[#表紙(表紙.jpg)]
花登 筐
あかんたれ 土性っ骨
目 次
てかけの子
丁  稚
母 と 子
後 家 の 火
土 性 っ 骨
いとはん心
馬 鹿 旦 那
ヒ モ の 先
根  性
家  出
意  地
|ス《ヽ》 |テ《ヽ》 |ト《ヽ》 |コ《ヽ》
山  師
本妻の姉弟
落  籍
雪 の 門
異 国 の 風
[#改ページ]
てかけの子
五月の乾いた船場《せんば》の道で、丁稚《でつち》の秀松が重そうに、両手で杓《ひしやく》を持って水をまいていた。水は、真っ直ぐ鈍く散った。不意に後から番頭の直七の声が飛んで来た。
「あほんだら。その水のまき方は何じゃい。貸して見い」
怒った直七は、秀松の手から杓をひったくると、片手でバケツを持ち、片手の杓で水をすくうとパッとまいた。水は水平に四方に散って、またたく間に、店の五間もある間口の前の道を濡らした。
「見て見い。こうやってまくのや。この船場では、土一升、金一升、バケツの水一ぱいでもおろそかには出来ん。丁稚の水のまき方で、その店の良し悪しが分るのや。よう覚えとけよ!」
そう言うと、バケツに杓を突っこみ、秀松に投げるように渡した。バケツの底が、イヤと言うほど、秀松の向う脛《ずね》を蹴った。秀松の目からポタリと涙が落ちた。
それを見て直七は、
「あかんたれ!」
と呟くと、呉服問屋成田屋と染めぬかれたのれんをくぐって入って行った。
八歳の秀松は淋しさと口惜しさに泣いた。
「何でこんな目に逢わんならんやろ」
八歳の秀松にも、八歳なみの疑問があった。
厳密に言うと、秀松は丁稚ではない。この家の次男坊なのである。戸籍謄本を調べると、亡父前戸主成田秀吉の養子秀太郎となっている。母の名は井川絹、つまり秀松は、|てかけ《ヽヽヽ》の子供なのである。
|てかけ《ヽヽヽ》と言うのは、妾《めかけ》の事であり、そう呼ばれる意味はいろいろある。旦那が手をかけた女でもあり、手数をかける女でもある。大阪の商人の世界では、|てかけ《ヽヽヽ》の子は殆《ほとん》ど父の店で働かない。よし働いても、本当の子としての扱いはされないし、時には奉公人よりも軽視される。たまたま正妻に子がなく跡を継ぐ場合にも、「あそこの当主は、|てかけ《ヽヽヽ》の子で……」と信用は割引となる。
その根拠には、決着が原因している。
決着とは、商人にとって不可欠な信用を意味する。
取引に際して値段、受渡しの条件を決めておかねば、トラブルの原因となるし、その条件による受渡しをすませ、支払いが完了してこそ取引は成立する。すなわち決着がつくのである。
ましてや契約書など存せぬ過去の商取引においては、この決着をいかなることがあってもつけることが絶対であり、信用を成立させることになる。
そんな決着を絶対視する商人の世界で、|てかけ《ヽヽヽ》の子を家へ入れるということは、決着がついていない証拠となり、信用を傷つけることともなるのである。
何故ならば、子供を入れるということは、|てかけ《ヽヽヽ》との話合いの決着をつけておかなかったことを意味するからである。
通常、船場の商人の世界では、|てかけ《ヽヽヽ》を持つことは男の甲斐性として許されるし、時には信用を高める役割さえもつこともある。
信用を高める|てかけ《ヽヽヽ》とは、南地や曾根崎等の一流の芸妓のことを指す。一流の芸妓を|てかけ《ヽヽヽ》に持つ為には複雑な手続を要する。出先の料亭からその芸妓の所属する置屋へ話を通し、逆に置屋から料亭へと返事が戻ってくる。そしてそこで承諾の返事を受ける旦那とは、間違いない旦那ということになる。つまり彼女達の世界の厳しい信用調査に合格した旦那であるからで、
「あの旦那はんも、南地の芸妓を|てかけ《ヽヽヽ》はんにしやはった。あの店もやっと一流になった」
と、価値づけることになる。
男の甲斐性《かいしよう》というのは、つまり、そこ迄の信用がついたとの意味を持つのである。と同時に、そんな一流の芸妓ならば、店や家庭に危害を加えないという裏付が存したのである。
つまり、その仲介機関たる料亭は客に対する信用の為にも、置屋は料亭に対する信用がなければ営業が成立しないから、一度約束された条件は一切守られたのである。
だから、商家の妻女がそんな|てかけ《ヽヽヽ》を持つことを公認出来たのも、妻の座を狙われる心配もなく、仮に子供が出来ても父親の名前さえ教えられず、あく迄《まで》他人の子として育てられ、旦那や店は関知しなくてすんだからである。
つまり、決着がついたのである。
だが、そんな一流の芸妓以外の女を|てかけ《ヽヽヽ》にすることは、逆に信用度を落した。
いかがわしい水商売の女は、仲介する機関に信用度もなく、後でどんなトラブルが起きるかもわからなかったし、女子衆《おなごし》と呼ばれる女中とか素人女に手をつければ、情も先立とうし、決着もつけられず、子供が出来ても金よりも入籍を望む危険性があるからで、そんな女を|てかけ《ヽヽヽ》にするような男の店は、爆弾を抱えているようなもので、いつ危険が起こるかも知れぬし、そんな|てかけ《ヽヽヽ》をもつ男は、店の信用を考えぬ商人としてのだらしなさを意味することになるからである。
つまり|てかけ《ヽヽヽ》の子を家へ入れることは、そんな決着のつけられぬ女を相手にした結果だから、信用度が落ちたとしても仕方がなく、又、その子も店の信用を落す災いの子として見られたのである。
何故このように、たかが|てかけ《ヽヽヽ》の子一人の存在迄も信用度に結びつけられたのかといえば、あく迄、取引が信用取引であったからで、その取引相手が、不意の出来事で金が消えたり、情に溺れるような主人の居る店は、他人に瞞《だま》され易い危険性もあり、取引はしたものの支払いという決着が必ずつくという安全性が薄れるからである。
秀松の秀太郎は、そんな|てかけ《ヽヽヽ》の子であって、|てかけ《ヽヽヽ》である母のお絹は芸妓ではなく、料亭の仲居をしていた女であった。
だが、秀吉とお絹の場合は、いわゆる世間の評価の信用を落す旦那と|てかけ《ヽヽヽ》の関係とは些《いささ》かことなる事情があったのである。
秀太郎が生れる十年前、秀吉は、成田屋の番頭であった。
成田屋は当時船場でも老舗《しにせ》の袋物問屋であったが、明治維新後の服装の著しい激変は袋物にも影響し、三代目である当時の当主安之助の代では、在庫過多と仕入れの見込違いも手伝い、倒産寸前となっていた。
そんな矢先、安之助が急病で倒れたのである。
安之助は、幼馴染《おさななじみ》の呉服問屋糸茂の主人茂之助を呼んだ。
糸茂は、船場でも九代続いている押しも押されもせぬ大問屋であったが、当主の茂之助は、いわゆる大店の血を継ぐひ弱なぼんぼん育ちのところはなく、二十歳迄は他人の飯を喰うと、転々と他店の奉公人を自ら志望し経験して来ただけあって、どことなく野性的なところがあり、九代続いた主人の中でも創始者である初代以来の逸材との定評があった。
「安さん。何ぞ言い残すことがあるか?」
病人の見舞に駈けつけて、ちらっと病人を見ただけで、余命がないことを知って、励ましどころか、ずばりと聞くところにも、糸茂が他の商人と異なる面があった。とは言え、それが決して冷酷とは見えないのも、この男の人徳なのであろう。
成田屋安之助も、苦しい息の下から僅かに苦笑した。
「茂はん、するとわてはやっぱりあかんのか……」
「さあ、それは医者の腕次第、おまはんの気のもち方次第、けどわしをわざわざ呼びつけたからには、言い残したいことがあるさかいやろ。そしたら悔いのう言うてみい、案外さっぱりして快《よ》うなるかも知れん」
促されて安之助は苦しげに、
「娘の|おひさ《ヽヽヽ》のことや……」
と口を切った。
「おひさちゃんがどうした?」
「婿を迎えさせてほしい」
「婿を?」
成田屋に男の子が居なかったのは、妻女の|おひで《ヽヽヽ》が、女の子を一人産むと先立ってしまったからである。
その娘がおひさで、十九歳になっていた。
「よっしゃ、誰か探してみよ」
糸茂茂之助はやや重そうな口調でうなずいた。
「いや、他からは迎えとうない」
「すると店の奉公人の中から?」
「そやなかったら、おまはんに迎えさせてほしいて頼むか……」
「それもそうやな。で相手は誰や?」
「うんと言わせてくれるて約束してくれたら言う……」
糸茂が腕を組んで考えたのは、当時としては不思議な現象であった。船場のみならず世間一般でも、娘の、しかも一人娘の結婚ともなれば、本人の意志などは完全に無視され、すべて親の判断で決められ、又娘も承知せざるを得ないのが常識で、父である安之助が、わざわざ死の床で他人の糸茂に依頼し、尚承諾させる自信があるかと聞く位に、娘のおひさを口説くことは至難であったのである。
といって、おひさが親の言うことなど聞きそうにない、手のつけられぬ我儘《わがまま》娘というのではなかった。いやそれなら又口説きようもあったろう。しかし、糸茂たりとも腕を組んで考えざるを得なかったのは、おひさという娘が想像以上の船場のいとはんであったことである。
船場に生まれ、育ったからにはいとはんで当然だが、ただおひさの場合は、あまりにも船場の娘としての誇りと自負があり過ぎたのである。
幼時にして母を失った娘は、当然|乳母《うば》に育てられる。おひさの場合もしかり、乳母がついたが、父なる安之助はとかく病気勝ちで後妻を求める意志はなく、成田屋の後継者はおひさひとりと知るや、乳母の育て方の基準はより船場の女にすることにあった。
更に乳母のちえは、船場でも屈指の大問屋|鴻池屋《こうのいけや》の女中頭を勤めたことのある女であった。
おひさはそのちえにより、格式と権威を誇る天下の鴻池屋の妻女である御寮さんになり得る為に必要な躾《しつけ》と教育を、幼時から徹底的に教えこまれたのである。
おひさが小学生の時、成田屋ほどの老舗の娘でも学校へ通う時にはせいぜい丁稚ひとりが供につくのが普通であるのに、おひさには乳母と女子衆と丁稚がついて、
「一体成田屋はんは何様の子に育てよと思てるのや」
と世間を苦笑させた。
だが、安之助の耳にそんな皮肉は入る筈はなく、初めて父親を経験した安之助は、ちえに一任して安心し、むしろその躾の厳しさに喜んでいた位であった。
茶の湯、生け花の稽古事は無論、おひさは三味線、琴、義太夫節と教え込まれ、十歳の時には、水商売の女への祝儀の切り方迄知っていた。
乳母のちえが世を去ったのはおひさの十四歳の時で、その時にはおひさは完全な船場の女になっていて、御寮さんの代理を完全に果たしていた。
そんな際、成田屋の世話で船場で店を持つことが出来た問屋があって、その主人の危篤の知らせを受けて、留守の安之助の代理でおひさが行ったことがあった。
夫の床の傍でおろおろして挨拶も出来ずにいる三十二歳の妻女を別室に呼び、十五歳のおひさが、
「あんさんが泣いていてどうします。いついかなる場合が起きても、先に手を打っておかんとなりまへん。それが船場の御寮さんだす」
と叱りつけると、番頭女子衆を呼び、通夜の客に出す米をとがせ、茶碗、座布団の類迄支度させ、寺の手配から、焼香順の段取り迄つけさせて、その妻女や奉公人を慄然とさせた。
結局主人はそれから十日目に死んだが、妻女は支度された通夜の準備の品を横目で見ながら、主人の死を待っているようで身の細る思いをし、主人の死後、
「あんな怖いことまで気をつけんならんと船場の御寮さんになれんのなら、店を閉めます」
と船場を去ったという挿話がある。
僅か十五歳でこれであったから、おひさの船場の女としての誇りと自負は高まる一方であった。
だが、おひさにとって不幸だったのは、おひさの誇りに反して成田屋が落魄していったことである。
しかし、おひさは誇りと権威を崩さなかった。
以後落魄して行っても、成田屋の中でおひさだけが老舗の格式の場を保っていつづけたのである。
それを知っているだけに糸茂は腕を組んだのである。
おひさの考える婿とは、少くとも成田屋と同格の問屋の次男坊としか頭にないのは当然であろう。
とは言え、糸茂もここで死の床の安之助の言葉を拒否しては、おひさの婿は永久に来ないことは知っていた。
この落ち目の成田屋を助けるのは、やはり人材しかなかったからである。
「安さん何とかしよ。で、婿にしたいのは秀どんか?」
安之助はうなずいた。
「やっぱりな。誰が見る目も一緒や。あの男なら間違いない。何とかやってみる」
「頼む……」
安之助はもはや虫の息であった。
糸茂は、その病床へ番頭忠助、孝助を立会人として呼び、まず秀吉を呼んだ。
「秀どん。成田屋はんはあんたをこの家の婿にと言うてはる。承知して安心させてやってくれんか」
秀吉は、この突然の糸茂の言葉に耳を疑った。そして、それが何を意味しているかと知ると狼狽《ろうばい》した。
秀吉には既に夫婦になることを約束した女がいたのである。それがお絹であった。
だがその事実は、糸茂はもとより成田屋の誰も知らなかった。問屋の奉公人が主人に許可なく夫婦約束をすることなど、論外であった。仮に親許《おやもと》がすすめた縁談であっても、その嫁になる娘を、お目見得《めみえ》と称して店で一定期間働かせて主人の妻女の眼鏡にかなわねば嫁にはできぬのが掟《おきて》であった。
その掟を承知で秀吉がお絹と夫婦になることを決めていたのは、お絹とは、郷里の近江《おうみ》の膳所《ぜぜ》で幼馴染《おさななじみ》で、子供の頃から既に末は夫婦との両家の親同士の暗黙の諒解があったことで、主人に言い出しても反対されまいとの目安もあったし、事実二人は本来ならもうとっくに世帯を持っている筈であった。
だが、苦境の続く成田屋で、秀吉はその話も持ち出せず、二年三年と経ち、その内、お絹は事情を知りながらもやはり淋しくなったらしく、せめて秀吉のいる大阪でと郷里から出て来て、曾根崎の紀春という料亭の仲居になったのである。それも無理はない。お絹は既に二十五歳、とっくに婚期も過ぎていたのである。
そんな秀吉だから、糸茂の言葉に狼狽したのは当然であったが、主人の安之助から殆ど視力のなくなったうつろな眼を向けられて、
「秀……頼む……」
と縋《すが》るように言われ、忠助、孝助の二人からも、
「秀どん、旦那さまをご安心させたげんかいな」
とせっつかれては、うなずかざるを得なかった。
だが、うなずいた秀吉は、恩ある主人を安心させて死なせようとの気持だけで、婿になるとの意志は毛頭なかった。
その意志を持たなかった最大の理由は、おひさが拒否することを知っていたからである。
おひさが娘となって、氷の冷たさに包まれた、まるで蝋《ろう》人形のような美しさを備えて来ても、秀吉にとって、おひさはあく迄、主家の娘であり、女性としての感触がみじんも湧かなかったのは、秀吉にお絹がいたからばかりではない。
主人の娘として、奉公人に柔らかい眼を向けることすら権威に傷がつくと教えられたおひさだけあって、秀吉を見る眼は冷ややかであった。ましてや、秀吉は丁稚としておひさの供迄して小学校へ行った身である。
そんなおひさが秀吉を婿にするということはあり得ない、と考えた秀吉を責めるのは酷であろう。
糸茂は、秀吉がうなずくと、秀吉を去らせて、台所で通夜の手筈を女中達に指図しているおひさを呼んだ。
「おひさちゃん。あんたのお父さんがな、目の黒いうちにあんたの婿を決めてほしいとこのわてに頼まはったんやけど、あんたはどや?」
「当然のことでございます。で、相手はどこの問屋はんの息子はんだす?」
こう聞かれて糸茂は一寸ためらったが、
「店の秀どんや」
と言った。それを聞いたおひさは、糸茂を凝視し、それからゆるりと死の世界に入りかけている父を見ると、
「恥さらしな」
と呟くのを糸茂は聞き逃さなかった。
「恥? 何が恥や」
「奉公人から婿をとるのはせいぜいが中問屋迄がすること、糸茂のおじさんは成田屋の格を落そうとしはるんですか」
「落そうとするんやない。落ちた格を引き上げる為や」
「何ですて、おじさん。おじさんはこの成田屋をどう思うてでおいでだす。成田屋は船場でも」
「のれんを降ろさんならん筆頭やな」
「何ですて!」
糸茂はここへきて初めて、誰もおひさの耳に成田屋の現況を入れていないことを知った。
おひさは、愕然として忠助を見た。
「ほんまか?」
「へえ……」
忠助は、がっくりと首を垂れた。
「奉公人で守ろうとする者もなかったんやな」
店は奉公人が守るもの、いややがては自分で分けて貰うのれんを死守し、格を上げるのが奉公人の義務、これも大問屋の教えであった。
「守ろうとするもんがなかったんやない。格が邪魔して守れんかったんや。そやからその格を外して、一から秀どんにまかそて言うのがあんたのお父さんの考えや。今の成田屋を助けるもんは金でも格でもない。人間や」
「そんなおひとは問屋の息子はんにも居てはる筈だす」
「居てへんな」
「探したら居てはるに違いありまへん。この成田屋なら」
「その成田屋が落ち目やさかい、来手がいてへんて言うてるやないか」
糸茂の厳しい言葉に、おひさはあまりの屈辱に唇をわなわな震わせると、暫《しばら》く糸茂に返す言葉を探していたが、やがて、
「それで秀吉は? そのことは?」
「承知した」
「何ですて!」
おひさの顔が珍しく紅潮したのは、恥じらいでも歓びでもなかった。煮えくり返るような怒りを覚えたのである。
(うちにあんなに知らん顔していたあの男が……)
おひさは、秀吉が誰よりも自分を無視していることは感じていた。それがおひさにとっては、もっとも信頼感の持てる奉公人との評価を抱かしていた。
それが裏切られた怒りであった。
おひさは、そのまま立つと店へ行った。
そして、結界の中で、そろばんを手にして考えこんでいる秀吉を見ると、
「秀吉、あんたうちの婿になると言うたそうやけど、あんたその心の中でそんなこと願うてたんか!」
と、睨みつけた。すると秀吉は、
「いいえ。わては旦さんに安心して頂けるように答えただけで、そんな気持は毛頭ございません」
その冷ややかな口調の中に嘘がないことを知ると、おひさの心は決まった。
「そうか。そんならうちも一緒や。うちもあんたを婿にしとうはないけど、お父さんの為に婿にしたげる」
秀吉はその途端、めまいを感じた。
その夜、安之助の死期が近づき、親戚縁者が詰めかけて来て、おひさの婿に秀吉が決まったことが内々に知らされているとのことを聞くと、秀吉はたまらず、糸茂にひそかに事情を打ち明けた。
すると糸茂は、秀吉をジロリと睨みつけると、
「秀吉、お前が商人やなかったらわしも考えよ。けどお前は商人やろ。その商人が、相手が売らんやろとの思惑で空買いして、売るて返事されたらあわてて取り消す、それで通ると思てるのか、たとえおのれの思惑が外れても、一旦買うと言うたらどんなことがあっても決着をつける、それが商人やろ! 何の為に船場に居るんじゃ! このど阿呆が!」
秀吉は、そう叱られると反論は出来なかった。
商いなら、たとえ相手に売る品物がないだろうとの思惑で駈引の為に空買いしても、売ると言われれば受渡しの決着はつけねばならない。だからいついかなる場合でも、空売り、空買いを口にする以上、相手があるとの前提で話をしないと危険のもと──。
それは充分心得ていた筈の秀吉であった。
しかしである。秀吉は、自分を待ち続けるお絹を思い浮かべるとそれではすまなかった。縁者が駈けつけて来て、おひさの婿の決まったことが発表されると知って、秀吉がたまりかねて一部始終を打ち明けると、その返事がそれであった。
「けどあの場合、恩をうけてる旦さんを喜ばす為にも、奉公人としていやとは言えまへんでした」
「と言うて、今更、断わりますでは、恩をうけた主人の娘のあのおひさはんはどうなる。奉公人にすら婿になるのを断わられた、そんな噂が拡がって誰が婿の来手がある。おひさちゃんは一生婿はもてんやろ。それ承知なら断われ」
そう言われては、秀吉はそれでもと言えなかった。いや、言い返せないとどめを刺すような厳しさが糸茂にはあったのである。
秀吉は、重い足をひきずってお絹のいる曾根崎の紀春に向かわねばならなかった。だが別れる為に寄ったのではない。
「どこか遠いとこへ行こ」
これが秀吉の解決方法だった。糸茂の言う通り、おひさの婿に一旦うなずいてから取り消しては、おひさの将来はもとより秀吉さえ船場には居られなかったからである。
だがお絹は静かに首を横に振った。
「あんさんは、商人になろ思てこの大阪へ出て来はりましたなあ。わての為に十七年の苦労を水の泡にしやはるんですか。いけまへん。そんだけ商人として望まれてはるあんさんを、このわての為に商人にささんかったら一生悔いが残ります。もっと強うなっとくれやす」
それがお絹の訣別の言葉で、秀吉が何と言おうと耳を貸さぬのみか、翌日訪ねて行くと紀春にはもうお絹は居なかった。辞めたというのである。急いで郷里に問い合わせても、帰って居ぬとの返事。秀吉は唖然とした。
ただひたすらに秀吉を待ち続け、秀吉の言葉にさからったことのない、むしろいじらしい迄に男に頼ってくる、そんな弱々しいお絹のどこにこんな強靭な意志が匿《かく》されていたのであろうか。
秀吉は、身を切られる思いでおひさとの祝言の盃をあげて、四代目成田屋当主となった。
明治二十年秋のことであった。
妻となったおひさに何の愛情の現われもなく、食膳に向かう秀吉の箸の上げ下げにも、
「それでは、船場の主の喰べ方やないと恥をかきます。もっと品のある喰べ方が出来まへんか」
言葉遣いだけは、主人に対するそれに変わっても、秀吉を見る冷ややかな眼は、いとはん時代の奉公人を見るのと些かも変わらぬその眼に秀吉は、まるで針の筵《むしろ》に坐っているような成田屋の婿の座であった。
そしてその度にお絹を思い浮かべ、その居たたまれなさが商売へぶっつけられた。
秀吉がやったことは、袋物問屋から呉服問屋へ移行することであった。
明治維新の改革で士農工商の差別は除かれても、生活は商工農の順位で、百姓は相変らず苦しかった。
だが城主への租税の分が、地主へ移行されて些《いささ》か楽にはなりつつあった。
秀吉の狙いはそれであった。
生活が安定してくると衣食住に現われる。百姓にとっても、娘はやはり娘らしい着物が欲しいだろう。
秀吉は、農村向けの着物用の反物を扱い出したのである。と言って呉服問屋の販売経路に喰い入ることは難しい。
だが、成田屋には地方にも袋物の得意先が多数あって、それらの店も成田屋同様、目まぐるしい趣好の変遷に手を焼いていることを知ると、そこを呉服店に変えていったのである。
おひさは激怒した。
「呉服問屋なら友禅扱う問屋をやっとくれやす。田舎向けの呉服もんでは、成田屋は格を落す一方だす」
おひさの主張するのも理由があった。
船場でも商人の主流は呉服問屋、本町筋には糸茂や名ある老舗が軒を並べていた。だが、それら主流の扱う商品は、京呉服が主体であった。
木綿物や絣《かすり》、せいぜいが銘仙類の問屋は、呉服問屋の系列にも加われなかったからである。
だが、秀吉は、こと商いに関してはおひさの言葉に耳を貸さなかった。
「好きにやってええというのが、死なはる前のご先代のお言葉やった」
こう言い切ったのである。
二年経つと成田屋は、隆盛を見せ始め、五年目には、呉服問屋の新参勢力の一翼をになっていた。
秀吉の狙いが功を奏し、未開拓だった市場を成田屋が独占して行ったのである。
それに加えて、成田屋を繁栄させたのはモスリンであった。
この絹の織機から作られるモスリンは、綿とは思えない柔らかい感触があって、安価であった。
目の肥えた女なら安手のペラペラの着物と軽蔑するこのモスリンが、下町や農家の娘には絹に見えた。加えてモスリンなる舶来語が、漸く流れに乗って来た欧米文化導入と合致してハイカラさを表わした。
忽《たちま》ち全国にモスリンが拡まり、町を歩く女子達や、子守女達が外出着としてモスリンを愛用した。
この販売経路や市場は、成田屋の独壇場で、まさしく、成田屋のモスリンのごとき感があった。
成田屋は、旭日のごとき力でのし上がり、店は増え、奉公人の数も五十人を越したが、御寮さんのおひさは笑顔ひとつ見せず眉に皺《しわ》を寄せた。
秀吉の店での接客法、奉公人の教育、どれをとっても、船場の一流問屋とは思えなかったからである。
そして、世間が秀吉のことを、船場の太閤はんやと称する反面、大問屋の間では、
(成田屋やのうて成り上がり屋や)
と、蔑視していることを知っていたからである。
(お金が格を作るんやない。主人が格を作るんや。子供だけには何とかして、船場の躾をせんといかん)
おひさは、そんな秀吉をむしろあきらめ、その期待をわが子に向けた。
だが、おひさには男の子がなかった。
既に二人出来た子供は、糸子、富江なる女の子であったから、どうしても男の子が欲しかった。
昼間は露程も女らしさを示さぬおひさが、夜になると誇りを忘れ、秀吉の肌ににじり寄ろうとするのも、おひさの男の子欲しさの執念の現われであった。
秀吉は、そんなおひさを見て、暗い部屋で眉をしかめるが、もう反抗は示さなかったし、お絹の顔を思い浮かべなかった。
秀吉は、お絹と再会していたからである。
秀吉とお絹の再会は、この一年前、明治二十四年のことであった。
その頃になり漸く主流の呉服問屋の仲間に加われ、その年、会合が南地の重の家なる料亭で開かれた時であった。
酒に弱い秀吉が酔い過ぎて別室を借りまどろんでいると、秀吉の体に何か羽織らされたような感触がして、秀吉が半分は夢うつつで薄目を開くと、また夢の結末を見ているのやと信じたのも無理はない。
お絹がいたからである。
だが、それは夢でなく現実であった。
お絹は、秀吉が目をさまさぬように、足音をしのばせて部屋を出ようとしていた。
「お絹! お絹やないか!」
秀吉の言葉に、お絹は、まるで隠れんぼうをしていて見つかった子供のように、渋面とはにかみを見せながら、
「ご無沙汰いたして居ります」
と、部屋を出て行こうとした。
「待ってくれ! お絹……探した。探したんや」
秀吉は、お絹の手をつかんでとめた。
お絹は顔をねじ向けながら一言も語らなかったが、目尻から涙が滴り落ちていた。
その涙を見て、お絹の心が未だに自分にあることを知ると、秀吉はたまらなかった。
「お絹! 頼む。わてはあれから……」
「いけまへん」
お絹はそう言いながら、秀吉を避けるように、さっき羽織らせてくれた羽織を畳み出して、
「しつけ糸がついてます」
と言うと、白い歯を見せてきりりと噛んだ。
細っそりしたお絹の体の首の線が余計細くなって、この四年間のお絹の苦労を物語っていた。
「もう放っとかん」
「何を言うてはります。御寮さんも、お子さんがお二人もおいでだすのに……」
お絹は充分知っているかのように言った。
「たとえ居てても、わてはな……」
「成田屋はん大きいなって、ほんまによかったと喜んでます」
お絹の一言、一言が、秀吉の心に釘を打ちこんで行った。だが、同時に、それは秀吉のことを忘れていぬお絹の心を現わしていた。
秀吉は、それから重の家へ通い続けた。
「なあお絹、もう放っとけん……」
秀吉の言うのはそれだけだった。それを言うとお絹は立ち上がって部屋を出て行き、二度と帰って来ない時もあった。
だが、お絹がそれでも重の家を辞めようとしなかったのが、せめてもの望みであった。
秀吉がお絹と再会して三月目、
「負けました」
お絹は初めて秀吉に反応を示した。
「御寮さんやお子さんに悪いと思う心も、疲れが先立ちました。もうどうにでもなれと思う気持になりました」
お絹は、やや恨めしげな眼を秀吉に向けた。
その夜、秀吉は生国魂《いくたま》神社の近くのお絹の借りている二間しかない借家で、お絹と結ばれた。
お絹は、それ迄男を知らぬ体を秀吉に預けながら泣いた。そして夜明け迄泣き続けた。
秀吉は、そんなお絹の背中を一晩中撫でてやった。
お絹はその夜一言も喋らず、朝秀吉が目をさますと、
「ご飯が出来てます」
と恥じらいの目を向けた。
秀吉は久し振りに、船場の格式を無視する朝食の箸をとりながら、歓喜に包まれていた。
「なあお絹、又来てええな」
「いえ……それは……」
「なあ、いやと言うのんか。もうわてらは、夫婦や。五年前の元へ戻ったんや。せめてこの家へ来た時だけでもそう思わせてくれ」
秀吉は、翌日又訪れたが、お絹はもう断わらなかった。
秀吉の心から嬉しげにしている顔を見ると、断われなかったのだろう。
それはお絹が、後で秀吉に述懐したことでもわかった。
「あの時、重の家で、あんさんの羽織にしつけ糸がまだついているの見て、あんさんのことはすべて女子衆さんまかせやとわかったんです。奥さんなら何をおいても、旦那さんの着物のしつけ糸は切らはるもんやないかと」
秀吉はそれを聞くと、おひさの冷たさをも知っていて、それでいて三カ月も断わり続けたお絹の芯《しん》の強さに、やはり舌を巻かざるを得なかった。
そのお絹が、頑として受付けなかったことがもうひとつあった。秀吉から一|厘《りん》の金をも受取ろうとしないことである。
「お金を預くと|てかけ《ヽヽヽ》になります」
これがお絹の言い分だった。
「何を言うてる。この金はわてがこの手で作った金や」
「それでも、いずれはお子さんに渡るお金だす。そのお金を頂いては、わての支えがのうなります」
秀吉は、そう言われては、どうにもならなかった。
秀吉こと四代目成田屋が、|てかけ《ヽヽヽ》を囲ったということは、ちらほらと噂も出たり奉公人も知ってはいたが、
「どや、生国魂はんのこと、何とかご寮さんの耳に入れんようにしたげよやないか。そやないと、あんまり旦はんもお可哀そうや」
と、秀吉のために喜んでいるかのように言った。だから秀吉の生国魂通いも比較的楽であった。と言っても、お絹は夜が仕事だから、殆ど昼間仕事にかこつけて寄っていた。そんなお絹を見て、郷里から飯たき代りに来ている母親のおすみが、
「仮にもお前は足軽の娘、それが妾|風情《ふぜい》になり下がるのも、嘆かわしいのに、夜と昼とをさかさまにして、御先祖様に何と申し訳が立つやら」
と、ぐちをこぼしたが、それでも秀吉が来ると、目をしょぼつかせながら露地の表で帰るのを待っていた。秀吉も見かねて、
「おばさん、どうぞ家の中にいてとくれやす」
と言うと、首を横に振って、
「わての家は、家代々の足軽、門番には慣れてるわい」
と、ぶすりと答えた。お絹が秀吉の子供を宿したとわかったのはそれから半年後であった。初孫が出来るのを知るとおすみは喜び、
「何とか男の子やとええのになあ」
と言うのを、お絹はとんでもないと言う顔で、
「わては、女の子を産むんどす。御本宅には男のお子がおいやへん。もし男の子を産んだら、あの秀さんのこと、跡とりにでもと言うてくれはったら、御本妻さんに申し訳おまへん」
と怪訝《けげん》そうなおすみに答え、
「そんなら何の為に産むんや」
と聞かれると、
「わてが生きて行く支えです」
と言い切って、益々おすみの小首をかしげさせた。
秀吉は、愛するお絹の腹に自分の子が宿ったと聞いて喜び、何とか男の子を産んでくれと祈ったが、何とお絹がみごもった一カ月後に、おひさも身ごもったのである。
「今度は、何とか男の子を産みとうおます。どんなことしてでも」
まるでおひさが呪いをこめたように言うのを聞いて、秀吉は不安な予感を感じた。
その予感は的中した。
それから七カ月、お絹は産み月、今日か明日かの腹を抱え、おひさの腹が九カ月目のときだった。おひさに、お絹のことを耳に入れる男がいたのである。先代の弟に当たる治三郎と言う小売屋の道楽男で、おひさに取り入り、手切れ話の仲介で金のサヤでも取ろうとする魂胆であった。
「こう言う噂聞いたんやけどな」
との前置きでお絹のことを切り出すと、おひさはちらっと治三郎を見て、
「恥さらしな」
と呟いてから、
「あのひとはどこ迄成田屋の格落したら気がすむのやろ」
世にも情なそうな顔をすると、
「おじさん、そこへ連れて行っとくれやす」
と言い出して治三郎をあわてさせた。
「お前が行かんかて、わてが話つけたる」
「いえ、船場の商人が、南地あたりの芸妓はんを|てかけ《ヽヽヽ》に持つなら、せめて格を上げることに役立っても、仲居風情を|てかけ《ヽヽヽ》にするとは情ない。そんなおなご、後々までどうかかわりおうてくるかもわかりまへん。わてが行ってはっきり決着つけてやります」
ともう大きい腹を抱えるようにして立ち上がると、箪笥のひき出しからふくさをとり出していた。
生国魂神社の界隈《かいわい》は、昔から芸人や妾の家の多いところ。人力車から降りたおひさは、昼日中から聞えてくる太三味線の音を聞くや、不潔そうに眉をしかめた。困ったのは治三郎であった。
「な、おひさ、もう一回考えなおしてわてに任しとき」
「どこだす。案内頼みます」
仕方なく治三郎は金をあきらめ、お絹の家を教えた。
おひさは、みすぼらしいお絹の家の前に立つと、さも汚らわしげに、
「恥さらしな」
ともう一度吐き捨てるように言うと、治三郎を外に待たせて格子戸を開けた。
「どなたはんだす?」
手を拭きながら出て来たおすみに、
「成田屋の家内だす。お絹さんというひとに逢いとうて来ました」
と言うや、つかつかと上がり、二間しかない部屋の襖《ふすま》を開くと、布団に寝ているお絹を冷ややかに見下ろした。
「あんたがお絹はんでっか」
「はい」
成田屋の御寮さんと知り、懸命に布団の上へ起きようとするお絹の腹を見た時、おひさの顔から冷ややかさが消えた。
「あんた、その子?」
「ええ、秀さんのお子でございます」
「へえー。あのひとは、|てかけ《ヽヽヽ》囲うだけで気がすまず、まだその上、子供迄産まそうと言うのかいな」
と、これ又大儀そうに大きい腹を突き出して坐ると、懐からふくさ包みをとり出した。
「これで決着をつけに来ました」
「決着?」
「今日限り、あんさんとそのお腹の子は、成田屋と何のかかわりあいものうしてほしいんだす」
するとお絹は、
「お言葉を返すようではございますが、わてもこのお腹の子も、成田屋はんとは何のかかわりあいもございまへん」
「何やて。現にその子はうちの人の子やと」
「へえ。秀吉さんの子であっても、成田屋はんの子ではありまへん」
「あんた、怪体《けつたい》なこと言わはるな。その秀吉は成田屋の主人、そしたらあんたは成田屋の|てかけ《ヽヽヽ》で……」
「いいえ」
そこで初めてお絹はおひさを正視した。
「わては、|てかけ《ヽヽヽ》ではございまへん」
「何やて……あんたようそんなことを……本妻というわてが居たら……」
「いえ、|てかけ《ヽヽヽ》ではございまへん。その証拠にわては一|厘《りん》のお金も頂いておりまへん」
「何やて……恥さらしな」
秀吉の方が金を出していないと思ったのであろう。
「わかりました。今日迄の分、後で届けさせます。そやからこれは手切りのお金だす」
「頂きまへん」
「何やて。これで足りんて言うんだすか」
「いえ、お金の為にお世話になってるんやないからです。わてと秀吉さんは、心と心で結ばれた仲で、お金で結ばれたんと違います」
「どんな心か知らんけど、わてという本妻があるのに……」
「それは申しわけないと思ってます……」
頭を下げようとしたお絹におすみがたまりかねて、
「お絹、何であやまるんや! あやまってもらわんならんのはお絹の方や。御寮さん、秀さんとお絹の仲を引き裂いたんはあんたの方ですで。そやなかったら、お絹はれっきとした秀さんの嫁ですのや! どっちが手切りたい!」
「何やて、それ……ほんまか!」
思いもかけぬおすみの言葉に愕然としたおひさは、母親にそれ以上言うなととめるお絹を促した。
「はい。けどそれは、御寮さんのせいやおまへん。けどあては|てかけ《ヽヽヽ》やおまへん。成田屋はんのご身代にご迷惑はかけてまへん。それだけは……」
お絹は、そこ迄言うと苦しげに体をねじまげた。
産気づいたのである。
「みてみい! そんなことであやまるさかい、お腹の子が怒り出したんや……」
おすみが憎まれ口を叩きながらもいそいで産婆を呼びに行くと、おひさは苦しみ続けるお絹を凝視しながら、唇を震わせていった。
六年前の父の死の日、あの秀吉が店の結界でおひさの婿になる気は毛頭なかったと言い切ったわけが、思い当ったのである。
(あの時から既にこの女が居たんや。そやからあんなにもはっきり言えたんや。何くわん顔して……。それやのに何で成田屋の婿になった)
おひさは、苦しんでいるお絹に縋りつくようにして聞いた。
「もう一言だけ聞かせて。それやのに、あのひとは何でわてと一緒になった? あんたよりも成田屋の主人の座に魅《ひ》かれてやろ……」
するとお絹は、苦しげに、
「違います。わてが身を退く決心をしたんだす。それに糸茂はんが……」
おひさはそれを聞くと愕然とした。
それだけ聞けば充分だった。
すべてを糸茂が知ってた上で、秀吉を婿にしたのである。そして、このお絹に身を引かせた──。
そう解釈したのである。
(それを知らんかったんはわてだけやった)
おひさは腹の底からこみあげて来る怒りを覚えた。
そんなこととは知らずに、あの時秀吉に、わてと一緒や、婿にしたげる、と言い切った自分をあの秀吉は何と思っただろう。
この男は内心喜んでいるに違いないと思ったおのれが愚かしかった。
そして、そんな仲と知らずに、手切れ金を持参して、こんな女に、
(|てかけ《ヽヽヽ》と違います)
と言い返され、その上に仲居風情の女からあべこべに秀吉をとったように言われたことがである。
それが、誇り高きおひさには、たえられぬ屈辱であった。
糸茂からは何も聞かされず、自分ひとりがこけにされた怒りも大きかった。
おひさは、帰って、秀吉にすぐに出て行ってくれと言おうと思った。
「あんたにふさわしいおなごのところへ戻りなはれ!」
それよりこの屈辱を癒やせる術はなさそうだった。
おひさは、二足、三足歩き出すと先の間の境の柱につかまった。
おひさの腹の子も怒ったのか、猛烈な陣痛が始まっていたのである。
(いかん。こんな|てかけ《ヽヽヽ》の家で子を産んだら、それこそ恥さらし、成田屋の格は落ちる……)
何とかして起き上がろうとはしたが、もういけなかった。
翌朝、その家で、本妻と|てかけ《ヽヽヽ》が枕を並べて、殆ど同時に子を産んだ。
どちらも男の子であった。
喜んだのは産婆だけだった。
おひさとお絹が共に男の子を産んだことを聞いて、秀吉が生国魂の家にかけつけたのは、翌日の昼前だった。おひさは座敷、お絹の方は台所が産室であった。
「ここは、自分の家やもん、お前は威張って座敷で産んだらええ」
お絹の母親おすみが言うのを、
「いいえ、御本妻はんと同じ座敷で産んではなりまへん」
と陣痛の苦しい体を這うようにして台所へ行ったのである。その遠慮のせいか、お絹の子は七百匁、おひさの子は月足らずなのに九百匁もあった。
本妻と妾が同じ家で子供を産んだことは、すでに産婆の口からその夜のうちに近所に洩れ、またたく間に船場中に知れた。
近所の人間は、秀吉がどちらを先に見舞うかと興味を持ったが、秀吉が先に見舞ったのはお絹の方だった。
「お絹、男のやや子産んでくれたんやてなあ」
お絹の掌を撫ぜながら、わが子に秀吉が目を細めて言うのに、お絹は、
「早う、御寮さんを」
と、うながした。秀吉は渋々立ち上がって、重そうに座敷のふすまを開けた。だが、冷ややかな目を向けたのは分家の治三郎とお秋夫婦で、
「どや?」
と聞いてもおひさは目を閉じ、顔をそむけたまま見ようともしなかった。
そこへ、おすみが買物から帰って顔を出し、秀吉を手招きして外へ連れ出した。
「えらい騒ぎやったで、何で本妻を来させるんや」
「えらい、すんまへんでした。まさかこの家を知って来るとは思いまへんでした」
だがおすみの用件は他にあった。
「秀はん、言うとくけどな、娘の方があの本妻はんより十分早う産みましたんやで」
秀吉はそれを聞くと大きくうなずいた。
おひさが船場の家へわが子と帰って来たのは、それから五日後だった。人力車から降りると、興味深く集まってくる近所の連中を見て、成田屋の格が又落ちたことを知らねばならなかった。おひさは逃げるように家へ入ると、忠助に、
「忠助どん、塩や、塩貸し」
塩を持ってくるなりパッパッとふりかけ、赤ん坊の額にもちょいとつけた。そして奉公人の挨拶に会釈《えしやく》も返さず座敷へ入ると、着ているものを全部脱ぎ、女中のお春に、着がえを手伝わせ、
「あ、汚な! まだ|てかけ《ヽヽヽ》の匂いがする。この着物洗い張りに出すのやで」
と身をふるわせ、もう一度忠助を呼んだ。
「秀吉はどこへ行ったんや」
「へえ、神戸まで商いにお出かけだす」
「ご親戚を皆呼びなはれ、相談がある言うてな、すぐやで」
忠助は不審ながらもすぐさま、丁稚を使いに出した。お絹のことを注進に来た叔父の治三郎、堺にいる先代安之助の従姉妹《いとこ》のおせい、天満《てんま》の母方の叔父に当る餅屋の与兵衛、築港《ちつこう》の又従姉妹のお度が何事かと続々集まったのは、もう日も暮れかけた頃だった。どの親戚も、あまり裕福な者はなく、成田屋からの招集と聞いて、晩飯の馳走にでもありつけると、中には、子供三人引き連れて来たものもあった。
やがて集まった親戚の前で、飯も出さずにおひさが口を切った。
「今日、皆さん方においで願ったのは他でもおまへん。秀吉を不縁にしたいと思うてだす」
一同はあっけにとられた。不縁というのは離婚のこと、いくら女系家族の多い船場でも、娘の親の主人が婿養子を離婚さすことはあっても、嫁が亭主の離婚を宣言するのは先ずないことである。
「おひさはん。早まったことをせん方がええのんと違うか」
一番年かさのおせいが口を出すと、
「いえ、わての決心は変りまへん。その方があのひとも喜んではりますやろ」
「けどそんなことしたら店はどうなる? この成田屋を今日迄したんはあの男てことは、皆が知ってる」
「この成田屋は一時のれん降ろそうと思います」
「何やて」
これにも親戚は驚いた。あれ程、成田屋とかのれんにこだわるおひさが簡単に店を閉ざそうとしたからである。
「何でや……おひさ」
乗り出す治三郎に、
「おじさん。わてがあんなとこで子供産んで、成田屋の格がこのままでいる筈はおまへんやろ。そやから、この安造の為にも、一時のれんを降ろし、大きいなって改めておこさせるんだす」
そこで親戚も初めて、その男の子が安造なる初代と同じ名をつけられたことと、おひさがお絹の家で枕を並べて子を産んだ事実を知ったのである。その途端、反対の声は湧かなかった。
誰が考えても、そんなことがあった以上、成田屋の格はそのままですむ筈はなかったからである。
「こら、おひさはんの言う通りにした方がよさそうやな。本妻と|てかけ《ヽヽヽ》に同じ時にややを産ませた、この噂は面白半分、当分は消えんで」
与兵衛は、産んだおひさのことには触れず、秀吉のことを指したが、事実、成田屋の店の前は人だかりがして、
「へえ、ここかいな、本妻と|てかけ《ヽヽヽ》が手握り合うてややを産んだんは」
とか、
「けど器用やな、ここの旦那、同じ時に枕並べて子供産ませた訳やさかい、同じ時に本妻と|てかけ《ヽヽヽ》二人並べて寝させたんと違うか」
と明らさまに言う声が聞こえる位であった。
そこへ戻ってきた秀吉は、いきなり不縁の話を聞くと、じっと考えていたが、
「わかりました」
と素直に承知した。
「わても、あまりの噂の大きさに恥ずかしいと思とります。この際、成田屋を出させて頂きます」
「ほな、後はあんさんのほしいだけお金持って行っとくれやす」
立ち上がるおひさに秀吉は、
「いらん。わてが婿になったのは身代盛り立ての為だけや。その盛り立てた金持って行ったら元の黙阿弥やろ」
「何だすて……わての欲しかったのは格だす。身代やありまへん!」
それがおひさとの訣別の言葉になると思った秀吉であったが、そうはいかなかった。
番頭孝助からの急報で糸茂が顔を出すと、秀吉を呼んだ。
「お前は店を出る。成田屋はのれんを降ろす。それでええかも知れんが奉公人はどうなる? お前を慕うて働きに来た者も居る。お前と苦しい中からやって来た者も居る。どうなるんや?」
「へえ、身の立つようにしてやります」
「身の立つようて、お前とこで働いていた奉公人を他の船場の店で使うと思てるんか? お前とこの奉公人は、お前とこしか通用せん使われ方してたんと違うのか」
秀吉は、指摘されて顔を伏せた。
成り上がり屋といわれる成田屋は、船場のしきたりや掟をむしろ破るやり方をしていたからである。
「なあ秀吉、その奉公人が見放されるのは捨ててはおけん。お前の気持もわかるが、もう一回やってくれ。その代り、お前が信用を回復させたら、その時は大手を振って出て行けるようにおひさはんに約束させる。どや?」
秀吉は今度は抵抗なく、へえ、わかりましたと承諾した。
奉公人のことを安易に考えていたおのれが恥ずかしかったのである。
糸茂は、おひさと話をつけた。
おひさは渋々納得したらしいが、ひとつだけ条件をつけて来た。
「格を上げる以上、お絹に逢わぬこと」
それであった。いくら格を上げようとしても、噂の|てかけ《ヽヽヽ》の家へ秀吉が通っていては、上がらない。それはそれなりに筋が通っていた。
「わかりました」
秀吉はその条件を聞いた。
お絹も、異存はなく、むしろ喜んだ。
「一日も早う格を上げとくれやす。今後は待ち甲斐があります。秀太郎と一緒に待ってます」
秀吉の秀をとって秀太郎──。それがその子の名となった。
秀吉はこうして成田屋の主人として、継続してやることになったが、格という無形の価値を上げることは、財産を増やすことより難しかった。
その評価は、自分がするものでなく、第三者がするからである。
しかも、例の本妻と|てかけ《ヽヽヽ》が枕を並べて子供を産んだ事件は、七十五日と言われる噂の期間がすぎても消えなかった。
いや、秀吉を見る度に、指をさされ、好奇の眼となった。そして成田屋は、大問屋の主人の会にも呼んでもらえぬようになっていた。
だが秀吉はじっとこらえた。
何とかして一日でも早くお絹と秀太郎の家へ戻りたかったからである。
そして、成田屋のそんな噂も消え、どうにか格も持ちなおし、その寄り合いに呼んで貰えたのには七年間を要した。
七年後、明治三十三年のことだった。安造も、秀太郎も、小学一年に入学する歳だった。
秀吉が突然吐血した。どうにか信用も回復し、店も手ぜまになり、西隣の土地を買い、拡張して店を新築した。それさえすめば、役目は果たせたと秀吉がほっとした、その竣工式の夜だった。
医者が呼ばれ診察した結果、胃病だと診断した。
「お絹の家へ知らせてくれ」
秀吉は、激痛に体を折って叫んだ。
だが、おひさは、首を縦には振らなかった。
「今知らせては、働かせるだけ働かせて、病気になったいうて知らせたて、あのお絹はんておなごに言われるやろ。治してから知らせます」
だが秀吉の体は、回復するどころか目に見えて悪化して行った。それも道理、すでに秀吉の胃には癌が進行していたのである。
だが、当時の医学に癌なる言葉すらなく、死を待つだけの難病であった。
「御寮さん。何とか、旦さんを生国魂はんのお家へ」
あの時、糸茂を通じて秀吉を踏みとどまらせた孝助は、秀吉が生国魂という言葉を出すのをこれ以上聞くにたえず頼むと、おひさは、
「こんなとこ迄放っておいた、とお絹はんに言われてもええのんか。いや、今|てかけ《ヽヽヽ》の家で死なせたら、この成田屋は何と言われる。それこそ血も涙もないと又格を下げる。それではあの人が何したかわからんやろ。それよりも、あのひとを、成田屋の主人として見送ってあげよう」
これがおひさの決意であった。
確かに無情な言葉ではあったが、店を考えると、おひさの言うことは正論であった。
「そんなら御寮さん。せめてお絹はんとお子さんをお見舞いにでも……」
「何を言うのや! 眠ってる子をさまさせたいのか! 又世間様が何て言わはる!」
おひさに一蹴されて、孝助は、つらかった。いや古い奉公人達は心苦しさを感じていた。
あの時、家を出ることをとめたからである。
だが、奉公人の中でも、それをお絹に知らせる者も居た。
それは、秀吉がわが子逢いたさに秀太郎を呼び出す時に、その役を引受ける音松なる丁稚であった。
「旦那はん、寝たきりだす。番頭はんの話ではかなり重いて言うてはるそうだす」
「えっ、それで、ええお医者はんにかかってはるのだすか」
「はい。番頭はんが心配して、大学の博士さんて偉い先生呼ばはったんですけど、同じことだした」
目のくりくりした、見るからに利発そうな音松は、お絹の母親おすみが出した麦茶をゴクリゴクリ呑み干すと、言葉をつづけた。
「わて、こちらさんがご心配やと思うて、内緒で言いに来たんだす」
「そう、よう知らせとくれやした」
お絹は、財布から一銭を出すと、紙にくるみ遠慮する音松の掌に乗せた。
「これからも、何かあったら知らせとくれやすや」
音松が帰ると、お絹は、こらえていた涙をはき出すように、
「お母はん!」
とおすみの膝にすがりついた。
「ままならんもんやな、あの秀吉はんが、業病《ごうびよう》にかからはるて。そやさかい、秀太郎の籍入れといたる言うてはる間に、入れてもろたらよかったのに」
おすみが愚痴を言いかけたとき、秀太郎が、表から帰って来た。その秀太郎の痩せた手をとり、お絹は、かみしめるように、
「秀太郎、お父さんがお病気やて。な、今晩から生国魂はんへ詣って、なんとか寿命を助けて頂くのや、一緒に詣ってお祈りするのやで」
「生国魂はん詣ったら、お父さんの命助かる?」
「ああ、神さんがきっと助けてくれはります」
そう言いながらも、また新しい涙が流れた。
そんな頃、本妻のおひさは、秀吉を看護婦にまかせ切りで離れの部屋で浄瑠璃《じようるり》の稽古をしていた。師匠の方が気がねをして、
「御寮さん、旦はんが快《よ》うならはるまで、稽古止めまひょか」
と言うのを、
「ええんだす。この船場では主《あるじ》が病気と思わせてはなりまへん。主の病気が重いとわかると、得意先の支払いが延びたり、仕入先は警戒したりします。どんなことしてでも隠さんとなりまへん」
と、心の苦しさを現わすように、太いバチで女と思えぬ力で太三味線の糸を打った。
しかし秀吉の胃には、その太三味線の音が食いこむ様に響いた。それでもまだ体力のある時には、女中を呼んで、
「あの音、何とかしてくれ」
と怒ったが、今はもう腹を立てる体力もなかった。時々、見舞いに来てくれる同業者たちも、そんなおひさに腹を立て、
「成田屋はんは、御寮さんに殺されはる」
とかげ口を叩き、またそれとはなしに、番頭の忠助に、
「あんた何のために先代からの番頭してなはる。御寮さんに言いなはらんのか。それが番頭の勤めだっせ」
と言ったが、それが船場の妻女の才覚と信じこむおひさが忠助の言葉を聞く筈はなかった。
成程忠助は、先代からの番頭を勤め、どちらかといえば、家付娘のおひさの側に立たなくてはいけない立場にあったが、今では養子の秀吉に心酔し、味方でもあった。その忠助が、秀吉の病床へ見舞いに日に何度となく入ると、必ず秀吉から、
「秀太郎は、元気にしとるやろか」
と、聞かれたが、妾の家へ知らせに行くことは、本妻をないがしろにすることになる。それが忠助のつらいところでもあった。
妾の子の秀太郎が、生国魂神社へお百度を踏んで秀吉の快癒を祈っているときも、本妻の子の安造は、父の病気のことは意に介せず、おひさから毎日銭を貰い、女中のお松を供にして買い食いばかりするし、次女の富江は、小学校へも一人で行けぬ内気さで、家へ帰ると母親の傍について離れなかった。ただ、長女の糸子だけは、十三歳とも思えぬしっかりした子で、日に一度や二度は秀吉の病床を見舞い、ふとんかけが汚れていると言っては、付添いの看護婦に換えさせたりした。
その秀吉が、|愈/\《いよいよ》今日、明日で絶望と決まったのは、その年の秋だった。
おひさはその二、三日は病室に詰めっきりで、次々と現われる同業者や親戚の連中の応対に忙しく、医者も寸時も離れられない容態だった。
そんな様子から、秀吉はこの病気特有のはっきりした意識の中で、自分の死期の訪れつつあることを知った。
そんな夜、秀吉は、忠助に苦しそうに口を開けた。
「忠助、たのむさかい秀太郎を一目、一目だけ……」
忠助は、
「へえ……」
と答えて、恐る恐るおひさを伺ったが、おひさは聞こえないふりをして冷たい眼で一点を見つめていた。
「御寮さん、旦さんもああ言うてはります。何とか、生国魂はんのぼんを呼んだげとくれやす」
「忠助どん、あんた何のために番頭やってなはる。あんたは反対せんならん立場やのに、この成田屋の敷居をてかけに踏ます、そんな恥さらしをするつもりか」
論外だといわんばかりのおひさに睨まれては、忠助もへえと頭を下げざるを得なかった。
だが、裏切者は奉公人だけではなかった。そんな母親の言葉を聞きながら枕許で父の顔を見つめる糸子であった。糸子は、おぼろげながら、父の言う生国魂はんのてかけがどういう女か、その子の秀太郎の存在が、母にもわが家にもどういう影響を及ぼしているかを感じていた。だが、父が苦しみながら秀太郎の名を呼んでいる姿を見ては、じっと坐っていられなかった。
糸子は、店へ出ると、今大戸から出て行こうとする音松を呼びとめた。
「音松、お前は、生国魂はんの家知ってるか」
今から、秀吉の重態をひそかに知らせに行こうとした矢先の音松はギョッとした。
音松が恐しそうにうなずくのを見て、
「そんなら、行って呼んで来て。お父ちゃんが死にかけて会いたい言うてはるて」
「へえ」
音松は力強い返事をして暗い町を走って行った。
生国魂のお絹がその急を聞いたのは、これからお百度詣りに出ようとする矢先だった。音松からその知らせを聞くと、心痛のあまりげっそり頬をやつれさせたお絹は唇をワナワナとふるわしたが、思いもかけない秀吉に会わして貰えるという言葉に、秀吉の好物の、
「西瓜《すいか》をしぼっとくれやす」
母のおすみに、たのむと、
「ええか、お父さんにな、心配されんような、ええ人間になります言うのやで」
秀太郎の着物を着かえさせながら言い聞かせた。
お絹と秀太郎が人力車に乗って成田屋の裏戸から入って来た時、運が悪くも、おひさが、台所へ女中達に指図があって姿を見せていた。音松に案内されて入って来たのが、お絹と知るや、猛烈な剣幕で立ち上がった。
「あんた、一体何しに来なはった。帰りなはれ!」
それもその筈である。奥には、臨終に立ち会うように、親戚一同の他に、この船場|界隈《かいわい》の主だった大店の主人が詰めかけている。そんな客達にてかけの姿を見せることは恥を見せるのと同じであった。
「誰が呼んだんや! 音松、お前か!」
音松に叩きつけるように、箸箱を放ったとき、糸子が前へ出た。
「うちや、うちが呼んだんや」
「何やて、お前が」
「そうや、お父ちゃん、死にかけてはるのや。その死にかけてはるお父ちゃんが会いたがってはるおひとや。会わせてあげて何がいかんの」
おひさは一瞬たじろいだ。そんなおひさにとっての不運は、その時糸茂が台所の傍の廊下を案内されて病室へ向かっていたことだった。この界隈での実力者糸茂の大旦那だった。
「おひさはん、入れてあげなはれ。会いたい人に会わせてあげるのが、何よりの薬や」
次の瞬間、この時とばかり糸子は、
「さあ、お上がり」
とすすめた。上がろうとする二人を今度はおひさが止めた。
「待っとくれやす。会わすのやったら、その子だけにしてもらいまひょ。うちの人も、秀太郎に会いたい言うてるだけやし。この成田屋では、本妻とてかけが、二人で死に水とったて言われては、うちの人が何で信用とり戻したか、死んでも死に切れまへんやろ」
この反撃に糸茂がたじろいだが、今度はお絹がうなずいていた。
「ごもっともだす。この子だけ会わせて貰えたらそれで充分だす。ええな秀太郎、お父はんにな、ええ子になります言うのやで」
やがて、おどおどした秀太郎は糸子に手をひかれて病室へ向かった。その後姿を何ともいえぬ複雑な顔で見送ったおひさが気を取り直し、その後から行こうとしたとき、
「御寮さん、お願いだす、この西瓜のしぼり汁、旦はんにさしあげとくれやす、好物でしたさかい」
おひさは、ビンに入ったその汁を取り上げると、
「こんなもん若い時飲んでたさかい、胃病にかかったんや」
と、三和土《たたき》に叩きつけた。秀吉が好みで与えたお絹の白地の単衣《ひとえ》ものが、西瓜の汁で赤く染まった。
病室へ、糸子に手を引かれて入って来た秀太郎は、一同の視線を受けて、泣き出しそうな顔をしたが、それでも、もう既に死人のような肌の痩せこけている秀吉を父と分ったらしく、
「お父ちゃん」
と呼んだ。忠助が声をかけた。
「旦さん、分りまっか、生国魂はんのぼんだっせ」
秀吉は、かすかにうなずき、手をさし出した。秀太郎はおどおどしたが、糸子に傍から、
「手をにぎっておあげ」
と言われると、父の手をおそるおそるにぎった。その氷のような手に恐怖を感じて、秀太郎は放したくさえなったが、やはり父だと思うと、こらえねばならないと思った。秀吉は、もはや視力さえない目で部屋中を探していたが、治三郎に手招きされたおひさが、
「何だす、安造ならここだすで」
と秀太郎を押しのけるように覗きこむと、意識を失ったかのように目を開かなくなった。
誰の目にも秀吉はこれで二度と物を言うことはあるまいと思われたが、秀太郎だけは秀吉ににぎられた手に力が加わっていることを知っていた。
やがて末期《まつご》の水が一人ずつ秀吉の唇へ筆でしめらされて行った時だった。糸茂の番になると、秀吉の目がカッと開いて、
「糸茂の旦はん」
と、切れ切れだがハッキリ言ったではないか。
「成田屋はんしっかりしいや、糸茂や、ここにいるで」
「糸茂はん、この子を、うちの籍へ入れて、ええ商人にしとくれやす。一人前になったら、財産も半分、や、やっとくれやす」
最後の力を振りしぼるように言う秀吉に、糸茂はゆっくりうなずいて、一言ずつ反覆した。部屋中に響きわたるような声だった。
「分った、引きうけたで」
糸茂の声を聞くと秀吉は、消えて行くように秀太郎の手をにぎったまま死んで行った。
誰しもが信じられぬ出来事に、唖然としてとめる間もなくすべてが終っていた。
おひさは、その糸茂の言葉を聞くと、医者が、
「ご臨終です」
と言うのに耳も貸さず、離れへ走るように去った。治三郎夫婦や安造、富江が跡を追った。それでも座敷では、すするような泣き声が起こり、父の死を知った秀太郎も、悲しくなって泣きながら、
「何で生国魂はんウソつかはったんやろ」
と考えていた。
離れでは、おひさがヒステリックに泣いていた。
「叔父さん、よりによっててかけの子を家に入れるて許さん。このわてが……」
「許さん言うても遺言やりよった。けど、秀吉もえらい事するで。片足棺桶に突っこんで、もう死ぬと見せかけて突然糸茂に遺言するて。いくらお前が反対しても、無駄やてそろばん立てよった」
「えっ、そんなら、あのてかけの子を、この家へ」
「そや。けど、そこにはまた手もあるがな」
「手だすて?」
「秀吉はんは、あの子を商人にしてくれ言うたやろ。この家に引きとってあの子を商人に育てるのや、丁稚からな。商人の道はきびしい。あの子が耐えられるか、どうか。もし棒折ったら、この子は商人には向きまへんて、あっさり追い出したらええがな。これで糸茂はんも口出せへん。どうや、わしに任すか」
おひさはうなずいた。治三郎が出て行くと、いれ変わりに、安造が入って来た。
「お母ちゃん、先刻《さつき》お父ちゃんの手にぎってた子、誰や」
「あれは、てかけの子や、船場では屋台骨をゆるがす白蟻よりこわいてかけの子や! 覚えときや」
安造の目が蛇のように光った。
お絹は、誰もいない台所の隅で泣き伏していた。たった今音松から秀吉の死を聞き、同じ屋根の下に秀吉の遺骸があるのに逢いも出来ぬ運命の哀しさはまた涙を呼んだ。この運命は、てかけと言う運命だった。先刻から、何度か、座敷へ走って行って、この手で秀吉にすがり、この目で秀吉の死顔を見たいと思う衝動が起こったかも知れない。だが、てかけと言う運命が、彼女を止めさせた。
そんなお絹の姿を見ていた音松は心の中で呟いた。
「このひとが、御寮さんやったら、旦はんも、もっと長生きしやはったやろに」
そのお絹が、顔を上げた。廊下から秀太郎が糸子に手をひかれて帰って来たからである。
お絹は、涙を拭いた。てかけという運命は、人前で泣くことも宥《ゆる》されなかったからである。ましてや家人の前で。
「さあ、お帰り」
糸子は、秀太郎の手を放した。
その時だった。奥から安造がかけつけて来たかと思うと、
「おい、てかけの子!」
といきなり秀太郎を蹴った。蹴られた秀太郎は肥った安造の足にかじりついた。お絹は驚いて秀太郎を引き離した。
「お止め、兄さんに何するのや」
きょとんとした顔の秀太郎はお絹に聞いた。
「この子兄さん? ほなこのひと姉さん?」
姉さんと呼ばれた糸子は、今迄の親切を忘れたかの様に冷たく言った。
「あんたなんか弟と違う」
そう言って安造の手を引いて廊下を去って行った。お絹の頬にまた涙が一筋流れた。
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丁  稚
