がいなくなった今では、無用になった牢獄なのだから」
彼女が肩に手をふれると、ルーンは力を抜いたが、あきらめきれずにまだ言った。
「……何年もかけて積み上げた貴重なデータなんだよ。他では手に入らない本もあるし」
つとめて明るくフィリエルは応じた。
「データはまたとることができるし、本はまた別のかたちで書かれるわよ。書かれていることが真実ならば、真実まで消え失せることはないのだから」
少年はうつむき、しばらく黙っていた。そして、とうとう本音をもらした。
「ぼく……できないよ。今までの暮らしをなくして、よその土地で暮らす自信ないよ……」
「それはあたしだって、よそはどこも知らない。でも、なんとか暮らさなくちゃ。ホーリーのおかみさんだって知っているわけではないのに、ああやって申し出てくれたんですもの。きっと平気よ、どこでもきっと何とかなる。あたし、あなたたちがいればたぶん平気よ」
フィリエルはほほえんだ。自分の言葉に、ふいに確信がもてたからだ。ルーンをあやすためではなく、これは彼女の本心だった。
「あたしはこれ以上、自分のものをなくす気はないの。あなたは、あたしのばか父がエディリーンの首飾りの他に、たった一つ残してくれたものなのよ。置いていけるはずがないじゃないの。だからあなたは、紙くずくらいでぐずぐず言わないで、あたしについて来なくてはだめよ。これからまだまだ、知らなくてはならないことがあるのだから――たとえば、博士の研究はどうして異端なのかとか、異端でないとする国もあるのかとか。そういうことは、異端審問官の来ないところで調べるものよ」
ホーリーのおかみさんが夜食をもたせたのは、まったく正解だった。夜中を回っても、天文台はまだ片づかなかった。書斎の暖炉は書類の灰がうずたかく積もり、どうにも使いものにならなくなったので、二階に下りて料理用のかまどを使い始めたが、こちらもそろそろ限界のようだ。
火かき棒で灰をかきまぜながら、フィリエルはうんざりした声を出した。
「嫌んなっちゃう。これ以上燃やすなら、一度灰を掻き出さなくては。こんな夜中に火を絶やしたら、寒くてたまらないわよ」
ルーンは、ちろちろと燃える炎を憂鬱《ゆううつ》な目で見つめた。
「しかたないよ、ぼくが灰を捨ててくる。やり始めたことは最後までやらなきや」
「それなら、今のうちに体を温めておこう」
二人は一休みすることにして、わかしたお湯で一服つけ、夜食をお腹につめこんだ。炎を見つめたまま、ルーンはぽつりと言った。
「いつか……本当にいつか、ぼくも博士の境地《きょうち》に達したら、ぼくも、やむにやまれず南へ出かけるのかもしれない。そんな日が来るかもしれない。今はきみといっしょに行くけれど……それでもかまわないかい」
「いいわよ、それでも」
フィリエルは動じることなく答えた。
「それはいつかのことでしょう。そのころには、あたしたちもいい大人になって、それぞれ自分でやっていけるでしょうよ。でも、今のところはそばにいてよ。まだあたしは大人じゃなくて、もうしばらく、だれかにいてほしいんだもの」
「うん」
フィリエルの率直《そっちょく》な言葉に、ルーンもうなずいた。
「たぶん、ぼくも同じだ。この塔を出ていくことには、決心がついたよ。きみの言うとおりだった。ぼくにはまだ、これから知らなくてはならないことがたくさんある」
食べ終えたビスケットのくずを払い落とし、二人は思い切ってかまどの灰に水をかけた。湯気をあげる灰を掻き出してしまうと、灰を山にしたバケツを両手に下げ、ルーンは重たげに階段を下っていった。
フィリエルが思いついて蝋燭をとりあげ、足元を照らしてやろうと行きかけたとき、早くも階下でバケツをひっくり返す音がした。
「ルーン、大丈夫?」
声をかけたが、応じたのは続けざまに響く耳障りな音だ。いったい何が起きたのかと、明かりをかかげてのぞきこんだフィリエルは、そのまま凍りついた。階段下でルーンが、得体の知れない真っ黒なものに組みつかれ、必死になって手足をふりまわしていた。戸口は大きく開け放たれ、背後は闇だ。フィリエルの目には、外の闇が実体をもってルーンに襲いかかったかのように見えた。
闇は少年より大きく、もがく彼を力ずくで階段にねじ伏せにかかる。フィリエルには見ているものが信じられなかったが、それでも、ルーンを組み伏せているのが黒ずくめの、覆面をつけた男だということは徐々にわかってきた。しかし、どこのだれが、真夜中の天文台などを襲撃《しゅうげき》するというのだ。
覆面の男は一人ではなかった。フィリエルがまだしびれたように立っているうちに、同じ格好をした男が、さらに三人現れた。時ならぬ時間に訪れておきながら、どの男も一言も発しない。一人は最初の男に加勢して少年を押さえつけにかかり、後の二人は階段を駆け上ってくる。すべて、あっという間のできごとだった。フィリエルには、抵抗らしい抵抗もできなかった。セラフィールドのような盗《と》るもののない土地で、強盗《ごうとう》の心配などはしたためしがない。事態を呆然と見つめているうちに、気がついたら麻紐《あさひも》で両手を縛り上げられていた。ただ、彼らがたしかに生きた人間だということは、間近に荒い息づかいを聞いて理解した。
少しすると、やはり縛られたルーンが階段を引っぱり上げられてきた。彼は、部屋の中央へ強く突き飛ばされ、テーブルに打ち当たってころがった。上に山積みだった本が、倒れた彼に音をたてて降りそそいだ。
「ルーン」
それまで、悲鳴をあげることもできずにいたフィリエルは、初めて叫んだ。すでに縛られている彼に対して無用の暴力であり、黙ってはいられなかったのだ。そばに寄って膝をつき、非難《ひ なん》をこめて男たちをふりかえる。侵入者たちも、そのとき初めて口を開いた。
「こいつらのしていたことを見てみろ。がきのくせに小賢《こ ざか》しく、禁書《きんしょ》を灰にしていたのだ。こんなことだとわかっていたら、人目を問わずに早く来たものを」
耳障りな、ひどく苛立った声だった。もう一人、こちらは冷徹な、氷のような声の持ち主が口をきいた。
「まだ、全部をふいにされたわけではないだろう。手分けして塔の中を探せ。特にディー博士の筆跡と思われるものは、残さず持ち出すのだ」
「この二人はどうする」
「ころがしておけ。子どもの始末は後だ、書類が優先だ」
(この人たち、博士の研究を目当てに来たんだ……)
愕然《がくぜん》としてフィリエルは思った。男たちは二人が逃げないように、縛った縄の先をテーブルの足につなぎ、四人とも階上へ上がって行った。彼らの姿が見えなくなると、フィリエルは震える声でルーンにたずねた。
「ねえ、大丈夫?」
彼が体を丸めていたので、けがをしたかと心配したのだ。だが、よく見ると、ルーンははずれかけたメガネをなんとか戻そうとしていたのだった。メガネを気にするくらいなら、ひとまずは大丈夫だ。
ルーンが上体を起こしたので、いくぶんほっとして、フィリエルは質問をきりかえた。
「ねえ、あの人たちが異端審問官なの?」
ルーンは顔をしかめた。
「そんなわけないだろう。国の官吏《かんり 》が、どうして真夜中にこそこそやってくるんだ。こんな時間に来るのは泥棒だけだよ。押し込み強盗だ」
「でも、ドロボウは金目のものをねらうものよ。天文台にはそんなものないのに」
「博士の研究が金になると言われたのかもしれない。もしかすると、だれかに指示されているのかも」
フィリエルは目をぱちくりした。
「だれかにって」
ルーンは少し黙っていたが、低い声で言った。
「気になっていたことはあるんだ……さっきも、火にくべながら考えていた。蔵書《ぞうしょ》のなかに、おかしなマークのついた本があるんだよ。どれも同じ、蛇《へび》がからんだ形をしている……ホーリーさんが手に入れてきた本だ」
「どういうこと?」
「提供者《ていきょうしゃ》がいるということだよ。ホーリーさんは、それと知らずにやっかいな連中を引きこんだのかもしれない」
覆面の男たちは、暖炉の灰の山を発見したらしかった。少しすると、荒々しい音をたてて階段を下りてきた。男の一人は、テーブルの下に縮《ちぢ》こまっている二人の前に立ち、怒鳴《どな》りつけた。
「きさまら、いったい何を燃やした。ディー博士のエフェメリスはどこにある。見えない天体を記した天文記録をどこへやったんだ。もしもあの灰がそうだと言うのなら、頭の足りないがきども、ぶち殺されてもまだ足りんぞ」
この塔の中で、怒鳴り声や|罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》が使われたことは一度もなかった。壁に反響する男の声に、フィリエルは震え上がったが、ルーンはふてぶてしく構えていた。
「何のことだかわからないな。ぼくたち、ホーリーおばさんの言いつけで、塔の後片づけをしていただけだよ」
「空とぼけるな、うらなり小僧」
男がルーンの胸ぐらをつかんで引き上げたので、彼は宙吊りになりかけた。息をつめるルーンに向かって、男は吐き出すように言った。
「おまえがディー博士の内《うち》弟子《でし》だってことは、承知の上だ。はした者でも、何かのときに役立つだろうと、旅芸人から買ったのは親方だったのだからな。それがどうだ、恩を仇《あだ》で返しやがって」
ルーンはなんとか足を踏みしめると、つかまれたままにらみ返した。
「あんたたちはいったい何者だ。正体を隠すその覆面の理由は、表に別の顔で出ているためか」
男は舌打ちし、にくにくしげに彼を放り出した。
「ホーリーのやつも、つくづく使えない男だったものだ。下《した》っ端《ぱ》にわきまえも教えないときている。博士の身柄は取り逃がすわ、わたした蔵書は灰になるわ、親方の計画がだいなしだ」
倒されたルーンはすぐに起きなおり、いきりたった様子でくいさがった。
「何の目的だ。ホーリーさんを追いつめたのは、あんたたちだったのか。博士の研究を探って、いったい何をしようとしているんだ」
「ほう、見かけのわりに元気のいい小僧ではないか。悪くない」
別の男が、冷たい声で感想を述べた。四人の男は覆面のせいで見分けなどつかないが、その声から察すると、最初に指図をした男のようだった。
「小僧《こ ぞう》が何も知らないのは、ホーリーのせいではない。知らせないよう、あのかたの指示が出ていたのだ。そのほうが、ディー博士も疑問を抱かずに伝授《でんじゅ》するだろうからだ。この弟子は、研究の概要《がいよう》をつかむほどに知識を得ている。大事なエフェメリスを、むざむざ燃やすはずがない」
男は近づいてくると、ルーンのあごに手をかけ、ぐいとあおむかせた。そして、ぞっとする冷酷《れいこく》さで言った。
「これからは覚えておくがいい。おまえはわれわれの親方の持ち物だということを。その頭も、頭に詰めこんだ知識も、すべて親方のものだ。おまえに自由などないが、素直に従えば、待遇はそれほど悪くないぞ。親方は、優秀な人材には慈悲《じひ》をかけるおかただ」
ルーンは顔をこわばらせた。頭を強くふって男の手から逃れたが、すぐには言葉を返す気になれないようだった。
「さあ、正直に言え。博士の研究書類をどこに隠した」
悠揚《ゆうよう》迫《せま》らず男がたずねた。ルーンはいくぶん力なく口を開いた。
「あんたたちは組織の者なのか。そうだろう、あの、蛇のからんだマークをもつ組織だ。親方とはだれのことだ。だれの下で働いているんだ」
「親方の前へつれていかれれば、嫌でもわかることだ。いかにもわれわれは、さる組織を形作っている。この国に真理と光明《こうみょう》をもたらすための、秘密結社のようなものだ。さあ、書類のありかを言え。それがないと、おまえもわれわれも、戻ったときにあまり愉快でない目を見ることになるぞ」
男は重ねてせまった。後ろでは、残りの男たちが額を寄せて話しこんでいる。ルーンが沈黙している間に、その会話がフィリエルの耳に聞こえてきた。
「……だれに償《つぐな》わせる。ホーリーがもっていった書物は、どれも希少本《きしょうぼん》だった」
「……女の子をたたき売れば、いくらか帳尻《ちょうじり》が合うだろう。グラール人の奴隷《ど れい》はめずらしいから、中央ルートで高値がつく」
「……顔の広い仲買人を知っている。後宮《こうきゅう》奴隷を扱うやつだ」
強い恐怖がさいなみはじめ、フィリエルは身震いした。ただならぬ危機に直面していることを、ようやく実感したのだ。このままでは、自分やルーンの意志は問題にならず、いいようにされてしまう。捕らわれた二人が、どちらも品物なみの扱いを受けるのはたしかなようだった。
(どうしよう。あたしたちがこんな悪漢の手に落ちたこと、おかみさんもだれも知らない。助けにきてくれる人は、だれもいないのに……)
ルーンがふいに、あきらめたように顔を上げた。
「隠し場所を言うよ。書斎の二段の物入れの一番奥だ。探れば、壁石《かべいし》がいくつか動く。その後ろの穴にエフェメリスを隠した」
覆面の奥で男の目が輝いた。後の仲間をせきたてると、再び階上へ上がっていった。
「フィリエル」
ルーンがごく小さな声で呼びかけた。
「あの首飾り、どこにある?」
「つけているわよ。服の下に」
みじめな気分でフィリエルは答えた。ルーンがそうしろとすすめたのだ。どこかにしまうよりも、肌身離さずにいたほうがいいと。だが、フィリエルを捕らえた悪漢は、労せずに首飾りも手に入れたことになる。
「それならいい」
ルーンはつぶやき、もぞもぞと体を移動した。
「きみの手、少しは動くかい。ぼくのポケットに、鵞ペン用の小刀が入っている。手が届かないか」
フィリエルは抵抗しなかったせいで、あまりきつくは縛られていなかった。それでも、後ろ手に縛られたまま、人のポケットを探すのは難しかった。しかも、彼のポケットにはがらくたが山ほど入っているのだ。自信なげに試みていると、ルーンは切迫《せっぱく》した調子でささやいた。
「急いで。あいつらが戻らないうちに何とかするんだ。あいつらはどうやら、きみの素性《すじょう》までは知らない。知られたら最後だ。そんな力を与えることは、絶対にしてはならない」
フィリエルは必死になり、努力のかいあって、小さなナイフをつかみ出すことに成功した。
「ぼくにかして。ぼくのほうが使い慣れている」
彼はナイフを使ってフィリエルの縄を少しずつ切り始めた。だが、切り離そうとせず、何|箇所《か しょ》も切りこみを作っている。
「まだ動かないで。少し力を入れれば切れるようにしているけど、逃げのびるには、チャンスを作らないとだめだ」
ルーンはつかのま考えに没頭《ぼっとう》していた。計算を解くときの顔だ。そんなときに彼はくちびるを噛み、フィリエルの声が届かないところにいるような表情になる。だがやがて、表情をゆるめてルーンは言った。
「……逃げ出したと見せかけて、きみは隠れるんだ。地階の階段の陰にある穴、覚えているかい。昔、よく遊んでいただろう」
フィリエルは覚えていたが、そこを隠れ家にして喜んだのは、十歳までの話だった。
「でも、あたしは、あれからずいぶん大きくなったのよ」
「入れなくはないはずだよ。そして、あそこは知らない人間には見つからない」
上から男たちの声が聞こえ、ルーンは早口になった。
「いいかい、あそこに飛びこんだら、どんなことがあっても出てきてはだめだ。七匹の子ヤギの下の子みたいに、たとえ兄弟が狼に食べられたって、動いてはだめだ」
フィリエルは思わず眉をひそめた。
「あなたは逃げないつもりなの」
「ぼくはぼくで算段《さんだん》する。だけど、子ヤギの一匹が逃れたことで、兄弟が救われたことを忘れちゃいけない。きみは全力で自分の身を守るんだ。いいね」
フィリエルは口をはさもうとしたが、先取りしてルーンは続けた。
「役わりを逆にはできないよ。きみは首飾りをしているじゃないか。わずかでも捕まる危険を冒してはいけない。でも、きみが逃げのびれば、助けを呼びに行くことはできるんだ。わかったね」
「わかった」
フィリエルはしかたなく答えた。ルーンが冷静に、一番大きな可能性を示したことがわかるだけに、そう言うしかなかった。
「でも、ルーン。あなたもあんな人たちといっしょに行ってはだめよ。あたしと来なくちゃ。そう約束したでしょう」
「うん、約束だ」
ルーンは閃《ひらめ》くような笑みを見せた。彼はめったに笑わないが、ごくたまに笑うのは、いつもフィリエルが予期しないときだ。そのせいか、彼の笑顔は目にしみるような気がした。メガネの奥で、嵐の色の瞳がいつになくやわらぐ。
「前に言っただろう。ぼくがどういう弟子であっても、ぼくを導けるのは博士一人だって」
ルーンが言ったそのとき、覆面の一人が階段を下ってきた。つかつかと寄ってくる男に、フィリエルは、縄のほころびがばれやしないかと体を固くした。
「うらなり小僧、物入れの動く石とはどのことだ。でまかせだったら承知しないぞ」
怒鳴る男に、ルーンは小さく肩をすくめた。
「あれには、ちょっとしたコツがあるんだ……」
「言うより先に、おれたちの目の前で、自分で動かして見せろ」
覆面の男は、テーブルの足に結んだ縄を解こうとかがみこんだ。その無防備な姿勢になったところを、ルーンがいきなり蹴り上げた。さらに、手にした小刀でなぎ払う。彼はとっくに自分のいましめを切り離していたのだ。顔に切りつけられた男は苦痛の声を上げ、同時にルーンが叫んだ。
「今だ。走れ!」
飛び上がると縄が切れて自由になった。フィリエルはルーンに続いて階段を駆け下り、だが、彼と違って戸口を出ずに、階段裏へターンした。
「がきどもが逃げたぞ!」
とどろく音をたて、男たちが駆け下りてきた。だが、どの男も外へ飛び出していく。その間に、フィリエルは真っ暗な穴の入り口を探り当て、その小さな隙間に無理やり体を押しこんだ。
そこは、窓のために壁を抜いてあったのを、地階なのでふさいだ場所だった。外壁の石積みと内壁の間を埋めるものがなく、人が座り込めるくらいの大きさに空いているのだ。小さいころこれを発見したフィリエルは、中に入りこんで遊んだものだった。昼間にここに入ると、石積みの隙間から光がもれ入り、目をあてれば外の様子をのぞくこともできて、なかなかおもしろかった。
だが、真夜中の今はもちろん、鼻をつままれてもわからない暗闇だ。あちこち体をぶつけながら、やっと隙間に収まったフィリエルだったが、収まったとたんに、ルーンの提案を受け入れたことを後悔したくなった。中は湿っぽく、冷気が遠慮なくはいあがってくるのだ。フィリエルは両腕をかかえこみ、けんめいに歯が鳴るのをこらえた。下の地面もじっとりとして、早くも足指《あしゆび》がしびれ始める。
それでも、自分から出ていかない限り、ここは見つからないに違いなかった。穴の入り口がちょうど階段の陰になるので、明かりをかざしてもなかなか目に入らないのだ。体をかがめて両膝をかかえこんでいると、本当に、ルーンの言った七匹目の子ヤギになったような気がした。
(……一匹は机の下へ。二匹日は寝床の中へ。三匹目はストーブの中へ。四匹目は台所へ。五匹目は戸棚の中へ。六匹目は洗濯だらいの中へ。七匹目は振り子時計の箱の中へ逃げこみました。狼は片っ端から子ヤギを探し出し、大きな口で次々にのみこんでしまいました。けれども、時計の中に隠れた一番小さな子ヤギ、この一匹だけは、見つけることができなかったのです……)
「ちくしょう、こっちにはいないぞ」
「もっとよく探せ。そんなに早くどこかへ行けるはずがない」
石の壁を伝って、男たちの怒鳴りあう声がしきりに聞こえてきた。いらいらと、すぐ近くを歩き回っているようだ。息をひそめたフィリエルの耳に、男たちに混じってルーンの声が飛びこんできた。
「見つかるもんか。女の子だって、あの子がどれほど荒れ野を知り抜いているか、あんたたちは知らないんだ」
心臓をつかまれる思いで、フィリエルは闇の中に目を見開いた。
(捕まったんだ……ルーン)
「いや、だまされるな。近くをよく探せ。この闇だ、隠れ潜《ひそ》んでいることもあり得る。一人で遠くまで逃げたとは考えにくい」
冷たい声の男が言っている。
「あんたたちの思い通りになるもんか。欲しがっているものはわたさない。あの子だって、このぼくだって、手に入れたと思ったら大まちがいだ」
あらがっているのか、ルーンは息を切らしながら叫んでいた。だが、殴打《おうだ 》の鈍い音が彼の声をとぎらせた。耳をふさぎたかったが、聞かないわけにはいかなかった。
「ふざけたまねをするとどうなるか、少し思い知らせてくれる。顔に傷をつくってくれた礼は、これからたっぷり返すからな」
怒りに濁《にご》った声で、ルーンにやられた男が言っていた。少年を痛めつける音がさらに続いた。
(星女神様、どうか助けて。助けてください……)
両手をきつく組み合わせ、フィリエルはいつか祈っていた。飛び出していってやめさせたいが、それではルーンのしたことが無になってしまう。初めから、フィリエルだけを逃がすためにそうしたことは、今でははっきり自覚《じ かく》できた。フィリエルが逃げのびることに、彼の望みもかかっているのだ。
(でも、あんなに殴られたら、死んでしまうかもしれない……)
これはお話にあることではない。現実の世界では、食われた子ヤギが、狼の腹の中から無事に出てくることはあり得ないのだ。殴打の音はいつまでも鳴り止まず、フィリエルには永劫《えいごう》続いているように感じた。たまりかねてついに動きかけたそのとき、冷たい声の男が制止するのが聞こえた。
