花村萬月
ブルース
目 次
序 章 虚《むな》しい愛
第一章 スラッジのブルース
第二章 それでも、朝は、くる
第三章 溶けたタイヤに白い靴
第四章 檻《おり》の中の檻に繋《つな》がれて
第五章 中村川に浮かぶ天井の低い部屋
第六章 夜行急行、俺《おれ》を照らせ
第七章 横浜、横須賀、東シナ海
終 章 虚しい愛
文庫版あとがき
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序 章 虚《むな》しい愛
眼頭《めがしら》を揉《も》んだ。
揉んでどうなるというものでもないが、村上はすこしでも考える時間が欲しかった。結論を引きのばしたかった。
「やりますよ」
崔《さい》は言った。
「やらしてください」
かさねて、言った。
「ばかやろう、死にてえのか!」
村上は崔を叱《しか》った。抑えたつもりだったが、自分でも意外なほど大きな声だった。
視線が集中した。
いろいろな思いの含まれた視線が崔と村上に集まった。村上は狼狽《ろうばい》して、アンコたちの表情を窺《うかが》った。
アンコたちに表情はなかった。村上は孤立した。
「やるよ。村上さん。やりたいんだ」
村上は崔を凝視した。崔は笑顔をかえした。幼かった。
「どうしたの? 村上ちゃん。せっかく小僧がやる気になったんじゃない」
徳山が日本刀を突きだした。鞘《さや》で村上の額を押した。軽く押されただけだが、逃げ腰だったので、あっさり甲板の上に転がった。
「だいじょうぶ? 村上ちゃん。時化《しけ》てるからねぇ。さすがの二十五万トンも揺れる、揺れる」
さらに徳山は、村上の側頭部を鞘で押さえつけた。村上の頬《ほお》にケバだった甲板が刺さった。
しみこんだ原油。そしてスラッジ。潮の匂《にお》いとともに、そういった油脂の刺激臭が村上の鼻腔《びこう》に溢《あふ》れかえった。反射的に涙がでた。屈辱がさらに涙腺《るいせん》を刺激した。かろうじて涙をこらえた。
崔が駆けよった。膝《ひざ》をつき、泣きそうな声で呟《つぶや》いた。
「また、迷惑かけちまったね」
「うるせえ」
村上は声をあらげた。崔を睨《にら》みつける。睨みつけたまま、ゆっくり立ちあがった。舷縁《ふなべり》に白い壁がひろがり、砕けた。巨大な波だった。
徳山の舎弟がよろけた。かろうじて鉤柱《かぎばしら》につかまって、転倒をまぬがれた。
光栄丸が哭《な》いた。異様に長い船体をよじって、呻《うめ》いた。アンコたちの頬に、不安がはしった。呼吸する生きものの腹のように蠢《うごめ》く巨大な波のうねりから、顔をそむけた。
「兄貴、ヤバイっすよ。ハンパな時化《しけ》じゃねえ」
徳山は、舎弟のことばを無視した。村上に躯《からだ》をよせた。耳打ちした。
「わるくないだろ、世間知らずが世間の荒波を知る」
「荒すぎるよ、徳山さん」
「そうかな? 手頃な波だよ。こんなもんで逃げてたら、革命なんて永久にできはしないさ。なあ、小僧」
崔は気負って笑ってみせた。村上は、怒鳴った。
「革命なんぞする気はないはずだ!」
徳山は、村上の肩を抱くようにして言った。
「それは、いまどきのアカに対して失礼だよ。反体制が体制にナアナアなわけがない。小僧は、小僧の理念にしたがって精一杯やってるんだから」
さらに唇を三日月のように歪《ゆが》めて笑い、付け加えた。
「理念、だって。俺《おれ》って、インテリだなあ」
崔が一歩すすみでた。
「オレ、入ります。やってみせます」
アンコの中から大きな溜息《ためいき》が洩《も》れた。徳山が振りかえった。皆、微妙に視線をそらした。
徳山はアンコたちを睨《ね》めまわした。若いアンコが咳払《せきばら》いした。
「いいかげんにしろよ」
アンコはためらいがちに、しかしはっきりと言った。徳山の口許に、蕩《とろ》けるような笑顔がうかんだ。
「威勢いいね。しかもイロ男だ」
眼を細めて徳山はアンコを見つめた。
小柄な男だった。彫りの深い顔だちだった。微《かす》かな東北|訛《なま》りがあった。
徳山は張り出した腹のあたりを掌《てのひら》でこすりながら、一歩前にでた。
「なにが言いたいの?」
若いアンコは視線をそらし、小声で言った。
「これでは……殺しだ」
「なに言ってるの、物騒な。おいで。こっち、おいで」
徳山はアンコを手招きした。アンコは硬直して動けない。徳山は日本刀を抜いた。
日本刀は二尺五寸、七十五センチほどの長さで、優雅な反りがある。
まばらな、しかし大粒の雨が強風に叩《たた》きつけられた。刀身は潤んだように濡《ぬ》れ、青白く底光りした。
誰かが唾《つば》を呑《の》んだ。反射的に村上も唾を呑みこんだ。こめかみから顎《あご》にかけて鈍く疼《うず》いた。現実感は、ない。
「殺しってのは、こう」
徳山は日本刀を男の前に突きだした。
見事に見切られていた。切っ先は鳩尾《みぞおち》の肉を裂く直前で、ぴったり止まっていた。
男はのけぞった。両手で刀身を握った。握ってしまった。無意識だった。
ふたたび徳山の口許に蕩けるような笑いがうかんだ。
「あぶないからね。しまわなくっちゃ」
徳山は、手元へ軽く日本刀を引いた。
指が落ちた。三本落ちた。甲板の上で、軽く、跳ねた。
日本刀を鞘に収め、徳山は男を見つめた。
男は両手を凝視している。噴いた血が、その彫りの深い顔を汚した。
殆《ほとん》どの指が千切れかけていた。骨が露出し、そこから先があらぬ方向を向いていた。
男は口のなかで何事か呟《つぶや》き、膝をついた。腰をかがめ、甲板に散った指を肘《ひじ》まで使って拾い集めようとした。
雨水に濡れて、白くふやけかけている落ちた指の切断面。村上は視線をそらした。腕を縛って止血してやれと命じる徳山の声を遠くに聴いた。
若い男は失血と痛みでショック症状を起こしかけていた。徳山の舎弟が無言で抱きあげ、背負った。
光栄丸の医務室では、切断された指をつなぐことはおろか、満足な治療もできないだろう。
運ばれていく男の背に向かって、徳山は他人事《ひとごと》のように呟いた。
「かわいそうに。労災は使えないよね」
ぎこちない沈黙。
光栄丸はその巨体を、さらに巨大なうねりに弄《もてあそ》ばれ、上下左右に踊り、軋《きし》んだ。
ディーゼル機関は全開で、数万馬力のすべてで海を引っ掻《か》きまわし、何とか時化《しけ》の海域から逃れようとあがいた。
「作業、はじめ」
間のびした声で徳山が命じた。とたんに、初めてタンカーに乗った中年のアンコが嘔吐《おうと》した。
十一月だというのに、凄《すさ》まじい勢いで吹きつける南シナ海の烈風は、妙に生ぬるかった。
吐瀉物《としやぶつ》の臭いが南風にのった。スラッジの刺激臭に混ざりあった。アンコたちは顔をしかめ、ある者は舌打ちし、ある者は湧《わ》きあがった唾《つば》を呑みこんだ。
こらえきれずに幾人か嘔吐した。吐瀉物は風に吹きとび、まわりの者の作業衣を汚した。徳山は崔の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「見なよ。あれだけゲロ吐いてた小僧が、本気で仕事する決心をしたとたんにシャキッとしたもんだ。船酔いなんてぇのは、精神の問題だよ。ちったぁ小僧を見習えよ」
徳山はアンコと一緒になって嘔吐している舎弟の尻《しり》を蹴りあげた。
崔は笑った。得意そうに微笑した。ひどく子供っぽい笑顔だった。隣にいたアンコが無言で甲板に転がったままの指を示すと、あわてて笑顔を引っこめた。
村上はうつむいた。どうすることもできない。烈しい無力感に、立っているのが辛くなった。徳山を見た。
徳山は村上の視線に気づき、見つめかえした。口許が、優しくほころんだ。同性愛者独特の、シナが含まれていた。瞳には、媚《こび》がうかんでいた。
村上は徳山から顔をそらした。溜息を呑み込んだ。息を吐くのと同時に、下腹に力をこめ、無力感を吐きだした。崔に向かって、顎《あご》をしゃくった。
控室は極端に天井が低い。村上が注意したのに、案の定、崔はバルクヘッドの上部に頭をぶつけた。
「ばかやろう」
「天井が斜めになってやがるから……」
崔は顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》め、ぶつけた部分をきつくこすった。目尻に涙が浮いていた。
「血ィ、でてないかい?」
「ちょっと滲んでいるだけだ」
「人のことだと思って、軽く言うよな」
口を尖《とが》らしてふくれっ面をしている崔を、村上は横眼で見た。
「なにをはしゃいでいるんだ?」
そのひとことで、崔はうつむいた。村上は下着を二枚重ねで着るように指示した。崔が言うとおりにしたのを確認して、ロッカーから石油会社のネームが入ったつなぎ服を出してやった。
「だぶだぶだよ」
「文句を言うな」
さらにロッカーのなかから、長めの防寒ジャンパーを出してやると、崔は顔をしかめた。
「嘘《うそ》だろう、村上さん。ただでさえ熱いのに」
村上は答えず、つなぎ服の上に防寒ジャンパーを着込んだ。崔は諦《あきら》めた表情で、村上にならった。村上は顎をしゃくって、ゴム長とゴム手袋を示した。
「すこし小さめの長靴にしろ。大きいとスラッジにめり込んだときに脱げちまって、仕事にならん」
崔は神妙に頷《うなず》いた。村上はロッカーの上にある布ベースのガムテープを取り、ゴム手袋と防寒ジャンパーの境目の上に幾重にも巻きつけた。さらにゴム長とズボンの境目にもガムテープを巻きつけ、完全に密封した。
「なんのおまじない?」
仰々しさに呆《あき》れたのか、崔が訊《き》いた。
「こうしないと、スラッジが入り込む。社会復帰したあかつきには、銭湯にも行けなくなるぞ」
「なぜ、風呂屋《ふろや》に行けないの?」
「金玉まで真っ黒になったおまえを見て、番台の婆さんが飛んでくるぜ。そんな躯《からだ》を洗っては困りますって」
「なら、オレは、ソープにいくよ。ここで稼いだ金を全部積み上げて、とりあえず洗ってくださいってお姐《ねえ》さんに頼むんだ」
「断られるのがおちだぜ」
「そうかな?」
「ここは洗うところじゃありません。イカすところですってな」
崔は、ヒヒヒ……と奇妙な笑い声をあげた。村上は崔を真っ直ぐ見つめた。
「ソープに行ったことはあるのか?」
「──ない」
上眼遣いで、崔は挑むように答えた。村上は崔を傷つけぬよう、真顔で訊いた。
「女は、知っているか?」
「──知らない」
「陸《おか》にあがったら、一緒に行くか?」
「つきあってくれるのか?」
「やさしい女の子がいる店だ」
崔はうつむいて笑った。ガムテープでぐるぐる巻きにした手袋の指先を絡ますようにして、照れた。
「いいね。頼むよ、村上さん」
「よし。じゃあ、ひとつ注意を与えておく」
「女の扱いについてかい?」
「そんなもんは、人それぞれが編みだすもんで、俺がどうこう言うことじゃない。
いいか。タンク内には、必ず俺のあとから入るんだ。いいところを見せようとするな。女に関してはとやかくいわんが、仕事に関しては、俺を立てろ。先輩だ。わかったな」
「わかったよ、村上さん。あんたを立てておくよ」
村上は、頷いた。唇まで出かかった『徳山の挑発にのるな』ということばを、呑み込んだ。言えば崔は、意地になる。村上はもういちど頷き、先に立って控室をでた。
ひどいローリングだ。さらにうねりが烈しくなったようだ。村上はドッグの突起に掴《つか》まって、かろうじて転がるのをふせいだ。崔は巧みにバランスを取り、得意そうに胸をそらした。村上が訊いた。
「ライク・ア・ローリングストーン、知っているか?」
崔は肩をすくめた。
「転がる石には、苔《こけ》が生えない」
「それって村上さんのこと?」
崔は揺れる通路で巧みにバランスをとりながら、声をだして笑った。
「転がる石には、確かに苔は生えないだろうけど、村上さんが転ぶと、アオタンができるよ」
笑いながら崔は言った。つられるようにして村上も苦笑した。崔は、すぐに笑いをおさめ、村上を覗《のぞ》きこむようにした。
「ライク・ア・ローリングストーン、か。やっぱり村上さんは、ただのアンコじゃないね」
村上は苦笑をひっこめた。崔を睨《にら》みつける。崔は、気負った表情で村上を見つめかえした。村上は、曖昧《あいまい》に視線をそらした。
「恰好《かつこう》は、一人前じゃないか」
徳山は濃い眉《まゆ》をしかめ、わずかに首を傾《かし》げて崔を嗤《わら》った。それから、村上に視線をはしらせた。
村上は、ちょうど崔の作業服の乱れた部分をなおしてやっていたところだった。崔はどういう育ち方をしたのか、食事をすれば箸《はし》の持ち方はぎこちないし、服のボタンをかけ違えたりする。
徳山の視線に気づき、村上は顔をあげた。徳山はカッパも着ないで、ずぶ濡《ぬ》れだった。薄くなった髪を額に貼りつかせて、村上を凝視していた。
嫉妬《しつと》だった。嫉妬の眼差しだった。嫉妬が瞳の奥で渦巻き、ゆらめいていた。
むかし、一緒に暮らしていた女が、誤解したあげく、妄想《もうそう》をふくらませた。村上が彼女以外の女と口をきくたびに、その女は、村上を嫉妬の眼差しで、黙って睨みつけた。
徳山の眼差しは、あの女と一緒だった。尖《とが》っているくせにゆらめいて、とらえどころのない、嫉妬の瞳だ。
抑えようと思った。抑えきれなかった。村上は徳山を睨みかえした。
──薄汚い、ホモ野郎!
村上は心のなかで、怒りの声をあげた。一方的な徳山の愛情。いや、理不尽な欲望。声にだして怒鳴りつけなかったのは、ぎりぎりの自制だった。
伝わった。伝わってしまった。あの徳山が、一瞬ではあるが、確かに瞳を潤ませた。
いきなり村上の耳の奥で、ブルースが鳴った。LOVE IN VAIN……虚《むな》しい愛。ロバート・ジョンソンの振り絞るような声が響き、虚しい愛、という題名だけが頭のなかを駆けめぐった。
村上は我を忘れていた。崔の背後で、風と雨に叩《たた》かれながら、甲板に立ち尽くしていた。
すべては陳腐で、ひどく虚しい。この虚しさを知ってしまうと、ひとは泣き騒ぐよりも、唇の端に凍えた、つめたい薄笑いをうかべるようになる。絶対に眼が笑わない人間ができあがる。
徳山は一瞬見せてしまった弱気にケリをつけるかのように、おおきく息を吸った。ケリをつける対象は、村上のはずだが、村上には向かわず、崔に向かう。
「わるくない。恰好は一人前だ。あとは、行動で男であることを示すばんだね」
チラッと村上を盗み見る。さりげなく、ではなく、かなりわざとらしい。
「なあ、小僧よ。いまでこそ村上ちゃんもいっちょまえな恰好してやがるけどな、はじめて船に乗った時ってのは、かなり笑かしてくれたもんだぜ。
はじめてタンクに入ったときはな、足がすくんじまってな、アルミ・タラップのいちばん上で、俺に抱きついたんだから。泣き声だして、言ったよ『徳山さん、先頭は、無理だ 』。
ガタガタ震えて俺にすがりつきやがってよ。いまでこそ兄貴風ふかしてブイブイこいてるけどな、結局びびりやがって、俺のあとにぴったりついて……」
徳山は、息をついだ。歪《ゆが》んだ笑顔で顔中をクシャクシャにした。
「俺の背中にぴったりはりつきやがって、それこそ魔羅が俺の尻をこするくらいだったの。そのうち、おっ立たせるんじゃねぇかって、さすがの俺もびびったぜ。
薄汚ねえオカマ野郎みたいなもんだったのさ、そこでふんぞりかえってらっしゃる兄貴はよォ」
嘘だった。すべて、つくり話だった。徳山の同性愛傾向を知っている徳山の弟分が顔をそむけた。
村上は徳山の自虐の烈しさに、呆然《ぼうぜん》としていた。あえて薄汚いオカマ野郎と自分で言ってみせる徳山のマゾヒズムの強烈さに、胃のあたりが縮みそうな気分だった。
アンコたちは、のろのろだらだらと甲板上の作業を続けている。崔と村上のことが気になるし、この時化《しけ》では作業をしようとすること自体が、無理で無意味だった。徳山は崔に猫|撫《な》で声でいった。
「この時化だ。試験的なもんなんだ。むきになってスラッジをすくい取ることはない。そこの兄貴風吹かしてらっしゃる村上さんとタンク内の様子を確認して、スラッジの量や状態を報告してくれればいい。だいたいの様子がわかったら、もう今日の作業はあがっていいからね。楽なもんだよ」
徳山は柔らかな口調でいい、崔の表情を窺《うかが》った。
「ところで崔君は、むかし村上の兄貴が俺にしたように、村上の後ろにはっついて、魔羅を押しあてながらタラップをおりるかい?」
崔は失笑した。ちらと村上に視線をはしらせて、意気込んで言った。
「やってみせますよ。こう見えても、結構バランス感覚はいいんです」
村上は、投げ遣りになっていた。何も崔が必ず死ぬと決まったわけではない。危険はおおきいが、死ぬときは甲板で転んで頭を打っても死ぬ。
それこそ、危険な考えだった。村上が正常な状態だったなら、死ぬ確率が九十パーセントを超えるであろう場所へ、崔を送りこみ、先頭にたたせるようなことは絶対にしなかったはずだ。
アルミ・タラップの張出の上に立って、崔はタンクの底をやや逃げ腰で覗《のぞ》きこんだ。
甲板からタンク底まで、約三十メートルの高さがある。建物でいえば、十五階建てのビルとほぼ同じ高さである。高所恐怖症の気のあるものは、タラップの張出の上に立っただけで、足がすくんでしまう。
村上は自分と崔のスコップを肩に担いで、奇妙な無感覚状態に陥っていた。それは無力感が大部分であったが、あまりに甘っとろい崔に対するサディズムも、いくらか含まれていた。
死にたければ、死ね。そんな冷笑に似た気持ちを胸の底に隠して、村上はスラッジの吐き気を催す刺激臭から、顔をそむけた。
小型ウインチに吊《つ》りさげられた空のバケツが、村上たちより一足先に真っ暗なタンク底にゆっくりおりていった。
投光機のスイッチが入っていない。村上はそれに意図的なものを感じた。あかりをつけろ、と叫ぶ気力もなくしていた。
どうでもいい……投げ遣りな気分から唇の端が笑いのかたちに歪んでいたが、村上自身は、それに気づいていなかった。
「ずいぶん……暗いね」
崔が呟《つぶや》いた。村上はタンク底を覗きこんでいる崔の横顔に視線をはしらせた。なぜか頭のなかに三角波がうかびあがった。時化《しけ》の海独特の、あの尖《とが》った波だ。
頭のなかの三角波が、砕けた。崩れた波頭から、白く泡だつ飛沫《しぶき》が海面を猛スピードで這《は》っていく。
肩のスコップを担ぎなおし、村上はタラップを一段踏みだした。崔が掠《かす》れ声で、叫ぶように言った。
「村上さん、オレが先におりるよ!」
それは、バルクヘッドのドアから覗きこんでいる徳山を意識したことばだった。
村上は、無言で崔に道を譲った。
崔の頬は上気しきっていた。肩をそびやかすようにして、村上の横をすり抜けた。
「自分の道具は、自分で持つよ」
崔のことばに、村上は黙りこくったまま、スコップをわたした。
烈しくローリングした。
二十五万トンタンカー光栄丸は、時化のうねりと三角波に弄《もてあそ》ばれて、呻《うめ》くように軋《きし》んだ。軋みは黒々とした巨大なタンクの空間のなかで拡大され、引っ掻《か》くような高音と、腹を揺るがす重低音の入り交じった圧倒的なノイズとなり、村上たちの鼓膜を圧迫した。
崔が村上を振りかえった。瞳に切迫した不安がうかんでいた。それを隠そうと泣き顔に似た笑いをつくっている。
村上に表情はなかった。崔はかろうじて笑顔を保ち、揺れるタラップをつつみこむようにひろがっている闇《やみ》に向き直った。
一段、おりた。崔は、烈しい後悔に奥歯をきつく噛《か》んだ。後悔は、自棄《やけ》気味の気分に変化した。いままで自分をフォローしカバーしてくれた村上は、脱け殼のように虚ろな顔をして、崔がさらに一段踏みだすのを待っている。
居直ってしまえば、たかが少々揺れる階段にすぎない。崔はふつうの階段を降りるような調子で闇に向かって下っていった。
村上は、はっとした。
崔を、追った。
ガス探がせわしなく鳴いた。
村上は崔に追いつき、怒鳴りつけた。
崔の耳に村上の声は届かなくなっていた。
ガスにやられていることが、まだ信じられず、崔の頬に曖昧《あいまい》な笑顔のようなものがうかんでいた。