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お絹が秀太郎の手を取って裏口の障子を開けようとしたとき、廊下をバタバタと急ぎ足に来た男がいた。分家の治三郎であった。
「一寸、待ちなはれ、話がおます」
そう言うと、台所の板の間に坐れと言わんばかりに、自分は畳へ坐った。
「わしは、この成田屋のおひさの叔父にあたるもんや。秀吉どんが息を引き取ったことはあんた知ってるな」
お絹は、かすかに首を落した。うなだれる首筋からは、こぼれるような色気が溢れ、治三郎は、この女では、秀吉が夢中になるのは当然だと心では思ったが、それどころではなかった。何とかして、この店の財産を減らさぬようにする使命があった。
「秀吉どんが死んだからには、もうあんたとは無関係。この成田屋では認められん、そら判ってくれはりますな」
治三郎の言葉は一寸|描撫声《ねこなでごえ》になって、お絹の言葉を待った。このお絹の出方によって、また話し方が違ってくるのだ。
「へえ──当然の事だす。御寮さんに御迷惑をかけたわて、何の文句もありようおまへん」
と流れ出す涙をたもとで押しぬぐいながら言うお絹を見て、治三郎は、少々勝手が違ったが、そんなことで同情的な言葉を出すような男ではなかった。
「それはそれで決まったけど、その秀太郎は、そう言う訳にいかんようになったんや」
「何でだす」
「死ぬ前に、秀吉どんが、この家へ引き取り、財産を半分やれと遺言しよった」
「旦那はんが……それはいけまへん、この上秀太郎が、そんな御迷惑をかけては。御遠慮させて頂きます」
真剣な面持ちでとんでもないとの顔をするお絹を見て治三郎は、本来ならばしめた! と喜ぶところだが、そうはいかなかった。この船場きっての老舗の糸茂の大旦那に立ち会わせて言った遺言、もし守らねば、糸茂が何と怒り出すか分らなかった。糸茂を怒らせることは、船場の問屋達に睨《にら》まれて仲間外れになる。
「いや、遺言は守らんとあかんのや。と言うても、今直ぐ財産を半分やるとは言わへん。秀吉どんも、秀太郎が一人前の商人になってからと言いよった。そやよって、秀太郎を引きとって一人前の商人に育てたいのや、どや?」
「あの旦那さんが一人前の商人にと、そう仰言《おつしや》ったんどすな」
「そや。承知して貰えるな」
暫《しばら》く無言でいたお絹は、やがて、
「はい」
とうなずいた。治三郎は、きめつける様に言った。
「ほな、今日からここへ置いて貰お」
「今日から?」
「そや、この家の息子と認めた以上は、あんたのとこへ置いとく訳には行かん。今日から引き取る。その代り言うとくけど、この秀太郎が、逃げて帰ったり、途中で棒折るようなことがあったら、知らんで。その時は、この秀太郎が遺言にそむいたことにして、成田屋も遺言を守らへん」
「へえ」
お絹はうなずいた。
「ほな決まった。その子を置いて帰り」
「待っとくれやす。一寸の間、この子に、言い聞かせてやりとうおますさかい」
治三郎は、立ち上がると奥へ消えて行った。いつ来たのか、僧侶が枕経を唱える声が聞こえ、台所までうっすらと線香の香りがただよって来た。その読経の声を、さも珍しそうにキョロキョロしている秀太郎を坐らせると、
「秀太郎聞きや。あんた、今日からここの子になるのや」
「ここの子に。お母ちゃんもここのお母ちゃんになるのか」
「違う、お母ちゃんは、生国魂はんの家へ帰るのんや」
「そんならわても一緒に帰る」
「何言うてなはる。あんたのお父はんが、そうせえ言わはったんや。ここでお前は一人前の商人になるのや」
「いやや」
「秀太郎!」
お絹は、すがりよる秀太郎の手をピシャリと叩いた。
「お母ちゃんはな、あんたをここにおいて、お父はんとお母ちゃんのために働いて貰いたいのや。今のままやったら、あんたはな、皆から余分の子が生まれたと思われている。わてはな、お父はんが余分な子を産まさはったんやない、ええ子を産まさはったと言われるようになって貰いたいのや。分ってるか、それまでお母ちゃんのところへ帰ったらいかん」
「ほな、わていつ帰れるのや」
「あんたが、ここのぼんや、とうさん方に、弟やて呼んで貰える日までや」
「けど、先刻の子、弟と違う言わはった」
「そやから、呼んで貰える日まで、ここにいてるのや。あんたが役に立つお人になったら、皆呼んでくれはる。分ったか。それまでお母ちゃん、帰って来ても家へは入れへんで」
八歳の秀太郎にとって、その言葉の意味が分らなかったのは当然である。だが、お絹のかつてないきびしさに、子供心にも、この家にいなければならないと言うことを悟ったのか、いやとは言えずに、今にも泣き出しそうな顔をして聞いていた。そんな秀太郎を見ていじらしさの余り抱きしめたくなる気持を、お絹はぐっと耐えた。余りにも残酷な話であった。
お絹には、治三郎の心のうちは読めていた。秀太郎にきびしい扱いをして、逃げて帰るのを待って、それ見たかと無縁を申し渡す。そのやり方も見えすいている。だがお絹がそれでも納得したのは、お絹にも意地があったからである。その意地は、死ぬ間際まで秀太郎のことを考えてくれていた秀吉の心情にこたえるために、秀吉の遺言をどんな事があっても守り抜かねばならないと言う意地であった。今のままなら、秀太郎は、「てかけの子」と言われ、全くの余分に生まれた子供である。そして自分は、成田屋のてかけに他ならない。だがもし秀太郎が一人前の商人になり、この成田屋の為になったら誰も秀太郎を余分の子とは思うまい。いや、秀吉とお絹は当然結ばれる仲であったが故、あんな子を産ませたということになる。
「死んだ成田屋はんには、あのおなごがふさわしかった、その証拠にあんなええ子を産ませはった」
その言葉を聞くことが、秀吉の心情に対する唯一の報いである。これが武家の血を引くお絹の意地であったのである。
お絹は、もう一度秀太郎を見て「分ったな」と念を押すと裏口の戸に手をかけた。秀太郎は「お母ちゃん」と走り寄った。
「ついて来たらいかん。あんたはここの子や」
そう叫ぶと、お絹はもう船場の道を走っていた。
船場の道は暗かった。商いをしないかぎり無駄の灯りは一切つけない暗い町だった。
走りながらお絹は泣いた。
死んだ秀吉が、唯一の身のよりかかりどころなら、秀太郎は、唯一の生きて行くよりかかりどころであったのだ。
その一人は失い、へたすると二人共失わねばならぬかもしれぬのである。
ふと道で、
「お母ちゃん」
と後から叫ぶ声がした。立ち止まって後を振り向いた。だが誰もいなかった。
秀太郎も成田屋の裏口で、ぼんやり立ったまま母親の去った方角を見ていた。秀太郎は、いつものように買いものに行ってすぐ帰ってくるお絹を待つような気持だった。だがいくら待っても帰って来ない母を知って、シクシク泣き出した。その秀太郎の肩を叩いた者がいた。丁稚の音松だった。
「こっちへ来なはれ」
音松は、秀太郎を台所の土間へ入れた。秀太郎にとって、この家での知り合いと言えば音松だけだった。三度ばかり、コッソリ秀吉の容態を知らせに生国魂神社の家へ来たからである。
「ぼん、お腹すいてへんか」
秀太郎は、泣きじゃくりをしながらうなずいた。
音松は、秀太郎の手を取ると台所の次の板の間へ連れて行った。ここでは三人の女中が、通夜に出す煮しめ類を鉢に盛っていた。
「お梅どん、何かぼんに食べさせたげて」
お梅と呼ばれた年かさの女中は、
「よっしゃ」
と、素早く小皿に小芋やこんにゃくを盛り、箱膳の上にのせ、飯を盛ると、
「おあがり」
と出してくれた。いきさつを知った女中たちも、同情的だった。
「さあ、早うハナをふいて」
音松が、親切にも紙をもんで渡してやり、秀太郎がハナを拭き、箸を取ろうとした時、
「お客さんに出すお煮しめは、出来たんか」
どなりながら入って来たのは治三郎の嫁のお秋だった。そして秀太郎を見つけると、
「誰や、こんな子にお煮しめ食べさして。こんな子は、たくわんで充分や!」
秀太郎の煮しめの皿を引ったくり、土間へ投げつけて奥へ去った。一瞬皆はハッとした。お梅はあわてて、たくわんを二切れ箱膳へ乗せた。
このたくわん二切れが、迎えられた秀太郎の座となった。半ば同情的に、半ば、旦那さんの子供であると見ていた女中たちも、このたくわんで、この子の置かれている立場を知った。
秀太郎がたくわんだけで飯をすます頃、奥の間では、通夜が始まった。台所の一隅でコックリ舟を漕ぐ秀太郎を見て音松は、店で通夜の客を迎えている番頭の忠助の所へ行った。
「番頭さん、あのぼん、眠たがってはります。どこへ寝かせてあげまひょ」
「お前のとこで寝さし」
「けど、番頭はん、丁稚部屋でっせ」
「言われた通りにしたらええのや」
音松は、またここで意外な秀太郎の非同情者を見た。忠助位は秀太郎の味方であると思っていたからである。だが、てかけの子を軽蔑するのは船場の不文律である。船場の水に十歳の時から三十年間なじんで来た忠助が、秀太郎を引き取る遺言を聞いて、露骨に困惑を見せたのは、やはり船場商人の先代からの番頭であった。
音松は、秀太郎を丁稚部屋へ連れて行った。丁稚部屋は、裏庭に面した板の間に上敷きが申し訳のように敷いてある。八畳ばかりの部屋で、雨や風こそ吹きこまなかったが、夏は蒸れるほど暑く、冬は底冷えがした。音松は、自分のせんべいぶとんを敷いて秀太郎を寝かせた。
ここへ入ると秀太郎は、急に淋しさを感じたのか、
「お母ちゃん」と泣き出した。
「ぼん、泣きなはんな、あんた、旦さんの子供ですやろ」
そう言ったものの、音松も、秀太郎が泣くのはもっともだと知っていた。音松自身、五年前の八つの時、ここへ奉公に来た当時は、毎夜母親の夢を見て泣いたのだ。音松も、死んだ秀吉と同じ江州の生まれであった。そして父は、村長をしていたが、母親はその家の女中だった。つまり音松も父《てて》無し子だったのだ。後になって本妻が死に、その女中は、音松ともども、後妻とその子になったが、先妻の子は音松をいじめた。それでも、母親は、気がねをして音松をかばおうとはしなかった。だが、音松は、小さい時から反抗的で、独立心が強かった。
だからこそ、音松は、この秀太郎を見て自分の手で守ってやろうと決めたのである。
翌日、秀吉の密葬が行なわれた。番頭や手代の上の者が柩《ひつぎ》を運び、船場通りを経て、斎場に向かうのである。柩のすぐ後には、肉親が続く。真っ先は、位牌を持った相続人の安造と、おひさ、長女の糸子と、次女の富江、そして秀太郎と決められたが、糸茂が、異議を唱えた。
「秀太郎をここの子と認めたからには次男坊、長男と長女の間に入れるべきや。それが死んだ秀吉の意思言うもんや」
この糸茂の言葉には、誰も反論出来なかった。
やがて成田屋を出発する行列を見送る人たちは、見なれぬ秀太郎を指さした。
「あの子は誰や」
「あれはてかけの子や」
「へえ、引き取ったんかいな」
この行列こそ、秀太郎が、成田屋の子となった発表の場でもあり、てかけの子と言う烙印を押される場でもあった。秀太郎は、そんな事も知らずどこかに母親がいてくれないかと、キョロキョロあたりを見ながら歩いていた。そのお絹は、一目秀吉の柩を拝もうと、南へ向かう大通りの露地に身をひそめていた。そのお絹の視線が、人の後から秀太郎の探す目と合った。秀太郎は、「お母ちゃん」と叫ぶと、追おうとしたが、袴《はかま》の裾を踏んで転んだ。お絹は、一瞬前へ出ようとしたが、そのまま逃げた。秀太郎は、痛さに転んだまま泣いた。その秀太郎の傍を、続く親戚、手代たちが通り過ぎた。誰も起こしてやろうとはしなかったが、起こしたのは、一番しんがりにいた音松だった。
「ぼん起きなはれ、お父さんの葬式だっせ。さあ早う先へ行きなはれ」
秀太郎は泣きじゃくり、お絹を目で探した。その秀太郎を叱ったのは糸子だった。
「泣きいな。かっこうが悪い!」
そう言うとグイグイ引っ張って、列の前へ歩きだした。その引いた手のにぎり方は、憎しみをすべて現わしている程の強い力であった。
秀吉の葬式がすんだその夜、親戚の者も帰り、家族と店の者だけで揃って精進《しようじん》あけの会食があった。おひさが正面に、その横に、安造、糸子、富江と三人の子供が並び、大番頭の忠助、孝助、小番頭の直七、手代の留吉、丁稚の為松、良松、音松、女中のお松、お竹、お梅とが並んだ。船場の商家では呼名がある。番頭は名前の一字をとって下に助に七、手代は吉、女中は、名前を使わせず、松竹梅からお松、お竹、お梅と呼ばれているのが多かった。この席でも、本来ならば、当然この家の息子である秀太郎は安造の隣に坐るべきであったが、チョコンと音松の下座へ坐っていた。誰にもどこへ坐れと言われなかったから、音松の隣に坐ったのである。やがて、精進あけの料理と言っても、色の変わった様なうすい刺身が入った幕の内を前にして、おひさが口を切った。
「みんな、うちの人の葬式万端いろいろ御苦労さんでした。これより後、安造が主人になり、わてが後見人となります。そしてわての代りは分家のおじさんがやって行きます」
忠助はじめ皆が頭を下げた。けれども誰しもが、治三郎が商売をしてうまいこと行くとは考えてなかった。
治三郎はそんな一座をジロリと見て、中で一人頭を下げずにキョトンと見ている秀太郎を憎々しそうに見て、言葉をつけ足した。
「それから、今日からその秀太郎を遺言通り家へ置くことにした。けど、てかけの子が店におったら信用を落すもと、そやから成田屋の子やない。遠慮せんと丁稚同様使え、名前も今日から秀松や」
忠助はまた軽く頭を下げた。やがて会食が始まった。秀太郎は、音松に塗りのはげた弁当箱のフタをとって貰って食べ始めたが、どこかに母親のお絹が来てくれていないかとあたりを見回した。
お絹は、その頃生国魂神社の裏の露地の家で、母親のおすみと向かい合って遅い食事をとっていた。床の間の経台には、白い布がかけられ線香が煙っていた。遺骨は勿論、位牌とてなかったが、秀吉がいつもここへ来て着替えした丹前が代りに置いてあった。お絹と向かい合っているおすみは、先刻から何も話をしなかった。孫の秀太郎を、お絹が成田屋へ置いて来たことから怒っているのである。秀吉が死んだ夜、帰って来たお絹の顔色を見て、秀吉が死んだことは察して貰い泣きしたが、秀太郎の居ないことを知って、
「秀ぼんはどうした」
「置いて来ました」
「何で置いて来たんや。お通夜にでも出さすのんか、それともあんた着替えでもしに帰って来たんか」
「いいえ、あの子は今日からあそこの子にさせて頂くんだす」
と事情を打ち明けると、
「何やて、この家へ帰らさん、そんな無茶なこと。秀ぼんはまだ八つやで。辛い目うけたら逃げても帰る。物の道理が分る年やない。あんたもようそんな事承知して、あの子を置いて来たな。そんならみすみす、あいつら財産継がさん腹やがな」
「わてもそう思てます」
「それ知って、何であの子を置いて来たんや」
「旦はんのお志にそむきとうなかったからだす。それが、秀太郎のためにもなるのだす」
「秀太郎のために何でなる」
「お母はん、このままやったら秀太郎には一生てかけの子と言う肩書がつきます。あんだけ立派な成田屋の旦はんが、てかけに子を産まさはった、その子があれや、やっぱりてかけの子や、ろくな育ち方しよらんと、世間様から言われては、亡くなりはった旦はんも死にきれまへんやろし、秀太郎も物心がついて来て自分の事を知ったらどう思いますやろ。わては、世間様から、成程、成田屋はんの旦はんは、てかけにええ子産まさはった、てかけの子やけど成田屋に役に立つ子や、そう言われたいんだす。いや成田屋はんの御寮さんやお子さんたちからも、ほんまの子や弟やと言うて貰える人間にさせたいんだす」
「そら分るけど、もう一寸大きいなってからでもええやろ。一寸考えさせてくれ言うて、連れて帰るなりしたらええやないか」
「連れて帰ったら余計ふびんがかかりますやろ」
きっぱり言い切るお絹の言葉に、孫可愛さだけのおすみはうなずけないものがあって、それから今日まで三日間殆ど口もきかず、ぐちともつかぬ声で、
「秀ぼん、どないしてるやろ、泣いてるやろか」
とか、
「ちゃんとおふとんに寝させてもろてるやろか」
と涙を拭くのであった。お絹も、そんな母親の言葉を聞くたびに胸を締めつけられる思いがしたし、葬式の日は勿論、朝夕となく成田屋の近くまで行き、秀太郎の安否をたしかめているのであったが、そんなことを知らないおすみは、そんなお絹を見て余計に、
「わが子ながら何て情のこわい、頑固な女や」
とまた孫を思い浮かべては涙を拭うのであった。
成田屋では丁稚は五時に起こされる。蔵の二階へ女中のお松が出て来て起こすのである。丁稚は一回でとび起きる。起きる筈である。丁稚は、二間もある杉の丸太ん棒を枕に串にさした干し魚のように一列に眠るのである。その丸太ん棒の端をお松が木槌でトンと叩く。木槌は頭にひびいて、丁稚たちははじかれたように飛び起きる。秀太郎の秀松は、最初の日、驚いたように目を覚まし、キョトンとした顔で床に坐った。
「さあ、ちゃんと着物を着かえなはれ」
隣の音松は、秀松に丁稚のおしきせを着せてやって、まるで兄のように世話をしてやった。
一番古手の為松は、そんな音松を見て、
「おい、音松! 秀松にゴマすっても、その子はてかけの子やぞ!」
と鼻で笑った。丁稚たちは五時に起床すると、顔を洗い、冬場は、先に掃除。夏場は、先に飯を食う。冬場は、まだ暗いので、先に飯を食べると電気をつけねばならないからである。朝飯は、たくわん二切れと決まっていた。三切れ食べると「身が切れる」、四切は「死に切れる」と都合のよい迷信が、どこの店にもあった。そのたくわんも辛過ぎては飯を沢山喰べるし、甘過ぎてはたくわんをより欲しがると言うので、その味も辛くなく、甘くもない漬け方のきまりさえあった。朝飯が終わると掃除である。この掃除も、古参の丁稚と新参者の丁稚とで変わる。一番古参の丁稚は店、その次の丁稚は、店の外、新参者は、家人の入る風呂や、便所である。秀松は風呂と便所の掃除を命ぜられた。家では、箸より重いものを持たされなかった秀太郎が、いきなり掃除と言われてもどうしてよいのか分らなかった。が、これも音松からやり方を教わった。二、三日たった日の朝のことだった。秀太郎の秀松は、風呂場の三和土《たたき》をタワシで洗いながら、子供心にも何のために自分がこんなことをやらなければならないのか分らなかった。それも無理もない。つい二、三日前までは、生国魂の家で、祖母のおすみに手をひかれて鳩に豆をやりに行ったり、道頓堀で飴湯《あめゆ》をせがんだりしていたのが、その夜、お絹に成田屋に連れられて父の死に立ち会い、知らぬ間に、この成田屋にいることになり、そして葬式に出たかと思うと、今度は丁稚と、あれよあれよという間に運命を変えられてしまったからである。ただ分っているのは母親が傍にいないことと、泣きたい程つらいことであった。そして子供ながら、自分が置かれた立場というものを考えようとしていた。
「お母ちゃんは、この家の子やと言うた。弟と呼んで貫える人になれ言うた。そう言うて帰ってしもた。何で迎えに来てくれへんのやろか。おばあちゃんも何で来てくれへんのやろ」
秀松はタワシの手を止めた。その時だった。隣にある便所の戸がガラガラと開いた。秀松は風呂場の戸から廊下をのぞいた。出て来たのは寝巻のままの安造であった。秀松は思わず視線を伏せた。この安造には、秀吉の死んだ後、廊下でいきなり蹴とばされたからである。安造は秀松を見るとヌウーと入って来た。
「おい! てかけの子!」
安造は近寄ってその手を便所の草履《ぞうり》で踏みつけた。同じ日に生まれた安造であったが、秀松より一貫目も肥っていた。その力で踏みつけられた秀松の手は、竹の皮で造った上履きにはさまれて、千切れるのかと思う程の痛みが走った。途端に秀松は悲鳴を上げ、余った左の手で安造の足を引っ張った。安造はもろに倒れ、風呂場の戸で頭を打って火のついたように泣き出した。豚のように肥っている割合にはカン病みの安造の泣き声は家中に響いて、便所に近い部屋にいたおひさと治三郎が先ず駈けつけた。
「安ぼんどないした」
「こいつが倒《こか》しよったんや」
「何やて」
治三郎は、鬼の様な形相で秀松を睨むと、拳固で秀松の頭を横に叩いた。秀松は三和土の上に倒れ、痛さに泣き声もあげられなかった。そんな秀松を見て治三郎は、
「このしぶといやつが、泣きもしよらん」
と尚《なお》も足で蹴ろうとしたとき、店から忠助や、庭にいた糸子と富江、掃除していた音松たちが駈けつけた。
「分家はんどないしはりました」
「この秀松が安ぼんに手かけよったんや。ほんまに恐しい、母親が財産泥棒なら、子供まで殺そうとしよる」
「何だすて、秀松が! 秀松こっちへ来い! 何て事するのや」
忠助が商人独特の冷たい言葉をかけたとき、秀松が顔を上げた。
「違います。わてが掃除してたら、この子がわての手を踏みつけたんや!」
そう言うと右手を差し出した。その右手は紫色にはれ上がり、血すらうっすらにじんでいた。その手は誰が見てもいたいたしかった。
「それやったら安造が悪いのやないか!」
声をはさんだのは糸子だった。秀松はその言葉を聞いて安心したかの様に泣きだした。そんな様子を見ていたおひさが安造の手を引っ張って何も言わずに去って行くと、忠助達もそそくさと去っていった。
音松は秀松の手をとると、水道の水で冷やしてやった。冷たい水が傷口にしみて、秀松はまた悲鳴をあげた。音松ももう、泣きなはんなとは言わなかった。
「可哀そうになあ、何でこんな目に逢わんならんのやろ」
立場は違ったが同じ様な境遇に育った音松は、秀松の立場が堪《たま》らなかったのである。
「さあ、店へ行きまひょ、また怒られるさかいな」
音松は、秀松をいたわるようにして廊下へ出た。すると、一度去った糸子と富江が出て来た。
「これつけたり」
糸子は、薬を差し出した。貝殻の器に入っている、富山の薬売りが売りに来る黒い傷薬であった。音松はうれしそうに頭を下げた。
「おおきに。秀松どん、ようお礼言いなはれ」
痛さに泣きじゃくりしている秀松の頭を抑えるように下げさすと、薬を受け取り、秀松をうながした。糸子は、薬をわたすと、秀松にチラッと冷たい表情を見せて去った。糸子は子供ながら感情を見せない娘であった。
それから一日の仕事が始まった。始まると、店は仕入れの客でかなり混む。応対するのは、大番頭や、小番頭で、それぞれ、見本を見せて値を決める。値が決まれば、手代が、その品物の出荷伝票を切る。その出荷伝票にもとづいて、丁稚が蔵から留吉の指図のもとに荷を出し、持ち帰りの荷造りをしたり配達をしたりする。その日は、秀松は蔵から荷を出す仕事をさせられた。梱包《こんぽう》の荷は重い。秀松はてのひらに怪我《けが》をしている。梱包に触れようものなら飛び上がるほど痛かった。だが手代の留吉は容赦はしなかった。いじめられた丁稚生活からやっと半人前の手代に昇格したばかりで、嬉しくて仕方がない時である。秀松が良松と二人で梱包を運んでいるのを見ると、
「おい秀松、それ位の荷が持てんのか! 秀松一人で運べ!」
と叱った。だが八歳の片腕の力でその荷が持てる筈はなかった。ヨロヨロと持っては尻餅を突いた。見ていた音松が走り寄って力を貸すと、その音松を留吉がなぐった。
「お前は配達やろ。余計な事をするな!」
「けど、秀松どんは手怪我してはります」
「商いの仕事で手怪我しよったんか! 違うやろ。ぼんぼんに手かけて怪我しよったんや。やっぱりてかけの子は、手をかけよる!」
音松は、顔を伏せた。だがその目は留吉のごつごつした足を睨んだ。
その夕刻、音松は、配達の帰りに生国魂のお絹の家を訪れた。音松の現われたのを見て、何か変事が起きたのかとお絹は顔色を窺った。
「おかみさん。ぼんを呼び返してあげとくれやす」
「何でだす」
「あそこにいてはったら、あのぼんは殺されてしまわはります」
傍のおすみが顔色を変えた。
「何かあったんですか」
音松は朝からのいきさつを話した。おすみは目に涙を浮かべながら、
「可哀そうに、すぐ迎えに行こ」
と立ち上がったが、お絹はそれを制した。
「音松どん、秀太郎が、帰りたい言うてあんさんにたのんだんだすか」
「いいえ、違います、あのぼんぼんはうろうろしてはるだけで。見かねてわてが来たんだす」
「それなら、よう迎えに行きまへん」
「お絹、何てことを言うのや」
おすみは血相を変えた。
お絹は無視した。
「音松どん、帰らはっても、もし秀太郎が帰りたいなんて言うたら、よう言うて聞かしとくれやす、お家の皆さんから、ほんまの子や弟やと呼んで貰えるまで帰ったらいかんて。早う帰りたかったらそう言う人間になりなはれて」
きっぱり言うお絹に、音松は言葉も返せず、家を出た。
「あれでもほんまのお母はんやろか」
音松は意外な気がしたが、後から追いかけて来たお絹が、
「これつけたっとくれやす」
と、傷薬を出したその目から大粒の涙が溢れ出るのを見て、音松は、大きくうなずいた。
「おかみさん、わてぼんぼんをしっかり守りまっせ! まかしておいておくれやす!」
お絹は、縋りつくような眼で音松に会釈をした。
音松が帰ると、お絹はまた機嫌の悪くなったおすみに言った。
「お母はん。この家引っ越そうと思いますのや」
「引っ越す?」
「へえ、わて今日働き口見つけて来たんだす。坂町の鮒清《ふなせい》ちゅうお料理屋だす。そこの住込みの女中として働こ思いますのや。そやさかいお母はん、悪いんだすけど、田舎へ帰って貰えしまへんやろか」
「けどここの家引き払うて、ちゃんと秀太郎には知らせてやるのやろな」
このおすみの質問には、お絹は答えなかった。答えないお絹を見て、おすみが、秀太郎の秀松には知らせない意志を知ると、大きな溜息をついたのはあきらめだったかも知れぬ。
その頃、秀松は、蔵の二階で、音松が持って帰ってくれたお絹からの薬を音松に塗って貰っていた。
「ほんまにこのお薬、お母ちゃんがくれたんか」
「そや、あんたのお母はん、この薬、塗るようにてくれはったんやで」
「お母ちゃん、いつ来てくれるか言うてへんかったか」
「ふん、それがな、あんたのお母はん、今どうしても行けんさかいな、もう一寸待ってるように言ってはった」
音松は、お絹が秀太郎とは逢わないと言ったことは、秀松には言えなかった。それを聞いて秀松は、
「ふうん」
と鼻をならして今にも泣きだしそうであったが、そこへ顔を出した手代の留吉を見ると、むしろ恐怖を現わした。
「おい、帳合いの時間や、そんなとこで何をしとる。また番頭はんに怒られたいのか!」
秀松は店へ夢中で駈け出した。
船場の夜は帳合いから始まる。店を閉め、夕食を終わると、その日の売上げと、出荷数や現金とを合わす計算である。これが一銭でも合わないと、合うまで徹底的にやらされる。同時にこの張合いは、丁稚たちのそろばんの稽古と、商品名を覚える場でもある。だから夜でも遊びどころか外出すらも認められなかった。何故ならば、丁稚の間は、店の為に直接金もうけの仕事は出来ず、むしろ飯を食わせ商いを憶えさせてやっていると言うのが商人の考え方であった。秀松は、まだそろばんは無理で、もっぱら品物の数を読む方に回された。帳合いは、まず大番頭の忠助や孝助が帳場格子の前に坐り、売上帳を読みあげる。
「銘仙、千羽鶴二十反、糸花屋はん、売値一反二十二銭」それで小番頭は、売上伝票と合わし、そろばんの出来る丁稚たちは、そろばんをはじいて合計金額を出す。そしてはじき終わるや、小番頭から、例えば、
「音松!」
と声がかかる。すると音松が、
「四円四十銭!」
と答える。すると他の丁稚たちは、答が全部同じであったら、
「ギョメイ」
と答える。その通りと言う意味である。もし間違っている答えに「ギョメイ」なんて答えたら、それこそ目から火の出るように叱られる。その間、手代の留吉を責任者として、秀松たちは、その銘仙の千羽鶴の残り反数をあたるのである。だが秀松は、十以上になるとつまった。
祖母が十まで教えてくれた時引きとられたので、十までしか読めなかったのである。それを見た留吉から、
「おい! 秀松、数を読めん丁稚があるか!」と頭を小突かれるのが日課となった。しかし小突かれてもなぐられても、秀松が成田屋から逃げようとしないのを、不思議な目で見ているのはおひさであり、思惑が外れていらいらしているのは分家の治三郎であった。
帳合いが終わると、丁稚たちは二日に一回銭湯へ行かせて貰える。私事で外出の出来る唯一の場でもある。台所で女中のお松から風呂券を貰って終り湯に間に合うように行くのであるが、こっそりその間にうどん屋へ行ってうどんを食べるのも、丁稚たちの楽しみである。音松はその夜風呂へ通う途中、秀松に言った。
「よろしいか、ここから風呂屋へ行くまでいくつ数えたら行けるか、一緒に数えるんだす」
と自分から足を踏み出し、
「一つ、二つ、三つ……」と勘定を始めた。そして風呂屋の中に入ると、着物を脱ぎながら下駄箱の数、湯槽《ゆぶね》の中では、入っている人の数、また帰りがけには、歩く数と、秀松と一緒に数えた。秀松が一寸でもついて行けないと、「そら、もう一回一つから数えよ」と、また一から数えだす。秀松は二、三日たつと、十五まで勘定出来るようになっていた。秀松は初めて嬉しそうに白い歯を見せた。音松は、成田屋へ来て初めて笑顔を見せた秀松に、
「あんたは賢いで。あのぼんぼんの安造はな、まだ八つまでしか勘定出来よらへんのや」
と暗に、弟のあんたの方が兄さんより賢い、負けてはいけまへんでと言わんばかりに強調した。
月が変わると、八歳の安造と秀松は、小学校へ入らねばならなかった。ここでも安造の為に、成田屋はこぞって、至れり尽せりの面倒を見たが、秀松の方は忘れられていた。いや小学校に行かせることさえ忘れられていた。だがそれを思い出させたのは糸茂で、入学祝いが秀松宛てに来たからである。治三郎は、
「あんな子小学校へ入れんでもええ」
と言ったが、おひさは、
「成田屋では、てかけの子を小学校へも入れんかったと、世間に言われては、恥になります。けど安造のお供として行かせます」
船場では、その家の子供が、学校や、茶や生花の稽古に行くときは、丁稚が供をして行ったものである。おひさが、安造に秀松を供にさすことで主人としての自覚を植えつけさせ、秀松におのれの立場を憶えさせるべく考えた方法であった。やがて船場小学校への道を、肥って、上物の着物を着て、大手を振って歩く安造と、その後から丁稚の着物を着て、チョコチョコと、大きい風呂敷包みと、小さい風呂敷包みを二つ持って歩く秀松の姿が見えた。大きい風呂敷包みは、安造の勉強道具、小さい方は、ほんの申し訳に支給された秀松の勉強道具であった。船場の人は、その二人を見てささやいた。
「それ見てみい。本妻の子とてかけの子が、同じ学校へ通う。てかけの子は、やっぱり日陰もんだけあって、精がないわ」
精のないのは、秀松が学校へ行くのが嫌であったからである。殊に安造の後にくっついて行くのがイヤだった。安造は、子供と思えない陰険なイタズラを平気でやったからである。学校へ行く路を知らない秀松をいいことにして、袋小路へ入って行ったり、わざと、秀松に菓子を買い与え、寺の犬小屋へ連れて行き、
「おいここで待っとり」
と言って、自分は、本堂へ上がり、狂犬に近い秋田犬をけしかけ、秀松の手の菓子にとびかかるのを見て喜んだ。学校でもそうだった。ただ一人丁稚姿で通学している秀松を、所かまわず、
「おい、てかけの子」
と呼び、級友たちが、秀太郎君と名を呼ぶものなら、
「そいつには名前はない、てかけの子や」
と秀松の傍へ寄り、四つん這いにさせた。だが秀松は、何をされても抵抗はしなかった。かつて風呂場で抵抗をして、ひどい目に会っているのである。それでなくても、帰り途、安造が自分で転んでも、家へ帰るなり、おひさに、
「秀松がこかしよったんや」
と告げ、おひさが秀松を呼びつけ、「あんたそんなに強いのか」と手をツネり上げることさえ何度もあった。そして帰宅後、仕事をせねばならぬ秀松は、一寸でも手を抜くと、番頭たちから、「学校へ行ってる間の働けん分働くんじゃ」と小突かれた。そうした周囲の圧力に、秀松がオドオドした陰気な性格に変わりつつあったのも、仕方がない。そんな秀松を見て、近頃は、女中すら、
「可愛げのない子やなあ」
と汁の盛りさえ減らした。いや、秀吉の死後訪れた言いようのない店の暗さと、奉公人たちの不満が、てかけの子の秀松が来た為だと言わぬばかりの奉公人の態度であった。秀松は被害者の場にいたのである。ただ、音松と一緒にいるときだけが、秀松の救いであった。そして音松と喋るときだけが、秀松の子供に帰る時でもあったが、近頃はその音松にさえ、白い歯を見せる事がなくなって来た。音松は、そんな秀松を見て、
「このままではいかん」
と真剣に思った。だが音松とて丁稚であった。いや近頃では、秀松をかばう音松を見て番頭や手代は白い眼を向け、同僚の丁稚さえ、
「おい音松、お前秀松を嫁はんにするつもりか」
と露骨に言った。だから音松さえも、先立ってかばうことは難しくなって来たから、秀松は益々暗くならざるを得なかった。だが、そうした成田屋の中に、もう一人秀松の冷たい味方がいた。それは、いとはんの糸子であった。
糸子は、おひさのように、秀松がこの家を逃げて行くのを待っている様な気持は不思議となかった。糸子の血には多分に秀吉の血が流れていた。とは言え、秀松に対する憎しみがないのではなかった。上級生として同じ小学校へ通っていても、秀松には一言も語らず、すれ違っても声もかけなかった。だが、いじめられている秀松を見ていると、不思議と哀れさが出て堪《たま》らず、助けようとする心が動くのである。それを自制するのは憎しみで、それでも助けるのは、死の寸前迄秀太郎と呼びつづけていた父の声を思い出すからである。だから糸子が秀松に口を利かなかったのは、そんな心の葛藤《かつとう》の果てかも知れない。
その糸子が珍しく口を利いたことがあった。その日校庭で糸子は、ぼんやり級友たちと、五月晴れの空に泳いでいる鯉のぼりを見ていた。その時、校舎からドカドカ出て来たのは、弟の安造たちであった。声をかけようとしたが、その後からションボリ出てくる秀松を見て口を閉じた。
安造たちは、今教室で先生から聞いたらしい泥棒の話をし始めた。すると安造が、例のキンキン声で、
「泥棒言うたらな、こいつのお母はんは泥棒やぞ」
と秀松を指さした。集まっている子供たちは秀松を見る。秀松は、さすがに母親を泥棒と言われて腹にすえかねたのか、
「泥棒と違う」
と呟いた。
「いや、そうや。おまえのお母はんは、わいの家の財産泥棒やて、分家のおじさんが言うてたぞ」
「違う」
秀松は、詰め寄った。安造は、
「何じゃ、その目。お前も泥棒やな」
秀松は、もう耐え切れなかった。と同時に手を振り上げると安造の頬を打っていた。いつもはワッと「お母ちゃん」と泣くのを、安造は友達の手前秀松に刃向かって行った。と、我に返ったように、級友たちが、安造を助けた。どの子も、問屋の子供たちで、こういう結束は出来ていた。またたく間に秀松は、泥まみれに転がされていた。そして始業の鐘がなると、安造達は校舎へ入っていった。先刻からその様子をじっと見ていた糸子は、ヨロヨロと起き上がり、校舎とは反対の門の方へフラフラと行こうとする秀松に、
「あんた、どこへ行くのや」
と声をかけた。秀松は、振り返り、それが糸子と知るや、
「お母ちゃん、泥棒と違う」
と鋭い目付きで言うと初めて泣きじゃくり、門から去って行った。着物は千切れ、草履の鼻緒も切れていた。糸子は追いかけて行きたい衝動にかり立てられたが、辛うじて踏み止まった。その糸子が、追えばよかったと後悔したのは、学校が退けて家へ帰ってからのことである。秀松が何時になっても帰ってこなかったのである。とっくに安造は帰っていて、
「あいつ、先生に口答えして、わてどついて逃げて行きよってん」
と相変らず嘘を告げた。
「逃げたんに違いない。これで厄介《やつかい》払いが出来たやろ」
鬼の首をとったように治三郎がおひさに言ったが、
「まあ、今日一日見てみまひょ」
おひさが治三郎を信じていないような返事をするのを聞くと、糸子は庭へ出て荷物を運んでいた音松を呼び止めた。
「音松、秀松が帰って来てへんのやて」
「へえ」
音松の表情が意外に明るいのが、糸子の疑問となった。
「あんた、仲良かったのに心配やないの」
「いや、秀松どんは、このお家にいてはらへん方がよろしいのだす」
音松がキッパリ言い切ると、糸子は、音松を見下ろして言った。
「あんた、秀松が何でこの家へ帰らんのか、訳知ってるのか。秀松は、今日学校で、たんとの子供からどつかれたんや」
「ほんまでっか」
音松の顔は急に曇った。
「ひょっとしたら、秀松は、どこかで倒れてるのかも知らん、見て来て」
音松は糸子の真意が分りかねたが、だが、そうだとすると大変だと、荷物を置くと裏口へかけ出した。
糸子は、音松を見送りながら、自分でも何故秀松を心配しているのか分らなかった。ただ、
「お母ちゃん、泥棒と違う」
と言って、痛そうに去って行く秀松の顔を思い出すと、音松に探しに行かさずにはおられなかったのである。
音松は、走りながら、行き先はちゃんと知っていた。生国魂神社裏の家である。
秀松は、生国魂神社がどこにあるか、多分知らない筈であるけれど、聞いて行けば、八歳の子供でもたずねて行けることを音松は知っていた。
日暮れの遅い五月の空でも、午後七時を過ぎると、どっと夕闇が迫り、煙の多い大阪の町は灰色に変わって行く。
音松が、生国魂神社裏についたのは、そんな時刻だった。
露地を入ると、秀吉に頼まれて何度も来たお絹の家の前に、小さな影がうずくまって泣いている姿が目に入った。
「秀松どん」
音松の声に、ビクリと首を上げたのは、秀松だった。
「何してるのや」
「お母ちゃん、いてはらへん」
堰《せき》を切ったように、秀松は泣き出した。音松が見た格子戸の前には、貸家の紙札が、斜めに貼られてあった。
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母 と 子
音松は、貸家札を見て、かつてこのお絹の家へ来て、連れて帰った方がよいと言ったとき、秀松の母親のお絹が、
「ほんまの子や弟やと呼んで貰える日までは、帰ったらいかん」
と、秀太郎に伝えてくれと言ったのを思い出していた。だが泣きじゃくっている八歳の秀松を見ると、言いようのないふびんさが湧いて来る。
「秀松どん、泣いてもあかん、お母はんはよそへ行かはったんや」
「どこへ行かはったん」
「分らんけど、きっと帰って来てくれはる。そやさかい帰ろ」
「もうあの店へ帰るのはいやや」
音松は、ふと、露地の出口の向うに、うどん屋の提灯《ちようちん》が出ているのを見た。
「な、うどんおごったげよ」
音松は、懐にある一銭の金をたしかめた。この秀松にしてやれることは、あたたかい一ぱいのうどんを食べさせてやることだけであった。
うどん屋の縄のれんをくぐると、うどん屋のばあさんが顔を上げた。そして秀松を見ると、
「あんた、ぼんやないか」
とおどろき、秀松が、手足や顔に傷をし、着物も破れているのを見ると、急いで手拭いを出し、顔を拭いてやりながら、
「可哀相に、苦労してはるんやなあ」
と前掛けで目頭を押えた。音松も、秀松に親切にしてくれる人のいたことがわがことのように嬉しく思えて、
「あの、この秀松どんのお母はん、どこへ引っ越さはったんだす」
と聞いたが、ばあさんも、
「さあ、何や、料理屋の仲居さんに住込みでならはったと聞いたけど、知らんのや」
と秀松の世話をやいていた手を放し、奥へうどんをとりに入った。そして湯気がこぼれそうなあんかけうどんを二つ持って来た。
「あの、わて一銭しか持ってまへんのやけど」
音松が心配そうに言うのに、
「かまへん、かまへん、お金なんかいらん。さあおあがり」
と、秀松のために箸まで割ってやった。
「なあ……こんな小さい子を、こんな苦労ささんでもええのに」
ばあさんは、もう一度言った。秀松のことは、近所でも評判になっているようだった。
秀松は、あんかけうどんを見て急に空腹を感じたのか、フウフウ息をはきながら食べた。音松もまたガツガツ食べた。思えば、秀松は朝から、音松は昼から食べていなかったのである。やがて音松が五歳年上の分だけ早く食べ終わり、店でするように、
「御馳走さんだした」
と一礼すると、秀松の食べ終わるのを待って、
「さあ、店へ帰ろう」
とうながした。秀松は、一瞬ためらったが、腹もふくれ、母親のいないこと、自分の帰る家のない事を子供心に知ったのか立ち上がった。
夜の道はもうトップリ暮れていた。生国魂神社から店迄、約半里の道を、音松は、秀松の手をとりながら歩いていたが、途中で怪我のせいか足を痛がる秀松を背負ってやった。
痩せて軽い秀松に、音松は赤ん坊に話す様に言い聞かせた。
「ええか、秀松どん、あんたのお母はんは、あんたが、いとはんやこいさんやぼんぼんから弟と言うてもらうまでは、帰って来やはらへんつもりや。そやさかい、早う弟と呼んでもらわなあかんで」
「弟?」
「そうや、あんたから言うたら、兄さんや姉さんて呼べる日が来るまでや」
「呼んだら、またなぐりよる」
「そやから、なぐられんような人間になることや。つらいやろけど一生懸命我慢して、あんたが、店の事よう覚えて、働いたら、きっとお母はん迎えに来てくれはるがな」
「ほんまに、お母はん迎えに来てくれはる?」
「ああ迎えに来やはる。わての言うこと分ったか」
秀松はコックリうなずいた。うなずいた拍子に、秀松のアゴが、音松の頭にカックンとなった。音松はイタイと思ったが、秀松も泣き出した。
「それ、これ位で泣いたら、お母はん来てくれはらへんで」
と叱った。秀松は泣き止んだが、いつか眠ってしまっていた。音松は、溜息をついた。この溜息の中には、これから店へ帰ったらまたどんなに叱られるやろうか、と思う心配もまじっていた。
その頃、成田屋では、糸茂が訪れていた。秀太郎が夜になっても帰って来ず、おひさもやっとうなずき、治三郎に呼ばせたのである。
糸茂は、ムッツリしながら、治三郎の言う事を聞いていたが、
「もし逃げて帰ったとしたら、あの子の母親が何か言うて来る筈やけど、言うても来んのは他の理由があるのと違うか」
「いえ、旦さん。とにかく学校で先生にさかろうて、安造をどついてもう店へは帰らんて、帰って来ん。何や安造に聞いて見たら、そういうことだす」
おひさは初めて口を開いた。
「あの子はやっぱりてかけの子だす。本妻の子に憎しみを持ってるんだす。あの子は、この先置いといても恐しいなるばっかりで、うちの人の望んだええ商人にはなれまへん。そやさかい、これで決着をつけたいんです」
おひさ派は約束違反の決着を強調した。こうせまられると、遺言を聞き、自ら執行人を任じている糸茂にしても、逃げたら縁切りだと言う、対お絹の約束を秀太郎が破った以上、横車は押せなかった。
「よし、分った。ほんまに秀太郎が逃げたかどうか、これから生国魂の家へ行って調べて来よう」
「どうぞ。今頃、生国魂の家では、てかけと、てかけの子がわてらの悪口言うてますやろ」
糸茂が毒々しげに言う治三郎の言葉を聞き流して立ち上がったときに、店から忠助がとんで来た。
「御寮さん、今秀松が音松と帰って来ました」
「何やて」
「ここへ来さし」
糸茂は、忠助に口早に命じると、じろりと治三郎を見た。
治三郎は失望と音松への憎しみをありありと浮かべ、おひさは唇をかみしめていた。
やがて、忠助が、秀松と音松を連れて入って来ると、糸茂は煙草盆のふちをポンと煙管《きせる》で叩き、
「おひさはん、ここはわてに任して貰お」
と重みのある声でどしりと言うと、
「秀太郎、今までどこへ行っとった」
とぐいと睨みつけた。秀松はおびえながら、音松の背中にかくれて、ねぼけ眼で糸茂を見た。と見るや、音松が返答した。
「秀松どんは、今まで学校の庭で倒れてはったんだす」
「何やて、学校の庭で、何で倒れてた」
「ぼんぼんやお友達から、なぐられはったんだす、よってたかって」
「ほう、おだやかならん話やな」
糸茂は、治三郎とおひさをジロリと見た。
「嘘や! ぼんが、こいつにどつかれたんや」
「おひさはん、まあこの子の言うことを聞こやないか。秀太郎、ほんまになぐられたんか」
秀太郎はうなずいて手足を見せた。
「何でなぐられた」
「お母ちゃんのこと泥棒やて、ぼんが言いよったんや」
「泥棒やて?」
「この家のお金取った泥棒でわても泥棒や言いよったんで、わて、ここのぼん、どついたら、皆でなぐりよったんや」
治三郎が得たりとばかりに、
「見て見なはれ、こいつが先にどつきよったんだす」
と言ったが、糸茂はあきれたように、
「母親のこと泥棒言われて、怒らんものはあらへんやろ。けどこれで、この子がこの店から逃げてへんことが分ったな。しかもこの子は、学校の庭で倒れていたそうや。もし放っておいたらどうなってると思う。おひさはん、言うとくけど、商人は手を振りあげん分おあし貰える言うて、どんなことがあっても人様の体に傷つけんもんや。おひさはん、あんたも船場の御寮さんなら商人のいろは位わが子に教えんと、何の為に供連れて学校へ行かせてるのかて笑われますで。まあ今後この秀太郎が傷おわせられるようなことになったら、この糸茂は遺言と別に考えまひょ。これだけは言うときますで」
糸茂は、言い終わると同時に立ち上がっていた。腹の底迄響くような糸茂の重く厳しい言葉に治三郎は震え、忠助は両手でひれ伏したままだった。
だがおひさは、一点を凝視したまま微動だにしなかった。
しかしよく見ると、かすかにこめかみのあたりが動いていた。
船場の超一流の鴻池屋の掟さえ熟知しているおひさにとって、船場の商人教育のいろはを口にされたことは屈辱以外の何ものでもなかった。
やがて、縁を富江を追っかけて行く安造の姿を見ると、立ち上がり、呼びとめるとやにわに頬を掌で打った。
生れて初めてわが母に叩かれた安造は呆然として立ち竦《すく》んだが、
「安造! 丁稚をどついて怪我させたら、すぐ番頭に言って一厘でも二厘でもお金をやって何で決着をつけささん。そやさかいこのわてが叱られんのや」
と叱りつけると、火のついたように泣く安造を尻目に自室へ歩き出していた。
そのおひさが去るのを待ってたかのように、治三郎が音松の首をおさえつけた。
「この裏切りもんが! 誰のゆるしを得て、秀松を探しに行った! 言え!」
音松は、なされるままに平然としていた。
「とうさんに言われて行きました」
「何やて! 糸子に」
「へえ、とうさん、秀松どんが運動場で倒れてはるさかい見て来い、言われたんで行ったんだす。とうさんのいいつけ聞いて悪おましたか」
治三郎は抑えていた手を放しながら、音松の小面憎そうな面構えを睨むと、
「早う店へ行け!」
とおひさの後を追った。残った音松はペロリと舌を出した。秀松が生国魂の家へ行ったとは言わずに、運動場で倒れていたと言ったのは音松の才覚である。
「さあ店へ行きまひょ。これで当分叩かれることだけは助かりますで」
音松は、秀松を立たしてささやいた。
「これが、商いで言うカケヒキちゅうやつですねん」
だが、その音松にも分らぬのは糸子の態度であった。糸子は、その頃台所で女中のお松が着物を縫っているのを見ていたのである。自分が音松に秀松の安否をたしかめに行かせ、その秀松が帰って来たことも糸子は知っていたし、母のおひさが弟の安造を叩いたことも知りながら、我関せずに、じっとお松の運ぶ針の手を見ていた。やがて女中のお梅が、お松に、おひさが呼んでいることを伝えて来て、お松が立ち上がったとき、音松が秀松を離れから連れて通りかかったのである。
そして糸子を見るや、
「とうさん。秀松どんを連れて帰って来ました。秀松どんよう礼言い。とうさん心配してくれはったんやで」
と秀松を坐らせたとき、糸子は立ち上がり、秀松を見下ろして言った。
「誰もあんたなんか心配してへん。あんたなんか死んだらええ」
糸子の手が、安造が叩かれたように、ピシッと秀松の頬に鳴ったのである。
秀松は、生国魂の家を訪ね、母親のお絹が家を引っ越したことを知ってからは、もう泣くのを止めた。いや止めたと言うよりあきらめたのである。そうなるには音松の言葉も利いた。
「秀松どん、なんぼ泣いても、お母はんは迎えに来やはらしまへんで。お母はんに迎えに来てほしかったら、この家の人から弟やて呼んで貰える人間になりなはれ」
その音松の言葉がどう通じたのか、秀松は、翌日からキッパリ泣くことは止めたのである。えらい人間になって、弟と呼んで貰ったら、母親が迎えに来てくれるということを子供心にもさとったのであろう。
朝も五時に起き、音松たちを見習い、痛々しい手つきで、床を上げ、掃除をし、蔵から品物を黙々と運んだ。番頭の忠助や手代の留吉に叱られても、
「すんまへん」
と頭を下げた。
音松が、どつかれる前に頭を下げてあやまりなはれと教えたからである。これには、治三郎から、
「何とかして、秀松がへこたれて店出て行くように仕込みなはれ」
と言われている奉公人達も、手の出しようはなかったし、音松も、
「あんた賢うなったで」
とほめてくれているが、御寮さんのおひさは勿論、長女の糸子、次女の富江も、姉らしい言葉もかけてはくれず、跡とりの安造も、あの日の事件にこりて、暴力は振わなかったが、弟なんて呼んでくれるような気配はなく、相変わらず、二階から水をかけたり、反物をヨチヨチ運んでいる秀松の足許に縄を張って転がしたり、陰気ないたずらでいじめた。だが秀松は、何をされても、怒りを忘れた。
ただ、夜になると、丁稚部屋のうすいふとんの上で寝ながら、
「いつになったら、お母ちゃん迎えに来てくれはるのやろ」
と、母親の顔だけを求めていた。
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後 家 の 火
それから五年たった。
秀松は、十三歳を迎えた。だが五年たっても、秀松の成田屋での立場は変わらなかった。ただ他の丁稚たちは、手代になったり、店を退いていったりしたが、秀松は丁稚のままだった。もう一人音松もまた丁稚のままだった。成程、音松は丁稚の頭になっていたが、出世は遅かった。秀松を折にふれ、かばうために、自分の下の丁稚が手代に出世しても、音松だけは上げて貰えず、十八歳でまだ丁稚のままだった。だが音松の目は輝いていた。音松とて、自分を冷遇する店のやり方に不服は大いにあった。だが、目的があったのである。
その目的は秀松であった。
「わいは、何とかしてあの秀松どんをこの店の主人にして、わいが白鼠《しろねずみ》になったる」
白鼠というのは、忠実な番頭のことである。その目的が、秀松と同じ様な不遇の子に生まれた音松の闘志となっていたのである。
そんな物欲の目的を持たぬ心の支持者は強かった。
秀松は、自分の為に出世さえ遅らせている音松の言うことは何でも聞かざるを得なかったからである。
秀松を叱りつける他の奉公人が明らかに間違っていることでも、素直に、
「すんまへん」
と秀松があやまるようになっていたのも、音松の「まずあやまれ、その分痛い目受けんですむし、その口惜しさに耐えていたら、いつか間違いを訂正してやれる時が来る」との教えからであった。
そしてどんなに叱られた後でもにっこり笑っていそいそと仕事をしているのも、音松が、
「歯を見せなはれ。歯を見せると口が開く。つまり相手に警戒されんこつや、そして笑たようにも見えるんや」
と教えた結果だった。
しかし、そんな秀松を見ている方は、何とも言えぬ無気味さを感じるものである。分家の治三郎が、何とか逃げるようにいじめてやれと提案した方法も、功を奏すどころか、むしろ秀松はこの店に居る人間だと自然に思われて来たから不思議であった。
そんな秀松を見て、この成田屋の中で最も不安と時には恐怖さえ感じているのが、御寮さんのおひさであった。
誰が見ても、安造と秀太郎の差は歴然とついていた。
同い歳でも商いの何ひとつ知らず、暇があれば、まだ子供のように富江と双六《すごろく》遊びをしたり、お母ちゃんと甘えて見せる安造に比べ、もうそろばんから取引先の応対とすべて一人前にやってのける秀松を見て、おひさは言いようのない不安を抱いたのである。
そして時たま顔を合わせると、おひさの方が意識的に無視しても、にっこり笑って挨拶をする秀松を見ると、おひさは言いようのない焦りを抱いた。そして番頭の孝助にそれとなく秀松の欠点や失敗の有無を問うと、
「まあ、結構役に立ってますんで……」
と控え目な答を聞いては、慄然《りつぜん》とせざるを得なかった。
「もし今のまま行って、奉公人があの秀松の味方になったら」
それこそ秀吉の時の二の舞いとなる。
その上に、時々糸子が、安造を叱り、
「あんた、てかけの子に負けて恥ずかしいないのか」
と言う言葉を聞くと、悪寒《おかん》さえ感じてくるおひさである。
そうした不安と恐怖、焦りと、何とか奉公人を安造の味方にと願うおひさの心の隙に魔がさしたと言おうか、支えやよりどころを求めていたのであろうか、おひさのまだみずみずしい後家の血を走らせることになったのは仕方のないことかも知れなかった。
それは、正月の、奉公人がしきたりの藪入りをとって故郷へ帰り、子供達は治三郎夫婦が城崎《きのさき》温泉へ連れて行き、殆ど無人の留守中に起こったのである。
もっとも、秀松や音松に女中の二人は、部屋にはいたが、正月の骨休めで用はなしと、姿を見せなかった。
おひさは、ひとり離れの部屋で子供達にわずらわされぬ分あれやこれや考え過ぎたのか頭痛を起こし、頭痛膏でもと台所へ行こうとした時、裏口から店をよぎって外から帰って来た留吉の姿を見たのである。
「頭痛膏をとって来て」
そう命じて、やがて持って来た留吉が、
「御寮さん、肩の凝りと違いまっか。何なら少しお揉み致しまひょうか」
普段なら男の奉公人に肌を触れさせることなどもっての他とのおひさであったが、正月が気のゆるみを起こさせた。
布団にうつ伏せ、肩から胃裏と男の器用な指先に圧されて、心地よさについうとうとと居眠りかけて、はっとしたのは留吉の指が腰を圧していたからである。
「そこはええ!」
おひさは命じたが、留吉の指はやむどころか逆に力が加わった。
「ええ言うてるのや!」
もう一度命じた時には、留吉はおひさの腰の二つのふくらみの間に割って入っていた。
「何するのや!」
思わず、起き上がろうと前を向いたおひさの体の上に、
「御寮さん!」
と留吉の体がのしかかった。
「お前! けがらわしい!」
はねのけようとしたおひさの体の力が抜けたのも、留吉の指が下がり、素肌に触れていたからである。
そしておひさは、かつて秀吉では味わったことのない男の味を噛みしめていた。
留吉がおひさの体から離れたのは、三十分程たってからであった。
留吉は、両手をついて、
「御寮さん。どんなお仕置でもお受けします」
と首を垂れたが、おひさは留吉に背を向けて、
「向うへ行き! 誰にも言うてはいかんで」
と、弱々しげに伝えるだけであった。
そして翌日の昼、その留吉が再び呼ばれると、部厚い金包みを前に出された。
「昨日のことはなかったことにしよ。これがその忘れ賃や」
しかし留吉は、それを振り払った。
「めっそうもおまへん。わてはこんなもんは頂けまへん。その代り、今一度、一度だけ、御寮さんを……」
「けがらわしい! 奉公人の癖に……」
そう言ったが、留吉が、にんまり笑って、その金を押し返して部屋から出て行った。夜になって、
「腰でも揉みまひょか」
と姿を現わすのをおひさは睨みつけたが、にじり寄られるともう抵抗は出来なかった。そしてその都度《つど》決着をつけられぬおのれを呪いながら、それからの九カ月、おひさは、留吉とそんな関係を続けている。
とは言えおひさも、こらえるだけこらえ、おのれを叱り続けていたのも事実である。
しかし一度男の味を思い起こした女の血は、こらえることより走ることの方が多かった。
だがおひさは、家人や奉公人の目に触れることは、必要以上の警戒を怠らなかったし、誰しもがよもやと思える盲点が隠せたのかも知れない。
だが、それを最初に知ったのが秀松であったことは、皮肉であった。
それは、仲秋の名月の夜のことであった。
店を閉め、秋刀魚《さんま》を三つに切った一切れのお菜で、晩飯を食べ、帳合いを始めようと秀松は、二年遅く入って来た二人の丁稚と帳場格子の前へ坐った。生憎《あいにく》とその日は、忠助や他の番頭たち、それに音松までも集金に出て居り、残っているのは、手代から小番頭になった留吉だけであった。帳合いが始まり暫《しばら》くすると、ドカドカと、糸子が富江と安造の手を引いて現われた。庭に出て行く女中のお梅の話から察すると、どうやら道頓堀の夜店に行くらしかった。
子供たちが出て行った直後、留吉が伝票をポンと秀松に投げ、
「あとは合わしときや」
と立ち上がった。秀松は、丁稚二人と帳合いにとりかかったが、どうしても合わないのも道理、一枚伝票が足りなかったのである。秀松は留吉に聞くべく奥を探した。だが留吉は、小番頭部屋にもいなかった。秀松は、庭へ降りた。だが仲秋の名月の明るい庭にもいなかった。秀松は、小首をかしげながら、何気なく離れを見てギクリとした。離れの障子に男の影がチラッと見えたからである。そこは御寮さんの部屋で、男の影はない筈だった。ひょっとして泥棒でも、と秀松が足音をしのばせて近寄ると、ハッとした。その男の影に、女の影が重なったからであった。どちらも頭しか見られなかったが、女の頭は、御寮さんの影であるのは間違いなかった。秀松はその二つの影を見つめていたが、何かとんでもない事と見てとって、前へ進み、障子のある縁側とは一尺と離れていない距離迄出た。するとかすかに、あえいだ声が聞こえて来た。
「御寮さん、何でちょっとも呼んでくれはらへんかったんだす。何で……」
その声は留吉だった。
「……人目がある。それに子供達も……」
まぎれもないおひさの声がかすかに聞こえた。
「そやさかいこのわてを……婿にしとくれやす。それやったらいつでもこのように……」
「……やめて……」
「なあ、婿にしとくれやす……」
おひさのうめきとも何ともつかぬ声が聞こえると、
「いや! 何で離すのや……」
「返事がないからだす。どうだすのや」
「……出来へん」
「何でだす?」
「もうこの店の主人には安造がいる……」
「そやから主人にしてくれ言うてしまへん。あんさんの婿に……なあ……」
「留吉、そういじめんといて……」
「いじめてまへん……わては捨てられとうないんだす……お願いだす」
「いかん。なあ、あんたとはこうしてるだけ……なあ、こうやって早うわてを殺して……」
秀松は異様なこの会話を理解に苦しみながらも聞いていたが、「殺して」なる言葉を聞くと、愕然として縁へとび上がると障子を開けていたのである。そして秀松がそこに見たのは、もつれ合った二つの身体だった。
一瞬、おひさの割れ乱れた着物の下の燃える様な赤い腰巻が、秀松には血と見えた。
と同時に、ハネ起きたのは、留吉だった。留吉は乱入者と見るや、枕許の煙草盆を持って投げつけた。秀松の肩にあたった煙草盆は灰神楽《はいかぐら》をもうもうと撒き散らし、秀松の目つぶしともなった。秀松は、おどろいて、庭へ転がり落ちた。秀松が去るのを見て、体を伏せ、顔を隠していたおひさは、
「今のは誰や?」
と聞き、
「秀松だす」
との返事を聞くと、がっくりと首を垂れた。だがそれも一瞬であった。次に留吉を見つめたおひさは蒼白な顔に目を血走らせて、
「ええか、どんなこと言われても知らんて言うのや! 死んでも、知らんと言うのや」
と口走っていた。
煙草盆を肩に当てられた秀松は、台所を出た井戸端で灰を払い、顔を洗ったが、煙草盆の当たった肩が痛かった。
着物を脱いで見ると、痛い筈で紫色のあざを造っていた。秀松はタオルを水に濡らしてそっと当てた。
その時、後から、
「どないしたんや」
声をかけられてドキリとして振り向いた。いつ来たのか帰って来た音松だった。
「何や、灰だらけやないか、どうかしたんか」
音松はもう一度聞いたが、秀松は静かに首を横に振った。
秀松自身、何のために煙草盆を投げられたか分らなかったのである。十三歳の秀松は、その行為が何であるかはまだ知らなかったし、音松にも説明は出来なかったのである。
その夜音松は秀松を銭湯へ誘い、その肩のあざを知って、どうしたのかと何度も聞くと、
「わてがいかんかったんだす。御寮さんを助けよ思て障子を開けたのが……」
やっと重い口を開いた秀松の言葉に、音松は疑惑を抱いた。そして、その帰り近所のうどん屋へ引っ張りこんで、すうどんと称する、東京で言うかけうどんを食べさせながら、秀松から更に詳しい事情を聞いて、音松は合点がいった。
十三歳でも、奉公人同士話すらせず、男と女の密事の何たるかさえ知らない秀松に比べて、十八歳の音松はそんな知識はもっていた。
「あの男が御寮さんと……まさか」
音松は首をかしげた。しかしあり得ることやとも思った。
そう言えば留吉の態度に思い当たることがないでもなかった。以前までは、上役の孝助や他の番頭達の顔色を窺って、お世辞ばかり言っていた留吉が、それをしなくなったし、少し頭のぼけて来た治三郎と妙に親しくなっていることである。そして他の奉公人の見る目も、何となく留吉に一目置いていた。
(もしそうやとすると?)