「そのへんでやめておけ。使いものにならなくなっては困る。ディー博士の書類がない以上、その弟子だけが研究の内容をうかがう手段なのだ。小僧を親方のもとに運んで、今夜の仕事にけりをつける。口を割らせるのは、場所を移してからでいい」
別の一人がたずねた。
「女の子をどうします。われわれの存在を知られましたが」
「顔を見られているわけではない。田舎娘に何の説明もできないだろう。子どもの一人二人が行方不明になったところで、こんな辺鄙《へんぴ 》な場所のことだ、迷信《めいしん》深い連中がうなずきあうだけだ」
男たちはおさまりがついたようだった。再び塔の階段を上り、そして下りていった。フィリエルはけんめいに耳をすませたが、ルーンの声は二度と聞こえなかった。声も出ないほど痛めつけられたか、あるいは意識をなくしたのかもしれなかった。それでもじっと隠れていることは、歯をくいしばるほどつらかった。体は凍り、心まで凍りついたようだった。
とうとうついに、男たちの気配《け はい》が絶えた。遠ざかる足音の後、あたりは耳が痛いほどに静まりかえった。フィリエルは穴を出ようとして、手も足も感覚がないことに気がついた。固まってしまった体を動かし、はい出すのは一苦労だった。
もつれる足を階段に運び、ころんでひどく打った。フィリエルはくちびるを噛みしめ、両手両足で最上階まで上った。屋上に出、手すりに身を寄せる。求めるものは目に入った。
荒れ野は見晴らしをさえぎるものがない。悪漢たちの乗った馬車は、小さな明かりを揺らしながら遠ざかるところだった。
手すりの刻《きざ》みをさぐって確かめると、明かりの去りゆく方角は東南だった。ワレットへかよう道ではない。そんな方角に荒れ野を抜けることができようとは、今まで思ってもみなかった。
(行ってしまった……ルーン……あの恐ろしい人たちにつれ去られてしまった)
馬車の明かりもついに見えなくなり、略奪者《りゃくだつしゃ》の痕《こん》跡《せき》が消えてしまうと、フィリエルはその場に座りこんだ。打ちのめされ、ほんのわずかも助かったという気持ちになれなかった。覆面の男の怒声《ど せい》、ルーンの表情、殴打の音などが、頭の中をぐるぐると回った。
ほどもなく、正面の空が白んできた。朝焼けが空を刷毛《はけ》ではいたように色を飾ると、大空に飛び立った荒れ野の鳥が、夜明けの|静寂《せいじゃく》をつらぬいて鋭く一声あげた。
「立ちなさい。フィリエル」
声に出してつぶやいてみた。凍えた手足はまるっきり他人のもののようだったが、それでも動かして身を起こすことはできた。手すりにすがって立ち、フィリエルはしばし額《ひたい》を手に押しつけた。
「しっかりしなさい。他にだれがいるの」
もちろん、だれもいなかった。ルーンを取り戻せるかどうかは、フィリエルにかかっているのだ。こんなところで呆《ほう》けている場合ではなかった。フィリエルは大きく一呼吸すると、よろめきながらも屋上を後にした。
夜明けの薄明かりのなか、天文台を出たフィリエルは、走れるだけ走ってホーリー家へ向かった。手足に再び血がめぐってくると、少しは気力もわいてきた。
(ホーリーのおかみさんなら、きっとなんとかしてくれる。これからどうしたらいいか、常識をもって考えてくれる……)
彼女は意外と度胸《どきょう》がすわっているし、決断力もある。フィリエルにはわからないいろいろなことも、つなげて考えることができる。一刻も早くおかみさんに聞いてほしかった。どんなにひどいことが起きたか、フィリエルがどんな思いをしたか。いい加減息が切れていたが、フィリエルは足を止めようとせずに、ひたすら坂を下った。
ようやく木戸にとりつくと、小さな家は静まりかえっていた。フィリエルはかまわずに声をはりあげた。
「おかみさん、おかみさん。大変なの、聞いて……ルーンがつれて行かれちゃったの」
返答はなかった。自分の声のかき消える空虚さに、胸がつぶれる思いでドアを開けると、がらんとした部屋が目に映った。
奥の一角には、衝立《ついたて》を取り払ってむきだしの寝台が見える。ふとんはきれいに片づけられ、だれも寝た形跡がなかった。かまどの火もおこした様子はなく、家の中は外と同じに冷えきっている。走り抜けて裏戸を開けると、納屋《なや》のわきの馬囲いに、だんなさんの年寄り馬はいなかった。当然ながら、荷馬車もなかった。
フィリエルは戸で背中をささえ、これがどういうことなのか考えようとした。理解できなかった。ただ、じわじわと身にしみてきたことが一つだけあった。
それは、今度こそ正真正銘、だれもいなくなってしまったということだった。フィリエルがともに暮らし、セラフィールドに平凡な日々を送ってきた人々は、わずか数日のうちに、一人残らずかき消えてしまったということだ。まるで夢まぼろしだったかのように、フィリエルが十五年のあいだ慣れ親しんできたものの数々は、その様相《ようそう》をひるがえしてしまった。もう、どこにも残っていない。
後に残されたのは自分一人――戻るべき家をなくし、たよる人をなくし、これからどこへ行くかもわからない、とうてい理解のできない情況に取り残された女の子一人だった。拉致《らち》されたルーンを救おうと思うなら、この、何もかもなくした身一つで、フィリエル自身で、できることを考え出さなければならなかった。
早朝。樹影《じゅえい》にもやのかかる林を抜け、アンバー岬のお館に続く道を、おかかえ庭師《にわし 》のヘブンリーとその息子が歩いていた。先代が植樹《しょくじゅ》した木々はしっかりと枝を張り、まもなくくる春の芽吹《めぶ》きにそなえて、赤茶色の木の芽をふくらませている。
ヘブンリーの先代は伯爵家の庭師ヘブンリーであり、その先代も然《しか》りだった。息子にも当然、名を引き継がせるつもりだが、ぼちぼち伝授を始めたものの、もうしばらくは現役で通すつもりでいる。
前方の霞をついて、馬のひづめの音が聞こえてきた。やがて、見事なつやのある栗毛が、背にアデイル嬢を乗せて現れた。真紅のベストの乗馬服を着たアデイル嬢は、髪をまとめ、背中を鞍《くら》の上にそらせて軽やかに揺れている。庭師が口の中で、やあ、これはこれは……などどつぶやいているうちに、アデイル嬢のほうから、路上の二人に声をかけた。
「おはよう、ヘブンリー。おはよう、四世……それとも五世だったかしら。気持ちのいい朝ね」
二人は急いで帽子をとったが、令嬢の声を聞いてさらに深く腰をかがめた。
「おはようございます、お嬢様。朝の遠乗りとはおよろしいですな」
「そうなの、とってもすがすがしいわ」
にこやかにアデイル嬢は答えたが、その笑顔はどこかひきつったものだった。令嬢の馬が通りすぎると、少し間をおいて、お館の馬丁頭《ばていがしら》がやってきた。黒馬にまたがり、口髭《くちひげ》をたくわえた伊達《だて》男だが、庭師には目もくれず、じっと前方をにらんで通りすぎていく。
馬丁頭を見送った後で、おもむろに父親のヘブンリーが口を開いた。
「アデイルお嬢様は、いつまでたってもお変わりがない。ああして前と同じに、わしらのような者にまでお声をかけてくださる」
「ああ、本当に」
息子のヘブンリーがあいづちを打った。
「前と変わらぬご様子だ。見たところ、女学校では、乗馬がお得意にはならなかったようだね」
「うむ……」
弁護したくてもできないといった様子で、ヘブンリーはうなった。
「あれほどお嫌いなら、馬にお乗りにならなければよろしいのに。それでもかかさず乗馬をなさるのは、いったいどういったわけなのかのう……」
庭師にも見てとれるのだ。アデイルの乗馬は、だれの目にもたどたどしかった。ロウランド家の馬屋には名馬《めいば 》しかおらず、馬たちの気位《きぐらい》も高い。気ままに暴れ出したら、彼女のきゃしゃな腕で引き止められるものとも思えなかった。馬丁頭が心中冷や汗をかきながら従うのも、もっともなことだったのである。
それでも、早朝の道に馬を脅《おびや》かすものはなかったし、アデイルもいくらかは制御をしていた。岬を一周する散歩コースは、今朝も難なく折り返しそうだ。
だが、馬丁頭が気を抜きかけたとき、問題は起こった。林の道をとぼとぼ歩いてくる少女がいたのだ。その姿を見たとたん、アデイルは手綱《た づな》の扱いをまちがえた。栗毛は当然のように腹を立てた。
「きゃあっ」
悲鳴があがり、馬が後足《あとあし》立ちになった。みすぼらしい少女は、目の前で突然馬が暴れ出したことに驚き、逃げることもできないでいる。
「アデイル様っ」
馬丁頭は全力で乗りつけ、アデイルのかわりに馬を抑えようとした。栗毛は白目をむいてあらがい、飛び跳ねようとしていななく。だが、馬丁頭も決死の覚悟だった。令嬢に何かあれば、首が飛ぶのは自分なのだ。
なんとか、静められそうな手応えを得たときだった。彼の奮闘をあざ笑うかのように、アデイルが鞍からころがり落ちた。暴れる馬の背でもちこたえられなかったのだ。手を伸ばしても間に合わず、馬丁頭は命運《めいうん》尽きたと思って目をつぶった。
「フィリエル」
「お嬢様」
道の少女と令嬢が、同時に声をあげた。馬丁頭がこわごわ目を開けると、アデイルは奇跡的に踏まれもせず、少女のそばへころがり寄ったところだった。息をはずませ、驚ききった顔をしていたが、たいしたけがをしていない。目の前の少女のほうが気になる様子で、まず叫んだ。
「やっぱりあなた、フィリエル。いったいどうしたの」
フィリエルは肝《きも》をつぶして座りこんでいた。彼女は、迷いながら門をくぐったのだ。どんな顔で令嬢の前に出、どのように言えばいいのかわからなかった。しかし、まさか、アデイルとこんなふうに再会するとは思ってもみなかった。
とりあえず、口がきけるようになったフィリエルは、従姉妹に言うべき言葉がわかった。
「あの、おけがはありませんか」
「ちょっとすり傷をこしらえただけ。たいしたことないの。わたくし、落馬《らくば 》だけはずいぶん上手になったのよ」
アデイルはへんな自慢をした。乗馬服の泥は気にとめないようだ。彼女は、真面目な顔でフィリエルの目をのぞきこんだ。
「あなたのほうこそ、何があったの。言わなくてもわかるわ、ぼろぼろじゃないの。一人でどこから歩いてきたの?」
フィリエルの上着は、塔の階段下にしゃにむにもぐりこんだときに裂いたままだったし、髪はもつれ、手も顔も黒く汚れ、スカートの裾は泥まみれだった。靴も、ぬかるみにつっこんだようなひどい有様だ。
「あたし……馬車の跡をたどろうとして……荒れ野を抜けたら街道に出て、それ以上たどれなくなって……」
アデイルは大きく目を見張った。
「まさか、セラフィールドからずっと歩いてきたと言うのではないでしょうね」
「他に、どうしていいかわからなかったんです。だれもいなくなってしまって……あたし一人では何もできなくて」
かすかにあえいだが、フィリエルは涙を流さなかった。泣くことすらできない顔をしていた。その瞳の痛々しさに、アデイルは眉をくもらせた。
「とにかく、わたくしのもとへ来てくださったことがうれしいわ。早く館へ行きましょう。あなたの様子、だれが見てもお薬とベッドが必要よ」
アデイルは立ち上がり、フィリエルを助け起こした。まず体の具合を心配するところが女性らしく、ホーリーのおかみさんみたいだった。そう考えたことで、フィリエルはまた胸をえぐられるような思いをした。
「あたし……来るべきではなかったこと、わかっていましたのに。お世話をかけられるような立場ではありませんのに……」
アデイルはかぶりをふった。
「何を言っているの。たとえただのお知りあいだったとしても、来ていただきたかったわ。窮状《きゅうじょう》にある人に、手をさしのべることもできないロウランド家だと、お思いになって?」
あたりを見回したアデイルは、馬丁頭に初めて気づき、うれしそうに言った。
「まあ、シーゼル、いつからそこに? このかたとわたくしとを、館へつれ帰ってくれないかしら。朝の遠乗りは、しばらく取りやめです。乗馬などに挑戦しているときではなくなったの」
アデイル嬢には、二度と乗馬に挑戦する暇を作らせないでほしいと、思わず女神に祈る馬丁頭だった。
早朝の白い空に、カモメの鳴き交わす声がする。木立の向こうには灰青の城が浮かびあがり、朝日にいくつもの高窓をきらめかせていた。フィリエルは、黒馬の背からそれを見つめ、再び迷いが生まれるのを感じた。
(よかったんだろうか。ここへ来て……)
ルーンがこれを知れば、伯爵家をたよったことは、おおいに気にくわないに違いない。彼が怒るとわかっていても、フィリエルには他に思いつくことができなかった。
ワレット村へ引き返す気にはなれなかった。時間がむだだったし、なにより、オセット家に助けを求めても、手に余るだろうという気がしたからだ。彼らは善良すぎて、フィリエルたちの陥っている窮地を、うまく理解することはできないような気がした。
だからといって、伯爵家に救援《きゅうえん》を求めてよかったのだろうか。見えを切って別れたはずなのに、手のひらを返して従姉妹にすがりに来たと思うと、ずいぶん情けなかった。
(あたしの誇りなんて、この程度だ……)
いくらでも捨てられると、フィリエルは考えた。強情《ごうじょう》をはるのは、ルーンだけでたくさんだ。彼こそは誇り高く、信念を曲げるよりは殺されるほうがましだと考えるのだろうが、それはフィリエルのおはこではない。
(それができないルーンだから、こうして心配しているのよ)
急がなくてはならないと、フィリエルは思った。彼が男たちに屈しまいとすることは、よくわかっていた。持ち前の頑固さで、あらゆることを拒むだろう。その結果、どんな目にあわされるか知れたものではなかった。そして、それゆえに、フィリエルが自分の誇りにこだわっている暇はないのだった。
領主館にフィリエルをつれ戻ったアデイルは、お付きのセルマにわけを話し、少女の介抱《かいほう》をたのんだ。セルマは承知したが、アデイルの泥のついた乗馬服を着替えさせることも忘れなかった。そして、こしらえたすり傷について、ひとくさり小言を言うことも。
そういうわけで、セルマの機嫌を損じるのは得策でないと感じたアデイルは、おとなしく薬を塗られ、西翼《せいよく》の居間に座って待っていた。気持ちの上では、フィリエルに付き添って、いっしょに世話を焼きたくてたまらなかったのだが。
西翼は家族の居室のある棟《むね》であり、その居間も、内輪の者がくつろぐ場所だった。暖気を逃さない程度に小さく、豪華さよりも居心地を重んじてある。詰め物をした椅子や長椅子が並び、少人数でお茶を飲んだり、カード遊びに興《きょう》じるためのテーブルが据えられていた。壁にはオレンジのかさをもつランプが輝き、子どもたちが幼いころの一家の肖像画が、大きな額《がく》に入って光に浮かび上がっている。
その肖像画の前に、アデイルはただ一人で腰掛け、所在《しょざい》なげに自分のお下げ髪をもてあそんでいた。すると、開いている扉からいきおいよくユーシスが入ってきた。裏地が緑をした黒のマントをはおり、外出中だったことが一目でわかる。
「フィリエル・ディーがまた来たって?」
開口一番、ユーシスはたずねた。風に吹かれたままの赤毛がみだれ、瞳が輝いている。アデイルはいくらか目を見張った。
「お兄様、クリスバード男爵をダーモットへご案内したのではなかったの?」
「ペントマンが知らせをくれたので、途中で引き返してきた」
「お友達を放り出して?」
「あいつなら気にしないよ。魅力的な女の子さえそばにいればね。わたしがいたって、ツマにされるばかりだ」
アデイルは非難しようとしたが、実際そのとおりなので、息をついた。
「駆けつけてくるほど、気にかけていらっしゃったとは知らなかったわ。彼女の顔も名前も、少しもお忘れにならなかったようね」
ユーシスは驚いた顔をした。
「当然だろう。君の従姉妹だということが、劇的《げきてき》に判明した女の子じゃないか。忘れるほうがどうかしているよ」
アデイルは肩をすくめた。
「でも、前には、わたくしの姉の名前をお忘れになったでしょうに」
ユーシスは返答につまり、それからしぶしぶ認めた。
「それはそうだが。あのときは場合が場合だった。あんなふうにレアンドラが登場するとは、だれ一人予想していなかったんだ」
「レアンドラは最初から、お兄様がだれかを承知して近づいたのよ。まさかロウランド家の嫡子《ちゃくし》が自分に気づかないとは、それこそ予想もしなかったでしょうね」
「たしかに不覚《ふ かく》だったよ。いつまでもその件であてこすらないでくれ」
話を打ち切りたい様子でユーシスは言い、アデイルの向かいの椅子に腰をおちつけた。
「彼女がだれかを知らなかっただけで、結果的に不始末はおきなかったじゃないか。騎士道《き し どう》精神にもとることは何一つしなかったし、機嫌も損《そん》じていない。もしもレアンドラが恨んでいるとしたら、それは逆恨みだよ」
ユーシスが、レアンドラに毛筋ほどもなびかなかったことは、アデイルもよく承知していた。だが、そこに少々問題ありと言えなくもないのだった。
(レアンドラの|美貌《び ぼう》を忘れてしまえるような人を、いったいどんな女性ならふりむかせられるのかと、だれだって多少考えこむでしょうね……)
小首をかしげて兄を見やり、アデイルは考えた。目の前で足を組んでいる赤毛の若者は、ともに育ったアデイルの目から見ても、人並み以上に優秀な貴公子に見える。ユーシスの笑顔は、その気がなくても女性をひきよせてしまう。なのに、彼の感受性《かんじゅせい》がこれほど未発達だなどと、だれが予想するだろう。
ユーシスの罪つくりな点はそこであり、本人の知らないうちに悲喜劇に巻きこまれる、ユーシス自身の不幸もそこにあった。
小麦色のお下げをいじりながら、アデイルは口を開いた。
「……わたくし、今度のことについて、レアンドラが嗅《か》ぎつけることが一番気がかりなんです。あの人は、情報網《じょうほうもう》を私的《し てき》に動かせるようなんですもの。フィリエルのことも、へたをすると探り出されてしまう。彼女、ロウランド家を傾《かたむ》けることなら何でもやってみようとするでしょう」
「たしかにね」
くちびるを噛んで、ユーシスは同意した。
「チェバイアット家にとっては、あげ足をとりやすいスキャンダルだよ。ルアルゴー伯爵が、承知の上で、失踪した王女を塔に隠していたなどということは」
「でも、女王陛下がこのことをご存じなかったとは、とても思えないわ。公式には、どうおっしゃるかわからないけれども」
アデイルは目を伏せて言い、それからあらためて兄を見やった。
「王籍になくても、フィリエルは陛下の孫娘の一人よ。わたくしに目をかけてくださるのと同様に、陛下は彼女のことも、ずっとお気にかけていらしたに違いないわ」
ユーシスは考えこむように口元をなでた。
「ロウランド家に孫娘が二人、チェバイアット家に一人か……そういうふうに考えると、力の均衡《きんこう》がいくぶん変わってくるような気がするな」
「そうでしょう。だからこそ、このことを知れば、チェバイアットは決して黙っていないと思うの」
アデイルは身をのりだした。
「わたくし、フィリエルを公家《こうけ 》同士の抗争に巻きこみたくない。でも、それ以上に、彼女をレアンドラにとられたくないの。フィリエルをロウランド家で庇護《ひご》してかまわないでしょう?」
ユーシスはうなずいた。
「初めからそう考えていたよ。彼女が考えを変えて、セラフィールドを出る気になったのは賢明なことだった。遠からず迎えを出そうかと思っていたところだ」
アデイルはいくぶん憂《うれ》い顔になった。
「お兄様ったら、まだ知らなかったのね。フィリエルは、ただ気を変えたのではないのよ。セラフィールドで、何か大変な目に会ったらしいの」
ユーシスが聞き返すより先に、扉からセルマの背の高い姿が現れた。この神経質そうなアデイルの付き人が、ユーシスはいくらか苦手である。思わず口をつぐんでいると、セルマは若君にお辞儀をし、アデイルには困ったように眉をしかめ、尖《とが》り気味の声で言った。
「先程のお嬢さんのことですが。すぐにお床に入るようおすすめしているのですが、どうしても若様お嬢様にお話しすることがあると言って、聞き入れてくださらないのです」
アデイルはあわてて立ち上がった。
「すぐに行くわ。部屋に案内して」
「わたしも行こう」
ユーシスも立ち上がった。セルマは、彼にとがめるまなざしを送った。
「とんでもございません。仮にも淑女《しゅくじょ》の寝室へ、殿方《とのがた》をご案内できるとお思いですの。若様をご案内するくらいなら、彼女の着替えを手伝って、ここへつれてまいります」
しばらくすると、セルマはフィリエルをつれてもどってきた。居間へ入ってきた少女を一目見て、ユーシスは心ならずも驚いた。フィリエルの印象は、記憶とはすっかり異なっていた。見るたびに別人のようになるのは、いったいどういうわけだろう。同じ少女だと、判別できないわけではなかったが、目の前のフィリエルに、ユーシスの目をあらためさせた、内からあふれる気迫と輝きは、かけらも見られなかった。
赤みがかった髪は重たげに垂れ、瞳に影がかかって暗く見える。セルマに紺地《こんじ 》の花模様の服を着せられ、ショールをまとっていたが、顔には亡霊のように血の気がなく、その服も映《うつ》らなかった。傷を負い、そのことを理解できずにいる動物を見たとき、同じような印象をもったことを、ユーシスは漠然《ばくぜん》と思い出した。
彼女が少しよろめくのを見て、アデイルが急いで歩み寄った。
「まあ、フィリエル、無理をしてはだめよ。本当にあなた、少し休んだほうがよくってよ」