村上が切迫した表情でなにごとか叫んでいる。手をのばしてきた。
崔は村上の手を掴《つか》もうとした。すがりつこうとした。手は意思に反して、動こうとしなかった。
村上が手をひっこめた。咎《とが》めるような表情で、なにごとか叫んだ。
崔は村上にすがりつく視線を向けた。
アルミ・タラップの上で崔の両足は奇妙にもつれた。
噴きあがるガスの気配。村上は崔を振りきって、タラップを駆けあがった。
崔は村上を見あげた。
崔は微笑した。
微笑したように見えた。
微笑しながら、小首をかしげた。
別れの挨拶《あいさつ》だった。
直後、白眼を剥《む》いた。
首を掻《か》きむしり、唇から舌がはみだして、崔の躯《からだ》は黒い虚空にあった。
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第一章 スラッジのブルース
MOJO
1
レコーディング・スタジオの防音ドアと同じだから重い。躯をななめにして肩で押しあける。みな、そうする。肩のあたる部分の青灰色の塗料が楕円形に擦れ、鈍色《にびいろ》をした鉄の肌が剥《む》きだしだ。
綾《あや》は鼻梁《びりよう》に愛くるしい猫のような皺《しわ》を刻んで、MOJOとゴシックで書かれた鋼鉄の扉と格闘した。
扉が内側に開いた。綾は店の奥にむかって大声で怒鳴った。
「いいかげんにしろよな! ドアをあけるたびに美容体操しなくちゃならないのは、ここぐらいだぜ」
反応はない。綾はボックス席の背に、華奢《きやしや》な拳《こぶし》をたたき込んだ。
マスターは綾を無視して仕込みをしている。拳ではたいした音がしないので、綾はビニールレザーのシートを平手で叩《たた》いた。
「店を壊さんでくれよ。うちは刺青《いれずみ》・雪駄履《せつたば》きの方お断りだ」
「ついでにダボ・シャツ、腹巻、小指の欠けた方も、だろ」
「下手糞《へたくそ》な歌手も、だ」
綾は、ニヤッと笑った。
「最低の店だ。ハマの恥だね」
「誠心誠意、これサービスに努めているんだがな、開店前の雌猫までは、めんどうをみきれんよ」
「雌猫って、あたしのこと?」
「ほかにいるか? 性悪猫が」
綾はカウンターに躯をあずけ、拳を噛《か》むようにして、くっと笑った。そのまま上体をねじ曲げ、マスターに顔を寄せた。
「あたし、いま、発情期」
メイプル材のカウンターに爪《つめ》をたて、ニャアオン、と鳴いてみせる。
「マスターに奥さんがいなかったら、誘惑しちゃうんだけどな」
「私でよかったら、いつでもどうぞ」
「あいにく、所有されている男に興味はないわ」
「不倫の味は、なかなかだぜ。不幸のスパイスで味つけしたセックスの味を知ったら、病みつきになるさ」
綾は眉根《まゆね》をよせ、薄く眼をとじて、かるく唇をつきだした。
マスターは思わず喉《のど》をならしてしまった。
綾は肩をすくめた。
「こまったものね、中年は。すぐ、その気になるんだから」
「──こまったものは、綾のほうだよ。自分が特別な女であることに気づいてない」
「あたしが、どう、特別なの?」
「姿、かたち、そして才能。選ばれたもの、だ」
「かーっこいい」
綾は鼻で嗤《わら》った。マスターは首を左右にふり、苦笑した。
ことばが途切れた。マスターは咳払《せきばら》いし、綾はかるくウインクした。マスターはふたたび首を左右にふって、言った。
「おまえ、また背がのびたんじゃないか?」
こんどは綾が苦笑した。
「いいたかないけど、成長期はとっくに終わったよ」
「おまえ、いくつになった?」
「おんなに歳《とし》、訊《き》くなよ」
「すまん」
「成人式は、終わったよ」
「じゃあ、背はいくつある?」
「一メーター六十四センチ」
「──もっとおおきく見えるな」
「やめてよ。そんな大女じゃないわ」
綾は煙草に火をつけた。マスターが顔をしかめた。綾はおおげさに煙を吐き、すぐに、ていねいに消した。
「喉をいたわれ、でしょ」
綾はマスターのいつもの台詞《せりふ》を先まわりして言った。マスターは、真顔で頷《うなず》いた。綾はカウンターに身をのりだすようにして、マスターの頬にかるく唇をあてた。
「ありがと」
小首をかしげてマスターを見つめ、囁《ささや》くように言った。あっさり背を向ける。
マスターは溜息《ためいき》をついた。MOJOからでていく綾の伸びやかな後ろ姿を一瞥《いちべつ》し、喉まででかかった『ステージに遅れるなよ』ということばを呑みこんで、仕込みを再開する。
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さきほどまでは、雲の切れめから陽がさしていた。MOJOをでて、階段をあがり、地上にでてきたら、完全に曇っていた。
綾は灰色の空に視線をやり、ちいさな溜息をついた。山下公園に向かう観光客にまじって、気怠《けだる》そうに歩きはじめる。
中華街で台湾料理でもたのしんできたのだろうか。横を歩いている男が連れの女に話しかけるたびに、強烈なニンニクの匂《にお》いがする。
綾は、ニンニクをきかせた料理が嫌いではない。が、他人のニンニクの匂いは耐えられない。それに舗道を歩いているにしては、妙に男の躯《からだ》が近くにある。
綾は顔をしかめて男を覗《のぞ》きこんだ。男と視線があった。男は物欲しそうな笑顔をかえし、連れの女に気づかれないように、さらに躯を寄せてきた。
「臭ぇんだよ、脂性の田舎者《いなかもの》が!」
綾は怒鳴った。男はあっけにとられ、舗道に立ちどまった。綾は大股で歩いていく。男はリーバイスの501につつまれた綾のかたちのいい尻《しり》を呆然《ぼうぜん》と見つめた。やがてその頬に、怒りの血がのぼった。
非のうちどころのない綾の尻。そして無駄というものがいっさいないことがジーンズの生地をとおしてもわかる長くバランスのとれた足。自分が絶対に所有することのできぬ女のうしろ姿だ。
「まて!」
男が怒りの声をあげた。綾は、ゆっくり振りかえった。口の端につめたい微笑がうかんでいた。それが少しアルコールの入っている男の気持ちをさらに逆撫《さかな》でした。
「やめなさいよ……」
連れの女が顔をひきつらせて男を止めた。綾の微笑が、嘲笑《ちようしよう》にかわった。苦労してようやくデートに誘った女。ひどく間が抜けて、くすんでみえた。男はさらに劣等感を刺激された。
「侮辱は許さん」
頬を白くして、綾に迫った。綾は躯からきれいに力を抜いて、男が近づくのを待った。男の腕がのびた瞬間、ブーツの踵《かかと》を軸にして、くるっと躯をまわした。
綾の躯はピザ・ハウスのドアの正面に向いていた。男の手が綾の肩にかかった。綾はかまわず、ピザ・ハウスのなかに入った。
軽く片手をあげ、綾は店内にたむろしている不良外人に近づいた。
「あぁーん、ポパイ」
「どぉした、オリーブ」
「ダーリン、田舎者の変なおじさんが、あたしを追ってくるの」
男は狼狽《ろうばい》した。レスラーのような白人が、赤毛に指をつっこんで、ニヤニヤ笑いをうかべている。綾はスツールにかるく躯をあずけ、つめたい眼差しで男を見つめている。
男の狼狽には、急に綾が白人の女に見えたことも含まれていた。舗道を歩いていたときは、髪の黒い日本の女だった。いま、巨大な白人男の横で、綾はガイジンだった。
「おとうさん、横浜に田舎者は似あわないよ」
白人男は筋肉を誇示するように胸をつきだして、達者な日本語で言った。男は店内から逃げだそうとした。足が裏切った。もつれた。
綾が顎《あご》をしゃくった。白人男は、その巨体に似つかわしくない素早さで男の襟首をつかんだ。
「ソフトにね。優しく。傷が残ったりするのは、嫌」
あくびまじりに綾が命令口調で言った。つまらなさそうに付け加えた。
「このプルートは、ベースのウエイト・リフティングのチャンピオンだったのよ」
「おう、綾。僕、ポパイのはず」
綾はつめたい眼を向けた。
「むかしはともかく、いまは、ただのデブ。フアット・ボーイ、よ」
プルートは、さみしそうに苦笑した。襟首をつかんで男を持ち上げる。その腹に、拳をたたきこむ。
男が床に転がった。口の端から、舌が飛びだしていた。男はワックスの匂いを間近に嗅《か》ぎながら、かろうじて周囲を見まわした。連れの女の姿はなかった。
悔し涙があふれた。田舎者と罵《ののし》られ、白い男に拳を鳩尾《みぞおち》にたたき込まれ……。
立ち上がろうとした。腹部の左側に、激しい痛みがはしった。殴られたことからくる鈍痛ではなく、刺すような痛みだった。
立てなかった。意思と無関係に、涎《よだれ》がでてきた。涎には茶色っぽい血が混じっていた。
「やっちゃったよ」
カウンターの奥から、くぐもった声が響いた。プルートの顔に複雑な、恐れを含んだ笑いのようなものが浮かんだ。
「徳山さん、僕、かげんしたよ。軽く殴った」
「おまえは頭がたらないんだから」
徳山はゆっくり照明の下に進みでた。
「やっぱり、やっちゃったよ。内臓破裂だ」
床に頬あてて、玉のような脂汗をかいて喘《あえ》いでいる男を、徳山は見つめた。男の顔色は蒼白《そうはく》で、唇は紫色に変わっていた。涎は濃い赤茶色に変わり、血か涎か区別がつかなくなっていた。
「だめじゃないか、綾。馬鹿な白人を挑発して」
徳山は綾の頭を軽く小突いた。
「いてえなぁ!」
綾は大声あげて、徳山を小突きかえした。徳山は綾にやさしく笑いかけ、ゆっくりプルートに向きなおった。
「棄ててこい、これ」
「どこに……」
「海の中か、山下公園のごみ箱か。そして、二度とこの店に顔を出すな」
プルートは途方にくれた顔をした。自分の三分の二も背丈のない徳山に、いくども卑屈に頭をさげた。
徳山は完全に無視した。黙殺した。綾は男を担いで出ていくプルートを無表情に見送った。徳山は綾を奥のボックス席に誘った。
「いつ帰ってきたの?」
「昨日だよ。時化《しけ》て、たいへんだった」
「スラッジ?」
「そう。最近は、スラッジ清掃の監督ばかりだね。……ピザ、食べるか?」
綾は首を左右に振った。
「徳山の横にいるだけで、いい」
にっこり微笑《ほほえ》んで徳山は綾の肩に腕をまわした。綾は徳山に躯をあずけた。徳山がカウンターで呑《の》んでいた焼酎のビール割りを、ウエイターが愛想笑いをうかべて運んできた。
徳山が手を伸ばすよりもはやく、綾がグラスをつかんだ。綾はグラスに口をつけ、ひと口含んで大袈裟《おおげさ》に顔をしかめた。
「凄《すご》いもの呑んでる」
「俺は、これが一番だな」
「似合ってはいるけどさ、これでピザを食べるのって、どこかへんだよ」
「そんなことはないさ。ピザによく合うよ」
「徳山がプレーンなチーズ・ピザが好きっていうの、かわいいね」
「──船のなかで、ときどき、このチーズが溶ける匂いを思い出すよ」
「まえから思っていたんだけどさ」
「なんだい?」
「なぜ、船に乗るの? 専務取締役がわざわざ現場に出なくってもいいじゃない」
徳山は綾の肩にまわした手に力をこめ、すこし声をおとして言った。
「好きなんだ。綾がブルースを歌うように、俺は船が揺れるのが好きなんだよ」
「あたしは、好き?」
徳山はそれに答えず、綾が直接肌の上に着ているセーターの襟元から手をいれた。綾は脱力して身をまかせている。徳山の指先はゆっくり降りていき、綾の胸の膨らみにとどいた。
「乳首、さわって」
綾は徳山の耳元に囁《ささや》いて、さらに躯をあずけた。
「気持ちいいだろう」
「うん。芯《しん》ができて、痛いくらい気持ちがいいの」
「痛いくらい、か?」
徳山の眼が光った。綾は徳山の不精髭《ぶしようひげ》だらけの頬に頬ずりして言った。
「徳山は、いじめるのが好き?」
「凄く好きだよ」
徳山は綾の乳首に爪《つめ》をたてた。綾の顔が苦痛に歪《ゆが》んだ。
「痛いか?」
「立てなくなっちゃう」
「女にしては、ちいさな乳首だよ。少年のようだ」
「やさしく、して」
「こう、かな?」
「とてもいい。すごくじょうず。ときどき、痛く、して」
ピザ・ショップの店員やバーテンは、徳山のほうを見ないようにして息をつめていた。徳山と、綾のほかに客はいない。通りの喧騒《けんそう》から見はなされた、フラット・スポットのような場所だった。
「やめて」
「もう、いいのかい?」
「うん。本当に欲しくなっちゃうから。いま、男がいないから、あとの処理にこまってしまうもの」
徳山は、綾の胸からあっさり手をはずした。綾は溜息《ためいき》に似た切ない吐息をつき、照れ笑いした。
「綾が……男だったらなあ……残念だよ」
しみじみと徳山は嘆息した。綾も声のトーンをおとし、しみじみと言った。
「徳山が、女好きだったらな……」
「俺が女好きだったら、おまえはこんなに気安く躯をちかづけはしないよ」
「そんなことないよ。徳山は美男子じゃないけれど、とても色気があるの。あぶない色気。女は徳山が上眼遣いに相手を見るときの危険な瞳の光にゾクッとくるのよ」
「知ったふうなことを言うじゃないか」
「誇るほど多くはないけれど、それなりに男は知っているつもりよ」
綾はいったん口を噤《つぐ》み、吐きだすように言った。
「あたしが欲しいのは人格者でも、強い男でもないわ。あたしが欲しいのは、できる男よ」
「それはなんらかの才能のある男、という意味かい?」
「そうね。なんでもいいの。ただ、心のどこかがふつうでなくて、そのふつうでない部分が、あたしにとって輝くものであればいいの」
綾は皮肉な微笑をうかべて、付け加えた。
「自分が利口だと思っている小利口なだけの男には、うんざりよ」
徳山は、ちいさく溜息を洩《も》らした。
綾は徳山の太腿《ふともも》にそっと手をおいた。小太り気味に見える徳山だが、綾の掌は硬くはちきれそうな筋肉を感知していた。
綾は黙って徳山の太腿をあたためた 。徳山はもういちど 、溜息をついた 。眼頭をこすった。
「ふられちゃったよ」
徳山が、溜息まじりに言った。
「失恋したの?」
小声で綾が訊いた。やさしかった。労《いたわ》りがあった。徳山を抱いて、包みこむような声だった。
「綾は、オフクロさんみたいだな」
徳山が恥ずかしそうに、涙声で呟《つぶや》いた。
「誰にたいしてもやさしいわけじゃないわ」
綾は徳山の太腿においた手に力をこめた。じっくり力をこめて、軽い口調で言った。
「徳山は面喰《めんく》いだから。美少年ばかり好きになるんだもの」
「誰だって、きれいなものが好きだよ。俺が綾とこうしていられるのも、綾がずば抜けて綺麗《きれい》だからだよ。他の女だったら、じんましんが出ているよ」
「あたし以外だと、じんましんが出ちゃうの?」
「ああ。女なんて大嫌いだよ。綾だけが例外なんだ」
「じゃあ、あたしを抱ける?」
「……こまらせないでおくれよ」
綾は親指の爪を噛み、いたずらっぽく微笑した。
「あたしは徳山にけっこう男を感じているんだけどな」
徳山はきまりわるそうにうつむいた。綾は真顔になった。
「もしよかったら、話を聞かせて」
「聞いてくれるかい?」
綾はふかく頷《うなず》いた。徳山は涙のうかんだ眼を乱雑にこすった。両手を祈るように組んで、喋《しやべ》りはじめた。
「さっき綾が美少年ばかり好きになるって言ったけどね、それは間違っているよ。たしかに俺は綺麗な子が好きだけど、それは単なる趣味にすぎないからね」
「ほんとうの、恋を、したのね」
徳山はうつむいた。組んだ手が小刻みに震えている。
「言っちゃいなさい。全部あたしに打ち明けてしまうのよ」
綾は徳山の手のうえに、自分の手をかさねた。徳山は綾にすがるような視線を向けた。お喋りな同性愛者の切実な瞳がふるえている。
「さっき綾が言っただろう。心のどこかがふつうでなくて、そのふつうでない部分が、あたしにとって輝くものであればいいと」
「ええ。他人の見てくれは関係ないのよ。あたしにとってどうであるかってこと」
「まさにそれだったんだよ。その男は。俺にとって輝いていたんだ。他人が見たら、薄汚れた、ただのニコヨンにすぎないんだろうけどね。
俺にとっては輝いてみえた。宝石みたいな男なんだ……ひと目|惚《ぼ》れだったよ。理屈じゃなくって、とにかくその男が欲しかった」
徳山は嘆息した。徳山はその男にいつも辛く当たったものだ。やさしくしたいのだが、その男と顔を合わせると、つい無理難題をふっかけて、自分の力を、権力を誇示してしまうのだ。
はじめのうち、その男は、徳山が嫌いではなかったはずだ。徳山をそれなりに理解もしていたようだ。もちろん、性的に徳山に好意をもっていたわけではないが。
「奴《やつ》は、俺に友情をもっていてくれたと思うんだ。でも、奴はそれで充分だろうけど、俺はそれではすまないんだよ。辛いよ。苦しいよ。切ないよ。俺は奴が欲しくて、欲しくて、気が狂いそうなんだ」
「なんていうひと?」
「──スラッジ清掃を始めたばかりのころは、犬山なんて嫌な偽名を使っていたよ。で、ある時いっしょにタンカーの食堂で酒を呑んだことがあったんだけど、奴は照れながら、本名は村上だと名のった。むかし何をやっていたかは、はっきりと口にしなかったが、綾といっしょだよ」
「あたしと……?」
「うん。たぶん、ミュージシャンだよ。どの程度かは、わからんけどね」
「ミュージシャンか……ミュージシャンなんて、ろくな男がいないよ。役者とミュージシャンは自己愛のかたまりで、自己顕示欲っていうの? つよくてさ。才能があれば、まだ許せるけどね、口ばっかりの奴ばっかしだから。大部分の奴は、嘘《うそ》で固めたサイテー野郎だよ」
「ずいぶん厳しいね。綾は恨みがあるみたいだ」
「恨みじゃないわ。軽蔑《けいべつ》よ」
「──村上は、そんな男じゃないんだ。照れ屋で、引っ込み思案で……俺が美化しているところもあるだろうけどね。なんていうのかな、傲慢《ごうまん》になりきれなくてね、自分に自信を持てなくて挫折《ざせつ》してしまうといったタイプの男なんだ」
「実力は、あるの?」
「ミュージシャンとしてはどうかわからないが、仕事はできる。リーダーになれる男だよ」
綾はくすくす笑いだした。
「自称ミュージシャンて、いわゆる普通の仕事ができない奴が多くてさ。オタクなのよ。音楽オタク。運動神経がにぶくて、演奏はへたで、そのくせ音楽雑誌の受け売りの知識だけは頭に詰まっていてさ」
「それは、どこの世界でもいっしょさ。ほとんどの奴が劣る者で、じつは受け売りの知識だけで生きている。何も生みだしはしないのさ。でもそれを自覚したら、自殺するしかないからね。
でも、村上は違うんだ。まわりの人間は村上を黙殺するにしろ、敵意を抱くにしろ、とにかく心の底で注目してしまうんだ。村上本人は気づいてないんだけど、村上は中心にいるべき男なんだよ」
綾は、わざと皮肉な眼差しを徳山にむけた。
「ずいぶん入れ込んでるわね。徳山は夢中だから、すべてがよく見えるんじゃないの?」
「そうかもしれない。でも、好きになってしまったんだ。すべてがよく見えることは、俺の誇りさ。綾はまだ、ほんとうの恋をしたことがないんだ。俺に言わせれば、綾こそ自己愛が強すぎるんだよ。醒《さ》めた顔してポーズをつくっているけど、じつはただの臆病《おくびよう》な少女なのさ」
綾の瞳が険《けわ》しくなった。徳山をきつく睨《にら》みつける。
「徳山の馬鹿野郎! オカマ! ヤクザ! 中年デブ! ハゲ親父《おやじ》!」
徳山は綾を上眼遣いで見つめた。綾は下唇を噛み、いままさに涙が瞳からこぼれ落ちようとしていた。
綾のエキセントリックなところが、愛《いと》しくてならなかった。徳山はちいさく咳払《せきばら》いして、綾の手をやさしくそっと握った。
ウエイターやコックやバーテンが、徳山と綾をそっと窺《うかが》っていた。徳山はゆっくり視線をカウンターにむけた。
「なに、見てるの?」
そのひとことで、ウエイターたちは硬直し、たじろいだ。
「もう、いいだろ」
「……はい?」
かろうじてバーテンが返事した。徳山は無表情に、抑揚を欠いた小声でいった。
「閉めちゃいなよ、店」
「はあ……」
「閉めろって言ってんだ!」
徳山は泣いている綾の頭を撫《な》でながら、凄《すさ》まじい大声で怒鳴った。そして、小声で付け加えた。
「おまえら、あがれよ。店閉めて、帰っちまえ」
3
