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死神とチョコレート・パフェ 2
[#地から2字上げ]花鳳神也
[#地から2字上げ]口絵・本文イラスト 夜野みるら
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)廊下《ろうか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八|歳《さい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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もくじ
プロローグ
報告書・1 ベルちゃんが初《はじ》めに言いました
報告書・2 これはどういうことですか?
報告書・3 お金《かね》は一円も出してないです
報告書・4 俺は、ただ──
エピローグ
あとがき
奥付
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   プロローグ
とある会社の廊下《ろうか》で、幼《おさな》い少女がガラス越《ご》しにオフィスの中を覗《のぞ》いていた。
スーツに身を包んだ社員が忙《いそが》しく働いている中で、彼女の姿《すがた》はおおよそ相応《ふさわ》しくないと言えたが、廊下ですれ違《ちが》う者は誰《だれ》も彼女を外へ出そうとはしなかった。
少女の歳《とし》は七、八|歳《さい》だろうか。長く、さらりとした髪《かみ》を腰《こし》まで伸《の》ばし、白いワンピースを着ていた。
少女はぐっと背伸《せの》びをして窓《まど》の縁《ふち》に手をかけると、何とか両目を窓の位置にまで上げてキョロキョロと中を窺《うかが》っていた。
中では数人の社員が、一人の男性《だんせい》の指示《しじ》を仰《あお》いでいるのが見える。
それは少女の父親だった。
普段《ふだん》から優《やさ》しい人で仕事の時も笑っていた。
だが少女の目は、最近その笑顔《えがお》がぎこちなくなっていることを知っていた。
笑おうとしているが、笑えるような状況《じょうきょう》にはない――しかしそれが、会社の経営《けいえい》が傾《かたむ》きつつあるためだとは、今の少女にはわかるはずもなかった。
「ここにいたのか……」
ふいに背後《はいご》から声がして、少女は抱《だ》きかかえられた。
目線が急に高くなり、視界《しかい》が開ける。
ガラスの向こうにいる父親を横目に、少女は自分を抱きかかえた人物を見た。七十歳近い白髪《しらが》の老人が、優しくこちらを見つめている。
「おじい様……」
「お前はいつもここだな?」
どこか嬉《うれ》しそうに少女の祖父《そふ》が言った。
「うん。皆《みな》が働いているところを見るのが好きなの」
「そうか、そうか……」
少女がそう言ってオフィスの中へ視線を戻《もど》したので、彼女の祖父もそちらに目を向けた。
中の様子は先ほどと変わっていない。老人も、少女の父親の姿《すがた》に気がついた。
「あいつも、がんばってはいるようなのだがな……」
祖父が呟《つぶや》いた言葉に、少女は首をかしげた。
「お父様は、お仕事が大変なの?」
「ん? ああ、そうだな……今はとても大変なんだよ」
そう言って、優しく少女の頭を撫《な》でる。
子供《こども》心にその手がとても大きく感じられ、どこか安心したように笑った。そして少女は嬉しそうに祖父を見つめると、
「私、お父様を手伝う」
その目を輝《かがや》かせながらそう言った。
すると老人は「はっはっはっ!」と笑い、少女を床《ゆか》に下ろした。
「残念だが、今はまだ無理だな……」
下ろされた少女は、そう言われて不思議そうに祖父を見上げた。
「そうなの?」
「ああ……だが、大きくなれば、すぐに手伝えるようになる」
再《ふたた》び老人の手が少女の頭を撫でる。
それから少女と目線の高さを合わせると、静かに言った。
「もし、そうなったときは……お父さんを助けてやってくれるか?」
「うん!」
少女は祖父の言葉に自信|溢《あふ》れる笑顔で応《こた》えた。
そのときのことを、少女は決して忘《わす》れなかった。温かい手で優しく撫でてくれた祖父の手と、そのときから自分の夢《ゆめ》となった祖父の言葉。
それから十年後――少女は昔、父親のいたオフィスの中に立っていた……。
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   報告書《ほうこくしょ》・1 ベルちゃんが初《はじ》めに言いました
夕暮《ゆうぐ》れ時の川岸。
空は微《かす》かに水色で、雲は沈《しず》みかけた太陽の光を受けて紫色《むらさきいろ》に輝いている。その光をうけた川の水面《みなも》も微かに煌《きらめ》きながら同じ色を反射《はんしゃ》していた。
ほんの一瞬《いっしゅん》しか見られない幻想《げんそう》的な空の絵画。これを過《す》ぎると空は暗くなり、星が輝き出すだろう。
紫色の筋雲《すじぐも》を見上げながら、少年が自転車を押《お》していた。
名は天倉《あまくら》神名《じんな》。高校二年生。
顔はまぁ、良い方だろう。わりと気さくな人物なので、本人は知らないが陰《かげ》では女子からの人気も高いのだが、お金がからむことになると途端《とたん》にうるさくなる、と学校でもよく知られている少年だった。
今、そんな彼の表情《ひょうじょう》はとても不機嫌《ふきげん》そうに見えたが、そうではない。
「腹減《はらへ》ったなぁ……」
そう呟き、空に向けていた視線を自分の隣に向けた。
神名が自転車を押しているのはパンクしているわけではない。隣を歩く少女に歩調を合わせていたのだ。
彼と同じ高校の制服《せいふく》を着ている少女は、神名の視線に気づいてにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「家に帰ったら、すぐ夕飯を作りますね」
少女の名前はナギ。
学校では風流凪《ふうりゅうなぎ》という名前を名乗っているが、正確《せいかく》には「ナギ」だけが本当の名前だ。
長い横髪《よこがみ》、後ろはリボンで二つに分けられ、神名に向かって美しい笑顔を向けている彼女は、一週間ほど前まで死神だった。だった――というのは、今の彼女は人であるという意味だ……。
人の魂《たましい》を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》へと導《みちび》く者である死神は、天使の役職《やくしょく》の一つだ。
その天使とは、本来なら死ぬはずではなかった人が、何らかの原因《げんいん》で死に至《いた》り、生きるはずだった残りの時間を与《あた》えられた者のことを言う。
生前のナギは小川《おがわ》千夏《ちなつ》という名の少女で、神名の親友である小川|祐司《ゆうじ》の姉だったが、千夏は神名と祐司に倒《たお》れかかってきた鉄骨《てっこつ》から、その身を挺《てい》して二人を守り、この世を去ってしまったのだ。
しかしその後、生前の記憶《きおく》はほとんど失ってしまったものの、死神として地上に降《お》りてきた彼女は神名と出会い、彼の手によって魂の輪廻を回転させられて人へと戻《もど》ったのだ。
「今日は献立《こんだて》も決まってて、材料も神名くんの家にありますから、本当にすぐできますよ」
「それなら助かる。昼メシはちゃんと食べたのにな……」
「お腹《なか》がすくのはいいことです!」
今のナギはクラスメートである芹沢《せりざわ》サラという少女の家に居候《いそうろう》していて、神名のために夕食を作ってからその家に帰るようにしていた。
死神として神名を元の輪廻に戻そうとしていたとき、住む場所がなく、彼と「食事を作る代わりにソファーを借りる」という交換《こうかん》条件《じょうけん》のようなものを結んでいたためか、それが日課になってしまったのだ。
するとそこへ、
『今日はどんな料理なんだ?』
自転車のカゴから声が聞こえ、神名とナギはそちらに目をやった。
三〇センチほどの大きさの、白い卵《たまご》のような物体がカゴに入れられている。黄色い輪のような部分を台座《だいざ》のようにして、それは微かに浮《う》いていた。
「ベルちゃんが嫌《きら》いな、グラタンですよー」
ナギからベルと呼《よ》ばれたその物体は、彼女と契約《けいやく》している死神の鎌《かま》――<<ベル・フィナル>>という。
『私は別にグラタンが嫌いなわけではない。お前の作った料理が嫌いなだけだ』
もちろん鎌なので、ものを食べたりはできないのだが、食べている人に触《ふ》れてもらうことで味を感じることはできるらしい。
そのベルの言葉に、ナギはむっと頬《ほお》を膨《ふく》らませた。
「ひ、ひどいですー」
「あの味が理解《りかい》できんとは……哀《あわ》れだな、ベル……」
『お前の味覚と脳《のう》みその方が哀れだろ』
ナギが作る料理は見た目がとても美味《おい》しそうにも拘《かかわ》らず、食すと気絶《きぜつ》してしまうほど壮絶《そうぜつ》にまずい。しかし神名もナギも味覚がずれていて、その味が良いらしい。
味覚がおかしな二人は、目の前に最高級の料理が並《なら》んでも、
「味にインパクトがない」だとか「脳を揺《ゆ》さぶる刺激《しげき》がない」だとか言うに違《ちが》いない……しかも厄介《やっかい》なことに、二人にはその自覚がないのだ。
「俺《おれ》たちの味覚がおかしいっていうのか?」
『お前たちが本当に人間なのかと疑問《ぎもん》に思ってしまうぐらいにな』
「ふっ、どうやらここから川に捨《す》てられたいらしいな……」
その目を細め、神名はベルを睨《にら》む。
『ま、待て! それはやめろ!』
一度、神名に川へ投げ込《こ》まれたことがあるので、ベルは慌《あわ》てて声を上げる。
「今すぐお前の意見を改めろ。ナギの料理は美味《うま》い、と」
『美味いわけがない』
すると神名はカゴからベルを取り出し、
「じゃ、さらば」
川へ投《とう》てき体勢《たいせい》。
『待てっ! 捨てるつもりか!?』
「いや、砲丸《ほうがん》投げだ。ちなみに玉は拾わない」
『ただの不法|投棄《とうき》じゃないか――っ!』
ベルを川へ投げ込む仕草をする神名を、ナギが苦笑《くしょう》しながら止めた。
「まぁまぁ、今日も腕《うで》によりをかけて作りますから」
『だから、お前ががんばると余計《よけい》に食べられなくなるんだっ!』
「美味いのに……とりあえず早く帰ろう。報告は食ってからだ」
「はい」
神名はナギが嬉《うれ》しそうに頷《うなず》くのを見てから、ベルをカゴに入れる。その間にナギが自転車の荷台に両足を揃《そろ》えて座《すわ》り、神名の腰《こし》に掴《つか》まった。
神名が自転車をこぎ始めると、二人と一|個《こ》を乗せた自転車はぐんぐんスピードを上げていく。すでに帰り道の途中《とちゅう》だったので、家まではすぐだ。
それでも家に着く頃《ころ》には日が完全に沈《しず》み、道路には街灯《がいとう》の光が点《とも》っていた。
神名はリビングの明かりをつけると制服《せいふく》の上着だけを脱《ぬ》いで、ベルを食卓《しょくたく》のイスに座らせる――そこがベルの定位置だ。
そして窓辺《まどべ》のサボテンに近づくと、目線を同じ高さにして話しかけた。
「よー、エカル。今日も一日、元気だったかー?」
大きな植木|鉢《ばち》にサボテンがひとつ。そのサボテンの前には半分だけ土に隠《かく》れた黒い卵のようなものが埋《う》められていた。
『いい加減《かげん》、私の半身をそこに埋めるのはやめろ……』
見た目はベルと瓜《うり》二つ。
それは神名と契約している死神の鎌――<<エカルラート>>だった。ナギが死神としての初|任務《にんむ》の際《さい》、ベルと一緒《いっしょ》にこの鎌を運んでいたのだが、地上に落としてしまい、たまたま下にいた神名に激突《げきとつ》――それ以来、彼が所有者になっている。
<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>は一対《いっつい》の鎌で、これでも天界最強と言われた伝説の鎌だ。その鎌の片方《かたほう》を、神名は植木鉢に埋めている……。
「これ以外の使い道って、漬物《つけもの》石だけだぞ?」
『ふざけるな! もっとあるだろう!?』
「……売る?」
『金にする気か!?』
と、そこへ、
「<<エカルラート>>はそんなに重くないですから、漬物石にはできないと思いますよ?」
ナギが制服の上からエプロンを着《つ》けながら、台所ごしにそう言った。
「……じゃあ、植木鉢に埋めっぱなしは決定だな」
<<エカルラート>>と一緒に埋められたサボテンは、<<エカルラート>>の影響《えいきょう》を受けているせいか、ぐんぐん大きくなっている。別にサボテンを育てているわけではないので、意味はないのだが……。
『私たちが鎌として使われることはもうないのか……』
「俺たちが死ぬまでない」
『ううぅ……』
もしかしたらあと半世紀はこのままかもしれない<<エカルラート>>のことを思うと、ベルはなんだか泣けてきた。
ナギはそんな二人のやり取りを台所から見ながら料理を始めた。一品目は、ベルに言った通りナスとトマトのグラタンで、ナスを輪切りにし、アク抜《ぬ》きをするために水につける。
彼女は料理を作るのが好きだった。
料理を作る回数を重ねるたびに自分の腕が上達していくようで楽しいし、自分の作った料理を誰《だれ》かに「美味《おい》しい」と言って喜んでもらうのが一番嬉しい。
だが、
「…………」
ナギはタマネギを粗《あら》みじん切りにしながら、テーブルを拭《ふ》く神名を見た。
イリスと最後に会ってから、もう一週間以上が経《た》つ……。
ナギは神名の<<エカルラート>>を変化させたドリルによって、輪廻《りんね》を逆向《ぎゃくむ》きに回転させられ、死神から人へと戻《もど》り、小川千夏だった頃の記憶《きおく》も取り戻した。
ふと、ナギはそのときのことを思い浮《う》かべる。
お前がいなくなると困《こま》る――神名がイリスと戦う際、ナギに言った言葉だった。
あの言葉は一体、どういう意味だったのだろう、とナギは時々考えているのだが……。
「いい匂《にお》いだな」
「えっ!? あ、はい!」
ナギはテーブルの周りにいると思っていた神名が、突然《とつぜん》横に現《あらわ》れてびっくりした。
彼は鍋《なべ》の蓋《ふた》を開けてみたりしながら、「おー美味そう」と笑い、
「やっぱり……お前がいないと困るよな」
ぼそっと呟《つぶや》くようにそう告げた。
「え?」
包丁の手を止め、ナギはその言葉に固まる。
すると神名は鍋からナギの方に視線《しせん》を向け、その目をじっと見つめ返した。
そしてゆっくり顔を近づけると、
「だって、まともなメシが食えなくなるだろ? いやー、俺の食生活はインスタントが基本《きほん》だったからなー」
彼はそう告げて「あはは」と笑う。
「…………」
無言で神名を睨《にら》むナギ。
「ん? どうしたんだ?」
「……なんでもないです……はぁ」
ナギは溜息《ためいき》をつき、包丁を持つ腕《うで》を動かし始めた。
神名は一瞬《いっしゅん》、不思議そうに首をかしげたが、
「調子悪いのか? ……まさか、風邪《かぜ》!?」
ハッとなった神名はナギに近づいた。
「だったら大変だぞ……」
神名の顔が目の前にまでやって来て、ナギは慌《あわ》てる。
「あ、い、いえ大丈夫《だいじょうぶ》です! そんなに心配しなくても――」
「バカ言うな!」
神名はナギの言葉を遮《さえぎ》ると、途端《とたん》に真剣《しんけん》な顔つきになった。
ポンッとナギの肩《かた》に手を置き、
「いいか? 今のお前には保険証《ほけんしょう》がないんだぞっ」
「……え?」
「だから保険証がないんだ! お前が風邪引いて、病院に連れて行くことになったら、診察料《しんさつりょう》は一体いくら取られるかわからないだろ!?」
「なんですか、その理由は――っ!?」
「直視しがたいが、事実だ!」
「夢《ゆめ》でも見ていてください!」
ナギが顔を真っ赤にしながらそう叫《さけ》び、包丁を持った手で神名の手を振《ふ》り払《はら》う。
「うわっ!? 危《あぶ》ないだろ、お前っ!」
「いいですから、神名くんは大人しく座《すわ》っていてください――っ!」
「わ、わかった……」
ナギからそう言われ、神名は素直《すなお》に座って待つことにした。
ナギはいろいろと考えるところもあったが……その後はてきぱきと手を動かし、三十分もしないうちにテーブルの上に料理を並《なら》べた。
「お、さすがナギ。今日も美味《うま》そうだなー」
ナギが料理を並べるのを手伝いながら、それをまじまじと見つめる。
「はい」
料理を作っている間に落ち着いたのか、彼女は機嫌《きげん》を直していた。
「グラタンには、神名くんがもらってきたマジョラムも入っていますよ?」
マジョラムというのはハーブの一種で、神名がバイト先でもらってきたものだ。神名がもらってもあまり使い道がわからないのだが、もらえるものはもらうのが神名の主義《しゅぎ》だ。とりあえずナギに見せたら料理に使えるというので作ってもらった。
「なるほど……さすがだな」
「もちろんです。では、冷めないうちにどうぞー」
グラタンの他《ほか》にも白身魚の蒸《む》し煮《に》と、小皿に盛《も》られたサラダ、それにライスがテーブルの上には並んでいる。
神名とナギは向かい合うようにして座り、手を合わせた。
「いただきます」
神名はさっそくスプーンを手に取り、グラタンを口に運んだ。腹《はら》が減《へ》っていたことを抜《ぬ》きにしても、やはり彼女の作る料理は美味い。それにどこか懐《なつ》かしい感じもする。
彼は二、三口食べて、ようやく顔を上げた。
「うん、美味いっ」
「神名くんは昔から、このグラタンが好きでしたよねー?」
小川千夏だった頃《ころ》からナギは料理が好きだった。
そのため一生|懸命《けんめい》、弟の祐司と神名のために料理を作ってあげていたのだが、祐司はなぜか食べたがらなかった。その代わりに神名がいつも「千夏お姉ちゃんの料理は美味《おい》しいね!」と笑ってくれていたのを思い出す。
「覚えてたのか……なるほど、道理でなんか懐かしい味だって思うわけだ……」
「はい」
ナギはにっこり微笑《ほほえ》みながら神名を見つめた。
彼は見られると恥ずかしいのか、ナギから視線を逸《そ》らしてもくもくと食べ続けた。だがしばらくして、ふと話を切り出す。
「そういえば最近、友達|増《ふ》えたよな、お前……」
ナギが死神として地上に降《お》りてからは、ほとんと神名と一緒《いっしょ》だったので、クラスメートとゆっくり話す機会もなかったが、人になってからは余裕《よゆう》もできて、授業《じゅぎょう》の合間や休み時間にクラスメートとよく話をするようになった。
もともと明るい性格《せいかく》なので神名は心配していなかったが、友達に囲まれているナギを見て少しホッとしている。
彼女は嬉《うれ》しそうに笑うと、学校でのことを話し始めた。
「はい。皆《みな》、親切で優《やさ》しいですから。今日も新しいチョコレート・パフェの情報《じょうほう》をゲットしました!」
転校初日の自己《じこ》紹介《しょうかい》で、美味しいチョコレー卜・パフェの食べられる店を知っていたら教えてほしいと言ったのを皆が覚えてくれていたようで、ナギはちょくちょく誰かからその情報を仕入れてくる。
「ふーん、どんな?」
「よくわからないんですけど、行けばわかるって言われました。香春《かわら》駅の裏側《うらがわ》に喫茶《きっさ》店があって、そこで食べられるらしいです! 連れて行ってください!」
ナギは神名に向かってその目を輝かせる。
彼女は一日三食の食事をすべてチョコ・パフェで代用|可能《かのう》、それさえあればご飯はいらないと断言《だんげん》するほど、チョコレート・パフェが大好物なのだ。
もちろんそれは知っていたが、
「却下《きゃっか》する」
神名はそう言って食事を再開《さいかい》した。
「い、いいじゃないですか〜。ちょっとくらい……」
「香春まで行くのに金がかかる。チョコ・パフェ二つに交通費プラスじゃ、二千円を超《こ》えるぞ」
「神名くんがコーヒーだけにすれば問題ないです」
「おい!?」
思わず神名は食事の手を止める。
『相変わらずケチだな……』
ナギの台詞《せりふ》を聞いても主《あるじ》の味方なのか、<<ベル・フィナル>>は神名にそう言った。だがここで退くわけにはいかない。
「黙《だま》れ、卵《たまご》。行けない理由もちゃんとある」
『どんなだ?』
「そもそも金がない。最近、食費が多くなってるからな……」
「神名くん、きっと大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、そのくらい! とりあえずチョコ・パフェでも食べて元気出しましょう!」
そう言ってナギはどこからかチョコレート・パフェを二つ取り出した。その一つを神名に差し出し、
「美味《おい》しいですよ?」
「それが原因《げんいん》だって気づけ――っ!」
両手で食卓《しょくたく》を激《はげ》しく叩《たた》きながら神名は立ち上がった。
「そ、そんなに怒《おこ》らなくても……」
「誰だって怒るだろ、普通《ふつう》!」
「怒りっぽいのは頭に糖分《とうぶん》が足らないせいです! 神名くんには特別にもうひとつ追加させてあげましょう!」
ナギはさらにもう一つチョコレート・パフェを取り出す。
「これ以上、エンゲル係数を勝手に上げるな! つーか、最初は三つ食う気だったな、お前!?」
「……えへへ」
「笑うな!」
神名の言葉を聞いているのか、いないのか、彼女は嬉しそうにさっそくスプーンを手にチョコ・パフェを食べ始めた。
「うん! ほら、やっぱり美味しいです〜」
「人の話、聞けよ」
「神名くん。明日また、材料を買って帰ってきてくださーい」
ナギが言う材料とは、もちろんチョコレート・パフェの材料のことだ。
「……待て。昨日の夜、買ってきてやったばっかりだぞ?」
昨日の夜、バイトの帰りに頼《たの》まれて買ってきた分――いつも利用するスーパーが閉店《へいてん》してしまっていたので、わざわざ駅前まで行って買ってきた材料だった。しかもコンビニで買ったので、値段《ねだん》も高かったのだが……。
「もうないです」
「なんでだ!?」
「一日に三つは作ってしまいますから」
「だから、それは食いすぎだ――っ!」
「これは私が生きるために必要な、最低|基準《きじゅん》です――っ!」
「過剰摂取《かじょうせっしゅ》だっ!」
神名はそう叫《さけ》びながらさらに抗議《こうぎ》しようとしたが、足元で何かを踏《ふ》みつけ、ピタリと止まった。
「…………」
ゆっくり神名が視線《しせん》を下にやると、くしゃくしゃに丸められた紙が転がっていた。彼はそれを踏んでいたのだ。
「そういえばそれ、忘《わす》れていましたね……」
「あ、ああ……まだ、あったのか……」
神名は仕方なさそうにそれを拾い上げると、あまり見たくはなかったが、しわくちゃになったそれを少しだけ広げてみた。
<<極秘《ごくひ》指令書>>という文字が一番上に書いてある……。
一週間前、イリスから手紙と一緒《いっしょ》に送られてきたものだ。一目見て道端《みちばた》に捨《す》ててしまったのだが、「任務《にんむ》放棄《ほうき》の傾向《けいこう》が見られた場合、即座《そくざ》に両名をチョコレート・パフェにする」と書かれていたので、結局、拾ってきてしまった……。
内容《ないよう》を簡単《かんたん》に言うと――死神の仕事をしてもらうから待機せよ。
また連絡《れんらく》するからとも書かれていたのだが、この一週間、何の音《おと》沙汰《さた》もない。
「……イリス様、どうしたんでしょうね?」
ナギは初め、次の任務というのを不安に思っていたが、最近は神名のことが気になってそれどころではなかった。
神名もいつの間にか記憶《きおく》の片隅《かたすみ》に追いやっていた。
丸められた指令書を前に黙り込《こ》んでしまった二人。するとナギの隣にいたベルが静かに言った。
『忘れているんじゃないのか? あいつも』
「それはないですよ。イリス様は死天使長ですよ?」
「いや、あり得るぞ。また誰かをゴキブリにして愉快《ゆかい》そうに笑い、それを見なから『いつ殺そうかしら?』とか言って楽しんでいるに違《ちが》いない……」
三人は目を閉《と》じて、その情景《じょうけい》を思い浮《う》かべてみる。
なんだか――容易《ようい》に想像《そうぞう》できた。
『……それじゃあ本当に鬼《おに》だな』
「鬼ですよ、あの人」
「だよなぁー」
あはは。ふふふ。ははは。
二人と一|個《こ》が愉快《ゆかい》に笑っていると、
「誰が鬼ですって?」
ブルーの双眼《そうがん》が真横に現《あらわ》れた。
「うわあああぁぁぁ――っ!? どこから来たんだ、お前は!?」
驚《おどろ》いて神名がその場から飛びのくと、いつの間にかイリスがそこに立っていた。
漆黒《しっこく》の服に身を包んだ、すべての死神をまとめる死天使長。見た目は二十歳《はたち》前後の彼女は呆《あき》れた様子で言い返した。
「……どこからって玄関《げんかん》に決まっているでしょう」
「音もなく入ってくるな!」
「私は死神なのよ? これが普通《ふつう》。まぁ、そんなことはどうでもいいわ……誰が鬼ですって?」
ジロリ、というよりギロリと睨《にら》まれ……神名はすぐさまベルを指差した。
「あいつがお前のことを、鬼だって言ってた」
イリスの視線がナギに移《うつ》ると、彼女も神名の言葉に頷《うなず》いた。
「ベルちゃんが初めに言いました」
『お前らが本当の鬼だ――っ!』
すると、叫ぶベルをイリスはがっちり掴《つか》んで持ち上げた。彼女ははにかむような微笑《びしょう》を浮《う》かべつつ、
「死刑《しけい》」
……終焉《しゅうえん》を告げた。
『即行《そっこう》で極刑?』
「安心なさい。追々《おいおい》、暇《ひま》なときにね……それよりナギ。あなた最近、食後は毎回チョコレート・パフェを食べているんですって?」
「はい、幸せです」
「太るわよ?」
「うっ!?」
ストレートな言葉に、ナギは震《ふる》えながら後ずさりして、ガクッとうな垂《だ》れた。どうやら自覚はしているらしい……。
神名はそんなナギを横目に、イリスへ話しかけた。
「そんなことを言うために来たのか?」
「そんなわけないでしょう。私の手紙は読んだわね?」
その言葉に神名は慌《あわ》てて手にしていたものをテーブルに載《の》せ、くしゃくしゃになった極秘指令書をきれいに伸《の》ばした。
「ああ、読んだぞ」
「あなた……指令書を丸めたわね?」
伸ばされた指令書は当然シワだらけ。この指令書の状態《じょうたい》で任務放棄と見なされたら神名たちは終わりだ。
「ポ、ポケットに入れてたらシワだらけになったんだ! 丸めて捨《す》てようとしていたわけじゃないぞ!」
するとイリスは眉《まゆ》をひそめて神名に近づいた。思わず後退《こうたい》する彼に向け、彼女はその手を上げ、
「ほら、ここ。私のサインが入っているのよ? 額縁《がくぶち》に入れて、保管《ほかん》しなさい」
「あんた、どこかの芸能人《げいのうじん》か」
「天界ではね。容姿《ようし》端麗《たんれい》、頭脳《ずのう》明晰《めいせき》、空のような広い心と優《やさ》しさに満ちた、女神《めがみ》のような死天使長として有名よ?」
「それってゴシップ記事の切り抜《ぬ》きだろ」
「私、なんだかお腹《なか》がすいてきたわ。冷たくて甘《あま》いものが食べたいわね。チョコレート・パフェとか……」
「額縁に入れときます」
イリスが冷たい微笑《ほほえ》みを浮かべながら人差し指をくるくる回してみせたので、危機《きき》感を覚えた神名は素直《すなお》に従《したが》った……。
「よろしい……さて、それじゃ本題よ。前に手紙で言った通り、あなたたちに仕事をしてもらうわ。今回の任務は――」
「待て、それって給料は出るのか?」
さっそく仕事の話に入ったイリスを神名が止める。彼にとって、その仕事で給料がもらえるのか否《いな》かは重要な問題だ。
だがイリスは本題の話を止められ、不機嫌《ふきげん》そうに神名を睨んだ。
「私の言葉を遮《さえぎ》らないで。質問《しつもん》は挙手してからにしなさい」
「はい!」
「はい、天倉くん」
「給料は出るんですか!?」
「出ません」
ガタッ。神名は力なくその場に膝《ひざ》を付いた。
「バカな……タダ働きなんて……っ!?」
「タダではないわ。ソウル・イレギュラーであるあなたを、こうして見逃《みのが》している見返りです」
「うっ……」
そう言われると神名には何も言い返せなかった。
神名はナギとは全く逆《ぎゃく》の存在《そんざい》――死ぬはずであったのに、生きている人間なのだ。
ナギがそうだった<<生きるはずだった人間>>や、神名のような<<死ぬはずだった人間>>は、正常《せいじょう》な輪廻《りんね》から外れた者――ソウル・イレギュラーという総称《そうしょう》で呼《よ》ばれる。
神名はバイトの給料日に、嬉《うれ》しさのあまり踊《おど》りながら公園を進んでいる際《さい》、たまたまあった石を蹴り上げ、その反動で後ろ向きに転倒《てんとう》し、置き忘れてあった三輪車のサドルに頭をぶつけて死ぬ予定だったのだ……。
だが、そこで納得《なっとく》する神名ではない。
「労働|基準《きじゅん》に違反《いはん》してるだろ!?」
「私を中心とした半径《はんけい》五キロ以内は治外|法権《ほうけん》が認《みと》められます」
「意味わかんねーよ! 最低限《さいていげん》の賃金《ちんぎん》を要求する!」
「じゃあ……五円」
「五円!?」
「ほら、ご縁《えん》がありますようにって言うじゃない?」
「そんな縁いらん。円をくれ!」
「だから五円」
「それのどこが最低賃金なんだ! 絶対《ぜったい》、やらないからな、そんな仕事!」
神名はあくまで抗議《こうぎ》するつもりだったが、
「そう。じゃあ私も今日は食後のデザートが食べられるわね……二つも」
青く鋭《するど》い視線《しせん》が神名とナギを捉《とら》える。
あなたたちに拒否《きょひ》権はない。そう彼女の眼《め》は言っていた。
「……ふ、太るぞ?」
「私、死神だから。太らないの」
「そういえば、そうだな……」
気を取り直し、イリスは改めて二人に言った。
「とにかく任務《にんむ》は引き受けてもらうわ。知っての通り、任務の途中《とちゅう》放棄《ほうき》は任務失敗と見なします。失敗した場合、あなたたち二人を即座《そくざ》にチョコレート・パフェにするから、そのつもりで」
こちらを睨《にら》む空のような眼光《がんこう》に、神名とナギはしぶしぶ頷《うなず》くしかなかった……。
次の日、神名とナギはいつもより早く学校へ登校した。
鞄《かばん》を教室に置いて廊下《ろうか》に出ると、二人は窓辺《まどべ》に寄《よ》りかかる。そこから少し視線を右にすると、隣《となり》のクラス――二年二組の教室内が見えた。
その教室の中心に、腰《こし》まである、さらりとした長い髪《かみ》の少女が座《すわ》っていた。
瞳《ひとみ》やその表情《ひょうじょう》はどこか自信に盗《あふ》れ、それに惹《ひ》かれるように数人の友人たちが彼女を囲んでいた。
彼女の名前は深瀬《ふかせ》沙耶架《さやか》。この辺りでは有名な<<深瀬グループ>>の社長|令嬢《れいじょう》だ。
そんな彼女を、神名とナギは廊下からこっそり見つめていた。
「あいつだ……」
「なるほど……」
はぁ、と二人は深い溜息《ためいき》をつく。
昨日の夜、イリスから話された内容《ないよう》はこうだ。
深瀬沙耶架――彼女は一昨日の夜、車で自宅《じたく》へ帰る途中、信号を無視《むし》した車に横から突《つ》っ込まれ、事故死《じこし》してしまうはずだったそうだ。
だが実際《じっさい》は衝突《しょうとつ》したものの、衝突された場所が長いリムジンの中央部だったため、運転手は無事、一番後ろの座席に悠々《ゆうゆう》と座っていた彼女も首を少し痛《いた》めた程度《ていど》で済《す》んだ。
その一件《いっけん》で、深瀬沙耶架は<<死ぬはずだった人間>>になってしまったのだ。
彼女はこの綾月《あやつき》第一高校の副生徒会長ということもあり、その名前は有名で、自分と同じ学校の同級生だということはすぐに分かった。
同級生……しかも神名と同じソウル・イレギュラー。
そして神名たちが溜息をついたのには、もう一つ理由があった。
「あいつを、今日中になんとかしろっていうのか……?」
期限《きげん》は今日中。
イリスからそれを聞いたときは我《わ》が耳を疑《うたが》ったが、「しっかりね」と言って微笑《ほほえ》んだ彼女は、どう見ても本気のようだった……。
一日で、彼女を通常の輪廻に戻《もど》す――それが、イリスから命令された任務の内容だった。
「無理だろ」
「無理ですね……」
「なんて無茶《むちゃ》苦茶《くちゃ》な任務なんだ……」
彼女をたった一日で正常な輪廻に戻すのは無理だ。いや、相手が誰《だれ》であろうと人殺しをするようなまねはできない。
「でも深瀬さんを元の輪廻に戻さないと、私たちは確実《かくじつ》に食後のデザートです……」
「そうなんだよなぁ……はぁ」
神名は再《ふたた》び溜息をつく。完全にどうしようもない……。
「とりあえず深瀬さんと話をしに行きませんか?」
「……俺《おれ》、あいつ苦手なんだよな……」
「あれ? 知り合いなんですか?」
同級生といっても、クラスが違《ちが》うと知らない生徒は結構《けっこう》多い。しかも相手はお金持ちのお嬢様。神名とはあまり接点《せってん》がないように思えたが……。
「一年のとき、同じクラスだったんだ……といっても一年の終わりまで話したことなんてほとんどなかった」
「じゃあ、どうして?」
「三学期の終わりに皆勤賞《かいきんしょう》をもらったんだ。そのとき、すでに副生徒会長になっていた深瀬が『私がじきじきに手渡《てわた》しして差し上げましょう』ってくれたわけだ。そこまでは良かったんだけど……」
神名は目を閉《と》じ、一年前のことを静かに思い出した。
三学期の終業式《しゅうぎようしき》、彼女が担任《たんにん》に代わって皆勤賞を手渡してくれたときのことだ。
「よくがんばったわ、天倉くん。一年全体で、皆勤賞を取ったのは十二人……今年はかなり少ないわ。しかもこのクラスでは天倉くん一人だけだったのよね」
「あ、そうなのか……」
「ええ。それにしてもこの皆勤賞……たかが千円の図書券のためにだいぶがんばっていたそうじゃない」
「たかが千円なんて言うな。千円も、だ。しかも現金《げんきん》に替《か》える予定なので、使い道は無限大《むげんだい》だぞ」
「あ、そう。私にはよくわからないけど……まぁ、がんばりなさい」
そう言って、彼女はスタスタと去っていった。
そのときは少し「嫌《いや》なヤツだな」程度にしか思わなかった。
だが二年に進級し、一学期が始まってすぐのこと……夜中まで祐司とゲームに熱中し、寝坊《ねぼう》した朝、神名は学校前の坂道を自転車で疾走《しっそう》していた。
そのとき、隣《となり》を一台のリムジンが通りかかった。その車は自転車で坂を駆け上がる神名の隣でスピードを落とし、ウインドーを開けた。
「あら、おはよう、天倉くん。今日もがんばっているかしら?」
「見ればわかるだろーが!」
「そうね。この坂道って結構《けっこう》、長いわよね」