けんめいな口調でフィリエルは言い出した。
「手厚くお世話いただいて、こう言っては申しわけないのですが。助けてほしいのは、あたしではないんです、ルーンなんです。とても寝てなどいられません。ここへ来たわけを聞いていただかなくては」
ユーシスは眉をひそめた。
「いったい何があったのか、詳しく話してくれないか」
彼らはフィリエルに肘掛け椅子をすすめ、聞く態勢に入った。腰をおろしたフィリエルはくちびるを噛み、はた目にも努力して話し出した。
ことの次第を明らかにするには、ホーリーのだんなさんが死んだことから始めなくてはならなかった。それから博士が姿を消し、外海へ出て行ってしまったこと。異端審問官が来ると言われたこと。塔の後始末をしている最中に、正体のわからない男たちに襲われたこと。ルーンがフィリエルを逃がすために、捕まって連行されたこと。
伯爵家の兄妹は、度肝を抜かれた様子でしばらく口をつぐんでいた。やがて、アデイルが押し殺した声でささやいた。
「なんてこと。かわいそうに、なんて恐ろしい目に会ったのでしょう」
フィリエルの手を握る手に、アデイルは思いやりをこめた。
「あなただけでも逃れることができて、本当によかった。そんな者たちにさらわれていたら、今頃どうなっていたかと、思うだけでも胸が痛みますわ」
ユーシスがつめていた息を吐き出した。
「おそれいったな。われわれのつゆ知らないところで、そんな騒ぎが起こっていたとは」
妹が感情で反応したのを見て、ユーシスは、耳にした驚くべきできごとを客観的に整理しようとつとめた。
「博士の出奔《しゅっぽん》も、死人が出たことも、なにやら不明瞭《ふめいりょう》な点が多いし、夜中に押し入ってきた男たちの様子も、聞くからに尋常《じんじょう》じゃない。ディー博士が特殊な立場にいることは、今ではわかっているつもりだが、その暴漢がねらったのは、博士が研究で解明した何かであって、王女の血をひく君や王家の首飾りに関して、知っていたわけではなさそうだ。ということは、博士の研究そのものに、後ろ暗い連中をひきつけるものがあったということになる。博士は、いったいどんな研究をしていたんだ」
フィリエルは力なく首をすくめた。
「毎日していたのは、天体観測と暦《こよみ》の計算だけです。それ以上のことは、あたしにはよくわかりません。あの男たちはルーンに、エフェ……エフェメリスはどこだとたずねていました。見えない星がどうのこうのと……」
「なんだい、エフェメリスというのは」
「わかりません」
顔を伏せ、フィリエルはまたくちびるを噛んだ。
「……こういうことを全部知っているのは、弟子のルーンだけだったんです。あたしは博士の娘でも、何も教えてもらいませんでした。異端だと言われることも、今度初めて聞いたくらい。ルーンは、もうずっと前から承知していたようですけれど」
ユーシスは、わずかながら期待をかけるようにたずねた。
「ディー博士がダーモットから出港したことは、どうあってもたしかなのか。外海にのりだすなんて、ふつうに考えれば正気の沙汰《さた》ではない。思い直したということもある」
フィリエルの表情はさらに翳《かげ》った。
「それに関しては、オセットさんがずいぶん力を尽くしてくれましたから、たしかだと思います。たぶん……もう、帰っては来ません」
「研究内容について聞き出せるのは、ルーンただ一人というわけか」
ユーシスが考えこむと、フィリエルは悲痛《ひ つう》な瞳を上げた。
「だからあの男たちは、ルーンをさらっていったんです。どういうつもりか知らないけれど、博士の研究を悪用して使うに違いない、そんな感じの連中でした。ルーンにひどいことをしたし、今だって、そうしているのかもしれません。お願い、彼らの居場所をつきとめて、ルーンを助け出してください」
ユーシスは間をおいてから、言いにくそうに口にした。
「覆面をして、真夜中に押し入ってくるやつらだ。まともな連中でないことはわかる。君を逃がすために捕まった彼には同情できるが、しかし……ルーンはもともとその男たちの仲間だったのだろう?」
「違います!」
フィリエルは必死な声で叫んだ。
「絶対に違います。ルーンは博士の弟子で、それ以外のものにはなろうとしないんです。もっと融通《ゆうづう》がきいてもいいと、あたしでもときどき思うくらいに頑固で。昔から、いやと言ったらてこでも動かなくて……」
視界がにじんでくるのをさとって、フィリエルは腹立たしげに目をぬぐった。
「彼がだれの思惑《おもわく》で塔へ来たのであっても、あんな男たちには渡せません。あたしとルーンとは、ずっといっしょに育ったんです。博士がいなくなってしまって、あたしたちは、国を出て別の場所で暮らすところでした。いっしょに行くと、ルーンも最後に言ったんです。とがめられないどこかの場所で、研究を続ける約束だったんです」
アデイルが驚いて姿勢をただした。
「国を出るですって? まあ、本気でそんなことを考えていたの?」
「君のことは、このロウランド家が保護する。よければこの先もずっとだ」
急いでユーシスが言った。咳《せき》払いして、彼は続けた。
「君には、まだ自覚がないんだな。君の体に流れているのが、グラール王家直系の血だということに。たしかに君は王女ではないが、だからといって、国外へ行くなんてもってのほかだ。天文台を襲った男たちがそれを知り得なかったことは、幸運だったとしか言いようがない。今後はこんな危険にみまわれないよう、われわれが身辺をしっかり守るよ」
ユーシスの言葉に感謝するべきなのだろうが、フィリエルはだんだん苛立ってきた。ロウランド家の兄妹は、フィリエルの身をたいへん案じてくれる一方、ルーンの話はただ聞くだけなのだ。
「はっきりさせてください。あたしはここへ、かくまっていただくために来たのではありません。ルーンの行方をつきとめて、助ける力を貸していただきたくて、お願いに来たんです」
思い切ってフィリエルは言った。
「どうかルーンを捜してください。あたしには、そのほかのことはどうでもよく思えるんです。今は何も考えられない、彼が無事だったら、そのとき初めて自分のことを考えられる気がします。お願いします。伯爵家のお力をもってすれば、たやすいことなのでしょう?」
少女を見つめ、ユーシスは静かに言った。
「たしかに伯爵家には、所領の内外を問わず、動かすことを許された私兵《し へい》がある。けれども、われわれが介入するには、強力な理由があってしかるべきなんだよ。おいそれとは動けない。動くからには、ロウランドの名においてなされることに、責《せき》を負わなくてはならない」
「どういう意味でしょう。ルーンを助けてくださることは、ロウランド家にとって不名誉だとでも?」
声をふるわせてフィリエルはたずねた。
「異端の研究だと、君は言ったね」
ユーシスは口調をやわらげようとつとめたが、内容からすると無理があった。
「女王陛下の家臣であるわれわれにとって、異端と名がつくものは、身をもって排除するべき悪徳《あくとく》なんだ。君が半分そういうものに染まって暮らしてきたことは、わたしたちにはずいぶん困惑させられることだよ。異端審問は笑ってすます問題ではないんだ。それでも君に関しては、何も博士から聞かされていないようだから、なんとか弁護は立つだろう。だが、ルーンの場合は違う」
ホーリーのおかみさんが言ったことと同じだと、フィリエルはつらい思いで考えた。だが、だからといって納得できることではなかった。
「それなら、ロウランド家は、天文台で狼籍《ろうぜき》を働いたあの男たちを、野放しにしておくおつもりですか。領主の勤めをはたされないのですか。彼らこそ、悪徳とよべるものをもっていたのに」
心苦しそうにユーシスは答えた。
「こうして耳に入れたのに、調査もしないとは言っていないよ。だが、そいつらの正体をつきとめる見込みは薄いだろう。残念ながら、このグラールにも地下組織は星の数ほどあるんだ。君が、幼なじみを心配する気持ちは十分察する……しかし、闇にとりこまれた者は、闇に|紛《まぎ》れてしまうことが多いんだよ」
「いいえ、お願いです。もしも、あたしに免じてくださるなら……」
さらに言いかけて、フィリエルはふいに声が出せなくなった。ふいに力尽きてしまったのだ。あくまでくいさがるつもりだった。ユーシスたちがフィリエルに、なにがしかの価値を見ているのなら、そのことを盾にとってでも要求するつもりだった。
だが、彼女はそんなに強くなかったのだ。体中がちぎれるように痛む。ルーンへの最後通告に似た、ユーシスの言葉のせいだった。闇にとりこまれた者は、闇に紛れてしまう……
(泣いてはだめだ。泣いたって、あたしの気持ちをわかってなどもらえない。きちんと最後まで言わなくては……)
けんめいに自分に言いきかせたが、もう、こらえる気力は残っていなかった。せめて彼らの面前では泣くまいと、あわてて席を立ったが、足がよろけ、床に膝をついてしまった。
他人の足元に泣き伏すことだけはしたくないと、ずっと思っていたフィリエルだった。憐《あわ》れみをひくために、すべてをなげうつことなどできないと。なのに、今の彼女はそうしていた。最後のささえが砕けてしまい、もう立ち上がれなかったのだ。ルーンにすがって泣いたときとは違い、今度の場合、泣くことで浄化《じょうか》するものも残ってはいない。フィリエルは体を折り、みじめさよりももっとつらい、恐ろしい空虚さのためにむせび泣いた。
どのくらいそうしていたか、だれかが自分を助け起こそうとするのを感じた。ぼんやりとセルマだと考えていたのだが、顔にかぶさるフィリエルの髪を、ためらいがちな指で、そっと払いのけたのはユーシスだった。
「そんなに泣かなくていい。泣かないでくれ。君がそうまで思いつめているのなら、なんとかしてみるから」
ぎこちない口調でユーシスは言った。フィリエルは言葉を返せる状態ではなかった。涙が止まらないのを見て、彼はさらに言った。
「本当だよ。口の上の約束じゃない。ロウランドのユーシスがひとたびなんとかすると言ったら、わたしの力の及ぶかぎりのことをするんだ。ルーンを取り戻せるかどうか、とにかくやってみよう。だから、もうそれ以上泣かないでくれ」
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第三章 子ヤギたちの行方
ロット・クリスバード男爵は、ダーモットの覇気《はき》ある女性たちがたいへんお気に召したが、そこは南育ちの悲しさで、同時にお風邪《かぜ》も召して戻ってきた。鼻水をたらしながらでは、うたかたの恋はできない。スタイリッシュな男爵は、いさぎよく再訪をあきらめ、日当たりのよい小部屋で養生に専念した。
退屈しのぎに小間使いをからかっているうちに、男爵はふと、階上にもう一人|看病《かんびょう》される客人がいることを聞き知った。そしてその客人が、舞踏会に王家の首飾りをつけて現れた娘だと探り出すに及び、彼は、ユーシスにはりついて離れない決心をした。
「ユーシス君、水くさいな。親友にないしょで、いつのまにことはそこまで進んでいたんだ」
「進むって、何が」
ユーシスはチェス盤《ばん》を前にして座っていたが、ロットを見て警戒態勢をとった。もちろん男爵はそんなことを気にもとめなかった。
「これからは、わたしを予言者《よ げんしゃ》と呼んでほしいな。われながらたいした眼力《がんりき》じゃないか。なに、一つ屋根の下に暮らすようになれば、先は見えている」
「だから、何のことだよ」
「君の恋路だよ。おくてだと信じていたんだが、一度手をつけると後が早いタイプだったんだな。かくなる上は、仕上げのほどが楽しみだ」
目を細めて男爵は言った。彼が肩にかけた手を、ユーシスはじゃけんに払いのけた。
「ばかを言うな。あの子がだれの娘かくらい、君にもわかっていると思ったのに」
「ああ、ふむ。たぶん、そういうことだと思ったよ。だが、それが何だと言うんだ。あの子には肩書きがない。生まれ落ちたときから後ろ盾《だて》を定められた、女王候補とはわけが違うんだ。君がそうしようと思えば、恋人にするも妻にするも可能じゃないか」
ユーシスは首をふった。
「あの子はそんなのじゃない。わたしは一生、恋人も妻ももつつもりはないよ」
「女王候補を擁立《ようりつ》する家として? そいつはおろかな考えだぞ」
テーブルに手をつき、ロットはユーシスの目をのぞきこんだ。
「正直に言うんだ、ユーシス。君はあのフィリエルという娘に、特別の感情をもっている。違うのか」
「鼻声だぞ、ロット。わたしにまで風邪をうつすなよ」
「ごまかしてもむだだ。答えるまで、この距離から動かないからな」
しばらくじたばたしてから、ついに観念したユーシスは、しぶしぶ告げた。
「……特別と言われれば、少しはそうかもしれない。君の言うのが、どういう意味かは別として」
ようやくロットは顔を離し、うれしげに指をこすりあわせた。
「それでいいさ。ああ、これで宮廷へ帰る楽しみができた。このセンセーショナルな話題は、王宮内を席巻《せっけん》することうけあいだ」
「吹聴《ふいちょう》する気か、ばか」
ユーシスはあわてて立ち上がろうとし、そのはずみでチェスの駒《こま》を数本倒した。
「まずい、君のせいだぞ」
それはなかなか立派なチェスの駒だった。騎士の馬の目や女王の宝冠《ほうかん》には、小さな宝石が埋めこまれ、黒檀《こくたん》と白大理石でできている。慎重に駒を戻すユーシスをながめ、ロットは不思議そうにたずねた。
「一人チェスか。君にこういう渋い趣味があったとは、いささか意外だったな」
「ロウランド家のチェスだよ、これは」
ユーシスはさりげなく言い、はしばみ色の目を上げてもう一度くり返した。
「君も知らなくはないだろう。ロウランド家のチェス[#「ロウランド家のチェス」に傍点]なんだ。わたしが今、さしているのは」
ロットは息をのんだ顔つきになった。
「君がそこまで実権をまかされているとは、今まで聞かなかったぞ」
「ペントマンを説得するのは骨だったが、遅かれ早かれこの日は来ると、彼も納得したようだよ」
チェス盤に目をやって、ユーシスは続けた。
「わたしは、フィリエルのためにこれを始めた。彼女の秘密は母親にあっただけではない、父親にも、さらに重大な秘密があったんだ。そのせいで今、少しばかり困ったことになっている」
「と言うと?」
「他言《た ごん》できることじゃない。ロウランドにとっても、それどころか王家にとっても、ほとんど致命《ち めい》的だ。ただ、その秘密を握っている人物を一人、うちで押さえなくてはならない」
ユーシスの顔は厳しく、その打ち込みようがうかがえた。彼の真剣な表情には、彼の笑顔と同じに純粋さが見てとれた。
「君もわたしの親友なら、よそでふれ回るようなまねをしないと誓ってくれ。あの子の存在は、いろいろな意味で両刃《もろは 》の剣《つるぎ》かもしれない。うわついた話の種にできるしろものではないんだ」
「誓うよ。すてきだ、ユーシス」
ロットは笑い、くせのない髪をはねあげた。そして、不真面目さにむっとする相手にかまわず、その肩をたたいた。
「役どころにはまっているという意味だ。君が恋愛以外には有能だってことくらい、わたしも承知しているよ。なんなら、このわたしも手を貸そうか。しがない男爵家も、やりようによっては使いでがあるぞ」
「鼻水が出なくなってから、そう申し出てくれ」
「つれない男だな。そんなに言うなら、二人とも鼻水が出るようにしてやる」
彼らが押し合ってさわいでいるところへ、アデイルが扉から顔をのぞかせ、またひっこめた。花を描いた茶色地のドレスを着た彼女は、そのしぐさといい小鳥のようだった。
(男の人たちって、大きくなってもまるで子どもみたい……)
アデイルの非難めいた感想が伝わったのか、貴公子たちはあわててとりつくろった。
「どうなさいました、姫。兄君にご用でしたか」
「ええ、ちょっと、来ていただきたくて」
扉の外にユーシスを呼び出すと、彼女はすぐさま小声で文句を言った。
「お兄様ったら、フィリエルやわたくしがこんなに心を痛めているのに、まじめにやっていらっしゃるの?」
「やっているとも」
ユーシスは不服《ふ ふく》そうに答えた。
「かなりの駒を動かした。結果がまだ出てこないのは、決して手を抜いたせいではないよ」
アデイルは彼の袖をつかんだ。
「それなら、フィリエルのところへ来てそうおっしゃって。今ならセルマが外へ出ているから、見つからずに寝室に入れるわ」
「しかし……していいことではないだろう」
逃げ腰になるユーシスに、思いつめたようにアデイルは言った。
「わたくしの一存《いちぞん》でいいことにするから、フィリエルをごらんになって。わたくしはもう、気の毒で見ていられないの」
「そんなに具合が悪いのか?」
顔色をあらためた兄を、アデイルは悲しそうに見上げた。
「食事をとらないの。セルマの話では、館へ来てからほとんど何も口にしていないって。あのままでは、ルーンが見つかるより前に、彼女がまいってしまうわ。お願いだから、お兄様からも説得してほしいの」
フィリエルは微熱《び ねつ》が下がらないまま、寝台の天蓋《てんがい》に目をすえて、とりとめない思いをさまよっていた。たいていは、昔のことを思い返していた。ルーンが天文台へ来る前後のこと、そして、遊び相手のいなかったフィリエルが、セラフィールドに初めて別の子どもを迎え、おかしなふるまいをたくさんしたことを。
考えてみれば、けっこうルーンにつらくも当たった。他にもっていきようのない感情を、フィリエルは全部ルーンにぶつけたのだ。溺愛《できあい》するようにかわいがってみたり、急に嫌ったり。|嫉妬《しっと 》して意地悪もしたし、支配下におきたいとも願った。
ルーンは当初から強情な子どもだったが、感情を表に出さなかったので、初めのうちはフィリエルのするがままだった。それがだんだん反発するようになり、取っ組み合ってけんかもした。
けれども、ある時期をすぎると、ルーンはフィリエルがいくら手を出しても、殴《なぐ》り返さなくなった。背丈がフィリエルに追いついたころだ。そのころには舌も充分鋭くなり、二人のけんかは徐々に口げんかに移ったのだった。
(熱を出すのは、たいていルーンのほうだったのに……)
塔へ来て二、三年、セラフィールドの寒さに慣れないせいか、ルーンはすぐに熱を出した。そういうときは、ホーリーのおかみさんが手際《て ぎわ》よく看病した。
湯たんぽを当てがって、羊毛の毛布によくくるんで汗をかかせる。粥《かゆ》を軟らかく煮て、辛抱強く一口ずつ食べさせる。そうすると彼は、翌日か翌々日にはまた元気になるのだった。
フィリエルは、おかみさんのすることをよく見ていて、彼女も看病ができるようになった。ルーンが寝ついたときだけは、どんなことがあっても意地悪をしなかった。
けれども、フィリエル自身はめったに熱を出さない、やけに丈夫な子どもだったため、寝つく側には慣れていなかった。今の自分の状態には、とまどうばかりだ。こんなことになるとは思いもよらなかった。
「フィリエル」
あたりをはばかる静かな声がし、紗《しゃ》の帳《とばり》が少しだけ引き開けられた。目を向けると、アデイルの小さな顔がのぞき、憂《うれ》いを含んだまなざしで見下ろしていた。
「あのね、フィリエル。お兄様にお見舞いに来ていただいたの。いいでしょう、少しお話ししても」
いいとも悪いとも思わないまま、フィリエルはうなずいた。すると、アデイルと並んで、天蓋の房飾りに届くほど背の高い、赤毛の若者が現れた。
「食事をとらないと聞いたよ。どうしてそんなばかなまねをするんだ。わたしにまかせたことは、そんなにも君の信用を得ていなかったのか」
枕の上には、目もとに黒ずんだ隈《くま》をつくり、一まわり小さくなってしまったようなフィリエルの顔がある。ユーシスは、責める口調にならざるをえなかった。
フィリエルは消え入るような声で答えた。
「食べようと、毎回努力するんです。ことさら断食《だんじき》しているわけではないのに……」
「館の食事が合わないのではないか。調理場に別のものを作らせては?」
ユーシスの提案に、フィリエルは力なくかぶりをふった。
「いいえ。前に来たときにはおいしくいただきましたから。どうして、あのときみたいに食べることができないのか……」
心の内ではわかっていた。一人だけ贅沢《ぜいたく》な部屋で寝ている安楽《あんらく》さが、フィリエルの身をさいなむのだ。ルーンを残して難をのがれ、領主館へ来てのうのうとしている自分が、自分でも許せないのだった。
フィリエルは痛みをこらえるように言った。
「あたし……もっと、丈夫だと思っていました。あたしはもっと、いろいろなことに立ち向かえると。でも、一口食べようとするたび、ルーンを思い出してしまうんです。今どうしているかが気になって、悪いほうにばかり想像して……」
「君は、彼が無事に戻るまで館の食事を口にしないと、そう言うつもりなんだな」
ユーシスは|眉《まゆ》を険しくしたが、フィリエルは彼の腹立ちには気づかず、ぽつりとつぶやいた。
「いっそ、逃げずにいっしょに行けばよかった……」
「ばかも休み休み言いたまえ。君の言いようは、ロウランドが信用できないと、このわたしを信頼していないと言っているのと同じことだ」
病人の枕元だということを忘れて、ユーシスは声を荒らげた。まったくおもしろくなかった。彼は、父の伯爵に無断で私兵を動かし、ペントマンとは口争いを起こし、自分の立場をあやうくする危険さえ冒して、一人の少女の願いをかなえようと努めている。それなのに、妹のアデイルにはまじめにやっていないと言われ、当のフィリエルには来なければよかったと言われ、どうにもむくわれないという気がしてならなかった。