従業員は、ほとんど泣き顔でシャッターをおろし、店からでていった。徳山は穏やかな表情で、ずっと嗚咽《おえつ》する綾の髪を撫でつづけている。
「徳山の馬鹿野郎……お喋《しやべ》りなホモ野郎」
しゃくりあげながら、綾が言った。
「ごめんよ。傷つけてしまったね。綾は、こわれもの、なんだよね。忘れていたよ。許しておくれ」
「許さない」
「どうしたら、許してもらえる?」
「死ね!」
「わかった」
綾は、あわてて顔をあげた。
「嘘だよ!」
「なにをあわてているんだい」
「だって、徳山は、本気で死ぬだろう」
徳山は、顔を中空にむけた。でていく従業員にあかりを消させたので、まだ陽のある時間だが、店内は薄暗い。
「綾……ジュークボックスをかけてあげようか」
「──いらない」
「綾は、俺のことをよくわかっているね」
「なにを言ってんだよ。あたしと徳山の仲だろう」
「俺と綾は、親友ってところかな?」
「──あぶないよ。徳山は、冗談で死んでみせる奴だから」
徳山は、乾いた笑い声をあげた。綾はうつむいた。
「あたしのことはいいからさ、徳山の恋のことを話してよ」
グラスに手をのばし、徳山は幾度めかの溜息《ためいき》をついた。
フィルターに埃《ほこり》が詰まっているのだろうか。エアコンの効きがわるい。綾は徳山の吐く白い息を見つめた。
「さっきも言ったけど……俺はまるで小学生みたいになってしまって、村上をいじめたんだ。好きなんだ。すごく好きだ。それを素直に表現することができなくて、つい、意地悪く接してしまう」
「あたしなんか、いまでも意地悪されるよ」
「それは、綾が意地悪だからさ」
綾はニヤッと笑った。さきほど涙を流したのが嘘のような笑顔だ。徳山は笑いかけたが、肩をがっくり落とした。
「意地悪すれば、嫌われるのは当然だよね。でも、俺の村上に対する気持ちは絶対に成就しないことがわかりきっている。俺はつらいよ。 『好きです』と告白して、百にひとつでも可能性があればともかく、村上は性的にはごくノーマルな男だから。
村上にしてみれば、ちょうど俺が綾に『抱いて』と迫られて困ってしまうようなもんだろう。だから俺は、諦《あきら》めようとした。苦しいけどね、忘れようとした。
ところが村上の奴は、俺の気持ちを知ってか知らずか、スラッジ清掃の仕事があるたびに、タンカーに乗り込んでくるんだ」
徳山の額に苦悩の縦皺《たてじわ》が深くきざまれていた。薄暗い店内のせいもあるが、一気に老けて感じられた。
「たまらないよ。俺にだって自意識がある。愛情はたしかに憎しみに変わるんだ。自分の思いどおりにならないなら、殺して……しまえ」
「殺したの?」
徳山は首を左右に振った。独白するように呟《つぶや》いた。
「俺はいままで、幾人も殺した。俺がなにがあっても殺さないって決めているのは綾、おまえだけだよ。
俺は、村上を殺したかった。村上はそんな俺を逆撫《さかな》でするように、政治運動をしている在日朝鮮人のガキと仲良く……それこそホモのように親密につきあいだした。
これみよがしに、俺の前でイチャつくんだ。村上は兄貴気取りで、崔《さい》は出来のわるい弟さ……」
徳山は綾の手をきつく握った。荒くなった呼吸を辛うじて、抑えた。
「殺してやったよ。崔のガキをスラッジのなかにたたき落としてやった。しかも俺は直接手を下さずに、村上に監督させて、殺させてやった」
4
徳山は村上の顔を舐《な》めるように眺めまわして言った。
『まだ、ガス抜きが完全に終わってなかったな』
もちろん、わかっていて送りこんだのだ。それどころかタンク内は有毒ガスが充満している。崔の死体を引き上げにいくことさえできない。
じつは村上も危なかった。崔にこだわって、あと少しでもタンク内にいたら、確実に死んでいた。
徳山は笑いを抑えられない声で、命じた。
『崔の死体を拾うんだ。お湯をブチこめ!』
ガス抜きをしなければ、崔の死体を引き上げることはできない。無理をすれば次の犠牲者がでてしまう。バッタ打ちが再開された。
甲板から太いホースで熱湯を送りこむ。それでタンク内の有毒ガスを抜くのだ。
凄《すさ》まじい時化《しけ》だった。立っているのも大変な嵐《あらし》だった。そんな中で、徳山はバッタ打ちの指揮をした。
白鯨《はくげい》を追いつめるエイハブ船長のような気分だった。躯《からだ》の底から歓喜がわきあがってきた。
村上は魂の脱け殼と化し、甲板にへたりこんで、暴風雨にうたれていた。
徳山に言わせれば、こうなる。
『自分が弟分を殺したんだからな。あんなに懐いていた小僧を、死ぬとわかっている場所へ送りこんだんだ』
甲板からは、湯気といっしょに有毒ガスが噴きあがり、アンコ達は眼尻に涙をうかべ、胃液を吐きながら、タンク内にホースで熱湯を送りこんだ。半日後に、ようやく崔の死体が取りだせた。
崔は、頭からスラッジのなかに落ちた。折れた首の骨が飛びだしていた。
崔を引き上げたアンコたちは湾岸戦争のときの重油まみれの水鳥を思った。
真っ黒になって死んでいったあの鳥とおなじだった。崔は、鳥のように飛び、スラッジにまみれた。
崔の死体は、もう、誰だかわからなくなっていた。スラッジにまみれたあげく、半日もバッタ打ちの熱湯を浴びせかけられたのだ。
焼け爛《ただ》れていた。躯を清めるために着衣を脱がされた崔は、髪や体毛がばらばらと抜け落ち、火傷した皮膚は丸まるようにして剥《む》け、その姿は、痩《や》せた、背の高い、真っ赤な猿を想わせた。
徳山は崔であった焼け爛れた肉塊を見て吹きだした。村上を盗み見ながら、わざと大袈裟《おおげさ》に笑った。
自失状態の村上は妙なことを口走った。
『筋肉か……?』
呟《つぶや》いて首を傾げている。徳山はハタと気づいた。
崔は皮が剥け、脂も溶けてしまっていた。よく見ると、理科の教科書の図のようだった。ところどころ筋肉が直接、剥きだしになっているのだ。
徳山は舎弟に手伝わせて、崔に付着したスラッジをガソリンを使って丹念に落とした。スラッジと一緒に皮膚も完全に剥け落ちた。見事な筋肉標本が残った。
徳山は村上にむかって言った。
『この筋肉標本が、崔のなれの果て、さ』
村上は惚《ほう》けた表情で筋肉標本を見つめている。アンコのなかには、烈しく吐く者もいる。徳山は続ける。
『どうだ? 見事に鮮やかな赤だ。これが中途半端に茹《ゆ》であげられた崔の色なのさ』
もう、笑いが止まらない。徳山は狂ったように笑った。
実際は、崔の筋肉自体は鶏のささみを茹でたように白っぽくなっていたのだが、毛細血管から血が滲みだして崔の全身を赤く染めていたのだ。
時化がおさまってから、腑抜《ふぬ》けたようになっている村上に、徳山はさらにそう解説してやった。
徳山は喋《しやべ》りつづけたあげく、唐突に口をつぐんだ。不安そうに綾を窺《うかが》った。
「喋りすぎたね。こんな話、聞きたくなかっただろう?」
綾は、柔らかく首を左右に振った。徳山が見惚《みと》れるほどの、とびきりの笑顔をうかべた。
「徳山の話は、いつも深いのよ」
「俺の話が……深いかな?」
「深い。徳山と知りあうまえは、こんな話を聞かされたら、ただ単に顔をしかめて怖がっただけだろうけど、いまはちがうわ」
「どう、ちがう?」
「あたしはちやほやされているけど、お湯をかけ続けられたら、やっぱり筋肉標本にすぎないし、ただの、肉」
「──綾の年頃の女の子が口にすることじゃないよ」
「徳山が仕込んだんじゃない」
綾は気負いのない声でいい、まっすぐ徳山を見つめた。徳山は、苦笑しながら横を向き、綾の視線から逃れた。
「きれいごとじゃないってことを、徳山からとことん教わったのよ。サディズムの意味も教わったわ。──やはり、愛なのよ。そうでしょう?」
徳山は横を向いたまま、黙っている。
カウンターの上を、茶色い影が走った。影は、灰皿の近くで止まった。ゴキブリだった。
綾はカウンターの上のゴキブリを、ぼんやり見つめた。ゴキブリを叩《たた》き潰《つぶ》す自分の姿を想像した。それも、愛だろうか。
徳山はゴキブリを叩き潰すように人を傷つけ殺す男として恐れられていた。綾は、スリッパをもってキッチンを逃げ回るゴキブリを追いかけまわすところを想った。
ゴキブリは、綾の殺気をかんじて必死に逃げまわる。綾のほうには、うまく表現できない昂《たかぶ》りがある。
「ゴキブリ、タカブリ、エラブリ……」
綾の呟《つぶや》きに、徳山はゆっくり顔を向けた。綾は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「元気だしなよ、徳山」
徳山は力なく頷《うなず》いた。小声で、訊《き》いた。
「今夜も、MOJOで唄うのかい?」
「もちろん。仕事だもの」
綾は徳山の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「聴きにくる?」
「いや。綾の職場にヤクザが顔を出すわけにはいかないよ」
「もぉ。へんなところに律儀《りちぎ》なんだから」
5
もう数年前になる。中華街に近いライブ・スポットMOJOで、綾が定期的にブルースを歌いだしたのは、まだ十代だったころだ。
始めのうちは客席を見る余裕もなかった綾だったが、ふと気づくと、徳山がいた。眼を閉じて、じっと綾のブルースを聴いていた。
綾の最初のファンだった。まわりから、こわいヤクザだと教えられたが、あるとき徳山が自分のブルースを聴きながら、涙をこらえているのに気づいた。
ステージを終えて、綾は徳山の席に行った。礼を言った。徳山は口ごもって訊いた。
『ヤクザ者が店にきては迷惑か?』
そんなことはない、と綾は答えたが、じっさい店側は客も含めて迷惑そうだった。
横浜ですこしは遊んでいる者で、徳山を知らない者はなかった。徳山の名を聞いただけで、頬のあたりが強ばる者も多かった。たしかに徳山が綾のブルースを聴きにMOJOへ来た夜は、客席が微妙に緊張しているようだった。
徳山は身を引いた。MOJOに来なくなった。綾は張りをうしなった。綾めあての客でMOJOはいつもいっぱいだったが、綾は物足りなかった。
徳山は、綾のブルースを、聴いた。他の客は、綾のブルースを聴きながら、ステージの上の綾を眼で犯し、空想で全裸にした。
これがショー・ビジネスである。
綾も割りきっていた。服を脱がずに男たちを昂《たかぶ》らせるストリッパーであるという自覚もあった。
それにふさわしい美貌《びぼう》と肉体、そして声を持っているという自信もあった。見られることは、女にとって、なによりも快感だ。
しかし、涙をこらえる徳山がいなくなると、綾は何ともいえない虚《むな》しさと物足りなさを覚えた。
ある日、綾は思いきって山野興業を訪ねた。山野興業は、横浜でわるい意味で名の知れた、港湾関係作業全般をとり仕切る会社で、元締めは関西系暴力団だ。
水牛の角、エゾ鹿の剥製《はくせい》、象牙《ぞうげ》、そして無数の提灯《ちようちん》……なんとも垢抜《あかぬ》けない、そして危ない匂《にお》いのする応接室だった。徳山は不在だった。
専務取締役。徳山の肩書だった。社員は、いや組員は、綾の躯《からだ》に好色そうな視線をはしらせながら、言った。
『うちの専務は、現場が好きでね』
現場が好きとは、現場で働く男の肉体が好きという含みもあったのだが、もちろん綾に理解できるはずがなかった。
綾は組員の案内で、現場に徳山を訪ねた。徳山は、赤茶けた煉瓦《れんが》でできたバナナの室《むろ》のなかで、なんと日本刀を持って、港湾労働者を指図していた。
蒸れたバナナの吐き気を催す臭いのなかで、綾は徳山に対するふしぎな感情を覚えた。
それは、いま思いかえせば、愛情だったかもしれない。
ただ当時の綾は、まだ男にそれなりのルックスを求めていたので、背の低い、髪の薄い中年男を愛情の対象には考えることができなかった。
とにかく綾は、徳山にひかれる自分が許せなかった。男など、命じれば、自分の足を舐《な》める存在であると思っていた。
徳山は、違った。顎《あご》をしゃくるようにして綾を誘い、事務所のドアをロックした。日本刀を抜いた。
『脱げ』
と、命じた。
綾はためらわずに全裸になった。徳山は綾の裸体から顔をそむけ、くぐもった声で、同性愛者であることを告白した。
そのとき、綾は、微笑した。なぜ微笑したのかは、よくわからない。微笑しながら、脱いだ服を身に着けた。
徳山は微笑する綾の首筋に、日本刀を突きつけた。綾は微笑をおさめ、まっすぐ徳山を見つめた。
『あったかいんだか、冷たいんだか、よくわからないわ』
『なにが?』
『徳山さんのこと』
綾は、小声でつけくわえた。
『この刀は、徳山さんの意志なのね』
徳山は刀を引き、呟《つぶや》いた。
『きれいな……躯《からだ》だったよ』
「わたしたちって、老人みたいだね」
無人の店内を見まわしながら、綾は囁《ささや》くように言った。徳山は、含み笑いをもらして、同意した。
「肉体関係を忘れた男女だね」
「わたし、徳山が本気で男の人を好きになったら、もっと嫉妬《しつと》すると思ったんだけど、それって、ぜんぜんないみたい」
「綾も一時期、男関係が華々しかっただろう。心配はしたけど、嫉妬はなかったな。でも、自分を大事にしなくてはだめだよ」
綾は、素直に頷《うなず》いた。徳山が言うほどのこともなかったのだが、たしかにここのところ、私生活が乱れていた。
綾自身は、自分のイライラを、性的欲求不満であると自己分析して、幾人かの男と寝たのだが、なんの解消にもならなかった。自分に対する嫌悪感が増しただけだ。
「あたしも……徳山みたいな、恋がしたいな」
徳山は、苦笑した。
「つらいよ。ひとを好きになると、つらい、よ」
言いながら、徳山は眼頭を押さえた。震え声で、綾に頼んだ。
「ガット・マイ・モージョ・ワーキンを唄っておくれ」
綾は頷き、立ち上がった。綾が唄っている店の店名にもなっているMOJOは、ニューオーリンズあたりの深南部の黒人が信じているヴードゥ教のまじないで、女をたらしこむ呪文《じゆもん》だ。
徳山は綾を見上げた。綾は右足でカウントをとり、唄いだした。
めまいがするほどおまえに惚れて
モージョにすがった
必死に祈る
だけど届かず
おまえは振りむかない
俺様のモージョ
役立たず
もう、どうしようもない
俺様のモージョ
おまえに効かない
徳山はがっくり首をおって動かない。綾は徳山の前でひざまずき、徳山を胸に抱きこんで、スリー・コーラスめを、語りかけるようにして唄いおえた。
「俺のモージョは、効かなかったよ。村上には届かなかった。ほんとに効いてほしいときには、効かないんだよ」
綾は母のように徳山を抱き、諭すように言った。
「それが……ブルース、なのよ。だから、ブルースを歌うの」
すべてか、無か
1
酔っていた。村上は、ひどく酔っていた。
「夜がまた来る……思い出抱いて……夜がまた……来る……思い出抱いて……」
隣に座った男が、さきほどからずっと同じ節を口ずさみつづけていた。村上は節にあわせて躯《からだ》を揺らせた。焼酎で喉《のど》を湿らせ、小声で呟《つぶや》いた。
「輪だよ……輪になってんだ。メビウスの輪、だよ」
隣の男は唄うのをやめた。村上を睨《にら》みつけた。酔いで荒い息が村上の顔にかかった。
「なんか、言ったか?」
「───────」
村上はガックリ首をおり、吸殼だらけの地面を見つめている。男は村上の横顔を睨《ね》めつけた。端正な顔だちだった。が、ひどく自棄気味なものが漂っていた。男はそれを敏感に感じとり、さりげなく視線をはずした。
「騒ぐんなら、外でやってくれよ」
店の親父がどうでもいいような口調で言った。
「なにが外、だよ。地べたに直接店だしてるくせによォ」
親父は相手にせず、一杯でとことん酔おうと、吸殼を拾って、煙草の葉を焼酎に混ぜて、ニコチンカクテルをつくろうとしている男を菜箸《さいばし》で叩《たた》いた。
「死ぬんなら、よそへ行きな」
夜がまた来る……と唄っていた男は、店内を情けなさそうに見まわして、自分の梅割りをあおり、自棄っぱちのドラ声を張りあげた。
「おおきな栗《くり》とリスの唄! あっなぁたとわったし、仲良く舐《な》めましょォ。おおきな栗とリスの唄」
2
外は木枯らしが吹き荒れていた。福祉会館ごしに見える夜空の星も、強風に揺れてみえた。村上は、酔いがたちまち醒《さ》めていくのを感じ、胴震いした。
いくら呑んでも酔えなかった。酔って忘れようとすればするほど、忘れられなかった。村上は、自分の吐く白い息をぼんやり見つめた。顔が泣きそうに歪《ゆが》んだ。
村上は半袖の作業服上下を着ていた。その下はランニングシャツといういでたちだ。タンカーで支給された作業服のままだった。生暖かい南風と、バッタ打ちの熱湯。暮れとはいえ、南シナ海は、これで充分だった。
鳥肌のたった剥《む》きだしの腕を、村上は溜息《ためいき》まじりにさすった。作業服はひどく汚れていた。鉄筋の錆《さび》どめに使うくすんだ朱色のペンキ、そして黒茶の油脂がいたるところに染みこんでいた。
スラッジの悪臭だ。スラッジの悪臭が作業服から漂っていた。自分が借りている簡易宿泊所──ドヤに帰れば、着替えがないわけではない。冷凍庫内作業用の化繊の防寒服もある。
ドヤまで数分だった。せめて防寒服をとりに戻れば、と思いもするが、それがひどく億劫で、いまいましいのだ。村上はタンカーのスラッジ清掃の作業着のまま、寿町《ことぶきちよう》の細長く閉ざされた空間をさまよっていた。
寿町。簡易宿泊所の街。ドヤ街。
毎年二百人もの行路死亡者のでる町。中村川に死体の浮く町。死体が浮いても、労務者風であれば、警察は調べもしない地区。ほとんどの死亡者が無縁仏として葬られる町。港湾労働をはじめ、港町横浜の底辺を支えて、忌み嫌われながらも、その存在が絶対に必要である町。
村上は舗道の隅に座りこんだ。早朝は労務者と手配師で騒々しい寄せ場だが、今夜はとくに閑散としていた。
焚き火をしていた。数人が、寄せ場の中央で、意地になったように火を囲んでいた。
村上は舞い上がる火の粉を追った。追い疲れて、視線を落とし、オレンジ色にゆらめく炎に視線を据えた。
かたわらで水音がした。村上の頬に小便の飛沫《しぶき》がかかった。
「バカヤロォ」
村上が怒鳴りつけると、赤黒い顔をした男が、アルコールのせいで肥大した陰茎を剥きだしにしたまま、路上に倒れこんだ。
男は路上に転がったまま、鼾《いびき》をかきはじめた。このまま寝込んでしまっては、凍死するかもしれない。男の着ている作業用ジャンパーを剥《は》ぎ取ろうと村上は一瞬思い、かろうじてこらえた。
「死ね!」
鋭く罵《ののし》って、膝《ひざ》に手をあて、大儀そうに立ち上がる。
3
気がつくと、寿町から外れていた。首都高速湾岸線とJR根岸《ねぎし》線の高架の下をふらつきながら抜けていた。
中華街の西門に入り、左に折れ、ドヤ代が払えないときのねぐらである横浜スタジアムに隣接した横浜公園に向かっていた。
村上は、照明に浮かんだ公園の緑に視線をやり、幾度も舌打ちした。ベンチの上で、段ボールにくるまって眠っている老人を見つめた。
溜息《ためいき》。そして、呟《つぶや》き。
「金なら……あるんだ」
村上は唇の端に皮肉で投げ遣りな微笑をうかべ、踵《きびす》をかえした。スタジアム前のバス停から、ふたたび中華街の方向に向かう。
あてがあるわけではなかった。村上は口のなかで何事か呟きながら、自嘲《じちよう》の笑いをうかべ、蛇行しながら歩いていく。
前から髪をリーゼントにした若者がやってきた。蛇行する村上を、顔をしかめてよけようとした。よけた方向に、村上がやってきた。
「こらぁ、ここは寿町じゃねえぞ、ばかやろう」
若者は抑えた、しかし憤りを含んだ声で毒づいた。
村上は無表情に若者とすれ違った。すれ違ってから、ゆっくり振り向いた。外国船員の溜まり場であるバーの十字路だった。村上はバーの看板に手をかけた。コンセントがはずれて、看板のあかりが消えた。村上は看板の脚を掴《つか》み、振りかぶった。
若者が路上に転がった。グリスで固めたリーゼントの髪のあいだから、血が噴き出した。激しい出血だった。若者は自分の身になにが起こったかわからぬまま、小刻みに痙攣《けいれん》した。
