RDG レッドデータガール
はじめてのお使い
荻原規子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山伏《やまぶし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)世界|遺産《いさん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]紫子
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〈カバー〉
山伏《やまぶし》の修験場《しゅげんじょう》として世界|遺産《いさん》に認定される、玉倉《たまくら》神社に生まれ育った鈴原《すずはら》泉水子《いずみこ》は、宮司《ぐうじ》を務《つと》める祖父と静かな二人暮らしを送っていたが、中学三年になった春、突然東京の高校進学を薦《すす》められる。しかも、父の友人で後見人の相楽《さがら》雪政《ゆきまさ》が、山伏として修行を積んできた自分の息子|深行《みゆき》を、(下僕《げぼく》として)泉水子に一生付き添《そ》わせるという。しかし、それは泉水子も知らない、自分の生《お》い立ちや家系《かけい》に関わる大きな理由があったのだ。
荻原規子
Noriko Ogiwara
東京生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒。『空色勾玉』(福武書店/徳間書店)でデビュー。その後『白鳥異伝』、『薄紅天女』(徳間書店)と続き「勾玉三部作」を構成する。以来、ファンタジー作家として活躍。また、「西の善き魔女」(C★NOVELS)シリーズも人気を博す。2006年、『風神秘抄』(徳間書店)で、第53回産経児童出版文化賞・JR賞、第46回日本児童文学者協会賞、第55回小学館児童出版文化賞を受賞。
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RDG レッドデータガール
はじめてのお使い
荻原規子 Noriko Ogiwara
角川書店
RDG レッドデータガール
はじめてのお使い
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装画 酒井駒子
装丁 坂川英治+田中久子(坂川事務所)
[#ここで字下げ終わり]
目次
第一章 泉水子《いずみこ》
第二章 深行《みゆき》
第三章 雪政《ゆきまさ》
第四章 和宮《わみや》
レッドデータブック
【英】 Red Data Book [略] RDB [同義] RDB
絶滅のおそれのある野生生物の情報をとりまとめた本で、国際自然保護連合(IUCN)が、1966年に初めて発行したもの。
IUCNから発行された初期のレッドデータブックはルーズリーフ形式のもので、もっとも危機的なランク(Endangered)に選ばれた生物の解説は、赤い用紙に印刷されていた。
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第一章 泉水子《いずみこ》
一
新学期になって日の浅い、四月|下旬《げじゅん》のことだった。
校庭の桜はとうに葉桜に変わり、大部分は冬枯《ふゆが》れしない四方の山々も、針葉樹の花粉を飛ばす季節の終わりを見せて、新緑に輝《かがや》いている。
帰りのホームルームで、担任の中村《なかむら》可南子《かなこ》が「進路相談にかかわる二者面談」の通知を配ったので、鈴原《すずはら》泉水子は急に、ああ三年生になったと実感した。卒業すれば高校生となり、小・中変わらずにきたクラスの顔ぶれも、その先から同じではなくなるのだと。
山間部にある粟谷《あわたに》中学校は、そのくらいのんびりしたところだった。高校進学といっても、クラスのほとんどは、歩いて十分と離《はな》れていない県立高校へ進学する。県北の私立校を目ざす少数の生徒には、気のはる受験準備もあるだろうが、そうでない者にとっては、高校に受かる受からないという心配もほとんどなかった。
(それでも、二者面談か……)
二者とは保護者と担任のことだ。保護者を学校へ呼ばなくてはならない件がもちあがると、泉水子はいつもゆううつになる。父も母も出られないからだ。
ホームルームが終わると、渡辺《わたなべ》あゆみの机の前に三田《みた》春菜《はるな》がやってきて、さっそく高校の話をふった。
「やっぱり、外津川《そとつがわ》高だよね」
「今さらじたばたしても、遅《おそ》いしね」
「私立受験をする子は、どのくらいいると思う?」
「生徒会長は必ず受けるだろうね。あとは万里奈《まりな》や、上岡《かみおか》くんや……」
あゆみが数え上げるのを、泉水子がぼんやり聞いていると、あゆみは急にこちらをふり向いた。
「泉水子は、高校へ行くよね?」
どこの高校かではなく、行くのかと聞かれたことにはびっくりした。
「もちろん、行くけど」
「よかった。卒業したら巫女《みこ》さん修行《しゅぎょう》をするとか、そういう話だったらどうしようかと思った」
「まさか」
まじまじとあゆみの顔を見やったが、どうやら半分くらい本気で危《あや》ぶんだようだ。泉水子はたじろぎながら言った。
「わたし、巫女さんになんてならないよ。うちの神社は、もとから巫女さんをおかない神社だって、あゆも知っているくせに」
「知っているけれど、泉水子ってそんなに髪《かみ》を伸《の》ばしているし。ひょっとしてそうだったら、進学の話はまずいと思って」
あゆみは、思いきりショートにしている自分の頭に手をやって笑った。
たしかに、泉水子の髪はクラスで一番長かった。編んだ毛先が腰《こし》の下まであるのだ。ものごころついたときには髪を伸ばしていて、ずっと二本の三つ編みにしていた。この三つ編みをみんなが陰《かげ》で「しめなわ」と呼んでいることも、不本意ではあるけれど、ずっと前から承知している。
「この髪は、なんとなく切らなかっただけ。他《ほか》に似合う髪型もないし」
自分のお下げ髪《がみ》にさわって、小声で言った。あまりに長い間こうしてきたので、切るきっかけがなかった。ここまで伸びてしまうと、切るにはなかなか勇気がいるものなのだ。
春菜が肩《かた》をもつように言ってくれた。
「神社の境内《けいだい》に住んでいるんだもの、巫女さんでなくても、やっぱり長いほうがふさわしいよ。でも、意外だな。わたしも泉水子は、おうちの関係に進むから髪を切らないんだと思っていた」
「ううん、おじいちゃんは、神社の手伝いはしなくていいと言っているし、今までだって何もしてこなかったもの」
答えながら、このあたりの隔《へだ》たりが悲しいと思った。小学校から八年以上同じクラスで過ごし、その中では最も仲よくなれた渡辺あゆみと三田春菜だったが、それでも泉水子は、同じ立場の女の子にはなれないのだ。
あゆみが元気よく言った。
「ああ、それなら、みんなでそろって外津川高校へ行こう。わたしは、高校に入ってもバスケットを続けるつもり。春っちは?」
「わたしは、彼氏を見つけるつもり。粟谷中の男子は冴《さ》えないのばかりだから」
春菜がしれっと言うので、あゆみと泉水子は笑い声をもらした。
「じゃあ、泉水子は? 高校生になっても神社からかようの? 外津川高校には学生|寮《りょう》があるよ」
「学生寮?」
「泉水子も寮に入ってしまえば、放課後の部活動もできるし、いろいろつきあえるよ」
泉水子は息を吸いこんだ。高校に寮があることはもちろん知っていた。けれども、漠然《ばくぜん》と自宅からかよえない学生のためと考えていたので、自分が利用することは、これまで思ってもみなかったのだ。
「わたしが入ってもいいのかな」
「十分すぎるほど家が遠いと思うよ。通学に路線バスもないところなんだから」
あゆみが言い、春菜も身を乗りだした。
「そうだよ。高校生にもなったら、山奥から送り迎《むか》えしてもらっての生活なんて、とてもやっていられないよ。何もできていないでしょう、今の泉水子は」
何もできていない――春菜に言われて、即座《そくざ》にそのとおりだと思った。泉水子は今まで、他の生徒の仲間づきあいに加われず、学校と神社の往復以外、寄り道ひとつしたことがないのだ。休日にだれかの家へ遊びに行ったこともない。
あゆみが気さくに言った。
「きっと世界が開けると思うよ。わたしたちとも遊べるし、スポーツに本腰《ほんごし》を入れてとりくめば、今ほど体育が苦手じゃなくなるかもしれないし」
「そうそう、泉水子は内気すぎるもの。もっと世間に出て、もまれないとね」
春菜が人さし指をふった。
「そのお下げ髪といい、泉水子がどこか変わって見えるのは、全部、神社に住んでいるせいだと思うよ。玉倉《たまくら》神社ときたら、まわりに何一つない山のそのまた上だもの。よく、今までがまんして暮らしてきたと思うよ」
泉水子は少しとまどった。ものごころついたときから玉倉神社にいるので、がまんするべきかどうかを考えたことはなかった――これからは、考えるべきなのだろうか。
「遠いのはしかたないの。親がどちらも県外の勤めだから、わたしはおじいちゃんのところで世話になるしか」
「山奥に居つづけなくてはならない理由はないと思うよ。義務教育のあいだは、保護者と住むのはしかたないけれど、高校生にもなったらね。ご両親には、何か言われているの?」
泉水子がかぶりをふると、あゆみは決めつけた。
「それなら、思いきって神社から出て、ふつうの女の子らしくして、その引っこみ思案をなんとかしないと。クラスの男子にさえ口がきけないようでは、明るい青春はやってこないよ」
泉水子には言い返せなかった。たしかに泉水子は、男の子と話すのがとても苦手なのだ。同性であっても、気心の知れない人たちが何人もいると、なかなか言葉を口に出せなくなってしまう。
しばらくためらってから、二人に聞いてみた。
「……わたし、もっと男子と話せるようになると思う?」
あゆみは手を伸ばし、泉水子の頭をなでた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫、わたしと春っちがついていてあげるから。泉水子は少しずつ変わっていけばいいんだよ」
春菜もうなずいた。
「そうそう、変えるとしたら、まずは外見からだろうな。髪型を変えただけでも、きっと大変身《だいへんしん》になるよ。泉水子のそのお下げ、あまりにトレードマークになって定着していて、かえって本人がよく見えなくなっていると思うんだ。こうして近づいて、よくよく観察してみれば、泉水子も意外ともとは悪くないのに」
「そ、そうかな」
褒《ほ》められたのかけなされたのかわからずに、泉水子は口ごもった。
お下げ髪以外に特徴《とくちょう》や取り柄《え》がないということは、本人もずっと感じていたことだった。あゆみのように背が高くさっそうとしてもいないし、春菜のようにピンクのほおをもつ色白でもない。どちらかというと小柄《こがら》で手足は小さめだが、きゃしゃと言われるほど細身でもない。
顔立ちもまた、取りたてて言うところがないのだった。まつげは長いが下向きで美点に数えられないし、墨《すみ》をぼかしたような眉毛《まゆげ》とうるんだ黒目は気の弱さを強調していて、それ以上のものにならない。
「そのメガネも変えようよ。そういう赤い縁《ふち》のメガネって、今どき流行《はや》らないよ」
「あ、これ、もとはお母さんのだったから……」
泉水子がメガネの縁に手をやると、春菜はあきれたようにため息をついた。
「買い換《か》えるならコンタクトにしなさいよ、コンタクト。これからはね」
校門を出ながら、泉水子は肩を落として考えた。
(……つまり、今のわたしは、あゆと春っちの目から見ても、とても変わり者に見えるってことよね)
せめて、標準から見劣《みおと》りしないようにと願っているのだが、泉水子は、クラスメートにもそうは見られていないようだった。家庭|環境《かんきょう》も、本人の能力も、本人の容姿も。
校門に続くコンクリート塀《べい》の角には、黒のセダンが停車している。部活動や委員会に参加せず、自家用車で送り迎えされること自体、だれひとりしていないことだった。後ろめたいので、目立たないよう校門を離れて駐車《ちゅうしゃ》してもらっているが、今日はいっそう気が重かった。
泉水子が自家用車通学を認められているのは、お嬢様《じょうさま》だからではなく、通学の手段が他にないからなのだ。うらやましく思う生徒はいないはずで、泉水子のハンデの象徴だった。
(山奥から来るから、こういう変わった子だって、今までずっと思われていたんだ……)
うすうす気づかないわけではなかったが、はっきり聞くとやっぱりショックだった。けれども、目をさまされたような気もする。今からでも、ふつうの女の子になる道がないわけではないのだ。
運転席にはいつもどおり、角ばって大きな体をした野々村《ののむら》慎吾《しんご》が辛袍強《しんぼうづよ》く座っていた。彼はやとわれ運転手ではなく、玉倉神社に勤める神官《しんかん》のひとりであって、泉水子のためばかりに時間を割《さ》くことはできない。定時の送り迎えがせいぜいで、融通《ゆうずう》をきかせることができないのもそのせいだった。
「お待たせしました」
泉水子がそう言って後部座席に乗りこむと、野々村は黙《だま》ってうなずき、すぐさまエンジンをかけた。機嫌《きげん》を悪くして無愛想《ぶあいそ》なのではなく、たいそう口数の少ない男なのだった。彼が身近にいるせいで、泉水子は自分を無口だと考えたことがない。
シートに背を沈《しず》める前にお下げ髪を払《はら》いながら、泉水子は体の一部として当たり前になっている長い三つ編みを、あらためて見つめた――この髪を切ることができれば、自分の性質も変わってくるのだろうか。
(……お山に帰らず、ふもとで暮らして、学生寮で生活することができるだろうか)
自然に鼓動《こどう》が速くなった。祖父の竹臣《たけおみ》は、自分が寮暮らしをすることを許してくれるだろうか。
「ねえ、野々村さん。お母さんの仕事先は、今、岡山《おかやま》だっけ」
「そうですね」
運転席に声をかけると、野々村は太い声で答えた。無口とはいえ、話しかければ答える用意はあるのだ。
「学校で進路相談があるんだけど。岡山だったら、お母さん、来られないかな」
「さあ、すぐに東京にお帰りとは聞いていますが」
「無理ね、たぶん」
泉水子は自分で結論した。もともと、可能性は低かった。母の勤め先は警視庁公安部なので、仕事が片付けば東京へもどるのは当然なのだ。
鈴原|紫子《ゆかりこ》の住民票は、泉水子が四歳のころからずっと東京にある。すでに警視庁のベテランで、潜入捜査《せんにゅうそうさ》をするかなり特殊《とくしゅ》な部署についているらしかった。名前や住所を変えてわたり歩き、東京の家にもほとんど帰っていないため、ときには身内でさえ居場所をつかめない、神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の人になってしまっている。
玉倉神社の宮司《ぐうじ》、鈴原竹臣は紫子の父だった。泉水子が神社にあずけられた要因も、紫子の職種によるところが大きい。ときには、一年に一度しか母の顔を見ないことがあるくらいだ。
泉水子も母の不在には慣れてしまって、会えないことにあきらめがついていた。娘《むすめ》の目から見ても、家庭的とは言えない女性だった。だから、泉水子が恋《こい》しいとしたら、父親の大成《だいせい》のほうだった。
コンピュータプログラマーを職とする大成も、それほどいっしょに過ごせるわけではなかったが、父とは気持ちが通じ合っていたので、少々の不在であれば苦にならなかった。しかし、二年前に大手|企業《きぎょう》に引き抜《ぬ》かれ、カリフォルニアのシリコンバレーへ行ってしまった。現在もそこで働いている。
大成は、ひいき目に見ても少々すっとんきょうな人柄《ひとがら》で、公共の場でさえ和服が好きで、羽織《はおり》姿で空港へ行くので、落語家とまちがわれたりする。カリフォルニアの勤務先でも、そのスタイルで通しているという話だった。しかし、コンピュータを扱《あつか》わせると群を抜くのだそうだ。
(きっと、優秀《ゆうしゅう》すぎるのね。二人とも……)
このように異彩《いさい》を放つ両親から、自分のような不出来な娘が生まれたことは、不思議といえば不思議だった。山間の小さな中学校でさえ、泉水子の教科の成績はそこそこで、体育ともなれば絶望的なのだ。
原因はとっくにわかっていた――極端《きょくたん》な引っこみ思案のせいだ。
「玉倉神社は山奥よね。この付近の人たちにとってさえ、引っこんでいる」
考えこみながら、泉水子は、野々村に言うでもなく言った。
「もしも、おじいちゃんの神社がもうちょっと開けたところにあったなら、お母さんだって帰ってきやすかったのに」
野々村の無口が気安いので、口にしてしまった言葉だった。だから、少しして野々村が返事をしたときには、思わずぎょっとしてしまった。
「玉倉山はよいところです。古くからの霊山《れいざん》のひとつで、世界遺産にも認定《にんてい》されて。山奥でなければ得られないものも、世の中にはあるんです」
(……世界遺産ね……)
野々村が、誇《ほこ》りをもってそう言っていることはたしかだった。
だが、世界遺産の保護指定のせいで、玉倉山には路線バスが通る見込みがこれからも決してないのだと、泉水子は黙って考えた。
走る車の外には、整然と並んだ檜《ひのき》の植林や色濃《いろこ》い椎《しい》や樫《かし》の斜面《しゃめん》が続いていた。厚く茂《しげ》った緑は光と水を貪欲《どんよく》に吸いこみ、隈《くま》なく稜線《りょうせん》を覆《おお》っている。
橋をわたって玉倉山へ向かい、カーブの多い道を高く登るようになると、ときおり視界が開けて、はるかに重なる山々の濃淡《のうたん》が見わたせた。白い霞《かすみ》をまとわりつかせ、どこまでも尾根《おね》をつらねる紀伊《きい》山地の連峰《れんぽう》だ。
泉水子にとっては当たり前の光景だったが、今日はいくぶん目に留まり、ここは山がちな紀伊半島でもとりわけ山深い中央部なのだと考えさせられた。
この半島の海岸線と連峰の真ん中を、世界遺産に認定された熊野古道《くまのこどう》が廻《めぐ》っている。玉倉神社が接しているのは、中央の大峯奥駈道《おおみねおくがけみち》と呼ばれるものだった。吉野《よしの》から熊野までを南北に貫《つらぬ》く高所の道で、修験道《しゅげんどう》の霊場《れいじょう》となっている。現在でも、| 志 《こころざし》のある者たちが奥駈道を踏破《とうは》する峰入《みねい》り修行を行っているのだ。
玉倉山の山頂をわずかに下ったところに玉倉神社が建ち、神社の境内に、泉水子の家や修行者《しゅぎょうじゃ》の宿所が建てられていた。ふもとの集落から見上げれば、隔絶《かくぜつ》した山の上なのはたしかだった。標高は千メートルほどあり、登るにつれて気温はみるみる下がっていく。
四月下旬ともなれば、学校付近の草花は初夏の色あいだが、泉水子の家のまわりの木々はまだ新緑だった。神のものとして手が入らず、植林のない玉倉山では、さまざまな落葉樹がさまざまな色あいの若葉で輝いている。
高台の駐車場で車を降りると、風の清涼《せいりょう》が肌《はだ》にしみた。ふもとと山を毎日往復する泉水子が、毎日気づかずにいられない、空と霞の匂《にお》いのする風だ。泉水子にとっては「お帰り」と言われているようなものだった。
(どうしてだろう……お山に着いてしまえば、わたしはここがいやだと思わない。学校にいるあいだは、家のせいでみんなから遠ざけられている気がするのに……)
杉木立《すぎこだち》の細道を歩きながら、泉水子は考えた。山ではものごとが異なって見えるのだ。
山の側から目を向ければ、ここは少しも淋《さび》しい場所ではなかった。さすがに冬場は閉《と》ざされているが、これからの季節、何人もの修行者が往来し、神社に参拝し、宿泊《しゅくはく》を求めてくる。山奥にしては、ずいぶん人通りのある場所なのだ。
泉水子の家が境内にあるのは、宿所のひとつを改築したからだった。外見は、江戸《えど》期の文化財になりそうなほど造りが古い。だが、内部は大成が大幅《おおはば》に手を入れて、断熱材を施《ほどこ》した最新タイプの住居になっていた。快適すぎると、竹臣などは文句を言っているほどだ。
山の上に快適な家をつくることに凝《こ》りまくったあげく、大成はアメリカへ行ってしまった。だが、泉水子が四歳のときからめんどうをみる佐和《さわ》は、今でもいっしょに暮らしている。玄関《げんかん》の引き戸を開けてただいまを言うと、台所から出てきた末森《すえもり》佐和は、いつもの笑顔《えがお》で出迎《でむか》えた。
「おかえりなさい。今、胡麻《ごま》プリンができあがったところですよ。味見をかねて、すぐにおやつにしましょう」
彼女は玉倉神社に勤める唯一《ゆいいつ》の女性で、ハウスキーパーの他、修行者が宿泊したときのまかないを主に請《う》け負っていた。そして、仕事に輪をかけての料理好きだった。
台所にこもって、煮《に》たり焼いたりしているときが佐和の一番の幸せなのだ。そして、そういう料理人にふさわしく、福々しい顔と体つきをしていた。
「今度の胡麻プリンは、このあいだのとはちがいますよ。インターネットで画期的なレシピを見つけたんです」
年に数日しか山を下りず、この不便な場所に長く住みこんでいる佐和が、不満をもらすところは見たことがなかった。いっしょに暮らす佐和がそうだから、泉水子も、神社暮らしをがまんするものと考えなかったのかもしれなかった。
テーブルについてお茶をのみ、新作プリンの感想を述べあった後、泉水子は佐和にたずねてみた。
「この場所以外で暮らしたいと思ったことはないの? ここにいると、お料理の材料も限られているでしょう」
「限られているところが、腕《うで》の見せどころじゃありませんか」
そう言って佐和は笑った。
「山菜やキノコを採ってきたり、保存食をたくさん作って悪天候にそなえたり。わたしは、そういうことに向いているんです。ここはまわりに何もないぶん、料理のしがいがたくさんある場所ですよ。修行者のかたがたにご奉仕《ほうし》するのも同じです」
「たいへんだと思わない?」
「そりゃあ、嵐《あらし》で道路が通れなくなったりしたときなどは、心配にもなりますけど。それでも、大成さんの整備したこの家は、自家発電やら浄水器《じょうすいき》やら助かりますし。インターネットのおかげで、ここもずいぶん便利になりましたよ。世間のニュースに遅《おく》れないし、ないものは取り寄せできるし」
佐和は、町のにぎわいに出ていきたいとは考えないのだ。そして、泉水子とちがって家のパソコンを使いこなしている。大成が必要以上にコンピュータ化していったものだが、あまり苦にしていないようだった。
この場所にふさわしい女性なのだと、泉水子は考えた。
「わたしは、ここで何もしていない。ただ住んでいるだけね」
「泉水子さんはいいんですよ。学生なんですから」
少しためらってから、泉水子はたずねた。
「今日、友だちに、卒業したら巫女さんになると思ったと言われたの。おじいちゃんは、手伝わなくていいとずっと言っているけれど、それでいいのよね?」
佐和は落ち着いた声で応じた。
「そりゃそうですよ。紫子さんだって、大成さんだって、宗教と関係ないお仕事におつきじゃありませんか。ましてや泉水子さんを、神社の働き手にしたいとは思っていらっしゃいませんよ」
泉水子は思いきって口にした。
「わたしがここを出て、別の生活をすることになってもかまわないと思う?」
佐和は、案外あっさりうなずいた。
「いずれそういうことになると、竹臣さんも思っておられますよ」
ほっとした泉水子は、カバンから出したプリントを佐和にさしだした。
「学校で、進路相談があるの。わたし――外津川高校の寮に入りたいと思う」
祖父の竹臣とは、夜九時をすぎてから顔をあわせた。
泉水子の家と社務所は同じ敷地《しきち》内にあったが、竹臣は朝六時に家を出ると、そのくらいの時間まで社務所のほうに詰《つ》めていて、まずぜったいに帰ってこないのだ。
古い体質の竹臣は、大成のつくった家を居心地《いごこち》悪く感じている様子だった。たしかに、畳敷《たたみじ》きの部屋は竹臣の寝室《しんしつ》だけという住宅では、一日中|袴《はかま》姿で通す竹臣には住みにくいかもしれなかった。エアコンが効きすぎて体がなまるとも言っている。
(考えてみれば、わたし、巫女になれるはずがないわ……)
夕食のクリームシチューを食べながら、泉水子はしみじみ考えた。家が神社の境内にあるとはいえ、テーブルといすで生活をしているし、自分の部屋ではベッドに寝《ね》ている。祖父とはちがって肉も魚もたくさん食べる。ここは神社と別格の一般《いっぱん》家庭であって、そのかわり、神社に例祭があるときなどは、佐和と二人、窓を閉めてなるべく静かにしているのだ。
大成がそのようにしつらえたのだし、竹臣も容認している。泉水子を、宗教にかかわりなく育てる方針にちがいなかった。それにしては、ふつうの女の子になれていないような気がするが、これもおいおい変わっていくのだろう。
竹臣がもどってきて居間にいるのを知った泉水子は、ころあいを見て、祖父の前に進み出た。
「おじいちゃん、学校の面談のことなんだけど……」
湯のみ茶碗《ぢゃわん》を手にした竹臣は、目を細めて孫娘を見た。半白の短い髪、日に焼けた顔の目尻《めじり》にたくさんのしわを刻んだ、穏《おだ》やかであくの少ない老人だ。ほほえんでいると、怒《いか》りを発したことなど一度もない人物に見える。それは見当ちがいなのだが、他の人間はともかく、泉水子がめったに怒《おこ》られないのは事実だった。
「ああ、佐和さんからプリントを見せてもらったよ。二者面談には、たぶん、大成くんが行くことになるだろう」
泉水子の目がまるくなった。
「お父さん、アメリカから帰ってこられるの?」
「プロジェクトは片づいていないが、一旦《いったん》帰国のスケジュールを組んだという話だよ。向こうへ行っている相楽《さがら》くんからも、同じ連絡《れんらく》があった。予定どおりなら、この日の面談にはまにあうだろう」
「本当?」
「大成くんは、もう去年のうちから、泉水子の高校進学に関して案じていたからね」
泉水子は両手の指を組みあわせた。すっとんきょうではあっても、娘思いの大成だった。太平洋を隔てていてさえ、泉水子の成長を思いやってくれている。
「どのくらい長くこちらにいられるのかな。早くお父さんに会って話したい……」
「泉水子は、外津川高校へ行きたいのだったね」
念をおすように竹臣は言い、泉水子はうなずいた。
「そうなの。そして、できたら高校の寮に入りたいの」
「おまえが自分から寮生活をしたいと言い出したのは、よいことだと思うよ。わしも、ころあいだろうと思ってはいた。これ以上、おまえを神社にとどめておくのはためにならないと」
竹臣は重々しい声で言ったが、どこかに困惑《こんわく》した含《ふく》みがあった。耳ざとく聞きつけて、泉水子は祖父の表情をうかがった。
「わたしには、寮生活は無理だろうと思っているの?」
「そういうわけではないが……」
いくらかためらってから、竹臣は告げた。
「じつはね……大成くんは、もうすでに、おまえの行くべき高校を決めているのだそうだ」
泉水子は、もう一度目をまるくするはめになった。
「行くべき高校? いったいどこに」
「東京にあるのだそうだ」
「東京?」
泉水子が大声になったので、竹臣は言いにくそうになった。
「そこにも寮が――寄宿舎があるという話なのだよ。だから、泉水子が寮に入る決心をしていることは、あるいは役に立つかと」
「ぜんぜんちがうでしょう、おじいちゃん」
あきれ返って、泉水子はテーブルに身を乗りだした。
「このわたしが、いきなり東京へ行って暮らせると思うの?」
「わしも、どうかとは思っているのだが……」
どこかあきらめたような声音《こわね》で竹臣は言った。
「しかし、大成くんが、そのためにわざわざ帰国する気でいるのであれば、どういう内容なのか、直接話を聞くまでわしにも判断できないのでね」
泉水子はきっぱり宣言した。
「わたしは、ぜったいにいや」
茶をすすった竹臣は、あからさまに結論を先延ばしにする態度だった。
「とにかく、大成くんの帰国を待とう」
二
登校してきた泉水子をひと目見て、あゆみと春菜はあっけにとられた顔をした。
「切ったの、髪」
「前髪だけ、ちょっと」
一斉《いっせい》の注目が恥《は》ずかしかったが、泉水子も、照れ笑いを浮《う》かべられるくらいには「やったね」という気持ちになっていた。
「少しずつ、変わらなくちゃと思って」
三つ編みは相変わらずなので、変身したとまでは言えない。だが、眉にかかる長さに切りそろえた前髪が自由に動く感触《かんしょく》は、本人には新鮮《しんせん》に思えるものだった。手でなでつけながら、つつましくたずねた。
「変かな……」
「ううん、変じゃない。イメージがずいぶんちがうよ」
「前よりずっと今風になった。そのほうがいいよ」
あゆみと春菜は口々に言った。
「でも、泉水子って、意外にくせっ毛だったんだね。日本人形みたいにまっすぐな髪かと思っていた」
それは、じつは泉水子にも意外なことだった。毛先があちこちにはね、おとなしく下がっていないとは思わなかったのだ。今まで洗ったときにまっすぐだったのは、長さからくる重みでそうなっていたらしい。
「本当はね、春っちみたいな髪型にしたかったんだけど」
泉水子の理想は、肩の長さに伸ばした春菜のスタイルだった。一部を留めたり、束ねたり、いろいろな髪飾《かみかざ》りが楽しめるからだ。だが、美容院で切らないと無理だとわかっているので、今のところ泉水子には手がとどかなかった。
春菜はうれしそうに笑った。
「泉水子にも、見る目があったんだ。うんうん、休日に出てくることができれば、わたしの行っているお店につれていってあげるのに」
「わたし、土日に車を出せないか、野々村さんにお願いしてみる」
決意をこめた声音で、泉水子は言った。
「そういうこと、今まで交渉《こうしょう》したことがなかったけれど、わたしにできることがあるかもしれないから」
あゆみが喜んで提案した。
「土日に出てこられるなら、今度のバスケの試合、泉水子も応援《おうえん》に来てくれないかな。その後、お店にもつきあえるし」
あゆみも春菜もバスケットボール部員で、週末には試合を控《ひか》えていた。なかでもあゆみはキャプテンなので、意気込みのほどがちがっている。泉水子はうなずいた。
「交渉してみるね」
「うわあ、前向き。泉水子、その調子」
ふつうの女の子になるのだと、泉水子は考えた。そのためには、自分で努力をしていくしかないのだ。
(東京の学校へなど行かない……)
あゆみや春菜という、自分をわかってくれる友人なしでは、学校生活など考えられなかった。この二人とさえ、八年かけてようやくここまで言葉を交《か》わせるようになったのだ。
泉水子がどれほど友人をつくりづらいか知っていれば、大成であっても、そんな提案はできないはずだった。都会の生徒たちは、変わり者の泉水子を白い目で見ることしかしないだろう。こちらから友情を求められるはずもない。
(結局、お父さんだって、わたしのことなどわかっていないのよ……)
「泉水子、ケータイのアドレスは? メルアドはもっていたよね」
あゆみにたずねられて、われに返った泉水子は口もとを押さえた。
「あ、ごめん……前のケータイ、壊《こわ》れちゃって。まだ新しくしていないの」
「それなら、つぎの課題はケータイかもね」
春菜が冗談《じょうだん》めかして言った。
「なしでも平然としているところが、泉水子の時代がかったところなんだよ。休日に会うなら、お互《たが》いに連絡がつくようにしておかなくちゃ」
(携帯《けいたい》電話か……)
どういうわけか、泉水子は携帯電話と相性《あいしょう》が悪かった。買ってもらった電話が二、三ヶ月で壊れてしまうのだ。すでに何回かそういうことがあって、佐和に新しくしてくれと言いづらくなってしまった。
「じゃあ、なるべく早く買ってもらうね」
二人に言いながら、少々気まずく佐和の顔を思いおこした。
今朝、泉水子が切った前髪を見て、佐和は絶句していたのだ。あまりあれこれ話さないまま登校してきてしまったが、気に入らないということは容易に察せられた。相談もしなかったことに対して、腹を立てているのかもしれない。
(でも、わたしの髪なんだから。わたしだって、自分の髪型くらい、自由に選ぶ権利はあるはずよ……)
自分に言いきかせてみたものの、どうして身勝手をしたような後ろめたさを感じるのかが不思議だった。昔は、洗髪《せんぱつ》もその後に編み上げることも、全部佐和にやってもらっていたせいかもしれない。
考えてみれば、髪を解いた泉水子の姿を見たことがあるのは、これまで佐和ひとりきりだった。しめなわと陰口《かげぐち》をきかれるほど、きつく編んで整えた髪しか他人に見せてはいけないと、暗に泉水子に教えこんだのは彼女だったのかもしれなかった。
粟谷《あわたに》中三年のクラスで、一番|幅《はば》をきかせている男子は三崎洋平《みさきようへい》だ。声が大きく、遠慮《えんりょ》がなく、勉強がきらいで授業中に勝手にふざけだす。
クラスのボスというほど仕切っているわけではないが、言いたいことを言い、腕力《わんりょく》でも負けないために一目《いちもく》おかれ、小川智也《おがわともや》や瀬谷《せや》和人《かずと》といった、似たような連中とグループを組んでいた。泉水子《いずみこ》がもっとも避《さ》けて通りたい、がさつでうるさい男子たちだ。
特別教室へ移動するために席を立ったとき、間の悪いことに、泉水子はこの洋平と、はちあわせしそうな近さで顔をあわせてしまった。息をのんだ泉水子を見おろして、洋平はいきなり評した。
「しめなわにひさしができている。だっせーの」
ひととおりみんなから「髪《かみ》を切ったの」と言われ終わって、もう、あまり気にしなくなっていたときだったので、この一言は不意打ちだった。思わず額に手をやって隠《かく》すと、洋平に従っていた智也と和人が、彼といっしょにばか笑いをしながら通りすぎていった。
(この程度のからかいですむなら、よしとしなければ。小学校のころのように、お下げを引っぱったりしなくなったのだから……)
落ちこむまいと考えていると、彼らの一番後に続いた小柄《こがら》な和宮《わみや》さとるが、教室の出口でふり返り、泉水子を見てほほえんだ。
(和宮くんにまで、笑われた……)
くせっ毛が変なのだろうかと、再び気になったが、それよりも不思議だったのは、和宮の笑顔《えがお》が他の男子とは異なって見え、妙《みょう》に印象に残ったことだった。あまり目立たない生徒なので、これまで気づかなかったのかもしれない。
(……そういえば、和宮くんにいじめられたりからかわれたりしたことは、一度もなかったっけ)
泉水子は男子とほとんど話さないが、今のように一方的に言われることも含《ふく》めれば、小学校から同じメンバーの学校生活で、一度も接していないというのはあり得なかった。それなのに、和宮さとるに何か言われて記憶《きおく》に残ったことは、ほとんどないのだ。
(どうしてだろう、今ごろ急に……)
今までこれほど意識しなかった男の子に、どうして急に目をひかれたのだろう。
それとも、和宮の笑顔のほうに、新しい何かが含まれていたのだろうか。
ぼんやりと手をおろすと、風に吹《ふ》かれて前髪がそよぐのを感じて、もう一度さわってみた。思ったより手ひどくはねているのかもしれなかった。
つぎの授業は、三階のPC教室で調べもの学習だった。
生徒ひとりに一台あたるパソコンを並べた特別教室は、三年前に改修工事をして設置した、粟谷中|自慢《じまん》の施設《しせつ》だった。機材やカーペット敷《じ》きの床《ゆか》やエアコンのせいで、校舎の他の部分とはずいぶん異なり、どこかの企業《きぎょう》オフィスに足を踏《ふ》み入れたように感じられる。
泉水子が入学したときには、すでにこの教室ができあがっていて、中学校のコンピュータ導入に大成《だいせい》が力添《ちからぞ》えをしたという話を小耳にはさんでいた。そのせいなのか、泉水子はPC教室に入ると、どうも気づまりなものを感じるのだった。
おおもとには、大成の娘《むすめ》でありながら、パソコン操作が苦手だという負い目があった。
泉水子がさわると、機械がちょくちょくフリーズを起こしてしまうのだ。何度も電源を入れ直すはめになるので、最近は家でも学校でも、できるだけ手を出さないようにしている。
おっかなびっくり接しているうちに、泉水子はパソコンの駆動《くどう》音やパソコンが一斉《いっせい》に動いている室内に、圧迫感《あっぱくかん》をおぼえるまでになってしまった。父の大成は一日中、このようなスペースで過ごしているのだと思うとなおさらだった。
この日の授業は、泉水子がもっとも苦手なインターネット検索《けんさく》をしなければならなかった。だが、グループ学習なので逃《に》げ道はあった。事情をわかってくれる春菜《はるな》が同じ班になり、さっそくたのむことができたのだ。
「お願い……清書のほうを二人ぶんやるから」
「はいはい」
春菜はむしろ検索するほうが好きなので、気軽に引き受けてくれた。
「泉水子って、キーボードはそれだけ打てるのに、ネットもメールもできないっていうのがおかしいよね。サイトへ飛ぶのなんて、マウスひとつなのに」
「時間がかかっちゃうの、わたしだと」
生徒会長の越川《こしかわ》美沙《みさ》が、二人の会話を耳にしてふり返った。
「あなたたち、できないことは他人まかせ?」
春菜は、その口調にかちんときたらしかった。
「いいじゃない、助け合うためのグループでしょう」
「鈴原《すずはら》さんなんて、発表だって絶対にしないつもりなのに」
泉水子は言い返せなかった。たしかに、発表もまた最大苦手のひとつだった。
黙《だま》ってしまった相手に、軽《けい》べつした鼻息をもらし、美沙は再びパソコン画面に向かった。
「好きなだけ、楽をしていれば。わたしには、そうしてずるけている人の気がしれないけれど」
春菜は泉水子に小声でささやいた。
「言わせておこう。私立を受けるからって、ますます尖《とが》っているのよ、会長たち」
越川美沙と彼女の仲よしグループには、何かとつまはじきにされることを、泉水子も前から承知していた。
三年のクラスで一番出来がよく、なかなか美人でもある美沙は、男女ともに認めるクラスのリーダー格だ。けれども美沙は、内気な泉水子にいらだちはしても手をさしのべようとはしなかった。美沙と女子を二分している渡辺《わたなべ》あゆみが泉水子の肩《かた》をもつので、あるいはそのせいかもしれないが。
(ずるけている……か)
言い当てられた気がしなくもなかった。何にでも気おくれを感じていることと、するべきことをせずに怠《なま》けることの差は、はたから見ればないに等しいのだ。
ぼんやり教室を見回すと、勉強ぎらいな三崎洋平が、ここでは熱心に取り組んでいるのがパソコン越《ご》しに見えた。何を画面に映しているのか、周囲に男子を集めてさかんに言い合っている。集まった中には和宮さとるもいた。
(今日は、やけに和宮くんが目につくな……)
不思議に思いながら、彼をそっとながめた。和宮の態度は控《ひか》えめで、決して人を押しのけて前に出ようとはしない。見過ごされるのがうなずけるような男子だ。だが、それでいて、洋平たちからつまはじきにもされずになじんでいるのだった。
ふいに泉水子は痛切に思った。自分もせめて和宮さとるのように、目立たずに溶《と》けこめる程度には、同じことのできる生徒でいたい――
(パソコンは苦手と思いこむから、ますます自分でさわらなくなって、ますますだめになっていくのでは……)
「春っち、わたし、やっぱり自分でやってみるね」
決意して告げると、春菜がまばたきして見返した。
「気にしているの、会長のいやみ」
「本当のことだったもの」
急に緊張《きんちょう》したせいか、風が冷たいような生暖かいような、変な感覚だった。PC教室の窓は閉め切ってあったが、前髪がそよいだので目を上げる。だが、エアコンの風かどうかはよくわからなかった。
(風を気にしているときじゃない……)
頭をふった泉水子は、思いきって目の前のキーボードをたたいた。なぜか、手もとがはるかな場所にあるように感じられた。
風景が、水底《みなそこ》にあるようにゆらゆらして見える。マウスが漂《ただよ》いだしてしまう気がしてあわててつかんでから、めまいがしているのだと気づいた。治まるのを待ったが、その感覚は治まるどころか周囲に拡大していった。
PC教室内に、透明《とうめい》な水がせり上がってくるのがわかった。空気と同じに明るく澄《す》んだ水で、すぐにそれとわからないが、ガラス越しの光が波打って見える。透明な水が躍《おど》る中では、機械の駆動音も質を変え、谷川のせせらぎのように聞こえた。
春菜もその他の生徒たちも、気づかずに静かにしている。というより、みんなが気づいたかどうか、確認《かくにん》する余裕《よゆう》が泉水子にはなかった。揺《ゆ》れる光が目にまぶしく、あたりがほとんど見えない。はっきりと見えるのは、目の前のパソコン画面だけだった。
止めていた息が限界になって、少しずつ吐《は》いてみる。水が上がってきたときに、無意識に溺《おぼ》れまいとしたのだ。吸いこんでみれば、楽に息ができた。幻《まぼろし》だという思いがかすかに浮《う》かんできた。それとも、授業を受けていること自体が夢だったのだろうか。
急にパソコン画面が切り替《か》わった。液晶《えきしょう》に大写しに浮かび上がったのは、大成の顔だった。ぼさぼさの髪、とぼけた丸メガネ、焦《こ》げ茶の着物の襟《えり》もと。大成は一瞬驚《いっしゅんおどろ》いた表情を浮かべたが、すぐにのんびりした笑顔になった。
「あれ、泉水子。テレビ電話なんか使えるようになったんだね」
「使えないってば」
泉水子は、これがテレビ電話なら集音マイクはどこだときょろきょろした。
「お父さん、本当にお父さんなの。今、どこにいるの」
「ああ、うん、会社だよ」
大成はそう言って、右手を髪につっこんだ。
「ごめんね、泉水子。日本に帰るつもりだったのに、そのつもりで荷造りまでしたのに、土壇場《どたんば》でだめになっちゃったんだ。こちらの仕事にアクシデントがあって」
「帰れないの?」
あまりに父が言いそうなことだったので、泉水子は大成と会話していることに確信をもってしまった。
「二者面談、出てくれないの?」
「ごめんよ。でも、相楽《さがら》くんはそちらに向かったから。きっと、もう、着いているころだよ」
「相楽さんが来たって、保護者じゃないのに」
「うーん、だめかな」
まのぬけた返事をする父親に、泉水子はふくれて言った。
「それなら、東京の高校がどうこうということもなしにしてね」
「ああ、そのところはぜひ、行く気になってほしいんだよ。鳳城《ほうじょう》学園高校というんだ」
「どういう名前でもいや」
「でもねえ、泉水子」
大成はいくぶん気弱に言った。帰国できない引け目は感じているらしい。
「泉水子のためにあると言っていい学校なんだよ。今年開校したてだから、設備も最新できれいなところだ。教師たちも優秀《ゆうしゅう》な人材を集めていて、お父さんは学長さんと話をして教育方針に納得《なっとく》がいったよ。お母さんだって賛成しているし……」
「お母さんと会ったの?」
「いや、きっと賛成を……」
冷静になろうと努力してから、泉水子は告げた。
「お父さん、わたし、もう自分で自分のことを決められるの。そんなふうに、わたし抜《ぬ》きで進められても困るの。面談に来てもくれないで、そんな希望は先生に話せない。わたしは地元の高校に進学するから」
画面上の大成の映像がゆらりと揺れた。
「泉水子?」
(だけど、わたし、どうしてお父さんとしゃべっているの……?)