「もしもルーンが戻らなかったら、君はどうするつもりなんだ。彼を思って餓死《がし》する気なのか。そうまでする、どれほどの価値があのメガネにあるというんだ。あやしげな組織の一員かどうかはさておいても、異端の継承者《けいしょうしゃ》なら立派に危険人物だ。たとえ救出しても、そのまま牢獄《ろうごく》送りかもしれないんだぞ」
さすがにアデイルがあわてた。
「お兄様、そんなことまで」
フィリエルは枕につっ伏してしまった。ユーシスは、ようやく言いすぎたことに気がつき、口ぶりを押さえた。
「すまない。だが、きちんと現実を見てほしいんだ。われわれは今、八方手を尽くしてルーンの行方を探している。彼がそれに値《あたい》する人間かどうかは、この際おいておくが、われわれの力をもってしても、君の期待にそえないことだってあるんだ。見つけることができても、生死の保証まではできない。そこまでよく考えたうえで、ふさわしい態度をとってほしいんだ」
フィリエルは答えないかに見えたが、しばらくすると、押し殺した声で答えた。
「わかっています……そんなにばかじゃありません。ルーンが戻らないと納得したら、あきらめます」
アデイルは急いでユーシスを退散《たいさん》させ、扉を閉めてため息をついた。兄に説得をたのんだのは、まったく見当違いだった。フィリエルのたのみを聞き入れた彼が、いつになく細やかでやさしかったので、ついつい過分《か ぶん》な期待をしてしまったのだ。
ところが、ユーシスはあくまでユーシスだった。病人を見舞うデリカシーというものを、根っから持ち合わせていない。フィリエルをこの上打ちのめして、いったいなんになるというのだ。
アデイルは首をすくめてあやまった。
「ごめんなさい。ユーシスったら、本当にしようのない人だわ」
「いいえ、いいんです……若君は、本当のことをおっしゃったわ」
フィリエルは静かに答えた。腹を立ててはいなかった。ただ、体の痛みと重さが増しただけだ。天蓋を見上げて、彼女はぼんやりとつぶやいた。
「ルーンが死んでいたときのこと、考えなくてはいけないのね」
「わたくしが力になります。ロウランド家が役に立たないときだって、わたくしは、いつだって、あなたのために力を尽くしますから」
思わずアデイルは言ったが、フィリエルは、言葉がわからない人のように|従姉妹《いとこ》を見つめ返した。
「ごめんなさい……うまくお礼が言えなくて。今、あまりいろいろなことが考えられないんです」
アデイルはしおしおと部屋を出ていった。フィリエルは彼女にすまないと思ったが、心に穴が開いて、そこから気力が逃げていくようで、どんな感情もわいてこないのだった。
その日の午後遅くのことだった。フィリエルには、ほんのわずかしかたっていないように感じられたが、窓の陽射しはもう翳《かげ》っている。肩を落として出ていったはずのアデイルが、豹変《ひょうへん》した態度で部屋に戻ってきた。
あれほど物音をひそめていたアデイルが、興奮にまかせて扉を開け、あわただしい足音で走り寄ってくる。表情もすっかり変わっていた。無気力に身をゆだねていたフィリエルも、これにはあわてて寝台から身を起こした。
「何か……何かわかったの。ルーンのこと?」
心臓をしめつけられ、おののく声でフィリエルがたずねると、アデイルはけんめいに首を振り、あふれるようにしゃべりはじめた。
「さっきね、使用人の通用門を訪ねてきた人がいるのですって。だれもその人を知らなかったけれど、伯爵がやとった身だから、伯爵に会わせてほしいと、とにかくしつこく言い張るのですって。とうとうペントマンが収めにいって、そして、言い分が正しいとわかったのよ。ペントマンからその報告を聞いて、わたくしにはぴんときたの。フィリエル、あなた、タビサという人を知っているでしょう」
フィリエルは息をのんで口を押さえた。
「おかみさん? それ、ホーリーのおかみさんのこと?」
アデイルは、勝利を得たようにほほえんだ。
「やっぱり。今度こそわたくし、つれてきて正解だったのね」
アデイルが身を引くと、後ろには粗末な服につつまれた大柄な姿があった。固くひっつめた髪にほつれが目立ち、赤いほおはいくぶん色をなくしているが、それでも変わることないホーリーのおかみさんだ。場違いさにおどおどしていた態度も、育てた少女を目にしたとたんに消え、彼女は声をはりあげた。
「フィリエル、あんた、こんなところに!」
フィリエルは寝台から飛び降り、走っていっておかみさんに抱きついた。いかつい太い腕――記憶にあるかぎり昔からなじんできた腕が、彼女を包み込んでくれた。
「……まあ、なんてことだろう。まあ、なんてことだろう」
ホーリーのおかみさんは震える声でつぶやき、フィリエルのもつれた髪にほおずりをした。
「あんたは、ルーンといっしょにつれ去られたとばかり思っていた……あの男たちから取り返さなければとばかり。こんなことなら、もっと早くに領主館に来るんだったよ。なんでまた、こんなに遠くへ一人で来たんだい」
フィリエルはすすり泣きながら訴えた。
「ルーンがあたしを逃がしてくれたの。あたしは、夜明けに家へ戻ったのよ。そうしたら、おかみさんが消えているんですもの。迎えてくれる人、だれもいないんですもの。この世に一人になった気がして、お城まで歩いてきたの……」
「気の毒なことをしたね。覆面の男たちは、あたしを脅《おど》していったんだよ。ボゥの手当だと金を握らせて、ただちにここを立ち退き、口をつぐんでいないと殺すと言った。でも、あたしは、あんたたちのほうがもっと心配だったから、素直に立ち去るふりをして隠れていた。そして、ボゥのおいぼれ馬であいつらの馬車を追ったんだ」
フィリエルは簡単に泣きやみ、体を離して彼女を見つめた。
「おかみさん……あの馬車を追っていったの? それで、あの男たちの行方をつきとめたの?」
ホーリーのおかみさんはうなずいた。
「見逃すものかね。あいつらがまる一日走って、トウヒの森にある大きなお館へ乗りつけるところまで、気づかれずについていったよ。その後は、中の様子が何とか知れないかと、塀《へい》の周りをうろうろしていた。行商人《ぎょうしょうにん》のまねをして、裏口に近づいてもみた。男たちは、あそこから一歩も動いていない。同じくルーンもあそこにいるよ」
大きくあえいで、フィリエルは泣き笑いの声をたてた。
「おかみさんって、|嘘《うそ》みたいにすごい。伯爵家にもできないことをしてしまうのね。賢いかあさんヤギみたい。狼のお腹から助け出してくれるの」
おかみさんは顔をしかめた。
「何のことだね、それは」
「ルーンは生きているんでしょう?」
「屋敷から死体は出てこなかったよ。それに、早急によそへ移る様子でもなさそうだ。それを見極《み きわ》めたもので、ルアルゴーの伯爵様におすがりしようと戻ってきたんだよ。ところが伯爵様はお留守で、かわりにあんたがここにいるとくる」
言葉を切り、ホーリーのおかみさんはあらためてフィリエルをながめた。
「どうしたんだね、具合が悪かったようじゃないか。よくくるみこんでやるから、もう一度横におなり。卵とお粥は、もう食べさせていただいたかい?」
フィリエルは小声で笑い、目をぬぐった。
「そうね、あたし、それが食べたいってこと、なんだか今になって思い出したみたい。くるみこんでもらわなくても、もう平気よ。おかみさんの顔を見たら、それだけで元気になれたもの」
「それなら、一刻も早く食事を持ってきてもらいましょう」
アデイルがうきうきと言い、セルマに言いつけに出ていった。絶食《ぜっしょく》していた胃にたくさんは入らなかったが、フィリエルは食べることができ、ホーリーのおかみさんに見守られて、ようやく安らかに寝入ったのだった。
ホーリーのおかみさんがもたらした知らせには、ユーシスやペントマンも驚いていた。フィリエルが眠った後で彼女を別室に呼び、大きな地図を広げたテーブルの前にまねいて、目撃《もくげき》した館を特定《とくてい》しようとした。
おかみさんは地図の見方などいっこうに知らなかったので、聞き出すには手間取ったが、時間をかけて同定《どうてい》していくと、それはルアルゴーを南に抜け、ドリンカムに入った場所だということがわかった。ドリンカムは山脈の並びにある、数ある王領の一つだ。湖と森がその大部分を占め、領民は少ないが風光《ふうこう》明媚《めいび 》な土地柄だった。その中でも人里離れ、山際に隠れるように立つ館ならば、要人の建てた別荘と見るべきだった。
やがて、ここしかないという結論に達したポイントを見つめ、ユーシスは眉をひそめた。
「まずいな。ここなら報告になくはなかった。決め手がないので、さらに指示を出せなかったんだが。シリル・サンドという人物が、リイズ公爵から下賜《かし》された山荘だ」
ペントマンが、鋭い目つきで地図から顔を上げた。
「リイズ公とおっしやいますと、アデイル様の叔父君でいらっしゃいますな」
「だから、まずいなと言っただろう」
ユーシスは親指を噛み、つぶやいた。
「ある意味、チェバイアットよりも始末が悪いぞ。われわれは、むやみに藪《やぶ》をつつくまねをしでかしているのかもしれない」
「うかつに動けないって、それ、どういうこと?」
フィリエルは叫んだ。彼女はまだ寝台に食事を運んでもらっていたが、全部たいらげることができたし、顔色もどんどんよくなってきていた。ホーリーのおかみさんからユーシスたちの様子を聞くと、じっとしていられなくなってお盆《ぼん》を押しやった。
「もう、居どころまでわかっているのよ。おかみさんが苦労してつきとめてくれたのよ。どうしてロウランド家ほど力も権威もある人たちが、どうどう中にふみこんで、悪い男たちをやっつけてしまえないの?」
「貴族様には、貴族様の化かしあいがあるんだよ」
ホーリーのおかみさんはため息を一つつくと、彼らの言っていたことを、自分流に翻訳《ほんやく》してみせた。
「いいかい、フィリエル。ああいうかたがたは、華やかなパーティだけで暮らしているわけではないんだよ。人々が憧れてやまない表の顔の陰には、女神のみ知りたまう、裏の顔をもってらっしやる。そしてそちらの顔には、お互いに触れずにすませる暗黙《あんもく》の了解があるんだ。たいていやましいところをかかえているからね。けんか沙汰《ざた》になっては、双方に大きな力があるだけに、大変なことになってしまうんだよ」
言わんとすることに気づいて、フィリエルは目を見張った。
「それってつまり、ルーンをさらった男たちは、どこかの貴族様が後ろで糸を引いているということ?」
「……ことによるとね。だから、不用意に手を出せないとおっしゃるんだよ」
「そんなの、おかしい」
フィリエルは言い切った。琥珀《こ はく》の瞳に怒りがきらめいた。
「嘘つきよ、なんとかすると言ったくせに。人の命よりも体面を気にするの。それが公家のやり方なの。ルーンが危ないということ、だれも気づかってくれない。人を人とも思わないのなら、あの男たちとどこも変わりはないのに」
苛立《いらだ 》ちに爪を噛み、しばらく考えていたフィリエルだが、やがて頭をふりたてた。
「あたしがしっかりしなくてはいけなかったんだわ。なんて意気地なしだったんだろう、だれかをたよることしか考えなかったなんて。もともと、このあたしがルーンを助けに行かなくてはならなかったのに」
ホーリーのおかみさんの手をつかみ、フィリエルは目をすえて言った。
「手伝ってくれるでしょう。その館の場所も行き方も、おかみさんなら知っているんですもの。自分たちでルーンを救い出しましょう。わかるの、もう一刻も猶予《ゆうよ 》ならないことが。あたしたちにはロウランド家の体面はないもの、どこへだって乗りこんで、大事なものを奪い返すことができるわ」
「何があってもルーンを取り戻すと、あんたはそう言うんだね」
フィリエルが強くうなずくと、おかみさんはためらいがちに言い出した。
「あの子のことは、あたしだって心配だよ。ずっとめんどうを見てきた子だ。ルーンの偏屈《へんくつ》なところも、無愛想なところも、まとめてかわいいと思っているよ。あの子は生き下手《べた》だ……もっとも、博士とうちの人しか見習う男が周りにいなくては、そうなるしか他にないがね。だけどフィリエル、あたしはあんたほど言い切れない。本当に危険なんだよ。結局あたしは、ルーンとあんたを二人とも失ってしまうかもしれない。その恐ろしさを思うと、あんただけでも残ったほうがましだと考えてしまうんだよ」
「違うわ、おかみさん」
フィリエルは口をはさもうとしたが、ホーリーのおかみさんはすばやく続けた。
「ここにいれば、あんたは何不自由なく暮らせるじゃないか。あたしは考えずにいられなかったよ……これが、王女の娘に生まれついたあんたに、本当なら約束されていた暮らしだったのだと。あたしらなんかのところで、ひどく貧しい思いをさせてきたが、ふさわしくないことだった。それと同じに、異端の責めを負う研究者とかかわることは、あんたにふさわしくないことなんだよ」
フィリエルは鋭くたずねた。
「それを言ったのは、ユーシス? それとも他のだれかなの」
「だれが言っても関係ない、良識のある意見だよ」
「大まちがいよ」
息を吸いこみ、フィリエルは真剣に言った。
「あたしが贅沢したいと思っていると、おかみさんは本気で考えるの? もちろん、ちょっとは憧れたわ。どんなものかかいまみたくて、舞踏会へ行きたいとねだったわ。でも、贅沢なお料理がのどを通らなくなったとき、よくわかったの。どんなにすばらしい生活も、結局砂を噛むようなものだって――大切なものをなくして手に入れたのであれば」
「セラフィールドには何もなかったよ」
ホーリーのおかみさんはつぶやいた。
「天文台があったわ。そして研究が」
フィリエルは声を強めた。
「あたしは母の娘である以上に、父の娘よ。ううん、おかあさんは名を捨てて博士をとったのだから、どちらでも同じことだわ。あたしにふさわしくないだなんて、どうして言えるの。博士の研究が異端なら、そのことは、切り離すことのできないあたしの一部なのよ。ルーンもそう、ルーンがいなくては、あたしは今日まで何をしてきたのかわからなくなる」
一語一語、相手にも自分にも言い開かせるように、フィリエルは言った。
「博士があたしに、何も継がせようとしなかったことは、あまり関係がないの。ルーンがいるからよ。彼、博士といっしょに行ってしまわなかったのは、あたしのためだと言ったの。それなら、ルーンが異端の責めを受けるというのに、あたしが忘れるわけにはいかない。とうていできないことよ」
驚いたようにホーリーのおかみさんはたずねた。
「それじゃ、あんたは今でも考えているのかい。ルーンを助け出して、彼をつれて国外へ逃げようと。途方もなくつらい暮らしになるよ。せっかく手に入れた安楽さを捨てて、そんなことができるのかい?」
フィリエルは彼女の手を揺さぶった。
「いやね、おかみさん。高地で生まれたあたしには、お城の暮らしこそ柄《がら》じゃないのよ。あたしたち、貧乏でへこたれたりしないでしょう。国外に出て、それで自由になれるなら、なんとかやっていけるわよ。とにかく、ルーンを取り戻すのが先決。お願い、力を貸してくれるでしょう」
「かなわないね」
おかみさんは首をふった。
「あんたは、ときどきルーンよりも言い出したらきかなくなるってこと、自分で気がついてるかい」
「いいから、つれて行ってくれるでしょう」
「わかったよ。他にどうしようもない」
ついに彼女は折れた。フィリエルはさっとほほえんだ。
「大好き、おかみさん」
そのときだった。扉がきしむ音に、二人はぎくりとして顔を向けた。隙間から現れたのは、アデイルのすまなそうな顔だった。彼女は目を伏せて中に入り、あやまった。
「ごめんなさい。入ってこれなくて……扉の外で、つい、お話を耳にしてしまいました」
フィリエルたちは顔を見合わせ、まずいということを認めた。だが、フィリエルは気をとりなおし、枕の下に手を入れて、王家の首飾りを取り出した。
「この首飾り、やっぱりお嬢様にお返しします。自分で女王陛下にお返しする日は、たぶん来ないと思いますから。あたしがいたことは、あなたも陛下も忘れてくださってかまわないんです。あたしにも、やっとそのことがわかりました」
アデイルは、悲しげな瞳で青い宝石を見つめた。
「行っておしまいになるの。母君から受け継がれたものを、父君がなさったことのために、かえりみないおつもりなの?」
フィリエルは少しためらったが、進み出てペンダントを彼女に握らせた。
「父と母のどちらが重要とか、そういうふうに比べることはできません。あたしの母は、ものごころついたときにはお墓に入っていて、顔も覚えてはいません。父はあたしを、ついこのあいだ捨てて行ったばかりです。だけどルーンは、今このときもあたしの助けを必要としているんです」
アデイルは泣きそうな顔でくちびるを噛んだ。フィリエルは急いで言った。
「あたしも、自分が何を捨てているのか、よくわかっていないのかも。でも、たぶん後悔はしません。お嬢様も、どうか悲しまないで。あたしの育った場所は、こことあまりに違うんです。大切にしなければならないものも違う。あたしは、夜な夜な星を見上げる人たちと暮らしてきました。そして、今のルーンには、あたしの他にわかってあげられる人はいないんです」
「わたくし……」
アデイルはかぼそい声でつぶやき、やがて堰《せき》を切ったように言い出した。
「わたくしには、女王家の血よりも大切なものなど、人を含めて、今まで一つもありませんでした。生まれたその日からずっと、とりまく世界は王女の娘だということを中心に回っていました。わたくしもあなたと同じに、ものごころつく前に生みの母と別れています。ずいぶん後になって対面したけれど、実感は少しもわきませんでした。ただ、ロウランド家でどんなに大事にされ、かわいがっていただいても、わたくし自身のためではないのだと、ときどき思わないではいられませんでした。でも、わたくしの価値はそこにしかないのですもの。それ以上のものなど、もともとありはしないんですもの……」
声に苦々しさがにじんでいた。フィリエルは、すべてに恵まれていると思った令嬢が、そのように語ることに驚いた。
「わたくしにも、この血より大事に思えるものがあればよかったのに。そういう人がいればよかったのに。今まで、空想はずいぶんしたのですけれど、現実には、何も起こらずにきてしまったんです……わたくしがこれまですごしたのは、隔絶《かくぜつ》された女学校でしたし」
胸元で首飾りを握りしめ、アデイルはけんめいな面もちでフィリエルを見つめた。
「わたくしを、救出のお仲間に加えていただけないでしょうか。剣も使えなければ乗馬もうまくできませんが、自分のことは多少わきまえているつもりです。あなたの体、まだまだ本調子ではないのに、それでも助けに行くつもりなんですもの。このわたくしだって、いっしょに行けば何かしらお手伝いができますわ」
「とんでもない!」
声を発したのはおかみさんのほうが早かった。
「人の肝《きも》を縮《ちぢ》ませることをおっしゃらないでください。この子一人のめんどうさえ見切れずにいるというのに、お嬢様がいらしてどうなるんです。失礼なことを言うようですが、勇気と軽はずみとは意味が違いますよ。空想なさったことと混同してはいけません」
アデイルはくじけずに反論した。
「あら、わたくし、空想と現実を混同するタイプではありません。空想は空想としてとっておくからこそ、すばらしいんですもの。自分自身には、少しも幻想《げんそう》はございません。ただ、フィリエルの現実はわたくしの空想なのだと、わたくしが理解したことを申し上げただけです。そして、なんとしてでもお助けしたくなったということを。だから、申し出は現実的な立場からですわ。わたくしがいるほうが、成功率が増すと思うからこそです」
ホーリーのおかみさんは、口のたつ令嬢にへきえきした様子だったが、最後の一言には顔をひきしめた。
「成功できると、お嬢様はそう考えていらっしゃるのですか。思うところがおありなのですか?」
考え探げな表情になって、アデイルは言った。
「わたくしが、危険を知りもせずに口走っているとお思いにならないでくださいね。むしろ、あなたがた以上に、不都合な結果のあれこれを見通すことができます。それでも、わたくしたちが大胆《だいたん》にふるまえば、やりようはあるはずです」
フィリエルはついたずねた。
「どうすればルーンを教えます?」
「仲間にしてくださるのね?」
アデイルはうれしそうに聞き返した。フィリエルもおかみさんと同じく、とんでもないことだと考えてはいたが、反対する時機を逸《いっ》したことに気がついた。
言葉をにごしてフィリエルは答えた。
「お嬢様を巻きこむのは、よくないことだと思うんですけど……でも、そうおっしやってくださったことは、すごくありがたいと思っているんです」
「よかった」
晴れやかなほほえみが、アデイルの顔に広がった。もうすべて決定と言わんばかりだった。彼女は真顔にもどると、声をひそめてささやいた。
「ロウランド家の上部の者にわからないように、馬車と荷物と着替えとを用意させます。わたくしたちが出かけることを知れば、みんな騒ぐでしょうから、夜中にこっそり抜け出すほうが賢明です。目的の館に近づくなら、馬車は粗末なものがいいでしょう。ホーリーさんがなさったように、何かの扮装《ふんそう》をするべきでしょうね。わたくしたちの強みは、敵の館の人々に、とるにたらない者たちだと思わせられることですもの。実際、腕力も何もありませんし。でも、知恵を働かせることはできます。怪しまれずに、下働きのふりをしてもぐりこむことだって可能です」
