死神とチョコレート・パフェ 3
[#地から2字上げ]花鳳神也
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暮《く》れ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|言《ごん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
底本で《》になっている部分は青空文庫ルビ記号の都合で〈〉に変更しています。
(例)《エカルラート》→〈エカルラート〉
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プロローグ
日はすでに暮《く》れ、厚《あつ》い雲が空を覆《おお》う夜のことだった。
私が死ぬ運命だった……。
虚《うつ》ろな表情《ひょうじょう》の少女が一人、そんなことを考えながら歩いている。
それ以外のことは考えられず、考える気力もなかった。
ただ、数日前まで隣《となり》にいた親友のことが脳裏《のうり》に浮《う》かぶ。
その親友は感情を表に出すことが少なかった彼女にとって、かけがえのない友達であり、良き理解者《りかいしゃ》だった。
励《はげ》まし合い、苦楽を共にし、友達というよりは姉妹《しまい》のように親しかった。
そんな親友がある日、事故《じこ》に巻《ま》き込《こ》まれ、この世を去った……。
苦しかった。
苦しくて、何もできず、親友の葬式《そうしき》も何がなんだか理解できず、ただ漠然《ばくぜん》と心の中に浮かび続ける親友の姿《すがた》を見つめていた。
涙《なみだ》は出なかった。
親友の死を、実感のないものとして、認《みと》められなかったからかもしれない。
きっと……そのせいだろう。
それを見たときも初めは実感がなく、でも確《たし》かに目の前にあった。
自宅《じたく》への道を歩いていた彼女が、空き地の前にさしかかったとき、それは空から降《ふ》ってきた。
ドスッ。
土に何かが突《つ》き刺《さ》さるような鈍《にぶ》い音が聞こえ、彼女はそちらに顔を向ける。枯《か》れた草の生える空き地の真ん中に、見たこともない銀色の大きな鎌《かま》が突き刺さっていた。
稲《いね》を刈《か》るときに使われるような小さなものではなく……そう、たとえるなら死神の鎌というのが相応《ふさわ》しい形状《けいじょう》だった。
思わず空を見上げる。だが月明かりもない空には暗闇《くらやみ》が広がっているだけだ。辺りも見渡《みわた》してみたが誰《だれ》もいない少し躊躇《ためら》ったが……彼女は空き地の中へとその足を向けた。
銀色の鎌に近づき、触《ふ》れてみる。
ドクンッ。
「っ……」
何故《なぜ》か自分の鼓動《こどう》が響《ひび》き、彼女はとっさに手を離《はな》した。
これは何なのだろう? まさか本当に死神の鎌だとでも言うのか……?
先ほどまで、自分の運命と親友のことしか考えられなかったはずの彼女は、その鎌を見ながらそう思った。
そして次の瞬間《しゅんかん》、それは空から舞《ま》い降《お》りた。
黒い影《かげ》。長い後ろ髪《がみ》が風に揺《ゆ》れ、前髪の隙間《すきま》から鋭《するど》い視線《しせん》を覗《のぞ》かせる。背《せ》には白く大きな翼《つばさ》があり、初めは天使だと思ったが、その人物は地面に突き刺さった鎌を手に取ると翼を消した。
(違《ちが》う。この人は……死神……)
銀色の鎌が、月もない夜空の下で輝《かがや》く。
それを持つ姿はまさに死神だった。
それを見た彼女は、きっと自分を迎《むか》えに来たのだろうと思った。自分の半身と言えるほど仲の良かった親友のところへ、連れて行ってもらえるのだ、と。
だが、舞い降りた死神は初めに「迂闊《うかつ》だった……」と呟《つぶや》きながら溜息《ためいき》をついた。まるでこうして出会ったことが予定外だったと言わんばかりの様子だ。
「……私を、殺しに来たのではないのですか?」
思わず、彼女はそう聞いていた。
すると死神は不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに首を振《ふ》ってふっと笑った。
この出会いは偶然《ぐうぜん》――そう告げる。
その言葉にどこか納得《なっとく》できなくて、彼女は死神と少し話をした。
自分のことや、親友のこと。そして今、自分が置かれている状況《じょうきょう》と、そんなときにこうして死神と出会ったのだということ。
意外にも死神はその話を最後まで聞いてくれた上、この出会いは偶然だった、と改めて説明してくれた。
そして自分のことを覚えていてもらうと困《こま》る、と彼女の額《ひたい》に手をかざした。
その手から発せられた光は淡《あわ》く、そしてどこか優《やさ》しい……。
相手は死神だというのに、不思議な感じだった。
それを最後に、彼女の意識《いしき》は遠のいた。
それからしばらくして目を覚ますと、同じ空き地の中心で彼女は立っていた。おそらく意識を失っていたのは、ほんの一瞬だったのだろう。静かに周囲を確認《かくにん》してみるが、誰もいない。
自分はここで何をしていたのか? その質問《しつもん》を自分の心に投げかける。
目線の先には微《かす》かに盛《も》り上がった地面の土がある。何かがそこにあった――空から降って来たものが。それは鎌。そして出会った。何に?――死神に……。
「……?」
その記憶《きおく》がまだ自分の中にあることにハッとする。
死神は自分の記憶を奪《うば》って行ったのではなかったのか?
自分のことを覚えていてもらうと困る――そう言って、自分の記憶を消そうとしていたことを、彼女は会話の一|言《ごん》一|句《く》まで覚えていた。
手違いでもあったのだろうか?
それともわざとなのか?
いや、そんなことをする理由はないはずだ。だとすると、
「また……会うことになるのでしょうか……」
自分が記憶を失っていないと知ったら、死神はまた自分の前に現《あらわ》れるのだろうか?
今度会うときも、今日と同じように。
いや、次に会うときは、もしかしたら……
空き地の真ん中で一人|佇《たたず》んでいた彼女は、先ほどの死神の姿を心に刻《きざ》んでおこうと思いながら空を見上げた。
上空を覆《おお》う厚《あつ》い雲。そこからふわりと、白い雪が舞い降りて来た……。
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報告書《ほうこくしょ》・1 何かが起こってからでは遅《おそ》いのです
ある日の夜、天倉神名《あまくらじんな》はリビングでまったりと過《す》ごしていた。
彼はくせ毛のような、軽く毛束が躍《おど》るような髪形《かみがた》で、ソファーに座《すわ》りながらひじ掛《か》けの上で頬杖《ほおづえ》をついていた。今夜の夕食も(神名の観点からのみ)美味《おい》しくて、お腹《なか》もいっぱい。彼の顔は食後の満腹《まんぷく》感から緩《ゆる》んでいた。
学校と花屋のバイトを終えて帰ってきた後、夕食を食べ、しばらくゆっくりしようと思い、今はテレビを見ている最中だ。
内容《ないよう》はいかに安く生活費を抑《おさ》えるかを様々な方向から教えてくれるバラエティー番組で、お金のことになると少々うるさい神名にとって、大変参考になる番組だった。
彼はこの家に一人、家族と別々に住んでいる。父親が転勤《てんきん》になり、母親もそれについて行ってしまったためだ。
生活費は定期的に送ってもらっているが、彼はそれにできるだけ手をつけず、バイト代でやりくりをしている。
「全部、終わりましたよー」
そこへエプロンを外しながらにこやかに微笑《ほほえ》む少女がやって来た。台所での洗《あら》い物《′》を終えた彼女は、神名の反対側にあるソファーに腰《こし》を下ろす。
「ご苦労さん」
食器の洗い物だけでなく、夕食も作ってくれた彼女に神名はそう言葉をかけた。
「どういたしまして」
笑顔でそう返事をした彼女の名はナギ。
横髪は長く、同じように長い後ろ髪は桜色《さくらいろ》のリボンで二つにまとめられていた。目の覚めるような可愛《かわい》らしい笑顔を向けてくる彼女は、半月ほど前まで死神であったが、神名の持つ〈エカルラート〉という名の鎌《かま》によって人へと戻《もど》った少女だ。
ナギは座ったばかりだというのに再《ふたた》び立ち上がると、テーブルごしに神名へ詰《つ》め寄《よ》る。
「それじゃ、チョコ・パフェの件《けん》、よろしくお願いします」
「……よく毎日、食えるな、お前……」
神名は呆《あき》れた様子でそう呟《つぶや》いた。
ナギの言うチョコ・パフェの件というのは、ナギが神名の家の掃除《そうじ》と夕食の準備《じゅんび》、それに食器洗いまで引き受ける代わりに、チョコレート・パフェを食べに連れて行ってくれるという約束だった。
ナギは一日三度の食事がすべてチョコレート・パフェでも構《かま》わないというほどの、チョコ・パフェ好きなのだ。そのため、いつもどこからか新しいチョコレート・パフェの情報《じょうほう》を仕入れるたびに「そこへ行ってみましょう!」と話を持ちかけてくるのだ。
「飽《あ》きないのか?」
いくら好物でも、毎日食べれば普通《ふつう》は飽きる。
だが、
「飽きるわけがないじゃないですか! とにかく約束ですからねっ」
ナギは今すぐにでも行きたそうな目で、念を押《お》して来た。
「わかった、わかった。連れて行くって」
ナギが真剣《しんけん》な表情から嬉《うれ》しそうに微笑むのを確認《かくにん》しながら、神名は頷《うなず》く。
もともとこの条件《じょうけん》を提案《ていあん》したのはナギだった。神名がそれを了承《りょうしょう》し、ナギがその条件を成した以上、約束は守らなければならない。
問題はいつ行くのか? ということだが、それをナギに聞くと
「明日です」と即答《そくとう》しそうなので、神名は後で財布《さいふ》の中を見てから決めようと思いながら、テレビに視線《しせん》を戻そうとしたとき――
「なんだか楽しそうね?」
背後《はいご》から女性《じょせい》の声が聞こえた。
「……お邪魔《じゃま》しますぐらい言えよ」
神名は振《ふ》り返るようにしながら、その声の主をソファーから見上げる。
毎回、気配もなくリビングへやって来るので、さすがに彼女の登場の仕方には慣《な》れてしまった。
「余計《よけい》なエネルギー消費だから、やめておくわ」
神名の視界に入ってきたのは息を呑《の》むような美貌《びぼう》の女性だった。見た目は二十歳《はたち》前後といったところ。胸《むね》まである長い横髪に対して、後ろはショートボブという髪形で大きく胸の開いた漆黒《しっこく》の服に身を包んでいる。
彼女はすべての死神を束ねる死天使長であり、名をイリスという。
「人の家にあがるときの常識《じょうしき》だぞ?」
「私は死神だから。そんな常識で推《お》し量《はか》れると思ったら大間違《おおまちが》いよ」
イリスは空を映《うつ》すような青い瞳《ひとみ》で神名と視線を合わせるとナギの隣に座り、
「天倉くん、コーヒー」
飲み物を注文した。
「ここは喫茶《きっさ》店じゃねーよ。自分で淹《い》れろ」
「私、今日は動きたくない気分なの」
「いつもだろ!」
「イルガチェフがいいわねー」
「だから聞けよ! だいたい何だよそれ、豆? というか、この家にはないからな、そんなコーヒー」
「あるわよ。台所の上の柵《たな》の、一番左に」
「はぁ?」
イリスがそう言ったので、神名は怪訝《けげん》に思いながらも台所へ向かい、言われた場所の棚を開けてみる。すると袋《ふくろ》に詰められたコーヒー豆らしきものが確《たし》かにあった。
「……なんで?」
「私が最近、持って来たから」
こいつもしかして、俺《おれ》たちが学校に行っている間に家へやって来ているのでは……と神名は考えつつ、仕方なくコーヒーを淹れることにした。
「今日は何しに来たんだよ……俺にコーヒーを淹れさせるためじゃないんだろ?」
コーヒーの袋を開けながら神名が尋《たず》ねる。
ナギもそれが気になって、イリスに顔を向けた。
「ええ、そうね。実は――」
「断《ことわ》る」
神名は台所からそう告げた。
「……まだ、何も言っていないわ」
「じゃあ、早く言ってくれ。断るから」
するとイリスはすっとその青い目を細めた。
神名は嫌《いや》な予感がして、思わず「うっ」と身を縮《ちぢ》ませたが、イリスは珍《めずら》しくすぐに表情を元に戻した。
だが、本当に珍しいのはその後で、
「……今日は、ちょっと頼《たの》みたいことがあって来たのよ」
「た、頼みごと?」
聞き間違いか、それとも耳がおかしくなったのか? 神名は自分の耳に指を突《つ》っ込《こ》みながら、我《わ》が耳を疑《うたが》った。
ナギもその言葉に何度か瞬《まばた》きを繰《く》り返す。
「今回は任務《にんむ》じゃないんですか……?」
「場合によっては頼みごとから任務に変わる可能性《かのうせい》もある、というところね……」
「なんだ、そりゃ?」
コーヒーメーカーの電源《でんげん》を入れ、神名は台所からソファーに戻る。
「まずは話を聞いてくれるかしら?」
「……聞くだけだからな」
イリスはそれに頷かず、とりあえず事情《じじょう》を話し始めた。
「一人のある死神が、任務|完了後《かんりょうご》に鎌《かま》を地上に落としてしまったの。今回の用件は――」
「待て。鎌を落とした?」
どこかで聞いたことのあるようなシチュエーションに、神名は眉《まゆ》をひそめた。
するとナギが、
「わぁ、私と同じですね!」
「ああ、そうか! こいつ以外にもそんな間抜《まぬ》けな奴《やつ》がいるんだな……いや、まさかナギの話か?」
「私の話を遮《さえぎ》らないで」
イリスがギロリと神名を睨《にら》み、ナギへと視線を移《うつ》す。ナギはビクッとして、どこからともなく白い卵《たまご》のような物体を取り出すと、胸の前で抱《かか》えた。
「ご、ごめんなさい。そんなに睨まないでくださいよー」
その卵のような物体の大きさはダチョウの卵より大きく、三〇センチほど。底部に黄色い輪が浮《う》いたように付いていて、名は〈ベル・フィナル〉という。ナギが所有している死神の鎌で、神名の持つ〈エカルラート〉とは二本で一|対《つい》の存在《そんざい》だ。
これでも二本を総称《そうしょう》して〈ヴァールリーベ〉と呼《よ》ばれる伝説的な鎌だ。
『ナギ、私を盾《たて》代わりにしようとするな』
そう異《い》を唱えたのは〈ベル・フィナル〉自身。この鎌はしゃべることもできるのだ。
『そもそも、お前たちは日ごろから私の扱《あつか》い方が――』
「今の話は二年も前のことよ。そもそもナギはそのとき任務をやり遂《と》げられなかったんだから、この話とは異《こと》なるわ」
「ふーん。だったら、どうせその後、何の罪もない一般《いっぱん》市民に鎌が激突《げきとつ》、慌《あわ》てて隠蔽《いんぺい》工作したが、ついにその事件《じけん》が問題に……ってところだろ?」
『おーい』
「違《ちが》うわ。その鎌は誰《だれ》にも当たっていない」
「そこだけを否定《ひてい》するってことは、後半部分は当たっているってことですか?」
「……とにかく最後まで聞きなさい」
『私の話はいつも、誰も聞いてくれないよなぁ……』
神名たちが三人で話す中、無視《むし》されたベルはそれを最後に静かになった。
イリスはそれに構《かま》わず続ける。
「その死神が落下した鎌を拾いに行くと、幸い誰にも当たってはいなかった。けれど、そこには一人の少女がいたらしいの……」
「……姿《すがた》を見られたってことか?」
「でも、記憶《きおく》を消せばいいだけのことですよね? 死神になら簡単《かんたん》なことだと思いますけど……」
死神には人の回復力《かいふくりょく》を高める力や、記憶の消去を行う力などがある。
今のナギは人であるためすでに無くしてしまったが、その死神には当然できたはずの処置《しょち》だった。
「そうね。だからその死神も少女の記憶を消した」
「それで何か問題でもあったのか?」
「落下した鎌は少女に当たることはなかった。けれど、どうやらその少女は自ら鎌に触《ふ》れていたみたいなのよ」
事態《じたい》は深刻《しんこく》だ――そんな表情のイリスを見て、神名はナギが持つベルの方へ視線を移した。
「ベル。つまり、どういうことなんだ?」
『自分に都合のいいときだけ、人の話を聞くんだよな、お前たちは……』
「他人に自分の意見を押し付けるのは良くないと思うぞ」
『事実だろ、おい』
「まぁ、それはこの際《さい》、どこかへ置いておいてだな。教えてくれよ」
このどうしようもない〈エカルラート〉の主のことなど無視しようとも考えたが、彼が必死に「教えてください。お願いします」と言っている(拡大解釈《かくだいかいしゃく》)ので、ベルは答えてやることにした。
『……場合によっては、お前のときより深刻な状況《じょうきょう》……と言えるな』
「そうなのか?」
『知っているだろうが、死神の鎌には〈あらゆる魂《たましい》を刈《か》り取る〉能力が備《そな》わっている。その刃《やいば》にかかった者はいかなる手段《しゅだん》で防《ふせ》ごうとしても、確実《かくじつ》に死ぬ……そんな鎌に触《さわ》ったんだ。死ななかったとしても、何かしらの影響《えいきょう》を受けているはずだな』
「……たとえばどんな?」
『最悪のパターンは、その少女の魂に影響を与《あた》えている場合だ。自ら〈死〉を呼び寄《よ》せるような状態になっている可能性がある……』
「……待てよ? 万が一、それが原因《げんいん》で死んだら〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉になるんじゃないのか?」
『まぁ、そうなるな』
ベルがそう言うと、神名とナギはようやく問題の深刻さを理解した。
このまま放っておけば、その少女は死んでしまうかもしれないのだ。
「なるほどな……でも、その鎌を落としたっていう死神は誰なんだ? まずはそいつに責任《せきにん》を取らせるべきだろ」
神名はその少女を救いたくないわけではない。ただ、そうなった責任はことの発端《ほったん》を起こした者に取らせるべきだと思う。
イリスもその意見には賛成《さんせい》だったのだが、
「そうしたいところだけれど……できないのよ」
「なんでだよ?」
「その鎌を落とした死神というのが……あのフルールだからよ」
「な、何!?」
その名前を神名は記憶の片隅《かたすみ》に留《とど》めていた。
フルール――その死神はとある任務《にんむ》に失敗し、イリスからゴキブリに姿を変えられた人物だった。
彼はイリスに復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》い、そのために〈ヴァールリーベ〉を手に入れようと、持ち主である神名とナギに襲《おそ》い掛《か》かってきた。だが最終的にイリスからノミに変えられ、殺虫スプレーであの世に送られてしまったのだ……。
「死んだ者に責任を取らせることはできないわ。とんだ置き土産《みやげ》と言ったところね」
「じゃあ、イリス様の頼《たの》みごとっていうのは、その子が今、どういう状況になっているのかを調べてきてほしいということですか?」
「ええ。この件に関しては少し前に、魂の管理局から『ソウル・イレギュラーになる可能性《かのうせい》がある少女を発見した。原因をつきとめ、阻止《そし》する必要あり』っていう報告《ほうこく》が上がってきていたの。けれど、ナギがあなたを輪廻《りんね》に戻《もど》そうとしていた最中のことだったから保留《ほりゅう》しておいたのよね……」
「その後、すっかり忘《わす》れてたのか?」
「ちゃんと覚えていたわ。だから、この一件をあなたたちの最初の任務にするつもりで、前に手紙と一緒《いっしょ》に〈極秘《ごくひ》指令書〉って書いたものを送っていたでしょう? あれにも同じようなことが書いてあったはずよ」
そう言われて、神名はなんとか内容《ないよう》を思い出そうとしたが無理だった。もともと覚える気もなかった上、存在《そんざい》自体が鬱陶《うっとう》しかった代物《しろもの》だ……。イリスに額縁《がくぶち》に入れて保管しておけと言われたが、今はまだ机《つくえ》の引き出しの中だ。
ナギの方は神名より早く思い出すことを諦《あきら》めていたようで、それよりも気になることがある、と口を開いた。
「あの……それじゃ、私たちが先日、深瀬《ふかせ》さんのことでがんばったことは――」
「ええ。当初の予定とは違う任務だった。そちらの方が急ぐ任務だったから、あなたたちに急遽《きゅうきょ》、任《まか》せることにしたの」
「余計《よけい》なことを……」
神名がぼそっと、そう呟《つぶや》いたが、イリスは平然と続ける。
「まぁ、そういうわけで、あなたたちが深瀬|沙耶架《さやか》の件《けん》でがんばっている間、私が少しだけその件を調べてみると……」
「原因はフルールだった……と」
「……ええ。ひとまず現状《げんじょう》を把握《はあく》することが大切よ。そのために、あなたたちにはその少女の様子を探《さぐ》って来て欲《ほ》しいの……彼女の現状を確認《かくにん》し、状況がすでに最悪の場合にまで進行していたらその子の護衛《ごえい》任務を言い渡《わた》します」
なるほど、頼みごとが場合によっては任務になる、というのはこういうことだったのかと神名は納得《なっとく》した。
「まぁ、今回は人助けみたいなものだから、協力してやってもいいけど……」
「さすが天倉くんね。あなたなら、そう言ってくれると信じていたわ」
「いや、それはないだろ」
「そうね」
「否定《ひてい》しないのかよ!? あー、もういい。で、そいつの名前ぐらいはわかってるんだろうな?」
神名の問いに、イリスはどこからともなく青いファイルを取り出した。
「ええ、名前は……芹沢サラ[#「芹沢サラ」に傍点]よ」
「…………」
「…………」
イリスの言葉に、神名は目が点になった。ナギも同じように呆然《ぼうぜん》として、手に持っていたベルをゴトッと床《ゆか》に落としてしまった。
ベルも思わずそれに怒《おこ》ることを忘れ、言葉を発した。
『なんだか偶然《ぐうぜん》にしてはできすぎている気がするな……』
「何? この芹沢《せりざわ》サラという子を知っているの?」
「幸か不幸か……知ってる……」
「私が今、お世話になっている人です……」
どうしてこう、自分の周りにいるヤツばっかりなのか……神名とナギが静かに頭を抱《かか》えると、イリスはどこか嬉《うれ》しそうにポンッと手を叩《たた》いた。
「それならちょうどいいわ! 知り合いなら彼女の様子も探りやすいでしょう。あなたたちに任せるから、いいわね?」
サラに危険《きけん》が迫《せま》っているとなれば、放っておくわけにはいかない。
イリスが満足そうに微笑《ほほえ》んでいるのが少し気に入らなかったが、神名とナギは彼女の頼みごとを引き受けることにした……。
○
イリスと話をしてからすぐに、ナギはサラの家へ帰ることにした。
サラのことが心配になり、とにかく急ぐ。
空はとっくに暗くなり、時間も少し遅《おそ》くなっていたので、一応《いちおう》、神名はナギを家まで送ることにした。
だが、サラの家は神名の家からそんなに離《はな》れていない。学校へ行く道と同じ道を通り、途中《とちゅう》にある曲がり角を直進するとすぐだ。神名がナギをその家まで送ったことは何度かある。いつもなら家の前で別れるのだが、今日は玄関《げんかん》まで付き合った。
ナギはここでお世話になることが決まったとき、サラの両親からすぐに合鍵《あいかぎ》を渡されたそうで、その鍵を使って中に入る。
「ただいま帰りましたーっ!」
ナギは家に入ると、元気よくそう言った。
この家に住むならば、とサラの両親から唯一《ゆいいつ》出された条件《じょうけん》が『元気に挨拶《あいさつ》をする』ことだったそうだ。
ナギから話を聞くかぎり、つくづく良い人たちのようだった。
「はい、お帰りなさい」
ナギを玄関で出迎《でむか》えてくれたのはサラだ。彼女は髪《かみ》を肩口《かたぐち》で切り揃《そろ》え、とても整った顔立ちをしているのだが、その表情《ひょうじょう》はいつものように無表情だった。
それでも時間が少し遅かったので心配していたのか、ナギを見た彼女は安心したように胸《むね》を撫《な》で下ろした。
それからすぐに彼女は神名へ視線《しせん》を移《うつ》す。
「ちゃんとナギを家まで送ってくれたのですね」
「まぁ、夕食を作ってもらったからな……」
「感心です……何か?」
ふと、神名が意外そうな顔をしていることに気づき、サラがそう聞いた。
「あ、いや、芹沢さんの私服は初めて見たから……」
なんとなくだったが、神名は彼女のそれを、スカートだとかワンピース姿《すがた》を中心に連想していた。ナギがそういう服を好むので、サラもそんな感じだと思っていたのだが、目の前にいる彼女はジーンズにラグランTシャツという姿だった。
「え? あぁ……私だって一日中、制服《せいふく》というわけではありませんよ?」
「だよな。いや、予想よりずいぶん動きやすそうな服装《ふくそう》だったからさ」
「母もこういう服装を好むんです。といっても、その本人は私に天倉くんが想像しているような服ばかり着せようとしてくるのですが……」
困《こま》ったものです。そう言葉を続けた後、今度はサラが神名へ質問《しつもん》した。
「それにしても珍《めずら》しいですね? いつもなら家の前までで、天倉くんがここまで入って来たことなどなかったと思いますが……」
「……あー、迷惑《めいわく》だったか?」
サラの言葉に、少しだけ神名が気まずそうに言うと、サラはほんの微《かす》かに口もとを緩《ゆる》めた。
「いいえ。少しあがって行きませんか? お茶ぐらいは出しますよ?」
「え? あ、いや、いい。俺《おれ》はもう帰るから」
神名は本気で遠慮《えんりょ》して、首を振《ふ》る。
正直なところ、女の子の家というのはどこか落ち着かなかった。
「じゃ、後は頼《たの》む」
すっとナギへそう耳打ちすると、「それじゃ、また明日〜」と家を出て行った。
ナギはその彼に向かって手を振り、サラもそれを見て同じように手を振った。それからドアの鍵を再《ふたた》びかけ、
「……結局、彼は何をしに来たのでしょう?」
「え? さぁ……まぁ、いいじゃないですか! それより今日はサラさんに見せたいものがあるんです!」
神名はサラの様子を見に来たのだ――とは言えず、ナギは彼女の手を引っ張《ぱ》って二階にある自分の部屋へ向かった。二階へ上がってすぐにあるのがサラの部屋で、その向かい側がサラの両親の寝室《しんしつ》。ナギの部屋は一番|奥《おく》にある。
部屋の作りはサラの部屋と変わらない。ただシックにまとめられているサラの部屋に対して、ナギの部屋は見るからに女の子らしい部屋になっていた。可愛《かわい》らしい小物が随所《ずいしょ》にちりばめられ、フローリングの床には淡《あわ》いピンクの絨毯《じゅうたん》を敷《し》き、部屋の中心に置かれているテーブルの周りだけは床に座れるようになっていた。
そこへナギが座り、促《うなが》されるようにサラも座る。
「それで、見せたいものというのは何ですか?」
「はい。まずはその前に……最近、サラさんに変わったことが起こっていませんか?」
「……突然《とつぜん》ですね。どうしてです?」
「まぁまぁ、とりあえず気にしないでください。それで、どうですか?」
するとサラは一度視線を逸《そ》らし、何やら考え始めた。
そしてすぐ、彼女には思い当たることがあったと顔を上げた。
「そういえば最近、妙《みょう》なことがよく起こります」
「え? たとえば、どんな?」
「二週間前ぐらいに、何もない場所でつまずいて、たまたまその先にガラスの破片《はへん》があって、危《あや》うく怪我《けが》をするところでした。同じ週に、通りかかった公園から野球のボールが飛んで来て、当たりそうになったこともありました……。先週は――」
「あっ、わかりました! もう、わかりましたから!」
どうやら、すでに影響《えいきょう》が出始めているらしい……。
そこでナギは鞄《かばん》の中からベルを取り出した。
「今のサラさんには、悪いことがよく起こっているようですね……そんなサラさんにこれを!」
ずいっと差し出された白い卵《たまご》のような物体を、サラは訝《いぶか》しげに受け取った。見ると、卵のような物体の下には黄色い輪が付いている。
「……これは、何ですか?」
率直且《そっちょくか》つ、当然の質問だ。
「手にとって願い事をすると、幸運を運んでくれる卵です」
本来なら、運んで来るのはそれと逆《ぎゃく》のものだが……とベルは思いながらも、サラの手の上で静かに沈黙《ちんもく》を保《たも》つ。
「幸運……」
「はい!」
「これは、どこかで買って来たのですか?」
「ええっと……神名くんにもらいました!」
「珍《めずら》しいですね」
一瞬《いっしゅん》、驚《おどろ》いた表情《ひょうじょう》でサラはそう言った。本当に意外そうに言ったので、ナギは苦笑《くしょう》してしまう。
「そうですね……いつも食事を作ってあげているお返しだそうです」
「なるほど。でも、それでしたら、ナギが願い事をするべきです。これはあなたがもらったものなのですから……」
どうぞ、とサラはこちらにベルを返そうとしてきた。だがナギは受け取らず、その場から立ち上がった。
「私はもう願い事をしてしまいました。だから、次はサラさんがどうぞ」
「……一緒《いっしょ》にしても良いのですか?」
「はい。きっと、いい事がありますよ。私、お茶を入れてきますね」
そう言うとサラが止める暇《ひま》もなく、ナギは一階の台所へ降《お》りて行った。
どうしようかと悩むサラだったが、とりあえずまじまじとベルを見つめてみる。
「不思議な感触《かんしょく》ですね。どういう素材《そざい》でできているのでしょう……浮《う》いているようにも見えるのですが……」
ベルの下に、どう見ても浮いている黄色の輪。テーブルに置くと、その輪が台座《だいざ》代わりになって、卵は立った状態《じょうたい》で置けるようになっていた。不思議に思いながらも、持ち上げてみたり、回してみたりしながら謎《なぞ》の球体を調べてみるが、それ以外の特徴《とくちょう》はなく、ただの置物のようだった。
「あ」
と、ベルを見ていたサラは小さな汚《よご》れを発見した。彼女はすぐにハンカチを取り出すとその汚れを綺麗《きれい》に拭《ふ》いてあげる。
「まったく、天倉くんがどこでこれを買ったのかは知りませんが、汚れているものを人にあげるのは感心しませんね……あぁ、ここも汚れています」
ナギがこれを知ったらがっかりしてしまうかもしれないと思い、丹念《たんねん》にベルを拭いた。
そして改めて、白い卵のような物体を見つめる。
「幸運を運ぶ卵、ですか……」
卵にしては大きいが……とサラは思ったが、ベルを持ち上げ、一つだけ願い事をしてみることにした。
「では、私にこれを貸《か》してくれた親友が、幸せになれますように……」
○
翌朝《よくあさ》。
ナギが神名の家に行くと、リビングでは神名とイリスが彼女を待っていた。
「おはようございます」
「おう。で、どうだった?」
「それがですね……」
ナギはすっと右の手のひらにベルを出現《しゅつげん》させた。
昨日の夜、ベルをサラに持たせ、彼女の魂《たましい》がどういう状況《じょうきょう》になっているのか調べてもらうことになっていたのだが……。
「おい、ベル。どうだったんだ? 芹沢さんは……」
『うむ。いい子だなぁ』
「……いや、そうじゃなくて、芹沢さんの魂の状況はどうだったんだって聞いてるんだよ」
『いい子だなぁ……』
「…………」
同じような台詞《せりふ》を繰《く》り返す白い卵に眉《まゆ》をひそめ、神名はナギの方を向いた。
「どうしたんだ、こいつ……」
「昨日の夜、サラさんからベルを返してもらってから、ずっとこんな状態なんですよ……何を聞いてもこればっかりで……」
「うーん、ついに壊《こわ》れたか……」
「味噌《みそ》汁《しる》に浸《ひた》しすぎたんでしょうか?」
「いや最近、いろんな所にぶつけたりしたからじゃないか?」
「あなたたち。一応《いちおう》これでも伝説の鎌《かま》で、封印《ふういん》指定まで受けた代物《しろもの》なんだから、もう少し丁寧《ていねい》に扱《あつか》ってほしいわね……」
イリスは神名たちの日ごろの行いに呆《あき》れながら、ナギの手からひょいっとベルを取り上げた。
「〈ベル・フィナル〉。早く芹沢サラの現状を報告《ほうこく》しなさい」
イリスは急《せ》かすようにその目をギラリと光らせた。
だが、しかし、
『やっぱり、女の子は優《やさ》しくないとなぁ……』
「…………」
ベルの反応《はんのう》は変わらず。
するとイリスは両手でベルを掴《つか》み、何度かテーブルに叩《たた》き付けた。
ガンッガンッガンッ!