ふいに理性がもどってきて、背筋が寒くなった。自分が今、どこにいるのかわからない。いつからこうしているのか、どうしてこんなことをしているのか、過去につながらなくなってしまったように思えた。
「泉水子、少し落ち着いて聞きなさい……」
大成はまだ声を発していたが、恐慌《きょうこう》とともに谷川の水音が高まってきて、彼の声がかき消されていった。居ても立ってもいられないほど怖《こわ》くなり、この恐怖《きょうふ》をどうやって止めればいいか、泉水子は必死になって考えた。
(シャットダウンだ……はやく電源を切らなくては)
シャットダウン。
ぷつりと断《た》ち切られた音がした。同時に閃光《せんこう》が目の前をよぎり、泉水子は目をつぶって身をすくめた。しばらく体を固めたままつぎに起こることを待っていたが、やがて、空気の暖かさを感じ、教室内の気配と喧噪《けんそう》がもどってきた。
言いようもなく安堵《あんど》してまぶたを開くと、目の前のパソコンは画面が真っ黒になっていた。本当に終了《しゅうりょう》していたのだ。
そして、周囲のざわめきの中では洋平が大きな声を出していた。
「先生、パソコンの電源が落ちて動きませーん」
「先生、こっちもです」
「ぜんぜん再起動しません」
PC教室に設置された三十台のパソコンは、どれも二度と動かなくなっていた。同時に校内LANをつないだ職員室のパソコンも停止し、成績その他のデータが消滅《しょうめつ》して大騒《おおさわ》ぎになっていた。
三
担任の中村《なかむら》可南子《かなこ》は、もちろん青くなった。
専門業者が来てパソコンと配線を調べ、使用不能が決定的になると、あわてて犯人さがしがはじまった。ホームルームの時間に、いたずらが原因であれば度が過ぎると厳しく告げ、パソコンが壊《こわ》れる直前に不審《ふしん》なことをした者は、正直に申し出るように言いわたした。
穴があったら入りたい思いをしながら、泉水子は申し出るしかなかった。自分が壊したようだが、自分でも何をしたかわからないのだ――と。
「あなたが?」
教卓《きょうたく》の前でうなだれる泉水子を、中村は困惑《こんわく》した目で見やった。どうやら、洋平のようないたずら者の生徒を想定していたらしい。
「それで、三田《みた》さんは、鈴原《すずはら》さんが何かしているところを見ていたの?」
つきそっていた春菜は、肩をすくめた。
「いえ、あの、ふつうのことをしていただけだと思うんですけど」
「でも、鈴原さんは自分がやったと思うのね。なぜ?」
「何をしていたか、わからなくなったんです……」
くり返すしかなかった。シャットダウンを念じたのはたしかだが、まさか学校じゅうのパソコンが使えなくなるとは思わなかったのだ。
中村はため息をついた。
「理由もなく壊れるはずはないのよ。まして、一台二台ではなく全部だなんて。鈴原さんには、わたしといっしょに校長室に来てもらいます。校長先生に自分のしたことをよく説明して。パソコンの総入れ替えということになったら、費用の面でも、内輪ですむ問題ではなくなってしまうのよ」
(……校長室に呼び出される生徒になってしまった)
泉水子には、何よりそのことがショックに思えた。今まで、これほど目立って問題を起こしたことはなかった。それなのに、はみださない生徒になりたいと思ったとたん、校長から叱責《しっせき》を受ける問題児になってしまったのだ。
中村は、しおれ返った泉水子を従えて校長室のドアをノックし、校長や生徒指導主任の唐沢《からさわ》を前にして、泉水子とともにPC教室の一件をなんとかつじつまが合うように語りなおした。校長も唐沢も、頭から叱《しか》りつけることはなく、口調を荒《あら》だてはしなかったが、しでかしたことの大きさに打ちひしがれている泉水子には、叱責と同じに感じられた。何度もくり返し、起きたときの情況《じょうきょう》をたずねられたからだ。
(わたしって、本当は、少しおかしいのだろうか……)
そう考えはじめると、いろいろなことが符合《ふごう》するから不思議だった。自分が山奥の玉倉《たまくら》神社にあずけられて育った理由。それは、そうして隔離《かくり》するにふさわしい、何かの兆候があったからではないのか。神社に住むから変わった子と言われるのではなく、もとからふつうでないために、祖父の神社に遠ざけられているのではないか――
(どうしよう……わたしは本来、お山に閉じこめておくべき者だったとしたら……)
教師に囲まれて問いただされているうちに、だんだん救いようのない考えにとらわれた。東京の高校どころではなく、どこの高校にも――地元の外津川《そとつがわ》高校に進学することもできない身なのではないだろうか。
今回のパソコン破壊《はかい》の件を、学校は家庭に連絡《れんらく》するにちがいなかった。これを聞いたら竹臣《たけおみ》は、泉水子が神社を出ることに賛成しなくなるだろう。寮《りょう》生活をすすめることを言ってくれたが、この不始末では意見をあらためるだろう。考えれば考えるほど、そう思えてきた。
「鈴原さん、何も、泣くことはないのよ」
泉水子が深くうつむいたせいか、中村が言った。まだ泣いてはいなかったのだが、その言葉を聞いたとたん、泣き出してしまった。校長室を出るまではがまんするつもりだったのに、台無しだった。
「そんなに自分を責めなくていいんだよ。事情はだいたいわかったから、話はもういいだろう」
校長がそう言ったときだった。職員室側のドアが開いて、隙間《すきま》から教頭がどこかあわてた顔をのぞかせた。
「校長、たった今電話がありまして。ヘリコプターの着陸|要請《ようせい》がきています」
「ヘリコプター? この学校に?」
「はい、我が校の校庭に」
「なんだね、急病人の移送でもあるのかね」
校長がいぶかしげに問うと、教頭は一瞬ためらってから告げた。
「それがその、うちの生徒を迎《むか》えにくるそうで」
校長は席を立ち、教頭とともに職員室へ行き、数分後には校長室にもどってきた。顔には、先ほど教頭が見せた表情と同じものが浮かんでいた。
「ええと――鈴原くん。南紀白浜《なんきしらはま》の空港から飛んできたヘリコプターが、きみを玉倉神社に送りとどけるという話なんだが、その、心当たりはあるかね」
中村が目をまるくして泉水子を見やった。
「なんですって、まさか、あなたのおうちのヘリコプターだというの」
「しかし、どうしてヘリコプターなのか、聞いてもいいかね」
校長は困惑を隠せない様子でたずねた。
泉水子はただ、かぶりをふった。校長たちが常識はずれだと考えていることはよくわかり、泉水子もたしかにそう思ったからだ。
空港に設置した格納庫に、鈴原家が所有するヘリコプターが一台あるのは事実だった。
大成も、紫子《ゆかりこ》も、帰ることが可能なときにはそれに乗って玉倉山に帰ってくる。けれども、学校のお迎えにヘリコプターを使うほど、周囲から浮いた行動をとる人間は、少なくとも玉倉神社の関係者にはいないはずだった。
教頭の声で校内アナウンスが入り、ヘリコプターが緊急《きんきゅう》着陸するので校舎から出ないように、外にいる生徒は一時校舎に入るようにと指示があった。そして、実際にドラムを連打するようなローターの騒音《そうおん》が雲の下に響《ひび》きはじめた。
校長も他の教師も、じっと座っていられないように校庭側の窓に寄っていく。着陸をながめないのは泉水子だけだった。二階で上がった歓声《かんせい》が階下まで伝わってくるところをみると、教室の生徒たちも全員窓辺で見物しているらしい。
(そんなはずないけれど……聞き覚えがある……)
ハンカチをあてがった顔を上げずにいた泉水子だが、それでもだんだん周囲のことが気になってきた。着陸するヘリコプターのたてる騒音は、泉水子がよく知っているものだった。他の機体と聞き比べたことなどないのだが、泉水子自身が何度も乗ったことのある、ベル206Bのタービン・エンジンで耳慣れたものと同じだ。
(まさかとは思うけれど……)
竹臣が、ヘリコプターを学校にさしむけることなどあるのだろうか。泉水子にとって学校生活の目標は、他の生徒と同じようになれること、どこも目立たずに同年の子どもとなじめることだと、長年にわたってさとしてきた竹臣が。
(いくらなんでも、こんな派手なふるまいは……)
野々村《ののむら》であってもするはずがなかった。彼もまた、泉水子が他の生徒から浮かないよう、極力目立たないよう、いつも気をつかっていた。小学校の送り迎えを始めてからこちら、野々村が学校の敷地《しきち》に足を踏み入れたことは一度もない。たとえ、泉水子が男の子にいじめられて泣こうとも、彼は黒のセダンを降りようとはしなかったのだ。
窓ガラスを震《ふる》わせるほどに大きくなった騒音が急に途絶《とだ》え、機体は難なく校庭に収まったようだった。教師たちは気ぜわしく言い合いながら職員室へ行ってしまい、泉水子だけが校長室に取り残された。さすがに泣いてもいられなくなって、赤い縁《ふち》のメガネをぬぐい、かけなおしていると、やがて校長室のドアが大きく開かれた。
「泉水子、ここにいたのか」
目に飛びこんできたのは、栗色《くりいろ》に染めた頭髪《とうはつ》と底抜けに明るい笑顔――少年のような笑顔だった。
「わたしが来たから、もう心配いらないよ。事情は全部聞いてきたから、あとのことはまかせなさい」
まるで、救出にきた白馬の騎士《きし》の口ぶりだった。そのくらい、誇《ほこ》らかで自信たっぷりだった。相楽|雪政《ゆきまさ》には、昔からそういうところがあった。あまりにこの場にそぐわないので、泉水子はたじろいで身を引いたが、アメリカ帰りの相楽にはそういった点がまったく通じないようだった。
「帰っていたの……相楽さん」
「到着《とうちゃく》したばかりだったよ。タイミングがよかったね」
彼は神社の古なじみで、以前は修行者《しゅぎょうじゃ》の宿所に住みこんだこともあったし、大成が家にいたころは、よく訪ねてきていた。最近は彼もアメリカにわたっていて、ここ半年ほど顔を見かけなかったが、竹臣も佐和《さわ》もよく彼の名前を出すし、知らずに口調に親しみをこめる。相楽はたしかに、だれの印象にも強く残る人物ではあった。
「あのう、相楽さん、ヘリで学校には……」
「いけなかったというのかい、非常時じゃないか」
相楽の背後から、危《あや》ぶむ表情をした担任の中村が進み出てきて、泉水子にたずねた。
「鈴原さん、このかた……本当に神社のお知り合い?」
泉水子はうなずいたが、中村の懸念《けねん》は消えないようだった。
「保護者代理で、あなたを迎えに来たとおっしゃるのだけど。見たところ、保護者というよりは……」
中村はためらいながら相楽を見やった。黒のフライトジャケットに細身のジーンズ、ミントグリーンのシャツといういでたちの相楽は、何か問題でもと言いたげに、微笑《びしょう》で教師を見返した。担任の中村は、泉水子と同じようにたじろいだ。相楽の絶対の自信に出会うと、たいていの人間はたじろぐものなのだ。
咳払《せきばら》いして、校長がかたわらに進み出た。
「校長の関根《せきね》です。申し上げにくいことですが、学校では事故防止のため、保護者のご家族でないと、生徒の引きわたしに応じられないのです。鈴原くんの場合、ご両親が遠くにおられることは十分承知しているのですが」
「校長先生ですか、泉水子がお世話になっています。鈴原大成の友人で相楽ともうします」
明るい瞳《ひとみ》で校長を見つめた相楽は、折り目正しくあいさつした。
「鈴原から、娘をよろしくたのむと言われています。書き付けなどはもっていませんが、どうすれば身の保証ができますかね。向こうに電話を入れましょうか……アメリカとの時差がありますが」
「失礼ですが、相楽さん、今おいくつですか」
言葉をさえぎって校長がたずねると、相楽はふいに了解《りょうかい》した笑顔になった。
「ああ、その点を心配しておられたのですね。保護者資格はあると思いますよ、今年で三十三になります」
「ご冗談《じょうだん》を」
「若く見えると、よく言われます」
少々得意げに相楽は言った。そういう表情が子どもっぽく、二十歳《はたち》そこそこにしか見えないのだと泉水子は考えた。中背でほっそりした体型も、いかにも若者然としている。
「大成とは四歳しか離《はな》れていません。これでも、わたしには泉水子と同年の息子《むすこ》がいるんですよ。そう言えば信用してもらえるでしょうか。この次は、もう少し保護者らしい服装をしてこようと思いますが、今日は緊急だったもので」
相楽は愛想《あいそ》よく言葉を続け、校長と中村があっけにとられた顔で泉水子を見たので、泉水子は肩をすくめて答えた。
「本当のことです……相楽さんの年も、息子さんのことも」
「泉水子も請《う》けあっていることですし、これで父親代理の件は解決ですね」
押しきられるかたちで、校長も泉水子がヘリコプターで帰ることを認めざるを得なくなってきた。校長と相楽がまだ話している最中に、中村が声をひそめて確認した。
「わたしより年上って、たしかなことなの? 中三の息子さんがいるというのは、あんまりなのでは?」
「でも、いるんです。深行《みゆき》くんといいます」
「奥さまが年上なの?」
言っていいものかどうかためらいながら、泉水子は言った。
「そこまではよく知りません。相楽さん、今、独身なので」
中村は鼻息を荒くした。
「独身なのね。本当なのね」
泉水子にも、何がおこっているのかうすうすわかりかけてきた。相楽雪政が身にまとっている独特の光芒《こうぼう》は、周囲からくっきり際《きわ》だち、周囲の人間を魅了《みりょう》するのだ。ヘリコプターで舞《ま》い降《お》りてきただけでも十分注目に値《あたい》するのに、相楽本人の容姿に、人目を引きつけてやまない要素がある。
(……どうしてこうなるのだろう)
なりゆきに驚きながら、相楽につれられて玄関《げんかん》を出ると、学校じゅうの人間が校庭側の窓に寄り集まっているのがよくわかった。日射《ひざ》しの下に出た相楽は、ごくさりげなく胸ポケットのサングラスをかけたが、そのしぐさは、泉水子の目からみてもタレントのように映った。校舎のどこかでかん高い声がわきおこる。
かたわらの泉水子はたいそうみじめだった。
学校自慢のPC教室を使用不能にしたあげく、この帰宅のありさまでは、ふつうの生徒だと言い張ってもむなしいものだった。体じゅうに痛いほど校舎からの視線を浴び、相楽の後ろをすごすごと歩いた。何かおかしなことになっている――望んでいた当たり前の女の子の生活が、恐《おそ》ろしい勢いで遠ざかっていく。その空恐ろしい予感だけが、胸の内にわきかえっていた。
ローターを回転させ、校庭から二メートルほど浮いてホバリングしたヘリコプターは、びくともしない安定性を保って機首を風上に向け、やがて、前傾《ぜんけい》姿勢をとって舞い上がった。相楽のパイロットとしての腕前《うでまえ》はたしかなもので、泉水子もその点には不安をもっていなかった。ただ、衆人環視《しゅうじんかんし》のもとで乗りこむことに火がでるほど恥《は》ずかしい思いをし、余波でぐったり疲《つか》れただけだ。
シートにしばらく沈《しず》みこんでいた泉水子は、校舎が下方に遠ざかったことを確認してから、ものうくたずねた。
「おじいちゃんは、本当にいいと言ったの? ヘリコプターでくること」
「もちろんだよ。非常事態だったからね」
計器に目をやる相楽は、打てば響くように返した。
「非常事態って……わたしがパソコンを壊したこと?」
「泣いていただろう、泉水子。先生にひどく怒《おこ》られたのかい?」
相楽は逆にたずねた。顔をあわせたときには泣きやんでいたはずだが、目の赤さに気づいていたようだ。泉水子は気まずい思いで答えた。
「ううん、怒られたからじゃないの」
「パソコンの弁償《べんしょう》なら、気にやまなくていいよ。もともと大成の顔で設置したようなものだし、取り替えもデータ修復も系列会社でまかなえる。その程度の手配はわたしにもできるよ」
相楽はちらりと隣席《りんせき》の泉水子を見やった。
「それにしても、泉水子がパソコンを苦手にしているとは、うかつにも今日まで知らなかったな。前からだったの?」
「わからない。お父さんがこちらにいたころは、そうでもなかった気もするけれど……」
言いよどんでから、気がついた。泉水子がPC教室で見聞きしたものを裏づける人物は、当面、相楽をおいてはいないのだ。
「相楽さん、お父さんが帰国できなくなったから、代わりに相楽さんが来たんでしょう」
「ああ、もともとは、二人でもどってくるつもりだった。だが、大成は急な用事が入ってしまって残念だった。どうして?」
「お父さんが、わたしを行かせたがっている高校の名前は、ひょっとして鳳城《ほうじょう》学園?」
「そうだよ、よく知っているね」
「今日、お父さんから聞いたの。PC教室で」
沈んだ口調で泉水子は続けた。
「夢だったのかとも思ったけれど、本当に話していたのだとしたら、もっと変よね。それだと、本当にオカルトだよね。お父さんと話したあとに、パソコンが全部壊れちゃったの」
相楽は少しのあいだ言葉を返さなかった。だが、驚いている様子はなかった。
「じつは、大成からも連絡があったよ。こうなると、いよいよ事実なんだな。きみたちは、機械によらない何らかの力でリアルタイムにつながったんだ」
「今まで、こんなことは一度もなかったのに。うちにあるパソコンだって、わたしがさわると動かなくなるだけだったのに」
相楽は計器に気をとられている様子だったが、やがて言った。
「大成は以前と変わっていない。だから、急に変わったとすればきみのほうだ。たとえば、髪を切ったこととか。その前髪、自分で切ったんだって?」
思いもよらない指摘だった。手を上げてはねた前髪にさわってみる。
「これ――このせいだというの?」
「たしかなことはわからない。でも、可能性はあるかもしれない。髪は霊力《れいりょく》のみなもとと言われているからね」
「わたしに霊力があるという意味?」
「たとえばの話だよ。髪を切ろうと考えること自体、きみが今までとは異なる証拠《しょうこ》だ。半年顔を合わせなかっただけで、どこか見ちがえるような気がするな。古来、髪を切るのは象徴《しょうちょう》的な行為《こうい》でもある。まだまだ子どもだとばかり思っていたのに、こちらが見る目を変えるべきだったんだね」
泉水子は、自分の容姿や、自分が容姿を気にしはじめたという点を彼と話し合いたくはなかったので、話をもとにもどした。
「わたし、どこか変なのかな。他人とちがっているのかな。なんだかちっとも、みんなと同じになれない。わたしがおかしいから神社に隔離されているのかもしれないって、今日は急に思ったの」
「泉水子は、べつにおかしくなどないよ」
相楽は言い、泉水子が言い返さないうちに続けた。
「けれども、わたしがそう言ったからって、きみの慰《なぐさ》めにはならないんだろう。だから、そういうときは、不安を不安のままにしておかずに調べに行くんだ。中山《なかやま》先生に検査してもらおう。おかしいところがあるなら言ってもらうんだ」
明快な結論に、泉水子は目をぱちくりさせた。
「今から瑞穂《みずほ》さんの病院へ行くの?」
「そうだよ。そのために出したヘリでもあるんだ」
ヘリコプターの針路を北に向けた相楽は、あっさり答えた。
中山瑞穂の研究室のある大学病院が、近畿《きんき》のどのあたりにあるのか、泉水子はじつはよく知らない。いつもヘリコプターでしか訪《おとず》れたためしがなかったからだ。
だが、瑞穂の専門分野が大脳生理学であり、自分が脳神経科にかかっているということは、泉水子も承知していた。そこに定期|検診《けんしん》にでかけることに、今まであまり疑問をもたなかったのは、ひとえに瑞穂が紫子の学生時代の友人だったからだ。
友人のよしみで、紫子が専科に関係なく気軽に診《み》てもらっているため、泉水子にとってもそういうものになっていた。内気な泉水子には、学校の身体測定がかなりの苦痛だったので、よくなじんだ瑞穂のもとで行うほうがよかったのだ。
小さいころから、彼女のもとで脳波を何度も測っていた。あの検査には意図があったのかもしれないと思うのは、今回が初めてだった。
病院のビルは高層で、屋上に独自のヘリポートがある。赤白のラインが描《えが》かれたその場所も、階下へ降りる専用のエレベーターも以前に見覚えのあるものだが、こんなふうに予約もなしに訪れたことはなかった。ちらちらと相楽の様子をうかがったが、不都合はないらしく、平然と受付を通らずに診療室《しんりょうしつ》へ向かった。瑞穂への連絡はすでについているらしかった。
(……わたしが救急|患者《かんじゃ》のように診てもらうときがくると、瑞穂さんには前から予測するところがあったのかしら)
そう考えると、重い気持ちにならざるを得なかった。
「ああ、よく来たね、泉水子くん」
白衣姿の中山瑞穂は、いつもと変わらぬてきぱきした態度で迎えた。長身でやせ型、きっちり束ねた髪を孔雀石《くじゃくいし》のバレッタでとめている。心持ちがちがうのは泉水子ばかりのようだった。
PC教室でおこったことを泉水子から聞き出すと、瑞穂はいくつかメモをとってから、ほがらかな声音《こわね》で言った。
「そう深刻な顔をしないで。これから再現実験をしてみるけれど、目的とするのはきみの心の負担を軽くすることだから。科学データを根拠《こんきょ》にすることができれば、アドバイスをより適切なものにできるだろう? 基本的には、きみの話を聞くことが一番重要だと思っているよ」
検査室に移り、彼女が助手を使わずにひとりで測定器具を準備するのを見ながら、泉水子はたずねた。
「瑞穂さんは、科学者なのに……わたしが体験したことは、あり得ないと言わないんですか」
「そう、言わないね。『中山先生』が口にしてはいけないことがあっても、きみにとってのわたしは『瑞穂さん』だから」
にっこりして瑞穂は言った。
「怖いと思わずに、もう一度パソコンに向きあってごらん。ここにはわたしも相楽くんもいて、きみが大丈夫《だいじょうぶ》なように見守っているし、用意したパソコンは、たとえ壊してもどこにも支障がおきないようにしてあるから」
そこで泉水子は、脳波測定のヘルメット状の装置や、心電図や脈搏《みゃくはく》測定のコードを何本も体につないで、検査室の片隅《かたすみ》で、昼間と同じようにパソコン操作をすることになった。怖くなかったと言えば嘘《うそ》になるが、中山瑞穂が肝《きも》の据《す》わった人物だということを承知していたし、彼女のすることにまちがいはないだろうという意識は強かったので、そのことが支《ささ》えになった。
しかし、いきなり大成につながったPC教室の現象は、二度と起きなかった。泉水子にも、それがどういう操作や状態の結果だったか、まるで思い出せないのだ。そのかわり、泉水子が操作すると画面が止まるという事実は、この検査室でもかなり明らかになった。フリーズと強制終了――そのくり返しだったのだ。
実験を打ち切り、泉水子が内科検診と血液検査に回ってから、もう一度瑞穂の部屋にもどってくると、彼女は面談のテーブルにさし招き、相楽と二人を長いすに座らせた。
「結論から先に言うと、泉水子に病的な異変は認められない。脳波レベルも正常|範囲《はんい》で、異常興奮が起こっているわけではない。ただ、パソコンの前で過敏《かびん》になって緊張しすぎるのはたしかだね」
相楽がたずねた。
「緊張しすぎるだけで、パソコンがフリーズをおこすものですか?」
「なんらかの電磁波を発生させて、干渉《かんしょう》すると考えられなくはない。だが、うちの計器では測定不能だし、あくまで仮定だよ」
白衣姿で足を組んだ瑞穂は、泉水子を見やった。
「きみ自身は、この結果をどう感じる?」
「よく、わかりません……お父さんが画面に映ったのを見たと思ったほうが変で、今では夢だったような気がするし」
泉水子は小声で答えた。検査を続けるうちに、優秀な大人たちをわずらわせるには非現実な、とるにたらないことでさわいでしまった気がしてきたのはたしかだった。
「ああ、過剰《かじょう》に気にやむのはよくない。だが、何もなかったことにして押し殺してしまうのもよくない。そういうことをすると、忘れたころにしっぺ返しがくるものだよ」
穏《おだ》やかな口調で瑞穂は続けた。
「わたしは、科学的には認められなくても、きみが本当にお父さんと話をしたと思うよ。ただし、それはめったに起こらないことではないかな。大成さんの側にも、何か整う条件があったようだし、きみには今までにないほど、強く気にかけることがあったようだ」
泉水子はまばたきした。思い当たるとしたら、ひとつしかなかった。
「高校進学のことかも。お父さんと意見が合わなくて」
「自分の未来は大事だね」
瑞穂がうなずいたので、泉水子は思いきってたずねた。
「わたしには、生まれつきみんなとちがうところがあるんですか? お母さんも瑞穂さんも、それを知っていたから、ここでわたしの検診をしていたんですか? 本当のことを言ってほしいんです。今は異状が見つからなくても、将来、もし、そうなるのだったら……」
瑞穂はかぶりをふった。
「将来にわたってどうかということは、医師には保証できないんだ。ただ、悪い兆候が見つかったなら、わたしは正直にきみに伝える。隠すつもりはない。現時点で言えることは、きみは少々特異体質かもしれないが、正常な人間の範囲内であって、特に治療《ちりょう》や矯正《きょうせい》の必要を認められないということだけだよ」
「わたし……特異体質でも、ふつうの人の生活ができますか?」
「もちろん。今でもそうしているだろう」
「お山を出て、ふつうの女の子の暮らしができます?」
「ああ、なるほど。きみにはそれが大事だったのか」
了解した様子で、瑞穂はあらためて泉水子の顔をながめた。
「世間が気になってくるのは当然だ。きみはそういう年頃《としごろ》で、自分に目ざめたばかりで、これは、本人にとっては激震《げきしん》と言えるのだろう。今回の異常知覚も、『ゆれ』が起こした過剰反応のひとつかもしれないね」
「ゆれ……ですか」
「思春期には起こりやすいことだ。超常《ちょうじょう》現象の記録もあるくらいで、思春期にある人間は常識で考えられないエネルギーを発生してしまうことがあるんだよ。だが、長続きはしない。混乱した時期が過ぎれば、やがては収まるところに収まってくる。紫子だって、今は当たり前の社会人――しかも優秀な人材として収まっているしね」
泉水子は思わず息を吸いこんだ。
「お母さんにも、わたしみたいにおかしなことがあったんですか?」
「彼女も、特異体質なところが少々あるんだよ。もっとも、パソコンをどうこうしたという話は聞かないが」
「お母さんは、どういうことを起こしたんです?」
「それは、本人の口から聞きなさい。わたしがもらすことではないと思うから」
瑞穂はそう言い、結局教えてくれなかったが、泉水子の気持ちをずいぶん軽くしたのはたしかだった。ようやく、顔をまっすぐ上げて言うことができた。
「わたしは優秀じゃないけれど、それなら、今のクラスメートといっしょに高校へ行くことはできますね」
「そういうことだね。まあ、これからも、わたしのところへ定期的に検診に来るようにしなさい。自分のことで、何か悩《なや》むことがあったら相談にのってあげるから」
親身な言葉でしめくくり、中山瑞穂は面談を終えた。
瑞穂の診療室を出てヘリコプターに乗りこんでから、相楽は確認するようにたずねた。
「つまり、泉水子は、鳳城学園高校へ行きたくないということだね?」
「そうよ」
きっぱり言えることをありがたく思いながら、泉水子は答えた。
「わたしには、粟谷中にいる友だちが大事なの」
「大成から、泉水子を説得するよう言われてきたんだけどね……」
「説得なんてされない。わたし、お父さんにも直接ことわったもの」
泉水子はくちびるを尖らせた。
「帰ってきて自分で説得しないくらいだから、お父さんも結局、わたしがどこへ進むかはそれほど重要じゃないのよ。いくら学校を気に入ったからといって、入学するわたしにそこがふさわしいかどうかを考えもしないんだから。わたしのこと、見えていなすぎる」
相楽がすぐに反論にかかると、泉水子は半ば予期していたが、意外なことに彼はしなかった。自信たっぷりに決めつけることが好きな相楽にしては、めずらしいことかもしれなかった。
「大成が帰れなかったのは、やはり、まずかったね」
考えこむ口調で相楽は言った。
「動けなくなった理由をわたしは知っているが、それでも、きみがそう感じてもっともだと思うよ。わたしだって、半年ぶりにきみを見て、以前と変わったことにびっくりしたくらいだ」
泉水子は返事をしなかったが、前髪を切った姿なら、今日の画面に映った泉水子を見て大成も知っているはずなのに、何の反応もしなかったのだと考えていた。
(相楽さんは、お父さんとはずいぶんちがう。相楽さんなら、わかってくれるのかもしれない……)
サーチライトで山の斜面《しゃめん》を照らしながら、玉倉《たまくら》神社の駐車《ちゅうしゃ》場にヘリコプターが着陸したときは、もう夜の九時をまわっていた。家では、竹臣《たけおみ》も佐和《さわ》も心配げな顔つきで帰宅を待っていた。
泉水子《いずみこ》は再三の事情説明をこころみることになったが、瑞穂《みずほ》のもとで気を取りなおしていたので、もう泣き沈《しず》むことはなかった。佐和が温めなおした夕食を食べ、のどを通らないということもなかった。
相楽《さがら》がそうだったように、瑞穂がそうだったように、竹臣と佐和も、泉水子があり得ない手段で大成《だいせい》と会話したことにひどく驚《おどろ》いた様子がなかった。思春期に起こりがちだと瑞穂が語ったことを伝えると、それにもすんなり納得《なっとく》のできる表情だった。自分以外の周囲の人々は、こういうことに案外慣れていたらしいと感じさせた。肩《かた》の荷がおりる気分でもあり、意外な一面を見る思いでもあった。
泉水子はこっそり考えた。
(これはきっと、昔のお母さんにも、これと似た何かがあったからにちがいない。今度お母さんに会ったときには、必ずそのことを聞かなくては……)
ひととおりの話を聞き終わってから、竹臣は言った。
「学校のパソコンにかかわる手配は、相楽くんに任せておけばよさそうだ。泉水子も、これに関して気にするのはもうよしなさい。もうひとつは、大成くんの帰国がかなわなくなって、泉水子の進路相談をどうするかだが――」
「二者面談なら、わたしが大成の代理で行ってきましょう」
相楽が言葉をはさんだ。彼は、久しぶりの佐和の手料理を大げさに褒《ほ》めたたえたので、どうかと思うような量のサービスを受けている。
「学校の先生がたに、今度は保護者らしい服装で行くと約束したところです。もう一度くらい、あいさつに顔を見せないとね」
泉水子は急いで言った。
「わたし、外津川《そとつがわ》高校へ行きたいの。中村《なかむら》先生に希望をそう伝えてほしいの。おじいちゃん、それでいいでしょう?」
竹臣は、少しのあいだ思案してから相楽を見た。
「相楽くん、きみと大成くんとが、一年以上前から泉水子の行く高校の検討をしていたことはよく知っている。その骨折りを尊重したいのは山々だが、わしに言わせてもらえるなら、この子をひとりで東京へやることは、やはり気がかりでならないのだよ。紫子《ゆかりこ》は、いつも娘《むすめ》についているわけにはいかないだろう。この子は、見知らぬ人々に取り巻かれることには慣れていないのだ」
両袖《りょうそで》に手を入れて腕《うで》を組んでから、竹臣は続けた。
「地元の外津川なら、顔ぶれになじみがあるし、何かあれば、わしたちも目を届かせることができる。なにより、泉水子自身が強くそう望んでいる。紫子でさえ十歳の年には山を出たが、泉水子は今日まで玉倉神社で暮らし続けてしまったのだ。いきなり都会へ出るのは、この子にはきっと無理だ。ふつうの女の子の暮らしをしたいと願うなら、まず、ふもとから始めるのは当然のことだろう。わしは、泉水子に少しでも満足のできる学校生活を送ってほしいのだよ」
泉水子は顔を明るくした。
「ありがとう、おじいちゃん」
「泉水子をずっと見守っていらしたかたの意見は大きいですね」
相楽|雪政《ゆきまさ》はうなずき、平静に言った。
「わたしも、泉水子の顔を見、泉水子の望みを聞きました。どうしても地元の高校へ行きたいと本人が言うのだから、あえて反対は唱えません。学校にはそのように申し入れましょう。わたしたちとて、泉水子の幸せを最優先にしないわけではないのです」
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第二章 深《み》 行《ゆき》
一
五月の連休ともなると、玉倉《たまくら》神社も山を楽しむ人々の参拝が増えてくる。
この山に自生する石楠花《しゃくなげ》が大輪の花を咲《さ》かせ、みずみずしい若葉に満ちた尾根《おね》を紅《くれない》に彩《いろど》っているせいだ。玉倉山が最も輝《かがや》かしい季節で、花の時期にはハイカーがひんぱんにやってくる。
祭事があるため、神社の人々は忙《いそが》しくしていた。泉水子《いずみこ》は、休み中にあゆみたちのバスケットボールの試合があることを野々村《ののむら》に話してみたが、彼はとうてい連休中に山を離《はな》れられなかった。応援《おうえん》のために車を出してもらえるとしたら、二人の引退試合となる七月の大会に望みをかけるしかなかった。
どこにも出られないとはいえ、まばゆい晴天が続いたので、さすがに泉水子も、家にじっとしているのは退屈《たいくつ》だった。
スポーツはどんな種目も不得意な泉水子だが、祖父から教わった神楽舞《かぐらまい》を舞《ま》ってみるのはけっこう好きなのだ。だが、舞っているところを他人に見られるのは恥《は》ずかしかった。いきなり登山客に出くわす今の季節、昼間から山頂の空き地を使うわけにはいかない。神社の周囲の山道をぐるりと散歩するだけにした。
(相楽《さがら》さんは、この連休には来ないのかな……)
いつのまにか、彼のことを考えていた。ヘリコプターが学校に着陸して数日は、クラス内が相楽の話題でもちきりだった。泉水子が学校中のパソコンを壊《こわ》した件は、彼の登場の前には霞《かす》んでしまったようだ。あゆみと春菜《はるな》は興奮して、映画やテレビドラマで見るように恰好《かっこう》いい人だったと口々に言っていた。
さんざん質問を浴びせられた泉水子は、派手に目立ったことへの気おくれで、早くうわさが静まるようにと必死で願っていた。だが、相楽|雪政《ゆきまさ》に、ひとを活気づける何かがそなわっていることはたしかだった。彼が神社に泊《と》まっていった後は、食卓《しょくたく》がひときわ静かに感じられてならないのだ。
二者面談は休み明けだが、相楽とて暇《ひま》な身ではないのだから、当日しか現れなくても文句は言えない。だが、なんとなく相楽には、もう少しいろいろ話がしたかった気がした。
(これって、わたしが淋《さび》しいということかな……)
見事に咲いた石楠花をながめる季節は、神社の人々が忙しい季節でもあり、ひとりにされるのは毎度のことだ。それなのに、この日はそんなことを考えた。鮮《あざ》やかな日射《ひざ》しと花の色がこれほど喜ばしげなのに、自分だけものういのが妙《みょう》だった。
通り慣れた道を一周して、神社に向かって坂を下ってきたときだった。杉《すぎ》の古木が並んだ坂の下に、古木に寄りそうようにして立つ、見かけない少年を目にした。
おやと思ったのは、連休中だというのに制服姿だったからだ。上着を脱《ぬ》いでいたが、明らかにどこかの学生服で、白のワイシャツに細いえんじのネクタイを結び、濃緑《のうりょく》と紺《こん》のチェックのズボンをはいている。すらりと伸《の》びた体つきで、高校生だろうと思われた。
脇道《わきみち》があれば、泉水子は対面を避《さ》けてそちらへ回るところだ。しかし、あいにくとここには他《ほか》に道がなかった。相手はこちらに気づいていない。携帯《けいたい》電話のカメラをかまえて幹のそばに背をかがめ、熱心に何かを撮《と》っていた。景色や花を写す角度ではないので、泉水子も多少は好奇《こうき》心にかられた。
白ワイシャツの背中近くまできたとき、初めて彼の関心が昆虫《こんちゅう》にあったとわかった。荒《あら》く裂《さ》けた杉の木の皮に、背の色筋の鮮やかな大型の虫がとまっていたのだ。
もちろん、玉倉山に生息する昆虫の数は多い。だが、泉水子は特に興味をもってはいなかった。嫌悪《けんお》するほど虫ぎらいではないが、特別に親しみを感じているとも言えない。虫の種類を見分ける力も、名前の知識もごく人並みだ。気づいたとたんに関心は失《う》せて、さっさと後ろを通りすぎようとした。
しかし、少年は気配を感じてふり向き、かがめていた背を伸ばした。
泉水子はまだ相手より高い位置にいたので、見上げられる形になった。急いで顔をそらせようとしたが、少年の視線は吸いつくように泉水子に止まり、それができなくなった。
「鈴原《すずはら》……泉水子?」
ひどく疑わしげに彼は言った。ただの参拝客ではないことに気づき、泉水子も思わず足を止めた。しかし、この人物がだれかはわからなかった。
きつい感じに整った顔立ちで、とくに眉《まゆ》と目つきに鋭《するど》さがある。額にさりげなくかかった髪《かみ》とトラッドな制服の着こなしは、端正《たんせい》で隙《すき》のないものだった。全体として、ランクの高い私立校の品行方正な生徒を印象づけるようだ。
「あの、どなたですか……」
しかたないので、泉水子は小声でたずねた。こちらを見上げた瞬間《しゅんかん》の顔には、どこか陰《かげ》りがあり、よるべないものを感じさせた。だが、それは、単に泉水子の心境がそういうものだったのかもしれなかった。少年の表情は、相手を認めたときから一変して、陰りがあるどころではなくなった。それはむしろ、おおっぴらにあきれた顔だった。
「おまえ、まじ? まじで、鈴原泉水子なのか」
言わずにはいられないように少年はくり返した。泉水子がめんくらって黙《だま》っていると、彼はさらに続けた。
「信じられない。どうしてこれが――こんなのが、女神《めがみ》だって言えるんだ」
(女神――?)