フィリエルは、令嬢をまじまじと見返した。
「あの……計画はとてもよくわかりますが、あたしたちはともかく、お嬢様には無理があるのでは。下働きのことなど、何一つご存じではないでしょう」
「そんなことはありません」
アデイルは胸をはった。
「わたくし、女学校では演劇と文芸のスターでしたの。扮装するのも他のものになりきるのも、こう見えて、ずいぶん修練を積んでいますのよ」
フィリエルもホーリーのおかみさんも、領主館の暮らしにはうとかったので、アデイルが協力してくれなければ、敷地から抜け出すことさえかなわなかったことを、じきに思い知ることになった。
よく考えれば当然だが、多数の人間がひきもきらずに出入りしているように見えながら、広大な城の警備は意外と堅固《けんご 》なのだった。主《あるじ》の許可なく出ていくことは、不審者の侵入とともに許されないことだった。アデイルが提案したように、夜勤《や きん》の兵の交代時間を正確に知り、ねらいすまして通りすぎることなど、二人だけではとうていできない芸当だ。
アデイルは、使用人が農場へかようのに使う、簡素な荷台のある馬車をこっそり拝借することも、そこに食料や着替えを準備しておくことも、全部一人でやってのけた。フィリエルたちは月明かりをたよりに、しのんで使用人の通用門へと出ていくだけでよかった。
「でも、手綱はとっていただけますね?」
声をひそめながら、アデイルはいくぶん心配そうにたずねた。
「それだけはわたくし、自信がないんです」
「まかせておきなさい」
ホーリーのおかみさんが請《う》け合い、御者席に乗りこんで馬に鞭《むち》をあてた。三人を乗せた馬車は、月影の導く夜のしじまへと乗り出した。
街道をひたすら南へ下るうちに、その夜は明けた。白々と明け染めた東のかたに、連綿《れんめん》と続く山脈の尾根が青く浮かび上がる。やがてその背後からまばゆい太陽が昇り、疲れて痛むフィリエルたちの目を、冴えた光で貫いた。フィリエルは、それが希望の光だと信じようとした。
(きっと、きっと助けてみせる……)
本当のことを言えば、フィリエルは体調が戻っていないことを自覚できた。馬車に激しく揺すぶられると、気分が悪くてしかたがなかった。ただ、それを口にする気はなかった。もう、後には引けないのだ。おかみさんもアデイルも、フィリエルの決意がひっぱってきたというのに、弱音を吐いてはいられなかった。
道は徐々に山裾《やますそ》に寄り、いつしか彼女たちは針葉樹の森に分け入っていた。樅《もみ》やトウヒが立ち並び、空を覆い隠す。地上では朽ちた倒木が、湿っぽい苔《こけ》やキノコの温床《おんしょう》になっている。息を吸い込むと、樹木の鋭く冷たい香気がのどを刺した。暗がりに満ち、知り得ないものを奥深く隠し、荒れ野に育ったフィリエルには、どこかの異世界のように思えた。
「もう、だいぶ前からドリンカムに入っているよ。わたしが見つけたお館は、たしかここを突っ切ったところだった」
ホーリーのおかみさんはしばし馬車を止め、馬と自分たちのために休息を入れると、暗い木立のあいだに続く小径《こ みち》を示した。
「そろそろ用心したほうがいいよ。二人とも、覚悟はいいね」
「進めてください。用意は万端ですわ」
アデイルが答えた。彼女は、休憩のあいだに変身していた。粗末な古着に着替え、顔や手には茶色い軟膏《なんこう》のようなものをすりこんで、持ち前のきめ細かな白い肌を薄汚れたものに見せている。髪もわざとだらしなくまとめ、農婦のような被《かぶ》りものに押しこんだ。このアデイルを見てロウランド家の令嬢だと名指せる人は、よほどの眼力をもっていなくてはならないだろう。
フィリエルのまなざしに気づき、アデイルはにっこりした。
「前に舞台で、おつむの弱い女中を演じたことがあります。今回のはその応用です。ちょっとくらい変なことをしても、怪しまれずにすみますもの」
「ここまでは助けていただきましたけれど、お嬢様には、やっぱり危険が大きすぎます。館の中へは、あたしとおかみさんが行きます。ルーンを助け出すのは、あたしたちの責任ですから」
フィリエルが言い出すと、アデイルは指摘した。
「重要な点を見落としていますわよ。あなたの顔は、相手にすでに知られているということ。館に入ってごらんなさい、何をする暇もなく捕まってしまうわ」
反論できずにいるフィリエルに、令嬢はやさしく言った。
「わたくしのことを信用して。ホーリー夫人には来ていただいたほうがいいけれど、フィリエルは外にいて、いつでも馬車を出せるように待機していてください。そのほうが無難です」
「あたしだけ、安全に居座ってなんかいられません」
「青い顔をしているくせに、何を言っているの。これが一番適切な配置よ。それがわからないほど、あなたは無謀な人だったの?」
フィリエルはちょっぴりくやしく言い返した。
「あたしたちのしていること、初めから無謀ですもの」
「本当にそうね」
アデイルは楽しいことのように笑った。
「ばかなことをするのって、高揚してすがすがしい気分になるものね。わたくし、今まであまり知らなかったけれど、病《や》みつきになるかもしれません」
しぶしぶながら、フィリエルは気がついた。彼女は、自分よりはるかに多くのことを考慮に入れている。年よりあどけない顔立ちや無邪気な態度の陰に、老成《ろうせい》したといっていいほど達観した一面をもっているのだ。アデイルは決しておろかではない。美しいガウンを日々にまとい、ちやほやされているだけの少女ではないのだ。
(彼女にまかせていいのかもしれない……)
初めてフィリエルはそう思った。
木立の向こうが少し開け、目指す館が初めて姿を現した。それは、飛燕城《ひえんじょう》とは比較にならない小ささだったが、それでもどっしりと構えた灰色の館だった。
壁の角には石を積み、六角の塔と平らな家屋とが非対称に並んでいる。意匠《いしょう》をこらしているのだろうが、どうも醜《みにく》い。半面には蔦《つた》が這いあがり、しっくいのあちこちにひび割れが目立ち、鎧戸《よろいど》の塗りははげていた。荒れ果てた気配が濃厚な館だ。暗い針葉樹の森に囲まれ、陰気なことこの上もなかった。
「こんなところ、避暑《ひ しょ》に来ないかと言われても、ご遠慮申しあげますわね」
アデイルが感想をつぶやいた。フィリエルは馬車から身をのりだして見たが、高い塀にさえぎられ、屋根窓は暗く、ほとんど鎧戸がおろしてあって、中の様子はうかがえなかった。
「さて、あまり近づきすぎてもいけない。どのあたりに馬車をおこうかね……」
ホーリーのおかみさんが言ったときだった。脇の木立からふいにわいたように、馬に乗った男が三人現れた。ふちのある黒の帽子を被り、長いマントをはおり、覆面をしている。それを見てとるや、フィリエルは御者席の背にしがみついた。
「馬車を走らせて。あちらを見てはだめ。あの男たちよ」
おかみさんはすぐにのみこんで、見かけはのんびりと馬車を走らせた。館をずっと行き過ぎ、ごまかせたと思ってフィリエルがふりかえると、男たちは後を追ってきていた。
「おかみさん!」
ホーリーのおかみさんはあわてて馬に鞭を当てたが、どれほど急いでも、単騎《たんき 》で乗りつける馬を振り切れはしない。見る見るうちに彼らは追いつき、馬車と並行して走っていたかと思うと、やにわに馬車馬に手を伸ばし、止めにかかった。
おかみさんは鞭を振り回したが、馬は足をゆるめた。彼女が一声叫ぶと同時に、ガタンと馬車が止まった。
「お逃げ! あんたたち」
前に起きたことの再現のような気がして、フィリエルは息をのんだが、それでもすばやく馬車を飛び降りた。ふりむくと、アデイルがよろめきながらフィリエルを追ってきた。
「アデイル、早く。こっち」
腕を伸ばし、彼女の手をつかむと、フィリエルはひっぱるようにして駆け出した。足場が悪いのはたしかだが、アデイルは走っているように見えなかったのだ。表情からは、本人が必死だとわかるのだが。
男の一人が、馬を降りて少女たちを追いかけてきた。ふだんのフィリエルなら、敏捷《びんしょう》さで負かせたかもしれなかったが、今は体力が続かなかった。そしてアデイルは、ころばずにいるのが精一杯だった。たちまち背後に足音がせまる。
アデイルが悲鳴をあげた。ついに後ろの男に追いつかれ、髪をつかまれたのだ。フィリエルは彼女の手を離すまいとし、男に打ってかかったが、アデイルをもぎ取られるのは簡単だった。まるで人形を抱き上げるように、大きな男は軽々とアデイルを抱きかかえた。
「その子に何をするの」
フィリエルは手を伸ばして叫んだ。宙にかかえ上げられたアデイルは、ショックに固まって声も出せず、本物の人形みたいだった。フィリエルはなおもアデイルにしがみつこうとしたが、後ろにもう一人の男が現れ、もぎ離した。腹を立てて暴れ、かかとで蹴りつけてみたが、効果はなかった。
目の前が真っ暗になる思いだった。令嬢までが冷酷な男たちの毒牙にかかってしまう。それは自分のせいなのだ。フィリエルはしばらく足をばたつかせていたが、逃げることはかなわず、二人の少女を捕らえた男たちは、肩にかかえ上げて木立の中を歩きはじめた。
ほどなく木立がとぎれたので、道まで戻ったのかと思ったが、そうではなかった。森の中の空き地らしいところで、少女たちは地面に降ろされた。だが、あたりを一目見回せば、逃げ出す余地がどこにもないことはわかった。覆面の男たちがそこに集まっており、七、八人が半円を作って立っていた。
一方にはホーリーのおかみさんの姿も見えた。いくら腕力のある男たちでも、ホーリーのおかみさんをかかえては来なかっただろう。おかみさんの両脇にぴったりと二人の男がつき、彼女は仏頂面をしていたが、傷つけられたりはしていないようだった。
フィリエルは、降ろされた場所に座り込んだアデイルに寄り添った。
「大丈夫だった? けがはなかった?」
アデイルは大きな目をしてフィリエルを見上げ、こくりとうなずいた。
「わたくし、口をきかないほうがいいようです。あなたもできるだけ黙っていて……」
「何が、黙っていてだ」
中央に立っていた男が口を開いた。それはまったく、衝撃的と言っていいほど聞き覚えのある声だったので、フィリエルとアデイルは凍りついた。少女たちの前で、彼は苛立たしげに覆面をとった。ふちのある帽子で赤毛は隠されていたものの、はしばみ色の瞳は見まちがえようもなかった。
「人を怒らせるにもほどがあるぞ、アデイル」
「まあ」
アデイルは音をたてて息を吸い込んだ。
「悪漢の正体はお兄様だったの?」
「とぼけたことを言うんじゃない。われわれが相手に気づかれないように包囲し、侵入する潮時をうかがっていたというのに、君は、すんでのところで仝部ぶち壊すところだったんだぞ。どういう了見でここへ来た。答えてもらおう、アデイル・ロウランド」
伯爵家の若君は、単に姿を現したのではなく、湯気をたてるほど頭にきて姿を現したようだった。フィリエルはあっけにとられ、目の前のユーシスがまだ信じられなかったが、アデイルはたちまち落ち着きを取り戻したようで、すまして立ち上がった。
「どうしてもとおっしゃるならお答えしますわ。わたくし、フィリエルの信頼が欲しかったんです。このままでは、ロウランド家を信用してもらう見込みがなさそうでしたから。わたくしは違うのだということを――体をはって危険に飛びこめるのだということを、彼女に見てほしかったんです」
「それだけ? たったそれだけのために、ロウランド家の威信全部と、君の身柄とを賭ける気だったのか」
ユーシスは、開いた口がふさがらないようにたずねた。アデイルはまだ緊張していたものの、口元には微笑を浮かべた。
「賭けただけのかいはありました。フィリエルが、わたくしをアデイルと呼んでくれましたもの。それを得たことに比べれば、だいそれた賭けをしたとは思っていません。わたくしが何をしても、どのみち、お兄様がそんなふうに血相を変えて、助けにきてくださるだろうと思っていましたもの」
ユーシスは怒りのやり場のない様子で、手を握りしめたり開いたりした。
「とんでもないお姫様だ。もっと長いこと修道院へ閉じこめておくべきだった。どれほど危険に身をさらしたか、一歩まちがえればどういうことになっていたか、少しもわかっていないじゃないか。君がそんなふうでは、だれに騎士などつとまるんだ」
「いいえ、わかっているつもりです。でも、お父様だって前におっしゃっていたわ。ある程度危険を覚悟しなければ、大事なものを獲得することはできないと。それを忠実に実行してみただけです」
「君は、ばかな小娘でおまけに自分勝手だ。たとえ女王になる日がきたって、今日のことはいつまでもそう言ってやるぞ」
「どうぞお好きに、ユーシス・ロウランド。わたくしは決して後悔いたしません。フィリエルだって同じよ。なおりきらない体をおして、博士の弟子を救おうとしたこと、後悔しないと言っています」
ユーシスはフィリエルに目を向けた。フィリエルはというと、今はむしろ感心して二人のやりとりを見守っていた。伯爵家の兄妹であっても、時には自分たちと同じく、遠慮のない口げんかをするのだ。
だが、見物している場合ではなかった。怒りを倍増させたユーシスは、フィリエルを小さな子どものように叱りとばした。
「君こそ大ばかだ。そんな体で何ができると思ったんだ。ロウランドに救援をたのんでおきながら、ひるがえしてその態度はどういうわけだ。いったいわたしを何だと思っている」
フィリエルは首をすくめ、耳の痛さに耐えた。
「すみません……」
「簡単に動けない理由くらい聞いているのだろう。それでも、力を尽くすと君には言ったはずだ。一度口にしたことを、わたしは絶対に曲げはしない。君がじたばたしなくても、博士の弟子は奪い返してみせる。わたしを信じられないのか」
おそるおそる目を上げると、ユーシスは形のよい眉を寄せ、フィリエルの不信を心の底からなじっていた。ふいに、フィリエルは彼に対してすまない気持ちになった。自分に伯爵家の若君を傷つけることができるなどとは、思ってもみなかったのだ。
「もう一度言う。わたしを信じろ」
「……はい」
フィリエルはおとなしく答えた。圧倒された気分だった。ユーシスはにらむのをやめ、ふりむくと、ホーリーのおかみさんに目をとめた。
「君は、まだしも三人のなかではものわかりがよさそうだ。無分別な女性たちが、どれほど救出のさしさわりになるか、君なら理解できるだろう。馬車にこの子たちを乗せて、来た道を引き返してくれ。早ければ早いほど恩に着る」
おかみさんがためらったのはほんの一瞬で、すぐに彼女はうなずいた。
「仰《おお》せに従いましょう。若君がルーンを取り戻してくださるなら、それにかなうものはありません。後のことはおまかせします。朗報《ろうほう》を心からお待ち申し上げます」
きっぱりそう言われてしまっては、後の二人も文句をはさめなかった。心残りがなくもなかったが、おかみさんとともに馬車に乗りこんだ。
彼女たちが本当に去ったと得心がいくまで、ユーシスは気を抜こうとしなかった。馬車が消えるのをしっかり見届け、ようやく覆面をつけなおしたユーシスに、かたわらにいた男が話しかけた。
「なんともいじらしい、元気のいい、目の喜びとなる御婦人がたでしたな。愉快な闖入《ちんにゅう》をしてくださったおかげで、思いもかけぬ余得《よ とく》がありました」
胸板の厚いたくましい男だが、覆面の陰で、色の薄い瞳はおもしろそうに踊っている。彼を見やり、ユーシスは疲れた声で答えた。
「ガーラント、気に入ったのなら、いつでもお守りの役を譲ってやるぞ。わたしの手にはあまるような気がする」
「喜んでと言いたいところですが、自分も職能《しょくのう》は心得ていますのでね」
彼は小声で笑った。
「悪漢の城から救出するのは、できることなら美姫《びき》であってほしい。それが戦士の人情で、今一つのらなかったのですが、今の一幕で、間接的にはそうだと心得ましたよ。この手で抱いた乙女のために、今後は奮《ふる》い立ってことを進めましょう」
「そうしてくれ」
ユーシスは、とにかく隊長が機嫌をよくしたことだけはわかり、ほっとして言った。どんなに有能な部隊でも、意欲があるとないとでは雲泥《うんでい》の差で、その意欲をかきたてることこそ『指し手』の才覚だと教えられているのだ。
「このとおり、名誉ある戦いはできない情況だが、失敗の許されないきわどい勝負だ。こちらの正体がわからないうちにすばやく叩いて、しかも虜《とりこ》を確保しなければならない」
ユーシスの言葉に、ガーラントは楽しげに答えた。
「奇襲は好みの攻撃形態です。防御《ぼうぎょ》に回るよりは、はるかに性《しょう》に合う」
ガーラントの部下の報告を検討し、ユーシスは、館に踏みこむ時刻を夜明けに定めた。闇に乗じるよりもむしろ、明けてからのほうがふいを突けると判断したのだ。黒装束は隠れみのにならなくなるが、暗がりで同士討ちの危険をおかすよりはいい。
「裏手から四名、西壁から三名、外堀の見張りに二名。わたしとガーラントと後一名が正面玄関を突破する。配置はそれでいいな」
地面に見取り図を描き、ユーシスが計画を説明すると、ガーラントは鼻のわきをかいた。
「中央突破にはふつう、トップがついてはこないものです」
「後ろで指をくわえていろというのか」
「指揮官は、全体を見渡せる場所におられたほうが」
隊長は控え目に提案したが、ユーシスはきかん気そうにくちびるを引いた。
「剣をふるう立場に立てもしないのだったら、今までさんざん学んできたことの意味がないじゃないか」
ガーラントは肩をすくめた。
「まあ、いいでしょう。腕に自信がおありだとおっしゃるなら」
腰に下げた剣をたたいて、ユーシスは言った。
「君たちには飯の種かもしれないが、わたしとて、今日まで遊びでやってきたわけじゃない。証明してやるよ」
「お若いですな」
「言ってろ」
そんな調子ではあったが、ガーラントの部下たちは慣れた様子で付近の森になりをひそめ、夜明けを待った。暮れればまだ冷え込み、わずかな糧食《りょうしょく》をとるばかりでひそむことは辛抱がいったが、ユーシスもまた、不平をもらすことは考えもしなかった。
伯爵家の若君には慣れないことだと、他人が思うのはまちがいだった。山野に寝泊まりすることは、剣や体術を習うと同じくらい、昔から受けた教育の一つだった。ロウランド家では、嫡子をこの方法で|鍛《きた》え上げていたのだ。
そしてユーシスは上達するにしたがい、宮廷の華麗《か れい》な流儀《りゅうぎ》より、こちらのほうに適性のある自分に気づいていた。楽しみを覚えて実践《じっせん》してきたことが、真に実を結ぶ夜明けを、彼はわくわくする思いで待つことができたのだ。
木立の中で曙光《しょこう》は見えないが、やがて、頭上の闇が淡くなるのがわかり、ものの形がぼんやりと際立ってきた。西側にいる一人から、日の出の合図が送られる。彼らはその合図に合わせ、躍《おど》り出て一斉に襲撃を開始した。
玄関の扉には、かんぬきがかかっていなかった。部下の予想通りだった。掛け金はおりていたが、これくらいは、手荒く当たれば打ち壊すことができる。扉を破り、ユーシスたちは中に走りこんだ。
部屋を飛び出してきた下働きの男たちは、ろくに服も着ず、寝ぼけまなこのようだった。彼らは黒|覆面《ふくめん》を見て目をむいた。わけもわからず抜き身を突きつけられ、両手を上げる。一発ずつ殴りつけてさらに奥へ進むと、今少し準備を整え、刃物で向かってくる男たちがいた。
ユーシスは身軽に飛びすさって攻撃をかわした。試合ではないとわかっていたが、相手の顔に浮かぶ|焦燥《しょうそう》を見て、のんでかかる碓信がもてた。教本どおりの返し技で突き、剣をくりだす。もう一歩踏みだせば、男の胸を貫くこともできた。
「ま、待て」
男は武器を落として後ずさり、尻餅をつき、さらに後ずさった。
「ね、ね、ねらいは何だ」
剣を相手の喉元に突きつけながら、ユーシスは小突かれたように気がついた。この上なく楽しんでいる自分がいたのだ。覆面が人に何をもたらすか、ユーシスは初めてわかったような気がした。顔をなくすことは密かな解放を意味するのだ。
(なるほど覆面とは、犯罪者が被《かぶ》るしろものだな……)
その|卑怯《ひきょう》さに気づいたことで、いくぶん頭が冷えた。切っ先を男のあごの下で止め、低い声でたずねる。
「死にたくなければ答えろ。セラフィールドから連れてきた少年をどこへやった」
ユーシスが一瞬本気で男を切り刻みたいと思ったことは、相手に伝わるものらしかった。男は冷や汗びっしょりで、うつろな声を出した。
「……塔、塔の部屋にいる」
裏口から侵入した部下たちが、廊下を走り抜けてきて合流した。彼らに降参した男たちを捕縛《ほ ばく》させ、ユーシスたちは建物の角でつながっている塔へと急いだ。陰気な両開きの扉に鍵はかかっておらず、なだれこんだところは、天井の高い六角の広間だ。
人の姿は見あたらなかった。広間はがらんとして、すりきれた敷物と小物しかない。正面の暖炉《だんろ 》は火を入れた形跡がないが、大きくりっぱな造りで、何もない部屋にいくぶんの威厳を与えていた。上には木彫りのレリーフがかかげてある。そのレリーフの意匠は、真っ直ぐな杖《つえ》に装飾的にからんだ一対の蛇だった。