「長すぎだ! ていうか、話しかけるな! きつい!」
「あ、そう。私は自転車で上ったことないから、わからないわ」
「何――っ!? お前も一回、やってみろ!」
「そうね、考えておくわ。じゃあ、私は先に行くから、がんばりなさい、ふふ」
彼女はフッと細く微笑み、神名を横目に走り去る。沙耶架のリムジンはスピードを上げ、坂道を難《なん》なく上がって行った。
あのときのことは絶対《ぜったい》に忘《わす》れないだろう……。
「どうだ? 俺はあの日、怒《いか》りを抑《おさ》えるので必死だったぞ……」
「ええっと……まぁ、確《たし》かに神名くんが怒《おこ》るのもわかりますね……」
なんだかすごい人だなぁ、とナギは心の中で思う。
神名は表情《ひょうじょう》を引きつらせながら、さらに昔を思い出した。
「しかもだ。その三日後にあいつ、自転車で通学してきたんだよ。その日も正門前の坂道ですれ違ってな……こっちは七千五百円の格安《かくやす》自転車だというのに、『天倉くん、先に行くわー』って、ギアが三十|段《だん》近くもついた百万円以上するマウンテンバイクで俺を追い抜《ぬ》いて行ったんだ――っ!」
ぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》り、怒りを露《あらわ》にする神名。
が、すぐに消沈《しょうちん》し、
「……金持ちって……ズルい」
「心の叫《さけ》びですね、神名くん……」
肩《かた》を落とす神名に声をかけ、ナギは再び視線《しせん》を二年二組に戻した。
深瀬沙耶架は友達に囲まれ、楽しそうに談話している。じっと見つめていると目線が合いそうになり、ナギはすっと逸《そ》らした。
すると廊下《ろうか》の向こうから歩いてくる、一人の少年の姿《すがた》を見つけた。
小川祐司。神名の親友であり、幼馴染《おさななじみ》の少年だ。どこかあどけなさを残したような彼はいつものようにニコニコしながら歩いてくる。
「あ、神名くん、祐ちゃんが来ましたよ?」
「ん……ああ」
とりあえず神名は顔を上げ、こちらに歩いてくる親友に挨拶《あいさつ》した。
「よう、祐司」
「おはよう、神名。風流さんもおはよう」
「はい、おはようございます。小川くんはいつもこの時間帯に来るんですか?」
ナギは神名に対しては、祐司のことを祐ちゃんと呼《よ》んでいるが、神名以外の前では小川くんと呼ぶ。
彼はナギが小川千夏だった頃の弟だ。記憶《きおく》を取り戻《もど》したナギにとっても彼は弟だが、今の祐司に自分が千夏だと話しても、いらぬ混乱《こんらん》を招《まね》くか、信じてもらえないかのどちらかだと思う。
祐司にはときが来て、その機会があれば、自分のことを話してみようとナギは思っているものの、今はまだ、そのときではない。
「うん、だいたいね。それより珍《めずら》しく僕《ぼく》より早く来たお二人さんは、こんな廊下で何をしているの?」
祐司はナギの質問《しつもん》に答えながら二人を見る。普段《ふだん》は彼の言う通り、祐司の方が早く学校に来ている。
さて、なんと答えるべきかナギが迷《まよ》っていると、神名はちらりと二組の中を覗《のぞ》きながら祐司に聞いた。
「ちょっとした情報収集《じょうほうしゅうしゅう》だ。祐司、お前は深瀬のことを知っているか?」
「もちろん知ってるよ。と言っても、皆《みんな》が知っていること以上のことは知らないなぁ。お金持ちのお嬢様《じょうさま》で、副生徒会長。美人ではあると思うけど、ちょっと高飛車《たかびしゃ》な人……ぐらいかな?」
「まぁ、そんなところだよな……」
「後は一昨日の夜、交通|事故《じこ》にあったけど奇跡《きせき》的に無事だったって話を聞いたけど……深瀬さんがどうかしたの? あ、まさか、また何か言われたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
とりあえず深瀬沙耶架について情報がほしい。こうなってしまった以上、少しでも彼女について詳《くわ》しく知っておきたいと神名は考えていた。
そこへポンと祐司が神名の肩《かた》を叩《たた》き、小声で話しかけた。
「……神名」
「ん?」
「乗り換《か》えちゃダメだよ?」
「何の話だ!?」
何を勘違《かんちが》いしたのか、その言葉に神名は彼を突《つ》き飛ばす。
「うわっとと ……まぁ、神名の問題だから何も言わないけどね」
「もう言ってるだろっ」
「おっと、そうだった。それよりホームルームが始まるよ?」
そう言った祐司は自分たちの教室へと入っていく。
このまま廊下から深瀬沙耶架を見ていても仕方がないので、神名とナギも教室へと戻る。
席に着き、神名は何も書かれていない黒板をじっと見つめながら考えた。
深瀬沙耶架を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻さなければ、自分たちの身が危《あぶ》ない。
自分たちの身を守るためには、彼女へ鎌《かま》を振《ふ》り下ろすしかない。
だが、できない……したくない。
自問自答は神名の頭の中をグルグル回る。
「……なぁ、ナギ」
神名は後ろを振《ふ》り返り、彼女の方を見た。
「あ、はい」
ナギもきっと同じことを考えていたのだろう。神名に呼ばれてハッと顔を上げた。
「いや、こいつは仮《かり》の話なんだが……」
その続きを言おうとして、神名は一瞬《いっしゅん》、躊躇《ちゅうちょ》した。仮の話――しかも少し後ろ向きな考えだ。だがふと気になって、彼はナギに聞いてみた。
「もしも……もしもだ、俺がチョコレート・パフェになったら……どうする?」
神名は真剣《しんけん》な表情でそう聞いた。
すると、
「食べますよ」
「即答《そくとう》かよ!?」
「だ、だって神名くん、よく考えてください。イリス様にチョコ・パフェにされたら、私の力じゃ神名くんを戻すことなんてできないんですよ? もちろんがんばって神名くんを元に戻す方法を考えますけど、その間にチョコ・パフェ神名くんは賞味|期限《きげん》を過《す》ぎてしまうんです! だったらもう、食べるしか……」
「まず、そのチョコ・パフェ神名くんとかいう変なネーミングはやめろ。だいたい冷凍《れいとう》保存《ほぞん》とか、いろいろ方法はあるだろ!」
「れ、冷凍保存で大丈夫《だいじょうぶ》なんですか……?」
「知らん!」
「だ、だったら最終的に、神名くんだって私を食べますよ、きっと!」
「ああ、食べるね! 絶対《ぜったい》、お前を食べる!」
「あぁ!? ひどいですよ、神名くん!」
二人はいつの間にか立ち上がり、大声で叫《さけ》んでいた。
教室の片隅《かたすみ》で、二人の男女が「お前を食べる」だの「私を食べる」だのと大声で話しているのを聞き、クラスメートたちは何気に視線《しせん》を逸《そ》らしつつも耳を傾《かたむ》ける。
するとガラガラガラーッと教室のドアが開き、誰かが中へ入ってきた。その人物は教室に入ると教卓《きょうたく》の前に立ち、神名たちを見渡《みわた》す。
「今日の連絡《れんらく》はなしです」
淡々《たんたん》とそう告げたのはこのクラスの担任《たんにん》ではなく、学級代表の芹沢サラ。
髪《かみ》を肩口で切り揃《そろ》えた彼女はいつも無表情なのだが、その顔は間違いなく美人の部類に入るだろう。成績《せいせき》も常《つね》にトップの優等生《ゆうとうせい》だった。
このクラスの担任は遅刻《ちこく》してくるか、風邪《かぜ》で休みのどちらかで、朝のホームルームは担任に代わって彼女がやるのが通例になっている。
「では、出席を確認《かくにん》します。天倉くん、席へ」
「お、おう!」
立っていた神名を席に促《うなが》すと、ナギも慌《あわ》てて席に着いた。
サラが出席|簿《ぼ》を開く。すでに板についていて、神名たちにも違和《いわ》感はない 彼女は担任の代わりに朝は職員室《しょくいんしつ》に行き、連絡|事項《じこう》を聞いてから教室にやってくる。これを毎日するのは実に大変そうだ……。
「さすがサラさん。いつも思いますけど、しっかりしていますね……」
「…………」
ナギが神名に話かけると、聞こえているはずの彼は返事をしなかった。
「神名くん?」
「話しかけるな。今から出席を確認するんだぞ?」
神名にとっては学校に来て一番、有《ゆう》意義《いぎ》な時間だ。この出席確認のたび、自分の皆勤賞《かいきんしょう》が近づいてくることを実感する。
ちなみに神名が静かにしているのにはもうひとつ理由があって、ここで騒《さわ》いでサラの怒《いか》りを買うと、朝のホームルームを欠席|扱《あつか》いにされてしまうのだ。
「では、天倉くん」
「うーっす!」
サラが神名の名を呼《よ》び、それに答える。
神名は出席番号、一番だ。
「……皆勤賞、命ですね?」
「無論《むろん》だ」
ナギの言葉に頷《うなず》く神名。
なんと言っても、ナギが地上に降《お》りてきて早々、死神の鎌《かま》をなくして泣いていたら、彼は皆勤賞の方が大事だ、と泣いているナギの前を素通《すどお》りしていったぐらいだ。
「ちなみにお前が死にかけていたとしても、俺は皆勤賞を優先する」
「み、見殺しですか!?」
「いや、学校に着いたら救急車を呼んでやる」
「……それで間に合わなかったら?」
「諦《あきら》めろ」
「神名くん、冷たいですーっ」
「俺がチョコ・パフェになったら食べるって即答する奴《やつ》よりマシだ!」
「天倉くん?」
再《ふたた》び声を上げた神名だったが、すぐにハッとして教卓を振り返った。
サラが出席確認を止め、こちらを静かに見つめている。
「……欠席にされたいのですか?」
「いえ、申しわけありません」
彼女は決して怒《いか》りの表情《ひょうじょう》を見せない。だが、それが逆《ぎゃく》に怖《こわ》いので神名も素直に謝《あやま》った。
しばらく前を向き、サラの声に耳を傾《かたむ》ける。だが、神名は再び小声でナギに話しかけた。
「……なぁ、このまま深瀬と全く話さず、後ろからスパッ――みたいなことも一応《いちおう》、ありだよな?」
もちろん、そんなことをするつもりない。
だがもし彼女の命を絶《た》たなければならない状況《じょうきょう》に陥《おちい》ったとき、その方が気分的には楽だと神名は思う。
「はい……現《げん》に、そういう仕事の仕方をしている死神もいるようですし」
どうせ殺してしまうのだ、その相手にわざわざ名乗る必要も、親交を深める必要もないだろう――そう考えている死神も少なくないと聞いたことがある。
「でも、今は生きているんですから。ちゃんとお話して、まずは現状を納得《なっとく》していただかないと……」
「いや、納得はしないだろ……」
そもそも理解《りかい》してくれるかどうかすら怪《あや》しいものだ。それほど親しくもない人から、「あなたは死ぬ運命だったのです」と言われても、頭がおかしいんじゃないかと疑《うたが》われるのが関の山だ。
「――だけど、事情は説明しておかないとな……」
あまりこちらから彼女に接触《せっしょく》したくはないが、とにかく行くしかない。
二人はその後、大人しく授業《じゅぎょう》を受け、昼休みになるのを待った。
四時間目が終わり、クラスメートが各々《おのおの》の食事を始める中、神名とナギは教室を出た。
沙耶架と話をしないと始まらない。
ひとまず彼女が一人になるのを待とうと思ったが、友人二人と食堂へ向かう沙耶架が一人になる様子はなかった。
「お嬢様《じょうさま》でも学食は利用するんだな……」
いつも食べているものと比《くら》べると、学食のものは食べられないのでは? と神名は勝手にそう思った。
すると沙耶架は食券も持たずに食堂のカウンターに並《なら》んだ。
この学校では、入口にある自動|販売機《はんばいき》で食券を買い、それをカウンターに持っていって料理と交換《こうかん》する仕組みだ。食券を持っていないと、注文すらできないはずだが……。
そんな彼女を見守っていると、食堂のおばちゃんが沙耶架に気づいて、
「あぁ、深瀬さんね。ちょっと待ってて」
厨房《ちゅうぼう》の奥《おく》へと引っ込《こ》むと、銀の食器に盛《も》られた豪華《ごうか》な食事を運んできた。どう見てもこの学校の食堂ではあり得ない、フランス料理のフルコースのようなメニューだった。
「ありがとう」
沙耶架は当然のようにそれを受け取り、スタスタと歩いてテーブルに着く。
「な、なんだ、あれは……」
神名は目を丸くしながらそれを見つめた。
この食堂にあんなメニューはない。というより、あんな食器すらない。
信じがたいが、つまりあのメニューは……。
「す、すごいですね……深瀬さん専用《せんよう》ってことですか……」
「なんか、少し殴《なぐ》りたくなってきたぞ……」
平和的|解決《かいけつ》を望んでいた神名だったが、怒《いか》りの感情が迸《ほとばし》る。それをなんとか抑《おさ》えて沙耶架に料理を渡《わた》したおばちゃんに話しかけた。
「おばちゃん、さっきの料埋って、どれぐらい払《はら》えば食えるの?」
「ん? ああ、あれね……一万五千円ってとこかねぇ……」
「……それって月額《げつがく》?」
「いいんや、一日」
あり得ない。神名のバイトの給料では、四回食べただけでその月の給料はレッドゾーンに突入《とつにゅう》だ……。
「こ、これだから金持ちは……っ」
一体、どんな味がするのだろう……。
友達二人と食事を始めた沙耶架は、優雅《ゆうが》にフォークとナイフを使いこなしている。ここは学食だが、彼女の周りだけどこか雰囲気《ふんいき》が違《ちが》って見えた。
そんな彼女を見ていると……不覚にも目が合ってしまった。
慌《あわ》てて見なかったことにしようと視線《しせん》を逸《そ》らしたが、あちらから呼《よ》ばれてしまう。
「天倉くん! ちょっと、天倉くん!」
名前を呼ばれ、怪訝《けげん》そうな顔を浮《う》かべると、彼女はお構《かま》いなしに手招《てまね》きした。
「神名くん、呼ばれてますよ?」
「いや、できることなら近寄《ちかよ》りたくないんだが……」
「そうも言っていられませんよっ。期限《きげん》は今日一日だけなんですから、何にしたってちょうど良いじゃないですか」
「むぅ……」
ナギに言われ、仕方なく沙耶架の所へ。
「元気かしら、天倉くん。皆勤賞《かいきんしょう》はがんばってる?」
「おう、一応《いちおう》な……」
「……なんだか覇気《はき》がないわね。私に何か用があるんでしょう?」
何もかもお見通し。そんな目で彼女はこちらを見上げた。
「え? あ、いや……」
「朝は廊下《ろうか》からこっちを見ていたし、今も目線が合った……何なのかしら?」
気づかれてたのか……そう思いながら、彼女に事情を説明するべきかどうか悩《なや》む。
ここで説明すれば沙耶架の友達にも聞こえてしまう。場所を変えようにも彼女は食事を始めたばかりなので、すぐには無理だろう。
「……いや、その料理がな……どんな味がするのか考えていたんだ」
土壇場《どたんば》で考え直し、神名はそう言った。彼女が<<ソウル・イレギュラー>>になったという話をするなら、やはり一人のときを選ぶべきだ。
沙耶架は自分の食べていた料理を指差され、クスッと笑った。
「美味《おい》しいわよ、とっても。事前に連絡《れんらく》して、私|専属《せんぞく》のシェフが作っておいてくれたものだから」
「……一万五千円はするって聞いたぞ? 俺《おれ》が学食を利用するときは大抵《たいてい》、二百七十円の軽食セットを食べてるっていうのに……」
この学食の定食は三百六十円。それでも高い、と神名は軽食セットを選んでいる。
その五十倍以上する料理を目の前で食べている沙耶架は、
「あら、それはかわいそうね」
ふふっと笑った。
「くっ、金の亡者《もうじゃ》め……っ」
「神名くんも同じようなものだと思いますけど……」
ナギは神名にも沙耶架にも聞こえぬよう、小さく呟《つぶや》く。
はっきり言ってどっちもどっちだ……。
「まぁ、天倉くんが味わうことは一生できないと思うわ」
「……別に食べてみたいと言ったわけじゃないだろ? それに、俺はそれより美味《うま》い料理を知っている」
「食べてもいないのに、この料理より美味しいと言い切るの?」
「だったら、食わせてくれよ、それ」
いつの間にかそういう話になり、沙耶架は「むっ」としながら神名を見た。だが彼の言うことが本当なのか確《たし》かめたくなったので、テーブルに置かれていた割《わ》り箸《ばし》を差し出した。
「……いいわ。食べてごらんなさい」
「どうも」
遠慮《えんりょ》なく、神名は割り箸を受け取る。
「感謝なさい。私の食事を食べたことのある人なんて、この学校ではあなたが初めてなんだから……」
うんうん、と沙耶架の周りにいた友人たちも頷《うなず》く。
それを横目に、神名は沙耶架の昼食を味見する。口の中に入れ、その香《かお》りと味を静かに確かめた。
「どう? あなたが今まで食べたものの中で、一番美味しいでしょう?」
当然だと言わんばかりに沙耶架は勝ち誇《ほこ》ったような笑《え》みを浮かべた。確かにこの料理はどんな料理|評論家《ひょうろんか》でも舌《した》を巻《ま》く、完壁《かんぺき》と言えるほどの美味しさを持った料理だった。だったのだが……
「ふっ……この程度《ていど》か……」
神名は一口食べて箸をおいた。
「なっ!? 美味しくないって言うの!?」
「俺ならこの程度の料理に一万五千円は払わないな……味にインパクトが足りないし、何より後味がさらりとしすぎて食べた気になれん」
真顔でそう言う神名を見て、負けじと沙耶架は言い返した。
「じゃあ、あなたの言う、もっと美味しいものっていうのはどんな料理なのよ? 場所さえ教えてくれれば、自分で食べに行くわ!」
「どこかに行く必要なんてない。ここにある」
そう言うとナギが手に持っていたお弁当《べんとう》の一つをひょいっと取り上げた。もともとナギは二つ持っていて、一つは神名のお弁当だ。包んでいた布《ぬの》を開き、蓋《ふた》を開けて見せる。すると沙耶架の友人たちが「うわぁ」と感嘆《かんたん》の声をあげた。
「どうだ?」
「……お、美味しそうじゃない」
声を上ずらせながら、沙耶架もそれは認《みと》めた。
その見た目はフランス料理とはまた違《ちが》う、どこか家庭的で優《やさ》しさのこもったような可愛《かわい》らしいお弁当だった。ウィンナーもちゃんと(?)タコの形をしている。
「普段《ふだん》なら勿体《もったい》無いから、絶対《ぜったい》に誰《だれ》かに食べさせたりはしないが……俺も深瀬のものを食べたからな。一品やろう」
「……じゃあ、生姜《しょうが》焼きをもらうわ」
沙耶架はおかずの真ん中にあった豚《ぶた》の生姜焼きを、新しい割り箸でつまんだ。神名の顔を一度見てから、それを口に運ぶ。
もぐもぐと小さく口を動かして、その味を確認《かくにん》すると……。
「……っ!? んんんん―――っ!?」
沙耶架は突然《とつぜん》立ち上がって唸《うな》り始めた。顔を真っ青にして「んー、んーっ!」と何か言いたそうにしているが、口に何かを含《ふく》んだまま話すのは行儀《ぎょうぎ》が悪い、と口を開けられずにいるようだ。
「どうした、深瀬? ちゃんと飲み込んでからものを言え」
「んんっ、んんんっんんん――っ!」
「どうやら日本語が理解《りかい》できなくなったらしいな……」
神名とナギにはわからなかったが、想像《そうぞう》を絶するあまりに衝撃《しょうげき》的な味のする料理を、沙耶架は飲み込めずに苦しんでいた。
水が欲《ほ》しいと思ったのだが、食堂の水はセルフサービスなので自分で汲《く》んで来なければならない。こうなったら違う料理で口直しするしかない。このときすでに、彼女はナギの料理の影響《えいきょう》で錯乱《さくらん》状態《じょうたい》だったのか……口直しの品に、神名のお弁当の中にあったタコさんウィンナーを選んだ。
パクリ。
「あっ!? 深瀬! 一品だけって言っただろ――!?」
神名の言葉など聞かず、沙耶架はそのウィンナーを口にし、
「……っ!? んんんんんんんんん―――っ!? んん――!?」
「もうお前、何言ってるのか、わかんないんだけど……」
沙耶架は食堂の真ん中で一人、妙《みょう》な唸り声を上げながら不可思議《ふかしぎ》な踊《おど》りを踊った。その間になんとか口の中のものを飲み込むことに成功し、ぐたっとテーブルに倒《たお》れる。
「……国外ではどうしてタコが食されなかったのか、ようやくわかった気がするわ……」
「なんだ、そりゃ? おい、深瀬?」
「……あなた……私を殺す気……?」
それを最後に、沙耶架は力|尽《つ》きた。
「沙耶架? 沙耶架?」
「ねぇ、沙耶架、大丈夫《だいじょうぶ》?」
二人の友達が心配そうに沙耶架の身体を揺《ゆ》すってみるが、反応《はんのう》がない。
彼女らはもう二、三度、沙耶架の身体を揺さぶってみてから神名の顔を見上げた。懐疑《かいぎ》の念を抱《いだ》いているその目が冷たく神名に突《つ》き刺《さ》さる。
「……どうやら深瀬にこの味はまだ早かったようだ……」
額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべながらも平静を装《よそお》った神名は、静かに弁当に蓋をして包みなおし、
「じゃ、そういうことで」
ナギの手を取って猛《もう》ダッシュでその場から逃げ出した……。
放課後。
「おい……嘘《うそ》だろ」
神名とナギは沙耶架と話をしようと思い、彼女の教室に向かったが、沙耶架は一足先に教室を出ていて、すでにいなかった。
「なんだか昼から気分が悪そうだったしね……」
沙耶架のクラスメートがそう教えてくれたが、二人はそれどころではなかった。
ありがとう、とだけ告げると、神名とナギは真っ先に下駄《げた》箱《ばこ》へ彼女の靴《くつ》を確認しに向かった。だが、そこにあったのは上履《うわば》きのみ……すでに彼女は学校から出ているようだった。
「まずい、深瀬の家がどこにあるかなんて知らないぞ!?」
「と、とにかく外へ出ましょう! 今ならまだ、近くにいるかもしれません!」
慌《あわ》てて学校を飛び出す二人。
「いつも深瀬さんはどの方角から来ているか知っていますか!?」
「駅とは反対方向ってことぐらいしか知らない!」
「じゃあ、とにかく、そっちの方へ行ってみましょう!」
イリスから言われた期限《きげん》は今日中。
ここで沙耶架に会えなかったら、二人ともチョコレート・パフェだ……。
だがどこまで行っても、どこを探《さが》しても沙耶架の姿《すがた》は見つからない。
「……車で帰ったのかもな」
「だとしたら、この町に家があるのかどうかもわかりませんよ……?」
「くそっ」
それでも二人は諦《あきら》めず、途中《とちゅう》から二手に分かれて沙耶架の姿を探し回った。
だが無情《むじょう》にも、夕方五時という時刻《じこく》は、あっという間に過《す》ぎてしまった……。
死神の仕事は、魂《たましい》の管理局が開いている間の午前九時から午後五時までという制限《せいげん》があるのだ。
二人は仕方なく再《ふたた》び学校の前で合流する。
これからどうするべきか迷《まよ》い、自然と足は神名の家に向う。
神名は今日一日のことを思い返しながら、沙耶架のことを考える。
「散々考えたんだが……やっぱり深瀬を正常《せいじょう》の輪廻《りんね》に戻《もど》すなんて無理だよな……」
沙耶架の姿を探してはいたが、彼女の姿を見つけていたとして、そのときの自分に何ができただろうか……おそらく、何もできなかったはずだ。
「これから……どうしましょう?」
「どうするかな……」
「私もいろいろと考えてみたんですけとね……神名くんのときと、状況《じょうきょう》は同じような感じですから……」
神名を正常な輪廻に戻す任務《にんむ》を背負《せお》っていたナギは、前に一度、同じ問題に直面していた。殺さなければならない。だが、殺したくない……その解決|策《さく》を探していたが、結局最後までその解決策は見つからなかった。
神名と命をかけて戦った日のことを思い出し、ナギは悲しそうにうつむいてしまう。
「……心配するな。俺だって、あんなことは繰り返したくない……」
ふと、神名はそう口にした。
同じことを考えていたのだとわかり、ナギは静かに彼の言葉に頷《うなず》いた。
家に帰り着くと、二人は疲《つか》れた表情でリビングへ。
とりあえず少し休もう。そう思ったのだが、リビンクから扉《とびら》のガラスごしに光が漏《も》れていることに気づく。
ハッとして神名がその扉を開けると、リビングのソファーにはイリスがいた。
「ようやく帰ってきたようね……」
「イリス……」
「……あなたたち、今日は何もしなかったわね?」
その言葉に神名は窓《まど》の外へ、ナギは床《ゆか》へ、イリスから視線《しせん》を逸《そ》らすように顔を背《そむ》けた。
確《たし》かに今日は沙耶架とまともな話はできなかった。イリスにそう言われても仕方がないだろう。
ただ、少し反論《はんろん》させてもらうと、
「しなかったわけじゃないです……できなかったんです」
ナギはか細い声でそう言った。
深瀬沙耶架は何も悪くない。ただ死ぬ運命だった――それだけだ。
まして同じ運命を背負っている神名に、彼女を殺せるはずかない。
だが、イリスにそんな理由が通用するはずもなかった。
「何を言ってるの……それをやらなければ、あなたたち二人はどうなるのか、私は教えたつもりだけど?」
「…………」
確かにその通りだが、だからといって簡単《かんたん》に割《わ》り切れるものではない。
別の任務にしてもらう、という手段《しゅだん》も考えたが、おそらく今更《いまさら》だろう。
それに沙耶架の現状《げんじょう》を知ってしまった以上、どうにかしてやりたいとも思う。
「俺は……」
神名が何かを言おうとしたが、上手《うま》く言葉にならない……。
イリスは黙《だま》り込んでいる二人をしばらく見つめていたが、
「……まぁ、いいわ。私もあなたたちが今日だけで任務を達成できるとは思っていなかったし」
彼女はソファーから立ち上がり、神名たちに近づくと両腕《りょううで》を組んだ。
「え?」
「あと三日、期限《きげん》を延《の》ばしてあげるわ。その間に、何とかしてみせなさい」
それがラストチャンス。
「それでもダメだったら、今度こそ二人ともチョコ・パフェになってもらうわよ?」
するとナギが、
「ま、前は一週間もありましたよね! だから、今回も――」
「それ以上はダメ。どんなに待っても三日以内よ。ぱっぱーとやっちゃって」
「お使いみたいに言うなよ」
もう考えるだけで頭が痛《いた》い。
だが、ひとまず今日は生き延びたと神名とナギは安堵《あんど》した。
それにしても、どうして今日は何もしていないと彼女にバレたのか……。
「……今日の俺たちのこと、どこかで見てたのか?」
イリスは沙耶架とソウル・イレギュラーについての話すらしていないことまで知っている様子だ。隠《かく》れて自分たちのことを見ていた以外、考えられない。
「ええ。空からずっと」
「じゃあ、お前がやれよ!」
「これはあなたたちに任《まか》せた任務でしょう。私がやってどうするの」
「……本当はお前が仕事したくないだけなんじゃないだろうな?」
「私には私の仕事があるのよ」
「どんな?」
「現場|監督《かんとく》」
見てるだけ。
「仕事しろ――っ!」
神名が「なんて奴《やつ》だ……」と呟《つぶや》きながらイリスを睨《にら》むと、彼女から睨み返された。
「うるさいわね……そういえば昼間のあなたたちを見せてもらったけれど……正直、見ているこっちが恥《は》ずかしかったわ」
「ほっとけ!」
「……とにかく、この任務はあなたたちに一任したのだから、やり遂《と》げなさい。ときどき様子も見に来るわ」
「うっ……」
「仕事の内容《ないよう》によっては、すぐに二人ともチョコ・パフェにするから、そのつもりで」
そう言った彼女は不敵《ふてき》に笑って見せ、リビングを出て行こうとする。
だがそのとき、扉は廊下《ろうか》側から勝手に開いた。
「神名ー。今日こそ風流さんの手料理を食べさせてもらいに来たよ――って、あれ?」
ニコニコ笑った祐司が、いつものように勝手に玄関《げんかん》から上がってきていた。
だがイリスより先にリビングのドアを開けた彼は、そこに立っていた見知らぬ女の人に驚《おどろ》き、言葉を失う。
イリスが私服だったなら、ナギのお客さんだとごまかせたものの、残念ながらイリスは死天使長の制服《せいふく》――大きく胸《むね》の開いた、漆黒《しっこく》の服に身を包んでいた。
「じ、神名がコスプレしたお姉さんを家に連れ込《こ》んでる!?」
「待て――ぃ! それは違《ちが》うそ、祐司!」
「違うの? じゃあ、神名がコスプレさせているの!?」
「そんなわけあるか!」
なんて面倒《めんどう》なときに来るんだ……と思いつつイリスに視線を配ると、彼女はニッコリ笑って祐司に話かけた。
「小川祐司くん?」
「は、はい……」
「この服はね、天倉くんが着てくるようにって、私に命令を――」
「いや、マジで頼《たの》むから! 悪乗りするなよ、そこっ!」
神名が声を張り上げて言うと、「それじゃ、つまらないわ」とイリスが口を開く。
その間にナギは素早《すばや》く祐司の背後《はいご》に回りこみ、彼を手刀で眠《ねむ》らせた。
「……記憶《きおく》の消去をお願いします、イリス様」
「はぁ、仕方ないわね……」
死神は記憶の消去や体力を回復《かいふく》させるといった力も持っている。 ナギもその力を持っていたが、人間に戻《もど》る際《さい》、体術《たいじゅつ》や死神であったときの記憶以外は全《すベ》て失ってしまっていた。
「……これでいいわ。それじゃ、さっき言ったことを忘《わす》れないでね……」
イリスはパッパッとそれをこなすと、今度こそ本当にリビングを出て行き、やがて玄関のドアから出て行く音がした。
「……はぁ」
「ようやく帰ったか……」
イリスがいなくなったのを確認《かくにん》し、神名とナギはそろってうな垂《だ》れた。
期限を延ばしてもらったものの、根本的な問題が解決《かいけつ》したわけではない。
「どこかへ逃げるか……あいつのいない所へ」
「無理ですよ、神名くん……地球上――いえ、この宇宙《うちゅう》にいる限《かぎ》りイリス様から逃げるのは不可能《ふかのう》です……」
「じゃあ、どうするんだ……」
神名はドサッとイリスのいたソファーに座《すわ》り、頭を抱《かか》える。
やはり……沙耶架を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻すしかないのか?
「神名くん……やっぱり――」
「諦《あきら》めるな。俺《おれ》は死ぬつもりなんてないし、深瀬を殺すつもりもない。そりゃあ、あいつはちょっとムカつく奴だけどな……」
そう言った神名の目は、確《たし》かに諦めに染《そ》まっていなかった。何か方法があるはずだ、と懸命《けんめい》に何かを考えている。
「神名くん……」
そう、彼の簡単《かんたん》には諦めない心の強さに、自分は救われたのだとナギは思い出した。
神名が死ぬか、自分が死ぬか…そのどちらかしかないという状況《じょうきょう》に追い込まれたときでも、彼はそれ以外の選択肢《せんたくし》――二人が共に生き残る選択肢を模索《もさく》し、そして努力した。
その結果、今は二人共こうして生きている。
諦めてはダメだ。ナギもそう強く思った。
「とりあえず……」
「はい!」
神名は何かを思いついたようで、ナギは彼の言葉に強く頷《うなず》く。が、
「やり過《す》ごそう」
「……はい?」
「やり過ごすんだよ、残りの三日間――そしてその三日間で、なんとかイリスをごまかしながら深瀬を殺さずに済《す》む方法を考えるんだ!」
これが思いつける中では最善《さいぜん》の手段《しゅだん》。
「……まぁ、そんな簡単にいい方法が思いつくわけがないですよね……」
「ああ……もう一回、イリスと戦っても勝てる気はしないしな……」
そう言いながら、神名は彼女と刃《やいば》を交えたときのことを思い出した。
あちらが一人に対し、こちらはナギと二人。その上、<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>の本来の姿である<<ヴァールリーベ>>を使って、なんとか退《しりぞ》けられた相手だ。
「……とにかく、明日から深瀬を殺すふりをしなから、なんとか深瀬を救う方法を探《さが》すしかない」
イリスはときどき様子を見に来ると言っていたので、三日間、何もせずにいるのは危険《きけん》だ。せめて、沙耶架を正常な輪廻に戻そうとしていると見せかけるぐらいのことはしておきたい。
「……その話、探瀬さんにはどうします?」
彼女には自分たちが死神であることを明かし、沙耶架が死ぬ運命にあることを伝えなければならない。
このとき「殺すふりをする」と言って、協力を仰《あお》ぐのも悪くないだろう。
だがイリスのことを考え、その説明は避《さ》けることにした。
「殺すふりをするって伝えて、俺たち全員が演技《えんぎ》になると、たぶん臨場《りんじょう》感に欠けると思うんだ……殺すふりっていう部分は深瀬には黙《だま》っておこう」
イリスに怪《あや》しまれるようなことは、できるだけ避けたい。
二人が互《たが》いに頷き合っていると、
「う、うーん……」
「あ、もう起きた」
今日はかなり早く気絶《きぜつ》から目覚めた祐司は、不思議そうな顔をして辺りを見回した。
「あれ? どうして僕《ぼく》はここに?」
「疲《つか》れてたんだろ、祐司。お前はここに来てすぐ、倒《たお》れるように眠《ねむ》ってしまったんだ……」
「そ、そうだったんだ……」
この親友は人が良すぎるのか、あまり人を疑《うたが》うことを知らない人物だった……。
祐司自身も記憶《きおく》がないことを気にせず、思い出したように夕飯の話を始めた。
「あ、そうだ神名! 今日こそ風流さんの手料理を、僕にも味わわせてよ!」
彼は前に一度、ドリアンの入った味噌《みそ》汁《しる》を飲んで気絶してしまったのだが、そのときの記憶もデリートしてしまったので、ナギの手料理を食べた記憶はない。
「そうだな……よし! ナギ、夕飯にしよう! しっかり食べて、明日からがんばるんだ!」
「はい……そうですね!」
力強く、ナギは頷いた。
せっかく千夏だった頃《ころ》の記憶を思い出したのだ。やりたいことがたくさんある。そのためにも『深瀬沙耶架を殺すふり作戦』は必ず成功させなければならない。
神名もこんなところで死ねるか、とやる気は十分だ。
しばらくして、ナギの作った料理を三人で囲む。その日の料理も、もちろん美味《おい》しかった(神名とナギの評価《ひょうか》では)。
神名は無言で食べ続け、ナギも静かに口へ運ぶ。
その隣《となり》で、
「なんだか風流さんの料理って……昔食べた、姉さんの料理と同じ味がするような……ぐふっ」
バタリッ。
テーブルから、またも祐司が気絶して倒れていく。
「あ、祐ちゃんが倒れましたけと……?」
「いい、いい。ほっとけ! どうせ、祐司にこの味は理解できん」
「……でも、泡《あわ》ふいてますよ?」
「今は食事が優先《ゆうせん》だ!」
明日からはおそらく大変な三日間になるだろう……。
そう感じた神名は、床《ゆか》に倒れた祐司に構《かま》わず、明日のために食事を続けるのであった。
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   報告書・2 これはどういうことですか?