泉水子も耳を疑った。自分のお下《さ》げ髪《がみ》やメガネや、家にいるときの恰好として着ていたトレーナーとジーンズがどれほどやぼったいか、少年の顔にはっきり書いてあった。そのことに、いたたまれない気持ちにさせられたあげくの発言なのだ。それはないだろうと思った。
(だれが、そんなばかなことを――)
「どこへ行っているんだ。勝手に境内《けいだい》を歩き回るんじゃない」
相楽の声がした。泉水子も少年も顔を向け、相楽雪政が近づいてくるのを見守った。足取りは軽快、ベージュのジャケットの下には黒のTシャツを着て、やっぱり二十代前半にしか見えない。
「ああ、泉水子、こいつのことを憶《おぼ》えているかい。深行《みゆき》だよ。わたしが最初にここに住みこんだころ、つれてきていただろう」
相楽は笑顔《えがお》で泉水子を見やった。だが、泉水子は当時を思い浮《う》かべられなかった。相楽が子づれで神社にやってきたことは、うっすら記憶《きおく》に残っているし、息子《むすこ》と修行者《しゅぎょうじゃ》の宿所で過ごしたあれこれは、佐和《さわ》たちの話でよく聞いている。それでも、目の前の少年がその息子だったとは、聞いて驚《おどろ》いた。見たところ、父親とはまるでタイプがちがうのだ。
「お、憶えていません」
「まだ、小学校に上がるか上がらないかの年だったから、無理もないかな。でも、こいつも三ヶ月ほど玉倉神社で暮らしたんだよ。深行のほうはすぐにわかったか?」
「おれも憶えていない。お下げだけだ」
息子はぶっきらぼうに答えた。彼は相楽がそばに来たことで、やけにこわばった表情になったようだった。
「まさか、いまだにお下げのままで、山の中にしか見かけないタイプとは知らなかった」
「口のききかたに気をつけるんだ、深行」
相楽はたしなめたが、依然《いぜん》として笑顔だった。間近に並ぶと、深行の背丈《せたけ》がすでに父親に追いつき、いずれは越《こ》えることがわかる。父子にはとても見えず、兄弟か友人のような二人だが、どちらもきわだって印象的だった。
栗色《くりいろ》の髪をしてにこやかな、若手の俳優のような雪政。秀才《しゅうさい》然として大人びた、仏頂面《ぶっちょうづら》の深行。だが、深行の背がどれほど高くどれほど顔をしかめようとも、並べば初々《ういうい》しさは彼のほうにあった。それは、制服のせいばかりではなかった。
「泉水子、わたしは深行と社務所にごあいさつをしてくるが、それがすんだら佐和さんにもあいさつに行くから、よろしく伝えておいてくれないか」
相楽はそう言って背を向けて歩き出した。背の高い息子は口をつぐみ、むっつりと後に続いた。泉水子は、まだ驚きやまない目で彼らを見送った。
相楽がどうして突然《とつぜん》息子をつれてきたのか、さっぱりわからないが、深行がおもしろく思っていないことははた目にも明らかだった。中三男子がすなおな口などきかないのはわかっているが、それでも彼が泉水子にとった態度には、こちらも心中|穏《おだ》やかにはなれなかった。
佐和は、期待にはちきれんばかりになって彼らを出迎《でむか》え、玄関先《げんかんさき》で感嘆《かんたん》の声をあげた。
「まあ、深行くん。驚いた、なんて大きくなって。それに、ずいぶん大人っぽくなって。泉水子さんと同い年とも思えませんよ。これがあの片時もじっとしていられなかった、やんちゃな男の子だなんて」
進み出た深行は、打って変わって行儀《ぎょうぎ》のいい笑顔だった。泉水子がひそかにあきれたくらい、百八十度切り替《か》わっている。
「ご無沙汰《ぶさた》しています。じつはもう、断片《だんぺん》しか憶えていないんですが、以前に来たときには、末森《すえもり》さんにずいぶんご迷惑《めいわく》をかけたのではと思っています。そのおりには、たいへんお世話になりました」
「お世話になりましただなんて……深行くんからそんな言葉を聞く日がこようとは、思ってもみませんでしたよ。さあ、上がってお茶を飲んでいってください。作ったばかりの蒸《む》しケーキもあります」
佐和が言うのを聞いた深行は、まんざらお愛想《あいそ》でもない口調で言った。
「ああ、末森さんの作ったおやつは、楽しみだったからよく憶えていますよ。食い意地がはっていたもので」
深行のマナーは、それからも模範《もはん》的だった。大人の前で必要以上に硬《かた》くもならず、目上への言葉づかいはよどみなく、相手の意を汲《く》む会話ができる。中学生のくせに、いったいどこで身につけたのかと思うほどそつがなく、佐和は有頂天《うちょうてん》の表情だった。
「話には聞いていたけれど、深行くんって、あの有名な慧文《けいぶん》学園の生徒さんなんですって?」
お茶を並べたテーブルについた佐和は、そのように口火を切った。深行はいくらか謙遜《けんそん》して答えた。
「有名なのは、甲子園《こうしえん》でよく耳にする名前だからでしょう。高校の野球部に入れるのは、スポーツコースを取った連中で、おれはそうじゃありません」
「野球でなくとも、中高|一貫《いっかん》の進学校としてもずいぶん有名ですよ。入試はさぞ倍率が高かったのでしょう。入ってからも、勉強がたいへんなのではなくて?」
「そうですね。そういえば最近は、勉強しかしていないような気がします」
「優秀《ゆうしゅう》なのね。相楽さんの息子さんが、まあ、こんなに優等生だったとは」
佐和はしきりに感心しながらたずねた。
「お父さんが日本にいらっしゃらないあいだは、どういうふうに過ごしていたの? お家には深行くんひとりで?」
「だいたいはひとりで。それなりに」
隣《となり》で相楽が口をはさんだ。
「自分のことは自分でできるように育ててありますから、深行は」
佐和が感心を分かち合いたいように泉水子を見やったので、泉水子は急いで蒸しケーキの上に顔を伏《ふ》せ、視線をやり過ごした。
「そういえば、深行くんは、中学一年のうちに羽黒《はぐろ》で峰入《みねい》りをはたしたとか。こちらのほうが知り合いが多くいるのに、どうしてわざわざ遠い東北まで?」
佐和が口にしたのは、山形県にある出羽《でわ》三山――月山《がっさん》、羽黒山、湯殿《ゆどの》山――のことだった。泉水子も、聞きかじった程度の知識ならあった。何日ものあいだ山中をさすらう、伝統的な修験《しゅげん》の行《ぎょう》を峰入り修行という。ここ大峯奥駈道《おおみねおくがけみち》もそうした修行の場であり、行者《ぎょうじゃ》が七日以上かけて吉野《よしの》から熊野《くまの》まで山を越えるが、出羽三山にも同じように、峰入りの行法《ぎょうほう》があるという話だった。羽黒修験と呼ばれるらしい。
深行はごくかるい口調で答えた。
「おれの場合、たまたま、千石《せんごく》さんが先達《せんだつ》になってくださったので」
「ああ、千石さんね。お父さんを先達にして、大峯奥駈の峰入りをする気はなかったの?」
ちらりと隣を見て、深行はにっこりした。
「この人、おれと親子づれになるのをいやがるんです。若づくりしているものだから」
相楽も、苦笑《くしょう》には見えない笑顔を浮かべた。
「いやがっているのはそっちだが、修行はもともと個人のものだから、わたしと同じことをする必要はないよ」
「当然でしょう。おれは、親父《おやじ》など超《こ》えるつもりですから」
佐和は声をたてて笑った。親子らしい応酬《おうしゅう》と感じたのだろう。泉水子の目から見ても、笑顔を並べている二人は和《なご》やかに見えた。そうしていると、深行も思ったより父親に似ているかもしれない。ひとの気をそらさない笑い方がそっくりなのだ。
「本当に、深行くんがこれほど一人前になってしまうと、こちらは歳を思い知らされますよ。やんちゃでいたずらで、泉水子さんなど泣かされてばかりいて、どうしたものやらと思っていた子が、これだけ変わるんですものね」
佐和がしみじみ述べるので、深行がかしこまった。
「ああ、それは、さっき宮司《ぐうじ》さんにも言われてきました。あのころは、手のつけられないわんぱく坊主《ぼうず》だったと――」
「そうですよ。ご神木《しんぼく》に登って降りられなくなったり、ひとりで山に入ってしまって、みんなで青くなって捜索《そうさく》したり」
それからは、相楽がいとまを告げるまで、佐和の長い思い出話が続いた。泉水子の記憶になくても、佐和にはしっかりしみついているようだった。話を聞くうちに、ぼんやり浮かんでくる場面もあったが、手応《てごた》えはあまりない。泣かされたことさえ思い出せないのは、不思議といえば不思議だった。
彼らはこれで帰宅するというので、泉水子は佐和に言われるまま、駐車《ちゅうしゃ》場まで見送りに出かけた。せっかく相楽が来たというのに、ほとんど自分の話ができなかったという思いも少しばかりあった。
三人はしばらくのあいだ、口数少なく小道を歩いた。相楽まで話し出さないのは、泉水子にはめずらしいことのように思えた。息子の前ではあまり話さないのかと考えていると、ふいに口を開いたのは深行だった。
「どういうつもりなんだよ」
相楽はとぼけて応じた。
「何のことかな」
「急に紹介《しょうかい》してまわるのが、おかしいって言っているんだよ。不気味だろう、父親づらなんかして」
今さっきにこやかに話していたのが嘘《うそ》のような、不機嫌《ふきげん》な口ぶりだった。こちらが彼の地なのだと、泉水子はひそかに考えた。けっこう、表裏のあるタイプなのだ。
「もちろん、紹介する必要ができたからそうしたまでだよ」
相楽は落ち着きはらって答えた。
「いずれ、泉水子には引きあわせるつもりだったが、予定が急に早まっただけだ」
「会ったよ、この目で確認《かくにん》した。それで?」
急にふり向いた相楽は、やわらかな声で泉水子にたずねた。
「泉水子のほうは、深行を見てどう思ったかな。こいつと仲よくできそうかい?」
(……できそうにありません)
結論はすでに出ていた。かたわらの深行がきつい目でにらみつけるのだから、なおさらのことだ。だが、声に出してきっぱりと言うのはためらいがあった。
「いえ、あの……」
口ごもっていると、相楽は深行に目をもどして言った。
「彼女はこういう女の子なんだ。深行にもわかっただろう」
深行は声をいらだたせた。
「その、見合いさせたような言い方をやめろよ。鳥肌《とりはだ》が立つんだけど」
「見合い? とんでもない。そんなばかげた考えは捨てていいよ」
相楽はあっさり口にした。
「身分がちがいすぎる。深行がなれるとしたら、せいぜい下僕《げぼく》とわきまえるんだな」
深行もさすがにめんくらった。
「何か、今、時代|錯誤《さくご》な単語を聞いた気がするが、おれの気のせいなのか?」
三人は、駐車場の入り口でいつのまにか足を止めていた。もちろん泉水子も、相楽がまじめに言っているとは考えられなかった。あきれて見つめる中三の二人の前で、相楽は肩《かた》をすくめた。
「たしかに、その言葉は現在使われていない。けれども、言葉が消えても関係性は続くんだよ。泉水子には選択《せんたく》権があって、われわれにはない。わきまえろというのはそういう意味だ」
深行は泉水子を指さした。
「これが女神だからとか何とか、そういうトンデモ話をしているのか」
「女神と呼ぶのも方便《ほうべん》だが、守り育てられるさだめの女の子ではある。それも、一人二人の手ではなく、多くの人間によって」
「こんなのが?」
ついに黙っていられなくなって、泉水子も口を開いた。
「わたしだって、そんな話は聞いていません。どうしてそんなことを言うの?」
相楽はいつもの明るいまなざしで泉水子を見た。
「泉水子はべつに、よく知らなくてもかまわないんだよ。これは、われわれの側の問題なのだから」
深行がさえぎった。
「ちょっとまて。われわれの側とはおれも入っているのか」
「当然だな。わたしの子だろう」
「あんた、本当におれの父親?」
「DNA鑑定《かんてい》ならすませてある、離婚訴訟《りこんそしょう》の際に」
深行をたちまち黙らせてから、相楽はほがらかに言葉を続けた。
「予定では、泉水子も深行も東京の鳳城《ほうじょう》学園に進学して、そこで顔を合わせればすむはずだった。でも、どうやら、そういうわけにはいかないとわかってね。泉水子がどうしても地元の高校に進学したいと言うなら、尊重しないわけにいかない。深行もそこに進学することになるだろう。そういうことなら、慧文学園で学んでいるのもまったく無駄《むだ》な学費になるし、人見知りな泉水子が慣れるには早ければ早いほうがいいから、今すぐこちらに転校するのがいいと思って」
会心の笑みで、相楽はその爆弾《ばくだん》宣言をしめくくった。
「そのために、今日はごあいさつに来たというわけなんだよ。よく理解したかい」
「おい、雪政」
息をつまらせた深行は、父親を呼びすてにした。
「頭がおかしいんじゃないのか。自分の息子の将来を、こんな女のせいで棒にふらせる気か」
「深行の一生は、泉水子につきそうためにあると言ってもいい。泉水子と同年に生まれたことが運命の決め手だね」
「冗談《じょうだん》じゃない。死んでもしないぞ、そんなこと」
飛び離れて相楽と距離《きょり》をとった深行は、叫《さけ》ぶように言った。
「そこまでばかげた決めつけに、どこのだれがハイハイと従うんだよ。だれもがそうしたがる美人とでもいうならともかく、こんな……見映《みば》えしないのを相手にして」
「わたしだって、いやです」
ろこつな言葉をぶつけられたせいか、泉水子も急にはっきり言うことができた。
「深行くんに転校してほしくありません。今いる学校は中高一貫校なのでしょう、そのまま進学してください」
「聞いただろう。さっき、鈴原には選択権があると言っていたはずだな。鈴原はそう言っているぞ」
深行が急いで念をおし、相楽は考えるように泉水子を見やった。
「ひょっとして、こいつの立場を思いやっているのかい。もしそうだとしたら、少々筋ちがいというものだよ」
泉水子ははっとした。大成《だいせい》が決めたとおりに鳳城学園に進学するなら、こんな問題は起こらない――相楽は暗にそう語っているのだ。だが、それがわかったところで、承服などできるものではなかった。手を握《にぎ》りしめて言った。
「とにかく、わたしもいやだから。深行くんもだけど、わたしだって、そんなふうに高校を決められたら困ります」
「うーん、泉水子にそこまで言われると、ちょっとね」
相楽は栗色の髪に手をやった。
「これ以上の議論はよそう。駐車場で話しこむ話題でもない。二人の感触《かんしょく》はまあまあわかったから、今日のところはこれで退散するよ」
かたわらで深行がぶつぶつ言った。
「会わせる前に察しろよ、少し考えればわかるはずなのに。いつだって、はた迷惑な思いつきしかできないんだから。こんなこと、喜ぶやつがいるとでも思っていたのか」
言うとおりだと、泉水子も心から思った。これほど突飛《とっぴ》な思いつきのできる相楽は、じつは考え方も子どもっぽいのではないかと、ひそかに疑ってみる。二人が乗った車が走り去ると、心底やれやれと思った。静謐《せいひつ》な山中が、相楽親子にかき乱されたような気がしてならなかった。
(……まさか、実現したりしないよね)
拒否《きょひ》できてよかったと胸をなでおろしながらも、相楽が口にした言葉の中には、いろいろ気になるものが含《ふく》まれていた。後で竹臣《たけおみ》に聞いてみようと泉水子は考えた。
社務所からもどってきた竹臣と佐和の会話は、深行の話題でもちきりだった。
予想できなくはなかったが、佐和だけでなく竹臣も、深行の礼儀正《れいぎただ》しさや利発さにしきりに感心していた。
「相楽くんの息子は、よい資質をもっているな。今では手のかからない息子と聞いてはいたが、たしかに、十三歳で峰入り修行をするだけのことはある。中学生のうちからあの落ち着きは、なかなか得られないものだよ」
「頭のよさは、香織《かおり》さんに似たんでしょうね。深行くんがきかん坊《ぼう》だったのは、両親の離婚《りこん》のせいだと、当時から思っていましたよ。この子はお母さんが恋《こい》しいのだろうと。りっぱに成長して、今では名残《なごり》もありませんねえ」
二人とも、深行が地を出したところを見ていないのだと思いながら、泉水子はしばらく黙って聞いていた。それから、おもむろにたずねた。
「おじいちゃん、相楽さんがわたしを、多くの人間で守り育てる女の子だと言ったのはどうして?」
竹臣と佐和は、はっとした表情でこちらを見た。
「相楽くんは、他にも何か言っていたかね」
問い返され、ためらいながら泉水子は口にした。
「時代錯誤な、身分ちがいとか、下僕とか。それから、深行くんを外津川《そとつがわ》高校へ行かせたいとか。わたしはことわったけれど、深行くんだって、そう言われてずいぶん驚いていた。どうしてそんなことが言えるのかな」
竹臣は、ため息をついてから言った。
「それはだな……相楽くんが、山伏《やまぶし》だからだ」
「山伏? 山伏|装束《しょうぞく》の?」
泉水子は目をぱちくりさせた。山伏装束と名のつく、峰入り修行をする行者にふさわしい装束があるのだ。
奥駈道に接する玉倉神社では、この姿も毎年見かけるものではあるが、そうそう世間でお目にかかれるものではなかった。歌舞伎《かぶき》や狂言《きょうげん》に出てくるほど時代がかった装いで、兜巾《ときん》と呼ばれる黒く固い被《かぶ》りものを被り、手《て》っ甲《こう》と脚絆《きゃはん》をつけ、丸い房《ふさ》のついた結袈裟《ゆいげさ》などの独特な小物を身につけるのだ。法螺貝《ほらがい》や錫杖《しゃくじょう》を手にもする。
竹臣は慎重《しんちょう》な口ぶりで言った。
「装束を着ていないときでも、峰入り修行をしていないときでも、山伏である者たちがいるのだよ。彼らはほとんどそのことを明かさないし、はた目にはそうも見えないが、今もある程度の人数で存在しているのだ。そして、山伏には、代々|秘《ひ》め隠《かく》しながら守っている家系がある――おまえがその血をひいているような」
泉水子は祖父の顔をまじまじと見た。
「と、いうことは、おじいちゃんも守られているの?」
「いや、わしは中に入らない。これは女系で継《つ》ぐものなのだ」
泉水子が考えこむと、竹臣はなだめる声音《こわね》になった。
「だが、おまえが気にすることではない。ふつうの女の子の暮らしがしたいと思えば、そうしてかまわないのだよ。紫子《ゆかりこ》とて、自分のしたいようにふるまって、今では公安に職を得ている。肝心《かんじん》なのは、おまえが自分を曲《ま》げないことだ。曲げてもいい影響《えいきょう》はでないのだからね」
全部を納得《なっとく》したわけではなかったが、泉水子はうなずいた。
「わたし、まちがっていないよね……」
そのときはそれでよかった。だが、結局、気にしないですませることは不可能なことがわかったのだった。
三日後の夜、相楽雪政から鈴原家に電話がかかってきた。
電話の応対に出た竹臣は、もどってきて困惑《こんわく》気味に泉水子に告げた。
「深行くんが、粟谷《あわたに》中に転校すると承知したそうだ。月曜からになるそうだよ」
二
(あれだけのことを言った深行くんが、転校してくるはずはないのに……)
月曜日、泉水子は気もそぞろな思いで登校した。だが、結局、相楽深行は粟谷中に現れなかった。
クラスの生徒たちはいつもと変わりなく、転校生のうわさは影《かげ》もかたちもない。泉水子は気が抜《ぬ》ける思いだった。やっぱり、そこまで常識はずれの事態が現実には起こるはずがないのだ。相楽が電話で言ったというのも何かのまちがいだったようだ。
この日は進路の面談日でもあったが、授業と並行して行われるため、来校した保護者と生徒が顔をあわせるとは限らなかった。
相楽は約束どおり、泉水子の保護者代理として面談にやってきたが、やはり授業中のことだったので、相談室で用事をすませると顔を見せずに出ていったらしい。泉水子が相楽の来校を知ったのは、彼がすでに帰りの車に乗りこむときで、窓から見ていた数名の女子が気づいてさわいだせいでそれとわかったくらいだった。今日の相楽がぱりっとしたスーツ姿だったということだけ、彼女たちの言葉からもれ聞いた。
(……わたしに何も言っていかないところをみると、やっぱり、転校の話はなかったことになったんだ)
泉水子はそう考え、自分の進路希望に関する騒《さわ》ぎもこれでようやく収まったと、胸をなでおろした。大成のプランにそむいて、内心不本意だったかもしれないが、それでも相楽は泉水子の希望を尊重してくれたのだ。神社で顔をあわせたら、あらためてきちんとお礼を言おうと心に誓《ちか》った。
家に着いてみると、先に来ていると思った相楽の姿はなかった。けれども佐和には電話があって、もうまもなく訪《おとず》れるという話だった。
あたりが暗くなるころになって、スーツ姿の相楽はようやく現れた。そして、彼の背後には深行の姿もあった。泉水子は仰天《ぎょうてん》して、相楽に言おうと用意していた言葉を全部忘れてしまった。それも無理のないことだったのだ。深行は右腕《みぎうで》を包帯でぐるぐる巻きにして肩から吊《つ》り、ほおにも絆創膏《ばんそうこう》をはっているという一変した姿だった。
佐和もいっしょになって仰天した。
「どうしたの、深行くん。そのけが」
さすがに今回ばかりは父子とも笑《え》みを浮かべなかった。深行は顔色も悪い様子だった。
「……たいした事故ではないんですが、自転車で車にひっかけられて」
「交通事故? たいしたことないって本当なの?」
相楽は懸念《けねん》のある顔つきながら、なめらかな口調で言った。
「本人の不注意がまねいたと言いたいところですが、こちらへの転校手続きがすんでからのできごとだったので、少々弱りました。医者の話では、二週間ほど右手が使えないということで、これではひとり暮らしをさせるわけにはいかないでしょう。またもやご迷惑をおかけしますが、深行の腕が治るまでのあいだ、神社から粟谷中へかよわせるわけにはいかないでしょうか」
この事態には竹臣も社務所から出てきて、居間で相楽親子と向かい合った。竹臣は、深行が転校を承知したことに関して、泉水子と同じくらい驚いているようだった。父の雪政ではなく、深行の顔を見て問いただした。
「慧文学園のような進学校を退学して、こんな奥地に転校して、本当にそれでよかったのかね。相楽くんの配慮《はいりょ》もわからなくはないが、きみのように能力のある生徒が、学業を捨ててまで移ってくることはないのだよ。粟谷中に転校するのは、本当にきみの意志なのかね」
「はい、父ともよく話し合いました」
深行は平静な口ぶりで答えた。包帯と絆創膏が目に痛々しいわりには、態度はしっかりしているようだった。泉水子は彼の落ち着きぶりを信じられない思いで見つめたが、深行はその視線を無視した。
「慧文の中等部は、受験したらたまたま合格してかよっていましたが、あそこでは、勉強以外に何もできないと感じてはいたんです。最初の二年間で、中学校課程を最後まで終わらせるような学校ですから。そういう環境《かんきょう》でなくとも、自分なら目ざす大学には行けます」
「きみは、慧文の生徒よりさらに優秀だと言いたいのかね」
竹臣の言葉に、深行はほほえむ余裕《よゆう》を見せた。
「学習で浮いたこの一年に、大峯の奥駈修行を見聞きするのもいいかと思っています。中一の峰入り以来、一度も山には行けなかったし。でも、玉倉神社にごやっかいになろうと思ってはいません。学校近くに家を借りて暮らすつもりです」
彼があまりに誠実そうに話すので、それがとりつくろった言葉だとは、ほとんどだれにも見抜《みぬ》けなかった。泉水子であっても、駐車場で見せた言動を知らなければ、優等生の言葉をうのみに信じただろう。だが、知っているのでうわべだけだとわかった。深行は、ほほえむときには本心を語らないのだ。
そうとは知らない竹臣は、気持ちをくすぐられ、すっかり感心した面《おも》もちになった。
「ここの修行を学びたいというのに、いちがいに反対はできんだろうな」
佐和が口をはさんだ。
「でも、まず、そのけがをきちんと治さないと。世話する人もなしにひとり暮らしなど、できない相談ですよ。深行くんがすっかりよくなるまで、わたしが責任をもってめんどうを見ます。大成さんのいらした部屋が今は空いているから、そこを使えばいいわ」
相楽はためらう顔を佐和に向けた。
「深行に、そこまでしていただくわけにはまいりません。以前のように、宿所の片隅《かたすみ》にでも寝泊《ねと》まりさせていただけたらと考えたのですが」
「けが人だというのに、何を言っているんです。片腕が使えなくては、着替《きが》えひとつだってたいへんですよ。不便をしていないか、様子を見に行き来するくらいなら、同じ屋根の下にいてもらいます。そうですよね、竹臣さん」
佐和に同意を求められ、竹臣もうなずいた。
「中学生がひとりで宿所に泊まることはない、寝る場所がないというならともかく、住み心地《ごこち》のいい家がそばにあるのだから」
泉水子は戦慄《せんりつ》せずにいられなかった。なりゆきにめまいがしてくる思いだった。
(お――男の子がこの家でいっしょに暮らす? 粟谷中までいっしょにかよう? この先二週間というもの、朝から晩まで顔をつきあわせて過ごすというの……)
いやだと言いたかったが、さすがにそれはできなかった。深行はけが人で、けが人にはいたわりが必要なのだ。自分が拒否しては人品《じんぴん》を疑われてしまう。
(こんなことになるなんて。まるで、何かの陰謀《いんぼう》みたいに……)
それを謀《はか》った人物がいるならば、相楽雪政しかいないのだが、表情をうかがっても何も読みとれなかった。深行の行き場所が定まって、彼は陽気さを取りもどしていた。だれが目にしても快い、明るく華《はな》やかな笑顔だ。
「本当にすみません。お言葉に甘えて、深行をここに置かせていただきます。わたしもこれで、安心して仕事に出られます」
夕食はにぎやかなものになった。竹臣もこの日はいっしょに席につき、相楽と佐和は楽しげによくしゃべったのだ。深行は左手では食べづらそうで、笑ってそれを言い、あまり食べなかったが、会話には応じていた。泉水子は食欲もない上に、あまり口をきく気にもなれなかった。
その泉水子であっても、深行が体面を保つためにどれほど努力していたかには気づかなかったのだ。
佐和と二人で相楽の見送りからもどってみると、部屋に残っていた深行は、まっすぐ座っていられないようにソファーにうずくまっていた。佐和があわてて言った。
「痛むの、深行くん。食べていないとは思っていたのよ」
深行はいくらか背をおこしたが、顔は青白く、表情はこわばっていた。
「……痛み止めはのんでいるんですが」
「がまんなどしていないで、言ってくれればよかったのに。あなた、来てすぐに寝かせるべきだったのね。少しだけ待っていて、今すぐベッドの用意をしてくるから」
佐和は大成の部屋へ飛んでいった。泉水子と佐和は二階で寝ているが、大成の寝室《しんしつ》は階下にあり、部屋としても大きいものだった。
泉水子が所在なくかたわらに立っていると、深行は頭を下げて座り、顔を伏せたままだった。初めて純粋《じゅんすい》に気の毒に思ってから、ふと気がついた。今までは相楽がいたから、深行は意地でも弱みを見せなかったのだ。
泉水子は思わず小声でたずねた。
「深行くん、本当は粟谷中に来たくなかったんでしょう」
うつむいたまま深行は答えた。
「聞くなよ、当然すぎることを」
「どうして、転校することにしたの」
「殺されるよりましだった」
ぎょっとする答えを返してから、深行は低い声で言った。
「雪政はどうかしている。あいつも、あいつといっしょにいるやつらもだ。だけど、おれだって、この程度のことであきらめがつくもんか。戦ってやる、必ず」
何と戦うと言うのだろうと泉水子が考えていると、深行は顔を上げた。顔色はひどく悪かったが、思いのほか打ちひしがれていなかった。無理やりとは見えるが、それでも口もとに笑みを浮かべた。
「そういうわけで、おまえもおれの敵だから。よろしく」
この男の子が猛烈《もうれつ》に腹を立てていることだけは、泉水子にもよくわかった。泉水子が同情したことを察して、それを手ひどくはねつけたのだ。まっこうからの敵対宣言にびっくりし、深行の出現から感じ続けている理不尽《りふじん》さをまた味わった。
(わたしだって、転校などさせないでくれと言ったはずなのに……)
まもなく佐和がもどってきて、あわただしく深行を大成の部屋へつれていった。だが、深行の内側に巣くった怒《いか》りの名残が、まだソファーのあたりにただよっているように感じられた。自分がこの怒りの矢おもてに立ったまま、明日からの日々が続くのかと思うとぞっとする。
(もしかしたら、わたし、とんでもない立場になってしまったのでは……)
深行《みゆき》は大成《だいせい》のベッドに入ると、なんと、そのまま翌朝になっても起きてこられなかった。だれが予想したよりも、実際には具合が悪かったのだ。
佐和《さわ》もこれには驚《おどろ》いて、男の人はこういうことに気づかないから困ると、めったになく電話口で相楽《さがら》を非難していた。深行は発熱していたし、右腕《みぎうで》以外にもいろいろ痛めていたし、ここ数日はよく眠《ねむ》ってもいなかったらしい。
泉水子《いずみこ》は、問題は黙《だま》っている深行のほうにあるのではと考えたが、佐和の口ぶりはそうではなかった。彼女は、深行に手のかかる子どもの部分を見つけて、そのことをどう見てもうれしがっていた。佐和の看護がいたれりつくせりなので、泉水子は大成の部屋に一歩も近寄らなかったが、早くも家の中の均衡《きんこう》が変わりつつあるのを感じていた。
「おじいちゃん、深行くんのけがは、粟谷《あわたに》中に転校してくることと関係があったんじゃないかな」
朝食の最中に、竹臣《たけおみ》に言ってみた。佐和は深行の様子を見にいっており、席にはついていない。
「どうしてそう思うのだね」
「細かいことはわからないけれど、こんなタイミングで事故にあったのは、転校がいやだったからじゃないかと」
「相楽くんも本人も、わしにはそうは言わなかったが、おまえの前ではいやだと言ったのかい」
竹臣はたずね、泉水子はうなずいた。
「深行くんもわたしも、相楽さんにははっきり言ったはずなの。それなのに、いつのまにかこうなっているんだもの。深行くん、強制されたとしか思えない」
竹臣は考えこむ様子で漬《つ》けものをかじり、しばらく答えなかったので、泉水子はさらに言ってみた。
「けがが治ったら、もとの学校にもどす手続きができないかな。ねえ、おじいちゃんの力で、そうするわけにはいかないの?」
むずかしい表情をして竹臣は言った。
「おまえがそう言うなら、深行くんの具合がよくなったときに、もう一度聞いてみることにしよう。今度のことが相楽くんの考えだということは、わしも承知している。だが、深行くんが自分でそうすると言う以上は、口をはさめないものごとだよ」
「わたしには、選ぶことができないの? 相楽さんはそう言わなかったはずなのに」
泉水子が訴《うった》えると、竹臣はゆっくりと頭をふった。
「そうだな、おまえにもできないことだ。おまえが選ぶのはおまえ自身の道であって、相楽くん親子にはまたそれなりの、自分たちの考え方で道を選ぶ権利があるのだから」
「でも……」
「わしがこう言うのは、相楽くんが、深行くんを鍛《きた》えるつもりだと知っているからだよ。深行くんはつまり、息子《むすこ》であると同時に、まれに見るほど山伏《やまぶし》の素質をもつ人材なのだよ」
竹臣の口調に泉水子は黙ったが、山伏とは一体何なのだと考えずにはいられなかった。
(これのどこが、鍛える方法になるというのよ……)
三日をおいて、深行はようやく新しい学校へ登校することになった。
右腕をまだ吊《つ》っており、上着には腕を通せなかったが、深行は粟谷中の紺色《こんいろ》の制服を身につけて朝食の席に現れた。よく休んで痛みがひいたせいか、顔つきもさっぱりとして見え、明るく自信たっぷりな様子だ。来た日の夜は相当な不調だったのだと、今なら泉水子でもわかるようなちがいがあった。
竹臣は、泉水子との約束をたがえず、深行に問いかけた。
「もう一度聞くが、どうしても転校することに気がすすまなければ、わしが口ききをしてもいいのだよ。このまま粟谷中へ行っていいのかね」
「もちろん行きます。もう、決めたことですから」
たいそうがっかりさせることに、深行はほがらかな口調で答えた。
(どうして本当のことを言わないんだろう……)
非難の目で見やっても、深行はそ知らぬ顔だった。泉水子に対しても、同じ明るさで話しかけてくる。
「もしかして、おれが行きたくないとでも宮司《ぐうじ》さんに言ったの? それは誤解だと思うよ。きみの行っている学校には、おれも興味があるよ」
「うそ……」
開いた口がふさがらない思いでつぶやくと、深行は臆面《おくめん》もなく言ってのけた。
「嘘《うそ》じゃないよ、これから同級生としてよろしく。クラス仲間への紹介《しょうかい》を期待しているよ」
佐和などは、真面目《まじめ》に同意して彼の言葉に言い添《そ》えた。
「そうですよ、泉水子さん。前の学校と環境《かんきょう》がずいぶんちがうのだから、深行くんになじめないところがあったら、あなたがいろいろ手助けしてあげないと」
泉水子にもようやく、深行は優等生の仮面をはずす気がないのだとのみこめてきた。だが、二人だけで駐車《ちゅうしゃ》場までの道にさしかかったとき、がまんできなくなって口にした。
「おじいちゃんに本当のことを言えば、変えてもらえたかもしれないのに。どうして自分でだめにするの、最後のチャンスだったのに」
「一度言ったことを取り消すのは、プライドに合わない。それに、宮司が取りなしてくれても、どうせむだだよ。仕切っているのは雪政《ゆきまさ》だ」
深行は低い声で答えた。
「おまえもよけいなことを言うなよ。おれはこれ以上、自分の立場を悪くするつもりはないんだ」
「でも、このままでは……」
「巻き返しの方法は他《ほか》にもあるはずだ。おれだって、黙って雪政の言いなりになる気はないが、あれが保護者で権限をにぎっている以上、表だって逆らってもねじ伏《ふ》せられるばかりだ。もっと利口に立ち回って、あいつの弱みを突《つ》かないと」
深行はこの三日ベッドにいるうちに、かなり自分を立て直したようだった。それでも、相楽の名を口にするときには怒《いか》りがにじんだ。
「ここまで所有物に扱《あつか》われてはたまったものじゃない。今どき、どうしてここまで人権無視のふるまいができるのか、あいつがどういうものに属しているのか、もっとのみこんでから対策を練らないと。『汝《なんじ》の敵を知れ』ってことだ。見ないふりをして慧文《けいぶん》で勉強していても、もう役に立たない」
泉水子は竹臣にたずねたことを思い返した。
「相楽さんは山伏だって……おじいちゃんが言っていた」
「だから、なんだよ」
「わたし、この前初めて聞いた」
「ずいぶんお気楽なんだな。雪政がこれほど気のふれたふるまいをするのは、おまえがいるからだというのに」
ぐさりと言われて、泉水子は思わず黙りこんだ。深行は歩きながら泉水子を見て、そっけなくつけ加えた。
「気にしなくていいぞ、おれは何があろうとトンデモ話は認めていないから」
うわべに明るく話すことができたとしても、深行はこれが泉水子のせいだと決して忘れず、許しもしないのだと泉水子は考えた。
(この人の敵は、父親の相楽さん。そして、わたしなのだ……)
怒りをまき散らさなくなったぶん、もっとたちが悪くなったようだ。
これ以上|気疲《きづか》れする相手はいないという気がしてきた。
三
慧文学園からの転校生は、当然ながら、粟谷中学校にセンセーションを巻きおこした。
背の高い深行が腕を吊った姿で教室に入ってくると、クラスの生徒たちは一瞬《いっしゅん》あっけにとられたが、たちまち活気づいた。転校生そのものがめずらしかったし、あれほどの有名校にかよった生徒を見聞きした者はいなかったのだ。
ましてやその生徒が、先日ヘリコプターで注目を集めた人物の息子というのでは、いやが上にも関心がつのった。黒板の前に立ち、担任に紹介される深行を見ながら、あゆみが泉水子をつっついてささやいた。
「見るからに、すっごく頭よさげ。泉水子は前から知っていたの?」
「ううん……そうじゃないけど」
「ヘリコプターの王子様にはあまり似ていないね。もっともあの人は、だれのお父さんにも見えなかったけれど。こちらはまた中学三年より年上に見える。ほら、可南子《かなこ》ちゃんのほうがたじたじしているよ」
深行はクラス中の注視を浴びて、かたわらの中村《なかむら》以上に落ち着きはらい、ふだん以上に大人びて見えた。一学年一クラスの小さな学校の生徒など、最初からのんでかかれる相手なのだ。
けれども、はっきりそれを見せつけない巧妙《こうみょう》さもあって、質問されれば適度に笑いをとって答えていた。クラスになじめないどころか一日目から束ねそうな勢いだと、泉水子はこっそり考えた。自分がとりもつ必要など、どこをとってもありそうになかった。
転校生が少しも壁《かべ》をつくらず、ざっくばらんに話すことを知って、休み時間になると、生徒たちはわれ先に深行のそばに集まった。窓側一番後ろの彼の席には、周囲に人垣《ひとがき》ができる。深行はみんなに名をたずね、たちまちクラスの顔ぶれを覚えていった。
彼にもっとも積極的に話しかけるのは、生徒会長の越川《こしかわ》美沙《みさ》だった。他の女子を従えて、クラス代表として質問する態度を取りながら、個人的な関心を隠《かく》せずにいる。
「どうして慧文学園を出て、こんな山奥に来たの?」
「家庭の事情」
深行はあっさりと答えた。
「父親が倒産《とうさん》して、借金取りに追われることになったから、ゆくえをくらまして潜伏《せんぷく》しにきたというわけ」
「ええっ、嘘でしょう」
「嘘だけどね。まあ、似たようなもん。慧文の学費は高くつくんだよ」
「相楽くんのお父さんって、このあいだ鈴原《すずはら》さんの面談に来た人でしょう。その前にヘリコプターで来たこともある」
「そうだけど、あれ、父親に見える?」
「ぜんぜん見えない」(同意の声が多数)
「おれも父親だと思っていない。ほとんどいっしょに暮らしていないし。おれにはあまり親の話をしないでくれる? 片親でもあるんだ」
深行の答えはなめらかで、かたくなに隠す気もなく、そうかといってさらけだしもしなかった。周囲の生徒の好奇《こうき》心を、冷めた目でおもしろがっている口ぶりだ。
「相楽くんって、鈴原さん家《ち》の車でいっしょに来たって本当?」
「本当だよ」
この件に関しても、深行は隠しだてをしなかった。机に片ひじをついて言った。
「腕のけがを治すまで、住むところがないから、玉倉《たまくら》神社に居そうろうの身なんだ。みごとに山の上で、行き帰り囚人《しゅうじん》護送される気分だね。おかげで、鈴原さんには頭が上がらないけれど」
深行を囲んでいた生徒たちは、いっせいにふり返って泉水子を見た。泉水子は自分の席に座っていたが、身をすくめずにいられなかった。深行の口調に含《ふく》みがあることを、ひとりだけ知っているのだからなおさらだ。
美沙は、泉水子をまじまじと見てから、向きなおって深行にたずねた。
「それって、相楽くんは、鈴原さんがいじめられたらただじゃすませないということ?」
深行は、笑顔《えがお》で美沙を見返した。
「鈴原さんは、いじめられているの?」
「そういうわけでもないけれど。でも、相楽くんが気の毒な感じ」
美沙は、はっきりとは匂《にお》わさなかったが、それでも通じるものはあった。
「きみ、越川さんだっけ。このクラスを仕切っているのは、見たところきみだね。肝《きも》に銘《めい》じておくよ」
深行に言われて、美沙はほおを染めた。
「仕切るだなんて言い方しないでよ。わたしは、生徒会長をしているだけよ。相楽くんだったら、わたしよりもっと生徒会長に適任だったのに」
「そんなことないよ」
「高校はどこに行くつもりなの?」
「どこになるかな……まだ、決まっていない」
深行はさりげなくかわした。
帰りのホームルームが終わり、美沙が再び転校生に話しかけに行くのを見やりながら、春菜《はるな》があゆみにささやいた。
「会長がはやくもめろめろだよ。相楽くんって、とてつもない男の子だね。なんというか格がちがう感じ。超《ちょう》エリートっぽい」
あゆみは泉水子を見やった。