ユーシスは陰鬱《いんうつ》な目で蛇をながめた。フィリエルの口から蛇のマークと聞いて、うすうす察したことだった。
(ヘルメス・トリスメギストス……)
それはあってはならない名前、記憶してはならない知識だった。その秘密結社の全容は、いまだに明らかにされていない。沈黙の誓いをもって同志を縛り、忌まわしい教義をもつ集団としか、ユーシスも知らなかった。ヘルメス・トリスメギストスを名のる首謀者の正体は、一切の追及をかわして不明のままだ。
ユーシスが知っているのは、女王陛下が、いつになく厳しい態度でこの組織の撲滅《ぼくめつ》を宣言したことだった。信仰や宗教にはそれなりに寛容《かんよう》なグラール女王だが、ヘルメス一派の行いには、女王を心底|激怒《げきど 》させるものがあったらしい。今でもその名を聞くだけで、陛下は顔色を変えられるという。
(そのヘルメス党に、ご子息であられるリイズ公爵がかかわっているとなると、ものごとはいっそう込み入ってくるな……)
ユーシスは思ったが、あらたな展開だと思うのは自分だけかもしれないと考えなおした。女王陛下が――陛下ばかりでなく父の伯爵もだが――どれだけ知り得た上でくちびるに言葉をのせるのか、若輩《じゃくはい》にはわかりかねるところがあったのだ。
ガーラントたちが階段を駆け下りてきて、ユーシスは我に返った。彼らは塔の階上を調べに行ったのだ。
「いたか?」
「だめです。もぬけのからだ。われわれが押さえたのは、どうやら雑魚《ざこ》ばかりだったようですな」
ガーラントは淡々と言った。
「上から見るとよくわかります。この裏窓の直線上には湖があり、船着き場がある。おそらく脱出専用の通路があるのでしょう。たぶん、地下にでも」
ユーシスが目をまるくしている間に、ガーラントは暖炉に歩み寄り、中をのぞきこんだ。それから考え深げに頭を起こし、煤《すす》けた奥の壁を力をこめて一蹴りした。
それは煉瓦《れんが 》の壁ではなかった。板がはずれ、うつろに開いた口のような黒い穴が現れた。かび臭い空気が下から吹き上げてくる。のぞきこめば、地下へ通じる梯子段《はしご だん》がはっきり見えた。
「なんてことだ。追いかけなくては」
ユーシスが入りこもうとすると、隊長がやんわり引き止めた。
「何もそんなしけた道を通らなくても。行き先はわかっているのだから、さわやかな地上を行ったらいかがです」
「悠長に構えている場合か。やつらに逃げられてしまったんだぞ。わたしは、フィリエルに約束しているんだ」
「逃げられたのではなく、上手に追い立てたと言うべきでしょうな」
とまどい顔のユーシスに、ガーラントは説明した。
「ご心配は無用です。外に待機《たいき 》していた自分の部下は、とっくに湖の手前で待ちかまえています」
「それでは……」
「すでに申し上げたはずですよ。ユーシス殿は、全体を見渡せる場所におられたほうがいいと。そうしていれば、ご自分の手で博士の弟子を救い出すことも、場合によってはできたかもしれませんな」
ユーシスには返事のしようがなかった。はた目にもがっかりした彼の様子を見て、ガーラントは軽く肩をたたいた。
「初陣《ういじん》は、まあ、こんなものでしょう。ロウランドの若君が勇敢であられたことを、認めるにやぶさかではありませんよ」
ユーシスは覆面を脱ぎ捨て、苦々しげに言った。
「結局わたしは、『指し手』でさえなかったんだ。そういうことだろう」
ガーラントは笑ってすませようとしたが、考えなおし、真面目な口調で言った。
「博士の弟子を拉致《らち》した連中は、どんなに残念でも取り逃がさなくてはなりません。今はまだ、リイズ公との間に遺恨《い こん》をつくる危険は冒せないのです。ですが、自分や若君にとって、獲物をわざと逃がす役回りは辛抱《しんぼう》がいりますからな。今回の駒運びは、なかなかうまいものだったと思いますよ」
木立を抜けると景色は広がり、まだ朝霧《あさもや》に覆われた湖が姿を現した。日が斜めに靄を貫《つらぬ》き、ぼんやりと銀に輝いている。湖水は深い碧《あお》で、水底に沈黙を秘め、梢《こずえ》でにぎわう鳥たちの合唱にかすかにたゆたっていた。
人々の狂騒《きょうそう》にはいっこうにかかわりなく、清らかに明けゆく朝の光景だ。ユーシスが見回していると、ガーラントの部下が駆け寄ってきた。
「首尾《しゅび 》はどうだ、アレン」
隊長の鋭い質問に、まだ年若い彼は明るい表情でうなずいた。
「上々です。やつらは馬車で来ましたが、脅してやったら虜《とりこ》を置き去りにして逃げました。なるべく物盗《ものと 》りに見せかけたつもりですが、われわれは根が上品なので、彼らが信じたかどうかはわかりません」
「そりゃ隊長の上品さだ。それで、博士の弟子を無事に手に入れたんだろうな」
若者は、後ろに停まっている二頭立ての馬車を示した。
「あの馬車の中にいますよ。どうです、分捕り品としてはなかなかのものでしょう」
「逃げたやつらはどこへ向かったんだ。行き先の見当は?」
ユーシスが口をはさんだが、アレンは首をすくめた。
「船のことはよくわかりません。湖は入り組んでいますし、岸向こうは隣国ですし。おれたちが頭を悩ますだけ無駄だと思います」
ユーシスはため息をつき、彼らに告げた。
「われわれも一刻も早く引き上げよう。目的はとげたんだ、この場所に長居《ながい 》は無用だ」
逃亡者たちの残した馬車は、館の他のもの同様、手入れは悪いが上等なものだった。古びて金具に錆《さび》が浮き、紋章も取り外してあるが、型としては貴族の乗用にふさわしい。ドアを引き開けたユーシスは、色|褪《あ》せたクッションののる座席に、黒い髪の少年が、奥に縮こまるようにして乗っているのを見出した。
「どうやら無事だったようだな」
彼が生きていることを自分の目で確認し、ユーシスは心からほっとした。フィリエルに見えを切った手前、そうでなくてはならないのだ。博士の弟子は長いマントにくるまっており、顔と足の先しか見えなかった。馬車の造りが大きいせいか、ずいぶん小さく見える。ぐったりと窓枠にもたれていたが、たいぎそうに頭をおこし、顔をこちらに向けた。
どこか別人のような気がしたが、すぐにそのわけがわかった。メガネをかけていなかったのだ。メガネの印象が強すぎて、他はほとんど覚えていなかったユーシスは、思わずまじまじと少年をながめた。
あごのほっそりした、鼻梁《びりょう》の通った顔立ちをしている。|繊細《せんさい》でかんの強そうな造作だが、今はげっそりとして、薄いくちびるに色がなく、ほおも土気《つちけ 》色だった。何日も拘束されて顔色がいいはずもなかったが、もとから青白い少年ではあったようだ。
だが、うろ覚えのユーシスも、灰色をした刺すような瞳には覚えがあった。人を拒絶する、猜疑《さいぎ 》と怒りに満ちた瞳だ。その目の色は、助け出された今も少しも変わらないようだった。
「助けてもらったことが、あまりうれしくなさそうだな」
少々当てのはずれた思いで、ユーシスは言った。この少年に、感きわまってお礼を言ってもらえるとは思わなかったが、迷惑そうに冷たい目でにらまれるとも思ってみなかった。
「助けてもらった? あいつらだって、あんたたちだって、たいして変わりがないじゃないか」
少年は、老人のようにかすれた声を出した。
「ぼくにとっては変わらない……捕まる相手が別になっただけだ」
「ごあいさつだな」
この少年の態度は、初めて会ったときから不愉快だったと、ユーシスはようやく思い出した。領主館でのふるまいは、ぶしつけで|傍若《ぼうじゃく》無人《ぶ じん》で、眉をひそめたくなるものだったのだ。フィリエルが気の毒で、それらをうまく念頭から追いやっていたユーシスだったが、これほど尽力《じんりょく》したあげく、救出した相手に憎まれ口をたたかれては、お人好しでいることはできなかった。
「助けになどきた、わたしがばかを見たのだな。君には彼らのほうが仲間にふさわしいんだろう。わたしは異端を許す気はないし、言わせてもらえば、虫ずが走るほど嫌いなほうだ。この先、君を擁護《ようご 》できるという確信はない。手を出さないほうが親切だったのだろうが、それでもフィリエルのたのみだから、しかたなくやってきたんだ。これから君をアンバー岬へつれて帰るが、わたしが好きでやっていると思うなよ。一目見ないと、フィリエルが承知しないだろうからだ」
ルーンはまるで殴られたような顔をした。もの問いたげな光が目に浮かんだのを見て、ユーシスは続けた。
「フィリエルはロウランド家が預かっている。われわれは彼女を保護したんだ。彼女さえ無事なら、こんなに危ない橋をわたるつもりはなかった。正直なところ、君は|厄介《やっかい》ごとの種となるばかりで、できることならフィリエルに近づける前に、放り出したいところだよ」
ルーンは口をつぐんだまま、何も言い返さなかった。ユーシスはむしゃくしゃする気分を押さえ、ガーラントの部下に馬車を出すように告げると、自分は乗りこんでドアを閉めた。馬車は車輪の具合が悪く、きしんで乗り心地がよくなかった。ユーシスもこの上話しかける気はしなかったので、彼らは互いに顔をそむけ、黙りこくって揺られていた。がたがたとうるさい車輪の音だけが耳につく。しばらく走ったところで、唐突にルーンが口をきった。
「フィリエルに……」
それは聞き取りにくいかすれ声だったので、ユーシスはもう少しで空耳《そらみみ》だと思うところだった。
「……言わないでくれ」
ユーシスは顔をしかめた。何を言うなというのか問いただそうとして、ふりむいた彼は言葉を忘れた。少年の目から大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。息を殺し、しゃくりあげもせずに彼は泣いていた。
驚きがすぎると、ユーシスはきつい声で言った。
「君には頭にくるな。泣いてどうするんだ。それでだれかが同情するとでも思っているのか」
苛立ちはむしろ、当惑させられたことに対してだった。隣の少年に腹を立ててはいたが、彼の泣き顔までは予想してはいなかったのだ。ルーンは恥じるように外を向いたが、その前にユーシスは、濡れそぼった黒い睫毛《まつげ 》から、ふるえる雫《しずく》が落ちていくのを見てしまった。何かとんでもない気がしたが、どうしてかはよくわからなかった。
音もたてなかったルーンが、こらえようがなくなったように、かすかに嗚咽《お えつ》をもらすのが聞こえた。
「博士……博士」
心ならずも、ユーシスの胸に哀れみがしのびよってきた。この少年もフィリエルと同じに、唯一の保護者に置いていかれたばかりなのだということを、おそまきながら思い出したのだ。
(……偉そうな口をたたいたとはいえ、ここにいるのは、わたしよりいくつも年下の少年じゃないか。その彼がけんめいに、意地を張って威《い》嚇《かく》したからといって、むきになるだけ大人げなかったものを……)
ユーシスは具合悪く居ずまいをただしたが、今さら彼への態度をあらためることもできず、ますます居心地の悪くなった馬車の中で、口をつぐんで座り続けていた。
ようやく岬にたどり着き、灰青の館が窓から見えてきた。ユーシスはこれほどやれやれと思ったことはなかった。体じゅうに疲労がこびりついている。早く着替えて風呂を浴び、まともな寝床で眠りたかった。
ルーンは眠っているらしく、道の半ばから、どんなに揺られても揺られるままだった。馬車が車寄せに入り、速度をゆるめたのを機会に、ユーシスは初めて少年に手を伸ばし、目を覚ましてやろうとした。
「着いたぞ、起きろよ」
肩を揺さぶったが、反応がなかった。もう少し強く揺さぶると体が傾き、ユーシスの側へ倒れかかってきた。動転して見つめ、目を閉じたルーンの顔にどれほど血の気がないか、今にして思い知った。それでいて体は熱い。マントを通してでもその熱が伝わってくる。触ってみた手のひらはまるで燃えるようだった。
ユーシスはドアを叩《たた》き開け、まだ停まりきらない馬車から飛び降りた。
「早く医師を。メリングを呼んでくれ」
「どうしました」
ガーラントがすばやく馬を降り、ユーシスに駆け寄った。
「博士の弟子の様子がおかしいんだ。ここまでつれてきて、死なせるわけにはいかない」
ガーラントは馬車をのぞきこみ、ユーシスの言葉を認めた。
「ああ、これはいけないですな……」
彼はつぶやくと、ルーンの体の下に腕を差し入れ、さして苦労もせずに馬車から抱え出した。
「つれていったほうが早いでしょう。自分が運びます」
さっさと歩き出したガーラントを、ユーシスはいくらか呆然として見つめた。ガーラントがこともなげに言うように、ルーンはいくらも体重がないように見えた。ユーシスに反発をおこさせた手強《て ごわ》さをどこへやったのか、ガーラントに抱え上げられ、力なく垂れた首筋も足のすねも、子どものように細い。彼が意識のレベルで必死に保っていたものだけが強かったのだと、今にして知る思いだった。
(わたしはいったい何をしていたんだ……)
ユーシスはくちびるを噛んだ。彼が態度を硬化《こうか 》させなければ、ルーンも容態を訴えることができたはずだ。たとえ訴えなくても、彼の方でその様子に気づくはずだった。
少年が息をひそめ、一言も苦痛をもらさずに泣いていたことを思うと、どうにもいたたまれない気がした。それと同時に、なんという強情さだと思わずにいられなかった。その意地に同情すべきかどうかわからなかったが、いくぶんは敬服できるかもしれなかった。
ユーシスは自室で着替えをすませたが、気持ちが落ち着かず、東翼の廊下で医師を待っていた。少年を運びこんだ部屋からメリングが出てくると、大股に歩み寄ってたずねた。
「どうだったんです、彼の具合は。どこが悪かったんです」
伯爵のおかかえ医師メリングは、桃色の禿頭《とくとう》をし、やや年齢不詳の老人だった。五十代から七十代のどこでもおかしくない。血色はいいが、耳の上に縮れている髪と口髭《くちひげ》は真っ白だ。眉を上げる仕草は皮肉っぽく、周りの人々を、およそ血と肉のつまった皮袋《かわぶくろ》としか見なしていないことを示している。
メリングが、伯爵以外の人間には敬意を払わず、その伯爵にさえしぶしぶしか払わないことは、城内では有名だった。それでもというか、それだからというべきか、優秀な医師であることはだれもが認めていた。
「どうした、ロウランドのひよっこ。ぶきっちょ子馬のユーシス。わしに診《み》させた小僧っ子の何が気になるんだね」
メリングはどなるように言った。医師の口ぶりには小さいころから慣れているので、ユーシスはとやかく言わずにくり返した。
「彼の容態が知りたいんです。熱を出した原因は何だったのですか」
「原因だと。一つ一つはたしかに生命活動を止めるほどのものではない。小さな骨の骨折、切り傷、裂き傷、打ち傷、捻挫《ねんざ 》、そして極めつけの|火傷《や け ど》。まったく傷薬の見本市だ。これだけそろえば、平気でいるほうがおかしいと思うがね」
メリングは、まるでユーシスがやったと思っているようなくってかかった言い方をした。
「……火傷?」
ユーシスが問い返すと、医師の口調はさらに| 憤 《いきどお》ったものになった。
「焼き印《いん》じゃよ。家畜《か ちく》に印をつけるような。人間の皮膚《ひふ》には適したものではない。まだ発育途上の子どもをつかまえて、いったい何をやっとる。傷が治っても、あの跡は一生消えんだろうよ。まったくけしからん、わしの血圧が上がるようなものを担《かつ》ぎこまんでくれ」
ユーシスは、鉛《なまり》をのんだような気分を味わった。ルーンの声がすっかりしわがれ嗄《しわが》れていたことを思い出したのだ。彼はたぶん、声の限りに叫んだのだろう……何度となく悲鳴を上げたのだろう。だが、そこにはだれも現れなかったのだ。
「ぐずぐずしていないで、もっと早くに助け出すんだった……」
口を押さえてユーシスがつぶやくと、医師はぶっきらぼうに同意した。
「そういうことだな。子どもの折檻《せっかん》にしては手が入りすぎている。拷問《ごうもん》だったのか他の目的があったのか、わしの知るところではないが、なぶり殺されずにすんで、まあ幸いだった。あの小僧っ子、若いうちからとんでもないことに足をつっこんでいるようだな」
個室に通されたフィリエルは、寝台をめざして進み出た。ルーンが救出されたと聞いたときは、ホーリーのおかみさんやアデイルと抱き合い、部屋中を踊り回ったが、それから四日が過ぎている。興奮は収まり、今はフィリエルも、いろいろと平静に受けとめられるようになっていた。
そうは言っても、日をさましているルーンを見舞うのは、これが初めてだ。彼はずっと高熱が続き、医師に面会を禁じられるか、見舞っても寝入っているかだった。落ち着いたと聞かされたのは今朝のことで、つまり、本当に彼と再会するのはこれからなのだった。
ルーンは、光沢のある上掛けをあごにまで引きかけ、眉をしかめた顔で、寝台の天蓋が罪深いことをしたとでもいうように見つめていた。フィリエルにその目を向けても、仏頂面を変えもしない。
(あたしが無事だったこと、見て喜ぶくらいのことはしていいのに……)
フィリエルはあきれ、感傷気分がふきとぶのを感じたが、同時にルーンが戻ってきたことを実感した。
眠っている彼というのは、八歳の幼顔《おさながお》のままで、なかなかいとしげに見えるのだ。それを見て涙ぐむことさえできるのだ。だが、やっぱりそれはルーンの本質ではない。無愛想で気がきかなくて、どうしてこんなのにやさしくしようと思ったのだろうと、人に思わせるのがルーンなのである。
「具合はどう?」
フィリエルは声をかけた。ルーンはすぐには答えず、検分《けんぶん》するように少女をながめた。奔放《ほんぽう》な長い髪を細い三つ編みで形よく押さえ、紺地の花模様のたっぷりした服を着て、見るからに品よくおさまった彼女を。その言外の非難を感じとり、フィリエルはルーンが何を言い出すか予測がついた。
「ぼくがいない間に、きみが城の人間になっているとは知らなかったよ」
「そんなことを言っても、しかたないじゃない」
フィリエルは髪をふりたてた。
「あたしがロウランド家にお願いしなかったら、こうして顔を合わせることは、二度となかったかもしれないのよ。その不機嫌な顔、おやめなさいよ。伯爵家のかたがたにどれほどお世話になったか、考えてもごらんなさい。あなたはまさか、自分でどうにかできたと思っているのではないでしょうね。あなたのことだから、まだ、ロウランドの若君にお礼も言っていないんでしょう」
ルーンはますますかたくなに口をひき結んだ。
「あいつなら、きみを保護しているとぼくに言ったよ。きみはもう伯爵家のものだと言わんばかりの口ぶりで」
「あたしがだれのものかは、あたしが決めるわ。ユーシスでなく」
フィリエルはきっぱり言った。
「でも、しばらくはここにいることに異議がないの。だって、腕のいいお医者さんがいるんですもの。少なくとも、あなたがベッドを出られるようになるまでは、ここを動くつもりはないわ」
「たいしたけがじゃないよ」
ルーンは言ったが、ずいぶん小さな声だった。強がりを言ったにしては情けなかった。
「どんな傷なの?」
フィリエルはたずねた。なぜかそれをユーシスにたずねても、医師にたずねても、言葉をにごして教えてくれないのだ。しかし、ルーンの寝台の周りには、それとわかるほど薬草の匂いがたちこめている。たくさんの手当が必要だったことはたしかなのだ。ルーンもまた、フィリエルに答えるのをしぶった。
「だから……たいしたことないよ」
「ちょっと見せてよ」
「やだ」
「見せなさいったら」
「やだ」
ルーンが両手でしがみついている上掛けに、フィリエルは手をかけた。ここが天文台なら、いやおうなしに引きはがすところだ。だが、今は扉付近に陣取っているセルマが、聞こえよがしの咳払いをした。
「フィリエルさん、お見舞いは、常識的な範囲でなさるものですよ」
フィリエルはしぶしぶ手を離した。
「それなら見なくてもいいけれど、あの男たち、いったいあなたに何をしたの? あたしだって知っておきたいわよ。これからのことを考える上でだって、あたしなりに肝に銘《めい》じておくことがあるんだから」
「知らないほうがいいこともあるよ」
ルーンはつぶやいた。憤りをこめ、フィリエルはたずねた。
「はっきりしておきたいの。あいつらは敵なの? それとも、あなたにとって敵はこの伯爵家なの?」
フィリエルから目をそらし、ルーンは曇り空を映し出す窓の外を見やった。しばらくそうしていたが、やがてかすれ気味の声で言い出した。
「あいつらが敵だよ……絶対に許さない。いつかはやつらのしたことを返してやる。一生許せないことを、あいつらはしたんだ」
彼の声音には、口にした言葉以上のものがあった。深みに渦巻くものが一瞬吹き上げたような怒り。フィリエルはささやき声になってたずねた。
「教えて、あいつらは何をしたの?」
「メガネを壊した」
怨《うら》みをこめてルーンは告げた。
「ぼくのメガネを、目の前で、わざと踏み砕いたんだ。このことは絶対に忘れるもんか。生きている限り、やつらに敵対してやる」
思わずフィリエルは困惑した。
「メガネくらい、なくてもどうにかなるじゃないの。命にかかわるものだというならともかく……」
「博士がくれたメガネだったのに。二つとないものだった。あれをもって、いつか博士に出会ったとき、弟子の証《あか》しにするつもりだったんだ」
歯がみして言いはるルーンだった。フィリエルは、わかったと言いなおさなければならなかった。
「どうしてあいつらはそんなことをしたの。あなたが言うことをきかなかったから?」