時刻《じこく》は昼の二時を過《す》ぎた頃。
太陽はすでに真上まで昇《のぼ》っていたが、その日の気温は十度に達していなかった。
そんな中、空港の滑走路《かっそうろ》に一機の大型|偵察機《ていさつき》が着陸していた。
そこからがっしりとした体つきの二人組が降《お》り立ち、ヘルメットを外す。
二人とも男で、全身を都市|迷彩《めいさい》の服で覆《おお》い、外したヘルメットの代わりにベレー帽《ぼう》をかぶる。一人は左目に眼帯《がんたい》をあてていた。だが、残った右目から発せられる光は、異様《いよう》に鋭《するど》い。
その隣を歩く男は腕《うで》などに所々、傷《きず》が見え、特に頬《ほお》には大きな傷|痕《あと》があった。だが忠実《ちゅうじつ》そうな風貌《ふうぼう》で、眼帯の男に話しかけた。
「ライル、予定より遅《おく》れている……」
「ああ、そうだな……急ぐぞ、ガリム。お嬢様《じょうさま》に会うのが楽しみだ」
ライルと呼《よ》ばれた男はブーツを鳴らしながら足早に歩いていく。
それに続きながら、ガリムはふっと苦笑《くしょう》した。
「それにしても我々《われわれ》を中東の奥地《おくち》から呼び寄《よ》せるとは……よほどの事態《じたい》なのだろうな」
「退役《たいえさ》したブラックバートを買い取り、空中給油を受けながら数時間で日本へ……まったく、沙耶架《さやか》お嬢様は相変わらず無茶《むちゃ》をおっしゃる」
そう言いながらガリムを見ると、「全くだ」と笑《え》みを浮《う》かべていた。しかし、彼らはどこか、この状況《じょうきょう》を楽しんでいるようにも見える。
「とにかく、今回の我々の任務《にんむ》は沙耶架お嬢様の護衛《ごえい》だ。とりあえず早急《そうきゅう》に来てくれとのことだったが……」
ライルはそう言って言葉を詰《つ》まらせた。
詳《くわ》しいことは会ってから、という話だ。
「我々をお呼びになるということは、何者かに命を狙《ねら》われているのやもしれんな……」
ガリムはふと思ったことを口にする。
「うむ。お嬢様に盾突《たてつ》くとは、よほどの命知らずのようだ……」
「久《ひさ》しぶりの日本だ。さっさとそいつを潰《つぶ》して、スシでも食べに行こう」
ガリムの言葉にライルは頷《うなず》き、沙耶架の元へと急ぐ。
「何者かは知らんが……我々の力を存分《ぞんぷん》に味わわせてやろう」
遡《さかのぼ》ること数時間前。
学校の廊下《ろうか》で、神名《じんな》とナギは隣《となり》のクラスである二年二組の教室内を窺《うかが》っていた。
「今日は寒いな……」
朝の天気|予報《よほう》を見たが、今日は十度まで上がらないらしい。
「はい。昨日の夜から急に寒くなりましたね……そのせいか――」
ナギは左手を自分の額《ひたい》に当てた。手が冷たくなっているせいもあるだろうが、すこし熱く感じる。
すると神名はゆっくりとナギへ振《ふ》り返った。
「最近、風邪《かぜ》が流行《はや》っているらしいからな……お前もそうなんじゃないのか?」
そう言うと、神名は何気なくナギの額に手を当てた。
「っ!?」
「……少し熱くないか?」
「ほ、放っておいてください! ほら、深瀬《ふかせ》さんがいましたよ?」
生徒がまだほとんどいない朝の早い時間だったが、二組の教室内にはすでに五人の生徒がやってきている。その中に沙耶架もいた。
「準備《じゅんび》はいいか?」
「はい、いつでもいけます」
二人の視線《しせん》の先では、沙耶架が二人の友達と話をしている。
「情報《じょうほう》通りだな」
「はい、サラさんに聞いておいて良かったですねー」
昨日の夜、神名とあれこれと作戦を練ったあと、芹沢《せりざわ》家に帰ったナギはサラに沙耶架のことを聞いてみることにした。
深瀬沙耶架は綾月《あやつき》第一高等学校の副生徒会長。
そして我らが学級代表も、生徒会のメンバーであることを、ナギは後になって思い出したのだ。
「サラさん、教えて欲《ほ》しいことがあります!」
サラの部屋に行くと、彼女は机《つくえ》に向かっている最中だった。さすが優等生《ゆうとうせい》というか、彼女は家に帰ったらすくに宿題を済《す》ませてしまう。食後の今、サラがやっているのは別の事だ。
ちなみにナギはまだ宿題をしていない。今は沙耶架と自分たちのことで精一杯《せいいっぱい》だ。
サラの部屋は黒と白でシックにまとめられていた。本や小物もきちっと整理されて机の上に並《なら》んでいて、ベッドの片隅《かたすみ》に置かれているクマやウサギなどのぬいぐるみが、唯一《ゆいいつ》この部屋が女の子の部屋であると感じさせていた。
「なんでしょう? 宿題のことですか?」
サラはイスをくるりと回転させてこちらを向く。
床《ゆか》はフローリングなので、ナギはサラのベッドへ行って座った。サラの部屋へ来たときは、いつもそこだ。
「いえ、そうじゃなくて……その、深瀬さんのことを教えて欲しいんです」
サラと沙耶架はずいぶん仲が良いらしい。サラは書記だそうで、彼女が今、机に向かってしている作業も生徒会のファイル整理だった。
「あ、お仕事の邪魔《じゃま》だったら、後でいいんですけど……」
そう言うとサラは首を振り、開いていたファイルを閉《と》じた。
「いえ、構《かま》いませんよ。ちょうど一息つこうと思っていたところです。ナギが持って帰ったハーブもありますし、お茶でも入れましょう」
「あ、私も手伝います」
サラの後に続き、ナギたちは一階の台所へ降《お》りる。神名の家でも使っていたマジョラムをハーブティーにして、戸棚《とだな》にしまっていたクッキーと一緒《いっしょ》に部屋へ運ぶ。
サラはハーブティーを一口飲んでから、ナギと向き合った。
「それにしても、ナギが沙耶架と面識《めんしき》があるとは知りませんでした」
「いえ、実は私の方はあんまり……ただ、神名くんとは面識があるみたいで、サラさんとも友達だと聞いたので……どんな人なのか知りたいなぁ、と……」
沙耶架を殺すふりをしなければならないので、とりあえず彼女の情報が欲しい――とは言えず、ナギはそう答えた。
「なるほど。そうですか」
ナギの言葉に納得《なっとく》し、サラはしばらく考えてから沙耶架のことを話し始めた。
「知っているとは思いますが、沙耶架は副生徒会長で、この辺りでは有名な<<深瀬グループ>>という会社のお嬢《じょう》さんです」
それにナギが頷く。
神名からも同じ説明を受けていたし、<<深瀬グループ>>の名前はナギも知っていた。
「彼女はとても負けず嫌《ぎら》いですが、その分、がんばり屋さんで……いつも一生|懸命《けんめい》な人ですね。それに彼女はとてもすごいんですよ? 私たちと同い年ですが、父親の会社の経営《けいえい》にも多少、携《たずさ》わっているそうです」
「えっ!? そうなんですか!?」
高校生でありながら、企業《きぎょう》の経営に携わる……一体、どんな生活をしているのか、ナギには想像《そうぞう》もつかなかった。
「すごいですね……そういえば学校にもリムジンで登校しているって聞きましたし」
「ええ。でも、二年に進級してからは自転車で登校してくる日があるようになりました。ああ、そういえば、自転車に乗るようになったのは天倉《あまくら》くんのせいだと言っていましたけど……」
「あ、それは聞きました」
なんでも学校前の坂を自転車で上ってみろと言ったら、三日後に百万円はする高級自転車で登校してきたとか……。
「自転車で来る日って決まっているんですか?」
「そうですね……気が向いたら、という感じですが、放課後に友人と約束がある場合は自転車で来ることが多いみたいですよ」
「なるほど……」
「後、沙耶架は剣道部《けんどうぶ》も掛《か》け持ちしています」
「け、剣道部……」
それは重要な情報だ。彼女に何かしら武術《ぷじゅつ》の心得があれば、少しぐらいベルで殴《なぐ》りかかっても大丈夫《だいじょうぶ》かも……しれない。
「はい。明日は朝練をすると言っていましたが……いつも昼食を一緒にしているのは、その剣道部の人たちのようですね。生徒会の仕事が忙《いそが》しいときは、生徒会室で仕事をしながら食べていますけど……」
「ふむふむ……」
幸い、というべきか……深瀬沙耶架には友人が多く、学校内では一人になることがほとんどない。こちらとしては「手が出しづらい」ということになるが、それはどちらかといえば好都合だ。
後はどうやって「手が出せませんでした」という演技《えんぎ》をするかが問題だ。
「それで、そんなことを聞いてどうするんですか?」
「えっ!? あ、いえ……その……なんでもないです」
「そうですか……あまり、悪いことをしてはダメですよ?」
「あ、はーい」
と、どこか見透《みす》かされているような台詞《せりふ》に、ナギは冷や汗《あせ》を浮《う》かべながらサラの言葉に頷《うなず》いた……。
そして今――廊下《ろうか》から沙耶架を見ながらナギは思う。
「……ごめんなさい。たぶん、これ、悪いことだと思います……」
「今更《いまさら》、何を言ってんだ。行くぞ」
神名はそう言って二組に近づく。
だが、なぜか自分のクラスと違《ちが》う場所には入りづらい。
少し迷《まよ》ったが、神名は入口から沙耶架を呼《よ》ぶことにした。
「おーい、深瀬――っ」
すると教室にいた全員が神名の方を向いた。
人が少ないので、声がよく響《ひび》く……。
声をかけられた沙耶架は怪訝《けげん》そうにしていたが、友人に「待っていて」と言うと不敵《ふてき》に笑いながら入口にやって来た。
「珍《めずら》しいわね、天倉くん。いつもはどちらかというと、私から遠ざかっていくのに」
「正直、今すぐ帰りたい」
「あら、そう……だったら帰れば?」
沙耶架は昨日の昼食のことを思い出して、少し口を尖《とが》らせるようにそう言った。
「そういうわけにもいかないんだ……今日は」
どこか真剣な表情《ひょうじょう》の神名を見て、沙耶架の表情は不敵な笑《え》みに戻る。
「そう。ということは……私に愛の告白?」
「なんでそうなるのか理解《りかい》に苦しむ」
「だってそのぐらいしか……」
そう言いかけて、今日も神名の隣《となり》にナギがいることに気づいた。
「ど、どうも」
「……あ、確《たし》か、サラのところに居候《いそうろう》しているっていう……」
「はい。風流凪《ふうりゅうなぎ》と言います」
ナギの存在《そんざい》を知り、ようやく沙耶架はまともに話を聞くつもりになった。
「なるほど。で? 私に何のご用かしら?」
「まぁ、ここで話すのもなんだから、場所を移《うつ》そう」
「嫌《いや》よ。私は友達との会話を楽しんでいる最中なの。ここで話せばいいでしょ?」
まぁ、彼女のことだから、こういう風になるだろうなぁとは予想していた。
「ナギ」
「了解《りょうかい》です」
神名とナギはがっしり沙耶架の両腕《りょううで》を掴《つか》むと、無理やり教室から移動《いどう》し始めた。
「ちょ、ちょっと!? 何するのよ!?」
「強制《きょうせい》連行だ」
「は、放しなさい! 私を誰《だれ》だと思っているの!」
「副生徒会長」
「そう、深瀬沙耶架! 私にこんなことしてタダで済《す》むと思っているの!?」
「違法性《いほうせい》はない」
「いえ、かなりあると思いますけと……」
でも仕方がないのでナギもそれ以上は何も言わずに沙耶架を引きずっていく。
だが、すれ違う生徒たちか神名たちに不思議そうな視線《しせん》を向けるので、
「深瀬。これはお前にしか頼《たの》めないことなんだ」
「は? 何の話よ!?」
「生徒会長ではない、副生徒会長であるお前にだからこそ頼めることなんだ!」
「そうなんです! これは生徒会として重用な案件《あんけん》です! だから協力してください!」
「ちょ、ちょっと――」
「引き受けてくれるのか! さすが副生徒会長!」
「さぁ、行きましょう!」
「だから、ちょっと待ちなさいよ――っ!」
廊下に沙耶架の叫《さけ》び声がこだまする。
だが周りにいた生徒たちは神名たちの会話を聞き、「副生徒会長って大変なんだな……」と思うに留《とど》まった……。
なんとか沙耶架を引きずって校舎裏《こうしゃうら》へと移動した神名とナギは、そこでようやく沙耶架から手を放《はな》す。
「……で?」
無理やり連れてこられ、沙耶架は見るからに不機嫌《ふきげん》そうだった。
まぁ、無理もない。自分も同じことをされれば怒《おこ》るだろうと思いながら、神名は用件を伝えることにした。
「驚《おどろ》くかもしれないが……とりあえず聞いてくれ」
「何? 天倉くんが生徒会に入りたいとでも? それはビックリね」
「入るわけないだろ。金にならないのに……」
「でしょうねぇ」
ふん、と鼻をならし、沙耶架は神名たちを見る。彼女としても、そんなことでここまで連れてこられたわけではないとわかっていた。
沙耶架が再《ふたた》び口を開くより早く、ナギが説明に入る。
「実は……私たちは死神なのです」
何の前置きもなく、ナギは自分たちが死神であることを明かした。沙耶架の両目を見なから、毅然《きぜん》とした態度《たいど》で彼女の前に立つ。
が、しかし、
「……バッカじゃないの?」
沙耶架はどこか疲《つか》れたような、呆《あき》れかえったような表情で、溜息《ためいき》をつきながらそう言った。
(まぁ、普通《ふつう》はそう思うよなぁ……)
と、神名も沙耶架の反応《はんのう》を見て思う。
現《げん》に、自分もナギに初めてそう言われたときは、同じようなことを思ったものだ。
「わざわざ校舎裏まで連れてきておいて、何の冗談《じょうだん》よ? こっちは忙《いそが》しいのよっ」
沙耶架は呆れを通りこして怒《いか》りを露《あらわ》にする。
それでも神名は冷静に話をした。
「それはわかってる。こっちも冗談を言うためだけに、こんなことはしない」
そう言うと神名は、何もない場所から<<エカルラート>>を取り出して見せた。
「なっ!?」
黒い卵《たまご》のような物体が神名の右手の上に載《の》っている。
さすがの沙耶架もそれには驚いたようで、続けてナギが<<ベル・フィナル>>を取り出すと声を失ってしまった……。
「深瀬。信じられないかもしれないが、俺《おれ》たちは本当の死神だ。お前は数日前の交通|事故《じこ》で死ぬはずだった……けれど、死なずに済んだ……」
「でも、深瀬さんはそのときに死ぬ運命だったんです。今の深瀬さんは<<死ぬはずだった人間>>――<<ソウル・イレギュラー>>という存在になっています」
ナギが神名の言葉に続けた。
「そ、そんなの信じられるわけがないわけがないわ!?」
「だが真実だ」
「深瀬さんには大変悪いと思いますが……さくっと死んでください」
無表情《むひょうじょう》で立つ神名とナギに、思わず沙耶架は一歩下がった。
「わ、私を殺す気!?」
「ああ。お前は残念ながら死ぬ運命だからな……心配するな、死ぬのは一瞬《いっしゅん》だ。この俺の鎌《かま》――<<エカルラート>>と」
「私の<<ベル・フィナル>>なら――」
二人の鎌がそれぞれ光った。卵の内部からスライドするように棒《ぼう》が伸《の》び、先端《せんたん》がさらに強く光を発した。
「そう……一瞬であの世行きだ」
変化を終えた<<エカルラート>>を沙耶架に向ける。先端が微妙《びみょう》にカーブを描《えが》き、三つに分かれた槍《やり》――ではなく、フォーク。
それを向けられた彼女は目をこすりながら我《わ》が目を疑《うたが》った。
「……ええっと……ばい菌?」
「違《ちが》う! そのたとえもやめろ!」
「そうです! 私たちはれっきとした死神で――」
「この世界のどこにフォークとスプーンを持った死神がいるっていうのよ!?」
ふと見ると<<ベル・フィナル>>も鎌ではなくスプーンになっていた。
一度変化させたものなら、イメージが固まっていて変化させやすいはずだが、どうも鎌だけは上手《うま》くいかない……神名とナギは顔を一瞬、見合わせたが、すぐに開き直って、
「どこって、目の前にいるじゃないですか」
「深瀬……何事も決め付けるのは良くないぞ? 固定|概念《がいねん》は捨《す》てろ。じゃないとこの先、新しい社会の中では生きていけないぞ?」
「私を殺そうとしている、あなたに言える台詞《せりふ》!?」
「あ、そうか……そうだな。まぁ、そういうわけだ」
「どういうわけよ!? い、言っておくけど、私は死ぬつもりなんてないわよ!? だいたい私を殺してどうするっていうの!?」
「お前を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻《もど》せば……俺たちは救われるんだ……」
フォークを握《にぎ》る神名はその拳《こぶし》に力を込《こ》めた。
その様子に、沙耶架は神名たちが本気なのだと思い始める。
「救われる……?」
「はい……地獄《じごく》のような未来から……」
ナギの瞳《ひとみ》からすっと涙《なみだ》がこぼれる。彼女に握られていたベルは、それを見て小声でつぶやいた。
『迫真《はくしん》の演技《えんぎ》だな』
「いえ実際《じっさい》、泣きたいですから……うぅ」
どうして二度もイリスに「チョコレート・パフェにするから」と脅《おど》されなければならないのか……。
「じゃあ、深瀬。悪いがここで死んでもらうぞ!」
神名は<<エカルラート>>を手に、沙耶架へ近づこうとしたが、彼女が「ストップ!」と腕《うで》を上げて神名を制止《せいし》した。
「待って! あなたたちが死神だっていうのは信じがたいけれど、とりあえず目的はわかったわ……でも、私は死ぬわけにはいかないの。だから取引といこうじゃない」
「取引?」
「ええ。これで」
首を傾《かし》げる神名へ、沙耶架はすっと千円札を取り出した。
「お、お金で解決《かいけつ》するつもりですか!?」
「一番、手っ取り早いでしょう?」
ナギの言葉に当然といった表情で微笑《ほほえ》む沙耶架。
「天倉くんなら取引に応《おう》じるわよね?」
「……深瀬、悪いがそういう問題じゃ――」
「二|枚《まい》」
千円札が増《ふ》えた。
「……ええっと、だな――」
「三枚」
「…………」
神名はそれを見てぴたりと固まった。
ナギは迷《まよ》わず両手で握っていたベルの柄《え》で神名の頭を殴《なぐ》りつけた。
ガッ!
「ぐっ!?」
「ちょっと、神名くん!? 今ここで誘惑《ゆうわく》に負けたら、私たちは終わりなんですよ!?」
「い、いてーっ。わかってる、わかってるって……」
ナギに諭《さと》され、神名はどこかしぶしぶ<<エカルラート>>を構《かま》えた。三千円、と微《かす》かに呟《つぶや》いていたが、ナギが睨《にら》んでいることに気がついてやめる。
「悪いな深瀬。取引に応じるわけにはいかないんだ……俺たちの未来がかかっているからな……」
「三千円で揺らいだくせに……」
「目の錯覚《さっかく》だ。行くぞ!」
神名はフォークを片手《かたて》に沙耶架へ接近《せっきん》した。その上で彼女が攻撃《こうげき》をかわしやすいように大振《おおぶ》りで<<エカルラート>>を振るう。もとよりこのフォークには攻撃|能力《のうりょく》がないので、当たったとしても「痛《いた》いっ」で済む。
「冗談《じょうだん》じゃないわ!」
案の定、沙耶架は後ろに下がってかわしてくれた。さらに、賢明《けんめい》にも彼女は神名と戦わずにその場から立ち去ることを選んだ。
だがあっさりと逃《に》がすわけにもいかない。
沙耶架が逃走《とうそう》することを読んで、神名の反対側にナギが素早《すばや》く回り込む。挟《はさ》み撃《う》ちの状態《じょうたい》にし、彼女の足を止める。
「くっ……」
じりじりと距離《きょり》を詰《つ》め、沙耶架を学校の塀《へい》の方へ追いやった。
逃げ場もなく、武器《ぶき》もない沙耶架は、焦《あせ》りの表情《ひょうじょう》で二人の死神を見る。
と、
「あぁ――っ! なぜ、そんなところに木刀が!?」
ナギが突然《とつぜん》叫《さけ》びながら沙耶架のすぐ側《そば》の木を指差した。
何を言っているの、この子? とか思いつつ、沙耶架はナギの指差した方向をちらりと見る。するとその木に立てかけられるようにして、一本の木刀が確《たし》かにあった。
「…………」
すっと手を伸《の》ばす。だが掴《つか》む寸前《すんぜん》、神名たちに視線《しせん》を戻して止まった。
「……どうした? なんで取らないんだ?」
「いや、だってこれ……何かの罠《わな》なんじゃないの?」
「心配ありません。まったくもって、単なる偶然《ぐうぜん》です」
どんな偶然が重なれば、追い詰められた方向に木刀なんかが置いてあるのか……。そもそもナギが「なぜ、そんなところに木刀が!?」と叫んだが、今、彼らのいる位置からは木が陰《かげ》になって木刀など見えないはずだが……。
(でも、そんなことを考えている暇《ひま》はないわ!)
少し悩《なや》んだが沙耶架は木刀を手にした。
すると神名とナギがどこか安心したように見えたが、それはきっと錯覚《さっかく》だろうと木刀を強く握《にぎ》る。
短く息を吸《す》い、長く吐く。心を落ち着かせ、二人に向かって構えた。
さすがは剣道部《けんどうぶ》。構え方は様になっていた。
「さぁ、どちらからでもかかって来なさい。それとも両方|一緒《いっしょ》に来る?」
よほど自信があるのか、木刀を手にした沙耶架は強気に出た。
「いや、俺たちにも騎士《きし》道があるからな……一対一だ」
そう言って神名が進み出る。
「……さっきまではそんな精神《せいしん》、微塵《みじん》も感じさせなかったんだけど……」
「ちゃんと木刀を持つまで待っただろ? 武器も持たないやつに攻撃しない――どうだ、りっぱな騎士道だろ」
「さっき、私にそのフォークを振り上げたじゃないの!?」
「知らん。忘《わす》れた」
言っていることが無茶《むちゃ》苦茶《くちゃ》だわ、と思いながらナギの方を見る。彼女はスプーンを元の卵状《たまごじょう》に戻《もど》して後ろに下がった。一応、一対一というのは本当らしい。
「……初めに言っておくけど、私、剣道部だから」
「知ってる。お手並《てな》み拝見《はいけん》だな」
「余裕《よゆう》はそこまでよ!」
今度は沙耶架から神名に向かっていく。彼の間合いに飛び込み、素早《すばや》く木刀を振り下ろす。神名はそれを<<エカルラート>>で弾《はじ》き返し、逆《ぎゃく》にこちらが沙耶架に向かって振り下ろした。彼女は木刀でそれを受け止める。
(意外にできる!?)
素早い剣戟《けんげき》を得意とする沙耶架だったが、その攻撃のスピードに神名は反応《はんのう》している。
片や神名も沙耶架の攻撃に感心していた。
(思っていた以上に上手《うま》いな……こいつは助かる)
鍔迫《つばぜ》り合いになれば神名の力が上なので、少し力を抑《おさ》えて彼女の木刀を弾く。間合いも神名のフォークの方が広い。
沙耶架は慎重《しんちょう》に隙《すき》を窺《うかが》いながら攻撃をしかけた。まずは神名から武器を奪《うば》うつもりで手首を狙《ねら》う。剣道でいうところの籠手《こて》だ。木刀をねじるようにして斜《なな》め上から神名の腕《うで》へ打ち込む。それに対し、神名は素早くフォークを短く持ち直した。三つに分かれた先端《せんたん》に木刀を滑《すべ》り込ませ、絡《から》め取るように引く。
「っ!?」
それに気づいた沙耶架はすかさず強く木刀を手元に引き戻した。だがそこで後退《こうたい》したりしない。木刀を振り上げ、神名のフォークを強く弾き飛ばす。
「くっ!」
体勢《たいせい》を崩《くず》した神名の胴《どう》に沙耶架は迷《まよ》わず一閃《いっせん》。
だが神名は<<エカルラート>>の力を発動。フォークを空間に突《つ》き刺《さ》し、それを鉄棒《てつぼう》のように掴むと上へ逃《のが》れた。くるりと回り、神名は<<エカルラート>>の上に立つ。
「すごいな、深瀬……予想以上だ」
腕を組みながら空に浮《う》かぶ神名を、沙耶架は見上げる。
「ず、ずるいわよ、空を飛ぶなんて!」
「別に飛んでいるわけじゃない。空間に突き刺したフォークの上に乗ってるだけだ」
「十分、ずるいわよ! さっさと降《お》りてきなさい!」
彼女がそう言うので、神名はスタッと地面に降りるとフォークを空間から引き抜いた。
沙耶架は再《ふたた》び木刀を構《かま》えると、こちらに挑《いど》んできた。
「行くわよ!」
負けず嫌《ぎら》いというのはどうやら本当のようだ。一度、勝負事になれは、勝敗が決まるまで彼女は続けるつもりだった。
だがそのとき、沙耶架の攻撃と同時に鐘《かね》の音が鳴った。
「あっ! 深瀬、スト――ップ!」
「え!? な、何よ!?」
「予鈴《よれい》が鳴った! もうすぐホームルームが始まるぞ!?」
「……だから?」
「だからって言われても……ホームルームで出席|確認《かくにん》があるんだから、出ないと遅刻《ちこく》扱《あつか》いにされるだろ?」
そう呟《つぶや》き、神名は<<エカルラート>>をしまう。
「え? ちょっと、終わりなの?」
呆気《あっけ》にとられる沙耶架に二人は口をそろえて言った。
「だってホームルームが始まりますよ?」
「知ってるだろ? 俺は皆勤賞《かいきんしょう》が大事なのだ」
「な、何なのよ、その理由は!?」
「深瀬、その後は授業《じゅぎょう》もあるんだぞ? 授業をサボったら欠席扱いだ。皆勤賞が取れなくなるじゃないか」
さも当然のような顔をする彼らに、沙耶架は呆然《ぼうせん》とする。
ナギもベルをしまい、沙耶架に頭を下げた。
「それでは、続きは昼休みに」
「じゃ、そういうことで」
神名とナギはすたすたと校舎《こうしゃ》へ戻っていく。
「な、何なのよ、一体……」
いまいち自分の置かれている状況《じょうきょう》が理解《りかい》できず、沙耶架は混乱《こんらん》してしまう。
「というか、この木刀はどうすればいいのよ……」
昼休み。
なんだか釈然《しゃくぜん》としない気分のまま、沙耶架は珍《めずら》しく売店でパンを買って剣道部に顔を出していた。
(一体、どういうつもりなのかしら……)
死神と名乗った神名とナギが何を考えているのかわからず、午前中の授業は全く身に入らなかった。
軽くパンを口にして剣道着に着替《きが》えた沙耶架は、とりあえず汗《あせ》を流してスッキリしようと竹刀《しない》を握《にぎ》った。
「よしっ!」
掛《か》け声と共に気合を入れる。昼休みにも拘《かかわ》らず沙耶架に付き合ってくれている仲間たちが「今日の深瀬さんは一段《いちだん》と気合が入ってるねー」と囁《ささや》いていた。
覚悟《かくご》なさい。今日の私と稽古《けいこ》する人は大変よ――と心の中で小さく微笑《ほほえ》んでいると、
「こんにちはー」
道場の入口からナギが入ってくるのが見えて、ガクッと力が抜《ぬ》けた。
「深瀬さーん。深瀬さんはいますかー?」
「いるわよ、ここに! 大声出さないで!」
沙耶架の方がよっぽど大きな声だったか、それには気づかずナギに近寄《ちかよ》る。
「ちょっと、道場まで来て何の用なの?」
「朝の続きです。続きは昼休みに、って言ったじゃないですかー」
「あぁ、そういえばそんなことを……」
「なので、決闘《けっとう》を申し込《こ》みに来ました!」
びしっと沙耶架を指差し、ナギがそう告げる。
「決闘って……天倉くんはどうしたの?」
「ここだ」
すっとナギの後ろから彼が現《あらわ》れた。
「やっぱりいたわね……」
「だが、あくまで一対一だからな。今度はナギが一人でやる」
そう言うと、もの珍《めずら》しそうに道場の中を見渡《みわた》す神名。
目の前に立つそんな二人に向け、沙耶架はその目を細めた。
「……あなたたち、この道場から木刀を持ち出したでしょう?」
朝、校舎|裏《うら》で拾った木刀。
その後、捨《す》てるのは勿体《もったい》無いので道場に持ってきたところ、いつの間にか道場内の木刀が一本なくなっていたことに気がついた。
「さぁ、何のことでしょう?」
実は思いっきりその通りだったのだが、ナギはしらを切る。
初め、木刀は自前で用意するはずだったが、神名がお金を出すのを渋《しぶ》ったので、こっそりとこの道場から持ち出すことにしたのだった。
沙耶架から疑《うたが》いの眼差《まなざ》しは消えなかったが、これ以上聞くのは無駄《むだ》だと判断《はんだん》したのか、靴《くつ》を脱《ぬ》いで上がるように促《うなが》した。
「……まぁ、いいわ……入りなさい。でも、この道場に入るからには、こちらのルールに従《したが》ってもらうわよ?」
「ルール?」
「そ。決闘は良いけれど……あなた、そのままでやる気なの?」
そう言われてナギは自分の服装《ふくそう》を見る。問題ない、いつもの制服《せいふく》だ。だが沙耶架の姿《すがた》を見てハッとする。
「……もしかして、私もそれを着るんですか?」
「当然でしょう」
沙耶架は近くにいた友達の女子に目を向けると、
「私のロッカーに新しい剣道着《けんどうぎ》があるから、彼女に着せてあげてくれる?」
「うん、いいよ」
その二人は沙耶架の言葉を受け、ナギの両腕《りょううで》を掴《つか》んだ。そのまま問答無用で更衣《こうい》室《しつ》に連れて行かれる。
「あ、あの、ちゃんと着ますから! は、放してくださーい!」
「昼間のお返しよ」
沙耶架はそう言うと道場の床《ゆか》に正座《せいざ》して待つ。
神名も黙《だま》って道場に上がると、入口近くに正座した。
道場の中には、沙耶架たち以外、誰《だれ》もいない。
「普段《ふだん》から昼休みも練習してるのか?」
「いいえ。今日は放課後が忙《いそが》しいから、その分、昼休みに身体《からだ》を動かそうと思ったのよ」
そう言うと沙耶架は目を閉《と》じた。せっかく気合を入れたのに邪魔《じゃま》をされたので、精神《せいしん》統一《とういつ》をやり直す。
とにかく今は周りのことを考えるのを止《や》める。ただ、目の前の敵《てき》に集中するのみ。
ナギたちが本当の死神であるのなら、ここからとにかく逃《に》げるのが最良だと思う。しかし、負けず嫌《ぎら》いの沙耶架にとって決闘だと言われれば退《ひ》くわけにはいかない。
五分もすると剣道着に着替えたナギが更衣室から出てきた。
「お、お待たせしました」
「ええ。では、始めましょうか」
傍《かたわ》らに置いてあった竹刀を手に取り、沙耶架は立ち上がる。
ナギを見ると、なかなか剣道着姿も似合《にあ》っていた。
「服のサイズはどう?」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。強《し》いて言うなら、胸《むね》が少しきついぐらいで……」
「あぁ、悪かったわね!?」
せっかく精神統一したのに、今日はなんだかナギたちのペースに流されっぱなしだ。それに気づいた沙耶架は「あぁ、ダメダメ!」と邪念を振《ふ》り払《はら》う。
「もう、いいわ。とにかく勝負よ!」
沙耶架がすっと竹刀《しない》を向ける。
対するナギも先ほどの生徒から竹刀を受け取った。彼女はいろいろな握り方を試《ため》しながら、感触《かんしょく》を確《たし》かめている。
「……ねぇ、私が聞くのも何だけど……竹刀でいいの?」
彼女は死神で、自分を殺しにきたはず。だが、竹刀は人を殺すに長《た》けた武器《ぶき》とは言いがたい。
しかしナギは問題ないと頷《うなず》いた。
「はい。その代わり、防具《ぼうぐ》はなしでやりましょう」
「防具、なし?」
「はい、そうです」
防具をつければ、竹刀で相手を気絶《きぜつ》させるのは難《むずか》しい。かと言って、沙耶架以外の人がいる前で<<ベル・フィナル>>を使うわけにはいかない。
防具をつけず、竹刀で戦う。頭部を狙《ねら》い、彼女を気絶させ、保健室《ほけんしつ》に連れていくからと言って連れ出し、人気のない場所でバッサリ――というのが表向きのシナリオだ。
「私はこの剣道着もそうですけど、防具は着けたことがないので、それだけでも時間がかかりそうですし……」
「……私はそれでも構《かま》わないけど、当たったら痛《いた》いわよ?」
「防具がないほうが視野《しや》も広くて戦いやすいです」
ナギは二つに分けられた髪《かみ》を揺《ゆ》らし、こちらに身構えた。彼女がその気なら、沙耶架も退く気はない。
「いいわ。泣いても知らないわよ?」
「望むところです」
両者は静かに竹刀を中央で交えた。
意識《いしき》を集中し始めると、少しずつ周りの音が遠ざかる。
「始め!」
側《そば》にいた沙耶架の友達が合図を出した。
沙耶架は始まった途端《とたん》に先制|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けるつもりだったが、ナギの気配を感じ取って踏《ふ》みとどまる。
真《ま》っ直《す》ぐに竹刀を振《にぎ》るその姿には隙《すき》がない。
ナギのことを学校内で何度か見かけたことがあるが、いつもニコニコしているイメージで、こんなふうに構えることができるとは思わなかった。
(そういえば死神ですものね……)
そう考えると妙《みょう》に納得《なっとく》でき、沙耶架はひとまず打ち込んでみることにした。それに反応《はんのう》したナギもすくに行動へ移《うつ》る。
二人は互《たが》いに面を狙って振り下ろす。が、ナギが一瞬遅《いっしゅんおく》れ、すぐに振り下ろすのをやめて防御《ぼうぎょ》に出た。
「はああぁ――っ!」
沙耶架の掛け声と共に、力のこもった一撃。だがナギはそれを鮮《あざ》やかに受け流す。そしてすぐに攻撃へ転じ、籠手《こて》――と見せかけて再《ふたた》び面を狙う。
沙耶架はそれをパンッと竹刀で弾《はじ》き、逆《ぎゃく》に面を打つ。が、ナギもすり足で半歩下がってその間合いから逃《のが》れた。
(逃がさないわよ!)