凹《ヘコ》まないのが不思議に思えるほどの衝撃《しょうげき》音……。
「言う気になったかしら?」
『お前の取り扱いが一番、荒《あら》い!』
「さっさと言わないからでしょう」
『お前たちみたいな、私の扱いが荒い奴《やつ》ばかりだから、こっちは言う気もなくなるんだ!』
「早く言いなさい」
『こら、握《にぎ》りつぶそうとするな! わかった、言うから!』
それを聞き、ようやくイリスはベルを食卓《しょくたく》に置いた。
サラの人柄《ひとがら》にすっかり惚《ほ》れ込《こ》んだ白い卵《たまご》は、こほんっと意味もなく咳《せき》をすると、ゆっくり話し始めた。
『ナギは昨日、あの少女の話を聞いていたから分かっただろうが、すでに影響《えいきょう》は出始めている……』
「深刻《しんこく》な事態なの?」
『……そう言えるだろうな。影響は徐々《じょじょ》に大きくなっている……今日にでも、彼女の命に危険《きけん》が及《およ》ぶような事態が起こる可能性《かのうせい》がある』
「そう……だったら、二人にはさっそく芹沢サラの護衛《ごえい》に付いてもらうわ」
ベルの報告を受け、イリスは神名とナギにそう告げた。
「護衛、ですか……」
「ええ。芹沢サラの状態《じょうたい》が〈死〉を吸《す》い寄《よ》せるような状態になっている以上、一日中、側《そば》にいなくてはならない」
「い、一日中なのか?」
『うむ。まず初めに言っておくが、普通《ふつう》は〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉の発生を予測《よそく》することができない。昔のナギ――小川千夏《おがわちなつ》に起こったことのように、突発的な事象によって引き起こされるものだからだ』
ナギは小川千夏という少女だった頃《ころ》、突然|倒《たお》れてきた鉄骨《てっこつ》から、神名と彼の親友でありナギにとっては弟であった祐司《ゆうじ》を、命を懸《か》けて守った。
神名はそのときのことを思い出しながら一瞬《いっしゅん》だけナギの方を向いたが、すぐにベルへと視線《しせん》を戻《もど》した。
『だが〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉の発生が、ある程度だが予測できる場合もある。今回のように人が鎌に触《ふ》れ、〈死〉を呼《よ》び寄せる状態になっている場合もその内の一つだ。この場合、まずは小さな予兆《よちょう》があり、それが次第《しだい》に大きくなっていく。そしてある時点で死に直結するような出来事が起こるはずだ』
「その死に直結する出来事というのから、サラさんを守ればいいんですか?」
ナギがイリスからベルを受け取りつつ、そう尋《たず》ねる。
『そうだ。だがそれが一体どういう現象《げんしょう》なのかはわからない。車に激突《げきとつ》されるかもしれないし、石につまずいて死ぬかもしれない……いつ起こるのかも正確《せいかく》なことはわからないしな。兆候が現《あらわ》れると数日以内に起こると思うが……』
「……だから一日中、芹沢さんを護衛しなくちゃならない……ってことか」
思っていたより難《むずか》しくなりそうだと感じながら、神名は腕《うで》を組んだ。
だが、やるしかない。
『あと一つ、気になったことがある』
「? 何かしら?」
『……なぜ、今なんだ?』
ベルは静かにその疑問《ぎもん》をイリスに投げかけた。
「……ええ、確《たし》かに。それは私も気になっていたところよ」
「ちょっと待った。今のところの話が見えないんだけど……」
ベルとイリスが勝手に話を進めようとしていたので、神名が慌《あわ》てて間に割《わ》って入る。
『芹沢サラが鎌に触れたのは二年ほど前だ。それだけが原因《げんいん》なら、彼女にはもっと前から影響が出ているはずだ……だが、彼女はつい最近まで普通に暮《くら》していた……』
「……つまり?」
『サラの魂はフルールの鎌によって不安定になったが、その後――特に最近になって、別の要因が新たに起こり、本格《ほんかく》的に不安定な状態になった……と考えられる』
神名はナギと顔を見合わせながら、できるかぎりサラの最近の行動を思い出してみた。
だが、そのような状況に彼女がなってしまうようなことは、何もなかったように思う。
「これといって、何もなかったように思いますけど……」
『……今のところ、それは不明ということだな。とにかく今はサラの安全を確保《かくほ》することが最優先《さいゆうせん》だ』
「そうだな……」
自分の友人が死ぬなんてまっぴらだ――彼は心の中でそう呟《つぶや》く。
そしてイリスは神名とナギに向け、改めて言った。
「では……芹沢サラがソウル・イレギュラーにならないよう、二人には彼女の護衛を命じます」
「まぁ、事情《じじょう》を知った以上、芹沢さんを放っておくわけにはいかないからな……引き受けるさ」
「失敗したら当然、二人ともチョコ・パフェにするから」
「二人とも、って……ナギはチョコ・パフェにできないんだろ?」
今のナギは小川千夏としての輪廻《りんね》を再《ふたた》び生きている。ここで死んでしまうようなことになれば、ナギはまた〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉となってしまうのだ。
「そうね……一度、死んでいるはずの彼女の魂《たましい》が、もう一度、魂の管理局に運ばれてくるという妙《みょう》なことになり……あなたがナギを人間に戻したということも明るみに出るかもしれない……」
イリスはその目を閉《と》じ、そうなった場合を頭の中でシミュレーションしてみる。
「そうなったら神名くんが生きてることもバレて、見逃《みのが》したイリス様は罪《つみ》に問われることになるんじゃ……?」
顎《あご》に手を当て、ナギはそう予測したが、
「その前にあなたと天倉くんについての報告書《ほうこくしょ》が偽造《ぎぞう》されている、とわかってしまうでしょうから……その報告書にサインしている私は結局、罪に問われる」
ナギが神名の手によって人へと戻った後、イリスは彼らについて、それぞれ偽《にせ》の報告書を作成している。
神名はイリスによって、正常《せいじょう》な輪廻へ――死ぬ運命へ。
ナギは任務《にんむ》失敗により、次の輪廻へ。
ただ、死神が任務に失敗、次の輪廻に送られるのは、すぐにではない。彼らはそもそも〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉であり、その残りの人生の分だけ、仮《かり》の姿《すがた》を与《あた》えられた者だ。
そのため死神は任務に失敗すると、その仮の姿を失い、魂のみの状態で残りの人生の分だけ、魂の管理局で保管《ほかん》されることとなる。
つまり、今のナギは魂のみの状態となり、魂の管理局で保管されていることになっているのだ。
「……なんだかんだと言って、お前にはいろいろ迷惑《めいわく》かけてるんだな……」
自分たちが今、こうしていられるのはイリスのおかげなんだよな、と改めて思う。
神名がそうポツリと呟くように言うと、イリスは意外そうな顔をして、苦笑《くしょう》した。
「まぁ、私が自分でそうしたのだから、気にする必要はないわ。その分、しっかり働いてちょうだい。あなたたちが任務をこなせば、私は労せずして仕事を片付《かたづ》けられるわけだし」
「ギブ&テークだな」
「そういうとこね。まぁ、ナギに関してはいろいろと手は打ってあるわ。そもそも小川千夏としての輪廻を再び歩み始めたという時点で問題だから。ナギに……いえ、正確には小川千夏に関するすべての情報は、トップシークレット扱《あつか》いで、魂の管理局もそれが何の情報であるかすら、わからないようにしてある」
「そ、そうなんだ……」
「さすがイリス様ですね……」
死天使長って、やっぱりえらいんだなぁと実感する二人は、同時に「でも、職権乱用《しょっけんらんよう》だよな……」とも思った……おかげで助かっているのだが。
そのイリスが、こちらに向かって不敵《ふてき》に笑う。
「と、いうことで、ナギはチョコ・パフェにしても問題ないわ」
「……え!?」
「今のナギは死神で、私が任《まか》せた任務に失敗し、次の輪廻に送られたことになっていて、再び小川千夏としての輪廻を歩み始めたことは知られていない。つまりここでナギがチョコ・パフェになっても、嘘《うそ》が真実になるだけなのよ」
「こ、この前は『ナギをチョコ・パフェにしたらマズイんじゃないのか?』って質問《しつもん》に慌《あわ》ててなかったか?」
「確《たし》かに。でもね、よくよく考えてみれば、そういうことなのよ。私のやることに間違《まちが》いはなかった。さすが私っ」
「気づくのが遅《おそ》くないか?」
「黙《だま》りなさい。いいかしら? 任務失敗は即《そく》、チョコ・パフェにされると思いなさい」
「結局、それかよ!?」
「任務は任務よ」
イリスはそう言って、口元に愉快《ゆかい》そうな笑《え》みを浮《う》かべた。
「もとは頼《たの》みごとだっただろーがっ!」
「今、任務になったわ。チョコ・パフェにされないよう、がんばりなさい。ほら、そろそろ学校へ行かないと、遅刻《ちこく》するわよ?」
「くっ……」
神名とナギは納得《なっとく》のいかない表情でイリスを睨《にら》んだが、彼女はすーっとその視線《しせん》から逃《のが》れると「あ、そろそろコーヒーができているかも」と台所へ逃《に》げていった。
とりあえず、サラを放っておくことはできない――それは確かだ。イリスの表情が、どうにも腹《はら》だたしいが……神名とナギは互《たが》いに頷《うなず》き合った。
○
学校に着いた神名とナギは、さっそくサラの姿を探《さが》したが、彼女は朝、必ずと言ってよいほど職員室《しょくいんしつ》に行っているため、教室にはいない。
毎朝いない、神名たちのクラス担任《たんにん》の代わりに、今日の予定を聞きに行っているのだ。
戻って来るのはいつもホームルームが始まる直前。
教室で彼女を待とうかとも思ったが、いつ、サラに危険《きけん》な出来事が起こるか分からない状況《じょうきょう》なので、神名とナギは彼女を職員室まで迎えに行った。
用事もないのに中へは入りづらいので、入口でサラを待つ。
するとしばらくして、ガラガラっとドアを開きながら彼女は出て来た。
「? 珍《めずら》しいですね。お二人が職員室に来るなんて……」
本当に珍しいことなので、二人は苦笑するしかない。
「何か用事ですか? 残念ながら今日も白野《しらの》先生はいらっしゃいませんが……」
「いや、みっちゃんはどうでもいい」
サラの言う白野先生とは神名たちの担任の名前で、一部の生徒からはみっちゃんと呼《よ》ばれていた。
「では、どうして職員室に?」
「用があるのは芹沢さんなんだ……」
余計《よけい》に意味が分からない――サラはそんな雰《ふん》囲気《いき》で頭の上にはてなマークを浮かべた。
そこへナギが割《わ》って入り、にこやかに笑ってこう言った。
「今朝、私たちは話し合って決めたんです! 今のサラさんを取り巻《ま》く、謎《なぞ》の不運を、私たちで追い払《はら》おうって!」
神名とナギは、サラに事実を話さないことにした。
彼女に事情《じじょう》を説明するということになると、死神の存在《そんざい》、これから彼女に起こるであろうということ、こうなってしまった原因《げんいん》など、すべてを話さなければならなくなる。
できるだけサラには普段通りの生活を送ってもらいたい。彼女にすべてを話しても、余計な心配をさせるだけだろうと思ったのだ。
「……心遣《こころづか》いには感謝《かんしゃ》しますが……運には波があると思いますし、放っておけば、良くなると思いますが……」
「いいえ! 何かが起こってからでは遅いのです! ですから、私たちはすべての災厄《さいやく》からサラさんを守ると決めたのです!」
自信満々に、ナギは両手をぎゅっと握《にぎ》りながら力説した……。
「な、なるほど……ナギの言いたいことは、何となくですが分かる気もします……で、天倉くんは……?」
「俺《おれ》も微力《びりょく》ながら、ナギの手伝いをしようと思って。芹沢さんにはいろいろ世話になってるし……」
「私なんて居候《いそうろう》させてもらっていますからね。こんなときぐらい、恩返《おんがえ》しをしないと気が済みません」
ナギと神名の言葉に、初めは戸惑《とまど》っていたサラだったが、「まぁ、いいでしょう」と深く考えるのをやめると、微《かす》かにその表情を緩《ゆる》めたように見えた。
「ではせっかくなので、お願いしましょう」
「はい!」
「まかせとけ!」
二人はそう言うと、教室へと歩き出したサラの両隣《りょうどなり》を守るように歩く。
「……ところで、具体的には何をしてくれるんですか?」
隣を歩く二人に向け、サラはそう聞いた。
「サラさんを護衛します。何かあったら、すぐにサポートへ回りますよ」
「危《あぶ》ない目に遭《あ》いそうになったら、俺たちが身を挺《てい》して芹沢さんを守るってところだな」
それを聞き、サラはふと立ち止まった。
「……それでは、一日中、側《そば》にいるということですか?」
「はい。神名くんは昼間だけですけど」
神名がサラの家の中までついてくるわけにはいかないので、夜はナギが一人でサラを護衛することになる。
「……そこまでしなくても――」
「いいえ! 必要なのです!」
「そ、そうですか……」
ぐっと顔を近づけながらナギがそう言うので、サラはそれ以上、何も言わなかった。
だが、代わりに何やら考え始めて無言になる。そして自分たちの教室に入る寸前《すんぜん》になって、その口を開いた。
「あの……せっかくお二人が私と一緒《いっしょ》にいてくれるということなので、できれば生徒会の仕事も手伝ってくれませんか?」
「生徒会の仕事……ですか?」
「はい……この時期ですから、三年生はすでに生徒会から引退《いんたい》していまして……でも仕事は山のようにあるんです。新しい生徒会長の選出もありますし、いろいろと行事の準備《じゅんび》で忙《いそが》しくて……なので、せっかく側にいるのなら協力してほしいのですが……」
ナギは最近、いつもサラが家に帰っても生徒会のファイル整理や雑用《ざつよう》に追われていることを知っていた。何か手伝いができればと日頃《ひごろ》から考えていたので、これは良い機会だと思い、サラの提案《ていあん》を受け入れることにした。
「いい経験《けいけん》になるかもしれないですし、何よりサラさんからのお願いです。私は喜んでお手伝いしますよ!」
だが、ナギの反対側にいた神名は……氷のように固まっていた。
「…………」
「神名くんは……無理そうですね……」
「べ、別に嫌《いや》なわけじゃないんだ……ただ俺の心と、主義《しゅぎ》の問題でな……」
彼の主義には「もらえるものは、もらう」の他《ほか》に、「タダ働きはしない」というものがあるのだ。
だが、それは神名の日頃の行いを見ていれば容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。そんな神名に、サラは一||枚《まい》の紙切れを取り出した。
「ご心配なく。生徒会の仕事を頼《たの》む以上、何の報酬《ほうしゅう》もなく手伝ってもらうつもりはありません。天倉くんにはこれを差し上げましょう」
サラはそう言って、持っていた紙切れを神名へ手渡《てわた》した。
「こ、これは学食のスペシャルBランチ!」
それは一枚の食券《しょっけん》だった。
このスペシャルBランチ、値段《ねだん》のわりに大ボリュームで軽く二食分はあるのではなかろうかというものなのだが、その分、味がひどい……。学内では一番人気のないメニューだが、神名にとっては量も多くて安い、しかも美味《うま》いという最高のランチメニューであった。
「よし! 引き受けた」
神名は「何でも言ってくれ」と目を輝《かがや》かせる。
これで今日の食費が浮《う》いた! と内心では大喜びだ。
「あ、でも、いいのか? この食券だってパン三つ分はするし、これって芹沢さんの今日の昼メシなんじゃ……」
「いいえ。それは学校側からもらったものなのです」
「えっ? もらった?」
「はい。生徒会の仕事で、いつもがんばっているから……と。学食に出す新メニューなどの味見に付き合ったりもしていたので、そのせいだと思いますが……」
「生徒会っていいな……」
神名はサラの話を聞き、本気で生徒会に入ろうかと検討《けんとう》し始めた……。
「でも私は毎日、母の作ってくれたお弁当《べんとう》があるので、学食は利用しないんです……ですから、使わない食券がこんなに……」
そう言ってサラはポケットから紙の束を取り出した。まるでトランプのようにパラパラパラーッとめくってみせる。この学校の食券にはうどん定食は赤、カレーは黄色などと品によって別々の色がついているのだが、サラがめくってみせた食券の束は、見事に色とりどりだった……。
「な、なんだそれは!?」
「わぁー、すごいですねー」
「すごいってもんじゃないだろ!?」
それは毎日使っても一ヶ月はタダで学食が食べられる量だった。
だが、サラにとっては溜《た》まっていくだけのものだ。
「……では私の現状《げんじょう》が改善《かいぜん》され、生徒会の仕事の働きぶりが良ければ、この束を天倉くんに差し上げましょう」
「なっ、何――っ!?」
サラの言葉に、神名は雷《かみなり》に打たれたような衝撃《しょうげき》に襲《おそ》われた。あまりの衝撃に廊下《ろうか》に膝《ひざ》をつき、激《はげ》しくなった鼓動《こどう》を抑《おさ》えようと胸《むね》を押《お》さえる。
「……神名くん?」
「な、なんてこった……こんな衝撃に襲われるのは、人生で何度もないぞ……」
「まぁ、あれだけの食券をタダでくれるっていうのは、普通《ふつう》あり得ないですよね……」
「どうですか、天倉くん? この条件《じょうけん》は」
サラが廊下に膝をつく神名の顔を覗《のぞ》き込《こ》む。すると彼はさっと立ち上がり、
「犬と呼《よ》んでください、お嬢様《じょうさま》」
と、深々と頭を下げた。
「……お、大げさですね……あぁ、天倉くんにだけ報酬をあげるのは不公平ですね。ナギにはこれをあげましょう」
サラが取り出したのは、以前ナギが神名と一緒に行った、香春《かわら》駅の裏《うら》にある喫茶《きっさ》店で食べられるチョコレート・パフェのタダ券だった。
「わぁ! いいんですか!?」
「ええ。もともとあなたにあげようと思っていたものですから……」
「ありがとうございます! 私、がんばりますね!」
ここにベルがいたら、『お前ら、なんだか食い物ばっかりだな!?』と声を上げていただろう……。
「では、昼食後にさっそく生徒会室へ行きましょう」
「わかった!」
「了解《りょうかい》です!」
報酬に目を輝かせる神名とナギは、サラに向かってビシッと敬礼《けいれい》してみせた。
○
昼休み。
神名たちは早々とお弁当を食べ、三人|一緒《いっしょ》に生徒会室へ向かった。
「ここが生徒会室か……」
初めて立ったその部屋の前で、神名は入口の上に書かれた「生徒全室」というプレートを見上げた。
神名たちの教室がある校舎《こうしゃ》とは別の校舎にあるためか、今日までその場所すら知らなかったが、こうして部屋の前に立ってみると何か感じるものがある。
入口は一|箇所《かしょ》。
教室は前後に入口があることを考えると、中はそんなに広くないのだろう。
「どうぞ、中へ入ってください」
「俺たちって部外者だけど……いいのか?」
「構《かま》いませんよ。何より、手伝いに来てくれたのですから」
サラはそう言うと扉《とびら》を開けた。
その中は――なんとも形容《けいよう》しがたい空間が広がっていた……。
天井《てんじょう》にベタベタ貼《は》られた月やら天体のポスターと、くるくる飛び回るUFO。部屋の一角を占《し》める巨大《きょだい》な本棚《ほんだな》の中には漫画《まんが》がずらりと並《なら》んでおり、その隣《となり》の隅《すみ》にはみかんと一緒にこたつが置かれていた。
さらにその反対側には大きな水槽《すいそう》があり、中で泳いでいたのは魚――ではなく、うなぎだった……。
「…………」
神名は思わずもう一度、入口のプレートを見上げた。
生徒会室。
何度見直しても、そう書かれている。
「なんだ、ここ……」
それでも中の様子はそう思えず、神名は呟《つぶや》いた。
ナギもコメントに困《こま》っているようだったが、入口から中を見渡《みわた》し、
「た、楽しそうな所ですね」
「いや、ここって楽しそうな場所でいいのか? 俺としては殺伐《さつばつ》とした、資料《しりょう》だとか書類だとか、そういうものに溢《あふ》れている部屋を想像《そうぞう》していたんだが……」
これではどう見ても生徒会室というよりは……休憩所《きゅうけいじょ》、もしくは「なんでもクラブ」という名前が付けられそうな部屋だ……。
二人が入口で戸惑《とまど》っていると、中からサラとは別の少女に声をかけられた。
「入口で何しているの。入るなら、早く入りなさいよ」
一人、窓《まど》を背《せ》にした席に座る少女が、神名たちにそう言った。
部屋の真ん中には大きな長方形の机《つくえ》があったが、彼女はそれにではなく、独立《どくりつ》したテーブルのイスに座っていた。そのテーブルの端《はし》には役職《やくしょく》と、彼女の名前が書かれたプレートが置かれている。
副生徒会長・深瀬沙耶架。
こちらに向かって不敵《ふてき》に微笑《ほほえ》む顔は文句《もんく》なしの美人で、肩《かた》にかかった腰《こし》まで届《とど》く長い髪《かみ》を左手で払《はら》う姿《すがた》は、どこか優雅《ゆうが》だった。
それもそのはずで、彼女は〈深瀬グループ〉という大企業《だいきぎょう》の社長令嬢だ。
だが彼女はある日、交通|事故《じこ》で死んでしまうはずだったがそうはならず、死ぬはずだった人間――ソウル・イレギュラーとなってしまった。
神名とナギはイリスから彼女を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》へと戻《もど》すことを言い渡されるが、二人は沙耶架に手をかけることができず、〈死の運命〉を吸《す》い取るという方法で彼女を新しい輪廻へと導《みちび》くことに成功したのだった。
そんな沙耶架は、突然《とつぜん》、生徒会室へやって来た神名とナギを、イスに座ったまま腕《うで》を組んで出迎《でむか》えた。他のメンバーはまだ来ていないのか、部屋にいたのは沙耶架だけだ。
「入ったら、すぐにドアは閉《し》めるように」
「……なんだか偉《えら》そうだなぁ」
「偉そうではなく、偉いのよ。三年生と一緒に、生徒会長も引退《いんたい》してしまったから、現状《げんじょう》で今、一番偉いのは私なの」
沙耶架は窓辺に飾《かざ》られたバラの花を背後《はいご》に、優雅な仕草で言い返してきた。
そういえば朝、サラが同じようなことを言っていた、とナギは思い出す。
「深瀬さんは副生徒会長ですもんねー」
「その通り。で、ここへは何の用? 風流《ふうりゅう》さんはまだわかるとして、天倉くんは?」
「手伝いに決まってるだろ」
「て、手伝い? お金にならないことは絶対《ぜったい》しない天倉くんが、こんなボランティア精神《せいしん》溢れる場所の手伝い?」
「ボランティア精神の前に異様《いよう》な雰《ふん》囲気《いき》に溢れてるぞ、ここ……」
でっかい水槽に入ったうなぎと、部屋を満たすバラの香《かお》りの激《はげ》しいギャップに、神名はその顔をしかめた。
「異様って……まぁ、確《たし》かに変わったものが多いことは認《みと》めるけど……」
「多すぎる。あれは何だ?」
神名が最初に指差したのは天井から吊《つ》るされたUFOのおもちゃだった。
「何って見ればわかるでしょ?」
「何のためにあるのかってことなんだが……」
「意味なんてないわよ」
「ないのかっ!? じゃあ、あの大量の漫画は?」
「あれは二代前の生徒会長が置いて行った私物。今は私が読むために置いてあるの」
「うなぎは誰《だれ》が?」
「育てて食べようと思って」
「お前か! どういう発想だよ!?」
「べ、別にいいでしょう? たまたま稚魚《ちぎょ》をもらったのよ。川に放流しましょうっていうイベントか何かだったと思うんだけど……」
ちゃんと放流しろ。
神名は一瞬《いっしゅん》そう思ったものの、「もらったら、俺《おれ》も放流しなかったかも……」と考え直して、そう口にはしなかった。
神名が何気なく水槽に近づくと、中では五|匹《ひき》のうなぎが元気そうにしていた。思ったよりきちんと飼育しているようだ……。
ナギも珍《めずら》しそうにその水槽へ近づく。
「深瀬さん、このうなぎってどうやって料理するんですか?」
ナギは興味《きょうみ》本位からそう聞いた。料理は彼女の趣味《しゅみ》だ。
沙耶架が育てて食べると言ったので、おそらくそのときはここで調理することになるだろう。だが、うなぎを料理できる人がここにいるのだろうか?
「私が知っているわけないでしょう」
育てて食べる気だった本人はあっさりそう言った。
神名は呆《あき》れた顔で、
「……知らないのにどうやって食べるんだよ……まさか丸焼きにするのか?」
「うな重の予定だったんだけど……あ、サラなら料理できるわ!」
ポンッと手を叩《たた》きながら、沙耶架はサラの方を向いた。
「芹沢さんも料理できるんだな……」
「はい。一応《いちおう》は……」
すると沙耶架が立ち上がり、サラの隣《となり》に並《なら》んだ。
「何が一応よ。サラは大抵《たいてい》の料理なら作れるんでしょう?」
「そうなんです! サラさんは料理のレパートリーがすごく多いんですよ! 私が神名くんに作った料理も、いくつかはサラさんに教わったものなのです」
それをナギなりに味付けしたものが、神名の前に並ぶのだ。
彼ら以外には食せないものになって……。
「そうだったのか……」
「と言っても、私は知っているだけで、料理の腕が良いわけではないんです。それに、うなぎのような、ヌルヌルしている生き物はどうも苦手で……」
「えっ!? そうなの!?」
予想外だったのか、沙耶架が大声でそう聞いた。
「はい……父親に昔、うなぎを首に巻《ま》きつけられたことがあるのですが……あのときはゾクリと全身に鳥肌《とりはだ》が立って……あれ以来、どうしてもヌルヌルしたものはダメになってしまったんです……」
「面白《おもしろ》いことする親父《おやじ》さんだな……」
サラの過去《かこ》も気になったが、娘《むすめ》にそんなことをする父親の姿も気になった……。
だが沙耶架はそれどころではない。
「困《こま》ったわ……これじゃ、うな重が食べられないじゃない……」
「サラさんが作り方さえ教えてくれれば、私が作りますよー?」
ナギが親切心からそう言ったが、沙耶架はすっと身を引いた。
「……食べられなくなるから、いいわ」
「そ、そんなぁー。ちゃんと美味《おい》しそうにできますよー」
「美味しそうにはなるんだろうけれど、味が恐《おそ》ろしいことになるに決まっているもの」
「や、やってみないとわからないですよ」
「タコさんウィンナーで意識《いしき》が遠くなる味なのよ? 結果は明らかでしょ!」
ナギと沙耶架があれやこれやと言い合いを始めたが、サラはたいして気にすることもなく仕事に取り掛《か》かることにした。
「はい、そこまでです。今日は仕事をするために集まったのですから、そろそろ始めますよ」
サラはそう言うと、部屋の隅《すみ》にあった段ボールの箱を持ち上げた。彼女が両手でギリギリ抱《かか》えられるほどの大きさがあったが、サラはひょいと机《つくえ》の上まで持ち上げる。
だが机に置かれたときの音はドスンッ。
「ひとまず、これと同じものが三つあるので、図書室へ運びましょう」
「……何が入っているんだ、それ……」
「そこの本棚《ほんだな》に入りきらなかった漫画《まんが》の本です。図書室の書庫を借りられることになったので、そちらへ運びます」
「なるほど……了解《りょうかい》した」
サラに言われ、さっそくその荷物を持とうとする神名。それを見た沙耶架は再《ふたた》び腕《うで》を組んで神名を見つめた。
「本当に手伝いに来たのね……」
「心底、意外そうに言うな。俺だってやるときはやるんだ!」
「学食の食券《しょっけん》がかかってますからね……」
「…………」
「あー、そういうこと……道理で……」
気合が入っているように見えた神名だったが、ナギの説明を聞いて、ようやく納得《なっとく》がいった顔をする沙耶架。
「まぁ、手伝ってくれるなら助かるわ。天倉くん、ついでにそっちの小さい段ボールの箱を捨《す》てて来てちょうだい」
すっと彼女が指差すと、入口付近に何やらいらない書類だとかゴミなどがまとめられた箱があった。
神名はそれを一応、確認《かくにん》した後、
「拒否《きょひ》する」
沙耶架の頼《たの》みごとを断《ことわ》った。
「な、なんでよ? 手伝いに来たんでしょう?」
「俺はあくまで芹沢さんの手伝いに来たんだ。つまり、俺が命令を聞くのは芹沢さんの言葉のみ」
「犬!?」
「あぁ……食券……」
「ダメだわ、この人……」
沙耶架は「もういい」と諦《あきら》め、その箱を自分で持ち上げた。
「じゃあ、風流さん。悪いんだけど、足元にある本を持って来てくれない? それも一緒《いっしょ》に捨てるから」
「あ、はい!」
ナギは素直《すなお》に沙耶架の指示《しじ》に従《したが》い、足元にあった数冊《すうさつ》の本を持ち上げた。
二人はそのままグラウンドの端《はし》にあるゴミ捨て場へ向う。
見た目からして重そうな浸画の入った段ボールは神名とサラが運ぶことになった。
「よし、じゃあ俺たちもこれを運ぶか」
「そうですね。本当は捨てたいところなのですが……」
「あ、やっぱり? 漫画だからな……芹沢さんはそう言うだろうって思った」
「ですが、沙耶架が『私、まだ読んでないから』と言うので……」
「相変わらず、自分勝手だな……」
「これは偉大《いだい》な先人たちが、自らの身を削《けず》って集めた書物だから、それを捨てることなんてできない――らしいです。そう言って沙耶架がなかなか物を片付《かたづ》けさせてくれなくて困っていたのですが……」
「ようやく片付ける気になったわけか……まぁ、確《たし》かに捨てるのは勿体《もったい》無いよな……俺なら売る」
「天倉くんらしい考え方ですね」
サラはそう言って段ボールに手をかけた。荷物は三つあるので、残りの一つはもう一回、戻《もど》ってきてから運ぶことにする。
神名も「よしっ!」と気合を入れてから、その段ボールに手をかけた。しかし、
「っ? な、何?」
重い。ひたすら重い。
「どうかしましたか?」
サラは不思議そうに、ひょいっと同じ箱を持ち上げた。
「え? あ、い、いや……何でもない」
神名は平然を装《よそお》いながら、なんとかその段ボールを持ち上げる。
「では、図書室は四階です」
「お、おう……」
段ボールを抱えるサラは、そう言うと四階の図書室へ向かってスタスタと歩き出した。
神名も何とか彼女の後を追う。
生徒会室は二階の一角で、図書室は同じ校舎《こうしゃ》の四階だ。
階段《かいだん》にさしかかると、サラはその荷を高く持ち上げ、さっさと上がって行く。
(あの細い腕のどこにあんな力が……)
と、不思議に思ってしまうぐらい彼女は軽々と荷物を運んでいるように見えた。
「あ、まずい」
そんなことを考えていて、うっかりしていたが、ここで彼女が荷物を持ったまま足を滑《すべ》らせでもしたら大変だ。神名はその腕に渾身《こんしん》の力を込《こ》め、駆《か》け足で階段を上って行った。
だが、サラにそんな事態は起こらず、四階まで荷物を運び終えると、すぐに生徒会室へと戻る。荷物はもう一つあるからだ。
残りの一つをサラが手に取ろうとしていたので、慌《あわ》てて神名がそれを止めに入った。
「待った! それは俺が運ぶ!」
「え? ですが……」
「それを持ったまま、階段から落ちたなんてことがあったら困《こま》るだろ? ていうか、俺が困るんだ。だからそれは俺が運ぶ。芹沢さんはここで何か簡単《かんたん》な作業をしていてくれ」
神名はそう言うとサラが持とうとしていた荷物を持ち上げた。
(うわっ!? こっちも重いな、おいっ!?)
それを表には出さず、何とか前に進む。
「……天倉くん、意外に力持ちなんですね」
後ろからそう呼《よ》びかけられ、神名は不敵《ふてき》な笑《え》み(額《ひたい》には汗《あせ》)を浮かべながら、当然だと答えた。
「バイト先でも、かなり力仕事が多いからな……これぐらい、なんてことないさ」
「頼もしいですね。では、お願いします」
「お、う」
のた、のた、と神名はゆっくりとした足取りで図書室へ向かって行く。
その後姿《うしろすがた》を見たサラは、微《かす》かにだったが、ふっと笑みを見せ――また生徒会室の中へと入って行った。
神名は階段を上り、なんとか荷物を図書室へ運び終えると、図書室を管理している先生に軽く頭を下げ、生徒会室へ戻ることにした。
二つの荷物を運んだ――たったこれだけのことで、指と腕《うで》に力が入らなくなっていた。
我《われ》ながら少し情《なさ》けない気分だ……。何度か指を開いたり閉《と》じたりして動かしていると、前からナギがやって来た。
「神名くん、次のお仕事です」
「次か……今度は何だ?」
「天井《てんじょう》のポスターを剥《は》がして欲《ほ》しいそうですけど……神名くん、なんだかすでに疲《つか》れているように見えますね」
「あぁ。でも、まぁ、問題ない」
神名はこんなことでやめたり、挫《くじ》けたりはしない。ポケットから一|枚《まい》の紙切れを取り出して見つめると、疲れが嘘《うそ》のように消え去った。
「ふっ……さすがスペシャルBランチの食券《しょっけん》……しかもタダ……なんて俺のやる気を無限大《むげんだい》に引き出してくれるアイテムなんだ……」
満面の笑みで食券を見つめる神名。
もっとがんばれば、いろんな食券の束をもらえるのだ。そう思うと心の底から力が湧《わ》いてくるようだった。
「がんばりましょう、神名くん!」
「おう。早く戻らないとな」
こうなったら、やれることは全部やるつもりでがんばろう――そう、珍《めずら》しく神名がやる気を全開にしたところで、
「ふっ、その紙切れがよほど大事らしいな……」
そんな声がどこからともなく聞こえた。
「ん?」
「え?」
その声は小さく、不思議に思った神名とナギが周りを見渡《みわた》してみるが誰《だれ》もいない。空耳かと思ったが、神名には何かの気配が感じ取れた。
(どこだ?)
まさか上か!? そう思って見上げるが、天井には何もいない。
「ふっふっふっ……今の我《われ》は目で捉《とら》えるのが困難《こんなん》だからな。それっ」
小さな声が、どこからかそう言った。
ボッ!
その瞬間《しゅんかん》、神名が大事に持っていたスペシャルBランチの食券が突然《とつぜん》、燃《も》え始めた。
「なっ! 何――っ!?」
「神名くん、火が! 火がついてますよ!?」
神名は慌ててその火を消そうと思ったが、小さな食券はすぐに燃え尽《つ》きて灰《はい》になってしまった。
「お、俺のスペシャルBランチが!?」
「はーはっはっはっ! どうだ、我の力は!」
神名は足元に落ちる灰を目で追い、そこでようやく気がついた。極小の生物《せいぶつ》が、ぴょんぴょん廊下《ろうか》で跳《は》ねている。
「ノ、ノミ!? まさかお前が俺の食券を燃やしたっていうのか――っ!?」
「ノミではない! 忘《わす》れたのか!? 我はフルールだ!」
なんとそこにいたのは、イリスによってノミにされ、殺虫スプレーで次の輪廻《りんね》に送られたはずのフルールだった。
「フ、フルールって……まさか死んでいなかったんですか!?」
「ふっ、イリスに殺虫スプレーを吹《ふ》きかけられそうになったとき、とっさに地中へ潜《もぐ》って難《なん》を逃《のが》れたのだ! 地面がアスファルトじゃなくて良かった!」
死んだと思っていたフルールが突然|現《あらわ》れ、神名とナギは思わず言葉を失った。
何と言うべきか……これは都合が良いということになるのか……?