留吉が店の実権を握ろうとしているのは、確かである。
他の奉公人は、それを見て見ぬふりをしているのかわからぬが、もし、秀松が見たとすれば、留吉は、秀松を追い出しにかかるに違いない。
「こら何とかせんといかんな」
音松は、そう考えて、自分が悪いことをしたと思い込んでいる秀松に、
「秀松どん、あんたが悪うないんや。まあ見てなはれ!」
と肩を叩いてやったが、秀松は力なくうどんをすすっていた。
案の定、翌日、治三郎が、孝助を傍におき秀松を呼ぶと、
「この泥棒猫が!」
と怒鳴りつけた。
「お前昨夕、わしらがおひさの部屋で話してるの立ち聴きするはおろか、障子迄こっそり開けて覗ことしよったな! 嘘や言うのか!」
秀松はそう言われて、治三郎もいたのかと怪訝《けげん》そうな顔をしたが、すんませんとあやまらざるを得ないのを見て、音松はその手で来たかとうなった。
その部屋に留吉ばかりでなく治三郎も居たということにすれば、情事を目撃したどころか、一方的に秀松の罪になる。
「ほんまに恐しいことを。奥に近づいてもいかんのに。今日からお前は荷物蔵の番をして、一歩も外へ出るな!」
外へ出て誰とも口をきかせぬ為の処置、そして今度は荷物蔵の品物をどこかへ隠して、やっぱり泥棒やったと秀松に罪を被せようとしているのは、目に見えていた。
「こらいかん、一か八か相場張らんと!」
音松は決心した。
音松が、相場を張ったろと思ったのは、それ相応の材料があったからである。その材料とは、音松がおひさとのことを聞いてまさかと小首をかしげたことであった。というのは、音松が留吉の別の情事を知っていたからである。相手は昨年から新しく入った女中のお峯であった。お峯は、ポチャポチャとした色の白い肉感的な女で、福井の呉服屋からの紹介で、行儀見習という名目で来ていたが、他の女中たちの話では、
「お峯どんは、どこかの男と駈け落ちして、連れ戻されたキズもんや。それが証拠に、お風呂へ入る時、恥ずかしそうやあらへん」
と噂をされているような女だった。そのお峯と留吉が出来たのは三カ月ほど前で、その情事の場所は、もっぱら夜半に蔵の中と決まっていた。音松がそれを知ったのは最近で、配達に行ったとき途中で食べた氷水が腹に悪かったらしく、腹痛が始まって、便所へ行こうと梯子段《はしごだん》を降りた時、蔵の中へ入って行く人影が目に入った。他の丁稚たちは寝ているし、泥棒ではないかと、足音を殺してうかがっていると、暫くしてお峯が入って行った。それからちょいちょい気をつけていると、二人が蔵で逢う日は、昼間決まって留吉が、丁稚たちが疲れ切って夜ぐっすり休むように、苛酷な労働を与えていることも分った。そしてその情事の時間も長くて十分間程だから、他の店の者にも、女中たちにも気付かれていなかったし、音松も口外していなかった。船場には、奉公人同士の恋愛は御法度《ごはつと》で、奉公人が嫁を貰う場合にも、相手の娘を一週間か十日間主人の家に置き、働かせて御寮さんの眼鏡にかなってからでないと嫁には出来ないしきたりであったから、留吉とお峯のような情事は、見つかれば直ちにお払い箱になるのは分っていたが、睨まれている音松がそんな事を口に出しても、信用されるどころか、かえって留吉にどんな目に逢わされるかも分らない。だが、今度の場合は違った。もし留吉とおひさがそんな関係にあったら、お峯の事を聞いて、おひさが留吉にどんな処置をとるか、いずれにせよ、留吉に対しておひさは何かして見せねばならない。それが音松の相場であったのである。
音松はその夜からじっと機会を待ったが、案外早く来た。その夜は、秀松のことがあって五日目のこと。翌日は十五日、店も休みと言う前夜だった。その日は番頭も外泊を宥《ゆる》されている。その昼間、また留吉は例により丁稚たちに余計に蔵の整理をさせていたので、音松は、今夜はやるぞと分っていた。そこで丁稚たちが床につくのを見ると、音松は起き上がり、便所へ行くふりをして蔵の外の物かげでかくれて待っていた。やがて一時間ほどすると、そんなこととは知らない留吉が、先ず蔵へ入り、後で、お峯がしのんで来た。そしてまさに事が始まりかけた頃、音松は蔵の鍵を外からかけ、
「泥棒、泥棒」
と、用意していた金だらいを叩いて叫んだのである。その声で、丁稚、手代はもとより、女中たちも駈けつけた。やがてかけつけた手代たちの手で、鍵が開けられ、留吉とお峯が出て来たとき、縁へ出て来たおひさの表情は複雑であった。
「お前ら、何してたんや」
聞かなくても答は明瞭だった。お峯は帯を外しっ放し、留吉の下紐は長く地面に尾を引いていた。
おひさは二人の前へ降りると、やにわに留吉の頬をピシャリと平手で叩き、
「けがらわしい!」
と言い残して部屋へ戻っていった。
その翌々日、番頭の孝助は報告を聞き、おひさに、
「わての不行届きで奉公人がそんなふしだらな事をして、申し訳おまへん。すぐにヒマをとらせます」
と平身低頭してあやまるのに、おひさは、
「分家のおじさんにまかせてあります」
と言っただけであった。孝助は、治三郎と相談し、留吉とお峯を呼びつけると、
「あんたら、今日から暇をやる。とっとと出て行きなはれ」
と申し渡した。だが、お峯の方は、申し訳なさそうに頭を下げたが、留吉は、
「それは、大番頭はん一人の考えだすか、それとも御寮さんのお考えだすか」
と聞き返した。孝助は頬をふるわし、
「御寮さんのお言いつけに決まっている」
そう聞くと、留吉は、
「ほんまにだすな!」
と念を押し、孝助がうなずくと、
「そんなら御寮さんに言うといとくれやす。御寮さんはお峯どんと同じことやって、丁稚に見つかっても、分家はんが誤魔化して、暇出されんでよろしいなあ、けど世間の眼はそれでは誤魔化すこと出来まへんやろなあ」
と凄味を聞かせて言い残すと、お峯と共に成田屋から出て行った。おひさは、その報告を治三郎から聞くと、
「決着がついた」
とほっと溜息をついたが、この留吉の捨てぜりふの報告は受けていなかった。それもその筈、治三郎はおひさが渡した筈の口止料を懐中へ入れてしまっていたからである。
孝助は、あわてて、秀松を呼び、
「お前、何を見たか知らんけど、こんな事が世間に知れては、のれんに傷がつく、絶対他言はしなはんな」
と、どこかで貰ってたもとに入れていたのか、アンがつぶれて紙にこびりついている最中《もなか》を渡した。秀松は、孝助に初めてやさしい言葉をかけて貰ったうれしさの余り、その最中を音松に半分やり、自分は紙ごとペロペロとなめた。
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土 性 っ 骨
音松の思惑は見事当たり、秀松は守られたが、思惑外のことが起こって来た。そのことが世間に洩れ、噂がパッと広まったことである。
「成田屋はんの御寮さんは、番頭と出来て、その番頭と女子衆がまた出来て、やっかみからヒマ出した。どえらいお色気騒動やで」
こんな噂は、信用を第一にする船場の問屋ではよかろう筈がなく、成田屋は男狂いで、蔵の中は空っぽとの尾鰭《おひれ》までついて、客も激減して行った。そして一年もせぬ内、奉公人たちも一人辞め、二人辞めて、店は孝助と、音松、秀松、丁稚が他に一人、女中も十何年かいるお梅一人になってしまった。音松は手代を通り越し、一足とびに小番頭に、秀松が手代代りの仕事をする事になったが、辛うじて食べて行けるだけになってしまった。
その成田屋でもっとも屈辱を味わっていたのはおひさであった。
船場でもっとも格式を誇る鴻池屋の妻女のすべてを知ったおひさが、今や最も恥となる男狂い、しかも奉公人との情事を暴露されたのである。
それも、留吉に支払う口止料を治三郎が懐へ納めた結果とはつゆ程も知らぬおひさは、
(決着のつかん奉公人相手にしたことが破滅となった)
と、おひさらしい根拠でおのれの愚かさを呪った。
しかし、こうなれば女は脆《もろ》かった。
今迄、船場の誇りを強調し、わが子安造をその誇り高き主人に育てようとしていた御寮さんも、ただおのれの身を隠すだけに兢々《きようきよう》となり、わが子の前ではらはらとする弱い女と化してしまった。
事実、そんなおひさを見て糸子は露骨に不潔そうな眼を向け、お母はんとも呼ばなくなったし、富江は学校を変えてくれと言い出した。学校でも母のことを級友たちから言われるのであろう。
まだ幼い安造は、言われても、意味がわからぬのか、その分平気で、
「学校でお母ちゃんのこと色気狂いと言いよったけど、何のことや?」
とずばり聞いておひさの腸《はらわた》を抉《えぐ》った。
そして、おひさはおどおどし、はらはらしてわが子の機嫌をとることに懸命になるのと、一日中仏間に閉じこもり、うちわ太鼓を手に南無妙法蓮華経の題目を唱えるのが毎日の生活となっていた。
それは、その年も押し詰まった大晦日《おおみそか》に近い日のことだった。近頃は、顧客も大阪の外れの呉服屋相手ばかりで、その上最近にない不景気で、孝助と音松が集金に廻るが寄りが悪く、孝助も困っていた。そんな矢先、おひさが孝助を呼び、
「子供たちに正月のべべつくってやりたいんやけど、お金出してんか」
と頼んだのも、せめて母と思われたいおひさの願いであったのだろう。孝助も困り、
「御寮さん、生憎、支払いが手一杯で、なんともなりまへんで」
「何やて、一体あんたら、それで商いしてるのかいな。何でそれ位のお金が出来んのや」
奉公人達におのれの愚かさを笑われているように思って、おひさは涙まじりに問いつめた。
「そんなことはおまへん。堺の山野屋はんの大口一軒、掛取出来まへんので」
「何で掛取出来んのや。商いしたらお金貰うのが当り前やろ」
「ところが山野屋はん、来春まで待ってくれ言わはりますんで」
「あかん、家も困ってるて、とりに行ったらええ」
悪いことに、ちょうどその時、秀松が顔を出し、おひさと孝助を見るとそのまま踵《きびす》をかえしたのは、二人の話の邪魔をせぬようにとの配慮であったが、おひさにとっては、秀松が今迄盗み聴きでもしていたように思えたのであろう。あの時、留吉のことが暴露されたのもこの秀松の為、そう思うとくすぶり続けていた感情が一切火を吐くような勢いで爆発したのである。
「お待ち! あんた何で人の話を盗み聴くのや」
「いえ、聴いて居りません」
「いや、聴いてて逃げようとしたんやろ! わてが掛取の話をしていたさかいに、取りに行かされると思うたな!」
「いえ、存じまへん」
「へえ、そんならあんた取りに行くか!」
「へえ……」
孝助は驚いた。
「御寮さん、今からでは乗物もおまへん」
「乗物がのうても歩いて行ける。どうせ乗りこんではならんとこへ乗りこんで来た子やないか。秀松ええか、どんなことしても取って来るんや。もし取って来なんだらお前は役立たずとして店から追い出す。どうせこの成田屋を無茶苦茶にしてしもたお前や。居てても仕様がないやろ! ええな!」
おひさは一気にわめくと、もう奥ののれん口に向かっていた。
秀松は、渋い顔をしている孝助に、
「番頭はん、行て参じます」
と立ち上がっていた。
さすがに孝助も、ためらった。何しろ船場から堺までは四里の道。おまけに雪も降り出し、外は凍りつくような寒さである。
「もし何やったら今夜はどこかで泊まって、朝一番の電車で行ったらどや」
と言ったが、秀松に泊まるところもないのは、孝助が一番知っていた。
「かましまへん、前に堺の近くまで配達に行きましたさかい」
秀松は、そう言うと、台所に行った。
音松は、まだ他の集金に廻っているらしく帰って来なかったので、心配させるのではないかとお梅に言い残しておこうと思ったのである。台所にはお梅と共に縫物をしている糸子がいた。その糸子に会釈をして、
「お梅どん、わて一寸出かけて来ますさかい、音松どんが帰らはったら言うといとくれやす。今晩は帰れまへんやろさかいて」
「へえ、珍しいことやな、泊まりがけでどこへ行くのや」
「堺までだす」
そう言ったとき、糸子が、聞きとがめた。
「あんた、堺まで行くて、乗物もうないで」
「へえ」
「何しに行くのや」
「掛取だす」
「今から、どうやって行くのや」
「へえ……」
「今、店へお母はんが行ってはったけど、お母はんの言いつけか」
秀松は、かすかにうなずいた。それを見るや糸子は、帯の間のがま口から、五十銭銀貨を出すと板の間へ置いた。
「これ持って行き」
「とうはん、こんなお金頂く訳にはいきまへん」
「持って行き。乗物に乗るなり、外で泊まるなりしたらええ」
秀松は、嬉しかった。この家の家族の中で一番親しみのもてるひと、そして、母親のお絹が、家の人に、弟と呼んで貰えるような人間になったら一緒に住んでもやろう、迎えに来てやると約束をした、その約束の、もし弟と呼んで貰えるならこのひとが一番早いだろうと、そうまで思っているその糸子から金を貰ったのである。
秀松は、思わず、
「姉さん」
と呼びかけたが、途端に糸子の表情が冷たく変わった。
「勘違いしんときや。うちはあんたが可哀相でお金あげるのと違うのや。この成田屋では、てかけの子のあんたに堺まで歩いて行かせた、そう言われとうないさかいあげたんや。早う持って行き」
そう言うと縫物を手早く丸め、去って行った。
その姿は五年前、お絹に連れられて初めて父の臨終に立ち会いに来たとき見せた糸子の態度と寸分も変わっていなかった。
秀松はまた哀しさを感じた。いつも糸子に接するたびに来る、あたたかさから突如冷たさに変わるその哀しさであった。
「秀松どん、とうさんが折角言うてくれてはるのや、そのお金頂いて行き。そのお金な、とうさん、かんざし買おて大事に残してはったお金やで。成田屋のとうさんがわての針仕事まで手伝うて」
そのお梅の声に送られて秀松は、五十銭をしっかり握ると船場の道へ出た。つい一時間程前から降り出した雪が、もううっすらと白生地のように道を染めていた。
素足で草履を踏む爪先が、凍てつくように痛かった。船場の家々は、すっかり大戸を降ろし、中には、門先に早い松飾りを立て、すっかり正月の準備も出来たのか、硝子《ガラス》窓からはあたたかそうな灯りが洩れていた。こんな家々の中にきっと十三歳の秀松と同じ年頃の子供もいるに違いない。そんなあたたかそうな灯りを見て、秀松は無性な淋しさと腹立たしさで、ポロポロ涙を流した。
爪先から段々凍ってくるような秀松の体に、妙に涙だけがあたたかかった。
秀松が太左衛門橋まで来た時だった。
道頓堀界隈はさすがに人通りが多く、弁天座の芝居がはねて送り船に乗る為か、急ぎ足に帰るとんび姿の旦那衆や、ビロウドの肩かけをあごまで埋めた女たちの流れに押されるように歩いていた秀松は、後から聞きおぼえのある話し声を聞いて振り向いた。秀松のつい一間ほど後から歩いて来る二人連れの一人が、夢にまで見た母親のお絹だった。
「お母はん!」
呼ばれて、お絹もぎくりと立ち止まった。
「秀太郎!」
二人の間には、暫く無言が流れたが……。それは、五年間の空間であった。傍の女、鮒清のおかみは、それがお絹の子と知って、
「わて、先へ帰るさかい、何やったら、うちへその子連れて来てもええで」
と言って、去って行った。おかみが去ると、秀松は、お絹の胸に飛び込んだ。
「お母はん! どこに行ってたんや……」
「今のお人のとこで働いているのや。お前、今時分、どこへ行くのや」
「堺まで集金にだす」
「堺へ? 歩いて行くのか」
泣きながらうなずく秀松の足に足袋《たび》もはいてないのを見て、お絹も、哀れさで胸がしめつけられたが、顔には出さずに、
「そうか、よう気張ってるのやな。えらいで。それに大きいなったやないか。今にお父はんに負けん位の背になる」
お絹は、秀松の肩に手を置いた。
「お母はん、一緒に住んで。わて、つらいのや」
その言葉を聞くと、お絹は、肩から手を外した。
「お前、いとはんやぼんぼんたちから、弟と呼んで貰たんか」
「呼んでは貰てへん。あのひとら、一生呼んでくれはらへん。わて、つろうてつろうて、何のために、こんな苦労をせんならんか分らんようになったんや」
お絹は、それを聞くと秀松を押し戻すように、
「何言うのや。お前の苦労は、お前一人のためやない。お前が、てかけの子、余計前な子と言われんように、何とか、弟と呼んで貰えるような、お店の役に立つ一人前の商人になって、お父はんや、このわてがええ子産んだと言うて貰うためやないか。そのために、わてかて、お前から離れて淋しゅう暮してるのや。一緒に住みたかったら、早う弟と呼んで貰える人間になりなはれ。いったん約束したことを守れんようなら、それこそ男やあらへん。このわても一生逢わへんで」
秀松は、母親の言葉を聞いて唇をかみしめた。
「分ったら、早うお行き」
お絹は、それでも財布から小銭を出すと、
「これで足袋でもお買い」
と、秀松の掌にのせてやった。そのお絹の手もヒビと赤ギレでガサガサとしていた。秀松は、その金を返した。
「お金は、ある。とうさんから出がけにもろたんや」
糸子から貰った五十銭玉を出した。お絹はそれを見ると、
「見て見いな、とうさんかて、そんなにお前に親切にしてくれはるやないか。いつかは、きっと弟と呼んでくれはるに決まってる」
初めてニッコリ笑う母親の顔を見て、秀松も嬉しくなった。秀松は、その五十銭玉を、お絹に渡した。
「これで、お母はんの手のお薬買うて」
「何を言うのや、お前持ってなはれ」
「ううん、お母はん持ってて」
お絹の目から涙が溢れ出た。
「おおきに。ほななあ、これは、わてとお前が一緒に暮すときに使うお金に貯めとこ。わてもな、今一生懸命働いて、お前と一緒に暮せる支度してるのやで。そやさかい早う一緒にそうなれるようになってな」
秀松は、力強くうなずいた。
「ほな、わては帰る。お前もお行き」
「お母はん、今どこにいるのや」
「それは言えん。お前が一人前になったらきっと迎えに行ったげる。分ってな。体に気いつけて」
そう言い捨てると、もう急ぎ足に南へ通る小路を走って行った。追おうとする秀松の耳に、下駄の音だけが冷たく響いていた。秀松の胸に不思議な実感が湧いて来た。ともすれば、何の為に自分がこんなつらい目にあわされねばならぬのかと懐疑を持ち矛盾を感じていた子供心に、お絹もどれだけ自分と一緒に暮すのを楽しみにしていてくれているか、初めて、はっきり分ったのである。そして懐疑や矛盾を突きとめるより、一緒に住めるという目的が実感として湧いて来たのである。
「お母はんと一緒に住めるように、早ようなったろ」
秀松は、初めて、自分でその気になったのである。
お絹は、小路の軒下でじっとそんな秀松の後姿を見送っていた。五年振りに子供と逢えたのに、その子に、あたたかいうどんの一杯も食べさせてやらずに別れた後悔と、せめて今夜一晩、共に寝て、明日の朝電車に乗せてやればよかった、今からでも追いかけて止めて来てやろうか、そう思ってである。だが、その思いも心でとめた。とめているのは、女の意地であった。あの成田屋で、わが子がどんな扱いをされているか百も承知だった。一月に一度は、遺言の立会人であり、お目付役である糸茂の旦那に逢いに行き、その口から、
「やっぱり成田屋へ置いたのが間違いやったかもわからん。もう今は昔の成田屋と違う」
と言われて、お絹は、
「そんなら尚《なお》のこと、あの子に何とかさせて見たいだす。死なはった旦はんが浮気心で、あの子をてかけに産ませたて言わしとうないんだす」
はっきりこう言ったのである。糸茂もそれを聞いてからもう何も言わなかったが、鮒清へも来てくれ、秀松のことをお絹に知らせもしてくれたし、おかみには、
「あの子持ちが、成田屋の御寮さんやったら、成田屋は今頃蔵の五つも建ってるで」
と言っていたという。だがお絹は、自分のことよりも、秀松のことをそう言わせたかったのである。
「秀松どんが、本当の跡とりなら、成田屋がもっと栄えてるのに」──と。
その言葉を世間から言わせるために苦労をしているのである。仲居をしていたお絹にとって料理屋の下働きはつらい仕事である。いや、それにも増してつらいことは、一度、男によって女の喜びを知った女が淋しさに耐えるつらさであった。殊に料理屋という商売は、男と女のあらゆる濡場の見本市のような場所である。もうすぐ来る正月ともなれば、そんな仲をいやが上にも見せられる。例えば、するめと言われる閨事《けいじ》である。芸妓は正月になれば、稲穂を頭に下げ、黒地の衣裳に着飾り、客や、料理屋へ挨拶に廻る。旦那となった男は、料理屋で待つ。だが芸妓は帯を解いてる暇はないし、髪が乱れては後が困る。そこで床の間に頭をのせ、裾をめくって、旦那とのことをすます。まるでするめのような姿だから、するめとか、のしいかと呼ばれる。お絹は、そんな姿を目撃することも何度かある。その度に、思わず熱くなって行く自分の肌を感じる。そんな夜は眠れぬことも多い。しかし秀松の顔を思い出しながら冷まして行く。
そのお絹が鮒清の店へ帰ってしまい、風呂に入る頃、秀松はまだ住吉を歩いていた。住吉も花柳街である。
折角、意欲をもった秀松だが、寒さにガタガタふるえ、腹は無性に減って来た。ふと、秀松は、うどんの香りが風に乗ってくるのを知った。新地を通る川の傍の柳の木の前に、屋台が出ているのである。秀松はフラフラと近付いた。うどん屋の親父は、四十に近い貧弱な男だった。
「おじさん、すうどんいくらや」
いきなり暗がりから、蚊のなくような細い声をかけられて、おやじは驚いた。
「何でえ、おどかすじゃねえか。すうどんなら二銭だよ」
おやじの言葉は、東京弁だった。
「それ信用貸しになりまへんか」
「バカを言え、屋台のうどんを信用貸しで売るやつがあるかい」
秀松は、あきらめて、トボトボと歩き出した。おやじは、その後姿を見ていたが、何と思ったのか、
「待ちなよ」
と声をかけた。秀松が立ち止った所は、丁度柳の木の前だった。
「お前、どうも影がうすいな。どこまで行くんだい」
「堺までだす」
「うどん代に金を使ったら電車賃もないって訳か」
「いや、歩いて行くんだす」
「へえ、驚いたねえ。上方の丁稚の修業はきびしいもんだと聞いてたが、電車にも乗せないのかい。まあいいや、食って行けよ」
「ほな、貸してくれはるんですか」
「バカ言うな、食わしてやると言ったら、食わしてやるんだ」
「ただでは頂けまへん。おじさんも商いしてはるんだす。信用貸しでお願いします」
「お前、信用貸し、信用貸しって、一体何を信用するんでえ」
「商人の信用は、のれんと聞いてます。わての信用はこれだす」
そう言うと秀松は、前掛けを見せた。その前掛けには、丸に成と染められていた。その前掛けを穴のあくように見ていたおやじは、
「よし、気に入った。信用貸しにしてやろう。丸が成るとは金が成る、信用していいだろ」
秀松は、喜んだ。
「船場の呉服問屋、成田屋の秀松て言います。その代り、わてが一人前になるまで待っとくれやすや。おじさんの名前は?」
「わしは作造と言うんだ。今は、住之江にいるがね、東京からこっちへ来たんだ」
作造は、男やもめらしく、もも引きの裾が切れていた。それを秀松が、じっと見ているのを知って、
「ああ、これかい、破れちまってねえ。この方が風通しがよくってね」
作造がかまぼこを切り始めると、秀松は、
「あの、わて、すうどんでよろしいのやけど」
「何言ってるんだ。鍋焼きうどん造ってやるよ」
「いりまへん。美味しいもんたべると、口がおごりまっさかい」
作造は、かまぼこを切る包丁を止めて、
「そうかい。ようし、それじゃせいぜいまずいうどんを造ってやらあ。まずいうどんを造るのなら得意中の得意だ」
と造り出した。やがて出されたうどんを、秀松は拝むようにして食べた。あたたかいうどんが、秀松の身体の隅々まであたためてくれる。そして最後の一滴をすすると、
「ごちそうさんだした」
と、頭を下げた。
「どうだ、うまかったか」
作造は、意外にやさしそうな目を細めて聞いた。
「へえ、おいしいおました。けど、このうどんで二銭は一寸高うおますな」
と答えた。作造は、
「こいつが!」
と手を振り上げたが、顔は笑っていた。
「そんなら、わて行きます。きっと返しますよってに」
秀松も嬉しそうにまた頭を下げた。
「お前は、きっと出世するぜ」
作造の言葉は口の中で半分消えた。秀松が小走りに行ってしまったからである。
秀松が堺の山野屋に着いたときは、もう夜も明けて来て朝の六時だった。作造のうどんで元気をつけた秀松だったが、大阪湾沿いに歩く夜明けの街道は一層冷え、秀松は何度か脳貧血を起こした。それでも、やっとの思いで山野屋へ着くと、まだ店は、大戸を降ろしていた。山野屋は、堺の町の中央にあるこのあたりでも一番の呉服屋であったが、金払いの悪いのでは有名な店だった。現に大番頭の孝助が何度取りに来ても、年を越してからと言われて引き退って来ているような相手だけに、他の店が敬遠し、成田屋が取引き出来ているのである。だから成田屋にとってはこの山野屋は今では大顧客の一軒でもあったし、二十円余りの支払いでも、してくれないと四苦八苦するのである。
秀松は、その山野屋の堅い大戸を叩いた。
「ごめんやす。成田屋だす」
すでに手は寒さでしびれ、叩くごとに、脳天までひびく。だが秀松は、何度も叩き、やっと、中から「どなただす」と女の声が聞こえた。
「成田屋だすけど、集金に来ました」
「すんまへんけど、今主人が留守で」
「お留守なら帰らはるまで待ってます」
返事はなかった。秀松は寒風の表でじっと待った。初めは足踏みをし、そこいらを歩き廻ったが、やがて唇が震えて来ると目の前が赤くなり、そして真っ暗になっていった。
秀松が意識をとり戻したのは、あたたかい炬燵《こたつ》の中で、心配そうな顔をした女の顔がのぞいていた。
「気いつかはったかいな、もう一寸で凍え死ぬとこやったで」
秀松は、それが妻女のお清と知ると、あわてて起き上がろうとした。
「寝てなはれ。今あたたかいもん食べさせたげます」
やがてお清が土鍋に湯気の立ったおじやを運んで来てくれるのを見て、秀松は思わず涙をにじませた。秀松は、そのおじやを喰べた。秀松の腹のどこにこれだけのおじやが入るのかと思う程、喰べ続けた。
喰べながらふと見上げると、主人の長兵衛が見下ろしていた。
「よう喰うな。金払わんかったら、めし代でたまらんな」
そう呟くと金を出した。
「お前とこの支払いや。持って帰り」
秀松はワッと泣いた。
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いとはん心
堺から秀松が、鬼の首でも取った思いで、集金の金を大事に体に巻いて、今度こそは褒めて貰えるに違いない、これも母親のお絹に偶然逢って、やる気になったからだ、やる気になれば、どんなことでもやれるのだと喜び勇んで帰ってくると、成田屋では大騒ぎが起こっていた。長女の糸子が自殺を計ったのである。その朝、いつもは早く起きる糸子が起きて来ないので、不思議に思って女中のお梅が、何気なく離れの二階をのぞくと、糸子が苦しげに悶えていた。それを見て驚いたお梅がおひさに知らせ、医者が呼ばれて一命はとりとめたが、枕許《まくらもと》にあった遺書を見ても自殺を企てたことは明瞭であった。
その遺書には、生きていたくないからとだけ記されていた。
糸子には生きていけない理由があったのである──。
糸子は十八歳、好きな男がいたのである。
相手は、船場から近い道修町《どしようまち》の薬問屋漢水堂の一人息子で、清という阪大の学生であった。本来なら末は博士か大臣かと言われた学士様だが、漢水堂の主人良之助は、一人息子の清に卒業と同時に嫁を迎え家業を継がせたい希望であった。
事実、清は秀才お定まりの青白いインテリではなく、腰の低い、愛敬のある片えくぼの持ち主で、見るからに商売人の息子らしいやわらかい魅力があった。だから、まだ卒業に一年あるというのに降る程の縁談があったが、何事も親まかせの清も、こと縁談になるとなかなかうんと言わなかった。その強情さに、親たちもあきれ、誰か好きな人があるのではないかと調べると、成田屋の糸子とわかった。
清と糸子が、初めて逢ったのは、糸子が通っていた生花の師匠安西里江の家で、その家に下宿している師匠の甥が清の大学の同級生であるところから、たまたま訪ねて行ったときに、糸子が丁度稽古に来ていたのである。
里江師匠は、なかなかさばけた師匠で、甥と清を糸子たち弟子に紹介したが、糸子と清は言葉を交わさぬうちに相通じるものがあったらしく、偶然再会したときは互いに言葉を交わしていた。
それから、二人の交際は自然に始まった。糸子が生花の稽古の帰りに、ほんの五分、黄昏《たそがれ》の露地を歩くとか、清が本屋へ行く道で三分間たたずんで話をするとか、それだけでも糸子は震い出したくなるような幸福感を感じた。物心がついてから、あまりにも成田屋には心を蝕む出来事があり過ぎた。
父秀吉にてかけがいたこととその子秀太郎の出生と入籍、そしてその秀太郎に対する周囲の憎悪、更には母と留吉の情事、そのひとつずつが糸子の娘心に何らかの傷をつけ、癒えぬままに今日迄来たのである。そして、母のおひさは無論、誰一人として糸子に対して娘としてかまってくれる者もないどころか、むしろ糸子は弟の安造や妹富江を導き、御寮さんの役割である成田屋の内部に適切な眼をもって指示せねばならなかった。
と言って糸子がそれを得々としてやっていたわけではない。むしろ自暴自棄にならなかったのが不思議なくらいで、それを制御していたのはやはり船場の長女としての自覚であり、自分本位の物の考え方よりまず店中心に判断する教えが血に流れていた為であったろう。
だが清と逢って、初めて糸子は、ひとりの娘として対してくれる者の居たことを知ったのである。そして成田屋の中では能動的にならざるを得なかった自分が、受動的になり得ることも知ったのである。
糸子にとって受動的になることは、かつて知り得なかった安らぎであり、女としての歓びでもあった。
これは清と逢っている糸子を見れば明瞭で、誰しもがその変貌に驚いたに違いない。
笑顔を忘れ、暗い沈痛な影をたたえているいつもの糸子の顔色が明るく弾み、あの険しささえ持つ眼は、優しく微笑み、時折は、雨後の陽射しのごとく輝き迄見せているではないか──。
そしていつか糸子がその歓びの灯を消さぬように願っていたのも、確かなことであった。
それは、清との結婚の夢であった。
だが、その夢が、突然破れたのである。それは昨夜、丁度秀松が堺まで歩いて行くと聞き、財布から五十銭の金を与えて離れへ行き、眠れぬまま、もう一度縫物を手伝おうと、台所へ行った時で、お梅が風呂から帰って来て、
「表に学生さんが家の中を見てはりましてなあ……」
と気味悪そうに言うのを、全部聞かずに勝手口から表へとび出したのである。
「糸子さん、話があるんや」
清は糸子の手をぐいぐい引っ張って、いつも通る露地裏の空地へ連れて行った。師走の風が二人の立っている足許から舞ったが、寒さは感じられなかった。
「親父たちが君のことを調べたらしい。その結果、君のお母さんのな……」
「止めて」
糸子は、思わず叫んだ。聞かなくても分っていた。おひさと番頭の留吉の情事の噂が拡がったとき、真っ先に恐れたのは、その事が清の耳に入ることだった。だが、船場と道修町は、傍のようでも離れているし、呉服問屋と薬問屋では商売も違う。そこに望みを持っていたが、調べられたとあっては、すべてが終わりである。
「その噂というのは本当なのか?」
「本当ならどうなさるおつもりです?」
清はしばらく考えたが、
「糸子さん、君のお母さんがどうであろうと、僕の決意は変わらへん。その為に家を出る心の支度もある。ただ親父達が反対の為の理由を誇張して言ったのかと思ってな……」
糸子は、その清の言葉を聞いた瞬間、別離の時が来たことを知ったのである。成程、清は、家を出るとまで言ってはくれた。しかし、しかしである。もしそれ程、清に堅い決意があるならば、その事の真偽を、どうして確かめたのであろうか。母親の汚らわしい噂を確認させることで、どれだけ傷をつけられることか、本当にそれほどの決意があるなら、黙って家を出てくれれば、喜んで従《つ》いてどこへでも行ったのに、こんな汚ない人間の住んでいる成田屋なんか居とうはないのに──。
「もう、こんでしまいや」
糸子が、その夜、清の店で取扱っている猫いらずを呑んだのは皮肉だった。
秀松が、金を持って帰ったのは、糸子のそんな容態がまだ定まらぬときだった。医者を送って出て来た孝助に、秀松が、
「集金して来ました」
と差し出す金を、
「さよか」
と無造作に受け取り、そのまま奥へ去ったことに、少なからずがっかりしたが、見ていた音松が、
「秀松どん、よう取って来たなあ」
と、感嘆の声をあげてくれたので、一寸は慰められたが。その後で、音松から、糸子の出来事を聞かされたのである。
「とうさんが……それで加減は」
「さあ、生きるか、死なはるかの瀬戸際らしいわ」
秀松は、目の前が真っ暗になるのを感じた。糸子はこの店で音松をのぞいて、たった一人の味方であったのである。成程、言葉のはしばしには、秀松にとって冷たく感じるものはあったが、父の死の直前、音松を使いに出し、妾宅から迎えてくれたのも糸子だったし、この店に引きとられて、安造にいじめられ、二度と帰らぬと店を出た秀松を、これまた音松に探しにやらせたり、昨夕も金をくれたのだ。
母親のお絹との約束の、本当に弟と呼んで貰えるのならば、糸子が一番早いだろう、と思っていたその人だけに、秀松の衝撃は大きかったし、何とかしてその体を元通りにして貰いたかった。
「音松どん、一体、何でとうさん死のうとしやはったんやろ」
「さあ……」
音松とてそこまでは知らなかったが、その理由はすぐに分った。
糸子が、おひさや富江、治三郎や孝助の見守る中で、
「清さん。清さん」
とうわ言を言ったからである。
「この子の好きなひとが、いたんやな」
おひさはわが子の秘密を初めて知った。いや、娘として成長していることを初めて知ったのかも知れなかった。
だが、その相手が漢水堂の長男で、結婚まで考えていたが、漢水堂側の反対をうけたとわかるや、おひさは色を失った。しかし治三郎は、おひさの責任にはしなかった。
「あのてかけの子が、成田屋の身代ばかりか、子供たちまで不幸にして行きやがる!」
そう声高にののしると、二階を駈け降りた。あわてて孝助が後を追ったが、治三郎は早くも台所で飯を食べていた秀松の肩を掴んでいた。
「出て行け! お前が、糸子を殺そうとしたんやぞ!」
「わてが?」
「そや! てかけの子が家にいるということでな! 糸子は好きな男と別れんならんかったんや、この人殺し!」
治三郎は、目の前の鉢を掴んだ。駈けつけた孝助が、あわてて止めて奥へ連れて行かねば、秀松の頭は血だらけになったに違いなかった。やがて店が始まると音松が、
「大番頭はん、ほんまに、秀松どんのせいで、とうさん、死のとしやはったんだすか」
孝助は、音松をジロリと睨むと、返事もせずに、
「秀松どん、分家はんをこれ以上怒らさんように、部屋へ引っこんでなはれ」
と白い眼を向けた。
秀松は唇を噛みしめた。
「あのやさしいとうさんが、わてのために、死のうとしやはった……」
秀松は立ち上がると、草履をはいていた。
「秀松どん、どこへ行くのや」
音松が、あわてて声をかけたが、秀松の姿はもうなかった。秀松が出て行った入口ののれんがゆれているのを見て、音松は大きな溜息をついた。
薬問屋漢水堂は、道修町の中央、薬の神様の挫摩《ざま》神社の近くにある道修町独得の建物で、古びた板に、半分は消えた金文字で「漢方薬処・漢水堂」と彫られた看板が庇《ひさし》に吊るされていた。その看板の横で、じっと立っているのは、秀松であった。今朝まで降った雪は、大方解けてしまったが、軒下にはまだ残っていた。あれからすぐ、秀松は、尋ねてこの店へ来て、配達に出て来た丁稚に、
「ぼんぼんは、おいでだすか」
と聞いたが、学校からまだやと知って、二時間近くじっと待っているのである。その間にも配達から帰って来たその丁稚が、まだ秀松がいるのを不審に思い、店へ入って番頭に言ったのか、実直そうな番頭が出て来て、
「あんた、何ぞぼんぼんに御用だっか? 用なら聞きまひょか」
と言うのに、
「ぼんぼんにじかにお話しします」
「そんなら中で待ちなはれ。外は寒いやろ」
「いいえ、ここで待たして貰います」
と頑張っているのであった。秀松も寒かったが、死にかけている糸子の事を考えたら、そんな気にはならなかった。それから小一時間、昏《く》れやすい冬の町が、すっかり墨で染められたころ、絣の着物に袴をはいた清が、店へ入ろうとするのを、秀松はあわてて声をかけた。
「ここのぼんぼんだすか」
「そや。君は、成田屋の人か」
清は、秀松の前掛けの丸に成の屋号と顔を見くらべた。
「へえ、秀松と言いますが、お願いがあるんだす」
「何や、願いて」
「とうさんと仲好うなっとくれやす。そやないと、とうさん、ほんまに死にはります」
「糸子さんが死ぬて」
「はい、昨夕猫いらず呑みはったんだす。わてがいていかんのなら、わてお店を辞めます。そやよってに、仲好うなったげとくれやす」
突然のことで呆然と見ている清の返事がないのは否定と考えてか、秀松は、雪解けの地面の上に、バッタリ両手をついて土下座をした。その二人をのれん越しに店の中から見ていた主人の良之助は、あわてて声をかけた。
「清、表で何してる、その丁稚どん、中へ入れたげんか」
やがて、秀松は、居間へ通された。
「さあ、あんたが倅《せがれ》に土下座せんならんようなことが何かあったのか、訳を聞きまひょ」
突然の糸子の自殺未遂の事実を知り、顔も青ざめたまま黙りこくっている清を無視して、良之助は、秀松に怪訝そうな目を向けた。
「とうさんが、この若旦はんと夫婦になれんちゅうんで、お薬呑んで死のとしやはったんだす。店では、わてが原因やと言わはりました」
「あんたが?」
「へえ、わては、てかけの子だす。あの店へ引きとられていますけど、わて、母親との約束で、一人前の商人になり、お店に役に立つ人間になって他の子供さんから弟やと呼んでもらうまでは、店辞められまへんのやけど、とうさんを苦しめてまでいてられまへん。そやよって、わてはお店を辞めますさかい、お嫁さんに貰たげとくれやす」
良之助は、どうやら事の次第が飲みこめたらしいが、けげんな顔をして秀松を見た。
「あんた、そのお母はんとの約束を破ってまで、その娘はんに」
「へえ。とうさんは、やさしいおひとだす。わて、まだ誰からも弟やて呼んで貰しまへんけど、呼んでくれはるのなら、とうさんが一番やと思てました。そのとうさんが、わてのために……そんなこと見てられまへん」
良之助は、じっと腕を組んで考えていたが、
「よっしゃ、あんた、店辞めることない。わてが、あんたとこの店へ行ったげよ。清、お前も来るのや」
「お父さん」
初めて清が声をかけて、父の真意を聞こうとしたが、すでに良之助は、腰を上げていた。
成田屋へ、漢水堂の清と良之助が現われたのは、それから間もなく日も昏れて大戸を降ろした直後だった。訪れた客が、糸子の恋人とその父であると知ると、番頭の孝助はおどろき、おひさに知らせた。おひさは両手をついて言葉なく出迎えた。
良之助は、孝助が座敷へとすすめるのを断わって店の中央に坐ると、
「成田屋はん、この倅のことで、いろいろ御迷惑をおかけしまして申し訳おまへんだした」
と頭を下げると、言葉を継いだ。
「成田屋はん、わても倅が可愛いおます。清が好いてる糸子はんを嫁にして貰ったら喜びますやろ。けど、わてが反対したのは、理由があってのことだす。その理由は、決して、ここの丁稚をしてはる秀松どんの事ではないんだす」
土間に控えていた秀松が、ハッと顔を上げた。音松も、孝助も良之助を見た。
おひさの顔から血の気が引いた。
「反対の理由は、言いますまい。それはあんさん自身が、一番よう知ってはることだすさかい。けど、わては、今日考えを変えました。倅の嫁に糸子はんを迎えまひょ」
清は、一瞬耳を疑った。蒼ざめた顔で畳へ視線を落としていたおひさは、良之助を見上げた。
「そう考えを変えさせてくれたのは、この丁稚どんだす。この秀松どんは、自分が破談の理由になった思て、自分が身を退くから、夫婦にさせてやってくれと頼みに来はった。冷たい雪の上で土下座をして、この倅にたのんでるその姿を見て、この子が大きいなったら、きっと成田屋はんの名誉を挽回するほどの、ええ商人になれる子や、そのときになったら、漢水堂もええとこから嫁もろたと言われるのやないか、そう思うてな。わて一つ先物買うたれ、思うたんだす」
秀松は、土間に崩れるように、身をかがめた。清は、そんな父を見て声をはずませた。
「お父さん、宥《ゆる》してくれるのか」
「清、早う糸子さんを見舞うてあげんかい」
「うん!」
清が音松に案内され二階へ去るのを見送って、良之助は、
「わては、帰らせて貰います。いずれ改めて人を介して話しますさかい、よろしゅうに」
と、下駄をはきながら、秀松に、
「秀松どん、しっかりやんなはれや。わてはあんたの先物買うたんや」
(へえ……)
目で返事する秀松に、にっこり笑って良之助は去って行った。
おひさは、ひれ伏したまま、良之助を見送ったが、
「御寮さん、出過ぎたマネをしてすんまへん」
そう詫びるのに、秀松を恐しいものでも見るような顔をして奥へ消えた。その秀松の傍へ再び顔を見せた音松が肩を叩いた。
「秀松どん、やったなあ……」
秀松は音松の笑顔を見た。
「あれで御寮さんもこたえたで。とうさんもきっと、喜んでくれはるで」
「ほんまやろか……」
「ほんまや。あれで喜ばんひとがあるかいな」
そう音松は言い切ったが、事態はそううまくはいかなかった。
清が、糸子の寝室へ入ると、糸子は、驚いたような顔で清を見て、あわてて寝巻の胸をかき合わせた。すでに容態は好転していたが、顔は透き通るように蒼かった。清は傍で看病しているお梅に目もくれず、枕許に坐ると、
「糸子さん、喜んで。お父さん、結婚宥してくれたで……」
と目を輝かして言ったが、糸子は反応をしめさなかった。
「なあ、聞いてくれてるのか。二人の結婚宥してくれたんや」
女中のお梅が気を利かして立つと、清は、糸子の手をまさぐった。だが、糸子はその手を払った。弱々しい力であったけれど、清を驚かすのには充分な力であった。
「何でお父さん宥してくれはったんだす」
清は、今日起こった秀松のことから逐一説明した。聞き終わると糸子は、天井に顔を向けたまま、
「清さん、もう終わりました」と言った。
「何やて。何が終わった。君は僕と結婚出来んて、薬まで呑んだんやろ」
「うちは、結婚出来んて、死のうとしたん違います。現実に返ったんです」
「現実に?」
「はい、現実のうちはとうていお嫁に行ける娘やなかったんだす。それ承知やのにうちは夢を見てました。けど母の噂を聞かさはった時、うちは今迄夢を見てたと知りました。あのときもし、うちに何も聞かさんと、二人でどこか遠いとこ一緒に行こ、言うてくれはったら、うちは夢の続きで喜んで行ったかも知れまへん。けどもうあきまへん」
「糸子さん、君は……」
「いいえ、何と言うてくれはっても、うちは、もうお嫁さんになりまへん。仮にお嫁さんになれても、それは秀松のおかげですやろ。清さんの熱意が、お父さん動かしたんと違いますやろ。そして、一生そんな成田屋の娘のうちが貰てもうたと負い目をうけます。うちはそんなんいやです。帰って下さい……」
その糸子の決意には、何を言っても動じない強い響きがあるのを知ると、清は、立ち上がり、そのまま部屋から出ていった。その背中に聞きとれないような声で、糸子は、
「さよなら」
と呟くと、初めて涙が白い顔から首筋に流れた。
秀松が、糸子が自分から結婚を断わったと聞いたのは、その夜のうちだった。秀松は、余りの驚きに、そろばんを入れている音松の顔を見た。
「何でやろ、音松どん」
「分らん、さっぱり」
二人の丁稚に女心の複雑さが分る筈はなかった。
「わてがあんなことしたんで、とうさんが断わらはったんやろか」
「そんなことないやろ」
音松は自信なさそうだったし、秀松は、そうに違いないと思った。だが糸子が断わった以上どうすることも出来なかった。秀松は、これからでも糸子の寝室へ行って、あやまりたかったが、糸子の寝室へ行くことは許されなかった。
そんな重い気持のまま、二、三日過ぎた。
冬には珍しい暖かい日、秀松は、初めて糸子と逢えた。漸く起き上がれるようになった糸子は、縁側へ出て庭の梅の木をぼんやり見ていたのである。蔵から反物をとり出して来た秀松が、糸子と知るや、近付いた。
「とうさん、申し訳おまへん」
頭を下げるのを糸子は、
「あんたがあやまることない」
そう言うと部屋の中へ入って障子を閉めた。
(やっぱりとうさんは怒ってはる。そやないと……)
秀松はまた母親との約束の距離がのびたのを知り、唇をかみしめた。
それから五年経った。世の中は、日露戦争に勝利を収めてから大きく変わったが、成田屋は、変わらなかった。変わったことと言えば、糸子は、あれ以来、めったに外へも出ず、離れの二階に閉じこもり、縫物などして一日を送り、時たま叔父の治三郎が持ってくる縁談にも、耳も貸さぬことと、御寮さんのおひさも、糸子のことで打撃が大きかったと見えて、あれ以後、秀松と顔を合わせても、むしろ視線を避けようとしたが、その分、秀松に露骨に敵意を現わし始めたのは、跡取りの安造だった。安造も秀松も共に十八歳、もうすっかり大人になったが、大人になるにつれて安造は、
(秀松に、財産の半分取られる)
と言う強迫観念に、絶えずつきまとわれているらしく、主人として店に出なければならない体で、何もせずにぶらぶら遊んでいた。それでも店は、孝助、音松、秀松の三人の努力で、辛うじて問屋としてののれんを支えている状態であった。孝助は、六十歳を目の前にして、少しもうろくしかけていたが、音松が益々切れ手の商人となっていた。もしこれが他の店ならば、やり手の番頭はんと高く評価されたであろうし、現に、京都の寺町の問屋の主人からも、
「うちで働いて見んか」
との誘いもあったが断わった。音松には、秀松を何とかこの家の主人にして見せると言う目的も失われていなかったし、それにもう一つ、店を動くことの出来ない理由があった。それはこの店の次女、こいさんと言われる富江との恋であった。富江は、糸子の勝気な性格に比べて、万事、引っ込み思案で、内気であったが、暗さはなく、二十一歳の今、下ぶくれの愛敬のある顔で、まずまずの器量であった。
その富江を、音松が恋人にしたのは、最初は決して音松が富江に惚れたからではなかった。むしろ富江の方が、音松を好きになったのである。すべてをテキパキと処理する音松の仕事振りや、苦み走ったせいかんな顔付きで、しかも商人らしい柔かみを兼ね備えている音松が、この店で一番たよりになる男と頼母《たのも》しく富江の目に映ったのか、内気な性格だけに口には出さなかったが、富江の音松を見る目の色が違って来た。そして、何となく音松のいるところには、富江が現われて、見ないふりをして見ているのである。例えば、台所で食事をしていると、いつか富江が現われていたり、店に用事もないのに手伝ったりするのである。この富江の気持を知ったのは女中のお梅であった。
「音松どん、こいさんあんた好いてはるのと違う?」
「そんな、冗談《てんごう》言うな」
音松は怒ったが、音松も富江の何となく意識的なそぶりは気づいていた。しかし音松があえて無視していたのは、反骨精神の現われであった。
音松は、この成田屋に恩はない。いやむしろ、秀松をかばったことで、どれだけ共に辛い目をうけたか。そのため、後から来た丁稚がどんどん出世をした。その度に耐えていたのがその反骨精神である。
(今に見ておれ。きっと秀松どんを主人にして、わいが大番頭になったる)
そう考えていただけに、富江の素振りに迎合して権力に媚びることはしたくなかった音松であった。
だが、無視されている富江の想いは募る一方で、音松を見ても心がうわずって行くのであった。既に母のおひさはもう家事のことさえ口を出さず、暇さえあれば南無妙法蓮華経の太鼓を叩き、相談に乗ってくれる気配も見せぬし、その代りお店の恋は御法度《ごはつと》なる制約に縛られることもなかった。
姉の糸子にその意志を伝えようとして語りかけると、
「言っとくけど、わては男女の仲のことは落伍者や。わてに色恋の相談はせんといて。ただ、相手が誰かは知らんけど、店の外の人なら、成田屋のいろんなことを知ってるかどうか確かめてからにしい」
と言い切るだけで、それでも、
「そんなら姉ちゃん。店の者ならどうするの?」
と言いにくそうに聞くと、糸子はジロリと富江を見て、
「奉公人! 奉公人を婿にするのなら、相手が頭を下げてお嫁になって頂きますようにと乞い願うてからにしいや。そやないと又同じことが起こる。決して自分からさもしいことを頼みなはんな。そこ迄成田屋は落ちてん筈や」
父秀吉と母の婿養子縁組のいきさつを知っている糸子は、成田屋の暗い歴史はそこから始まったものと見なしているのであろう。
釘をさされた富江は、姉に相談したことでかえって余計悶々と苦しむ結果となったのである。
そんな富江の苦しみを知ったのは女中のお梅で、見るに見かねて、音松に、
「音松どん、あんたも一人前の男やろ。ちょっとはこいさんの気持も察してあげて、優しい口聞いたげて」
「優しい口?」
「そや。あんたは男やろ、男から言い出すのは当り前やし、ことに奉公人となったら……」
すると音松は、
「阿呆言いな! 奉公人なら主人の娘にひざまずかんとあかんのか! もしこいさんが、わしという男に惚れたとしたらや、たとえ主人の娘であっても、自分から身投げ出してでも嫁にしてくれと言え! わしは権式を嫁にはせんし、奉公人を見下す女はお断わり。ただのおなごを嫁にしたい!」
叩きつけるように言ってのけたのを富江は聞いていた。
五月のある休みの夕方、秀松と一緒に散髪をしに行って、先へ帰って来た音松は、母屋の二階の物干しに、まだ鯉のぼりが泳いでいるのを見て、
(まだ、しまうの忘れとる)
と二階へ上がって行った。
そして物干し場へ出ると、竿の紐を、解き始めた。すると、
「音松どん!」
いきなり富江に声をかけられて、音松は、思わず綱を持っていた手をゆるめた。急に、支えを失った鯉のぼりは、滑車の音と共に音松と富江の頭上に落ちて来た。富江は、驚いて音松の体にしがみついた。二人は、抱きあって物干台の上に転んだ。その上から鯉のぼりが、まるで掛布団のように、二人を包んだが、富江は音松から離れようとはしなかった。音松は、その中で、富江の唇を吸い裾をまさぐった。富江は、思わず体を堅くしたが、音松に武者振りついたままだった。そしてうなされるように、
「捨てんといて、捨てんといて」
と口走り続けていた。
二尾の鯉のぼりは、物干台の上で大きく揺れて静止した。
富江は、その緋鯉の中で音松に、
「これでええのか?」
とささやいた。音松は、いきなりのこの言葉に何のことか戸惑った。しかし、
「なあ、これでお嫁さんにしてくれるのか?」
と念を押されて、初めてお梅に言ったことを富江が実行したことを知って、愕然とした。
「あんた、それでこのわしに……」
「そうせんとお嫁にしてくれへんかったら……」
そこ迄言って、こらえかねたのか、
「うち、うち……」
と胸にすがりつくと泣き出していた。
その富江の背中を撫ぜてやりながら音松は、
「負けた……」
と五月の空を見上げて呟いた。
信頼されることに弱いもろさ──。これが音松の身上でもあった。音松は、富江にいじらしさを感じたのである。そして同時にそれは急速に愛情と化して行った。音松は、二十三歳の多感な青年であった。それからの音松は、二度と富江の体を求めようとはしなかった。体の結びつきから、心の結びつきに変わった音松には、富江の体を求めることは愛情からも出来なかったのである。
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馬 鹿 旦 那
秀松は二十歳の春を迎えたが、成田屋は、辛うじて店を出している程度であった。日露戦争の大勝利は、着物の柄も大きく変え、ハイカラな柄が流行したかと思うと、逆に矢絣《やがすり》が流行《はや》りだしたりする。そんな時の流れについて行くのは、六十歳を越した孝助には無理だった。蔵には売れ行きの悪い品物が、在庫となって残った。見るに見かねて音松が口を出すと、
「わいは五十年商いやっとるのや。たかだか十年ばかりの素人の指図は受けん」
そう言ってきめつけたが、袋物問屋時代の先代の安之助の犯した失敗の繰返しをやっていることに気付かなかったのかも知れない。
「ええな、秀松どん。商いは、売りも大事やけど、仕入れがもっと大切や。人がとびつくもんなら素人《しろうと》でも売れるけど、売れんもんは玄人《くろうと》でも売れん」
秀松は、この音松の言葉をかみしめた。とびつくものとは、やはり時代の流れに沿って行くものである。それから秀松は、配達や集金の往復に、人の出の多い道頓堀や、千日前を歩いては、通行人の着物の趣向をそれとなく見て廻り、克明に、頭に刻みこんだ。
その秀松の徴兵検査の日のことであった。天満の兵営の検査場から門を出ると、走りよって来る小柄の女がいた。
「秀太郎……」
涙を呑みこんだような声を聞いて秀松は思わず、
「お母ちゃん」と呼んでいた。
夢にまで見た母のお絹がそこにいたのである。
「徴兵検査受けの一人前の男がお母ちゃんでは、笑われますで」
お絹はそう言いながらも涙を流していた。あれ程母に逢ったら言おうとしたことが十年分は貯まっていた筈であったが、いざとなると何も口から出ぬのがじれったかった。それはお絹も一緒らしく、じっと秀松を見つめていたが、やがて、
「そや、検査はどやった」
と結果を聞いた。
「丙種だした」
秀松の丙種は、当然であった。何一つうまいものを食わしてもらえず、逆境におかれて今日まで来ただけに、内臓そのものは強健だったが、痩せこけて、このまま兵隊服を着たら針金細工の兵隊である。
「そうか、よかったなあ。これで心配せんと働ける」
お絹はほっとしたように言うと、手に持っていた重箱をさしだした。
「お前が一人前になったお目出たい日やよって、赤ご飯を炊いて来た」
やがて、大阪城の外堀を前に、春の陽ざしを受けて、母と子は十二年振りに箸をとりあった。
秀松は涙が出て、のどを通らなかったし、お絹も何も喋らなかった。ただ食べ終わって、秀松が、
「お母はん。今日は、どこぞでゆっくりお話ししまひょう」
と言うのに、
「お前は、一人前の男になれたけど、まだ一人前の商人にはなれてへんのや。そんな暇があったらお店へ帰って、早う仕事しなはれ。そやないと、お家の方に喜んでもらえまへんやろ。わてかて待ちくたびれてしまうがな」
そう言って、秀松の膝にこぼれている胡麻塩をはたいてくれた。秀松は、久し振りに母親の甘酸《あまず》っぱい香りをかいだ。
「お母はん……」
秀松は、母親の胸に、すがりよった。その背中を、お絹はやさしく撫ぜた。
「あんたが苦労したことは知ってる。もう一寸でその苦労に実がみのるのや。な、分ってくれるな」
秀松は、八歳の子供に返ったようにコックリうなずいた。
お絹との久方振りの出会いもそれだけで終わった。ただ帰るとき、
「今、宗《そ》右|衛門《えもん》町の重の家て料理屋で働いている。何か、急用の時は言いなはれ」
と初めて居所を明らかにしてくれた。それは、秀松の秀太郎が、一人前の男になったためか、それとも、お絹が年老いて、気が弱まったせいか、何にしても秀松にとっては、嬉しいことだった。
(もう一寸で、苦労の実がみのる)
そう言ってくれたお絹であったが、秀松の心は重かった。今になっても、おひさは、喋ろうともせぬし、糸子は家族の者をさえ無視し、富江は、音松の愛情のかけらさえも見落すまいとそればかりに目を光らせていたし、店へ出れば旦那はんと呼ばれる安造は、芸妓買いから女郎買い、その頃出来たカフェー遊びに、うつつをぬかしていた。
道頓堀から、坂町へ入ったところに、チェリーというカフェーがあった。二十坪ばかりの小さなカフェーであったが、店はいつも混んでいた。その店に、愛子という美人の女給がいたからだ。その頃の女給は、着物の上に今の幼稚園の子供のようなエプロンをかけ、髪には、造花やリボンを結んでいた。愛子は、そんな服装がまるで彼女の為に用意をされたようによく似合う、あどけなさの残っている美人であった。安造が、初めてこの店に来たのは、遊び友達の下駄問屋、桐正屋の倅に、
「別嬪《べつぴん》がいるとこへ行こ。誰が射落すかと、やいやい騒いどる位の別嬪や」
と誘われたからである。安造は胸を張ってこう言った。
「どんな別嬪でも、わてにならイチコロや」
それを聞いて、下駄問屋の倅は吹き出したが、安造はそう信じこんでいたのである。安造は、秀松と同じ丙種だったが、これは肥り過ぎて丙種になったので、しかもその肥り方は、秀松の粗食に反して脂肪分ばかり取って働かぬ、白豚のごとき肥り方であった。
それでいて、秀松にわざわざ餌を持たして犬をけしかける程の陰険さがあるかと思えば、商売女の世辞も信じ込む単純さがあった。そんな安造が愛子を見て、
(ほんまに別嬪や。この女、わてが射落さんと誰が射落しよる)
そう考えると矢も楯もたまらず、安造は、下駄問屋の倅とチェリーを出てから、一人でまた引き返した位だった。
「あれ、何かお忘れもん」
「いや、まだ帰っても仕様ないし、飲み直しに来たんや」
そう言うと、懐からワニ皮の財布を取り出し、一円札を渡した。
「これ、チップや。とっとき」
「こんなに沢山……」
当時のカフェーのチップは十銭、多くて五十銭止まりだった。
チップと言う声を聞くと、あちこちの席にいる女給たちが二、三人、傍へよって来た。と見るや、安造はまた財布から一円札を出して一枚ずつ渡すと、愛子の掌に又一枚にぎらせた。
「うちは、先刻もろたもん」
「他の女が一枚なら、あんたは二倍の値打がある」
「そんなこと言うてくれはるの、若旦那さんだけやわ」
としなだれかかる。
「うあ、御馳走さん、うちら、遠慮しよ」
「ほんまに、似合いの仲やわ」
チップを貰うと用のない他の女給は、待ってましたとばかり他の席へ行った。安造は嬉しそうに、
「似合いの仲やて、ほんまにうまいこと言いよる。なあ、舶来の酒でも何か飲まへんか、せいぜい高いもん」
と、愛子にすすめた。
「そんな気、使わらへんでも結構です。余りお金使わしては申し訳おまへん」
「かまへん、かまへん。わてはな、成田屋いうてな、船場で一番と言われた呉服問屋の一人息子や。けどな、一人息子でも一寸ややこしいてな。うちにな、てかけの子が一人おるねん。店がどんどん稼いでも、そいつが財産半分取って行きよるのや」
「へえ、てかけの子が……憎らしいわねえ」
「そやねん。そやよって、せいぜい金|使《つこ》たらんと損やねん」
「可哀そうな、ぼんぼん」
愛子が安造の手をそっと握り返すと、安造はそれだけで有頂天になった。
(この女、わてに、こんなやさしいこと言うてくれよる)
安造は、このときとばかり、
「なあ、そやよってに金のことやったら言うてくれなあ。わてが何でも買うたる」
「ううん。うち、何もいりません。その代り毎日でもお顔見せて」
この言葉は、安造の心をえぐった。
(この女、わてに惚れとる。わてが射落せるのや)
安造は、エプロンと着物の、その下にある愛子の体を想像した。
(ひょっとしてこの女、生娘かも知れん)
安造は、かつて見たこともない生娘の肌を想像すると、もう恋人になった気でいた。安造は、童貞をとっくに捨てていた。十六歳の時に、飛田遊廓でである。それから二十歳の今日まで、もう五十回も女と寝たが──すべて相手は女郎であった。
(女郎買いは、おもろない。女を喜ばしたってるだけや)
一人前のような口をきく安造であったが、女の歓びの何たるかも知らなかった。ただ、女郎が本当らしく歓喜の声を上げる芝居に、自分が喜ばしてやってるものと信じていただけである。
(わてと寝たら、この愛子、死ぬまで放さん言いよるやろなあ)
そう思いこんだ。さすがにその夜は誘わず帰ったが、安造は、その日から愛子のことで夢中だった。いつもは、遅く帰ると、姉の糸子だけが煙ったくて、そう酔ってなくっても、酔ったふりをして、素早くふとんへもぐりこむのだが、その夜はぼんやり帰り、糸子が、
「安造、今何時や思てるの。あんたどれだけ遊んだら気がすむの」
と叱られても、別に反応もしめさず、鼻でフフンと笑っただけであった。
翌日、安造は、日の昏れるのを待ちかねて店の売上げの金をくすねると、心斎橋で、珊瑚《さんご》の帯留めを買い、チェリーのドアを押した。女給たちは、客のいないのを幸い、待ってましたとばかり、奇声をあげて近寄り、
「ぼんぼん、逢えたわ!」
「うれしいわ」
と、手を持ち、腰を押して、中央のテーブルへ案内し、我先に安造の隣りへ坐ろうとした。
「いやあ、うちがぼんぼんの隣り」
「いやあ、うちや。あんたどいて」
こんな女給の態度に、安造は、さも当然のように胸をそらせながら、目は、愛子を探していた。
「なあ、皆、愛子ちゃん、どないしたんや」
「知らん。うちらがいるやないの」
「そやわ。ぼんぼんの浮気もん!」
「なあ、教えてくれたらチップやるで!」
安造が懐から財布を出すと、女給たちは、この時とばかりに、
「言うたげます。愛子ちゃんは、ぼんぼんが来てくれはるような気がする言うて、そこまで迎えに行かはりました」
それを聞くと安造の顔はほころんだ。
「ほんまかいな」
安造は、女給の手に一枚ずつ一円札をのせると、
「ほな、わて迎えに行かんと悪いなあ。どこで待っててくれるのやろ」
安造が腰を浮かすと、女給達は、
「まあ! 手放しで」
とてんでに席を立って行く。それを見た安造は、
「妬《や》いてるんか。女はこれやからいややねん」
と呟いていた。
その頃、愛子は近くの法善寺横丁の小料理屋で、男と向かい合って蛸《たこ》の足をかじっていた。男は、顔がいいので、成駒屋と呼ばれている、ミナミの花鬼組の子分の丑吉《うしきち》で、札つきの悪だった。
丑吉は、愛子のヒモであった。愛子は、父親を十五のとき、母親を十七のとき死なせて、身寄りもなく、この法善寺の近くの料理屋へ住込み仲居に出た。三日目に来た客が、花鬼組と言うミナミの界隈の親分で、その席の一番下座に坐っていたのがこの丑吉である。皆から「おい、成駒屋、成駒屋」と呼ばれている丑吉を見て、
(そう言えば、成駒屋はんに似てはるえらい男前やなあ)
と、チラッと見た愛子の目が、丑吉と合って、愛子が顔を赤らめたのを、女を食いものにして生きて行こうと言う丑吉が、見のがす筈はなかった。
その翌日、一人来た丑吉は、料理を運んで来た愛子を無理矢理に押えこんで、あっけなく体を奪ってしまった。それがばれて店はクビになり、それから後は、丑吉の言う通り、あっちの店、こっちの店と働きに出され、稼ぎは丑吉のばくちの資本となった。
だが愛子は、初めて肌をゆるした相手の男の言いなりにずるずると今日まで来た。
「なあ、三円だけ、何とかならんか」
「あかんわ。あの店にも大分借りがあるし、この上、貸してくれて言えんもん」
「ふうん、お前も断わる女になったか」
丑吉は、愛子の持っている徳利を引ったくって、自分の盃に注いだ。その姿を横目で見て、
(その三円が出来るまでは、荒れるやろなあ)
愛子は、溜息をついた。三本目の徳利が空いたとき、のれんから顔を出して手招きした女がいた。チェリーの女給で、さっき迎えに行ったと安造を喜ばした清子であった。
「愛ちゃん、今、昨夕《ゆうべ》のあほぼんが来てるんや。誤魔化してるのやけど、うるそうて仕様ない。すぐ来て」
「おおきに。すぐ行きます」
愛子は、丑吉の傍へ帰ると、
「客があって忙しいそうや。店へ行くわ」
と、帯の間からがま口をとり出して、勘定を払った。そのがま口ごと腕をつかんで、丑吉は、
「三円どないなるのや」
「何とかする」
愛子はチラッと安造の肥った顔を思い浮べた。
丑吉は、ニヤリと笑って手を放した。