ナギを壁際《かべぎわ》へ追い詰《つ》めるつもりで追撃をかける。ナギもそれに気づいて下がるのをやめ、前へ出た。沙耶架から攻撃される前にこちらから攻撃を、とナギは面を放つ。彼女の動きを止め、続けて胴《どう》。だがその攻撃で籠手ががら空きになる。沙耶架はそれを見逃さない。
動きを最小限《さいしょうげん》に、竹刀を滑《すべ》り込ませるようにナギの腕《うで》へ。
「くっ」
ナギは胴を放った竹刀で相手の攻撃を防《ふせ》ぐ。同時に強く押《お》し返し、振り下ろす。沙耶架も同じようにナギヘ振り下ろした。竹刀同士がぶつかり、両者は鍔迫《つばぜ》り合いになった。
「なかなかやるじゃない……っ」
「お互い様ですっ」
二人の戦いを、近くにいた生徒は目を見開くようにして見入っていた。
神名も「おー、すごいすごい」と頷く。
両者の竹刀は今のところ、一度も相手の身体に触《ふ》れていない。剣道《けんどう》の試合というより、それはまさに決闘《けっとう》のようだった。
沙耶架はナギから離《はな》れ、竹刀を振り上げて構えた。
胴が無《む》防備《ぼうび》。だが、それはわざとで、敵の胴を誘《さそ》って面を狙う。ナギはその構えをとっさに理解《りかい》し、止まる。
沙耶架の構えはこちらからの面と籠手への攻撃を封《ふう》じている。狙えるのは胴しかない。
だが打ち込みにいけば、その際に間違《まちが》いなく彼女の竹刀はこちらの頭に振り下ろされるだろう。
両者は互いに動かず、相手のどんな小さな動きも見逃すまいと睨《にら》み合う。
沙耶架は動かない。もとよりこの構えはカウンターだ。ナギはそこにあえて飛び込むベきか悩《なや》む……。
勝負は一瞬――そう思いながら、ナギはちらりと道場の壁を見た。
そこには時計があって、時刻《じこく》は十二時五十分、ジャスト。
キーンコーンカーンコーン。
「やった! 終わりました――っ!」
昼休みの終わりを告げる鐘《かね》が鳴り響《ひび》き、ナギは一瞬で緊張《きんちょう》感を解《と》いてにこやかにそう叫《さけ》んだ。
何が終わったのかわからず、沙耶架は構えを解こうとはしない。
「何言っているの!? 勝負はここからでしょう!?」
「で、でも授業《じゅぎょう》が始まってしまいますから……」
ナギは「ありがとうございました」と近くにいた生徒へ竹刀を返した。
だが、沙耶架は納得のいかない表情《ひょうじょう》でナギを呼《よ》び止めた。
「ちょっと、まさか教室に戻《もど》る気じゃないでしょうね?」
「え? 戻りますよ」
「決着がつくまで、ここから出すわけがないでしょう!」
「ええ――っ!?」
「ええ――っじゃないわ! 仲原《なかはら》! 更衣《こうい》室《しつ》のカギを閉《し》めなさい!」
沙耶架が先ほどから側《そば》にいた生徒の名前を呼ぶと、「あ、うん」とすぐに彼女は更衣室にカギをかけた。
「あ、あの、制服《せいふく》を返してもらわないと、教室に戻れないんですけど……」
「その服で戻ればいいわ」
「それだとこの服で授業を受けないといけないじゃないですか――っ!」
「それが嫌《いや》なら私と勝負なさい! 私に勝ったら制服を返して差し上げるわ!」
「そんな無茶《むちゃ》苦茶《くちゃ》な!」
「あなたのほうが無茶苦茶でしょう!?」
沙耶架がそう言うと、ナギの方へ仲原さんが「はい、がんばってね」と言って再び竹刀《しない》を手渡《てわた》してきた。
「さぁ、風流さん。決着がつくまで存分《ぞんぶん》に戦いましょう。逃《に》げたら放課後は剣道着で下校することになるわよ?」
「い、嫌です……」
ナギは沙耶架の迫力《はくりょく》に押されながら、神名に助けを求めようと振《ふ》り返った。
すると、
「あ、ナギ。俺《おれ》は先に教室へ戻ってるから……がんばれっ」
さっと道場から出ていった……。
「あ――っ!? ま、待ってくださいよ! 私も帰りたいです――っ!」
「ダーメ。ほら、早くかかって来なさい!」
やる気全開の沙耶架は背後《はいご》にオーラまでまとって手招《てまね》きしている。
(ど、どうしてこんなことに……)
ナギはなんだか泣きそうになりながら、こちらに向かって構《かま》える沙耶架に対して竹刀を構えざるをえなかった……。
ナギは六時間目の授業中、ずっと机《つくえ》でうつぶせになっていた。
彼女はずいぶん疲《つか》れきっているようで、ピクリとも動かない……。
「……おい、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
午後の授業が終わり、神名はナギへ振り返った。
「神名くん……今日は家に帰ったらチョコ・パフェ二つ食べていいですか……?」
「お、おう」
顔をもたげたナギの目は光を失いつつあり、思わず神名はのけぞる。
「もう、限界《げんかい》です……チョコ・パフェ食べないと死んでしまいます……」
「た、大変だったみたいだな……」
沙耶架との決闘は昼休みか終わった後、五時間目の授業を完全にサボって続けられた。それでも両者は一本も取れず、二人とも疲れ果てて終了《しゅうりょう》したらしい。
制服も返してくれた。
それより、
「神名くんひどいですよ……一人で先に戻るなんて……」
「俺には皆勤賞《かいきんしょう》があるからな……お前が俺の金でチョコ・パフェの材料を買っている分、皆勤賞は何としても死守せねばならんのだ……」
「うー」
そう言われると、ナギとしては返す言葉がない。
ひとまず夕食後のチョコレート・パフェを確保《かくほ》したことで、ナギは少し生気を取り戻したようだ。
「それにしても……深瀬さん、すごいやる気でした……」
「なんだかこちらより、やる気が窺《うかが》えるっていうのは複雑《ふくざつ》な心境《しんきょう》だな……」
もちろん彼女にこちらを殺す気まではないだろうが……。
「だが、ナギ。そのおかげで午前中は上手《うま》くいったと言っていいはずだ! この調子で放課後もがんばるぞ!」
「……放課後もこの調子なら、今日中に私は過労死《かろうし》ですよ」
ナギはそう答えつつ、なんとか立ち上がった。
授業が終わった後は、掃除《そうじ》、ホームルームと続くが、今日は沙耶架を逃がすわけにはいかないので、サラに断《ことわ》って教室を出る。
二組は掃除に取り掛《か》かるところで、神名とナギは入口から沙耶架の姿《すがた》を探《さが》す。だが、見つからない。
「あれ、いないぞ?」
「どこに行ったんでしょう……?」
掃除|区域《くいき》は教室だけではない。実験室や職員室《しょくいんしつ》、校庭という場合もある。
沙耶架の鞄《かばん》はあるようなので、掃除から帰ってくるのを待つべきかと悩《なや》んでいると、入口付近に座《すわ》っていた女子生徒が、
「深瀬さんなら会議室に行くって言ってたよ?」
と、親切に教えてくれた。
だが教室内にいた生徒たちが、なぜか全員、神名とナギの方を盗《ぬす》み見るような視線《しせん》を向けてくる。それが少し気になったが、今はそれどころではない。
「そうか、ありがとう。助かった」
どうしてそんな場所に……と思ったが、神名はそこへ向かうことにした。
「あ、待って! 仕事らしいから、邪魔《じゃま》したら怒《おこ》ると思うよ?」
「仕事? あー、わかった……」
付け足すように教えてくれた情報《じょうほう》に神名は相槌《あいづち》を打つと、ナギと一緒《いっしょ》に会議室へ歩き出した。
「仕事ってなんでしょう?」
「さぁ……? 生徒会の仕事ってことか?」
「それなら生徒会室じゃないんですか?」
「そうだな……まぁ、行けばわかる」
「邪魔したら怒られるって言っていましたけど……?」
「だからって何もせずに放課後を過《す》ごすわけにもいかないだろ……」
確《たし》かにその通りだ。
神名たちのクラスは三階にあり、主に教師《きょうし》たちによって使われる会議室は渡《わた》り廊下《ろうか》を渡った先の別|校舎《こうしゃ》二階にある。二人は階段《かいだん》を降り、渡り廊下を渡ってその部屋へ向かうと、
「っ! ナギ、待て」
角を曲がればすぐ、という所で神名がナギを制止《せいし》した。
「?」
不思議に思いつつも、ナギは言われた通り止まる。
神名が壁《かべ》を背《せ》にし、そっと会議室の入口を覗《のぞ》くと、会議室の入口の両脇《りょうわき》には、すごい形相で危険《きけん》なオーラを放つ二人組が立っていた……。
一人は頬《ほお》に傷《きず》があり、忠実《ちゅうじつ》そうな四角い顔立ちをしていたが、真《ま》っ直《す》ぐに廊下を見つめる視線は険《けわ》しい。
もう一人は左目に眼帯《がんたい》をしていて、なかなかに渋《しぶ》めの男性《だんせい》であったが、残った右目から隣《となり》に立つ男以上に鋭《するビ》い眼光を放っていた。
彼らの服装《ふくそう》はベレー帽《ぼう》に迷彩服《めいさいふく》。おかげで学校ではなく、どこかの軍事|施設《しせつ》に潜《もぐ》り込《こ》んだような気分にさせてくれた……。
「……なんだ、あれ?」
はっきり言ってかなり怪《あや》しい。
「……うちの学校に、あんな感じの体育教師っていたっけ?」
「いませんよ。あれはどう見ても学校関係者じゃないですよー?」
神名と同じようにして、ナギも陰《かげ》からその様子を窺う。
「だよな……」
「ど、どうします?」
「相手の人数がわからない以上、正面|突破《とっぱ》は危険《きけん》だ。ひとまず陽動作戦でいくか……」
「一人で二人は無理ですね……神名くんと私で、一人ずつ引き付けましょう」
「そうだな。まいたら会議室へ特攻《とっこう》だ……中の人数が不明だから、無理なようだったら逃《に》げろ」
「了解《りょうかい》です!」
「よし、行くぞ!」
そう言うと神名は会議室へ。
ナギもそれに続く。
「むっ!?」
眼帯の男が、先に神名とナギに気づいた。
続いて頬に傷のある男も、神名たちに向き直る。
「そこを通してもらおう!」
神名は不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべつつ、あくまで強気にそう言った。
「お前たちが天倉神名と風流凪か……?」
傷の男がこちらを睨《にら》みつけてくる。
「ああ……お前らは一体、何なんだ?」
「我《われ》らは深瀬沙耶架様の護衛《ごえい》のために雇《やと》われた傭兵《ようへい》だ」
そう言って、男が一歩こちらに近づく。
(ど、どうしよう……)
傭兵と名乗った男の言葉を聞き、ナギは最初にそう思った。これはいくらなんでも予想外だ。困《こま》った表情《ひょうじょう》で神名の方を見ると、彼は何とか平然を装《よそお》っていた。
「ボディーガードなら、いつか雇うかもしれないなぁと予想していたけど、まさか傭兵とはな……」
「ふん、それはお互《たが》い様だ。お嬢様《じょうさま》の命を狙《ねら》っているというから、何者かと思えば、まさかお嬢様の同級生とは……」
眼帯をあてた男が、神名とナギを交互《こうご》に見ながら呟《つぶや》く。右目から異様《いよう》な光を放ち、こちらをギラリと睨む。
「ライル……彼らがお嬢様の同級生とはいえ、侮《あなど》るな……お嬢様のお言葉だ」
「わかっているさ、ガリム……おい、貴様《きさま》たちは何者だ?」
ライルと目が合った神名は静かに眉《まゆ》をひそめた。
どうやら沙耶架から、神名たちが死神であることは聞かされていないらしい。
「……深瀬のやつ、俺たちが死神だって信じてないのか……?」
「どうでしょう? でもソウル・イレギュラー以外の人に、むやみに正体を明かすことは禁《きん》じられていますから、ちょうどいいかも……」
ライルの質問《しつもん》に神名たちがボソボソと話していたため、彼らは勝手に自己《じこ》解釈《かいしゃく》することにした。
「ふん、どうせどこかの産業スパイか何かだろう……お嬢様の命を狙い、深瀬グループの経営《けいえい》力を弱めるのが目的か?」
「……ああ、まぁ、そんなところだ」
完全に的外《まとはず》れだったが、神名はとりあえず頷《うなず》くことにした。
勝手に誤解《ごかい》してくれるなら、それはそれで都合が良い。
「ふっ、なるほど……では、このまま貴様らを野放しにはできんな!」
ライルはそう言うと拳《こぶし》を握《にぎ》り、神名に殴《なぐ》りかかってきた。まくりあげた袖《そで》の下には無数の傷と、鍛《きた》えられた筋肉《きんにく》が見える。
(一発でも当たったら、病院送りじゃ済《す》まないかも……)
神名はそんな風に思いながら、冷静にその攻撃《こうげき》を見つめた。
当たる寸前でライルの拳をかわし、続いて放たれた左ストレートと回し蹴《げ》りも素早《すばや》く回避《かいひ》する。
「むっ!? やるな!」
攻撃したライルは神名の動きを見てそう呟《つぶや》いた。無駄《むだ》な動きが一切《いっさい》ない、鮮《あざ》やかな回避行動だった。
神名から見るとライルはとても大きい。その分、リーチも長い。だが密着《みっちゃく》してしまえばこちらのものだ。懐《ふところ》に入り込み、顎《あご》を狙って真下から上へと掌《てのひら》を放つ。
「はっ!」
「がっ!?」
神名の攻撃が決まり、ライルは脳《のう》を揺《ゆ》さぶられるような衝撃《しょうげき》に襲《おそ》われる。だが彼は意識《いしき》が遠のきそうになるのを堪《こら》え、すっと神名に視線《しせん》を戻《もど》した。
(思っていた以上にタフな奴《やつ》だな!?)
踏《ふ》み込みも浅かった――そう感じた神名はとっさに間合いを取る。
ライルは神名の思った通り、何事もなかったかのように体勢《たいせい》を立て直した。
「神名くん!」
「おう!」
ナギは戦うことなく身を翻《ひるがえ》して逃走《とうそう》した。もとより神名も彼らと本気で戦うつもりなどない。ナギの後を追うようにライルたちから離《はな》れる。
「待て!」
「逃《のが》すか!」
二人がこちらを追って来るのを確認《かくにん》し、神名とナギはそれぞれ別方向に逃げ出した。
ライルたちは一瞬迷《いっしゅんまよ》いながらも、ライルが神名を、ガリムがナギを追う。
「逃げるのか、天倉神名! 貴様、それでも兵士か!」
「俺は産業スパイだぞ!? 生きて情報《じょうほう》を持って帰るのが任務《にんむ》だ!」
ライルの言葉に適当《てきとう》な返事を返しながら、神名は廊下《ろうか》を疾走《しっそう》する。途中《とちゅう》ですれ違《ちが》った生徒たちが不思議なものを見たような視線を送ってくるが、気にしない。
なんとかライルを引き離したい神名だが、ただ逃げてしまえば、ライルはまた会議室へ戻ってしまうだろう。
神名は廊下を走りながら、ふとグラウンドの端《はし》にある建物に目を留《と》めた。
「あれは……ちょうどいいな」
二階から階段《かいだん》を降《お》り、グラウンドの方へ逃《に》げる。
校庭には部活動中の生徒がたくさんいたが、それぞれが部活動に専念《せんねん》しており、神名とライルの姿《すがた》には気づかなかった。
神名が目指したのは体育倉庫。どうやらどこかのスポーツ部が何か使う予定になっていたのだろう、普段《ふだん》はかかっている鍵《かぎ》が外れて、扉《とびら》が開いていた。
神名は素早くその中へ。
ライルもすぐに追ってきた。
「ふっ、自ら行き止まりの部屋に飛び込むとは……ここで終わりだな」
「そいつはどうかな?」
ここなら人目にはつかない。
神名はライルが中へ入って来る一瞬前に、<<エカルラート>>を取り出してフォークの形状《けいじょう》へ変化させていた。
いつの間にか神名の手に握《にぎ》られていた巨大《きょだい》なフォークに気づき、ライルは警戒《けいかい》の色を強める。
「なんだ、それは!? 一体、どこから……?」
「予《あらかじ》めここに隠《かく》していたんだ……ま、というわけで、ここからが本番だ」
死神のことは、ソウル・イレギュラー以外にはできるだけ知られないように――ナギの言葉を頭の片隅《かたすみ》に置いておいた神名は、ライルの言葉にそう答えて構《かま》えた。
「くっ、ぬかせ!」
ライルは神名を捕《つか》まえようとその腕《うで》を伸《の》ばしてくる。だが、神名は接近《せっきん》しつつ回避行動をとった。<<エカルラート>>を地面に突《つ》き刺《さ》し、棒高跳《ぼうたかと》びのようにして空へ舞《ま》う。
「何っ!?」
神名がライルの頭上を取り、上から蹴り下ろした。ライルはとっさに身を屈《かが》めながら後退《こうたい》。神名も下がってフォークを掴《つか》み、再度《さいど》挑《いど》む。こちらから接近し、<<エカルラート>>を横向きに振《ふ》って攻撃する。残念ながらそれはライルの腕に弾《はじ》かれるが、その反動を利用して狙《ねら》いを足に移《うつ》す。フォークを引っ掛《か》け、同時に神名は蹴りを放った。
「ぐおっ!?」
ライルは思わず転倒《てんとう》する。
その隙《すき》をつき、神名は倉庫から出た。
スライド式の扉を閉《し》め、その扉の取っ手にかかっていた南京錠《なんきんじょう》をかける。
「っ!? 天倉神名! ここを開けろ!」
「ふっ、しばらくそこにいろ」
ライルを閉《と》じ込め、<<エカルラート>>をしまうと、神名は悠々《ゆうゆう》と会議室へ戻った。
ガリムの姿は見えなかったので、どこかでナギが引き付けてくれているようだ。
神名はその会議室の扉を開き、
「よっ!」
と沙耶架に声をかけた。
彼女はイスに座《すわ》っていて、その手に持っていたティーカップを落としそうになりながら神名の方を向いた。
中に彼女以外の姿はなく、どうやら護衛は二人だけだったようだ。
「なっ……ライルたちはどうしたのよ?」
「一人は知らないけど、もう一人は体育倉庫の中だ。それより何なんだ、あいつら。傭兵《ようへい》だって自分では言ってたけど……」
神名はゆっくりと沙耶架に近づく。
沙耶架はその姿に怯《おび》える――というわけではなく、「面倒《めんどう》なことになったわ」という顔でこちらを睨《にら》んできた。
「本当よ。朝の一件《いっけん》の後、私が国外から呼《よ》んだの」
「呼ぶなよ、あんな奴《やつ》ら……そもそも、いくらぐらいかかるんだ、傭兵を雇《やと》うのって……」
すると沙耶架は指を三本立て、神名の質問《しつもん》に答えた。
「……さ、三千円!?」
「そんなわけないでしょう」
「じゃあ、三万?」
「三百万よ」
「な、何ぃぃ――っ!?」
その金額《きんがく》に、神名は会議室を声で満たすがごとき大声で叫《さけ》んだ。
どういう金の使い方してやがるんだ、こいつ! と心の中でも叫ぶ。
沙耶架は両手で耳を押《お》さえて立ち上がり、神名から離《はな》れた。
「う、うるさいわね! 悪いけど、邪魔《じゃま》しないでくれるかしら!?」
「そういうわけにもいかないんだ。朝も言ったが……お前を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻《もど》さないと俺《おれ》たちは地獄《じごく》のような未来から救われない……」
「そういえば聞きたかったんだけど、その地獄のような未来ってどんな未来なのよ?」
沙耶架がそう言うと、神名は眉をひそめて静かに言った。
「聞きたいのか……」
「……ええ、あなたたちの行動理念も理解《りかい》しておきたいわ」
「後悔《こうかい》することになるぞ?」
「……構わないわ」
いつになく真剣《しんけん》な神名の様子に、沙耶架は少し戸惑《とまど》う。彼の目つきが変わるほど過酷《かこく》な未来なのか……。
「上司の命令で、俺たちはどうしてもお前を殺さなくちゃならなくなった……その任務《にんむ》が失敗、もしくは任務|放棄《ほうき》が確認《かくにん》されると……」
神名は微《かす》かに間を空け、
「俺たちはチョコレート・パフェにされるんだ」
そう告げると沙耶架は目をぱちくりとさせた。
チョコレート・パフェにされる――その言葉を理解しかねているようだ。
「じょ、冗談《じょうだん》でしょう?」
「いや、マジで。俺たちはお前をどうにかしないと、上司から食後のデザートにされるんだよ……」
「ど、どんな上司よ!?」
神名は昨日、勝手にリビングで寛《くつろ》いでいたイリスを思い浮《う》かべて告げた。
「人の家に上がりこんで、勝手に光熱費を上げていく鬼《おに》上司だ」
「そのたとえ、わかりづらいんだけど!?」
「事情《じじょう》はわかっただろ? これも任務なんだ……大人しく逝《い》ってくれ」
神名がそう言うと、沙耶架も黙《だま》ってはいなかった。
「こっちにだって仕事があるのよ!」
「仕事って……お茶飲んでるだけじゃねーか」
「今からするのよ。ここで人と会う約束をしていて、相手が来るのを待っているの!」
「ここって……学校で?」
「今日は生徒会の仕事もあって、暇《ひま》がないのよ……少ない時間も有効《ゆうこう》利用しなきゃ……」
「学校で仕事なんてありえないだろー」
そういえばナギから、沙耶架は父親の会社の経営《けいえい》に関《かか》わっていると聞いたような気がしたが、神名にはそれがピンと来なかった。
神名が苦笑《くしょう》しながらそう言ったので、沙耶架はむっと表情を強張《こわば》らせ、
「本当よ! 信じないなら、それでもいいけど、さっさとここから出て行って!」
彼女は神名に詰《つ》め寄《よ》り、それを催促《さいそく》するように――首を絞《し》めた。
ぐぐぐっ。
「ま、待てぇー、なんで首を絞めるんだーっ!?」
「さっさと出て行かないからでしょう!?」
二人が間近で争っていると、
「失礼します」
ガラガラーっとドアが開いた。
ハッとなって神名と沙耶架が入口を見ると、スーツ姿《すがた》の男性《だんせい》が手にいくつかのファイルと荷物を持って入ってきたところだった。
するとその男性も神名たちを見てハッとなり、
「す、すみません。お邪魔だったようですね……」
沙耶架が神名の首に両手を回しているように見えたので、彼は慌《あわ》ててそこから立ち去ろうとした。
「え? あっ、違《ちが》う、違うのよ!」
そう言って沙耶架は神名から離れると、スーツ姿の男性を引き止めた。
「ですが――」
「いいから。時間もあまりないのよ?」
「……はい。わかりました。それでお嬢様《じょうさま》、こちらの方は?」
どうやらやって来た男性は沙耶架の会社の人らしい。
「え? ええっと……そうね……」
沙耶架はその質問《しつもん》に何と答えるべきか迷《まよ》った。
神名とは友達ではなく、知り合い程度《ていど》の関係だ。だが死神だと言った彼との関係は普通《ふつう》のものでもない……。
すると沙耶架が言葉を濁《にご》らせようとしているように見えたのか、
「お嬢様にボーイフレンドがいらっしゃるとは、存《ぞん》じておりませんでした」
「え!? そ、そうじゃなくて――」
「あ、これはつまらないものですが、ご友人の皆様《みなさま》とご一緒《いっしょ》にお召《め》し上がりください」
男性は右手に持っていた紙袋《かみぶくろ》を神名に差し出した。
「え? あ、どうも」
差し出されたそれを、神名は思わず受け取ってしまった。中身は包装紙《ほうそうし》を見ただけですくにわかった。神名もよく知るせんべい屋のものだ。
それを見た沙耶架はぐっと神名を自分の方へ引き寄せ、小声で告げる。
「どうしてあなたが受け取るのよっ?」
「あ、悪い……なんか反射《はんしゃ》的にだな……」
もらえるものはもらう、が神名の主義《しゅぎ》だ。
沙耶架は呆《あき》れ顔。
「もう、いいわ ここれでわかったでしょう? 私は仕事で忙《いそが》しいの。早く出て行って」
「まぁ、そう言うな。俺にも聞かせてくれよ、その話」
「はぁ? 聞いても意味ないでしょう?」
「そうとは限《かぎ》らん」
「……あなた、産業スパイじゃないわよね?」
「俺がそんなものに見えるか?」
神名は顎《あご》に手を当て、「ふっ」と笑って見せた。
「……見えないわ」
「今のところは肯定《こうてい》してほしかったな……」
「はいはい、わかったわよ……好きにすれば?」
沙耶架はそう言ってイスに座《すわ》ると、スーツの男性にすっと手を伸《の》ばした。彼はそれを見て、持っていたファイルや書類を開き、順々に沙耶架へ見せた。
「先日、上がってきた企画《きかく》書《しょ》を見直せとのご指示《しじ》がありましたので、再度《さいど》、提出《ていしゅつ》させたものです」
「ええ、見せて」
沙耶架はそれを受け取り、ざっと書類に目を通す。その速さはすごかった。本当に見ているのか怪《あや》しいぐらいに、どんどん書類に目を通していく。時々、書類の端《はし》に印鑑《いんかん》を押しながら、別の書類に目を向け、側《そば》に立つ男性へ指示を出す。
「…………」
神名はそれを、立ったままじっと見つめていた。ここが学校ではなく、沙耶架が制服《せいふく》でなかったら、自分が見ている光景はきっとどこかのオフィスで繰り広げられているものと変わらなかっただろう。
「――じゃあ、これについては上手《うま》く話を通しておいて」
「かしこまりました……では、残りは夜に」
「そうね……目を通すだけのものは私の部屋に届《とど》けておいて。後で見るから」
「はい。では、私はこれで」
どうやら仕事は片付《かたづ》いたようで、スーツを着た男性は沙耶架の前に広げていたファイルと書類をまとめ始めた。
その後、沙耶架に深く一礼してから去ろうとして、
「あ、そうでした」
神名の方へ視線《しせん》を移《うつ》した。
「私の名前は安部《あべ》と申します。あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「え? 俺?」
神名が自分を指差すと、安部と名乗った男は笑って頷《うなず》いた。
「はい」
「ええっと……天倉神名だけど……」
「なるほど。では、天倉様……お嬢様のこと、くれぐれもよろしくお願いします」
「え?」
ぽかんっと神名は安部を見つめた。
「ちょ、ちょっと、安部さん! だから違《ちが》うって言ったでしょう!? 彼とは何の関係もない――」
「いえ、いいんです。お嬢様は我《わ》が社にとって、なくてはならないお方です……ですがそのために、高校生活を犠牲《ぎせい》にしておられるのではと心配しておりましたが……」
安部はすっと神名と沙耶架を見つめ、
「いやー、良かった、良かった」
と何度も頷いた。
「何がいいんだ……?」
「では、失礼します」
安部は神名の質問には答えず、そのまま会議室を出て行った。
質問したのは神名だったが、その答えを聞くのが少し怖《こわ》かったので、何となく安堵《あんど》の溜息《ためいき》をつこうとしたが、
「天倉くん、どうしてくれるのよ! いらない誤解《ごかい》を招《まね》いたじゃないっ」
険相《けんそう》な顔で沙耶架に詰《つ》め寄《よ》られた。
「いや待て、俺のせいか!?」
「さっさとここから出て行かないし、手《て》土産《みやげ》は受け取るし、全部あなたのせいでしょう!?」
「うっ、言われてみれば……」
確《たし》かにそうかも、と神名は沙耶架から視線を逸《そ》らしながら思った。
だが、仕方ない。こちらとしても「出て行け」と言われて「はい、わかりました」というわけにはいかなかったのだ。
「それより、さっきの安部さん? なんかいい人みたいだな……」
神名が話を逸らしたように思えて、沙耶架は眉《まゆ》をひそめたものの、すぐに頷いた。
「まぁ、ね……会社では私が一番|信頼《しんらい》している人よ。私の秘書《ひしょ》みたいな仕事をしてもらっている……」
「なるほど……いや、それにしてもなんかすごいな、深瀬って」
「何よ? 今更《いまさら》、わかったの?」
「ああ……途中《とちゅう》から何を話しているのかさっぱりだったけど、少なくとも普通《ふつう》の高校生には真似《まね》できないって思った」
それは神名の素直《すなお》な感想だった。会社の経営《けいえい》に携《たずさ》わっているという話は半信|半疑《はんぎ》だったが、さきほどの様子を見た後なら誰《だれ》でも信じるだろう。
「いや、すごい。本当にすごいな……」
神名が感心したように、その目を輝《かがや》かせながらそう言うので、沙耶架は照れたように顔を背《そむ》けた。
「わ、わかればいいわよ……」
彼女が恥《は》ずかしそうにしている顔は見たことがなかったので、神名は意外に思いながらもふっと笑う。
「何よ? どうして笑っているのよ?」
急に「むっ」とする沙耶架。
「別にー。なんでもない」
神名はとぼけた表情で彼女から視線を逸らすと、壁《かべ》にかかっていた時計に目が止まった。
いつの間にか、時間は刻々《こくこく》と進み、時計の針《はり》は五時を指そうとしていた。
「っ!? しまった! もう時間がないじゃねーかっ!」
ハッとなる神名だったが、もう遅《おそ》い。
「ふん。自業《じごう》自得《じとく》ね……じゃ、私は教室に戻《もど》るから」
「ま、待てって! まだ時間は少し残ってるんだ――っ!」
会議室を出ようとする沙耶架の後を、神名が追う。
ちなみにおかきの入った袋は神名がしっかり持っている。
と、そのとき、
「お嬢様《じょうさま》――っ!」
ドアの向こうから沙耶架を呼《よ》ぶ声かした。
「何かしら?」
「あれは――」
おそらくライルの声だ――体育倉庫から出られたのか、と判断《はんだん》した神名は、それを確かめるべく廊下《ろうか》へ出ようとしたが、こちらに近づく足音が妙《みょう》に大きく、止まる気配がないのを感じた。
「っ! 深瀬、避《よ》けろ!」
「何? きゃっ!?」
神名はとっさに沙耶架を抱《だ》き寄せ、ドアの脇《わき》に退避《たいひ》した。
ドンッ!
その瞬間《しゅんかん》、ライルが会議室のドアを蹴破《けやぶ》って入ってきた。
「お嬢様――っ!?」
普通にドアを開ければ良いものを、ライルが力|任《まか》せに突《つ》き飛ばしたため、ドアが壁から外れて床《ゆか》に倒《たお》れる。それに構《かま》うことなく、ライルが会議室内を見渡《みわた》すと、入口のすぐ横に沙耶架と神名がいた。
「お嬢さ――ま……」
だが二人の姿《すがた》を見て立ち止まってしまう。
そこへ、後ろからナギの襟《えり》を掴《つか》んだガリムも入ってきた。
「お嬢様は無事か、ライ――」
「ごめんなさい、神名くん……捕《つか》まっちゃいま――」
と、ガリムとナギも言葉を止めて立ち尽《つ》くした。
神名と沙耶架は身体《からだ》を寄せ合ってそこに立っていた。神名が沙耶架を抱き寄せ、腰《こし》と肩《かた》に手を回すようにし、沙耶架は大人しくその腕《うで》に抱かれている――ように見えた。
「な、何をやっているんですか……?」
「え?」
「な? ちょ、ちょっと!」
ナギがすっと表情《ひょうじょう》を強張《こわば》らせながら発した言葉に、神名は慌《あわ》て、沙耶架は彼を突《つ》き飛ばして離《はな》れた。
「これはどういうことですか? 神名くん」
ガリムから襟首を掴まれたような恰好《かっこう》のまま、ナギは鋭《するど》い眼光《がんこう》で神名を睨《にら》む。
「…………」
ナギを掴んでいるガリムは、その様子に冷や汗《あせ》を浮かべた。隣《となり》に立つライルより、その眼《め》の光は鋭い……。
「い、いや、別に……何もないって!」
「なんですか、今の間は――っ!?」
「ち、違《ちが》う! 言葉に詰《つ》まっただけだ!」
「私が一生|懸命《けんめい》、ガリムさんを引き付けてがんばっている間、神名くんは深瀬さんとずっと一緒《いっしょ》に仲良く……仲良く……っ」
「た、確かに一緒にはいたけど、ちゃんと俺は……そうだ、深瀬! お前も何か言ってくれよ!」
神名は沙耶架に助け舟《ぶね》を出してもらおうと、彼女の方を向いたが、
「……え、え? 何?」
まだ気が動転しているのか、沙耶架は顔を真っ赤にして、そう呟《つぶや》いただけだった……。
「……逆効果《ぎゃくこうか》だよ、こいつ……」
「じーんーなくーんっ!?」
「いや、ナギ、ちょっと話を聞け!」
ナギはガリムの腕を振《ふ》りほどき、側《そば》にあった花瓶《かびん》を手に取った。
「神名くん、ひどいです――っ!」
「待て! 振り回すな、そんなもの――っ!」
怒《いか》りのオーラを発したナギが神名に向かって花瓶を振り下ろしてくる。
ガシャーンッ! 当然、神名は避けると、花瓶はテーブルに当たって砕《くだ》けた。花も水も入っていなかったので、床が濡《ぬ》れることはなかったが、割《わ》れた破片《はへん》が飛び散る。
会議室内を逃《に》げる神名と、追うナギ。
「おい、なんだよ!? これは俺《おれ》が悪いのか!?」
神名はナギと沙耶架の反応を諦《あきら》め、ライルとガリムにそう聞いたが、彼らもすっと神名から視線《しせん》を逸《そ》らした。その件《けん》に関して、関《かか》わりたくないという雰囲気《ふんいき》丸出しで。
沙耶架の方はというと、まだ固まったままだ……。
そして壊《こわ》れた会議室のドア。
「俺は何も悪くない! 悪くないんだ――っ!」
周りの状況《じょうきょう》を見て、神名はなぜだか無性《むしょう》に居《い》心地《ごこち》の悪さを感じて、そう叫《さけ》んだ……。
それからすぐ、暴《あば》れまわっていた神名たちはたまたま会議室の前を通りかかった教師《きょうし》に発見された。
時を同じくして、部活動中の生徒が体育倉庫のドアが壊されていることに気がついて職員室《しょくいんしつ》へ。下校|途中《とちゅう》の生徒たちから、神名たちと謎《なぞ》の男が校舎《こうしゃ》内で暴れまわっていたことも合わせて報告《ほうこく》された……。
数十分後。
「……何でこうなるんだ?」
「知らないわよ……」
イスに座《すわ》らされた神名は、隣《となり》にいた沙耶架にそう聞いたが、彼女は疲《つか》れた表情でそう答えただけだった。神名の後ろにはライルとガリムも座らされている。体格《たいかく》の大きな彼らには高校生用のイスでも小さすぎたが、静かに沈黙《ちんもく》を保《たも》っている。
神名は仕方なくナギに視線を向けると、
「なぁ、ナギ……」
「…………」
彼女は明後日の方向を向いたまま、微《かす》かに頬を膨《ふく》らませている。
「何でなんだ……」
神名は諦めて前を見つめる。
そこには怒りのオーラをまとったサラがこちらを見据《みす》えていた……。
「いいですか? 今日、皆《みな》さんがやったことは、この学校の全員に多大な迷惑《めいわく》をかけたということに他《ほか》なりません。そもそも――」
と、なぜか校長先生にではなく、サラに全員|呼《よ》び出され、日が暮れるまで説教が続くこととなった……。
[#改ページ]
   報告書・3 お金《かね》は一円も出してないです
その日の朝、ナギはいつも通り神名《じんな》の家にやって来て、朝食の支度《したく》をした。
彼女がやって来るのとはぼ同時に神名は起き、ナギと一緒《いっしょ》に食卓《しょくたく》に着く。
二人は手を合わせ「いただきます」と声をそろえると、箸《はし》を持ったものの、疲れた表情《ひょうじょう》で料理を見つめて止まった。
箸を動かすことなく、二人は溜息《ためいき》をつく。
昨日はとにかく散々で、体育倉庫と会議室のドアを壊した罰《ばつ》として、サラからお説教を受けた後、全員(ライルとガリムも含《ふく》め)で倉庫の整理や掃除《そうじ》などをやらされた。
「なんだか頭が痛《いた》いです……」
ナギはプチトマトをのろのろと口に運びながら、左手で額《ひたい》を押《お》さえた。
昨日の夜、夕食後にチョコレート・パフェを二つ食べて、ようやく機嫌《きげん》を直してくれたナギだったが、今日もどこか調子が悪そうだった。
「……なんだ、やっぱり風邪《かぜ》か?」
神名がナギの様子を思い返してみると、近頃《ちかごろ》はずっと風邪のような症状《しょうじょう》を引きずっているように思う。
「うーん、そうみたいです……微熱《びねつ》ですけど、最近、ずっと続いていますし……」
「大丈夫《だいじょうぶ》か?」
神名が思わずそう言うと、ナギはちょっと照れて、
「大丈夫ですよ」
と笑って見せた。
無理はするな、と言いたいところだが……神名たちにはやらなくてはならないことがある。
ただ今日は土曜日なので学校はお休みだ。そのため九時になるまではゆっくりできる。
「で、神名くん、今日は九時からどうしますか?」
昨日は本当に疲《つか》れたため、今日のことは何も話し合っていない。
すると神名は箸を動かしつつ、少し申しわけなさそうに呟《つぶや》いた。
「悪い、それが昨日の夜、バイト先から電話があって……『明日は休みだろ? 朝から店に出てくれ』って達也《たつや》さんに言われてな……」
「え!? じゃあバイトに行くんですか!?」
「お得意さんが来るから、どうとかって……必ず来るようにってだけ言って、電話も一方的に切られたんだ……。とにかく一度行って様子を見てから、仕方なく夕方まで仕事するか、途中《とちゅう》で帰らせてもらうかを考える」
「初めから休むという選択肢《せんたくし》はないんですか?」
「必ず来いって言われたんだ。行かずにクビにされたら、今後の生活はどうするんだよ?」
神名は両親から生活費を仕送りしてもらっている。
だが、彼は必要|最低限《さいていげん》しかそのお金には手をつけていない。あとはすべて自分のバイト代で賄《まかな》っているのだ。
ナギが食事を作るときの材料費も半分は彼のバイト代から出ている。
それを知っているナギは、彼がバイトに行くと言ったら止められない。
「うー」
「というわけで、後は頼《たの》んだ。できれば後で俺も行く」
「ま、待ってくださいよー。確《たし》かに生活費は必要ですけど、私一人で深瀬《ふかせ》さんとあの傭兵《ようへい》さんたちの相手をするんですか?」
いくらなんでもそれは無理だ。ナギ一人に対して、向こうは三人もいるのだ。
すると神名は首を振《ふ》って答えた。
「ひとまず俺が合流できるかわからないから、今日は深瀬のことは諦《あきら》めよう……でも、何もしないわけにはいかないから、お前用のプランをちゃんと考えてある」
「プ、プラン?」
ナギはどこか不安だったが、とりあえず神名の話を聞いてみることにした。
「ああ。深瀬のビルがある場所は知ってるよな?」
ナギは彼の言葉に小さく頷《うなず》いた。
彼と隣町《となりまち》に遊びに行ったとき、大きな交差点の角に大きなビルが建っているのを見たことがある。それが沙耶架《さやか》の父親が経営《けいえい》している会社だと知ったのは、ずいぶん後になってからだったが、場所はちゃんと覚えている。
「そこへ行って深瀬を呼《よ》び出す。急用で、話したいことがあるって言ってな」
「え? それで出て来たら……?」
「いや、そこは深瀬の親父《おやじ》さんの会社だぞ? 深瀬がいるわけないだろ? 受付の人から深瀬はいませんって言われたら『どこに行ったんですかー?』って適当《てきとう》に聞いて、深瀬を探《さが》すふりをしながら街をぶらつく。あとは五時になったら戻《もど》ってくればいい」
幸い、神名たちは沙耶架の家がどこにあるのか知らないので、彼女の家に直接赴《ちょくせつおもむ》くことはできない。
「もしバイトが早く終われたら、俺もそっちに行く。どちらにせよ、深瀬のことをどうするか、まだ考えてないからな……会ってもたいしたことはできないだろ?」
「な、なるほど……」
「少し移動《いどう》が多いけど、最後はウインドーショッピングでもしていてくれ。ついでに深瀬のことをどうするか……お前も考えておいて欲《ほ》しい」
「……わかりました」
素直《すなお》にナギは神名の案に賛成《さんせい》した。
彼の言うことはもっともだし、異存《いぞん》はない。
「こいつで、どうにかできればいいんだけどな……」
神名はそう言うと<<エカルラート>>を右手に出現《しゅつげん》させ、ほぼ同時にフォークへと変化させて掴《つか》んだ。
どうにかして沙耶架をソウル・イレギュラーではなくす方法はないものか……。
そしてそれを見たナギは、
「……いつも思っていたんですけと、神名くんって<<エカルラート>>を変化させるのが早いですよね?」
神名の<<エカルラート>>を見なから不思議そうな表情《ひょうじょう》を浮《う》かべた。
「ん? そうか?」
あんまりナギと変わらないだろ……と思っていると、ナギも<<ベル・フィナル>>を取りだした。
「こっちはスプーンにするだけでも、大変なんですけど……」
ナギはそう言って心の中でスプーンをイメージし、ベルをその形にする。彼女には神名のように、ベルを出現させると同時に変化させる――ということができなかった。
『まぁ、私は<<魂《たましい》>>を司《つかさど》る鎌《かま》だからな……』
するとベルが呟《つぶや》くように言葉を発した。
「え?」
『そういえば説明がまだだったか……ナギには一度、話したと思うが、私は<<魂>>を、<<エカルラート>>は<<器>>を司る。つまりだな、私は――』
「あー、ベル! 話はまた今度だ! 今は早く朝ご飯を食べて行くぞ!」
神名はベルの言葉を遮《さえぎ》り、ナギの作った朝食を胃《い》に入れる。時計を見るとバイトの時間が迫《せま》っていた。
『あ、おい! 私の話はちゃんと聞け!』
「暇《ひま》なときにゆっくりな」
食べかけだった料理を食べ終え、神名はさっさとリビングを出て行ってしまった。
『はぁ、まったく……』
彼がいるときに説明しないと二度手間になる、とベルも言おうとしていた説明を諦《あきら》めた。
神名はバイトに出かけて、ナギもぱっぱっとご飯を食べると、食器を片付《かたづ》けてから家を出た。
学校はお休みだったが、制服《せいふく》で学校へ向かう途中《とちゅう》にある駅まで歩く。
そこから電車に乗ると二駅先で降《お》りた。
駅前は綺麗《きれい》に区画|整備《せいび》されていて、大通りが南北に真《ま》っ直《す》ぐ延《の》びている。ナギたちが住んでいる綾月《あやつき》市の中心的場所だ。その道を歩くこと十数分。
「うわー、やっぱり大きいですねぇ……」
沙耶架の会社は交差点の角にそびえ立っていた。
五十階を超《こ》す高層《こうそう》ビル。どこか流線型を思わせるデザインで、最上階付近はガラス張《ば》りになっているようだ。太陽の光を受け、ビル全体が光って見える。
この<<深瀬グループ>>はもともと商社だったが、地方銀行やIT、食品産業などへの参入により、爆発《ばくはつ》的に成長を遂《と》げようとしている会社だ。
数年前、経営が低迷《ていめい》していた時期もあったが、今は完全な右肩《みぎかた》上がり。
その会社を真下から見上げていたナギは「さぁ、仕事です!」と気合を入れて、ロビーへ。中は三階部分までが吹《ふ》き抜《ぬ》けで、高い天井《てんじょう》が開放的な空間を演出《えんしゅつ》する。だがナギは逆《ぎゃく》に居《い》心地《ごこち》が悪くて恐縮《きょうしゅく》してしまった。
周りはスーツでビシッと決めた人たちが忙《いそが》しそうに歩いていて、ナギは見るからに浮いていた。
それでもナギはなんとか受付の前に立った。
「あ、あの……深瀬さんはいらっしゃいますか?」
そう言っただけで、とても緊張《きんちょう》する。
「……沙耶架お嬢様《じょうさま》にご用件《ようけん》でしょうか?」
受付にいた女性《じょせい》が、ナギの容姿《ようし》を見ながらそう尋《たず》ねてくる。
「は、はい。こちらにいらっしゃいますか? 急用で、今すぐお話ししたいことがあるんですけど……」
「沙耶架お嬢様でしたら、今は外出されております」
「そ、そうですか……」
それを聞き、ナギは困《こま》った顔を浮かべながら、内心で安心した。神名が言った通り、沙耶架はここにいなかった。
受付のお姉さんの話では、どうやら外出しているらしい……そう、外出……?