「泉水子もえらいことになったね。あんなに出来のいい男の子が居そうろうだなんて。これから仲よく車で帰るんでしょう?」
「そうなの。えらいことなの……」
しおれる表情を隠せずに、泉水子は言った。
「春っちに、お店につれていってもらいたかったのに、相楽くんがいるあいだ、またしばらくお迎《むか》えの時間を動かせそうにないの……見捨てないでね」
春菜は一瞬きょとんとした。
「ああ、なに、美容院のこと? べつにいいけれど、もう髪《かみ》を切る必要もないんじゃないの。そのままでも、これほど頭がよくてかっこいい男の子が現れるんだもの。わたしも神社に生まれてきたかったよ」
「冗談《じょうだん》でしょう」
びっくりして言ったが、春菜は本気の口ぶりだった。
「もしかして、うらやましがられてるって自覚していないの? ヘリコプターが降りてきてからずっと、うらやましいことばかりなのに」
「うらやましい?」
「当たり前でしょう。泉水子って、けっこう特別な女の子だったんだね」
泉水子はあわててあゆみの顔を見た。
「あゆも、そう思っているの?」
あゆみはいくらか肩《かた》をすくめた。
「そりゃあね、泉水子は神社の娘《むすめ》だから、こんなに特別な知り合いがいるんだと思えば」
お下げ髪《がみ》が跳《は》ねるほどにかぶりをふって、泉水子は訴えた。
「特別じゃない……相楽さんたちがどれほど特別でも、わたしは特別じゃない。自分のあれこれには関係ないもの。それよりわたし、これからは、あゆや春っちみたいになりたいの。見習いたくて、今もがんばっているのに」
「わたしらなんて、いたって凡人《ぼんじん》だよ」
「そんなことない。あゆや春っちがいてくれなかったら、わたし、どうしたらいいかわからない。おねがい、見捨てないで……これからも、外津川《そとつがわ》高へ行っても」
泣きそうになってたのむ泉水子に、あゆみはややめんくらいながら言った。
「そこまで心配しなくても。この機会に、もっと男の子に慣れたらと言いたいけれど、それが無理だというなら、いっしょにいてあげるよ」
泉水子がほっとするのをながめて、春菜がつくづくと言った。
「たしかに泉水子の場合は、もう少しおとなしい部類から慣れたほうがいいのかもね。ヘリの王子様や慧文の秀才《しゅうさい》では、荷が勝ちすぎるかも。ふつうなら、だれが見てもうらやましい立場なのに、よくしたものだわ」
あゆみは泉水子を見てほほえんだ。
「春っちだから、こう言ってすませてくれるけれど、泉水子は、他の女子にねたまれないように気をつけたほうがいいよ。特に会長は、根に持ちだすとやっかいだから」
「そうそう、あいつは前から泉水子には当たりがきついからね」
泉水子はうなずいたが、目の前の二人をつなぎとめることにも精いっぱいな今、他の女子の思惑《おもわく》にまで頭が回らなかった。自分が深行に親切にされているならともかく、会長にねたまれると言われてもぴんとこない。ただ、相楽親子が身近にいては、友人たちでさえ遠のいてしまう危険があり、ふつうの女の子への道のりが遠いということだけは、あらためて実感するものだった。
泉水子が校門の外で自家用車に乗る光景は、だれもが見慣れてふり向きもしなくなっていたが、深行がいれば別格となった。
教室を出るときにはひやかされたし、車に乗りこむまで後をつけてくるひとかたまりの女子がいた。どうやら、好奇心にかられた下級生であるらしい。
野々村《ののむら》が車を発進させて、泉水子は初めてほっとしたが、黙りこくった深行と並んで座っているのは息がつまった。登校するときもそうだったが、深行は車中で一言も口をきかなかったのだ。
野々村も無口なので、話を切り出すとしたら泉水子からだが、不機嫌《ふきげん》に黙っている深行をかたわらにして、野々村と会話する度胸もなかった。車の中の空気は一分ごとに重くなるばかりだった。
ようやく神社の駐車場にたどり着き、泉水子はいたたまれない思いのままに、逃《に》げるように車を降りた。深行はその後ろから、ふいに声をかけた。
「鈴原って、いつでもそんなにおどおどしているわけ?」
ふり向いた泉水子が返事を思いつかないうちに、彼はさらに言った。
「ひょっとして、おまえって、クラスのみそっかす?」
「みそっかすって、何?」
「落ちこぼれ。対等につきあえないやつ」
深行はすらすらと答え、泉水子はくちびるをかんだ。転校初日から、深行にそのように見てとられたと思うと、うろたえて顔がほてってくる。
「わたし、べつに……」
「クラスの大半の生徒は、鈴原には話しかけないな。簡単に無視できる存在というところだ」
遠慮《えんりょ》なく指摘《してき》した深行は、そのまま分析《ぶんせき》口調で続けた。
「予想できなかったわけじゃないが、学校へ行ってますます確信がもてた。おまえが地元の高校へ行きたいと言い出す理由。そのお下げ髪も変だし、メガネも変だが、もっと根本的なところでいじめられタイプだからだろう。たしかにときどきいる、いつもびくびくしていて、よけいに踏《ふ》みつけたくなるやつ。そういうやつは、どこへ行ってもいじめられ役なんだ。だから、首都にある高校へなど行くことができないんだろう。地元から出られずに、宮司やその他の人の陰《かげ》に隠れようとしか考えないんだ」
泉水子は固まったように立ちつくしたが、それは、彼がまっすぐ真実にふれたせいでもあった。教室の男子からぶつけられるような、底の浅い悪口ではない――うむを言わせないほど本当のことだけに、これほど残酷《ざんこく》に響《ひび》く言葉はなかった。それを目の前で言ってのける人間がいることも、信じられない思いだった。血の気がひいた。
深行は泉水子のわきを追い越《こ》してから、少し先でふり返った。そのまなざしは、相変わらず温かみのないものだった。
「おまえはいいように八つ当たりされる性格をしているよ。それでいて雪政は、そんな女の進学先を一大事みたいに取り扱っている。鼻で笑えるなら笑ってやりたいところだが、できないなら怒《おこ》るしかないだろう。おまえのどこにそれだけの価値があるんだ」
泉水子は、声が震《ふる》えないように抑《おさ》えるのがやっとだった。
「……わたしだって、自分にそんなに価値があるなんて思っていない」
「じゃ、その点だけは、意見が一致《いっち》したな」
深行は顔をそらせて言うと、カバンを肩にしてさっさと歩み去った。
(これが、うらやましがられる立場だというの……)
見送った泉水子は、一度青ざめたほおに再び血がのぼってきたのを感じた。
深行は玄関《げんかん》を一歩入れば、また優等生の笑顔を浮《う》かべて、愛想《あいそ》よく佐和にあいさつをするのだろう。家の中では何くわぬ顔で、泉水子にも明るく話しかけ、決してぼろを出さないのだろう。
(こんなに裏表のある人と長くいっしょにはいられない。同じ学校にかようことなどできない……それがどの高校になろうと)
もっと死にものぐるいになって相楽に談判しなくてはならないと、泉水子は決意を固めた。
相楽がこのまま半月のあいだ、玉倉神社に顔を出さなかったらどうしようと、泉水子はひそかに気をもんでいた。こまやかに息子を気づかう父親に見えないのはたしかだった。
だが、さすがに相楽であっても、けがをした息子を他人にあずけて半月放っておくことはしなかった。土曜になると、深行のあらたな衣類や持ち物を携《たずさ》えて現れた。
もっとも、訪問の目的は竹臣と語らうことで、息子と語らうつもりはない様子だった。深行のほうも、品物を受けとった後は部屋から出てこない。
佐和とお茶をのんだ後で、相楽は泉水子に言った。
「六月には、修学旅行で東京見学があると聞いたよ。泉水子には、初めての東京だね。深行はまだクラスになじんでいないだろうが、せっかくの学校行事でもあるし、行かせてやろうと思っている。腕のけがもよくなるころあいだ」
「相楽さん、わたし、お話ししたいことがあります。いっしょに来てくれますか」
泉水子は切り口上で言ったが、相楽はそれほど驚くこともなく腰《こし》を上げた。話の内容を佐和にも聞かれたくない気がしたので、泉水子は表に出て、神社からさらに十分ほど登った、玉倉山山頂の空き地まで彼を誘《さそ》った。
あいにく雨が落ちてきそうな天気で、頂上からの見晴らしは山あいにわきおこる白いもやが覆《おお》い隠している。それでも相楽は、心地《ここち》よげにあたりを見回した。
「いつ来てもいいね、この頂《いただき》は。泉水子は、ここで宮司から教わった舞《まい》の稽古《けいこ》をしていると聞いたけれど、本当かい」
「ただの運動なの。部活《ぶかつ》の代わりに体を動かしているだけ」
「一度、見せてもらいたいものだなあ」
「そんなことより、相楽さん」
さえぎった泉水子は、声をあらためて言った。
「どうしてもお願いしたいの。深行くんの件を考えなおしてください。わたしにはわからない、どういう理由で、いやがっている深行くんにそうすると言わせたのか。わたしの血筋に、そうするほどの何があるというの?」
相楽はほほえんで泉水子を見つめ、少しのあいだ答えなかった。薄紫《うすむらさき》のシャツとブラックジーンズで、いつものように若々しい相楽だったが、むぞうさに立つその姿が見た目ほどむぞうさでないことに、泉水子はふいに気がついた。
それはたぶん、舞の稽古の場所で見たから初めてわかったのだ。相楽の立ち姿はどこにも力みがなく、けれども瞬時《しゅんじ》に別の体勢に移せる点では、舞い始めの用意に似ていた。
「きみがとまどう気持ちもわからなくはない。話せるところまでは話すよ。二度手間をはぶいて、深行にもいっしょに話しておこう」
相楽は言い、ふり向かずに声をかけた。
「出てくるといい。おまえにだって、言いたいこともあるんだろう」
泉水子はまさかと思って相楽の背後を見やったが、木立の陰から本当に深行が現れたので、もう一度びっくりした。
相楽がたずねた。
「そんなところに潜《ひそ》んで、どうするつもりだったのかな。隙《すき》をみて、背中から刺《さ》すつもりだったとか」
歩み寄ってきた深行は真顔で言った。
「右手が使えたら、そうしていたよ」
「使えているときも、無理だっただろう?」
泉水子は、どういう親子なんだと思わずにいられなかった。
「相楽さんは山伏なの? だから、深行くんを山伏にするの? おじいちゃんはそう言っていたけれど、わからない。いったい山伏って何なの」
「山伏とは、山にこもって修行《しゅぎょう》する者のことだ。修験道《しゅげんどう》の行者《ぎょうじゃ》のことだよ」
相楽は答えたが、そのくらいのことは泉水子であっても知っていた。
「相楽さんが、以前にここで修行をしていたということはわかるけれど」
「修験道はね、山にある自然そのものを信仰《しんこう》する道なんだ。行者は山中に分け入って、他界《たかい》におもむき、山の霊力《れいりょく》を身につけて里に下る。山の巨大《きょだい》な岩根《いわね》がたたえている力に感応《かんのう》する力は、人々が神や仏をそのような姿で見出《みいだ》す以前からあった、古い古い能力だったんだよ。だから、修験の行者は、本来ならば仏教徒でも神道家《しんとうか》でもない。教義を習合《しゅうごう》して表現してはいるが、在り方は太古のそのままで、今ある宗教とは厳密に一致しないんだ」
相楽の言うことが難しかったので、泉水子は眉《まゆ》をよせた。
「それは、ええと、玉倉神社とも関《かか》わらないということ?」
「玉倉神社は、明治政府の神仏|分離《ぶんり》令のあとに神社だけが残ったものだ。それまでこの場所には、社《やしろ》も寺院もそなえた修験道の道場があったんだよ」
深行を見やって、相楽はたずねた。
「おまえは少しは調べてあるんだろう、修験道の歴史を」
いくらかしぶってから、深行は棒読みするような口調で言った。
「明治|維新《いしん》で生まれた政府が、それまでにあった修験道を根だやしにした。全国にある霊山の道場は、寺として残るか神社として残るかを選択《せんたく》しなくてはならなかった。出羽《でわ》三山もそうだったと、千石《せんごく》さんから聞いている。山伏という存在は、そのときを境にして世間から姿を消した。それまでは、加持《かじ》祈祷《きとう》をしたりお札《ふだ》を配ったりして、全国各地を旅していたんだ」
相楽がかるくうなずいた。
「現代の言葉で言うなら、緊密《きんみつ》なネットワークで全国をつないでいたのが山伏だった。そして彼らは、奈良《なら》・平安の昔からいつのときも、治世者が陰で行使する力となって歴史を動かしていたんだよ――深い山中を抜《ぬ》ける特殊《とくしゅ》能力をもつ者として。わたしたちは、まあ、その遠い子孫だと言っていい。明治以降、だれの目からも見えなくなった存在だ」
深行は急にいらだった声を出した。
「おれが今、聞きたいのは、鈴原がどうしてこんなに何も知らないのかということだよ。おかしいだろう、大事な人間だというなら」
泉水子も深行の言葉を認めた。初めて聞くことばかりだったのだ。相楽の顔を見つめると、彼はにこやかに言った。
「泉水子は、山伏が代々|口伝《くでん》で残した秘中の秘にかかわる血筋だよ。だから、本人が知ろうとしないうちは明かさないほうがいいし、なるべく何にも染まっていないほうがいいんだ」
「今は、わたしだって知りたいです」
泉水子は切実な思いで口を開いた。
「おじいちゃんも、知らなくていいってそればかり言うけれど、こんなふうになって、深行くんが来ることになって、どう考えても困るもの」
「ふうん、深行はきみを困らせているのか」
相楽は腕を組むと、考えこむように深行を見やった。
「それは、深行の人間ができていないということだな。おまえ、自分で言うほど本当に優秀《ゆうしゅう》なのかい?」
「見下げはてた親だな、あんたは」
深行は、がまんできなくなった様子でくってかかった。
「だいたいおれだって、話はほとんど聞かされなかった。今さら何を押しつけているんだよ。おれは千石さんに言ってあるんだ、東大に入ってふざけた親を見返してやるって。それができるはずだったんだ」
「ああ、うん。深行に最初からこの役目を負わせるつもりはなかったんだ――それは認めるよ」
今さらに気づいたように、相楽はうなずいた。
「わたしは、ほら、だれからも息子がいると思われないから、ついつい自分でも忘れてしまうんだよ。おまえも千石さんのほうに懐《なつ》いていたようだし、いつのまにか大きくなっていて、あそこにいる年の近い修行者《しゅぎょうじゃ》はだれだろうと思ったら、深行だったという」
「よく言うよ……」
「だけど、深行も自分が抜擢《ばってき》されたということを、もっと真剣《しんけん》に考えないといけないよ。これは、わたしだけでなく山伏の総意にもとづく措置《そち》だ。それだけ、おまえの能力は高いと見なされたんだよ」
「抜擢? どこが抜擢なんだ」
深行は自由な左手をふりたてた。
「鈴原は、どこまでも平凡《へいぼん》な女の子じゃないか。見るにも聞くにも、取りたてて見どころはないし、へたをすると平凡以下だ。何も学んでいないし、臆病《おくびょう》で外に出ていくこともできない。なぜ、そんなのに、このおれがつきあわされなくちゃならないんだ」
「エチケット違反《いはん》だな、深行」
相楽は静かに言って、にっこりした。
「謝罪しなさい」
「わるかった……言いすぎた」
すぐさま深行があやまったのは、少々意外なほどだった。だが、泉水子もその一瞬、相楽の笑顔に危険なものを感じたのだった。思わず二人を見比べていると、相楽はあらためて泉水子に言った。
「こいつの態度が悪かったら、わたしに言いなさいね。必ずあらためさせるから。尊敬心のかけらもないやつだが、今はまだ、わたしのほうが技量も腕っぷしもまさっている。ただし、深行をきみから遠ざけることはできない。これはすでに決まってしまったことだ」
きっぱりした言葉に、泉水子はたじろいだ。
「だれが決めたというの」
一瞬考えてから、相楽は答えた。
「ある意味においては、きみが自分で決めたんだ。きみは、前髪を切っただろう。まだ一部だからたいしたことにはならないが、その髪は、紫子《ゆかりこ》さんの大事な封印《ふういん》だったんだよ」
「封印?」
目をみはった泉水子に、相楽はこともなげに返した。
「そう、封印だ。きみの三つ編みを最初に編んだ人は紫子さんだった。そして暗示をかけたんだ」
相楽の言葉は耳に残った。彼が帰ってから、泉水子は自分のベッドの上で、小さいころのことを思い出そうとつとめた。
(お母さんが、わたしの髪を三つ編みにした……そんなことが、あっただろうか)
どれほど思いめぐらせても、佐和に髪を編んでもらったことしか憶《おぼ》えていない。だいたい、母の紫子に身のまわりの世話をしてもらったことはほとんどないのだ。紫子は、見た目にはそうでもないくせに、気性《きしょう》が男前であるというか、はっきり言ってがさつなのだった。
仕事の合間に神社を訪《おとず》れると、紫子はたいてい、神官たちを相手に一升酒《いっしょうざけ》を飲み明かす。自分で料理をするなどはもってのほかで、佐和が彼女に作ってやる料理も酒のつまみばかり、泉水子があまり好まない辛《から》いものばかりだ。
そんなところも、泉水子にとってどこか疎遠《そえん》な存在だった。くどくどと小言を言わない点では助かるが、性格がさっぱりしすぎていて、娘とこまやかなふれあいなどはもたない人物なのだ。
(封印って、どういう意味だろう……)
国語辞典を引いてみたが、それでわかるはずもなかった。しかし、泉水子が髪を切ったからこの事態になったと言わんばかりの相楽を思うと、落ち着いてもいられなかった。前髪を切った日と、PC教室の異変が起こった日が同じ日だったことは、泉水子も気にしていたのだ。
三つ編みの記憶《きおく》はとうとう思い出せなかったが、呼び起こそうとやっきになっていたことが、泉水子に別の記憶をよみがえらせるもとになった。
それは、体育の授業時間のことだった。
体育の唐沢《からさわ》が出張だったので、補欠の教師は、その時間にドッジボールをしようと言い出した。レクリエーションのようなものだから、ほとんどの生徒は大喜びだった。あゆみと春菜もはりきったが、泉水子の浮かない顔に気がついた。
「今日は遊びだから、できるでしょう。成績をつけるわけじゃないんだから」
「逃げ回っていればいいんだよ。楽なゲームだから、いっしょにやろうよ」
二人はしきりに誘ったが、泉水子はかぶりをふり続けた。
「ううん……わたし、見学している」
あゆみたちも、泉水子がどれほど球技を苦手とするかは知っていた。ひととおり言ってむだだとさとると、自分たちだけコートに入った。ひとたびゲームが始まってしまえば、彼女たちも、離《はな》れて見守る泉水子を気にするものではなかった。
体育の授業のほとんどを、泉水子はこうして過ごしてきたのだった。
最初のうち、泉水子も参加させようと骨をおった教師の唐沢も、三年の今ではすっかりあきらめ、本人が見学すると言えば黙認《もくにん》するようになっている。どんなに時間をかけても、泉水子にまともな球技をさせることはできなかったのだ。
飛んでくるボールのことごとくが、泉水子には怖《こわ》いのだった。他人と競《きそ》うことも大の苦手だが、それ以前に、ボールを受けとるということができない。器械体操やマット、陸上などの種目であるなら、いくらか参加もできるのだが、それらも記録したり採点したりという段になると、必ず立ちすくんでしまった。見られていると意識するだけで、極度に緊張《きんちょう》してしまうのだ。
こんなにできないのは自分だけだと、泉水子もよくよく承知していた。今も、歓声《かんせい》をあげてドッジボールに興じるクラスメートをながめて、さぞ楽しいだろうと思うことはできる。けれども、いざ自分に向かってボールが投げられると、何より先に体がすくむのだった。
(……あゆは、いいなあ)
コートでひときわ活躍《かつやく》するあゆみを目で追いながら、泉水子は考えた。渡辺《わたなべ》あゆみのもつ性質のやさしさやあねご肌《はだ》は、彼女の長身や優《すぐ》れた身体能力によるものだと思える。泉水子が、憧《あこが》れてやまないもののひとつだ。
「鈴原」
ふいに呼ばれてふり返ったときには、黄色のゴムボールがせまっていた。悲鳴をあげて頭をかばうと、手の甲《こう》に当たってはずんだ。痛むほど強くぶつけられたわけではなかったが、ショックは大きかった。
「事実なんだな、ボールが取れないって」
あきれた声で深行が言い、はねかえってころがるボールを左手で拾った。
深行が体育に参加できないことは承知していたが、姿が見あたらないので油断したのだった。彼は見学などむだと考えていて、前にも教室で読書していたからだ。
歩み寄ってきた深行は、頭をかかえた泉水子を見下ろした。
「それですまそうって考えは、どこから出てくるんだ」
「いきなり、ぶつけることはないでしょう」
「声はかけた」
深行はドッジボールに夢中の生徒たちに目を向けてから、再び言った。
「鈴原って、どうして運動能力ゼロ? ますますもってわからないな。おまえが峰入《みねい》りしたら、崖《がけ》から落ちていっぺんに終わりじゃないか」
「知らない、わたしだって」
「ああ、おまえは何も知らないし、何もできないし、何も自分ではしたことがない。だから、自分で考えようともしないんだ」
深行は、冷静につけ加えた。
「おれは、そういうやつには一番むかつくんだ」
「そういう態度、とってもいいの?」
「雪政に言いつけたかったら、言いつければいい」
泉水子が勇気をふるいおこした反撃《はんげき》も、深行にとっては目を細めてすませるものごとだった。
「雪政のおどし文句が効いていると思ったら、大まちがいだ。あいつには何ひとつできやしない。おれの代わりに四六時中、そばにへばりついているとでもいうならともかく」
(……言いつけたければ、言いつけろよ)
その文句が、ふいに泉水子の内部でこだまして、思わず息をのんだ。
ずっと前にも、深行がそう言うのを聞いたことがあったのだ。同じように軽べつをこめた口ぶりで、けれども今よりかんだかい声音《こわね》で。それから、顔と服を汚《よご》した小鬼《こおに》めいた男の子が影《かげ》のように浮かんできた。
「言いつけたければ、言いつけろよ」
たぶん、それが七歳くらいの深行だった。
小鬼めいた男の子の前で、泉水子は泣きじゃくっていた。泣いていた理由は――さんざんボールをぶつけられたからだった。
(どうして今まで、思い出さなかったんだろう……)
ぼうぜんとして深行を見やると、なるほど面影《おもかげ》はないかもしれない。けれども、当時も今も深行はいじめっ子なのであって、泉水子と彼が出会った場合、こういう関係にしかならないことに目を開かされた気分だった。
(この人のせいだったんだ……)
泉水子がボールを恐《おそ》れるようになったのは、おそらくそのときからなのだ。深行にひどい目にあわされて、体がすくむようになったのだ。そしてそのことは、泉水子にとって、記憶を封《ふう》じ込めてしまったくらいにつらい体験だったのだ。
「わたし、思い出した」
泉水子は両手をきつく握《にぎ》りしめて言った。
「前に神社にきたとき、ボールをぶつけていじめられたのよ。何度も何度も」
「ああ、憶えている」
深行は意外な返事をした。
「おそろしく出来の悪いお下げの子がいるから、鍛えてやろうと思ったんだ。鍛えればなんとかなると思うところが、まだガキだったんだな。今では、そこまで親切心はもってはいないよ」
開いた口がふさがらない思いで見返すうちに、深行は背を向けて離れていった。またしても泉水子は一方的に言われっぱなしだった。
(こんな人、ぜったいにがまんできない……)
家に帰った泉水子《いずみこ》は、それまでどうしても試みる気にならなかったことをする気になった。パソコンを使って、大成《だいせい》に直接|訴《うった》えてみようと決心したのだ。
PC教室のパソコンが壊《こわ》れて以来、とても周囲のパソコンにふれる気にならなかった泉水子だった。家にあるパソコンはなおさらで、壊してしまうと山の上では修理が大変だということを承知している。けれども、そんなことを言っていられないと感じるくらい、泉水子もせっぱつまったところへ追いこまれたのだった。
パソコンが大成の部屋にあるということも、遠ざかった理由のひとつだった。深行《みゆき》がその部屋を使いだしてから、禁忌《きんき》であるかのように足を踏《ふ》み入れなかった。だが、同じ家で生活していれば、深行がしばらくもどらない時間を見はからうことはできる。
(こればっかり、しているのだもの……)
うんざりしながら考えた。深行が来てからの泉水子の毎日は、どうすれば彼とはちあわせせずにすむか、様子をうかがうことに終始していた。ふいに現れることが気になって、山頂で舞《まい》の稽古《けいこ》をすることもできない。自分の部屋以外のすべての場所で気の抜《ぬ》けない、こんな暮らしにもがまんの限界が近づいていた。
そっとドアを開けて大成の部屋をのぞきこみ、本当に深行がいないことに胸をなでおろす。他人の住居にしのびこむような態度で、泉水子はひさびさにこの部屋の中に入った。
見回すと、部屋は予想以上に整頓《せいとん》されている。大成は散らかし魔《ま》で、そのくせ佐和《さわ》が片づけをすると文句を言うので、不在のときでも雑然としていたものだった。大成が海外へ行った後はたいへんな大掃除《おおそうじ》だったが、今もほとんどが掃除したときのままで、まるで使っていないかのように見えた。
衣服も、文具も、本や雑誌のたぐいも、何ひとつ出しっぱなしにしたものがない。泉水子は感心しそうになり、ふいに、深行は思った以上にこの家でくつろいでいないのだと感じとった。泉水子の目から見ると、佐和も竹臣《たけおみ》も攻略《こうりゃく》してたいへん幅《はば》をきかせている深行だったが、本人にとってはそうでもないのかもしれない。
デスクトップのパソコンには電源が入っていた。佐和はここへインターネットをしにやってくるし、深行も使っているのかもしれなかった。泉水子は少しためらって画面を見つめたが、試みをやめるつもりはなく、いすに腰《こし》を下ろした。
(お父さん……お父さんなら、相楽《さがら》さんの決定を変えられるでしょう。わたしと深行くんがお互《たが》いに最悪で、つきあわされると大|迷惑《めいわく》だということが、相楽さんには少しも理解できないの。なんとかしてよ……)
大成に訴えたい思いは、以前よりずっと切迫《せっぱく》していた。けれども、実験した瑞穂《みずほ》が、まれにしか起こらない現象だと言ったわけが、今ではよくわかった。どうやら、泉水子自身の思いの強さは何も関係しないらしい。パソコンは停止して、うんともすんともいわなくなっただけだった。その先には、さっぱり何も起こらなかった。
(必要なときに起こらないのでは、なかったことと同じことだ……)
がっかりすると同時に、これほど不確かな方法で父親と話そうとする自分が、ひどくばかげて感じられた。ふつうにメールや電話や、あるいは本物のテレビ電話などのコミュニケーション手段で、どうして大成と連絡《れんらく》がとれないのだろう。
(わたしが今まで、一度もそうしようと思ったことがなかったからだ。お父さんのアドレスも電話番号も、わたしは何も知らない……)
電源を入れ直して、ぼんやり待っているときだった。背後で声がした。
「何やっているんだ」
泉水子は、はじかれたようにいすから飛びのいて立ちすくんだ。
戸口に深行が立っていた。
いぶかしげにこちらを見る深行は、髪《かみ》をぬらし、肩《かた》にタオルをかけて、スエットとTシャツを身につけている。泉水子の完全な読みちがいだった。
泉水子としては、これほど早く風呂場《ふろば》からもどってこられることのほうが不思議だった。右手もうまく使えないというのに、風呂場で何をしてきたのかとたずねたいくらいだ。それというのも、泉水子であれば、入浴にたっぷり一時間半はかかるからだった。
それから、ようやく思い当たった。他人は泉水子のように、長い髪を洗い上げる手間はいらないのだ。
「べつに、パソコンくらい使ったらいいだろう」
深行は硬直《こうちょく》している泉水子を見やったが、それほどとげのない口調で言った。自分の部屋を侵害《しんがい》されたとは思っていないらしい。
「そういえば、おまえの家、何かゲームソフトはないの。そのパソコンには何も入っていないし、正直いって退屈《たいくつ》なんだけど」
タオルを上げて髪をぬぐいながら、深行がたずねた。泉水子はかぶりをふった。
「わたし、ゲームってやったことがないから」
「一度も?」
「パソコンは苦手だから……止まっちゃうし」
深行は大きく息をついた。
「パソコンもだめなのか。本当に徹底《てってい》しているんだな、おまえって」
そう言いながらも、深行はデスクトップの画面をながめに近寄ってきた。風呂上がりだからなのかはさだかでないが、昼間のぴりぴりした気配が和《やわ》らいでいた。彼としても、四六時中|怒《おこ》っていることはできないのだろう。
「で、今は何がしたかったんだ。ネット?」
泉水子が答えられずにいると、深行はマウスを操作しながら、泉水子に向かって言うでもなく言った。
「大成さんは、さすがにコンピュータのプロだな。このパソコンは、佐和さん用にカスタマイズしてしまって、大成さんの使った痕跡《こんせき》がほとんど残っていない。ハッキングできるとまで思わなくても、おれにも多少は何か探《さぐ》れるかと思ったのに、ぜんぜん無理だった」
「探るって、何を」
「雪政《ゆきまさ》や大成さんのネットワーク……山伏《やまぶし》組織のメンバーや、本当は何をしているのかということだよ」
泉水子は顔を上げて深行を見やった。
「それを調べて、どうするの?」
彼は肩をすくめた。
「さあね、ずいぶん特殊《とくしゅ》だという気がするから、知りたいと思っただけだ。雪政など、今回、マサチューセッツ工科大学なんかにもぐりこんでいるんだぜ――見かけが学生で通用するからって。どういう資金ぐりで動いているんだか、まともな職業についている感じがしないからな」
深行の言葉を聞いていると、泉水子は、彼に自分が無能とののしられるのは当たり前だという気がしてきた。そして、何かしら切実に、そうでないところが見せたくなった。
「わたし、どうにかしてお父さんと連絡をとろうと思うの」
これを深行に言うとは思ってもみなかったのに、泉水子は打ち明けていた。
「きっとお父さんなら、相楽さんを説得してくれる。もともと相楽さんは、お父さんの代行でわたしの進学問題にかかわっただけだもの。もう一度、お父さんに会って話せたら……そう思って試《ため》しにきたの。だめだったけれど」
「大成さんのアドレスが消してあるのは知っているよ」
「アドレスなしでも、話せたことがあったの。一度だけ」
深行が黙《だま》ったので、泉水子は力んでつけ加えた。
「笑ってもいいけれど、事実なの。でも、その後、学校中のパソコンが壊れたから試す気にならなかったのよ」
深行は少し間をおいたが、笑わずに言った。
「絶対にあり得ないとは言わないが、どういうことかよくわからないから、その件は保留にしておく。だけど、鈴原《すずはら》は鈴原で打開策を考えたということは認めるよ。大成さんはたしかに雪政より格が上だし、組織の中でも重要人物であるはずだ」
口もとに手をやって考えこんでから、深行は続けた。
「それでも、大成さんに訴えて、ものごとが変わるとは思えない。あいつが山伏の総意と言ったのを聞いただろう、彼らはみな一つ穴のムジナなんだよ」
「でも、他《ほか》に何をしたらいいの。わたしだって、このままではいや」
泉水子は思わず声を大きくした。深行の前で、はっきり言い切るのは初めてだと気づいたが、勢いにのって言うことができた。
「わたしだって、放っておいてほしいのよ。出来が悪いからって、わざわざいじめに来られるのはもうたくさん。八つ当たりももうたくさん」
「まあ、そういうところだろうな」
深行は、どちらかというとけろりとした様子だった。泉水子の言葉に反省する態度はさらさらなかったが、いっしょになって腹立ちもしなかった。
「現状打破をめざす点では、おれたちは意見が一致《いっち》するみたいだから、ひとつ教えてやるよ。雪政が、その人の意向に一も二もなく従う人物がいるとしたら、ひとりしか思いつかない」
泉水子が息を吸いこむと、深行はパソコンの画面を閉じてから告げた。
「紫子《ゆかりこ》さんだよ」
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第三章 雪《ゆき》 政《まさ》
一
「今どき、親に手紙?」
駐車《ちゅうしゃ》場まで歩きながら、深行《みゆき》は驚《おどろ》いたように聞き返した。
泉水子《いずみこ》はうなずいた。
「そう、手紙。お母さんと連絡《れんらく》をとるには一番確実な方法なの。電話もメールも仕事のたびに変わってしまうけれど、郵便だけは、東京の家から転送してもらえる」
相楽《さがら》の決定を変えることができるのは紫子《ゆかりこ》だけだという、深行の意見にもとづいて、泉水子は母に訴《うった》える手紙をしたためたのだった。
「紫子さんは、今、東京にいないのか」
「それも、よくわからないけれど」
また辛《しん》らつなことを言われるかと、泉水子は少々待ち受けたが、今朝の深行はあまり突《つ》っこんでこなかった。
「まあ、いいや。やけに悠長《ゆうちょう》に聞こえるけれど、何もしないよりましだろう」
深行の機嫌《きげん》がいいのは、前日に病院へ行って、右腕《みぎうで》の包帯がとれたからだろう。表情がかくだんに明るかった。その変化は、優等生の部分ではあまり目立たないのだろうが、裏の部分とつきあわされる泉水子には、はっきり見てとれるものだった。
「今日から体育にも出られる。転校して以来だな」
男の子にとって、自由に体を動かせないことがどれほど鬱屈《うっくつ》するものごとだったかを、泉水子は今にして知る思いがした。彼が無関心な態度で読書を決めこんでいたのは、どうやらポーズのひとつだったらしい。
「これでようやく、好きなことができる。山歩きもできるし、野々村《ののむら》さんから古武道《こぶどう》を習うこともできる」
「古武道?」
「知らなかったのか、野々村さんはその道の大家だぞ」
いつものばかにする調子も入り交じったが、それでも深行の口ぶりからは、ためこんだ怒《いか》りの気配が抜《ぬ》けていた。
「野々村さんが、教えてやろうと言ってくれたんだ。ありがたく受けることにした。雪政《ゆきまさ》を打ち負かそうと思ったら、武術はどうしても必要だ」
泉水子も野々村の腕前は聞き知っていて、弓をひいて鍛錬《たんれん》している様子を見かけることもある。けれども、目の前で実際に何かを披露《ひろう》してもらったことは一度もなかった。無口で近寄りがたい野々村と、いつのまにそれほど親しくなったのだろうと、泉水子はひそかに驚いた。
「相楽さんに武術で対抗《たいこう》するつもりなの。そのこと、野々村さんは承知しているの?」
「隠《かく》す必要ないだろう」
深行は気にとめずに言ったが、少ししてつけ加えた。
「心配などしなくても、とうぶん雪政には歯がたたないよ。野々村さんにもわかっている。もともと、山伏《やまぶし》にとって古武道の習得は、精神|修行《しゅぎょう》の一環《いっかん》だ」
つまり、野々村も山伏なのだと泉水子は考えた。そんなふうに考えたことはなかったので、不思議な気分だった。深行は、弟子《でし》入りを自慢《じまん》に思っている様子だった。
「学校からもどった後の一、二時間、野々村さんも時間を割《さ》いてくれるそうだ。ここに居続ければ部活をするのはまず無理だから、ちょうどいいかもな」
泉水子ははたと思い当たった。
「ちょっと待って。それじゃ……」
深行は、腕のけがが完治しても山を下りる気はないと、そう言っているのと同じではないか。半月たてばこの生活が終わると信じていた泉水子は、急にあわてた。
「あの、前には、学校近くに家を借りると言わなかった?」
「ひとり暮らしのメリットよりも、野々村さんのほうが大きかった」
深行はちらりと泉水子を見てから、さばさばした口調で言った。
「おまえの家に居すわる気はないから、安心しろよ。けがが治ったからには、今までみたいに世話してもらう必要はないんだ。宿所に移って、これからは野々村さんの手伝いをする。わけを話せば、佐和《さわ》さんたちにも納得《なっとく》してもらえるはずだ」
「そうなの……」
泉水子は気が抜ける思いでうなずいた。同じ家に暮らして、どれほど気づまりに思っていたか、深行に見透《みす》かされていたのがわかった。
(……今さら、手をさしのべることなどできない。最低だと思われていることに変わりはないし、わたしにとってもそうなのだ。少しでも離《はな》れたほうがお互《たが》いのためになる。そばにいては息がつまるばかりだもの)
泉水子は考えたが、ほっとするだけに収まらないものはあった。なぜかははっきりしないのだが、狭量《きょうりょう》なのは自分のほうだったのかと、ふいに疑わしくなったのだった。
宿所に移るという申し出に、竹臣《たけおみ》と佐和――とくに佐和のほうは、あまりいい顔をしなかった。けれども、深行は二人を説得するにあたって、父の相楽の口添《くちぞ》えを必要としなかった。右腕がもとどおりになった今は、深行自身に周囲を説き伏《ふ》せる能力があることを見せつけたのだ。
理路整然と希望する根拠《こんきょ》をのべることができたし、巧《たく》みに二人の気持ちに訴えてくり返した。みずから動いて、身の回りのことができる点を実力でも示した。佐和であっても力量を認めないわけにはいかず、ふもとのアパートに暮らすよりはと、結局すんなりと話が通ったのだ。少ない手荷物をあっというまに取りまとめ、深行は意気揚々《いきようよう》と大成《だいせい》の部屋を出ていった。
もっとも佐和は、食事だけはいっしょにとることを主張したので、学校の行き帰りと朝夕の食卓《しょくたく》は、これまでどおり顔をあわせることになった。深行も承知したところをみると、中三男子にとって口に入れるものはやはり切実で、佐和の手料理をことわるところまで見栄《みえ》をはることはできなかったのだ。
思うように体を動かせるようになってから、深行は学校の様子も変わっていった。
粟谷《あわたに》中のクラスメートは、大人びた秀才《しゅうさい》のイメージが、意外に一面的だったことに気づかされた。今では、深行も、窓ぎわの席にじっと座ってなどいなかった。
昼休みには、外でボールを蹴《け》っている連中に加わり、多少|荒《あら》っぽいゲームになろうともひるむ様子がない。あっというまに粟谷中の制服を着くずしてしまい、前のように周囲から浮《う》き上がっては見えなくなった。
勉強態度もまた同じだった。彼の秀才ぶりに注目していた教師や生徒は多かったのだが、授業中の態度を言うなら、あてがはずれたといっていい。
「二年間いやというほどやったんだ。せっかく転校してきたんだから、今までできなかったことをするよ」
そうは言っても、教科書の設問には答えられたし、深行に問題の解き方を教わる生徒はあとをたたなかった。教師たちも、何度かの小テストの後では、深行が教科書を開かずにいようと居眠《いねむ》りしていようと注意しなくなったようだ。とりわけ数学と英語の授業では、深行は直前まで寝《ね》ていようと質問に答えられたのだった。
三崎洋平《みさきようへい》や、和人《かずと》や智也《ともや》といった顔ぶれが、慧文《けいぶん》の転校生がまるくなったことを評価して、休み時間にいっしょに遊ぶようになった。他《ほか》のクラスメートからは、少々意外に思える取りあわせだった。
洋平たちというのは、ばかばかしい肝《きも》だめしや力比べのようなことを飽《あ》きずにくり返す、真面目《まじめ》が大きらいな連中なのだ。だが、私立受験のメンバーからあきれ顔をされようとも、深行はけっこう好んでつきあっているように見えた。
つまり、深行は、粟谷中で優等生を演じても益にならないと判断し、表の看板をつけ替《か》えたのだ。泉水子はそう考え、そのくらいの変わり身は器用にこなせそうだと思った。本来の深行がどのあたりにいるのかは底知れず、不実に見えてならなかったが、どの方面にも優秀《ゆうしゅう》なのはたしかだった。
そんなある日の昼休み、あゆみが体育館からもどってきて、興奮した口調で春菜《はるな》と泉水子に語った。