フルールは沈黙《ちんもく》する二人を見上げ、言葉を発した。
「宿敵が生きていたという事実に、声も出ないようだな……」
「いつからお前が俺たちの宿敵になったんだよ! ただのノミのくせに!」
「ただのノミが言葉を発したり、火を操《あやつ》ったりするか!」
「……そういえばそうだな……いや、良かったよ、お前がただのノミじゃなくて。俺の食券を燃やした罪《つみ》……たっぷり味わってもらうからな……」
ゴキッゴキッと神名の拳《こぶし》が鳴る。
その目には明らかに冷酷《れいこく》な光が宿っていた。
「……いや、やっぱりただのノミでいいです」
「今更《いまさら》、前言|撤回《てっかい》できると思うなよ? 儚《はかな》く散った俺の食券と同様、灰《はい》になれ……」
「ま、待て! ノミにされ、せめてそれなりの力が戻《もど》るまで、と校庭でじっとしていた我にとっても、お前たちが生きていることが不思議でならん。ナギまで一緒《いっしょ》にいるのはどういうわけだ?」
フルールがそう思うのも無理はない。
彼と初めて会ったのは、ナギがまだ死神で、神名の命を狙《ねら》っていた頃《ころ》だ。
「ええっと、あれからいろいろあって……こうして生きているんです、私も神名くんも」
ナギはすっとその場に屈《かが》み、
「今の私は、ただの人なんですよ」
そう言って人差し指をフルールに向けた。
「おい、こら! さりげなく潰《つぶ》そうとするな! ならばナギ、お前は任務《にんむ》に失敗したということだろう? なぜチョコレート・パフェにされていないのだ? しかも、新しい死神が天倉神名を狙っている様子もない」
「イリスに見逃《みのが》してもらったからな」
「なっ、何だと!?」
フルールはその表情《ひょうじょう》からはまったく読み取れないが、かなり驚《おどろ》いているようだった。そしてしばらく沈黙したまま何やら考えていたが、
「……一つ聞こう、天倉神名……ナギを人間にしたのはお前か?」
急にナギのことを聞いてきた。
「?……ああ。だったら何だ?」
「死神から人へ、か……前代未聞だな。〈ヴァールリーベ〉の力か?」
「教えるつもりはない。どうしても知りたいなら金|払《はら》え――って言いたいところだけど一円玉より小さいんだよな、お前……」
「黙《だま》れ! そんな一円玉より小さい我に、貴様《きさま》らは燃やされる運命なのだ!」
「一人で燃えてろ。俺《おれ》たちは忙《いそが》しいんだよ、どこかの誰かさんのせいでな」
「ふん……芹沢サラのことか。昨日はイリスがお前の家にやって来ていたようだったしな!」
「っ! 見ていたのか!?」
「昨日の夜、こっそりとな。しかし、まさか死天使長のイリスがソウル・イレギュラーを見逃すとは……これはかなりの大スクープだぞ。天界へ帰り、そのことを誰かに話せば、ヤツを完全に今の地位から失墜《しっつい》させることができる!」
何やらよからぬことを企《たくら》み始めたフルール。
神名は「ふはははっ!」と高笑いをあげるノミを見て、
「てい」
足で踏《ふ》みつけた。
ぐちゃ。
「……完」
「ぐおおおぉぉ――っ! おいぃぃっ!? 勝手に終わらせようとしても、そうはいかんぞぉぉぉ――っ!」
「おおぉぉっ!? 耐《た》えてる!?」
これはびっくり。
なんとフルールはその小さな身体《からだ》と足で、踏み潰されまいと抵抗《ていこう》してきた。
「お、驚いたか! 我はこのような姿《すがた》になってしまったが、この数週間で以前の力を取り戻したのだ――っ!」
するとそれを証明《しょうめい》するかのように、神名が履《は》いていた上履きが突然《とつぜん》、底から燃え始めた。
「何っ!? 熱《あつ》っ!?」
神名は慌《あわ》ててその場から飛び退《の》き、ナギと一緒にフルールから間合いを取った。だが、そうするとフルールがあまりに小さいため、確認《かくにん》できなくなってしまう。
「どうだ! 我の恐《おそ》ろしさを思い知ったか!」
「ゴ、ゴキブリのときよりも遥《はる》かに小さいですからね……すぐに見失ってしまいます」
「くそっ、ノミのくせに……」
神名とナギがキョロキョロと辺りを見回すが、フルールの姿は発見できない。
「今のお前たちは、イリスから芹沢サラの護衛《ごえい》を任《まか》されている。つまり、芹沢サラを亡《な》き者にしてしまえば、お前たちはイリスから罰《ばつ》を受け、そして我が天界にお前たちのことを話せば、イリスも罪《つみ》に問われるわけだ! ふふ、完璧《かんぺき》な復讐劇《ふくしゅうげき》だな」
「くっ……」
「お前たちが死ねば、〈ヴァールリーベ〉も手に入る! 見ていろ! 今日からお前たちが安心して眠《ねむ》れる日は来ないからな――っ!」
その台詞《せりふ》を最後に、廊下に響《ひび》いていたフルールの声は消えてしまった。
「……何が、安心して眠れる日は来ない、だ……俺の食券《しょっけん》を燃《も》やした罪は重いぞ……」
見つけたら、こっちがあの世に送ってやる――神名は胸《むね》にそう誓《ちか》いながら、隣《となり》に立つナギの方を向いた。
「フルールさん、サラさんの状態《じょうたい》のことを知っているようでしたね……」
「……ああ。芹沢さんを本格《ほんかく》的に不安定な状況《じょうきょう》にさせたのもフルールだろ」
「サラさんのことを、私たちへの復讐に利用するつもりだということですか……」
珍《めずら》しく、ナギが怒《いか》りの表情でフルールのいなくなった廊下を見つめていた。
フルールはサラの魂《たましい》を不安定な状態にしてしまった上、さらに悪化させ、神名たちへの復讐に利用しようとしている。ナギの怒りも当然だろう。
かくして、イリスから言い渡されたサラの護衛任務は、フルールの介入《かいにゅう》でさらに厄介《やっかい》な方向へと進み始めるのであった……。
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報告書《ほうこくしょ》・2 自分の胸《むね》に聞いてみてください
フルールが生きていることを知った神名《じんな》とナギはその日、とりあえず生徒会の手伝いを終え、放課後はすぐに学校を出た。
神名はナギとサラを家まで送り届《とど》け、その後にバイトへ向かった。普段《ふだん》ならナギがその間に彼の夕食を作るところだが、サラの側《そば》を離《はな》れるわけにはいかないので、神名にはコンビニのお弁当《べんとう》で夕食を済《す》ませてもらうことになった。
そして翌日。
神名たちは通学路の途中《とちゅう》で合流した。
サラを真ん中に、歩いて登校する。サラの家からならギリギリ歩いて登校できる距離《きょり》なので問題はない。ただ、帰りのことがあるので、神名は乗ってきた自転車を押《お》しながらサラの隣を歩く。
「明日からは、俺が芹沢《せりざわ》さんの家まで迎《むか》えに行こうと思う」
学校へ向かいながら、神名は二人へそう提案《ていあん》した。
「芹沢さんのためにも、俺が迎えに行って、三人で登校する方が安全だろ?」
「確《たし》かに、その方が助かりますけど……朝食はどうするんですか? 今日だってまだ食べていないんですよね?」
ナギは神名の食事を心配してそう言った。彼はナギが朝食を作らなければ、トースト一|枚《まい》にコーヒー一|杯《ぱい》だけで済ませてしまうだろう。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。学校に着いたら売店に行く」
「……そう、ですか」
「ああ。俺の家の方が学校からは遠いし、その方がいいと思うんだが……」
神名はサラの意見も聞いておこうと、彼女に視線《しせん》を向けた。
するとサラはどこか浮《う》かない顔をしていた……。
「あ、あの……迎えは……」
普段の彼女なら自分の意見をはっきり口にするはずが、その提案にサラは口ごもった。
「?……あー、やっぱりまずいか? 親父《おやじ》さんたちの目もあるしな……」
自分の考えが軽率《けいそつ》だったかも、と神名は慌てる。
だが、サラが思っていたことは少し違《ちが》うようだった。
「い、いえ、それはいいんです。そうではなくて……」
「俺のことなら気にする必要はないぞ? 俺が勝手にそうするって決めたんだから」
神名はそう言って、にっとサラに笑って見せる。
「はい……ですが二人とも、私のことを心配しすぎだと思います……」
サラは自分の護衛《ごえい》をすると言い出した二人の行動に、そう感想を述《の》べた。
昨日から、常《つね》に神名かナギのどちらかがサラの近くにいるように彼らは行動している。
心配してくれるのはありがたいが、これはいささかやり過《す》ぎだとサラは思った。
とはいえ、神名たちの方からしてみれば、これが最善策《さいぜんさく》なのだ。
今の芹沢さんは魂《たましい》が不安定になっている上、フルールというノミの姿《すがた》に変えられた元・死神に命を狙《ねら》われているんだ――などという説明をするわけにもいかない。
「何を言っているんですか、サラさん! 何かあってからでは遅《おそ》いんですよ?」
「ですが、この数日間はこれといって何も起こっていませんし――」
「まぁ、まぁ、そう言わずに。もうしばらく様子を見て、何も起こらなければ問題なしってことにするよ」
「……わかりました」
ここでサラの護衛をやめることはできない。
彼女も神名たちが心配して言ってくれているのだと知っているので、どこかしぶしぶといった感じではあったが、納得《なっとく》してくれたようだった。
学校へ着くと、いつもより早めに家を出たのでホームルームまでにはかなり時間があった。こんなときはすでに来ているクラスメートたちと話をして楽しむのが通例なので、ナギはひとまず祐司《ゆうじ》の姿を探《さが》した。
だが神名は鞄《かばん》を机《つくえ》に置くと、すぐにサラの側に寄《よ》った。
「芹沢さん、職員室《しょくいんしつ》にはいつ行くんだ?」
「あ、もう行きますが……」
「了解《りょうかい》。ナギ、行くぞー」
「え? あ、はいっ」
そういえばサラは毎朝、職員室に行って担任《たんにん》の代わりに連絡事項《れんらくじこう》を聞いてくることにしているのを思い出し、ナギは慌《あわ》てて神名とサラについて行く。
「そういえば、朝のホームルームの内容《ないよう》って、誰に聞くんだ?」
神名はふと疑問《ぎもん》に思ったことをサラに尋《たず》ねた。こういう話は本来なら担任からだが、その本人が来ていないのだ。
「学年|主任《しゅにん》の永岡《ながおか》先生です。そろそろ先生方の朝礼が始まる頃《ころ》なので、中ではお静かにお願いします」
「朝礼? みっちゃんの代わりに芹沢さんがそれに出てるのか?」
「はい。十五分ぐらいで終わりますから。たいしたことはありません」
いや、十分すごいよ……。神名とナギは心の中でそう思いつつ、サラの後を追う。
職員室は生徒会室と同じで別|校舎《こうしゃ》の二階にある。
三人がそちらに向かって廊下《ろうか》を歩いていると、階段の付近でクラスメートの女子が二人、ナギを待ち構《かま》えていた。
「あ、風流《ふうりゅう》さん! こっち、こっち!」
「? あ、おはようございます」
ナギには苗字《みょうじ》が存在《そんざい》しないのだが、学校生活む送る上では不便なので、イリスが付けてくれた「風流|凪《なぎ》」という名前を使っている。
ナギは待ち構えていたクラスメートへ何事かと近寄ると、急にガシッと両腕《りょううで》を掴《つか》まれた。
「え、え?」
「風流さんのために、新しいチョコレート・パフェの情報《じょうほう》を探《さが》していたらね、三組の友達がいろいろ教えてくれるって! 行ってみようよ!」
「ええっと、チョコ・パフェの情報は嬉《うれ》しいんですけど――」
「というわけで、天倉《あまくら》くん! 風流さんは借りていくねーっ!」
「あ、あの私は――」
ナギにはサラを守るという、どうしてもやらなくてはならないことがある。そのためにはサラの側《そば》を離《はな》れるわけにはいかなかったので、神名に助けを求めようとしたが、
「勝手に持って行ってくれー」神名はにこやかに笑ってナギへ手を振《ふ》った。
「えぇっ!? ちょ、ちょっと神名くんっ!?」
「ありがとー」
「ホームルームまでには返すから――っ!」
彼女たちはそう告げると、ナギをずるずるーっと引きずって連れ去った……。
神名とサラはナギたちが角を曲がって消えるまでそれを見送る。
「……行ってしまいましたね」
「ん? ああ……まぁ、校舎内は比較《ひかく》的安全だと思うから、大丈夫《だいじょうぶ》だろう……それとも俺だけじゃ、不安か?」
苦笑《くしょう》する神名に、サラは首を振った。
「いいえ、そんなことはありません」
すると神名は少しだけ真剣《しんけん》な表情で、
「あいつには夕方から次の日の朝まで、ずっと芹沢さんの側にいてもらってるから……昼間ぐらいは俺ができるだけのことをしないとな……」
チョコ・パフェはナギの大好物だ。そのため、新しい情報があると聞くと、嬉しそうにすっ飛んで行くので、今日もそうだろうと気を利《き》かせてあげたつもりだった。
サラはそんなことを考える神名の横顔を見ながら、
「優《やさ》しいのですね」
ナギのこともちゃんと考えているのだという彼の一面を見て、サラはそう言った。
すると神名は照れた顔を隠《かく》すように視線《しせん》を逸《そ》らす。
「別に……ただ、あいつにばっかり任《まか》せるのは気がひけるからな……」
そう言った彼はさりげなく「行こう」と顎《あご》で促《うなが》すと、その足を職員室へと向けた。
神名たちの教室は三階にあるので、ひとまず階段で二階へ。そこから隣《となり》の校舎に行くために渡《わた》り廊下を進んでいると、
「ふっ、校舎内は比較的安全、か……甘《あま》いな天倉神名」
「っ!?」
聞き取るのが精一杯《せいいっぱい》という小さな声が微《かす》かに神名の耳へ届《とど》いた。神名はその場に立ち止まり、サラを制止《せいし》した。
「何ですか、天倉くん?」
足を止め、急に真剣な顔つきになった神名を見て、サラは首をかしげる。
「……下がっていてくれ。俺の近くから絶対《ぜったい》に離れるな」
「え?」
「どこだ、フルール。どうせお前だろ?」
神名は誰《だれ》もいない廊下を睨《にら》みつけた。否《いな》、神名の視線の先には微かに蠢《うごめ》く何かがいた。
目を凝《こ》らすとようやく見えるほどの小さな生物が、廊下の真ん中で跳《は》ねていたのだ。
「ナギをクラスメートに連れて行かれたのは失敗だったな、天倉神名!」
サラはその光景に我《わ》が目を疑《うたが》った。ノミが……人語を話している……。
「あ、あれは……何ですか?」
「見ての通りノミだ」
「ノミは……人の言葉を話せないと思っていたのですが……」
自分の一般常識《いっぱんじょうしき》は間違《まちが》っていたのかと本気で疑ってしまうような状況《じょうきょう》にサラは呆然《ぼうぜん》とそれを見つめた。
「おい、ノミ。ノミのくせに人間様の言葉を発するなと芹沢さんからのお達しだ」
「相変わらず、言いたい事だけベラベラと……ノミだ、ノミだと何度も言うな! 私だって、元は人間だと知っているだろう!?」
「どうだっていいよ、そんなのは」
「よくない!」
フルールはぴょんぴょん跳ね回りながら、その声を荒《あら》く張《は》り上げた。だが神名は冷ややかな視線でさらりと流す。
「あの……あれは何なのですか?」
神名からノミだと説明されたサラだったが、どう考えても納得《なっとく》できるような説明ではない。
フルールは跳ねるのをやめ、静かにサラを見つめた。睨んだり、不敵《ふてき》に笑ったりしているつもりなのかもしれないが、ノミであるため判断《はんだん》はつかない。
「芹沢サラか……」
「? どうして私の名前を……」
「ふっ、せっかくだ。お前を天倉神名と一緒《いっしょ》に我《われ》が主催《しゅさい》する特別なパーティーへとご招待《しょうたい》しよう!」
フルールはそう叫《さけ》び、足をパチンと鳴らした。ノミに手はない。
「えっ?」
その瞬間《しゅんかん》、周囲が暗くなったかと思うと、神名とサラは見渡す限《かぎ》りの紫色《むらさきいろ》の空間に包まれた。ついさっきまで学校の廊下《ろうか》にいたはずだったが、どこかも分からない不思議な空間に閉《と》じ込《こ》められる。
「ちっ、あのときと同じやつか……?」
フルールと初めて会ったときも同じ現象《げんしょう》を見たことがあった。その呟《つぶや》きに、フルールの声がどこからか応《こた》える。
「いいや、前のものはただの結界だったが、今回は違うぞ! この空間は我が作り出した特殊《とくしゅ》な空間だ。外部からの干渉《かんしょう》は不可《ふか》能《のう》。たとえナギが、お前たちがいないことに気づいても、どうすることもできんのだ!」
「あ、天倉くん……」
「あいつは近くにいる……俺《おれ》の後ろへ」
神名は感覚を研《と》ぎ澄《す》まし、フルールの気配を探《さぐ》る。同時にサラを守るため、自分の背後《はいご》に移動《いどう》させた。
「どうだ、我の力は……あのときと何も変わるまい?」
果てしなく続いているのではないかと思ってしまうほど広い、紫の空間。その、どこからともなくフルールの声が聞こえてくる。
「……これは一体、どういうことなのですか?」
自分の置かれている状況がまったく把握《はあく》できず、サラは顔には出さなかったものの、どこか不安そうにそう言った。
すると神名はとりあえず、
「……奴《やつ》はフルールっていうゴキブリだ。ある人から怒《いか》りをかい、ノミに変えられてしまった哀《あわ》れな奴なんだ」
「おい! ゴキブリになる前から話さんか!」
「あ?……どんな話だっけ?」
「もういい! 自分で語る! 我は死天使フルール! かつては名高き死神であったが、任務《にんむ》に失敗し、死天使長イリスによって下等生物に変えられてしまったのだ! 今でこそこのような姿《すがた》をしているが――」
フルールがどこにいるのかわからないが、彼が勝手に自分の説明を始める中、
「俺とナギが初めてあいつの空間に閉じ込められたとき、中は三十分ぐらいだったのに、外では数時間が経《た》ってたな……」
神名は思い出したようにそう呟いた。
「そう、なのですか?」
「ああ……ん、待てよ!? ここも前と同じように時間の流れが違ったら、フルールの話を聞いている内に一時間目が始まってしまうかもしれないじゃないか!」
そうなってしまったら、一時間目の担当教師《たんとうきょうし》がやって来て、その場にいない神名は欠席|扱《あつか》い。二年連続|皆勤賞《かいきんしょう》を狙《ねら》う神名にとっては一大事だ。
「な、なんてこった! 早く出口を探《さが》さないと!」
神名は慌《あわ》てて地面を叩《たた》いてみたり、周りに何かないかと探し始めた。
フルールはそれに気づかず、数分に亘《わた》って熱く自分のことを語り続け、
「――というわけだ! わかったか!」
話をようやく締《し》めくくり、神名たちに視線《しせん》を向けた。
すると神名は、すでにやる気をなくしたような表情《ひょうじょう》で床《ゆか》に座《すわ》り込んでいた……。
「あ、終わったのか? こっちはもうダルくなったぞ……」
「お前はほんと〜〜〜っに、人の話を聞かない奴だな!? ナギもそうだが、どいつもこいつも我の話を無視――」
している。そう言いかけたフルールだったが、目の前にいた少女は、じっとフルールの話に耳を傾《かたむ》けていた。
「……せ、芹沢サラ……お前は我の話を聞いていてくれたのか?」
「はい。現状を把握するには一番ですし、何より気になったことがありましたので……」
「…………」
サラの言葉を聞き、ようやくフルールは姿を現《あらわ》した。
といっても、三ミリ程度《ていど》しかないので分かりづらいが……彼はふるふると身を震《ふる》わせながら、叫《さけ》んだ。
「素晴《すば》らしい。人の話を聞くという、とても大事なことが君にはできているようだな!」
「え、えぇ、まぁ……」
「おい、聞いたか!? お前も、ちゃんとこの子を見習え!」
フルールがそう言うと、神名はようやく立ち上がり、サラを守るように隣《となり》へ。
「……詳《くわ》しいことは後で話す。とにかく今は、あのノミまで退化《たいか》してしまったゴキブリをなんとかしないと……」
「おい、やっぱり無視か!? というか詳しい話を今、してやったんだよ! 聞け!」
「ノミの言葉は理解《りかい》できん」
「くっ、減《へ》らず口を……」
「うるさい。お前の面倒《めんどう》なんて見ている暇《ひま》はないんだ! 俺たちの前に現れるな!」
「そうはいかん! ここで芹沢サラを殺し、お前のことを上に知らせれば、イリスに復讐《ふくしゅう》できるのだからな!」
「え?」
その言葉にサラは驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。まさかそこで自分の名前が出てくるとは夢《ゆめ》にも思わなかっただろう。
「あ、あの……私は――」
「待った、芹沢さん。今はあいつを追っ払《ぱら》うのが先だ」
神名はサラの言葉を遮《さえぎ》り、右手から漆黒《しっこく》の卵《たまご》のような物体を出現させた。神名が所有する死神の鎌《かま》、〈エカルラート〉だ。
「それは、ナギも持っていた……卵の置物……」
色は違《ちが》うが、サラはその形をはっきり覚えていた。一昨日の夜、ナギが幸運の卵ですと言って、見せてくれたものと同じものだった。
「悪い、芹沢さん……ナギには幸運の卵だって嘘《うそ》をついてもらったんだ。いろいろと事情があってさ……ナギを怒《おこ》らないでやってくれ」
「はい……でも、ここを出たらきちんと説明してくださいね?」
「わかった」
神名はそう頷《うなず》き、〈エカルラート〉をフォークへ変化させるとフルールに向かって構《かま》えた。
「ふっはっはっ! 相変わらず、鎌をフォークにして使っているのか!」
「こっちの方が使いやすいんだよ!」
そう言い放ち、神名は〈エカルラート〉をフルール目掛《めが》けて振《ふ》り下ろす。
だが、フルールはぴょーんと普通《ふつう》のノミではありえない跳躍力《ちょうやくりょく》でそれを回避《かいひ》した。
「ふっ、〈空間に突《つ》き刺《さ》さる〉能力《のうりょく》か! その力で我を捕《と》らえようという魂胆《こんたん》だろうが、同じ手が二度も通じると思うな!」
「ちっ」
怪《あや》しい紫色《むらさきいろ》に光る背景《はいけい》の影響《えいきょう》もあり、フルールを一度見失うと、再《ふたた》びその目に捉《とら》えるのは困難《こんなん》だった。
神名はそれを悟《さと》り、空間を把握する能力を全開にした。フルールの気配、動くことによって発生する空気の流れを読み取り、正確《せいかく》にフルールの居場《いば》所《しょ》へ〈エカルラート〉を振り下ろしていく。
だがその姿はまさに、巨大《きょだい》なモグラ叩《たた》き……。
「大人しく潰《つぶ》されろ――っ!」
「そうはいくか!」
「…………」
サラは黙《だま》ってそんな神名の姿《すがた》を見つめる。彼女はフルールが先ほど口にした言葉が気になっていた。神名が手にしている巨大なフォークを、フルールは鎌と呼《よ》んだ。それが本当ならば、神名は……?
「貴様《きさま》と遊ぶのはもう終わりだ!」
フルールはそう叫ぶと、その小さな身体《からだ》から巨大な炎《ほのお》を放った。
「っ!?」
神名はとっさに上体を反《そ》らして回避する。髪《かみ》の毛の先がチリッと燃《も》えたが、構わず体勢《たいせい》を整えながら〈エカルラート〉を振り下ろす。
その炎を見たサラは、ただ見ていることができず、彼に駆《か》け寄《よ》ろうとした。
「ダメだ、芹沢さん! そこにいてくれ!」
それを神名は言葉で制《せい》する。彼はフルールに攻撃《こうげき》しながら、徐々《じょじょ》にサラから離《はな》れていくように仕向けていた。だがそれが精一杯《せいいっぱい》で、振り下ろす攻撃は一度もフルールには当たらない。
「くそっ、ノミのくせに……」
「ふふん、貴様の攻撃など当たるか! さっさと諦《あきら》めろ!」
フルールが再びその身体から炎を発する。ほとんど目の前からの攻撃のため、避けるのは至難《しなん》の業《わざ》だったが、神名はなんとか持ち前の反射神経《はんしゃしんけい》でかわす。
だが、フルールの攻撃はそれだけではなかった。炎の方に神名の気が向いた隙《すき》をつき、その足に光を収束《しゅうそく》させる。
「くっ!?」
フルールがゴキブリの時にも使っていた、ビームのような光の束が神名を襲《おそ》う。地面に倒《たお》れるように伏《ふ》せ、何度か転がりながら間合いを取り、立ち上がる。
「天倉くん!?」
サラをフルールから引き離そうと考えていた神名だったが、相手が飛び道具のような技《わざ》を使ってきたため、作戦を変更《へんこう》する。サラの近くで、彼女を守りながら戦うしかない。
「さぁ、二人まとめて我《わ》が炎で灰《はい》になるがいい!」
目の前でぴょんぴょん跳《は》ねるノミ。
「どうするんですか、天倉くん……」
「見た目はノミだが実力は確《たし》かなんだよな……」
神名の口調には、まだ余裕《よゆう》があった。
「……倒せるのですか?」
「ああ、心配するなって。次の一撃であいつは倒す」
神名はフルールの位置を確認《かくにん》し、サラを自分の背後へ。
「ほう、余裕ではないか……この我《われ》を一人で倒すだと?」
「まぁ、そういうことだ。さっさと炎でも光でも飛ばしてこい。当てられるなら、だけどな……」
「ならば望み通りにしてやろう!」
フルールはそう声を張《は》り上げ、その身体から炎を放った。だが攻撃は直線的で、炎の範囲《はんい》も狭《せま》いので、放たれる向きさえわかれば回避は容易《たやす》い。まして何度も同じような攻撃を見せられれば、神名の目もその攻撃に慣《な》れてくる。
「その程度《ていど》か、ノミ!」
サラの手を引きながら攻撃をかわす。
「我はフルールだっ! ちょこまかと逃《に》げ回りおって、これならどうだ――っ!?」
フルールは攻撃を避け続ける神名を見かねて、彼の身長ほどはあろうかという巨大《きょだい》な火の玉を作り上げた。
「消し炭《ずみ》になれ――ぃっ!」
その攻撃は今まで以上に高速で、一直線に神名へ飛んだ。
避けられない――それを見たサラは息を呑《の》んだ。
だが、神名はその攻撃を避けるわけではなく逆に身構え、
「てい」
あっさり〈エカルラート〉で弾《はじ》き返した。
「なにぃぃ――っ!?」
跳ね返った巨大な火の玉はフルール目掛けて飛んでいき、着弾《ちゃくだん》。辺りに灼熱《しゃくねつ》の炎をばら撒《ま》きながら爆発《ばくはつ》した。
攻撃を跳ね返した神名の手に握《にぎ》られていた〈エカルラート〉は、いつの間にか先が四角く、薄《うす》い平らなものに変わっていた。
「見たか、俺のフライ返しの力を……」
神名は火の玉が迫《せま》る直前、〈エカルラート〉をフライ返しの姿に変えていた。これに備《そな》わった能力は〈触《ふ》れたものをひっくり返す〉。神名はわざとフルールを挑発《ちょうはつ》し、大技《おおわざ》を放つのを狙《ねら》っていたのだ。
「でも……鎌《かま》、なんですよね……?」
サラの視線《しせん》の先で、巨大なフライ返しを握って、不敵《ふてき》に笑う神名……。
「いいんだよ、勝てば」
とにかく今の攻撃でフルールが灰になったはず――そう思った瞬間《しゅんかん》、神名たちのいた空間が轟音《ごうおん》を立て揺《ゆ》れ始めた。
「いっ!?」
「こ、これから、どうなるのですか?」
「し、知らない!」
神名とサラは一|箇所《かしょ》に固まる。だが立っていた地面がグニャリと曲がり、唐突《とうとつ》に地面の感触《かんしょく》がなくなってしまった。
その後にやって来たのは落下感。
「なっ!?」
「!?」
掴《つか》まるものなどなく、二人はどこへともなく落ちて行った。
下はどこまでも続く紫《むらさき》の空間――このまま無限《むげん》に落ちていくのかと思った瞬間、パッと辺りが光り、
「うっ!」
「ぐわっ!」
ドサッドサッと神名たちは冷たい床《ゆか》の上に落ちた。
「つーっ! どこだ、ここ?」
神名がその顔を上げると、その床には見覚えがあった。机《つくえ》とイスが規則《きそく》正しく並《なら》び、そこに座《すわ》っていた生徒たちが一斉《いっせい》に神名たちを振《ふ》り返る。
その生徒たちの顔にも見覚えがあった。間違《まちが》いない、神名のクラス――二年一組の教室だった。教室の一番後ろに出て来たため、神名とサラが突然現れたのは見られなかったようだが、
「神名くん……?」
「あ、ナギ」
何故《なぜ》か、ナギが教卓《きょうたく》の前に立っていた。しばらく不思議そうな顔していたが、急にすっと懐疑《かいぎ》的な表情《ひょうじょう》に変わった。
「何を……しているんですか?」
ナギの目がジロリと神名を睨《にら》む。
その質問《しつもん》はこっちが聞きたいんだがと思いながら、とにかく立ち上がろうとして――
「天倉くん……」
「?」
自分の下から声が聞こえ、ハッとその状態《じょうたい》に気づく。神名はサラの上に覆《おお》いかぶさっている状態だったのだ……しかも右手は胸《むね》の上。
慌《あわ》ててその手をどけたものの、サラの表情は硬《かた》かった。
「あー、ええっと……悪い。でも、これは不可《ふか》抗力《こうりょく》というやつで――」
「問答……無用です」
神名はサラの右手が頬《ほお》に飛んできたのを見た後――ぐるぐる回る壁《かべ》と天井《てんじょう》、床を見ながら教室の端《はし》まで吹《ふ》き飛ばされた……。
○
しばらくして神名が目を開けると、ちょうど授業《じゅぎょう》が終わり、鐘《かね》の音が響《ひび》いていた。
「う……く、首が痛《いた》……」
クラスメートたちに運ばれたのか、神名は自分の席に座《すわ》らされていた。
「あ、神名くん、気がつきました?」
ナギの声がして後ろを見ると、彼女は教科書をしまっている最中だった。
神名は首を押《お》さえつつ、
「い、一体、どうなったんだ……?」
フルールの作った空間に閉《と》じ込《こ》められて、どれくらいの時間が経《た》ったのか……それと、自分は最後にどうなったのか……。
「すごかったですよ、神名くん……」
ナギはそのときの情景を思い浮《う》かべながらそう言った。
神名がサラに平手打ちを受けたとき、ナギの目には神名が空中で回転しながら、木偶《でく》人形のように吹き飛ばされる姿《すがた》がはっきり見えた。
「人間って、あんなふうに飛ぶんですね」
「……俺《おれ》の首、曲がってないよな?」
彼女の言葉に不安を感じた神名は、自分の首をベタベタ触《さわ》りながらそれを確《たし》かめる。うむ、曲がってない。
「今、何時だ? ていうか、授業は? 出席《しゅつせき》確認は?」
「あ、それなら心配いりません。今はまだ一時間目が終わっただけで、神名くんは一応《いちおう》、席に座っていたので、出席|扱《あつか》いになっていますから」
「そ、そうなのか……」
「はい。感謝《かんしゃ》してくださいよ? 皆《みんな》が保健室《ほけんしつ》に運ぼうとしていたのを、私がイスに座らせるだけでいいですって止めてあげたから、欠席にならなかったんですよ? 先生は『その天倉は生きてるのか?』って額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべていましたけど……」
「…………」
ナギの判断《はんだん》が本当に正しかったのか、今の発言は大いに悩《なや》むところだが……まぁ、皆勤賞《かいきんしょう》を死守してくれたのはありがたい。
「で、それはそれとして……一体、どこに行っていたんです? サラさんと一緒《いっしょ》に……」
サラさんと一緒に、という部分が妙《みょう》に強調された口調で、ナギは神名に詰《つ》め寄った。
「ど、どこって……俺は芹沢さんと職員室《しょくいんしつ》に行こうとしていただけだ。そうしたら、フルールの奴《やつ》が突然《とつぜん》出てきて、どこだかよくわからん空間に飛ばされて……というか、お前はなんで教卓の前に立ってたんだ?」
「サラさんの代わりですよ。ホームルームを始める時間になっても二人が帰ってこないから、私が職員室まで探《さが》しに行ったんです。そうしたら永岡先生からサラさんの代わりに連絡事項《れんらくじこう》の伝達を任《まか》されて……」
「ああ、なるほど」
それは面倒《めんどう》をかけたな、と神名は続けて言った。
「天倉くん……」
神名がそうしていると、サラが神名の横に現《あらわ》れた。彼の中ですぐに先ほどの情景が思い出され、思わず身を引いた。
「あ、わ、悪い。さっきのは本当に――」
「いえ、それはもういいんです……それより、詳《くわ》しく話していただけるという約束です」
サラの真剣《しんけん》な目が神名と向き合う。
確かに神名は「詳しいことは後で話す」と言っていた。とりあえず神名は今いる場所を気にしたが、教室内は授業が終わった一時的な解放感に包まれている。小声で話せば問題ないだろう。
「……わかった。芹沢さんが聞きたいことに答えるよ」
そう言うと、サラは少し間を空けてから口を開いた。
「……では、天倉くんは……死神なのですか?」
死神。フルールとの会話や〈エカルラート〉と〈ベル・フィナル〉を見て、サラはそういう結論《けつろん》に達したのだろう。
「……俺たちは人間だよ。でも死神であることも確か、かな。さっき芹沢さんに見せた黒い卵《たまご》みたいなのが俺の〈エカルラート〉。ナギが持っている白い奴が〈ベル・フィナル〉。二つとも死神の鎌《かま》だ……こいつらの存在《そんざい》だけで、十分に俺たちのことは信じてもらえると思うけど……」
できれば直《じか》に〈エカルラート〉を見せる方が良いだろうが、今は教室内なので諦《あきら》める。
「はい。お二人が嘘《うそ》をついているとは思えませんし……」
「さっきのことで少しわかったと思うけど、フルールは芹沢さんのことを狙《ねら》っている。だから俺たちは芹沢さんを守るために護衛《ごえい》することにしたんだ」
「なるほど……ですが、死神とは人を死の運命に誘《いざな》うものだと思っていました……」
「まぁ、俺も初めはそうだったよ。でも実際《じっさい》は少し違《ちが》う……死神は魂《たましい》の輪廻《りんね》を正常《せいじょう》に導《みちび》く者って感じかな……」
「では、今の私は……?」
「……〈死〉を呼《よ》び寄せるっていう危険《きけん》な状態《じょうたい》になってる。でも芹沢さんはまだ死ぬ運命じゃない。もしここで死んでしまったら〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉になってしまうんだ……正常な輪廻に反してな……だから、俺たちは芹沢さんを守る。で、こうなった原因《げんいん》なんだけど――」
「私が昔、死神の鎌に触《ふ》れたから、ですか?」
神名がどう話そうかと迷《まよ》っていたことを、サラは自分の口から告げた。
だがそれは神名とナギにとって、サラが覚えているはずのない事実だった。
「覚えているんですか!?」
「……ええ。あの人は私の記憶《きおく》を消そうとしていたようでしたが……」
「驚《おどろ》いたな……これじゃ、あいつは何もしてないのと同じじゃねーか……」
これは予想外。
だが、神名にとってはややこしい説明が省《はぶ》けて好都合だった。
「俺たちはそのことを知った上司から、芹沢さんの護衛を任された。芹沢さんは大切な友達だからさ……安全になるまで俺たちが守るってことになったんだ」
そしてこれは信じてもらえるか怪《あや》しい上、話しても意味はないと思ったが、
「それに、死神は任務失敗が許《ゆる》されないんだ。俺たちは芹沢さんの安全を何としても確保《かくほ》しないと……上司からチョコ・パフェにされる……」
「…………」
「いや、ほんとに」
やはりサラは「そこだけは信じられない」という目で見つめてきたので、神名はすぐにそう付け加えた。
サラはナギにも確《たし》かめようとしたが、彼女はすでに泣き出しそうな表情《ひょうじょう》をしていた。
「本当……なんです」
「そ、そうですか……」
これで説明は終わりだ。
「まぁ、何にせよ、そういうわけだから。芹沢さんのことは、命|懸《が》けで守ってみせる」
そう、神名は不敵に笑ってみせた。
ここでサラを守れなかったら、自分たちはイリスからチョコレート・パフェにされるのだ。なんとしても彼女の現状を打開しなくてはならない――そう思って言った言葉だったのだが、サラは両手を胸《むね》に、驚いた様子でこちらを見つめていた。
「…………?」
顔を赤くしているサラを見て、神名が首をかしげると、
「でも、教室で自分のことを押し倒《たお》して来る人なんて信用できないですよねー」
隣《となり》にいたナギがその目を細めて呟《つぶや》いた。鋭《するど》い視線《しせん》がなぜか神名を襲《おそ》う。
「うっ……だから、あれは――」
「神名くん、あれは人として最低ですよ」
「いや、おいっ! お前は教卓《きょうたく》の前にいたから見てただろ!? 突然《とつぜん》の状況《じょうきょう》からああいう状態になったんだって、さっき話しただろ!?」
「それでも、神名くんが悪いのです!」
「一番悪いのはあのノミだ!」
「神名くん……自分の失態をノミのせいにするなんて、恥《は》ずかしくないんですか?」
なぜか激《はげ》しい剣幕《けんまく》で睨《にら》んでくるナギに、神名は抵抗《ていこう》するのを諦め、
(俺が悪いのかー?)