「ま、待ってください! 外出? 外出ってことは、普段《ふだん》はここにいるんですか?」
思わず身を乗り出してきたナギに、少し困惑《こんわく》しながら受付のお姉さんは答えた。
「は、はい……四十八階から上のフロアは社長|宅《たく》となっておりますので……」
「こ、ここに住んでいるんですか!?」
「は、はい」
それを聞いた瞬間《しゅんかん》にナギは「しまった!」と思った。つまり、自分は彼女の自宅へ正面|突破《とっぱ》しに来たようなものだ。
ナギが「どうしよう……」と焦《あせ》っていると、その姿《すがた》を天井から監視《かんし》するカメラがあった。どう見ても後から付けましたという感じで、ビルの内装《ないそう》にも合っていない。
そのカメラを通してナギを見つめる瞳《ひとみ》が二つ。
「まさか正面から堂々とやって来るとは……」
昨日、ナギと戦ったガリムは、受付で慌《あわ》てるナギを見ながらそう言った。
「よほど自信があるのか……しかし、本当にお嬢様の言う通りになったな……」
そう呟きながら、ガリムは沙耶架の言葉を思い浮かべた。
彼女は出かける前、
「たぶん今日、あの二人がここに来ると思うわ」
と言っていた。学校がお休みで、沙耶架に会うために家までやって来るだろう、と。そのため、沙耶架の外出にライルが同行し、彼がこの会社に残っていたのだ。彼はベレー帽《ぼう》を被《かぷ》りなおすと、ナギを捕《と》らえるために気合を入れた。
「ふっ、ここへ来たことを後悔《こうかい》させてやろう。お嬢様のためにも、あの小娘《こむすめ》を捕《と》らえてみせる!」
ガリムは急いで一階へ向かった。
その頃《ころ》、ナギはとりあえず落ち着いて、神名に言われた通り、沙耶架の行き先を聞いてみることにした。
「あ、あのー、深瀬さんが今、どこにいるのかはわかりませんか?」
「申しわけございませんが、私どもの方でも存《ぞん》じ上げておりません……お花を買いに出かけるとおっしゃっておられましたが……」
「そうですか、ありがとうございます」
なんだ、ちゃんと教えてくれるんですね――そう思いながら、次はウインドーショッピングをするために(すでに沙耶架を探《さが》す気なし)ビルを出ようとする。
「よろしければ、伝言を承《うけたまわ》りますが?」
「いえ、いいんです。それでは」
ナギは向きを変え、ビルの出口に向かって進む。
そのとき、入口のすぐ脇《わき》にあるエレベーターが一階に到着《とうちゃく》し、ドアが開いた。
中から現《あらわ》れたのはガリム。
「いたな! 風流凪《ふうりゅうなぎ》!」
「きゃああぁぁ――っ!」
彼を見るなり、ナギは思わず叫《さけ》んだ。
「おいっ! 見ただけで悲鳴をあげるな! 失礼だろう!?」
「来ないで! 寄《よ》らないで――っ!」
ガリムの話など聞かず、ナギは一目散に逃げ出した。
「こらっ! 待て――っ!」
ここで逃がすわけにはいかず、ガリムも走り出した。
それと同時に周囲へ気を配る。
「……どうやら風流凪、一人のようだな……天倉《あまくら》神名は別行動をして、お嬢様を狙《ねら》っているというわけか……やるな」
彼は勝手に神名たちへの評価《ひょうか》を改めながらナギを追った。
沙耶架のビルを出たナギは、後ろを見ずにひたすら走る。
「よ、傭兵《ようへい》さんの相手はしたくないです……」
これではウインドーショッピングが台無しだ……。
泣きそうになりながらも、なんとか堪《こら》え、ナギはビルとビルの間に入り込《こ》んだ。どうせ逃げ続けても体力差がありすぎて、じきに追いつかれるだろう。
それならばいっそのこと、気絶《きぜつ》でもしていてもらおうとナギは考えたのだ。
「ふっ、観念したか……」
ガリムは意外に足が速く、すぐにナギに追いついた。
だが追いついたナギをよく見ると、彼女はいつの間にかスコップを手にしていた。
「むっ……そんなものをどこから?」
「そ、そんなことはどうでもいいのです! それより恥《は》ずかしくないんですか? 大の大人が、女の子を追いかけまわすなんて!」
「これも任務《にんむ》だからな。というより、お前の方から我《わ》が陣営《じんえい》までやって来たのだぞ?」
「あ、あれはこっちも予想外でして……」
「何を今更《いまさら》……綿密《めんみつ》にお嬢様の自宅を探《さぐ》り出し、仲間と別行動を取ることで我々《われわれ》とお嬢様を同時に襲《おそ》うとは……天倉神名はどこにいる?」
「じ、神名くんはバイトです」
「嘘《うそ》をつくな! 今頃はお嬢様を付け狙っているのだろう!?」
「本当にバイトに行ったんですよ――っ!」
「しらを切るつもりか……まぁ、いい! まずはお前を捕らえてからだ!」
狭《せま》い路地をガリムが迫《せま》ってくる。
正直、すごく怖《こわ》い。
「こ、来ないでください!」
ナギは、ベルを、思い切り彼の目の前で振《ふ》り下ろした。
「っ!?」
長年の経験《けいけん》からか、ガリムは瞬時《しゅんじ》に危険《きけん》を察知して踏《ふ》みとどまる。
スコップへと変化したベルは、易々《やすやす》とコンクリートの地面にクレーターを作った。
「くっ、ただのスコップではなかったのか!? なんという強力な兵器……それで今まで何人もの人間たちを叩《たた》き潰《つぶ》してきたに違《ちが》いない!」
「そ、そんなことしてません! これで叩き潰したのはゴキブリだけです!」
ガリムの言葉にナギが首を振ってそう言うと、
『そんなことはどうでもいいから、鎌《かま》として使ってくれ……』
ベルが少し諦《あきら》めの雰囲気《ふんいき》を滲《にじ》ませながら小さく呟《つぶや》いた。
『まったく……相変わらずスプーンやらスコップやら、妙《みょう》なものにばっかり形を変化させて、たまにはこっちの心情《しんじょう》も考えろ』
「でも、ベルちゃん、鎌を使ったりしたら、一撃《いちげき》であの人はあの世行きですよ? そうしたらあの傭兵さんはソウル・イレギュラーになって、私はチョコ・パフェ決定です……」
『そうなんだよなぁ……あぁ、誰《だれ》でもいいから、私を鎌にしても問題ないシチュエーションを作ってくれないだろうか……』
「いりませんよ、そんなシチュエーション」
二人が何やら話していると、
「何を一人でぶつぶつ話しているのだ!?」
ベルの声が聞こえなかったガリムは、なにやらナギが独《ひと》り言を言っているように見えたようだ。彼は素早《すばや》くナギに接近《せっきん》してくる。スコップを恐《おそ》れていないのか、任務に忠実《ちゅうじつ》なだけなのか、問答無用で襲い掛《か》かってきた。
ナギを捕《つか》まえようと腕《うで》を伸《の》ばすが、彼女はそれをかいくぐりながら後ろへ下がる。
「くっ、すばしっこい奴《やつ》め!」
「簡単《かんたん》には捕まりません!」
もちろんナギは逃げてばかりではない。ヒュンッ! とスコップを振って牽制《けんせい》しながらガリムの隙《すき》を窺《うかが》う。
「むっ!?」
「こうなったら、ちょっとぐらい痛《いた》くても我慢《がまん》してもらいます!」
大きく振りかぶり、彼に向かって振り下ろす。
「ふっ! その意気込みや良し! だが、傭兵を舐《な》めるな――っ!」
振り下ろされたスコップ。
それをガリムは避《よ》けることなく、両腕で受け止めて見せた。
「うおおおぉぉ――っ!」
「そ、そんなっ!?」
まさか受け止められるとは思っていなかったので、ナギは信じられない様子でガリムを見つめた。
「ふはははっ! どうだっ!?」
だが、今度はガリムが驚《おどろ》く番だった。ナギは振り下ろしていたスコップに力を込める。<<ベル・フィナル>>のスコップ状態《じょうたい》に備《そな》わる能力は<<記憶《きおく》を掘《ほ》り起こす>>能力だ。ガリムはその力を受け、
「な、なんだ、これは……」
幼《おさな》い頃《ころ》の記憶、若《わか》かりし頃の記憶、楽しい思い出、それらが走馬《そうま》灯《とう》のように次々と浮《う》かび上がってくる。
軍に入ったばかりの頃、前線でライルに助けてもらった恩《おん》は一生|忘《わす》れない……そういえば、あの頃に想《おも》いを寄《よ》せていた女性《じょせい》は、今も元気だろうか……。
思い出に浸《ひた》ってすっかり脱力《だつりょく》しているガリムに、ナギは再《ふたた》びスコップを振り下ろした。
「隙あり!」
ガンッ!
「うがっ!?」
直撃。が、そもそも頑丈《がんじょう》な人間なので致命傷《ちめいしょう》にはならなかった。
その間にナギは間合いを取る。
「こ、これ以上やるなら、もっと痛い目に遭《あ》いますよ?」
脅《おど》しも兼《か》ねてナギは彼にそう告げた。
が、しかし、
「くっ……奇妙《きみょう》な力を使いおって……」
ここで負けるわけにはいかない――そんな表情でガリムは立ち上がった。
「うっ……」
こちらとしては気絶《きぜつ》してくれるだけで良いのだが、とても頑丈な彼はなかなか気絶などしてくれそうもなかった……。
「私は貴様《きさま》を必ず捕《と》らえるのだ――っ!」
声を掛り上げて気合をいれたガリムは、再びナギへ挑《いど》んできた。スコップなど恐《おそ》るるに足らずといった感じだ。
ダメだ。この人は倒《たお》せません。
ナギは一瞬《いっしゅん》でそう判断《はんだん》すると、ガリムに背《せ》を向けて走り出した。
これ以上、彼と戦いたくない……。
「逃《に》げるな――っ!」
「来ないでくださ――いっ!」
ナギはベルをしまい、必死になって街中へ逃げ出した……。
一方、その頃、神名はお店の開店|準備《じゅんび》を終え、店の前を掃除《そうじ》していた。
今日も天気がいいなぁ、とか思いながら、ほうきを持つ手を動かす。
道の掃除が終わったら次は入口付近。店の入口のすぐ横は、ウッドデッキのテラスになっていて、二つ置かれているテーブルも綺麗《きれい》にふきあげる。
「よし、こんなもんだろ」
家の掃除はあまりやらないが、店の掃除はきっちりやる。もちろん掃除だけでなく、店内の仕事はすべて完壁《かんペき》と言えるレベルでこなす――お金のためにも。
「神名ー、今日も張り切ってるなー」
店の奥《おく》からそう声をかけてきたのは如月《きさらぎ》達也という、この店の店長の息子《むすこ》さんだ。
とても人当たりの良い人で、少し長くなった髪《かみ》を無《む》造作《ぞうさ》ヘアにした美青年といった感じだ。見た目は中肉|中背《ちゅうぜい》だが、その腕力《わんりょく》は神名より上。
彼は高校を卒業して、そのまま実家に就職《しゅうしょく》し、今年で二十歳《はたち》になる。
今、この店には彼と神名しかいない。店長は今日も営業《えいぎょう》のため外出中だった。お得意様が来るからということで呼《よ》び出されたのは、店長が不在《ふざい》だということもあったからだろう。
そうなると余計《よけい》に言いにくいのだが、
「あー、すみません、達也さん。そのことなんですけど……」
「ん? なんだ?」
神名は今日、できるだけ早くナギの所へ行かねばならない。
だが達也は神名を横目に、店内に入れていた植木をいくつか外に運び出しながら、花の状態を確《たし》かめていた。お得意さんが来るというので、いつも以上に念入りにチェックしているようだった。
仕事に一生|懸命《けんめい》――それを見て、神名は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
せめて、そのお得意さんという人が来てからにしよう――そう思い直し、
「いえ……そういえば、お得意さんって、誰なんです?」
神名は掃除の手を休めることなく、達也に聞いた。
「ん? あぁ、普段《ふだん》は電話で注文してくるだけなんだけとな、今日はじきじきに店に来るって電話があって……会ったら絶対、驚くぞ、お前」
ニヤリと達也は笑った。
へぇー、そうなんですかー、と普段の神名なら言い返すところだが、急に嫌《いや》な予感がした……。会ったら驚くということは、神名の知り合いということか……?
「だ、誰なんです?」
恐《おそ》る恐る神名は聞いた。
「もうじき来るって。楽しみにしとけ」
自分の嫌な予感はほぼ的中する……そう思っている神名は、楽しみにどころか不安で仕方がない。
そしてその人は、それから数分もしないうちにやって来た。
長い漆黒《しっこく》のリムジンに乗り、運転手がドアを開けると、真っ白な両足を揃《そろ》えて彼女は地面に降《お》り立った。
深瀬沙耶架――彼女は長い髪をそよ風に揺《ゆ》らし、肩《かた》にかかった髪をさらりと左手で払《はら》いのけると、入口にいた達也に向かって微笑《ほほえ》んだ。
「こんにちは、如月さん」
「こんにちは。ご来店、ありがとうございます。お元気そうでなにより」
達也は彼女に敬語《けいご》を使ってはいるものの、どこか友達感覚で接《せっ》しているように見えた。沙耶架もそれを気にした様子はなく、「ええ、ありがとう」と笑って応《こた》える。
「さっそくだけど……今度また、家でホームパーティーを開くことにしたの。部屋中を花でいっぱいにしたいんだけど、頼《たの》めるかしら?」
「この前と同じような感じでいいですか?」
「ええ。それと、いらっしゃったお客様お一人ずつに花束を持って帰っていただきたいの。それ用に、別に手配していただける?」
「はい、承《うけたまわ》ります」
「あと、今から数本もらうから」
「かしこまりました。ごゆっくりお選びください」
達也はにっこり笑って沙耶架を店内へ促《うなが》すと、発注のために奥《おく》へ引っ込んでしまう。
沙耶架は入口にあった花を見てから、店内に入ろうとして――神名と目が合った。
「よ、よう」
「なっ!?」
完全に予想外。沙耶架は「どうしてあなたがここにいるのよ!?」と顔に書いてあるような表情《ひょうじょう》を浮《う》かべた。だが、すぐに平静を装《よそお》い、
「わ、私の予想を上回る動きね、天倉くん……まさか私の今日の行動を把握《はあく》し、この店に先回りしているなんて……」
平然そうな顔をしているが、沙耶架は明らかに悔《くや》しそうな様子だった。彼女がどんな風に神名たちのことを予測《よそく》し、行動しているか知らないが、どうやら神名たちは彼女の予想の一歩先を動いているらしい。
単なる偶然《ぐうぜん》だが。
「そんなプロの諜報《ちょうほう》部員みたいな行動ができるか! これを見ろ、これを」
神名はそう言って自分の服装《ふくそう》を指差した。
黒のニットにカッターシャツとジーンズ。さらにその上から黒いエプロンを着け、彼の右手にはほうきが握《にぎ》られている。
「……ええっと……珍《めずら》しく料理をしてみようかなぁ、と思った最中、急に花を家に飾《かざ》りたくなって、ほうきを片手《かたて》に飛び出してきちゃった……状態《じょうたい》?」
「そんな不可解《ふかかい》な奴《やつ》がこの世にいるかっ!」
「だって、それ以外に考えられないでしょ!?」
「バイトしてるんだよ、ここの! ここは俺《おれ》のバイト先っ!」
「似合《にあ》わないわよっ!」
「うるさいっ!」
二人でそう騒《さわ》いでいると、リムジンからライルも姿《すがた》を現《あらわ》した。
「天倉神名っ! まさか我々《われわれ》の行動を読んでいたのかっ!?」
今日の予定は外部に全く漏《も》れていないはず、と思っていたライルは、神名がここにいることにかなり驚《おどろ》いているようだった。
あー、うっとうしい奴も一緒《いっしょ》か……と思いつつ、神名は彼にも沙耶架と同様の説明をする。
「だから、俺はここでバイトしてるだけだ。お前たちと会ったのは偶然だよ」
「ふっ、ガリムからすでに報告は受けているぞ……お前たちは二手に分かれて我々を追っている、とな……」
「わ、わざわざ会社も見張《みは》らせていたのか……」
「自宅《じたく》ですもの。当然でしょ?」
「え!? 自宅!? あの会社が!?」
「最上階から下、三階分は私の家よ。知っているんでしょう?」
「あぁ……なんてこった……」
そんなこと知るわけがない。
これでもナギにばかり苦労させるのは悪いと思い、楽な計画を立てたつもりだったのだが……。
「どうだ、神名。ビックリだろ? 同級生のお得意さんだぞ?」
奥から戻《もど》ってきた達也は、神名と沙耶架が話しているのを見てそう言った。
「は、はぁ……確《たし》かに驚きましたけど……」
「ええ、とーっても驚いたわ……」
沙耶架はじっと神名を見つめている。彼女の後ろに立つライルも同様だ。
不思議な雰囲気《ふんいき》を感じ取り、達也は神名の耳元でぼそっと聞いてみた。
「……お前たちって、どういう関係だ?」
「追う者と追われる者の関係です」
達也はそれを聞き、沙耶架たちをちらっと見てから、
「……お前が追われる方か」
「いえ、本当は逆《ぎゃく》なんですけど、見た目はそう見えますね、確かに……」
「神名、深瀬さんを怒《おこ》らせたら減給《げんきゅう》な」
「ええ!?」
「いい機会だろー。ぱっぱと殴《なぐ》られて、仲直りしてこい」
「達也さんの中で俺たちがどんな関係として解釈《かいしゃく》されたのか知りませんけど、あれに殴られるのだけは遠慮《えんりょ》します」
神名の視線《しせん》がライルを捕《と》らえる。
だが、達也は「問題ない」と話を続けた。
「何のために、俺がお前に<<あれ>>を教えてると思ってるんだ。余裕《よゆう》でかわせるだろ? あとは素早《すばや》く反撃《はんげき》だ」
神名が時折見せる特殊《とくしゅ》な動き。それはこの達也から教わったものだ。
「いやいや、さっきと言ってることが違《ちが》ってません?」
「俺はやられろとは言ってない。拳《こぶし》と拳で語り合い、仲直りしてこいって言ってるんだ」
「あんな奴と仲良くなるつもりはありません」
「そうすれば深瀬さんも少しは怒《いか》りが静まると思うんだけどなぁ……」
それは無理、と神名は達也の提案《ていあん》を却下《きゃっか》した。
「まぁ、いいや。じゃあ、深瀬さんのことは任《まか》せたからな」
「え!? 達也さんが相手してくださいよ!」
「これも仕事だそ、神名。がんばれ!」
達也はそう言ってスタスタと店の奥《おく》へ。
仕事だ、深瀬さんを怒らせたら減給な、と言われれば神名はやるしかない。
だが神名はさらにあることに気づいてハッとなった。
達也に言われた通り、自分はしっかり仕事をしなくてはならない。沙耶架のご機嫌《きげん》を取りつつ、売り上げを伸《の》ばすのが使命だ。しかし、空のどこかでイリスがこちらを見ているかもしれない以上、神名は彼女を殺すふりをしなくてはならないのだ。
ご機嫌を取りつつ、彼女を殺すふり。
「絶対《ぜったい》、無理っ」
「何が無理なのよ?」
「うわっ!? いきなり背後《はいご》に現れるな!」
飛びのくように沙耶架から離《はな》れ、神名は間合いを取った。
対する沙郡架は不機嫌そうに腕《うで》を組みながら、神名を睨《にら》んでいる。
「まったく、何を考えているのか知らないけど……はい」
沙耶架は二十本ほど花を選び、神名に渡《わた》した。
「……発注かけといて、まだ買うのかよ」
「悪いの? あなたはそれを売るのが仕事でしょう。包んで」
「わ、わかった」
言われるがまま、神名は受け取った花を束にするため店内へ。入口付近で沙耶架を待たせ、レジのあるカウンターまで行くと、達也が「花をよこせ」と合図してきた。代わりにティーポットとティーカップを渡される。
「中身はレモンバーべナだ」
この店では、花を買ってくれたお客様にハーブティーを出すことにしている。今日は別のハーブだったはずだが、お得意様の沙耶架に合わせてか、違うものが中に入っていた。名前の通りレモンに似た香《かお》りがして、鎮静《ちんせい》効果《こうか》もあるハーブだ。
「とりあえず落ち着いてもらって、ちょっと話でもして来い」
彼なりに気を利《き》かせてくれたようで、笑いながらそう言ってくれた。
「……達也さん」
「なんだ?」
「一時的に仮死《かし》状態《じょうたい》にするハーブってないんですか?」
「それはハーブじゃなくて毒草だろうが。アホなこと言ってないで、さっさと行けっ」
「はい」
すごすごと神名はハーブティーを運ぶ。外は少し寒かったが、沙耶架はテラスにあるイスに座《すわ》っていたので、そちらに運ぶ。テラスはウッドデッキになっていて、神名の足音が響《ひび》く。ライルは少し離れた場所から神名の動きを監視《かんし》していた。
「どうぞ」
神名はテーブルの上にカップを置き、ハーブティーを注ぐ。
「……注ぎ方、上手《うま》いわね」
それを見た沙耶架がぽつりと感想を述《の》べた。
「そうか? 普通《ふつう》だと思うぞ……いつもと同じだし」
「なるほど……一応《いちおう》、お客さんに接《せっ》するようにしてくれているわけね」
「お前との関係がどうであれ、今はこの店のお客さんだからな……仕事はきっちりやる」
「それはどうも……いい香りね」
神名の入れてくれたハーブティーを手に取り、そっと口に運ぶ。さすがお嬢様《じょうさま》というか、その仕草はどこか気品を感じさせた。だが、飲もうとしてピタリと止める。
「……毒とか入ってないわよね?」
沙耶架は訝《いぶか》しげにこちらを見上げた。
「そんなわけあるか。仕事はきっちりやるって言っただろ?」
「死神の仕事ってことじゃないの?」
「おぉ、よくわかったな」
それを聞き、沙耶架はティーカップを地面に向かって傾《かたむ》けた。
「待て、待て! 捨《す》てるな! 冗談《じょうだん》だって!」
「本当でしょうね?」
「ほんとだって。そのハーブティーは達也さんが特別に入れてくれたんだぞ?」
「そうなの?」
「そうだ。だから味わって飲め」
そう言うと、まだ少し疑《うたが》ってはいたが、彼女はカップに口をつけた。するとまろやかな舌触《したざわ》りと、香り、そしてその温かさが身体を暖《あたた》めてくれる。しばし無言でその味を堪能《たんのう》した後、彼女はこちらに顔を向けた。
「美味《おい》しいわ」
「だろ? じゃ、ごゆっくり」
そう言って店内に戻《もど》ろうとした神名を、沙耶架はエプロンの端《はし》を掴《つか》んで止めた。
「待ちなさい。一人でお茶を飲ませる気? 少し相手をしていきなさい」
「なんで俺がお前の相手をするんだよ。あそこにいるだろ、丁度いいのが」
神名がすっとライルを指差す。
「ライルは進んで話しかけてきたりしないんですもの。こちらの話に頷《うなず》くだけじゃ、つまらないでしょう?」
「知るか」
「あー、そう。私、花を買うのをやめようかしら」
「ご一緒《いっしょ》させてください」
「あら、そう? じゃあ、そこに座りなさい」
悪びれた様子は微塵《みじん》も見せず、彼女はイスに座るよう命令した。仕事中なので神名もゆっくりするわけにはいかないが、少しだけなら大丈夫《だいじょうぶ》だろうと仕方なく彼女の言葉に従《したが》った。
白く丸いテーブルに四つのイス。
二人は向かい合うようにして座った。
「ここでのバイトは長いのかしら?」
「高校に入ってすぐ始めたからな……もう少しで二年になる」
「なるほど……一人|暮《ぐ》らしをしているんですって?」
「誰《だれ》から聞いたんだよ」
「調べたのよ。いろいろと雇《やと》ってね……当然でしょう?」
「なんて奴だ……」
沙耶架の方がよっぽど、どこかの諜報《ちょうほう》部員のような動きをしている。
神名の皮肉を込《こ》めた言葉をさらっと聞き流し、彼女はさらに聞いた。
「ありがと。それで……随分《ずいぷん》とお金を貯《た》めようとしているみたいだけど、何のためにバイトしているの?」
日頃の彼が極力、出費を抑《おさ》えようとしているのは明白だ。
神名は沙耶架の目を見ながら、親指を立てて返答した。
「遊ぶため」
「嘘《うそ》ね。小川《おがわ》くんだったかしら? 彼に話を聞いた限《かぎ》り、あなたは貯めたお金をほとんと使わずにいるそうじゃない」
(ゆ、祐司《ゆうじ》めー、余計《よけい》なことを……)
いつの間に沙耶架が祐司と話をしたのか知らないが、言わなくてもいいことを沙耶架に話してくれたようだ。
「実は、俺には借金があって――」
「そんな情報《じょうほう》は出てこなかったわ」
「調べるなよ、そんなことまで!」
一体、どうやって調べたのか知らないが、神名のことをいろいろと調べているのは本当らしい……。
「……どうして、そんなことを聞くんだよ?」
「ちょっと気になっていたのよね、随分前から……必死に皆勤賞《かいきんしょう》を取るためにがんばって、土日もバイトして、出費も抑えてお金を貯めている……どうしてそんなにお金にこだわるのかしら……ってね」
「えーっとだな……」
どうやってごまかすかなぁと考えながら沙耶架を横目で見ると「さっさと言いなさい。じゃないと私、花は買わないわよ?」と目で訴《うった》えてくる。
「はぁ……後悔《こうかい》することになるぞ?」
「昨日と同じ台詞《せりふ》ね。構《かま》わないわ」
どうせたいしたことではないだろうと思い、沙耶架はそう言った。
すると神名は静かに口を開き、
「……ダイヤの指輪をプレゼントする、って約束した人がいる」
「……えっ」
「その人との約束を守るために、俺はお金を貯めているんだ。もちろん生活費を稼《かせ》ぐっていう理由もあるけどな」
神名は親の反対を押《お》し切ってこの街に残ることを選んだ。祐司や、昔からの友達と離《はな》れるのが嫌《いや》だったのもあるが、思い出の多いこの街を離れたくなかった。その分、生活費などはできるだけ自分でどうにかしようと決めたのだ。
真剣《しんけん》な表情の神名に、沙耶架は戸惑《とまど》いながらも、無理やり不敵《ふてき》な笑《え》みを見せた。
「へ、へぇ……すごいじゃない。その人にその指輪をプレゼントして、プロポーズしようと考えている、とか?」
「昔はな……でも、五年も前に死んじまったんだ、その人は……」
「え?」
神名はゆっくりと空を見上げた。両腕《りょううで》をダラリと伸《の》ばし、遠く、上を見つめる。
沙耶架はその話に言葉を失い、カップをテーブルに置いた。
「それでも俺は……いつか、その人の墓前《ぼぜん》に供《そな》えに行けたらって……そう思ってる」
嘘偽《うそいつわ》りなく、神名は本当にそう考えていた。もともとバイトを始めたきっかけもそれが理由だった。
彼は上を見つめたまま、それを最後に話すのをやめる……。
沙耶架はうつむき、黙《だま》ってカップの中を覗《のぞ》いていたが、
「……ごめんなさい」
少し間を空けて、静かにそう言った。
「余計なことを……聞いたわ……」
「いや……話したのは俺だからな」
「でも、私が強要したわ」
彼女は神名に詰《つ》め寄《よ》ってそう言った。こんなことなら神名に「お前が話せって言ったからだろ!?」と怒鳴《どな》られた方がマシだ――そんな顔をしていた。
「いいや……こんな話を俺からするなんて珍《めずら》しいよ。きっと、心のどっかで誰かに聞いて欲《ほ》しかったんだろ……気にするな」
「で、でも――」
沙耶架はそれでは納得《なっとく》がいかないと、と目で訴えてくる。
「だったら、今度はこっちか聞いてもいいか?」
「……え?」
「仕事。大変そうだよな……深瀬って」
神名にはハーブティーがないので、ティーポットを弄《もてあそ》びながら呟《つぶや》いた。
たった数日、彼女の行動を見ただけだが、その生活パターンはかなり不《ふ》規則《きそく》だった。
学校に部活、生徒会。そして仕事……。
その中でも特に、沙耶架は仕事を中心にその日のスケジュールを決めているような気がする。
「家の仕事、儲《もう》かってるんだろうな……」
「……まぁ、ね」
すると沙耶架はいつもの不敵な笑みを取り戻《もど》し、両腕を組んだ。
その方が彼女らしい。
「儲かりすぎて、人手が足りないのか?」
「? どうしてそう思うのよ?」
「だって、この前は学校で仕事してただろ? わざわざ会社の人を呼んでまでして……お前が親父《おやじ》さんの仕事を手伝っているっていうのは聞いていたけど、そこまでして仕事の手伝いをしているのには、何か理由があるのかなーっと思ってさ」
沙耶架はその仕事が大好きで、自ら進んでやっている――そう考えるのが妥当《だとう》だが、どこか引っかかった。
「いろいろあるのよ、私にだって」
飲みかけだったハーブティーを口に運び、沙耶架は澄《す》ました顔でそう言った。
どこか話をはぐらかされたような気がしたが、神名はそれを追及せず、代わりにライルへ視線《しせん》を移《うつ》した。
「いろいろねぇ……そういえばお前たちって、どういう関係なんだ?」
ライルからは目を離さず、沙耶架に神名が問う。
「どうも、前から知り合いみたいだし……」
お金で雇《やと》われただけの傭兵《ようヘい》にしては、深瀬を守ろうとする様子は必死だ。彼女のことをお嬢様《じょうさま》と呼んでいることも気になる。
気づかれたか――そんな顔して、沙耶架はそれに答えた。
「……ライルたちとは、私の祖父《そふ》がまだ健在《けんざい》だった頃《ころ》からの付き合いなのよ」
苦笑《くしょう》するように沙耶架がライルに笑いかけようとすると、
「あれはもう随分《ずいぶん》、前の話になりますな……」
「うわっ」
いつの間にかライルは側《そば》に寄ってきていた。
「我々《われわれ》は十年程前に一度、お嬢様のおじい様に当たられる総一郎《そういちろう》様という方に、ボディーガードとして雇われ、契約《けいやく》を結んだことがあるのだ」
「そ、そうなのか?」
「うむ。総一郎様にはずいぶんと良くしていただいたのだが……総一郎様はそれからすぐに亡《な》くなられてしまい……総一郎様と契約を結んでいた我々は、その時点で契約が終了《しゅうりょう》して中東に帰ることになったのだ……」
ライルはその総一郎という人物を慕《した》っていたようで、昔を思い出すと悲しそうな表情《ひょうじょう》を浮《う》かべた。
神名と沙耶架は黙ってその話に耳を傾《かたむ》ける。
「それから数年が経《た》ち、中東を転々としていた我々に、沙耶架お嬢様から連絡《れんらく》があったのだ……我々を再《ふたた》び、ボディーガードとして雇いたい、とな……総一郎様には契約以上に良くしていただいた。その恩《おん》を返すためにも、我々は喜んで日本へとやって来たのだ」
「あー、なるほど……」
沙耶架のことは昔から知っていたわけだ。それなら彼らが沙耶架をお嬢様と呼んでいるのにも頷《うなず》ける。
「お嬢様に呼ばれ、日本で再会《さいかい》したときは驚《おどろ》いた……昔は私の腰《こし》ほどまでしかない小さな少女だったが、こんなに立派《りっぱ》になられて……」
「ちょ、ちょっとライル」
沙耶架が照れるようにして、その話をやめるよう促《うなが》す。
「ですが、我々を泣きながら見送ってくれた少女が、仁王《におう》立《だ》ちで不敵《ふてき》に笑いながら迎《むか》えてくれるとは夢《ゆめ》にも思わなかったので……」
「ラーイールっ!」
「はっ、余計《よけい》なことを口にしました」
その話を聞いた神名は、ライルの言った場面を想像《そうぞう》してみる……なぜか、すぐに思い浮かんだ。
「なんだか、すごいな……深瀬って」
「ふんっ、当然だろう。沙耶架お嬢様はこの歳《とし》ですでに、会社の経営《けいえい》を半分以上、任《まか》されているお方なのだからな!」
まるで自分のことのように胸《むね》を張《は》ってそう言ったライル。
へぇー、そうなのかぁ……と感心するように神名も納得《なっとく》しようとして――
「いや、待て。なんだそりゃ? 確《たし》かに経営に携《たずさ》わっているって話は聞いたけど、半分以上って……」
神名が驚《おどろ》いて沙耶架を見ると、彼女は眉《まゆ》をひそめてライルに視線を送った。
「申しわけございません。口を滑《すべ》らせました」
「次は食事|抜《ぬ》きにするわよ、ライル」
「はっ」
沙耶架が神名を見ると、彼はまだ驚いたように目を見開き、「そうなのか?」と首をかしげている。
はぁ、と溜息《ためいき》をつき、仕方なく彼女は口を開いた。
「まぁ、いいわ……ライルの言う通りよ」
「言う通りって……なんでお前がそんなことしてるんだ?」
「早い話が、その才能《さいのう》があったからよ……私の会社は祖父である総一郎おじい様が設立《せつりつ》した会社なのだけれど……おじい様が体調を崩《くず》してからは、お父様が会社を引き継《つ》ぐことになったわ。でも……」
情《なさ》けない話だけど、と彼女は続けた。
「お父様には経営の才能がなかったのよね……とても優《やさ》しい人なのだけれど、会社は傾く一方で……仕方なく取締《とりしまり》役会が補助《ほじょ》に回ったわ……でもそのとき思ったのよ。経営を助けてくれた人たちは信用していた。けれど、私が誰よりもお父様の助けになりたいって――何よりそれが、おじい様との約束だったから」
沙耶架は普通《ふつう》の高校生から見ればとても無理なようなことを言ってのけた。
だが、手始めに沙耶架は父親の陰《かげ》から様々な提案《ていあん》をしていった。こうしてみればいいのではないか? ああすればもっと良いと思う、と。そのための勉強を沙耶架は怠《おこた》らなかったし、そうするうちに経営|方針《ほうしん》の転換《てんかん》や他|企業《きぎょう》の買収《ばいしゅう》、企業の拡大《かくだい》などに的確《てきかく》なアドバイスが言えるようになり、そのすべてが成功していった。
取締役会は沙耶架の能力を認《みと》め、会社の経営に陰ながら携われるようにしてくれた。沙耶架が成人したら、会社の経営|権《けん》はほぼすべて彼女に移《うつ》ることになっている。
それほどまでに、沙耶架は優秀《ゆうしゅう》な経営者としての能力を持っていた。
「株主《かぶぬし》を納得させるのは大変だったけどね……こうして今では事実上、私が半分ほど経営に携わっているというわけよ……お母様はもとより経営の知識《ちしき》がないし……家族のためにも、私はがんばらないといけないの」
沙耶架は腕《うで》を組み、神名と目を合わせる。
安部《あべ》とのやり取りから、それが真実だということが神名にはわかった。
「それに私には夢がある。いえ、夢というより野望かしらね……この会社を世界有数の企業にして、<<深瀬グループ>>の名を世界中に轟《とどろ》かせてみせる……もちろん、私がそのトップになってね」
そう言った沙耶架の目は決意と信念に満ちていた。
必ず実現《じつげん》してみせるという強い意志《いし》と、生きることへの執念《しゅうねん》。
「私の代わりはいない。だから私は死ねないわ……家族のためにも、そして、私自身のためにもね」
それが、沙耶架の生きる理由。
神名は初めて深瀬沙耶架という人物と向き合ったような気がした。
強く、気高く、自分の信じる道を真《ま》っ直《す》ぐ進んでいく少女。
「私の話も、ここで終わりよ」
彼女はカップに残っていたハーブティーを静かに飲み干《ほ》し、立ち上がる。
「帰るわ」
「……そうか。レジは店内。さっきの花もそこだ」
言われるまま沙耶架がレジに向かおうとすると、中から花束を持った達也が現《あらわ》れた。
「お、ちょうど良かった。こちらになります」
沙耶架は達也の差し出した花を受け取る。代金はカードで、発注した分と一緒《いっしょ》に払《はら》うことになっている。
「ありがとう……あ、そうだ如月さん。さっきの注文に追加をお願いできるかしら?」
「ええ、できますけど……」
すると沙耶架は一度だけ神名を見てから、
「彼がそれだけじゃ足りないだろう、って……私もそう思ったので、五十本ほど追加をお願いしますわ」
「え? あ、ありがとうございます」
「ええ、それでは……また来ます」
沙耶架はそのまま店を出て、ライルとリムジンに乗り込むと帰って行った。
それを見送った達也は神名のところへ戻《もど》ってきて、
「よくやった、神名!」
「あ、ははは……」
達也はそう言って神名の仕事ぶりを褒《ほ》めてくれたが、神名はどこか浮《う》かない顔だった。
今すぐにでも沙耶架を追わなければならない――それはわかっていたが、神名は達也に何も言わずに仕事を続けることにした。
もちろん、仕事ぶりを褒められたからではない。
沙耶架の話を聞いた神名は、改めて考え、迷《まよ》っていた――沙耶架をどうにか助ける方法はないのだろうか? そして、何も方法がなかったとき、自分はどうするべきか、を。
夕方、バイトを終えて帰宅した神名は、真っ直ぐリビングへ向かった。
ガリムが会社に潜《ひそ》んでいたと聞いたので、ナギはきっと死にそうな顔をしているに違《ちが》いない――そう思ってドアを開けると、
「あ、神名くん。お帰りなさい」
いつもの彼女に迎《むか》えられた。
「あれ?」
「はい? どうかしましたか?」
思ったより元気そうにしているナギを不思議に思いながら、神名はテーブルを挟《はさ》んだナギの反対側――食卓《しょくたく》のイスに座《すわ》った。
「例の傭兵《ようへい》と戦ってたんじゃないのか?」
「あれ? どうして知っているんです?」
「深瀬が俺《おれ》のバイト先に来たんだ、偶然《ぐうぜん》な……もう、くたくただ……お前もそうだろうなぁと思ってたんだけど……?」
「それがですね、聞いてください」
ナギはそう言うと、クスッと笑って今日一日のことを話し始めた。
「初めは傭兵さんと戦って、隙《すき》をついては逃《に》げ回っていたんですけど、その途中《とちゅう》でお腹《なか》はすくし、ずーっと追いかけられ続けて疲《つか》れ果ててしまったのです……」
ナギの予想通り、ガリムとの間には決定的な体力差があった。
数時間前。
逃げても、逃げても、彼は平然とした顔で追ってきた。このまま逃げ続けるのは不可能《ふかのう》だと思った矢先、ナギはついに捕《つか》まってしまったのだった……。
「お願いです。ここから出してくださーい」
ガリムに捕まったナギは沙耶架の自宅《じたく》の一室――の中に作った、ライオン用の檻《おり》の中に入れられていた。
「こんな檻に入れるなんてひどいです〜」
「黙《だま》れ。天倉神名を捕まえるまでの辛抱《しんぼう》だ」
「神名くんが捕まったら出られるんですか?」
「いや、檻の中にあいつも入れる」
「うわっ、ひどい……」
そう言ったナギを無視《むし》し、ガリムは遅《おそ》くなった昼食を取ることにした。沙耶架たち家族の料理を作るためのシェフが、ここには常駐《じょうちゅう》している。そのシェフに頼《たの》んだ、最高級の肉のステーキ。三人分はあろうかという量をガリムは一人で食べていた。すごい速さでもくもくと胃の中に押《お》し込んでいく。
「あ、あのー、私も食べたいです……」
それを見ていたナギは、お腹を押さえながら彼に空腹《くうふく》を訴《うった》えた。朝はほどほど、昼は何も食べていない。その上で街中を走らされれば、どんな人でも腹《はら》が減《へ》る。
だがそれを聞いたガリムは鼻で笑い飛ばした。
「ふん、お前に食べさせる料理はない。もっとも、そこから出られたら食わせてやってもいいがな……」
そう言いながら、一際《ひときわ》大きな肉切れを口に放り込む。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、男と男の約束だ」