「それでこそお前や。また、キェーッって声出させたるで」
「キェーッ」という声は、愛子のふとんの中の声である。
「阿呆かいな」
愛子は聞き流して行ったが、女を食いものにしているだけあって、丑吉の女を喜ばす技巧は凄まじいものがあった。愛子は、その歓びの為に生きている肉だけの女ともなっていた。
チェリーのドアを押すと、癇病《かんや》みのような安造の声がとんで来た。
「愛子! 待ってたんやで。わてを迎えに行ってくれてたんやて。わてな、御堂筋の方から来たんや。入れ違いに、なったんやな。すまんかったなあ──」
誤魔化す前に、向うからつじつまをあわせてくれるこういう客は、愛子にとっても楽である。愛子は安造の手に手を重ねて鼻声で言った。
「ぼんぼん、逢えてうれしいわ!」
「わいもや、逢えてうれしいで。目をつぶり」
「はい」
愛子は、目を閉じた。その愛子のてのひらに、冷たい重みが加わった。
「よっしゃ、目開いてええ」
開いた愛子の掌に、珊瑚の帯留めがあった。
「どや」
愛子は目を伏せた。
「気に入らんのかいな」
「いいえ、これと同じもんお母はんが持ってたんです」
「そなら、いかんな。とりかえるか」
「いいえ、それ、お母はんが手離してしもうて……。何で、ぼんがお母はんのと同じ物買ってくれはったのか、不思議な因縁やと思うたら……。そうかて、お母はんには亡うなったお父さんが買ってあげはったもんですやろ……」
父親が母親に贈ったのと同じ物を、今度は安造から貰える。まるで夫婦を暗示するような愛子の表現に安造の胸は躍った。
(これで、愛子は、自分のもんになりよるやろ)
安造は、愛子の耳許でささやいた。
「なあ、今晩、ここ終ってから、何ぞ食べに行かへんか。うまい店知っとるのや」
「それが、今晩は、行けんの」
「何でや、用事でもあるのんか」
「そのお母はんが病気ですの。病院へ入院ささんならんかも分りまへん」
「へえ、そらいかんな。どこが悪いのや」
「胃が悪いの。それで困ってるの。今晩も早う帰って来てくれ言われて」
「そら心配やな。よっしゃ。ほな、わいも見舞いに行こ」
「あんたて何て優しい人ですの。けど、お母はん、気い使うて、かえって後が悪うなったら……。お気持だけ、きっと伝えます」
「そらそうやな。そならな、これで、何か見舞いもん買うたって」
自慢のワニ皮の財布を開いて出したのはきっちり三円。その三円を見て、
(うす気味悪うなるほど、うまいこと行くわ)
その愛子の複雑な顔が、安造には、いかにも申し訳なさそうにとれたのか、
「かまへん、また困ったら何ぼでも持って来たるで。どうせ、てかけの子に半分持って行かれる財産や」
安造は、そう言って立ち上がった。
「あら、もうお帰り」
「早う帰らんと、お前もお母はんのとこへ帰らんならんやろ」
愛子は、ほんの少し悪いような気がした。
「うち、せめて堺筋まで送って行く」
ドアを押して表へ出ると小雨が降っていた。あわてて愛子が蛇の目の傘をとって来ると、安造は傘をさす愛子の手の上に、手を重ねて、
「見て見い。歩いてるやつ、まるで、お夏・清十郎や思うてるで」
と言った。成程、お夏の愛子は美しかった。だが、安造は、義理にでも清十郎とは言えなかった。
なじみの小料理屋へ寄ると言う安造と、弁天座の前で別れた愛子が、店へ引き返そうと、くるりと向いたとき、
「えらい仲ええやないか。浮気してるのと違うやろな」
ドスを利かした声が立ちふさがった。丑吉であった。
「あほらし、はい三円」
愛子は帯の間から、今、安造から貰った三円をとり出した。
「へえ、早いやないか、今の男がくれたんか」
「ふん。あほな金持ちのぼんぼんや。船場の成田屋いうてな、毎晩来ては、気前ようチップくれるのや。これもな」
愛子は、帯留めも見せた。
「ふうん……。そら二円や三円やないで。五円はするな。あの男、お前に惚れとるなあ」
愛子は、丑吉の顔を見上げた。
「なあ、愛子、あの男から、しぼれるだけしぼりとれ。ええな! その代り、今晩また、キェーッや」
丑吉は、ニーッと笑うと、雨の道を去っていった。
愛子の体の血はそれだけで走っていた。
それから一カ月が過ぎた。
安造は、カフェー・チェリーへ日参していた。最初は、愛子をわがものにしようという欲望だけが、近頃では、愛子のためならと完全にのぼせ上がり、
(病気の母親を抱えて苦労しとるのは可哀そうや。嫁さんにしたろやないか)
とまで思いつめて来たのである。
愛子は愛子で、丑吉に言われた通り、金をしぼれるだけしぼりとろうと実行して来て、体の関係は勿論、一緒に飯を食べに行くことすら避け続けて来たが、
「嫁はんになってくれ」
と言われては、もう逃げるすべもなく、断わる理由にもこと欠いて、切羽《せつぱ》詰まって、丑吉に相談すると、
「よっしゃ、かまへん。もう相手にするな」
そう言ってくれたのには、正直に言って愛子もほっとした。カフェーへ来る客なら、女給の言うことは話半分と聞いていてくれるし、そうそうだませるものではない。だが、あの安造のように、単純に愛子が自分に惚れ切っていると信じ、何を言っても嘘と思わない相手は、やりにくく、だんだん重荷となって来る。
その夜、安造はまたチェリーへ現われると、他の女給には、
「一寸、遠慮してんか」
と退けてから、愛子の肩に手を置いた。
「なあ、決心してくれたか。何も、わいはお前をてかけにしようとか、言うてへん。はっきり成田屋の嫁はんにしたる言うてるのや。いやなんか?」
「そら、嬉しいけど」
「ほんなら、何でうんと言うてくれへんのや。お前がわてに死ぬほど惚れて、わてが好きやったら、考えること何もないやないか」
「ぼんぼん、ほんまのこと言います。うち、お嫁になれん体ですのや」
「何やて」
やや想像と違ったが、ただ愛子を手に入れたい安造は屈しなかった。
「かまへんかまへん。どうせ、悪い亭主から別れたんやろ」
「勿論、亭主とは別れました。別れましたけど、その男が悪いやつで、なかなか、手を切ってくれしません。そやよって、うちはお嫁にも行けんのだす」
それを聞くと、安造の顔色が変わった。
「可哀そうやなあ! よっしゃ、わてが話つけたろか、わいに逢わし」
「えッ!」
今度は、愛子が顔色を変えた。
「どうせ、そんなやつなら、金でかたづくのやろ。わいが話つけたる、どこのどいつや。すぐ連れて行き!」
「あきまへん、そんなことしたら、ぼんぼんに迷惑がかかります」
「何でかかるのや。お前がそんなに苦しめられてるのを放っとけるかいな」
そう言う安造の目はいつになく血走っていた。その安造を何とかなだめて、店から送り出すと、愛子はぐったりと椅子に坐った。
すると清子が、心配そうに傍へよって来た。
「愛ちゃん、一体どないする気やの。このまま放っといたら他人事でも心配やわ」
「うちにもわからん、あんな男初めてや」
「なあ、あんたいっそ、あのぼんぼんのお嫁さんになったらどうや。問屋の旦那の御寮さんになれるのやで……」
「止めて、あんな男に……」
愛子は、はじかれたように立ち上がったが、心のどこかに、御寮さんと呼ばれる自分の姿があるのは否定出来なかった。
その夜、安造は小料理屋で呑んだが、酔えなかったのは、愛子の言葉がやきついて耳から離れなかったからである。
(あの悲しそうな顔。わいと一緒になりたいのに、それを邪魔しよるやつがいる! いつでもわいはそうや。折角、わいが成田屋の財産相続しよ思てるのに、秀松のやつが横から出て来やがった。今度もそうや──)
安造は、下駄でいきなり土を蹴ると、その目の前に黒い影が立っていた。その男は丑吉だった。
「成田屋の若旦那だすな」
「そうやけど、あんたは」
「チェリーの愛子の亭主ですがな」
「何やて、お前が!」
いきなり武者振りつこうとする手を、ぐいっと掴まれて、安造は悲鳴をあげた。
「堅気の若旦那が、ケンカ売らはったらあきまへん。それよりおとなしゅうどこかで話つけまひょやないか、呑みながら」
安造は、放されたしびれた手を振りながら、しかし虚勢をはって、
「よっしゃ、話つけたろ」
と、歩き出したものの、足はこきざみにふるえていた。その安造がもっとふるえたのは、千日前の菊の家と言う小料理屋の二階の小部屋で向かい合って坐った途端、丑吉が着物をパッと脱ぎ、
「さあ、話つけてもらおやないか」
と、般若《はんにや》の刺青《いれずみ》を見せた時であった。
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ヒ モ の 先
安造は、爪先から上がってくるふるえを止めようもなく、歯をガチガチ音をたてさせながら、逃げることより考えられなかった。丑吉は、そんな安造を見ながら、運ばれて来た徳利の酒を、茶碗へつぐと、一息に呑み、息を吐くついでに半身にかまえて、
「どや、成田屋の若旦那」
と、もう一度睨みつけた。
「は、は、話をつけるて、ど、ど、どうのこうのて、つまり、そ、その……」
安造は、自分でも何を言ってるのか、分らなかったが、丑吉が言葉をつないでくれた。
「つまり、愛子とわいと別れてくれ言うのやろ」
「ま、まあ、そうだす」
「そうか、よっしゃ、分った。別れたろ」
「え?」
安造は、耳を疑った。こう相手が簡単に出て来るとは、思っていなかったのである。
「わいも男や。きらわれてる女に、いつまでも、しつこうくっついてよと思わん。あの愛子、お前にゆずるで」
「おおきに」
思わず安造は、ペコリと頭を下げた。
「けどなあ、若旦那、わいはな、あの女が好きやねん。惚れてるねん。あの女を忘れることが、まず必要や。そう思わんか」
「そうそうだす……」
「そのためには、さしずめ他の女がほしい。どや、誰ぞ、ええ女を世話してくれへんか」
「世話言うても」
「出来んのかいな。ほな、どこぞで探さな仕様ないな。と言うても、芸妓買うにも金がいる。その金がない。こらあきらめられんかも分らんなあ」
「金? 金ですむことなら言うとくれやす。わてが出しまひょ」
丑吉が、今度は、ニヤリと笑った。
「そうか、そら話が分るやないか。ほな五十円ばかりくれはるか」
「五十円!」
「そや、五十円で、今後、愛子はわいとも縁が切れ、赤の他人や。あの愛子、百円でも別れとうないのやけど、あんたみたいな話の分る人……気に入った。そいで話つけよ。どや」
「分った。五十円持って来ます」
「そうか、いつくれるのや」
「あ……明日の晩、ここへ」
「よっしゃ、手打と」
急に態度の変わった丑吉は、刺青の腕に着物を通すと、徳利を持った。
「さあ、一杯いこ。けど、あんたの気前のええのには感心したで。堅気にしとくのには、もったいない位や。愛子が死ぬほど惚れよる気持も分るわ」
「あ、あの愛子が」
「そや、あんたに逢うてからはな、あの愛子、道で逢うても、見向きもしよらん。うちには、心で決めたひとおますて調子や。いや、わいが袖にされるのは当り前や」
安造のふるえはやっと止まり、心の中で喜びも湧いて来た。
「あんたのがっかりしやはる気持はよう分ります。けど、あんたかてええ男や。きっと、ええ女が現われますて」
慰め顔に安造は言うと、財布から三円ばかりテーブルの上に置き、
「まあ、後は、ゆっくり呑んどくれやす」
と立ち上がった。
「こら、すんまへんなあ……」
と、頭を下げた丑吉は、帰って行く安造の背中を見ながら、
「カモも、あんな阿呆ばかりやと、やりやすいのになあ」
と呟いた。
安造は、家へ帰ると、離れの母親の部屋を訪れた。おひさは、うちわ太鼓を叩いていたが、安造はその太鼓を背後からとりあげた。
「お母ちゃん、一寸たのみがあるねん」
おひさは聞かずとも用件はわかっていた。金の無心である。
安造が無心を始めてから二十日になる。
今迄は、店の金箱からくすねていた金だったが、あまりの度々のことに孝助も、
「これでは支払いも出来ません、のれんを降ろさせて頂きます」
と、告げた相手が糸子であった。
「わかった。二度と持ち出ささへん」
うなずいた糸子は安造にこう宣言した。
「明日からわてが金箱を預かる。もしお金を盗むようなことがあったら、承知せえへんで」
「へえ!、姉ちゃんが主人になったんかいな」
と安造は憎まれ口は叩いたが、眼はもう困っていた。
安造にとって、糸子はやはり一番弱い相手であったのである。
安造は、店の金が使えぬことを知ると、おひさに無心を始めた。
「わてはお金持ってへん」
おひさが拒否すると安造は、
「そらそうやろ。奉公人に貢ぐ金があっても、息子には渡せんやろな」
と、おひさの一番の弱味を衝いた。こうなるとおひさは脆かった。
そして、わが着物や持物を次々と手離して金をつくってやっていたが、もう限界に来ていた。
おひさは、うちわ太鼓をとり返すと、
「お金なら、もう造れへん」
と背を向けた。
「そんなこと言わんと出してえな。これが最後や」
「わてはもう売るもんもあらへん」
「そんなら店でもろてくれ」
「何言うてるのや。店は、明後日の支払いで、きりきり舞いや。糸子に聞いておみい」
「お母はん、わいは、この成田屋の主人やで。ここの金はわいの金や」
「そなら、あんた取っといで」
安造は、いつにないおひさの拒絶を知ると、障子を荒々しくしめて廊下に出た。
店では、その時、番頭の孝助と、音松の間に一寸した争いごとが起きていた。明後日は、月の十五日、支払日である。前月の節季に払う残額七十五円と、明日の支払い二百二十円、〆めて二百九十五円、音松と秀松の二人がやっと集金して来て、どうにか間に合わせたが、日一日と悪くなっている売上げを知ると、音松はもう我慢がならなかった。
「どうしても売上げを上げるために、仕入れの柄向きを変えまひょ」
その進言が、孝助の癇にさわったのである。
「柄向きを変えよて、どんな柄にするのや」
「もっと新しい柄だす。この頃|流行《はや》りの、女学生が着るような柄だす。どうもうちのは、同じ花柄でも、菊や、なでしこ、日本花の柄ばっかりで、これではあきまへん。今はバラとか、カーネーションの洋花の柄も流行っています」
孝助は、持っていたそろばんで、バタンと机をたたいた。その音で台所で飯を食べていた秀松もとんで来た。
「わては、五十年仕入れやってるのや。あんたまだ素人や」
「番頭はんは、五十年、わてはまだ十年、そら素人かも分りまへん。けど、べべ買う人は皆、素人でっせ。たまには、素人の言うことも聞くもんだす」
「何やて……」
孝助の目は、けわしくなったけれど、声は続かなかった。持病のぜんそくがゴホンゴホンと悲しげな声を立てたのである。秀松は、孝助の背中をさすりながら、
「音松どん!」
と目で、やめときなはれと止めた。安造が店へ入って来たのは、そのときだった。
安造は、孝助が苦しそうに咳をつづけてるのを無視して、誰に言うともなく、
「おい、明後日の支払いの金集まったか」
と聞いた。秀松が、
「へえ」
「そうか、ほな、その中から五十円出してくれ」
一瞬、皆が、安造の顔を見た。
「出してくれ言うてるのや。そこの金箱やろ」
安造は、金箱へ近寄った。かなり頭に来ていた音松は、それを爆発させるように手荒く止めた。
「何しやはります。そのお金は、明後日、支払いにいるんですで」
「分ってる。分ってるけど、わいもいるのや」
「ほな、支払いはどうなります」
「待たしたらええやないか」
「先月末にも、待たしてますのや。これ以上、待たしたら、商いが出来まへん」
「へえ、そんな商いが出来んように誰がしたのや。お前らやないか。わいが店へ出んと思て、お前ら怠けてるのと違うか」
「若旦那はん……」
孝助が、声をかけようとしたが、また咳きこんだ。
「音松、言うとくけどな、わいは、この店の主人やで。この金は、わいの金やねん。それとも、お前は、てかけの子の肩もって、この金、使わしとうないのか」
音松は、立ち上がると、いきなり安造の頬を、拳固で撲った。安造はよろけて、わめいた。
「どつきよったな、主人のわいを」
「ああどついた。それがどうした。何が主人や。そんなやつが主人か。言うたろか、この店をこんなにしたんは、あんたや。何か言うと、てかけの子、てかけの子て、そのてかけの子の秀松どんは、飯も食わんと働いてはる。あんたはどうや、てかけの子に、財産半分取られるて遊んでばっかりの極道もんや。自分で遊んで使うてばっかりいたら、自分の取り分の半分も少のうなるの、そんな、そろばん勘定が分らへんようで、それでも商売人か、何が主人じゃ!」
秀松は、すがって止めようとしたが、十年以上もたまっているうっぷんは、止めようがなかった。安造は、その勢いに押され、
「主人を主人と思わんなら、この店辞め!」
とわめくのがせい一ぱいであった。
「ああ、辞めたる。こんなに苦労して、この上、主人顔されたらいられるかい。けど言うとくけどな、明後日の支払いをちゃんとすませてから辞めたる。明後日の支払いは、取引先に約束した支払いや。この約束守るまでは、商人として辞められん。そやよって、この金はビタ一文使わさんど!」
音松は、そう言うと、金箱にフタをし、小脇にかかえて、自分の部屋へ荒々しく立ち去った。安造は、それを見るや、
「あいつは、泥棒や。金をとり返して来い! 警察に言え!」
と絶叫したが、誰も、動こうとはしなかった。
「安造、お止め! 店先でみっともない」
のれんから姿を出したのは糸子で、安造の手を荒々しく取ると、
「こっちへ来るのや!」
と引っ張った。安造は、しぶしぶ立ち上がった。孝助は、背中におかれたまま呆然と見ている秀松の手を肩で払うと、あわててそろばんを入れだした。
「そこへお坐り」
離れの二階の糸子の部屋へ連れて来られた安造は、不貞《ふて》くされたように、あぐらを組んで、たもとから皮の巻煙草のケースをとり出して、マッチを探した。
そのケースが、糸子の手で取られた。
「あんた、いつまで、そんなバカな事してるのや」
「バカなことて」
「そやないか、成田屋の跡つぎのあんたが、奉公人に、主人やない、商人やないて言われて、どつかれて、あんた、それで口惜しいないのか!」
「そら、口惜しい」
「口惜しかったら、何で、商人にならへんのや。毎日店へ出て、ちゃんと働かんのや。晩になったら遊び歩いて、それでこの店はどうなる思うてる。このままやったら、この成田屋ののれん、あんたがつぶしてしまうで。口惜しいけど、誰が見ても、あの音松が言うように、秀松の方が上やで」
「姉ちゃん、姉ちゃんまであの秀松の肩持つのか」
「持つのやないけど、そう言われても仕様ない。な、わてかてあんたの実の姉や、あんたの方がえらい、ええ商人やと人から言わせたい、当り前やろ。たのむさかい、そうなって。その代り、わてはそのためやったら、どんなことでもしたげる」
安造は、涙をためて言う姉を見て、すぐに甘えを見せた。
「そら、姉ちゃんの言わはるようにわてかてなりたい。なあ、姉ちゃん、わてな、嫁はんもらいたいのやけど、あかんやろか」
「お嫁はん?」
こんな話の最中に、嫁と言う言葉が出るのを糸子は意外そうに安造の顔を見た。
「うん、わてな、毎晩遊んでいるのは、惚れ合うた女がいるためや。その子、カフェーの女給してるのやけど、気だてのええ子やねん。その女、嫁にもろたら、わてかて生まれなおしたように働けると思うのや。けどその女には、五十円ちゅう借金があってな……その借金|払《はろ》たったら自由になれるのや」
さすがに、安造は、丑吉の存在はかくしたが、糸子は、安造の言葉を聞きながら、ふと、安造に嫁をもたせたら案外立ち直るのやないか、という気がしたのは、やはり清との短い交際の間に、自分のすべてが変わったことを知っていたからであろう。
「分ったわ。その五十円、うちが出したげる」
「えっ、ほんまか」
「けど、言うとくけど、成田屋の息子がカフェーの女給嫁にしたと言われては、信用にかかわる。そやさかい、そのひとどこか堅気のうちに養女にしてからの話や」
「わてもそう考えてたんや」
「けど、それは、あんたとわての二人だけのかくしごとにしとこ。お母はんにもカフェーのこと言わへん。それから、もう一つ聞くけど、ほんまにそのひと、あんたのこと、好いてるのやろなあ。だまされてるのと違うな」
「だまされる? そんな女と違う。わてのこと命がけで惚れてるのやもん」
「そうか、それやったらええのや」
糸子は立ち上がると、タンスの開き戸から大黒の形をした貯金箱をとり出し、底のフタを開いた。
中から五十銭玉や一円札が出て来た。全部で六十三円入っていた。
翌日の十四日、小銭を十円札に替えて、安造は、約束通り丑吉に渡すと、晴れやかな顔をしてチェリーへ行った。
昨日、あれ程はっきり言って、もう来まいと思った安造が、ひょっこり顔を出したから、愛子はおどろいたが、その上に、
「愛子、喜びや、前の亭主と話つけたったで」
と言われて、二重におどろいた。
「話をつけたって」
「うん、昨日あれから、お前の別れた亭主、丑吉言うたな、その男に逢うて、話つけたったんや。二度とお前と口利かんて。いや、そいつも、わい見て、こんな男なら、太刀うち出来ん、思いよったんや。ペコペコ頭を下げよって、わての貫禄勝ちちゅうとこや」
「それであんた……丑吉に」
「ああ、今日五十円の手切れ金くれてやったで。いらん言いよるのを無理矢理つかまして、ピシャリと横面はったった」
「五十円!」
愛子は、昨夕、丑吉からそんな話はみじんも聞いていなかった。
(それやのに、丑吉は、うちに黙って五十円の手切れ金を取っているけど、うちと別れるような丑吉ではないし、五十円ですむ男でもない)
考えこむ愛子の耳もとへ、
「なあ、これで誰にも遠慮せんと、夫婦になれるで」
と信じこんでいる安造の言う声が、心に釘でも打たれているように痛く響いた。
愛子は、その夜まんじりともせず朝を迎えた。丑吉は、昨夕とうとう帰って来なかった。安造から五十円の手切れ金をせしめて、どうせ、どこかでばくちをしているのであろう。だが、そのひとり寝が、愛子に人間としての時間を与えたことは事実だった。
(あのぼんぼんは、まだ、だまされてるとも知らんで、手切れ金を出して喜んではる。……ほんまに阿呆やさかい、信じてはるのやろか? それともほんまにうちに惚れこんで信じ切ってはるとしたら……)
重なりあった屋根の隙間から、朝の鈍い光がさしこむ露地裏のたった二間しかない部屋で、ぼんやりふとんに寝そべって巻煙草をくわえたままそんなことを考えていたとき、がらがらと格子戸が開いて、
「兄貴、まあ入ってくれ」
と言う丑吉の声がした。あわてて起き上がった愛子は、のっそり丑吉の後から姿を現わした男の姿を見て、台所へ着物を持ってかけこんだ。
男は、あごに斬り傷のあるところから、傷鉄とか、あご鉄と呼ばれている、花鬼一家でももっとも恐れられている鉄五郎なる丑吉の兄貴分だった。
「愛子、何してやがる、ふとん敷きやがったままで。わいの帰るの、起きて待ってんのかい」
丑吉は、部屋へ入ると、素早くふとんを二つに折って押入れへ蹴りこみながら怒鳴ると、
「おい、鉄の兄貴や。酒でも出せ」
と台所へ顔を出すのを呼びとめた愛子は、
「あんた、成田屋のあの阿呆ぼんから、五十円取ったんやてな」
「ああ、手切れ金や言うてな、くれよったんや」
「そんなことしたら……。それあんたの本気か」
「本気」
「手切れ金受けとったら、うちと別れるということやろ」
「阿呆、わいがお前と別れるかい」
「けど、そんなら、あのぼんはどないする気? 昨夕も、これで嫁になってくれるなて、念押しに来よったで」
そこで丑吉はニヤリとした。
「そうか、そこまでのぼせとるんか。まあ、心配せんでも、もう今日から、二度とあの男、顔出さんようにしたる。鉄の兄貴も、そのことで来てくれとるのや。お前は早よ酒もって来いや、なかったら酒屋起こして買うて来い!」
丑吉は、ふところから新しい一円札をとり出すと、愛子のえりもとから、胸へ押し込み、ついでに乳房をつかんで、フフフフと笑って、鉄五郎の待っている部屋へ行って、ぼそぼそと喋りだした。気になった愛子は聞き耳を立てたが、さすがに、悪の相談に慣れているやくざ二人、めったに人に聞かれるような喋り方はしなかった。
その頃、成田屋の店先では、冷たい空気が流れていた。音松が、大事そうに金箱から金をとり出して計算しているのを、横目でジロリと見つめている孝助、そんな二人を秀松がはらはらした目付きで見ていた。
昨日の夜、若旦那の安造が、この金箱から五十円とり出そうとしたのを、頑として反対し、その金箱を自分の部屋へ持って帰り、番をしていた音松であった。勿論、その勘定を支払ってからこの店を辞めるつもりの音松の決心を、秀松は何とかしてひるがえそうとつとめた。
「音松どん、あんたがいてんかったら、このわて……いや、成田屋は、どうなるんだす。お願いだすさかい、考え直しとくれやす」
両手をついてたのみもしたが、音松は、
「秀松どん。わての夢は、何とかして、あんたをこの店の主人にして、もう一回死んだ旦はんの当時みたいに、盛大な成田屋にしたかった……けど……あの阿呆旦那がいる以上……そうなるまでに、のれん降ろしてしまわならんのはたしかや。阿呆は阿呆で何もせんならまだしも、金使う味おぼえた阿呆は、一つ覚えでどうにもならん。そのかわり、あんたがもしのれん起こすような時には、どこにいても駈けつけるで」
音松は、そう言って秀松の手を握りしめたのである。これ以上止めても無駄なことを知ると、急に、支えがなくなって行くように思えて、それでも何とか決心をひるがえしてはくれぬかと、かすかな願いを抱いている秀松である。
だが他にも泣いている女がいた。音松を愛している富江だった。あの五月の節句以来、音松は二度と肌を求めはしなかったが、
「わしが独力で嫁貰える日まで待っていてくれ」
と力強い決意も聞かせてくれ、いつも燃えるような目で見て富江を安心させてくれていた。
(もう、あのひとの血が私の体の中に入っている)
富江はそう思うと、それだけで、大声で、
(音松どんは、うちのひとや!)
と叫びたくなるほどの幸福感に酔っていただけに、その音松が、弟の安造をなぐり、店を辞めると聞いたときには、目まいを感じる程驚いた。だから昨夕、金箱を持ったまま閉じこもった音松の部屋へ、そっと行って見たが、部屋には、秀松の話し声が聞こえていた。
富江は障子を開け、音松を呼び出そうとしたが、秀松に音松との仲を知られることはいやだった。富江も又秀松には嫌悪感を感じていたのである。幼い時から「てかけの子」と何かにつけて周囲が憎悪するのを見て、父の愛をとった女の子供としての先入観が(汚らわしい)と思わしめるのである。だから音松がひとりになるのを、廊下の戸袋の蔭でじっと待ちながら、部屋の中の話し声を聞いていた。その内に必死で音松を引き留めている秀松を知ったのである。すると何だか秀松が味方のような気がして来たから、不思議であった。
やがて、秀松が力なく部屋から立ち去った後、富江は、障子を開けた。金箱を前にして、もう自分の荷物を整理している音松が振り向いた。
「こいさん!」
そう呼ばれただけで、泣けてくる富江であった。
「あ、あんた辞めなはるて、ほんま……」
「聞かはったか。仕様がない、若旦はんとやり合うたんや」
「ほな、うちはどうなるの……一緒に連れて行ってくれはる?」
音松は、富江の涙の溢れたひとみから、視線をそらせた。
「わしは、これから……どこへ行くか分らへんのや。その代り、ちゃんとなったら約束通り迎えに来る。それまで待っててほしい」
「いやや! うちも行く……連れてって!」
「こいさん。わしは……明日から、食べても行けんのだす」
他の店ならば、十数年も働いた奉公人になら少くても五十円、百円のひま取り金はくれる筈である。それなのに、一銭も与えられずに辞めて行かねばならぬ音松に、富江は、自分の身内ながら弟の仕打ちが憎くなって、ひとしお音松にすがりたくなって来た。
「音松どん!」
富江は、音松の膝に顔を伏せた。音松は、その肩を抱き起こし、
「約束は守ります。さあ、人が来たらいかん。部屋へ帰ってなはれ」
肩においた両手を、富江の両頬にあてがった。目の前に音松の顔があった。男らしい息が、頬にあたった。富江は、音松が荒々しく抱いてくれるのを待って、目を閉じた。あの鯉のぼりの中で、悶えたときのように──。
だが、そのまま、音松は立ち上がった。そしてだまって障子を開けて廊下を見た。
「誰もいてまへん。今のうちや」
富江は、たもとで顔をおさえて走り去った。
音松は、そんな富江を見送りながら、物足りなさを感じた。思い切りこの場で抱きしめて、自分の手に富江のぬくもりを残しておきたかったからである。だが、それをとめたのは、
(今のみじめな気持で抱いたら、あんたの弟への面当《つらあ》てになる)
だから音松は、抱けなかったのである。だが、そんな気持を、富江は知らずに泣いた。
(怒ってはる。安造があんなことをするもんやから……姉のうちにまで怒ってはる。安造の阿呆! うちはどんなことしてでもあの人と一緒に出たる! あんな弟とは縁切りや!)
富江が、どんなことをしてでも音松と一緒に家を出ようと決心したのはその時だった。もしかりに、音松が部屋で富江を抱いて肌をまじえていたら、富江は、待つ決心をしたに違いない。また、姉の糸子のように勝ち気なら、安造の頬を叩き首の根をおさえて謝らせたかも知れない。だが、三人姉弟のうちで、一番気の弱い富江は、それよりは男に従うことを決心したのである。
音松は、そろばん玉をぽつんとはじいて、ゼロにすると、
「ちょっきりや。これでおとくいさんとの約束が守れる」
誰に言うとなく言った。先月末の未払い分で今日支払う約束の金が七十五円、今月、払う金が二百二十円、合計二百九十五円……やっとの思いで集金して来た金である。その集金人が昼迄には来るはずである。
「秀松どん、よう集めてくれたなあ、あんたがいんかったら、今日でのれん降ろさんならんかったなあ」
大声で言う音松は、辞めて行く身、遠慮がなかった。ピクッと孝助が体をふるわせて、何か言いたそうだったが、やめると奇妙な声を出した。
「若旦那はん」
のれんをくぐって、安造が、生まれて初めて仕事着を着て店へ出て来たからだ。木綿のたて縞の着物に、角帯、前掛け、いずれも父の秀吉が着ていたものである。それだけに寸法が合わず、ぶくぶく肥った白い膝と足が、はみ出ていた。その後から、おひさが嬉しそうに、リュウマチの足を引きずってついて来た。
「今日から、安造が店へ出るそうだす。孝助どん、あんじょうたのみますで」
「若旦那が」
きょとんとした孝助が、思わず聞き返すと、その返事は安造がした。
「そや、おまはんらにまかしてると、何されるか分らんさかいな。主人をなめる小番頭が出来たり、てかけの子が店乗っ取ろうとしよるもんなあ」
秀松がもう慣れたことと聞き流すと、安造は、結界に坐っている音松の傍まで来て、
「あんた、まだいてたんかいな。わてが今日から坐るさかい、どいてんか」
音松は、金箱のふたをピシャリと閉めると、
「もう一時間ほどだす。わてが、ちゃんとお金を払うてから辞めます。これが御寮さんのお好きな商人の決着だす」
ジロリと睨まれて、安造は一歩退がった。その言葉に、今度はおひさが承知しなかった。
「音松、誰に向かって言うてるのや。支払いは、主人がするもんや、どきなはれ!」
おひさは、安造がこんなことで気が変わっては一大事、と恐れた。それ程、安造が店へ出るということは、おひさにとっては思いがけない喜びであった。それも今朝、降って湧いたように、糸子から、
「安ぼんが、お嫁さんもろて、店のことやる言うてるさかい、好きな娘さんお嫁にもろてやって」
と頼まれたのである。糸子が頼んでくれたことが、又おひさを有頂天にさせた。
「どこのとうさんや、その娘さん」
「とうさんとまでは行かんけど、両親のないおひとでな、堅い家の娘さんやて。そのひともろてくれたら店の仕事はげむ言うてるのや、どうやろ」
おひさは、無条件で承諾した。すると安造は、糸子の出してくれた亡父の仕事着をつけて店へ出たのである。
だから、おひさは、そんな息子の気持を変えたくなかった。
おひさは、立ち上がった。そしてつかつかと、音松のいる帳場の前へ来た。
「音松! わての言うこと聞いてるのか! 早うおどき!」
「分りました。出て行きまひょ。その代り、支払いだけは、頼んまっせ」
「分ってる! 奉公人に指図はされん」
安造が空威張りの声を出した。
「辞めたら奉公人やないやろ!」
と、音松は安造を睨み、はらはらしている秀松に、
「秀松どん、約束を守ってくれや。商人は約束だけが信用や。この店で信用出来るのはあんただけや」
と、言い残すと、のれんをくぐって奥へ消えて行った。
「あのスカタンが!」
安造は、あわてて帳場の前へ坐ると、指先で机を撫ぜ、
「秀松! 帳場が汚ない! 雑巾もって来てふかんかい! 飯ばっかり食いやがって……孝助どん、大福帳はどこや!」
おひさは、そんな安造を見てほっと歓喜の溜息をついた。船場の主の座につくわが子を見るのが念願だったおひさである。それなのに、おひさ自身の愚かさで挫折させ、あきらめていたその夢を再び目のあたりに見ることが出来たのである。
だが、そのおひさの夢もはかない夢だった。表からのれんをくぐって、見るからに極道らしい、あごに傷のある男が、
「ごめんやすや」
と、すごみを利かして入って来るのを、雑巾を持って来た秀松が、
「おいでやす。何かお求めで」
と聞き返すと、
「阿呆ぬかせ、掛け合いに来たんや」
と、裾をくるりとまくると、上がり框《がまち》に、でんと腰をかけた。ちらりと見えた、腹に巻いた晒《さらし》には、匕首《あいくち》の白木の鞘《さや》が、無気味そうにのぞいていた。孝助は、おそるおそる前へ出た。
「あの、掛け合いて何だすやろ」
「お前とこのな、若旦那がな、わいの弟の嫁を、盗もうとしとるのや。こんな店の堅気の若旦那がわいらのような貧乏人の女房盗むて、それでだまってられるかい!」
おひさは、安造を心配そうに見て、
「何か、お間違いやおまへんか。わてとこの息子が、そんな人さんのお嫁さんを盗もてする気づかいおまへん」
「へえ、間違いかどうか、若旦那に聞いて見い。亭主と別れたら五十円やるて、人の女房五十円で買おうて、あまりひどいやないか!」
「安造!」
おひさに言われて、安造が前へ出た。
「誰も買お言うてへん。別れた亭主が悪い男で……」
「何やて、別れた亭主……あほぬかせ! 惚れぬいとるれっきとした夫婦や! そやろ! 丑!」
呼ばれて外からのっそり入って来た丑吉を見て、安造の顔から血の気が引いた。
丑吉が安造にじろりと一瞥《いちべつ》をくれ、神妙に上り框《がまち》に腰をかけるのを待って、鉄五郎は、
「おい丑! ここの若旦那は、お前と愛子が夫婦やないと仰言るのやが、どや」
と聞いた。
「とんでもありまへん。愛子とわいは惚れ合うた夫婦で、げんに今も一緒に住んでます。それやのに、ここの若旦那は、金を出して愛子とわいの仲を引き裂こうとしやはるんで、へえ」
それを聞くと鉄五郎は、売りものの傷を誇示するようにニヤリと笑った。
「どうだす、御寮さん。これでも、人違いや言わはるんだすか!」
おひさはもう言葉もなく肩を落し、安造はガタガタふるえていた。いずれにしろ金目当てなのは分っている。孝助は老いた頭で精一杯事態の解決案を考えた。考えねばすでに店の前は人だかりが始まっているし、集金人ももう来る時間である。成田屋の若旦那が、極道者の女に手をつけた。こんな噂は、ただでさえ失っている信用の致命傷となるだろう。孝助は、こきざみにふるえながら、金箱から五円札を紙にくるんで、前へ出した。
「あの、どうぞ、これを」
だが、鉄五郎は、見ようともしなかった。
「一寸番頭はん、何だんねん、そんなん出して。わいは話をつけに来たんや」
「お話て……」
「この結末では、この丑が可哀そうやで、来てまんねん」
「そやから、ここんとこは一つ」
「じゃかましい!」
鉄五郎の手が、煙草盆を持ち上げ、そのままバタンと床を叩いた。灰吹が、一尺ほどとんで、孝助の膝の前に落ちると、孝助は頭を両手で抱えた。
「わいはな、丑に女房の愛子と手を切らして、ここの女房にもろてもらいに来たんや」
おひさが声をあげた。
「何だすて! そんなこと許しまへん」
「許す許さんは知らんけど、その若旦那が嫁に貰う言うたんや。丑はな、そんなケチのついた愛子とはきっぱり別れる言うてまんねん。けどな、五十円では、あんまりやさかい、わいが話に来たんや。今日び、女子衆はらましても十円や二十円ではすまんのや。人の女房取るのに、五十円では丑が可哀そうや、なあ、丑」
「へえ、わいの惚れた女や。金持ちの旦那にはかないまへん。そやから愛子渡します。けど、五十円では……泣くに泣けまへん」
そこまで言ったとき、安造がいきなりわめいた。
「お前、五十円ではっきり手切る言うたやないか! この嘘つき!」
安造は立ち上がると、丑吉めがけて突っかかっていった。だが、その中間にいた鉄五郎の動きの方が素早かった。煙草盆をもった腕をのばすと、走ってくる安造の足の前にさしだしたからたまらない。安造は足をとられ、もろに頭から土間に落ちてしまった。それを見ていた秀松は思わず、
「若旦那はんに何をする!」
と鉄五郎に武者振りついた。が、十二貫たらずの秀松の体は、人にじゃれつく子猫のように振り放され、土間へ転がされた。それを見て孝助もおひさも、思わず立ち上がった。
「へえー、堅気の店では、理屈でかなわんかったら、腕出さはりまんのか、それなら相手になりまひょか!」
鉄五郎は、いきなり両腕を袖へ入れたかと思うと、パッともろ肌を脱いだ。丑吉もそれにならった。鉄五郎の背中には、無気味なとぐろを巻いた蛇、丑吉の背中には、般若の刺青が姿を見せると、孝助は腰がくだけて放心したように口を開けているだけだった。
恐怖で顔をひきつらせたおひさは、すがるような目付きで、表を見た。のれん越しに見ている近所の商人たちも一瞬後ずさりしたが、誰一人として助ける者もいなかったのは、商人の町では当然であろう。
おひさはもうこれまでと観念した。
「一体……いくら出したら、よろしいんだす」
「二百五十円! びた一文まけられん。五十円は先にもろてるさかい、二百円や!」
「そんな無茶な!」
「へえ、無茶か。ここの若旦那、何やてかけの子に半分取られる財産やさかい、金は何ぼ使うてもええ言うとったそうや。そんなら、惜しない筈やろ」
おひさは、土間の隅でかがみこんでいる安造を情なそうに見た。その横には、秀松が意識を失っていた。上がり框へ上がる踏み段の角が、みぞおちにあたったのである。
おひさは、のろのろと金箱に手を入れた。金箱には二百九十五円の金があった。音松がつい先刻まで、安造をなぐり、店を辞めると決めてまで、集金の約束を守ろうとした金である。
秀松の意識がさめたのは、おひさが二百円の金をとりだし、鉄五郎の手に渡そうとしたときである。顔をあげた秀松の目に、十円札が目に入り、その金がやっとの思いで集金して来た金だと知ると、渾身の力をこめて起き上がり、
「そのお金を渡さはってはいけまへん!」
と、金を掴みに行ったが、すでに金をうけとっていた鉄五郎は、秀松の腹を蹴りつけ、秀松が倒れるとニタリと笑って、
「邪魔しましたなあ! おい丑、よう礼言うとけよ!」
「へえ、どうも。これで愛子は、若旦那のお嫁さんだすな……」
丑吉が土間の安造を見下ろすと、鉄五郎は、
「あほ言え。御寮さん、許さん言わはったやないか」
「へえ、そうだっか。ほな、いつでも迎えに来とくれやすや、それまで預かっときまっさ」
それが捨てぜりふで店を出ると、表の人垣はさっと割れた。後から出て行こうとする鉄五郎に、起き上がった秀松は、武者振りついた。
「お金、返しとくれやす!」
「うるさい!」
今度は、鉄五郎の拳固が秀松の顔面へ食いこんだ。秀松は土間へ転んだが、それでも起き上がると、ヨタヨタとよろけながら表へ出て行った。表の人垣の中から誰かが何か言ったが、耳がガーンと鳴った秀松には、何も聞こえなかった。それでも、その耳にはっきり聞こえていたのは、
「秀松どん、商人は約束を守らないかん。あんただけは信用出来る。この金をちゃんと払《はろ》てや」
そう言って出て行った音松の言葉であった。
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根  性
一瞬、成田屋の店には、沈黙があった。土間にいつかまたうめき出した安造、帳場の横でしょんぼりうなだれている孝助、ぼんやり突っ立っているおひさ。誰もが口をきく状態でなかった。そんな成田屋の沈黙を破ったのは、のれん口から出て来た糸子だった。糸子は、土間へ素足で降りると、安造を抱きかかえた。
「安ぼん、しっかりおし!」
安造は、叱りつけられた子供のように糸子にすがりついたが、おひさは糸子を見て目を吊りあげた。
「糸子! あんたは何ちゅうた。愛子ちゅう娘は、堅い家の娘やて! 嘘ついたな!」
「うちは、安ぼんからカフェーの女給やて聞きました。それかくしてたん悪かったけど……まさかそんなひとやとは……安ぼん! あんたやっぱりだまされてたんやないか! それも知らんと、阿呆が」
安造は、わめくことで体裁をとりつくろうように、癇病《かんや》み独得の声を振り絞った。
「そや、わてはど阿呆や、だまされてたど阿呆や。わいみたいなもんがいん方が、みんなええのやろ。わてはこの家出て行くわ! お母はんはだまされても怒られんけど、わては、ど阿呆と言われる。こんなてかけの子のいるような家、出て行った方がええのやろ!」
幼い時から、てかけの子と言うたびに、おひさは安造可愛さのあまりに言うことを聞いていた。そして最近では、留吉とのことを口にする。それが安造の計算だった。だが、今度ばかりは違った。家をとびだすと言えば、引き止めるだろう。それで事をうやむやにすまそうと言う、安造独得の姑息《こそく》な計算も今のおひさには通じなかった。瞬時にして夢を破られたおひさは、わが子に自分以上の愚かしさを感じたのである。
だが、引き止めてくれなければ、一応でも家を出て行かないと形がつかなくなった安造は、さも苦しげにのれん口へ出た。目の前には、小豆《あずき》色ののれんが三筋、中央に丸に成と染められていた。安造はのれんを指さした。
「この一筋は、糸子姉ちゃん、この一筋は富江姉ちゃん、残りの一筋はわて、これで成田屋はうまいこといってたんや。それに余計なてかけの子が入って来よったさかい、こうなったんや。四筋ののれんなどあるかい。これがいかんかったんや」
そう言い終わって安造は、我ながら哀れな言葉を言った、と振り向いておひさをうかがったが、おひさは、顔をそむけたままでいたし、糸子はじっと土間へ目をそそいだままだった。
「薄情者!」
安造は、そう叫ぶと表へとび出した。さすがに孝助は、
「御寮さん、止めはらんと」
と切り出したが、糸子がきっぱり言った。
「出て行けるような根性のある安ぼんなら、この家はこんなに悪うなってへん」
孝助は、同意をしめすようにうなだれた。おひさがぽつりと言った。
「これでこの成田屋も、おしまいやなあ」
実際、今日の集金人たちの大部分は、すでに表に立って、先刻からずっと、いきさつを見て知っていた。そして、出て来た安造に、侮蔑とも何とも言えぬ一瞥《いちべつ》を与えると、誰言うともなく、店内へぞろぞろと入って来たのである。
その頃秀松は、船場のどまん中で、いまだに必死に、鉄五郎に食い下がっていた。あれから店を出て、鉄五郎に追いすがり、
「お金返しとくれやす」
とすがりつくのを突き放され、ものの十メートルほど行くうちに、また追いすがり、今度は丑吉が思い切り蹴ると、足の痛みに起き上がれないのか、鉄五郎の足に抱きつき、打たれても蹴られても放さず、そのままずるずると半丁ほど引きずられて来たのである。勿論船場の人たちはこの異様な光景に目を見張っていた。秀松の着物は既にぼろぼろになり、顔や手足はもう余すところなく血に染まっていた。それでもなお、
「お金、返して!」
と絶叫し続ける秀松に、今度は、鉄五郎が困り出した。それでなくても人だかりは数を増してくる。幸い巡査はまだ来ていなかったが、早く逃げねばならない。
「兄貴、早よ逃げよ!」
「しぶといやつが、足離しよらん」
丑吉は、秀松を蹴ろうとしたが、必死の目を向ける血みどろな秀松を見ては、足も出せないし、思いなしか鉄五郎の顔の方が蒼くなって来た。
そのときである。その前の店から、箒やそろばん片手に、七、八人の手代や、番頭たちが、鉄五郎と丑吉のまわりをとり巻いた。それを見て丑吉が、思わず腰にさしている匕首の柄を掴んだ。
「なんじゃ、われら、どうする気じゃ!」
その店先から声が掛かった。
「お前ら、手出したら、あきまへんで!」
出て来たのは、腰はまがり、杖で体を支えた糸茂だった。糸茂は五、六歩前へ出ると、鉄五郎と丑吉に向かって言った。
「あんたら、わてらは商人。こっちから手は出さん。出さんが、命は守らなならん。けどな、その勝負、その丁稚の勝ちと違うか。あんたらも、いさぎよう金を返して帰った方がええのんと違うか」
船場の主と言われる糸茂の射すくめるような目で見られ、その間にも、人垣は二重三重にも増して来て、その者達が鉄五郎と丑吉を睨みつける。その無言の刃には、鉄五郎も観念したのか、懐の金を、秀松に、
「返したるわい!」
と叩きつけたが、秀松がまだ足を離そうとはしないので、鉄五郎はうろたえた。
「おい! 返したったのに、何故離さん! おっさん! 離すように言うてくれ!」
「秀松、離してやりなはれ!」
秀松は、声の方に顔をあげた。
「大旦さん、二百円あるか、数えとくれやす」
糸茂は、納得したようにうなずくと、腰をかがめて金を拾い、二度、三度、勘定し始めた。そのゆっくりした勘定に……先ず、丑吉が逃げ出した。
一人置かれた鉄五郎は、ガタガタふるえだした。
「あるで、ちゃんと。二百円」
それを聞くと、秀松は、安心したように足を離した。
鉄五郎は、匕首を振り廻しながら一目散に逃げだした。
同時に、歓声とも溜息ともつかぬ声と、拍手が船場の道にあふれた。
それは、秀松に対する賞讃の声であった。
糸茂が手をあげると、番頭たちはかけより、秀松を店の中へ運んだ。
店には、すでに水や薬が用意されていた。最初からのいきさつを聞いていた糸茂の心づかいでと思えた。それでいて、最初から助けに出なかったのは、亡き成田屋の秀吉の遺言の立会人として、遺言の実行の時を見定める唯一の試験場として、今日の秀松を見て来たのである。
いや、過酷なようでも、限界迄放っておき、秀松の成長を船場中にも認めさせたかったのであろう。
だが秀松の方は、手当てをうけている間も、気が気ではなかった。
何とか集金に間に合わせなければいけなかったからである。
だから番頭が、
「ひどい傷や。こら、病院へ連れて行かんと」
と言っている声を聞くと、
「わて、店へ帰らなあきまへん。このお金で支払いせんといかんのだす」
糸茂は、それを聞くと、
「秀松の言う通りしてやれ。誰か肩貸したり。わいも一緒に行こ」
とみずからも立ち上がっていた。
その頃、成田屋の店では、おひさと番頭の孝助、それに糸子が、六人の集金人を前に手をついていた。六人の前には、九十五円の金が置いてあった。
「あきまへんな。これ以上は待てまへんな」
「あんさんとこの音松はんに約束したんだす。音松はんはどこへ行ってはります」
「あの音松は辞めました」
孝助が蚊のなくような声で言った。
「そんならまるで|かたり《ヽヽヽ》やないか!」
「いえ、音松が約束した通り、金はあったんだす。それをご覧の通り……」
孝助は音松をかばわねばならぬ羽目におちいった。
「孝助はん、何があったんや。商人なら、決着をつける金を何で極道者に渡さはった。それが商人だすか。とにかく、店にあるだけの品物は引き取らせて頂きます」
「わてとこもだす」
口々に言い出すのを、糸子が乗り出した。
「お願いだす。今皆さんにそう言われては、この成田屋ののれんは降ろさんなりまへん」
年かさの集金人は、糸子の言葉の終わり切らないうちにはね返した。
「とうさん、今のれん降ろさんでも、もうこの店はあきまへんで。女極道で、極道者に金をとられるような旦那のやる店、保つと思いまっか」
「そうだす。のれんあげてても、降ろしてるんと一緒だす」
言うことはもっともだった。おひさは、両手をついたまま顔をあげた。
「皆さん、成田屋は、これまでだす。どうぞ好きにしとくなはれ」
これが、七十年続いた成田屋の最後の言葉だった。
集金人たちが、その九十五円の金を持って、分配と処置を決めようと立ち上がったときだった。のれんから現われたのは、秀松だった。
糸茂の番頭の肩につかまり、まだ血がしたたっている顔を見たときは、集金人たちは愕然とした。その上、
「皆さん、お待たせしました。音松どんがお約束したお金だす。ただ今お払い致します」
そう言って、血で汚れた二百円の札束を上がり框へ置き、土間へ手をついた姿を見ると、度肝を抜かれながらも、思わず皆は顔を見合わせた。
「あんた、こうやって払いに取り返して来た金やけどな、今日の分の勘定はこれで貰えるとして、まだ蔵にあるわてらのとこの品物の金は、どうやって払てくれはる?」
年かさのモスリンの紡績会社の担当が、じっと秀松を見て言った。
「払います。若旦さんもお店に出て働くて言うてくれはりました」
「その若旦那が、困るんやがな」
若い男が言った。京都の染屋の番頭である。
「ほんまだす。どうだす、御寮さん、ええ機会だす、のれん降ろしなはったら」
別の男がおひさの方へ向いた。
「待っとくれやす!」
秀松は、上がり框に手を置いてにじりよった。
「のれんだけは、降ろしとうおへん。わてにそんなこと言える資格はおへんけど……てかけの子でも……」
そこで言葉を切ると、言おうかどうか迷ったらしいが、思い切って言った。
「てかけの子でも、父親を思う気持は一緒だす。わては、その父親がきずかはったこの成田屋ののれんを降ろしとうはおまへん。父親の成田屋ののれんを子供が守り切れんかった、それでは、わては何のために生まれて来たのか分りまへん。お願いだす、もう一回、もう一回やらせて見てくれはらしまへんやろか……」
秀松が、秀吉のことを成田屋で父親と口にしたのは初めてのことであった。それは、たどたどしい言葉ではあったが、聞いている人々の心には充分打つものがあった。
集金人たちは顔を見合わせた。この秀松の言葉を聞いてやるのは人間であろう。だが、商人は人間である前に、そろばんにかなった人間でなければならないのだ。
そのとき、沈黙を破ったのは、秀松を送って来て、のれんの外にいた糸茂だった。糸茂は、じっと秀松の言葉を聞いていたが、のれんをかき分けて店へ入って来ると、言った。
「どや、この秀松の言うことを聞いてやってくれんかいな。わいも出来るだけのことはさせて貰うで」
一同は、それが船場の主と呼ばれる糸茂の大旦那と知って、思わず頭を低くした。
「なあ、どうやろ」
糸茂は、従って来た番頭の手を借りて、上がり框に腰を下ろした。
「糸茂の大旦さんのお言葉ではございますけど、今の若旦さんをお助けになりますか」
紡績会社の担当は糸茂にも痛いことを言った。
「若旦那か……」
糸茂はそれを言われると、困っておひさをじろりと見た。
「そこでどうだすやろ。この店、この秀松どんを主人にしてもろたら……」
意外な申し出に一番おどろいたのは秀松だった。
「なりまへん、それは……」
だが、糸茂がその秀松を抑えた。
「ほう……そんなら何か? この秀松が成田屋をやったら信用出来るのかいな」
「へえ、このひとなら信用出来ます」
「わてとこも信用しまひょ」
「うちとこもだす。うちの主人も丁稚たちに、この秀松どんを見習え言うてはる位ですさかい……」
口々に秀松をほめだす集金人たちに、糸茂は、にっこりうなずいた。
「分った。どや、おひさはん。みんなもこない言うてはるのや、あんたはどう思う」
聞かれてもおひさは、びくりと肩を震わせただけだった。
わが血を継いだ正統な後継者よりも、この船場でもっとも信用を落すと言われているてかけの子の方を他人が信じ、その子でなければ成田屋の存続を認めないと言われているのである。
この屈辱は、おひさにとっては耐え難いものがあったろう。しかも、わが子安造の愚かさを目のあたり見ただけに、ひとしおおひさにとっては恥部を笑いものにされたような屈辱を味わわねばならなかった。
てかけの子に店を継がすよりは、いっそ成田屋ののれんを降ろす方がまだしもである──。
せめて、秀太郎の後見者である糸茂にそれだけでも宣言して、うろたえさすことが残された意地と心に決めたおひさが、
「おひさはん、どや?」
と糸茂に再度催促されて、蒼白な顔を上げて口を開こうとした時、
「そうして頂きます」
一口早く糸子の口から承諾の返事が出ていたのである。
「お糸、何を言うのや! わてはいやや! わてはそれやったら、のれんを降ろす!」
激しく糸子を責めるのに、
「お母はん。お母はんは、もう何を言う資格もあらへん。お母はんは、さっきのれんを降ろすて言うたんや。今は、お母はんが降ろしたのれんを又かける話を、糸茂のおじさんがしてくれてはるんや。そうですな」
「その通りや。お糸ちゃんはわかってるがな。これから新しい成田屋が始まって、その店の主人に秀松がなるんや」
こう言われておひさは、屈辱を重ねねばならなかった。
糸茂は誰に言うともなく宣言した。
「よっしゃ、決まった。ほな、今日から成田屋は、秀松にやらせる」
だが、秀松はあわてた。
「いけまへん。ここの店の旦はんはあくまで若旦はんだす。わてはただ……母親と一緒に住みたいだけで……」
その言葉も途中で消えた。糸茂の目がぐっと秀松を見すえたからである。
「秀松。お前、成田屋をつぶして母親と一緒に住めると思うのか……。皆さんの言わはる通りするのや」
すべてが決まった。集金人たちは、秀松が血みどろになって取り返して来た金を受け取り、
「新しい旦はん、頑張りなはれや!」
と激励の言葉を残して帰って行った。
糸茂もやっと腰を上げてホッとしたように言った。
「これでわしも秀吉はんとの約束を果たした。今日からは、遺言の立会人でないようになる。約束通り半分渡す成田屋の財産はのうなったけど、秀松、お前は代りに土性っ骨て財産をうけついだ。忘れたらあかんで」
平伏して見送った秀松は、糸茂の姿が消えると、おひさと糸子に向かって手をついた。
「御寮さん、とうさん、わては決して主人にならしまへん……若旦さんが……」
「皆さんで決めはったことや」
糸子が立ち上がると、おひさもよろけながら立ち上がった。
「御寮さん。わてもお暇頂きます。わてはもう疲れました」
孝助も、今日まで丁稚同様に扱っていたてかけの子に旦那になられて、それでも番頭を続けるのは誇りが許さないのであろう。
おひさが去ると、糸子も孝助も立ち上がった。
秀松は意外な結果が生まれて、困惑していた。秀松が、この成田屋へ来させた母親の目的と違い、倒産寸前の成田屋の主人の地位が与えられたからである。
(こんな時、音松どんが居てくれたら……)
秀松は途方に暮れた。
その音松も、梅田のステンションの待合室で、途方にくれていたのである。横に富江が、泣いているからである。ひまを出された番頭と、泣いている船場のいとはん。まるで、その頃流行り出した新派芝居の見本を見るようで、ジロジロと人々の視線をあびている。
音松は、おひさと安造に食ってかかられて、すべてを秀松に任せて、荷物を持ち、裏口から出た。
さすがに十数年働いた成田屋を出た時には、感傷が湧いた。その感傷の大部分は、秀松を主人にすることを果たせなかった心残りと、富江を後に残して行く淋しさであったことは間違いない。
だが梅田のステンションへ着くと、その富江が、風呂敷包み一つもって、音松を見ると、もう泣き出しながら人目もかまわず武者振りついて来たのである。
「音松、うちも連れてって」
「こいさん、あきまへん。約束を忘れはったんだすか。ちゃんと迎えに来る言いましたやろ」
「いやや。うち、もう置き手紙までして出て来たんや。帰られへん」
それ以後、何と言っても傍を離れず、シクシク泣き続けているのである。そんな富江を見て、どうしてよいか、全く困っているのである。と言うのは音松は、一時故郷の江州へ帰ろうと思っているのである。江州には、父がいる。それに後妻の母親もいる。決して居心地のいい家ではない。その上、富江を連れて帰っては、駈け落ちをして来たと思うかも知れぬし、と言って、音松を迎えてくれるであろうとあてにしている京都の呉服問屋も、成田屋の娘を連れて店を辞めた音松では、おそらく使ってはくれないだろう。
もうそろそろ日も昏れて来る。早く決めなければ、江州へ帰る汽車にも乗り遅れるし、成田屋では、どんなに騒いでいるか目に見えて分っている。
(そうや。ひょっとして手分けして探しに来よるのと違うやろか。もし探しに来たら、こいさんを引き渡そ。それより仕様ない)
そう決めた音松が、それからは、入口に一番近い目立つ席へ坐ってじっと入口をにらんでいるのだが、誰一人として成田屋の人間は現われなかった。
(世間体を気にしとるのか。薄情なもんやな)
音松も、成田屋であんな騒ぎが起こっているとは知らなかったからである。
その富江が、家出をしたと、おひさが知ったのは丁度そんな頃だった。
安造は、あのまま家を出て行ったきり帰って来ず、糸子は自室へ入ったきりで、無性に心細くなったおひさが、富江の部屋に入ったとき、机の上にある置き手紙を発見したのである。封を切って、
〈私は家を出ます。探さないで下さい〉
こう書き出された手紙を読むと、おひさは糸子の部屋に行き、震える手で糸子にさし出した。
糸子は、その手紙を読むとおひさに返して、そのまま部屋を出て行こうとした。
「糸子! 富江が家を出たんやで」
「それもええことや」
「何やて。あんた妹が心配やないのか!」
「お母はん。お母はんこそ、誰のことを心配した。安ぼんがああなったんも、お母はんや。この店がこうなったんも、お母はんや。富江が家出たがるのも、お母はんのせいや! お母はんが、ほんまに子供のことを心配する親やったら、こうならへんかったはずや!」
糸子から、すべてが自分のせいだとののしられて、おひさは違うと叫びたかった。だが、叫ぶ自信も気力も既になかった。ただ、常に反抗的な眼を向けるこの糸子や、金をせびることしか考えていなかった安造と違って、もっとも娘らしい富江の姿を思いうかべていた。
「あの子だけやった!」
おひさは、富江に対し、哀れといじらしさを感じると、狂ったように廊下を駈け出していた。
「誰かいるか! 誰か!」
もうこの店には秀松ひとりしかいなかった。
「御寮さん、何ぞ用だすか」
「あ……富江が家出したんや! 探して来て! 連れて帰って来るのや!」
「こいさんが!」
秀松は、とっさに音松を想い出した。おそらく音松と一緒に出たのに違いない。
「探して来ます!」
「早く探して来て! 必ず連れて帰って来て!」
「へえ、必ず連れて帰って来ます。その代りお願いがおます。こいさんをお連れして帰って来たら、音松どんも、もう一回お店で使うとくれやす!」
「勝手にしたらええ!」
「それに、こいさんを音松どんのお嫁さんにしてあげて頂けまへんか!」
「何やて、富江を音松の……」
おひさは、わが耳を疑ぐった。そして秀松がうなずくのを見ると、がっくりと膝を床についた。
「ほな、ほな、音松が、富江を! 許さん。許すもんか!」
「御寮さん、許さんと仰言《おつしや》ったら、こいさん、帰って来はらしまへん。そしたらまた、とうさんみたいなことになります」
あらゆる屈辱と衝撃に身心をさいなまれた今日のおひさにとっては、その言葉だけで充分であった。
「連れて来て! 何でもゆるす、連れて帰って来て! たのむ!」
その姿には、かつて鴻池屋流に仕込まれた誇り高い船場の女の姿はなかった。何もかも失って、たった一つ、子の心にすがりついてでもとめようとする弱々しい母の姿があった。
「おおきに。行って来ます」
秀松は、急いで表へ出た。行き先は心当たりがあった。音松の故郷である。
今朝早く音松は、秀松と表へ出ようといった。
「あんたとの別れや、歩いて見いへんか……」
誘って表へ出たが、別に何も喋りはしなかった。その途中、音松は道頓堀で、浪花名物のおこしを買った。
「故郷の親父が好きやさかいなあ。十七年働いて……おこし一箱だけが土産や」
淋しそうに笑ったからである。
秀松は、梅田駅に向かった。江州なんて遠くへ行ったことはないが、京都の先の野洲《やす》と聞いている。行けば分る。どんなことをしてでも音松どんに逢うのだ。
梅田駅の待合室へ入った秀松は、初めて乗る汽車にどうすればよいのかと、キョロキョロあたりを見廻しながら入って行くと、駅弁を喰っている音松の姿が目に入った。
「音松どん!!」
秀松は、大声で叫んだ。一せいに皆が振り向くような声だった。
途端に音松はギクリとし、富江は悲鳴をあげ弁当を放り出した。いや、旅客達も後ずさりを始めた。それもその筈である。顔中、すり傷だらけ、しかも乾からびた血と腫れ上がった顔は、この世のものとは思えなかった。
「あ……あんた……」
「秀松やないか……」
「こいさんもご一緒だしたか!」
富江は秀松と知ったが、青白い顔を横に振り、
「何しに来たんや。うちは帰らへんで!」
「帰っとくれやす。御寮さんから、こいさんのお婿さん、音松どんにするとお宥しも出ました」
「何やて……それはほんまか……」
「はい。それに音松どん、もう一回店で働いて貰うんだす」
「秀松どん、それは無理や……」
「いいえ、音松どんにいて貰わんと、わてが困ります。音松どん、わてを主人にしよとしてくれはりましたけど、主人になってからのこと教えてくれとかはらんで」
「何やて」
秀松は、今日のいきさつを話した。それを聞くと、音松の目は輝いた。
「そうか……秀松どん、とうとうやったな!」
「な、一緒にやってくれはりますか!」
「やるとも! 一緒に! な、こいさん」
女は恋の前には脆かった。汚ならしいてかけの子として反撥を見せていた富江だったが、おのれの味方と知ると早くも反撥をゆるめ、添い遂げさせてくれると知るや、反撥どころかもう感謝の眼差《まなざ》を向けていた。
そして秀松がいそいそと荷物を持ち上げると、その痛々しそうな顔の傷を見て、懐紙を出し、
「これでお拭き」
と秀松に渡していた。
「こいさん……」
秀松は信じられぬように、片手で懐紙を受け取った。
「あんたをそんな目にあわせて、阿呆な安造のことかんにんしてな……そして……」
そこで言葉が跡切《とぎ》れると、蚊のなくような声で、
「わてのことも……かんにんして」
そうささやいたのである。
秀松は、どぎまぎして音松を見た。すると音松は、
「別に今更あやまることはない。二人は姉弟やないか」
と笑い飛ばしていた。
「そやったなあ……うち姉さんやった……」
秀松は富江の言葉を聞くと、たまらなくなって待合室からとび出していた。
姉さんとは呼ばなかったが、呼ばせてくれたのも同じであった。
これでやっとひとり──。
秀松は、ぼろぼろ涙を流しながら暗い道を歩いていた。
涙が傷にしみて痛かった。痛いだけに、傷の癒えた時の嬉しさがあることを知りかけた秀松であった。
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家  出
安造は、堂島の川をぼんやり見ていた。あの騒ぎで、丑吉たちに支払いの金の大半をとられ、おひさや糸子の手前、
「わいは家出たる!」
と、言って外へ出た。はっきり言って、誰かが止めてくれると思ったのである。だが誰も止めてはくれなかった。それよりも店の外には、仕入先や近所の番頭、丁稚たちの見る軽蔑の目があった。安造はたまらなくなって船場を北に折れた。この時、南へ行けば、安造の運命は恐らく変わっていただろう。何故なら、秀松が、大道の中央で、丑吉たちから金をとり返そうと食い下がっていたからだ。だが北へ折れた安造が、やっと堂島の川の岸まで来たとき、心細さと猛烈な怒りがこみあげてくるのを覚えた。
愛子に対してのいきどおりだった。
(あいつ、だましやがった!)