村上はふたたび看板を振りかぶった。通行人のあいだから、悲鳴があがった。村上は若者の後頭部に視線を据えた。看板の枠のダイキャスト部分が角にくるようにもちかえた。
「まずいよ! 殺しちまう!」
背後から村上をはがい締めにした男がいた。徳山の舎弟の八木だった。村上は八木を一瞥《いちべつ》し、醒《さ》めた表情で路上に看板を投げ棄てた。
八木は村上のまったく感情のあらわれぬ表情に息を呑み、それでも辛うじて村上を引っぱった。
暗がりを、路地裏を、村上を引っぱりながら、駆けた。中華街、関帝廟《かんていびよう》通りを抜けた。雑居ビルの、地下におりる階段に飛びこんで、一息ついた。
「よけいなことをするんじゃない」
村上が囁《ささや》くような声でいった。八木は走ったせいで急に酔いがまわってしまった、と前置きしてから苦笑まじりに言った。
「考え違いしていたよ。村上さんは暴力|沙汰《ざた》とは無縁だと思っていた」
さらに微妙に視線をそらしながら、続けた。
「ヤクザのやりくちじゃないか。まいったな。お株を奪われちまったよ」
「だれがヤクザだって?」
「凄《すご》まないでくれよ。俺がいなかったら、村上さんはあのガキを殺しちまったぜ」
「殺すつもりだったんだよ」
八木は村上を上眼遣いで見た。
「かまわんけどさ……兄貴が悲しむから」
村上の瞳に、殺気が宿った。八木は、視線をそらした。
けっきょく村上は無言だった。腕組みしてコンクリートの壁によりかかり、沈黙しつづけた。八木は、いたたまれなくなった。
「じゃあ、俺、行くよ。よけいなお世話したね」
八木は、溜息をついた。村上はゆっくり八木を向いた。
「すまなかったな」
村上は八木を見つめたまま、頭を下げた。八木は逃げ腰で、手を左右に振った。
「いや、俺はホモじゃないけど、村上さんのこと、けっこう好きなんだ。尊敬してるんだ。ほんとうに……だから、その……うまく言えないけど、たいがいの奴は徳山の兄貴に脅されると、ケツ貸しちまうじゃない。村上さんは、根性据わってるよ。兄貴、酒呑むと、村上さんの名前、呟《つぶや》いて、泣いてるよ」
村上は口の端で嗤《わら》った。顎《あご》をしゃくり、行けと合図した。
「じゃあ、また、いつか」
八木は言い、しかし村上に向きなおった。
「けっこう大変なんだよ。兄貴、泣くだろ。荒れるだろ。よけいな殺し、しそうで気が気じゃないよ。村上さんみたいに物のわかった人じゃないからね。正気じゃないから。
でも、俺、兄貴が好きなんだ。すくなくとも、崔みたいに政治運動してる奴よりも、俺たちみたいな奴の気持ちがわかる人だよ。きついとこもあるけどね、正気じゃないけどね、きっと俺みたいな奴のためにも命張ってくれるよ。裏切らないよ。そこだけは、わかってほしいな」
村上は薄く眼を閉じていた。八木は村上の表情を読もうとした。村上に表情はなかった。
「俺、行くけどさ、崔のことは忘れたほうがいいよ。崔は、学生だろ。冷やかしでドヤを掻《か》きまわされちゃ、たまんないよ。俺は、けっこうああいう奴に腹、たててるんだ。掻きまわしにくるなら、命張れってことだよ。搾取だとか、解放なんてセリフは聞きたくないね。卒業したら俺たちをこき使う側にまわるくせしてよぉ、舐《な》めるんじゃねえって」
八木は、声を荒らげ、まくし立てた。村上は閉じていた眼を開いた。
「おまえの言うとおりだ」
「だろ! 村上さんだって、そう思うだろ。俺たちはよぉ、ドヤしか行き場がないんだよ。学生は正義の味方でやってきて、大層なこと言って、ほとんどの奴がいなくなって、残った奴は主義主張を俺たちに押しつけて、自己満足して、いい気分さ。馬鹿扱いするんじゃねえよ!」
「ただな……崔は、友達だったんだよ」
村上は八木をまっすぐ見つめて言った。八木は、うつむいた。
「ダチ、か……」
「ダチだった。馬鹿な坊ちゃんだったかもしれんが、ダチだったんだ。はじめは、おまえが感じていたのと同じ気持ちを崔に持っていたよ。しかし、友達になった。あまっとろいと言われるかもしれんが、あれはあれなりに人の気持ちがわかる奴だったさ」
八木はうつむいたままだった。小声で、言った。
「俺、今度こそ、行くよ」
苦笑して、付け加えた。
「おおきなお世話かもしれんけど、しばらくここからでないほうがいいよ。お巡りが捜しまわってるからさ。地下はライブ・スポットだから、しばらく暇つぶして、それから帰ればいいよ。この店は、一時期、兄貴が入り浸りだったんだ」
村上は八木を見送った。地下から、ヴギのベースラインが微《かす》かに聞こえる。村上はしばらく耳を澄まし、舌打ちして、階段の陰に座り込んだ。
コンクリートの冷たさは、光栄丸の船体の冷たさを思いおこさせる。村上は眼を閉じた。思いに沈んでいく。
4
徳山の船室は第二甲板にあった。真横には、積み荷用オイルタンク・コンパートメントを示すFF記号が歪《ゆが》んだゴシックで書かれていた。
村上はクリーム色に塗られたデコボコの鋼鉄のドア・ドッグに手をかけた。
ドッグは錆《さ》びついていた。渾身《こんしん》の力をこめて、ようやく開いた。
船室内には二段ベッドがしつらえてあり、徳山は下段のベッドに背を丸めて座っていた。村上は上眼遣いのまま、軽く頭をさげた。
徳山は愛想よく頷《うなず》きかえした。タンカーの船上で、徳山は片時も日本刀を放そうとしなかった。
村上は、汗と汚れで黒っぽく変色し、くすんでいる緋色《ひいろ》の刀の柄を、見るともなしに見つめた。
徳山は村上に煙草をすすめながら、唐突に訊《き》いた。
『崔という小僧は、なんなんだい?』
『さあ。俺が世話したわけじゃないから』
『そりゃ、そうだ』
村上は使い棄てライターで洋モクに火をつけた。香りはいいが、味はいまいちだ。
徳山は二の腕を掻《か》いた。欠伸《あくび》まじりに言った。
『予報によると、明日は時化《しけ》る』
村上は顔をしかめた。悪条件が重なると、作業は一週間で終わらぬ可能性がでてくる。それに崔に較べればましとはいえ、バングラデシュの男たちも初めてだけに、やはり仕事の要領はいまいちだ。
『使えんな、あの小僧』
細く長く煙を吐きながら、村上は頷いた。
『袋締めがいいところでしょう』
『バングラのあんちゃんたちのほうがマシだよね』
『ええ。ことばも満足にわからんわりには』
『そこで、だ』
徳山は自分が吸っていた煙草を壁に押しつけ、ねじ込むようにして消した。
『鍛えてやろうと思うんだが』
『鍛える?』
『タンク底に入ってもらおう』
『崔が……タンク底へ?』
徳山は頷いた。村上は苦笑した。
『よけい仕事にならんでしょう』
『仕事にならんか?』
『ええ』
『なら、あの小僧はなんのためにこの船にいるの?』
徳山は刀の鞘《さや》で床をコツコツ叩《たた》いた。叩きながら柔らかく微笑した。眼は笑っていなかった。探るように村上を見つめ、顎《あご》をしゃくった。
『すまんかったね。休んでくれ』
村上は曖昧《あいまい》に頭をさげた。徳山は村上の口許に視線をやった。
『根元まで吸うのか? 健康にわるいぞ』
いまさら、と村上は短くなった煙草を見て頭を掻《か》いてみせた。
『癖、でね』
『癖か。そりゃあ大きなお世話だった。あやまるよ』
徳山は封を切っていない洋モクを投げてよこした。村上が礼を言うと、徳山は幾度も頷《うなず》いた。
『ところで、アンコ衆になにかあったら、教えてよ』
『どういうことです?』
『朱に交わればドドメ色。知ってる?』
『徳山さんらしくない』
『俺はアカが嫌いでな』
あいかわらず徳山は微笑をうかべているが、眼は笑っていない。村上はまっすぐ徳山の瞳を見つめかえして、答えた。
『俺も、嫌いですよ』
徳山は顔をクシャクシャにした。キューピー人形のように剽軽《ひようきん》な顔だった。村上はまっすぐ徳山の瞳を見つめつづけていた。徳山は剽軽な顔を崩さずに、言った。
『俺は、おまえが好きなんだ』
村上は視線をそらさなかった。徳山の頬に、気弱なものがうかんだ。冗談めかした口調で、呟《つぶや》いた。
『おまえも、俺が好きだろう? それなりに……』
村上は視線をそらさなかった。徳山の弱気は、狼狽《ろうばい》に変わった。それでも村上は、徳山から視線をそらさなかった。
『冗談だよ、冗談。いやだな、村上ちゃんも……』
徳山は日本刀の鞘で村上の胸を軽くついた。
『やる気を出してよ。俺は村上ちゃんに働いてほしいんだよ。弟分になれなんて言わないよ。なんていうのかな。相談役……』
鞘の先は、村上の乳首にぴったりあてられていた。村上は、それでも、徳山から視線をはずさなかった。徳山は鞘をえぐるように動かして、村上の乳首をこじった。
徳山は刀を引き、笑い声をあげた。泣き声に聞こえた。
あいかわらず、ベースラインだけが微《かす》かに聞こえていた。スロー・ブルースのようだ。村上は膝《ひざ》をかかえ、頭のなかで三連のリフを弾いた。
階段の陰は、ひどく冷えた。さきほどまで聞こえていたパトカーや救急車のサイレンの音も聞こえなくなった。村上は躯《からだ》を震わせ、立ち上がった。
壁によりかかるようにして、徳山のことを思った。村上の乳首をこじった刀の鞘。
あのとき俺は、徳山を殺したのかもしれない……あのとき俺は、徳山の弱々しい瞳を見つめつづけた。まったく感情を表さずに、見つめつづけた。
無感情の瞳とは、拒絶だ。そこに曖昧《あいまい》なものはない。村上はすべてに対して曖昧にしておくことができない自分の性格を呪《のろ》った。
村上にナアナアはなかった。いつだって、どんなときだって、オール・オア・ナッシングだった。すべてか、無か。イエスか、ノオか。
村上は胸を烈しく上下させた。苦しげに顔を歪《ゆが》めた。階段を登る気力を失っていた。引力に引かれるようにして、階段を降りた。
MOJO……村上は扉の文字に視線を据えた。灰色の扉に躯をあずけた。鉄の扉はゆっくり内側に開いた。ブルースが村上をつつみこんだ。ショーが始まった。
バッタ打ち
1
「タンカーのハッチなみだぜ」
村上は鋼鉄のドアを肩で押しあけ、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせて独白した。
店内は、青白く濁っていた。繁盛しているせいでもあるし、あまり換気がよくないせいでもある。
奥まったステージでは、綾がバンドを従えて、マイクスタンドに絡みつくようにして、ブルースを唄《うた》っていた。
村上は眼をこすった。美しい蛇に見えた。蛇は東洋と白人の混血であることがみてとれた。
蛇はオーティス・ラッシュのダブル・トラブル≠投げ遣りに唄っていた。投げ遣りではあったが、ブルージィだった。ロックやジャズしか知らない者にもわかりやすいブルースを、わかりやすく唄っていた。
村上は入口に立ちつくして、綾を見つめた。ちかくの席の男たちの視線が、村上に集中する。
「寿町《ことぶきちよう》からまぎれこんできやがった」
そんな囁《ささや》きがとどいた。村上はその方向に鋭い一瞥《いちべつ》をくれ、挑戦的な薄笑いをうかべた。唯一空いているカウンターに向かう。
板張りのフロアには油性のワックスがかけてあり、村上の履いているブランド物のコピーである韓国製のスニーカーが擦れてキュッと泣いた。
一回めのステージが終わった。派手な歓声と、拍手に店内が揺れる。綾は軽い投げキッスを客席におくり、バンドのメンバーをしたがえて、せまい控室にさがった。
村上はカウンターの前で立ち止まった。真ん中の席に座るか、端に座るか。迷っていた。周囲の気配を皮膚でさぐった。
喉仏《のどぼとけ》が上下した。真ん中の席に腰をおろした。過剰にふんぞりかえった。すぐに前かがみになった。
無表情だった。壊れもののように硬い。両手はきつく握られている。ちいさく圧《お》しころして溜息《ためいき》をつく。視線は磨きこまれたメイプル材のカウンターに据えられたままだ。
煙草をとりだす。作業ズボンの尻ポケットから出てきたハイライトは、パッケージの後ろ側からざっくり裂かれていた。
港湾労働に従事する者独特の開けかただ。火をつける側からとりだすようになっている。吸い口を汚れた手で触らずにすませる配慮だ。
ハイライトはフィルター部分から折れかかっていた。村上はしばらく凝視した。フィルターを千切った。犬歯のあたりで噛《か》むようにして咥《くわ》えた。歯から滲みでるニコチンの味に顔をしかめた。
すかさずマスターが火をつけてやる。村上は狼狽《ろうばい》気味に頷《うなず》いた。
「金なら……」
「メニューをごらんになりますか?」
「ビールをもらおう……金なら、あるんだ」
店内に入ってきたときは、殺気にも似た緊張感を放っていた。カウンターに座り、受け入れられたとたんに、臆《おく》した。
村上は作業服の胸ポケットに手を差し入れた。確認するかのように茶封筒をとりだす。カウンターの上に置く。
マスターは、茶封筒に印刷された山野興業のマークを一瞥《いちべつ》した。脳裏に徳山の姿がうかんだ。
お喋《しやべ》りで、涙もろく、異常に残酷なヤクザ者。ブルース・シンガーとしての綾が気に入り、綾だけは殺さない、と公言した同性愛者。
徳山の公言のせいで、綾にちかづこうとする男はいなくなった。誰もが徳山を恐れている。誰もが徳山を避ける。二尺五寸の日本刀を杖《つえ》がわりにしている男。
村上はマスターの眼前で雑に封筒を破いてみせた。とっくに中身は確認してあった。示威行為だった。
マスターはカウンターに投げられた二十万ほどの現金を見て、徳山に対する思いから醒《さ》めた。
金を見せて村上は、まがりなりにも自信をとりもどした。両足のあいだで手を組み、かるく伸びをする。
「十日間、タンカーにカンヅメだった」
村上は呟《つぶや》いた。首を左右に振った。白眼が充血していた。
マスターは村上の腕の鳥肌を見つめた。横浜港か川崎港からタンカーに乗り込んだのだろう。バドワイザーを注いでやりながら、訊《き》く。
「アンコですか?」
村上は頷いた。
「陸が見えるところは避けて航行したから正確なことはわからんが、南シナ海あたりまで行ったはずだ」
村上はぼんやりとビールの泡をながめた。
「作業衣は、船内で支給されたんだ」
剥《む》きだしの腕をこすって、村上は苦笑した。
「南は暖かだった。汗ばむほどさ。横浜に戻ってきたら、木枯らしが吹いていた。まいったぜ」
「金は、しまってください」
マスターは顎《あご》をしゃくった。
村上は素直に頷き、札を胸ポケットに押しこんだ。カウンターには百円玉が幾枚か残った。村上は指先で百円玉を弄《もてあそ》んだ。
マスターはターン・テーブルに向かい、レコードをセットした。村上の着ている作業着の汚れ具合から、タンカーのタンク底にこびりついた油性混合物の清掃作業をしてきたのだろうと推理した。
詳しいことを知っているわけではない。しかしスラッジ清掃は、あらゆる日雇い仕事や港湾労働のなかで、もっとも危険で過酷な作業であるといわれている。
死者もでるという。あまりのひどさにケツを割る気になっても、タンカーは外洋を航行しているのだ。一週間なり、十日なり、作業が終了するまでは逃げだせない。裏を知るものは海のタコ部屋≠ニ呼ぶ。
盲目《ブラインド》のレモン・ジェファースンの高音質のボーカルが店内にながれた。
「おまえにひとつだけ頼みがある。おれの墓がきれいに掃除されているかどうか、見てきてくれ……」
村上が独白した。曲の最後の部分の詞だ。意訳だが、よく感じをつかんでいた。
「ブルースがお好きですか?」
マスターの問いかけに、村上は皮肉な微笑をうかべた。
「店の名が、マディ・ウオータースのブルースだろう。つい、ふらふらと入っちまった」
マスターは頷《うなず》き、ボトルをなおすふりをして、村上を窺《うかが》った。
疲労と汚れと不精髭《ぶしようひげ》。寝癖のぬけない頭髪には艶《つや》がなく、幾本か若白髪が目立つ。それほどひどくはないが、運動部の部室のような饐《す》えた汗の匂《にお》い、あるいは蛋白《たんぱく》質が分解したかのような体臭がある。
三十歳は越しているだろう。整った顔だちだが、瞳に卑屈ないろがある。その卑屈さは、おそらく発作的な暴力に変化する性質のものだ。
「儲《もう》かってるなあ」
唐突に村上が声をかけた。マスターは愛想笑いをかえした。
「先月、雑誌に紹介されましてね。ブルースの聴ける店ということで、わざわざよそからもお客さんがやって来てくれるんです。
ありがたいことですけれど、いつまで続くやら。それとお客さんの七割は、ブルースといってもセントルイス・ブルースどまりですから、再教育がたいへんですよ」
「ジャズや歌謡曲と混同しているんだろう」
「ええ。ただ、歌謡曲の好きな人はブルースのシンプルさや、こぶしを理解できるんですけれど、問題は中途半端なジャズファンです。逆にこっちが妙に文学的なお説教をされる始末です。そのくせピアノではブルーノートがだせないってことも知らないんですからね」
「いまのうちにボッてやればいい」
「そう思うことも、ままあります。あと、無理して横浜《ハマ》ことばをつかって『そうじゃん』なんていっているお客さんからもブッタクリたくなりますね。サディズムを刺激されるんですよ」
村上は口の端を歪《ゆが》めた。笑っているのだ。暗い笑いだ。鋭い眼差しでマスターを見あげた。
「サディズムか……」
そう呟《つぶや》いた口調には、微妙な含みがあった。
マスターは喋《しやべ》りすぎたことを悟り、黙ってグラスを並べかえはじめた。
カウンターの常連たちは、普段は無口なマスターが村上とことばを交わしているのをさりげなく盗み見て落ちつかず、ことさら声高にたわいのない会話を続け、過剰に陽気だ。
マスターは、煙草の煙に混じって、枯れ草を燃やしたようないがらっぽい匂いが漂っていることに気づいた。
村上も気づいたようで、くすぐったそうな顔で呟いた。
「ハッパだな」
マスターは苦笑をかえした。トイレに注射針が落ちていることさえよくあるので、大麻くらいでめくじらをたてるつもりはないが、ここのところ取り締まりがかなり厳しい。なにかあれば、めんどうだ。
覗《のぞ》きこむようにして、村上が訊《き》いた。
「マスターは、嫌いか?」
「いえ。私もひととおり試してみましたよ。ベトナム戦争が盛んなころは、あれこれ米兵が売りにきたものです。
コカインは、好きでした。自分が天才になったような気分になれますからね。
ヘロインは、むかしウチで雇っていたバーテンが中毒しましてね。しまいにはその男、ウチのフロアに転がって、両手で股間を押さえてアウアウ呻《うめ》いているんです。あれは不恰好でした」
「クスリは猿のセンズリだ」
「まったく」
「でも、ハッパぐらいなら」
「まあ……害がないってのは事実ですけれど」
村上は空にしたビールのグラスに顔を映し、ジンのストレートを注文した。
「ドヤにはポン中が多くてな……」
「シャブはいけませんね」
「きっぱり言うな。ポン中は嫌いか?」
「あれはかなり不恰好でしょう。ヘロインに負けず劣らず」
「自殺の権利は、個人のものだろう」
「もちろんです。しかし店で死なれてはこまります。バーテンに死なれて、懲りていますよ」
「ここは葬儀屋ではない、ということか」
「いちおうは、ブルースのライブを売り物にしていますから」
「ライブ、か。生きているってことだ」
マスターは微笑した。眼でステージを示す。
「お客さん。ドラム・キットを見てくださいよ」
村上は怪訝《けげん》な眼差しをステージに向けた。マスターはかまわず続ける。
「レコードの音にあわせて、ハイハットのシンバルや、バス・ドラムの皮が震えているでしょう。……気取って言えば、音を眼で見る。
これが大好きなんですよ。店が暇だったころは、レコードをかけて、赤字をどうするか悩みながら、ぼんやりドラムが震えるのを見つめていたものです」
マスターと村上は、小さなステージ上のドラム・キットをじっと見つめた。
アルバイトの少年が、苦笑しながら氷を割った。ウエイトレスの女の子が、顔をしかめた。
「この忙しいときに、ふたりですっかりなごんじゃってさ」
マスターは暗いステージを見つめながら、唐突に訊いた。