「博士の研究を、自分たちのものにしようとしてできなかったからだ。当たり前だよ。あんなやつらに口が裂けたって教えるもんか」
気持ちが高ぶったせいで、ルーンは熱がぶりかえしたかもしれなかった。灰色の瞳を異様に光らせて彼は言った。
「知識を手に入れるためには、何をしても許されると思っている連中だ。あいつらは、知識を崇拝《すうはい》するんだ。もちろん少しは、博士だってそうだったかもしれない。でも、博士は知識がもたらす権力を欲しがったりはしなかった。そんなものは度外視《ど がいし 》して、だからこそ、純粋に追究《ついきゅう》することができたんだ。あいつらは欲得《よくとく》がぷんぷん臭《にお》っている。もっともらしいことを言っても、知識を| 奉 《たてまつ》っているのは、それを武器にして女王からこの国の主権を奪い取ろうと画策《かくさく》しているからなんだ」
フィリエルは眉をひそめた。
「そういうの、反逆者というんじゃないの。たしかにそんなやつらは敵に決まっているわね」
ルーンはぴたりと口をつぐんだ。そして、まるで彼女が奇妙なことを言ったように見つめた。フィリエルはめんくらったが、気を取りなおし、ずっと気になっていた質問をすることにした。
「ねえ、エフェメリスって何?」
「暦《こよみ》のことだよ。天文暦をそういうんだ」
「なんだ、特別なものだと思っていたわ。あの男の口ぶりがそんなふうだったから」
ほっとしてフィリエルは言い、それから、ほっとするいわれはないことに気がついた。
「博士とあなたが作っていた暦は、特別なものなの? 反逆者が手に入れたがるような、何か力のあるものだったりするの?」
「なぜ、異端と呼ばれるものがあると思う。無害でどんな力もないものが、そんなふうに忌み嫌われると思うかい」
ルーンは低く言った。彼は疲れてきた様子で、声にはりがなくなっていた。
「ぼくは、やつらにエフェメリスを渡しはしなかった。きみはそれだけ知っていればいい。せっかく博士が、最後まできみを遠ざけた意味がなくなるじゃないか」
フィリエルが何も言えないでいると、セルマが声をかけた。
「お見舞いはそのくらいになさいませ。そろそろ静かに休ませてあげたほうが病人のためです」
ためらいながら、それでもしかたなしにフィリエルが寝台を離れたときだった。ふいにルーンが呼び止めた。
「フィリエル」
ふりむくと、ルーンは激しいまなざしでこちらを見ていた。フィリエルがその意味をとりかねているうちに、彼は言った。
「フィリエル、ホーリーのだんなさんは、やっぱり殺されたんだよ。やつらの手が伸びてきたのを知って、彼が博士を港へ逃がしたんだ。あの人を実際に突き落としたかどうかは問題じゃない。あいつらのせいで、ホーリーさんは一人で死んだんだ」
「そう」
フィリエルはうなずいた。
「もう二度と、あたしの知っている人を殺させはしないわ」
ルーンの見舞いから戻ったフィリエルが、うかない様子なのを見てとり、アデイルは彼女を庭園の散歩にさそった。フィリエルがふさぎの虫にとりつかれたときには、戸外へつれ出すに限ることを、アデイルは学びつつあったのである。
西側の庭園には、刈り込んだ生け垣に沿って小径《こ みち》の続く、そぞろ歩きにもってこいのコースがあった。木立の彼方の雲は穏やかならぬ灰色――ルーンの目の色――だったが、頭上にはまだ青空がのぞき、切れ切れに日も射してくる。髪を吹き乱すほど強い風が吹いていたが、フィリエルは心地よげで、しばらく歩くと憂鬱《ゆううつ》のわけをぽつりぽつりアデイルに話しはじめた。
「……結局、ルーンがどんな目に会ったかわからなかったの。彼に体の具合をたずねたって、まともな返事が返ってこないってことを忘れていたわ。でも、ひどい目に会ったのはたしかだと思う。心配なの……何をされたか、そのせいで、いっそう性格が曲がったんじゃないかと思うと。そうでなくても偏屈《へんくつ》で、他人になじまなかったというのに、これ以上悪くなったらこの先目も当てられないわ」
アデイルは遠慮がちに言った。
「それほど悲観することはないのでは。現《げん》にルーン殿は、悪い男たちへの協力をきっぱり拒んだのでしょう」
「だれのことでも、きっぱり拒むでしょうよ。だから問題なの。その上あの子は、一度腹を立てると根に持つタイプだし、何を考えているかわからないところがあるし」
フィリエルは悲しげに空を仰いだ。
「博士がいればなんとかなったんだけど。あたしではあの子の心を埋められない。何より博士がいなくなったことが――自分がつれていってもらえなかったことが、ルーンの一番大きな痛手だったんですものね」
「お気の毒だわ」
アデイルはそっと口にした。
「わたくし、前ほどあのかたに反感をもたないかもしれません。一度は自分の手で助けようとした人物ですもの、どうしたって親身《しんみ 》な気がしますし。それに、お見舞いをして思ったのだけど、ルーン殿って、メガネがないと感じが違うというか……」
言いさしてから、アデイルははにかむように述べた。
「意外ときれいな顔をしていますのね。初対面のときには、少しも気づかなかったけれど」
「それはルーンが寝ていたからよ。大丈夫、起きてしゃべり出せば前と同じに憎らしいから」
フィリエルは顔をしかめて請けあった。
「メガネを壊されたことで、ルーンはものすごく怒っているの。あたしも、メガネをかけないほうが見た目がいいと思うんだけど、本人はメガネなしですごすことなど考えられないのよ。研究者のプライドとメガネとが結びついているらしいの。頭の痛いことだけど、どうにかして、代わりのメガネを作る手だてを考えておかなくちゃ」
「メリング先生にうかがってみましょうか」
アデイルは言い、そしてほほえんだ。
「ルーン殿のこと、本当によく理解できるのね。あなたの話を聞いていると、きずなの強さが伝わってくるようだわ」
フィリエルは、羊と話ができるようだと言われたように驚いた顔をした。
「あたし、そんなことを言ってます?」
「ええ。自分のこと以上に熱心で」
「そんなことないわ。ルーンはかんじんなことを何もしゃべらないから……あたしは何も知らされないから、だからなのよ」
一陣の風が吹きつけ、散策《さんさく》する少女たちのスカートをはためかせる。二人のドレスは色違いのおそろいで、アデイルが特に心を配ったものだった。だが、おそろいを着て歩いていても、この従姉妹同士は少しも似ていない。それは、遠目に見ても気づくことだった。
アデイルが庭にたわむれる小鳥のようなら、フィリエルが思わせるのは野をさまよう若鹿だ。風になびくアデイルの髪に春の花色を見るなら、フィリエルの髪は燃え立つ秋の色あいだった。二人の少女は、同じ身づくろいをしても、全体の印象が際だって異なっていた。
しばらく口をつぐんで歩いてから、フィリエルは思い切ったようにアデイルにたずねた。
「いずれロウランド家は、ルーンのことを異端審問に突き出すのかしら」
「お父様が戻っていらっしゃるまで、だれも確約はできないけれど、わたくしはしないと思っています」
アデイルの返事は、なかなかたのもしかった。
「ルーン殿が、研究内容を明かしてしまったならともかく、秘密を守り抜いたんですもの。異端であれなんであれ、その内容はロウランド家にとっても値打ちがでるはずです。だれかがのどから手が出るほど欲しがっている、よそでは知り得ないものを手中にしているわけですもの。慎重になるのが当然ですわ」
フィリエルはおそるおそる言った。
「ルーンがもし、ロウランド家にも秘密を教えなかったら?」
アデイルはほほえんだ。
「それはそれ、また異なる対処の問題でしょうね。きっと大丈夫よ、フィリエル。少なくともお兄様は、彼を牢獄へ追いやろうなんて、今のところ少しも考えていませんから」
「本当? 言っていたのに」
「わたくし、見てしまいましたもの」
アデイルは立ち止まり、いっそうはしゃいだ様子でくすくす笑いはじめた。
「お兄様はこのごろ、外出する前に東翼へ出かけて、メリング先生を質問責めになさるのよ。わたくしに見つけられると、具合が悪そうに行っておしまいだけど。一度、お兄様に気づかれないように後をつけたことがあるの。そうしたら、ルーン殿の部屋の前をうろうろしているのよ……恋文をわたせずにいる片思い人のように。物陰から見ていたら、何度でも扉の前でため息ついて。ね、とってもおかしいでしょう」
フィリエルにとっては、おかしいというよりも面妖《めんよう》だった。
「どうしてそんなことを。全然わからないわ」
「あら、決まっていますわ。ルーン殿のことが気になってしかたがないのに、面と向かってそれを認める勇気がないのよ」
アデイルはうきうきと断定した。
「いい傾向ですわ。お兄様という人は、今までどこか機微《きび》に欠けるところがあって、リクエストが多大だったにもかかわらず、主人公にする気がしなかったんです。けれども、彼にもようやく遅い目覚めが訪れたというところかしら。わたくし、思わず創作意欲をかきたてられてしまいました」
「リクエスト……?」
めんくらってフィリエルは聞き返した。
「お話ししなかったかしら、わたくしが文芸部だったことを。女学校は、それはそれは小説がもてはやされるところですのよ。もちろん、シスター方には内緒の執筆《しっぴつ》のほうですけれども」
アデイルはいたずらっぽく言葉に含みをもたせた。
「女の子ばかりで閉じこめられて、なにかと鬱屈《うっくつ》しているぶん、生徒にははけ口が必要なんです。モデルのいる恋愛ものには、びっくりするほど読者がついていますのよ。シスターが目にしたら、たぶん失神ものの内容でしょうけどね」
「恋愛もの……恋愛って」
さらに困惑したフィリエルは口ごもった。
「ユーシス様が、あのう……だれかに恋していらっしゃると?」
「あらいやだ、フィリエル。小説のなかでは何があっても許されるのよ。それなのに男女の恋愛なんて、当たり前すぎて、だれの刺激《し げき》にもならないじゃありませんか」
明るく言われて、フィリエルは黙りこんだ。アデイルは何が問題かも知らぬげに、楽しそうに同意を求めた。
「傑作《けっさく》にふさわしいカップリングだと思いません? ドラマチックでエキセントリックで。もしもわたくしが女学校にもどるのだったら、おおいに腕が鳴ったところでしたのに」
(よくわからない……上流育ちのかたがたの考えることって)
懼《おそ》れをなしてフィリエルは思った。だが、奇怪な思いをさせられたおかげで、心配事から気がそれ、アデイルの目的どおりに充分気を紛らわせて庭園の散歩を終えたのだった。
嵐が到来し、木々の枝をたわめ、しぶきをあげて城の石壁を洗った。それが過ぎ去ると、にわかに陽気は暖かさを増した。北の大地にもついに本格的な春が訪れたのだ。
ものみな瑞々《みずみず》しく輝き、ふりそそぐ陽射しの下で若葉が萌《も》えだした。果樹は一斉に花をつけ、道のかたわらを点々と黄色や白の野花が彩る。そんななかを、四頭立ての馬車を連ね、ルアルゴー伯爵と伯爵夫人がメイアンジュリーの都からアンバー岬の領主館へと帰還した。
出迎えに大わらわの館内は活気づき、それにともなって、弦《げん》を巻きあげたように空気もはりつめた。そうあってこそ本来の飛燕城、当主の采配するこの館のあるべき姿なのだと、フィリエルは感じとった。
留守居役のペントマンには、忙しさの中にも緊張を隠せない様子があったし、伯爵家の兄妹にすらあった。独断専行《どくだんせんこう》でことを進めてきた彼らだったが、それらに是非を下すことができるのは伯爵であり、すべてが彼次第なのだ。
(どんな人なのだろう……ルアルゴー伯爵)
恐れがないとは言えなかったが、わきあがる思いはそれだけではなかった。自分のなかにも、ルーンと同じ敵意がくすぶっていることに、フィリエルはおそまきながら気がついた。
ディー博士とエディリーン王女をセラフィールドの塔へ幽閉した男。すべての真相を知り、謎をひたすら隠蔽《いんぺい》し、今度のことの原因を作った男が彼なのだ。伯爵が富と力にまかせ、人々の運命をいいようにあやつったのだとしたら、フィリエルも彼とは敵対するべきだった。
対決のときをそう長く待つ必要はなかった。帰館の儀式を終え、人々が再び日常の仕事に落ち着くと、伯爵はフィリエルに使いをよこし、執務室《しつむ しつ》へ来るよう告げたのだ。フィリエルがけんか腰と言っていい態度で応じたので、出向いた侍従《じじゅう》はめんくらったらしかったが、そこは高位の人に仕える人物らしく、理由は何もきかなかった。
当主の執務室は、建物中央、大ホール上の高みにあった。翼の廊下からそこへ行くには、入り組んだ通路を通らなければならない。廊下を何度も折れ、階段を下ってまた上り、同じ建物のなかで迷子になりそうだった。だが、階段を最後に上りきると、その突き当たりの窓は、領主館正面の最上階の高窓だった。
侍従は扉を叩き、中へフィリエルを通すと、奥へ進むように身振りをして自分は引き下がった。フィリエルは進み出て目を上げ、部屋を見回した。長細い、思ったよりも何もない部屋だ。青っぽい絨毯が隅まで敷きつめられている他は、一番奥の窓際に、黒い大きな机が一つ置かれているだけだ。壁は褪《さ》めた金褐色で、年代を経て黒ずんだ絵画がところ狭しと並ぶ。
彫刻のある重たげな机は陰気に見え、主にさえあまり好まれていないようだった。伯爵は腰かけず、背を向けて窓の外をながめていた。彼がふりかえったので、フィリエルは思わず背筋を正した。伯爵のもとへたどり着くまでにかかった時間といったら、人の気をそぐための陰謀かと思えた。
伯爵は背が高かったが、そのことを除けば、それほどユーシスとは似ていなかった。後ろになでつけた髪は濃い褐色で、こめかみの房には銀がはしっている。浅黒い顔立ちは、輪郭《りんかく》も眉も目も、高い鼻もくちびるも、すべてが鋭い線で形作られていた。その結果、高雅な暮らしをする人にしては驚くほど安楽を知らず、やさしい眠りを知らないような印象を受けた。
ユーシスが顔をしかめても、まだ無邪気な、甘いものでしかないのだと、比べてみればよくわかる。いつの日かはユーシスの顔も、年月を経て父のような苦み走ったものに|変貌《へんぼう》するものなのだろうか……フィリエルには、まだ加齢《か れい》のことはよくわからなかった。
伯爵が身につけているのは、暗い赤と黒を合わせたビロードで、風格はあるが地味だった。そのあたり、趣味が親子で似ているかもしれない。高価な布地につつまれた肩幅は広く、筋肉質にひきしまった体は、運動をたやさないことを示していた。
「フィリエル・ディー。こうして会うのは初めてだったな」
低い硬質の声で伯爵は言った。彼が自分の名前を、とっくに承知しているように発音したことを、フィリエルは聞き逃さなかった。どうやら伯爵は、帰途につく以前から、留守中の出来事のほとんどを知り得ていたようだった。そしておそらくは、指示も出していたのだ。
けんか腰を通すには気力が必要だったが、そう聞こえることを願ってフィリエルは答えた。
「御前《ご ぜん》があたしのことをよくご存じだということは、あたしも人から聞いています」
「だれから」
「ルーンから。それに、ホーリーの……タビサ・ホーリーから。博士の弟子と、あたしたちの監視にあなたがお雇いになった女性です」
「何が聞きたい?」
伯爵は、目を細めるようにしてたずねた。口調は穏やかだったが、ひどく油断のならない表情のように思えた。
「たしかにいろいろ話があるが、最初にそれをたずねよう。君はこのわたしから、何を一番に聞きたいと思うかね」
フィリエルが考えたのはわずかな間だった。一呼吸おいただけで、ためらうことなく答えた。
「ルーンをどうなさるおつもりかということです。すでに手厚く看護していただいております。彼がすっかり元気になるまで、途中で放り出したりしないのが、高潔なかたがたのふるまいだと信じておりますけれど。でも、その後のことも考えなければなりませんし」
ロウランドの当主は、ふと息をもらしたようだった。笑ったのかため息をついたのか、フィリエルには判然としなかった。
「君はいかにも母君の娘だな。過去を問わずに未来を問うか」
どう答えていいかわからなかったので、フィリエルは黙っていた。伯爵もそれを求めないところを見ると、独り言だったのかもしれない。少しすると、肩を返すようにして歩き出した。
「ついてきなさい」
片側の壁に間仕切りがあり、続き部屋があった。伯爵に従って入ったフィリエルは、そこが書斎であることを知った。塔の書斎とは比べものにならないほど整然としているが、周りじゅうに本棚がある。椅子と机は隣にあるものより簡素で、使い込んであるのがうかがえた。ひっかき傷があり、燭台《しょくだい》の周りには蝋《ろう》を落とした跡、手前にはインクのしみもある。
何もかも磨き上げられている領主館の中で、当主の机だけが汚れているところがおかしく、フィリエルは密かに気に入った。たぶん、伯爵も博士と同じで、聖域にむやみに掃除の手が入ることを嫌がるのだろう。見回した彼女は、入り口近くの柱に、小さめの肖像画が掛かっているのに気がついた。
一目でそれは、ユーシスやアデイルが話題にした肖像画であることがわかった。立ちつくしてフィリエルは見入った。
晴れた日の海のような濃い青のガウンをまとった、若々しい娘がほほえんでいた。ほっそりした首筋を飾っているのは、たしかにフィリエルがもらった首飾りだ。いたずらっぽい笑みを作ったくちびるは小さく、見つめる瞳は青く、銀の髪飾りでとめた髪は小麦の色だった。
(青の姫君……エディリーン王女……これがあたしのおかあさん……)
「アデイルに似ている」
思わずフィリエルはつぶやいた。きゃしゃな様子といい、髪の色といい、似ているとすればアデイルであって自分ではなかった。
「そうだな。外見から言えば、君はそれほど彼女に似なかったようだ」
伯爵は重々しく言った。
「だが、アデイルとも違う。エディリーン王女は二人といない女性だった。類を見ない聡明さの持ち主で、火花のような情熱家でもある。あのか細い体のどこにその力を保てるのかと、不思議に思って見ていたものだ。星となるために生まれたような女性だった。あの人のまなざしに、言葉に、突き動かされずにいる者はまれだったろう」
フィリエルは伯爵を見上げたが、急いで目をそらした。なんとなく、告白を聞かされたような気がしたのだ。第一、この肖像画だけが書斎に掛かっていることが、伯爵の心の内を語っていた。
「そんな彼女の行く末を狂わせたのは、王立研究所の若い所員に出会ったことだった。彼にはたしかに才能があったが、家名も富も後ろ盾《だて》ももってはいなかった。さらに悪いことに、彼の研究は当時でさえ異端すれすれ――触れてはならない知識に抵触《ていしょく》するものだった。ある日の賢人会議において、彼は追放を決議された。持論の過激《か げき》さと、高貴な姫君の関心をひいたことが危ぶまれたのだ。そして、王宮を追われた彼に、王女はついて行った。闇夜《やみよ 》に紛れ、駆け落ち同然にして、手に手をとりあって逃げたのだ」
長い間があった。フィリエルはおそるおそる目をやったが、伯爵は肖像に見入っていた。
「……この肖像画は、エディリーンが十七歳、女王候補として宮廷にデビューしたころのものだ。ギディオン・ディーに出会ったとき、彼女はすでに女王候補の名を冠していた。擁立《ようりつ》する騎士は集まりつつあった。先代ルアルゴー伯は、彼女が女王となることを疑わなかった。それなのに、エディリーンはそのすべてをなげうち、一人の研究者に自分の身を与えたのだ。二人は異端者、王国に許されざる者となった」
両親が罪人だったことを、彼にくり返してもらう必要はないとフィリエルは考えた。そこで、大胆に口をはさんだ。
「御前は、あたしに何を聞きたいかをおたずねになりました。まだ、答えをいただいておりません」
「わたしくらいの歳になると、未来と同じくらい過去が重みをもつのだよ。君にはまだこの境地がわからんだろうが、聞きたまえ」
伯爵は少しも声音《こわね 》を変えずに言った。フィリエルはあきらめ、彼の気がすむまで黙って耳を傾けることにした。
「ディー博士とエディリーンは国外へ去るつもりだったが、女王陛下はお許しにならなかった。彼らのしでかしたことは王家への反逆であり、国の基盤《き ばん》を揺るがすものだと宣言された。反逆罪は死刑だ。どれほど高貴な者であっても死をまぬがれない。だが、御心の内に、実の娘を殺すことを望んでいないことを、われわれは察していた。われわれというのはロウランド家の親子、父とこのわたしのことだ。彼らをかくまったわれわれは、自分たちの北の領地、ルアルゴーへ二人を運んだ……そして、セラフィールドに塔を建てたのだ。陛下は第一王女オーガスタを、すでに候補から取りはずしておいでだった。いつかは陛下のお怒りがとけると、当時のわれわれはふんだのだ。だが、陛下のお許しはついに下らなかった。御自身が在位をお続けになることで、未曽有《みぞう》の事態にけりをつけられたのだ」
伯爵は、長いため息を吐き出した。
「……それから、エディリーンは病を得てあっけなく亡くなり、同じころに父もみまかった。わたしは爵位を継ぎ、世捨て人の塔には、ディー博士と小さな君とが残されたのだ。われわれのしたことを、悪事だと思うかね」
「よくわかりません」
フィリエルはふくれっ面で言った。