おひさの血をうけついだ安造は、自尊心をも受け継いでいた。そのときである。背後から、
「ぼんぼん」
と声をかけられた。振り返ると、そこに愛子が立っていた。安造の顔は、みるみるうちに蒼ざめ、こめかみは激怒のためにけいれんさえ起こした。
「おい、愛子! わいをようだましていたな! このどたぬきめ!」
途端に安造の平手は、愛子の頬をなぐった。愛子の白い頬に、さっと赤い指の形がくっきりとついた。
「ぼんぼん、もっとどついて。どんだけどついてくれてもかまへん」
意外な愛子の言葉に、安造は気勢をそがれた。
「うち、一寸も知らんかったんや、まさか丑吉がそんなお金をとりに行くとは。そらあ、ぼんぼんに丑吉みたいな男と一緒に暮してると言えんかったうちが悪い。けどな、カフェーの女給が、いちいち男がいる言うてたら、商売にならへんやないの」
「お前な、わいとは商売を離れての仲やて言うたはずやぞ。お前らぐるになって、わいから金まき上げよ思ったんや」
「そら、最初は、ええお客やお金もせいぜい貰お、とそう思てました。けど、あんなひどい方法で、お金とりあげるて、うち知らんかったんや」
「知らん言うても、現に先刻、アゴに傷のあるえげつない悪と丑吉が店へ来よったやないか」
「そのこと知ったん、今朝なんや、そいで心配して出て来たんや。そいで店の前まで行って、もう中で始まってるのを見て、うちが出ていったら、それこそますますぐると見られる。そう思て、じっと表で見てたんや。それで、ぼんぼんが出て来やはるの、待ってたんや。逢うて、あやまらんといかんて。そやさかい、何ぼどついてくれはってもかまへん、ぼんぼんにあやまらないかんのや」
その愛子の言葉を聞いて、安造は自尊心をややとり戻したが、キョロキョロとあたりを見廻した。丑吉が又、それを言わせているのではないかと思ったのである。
「そら、知らんかったちゅうなら、そんでええけど……わいはとことん、だまされたと思てたで……」
あれだけの代償にしては他愛なく許したのも、ひょっとしての恐れからで、安造は岸へ腰を降ろして、たもとから自慢の革の巻煙草入れをとり出した。愛子も横へ坐ってマッチをすった。
「よかったわ、分って貰えて……」
愛子は呟いて、昏れかけた川の流れを見た。近くの川に面した料亭からは、三味線が聞こえてくる。つい十年ほど前、板垣退助や伊藤博文などの政治家が、来阪すると必ず会合をしたという有名な料亭である。
その三味線の音を聞きながら安造の手が愛子の肩にのびたのは、丑吉とまだ共謀かどうか試そうとしたのである。
「頬《ほつ》ぺた、いとなかったか」
愛子は、
「ううん」
と頭を安造の肩にのせて顔を安造へ向けた。目の前に、椿《つばき》のつぼみのような唇がある。安造は、その唇を夢中で吸った。そして愛子が抵抗しないとみると、信じられぬように愛子を見ていたが、血はとまらなかった。安造は、愛子を草の上へ倒した。それでも人が来ぬか、目で左右をたしかめながら、指は愛子の襟元から肌へ割って入った。愛子の肌は、触れただけで、訴えが始まる敏感な肌だった。
(待ってたんや、この時の来ることを……)
安造は夢中で、愛子の体の上にのしかかった。愛子は、うめき声をあげた。
(もうこんなに喜んでいる)
安造はうれしかった。だが、このうめきは、重い体重がかかって、愛子の背中の下にある木の根へ背骨が押しつけられた痛さからであった。
堂島を前にした野合──それは今の安造にとってふさわしい交わりであった。
やがて安造の体が空気をゆすぶったが、愛子の「キェーッ」という叫びは一度も聞くことなしに終わった。
愛子は、ちらっと丑吉のたくましい、なめし革のような体を想い出したが、
(これでもよいのや)
と思った。
水鳥の羽ばたきに安造はおののきながら、あわてて愛子の体から離れると、やがて草むらに大の字になって寝転び、愛子が坐ったまま帯をしめなおしているのを見て、
「愛子、やっぱりお前はわてに惚れてたんやなあ」
聞いた顔は満足感に溢れていた。
「ぼんぼんがわての言うこと何でも信じてくれはる、そんなぼんぼんがわて……何や好きになったん……」
これはいつわらない愛子の気持だった。安造の愛子に対してだけは疑ぐることを知らぬ馬鹿さ加減、すべて善意にとり、その上に嫁にと本気に考えてくれる愚かさが、やくざのヒモをもち、吸いとられているおのれの愚かさと何か相通じるものがあることを知った愛子である。
「さあ、うち、もう家へ帰って、店へ出る支度せんといかん」
「家へ? お前、丑吉とまだ一緒にいるつもりか」
愛子は溜息をついた。
「けど、あんなになったら、ぼんぼんかて、家でおとなしゅうしてんならんやろ」
家のことが出て、どきりとした。
「なあ、わてと一緒にいてくれ。わてなあ、もう家へは帰れんのや」
「何言うてるの。あんたは跡とり息子、あんな目に逢うた分とり返そうとしっかり働かんとあかん。な、店へ帰って」
「わてはいやや。お前の家へ行く」
「そんなことしたら、あの丑吉がどんなことをするか、分ってはるのか」
あの恐怖からまださめてはいない安造は、おののきながら愛子を見た。
「けど、はっきり手切れ金を渡した」
「そんな事ですむ男なら何も言わへん」
「けど、お前があの丑吉に抱かれてると思たら……」
「そやさかい、ぼんぼんがしっかり働いて、うちを迎えて。うちもそれまで、何とかして丑吉から離れます」
「ほんまか……なあ、愛子、そんなら家へ一緒に来てくれへんか」
「何で」
「家へ一緒に来て、お母はんの目の前で、だましてへんかった、このわてに惚れてた、とはっきり言うてくれへんか。お母はんや姉さんは、わてがお前にだまされたど阿呆やて思とるのや。そうやないて見せたいのや」
愛子は、そんなことで信じられる筈がないことを知りながらも、うなずいた。
安造は、これでやっと、愛子が丑吉に言われて来たのではないと確信した。
安造はとたんに安心した。
(これで家へ帰れるきっかけが出来る)
そう思ったからで、安心すると二枚目気取り、まるで芝居の道行のように得意気に愛子の手をとり、深閑《しんかん》としている成田屋の戸口へ立った。
丁度、秀松が、音松と富江を探しに梅田駅へ行った直後であった。
「ここで待ってて。おふくろに言うてくる」
くぐり戸を開けようとしたとき、先に戸が開いた。出て来たのは、荷物をまとめた孝助であった。安造は、それを見とがめて、
「どこへ行くのや」
と聞いた。
孝助は、チラリと愛子を見たが、
「今日限りお暇頂きます」
「何言うてるのや。わては明日から店へ出て、じゃんじゃん主人としてやるのやで。お前がいてくれんと困る」
「もうこの店の主人は、秀松どんに決まりました」
「何やて!」
安造はわめいた。
「誰がそんなこと決めた! わしが、ほんまに家出すると思たんか、許さんぞ!」
「許さん言わはっても、糸茂の大旦那はんや、仕入先の人が決めはったんだす。御寮さんも承知しやはりました」
「何やて。おい、ほな、わては何や言うのや」
「あんさんは隠居だすやろ」
「隠居? この若さで……」
「わてもこの歳になって、下で使《つこ》てた丁稚に御主人て言えまへんよってな」
孝助は、それだけ言うと、こうもり傘を杖について淋しそうに夜の道を去って行った。
安造の顔にまた怒りがこみあげて来ると、愛子への恥しさも手伝った。
「畜生! とうとうてかけの子が店乗っ取りよった!」
じっと聞いていた愛子が決心したように傍へ来た。
「ぼんぼん、やりなはれ!」
「え?」
「口惜しかったらやりなはれ! てかけの子に負けん位ええ商人になりなはれ! うちも一緒にやります」
「何やて、お前が」
「へえ、京都へ行きまひょ。京都には小間物屋やってるおばさんが居ます。そこなら丑吉も知りまへん。二人で働きまひょ」
「よしやったる。やって、きっと本家成田屋ののれんを起こしたろ。てかけの子叩きつぶしたるのや! やったるで! 汽車でも買えるだけの金造ったる!」
「それでこそ、うちのぼんぼんや!」
愛子は、安造の腕をしっかりつかんで、逃げるように、船場の道を北へ歩いた。
安造と愛子の二人が、京都へ向かっている頃、成田屋の離れでは、長女の糸子が一人たんすの引出しを開けて、着物を整理していた。
糸子も、家を出る決心をしたのである。その決心は、秀松が安造に代わって成田屋の主人になる、と聞いた瞬間についたのである。
一枚、二枚、糸子の細いしなやかな指先でたたんで行く着物には、それぞれの想い出があふれていた。
天神祭の宵宮《よみや》に父秀吉の手にひかれて、初めて手に通したゆかた。
子供好きの秀吉が、糸子のために別染にした友禅──。そして十日戎《とおかえびす》の日に、初めて清との恋を知ったお召──。
糸子の胸には、しめつけられるような想いがあふれ出て来て止めようがなかった。
「姉ちゃん……」
やがて襖を開けて入って来たのは富江だった。
「こいさん、あんた帰って来たん」
「うん、心配かけて……」
「一寸も心配してへん。その方がええと思た位や。何で帰って来たんや」
「秀松どんが迎えに来てくれて……」
「秀松が……それで、あんた音松どんと別れて帰って来たんか」
富江は、知らぬと思った糸子が音松のことを口に出したので思わず顔を赤らめたが、
「うううん。一緒に帰って来たんや」
「一緒に……あんた一緒にて、音松どんは、店辞めた筈やろ」
「それが、もう一回つとめるようにならはってんや。秀松どんがお母ちゃんにとりなしてくれはって、それに……音松どんとのことも……」
「お母はんが宥してくれはったんか」
意外そうに富江の顔を見つめる糸子に、富江はうなずいた。糸子はほっとしたように、
「そうか。そらよかった」
「姉ちゃん、姉ちゃんは音松どんとのことは賛成か」
「別に反対しても、仕様ないやろ。それに音松は、ええ商人になる。うちは、とうの前からあんたらは夫婦になったらええと思ってたんや」
「とうの前から」
「ふん。あんたが音松どんを好いてたことぐらい、見てたら分る。姉やもんなあ」
富江は、その言葉を聞いて、何かしらのあたたかさを感じた。
糸子は、顔を上気させ、嬉しさをどう隠してよいか困っている幸福そうな富江を、じっと見ていて、
「こいさん、あんたは、幸せにならなあかんえ。ほんまに幸せになってな」
かんでふくめるように言う姉の言葉に、富江は何か予感を感じたのか、ふと、部屋の中に散らばっている着物を見て、
「姉ちゃん、どこか行くの」
と聞いた。
「あんたに要らん着物あげよ思てな、もう、お嫁さんやもん、商い用の反物使てられへんやろ。明日、出しといたげるさかい、もうおやすみ」
「姉ちゃん……」
しみじみ姉を呼んだのも、何年ぶりのことだろうか。富江は泣きたくなって部屋を出た。いつの間に降り出したのか、雨をふくんだ風が雨戸を叩いた。
翌る朝、秀松は、四時に目をさました。いつの間に雨が上がったのか、蔵の二階には、夏の光がさしこんでいた。秀松は、あわてて着物を着て、前掛けを結ぶと、井戸端へ出て顔を洗った。
もう十年もやっている事だった。だが今日は違った。
今日からは、番頭の孝助もいない。丁稚から、主人として店を背負って行かねばならないのだ。昨夜、あれからひとりで眠れぬまま考えた。
(何とかして、借金を造らんよう、仕入先へちゃんとお金を払えるようにしよ。そのためには今迄と同じことしてたらいかん、明日からは一時間早う起きて、一時間おそう寝よ。それだけ働かんとどうもならん)
秀松は、その決意をもう一回味わうように、水を掌ですくって顔をなぜた。冷たい井戸水が、怪我の痕にしみたが、それだけ心を引きしめた。顔を洗うと、秀松は店へ出て、大戸を開いた。さすがに音松もまだ起きていない。
(音松どん、昨日のことで疲れたはるやろ。起こさんようにしたげよ)
一番たよりになる、たった一人しかいない相談相手の音松なのである。
秀松は、静かに店の外へ出た。
(商人は、門先が大切だす。門先が汚れてたら、品物まで汚れてると見られても仕様おまへんで、このあかんたれが!)
そう言って、孝助に秀松は頭を小突かれたことがある。
秀松は丹念に掃き出した。
さすがに朝の早い船場でも、この時間から起きて掃除を始める店はない。そのとき店の中でコトリと音がした。
(音松どんやろか)
秀松は、その店の中をのぞいた。
店の中では、糸子が上がり框へ風呂敷包みと信玄袋を置いて、下駄をはこうとしているところだった。
秀松は、店の中へ入った。
「とうさん、どこへお行きやす」
急に現われた秀松を見て、糸子はあわてた。
「一寸、出て来る……」
「外へ出はるのは御寮さん御存じだすか」
「子供やないのや。いちいち言うことあらへん」
「いけまへん。そんな荷物持ちはって、遠いとこへ行かはるのなら、尚更《なおさら》だす。やめとくれやす」
「何でやめるのや」
「けど、どこへ行かはるのか……せめておっしゃって頂かんと。それでは家出やおまへんか」
糸子は、秀松をじっと見た。
「そや、うちは家出をするんや。けど、この家がいやになったり、面白うないさかい家出するのと違う」
「ほな、何でだす」
「あんたが、この店やる事に決まったさかいや!」
秀松の顔は一瞬蒼ざめた。
「あんた昨日、二百円のお金とり返してのれん助けてくれたなあ。うちは、それがたまらんのや。うち、そのお金半分返すために外に出るのや」
「とうさん、そんなことわては何とも……」
「あんたが思てへんでも、うちはいやや。お父さんが死なはる時、弟とあんたで財産を半分ずつ分けよて、言い遺さはったのなら、借金も半分ずつ分けよ。そやないと、あんまり本妻の子のうちらがみじめや。そやよって、働きます。これから先も、弟やお母はんの使わはる分、きっとうちが働いて返します」
糸子はそれだけ言うと、荷物を下げて表へ飛び出した。
「とうさん!」
秀松があわてて追おうとするのを止めたのは、音松の腕であった。
「秀松どん、追うても無駄や!」
「何でや」
「あのひとには意地がある。死にはった旦さんから継いだ商人の血がある。あのひとが男やったら、成田屋も、こう悪うならんかったやろ。あのひとはやり通すお人や。けどなあ、あのひともいつかはきっと分ってくれはる。そのときまで待ち」
そう言われて、秀松は力なく上がり框へ腰を下ろした。
(昨日、初めてこいさんが弟やて言うてくれはったのに……今日はとうさんが家を出はった。しかもわてのために……お母はんとの約束がまだまだ遠なった。どうしたらええのやろ)
だが、その秀松の力をいっそう落させたのは、安造が家を出た、と知ったからである。
糸子が出てから二時間程たった後、十三《じゆうそう》で菓子屋をやっている信造という遠縁の男が、おひさをたずねて来た。丁度おひさは起きて、目を真赤にはらした富江から、糸子の家出の知らせを聞いた直後であった。
糸子が家出をしたと聞いても、そう顔色を変えず、
「そうか、あの子はしっかりしてるさかいな」
と、あっけにとられる位の落ち着きようだったが、信造の話を聞いて、気が狂ったように泣きわめいた。信造の話というのは、昨夕おそく安造が店へ現われ、財布をとられたとかで、五十円余りを貸してくれとたのんだことである。
信造がそんな大金は手許にないと言うと、今夜のあがりだけでもと強引に十円ばかり持って行き、
「金は明日、店へとりに行ってくれ」
と出て行った。信造が、不審に思って、こっそり跡を子供につけさせて行くと、安造は、かなりの荷物をもった女と一緒だったというのである。
「わしがつけて行ったら、どうしても止めたんですのに」
信造は、おひさの泣き声を聞きながら、盛んに恐縮していたが、富江が自分の金から十円余りの金を持たせて帰らした後も、おひさは、
「もう、この家は何もかも他人の家になってしもた。もう何もない! 皆わてを困らしたらええ。自分だけ好きにやったらええ」
そう言って泣き続けた。
それを聞いて、秀松が、おひさのいる離れへかけつけ、
「御寮さん、若旦さんを探します! どんなことがあっても!」
と両手をついたが、興奮はさめようもなく、
「もうええ! あんたがこの店へ来てからは地獄になった! あんたの母親が呪ってるんや!」
秀松は、そのまま音松にも相談せずに店を出た。無性に母親に逢いたくなったのである。
お絹は秀松に言った通りに、宗右衛門町の「重の家」で下女中をしていた。
おかみからも、せめて座敷へ出る仲居になれとすすめられたし、仲居になった方が祝儀も入り、収入も多いのは知っていた。だが、秀松の存在が、仲居になることを止めさせていたのである。
(あの子は、堅い商人になるのや。水商売の女が母親では、足を引っ張るかも知れん)
料理屋で働いていた為に、てかけは水商売の女と、秀吉まで色眼鏡で見られた過去のわだちを踏まぬ、と考えたお絹である。
秀松が訪れた時、お絹は台所で茶碗を洗っていた。
「お母はん!」
そう呼ばれ、立っている秀松を見て、
「秀太郎やないか! どないしたんや! 顔中、傷だらけやないか!」
傷鉄から金をとり返したいきさつは話さず、
「一寸相談したいことがありますのやけど」
と、こわそうにうかがった。その目には、丁度子供の頃いたずらをして、お絹の顔をうかがったあどけない面影さえ残っていて、お絹は胸がしめつけられた。
「一寸待っといで。おヒマもろてくるさかい」
そう言って、奥へ消えると、すぐにたすきと前掛けを外しながら表へ出て来た。
「暑いよってに、氷金時でも食べながら話ししよ」
そういわれて秀松は、お絹がやさしくなったことを感じた。
二、三軒先の、氷という旗の立っている氷屋の堅い坊主椅子に坐って、秀松は、氷の来る間もなく、
「わて、どうしてええやら分らんようになってしもたんだす」
と切り出した。
「何が分らんのや」
「へえ……」
秀松は、たどたどしく昨日からの出来事を話した。
集金のこと、傷鉄や丑吉の事、そして、糸茂の大旦那が立会いで、集金に来た仕入先の人たちから主人になれとすすめられたこと。
こいさんの富江と音松の駈け落ち、そして御寮さんにたのんで二人の結婚を承知してもらって、迎えに行ったこいさんから姉弟と認めてもらったこと──。
その話にお絹は、喜びに目を輝かせたが、後の話を聞くにつれ、また段々顔を曇らせた。
「それで、とうさんも、若旦さんも家出てしまわはったんだす。皆わてのせいだす、わてもう居ん方がええのんと違いますやろか!」
「辞める? あんた今辞めたら、折角あんたを信用してくれはった仕入先や糸茂の大旦さんを裏切ることになるやないか」
「そんなら、わてはどうしたら……」
「どうしたらて、今迄通りやりなはれ」
「今迄通り?」
「そや。あんた、こいさんに弟やと言うてもろたやないか。そのつもりでやったら、とうさんにかて、若旦さんにかて分って貰える」
「けど、お二人とももう居てはらへんのだす」
「居てはらへんさかい、余計にあんたがやらんと、どうするのや。けど、あんた決して主人やと思たらいけまへんで。成田屋の御主人は、あくまで若旦さんだす。あんたは、若旦さんの代理としてのれん立て直すんだす。のれん立ち直って昔の成田屋になって、主人がまだ自分や分ったら、若旦さんも帰らはらんと仕様がないやろ」
「ほな、とうさんは……」
「守るんだす。世間知らずのとうさんや。この世の中へ出て、おいそれとお金はもうけられしまへん。守って守って守り抜くんだす」
秀松は、母親の言葉をかみしめるようにうなずいた。
そして、また母親をうかがうような目付きで、聞いた。
「それまで、一緒に住んでくれはらしまへんのか」
「それが約束やろ……」
「お母はん、お願いだす。わてと一緒に住んどくれやす。わて一生懸命働きます。そやよって……」
堰《せき》を切ったようにたのみこむ秀松に、お絹はかぶせるように言った。
「あきまへん。今一緒に暮したら、あんたがお二人を追い出したことになります。とにかく、やるんだす、一人で。わては、それまで待ってます。それよりも、お客に応対する商人が、どんなことがあっても、顔に怪我するようではあきまへんで」
秀松は唇をかみしめた。
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意  地
糸子は、目と鼻の三つ寺筋の「つた家」と言う置屋兼お茶屋の茶の間で、この家の娘の美代と向かいあっていた。
「何やて、糸ちゃん、芸妓になりたいのやて」
「ええ」
「あんた|てんごう《ヽヽヽヽ》言うてるのやろ」
「|てんごう《ヽヽヽヽ》で、こうやって荷物まとめて、持って出て来てへん。お金を造りたいのや。何とかあんたのお母はんにたのんで見てくれへん?」
美代は、糸子とは女学校時代の親友であった。
だが、卒業後、交際していなかったのは、美代が卒業後、芸妓に出たことからだった。
そして、八年振りに逢った今、ハイカラ芸妓、インテリ芸妓と、ミナミの名物にまでなっている美代は、体から色香が漂い、喋り方一つにしても、いとはんの糸子とはまるで大人と子供のような違いがあった。
その美代は、冗談と思えない糸子の態度に、長火鉢のふちにぽーんと煙管《きせる》を叩いて灰を落すと、
「一寸待って。お母はん呼んでくるわ」
と、奥へ消えた。
糸子は、覚悟の上のことながら、そんな美代を見送り、
(くるべきとこへ、とうとう来てしもた)
と、不安とも悲しみともつかぬ思いが胸に押しよせてくるのをおぼえた。
糸子が芸妓になろうと決心したのは、昨夕のうちだった。
糸子は、いきどおりを感じたのだ。船場の成田屋というのれんのある家に生れながら、てかけの子に助けられねばならなくなった、その不甲斐なさと同時に、そんな安造を作り上げたおひさに対する怒りも面当てもあった。
(うちもお金造ってやる。てかけの子一人に働かしては、わては何の為に本妻の子に生まれたんや)
そして荷物を整理するため、タンスの引出しから着物を出している最中、ふと、美代のことを思い出したのである。女学生時代、
(芸妓屋の子! 父親なしの子!)
と蔭口を叩かれていた美代を、かばった糸子。
(美代ちゃんなら相談にのってくれるやろ)
糸子の女の夢は、漢水堂の息子の清の時に終わっていた。糸子は、家を出ると、三つ寺筋の美代の家、つた家を訪れたのである。
「待たせたな。今お母はん、髪結いさんに行ってて、やっと探したんや」
美代の後から現われた、大丸まげに結った、一目でお茶屋のおかみとわかる美代の母親のおせきは、それでも、きちんと坐って、女学校時代に美代が世話になった礼をのべてから、じっと糸子の顔を見つめていたが、
「あんさん、そのこと御寮さんやお家の方、承知で来やはったんだすやろな」
と静かに聞いた。
「うち、家を出て来たんです。お金がいるんだす」
「どう言うわけか知りまへんけど、成田屋はんのいとはんが芸妓に出はったら、お亡くなりにならはった旦はんが、草葉のかげでお泣きやすやろ。わても芸妓時代、あんさんのお父はんにお座敷でお逢いしました。そら立派なお方だした。そのお父はんのお人柄汚すようなことやらはったら、親不孝になりますで」
糸子の目が光った。
「けどおばさん。その父の子供が、成田屋ののれんを降ろすようなことをして、おてかけはんの子にたよらないかんようになったら、余計親不孝だすやろ」
おせきの目はいぶかしげに糸子を見た。
「それは、どう言うわけだす」
糸子は、かつて誰にも話したことのないおひさのことまで、おせきにすべてを話した。話の途中で美代はもらい泣きしたが、おせきは不思議にも、その話はすっかり知っていると言う風だった。
糸子はおせきに必死に頼んだ。
「お願いだす。てかけの子が店継いで成田屋をやる。本妻の子のうちがだまって見てられへんのだす。それなら店を手伝えと言わはるかも知れません。けど、一緒に出来まへん。うちは外でひとりでお金造りたいんだす」
傍から、美代も口を添えた。
「お母はん、やらしたげて。糸ちゃん、女学校時分から踊りもうまかったし、三味線かて弾ける。そらお座敷では無理やろけど、うちが面倒見る。いつも一緒にいて、ちゃんとやって行く。お願い」
「そんなら、やって見なはれ」
「えっ、やらせてくれはりますのか」
糸子は、おせきの前へ手をついた。
「言うときますけど、その代り芸妓はつろおすで」
「覚悟してます。どうぞよろしゅうお願いします」
きちんと両手をつく糸子に、おせきは内心、
(このひとが芸妓になったら、勝気なええ芸妓はんになれるやろ)
そうつぶやいた。
おせきは、立ち上がると、桐のタンスの引出しから、手の切れるような十円紙幣を二十枚、糸子の前へ出した。
「二百円おます。これは俗に言う芸妓はんの支度料だす。このお金はあんさんがお座敷で働いて返さはるんだす。けど、まだまだお座敷には出せしまへん。芸妓はんとして役に立ついろんなこと、これから仕込みます。よろしいな」
糸子は、うなずいた。そして二百円を押し頂いた。
生まれて初めて糸子が自分で手にした金だった。だが糸子は、その二百円が、芸妓に出る女、殊に二十歳を越した糸子の支度金としては、法外な値段であることを知らなかった。
その金は、芸妓に出る金ではなしに、おせきの思いやりの金であった。
その二百円が成田屋へ送られて来たのは、その二日後の昼前だった。書留郵便にして、発送人は糸子の名前、宛名は秀松宛だった。封を切って、
「約束したお金です。お店のことに役立てて下さい。これで二百円、お返ししました」
その手紙に書かれた糸子の達筆の字を読んだとき、秀松の手はわなわなとふるえた。
「どないしたんや」
音松が傍へよって、秀松に聞いた。秀松はその手紙を、音松に見せた。音松も読むと、
「うーむ」
と、うなった。
「な、音松どん。とうさん、どこでこんな大金つくらはったんやろ」
「さあな。おなごが、金つくる言うたらなあ……」
音松は言葉を濁した。秀松も、言われなくてもわかっていた。
当時、女がそんな大金をつくるとなれば、苦界に身を沈めなければならない。
音松は、封の裏を見た。糸子の住所は、書いてなかった。
「なあ、音松どん、こんな大金作れるとこてどこがある?」
「さあ、飛田か今里……」
秀松は、その封書を持つと立ち上がった。
「どこ行くのや!」
「迎えに行ってくる!」
「秀松どん!」
呼んだが、秀松はもう表へ出ていた。音松は、秀松が行っても無駄なことを知っていた。
「音吉はん!」
奥ののれんのくぐりから、富江が顔を出した。富江は、近頃では、
「音松どん」
とは呼ばずに、本名に、はんをつけて呼んでいた。
そして身も心も女房のように、店の手伝いもやっているのだ。
「どないしやはったん。何か心配ごとがおすのんか」
音松の一寸した心の動揺も変化も察する。惚れ抜いた女特有の神経を持つ富江に、音松も、隠してもいつか分ることと、糸子の先刻の二百円の件を話した。
それを聞くと富江は、
「姉さんが……」
と、やにわにがらんとした店の畳に伏せて泣き出した。
秀松が店をやり出して二日目、灯が消えたように客が一日、ほんの四、五人しか来ないのである。
「こいさん!」
泣き伏している富江の背中をさするように、音松が声をかけた。
「今、秀松どんが探しに行ってる。御寮さんにはまだ言わん方がええ」
富江は、うなずいた。
言われなくても、おひさにそれを話したらどうなるか、富江が一番知っていた。
「うちも、これから心当たり探して見ます」
「そうして。わてらには、とうさんの知り合いはさっぱり分らん」
富江は、涙を拭いて立ち上がった。
秀松がしょんぼり帰って来たのは、その夜遅くであった。
「どやった」
と聞くと、
「わかりまへん。一軒ずつ訪ねたけど……しまいには水かけられて」
そう言ってふらふらと腰を下ろした。この秀松の様子では、飯も食べずに探し廻ったに違いない。探しても廓《くるわ》は広いし、雲を掴む話、まして顔中傷だらけの秀松が血眼になって女のことをたずねたら、水ぐらいかけるだろう。
「秀松どん、明日はわてが探そ。それよりあんた、御飯食べなはれ」
とすすめたが、
「もう一回、明日、他の色街たんねて見ます」
とやめようとしなかった。そこへ富江が帰って来た。
「姉ちゃんのいてはるところ分った」
「どこだす」
「三つ寺筋の、つた家はんて家だす」
音松がほっとしたように言った。
「三つ寺筋? あこらやったら芸妓やなあ」
「こいさんおおきに。よう探してくれはりました」
まるで自分の真実の肉親のように喜ぶ秀松に、富江は、意外なことを言った。
「うちが探したん違うのや、あんたのお母はんや!」
「えっ、わてのお母はん」
富江の話によると、富江は、親戚をたずね廻って無駄足となって帰ってくると、成田屋の裏口に立っている女がいる。
「どなただす」
と声をかけると、
「あ、成田屋のこいさんどすな。とうさんが、三つ寺筋の、つた家はんてお茶屋はんにいてはります。秀松に言うとくれやす」
と言ったのである。秀松の母親と分り、
「どうぞ家へ入っとくれやす」
と富江がすすめるのを、逃げるように帰ったと言うのである。
秀松は、知らせてくれた母親に喜んだが、未だに小さくなり、裏口で待っている母親に、秀松と初めて訪ねて来た父の死の日にも、外で待たされていたことが思い出されて、胸が痛かった。
お絹が糸子のことを知ったのは、偶然ではなかった。
おせきが芸妓へ出ていた時から、「重の家」へ出入りして仲居のお絹とは親しかったし、お絹と秀吉の仔細も知っていた。だからこそ、おせきは糸子の打明け話も知っていたのだ。
そのおせきが今日「重の家」へたずねて来て、
「成田屋のとうさんが家出して、芸妓になりたいて来はったので、わてが引きうけましたで」
と言ったので驚いた。
「たのむさかい、断わって。あんたも事情知ってるやろ」
「一旦は断わりましたけど、なみなみならん決心で、断わったら他へも行きかねん。他へ行かせるよりは、わてとこにいたら、ちゃんと見守れるやろ思てな」
おせきの言うことは、もっともだし、内心、糸子がおせきのところへたずねて来たのは不幸中の幸い、と思った。
「おねえさん、心配しなはんな。今はカッとしてはるけど、そのうち熱さめはるやろで、そしたら別に芸妓にささんでもええやろ」
「よろしゅうたのみます」
そのおせきの心情を知って、思わず手を合わせたお絹だが、家出と聞き、一刻も早く心配している成田屋へ知らせねばと思ったのである。
秀松は、富江の前に、例の封書を出した。
「こいさん、お願いだす。とうさんを迎えに行っとくれやす」
富江は、音松を見た。
「そら、こいさんが行ってくれはる方がよろしいおますやろ。角が立たんで」
音松も賛成した。
「ほな、行って来るわ。けど、姉ちゃん帰ってくれはるやろか」
秀松が、力強く言った。
「たのんどくれやす。帰る言わはるまで、どんな事があってもたのんどくれやす」
富江は、うなずいた。
富江が三つ寺筋のつた家を訪れたのは、その夜のうちだった。そう言えば、幼い時、姉の糸子に連れられてここへ来て、帰ってから母親のおひさにこっぴどく叱られたことがある。
「芸妓のうちなんか行ったら、体が腐ってしまう!」
それを聞いてから、つい四、五年前まで、色街を通るときは、わざと遠廻りをしたり、どうしても通らねばならないときは、鼻と口を押えて息を殺して通ったものだ。
音松と、たった一度だけ体の関係が出来てからもうそんな事は気にしなくなったが、まだ心の底には、水商売を恐れている気持があるのか、そんな世界に自分から飛びこもうとする姉の糸子の強さに感心する富江だった。
つた家と書いてある店の表格子を開けると、富江はおそるおそる、
「ごめんやす」
と声をかけた。
「成田屋の富江言いますけど、うちの姉がおうかがいしてると聞いたんで、たんねて来たんだす」
「一寸待っとくれやす」
やがて、ヨシズをはめこんだ障子の向うから、見覚えのある糸子の着物がゆれた。
「姉ちゃん!」
「こいさん、何しに来たんや!」
立ったまま、怒ったように言う糸子に、富江はもう泣けて来た。
「うち、迎えに来たんや。お金もそのまま持って来た。早ううちと一緒に帰って」
「こいさん。うちは遊びに来てるんやないのやで、働きに来てるんやで」
「聞いたわ。姉ちゃんが芸妓に出はるて、皆心配してるのや」
「皆? 誰や」
「秀松どんや……音吉はんも」
「こいさん、うちはな、その秀松が成田屋の跡をやるて決まったさかい、家を出たんや。あんたにはわからへんやろが、秀松が一人働いている顔見てたら、たまらんのや。うちが自分で帰るまで、誰が迎えに来ても帰らへん。お帰り」
とりつくしまがない。糸子と富江には、考え方にもかなりの差があった。
「たのむさかい一緒に帰って」
後は泣いてたのむ富江に、糸子はどうしても首をたてにふらなかったし、
「うちは、子供と違うのや。二度と来んといて」
追い出されるように、しょんぼりと表へ出た富江を見て、黒い影が近付いた。富江は、それが音松だと知ると、近寄り、胸に顔を押しあてて泣いた。
「どないしたんや」
富江が、泣きながら糸子の言葉を伝えると、音松は、
「そうだしたか。やっぱり、あのひとは違うなあ」
と、むしろ糸子を賞めるような口調で呟くのに、富江は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「いや、わしは、とうさんが、秀松どんが主人になったからカッと来て、自暴糞《やけくそ》で身い落したれとでも思わはったやないかと心配したんやけど、そうでもないらしいので安心したんや」
「何でそんなことわかるの?」
「一時の思いなら、あんたが迎えに行ったら帰って来はる、世間知らずのとうさんが居られる世界ではないよってに。それやのに、あんたを追い帰したということは、やはり動かん決心と見てよろしいやろ。あのひとは、自分で決めたことはやり通さはる。あんたのお父さんの血を享《う》け継いではるんだす。人の反対も聞かはらんだけ、自分で目を持ってはる。放っておいても間違いない」
「そうかも知れまへん」
富江は、音松が、迎えに行って果たせなかったことに単に慰めを言っているのではないことを知っていた。そしてその後は、二人はむっつり唖のように歩いた。二人の心は分っていた。そのことを秀松にどう言ってよいか、迷っていたのである。だが事実を話さねばならなかった。成田屋へ着くと案の定、秀松は店で一人、そろばんをいれていたが、帰って来たのが音松と富江の二人きりだと知ると、肩を落した。
「とうさんは帰って来やはらへんそうや。こいさんが頼まはっても、あかんかったそうや」
「そうですか……」
秀松の痩せた肩は、またがっくりと落ちた。
「このお金、返しときます」
富江は秀松に、二百円を差し出した。秀松は、
「いえ、いけまへん。このお金は、とうさんのお金だす。そのまま預かっとくなはれ」
「ううん。姉ちゃん、商売に役に立てて貰おとつくったお金やろ。秀松どんが使て」
「いいえ。商いのお金は、わてがつくります。とうさんにこんなことしてもろたら、わてがなんのために若旦さんの代りに店やるのか分りまへん。そのお金は、とうさんがお帰りになるまで、そのまま持ってとくれやす」
秀松が初めて見せたはげしい言葉だった。秀松にも、てかけの子としての闘志が湧いていたのかも知れなかった。
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|ス《ヽ》 |テ《ヽ》 |ト《ヽ》 |コ《ヽ》
それから二カ月たって、糸子は、糸菊という名でつた家から芸妓に出ることに決まった。
つた家のおかみも、芸妓時代の友達のお絹からたのまれている手前、本当に芸妓に出すことは迷ったが、本人が成田屋へ帰らぬ決心である以上仕方がなかった。と言って、お絹は、面と向かって糸子に逢える身の上でもなかった。
秀松もあきらめたわけではなかった。
九月に入って間もない頃、秀松は、つた家へ稽古から帰る糸子を、太左衛門橋で待った。糸子は何とか水商売の女に見せようと、美代の着物を借り、粋《いき》な歩き方さえ真似しようとしているのだが、その中にはまだ素人っぽさが残っている──そんな姿で通りかかった。
「とうさん!」
糸子は秀松をちらっと見て、行き過ぎようとした。
「待っとくれやす! お願いだす! 店へ帰っとくれやす」
後から追いかけて来る秀松に、初めて足を止めた糸子は、
「あんた、何でうちを成田屋へ帰そうとするのや!」
「皆さん心配しておいでだす」
「皆? お母はんは、うちがいんでもいても一緒やろし、こいさんは、逢うてわけは話した。他に心配するもんあれへん」
「死なはった旦さんだす。とうさん、芸妓に出たて聞かはったら、あの世でどんだけ泣かはりますやろ」
「死んだお父ちゃんが……」
糸子の目には、皮肉な笑いが浮かんだ。
「芸妓、芸妓って言うけど、あんたのお母さんも水商売してはったんやろ。お父ちゃん、そのひとが好きであんたが生まれたんや。そんなこと言いに来るひまがあったら、店のことしたらどうや。この頃成田屋だんだん悪なってるいうやないか」
秀松は、いきなり脳天をなぐられたような衝撃をうけて、去って行く糸子の後姿をぼんやり見送った。
全くこの頃の成田屋は、目に見えて商いが減って行った。
(成田屋のてかけの子は土性っ骨がある。ええ商人になりよるで)
船場の目は、秀松に向いたが、商いとなれば同情はなかった。殊に、信用を失くした店とは、高ければ売る、安ければ買う。しかも、それがある一定の年月つづかなければ、相手にしない。
その点、成田屋の信用状態は最悪だった。
〈船場の太閤さんと言われた秀吉が死んでから、おひさの奉公人との浮気、安造の道楽──駈け落ち、更には糸子の家出、てかけの子の仮の旦那──〉
これで信用を保てと言うのが不思議だった。殊に呉服物は、売りを急ぐ商売だ。在庫がたまれば時期を外す。返品のおそれもあれば、支払いも遅い。そんな店へ品物を卸す業者はいない。すべて仕入れは現金となる。買う方でも、その裏が見えてるから、値を叩いて買う。これでは利益が上がらないのは当然である。
「音松どん。どないしょ」
夜十時、やっとやりくり算段の帳合いをすませて、すがるように音松を見る秀松は、疲れで目のふちに黒いくまを見せている。
疲れは音松も一緒だ。
「悪いなあ。この分やと、ほんまのジリ貧や。何ぞ商い変えるより他に手はないなあ」
「商いを変える」
「うん、思い切って他の品もん商うのや」
「他の品物をですか」
「ああ、この成田屋は、以前は袋物問屋やったんや。それを死にはった旦はんが呉服もんに切り変えて店が栄えた、と聞いてる」
秀松も、それは聞いていた。父の見る目が店を救った、と今でも船場では、古い人の語り草になっている。それ程商売を変えて成功した例が少なかったからである。
秀松は、じっと考えた。
「そいで、変えるて何やりますねん」
「さあ……そこまでは考えてへん。けど、あんたがその気なら、まじめに考えて見よか」
秀松はうなずいた。
台所から、富江が茶を入れて来た。女中も暇をとり、今は、富江が女中がわりをしている。おひさに、富江、秀松と音松の四人世帯だけだったが、慣れない台所仕事は疲れた。その富江の願いは、音松と晴れて夫婦になることだが、この店の状態では式を挙げることも出来ない。それが富江には不服だった。それでなくても、あの日、秀松に梅田駅から連れ戻されて、おひさが結婚の宥しを与えてくれた後でも、一度だってまだ手さえ握ってくれない音松だ。そんな機会があって、うるんだ眼で音松を見ると、まるで避けるみたいに、
「こんな店の具合で……秀松どんに悪うおます」
とたしなめられる始末である。
(これやったら、あのまま駈け落ちした方がよかったんと違うやろか。今頃は、すっかりお嫁さんになれてるやろに)
富江は、あの物干台で体の隅々まで走った痛みを思い出して、全身をカッとほてらせる。
それでいて音松に触れて貰いたいのは、一度処女を捨てた女の本能であろうか。
茶をさし出す富江に、せめて遠慮をしようというつもりか、秀松は、
「ほな、お先に休ませて貰います」
と富江に挨拶をして下駄をはいた。
秀松は近頃、商品の番を兼ねて、蔵の二階に住んでいるのだ。
「ほな、わても休むわ」
秀松に聞こえるように音松は言うと、帳面をもって、母屋の二階に上がっていった。
「待って!」
いつもは、こんなとき、決まったように、おひさがのれんから顔を出し、
「富江、頼むさかい、早う離れへ来て足をさすって!」
と呼び戻され、リュウマチの足をさすりながら母親のぐちを聞かされるのが、毎晩の行事だった。
だが、今夜は違った。母親のおひさは、昼間買って来てやったいつもと違う薬が効いたのか、ぐっすり寝こんでいる。
富江は、そっと階段の上がり口まで行った。
その二階の、奉公人の部屋に音松が寝ているのである。富江は一段、一段、音をたてないようにあがって行った。
部屋では、音松がふとんを敷き終わり、そのふとんの上へ坐って、まだ着物も着かえずに帳面を見て考えている。
きっと新しい商いの事を考えているに違いない。
富江は、そっと部屋へ入った。
「こいさん!」
音松は、おどろいたように顔をあげた。
富江は、音松の横にすがるように坐った。
「あきまへん。下へ降りはらんと、御寮さんが」
「お母ちゃん、よう寝てはる」
「けど……」
「いや。あんた、この頃人が変わったみたい」
「そんなことおまへん。おまへんけど、それどこやないんだす、この頃の店の具合……」
「もういや!」
富江は、自分でも驚く程の積極性を見せて、音松の体に武者振りついていたのである。
音松の仕事で疲れ切った神経は、それだけ体を昂ぶらせるのにも敏感だった。
音松は、抑えることも出来ずに、富江を荒々しく抱きしめた。
富江の、幸福を現わす溜息が、ふさがれた唇の隙間から洩れた。
ふと涼しい風が、音松の頬をなぜた。障子が開いているのである。
音松はあわてて灯を消した。暗い闇が、灯りの代りに二人を燃えさせた。
音松の指は、処女と変わらない富江の乳房へ、襟元からすべりこんだ。
富江は、体を硬くして男のなすがままに息を吐いた。思えば、この三年間、ただの二回目の交わりだった。あの時は、不安ながらも、音松の心を掴みたい一心で男に身を委せた富江だが、今度は、その掴んだ心を確かめて安心したいというゆとりがあった。だから、音松の指がわが肌に触れた時も、歓びらしいものが体を走り、音松の体がおのれの体へ踏み入ったときも、苦痛に一瞬身をよじらせはしたが、しがみつきながら、その苦痛を貴重なものとして、歪めたくなる顔を必死にこらえていた。
そんな富江のいじらしさが通じたのか、
「こいさん、好きだす。ほんまに好きだす」
音松は、富江の体を人形でも扱うように優しくいつまでも抱いていた。
その翌朝、音松が目をさますと、朝陽が頭の近くまでさしこんでいた。
(いかん、寝過ぎた!)