「タンカーは、スラッジの清掃でしょう?」
村上は顎《あご》の不精髭《ぶしようひげ》を手の甲で撫《な》でながら、ぶっきらぼうに答えた。
「まあな。不法投棄というやつだ」
「廃油ボール、でしたっけ?」
廃油ボールとは、タンカーから不法に洋上投棄されたスラッジのことで、真っ黒いコールタール状の物質だ。
躯《からだ》に附着すれば、一週間は落ちない。原油タンクの底にたまる滓《かす》であり、澱《おり》である、手に負えぬ物質だ。
「沖縄とかの海は、廃油ボールの汚染が深刻らしいですね」
村上はそれに答えず、独白した。
「二十五万トンタンカーだ。ちょっとその大きさを想像できんだろうな。
とにかく、でかい。甲板からタンクの底まで、十五階建てのビルと同じ高さだ」
「その中に降りていって、スラッジを運びだすわけですね」
村上の表情が歪《ゆが》んだ。苦しげに歪んだ。斜め下を向いた。眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が刻まれた。自嘲《じちよう》気味に喋《しやべ》りはじめた。
「──死んだよ。ひとり。
タンク底に降りていく階段は、慣れない奴は足が竦《すく》むほど急でな。なにしろ十五階だろう。
それに加えて、スラッジからでる有毒ガスだ。ガスに気づいたときには、もう意識がない。気を失っている。階段《タラツプ》から転げ落ちる。
朝鮮人のガキだった。スラッジの中に頭がメリ込んでやがった。逆立ちしているみたいな恰好《かつこう》さ」
実際にスラッジに頭をメリ込ませて逆立ちしている崔を見たわけではない。しかし村上の思いのなかで、その映像は事実となっていた。
胃が重くなるような気配が村上から伝わってきた。マスターは眼を伏せた。
「航海の五回に一回、いや三回に一回は誰かが墜落する」
辛うじてマスターは訊いた。
「──ガスの有無は、カナリヤを放して調べるって聞いたことがありますけれど」
泣きそうな笑い顔で、村上は手を左右に振った。
「カナリヤが死んだら、ガスがあるってな。……いまは、ガス探があるんだ」
ガス探とはガス探知機のことだろうか。マスターは溜息《ためいき》を呑み込んだ。死者がでたということは、けっきょくガス探が役にたたなかったということだろう。
「こうして陸《おか》にあがって酒呑んでいると、夢みてえだよな。
知ってるか? ガスは有毒なだけでなくて、凄《すさ》まじい引火性があるんだ。タンク内に入るときは、化学繊維の服は御法度だ。こすれて静電気が起きたら、大爆発だ。
だから新入りは、裸にヒン剥《む》いて調べる。以前、大丈夫だとホザいた新入りのせいで、三人死んだ。
野郎、ナイロンの靴下を穿いてやがってな。ハッチから火柱があがったぜ」
村上はジンを舐《な》めて、一息ついた。
「死体はどうするか知っているか?」
マスターはある答えを予感したが、沈黙した。
「スッポンポンにして、海に棄てちまうんだ。スラッジといっしょ。死体の不法投棄だな。
死体は潮の関係で、台湾あたりに流れつくっていうよ」
村上は笑う。マスターは顔をそむける。
「タンカーというのは、とことんコンピューター化されているから、船員はほんとわずかなんだ。俺たちアンコと顔をあわせることはまずない。死体投棄もしらねえんじゃないかな。
俺たちを指図するのは、キンタローの刺青《いれずみ》をした山野興業のオカマ野郎さ。奴はアンコたちにいつ襲われるかわからねえから、日本刀を抱いて、チンピラにまわりを固めさせているんだ」
マスターは、つくり笑いする気弱そうな表情の徳山を脳裏に描いた。客商売だ。たいがいの男はどのようなタイプか推測できる。しかし徳山だけは、マスターの理解をこえていた。徳山を想いうかべると、いつだって背筋に寒けがはしり、掌に汗がうかぶ。
村上はそんなマスターの気持ちをしってかしらずか、笑いながらジンをあおった。
「日本国民の皆様方がガソリンを無駄遣いしてモータリゼーションとやらを楽しんでいらっしゃるいっぽうで、住所不定無職労務者が死んでいくわけだ」
村上は声をたてて笑う。笑う村上に、マスターは徳山と同質のものをみた。それは怨《うら》み、とでもいうべきものだった。
「マスター。俺って案外インテリだろう。もっと言っちまおうか。スラッジは、原発の核廃棄物といっしょだよ。文明とやらの毒なのさ。──どォだ、マスター。俺ってインテリだろうが」
村上は笑う。さらに笑う。まるで復讐《ふくしゆう》しているかのようだ。
やがて、ふと我にかえり、照れくさそうに言った。
「マスター、俺、酔っぱらっちまったよ」
すがるようにマスターを見つめ、それきり口を噤《つぐ》んだ。
みじめな、矮小《わいしよう》な、つまらない論理と笑いだった。酔っているとはいえ、あまりに青臭い。マスターは、そっと村上の前から離れた。
たまっている洗い物に手をつける。レコードが終わっていることに気づく。新しいレコードをセットする。デルタ・ブルースの元祖、チャーリー・パットンだ。
ギター一本で唄う。リズムはおそろしくうねる。烈しくローリングする。それにかぶさるのは、重く、暗く、振り絞るような、それでいて不思議に甘い声だ。
一九三〇年代初期に録音されたヤズー盤である。音質は相当にわるい。しかしノイズの彼方から、えもいわれぬ色気が漂う。色気には、苦い孤独が含まれて、聴く者の胃のあたりを縮ませる。
マスターは、孤独と色気の関係について思いを馳《は》せながら、皿洗いに精をだした。
村上はがっくり首を折って、物思いに沈んでいた。吐息が荒い。ときどき指先に、くるしげな痙攣《けいれん》がはしる。
2
甘ったるい、胸のわるくなる臭いだった。どうやらバナナらしい。果物の芳香も、こうも大量で強烈だと、汚れた足の裏を鼻先に突きつけられたようなものだ。
このあたりにバナナの積みおろし場所はなかったはずだが……村上は鈍く光る石油タンクの群れをぼんやり見つめた。
鉛色に澱《よど》んだ海面には、流出した重油がひろがって、午後の日差しを反射して虹《にじ》色に揺れている。鮮やかな黄色の浮遊物を眼にとらえた。家庭用台所洗剤の容器だった。
波にゆるやかに上下する発泡スチロールの上では、鴎《かもめ》が羽をやすめていた。海風に尾羽が小刻みに揺れている。コークスを積んだダルマ船が脇《わき》をかすめても、鴎は知らん顔だ。
二十五万トンタンカー光栄丸は、京浜運河を遮断する鋼鉄の壁に見えた。船体は異様に黒い。光をいっさい反射しない。タンク内に原油はなく、喫水線から下の紅殼色《ベンガラいろ》が眼に痛い。
崔が顎《あご》をしゃくった。耳元で囁《ささや》いた。
『前の航海にでたか?』
『いつの航海だ? 俺は日付とかを覚えられないんだ』
崔はかまわず言った。
『山本が戻らないんだ』
山本とは、崔の友人だろうか。村上は光栄丸に視線を据えたまま、首を掻《か》き切る仕草をして、訊《き》いた。
『レッコ、されたのか?』
崔は答えず、黄ばんだ八重歯を指先で弄《もてあそ》んだ。眉《まゆ》のうすい、つりあがった眼をした典型的な朝鮮民族の顔だ。
艀《はしけ》が大きく揺れた。鶴見川が海に流れ込むあたりだ。潮の流れが変わったのだ。村上はなんとなく後ろを振り返った。
徳山と視線があった。徳山の唇の端がいやらしく歪《ゆが》んだ。それが微笑であることに気づくのに、しばらくかかった。
村上たちアンコは、艀の床に敷かれた筵《むしろ》の上に直接座らされていた。
徳山は艀のいちばん後方で、ひとりだけパイプ椅子《いす》に座り、日本刀の柄を顎の下にあてて前かがみになって首を支えていた。ランニングシャツの襟首から、自慢の金太郎の刺青《いれずみ》の外枠が覗《のぞ》ける。
村上はさりげなく視線を外した。真後ろに座ったバングラデシュの男が、不安そうな笑顔を村上に向けた。
『国際化は底辺からってな』
投げ遣りな口調で崔が言った。即座にアンコのなかから、
『うるせェ』
と声があがった。
その声は村上の気持ちを代弁していた。崔にはインテリジェンスをひけらかすようなところがあった。青臭く、学生じみていた。
光栄丸は眼前に異様な大きさで聳《そび》え立っているのだが、艀はのどかなディーゼル・エンジンの音を響かせて、いっこうに前に進んでいるようにはかんじられない。
村上はなんとなく床の筵をめくった。
淡い褐色の点が蠢《うごめ》いていた。
無数のダニだった。指先で押し潰《つぶ》した。
途端に村上の指先にダニが集中した。
這《は》い登ってきた。村上の背に冷たい汗が浮かびあがった。
崔が呟《つぶや》いた。
『オレの婆さんは、それを食べていたよ』
『ダニを、か?』
『そうか……それはダニか。オレが言っているのは、髪とかにたかっているヤツだ』
『虱《しらみ》だろう』
『虱だ』
崔はとぼけた顔して頷《うなず》いた。村上はなんとなく苦笑した。崔の前に座っていた男が声をかけた。
『おめえの婆さんは、どんな暮らしをしていたんだよ』
崔は肩をすくめ、頭を掻《か》いて笑った。男は崔を覗きこんで、さらに訊いた。
『おめえは、どういう育ちかたをしたんだよ?』
『おっさんと似たようなものさ。……もうすこしだけ、ランクが下かな』
すこしだけランクが下、と付け加える崔に、村上は彼の意外な世渡りの巧みさをみた。
『山本というのは、おまえの友達か?』
声をおとして村上は訊いた。崔は曖昧《あいまい》に頷いた。
『戻らんのなら、死んだんだろう』
崔の瞳のなかに、率直な憤りが宿った。崔はしばらく口をきつく結んでいたが、表情を改めて、村上を向いた。
『あんた、名前は?』
村上は聞こえぬふりをした。崔は艀《はしけ》に乗った直後から、まわりの人間に、自分は崔秀夫である、と名のってまわっていた。
『じゃあ、出身は?』
『日本だ』
崔は上眼遣いで村上を睨《にら》みつけるように見つめ、ゆっくり視線をそらした。
村上は、白っぽくなった崔の頬《ほお》を見つめかえした。うっとうしかった。しばらく思案した。
『村上だ』
ドヤで使っている犬山という偽悪的な偽名でなく、本名を小声で名のった。
崔は顔をあげ、八重歯を指先で弄《もてあそ》んだ。どうやらそれが癖らしい。
『戻らんのなら死んだのだと村上さんはあっさり言うが、自分がそうなってもいいのか?』
村上は投げ遣りに笑ってみせた。崔はわざとらしく溜息《ためいき》をついた。
『おまえは、どうしようというんだ?』
村上が問いかけると、崔は肩をすくめてみせた。
しかし崔の瞳には、ドヤの住人独特のあきらめのいろはなかった。それを村上は疎《うと》ましく思った。舌打ちした。
『山本はレッコされたんだ。海へレッコされたんだ。なあ、村上さん。オレの友達は、消されたんだよ』
『うるせぇ。てめえ、政治運動に絡んでやがるなら、俺に話しかけるな』
村上は本気で腹を立てていた。崔は八重歯を弄び、上眼遣いで村上を見た。
艀《はしけ》がタンカーの横腹に接岸した。タンカーに乗り移るタラップは急|勾配《こうばい》で、しかも風に煽《あお》られるほど頼りなかった。
三分の一ほど登ったあたりで息が切れ、太腿《ふともも》が張ってきた。村上は額に浮いた汗をぬぐった。崔は若さにものをいわせ、リズミカルにタラップを登っていく。
甲板で村上は呼吸を整えた。とてつもない広さである。舳先《へさき》からブリッジにかけて、銀色のパイプが無数にのびている。甲板は原油で黒茶色に汚れ、靴底が粘つく。
頭上を仰ぎ見ると、無数の海鳥が群れている。光栄丸を島だと思っているのかもしれない。崔は原油で汚れた甲板が滑ると思っているのだろう、おそるおそる歩いていた。
村上は苦笑した。苦笑しながら、顔をしかめた。オイルの匂《にお》いに、条件反射的に嫌なかんじで唾《つば》が湧《わ》きあがってきたのだ。
『なごんでるんじゃない』
徳山が日本刀でパイプを叩《たた》いた。アンコ達は追い立てられるようにして、道場に向かった。
道場とは、柔道の道場である。メイン・ブリッジ後方の居住区にある。村上たちはそこに、わずかばかりの手荷物を運びこんだ。
崔が畳の上に転がった。潮焼けして黄ばんだ畳の上に、きれいな円を描いた。見事な受け身のかたちだった。徳山が口を歪《ゆが》めて笑った。
『はしゃぐな、小僧。すぐに作業準備にかかれ』
アンコは二十人ほどいた。だらだらとバッタ打ちの作業が始まった。
順調にいってもひとつのタンクでバッタ打ちに五時間、ガス抜きに五時間。今日は出番がないだろう。村上は水平線に顔を向けた。
光栄丸は、動きだしていた。
村上は一瞬|狼狽《ろうばい》した。狼狽の理由は、自分でもよくわからない。
甲板が微振動した。横浜が遠ざかっていく。頬を打つ潮風が強さを増していく。
無言でバッタ打ち要員が動きはじめた。太さ十センチほどもあるホースを幾本か胸に抱え、引きずっていく。このホースでタンカーのタンク内に熱湯を送りこむのだ。
村上は下腹に力をいれた。なぜ、タンカーに乗ってしまったのだろうといういつもの後悔を追いだした。
ホースのなかを、熱湯が生き物のように移動していく。
熱湯で、タンク底のスラッジに熱を加えて、柔らかくするのだ。熱湯は、その蒸気でスラッジのなかに残留している有毒ガスを追いだす役目もある。
村上は甲板に座りこんで番線をカットする作業に加わった。番線は、エンジン・オイルが入っていた一斗缶で作るバケツの把手《とつて》になるのだ。
急造バケツづくりには、崔も参加していた。崔はひどく要領がわるい。
『初めてか? 船は』
崔は笑った。しばらくして、頷《うなず》いた。
『トロくせえガキだ』
崔のとなりで番線をカットしていた男が憎々しげに言った。崔は気弱に笑いつづけた。
『こいつらを見習えよ』
じっさいバングラデシュの男たちのほうが呑み込みが早かった。彼らも初めてなのだ。
崔の指先は、爪《つめ》も含めて、たいそうきれいだった。明らかに肉体労働とは縁遠い手だった。
二日たった。予想よりはるかにスラッジの量が多く、バッタ打ちとガス抜きはまだ終わっていなかった。甲板のあちこちに開けられた穴からは、盛んにガスが噴きあがっていた。
凄《すさ》まじい刺激臭だ。風向きが変わってガスが流れてくるたびに、崔は血の混じった反吐《へど》を吐いた。船酔いとのダブル・パンチである。
それでも作業を休むことは許されない。村上は崔のほうを見ないようにしていた。他人のことなどかまっていられなかった。
誰かが反吐を吐くと、連鎖反応がおきた。湧きあがる酸っぱい唾《つば》を呑みこんで、村上はかろうじて耐えていた。
ガスの臭いよりも、反吐の臭いのほうがましだった。ガスに較べれば、あたたかく、やさしく、妙に馴《な》じむ。
あちこちで呻《うめ》き声があがった。それでも皆、耐えた。もう一日こらえれば躯《からだ》が慣れはじめることを、明日になれば少しは楽になることを経験的に知っているからだ。
「喉《のど》、渇いちゃったよ」
傍らで、ひどくのどかな女の声がした。
村上は思いから醒《さ》め、顔をあげた。
伏せていたカウンターは、涎《よだれ》で汚れていた。あいかわらずチャーリー・パットンの切なげな唄声が流れていた。
マスターはグラスを洗う手をやすめ、綾を手招きした。
綾は村上の背に怪訝《けげん》そうな視線をはしらせ、顔をしかめ、鼻をつまんだ。
マスターは眼で綾を叱《しか》った。綾は舌をだした。
村上は頬杖《ほおづえ》をついて、片方の手で眼頭を揉《も》んだ。瞼《まぶた》の裏側に、スラッジのなかに頭をめり込ませた崔の姿がうかんだ。
ナンバーのない車
1
活動家は、寿町を収容所と呼ぶ。徳山の舎弟である八木は、そうは思わない。
その証拠に、根岸《ねぎし》線の高架のせまいトンネルを抜け、松影町と寿一丁目にはさまれた連れ込みホテルが集中している路地を行くうちに、肩から力が抜けてくる。
八木はホテルに入ろうとしている中年男と若いOL風に向かって口笛を吹いた。不倫らしい二人は八木と視線をあわせないようにして、足早にホテルのなかに消えた。
ここはまだ普通の人々が立ち入ることのできる領域だ 。中華街で腹をみたし 、腹ごなしに西門通りを散歩して 、西門を抜けてホテル街 。食欲と性欲を効率よく充たすことができる。
「元気なこった」
八木は独白した。村上のことを思った。村上に看板で殴打されたリーゼントの男は生きているだろうか。血の噴き出しかたは、尋常ではなかった。
村上は素直にMOJOの店内に逃げ込んだだろうか。半袖の作業服上下で通りをうろついていれば、確実に捕まってしまうだろう。
いても立ってもいられない気分になってきた。最後まで村上の面倒を見るべきだった。八木は後悔した。立ち止まった。MOJOには行くな、と徳山から命令されていた。引き返すことはできない。
八木は溜息《ためいき》をつき、勤労会館のあるバス通りにでた。通りを渡れば、ほんとうの寿町が始まる。八木は通りを渡らず、タクシーに向かって手をあげた。
2
美也子《みやこ》は醒《さ》めた眼で八木を迎えた。八木は微《かす》かな男性用整髪料の匂《にお》いを嗅《か》いだ。
「迷惑か?」
「いいよ」
あっさり美也子は答えた。躯《からだ》をせわしなく揺らしながら、歌うように、いいよ、いいよ、と繰りかえした。八木がまっすぐ見つめると、皮肉な表情で呟《つぶや》くように言った。
「どうでも……いいよ」
八木はさりげなく視線をはずした。美也子は深呼吸するようにして、言った。
「禁煙してんだ」
「三日でおしまいだろ」
「もうふた月になるよ」
「───────」
八木は馴染《なじ》んだ女の髪のはえぎわを凝視した。ふた月以上放っておいたということらしいが、実感がなかった。二、三日前にひょいと美也子のマンションをでたような気分がいまでも続いていた。
「あたし、すこし太ったでしょう」
八木は頷《うなず》いた。頷いたが、美也子が太ったとは思えなかった。
「あんたがいないと、よく眠れるし、よく食べれるし……」
美也子はふっ、と息をついた。
「なにしにきたの? お金? それとも……」
「急に、見たくなってな」
「わかった」
美也子は立ちあがり、あっさりカーペットの上にしゃがんだ。
「さっき、シャワーを浴びたばかりだからさ」
「──男がくるのか?」
「その予定」
八木の頬に歪《ゆが》んだ笑いがうかんだ。
「ご対面か、穴兄弟と……そいつのマラは、でかいのか?」
「バカいってんじゃないよ。あんたが思っているほどに、女は大きさなんかにこだわっちゃいないよ」
美也子は嘲《あざけ》るように言いながら、膝上丈《ひざうえたけ》のスカートに手を差しいれた。あっさりショーツを脱ぐ。八木に向かって投げつける。
八木は顔に向かって飛んできたショーツを右手でたたき落とし、訊《き》いた。
「じゃあ、女は、なににこだわっているんだ?」
美也子はふてくされた笑いを唇の端にうかべて、八木を睨《にら》みつけた。
「やさしさ、だよ」
「笑わせるな」
八木と美也子は、睨みあった。先に顔をそらしたのは、八木のほうだった。
「見たいんでしょ」
美也子はスカートを穿《は》いたまま、おおきく足をひろげた。カーペットに手をつき、後方に反りかえる。
膝をついて、八木は覗《のぞ》きこむ。ねじれた褐色の扉に手をのばす。指先で、こじあけるようにひろげる。
薄桃色。暖かな色。受けいれる色。八木は飽かずに眺める。かたわらのファン・ヒーターから、乾いた熱風がとどく。
「さむい……」
ちいさく呟《つぶや》いて、美也子は八木を誘う。
「あったかく、して」
八木は生真面目な表情で、美也子にちかづく。
かさなる。体重をあずける。八木の狂おしさに較べ、美也子の瞳にはあきらめに似た醒《さ》めたいろが漂っている。
充血器官が美也子の胎内をさぐる。切実ではあるが、なにも掴《つか》みはしない。なにも与えない。徒労の極致を美也子は味わっている。明確なことばにすることはできないが、
「無駄、よ」
と、いうひとことに集約される行為。
「……なにか、言ったか?」
「べつに」
「────」
ふたたび八木は、自分勝手な動きを始め、美也子の肉に埋没する。美也子の躯は冷えきっている。
女。ふと八木の脳裏をかすめた。綾だった。
八木は眼を閉じた。MOJOへは、徳山のガードを兼ねて、幾度も行った。徳山はかぶりつきで綾を見つめ、その唄を聴いた。