「相楽くんって、思った以上にバスケがうまい。もったいない、あれで運動部に入らないなんて」
教室にいた二人は、ほおを上気させたあゆみを見返した。バスケットボールに関して、あゆみの目ききはたしかだったし、彼女が感心するのはこの分野に限ることをよく知っていた。
春菜がいくらか肩《かた》をすくめた。
「バレー部のキャプテンが、相楽くんを大会の助《すけ》っ人《と》に誘《さそ》っていたのを知っているけれど。バスケ部でも相楽くんを誘う気なの?」
「バスケのほうが向いている。バスケットをするべきだよ、彼」
「身長があるから、どっちにも向いているよね」
あゆみは首をふって力説した。
「身長じゃなくて、ゲームセンスのあるなしだよ。相楽くん、反射神経がすごくいい。ボールをもつときに周りがよく見えていて、だれよりもフェイントがうまい。ああいうものは、毎日練習したって身につかない人はつかないよ」
春菜は口をすぼめた。
「ふうん、彼って何にでも才能をもっているみたいだね」
あゆみは勢いこんで、泉水子に向きなおった。
「ねえ、あの人、どうしても部活に参加できないの? なんとか車の時間をずらしてもらって、練習に出られないかな」
泉水子はためらいながら、無理だと思うと答えた。
「今は、学校から帰ると、毎日野々村さんと稽古《けいこ》しているから」
「何の稽古?」
「弓……とか」
身をのりだしたのは、春菜のほうだった。
「なになに、かっこいい。弓をひく相楽くん、見てみたい」
「弓より、バスケットをしたほうがいいよ。もったいないよ」
まだ主張するあゆみに、春菜が言った。
「要するに、あゆも相楽くんをかっこいいと認めたということでしょう」
「プレーはね」
「それだけ?」
「他のことはよく知らないもの……ああ、そうだ」
思いついたように、あゆみが話をそらした。
「今年もかけ持ちで、陸上大会の予選に出場することになったんだけど、エントリー表を見せてもらったら、相楽くんの名前もあったのよ。唐沢《からさわ》先生が言うには、会場への足がなければ自分の車を出してもつれていくって。だれから見ても、相楽くんには運動能力があるってことだね」
春菜はため息とともにほおづえをついた。
「……あゆ、はぐらかしてもだめ。顔にちゃんと書いてあるって。ああ、ついに、あゆまでもか」
泉水子は春菜の言う意味がわからず、びっくりしてあゆみの顔をうかがった。あゆみはたじろいだあげく、春菜に非難がましい目を向けた。
「春っち、かんぐりすぎ。そんなことを言うのは、自分が相楽くんに気があるからなんでしょう」
「当たり前でしょう。粟谷中であれほどのレベルの男の子に出会うなんて、思ってもみなかったもの」
「それなら、コクればいいじゃない」
「ライバル多すぎなのよ」
泉水子はぽかんとして友人の顔を交互《こうご》に見た。深行に人気があることを知らないわけではなかったが、この二人まで本気になるとは思わなかったのだ。
(あゆも、春っちも、いつのまに……)
そんな泉水子に、あゆみと春菜はなぜかしら同時に顔を向けた。
「ねえ、泉水子は、彼のことどう思っているの」
「どうって……なぜ、わたしに」
「決まっているでしょう。相楽くんの一番身近にいる女の子だもの、泉水子にその気があったら、だれもかなわないくらい有利なんだから」
有利も何もと、泉水子は思わずげんなりした。真の事情を知らないということは、ある意味|恐《おそ》ろしいことだ。
「わたしは、ただ、いっしょに行き帰りしているだけよ」
「本当? 相楽くんが彼女をつくったら気になるんじゃない」
「ぜんぜん気にならない。そんなの、わたしには関係ないから」
泉水子の言葉にしては口調がきつかったので、あゆみが目を見はって言った。
「相変わらず、男の子と仲よくなれないんだね。そろそろ、好きな子くらいつくったらいいのに」
「わたしもそう思うけれど、相楽くん以外でよろしくね」
春菜がちゃっかりと口を添《そ》えた。
泉水子は胸が痛むのをおぼえた。自分がどんなに努力を重ねようと、この二人との距離《きょり》は開いていくばかりなのだ。深行がみるみるクラスの中心人物になっていく今、あゆみや春菜と同じ目で見られない事実は避《さ》けようがなかった。
深行が以前より活発になればなるほど、泉水子は自分が萎縮《いしゅく》して、隅《すみ》に追いやられる気がしてならなかった。前にもまして孤立《こりつ》して、クラスの落ちこぼれを意識させられる。それというのも、そういう深行がことさらに、クラスで泉水子を無視する態度をとっているからだった。
同じ車で登下校することを全校生徒が知る以上、ひとたび親しげな様子を見せようものなら、あっというまに取りざたされることは、泉水子であっても承知していた。泉水子のほうも、校内で深行に話しかけることなど一度もできなかった。だが、泉水子がどれだけ深行を無視しようと他の生徒に感知されないが、深行の言動は、クラス全体に影響《えいきょう》をおよぼすようになっていたのだ。
もっとも深行も、泉水子を直接|攻撃《こうげき》するふるまいは、今となっては影《かげ》をひそめていた。運動で発散できるようになって、前ほど陰《いん》にこもらなくなったようだ。そのぶん二人の会話もなくなったが、口をつぐんでいても機嫌がよく、毎日が楽しいといった風情《ふぜい》だった。ただ、粟谷中の生徒たちは、彼がまったく泉水子にかまわないのを見てとると、それを見習うようになった。
これまでならば、自分から会話に加わることのできない泉水子を、あゆみや春菜以外の生徒でも、少しは思いやってくれたものだった。それが消え失《う》せたばかりか、生徒会長とその取り巻きにいたっては、さらに積極的に泉水子に思い知らせたいと考えるようだ。
彼女たちの当たりのきつさをひしひしと感じる上に、あゆみと春菜からも隔《へだ》たってしまっては、クラスに居場所もなくなってしまう。
(どうして、わたし、こんな目にあうのだろう……)
深行さえ現れなければと泉水子が考えたとしても、それも無理のないことなのだった。
深行はたしかに、運動能力をとっても同学年の男子から抜きんでるようだった。
小規模校の粟谷中には陸上部がないため、唐沢の熱心な勧《すす》めで地区の陸上大会に出場することになった深行は、同じくバスケ部から抜擢《ばってき》されたあゆみといっしょに特別練習に参加し、唐沢自身の車で送ってもらって玉倉《たまくら》山に帰ってきたりしている。
遠距離《えんきょり》通学が同じでも、能力があればこれほど待遇《たいぐう》がちがうと気づかされるのは、泉水子にとっては痛いことだった。自分が何もできないことを思い知らされるばかりだ。神社に帰ったら帰ったで、野々村が熱心に深行の指南《しなん》役をつとめている。どこか釈然《しゃくぜん》としないながらも、深行がそれだけ人々をひきつけることを認めざるをえなかった。
あゆみでさえも――春菜よりずっと男の子に淡泊《たんぱく》だった彼女でさえも――今では、練習仲間の深行とよく語らい、周囲から本命になるのではとうわさされている。たよりにしていたあゆみのことだけに、いっそう淋《さび》しく思わずにはいられなかった。
体育の授業はバレーボールで、今日も泉水子は見学していた。体育館の隅にぽつねんと座りこみ、くよくよとこれらのことを考えていると、遠慮《えんりょ》がちな声がした。
「鈴原《すずはら》さん」
泉水子は驚き、ほおづえをはずしてふり向いた。だれかがそばにいるとは思わなかったのだ。だが、ジャージー姿の和宮《わみや》さとるがそこに立っていた。
和宮は、笑ったような細い目と細い鼻筋をし、男の子にしては色白なほうで、庇《ひさし》のように厚い前髪《まえがみ》をしている。小柄《こがら》な体格だが、まだこれから背が伸《の》びる余地はあるかもしれなかった。気持ちを和《なご》ませる穏《おだ》やかな顔立ちだが、細めたまなざしには、どこか子どもっぽいとは言えないものがあった。
いくぶん首をかしげた姿勢で、和宮は言った。
「最近、元気ないね」
「そ、そうかな」
泉水子はつっかえながら返事をした。和宮がわざわざ話しかけてくることなど、これまでなかったのだ。いったい何が起きたのだろうと、せわしく考えていた。
「転校生が来てからだね」
「そう?」
「あいつのこと、きらい?」
「え……」
和宮の顔を正面から見られずにいた泉水子も、思わず相手をうかがった。だが、表情から意図は読みきれなかった。口調はごくさりげなく、たいした含《ふく》みのない質問にも聞こえる。
けれども、そういえばと、泉水子は思いめぐらせた。洋平たちが深行を仲間に入れるようになってから、和宮がいっしょにいるところをあまり見かけていないのだ。
かなりためらってから、泉水子は決意してうなずいた。
「……うん、きらい」
「そうだろうと思った。ぼくと同じだね」
和宮はにっこりした。
「相楽くんって、ぼくらのいる場所に似合わないよ。ね?」
泉水子は驚いていたが、「ね?」と言われるとつりこまれた。
「うん……」
「いっしょに外津川《そとつがわ》高校へ行こうね、鈴原さん」
和宮がそう言ったとき、唐沢が胸に下げていた笛を吹《ふ》き鳴らした。ゲームが終わり、生徒たちを整理体操に呼び集めたのだ。和宮はさっと駆《か》けだして集合に加わった。会話が尻切《しりき》れトンボに終わってしまったが、クラスメートに泉水子と話しているところを見られたくなかったのだろう。
ひと足先に教室へもどりながらも、泉水子はしばらくびっくりしたままだった。和宮が話しかけてきたことも意外だったが、それ以上に、彼には本音で答えられると直感したことに驚いていた。男の子に関して、そんなふうに感じたのは初めてだったのだ。
(……もっと、こちらからも、いろいろたずねることができればよかった)
後から思い返すと、ろくに何も言えなかったことが歯がゆかった。クラスの中で、和宮はたいそう控《ひか》えめだが、たとえ目につく行動に移さなくても、ずいぶんよく周囲の人間を観察しているのだ。彼が自分に共感してくれたことは、ここしばらく孤立ばかりを感じていた泉水子の心をほぐしてあまりあった。こごえる冷たい場所に立たされていたところへ、手をかざす温《ぬく》もりを与《あた》えてもらったようだ。
(今まで知らなかった。心の内を分かち合える人というのは、女子とは限らないのかもしれない。これまでのわたしは、同性の友人ばかり見ていて、そんなことにも気づかなかったのかもしれない……)
そう考えはじめると、和宮という男の子を少しも知らないことが気になってきた。
小学校から八年以上同じ教室にいるとなれば、たいていの女子であれば、その家の家業やきょうだいの数や好《す》き嫌《きら》いなどの背景がすぐに思い浮かべられるものだ。だが、男子にこれまで関心が薄《うす》かったせいか、驚くほど細かいことがわからなかった。和宮が今まで何を見聞きして、何を考え、泉水子に向かってさっきの発言をしたのか、くわしいことが何ひとつわからない。
(……もっと話がしてみたいな)
和宮さとるがどういう人物で、どういう生活をしているのか、本人の口からもっと聞きたいと思った。もちろん、みんなと同じような生まれ育ちにはちがいなく、耳新しい何かを期待するわけではないが、ごく小さな事柄《ことがら》でいいから聞きたかった。そうすれば、泉水子も、今まで学校ではだれにも話さなかったことが話せるような気がしたのだ。
(和宮くんになら、聞いてもらえるような気がする……)
ふんわり夢みるだけでも十分|慰《なぐさ》めになった。思いがけなくも宿った温かい気持ちを抱《だ》きしめながら、泉水子はそう考えた。
修学旅行の日程がせまってきて、クラス内の話題は、寄るとさわるとそのことで占《し》められるようになっていた。
ほとんどの生徒にとって、初めておもむく関東だった。飛行機で羽田《はねだ》に飛び、都内のホテルに宿泊《しゅくはく》し、都庁やディズニーリゾートを訪《おとず》れる二泊三日の行程は、経験のない大旅行であって、中学生活の集大成となるイベントだ。
早くから下調べが授業に取りこまれ、パソコンでサイトの検索《けんさく》などもしてきた。それでも、多くの生徒は雲をつかむ思いだったので、出発まで一週間を切ってようやく旅行が現実味をおびてきたのだった。
「修学旅行? 行かないよ」
話しかけられた深行が即答《そくとう》したので、女子の一団が声を上げた。
「ええっ、どうして」
「転校した翌月に、修学旅行もないだろう。旅行用の積み立ても積んでいないし」
深行の口ぶりはあっさりしたものだった。
「その金があったら、好きな場所へ自分で行きたいよ。参加は自由なんだろう?」
本気で残念とは思っていない様子なので、クラスメートたちはそのさばけ方に驚いた。深行が参加しないとはだれひとり考えていなかったのだ。
「そんなあ。みんな、相楽くんと旅行に行けることを楽しみにしているのに」
「団体見学は好きになれないんだ。観光にも興味ないし」
深行は言ったが、越川《こしかわ》美沙《みさ》はそのくらいでは引き下がらなかった。
「東京へは、もう行ったことがあるの?」
「見てきたというほどじゃないけれど、東北へ向かう途中《とちゅう》で立ち寄ったことはあるよ」
「わたし、案内してあげられる。ディズニーリゾートももう知っているし」
美沙は自慢げに提案した。
「グループ行動に分かれるから、行列して歩くことはないのよ。迷子《まいご》になって困らない程度のメンバーがいれば。ねえ、いっしょに回りましょうよ」
熱心に説得する生徒会長をよこ目に見て、春菜があゆみをそっとつついた。
「あんなこと、言わせておいていいの?」
あゆみは、知らぬふうをよそおった。
「いいんじゃないの。それで相楽くんが行くと言うなら、それでも」
「余裕《よゆう》だね」
「どうせ相楽くんは、つきあいで行くような人じゃないし」
(……深行くんは、修学旅行に行けるはずだ)
そばで聞いていた泉水子は考えた。相楽が参加させると言っていたことを思い出したのだ。だが、泉水子自身、参加するかどうかはあいまいだったので、どうでもいいことではあった。
泉水子の場合、旅行積立金はもちろん払《はら》っているし、参加生徒に名前をつらねている。それでも、たぶん行けないだろうと考えていた。それというのも、これまで校外行事に参加できたことが一度もなかったからだ。
もっと近場の遠足でも、社会科見学でも、泉水子はクラスメートとともにバスに乗って出かけられたためしがなかった。前日までそのつもりで用意をしていたとしても、たいてい熱が出たり吐《は》き気《け》がしたりで、当日の朝になって欠席連絡をすることになるのだ。
東京は母の住むところだと考えても、あまりはげみにはならなかった。テレビで見かけるレインボーブリッジや高層ビル街は、自分が行くとは思えない場所だった。玉倉山と隔たっている点では、カリフォルニアと変わらない。同じように飛行機に乗って出かけるのだ。
春菜は、付箋《ふせん》を貼《は》りつけた東京のガイドブックを開いていた。
「予習くらい、こちらだってしてあるんだから。旅行先って、いつもとちがうチャンスよね。だれが相楽くんといっしょにディズニーリゾートを歩くかで、決着がつくのかも」
「みんながそういうことを言うから、相楽くん、旅行に行きたくないんじゃないの」
あゆみはしぶい顔をしたが、春菜はそれを抑《おさ》えこむ勢いだった。
「この際、一対一じゃなくてもいいのよ。越川のグループにとられさえしなければ」
(……いつもとちがうチャンス……)
そんな側面に思いも及《およ》ばなかった泉水子は、思わず春菜の言葉を耳にとめた。
泉水子がこっそり想定してみるとしたら、それは和宮と自分だった。体育館でのこと以来、話す機会は一度としてなかったが、まる一日行動をともにする旅行中であれば、偶然《ぐうぜん》の機会がふえるのかもしれない。
だが、ただの夢想であっても、ディズニーリゾートを歩く和宮と自分の姿はそぐわないと思えてならなかった。実現するところは思い描《えが》けず、そっとため息をついて打ち消すしかなかった。
家に帰ると、佐和が小ぶりな包みを手にして、いそいそと泉水子を出迎《でむか》えた。
「ああ、泉水子さん。紫子さんから宅配便が届いていますよ。このあいだのお返事でしょう」
「宅配便?」
伝票を確かめると、宛名《あてな》は鈴原泉水子だが、送り主には住所もなく「Y・S」としか記していなかった。そして、品名|欄《らん》の「精密機器」にまるがつけてある。
泉水子がその場で包みを開けてみると、がっちりした梱包《こんぽう》材の中から赤い携帯《けいたい》電話が出てきた。佐和がそれを見てうれしそうに言った。
「あら、ちょうどよかった。泉水子さんに、新しいのを買わないといけないと思っていたところですよ」
「でも、どうして携帯電話?」
ビニールの中に折りたたんだ紙が入っていたので、取りだしてみると、それが紫子の手紙だった。泉水子は母あてに、花柄《はながら》の封筒《ふうとう》と便箋《びんせん》をつかってていねいな手紙を書いたのに、白い紙にワープロで打っただけの、味もそっけもない返答がいかにも紫子らしい。
[#ここから2字下げ]
手紙を受けとりました。とりあえず元気そうでなによりです。
泉水子が情況《じょうきょう》を変えたいと思っていることは、よくわかりました。それでも、文面では伝わらないことがあるので、顔をあわせて話すべきだと思います。あなたの文章はくどくて内容がないから、もう少し表現力を身につけなさいね。
私が玉倉神社に帰ることができたら一番よいのですが、仕事の進行具合が、とてもそちらへ出向ける状態でないのが残念です。
ただ、粟谷中の修学旅行で、あなたが東京に出てくるという話を聞きました。都内でならば、私も時間を割いて会うことができると思います。
泉水子が、もしも本当にものごとを変えたいと思っているのなら、羽田に着いた後、携帯電話に入っているメールアドレスに、着いたことを伝えなさい。電話にはほとんど出られませんが、メールで待ち合わせ場所を教えます。
私と会うことは、学校の人たちには言わないでください。周りに迷惑《めいわく》をかけない時間を見はからいますが、私の現在の居場所をあまり多くの人に知られたくないのです。
それでは、会えることを楽しみにしています。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]紫子
「お母さんったら……」
読み終えた泉水子はつぶやいた。紫子もまた、娘《むすめ》のことがわかっていないにちがいなかった。泉水子が修学旅行に行けないという可能性を、まるっきり考慮《こうりょ》していないのだ。携帯メールが打てないことも念頭にないらしい。
(これ、どうしよう……)
自分の部屋にカバンを置いた泉水子は、メタリックな赤い色をした携帯電話を見つめて頭をかかえた。
かなり一方的だという感じはするが、紫子が修学旅行の日程を知っていたことは驚きで、その旅行を利用して会おうと申しでるのは、彼女にしては気前のいいことだった。紫子には、ことの重大さを受けとめてもらえたのだ。それだけでも、大きな成果のはずだった。
(このチャンスを逃《のが》したら、かなうものもかなわない。そのことはよくわかる……)
深行はここにいるべきではないということを、紫子に理解してもらえさえすれば、相楽もまた納得させられるのだろう。泉水子は、怒りや不満で波立った日々から解放されて、もとの穏やかな生活にもどれるのだろう。
このままではいられないことはわかっていた。あの和宮までもが、クラスが深行にかき回される情況には不満を語ったのだ。
これを解消するには、どうしても東京へ出向かなくてはならない。
泉水子は、もうしばらく考えにふけった。どうすれば自分がこれをやりおおせるか、具体的なことを考えはじめたのだ。
結論から言えば、ひとりでは無理だった。だれかの協力なしでは、最初から携帯メールのやりとりもおぼつかない。そして、これは深行の解放にもつながる行動なのだから、彼も何かは請《う》け負うべきだった。携帯電話を手ににぎった泉水子は、階段を下りて外に出た。
この日の深行は、陸上の練習に残ることもなくいっしょに帰ってきていた。そういうときは、神社にもどってすぐに稽古着《けいこぎ》に着替《きが》え、最初は弓をひく練習をして、その後に野々村と体術の稽古をしている。泉水子は、その時間を見はからって頂上の空き地を使うために、深行たちの動向をよく承知していた。
宿所のそばの木立の下に、着古した藍染《あいぞ》めの袴《はかま》をはいた深行の姿は簡単に見つかった。野々村がまだ姿を見せないことにほっとして、急いで坂を下っていくと、深行は調べていた弓の弦《つる》から顔を上げ、不審《ふしん》そうにこちらを見た。
「なんだよ」
「お母さんが、携帯を送ってきたの。これ、わたしが出した手紙の返事よ」
泉水子は、白い手紙をさしだした。
「読んでもいいのか」
泉水子がうなずくのを見て、深行は手紙に目を通したが、読み終えると困惑《こんわく》した表情だった。
「なんだか……変わっているな、紫子さんって」
「そう? いつもこんな感じだけど」
「だいたい、修学旅行の最中に極秘《ごくひ》で会おうなんて、親として変じゃないか?」
「そうだけど、それしかお母さんに会う方法がないというなら、言われたとおりにしないと。お母さんだけが相楽さんの決定を変えられると言ったのは、深行くんよ」
「たしかに言った。それはそのとおりだ」
深行は認め、いくらか顔つきをあらためた。
「鈴原は紫子さんに直談判《じかだんぱん》して、雪政に命じてもらうつもりなんだな」
「それができないと困るから、相談にきたの」
赤い携帯電話を深行に見せて、泉水子は言った。
「これが手紙といっしょにあった携帯。たぶん、ここだけで使うメールアドレスが入っているんだと思う。でも、わたしは、メールを打つわけにはいかなくて」
深行は電話を受けとり、画面を開いて登録をたしかめた。
「本当だ、ひとつしか入っていない。それで、どうして鈴原はメールを打てないって?」
「壊《こわ》すから」
正直に言うつもりだったが、これを打ち明けるのはやはりみじめな気がした。
「わたしが使うと、パソコンと同じくらい携帯電話も変になっちゃうの。空港でメールを打って、壊してしまったら後がないでしょう」
深行はけげんそうに泉水子を見つめ、冗談《じょうだん》でも何でもないとさとったらしかった。
「つまりだ……鈴原は、今までパソコンも、携帯も、ファックスも、電話も、ゲーム機も、何一つ使えないまま、今日まで生きてきたのか」
「電話はかけたことがある。携帯でなければ」
「それじゃ、昭和前期のレベルだろう」
よほど驚いたのか、深行はかえって皮肉の混じらない口調で言った。
「どうりで、どこかタイムスリップしたみたいに見えると思っていた。おまえって、見たまんまの人間だったのな」
泉水子は言わなければよかったと思いはじめたが、ここで挫《くじ》けたら、後で悔《く》やむのは目に見えていた。声をはげまして言った。
「どうせ、わたしはそうよ。新しい機械は使えないし、どこへ行ったこともない、東京のような場所で、お母さんと落ちあえる自信もない。だから、どうすればいいかということだけ考えたの。深行くん、その携帯をもって、わたしの代わりにお母さんに会いにいってよ」
「代わりに?」
「わたしは修学旅行に行けないかもしれないから。そうなっても、このチャンスをつぶすわけにはいかないから」
くちびるをかんでから、泉水子は続けた。
「あなたのほうが説得は上手だろうし、お母さんも、深行くんの顔を見たほうがわかってくれると思う。わたしは手紙を書いて返事にこぎつけたのだから、あなたも何かしてくれていいはずよ」
深行は少しのあいだ、手にした携帯電話を見つめていたが、やがてゆっくり言った。
「自分の死活問題だから、力を尽《つ》くす気はあるよ。紫子さんは、会ってみたい人でもある。前に玉倉山に来たとき一度だけ見かけたはずだが、最高にきれいな人だったからな。けれども、紫子さんは娘のためにわざわざ出てくる気になったんだろう。おれのためじゃないよ」
「でも、わたし……」
泉水子がためらい、お下げ髪に手をやっていると、深行は携帯電話をふってみせた。
「希望が見えてきた以上、おれはだんぜん紫子さんに会ってみたくなった。それでも、おれが代理で出向いただけでは、結果はそれほど期待できないと思う。だいたい、鈴原は、そこまで何でも人まかせでいいのか」
目を上げて泉水子はたずねた。
「二人で会いに行くなら、いっしょに行ってくれるの」
「不本意でも、たぶん、それがベストだろうな」
「それなら」
こんなことを宣言してしまっていいのだろうかと、早くも疑いながら泉水子は言った。
「わたしも必ず参加するから、深行くんも今度の旅行に参加して。相楽さんは、あなたを修学旅行に行かせると言っていたのよ」
「いいよ」
深行はうなずき、泉水子を見返して真顔で言った。
「ドタキャンするなよ。これでおまえが行かずにだめになったら、この先一生いじめ抜いてやる」
死にものぐるいで修学旅行へ行くはめになりそうだった。
二
南紀白浜《なんきしらはま》空港までが遠いので、学校の校庭にバスが入ってきたのはほとんど夜明けだった。いつもなら校門も開かない、空の雲がまだほんのり赤い時刻に集まった生徒たちは、遠出の興奮にわきかえっていた。両親が見送りに来ている生徒がほとんどで、いやが上にも旅立ちの気分が高まる。
「え、和宮《わみや》?」
あゆみも浮《う》き立った顔つきをしており、意味もなく笑って聞き返した。
「ああ、知らなかった? あいつは旅行に行かないって。最初から参加申し込みをしなかったみたいだよ」
「行かないの、和宮くん……」
泉水子《いずみこ》は思わずがっかりした声を出した。
「そういえば、和宮って、あまり行事に出てこなかったっけ。泉水子とおんなじ。今回、きみはえらかったね、旅行の朝に来られたのは初めてじゃないの」
泉水子が黙《だま》っていると、あゆみは陽気に言った。
「これまでだって、思いきって来てしまえば、案外来られたのかもしれないよ。中学最後の旅行にまにあってよかったね。今からたくさん楽しもう」
じつをいえば、深行《みゆき》の一言がなければ決して来ることのなかった泉水子だった。朝になってみれば体がだるく、頭痛もしていたのだ。
泉水子の顔色の悪さに、いつもの佐和《さわ》なら気づかないはずはなかった。だが、この朝は幸か不幸かばたばたして、取りまぎれてしまったのだった。佐和が、深行の旅行荷物をどたん場になって見せてもらい、あれもないこれもないという騒《さわ》ぎになったのだ。
野々村《ののむら》にせかされて、佐和はとうとう泉水子の体温までたしかめずに終わってしまった。体温計をごまかしてもばれてしまうと思っていた泉水子は、まぬかれてほっとしたが、だからといって体調までよくなるものではなかった。これからの長い距離《きょり》を思うと、出てきたことを悔《く》やみかけている。
(それなのに、和宮くんまで行かないなんて……)
残っていたわずかな旅行への期待もしぼんでしまい、泉水子にとっては、彼に裏切られたようにうらめしかった。泉水子の最初で最後の行事参加は、たいそう幸先《さいさき》の悪い調子ではじまったのだった。
バスの中でも空港でも、泉水子は浮かれるクラスメートについていけなかった。体が熱っぽく、頭のまわりに雲ができているようにぼんやりする。あゆみと春菜《はるな》の言葉にさえなかなか反応できなかったが、いつでもおとなしい泉水子なので、二人ともあまり気にかけなかった。
それでも、南紀白浜空港でフライトを待つまでは、泉水子もまだぼんやりする程度ですんだ。ところが、飛行機の座席についたころから本格的に気分が悪くなりはじめた。
(……知らない乗客がいっしょにいる)
これまで泉水子は、路線バスにも電車にも乗ったことがなく、「乗り合い」を経験したことがなかったのだった。見知らぬ人物が座っていることを意識したとたん、そのことで不安がいっぱいになった。
(こんなこと、だれでもやっていることだ。怖《こわ》いと思うほうがおかしい……)
頭では承知していて、ばかげていると判断することはできた。けれども感覚のほうは治まらず、それどころか刻一刻とパニックに近づいていくようだった。
この心地《ここち》悪さに比べたら、離陸《りりく》することなど何でもなかった。飛行機が地上を離《はな》れた瞬間《しゅんかん》、乗っていた生徒たちがざわめいたが、不思議なくらい、フライトそのものを怖いと思うことはなかった。ただ、空の上ともなれば、見知らぬ何かと同じ空間に閉じ込められ、どこにも逃《のが》れるすべがないことにおののいた。
(どうしてだろう。見られている気がする……)
泉水子が見つかってはならない、見られては脅威《きょうい》となる、何かひどく恐《おそ》ろしいものが、今は目をつけたと感じてならないのだった。以前から人目に怯《おび》え、みんなの目が集中すると体がすくんでしまう泉水子だったが、ここまでひどい気分に襲《おそ》われるとは、本人も予想しなかった。
粟谷《あわたに》中の生徒は席を固めて座っており、泉水子の座席は窓側で、隣《となり》に春菜とあゆみがいる。狭《せま》い機内で、泉水子に他の乗客の目が届くはずもないのだが、それなのに、シートの背を貫《つらぬ》いて後部座席のまなざしを感じるのだった。いたたまれない凝視《ぎょうし》で、泉水子のわずかなしぐさも捉《とら》えようとしている。身じろぎすら相手に力を与《あた》えそうで、息を殺していると冷や汗がでてきた。
(わたしはやっぱり、出てきてはいけなかったんだ……)
学校はまだ玉倉《たまくら》山の守りの範囲《はんい》にあったのだと、今こそ痛切に知る思いだった。神社をはるかな後方にしてしまった今、泉水子は安らかな守りの場所を飛び出してしまい、むきだしになり、昔から見つかってはならないと感じていた何ものかに、対抗《たいこう》する手だてをもたなくなったのだ。
「泉水子、どうかしたの?」
春菜がようやく気づいて、顔をのぞきこんだ。
「お飲みものを何にするかって、乗務員さんが聞いているのに。どうする?」
泉水子は声も出せず、かろうじてかぶりをふった。
「眠《ねむ》いの? 冷房《れいぼう》がきいているから、毛布をもらってあげようか」
たしかに悪寒《おかん》はしていた。泉水子は春菜から毛布を受けとってくるまったが、とうてい眠ることはできず、体の表面は熱いのに芯《しん》が冷えたような不快さを味わい続けた。
飛行機は一時間と少しで羽田《はねだ》空港に到着《とうちゃく》した。空港|施設《しせつ》の巨大《きょだい》さと旅客の数は、乗りこんだ空港とはけたちがいだった。
動く歩道のある長い通路をわたって到着ロビーに出ると、広大な空間にひしめく雑踏《ざっとう》と顔をつきあわせる。小さな学校の修学旅行生たちは、だれもがいくぶん気をのまれて寄りそった。担任の中村《なかむら》が声をはりあげて生徒を呼び集め、人数を確認《かくにん》する。
泉水子には、もう一歩も前に進めないような気がした。
機内よりもさらにたちが悪かった。めまいがするほど大勢の人の群れが、それぞれに個別の用件をかかえ、四方にせわしく足を運んでいる。そのひとりひとりは、ちっぽけな泉水子に目をくれる余裕《よゆう》もないようだが、背後に人の大きさを超《こ》えてわだかまった、うっすらと黒い影《かげ》を感じた。泉水子を脅《おびや》かすものはその影の中にあり、つけねらう容赦《ようしゃ》のないまなざしは、人混《ひとご》みに比例して数を増していくようだった。
恐怖《きょうふ》のあまりに吐《は》き気までしてきて、泉水子は驚《おどろ》いたあゆみたちに付き添《そ》われ、よろめきながらロビーのトイレにたどり着いた。
朝食をほとんど食べていなかったので、吐けるものはあまりなかった。だが、しばらく個室にうずくまっていると、胸のむかつきが治まるにつれて、やや頭の芯がはっきりしてきた。そうすると、弱々しいながらも、打ちひしがれていてもしかたないと思うほどには気力がもどってきた。
(……本当はわかっていたはず。東京はこういうところだって。それでもお母さんに会わなくてはと、決心したはずじゃないの)
手を洗いながら鏡を見ると、紙のように白くなった奇妙《きみょう》な顔が映っていたが、泉水子はしいてその顔に言いきかせた。けれども、トイレを出てきた泉水子を目にしたあゆみと春菜は、ぎょっとしたように急いで近くのいすに座らせた。
「保健の先生を呼んでくるから、そこで休んでいて。まだまだこれから電車に乗るんだから、何か薬をのんだほうがいいよ」
あゆみと春菜は駆《か》けだしていった。泉水子は顔を伏《ふ》せていたが、にわかに心細くなって頭を起こした。そして、二人と入れ替《か》わりのように深行が立っていることに気がついた。
制服の半袖《はんそで》シャツの下に薄青《うすあお》のTシャツを着こみ、学生ズボンとスニーカーをはいた、だれとも変わらない修学旅行生の身なりだ。そのくせ、深行の姿はどこか人をくって見えた。羽田空港に立っても学校と様子が同じだという意味だ。
「団体行動からはずれるための仮病《けびょう》かと思った。本当に具合が悪いのか」
泉水子を見下ろして、深行は口を開いた。
「そんな調子で、この先見学についてこられるのか。新宿都庁はまだずっと先だぞ」
大きなお世話だと泉水子は考えた。だいたい、泉水子の体調は家を出るときからずっと悪かったのに、今になって気づいたような口調が無神経だ。
「お母さんにメールを出した?」
「ああ、もう返事も届いている」
深行は赤い携帯《けいたい》を開き、画面を泉水子に見せた。
「待ち合わせの指定は、今日の三時半、都庁の北展望室だ。粟谷中の見学先は紫子《ゆかりこ》さんもよく承知しているらしいな。これならコースをはずれて先生に心配されることもないし、楽勝だと思ったんだが、ひょっとして、鈴原《すずはら》は行けないということになるのか」
「ううん、行く」
大きく息をしながら、泉水子は答えた。
「もう少し慣れたら……きっと大丈夫《だいじょうぶ》になるから」
深行は眉《まゆ》をひそめ、泉水子の青ざめた顔を見やった。
「東京の人混みにあてられて気分が悪くなったとか、そういう話なのか」
「簡単に言わないでよ」
泉水子は反発したが、あまり力がこもらなかった。
「わからない人にはわからない。あんなに……変なものがいっぱいいるのに」
「よそを知らなすぎだよ、鈴原は。玉倉山はたしかに清浄《せいじょう》な場所だけど、そちらのほうがよっぽど特別なんだ。それすらわからないようだと、どこへ行っても生きていけないぞ」
口ぶりがあまりに尊大なので、泉水子はむっとする力を得た。
「深行くんにはあれが見えて、その上で平気だと言っているというの」
「あれって、なんだよ」
「つけねらおうとする悪いもの。ただの人とも思えない、何かまがまがしくて黒い固まりに見えるもの」
泉水子が言うと、深行も少しめんくらったようだった。
「……そんなものがいるなら、紫子さんに対処法を聞いてみろよ。この東京に住む人なんだから」
「言われなくても、そうする」
立ち上がった泉水子は、どこからか力がわいてきたのを感じた。怒《いか》りも行動するエネルギーになるのだと、よくわかる思いがした。
修学旅行の一行は、それからモノレールとJR山手線をつかって移動した。ラッシュ時の猛烈《もうれつ》な混《こ》み合いではなかったが、それでも十分人は多かった。
他の生徒は、モノレールの窓の外に広がるベイエリアの景色を楽しんだようだが、泉水子にはながめる余裕もなかった。ひどい顔色をしているので、他の乗客にまで気づかわれ、席をゆずってもらったせいもあった。
中学生のために席を立ってくれたサラリーマン風の男性に、都会の人も悪い人ばかりではないのだと考えたが、そんなことはとうに頭では理解していた。感覚だけが言うことをきかないのだ。
電車の中で泉水子にできることは、この上パニックを起こさないように――なんという空気の悪さだと考えないように――必死に努めることくらいだった。へたをすると息が吸えなくなりそうだったのだ。
脅威にさらされる感覚は続いていて、泉水子がうつむいて他人の足と靴《くつ》ばかりを見つめていようと、消えないことははっきりしていた。だが、逃《に》げ隠《かく》れができない以上、その視線の先にいることになるべく度胸をつけ、自分を抑《おさ》えていくしか方法がなかった。
車内はクーラーが作動していて、窓を閉め切っていることが空気のよどみの原因になっていた。だが、列車を降りて、駅のプラットホームで味わうむっとした空気もまた不快この上なかった。六月になって湿度《しつど》の高い日が続き、白っぽい曇《くも》り空の下で気温が上がると、この日もたまらない蒸《む》し暑さになっていたのだ。
雨の多い紀伊《きい》半島も夏には暑いが、大都会の暑さはどこか粘着《ねんちゃく》度がちがっていた。汚《よご》れを吸い込めるだけ吸い込んだものが、そのままよどんで動かずにいるようで、泉水子以外の顔ぶれもちがいにびっくりしているようだった。新宿駅の構内を歩きはじめたころには、教師も生徒も耐《た》え忍《しの》ぶ顔つきになっていた。
「もうだめ、外に出て風にあたりたい……」
春菜がばて気味の様子でこぼした。けれども、通路を出たところは西新宿の高層ビル街で、外に出たともいえない場所だった。ビルの谷間に風はそよとも吹《ふ》かず、はるかな屋上の白っぽい空は、山の稜線《りょうせん》に見る空と同じものとは思えない。
このころになると、楽しみを期待することのなかった泉水子のほうが、かえって忍耐《にんたい》できたかもしれなかった。気分の悪さに倒《たお》れる寸前であっても、もとから苦行に取り組む心境で、ひたすら目的地まで歩いていたからだ。
新宿駅の雑踏は悪夢のようだったが、友人たちの背中だけを見つめ、はぐれないことだけを念じて歩いた。つらさを口にしても気力がむだになりそうなので、くちびるを固く結び、不平一つもらさなかった。背後には一度も目をやらなかったが、泉水子が見ようとしなくても、影のような何かは泉水子を見失わずについてきた。
けれども「見られている」と感じることは、言い換《か》えれば、たえず一定の距離をとって感じられるということだ。そのものは群衆の背後から泉水子を探《さぐ》っていて、体にじかにふれるほどそばに来てはいない。そのことが、いくらかわかってきた――少なくとも、今はまだ、ということだが。
泉水子のほうが怯えて探り返し、正体を見極《みきわ》めようとしないほうが、相手を刺激《しげき》しないですむような気がした。本当に正体を見てしまえば、心臓が止まる思いをするだろうという予感もあった。
石だたみを敷《し》いた半円形の広場で、先頭の数人が立ち止まり、担任の中村があらためて集合するように告げた。顔を上げた泉水子は、いつのまにか東京都庁に到着していたことに気がついた。
広いポーチと総ガラスのエントランスの見える建物は、二本の角のような塔《とう》がそびえる都庁の第一本庁舎だ。だが、一度もふり仰《あお》がずにきた泉水子は、その特徴《とくちょう》的な形状を見逃《みのが》して、今となってはポーチにさえぎられて全景が見えなかった。それでも、たどり着いたという安堵感《あんどかん》はかすかにわいてきた。
(あと少しだ……)
中村が、二時から団体見学ツアーに入ると告げている。それさえ無事にこなせば、三時半に待ち合わせた紫子に会えるのだ。泉水子は空港を出てから初めて、深行の姿を目で捜《さが》した。
深行は洋平と笑って何か言いあい、男子数人で固まっていて、女子には目もくれなかった。越川《こしかわ》美沙《みさ》とその仲間が、そんな深行をちらちらと見やり、気になる様子でささやきあっている。どうやら、彼をグループに取りこむところまでいっていないようだ。
(……わたしはともかく、深行くんは、抜《ぬ》け出せないんじゃないかしら)
深行の場合は、クラスメートに一挙一動をうかがわれているようだと思ったが、別にかまわないと思いなおした。ここまできたら、泉水子ひとりで母親に会ってもかまわないのだ。
都庁の建物はどこまでも巨大で、役所にはとうてい見えなかった。暗色の大理石の壁《かべ》がそそり立ち、現代アートのオブジェがあり、はるかな吹き抜けのロビーをガラスの空中|回廊《かいろう》が通り抜けている。
だが、観光客が行き交《か》う地階のフロアから遠ざかると、急に人の姿が少なくなったので、階を昇《のぼ》った泉水子は少し気が楽になった。黒い影がいくぶん遠ざかったように感じられたのだ。堅牢《けんろう》なビルの壁と冷たく落ち着いた空間が、いくらか守りになるようだった。