飛びおきた音松が、階段を降りると、秀松が店を掃除していた。
「秀松どん、すまん、ついな……」
秀松の目をそらすように音松は言った。
「かましまへん。まだ早うおます。わては、昨夜寝られまへんかったんで」
音松は、昨夜のことを見られたのではないかと思って、ギクリとした。
「商い変えること考えてたんです。何がええやろか思て、袋物、小物、白生地……考えても、パッとしまへん。けど、わての心の中にはひっかかるもんがあるんだす」
「ひっかかるもんて……」
「昨夜、商いもん変えるて音松どんから聞いたとき、思い出したことがあるんだす。小さいとき、何か見て、わてこれで大きいなったら商いしたろと思たもんがあるんだす。それがどうにも思い出せしまへんのや!」
そこまで言ったとき、開けたばかりの大戸からうすぎたない一人の男が入って来た。
その男が、成田屋の運命を大きく変える男であった。
「成田屋さんてえのはこちらかね」
「成田屋だすけど、どちらはんで」
音松が聞いた。
「この店に、秀松って丁稚がいるかね」
「へえ、わてですけど」
「おお、お前だ……お前だよ! そら、忘れたかい」
と、さも懐かしそうに近寄った。
秀松は、けげんそうに、その男の顔から爪先まで見ていたが、やがて男の股引きに目を止めると、初めて分ったように、
「ああ、あの時の屋台そばのおじさん!」
と、これも懐かしそうに進み寄って、
「その節は、お世話になってありがとうさんだした」
と礼を言い、変な顔をして見ている音松に、
「音松どん、いつかわてが、堺へ集金に行くときに、うどんを信用貸しにしてくれはったおじさんだす」
と説明した。作造は、それを聞いて、
「いや、そこまでおぼえててくれたとは、うれしいねえ。いや、昨夕キタまで商売に出てなあ、とうとう夜を明かしちまったんだが、屋台の車輪の具合がおかしいんで、どこか車を預かって貰おうと思って、ふとここ通ったら、のれんを見て思いだしてなあ、寄って見たんだ」
「そうだすか。お安い御用だす。まあ、坐っとくれやす。おぶでも淹《い》れまっさかい」
秀松は、台所へ引き返した。その後姿を見送った作造は、音松に、
「あの時は、まだ子供だったが、大きくなったもんだ。もう番頭にでも出世したのかね」
と聞いた。音松は、答えた。
「いえ、あの秀松どんは、この店の旦那さんだすわ」
それを聞いて、作造はうめいた。
「何だって、旦那? あの子は、見こみがある、出世するって思っていたが、丁稚から一足飛びに旦那とは、恐れ入ったぜ!」
そのときだった。茶をとりに行った筈の秀松が、目の色を変えてとんで来た。
「音松どん、思い出した!」
「何がや、秀松どん」
「商売変えしよて話が出たとき、わてが小っちゃいとき、これやったろと思てた商い、それがこのおじさんのことやったんや」
「何やて……このおじさんの? あんたまさか、屋台そばやるちゅうの、違うやろな」
「まさか。おじさん、すんまへんけど立っとくれやす」
秀松にそう言われて、作造は立ち上がった。
「音松どん、見て見い!」
秀松が指をさしたそれは、作造の股引きだった。しかも、その股引きは、紐をくくる部分が付いていない。
「破れた股引き」
音松は、不思議そうに秀松を見た。
「そや、この前も、このおじさん、破れた股引き、はいてはったんや。それで何やて聞いたら、この方が風通しがええて言わはりましたな」
作造は、思い出したように、
「そうだったよ。紐をしめると、屋台を引っ張っているし、どうも蒸れて困るんで、わざと破ったんだが、なかなかどうして、これをやると、やめられねえよ」
「音松どん、わて、それ聞いて、紐のない、先の短い股引き造ったらどないやろ、と思たんや」
「先の短い股引きなあ」
「うん。そうしたら着物の下でもはけるし、流行ってる洋服の下でもはけるやろ。どうや」
音松は、ふと、昨夕暗がりの部屋の中で抱いた富江の体の上で、股引きのとれなかった不自由さを思い出して苦笑したが、成程と思った。
「ええやろ。幸い、うちに白生地がある。あれでさっそく造らせて見よ」
「それで、一軒ずつ小売屋はんへ廻りまひょ。こうなったら、担ぎ呉服の一からやりなおしだす」
「そや、雨降って地固まる。一から出直しや!」
音松と秀松の力強い会話に、江戸っ子の作造もつられた。
「うれしいねえ。その若さで、雨降って地固まるとは。もし何だったら、おれも手伝わしてくれねえか。いい加減、そばは止めたかったのだ。幸い屋台車がある。配達ぐらいはさせて貰うぜ」
秀松は、大きくうなずいた。
「やっとくれやす。一人でも手がほしいんだす。その代り当分は手弁当で」
「バカ言っちゃいけねえ、おれは手そばだ」
作造は、どこへ行くのかあわてて外へ出た。出たと思うと引っ返してきた。
「そうだった。この近くに車屋はねえかね……」
作造は、車大工の家を聞き、またあわてて出て行った。そのあわてた姿に、音松と秀松は楽しそうに笑った。こんな楽しそうな二人の笑いは、かつて見られたことはなかった。
試作品は、五日後に出来た。その試作品を、秀松、音松、作造の三人は、はいて見た。針を持つのに不慣れな富江の手で、綿布は股引きと変わらなかったが、ただ足の方が、一尺程短かった。
「どうだす?」
股引きを見本に、五日間を費やして造った富江の目も、輝いていた。
「こら、涼しいおます。まるで足から風邪ひくみたいや」
秀松の言葉に、皆が笑った。
「けどな。足の割りに、腰のあたりが、ゴツゴツしてへんかな」
音松が、発言した。成程、股引きと一緒だから、足を通して、前掛けのように、後の割れ目をヒモで腹にまきつける。
「いっそのこと、ズボンみたいにしてしもたらどないだすやろ」
秀松が、提案した。
「ズボンなあ。けど、ズボンの下に、ズボンはいてたら、よけいゴッツクのと違うやろか」
「生地をうすうするんだす、晒《さらし》か何かで」
「晒なあ……。安っぽないか」
「けど、生地より肌ざわりがよろしおますで」
「うん、肌ざわりが一番だ!」
今迄だまっていた作造がのりだした。
「肌ざわりから言うと、絹や羽二重もあってよろしいなあ」
「うん、ちりめんは金持が買うかも知れん」
一つの方向が決まれば、考えは考えを生む。そんな要素のある物は、又可能性のある証拠である。
「それに、ハイカラなもんじゃねえと売れねえよ」
「ほな、もう一ぺん、ズボン見ながら、造ってみます」
「言っとくがね。前はちゃんと開けといてもらわないとね、小便するとき不自由だよ」
「いやなおひと!」
手をあげて打つマネをした富江に、妙に色気があった。
第二の試作品が出来たのは、それから十日たった後だった。
「ええやないか! これならいけるで」
音松は、秀松の肩を叩いた。
「うむ、ハイカラだ!」
作造も、感心した。富江は、ほっと息をついた。考えれば、針一つ持たなかった富江が、音松を愛するがための努力である。
「商品が出来たとしたら、今度は名前をつけないけないね」
「うむ。改良股引きてどうやろ」
音松が言い出した。
「感心しないね」
江戸っ子の作造は、ハッキリ物を言う。秀松は、作造がはいていた試作品から出ている足を見て、
「今までの股引きから、これだけ短こうなったんや。ここから先は、捨てとこ、ステトコてどうやろ」
「うーむ、ステトコ、舶来語に聞こえるぜ」
『ステトコ』
商品名は決まった。後は、いかに売るかということだった。
成田屋が、呉服問屋をやめて、股引きに似たステトコなる下ばき屋をやると言うことを聞いたおひさは、目まいを感じた。夫秀吉が袋物問屋をやめて、田舎用の呉服をやり出した時以上の格落ちを感じたからである。
真っ先に反対したのは、おひさであった。
「店でそんなん売るんやったら、成田屋ののれん降ろしてしもて、そして他の名前であんたが他でやって。そんなことで成田屋が立ち直っても誰が喜ぶ!」
秀松は、後見人でもある糸茂に相談に行った。糸茂は、下ばき問屋に変わることについては一言の反対もしなかった。
「商いというのは、扱う品物で格を言うんやない。たとえ下ばきでも、世の中にのうてはならんもん。それを、とやかく言って、誰も扱わんかったら、世の中の男、ふんどしばっかりになる。どんな品物でも世の中へ廻す役目をするのが商いで、格は商いのやり方で生れるものや」
そう言って、反対するおひさにも、わざわざ出向いて行って、
「あんた、秀松にこののれんまかしたんなら、とことんまかしなはれ」
と、例によって鋭い目でぎょろりと睨んだのである。
糸茂は、そう言ってくれたが、船場の評判はかんばしくなかった。
(やっぱりてかけの子や、下専門になりよった)
とか、
(成田屋ののれんもって、呉服もんであかんのに、げてもんの下ばきが何で売れる)
当時の船場の繊維関係では、やはり、糸問屋とか呉服問屋が花と見なされていたのである。
だが、秀松はそんなことには屈しなかった。格は商品で決まるんやない。まず売ることや。
金をまず作ること。金のなさを痛い程痛感していた秀松であった。
それから、毎夜のごとく、ステトコの販売方法が検討された。
「越中富山で行きまひょ」
「越中富山?」
「へえ。越中富山の薬売りのやり方で行くんだす」
越中富山の薬売りのやり方とは、品物を先置きして、次に廻るときに、使ってある分だけ金を受けとるという方法である。秀松がそれに目をつけたのは、ステトコを小売店に持って廻っても、現金引換えでとってくれるとは思えないし、とったところで僅かであろう。それならいっそ品物をどっさり置いて、金は売れたとこ払いにして、消費者の目につくようにした方がいいと考えたのである。これはある程度の冒険であった。だが、今日のようにPRの媒体機関もない当時、まずステトコという名前を認知させるためにも必要だと信じたのである。
その為には、原価を少しでも安くする為、製造もやることを考えた。
成田屋の二階が、その工場になった。
かくして、富江の監督のもとに、お針子さんを集めて縫われた第一回の『ステトコ』が発売された。
発売当日、船場中の人間がおどろいた。船場の道を、秀松、音松、作造の三人を先頭に三十人もの男が着物をはし折り、ステトコをちらつかせて歩くのである。この三十人の男たちは、第一次世界大戦後の不景気のあおりを食った失業者たちが、一日二十銭でやとわれたのである。
これが開店第一日目のデモンストレーションであった。このデモンストレーションの三十人の男は、船場のみならず、道頓堀、梅田、今里、飛田、松島、築港、住吉と、盛り場という盛り場をこの姿で歩いた。
このありさまを「浪花《なにわ》新報」がまずとりあげた。
『近頃、ステトコと称する下袴が生まれたり。股引きに似て股引にあらず。洋服の下にも履ける改良股引なれど、太鼓持ちの股引きに似て、夏場はげに涼しきものなりと思う』
勿論、発売第一日目から、秀松、音松、作造の三人が、一日百枚ずつのステトコを持って小売店を廻った。
「こんな怪体《けつたい》なもん、はく人がおますかいな」
小売店は、なかなか受けつけてはくれなかった。そんな店があると、翌日、昨日販売に廻った以外の二人が、ブラリと店へ入り、
「ステトコ、おまへんやろか」
と来るのである。そして翌日、また売りに行くという方法を使った。
このように、ステトコは徐々ながら小売店の店頭をかざって行った。金が、売れ後払いという秀松の商法も役に立った。
春が過ぎて初夏が来た。大阪の町は早くも暑い日差しが照りつけた。その頃になって、人々は涼しそうなステトコに関心を持ち始めたのか、急に売上げが増えて来た。
「秀松どん、売れだしたで!」
音松と秀松は、夜閉店してからの帳合いがたのしみになって来た。それが流行となったのは、もののひと月もしないうちだった。この理由には、時代の背景もあった。
第一次世界大戦によって戦勝国となった日本は、近代的な資本主義国家へと進んでいた矢先で、文学でも自然主義、合理主義が流行し、労働問題も活発化し、生活にも合理主義が徐々に浸透して来た時代である。と同時に、ハイカラな物に対しては、遅れてはならじと飛びつく混乱時でもあった。ステトコは、そんな二つの流れに乗ったのである。ハイカラな股引きでもあり、その上に、一人がはいて、いいといえば、それとばかり小売店へ求めに行く。初めはそっぽを向いていた小売店も、逆に「ステトコ」を競って仕入れるようになり出したし、売りにばかり廻っていた成田屋の店へも、仕入れ客が現われるようになって来た。
製造の方も、十人のお針子が、三十人に増え、またたく間にその売上げは、初期より五十倍も上廻った。よかったことには、股引きとステトコの値段をそう変えずに売ったことで、短くなった部分だけ純益が増える。
音松は、店を出ずに、仕入れ客の注文にあたり、作造が配達をうけもち、秀松は、相変わらず、外売りに廻っていた。何しろ大阪の雑貨小売店は、千軒以上もあり、一日二十軒廻っても、五十日はかかる。
「秀松どん、もっと人増やしたら、もっと売上げが増えるのと違うやろうか」
音松は、そんな秀松に相談した。
「そら売上げはふえますやろ。けどお針子はんは一枚縫うていくらですむけど、奉公人は月々の手当てがいります。夏の間はよろしいけど、冬場に入ったら売れ行きは止まりますやろ。今の間にお金貯めて、冬場の商品考えんとあきまへんやろ」
成程、ステトコは、夏場のものである。
「そんなら、あんたが店へ坐りなはれ。わてが売りに廻りまひょ」
そうすすめられても、秀松が代わろうとはしなかったのは、
「大阪中、歩いてたら、きっと若旦那さんが見つかるに違いない」
そう思っていたのである。
夏が過ぎ、秋に入った。『ステトコ』は、いつの間にか『ステテコ』と呼ばれ、市民の必需品となって愛された。そして成田屋はこの五カ月の間に、実に、三千円もの純益を残したのである。秀松は音松と相談して、冬場の商品である冬場のステトコを考案し、試作品を造る一方、成田屋の店先を、従来の船場風な土間、上がり框、帳場という建て方を改良し、板間にして、当世流行のテーブルと椅子を置いた。
(店は、商人のステトコや。洗濯せんと、じじむそうに見られる)
金をかけて直したのはそのせいだが、だと言って、自分が寝ている蔵の二階や、母屋は直そうとしなかった。ただ、おひさの住む離れだけは、畳をかえ、襖《ふすま》を新しくした。
最初、あれだけ反対したおひさも、離れの住み心地がよくなり、それに小遣いもちょいちょい貰え、身の廻りをする女中を一人やとい入れて貰えるころになると、険が消え、近頃は秀松を見てもてれくさそうな笑顔を見せるようになったのは、船場の女としての誇りを維持するよりも、急に安泰になったことで、かえって気力を失い、むしろ平穏さを求める老人の心に入りつつあったのかも知れなかった。秀松は、そんなおひさを見て、
(早いこと、若旦さんや、とうさんが帰ってくれはったらええのんに──)
そう思っても、糸子は、糸菊と称し、宗右衛門町から芸妓に出て、帰ろうとはしなかったし、安造は、未だに行方不明であった。
冬に入った。木枯しの強い日、音松と富江の結婚式が挙げられた。
生国魂神社の式場へ向かう。それだけは秀松が金を惜しまなかった。白無垢《しろむく》の花嫁衣裳を着た富江を見て、おひさは、涙を流した。
「お母はん、何で泣くのや。同じ家に住むし、どこへも行かへん」
母親の意外な涙を見て、富江は、不思議そうに問うた。
「お前が、そんな姿で、お嫁入り出来るて……うれしいて、うれしいて」
めっきり気が弱くなったおひさの手を、富江がしっかり握った。
「秀松どんのおかげや。お母はん、秀松どんにお礼言うて」
おひさは、狼狽を見せはしたが、すぐに目を伏せてしまい、うなずきはしなかった。
生国魂神社での結婚式の媒酌人の糸茂の大旦那は、老衰して足も悪く、代りに糸茂の若旦那夫婦が、媒酌人として列席した。音松と富江は、幸福そうだった。だが秀松は、式の始まる前、生国魂神社の境内の木々を見ていた。
子供の頃、祖母のおすみや母親のお絹と共に毎日のように来た遊び場所であった。
(あのまま、成田屋へ引き取られなかったら)
子供の頃から何度そう考え、運命のいたずらを呪ったか知れなかった。
そして、心の底にそんな遺言をした父の秀吉や、それを守ろうとした母のお絹の非情さを責める気持もあったことも事実であった。しかし、その気持は今はない。少なくとも、船場でも同じ業種の誰もがやっていぬ自分の考えた商売が、成田屋の商品として売れ行きも伸び、こうして音松や富江を喜ばせる立場に立っていられるようになったことに、気付いているからである。やがて祝言は始まった。出席者も、親戚はほんの僅かだったし、音松の家族や取引先の若干の客や、作造と、十数名の客だったが、来なければならぬ筈の二人の人間の姿がなかった。
消息不明の安造には、知らせるすべもなかったが、知らせた糸子からは、使いのものが祝いの品を届けて来て、
(堅気の商人の嫁になる妹の目出度い席へ、芸妓が出ることは出来まへん。かげながら晴れの姿を見てお祝いさせて貰います)
と伝えて来たのである。
式が済んで、披露宴は、成田屋の座敷で、仕出し屋の簡単な料理で始まった。秀松は、代表して客たちに挨拶した。
「まことにお粗末ではございますけど、これは正式な披露宴ではございまへん」
客たちは、けげんな顔をした。
「ほんまの披露宴は、若旦さん、とうさんのお二人がお戻りになりましてから、きっとやらせて頂きます。どうぞそのおつもりで、お願いいたします」
この本妻の子を立てる秀松の態度には、客は事情を知っているが故に、余計に秀松に哀れさを感じた。それでも席は、はずんだ。その途中だった。客たちの目を見はる出来事が起こった。おひさが、客に酒を注ぎだしたではないか。それも、音松の親に対してもである。かつてのおひさなら、媒酌人や客に酌をしても、婿とはいえ奉公人の親に酌をすることなど、想像も出来なかったことであった。そしてである。おひさは、客を廻った最後に秀松の前へ坐った。人々は、固唾《かたず》を呑んで見守った。すると、おひさは徳利をさしだしたではないか。
「御寮さん、勿体《もつたい》のうおます」
秀松はあわてて辞退した。すると、秀松の手に無理矢理盃をもたせると、跡切《とぎ》れ跡切れにこう言った。
「秀松どん……。今日のことは、富江の親代りになってようしてくれた。その代りにな、……その代りあんたのお嫁さん、わてなあ、わてが親代りになって、きっと見つけたげる」
秀松の目に、見る見るうちに涙があふれた。
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「糸菊はん、お花や。重の家はんへ行ってんか」
「重の家はんへ?」
糸菊という名で、芸妓になった糸子は、重の家と聞いて気が重くなった。まだまだ慣れない芸妓であるが、芸妓にはうってつけの日本髪の似合う瓜実顔《うりざねがお》の美しさと、船場のいとはんあがりという興味も手伝って、座敷はよくついた。そしてその大半の座敷は、秀松の母親のお絹が住込み女中として働いている重の家であった。初めて、美代の美代菊と座敷に出た日、その座敷も重の家で、糸子はそこで初めてお絹と逢った。
客が来る間に待つ台所の横の控えの間で、火鉢に炭をつぎに来たのがお絹と知ると、糸子は、
「あッ、あんさん」
思わず声を出した。
「へえ、秀松の母親でございます。御無沙汰いたして居ります」
お絹が驚きもせず挨拶をすると、美代菊が横から、
「このひと、まだ慣れはらへんので、よろしゅうたのみます」
「へえ。こっちこそよろしゅうに」
したり顔でいるお絹を見て、糸子はわけの分らぬ怒りがこみあげた。
てかけのために、店がつぶれ、本妻の子が苦労する──これならよくある例だが、成田屋の場合は、違った。てかけが本妻よりよく出来て、そのてかけの子が、本妻の跡とり息子より秀れている。その逆の立場に苦しみを感じて、意地になって芸妓に出ただけに、糸子は、ここでもすべてを承知しているかのようなお絹を見て、腹を立てたのだ。
「あんさんは、ここで何をしといやすのや」
糸子は、何かきっかけを造るように聞いた。
「へえ、住みこみの下働きをやらせて頂いとります」
「へえ、秀松どんは、いま成田屋の御主人ですやろ。旦さんのお母はんが下働きやってては、息子さんの顔つぶすの違いますか」
やっときっかけをつかめたように言う糸子に、
「めっそうな。成田屋のご主人は、若旦さんだす。秀松は、ただ若旦さんのお留守の間、代りをやらせて頂いてるだけだす。とうさんこそ、芸妓はんにお出やしたら、亡くなりはりました旦さんが、おなげきだすやろ」
お絹にあべこべに逆襲された糸子も、負けてはいなかった。
「芸妓が、何でいけまへん。あんさんかて仲居に出てはったやおまへんか」
お絹の顔が少し歪むと、何も言わずに頭を下げて出て行った。糸子は、まだ若さの衰えない美しいお絹を見て、父が魅了されたのは当然だと思いながらも、不快さを感じた。
糸子とお絹の出会いは、こんな様子だったが、その後、重の家へ呼ばれると、お絹が必ず顔を見せる。その上、座敷の様子をうかがっているような気さえする。それが、糸子にとって何とも気が重かった。
箱屋に帯をしめてもらって、表へ出ると、昼間は感じられなかった寒さが、冬の入りを感じさせる。三つ寺筋を南へまがって、ふと糸子は立ち止まった。いつも通るこの道の雑貨屋の表に、
『新入荷、※[#○に「成」]冬物ステトコ』と紙がはりつけられてあったからであった。
糸子は、成田屋の※[#○に「成」]の印に、何となく愛着を感じたが、その愛着はすぐ消えた。
この夏、ステトコが流行し、成田屋が売り出していることを知った。
同時に、それがかなりの売れ行きをしめしていることも、座敷の客からそれとなく聞いた。そのうち、何度となく、成田屋から、芸妓をやめて帰ってくれ、と富江を通じて言って来た。だが首をたてにふらなかった。
(てかけの子が、成田屋を立て直している。本妻の子の一人位、お金かせがんと、本妻の子の恥。何でおめおめ帰れる)
だが、その秀松が早くも次の手を打って、冬物を始めているのを知ると、
(あれが安ぼんであってくれたら……)
歩きながら糸子は、行方不明の安造に、また腹が立つ。
重の家の二階の座敷へ入ると、
「待ってました!」
と声がかかった。客は、このところ、ずうっと糸子を呼んでいる築港の造船屋山口であった。四十を越したばかりの精力的な男で、荒い縞のぞろりとした着物に、時計の金ぐさりを一本、亀甲《きつこう》の帯からちらりとのぞかせていた。──服装は勿論、その当時の造船成金、元は船大工か何かであろう。成上がり者の一人であった。
座敷は、山口をふくめて取巻き連と三人、かなり酒は廻っているらしく、山口は立ち上がり、糸子の腕をとり、
「わいの横に坐り、早う坐り」
と引っ張った。
「へえ、へえ、横でもたてでも坐りまっせ」
珍しく糸子の口から冗談が出たのは、今夜は、重の家へ入って来てもお絹と逢わなかったせいかも知れなかった。
だが、そのお絹はちゃんと居て、隣りの部屋の片付けものをしながら、その様子を聞いていたのである。
糸子が入って来たとき、茶を宝楽でほうじていた為に手が離せなかったが、糸子が来たことは知っていた。そして二階へ上がって、隣りの座敷で糸子がはしゃいでいるのを聞いて眉をしかめた。糸子の糸菊が重の家の座敷へよく呼ばれるのは、お絹の手配であった。
お絹は、糸子がどうしても芸妓に出ることをやめないと秀松に聞くと、それならば、せいぜい重の家へ呼んでくれとおかみにたのんだのである。置屋のつた家の方は、女主人のおせきがお絹と友だちだからすでに諒解ずみで、話は早かった。
そして、糸子が座敷に出ると、こうして、糸子を見守っているのである。
芸妓は、旦那をとるのがしきたりである。芸妓を世話しようという男は、お茶屋や料亭から置屋へと話が通じる。もし糸子にそんな話が出ても、重の家の座敷へ糸子が現われる以上、安全である。
隣りの座敷は、また騒がしくなった。山口が、
「糸菊、ダンスをしよやないか!」
と、口説いている。その頃、ダンスが流行り出したのだ。
「うち、ダンスなんて知りまへん」
「立って抱き合うてたらええのや」
「やり、やり!」
取巻きの男もさわぐ。手を引っ張られた糸子が、やっと立ち上がったら、やにわに山口が抱きついて来た。
二年前、漢水堂の息子清に抱かれて、唇を交わした、その羞らいのある清純な抱かれ方とはまるで違った不潔さが、処女の糸子の全身に走って、思わず避けようとしたが、山口の手は、糸子の肩を放さない。そして、頬を寄せてくる。糸子が、全身をカッとさせ、思わず山口の体を突き放そうとしたときだった。
「お邪魔します」
障子の外で声がすると、さすがに、山口は糸子の体を放し、糸子が救われたように、
「何だす」
と、障子を開けると、外に坐っていたのは、お絹だった。
「あの、下へ、つた家はんからお使いの方が」
「そうだすか……ヤーさん、一寸ごめんやす」
糸子は、階下へ降りた。
「すんまへん。使いてどこだすやろ」
酒の燗をしていた仲居のお君が、変な顔をして、
「さあ、誰も来てへんけど」
そう言って、徳利をもって出て行くと、お絹が後から入って来た。
「出過ぎたまねしてすんまへん。あんまり、とうさんがお困りやもんで、もし何やったらこのまま、お座敷お断わりになっても……わてからおかみさんには……」
糸子は、怒りを感じた。
「あんさん、お座敷のぞいてはったんだすか」
「のぞいたわけやおまへん。廊下通りましたら」
「あんさん、どうぞ、うちのことは放っといてくれやす」
「けど……」
「言うときますけど、うちは芸妓だす。お座敷でいやな事があっても、困っても、うちが辛抱します。そのうち、ええ旦那はんでも、持と思てますのやさかい、邪魔せんといておくれやす」
お絹の顔は青くなった。
「とうはん。お願いだす、そんな|てんごう《ヽヽヽヽ》……」
「|てんごう《ヽヽヽヽ》やあらしまへん。芸妓は、それがつとめだすやろ」
そう言うと、くるりとお絹に背を向けた。
お絹は思わず階段の中段まで追いかけた。
ここからでも、座敷の声はよく聞こえる。
「すんまへん。さあ、呑ましとくれやす」
(いかん!)
お絹が呟いたのも道理、糸子は、ほんの一杯しか、酒は呑めないのだ。
「そんな小さいお盃やのうて、もっと大きなんで」
「こらびっくりした。お前、酔うても知らんで」
「酔うてくだまくこともある。思い切り酔うて、くだまきたいんだす。ヤーさん、聞いてくれはりますか」
「聞いたる聞いたる」
お絹の心配は深まった。
(わてが、とうさん、やけにしてしもた)
その内、二階では、騒ぎが始まった。いつもなら、座敷に芸妓は三人位入るのだが、今日に限って、他の芸妓の来方がおそい。お絹は、つた家へ電話をした。
「糸菊はんが、えろう酔うてはりますんで……」
そう言って、誰か迎えに来て貰おうと思ったのだが、これも今日に限って、おせきと美代菊は伏見の稲荷へ参って帰らず、女中では話にならないし、二階の騒ぎは、小一時間つづいた。
その一時間が、お絹にとって、一日の長さよりも長く感じられた。
やがて、仲居に山口が、
「俥《くるま》をよべ、人力をよべ!」
とどなっている声を聞いてお絹はほっとした。
ドカドカと山口たちが降りてくる。
糸子は、山口にもたれるように降りて来た。もう、大分酔っているのだ。
玄関で、山口が草履をはくと、糸子が、
「ヤーさん、まだ呑み足らんのに帰らはるの」
と、しなだれかかった。
辛抱し切れずに、お絹はとびだし、
「さあさあ、ヤーさん、お帰りだすで、こっちでおやすみやす」
と、糸子の手をとった。糸子はその手を振り放し、
「ヤーさん、ダンス・ホールへ連れてって!」
と、お絹にこれみよがしに言った。
「よっしゃ、行こ!」
山口は、うれしそうに糸子の手をとった。
糸子は、すでにすわった目で、お絹を見ると、
「うち、これから尼崎のダンス・ホールへ行きまっさかい、つた家のおかあはんに言うとくれやす!」
叩きつけるように言って、フラフラと出て行った。
芸妓が遠出をするときは、必ず置屋の許可をとって、しかも一人で行ってはならないおきてがある。
だが、そのおきてを破ってでも、糸子にそう言わせたのは、他でもない、お絹に対しての面当てであった。
糸子は、人力車の中で泣いていた。幌の隙間から入る風は、いつしか糸子の酔いを、さましていった。いくらお絹に対する面当てでも、こんなに酒を呑み、男をダンス・ホールに誘うまでに落ちて行く自分にである。
涙で白粉《おしろい》の剥げた顔で、ダンス・ホールの入口に糸子が山口と立ったのは、一時間後だった。四台出た筈の人力車が着いたときは二台だった。
「あれ、他の人力は」
「遅れとるのやろ、入ってたら来よる」
それが嘘のことは、糸子にも分ったし、山口の魂胆が見えている。だが、それも、糸子が招いたものである。
たしかに山口は、糸子に惚れていたが、南地という一流の芸妓に対しては、それ以上の要求はしなかった。いや、したくとも出来なかったのである。お茶屋や置屋に相談して、手続きをふんで、返事が来る迄、まるで旦那になる資格を試されているようで、結果は成上がりと見られ、恐らく諾と出まい。──そんな恥はかきたくなかったし、それならば二流地、三流地の芸妓を世話する、その方が喜ばれるし、又威張りも出来る。だから──どうしても、客を連れ、宗右衛門町に行かなければならなくなった時、糸子の糸菊に逢い、気に入ったのは、その糸菊の素人っぽさであった。一流地の一流芸妓、気位の高い芸妓を呼んでも、金の使い損と決めこんでいた山口が、その糸菊ならばと夢中になったのは、やはり成上がり者の劣等感の現われであったのかも知れない。
とは言っても、さすがにそこ迄は断わられるという意識が先立って、それ以上は踏んぎりがつかなかったのであろう。
ところが、その糸菊が、
「ダンス・ホールへ連れてってくれ」
と芸妓の掟を破ってまで、自分から誘い水をかけたのだから、手続きはいらないだろう。そのまま待合へしけこんでもいいのだ。山口がそう思ったのも、成上がりとしては無理はない。
ダンス・ホールの中は暗く、蓄音機からは、はやり歌が泣いていた。
逢いたさ見たさに
こわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
ホールには、七組ばかりの男女が、手を組んで踊っていた。話には聞いていたが、糸子はダンス・ホールも、ダンスも見るのは初めてであった。
裾の長いドレスを着た女がダンサーであろうか。一曲踊るたびに、客から切符を貰っている。それは、体を売る商売ではないが、金で女を売っていることには違いなかった。
(今のうちと……あのひとらと、どう違うのやろ)
踊りをすすめる山口に、酔ったふりをして首を横にふりながら、糸子は、次第に自分をとり戻して行った。
「もう外へ出まひょか」
「そやな」
ダンスが目的でない山口は、嬉しそうに、立ち上がって外へ出た。ヒンヤリした風が、糸子の頬を撫ぜて行く。
「ほな、おおきに。帰らせて貰います」
頭を下げる糸子に、山口は、顔色を変えた。
「何やて、帰る?」
「へえ。あんまり遅うなってはいかんので」
「おい! そんなら何で自分から誘うた。わいをなめてるのか!」
急に言葉が荒々しくなって手をつかんだ。
「帰ろう言うても、帰さんで!」
糸子は、腕の痛さに、悲鳴をあげた。
かつて船大工の当時、ケンカで相手の首をしめて、殺しかけたことのある、その腕力であった。
「なあ。お前もその気があって一緒に来たんやろ。一杯呑むだけでもつきおうてくれや」
山口は、糸子の手を放そうとしなかった。
糸子の手は、すでに感覚がなくなって来た。逃げようにも、裾をひいた座敷着では、逃げられそうにもない。
「行きます。行きますよってに、手を放しとくれやす」
山口は、満足そうにうなずくと、やっと手を放した。糸子は、そのしびれた手を口にあてた。うつむき加減になった糸子のうなじは、綿のように白い。その白いうなじを、山口の好色そうな目が舐めるように見る。
(芸妓の水揚げがただで出来るの、わいだけやろな)
さすがに造船成金、進水のよろこびをかみしめるような目であった。
目の前に人力車がとまった。糸子は、逃げるキッカケを探した。
そのときであった。その俥から降りようとした男が、糸子を見ると、
「糸菊じゃないか、こんなところで何をしている」
と、声をかけた。糸子には、その男に覚えはなかったが、藁《わら》にもすがる思いで、
「ああ、今晩は」
と、挨拶を返した。
「もう、家へ帰らにゃいかん時間だろ。何なら送ってやるぜ!」
と、俥夫をあごでしゃくって合図を送った。
「へえ、おおきに」
九死に一生を得たように糸子が人力車に乗ろうとしたのを見て、山口は怒った。
「おい! その女は、わいの連れや。何で、連れて帰る」
男は、聞こえないふりをした。
「おい! 何とかぬかせ! 一体お前は何じゃい!」
山口は、昔の地をだしてつめよった。
「おれかね、警察のものだよ」
山口は、警察と聞いておののいた。
「何か文句があるかね」
と、その男が切りだした。
「いいえ、何も」
「そんなら、よろしい。行き給え」
山口は、あわててその場から去った。
「えらいすんまへん」
糸子が、警察の者だと名乗った男に、礼を言うと、その男は急に笑いだした。
「ハハハハ、こんな、大島を着た警察があるもんか、成金には分らんだろうがね」
「あの……」
糸子は、自分の名を知っているこの男に、どう聞いてよいものかためらったが、男は、その糸子の疑問に答えていた。
「私はね、東京の日本橋と神戸に店をもっている三浦てえものだがね、いや、一、二回、宴会で、あんたの顔を知っててね、何だか困っているようなんで、声をかけたんだ」
「そうだしたんか、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いや、よかった。成金てえのは、あまり品のいいやつがいないから、表へついてくることは、よくないな。さあ、送って帰ろう」
「はい。けど三浦さん、あのダンス・ホールへおいでやしたんですやろ……何やったら、わて一人で帰りますけど」
「いや、かまわんかまわん。江戸っ子てえのは、最後まで見届けねえと……。送ってやるよ、あんたの家まで……」
物を言っては笑いとばす、三浦と名乗る男は、糸子を人力車に乗せると、自分は歩き、どうすすめても乗ろうとはしなかった。糸子が、その男に何となく頼もしさを感じたのは、もう四十は過ぎているであろうその男に、どこか、亡き父秀吉に似た気持のおおらかさがあったせいである。
尼崎から、野田を抜け、道頓堀から、つた家と、かなりの道のりであった。
「あの、降りて……おぶでも」
すすめる糸子に、もう人力車に乗った三浦は、
「いや、またそのうち座敷で逢おう」
と、おうように手を振って、俥をうながした。糸子は、その俥が堺筋まで去って行くまで見送ると、つた家の玄関へ入った途端に、ぐったりと上り框に腰をおろしてしまった。
三浦と名乗る男の乗った俥は堺筋から北へ上がり、久太郎町をまた西へ入ると、成田屋の前で止まった。
俥が止まると、持ちかねたように姿を現わしたのは秀松だった。
「作造はん、どないでした」
「うまく行ったよ。無事に連れ戻した。いや、まるで芝居の立役《たちやく》になったようで、気持がよかったよ」
と、また高笑いをした。
三浦と名乗った男は、あの屋台そば屋の主人、今は成田屋の奉公人の作造であった。
今から三時間前、「重の家」にいる秀松の母親お絹が青い顔をして、
「とうさんが、今、酔っ払うて、尼崎のダンス・ホールへ行かはった。相手は造船成金で、山口ちゅうあんまりようない男や。すぐ行ったげて」
と知らせて来たのは、もう糸子が、大阪の町を人力車でかなり走り去ったときだった。
だが、秀松は、考えた。とかく秀松の見せる好意には意地になる糸子である。もし秀松が、助けに行って、逆に、
「あんた、何しに来たんや!」
と、意地になるようなことがあっては大変だし、相談する音松も留守だった。そのとき毎月十日の夜店をひやかそうと店を出ようとしていた作造が、
「何ならわしが行こうかね」
と、声をかけたのである。
「まあ、こんなことは、年食ったわたしにまかしておきなさい。無駄に飯は食っちゃいないよ」
「そんなら、作造はん、成田屋の名を出さんと、やってくれはりますか」
「まかしとけよ。これでも昔は、幕内にいたこともあるんでな」
決して過去をしゃべらない作造が、初めて洩らした言葉であった。
秀松は、金箱から、十円札を一枚とりだし、
「お願いだす。俥ですぐに行っとくれやす」
と頼みこんだ。そして、結果は、すべてうまく行った。
作造が帰って、ことの経過を聞き終わった秀松が、
「えらい御苦労はんだした」
と頭を下げるのに、手を振った作造が、
「なあ秀松さん。あの芸妓をやっているここの娘さん、今夜初めて逢ったんだが、話を聞いてたような強情な女にゃ見えなかったよ。ありゃ、素直なやさしそうな女だったがねえ。あれなら、芸妓だって止めそうに思うんだがねえ」
秀松は、思わず顔を伏せた。
たしかに、糸子は、優しい娘であった。父の秀吉が危篤の床で秀太郎の名を呼ぶのを見かねて、ひそかにお絹と秀松を呼んでくれたのも糸子なら、小学校で安造にいじめられているのを知り、家へそのまま帰らぬ秀松を、音松に探し出させてくれたのも糸子。こんなやさしさを見せてくれる糸子を、秀松は、どれほど嬉しく感じたことか。だが、そのやさしさも、秀松に面と向かった時は、歪んだ冷たさに変わってしまったことも忘れない。そして、それが今日迄続いているが、他人には恐らくその冷たさはわかるまい。
「なあ、わしが思うんだがね、あの娘に、芸妓をやめさせる手だてがあるんだがね」
「何だすて?」
「うん。今夜、わしはふと考えたんだ。これはひょっとしたらうまく行く。いやその代り、ちょいと金はかかるがね」
「お金はかかってもかまいまへん。とうさんが芸妓にならはった時送って来やはったお金も、そのまま置いてます」
「よし、そんならやってみてもよいがね。いや、これはね、わししか出来ねえことだからな」
得意そうに膝をのりだした作造に、秀松は、すがるように耳を傾けた。が、やがて秀松の表情は半信半疑に変わっていった。
[#改ページ]
山  師
その頃、音松は、京都駅の近くの木賃宿で、疲れた足を投げだしていた。大阪で意外に伸び、続けて出した成田屋の冬物ステトコも、夏物にかわらない売れ行きを見せていて、近頃では、小売店をいちいち廻らなくても、仲卸屋から、売らせてほしいと品物を仕入れに来る有様だった。
そこで、秀松と音松は、その市場を拡げるために、まず京都を開拓することになった。
男でも、古さと伝統を守る京都で、果して、男もののステトコが売れるかどうかは疑問だったが、当たってくだけろと、いちいち小売店を廻ることに決めたのだ。
そして大阪の店を秀松が守り、音松が、新しくやとい入れた丁稚の市松を連れて、五日間、京都の隅から隅まで売り歩くことにしたのである。
そして今日がその一日目だった。京都の冬は、比叡山《ひえいざん》から吹きおろす風が、盆地の底の京都をなめまわし、足許から麻痺させるような底冷えを感じさせる。
そんな京都を一日中|虱《しらみ》つぶしに歩いた結果、成程中京や上京と旧家のある町では売れなかったステトコが、労働者や職人の多い地区の小売屋で、すでに大阪での評判が耳に入ってか、僅かながら、品物を置いてくれたのである。
「これやったら、四日ですむかもわからんなあ」
のばした足を坐りなおして、包みからそろばんを出した音松は、かたわらの市松を見て微笑んだ。市松は、坐ったまま居眠っていたからである。しかも、今日の夕方、最後に訪れた祇園《ぎおん》の甲部の端にある雑貨屋で、荷物をかついでいる市松を見て、丁度、足袋を買いに来ていた芸妓が、
「ヒヤー、可愛い丁稚どん」
と、くれたその八つ橋を、半分かじったまま居眠っているのである。
(このごろの丁稚はしあわせやな)
そう呟くと、音松の顔から笑いが消えた。
「あかんたれが!」
一寸の隙を見ても叱られ小突かれ、出て行けよがしにいじめ抜かれた秀松の丁稚姿が思い出されたからである。
何とかしてその秀松を主人にしてやりたい、と反撥心を感じた音松であったが、
(それにしてもよう辛抱出来たもんや)
と感心する。
その限界ぎりぎりの辛抱が、いつの間にか秀松に忍耐という根性を植えつけていたのであろう。
その根性に負けた者、つまり根負けしたのが、いじめた方の連中で、その者達は一人一人消えて行かざるを得なくなった。
その最たる者は安造で、今はどこにいるかもわからず、あの分家の治三郎も、秀松が跡を継ぐ寸前に病気で店から去り、その動向すら誰の気にもとめられない。
そして、富江は秀松に改めて姉であることを意識し、その富江の婚礼におひさは初めて秀松に礼を言った。
これすべて根負けした結果で、あのならず者の鉄五郎さえその根性に屈服して金を返したではないか。
だから秀松の根性は、ただの根性ではなかったのである。
絶えず極寒と極暑の中で、枯れても焼かれても尚芽を吹き出す、土の底から根の生えた雑草の強烈な生命力にも似た根性でもあるのである。
(秀松どんのは土性っ骨や)
音松はそううなずくと、
「おい起きんかい! 強い商人になりたかったら、居眠りなんぞしてられんぞ!」
厳しい表情で、市松を起こしていた。
翌日、朝の八時に宿を出た音松と市松は、東山の道を歩いて、祇園を通り、古川町、仁王町の雑貨屋を廻った。
昼すぎ、うどん屋で、すうどんの昼食をすますと、熊野神社の東、聖護院《しようごいん》の裏の道を南へ歩いた。その先に、一軒雑貨屋があると聞いたからである。
その店へ行く途中、露地があり、その奥に、チラリと、首巻を吊った小店があるのを見た。
「市松、あの店へ行って商いして見い」
市松はびっくりしたように音松を見あげた。
「商いてどんなもんか、自分でやるのも勉強や」
「へえ。やって見ます」
まだ十二歳。小さい体に、くるくると目に愛敬のある市松は、その店へ小走りに行った。
「後で行くさかいな」
音松は、その市松の背中に声をかけて、大店の方へ歩いた。いつも荷物の配達や客の接待が仕事の丁稚には、誰にでも商いを自分の手でしたい夢がある。
だから市松は勢いこんで、その店へ入った。店というより、五坪ばかりあいている土間を、仕様ことなしに雑貨でも売ろうかと、出しているような店だった。だから看板も何もない。軒先に吊ってある男ものの首巻が一番高価な商品で、上り框に並べてある僅かばかりの雑貨類は、ほんの子供だましの手拭いや手袋、果ては駄菓子の類に、柱に貼ってある「仕立て致します」の貼紙を見れば、音松なら素通りするところだが、市松にその目はなかった。
「ごめんやす! 毎度おおきに」
張り切った市松が、大きな声を出したが、一間しかない土間の次の間には人はいそうもない。
「ごめんやす! どなたもおいでやおまへんか!」
折角の初商いを逃がさないように、市松は、高い声をはりあげた。
「何や! 店のもんなら留守やで!」
二階から邪魔くさそうな男の声が聞こえて、つい目と鼻の先に見える古びた階段から、ミシミシと音をたてて降りて来たのは、はみでた綿が見える丹前の首をはだけ、不精ヒゲをはやしたまだ若い男であった。
「何や」
「へえ、わて大阪の船場の成田屋だすけど、置いてもらいたいもんがありまして来たんだす」
「成田屋!」
男の目が光った。
「成田屋は、呉服問屋やろ! 呉服問屋が、雑貨屋へ何の用がある」
「へえ、呉服もんは、もう止めて、今、ステトコをやってます」
「ステトコ? 何で呉服もん止めたんじゃ」
「へえ、何や道楽もんの阿呆な若旦那がいてはって、身代つぶさはったんで、今のしっかりしてはる旦はんが、商いもん変えはったんだす」
「しっかりした旦さん?」
「へえ、秀太郎さんて言うお方です」
「何やて!」
男は土間へとび降りると、市松の胸倉をつかんだ。
「おい! もう一回、ぬかしてみい!」
そのとき、表から、
「市松、何してる? 商いさせてもろうたか」
気になった音松が、姿を現わし、土間に立っている男を見ると、目を見はった。
「若、若旦さんやおまへんか!」
秀松が探しもとめている安造だった。それを聞いておどろいたのは市松だった。
「大番頭はん! ほな、このひとが、あの極道……」
と言いかけて、あわてて口をおさえた。
安造は、じろりと音松を見て、
「へえ、お前が大番頭か……わいを追い出してよかったな」
「何言うてはります。秀松どんも、わても富江も、探しましたで」
「……富江……ほう、奉公人が、主人の娘、呼びつけにするようになったんか」
「いえ、わての女房に頂きまして」
「何やて! おのれの……そうか、きょうだいまで乗っ取られたんか……」
「いえ……正式に婚礼もあげまして」
「お母はんは? お母はんも追い出したんか?」
「いえ、元気で家においでです」
「姉さんは?」
「へえ……」
「糸姉さんはどないしたんや、て聞いてるんじゃ」
「へえ……、ミナミから芸妓はんに……」
「何!」
安造は、今度は音松のえり首をつかんだ。
「芸妓に出た? へえー、一人の姉は芸妓で、一人は奉公人の嫁、そいで店は、てかけの子が乗っ取りよったんか! よかったなあ、わいが家を出て」
相変らず毒々しげに叩く安造の憎まれ口をじっとこらえて聞いていた音松は、出来るだけやわらかい口調で頭を下げながら、
「若旦さん、お願いがあります。何とか店へ帰って頂けまへんやろか」
と頼んでいた。
「へえー、乗っ取ったことばれたら、店へ帰れか……てかけの子に取られた店に帰れると思てけつかるのか! あそこは他人の店じゃ」
「いえ、ご主人は若旦さんで、秀松どんは預かってはるだけだす」
「阿呆ぬかせ!」
「けど、現にあの店は若旦さんの名義のままだす」
「ははん、そうか。わしに判こ捺《お》ささんと名前が変わらんてことか。そこで、連れて帰って無理矢理に捺さそうて寸法やな。そうはいかんぞ!」
「若旦さん、どうして信じて頂けんのだす」
「おい音松! 信じられるか! わしにさかろうて店辞めた筈のお前が大番頭で居って、一人の姉を自分のもんにさらしとるわ、一人の姉は芸妓にさせられとる。それで、何が信じられる」
「それには事情があるんだす。それもお帰りになったらわかります。秀松どんは、誰にでも主人は若旦さんやと……」
「おい、音松、みすみすばれるような嘘つくなよ。現にこの丁稚が、新しい旦さんて秀松のこと言いよった」
市松は首をすっこめた。
「おいその丁稚、何て言うた……道楽もんの阿呆な若旦那の代りに、しっかりした今の旦さん……そう言うたな……。音松、それでも嘘やと言うのんか!」
「おい市松! 何でお前、そんな余計な嘘を言うた!」
音松は叱りつけたが、安造が信用する筈はなかった。
「若旦さん、それなら、心配してお待ちの御寮さんの為にも、お帰り願えまへんか」
「おふくろ? あかんあかん。てかけの子の店に世話になっとるようなおふくろや。ひょっとしたら、てかけの子に体貸しとるかも知れんな、婆さんになったけど、銭かからんで出来るやろて」
「若旦さん!」
音松は、あまりのことを言う安造を睨みつけた。
「何じゃ、おのれの眼は。おい、言うとくけどな、痩せても枯れても、わしかて一国一城の主や。この店見てみい。一文の金もないわしがここ迄作ったんやぞ! 今にてかけの子の店取り返したる言うとけ!」
音松は、これ以上言っても無駄、とにかく帰って秀松に相談しよう、と決めた。
「そんなら、改めてお迎えにあがります」
と、礼をして表へ出た。
いつの間にか表口まで逃げて、寒そうにふるえて待っていた市松が、音松が歩きだすのを見て、
「番頭はん、あれが若旦さんですか、一寸も知らんかったんで、すんまへん」
と申し訳なさそうにあやまってから、
「けど、あの若旦さん嘘つきですで」
「嘘つき?」
「いえ、あの店自分のように言うてはりましたが、あの人、あそこの店のひとは、留守やて言いながら、二階から降りて来やはりました」
「何やて」
音松は、そんなことだろうと思った。
そこで音松は立ちどまると、秀松に、今日のことは内緒にしとこうかと考えた。
(言ったら、きっと秀松どんは迎えに来る。もし、あの若旦那が成田屋へ帰って来たら、こんな丁稚にさえ嘘つきだと見破られている位に変わってんのや、元と同じ結果になるのと違うやろか)
音松の心に不吉な予感が襲ってくると、身震いした。
「番頭はん! 早う行かんと廻れまへん」
空からまた白いものが降って来たのである。
その時だった。音松と市松が出ようとした露地の入口から、色あせたねんねこに子供を背負った、それでも髪の形は見るからに崩れた水商売を思わしめる女が、破れた番傘をさしながら、疲れた足どりで現われると、出逢い頭に脇によけた音松と市松を見ていたが、その前掛けの成田屋の屋号に気が付くと、
「あのう」
と呼びとめて、おそるおそる声を出した。
「あの、大阪の船場の成田屋はんのお方だすか」
「へえ……」
音松は、うなずいた。女は、それを聞くなり、
「うちの人迎えに来てくれはったんだすか」
と、せきこんで聞いた。
「あの、あんたはんは……」
「へえ……愛子だす」
女は、大阪から安造と逃げて来た愛子だった。
縄ののれんごしに、粉雪がまた舞っている。聖護院の細い道を抜けて、丸太町通りに面した小さいうどん屋の土間で、細長い火鉢で手をぬくめながら音松は、愛子が子供にうどんを食べさせるのを、じっと見ていた。
「それであのひと、どう言うたんです」
やがてむさぼるように食べていた子供が、食べあきて、箸をもって遊びだすと、愛子は聞いた。
「若旦さん、成田屋を取り返すて言うてはります」
「そんなことばっかり言うて、この安一に、着物の一枚も買うてやれんちゅうのに」
「すると、若旦さんは、仕事は……」
「へえ……何一つ……京都へ来てからは、心を改めたように、練屋はんに働きに出たんだすけど……三日坊主で、今では、山師みたいな連中と、夢みたいなお金つかむことばっかり考えてはります……」
「そんなら、働きはあんさんが」
「へえ、三条の三原亭ちゅうすき焼き屋へ、仲居に入ってますけど……あのひとどころか、この子さえ食べさせていけまへん……」
愛子は、そっと涙を拭いた。
「あんさんも、苦労してはりますんだすなあ」
「いえ、私は、自分で招いたことだすけど、この安一だけが可哀そうで」
安一と名付けられた子供は、急に泣きだした。父親の安造に似て疳《かん》が高い子供らしかった。
「あんさん、お願いだす。何とか、うちの人、もう一回お店へ帰れるようにして頂けまへんやろか。このままではあの人のためにもなりまへん」
「そら、店もそう願てますのやけど……肝腎の若旦さんが」
「……うちの人なら、何とかその気にさせます。そやよって……いえ私なら、自分で何とかやっていけますよって」
そう言う愛子の真剣な目つきを、音松はじっと見た。
(この女は……真剣にそう願うてる。この女は思うたほど悪ない女や)
安造が駈け落ちをしたと聞いたとき、誰しもが、あの悪い女に欺《だま》されたと思ったのである。いや、その前に、丑吉の事件があり、そんな男の情婦という先入観があったのは当り前である。
音松は、立ち上がると、勘定を払い、遠慮をする愛子に十円札を一枚にぎらした。
「まあ、悪いようにはしまへん。帰って秀松どんとも、よう相談しますよってに」
愛子は、哀願の目を向けたが、立ち上がると遠慮深そうに聞いた。
「あの、秀松どんていうひとは、腹の黒いひとなんですか?」
音松は静かに首を横に振った。
「わては、もう十何年一緒だすけど、あんな偉い男は、ありまへん。今も、若旦さんがいつ帰って来はってもええように、店の名義も若旦さんだすし、自分は、いまだに丁稚部屋で寝てはります。但し、若旦さんは信用しはりまへんけど」
そう言うと表へ出た。その言葉を聞いた愛子は、土間の椅子に力なく腰を落した。まるで、安造が言ったすべてのことの中で、たった一つ信じていたことさえも嘘と分ったような、気落ちした坐り方だった。
その頃、当の安造は、愛子が音松と話をしているとは夢にも思わず、二人の男と、その間借りした二階の部屋で向かいあっていた。一人は、五十位で、黒い背広に、折鞄、口ヒゲ、黒ぶちメガネ、一目で弁護士らしいとわかる男と、一人は、見るからに技術者を思わしめる三十前後の男だった。弁護士を船田正次郎、技術者を宮川正夫といったが、二人の共通点は、目付きの鋭い点にあった。
そして船田は、先刻愛子が音松に話した山師であり、宮川は初対面の男だった。
先刻、音松が帰った後、安造は、おもしろなさから酒でも買おうと、質入れの品をかき廻していると、二人がたずねて来たのである。
安造は、奢らせる相手が出来たとばかりに、
「どこかで一杯飲みまひょ」
と誘ったが、船田は乗らず、
「極秘の相談だから」
と二階へ自分から促して上がると、
「実はね、この宮川君はついこの間まで、大阪|硝子《ガラス》の優秀な化学者だったんだが、いつまでも宮仕えではつまらんと言うんだ。男一匹生まれたからには、独力でやってみたいと言ってねえ」
「なるほど、そうあるべきだす」
力強くうなずいた安造に、船田は言葉を続けた。
「そこで、この宮川君が目を付けたのは、満洲だ」
「満洲?」
「そうだ。君も知ってる通り、満洲という国は土地が広い。広いが、工業が進歩して居らん。特に遅れているのが硝子工業で、硝子工場だって一つもないのだ」
宮川が、説明するように体を乗りだした。
「それは事実なんです。現に、私のいた大阪硝子からどんどん輸出していたんです」
「そこでじゃ。向うで工場を建て、硝子を製造したら、馬鹿ほど売れるんじゃないかという話だ」
「なるほど、一つもなかったら、無茶苦茶売れまんな」
「わしは、それをこの宮川君に聞いたとき、思わず手を叩いた位だ。いや、その上に、彼はすでに工場の位置から、設計まで出来ているのだから、大したものだ」
待っていたように宮川は、青写真を拡げた。
「場所は、ハルピンの外れです。いろいろ調べた結果、温度、湿度、原料その他、労働条件など、ここより絶好地がありません」
「なるほど、それで船田先生、わてに相談て何だす」
「そこなのだ。これをやる上に、いろいろ問題が起きたのだ」
「問題て……」
「こんなボロもうけの事業はないんだが、この宮川君は、誰か経営者、つまり、社長に適当な男がいないかというんだ」
「社長……あの、この宮川さんは、ご自分では……」
「さあ、そこだ。彼が言うには、自分は技術者だ、技術者の夢は、製品を自分の手で造ることで、経営者には不向きだ、経営者は、別の人間を探してくれというのだ」
「ほ、ほな、先生は」
「わしは弁護士、顧問弁護士が社長になれん。そこでじゃ、あんたの事を思い出したんじゃ」
「えっ、わてを!」
安造の声はうわずった。
「そうじゃ。わしは、とうからあんたの器の大きさを知っている。なるほどあんたは、放蕩をして、身上《しんしよう》もつぶした。けどあんたは、このせまい日本で商売をするには、器が大きすぎるのじゃ。つまり、満洲という広大な土地でこそ、ピッタリする人物なのだ。向うの言葉でいう大人《たいじん》……それが、あんたそのものじゃ。万里の長城を見ながら高粱酒《コーリヤンしゆ》をのみ、片手で匪賊《ひぞく》と商売をし、片手に満洲娘を抱く、そんな大人物、それがあんたじゃ」
「へえ、わても……前から、日本がせまいなあと思とりました位で……」
「そうじゃ。そこで、この宮川君に君のことを話したのじゃ」
「はい。僕も、あなたのことを先生から聞いて、僕が探し求めている経営者こそ、あなたをおいて他にないと思ったんです」
「どうじゃろ。一つ、うんと引きうけてくれんか。この通りたのむ」
膝に両手をあててたのみこむ船田を見て、もう安造は、天にものぼる心地であった。
「先生……ありがとうさんだす。わて、そんなこと言うてもろて。やります。やらせてもらいますとも、わてが社長やて……やりますとも」
「それは、ありがたい……」
ホッとしたように、船田と宮川が顔を見合わした。安造は、もう喜びと得意さでどうにもならぬ顔をしていた。船田は、そんな安造を見て、改まった。
「そこでねえ、社長になるには、いろいろ条件があるんだが」
「条件……何だす」
「出資をしてくれるかね」
「出資」
「そう、資本金を出してもらうんだ」
「金……金がいるんですか」
「株式会社だからね、社長が投資してくれんとなあ」
「一体いくら位いるんだす」
「最初は、五千円の資本金、まあ君と宮川君で半分ずつとして二千五百円だね」
「二千五百円……とても、そんな金は、おまへん」
「ないかねえ。借りるとか何とか出来んかねえ」
「へえ……」
「君はたしか、船場の成田屋の跡とり息子じゃったろう。あそこから何とか出させられんものかねえ」
「へえ……それが……一寸事情がありまして」
「そうかねえ。そりゃ残念だ。これだけの人物なのに、出資金がなくっては。では、宮川君、他へ頼むか」
「そうですなあ」
安造は、あわててとめた。
「あの、他にも、なり手があるんですか」
「うん。君には黙っていようと思ったが、ならしてくれってうるさく言うのが三人もいるんだ。一人は、五井銀行の小田常務、一人は、阿久田物産の社長、それに、貴族院議員の成瀬万之助、何しろ、五千円の資本金を一年で取り返し、三年後には二万円になるというんだ」
「二万円!」
「そうだ。だからなり手はある。だがね、彼らは老人だ。それに彼らにたのむと、ヒモ付きになるんでね。この宮川君の意図にも反するんだ。宮川君の探しているのは若い友人、相談相手になってくれる人だ。そこで、君にあえて話したんだが、仕方がない。他へたのもう」
船田は、そう言うと、簡単に立ち上がった。その船田の足に、安造はすがりつくようにしてとめた。
「待っとくれやす! お願いだす! もう一日待っとくれやす! 何とかしてみますさかい!」
「何とかって、あてがあるのかい」
「やって見ます。そやさかい、一日待っとくれやす!」
船田と宮川は、顔を見合わした。
「よし、待とう。わしたちも、あんたに社長になって貰いたいのだ。なあ、宮川君」
「はい。何とか社長になって下さいよ。お願いします、社長!」
この社長という呼び名は、安造の耳に、快く響き、いつか自分がとてつもない大人物のような錯覚さえ感じていた。そしてその陶酔は、船田と宮川が去って行った後にも、消えなかった。
「社長か……社長さんか……」
安造は一人でつぶやいて、思わず顔をほころばせたが、その笑いも消えた。二千五百円のことである。
安造は、僅かばかりの火の入った瀬戸の火鉢の上にマタ火鉢をして、考えた。
そこへ帰って来たのは、愛子だった。
「何してたんや、おそかったやないか。どやった、安一の病気は?」
「一寸した風邪やて。栄養が足りてんらしいわ」
「ハハハ……まあ、心配せんとき。今にわいも社長になったら、うまいもん食わしたる」
愛子は、いつもなら、また始まったといわんばかりに、
「たらは北海道、わてらは京都にいるんや」
と言うのだが、今日は違って、きちんと安造に向かって坐った。
「あんた、話がありますのや」
そう言おうとしたときだった。いきなり安造が愛子の胸元に手を入れて来た。
愛子は思わず身をよじった。
「真面目に聞いてほしいと言ってるんや」
「言わんでもわかってる。けど、もう心配いらんぞ。わしは社長さんや」
安造の体が、愛子にのしかかった。抱いたらどんなことでも聞いてくれるであろうという安造の計算であったが、それにしては、安造の技巧は下手であった。何でも独善的な安造は、愛子との営みの間でも、独りで運び、独りですませた。それでいて、愛子も満足しているだろうと思っていたのである。
そんな安造との営みは、かつて、骨の髄まで喜びを感じさせてくれた丑吉のそれとは比べものにならなかったが、それを支えてくれていたのは、堅気の男の妻となったという喜びであった。
しかし、その堅気の安造も今では、へたなやくざより始末が悪かった。
畳にゴロリと転がした安一が火がついたように泣きわめくのを聞きながら、安造は我武者羅《がむしやら》に、愛子の体の中で自分を動かし、あっけなく終わった。愛子は、受けとめはしたものの、何の反応も示さぬまま、食い入るように天井の一点を見つめていた。
(このひとのこれとも、おしまいや)
愛子にも感傷があった。その目から一筋、涙が流れた。その涙を見て安造が、丹前の綿を破れ穴に入れながら、
「泣くほどよかったんかいな」
満足そうに言ってから甘えた口調で、
「どやろなあ。三千円ほど、どこかで貸してくれるとこあらへんやろか」
と聞いていた。
愛子は、起きあがって泣いている安一を抱きかかえ、あやしながら、冷たく言い放った。
「あんた、店へ帰りなはれ」
当てがはずれた安造は、
「おい、わいはな、ようやく目が向いて来たんや。社長になるのやで。三千円の金が二万円になるのや。お前の客の中で金貸してくれよるやつおらへんかて聞いてるんや。お前、社長の奥さんになりとうないのか」
「あんた。もう私ら、これまでです」
そこで初めて、安造は、愛子の言葉が、いつものようなぐちではないことに気付いたらしい。
「愛子、お前、わいとまさか……」
「別れたいんや」
「お前! わいらの仲には、子供まであるのやぞ」
「安一は、わてが育てる」
「おい! お前と別れて、わいはどこへ行くねん。たのむさかい、そないなこと言わんといてくれ」
「あんたは、大阪へ帰ったらよろしいのや」
「おい! お前、まさか、好きな男が出来たんと違うやろな」
安造の肥った顔がけわしくなると、愛子はうそぶいた。
「阿呆らし。こんな貧乏世帯で化粧のひとつも出来んわてが……もう、うんざりしたのや、なあ、そやから帰り!」
「阿呆か! 帰らん言うたら帰らん! てかけの子が取りよった店へ帰れるか!」
「けど、あんた、そのてかけの子の秀松さんて、ええひとで、あんたの帰りを待ってはるそうやおまへんか」
それを聞いて、安造のこめかみはピクリと動いた。
「お前、そうか、成田屋の音松に逢うたな! 逢うて、たのまれたな!」
「………」
「言うて見い!」
「……逢うたわ」
「やっぱり! バカタレが。おい! わいはどんなことがあっても帰らんぞ! わいは社長になるねん」
「ほな、好きにしいな。わてはとにかく、もう一緒にいるのがいやなんや」
愛子は安一を抱いて立ち上がった。愛想づかしではなく、殆んど実感が占める愛子の言葉は冷たかった。
「どこへ行くねん」
「さあ、どこへ行くか、わてはわて」
「待ってくれ。お前、丑吉にでも見つかったら、ただではすまへんぞ……」
これが最後の切り札だった。
「あの人の方が、まだお金くれたし、喜ばしてもくれたわ」
「何やて」
愛子は帯の間から十円紙幣をとりだし、安造の前においた。
「お前、この金!」
「成田屋はんへ帰るのに、せめてええべべ着て帰らんと、てかけの子に笑われるやろ」
愛子の姿は、もう階段を降りていた。安造がすぐに追おうとしなかったのは、手に十円紙幣があったからである。近頃では、夢にも見られない金であった。この金が手に入ったことが、安造の判断を弱らしていた。瞬間、安造は呆然とこの金を見つめ、そしてこの金の出所が丑吉ではないかとおののいた。だが、丑吉なら、ただではすまないと思い直し、どこから入ったのか、やはり男が出来たのかと、立ち上がった時には、もう愛子は下へ降りた後だった。
「待ってくれ!」
安造は叫んで、階下へ降り、表へ出たとき、もう冬の露地はとっぷり昏れて、愛子の姿を包んでいた。
(畜生! あの女までが……ようし、わいはやったる。わいの言うてること、ほんまか嘘か、やったる)
安造は、家の中へ入ると、首巻をとり、外へ出た。いつもは、こうなると、おろおろして愛子の後を追い続け、あやまり続ける安造が、強い一人前の決心をしたのも、その十円紙幣が入った為である。
寺田屋騒動のあった三条大橋近くには、旅館が並んでいる。東海道上りの終点、京にやっと着いた旅人が長い旅の疲れと垢を落す為に賑わったのだが、今は京の寺詣りの客の為の宿屋でもある。
その一つの桐屋なる店の客となって居る宮川と船田の部屋を訪れた安造は、
「わいは腹が立って立って」
と、いきなり愛子とのいきさつを話した。
「なあ、どうだすやろ。わいは金が出来まへんけど、ここ一番男になるために、社長にしてやって頂けまへんやろか!」
余りにも虫のいいたのみに、チラッと宮川と顔を見合わした船田は、グッとコップの酒を呑むと、
「手だな、それは」
と、全く違う返事をした。
「手?」
「うむ。成田屋の妾の子というやつの手だよ。その音松という番頭が、君んとこの奥さんをたきつけたんだ」
「たきつけたて……」
「分らんかね。いいか、ある機会に、その秀松という妾の子は、君に子供が出来たことを知ったんだ。そしたら、その子供が成田屋の相続人だ。君は帰らんでも、その子に相続権がある」
「なるほど、それで」
「そんな子供がいりゃ、邪魔になる。そこで君とこの奥さんをたきつけて、別れさせたんだ。君は店へ引き取るとか、うまいこと言ってね。そんなこと言っても君が帰らないのを百も承知でだ。君の奥さんの女心をゆさぶったのだ」
「畜生! そこまで気がつきまへんでした」
「奥さんはそれに乗った。恐らく手切れ金も出てる筈だ」
安造は、たもとの十円紙幣を握ってハッとした。
(そやったんか! その金やったんか!)