と、心の中で小さく反論するに留《とど》まった……。
○
すべての授業《じゅぎょう》が終わり、ナギとサラを家まで送り届《とど》けた神名は、家に帰る途中《とちゅう》でコンビニに寄《よ》り、帰宅《きたく》するとリビングにあるソファーにどかっと座《すわ》り込んだ。
今日はなんだかいろいろあったと思う。フルールと戦ったこともそうだが、昼休みは生徒会室に行き、少しだけ片付《かたづ》けも手伝った。バイトがお休みだったのは唯一《ゆいいつ》の救いだ。
夕食は本日もコンビニのお弁当《べんとう》。ナギがサラの側《そば》を離《はな》れられないので、彼女が作る夕飯もお預《あず》けだ。
そんな彼女から別れる間際《まぎわ》に「神名くん、今日の晩《ばん》ご飯は節分用の豆でも食べていてくださいね?」とさりげなく、とんでもないことを言われた。
確かに今日は節分だったが……。
「何だったんだ、一体……」
とりあえず台所を見てみると、いつの間に買っておいたのか、本当に節分用の豆が置いてあった。そういえばナギは「歳《とし》の数の分だけ食べるんですよー」とも言っていたが、食べ盛《ざか》りの神名が、たった十七|個《こ》の豆で腹《はら》を満たせるわけがない。
だがせっかくあるのだから食べるべきか? そんなことを考えながら豆の入った袋《ふくろ》を見つめていると、コンコンっと窓《まど》を叩《たた》く音がした。
「?」
不審《ふしん》に思いつつ、神名がリビングのカーテンを開けて外を見ると、
「こんばんは」
イリスが立っていた。
神名は素早《すばや》く持っていた袋を開けると、窓を開け、豆を鷲《わし》づかみにし、イリスに向かって投げつけた。
「な、何をするの!?」
「いや、今日は節分らしいから……」
「それで? どうして私に豆を投げつけるのかしら?」
「鬼《おに》はー外ー、福はー内ーだから」
「だったら私は内のはずだけど?」
「諸悪《しょあく》の根源《こんげん》だろ、あんたは……」
神名が冷たい視線でそう言うと、彼女は見る者を凍《こお》らせるような笑《え》みで、
「あなたを豆に変えてあげましょうか?」
「ちょ、ちょっとした冗談《じょうだん》だって! はははっ。一緒《いっしょ》に豆でも食べないか?」
「いらないわ。それより、上がらせてもらうわね……」
イリスはすっと神名の脇《わき》をくぐり抜《ぬ》け、リビングへ上がりこんだ。
鬼は内ー。
神名はそんなことを思いながら、冷たい風が入り込《こ》んでくるので仕方なく窓を閉《し》める。
「で? 今日は何をしに?」
持っていた豆を口に放り込み、神名はイリスに問いかけた。彼女は先ほどまで神名が座っていた場所に腰《こし》を下ろす。
「現状把握《げんじょうはあく》よ。今はどんな感じなのかを聞かせてもらうわ」
「なるほど……」
すると神名は今日一日を思い出して溜息《ためいき》をついた。
だが話すべきことが神名にもあったので、イリスの反対側に座り、今日のことを話し始める。
「芹沢さん本人には何もなかったよ、今日はな……それより、死んだと思っていたフルールが生きてたんだ……しかも、俺たちに復讐《ふくしゅう》するんだ、って芹沢さんまで狙《ねら》ってる」
「え?」
イリスもまさかフルールが生きているとは思っていなかったのか、その目を一瞬《いっしゅん》だけ丸くして神名へ聞き返した。
「……私の殺虫スプレーを受けて生きていた、と?」
「なんか地面に潜《もぐ》って助かったらしいぞ……あの野郎《やろう》、俺の食券《しょっけん》まで燃《も》やして逃《に》げやがったんだ……」
「そう……フルールについての判断《はんだん》はあなたに一任《いちにん》するわ。障害《しょうがい》になるようなら排除《はいじょ》してくれて構《かま》わないから」
「排除って……」
「障害にならないなら、放っておいてもいいわ」
「お前にも復讐する、とか何とか言ってたぞ?」
「ノミが言うことなんて誰《だれ》も信じないわ。私に姿《すがた》を変えられた腹《はら》いせか何かだと思われるのが関の山よ」
イリスはフルールのことをたいした障害とは見なさず、あっさりそう言った。
「……まぁ、確《たし》かに」
「それ以外に何か変わったことは?」
フルールのことはいい、とイリスは他《ほか》に何かないのかと聞いてきた。
神名にとってはフルールのことも十分、問題だったのだが、ここからが一番の本題と言えるだろう。
「実はな……芹沢さんが昔のことを覚えていたんだ。鎌《かま》に触《ふ》れたことまで」
「……え?」
それを聞き、イリスはこちらに身を乗り出すようにして聞き返した。
「だから、覚えてた。こんな状況《じょうきょう》になった原因《げんいん》を説明しようとしたら、芹沢さんの方から死神の鎌に触れたからですかって聞かれたよ……」
「それは予想外ね……」
まさか記憶《きおく》の消去まで失敗していたとは思わず、イリスは表情《ひょうじょう》をひきつらせた。
「あれじゃ結局、何の後処理《あとしょり》もしていないのと同じだぞ……」
「……思っていたより、鎌に触れた影響《えいきょう》が大きかったみたいね」
「記憶が消えなかったのも鎌に触れたせいだっていうのか?」
「可能性《かのうせい》としてはあり得るわ……でも、そうだとすると、他にも何か影響が出ているかもしれない……」
それを聞いた神名にはすぐに思い当たることがあった。
「そういえば芹沢さん……妙《みょう》に、っていうか不思議なほど腕《うで》の力が強いんだよな……」
「…………」
それを聞き、頭を抱《かか》えるイリス。脳裏《のうり》に浮《う》かんだ推測《すいそく》をなんとか打ち消そうと試みたが、
「……鎌に触れた副作用ね……きっと」
「やっぱりか。おかげで首の骨《ほね》が折れて死ぬかと思ったぞ……」
「叩《たた》かれたか、殴《なぐ》られたということ? どうしてそんなことに……」
「あの場合は仕方なかったというか……いや、説明すると自己《じこ》嫌悪《けんお》に陥《おちい》りそうだから、聞かないでくれ……」
神名はガクッと肩《かた》を落とし、「たぶん、俺は悪くないと思うんだけど……いや、触《さわ》ったのは事実だしなぁ……」と呟《つぶや》きながら、持っていた節分用の豆を口に運ぶ。
「その力については今のところ、どうしようもないわ……とりあえず彼女の護衛《ごえい》を最優先《さいゆうせん》で頼《たの》むわね……」
「ああ。それはもちろんだけど……芹沢さんのことは、そのままでいいのか……?」
「記憶のこと? そうね……最終的に彼女がどうなるのか、それを見極《みきわ》めてから、もう一度考えるわ……」
イリスはそう言うと、神名の持っていた袋《ふくろ》から二、三|粒《つぶ》の豆を手に取った。
「さっきからずっと食べているけれど……美味《おい》しいの?」
「いいや、マズイ。でもせっかくあるんだし、コンビニの弁当《べんとう》だけだと腹《はら》が満たないだろうからさ……」
「なんだか惨《みじ》めに見えるわ……」
「ほっとけっ」
「そうね……それじゃ、後はよろしく」
イリスは最後にそう言うと、豆を口に入れながら「あ、ほんとに美味しくないわ……」と言いながら出て行った。
彼女が翼《つばさ》を広げて空へ帰って行くのをリビングから見送り、神名はカーテンを閉める。
「はぁ……問題は、いつまで続くのかってことだよな……」
一人になり、ポツリと神名は呟いた。
サラの危険《きけん》をいち早く察知するためには、ずっと周りに意識《いしき》を集中させていなければならない。今はまだいいが、長く続けばさすがに神名にも体力の限界《げんかい》は来る。
だが、時間をかければかけるほど、わかることがあるかも知れない――と神名は考えていることがあった。
今のサラは魂《たましい》が不安定な状態《じょうたい》にある。それはつまり、ソウル・イレギュラーに最も近い存在になっている、ということではないだろうか? ということだった。
神名がナギを死神から人へと輪廻《りんね》を戻《もど》した際《さい》、彼女は人の魂にソウル・イレギュラーの身体《からだ》というアンバランスな状態となってしまい、その拒絶反応《きょぜつはんのう》から高熱に襲《おそ》われたことがあった。
一度は何とかなったものの、次もまた、いつその高熱に襲われるかわからない。
そのため、神名はナギの身体をどうにかバランスの取れる状態へできないかと、日々|模索《もさく》していたのだ……。
今のサラの状態は、ナギにとっては何かのきっかけになるかもしれない……もちろんサラの状態をいち早くどうにかしてやりたいとも思っているが、神名にはそういう考えがあるのも事実だった。
「とにかく、がんばるしかないか……」
神名はパンッと自分の両頬《りょうほお》を叩き、気合を入れた。
「深瀬《ふかせ》のときもそうだったんだ。誰も死なせるかっ」
よし! と意気込み、神名は「サラを守る」と改めて決意するのだった。
○
日が変わり、ナギは朝早くに起きてお弁当を作っていた。自分の分と、神名の分を合わせて二つ。今日の昼ご飯だ。
神名は朝食を売店で、夜はコンビニのお弁当で済《す》ませているので、昼ぐらいはきちんと栄養を摂《と》れるようにしてあげたいとナギは考えながら、少しお弁当の中身を冷まし、蓋《ふた》をする。
ピンポーン。
ちょうどお弁当が完成したところへ、来客を知らせるチャイムが鳴った。
こんな朝早くにやって来るのは一人しかいない。ナギは玄関《げんかん》へ向かい一応《いちおう》、やって来た人物の顔をドアごしに確認《かくにん》してから扉《とびら》を開けた。
「よっ」
そこには元気そうな神名の顔があった。
「おはようございます。思っていたより早かったですねー」
いつもなら神名がちょうど起きるぐらいの時間だ。それなのに彼は身なりを整え、こうしてサラの家までやって来た。
「まぁ、な。芹沢さんは?」
そうナギに尋《たず》ねると、二人の話し声が聞こえたのか、サラが家の奥《おく》から出てきた。
「天倉くん……本当に迎《むか》えに来たのですね……」
「ああ。昨日、そう言っただろ?」
だが迎えに来た神名を見たサラは、昨日と同じく浮かない顔だった。
(迎えに来られるのが嫌《いや》なのかな? やっぱり……)
などと考えていたが、ナギと一緒《いっしょ》に玄関から出てくる頃《ころ》にはいつも通りだった。
「天倉くん、昨日はありがとうございました」
途中《とちゅう》、サラはその場に立ち止まると、神名に向かって頭を下げた。
「私のことを守ってもらったのに、お礼も言っていませんでした……」
こちらに向って深々と頭を下げる彼女に、神名は首を振《ふ》る。
「いや、当然のことをしただけだから。それに、俺《おれ》たちがやるって決めたことだからな。芹沢さんがそれを気にすることはないさ」
「それでも私は、ありがとう、と言っておきたかったんです」
サラの表情《ひょうじょう》に変化はなかったが、その声はどこか優《やさ》しく響《ひび》いた。
「そっか……じゃあ、ありがたくお礼の言葉は受け取っておく」
サラの感じがいつもと違《ちが》うと神名は感じたのか、笑顔《えがお》で返す。
「はい」
「あ、でも食券《しょっけん》の件《けん》は忘《わす》れてないから」
「ええ。わかっていますよ」
抜《ぬ》け目ない神名へ、静かに頷《うなず》くサラ。
その様子を、どこかぎこちない笑顔でナギは見つめた。
三人は学校へ着くと、荷物を置いてすぐに職員室《しょくいんしつ》へ。
「昨日は行けませんでしたから、今日は一緒に行きます」
とナギが先頭を歩いていく。
なんだか妙《みょう》に張《は》り切っているような……と神名は感じながら、朝礼ってどんな感じなのかなぁと少し緊張《きんちょう》してきた心を落ち着かせる。
職員室に着くと、神名とナギは多少|躊躇《ためら》ったが、サラに付いて職員室の中へと入った。
普段《ふだん》は職員室に来る用事などないので、ここへ入ったことは数えるほどしかない。
「おお、芹沢か」
職員室の中央、窓側《まどがわ》の席に座《すわ》っている男性《だんせい》がサラに向かって声をかけた。白髪《しらが》混じりの四角い顔をした、どこか威厳《いげん》を感じさせる風貌《ふうぼう》――ほぼ毎朝、サラが会いにくる学年|主任《しゅにん》の永岡先生だ。
「おはようございます、先生。さっそくですが白野先生は?」
「あー、申しわけないが、今日も遅刻《ちこく》だ……すぐに終わるから、そこに座っていてくれるか?」
「はい、わかりました」
永岡は苦笑《くしょう》しながらサラに席を勧《すす》めたあと、ナギに視線《しせん》を移《うつ》した。
「風流、昨日は芹沢の代わりを頼《たの》んで悪かったな」
「いえ、プリントを運んだだけですから」
「そうか……で、今日は天倉まで一緒に何の用だ?」
毎日来ているサラはともかく、ナギや神名がここへ来るのには何か用事があるのだろうと永岡は思った。
「あ、俺たちは芹沢さんのために、教室に持っていくプリントを代わりに運ぶだとか、そういう雑用《ざつよう》をすることにしたんです」
「そう……なのか?」
「はい」
神名が真《ま》っ直《す》ぐな視線で答えると、ナギもそれに倣《なら》う。不思議に思いつつ、永岡がサラに視線を戻《もど》すと、
「そういうことなので、しばらく彼らも一緒に職員会議に出させてください」
お願いします、とサラに頭を下げられ、「あ、ああ、わかった」と永岡は頷いた。神名とナギが騒《さわ》がないのであれば問題ないし、もとよりサラに頼《たの》まれると断《ことわ》りづらい。学年主任としては、彼女に不甲斐《ふがい》ない担任《たんにん》の代わりをいつも押《お》し付ける形になっているので、これくらいはいいだろうと判断《はんだん》した。
会議は十分弱で終了《しゅうりょう》し、先生たちは各々の教室へと散っていく。
神名たちもクラスメートに配るプリントを手に、職員室を出た。
「あ、そうだ……一つ、聞きたいことがあるんだけど……」
神名は教室へ向かいながら、隣《となり》を歩くサラに話しかけた。
「何でしょう?」
「前にも話したけど、芹沢さんは今、魂《たましい》が不安定な状態《じょうたい》なんだ……それってどんな感じなのかと思って……」
サラの今の状態は、もしかしたらナギの身体《からだ》をどうにかする手がかりになるかもしれない。そう考えている神名は、できるだけサラの状態を把握《はあく》しておきたかった。
「そうですね……これといって生活に支障《ししょう》をきたすようなことはありませんが……」
普段のサラを見ている限《かぎ》り、確《たし》かに体調不良などを引き起こしているようには見えない。
しかし、彼女には気にしていることが一つだけあった。
「この力のことは、天倉くんも気づいていますよね……?」
サラが軽く自分の拳《こぶし》を握《にぎ》ってみせる。
「ああ……」
彼女の力は、おそらく神名のそれより強い……教卓《きょうたく》をドンッと凹《へこ》ませてみせたり、神名がやっとの思いで運ぶような荷物を軽々と持ち上げてみせたり、とその力は実際《じっさい》に目にしている。
「この力は割《わり》と便利なので、困《こま》るというよりは助けられることの方が多いのですが……何分、両親や友達の前で使うと、怖《こわ》がらせたり、心配させたりしてしまいそうで……」
できることなら、どうにかしたい。
彼女の目から、神名はそう解釈《かいしゃく》した。
「上司の話だと、その力も鎌《かま》に触《ふ》れてしまったことが原因《げんいん》みたいなんだ……だから、今の状態が改善《かいぜん》されれば、同時にその力もなくなるんじゃないかと思う」
鎌に触れてしまったことによる、副作用のようなものだと、イリスは話していた。
それ以上のことは何も言わなかったので、神名が今言ったことはあくまで彼の推測《すいそく》にすぎないが、おそらくそうではないかと思う。
サラは神名が明確《めいかく》にそれを断定しなかったことに気づき、とりあえず望みはあるのだと解釈した。
「そうですか……そういえば、昨日はすみませんでした……あんなに強く叩《たた》くつもりはなかったのですが……つい」
ああ、あのときか……と神名はサラに頬《ほお》を叩かれたときのことを思い出す。とはいえ、彼女の手が飛んできた後は、あまりの衝撃《しょうげき》に気を失ってしまったので、ほとんど覚えていない……。
「あー、まぁ、あれは俺も悪かったし……」
本当はフルールのせいにしたいところだが、不可《ふか》抗力《こうりょく》とはいえ、事実は事実だ。神名は素直《すなお》に自分の責《せき》を認《みと》めた。
「やはり、痛《いた》かったですか……?」
実はそれも覚えてない。
何せ、ほぼ一瞬《いっしゅん》の出来事だったので、痛かったというよりグルグル回る景色の方が鮮明《せんめい》且《か》つ、印象的だった。それに気絶《きぜつ》の状態から目を覚ました後、叩かれた頬よりも首の方が痛かった……。
「んー、気がついた後、首がちょっと痛かったかな……」
神名は苦笑しながら自分の首を摩《さす》るように手を当てた。サラの攻撃《こうげき》を受けて、よく首がもげなかったな……と自分自身に感心する。
だが今はもう何ともない、と首を少し動かして見せた。すると、
「ごめんなさい」
逆《ぎゃく》にその動きで、まだ痛みが残っているのだと勘違《かんちが》いしたのか、サラがすっと神名の首元に手を伸《の》ばした。
「すぐ、治ればいいのですが……」
少しだけひんやりとしたサラの手。こちらを見上げるように見つめてくる彼女に、神名は気恥《きは》ずかしくなって、すっと離《はな》れた。
「い、いや、もう大丈夫《だいじょうぶ》だから。なんの支障もないって」
神名がどこか慌《あわ》てた様子で後ずさったので、サラもようやく自分のしたことに気づいて手を引っ込《こ》めた。
「そ、そうですか……」
「ああ……ほら、早く戻ろうぜ、教室に」
「あ、はい」
先ほどまで並《なら》んで歩いていた二人だったが、そこからの足取りは、互《たが》いにどこか距離《きょり》を置いて歩く。
「あー、そうだ、ナギ。昨日は三組にチョコ・パフェの情報《じょうほう》を聞きに行ったんだろ? どうだったんだ?」
神名はなんとなく気まずくて、何か話題を変えようとナギを見た。するとすぐに彼女と目が合った。ナギは何やらこちらを睨《にら》んでいたからだ……。
「神名くんがそんなことを聞くなんて珍《めずら》しいですねー?」
「え? そ、そうか?」
「はい。いつもなら絶対にその話題には触れようとしませんから……」
そう、神名の方からそんな話をすれば、ナギから「新しいチョコ・パフェの情報を教えてもらったので、連れて行ってください!」と言われるのは目に見えているため、彼の方からその話題について聞くことは絶対にないのだ。
「それに、三日前にした約束はどうなったんです?」
「あ」
そういえば、その三日前。ナギが家の掃除《そうじ》と食器の後片付《あとかたづ》けを引き受ける代わりに、神名がチョコ・パフェを食べに連れて行く、という約束をしていた。サラのことがあってすっかり忘《わす》れていた……。
「悪い、忘れてた……あー、ほら、今はそんな暇《ひま》がないから、今度な」
神名がそう言うと、ナギはむっとしながら、さらにその表情《ひょうじょう》を険悪《けんあく》にしていく……。
火に油を注いだ……そう思った神名はナギからも視線《しせん》を逸《そ》らし、教室へと向かう足を微《かす》かに速めた。
○
「では、出席を確認《かくにん》します。天倉くん」
「うーっす!」
いつものように朝のホームルームが始まり、いつものように出席番号一番の神名が元気よく返事をする。
今日も教卓《きょうたく》に立つサラは、それを確認して主席|簿《ぼ》にチェックをつけながら、次の生徒の名を呼《よ》んでいく。
「ふっ、今日もまた一歩、夢《ゆめ》に前進だな……」
二年連続|皆勤賞《かいきんしょう》を狙《ねら》う神名は、満足そうにそう微笑《ほほえ》んだ。
皆勤賞を取ると図書券がもらえる。神名の目的はそれで本を買うことではなく、よく本を買う生徒に現金《げんきん》と交換《こうかん》してもらうのが目的だった。出席確認は彼にとって、一番の楽しみなのだ。
神名は後ろを振《ふ》り返り、
「ナギ、お前も元気よく返事するんだぞ?」
と告げた。
ナギは前に高熱を出した際《さい》、一日だけ学校を欠席しているので、すでに皆勤賞はもらえないのだが、朝の返事は一日の始まり――元気にやるべきだ、と神名は考えていると、バンッ! 突然《とつぜん》、ナギから教科書で頭を叩《たた》かれた。
「……なんで、俺が叩かれるんだ?」
不可《ふか》解《かい》な行動を取ったナギにそう尋《たず》ねると、彼女はまだ、むすっと頬《ほお》を膨《ふく》らませたままだった。
「自分の胸《むね》に聞いてみてください」
こちらを睨む彼女にそう言われ、神名は目を閉《と》じ、その手を自分の胸に当ててみた。
どうして俺が叩かれなくてはならないのですか?
そう神様に聞いてみる。
「……何かわかりました?」
ナギの言葉に、神名はかっと目を開き、
「神様は俺にこう言った……お前は何も悪くない」
ガツッ!
今度は教科書の角が神名の頭を直撃した。
「いて――っ!? な、何するんだ、お前は!?」
「天罰です!」
「なんで俺がお前に殺されそうになるのか理解できん!」
「じ、神名くんはこうなる運命だったんです――っ!」
ナギはそう叫《さけ》ぶと教科書の角を連続で神名に振《ふ》り下ろしてきた。
「うわっ!? やめろ! それは殺人|行為《こうい》に匹敵《ひってき》するぞ!? 痛《いた》いっ、痛いって、おい!?」
このままでは死ぬかも――そう思った神名は防御《ぼうぎょ》をやめ、振り下ろされた教科書を両手でパシッと挟《はさ》んで捕《つか》まえた。
「むむ――っ!」
「お、おい、教科書が曲がるぞ!? 祐司、こいつを止めてくれ!」
一人では彼女を止められないと悟《さと》ったのか、神名は隣《となり》に座《すわ》る小川《おがわ》祐司に助けを求めた。
童顔の優《やさ》しい顔つきをした少年で、神名にとっては親友であり幼馴染《おさななじみ》だ。いつもニコニコと笑みを絶《た》やさない彼は、やはり笑いながら首を振った。
「神名が悪い」
「なんでだっ!? ていうか、何が!?」
神名がそう叫んで意識《いしき》を祐司に向けている隙《すき》をつき、ナギは空《あ》いた左手でもう一|冊《さつ》教科書を掴《つか》んで攻撃《こうげき》した。
「ていっ!」
側頭部に直撃。
「ぐあっ!? 待て、わかった、わかったから! お前が言いたいのはこれのことだろ!?」
なんとか頭の痛みを抑《おさ》え、神名は制服《せいふく》のポケットから二|枚《まい》の食券《しょっけん》を取り出した。
昨日、神名はサラを守った。そしてナギはその間、サラの代わりに職員室《しょくいんしつ》へ。そのお礼として、ナギの分も含《ふく》めてもらったものだった。
教室に戻《もど》って来てからすぐ、サラが思い出したようにくれたものだ。
「確《たし》かに、お前もがんばったよな……いや、ちゃんと渡《わた》すつもりだったんだぞ、俺《おれ》は。ただ後で渡そうと思って……まさかすでに、これをもらったことを知っていたとは……」
そう言った神名はどこかしぶしぶといった感じで、きつねうどんの食券を差し出した。
ナギはそれを見て今度は両手で教科書を振り下ろす。
あまりの速さと、食券で神名の片手《かたて》が塞《ふさ》がっていたこともあり、その攻撃は彼のこめかみに直撃した。
「うがっ!?」
あまりの衝撃《しょうげき》に彼は食券を手放し、イスから床《ゆか》に転がり落ちる。
「こ、こっちのエビ天うどんが良かったのか……?」
「両方とも、私がもらいます」
神名の手から落ちたきつねうどんの食券と、握られていたエビ天うどんの食券の両方をナギはさっと取り上げる。
「な、何……!?」
「神名くんのものは私のものなのです!」
「なんだ、その素敵《すてき》で自己中心的な考え方は……」
無理にも程《ほど》がある。
神名はナギが持つ食券の一枚に手を伸《の》ばしたが、彼女は渡してくれなかった。
「い、一枚は俺のだぞ!?」
「神名くんはもう十分、サラさんからいろんなものをもらっています!」
「何をだよ!? そもそも俺が初めにもらった食券は燃《も》えちまったんだ! その食券を返さないなら、お前がもらったチョコ・パフェのタダ券をよこせ!」
「いーやーでーすっ!」
教室の一番後ろの席で、ドタバタと喧嘩《けんか》を始める神名とナギ。
出席|確認《かくにん》中に彼らが騒《さわ》ぐのはよくあることで、クラスメートたちも「あ、またか」「朝から元気よねぇ……」などと思いつつ、これまたいつものようにサラから怒鳴《どな》られながら止められるのを待った。
しかし、
「では次、村上《むらかみ》くん」
着々と彼女は出席確認を続けていく。
あれ? とクラスメートたちはサラの様子に首をかしげた。いつもの彼女なら、もうとっくに怒《いか》りのオーラを背後《はいご》にまとっている頃《ころ》だ。
サラはそのままクラスメートの名前を次々と読み上げ、最後にぱたんと出席簿を閉《と》じた。
神名とナギは後ろの方でまだ騒いでいる。
「こんな朝も、たまにはいいですね」
『ええぇぇ―――っ!?』
彼女の一言にクラスの全員が一斉《いっせい》に疑問符《ぎもんふ》を頭に浮《う》かべ、
「神名くん、覚悟《かくご》です!」
「待て――っ! イスはヤバイっ! 死ぬ! ほんとに死ぬ!」
二年一組のホームルームは、珍《めずら》しく騒がしいまま終わった……。
○
妙《みょう》に騒がしい朝と、午前中の授業《じゅぎょう》が終わり、神名たちは昼休みを迎《むか》えた。
僕《ぼく》だけ仲間外れにする気なんだーと騒ぐ祐司も交《まじ》え、今日は四人で昼ご飯を食べることにして屋上へ。
そこには四人が楽に座れるほどの長いベンチがいくつか設置《せっち》されている。グラウンド側の、柵《さく》の前にあるベンチの端《はし》に神名が腰掛《こしか》けると、
「一応《いちおう》、神名くんの分です」
ナギからお弁当《べんとう》を手渡された。
だが、どこか「作ってきたのだから仕方がない」というような雰《ふん》囲気《いき》で、彼女はそれを手渡すと神名とは反対側の端に座り、さっさと自分のお弁当を広げ始めた。
「……なぁ、なんでお前、朝から怒《おこ》ってるんだ?」
「怒ってません」
間に祐司とサラを挟み、神名はナギに問いかけたが、冷たくあしらわれる。
クスクスと笑う祐司に、きょとんとするサラ。
四人はそれぞれの表情《ひょうじょう》を浮かべながら食事を始めた。
サラと祐司は両親が作ってくれたお弁当。
神名が渡されたお弁当はいつもの味で、彼としては味に何の不満もないが、ナギの態度《たいど》が少し気になって、何度か彼女の方を窺《うかが》うものの、ナギは真《ま》っ直《す》ぐか、お弁当を見つめるだけで、こちらには見向きもしなかった。
「何なんだ……」
訳《わけ》がわからず、神名もただお弁当を食べるしかない。
隣《となり》にいた祐司は何やらそれを見て笑っていたが、一つ気になることを思い出して箸《はし》を置いた。
「そういえば最近、昼休みは神名たちの姿《すがた》を見なかったけど、何をしていたの?」
「ん? ああ、生徒会の手伝い」
「……手伝い? 神名が?」
神名の口から「手伝い」という単語が出てきて、祐司は驚《おどろ》いた表情を見せた。
「お前からもそんなふうに言われるとは思わなかったぞ……」
どこか沙耶架《さやか》のときと同じような反応《はんのう》を見せる親友に、神名は眉《まゆ》をぴくっと動かす。
「神名とは長い付き合いだからこそ、今言った発言が信じられないんじゃないか……」
「俺は目覚めたんだ……この学校をより良くしよう、皆《みんな》のために! ってな……」
神名の瞳《ひとみ》は遙《はる》か遠く、青い空を見上げた。
「……芹沢さんから、何かお礼を受け取ってるね、その目は」
さすが祐司。伊達《だて》に神名の親友をやってはいなかった。
「小川くん、正解《せいかい》です。神名くんはサラさんからもらえる食券《しょっけん》目当てに生徒会の仕事を手伝っているのです」
「やっぱり」
ナギがさらっとそのことを暴露《ばくろ》すると、祐司は納得《なっとく》の表情で頷《うなず》いた。
「……お前だってチョコ・パフェのタダ券もらって嬉《うれ》しがってただろ」
神名がナギを睨《にら》むと、彼女も同じような視線《しせん》で返してくる。
「私は神名くんと違《ちが》って、本当に学校の皆のためにがんばろうって思ってます」
「俺と一緒《いっしょ》だ」
「違いますーっ」
「お二人とも、それぐらいにしてください」
睨み合う二人の間にいたサラは、すっと立ち上がって二人の視線を遮《さえぎ》った。
「お二人が手伝ってくれて、私は本当に感謝《かんしゃ》していますよ」
サラがそう言ってきたので、神名とナギは互《たが》いに黙《だま》り込《こ》む。
「ということは、神名が生徒会を手伝っているのは本当なんだ?」
意外そうに祐司がサラを見上げる。
「はい。小川くんもどうです? 一緒に生徒会を手伝ってみませんか?」
「うーん、皆がやっているなら、僕も参加したいかなぁ……」
昼休みに神名がいないと、祐司もやることがない。
「生徒会はいつでも歓迎《かんげい》しますよ」
サラがそう言うと、祐司も快《こころよ》く頷いたが、
「祐司。お前には食券、やらんからな」
神名がポンッと祐司の肩《かた》に手を載《の》せながらそう告げた。
「……別に僕は食券目当てで手伝うわけじゃないからね」
「むっ? タダで働くっていうのか……」
信じられん。神名は目を丸くしながら祐司の肩から手を離《はな》す。
「小川くんはボランティア精神《せいしん》、豊《ゆた》かですねー」
ナギは心の中で「さすが祐ちゃん……私の弟なだけのことはあります」と思いながら、うんうんと頷く。
「……というか、生徒会っていうのが、もともとボランティア活動みたいなものだから、見返りを期待するのがおかしいと思うんだよね」
「何を言う。もらえるものはもらう――これこそ人の正しいあり方だ」
「神名はがめついだけで――ぐっ、ぐぐぐ――っ!?」
「ほーう、いらないことを言うのはこの口か……」
ぎゅーっと神名が祐司の頬《ほお》を引っ張《ぱ》る。するとナギが微力《びりょく》ながら止めに入った。
「や、やめてあげてくださいよー、神名くんー」
ベンチの上で争う三人を、サラは立ったまま見下ろす。
幼馴染《おさななじみ》であり親友でもある神名と祐司。そこへ交じるナギも、何だかんだと楽しそうに見えた。
「こうして友人と楽しく過《す》ごす――良い事ですね……久《ひさ》しく、忘《わす》れていたようです……」
突然《とつぜん》、どこかしんみりとサラが呟《つぶや》いた。彼女はいつもと変わらぬ無表情《むひょうじょう》だったが、風に髪《かみ》を揺《ゆ》らす姿はどこか寂《さび》しげに見える。
ぴたっと動きを止める三人……しかし、祐司がすぐに頬を引っ張られたまま言葉を発した。
「芹沢さんも、こうなりたいの……?」
神名もサラに視線を向けたまま、祐司の頬を伸《の》ばしてみせる。
「いえ……それは遠慮《えんりょ》しておきます。どちらかというと、伸ばす方になりたいですね」
冗談《じょうだん》半分なのか、サラは真剣《しんけん》な面持《おもも》ちでそう言った。
「芹沢さんに頬を引っ張られたら死ぬ」
「言ってくれますね、天倉くん……」
サラは時折、ホームルームで見せる怒《いか》りのオーラを微《かす》かにまといつつ、神名の頬に手を伸ばした。
「うわっ!? 痛《いた》い、痛いって!」
「私はこれでも、力は込めていないつもりです」
神名はその攻撃《こうげき》に祐司の頬を掴《つか》んでいた手を離した。代わりにサラの方へ手を伸ばす。
「お返しだ!」
が、サラも神名からその手を離すと、さっと後ろに身を引いた。
「言ったはずですよ、天倉くん。私は伸ばす側がいいんです」
軽やかに神名の手から逃《のが》れるサラ。だが、そのまま彼女が落下|防止《ぼうし》のための柵《さく》に寄《よ》りかかったとき、バキンッ! 金属《きんぞく》が千切《ちぎ》れるような独特《どくとく》の音がして、サラが寄りかかった柵は落下した。
「っ!?」
柵に体重を預《あず》けていたサラも、当然のように柵と共に後ろ向きに落ちる。
「芹沢さん!」
すでに立ち上がっていた神名は、とっさに地面を蹴《け》って彼女へ腕《うで》を伸ばした。その腕がなんとかサラの左手を掴む。だが、すでに空中へと放り出されていたサラはそのまま落下し、神名は倒《たお》れこみながら右手一本で彼女の落下を防《ふせ》いだ。
「ぐっ――っ」
腕が引き千切られるのではないかと思うほどの痛みが神名を襲《おそ》う。だが、その手を離すことなく、サラを屋上から宙吊《ちゅうづ》りの状態《じょうたい》でなんとか保《たも》つ。
柵がグラウンドに落ちた衝撃《しょうげき》で、屋上にいた生徒や、グラウンドにいた生徒もサラと神名に気づき、声を上げた。
「神名くん!?」
「神名!」
慌《あわ》てて側《そば》にいたナギと祐司も彼に手を貸《か》そうと駆《か》け寄った。
神名が両手でサラを掴み、それを二人が手伝う。
「もう少しだ……っ」
三人で力を合わせ、サラを屋上まで引き上げると、辺りから「わあぁ――っ」と歓声《かんせい》が上がった。
安心感からか、ペタッと屋上に座《すわ》り込んだサラと、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつく神名。ナギと祐司も神名と同様に胸《むね》を撫《な》で下ろした。
「すげーな! 天倉!」
「よくやった!」
どうやら屋上に同じクラスの友達がいたようで、側に駆け寄ってくると神名の頭やら肩《かた》をポンポン叩《たた》いてくる。
「い、いやー、それほどでも」
神名は本気で照れながら、誤魔化《ごまか》すように頭をかきつつそれに応《こた》えた。神名を囲む生徒が少しずつ増《ふ》え、だんだん輪になっていく。
その隣《となり》で、サラを見知った生徒たちが「芹沢さん、大丈夫《だいじょうぶ》!?」と心配そうに駆け寄ってきていた。
サラは少しの間、驚《おどろ》きのあまり呆然《ぼうぜん》としていたが、すぐにいつもの調子を取り戻《もど》し、
「はい、大丈夫です」
と答え、ゆっくり立ち上がった。
そして側にいたナギの方を向き、
「ありがとう、ナギ……あなたがいてくれて、助かりました」
「いいえ、助けたのは神名くんですから……私は手を貸《か》しただけです」
祐司と一緒《いっしょ》にたくさんの生徒に囲まれて騒《さわ》ぐ神名を見ながら、ナギはそう呟いた。
「そんなことはありませんよ……本当にありがとう」
彼女が微かに口元に笑《え》みを浮《う》かべたので、ナギも笑って頷《うなず》き返す。
そしてサラも、神名の方に視線《しせん》を向けた。
「いやー、すごいな、天倉!」
「ああいうときって、普通《ふつう》はなかなか動けないんだよなー」
「まぁ、な……いや、俺の運動|神経《しんけい》なら可能《かのう》だ!」
「神名ー、調子乗りすぎだよー」
褒《ほ》められまくって気分を上げてきた神名を、横から祐司が小突《こづ》く。その様子にまた周りが笑い声で騒がしくなる。
「彼がいてくれて、本当に良かった……」
サラは友達と嬉しそうに話す神名を、穏《おだ》やかな瞳《ひとみ》で見つめた。
その言葉に視線をサラに移《うつ》すナギ。だが、何か言い知れぬ不安に襲われたような表情を浮かべると、静かにサラの横顔から目を逸《そ》らした……。
[#改ページ]
報告書・3 今日の夕食はどうするんですか?
その日、神名《じんな》は二日連続でサラとナギを家まで迎《むか》えに行った。
昨日と同じように玄関《げんかん》のチャイムを鳴らし、ドアが開けられるのを待つ。
しばらくして、ガチャリとドアを開けてくれたのはサラだった。
「おはよう」
右手を上げながら、神名の方から挨拶《あいさつ》すると、彼女は深々と頭を下げた。
「はい、おはようございます」
神名はサラが今日も浮《う》かない顔をして出てくるのではと心配したが、神名の顔を見た彼女は、どこかほっとしているように見えた。
少しは信頼《しんらい》してくれるようになったってことかな――そう考えると、神名は少しだけ嬉《うれ》しくなった。
すでに家を出る準備《じゅんび》は整っていたようで、ナギもすぐに出てきた。
「おはようございます、神名くん」
「おう。それじゃ、三人|揃《そろ》ったところで行きますか」
神名はここまで乗って来た自転車を押《お》しながら、サラの隣《となり》を歩く。ナギも言われるより先にサラを真ん中にして神名の反対側を歩き出す。
「芹沢《せりざわ》さんは、あの朝礼に出るのが面倒《めんどう》じゃないのか?」
神名は辺《あた》りに気を配《くば》りながら、世間話《せけんばなし》も兼《か》ねてそう聞いた。
時間的にはたいしたことのない朝礼だが、毎日、担任《たんにん》の代わりに出るとなると面倒に思えてくるのが普通《ふつう》だろう。
だがサラは「いいえ」という言葉に続けて言った。
「すぐに終わりますから……それに、ほぼ全員の先生が集まりますから、行事やイベントの際《さい》は生徒会の意向を伝えるときに便利なんです。特に文化祭や体育祭のときには各先生方にいろいろと頼《たの》みごとをしたりしますから」
「ああ、なるほどな……いやー、でもそれを聞くとなお更《さら》、大変そうに思えるよ、生徒会は……」
「大変ですよ。今の時期は特に、どうしてもメンバー不足になりますから……お二人が手伝ってくれて、とても感謝《かんしゃ》しています」
「いやいや、それほどでも……」
ははは、と神名は苦笑いを浮かべた。
サラから感謝していると言われたが、神名ができることといったら、掃除《そうじ》や片付《かたづ》け、荷物運びぐらいで、生徒会の仕事とは程遠《ほどとお》い感じだ。三年生の卒業が間近になるとまた忙《いそが》しくなるそうだが……。
「天倉《あまくら》くんも生徒会へ入ったらどうですか?」
サラにそう言われ、神名は苦笑《くしょう》した表情のまま答えた。
「いや、俺《おれ》はなんだか役に立てない気がするし……」
「そんなことはありませんよ。沙耶架《さやか》も喜ぶと思います」
「それはないだろー。俺が生徒会に入るなんて言ったら、『何言ってんの?』みたいな顔するって、絶対《ぜったい》」
するとサラは少しだけ口の端《はし》を吊《つ》り上げ、
「そうでしょうか……でも、生徒会に入っているだけで、良いこともありますよ?」
「食券、もらえる!」
神名はぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》って言った。
彼にとっては最近、食費がかさんでいることが悩《なや》みの種だったので、学校での昼食代が浮くとなれば大助かりだ。
だがサラの言いたいことはそれではなかったようだ。
「違《ちが》いますよ。大学の推薦《すいせん》入試の際などに有利なんです。現《げん》に、それが目的で生徒会に入った子がいるぐらいですから」
「大学の推薦……?」
それは正直、神名にとってはあまり実感が湧《わ》くものではなかった。
「推薦入試に合格《ごうかく》すれば、大学入試の受験料がいりませんよ?」
いらない=タダ。
「あ、それはいいな!」
安い、タダ――神名にとってはそれが何であろうと良いことだ。
神名に生徒会の話をしたサラはナギにも声をかけた。
「ナギ、あなたもどうですか?」
「え? あ、はいっ、何ですか?」
だがナギは神名とサラの話を聞いていなかったようで、慌《あわ》ててこちらを向いた。
「なんだ、聞いてなかったのか? タダだぞ?」
「神名くんの説明では、さっぱり意味がわからないんですけど……」
「生徒会に入らないか、って話だ」
その言葉に「生徒会ですか……」と呟《つぶや》くナギ。彼女は少し迷《まよ》ってから、
「神名くんは……どうするんですか?」
「俺か? んー、放課後はだいたいバイトがあるからな……せっかく入っても昼休みに手伝えるぐらいだし……」
「それでも構《かま》いませんよ」
サラはそう言って神名の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「そうなのか?」
「ええ。できることをやっていただければ、それだけで十分です」
サラが神名を少し見上げ、神名がそれに頷く。
「…………」
ナギにはそれが、とても楽しそうに見えた……。
学校へ着くと、神名が自転車を停《と》めるために三人で校舎裏《こうしゃうら》へ。
この綾月《あやつき》第二両校は、全校生徒の三|割《わり》が自転車通学と言われていて、二百人以上が毎日、自転車に乗ってやって来る。
そのため、登校時間の自転車置き場は、いつも人でごった返していた。
「待たせた」
神名が何とか自転車を所定の場所に置いて鍵《かぎ》をかけると、三人は下駄《げた》箱《ばこ》へ向かって歩き出す。
だが、そのとき、
「っ!」
「っ!?」
神名とナギはほぼ同時に気がついた。何かが落下してくる気配に、二人はそれぞれが迅速《じんそく》に動く。
「サラさんっ!」
「え?」
ナギはぐっとサラの腕《うで》を掴《つか》んでその場から移動《いどう》させ、神名はその視線《しせん》を上に向けた。落ちてきたのは植木|鉢《ばち》。蹴飛《けと》ばすか!?――そう考えたが、周りには他の生徒もいることを思い出す。彼は蹴飛ばすのを諦《あきら》め、落下物を受け止めようと腕に力を入れる。
「ぐっ――っ!?」
思っていた以上に落下の衝撃《しょうげき》が強かったため、危《あや》うく落としてしまうところだったが、神名は何とかそれに耐《た》え、受け止めた。
「っつー。ギリギリだったな……」
彼は受け止めた植木鉢をまじまじと見つめる。
土が入り、これだけ重たくなったものが頭の上に落ちたら……と想像《そうぞう》するのも恐《おそ》ろしい。
神名が改めて上を見ると、
「ご、ごめん! 大丈夫《だいじょうぶ》だったか―――っ!?」
三階の窓辺《まどべ》から、一人の男子生徒が不安そうな顔でこちらを見下ろしていた。その彼に向け、神名は返事を返す。
「おう! だけど気をつけろよな! 当たったら死んでたぞ!? しかも植木鉢が割れて勿体無《もったいな》い!」
「す、すまん! 何だか、たまたま手が当たったみたいで……本当に悪い!」
上から手を合わせて必死に謝《あやま》る姿《すがた》を見て、神名もそれ以上は何も言わなかった。それよりも、とサラの方を見る。
「芹沢さん、大丈夫か?」
「え、ええ……ナギとあなたのおかげで助かりました……窓辺に置いてある植木鉢は撤去《てっきょ》したほうが良さそうですね……」
彼女はすぐに自分の心配よりも、同じことが起きた場合、他の人に降《ふ》りかかるであろう危険《きけん》を考えて心配し始めた。
神名はそれに苦笑しながらも、ナギに視線を向ける。
「……どう思う、今のは?」
「偶然《ぐうぜん》にしてはピンポイントすぎると思います。その植木鉢は明らかにサラさんを目掛《めが》けて落下してきたという感じでした……」
神名の問いかけに、ナギは率直《そっちょく》に感じた通り話した。
残念ながら、神名も同意見だ。
「俺もそう思う……」
サラの〈死〉を呼《よ》び寄《よ》せる状態《じょうたい》は、小さな兆《きざ》しから徐々《じょじょ》に大きくなっていくという。
昨日、起こった屋上の件もある。本格的にサラへ〈死〉が近づき始めているということなのか……。
「気を引き締めていくぞ」
「はい」
神名とナギは一層《いっそう》、周りに気を配りつつ、サラとともに教室へ向かった。
だがその途中《とちゅう》、妙《みょう》に多くの生徒たちから視線を受けていることに気づいた。
「?」
不思議に思いながらも無視して教室へ向かうと、すでにやって来ていた祐司《ゆうじ》が手招《てまね》きをしながら神名を呼んだ。
「神名〜」
サラは担任の白野が来ている、いないに拘《かか》わらず、朝は職員室《しょくいんしつ》に行くことにしているので、神名は教室に入って鞄《かばん》を置いたらすぐに教室を出るつもりだったし、どちらにしろ祐司は神名の隣の席だ。
「なんだ、祐司?」
机《つくえ》の横に鞄をかけながら、少しだけ親友に付き合ってやろうと顔を向けた。
「今日も芹沢さんと仲良く登校?」
「おう。三人|一緒《いっしょ》だ」
「ふーん」
なにやら祐司が勘《かん》ぐるような視線を向けて来たので、やっぱりすぐに教室を出るべきだったと思いながら睨《にら》み返した。
「なんだよ?」
「ううん。ずいぶんと噂《うわさ》になってるよ、神名」
「……噂?」
「そう。昨日は『朝のホームルーム中に突然《とつぜん》、芹沢さんを押《お》し倒《たお》して、その後に飛んだらしい』って噂が流れていて――」
「な、なんだそりゃ……」
「神名、既成《きせい》事実ってやつだよ」
「ねぇよ! そんな事実は!」
神名は思わず祐司の襟首《えりくび》を掴んで激《はげ》しく揺《ゆ》さぶったが、祐司はめげずに続けた。
「うわっ、待ってよー。べ、別の噂も流れてるよ? 『芹沢さんが屋上から落ちそうになったところを助けたらしい』って」
「……まぁ、それは事実だな」
「でもそれを同時に聞いた人が勘違いしたんだろうね……神名が『芹沢さんを押し倒そうとして屋上から突き落としてしまったが、空を飛んで助けたらしい』っていう、ごちゃまぜになった噂も流れてるみたい」
「それは人間じゃねーだろうが!?」
「ぼ、僕《ぼく》が言っているわけじゃないよーっ」
祐司の言葉はもっともだったが、神名は構《かま》わず彼の首を揺さぶった。だがすぐに興味《きょうみ》を失ったような顔をすると、その手を放す。
「まぁ、いい。お前とこんなことをしていたら、売店に行く時間がなくなるからな」
「あれ? 今日も朝食|抜《ぬ》きなの? 無駄《むだ》遣《づか》いを極限《きょくげん》まで嫌《きら》う神名が、わざわざお金をかけてまで朝食を売店のパンにするなんて……風流《ふうりゅう》さんの朝ご飯は?」
神名にとって、ナギの作る料理は格別だ。
どこかの高級料理より、ナギから「これでも食べていてください」と言って出される料理の方が断然《だんぜん》、美味《うま》い。
だが、
「今はやむを得ない状況《じょうきょう》なのだ」
「……また、風流さんと喧嘩《けんか》でもしたの?」
「なんでそうなる。そんなんじゃない」
祐司にそう言い、ふと視線をサラに向けると、彼女は職員室へ行こうと神名を待っているところだった。
「おっと、じゃ、また後で」
「今度は三人で職員室? なんだかすごく怪《あや》しいよ……」
「世の中には知らないほうが幸せなこともあるのだ」
「あー、また僕だけ仲間外れにする気なんだー」
「アホか」
神名は祐司にそう言いながら苦笑し、三人で教室を出て行く。
職員会議に出席するのは今日で二回目。とにかく黙《だま》ってサラの後ろに立ち、ナギと一緒に話を聞いていたのだが、どう考えても自分たちは場違《ばちが》いだと思う。
ただその中で、サラがどこか雰《ふん》囲気《いき》に溶《と》け込んでいるように見えたのは、もう慣《な》れてしまっているからだろう。
朝礼は十五分ほどで終わった。ほとんどが教師《きょうし》への連絡事項《れんらくじこう》で、生徒へ伝えるような事柄《ことがら》は特になかった。
教室へ戻《もど》った後はいつも通りで、サラが教卓《きょうたく》の前に立って出席|確認《かくにん》をする。
それが終わると次は授業《じゅぎょう》が開始。
授業中はサラの身に危険が及《およ》ぶような事態にはならないだろうと、ナギはようやく安堵《あんど》の息をついた。
サラのことは絶対に守ってあげたい――ナギはもちろんそう思っていたが、一日中、意識《いしき》を張《は》り巡《めぐ》らせていたら、さすがに疲《つか》れてしまう。休めるときは休むべきだ。
だが、ふと前に座《すわ》る神名を見ると、彼はじっと、サラの方を見つめながら、常《つね》に彼女の状態に気を配っていた。
普通《ふつう》に見ていると、不審《ふしん》に思うぐらい数分に一度は必ずサラの方をじっと見ている。
任務《にんむ》のため、食券のため、そして何より友達である彼女のために、神名はがんばっているのだと思う。だが……。
「…………」
ナギには彼の行動が、ただそれだけのためではないように思えた。
(神名くん……)
ナギはそれを、自分でもよくわからない、複雑《ふくざつ》な心境で見つめていた……。
○
その日の授業がようやく半分終わった頃《ころ》、神名は教科書を机《つくえ》の中にしまい、さて昼メシはどうするかと顎《あご》に手を当てた。
とりあえずナギの方へ振り返ろうとして、一瞬《いっしゅん》、その目が窓《まど》の外に向けられたとき、ヒラヒラと小さな紙切れが舞《ま》い降《お》りて来て、窓枠《まどわく》の下の方に引っかかった。
普通ならそれを見ても気に留《と》めなかっただろうが、その紙が綺麗《きれい》に二つ折りされていることに気づき、神名は何となく窓を開けてそれを掴んだ。
「神名くん、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと……」
神名自身もよくわからなかったので、そう言葉を濁《にご》しながら紙を開いてみる。するとそこには『天倉くんは屋上へ来るように 美人の上司より』と書かれていた……。
ぐしゃ。
神名はそれをすぐに握《にぎ》りつぶした。
「い、今のって……」
ナギの目にも一瞬、内容《ないよう》が見えたようで、どこか恐る恐るといった表情で神名が握りつぶした紙を指差した。
「……イリスだろうな……くそっ、こんなのを他の誰《だれ》かに見られたらどうするつもりなんだ……」
一瞬、フルールの陽動かもしれないと思ったが、彼がイリスのことを「美人の上司」などと書くわけがない。
神名はわなわなとその腕を震《ふる》わせると、紙をポケットに突っ込んだ。
「ナギ、芹沢さんのことを頼《たの》む。すぐに戻るから」
「あ、はい」
ナギが頷いたのを確認し、神名は教室を出た。
今の屋上は立ち入り禁止《きんし》の状態だ。昨日、サラが屋上から落ちかけた一件で、グラウンド側のフェンスがなくなっているため危険だ、と封鎖《ふうさ》されてしまったのだ。
屋上へ上がって行くところを誰かに見られると後で面倒《めんどう》なので、一応、辺りを窺《うかが》ってから階段を上る。
屋上の出入口は二|枚《まい》のドアが観音《かんのん》開きになっていて、普段は朝から夕方まで開いている。
夕方六時を過《す》ぎると、警備《けいび》のおじさんが二つのドアの取っ手を鎖《くさり》で繋《つな》ぎ、南京錠《ナンキンじょう》でカギを掛《か》けてしまうのだが、今は立ち入り禁止になっているので、すでにその状態になっているはずだった。
イリスに呼び出されたものの、そこへどうやって行けというのか……と悩《なや》みながら出入口の前に行ってみると、カギは掛かっていなかった。
(イリスか?)