粟谷中の生徒たちは、映画の一セットにも見える防災センターをのぞいたり、都議会議事堂の視聴覚《しちょうかく》ルームで説明のビデオを見たりした。一時間ほどで再び第一本庁舎のロビーにもどってきて、展望室直通エレベーターの前で解散となる。
「これから自由時間にします。四時にはこの場所に集合すること。都庁の建物の外へは出ないこと。先生たちはロビーに待機しているので、何かあったら言いにきなさい。わかりましたね」
中村が告げるのを聞き、解放された生徒たちは、われ先に直通エレベーターに乗りこもうとした。観光客のほとんどは、展望室を目当てに庁舎を訪《おとず》れているのだ。
泉水子も、あゆみや春菜といっしょにエレベーターを待った。とりあえず同じ行き先なのだから、みんなで行ってもいいだろうと考えていた。だが、係員に招かれて乗りこむ直前になって、後ろからお下げ髪《がみ》を引っぱられた。ぎょっとして息が止まりそうになった。
引っぱったのは深行だった。
「ばかだな。それは南展望室のエレベーターだ」
「え?」
泉水子が立ち止まったのを知らずに、あゆみと春菜は他のクラスメートとともにエレベーターに乗ってしまった。ドアが閉まるときには気づいたにちがいないが、すでに遅《おそ》かった。
「まちがえるだろうと思っていた。紫子さんの指定は北だよ。こっちだ」
深行は言い、先にたって歩き出した。
エントランスをはさんだ反対側に、鏡像のように同じ形状の直通エレベーター乗り場があった。泉水子には思ってもみないことだったが、塔のそれぞれに別個の展望室があったのだ。あきれながら、深行とともにあらためて並びなおした。たしかにこちらに「北展望室」と掲示《けいじ》してあった。
しばらく無言だった深行が口を開いた。
「けっこう根性《こんじょう》があったじゃないか。養護の先生が、鈴原は見学が無理そうだからホテルに直行させると言っていたのを聞いたぞ」
「今だけは、なんとかする。お母さんに会うまでは」
泉水子は視線をそらせて答えた。よりによってお下げを引っぱられたことには、少々頭にきていた。ここ久しくだれにもされていなかったことだ。
「他人が怖いんだな、鈴原は」
感情をまじえず、ただ観測を述《の》べるように深行は言った。
「対人恐怖なのか、何なのか知らないが、自分の知らない人間には害があると思っているんだ。世の中には知らない人間のほうが多いというのに」
「思ってなどいない……だれもがそうだとは思わない。でも、わたしの気のせいなんかじゃない」
声が少し震《ふる》えた。深行にはわかるはずがないと思った。これをわかれと言うほうが、たぶん無理難題なのだ。
「どう思ってもいいよ。きっと、お母さんならこれが何かわかるから。お母さんはどうして東京に住めるんだろう。今日は、どうしても聞いておかないと」
見学で配られたパンフレットには、展望室の高さは地上二百二メートルと記してある。
それでも、エレベーターに乗りこめば一分とかからなかった。昇ったとも思わないうちにドアが開き、大きなガラス窓が明るく周囲をめぐる、階下の面積に比べれば小ぶりな展望室に導かれた。
紫子の姿が見えるかと目をこらしたが、ひと目で見わたせるほど小さくはない。カフェがあったり土産物《みやげもの》コーナーがあったりして、視界がさえぎられている。待ち合わせにはまだ数分あることもあり、深行と泉水子は、ふつうの観光客と同じ態度でフロアを一回りしていた。
地平には濁《にご》ったもやがかかり、展望を楽しむのにふさわしい日とは言えなかった。案内板のパノラマ写真には、青空のもと、富士山や丹沢《たんざわ》山系の稜線、横浜《よこはま》のベイブリッジなどが写っているが、泉水子が目にしたのは、平坦《へいたん》な土地をびっしりと埋《う》めた無機質なビル街だけだった。
目をひくのはデザインをこらした超高層《ちょうこうそう》ビルで、わがもの顔に林立するそれらの他は、灰色にくすんでうずくまっている。道を流れる車がごま粒《つぶ》大、電車がミミズ大なので、人はまったく見えないが、目に入るすべては人間の造ったものだ。
これらを見たことで、たいそう驚いたとは言えなかった。いくら泉水子が山奥から来たとはいえ、テレビその他で知らない光景ではないのだ。こんなものだろうと思っていた景色が、そのように広がっているだけだった。
ただ、現地で目にして、あらためて感じることがなくはなかった。泉水子が見慣れた紀州《きしゅう》の山並みは、霞《かすみ》に包まれていようといまいと、頂《いただき》のひとつひとつに直立した柱のようなものが感じとれ、天に向かって伸《の》びているものだ。だが、それらが生じるには、大地の岩根《いわね》の高まりとそれを覆《おお》う木々が必要であるらしかった。平野に建った超高層ビルは、どれほど高くそびえさせても、同じ柱は立っていなかった。
見下ろす景色には、ビルの多さにかかわらず、直立して澄《す》んだものがどこにもない。代わりに、地面に並行して広がり続ける澱《よど》んだものの色みがあった。泉水子が感じた黒い影にも似て、茫洋《ぼうよう》として実体を隠すものだ。これではどこにも守りがないのは当然だと、泉水子はこっそり納得《なっとく》した。
「紫子さん、まだ来ていないみたいだな」
一周してエレベーターの前にもどった深行は、立ち止まって時間をたしかめた。
「カフェにいる様子もないし……もう、三時半だけど」
そう言ったとたんに、携帯電話が反応した。目の前にあるので、マナーモードでも振動《しんどう》する音が泉水子にも聞こえた。
「メール着信だ」
受信した文章を読みはじめた深行は、眉をひそめた。
「……だめだ、都庁には来られないそうだ」
「そんな。どうして」
泉水子は思わずあえいだ。ここまで来て、紫子にすっぽかされることなどあっていいのだろうか。
「『あなたたちも早く展望室を降りなさい。その場所はもう見つかっている』。何に見つかったというんだろう」
泉水子は息をのみ、母が同じ脅威について語っていることを確信した。黒い影、無数のまなざしを、紫子もよく承知しているのだ。
「あれのことよ、見つかってはならないもの。お母さんのこともつけねらっていたにちがいない。この場所で落ちあうことをさとられたのかも……」
「まさか」
深行はとまどう表情になった。
泉水子は早くも、恐怖が反動を得てふくれあがるのを感じていた。母でさえ対峙《たいじ》を避《さ》けるような、恐ろしい何ものかがたしかにいるのだ。見られているだけなら、こらえてそっとしておけばすむと思っていた。けれどもそれはまちがいで、うかうかしていると同じ場所にたどり着き、退路をたたれることになるのだ。
「すぐに展望室を降りないと。お母さんだってそう言っているんだから」
いてもたってもいられず、エレベーターへ向かうと、そのとき再びメール着信の音がした。
「紫子さんから二通めだ。返信するまもなかったな」
画面を開いた深行は読み上げた。
「『わたしの家がわかるなら、家までいらっしゃい。ここなら結界《けっかい》がはってあるので、だれもが安全だからです。住所を一応記しておきます』……ふうん、中野区中央二丁目か」
「いらっしゃいだなんて……よくそんな無理なことを」
泉水子は泣き出したくなった。簡単に言ってくれるが、自由時間はあと三十分もない。都庁の外には行かないことにもなっている。教師たちは地階のロビーで見張っているだろう。
深行には泉水子のあせりがわかっていなかったが、紫子の提案を無理と片づけもしなかった。メールを見て考えこむように言った。
「ひょっとして、かなり近くじゃないか。ここは西新宿で、中野区はすぐ隣だ。中野の高層ビルは案内板にいくつか名前も入っていた。窓から近くに見える場所だ」
驚いて泉水子は目を上げた。
「行き方がわかるの?」
「地図を出してみる……ちょっと待ってろよ」
エレベーターを降りた深行は、教師たちの目につかないように隠れてから、ロビーの隅《すみ》でしきりに携帯電話の操作をした。
「やっぱり遠くない。一駅か二駅だ。歩いて行けないこともないが、都会の道で迷うことを考えると、電車が無難だな」
「まさか、家まで行く気なの」
信じられない思いで言うと、深行は泉水子を見返した。
「紫子さんに会わずに帰るのか、ここまで来ておいて」
「先生たちの言いつけ、破ることになるけれど」
「そういう常識的な線は超えているだろう。今はもはや」
その口調はどちらかというと、事態をおもしろがっていた。突然《とつぜん》難題がもちあがったことで、深行はむしろ活気づいたように見えた。
「教師の言いつけと紫子さんの言いつけだったら、おれは紫子さんをとる。今あきらめたら後悔《こうかい》するだろう、鈴原も」
泉水子はくちびるをかんでうなずいた。修学旅行生として、あってはいけない行為《こうい》になり、後がどうなるかを考えると恐ろしかったが、それにも増して黒い影に追いつかれることが恐ろしかった。どちらかをとれと言われたら、迷うことなどできなかった。
この東京に、安全な場所が紫子の家しかないというなら、そこへ向かわなくてはならない。しかも、自分ひとりではとうていたどり着けないのだから、深行と肩《かた》を並べて都庁から逃亡《とうぼう》するしかなかった。
三
深行は、初めて来た場所で紫子の家を探すことにも、それほど不安を感じないようだった。携帯電話のナビが使えると、ばかにしたように言われた。見下す種をまた作ってしまったが、泉水子も、その行動力はありがたいと思えた。
しかし、ものごとは深行の思惑《おもわく》どおりにもいかなかったのだ。
教師の目をぬすんで抜けだした二人は、新宿駅まで引き返し、総武《そうぶ》線で東中野駅まで乗って地図をたどる手はずだった。だが、切符《きっぷ》を買うところから早くもトラブルが始まった。
雑踏は相変わらず泉水子を怯えさせた。巨大な蜂《はち》の巣めいて人間が群れなす新宿駅は、影にひたっているようにしか見えなかった。背後の恐ろしい目の存在も無数に感じられ、冷や汗がにじんでくる。
そんなこともあって、切符の販売機《はんばいき》の前に立ちつくすはめになった。本当は、販売機のパネルに触れたとたんに、そうするべきではないことに気づいたのだが、もう遅《おそ》かったのだ。
自分の切符を買って一度離れた深行が、業《ごう》をにやしてもどってきた。
「買い方がわからないとまでは、言わないよな。いくらなんでも」
泉水子はみじめな気分でうなずいた。
「壊《こわ》れた……みたい」
深行が取り消しのボタンを押しても、販売機は動かなかった。泉水子が一番避けて通りたかったことだが、駅の職員を呼び出すはめになった。
けっこう待たされてから、駅員が機械の扉《とびら》を開け、ようやく泉水子の千円札を取りもどしてくれた。深行が別の販売機で泉水子の切符を買い、改札に向かったが、今度は自動改札機でエラー音が鳴り、泉水子だけ通り抜けができなかった。またもや駅員に調べてもらうことになった。
ひっきりなしに通る乗客たちが、中学生二人に不審《ふしん》げな顔を向けながら隣の改札へ移っていく。大量の人の流れをさえぎって立ちつくしていることは、深行であってもきまりの悪い思いのするものだった。駅員が自動改札のパネルを取り外して切符を見つけ、二人はさんざんな思いでJRの構内に入った。
延々と伸びた通路に十をこえる路線のホームが並んでいるが、総武線下りの黄色い表示は、山手線とともに西口改札の近くにあった。そばの階段を上れば、目当ての電車が数分おきに発着している。
「たかだか二駅乗るのに、小一時間かかりそうだぞ」
深行が時計を見てため息をついたが、それすらも見通しが甘かった。ホームに着いた列車に乗りこんでも、その車輛《しゃりょう》は五分以上ドアを閉めなかったのだ。
「お客様にお知らせします。お急ぎのところ、たいへんご迷惑《めいわく》をおかけします」
男性の声で車内アナウンスが入り、プラットホームの喧噪《けんそう》を抑えて簡潔に告げた。
「システム異常のランプが点灯したため、ただいま係員が確認を行っています。発車まで今しばらくお待ちください……」
「いったい、どうなっているんだよ」
深行はあきれた声でつぶやき、かたわらの泉水子を見やった。
「まるで、行くのを阻止《そし》されているみたいじゃないか」
泉水子はただ頭をふった。自分にもわからないと答えたかったが、今は、思うように声を出せなかったのだ。ドアのわきのポールをつかんで立っていたが、つかまっていないと恐怖でひざから力が抜け落ちそうだった。体が小刻みに震えだしていた。
「何でもないのに、トラブルがこれだけ重なるものなのか。それとも、これは鈴原のせいなのか?」
ようやく口を開いて、泉水子はささやいた。
「……見つかったかもしれない」
深行はいらだった様子で眉をひそめた。
「だから、そいつはいったい何だよ。おまえが言っていることは、さっきからぜんぜん具体的にならない」
「わかればこんなに怖くない。わたしだって」
ポールにすがって息をつめると、泉水子はとうとう泣き出しかけた。混乱した上に責めることを言われて、どうしていいかわからなくなったのだ。
「でも、感じるんだもの。前よりはっきり見られている、近くまで来ているって……」
深行はぴたりと口を閉じた。どうあろうとも、この場で泣かれては困ると思ったのがよくわかった。泉水子自身も、泣いたら取り返しがつかなくなる気がした。近くの乗客たちは、制服姿の二人にちらちらと目を向けている。
深行がへたななぐさめを言わなかったのは賢明《けんめい》だった。何を言われたとしても、泉水子は泣き出していただろう。だが、深行は、ひどく静かに待っていた。そして、泉水子がようやく自分を抑えたのを知ると、きっぱりした声で告げた。
「降りよう。いつ動くかわからない電車に乗っていることはない」
泉水子があわてて後を追うと、深行は同じ改札に向かいたくないのか、来た方向とは別の出口表示を見つけて階段を上り、新宿駅の外に出てしまった。
通りに出てようやく立ち止まってから、深行は言った。
「悪《わる》目立ちしていることは、おれも気になっていた。鈴原が何に見つかると言っているかは知らないが、中学生二人がふらふらしているんだ、下手に目立ったら補導されてもおかしくない」
泉水子はうなずいた。じつは補導の意味がわかっていなかったが、駅であれほど人目にさらされるべきではなかったことには賛成できた。
「とにかく、そのお下げが目立つんだよ。おれが駅員だったら三日たっても忘れないだろう。その髪《かみ》をどうにかしないと、どこへ行っても注目される。わかっているのか」
深行の言葉に、泉水子は目をぱちくりさせた。思ってもみないことだったのだ。
「わたしの髪?」
「その長さでは、いつかどこかにはさむにちがいないと、おれだって思っていた。都会向きじゃないよ、そのお下げは」
「そんなことを言われても、今、どうしろと……」
泉水子がうろたえてお下げ髪を引き寄せていると、深行は角の横断歩道に目を向けた。
「こっちだ」
「どこへ行くの」
「変装が無理だとしても、帽子《ぼうし》のひとつくらい買えるだろう」
これもまた泉水子が思いつかなかった発想だった。ぽかんとして足を踏《ふ》み出せずにいると、横断歩道の信号が点滅《てんめつ》をはじめた。
「ほら」
じれったくなったのか、深行が片手をさしだした。気がついたときには、泉水子は手を引かれて小走りに横断歩道をわたっていた。つんのめりそうになりながら、前を行く深行が握《にぎ》っている自分の手を、仰天《ぎょうてん》する思いで見やった。
同じ家に寝起《ねお》きし、同じ車で学校へ行った数ヶ月にも、深行とふれあうことは絶えてなかった。お互《たが》い、肩をかすめることさえ避けて、近づきすぎないように注意をはらってきた。深行と手をつなぐことなど、この瞬間まであり得ないことだったのだ。
驚くあまり、どこにいるのか忘れかけるくらいだった。自分に言いきかせなくてはならなかった。
(この人は深行くんで、わたしは東京に来ていて、初めて見る都会の交差点を、今は二人でわたっている……)
泉水子の手はふだんより熱っぽかったが、深行の手の温《ぬく》もりは伝わってきた。包みこむほど大きく、骨ばった指が長く、力のある手のひらだった。その温かさからは、深行の自信がこちらにまで流れこんでくるようだ。ひとりで何でもしてきたという自信――そこに裏打ちされた、何が起ころうとなんとかなるという楽観的な気がまえ。
(口先だけじゃないんだ、深行くん……本当に怖くないんだ)
深行と交《か》わしたどんな強烈《きょうれつ》なやりとりよりも、彼の手のひらのほうが多くを語っていた。今になって初めて、深行がここにいると実感したような気がした。
深行が鈍感《どんかん》であれば、泉水子の感じる脅威が少なくなるはずもなく、分かち合えると思ったわけでもなかった。それでも泉水子は、震えあがるほど怯えていた自分が少しだけ和《やわ》らぎ、息がつけるのを感じた。それまでずっと、ひとりで耐え忍ばねばならず、迫《せま》りくるものと自分だけが向きあうと思っていたのだ。
(そうじゃない……少なくとも、だれも知らない都会にひとりでいるのではない。ここには深行くんもいる……)
深行は当てずっぽうに歩いただけだったが、Tシャツやジーンズを店先に吊《つる》す若者向けの店は、少し先の商店街を入ればいくつも目についた。
泉水子はその一軒《いっけん》で、キャップのようなつばのある白い帽子を選んだ。頭を覆う部分がキャップよりふくらんだ形で、店員はキャスケットと呼んでいる。
お下げ髪をまとめてキャスケットにつめこみ、つばを押さえてぎゅっと被《かぶ》ると、鏡に映った姿はわれながら別人に見えた。制服の紺《こん》のスカートにそれほど似合ってはいないが、都心を歩くにはずっとましだろうと、深行とも意見が一致《いっち》した。
「深行くんって、自分で服を買うの?」
帽子を被って出てきてからも、まだ買い物をした店がめずらしく、泉水子はふり返りながらたずねた。
「鈴原は買わないのか」
「お店に入ったのも初めて」
「話にならないな」
深行は、支払《しはら》いをすませた泉水子の財布《さいふ》を返してよこした。
「そして、この財布には札が入りすぎだ。佐和さんときたら、道ばたで簡単に巻き上げられそうなやつに、よくこんなにもたせるよ」
「そう?」
「先に知っていたら、タクシー代くらいケチらずに、最初から車を探したのに」
タクシーのりばを見つけようとあたりを見回してから、深行はふいに言った。
「おれにそれだけの金があったら、迷わずに山形の千石《せんごく》さんのところへ行ったな。今からだって、遅くはないのかもな」
泉水子はびっくりしたが、大金をもっている自覚もないし、金を巻き上げるという言葉にもなじみがなかった。
「山形へ行くには、これで足りてしまうの?」
深行はため息をついたようだった。
「本当は、家出をしても解決にならない。千石さんだって山伏《やまぶし》のひとりにはちがいないし、つれもどされるのは、もう実証済みだ」
「家出したことがあるの?」
「一度じゃないね」
駅前のタクシーのりばには数人が並んでいた。その列についてから、泉水子はおそるおそるたずねてみた。
「羽黒《はぐろ》で修行《しゅぎょう》をしてきたって、もしかすると、そういうこと?」
「まあ、なりゆきの半分は」
深行は行き交う車をながめたまま答えた。
「行きたいところへ行く要領は、だから、けっこう身についているんだ。紫子さんの居場所だって探してみせるさ」
泉水子《いずみこ》は、タクシーに乗るのも初めてだった。
車に設置した料金メーターが回るのがものめずらしかった。野々村《ののむら》の車にはカーナビがついていなかったので、カーナビの実物も初めて見る。運転手がその場所を知らなくても、住所を言えばつれていってくれることも初めて知った。
「このあたりですよ、お客さん」
運転手に言われて車を降りてみると、道の両側には、二十階は優にある高さのマンションが立ち並んでいた。戸建ての住宅は見当たらない。あたりのすべてが鉄筋ビルだった。
「お母さんの家、マンションだったのね……」
「変だな、それなら住所に部屋番号がつきそうなものだが」
携帯《けいたい》電話の画面をながめながら、深行《みゆき》は不審《ふしん》そうに言った。
「今から行くとメールしたけれど、返事が来ない。まあいい、行ってみればわかるだろう」
一番近いマンションに入ってみると、住所がちがうと気がついた。ここは中央二丁目ではなく一丁目だったのだ。管理人に頭を下げて外へ出てきてから、深行が首をかしげた。
「ちがう場所に降ろされたみたいだ。おかしいな、カーナビで確認《かくにん》していたのに」
それから、半ば笑いとばすように言った。
「まさか、これも妨害《ぼうがい》じゃないだろうな。家にたどり着かせないまうに、カーナビまで故障させたとか」
泉水子には冗談《じょうだん》にも聞こえなかった。背筋を冷たさがはいのぼった。
母の家にいつまでたってもたどり着かない――どう考えてもおかしいのだった。何かが起きているとしか思えなかった。行く手をはばんで、泉水子が安全な場所に逃《に》げこんでしまう前に、見つけ出そうとしているかのようだ。
(この近くに来ている……そうにちがいない。もう、離《はな》れて見ているだけではない。間近までやって来て、いやおうなしに見つけ出すつもりなのだ)
夏至《げし》が近いため日が長く、夕刻にさしかかった今も日没《にちぼつ》には間がある。だが、あたりは薄暗《うすぐら》くかげって見えた。瀟洒《しょうしゃ》なマンションの並ぶ通りは、歩く人の姿がほとんどない。繁華街《はんかがい》を離れ、住宅地に入ったからだろう。
もともと都会の街並みは、人が歩いていようといまいと温かみがなかった。やや起伏《きふく》のある路地はカーブして見通しが悪く、立ち並ぶビルのせいで遠景の目印も見つけにくい。
深行は黙《だま》って地図を検索《けんさく》していたが、気楽な口調で言った。
「平気だ、通りが数本ちがうだけだ。東中野から来るつもりだったことを思えば、歩いてもたいしたことはないよ。ほんの五分か十分だ」
頭を隠《かく》してうずくまりたくなっていた泉水子だが、しいて思いなおした。まだ、望みがなくなったわけではない、見つかるより先に紫子《ゆかりこ》の家に逃げこめるかもしれない。動けるうちは動くべきなのだ。今となっては、深行の楽観だけが救いのように思えた。
歩き出して、五分もたたないときだった。通りすがりの街灯がいきなりまたたいたので、泉水子は飛び上がりかけた。顔を上げると、道並びの街灯がつぎつぎに明かりをつけはじめている。
そこまであたりが暗くなっているということに、泉水子はようやく気がついた。たそがれのような暗さは、決して時刻のせいではなかった。ビルの谷間から見上げる空に、いつのまにか青黒い雲がのしかかっている。片隅《かたすみ》の空だけが濁《にご》った薄黄色をしていたが、それも急速に覆《おお》い隠されていった。
「間が悪いな。これでは降ってくるぞ」
同じように雲を見上げた深行が口にしたときだった。まるで呼ばれたかのように、雨粒《あまつぶ》が落ちてきた。
「急げ、あと少しのはずだ」
二人は駆《か》け出したが、赤信号を待っているあいだに雨は早くも本降りになってきた。
最初は、多少ぬれてもかまわないという気持ちだったのだが、たたきつけるように降り始め、暗い空が紫《むらさき》めいた明るさに二度三度|閃《ひらめ》くようになっては、突進《とっしん》も無理と認めざるを得なかった。
とりあえずの雨やどりに、深行と泉水子は道路わきにあった階段上のポーチへ逃げこんだ。これも大きなマンションの玄関《げんかん》だったが、突《つ》き出た屋根が目についたのだ。雨をよけられてほっとしたときには、空で雷鳴《らいめい》が響《ひび》きわたっていた。乱雲をおおかたやりすごすまで、この先へ進めそうになかった。
座りこむこともできないくらい、どちらもぬれそぼっていた。泉水子はそれでも、キャスケットを被《かぶ》っているだけましだったかもしれない。深行は髪《かみ》からしずくを落とし、シャツとTシャツは体にはりついたありさまだった。
「都会のビル街で、わずかにいいところと言ったら、雷《かみなり》が自分の頭に落ちると思わなくてすむところだな」
ぼやきながら髪をかき上げ、深行は泉水子を見やった。
「山に住みなれたやつは、このくらいの雷じゃ怖《こわ》くないだろう」
泉水子はくちびるをかんでから、かすかな声で答えた。
「……雷は」
「今でも、見つけにくるやつのことが怖いのか」
「もう近い」
絶望の思いで泉水子の声がかすれた。見つからずに逃げ切ることは不可能だと、ついにさとってしまったのだ。
「もう、すぐそこに」
泉水子が言ったそのときだった。閃光《せんこう》のまたたきとともに、空中を引き裂《さ》くような轟音《ごうおん》が耳を打った。首をすくめる暇《ひま》もなかった。衝撃《しょうげき》の余韻《よいん》が地表をはい、足の下に鈍《にぶ》い感覚を残していく。落雷だと気づいたときには、見える範囲《はんい》の街灯の明かりも、背後の玄関ホールにともっていた明かりも、つぎつぎに消えていった。
薄墨色《うすずみいろ》に静まった景色の中で、コンクリートを打つ雨音だけがこれまでより大きくなった。しばらくその音に聞き入ってから、深行がゆっくり口を開いた。
「おれだって、さすがに何かあるんだという気がしてきた。これだけ重なれば、全部が偶然《ぐうぜん》だとは思えない。紫子さんがメールに、家には結界《けっかい》があると打っていたのも気になる。それに……」
言葉をとぎらせて、深行は泉水子を見た。泉水子は抱《かか》えこむように自分の両腕《りょううで》をつかんでいたが、それだけでは全身が震《ふる》えるのを抑《おさ》えきれなかった。すでに歯の根も合わなくなっていた。
「本当に怖さで震えているやつを、おれは初めて見るよ。ただの妄想《もうそう》で片づけるには、情況《じょうきょう》が怪《あや》しすぎるというか――おれにも、何かが来るという気がしてくるというか」
「来るの」
やっとの思いで泉水子は言った。
「いやでもわかる。今、現れるから」
深行は眉《まゆ》をひそめた。
明かりは消え、雨は降りしきり、あたりにすごみが増しているのはたしかだった。信号機は他の停電にもかかわらず動いているようだが、車の響きは遠く、前の通りを歩く人影《ひとかげ》はとだえたきりだ。二人が孤立無援《こりつむえん》であることは、ひしひしと感じられた。
「気休めになるなら、加持《かじ》祈祷《きとう》とか唱えてみてもいいぞ」
深行が口にするには突拍子《とっぴょうし》もない発言だったので、泉水子は歯を鳴らしていたにもかかわらず、びっくりして見やった。
「加持?」
「あくまで気休めの域《いき》だけど、悪霊退散《あくりょうたいさん》ってやつ」
ぶっきらぼうな申し出だったが、泉水子は深行が歩み寄ったことがわかった。迫《せま》ってくる超常《ちょうじょう》のものを認め、泉水子の恐怖《きょうふ》を認めようとしているのだ。今はほほえむ余裕《よゆう》などなかったが、どこまでも実際的な深行の言葉としてはほほえましかった。
「ううん……あれは退散してくれないと思う。でも、よかったら……」
泉水子の口からも、思いもよらない言葉がついて出た。
「手、つないでもいいかな」
「手?」
「少しだけ怖くなくなったの、さっきは」
深行は黙って右手をさしだした。
泉水子はその手を握《にぎ》ったが、自分の手が少しも震えやまないことはわかった。深行がそれに気づいたのか、いくぶん力をこめて握りなおした。それだけでも十分だと泉水子は考えた。
大きく息を吸い、震えるため息とともに泉水子は言った。
「来たよ……とうとう」
そのものは、たそがれのように暗い中、安手《やすで》の透明《とうめい》ビニール傘《がさ》をさして歩いてきた。
雨足はまだ強く、歩道の敷石《しきいし》に雨しぶきが上がっている。近づく人影はひとつきりで、他に人通りはなかった。
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……誦咒《じゅじゅ》五遍《ごへん》 縷七色《るしちしょく》 結作三結《けっささんけつ》 繋痛処《けいつうしょ》 此大神咒乃是過去《しだいじんじゅないしかこ》
四十億恒河沙諸仏処説《しじゅうおくごうがしゃしょぶつしょせつ》 我於過去従諸仏処《がおかこじゅうしょぶつしょ》 得聞説此大神咒力《とくもんせつしだいじんじゅりき》
従是以来経七百劫《じゅうぜいらいきょうしちひゃくこう》 住閻浮提《じゅうえんぶだい》 為大国師《いだいこくし》 領四天下《りょうしてんげ》
衆星中王《しゅしょうちゅうおう》 得最自在《とくさいじざい》 四天下中《してんげちゅう》 一切国事《いっさいこくじ》 我悉当之若《がしつとうしにゃく》……
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雨音をついて、ごく低くつぶやく経文《きょうもん》のような言葉が聞こえる。
深行は近づく影をしばらく見つめてから、意を決したように口を開いた。
「……諸《もろもろ》の荒魁《あらみさき》・飛行《ひぎょう》・疫神《えきじん》・呪詛神《しゅそしん》・八大金神《はちだいこんじん》・指神聞神《さすかみきくかみ》・友引《ともびき》・悪霊《あくりょう》・悪鬼《あっき》・三界外道《さんがいげどう》の輩《ともがら》は、神法不思議《じんぽうふしぎ》の加持力《かじりき》を納受《のうじゅ》して、慳貪邪見《けんどんじゃけん》の心《こころ》を開《ひら》き、各々《おのおの》その根源《こんげん》へ退去《たいきょ》し、宜《よろ》しく神誓《しんせい》を守《まも》るべし。重《かさ》ねて句那戸《くなと》を破《やぶ》るなかれ……」
ビニール傘をさしてやってきた相手は、二人のいる階段の下で立ち止まった。彼が読経《どきょう》の主だったことは、真言《しんごん》を口にしたことで明らかだった。
「オン ソチリシュタ ソワカ」
そして、ふつうの声に返って言った。
「だれに向かって唱えているつもりだ。加持文《かじもん》をそまつにするものじゃない」
薄手のパーカーをはおり、脱色《だっしょく》したジーンズの裾《すそ》をぬらした相楽雪政《さがらゆきまさ》がそこに立っていた。相楽はゆうゆうと階段上の二人を見上げ、傘《かさ》の中でにっこりしてから言った。
「ばかだな、調伏《ちょうぶく》する相手をまちがえるんじゃないよ。調伏が必要なのは、泉水子のほうだ」
四
「……相楽さん?」
それがだれかを見極《みきわ》めた瞬間《しゅんかん》、泉水子は何かが脱《ぬ》け落ちるのを感じた。心臓がもたないとまで感じた激しい恐怖は、夜明け前に去っていく夢のようだった。見ているあいだは切迫《せっぱく》しているが、思い返せば実体のないものだ。
「相楽さん、どうしてここに」
だが、泉水子が思ってもみなかったほど、深行のほうは身がまえを解かなかった。
「近づくな」
階段に足をかけた相楽に、深行は容赦《ようしゃ》のない口調で告げた。相手も思わず立ち止まったほどだ。
「本当に雪政だという、証拠《しょうこ》を見せろよ」
「なっていないな、深行」
いくらかものうく相楽は言った。
「ごらん、今の泉水子には、わたしがだれかをちゃんとわかっているから」
深行は言われるままに泉水子を見て、泉水子は深行を見返した。二人はいまだに手をつなぎあっていたのだった。そして、お互《たが》いの感じる困惑《こんわく》を手のひらから感じとり、口を開く前に理解した。
「おまえ、大まじで怖がっていただろう。その悪者が雪政だったというだけで、どうして納得《なっとく》なんかしているんだよ」
「でも、この人は本当に相楽さんだもの。どういうことかわからないけれど、わたしが今まで怖かったのは、なにか勘《かん》ちがいだったみたいで……」
「ふざけるなよ、それじゃ全部意味がないじゃないか」
深行はふり切るように手を離したが、泉水子のほうも、そうされてもしかたないと思ってしまった。どうしてこういう結果になるのか、自分でもあきれる思いだった。
「泉水子が恐《おそ》れたのは別に無意味じゃない。根拠《こんきょ》のあることだよ」
階段を上ってきた相楽は、やわらかな口調で告げた。
「じつはね、泉水子に恐れられるからこそ、わたしは本物なんだ」
映画に出演できるようなきれいな顔立ちを見やり、泉水子は混乱するままにたずねた。
「相楽さん、わたし、逃げ切ることができたの、それともその逆だったの?」
「それはきみが、山伏《やまぶし》をどうとらえるかによるかもしれないね」
相楽の返答がやさしかったので、泉水子は思いきって訴《うった》えた。
「悪いものが迫っていると、本当に感じていたのよ。暗い影がたくさんあって、よどんでいて、ものすごく怖かった。相楽さんの顔を見るまで、絶対に顔をあわせてはならないと思っていたのに……」
相楽はそれにもうなずいた。
「きみが感じとっていたのは、たぶん、わたしひとりではないんだよ。玉倉《たまくら》山の守りの外に出てしまえば、きみにねらいをつけ、手を伸《の》ばしてくるものは無数にいる。東京のような場所に来てはなおさらだ。だが、その中ではわたしが一番強かったし、一番早く泉水子にたどり着いた。そういうはこびだったんだよ。つらかったと思うが、いつまでも知らずにはすまされないことだった。紫子さんも、それだから、きみを東京へ呼んだのだと思うよ」
「どうしてわたし、ねらわれたりするの」
「きみが、山伏の秘《ひ》め隠してきた大事な身柄《みがら》だから」
泉水子はどう質問したらいいか迷ったが、思いきって口にした。
「今のが本当なら、相楽さんも……ねらう人ではあるの?」
相楽は笑《え》みを浮《う》かべると、傘を後ろにかたむけて泉水子の顔をのぞきこんだ。
「自分としてはそうではなく、ガードしていると考えているんだけどね。こうしてもっとも近づくことが、きみを手の内にすることなのか、きみの手の内にされることなのかは何とも言えない。だが、少なくとも、わたしと顔をあわせても怖くないだろう?」
「……うん」
顔が間近になって泉水子はたじろいだが、うなずいた。相楽がどんな力を秘めているかわからなくても、彼を恐ろしいものとは呼べなかった。
深行が大きくため息をつき、相楽に言った。
「それで、おれたちが紫子さんに会うのを妨害したのも、雪政のしわざだったのか」
「それは、わたしのしたことじゃないな」
相楽はかがめた背を起こし、雨の様子を見やった。降りの激しさはとうげを越《こ》え、やや小降りになってきたようだった。
「深行たちが紫子さんの家に向かったことは、見当がついていた。このまま彼女の家まで行くかい。二人とも、それだけぬれたらどこかで乾《かわ》かさないと、修学旅行の続きさえできないだろう」
「ついてくる気なのか?」
深行はろこつにいやそうな口調でたずねたが、相楽は平気な顔で言い返した。
「行くとも。言っておくが、家に紫子さんはいないよ。都庁へ行けなかった時点で、彼女はきみたちと接触《せっしょく》することをあきらめたんだ。だが、あの家には結界があって、泉水子を脅《おびや》かすものが入ってこられないのもたしかだ。休憩《きゅうけい》するにはいいところだよ」
そこは、何のへんてつもない家屋《かおく》だった。
マンションビルの並ぶ大通りから中に入ると、一画は戸建ての住宅ばかりになった。紫子が示した住所に建つ家は、隣家《りんか》と軒《のき》を寄せあうように建つ、庭らしき庭もない、特徴《とくちょう》のないクリーム色の壁《かべ》をもつ二階屋だった。古くはないが真新しくもなく、平凡《へいぼん》な建て売りの家に見える。
相楽は鍵《かぎ》をもっており、中に入るのは簡単だった。そして、出迎《でむか》える人はだれもいなかった。停電はいつのまにか復旧したようで、リビングの明かりはすぐについたが、明るくなっても人の住まない漠《ばく》とした感じがただよっていた。
(お母さんは、ここにいたわけじゃないんだ。どこか別のところから連絡《れんらく》をよこしたにちがいない……)
家の内部を見回した泉水子は考えた。間取りや家具の配置は、泉水子の家と似ているかもしれなかった。キッチン・カウンターに寄せて六人がけのダイニングテーブルが置いてあり、窓ぎわにはソファーと肘掛《ひじか》けいすの三点セットがある。色もデザインも奇抜《きばつ》さのない、そこそこの家庭でしつらえている品だ。
けれども、この家からは人の匂《にお》いがしなかった。生活感のなさは、土産《みやげ》の置物や読み終えた雑誌といった、雑多な品物がひとつもないことから感じとれた。整頓《せいとん》されすぎていて、ドラマのセットのように作りものに見えるのだ。
結界があるという話だったが、目に見えるような仕掛《しか》けは何もなかった。家に入って泉水子が感じたのは、空虚《くうきょ》さと失意ばかりで、がっくり肩《かた》が落ちた。
「本当にいないんだ、お母さん……」
これほどの思いをしてたどり着いたというのに、紫子はいない。苦労は何だったのかと思わずにはいられなかった。
深行は泉水子に腹を立てているらしく、相楽が出現してからほとんど口をきかず、泉水子のほうを見ようともしない。これも、最低のなりゆきとしか思えなかった。
上機嫌《じょうきげん》なのは相楽ひとりだった。鍵をもっているだけあって、この家には何度も来ているらしい。最初からくつろいだ様子でソファーに腰《こし》をおろした。
「紫子さんが約束をたがえたことを、あまり恨《うら》んではいけないよ。彼女はきみのために、あえて深刻な立場に立っているんだ――きみの存在を多くの目から隠して、代わりに自分にひきつけておく立場に。今までもずっとそうだった。親子の対面がなかなか果たせないのは、紫子さんがその役目を背負う決心をしているからだ」
泉水子は少し顔をしかめ、愛想《あいそ》よく語る相楽を見やった。
「お母さんが忙《いそが》しいのは、公安なんてところに勤めているからよ」
「賢明《けんめい》な選択《せんたく》だったよ。本人は雲隠《くもがく》れが簡単だし、一方では国家レベルの機密情報が手に入る。もちろん、紫子さん自身の有能さがそれを可能にしたのであって、彼女はそうとう国に恩を売っているよ。そして、国の後ろ盾《だて》を得て自分の正体を隠しているんだ。ちょっとやそっとの者では、彼女に行きつくことはできない」
一度口をつぐんでから、相楽はつけ加えた。
「このわたしでも、なかなかね」
「お母さんにいつ会えるか、相楽さんにもわからないの?」
「情況が動いていくからね。彼女のほうにその気がないと」
結局、母はすでに自分に会う気がなかったのだと、泉水子はぼんやり考えた。雨にぬれたブラウスもスカートも靴下《くつした》も気持ちが悪い。いろいろとうんざりする気分だった。
泉水子と深行が突っ立ったままでいることに、相楽も気がついた。
「泉水子は二階で、服を乾かすあいだ着替《きが》えるものが見つかるかどうか、探してごらん。ベッドでしばらく休んでもいい、ずいぶん具合の悪そうな様子をしているよ。わたしと深行は二階へ行かないようにするから、気をつかわずにくつろいでいいんだ」
横になって休めるという提案は魅力《みりょく》的だった。もうずっと、そうしたくてたまらなかったのだ。体にむちうって、無理に無理を重ねてきたが、なんとかここまで保ってきた気力も母の不在でとぎれてしまった。
(相楽さんに説明してほしいことは、たくさんある……けれども、一回休んで、元気をとりもどしてから聞くことにしても、遅《おそ》くはないかも)
泉水子はそう思い、相楽の言葉に従って二階へ行ってみることにした。ぬれた制服をこのまま着ているわけにはいかず、これを乾かすことが当面の急務だった。自分ばかりでなく、深行も同じであるはずだ。
二階の広いベッドルームは、ブルー系のインテリアですっきりと統一してあり、あまり女性の部屋らしく見えなかった。それでも、ウォークイン・クロゼットには女性の衣服がぎっしり詰《つ》めこまれていた。ほとんどはクリーニング店のビニールが被ったままだ。
紫子のファッションセンスがどの程度のものか、泉水子には判別のしようがなかったが、どの服も値がはりそうには見えた。クロゼットの中に、和箪笥《わだんす》が一|竿《さお》置いてあったのも意外だった。記憶《きおく》の限りでは、和服姿の紫子を目にしたことはなかったのだ。