「ねえ君、君は可哀そうだね。自分が相続する店を取られ、今度は、君の子供まで相続権をはがされる」
宮川が言った。
「全く、その秀松って男は、悪いやつですな。ねえ先生、このままいったら、何もかも取られちまいますよ」
「うむ。ねえ君、君一人がそんな目に逢わされることはない。骨までしゃぶられる前に、少しは取り返したらどうだい」
「取り返すて……」
「あの店や土地は、君のもんだろ」
「はい」
「それだけでも取り返すんだよ。あのあたりは、土一升金一升の土地だ。それを抵当にして金を借りる。三千円は出来るよ」
「三千円!」
「それを出資金にするんだ。金が出来りゃ、返せばいいんだ。つまり君は、ただで三千円の金が出来、社長になれ、男になれる。一挙三得だ。どうだい」
「やりまひょ、やりますとも!」
「ようし、決まった。詳しい打合せは後だ。まず新社長のために乾盃だ!」
宮川も膝を正してコップを棒げた。
「いや、今日はわいがおごらしてもらうで。ゆっくりやってや!」
安造は、胸をポンと叩いた。
「さすがは太っ肚《ぱら》だよ、社長は」
船田は、宮川と笑ったが、その二人の目が、してやったりと笑っているのを安造は知らなかった。
「新社長!」「新社長!」と、安造がおだてられている頃、船場の成田屋では、音松が丁度京都から帰ったばかりであった。
「何だすて、若旦さんが見つかったて!」
秀松は、膝をすすめた。
「元……元気やったのか」
近頃めっきり気の弱くなったおひさは、もう目から涙を流していた。
「へえ、お元気で。それに男のお子さんがおました」
「子供が……孫が出来たんやな」
「すぐお迎えに行きまひょ」
秀松は、立ち上がった。
「待ちなはれ。あんたが行ったら、また安造がねじくれるかも分らん。わてが行こ」
「いえ、お母はん、うちが行きます。うちが行って首に縄つけてでもつれて帰って来ます」
富江の言葉で、明日の一番の汽車で富江が迎えに行くことに決まった。
「これで、糸子が帰ってくれたら、昔のままの成田屋になるのやけど……」
「御寮さん、御心配いりまへん。とうさんの方ももうすぐお迎え出来ると思います」
「何やて……あの子が帰る?」
「へえ! 作造はんがちゃんとやってくれてはります」
そう言えば、ここのところ夜は殆ど姿を見せない作造である。
その作造は、ダブルの背広に金ブチ眼鏡、どう見ても、貿易会社の社長か、成金である。それに葉巻をくわえて、金メッキとは見えない懐中時計を見ながら、重の家の座敷に坐っていた。
あの夜、尼崎のダンス・ホールで糸子の糸菊を助けてから、毎晩のように通って来る作造である。
葉巻の灰をポトリと灰皿へ落し、ジューンと音がすると、まるでそれがキッカケのように唐紙があいて、おかみが顔を出した。
「おこしやす。毎度おおけに。糸菊はんもう来やはると思います」
「いや、糸菊の来るまでに、あんたに話があるんだがね」
「何だす」
「糸菊を落籍《ひか》したいんだがね」
「旦さんが?」
「どうだろ。相談にのってくれるかね」
「そら、芸妓はんのことだすさかい……何だすけど……あの妓《こ》だけはなあ」
「何か、むずかしい理由でもあるのかね」
「へえ、何せ、つた家はんの娘はんみたいにしてはる妓だすさかい」
「ねえおかみ、そこを何とかたのむよ。いや、いい歳をして恥ずかしいんだけど、あの子に惚れてねえ。と言っても、わしはあの妓を妾にするとは言わないよ。れっきとした女房にしたいんだよ」
「奥さんに」
「うん。わしはこの歳になって女房がない。いや、昔あったんだけどな、死んじまって、男やもめで一生暮らそうと、これが意志だったんだけど、あの妓に逢って、もう駄目だ。意志もぐらついてしまってね、クレオパトラが歴史を変えるというのは本当だね。な、何とか話して見てくれんかね。金ならいくらでも出させて貰うよ」
おかみの心は、女房にすると言う条件で一寸動いた。糸菊のことは、つた家のおかみからもくれぐれもたのまれてはいるし、お絹からも聞いている。旦那をとらない芸妓として通してもいる。が、結婚ということなら別だ、と考えた。
「まあ、いっぺんよう相談しときます」
「たのむよ。わしはね、それがすまないと、東京へ帰れないんだよ」
作造は、はにかんだように笑った。そこへ「今晩は」と糸子が現われた。紫地に白い菊の散らし花の衣裳が、細面の顔によく映える。
(全く、ほんとに惚れそうな女だよ)
作造は、心で呟きながら、
「お一つ、どうぞ」
と言う糸子の銚子の酒をうけた。
「ほな、ごゆっくり。糸菊さんたのみましたえ」
とおかみは立つ。
「あのこと、たのんだよ」
念を押す作造に、糸子は興味をもったが、出先の料亭と客の話を口に乗せてはならぬのが芸妓である。
ところが客の作造はわざと聞かせた。
「今おかみに話した、あのことって知ってるかい?」
「さあ、何だすやろ」
「よし、教えよう、君をひかせる相談だよ」
ハッと体を堅くした糸子だが、次の瞬間は、
「そんな|てんごう《ヽヽヽヽ》ばっかり」
「いや、本当だよ。おかみに聞いてごらん」
作造はそう言うと、嬉しそうに酒を呑む。
その横顔を見て、糸子は、
(この話も、こわれてしまうやろ)
と心の中で呟いた。芸妓に出てからも、何度か、こんな話が起こったと、友達の美代菊から聞いている。だがそれが不思議と中途で流れてしまうのだ。勿論、糸子の耳には一度だって入らない。誰がこわしているか、糸子にはよく分っていた。お絹の仕業である。身うけどころか、一寸酒ぐせの悪い客のいる席へは、何かと用事にかこつけて誰かに顔を出させたり、必ずつた家へ電話して、帰りの迎えを呼んだりする。そんなお絹の見えすかない、わざとらしさのないやり方を見て、糸子は抵抗を感じるのである。
(お父はんを盗んだ女が、忠義な顔をしてうちを守っている)
それだけではない。
(そのてかけの息子が、成田屋ののれんを守っている)
余りにも出来のよいてかけと、てかけの息子──。余りにも出来の悪い本妻と、本妻の息子──。この差の違いが、糸子に本妻の子の意地を張らせているのだ。だから今度でも、きっとこの話は流れるに違いない。ふと糸子の心の中に、考えが走った。
(客からこんな話を直接聞いたのは初めてや。あのお絹より、つた家のおかあはんより早う耳に入ったんや。うちが先に承知したら、あのお絹どうするやろ)
徳利をもつ糸子の手がふるえた。
「あの……旦さん、うちをほんまに世話して頂けますか」
今度は、盃を持った作造の手がガタガタふるえた。
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本妻の姉弟
翌る朝、一番電車で、安造を迎えに京都へ発つ富江を送りだすと、秀松は、音松や作造に、
「さあ、今日は昼から若旦さんがお帰りやで。昼までに気張って仕事にかかりまひょ」
と、自ら注文取りに表に出た。音松は、京都の注文分のステトコを追加するために、製造場へ行き、作造は、丁稚の市松を使って配達にかかった。
その間、店には、おひさが坐っていた。近頃は、何となく柔和な顔付きになって、昔なら小さい小売店には目礼だけのおひさが、誰を見ても腰を低うして、
「毎度ありがとうさんで」
と畳に手をつくようになっていた。だが、そのおひさも持病のリュウマチにはつくづく困り果て、
「わては業が深いよってに……こんな目に逢うのや」
と嘆いていたが、その日も寒さがきびしいせいか、キリでもみこまれるように痛んで来て、女中に、
「音松に店へ帰ってもろて。わては離れで寝てるさかい。その間、店はしめとこ」
と命じて、離れへ重い足を引きずった。
そんな、店に誰もいない間の出来事だった。
急に成田屋の大戸を開けて姿を見せた男がいた。ボロボロになったマントに、顔をかくすような大きい中折れ帽、そして、黒い風邪よけのマスク。だが、その中折れ帽の下の目だけ見たら、おひさの目に似ていると気がついたに違いない。男は安造であった。
安造は、大戸から顔をのぞかせた。
かつては、自分の生家でもあり、世が世ならばこの店の主人の座に坐る自分でありながら、安造には、いま成田屋を見ても何の感慨もなかったし、むしろその目には、憎悪があふれていた。
(店乗っ取りよったばかりか、愛子との仲引き裂きくさって)
弁護士の船田から、秀松の陰謀と教えられ、
(けど、あの成田屋は君のものだ。全部盗られないうちに、家だけでも取り返したまえ!)
そう言われて、いろいろとやり方を教えて貰ったのだ。そのやり方とはこうだった。
安造が、秀松に逢う。
「お前は、成田屋を乗っ取る気だろう」
そう突っこむ。恐らく秀松は、
「違います。それが証拠に名義はあんさんのです」
と言うに違いない。
「そんなら、土地、家の権利証を出せ」
出した権利証を持って帰る。それを抵当にして三千円の金を借りる──。
この筋書を教えられても、安造は何の不安も感じなかった。その三千円で、満洲の硝子会社の社長になり、三年もたたぬうちに二万円の金がつかめるのだ。
だが、その筋書も、必要ではなかった。店には誰もいないのだ。安造は、ヌーと店へ入り、下駄を脱ぐと、帳場へ上がった。かつては上がり框だった部分に、土間を広くしてテーブルや椅子が置かれてある。
(畜生! 勝手に造作変えやがって)
しかし帳場だけは昔のままで、金庫の鍵も、帳場机の横にかけてある。
秀吉が生きていた当時、午前八時になると、この鍵を机の横にかけ、夜の六時が来ると、またその鍵を奥へ移すのが、成田屋のならわしだった。
安造は、いそいでその鍵を取ると、金庫を開けた。この方法で、ちょいちょい小遣いを誤魔化し、大番頭の孝助を困らしたから慣れている。金庫の中から取り出したのは小さな鍵の束だった。
その鍵が、奥の部屋にある貴重品入れの金庫の鍵だった。その金庫から、土地建物の権利証と実印をとりだすと、あわてて懐へしまい、金庫を閉めると、下駄を履く。その間、僅か二、三分の時間だったが、表へ出たときの安造の額には、汗がにじんでいた。そんな時、丁度、市松が配達用の手押し車をひいて帰って来た。そして安造を見ると、「あれ……」という顔をしたが、それが誰であるか分らずじまいだった。
秀松や音松たちが、座敷を掃除し、心祝いの赤飯と、鯛の尾頭つきまで支度をして待っていると、しょんぼりした富江がひとりで帰って来たのは、午後二時頃だった。
「安ぼんはいてはらしまへん」
「いてへんて、留守やったんか」
音松が問い糺《ただ》した。
「ううん、あの下宿引き払うてますのや」
「引き払った。どこへ」
「分らしまへん。昨夕遅う、安ぼんだけ、もう帰らん言うて出て行かはったそうだす」
「そんなら、若旦さんのお嫁さんとお子さんは」
秀松は一縷《いちる》の望みをかけた。
「そのおひとも、昨夕遅う帰って来やはって、もう二度と帰らんて荷物まとめはって……何でも、安ぼんと別れたとか……」
「阿呆な子や……」
おひさは、がっくりしたように肩を落した。
「あのことがいかんかったんやろか……」
音松がふと呟いたのを、秀松が聞きとがめた。
「いかんかったって?」
「いや、その愛子はんちゅうひとにわてがたのんだんだす。何とか若旦はん、店へ帰してくれ……」
「それで身を退いたというわけかね」
作造は、腕を組んだ。
「それがかえって仇となって、若旦はんをこじらせたとしたら、わてが悪いことしました」
音松は、頭を下げた。
「いや、皆、安造が悪いのや。あの子が……」
おひさは、そういってうめいた。
秀松は、おひさが富江に連れられて離れで寝《やす》んだ後、これもまたがっくりした音松に、
「音松どん、その愛子はんちゅうひと、何とか見つかりまへんやろうか。若旦さんが見つからんかったら、せめてそのお子さんでも……」
音松は、うなずいた。
「心当たりがないでもない。行って来る……」
あのとき、愛子から、三原亭というすきやき屋で働いていることをチラッと聞いていたからである。
その直後、成田屋に、また新しい訪問客があった。
「ここの安造さんに関することで、御主人に逢いたいんだがね」
横柄な口を利くその客の名刺には、弁護士船田と書かれてあった。
船田は座敷に通された。
おひさが富江の肩にすがり、座敷へ坐ると、おひさ、富江、秀松を見わたし、船田は事務的に折鞄のフタを開け、
「私は京都の宮川三郎氏の代理で来たのですが、ここの主人安造さんに貸したお金を返して頂きたいのです」
おひさは、顔色を変えた。
「安造は、この家にいてしまへん。あの子が誰にお金を借りたか……知りまへん」
「だが、安造さんに三千円というお金を貸したのは事実です。ここに借用証書もあります」
「三千円!」
秀松は、じっと船田を見た。
「そうです。だから返して頂きたいのです」
「けど、それはこの家とは関係のないことだす!」
おひさが叫んだ。
「ですがね、この店の主人は安造さんでしょう。ちゃんと実印まで捺してある」
「実印!」
秀松は、借用書の印を見た。
「嘘や! 実印を安ぼんが持ってる筈がない! 偽のハンコや!」
富江が叫んだ。
「ホホウ、法律弁護士をつかまえて、印鑑を偽造したとでもおっしゃるんですかね。いや、どうしても払われないとおっしゃるなら、この家を出て行って頂きますがね」
「何で、出んならんのだす」
「この家と、土地一切が抵当に入ってるんですよ」
「何ですて!」
おひさの顔色が、また変わった。
「ええ、見て下さい。土地、建物、不動産の権利証ですがね」
さしだした権利証を見て、おひさと富江は、顔を見合わした。言葉には出すことさえ出来なかったが、信じられないような目付きだった。
秀松は、立ち上がると、店へ行った。
丁度作造が配達から帰って来て、
「若旦那は帰って来たかい」
と、のんびり煙草を口にくわえたときだった。
その返事もせずに、金庫を開ける秀松に、ただごとではない様子を感じた作造は、秀松の金庫の中をかきまわす動きを見ていたが、やがて秀松は力なく立ち上がると、フラフラと座敷へ向かった。
作造は、そっとその跡をつけた。
座敷へ秀松が入ってくるのを見て、おひさと富江が、待ちかねたように目で聞いた。
「ほんまの権利証だす、金庫の中にはおまへん」
一瞬おひさは血の気を失い、富江の体に倒れこんだ。その有様を見て船田は、
「どうやらこれが、法的にも有効だとお分り頂いたようですな。では、お金を返して頂けますでしょうな」
秀松は、うなずいた。
「お返しいたします」
「あかん、秀松どん、そんなことをしたら」
富江は、必死で言った。
「いえ、この家は、若旦那さんのお家です。若旦那さんの借りはったお金は、返さなあきまへん。一寸待っとくれやす。銀行から出して来ます」
立ち上がろうとしたときだった。襖が開いて作造が入って来たかと思うと、いきなり船田の横面をそろばんでなぐった。
「何をする!」
思わずかわして顔をあげた船田の額には、三筋の珠の形がついた。
「おい、沼田! 俺を忘れたかい! 十年前、東京で店をだまし盗られた都家だ」
「作造さん、あんた……」
「そうだ。この男は、詐欺で盗っ人だ。うめえこといわれて、実印を捺したために、店ごと盗られてしまったんだ。こんな男の手にのっちゃいけねえぜ」
「じゃ、払わないとおっしゃるんですかね」
船田はハンカチで顔の傷をおさえながら、冷静に秀松を見た。
「当たり前でえ。みすみすだまされると知って……」
「仕方がありません。それじゃ、法的に手続きをするだけですよ。だまされるだまされる、とおっしゃいますがね、この筆跡も安造さんのだ。実印も書類も全部揃っているんだ。法律は、私の味方でね……」
作造の手は、ワナワナとふるえた。
船田こと沼田弁護士が三千円の金を持って帰った後、成田屋には、再び黒い闇が訪れた。
おひさが、
「安造がこの実印と権利証、いつ手に入れよった」
と、呟くのを、作造が、
「そういえば、市松が、今日の昼前、若旦那に似た男がこの店から出るのを見たと言ってました」
あの場で倒れたおひさは、放心したように床に臥したままで、それを聞くと、
「安造……安造」
と呼び続けているだけだし、富江は物を言う気力もなく、ただ秀松の顔を見ると、
「かんにんな」
と涙を浮かべた。三千円の金は、成田屋にとって、十カ月間、血と汗でやっと造った金だった。勿論、この金は生地を仕込み、来年売るステトコを製造する準備金でもあったし、糸菊こと糸子に芸妓をやめさせる金でもあった。いや、それにも増して、秀松を落胆させたのは、母親のお絹との約束が、また守れなかったことである。
今日の昼までは、秀松は希望を抱いていた。若旦那の安造は帰ってくる。作造を通じての糸子の話も順調だ。これさえすめば、大手を振ってお絹と住める日も近い。そう思ってた矢先だっただけに、又失意も大きかった。
その今の成田屋を表わすような、電燈一つつかない店先へ、音松が安一の手をひいた愛子を連れて帰って来た。
「秀松どん、やっと見つけて来たで。これが愛子はんで、この子がぼんぼんや……」
音松は、あれから、三条通りにある三原亭を訪れ、愛子に逢った。音松の顔を見た愛子は、
「えらいことです! 今お知らせしよ思てたんだすけど、うちの人からこんな手紙が来ました」
と、藁半紙に鉛筆で書かれてある手紙をさしだした。
『愛子。わいは、硝子会社の社長になりに満洲へ行く。連れて行きたいけど、船田先生が今は工場を建てる準備をせんならんさかい、一人やないといかん言うたんで、一人で行く。もう一ぺん逢いとうて三原亭へ来たけど、お前が来てんのでもう行く。今晩の汽車で横浜へ行くのや。今度帰ってくるときは、自動車で迎えに来たる。お前はそのとき、社長夫人やで。安一は社長さまの坊っちゃんや。待っとり……』
その手紙を見た音松は、その場から愛子をうながし、預けてあった安一を連れると、成田屋へ急いだのである。
「音松どん、遅うおました。あんたの留守中にえらいことがあったんだす」
船田の一件を秀松から聞いた音松は愕然とし、愛子はワッと泣き伏した。
「あほな人や、あのひとは。欺されてるとも知らんと……」
母親の泣くのを見て泣きだす安一の頭を撫ぜながら、秀松は、この子におひさがまだ逢っていぬことを思い出した。
「そや、お祖母ちゃんに逢いに行こう。おいで」
と安一を抱いて離れへ向かった。そして秀松は、不安そうに渋面を作る安一を見て、丁度、初めて成田屋を訪れて、糸子に、
「おいで」
と秀吉の臨終の枕許へ、手をひいて連れて行かれた自分の姿を思い出していた。
(このぼんぼんだけは、不幸にしたらあかん)
秀松は、あの日から予期せざる運命を迎えたわが身を思い浮かべ、安一の小さい手を握りしめた。
そして、この安一の出現が、今の成田屋に一筋の光明を与えてくれることを願った。
その光明は、まずおひさに見出された。
何を言う気力もなかったおひさが、この安一を見て、安造の子と知ると、
「この子が……」
と体を起こし、
「それやのに、何て父親や。なあ、可哀そうに。わてはおばあちゃんやで、あんたのおばあちゃんやで」
わが手で抱きしめたのである。
そして、あまり人見知りをしない安一が、充分生え揃ってない歯を見せて笑うと、初めてみんなの顔に淋しい笑いが生まれた。
秀松は、そこで手をついた。
「御寮さん、皆さん方、もう一回お願いがあります。今日のことは忘れて、一からやり直しまひょ。若旦さんは、いてはらんでも、若旦さんのこのぼんぼんがいてはります。このぼんぼんが若旦さんの代りだす。このぼんぼんに、立派な成田屋をついでもらうためにも、わて、もう一回、いや何回でもやりとうおます」
さすがに、子供時代からそれ以上の苛酷さはないという運命に生き続けて来た秀松は、泥沼からでも這いあがらねば、誰も手をさしのべてくれる者がないことを知っていた。
「よしやろう。やらんとあかん」
音松も秀松に引きずられたように呟いた。富江も、作造も、おひさも泣いた。そして、もう一人、泣き伏した女がいた。愛子だった。
安一の母親として、この言葉がどれだけ嬉しい言葉であろうか。その愛子におひさが声をかけた。
「あんたもここにいて。あんたは、この子の母親や。うちの嫁や。ここにいてな」
愛子は泣き崩れた。
秀松は、母のお絹のことを想った。あの時、もしお絹が誰からでもいい、こんな言葉を、いや、せめてこんな心を見せてもらえば、どれだけ幸福であったろうと──。
その頃、東京行の夜行列車に乗っていた安造は、翌朝横浜へ着いた。
横浜のステンションへ降りて、キョロキョロと、生まれて初めて見る港町の建物を珍しげに眺めた。と、傍へ近寄って来た男がいる。口髭を生やして一見紳士然とした男だが、ふちなし眼鏡の奥に光る目が鋭かった。その男は安造に近付くと、
「成田社長じゃありませんか」
と腰を低めた。
「へえ、そうだすけど」
「お迎えに上がりました」
「わてをだすか」
「はい。船田先生から連絡をうけまして。さあ、どうぞ……」
「ああ、ご苦労」
出来るだけ胸を張った安造が改札口を出ると、馬車が待っていた。今時大阪じゃ見られない馬車だった。安造は、完全に社長になったような気がした。
馬車は浜伝いに山下町の方へ走ると、臨海楼という旅館の前で止まった。既に予約してあったと見えて、男は一部屋へ安造を案内すると、改めて礼儀正しく畳に手をついた。
「弁護士の船田先生がお越しになるまで、私がお相手いたします。私、船田先生の助手をいたして居ります木川でございます」
安造は、おうようにうなずいた。やがて酒が来る。芸妓が入る。
「社長て、ええもんや」
安造は有頂天になっていた。
そんな日が三日間続いた。だが、船田は現われそうになかった。
さすがに退屈になった安造が、表に出たいと言うと、木川と名乗る男が、必ずついて来る。満洲へ向かう船の出るまでの五日間、安造が不安を抱いて大阪へ帰らないためのお目付け役だった。
四日目だった。木川は、神妙な顔をして安造に言った。
「社長、船田先生が盲腸炎で入院なすったんです」
「それは、いかんなあ……。何やったら京都へ見舞いに行こか」
「いえ、それではあんまり恐縮です。それにハルピンでは、もうすべて準備が終わり、社長に一日も早く来て頂きたいと待っているのです。ですから恐れ入りますが、お一人でおいで願えませんでしょうか」
そう言われて安造は、初めて行く満洲への旅に一抹の不安を感じたが、顔色には出さなかった。何しろ船田から、大人物と言われたのである。
「そら、わい一人でもかまへん。行こう。早う行かんと、待っている部下が可哀そうや」
「その社長のお気持、向うの連中が聞いたら、どんなにか喜びますでしょう」
木川に平伏され、おうようにうなずいた安造は、自分でも大人物になったように思えて来た。翌日、用意された切符を受け取ると、横浜港の桟橋から安造は大連行きの船に乗った。
波止場で船の安造が握っているテープの端をつかんでいる木川は、テープをにぎりながら、こう呟いた。
「あの男びっくりするぜ。大連へ着いたら、硝子工場どころか、出迎えの者だって来てやしない。それにしても、今迄一番楽な仕事だったぜ」
それから三カ月経った。
成田屋が折角盛りたてた身代を安造の為に又減らさなければならなくなったという噂は、船場の同業者の間で拡まったが、もう誰も、
(あれで成田屋もおしまいやな)
とは言わなかった。
(あの秀どんなら何とかしよるやろ)
これは父の秀吉でさえも言ってもらえなかった讃辞であり、同時に信用度を物語っていた。
だが決して秀松は楽ではなかった。当座の営業資金が必要であった。一ふんばりやってみようとは言ったが、心の中で、
(又、同じことの繰り返しか)
と、溜息をつきたくなることもあった。
報われぬことに慣れてはいても、やはり人間は報われることを求めるものである。
殊に子供の頃は母恋しさの一念で、母のお絹と一緒に住むという目的の為に夢中でやれたことが、何度も空しい期待に終わるうちに奇妙な虚無感に襲われて、
(わては何の為にこんなことをやっているのか)
と、自嘲さえ起こって来る。
それでも仕事をしている昼間はそうでもないが、夜、ひとりで店の二階にあるかつての手代部屋へ入り、眠ろうとすると、今度は孤独感に苛《さいな》まれる秀松であった。
考えれば、秀松位の年頃の者はもう家庭を有していたし、子供がある者も居た。そうでない者でも、酒とか娯楽、趣味と、慰める何かがあった。
だが秀松は、一滴の酒も飲めず、将棋や碁の何たるかも知らなかったし、芝居見物とて一度もしたことはなかった。
勿論、子供どころか嫁もめとらず、すべて商いに打ちこんでいた秀松に、何も報われるものがないとなると、もう救いはなかった。
そんな秀松の危機を救ってくれたのは、安一であった。
安一と愛子は、あれからずうっと店にいた。
安造の消息は不明であったが、満洲へ行ったとは、誰しも考えていなかった。
何故ならば、あの安造の手紙を見て、愛子は音松に連れられて横浜へ向かったのである。
だが、その日横浜港から出航する船はなく、まさかあの船田が安造を満洲へ送ってしまうとも考えられず、結局は欺されたことに気付いて京都へ帰って行ったのではないかと、引き返して来たのである。
だがそれも当っていず、それから愛子と安一は、成田屋の人間となってしまった。
だが、安一は、子守役の父親の安造と一日の大半を過ごしていたせいか、男になつき、秀松にはまるで父親のように慕って来るのである。
「|ひいたん《ヽヽヽヽ》」
これが安一の秀松を呼ぶ時の呼び名で、昼間でも店に秀松の姿が見えぬと、
「|ひいたん《ヽヽヽヽ》、|ひいたん《ヽヽヽヽ》」
と捜し、夜も、秀松と共に寝ることが多くなって来た。
そんな安一を見ていると、秀松のとがりかけていた神経も安らぎを憶えて来たから、安一はまさしく成田屋にとっては光明となったわけである。
そんな或る日のことであった。
糸茂から番頭が使いに来た。
「秀松さん、ご隠居さんがお店でお呼びだす」
「ご隠居さん、こっちへお帰りで?」
糸茂は、二年前から、温泉地の白浜へ隠居家をたてて、暮していた。
「へえ、昨夕お帰りになりまして、実は……」
秀松の耳にささやいた番頭の言葉に、秀松の顔色が変わった。
「す……すぐ参ります」
秀松は、小走りに店を出た。それは、糸茂の余命が、今日、明日ももたないとの知らせであった。
白浜に隠居家をたてた糸茂だが、白浜でゆっくり隠居生活を送っていなかった。近所の土産物屋の手拭いの注文を取ったり、隠居所を改造して、旅館の名前入りのゆかたを考案したりしていたのだ。だが八十を越した歳には勝てず、自分の死期を知ると、
「わいは、船場で死にたい」
そう言って、息子夫婦に見守られ、昨夕の夜半に帰って来たのである。
秀松が駈けつけると、糸茂は、もうすでに半ば死んでいるように眠っていた。枕許には、船場のおもだった商家の主人や、親戚知人がつめかけていた。秀松の姿を見ると、若旦那の正之助が、
「成田屋はん。こっちへ。親父は、あんさんに逢いたがってましたんや」
と、一番枕許に近い場所をあけた。
「お父はん! お父はん! 成田屋はんが来はりましたで」
「ご隠居さん」
秀松が叫ぶと、糸茂が、かすかに目を開いた。
「大旦はん、秀松だす。成田屋の秀松だす」
耳の遠くなった糸茂の耳に届くように、秀松は叫んだ。
「秀松か……ちぢみもええで……」
糸茂は、そう言うとまた目を閉じた。それが糸茂のこの世で吐いた最後の言葉で、五時間後、眠ったまま息を引き取った。さすが船場の主らしい大往生であった。
(ちぢみもええ)
通夜のてんてこ舞いの手伝いの間も、秀松は、糸茂の遺した言葉を考えていた。
(大旦はんは何を教えてくれはったんやろ)
秀松に、その意味が分ったのは、変な場所であった。通夜の最中に、尿意をもよおした秀松が便所へ入ると、先客がいた。誰か親族の一人であろう。着物の前をめくって用を足している後姿の、その着物の下から出ているしわになったステトコを見て、ハッと感じたのだ。
「そや……ちぢみのステトコや!」
秀松は、通夜の途中で店へ帰り、翌朝、糸茂の遺体を棺におさめようとする時間にかけつけて来ると、
「旦さん、お願いだす。ご隠居さんのお体に、これをはかせたげとくれやす。ご隠居さんが昨夕お教えしてくれはりました、ちぢみのステトコだす」
糸茂は、こうしてちぢみのステトコを穿いて三途《さんず》の河を渡ることとなったが、成田屋のステトコに、ちぢみのステトコが加えられたのは、この糸茂のヒントによった。
「これで成田屋も、もう一回、盛り返せる」
秀松は、成田屋の土地建物を手放すことを決心した。船田に金を取られた今、先物製品を造る材料を買いつける金がなかったのである。
(死なはったお父さんに悪いけど、店や土地を売って、商いを拡げて、もうけたらまた買い戻そ──)
安造は、帰って来ないけど、新しい相続人安一がいるのだ。こと、安造に関しては控えめな秀松がこんな決断を下したことは、音松や富江をおどろかしたが、それを相談されたおひさも、
「あんたの好きなようにしとくなはれ」
と、何も言わなかった。
やがて、成田屋を三千五百円で手放すと、秀松は天神橋の傍の十五坪ばかりの二階家を借り、下を店に改造し、二階の二間を住居にあてた。一間は、おひさと愛子、一間を音松夫婦、下の店には、作造と秀松、丁稚たちが寝た。
引っ越した日、安一を指さし、秀松は皆に、
「今日からは、このぼんぼんを主人にして、一からやりだすんです。このぼんぼんが学校へ行かはる時分には、元の成田屋より大きいしたいと思とります」
と決意を述べた。
おひさは、一言、一言にうなずき、愛子は、ただうれしさで泣くばかりであった。
その翌日、この新しい成田屋には、客が、次々に集まった。いずれも、事情を知って、再起する秀松に応援しようという客ばかりであった。
坐るところもない店で、客に応対して注文を聞く秀松にまじって、おひさも愛子も、慣れぬ指先で、帳面づけをした。その傍で安一は、珍しそうにこの忙しいありさまを見て、
「ひいたん、ひいたん」
とはしゃいでいた。
安造がまた成田屋に損害をかけたという噂は、糸子の耳にも入っていた。
それを聞いたとき糸子は、弟に対する怒りよりも、あきらめの気持が先に立った。だが、糸子の気持を又追いたてたことも事実であった。
(また、てかけの子に負けたんや。もうこれ以上ひけ目を感じとうない。ここらではっきりしよ)
糸子は、その安造の迷惑をかけた金を返そうとしたのである。芸妓が金をつくるには、旦那をもつこと。糸子は、貿易商三浦の話に乗ろうと決心したのである。
(誰が何ちゅうても、うちは誰にも邪魔されへん)
糸子は、安造の噂を聞いた日、つた家の玄関へ決心の足どりで入った。
「おかあさん、お話があるんだす」
茶の間へ入って、茶をのんでいたおかみのおせきの前へ坐ると、糸子の糸菊は、
「うちを世話してやろうてお話があるんだすてな」
と切りだした。
「そんな話知らんけど」
おせきは、少し戸惑って口をにごした。
「隠さんといとくれやす。たしかに重の家はんからあった筈だす。ミーさんからうち直接聞いたんだす」
そうきめつけられておせきは、
「そない言うたら、そんな話あったけどなあ、流れたんと違うやろか……」
お絹に口どめされていることは目に見えていた。
「おかあさん、その話すすめていただけまへんやろか……」
「すすめるて……」
「へえ、うち、お受けしようと思います」
「あんた! それは……」
「いえ、おかあさん、おかあさんがいろいろ心配してくれはってるお気持ようわかってます。けど、うちミーさんが好きなんだす。今ミーさんは洋行してはるそうだすけど、帰らはったらお受けしたいんです。うちが好きなおひとなら、相談にのってくれはってもええのんと違いますか」
好きと言われては、いくらお絹からたのまれていても、握りつぶすことはないのだ。とにかくお絹に相談することにして、
「まあいっぺんよう聞いて見るけど、糸ちゃん、あんた、意地で言うてるのやないやろな」
と念を押した。
翌朝、信心する稲荷《いなり》へ詣った帰り途、おせきはお絹を訪れた。お絹は、糸子の申し出を知ると血の気をなくした。
「お願いだす。やめさせとくれやす」
「けどなア、本人が望んでるのや。しかも好いてる言うてな」
「ミーさんを」
お絹は、糸子が、二十歳も歳上の男を好きになるとは信じられなかった。
「そら、違います。あのお子は、成田屋のことを聞いてお金造ろうと思てはるんだす」
「けどなア……お絹はん、いつもの話と違うて、今度は、本人の耳にも入ってる。それにミーさんておひとも、お嫁にするて話やないか。そんならこの話、乗った方が本人さんのためにもええのんと違うやろか」
「とにかく一寸待っとくれやす。お願いだす」
お絹は、そうたのむと、急いで表に出た。秀松に逢いにである。
かつてお絹は、秀松に逢いに行くことは一度もなかった。自分の立場を考えて、ことに秀松が主人の身代りの座についてからは、つつしんだ。だが、今はそんなことは言っていられなかった。
天神橋をわたると、成田屋の建物はすぐ見えた。店の前を通って中を覗くと、客はたてこんでいるが、秀松の姿は見えない。お絹は、配達に出て来た丁稚の市松に、
「すんまへんけど、秀松どんに一寸表へ出てくれと言うてくれはりまへんやろか」
とたのむと、目立たぬように近くの家の軒下で待ち、秀松が出て来ると、手招いた。
「お母はん……」
「大変やったんやてなあ」
その一語で、秀松は、母親がすべてを聞いていることを知り、ホッとした。
「へえ! けど若旦那はんのお子さんが来てくれはりましたんで」
「そうか。そら、よかった。そのお子さんが大きいならはるまでに、店、ちゃんとするのやで」
「へえ! そのつもりでやります。あの、お母はん……今日は何か……」
「とうさんのことや。とうさんが旦那さん持ちたいて言わはるのや」
「相手はどなたはんだす」
「貿易商で三浦さんちゅう人や。今は洋行してはるけど、お嫁さんにしたいて来てはるんだす」
あの事件以後、作造も金が使えず、洋行中と称しているが、相手が作造と知って、秀松はほっとした。
「それで何とかとめたいと思うのやけど……」
「お母はん、それなら、好きにさせたげはったらどうだす」
「何やて……お前!」
「お母はん、とうさんかて子供やないんだす。どうぞ好きにしたげとくれやす。わていそがしいんで……」
くるりと振り向いて帰るわが子の背を見て、お絹は、愕然とした。
一緒になって、とめる相談にのってくれると思ったわが子が、
「好きにさせたげとくれやす」
と冷たい言葉をはいたからである。
(何があったんやろか? 今頃になって、わてを憎み出したんやろか)
しかし必死で働いている秀松を見ると、親心としてもそうは思いたくないお絹であった。
秀松が母親に背を向けたのは、他でもない。母親に成田屋の近くにいつ迄もいられて、作造の姿を見せたくなかったし、それをお絹に隠している後ろぐらさの表われであった。ミーさんと呼ばれる男が、作造であることをお絹に知らせてなかったのである。
それは作造が言い出したことで、この計画を立てた時、作造は秀松に、
「いいかい。このことはあんたとわし二人切りのことにしておこう。音松どんや、御寮さん、勿論あんたのお母はんにも内緒にしておいてもらいたい」
「お母はんにも……」
「そや、なまじっか話すると、それが顔に出る。重の家へ行っても、あんたのお母さんだって、わしを成田屋の奉公人だと思うと、態度に出たり、安心したりするだろう。すると糸子さんは、勘ぐってしまう。自然の中でやるのが一番なんだ。わしもね、正体知られたら、金持の真似は馬鹿馬鹿しくてやってられないからねえ」
そう言われて秀松も、なるほどと思ったのである。それに、そんなあざむいた方法で芸妓をやめさすことに、お絹は反対するかもわからないとも思って、作造にまかせたのである。
お絹は、力なく重の家へ帰って来た。午後二時を過ぎた宗右衛門町は、そろそろ町が動いて来ている。髪結いの店では、芸妓たちが髪を結う時間だ。もう二、三時間もしたら、座敷着に着飾った芸妓たちが座敷へ急ぐだろう。その中に糸子もいるだろう。
その糸子を目あてに、三浦が今夜あたり姿を見せるかも知れない。
(どないしょ。どないして話をこわそう)
お絹は、道で立ちどまった。
(ほんまに好きなんやろか)
(いや、それは嘘や。とうさん意地になってはるのや)
(何としてでも、とめて、きれいな体で芸妓をやめてもろて、成田屋のとうさんとして、どこぞへお嫁入りさせるのや。そやないと、死なはったあの人に申し訳ない)
お絹は、直接糸子にぶつかることを決心した。
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落  籍
その夜、久し振りに三浦と名乗る作造は、重の家の客となっていた。
糸子を芸妓から退かせる金は残してあったが、例の事件で、遊興の金など使えなくなり、洋行との苦肉の名目を使っていたが、お絹があんなことを言って来た今となっては、早く手を打たぬと、どこでどう壊れるかわからなかったからである。
だが大事な金には違いない。
作造は、やけに手を叩いた。一寸でも長くいると、金がかさむ。
仲居ののんびり現われるのも腹が立った。
「おかみを早く呼んでもらいたいね」
「へえ、ミーさん、待てば何とかの日和《ひより》だすで……」
仲居は、作造の顔を見て笑った。
(ええ歳して、えらいのぼせようやこと)
そういった笑いであることはわかっている。作造は、いらいらした。
「お待たせしまして……まあ、ミーさん、いつ洋行からお帰りで……」
おかみに挨拶もさせまいと作造はせいた。
「ああ、おかみ、糸菊からの返事はあったかい、返事は……」
「へ……まあ、一ぱい、どうだす」
「酒なんかどうでもええ。な、どうだったんだ」
「喜んどくれやす。どうやら話が進んでいます」
「本当かい」
「へえ、糸菊さんもえらい乗気やそうで、つた家のおかみさんからも、相談に乗りまひょてお話がありましたで。けど、ミーさんのお嫁さんにして頂くのはほんまだすやろな」
「それはいずれな」
「いずれて? 向うさんもそれで乗らはったお話で……」
おかみが不安そうに見ると、
「わかってるよ。約束は守るよ。しかし芸妓即女房ってわけにもいかないだろう。世間というものの眼がある。その間、半年でも一年でもどこかへ預けて堅気の女にして、ということは当然だろう」
「それはそうだすな」
おかみも漸く納得したらしい。
「おかみ、で、いつどうなるんだい」
「そうだすなあ、年越してからのがええやろ言うてはりますけど……ああ、どうだす、いっそ、十日戎《とおかえびす》に、ミーさんのお名で宝恵籠《ほえかご》乗せはって、それが糸菊さんの芸妓の退け披露てことにしやはったら……」
「なるほどねえ……」
一月十日の十日戎には、宗右衛門町の芸妓は、昔ながらの籠に乗ってつらねる儀式がある。その籠を宝恵籠といい、それに乗れる芸妓は一流と言われ、旦那が金を出して、店の名札が公にされる。
いうならば旦那の公開発表でもあり、信用度の発表の場でもある。
「だけど、そんなこと出来るのかねえ」
「糸菊さんの晴れの退けの舞台、それ位のことは役員さんにかけおうてみます」
そんな話が二階で進んでいることは、お絹も知っていた。三浦の座敷へ行くときに、おかみは、
「糸菊さん来やはっても、一寸待ってもろてや」
と、お絹に言って出かけたからである。
(何とかせないかん)
昼間の秀松の冷たい態度を思い出して、お絹は残された手段は一つしかないと考えていた。
「今晩は、おおきに」
すっかり芸妓言葉にも慣れた糸子が入って来たのは、その直後のことだった。糸子がお絹をチラッと見て、
「二階だすな」
と上がろうとするのを見て、お絹はあわててとめた。
「ああ、一寸待ってとおくれやす。今、おかみさんが上がらんように言うてはりますさかい」
「そうだすか……ほな、あっちで待たせてもらいます」
「あの、待っておくれやす。一寸お話がおますのや」
「お話? あんさんに別に聞くお話ておへんけど……」
糸子は、立ったまま冷たく答えた。
「いえ、どうしても聞いて頂きたいお話がおすんだす。どうぞお坐りやしとくれやす」
糸子は、お絹のいきごみに押されたのか、ようやく坐った。
「とうさん、今二階のお方のお話、まさか受けはる気やおへんやろな」
「それがどうしたんです。あんさんに関係のあるお話やおへん」
「いえ……聞かせとくれやす。お願いだす」
「そんなら言いまひょ。うち、お受けしよと思てます」
お絹の顔色が変わった。
「とうさん、お願いだす。それだけは、やめとくれやす」
涙ぐむお絹を糸子は見た。
「とうさんなんて呼ばんとおいとくれやす。うちは芸妓の糸菊だす」
「お願いだす、やめとくれやす」
「あんさん……何でそんなにとめはりますのや。芸妓なら、ええ旦那取るのが当り前だすやろ。そら、あんさんが、うちの話の邪魔ばっかりしてはることは、よう知ってました。そら、あんさんにしたら、うちが囲い者になったら、成田屋の旦那やってはる息子さんが、世間から何て言われるか、そのためにとめてはるのと思いますけど……」
「とうさん、わては秀松のために言うてるのやおまへん。成田屋はんは秀松のもんやおまへん。若旦さんのもんだす」
「その安ぼんは、行方不明だすやろ……」
「その代り、若旦さんのぼんぼんがいてはります」
「何やて、安ぼんの子供が……」
「へえ……」
それは糸子にとっても初耳だった。
「へえ、そやさかい、若旦さんのぼんぼんが、今の御主人だす。そのぼんぼんのためにも、あんさんにそのままお家へ帰ってもらいたいんだす」
糸子はチラッと反応は見せたが、
「うちは、あの成田屋へは戻りません。安ぼんの子供が引き取られてるいうのなら、尚更だす。二人も厄介もんが増えたら、余計息子はんの重荷になりますやろ」
「とうさん……」
「もうこれでおわかりだすやろ。うちが成田屋へ戻る決心がない以上、邪魔されたら困るんだす、うち一生売れ残りの芸妓でいんなりまへん」
「いえ、いけまへん。やめとくれやす」
お絹は、それでも反対した。言葉は、すでに哀願ともなっていた。その頑固さに、糸子も、あきれたように強く言った。
「あんさん、何で、そんなに止めはるんだす」
そう言われて、お絹は、涙であふれた目で、糸子をじっと見ると、
「あんさんに、てかけの苦しみを味わわしとうないんだす」
苦しそうに言い切った。
その言葉は、糸菊の糸子の予想もしなかった言葉であった。
「わての味おうた苦しみを、女として味わわしとうないんだす」
「けど、ミーさんは、てかけやない、お嫁さんにて」
「あんさん、そのお言葉真にうけといやすんか。仮にそうであっても、地位のあるお方なら、芸妓から奥さんにすぐなれますか」
だが、金で世話になる以上、そう大差はない。それはつた家のおかみからも聞いている。嫁にと言われても将来の話、世話になるからには、まずてかけと思え、と。
「ほんまにてかけというもんはつらいもんだす。いつ来てくれるかわからん旦那はんを待つつらさ。今日は来てくれはるやろか、一寸した風音にも、来てくれはったんやろか、鍋をあげたりおろしたり。それでいて、来てくれはったら、本妻さんに申し訳なさで、苦しゅうなるし、来てくれはらへんかったら、淋しいけど、ホッとしたり……それがてかけだす。そんなてかけに、あんさんになってもらいとうないんだす」
お絹の言葉は、てかけが本妻の子供、糸子に言っている言葉ではなかった。苦しみを味わった一人の女が、同じ立場に立とうとしている一人の女に話している言葉だった。
糸子は、初めて、
(このひともそんなに苦しんではったんやろか)
と考えた。
今日迄、糸子がこのお絹を見る時の眼、糸子のすることなすことを妨害し、秀松共々忠義面をして見せていると、それが先立って、本妻の子の意地も手伝い、お絹の心の中迄考えたこともなかった。
しかし、ふと今、そう考えると、同じ立場の女としての苦しみがわかるような気がして来たのである。
「な、とうさん。てかけは所詮日蔭の身だす。たとえ好き合うてても、てかけはてかけだす。ほんまに奥さんにしてもらえるのなら、わては何も申しまへん。けど仮に、てかけのままで過さんならんのなら、わてはミーさん殺してでも反対します」
「何だすて……」
「とうさん、わてみたいにむごい母親になりとうおますか。たった一人の実のわが子を手放して、つらい目をさせて、自分も泣いて暮さんならん、こんな母親に……」
「それはあんさんが自分で招かはったことですやろ。お父さんの遺言を守りたかったからですやろ」
「そうだす。守らんと、てかけという女が生きるすべがなかったからです」
「生きるすべ?」
「とうさん。わては、あんさんのお父さんと夫婦になる間柄でおました。けど、それについては何も申しまへんし、嫁になりたいと願うても無理やと知りながら、てかけになったのだす。そしてその頃のわての生甲斐は、あのひとの子供を産みたいて一心だした」
処女が女の生命であることが当時の倫理であれば、他に嫁ぐことの出来ぬ女の悲しい願いとして、それも当然のことであろう。
「子供を産むことが生甲斐、そう思うてましたけど、その子が出来たら、その子を父親のように育てたいと思う半面、ご本家のお子よりあかんたれに育ってもらいたいとどこかで願う気持になるんだす」
父親にてかけの子の方を愛されては、本妻から家を狙うと恨まれる、そうなりたくないとの気持も糸子には解せた。
「けど旦那さんが亡うならはって、成田屋の役に立てと言われたら、やっぱり、やっぱり、ええ子を産んだ、あの子はただのてかけの子やなかったて思わせとうなるのが、今度は支えを失った女の願いではありまへんやろか……」
糸子は、それを聞いて胸を衝かれた。
「意地……」
「そうだす。てかけの意地だす。その意地は自分だけの意地やおまへん。その子を将来強うさせる……父《てて》なし子のあかんたれだけでは終わらせん子にさせる……そう思いながらも又、ご本家を狙うてくれるなて、心配したり恐れたり、一緒に住めんと悲しんだり、夜半、あの子の居るお店《たな》の裏へ、泣いてへんかと見に行ったり……そしていまだにむごい母親のままでいて……そんな、そんな辛い、辛い女にあんさんなりたいんだすか……」
お絹はそこ迄言うと、こらえ切れぬように泣き出した。
糸子は、初めてこのお絹のさらけ出した本心に触れると……熱いものがこみあげた。
どんな時でも涙を見せぬ糸子の目が濡れて来ると、もうこらえられなかった。
「お絹さん……」
糸子は座敷着の袖で顔をおさえて泣き崩れたのである。
お絹は、その糸子を見てほっと息をついた。
(やっと分ってくれはった)
今日までの苦労をしみじみ味わうように……。
だが、このお絹の思いは、当てがはずれていた。糸子の涙は、すべてを分った自責の涙だったが、すべてをお絹の言うとおりにする敗北の涙ではなかったのだ。かつて、音松が糸子を、
(あのひとが男やったら、ええ商人にならはる。旦那はんの血を受け継がはったんは、あのひとだけや)
と評したことがあったが、たしかに、糸子の中に流れる、船場の太閤と言われた秀吉の血が、涙を流す無力な女には終わらせていなかった。それは商人成田屋秀吉の子として、つけねばならぬ決着の血が糸子の体内に尚も残っていたのである。
糸子の決着は、二階からおかみが降りて来たときに現われた。
「ああ、糸菊はん、来てはったんか」
あわてて身を起こした糸子を見て、その目から涙が出て、お絹も目を泣きはらしているのを、不思議そうに見ていたが、そこは、お茶屋のおかみである。
「さあ、お化粧直して、早うお座敷へ行きなはれ」
と、長火鉢の前へ坐った。糸子は、そのおかみの前へ手をつくと、
「おかみさん、ミーさんのことでお話があるんだすけど……」
おかみは、そう言われて、チラッとお絹を見た。
「あっお絹はん、あついおぶ入れてんか」
常日頃、糸子の身うけ話に反対しているお絹に席を外さそうとしているのは、糸子にもよくわかった。
「あの……かましまへん。どうぞいてもろとくれやす。お絹さんにも聞いてもらいとうおます」
「話て何だすのや」
おかみは、うながした。
「へえ。この間から、つた家のおかあはんにもお話ししてたんだすけど、ミーさんのお話、もしよかったら一日も早う決めてもらいとうおます」
「えっ、とうさん……」
お絹の口から思わず叫びが出た。
そのお絹の方を糸子は見ると、
「うちは、間違うてました。今迄あんさんにした仕打ちは、どう言うてあやまってええかわかりまへん」
「そんなことよりも……」
「いいえ。うち、あんさんがうけはった苦しみを、この身で味おうて見たいんです。そやないと、うちの気がすまへん。そうさせとくれやす」
そう言うと、手をついて頭を下げ、
「おかみさん、お願いします」
と立ち上がると、部屋から出て行った。その言葉には、今迄のような糸子の意地も、虚勢も見えなかった。見えなかっただけに、お絹はもう、止めようもないことを知った。
糸子の決着はこれであったのだ。
お絹が、うなだれて立ち上がると、おかみが声をかけた。
「真心のある言葉は強いな」
「……へえ」
お絹は台所へ行くと、もう一人の女中に頼んで表へ出た。
師走に近い夜の町の風が、お絹の心にまでしみこんでくる。
重い足で、天神橋をわたると、成田屋ではまだ大戸もおろさず、のれんがゆれていた。
「まだ働いてる」
昨日までなら、秀松をほめてやりたい気持だったが、今日は、そうは思わなかった。
(とうさんを好きにさせてあげとくなはれ)
そう言った秀松の言葉が耳に残って、複雑な疑いをどうしても抱くお絹だった。
(しかし、そんな秀松にもう一回言うて、何としてでもとめささんといかん)
たとえ御寮さんに出て頂いてでも。
成田屋の店には灯がついていたが、表は人通りがなかった。お絹は、中へ入ろうとしてためらった。成田屋ののれんをくぐったことは一度もなかったからである。秀吉の死の床へ呼ばれたときも勝手口から入ったのである。それもたった一度だけ。秀太郎の秀松が主人の代りに店をやっている今でも、表から入るのがとがめられた。これはやはり、てかけとしての意識でもあった。
お絹は、川沿いに裏手へ廻った。勝手口を探すためである。だが急場に改造された成田屋の新店は、船場の店と違って勝手口がなかった。お絹はまた戸惑った。だが、そんなことは言ってられない。
(早うせんと、間に合わん)
お絹は決心して表口へ廻った。そのときだった。橋をわたった人力車が、成田屋の店の手前まで来ると止まった。
「旦那、つきましたで」
しゃがれた車夫の声に人力車から降りてくる男の姿を見て、アッと声を出した。無理もない、その男は糸菊を世話しようとしている三浦という貿易商であったからである。
(あのおひとが何で、成田屋へ)
小首をかしげたお絹の顔に、やがてホッとしたような安心感が浮かんだ。
(そやったんか……あのひとは成田屋にたのまれたんやな)
そう言えばすべての点が、もつれた糸をとくようにほぐれて行くではないか。
(けどあの子、そのこと何でかくしてたんやろ)
お絹は、一寸不満に思った。
(あの子を見放すように成田屋へやり、この二十年別々に暮してるんや、親子ちゅうもんより水臭うなったんやろか)
お絹は、あわてて首を振った。
(何か事情があったに違いない)
お絹は、まだ一度もくぐったことのないのれんを、その夜もくぐらず、南へ向かって歩いた。
宗右衛門町まで来るとお絹は、重の家へ入らずに、つた家へ廻った。つた家にはおかみはいなかったが、美代菊がいた。
「あれ、おかあはんは」
「へえ、一寸、鳥若はんのお座敷の方へ御挨拶に行ってますけど、もう帰って来やはります。それよりおばさん、糸ちゃんのこと聞かはった」
「ああ、聞きました」
「糸ちゃんどうしても行きたいて言うのやけど……それでもええのんか」
「ええも悪いも、本人さんが行きたい言わはるもん、お止めやすと言えしまへんやろ。ほな、また来ますさかい……」
そう言うと、朗らかそうに立ち上がった。その後姿を、美代菊は、狐につままれたような顔で見送った。
その夜、座敷から帰って来た糸菊と枕をならべていつものように寝るとき、美代菊は聞いた。
「糸ちゃん。あんた、ほんまにミーさんとかいうお客の世話になるのん」
「ああ」
「後悔せえへんな」
「後悔?」
「そや、あんたほんまは意地で言うたんやろ」
「そら……初めは意地もあったけど……今は意地なんてあらへん。うちなあ、自分から進んでも、そうなろ思てるのや」
「すると、そのひと好きになったん」
「ううん、うち苦しみたいのや」
「苦しみたい?」
美代菊は床に起き上がって糸菊を見た。
糸菊の目は、天井を見つめていた。
「何のために苦しむのや」
糸菊の答えの代りに、目からは涙が一筋ながれていた。
美代菊は、今夜のお絹のことを言おうとしてやめた。
「商売繁盛、笹持ってこい」
十日戎は、一月十日、大阪中の商人が、福を授かろうと、戎宮へ詣る日である。船場や道修町の商人は、今宮戎へ詣りに行く。宗右衛門町にも、朝からそんな笹や熊手を持つ商人たちが通っていた。
そんなざわめきを聞きながら、糸子は、芸妓としての最後の化粧をしていた。二百五十円で三浦の世話を受けることが、正式に決まったのである。
「ミーさんが、あんたの衣裳をもって来てくれはるのや。あんたにそれ着せて宝恵籠に乗せたまま、あんたを引き取りたいて言うてはる」
それは、重の家のおかみの言葉だった。なるほど江戸っ子らしい粋な考え方を持つ、今宵からは旦那となる三浦のやり方だが、糸子にとって、そんなことはどうでもよかった。
ただ、旦那をとるという現実の前に、恐れや、不安、哀しみ、そんな感情がいりまじって襲っていたのである。
「お父さん、かんにん」
糸子はふと呟いた。
成田屋の娘と生まれた身が金で男の自由にされねばならぬことを、父の秀吉が生きていたら、何と言うだろうか。いや、父が存命ならば、白無垢の花嫁衣裳を身に纏うて、嫁《とつ》がせてくれたに違いない。
(それやのに……)
糸子は、ぼたん刷毛《はけ》で、最後の仕上げにかかりながら、窓の外の声をぼんやり聞いていた。
「商売繁昌、笹もって来い」
この文句にも、想い出があった。
糸子が、漢水堂の息子清に初めて唇をあたえたのも、この十日戎の宵のことだった。
あの夜、清は羞らいで堅くなった糸子の手をぐんぐん引っ張って人垣から抜けた。その手の痛さを、いまだに覚えている。
(あのとき、清さんにこの体をあげていたら、今、もっと心が軽かったかもわからへん)
糸子は、そんな気持をふり切るようにぼたん刷毛を叩いた。
そのときだった。おかみが入って来た。
「糸菊ちゃん、ミーさんのお使いの人がべべとどけてくれはったで。さ、早う見においで」
糸子は、重い心で、身づくろいをすませると、襖を開けた。
「どうぞ、こちらへ」
やがて、草色の一反風呂敷の包みを捧げるように入ってくる男の顔を見て、糸子はおどろいた。それは秀松であったのだ。
「あんた!」
糸子は、両手をつく秀松を見て鋭くさけんだ。
「お久し振りだす。とうさん、お供いたします」
「あんた、行くとこて」
「へえ、天神橋の成田屋の店だす……」
糸子の顔色が変わると、すべてを悟っていた。
「おかみさん、そんなら、うちを欺さはったんだすか」
「いや、別に欺してへん。たまたまミーさんが成田屋に厄介になってはるんで、来てほしいて」
「いやだす、行きまへん。あの家には帰れまへん」
「とうさん、お願いだす。帰っとくれやす」
「あんた、安ぼんのために、成田屋の店まで売って、その上、うちの為にお金使わせる。そんなことは出来まへん」
「いえ、とうさんのお金は、最初に芸妓に出て送ってくれはったときのお金を、ちゃんと取ったったんだす。ここのおかみさんも、あの時のままのお金にしてくれはったんだす」
「おかあはんも、初めからこのことを」
おかみは一寸あわてた。
「いや、わては、後で知ったんや。そんで、あんたがあの成田屋はんへ帰れるのならて……」
「うちは、やっぱり帰りまへん」
「とうさん、お願いだす」
「何で、帰らないかんのだす。このうちにこんなことまでして、何で帰らせようとしやはるんだす」
「帰って頂かんと、わてお母はんと一緒に住めへんのだす」
糸子は、秀松の思いもかけぬ言葉にじっと顔を見つめた。
「商売繁昌、笹もって来い」
かすかな声が道を通って行く。秀松は、じっと動かなかった。両手をついた畳の上にはポタポタと涙が落ちた。二十年間耐えぬいて来たものが堰《せき》を切ったようだった。
「お母はんと住めんて……」
「へえ。わて、成田屋へお世話になるときに、お父はんに負けんようなええ商人になれ、お家の皆さんに喜んでもらえる人間になれ、ほんまの弟やと呼んで貰える人間になれ、そのとき、お前が生まれて来た値打ちがあるんや、てかけの子と言われんですむのや、そのときが来たら初めてわてと一緒に住んだげるて……。そんでわて、それだけが楽しみで今日まで過ごして来ました。御寮さんやこいさんは、喜んでくれてはります。若旦さんはまだわかりまへんけど、近くにいてはるとうさんに帰って貰えんと、わて一緒に住めへんのだす」
「そうだしたんか……」
糸子の肩から急に力が抜けた。同時に、むごい母親だと訝《いぶか》ったお絹の子が、どんなに母親と住みたいために辛抱していたかと知ると、急にいじらしさがこみあげて来た。
「とうさん、わてばっかりやおまへん。御寮さんもこいさんも、とうさんのお帰りを待ってはります。この着物、死なはった旦さんがとうさんのためにて別染めにしとかはった花嫁衣裳、とうさんの晴れの日のために、リュウマチの体おこして、御寮さんが縫うてくれはりました。紐や、じゅばんは、こいさんだす。皆さんが待ってはるんだす。帰っとくれやす」
糸子は、秀松の前へ進んだ。そして両手をついた。
「秀太郎はん……帰らせて頂きます」
「えッ!」
秀松は、喜びの目を見張った。
「帰らして頂きます。あんたのそんな気持も知らんと今日まで意地張ってて、どんなにおわびを言うてよいやらわかりまへん。今日からわて、成田屋の人間になって、あんたとお母はんに一緒に住んでもらいます」
「とうさん!」
「とうさんやありまへん。あんたは、わての弟だす。ほんまの弟よりええ弟だす」
糸子は秀松の手をとった。秀松は、
(姉さん!)