おそらく、そうだろう。神名は扉《とびら》の取っ手に手をかけ、屋上へ出た。だが見渡《みわた》すまでもなく、そこには誰もいなかった。
「? イリス?」
すると背後《はいご》のドアがすっと閉《し》められ、ドアが内側から開けられぬよう、二つの取っ手部分に長い棒《ぼう》――いや、巨大《きょだい》な青い鎌《かま》が差し込まれた。イリスの鎌、〈ブルーモール〉だ。
「思ったより早かったわね」
イリスは気配なく神名の背後に舞い降りていた。
それに神名が振り返るより早く、彼女はすたすたと歩いて屋上の真ん中へ進む。
イリスはいつもと変わらず、黒い死天使長の制服《せいふく》をまとっていた。
「こんなところに呼び出して、何の用だ?」
「ちょっとね……一つだけ、新しくわかったことがあって」
教室にナギとサラを残して来ている。だから焦《じ》らせずに教えろ、と神名は目でそう告げた。イリスもそれは当然わかっていたので、単刀直入に用件《ようけん》を伝えた。
「私は、芹沢サラの魂《たましい》を本格《ほんかく》的に不安定にしたのは……あなたと深瀬沙耶架だ、という結論《けつろん》に至《いた》ったわ」
「な、なんだって?」
サラの魂はフルールの鎌によって不安定になったが、それに加えて別の要因《よういん》が新たに起こり、サラの魂は本格的に不安定な状態《じょうたい》になったという話だった。
その別の要因とは、神名たちに復讐《ふくしゅう》するためにサラを利用しようとしているフルールがまたさらに何か影響《えいきょう》を与《あた》えたのだと思っていた。
だが、サラの魂に影響を与えたのはフルールではなく、神名と沙耶架であるとイリスは言ったのだ。
「魂が不安定になっている人間が、二人のソウル・イレギュラーと関わることで、本格的に異常《いじょう》をきたした、というわけね……」
「ま、待てよ! それじゃ……芹沢さんが今の状態になったのは、俺《おれ》と深瀬にも原因があるってことなのか!?」
「……ええ。でも、あくまで最初の原因を作ったのはフルールよ。彼が一番悪いわ。あなたは居合《いあ》わせただけ。深瀬沙耶架もね……」
イリスはそう言ったものの、神名は少なからず衝撃を受けた。
自分が知らないうちに、誰かを傷《きず》つけてしまうのはとても怖いことだ……。今のサラがまだ傷一つ負っていないのが不幸中の幸いだったが、その話を聞いた神名はぐっと拳《こぶし》を握り締《し》めて言った。
自分が原因で誰かが死ぬ――そんなことは、もうたくさんだ……。
「これを知らせたからといって、何かが変わるわけではないけれどね……」
「変わったさ……俺のせいで芹沢さんが死ぬかもしれないんだぞ?」
「あなたが彼女を守ることに変わりはない。守りきれば、原因はなんであれ問題ないわ」
「…………」
確《たし》かにイリスの言う通り、それなら結果は変わらない。
だが神名の言いたいことは、そうではないのだ。
サラを守る――その意味が、理由が、責任《せきにん》が、重みを増《ま》す。
そんな神名の心の内を知ってか知らずか、イリスは淡々《たんたん》と話を進める。
「最近の様子からして、死に直結する出来事が起こる日は近い。警戒《けいかい》を怠《おこた》らないで」
彼女はそう言うと屋上の出入口に向かい、〈ブルーモール〉を手に取って空へと上がって行った。
すぐに教室へ帰らなければならない。
神名はそうわかっていたが、なかなか足は思った通りに動いてくれなかった……。
○
教室でお弁当《べんとう》を食べながら神名を待っていたナギは、時々、辺りをキョロキョロ見ながら箸《はし》を動かしていた。
(遅《おそ》いですね……神名くん)
どうしてイリスに呼ばれたのかが気になって、ナギは食事どころではなかったが、彼からサラのことを頼むと言われた以上、そちらに気を配る。
サラはナギの隣《となり》で一緒《いっしょ》に昼食をとっている。
さらに三人の女子も一緒だ。彼女たちも普段は屋上で食事をしているのだが、今日は立ち入り禁止になっているため、皆《みな》で一緒に食べることになったのだ。
ナギはいつも神名と食事をしているので、こういう昼食は初めてだった。
せっかくなので楽しみたいところだが、ナギは時々クラスメートたちの話に相槌《あいづち》を打ちながら周囲に気を配らなければならなかった。
今は神名たちがサラの窮地《きゅうち》を救った話で盛り上がっている。授業《じゅぎょう》の合間に、神名の姿《すがた》を見に来る生徒が現《あらわ》れるぐらいで、その中には一年生や三年生の姿もあったとか。
話だけを聞くと、まるで映画《えいが》のワンシーンのようなので、生徒たちが夢中《むちゅう》になるのもわからなくはない。
そこへ、
「あ、風流さん。呼ばれてるよ?」
「え?」
一緒にお弁当を食べていた女子の一人が、そう言って廊下《ろうか》の方を指差した。
神名が帰ってきたのか? そう思ったが、なぜか祐司が教室の入口からこちらに向かって手招《てまね》きしていた。
「?」
不思議に思いながらも、一度サラの方を確認《かくにん》してから立ち上がる。サラの周りには三人のクラスメートがいるし、廊下に出てもいざとなればすぐに駆け寄れる距離《きょり》だ。これなら少しぐらい離《はな》れても大丈夫《だいじょうぶ》だろうと判断《はんだん》し、ナギは祐司に近づいた。
「どうしたんですか? 小川くん」
「ごめん、食事の邪魔《じゃま》したね。神名、知らないかな? どこを探《さが》してもいなくて、風流さんと一緒かと思ったんだけど……」
「神名くん、ですか……知らないです」
まだ屋上にいるかもしれないが、イリスと鉢合《はちあ》わせになるかもしれないので祐司には教えられない。そもそも神名がすでにこちらへ向かっているとすれば、正確な場所はわからない。
「本当に?」
「はい、ごめんなさい……」
「そっかー。ちょっと気になることがあったんだけどね……」
どうしようかなぁ、と考え込む祐司。だが、ふとあることに気づいて再《ふたた》び顔を上げた。
「……ええっと最近、神名が朝も夜も簡単《かんたん》な食事で済《す》ませてるみたいだから、何かあったのかなぁーっと思って……」
祐司はもちろんナギが神名の食事を作っていることを知っていた。しかし、だからこそそれをナギに聞くのは憚《はばか》られたが、苦笑いを浮《う》かべながら静かにそう尋《たず》ねた。
彼は、神名のことを心配していたのだ。
「神名くんのこと、いろいろ考えてくれているんですね……」
そう言うと、祐司は照れたようにいつもの笑顔を浮かべた。
「親友だからね。それに、神名は放っておくと毎日コンビニでご飯を済ませちゃうから……それで栄養不足なんかになられたら、きっと姉さんに怒《おこ》られる」
「そう、ですね……」
「うん。だから前はね、時々、僕《ぼく》が神名の家の冷蔵庫《れいぞうこ》に食材を入れてたんだー。そうすると食べないと腐《くさ》っちゃうでしょ? だから神名は『腐らせるぐらいなら食う』って自分で料理したこともあるんだよ?」
「え? 神名くんって料理できるんですか?」
「ううん。一回やって、失敗して……『こんなもんは光熱費の無駄《むだ》だ』とかって負け惜《お》しみ言ってから、二度目は見てないね。それから何度か野菜や卵《たまご》を入れておいたことがあるけど……たぶん、そのまま食べてたんじゃないかな? サラダとか、ゆで卵とかにして」
そういえば初めて神名の家に行ったとき、何気なく冷蔵庫の中にあったもので料理を作ったことがあるが、あれは祐司が入れておいたものだったのだろう。
「でも、最近は風流さんがいてくれるから助かるよ。やっぱり恋人《こいびと》がいると違《ちが》うねー」
「え!? わ、私は恋人なんかじゃ……」
するとナギの声が少しずつ小さくなっていく。
祐司はそれについては何も言わず、話を続けた。
「その、何かあったの? 神名は喧嘩《けんか》なんてしてないって言ってたけど……」
「…………」
祐司は苦笑《くしょう》しながらも、どこか心配そうに尋ねてきたが、ナギはそれに答えなかった。
仕方なく祐司はそれ以上聞くのを諦《あきら》める。
「ごめん。今の話は気にしなくていいから。それじゃ、僕は神名を探しに行くよ」
それにナギが頷《うなず》くのを見てから、祐司はナギに背《せ》を向けた。
しかし数歩、歩いたところで
「あ、でも――」
「?」
「神名は何か考えがあって、行動していると思うよ。それと、もし風流さんが嫌《いや》でなければ、夜は神名に何か作ってあげて」
祐司はそう言っていつものようににっこりと笑うと、廊下を歩いて行った。
たぶん彼の言う通りだろう、とナギも思っている。
だが、神名が何を考えているのか――ナギにとってはそれが問題なのだ。
(戻《もど》ろう……)
あまりサラの側を離れているわけにはいかない。そう思って彼女のところへ戻ることにした。
昼食を終えたクラスメートたちが「外でサッカーやらねー?」「あ、俺も行く!」だとか「図書室に行こうよ。新刊《しんかん》が入って来ているらしいよ?」と各々《おのおの》の昼休みのために教室を出て行く。
珍《めずら》しいことに、中はサラたち四人だけになっていた。
だがサラは何事もなくクラスメートたちと話をしている。数分ほどの間だったが、その間に何もなかった、とホッと胸《むね》を撫《な》で下ろしながら、ナギは教室に入ろうとしたが、
「天倉くんかー。うん、悪くないかなー」
「だよね。私はけっこうカッコイイと思うよ?」
神名について話し合う声が聞こえた。
ナギは何故《なぜ》かそこで立ち止まり、すっとドアの陰《かげ》に隠《かく》れてしまった。自分でもどうしてそういう行動を取ったのかわからなかったが、その場で聞き耳を立てる。
「でも、お金の話になると細かいよね」
「彼は一人|暮《ぐ》らしですから。お金のことには気を遣《つか》っているんですよ、きっと」
神名のことをそう言ったのはサラだ。
ナギがよく神名のことを話すので、サラも神名のことなら大体、知っている。
「そういえば最近、芹沢さんも天倉くんとよく一緒にいるよね?」
三人の内の一人が、そう言ってサラの顔を覗《のぞ》き込《こ》む。するとどこか面白《おもしろ》そうに他の二人もサラを見た。
「ええ、まぁ……でも、考えてみると不思議な人ですね、天倉くんは……。教室で騒《さわ》いでいると思えば、出席|確認《かくにん》を始めた途端《とたん》に静かになりますし、皆勤賞《かいきんしょう》のためとは知っているものの、あそこまで必死に皆勤賞を取ろうという人は見たことがありません」
「まぁ……確かに」
普段の神名を思い浮かべ、三人の女子たちはそれぞれ苦笑した。
そして、サラはさらに続ける。
「私もつい最近まで、彼はお金に関わることだけに重点を置く人だと――ずっとそう思っていました。ですが……」
彼女の口元が、少しだけ微笑《ほほえ》みに変わる。
「それだけではありませんでした……彼は自分以外の人のことを、真剣《しんけん》になって考えられる人なんです。本当に優《やさ》しい人なんですよ」
そう言ったサラの言葉に、「へぇー」「おー?」と側にいた三人が声を上げた。そして昨日のことを思い出しながら、サラに告げる。
「芹沢さん、昨日は命まで助けてもらったんだもんねー。で? どうなの、天倉くん」
聞かれた質問《しつもん》に、サラは目を閉じて沈黙《ちんもく》した。
しばらく無言になり、三人の少女は返答を待つ。
サラが目を開けた。
「……今……一番、恋人になって欲《ほ》しい人ですね」
(え……)
教室の中から聞こえたサラの言葉に、ナギは我《わ》が耳を疑《うたが》った。
だが、聞き間違いではない……確かに今、サラはそう言った。
神名のことを、一番、恋人になって欲しい人だ、と。
教室の扉を背に、ナギはただ黙《だま》ってその場に立ち尽《つ》くした……。
○
結局、ナギは昼休みの大半を廊下《ろうか》で過《す》ごした。サラとクラスメートの話を聞いて、中に入りづらくなってしまったからだ。
しばらくして神名も教室に帰って来たが、自分の席に座《すわ》ると、何やら難《むずか》しい表情《ひょうじょう》をしたまま黙っていた。ナギがせっかく作って来たお弁当《べんとう》にも箸《はし》を付けなかった……。
複雑《ふくざつ》な表情を浮かべる神名とナギ。
それは放課後になっても変わらなかった。
下校しようとすると、祐司が「僕も帰るよ」と一緒《いっしょ》について来る。
神名は廊下や下駄《げた》箱《ばこ》で他の生徒とすれ違うたびに、指差されたり、声をかけられたりした。屋上が封鎖《ふうさ》されたこともあって、神名たちの話は瞬《またた》く間に広がったようだ。
しかも正門の前では、
「天倉くーん、ばいばーいっ!」
「お、おう」
何人かの女子生徒に手を振《ふ》られ、それに神名は応《こた》えたものの、
「……あれ、誰《だれ》だっけ?」
見知らぬ生徒に名前で呼ばれ、困惑《こんわく》した……。
「七組の人だったと思うけど……はは、すっかり有名人だねー、神名は」
「正直、居心地《いごこち》が悪い……」
「まぁ、まぁ、そう言わない」
自転車を押《お》して歩く神名に、同じように自転車を押す祐司が笑いかける。彼はひとしきり笑った後、自分の自転車にまたがった。
「あれ? 一緒に帰るんじゃないのか?」
祐司とは帰る方角が同じなので、てっきり一緒に帰るのだと思っていた。
「うん。僕は今から本屋に行こうと思って。神名は風流さんと芹沢さんをしっかり家まで送り届《とど》けてあげて」
普段なら、神名も祐司と一緒に本屋へと考えただろうが、今の状況《じょうきょう》にそんな選択肢《せんたくし》はない。無論《むろん》、祐司の言うようにするつもりだった。
「わかった」
「じゃ、よろしく。それじゃ、また明日ー」
祐司はそう別れを告げると自転車ですーっと走り去って行った。神名はそれを少しだけ見送り、すぐにサラの方へ視線《しせん》を戻す。
「……俺たちも帰ろう」
「はい」
家に向かって歩き始める神名とサラ。
だが、ナギはどこか迷《まよ》ったような表情を浮かべて立ち止まっていた。
「あ、あの……神名くん」
「? どうしたんだ?」
「……今日の夕食はどうするんですか?」
神名のために朝ご飯と夕ご飯を作る――それがナギの日課だった。
だが朝食は今日も含《ふく》めて三日は作っていない。今日の夕食も作らないことになれば、ナギは神名の家に三日も行っていないことになる。
今のナギには家も家族もいない……。
そんな彼女にとって、居候《いそうろう》させてもらっているサラの家が自分の家であり、家族だと半分は思っている……だが、もう半分は神名の家が自分にとっての家だと考えていた。
そこへ三日も足を運んでいないのは、どこか妙な気分だった……。
だが神名はナギがそんなことを考えているとは思わず、
「いや、いい。適当《てきとう》に済《す》ませるからさ……それより、芹沢さんのことを頼《たの》む」
「た、確《たし》かにサラさんのことは心配ですし、護衛《ごえい》はしっかりやるつもりですけど、神名くんの夕食だって……」
「三日ぐらい夕食がコンビニ弁当でも死にはしないって。そもそも、今までずーっとそんな感じの生活だったんだぞ、俺は……」
神名は両親が転勤《てんきん》で家にいないため、広い家に一人暮らしだ。よって、ここ数年はずっとレトルト食品やコンビニ弁当が主だった。祐司の家でご馳走《ちそう》になったり、彼と外食することもたまにあったが、今更、三日ぐらいナギの夕食を食べなかったからといって、死ぬわけではない。
「だから心配いらない」
そう神名は言った。
するとナギは少し迷《まよ》ったが、
「と、年上の私が心配しないで、誰が心配するんですか?」
むっと頬《ほお》を膨《ふく》らませ、神名にそう言う。
小川|千夏《ちなつ》だった頃のナギは、神名より五つ年上のお姉さんだった。
神名はそれを理解《りかい》し、どこか眉《まゆ》をひそめたような表情をしたが、しばらくして――
「お姉さんに心配されなくても、俺《おれ》は十分、一人で生きていけるよ」
「レトルト食品とコンビニ弁当で、ですか?」
「ああ。子供《こども》じゃあるまいし、自分のメシぐらいどうにかするさ……芹沢さんもそう思うだろ?」
神名は少しだけむきになったようにサラへ視線を移《うつ》した。
だが彼女は、ナギが年上で、神名がナギをお姉さんと呼んだことに困惑《こんわく》している様子だった。しかしそれについて神名たちが説明してくれそうにないことを悟《さと》ると、冷静になって神名の言葉を考察した。
「いえ……食生活は大切ですから。私はできることなら、ナギの料理をお勧《すす》めします」
サラにとっては当然の判断《はんだん》だったが、神名はそんな単純《たんじゅん》なことだけではない、と首を振《ふ》った。
「それだけの問題じゃなくて……俺の夕食を作るためには、ナギが俺の家に来ないといけない。でもその間、芹沢さんはどうするんだ? 俺たちは少なくとも、一人が側についていないといけない」
「……だったら、天倉くんが私の家に来れば良いのでは?」
「それは……」
神名はサラの提案《ていあん》を想像《そうぞう》してみた。
彼女の家の食卓《しょくたく》で、ナギの作る料理を待つ――隣《となり》にはサラと、彼女の両親。
「――無理」
不可《ふか》能《のう》。心が耐《た》えられそうにない……。
そんなことになれば、おそらく神名はひたすら汗《あせ》と苦笑いを浮《う》かべながら待つことになるだろう……。
その彼の表情から、考えていることが容易《ようい》に想像でき、サラは仕方なく別の提案をした。
「わかりました……では、私も天倉くんの家に行きましょう」
「え? いいんですか?」
そう聞いたのはナギ。
サラは頷《うなず》き、さっそく歩き出した。
「はい。それに一度、天倉くんの家を見てみたいと思っていたので……」
「え? なんで?」
「ちょっとした好奇心《こうきしん》ですよ。では、行きましょう」
スタスタと神名の家の方へ向かって行くサラ。
神名とナギはそれを追うように隣へ並《なら》び、家に向かった。
普段《ふだん》なら自転車で帰る距離《きょり》を三人で歩いたので、かなり時間はかかったが、途中《とちゅう》に何のアクシデントもなく到着《とうちゃく》した。
神名が家の鍵《かぎ》を開けると、ナギとサラをリビングの方へと促《うなが》す。もともとナギはそのつもりだったので、言われるまでもなくそちらへ。
「お邪魔《じゃま》します……」
サラは玄関《げんかん》から家の中を見回した後、靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、少し遠慮《えんりょ》がちにリビングへ進んだ。
「これが天倉くんの家ですか……」
「ああ……別に何の変哲《へんてつ》もない家だと思うけど……」
「綺麗《きれい》に片付《かたづ》いていますね……」
サラは少し意外な様子でリビングを見渡《みわた》した。
「まぁ、な……」
神名はこれでも片付けはきちっとやる方だ。週に何度か掃除《そうじ》をするし、ゴミはゴミ箱へと徹底《てってい》していれば、家の中がそんなに散らかることはない。
まして数日前、チョコレート・パフェを食べに連れて行くという条件《じょうけん》で、ナギが食器|洗《あら》いと家の掃除をかって出て、徹底的に掃除したばかりだ。
そういえば、まだその約束を果たしていない。だが、どうやらそれを守るのはまだ先になりそうだ……。
ナギは手元からすっとベルを出現させると食卓のイスに座らせ、台所の方へ。
『なんだ、もう夕方か……今日は一度も外に出られなかったな……』
誰にともなく、ベルがそう呟《つぶや》くと、近くにいたサラはびっくりして、ベルをまじまじと見つめた。
「こ、言葉を話すのですか?」
「あぁ、そういえば、ベルのことは話してなかったな……」
目を丸くする彼女に、神名はひょいっとベルを手渡した。サラがそれを受け取ると、ベルはどこか緊張《きんちょう》したように話し始める。
『あー、初めましてと言うべきかな? 私の名前は〈ベル・フィナル〉という……話せることを黙《だま》っていて、すまなかった……』
サラにはそれが、ナギから「幸運を運んでくれる卵《たまご》です」と渡されたときのことを言っているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「……いえ、構《かま》いませんよ。あなたにもいろいろと事情《じじょう》があったのでしょう……それよりこうやってお話しできたことが何より嬉《うれ》しいです」
死神の鎌《かま》と会話する――普通ならありえない体験だ。
「あなたが言葉を話すのなら、天倉くんが持っていた黒い方も話すのですか?」
『いや、神名の持つ〈エカルラート〉と私は対《つい》を成《な》す存在《そんざい》だが……言葉を話すのは私だけだ。これでも封印《ふういん》指定を受けるほど強力な、伝説の鎌と言われているんだぞ?』
ベルが誇《ほこ》らしげにそう言うと、サラはナギと神名を交互《こうご》に見た。
「そうなんですよ」
「一応《いちおう》、そいつの言っていることに間違いはない」
「す、すごいのですね……」
サラはどうしてそんなものを神名たちが持っているのかと疑問《ぎもん》に思ったが、それには触《ふ》れず、ベルの言葉に耳を傾《かたむ》けた。
『聞いてくれ、サラ……こいつらときたら、こんな私をひどい扱《あつか》い方ばかりするんだ……』
「そうなのですか?」
サラが聞き返すと、ベルはようやく話を聞いてくれる人に会えた、とベラベラ話し始めた。
『ああ……投げるわ、ぶつけるわ、川に投げ込《こ》むわ、味噌《みそ》汁《しる》に浸《ひた》すわ、やりたい放題なんだ……ううぅ』
「そ、それは大変ですね……」
サラはベルの悲惨《ひさん》な境遇《きょうぐう》に言葉を詰《つ》まらせた。
すると神名が、
「そいつは嘘《うそ》ばっかりだ」
『事実だろっ!? お前たちはいつも、いつも……』
その台詞《せりふ》だけでどちらが正しいのか判断《はんだん》し、サラはベル側についた。
「優《やさ》しくしてあげないと可哀相《かわいそう》ですよ……天倉くん」
「いや、俺は十分、優しいって」
『サボテンと一緒《いっしょ》に土の中に埋めようとしたりするのにか?』
「あれが俺の優しさだ」
『意味がわからん』
「そんなことまでしているのですか……?」
「芹沢さんは優しすぎるんだ……こいつにはそれぐらいが丁度《ちょうど》いいんだって」
『サラが優しいのは本当だが、後半は納得《なっとく》できんぞ……』
神名とベルが言い合いを始め、サラが困惑しながら止めに入る。
「…………」
エプロンをつけたナギは台所からその話にしばらく聞きいっていたが、唐突《とうとつ》に顔を伏《ふ》せるようにして料理の準備《じゅんび》を始めた。
材料の準備や、献立《こんだて》も決めずにやって来たため、まずは冷蔵庫の中身を確《たし》かめようと開いてみたが、
「え?……な、何もないです」
冷蔵庫の中身はすっからかん。
「じ、神名くん、冷蔵庫の中身が何もないんですけど……」
ナギは予想外の事態《じたい》に神名の方を向いた。
「俺が食材なんて滅多《めった》に買わないって知ってるだろ……それにさっき言ったはずだ。最近はずっとコンビニ弁当《べんとう》だって。そりゃあ、冷蔵庫の中身はカラに決まってる」
「……じゃ、じゃあ、今から何か買ってきますっ」
ナギがそう言ってリビングを出て行こうとすると、神名が腕《うで》を掴《つか》んで止めた。
「いや、いいって。今から買い物に行って料理してたら、時間がかかるだろ?……芹沢さんの帰る時間が遅《おそ》くなる」
「で、でも……」
「いらない」
「……え?」
「夕飯はいらない。だから、日が暮《く》れる前に早く帰れ」
暗くなってしまったら、とっさに襲《おそ》い掛《か》かる危険《きけん》を察知しにくくなる。サラのためにもナギのためにも、早く帰った方がいい――そう思ったのだが、
「……わかりました。もう、帰りますっ」
ナギはエプロンを取って神名に投げつけると、テーブルの近くに置いてあった鞄《かばん》を手に取った。
「え? おい?」
投げつけられたエプロンを手に、神名はナギを止めようとするが、彼女に伸《の》ばした手は本人にパシッと払《はら》われた。
「帰ります」
『お、おーい、ナギ。私を忘《わす》れているぞー』
「ベルちゃんなんて、いりませんっ!」
ガーンッ!
ショックのあまり、ベルはその一言で何もしゃべらない置物になった……。
それに気づくことなく、ナギはリビングを出て玄関に向かっていく。
「おい、ナギ!?」
神名はそんなナギを追うように廊下《ろうか》へ出た。だがナギは一度こちらを振り返ったものの、無言でこちらを睨《にら》み、玄関から出て行ってしまった……。
「ナギ、待ってください!」
するとサラも鞄を手に、ナギを追いかけようと玄関へ。
「え、芹沢さん!?」
「私はナギを追いかけます。すみません、お邪魔しました」
「ちょっと待った! 俺も――」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。それでは」
サラは神名に一礼すると、急いでナギを追って出て行った。
神名も追いかけようと思ったが、サラの瞳《ひとみ》が「ついてこないでください」と言っているように見えて、呆然《ぼうぜん》としてしまう。
ナギやサラの行動が全く理解《りかい》できず、神名は困惑《こんわく》した……。
○
神名の家を飛び出したナギは、行く当てもなく歩いていた。
だがそこで、サラを置いて飛び出して来たことに気づき、慌《あわ》てて戻《もど》ろうとしたが、今更《いまさら》戻れるわけがない、と思い直す。
「何やってるんだろ……私」
自分のしたことに対する後悔《こうかい》から、ポツンとそう口にした。
サラの家には帰れない。帰って、サラに合わせる顔がない。だが、神名の家に戻るのも嫌《いや》だった……。ナギは道端《みちばた》で立ち止まり、どうするべきかと迷《まよ》っていると、
「ナギっ!」
後ろから、サラが追いかけて来るのが見えた。
「サ、サラさん……」
ナギの姿《すがた》を捉《とら》えた彼女は、すぐに駆《か》け寄《よ》ってナギの目をしっかり見た。
「あなたが帰るなら、私も帰ります」
ここまでずっと走って来たせいか、サラは激《はげ》しく肩《かた》で息をしながらそう言った。
ナギはその姿に申しわけなく思い、
「ごめんなさい……」
と、うな垂《だ》れた。
彼女を守ると言っておきながら、神名の家を飛び出し、置いてきてしまった。
「ナギ……一体、どうしたのですか?」
だが、サラはナギが思っていたことを気にしている様子はなく、むしろナギが飛び出していったことの方が気になっているようだった。
神名やベルが言っていた通り、彼女は本当に優しい人なのだ……。
「……私で良ければ、相談に乗りますよ?」
穏《おだ》やかな声でサラがそう言ってくれる。
だが、ナギは口を開くことができなかった。
二人の間に続く沈黙《ちんもく》。
「……私は――」
しかし、そこでようやくナギが口を開こうとしたとき、
ボウッ!
空が赤く光り、サラの真上を照らした。
日はすでに沈《しず》んでいる。それは夕日などではなく、赤い炎《ほのお》の光だった。
「っ!? サラさんっ!」
とっさにナギはサラに近づき、その場から押《お》し飛ばすようにして共にその炎から逃《のが》れた。
地面に倒《たお》れるサラ。ナギはすぐに上体を起こして辺りを見回した。
「ふっふっふ……こんな暗い道を二人で歩くとは、無用心だな……」
その声と見えない姿。
敵《てき》の正体を悟《さと》り、ナギは気配を探《さぐ》った。
「まさか夜道でノミに襲《おそ》われるなんて、普通《ふつう》は考えませんからね……」
「時代は変わるのだよ」
「ノミが夜道を闊歩《かっぽ》する時代なんて永久《えいきゅう》に来ませんよ、フルールさん!」
ナギはそう叫《さけ》びながら、フルールの位置を探った。その目を微《かす》かに細め、暗い夜道をじっと見つめる。すると少し離《はな》れた場所にぴょーんと跳《は》ねるフルールを奇跡《きせき》的に発見した。
「ナギ、今日は貴様《きさま》一人のようだな……天倉神名はどうした?」
「……知りませんよ」
「なんだ、喧嘩《けんか》か?」
「ノミには関係ありません……それより、やっぱり生きていたんですね……」
フルールは自ら放った巨大《きょだい》な火の玉を神名に跳《は》ね返され、燃えてしまったとサラは話していたが、
「炎を操《あやつ》る我《われ》が、あんなもので死ぬものか……」
なるほど、言われてみれば確かにそうかも……。
「では今度こそ、お星様にしてあげます」
「天に召《め》されるのは貴様たちだ!」
フルールはナギとサラに足を向け、炎を放った。何も知らない者が見れば、地面から炎が湧《わ》き上がったように見えただろう。
ナギはサラの腕を掴み、一緒に炎を避《よ》ける。だが避け続けるだけではダメだ。フルールを撃退《げきたい》しなくては、活路はない。
攻撃《こうげき》に出る――そう思って、ベルを呼び出そうとしたが、
「……あ――っ!? ベルちゃん、置いてきてしまいました――っ!」
そういえばベルは神名の家だ。
「はーはっはっはっ! 鎌を忘《わす》れてきただと? 相変わらず、間抜《まぬ》けな奴《やつ》だ!」
「ゴキブリやノミにされた人に言われたくありませんよっ!」
「ふっ、何とでも言え! それが貴様の遺言《ゆいごん》になるのだからな!」
「殺虫スプレー、買ってくれば良かったです――っ!」
「あの世で買いだめしろ――っ!」
怒《いか》りの声を上げるフルールが炎を放つ。
再《ふたた》び避けるナギとサラだったが、このままでは命が危《あぶ》ない。何か作戦を練らなければ、やられるのを待つだけだ。
なんとか、その時間を稼《かせ》ぎたい。
「ノ、ノミになるって、どんな気分ですか!?」
聞きたくもないが、聞いてみた。
「こんな姿にされた苦しみが、貴様にわかるか!?」
「いえ、わかりたくありませんっ!」
「だったら、聞くな! 貴様らの命もここまで――」
すっ。
フルールが炎を放とうとした瞬間《しゅんかん》、サラがすっと手を上げた。
「……なんだ、芹沢サラ」
攻撃をとりあえず止《や》めるフルール。
「いえ……できることなら、あなたがそのような姿になった経緯《いきさつ》を、もう少し詳《くわ》しく聞きたいと思いまして……前回は姿を変えられた後の話が主だったので」
真面目《まじめ》に、サラはそう言った。
「サ、サラさん、そんな時間|稼《かせ》ぎみたいなことが通用するはずが――」
「いいだろう! せっかくなので、じっくり教えてやる!」
「通用してるし……」
道の真ん中にいたフルールは、サラの言葉に気を良くしたのか、静かに話し始めた。
「あれは我が任務《にんむ》に失敗する前……そう、我の九官鳥のことから話そう。そもそも我が飼《か》っていたあの鳥は――」
フルールは遠く星空を見つめている。
「さて、どうしましょう……」
「やはり、天倉くんの家へ戻るのが賢明《けんめい》な判断《はんだん》だと思います」
フルールを横目に、二人はさっそく作戦会議。
「今はベルちゃんが必要ですしね……」
「それに、彼もいます……」
サラが強くそう告げる。
信じている――そんな感じに見えた。
「おい、聞いているのか?」
「あ、はい!」
フルールが突然《とつぜん》、こちらの様子を窺《うかが》ってきたので、ナギは慌てて返事をした。
「激愛《げきあい》していた九官鳥とも、泣く泣く別れることになったんだぞ……?」
ノミが何やら悲しそうにそう言った。
「まぁ、ゴキブリだとかノミの姿だと、エサがあげられないですよね……」
「いや、近づいたら嘴《くちばし》で突《つ》つき殺されそうになってな……」
「…………」
悲惨。
ナギは嘴で突ついてくる九官鳥から必死で逃げ回るゴキブリを連想した……。
「まぁ、話はそれぐらいでいいです。私たちはそろそろ帰るので……」
「そうか……では、講演料の代わりに、お前たちの命をもらうぞ!」
話を終え、フルールは攻撃|態勢《たいせい》をとった。また炎が襲ってくる。
「くっ、サラさん、走って!」
「はい!」
ナギとサラは正面から戦うことを諦《あきら》め、神名の家まで逃《に》げることにした。彼の家までに身を隠《かく》すような場所はほとんどない。全速力で走り、少しでも早く神名の家へ。
「我から逃げることはできんぞ!」
「い、今は準備《じゅんび》不足なのです! 日を改めて――」
「そんな言い訳が通用するか!」
「みょ、妙《みょう》なところだけ真面目《まじめ》に返さないでくださいよっ!」
「私はいつも真面目だっ!」
「説得力ありませんっ!」
ナギはサラと走りながら、振り返ることなく後ろから聞こえてくる声に答えた。
ボッと背後《はいご》から炎《ほのお》が迫《せま》ってくるが、それより一瞬早く回避《かいひ》するナギ。彼女はしっかりフルールからの攻撃に気を配っていた。
だがいつまでも回避し続けることはできそうになかったし、神名の家もまだ遠い。
(神名くん……っ)
自分から飛び出してきて、そのせいでサラを危険《きけん》な状況《じょうきょう》にしてしまった。
何から何まで、全部自分が悪かった……そんな自分が彼の助けを願うのは無責任《むせきにん》だと思ったが、ナギは心の中で神名の名前を呼《よ》んだ。
だがそのとき、目の前にフルールの放った炎が降《ふ》り注ぐ。
「っ!」
ハッとなってナギがサラと一緒《いっしょ》に立ち止まると、フルールがすでに後ろにいた。
「諦めろ! 貴様《きさま》たちはここで死ぬのだ――っ!」
進むはずだった道の真ん中では、先ほどの攻撃の炎がまだ燻《くすぶ》っている。後ろにはフルール――万事休すか……。
「二人仲良く、燃《も》え尽《つ》きろ!」
「そこまでだ!」
炎を放とうとしたフルール。だが、それを止めるような声がナギたちの背後《はいご》から轟《とどろ》き、何やら空き缶《かん》のようなものが宙《ちゅう》を舞《ま》った。
「え?」
それはフルールの足元に転がると、バシュッと白い煙《けむり》を噴出《ふんしゅつ》して辺りを包んだ。
「ぐっ!? な、なんだ、この全身を痺《しび》れさせるような煙は――っ!?」
フルールが謎《なぞ》の煙に巻《ま》かれながらそう叫ぶ。彼は慌《あわ》ててピョンピョン跳ね回りながらナギたちから間合いを取ろうとする。
「ちっ、直撃はしなかったか……」
「じ、神名くん!?」
暗がりから彼の声が聞こえ、ナギはそちらを振り返った。
暗い闇《やみ》の中から、街灯が照らす光の下へ、神名は右手に小さな筒《つつ》のような形をした手榴弾《しゅりゅうだん》を持って現れた。
「こんなことじゃないかと思って来てみれば、案の定ってやつだな」
神名は右手に持った手榴弾を弄《もてあそ》びながら、不敵《ふてき》に笑った。
「じ、神名くん、そんなものを、どこから持ってきたんですか……?」
「ライルとガリムにもらった」
神名が名前を出した二人は、沙耶架が海外から雇《やと》った傭兵《ようへい》だ。現在は沙耶架の家で警備《けいび》員として働いている。
「持ってたんですね……そんなの」
「電話でくれって頼《たの》んだら、宅急便《たっきゅうびん》で送ってくれたんだ。ちなみにこの手榴弾の中には殺虫スプレーの中身と同じものが入ってる」
神名がすっと差し出してみせたそれには『ピレスロイド入り』というよくわからない単語が赤いマジックで書かれていた。
「わざわざ用意してくれたんですか?」
「ああ。言ってみるもんだな……しかもタダだ。ほらよ」
神名は左手に持っていたベルをナギに手渡《てわた》した。
主《あるじ》の下《もと》に帰った、その白い死神の鎌《かま》は、
『なんだかよくわからないが……すまん、ナギ。何か、お前を怒《おこ》らせたようだな……』
ひとまず謝罪《しゃざい》した。
「ベルちゃん……」
『今はあえて聞くまい。あのノミを始末するのが先だ……』
「……そうですね」
ナギはベルに感謝《かんしゃ》しつつ、今はフルールをどうにかするのが先決だという言葉に頷《うなず》いた。
ベルが自分の手にあるのなら、あんなノミには絶対《ぜったい》に負けない。
すると殺虫スプレーからようやく立ち直ったフルールが神名たちを見据《みす》えた。
「ふん……この我《われ》を始末するだと? スプーンやらナイフやらに変えられている鎌なぞに言える台詞《せりふ》とは思えんな!」
『な、なんだと――っ!?』
ベルは動けたなら今にも飛び掛《か》かりそうな雰《ふん》囲気《いき》で声を張り上げた。
ナギもそんなベルを手に身構《みがま》えようとして、
「待った。ここは俺《おれ》に任《まか》せろ」
神名がそんな彼らを制止《せいし》した。
左のポケットからもう一つ手榴弾を取り出し、両手にそれを持つ。
「天倉神名……貴様はいつも我の邪魔をしてばかりだな……」
「ああ。そして、お前が必ず負ける」
「それも今日で終わりだ!」
フルールが二本の足をこちらに向けると、二つの炎が同時に放たれる。
「芹沢さんと一緒に下がってろ、ナギ!」
神名はナギにそう告げて、放たれた炎に向かって走り出した。
フルールの放つ炎は直線的だ。それをすでに見切っている神名にとって、その攻撃の回避は造作《ぞうさ》もない。
「天倉神名。ナギを人に戻したのはお前だと言っていたな?」
「ああ、それがどうした?」
神名は炎を避けつつ、フルールの言葉に答える。
「そもそも貴様は何のためにナギを人に戻したのだ? 〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉とはいえ、今更《いまさら》、人に戻ったところで何になる?」
それを聞き、神名は横目でナギの方を一瞬だけ見た。
「あいつは……俺のことを命懸《いのちが》けで守ってくれた人だ……」
「……なるほど、恩返《おんがえ》しのつもりか」
「恩返し?」
「違うのか? ナギは貴様を命懸けで守って、天使になったのだろう?」
「何が言いたいんだ、この――」
ノミが――そんなふうに言葉を続けるつもりだった神名は、フルールの言わんとすることに、ようやく気がついた。
「そ、そうか……なんで……」
今まで気がつかなかったのか。
彼は失念していたある事実に、ナギを振り返った。
「戦いの最中に余所見《よそみ》とは、迂闊《うかつ》だぞ!」
動きを止めた神名に向け、フルールはさらに炎を放った。
「神名くん!?」
「っ!?」
ハッとなった神名は、紙一重《かみひとえ》で炎から身を反《そ》らした。
(今は奴に集中しろ!)