しばらくまごついてから、泉水子はなんとか着られるシャツとパンツを見つけ出した。ぬれたブラウスやスカートは、浴室|乾燥機《かんそうき》のあるバスルームに吊《つる》しておけば、そのうち乾くはずだった。
着替えるときになって、ようやく被っていたキャスケットを脱《ぬ》いだ。お下げ髪《がみ》が解放されると、詰めこんでいたことがどれほど不快の原因だったか、今にしてわかる思いだった。気づいていないわけではなかったが、なんとなく律儀《りちぎ》に被り続けていたのだ。
手にした白い帽子《ぼうし》を見つめて、泉水子はいくぶん思いにふけった。
(……被っていたかったのは、この帽子がわたしのためだったからだ。今はそう思っていないかもしれないけれど、深行くんでも親切なときがあると、初めて知ったような気がしたのだもの……)
整えられた広いベッドを目にしてしまうと、もぐりこみたいという誘惑《ゆうわく》には勝てなかった。全身が重く感じられて、とてもこのまま起きていられそうにない。衣服をバスルームへもっていって相楽に伝えると、彼は気持ちよくうなずいた。
「服が乾くまで、一時間くらいはここにいる時間がとれるだろう。降りてこないときには、内線で起こしてあげるよ。今のきみには眠《ねむ》るのが一番だ。よく休んでいくといいよ」
* * *
泉水子が二階へ上がってしまうと、深行は乱暴にシャツのボタンをはずし、ダイニングテーブルのいすの背にかけた。さらにTシャツも脱ぎ捨てる。
相楽が忠告した。
「ズボンは脱がないほうがいいぞ。一応ひと様の家だから、何かあったときのためにも」
深行は尖《とが》った声を出した。
「わかっていることを、わざわざ言わなくていい」
「いつ会いにきても怒《おこ》っているな、深行は」
相楽は嘆《なげ》かわしい顔をしてみせた。
「二人きりの時間ができたというのに、たまには和《なご》やかに、水入らずの会話をしてみようとは思わないのか」
「おまえが悦《えつ》に入っているときは、おれはむかつくんだよ」
深行はぷいと背を向けると、シャツをもってバスルームへ向かった。
少しして、深行が服を干してもどってくると、リビングの相楽は缶《かん》ビールの口を開けていた。ソファーに歩み寄った深行は、眉をひそめて見下ろした。
「ひと様の家で、アルコールにふけるのはかまわないのか」
「この家の冷蔵庫には、ビールしか入っていないんだよ。水道水を飲むかビールを飲むかの選択だ。深行には水道水しかないね」
「雪政」
胸に腕をくんだ深行は、声音《こわね》を下げた。
「さっきは鈴原《すずはら》をうまく丸めこんだようだが、おれは簡単にだまされないぞ。おれたちが、自分たちですら予想しなかった場所にいるとき、おまえが知った顔で現れたというのは、どう考えてもおかしいんだ」
相楽はさもうまそうに缶ビールをかたむけてから、ジーンズの足を組みなおした。
「それで深行は、どうだまされないんだ」
「鈴原が死ぬほど怯《おび》えたのを、おれはそばで見ていた。あいつ自身は雪政に会ったとたんにけろりとしたが、そちらのほうが術だと思える。つまり、雪政に調伏されたんだ。うまく言い抜《ぬ》けていたが、鈴原が恐れ続けたつけねらう悪いものとは、結局おまえのことだったんだろう。今は、見つかってはならなかったものにつかまったわけだ」
息をついで、深行はさらに続けた。
「あれほど阻止《そし》されなければ、鈴原とおれは、この家に自力でたどり着いていた。そうしたら、おまえはこの家の結界に入れなかったんじゃないのか。紫子さんが危険を察知したのだって、おまえが追っていることに気づいたからじゃないのか。おれは雪政が諸悪の根源だったとしても、これっぽっちも驚《おどろ》かないね」
相楽は明るい茶色に澄《す》んだ目を向けた。にらみ返す深行の瞳《ひとみ》は濃《こ》く、親子で似ていないもののひとつだ。
「それはしかたがないんだ。彼女たちの本性《ほんしょう》は逃げるものだから。山伏といえども、手元におきたいと願えば実力でつかまえるしかない。われわれの見地からすると、彼女の力をただ手中にして利益をつかみたいと願う、企業家《きぎょうか》やら政治家やら研究者やら宗教家やらの連中とは一線を画《かく》していると言いたいところだが、力を欲するという点では、どちらも同じ方向性だからな」
深行はやや目を見はった。
「企業家やら政治家やらって。そんなにこの世間|一般《いっぱん》で、鈴原にねらいをつける人物がいるというのか?」
「グローバル化が進んでいるから、国内だけとは限らないかもしれないな」
「いったい、あの鈴原に何があると……そこまで言われるどんな力があるというんだ」
深行があきれた口調で問うと、相楽はビール缶を見つめてやや思案した。
「どんな力と言われると、追求する立場によっていろいろ見解があるだろうな。山伏に関して言えば、秘伝でそれを申し伝えてきたのは、祖先が山の中で接した霊力《れいりょく》と同源のものだからだ。厳しい山中|修行《しゅぎょう》で験力《げんりき》を身につけることにも、それなりの才能が必要だが、同じものを修行を通さずに、ただ純粋《じゅんすい》に『力』としてもって生まれる希有《けう》な人間がいる。そういう者は、昔から女性に限られている」
「女性だけ?」
「女性だけだ」
「性差別?」
深行の言葉に、相楽は肩をすくめた。
「たしかに不公平だな。だから注意深く秘め隠された。昔の修験道《しゅげんどう》の霊山《れいざん》は、たいていが女人《にょにん》禁制だったものだ。そして、菩薩《ぼさつ》と呼び変えるにしろ如来《にょらい》と呼び変えるにしろ、たいていの山頂に姫神《ひめがみ》を祀《まつ》っていた。修行によらずに力をもつ女性の存在は、修行者《しゅぎょうじゃ》を厳密に男性に限ることでうまく隠されていた。ごく一部の、現在の山伏につながる者たちだけが、姫神の山がもつ本当の意味を知っていたんだ」
「だから、あいつを女神《めがみ》と言ったのか。だけど、鈴原は……」
深行はふと困惑して言いよどんだ。
「そばで見たって、そんなにたいそうなものじゃないぞ。ただ人より怖がりな、ふつうの女の子だ」
「ああ、彼女はまだ目覚めたとはいえない」
空になった缶をテーブルにおいた相楽は、ソファーの背にもたれた。
「けれども、予兆がなくはない。泉水子には何か、特定の磁場に働きかける能力があるらしい。本人もうまく使えないようだし、これが力の指標になるかどうか、この先を見ないと何とも言えないが、万一コントロールできることがわかったら、世界中が彼女に注目するだろうよ」
怪しみながら深行がたずねた。
「まさかと思うが、今日の電車の故障も、自動改札の故障も、タクシーのカーナビがおかしかったのも、みんな鈴原のせいなのか?」
「可能性はある」
「それじゃ、注目されるにしたって、社会の迷惑《めいわく》にしかならないだろう」
「うーん、そのへんはちょっと困っているところだよ」
相楽は反論せずに頭をかき、深行は憤然《ふんぜん》とそれを見やった。
「かんべんしろよ、鈴原のお守《も》りがしたかったら自分でやってくれ。おれは、雪政の手先にされるのなんかまっぴらだ。なんとしても紫子さんに――」
深行がそこまでまくしたてたときだった。背後にかろやかな気配を感じた。
「――今度こそ伝えて」
何気なくふり返り、深行は息をのんで言葉をとぎらせた。いつ二階から降りてきたのか、音もたてずに泉水子が立っていた。
「降りてくるならそう言えよ」
深行があわてたのは自分が半裸《はんら》だったからだが、すぐに、それどころでないほど泉水子が異様であることに気がついた。
まず第一に、泉水子は着物を着こんでいた。まともな着方ではなく、朱鷺《とき》色の色無地の上に紫の小紋《こもん》をはおるように着重ね、その裾《すそ》は床《ゆか》に余っている。そして、長い髪を解き放っていた。深行はお下げを編まない泉水子を初めて見たが、黒々とした髪が着物|柄《がら》を覆い隠すほどに垂れかかり、つややかに光をおびていた。今さっきまで編んでいたようにも見えないのが不思議だった。
「鈴原……だよな」
声に確信がこもらなくなった。彼女はメガネもかけていない。そして、その瞳は無邪気《むじゃき》なほど強い興味を浮かべ、まっすぐ深行に向けられていた。何かめずらしいものを目にしたように、泉水子が上から下までしげしげとながめるため、深行は半裸だということに今一度たじろがずにいられなかった。
かすかに息をもらして、泉水子が笑った。薄紅《うすべに》の花が咲《さ》きほころんだような笑み。泉水子がこんなふうに笑うのは見たことがないが、深行は古い記憶の中で、こうした笑みを浮かべる女性を知っていた。
「……紫子《ゆかりこ》さん?」
小声でつぶやくと、相手の黒目がちな瞳が生き生きとおどった。
「ふうん、そなたは、わたしと出会っているのだな。紫子が従えるにしては、少々若すぎる年齢《ねんれい》に見受けられるが、さて、どこで会っていたのだろう」
どうにもめんくらう口調だった。泉水子ではあり得ないと深行は考えたが、紫子だったとしても少々おかしかった。
「離れろ、深行」
はじかれたように立ち上がった相楽が、鋭《するど》い声で告げた。豹変《ひょうへん》した相楽の様子に、深行はひそかに驚いた。相楽が真剣《しんけん》に出す声など、久しく聞いたことがなかったのだ。
「その恰好《かっこう》で、御前《ごぜん》に立てるようなかたではない。そのまま後ろに下がるんだ」
びっくりしたまま、深行が相楽の口調にのまれて後ずさると、彼女はゆっくり顔を回して相楽を見た。
「おや、雪政がいたのか」
失望したような口ぶりだった。
「なんだ、そういうことか。それなら、今回はそなたの手の内だったということだな」
彼女の前に進み出た相楽は、身をかがめるとカーペットにひざと手をついた。深行はわけがわからず見やったが、相楽が床に何か見つけたのではなく、古式な礼をとってひざまずいているのだと知り、あっけにとられて動けなくなった。
「姫のおいでを迎《むか》えながら何の用意もなく、お見苦しいところをお目にかけました。ご無礼をお許しください」
「よいのだ」
平然と受け入れ、彼女はうなずいた。
「いきなり来てみたのは、わたしのほうだ。少々、思うところがあってな」
「まだまだ紫子さまのもとにおられるとばかり、思っておりました」
「うん、そう」
あてもなく室内のあちこちを見やってから、彼女は着物を着た自分を見下ろした。
「泉水子に降りたのは、これが初めてだ。まだ、時機が来ていない。この体はわたしには若すぎて、ずいぶんと居心地《いごこち》が悪い。けれども、何か動きを感じたので来てみた。何がこの目に映るのかと」
ほんの一瞬《いっしゅん》、彼女の目は再び深行をとらえた。そして、ほんの一瞬ほほえみかけた。けれども、たいそう微妙《びみょう》な表情のうちだったので、あるいは深行がそう感じただけかもしれなかった。
「それでは、こののち姫は泉水子のもとに?」
相楽が声をかけると、たちまちその表情はいたずらっぽく、からかいを浮かべたようにしか見えなくなった。
「まだ、そなたにつかまったわけではないぞ。将来の方向を見るのであれば、おおむね正しいとだけ言っておこう。とはいえ、泉水子の器《うつわ》を大切にするとよい。この子は、よくも悪くも、わたしの最後の器となるだろうから」
「泉水子の代で閉じられると?」
彼女は長い髪をゆらして頭をふった。
「さあ。ただ、わたしはそこから先へは行かないだろう。未来に分岐《ぶんき》があるのだ。わたしが存続するか非存在になるかの節目がある」
目を伏《ふ》せて静かに相楽を見下ろすと、少女の顔はどこか観音菩薩《かんのんぼさつ》像を思わせた。だが、その静かさも長くは続かず、再びいたずらっぽくほほえんだ。
「雪政がこの場を押さえたことには、何か見返りが必要だな。これひとつは教えてあげよう。永代にわたって山伏《やまぶし》が営んできた労苦が、むくわれるか否《いな》かはあと十五年で決まる。拮抗《きっこう》するものは海外にある」
「姫」
相楽が顔を上げた。呼び止めようとする声音だった。その変化に気づかなかった深行にも、相楽が立ち上がったことで、何が起きたかわかった。泉水子に憑依《ひょうい》していたものが去っていったのだ。
後には、われに返って目をぱちくりさせる泉水子だけが残った。目の前になぜ相楽が立っているのかを、理解できずにいるようだ。
「何でもないんだよ」
相楽の口調は、まるで怯えやすい小動物をなだめるようだった。
「おかしなことではないんだ。ここは結界の中だから、彼女が来たというだけだよ」
ようやく自分の扮装《ふんそう》に気づいた泉水子は、みるみるほおを真っ赤にした。
「どうして、わたし、こんな恰好を……」
「落ち着いて」
泉水子と目の高さを合わせるようにして、相楽は言った。
「今は思い出せなくていいんだ。一晩か二晩たてば少しずつ思い出す。紫子さんもそうしているよ。きみに訪《おとず》れた女性は、悪いことをしにくるものではない。菩薩であり如来でもあるんだ」
相楽はその魅力を行使して言いふくめたが、うろたえきった泉水子に届いたかどうかは疑問だった。泉水子は唐突《とうとつ》に相楽に背を向け、髪をなびかせて走り去り、階段を駆け上がろうとして派手にころんだ。
相楽が後を追い、あわててのぞきこんだ。
「泉水子、けがは」
「だいじょうぶです。着替えるから来ないで」
大声で答える様子からすると、たいしたことはなさそうだった。耳にした深行も、ほっとする思いを味わった。もう、どこから見てももとの泉水子だ。
もどってきた相楽を見やると、めずらしく動揺《どうよう》を顔に表していた。今の一連のできごとは、相楽にとっても予期しないものごとだったにちがいなかった。
深行はつとめて冷静な声を出した。
「つまり、今の現象がおおもとなんだな。鈴原は、憑依体質の系統なんだ」
「おまえは知らないんだ。姫神に目通りのできる者がどれだけ少ないか」
再びソファーに腰かけた相楽は、気持ちを静めようとするように両手を組んだ。
「彼女は、修験道の始祖《しそ》たちの前に姿を現している。十一面観音《じゅういちめんかんのん》と呼ばれたり、薬師如来《やくしにょらい》と呼ばれたりしながら、山頂に祀られたのは彼女だ。けれども、いちがいに彼女を古代のものと言うことはできない。その逆で、未来から来て過去に飛ぶ能力をもった女性のようにも見える」
「予言するってことなんだろう?」
深行は言ったが、相楽は聞いていない様子だった。
「その時代、その時代で、彼女は憑依する女性の口を借りてお告げを行ってきた。そうすることで、見えない何かの流れを変えようとしているようだった。そして、巫女《みこ》のだれにでも憑《つ》くわけではなかった。たしかにたどるべき血脈があり、その者にしか降りてこないのは、彼女自身が同じ血をもつ家系の末裔《まつえい》だからだ」
自分自身に言いきかせるのか、組んだ手を口もとにあてて相楽は続けた。
「紫子さんが必死になっているから、次の代の泉水子が、そうとう大事な子だということは察しがついていた。だから、早くに手を回してみたが、まさか、ここまで大事だとは思わなかった。今日は姫神が言明している――泉水子が最後の器だと」
「どういうことだよ」
ようやく深行の顔を見て、相楽は言った。
「わからないのか。過去に飛ぶ能力をもつあの姫神は、成長した未来の泉水子の姿かもしれないということだ」
「そんなばかな」
深行は言わずにいられなかった。内気な泉水子とは性格から何からちがいすぎている。
「可能性だけでも貴重だ。姫神を手に入れることは、今も昔も山伏の野望だった。泉水子を手に入れる者は、その頂点に立つのかもしれない」
相楽の端正《たんせい》な顔に笑みが浮かんだ。ほほえむと同時に肩の力を抜いた。
「そうだな、深行が言ったように、泉水子のお守りはおまえには荷が勝ちすぎていたよ。息子《むすこ》だからといってお使いをさせず、自分自身で出向くべきだった」
「荷が勝っているかはともかく、反省ならたっぷりしてくれ」
むっとして深行が言い返すと、あっさりと相楽は言った。
「うん、深行に泉水子の同級生を無理じいするのは、もうやめておく。転校したかったら、好きなところに転校していいよ」
「なんだよ、それは……」
あまりに拍子抜《ひょうしぬ》けする決着に、深行はかえってぼうぜんとした。
「何を考えているんだよ、おまえは」
相楽はにっこりして深行を見た。
「もっと喜んでくれないかな。おまえはけっこうライバルでもあるんだと、初めて気がついたということじゃないか」
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第四章 和《わ》 宮《みや》
一
泉水子《いずみこ》にとって、修学旅行は紫子《ゆかりこ》の家で終わったと言えた。
相楽《さがら》に送られて無事に学校の仲間とホテルで合流したものの、その後は何一つ見学できなかったのだ。
自分のとった行動があまりにショックだったせいで、ホテルに着くまでをくわしく憶《おぼ》えていないが、頭がぼんやりしたのも無理もなかった。熱をはかったら三十九度近くあった。養護|教諭《きょうゆ》の部屋に直行させられ、翌朝はみんなと別行動で病院行きだった。
高熱を出して寝《ね》こんだことで、唯一《ゆいいつ》得をしたと言える点は、都庁を抜《ぬ》けだした違反行為《いはんこうい》を不問に付されたことだ。深行《みゆき》のほうはそうもいかなかったはずだが、教師たちは泉水子を問いただそうとしなかった。深行がこの件でどんな弁明をしたかでさえ、とうとう耳にしなかったのだ。
もっとも、相楽がそこにいたことだし、深行がまぬけな言い訳をするはずもないので、何かもっともらしい理由で言い抜けたにちがいなかった。泉水子は自分がぼろを出さないように、口をつぐんでいることにつとめればよかった。
クラスメートがどう取りざたしたかも、あまり伝わってこなかった。陰《かげ》で何を言っていたにしろ、泉水子が最終日のディズニーリゾートにも行けないことが決定的になると、生徒たちは哀《あわ》れに思ったのだった。たしかに、わざわざ東京まで出てきて何もしないで帰るに等しく、これほど不運な者にはだれだろうと同情するべきだった。あゆみと春菜《はるな》はもちろん、他《ほか》の生徒たちも、泉水子の前ではなぐさめとはげましの言葉しか口にしなかった。
残念に思わないと言ったら嘘《うそ》になったが、泉水子自身は、みんなが思うほど悔《く》やんではいなかった。点滴《てんてき》を打たれてうつらうつらしていることのほうが、今の自分には必要だと感じていた。その中で、少しずつ回復してくるものもあったのだ。
だから、修学旅行の帰路《きろ》は、来るときに比べればずいぶん楽になった。はた目にはそう見えず、教師も生徒も泉水子を病人として取り扱《あつか》ったが、本人にとってはずっと平穏《へいおん》に思えるものだった。
今は羽田《はねだ》空港の雑踏《ざっとう》に出くわしても、取り乱すことはない。黒い影《かげ》は相変わらず見えたし、そこにまなざしはあったが、相楽に出会った後はずっと遠くに感じられ、感情を刺激《しげき》しなくなっていた。怖《こわ》いものにはちがいないが、存在に慣れたのかもしれなかった。
そして、同じ空港ロビーであろうと、行き先がわが家の方向というだけで、泉水子の心持ちがまるっきりちがっていた。刻一刻と玉倉《たまくら》山に近づくにつれ、失った気力を取りもどせるようだったのだ。
飛行機が和歌山に到着《とうちゃく》すると、雨が降っていた。
雨はバスが走るあいだも降り続けていたが、このころには、一番さわぐ生徒であっても疲《つか》れはてて寝入《ねい》っていたので、天候を気にする者はいなかった。寝息ばかりのバスの中で、泉水子ひとりは今までよりずっと目が冴《さ》え、帰ってきたうれしさをかみしめていた。水滴《すいてき》が筋になってつたう窓ガラスを見つめながら、何度も考えた。
(……無事にここまでもどってきた。もどってこられたんだ……)
ついにバスが学校の校庭に乗り入れると、暗い校庭には、出発の朝と同じに何台もの車が停《と》まり、生徒の親たちが迎《むか》えにきていた。もちろんその中には野々村《ののむら》もいて、泉水子たちがバスを降りてくるのを待ちかまえていた。
「おかえりなさい、二人とも。泉水子さん、先生から先に連絡《れんらく》をもらいましたよ。体の具合はいかがですか」
後部座席に乗りこんだ泉水子に、野々村がたずねた。
「だいじょうぶ、もう、たいしたことないの」
「ああ、よかったですね」
野々村は何かを見てとったようで、余分なことは口にせずに気持ちよく言った。
「深行くんも、さぞ疲れただろう」
「ええ、やっぱり遠いですよ。東京は」
隣《となり》で深行が答えた。紫子の家からホテルに移動して以来、深行とは完全に別行動だったので、近くで声を聞くのもひさしぶりに思えた。
深行はシートに背を沈《しず》めると、ため息まじりの口調で言った。
「こちらに帰ってくると、急にほっとしますね……重いものがとれたみたいに感じるのは不思議だな」
(深行くんでも、そう言うのか……)
泉水子はなんだかおかしく思えた。体は疲れていても気持ちは軽くなっているようだった。いつのまにか、深行と乗り合わせることにも慣れてしまっている。彼がそこにいることが気に障《さわ》らないことに、急に気づいたのだった。
翌朝、泉水子は眠《ねむ》れるだけ眠ると、明るい光の中で目をさました。
自分のベッドはなんて落ち着くのだろうと、しばらくは夢見心地《ゆめみごこち》でいたが、体がもとの調子にもどり、ちゃんと空腹になっていることに気がついた。ためしに体温計で熱をはかってみたが、たしかに平熱だった。
すでに九時を回っていたので、着替《きが》えて階下に降りると家の中は静かだった。佐和《さわ》も外に出たようで、テーブルの上に泉水子の茶碗《ちゃわん》だけが伏《ふ》せてあり、厚焼き卵と青菜の煮浸《にびた》しにラップがかけてある。
(……それなら深行くんは、朝、いつもどおりに起きたんだ)
寝過ごしたのは自分だけかと考えながら、ひとりで朝食をとったが、それでもおいしく食べられた。佐和にそのことを報告したい気分だったので、食べ終わった泉水子は、彼女を捜《さが》して家の外に出てみた。
雨に洗われた後のすがすがしい晴天だった。
澄《す》んだ日射《ひざ》しが青葉の梢《こずえ》から降りそそぎ、六月にはめずらしい上天気だ。前夜は雨が降りやまず、風も出ていたようだが、夜明け前に雲が去ったようだった。泉水子には、自分が眠っていた朝方に、深い山ひだから白いもやが立ちのぼり、次第《しだい》に晴れわたっていく様子、明けの空が鮮《あざ》やかに尾根《おね》の上に広がっていく様子が、見てきたようにわかる気がした。
だれにも会わないので、そのまま宿所のほうに下ってみると、建物の向こうに深行がいるのが目に入った。藍染《あいぞ》めのあせた袴《はかま》をはき、ひとりで弓をひく練習をしている。
旅行中にできなかったぶん、勘《かん》をとりもどそうと、真っ先に稽古《けいこ》に取りかかっていることは見てとれた。深行が、だれからも優秀《ゆうしゅう》だと褒《ほ》められることの陰には、こうして見えない努力を惜《お》しまず、継続《けいぞく》することのできる性分《しょうぶん》があるのだと、認めざるを得なかった。
(……きつい性格なのはたしかだし、言うこともきついけれど、彼はそのぶん、自分を甘やかしもしないのだ)
泉水子は考え、わが身をかえりみて少しばかり反省した。
深行は一度かまえた弓を下げた。泉水子が姿を見せたことに気がついたのだ。
「もう、いいのか」
「うん……帰ってきたら、よくなったみたい」
「そんなことだろうと思ったけどな」
深行は言ったが、こだわりのない口調だったので、泉水子は胸をなでおろした。
「あのね、今朝は、山の上から海が見えるかもしれない。夏のあいだはたいていもやに隠《かく》れてしまうけれど、今日の天気なら見られると思うの。行ってみない?」
ためらいがちに提案すると、深行は興味を示した。それほど迷わずに弓を置くと、泉水子に続いて頂上まで登った。
玉倉山を知り尽《つ》くした泉水子なので、見当にまちがいはなかった。頂上の空き地まで来ると、南に望む山ひだの合間に蛇行《だこう》する熊野《くまの》川の銀の帯が見え、その先に青くかすんだ海の色があった。真冬に澄みわたったときには、けし粒《つぶ》のような船の姿まで見分けられることがあるのだが、今はそこまで見えない。
頂《いただき》に立つと、前髪《まえがみ》をそよがせる風が心地よかった。濃緑《のうりょく》の谷間を吹《ふ》きわたってくる夏風が、透明《とうめい》な指先でうすく汗《あせ》ばんだ額をなでていく。
「ここはいいところだな」
景色に見入った深行は、いつかの相楽と同じような口調でそう言った。
「この頂上から海が見えるということは、海からもこの場所が見えるということだな。船から見える目印になるのか。だから、この山は昔から人々に崇《あが》められていたんだろうな」
泉水子はほほえみたくなった。
「よかった、深行くんがいるうちに海が見える日があって」
「いるうち?」
「相楽さんが意見を変えたのだから、もうすぐ転校しなおすのでしょう。外津川《そとつがわ》高校へ行けとは、もう言われなくなったのだから」
かたわらを見やった泉水子は、敵対しなくなったありがたさをこめて言った。
「よかったね、相楽さんが考えなおしてくれて。深行くん、慧文《けいぶん》学園にもどるのでしょう」
深行は海に目をやったまま、しばらく答えなかった。口を開いたときにも、そのまま見続けていた。
「慧文にもどるのは、たぶん無理だろうな。私学だし、退学手続きをとったからには、もどるといっても簡単にはいかないだろう。試験の受けなおしができたとしても、おれ自身、あそこの学校にそこまで未練がないというか」
「でも、それじゃ……」
口ごもってから、泉水子は言いなおした。
「だって、東大をめざすはずだったんでしょう」
「何でもよかったんだ、本当は。雪政《ゆきまさ》を見返すことができるなら」
深行はかがみこむと、ひざでほおづえをついた。その恰好《かっこう》で眼下をながめながら、半ばぼやくような口調で続けた。
「おれは今まで、雪政に迷惑《めいわく》をかけられっぱなしなんだ。たしかに父親には見えないし、父親らしくしろとも言いたくないが、あの筋金入りの自己中《じこちゅう》だけは許しがたい。まわりのすべてが自分の道具だと思っている。また、まわりの人間がそれをさせるんだよ。あいつにうかうかと食いものにされて、気づかずにいる女を何人見てきたことか」
どことなく、進んで食いものにされるありさまが想像できるから不思議だった。泉水子がそう考えていると、深行はさらに言った。
「おれの母親も、食いものにされたひとりだったんだろうな。離婚《りこん》しただけえらかったが、おれの親権《しんけん》はあいつに残った。おかげで、わけのわからない転校を何度もしてきた。小学校のうちは、転校先でけんかばっかりしていたな――名前でからかわれやすいんだ。深行なんて名前にしたのも、あいつの迷惑ごとのひとつだったよ」
「転校するの、慣れていたのね」
どうりで落ち着きはらって見えると思ったと、泉水子は胸の内にうなずいた。
「中学で、有名私立に進学したら、さすがに勝手に動かされることもなくなったと考えていたら、今回のこれだった。けれども、今までどうしてもわからなかった雪政の考えが、ひとつは判明した気がする」
深行はほおづえをはずし、ようやく泉水子に目を向けた。
「鈴原《すずはら》、おまえはもう思い出せるのか。姫神《ひめがみ》のことは」
「ええと……うん」
いきなり問われてたじろいだものの、深行がこの話題にふれてもいやではなかった。本当のところは泉水子も、この話のために声をかけたのかもしれなかった。
「次の日くらいに思い出したの。ただ、自分のしたこととはどうしても思えない。わたし自身はそのそばにいて、だれかの言葉を聞いているような感じ」
「ましなほうじゃないかな。憑依《ひょうい》されているあいだのことは、まるっきり思い出せない人も多いらしい」
「憑依?」
「霊《れい》が取り憑《つ》くことを憑依というんだ。神霊でも、死者の霊でも、そういうものを憑《つ》かせる能力のある人間は、霊媒《れいばい》と呼ばれている。あのとき語ったのが霊ではなく、鈴原が二重人格だったという可能性もゼロにはならないけれど……」
深行はふいに声音《こわね》を改めた。
「いや、ちがうだろうな。雪政は彼女のことをよく知っていた。知っていたどころか、あの姫神こそ、雪政が今までずっと追い求めてきたものなんだ――おれの母まで捨てて」
泉水子は少しためらったが、決心して口を開いた。
「わたしにも、やっとわかった気がしたの。相楽さんがこれまでに言ったことや、これほどわたしを特別|扱《あつか》いする理由。どうして自分が変なのか、お父さんやお母さんが隠そうとするのかも、今なら少しはわかる気がする。わたしでなく、あの人が大事だったのよ」
考えこむように深行が言った。
「鈴原とは別人と考えていいんだろうな。おれにも、まるで別人にしか見えなかったし」
「わたしには、少しお母さんに似ていると思えた」
泉水子が言うと、深行はかすかに笑《え》みを浮《う》かべた。
「おれもそう思ったんだ。会ったことがあるんだ、この峰《みね》で」
立ち上がった深行は、玉倉山の尾根続きにわたる低木の林をながめた。
「迷子《まいご》になったことがあったんだ。佐和さんが言っていた、捜索《そうさく》する騒《さわ》ぎになったときだ。この山に来たばかりで、虫取りに夢中になって、どこまで歩いたかわからなくなって……そして彼女を見たんだ。紫子さんだとばかり思っていた」
自分に言いきかせるように、深行はつぶやいた。
「おれだって、ずいぶん前に彼女に出会っている。雪政ばかりじゃないんだ」
「それなら」
泉水子は息を吸いこんだ。言いたいことがようやく言える思いだったのだ。
「出来が悪いからってわたしに当たらないと、もう、あてにしていいのね?」
深行がぷっと吹き出した。
「笑うことないでしょう」
泉水子が抗議《こうぎ》しても深行はまだ笑っていて、声の響《ひび》きが明るく聞こえた。
「いや……そうだな、それに関してはあやまらないけれど、これからは、もう心配する必要ないよ。おれは、もうすぐ東京へ転校するんだし」
「東京?」
うなずいた深行は、和《やわ》らいだ口調のままに言った。
「まだ、雪政から言われたわけじゃないが、今から予測はつくよ。最初の予定がそうだったように、鳳城《ほうじょう》学園に編入するんだろうと。あいつらが、あれほど鳳城にこだわっているところをみると、その学校には山伏《やまぶし》にとっての何かがあるんだ。おれは、行ってみてもいいと思っている」
そもそもの発端《ほったん》が鳳城学園への進学だったのだと、泉水子も思い出した。大成《だいせい》のすすめだったのだ。
「……相楽さんの言うとおりにしていいと?」
「同じ土俵《どひょう》に立つことを避《さ》けてまわるのは、もうやめた。おれはおれで、山伏としての力を身につけたい。雪政を本当に見返すことができるのは、同じ立場で同じ方法で、あいつをしのいでみせたときだけだ。今はまだ、どんなにがんばってもあいつにかなわないことはわかっている。だから、当面は従うことにして、急いで学んでしまわないと」
力まずにそう言えることからも、深行のこだわっていた何かがふっ切れたように聞こえた。東京への旅行は、深行にも大きな変化を及《およ》ぼしたようだと、泉水子は漠然《ばくぜん》と考えた。
「鈴原が、ここから外へ出て行きたくないという気持ちはもうわかったよ。たしかに、そんなものを抱《かか》えていたら、できる限りだれにも見られたくないと思うだろうな。ただ、外津川へ行ったとしても、雪政は絶対に鈴原を放っておかない。ひょっとするとそれ以外の者たちもだ。そういうことは、覚悟《かくご》しておいたほうがいいよ」
深行は言いおく口調だった。離《はな》れていく立場だからこそ親身になれる言葉だ。どうして妙《みょう》な気分がするのだろうと思いながら、泉水子はうなずいた。
「うん、わかっていると思う」
「ここにいて、東京は空気が悪いところだと考えるのもよくわかる」
手を伸《の》ばして深呼吸して、深行は気持ちよさそうに言った。
「このおれも、けっこう山が性《しょう》に合っているという気がするな。せっかく野々村さんに武道を教わりはじめたんだから、転校した後も、長期休みになったらなるべく山に来られるようにしたいよ」
(わたしって、お父さんに逆らってまで、どうして外津川高校へ行きたかったんだっけ……)
泉水子はふいに考え、思い返して愕然《がくぜん》とした。
今となっては理由が残っていなかった。泉水子が、姫神の出現を自分自身に認めてしまうなら、そのときには、どこに進学しようとただの女の子になる道は閉《と》ざされているのだった。
代休明けの火曜日、クラス内にはまだまだ修学旅行の余韻《よいん》が色こく残っていた。
教室に入ってきた泉水子に気づくと、あゆみと春菜は、待ちかまえていたように手まねきした。
「ああ、来た来た。泉水子、じつは大事な話があるの」
何だろうと寄っていくと、二人がわざわざ家庭科室まで移動するので、泉水子はいくぶんしりごみする体勢になった。
「あの、どういうこと」
「ちょっとね、教室では言えない話」
家庭科室にはすでに数人の女子が来ていて、期待に満ちた顔を寄せて集まっていた。ひと目見た泉水子は、中に入るのをためらった。
「だいじょうぶだって、怖くない怖くない。わたしたち、変なことを聞いたりしないから」
「修学旅行の最初の日に相楽くんと二人で消えたことなど、わたしたち少しも気にしていないから」
彼女たちにそう言われては、ますます身をすくませるしかない。だが、泉水子の前に回ったあゆみが言った。
「気にしないで、本当にそういう話じゃないの。あのね、来てもらったのは、じつは和宮《わみや》のことなんだ」
泉水子はまばたきしてあゆみを見た。
「和宮くん?」
「旅行に出発する日の朝、泉水子は和宮のことをたずねたでしょう」
「そうだけど……」
「そのこと、後になってやっと気がついたの。泉水子に言われるまで、自分はこれっぽっちも和宮のことを考えなかったって。そして、恥《は》ずかしくなったんだ。修学旅行に行けないクラスメートがいるというのに、思いやりも何もなかったって」
「夜中のおしゃべりのときに、あゆが言い出して、わたしたちも同じに思ったの。和宮って、いつも目立たない男の子だから、ついつい忘れて平気になっているけれど、それじゃいけなかったのよね」
他の女子もまわりに集まってきて、いっしょにうなずきあった。
「ホテルで、みんなで反省したのよ。わたしたち、和宮をシカトしていたみたいだったって」
あゆみは、どこにもからかいを含《ふく》まない口調で言った。
「泉水子はえらかったと思うよ。クラス全体をよく見ていて、心づかいできるんだもの」
「そんなことないけれど……」
めんくらいながらも、泉水子はやや安心して肩《かた》の力をゆるめた。
「だけど、泉水子は旅行中に体の具合を悪くして、ろくろくおみやげ売り場へ行くこともできなかったでしょう。だから、わたしたちでお金を出しあって買っておいたの。和宮くんへのおみやげ」
空港で買ったと思われる菓子《かし》の包みが、手さげごと泉水子の目の前にさしだされた。
「あ……それじゃ、わたしもお金を」
「そうじゃなくて、代表して泉水子がこれをわたしてあげてよ」
「わたしが?」
泉水子が驚《おどろ》くと、女の子たちは一斉《いっせい》にうなずいた。
「一番に和宮を気づかったのは泉水子なんだから、泉水子にその資格があるよ」
「遠慮《えんりょ》なんかしないで」
「なんなら、ついでにコクってもいいから」
「大丈夫《だいじょうぶ》、ライバルはどこにもいないから。和宮ならノーマークだから」
あわをくった泉水子は、今にも逃《に》げ出しそうになった。
「そんな……わたし、そんなつもりじゃ……」
「ほらほら、みんな、先走ってはだめ。これは泉水子にとって画期的なできごとなんだから」
他の女子を制したあゆみだったが、菓子の手さげのほうは、しっかりと泉水子の手に握《にぎ》らせた。
「泉水子からわたすのが、和宮も一番喜ぶと思うよ。勇気を出してわたしてごらんよ。あいつがいっしょに来られなくて、残念だと思っていたのは本当なんでしょう」
「うん……」
どぎまぎしながら、泉水子は小さくうなずいた。
女子の代表だというなら、この土産《みやげ》をむだにするべきではなかった。旅行後の話題に加われない和宮の気持ちは、似たような境遇《きょうぐう》の泉水子だからこそよくわかるのだ。
(クラスのみんなが、旅行先で和宮くんを思いやったということだけでも、伝えてあげなくては……)
決意した理由の背景には、泉水子自身はそれ以後に、東京で和宮を思い出す余裕《よゆう》がなかったことへの、後ろめたさがあるのかもしれなかった。
泉水子が和宮に声をかけることができたのは、帰りの昇降《しょうこう》口で、下駄箱《げたばこ》を前にしてのことだった。下校時のぎりぎりになって、ようやく勇気をふりしぼったのだ。
「和宮くん、これ……女子のみんなから」
「え、ぼくに?」
和宮さとるは切れ長の一重《ひとえ》まぶたを見開いた。
「もらってもいいの?」
「もらってほしいの」
ほっとするあまりに泉水子はほほえんだ。意外そうな面《おも》もちであっても、和宮が案外すなおに手を出して、さしだす菓子を受けとったからだ。
「あの、修学旅行に行けなかったの、残念だったね」
「うん、本当は行きたかったけれどね。鈴原さんは、行ってよかった?」
和宮は、めずらしそうに包みのあちこちを見ながらたずねた。
「どうかな。わたしもあまり見てこられなかったの。熱を出しちゃって」
「行かないほうがよかった?」
泉水子は肩をすぼめ、どう答えるのがいいかと迷った。
「あまり、楽しかったとは言えないけれど……でも、行ってよかったと思うところもあって、うまく言えないんだけど」
「行かないほうがよかったんだよ」
和宮はきっぱり口にした。泉水子は驚いて目を上げた。
「え、そう?」
「そうだよ。鈴原さんは、あんなに汚《よご》れきった場所へ行ってはいけなかったんだ。行こうと思ってもいけなかったんだ。見ればすぐわかる。旅行へ行く前とはまるでちがってしまっているよ」
「わたしが?」
泉水子はまじまじと和宮を見つめた。彼がこんなふうに強い口調で語るとは、予想だにしていなかったのだ。
「きみは、ここを出ていかないよね」
念をおすように和宮がたずねた。
「東京へ行こうなんて、思っていないよね?」
「どうしてそんなことを聞くの」
思わず問い返したが、和宮はさらに重ねて言った。
「鈴原さん、この前、相楽くんはきらいだと言ったよね」
泉水子はたじろいだ。自分が和宮にそう言ったことははっきり憶えていた。
「言ったけど……でも」
「心変わりしたんだ」
ちがうと口にすることは簡単だった。だが、言っても意味がないように思えた。現に、いつのまにか深行は、泉水子がこれまでで一番たくさん口をきいた男子になってしまっている。他の人間には言えないことまで言っている。
思い出した泉水子はふいに顔を赤らめた――おまけに、手も握っているのだ。
「……いろいろ、わけがあって」
「きみの夢は、いっしょに育ったこの土地で、いっしょに育った友だちと進学することだったよね」
押しかぶせるように和宮が言った。遠慮がちなふだんの気配が消え失《う》せていた。泉水子とそれほど背丈《せたけ》が変わらないきゃしゃな体つきが、なぜかしら大きく見える。自分の前にいるのはだれだろうと、泉水子は思わず目を疑った。
「あの、和宮くん?」
「それを変えさせたのがあいつなら、あいつを排除《はいじょ》しなければならない。鈴原さんは、ぼくといっしょに外津川高校へ行くのだから」
底光りのする瞳《ひとみ》で泉水子を見すえ、そう告げてから、和宮はスニーカーに履《は》きかえた。そして、泉水子が引きとめようとした矢先にふり向いた。
「ぼくが黙《だま》って見守ったのは、きみが彼を拒否《きょひ》していたからだよ。それなら、手を出すまでもなかった。去っていくまで待っていればよかった。今はそうはいかない」
泉水子が息をのみ、まだ動けないうちに、和宮はすいと玄関《げんかん》を出ていった。
どう考えてもあり得ないような和宮の発言――泉水子に思いつけることといえば、ひとつしかなかった。
(……こういうのを憑依《ひょうい》というのでは。まさか、和宮くんも……?)