「私、女の子ですけど……まぁ、いいです。じゃあ私、ここから出ることにします」
ナギのその言葉を、ガリムはステーキから目を離《はな》さずに聞いていた。
「ふっ、バカめ。その檻はライオン用をさらに強靭《きょうじん》にしたものだ。さっきのスコップだかスプーンだかわからない武器《ぶき》があったとしても、その檻は壊《こわ》せん」
こと、衝撃《しょうげき》に対しては強く作ってある。
ガリムはもう一口、肉を食べようとしたが……。
「えいっ」
そんな声がして、ふいにナギの方を向いた。
すると彼女が、どこからか取り出した<<ベル・フィナル>>をナイフの形にし、檻をスパッと両断《りょうだん》してしまうところだった。
「な、なんだ、それは!? 一体、どこから!?」
唖然《あぜん》としながら、ガリムは肉を床《ゆか》に落とした。
「これは<<すべてを切り分ける>>ナイフです。さぁ、約束通り私の好きなものを食べさせてくださいね!」
彼女が持っているナイフは、ガリムがステーキを食べるために使っているナイフを巨大《きょだい》にしたものに似《に》ていた。
「そ、そんなものがあるなら、初めから出られたのでは……?」
「私、チョコ・パフェが食べたいですっ!」
彼の言葉を聞き流し、ナギは自分の要求を素早《すばや》く伝えた。彼女の目は飢《う》えたライオンのように鋭《するど》い光を放っている……。
「うっ……な、なんて眼《め》をしてやがる……」
ガリムは知らないうちに一歩下がってしまった。それほどまでに今のナギはすごい。
「チョーコーパーフェ〜」
こちらに向かってナギが歩いてくる。両手で巨大なナイフを持ち、ゆっくり近づいてくる姿《すがた》が逆《ぎゃく》に怖《こわ》い。
「し、仕方がない……シェフ! チョコレート・パフェを用意してやってくれ!」
長年、紛争《ふんそう》地域《ちいき》で戦ってきたガリムも、彼女の異様《いよう》な気配に思わずチョコ・パフェを注文した。
檻から脱走《だっそう》した空腹《くうふく》のライオンを、どうやって素手で捕まえるか……そんな光景を連想させるように、ナギとガリムはじりじりと間合いを取り合う。
「お腹《なか》……すきました」
「ま、待て! すぐに来る!」
「ほんとに……すぐですか?」
「お、お前もレディーだろう!? イスに座《すわ》って静かに待て!」
テーブルを挟《はさ》んで対峙《たいじ》する両者。
そこへチョコ・パフェを持ってシェフが現《あらわ》れた。
「こちらになります」
「うわぁ………っ!」
大きなグラスに高級感あふれるフルーツが添《そ》えられたチョコ・パフェ。チョコレートもたっぷりで、生クリームが一番上にちょこんと乗り、アーモンドを砕《くだ》いたものがまぶしてある。見ているだけでよだれが出そうな、実に美味《おい》しそうなチョコ・パフェだった。
「た、食べていいですか!?」
「い、いいだろう」
それを聞き、ナギは嬉《うれ》しそうにテーブルに着くと、ベルを傍《かたわ》らに置いて、銀のスプーンを手に取った。
「では、いただきまーす!」
「隙《すき》あり――っ!」
ナギがベルを手放したところを見計らい、ガリムはどこからか取り出したロープでナギをぐるぐる巻《ま》きにして拘束《こうそく》した。そのままナギはずるずる引きずられ、新しく用意した檻《おり》に入れられる。
「ふぅ、世話のかかる奴《やつ》だ……今度はあの武器もない。大人しくしているんだぞ?」
そう言ってガリムは食事に戻《もど》る。
すると、
「ぐすっ……ぐすっ……」
後ろからすすり泣くような声が聞こえて、彼は振《ふ》り返った。
ナギは檻の中で、床に座り込むようにして瞳《ひとみ》に涙《なみだ》を浮《う》かべていた。
「私……私、お腹がすいているだけなのに……ぐすっ……目の前にあるチョコ・パフェも食べさせてもらえないなんて……」
それを見たガリムは汗《あせ》を浮かべながら後退《こうたい》した。
泣かせてしまった……こ、こんな時は一体どうすればいいのか? 脳《のう》みそをフル回転させても解決策《かいけつさく》は浮かんでこない。
その間にナギのすすり泣く声は続く。
先ほどのシェフも、じとーっとした視線《しせん》でこちらを窺《うかが》っている……。
するとガリムは額《ひたい》にどっと汗を浮かべながらナギに近づき、
「ワ、ワタシ、ニホンゴワカリマセーン」
妙《みょう》な口調でそう言った。
「さっきまで普通《ふつう》に会話していたじゃないですか――っ!」
その対応《たいおう》はないだろー、とシェフも陰《かげ》でぼそっと呟《つぶや》く。
「私、午後はウインドーショッピンクの予定だったんです……なのに、こんな檻に入れられて……うっ、うう」
「わ、わかった! わかったから泣くな! あのチョコ・パフェはちゃんと食べさせてやるから!」
そう言ったガリムはナギを檻から出し、仕方なさそうにスプーンを彼女に手渡《てわた》したのだった……。
話は戻《もど》り、神名の家。
「と、いうわけで、今はお腹いっぱいです」
「何やってんだ、お前は……」
もう何と答えていいのやら、呆《あき》れてしまって神名には言葉がない。
しかも彼女はさらに嬉しそうに、一|枚《まい》のワンピースを取り出した。
「それにですね。これ、見てください。前から欲《ほ》しかった洋服も、傭兵《ようへい》さんに買ってもらいましたー」
「本当に何やってんだ、お前は!?」
「ウインドーショッピングです」
「買ったらウインドーショッピングとは言わないだろーが!」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。私、お金は一円も出してないです」
「なんて恐《おそ》ろしい奴なんだ……」
きっと今頃《いまごろ》、あの傭兵たちも同じようなことを思っているだろうなぁ、と思いながら神名は疲《つか》れた表情《ひょうじょう》を見せた。
『おい、神名……疲れたのはわかるが、そろそろ深瀬沙耶架をどうするか、具体的に考えなくていいのか?』
ベルの言っていることは正しい。
イリスから言われた期限《きげん》は明日なのだ。
もちろん神名はそれを覚えていたが、彼は沙耶架の話を聞き、考えさせられていた。
彼女の家庭事情、そして生きる理由、そのための彼女の強い意志《いし》。家族のために、そして何より自分のために彼女は生きている。
それを知った上で、沙耶架の前に立つことに、改めて神名は戸惑《とまど》いを感じていたのだ。
「……期限は明日まで、か……」
イリスから言い渡された三日間という期日は迫《せま》っている。それまでに彼女を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻さねば、自分たちは死ぬことになる……。
彼女を元の輪廻に戻すふりをして、この間に彼女を救う方法を考える――そう決めたものの、具体的な案は何一つないのが現状《げんじょう》だ……。
「何か……何か方法はないのか……?」
沙耶架を殺さず、ソウル・イレギュラーではなくす方法……だが、もとよりそんな方法があるなら、神名自身にやっている。
「深瀬さんとイリス様で、直接《ちょくせつ》、問題を解決してもらうのはどうですか?」
ふと、ナギが一つ提案《ていあん》した。
だが、
「深瀬には鎌《かま》がない。瞬殺《しゅんさつ》されるぞ?」
「ち、違《ちが》いますよー。あくまで話し合いで決着をつけるんです!」
神名はその案を深く考察してみた。ナギの案を実行するためには、イリスに沙耶架と会ってもらわなければならないのだが……。
「……無理だな。それを実行に移《うつ》すってことは、俺たちは任務《にんむ》放棄《ほうき》と受け取られる可能性《かのうせい》が高い」
「うっ、そうですね……」
その上、あのイリスが話し合いだけで見逃《みのが》してくれるとは思えない。
今度は神名が一つの案を思いついた。
「なぁ、要は深瀬が死んだことにすればいいんだろ? 大々的にあいつの葬式《そうしき》をするっていうのはどうだ?」
「無理ですよー。魂《たましい》の管理局にある、ソウル・イレギュラーのリストから名前が消えない限《かぎ》り、深瀬さんは死んだことになりません」
「むぅ……」
神名もナギも、真剣《しんけん》にその方法を模索《もさく》するが、良い案は思いつかない……。
「ベルちゃん、何か方法はないんですか?」
隣《となり》に座《すわ》らせた自分の鎌に、ナギは話しかけた。
だが、ベルは当然のように任務|遂行《すいこう》を促《うなが》す。
『ないな。深瀬沙耶架を殺す、これが最善《さいぜん》の選択《せんたく》だ……知っていると思うが、お前たちがやらなくても、結局は後任の死神がやるだけなんだぞ?』
「そ、そんなのダメです!」
『無理言うな。それがあの女の運命だ』
ナギはイスから立ち上がって言ったが、ベルの言葉に力なくうな垂《だ》れる。
今の沙耶架とは命をかけた関係だが、それがなければきっと良い友達になれると思う。
そのために少しでも何かしたいとナギは思っている。
「それでも私は……っ」
と、ナギは軽い眩暈《めまい》を覚えてテーブルに手をついた。
「っ? お、おい、大丈夫か?」
普通ではないその様子に、神名も思わず立ち上がった。
最近の彼女はどこか様子がおかしかったが、今は明らかに顔色も悪い。
「やっぱり無理してたのか……?」
朝は微熱《びねつ》があるとも言っていた。
「い、いえ……大丈夫です」
ナギはそう言ったが、とてもそうは思えなかった。
「……今日はもう帰って寝《ね》ろ」
「え? で、でも……」
「何か方法がないか、俺が考える……いいから明日に備《そな》えて今日は寝ろ」
このままここにいても良い方法が思いつくとは限《かぎ》らない。
それならば明日に備えて、体調を万全《ばんぜん》にしておいてもらいたい……何も思いつかず、沙耶架に対して何もできなかったら……最悪の場合、もう一度、イリスと戦うぐらいのことはしなくてはならない。
ナギにもそれは分かっていたので、少し躊躇《ためら》ったが……神名に従《したが》うことにした。
「はい……でも、夕食は作ってから帰りますね」
「無理するなって」
少し強めに、彼がそう言う。
「いいえ。これだけはやって帰ります」
彼女はそう答えるとエプロンを手に取った。
「本当に、大丈夫なのか?」
「はい。今はそれより……深瀬さんのことを考えましょう」
ナギはこちらに向かって微笑《ほほえ》むと、台所に立った。
神名はそんな彼女を一目見て、再《ふたた》び思考を戻《もど》す。
確《たし》かに、今はとにかく沙耶架をどうにかするための方法を考えなければならない。
「絶対《ぜったい》に……絶対に何か方法があるはずだ……」
諦《あきら》めない。
自分とナギが生き残り、沙耶架も死なせない――その方法を何としても考え出すのだ。
だが、神名もナギ同様に疲《つか》れているし、傭兵《ようへい》たちと戦うときはいつも精神《せいしん》を張《は》り詰《つ》めさせている。その上、学校やバイトもあるので疲れは倍増《ばいぞう》していた。明日もバイトがあったが、達也に無理を言って休ませてもらった。
神名から「休ませて欲《ほ》しい」と言うと、達也は「珍《めずら》しいな!」と驚《おどろ》いていたが、今日は突然《とつぜん》無理を言ってバイトに出てもらったし、何より売り上げも伸《の》ばしてくれたから、と彼は笑って休みをくれた。
その厚意《こうい》を無駄《むだ》にしないためにも、まだがんばらなくてはならない。
そう思って神名が顔を上げると、
「こんばんは」
豊《ゆた》かな胸《むね》を覗《のぞ》かせる漆黒《しっこく》の服を着た女性《じょせい》が、いつの間にか目の前に座っていた。
「元気がないわね?」
「なっ!?」
イリスが何故《なぜ》かそこにいた。
心臓《しんぞう》が飛び出しそうになるほど驚いた神名は、慌《あわ》てて彼女から離《はな》れようとして、イスごと後ろにひっくり返った。
「うわっ!? うわああ――っ!?」
後頭部を打って危《あや》うく死にそうになりながら、神名はなんとかそこから立ち上がる。
「イ、イリス!?」
「勝手にお邪魔《じゃま》させてもらったわ」
「……まったく気配がなかったぞ……玄関《げんかん》から来たのか?」
「ええ。玄関のカギが開いてなかったら、窓《まど》を叩《たた》き割《わ》って入るつもりだったけどね……」
「それはやめろ」
どうやら家のチャイムを鳴らすという選択肢《せんたくし》は彼女の中にないらしい。
窓ガラスが一|枚《まい》いくらすると思っているのだろう……。
「で、何しに来たんだ?」
「様子を見に、ね……」
イリスが意味ありげに微笑む。
明日が最後。そう言いたいのだろう。
「……お前の言いたいことはわかってる……」
「そう? だったら良いのだけれど……」
彼女は神名たちの仕事ぶりを疑《うたが》っているような目を向けてくる。まぁ、ここでチョコレート・パフェにされないということは、何とかまだ猶予《ゆうよ》があるということだ。
神名と向かい合っていたイリスは、その視線《しせん》を台所にいるナギへ向けた。彼女はしばらくナギの顔を見つめていたが、ふいに神名へ戻し、
「ナギはいつもあなたの食事を作っているの?」
突然、話の内容《ないよう》を変えた。
「え? あ、ああ……」
「新婚《しんこん》夫婦《ふうふ》みたいね」
「うるさい……あいつの作った料理は美味《うま》いんだぞ?」
「そうなの?……じゃあ、食べて行こうかしら」
『やめておけ、イリス。地獄《じごく》を見るぞ……』
ベルは食事をしている人から触れてもらえば、その味を感じることができる。だがそのせいで日ごろから神名たちに無理やりナギの料理を味わわせられているため、声を微《かす》かに震《ふる》わせながらそう言った。
「なにが地獄だ。天国に行けるほど美味いって」
睨《にら》みながらベルの言葉を否定《ひてい》する神名。
今日の献立《こんだて》は聞いていないが、台所からテンポ良く具材を切る音が聞こえてくる。最近は毎日聞いているが、この音が不思議と食欲《しょくよく》を湧《わ》かせるのだ。
イリスが来たのは予想外だが、お腹《なか》が脹《ふく》れれば、何か良い案が浮《う》かぶかもしれないそう思っていると、台所から聞こえていた音のリズムが、急に遅《おそ》くなってピタリと止《や》んだ。
もう切り終わったのかと、少し気になって台所を振《ふ》り返る。
「ナギ?」
彼女は目を閉《と》じていた。
それを神名が不審《ふしん》に思った瞬間《しゅんかん》、彼女の体かふらっと揺《ゆ》れて、持っていた包丁がまな板の上に落ちた。ナギはそのままバタッと音を立て、床に吸《す》い込《こ》まれるように倒《たお》れ込む。
「っ!? ナギ!? おい、どうしたんだ!?」
神名は何が起こったのかわからず、ナギの元へ駆《か》け寄《よ》った。慌てて抱《だ》き起こすと、彼女の顔が赤みを帯びていたので、思わず額《ひたい》に手を当てる。
「熱? しかもかなり熱いぞ……」
するとイリスもナギに近寄った。
「とにかくソファーへ」
「あ、ああ」
神名はナギを抱きかかえ、イリスに言われるままソファーに寝《ね》かせた。
ナギはどう見ても苦しそうで、熱にうなされていた。
「どうして倒れたんだ? ……そんなにひどい風邪《かぜ》だったのか、ベル?」
『残念だが、私は人間の病気は専門外《せんもんがい》だ』
「だったら、まずは冷やすものを……いや、病院に連れて行ったほうがいいか? タクシーか、いや救急車を呼《よ》んだ方が早い」
神名は突然のことに、珍しく混乱《こんらん》していた。
「落ち着きなさい」
そんな彼をイリスが止め、ナギの額に手を当てた。
「確《たし》かに熱が高いわ」
ナギの様子を見るイリスは、すっとその眉《まゆ》をひそめる。
「おい、どうなんだ?」
「待ちなさい。まずは彼女を移動《いどう》させるわよ、あなたのベッドへね。それからタオルと水を持ってきて」
「あ、ああ……」
どうにか落ち着きを取り戻《もど》そうとした神名だったが、そのときの彼は、イリスの言葉に黙《だま》って頷《うなず》くことしかできなかった……。
[#改ページ]
   報告書・4 俺《おれ》は、ただ――
高熱を出して倒れてしまったナギの看病《かんびょう》は、翌朝《よくあさ》まで続いた。
だが彼女を襲《おそ》っている熱は一向に下がる気配がない……。
高熱が続き、苦しそうに眠《ねむ》るナギの横で、イリスは何やらずっとナギの様子を窺《うかが》っていた。
神名《じんな》はナギの額のタオルを代えてやることしかできず、焦《あせ》りと苛立《いらだ》ちを滲《にじ》ませながらイリスに聞く。
「なぁ、どうなっているんだ?」
その質問《しつもん》にイリスは答えず、黙ってナギを見つめている。
神名はこの質問を、もう何回も繰り返し聞いている。だが、そのたびにイリスは無言のままだ。
「おいっ、いい加減《かげん》に教えてくれよ!」
「騒《さわ》がないで」
ようやく口を開いた彼女は、静かにするようにと視線を向けてきた。
だが納得《なっとく》できないという表情《ひょうじょう》をしている神名に気づくと、仕方なくナギの現状《げんじょう》を話し始めた。
「……この高熱の原因《げんいん》は風邪じゃない。確かなことは言えないけれど……これはおそらく魂《たましい》と肉体の間に起こっている拒絶《きょぜつ》反応《はんのう》よ」
「拒絶反応だって?」
その意味はわかる。
だが、どうしてナギがそんな症状《しょうじょう》に襲われているのかがわからなかった。
「ナギの魂はあなたの力で死神から人へと戻った……それはいいわね?」
神名は頷く。彼が<<エカルラート>>を変化させたドリルによって、ナギは輪廻《りんね》を逆向《ぎゃくむ》きに回され、人に戻ったのだ。
「けれど、今のナギの肉体はそのまま……ソウル・イレギュラーの器《うつわ》として創《つく》られた死神の身体《からだ》なのよ」
「それって問題なのか?」
「どうやらね……ソウル・イレギュラーの器として創られた身体に、人の魂……それが拒絶反応として表れ、こうやって高熱を発しているのよ……」
ナギの身体を調べたイリスは、そう推測《すいそく》した。
「どうすればいいんだ? 治るんだろ?」
「……ええ、とりあえず今の段階《だんかい》で治す方法は二つ……でも……」
「な、なんだよ?」
言い知れぬ予感に、神名は身構《みがま》えていた。イリスがこちらに向ける視線に、微《かす》かな迷《まよ》いと躊躇《ためら》いが見える。
だが、彼女はその重たい口を開いた。
「ナギの状態《じょうたい》を改善《かいぜん》するには、魂と肉体のバランスを取るしかないわ……まず一つ目の方法は、ナギの身体を本来の身体に戻すこと……」
「ほ、本来の身体って……」
それは人間の、という意味だった。
ナギの本来の身体――小川《おがわ》千夏《ちなつ》としての身体だ。
「そんなの無理だ。千夏姉さんはもう……」
すでに死んでいる。小川千夏の肉体は、五年も前にこの世からなくなっているのだ。
神名はその方法を諦《あきら》め、二つ目に望みをかけた。
「……もう一つの方法は?」
「その逆よ。魂を、肉体に合わせる……」
魂を、ソウル・イレギュラーの器として創られた身体に合わせること。だがそれを聞いた神名はすぐにその意味を悟《さと》った。
「俺に、こいつを殺せって言うのか……?」
「それしか方法がないわ」
小川千夏としての運命を取り戻したナギがここで死ねば、彼女は再《ふたた》び<<生きるはずだった人間>>としてソウル・イレギュラーになるだろう。そうすれば確かに、魂と肉体のバランスは取れる。だが、
「そんなこと、できるわけがないだろ!?」
自分にナギを殺すことなどできるわけがない。それでは助けられなかったのと同じだ。
「……それに、ここでこいつが死んだら――」
「<<ナギ>>という存在《そんざい》はいなくなるでしょうね……」
<<生きるはずだった人間>>は死んで天使になる際《さい》、人だった頃《ころ》の記憶《きおく》をほとんど失ってしまう。
「ナギが死んで、また天使になったとしても彼女には記憶がない。このまま放っておいても、直《じき》に高熱に耐《た》えられなくなって彼女は死ぬ。そして、記憶を失い、天使になる……」
「それじゃあ、俺はこいつに何もしてやれないじゃないか!」
「高熱に苦しみながら死んでいくのよ? 彼女は……せめて、それを早く終わらせてあげることはできる……」
「バカ言うな! 俺は、ただ――」
神名は眠るナギを見つめ、どうしようもなく呟《つぶや》いた。
「……ただ、生きていて欲《ほ》しいだけなんだ……」
こんなことのために、彼女を生き返らせたわけではない。
ぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》る神名に、イリスは告げた。
「……あなたがナギにしたことは前例のないことだった……どんな結末が待っていても不思議じゃない……あなたも、その覚悟《かくご》はしていたはずよ」
これ以上は何もできない。そう思ったイリスはナギの側《そば》から立ち上がった。
「……どこに行くんだ?」
「帰るわ……一応《いちおう》、ナギを救えるかどうか、方法を探《さが》してみる……けれど、当てにはしないでね」
そう言って彼女は神名の後ろを通り、部屋のドアノブに手をかけた。しかしそこで一度、神名を振《ふ》り返り、
「それと……あなたたちの任務《にんむ》は続いているわ。それを忘《わす》れないで……」
イリスは最後にそう言って家を出て行った。
神名の残された道――今日中に沙耶架《さやか》を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻《もど》し、ナギの命を奪《うば》う。そんな絶望的な道しか自分には残されていないというのか……。
『神名……』
ずっと黙《だま》っていたベルが、彼の名を呼《よ》んだ。
『こんなときだが……深瀬《ふかせ》沙耶架の輪廻を、正常に戻しに行こう……』
「っ!」
神名はナギから視線《しせん》を外さず、その言葉にビクッと肩《かた》を動かした。
確《たし》かにこのままでは神名も死ぬ運命だ。
だが、どうしてこんなときに、そんな簡単《かんたん》に沙耶架を殺せと言えるのか――睨《にら》むつもりでベルを見ようとしたが、ナギの鎌《かま》は小さな声で話を続けた。
『私はな、神名……これでもお前たちに生きて欲しいと思っているんだ……』
「……ベル……」
『封印《ふういん》を解《と》かれ、久《ひさ》しぶりに主《あるじ》を持った……二人の人物から別々にだったがな……。その二人が同時にいなくなるのは……正直、私も悲しい』
ベルは心の奥底《おくそこ》からそう思っていた。
普段《ふだん》は口喧嘩《くちげんか》ばかりだが、これでもベルは神名を主として認《みと》めているつもりだ。彼らは一度だけだが、<<ヴァールリーベ>>を使いこなしてみせたのだから……。
『お前は昔のナギと約束したのだろう? 彼女の分も生きる、と。その約束を守るべきだと私は思う』
「…………」
『生きろ、神名……私たちの主はお前たちだけだ。その代わりはいないと思っている』
「……代わりはいない、か」
このまま沙耶架を元の輪廻に戻しに行くしかないのか……。
そういえば彼女もベルと同じようなことを言っていた。
私の代わりはいない……だから死ねない、と。
神名はその言葉を思い出しながら、ゆっくりと立ち上がった。ナギを救うにしても、沙耶架のことを片付《かたづ》けなければ、どちらにせよ死ぬことになる。
「待って……ください……」
「っ、気が付いたのか……」
神名が行こうとしたとき、ナギは目を開いて彼の服の裾《すそ》を掴《つか》んだ。神名はナギの隣《となり》に座《すわ》りなおし、彼女の声に耳を傾《かたむ》ける。
「深瀬さんのところに……行くんですか……?」
「……今、迷《まよ》ってる」
そう言うとナギは熱で辛《つら》いだろうに、眉《まゆ》をひそめて怒《おこ》ってみせた。
「……ダメですよ……そんなの」
諭《さと》すような、微《かす》かな声。
「でも、このままじゃ、お前も俺も――」
「私……まだ、死にたくないです……」
ナギは神名の服を掴む力を、ぎゅっと強めた。
「だけと……誰《だれ》かを犠牲《ぎせい》にしてまで、生きたいとは思いません……」
「……俺は――」
「神名くんになら……できますよ、きっと……深瀬さんがこのまま生きて、神名くんも生き残れるように……」
ナギがそう言った言葉の中に、彼女は入っていなかった。
神名がそのことについて口を開こうとすると、
「神名くん……元気になったら、チョコ・パフェを食べに行きたいです……」
彼女はそう言って笑った。
だから神名もあえてそれ以上は何も聞かず、
「……ああ、わかった。約束だ」
珍《めずら》しく彼女と指きりをした。
「約束……ですか?」
「俺は、約束は必ず守るぞ」
「ふふっ……じゃあ、期待せずに待ってます」
ぎゅっと小指に力を入れ、その言葉とは裏腹《うらはら》に「絶対《ぜったい》にですよ?」という顔で握《にぎ》ってくる。
誰かを犠牲にしてまで、生きたいとは思わない――ナギはそう言った。
私の代わりはいない、と沙耶架は言った。
そして自分には何ができるだろうかと、神名は改めて考えてみる。
誰も死なせない。誰も殺さない。その信念を曲げずに、どこまでやれるのか……。
「……っ。待てよ――」
そう思ったとき、唐突《とうとつ》に神名は一つの突破《とっぱ》口《こう》を思いついた。
「そうか……代わりはいない……いないんだったら……」
「神名、くん……?」
ナギがベッドから彼を見上げると、先ほどまでの沈《しず》んだ表情《ひょうじょう》から、何かを決意した表情に変わっていた。
「待ってろ、ナギ……」
神名はそう言うと部屋を飛び出した。
向かう先は沙耶架の家。
彼は自転車に乗ると、黒い雲の広がる下を猛《もう》スピードで走り出した。
沙耶架は自宅《じたく》の窓《まど》から空を見上げていた。
「雨……か」
見つめる先には雨雲が街を覆《おお》うように広がっていて、まるで霧《きり》のように見えるほど激《はげ》しく降《ふ》っている。
「今日は夜まで雨、という話です」
「そう……」
ライルの情報《じょうほう》を聞いた沙耶架は、彼の方を一度だけ向いて、視線《しせん》を再《ふたた》び窓の外へ。
ガラス張《ば》りになったその窓に手を当て、上を、そして下を見下ろす。
「雨が降っていても、天倉《あまくら》くんたちは来るのかしら?」
「彼らのことです、雨ごとき、何とも思わないでしょう」
「……まぁ、そうよね」
「ですが、ご安心を。いつ何時、奴《やつ》らが来ようと、我々《われわれ》がお嬢様《じょうさま》をお守りいたします」
「ええ、そうね」
沙耶架は二人のことを信頼《しんらい》しているし、彼らは「守る」と言ったらそうしてくれるだろうとも信じている。
「しかし、いつまでこのような状況《じょうきょう》が続くのでしょうか……?」
ライルに代わり、今度はガリムがそう呟《つぶや》いた。
「いつまでも後手に回っていては、事態《じたい》は解決《かいけつ》しないのでは?」
確かにガリムの言う通りかもしれない、と沙耶架は振り返らずに思った。
こちらは一応《いちおう》、追われる立場だ。神名たちが沙耶架の命を狙《ねら》っているのだから当然なのだが、こう毎日続いては気も滅入《めい》る。
「でも、任務《にんむ》に失敗するとチョコレート・パフェにされるって言っていたわ……ということは、彼らには期日か何かがあると思うのよね……」
「それを待つ……と?」
「日数によるけれと……事を荒立《あらだ》てないようにするには、それがベストだと思うわ。それまで耐《た》えれば、あっちは自滅《じめつ》してしまうんだから……」
神名たちが自分の命を狙っているからといって、こちらも同じ方法で対応するわけにはいかない。
それに、彼らの行動の仕方も少し気になっていた……。
「でも、今日は会社もお休みだし……せめてゆっくり過ごしたいところよね……」
両親はどこかへ出かけてしまったが、沙耶架は天気の悪い日に外へ出ようとは思えず、家でゆったり過《す》ごそうと考えていた。
そのとき、電話が鳴った。外線ではなく内線|専用《せんよう》の電話だ。
沙耶架がそちらに目をやると、彼女の代わりにガリムが受話器を取る。
「五十階、リビングだ」
電話は一階のロビーからで、用件《ようけん》は短く端的《たんてき》だった。
「……了解《りょうかい》。お嬢様、来客だそうです」
ロビーからの連絡《れんらく》を受けたガリムは、沙耶架に来客を知らせた。
「客だと?」
むっとライルが眉間《みけん》にしわを寄《よ》せる。
「天倉くん……?」
なぜか、沙耶架はそう思った。
会社は休みで、来客の予定もない。だとすると、ここへ来るのは神名とナギぐらいだ。
「……ライル、行くぞ」
「うむ。お嬢様はここでお待ちください」
ライルはそう言うと、ガリムと共に部屋を出て行った。
残された沙耶架は一人、
「そう言われてもね……気になるじゃない」
腕《うで》を組み、さて、どうしたものかと頭を悩《なや》ませた。
その頃《ころ》、一階のロビーでは受付に座《すわ》っていた女性《じょせい》が来客の応対をしていた。会社は休みだが、それでも仕事をしている者はいるし、一応、深瀬家の玄関《げんかん》でもあるため、昼間の受付には常《つね》に人がいる。
「深瀬はいるんだな?」
ビルに入ってきたのは、沙耶架の予感通り神名だった。
「お嬢様でしたら、今日はまだ外出されておりませんが――」
「じゃあ、いるってことだな?」
それだけわかればいい、と神名はすぐ近くにあったエレベーターへ。
「あ、ちょっと! 困《こま》ります!」
受付の女性が神名を呼《よ》び止めようとするが、彼はさっさとエレベーターに乗り込もうとする。そのとき、
「天倉様」
前から現《あらわ》れた男性と目が合った。
「っ……確《たし》か、安部《あべ》さん……」
「はい。覚えていていただけましたか……ですが今日、こちらへいらっしゃる予定はなかったと思いますが……?」
彼はそう言いながら、神名の後ろに立っていた受付の女性に
「ここはいいから」と目配せをする。
神名は受付の女性が一礼して離《はな》れていくのを気配で感じながら、安部を真《ま》っ直《す》ぐ見つめた。
「急用なんだ……今すぐ、深瀬に会わないといけない」
「お嬢様《じょうさま》がライルさんたちを日本へ呼んだことと、それは何か関係があるのですか?」
それを聞かれるとは思っていなかったので、少し意表を突かれた神名だったが、表情を変えることなく静かに頷《うなず》いた。
「そうですか……」
「通してくれないのか?」
「……私たち社員一同は、お嬢様をお慕《した》いしております。そして我《わ》が社は今、お嬢様のお力|添《ぞ》えで全国に、世界にその腕を広げようとしている最中……我々にはなくてはならないお方なのです」
つまり、沙耶架には会わせない――そういう意味だと神名は解釈《かいしゃく》した。だが、
「あえて、天倉様がここへ何をしにいらっしゃったのかは聞きません……ですが、私はこれでも人を見る目は確かだと思っております」
安部はすっと通路の脇《わき》に避《よ》け、神名に道を譲《ゆず》った。
「あなたはお嬢様を傷《きず》つけるような人ではありません」
彼はそう言ってエレベーターのボタンを押《お》し、扉《とびら》を開けた。
「……いいのか?」
「あのときも言いましたね? お嬢様をよろしく頼《たの》みます、と……」
「……すみません」
ありがとう。そう答えたかったのだが、今の神名にはそれを口にすることができなかった。エレベーターのドアが閉《し》まり、安部の顔が向こうに消える。
ナギの話によると、沙耶架の住んでいる自宅《じたく》部分は、四十八階から上の三階分。神名はそこまで一気に上がるつもりだったが、エレベーターの階層《かいそう》を指定するボタンは、四十七階までしかなかった。
「すんなり行かせてはくれないか……」
とりあえず、神名は四十七階のボタンを押した。するとエレベーターはすごい速度で上昇《じょうしょう》していく。中はガラス張《ば》りで、階層が上がるにつれて街を見下ろす景色が広がっていく。
こんな高い場所から、この街を見たことがない。
「そろそろか……」
エレベーターの速度が徐々《じょじょ》に遅《おそ》くなり、目的の階層が近づく。 眺《なが》めていた景色が止まると、四十七階に着いたことを電子音が教えてくれた。
ドアが自動で開く。
神名はその瞬間《しゅんかん》に身を低くするようにしゃがんだ。一瞬|遅《おく》れて、神名の顔があった場所に太い腕が伸びてくる。
その腕はライルの腕だった。攻撃《こうげき》されることを読んでいた神名に驚《おどろ》きながら、すかさず姿勢《しせい》を低くしている神名を捕《つか》まえようとするが、脇をすり抜《ぬ》けられ、エレベーターホールで向かい合う。
「ほう……まさか最初の一撃をかわすとはな……」
「ロビーに監視《かんし》カメラがあった。俺《おれ》にもう気づいているだろうとは思っていたからな。用心していただけだ」
「ふんっ、今日は一人なのか?」
「お前には関係ない。今日は急いでるんだ……どいてくれ」
「そうはいかん。私にもお嬢様をお守りするという使命がある。お前をみすみす通すことはできん」
「痛《いた》い目に遭《あ》うかもしれないぞ?」
「脅《おど》しか。我々《われわれ》には通用せん」
「……警告《けいこく》はした。後悔《こうかい》するなよっ」
立ちふさがるライルに向け、神名は迷《まよ》わず突っ込《こ》んだ。
まずは近づいて真っ直ぐに拳《こぶし》を放つ。それは簡単《かんたん》に受け止められ、ライルからお返しとばかりに腕を振《ふ》るわれる。神名は彼の攻撃から下がることなくすり抜け、密着《みっちゃく》すると肘《ひじ》を打ち込んだ。続けて裏拳《うらけん》を放ち、顔面を狙《ねら》う。
「そこまでだ!」
ライルとの戦闘《せんとう》に集中している神名の背後《はいご》から、突然《とつぜん》現れたがリムが蹴りを浴びせようと飛びかかった。一瞬早くそれに気づいた神名は、身体を横にずらして回避《かいひ》。そのままライルへ拳を入れる。
「むぅっ!?」
「ライル!」
慌《あわ》ててもう一度、ガリムが神名へ仕掛《しか》けると、彼はさらに避《よ》ける。
「ちっ!」
本当は受け止めて反撃したいところだが、彼の蹴りを受け止めるのはおそらく無理だ。
ガリムは攻撃の手を緩《ゆる》めず、今度は右足を狙って追撃してきたので、バク転をしながら避ける。だが着地を狙ってガリムが攻撃すると、その蹴りが伸びきったところで足を掴《つか》んだ。
「っ!」
ガリムが驚く。
神名は掴んだ足ごとガリムを引き寄《よ》せ、右手は彼の腹《はら》へ。まるでカウンターを食らったような衝撃《しょうげき》に、ガリムは地面に倒《たお》れこんだ。
「ぐっ!?」
倒れたガリムから、すぐさまライルへ視線《しせん》を戻《もど》す。
彼はこちらにラリアットをかけようと突っ込んできた。
「うおおぉぉ――っ!」
神名の首にその腕《うで》が迫《せま》ったとき、神名は上半身を反らして避けた。そのまま後ろへ倒れこむようにして転がり、立ち上がったかと思うと姿勢を低くし、ライルの足を蹴りで引っ掛ける。
「うおっ!?」
たまらず彼は仰向《あおむ》けに転倒《てんとう》し、その隙《すき》をついて神名はその場から走り出した。
おそらく、この階から上に行くための階段《かいだん》か何かがあるはずと踏《ふ》んだ神名は、とにかく闇雲《やみくも》に四十七階のフロアを走り回る。
だがなかなか見つからず、そうしているうちに前方からライルが現《あらわ》れた。引き返そうと後ろを見ると、そちらにはガリムが回り込んできた。
「そこまでだ、天倉神名」
「これで終わりだな!」
ガリムはそう言うと、懐《ふところ》から手榴弾《しゅりゅうだん》のようなものを取り出し、躊躇《ためら》わずにピンを抜くと神名へ投げつけた。
こちらに飛んでくるモスグリーンの缶《かん》。
だが、神名はそこで慌てなかった。右手から<<エカルラート>>を出現《しゅつげん》させ、フォークに変化させる。フォークに備《そな》わっている<<空間に突き刺さる>>能力《のうりょく》を発動させて、飛んできた手榴弾を捕《と》らえた。
「危《あぶ》ないだろうがっ!」
そう叫《さけ》びながら、神名はそのままガリムへ投げ返す。
「っ!?」
ハッとするガリムだったが、床《ゆか》に転がったそれはすぐに白いガスを噴出《ふんしゅつ》した。
その煙《けむり》の影響《えいきょう》か、かなり離《はな》れた位置にいたはずの神名も軽い眠気《ねむけ》に襲《おそ》われる。
「くっ……」
「今日は雨だからな……湿度《しつど》が高いとガスも空気中に拡散《かくさん》しやすい……どうだ、催眠《さいみん》ガスの威力《いりょく》は?」
背後からライルが不敵《ふてき》にそう言った。
「……このままだとお前たちも巻《ま》き添《ぞ》えだぞ?」
「我々《われわれ》にはある程度《ていど》、あのガスに対して耐性《たいせい》ができている。ちょっとやそっとでは影響を受けん」
するとその言葉を肯定《こうてい》するかのように、ガリムが平然とした顔で煙の中から現れた。
さすが傭兵《ようへい》というか、なんというか……「一体、どんな身体《からだ》だよ……」と思いなから神名はライルの方から突破《とっぱ》を試みた。
このままこの場所にいるのは危ない。
「ふっ、逃《に》がさん!」
すると前にいたライルも催眠ガスを取り出した。通路は一本。前と後ろのみ。彼は神名の目の前に催眠ガスを放《ほう》り投げた。すぐに煙は発せられ、神名は完全に煙の中に消えていった。
不用意にこちらの本拠地《ほんきょち》に突《つ》っ込んできた神名の負けだ、とライルはそう思った。
「後は煙が晴れるのを待ち、眠っている奴《やつ》を捕らえるだけ――」
そう言いかけて、彼は目の前の現象に我《わ》が目を疑《うたが》った。
通路を満たしたと思った催眠ガスが、突然、消えてしまったのだ。
「ふー、危なかったな……」
ガスの晴れた場所から、神名は不敵な笑みを浮かべて現れた。
「な、なぜだ! どうやって催眠ガスを……」
神名の後ろから、ガリムが心底、不思議そうに叫んだ。
だがライルは神名の右手に握《にぎ》られているものに気づく。
「なんだ、その棒《ぼう》は……」
神名が持っていたのは先ほどまでのフォークではなく、先が小さく平らになった棒状《ぼうじょう》のものだった。
神名はその質問《しつもん》に答えることを少し躊躇ったが、
「あー、これは耳かきだ……」
「み、耳かきだとっ?」
言われてみると、確《たし》かにそれは耳かきだった。フォークと同様、巨大《きょだい》な、という言葉を前に付けなければならないが……。
「……なるほど、よく理解《りかい》できないが、その棒の力というわけか」
「ああ……この耳かきは<<あらゆる汚《よご》れを取り除《のぞ》く>>能力を持っている。おかげで空気中の有害なガスを除去《じょきょ》できた……」
「でたらめな奴だな、貴様《きさま》は……」
「でたらめなのは俺じゃなくて、<<エカルラート>>なんだけとな……まぁ、いい。今度こそ通してもらう」