「おかあさんがどう感じたのか、あたしにはわからないもの。おかあさんのしたこともです。あなたがたは、悪意でなさったのではないにしろ、好意だけでなさったのでもないでしょう。ロウランド家はロウランド家のために動いている。他のなにものでもありません」
考えるように見やってから、伯爵は軽く驚く口調で言った。
「君はなかなか賢いな。不肖《ふしょう》の息子に、今の返答を聞かせたかったぞ」
「ルーンならそう言うと思っただけです。彼ならもっと辛辣《しんらつ》に言いますけど」
伯爵の瞳に、ふと愉快そうな色が閃いたようだった。だが、表情からは見分けられなかった。
「さしあたっては、待ちかねていた問いに答えることにしよう。君はのみこみのいい娘だし、女の子にしてはめずらしく、悲嘆《ひ たん》に酔うことを好まないようだ。腹蔵《ふくぞう》なく言うと、博士の弟子をロウランドが庇《ひ》護《ご》するか否かは、君の資質にかかっている」
フィリエルは肩をすくめた。
「のみこみがよくなんてありません。おっしゃることがよくわかりません」
「今、ロウランドはロウランドのために動くと指摘したばかりではないか。君という娘は、今までに前例のない、たいへん微妙な立場に立っている。王家の血をもちながら、王家の者ではない。われわれにとって、類のない切り札になり得るかもしれず、何のたしにもならないかもしれない」
伯爵は手を後ろに組み、暗いがよく光る瞳でフィリエルを見下ろした。
「ただ血をひいているというだけでは、残念ながら、その人物が女王に立つほどの優秀さをそなえることの保証にはならない。だが、二十年近く前の女王争いでは、第二王女エディリーンが女王にふさわしいと考えた者は多かったのだ」
「あたしに、エディリーンの娘たる優秀さを見せろとおっしゃるのですか。それとも、じゃまにならないように、不出来であることを望んでいらっしゃるのですか」
フィリエルが自身の辛辣さを発揮して言うと、伯爵はまた目を細めた。
「わたしはもちろん賢い娘が好みだ。だが、君が本当に優秀であった場合、アデイルの敵になられては困るのもたしかだ」
隣室のほうへ手を振るようなしぐさをして、伯爵は続けた。
「他の公家にはいくらでも、君をそのように取り上げたい者がいることだろう。それを避ける意味でも、君にはアデイルのそばにいてほしい。幸いアデイルは、君のことをとても気に入っているようだ」
アイリエルが黙っていると、伯爵は再び手を後ろに組んだ。
「彼女こそは真に女王の器《うつわ》をもつと、擁立するわれわれは信じているが、なにぶんにもあの子は、いまだに学びの最中だ。これから敵だらけの王宮へのりこむにあたって、心のささえとなり、親身にものごとを語りあえる存在が必要だ。君がその役割を果たしてくれるなら、ロウランド家はこれほど恩に着ることはない。そして、その見返りも充分に用意したいと思っているのだよ」
フィリエルは、マリエとともにロウランドのお嬢様に近づいた目的を思い出した。皮肉といえば皮肉だが、今になってそれがかなえられようとしているのだった。今度はよく考え、充分間をとった上でフィリエルは口を開いた。
「牽制《けんせい》の意味で、そうお申し出になるのですか。あたしがまかりまちがって変な気を起こさないように、ロウランド家の手のなかで、アデイルの侍女でいるようにと?」
「アデイルは、君を侍女にすると言ったら承知しないことだろうよ。むしろ学友、同等の友といったところだ。もちろんそれには、君にも相応の勉強をしてもらわなくてはならないが。だが、君は嫌とは言わないだろう」
確信ありげに伯爵は言葉を続けた。
「なぜなら、わたしが見返りと言ったのは、君が気をもんでいるルーンの保護に関してだからだ。君がわれわれのもとに留まることを条件に、ロウランド家は彼の保護を申し出よう。君が承知しているよりはるかに深刻に、あの少年は危機的状況にいる。異端審問をかわすことなど問題にならないくらいに、彼を見込んだ『蛇《へび》の杖《つえ》』の手をのがれることは至難なのだ。何の防御手段もなく一歩外へ出ただけで、おそらく彼は無事ではいられまい」
フィリエルははっとし、体をこわばらせて伯爵を見つめた。
「『蛇の杖』とおっしゃったのですか。それがあの男たちの正体ですか。それはいったい、どういうものなんです」
「いつの世にも存在する、不穏当《ふ おんとう》な形で力を求める者たちだよ」
伯爵はさらりと言った。
「ただ、かなりの頭脳集団であるために、摘発《てきはつ》が思うようにいかない。彼らの思想をおろかと言うことはできるが、決してくずでもばかでもないのだ。彼らにとって、ディー博士の研究内容は好餌《こうじ 》だった。王家から流出した知識に裏づけられている。『蛇の杖』の連中が探索しているものは、王家に秘められた知識そのものだからだ」
博士もまた反逆者と呼ばれたのだ。彼らとひきあうものがあるのだと、フィリエルは暗い気持ちで考えた。
「無事でなければ、ルーンはどうなるんです」
フィリエルが小声でつぶやくと、伯爵はそれに答えた。
「君といっしょにいられないのはたしかだ。一番ありそうなことは、『蛇の杖』が口封じにかかることだろう。隠れ家で彼の目にしたものが、やつらの命取りになることはおおいにあり得る。まずは生かしておけまい」
身震いがフィリエルを襲った。もう一度あの思いをくり返すのは我慢ができなかった。
「だめです。そんな……殺させません、絶対に」
フィリエルの動揺を見てとった伯爵は、声音をゆるめた。
「君を、選択の余地のないところへ追いつめようとして言ったのではない。フィリエル、わたしの申し出の利点を、こうは考えてもらえないかね。アデイルが女王に立ったあかつきには、彼女は、グラール女王の名において法を変えることができる。そのときに君が協力的立場にいるなら、ディー博士の研究を、正の系統に位置づけることも可能なのだ。そうなれば、あの少年がつけねらわれる意味はなくなる。そうでなくとも、新女王の恩赦《おんしゃ》の力は大きい。アデイルのもとへは、ディー博士が戻ってくることも可能なのだよ」
フィリエルは大きく息を吸いこんだ。何よりも重く響いた言葉を、彼女はくり返した。
「博士が戻ってくる……」
「もしもまだ存命《ぞんめい》ならばの話だが」
伯爵はにこりともせずに付け加えた。
廊下や階段をどう通ったのか覚えもないままに、フィリエルは東翼へと戻ってきていた。上の空で自分の部屋のドアを開けると、アデイルが両手を組み、部屋の真ん中につっ立っていた。
「フィリエル、怒っていない?」
フィリエルが何を言うよりも早く、アデイルは訴えるような瞳で叫んだ。目をしばたたくしかなかった。
「どうして」
「だって、お父様とお話ししてきたのでしょう」
「そうだけど、どうして怒っていると思うの?」
「お父様って、人が悪いんですもの。思うこと全部を言わないし、たいてい相手が腹を立てるような言い方をなさるんですもの」
フィリエルは思わず笑ってしまった。
「身内には手きびしいのね、あなたって」
「そんなことありません。フィリエルが怒って出ていってしまったら、これほど悲しいことはないもの。お父様にはそう申し上げたのに、きっと、ものすごく違う形で伝えたに違いないわ」
フィリエルの腕をとると、アデイルはけんめいになって言った。
「わたくしがどうしてあなたにいてほしいか、お父様だって、本当のところはわかっていらっしゃらないのよ。わたくし……わたくし、打ち明けて言えば、女王になる自信がないんです。チェバイアット家のレアンドラを向こうに回して、競争する自信がないんです」
みじめそうな口調になり、アデイルはうなだれた。
「……だって、わたくし、かけっこがとっても遅いんですもの」
「はあ?」
フィリエルはあきれて聞き返した。
「足が速いか遅いかは、女王様にふさわしいかどうかに関係ないのではなくて?」
アデイルはくちびるを噛んだ。
「でも、レアンドラは、剣術も乗馬も殿方なみにこなすのよ。女王候補になるからには、あらゆる面で人より優れていることは大切だわ」
フィリエルはうなった。
「レアンドラって、たしか、アデイルのお姉さんのことね」
「ええ、そう。二つ年上の姉。ロウランドに敵対するチェバイアット家の養女だけれども」
「なんだかアデイルからは想像できない。どんな人なの?」
「一言で言うことができるわ。同性に嫌われるタイプよ」
フィリエルは困ってアデイルを見た。たぶんこれも、女学校へ行っていないとわからないことなのだろう。
「ええと……あたしの暮らした場所は人が少なすぎて……」
「それでも、人類の半分に敵意をもたれるようでは、この国を治めるにふさわしくないと思うでしょう」
むきになってアデイルは言いつのった。
「レアンドラは、女の気持ちを苛立たせるんです。もちろん、それをおぎなって殿方に好かれるのはたしかだわ。でも、あの人は好戦《こうせん》的すぎるの。領土拡張論者《りょうどかくちょうろんじゃ》でもあります。女が率先して戦って、どうしてグラールを美しい平和な国にできるというの」
アデイルはめったに見せない嫌悪感《けんお かん》をあらわにして、両手を握りしめた。
「あんな人を女王にすえてはならない。それだけは、わたくしにもわかっているんです。だから……だからなの、わたくしが女王候補になることを拒まないのは。決して、自分が女王にふさわしいと思っているからではないんです」
フィリエルを見つめ、アデイルは一言一言に思いをこめた。
「あなたが必要なの。なぜって、あなたはわたくしと何から何まで違うから。女王の血の宿命から逃れて、女王候補にならないから。あなたに出会ってわたくしは、自分には夢でしかなかったことを生きている人がいることを知ったのよ。あなたにはそのまま、思いのままに生きてほしい。そのあなたがいることが、わたくしにも力をくれるような気がするの。レアンドラにも立ちむかえる気がするの。だからお願い、わたくしといっしょにいて。自分の道を歩むしかないことがわかってはいるけれど、わたくしにも、ほんの少し夢を残しておいてちょうだい」
彼女は真剣だった。それがアデイルの強みだった。たとえ彼女の後ろに、ルアルゴー伯爵のどんな思惑がからんでいようとも、アデイルは心からそう願っているのだ。フィリエルは従姉妹を見つめた。そして、アデイルにはアデイルの孤独があることを、ほんの少しだけ理解した。
ためらいがちにフィリエルは口を開いた。
「あたしが、どこまであなたの期待にそえるかわからないけれど。伯爵様は、条件とおっしゃったのよ。ルーンが無事でいるための条件。それは取り引きということで、友だちのために差し出すものではないわ。でも、これだけは約束できるかもしれない。あたしは、レアンドラではなくあなたに女王になってほしいし、そのあなたを裏切ることだけはしないつもりよ」
「本当?」
照りわたる満月のように、アデイルは満面に喜色を浮かべた。
「わたくし、こんなふうに片思いがかなったのって初めて。それじゃ、ここにいてくれるのね。わたくしたち、これからもいっしょにいろいろなことができるのね」
これほど手放しで喜ばれて、水をさすことなどできそうになかった。うなずいたフィリエルは、自分もほほえんでいることに気づいた。
「ええ、それが一番いいみたい」
アデイルは飛び上がった。そして何度か跳ね飛んだ。
「うれしい! こんなにうれしいことってないわ。お祝いお祝い、お祝いをしなくちゃ」
「本当にそれでいいのかい」
ホーリーのおかみさんはたずねた。
「たしかにルーンの安全を確保してもらえるかもしれないが、そのぶんあんたは、いつまでも|窮屈《きゅうくつ》な思いをすることになるんだよ。ロウランドの伯爵様は、二度とあんたを手駒からはずさないだろう。そのことがわかっているのかい」
彼女たちは夕暮れの庭で話しあっていた。ホーリーのおかみさんは、すでに東翼の客室に身をおいてはいなかった。ロウランド家では、フィリエルに準じた上客扱いで遇《ぐう》したというのに、おかみさんの気性では、一日ぐうたら暮らすことに耐えられなかったのである。
働かざる者食うべからずとばかり、彼女は|厨房《ちゅうぼう》へのりこんでいって、そこで働きだした。ホーリーのおかみさんが割り込んだことで、厨房ではひと悶着《もんちゃく》あったらしいが、彼女は強気で押し切り、ペントマンの仲裁《ちゅうさい》もあったために、今では持ち場を得ているというわけだ。
「あんたにその気があるのなら、あたしはいつだってここを出ていいんだよ。あんたとルーンの二人くらい、どうにでも養っていけるよ。三人で暮らそうと、あんたは言っていたじゃないか。多少の危険を覚悟しても、公家の争いごとに巻きこまれずにいるほうが、あんたたちのためかもしれないよ」
前掛けをつけ、元の自分を取り戻したおかみさんは、眉を寄せて言った。フィリエルはほほえんだ。
「ありがとう、そう言ってくれて。でも、あたしもよく考えたのよ」
たそがれがせまり、庭園は影につつまれていたが、城の尖塔《せんとう》だけはまだ陽を浴び、黄金の雲のあいだにそびえ立っている。それを見上げてフィリエルは言った。
「ついこの前までは思っていたわ。どこか遠くの土地には、何の気がねもなく暮らせる場所があって、セラフィールドでなくしたものを取り戻せると。でも、まちがいだった。塔は、気がねのない平穏な場所などではなかったわ。人々の思惑が恐ろしいほどからみあって、じっと動かないでいただけよ。少しつついただけで壊れてしまうものだったのに、それを知らずに生きてきただけ。あたしたちは、自分たちを人が放っておいてくれないことに気づかなかったのよ」
|噴水《ふんすい》の水は停止しており、石造りの海竜は、薄闇のただようなかで沈思黙考しているように見える。フィリエルは水盤のふちに腰かけて両手を組んだ。
「望んでも平凡には暮らしていけない。あたしも、ルーンも。そのことから目をそらすことは、もうできないの。だったら、力ある人のもとで、なんとか生きのびるための援助をひきださないと」
ホーリーのおかみさんは肩を落とした。
「たしかに、あたしには何の力もないよ。あたしがもう少し気を配っていたら、ボゥだって死なずにすんだかもしれないのにね」
「そんなことない、おかみさん。ルーンが生きているのはあなたのおかげじゃないの。あなたがいてくれたことがどんなに貴重だったか、とても口では言い尽くせない。昔も、今も、これからだって」
フィリエルは彼女の腕を強くつかんだ。
「ただ、あたしはこれからもっと利口にならなければいけないの。博士の学問にそっぽを向いて、何の努力もしなかったけれど、それが何だったのか、理解できる頭をもたなくては。そのためには、伯爵家にいるのもいいことだと思えるのよ」
おかみさんは疑わしそうな顔をした。
「ロウランド家が、異端の研究を後押しするとでも思っているのかい」
「まさか、いいえ。なにも表立ったことをするつもりではないのよ。でも、伯爵様はあたしに勉強してもらうとおっしゃった。どう学ぶかは、あたし次第でしょう。正統な勉強をみっちり積めば、きっと、異端と呼ばれるものが何かもわかってくると思うの」
ふと言葉を切って考えこみ、フィリエルは物思わしげに続けた。
「あの晩、ルーンといっしょに塔の書物を燃やしたでしょう。そのなかに、あたしが昔に読んだ物語の本があったわ。とっておきたかったけれど、ルーンはそれも異端だと言うの。どうしてなのか、あたしにはわからなかった。知りたいの。あたしには、まだ知らないことがたくさんあるのよ」
「わかったよ。そう思ったのなら、成しとげるんだろう。あんたはそういう子だ」
ため息まじりにホーリーのおかみさんは答えた。フィリエルが、ワレットの学校へ行くと宣言したときのことを思い出していた。もっとたくさんの人を知るのだと、十二歳の彼女は言った。あやぶみながら行かせたが、予想通りの意地悪や仲間はずれにあったにもかかわらず、彼女はついに溶けこんで、友人を作りさえしたのだ。
尖塔は黒いシルエットに変わり、空の輝きは西に低く残るのみとなった。上空には最初の星がまたたき出す。フィリエルはいとしいもののようにそれをながめ、ホーリーのおかみさんに笑いかけた。
「そうなの。くよくよしているのは柄《がら》じゃないの。ここで暮らすのは、まるで異国へ来たようなものだけど、もともとの覚悟から言えば国を出るつもりだったんですものね。あたしはここでやっていく。そして周りからよく学ぶの――公家の人々が力を行使するやり方を。いつかはあたしたちが、思い通りのことをするために」
「ばかをお言い。あんたが権力にこがれてどうする。そういうのが道を踏みはずすもとなんだよ」
思わずホーリーのおかみさんは叱りつけた。本気で実行しそうなところが、この娘の怖いところなのだ。
フィリエルは屈託《くったく》なげに笑った。今はどこにも、途方にくれて寝台にふせった少女の姿は見られなかった。ふりかかった難儀《なんぎ 》を消化して立ち直り、持ち前の柔軟《じゅうなん》さで情況に身を慣らし、琥珀色のその瞳で、今まで見ることのできなかった未来を見すえているのだ。
「あたしたちは、狼のお腹のなかから出てきたようなものよ、おかみさん。それだけ賢くなったし、もう二度と食われてはならないこともわかったの。強くなれるわ、きっと。めでたしめでたしの結末まで、きっとがんばっていけるわよ」
セラフィールドの少女は、明るい声で言ってのけた。
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あとがき
はじめまして。ノベルスが初めてのおぎわらです。これまで、児童書の分野で児童書とも思えない分厚い本を書いてきました。自然体で書くと長編になるという、たいへん損なタイプです。日本の出版界では、けっこう肩身が狭いものです。でも結局、「ある程度厚みがなくては本ではない」と信じる読書歴をもったことが原因で、根は小学生のうちに育っており、一朝一夕に修正できるものではないようです。はい。
趣味は読書です。読書家だとは思っていませんが、わたしが心のなぐさめを求めて足を向けるとしたら、そこは本屋なのでした。都心に出ても、地方を旅しても、行き着く先はいつでも本屋。悲しいほど今日も本屋であります。
そして読みたいものは、もちろんファンタジーなのですが、書店でファンタジーとして扱われている本とは、若干のずれがあるかもしれません。すばらしい創作ファンタジーに出会った喜びは天にものぼるよう……これに勝る喜びはないのですが、年に一度も当てるものではないという覚悟は必要です。
むしろ、ジャンルにこだわらないほうが、多くに巡り会う機会があるではありませんか。SFや推理小説や歴史小説を「わたし好みのファンタジー」として読むことは充分可能だし、ふっふっふ、わが国には黄金文化の「マンガ」というものがあります。マンガのおかげで元気になれることは、じつに回数が多いです。
好みの本を全部ファンタジーと言っているのではないかと……多少、節操の必要を感じますが、ここ数年はさらにパワーアップして、同じ姿勢でありながら、購入する本の半ばはフィクションではないという状態にあいなってしまいました。新しい歴史研究書や神経医学や免疫学、動物行動学、はたまた「複雑系」などの新しい科学理論の本なども、わくわくするファンタジーである確率がけっこう高いです。
これはファンタジー好きにぜひ、お試しあれと言いたいところ。要は、ファンタジー読者の気ままで広い心のもちようは、意外と研究書に歯の立つことが多いということなのです。
読書の楽しみをさらに強化させるために、わたしはものを書いているのではないかと思うことがあります。他人はそれを資料集めと称するのでしょうが、本人は、妊婦が無自覚に栄養を欲しがるように、ただ書物を漁っていたりします。そして、「わたしって感心。こんな本までおもしろいわ」と思うものが過剰にまとまったときに、「あら、これは物語の土台だったのね。ラッキー」ってなことになるのが、なんともこたえられないというわけなのです。ずいぶんと直感だけで生きています。
さて、おとどけする「西の善き魔女」ですが、このタイトルはわたしが大学生のときからもっていたものでした。もっと明確に言いますと、わたしの創作のすべての出発点にあった物語が、「西の善き魔女」でした。
もちろん、今ここに展開する物語は、そのときのままのものではありません。わたしが大学の図書室やら近くの喫茶店やらで、コクヨのレポート用紙にしきりとファンタジーを書きつけていたときから、年月は流れ世情は変わりました。わたし自身もおそらくは。それでも今回の物語には、当時のわたしがもっていたピュアなもの、ファンタジーが好きでやむにやまれず書きはじめたものが、多分に含まれているという気がしてなりません。
ほんの少し打ち明けると、作品の中でもっとも当時のまま登場しているキャラクターはルーンです。名前さえも変わっていないのは彼一人なのです。その古さに見合って、がんばってくれるといいんですけどね、彼。
物語はようやくスタート位置についたところです。これから一回り大きく序破急の展開をめざしますので、気を長くおつきあいくださるとうれしいです。ではまた。
[#地付き]荻原規子
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底本:「西の善き魔女1 セラフィールドの少女」中央公論社 C★NOVELS
1997(平成09)年09月25日第01刷発行
参考:「西の善き魔女T セラフィールドの少女」中公文庫
2004(平成16)年10月25日第01刷発行
入力:TJMO
校正:TJMO
2006年05月05日作成