二
深行はカバンを手にして、周囲の生徒を見回した。校舎裏の体育倉庫の前で、洋平《ようへい》、智也《ともや》、他に二人の男子が待ちうけ、彼をつれてきた瀬谷《せや》和人《かずと》とともに取り囲んだ。
「いきなり、どういうつもりなんだ」
「いきなりじゃない。おれたちは今までおまえに我慢《がまん》してやってきたんだ」
口を開いたのは三崎《みさき》洋平だった。
「旅行に行ってはっきりした。てめえは、いい加減やりすぎなんだよ」
深行は肩をすくめもしなかった。
「これでも調整したつもりだけどな。何が気にくわない。女子が三人コクったこと?」
「その態度がでかいって言っているんだよ」
洋平は青筋をたててどなった。彼の切れ具合を知って、深行は顔をしかめた。
「どうも、やっぱり、いきなりという気がするんだが。帰ってくるまで、おれたちは何でもなかっただろう」
「勝手を言ってるんじゃねえ」
「殴《なぐ》り合いで解決できると思うのか」
「これ以上ばかにされてたまるか。てめえのようなやつは、この学校からたたき出してやる。和宮だってそう言っているんだ」
「和宮って、なんだよ」
深行はいぶかしげにたずねたが、洋平はすでに聞いていなかった。大きく踏《ふ》みこんで殴りかかる洋平のこぶしを、いったんはカバンで受け止め、深行はもう一度たずねた。
「小坊《しょうぼう》並みに腕力《わんりょく》でかたをつけて、本当にかまわないのか」
「うるせえ」
その深行を蹴《け》り飛ばして、洋平はさらに殴った。今度の一発は顔に入った。
深行がカバンを放《ほう》り捨てた。
「よし、最初の手出しはそっちだからな。証人も大勢いる」
宣言するように言った後、深行はだれの予想も上回る喜々とした態度でけんかを買ってでた。彼が人数にひるまず、わき目もふらずに洋平に打ちかかったので、他の男子は加勢がしづらくなり、しばし二人の対決を見守るかたちになった。グループ内で洋平がけんかの大将だということは、だれもが認めていたのだ。
殴り合いは続けて取っ組み合いになり、足払《あしばら》いをかけてころがった。どちらもなかなか音《ね》を上げず、二人ともシャツが土ぼこりにまみれたころ、ようやく深行が洋平の上をとって押さえこんだ。
襟首《えりくび》をつかんで相手をしめあげた深行は、自分も息を切らしながら、洋平が降参するのを待ってたずねた。
「黒幕は和宮ってやつか。そいつはどこにいる」
洋平は何か答えようとしたが、それを聞き出す前に、深行はわき腹をしたたかに蹴られてころがった。肋骨《ろっこつ》が折れたかと思うほど容赦《ようしゃ》のない蹴りだった。痛みに息がつまり、目がくらむ思いで見上げると、無表情に立つ和人が見下ろしていた。
「おまえ……」
深行は驚きに声をもらした。瀬谷和人は、どちらかというと単純で気のいい少年だった。何かの恨《うら》みが生じたとしても、クラスのいさかい程度で、そこまで真剣《しんけん》に暴力をふるうタイプには見えなかった。その和人が、ゆっくりとポケットから折りたたみナイフを取りだし、にぶく光る刃《は》を立てている。
「何をしているか、わかっているのか」
「消えなよ」
ごく低い声で、ささやくように和人は言った。
「目障《めざわ》りなんだよ、おまえみたいなやつ」
和人の表情が完全に抜け落ちているのを見て、深行は初めて、この場がただではおさまらないことをさとった。ただの生徒同士のけんかではない――殺傷を見るまでおさまらない何かなのだ。
ナイフを手にしたのは和人ひとりだけだったが、その他の者が一言も発しない様子もどこか不気味だった。必死で立ち上がった深行の周囲をふさぎ、逃げだす隙《すき》を与《あた》えない。
和人がナイフを突《つ》きの形にかまえ、深行がよけきれないと感じたそのときだった。取り囲む生徒の背後で声が響いた。
「天清浄《てんしょうじょう》 地《ち》清浄 内外《ないげ》清浄 六根《ろっこん》清浄 心《しん》清浄にして諸《もろもろ》の穢《けが》れは無《な》し。吾《わ》が身《み》は六根清浄にして天地《てんち》の神《かみ》と同体《どうたい》なり……」
祓《はら》いを唱えたのは野々村だった。紺《こん》の背広を着た運転手は、あっさりと歩み寄ってきて和人の腕《うで》をひねり、ナイフを落とさせた。和人に抵抗《ていこう》するすべはなかった。はた目にはごく軽く打ったと見える首筋への手刀《しゅとう》で、そのまま眠るように伸びてしまったのだ。
他の生徒も同じ道をたどった。野々村がそれほどすばやく動いたとも思えないのに、最後のひとりまで逃げおおせることができなかったのは、見ていて不思議だった。野々村はひとりひとりをいたわるように横にならせ、あっというまに、五人の男子生徒が裏庭に並んで横たわることになった。
ぽかんと見ていた深行に、野々村はようやく声をかけた。
「無事だったかね、深行くん」
「……何がどうなっているのか、わからないんですが」
「この子たちの意志ではないだろう、たぶん」
深行は少しほっとして和人や洋平を見やってから、顔を上げた。
「どうして来てくれたんです。先生たちもまだ知らないというのに」
「泉水子さんが呼びに来た……よくないことが起きていると」
野々村は、最後のひとりの襟もとを整えてやってから立ち上がった。
「この子たちは、すぐにも正気を取りもどすだろう。学校への説明は後回しにして、急いでこの場を離れたほうがいい。泉水子さんを、車にひとりにしておくことのほうが心配だ」
気をもんで待っていた泉水子は、野々村と深行が姿を見せたことに息をついた。だが、車のドアを開けて乗りこんできた深行を見れば、思った以上の惨状《さんじょう》だった。
シャツのボタンはとんでいるし、服の上下と言わず、ぼさぼさになった髪《かみ》にまで土がついている。汚《よご》れた顔も、汚れたひじも、両の手のひらもすりむいて、あちこち血がにじんでいた。学校内でこんな姿になるとは、泉水子には考えられないことだった。
「何があったの」
「たいしたことじゃない」
「けんかしてきたの?」
深行は鼻をこすり、出血していたことに気づいて顔をしかめた。
「敵をつくりやすいってことは、おれも承知していたけれど、手を出し合ったのはひさびさだったな。もう、卒業したかと思っていた」
「だれとやったの」
ますます不安になってきて泉水子はたずねた。
「まさか、それ……和宮くんと?」
深行は少しのあいだ答えなかった。ティッシュを取りだして鼻にあてている。
「和宮って、だれだよ」
泉水子はまばたきして見やった。
「和宮くんは和宮くんよ。同じクラスの和宮さとるくん。ひょっとして、まだ名前を憶えていなかったの?」
エンジンをかけた野々村が、運転席からいつもよりせわしい口調で確認《かくにん》した。
「車を出します。深行くん、大丈夫だね」
彼に大丈夫だと答えてから、深行は泉水子に言った。
「おれは知らない。三年のクラスに和宮なんてやつ、いないだろう」
和宮の様子が変だったことを話そうとしていた泉水子は、話がその前の段階でかみあわないことにあきれた。
「何を言っているの。同じ三崎くんのグループで、よく遊んでいたくせに。和宮くんがおとなしいのはたしかだけど、そこまで無視していたの?」
「粟谷《あわたに》中の三年に、和宮さとるはいないよ」
走り出した車の中で、深行がきっぱりと言った。
「女子に言われたときから気になっていたんだ。さっきは洋平もその名前を言った。けれども、そんなやつは出席簿《しゅっせきぼ》にだって載《の》っていない。今朝、帳簿をたしかめたんだ」
「ええ?」
「和宮だったら、五十音順の最後に名前がくるものだろう。だが、渡辺《わたなべ》あゆみの次は転入したおれの名前だ。出席をとるときだって、おれは渡辺の次に呼ばれている。気がつかなかったのか」
泉水子は意表を突かれ、何年も同じに続けてきた朝の出席確認を思い起こそうとした。確実なことは思い出せなかったが、あり得ないとしか考えられなかった。
「そんなはずない……だって、わたしたち、小学校のころから転校した子もいなくて、全員同じ顔ぶれなのよ。みんな、八年以上前から和宮くんのことを知っている」
「そう思いこんでいるだけじゃないか」
深行は遠慮なく指摘《してき》した。
「だから、たとえば、修学旅行に参加しなかっただろう。当然だよ、中村《なかむら》先生はそいつをクラスの人数に含めていない。飛行機の座席だってホテルの部屋だって、そいつのために用意できるはずがないんだ」
「そんなことを言っても、わたしひとりの思いこみじゃないのよ。クラスみんなが和宮くんがいることを知っているのよ。どこにもいない人のことなど、どうやって東京に行ってまで考えて、おみやげを買ってくることなどできるの?」
泉水子は言いつのったが、深行は低く冷静な声を出した。
「だれも気がつかないのに、いつのまにかひとり増えている……そういうのを、座敷《ざしき》わらしというんだ」
「そんな」
泉水子は絶句した。
うろたえて、どう考えたらいいかわからずにいると、意外なことに、野々村が運転席から口をはさんだ。
「泉水子さん、おたずねしますが、今日はどうして、深行くんによくないことが起きると思われたんです」
はっとした泉水子は、言いたかったことを思い出した。
「和宮くんがいつもの感じではなかったの。まるで、別人が口をきいているみたいで。排除すると言っていて……その、深行くんのことを」
運転する野々村はふり向いたりしなかったが、バックミラーをちらりと見た。大きな背中がふだんより緊張《きんちょう》しているように見えた。
「そのものが、なぜそのように言うのか、泉水子さんには心当たりがありますか」
「ええと……」
泉水子はためらった。どこから話しはじめたらいいか、どこまで正直に話したらいいかは、たいへん迷うところだった。
「あの、わたし、少し前に、和宮くんに聞かれて、深行くんはきらいだと答えたことがあって……」
深行がげんなりした声を出した。
「なんだよ、それは」
「だって、本当に意地悪だったでしょう」
思わず言い返していると、体がかしいでシートに押しつけられた。野々村がアクセルを踏みこんだせいだった。
「二人ともシートベルトをしていますね。すみませんが、少し飛ばします」
運転手としてことわってから、野々村は深行に向かって言った。
「つけが回ったみたいだよ、深行くん。車を追ってくるものがある……たぶん、あれがそうなんだろう。人ではないのはたしかだ」
深行と泉水子はリアウィンドウをふり返った。
泉水子の目には、自転車に乗った少年が映った。だが、目をこらして見極《みきわ》めようとすると、かえってその姿がぼやけてくるようだった。そして、野々村が車のスピードを上げてもなお、苦もなく後ろにつけてくる。ふつうの少年だと思うことはできなかった。
「深行くん……見える?」
「見えない。ただ、何か、変だとは思う」
目をそそいでいた深行は、あきらめたように向きを変えてたずねた。
「野々村さんには、何が見えるんですか」
「霊気が集まっている。ぼんやりと人型だが、形になっていない」
一分間ほどだれもが沈黙《ちんもく》してから、深行が口を開いた。
「……で、いったい何が起きているんだ。おれが鈴原をいじめたことへの報復?」
「そんなことじゃないと思う、けれど……」
泉水子には自信をもって言えなかった。和宮さとるが人ではなかったということが、いまだにうまくのみこめなかったのだ。
「和宮くん、おみやげを受けとってくれたのに。ふつうに学校にいたのに。まだ信じられない、どうしてこんなことになってしまうの」
運転席の野々村が言った。
「あなたが供物《くもつ》をささげたことで、活力が増したのかもしれません。泉水子さん、お認めになったほうがいいですよ、ただのクラスメートではありません。他の生徒を操《あやつ》る力さえもっているんです」
「それなら、和宮くんはいったい何なの」
「もしも神霊なら、神霊は祟《たた》るものでもあります」
野々村の声には楽観できない響きがあった。
「その怒《いか》りにふれる何かを、人間のものさしではかることはできない。人から見て些細《ささい》なことであっても、あちらにとってはちがうかもしれない。そして、どうやら、深行くんは確実に逆《さか》なでしていたみたいだね」
深行はシートに沈みこんだ。
「どうせ、おれは敵をつくりやすい性格ですよ……」
泉水子は、「心変わりしたんだ」と言ったときの和宮の口調を思い返した。彼が怒《おこ》っているとすれば、それにちがいなかった。深行ばかりが標的になっているのではない。自分が和宮を失望させ、和宮を変えてしまったのだ。
「深行くん……気休めにならないと思うけれど」
震《ふる》える声音で泉水子は告げた。
「和宮くんが追ってきているのは、深行くんだけじゃないから。わたしもだから」
「何が起きるかわかっているのか。あれは、神社まで追いかけてくるのか」
深行が聞き返したが、泉水子もそれには答えられなかった。
「わからない。わかっているのは、怒らせたのがわたしもだということ。わたしのせいで、あなたのことも怒っているの」
「もっと具体的に言えよ」
「東京へ行ってきたからよ」
深行がめんくらって考えている最中に、野々村が口を開いた。
「ふり払《はら》うことはできないでしょうが、とにかく、神社までは逃げ切ってみせます。社《やしろ》の聖域に入れば、加護のもとにあれと向かい合うこともできるかもしれない」
道はすでにカーブの多い山道にさしかかっていた。いつもなら必要以上に慎重《しんちょう》にハンドルを切る野々村だったが、今は技量をつくして速度を上げているようだった。
泉水子が不安をつのらせていると、野々村はそれを感じたのか、ふっと息を抜いて言った。
「泉水子さん、このくらいのことは肝《きも》をすえなくてはいけません。姫神に近づく者は、だれもが命がけを要求されるんです。それは、あなた自身であっても言えることなのですよ」
(今日の野々村さん、今までから考えられないくらいよく話す……)
ふと泉水子は考えた。彼は無口な人だとばかり思っていたが、それも表面的な見方だったのかもしれない。
(わたしは今まで、何もかも、表面にあるものごとしか見ていなかった。和宮くんのことも、自分のことも、まわりにいるすべての人のことも……)
自分から知ろうとしなければ、何ひとつ見えてはこないのだ。命がけだということも、それを知っていて行うか、知らないまま他人まかせで行うかでは大《おお》ちがいだった。
(わたしはもっと、自分のことに責任をもちたい。それがどんなにへこむものごとであっても――たとえ、ふつうの友だちを見失ってしまうことであっても、知るべきことは知っておきたい)
泉水子がそこまで考えたときだった。音と衝撃《しょうげき》が車に響き、フロントガラスに何かが激しく打《ぶ》ち当たった。鳥だった。
一瞬《いっしゅん》、焦《こ》げ茶色の翼《つばさ》がフロントガラスを覆《おお》って見えた。鳶《とび》のような体の大きな鳥だった。野々村が息をのみ、あわててハンドルを切ったがまにあわなかった。
ガードレールが役に立たなかった。彼らの乗った車は舗装《ほそう》道路から飛び出し、山の急斜面《きゅうしゃめん》を恐《おそ》ろしい勢いで滑《すべ》り落ちていった。
「鈴原《すずはら》……生きているか?」
深行《みゆき》の声で、泉水子《いずみこ》は目を開いた。
シートベルトはみぞおちにくいこんでいるし、肩《かた》やら腰《こし》やらあちこちが痛む。体を動かそうとしたらベルトがさらにくいこんだので、うっと息をつめた。車の座席が大きく前に傾《かたむ》いていた。
「痛……」
「被害状況《ひがいじょうきょう》は?」
そんな言い方だったが、深行が気づかっているのは感じとれた。他を気づかうことができるくらい、深行自身には深刻なダメージがないということもわかった。
「痛いけれど、なんとか動く」
「気分は?」
「気持ち悪いけれど、なんとかなる」
深行はやれやれといった声を出した。
「エンジンが燃えたらアウトだったな。助かったかもしれない」
今は前方というより下方になっている、シートの向こうの野々村《ののむら》が頭をもたげた。衝撃《しょうげき》で開いたエアークッションの上に腹ばう恰好《かっこう》になっている。
「たいしたけががないのは、何よりです。二人ともよく気をつけて、そっと車の外に出なさい。ガソリンがもれているだろうから、あくまで慎重《しんちょう》に動いて」
「野々村さん、おけがは?」
「わたしも大丈夫《だいじょうぶ》です。ただ、ここを抜《ぬ》け出すのに少し時間がかかるかもしれない。前のドアが両方ともだめになっている」
車体がそうとうゆがんだらしく、後部座席のドアもなかなか開かなかった。引火したら大変なので、そっと取り扱《あつか》っているせいもあった。とうとうあきらめて窓を全開にし、深行と泉水子は窓の隙間《すきま》から斜面《しゃめん》にはい出した。
見上げると、ガードレールを突《つ》き破《やぶ》った道ははるかな上方だった。そこから、雑木林の木々をへし折りながら滑《すべ》り落ちてきた道筋が、すさまじいありさまで刻まれていた。車の前部は、密にはえた槙《まき》の木立に左側から突っこんでいる。これらの硬《かた》い幹が倒《たお》されずに押しとどめ、ようやく止まったらしかった。かなり斜《なな》めに落ちてきたことが幸いしたのだ。そうでなければ、エンジンも運転席の野々村もこの程度ではすまなかったにちがいなかった。
事故の生々しさを外側から目にして、深行も泉水子も、よく助かったものだと思わずにはいられなかった。しばらく呆《ほう》けたように見つめていた。
「……ぶつかってきたのは、鳥だったよな」
ようやく深行が口を開いた。
「追いかけてきたやつのしわざだと思うか?」
「そう思うしかない……トンビが車に向かってくるなんて、ふつうはあり得ないもの」
気のめいる口調で泉水子が言うと、深行はため息をついた。
「トンビか。鳶《とび》ってやつは天狗《てんぐ》と関係があるんだよ。ひょっとすると和宮《わみや》も天狗の一種だったりして……」
「その発想はどうかと思うよ」
泉水子の声ではない声が批判した。二人とも飛び上がるほどぎょっとして、信じられない表情でふり返った。
槙の木肌《きはだ》に片手をついて、和宮さとるが立っていた。
深行は、目をみはってその姿をながめた。
おろしたてのように白い半袖《はんそで》シャツを着て、しみひとつない白のスニーカーをはいた、粟谷《あわたに》中の夏服姿の小柄《こがら》な男子。厚い前髪《まえがみ》の下の細い目が柔和《にゅうわ》そうで、笑《え》みをたたえているようにも見える。男子にしては色白で、腕力《わんりょく》があるようにはとても見えない。不自然なところはどこにもなかった。どこで見かけてもおかしくない中学生だった。
「驚《おどろ》いた……おまえが和宮?」
「やっと、ぼくが見えたんだね。どう見える?」
「ただの中学生に見える」
「ぼくは、ただの中学生だよ」
深行の、うそをつけという表情を見てとったのだろう、和宮は続けて言った。
「本当だよ。鈴原さんがただの中学生を望んでいるあいだは、ぼくはただの中学生なんだ」
「和宮くん……」
泉水子は思いきって口を開いた。
「わたしは和宮くんのこと、小学校から知っているとばかり思っていた。そうじゃなかったの?」
「ぼくは、ずっといっしょにいたよ。小学校にだって、その前だって」
和宮はやわらかい口調で答えた。
「けれども、鈴原さんと話をしたことはなかった。そう、この数ヶ月だね、きみが髪《かみ》を切ったおかげで、ぼくも目に見えるようになったのは」
「あ……」
泉水子は口もとを押さえた。たしかに、初めて和宮の笑顔が気になった日、泉水子は前髪を切って学校へ行ったのだ。
「ぼくは、古くからこの山にいたものだ。あっちに少し、こっちに少し、ところを定めずにただよっていた。それがだんだん、鈴原さんの願いのもとに寄り集まって生まれたんだよ」
ぼうぜんとするしかなかった。泉水子はおそるおそる聞き返した。
「……わたしの願い?」
「友だちがほしかったんでしょう。わかってもらえる友だちが」
和宮はさらに目を細めてほほえんだが、目の光は鋭《するど》さを増したように見えた。
「ちがうとは言わせないよ。こうして、ぼくを今の形につくりあげたのだから。そして、勝手にもういらないとも言わせない」
深行は、度肝《どぎも》を抜かれて和宮の言葉に聞き入っていたが、ひそめた声音《こわね》で自分の名を呼ばれてふり返った。呼んだのは車の中の野々村だった。大きな体があだとなって、いまだに運転席から脱出《だっしゅつ》できずにいたのだ。
「深行くん、すまんが加勢できない。今はきみが二人の身を守るんだ」
声を殺してはいるが、野々村のあせる思いは伝わってきた。
「トランクにわたしの錫杖《しゃくじょう》が入っている。それを使うんだ」
深行は車内に目をやり、必死の色を浮《う》かべる野々村を見てとったが、ためらいを顔に浮かべた。
「野々村さん、でも、おれには……」
「ぐずぐずしている場合じゃない。そこにいるのは、真に力をもつものだ。へたをすると、全員やられてしまうぞ」
その会話は、和宮にはつつぬけだったようだ。和宮は深行を見やり、ごくあっさりと言った。
「ぼくを調伏《ちょうぶく》できると思うのかい。やってみてもかまわないけれど、そううまくはいかないよ」
山あいの空がみるみるうちに曇《くも》ってきた。気圧の変化をひりひりと感じる急激な変わりようには、以前にもおぼえがあったが、それでもこれほど急転直下に変わるものではなかった。
「ここは、ぼくの根城《ねじろ》なんだよ。よそにいるときより強くなって当たり前だろう?」
「よそというのは、まさか、東京の……?」
半信半疑で口にしたが、深行はそのとき、そこまで相手を大きく見ていたわけではなかった。
「東京で、おれたちが出くわした雷《かみなり》。あれもおまえのしたことだと言いたいのか」
和宮はほほえんでいた。ほほえむだけで十分だった。
「『和宮さとる』は、修学旅行へ行けなかったけれどね。べつに、いつも人の姿でなければいけないというわけでもないし」
三
あたりは暗く陰《かげ》っていき、稲光《いなびかり》が山と木々を白黒に閃《ひらめ》かせた。雷鳴《らいめい》は遠い空から近づいてきて、峰《みね》から峰へ尾《お》をひいて響《ひび》きわたる。
木陰に立った和宮のシャツはいよいよ白さが冴《さ》え、青白い燐光《りんこう》を放って浮かぶようにも見えた。野々村が車の中から、声を抑《おさ》えることをやめて呼びかけた。
「深行くん、錫杖《しゃくじょう》をもて」
深行は周囲の変化に目をやったが、トランクに手をのばそうとしなかった。
「おれ、できません……そこまで修行《しゅぎょう》できていない」
「そんなことを言っている場合か」
「無理です。今まで、本気で験力《げんりき》を信じて、経《きょう》や祭文《さいもん》を唱えたことなどなかったんだから」
「深行くん、目の前で起こっていることを受け入れろ」
深行は、やけになったように言い返した。
「受け入れてますよ。だから、わかるんです。おれには無理だ」
和宮は、涼《すず》しげにその様子を見つめていた。そして、深行がとうとう動かないと見てとると、あらためてまなざしを泉水子に向けた。
「これで、はっきりしたよね。ぼくとそいつにどれだけ力の差があるか。最初から手を引くだけ賢《かしこ》いと言ってもいいよ。鈴原さんは、この山を出ていかないよね。ぼくよりそいつを選ぶことなど、できない相談だろう?」
泉水子が黙《だま》って立ちつくしていると、彼はさらに続けた。
「このまま、きみもぼくも外津川《そとつがわ》高校へ行くんだ。そうすれば、きみは好きなことができる。望んだとおりに楽しく暮らせる。今のぼくには、鈴原さんの力になれることがたくさんあるんだ。きみが力を増せば、ぼくも力を増すのだから。もう、淋《さび》しい思いはしなくていい。これからはみんな、鈴原さんに親切にしてくれるよ」
ようやく気を取りなおし、泉水子は小声でたずねた。
「もしも、わたしが気を変えたとしたら、どういうことになるの」
「何も望めないよ、東京には」
冷ややかに和宮は答えた。
「きみには助けなどないし、つらい目にあってもだれにもわかってもらえない。第一ぼくが許さないから、きみにその選択《せんたく》はない」
右手で空をしめすようなしぐさをして、彼は言葉を続けた。
「鈴原さんがぼくを見捨てるというなら、ここへ雷を呼ぶことくらいは簡単なんだ。ガソリンに引火してしまうよね。爆発《ばくはつ》に巻きこまれたら、だれも無事ではすまないだろうな」
再び泉水子が沈黙《ちんもく》したので、深行が代わりに口を開いた。
「自分の目的を見失っていないか。そんなことで鈴原を殺してしまったら、やっていることの意味がないじゃないか」
「力の代価は払《はら》ってもらわないと」
和宮は平然としていた。微妙《びみょう》な表情が見えない造作《ぞうさく》ではあった。
「ぼくには、始めたことを途中《とちゅう》で変えることができないんだ。いつだって、するかしないか、生かすか殺すかだ。鈴原さんが死ぬのは、ぼくにもうれしいとは言えないけれど、それでも関係ないんだ」
深行は泉水子を見やったが、その顔つきから何もうかがえなかった。和人《かずと》がナイフをかざしたときの抜け落ちた表情に似ているとも言えた。
「おい、鈴原」
腕《うで》をつかんで揺《ゆ》さぶり、深行は泉水子にささやいた。
「あいつを納得《なっとく》させろよ。従わないと殺すと言っているんだぞ」
はっとした様子で、泉水子は目を大きく見開いて深行を見た。
「和宮くんの言うことをきけというの」
「それしかないだろう。この山の神霊《しんれい》なんだ。今はあいつがおれたちの生死を握《にぎ》っている」
深行はつかんだ指に力をこめた。
「どういうことか、わかっているのか。野々村さんは車から出られないんだぞ」
泉水子は木陰の和宮を見やって、大きく深呼吸した。そして、やにわに深行の手から腕をふりほどき、肩をゆすった。
「何を言っているの、深行くん。それでも優秀《ゆうしゅう》なの」
鼻先で言われた深行が目をぱちくりさせるうちに、泉水子は和宮のほうへ一歩|踏《ふ》みだしていた。
「勝手なことを言わないで。許さないのはこっちよ」
対峙《たいじ》する相手に向かって言い放った。どこからわいてきた怒《いか》りなのか、自分にも判断できなかったが、引火したガソリンのように突然《とつぜん》燃え上がった泉水子の内部だった。これほど憤激《ふんげき》したおぼえはあまりなく、決して引かないという岩のような決意が生まれていた。
「あなたが、わたしの願いでつくられたというなら、わたしの考えに従いなさい。好き勝手にふるまうのは許さない。雷をここに落とすことなど最低よ。わたしを脅《おど》したり二度としないで」
和宮はしばらくそのまま泉水子を見つめていた。しかし、ひるんだわけではなさそうで、静かな声でたずねた。
「もしも、ぼくが従わないとしたら、どうするの」
「あなたをきらいになる」
泉水子はためらわずにきっぱりと告げた。
「きらいになったら、わたしは二度とこの山に来られなくなる。それでもいいの?」
「勝手な話だよ。きらいになってもならなくても、きみは山を出ていくんでしょう」
「それでも、二つが同じことにはならないはずよ。よく考えなさい」
泉水子が厳しい口調を変えずにいると、和宮はもう言い返さなかった。言われたとおりに考えているのか、長いあいだ黙ってたたずんでいた。
彼が身じろぎしたとき、それはわずかなしぐさに見えた。片足を少し後ろに引いただけだったのだが、槙の木陰にはだれもいなくなっていた。それでも、消えたのではなく去っていったのだと、気配のなごりが感じられた。
いつのまにか、空がすっかり明るくなっていた。深行と泉水子の二人が、和宮との対決が終わったことをさとったのは、その空を見上げたときだった。
事故現場から救出されるには、まだ、それからひと手間もふた手間もかかった。
野々村が自力で出られない上に、車はだれも容易に近づけない崖下《がけした》にあり、ふもとの救助隊がヘリコプターでくりだす騒《さわ》ぎに発展したのだ。ただし、山間の自動車事故という非常事態を超《こ》えて異常なものごとは、その後は何一つ起こらなかった。
数人の手を借りて車から助け出された野々村は、大丈夫だと言っていたくせに、足にかなりの傷を負っていた。病院に搬送《はんそう》されることになり、深行と泉水子もいっしょに病院へ向かった。診療室《しんりょうしつ》では、野々村ばかりでなく二人も細かい傷の手当てを受けたが、なかでも深行はけんか傷に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》られて、なかなか手当てのしがいがあったようだった。
松葉杖《まつばづえ》をついて出てきた野々村に、泉水子は頭を下げてあやまった。
「本当にごめんなさい。初めからわたしがしっかりしていたら、こんなことにはならなかったはずなのに」
「どこにあやまる必要があるんです。むしろ、こちらがお礼を言わなくてはならない。泉水子さんのおかげで命びろいしたようなものですからね」
野々村は晴れやかな声で言った。傷が痛むだろうに、彼は見るからに満足げだった。
「ごりっぱでしたよ。長いあいだおそばにいますが、泉水子さんにあの勇気があるとは、ちょっとわたしも思ってみませんでした」
「あのときは、ああ言うしか……和宮くん、わたしの願いから生まれたなどと言うし……」
泉水子は肩をすぼめた。他者に対して強気に出ることは、泉水子にとって一番苦手なことなので、いっとき憤激したとはいえ、長くは保てるものではなかった。あと少し和宮が引かなかったら、その場で挫《くじ》けていたにちがいないのだ。
考え深げに野々村は言った。
「和宮というのは、たぶん、お使いだったのでしょうね」
「お使い?」
「姫神《ひめがみ》のお使いです。ええと……主神に仕える従属神と言いますか、式神《しきがみ》などと言ったりもしますが、要するに、稲荷《いなり》神に仕えるおキツネのようなものです」
「和宮くんがおキツネ……?」
きょとんとする泉水子に、野々村は言葉を続けた。
「けれども、泉水子さんにその自覚が生まれないうちは、暴走する力のある強い神霊でした。玉倉《たまくら》山に巣くうものなら、非常に力強いのは当然だ。つなわたりでしたが、ぎりぎりのところで、泉水子さんがあるべき主従に抑えこんだのでしょうね」
泉水子は、しばらく黙って考えてみた。
「つまり、和宮くんは……和宮くんとして、わたしがつくって消してしまったのね。ここまで知ってしまったら、この先、ふつうのクラスメートではいられないもの」
「悔《く》やむことはありません。和宮は人と同じものではなく、どんな形でもとれるのだから。消滅《しょうめつ》したわけではなく、あなたとの新しい関《かか》わりを待っていることでしょう」
野々村は不思議なことでもなさそうに言った。山伏《やまぶし》の年季を感じさせる口ぶりだった。
特筆するべきは、病院にいる三人を玉倉神社につれて帰ったのが、相楽《さがら》の操縦するヘリコプターだったことだ。夜|遅《おそ》くなっていたことはたしかだが、神社の所有する乗用車は事故車の一台きりではないのだから、自分が好きでヘリに乗ってきたとしか思えなかった。
深行は例によって、相楽の顔を見たとたんに不機嫌《ふきげん》になった。
「聞いていないぞ、雪政《ゆきまさ》がヘリの免許《めんきょ》をもっていただなんて」
機内に乗りこんだ深行は、いかにも気にくわないという口調で言った。
「おれだって、絶対にパイロット資格をとってやるからな」
操縦席からふり返った相楽は、得意げにほほえんだ。
「おあいにくさま。このライセンスは、国内で取得しようとすると費用がばか高いんだよ。せめて、アメリカでフライト・スクールに入れるくらいの器量がないとね」
「留学くらい、してやるよ」
「奨学《しょうがく》金をとってからなら、そういう話をしてもいいよ」
二人の会話を耳にしながら、泉水子はつくづく考えた。
(深行くんって、本当に、相楽さんにだけは突っかかっていくんだな……)
それは、裏を返してみれば、相楽しか眼中にないということではないだろうか。
(……本人がそう思っていないのは知っているけれど、なんだかんだといって、根っこのところでは、お父さんっ子と言っていいのでは)
和宮を前にして、深行が意地をはらずに引き下がったことを思い合わせると、こっそりほほえみたくなるものだった。相楽に対するときだけ賢くしていられないのだ。
和宮が口にしたことも、たぶん真実なのだろう。和宮といっしょにこの地で過ごせば、泉水子は強力な守りを得て、何ごともなく暮らせるのだろう。比べて、ここを出ていってしまえば、まわりには何一つたよることができない。
深行にも、いちがいにたよるわけにはいかない。だいたい泉水子にとって、彼ほど出会って望ましくなかった人物がいただろうか。今であっても、そのことが少し修正されたというにすぎないのだ。
それでも、泉水子の中にはひとつの決意が生まれていた。不思議なくらい、ひるがえそうとは思わなかった。
(わたしも、楽なほうを取ってはいけないのだ。まだまだ、自分を試《ため》すことをやめてはいけない。今の自分をあきらめなくてもいいのだ。きっと、いつまでも今のままではいないだろうし、深行くんもきっと、今のままではない……)
まだまだ、自分たちは未熟で固まっていない。これから先、何にぶつかって、どんな難題がもたらされるかは知らないが、新しい世界を切り開くことからしりごみしてはいけないのだと、泉水子は思った。
「いつのまに、鳳城《ほうじょう》学園へ行く気になっていたんだ。おれは聞いていない気がするぞ」
深行がいくらか不満げに言った。
「わたしも和宮くんに言われるまで、はっきりしていなかったの。和宮くんのほうが先にわかっていて、それを聞いたら決心できたみたい」
泉水子は答えた。彼らは相楽の帰りを見送って、駐車《ちゅうしゃ》場から引き返すところだった。
相楽が神社に姿を見せたのは、深行に転校の話をもってきたからだったが、二人とも、もうそのことに驚きはしなかった。深行が予測してみせたとおりだった。二学期から鳳城学園中等部に編入するために、試験を受けることになったのだ。
深行はため息まじりの口調になった。
「鈴原が急に気を変えたおかげで、野々村さんもおれも、あやうく殺されるところだったということか」
「わたしもよ」
少々口を尖《とが》らせて、泉水子は言い返した。
「わたしも殺されそうな目をみたんだから、もう、いいでしょう。自業自得《じごうじとく》だったとしても、結局は、和宮くんを止めることができたんだし」
最終的に泉水子が救ったということは、深行も認めるらしかった。それ以上は言わず、青空を見上げてつぶやいた。
「姫神《ひめがみ》か……」
午後の日射《ひざ》しが目にまぶしかった。事故後の三日間、二人とも療養《りょうよう》が必要と言われて学校を休んでいるので、こんな時間にのんびりしている。負傷したといってもすり傷やあざ程度だし、みんなが心配する後遺症《こういしょう》もなく、学校を休むまでもなかったのだが、遭遇《そうぐう》したできごとに気持ちの整理をつけるためにはよかった。
「姫神が、ここまでやっかいなものとは思わなかった。おれも、目からウロコが落ちたよ。へたに近づいたら命がいくつあっても足りない。立ち向かうのに、ふつうのことをしていたのでは太刀打《たちう》ちできない。山伏修行というのは、そのためのものだったんだな……」
泉水子は悲しい気持ちでお下げ髪をなでた。今はすっかり懲《こ》りて、髪を切ってみようなどとはとても思えず、きっちりした編み下げを守るしかない。髪型を自分の自由にできる日は、まだまだ遠い先にちがいなかった。
「わたしにも修行ができたら、少しはちがってくるかと考えたんだけど……」
事故後、泉水子は、自分にも修養が必要だと真剣《しんけん》に考えたのだ。だが、それを聞いた深行は、遠慮《えんりょ》なく鼻先で笑った。
「鈴原には無理だな。その運動|音痴《おんち》では、最初から岩場で動けなくなっておしまいだろう」
「わたしだって、スポーツ競技でなかったら少しくらいできるのよ。山登りくらいは」
「峰入り修行は、山登りとはちがうよ。一度死んで再生する覚悟《かくご》でのぞむんだ。それに、先達《せんだつ》の者に見守られないと、初心者が踏破《とうは》することなどとてもできない。見られているのは苦手なんだろう」
そのとおりなので泉水子が口をつぐむと、深行は思いなおして口ぶりを変えた。
「べつにいいじゃないか、鈴原は何もしなくても。せっかく、何もしなくても修行者《しゅぎょうじゃ》以上の力をもてるように生まれついたんだから」
「いいなんてとても思えない。姫神が取り憑《つ》いているなんて、迷惑《めいわく》ごとにしかならない。その他にはできることもないし、取り柄《え》もないってわかっているし」
泉水子は拗《す》ねた口調になった。
「他の人は、自分で選んで姫神のそばにいるのだろうけど、わたしだけいやおうなしで、それでいて命がけのところだけは同じなんて、わりがあわないと思う」
深行はおかしそうに泉水子を見やった。
「そうだな、あとの者は望んで姫神に近づくんだ。たしかに、近づいて死ぬのも勝手だ。鈴原は、そう思うから鳳城学園に行くのか」
「わたしがだれでも殺したいような言い方、しないでくれる」
泉水子は言い返したが、説明しようという気にはなっていた。
「外津川高校へ行くわけにはいかないと、本気で思っただけなの。わたしは、あゆや春菜《はるな》のような女の子になりたかったけれど……本当になりたかったけれど、無理だった。もしも、和宮くんの力でそんなふうに用意してもらったとしても、目をそむけているだけだもの。そのくらいなら、いっそお父さんの言う学校にしようかと」
「そう決めることができたのは、けっこう、えらかったんじゃないのか」
深行は公平を期するように言った。
「鈴原が東京へ行くと苦労するってことは、修学旅行で検証ずみだし、正直言って、いやがるのは当たり前だと思っていた。玉倉山を出ていく気になれるとは思わなかったよ」
「だって、知らない人ばかりの学校じゃないと、もうわかったし」
泉水子は相手の顔を見ずに続けた。
「だれひとり知り合いがいないから、鳳城学園には行きたくなかったのよ。でも、深行くんが先に行っているなら、ぜんぜん知らないところではなくなるでしょう。だから、行ってみてもいいかと。これは、めんどうをみてほしいという意味じゃないのよ」
深行はすぐには言葉を返さず、数歩歩いたのちに小声でつぶやいた。
「……雪政の、最初の計画どおりってことか」
「迷惑?」
「いや」
今度の返答はやけにすばやかった。
「それでもいいさ、あいつが思ってみなかったことだってある。ライバルを育てていたこととか」
「何のライバル?」
深行は聞こえないふりで、急に晴れ晴れとした声を出した。
「おれも、いろいろわかったから、もう回り道はしないつもりだ。修験者《しゅげんじゃ》の力もつけてみせるし、必要な知識もたくわえてみせる。姫神の神霊にふれても、ちょっとやそっとでは命を落とさない者になってやるよ」
「将来、山伏になる決心がついたということ?」
泉水子がたずねると、深行もうなずいた。
「まあね。鳳城は、たぶん、そういう人種を集める学校なんだよ。表向きそうではなかったとしても、学校|環境《かんきょう》として修行のしやすい場所なんだろう。完全な私立学校ではなく国が助成しているという話だが、大成《だいせい》さんたちは設立にも手を回しているんじゃないかな」
泉水子を見やった深行は、てらいのない調子で言った。
「だから、きっと鈴原にとってもふさわしい場所だよ。中の様子がわかったら教えてやる。先に行ったぶんだけ、過ごしやすいこつを覚えてから迎《むか》えてやるよ」
「うん……あてにしている」
泉水子は小声で言い、急にはにかむ思いで目を伏《ふ》せた。たよりにするまいと思ったはずなのに、その言葉がうれしい自分に気づいたせいだった。
「その前にひとつ、言ってもいいかな」
背中のすぐそばで、いきなりしゃべった者がいた。
二人とも飛び上がったのは無理もなかった。息をのんでふり返れば、ちゃっかりと和宮さとるが立っていた。
声をなくして見つめる二人の前で、小柄な和宮がほほえんだ。深行と泉水子が普段着《ふだんぎ》のTシャツとジーンズだったので、明るい日射しに彼の白いワイシャツはひときわ映《は》え、行儀《ぎょうぎ》のよい柔和な少年に見える。
「あれ、もう、ぼくはいないと思っていた? ひどいなあ、そう思うのもまちがいではないけれど、お別れくらいは言っておきたいよね」
泉水子はけんめいに立ちなおったが、声が震《ふる》えた。
「お、お別れを言いに来たの」
「『和宮さとる』を解いてもらいにきたんだ。もう、必要がなくなったなら」
和宮はそう言い、期待するように泉水子の返事を待った。これ以上|困惑《こんわく》させられることはなかった。
「わたし、何もしていなかったし……解くって、どういうことなのか……」
「何もしていなくはなかったよ。頂上で舞《まい》を舞《ま》ったでしょう」
和宮はまじめくさって指摘した。
「鈴原さんが舞を舞ったから、ぼくは寄ってきたんだよ。同じ舞で、解くことだってできるはずだよ」
「舞?」
泉水子があまりに驚いた声を出したので、深行のほうがたじろいだ。
「おまえ、自覚もなしにそんなことをしていたのか」
「だって、わたしの舞って、ただの体力づくりだったのよ。ぜんぜん正式なものじゃないし、ただ、おじいちゃんが、運動がわりになるから稽古《けいこ》してみろって……」
「だけど、そいつが言うのなら、嘘《うそ》じゃないんだろう。舞が山の神霊を操《あやつ》ったんだ」
深行の言葉に、和宮がうなずいた。
「そうだよ、ぼくのために、鈴原さんの舞を見せてよ。和宮を見送る気持ちがあるなら、ぼくの前で舞えるはずだよ」
うれしそうに言われて、泉水子はそのもくろみに気がついた。
今まで、舞をだれかに見せたことはなかった。祖父の竹臣《たけおみ》でさえ、ひととおりの型を教えた後は、泉水子が舞う姿を一度も目にしていない。その他の者に見せることなど論外だった。だれかに見せようと思って稽古したのではないし、人目にさらされて舞えるものだと思ってみたこともなかったのだ。
「舞を見せてくれないなら、ぼくはこの形を離《はな》れられない。鈴原さんには、そこまでの覚悟がないとわかってしまうよ」
返事の前に、泉水子はもうしばらくためらった。だが、和宮の申し出をしりぞけてはならないことはわかっていた。たぶん、ここで対応に失敗したら、取り返しのつかないことになるのだ。無理やりにでも言うしかなかった。
「……それなら、舞ってあげる。運動着に着替《きが》えてくるから、先に頂上の空き地へ行って待っていて」
和宮はほほえんでうなずき、坂のほうへ歩いていった。
深行がそれを見送って、危《あや》ぶむ表情を泉水子に向けた。
「大丈夫なのか、言うとおりにして」
「本当はよく知らないの、何が起こるのか」
まるで自信はなかったが、今は自分が責任をとるしかないと思えた。訣別《けつべつ》の代償《だいしょう》が舞だというなら、舞ってみせるしかないのだろう。
そこまでさとっても、まだ当惑が残った。どんな種類のものでもいいから、これをやりとげるための支えがほしいと思ったとき、泉水子は息をつめて言っていた。
「深行くんも、頂上まで来てくれる? いっしょにいてくれる? 何かあったときのためにも……」
深行は眉《まゆ》をひそめた。
「おれはかまわないが、鈴原は、見られると困るんじゃないのか」
「いいの。舞をだれかに見せるとなったら、一人に見せるのも二人に見せるのも同じだもの」
なぜ、その言葉が出たのかわからなかった。だが、そのとき、泉水子は本気でそう感じたのだった。
少しして、着替えて家から出てきた泉水子を見て、深行は目をまるくした。
「運動着って、それ、巫女《みこ》さんの衣装じゃないか」
泉水子は赤い袴《はかま》をはき、白のあわせの上には薄物《うすもの》の、肩の開いた大袖《おおそで》の上衣《うわごろも》を身につけていたのだ。
「そうなの? わたしには運動着だけど」
泉水子は別段おかしいとも思わずに、緊張《きんちょう》した口調で答えた。
「ジャージーでもかまわないけれど、袖があったほうが舞いやすいから、これを着ているだけよ」
正装したつもりはないので、足にはソックスとスニーカーだ。お下げ髪とメガネもそのままなので、ちぐはぐに見えてもよさそうだったが、不思議と全体の姿がなじんでいた。深行はそれ以上とやかく言わないことにして、泉水子とともに山頂へ登った。
和宮は、言われたとおりに空き地で待っていた。泉水子の姿に気がついて、期待の色を浮かべる。泉水子は、彼の笑みの陰にある挑戦《ちょうせん》をあらためて感じとってから、無表情に顔をそむけた。南面して立ち、いつもの手順で呼吸を整えることからはじめる。
舞いはじめるまでには時間がかかりそうだった。それでも、この場所には気持ちが澄《す》んでくる効果があった。頂上に立った清涼感《せいりょうかん》はふだんのとおりだった。
今日の景色はもやがかかり、海を目にするほどには見通せない。だが、開いた空と風のはこびは、どこまでも広がっていく空間を肌《はだ》に感じさせた。大地の屹立《きつりつ》する場所と空とが結ばれている。目で見るものではない喜ばしいきずなが、体にじかに伝わってくる。
もう何年続けているかわからない、ここでの舞の稽古を思い浮かべて、泉水子は静かに考えた。
(わたしは、この場所で舞っていれば、いつでも安心できた。だれにも知られなければ、それが一番だと思っていた。でも、どうしてそうなのか、わかっているとは言えなかった。だから、淋しくないわけではなかった……)
見られることが怖《こわ》いのは、傷つけられるのが怖いからだ。見られることが恥《は》ずかしいのは、自分で自分を否定しているからなのだ。このような自分がここにいることを、心の底から認めてはいなかった。これほど冴えない鈴原泉水子ではなく、他のものになりたかったからだ。
(わたしは、そう思っていながらも、本当は、こっそり求めていたのではないだろうか……本当は、ここにいるわたしをだれかにわかってほしいと。和宮くんが寄ってきたと言っているのは、そういうことではないだろうか)
泉水子は、胸《むな》もとにさしてきた白い扇《おうぎ》を取りだして、ゆっくりと開いた。
今は、舞ってもいいと感じていた。思ったよりすんなりと、最初の足拍子《あしびょうし》が出た。
天地《あめつち》の寄り合ひの極《きは》み
玉の緒《を》の絶えじと思ふ妹《いも》があたり見つ
拍子にのることができると、どのような心持ちで舞えばいいかが自然にわかってきた。
特別に意識する必要はないのだ。わざわざ意図しなくても、泉水子がきちんと理解さえすれば、和宮には感謝の心ばえとして受けとってもらえる。そのことに気づいた後は、気持ちが安らいで、舞うにつれてどんどん無心になっていった。だれかに見せるというこだわりもなくなっていったのだ。
梓弓《あづさゆみ》引きみ緩《ゆる》へみ 来《こ》ずは来《こ》ず
来《こ》ば来《こ》 其《そ》を何《な》ぞ 来《こ》ずは来《こ》ば其《そ》を
深行と和宮は、登り口の岩にくっつくようにして、並んで泉水子の舞を見ていた。
空き地といっても小さな場所なので、それ以外に立つところがなかったのだ。
深行にとって、手をのばせばふれるところに和宮がいるということは、その正体を知ってしまった後では、ときおり冷や汗のにじむものだった。けれども、無理してそちらを見ないようにして、肌のざわつきに耐《た》えていると、ふっと忘れて、粟谷中のクラスメートがいるだけと思うときもあり、なんともおかしな気分だった。
もっとも、どちらであっても、深行はこの立ち位置を去るつもりはなかった。泉水子の舞から目を離すことができなかったのだ。舞踊《ぶよう》などにはまったくなじみのない深行だったが、それでも、たぐいまれなものを目にしていることはよくわかった。うなじの毛が逆立つ思いは、和宮ばかりのせいではなかった。
(……どこが、何もできない女の子だよ……)
胸の内でぼやいていると、ふいに和宮が口を開いた。
「とうとうこれで、負けたかな。彼女は、きみの前で舞っている」
深行は思わず相手の顔を見た。中学生に見えたので、声が出せた。
「まだ、あきらめていなかったのか。往生《おうじょう》ぎわが悪くないか」
和宮が見返してほほえんだ。
「往生したことは、一度もないよ」
目の前で、その姿がみるみる薄《うす》れていった。泉水子はまだ一心に舞っていたが、深行には、和宮から立ちのぼる陽炎《かげろう》に似たゆらぎが見えた。
ゆらぐものは、空に広がって一瞬影《いっしゅんかげ》をなした。逆光を浴びて青黒い色に染まり、巨大《きょだい》な体がそこに立ち上がったのだ。逆立つ髪と憤怒《ふんぬ》の異相、もりあがった肩の力こぶ。
(蔵王権現《ざおうごんげん》……)
目をかすめた姿は、山伏の祖が彫《ほ》ったという憤怒の守護神像にどこか似ていた。だが、その影も、山頂の風がたちまちに吹《ふ》き払ってしまい、深行がまばたきした後には、ぬぐい去ったように痕跡《こんせき》一つ残らなかった。
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【引用文献】
「北辰菩薩陀羅尼経」 『修験道秘経入門』 羽田守快著 原書房
「祓 五体加持文」 『修験道秘経入門』 羽田守快著 原書房
万葉集 巻第十一 二六四〇
万葉集 巻第十一 二七八七
【参考文献】
『山伏の歴史』 村山修一著 塙書房
『吉野・熊野信仰の研究』 五来重著 名著出版
巻頭の『レッドデータ』の用語解説につきましては、EICネット「環境用語集」より一部引用させていただきました。
http://www.eic.or.jp/ecoterm
カドカワ 銀のさじシリーズ
誕生にむけて
イギリスでは、生まれたばかりの赤ちゃんの幸福を願って、
銀のさじを贈る風習があります。
銀のさじは幸福の象徴。
「幸せをすくいとることができる」といわれます。
私たちは、この願いをファンタジーを通して
読者に伝えていきたいと思っています。
ファンタジーは、読む人の生活を心から豊かにしてくれるもの。
子どもから大人まですべての読者に物語のよろこびを届けたい。
そんな願いを込めてカドカワ 銀のさじシリーズをはじめました。
どうぞファンタジーという「物語」を、
心ゆくまでこの銀のスプーンで味わってください。
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底本
カドカワ 銀《ぎん》のさじシリーズ
RDG レッドデータガール はじめてのお使《つか》い
著 者――荻原《おぎわら》規子《のりこ》
2008年7月5日 初版発行
発行者――井上伸一郎
発行所――株式会社 角川書店
[#地付き]2009年1月1日作成 hj