ブルース。語感とちがって、けっこう威勢のいい音楽だ。徳山にバック・ビートに乗ることを教わってからは、よけい陽気に聴こえた。
ひょっとしたら、ブルースというのはセックス、いわゆるオマツリではないか。八木は自分の思いつきにすこしだけ得意な気分になった。
すぐにどうでもよくなった。閉じた瞼《まぶた》の裏側で、綾が唄う。綾がこぶしを利かせて声をのばすとき、まるで猫が喉《のど》をならすような濁ったノイズがまざる。ひとりで唄っているのに、まるで双子が声をそろえているかのような、不思議なことがおこる。
綾は、本物の歌手だ。そして、完璧《かんぺき》な女だ。もし、徳山が綾にいれ込んでなかったら、八木は綾にまとわりついていたかもしれない。
自分につりあうとは、思わない。癪《しやく》な話だが、とりあえず綾のような女を抱くのがどのような男であるのか、想像がつかない。
人は、平等ではない。綾のように近づき難い特別な女もいれば、美也子のような女もいる。
美也子はわるい女ではない。小さな店だが、ナンバー・ワンだ。美人だ。心もやさしい。しかし、それだけだ。
世間の女の大部分は、美也子以下だ。それなのに、綾を見たあとでは、すべての女がくすんでみえる。
それにしても、なぜ綾は、地下のMOJOなんかでくすぶっているのか。野心というものがないのか。その気になれば、テレビにでて、まんなかの席に座れるだろうし、武道館で幾日もコンサートを開くこともできるだろう。
与えられたものを生かしていない。八木は憤りを覚えた。そして一度でいいから、綾を抱いてみたい、と思った。
綾は、ステージで最後の一声を絞りだすときに似た切ない表情をして、八木にすがりつく。八木の腰に、その長い足を大胆に絡ませるかもしれない。
八木が命じれば、普段はとても口にできないようなことばを、譫言《うわごと》のように囁《ささや》きかけて求めるかもしれない。
「なにを、想っているの?」
瞬《まばた》きせずに、美也子が訊いた。
八木は閉じていた眼を見開いた。
「誰を、想っていたの?」
八木は狼狽《ろうばい》した。狼狽した自分が許せなかった。そして、人並みに感情をもち、心を読んでみせた美也子が許せなかった。
「殴る気?」
美也子は薄笑いをうかべた。
「やれば」
八木は拳《こぶし》をかためた。ふたりは繋《つな》がり、交じりあったまま、睨《にら》みあった。
萎《な》えた。寒々とした気分だった。八木は、かためた拳から弱々しく力をぬいた。
鍵穴《かぎあな》にキイが差し込まれる音がした。八木は美也子にかさなったまま、背後を振り返った。ゆっくりドアが開いた。刺すような北風が流れこんだ。
見下ろしていたのは、痩《や》せた男だった。堅気ではない。暗い匂《にお》いがした。八木はあわてて美也子の上から降りた。
「お粗末だね」
男は手の甲で鼻水を啜《すす》りながら、八木の股間を見つめた。
「それじゃ、届かんだろう」
八木はあせってズボンに足をとおし、かろうじて男に向きなおった。
「強姦未遂《ごうかんみすい》しかできん代物《しろもの》だね」
男は八木を嘲笑《あざわら》った。美也子はスカートを引っ張りおろすようにして躯を隠し、やはり薄笑いをうかべている。
「俺は、山野興業の、八木だ」
かろうじて言うと、自信が戻ってきた。横浜で山野興業を知らないものはいない。
男は肩をすくめた。
「あいにくだが、俺はここに来て、まだ日が浅いんだよ」
「──余所者《よそもの》か。余所者なら余所者らしく、おとなしくしてろよ」
「ガキの台詞《せりふ》じゃあるまいに。ひとのオンナの上に乗っかって、なに言ってんだか」
八木は美也子と男を見較べた。美也子は薄笑いをうかべたまま横をむき、男は笑いを消した。
貫禄がちがう。八木はどのようにして逃げだそうか、おもいを巡らした。頭のなかには、もう保身しかない。
男は八木を見下ろしたまま、まっすぐちかづいてきた。
やばい、と思った。喧嘩《けんか》慣れしている。引かずに踏み込んでくるタイプだ。喧嘩をするには、もっともタチのわるい相手だ。八木はあとずさった。刃物は通用しないかもしれないが、とても素手で立ち向かえる男ではない。
あとずさり、キッチンに逃げこんだ。包丁を掴《つか》む。そのため、一瞬男に背を向けた。
そこを蹴りあげられた。尾※[#「骨+低のつくり」]骨《びていこつ》から脳天にかけて痺《しび》れがはしった。
腰から力が抜けた。立てなかった。男と美也子が並ぶようにしてキッチンの引き戸のところに立っていた。合板を張りめぐらした床のうえに尻餅《しりもち》ついて、八木は哀れっぽく男と美也子を見あげた。男と美也子の顔には、笑いがあった。
3
立ち呑み屋のおやじは、徳山がいるせいで、落ちつかない。しかし、徳山がいるせいで、労務者たちはおとなしい。昼間から焼酎《やんから》の匂いの漂う路地だが、夜はさらに匂いがきつくなる。
ふしぎでならないのは、労務者たちがそれほど徳山を嫌がっていないことだ。もちろん好かれているとは言いがたいが、おやじには納得できない。寿町に入りこんだ活動家たちが言うように、徳山は労務者たちを搾取──その上前をはねているのだ。
ひどいときは、日当《でづら》の五割をはねることさえある。日当の五割をはねられて、それでも男たちは徳山のまわりになんとなく集まって、小声であれこれ呟《つぶや》きを交わし、その場を離れようとはしない。
徳山はカウンターがわりに渡した脂で粘つく板の上に肘《ひじ》をつき、無言でビールを舐《な》めている。犬が水を飲むように、ビールに舌をつけている。
誰も話しかけようとはしない。徳山が村上に失恋したということは、ドヤの連中の大部分に知れわたっていた。
だからこそ、今夜はみんなが徳山のまわりにやってきて、なんとなく様子を見ている。
他人の心配をするような連中ではない。しかし、以前徳山に腕を切り落とされた男までもが、距離をおいてはいるが、徳山を窺《うかが》っている。
ドヤの夜はふかい。都市にあって、焚き火の炎が唯一のこっている場所だ。朱色の炎に頬を染めて、男たちはさりげなく徳山を見つめ、ある者は陰で嘲笑《あざわら》い、ある者は徳山を哀れんでみせる。
といって、村上をどうこう言う者もいない。男たちは、世の無情が醸しだす、どこか穏やかなあきらめのいろを愛《いと》しんでいるのかもしれない。
「と、と、徳山さん! たいへんだよ、徳山さん、ふくろだよ! まぐろだよ!」
静寂は破られた。徳山は声のするほうに、ゆっくり顔を向けた。ニッカーボッカーに地下《じか》足袋《たび》の若者が焚き火を飛び越えて駆けよった。
「どうしたの? 誰がまぐろにされたの」
柔らかな声で、徳山が訊《き》いた。若者はあせって失語して、かろうじて言った。
「や、や、八木さんが、は、は、は、半殺し……」
「落ちついて喋《しやべ》りな。八木がどぉしたの?」
「タクシーで、タクシーで血まみれになって戻ってきて、意識失って、センセが診てるけど、重症だって。美也子って譫言《うわごと》くりかえして、美也子のマンションでって……」
徳山は頭を掻《か》いた。小首をかしげて残ったビールを飲み干した。
「おまえ、そこの軽トラ、運転しな」
「これ、ナンバーがついてないですよ」
「ナンバー以前に、おまえ、免許持ってないだろう」
若者は舌をだし、軽の運転席に乗りこんだ。得意そうだった。セルをまわした。三度めでエンジンは唸《うな》りはじめ、車体はツウ・ストローク・エンジン独特の細かく不規則な振動で車体を揺らしはじめた。
徳山は足元に立てかけてあったゴルフバッグをさりげなく掴《つか》んだ。なかには日本刀が入っている。若者が助手席のドアを開けた。
「まず、センセのところへやれ」
徳山が命じると、若者は思い切りアクセルを踏んだ。
「組に連絡しなくていいんですか?」
「俺がケリつけるよ」
「ひとりじゃ、万が一ってことが」
「おまえがいるじゃないか」
「だって俺、盃もらってるわけじゃないし……」
「あとでやるよ」
「欲しくないっすよ」
徳山は微笑した。若者の頭を丹念に撫《な》でた。
センセ、とは無資格診療をしたあげく、寿町にながれてきた初老の男だ。徳山の顔を見ると、首を左右に振った。
「だめ?」
「一分くらい前に……」
徳山は八木の顔の上にかけられたタオルを剥《は》いだ。細かい切り傷だらけだった。
「全身、いたぶられた切り傷だらけで……」
「それで?」
「陰茎は切断されている」
「ということは、女絡みだね。やったのは、美也子って女かな」
「断言できんが、尾※[#「骨+低のつくり」]骨《びていこつ》がぐしゃぐしゃに潰《つぶ》れているし、幾つか殴打のあとが残ってるだろう。女の細腕じゃないね。それと、一切ためらいのあとがない。これは楽しんでるよ」
「楽しんでるか?」
センセは徳山の顔をまっすぐ見つめたまま頷《うなず》いた。
「八木を乗せてきたタクシーの運転手は?」
「帳場に待たせてある」
「さすがセンセ。あとで事務所に経費、請求してね」
初老の男は胡麻塩《ごましお》の不精髭《ぶしようひげ》を指先で弄《もてあそ》びながら口のなかで、経費ね、と皮肉な声で呟《つぶや》いた。
泥 水
綾は店内の男たちの視線を一身に集めて、村上を大袈裟《おおげさ》によけて、マスターの前に座った。
「どォしたの。眼は悩んでいて、頬は笑っているよ、マスター」
「文化人の悩みさ」
綾は唾《つば》を吐く仕草をした。もちろん、真似だけであるが。
「この店の、どこに文化があるんだよ? ビールくれよ」
綾が男の口調で喋《しやべ》るときは、わりあい機嫌がいい。好き嫌いが極端に烈しくて、マスターもその扱いに、けっこう苦労しているのだ。
「ギャラからさっぴいとくぞ」
カウンターに音たててアルミ缶を置く。綾は憎々しげに肩をすくめた。
「ギャラ? ビール代引かれたら、ギャラなんて三百円しか残らないじゃないか」
綾のとなりに陣取った客がそれを真に受けた。しかし綾に直接訊く勇気はないから、マスターに声をかけた。
「ほんとうか?」
「ええ。この程度のボーカルで、ビール飲み放題で、三百円も残るなら、いい商売ですよ」
「言ってくれるじゃん」
薄笑いをうかべて答えた綾の声は、ひどくかすれていた。綾は苦しげに咳払《せきばら》いした。
「喉《のど》を大切にしろと、いつも言ってるだろう」
綾は無視して、チンチラのコートを脱いだ。
正当なアドバイスであっても、綾は他人のことばに絶対に耳を貸そうとはしない。喉を大切にしろと言いつづければ、ウイスキーで喉をうがいしかねない。マスターは顔をしかめ、溜息《ためいき》を呑みこんだ。
コートを脱いだ綾は、横須賀《よこすか》第七艦隊司令部のネームが入ったTシャツ一枚で、ノーブラだ。
「お乳首さまが透けてるぞ」
言いながら、マスターはもうひとりの薄着、村上を盗み見た。
村上は店内のざわめきとは無関係にチャーリー・パットンの名曲スプーンフル≠ノのめりこんでいた。
その横顔には恍惚《こうこつ》がうかんでいるように見えたが、視線をはずすと、苦渋にかんじられた。
マスターは綾に視線をもどした。綾は悪戯《いたずら》っぽく微笑した。
「寒いと尖《とが》っちゃって。けっこういたいのよ、これが。すごく敏感なんだから」
綾は胸のふくらみを示して言った。
マスターは曖昧《あいまい》に視線をはずし、ふたたび村上を見た。綾がマスターの視線を追った。
「ねえ、なに、あれ」
村上を指差した。
しまった、とマスターが思ったときは、村上がこっちを向いていた。
「寿町で見かける人でしょう、あれ」
綾は大声で、平然と言った。
村上の頬に危険な痙攣《けいれん》がはしった。
綾は村上から顔をそらすと、ほそく赤い舌をペロッとだした。
マスターは溜息を呑みこんだ。だいたい村上のような男は、自分に向けられたことばでなくとも、差別的なことばに敏感に、かつ過剰に反応するものだ。
綾は媚《こび》を含んだ瞳でマスターを見あげた。
「ねえ、マスター。この曲」
「──なんだ」
「スプーンフルって、なにかな?」
マスターは答える気になれなかった。
「エッチな唄だよね。 『あたしが欲しいスプーンフル、みんながやりたいスプーンフル』ってかんじで唄っているでしょう。
問題はスプーンフル≠諱Bうちのレパートリーに加えたいんだけど、スプーンフルの正確な意味がわからないわ」
マスターは綾の問いかけを無視して、顎《あご》をしゃくり、腕を組んだ。
「おまえの後ろの、ドヤの住人に訊け」
綾の背後に、村上が立っていた。綾は上眼遣いでマスターを窺《うかが》い、肩をすくめた。
「ねえ、オジサン」
綾は振り向き、気軽な声をかけた。バンドの連中が綾のまわりをかためた。
村上は奥歯を噛《か》みしめているのだろう、こめかみのあたりをひくつかせた。
バンドのメンバーは緊張した。しかし口をひらいた村上は、落ちつきはらっていた。
「ハーフの姐《ねえ》さん、俺のスプーンフルを試してみるか?」
「──おちんちんのことだ?」
「正確なことは知らない。俺の推理にすぎない。間違っているかもしれない」
村上は長身だが、くすんだ顔色をして、栄養失調気味に痩《や》せている。
肌が瑞々《みずみず》しく張って息づき、唇が鮮やかな紅色をしたスタイル抜群の綾が立ちあがると、村上のみすぼらしさが際立った。
「たぶんオジサンの推理は正解よ」
「──知っていて訊いているんじゃないのか」
綾は村上のことばを無視して言った。
「でも、なぜ、おちんちんがスプーンフルなのかしら?」
村上はしばらく黙りこんでいたが、小声で言った。
「砂糖のボトルがあるだろう」
綾は小首をかしげた。
「──あの、スプーンフルなんだ?」
「知ってるか?」
「ハイ・スクールの食堂にあった。基地のコーヒー・ショップも、みんなスプーンフルだった」
「綾は、アメリカン・スクールに通っていたんですよ」
マスターが注釈した。村上は頷《うなず》いた。
「それなら話がはやい。ところで当然処女じゃないだろう」
綾はニヤッと笑って、カウンターによりかかった。
「失礼ね。あたしは正真正銘のバージン、よ」
村上は綾の乳首の尖《とが》りからぎこちなく視線をはずした。チャーリー・パットンのボトルネック・ギターに耳を澄ますふりをした。
「スプーンフルってのはガラス製の、コップくらいの大きさの瓶で、先端に斜めにカットされたステンレスのノズルがついている」
「オジサンて表現がこまかいね」
「まあな」
村上は口を歪《ゆが》めて苦笑した。
「スプーンフルを逆さまにして振ると、スプーン一杯分の砂糖が飛びだすだろう。まっ白いヤツがピッとな。──すっかり使いこんで黒ずんじまったコーヒーカップのなかに、白いモンがピッ」
「わかった!」
綾は口笛を吹いた。
「そのものずばりじゃん。そう言われてみれば、かたちだってなんとなく似てるしね。あたし、なんで気づかなかったのかな」
バンドの連中がカマトト、とひやかした。
綾はおおげさに両手をひろげ、村上に背を向けた。カウンターに腰をおろす。マスターが抑えた声で頭をさげた。
「ウチで演奏させているバンドのリード・ボーカルで、綾といいます。失礼はお許しください」
「あんたも俺のことをドヤの住人といったなあ」
「ええ」
マスターは肯定し、しばらく間をおいて、言った。
「特殊な地区の方、とでも表現すればよかったですか?」
村上とマスターは探りあうように睨《にら》みあった。
「わざわざ言いなおして知らんふりするのは趣味じゃありません。私は殴られるのを覚悟して言ったんですよ」
「いいじゃない。オジサンはコトブキで、あたしはハーフの姐ちゃん」
振り向いて綾が言った。エキゾチックな美貌《びぼう》を誇る綾がきつい眼差しをすると、息を呑むほどの迫力があった。
村上は冷たく訊いた。
「どんな具合にブレンドされているんだ?」
「おかあさんが日本人。とうさんがフランス系アメリカ人。将校よ。で、とうさんの先祖に黒人がいるらしいの。十六分の一だか、あたしにも黒人の血が混ざっているのよ」
綾は誇らしげに言った。皮肉な口調で村上が応えた。
「十六分の一ならば、ほどよいアクセサリーだろうな」
綾は村上を睨みつけた。薄笑いがうかんでいた。
村上は視線をそらさなかった。村上がゆっくり頷《うなず》いた。
綾の唇から、薄笑いがきえた。
綾の瞳が幽《かす》かに潤んだ。すがりつく幼児のような瞳だった。気づいたのは、村上だけだった。村上はさりげなく視線をはずした。
「もう、いいでしょオ。ステージね」
バンドのメンバーのひとりが割って入った。発音が妙だ。どうやら中国人らしい。村上は投げ遣りな口調で言った。
「中華街の出張サービスか?」
彼はとりあわず、微笑して言った。
「ボク、ピアノを担当する趙《ちよう》伯達いいます。あなたが呑んでるジンですが、ボクの父、輸入しています。味はいかがですか?」
「──わるく、ない」
「でしょう。あなた、たくさん呑みそうね。ボトルにしたほうが経済的よ」
村上は苦笑した。趙は真顔でボトルをすすめた。逆らいきれずに、村上は照れくさそうに言った。
「ボトルにしてもらおうか……」
マスターは頷き、ジンのボトルとフエルト・ペンを手に取った。
「どうぞ」
「マスターが書いてくれよ」
「お名前は?」
「犬山だ」
「イヌヤマさん」
マスターが復唱すると、村上はあわてて首を横に振った。
「村上だ。犬山は、ドヤで使う偽名なんだ」
「別にどっちでもかまいませんよ」
「村上だ」
「ム・ラ・カ・ミさん、と」
綾は村上を凝視した。徳山が本気で惚《ほ》れこんだ男。徳山を脱け殼のように変えてしまった男が眼前で、ジンのグラスを両手で祈るように持っている。
マスターはフエルト・ペンで酒瓶に名を書いた。
「へたな字だ」
村上は文句を言ったが、声はうわついていた。わずかに頬が赤らんでいた。
「なにを見てやがる!」
村上は綾の視線に気づき、怒鳴りつけた。
趙が綾を促した。チャーリー・パットンのレコードが終わった。ステージ上では、バンドのメンバーたちがセッティングを始めていた。
ピアノがAの音を連弾した。ギターとベースがそれにあわせてチューニングした。
ハーモニクスの倍音が、硬質に震えて突き刺さる。ドラムスがハイハットをシャコ、シャコいわせて皆をせかした。
ギターとベースは、それぞれチューニングをメーターで確認した。彼らは頷《うなず》きあい、アンプに向かった。
ギターの若者が音づくりを始めた。高音を効かせた、脳天をふるわすような攻撃的な音だ。
逆にベースの音は、高域をカットして、中低音をふくらませた、わずかにこもった音だ。
綾はピアノの趙にスケールを弾かせた。それにあわせて発声する。気の早い客が、拍手した。
村上は綾の音域が、優に三オクターブ以上もあることに気づいて、顔をあげた。首をねじ曲げて、綾を見た。一瞬視線が交差した。綾は逃げるように村上から視線をそらした。
マスターが自分のことのように得意そうに頷いた。
「ブルース・スペシャルというバンドです。リーダーはピアノの趙。かなりの音をだしますよ。ギター、ドラムス、ベース、それぞれ達者な連中ですが、とくに綾がすばらしい。テクニックだけでなく、詞の解釈もしっかりしています。
レコーディングの話もあって、予定通りいけば、来年の夏にはメジャー・デビューです。彼らの所属する事務所は、それに合わせて春先から全国ツアーを組んでいるんです。
ですから、その穴を埋めるバンドを捜さなくてはならないのですが……すこし憂鬱《ゆううつ》ですよ。ロックやジャズのバンドはいくらでもありますけれど、本格的なブルース・バンドは少ないですからね。
京都に出向いて、デキのいいブルース・バンドを引っ張ってこようかとも考えているんですけど、やはり地元のバンドにチャンスをやりたいですしねえ」
村上は急に多弁になったマスターを見上げて、苦笑した。マスターはそれに気づかずに、続ける。
「まあ、いまどきブルースのアルバムを出そうなんて話が持ちあがるのも、綾のせいですよ。なによりも、ルックスが抜群でしょう」
「いい女だけに、腹が立つ」
村上は床に唾《つば》を吐いた。芝居がかっていた。