神名は<<エカルラート>>をそのままにして、前にいたライルに攻撃《こうげき》をしかけた。今の<<エカルラート>>に攻撃能力はない。ただの棒として、ライルに向かって振《ふ》り下ろす。彼にさっとそれを避《よ》けられてしまうが、神名にとってはそれで良かった。ライルが避け、通路が開けた隙を狙《ねら》って、彼の隣《となり》をすり抜《ぬ》ける。
「何っ!?」
すると神名はライルの後ろにあった通路を真《ま》っ直《す》ぐ走った。その先に、先ほどまでとは別のエレベーターがあることに気づいたのだ。
(沙耶架はあの先だな……)
そう確信《かくしん》し、神名はそのエレベーターに飛び乗った。すぐにドアを閉《し》めると、ライルたちの顔がそれに遮《さえぎ》られて消える。
階層《かいそう》を選ぶボタンはなかった。ドアが閉まると、エレベーターは自動的に上に向かう。
到着《とうちゃく》した先は四十八階。
そこは豪華《ごうか》なシャンデリアと明るい間接《かんせつ》照明に照らされた、広いロビーのような玄関《げんかん》だった。神名の部屋が四つは入るのではないかというスペースの玄関で、神名は思わず唖然《あぜん》としてしまう。
「なんて無駄《むだ》に広い、玄関なんだ……」
「天倉神名――っ!」
すると、玄関の端《はし》にあった扉《とびら》が開き、ライルとガリムが現れた。どうやらすぐ隣に階段《かいだん》もあったらしい。
「くそっ、もう来たのか……」
このままでは埒《らち》が明かない。
どうにかライルたちを動けないようにするしかないと思った、そのとき、
「待って、ライル。ガリムもそこで止まりなさい」
沙耶架がいつの間にか、木刀を片手《かたて》に玄関へ出てきていた。
彼女は余裕の表情で、左手を腰《こし》に当てながらライルたちにそう指示《しじ》を出し、顔をこちらに向けた。
「天倉くん、今日は天気も悪いし、会社もお休みだからゆっくりしたいのよね。明日、学校に行ってからにしてくれない?」
「悪いが、そんな暇《ひま》はないんだ」
どこか感情《かんじょう》を抑圧《よくあつ》したような声で、神名は静かに言う。
いつもとは違《ちが》う彼の様子に沙耶架は気づき、首をかしげた。
「……なんだか今日は真剣《しんけん》じゃない」
「今日が最後だからな」
すると彼女は「やっと解放されるのねー」と表情を崩《くず》したが、すぐに神名に視線《しせん》を戻《もど》すと眉《まゆ》をひそめた。
「最後、ね……まぁ、いいわ。結局、天倉くんは何がしたかったの?」
彼女の横に立つライルとガリムも同じような顔をしてこちらを見ていた。
「俺たちは死神だ」
「知っているわ。これでも今の私は信じているつもりよ。でも、私を殺しに来たって言うわりにはあんまり本気じゃなかったみたいだし……」
「気づいてたのか……」
「ライルが、あなたたちからは殺気が感じられないって言っていたから……なんとなく。だいたい、朝の九時から夕方五時までしか仕事しないってところが、一番|怪《あや》しかったわ」
「いや、それは本当なんだけどな」
「……うそ」
「本当だよ。俺たちがお前を元の輪廻《りんね》に戻さないと、チョコレート・パフェにされるのも本当の話だ。死神にだってな、いろいろあるんだよ……」
はぁ、と溜息《ためいき》をついて、改めて彼女に事の発端《ほったん》を話し始めた。
「……俺たちはイリスっていう死神の上司から、<<死ぬはずだった人間>>――ソウル・イレギュラーになったお前を殺すように言われた。俺たちに任務《にんむ》の拒否《きょひ》権《けん》はない。任務を達成するか、失敗してイリスにチョコ・パフェにされるか、そのどちらかしかない……」
「それで私を殺しに来た、と……」
「ああ。でも……俺たちにはできなかった……」
沙耶架の目を見ながらそう言い、神名は話を続ける。
「だから俺たちは、お前を殺すふりをしなから、お前を殺さずに済《す》む方法を探《さが》していたんだ……」
「……見つかったの? その方法は……」
すると神名は静かに瞳《ひとみ》を閉《と》じ、ぐっと表情を引き締《し》めると目を開けた。同時に<<エカルラート>>を構《かま》える。
その様子にライルとガリムも身構えた。
「……見つからなかったのね」
「いや、一つだけ方法を思いついた……お前から、<<死ぬ運命>>そのものを取り除《のぞ》くんだ」
「……<<死ぬ運命>>を取り除くですって?」
沙耶架は半信|半疑《はんぎ》でその言葉に耳を傾《かたむ》けた。
「ああ……俺の考えた通りなら、それでお前は死ぬ必要がなくなるはずだ。でも……」
「でも?」
神名はそこでもう一度、自分の考えを思い返し、
「――確実じゃない。<<死ぬ運命>>を取り除くなんて、たぶん誰《だれ》もやったことがないだろうから……もしかしたら、その行為《こうい》自体で、お前が死ぬかもしれない……」
するとライルが沙耶架の前に立った。
「ならば、お前の提案《ていあん》は受け入れられん」
「そうだな……お嬢様《じょうさま》の命に関《かか》わるというのなら、そんなことはさせん。お嬢様は我々《われわれ》にとっても大切な存在《そんざい》なのだ」
ガリムもライルと同じように沙耶架の横に並《なら》び、神名を睨《にら》みつけた。
「協力はしてくれない、か……」
「無論《むろん》だ。我々はお嬢様を守る」
「じゃあ、これだけは言っておく。俺にとっては今日が最後だけど、深瀬にとっては違うんだ。俺が任務失敗になっても、お前が助かるわけじゃない。後任の死神がやって来て、俺たちと代わるだけだ」
「っ……」
神名の言葉に、沙耶架は微《かす》かに反応《はんのう》した。
「たぶん、そいつは容赦《ようしゃ》しない。お前の命を確実《かくじつ》に狙《ねら》ってくると思う……」
「だから何だ? 我々がお嬢様を守り続ければ良い!」
再《ふたた》び、ライルとガリムは神名に向かって拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。
同時に二人を相手にするのは無理だと判断《はんだん》し、神名は自らガリムの方へ接近《せっきん》した。耳かきになっている<<エカルラート>>をフォークにして振り下ろす。が、ガリムは足を蹴り上げて神名の<<エカルラート>>を弾《はじ》き飛ばした。
「なっ!」
くるくるっと宙《ちゅう》を舞《ま》い、<<エカルラート>>が神名の後方に飛ばされる。それを拾いに行く余裕《よゆう》はなく、ガリムはさらに連続蹴りで神名を攻《せ》め立てた。
だが、もともと神名は武器《ぶき》を使うのが得意ではない。彼が本領《ほんりょう》を発揮《はっき》するのは拳を握《にぎ》ったときだ。ガリムの足を素早《すばや》く避《よ》けて懐《ふところ》に入り込《こ》み、その拳をガリムの腹《はら》に叩《たた》き込む。
「っ!?」
だが、神名は手応《てごた》えのなさに驚《おどろ》いた。ガリムは当然ながら鍛《きた》え上げられた筋肉《きんにく》に覆《おお》われている。それもあったが、何より神名は自分が思っている以上に疲《つか》れていた。腕《うで》に力が入らない。
その隙《すき》をついて、ガリムは再度《さいど》攻撃《こうげき》に出た。慌《あわ》ててその攻撃をかわそうとする神名だったが、左肩《ひだりかた》にその蹴りが入る。
「くっ」
「どうした、天倉神名! 動きが鈍《にぷ》いぞ!?」
これだけ連続で攻撃されるのは辛《つら》い。神名が一度、ガリムから間合いを取ろうと離《はな》れた瞬間《しゅんかん》、
ドンッ!
横からライルに思いっきりタックルを食らわされ、壁《かべ》に当たるまで吹《ふ》き飛ばされた。痛《いた》みで声は出ない。とっさに頭だけは腕で守ったが、激《はげ》しく壁に打ち付けられ、神名は床《ゆか》に転がった。
「……油断《ゆだん》したな、天倉神名」
いつもの彼なら横からの攻撃にも気づいていただろう。だが自分のタックルをまともに受け、あれだけ壁に叩きつけられたなら、もう立てまい……ライルはそう思いながらもじっと神名を睨む。
すると、彼はゆっくり起き上がった。身体《からだ》を起こし、膝《ひざ》をついて立ち上がる。
「まだ立ち上がれたか……」
「……諦《あきら》めが悪いんでね」
神名のその目は死んでいなかった。まだやれる、と今すぐ攻撃に転じてくる気配を見せたので、ライルとガリムはさらに追い討《う》ちをかけようと接近した。
「待ちなさい!」
ライルが拳を振り上げ、神名の間合いに入ろうとしたとき、沙耶架が後ろから大声で呼《よ》び止めた。
「お嬢様?」
「下がりなさい、ライル、ガリム……」
そう言われ、二人がすっと脇《わき》に避けると、沙耶架は神名を見つめながら聞いた。
「ねぇ、どうして? どうして、あなたはそこまでがんばれるのかしら?」
心底、不思議そうに沙耶架は問う。
神名は沙耶架を正常《せいじょう》な輪廻《りんね》に戻《もど》すという任務《にんむ》に失敗すれば、チョコ・パフェにされてしまう。だが彼は、それがわかっていながら沙耶架を助ける道を選び、自ら考えた案を実行しようとしている。
ライルの言葉のように、後任の死神から沙耶架を守り続けるという選択肢《せんたくし》もあるはずだが、神名はそうしなかった。
それには何か理由があるはずだ、と沙耶架は思い、静かに神名の返答を待つ。
「ナギが……死にそうなんだ……」
神名は辛そうに左肩を押さえながら、その口を開いた。
「――俺《おれ》が何にも考えずに、あいつを生き返らせたから……今、苦しんでる」
その目には悲しみと、自分に対する怒《いか》りが宿っていた。
だが生き返らせたという言葉に、沙耶架は眉《まゆ》をひそめた。
「待って。どういうことなの……?」
「俺は……あいつを二度も死なせるわけにはいかないんだ」
「……二度?」
神名の言葉が理解《りかい》できず、沙耶架は困惑《こんわく》する。
二度――ということは、すでに一度死んでいることになる。
「……前にも話しただろ」
「っ……」
沙耶架はそこでようやく悟《さと》り、発しようとしていた言葉を飲み込んだ。
神名のバイト先に行ったとき、彼がこぼした言葉を思い出す。彼が守ろうとしている約束、死んでしまった女性《じょせい》がいること、そして彼が今言った言葉……。
「詳《くわ》しく一から話している暇《ひま》はない……けど、深瀬の<<死ぬ運命>>が俺には必要なんだ。それがあれば、ナギも助けられるかもしれない……」
「…………」
すると沙耶架は小さく溜息《ためいき》をつき、すっと目を閉《と》じた。そして再び目を開くと、彼女の目は昨日と同じ、決意に満ちた瞳《ひとみ》をしていた。
「そう……じゃあ、決着をつけましょう。勝った方の案を、負けた方が素直に受け入れる。これでどう?」
「お、お嬢様《じょうさま》!」
「手出しは無用よ、ライル。もともと、これは私と天倉くんたちとの問題ですもの……」
沙耶架は手にしていた木刀を神名に向けた。
「考えてみれば変よね……あなたは私を助けようとしてくれているのに、私たちはこうして刃《やいば》を交えようとしている……」
彼女の言葉を聞きながら、神名は<<エカルラート>>を拾い上げた。
「ああ……そうだな」
「でも、私はまだ死ねない。生きる確率《かくりつ》の高い方に賭《か》けたいの」
「だろうな……それが普通《ふつう》だ」
「覚悟《かくご》はいいかしら?」
「それは俺の台詞《せりふ》だ」
神名はおどけるような口調でそう言ったが、ふと表情《ひょうじょう》を引き締《し》めると前へ出た。同時に沙耶架も動き出して、木刀を神名に振り下ろす。その迷《まよ》いのない鋭《するど》い一撃を、神名は<<エカルラート>>で防《ふせ》いだ。
顔が十センチほどまで近づき、鍔迫《つばぜ》り合いのような状態《じょうたい》で互《たが》いの隙を窺《うかが》い合う。
「……初めて私があなたに皆勤賞《かいきんしょう》を渡《わた》したとき、あなたは私のこと、どう思った?」
沙耶架は木刀に力を込めながら、そう聞いてきた。
「……正直、嫌《いや》な奴《やつ》だって思った」
素直《すなお》に、神名はそのときの感想を述《の》べた。
「ふふっ、でしょうね……」
不敵《ふてき》に笑った彼女は女は、神名を突き飛ばすようにして離れる。が、間合いを取ることなく木刀を一閃《いっせん》し、続けて突く。それがフォークに弾《はじ》かれたのを確認《かくにん》しながら、神名の右手首を狙《ねら》って打ち下ろした。狙いは正確で、突きから連動するように繰り出された攻撃を、彼はかわせなかった。
「つっ!?」
危《あや》うく<<エカルラート>>を落としそうになるが、両手で握《にぎ》っていたのでそうはならなかった。左手で支《ささ》えながら一度、間合いを取る。
「今のは妙《みょう》なお弁当《べんとう》を食べさせられたお礼よ」
沙耶架はそう言いながら木刀を真《ま》っ直《す》ぐに構《かま》え直す。
神名たちと食堂で会った日、沙耶架はナギの作った豚《ぶた》の生姜《しょうが》焼きを食べ、さらにタコの形をしたウィンナーを食べて気絶《きぜつ》してしまったことを思い出す。
「……あれはお前が勝手に食べたんだろうが……」
「食べてみろって言ったのはあなたでしょう。おかげですごく気分が悪くなったわ……あなたたちの味覚が変だっていうのはわかったけどっ!」
しゃべりながら、沙耶架は追撃《ついげき》をかけた。
神名は右手の痛《いた》みを堪《こら》えながら、<<エカルラート>>を両手で持ち直す。
「そういえば次の日には教室までやって来て、入口で私のことを呼びつけたわよね!」
「ああするのが、一番手っ取り早いと思ったからな……」
沙耶架の攻撃《こうげき》が様々な方向からやって来る。
前に校舎《こうしゃ》の裏《うら》で戦ったときよりも、数段《すうだん》、動きが良く感じた。おそらく、あのときとは違《ちが》い、攻撃に迷いがないせいだろう。
「あれ以来、こっちは友達から『天倉くんと最近、仲いいよね』なんて勘《かん》ぐられて、困《こま》ってたのよ!?」
「うっ、そ、そうなんだ……」
いつも隣《となり》にはナギも一緒《いっしょ》にいたので、どうしてそんな話になったのかわからないが、噂話《うわさばなし》には尾《お》ひれ背《せ》びれが付くものだ。
「それで? なんて答えてたんだ?」
沙耶架の攻撃を巧《たく》みに防ぎ、あるいは弾き返しながら、そう聞いた。
すると、
「主人と下僕《げぼく》っ!」
「だから最近、二組の奴らが俺たちに妙な視線《しせん》を送ってたのか……」
神名は沙耶架の足を払《はら》うようにフォークを振《ふ》るった。だが、分かれたフォークの先端《せんたん》に逆手《さかて》で持ち直した木刀を差し込まれ、止められる。
神名は沙耶架を見ながら、
「もうちょっと違う言い方があるだろ……」
「あなたのおかげで安部さんには誤解《ごかい》されたままなのよ……? それぐらい、別にいいでしょう?」
書類やファイルを持ってきていた安部の言葉に、すらすらと答え、指示《しじ》を出す彼女の姿《すがた》はすごかった、と神名は思い出す。だが、
「それとこれとは話が別だ。俺たちだって、ライルがあっちもこっちもドアを壊《こわ》してくれたせいで、芹沢《せりざわ》さんに怒《おこ》られたんだぞ?」
沙耶架が木刀で袈裟斬《けさぎ》りしてくるのを見て、神名は下から<<エカルラート>>を振り上げる。互《たが》いの武器《ぶき》が激《はげ》しくぶつかり合い、二人は再《ふたた》び鍔迫り合いになった。
「でも、昨日はあなたのバイト先の売り上げを伸《の》ばしてあげたわ。しかも、あなたの株《かぶ》も上げてあげた」
「それは感謝《かんしゃ》してるよ。おかげで達也《たつや》さんも大喜びだったし……」
神名は沙耶架を押《お》し返し、力では勝てないと悟った彼女は後ろに下がった。
「ハーブティーも美味《おい》しかったわ」
「当然!」
後退《こうたい》した彼女に向かって、神名は<<エカルラート>>の<<空間に突き刺さる>>能力で、沙耶架を捕《と》らえる――つもりだったが、避《よ》けられる。神名の手を読んでいたのか、フォークを木刀で弾《はじ》くようなこともせず、ただ避けた。弾いていれば、間違いなく木刀ごと沙耶架は捕《つか》まっていた。
「ちっ!」
神名のフォークを避けた沙耶架は、自ら神名の間合いに飛び込んだ。木刀を両手で握りながら力を込める。
「これで終わりよ!」
最後の一撃。沙耶架はすべての力をこの一撃に託《たく》すつもりで、神名の腹《はら》を目掛《めが》けて横から振った。
その攻撃が当たるまでの瞬間《しゅんかん》――沙耶架はこの数日間が本当に忙《いそが》しかったと思った。
会社の仕事と学校を両立させようとがんばりながら、死神と名乗った二人とドタバタの四日間。初めはどうにも迷惑《めいわく》で、仕事と学校の両方の邪魔《じゃま》にしかならなかった。
だが、こうやって振り返ってみると、それはそれで充実《じゅうじつ》していたように思う。
その思いを胸《むね》にしまいながら、沙耶架は持っていた武器を振り切った。
だが、神名は<<エカルラート>>を縦《たて》にして両手で持ち、それを弾き返す。
「くっ!」
渾身《こんしん》の一撃だったからか、沙耶架の木刀を持つ手が痺《しび》れる。
それを沙耶架の表情《ひようじょう》から悟《さと》った神名は、彼女に向かって<<エカルラート>>を振り下ろした。その瞬間、神名もこの数日間のことを走馬《そうま》灯《とう》のように思い出す。ナギがこちらを見つめ、自分に言ったこと。先ほど道を空けてくれた安部の言葉……。
だがそれが、神名の隙《すき》になった。
沙耶架は神名の攻撃を紙一重《かみひとえ》でかわし、木刀を横にして神名の腹に打ち込《こ》む。
「っ」
その攻撃は完全に神名を捉《とら》えていた。
彼女が木刀を振り切ると、彼はゆっくりと倒《たお》れていく……。
「俺の……負けか……」
どさっと、仰向《あおむ》けに倒れる神名。
沙耶架は木刀を持っていた手を離《はな》し、すぐに彼の側《そば》に寄《よ》った。神名の顔を覗《のぞ》き込むようにして隣《となり》に座《すわ》る。
「どうして攻撃しなかったのよ……」
沙耶架は神名の攻撃を避けたが、そうしなくても彼は最後の攻撃を寸止《すんど》めしていた――と、そう感じた。
神名は仰向けの状態《じょうたい》のまま、静かに天井《てんじょう》を見つめ、
「あいつは……誰《だれ》かを犠牲《ぎせい》にしてまで生きたくない、って言っていたから……」
神名の「あいつ」が誰であるかは聞くまでもない。
沙耶架が神名の言葉に耳を傾《かたむ》けていると、
「それに安部さんからも……いろいろ言われたしな……」
と、口にした。
神名がやろうとしていたことは、あまりにも分が悪い賭《か》けだった。
沙耶架もナギも、助かるのかどうかわからない手段《しゅだん》だ……だがそれは、あくまで神名が両方とも助けたいと思ったすえの行動だった。
後悔《こうかい》はない……ただ、ナギは――
「結局、天倉くんは最後まで私に本気で挑《いど》んでこなかった……ってことよね」
神名がナギのことを考えていると、突然《とつぜん》、沙耶架はそう言ってふわりと笑顔《えがお》を見せた。
「?」
「信じるわ……あなたのこと」
沙耶架は神名へ、すっとその手を差し出した。
雨はまだ激《はげ》しく降《ふ》り続いていた。
空を黒い雲が覆《おお》い、窓《まど》からの景色はその激しい雨に遮《さえぎ》られている。
明かりの点《つ》いていない部屋の中で神名は静かに彼女の傍《かたわ》らに座っていた。
ただじっと黙《だま》って……ナギの隣にいた。
壁《かべ》にかかる時計は六時を指していた。
日も完全に暮れてしまい、雨の音だけが部屋の中に聞こえてくる。
「……着替《きが》えた方がいいわよ……」
唐突《とうとつ》に、背後《はいご》から話しかけられた。
神名は降りしきる雨の中を自転車で走り、全身ずぶ濡《ぬ》れだった。
「いや……このままでいい」
彼はイリスの言葉に振《ふ》り返ることなく、ナギを見つめていた。
「そう……」
イリスは部屋の中へと入ってきて、神名の背後に立った。そして後ろから彼を見下ろしながら、静かに告げる。
「初めに謝《あやま》っておくわ……ナギを救う方法は得られなかった……言い訳《わけ》に聞こえるかもしれないけど、時間があまりに少ないわ」
「……そうか」
「それと……深瀬沙耶架がソウル・イレギュラーのリストから消えたそうよ……こう言ってはなんだけど……よく、やれたわね……」
イリスは部下から受けた報告《ほうこく》を彼に伝えた。
リストから消えた。つまり、沙耶架は通常《つうじょう》の輪廻《りんね》に戻《もど》ったということだ。
死神としての仕事を、神名は全《まっと》うした。イリスがそう思っていると、彼は――ふっと小さく笑ってこちらに振り返った。
「深瀬は……殺せなかったよ」
「え?」
不可解《ふかかい》なことを言った神名に、思わずイリスは聞き返した。
「殺せなかったですって? でも、確《たし》かに深瀬沙耶架はリストから消えているわ」
「ああ。だろうな……原因《げんいん》はこいつだ」
神名は右手を掲《かか》げ、<<エカルラート>>を取り出した。
いつもの卵《たまご》のような状態ではなく、細い管のような形をしたそれは、先がさらに細く、後ろは大きく丸かった。
イリスはその形に見覚えがあったが、あえて神名に聞いた。
「な、何なの、それ?」
「スポイト」
神名は立ち上がり、イリスにそれを見せた。確かにそれは、どこからどう見ても巨大《きょだい》なスポイトだった。
「深瀬は死んだんじゃない……俺がこいつで<<死ぬ運命>>そのものを吸《す》い取った」
「吸い取った……?」
その信じられない言葉を、イリスは心の中で反芻《はんすう》した。
彼の話が本当なら、沙耶架は元の輪廻に戻ったわけではなく、新しい輪廻を回り始めたことになる。だが、
「……無駄《むだ》よ。<<死ぬ運命>>は消せない……おそらく、じきに深瀬沙耶架に戻るわ」
<<死ぬ運命>>は消せない。
しかし、それはすでに神名もわかっていた。
「ああ。深瀬から吸い取ったとき、何となくそれは理解できた。<<死ぬ運命>>は消せない。でも、今回はそれで良かったんだ」
「?」
「こいつに必要だったから……」
そう言って神名がナギを見る。
すると微《かす》かではあったが、ナギから熱が引き、苦痛《くつう》の表情《ひょうじょう》が消えていた。
魂《たましい》と肉体のバランスを取る以外に、彼女を救う方法はなかったはず――そう思ったイリスだったが、そこでハッとして、ようやく神名がしたことに気がついた。
「あなた、まさか……」
「ああ……ナギに深瀬の<<死ぬ運命>>を移《うつ》した。ナギはこれで深瀬の代わりに<<死ぬ運命>>を背負《せお》う……けど、ソウル・イレギュラーになった代わりに、魂と肉体のバランスは取れたはずだ……」
神名はそれを沙耶架の言葉から思いついた。
私の代わりはいない――ならば、その代わりを作ってやればいい、と神名は考えた。沙耶架の代わりに<<死ぬ運命>>を背負う者を……。
だがそれを実際《じっさい》にやるまでは、成功するかどうかわからなかった。
そのときを、神名はすっと目を閉《と》じて思い出した……。
勝負に負け、地面に倒《たお》れた神名に、沙耶架はその手を伸《の》ばした。
「信じるわ……あなたのこと」
彼女は今まで見せたことのない微笑《ほほえ》みを浮《う》かべながら、そう言った。
「お嬢様《じょうさま》っ」
ライルとガリムは納得《なっとく》いかない様子だったが、沙耶架はもう決めていた。
「いいのよ。死ぬまで追われ続けるなんて嫌《いや》ですもの……それに、天倉くんたちはライルとガリムを殺そうとはしていなかったけど、その後任《こうにん》の人はわからない。それに天倉くんの案なら、一応《いちおう》、みんなが助かるのでしょう? だったら賭《か》けてみる価値《かち》はあるわ」
正直に言えば、たとえ後任の者が沙耶架の前に現《あらわ》れることになっても、ライルとガリムにそこまでの危害《きがい》は与《あた》えられない。彼らはまだ、死ぬ運命ではないからだ。
だがこの際、沙耶架がそう思い込んでくれるほうが都合も良いので、神名は何も言わなかった。
「お嬢様……我々《われわれ》のことまで考えてくださるとは……」
「当然でしょう」
沙耶架はそう言って少し照れながら、神名の方を向いた。
「私の方はいつでもいいわ。気が変わらない内に、さっさとやってちょうだい」
「……いいのか?」
<<エカルラート>>を支《ささ》えに、神名は何とか立ち上がった。
「勝負する前に言ったわよね? 勝った方の案を、負けた方が素直《すなお》に受け入れる……私は天倉くんの案を選んだ。それだけよ」
彼女がそう言ったので、神名は頷《うなず》いて<<エカルラート>>の変化を念じた。
沙耶架から<<死ぬ運命>>を取り出し、且《か》つナギへ移すために効率《こうりつ》の良い形状《けいじょう》はすでにイメージができている。
それに伴《ともな》い、神名には気づいたことがあった。
<<ベル・フィナル>>と<<エカルラート>>は二本で一|対《つい》の鎌《かま》だが、それぞれの性質《せいしつ》は異《こと》なるということだ。
<<ベル・フィナル>>は<<魂>>を司《つかさど》り、<<エカルラート>>は<<器《うつわ》>>を司る、と前にベルが話していた。
結局、その後に続くはずだった説明は聞かずじまいだったが、おそらくナギが「こっちはスプーンにするだけでも、大変なんですけど……」と言っていたのは<<ベル・フィナル>>が<<魂>>を司るからであり、ベルの意思《いし》も含《ふく》めて変化させるためなのだろう。
その分、変化させた後のベルは<<エカルラート>>より強い力を発揮《はっき》する。スコップが良い例で、<<記憶《きおく》を掘《ほ》り起こす>>という能力がある上、本気で振《ふ》れば地面にクレーターを作ることもできる。
それとは逆《ぎゃく》に<<器>>を司る<<エカルラート>>は、変化した形状、特有の能力《のうりょく》を持つものの、それ以上の力は持たない。代わりに様々な形状へ変化させやすいようだった。
それを証明《しょうめい》するように、神名は簡単《かんたん》に<<エカルラート>>をフォークにできるし、今日は耳かきにも変化させてみせた。どうも武器《ぶき》に変化させるには、それなりの力とイメージが必要なようだが、時間をかければ変化させる自信はある。
ただし、鎌にだけは、なぜか変化させられないようだった……。
(まぁ、今はそんなこと、どうだっていい……)
神名は<<エカルラート>>に力を込め、イメージを具現化《ぐげんか》した。<<エカルラート>>は赤く光り、先端《せんたん》に向かって細くなった、巨大《きょだい》なスポイトへと変化する。
「よし、できた」
完壁《かんぺき》だ。神名は思わず、ぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》りながら沙耶架の方を向いた。
すると彼女は巨大なスポイトを怪訝《けげん》そうに見つめ、
「やっぱり、あなたの案を受け入れるのは無理」
神名の発案を拒否《きょひ》した。
「今の発言は聞かなかったことにする」
「待って! だってそれスポイトでしょ!? 鎌じゃないの!?」
「この形状が一番、適《てき》しているんだ。心配するな! 一応、台所にいたゴキブリで試《ため》してみたけど上手《うま》くいった……っぽい」
「ぽいっ!? っていうかゴキブリって何よ!?」
「別名、あぶらむし!」
「そういう意味じゃなくって!」
「仕方がないだろ!? お前とまったく同じ状況《じょうきょう》の奴《やつ》なんて――」
いない。そう言いかけたが、神名がその全く同じ状況の人間だった。
だが自分で実験して死んでしまったら、もう誰も助けられなかっただろう。
「とにかく見た目は諦《あきら》めろ!」
「無理! 無理よ、絶対《ぜったい》!」
覚悟《かくご》は決めたと言ったのに、沙耶架は慌《あわ》てた様子でおろおろし始めた。
神名は時間をかければかけるほど逆効果《ぎゃくこうか》になると判断《はんだん》し、即《そく》実行した。
「痛《いた》かったら――すまん!」
前にナギへドリルを当てたときのように、神名はスポイトを沙耶架に向かって投げつけた。彼女が「きゃあっ!?」と悲鳴を上げる暇《ひま》もなく、<<エカルラート>>は沙耶架の胸元《むなもと》に突《つ》き刺《さ》さる。
その瞬間、黒い煙《けむり》が渦《うず》を巻《ま》いたようなものが、沙耶架からスポイトの中へと移動《いどう》した。その後、スポイトはスルッと沙耶架から抜《ぬ》けて地面に落ちる。
それを一番間近で見ていた本人は、スポイトが抜けるのと同時に、地面へペタッと座《すわ》り込《こ》んだ。
「お嬢様っ!」
「深瀬、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
神名が側《そば》に寄《よ》ろうとすると、ライルとガリムはそれより早く駆《か》け寄った。
スポイトは彼女に刺さったが、もちろん外傷《がいしょう》はない。沙耶架はその目をパチパチさせながら、すっと神名の方を向いた。
「……拍子《ひょうし》抜けするぐらい、なんともなかったわ」
「ほらな、痛くなかっただろ?」
「……確信《かくしん》なんてなかったくせに……」
「まぁ、そうだけど……とにかく成功だ」
神名はそう言ってスポイトを拾い上げると、その場を後にしようとした。
「それじゃ、急ぐから――」
「あ、待ちなさい!」
だが沙耶架に呼《よ》び止められ、神名はその足を止める。
「なんだ?」
「……明日からも、学校には来るわよね?」
なぜそんなことを聞いたのか、沙耶架は自分でも不思議に思った。
神名にはまだ、やらなくてはならないことがあると知ったからだろうか……。自分はおそらくこれで救われたのだろう。だが、彼にとってはまだ何も終わっていないのだ。
すると神名は笑って、
「当然だろ。皆勤賞《かいきんしょう》が無駄《むだ》になるからな!」
当たり前のようにそう言って、沙耶架たちに背《せ》を向けた。
それに沙耶架がふっと笑うのを見ることなく、神名は雨の中を急いで自宅《じたく》に戻《もど》った。
そして、沙耶架から吸《す》い取った<<死ぬ運命>>をナギに移《うつ》したのだ。
神名は目を開ける。
誰かを犠牲《ぎせい》にして、誰かを生かす――そんな選択肢《せんたくし》は神名の中にはない。
そして今回はナギの存在《そんざい》があった。<<死ぬ運命>>を移す……無謀《むぼう》にしか思えない方法だったが、ナギを殺さずに救うにはこれしかなかった。
「何を考えているの、あなたは……っ」
しかしそれを実行した神名を、イリスは怒《いか》りの表情《ひょうじょう》で見つめていた。
「あなたのやったことが、どういうことなのかわかっているの? ナギに、あなたと同じ運命を背負わせたのよ?」
「ああ……」
「彼女の運命を、あなたが勝手に決めるつもり?」
「…………」
その言葉に、神名は何も言い返せなかった。
「あなたは人の命を軽んじている……」
確《たし》かにその通りだった。千夏を<<生きるはずだった運命>>にしてしまい、生き返らせ、そして今度は<<死ぬ運命>>にしてしまった。
「……すまない……」
謝《あやま》っても仕方がない。そうは分かっていたが、何か言わなければ……そう思った。
それを聞いたイリスはしばらく黙《だま》っていたが、眠《ねむ》っているナギを見て、そして神名に視線《しせん》を戻して言った。
「私は、ソウル・イレギュラーを二人も見逃《みのが》すつもりはない……」
「覚悟はできてる」
ナギをこういう状態《じょうたい》にしたとき、イリスがそう言うだろうとは予想していた。
そのときは、自分が彼女のことを全力で守ろうと心に決めた。
すでに迷《まよ》いはない。
「……明日の朝、また来るわ……」
明日の九時。彼女はそのときに神名とナギの命を奪《うば》いに来る。
神名がそれに頷《うなず》くのを見て、死神を束ねる死天使長は神名の部屋を出て行った。
その間も、神名はじっとナギを見つめていた。
「……頼《たの》む……元気になってくれ……」
神に祈《いの》るように、彼は何度もその言葉を呟《つぶや》き続けた……。
朝日が昇《のぼ》ると、夜の雨が嘘《うそ》だったかのような晴天が広がった。
雲ひとつなく、朝の太陽が神名を照らす。
彼は<<エカルラート>>のフォークを支《ささ》えにして、玄関《げんかん》に立っていた。
もう二日も眠らずにナギの看病《かんびょう》をしているので、こうして立っていないと眠ってしまいそうになる。
いつもならすぐに眠気を覚ましてくれる太陽の光も、今日は心もとなかった。
「早いわね」
だが彼女の声で一瞬《いっしゅん》にして眠気は吹《ふ》き飛んだ。
時刻《じこく》はまだ七時。だが、目の前にイリスは舞《ま》い降《お》りていた。
神名は別に驚《おどろ》かない。予想はしていた。
「……お前なら九時より前に来て、俺《おれ》たちを気絶《きぜつ》させ、時間になったら鎌《かま》を使う――ぐらいのことはやりそうだからな……」
「深瀬沙耶架を狙《ねら》うときも、そのぐらいの機転を利《き》かせてほしかったわね」
「必要なかったんでね……」
そう言って<<エカルラート>>をイリスへ向ける。
正直、勝てるとは思っていなかった。前に一度、彼女を退《しりぞ》けられたのは<<ヴァールリーベ>>があったからだ。そしておそらく、あのときのイリスは手加減《てかげん》していたはずだった。
今、神名の隣《となり》にナギはいない。
だがそれでもやるしかない、と神名は構《かま》えた。
「そんな状態《じょうたい》で、私と戦えるの?」
「……ああ。前にも言っただろ……俺は簡単《かんたん》には諦《あきら》めない」
「そうね」
イリスはこちらに近づいてきた。神名の間合いへ、確実《かくじつ》に一歩ずつ。
だが彼女は殺気も、攻撃《こうげき》をする気配もさせることなく、
「お、おいっ」
「邪魔《じゃま》よ。中に入れないでしょう?」
神名を扉《とびら》からどかせ、中へ進んでいった。
訳《わけ》がわからず、イリスについて行くと、彼女は真《ま》っ直《す》ぐナギの部屋を目指した。
慌《あわ》てて神名がイリスの前に出てその道を塞《ふさ》ぐが、その顔には明らかに疲《つか》れの色が見えていた。立つのがやっとの状態だ。
「ここから先には行かせない」
それでも彼は、じっと睨《にら》むようにして両手を広げる。
すると彼女は苦笑《くしょう》して、
「何もしないわ……約束する」
そう言って神名の横をすり抜《ぬ》けた。
神名の部屋に入り、ナギに近づいたイリスは、その手をナギの額《ひたい》にやり、熱の有無《うむ》を確かめた。四十度近かったのではないかという高熱はすっかり下がり、ナギは静かに寝息《ねいき》を立てていた。
まだ目を覚ましたわけではないが、もう大丈夫《だいじょうぶ》だろう。
「……こうなることを、あなたはわかっていたの?」
その手をナギの額に当てたまま、イリスは神名を振《ふ》り返った。
確信はなかった。だが、この方法なら彼女を救えるかもしれない……その一心でやったことだ――そう答えようとしたが、どこか質問《しつもん》の意味が違《ちが》うような気がして、神名は聞き返した。
「どういうことだ?」
「彼女は……ソウル・イレギュラーにはなっていない」
「……え?」
「その様子だと、あなたにも予想外だったようね……」
すっと立ち上がったイリスは、話の場所をリビングに移《うつ》した。
外はまだ寒いのに、彼女は庭へと続く窓《まど》を勝手に開ける。風はなかったが、ひんやりとした新鮮《しんせん》な空気が入ってきた。
「今のナギには、不思議な力があるみたいね」
「力?」
「ええ 彼女の輪廻《りんね》を<<逆向《ぎゃくむ》きに回転>>させたとき、あなたは同時に<<生きて欲《ほ》しい>>と強く願《ねが》った……そうでしょう?」
神名は少しだけ考えて、小さく頷いた。
「その想《おも》いが力となって、今も彼女の中に宿っている……」
イリスは説明している自分でも理解《りかい》しきれていないようで、言葉を選びながら慎重《しんちょう》に続きを話した。
「おそらくその想いと、ナギ自身の『生きたい』という強い想いが、深瀬沙耶架から移された<<死ぬ運命>>を払拭《ふっしょく》してしまったんだと思う……<<死ぬ運命>>は消せない――その常識《じょうしき》を覆《くつがえ》す、まさに奇跡《きせき》ね」
立ち尽くしながらその説明を聞いていた神名は、ゆっくりとその事実を頭の中で反芻《はんすう》させ、表情《ひょうじょう》をぱっと明るくした。
「そ、それじゃあ……」
「ナギは一時的にソウル・イレギュラーとなることで高熱から解放され、あなたたちの想いが<<死ぬ運命>>を消し去った……ということね」
それを聞いた神名は安堵《あんど》のあまりソファーに座《すわ》り込んだ。
すべて丸く収《おさ》まった。沙耶架に手をかけず、ナギも死なせない。誰《だれ》かを犠牲《ぎせい》にすることなく、神名はそれを果たしたのだ。
「良かった……」
心の底からそう思う。疲れきっていたが、神名には思わず笑《え》みが浮《う》かんでいた。
しかし、こちらへ振り返ったイリスは、浮かない顔をしていた。
「安心するのはまだ早いわ……」
「な、何?」
「……ナギの拒絶《きょぜつ》反応《はんのう》は解消されたわけじゃない。あくまで一時的なものよ……人の魂《たましい》にソウル・イレギュラーの身体。その根本的な問題点が解消されない限《かぎ》り、彼女はいつまた高熱に襲《おそ》われるかわからないわ……」
「っ! そ、そうか……」
<<死の運命>>を払拭したのなら、ナギはソウル・イレギュラーではない。だがそれは彼女の状態が振り出しに戻《もど》ったということだ。
「次にナギが高熱に襲われるのが、いつになるかはわからない……明日かもしれないし、一年先かもしれない……早急《そうきゅう》に対処法《たいしょほう》を考えないといけないわ……」
「…………」
ナギを完全に救えてはいなかった……それが、神名にとってはショックだった。
だが表情を沈《しず》ませる神名にイリスはこう言った。
「でも、とりあえず深瀬沙耶架の輪廻は新たな運命を回り始めた。ナギの輪廻にもひとまず悪影響《あくえいきょう》は出ていない……」
イリスはポンッと神名の肩《かた》を叩《たた》き、微笑《ほほえ》んだ。
「彼女の体調には十分に気をつけてあげて」
「……ああ」
「今回のあなたたちの任務《にんむ》は完了《かんりょう》よ……チョコ・パフェ、食べ損《そこ》なったわね……」
本気か冗談《じょうだん》か、イリスはそんなことを口にした。
確《たし》かにこれで、今回はチョコレート・パフェにされずに済《す》んだ。
「……なぁ、そういえば……」
そこで、神名はある問題に気がついた。
「? 何かしら?」
「……仮《かり》に任務が失敗した場合って、俺たちはチョコ・パフェにされるんだよな?」
「そうよ。何を、今更《いまさら》――」
「俺はまぁ、百歩|譲《ゆず》って問題ないとして……人間であるナギをチョコ・パフェにしたら、まずいんじゃないのか……?」
ナギをチョコ・パフェにする=死ぬ。
だが今は一応《いちおう》、普通《ふつう》に輪廻を回っているナギを殺せば、<<生きるはずだった人間>>となってしまうのでは……?