そう自分に言い聞かせ、神名は右手に持っていた殺虫剤入り手榴弾《しゅりゅうだん》を、フルールに向かって放《ほう》り投げた。だが、フルールが新たに放った炎に包まれ、殺虫剤を噴出《ふんしゅつ》する前に炎の威力《いりょく》で地面に落とされる。
「そんなものが、何度も通用すると思うな!」
「それはこっちの台詞だ!」
神名はさらに手榴弾を投げつける。今度はフルールに向かってではなく、彼の真上を狙《ねら》って一直線に投げた。
「バカめっ! どこに向かって投げて――」
だが、投げられた手榴弾はフルールの後方に落ち、その場で大量の殺虫剤を撒《ま》き散らした。その煙《けむり》の量に、フルールは退路《たいろ》を塞《ふさ》がれたことを悟《さと》る。
「くっ、だが、その程度《ていど》で――」
フルールは数|撃《う》てば当たる、といくつもの炎を同時に放った。
両手が空いた神名はすぐに〈エカルラート〉を出現させると同時に、前に使ったフライ返しの形に変化させ、迫《せま》る炎を跳《は》ね返した。
そのままフルールの間合いに飛び込《こ》む。
接近《せっきん》してきた神名に向け、フルールはさらにいくつもの炎を生み出そうとしたが、目の前で〈エカルラート〉を放り投げる神名に虚《きょ》を衝《つ》かれた。
「なっ!?」
そして神名は両手を腰《こし》の後ろに回すと、ズボンの後ろポケットに差していた二本の殺虫スプレーを取り出した。
その缶《かん》を両手で掴《つか》み、フルールに向けるまで一秒弱――発射《はっしゃ》。
バシュ―――ッ!
退路を絶《た》たれたフルールに向け、問答無用のダブル殺虫スプレーが白い煙を噴射する。
雪など降《ふ》っていないのに、辺りを白く染《そ》め上げるのではないかと思うほどの煙が、五秒、十秒……と、最終的には一分近く噴出され続けた。
「……なんだかシュールですね」
何か映画《えいが》に出てくる悪役の男みたいだ、とナギは思った。
少なくとも正義《せいぎ》の味方には絶対に見えない……違《ちが》うからいいのだが……。
たっぷり殺虫スプレーを撒《ま》いた後、神名は舌打《したう》ちした。
「くっ……逃《のが》したか……」
「えっ!? あれだけ撤いたのにっ!?」
さすがに死んでしまっただろうとナギが思った瞬間《しゅんかん》、神名はそう言った。
「手応《てごた》えがなかった……」
「て、手応えって……」
自分には理解《りかい》できそうにないなぁーと思うナギ。だが、とりあえずフルールは撃退《げきたい》したようだった。気配を探《さぐ》ってみるが、そちらも反応《はんのう》がない。
神名は殺虫スプレーを再び後ろのポケットに差し込み、〈エカルラート〉を拾い上げながらサラへ近寄った。
「大丈夫《だいじょうぶ》か? どこか、怪我《けが》とかはないか?」
「はい、無事です……何度も、ありがとうございます」
サラは神名に向かってペコリと頭を下げた。
「いや、当然のことをしたまでだ」
「……それにしても、よくそんなものを事前に用意していましたね?」
「まぁな。備《そな》えあれば憂《うれ》いなし、だろ?」
神名はふっとサラに笑いかける。
「そうですね。おかげで助かりました……」
その瞳《ひとみ》が「安心しました」と告げているように見える。
神名もそれを見て安心し、今度はナギの方に視線《しせん》を移《うつ》した。
サラを守ると決めたのに、何故《なぜ》だか家を飛び出していったナギ……。
「何をやっているんだ、お前は……芹沢さんを置いていったら、俺たちが護衛《ごえい》している意味がないだろ」
ナギはその視線から目を逸《そ》らし、俯《うつむ》いた。
「あの、その……」
何かを言おうとしたが、どうしても言葉にならない。
「……ごめんなさい」
結局、ナギの口からはそれしか出てこなかった。
呆《あき》れる神名。彼はさらに何かを言おうとした……だが、それ以上は何も言わずに神名も俯いてしまった。
三人の間に流れる、妙な沈黙《ちんもく》。
それを破《やぶ》ったのはサラだった。彼女はその表情を曇《くも》らせ、聞くべきかどうか迷《まよ》い、躊躇《ためら》ったが……静かに口を開いた。
「私の……せいですか?」
彼女の目と表情が、見たこともないほど不安そうだった。
「いつも元気だったあなたが、最近はとても表情が暗く感じます……特に、私といるときに……」
サラがそんなことを言ったので、ナギはハッとなって顔を上げ、それを否定《ひてい》しようとした。そうじゃない――と告げようとする。
だが、口から出た言葉は違うものだった。
「……自分でもよくわからないんです。どうしたいのか……どうするべきなのか……」
迷っている――というより、自分は戸惑《とまど》っているとナギは思う。
しかし、それが何に対してなのかがわからず、釈然《しゃくぜん》としない……。
「だったら……」
ナギが自分自身に戸惑っていると思ったサラは、ならば何かしてやれることがあるのではないかと考えた。
自分にできることがあれば言って欲《ほ》しい……サラはそう思ったのだが、
「…………」
ナギの表情は変わらず、口をつぐむ。
神名はどこか重苦しい雰囲気に、二人の顔を交互に見ることしかできない。
「ナギ……私は、あなたを大切な友達だと思っています……」
いつもは無表情なサラが、悲しそうな表情を浮かべて言った。
ナギの目をしっかり見ながら、彼女は言葉を続ける。
「だから、あなたの助けになりたい……」
だが唐突《とうとつ》に俯いて、
「――もう――ないから……」
最後の方は声が小さく、かすれて聞こえにくかったが、確かにナギには聞こえた。
もう、誰《だれ》も失いたくないから……と。
「サラ……さん?」
最後の言葉は……自分に向けられたものなのだろうか?
そう疑問《ぎもん》に思いつつも、ナギはやはり胸《むね》の内を話す気分にはなれなかった。
いや、違う。気持ちの問題ではなく、自分でも何を話せばいいのかわからないのだ。
「ごめんなさい……しばらく、放っておいてください……」
結局、ナギはそう告げてその場から走り去ろうとした。
「あ、ナギ!」
それを、サラは腕《うで》を掴んで引き止める。
するとナギは振り返り、神名には聞こえない小さな声で問いかけた。
「……サラさんは……神名くんのこと、好きですか?」
「え?」
突然《とつぜん》の質問《しつもん》に、サラのナギを掴む力が弱まる。
その隙《すき》をつき、ナギはサラの腕を振り払《はら》って再び走り出した。
「ま、待ってください、ナギ!」
彼女を追おうとして、今度は神名がサラを引き止める。
万が一、ナギに追いつけなかったら、サラは一人になる。彼女の身には、いつ、何が起こるかわからないので、そんな状況は避けたかった。
神名が首を振ってサラを見下ろすと、それが伝わったのか、彼女はナギが走り去った方向を静かに見つめるに留《とど》まった。
「ナギ……」
呟《つぶや》いたサラの言葉は、冬の冷たい風に遮《さえぎ》られ、ナギに届《とど》くことはなかった……。
[#改ページ]
報告書・4 私のせいで――
神名《じんな》とサラの前から走り去って行ってしまったナギ。
とりあえず神名がサラを家まで送り届けると、そこにナギの靴《くつ》はなかった。
本当にどこかへ行ってしまったらしい……。
だが、そこでようやく神名はある問題に気がついた。
ナギがいないということは、夜の間、サラの護衛《ごえい》につく者がいないということだ。ナギを探《さが》しに行こうにも、どこに行ったのか分からない上、サラを放っておくわけにもいかない。
「では、とりあえず上がってください」
仕方なく、サラは神名にそう勧《すす》めた。
帰るわけにもいかず、かといって家の外でずっとサラの護衛をするわけにもいかないので、神名は少し躊躇《ためら》ったがそれに従《したが》った。
サラに先導《せんどう》され、二階の一番手前にあった彼女の部屋に案内される。
中は白と黒のシックな部屋で、綺麗《きれい》に整頓《せいとん》されていた。ベッドの上にあるいくつかの動物のぬいぐるみがなかったら、ここが女の子の部屋だと思えなかったかもしれない。
「……ベッドの上にどうぞ」
「え、え?」
「座《すわ》る場所が一つしかないんです、私の部屋は」
床《ゆか》はフローリング。イスはテーブルに備《そな》え付けられた分しかなく、そこにサラが座ると確《たし》かに他には座る場所がなかった。ナギもこの部屋に来たときは、サラのベッドをイス代わりにしている。
「いや、床でいい」
だが神名はそう言って床に座り込《こ》んだ。ベッドに座るのには、それなりに勇気がいるというか、何というか……気がひける。
神名がそんなことを考えていると、
「天倉《あまくら》くん、私は今からでもナギを探しに行くべきだと思います」
サラはイスに座り、膝《ひざ》の上に両手を載《の》せてそう提案してきた。
「私のことを第一に考えてくれているのだ、ということは重々|承知《しょうち》していますが、日も暮れていますし、ナギをこのまま放っておくわけにはいきません」
サラの顔に表情《ひょうじょう》はなかったが、彼女の声はいつも以上にナギのことを心配しているようだった。
先ほどのナギは様子が変だった。今からでも二人で探しに行って、家に連れ戻《もど》すべきだとサラは思う。
だが、
「あいつは、しばらく放っておいてくれって言ってた……すぐに戻ってくるさ」
神名はサラから視線《しせん》を逸《そ》らすように窓《まど》の外を向いた。
「私には、そんなふうには見えませんでしたよ? 天倉くんにだって、それは分かっていると思っていました……」
いや、先ほどから様子がおかしいのはナギだけでなく、彼もなのだとサラは思い直した。
「……一体、どうしたのですか? いつものあなたなら――」
普段《ふだん》の神名なら「世話のかかる奴《やつ》だ」と言いながら、結局、ナギを探しに行くはずだと思ったが、彼は重い腰《こし》を上げようとはしない。
だが、そのまま沈黙《ちんもく》を続けるのかとサラが思ったとき、神名は口を開いた。
「分かってる……分かってはいるんだ。ただ、今の俺《おれ》はナギにどんな顔をして会えばいいのかが、分からなくなった……」
「先ほどの、フルールが言った言葉のせいで、ですか?」
「…………」
フルールが神名に言わんとしていたことは、彼にとっては大きな問題だった……。
彼の表情から、サラも何となくそれを悟《さと》る。
「もし良ければ、教えてくれませんか? ナギのことも……。前から気になってはいたんです。あの死神は、天倉くんがナギを『人に戻した』と話していたので……」
サラは好奇心《こうきしん》からそれを知りたいと思ったわけではなかった。ナギのことを、そして神名のことを心配しているからこそ、知っておきたいと思った。
神名はようやく窓の外から視線を戻し、少しだけサラの目を見つめてから、静かに語り始めた。
「芹沢《せりざわ》さん……戸籍《こせき》上、この世界には風流凪《ふうりゅうなぎ》っていう人物は存在《そんざい》しないんだ……ナギの本当の名前は、小川千夏《おがわちなつ》……」
「っ?」
それはサラが驚《おどろ》くのも無理はない、突拍子《とっぴょうし》もない話だった。
神名はズボンの後ろから財布《さいふ》を取り出し、中に入れてあった写真を取り出して見せた。
幼《おさな》い頃《ころ》の神名と祐司《ゆうじ》、そしてその真ん中に千夏が立っている写真だ。
「ここに写っているのが千夏姉さん。祐司の五つ年上の姉さんだった人だ」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいね……それが事実だとすると、今のナギは……?」
祐司の五つ年上ならば、今のナギは二十歳《はたち》を超《こ》えていることになる。だが、彼女はどう見ても同い年ぐらいにしか見えないし、そもそも写真に写っている小川千夏とナギは全くの別人だった。
「千夏姉さんは……五年前に、俺と祐司を倒《たお》れ掛《か》かってきた鉄骨《てっこつ》から守って死んでしまった。そして……死神になった」
「死神……」
「ああ……死神っていうのは、そもそも天使の役職《やくしょく》の一つで……死ぬはずではなかった人が何かの原因《げんいん》で死んでしまい、〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉となってしまった際《さい》、生きるはずだった残りの命の分だけ、仮《かり》の姿《すがた》を与《あた》えられたものなんだ」
神名はそう言いながら、右手に〈エカルラート〉を呼《よ》び出した。
何もない場所に、すっとそれは現《あらわ》れる。
「では……ナギは、人ではないと?」
神名と〈エカルラート〉を交互《こうご》に見て、サラがそう尋《たず》ねてくる。
「いや……いろいろと――本当にいろいろあって、ナギは俺がこの〈エカルラート〉を使って人に戻したんだ。でも千夏姉さんの身体《からだ》は、もうすでになくなっていたから、今のナギの姿で人に戻った……というのが分かりやすい説明かな」
「そうですか……」
サラにはまだ聞きたいこともあったが、とりあえずそこまでの話で納得《なっとく》した。
昼間、ナギが神名に向けて「年上の私が――」と口にし、神名がナギを見ながら「姉さんに――」と言ったのは、つまりそういうことだったのか、と。
祐司が神名の幼馴染《おさななじみ》であることは知っていたので、昔の神名が祐司の姉であったナギのことを「姉さん」と呼んでいても不思議ではない。
なるほど、ナギのことは大方、分かった。
だが、話の本題はそこからだ。
「俺は千夏姉さんが死んでしまったとき、それがあまりに信じられなくて呆然《ぼうぜん》となった。そしてしばらくして、俺は自分のことを責《せ》めた……千夏姉さんは俺のせいで死んだんだって……」
「ですが、それは――」
「ああ。祐司もそれは違《ちが》うって言ってくれた……そして姉さんの分まで生きるって、俺たちは誓《ちか》ったんだ。でも――」
神名の表情は沈《しず》んでいた。しかし、その先を話し始めた彼は、一層《いっそう》その表情に暗い陰《かげ》を落としていた。
「ナギは……千夏姉さんは〈|生きるはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉として天使になっていた……つまり姉さんは五年前に死ぬはずじゃなかったってことなんだ……」
その言葉の先を、唐突《とうとつ》にサラは悟《さと》った。
顔を上げた神名と、目が合う。
「五年前のあの日、姉さんは死ぬはずじゃなかった……あそこで死ぬはずだったのは、きっと俺だった……姉さんはやっぱり、俺のせいで死んだんだ……」
「…………」
自分のせいで、誰かが死んだ。
自分の代わりに、その命を落とした……。
神名の視線《しせん》が再び床《ゆか》に落ちた。
今の神名にかける言葉が見つからない……彼の悩《なや》みと苦しみが――サラにはよく理解《りかい》できた。
彼女は何も言わず、机《つくえ》についている引き出しの中から写真立てを取り出した。その中にはサラと一人の少女が写った写真が一枚入っていた。
「これを」
その写真を神名に手渡《てわた》す。
「?」
「私の……親友だった人です」
親友だった人――そう言ったサラの声から悲しい感じを受け、神名は写真の少女がもうこの世にいないのだと悟った……。
「少しだけ、私の昔話に付き合ってくれますか?」
戸惑《とまど》いながらも、神名が静かに頷《うなず》くのを見て、サラは話し始めた。
「……私は昔から感情を表に出すことが少なくて……そのせいか、友達と言える人がほとんどいませんでした」
「そう、なのか……?」
神名にとってその話は、クラスの学級代表として、皆《みんな》から信頼《しんらい》されているサラからは想像《そうぞう》できない話だった。
サラの表情はいつもと変わらない。だが、彼女は当然ながら感情がないわけではない。
ただ、顔に出すことが苦手なだけだ。現《げん》に、今のサラの瞳《ひとみ》からは、悲しみの色が確《たし》かに見て取れた。
「周りから孤立《こりつ》している、とそんなふうに自分でも感じていました……でも、そんなときその写真の子が私に話しかけてくれたんです」
サラの、神名の持つ写真を見る目が少し変わった。
「ナギのように元気な人でした。初めは私の方が戸惑っていたのですが、何度も話す内に彼女と仲良くなって……」
それを聞きながら、神名はすっと写真を返した。
サラはそれを受け取り、写真へ目を落としながら話を続ける。
「一緒《いっしょ》に行動することが多くなり、いろいろなことを話すようになりました。あるとき私は気になって『どうして私に話しかけてきたのか?』と聞くと『なんだか楽しくなさそうだったから』という言葉が返ってきて……私は思わず苦笑《くしょう》してしまいました」
サラはそのときも浮《う》かべたであろう微《かす》かな苦笑いで、神名を見つめた。
彼はただ黙ってじっと聞いている。
「彼女は私にとって、ただ一人の親友でした。だから……彼女が死んでしまったときは、悲しいというより……悪い夢《ゆめ》を見ているようで、とてもそれが現実だとは思えないほど混乱《こんらん》して、最後には頭の中が真っ白になったような気分でした……」
そのためか、当時の記憶《きおく》は今でもおぼろげだ。
親友の死――葬式《そうしき》に参列したときも、まだ現実が受け入れられなかった。
同じだ、とそれを聞いた神名はそう感じた。
身近であった人の死は何よりも耐《た》え難《がた》い。まるで現実感のない事実に襲《おそ》われ、何も考えられず、呆然となる――千夏のときがそうだった。
「あのときのような思いは、もうしたくありません……あなたや〈ベル・フィナル〉が私のことを優《やさ》しい人だと言ってくれましたが……私は怖《こわ》いんです。人を失うのが……」
「…………」
「私は優しくなどありません……ただ、友達や大切な人を失うのを恐《おそ》れているだけなんです。私はナギと、これからも仲良くやっていきたい。失いたくない……天倉くんだってそう思っているはずです」
サラの瞳が、真《ま》っ直《す》ぐにこちらを向いている。
「事実はもしかしたら、天倉くんの言う通りかもしれない……けれど、可能性《かのうせい》は無限《むげん》にあるんです。ナギがあなたの代わりに死んだとはまだ断定《だんてい》できませんよ。その鉄骨《てっこつ》が、そもそも倒《たお》れて来ず、誰《だれ》も死なないはずだったという可能性だってあると思います」
「……っ」
それは、彼女の言う通りだった。
誰かのせいで、誰かが死ぬ――と、そればかり考えていた。だが、本来は誰も死ななかった可能性だってあるのだ。
神名も祐司も、そして千夏も死ぬはずではなかった。だが千夏だけは、鉄骨が倒れて来るという予定外のファクターによって命を落としてしまった――という可能性が。
それに気づいた神名は苦笑し、
「……芹沢さんはやっぱり優しいよ」
サラが話してくれた内容《ないよう》にそう答えた。
こんなにも親身になって話を聞いてくれる。これが優しさでなければ何なのか。
神名はすっと、その場から立ち上がった。
「行こう」
それだけで、サラは彼の意を理解してくれた。
「そうですね……迎《むか》えに行きましょう、ナギを。私には彼女に謝《あやま》らないといけないことがありますし」
神名の様子に、サラも立ち上がりながらそう言った。
「謝ること?」
「ええ……それと、彼女は決して天倉くんを守ったことを後悔《こうかい》してはいないはずですよ。だから、いつも通り接《せっ》してあげればいいと思います」
サラは、神名の抱《かか》えていた問題に一つの答えを出してくれた。
何も変わる必要はない。いつも通りでいい。
「そっか……そうだな」
「ええ」
苦笑する神名にサラが応《こた》える。
そして二人は、ある場所へと向かうことにした。
今、ナギのいる場所へ……。
○
沙耶架《さやか》は初め、フランス料理のフルコースを優雅《ゆうが》に自宅《じたく》で食していた。
学校の教室がまるまる二つは入るような部屋で、白いテーブルクロスのかかった巨大《きょだい》な長方形のテープルに着き、慣《な》れた手つきでナイフとフォークを操《あやつ》る。
だが、料理の半分を食べ終えたというところで、彼女はその手を止めた。
「食欲《しょくよく》が湧《わ》かないわ」
この夕食は沙耶架が自ら用意させたものだ。それにも拘《かか》わらず彼女の食欲が湧かない原因は、自分の座《すわ》っているテーブルの反対側にあった。
「う、うぅ……」
一人の少女が、すすり泣きしながらチョコレート・パフェを頬張《ほおば》っている。
同じ学校の友達である、風流凪だ。彼女はテーブルの脇《わき》にベルを置き、チョコ・パフェ用の長いスプーンで綺麗《きれい》にグラスの中を食べ終えると、
「おかわりをください」
再《ふたた》びチョコレート・パフェを注文した。
「ちょ、ちょっと、それって何|個《こ》目よ?」
ナギは先ほどから、こちらの食欲がなくなってしまうほどチョコ・パフェを食べ続けているのだ。
彼女は沙耶架にそう聞かれ、指折り数えてから、
「四つ目です」
「食べ過《す》ぎでしょ!? どう考えても!?」
「い、いくらでも食べていいって言ったじゃないですかぁ」
「確かにそう言ったけど……限度《げんど》っていうものがあるでしょ、限度っていうものが!」
「自棄食《やけぐ》いですっ」
「人の家でしないでよ!」
沙耶架はそう言ったが、お構《かま》いなしにナギは食事を再開《さいかい》した。
突然《とつぜん》、誰であるか見間違うほど暗い表情で家にやって来たナギを、沙耶架は慌《あわ》てて家の中へ招《まね》き入れた。イスに座《すわ》らせて、何があったのかと聞いてみたが、何も答えず、ナギがお腹《なか》をすかせているようだったので、好きなものを好きなだけ食べていいから、と話をしたら、突然すすり泣きを始めてこの状況《じょうきょう》だ……。
沙耶架はもう少しだけ料理を口に運ぶと、「もう、いいわ」と料理を下げさせた。
そしてまだチョコレート・パフェを食べているナギの方を向く。
「ねぇ、そろそろ何か話してくれてもいいんじゃない? 何があったのよ?」
こんなに元気のないナギを見るのは初めてだったので、よほどのことなのだろう。
そのままナギを見つめながらしばらく待つと、彼女はぼそっと話し始めた。
「神名くんの様子がちょっと変なんです。いつもと……違うんです。チョコ・パフェを食べに連れて行ってくれるって言ったのに、連れて行ってくれないし……」
「何? それだけなの?」
ただの喧嘩《けんか》でここに来ただけなのか? そう思った矢先、ナギはさらに話を続けた。
「……それに……サラさんが、神名くんに恋人《こいびと》になって欲《ほ》しいって……」
「……え!? ちょ、ちょっと何の話よ、それは!?」
沙耶架は思わず、ガタッと音を立てて立ち上がった。
全く予想していなかった話に、驚《おどろ》きを隠《かく》さずナギを見つめる。
「なんだか神名くんもまんざらじゃなさそうで……授業中《じゅぎょうちゅう》はじっとサラさんのことを見つめていましたし……」
「い、いつの間にそんなことが……」
サラが神名のことを好きだったなどという話は、今まで一度も聞いたことがない。
彼女とは高校一年のときに同じクラス(ちなみに神名も一緒《いっしょ》だ)で、二年に進級した後はクラスが別々になってしまったが、生徒会の関係でほぼ毎日顔を合わせる親友だと思っていたのに……。
だが今になって考えてみると、神名の方にはサラを気にしている節があったように思う。
生徒会の手伝いに来たと思えば、サラの言うことしか聞かないと言い出し、その後もずっとサラと一緒に仕事をしていた。噂《うわさ》だが、神名がサラを押《お》し倒したなどという話も耳にしていた。
沙耶架は両腕《りょううで》を組みながら、そう神名とサラのことを考えていたが、ふいにナギを見ると、彼女はここへ来たときのような暗い顔をして俯《うつむ》いていた。チョコ・パフェのスプーンも置き、無言になってしまっている。
「……なんだか妙《みょう》な展開《てんかい》だけど、一度ゆっくり天倉くんと話してみたら?」
ナギの様子を見かねて、沙耶架はそう口にした。
そして随分《ずいぶん》、迷《まよ》ったが……少しだけ前の話をナギにしてやった。
「前に……あなたが倒れて、天倉くんが私のところに一人で来たことがあったわよね? あのとき……天倉くんはあなたを助けようって必死だったわ。それこそ、ガリムに蹴《け》られても、ライルにタックルで吹《ふ》き飛ばされてもね」
「え?」
「だから……んー、まぁ、まだ、なんとかなるわよ」
沙耶架はそう言って
「あー、もう、どうして私が敵《てき》に塩を送らなくちゃならないのよ……」と小声で呟《つぶや》いた。
ナギは沙耶架の話を何度か心の中で反芻《はんすう》する。
そうだ。ひとまず、ちゃんと会って話をしなければ。ナギがいないと神名はサラから片時《かたとき》も離れられないし、祐司から神名に今日の夕食を作ってあげて欲しいと頼《たの》まれたということもある。サラもきっと心配しているに違いない。
正直、まだサラの所に戻るのには抵抗《ていこう》がある……しかし、サラの家に帰ろうと思った。
サラとも、神名ともまずはちゃんと一度、話をする――ナギはそう決めて席から立ち上がった。
そこへ、
「失礼します」
相変わらず迷彩服《めいさいふく》にベレー帽《ぼう》という恰好《かっこう》で、左目に眼帯《がんたい》を当てたライルがやって来た。
「お嬢様《じょうさま》、またお客様です」
「?」
いつもは無表情で淡々《たんたん》と用件《ようけん》を言うだけの彼が、何やら少しだけ嬉《うれ》しそうだった。
その顔を見て、沙耶架は来客が誰であるかが、だいたい想像《そうぞう》できた。
ベルを持ったナギを連れ、玄関《げんかん》までその客を出迎《でむか》えに行くと、
「よう。迎えに来たぞ」
神名が片手を上げながらそう言った。
その隣《となり》にはサラもいた。
「じ、神名くん……どうしてここが?」
「まぁ、ちょっと考えればお前が行く所って言ったら、ここしかないからな……」
ナギには自分の家がない。神名か、サラのところでなければ、後は頼れるのは沙耶架ぐらいだろうというサラの考えでここに来た。
「悪い、ナギ。なんだかいろいろ気を遣《つか》わせたな……」
ぼそっと呟くように、神名はそれだけを言って、
「……実は、夕食がまだなんだ……あー、その、やっぱりお前が作ったやつが一番|美味《うま》いからさ……帰ろうぜ。今日は三人でメシを食おう」
どこかぶっきらぼうな言い方だった。
しかも最後は視線《しせん》まで逸《そ》らして、全くこちらを見ようとはしなかったが、彼の顔はどこか照れたように赤くなっていた。
「……はい。分かりました」
ナギはニコッと笑い、それに頷《うなず》く。
勝手に飛び出して行ったというのに、彼らは二度も迎えに来てくれたのだ。
沙耶架の言う通り、今はまず、話し合ってみよう――そうするために、ナギは素直《すなお》に家へ帰ることにした。
「ナギ、私からも少し、お話があります」
そこへ今度はサラがナギに近寄った。だが話を始める前に、ふっと神名を見る。
「?」
どうしてこっちを見るんだ? と神名が首を傾《かし》げると、サラの様子に気づいた沙耶架がパチンッと指を鳴らした。いつもすぐ近くに控《ひか》えているのか、その音を聞きつけたライルとガリムがすぐさまやって来る。
「二人とも、しばらく天倉くんと遊んであげて」
「え?」
「さぁ、行くぞ、天倉神名。楽しく、素敵《すてき》な傭兵《ようへい》ライフを伝授《でんじゅ》しよう」
「は? いや、待てって。俺《おれ》はそんなもん知らなくていい」
「はっはっはっ! まぁ、そう言うな! 戦場は楽しいぞー。空気も良いっ」
「どんな戦場だよ!? ていうか、その空気が良いって違う意味だろ、おい――っ!?」
豪快《ごうかい》な笑い声が響《ひび》き、神名はライルとガリムに腕《うで》を掴《つか》まれて隣《となり》の部屋へと消えて行った。
ほとんど引きずられる恰好で連れて行かれた神名を見送り、サラは再びナギの方へ向く。
「ナギ、まず初めに言っておきますね。昨日の昼休みの件《けん》です」
「っ」
ピクッとナギがそれに反応《はんのう》した。
サラが神名のことを、恋人になって欲しい人だと話していたときのことだ……。
「実はあのとき、私たちは皆《みんな》で話していたんですよ……あなたのことを」
「……え?」
「あなたと天倉くんが付き合っているのではないか? という話になりまして……皆から何か知らないのかと聞かれたのですが、私は本当にあなたたちのことを知りませんでしたから、何も言えませんでした」
サラはナギと同じ家に住んでいるので、何か知っているのではないか? と周りにいた女子たちは思ったようだ。
「ただ、私から見て、あなたと天倉くんは本当に仲が良さそうに見えていましたから……彼も良い人なのだ、といろいろ分かったところでしたし……もし、あなたが誰かと付き合うようなら、今、一番、天倉くんに恋人になって欲しい……そう思ったんです」
「……え!?」
「もしかするとそれを耳にしたあなたが、なにか誤解《ごかい》しているのではないか、と思いまして……」
「…………」
ナギは額《ひたい》に冷や汗《あせ》を流しながらサラを見て、今度は沙耶架を見た。
「完全な早とちりじゃないのっ」
ナギはぺしっと沙耶架から頭を叩《たた》かれた。
「いたっ」
そう、完全にただの早とちりだったのだ。
二人の様子を見たサラは、どこか気まずそうに呟《つぶや》いた。
「ごめんなさい。やはりそうだったのですね……?」
それを受け、ナギは慌《あわ》てて両手を振った。
「い、いえ、いいんです! 勝手に勘違《かんちが》いしたのは私の方ですし……」
「まったくだわ……だいたい、おかしいとは思ったのよね。サラが天倉くんを好きになるなんて考えられないわよ……」
沙耶架は何があったのか、不機《ふき》嫌《げん》そうにナギの頬《ほお》をつねりながらそう言った。
ナギは再び「いたっ、痛《いた》いですー」と言いながら抵抗するが、沙耶架は手を放さない。
「そしてナギ……あなたのことも、あなたがどういう存在《そんざい》であるかも、天倉くんから聞きました……」
サラが重々しくそう言うと、沙耶架は動きを止め、ナギから手を放した。
それを聞いたナギは、微《かす》かに苦笑《くしょう》しながら口を開く。
「私はこうして今、ここにいられることがすごく幸せです……神名くんともまた会うことができましたし、弟の祐ちゃんとも話ができる……サラさんや沙耶架さんとお友達になることもできました」
だが、ナギはその笑みの中に少しだけ陰《かげ》りを見せた。
「……でも、ときどき不安なときもあります。今の私は、小川千夏として家族の下《もと》に帰ることはできません……お父さんやお母さん、祐ちゃんにとって、私はもう死んでしまった人ですから……」
サラはその話を、静かに見守るように聞いてくれている。
「この先、私はどうなるのかわかりません……どうしようもなく不安で、心がとっても苦しくなるときもあります……だからそんな私にとって、神名くんは少し特別な存在なんです……彼は今の私のことを、ちゃんと理解してくれている数少ない人ですから……」
ナギはそう神名のことを話すと、サラに向かって聞いてみた。
「サラさんは……神名くんのことを、どう思いますか?」
「え? 天倉くんですか?」
そんな質問《しつもん》が飛んでくるとは思わず、サラは聞き返したが……やがて素直に思ったことを、そのまま言った。
「そうですね……私にとっても、彼は少し特別ですね……」
「え、えっ?」
「今、一番親しい男子といえば、間違いなく彼ですから……」
「あ、ええっと、あの……」
何故《なぜ》か慌てふためくナギを見ながら、サラは改めて神名のことを思い浮《う》かべてみた。
「天倉くんは優《やさ》しい人だと思いますよ。どことなくそっけないイメージもありますけど。彼は自分以外の人のことを、真剣《しんけん》になって考えられる人です。私のことを身を挺《てい》して助けてくれました……そしてナギ、あなたのことも」
「わ、私のことも?」
「彼はあなたのことだって、ちゃんと考えていますよ。あなただけに負担《ふたん》をかけないようにと、私を護衛《ごえい》できるのは昼間だけだから、その間は自分ががんばるのだと言っていました……」
「神名くんが……」
サラの言葉に、ナギが呆然《ぼうぜん》と彼の名を呟く。
彼女の手の上でずっと黙《だま》っていたベルも、ようやく言葉を発した。
『神名はちゃんと、お前のことを気にかけているさ』
「え?」
『今のお前が、どんな状態《じょうたい》にあるのか……それを忘《わす》れたわけではあるまい?』
「…………」
神名によって、輪廻《りんね》を逆向《ぎゃくむ》きに回転させられて人に戻《もど》ったナギ。だが魂《たましい》は人に戻っても、肉体の方はソウル・イレギュラーとしての身体《からだ》のままだった――それが思わぬ拒絶反応《きょぜつはんのう》を引き起こし、ナギは一度高熱に襲《おそ》われた。
確実《かくじつ》に助ける手段《しゅだん》はない――時間もなく、イリスも半ば諦《あきら》めていたが、神名がそれを救ってくれた。
その経緯《いきさつ》を、神名はなかなか教えてくれなかったので、ベルから教えてもらった。
「ナギ、あなたは身体のどこかが悪いのですか!?」
事情《じじょう》を全く知らないサラはベルの言葉に慌てる。
ナギは苦笑しながら、それに首を振《ふ》った。
「今は大丈夫《だいじょうぶ》です。ただ、いつまた再発するかわからないんです……」
『……だから神名は、お前の身体をどうにかする方法を、あれでも懸命《けんめい》に探《さが》しているんだと思うぞ……そうなってしまったのは、良くも悪くも、あいつの責任《せきにん》だからな……』
「私は別に、そのことで神名くんに責任をとってもらおうとは思ってないです……」
神名は自分を救おうと努力してくれた――その結果、こうなってしまったのだが、それを恨《うら》んではいない。ナギにとって、小川千夏としての記憶《きおく》を取り戻せただけでも十分だったのだから……。
『だろうな……』
ベルにはナギがそう言うだろうとわかっていたので、さらりと聞き流した。
後は神名自身の問題だ。
「あなたにとっての天倉くんは……家族のようなもの、なのですね?」
「……昔から、人に心配ばかりかける子でしたけど……今は何だか、立場が逆になったような気がします……あっ、私にとっては、もちろんサラさんも家族同然ですよっ! 大切な親友です!」
慌てた様子でそう付け加えるナギ。
だがサラにはそれが、彼女の本心であると通じた。言葉で、正面からちゃんと言ってくれたことが嬉《うれ》しかった。
「はい。私もそう思っていますよ」
優しい声でサラがそう答え、ナギは久《ひさ》しぶりに満面の笑みを彼女に見せた。
○
二時間後。
三人は少し遅《おそ》めの夕食を、神名の家でとることにした。
家の近くのスーパーまで、沙耶架が車で送ってくれた。
彼女にも一緒《いっしょ》に食べて行かないかと誘《さそ》ったが、「いえ! 遠慮《えんりょ》しておくわ!」と激《はげ》しく断《ことわ》られた。代わりに今度、ベルをじっくり見せて欲《ほ》しい、と言っていたが……そういえば沙耶架にはベルが言葉を話すことを教えていなかったように思う。
だが今は、とにかく食事だ。
リビングにはすでに、神名の嗅覚《きゅうかく》を刺激《しげき》するようないい匂《にお》いが漂《ただよ》っている。
サラは料理をナギに任《まか》せ、コップやら食器の類《たぐい》を並《なら》べた。
「さぁ、どうぞ」
「おう」
ナギとサラが並んで座り、その前に神名が座る。横を見るといつもはナギの隣にいるベルが座らされていた。
神名は改めてナギの料理を見渡す。こうしてナギの料理が家のテーブルに並ぶのは三日ぶりだ。見た目も香《かお》りも、申し分ない。ナギがいつも作ってくれる料理だ。
「いただきます!」
「はい、どうぞ」
料理を勧《すす》められ、神名は箸《はし》を手に取った。
まずは味噌《みそ》汁《しる》を口に近づける。独創《どくそう》的な香りと、温《あたた》かな味噌汁が身体の中に広がり、冬空の下をスーパーから歩いて帰って来た身体の中に染《し》み渡《わた》る。
「……うん、美味い」
文句《もんく》なし。
「ありがとうございます」
ナギはにっこり笑ってそう言った。
よく考えてみれば、神名はここ数日、彼女のその笑顔を見ていなかった……。それに、こんなに美味しいものが食べられる――すっかり忘《わす》れそうになっていたが、嬉しいことだ。
「んー、やっぱりこの味だよなぁ」
神名はそう呟くと、ナギやサラの方を見ることなく、箸を動かし続けた。すぐにご飯と味噌汁を一|杯《ぱい》ずつ食べ終え、おかわりを求めて台所へ向かった。彼はおかわりを必ず自分で用意する。
サラは神名が食卓《しょくたく》を離《はな》れたのを見て、隣に座るナギに話しかけた。
「どうですか?」
「そうですね……なんだか、少し落ち着いたという感じです」
今のナギにとって、家族に等しい神名に朝食を作ってあげるのは日課なのだ。ようやくいつもの感覚が戻って来たような――そんな感じがした。
「よーしっ、私も食べますよ!」
神名を見て、ナギも笑顔で箸を握《にぎ》る。
「って、お前さ……深瀬《ふかせ》の家でチョコ・パフェを四つも食べたって聞いたぞ?」
ナギはチョコレート・パフェを四つも食べた上に、自分で作った料理を胃の中に入れようとしていた。
「チョコ・パフェは別腹《べつばら》ですよー」
「どんな胃袋《いぶくろ》だよ……」
「食べると言ったら、食べるのです!」
自分の作った料理を、彼に褒《ほ》めてもらう――それが嬉しかったようだ。
それを見ていたサラは「良かった」とどこか安心し、同様に箸を手に取った。
『あ! 待て、サラ! その料理は食べるな――っ!』
彼女が料理に手をつけようとしていたら、反対側に置かれていたベルがそう叫《さけ》んだ。
「なんですか、ベルちゃん? 食事中に大声を出すなんて……」
『そんなことを言っている場合か! 私はサラの身を案じて言っているんだ!』
「毒でも入っているって言うんですかー?」
『製造過程《せいぞうかてい》でな』
「それはナギの料理がマズイってことか?」