「ブルース・スペシャルというバンド名もいいでしょう。私がつけたんですけどね。ブルース・スペシャル、略してブス」
村上はしばらく反応を示さなかったが、やがて失笑した。
「くだらねえ。日本人がブルースをやって、どうするんだよ」
「綾はハーフですよ。ベースで育ち、アメリカンスクールで教育を受けました。日本語と同じくらい、英語が達者ですから」
「そうだったな。十六分の一だけ、黒人だったな」
村上は暗い眼差しをした。
「ポニー・ブルースをどう思う? 褐色の女は食べごろだけど、まっ黒い女には触りたくもない≠ニいう曲だ」
「──なにが言いたいんです?」
マスターも暗い眼差しをかえした。ポニー・ブルース≠ヘ、やはりチャーリー・パットンの曲で、スプーンフル≠ニ同じく露骨に性的なブルースだ。
「俺は、あの女に、よほど『おまえは女チャーリー・パットンだ』と言ってやろうかと思ったんだ」
マスターは、沈黙した。黙って村上を見つめる。
チャーリー・パットンは、父が白人との混血で、母もまっすぐな髪をしていたという。つまりチャーリーは、綾と同じように、外見は殆《ほとん》ど白人だったのだ。
「チャーリー・パットンは偉大だ。すばらしいブルース・マンさ。しかし、自分の肌が白いことを得意がって、おなじ黒人をバカにしきっていたというじゃないか。
白人にペコペコしてチップを貰《もら》い、ギターが弾けて唄えることを鼻にかけて、肉体労働は大嫌い。 バッド・プランテーション・ニガー≠ニいう評価を、アメリカの音楽誌で読んだことがあるぜ。
なあ、マスター。綾っていう女も、チャーリー・パットンじゃないのか」
マスターが首を振り、口を開きかけたとき、ブルース・スペシャルの演奏が始まった。マスターのことばは演奏に掻き消され、村上にとどかなかった。
一曲目は、この店の店名になっているマディ・ウオータースの名曲ガット・マイ・モージョ・ワーキン≠セ。
今日の昼、綾はピザ・ハウスで、徳山にこの曲を伴奏なしで唄って聴かせた。徳山は眼頭を押さえて、この曲を聴いた。そして、呟《つぶや》いた。 『俺のモージョは、効かなかったよ。村上に届かなかった。ほんとに効いてほしいときには、効かないんだよ』
村上は、徳山の気持ちがわかっているのだろうか。十二小節の前奏のあいだ、綾はカウンターに座っている村上を睨《にら》みつけた。
村上は微妙に綾の視線を避けていた。綾はシャッフルのリズムに乗って、抑えて、充分にためて、唄いだした。語りかけるように、くっきりとした発音で唄った。第一声から、ウォッとどよめきがおきた。
客たちは〈俺のモージョは効かねえ〉と、心のなかで呟き、裸体の綾を抱きしめる幻にふるえた。
蛇だ。村上は美しい蛇を凝視した。こんな女がいたのか……なかば呆然《ぼうぜん》として見惚《みと》れ、聴き惚《ほ》れた。柔らかい。が、崩れてはいない。抱きしめればあっさりすり抜けるだろうし、力を込めれば砕け散ってしまいそうだ。脆《もろ》い水晶のような危うさと、透明な煌《きら》めきがある。
馴染《なじ》みの曲だ。スリー・コーラスめの〈ガット・マイ・モージョ・ワーキン〉という詞を繰りかえす部分で、客たちは声を張りあげて同じ台詞《せりふ》の合いの手をいれて熱狂した。
演奏が終わった。村上は煙草を咥えた。拍手と同時に、もう立ちあがった客がいた。幾人かがステージに駆けよった。とたんに村上は醒《さ》めた。失笑した。綾がただの美しいだけの娘に変化して見えた。
「酔っぱらいは嫌いだよ」
綾は、ステージ下に駆けよった客の頭を小突いた。
「張り倒せ!」
誰かが大声で怒鳴った。
綾は声の方向に軽く手をあげた。横顔を張るしぐさをし、途中からそれを投げキッスに変化させた。どよめきが一段とたかまった。
「マディ・ウオータースって芸名、かっこよくきこえるけどさ、訳すと泥水 =B
あたし、マスターにいろいろ教えてもらっているんだけど、若かりしころのマディことマッキンレィ・モーガンフィルド君はミシシッピーの農民で、それも他人の畑で一日中こきつかわれて五十セントというみじめさ。
それではとても生活できないから、農作業が休みのときは、しかたなしに泥沼で魚を、ナマズを捕って売り歩いてたんだって」
「ナマズ、どォするんだよ!」
「食べるのよ。無知なんだから。ザリガニとナマズ。アメリカ人には大御馳走《ごちそう》なんだから」
「オレのナマズ、咥えるか?」
「あんたのはナマズじゃないわ。ドジョウ」
他の客が受けをねらって叫んだ。
「メダカだろ!」
失笑がわいた。綾は肩をすくめてみせた。
「ま、あたしはサイズじゃなくて、ハート」
「嘘《うそ》つけ! サイズだろ」
「ばれたか」
綾は鼻梁《びりょう》に子猫のような皺《しわ》をつくった。愛くるしかった。すぐに表情をあらためた。
「話をもとにもどすよ。生活かかっているから泥まみれ。ついたニックネームが泥水。わるくないね」
客たちは、
「イエイ」
と、和して叫んだ。特にノリがいいのは、海上輸送コマンドの米兵、黒人たちだ。綾の日本語がわからぬぶん、より敏感に雰囲気に反応するようだ。
「つぎもマディをやるわ。ローリング・ストーン≠ヌう?」
「イエイ!」
「やる前にひとつ言っておくわ。このマディの名曲を自分たちのグループ名にして、そればかりか、曲のアイデアから詞までパクッて大金を稼いでいる口のバカでかいロック・シンガーがいるのよ」
客席が静まった。
「どこのグループで、なんというシンガーかは言わないわ。でも、本物はマディ。オリジナルは、マディよ。わかっているわね?」
「イエイ!」
綾は右足を軸にしてクルッと一回転半した。客に背を向け、ドラムスにカウントをだす。ワン・トゥ・スリー、四拍めで唄いだす。
オレが産まれる直前さ
オヤジがオフクロに言ったんだ
ぜったいヤローが産まれるぜ
そいつはまるで石コロさ
ぜったいそうさ
石コロさ
ゴロゴロ転がるローリング・ストーン
背を向けたまま、綾は唄う。見事に締まって、よく張って。それこそ噛みたくなるような尻を向けて。
たかがブルース
ステージが終わった。バンドのメンバーたちは控えに戻らず、虚脱した表情でカウンターに向かった。
マスターはメンバーたちに向かって頷《うなず》いた。アルバイトの少年がねぎらいのことばをかけながら、缶ビールのプルトップを引いてやった。
綾は下唇を噛み、荒い息を抑え、まっすぐ村上のところへ行った。
「どう?」
村上は使わずにカウンターの上に転がしてあったオシボリを手にとった。
「ねえ、どうだった?」
「──汗を拭け」
「うん」
綾は素直に返事した。額や首筋を拭いた。
村上は、綾のオリーブグリーンのTシャツの、濡《ぬ》れた腋《わき》の下を盗み見た。
「正直言って、俺はおまえが気に喰《く》わない」
「だめ? あたしの唄は」
「いや。八十点はやってもいい」
「合格だ?」
「ああ。唄のうまさや表現の実力は、人格とは無関係だからな」
「言うじゃん」
バンドのメンバー、そしてマスターやまわりの客たちも聞き耳をたてていた。村上はいつのまにか中心にいた。徳山が言っていた『村上は中心にいる男』ということは、きっとこれだ、と綾は思った。
「八十点か。なんだかほどほどの優等生ってかんじで、面白くないな」
皮肉な眼差しで、村上は綾を見あげた。
「おまえが優等生か?」
うしろで、ドラムスの中沢が吹きだした。綾は犬が後脚で土を掻《か》くようにして、中沢の脛《すね》を蹴った。
「あとの二十点、どうしたらいい?」
綾が問いかけると、村上は口をひらきかけたが、さりげなく顔を横にむけ、灰皿のなかの吸いさしを選びはじめた。
「ねえ、どうしたら百点満点になれる?」
村上はシケモクをくわえた。
「いいおっぱいしてやがるな」
シケモクをくわえた唇に、薄笑いがうかんでいる。
「Tシャツで隠されていたって、抜群のかたちをしているのがわかるぜ。ノーブラで、男の視線をあつめるのは、楽しいか?」
「まあね」
「自分の胸を、どう思う?」
「──誇るほど大きくはないけれど、卑下するほどちいさくはないわ」
村上はシケモクに火をつけた。二度、頷《うなず》いた。
「バランスってことだよな」
顔をあげた。綾を見つめた。
綾は無意識のうちに腕で胸を隠した。
村上はゆっくり視線をカウンターにもどした。
「バランスって……ことだ」
もういちど呟《つぶや》いて、深く煙を吸った。
煙を吐きながら、言った。
「百点満点が欲しいか?」
「欲しいわ。絶対」
「おまえには才能がある。百点とれると思うよ。あせることはない」
「でも、いまは八十点でしょう」
「そのとおり」
「マイナス二十点のわけを言って」
村上は嗤《わら》った。
「表現に百点なんて、あるわけないさ」
「そうかもしれない。でも、あなたの口調には、ほかの含みがあるわ」
「それほど馬鹿でもないんだな。人の心が読めるじゃないか」
唇の端にうかんだ村上の嗤いは消えない。
「ありがとう。あたしだってそれなりに苦労してるんだから」
「そうだな」
「言って。マイナス二十点のわけ」
「──残りの二十点は、とりあえず、おまえの問題じゃないんだ」
「じゃあ、誰の問題?」
「バンドはすばらしい。すばらしいんだが……」
村上はシケモクを揉《も》み消した。小声で言った。
「ギター」
「ボクがどうかしましたか?」
ギタリストのサチオが、すこし緊張して問う。村上はカウンターの上で両手を組んだ。
「おまえ、すごくうまい。テクニシャンだ」
サチオは褒《ほ》められて、戸惑った。
「うまい奴《やつ》、つまりテクニシャンはいくらでもいる。ある程度のセンスは必要だが、技巧は練習量に依存する。
わかるだろう。テクニシャンはいくらでもいる。しかし、いい奴はすくない」
サチオは顔色を変えた。村上を睨《にら》み、弦を押さえることで変形した自分の左手指を凝視した。
「ついでだから、言っちまおうか」
村上は小指の先で目脂《めやに》をほじった。抑揚を欠いた声で言った。
「おまえは弾きすぎるよ。ボーカリストの邪魔ばかりしている。おまえの演奏は、ブルースじゃない。この姐《ねえ》ちゃんの唄にまったく対応していないだろう。
おまえは自分の技巧に溺《おぼ》れているんだ。個人的には見事だが、バンド全体のアンサンブルをブチ壊しにしている。
この姐ちゃんは、おまえに邪魔されて、実力をだしきれんわけだ。これで、あんがい協調性があるんだな。黙って耐えている。はっきり言って、俺が歌手だったら、おまえとはやらんな。
これから先も音楽を続ける気なら、いちどベシー・スミスにかぶさるサッチモのトランペットを聴いたほうがいいんじゃないか」
サチオは中途半端な長さの長髪をかきあげて、ひきつれた薄笑いをうかべた。
「──御忠告、ありがとうございます」
「どういたしまして。ついでだから言っておくが、おまえのリズム感は、完全に縦だな」
ドラムの中沢と、ベースの清水が顔を見合わせた。ピアノの趙《ちよう》は、考え深げに顎《あご》に手をやった。
「なにがタテ、なんですか? パターンが、ですか?」
圧《お》しころした声でサチオが詰め寄る。綾は無言で、村上のとなりの止まり木に腰をおろし、頬杖《ほおづえ》をついた。
「リズム・パターンのことなんかじゃない。ノリが縦、なんだ。これはイイ、ワルイじゃなくて、素質というか血の問題だ。
ブルースやジャズ、そしてソウル。黒人音楽は基本的に横に揺れる音楽だろう。つまり狩人の血の音楽なんだ。獣を追うリズムだ。複雑な地形を、自由自在に跳ねて走る」
「じゃあ、ボクは?」
「そう。農耕民族のリズムだ。鍬《くわ》持って、平坦《へいたん》な畑を一直線に耕す。ザック、ザック、ザック……おまえはどちらかといえば、ハード・ロック、いまはヘビ・メタというのか。それに合ったリズム感の持ち主だ」
サチオの頬に血がのぼった。一瞬、ふるえた。すぐに青褪《あおざ》めた。
「あんたはボクが百姓だというのか!」
「百姓のどこがわるい!」
意外な剣幕で村上が怒鳴りかえした。
「──あんたも百姓か?」
「いや。日雇いだ」
村上は唇を歪《ゆが》めて笑った。
「あんたに何の権利がある!」
「すこしはあるさ。俺は金を払ってこの店で酒を呑む。おまえはこの店からギャラをもらう。お客様は神様なんだよ。これから先も芸人として喰っていくつもりなら、覚えておけ。いいか。芸人はアーティストじゃない」
「よく他人に意見できるな」
「サチオ、やめなさい」
綾が止めにはいった。そのせいで、逆に火がついてしまった。
「あんたみたいに薄汚れた人間のクズにとやかく言われる筋合いはないぜ」
完全に喧嘩腰《けんかごし》だ。
「真っ昼間から酔っぱらって、横浜スタジアムの公園で寝ているような奴に批評されたくないね。
それとも、あんたが見本を見せてくれるか? 横に揺れるリズムとやらの」
村上は鼻先でせせら笑うと、ゆっくり立ちあがった。サチオは逃げ腰になった。バンドの仲間にすがるような視線をおくった。
村上はしばらくサチオを見つめた。表情にはなんの感情もあらわれなかった。綾はそれを、否定の無表情としてとらえた。
「マスター、幾らだ?」
胸ポケットから村上は札をとりだした。
同時に綾が立ちあがった。村上の手から札を奪う。
「あずかるわ」
「冗談はよせ」
「カウンターの上に両手をおいてくれる? そうしたら、返してあげる」
村上は酔いのまわった瞳を大儀そうに見開いた。口をふくらませて、断続的に息を吐く。
「はやく!」
叱《しか》るように綾がせっついた。人々の視線は綾から村上、そしてギタリストのサチオへと移り、最後に村上にもどった。
「こォか」
村上はカウンターの上に手をおいた。
「オマワリに身体検査されるときみてえだ」
苦笑しながら村上はマスターに訴えた。
「シカゴの、いやアメリカのオマワリは、パトカーの上にこうやって両手を出させて、後ろから銃を持ってないか調べるだろうが」
マスターは村上の両手に視線をおとした。
「綾──。村上さんのことばはハッタリじゃない」
怪訝《けげん》そうな表情で村上はふたりを交互に向き、やがてカウンター上の自分の手に視線をおとした。
村上の左手の爪《つめ》は、右に較べて半分ほどしかなかった。
「ギタリストの指よ」
綾は抑えた声で断言した。
「あなたはサチオに偉そうに言ったんだから、その裏付けを証明しなければだめよ」
「どォでもいい。金を返せ」
綾は札を握りしめた。
「お願いするわ。つぎのステージで、弾いてちょうだい」
悲しそうな溜息《ためいき》をついて、綾は札をそっと村上の手にもどした。
村上は手のなかの札をぼんやり眺めた。抑揚を欠いた声で、呟《つぶや》くように言った。
「なあ、別嬪《べつぴん》さん。俺がなぜ日雇いをしているかというと、だめだったからだ。だめだったんだ、ギターが……ギターだけじゃない……俺は友達を見殺しに……だめなんだ、俺は。わかるか? だめなんだよ」
「──そうかもしれない。あなたになにがあったか、あたしにはわからない。でも、落ちるとこまで落ちたなら、べつにこの店で恥をかいてもいいでしょう。
あなたは言いたいことを言って、消えて、今夜のことなんてすぐに忘れちゃうでしょうけれど、サチオは今夜のあなたのことばを一生忘れることができないんだよ」
マスターは口を開きかけた。ことばを呑みこんだ。綾の言っていることは矛盾している。ここで村上がギターを弾けば、サチオはさらに傷つく可能性がある。
村上は欠伸《あくび》をこらえながら、肩をがっくり落としているサチオのつむじのあたりを見つめた。趙が腕組みしたまま迫った。
「弾いてもらいます」
マスターは綾と趙に音楽家のエゴイズムをみた。ふたりにサチオのことなど眼中にない。自分たちの音楽がよくなる可能性のために、サチオをダシに使っているのだ。
趙は温厚なふだんとうって変わって、さらに迫った。
「弾いてもらいます。さもなくば」
「どうする?」
「サチオのかわり、見つけてもらいます」
「俺に責任はないさ」
「ふざけないで。あなた、すこし舐《な》めている。僕たち来年やっとレコード・デビュー。なのに、あなた、僕のバンドのギタリスト、完全に傷つけた。音楽のことで傷つけた。僕たち全員のチャンスをつぶしかけている」
「そォりゃ、てえへんだ」
村上はせせら笑った。
頬が鳴った。
だらけきって、人々を舐めきっていた村上を引き締める小気味いい音がした。
綾は村上を叩《たた》いた掌《てのひら》をぼんやり見つめた。
村上は頬に触れ、薄笑いをうかべた。
「図にのるなよ」
栄養不足で膜の張った村上の瞳が黄色く光る。
綾が顔をあげた。まっすぐ村上を見た。
村上の口許が、一瞬|叱《しか》られた子供のように歪《ゆが》んだ。
「──女に叩かれる、か。よくある陳腐な展開だ」
すぐに村上は立ち直って、うそぶいた。しかし、瞳の奥の凶暴な光はもう消えていた。周囲をゆっくり見まわした。
「弾くだけ弾いて、赤っ恥をかかねえと、どうやら五体満足でこの店から出られねえ感じだな」
ビール瓶を握っている血の気の多い客がいる。腕組みしてガムを噛《か》んでいる黒人兵は、まるでヘビー級のボクサーだ。
村上は綾に視線をもどした。
「お姐《ねえ》さんは大人気だな。きれいな皮をかぶった女ってのは、得なもんだぜ」
憎まれ口をたたきながら、マスターを向く。
「あんた、なぜ笑う?」
マスターは口許をほころばせたまま、無言だ。
「魔がさしたんだ。ふだんの俺なら、絶対にこんな店に入らない。
ダチが……階段《タラツプ》から落ちて、死んだんだ。いいか、てめえら。スラッジのなかに頭をメリ込ませて死んでいく奴もいるんだ。
いいか。ふだんの俺なら、絶対にこんな店に入らねえ。八木の馬鹿野郎が、徳山の腰巾着《こしぎんちやく》が、俺をここに押し込みやがったんだ。世話やいてるつもりさ。徳山のオカマ野郎の金魚の糞《ふん》がよォ……」
徳山の名がでたとたんに、店内が硬直した。空気がはりつめた。ビール瓶を構えていた男が、泣きそうな顔をして、ビール瓶を隠した。
綾は確信した。このひどい寝癖のついた髪をした日雇いが、徳山を振った男だ。
村上はゆらゆら揺れている。いきなりサチオを向く。
「育ちがいいな。こんなことで傷つきやがってよ。とっとと開き直りを覚えるんだな」
サチオは細く女性的な首筋をみせて、床に視線をおとしたままだ。
「なんで俺だけが喋《しやべ》るんだ?」
村上は、酔っぱらい独特の芝居がかった表情で、独白を続ける。
「ドヤの人間がめずらしいか? この店はオレサマの入れるような店じゃないってえのか? たかがブルースじゃねえか」
そのとき、低い、ドスのきいた声が響いた。
「イッツ・オンリー・ブルーズ」
黒人兵だった。ガムを噛んでいた男だ。日本語がわかるのだろう、たかがブルースという村上のことばを英語になおして呟《つぶや》いた。
黒人兵はゆっくり腕組みをといた。村上に向かって頷《うなず》いた。イエス、と肯定するかのように頷いた。
「本場の……人間もいたんだな」
村上は救われたような表情で頷きかえした。総体的に米兵たちの視線は村上に対して柔らかく、やさしかった。
細い瞳をなお細め、趙が村上の前に進んだ。
「弾いてもらいましょう。あなた、寿町にいること後ろ楯《だて》にして過剰にかまえている。
リラックスしてください。腕自慢のお客さん、飛び入りでセッションする。毎晩とはいいませんけどよくあることです」
「達者だな、日本語が」
「まあね。あなたも異邦人かもしれません。でも、日本社会で中国人、もっと異邦人。
あなた社会から外れて平気な顔して居直る。中国人、日本語覚えて一生懸命」
「ところがな、ドヤには朝鮮人がいっぱいいるんだ。中国人みたいに商売のうまくねえ、中華街をつくることもできねえ朝鮮人が、な」
趙は悲しそうに村上を睨《にら》みつけた。
「日本人、いつだって、後始末しないでしょう!」
「俺に文句いうなよ」
村上は音たててカウンターに座った。気をとりなおした趙が、村上の背に向かって言った。
「次のステージ、一曲目はキイ・トウ・ザ・ハイウェイ =Bトニックからいきなりドミナントに進行するブルースです」
村上が怒鳴り声で答えた。
「わかってるよ! この女のキイは?」
綾が逆に訊いた。
「村上さんの弾きやすいキイは?」