ソウル・イレギュラーを生み出すことは、死神にとって重罪《じゅうざい》だ。
神名の言わんとすることに気づいたイリスは、ポンッと手を叩き、
「そういえば、そうね! 全然、考えてなかったわ!」
「……お前って、本当にスゴイな」
皮肉を込《こ》めてそう呟《つぶや》く神名に、イリスはピクッと眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。
「何? 私をバカにする気?」
「だって、そうだろ!? 気づけよ、最初に!」
「仕方ないでしょう、気づかなかったんだから!」
大声で叫《さけ》んだ二人は、睨《にら》み合い――だが、すぐにやめた。
朝っぱらから大声を出しても仕方がない。
「……もう帰るわ。ナギによろしくね」
神名に背《せ》を向け、彼女は窓の開いた庭の方へ歩き出す。
話すべき用件《ようけん》は全《すべ》て伝えたので、もう用はない。
「イリス」
窓から帰ろうとした彼女を、神名は後ろから呼《よ》び止めた。
眉をひそめたまま、イリスは振《ふ》り返る。
「何?」
「……ナギのことを助けようとしてくれて……ありがとう」
照れくさかったが、これだけは言っておきたかった。
イリスはなんだかんだ言って、ナギの命を救おうと方法を探《さが》してくれた。
ナギのことを思ったからこそ、その彼女の運命を軽んじているように思えた神名の行動にも怒《いか》りを覚えた――のかもしれない……。
すると彼女は神名の言葉に首を振った。
「結局、私は何もしていないわ……それじゃ」
クスッと微笑み、彼女は窓《まど》から出て行った。翼《つばさ》を出現《しゅつげん》させ、ふわりと空へ昇《のぼ》っていく。
神名はそれを、窓に手をかけながら見送った。
イリスは何もしていないと言ったが、昨日は一緒《いっしょ》にナギの看病《かんびょう》をしてくれたのだ。それだけで十分、お礼を言うに値《あたい》する、と神名は心の中で感謝《かんしゃ》した。
だが、
「あいつ……靴《くつ》、忘《わす》れて行きやがった……」
玄関《げんかん》から入って、窓から去って行ったイリス。
まぁ、いいか……と、神名は静かに空を見上げる。
その先は青い。冷たいけれど澄《す》んだ空気を大きく吸《す》い、それをゆっくりと吐いた。そして疲《つか》れた身体《からだ》で無理やり笑ってみる。
すると――この空と同じように、どこか心も晴れたような気がした。
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   エピローグ
イリスが去って行った後――実はその後が一番、大変だった。
その日が月曜であることを思い出した神名《じんな》は、眠《ねむ》っていたナギの枕元《まくらもと》に「学校に行く」と書置きし、鉛《なまり》のように重たい身体を引きずって学校へ行った。
すると教室にサラが待ち構《かま》えており、
「ナギは一体どこですか!? 二日も連絡《れんらく》がないのですが!?」
と問い詰《つ》められた。
ナギと沙耶架《さやか》のことで、うっかりサラに連絡するのを忘れていたのだ……。何度か自宅《じたく》に電話もしてきたらしいか、神名はまったく気づかなかった。
神名は死にそうな顔で「俺の部屋で寝《ね》ている」とサラに告げた。
しかし彼女が怪訝《けげん》な表情《ひょうじょう》を浮《う》かべたので、「ナギが風邪《かぜ》を引いたから看病していた」と付け加えると、
「それならどうして、連絡してこなかったのですか!?」
と激怒《げきど》され、危《あや》うく机《つくえ》ごと殴《なぐ》り殺されるところだった……。
しかし、サラもナギのことを心配してくれていた――そう思うと、何故《なぜ》か神名は嬉《うれ》しかった。
ナギはその日の夜中に、ようやく目を覚ました。
起きてからの第一声は、
「神名くん、チョコレート・パフェが食べたいです」
なんとも彼女らしく、神名は思わず笑ってしまった。
そして、翌日《よくじつ》。
ナギの体調は完全に回復《かいふく》して元気になったが、クラスメートたちが学校へ元気に登校してくる中、神名は教室の机に伏《ふ》せたまま動けなかった。
朝はいつも通り起きたものの、彼は学校に来てからずっとこの調子だ。
ナギが目を覚まして気が抜《ぬ》けたのか、沙耶架の一件《いっけん》での疲労《ひろう》がどっと出た。
沙耶架は新しい輪廻《りんね》を回り始め、もう心配はない。
だが、とにかくその一件で疲労は極限状態《きょくげんじょうたい》。しかも土日の二日間は眠らずにナギの看病をしていたので、寝ても、寝ても、寝足りない状態だった。
「……ダメだ……眠い」
とりあえずホームルームまで寝よう――そう思った神名は意識《いしき》を眠りにつかせることにする。神名の体力はなかなか回復せず、学校には来るものの、昨日も授業《じゅぎょう》中はほとんど眠っていた。
バイトもあるので今はできるだけ体力を使わないようにしよう……そう思って身体を伏せたところへ、
「起きなさい、天倉《あまくら》くん」
ポン、ポンと肩《かた》を叩《たた》かれ、神名の眠りを妨《さまた》げる人物が現《あらわ》れた。
「……拒否《きょひ》する……」
「拒否|権《けん》はないわ。副生徒会長からの命令よ」
彼女はそう言って激《はげ》しく神名の身体を揺《ゆ》すった。
「や、やめろ……」
弱々しく目を開けると、長い髪《かみ》を揺らしながら不敵《ふてき》な笑《え》みを浮かべた沙耶架が立っていた。彼女がわざわざ神名の教室までやって来るのは珍《めずら》しい。
「な、なんだよ……?」
俺《おれ》は寝なくてはならないんだ――そんな瞳《ひとみ》で彼女を見上げると、いつものようにこちらの意思《いし》を無視《むし》して話を進める。
「喜びなさい、天倉くん。あなたを私のホームパーティーへ招待《しょうたい》するわ」
沙耶架はそう言うと一|枚《まい》の招待状を差し出した。
そういえば沙耶架が、バイト先に花を買いにきたとき、そんなことをすると達也《たつや》に話していたのを思い出す。
だが、顔を上げた神名は気《け》だるそうに声を発した。
「……きつい……」
「別に今日じゃないから大丈夫《だいじょうぶ》でしょう? 日時はそこに書いてあるわ。男子で誘《さそ》うのはあなたが初めてなんだから……必ず来るように」
どこか照れるように視線を逸《そ》らし、彼女は「受け取りなさい」と招待状を差し出してくる。
対する神名はどうするべきかとその手を伸《の》ばすのを躊躇《ためら》っていた。バイトと重なりそうだったし、何より今は思考|能力《のうりょく》が低下しているので、まともに物事を考えられない。
渋《しぶ》る神名を見て――沙耶架は突然《とつぜん》悲しそうな表情を浮かべ、両腕《りょううで》で自分の身体を抱《だ》くと少し声を大きくして言った。
「私の身体にあんなことしておいて……私のお願いは何一つ聞いてくれないっていうの?」
その途端《とたん》、教室にいたクラスメートたちの視線がどっとこちらに向いた。
いや今まで気づかなかったが、そもそも沙耶架が自分に会いに来た時点で、クラスメートたちは何事かとこちらの様子を窺《うかが》っていたらしい……。
神名は額《ひたい》に汗《あせ》を浮かべると小さく口を開いた。
「待て。何の話だ、それは……」
「日曜日のことに決まっているでしょう……?」
そう言うとクラスの中が微《かす》かにざわつき始める……。
日曜日。神名が沙耶架の<<死ぬ運命>>をナギに移《うつ》すため、彼女のところへ行った日だ。
ようするに、神名が<<エカルラート>>を使ったときのことを言っているらしい。
「全く何ともなかっただろうが」
神名はそのときのことを思い出しながら、沙耶架を見上げるように反論《はんろん》した。
「まぁ、その通りだけど……いいじゃない、タダで夕食が食べられるんだから。それに一応《いちおう》、お礼《れい》も兼《か》ねているつもりよ」
そう言った沙耶架は、すっと神名へ顔を近づけた。
「お礼?」
「ええ。その……ありがとう、いろいろと。あなたたちのおかげで、私は今ここに立っていられるのよね……」
死神である神名が、死ぬ運命から救《すく》ってくれた。彼を命の恩人《おんじん》だと言っても過言《かごん》ではないだろう。しかし、神名は首を振った。
「いや……お礼を言うのはむしろ、こっちの方かもしれない」
沙耶架との一件がなかったらナギは救えなかった。<<死の運命>>を吸い取るという案にも多少|無理《むり》やりなところもあったが沙耶架は協力してくれた。それを考えると、彼女はナギにとっての恩人だ。
「助かったよ……さすが<<深瀬グループ>>の社長|令嬢《れいじょう》」
「お互《たが》い様というわけね……おかげで私はまた、自分の夢を目指《めざ》すことも、おじい様との約束を果たすこともできる」
嬉《うれ》しそうに、そしてその眼に強い意志を宿《やど》らせて沙耶架は微笑《ほほえ》む。
「がんばれよ」
「言われなくても。あっ、そうだ! 天倉くんも私の会社でライルたちと一緒《いっしょ》に警備《けいび》員《いん》として働かない? 天倉ならいつでも歓迎《かんげい》する、ってライルが言っていたわ!」
沙耶架の一件以来、ライルたちは神名のことを高く評価《ひょうか》してくれているらしい。
達也の言う通り、拳《こぶし》を交えて仲が良くなった……ということになるのだろう。
彼らは沙耶架の一件が片付《かたづ》いたら再《ふたた》び中東に戻《もど》る予定だったそうだが、沙耶架からの希望もあって、日本に残ることにしたそうだ。
先日ガリムに蹴られたのと、ライルにタックルされたせいか、身体中が痛《いた》い。せっかくなので治療費《ちりょうひ》でも請求《せいきゅう》するか……などと考えるが、神名はこれ以上、バイトを増《ふ》やすつもりはない。
「いや、遠慮《えんりょ》しておく」
「どうしてよ? 面白《おもしろ》そうじゃない」
「どういう基準《きじゅん》で、それが面白そうなのか理解《りかい》できん……」
「銃《じゅう》の扱《あつか》いだけ教えれば、すぐにでも前線に送り込めるってライルが笑っていたわ。楽しそうに」
「絶対《ぜったい》、断《ことわ》る」
身の危険《きけん》を感じ、神名は強く否定《ひてい》した。
「そう……残念ね。そういえば風流《ふうりゅう》さんも一応《いちおう》、誘っておいてね。うちのシェフが『食べっぷりがいたく気に入りました。また美味《おい》しいチョコレート・パフェを用意してお待ちしておりますとお伝えください』って言っていたから」
ナギは今、隣《となり》のクラスへ行っている。おそらくまた新しいチョコ・パフェの情報《じょうほう》でも仕入れているのだろう。
「……そういえば、お腹《なか》いっぱいですって言ってたからな、あの日……確《たし》か三つは食べたとか何とか……」
人の家でそんなにご馳走《ちそう》になるなよ、と今更になって神名は呆《あき》れてしまう。
だがナギにこの話をしたら、喜んですっ飛んでいくだろうなぁと思いつつ、どうするかを考える。
するとナギの話を出したついでに、沙耶梨はぼそっと聞いてみた。
「ね、ねぇ……あなたと風流さんって……付き合っているの?」
「はぁ?」
どうしてそういう話になったのかわからず、神名は眉《まゆ》をひそめる。突然、そんなことを聞かれても困《こま》るのだが……。
「……そういう関係じゃない」
ぼそっと呟《つぶや》くように神名はそう言い返した。
「ダイヤの指輪がどうのって言っていた相手……風流さんなのでしょう?」
神名がダイヤの指輪をプレゼントする約束をしたという人物は、彼の口から死んでしまったと聞かされた。
だが「二度も死なせるわけにはいかない」と、確かにそうも言った。
信じがたい話だが、神名の話を総合《そうごう》した結果、それはつまりナギが生き返ったという意味だろうと沙耶架は受け取った。
神名たちは死神だ。人が生き返る……そういう可能性《かのうせい》もあるのだろう、と勝手に解釈《かいしゃく》してしまった。
「どうなのよ?」
「……そもそも、あの約束は俺が小学校の頃《ころ》の話だからな……あいつが覚えているのかどうか知らない……」
「そうなの?」
「……というかこれ以上、説明する義務《ぎむ》はない」
「では、命令します」
「拒否《きょひ》する」
「じゃあ、パーティーに来なさい。いいわね?」
沙耶架はそう言うと、無理やり彼の手に招待状《しょうたいじょう》を握《にぎ》らせた。
さらに彼女はふっと笑って、
「……入り込《こ》む余地《よち》はあるってことよね……?」
「は?」
「なんでもないわ。それじゃ、ホームパーティーの件《けん》、忘《わす》れないでね」
まだ行くとは言っていないのに、沙耶架は笑顔で教室を去っていった。
「何だったんだ、一体……」
神名はもらった招待状の裏表《うらおもて》を見て、とりあえずポケットにしまった。いつも通り、もらえるものはもらう。
さぁ、寝《ね》よう。そう思って机《つくえ》に伏《ふ》せようとしたら、今度はすっと隣にサラが現《あらわ》れた。
「天倉くん、出席|確認《かくにん》を始めますよ?」
「……あぁ、なんてこった……深瀬に睡眠《すいみん》時間を奪《うば》われた……」
呟くように神名がそう言うと、サラは足を止め、神名を見下ろした。
「昨日も今日も、天倉くんは寝てばかりですね……」
「うっ、まぁ、それは認《みと》める……けど、眠《ねむ》いんだから仕方ない」
「体調管理は自己《じこ》責任《せきにん》です。授業《じゅぎょう》中はちゃんと起きていてくださいね」
寝たら欠席|扱《あつか》いにしますよ? と彼女の目が語っている。
俺、がんばったのになぁ……と神名は内心で思いながらも、サラの言葉に頷《うなず》く。
彼女がいつものように教卓《きょうたく》に立ち、出席|簿《ぼ》を開こうとしているところへ、ナギが教室へ帰ってきた。
「うわっ、危《あぶ》なかったですね……」
危《あや》うく欠席になるところだった、とナギは急いで席に座《すわ》る。
サラはそれを確認しつつ、出席確認を始めた。
「では、出席確認を始めます。天倉くん」
神名は出席番号一番。この教室の朝は「皆勤賞《かいきんしょう》・命」の神名が元気良く返事をして始まる――のだが、
「はあぁーぃ……」
覇気《はき》のない、だらりとした声が教室に響《ひび》く。
この数日間、ずっとそうだ。
あれ? 今日も? と思ったクラスメートたちは神名の方を振《ふ》り返ったが、彼は返事をするとすぐに伏せた。
「……神名くん、神名くん」
それを見たナギが後ろから神名を小突《こづ》きながら呼《よ》ぶ。
「……なんだ?」
「皆勤賞・命の神名くんが、元気ないですよ?」
「疲《つか》れが取れないんだ……眠いし、きつい……」
それだけを何とか答え、神名は眠りにつこうとしたが、ナギは解放してくれなかった。
「それよりも神名くん。今日はちゃんと授業の準備《じゅんぴ》はしてきたんですか? あんまり教科書忘れ続けると、怒《おこ》られちゃいますよ?」
「うー」
神名はこの数日間、授業中は寝ると決めていたので、教科書もまともに用意していなかった。まぁ、いざとなったら隣《となり》の祐司《ゆうじ》から見せてもらえばいい、そう思っている。なのでナギに何か言われても、彼は呻《うめ》くだけで動こうとはしなかった。
「もう、仕方ないですねー」
するとナギが神名の鞄《かばん》を取り、中身をごそごそし始めた。今日の授業で使う教科書がそろっているかどうか、確認してくれているようだ。
「んー、偶然《ぐうぜん》にも、入れっぱなしにしていた教科書で大丈夫《だいじょうぶ》みたいですね……あ、というか神名くん、筆箱が入っていませんよ?」
「……あー、そう。忘れたんだろ……」
「……本当に辛《つら》そうですね……」
ナギは神名の見たことのない状態《じょうたい》に、苦笑《くしょう》しながらそう言った。
「仕方ないですね。私がペンと消しゴムを貸《か》してあげましょう!」
ニコッと笑い、今度は自分の鞄をごそごそとし始める。
「ええっと……あれ? あれれ? 私の筆箱は……?」
まさか自分も忘れたのか……神名はすでに薄《うす》れかけていた意識《いしき》の中でそう思った。
ナギは「あれー? ないですーっ」と言いながら、まだ鞄の中を探《さぐ》っている。
「……もういい……後は……任《まか》せる」
そう言うと神名は、まるでそれが最後の言葉だったかのように――ようやく眠りについた。
壁《かべ》が一面、真っ白な、どこかのオフィス。
一人の女性《じょせい》が革張《かわば》りのイスに座り、天井《てんじょう》を見上げるようにして考えごとをしていた。
そこは死天使長――イリスの部屋だった。
もちろん、この部屋には彼女しかいない。
彼女は今回の一件《いっけん》のことを、もう一度考え直していた。
「ナギに宿った不思議な力、ね……」
神名が沙耶架から彼女に移《うつ》した<<死ぬ運命>>。
それは決して消えることはない――そう思っていたが、ナギの内に宿っていた力が、それを払拭《ふっしょく》してしまった。
いや正確に言うと、それはナギの力だけではない。
もちろん、ナギの<<生きたい>>という想《おも》いもあったからこそ起きた奇跡《きせき》のようなものだが、彼女がそんな力を持つ発端《ほったん》になったのは、間違《まちが》いなく神名だ。
「彼がナギの輪廻《りんね》を逆向《ぎゃくむ》きに回し、人に戻《もど》す際《さい》、彼女の中にはあの力が宿った……ナギの<<生きたい>>という純粋《じゅんすい》な想いと、天倉神名の<<生きて欲《ほ》しい>>という想いで……」
それは確《たし》かだった。だが、果たしてそれだけで、<<死ぬ運命>>を払拭できるほどの力が得られるものだろうか?
何かもう一つ、要因《よういん》となるものがなければ、無理なような気がしてならない。
「……やっぱり、天倉神名は――」
そうイリスが何かを呟《つぶや》きかけたとき、コンコンッとドアがノックされた。
「? どうぞ」
イリスが独《ひと》り言をやめてそう言うと、青い箱を持った女性が部屋に入ってきた。彼女は部下の一人だ。
「イリス様、お届《とど》けものです」
その箱を見たイリスは、少し嬉《うれ》しそうに立ち上がり、その箱を受け取った。
「ありがとう」
「はい……では、失礼します」
「ええ、ご苦労様」
部下の女性はこちらに礼をして、部屋を出て行く。
イリスはその箱をデスクの上に置いて蓋《ふた》を開けると、中身を取り出した。
現《あらわ》れたのは青い卵《たまご》のような物体。それに向け、イリスは微笑《ほほえ》んだ。
「お帰りなさい、私の<<ブルーモール>>」
それはイリスが契約《けいやく》している死神の鎌《かま》だった。
先日、神名とナギの<<ヴァールリーベ>>と刃《やいば》を交えたとき、鎌の刃部分を破壊《はかい》されてしまったため、修理《しゅうり》に出していたのだ。
「良かったわ、私の鎌が直って」
彼女はそう言いながら革張りのイスに座《すわ》りなおした。
実は彼女、もう二週間近くも鎌を持っていない状態だったのだ……。
「これがないときに誰《だれ》かと戦う羽目になっていたら、少し危《あぶ》なかったかもね……」
戻ってきた自分のパートナーの感触《かんしょく》を確かめながら、イリスはクスッと笑った。
正直なところ、神名とナギに任務《にんむ》の話をしに行った際、初めから「絶対《ぜったい》にやらない!」と<<ヴァールリーベ>>で抵抗《ていこう》されていたら危なかった。いくらイリスでも、あの伝説の鎌を素手《すで》で止めることはできない。
そんな状況《じょうきょう》だったため、彼女は自分の鎌が戻ってきて一安心した。
「あとは深瀬沙耶架についての報告書《ほうこくしょ》だけね……あ、そうだ! 面倒《めんどう》だし、ナギか天倉くんに押《お》し付けることにしましょう」
もともと報告書はそれを担当《たんとう》した者が作成《さくせい》し、上司に提出《ていしゅつ》するものだ。
報告書の最後に作成者のサインがいるが、そこに神名やナギの名前を出すわけにはいかないので、後で自分の名前を書くことにする。
「手柄《てがら》も私のものになって、一石二鳥よね。まぁ、提出するのが私だから、あまり意味はないけれど……」
イリスはどこか楽しそうに、さっそく「報告書を提出するように」と書いた手紙を天倉家へ送ることにした。
神名は結局、その日の授業《じゅぎょう》を寝《ね》て過《す》こした。
なんとか起きていようとは努力したが、まぶたが勝手に下りてくるのだ……。
サラは何度も起こそうとしたが、「きょ、今日まで見逃《みのが》してあげてください!」とナギが言うので、しぶしぶ神名を許《ゆる》した。
そのまま時が過ぎ、掃除《そうじ》の時間、ホームルームが終わり、放課後になる。
神名はできることなら、今から家に帰って再《ふたた》び眠《ねむ》りたいところだったが、今日は約束があるのでパシッと意識を目覚めさせた。
「では、神名くん、チョコ・パフェを食べにレッツ・ゴーです!」
「お、おいっ! そんなに引っ張るなよっ」
今日はナギとチョコレート・パフェを食べに行くことにしていた。
ナギが元気になったらチョコ・パフェを食べに行く、と約束していたからだ。
先日、駅の裏《うら》にある喫茶《きっさ》店で食べられるチョコ・パフェが美味《おい》しいという情報《じょうほう》を手にしたが、神名が「金がかかりすぎる」という理由で却下《きゃっか》した店へ、二人は行ってみることにした。
学校を出て、その店へ向かう彼女の足取りは軽い。
「早く、早く! 神名くん、遅《おそ》いですよ〜?」
「チョコ・パフェは逃げないだろ?」
「早く食べたいだけです」
にっこりと笑う彼女は、もういつも通り。
「…………」
しかし、そう見えるだけだった。ナギの身体《からだ》は今このときも、確実《かくじつ》に拒絶《きょぜつ》反応《はんのう》が続いているらしい。人の魂《たましい》と、ソウル・イレギュラーの身体。このバランスを取らない限《かぎ》り、完全にナギの身体は治らないのだ。
こうなってしまったのは、完全に自分の責任《せきにん》だ――と神名は思った。
どうなるかも考えず、魂の輪廻を逆向きに回転させたことで、ナギの身体はとても不安定な状態になっている。もう、あの高熱に彼女がうなされる姿《すがた》は見たくない……そのためにも、イリスの言った通り、早急《そうきゅう》に解決策《かいけつさく》を考えなければならない。
「……お前のことは、絶対にどうにかしてやるからな……」
そう、彼女の背《せ》に向かって言った。
するとナギがくるりと振《ふ》り返り、
「? 何か言いました?」
立ち止まって、首をかしげながら神名に尋《たず》ねる。
神名はそれを苦笑しながらごまかし、「なんでもない」と言って続けた。
「……お前が元気になって良かったよ」
「はい! 今日は久《ひさ》しぶりのチョコレート・パフェなので、存分《ぞんぷん》に食べますよ!」
「……久しぶりって……朝食べたじゃないか」
「昼は食べてないです。それにこの前、寝ていた間は全く口にしていませんでしたから」
「そういう問題か……?」
「はい!」
ナギは再び前を向くと歩き出した。
どこで手に入れたのか、今から行く店のメニューのコピーを見ながら、「このチョコ・パフェがいいですね……あ、こっちのデザートも見逃せません!」と嬉《うれ》しそうにはしゃいでいる。
神名もそのメニューのコピーを片手《かたて》に、ひとまず今日を楽しもう――そう思ってナギの後を追った。
「でも、このチョコ・パフェだと一|個《こ》までだ」
「ええ――っ!? どうしてですか――っ!?」
「よく見ろ、値段《ねだん》を! なんだ一個、九百八十円って!?」
「私としては、三つは食べたいところです!」
「バカ言うな! お前は一人で三千円分も食べる気か!?」
そう言うとさすがにナギも値段の高さに気づいた。
「じゃ、じゃあ、これは?」
「高い! こっちにしろ!」
「私、こっちがいいです――っ!」
「ダメだ! 諦《あきら》めろ!」
こんなチョコ・パフェ、信じられん!
いつものように神名は財布《さいふ》の中身と相談しながら、ナギと一緒《いっしょ》にメニューを睨《にら》んだ。
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   あとがき
皆《みな》さん、こんにちは。花鳳神也です。おかげさまで二巻を無事《ぶじ》、発売できることになり感謝《かんしゃ》感激《かんげき》です。中盤を何度か書き直し、全体的な調整を行いつつ、様々《さまざま》な方の助力を得てようやく完成いたしました。
一巻を発売後、親友たちからはもとより、多くの友人、家族や親戚《しんせき》に激励《げきれい》され、人の繋《つな》がりって大切だなぁ……としみじみ実感いたしました。これを励《はげ》みに、これからも一層、努力していきたいと思っておりますので、何卒《なにとぞ》よろしくお願いします。
さて先日、友人のA君から「鍋《なべ》をするから来てくれ」と言われ、大学時代の後輩も混《ま》じった八人で二つの鍋を囲《かこ》んで楽しく食事をすることになりました。わいわい、がやがやと準備《じゅんび》の段階ですでにお祭《まつ》り気分です。
ですが、ここで普通に鍋を楽しむだけではないのが僕《ぼく》たちです。材料の買い出しへ向かっている途中、唐突《とうとつ》に闇《やみ》鍋も一緒《いっしょ》にやろうと思いつき、実行することに。ただ本当に唐突だったために、一人ずつが何かの食材を持ち寄るということができず、スーパーでとにかく鍋に入れてみたいものを選ぶことにしました。この時点で闇鍋とは言いがたいような気もしますが、とにかくスーパーで様々な食材を吟味《ぎんみ》し、淘汰《とうた》し、わずかに残しておいた本来の鍋の具を加えて作り出した鍋は――淡《あわ》い緑色をしていました。
むぅ、まさか緑色とは……。
「あー、これはマズイね!」「色からしてマズイよ!」と口々《くちぐち》に見た目の感想を述《の》べる仲間たち。ですがもちろん作った以上、食べ物は粗末《そまつ》にしてはいけません。辺《あた》りの電気を消し、闇の中で微《かす》かに見える鍋へ箸《はし》を伸《の》ばします。途中から煩《わずら》わしくなっておたまを使い始め、夜中までかかって完食。全員の感想は――やっぱり、マズイ。レシピを見れば「当たり前だろーが!」という意見が当然返ってくるような品ばかりなので、あえて鍋の中身は語らないことにします……。ちゃんと食べられるものばかりだったのに……。
と、著者の日常はここまでにして、まずは編集部の皆様、担当様にお礼を。
おかげさまで二度目の東京は格別《かくべつ》に楽しく、また有《ゆう》意義《いぎ》なものになりました。貴重《きちょう》な経験です。大変、お世話《せわ》になりました。焼肉、カレー、お酒、どれも美味《おい》しかったです。また、和気《わき》藹々《あいあい》とした編集部の皆様の雰囲気《ふんいき》に、「こんなに面白《おもしろ》い人たちと一緒に仕事しているんだ!」と今でも思い出すたびに心が躍《おど》ります。地元に帰った後は友人たちに自慢《じまん》して回りました。また、お邪魔《じゃま》させて下さい。
今回もイラストを手がけて下さった夜野みるら様。いろいろとご多忙《たぼう》の中、ありがとうございます。二巻の執筆中は沙耶架《さやか》とサラのラフ画が何よりの励みでした! 「いいよねー」「うん、うん」と親友と共に頷《うなず》き合いながら眺《なが》めておりました。月刊ドラゴンマガジンにて掲載《けいさい》された短編のイラストについても、重ねて厚《あつ》くお礼申し上げます。
親友のW君へ。沙耶架が乗る百万円以上する自転車の設定を考えて下さり、ありがとうこざいます。でも、まさか作ってくれた設定資料が六ぺージにも及《およ》ぶとは……。とても文中には載《の》せられませんでしたので、「あの自転車はこんなに設定が深いんだ――っ!」と自己《じこ》満足《まんぞく》でなんとか……。
そして最後になってしまいましたが、この本を手にして頂《いただ》いた皆様へ。本当にありがとうこざいました!
[#地から2字上げ]二〇〇六年一〇月     花鳳 神也
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