おかわりをついで戻ってきた神名が、ベルを見下ろしながらそう言った。
『マズイ。味も、人体にも』
「マズイ……のですか?」
ベルの言葉に、サラは初めてナギの料理に疑問を持ち、静かに味噌汁を顔に近づけた。
「…………」
――危《あぶ》ない香りがする……。
『やめておけ! 死ぬぞ!?』
「そんなわけあるかっ! 俺は普通《ふつう》に食べただろ!? しかも、こうしておかわりまでしているっていうのにっ!」
「そうです! サラさんは私の家族なのです! だから、この味だってちゃんと理解できるんです!」
ナギはそう強く断定し、サラを見た。
神名も「うんうん」と頷いている。
「……せ、せっかくナギが作ってくれたのですから……食べないといけませんよね」
サラは自分に言い聞かせるようにそう言って、
『待て! 待つんだ――っ!』
ベルの制止《せいし》も虚《むな》しく、彼女は味噌汁を口に運んだ。
その途端《とたん》、口に広がる異《い》世界の味……およそ形容《けいよう》しがたいその味は、塩気があるのに甘《あま》く、尚且《なおか》つ寒気が身体に浸透《しんとう》してくる――味噌汁はこんなに温かいのに……。
「…………」
サラは無表情のまま、静かに味噌汁のお椀《わん》をテーブルに置いた。
ゴクッ。
なんとか飲み込《こ》み、静かに箸を置く――が彼女の意識《いしき》はそこで飛んだ。サラの目から急に光が失われ、イスから床に転がり落ちる。
「せ、芹沢さん!?」
「サラさん!?」
慌てて彼女に駆《か》け寄《よ》る神名とナギ。
サラをナギが抱《だ》き起こしながら、神名は周りの気配を窺《うかが》う。
「くっ、フルールめ! いつの間に毒を!?」
「ひどいです……どうしてこんなひどいことを……」
許《ゆる》せん、と叫ぶ神名と、涙《なみだ》を浮《う》かべるナギ。
『……もういいから、お前ら……。とにかくその味噌汁を捨《す》ててこい……。あ、台所に流すなよ? 確実《かくじつ》に環境汚染《かんきょうおせん》だから。水道局を困《こま》らせるな』
ベルはイスの上から呆《あき》れたようにそう言って、三人を見下ろした。そうして一人、味噌汁の処理《しょり》について悩《なや》むのであった……。
○
次の日の学校は朝から散々だった……。
疲《つか》れきった表情《ひょうじょう》で、なんとか目覚めたサラを連れて学校へは来たものの、サラは気分が悪そうにイスに座り、ぐったりしていた。
仕方なく、職員会議《しょくいんかいぎ》には神名が出席し、朝のホームルームも神名が出欠を取った。
異例《いれい》のことに、クラスメートたちが不思議そうに神名を見ていたが、サラの様子を見て納得《なっとく》する。
サラは昼休みになってもどこか調子が悪そうにしていたが、放課後になり、ようやく調子が戻ってきたのか、昨日の夜のことを振り返った。
「恐《おそ》ろしい体験でした……」
見えない場所から炎《ほのお》が飛んでくるより、よほど恐ろしかった――と、サラは無表情に加えて光のない瞳《ひとみ》で呟《つぶや》いた。
「すまない……俺《おれ》が毒に気がついていれば……」
「私のミスです……私が料理を作っていたのに、気がついてあげられませんでした……」
『お前たち、あれをあくまでフルールの入れた毒だと言い張《は》る気だな……』
クラスメートが全員帰ってしまった教室で、神名たちとベルはそんな会話を繰《く》り広げていた。
『ナギ、お前はもう料理作りはやめろ。お前の料理はいつか必ず死者を出すぞ……』
真面目《まじめ》に未来を心配して、ベルはそう言った。
だがナギと神名にそんな言葉は通用しない。
「そんなこと、ありません!」
「そうだぞ、ベル。こいつの料理を食べて、今まで誰《だれ》か死にそうになった奴《やつ》なんていないだろ?」
『いや、身近にいるだろ、おい……お前の親友の祐司は、もう二回も泡吹《あわふ》いて倒《たお》れているんだぞ?』
しかも一度は記憶《きおく》まで消されている。
「あいつはノーカウントだ」
『サラは?』
「毒」
『死んでしまえ、お前は』
ベルが神名に向かってそう言うと、
「ナギ、こいつを次のゴミの日に捨てておいてくれ」
「神名くん、ベルちゃんを捨てるとなると、おそらく家電扱いになるので、お金がかかると思いますよ?」
「何?……じゃあ、川原で不法|投棄《とうき》だな……」
『お前ら、警察《けいさつ》に訴《うった》えでてやるからな――っ!?』
卵《たまご》がどうやってだよ……と神名は冷ややかな視線を返す。
「では、そろそろ行きましょう……部員の皆は、そろそろ作業を始めている頃《ころ》でしょうから……」
気分を落ち着かせたサラが、鞄《かばん》を手にそう告げる。
今日の放課後は生徒会室の片付《かたづ》けを、完全に終わらせる予定だった。
生徒会室の片側の壁《かべ》を埋《う》めていた漫画《まんが》の山は運び出され、天井《てんじょう》から吊《つ》るされていたUFOも、貼《は》られていたポスターも撤去《てっきょ》された。
沙耶架は渋《しぶ》ったが、こたつも片付けられた。
残るは巨大《きょだい》水槽《すいそう》。撤去するわけではなく、洗《あら》って中の水を取り替《か》えるのだ。水がいっぱいに入っているせいもあり、この水槽は非常に重い。四人で安全、二人ならギリギリといったところか……とにかくそれを片付けるため、生徒会室へ向かわなくてはならなかった。
ひとまずナギがベルをしまい、三人は二階にある生徒会室へ向かうために階段《かいだん》へ。
そこに差し掛《か》かると、神名は何も言わずに数段下を歩く。万が一、サラが階段から足をすべらせるようなことがあれば危険だからだ。
特に屋上の一|件《けん》以来、些細《ささい》なことにも気を配るようにしている。
「なんだかこれでは、私が階段も下りられないみたいですね……」
隣《となり》で一緒《いっしょ》に階段を下りるナギに向け、サラはそう呟いた。
「でも、サラさんは常《つね》に危険と隣り合わせの状況《じょうきょう》ですから……用心に越《こ》したことはありません」
「そうですね……」
我《われ》ながら情《なさ》けないとは思うが、ここは彼らの言う通りだ。
自分も気をつけておこうと思いながら、サラは階段を一歩ずつ踏《ふ》みしめる。だが、階段の半分を下り、踊《おど》り場を過ぎたとき、
「あっ」
動かそうとした足のつま先が滑《すべ》り止めにひっかかり、サラは体勢《たいせい》を崩《くず》した。普段は階段を下りるという行為《こうい》に気を止めたりしないので、考えすぎたのが逆効果《ぎゃくこうか》だった。
しかし一瞬《いっしゅん》早く、サラの声に気がついた神名が、すっと彼女を受け止めた。
「……言った側《そば》からってやつだな」
「す、すみません……」
身体《からだ》を支《ささ》えてもらったサラは、自力で体勢を整える。
「気をつけてくれ」
「はい」
そう言うと神名は再《ふたた》び階段を先に下り始めた。
サラも彼に続いて階段を下りようとして――今度は階段を踏み外した。
「っ!?」
連続。
まさかこんなことが起こるとは自分でも思わず、サラは驚《おどろ》きながら前へ倒れていく。
「サラさん!?」
今度は隣にいたナギが、ぐっとサラの腕《うで》を掴《つか》んで止めてくれた。が、すでに体重が前に傾《かたむ》いていたため、
ドンッ!
「え? う、うわああぁぁ――っ!?」
サラは神名を後ろから突き飛ばしてしまった。
ごろごろ――っと階段を転《ころ》がり落ちていく神名。
「あ、天倉くん!」
「神名くん!?」
二人がかけた声も虚《むな》しく、神名は下の階まで転がっていく。
しかもそこへ、
「うわー、本当に重いよ、この水槽……」
「うなぎだけでも、初めに出してくれば良かったんじゃない?」
と、すでに水槽を運び出していた生徒会のメンバーが通りかかり、
「うわああぁぁ―――っ!」
「えっ!?」
「なっ!?」
ガシャ―――ッン!
階段から落ち、そのまま水槽に突《つ》っ込む神名。水槽はもちろん割《わ》れ、ガラスと一緒に中に入っていた大量の水を神名は被《かぶ》った。
それはもう驚いて、ナギとサラは大慌てで彼に駆け寄った。
「神名くん! 神名くん!?」
「天倉くん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!?」
「う、うー、いてーっ」
見た目はかなり激《はげ》しく水槽へ突っ込んだが、奇跡《きせき》的に彼には怪我《けが》一つなかった。ただ頭を少し打ったようで、痛《いた》そうに摩《さす》っている。
「なんとか大丈夫のようですね……」
ホッとサラが胸《むね》を撫《な》で下ろした。わざとではないとはいえ、自分が突き飛ばして彼に何かあったら大変だ……。
ナギも神名の様子に安堵《あんど》しながら、
「神名くん、よくがんばりました。おかげでサラさんは無事です……それにしても、神名くんって想像以上に頑丈《がんじょう》ですね……」
「何とでも言え……くーっ、本気で死ぬかと思った……」
神名が立ち上がろうと床に手を着くと、危《あや》うくガラスの破片《はへん》で手を切るところだった。
仕方なく反対側の手で身体を支えようとすると、ヌルヌルした感触《かんしょく》が伝わってきた。
割れた水槽からは、中に入っていたうなぎも外に出てきていたのだ。
「っ!」
それに気づいたサラは、さっと水槽の周りから離れる。
「……う、うなぎです」
「そこまでヌルヌルしたやつが嫌《きら》いなのか……」
とりあえずうなぎをそのままにするわけにもいかず、生徒会の一年生たちが持ってきてくれたバケツへ移《うつ》す。神名たちは何度も落としながら、どうにか全部|捕《つか》まえて、生徒会室にいた沙耶架に「水槽、割っちまった」と報告《ほうこく》した。
冷ややかな視線で「何やってるのよ、あなたたちは……」と言葉を漏《も》らした彼女だったが、階段からサラが落ちそうになった事情を説明すると、納得《なっとく》してくれた。
ひとまずうなぎはバケツで飼育《しいく》。水槽は近日中に新しいものを取り寄せるそうだ……。
生徒会のメンバーは陰《かげ》でこっそりと、「洗《あら》う手間が省けて良かった」「また、水入れて運んでくるのも重いしね……」と呟きながら、神名の無事と、水槽を割るという所業を称《たた》えた……。
その後、神名はずぶ濡《ぬ》れになってしまった服を生徒会室で乾《かわ》かすことに専念《せんねん》し、残りの全員で水浸《みずびた》しになった廊下《ろうか》や、砕《くだ》けた水槽のガラス片の片付けに追われた。そしてそれを終えるころには、すっかり日が傾《かたむ》いてしまっていた……。
もう今日は帰ろう――そう思った三人は、神名の自転車をとりに校舎裏《こうしゃうら》へ。
「祐司も連れて行くべきだったな……」
服がまだ生乾《なまがわ》きで、気持ち悪い――神名はそんなことを考えながら、疲《つか》れた表情でぼそっと祐司の名前を出した。
今日は水槽の片付けだけの予定だったので、生徒会の人数だけでも足りるはず、と祐司に手伝いを頼《たの》まなかったのだ。
「まぁ、仕方ないですよ。あんなことになるとは思っていませんでしたし……」
そう言って苦笑《くしょう》するナギは、先ほどまで「生きているうなぎって初めて触《さわ》りました!」と少しはしゃいでいた……。
対照的にそんなナギを離れたところから見つめていたサラは、表情を変えず、ただ声のトーンを落として謝《あやま》った。
「すみません……私がもっとしっかりしていれば……」
運動|神経《しんけい》は悪くないと思っていたが、二回も連続で階段から落ちそうになり、彼女は自分の身体|能力《のうりょく》を疑《うたが》った。
「いや、芹沢さんのせいじゃないって」
「そうです! 普段のサラさんなら、階段を踏み外すなんて考えられませんよ!」
体育の授業を一緒に受けているナギから見れば、そう断定できた。
サラは神名やナギとは比《くら》べられないが、普通の生徒よりは十分に運動神経が良いと言えた。
「はい……でも――」
これが一体いつまで続くのか……。
この状況がたとえ〈死〉が近づいているせいだとしても、それ自体が、やはり自分の運命なのではないか、と考えてしまう。
「私はやはり……死ぬ運命なのでしょうか?」
「っ、芹沢さんらしくないな、俺は――」
サラが思わず呟いてしまった言葉を神名が否定《ひてい》しようとしたとき、サラはそれを遮《さえぎ》って言葉を続けようとした。
「いえ、天倉くん……私には、まだあなたたちに話していないことがあるんです……」
「え?」
「あなたに話した、私の親友は……私のせいで――」
「そう! 芹沢サラ、貴様《きさま》は死ぬ運命だったのだ!」
サラがナギに何かを伝えようとしたとき、どこからともなく声が聞こえてきた。
放課後の校舎裏。
部活動も終わっており、この時間帯に生徒はほとんどいない。
聞こえてきた声の主はフルール以外に考えられなかった。
「くっ、どこにいるんですか、ノミさん!?」
「隠《かく》れたまま、好き勝手に言いたい放題ほざくなよっ!」
フルールの姿《すがた》を探《さが》し、ナギと神名が辺りを見回す。
「ふん、私は別に嘘《うそ》を言っているわけではない……」
そう言ったフルールは神名たちから数メートルも離れていない場所にいた。
神名とナギはフルールの言った言葉に眉《まゆ》をひそめる。
「……どういうことだ?」
「さっきも言っただろう。芹沢サラは死ぬ運命だったのだよ」
フルールの小さすぎる目が、すっとサラを捉《とら》える。
その視線を遮るように、ナギが間に割《わ》って入った。
「サラさんは死にません。私たちが守ってみせます!」
「甘《あま》いな、ナギ……我《われ》が言っているのは先の話ではない。過去《かこ》の話のことだ……」
そうフルールが告げると、ビクッとサラが後ずさった。
「お前はわかっているはずだ、芹沢サラ……」
「…………」
「おいっ! こら、ノミ! 何の話かって聞いてるだろ!?」
サラはフルールの言葉に固まってしまっていた。
それを見た神名はフルールを睨《にら》みつけるように問いただす。
「簡単《かんたん》な話だ……数年前、芹沢サラには親友の少女がいた。その少女は、そいつのせいで死んだのだ!」
「っ……」
それに言い返すことなく、サラは一層《いっそう》身を縮《ちぢ》こまらせて俯《うつむ》いた。微《かす》かに、彼女の肩《かた》も震《ふる》えている……。
「……いい加減《かげん》なことを言うなっ!」
「わざわざ調べたのだぞ……真実だ」
「殺虫剤をかけ足りなかったみたいだな……」
神名は〈エカルラート〉を右手に出現させると、フルールに向かって構《かま》えた。
「本当……なんです」
だが、後ろにいたサラがそう小さく呟き、地面に膝《ひざ》をついた。
彼女を振り返る神名。隣にいたナギも静かにサラを見下ろした。
「……私が……私が彼女を呼《よ》ばなければ……あんなことにはならなかった……」
「な、何を言ってるんだ?」
「そうだ、芹沢サラ。お前が約束通り、親友の所へ向かっていれば、彼女は交通|事故《じこ》などに巻《ま》き込まれなかったのだよ……」
それは、サラが神名たちに言おうとしていたことだった……。
数年前、親友が死んだその日。
彼女に本を見せる約束をしていたサラは、家を出ようとしたときに突然の雨に降《ふ》られ、どうしようかと迷《まよ》った。
するとそこへ電話があり、本も濡《ぬ》れるので親友がサラの家に来ることになった。
だがサラの家に来る途中《とちゅう》、親友であった彼女は交通事故に遭《あ》い、この世を去ってしまったのだ……。
「彼女が死んだとき、ずっと……ずっと私は考えていました……私が彼女の所に行っていれば、彼女は死なずに済《す》んだのではないか、と。彼女は、もしかしたら私の代わりに死んでしまったのではないか、と……」
そのせいで、サラは誰《だれ》かに迎《むか》えに来てもらうということを避《さ》けていたのだ。
「そうか……それで――」
神名が朝、初めて彼女を迎えに行ったときもそうだった。
彼女は神名にあまり迷惑《めいわく》をかけまいとしていたこともあったが、何より彼が自分の所に来ることで、昔の親友のときと同じように、途中で何かの事故に巻き込まれはしないかと不安に思っていたのだ……。
「ふっ、だから言っているだろう! 貴様は死ぬ運命なのだ!」
フルールが笑いながら、赤き炎《はのお》をサラ目掛《めが》けて放つ。
だが、ただ立っている神名とナギではない。
神名は〈エカルラート〉をフライ返しに、ナギはベルを呼び出すとナイフの形に変え、サラに迫《せま》る炎を跳《は》ね返し、切り払《はら》う。
「くっ、いつまでも邪魔《じゃま》な奴《やつ》らめ!」
何度もサラを襲《おそ》うフルールだが、これでは埒《らち》が明かない、と神名とナギをまず狙《ねら》うことにした。
「我が力を侮《あなど》るなよ!」
フルールはそう叫《さけ》ぶと、前に使った巨大《きょだい》な炎の玉を二つ同時に放った。
だが、
「同じ手、ばっかりだな!」
飛んでくる巨大な火球。だが、その攻撃《こうげき》はフライ返しで跳ね返せることが実証済《じっしょうず》みだ。
神名はあっさりその一つを弾《はじ》き、ナギがもう一方を消し去る。
そこへフルールがもう一撃。しかし神名が弾くまでもなく、その攻撃は神名たちから逸《そ》れて、彼らの背後《はいご》へ。
「どこを狙ってやがる!」
「貴様から学んだ手段だ! ありがたく思え!」
神名たちの遠く背後で爆発《ばくはつ》する火球。それは神名たちを狙ったものではなく、彼らの背後にあった一本の木を狙ったものだった。爆風を受けたその木はへし折れ、炎をまとって神名たちの上に倒れてきた。
「なっ!?」
神名たちの退路《たいろ》を塞《ふさ》ぎ、尚且《なおか》つ攻撃も兼《か》ねる――その予期せぬ攻撃に、さすがの神名も驚《おどろ》いた。倒れてくる巨大な木。その質量を跳ね返すことは、神名の腕ではできない。ナギのナイフも切り裂《さ》くには木が大きすぎる。
「ちっ!」
フォークもドリルも耳かきも、倒れてくる木を止めるほどの力はない。
ならば――と、神名は〈エカルラート〉へとっさに力を込めた。
「諦《あきら》めて死ね――っ!」
勝利を確信《かくしん》するフルール。
たとえ神名とナギが生き残ったとしても、サラが死んでしまえば二人は自動的にイリスからあの世に送られる。
あとはイリスのみ! だが、そう思ったとき――神名たちに倒れかかった木は、赤い光になって霧散《むさん》した。
木がまとっていた炎も、空中で消える。
火の粉のような赤い光が空に舞《ま》い、その中から神名たちは無傷《むきず》で現《あらわ》れた。
「調子に乗るのはそこまでだ……」
神名が〈エカルラート〉をフルールに向ける。彼の手に握《にぎ》られていた〈エカルラート〉は、真紅《しんく》の刃《やいば》を持った漆黒《しっこく》の鎌《かま》の形をしていた。
「か、鎌だと!?」
「俺《おれ》が本気を出せばこんなもんだ……」
その鎌を手に、神名はサラへ振《ふ》り返って言った。
「芹沢さん。あいつが言うことは全部、嘘《うそ》だ」
彼の言葉に、サラは静かに顔を上げた。
「え……でも、確かに彼が言ったことは――」
「芹沢さんの過去が本当だとしても、その親友が死んだのは芹沢さんのせいじゃない。まして、その人が芹沢さんの代わりに死んだなんてことは絶対《ぜったい》にない……」
それは神名にとって、確実に断定できた。
サラの親友が、彼女の代わりに死んだとしたら、サラのもとには死神がやって来ているはずなのだ。サラが〈|死ぬはずだった人間《ソウル・イレギュラー》〉として……。
そして、それは神名が自分自身に宛《あ》てた言葉でもあった。
千夏が、神名の代わりに死んだとしたら、神名の前にもとっくの昔に死神がやって来ていることになる。だからこそ言えた。悲しいことだが、サラの親友がそこで死んでしまったのは運命だったのだ、と。
「…………」
地面に座り込んでいたサラは、鎌を持つ神名を見上げる。
初めて見る、鎌を持った彼の姿……。
その姿はどう見ても死神で――昔に出会った、死神の姿を思い出させた。
「待っていてくれ。今、あのノミを片付けるから」
神名は不敵《ふてき》に笑って見せると、両手で鎌を構えた。
だがフルールが放つ攻撃は、その衝撃で木を倒してしまうほど強力だ。あれが当たれば無事では済《す》まないだろう。サラはできることならこれ以上、彼らには戦ってほしくなかった……。
「ま、待ってください……これ以上、あなたたちに危険《きけん》が及《およ》ぶのは――」
「サラさんはやっぱり優《やさ》しい人ですね」
ふっと笑顔を浮《う》かべたナギが、サラの言葉を遮《さえぎ》り、神名の隣《となり》に立った。
「ナギ……」
「神名くんが階段《かいだん》から落ちたときも、私がいろいろ悩《なや》んでいるときも、サラさんは私たちのことを気にかけてくれましたよね? 植木|鉢《ばち》が上から落ちてきたときだって、サラさんは自分のことより、その後の皆《みんな》のことを考えていましたし……」
窓辺《まどべ》の植木鉢は撤去《てっきょ》したほうが良い――そう思ったサラは、その日のうちに全|校舎《こうしゃ》をチェックして、植木鉢を床に下ろしたり、撤去したりして回った。
もし自分のときと同じように、誰かの上に落ちたら大変――そう思ったからだ。
「……私はサラさんが誰よりも、誰かのことを真剣《しんけん》に考えてくれる人だと思います」
ナギは優しくサラに微笑《ほほえ》みかけ、ベルを右手に呼《よ》び出した。
「くっ、たとえ鎌を使えるようになったとはいえ、貴様《きさま》らの勝ちが決まったわけではないぞ!」
フルールがそう叫び、こちらにビシッと足を向けた。
「やってみればわかるさ」
「ふん、後悔《こうかい》させてやるからな!」
フルールはほとんど自棄《やけ》になり、いくつもの炎《ほのお》を一斉《いっせい》に放った。
神名はその炎の中で、こちらに向かって飛んでくるものだけを鎌で霧散させる。鎌に触《ふ》れた炎は、すべて一薙《ひとな》ぎで消滅《しょうめつ》してしまった。
「フルール、お前だって元は死神だったんだ……死神の鎌の前に、そんな攻撃が無意味なことぐらい知ってるだろ……」
「くっ……ならばっ!」
フルールは炎での攻撃を諦め、自らの頭上に力を集め始めた。
「っ? 何をする気だ?」
その途端《とたん》、急に身体《からだ》が寒気を覚える。
今の季節は冬――だが、それを考えても異常《いじょう》なほど急激《きゅうげき》な温度変化――気温が下がっている、と神名たちの肌《はだ》が感じ取った。
「さすがの貴様らも、こいつはかわせんだろう!」
フルールの集める力が凝縮《ぎょうしゅく》され、巨大な氷の塊《かたまり》が生成されていく。しかもそれは、どんどん大きくなっていく。
「お、おいおい……っ」
氷塊《ひょうかい》は運動会の大玉サイズから、自動車ほどの大きさへ。
それを見上げる神名も、さすがに額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべた。
「神名くん」
すっとナギが神名の左手を握《にぎ》った。
何をしているんだ、と神名はその手を離《はな》そうとしたが、
「神名くん……ごめんなさい」
「?」
「私のことも、気にかけてくれていたんですよね?」
側に寄《よ》ったナギが、こちらを見上げながら微笑んだ。
神名はそれに応《こた》える代わりに、ナギの手を握る。ナギは無駄《むだ》に手を握ってきたわけではない――その意味を悟《さと》り、神名は前を見た。
フルールが作り出している氷塊は、すでにバスと同じぐらいの大ききになっている。
「こいつに、押《お》しつぶされるがいい――っ!」
氷塊が宙《ちゅう》を舞《ま》った。
「ナギっ、天倉くん!?」
サラは柱のようになった巨大すぎる氷の塊を見て、自分を守ろうとしてくれている二人の名を叫んだ。
「心配ない」
「ええ。私たちなら……大丈夫《だいじょうぶ》です」
そう言ったナギの背《せ》から、白い翼《つばさ》が現《あらわ》れた。それは彼女の背に片方《かたほう》しかなかったが、とても大きく、人を包めるのではないかというぐらいの大きさがあった。
片や神名の持っていた鎌は、いつの間にか腕と同化していた。黒い四本の爪《つめ》と、肥大化《ひだいか》した親指が赤い刃《やいば》を形成している。
ナギは翼を、神名は腕を、迫り来る氷塊へ伸《の》ばす。
「まさか!? 〈ヴァールリーベ〉だと!?」
神名とナギの姿に驚愕《きょうがく》した声を上げるフルール。
二人に向かって落下した氷の柱は、二人の〈ヴァールリーベ〉と接触《せっしょく》した瞬間、激しく光り輝《かがや》き、消滅した。
「…………」
その姿を見上げるサラは、彼らが死神にも、天使にも見えた……。
きっと彼らにそのことを伝えたら、「両方とも同じだ」と答えるだろう……だが、サラにとって、それは思わず見つめてしまうほど神秘《しんぴ》的な光景だった。
氷の塊が消え、神名とナギは手を離した。その途端、〈ベル・フィナル〉と〈エカルラート〉はそれぞれ主《あるじ》の手に鎌として握られる。
「くっ……あくまで私の復讐《ふくしゅう》を阻止《そし》するつもりというわけか……」
まさか自分の知らぬ間に、彼らが〈ヴァールリーベ〉を使いこなせるようになっていたとは計算外だった、とフルールが身を震《ふる》わせる。
「当たり前だ」
「当然です」
ナギは地面に座り込んでいたサラへ、その手を差し伸べた。神名も手を貸《か》し、彼女を立ち上がらせる。
「私はサラさんがいてくれて、本当に良かったと思っています……死んでしまった人の代わりにはなれないけれど、私はその人以上にサラさんとお友達になってみせますよ。なんといっても、家族同然なんですから!」
ぎゅっと、ナギがサラの手を握ってくる。
「芹沢さんは生きるべきだろ……その親友もそう思ってるさ。芹沢さんは今、生きてるんだ。その人の分まで生きる――そう考えた方がいいと思うぞ」
神名はサラの目をしっかり見ながらそう言ったが、すぐに視線を逸らし、
「まぁ、こんなことを言うガラじゃないけどな……それにまだ、食券の束をもらってないし……」
微《かす》かに照れながら、神名はぼさぼさと頭をかく。
彼らの言葉にサラは深く頷《うなず》いた。
「わかってはいたんです……あの死神と話したとき、彼女から天倉くんと同じことを言われました……」
「……え? 彼女?」
「私もその通りだと思い、そう考えて生きて来たつもりです……もう、誰かの言葉に惑《まど》わされたりはしません」
サラはフルールの方へ視線を向け、そして二年前のことを思い浮《う》かべた。
親友の死に悩《なや》み、苦しみ、呆然《ぼうぜん》としていたとき、サラはその死神と出会った。
自分のせいで親友が死んでしまったのではないか……そう考えていたからか、舞《ま》い降《お》りてきた彼女に、「私を殺しにきたのですか?」と尋《たず》ねた。
しかし、死神は首を振った。
「いいえ。あなたに出会ったのは偶然《ぐうぜん》よ……」
そう言ったのは女の声だった。
息を呑《の》むほどの美貌《びぼう》の、銀色の鎌《かま》を握《にぎ》る碧眼《へきがん》の死神。
「――私は、落としてしまったこれを取り来ただけ……それとも、死神に狙《ねら》われる覚えでもあるのかしら?」
そう聞かれ、サラは迷《まよ》うことなく、思っていたことを口にした。
「私の親友が、死んでしまったんです……私のせいで……」
死神はそれを、黙《だま》って聞く。
「私が彼女の所へ行っていれば、彼女は交通|事故《じこ》に遭《あ》わなかったかもしれない……いえ、もしかしたら、そこで事故に遭って死んでしまうのは、私だったのではないかと……」
「そう……」
彼女は鎌を持ち直した。やはり自分はここで死ぬ運命なのだ、とサラは静かに目を閉《と》じた。
受け入れた。自分でもそれが、正しいと思ったから。
だがいつまで待っても、サラに鎌が振り下ろされることはなかった。
「残念だけど……あなたはまだ、死ぬ運命じゃない」
「え?」
サラが目を開けると、彼女はふっと鎌を消して腕《うで》を組んでいた。
その青い瞳《ひとみ》でサラを見つめながら、諭《さと》すように口を開く。
「気にすることじゃないわ……あなたの親友は、そういう運命だったのよ……」
死神の彼女はそう言ったが、サラには信じられなかった。
「でも、もし私が――」
「仮定《かてい》の話をするなら無駄《むだ》なことよ……あなたの親友が死んでしまったことはもう事実でしょう?」
ありのままの現実《げんじつ》を見ろ、と青い目が語る。
「冷たいようだけれど……その子は死ぬ運命だった……そして、あなたは生きている。あなたはまだ死ぬ運命ではない……」
「わ、私は……」
「……悩むのはあなたの勝手よ」
これ以上、言うことはない――青い目がそう語った。
しかしサラはまだ納得《なっとく》がいかないようで、じっと死神の目を見つめる。
じっと見つめたまま立っていると、ふいに彼女は視線《しせん》を逸《そ》らした。
「はぁ……」
そして溜息《ためいき》をつき、額《ひたい》に手を当てながらどこか面倒《めんどう》くさそうな顔をする。
だが、彼女は一つの答えをくれた。
「そんなことで悩むより、その子の分まで生きる――そう考えるべきじゃないかしら?」
そう言ったときの彼女の瞳が、一番印象的だった。
彼女は死神だ……だが、その瞳は「強く生きろ」と告げていた。
そして今――。
目の前に立つ死神の少年も、同じような光をその瞳から放っていた。
サラはフルールの言葉にショックを受けたが、心が折れてしまったわけではない。
親友の死が、自分のせいではないかと思ってしまったが、「それは違う」と神名もナギも言ってくれた。
「芹沢サラ、貴様《きさま》に〈死の運命〉が近づいていることは確かなのだ!」
「私は……それでも生きて行きます。私はまだ死ぬ運命ではない、と……昔、親切な死神から教わりました」
「ほう、あの冷酷《れいこく》無比《むひ》な女が、な……」
サラの言った言葉にフルールがそう返す。
「おーい、待った! フルール! 誰《だれ》だ、その冷酷無比な女っていうのは!?」
突然《とつぜん》、二人の話が見えなくなって、神名はそう聞いた。
サラが昔、出会った死神というのはフルールのはずだ。しかしサラはその死神のことを彼女と言った……。
今でこそフルールはノミの姿《すがた》をしているが、彼は男だ。
そしてそのフルールが、その名を口にした。
「誰だ、だと? 貴様らがそんなことを聞くとは夢《ゆめ》にも思わなかったぞ……冷酷無比な女と言えば、イリス以外に考えられんだろう!」
「…………」
その名前に、神名は硬直《こうちょく》した。
「ちょっと、タイム」
そう言ってフルールに背《せ》を向けると、ナギに確認《かくにん》する。
「鎌を落としたのは誰だって説明を受けたっけ?」
「フ、フルールさんです」
「だよな。そう説明したのは?」
「イリス様です」
「…………」
何か、真実が垣《かい》間見《まみ》えた気がした……。
神名はこめかみを人差し指で揉《も》みながら、眉間《みけん》にしわを寄《よ》せてフルールに問うた。
「あー、おい、ノミ。お前、二年前に芹沢さんの近くに鎌を落としたよな?」
「この我《われ》がそんなミスを犯《おか》すわけがなかろう! イリスの話はデタラメだ。自分のミスを隠蔽《いんぺい》するために、我の名を出したのだ!」
「え、え? じゃあ、お前はなんで初めから芹沢さんのことを知ってたんだよ!」
「別に初めからではない。イリスが貴様らの家に来たときに話を聞いたと言っただろう」
「……ええっと……」
つまり、こういうことだ。
イリスが鎌を落とした。サラはそのせいで魂《たましい》が不安定になり、神名と沙耶架の影響《えいきょう》を受けて本格《ほんかく》的に不安定な状態《じょうたい》へ。
それを知ったフルールは、それを利用しようとした。
「……じゃあ、何か? 俺《おれ》とナギはイリスの尻拭《しりぬぐ》いをやらされているってことか?」
「そうだな」
騙《だま》された。
神名とナギはあまりの事実に頭を抱《かか》えた。
てっきり、原因《げんいん》はフルールで、すべて彼が悪いのだと思っていたのに……。
だが、そうなると、サラはそのことに初めから気づいていたことになる。
「芹沢サラ! 貴様がそうなった原因は奴《やつ》にあるのだぞ? 何故《なぜ》、イリスを憎《にく》まない? あの女が地上へ鎌を落とすことさえなければ、今ごろお前は平穏《へいおん》無事な生活を送れていたはずなのだぞ?」
確《たし》かにその通りだ。
今更《いまさら》、イリスを擁護《ようご》するつもりはない、と神名は思ったが、
「それは違《ちが》います」
フルールの言葉を、サラはきっぱりと否定《ひてい》した。
「私はあの死神に救われたんですよ……あのとき、あの人に会わなかったら、今の私はいなかったかもしれない……」
「出会ったことを後悔《こうかい》していないと言うのか?」
「できることなら、もう一度会いたいと思っています」
会って、一言でいい――ありがとう、とお礼が言いたかった。
彼女は――イリスはたいしたことを言ったつもりがなかったかもしれないが、あのときのサラにとって、彼女の言葉は一筋《ひとすじ》の光だったと思っている。
だが、
「いや、それはやめた方がいい」
神名は真顔でサラを止めた。
「そうです。無謀《むぼう》です」
『自殺|行為《こうい》だ』
続いて、ナギとベルも猛烈《もうれつ》に反対した。
「……まさか、止められるとは思っていませんでした……」
「芹沢サラ!」
すると前にいたフルールも、
「それは無駄に寿命《じゅみょう》を縮《ちぢ》めるぞ!?」
「あなたもですかっ」
全員が自分の意見に反対したので、サラは少しむっとする。
「いや、会わない方がいいって、絶対《ぜったい》!」
「私もそう思います! 会ってもろくなことがないですよ!? 自己《じこ》中心的で、とっても恐《おそ》ろしい人なのです!」
『サラの中にあるイリスのイメージは間違っている』
「虚像《きょぞう》です」
「夢だ」
神名とナギ、それにベルが口々にそう言った後、
「そう、あの女は恐怖《きょうふ》の女王なのだよ……」
最後はフルールが締《し》めくくった。
本人がこの場にいないので、全員が言いたい放題だ……。
「私はなんだか、イリスという人が可哀相《かわいそう》に思えてきたのですが……」
「事実ですから。そんなことありません」
『可哀相なのは私たちの方なんだ……』
「だよな……」
ベルの言葉に神名が頷《うなず》き、
「そもそも、あいつが俺と同じようなことを言っていたっていうのが、まずあり得ないだろ……」
神名たちはイリスが「死んでしまった人の分まで生きろ」と口にするシーンを思い浮《う》かべてみる。するとナギとベルも口をそろえて「あり得ない」と呟《つぶや》いた……。
「俺はイリスとは違う」
鎌《かま》を肩《かた》に担《かつ》ぎ、神名はサラを見ながらそう言った。
だが、イリスがサラにそう言ったのは事実だ。
サラはふっと笑って、
「でも……さっきの天倉くんは、その人と重なって見えました……少し、恰好良《かっこうよ》かったです……」
それは照れながらも、柔《やわ》らかな微笑《びしょう》だった。
サラが一度も見せたことのない表情だったので、神名は思わずドキッとしながらその笑顔から視線を逸らす。
「あ、ああ……」
それ以上は何と言い返せば良いのかわからず、神名は黙り込んだ。
視界の隅《すみ》で、ナギがぷくっと頬《ほお》を膨《ふく》らませたのが見えたが、見なかったことにする。
「和《なご》んでいるところを悪いが、そろそろ終わりにさせてもらうぞ!」
確かに、すでに和やかなムードだった神名たちに向け、フルールが突然、そう言った。
「終わりにって……もう終わっただろ?」
「どこがだ!? 我が芹沢サラの命をもらうまで、この戦いは終わらん!」
「……それだと一生、終わらないぞ?」
「どういう意味だ!?」
「そのままの意味だっ」
そう答えた神名は、初めてこちらから動いた。
先ほどまではフルールの攻撃《こうげき》に対して防御《ぼうぎょ》のみだったが、鎌を持っている今なら、一撃でフルールをあの世に送れる。
「くっ!」
それはフルールも理解《りかい》しているので、攻撃に転じてきた神名に焦《あせ》った。
とりあえず炎《ほのお》で牽制《けんせい》を試みるが、神名は鎌を一閃《いっせん》して消滅《しょうめつ》させる。
「いい加減《かげん》、お前の相手は飽《あ》きた!」
「それはこちらの台詞《せりふ》だ!」
その瞬間《しゅんかん》、フルールが紫《むらさき》のオーラを纏《まと》った。どうやら最後の悪あがきをしようと力を溜《た》めているようだが、フルール自体が小さすぎて、紫のもやもやしたものが蠢《うごめ》いているようにしか見えなかった。
「そろそろ俺の食券を燃《も》やした罪《つみ》を償《つぐな》え!」
「そんな紙切れを燃やしたことなど、とうの昔に忘《わす》れたわ!」
ピョーンとフルールが空へ跳《は》ねる。
落ちてきた瞬間、鎌で攻撃しようと、神名はフルールへ接近《せっきん》したが、彼は地面に落ちてこなかった。
「何っ!?」
フルールは飛んでいた。
神名たちの頭上から再《ふたた》び氷塊《ひょうかい》を落とさんと、その力を解放《かいほう》する。
「ノミって空、飛べたっけ!?」
「飛べるわけありませんよ!」
「ふははっ! これで終わりだ――っ!」
瞬時にして作られる巨大《きょだい》な氷。それはフルールの声と共に神名たちへ落下した。だが大きさは先ほどと比べると小さく、鎌だけで十分|対処《たいしょ》できるサイズだった。
これなら問題ない――神名とナギがそう思った瞬間、フルールはほぼ同時に巨大な炎《ほのお》も放った。
「っ!?」
炎が氷を砕《くだ》き、無数の欠片《かけら》が神名たちの頭上から降《ふ》り注ぐ。
フルールを倒《たお》す、と接近しすぎていた。飛び散った破片は神名とナギ、それに二人から離れたサラにも襲《おそ》い掛《か》かった。
しまった、前に出すぎた――と焦る神名。
ナギが慌《あわ》てて戻ろうとするが、間に合わない。
だがサラは、その落下物に対して冷静だった。
「私を直接、狙《ねら》うべきでしたね」
自分へ向かってきた欠片は一つのみ。欠片とはいえ、その大きさはサラの頭二つ分はあった――あったのだが、
ガシッ!