と心の中で絶叫した。
やがて、成田屋と大きく札がかかげられた宝恵籠にのった糸子が、南の界隈を練っている姿が見られた。その籠の横には、成田屋のハッピを着た音松、秀松、作造や丁稚たちが明るい顔をしてつき添っていた。
「店のために芸妓になってくれはったとうさんのお帰りだす」
それを船場中、いや大阪中の人間に見せるためだった。
その宝恵籠に乗った糸子を見て泣いている女がいた。お絹だった。
(これでとうさんも、やっと成田屋へ帰ってくれはる。秀太郎がようやってくれた)
思い切りほめてやりたい衝動にかりたてられた。
糸子は、こうして成田屋の店へ戻った。
「ああ、わしの世話する女が来たかね」
作造はてれたように笑ったが、糸子にぐっと睨まれて、すまんとあやまると、もうその場にはいなかった。
お絹に秀松が逢いに行ったのは、その夕刻だった。
「お母はん、だましていてすんまへん」
顔を見るといきなりあやまったのは、三浦のことをかくしていた言いわけだった。
「かましまへん。あんたにはあんたのわけがあったんやろさかい。けど心配したで」
「へえ! すんまへん。お母はん、喜んどくれやす」
「何や」
秀松は恥ずかしそうに言った。
「とうさん、わてのこと弟やと呼んでくれはりましたで」
「ほうか、そらよかった」
「それで、今晩は、せめて心祝いしたいんだすけど、お母はんも店へ来てくれはらしまへんか」
「わてが……あんた、それはあんたが誘いに来たんか」
「いいえ、御寮さんも、こいさんも、それにとうさんも……皆さんが言うてくれはったんだす。皆さんお待ちだす」
「御寮さんも、皆さんも」
お絹の胸があつくなった。本妻がてかけの来るのを待っている。
(そんなにまで、この子のことを喜んでくれてはるのか……)
お絹の心は動いたが、うんとは言わなかった。心の嬉しさをかくすように秀松に向かって言った。
「秀松、わてはよせてもらえん」
「えッ」
「あんた、若旦さんの行方がまだわからんのやろ。若旦さんが成田屋へ戻らはったとき、初めてあんたが世話になったお礼の御挨拶に行こ」
最後迄母と子のあの時の約束を守ろうとする、冷たいお絹の言葉であった。
(まだ、あかんのか……)
秀松の肩の力は抜けて行った。
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雪 の 門
芸妓の糸菊こと糸子が、秀松の気持に打たれて成田屋へ帰ってから一年が過ぎた。
この一年の間に成田屋も随分変わっていた。商売は順調にのびて、下着問屋の成田屋と言えば、誰一人として知らぬもののない店になって来たし、音松と富江の間に男の子が生まれて、音太郎と名付けた──だがそんな目出度い話ばかりでもなかった。
おひさが、リュウマチ性の心臓病で入院し、明日とも分らぬ運命になっていたのだ。
おひさを本町にある第一病院へ入院させたのは、天神橋の成田屋の店では、療養さすことがむずかしいからであった。
糸子と愛子は、ずうっと病院へつきっきりであったし、秀松も、商売の行き帰りは必ず寄っていた。おひさは秀松の顔を見ると、
「すまんなあ、あんたのおかげでこんなええ病院に入れてもろて、わては成田屋の嫁として死んで行ける」
「御寮さん、何言うてはります。一日も早うようなって頂かんと。そのうち若旦那さんもきっと帰って来やはります」
「あんな子、もうわての子やおまへん」
近頃は、安造のこととなると怒ったように口を閉ざすおひさだった。
そのおひさの命も、二、三日と言う寒い朝、つきそっている糸子が、そっと秀松を廊下へ呼んだ。
「秀さん、まだ安ぼんの居所は分りまへんのか」
「へえ。ずうっと、作造はんに探してもろてますのやけど」
それは事実だった。おひさが病床に倒れるや、秀松は作造に命じて、安造を探させた。
「お金は、何ぼかかってもよろしいおます。何とか、どこにいやはるかだけでも探しとくれやす」
と言っても、それまで秀松は、安造を行方不明のまま放っておいたわけではなかった。地方や、得意先に送る品物には、安造の写真をつけ、見つけたら知らせてほしいと頼んだり、満洲から帰って来たひとをたずねて行っては聞きもした。
だが安造の消息は全く分らなかった。
「すんまへん。行き届きまへんで」
「何言うてはるのや。あんたに何から何まで一人でやってもろて。ただなあ、おかあはん、あれで安ぼんに逢いたがらはって、せめて一目でも逢わしてあげたら思てなあ」
糸子に言われずとも、秀松に対する遠慮で、安造を怒るおひさの胸のうちは知っていた。
その夜、おひさは安造に逢えぬまま息を引きとった。
息を引きとる前に、見守る糸子、富江、音松、愛子、秀松の顔をうつろな目で見ながら、部屋の隅にいる秀松に手をさしだした。秀松は、その冷たい手をしっかり握って、
「お母はん、安造でっせ! 分りますか!」
秀松にとっては、一世一代の嘘だった。
それを信じたのか、信じずに秀松の気持が通じたのか、おひさは、
「おおきに」
の一言を残して息を引きとった。この「おおきに」には、おひさの秀松に対するすべての感情がこめられていた。おひさも船場の娘として決着をつけたのであろう。その死顔には微笑が浮かんでいた。
糸子たちは、その顔を見て泣いた。
この病室の廊下で、もう一人泣いていた女がいた。お絹であった。
「申しわけおまへん」
お絹の涙には謝罪があった。それはてかけの本妻に対する謝罪でもあった。
お絹は、おひさが入院したと聞いて毎日、病院へ通っていた。そして、汚れものを洗ったり、病院の食事は不味《まず》いと知って、おひさの食べものから、糸子や愛子たちの食べものさえ運んでいたのである。糸子が、
「お願いだすさかい、一回、病室に入っとくれやす」
とたのんでも、
「わては、御寮さんにお逢い出来る女と違います」
と頑として病室へ入らなかったのである。
安造の消息らしい消息を作造がつかんで帰って来たのは、おひさの初七日を明日に迎えようという日だった。
せっかく安造の消息をつかんだ作造は、行き違いになってガッカリしたが、安造の消息が、走り廻った東京ではなしに、帰りがけの汽車で隣りに坐った満洲帰りの男から聞いたというのも皮肉だった。
ただ、作造は、安造の写真を使い切って持っていなかったので、安造らしいということで帰って来た。
秀松は、さっそく愛子を連れてその男の家にたずねて行くことにした。
その汽車の男は、越前の三国の町に実家がある吉岡房之助と言う男だった。
大阪から汽車で六時間、北陸路に入るに従って雪はかなり積もっていた。
「安一が見たら、喜びますやろに……」
汽車の窓から愛子がつぶやいた。日帰りでかなりの強行軍だから、安一は糸子が預かっておくことにしたのである。
「そうだすなア、ぼんぼん、よんべ大阪で降った雪見て、手をたたいて喜んではりましたよってになあ」
そう言って秀松は、愛子を見て目をそらした。今は、思い切り地味な姿をして、商家にとけこもうとしている愛子ではあったが、一度カフェーの水になじんだ姿は、どことなくなまめかしかった。
そんな女を見ることは秀松にとっては辛かった。二十八歳になっても秀松は女を知らなかった。船場の丁稚は、先輩に飛田や松島遊廓へ連れて行かれて女を知るのが通常であるが、秀松には連れて行く先輩はなかった。勿論ひとりでそんな場所へ行く金もなかったし、成田屋の跡をついでからも、遊びに行くどころか毎朝五時に起きて、店を閉めるのが午後十時、帳面をつけるのが終わると午前一時、そんな生活であった。それに、同業者の寄り合いや、客を招待する料理屋や、お茶屋の席へは一度も顔を出さず、すべて音松にまかしていた。
芸妓の出る酒席へ行くことは、糸子を冒涜《ぼうとく》するように思えてである。
だから二十八歳まで女を知らない秀松にとっては、愛子のような女と向き合って坐っていると、落ち着けなくなるのである。
越前の金津の駅へ降りると、雪が降っていた。すでに今迄降っていた雪が膝の高さぐらいに積もっているのだが、この分だと、例年のように屋根の庇までとどくのではないかというのは、うどんを食べに入ったうどん屋のばあさんの話だった。
「そうなると汽車も止まりますんでなあ」
秀松はおどろいた。それまでに早くすませねばならないのだ。
あわてて立ち上がった秀松と愛子に、ばあさんは意味ありげに笑った。
「お泊まりなら水明館がよろしいで。あこは庭がきれいで、温泉へ入りながら雪が見えますで」
秀松は、芦原《あわら》が温泉地であることを初めて知った。
吉岡房之助の家は、そこからバスでも二十分もかかるところにあった。しかも大雪でバスは出なかった。途中で、藁の雪靴を買い、這うようにして歩いたのだが、ともすれば転びそうになる愛子の手を握って進まなければならなかったことは、秀松にとって苦痛だった。やっとたずねあてて吉岡の家に着いた頃は、日が昏れ始めていた。
吉岡の家は貧しい漁師の家だった。房之助は、この家の次男で、女房が海女《あま》で働き、自分は二年間満洲の鉱山へ出稼ぎに行って病気になって帰って来たという。
秀松の来意を知ると、それでも房之助は、床から起きて囲炉裏《いろり》の前へ二人を招じた。凍りついた体に、火は痛かったが、一杯の熱い茶でやっと人心地がついて、写真を出した。その写真を見て房之助は、
「この人です。もっと汚れてなすったが、この人に間違いありません」
とうなずいた。秀松と愛子は目を輝かせた。
「で、どこにいたんですやろ」
「大連やった。『やまと』という、日本人がやっている呑み屋でな。いつもゴロゴロと酒を呑んではった」
「何か商売してたんですやろか」
「いや、深うは知らんけどなあ、何でも、その仲居のヒモやいう話やった」
秀松と愛子は顔を見合わせた。
房之助は、秀松と愛子を夫婦と見てとったのか、何の遠慮もなしに話をつづけた。
「けどなア、言うて悪いけど、えらい鼻つまみもんでなあ。わいは内地へ帰ったら商家の旦那やけど、店乗っ取られたんや。日本人を見ると、そんな話して、あげくの果ては、金貸してくれ、や。それも十銭、二十銭。日本人の恥さらしじゃと、満洲ゴロに道路のまん中で蹴られてるの見たこともありますで」
「そうだすか……で、その呑み屋ちゅうのは大連のどこだすやろか……」
秀松は、それ以上のことは愛子に聞かせないように、詳しくその場所を聞くと、お礼に一円札を包んでさしだした。房之助のペコペコ頭を下げる礼の声に送られて、表へ出ると、冬の日が、もうとっぷり昏れていた。
吹雪はますます勢いをまし、日本海の波の音がすさまじく聞こえて来た。
二人は寒さにふるえた。せいぜい家の軒下を拾って歩くのであるが、それでも、雪は、膝まで埋めた。
「愛子はん、背負うてあげまひょ」
見るに見かねた秀松がやせた背中をさしだした。遠慮をした愛子だが、すでにズブ濡れになった体と、先刻聞いた話に気力をなくしてか、歩くことは無理だった。
秀松の背中に乗った愛子の体はずっしり重かった。だが秀松には力があった。丁稚の頃、いつも一反風呂敷いっぱいの反物を背負って歩いたからである。
「しっかりつかまりなはれや」
吹雪に向かって歩く秀松の肩に、愛子はしがみついた。
秀松の背中に、愛子の女の体が喰いこむように感じられて、秀松はうろたえた。秀松の体が熱をおびて来たのである。
秀松は、早く旅館へ着いて愛子の体をおろしたかった。
芦原温泉の水明館へ着いたのは、一時間後だった。途中交番で、汽車が不通になったと聞いて、水明館に向かったのである。
水明館の玄関につくと、秀松は、崩れるように腰をおろした。愛子はただ力なく、帳場の横に坐った。だが目は、秀松に対する深い感謝の色を浮かべていた。
あいにく部屋は満員だった。冬場の温泉に客が多いことと、汽車の不通で客が帰らなかったのである。
「何とかしてもらえまへんやろか、このひとだけでも。わては玄関先でも結構だすさかい」
宿の番頭は、二人を、駈け落ちものとふんだ。
「けど、どないも出来まへん。あいてる部屋がおまへんのやさかい」
そこへ姿を見せたのは、宿の主人だった。主人は、ズブ濡れでふるえている愛子を見て、
「何を言うてるのや、こんなにふるえてはるのに……温泉へ入れてあげなはれ。さもないと肺炎にならはる」
番頭を叱って、自分から、
「汚ない部屋ですけど、わたしの子供の部屋があります。丁度、京都の学校へ行って留守ですので、そこでよろしかったら」
秀松は、地獄で仏に逢ったような喜びを感じた。
広い温泉の中でただ一人、愛子は、目を閉じていた。冷え切った体も、だんだん血が通い始めて、白い肌に、うっすら赤味さえおびている。
(こんな想い、初めて……)
愛子の胸の中には、秀松に対する驚きがあった。それも無理はない。愛子は、いつも、男のために働かされ、生きて来たのだ。
最初の男、丑吉は、愛子の金をまきあげる与太者だった。そして、安造は、愛子の働いた金で、遊んでいた。男のために尽くさねばならない宿命につきまとわれていた愛子が、男に初めて尽くされた。
それが秀松であったのである。それのみか、成田屋を苦境に立たせる原因となった愛子を何も言わずに引き取ってくれ、子供の安一を、若旦那にまでしてくれる。その上にである。あれだけひどい仕打ちを受けた安造の身を案じ、この北国まで共にたずねて来て、しかも、膝まで埋もれる吹雪の中を背負って歩いてくれた秀松──。女として、母として、こんな喜びがあるだろうか。
愛子は、湯をはじくように立ち上がった。一人の子しか産んでいない愛子の娘のような乳房が、何を願うのか、弾んでいた。しかしその隣りの男風呂では、秀松が、体を洗いこすっていた。まるで燃えている体を垢と一緒にこすり落とすように。
宿の主人は、汚ない部屋と言ったが、大きな宿屋の私室だけに、豪華な部屋だった。
うどん屋のばあさんの言ったように、目の前に庭があり、置き炬燵から、硝子障子を通して、雪の庭がまるで絵に描いたようであった。
そんな雪を見ながら、二人は遅い夕食の箸をとった。美味《うま》い蟹《かに》だった。秀松が、飯をつごうとすると、愛子は、あわててさえぎった。
「ごはんぐらい、つがせておくれやす」
秀松は、遠慮しながら給仕をうけた。
もし、この光景を第三者が見たら、きっと落着いた、あたたかい夫婦と見るであろう。
「さあ、明日、早うおますさかい。もうやすんどくれやす」
秀松は、女中が食事を下げると、隣室へ別れた。秀松は、主人に事情を話して寝室をわけてもらったのである。秀松の寝床の隣室は、学校へ行っているというこの宿の息子の勉強部屋であろう。見たことのないような横文字の本がならんでいる本棚を見上げて、秀松は床に入った。疲れ切った体なのに眠れない。
隣室から、愛子の帯をとく音がそんな秀松の神経をとがらせた。
「おやすみやす」
愛子の挨拶が、起きているのかと問いかけたように聞こえたが、秀松は答えなかった。それでも十分程たったが、隣室からはもう何の音も聞こえなかった。
秀松は、愛子が寝てくれたことを喜んだ。そして、自分も眠ろうと努力した。
どれ位たったろうか、漸く秀松が眠りに入り始めた頃だった。急に、頬を風が撫ぜたような気がして秀松は目を開けた。
雪明りですかして見ると、いつの間にか襖が開いて、愛子が、枕許でじっと秀松を見つめている。
「愛子はん、何だす?」
起き上がろうとした秀松の体に、ふいに愛子が抱きついて来た。
「秀松さん、抱いて」
秀松の胸が高鳴った。
「お願い。あんたにお礼の出来るの、これしかないの」
「けど、あんさんは若旦さんの……」
「あんな人、もうええんだす! 他人だす!」
愛子は、秀松の体にかぶさった。秀松の体が、宿の寝巻の下の愛子のあたたかい素肌にふれたとき、秀松は煮えたぎる血を抑えられず、
(もう、あかん)
と思った。それでも秀松は、懸命に愛子の唇をさけた。しかし愛子の慣れた手は、秀松の体をまさぐった。
秀松の瞼に、母親のお絹や安造の顔が、ぐるぐる廻った。
(いかん、いかん)
心では必死にさからいながらも、男の体は愛子をそれ以上拒否出来なかった。
だが、秀松の男の体に愛子の体が触れたとき、もうすべては終わっていた。
女体は勿論のこと、自ら慰めるすべも知らず今日迄来た秀松の欲望は、愛子と交わることなしに触れるだけで果てていたのである。
秀松は、自分の体の異変を知ると同時に、全身の血がさめた。
厳密な意味から言えば、やはりそれは男女の交わりだったかも知れない。道徳的に言えば、ある種の浮気だったかも知れない。
だが、少なくとも、秀松は、安造に対して顔向け出来る立場に辛うじてとどまれたのである。
「愛子はん、いけまへん。向うへ行ってとくれやす」
秀松は、もう冷静に言えた。
慣れた男とばかり交わっていた愛子は、この秀松の瞬間を知らなかった。童貞の秀松の生理には気付かなかったのである。
愛子は、突き放されたことを知った。
(こんなときまで、このひとは、あの安造に義理をたてはる)
その瞬間、愛子の心に、冷ややかな風が吹き抜けた。そして耐えられぬ程の恥ずかしさがおとずれた。
「かんにん……」
愛子は泣き伏した。はだけた胸のゆたかな乳房を真っ白なシーツに隠すようにして泣きむせんだ。その背中を秀松がやさしく撫ぜた。
「愛子はん、わてこそあやまらないけまへん。愛子はんのお気持は、うれしいおます。けど……今晩のことは勿論、若旦はんにも、誰にも言いまへん。忘れまひょ。忘れまひょ」
愛子は、立ち上がると、隣りの部屋へ小走りに走った。
愛子の泣き声はずうっと聞こえて来た。泣き声にむせるのか、それははげしい咳をまじえていた。
(風邪でもひかはったんやろか)
秀松は、妙にその咳が気になった。
翌日の夕方、やっと開通した汽車に乗って二人は大阪に帰って来た。
「忘れまひょ」
と言った秀松だったが、汽車の中では、愛子も秀松も妙に気づまりが続いた。ただ、汽車の中で二、三度、はげしい咳をする愛子に、
「大丈夫だすか」
と声をかけただけだった。
大阪にも粉雪が舞っていた。しかし天神橋の成田屋に帰った二人に、誰も疑いの目を向けようとはしなかったのが、秀松には救いであった。
汽車が不通になったことは、前日迎えに行った音松が駅で聞いて知っていたのである。
「えらい目にあわはりましたなア」
とか、
「たまにそんなことでもないと、秀松はんは温泉へも行けまへん」
と、逆に喜んでいた位だった。そして、待ちうけていた安一がまとわりつくのを抱きながら、
(よかった。今迄通りの気持で抱いてあげられる)
と思いながらも、何故か淋しくなった秀松である。
だが、愛子の咳は、その夜からはげしく続くようになって来た。
愛子に不治の病いの診断が下されたのは、それから三カ月たった春の事だった。
あの夜から咳がおさまらず、単なる風邪と思って売薬を飲みながら、熱っぽい体で働き続けていたのは、やはり夫のいない、働きもの揃いの他人の世界で床に臥せることに気を使ったのであろうが、目に見えてやつれて行くのを知った糸子や、秀松たちが、無理矢理おひさの入っていた第一病院へ連れて行ったのである。
「肺結核です。しかも今もう二期に入ってます。よくこれだけ起きていられましたなあ」
医者から糸子は言われて、驚いてその日から入院の手続きをとった。
それでも、
「わては何ともありまへん」
と言い張る愛子に、
「安一ちゃんの事を考えなはれ」
と、無理矢理に、病院のベッドへ寝かせたが、愛子は、もうその日から起き上がることすら出来なかった。
「可哀そうに。余っ程つらかったんやろうな」
糸子は、そっと涙をふいた。
また、その日から、秀松の病院通いが続いた。付添婦はつけたが、富江にもまだ乳の離れない子供がいたし、糸子は家事一切を切り盛りしていたので、秀松が毎日、安一のことを報告しに来たのである。
「今日は、ぼんぼんは、作造はんに連れられて、電車を見に行かはりましたで」
とか、
「今日は、朝からご飯を三膳も食べはりました」
時には、
「お母ちゃん、もういくつ寝たら帰って来てくれはる、言うてはりました。早う快《よ》うならんとあきまへんで」
と励ますことも忘れなかった。愛子はそんな秀松の現われるのを待ちかねたように嬉しげにうなずいていたが、やがて弱々しい微笑を向けるだけとなり、そしてその気力さえ失われて来た。愛子の病気の進行は意外な程早かったのである。
秀松は決心した。
(若旦はんを迎えに行こ。死なはる前に一目でも逢わさないかん)
秀松は、愛子が快くなってから、一緒に満洲へ探しに行こうと思っていたのである。だがそんなことは言ってられなかった。
「音松どん、一カ月ほど店をやっててくれはらんか」
「一カ月、どこへ行くのや」
「満洲へ行って来る」
「そうか。分った。行って来たげて……」
決心すると実行は早かった。秀松は、言えばきっととめるに違いない糸子には相談せず、身のまわりの品物と、商売もののステトコを持つと、病院へ寄った。
「先生、何とか、一カ月だけ、寿命をもたしてもらえまへんやろか」
医者は、眉間に皺をよせた。
「そんなにも、もたんのだすか?」
「この病人は、梅雨《つゆ》が問題です。といって、一年もつ人もあれば、ぽっくりといく人もあって、後は精神力ですな」
「その精神力でもつように、きっとさせますさかい」
秀松は、病室に入ると楽しそうに言った。
「愛子はん、喜んどくれやす。若旦はんから電報が来ましてな、これから迎えに行って来ます」
「どこへ……」
「満洲だす。一緒に帰ってくるまで元気でいてとくれやすや」
愛子は、うなずきながら何故か手をさしだした。秀松は、その痩せ細った妙に生温かい手をぐっと握り返しながら、
(生きてなあきまへんで)
と心の中で呟いた。
ドアから出るとき、振り返った秀松に、何と愛子は、どこにそんな力があるのかと思われる位にベッドから起き上がり、笑顔を見せて見送ったではないか。
笑顔を見て病院を出た秀松には、希望が湧いた。
弱々しい笑顔であったが、秀松はその愛子の意外な姿を精神力の表われと思ったからである。
秀松が、その足で、宗右衛門町の重の家に報告に行くと、母親のお絹も満洲と聞いておどろいたようだった。
「お母はん、今度こそ若旦那さんを連れて帰って来ます」
「そうか。ほんまにお連れするのやで」
お絹は、懐からお守り袋を出した。
「これつけて行き」
「いえ、お母はん。わて、持ってます。何年か前、わてが初めてお母はんに、道で逢うたとき、お母はんがくれはりましたお守りだす」
「あれは、お前のやろ。これはわてのや。わてが一緒にいると思て」
「へえ……頂いて行きます」
秀松は、駅に待っていた音松の見送りをうけて、舞鶴行きの汽車に乗った。
「お願いだす。愛子はんたのみましたで。若旦さんのこと毎日聞かしたげて、精神力ちゅうやつでもたしたげとくれやす」
汽車がプラットホームから出ようとするとき、音松は、窓からこう言った。
「秀松どん。これが最後のつとめやな」
秀松は大きくうなずいた。
秀松の言った愛子の精神力は、それは秀松の完全な思い違いであった。精神力が生命を左右するとの医師の言葉に従えば、秀松の出発は愛子の精神力をむしろ失くしてしまったと言えよう。
何故ならば愛子の生命力は、毎日現われる秀松によって支えられていたのである。無論、安一にも逢いたい愛子であったが、病気でも伝染させたら……そう思う母心が先に立った。
だから彼女を支えていたのは、秀松だった。
(あのひとが来てくれはる。うちはそれでええ)
あの温泉で、体を拒まれてからの愛子の望みは、単に体の交わりを望むことより、いつか──と言う大きい夢になってふくらんでいた。
(安造は、もう恐らく帰って来まい。向うで、呑み屋の女のヒモになってるのが、あの人の生き方や。もし帰って来たら、その日に別れてここを出る、そして一生かかっても、あの秀松さんを幸せにしたげる。それがわての生き方や)
その秀松から、嫌悪さえ感じている安造を、満洲まで迎えに行くと聞いた途端、愛子の心の支えは切れたのである。
彼女が、ベッドに起き上がり見送ったのも、その愛子の秀松への永遠の別れを告げる最後の精神力で、その笑顔は、女として尽くされる喜びを教えてくれた秀松へのせめてもの感謝の表われであった。
愛子が死んだのは、秀松が出発して十日目の朝だった。
急を聞いてかけつけて来た糸子、音松、富江、作造、それに安一に、この病い独特のしっかりした意識で、愛子は、
「皆さん、おおきに。うちは、成田屋で初めて人間らしい生活をさせてもらいました。安一を……」
お願いしますとはもうはっきりも言えぬ愛子は、糸子が抱き上げる安一を見て、
「安一……お父ちゃんが帰って来はったら……あやまって……もろてな……秀……秀……」
秀松にわびてくれと愛子は、秀松に「おおきに」と言い遺したおひさの時と同じように、それで息を引き取った。
愛子の死を秀松は知らなかった。船へ電報を打とうと言うのをとめたのは音松だった。
「もし秀松どんに知らしたら、若旦さんにかくすことは出来んやろ。そしたら若旦さんは一緒に帰らはらへんかも分らん。これ以上秀松どんを苦しましとうない。ここは一つ、帰らはるまで黙っとこやないか」
その説には皆も賛成した。
梅雨がしとしと降る六月十八日、愛子の葬式が行なわれた。成田屋の主人の妻にふさわしい立派な葬式だった。
その悲しい葬式に、一つの実が自然にみのった。他でもない作造と糸子であった。作造は、この葬式の一切の切り盛りをやっていた。商売ではあまり腕を発揮しない彼も、大部屋役者から、例の弁護士船田に欺しとられた小料理屋の店もしていただけに、こんなときには役に立った。葬儀屋の手配から、会葬者への挨拶、寺のお布施《ふせ》から、通夜の弁当のたぐいまで、洩れなくさばいて、うるさい町内の世話役を感嘆させた。
そんな作造の手足になって働いたのが、糸子だった。さすがに水商売の水に浸っただけに、作造の指図の通り、機敏に働いた。
「焼香順ってやつをつくって下さい。これだけは、どの親戚が上なのかさっぱり分らねえ」
作造に頼まれた糸子は、音松や富江に相談した。
最後に糸子が発言した。
「作造はんは、うちを世話した旦那はんやさかい、うちの前に来てもらいまひょ」
それですべてが決まった。
葬式の日、紋付姿の作造と、喪服姿の糸子は並んで坐った。
「奥さん、この度は誠に……」
そう糸子に悔みの挨拶をする弔問者もいた。作造は複雑な面持で頭を下げていたが、糸子は足りなかったものが満たされたような落着きを得た。
それから二十日たった愛子の三七日《みなぬか》の法要の夜、糸子が、客が帰った後、濡れ縁へ出て涼んでいると、せまい庭に、作造が立っていた。
「暑いねえ……」
「川っぷちへ涼みに行きまひょか……」
糸子も庭下駄をつっかけた。二人は腰をおろして夜の堂島川の流れをじっと眺めていた。
「愛子さんが、夫婦になれと言うてくれてはるんかも知れまへんな」
糸子のこれだけの言葉で、五十男と三十女の大人の仲が実を結んだのは、充分で又自然であった。
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異 国 の 風
奉天《ほうてん》の風は、冷たさを通りこして痛かった。もう零下二十度に達しているに違いないが、先刻から秀松は、十間房の道を、あてもなく歩いていた。
もう大阪を出発してから、かれこれ三カ月になる。大連、ハルピンと、安造がいたという跡を転々と歩いて来たのである。そしてこの奉天へやって来たのである。その間も秀松は安造探しだけをしていたわけではない。雑貨屋と、めぼしい店を見つけると入っては、成田屋のステトコを見せて売った。商品が売れると、大阪へ速達を出し、商品を送らせ、その売上げを、旅費と滞在費にあてた。といって、秀松は殆ど、宿賃は使わなかった。日本人と見ると、誰にでも頭を下げて、事情を話して、実費で泊めて貰うことにしたからである。無駄な金も使わず、安造の情報もとれるので、一挙両得であった。こんな秀松を見て、その懐中に多額の金を持っているとは誰も信じなかったであろう。だが秀松は、万が一を考え、安造のために三百円の金を胴巻深くおさめていたのである。
秀松が安造は奉天にいると知ったのは、ハルピンの警察でである。
このハルピンの警察に、安造はとうとう厄介になったらしい。容疑は詐欺であった。日本から来た見物客に、安い宝物を買ってやると称して、五円まきあげたらしかった。五円で宝物を買えると金を渡した見物客も見物客なら、取った安造も安造である。結局は、微罪釈放となったが、内地なら前科がついたに違いない。
「それにしても、あんなぐうたらな男ば見たことない。日本人の面よごしめが」
九州弁の警察署長に言われて、秀松は焦りを覚えた。
「何でも、奉天にうろついちょるちゅう話ば、向うへ赴任した男に聞いた」
その言葉を聞くと秀松は出発したのである。そして奉天へ着いて十日目、まだ、安造は、どこにいるか分らなかった。
(何としてでも、愛子さんの死に目にあわさないかん)
成田屋からの手紙には、愛子が秀松の出発と殆ど同時に死んだことを伏せてあるとも知らずに、探し廻った。だがその安造の姿は、奉天でもなかなか見つけることができなかったのである。安造は、その頃、成瀬音十郎と称して、目と鼻の先の浪速町にいたのである。
奉天の飲食街は、十間房と柳町と浪速町に大別される。十間房が一番高級街で、柳町、浪速町と漸次《ぜんじ》格が下がる。安造が、浪速町にある日本人経営の小春という小料理屋の下足番兼雑役夫として住みこんだのは、浪速町という名前に愛着を覚えたからである。
(大阪、どないなってるやろ)
警察で油をしぼられてからは、空元気も見せることなく、安造は、生来の気の弱さで涙をにじませる時が多かった。
(わいは、社長や!)
汚ない三等船室で、さも大人物のように、肩をいからしていた安造が、
「貴様! 大きい面をしやがって!」
と、同室の木戸山憲伍と名乗る満洲ゴロから、仕込杖の鋭い細身の刃を見せられると、小さい肝っ玉を、まるで梅干しのように小さくして、その満洲ゴロのあんままでするようになったが、
(今に見とれ。こんなやつ、わいの社員に使《つこ》てこましたる)
だが、大連の港へ着いたとき、もとから影も形もない硝子工場の社員が迎えに来ている筈もなかったのである。それでも安造は、来ると信じて、三日三晩、大連に泊まり、波止場で待っていたから、人間の性は案外善かも知れない。
やっと欺されたと知ったのは、京都の船田へ電報を打って、それが、宛先不明で返って来た時である。電報代がぎりぎりの懐中だった安造が、途方にくれていると、町でバッタリ逢ったのが、例の満洲ゴロの木戸山憲伍だった。
「貴様、それでも日本人か!」
それでも木戸山に連れて行かれた「やまと」という小料理屋で高粱酒《コーリヤンしゆ》を呑んだ安造は、もう気が大きくなっていた。
「わては、これでも大阪へ帰ったら、船場で成田屋ちゅう一番の問屋の息子や」
「へえ、あんたが、成田屋はんの……」
大阪から、広島、下関、博多と転々と移って来た仲居は、おしのといった。かつて、船場で女中奉公に出たというこのおしのは、成田屋のことをよく知り、その頃では珍しい中学校へ通う安造の姿を見ていたのを想い出した。
流れ流れた酌女、これが芸妓なら、馬賊芸妓といわれる。こんな百戦練磨の女でも、あまりにも単純すぎる男の嘘には安外欺されたのは、やはり郷愁のなせるせいかも知れない。
「金ならまかしとけ。今日手紙出したさかいに、そのうち送ってくる」
その言葉を信じ、おしのは、安造を泊め、一円、五円と渡していたが、金は来ない。その上、毎日その小料理屋へ来ては、呑み食いし、でかい口を叩いていたが、大阪からの商用に来た男に成田屋の現況を聞いて嘘と知るや、おしのは、こんな男にあざむかれたおのれの単純さにむかっ腹を立てた。
(こんな男に欺されて、わてはこの先男を手玉にとりながらも、欺されてへんやろかと心配せんならんようになったやないか)
ある夜、安造は、壮士くずれの男に叩きのめされた。
「貴様、あんな女を欺すとは余程の悪じゃの」
それでも安造は、女の部屋から、女がかくしていた金を持ち出すと、ハルピン行きの汽車に乗ったのである。木戸山憲伍がハルピンにいると聞いたからである。木戸山憲伍は、満洲ゴロとは名乗っているが、大志を抱いているわけでもなく、政界や軍にも関係がない。たまたま、武官や警察に面識のあるところから、料亭や、ペスチャンと呼ばれる女郎屋などの用心棒兼相談係にやとわれる、一種のたかりであった。
安造はハルピンでこの木戸山の使い走りをやっていたが、例の詐欺事件で捕えられたとき、釈放されたのも、その木戸山のおかげであった。そして木戸山が奉天へ移るということで、安造も、刺身のツマのように従って来て、浪速町の小春へ木戸山が入りこむや、口利きで下足番の職を得たのである。
小春での安造の人気は悪かった。商売用の酒を盗み呑みはするし、酔っ払うといつもの癖で、
「わいは、金持の若旦那や!」
と言い出すのである。
「ねえ、木戸山先生、あの音十は困ったもんですよ! 何とかなりませんかねえ」
木戸山は、おかみに言われて顔をしかめた。木戸山憲伍の子分、成瀬音十郎と名をかえた安造を、誰も成瀬と呼ばずに音十と呼んだ。木戸山にして見れば、目下、小春は安住の地である。安造ごとき男のために、折角の安住の地を失うことはない。
「貴様! 今後、酒を盗んだら、放り出して凍死させるぞ!」
目の玉が飛んで出る程なぐられてからの安造は、盗み酒はしなかったが、そのかわり、客の呑み残した酒を呑むようになって来た。
「こら、野良十!」
仲居たちは、音十から野良十と名前をかえた。
秀松が、この小春の裏口のドアを開けたのは、安造を探すためではなかった。通りがかりに、偶然弁当の水を貰いに来たのである。奉公人が寝ている昼間のこと、おかみが水を与えようとすると、秀松は金を払おうとした。
「あんたも日本人だろ。同じ日本人が、水代の金をうけとれないよ」
「けど、日本人やさかい、お金払います。それに、あんさんとこは水商売と言うやおまへんか」
たかが一厘の水代にこう迄言うこの秀松が、おかみの気に入った。呑んだ金も払わない日本人に辟易《へきえき》しているおかみである。
「いいよ。弁当使うならここでお使いよ」
そのおかみがもう一つ感心したことがある。粗末な握り飯を寒そうに食べている秀松を見て、
「何か、あたたかい汁でもつくらせたげるよ」
そう言い出すと、秀松は首を横に振ったのである。
「これは、私の好意なんだよ。好意なら受けられるだろう」
「そんなら、御好意だけ頂戴致します。ここでおいしいもん頂きますと、これから先、口がおごって不味いもんが食べられまへん」
おかみはうなった。大阪商人はとかくすごい、とは聞いているが、それを目の前で見せられたのだ。
おかみは完全にかぶとを脱ぐと、ふと呟いた。
「うちにも一人、大阪商人のなれの果てがいるけど、えらい違いだよ」
「大阪商人のなれの果て?」
秀松が聞きとがめた。
「なあに、音十と言ってね。あんたと同じ歳位だが、こうまで違うのかね。酔っ払うと、船場の呉服問屋の息子だなんて大きいことを言うくせに、あの恥っさらしめが」
「呉服問屋……あの、成田屋とは言うてはらしまへんだしたか」
成田屋と聞いて、火鉢のかげから、ぬうっと起きあがった男がいた。木戸山だった。
「音十も、成田屋って言ってたが……お前は」
木戸山は、ジロリと秀松を見たが、成田屋の文字が染めぬいてあるその前掛けに、視線をとめた。
「ホホウ、おかみ、これで厄介払いが出来そうだぞ」
「若旦さんが……」
秀松が崩れるように、土間から腰をうかすと、膝のにぎり飯が土間へ転がった。
やがて土間伝いに、けげんな顔付きで姿を見せた安造に、秀松はすがりついた。
「若旦さん! お久し振りでございます!」
安造は、秀松と知ると、昔の安造にかえっていた。いや、おかみや木戸山や興味深そうに見つめる店の者たちに、自分の地位を見せつけるかのように胸を張った。
「秀松! こんなとこへ何しに来たんじゃ」
「お迎えに来たんでございます」
「あの店へは帰らん。あんなとこへは帰れるかい」
「皆さんがお待ちかねでございます。とうさんもこいさんも……」
「ど阿呆! お前、わいの母親を抜かしたな! それだけ憎いのか!」
「御寮さんは……お亡くなりになりました」
「何!」
安造は、目の前が暗くなった。お母ちゃん! と声をあげて泣きたくなるのをこらえると、尚も、
「おのれがお母はんを野たれ死にさせたんやろ。わしの目が届かんのをええことにして、医者にも診せんと。わかってるぞ」
「いえ、病院で……。若旦さんのこと御心配で……最後まで若旦さんの名を……」
安造は、これ以上喋っていると、自分の立場が弱くなって行くのを知った。思いなしか、周囲の人間が、自分をにらみつけているように見えて来る。ここは一番、かつて一番同情された言葉を聞かせようと、
「てかけの子の貴様に乗っ取られた家へ、誰が帰るか! このわしも、木戸山先生の弟子、日本男子やぞ!」
木戸山が情なさそうな顔をしたのを同情と見てとったか、秀松は、
「いえ、お店は、若旦さんのぼんぼんの安一さんをご主人にお迎えして、やっとります」
「何、安一が……」
安造は唖然として、もう返す言葉もなかった。まさか安一が、成田屋へ引き取られているとは考えもしなかった。
「それに、奥さんも……」
「愛子も……」
「若旦さん、奥さんは、明日をも知れぬ御容態です。わてがお迎えに行く言うたら、若旦さんがお帰りになるまで生きてるてお喜びだした。どうぞ帰っとくれやす……」
「愛子が……」
安造はおろおろした。
「お願いだす。お供させて頂きます。お金も用意してございます。もし何か御入用の事がありましたらどうぞ……」
秀松が胴巻から出す大金を見て、おかみは、またうなった。贅沢なものを食べると粗末なものが食べられない、と言った男がこんな大金を持っていたのだ。
だが安造は、その金を見て戸惑った。
もし、この場が秀松と二人切りであったなら、秀松を蹴ってでも、
「これは成田屋のわしの金やろう、財産泥棒が!」
そうののしって奪って逃げたかも知れない。
しかし、他人の眼の前では逃げることも出来ず、さりとて、この秀松の言う通りにすることは、あまりにもおのれの愚かさに輪をかけて見せることになると思ったのである。
日頃から船場の若旦那と口にしている安造の見栄もあったし、本妻の子のほんのささやかに残っている意地も手伝った。
それ程、秀松の安造を迎える配慮は完璧であったのである。
安造にとって、成田屋は音松富江夫婦がやっていると聞けば、まだしも、
「よし、奉公人に乗っ取られた店へ帰って、わしが取り戻したる!」
と言えたであろう。しかし、わが子の安一が主人になって居り、しかも船田に欺されているとも知らずに大口を叩いて別れた愛子すら引き取られて、病院で帰りを待っている、その上に満洲で借金をして帰れもしまいことも承知だ、と言わんばかりの金迄支度されて帰ってくれでは、それなら帰ると言うことは、さすがに出来なかったのである。
いや、安造にとっては、この秀松の配慮が完璧過ぎてむしろ自分を辱しめ、帰って来られぬようにしているのではないかと、疑いたくさえなって来るのである。
その時であった。
「野良十! 何してるんだい! さっさと帰らないのかい! 帰って、少しはその人の爪の垢でも煎じて飲むんだね」
歯に衣《きぬ》を着せないおかみの言葉が、とんで来た。
「誰が帰る! 帰るもんかい! わいは帰らんぞ!」
そう叫ぶと、まっしぐらに、土間を横切り、裏庭にある使用人の居室の小屋へ走りこむと、安造はおいおいと泣いた。泣くだけ泣いて、やや冷静になった安造に、急に途方もない淋しさが訪れて来た。目の前に、死んだおひさの顔が浮かんで来る。死にかけている愛子が、呼んでいる。
(帰るのなら今や、このまま野良犬のように満洲で暮すのか)
立ち上がりかけるのを、又坐らせたのは、あの秀松の勝ちほこったような顔である。
(もう一回呼びに来よったら帰ったろか。いや土下座して頼まれたら、少しはわしも男が立つやろ)
だが秀松は戸口に現われなかった。
その頃秀松も、土間で泣いていたのである。
「馬鹿だね、どこまでの馬鹿だい、あの野良十は」
客が来たのか、女中に呼ばれたおかみは、そう言い残すと、表へ行った。それを機に、見ていた使用人たちもささやきながら去った。秀松は立ち上がって、もう一度安造を説得しに行こうとした。
「待て」
木戸山がとめた。
「あの男に、それ以上言っても無駄だぜ。あの男は、貴様を憎んでいる。だが一つ、あの男を帰らせる方法がある」
「何です、それは」
秀松は、木戸山をすがるように見た。
「このわしが命令することだ。あの男は、わしの子分だ。だから、わしの言うことをよく聞く」
「お願いだす。言うとくれやす」
「だが、貴様とは一緒に帰らせん。どうじゃろ、わしがあの男を内地へ帰らせると言うことにしたら。いや、大連まで、あの男一人帰らせるのだ。船にのれば、お前は、後で好きにすりゃいい」
秀松は、わらにでもすがりたかった。
「ぜひお願いします」
「では、金をよこせ。あの男にはかなりの借金があるんだ。それでも足りんが、後はわしが、日本人として話をつけよう」
秀松はためらった。木戸山は、その秀松の心を見すかしたように、
「貴様は、わしを疑っているのか! それなら手を引く。人の好意を疑うようなやつは大嫌いじゃ! 勝手にしろ!」
「待っとくれやす。お預けします! その代り三日先の夜の船には」
「引きうけた。わしも日本人、木戸山憲伍じゃ、ハッハッハッ……」
秀松は木戸山に金を渡すと、しずかに前掛けを外して、さし出した。
「これも、若旦さんに……」
木戸山は、まるで秀松の真意を知ったようにうけとった。
丁度秀松が、木戸山に三百円という大金を預けて、小春を出た直後、安造は、あまりにも呼びに来ぬ秀松に不安を感じて、自分から様子を見にやって来たが、秀松の姿はなく、丁度木戸山が立ち上がろうとしていた。
「どうした、野良十」
「あの男は?」
「ああ、たった今帰ったぞ。いや、あの男、忠義そうな面をして、とんだ食わせものだったぞ」
「食わせものて?」
「ああ。お前を呼びに来たような顔をして、お前が帰らんことをたしかめに来たようだぞ。いや、ここへ来たのも偶然で、お前を迎えに来たんじゃない。商売のことで満洲へ来て、ここに水を貰いに来ただけじゃ」
安造の顔色がみるみるうちに変わった。
「それは、ほんまでっか」
「ああ。お前が帰らんと知って喜んで帰りよったぞ! おい! だまされるな。そのお前の女房というやつな、あの男と出来ておるぞ。これで愛子も喜びよる、そうはっきり呟きよるの聞いたぞ」
「畜生!」
安造が思わず追いかけようとするのを、木戸山の腕が、ぐいとつかんだ。
「止めろ! 貴様の代りに、このわしが、思い切りなぐってやったわ。貴様も可哀そうな男じゃ。これで酒でも呑め」
木戸山は一円札を一枚、安造の手に渡すと、出て行った。思いがけぬ三百円の大金がころがりこんだのだ。二百九十九円のもうけ。木戸山は、その金をもって二度と小春へは戻らぬつもりだった。
安造は、段々にぎやかになってくる人通りや、胡弓、三絃の音を聞きながら泣いた。
(わいは、やっぱりあの秀松にとことんまでだまされたんや)
ふと、安造の前に、濃茶色の前掛けが落ちているのに気が付いた。秀松が、
「これも渡しておいとくれやす」
と渡した前掛けだった。大阪商人なら、命より大切なのれんを象徴する前掛け、これを見たらきっと帰ってくれるだろうという秀松の願いであったが──。
安造は、その前掛けを手にとるとじっと見つめた。白地に染めぬいた○に成、成田屋の屋号、この屋号の中から、死んだ父秀吉の顔、おひさ、糸子、富江、愛子、果てはわが子の安一の幼な顔まで、走馬燈の如く、目に浮かんだ。
「やったる。……やったる」
安造は、そうつぶやいて、フラフラと昏れかかった浪速町へ出た。
約束の夜の、船の甲板の上で、凍てつくようなシベリヤの風をうけて、秀松は、じっとたたずんで安造を待っていた。溺れるものは藁をもつかむ。あの時、木戸山が切り出してくれた言葉を、秀松は信じたのだ。商人を見る眼のあった秀松も、異郷で見る木戸山のような男を見る眼の基準は持っていなかったのも無理はない。だがドラが鳴っても、とうとう安造が姿を現わさぬことを知ると、秀松は、目の前の海のように心に暗さを感じた。
(愛子さんは、死んでしまわはる)
何よりもそれを恐れたのである。
その愛子がとっくに死んでいたことを知ったのは、長い船旅が終わって大阪へたどりついた時だった。
駅まで出迎えに来ていた音松や作造が、秀松が安造と一緒でないのを知ると、むしろホッとしたように愛子の死を知らせた。
秀松は、あの芦原の温泉の一間で、はげしく自分から体を投げ出した愛子を思い浮かべて、あわてて首を振った。
その夜、成田屋では秀松の慰労会が開かれ、皆に事情を説明した。
「申し訳おまへん。折角お逢い出来ながら……」
両手をついて詫びる秀松に、
「それだけ探し出してもろて、その上帰らんなら、安ぼんはもう成田屋の人間やないのや」
糸子や富江から逆に励まされた。やがて、ささやかな宴が始められた。その席で作造と糸子の縁組みが秀松に報告された。
「そうだしたか……。いえ、作造はんなら、亡くならはった旦さんや御寮さん、きっと喜びはります。一つ盛大に祝言挙げないけまへんなあ」
秀松は、心から祝福した。やがて呑めぬ秀松の前で、作造や音松が酒を酌み交わすのを見ながら、秀松は席を抜けると、安一が眠っている部屋に入った。
「ぼんぼん、お父はんの代りに、ええ商人になっとくれやすや」
まるで、死んだ愛子の代りに言い聞かすように呟いた。
「秀太郎はん」
振り返ると糸子が立っていた。
「あんた、まだ、お母はんに逢うてはらへんのやろ」
「……へえ」
「そら、いかんわ。これから行きまひょ。わてが案内したげる」
「いえ、わては道よう知ってますさかい」
「一緒に、わても逢いたいのや」
「……へえ」
秀松は、糸子の真意をはかりかねたが、糸子が、お絹に逢いたいと言ってくれたのは嬉しかった。お絹にあれほど楯ついた糸子が、わが母のように、お絹のことを言ってくれる。それが、恵まれなかったお絹にとって、どんな喜びであるだろうか。
糸子は、堺筋から高麗橋《こうらいばし》を東へ折れた。重の家は堺筋を南に行くのである。
「とうはん、どこへ行かはります」
「わてが案内する言うたやろ」
糸子は急ぎ足に歩くと、一軒の煙草屋の前に立ち止まった。
「この表札、見て見なはれ」
秀松は不思議そうに表札を見た。新しい木の表札には、墨字も黒々と、成田秀太郎と書かれてあった。
「こ、これは……」
自分の名前が書かれた表札を見て驚く秀松に、糸子は白いカーテンがひかれた硝子戸を開くと、
「今晩は、旦はんのお帰りだすで」
と声をかけた。電燈がついて障子の中からお絹が顔を出した。
「お母はん」
「秀太郎か、お帰り」
「これは一体どうしたことだす」
「この家なあ、あんたのお母はんが買わはったんだす」
「お母はんが……」
お絹は、うなずいた。
「わてもいつまでも働けへんし、それに若旦さんがお帰りにならはったら、お前も家がないとなあ」
「わてらは、成田屋へ来とくれやす、さもなかったら成田屋の出店でも持っとくれやすと言うたんやけど、お絹さんが頑として受け入れてくれはらへん。どうしても自分が買う言うて」
「当り前だすがな。秀松、その代り、この煙草屋開くときは、皆さんのお世話になってなあ。作造はんは、家の造り一切、音松どんは仕入れからいっさい話つけてくれはるし、わざわざここまで煙草買いに来てくれはるし、とうさんやこいさんまで引っ越しの掃除を手伝うてくれはったんやで」
「そうだしたか……」
秀松の胸に、あたたかいものがこみあげた。糸子も富江も、作造も音松も、大阪へ着いてからそんなことは一言も言わなかったからである。
「で、若旦さんは……お連れして帰って来たんか……」
「それが……」
秀松の代りに、満洲でのいきさつを糸子が話した。聞き終わるとお絹は秀松を叱った。
「お前は、何でそんな他人さんに頼み放して、先に船に乗ったんや。どうしてその家の前で、若旦さんが出て来やはるのを待たんかった。いや、それが出来んかったら、おかみさんちゅう人立会いでお金渡して、よう頼んどかんかった。お前、今迄何の為に商いやってた。心配な商い程、受渡しは見届けるんと違うのか」
一々もっともなお絹の言葉であった。
「お前のはな、手に入らん着物をやっと見つけた、その嬉しさに、前金払うて受取りも一札も貰わんと、信じこんだんやないか。それでも一人前の商人か! それではわてと一緒には住めんやないか」
久し振りに涙さえ浮かべて叱りつける母の言葉に秀松ががっくり首をうなだれると、糸子はあわてた。
「お絹さん、これ以上、秀松さんに何もしてもらうことありまへん。どうぞ一緒に住んであげとくれやす」
「とうさん、そう言うて頂けるとうさんのお気持はうれしいおます。そら、わてかてこの子と一緒に住みとうおます。けど、この子との約束は、一人前になったらてことですのや」
お絹の決意は堅かった。
それのみか、それを知った音松、富江や作造までがどう頼もうと、お絹は首をタテにふらなかったのである。
「ほんならせめてお嫁さんでも……」
そうまで言ったが、秀松の方が断わった。
「お母はんとも一緒に住めん身が、お嫁さんなんて貰えまへん。今のわての気持は、ただお母はんと一緒に住みたいだけだす。昔からずうっと、わてはそのために働いて来たんだす」
今度は秀松のために、安造探しがまた成田屋の一同の手で始められた。
が、安造の消息は杳《よう》として分らなかった。
十五年の歳月が流れた。成田屋は、天神橋から船場へ復帰し、株式会社成田屋と装いを新たにし、三階建ての西洋建築のビルを構え、下着問屋としていまや押しも押されもせぬ会社となっていた。資本金は十万円、社長は、成田安一、専務は音松こと音吉、作造。糸子に富江は常務と、重役陣に加わったが、秀松は、どうしても首脳陣に加わらなかった。
「わてが、そんな重役になってたら、若旦さんは何て思わはりますやろ」
その上に秀松は、月給さえ受け取らなかった。
「成田屋は、死にはったわてのお父さんの店だす。親から月給はもらえまへん」
そう言って、相変わらず、住込みの使用人の宿泊する二階の一室で暮していた。そして冬でも夏でも裾をはし折り、ステトコを見せていた。そんな秀松を、成田屋はもとより、船場中の商人はいつしかステトコ大将と呼んで尊敬の眼で見るようになっていた。ステトコを考案し、成田屋を今日までにしただけでなく、次々に下着類に目をつけて、船場に下着問屋なる業種を作った商いの神でもあったのだ。
船場の商人はそんなステトコ大将の母親であるお絹に対しても敬意を失わず、煙草を買うならお絹の店でと、お絹の店も賑わった。
世の中は変わった。日支事変に突入したのである。そんなある日、成田屋の表には日章旗が立てられ、幟《のぼり》が風に舞った。安一が入営する日であったのだ。秀松は、祝いに来る人々の挨拶の応対に忙しかった。かつて、秀松をかばって後見人となってくれた亡き糸茂の二代目も顔を見せたし、船場の十大商社と言われる商社の社長も又顔を見せた。同業の問屋は勿論のこと、つた家のおかみとなった美代も祝いに来た。それは、安一への見送りではなく、秀松に対する儀礼であることは誰も知っていた。表には表で見送人の人垣が出来、襟に成田屋と染めぬいたハッピを着た十人程の社員たちが湯茶の接待をしていたが、そんな人垣の中にお絹も立っていた。今になっても、てかけの地位をわきまえて、成田屋ののれんをくぐったことのないお絹が、蔭ながら見送ろうとしていたのであった。もう七十に手の届く髪は、長年の苦労で白かった。ふとお絹は、隣りに立っている、鳥打帽で顔の半分を隠して富山の薬売りの姿をした男の異様な気配を感じとった。先刻から鼻をすする音がしているからであった。お絹は、振り返って覗くように見上げた。
「若旦さんやおまへんか」
無精髭を生やした男は、まさしく安造だった。逃げようとした安造をとめる。
「待っとくれやす!」
お絹の叫び声にいっせいに一同の視線が集まった。
「秀太郎! 若旦さんや!」
転がりこむように店先から叫ぶお絹の声に、秀松も糸子夫婦、富江夫婦も表へ駈け出していた。
安造は一丁も走れず、通りの角の電柱にもたれて咳きこんでいた。
「安ぼん!」
糸子は思わず安造をそう呼んで、腕をつかんだ。
「若旦さん。今日はぼんぼんの入営だすのやで」
これが、秀松の満洲以来の再会の言葉であった。
「知ってる」
安造は顔を見ずに答えた。
「安造、そんなら、お入り。入って安一に一目でも逢うてやるのや、父親として」
糸子が、わが子を叱るように睨んだ。
「逢わん方がええやろ、どうせ……親は秀松やと思とるのやろ」
意外な言葉が秀松の耳をおそった。
「若旦さん……」
「わいは知ってるのや、お前が愛子を嫁にしてたことも。隠してもあかんで」
「阿呆!」
糸子の掌が、ピシリと安造の頬を叩いた。
「お前はどこまで阿呆や、愛子はんはあんたの帰りを待って死にはったんやで。あんたを迎えに秀太郎さんが満洲に行ってる間に」
安造は打たれた頬に手をあてながら糸子を見た。
「その通りだよ。お父さん」
安造の前に、作造に呼ばれて来た軍服姿の安一が立っていた。安造は、わが子の成人した姿を不安そうに見つめた。二人の間に、十七年間離れていた親子の心のつながりは何も見えず、むしろ安一は冷ややかな目で父を見つめていた。
「お父さん、秀太郎おじさんにあやまって下さい。これは僕だけの頼みやない。おばあさんも、お母さんも……お母さんはな、死ぬときも、僕の手をにぎって、お父さんに逢ったら、秀太郎おじさんにあやまってくれ、それだけ言うて死んだんや!」
安造は、肉親の子にそう言われて頬をけいれんさせた。
「その通りだすで、あんた。秀太郎さんはな、あんたが帰るまでは、お母はんとは住めんて、じっと独りでこの安一を社長にして、自分は重役にもならんと、安一が一人前になるまで見守ってくれはったんやで。それでもあんたは何とも思わんのか」
この富江の言葉に、安造は、首をうなだれた。満洲から内地へ転々と職をかえ、一人で生きることの厳しさが安造の心にもかなりの変化を与えていたのだろうか、それともわが子が社長になっているという現実が、やっと秀松の心情をわからせたのであろうか。安造は、成田安一社長入営壮行会の看板を確認するかのように見ると、よろけるように秀松にすがりついて、
「すまん……」
と一言であったが、手を握った。
「すまんなんて、兄弟やおまへんか」
秀松は、そうは言ったが、何の感情も加わってはいず、むしろ淡々として悟り切ったような言葉であった。
悟らずにはいられなかったのであろう。
この安造の「すまん」のたった一言を聞くために、三十五年間、秀松は成田屋にいたのである。
あかんたれと言われたてかけの子の秀太郎が、たったこの一言を安造の口から聞き、母のお絹と共に暮す目的の為に、延々と成田屋を守り続けて来たのである。
この一言が、てかけの子の秀太郎の決着であったのである。
人間としてであれ、商人としてであれ、この短い一言の決着をつける為に、何の報酬もない苦難の道は、悟り切らねばたどり得ぬ長い長い道のりであったことだろう。
秀松はほっと溜息をつくと、お絹を振り返って見た。
「お母はん、これで一緒に住めますなあ」
「秀太郎!」
お絹は、秀松をかき抱いた。
「ようやった。ようやってくれた。お前はてかけの子に生まれて来ても、旦さんは余計な子を産ませはったんやなかったんや」
お絹はあらん限りの声で叫んだが、殆ど涙で聞きとれなかった。しかし、この二人を取り巻く人間達にはすべてはわかり切っていた。
安一が出発する時間だった。挨拶の壇上に立った安一は、船場中に響くような声を張りあげた。
「僕が今日まで来られたのは、秀太郎おじさんのおかげです。このおじさんの土性っ骨を、兵隊に行っても持ちつづけます。皆さん、おじさんは、長い年月を犠牲にして成田屋にいてくれました。僕の見送りより先に、お母さんと一緒に暮させてあげたいと思います。どうか僕を見送る前に、おじさんが初めて親子で住める門出を見送ってあげて下さい」
秀松は、安一にうながされてうろたえた。そしてこの母と子を、誰しもが追い立てた。
「一分でも早う、親子で住みなはれ」
これが今の皆の願いでもあった。
「そうさせて頂きます」
秀松の秀太郎がうなずくと、たまりかねたように、安造が前掛けをさし出した。
「わて、これを見て大阪へ帰って来たんや。な、成田屋へ帰って来てんか。今度はわてが待つ番や」
秀松はそこで初めて涙を流した。
やがて、母と子が三十五年振りに手をとり合いながら歩き出した。
誰からともなく、
「成田秀太郎君 万歳!」
の声がかかった。
バンザイ! バンザイ! 誰も彼もが両手を挙げた。
作造も糸子も、音松、富江の夫婦も、入営兵士の安一も、見送り客の誰も彼もが──。
その秀太郎に、招かれざるてかけの子の姿はなかった。母をかばい、背中を丸めて歩く秀太郎の全身には、威風堂々と胸を張る大将の姿があった。
「ステトコ大将 バンザイ!」
その声は、秀太郎の唯一の報酬として、永久に消えぬ声でもあろう。
単行本 昭和51年12月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年九月二十五日刊