サラは両手を突き出すと、その欠片を受け止めた。しかも素手《すで》で。
「え!?」
「うそっ!?」
神名とナギはサラの力に驚《おどろ》いたが、本当に驚くのはそこからで、
「はっ!」
サラは受け止めた氷塊を、両手で思いきりフルールへ投げ返した。
「何っ!?」
上空へ放《ほう》り投げたにも拘《かか》わらず、そのスピードは落下時を上回った。まるで矢が飛んでいくような速さで、大きな氷の塊がフルールに激突《げきとつ》する。
「うが――っ!?」
無論《むろん》、激突したからといって、氷塊のスピードが落ちるわけではなく、フルールはそのまま氷の塊に運ばれ、遠く、校庭の塀《へい》に激突した。氷と塀でサンドイッチの状態にされ、衝突した瞬間、氷の塊は砕け散った。
「あれは……死んだな……」
「完全に潰《つぶ》れましたよ、きっと……」
遠巻《とおま》きにフルールのぶつかった塀を見つめる神名とナギ。まだフルールが生きているかもしれない、と辺りを警戒《けいかい》しながらしばらくその場で待ってみたが、フルールの声も聞こえてこなかった。
氷塊を放り投げたサラはいつもの無表情のままで、
「やはり、この力は使いどころ次第《しだい》ですね……ですが、危《あや》うく手が霜焼《しもや》けになるところでした」
と言いながら、こちらを向いた。
そんな彼女には聞こえない小さな声で、
「芹沢さんが本気を出せば、俺たちが護衛《ごえい》する必要なんて初めからなかったんじゃないのか……?」
と、神名がそう呟く。彼女の力が強まっていたのは知っていたが、まさか本気を出すとここまで強いとは……。
「そうかもしれないです……」
ナギも額に汗《あせ》を浮かべて頷く。だが、すべてを振り切ったような顔をしているサラを見て、
「でもサラさんらしくて、いいかもしれないですね」
「いいのか? それは芹沢さんが怪力《かいりき》の方がいいって意味で?」
「違いますよ……あー、今の発言はしっかりサラさんに報告《ほうこく》しておきますよ」
「それは待てっ」
皆勤賞《かいきんしょう》と食券が危《あや》うくなる、と神名は焦ってナギを止めた。
ナギは「サラさーん、神名くんが――」と言いかけながら笑っている。
それを見つめるサラ。だが唐突《とうとつ》にふっと空を見上げた。
そこに何かがいたような気がしたのだが……。
「気のせい、でしょうね」
サラが微笑《ほほえ》む先――妙《みょう》に明るい月明かりと澄《す》んだ空には、満天の星空が広がっていた。
○
その日の夜は、朝と同様に神名の家で食事をすることにした。
もちろんサラはナギの料理が食べられないと分かっていたので、自分の分は自分で、と台所に立つ。
夕食の後はベルも交えた全員でテレビを見ながら話をしていたが、さすがに疲《つか》れたのだろう、サラはいつの間にかソファーに座《すわ》ったまま寝息《ねいき》を立てていた。
「さすがに今日は疲れたよな……」
サラは昨日の夜からフルールの盛った毒(断定《だんてい》)に悩《なや》まされ、授業《じゅぎょう》に生徒会室の片付《かたづ》けと、最後にはフルールに自ら立ち向かった。
しばらく、彼女もずっと気を張《は》っていたはずなので、疲れもかなり溜《た》まっていたのだろう。
そう思ってサラを見つめていると、
「神名くん、女の子の寝顔をじろじろ見ないでください」
彼女の隣に座っているナギが、こちらを睨《にら》んできた。
「そ、そんなつもりじゃないって……」
ナギに言われ、視線をどこか別の場所へと思ったが、サラは正面に座っているので目のやり場に困《こま》る。
仕方なく、テレビか食卓《しょくたく》の方へと顔を向けようとしたとき、
「全員、そろっているようね」
リビングの入口に、イリスが現《あらわ》れた。
胸《むね》まである長い横髪、空を映《うつ》したかのような碧眼《へきがん》、そして死神の黒衣。
「……出たな、諸悪《しょあく》の根源《こんげん》」
気配もなくやって来た死天使長に、冷ややかな口調で神名が呟いた。
するとイリスは微かに身を縮《ちぢ》めて、
「まさかフルールではなく、私が原因《げんいん》だったなんて……」
今にも泣き出しそうな表情で小さくそう言ったが、実に演技《えんぎ》っぽい。
「最初から知ってただろ、お前は」
右手をわなわなと震《ふる》わせながら、神名がイリスを睨むと、泣き真似《まね》をしても無駄《むだ》だと悟《さと》ったのか、彼女はふっといつもの顔に戻った。
「誤魔化《ごまか》せると思ったんだけど、フルールが生きていたのが計算外だったわね……前回のときに、確実にしとめておくべきだったわ……」
そうすればバレなかったのに……と、イリスは顎《あご》に手を当てながら呟き、ナギの方を向いた。
「まぁ、報告書はそういう方向で書いて、提出《ていしゅつ》するように」
「あくまでフルールさんのせいにする気なんですね……」
「真実が必ず事実である必要はないわ。世界にいらぬ波が立たず、すべての人が平穏《へいおん》無事なら、私はそれが一番良いと思う」
「いいのはお前だけじゃねーか!」
「だって困るでしょう、私が」
私が、がかなり強調された……。
「俺《おれ》たちもずいぶん、困らされているんだが?」
「いい経験《けいけん》になった、と私に感謝《かんしゃ》するぐらいの広い気持ちがあなたには必要だと思うわ」
「お前には一般常識《いっぱんじょうしき》が必要だと思うぞ」
神名とイリスが互《たが》いに睨み合いを始める。
ナギは微かに慌《あわ》てながら、話題を変えようとイリスにあることを聞いた。
「そういえば、昔のイリス様って髪《かみ》は長かったんですか?」
サラがイリスに出会ったとき、彼女は髪の長い、碧眼の女性だったと話してくれた。今のイリスも横髪は長いが、後ろはショートボブだ。
「ええ。あのときはまだ、死天使長ではなかったから……晴れて今の役職《やくしょく》に就《つ》くことができて、〈ブルーモール〉を一緒《いっしょ》にもらったときに、髪形を変えたの」
ふっと妖《あや》しく微笑むイリス。そこにはフルールを替《か》え玉に使ったことに対しても、神名とナギに嘘《うそ》を教えたことに対しても、当然ながら悪びれる様子はない。
彼女はそのままサラの方を向いた。
「芹沢サラは……眠《ねむ》っているようね……」
「……起こしますか?」
「いえ、そのままでいいわ」
ナギの言葉に首を振り、イリスは神名の横に座った。
「天倉くん、コーヒー」
「俺の家は喫茶《きっさ》店じゃないって言っただろ。どうしても淹《い》れて欲《ほ》しければ、金を払《はら》え」
すっと手を差し出す神名。
するとイリスはその言葉を予想していたのか、ポンッと神名の手の上にお金を置いた。
五円。
「…………」
「払ったわよ」
異《い》を唱えようと思ったのだが、彼女がその碧眼を細めながら微笑んできたので、これ以上は危険《きけん》と判断《はんだん》――神名はしぶしぶ立ち上がった。
どうせなら自分も飲もう、とイリスが持ってきていたコーヒーを三人分用意する。
「イリス様、またコーヒーを飲みに来たんですか?」
「あれって一度|封《ふう》を開けたら、賞味|期限《きげん》が短いのよね……」
「本当にコーヒー、飲みに来たのかよ」
「ドリップで」
「注文までつけるのか……」
「淹れられるんでしょう?」
神名がバイトしている花屋でコーヒーは出していないが、店長の息子《むすこ》である達也《たつや》が割《わり》とそういうことにうるさいのだ。サービスで出しているハーブティーの淹れ方を教わるときに、コーヒーも一緒に教わった。それ以来、自分の家でも時々そうして飲んでいる。
「なんで知ってるんだ……」
一応《いちおう》、褒《ほ》め言葉だろうと受け取り、神名はコーヒーの用意をしてソファーに戻《もど》った。
「少々、お待ちくださいませ」
嫌味《いやみ》たっぷりでイリスにそう言うと、彼女は気にした素振《そぶ》りも見せず、「ありがと」とだけ言った。
「あ、そうそう。さっき、芹沢サラの状態が安定したと報告を受けたわ」
「え!?」
「そうなのか!?」
どこかついでのように、あっさりと重要なことを話し始めたイリスに、神名とナギはその身を乗り出すようにイリスを見た。
「どうやら今日の一|件《けん》の中に、死へ直結する出来事が含《ふく》まれていたようね……」
「それを初めに言えよっ」
「コーヒーを淹れながら話した方が、効率《こうりつ》的でしょう?」
「そういう問題じゃねーよ!」
言いたい文句《もんく》は山ほどある――が、神名はそれ以上、イリスにつっかかるのは止《や》め、サラのことを聞いた。
「じゃあ……もう、芹沢さんは安全なんだな?」
「ええ。〈死〉は確実に彼女から遠ざかったわ」
「よ、良かったです」
どうにか彼女を守りきった、とナギは安心した。
「そうか……」
ふぅ、と神名も安堵《あんど》の息をついた。
ナギの身体《からだ》を治す手立ては、結局見つからなかったが、サラを守りきれたことは正直、嬉《うれ》しい。
「なぁ、今日の一件って……やっぱりフルールが原因だったのか?」
「いえ、それは偶発《ぐうはつ》的に起こる現象としては考えにくいですから、違《ちが》うと思います」
ナギの言葉に、イリスも頷いた。
「ええ、フルールは関係ないわ」
するとナギの膝《ひざ》の上にいたベルが口を開いた。
『だったら、昨夜《ゆうべ》の食事だろう……』
間違いない、とベルは確信していた。何せ、彼女はあまりのショックでイスから床《ゆか》に転がり落ちたぐらいだ。
「確かに、夕食のときはびっくりしたけど……」
「あれはフルールさんの毒が原因です。つまり、関係ありません」
『だから、サラが倒れたのはお前の作った料理が不味《まず》かったからだって』
「何ー?」
料理の味について、不毛な論争が始まりそうになる。
この話についてはいつまで経《た》っても平行線なので、それをイリスが止めた。
「それも違うわ」
「ほら、みろ」
『……だったら、何が原因だったというんだ?』
それ以外と言えば、
「階段から落ちそうになったこと……ぐらいですか?」
それしか思い当たる出来事はなかった。
イリスはそれに頷くと、
「ええ。直接の原因ではないけれど、それが原因の一端《いったん》ね」
そう言ったイリスはどこからともなく、一つのファイルを取り出した。
サラから〈死〉が遠ざかった後、その前に起こった現象から、様々な可能性《かのうせい》を探《さぐ》り、判明した真実がそこには記載《きさい》されていた。
「ええっと……どうやら彼女は階段から滑《すべ》り落ち、偶然《ぐうぜん》、下を通りかかった巨大《きょだい》な水槽《すいそう》に激突する予定だったみたいね」
「ああ……だろうな」
それはなんとなくわかった。
神名はその代わりに水槽へ突っ込んだのだろう。
「神名くんが頑丈《がんじょう》で良かったです……あんな大きな水槽にぶつかったら、死んでしまっても不思議じゃないですよ」
そもそも頭から落ちれば、階段から落下した時点で危《あぶ》なかった。
だが、
「いえ、死因は水槽への衝突ではないわ」
「え? 違うんですか?」
「じゃあ、何だよ? 水槽の水もかなり浴びたけど、溺死《できし》ってことはないだろ?」
まさかガラス片《へん》か?
水槽が割れたとき、かなり大きな破片《はへん》もあった。あれが胸《むね》や頭に刺《さ》されば即死《そくし》してもおかしくない。
だが、結果はそれでもなかった。
「ええ……彼女は水槽に激突した際《さい》、衝撃《しょうげき》で混乱《こんらん》状態に陥《おちい》り、そこへ割れた水槽の中から大量の水と一緒《いっしょ》にうなぎが降《ふ》りかかってきて――」
「う、うなぎ……」
「それが首に巻《ま》きついた際のショック死――が原因だったようね」
神名たちは声を失った。
全員が目を丸くして、イリスの言った言葉を疑《うたが》う。
「……マジで?」
一番に口を開いたのは神名。
「真実よ」
『そんなバカな……』
神名たちは一斉《いっせい》にサラを見つめた。
我らの二年一組の学級代表は、そんな視線に気づくことなく、すやすやと眠っている。
「まぁ……何にせよ、無事で良かったよな……」
「そうですね」
「ありがとう。一応、お礼を言っておくわ」
イリスが神名に、そしてナギに顔を向けてそう言った。
お礼を言うなんて珍《めずら》しい――と神名は思いながらも、彼女の言葉に首を横に振った。
「……いいや、お礼を言うのはこっちの方かもしれないな」
「?」
「芹沢さんがあんたに会えて良かったって……救ってもらったんだって言っていた。まぁ、いろいろあったけど……芹沢さんにとっては良かったんじゃないかって思ったんだよ、俺は……」
するとナギも、神名の言葉に頷《うなず》いた。
「そうですね。つまりイリス様はサラさんの心を救ってくれた恩人《おんじん》、ということですか。ありがとうございます」
「……結果的にそうなっただけよ……天倉くん、コーヒーっ」
お礼を言い返されるとは、さすがに思っていなかったのだろう。
イリスは神名に再度《さいど》コーヒーを要求しながらも、自分で立ち上がって台所へ向かった。
「……変な奴《やつ》」
それを見た神名はふっと笑う。
前にいたナギもつられて微笑《ほほえ》み、サラの方を向いた。
家に帰らなければならないので、じきに彼女を起こすことになるが、
「お疲《つか》れ様です、サラさん」
そのときまで寝《ね》かせてあげよう。
ナギは静かに眠《ねむ》る家族同然のサラへ、優《やさ》しく微笑みかけた。
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エピローグ
サラの安全が確認《かくにん》されてから数日後。
その日の放課後に、神名《じんな》たちの教室へ沙耶架《さやか》が突然《とつぜん》やって来た。
「天倉《あまくら》くん!」
彼女は教室に入ってくると、神名の名を呼《よ》んだ。
「いません」
そう言ったのは本人だ。
「いるじゃないの、目の前に」
「……なんだよ? 俺は今日、バイトが休みだから、早く家に帰って休まないといけないんだ。邪魔《じゃま》するなよ」
「あら、それはちょうど良かったわ」
沙耶架はそう言って神名の横に立つと、
「今から新しい水槽《すいそう》が来るのよ。運ぶのを手伝いなさい」
「ぜんぜん、ちょうど良くないだろ。俺はもう帰るんだっ」
「知らないわよ」
「人の話を聞けっ」
今、説明したばかりだ。
席から立とうとしない神名を見て、沙耶架は後ろに座《すわ》っていたナギの方を向いた。
「……風流《ふうりゅう》さんは手伝ってくれるわよね? 水槽の他にも、いろいろあるのよー」
「え、ええっと――」
「私の家のシェフが作ったチョコレート・パフェ、今度持って来てあげるから」
「本当ですか!?」
それを聞いたナギは目を輝《かがや》かせて立ち上がった。沙耶架の言ったチョコ・パフェは、ナギが知っているチョコ・パフェの中でも、五本の指に入る美味《おい》しさだ。
先日、四つも食べたばかりだが、ナギに「チョコ・パフェに飽《あ》きる」という文字はない。
それを見た沙耶架はニヤリと笑う。
「天倉くんを連れて来ると、さらにもう一|個《こ》」
「神名くん、行きますよ! 来ないと今日の夕飯は節分の豆の残りになります!」
それは嫌《いや》だ。
あの豆では腹《はら》が満たせないし、美味しくない。それにこのままナギを放っておいてコンビニ弁当《べんとう》にすると、余計《よけい》なお金がかかってしまう。
行くしかないが、あくまで神名にとってはたいした利点がない。
「なんか、納得《なっとく》いかないんだが……」
「じゃあ、豆です」
「……わかった、行くって」
はぁ、と溜息《ためいき》をつきながら、神名は沙耶架とナギと共に教室を出た。
沙耶架について歩いていると、彼女は一階に降《お》りた後、下駄《げた》箱《ばこ》へ。
「どこまで行くんだよ?」
「正門。業者の人がトラックで運んで来てくれるから、後は一緒《いっしょ》に生徒会室まで運ぶわ」
「じゃあ、芹沢《せりざわ》さんはもうそっちにいるのか……」
教室にサラはいなかった。
彼女のことなので、率先《そっせん》して陣頭《じんとう》指揮《しき》を執《と》っているに違いない。
サラは〈死〉を呼び寄《よ》せる状態《じょうたい》から解放《かいほう》され、今では完全に普段《ふだん》通りの生活だ――あの腕《うで》の力はそのままで。
サラはできることなら治したいと言っていたので、イリスにそのことを聞いてみたが、直《じき》に治る……かもしれない、という曖昧《あいまい》な返事しか返ってこなかった。
三人が下駄箱でそれぞれ靴《くつ》に履《は》き変え、正門に向かうと、
「ひとまず、そっちに降ろしてください」
「わかりました」
すでに水槽を運んできた大型トラックは到着《とうちゃく》しており、やはりサラの指示《しじ》に従《したが》って積荷を降ろそうとしているところだった。
「サラ、連れて来たわよ」
沙耶架がサラに声をかけると、彼女はこちらに気づいた。
「手伝いに来ました!」
「うーい」
「助かります。どうやら水槽だけではないようなので……」
すっとサラが見せてくれた紙には、運ばれてきたもののリストが記載《きさい》されていた。中には水草や、砂利《じゃり》などといった、おそらく水槽の中に入れるものだと思われるものが、びっしり書かれてあった。
「なんか……本当に、いろいろ頼《たの》んでるなぁ」
「ええ……そうなんです」
サラがすっと沙耶架を見ると、彼女は何食わぬ顔をしていた。だが発注リストの下には「深瀬《ふかせ》沙耶架」という名前がしっかり書いてある。
「とにかく運びましょう……あ、その前に天倉くん」
「ん?」
「これを」
そう言うと、サラが手渡《てわた》しで紙の束をくれた。言うまでもなく、食券の束だった。
「……ほ、本当にくれるのか?」
「約束ですから。差し上げますよ」
感無量。
サラからそれを受け取った神名は、そんな表情でサラを見つめた。
「芹沢さんって、やっぱり優《やさ》しいよな……」
「え? そ、そんなことはありませんよ……私が使わないものを、あなたにあげただけですから……」
「そうかな……とりあえず、これをもらったからには全力で働くから、何でも言ってくれ!」
どこか照れたようなサラを尻目《しりめ》に、神名はトラックの荷台に近づいた。扉《とびら》はすでに開いていて、サラの指示通り、中から水槽が下ろされるところだった。
「……え?」
だが、それは神名が想像《そうぞう》していたものより一回りは大きな水槽だった。どう見ても、先日割れてしまったものより大きい。
「誰《だれ》が頼んだんだ、この水槽……」
「私よ……」
沙耶架がぼそりと呟《つぶや》く。彼女はそれを見て額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべていた……。
「……これは予想の範囲《はんい》内なのか?」
神名がその荷物を見ながら言う。
「よ、予想外……」
腕を組みながら、沙耶架はその荷物から目を逸《そ》らした。
前の水槽は二人でギリギリ運べたが、今度のものはそうはいかない。四隅《よすみ》に一人ずつは必ずいる……いや、それでも無理かもという大きさだった。
「すいません。これ、どこに運べばいいですか……?」
業者の人がサラにそう尋《たず》ねる。
「ええっと、二階の生徒全室なのですが……」
「これって生徒会室に入るのか?」
運ぶ前に確《たし》かめておくべきだと思い、神名が沙耶架に聞いた。
「……入るわよ。入口のドアは全部外さないといけないでしょうけど……あ、その前に水を入れないと――」
「入れられるわけないだろ。どれだけ重たくなると思ってるんだ?」
「う……」
確かに神名の言う通りだった。
しかも生徒会室は二階にある。
前の水槽はギリギリなんとか横向きにすることで、水平にしたまま階段を下りられたが、今回のものは間違いなく無理だろう。
「では、中の水は後からバケツで入れましょう……」
サラがそう提案《ていあん》し、その場にいた全員が頷《うなず》いた。
彼女としては、別の水槽に代えてもらいたいところだが、沙耶架が買ってしまったものなので仕方がない……。
「じゃあ、さっさと運ぼう。時間が経《た》てば経つほど、やる気がなくなりそうなでかさだからな……」
神名の言葉に全員が頷きつつ、行動開始。
業者の男性《だんせい》が二人と、生徒会の男子が三人、それに神名が加わり、六人がかりで何とか水槽を持ち上げる。
運ぶ向きや階段に悩《なや》まされながら、なんとか二階へ。生徒会室の入口は、やはりそのままでは水槽が通らず、スライド式のドアを両側とも外して中へ入れた。
水槽の下に机《つくえ》を十|個《こ》ほど並《なら》べて台にし、その後は砂利や水草などを入れる者と、バケツで水を入れる者とに分かれて作業した。水は一応《いちおう》、カルキ抜《ぬ》きしたものを前の水槽の半分ほど用意していたのだが、水槽が大きくなった分、足らなくなった。仕方なく、水道の水を足す。
なんだかんだと言いながら全員の手際《てぎわ》が良く、水槽の設置《せっち》は一時間足らずで完了《かんりょう》した。
水槽があまりに大きいため、左側の壁《かべ》は一面が水槽という構図《こうず》になり、最後に、沙耶架がイスに上ってうなぎを水槽に移《うつ》した。
「これでお終《しま》いね」
イスから下り、水槽の中を泳ぐうなぎを見ながら沙耶架が頷く。
数日に亘《わた》って行われた生徒会室の片付けも、これでようやく終わりだ。
「うん。なかなか綺麗《きれい》でいいじゃない」
部屋全体を見渡した沙耶架がそう言うと、
「今の言葉、忘《わす》れないでくださいね、沙耶架……」
するとサラがそう言って、何やら使い捨《す》てのカメラを取り出した。
「? 何するんだ?」
「この部屋の写真を撮《と》っておくんです。初めは、こんなに綺麗に片付いていた、という証拠《しょうこ》のために……これ以上、沙耶架に私物《しぶつ》を増《ふ》やされるのは困《こま》りますから……」
「なるほど……」
神名がそれに納得《なっとく》すると、サラはパシャパシャッと何回かシャッターを切った。
その一枚に、ふっと沙耶架が入り込む。
「……沙耶架」
「いいじゃない、一枚ぐらい。どうせ全部は使わないのでしょう? そのカメラ」
「それは勿体《もったい》無いな……」
沙耶架の行動を見ていた神名は、彼女の意見に賛同した。
「珍《めずら》しく気が合うわね、天倉くん」
「あ! 私も! 私も写りたいです!」
はいはいっとナギが手を挙げ、神名も写真に写る気になった。
生徒会のメンバーも「私も写真に写りたいです、芹沢|先輩《せんぱい》!」とサラに頼み込む。
確かに、沙耶架の言葉も一理ある。
皆がそう言うならば、とサラもそうすることにした。
「仕方がありませんね……では、撮《と》りますよ?」
やった、と全員がそんな顔をする。
そこからは入れ代《か》わり、立ち代わり、生徒会のメンバーを写真に収《おさ》めていった。しかもサラは巧《たく》みに撮る角度を変え、しっかり部屋の内部も写していく。
全員が写真に収まり、再《ふたた》び沙耶架がカメラの前に立ったとき、
「待った。芹沢さんがまだ写ってないぞ」
と、神名がカメラを持つサラを指差した。
「え?」
「ほら、俺《おれ》が代わってやるから」
神名はそう言うとサラの手からカメラを取り、彼女に向けた。
「サーラさんっ!」
ナギがサラの右腕を掴《つか》み、
「せっかく写るなら三人で」
沙耶架もサラの左|隣《どなり》に並《なら》んだ。
「三人とも、真ん中に寄ってくれ」
神名がサラたちに向かってカメラを構える。
「……私は、本当に良い親友に恵《めぐ》まれているようですね」
ふと、サラがそんなことを呟《つぶや》いた。
「何を今更《いまさら》……当たり前でしょう?」
サラの言葉に、沙耶架が当然だと笑った。
「サラさんと私は家族同然ですからね!」
ナギも嬉《うれ》しそうに笑いながらサラの横に立つ。
二人の言葉が、サラには妙《みょう》に嬉しかった。
忘《わす》れていたわけではないが、自分には本当に信頼《しんらい》できる親友たちがいるのだ、と改めて認識《にんしき》した。
「ありがとう」
サラは両手を広げ、隣に立っていたナギと沙耶架をぎゅっと抱《だ》き寄せた。
それに驚《おどろ》く二人だったが、気にすることなく、微笑《ほほえ》んでカメラの方を向いた。
「いいかー? 撮るぞー?」
神名がシャッターのボタンに指をかける。
そしてナギと沙耶架がフラッシュに備《そな》えていると、サラはぽつりと付け加えた。
「……それに天倉くん。彼は……素敵《すてき》な人ですね」
「え!?」
「なっ!?」
サラの呟きに、隣にいた二人が慌《あわ》てた様子でサラを見る。
その瞬間、神名が持ったカメラのシャッター・ボタンが押《お》され、パシャ。
後日、出来上がった写真は、サラだけが正面を向き、魅力《みりょく》的な微笑《びしょう》を浮《う》かべていた。
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あとがき
こんにちは、花凰神也《かおうじんや》です。おかげさまで、早くも三巻を出すことができました。これも皆様《みなさま》のおかげです。本当にありがとうございます! 三巻は今までで一番、製作期間が短かったので、少々《しょうしょう》不安だったのですが、なんとか締《し》め切《き》りに間《ま》に合い、こうして本にすることができました。
さて先日、僕《ぼく》は高校時代からの親友たちと旅行に行ってまいりました。
「バンジージャンプがやりたい」
「じゃあ、行こう」
三秒で思いつき、実行まで約半年……。
目的地を岡山《おかやま》にある、とあるテーマパークに決め、ついでに大阪《おおさか》(親友の一人が住《す》んでいるため)、奈良《なら》、京都《きょうと》と観光して周《まわ》ろう。だったら、三泊四日? そうなると全員の予定が合わないな――とやっている内《うち》に半年も経《た》ってしまったのですが、ようやく行くことができたのです。
お金もないので、最終日だけは旅館に泊《と》まることにして、残りの二日は「お前の家に泊めてくれ!」と大阪の親友に告《つ》げ(電話一本)、「まぁ、いいけどね」と快《こころよ》く(?)返事をもらったところで寝所《ねどころ》を確保することに成功。
後《あと》、いるのは……保険証ぐらい?
他にも決めておかないといけないことがあるような……と思いつつも、後は行き当たりばったりでいいや、と全員が頷《うなず》きます。
こうして準備を整え、予定を調整(それでも一人、仕事の都合《つごう》で行けませんでしたが……)した僕たちは、ある日、朝八時に集合し、全員が妙《みょう》なハイテンションのまま、車で岡山へ出発。
大阪の親友とは途中《とちゅう》で合流《ごうりゅう》。「バンジージャンプ、楽しみだな……」「絶対楽しいぞ、あれは!」と、期待《きたい》に胸《むね》を膨《ふく》らませて再び車を走らせます!
ですが、現地に着いてそれを見上げた僕らは「あそこから飛ぶのか?」「た、高いなぁ、おい……」と唖然《あぜん》。面白《おもしろ》そうだ、とそればかり考えていましたが、実際にその場に立つと恐怖心《きょうふしん》が込《こ》み上《あ》げてくるんですよね……。
五時間も車に乗ってやって来たんだし、休憩《きゅうけい》も兼《か》ねて他の絶叫《ぜっきょう》マシンに乗ってからにしよう――そう考えて、バンジージャンプよりも高い場所から自由落下《じゆうらっか》する乗り物に乗ったのですが、
「さっきのは勝手《かって》に落下するからいいよ。でもさ、バンジージャンプは自分で飛び降りるんだぜ?」
「そうなんだよな……」
と、逆に恐怖心を煽《あお》る結果に……。
よし! 行くか! いや、昼ご飯を食べたばかりだし……。二時間後ぐらいに飛びたいなどと様々《さまざま》な意見が出ましたが、埒《らち》が明《あ》かないのでさっさと飛ぶことに。
ジャンケンで勝った奴《やつ》から飛ぶと決め、僕は六人中の二番目になりました。
準備《じゅんび》や飛ぶ際《さい》のレクチャーを受け、いざジャンプ台へ。そこへ向かう途中の階段も怖《こわ》かったのですが、やはり一番|恐《おそ》ろしいのは飛び降りる直前《ちょくぜん》。高い所から飛び降り、落ちる感覚《かんかく》を体験するためにやって来たわけですが、思わず躊躇《ちゅうちょ》してしまいそうに……。ですが、一回目の合図《あいず》で飛ばないと二度目はなかなか飛べないと言われ、合図とともに落下。
正直《しょうじき》なところ、声も出ませんでした(笑)。
ただ、一度|伸《の》びきったゴムの反動で上に跳《は》ね上がる頃《ころ》には、解放感というか、妙な快感《かいかん》に包《つつ》まれて、とても気持ち良かったですね。飛び降《お》りる場面をハンディカムでずっと撮影《さつえい》していたのですが、後で見てみるとマネキンが上から落とされたみたいでしたが……。
飛んだ後には「今日、飛んだ記念に」と一枚の紙を渡《わた》されました。
無謀《むぼう》にも空中から地上へジャンプしたことをここに証明《しょうめい》します――んー、無謀にも、かぁ。確《たし》かに無謀な行為《こうい》ではありますね……。
でも、無事《ぶじ》に全員飛ぶことができ、それだけで旅行の六割は終わった気分に。
そのせいか残りの三日は割《わ》りと平穏《へいおん》に過ごしました。
奈良は大仏《だいぶつ》、京都は金閣寺《きんかくじ》や清水寺《きよみずでら》などの観光名所を周《まわ》り、紅葉《こうよう》も見ごろで、旅館の温泉《おんせん》にゆったり浸《つ》かって疲《つか》れを癒《いや》す、とのんびり致《いた》しました。
大阪では道頓堀《どうとんぼり》に出掛《でか》け、いろいろと美味《おい》しいものを食べて周りながら、気になったお店に立ち寄って買い物を。
旅行のお土産《みやげ》は木刀《ぼくとう》だろー、と冗談《じょうだん》半分で思っていたのですが、その途中、あるお店で三節棍《さんせつこん》(三本の棒《ぼう》を紐《ひも》や鎖《くさり》で連結した武器)を発見。こんなの売ってるんだなぁと眺《なが》めていたら、お店のお兄さんがわざわざガラスのショーケースから出してくれた上、「三節棍はこうやって使うんです」と実演しながら説明までしてくれました(笑)。
「これは買うしかないよ!」「使い方まで説明してくれたしさ!」と、親友の一人に買うように勧《すす》めると、本人は初めから買う気だったと購入《こうにゅう》……。まぁ、表面はスポンジのような素材《そざい》で出来ているので、たとえ自分に当たったとしてもポコポコッという感じでしょう。親友には、人のいない場所で、ぜひ極《きわ》めていただきたいと思います。
こうして無事に旅行から帰って来た僕たちでしたが、そういえばあのバンジージャンプはどのくらいの高さがあったのか……。三〇メートルもなかったかな? そう話していたら、親友の一人がこう言いました。
「次は〇を二つ増やした場所から落ちるしかねーな」
そうだねぇ……って、え?
来年は遥《はる》か上空から落下するはめになりそうです……。
そしてこの三泊四日の旅とは別のある日、僕は今住んでいる福岡から、東京へと向かいました。僕が準入選を頂《いただ》いた、第十八回ファンタジア長編小説大賞の授賞式《じゅしょうしき》のためです。
会場には多くの方々が出席して下さり、「ここに……いていいのかな?」と不安になるほど豪華《ごうか》な授賞式でした。
それでも、仲良《なかよ》くさせていただいている同期の受賞者の方々の顔を見て、少し安心。東京へは何度か足を運んでいるのですが、こうして受賞者の方々が全員一同に集まるのは初めてで、どこか新鮮《しんせん》な気持ちでもありました。
また、選考委貞の先生方や、他にも多くの先生方にご出席いただき、緊張《きんちょう》の連続でした。小説家としての道を歩《あゆ》み始めた僕にとって、とても参考になるお話や、楽しいお話を聞かせていただき、感謝感激《かんしゃかんげき》です。
イラストを担当して下さっている夜野みるら様。会場でお会いでき、本当に嬉《うれ》しかったです。ですが、あまり長くお話できず……申しわけありませんでした。また、機会《きかい》があればぜひ! そして今回も愛らしく、数多くのイラストを手がけて下さり、感謝してもしきれません。ありがとうございました。
担当様、関係者の方々へ。僕が東京に行くたび、いろいろとご迷惑《めいわく》をおかけしております。この場を借《か》りて、厚《あつ》くお礼申《れいもう》し上げます。
そして本書を手に取ってくださった読者の皆様へ、心の底から深く感謝しております。
それでは、またお会いできることを願って。
[#地から2字上げ]二〇〇六年十二月 花鳳 神也