村上は彼女をも怒鳴りつけようとしたが、綾が真顔であり、皮肉を言ったのではないことに気づいた。村上は曖昧《あいまい》に横を向いた。
血まみれの心
1
徳山は若者に軽トラックを運転させて、新山下三丁目の一方通行を強引に逆走した。美也子の働いているクラブに向かった。
ボーイがひきつれた顔で応対にでた。徳山はゴルフバッグのジッパーを開いた。なかに隠した日本刀の柄を掴《つか》む。
「美也子さんは、今日は……」
「休みなの?」
「はい」
「ジャーマネ呼んでよ」
ボーイは幾度も頷《うなず》いて、小走りにフロアを抜けた。マネージャーは泣きそうな笑いをうかべて、揉《も》み手しながら徳山に近づいた。
「美也子は今日は休みでございます」
「いつから?」
「と、申されますと……?」
「とぼけるなよ。男がいるはずだ」
「──ご存じでしたか」
「カマかけただけだよ」
マネージャーは幼児のように親指の爪《つめ》を噛《か》み、思案した。
「ご存じとは思いますが、美也子は八木さんと……」
徳山は日本刀を抜いた。真っ赤な絨毯《じゆうたん》が敷かれたエントランスに悲鳴が響いた。徳山の後ろに控えた若者は、悲鳴をあげるホステスたちを眺めて、ニヤニヤしている。
「ねえ、マネージャー。俺は気がちいさいから、こういった刃物に頼るしかないんだよ。こんなもの、使いたくないんだから、本当のところは」
蒼《あお》い刀身がグランドピアノの置いてあるフロアのスポットライトを反射して、店内に光の帯がはしった。マネージャーは、反りかえって顔をそむけた。
「じつは、一週間ほどまえに、一見《いちげん》のお客様が美也子をえらく気に入りまして、一緒に店をでまして……」
「それっきり?」
「はい。電話で、しばらく休みをくれと」
「OKしたの?」
「はあ……人手不足が厳しくて、美也子はそれなりにうちのナンバー・ワンでもありますし、叱《しか》ってしまうと、もう店に来なくなってしまうでしょうから」
徳山は刀の鎬《しのぎ》でマネージャーの頬を撫《な》でた。マネージャーの腰が抜けた。床にへたりこんだ。若者が奇妙な笑い声をあげた。徳山はゆっくり若者を振り返った。
「おまえ、もう帰っていいよ」
若者は曖昧《あいまい》な表情で頭を掻《か》いた。
「帰りな。緊張してるだろう。むいてないんだよ、こういうことに。突っ張ってないで、地道にやったほうがいいよ、おまえは。刃物見て、いちばんびびっているのは、おまえだもんね」
徳山が諭すように言うと、若者は顔を伏せた。徳山は軽トラを運転して帰れと若者に命じた。若者は下を向いたまま、小声ではいと返事して、徳山から離れた。
フロアにへたりこんだマネージャーを見おろして、徳山は猫撫《ねこな》で声で迫る。
「さあ、マネージャーさん。美也子さんのお家の住所を教えてくださいな」
2
サチオのギターを手にとって、村上は軽く口笛を吹いた。
「オールド・レスポールか……」
レスポール・スタンダードは一九五七年に製造されたギブソン社のエレクトリック・ギターで、ダブル・コイルのハムバッキング・マイクがマウントされた最初の型だ。
酒ではないが、楽器も古いものが珍重される。べつに骨董品《こつとうひん》として価値があるわけではなく、オールド・モデルはその枯れた音色がすばらしいからだ。
エレクトリック・ギターは、マグネットを使ったマイクで弦振動を拾い、増幅して、再生する。
マグネットの磁力は、長い年月のあいだに、わずかずつではあるが低下していく。当然出力は落ちるが、音にケバケバしさがなくなる。
落ちたパワーはアンプリファイドしてどのようにでも持ちあげることができるから、年月のマジックで枯れたオールド・ギターはボディ材などにはずれがないかぎり、総体的にすばらしい音色がでる。
こればかりは自然の磁力低下を待つしかないのだ。はじめから弱い磁力のマグネットでマイクをつくれば、芯《しん》のない、気の抜けた音にしかならない。
手入れのゆきとどいた、すばらしいギターだった。熟達した職人の手による茶色のラッカー・フィニッシュのサンバースト塗装もすばらしい。
ネックを握り、ボディを抱きこんだとたんに、村上はサチオのことをきれいに忘れた。すばらしい楽器を手にしたミュージシャンがみせるマニアックな、恍惚《こうこつ》とした、憑《つ》かれた眼差しだ。
サチオはおもしろいはずもなく、カウンターの隅で、皆に背を向けてふてくされている。
村上はピアノの趙にAの音をもらい、すばやくチューニングを確認した。チューニング・メーターには見向きもしない。
ギターは完璧《かんぺき》だった。オクターブ・チューニングもぴったり合っている。
ベーシストの清水はサチオの背を見つめて複雑な表情だ。チューニングのスムーズさをみても村上が相当の習練をつんでいることがわかるし、ズバ抜けて耳もいいようだ。
村上は、サチオの背を見つめる清水に気づいた。清水に向かって唐突に喋《しやべ》りはじめた。
「ギリシアの哲学者、ピタゴラスを知っているか?」
「さあね。怪獣みたいな名前だな」
もちろん清水はピタゴラスの名を知っている。しかし村上を冷たく突き放し、無視した。
「音楽なんて、単純な算数にすぎんのさ。ピタゴラスは音楽家だったんだ。哲学者にして、数学者と音楽家を兼ねていたんだ」
「なにが言いたいんだよ」
清水が顔を向けると、村上は顔を伏せた。小声で言った。
「ピタゴラスは……弦を用いた五度とオクターブの理論、数学的に言えば、調和数列を発見したんだ」
「そりゃ、凄《すげ》ェや」
清水は欠伸《あくび》してみせて、横を向いた。
村上は罪悪感を覚えているのだ。サチオに対して罪悪感を覚えている。だからどうでもいい蘊蓄《うんちく》をかたむける。いたたまれず、黙っていることができないのだ。
村上の青臭さがひどくうっとうしかった。清水は村上に聞こえるように舌打ちして、棄て台詞《ぜりふ》を吐いた。
「いい歳《とし》、こいて、うざってェ」
村上はささくれだったステージの床を凝視した。頬から血の気がひいていき、顔をあげたときは別人のように無表情だった。
「ギターの……弾きかたを……教えてやる」
口のなかで呟いた。誰も気づかなかった。村上は軽く眼を閉じた。集中した。胸のなかで眠っているブルースを呼び覚ます。
おもむろにピーヴィの四一二アンプに向かう。音づくりを始めた。周囲のすべてが眼中にない。おおまかなセッティングを決めた。六可変のイコライザーに手を伸ばす。
「余分なモンをゴチャゴチャつけやがって」
小声で文句を言う。独り言だ。足元がふらついた。酔いの吐息を洩《も》らした。意地になって缶ビールを流しこみ、六つのイコライザー・ボリュームをいじくりまわす。
セッティングに二分ほどかかっただろうか。唐突にハイ・ポジションでコード・カッティングした。
突き抜けた。
ウォッ
客席をどよめきがはしった。
凄《すさ》まじい音圧だった。それでいて、コードの一音一音がクリアに聴こえた。
口を半開きにして、サチオは呆然《ぼうぜん》とした。自分のギター・アンプから、あのような音が飛びだしてくるとは思ってもいなかった。
村上はひとりで頷《うなず》いた。中音《ミドル》をわずかにさげた。イメージしたリズム・パターンを囁《ささや》くように唄い、ドラムスに顎《あご》をしゃくった。
ドラムスの中沢は、憑《つ》かれていた。頷きかえした。スティックを合わせた。カウントをだした。
いきなりブルースが始まった。ドラムスとギターだけでブルースが始まった。
趙はあわててギターの音をさぐった。ベースの清水に鋭い声をかけた。
「キイはD!」
清水は我にかえった。ふてぶてしく笑った。
「不意打ちときたか」
カウントする。二小節待って音楽に合流する。
うねる。客たちが波に見える。見事にローリングして、横揺れしている。
「イェイ!」
「イャア!」
米兵たちが叫ぶ。立ちあがる。
「ザッツ・イット!」
「グレイト!」
踊りはじめる。フロアは開放区と化す。卑猥《ひわい》に、エネルギッシュに腰を振る。
慌てたのは、綾だった。ステージちかくのボックス席で雑談していた。セッティングしているな、と思ったら、唐突に演奏が始まった。
首を左右に振りながら、趙は鍵盤《けんばん》を連打した。熱狂とは無関係な、ミュージシャンとしての醒《さ》めた部分で感心していた。
いつだってサチオは、ギターにとって運指の楽なAのキイばかりをやりたがる。村上は綾の唄いやすいキイをしっかり把握していた。黙ってDで弾きはじめた。
ワン・コーラスめ。村上はバッキングに徹した。自分自身を確かめるかのように。
途中で綾がステージに駆けあがった。村上はすっと場所をあけた。いちばん隅に立った。促すようにリズムを刻んだ。
ハイウェイの関門を抜けた
キイを手にいれた
すべての借りをかえしたぜ
走ってこの町
離れるのさ
とても歩っちゃいられねえ
綾が唄いはじめると、村上はさりげなくギターのボリュームを落とした。前奏と、すごい落差だ。音楽がくっきりして、綾の声が前にでた。客はきれいに村上の存在を忘れ、綾に熱狂した。
クリアだった。綾のまえに、なんの障壁もない。村上のバッキングに躯《からだ》をあずける。喉《のど》をふるわせる。自分の声が小躍りしている。弾けている。奔《はし》っている。綾はクリアな気分のまま、性的な昂奮《こうふん》にちかいものを覚えた。
村上のソロ・パートがきた。村上の指先は、指板のうえを不安そうに彷徨《さまよ》った。
盛りあがった熱狂が急速に醒めていく。綾は村上のまえに駆けた。眉間《みけん》に愛くるしい皺《しわ》よせて、ふかく頷《うなず》いてみせる。
村上はためらいのこもった眼差しをかえした。微《かす》かに頷きかえす。スライディングして、根音D、を弾いた。
音が刺さった。
刺さって、折れた。
砕けた音が、客の頭上で谺《こだま》した。失笑がおきた。
幾年も楽器に触れていなかったのだろう。つづけて弾きだされたソロもたどたどしかった。ぎこちなかった。重かった。
村上は下唇を噛《か》んだ。意思に反応しない指先を凝視する。憤りがみえた。
趙は村上が誠実であることを理解した。偽悪的なポーズの背後に、惨めなほど弱い心が隠されている。
思いきって、趙は曲調を無視してサーティンスの響きを叩《たた》きだした。
村上は敏感に反応した。詰まっていたフレーズがほどけ、迸《ほとばし》った。
趙は村上に声をかける。
「自転車よ、自転車」
ブランクが幾年あっても、走りだしてしまえば乗れるのだ。村上に声がとどいたかは疑問だ。演奏の大音響のせいで、口がパクパクうごいたのが見えただけだろう。しかし村上は、趙にすばらしい笑顔をかえした。
綾は趙を睨《にら》みつけていた。自分の立っている場所がステージであることを忘れていた。嫉妬《しつと》している自分が他人のように感じられた。
ためらいの消えた村上は、無理なフレーズを弾こうとしなくなった。いまの自分の反射神経がこなせる範囲内のことに徹した。
それでもさりげなくメージャー・セブンスの響きを使ってみせたりした。フレーズは巧みで、知的だった。
マスターは心のなかで唸《うな》った。音楽という表現は、じつは数学的であり、安易に感性などということばを用いることを拒絶する厳しさをもっている。
もちろん理論だけでは音楽は成り立たない。サチオも村上も、音楽に対する数学的理論の理解というレベルでは、かなり高度なところにいた。
しかしサチオは理論を理解した時点で飛躍できず、自己主張の激しい単なる機械のレベルにとどまっていた。
眼を閉じていても、マスターには村上の指先がふるえているのがわかる。
弦は極限まで揺すられ、軋《きし》んでいる。
不安定だ。肉声にちかい。
しかし絶妙な平衡を保ってドライブされている。
音譜に表すことのできぬ音。限界までためこまれた音。数学的割り切りが不可能な音。
そんな音が絞りだされたとき、はじめて本物の音楽が成立するのだ。
人々は、音楽を聴いた。
泣いている。
啜《すす》り泣いている。
囁《ささや》くように泣いている。
指が指板上をこれみよがしに移動するわけではない。使っている音は、せいぜい四つか五つにすぎない。
そのわずかの音の組み合わせが、早口で喋《しやべ》るサチオの音と比較にならぬほど熱く、誠実に語りかけてくる。
決めのドミナントで、はじめて一弦二十フレットまで指が移動した。
村上の顔が歪《ゆが》んだ。
ガス探がせわしなく鳴いた。崔《さい》は村上にすがりつくような視線を向けた。アルミ・タラップの上で崔の両足は奇妙にもつれた。噴きあがるガスの気配。村上は崔を振りきって、タラップを駆けあがった。崔は村上を見あげた。崔は微笑した。微笑したように見えた。微笑しながら、小首をかしげた。別れの挨拶《あいさつ》だった。直後、白眼を剥《む》いた。首を掻《か》きむしり、唇から舌がはみだして、崔の躯《からだ》は黒い虚空にあった。
村上の指は、二十フレットで硬直した。ミス・ピック。むなしく弦を引っ掻いた。完結するはずの音は、放たれなかった。
瞬間、張りつめた蒼《あお》い氷にひびが入った。
パシッ──
青褪《あおざ》めた音が鼓膜を刺した。
サチオは呻《うめ》いた。村上のミス・トーンは、サチオの胃を縮みあがらせた。
鈍い痛みがのこった。
踊っていた黒人兵は、硬直した。すぐに踊りを再開したが、それは意地になっているかのような動きだった。
マスターは、膝頭《ひざがしら》がふるえるのをぼんやりと見つめた。祈りだった。村上は祈ったのだ。
すべての人々にブルースの楔《くさび》が打ち込まれた。ミス・トーンがノイズではなく、音楽にまで昇華された稀有《けう》な瞬間だった。
神は村上のような男に奇跡をおこなう能力を与えた。奇跡をもたらしたのは、失意であり、怨《うら》みであり、ブルースの心だった。
村上は虚脱した表情で、嗚咽《おえつ》したときのように喉仏《のどぼとけ》を上下させた。両手をだらりとさげ、残りの数小節を弾かずに、綾を見つめた。
綾は村上の弾かなかった最後の数小節の重みを噛みしめて、声を詰まらせ、かすらせて、哀願するように唄いおわった。硬直した手から、マイクが離れなかった。
拍手さえおきなかった。
3
趙は唾《つば》を呑みこんだ。二曲目の指示をだす。 トラブル・イン・マインド =Bヘヴィすぎるかもしれない。不安になった。村上は素直に頷《うなず》いた。
心の悩み
俺はひどく憂鬱《ゆううつ》だ
惨めな俺の心臓は
鼓動さえもとぎれがち
ブルースは、その音楽的構造はシンプルでも、魂は複雑だ。
哀《かな》しいから、哀しい曲調で歌うといったことをしない。詞はヘヴィでも、ヴギだ、シャッフルだ、哀しいからこそ思いきり跳ねてみる。
ブルースのほとんどは長音階でできている。わざとらしい泣き節の、短音階のブルースは、わざわざマイナー・ブルースと注釈がつくほど少ない。
露骨に泣かない。あるいは涙は出尽くした。
ブルーノートでちょっとだけ鬱《うつ》な音を呟《つぶや》くようにだしておいて、おもいきり陽気にジャンプする。 トラブル・イン・マインド≠焉Aよく跳ねる曲だ。
いつもこんな気分じゃたまらねえ
いつかは俺の背中にも
お日様がさすだろう
すがりつきたい思いを抑えこみ、綾が囁《ささや》くように唄う。客たちは、勇気づけられたような、うちひしがれたような、ふしぎな複雑な表情をする。
そのときブルースは、各々の心の状態を映す鏡と化す。
鬱屈《うつくつ》した男がグラスを投げつけた。暗がりの壁に、ブルーの水晶が散った。
ふるえていたのは綾だった。村上のギターは綾にぴったり密着して、綾の唄に応え、対応し、引っ張り、抱き込み、突き放す。
突き放して最後のひと絞り、心が口から飛びだすほどの声をださせて、虚脱しかかると、やさしく包みこんで入念に愛撫《あいぶ》する。
綾は村上に抱かれていた。
綾は唄になった。
冷静な中沢が、めずらしくスティックを折った。トップ・シンバルの刃に切断されたスティックが、逆光のなかで金色に舞った。飛び散る汗は、銀色だ。
清水も指先が裂けそうになるほど弦を責めた。二本の三十八センチスピーカーから弾きだされる音は、呻《うめ》きのような空気振動に還元され、人々の下腹をふるわせ、揺らす。ふるえはひどく性的だ。男も女も動物になる。
趙はひとり冷静だった。リーダーであり、監督だ。メンバーの行き過ぎを規制する。ピアノの黒鍵《こつけん》は、司令盤のスイッチだ。
いちばん敏感に反応して軌道修正するのが村上だ。苦労を知り、他人の心を読んで生きてきたのだろう。
曲は派手といっていいほどに跳ねているのに、黒人兵は踊りをやめ、隅のボックスで頭をかかえた。アラバマには妻がいる。娘がいる。家族が帰りを待っている。
音楽の底にあるのはやるせなさ。愛はとどかず、まわり道したあげく、誤解されて、憎しみに変わる。ブルーになった客が喧嘩《けんか》をはじめた。泣きながら、まわりの者に殴りかかる。
拳《こぶし》を血まみれにして、男はステージに駆けよる。
充血した瞳を見ひらく。涙あふれて、頬をつたう。
拳を振りあげる。血が飛んだ。赤い心。大声で怒鳴る。
「やめちまえ!」
ブルースは続いている。終わることはない。たとえ演奏が終わっても、ブルースは続く。
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第二章 それでも、朝は、くる
大 麻
1
カウンターの隅で、サチオは、血まみれの心の痛みにどうにか耐えていた。
マスターは顔をそむけた。サチオは蒼白《そうはく》だった。サチオには、もうギターに触れる気力がない。村上に握手を求める綾を、ぼんやり見つめた。
綾は村上にキスしたかった。祝福の接吻だ。その気持ちを抑えて、手を差しだす。
村上は掌を凝視した。首を横に振った。
「スラッジで汚れている。女の子のさわるような手じゃない」
綾は差しだした手のやり場にこまり、うつむいた。村上が握手を拒絶したのは、手が汚れているせいではない。綾は直観した。村上は綾に触れたとたんに自分のなかで壊れてしまうであろうなにかを恐れたのだ。
村上は自信のなさそうな照れ笑いをうかべている。この人は逃げている。綾は悲しくなった。だから、とびきりの笑顔をつくった。
綾が微笑すると、村上の瞳がくもった。綾だけが見た。妙に幼児的だった。もうひと押しすれば、泣きだしそうな。
アルバイトの少年が閉店を告げた。客たちは素直に立ち上がった。
客自身がMOJOという店を大切にしていた。酔って荒れもするが、それぞれが粋に振る舞うように努めていた。MOJOには横浜らしいダンディズムが残っていた。
村上は出口に向かう客たちを見つめ、ぶっきらぼうに呟《つぶや》いた。
「──小便」
ステージから飛びおりた。勝った力士が花道を引きあげていくのに似た光景がおきた。帰りかけた客が、みんなが村上に触れたがる。肩を叩《たた》き、背に触れる。
それを無視して村上は、トイレのドアを蹴りあけた。
2
奥の水道で、サチオが顔を洗っていた。しつこく、しつこく、洗っていた。
尿の臭いがきつい。胃酸の酸っぱい臭いもする。
小便器には黒っぽい血の混じった吐瀉物《としやぶつ》が充ちていた。
村上の加わったブルース・スペシャルのせいで、MOJOの店内は荒れに荒れた。その名残がトイレに満ちていた。
村上は上目遣いでサチオを盗み見た。
サチオは気づかず、背をふるわせ、嗚咽《おえつ》しながら水を顔に叩きつけている。
そっと村上は立ち去ろうとした。個室のドアが派手な音をたてて開いた。折り目のぴっちりついた黒いスラックスを穿《は》いた男が出てきた。
オシャレしているつもりだろうが、真っ赤なシャツではやりすぎだ。軽薄が服を着ている。もちろん、まっとうな人種ではない。
注意してみると、鼻の下に苔《こけ》が生えていた。髭《ひげ》をたくわえているつもりらしい。水の流れる音はしなかったから、男は個室内でなにか他のことをしていたのだろう。
「すばらしかった。最高」
男はつくり笑いして村上に言った。
「鬱屈《うつくつ》してる奴が暴れだすなんて、はじめて見たさ」
サチオの背が硬直した。
「ホントのブルーズ、聴かせてもらった。ブルーズ・パワーだね。伝説だよ、これは」
男は気取ってブルーズと発音した。村上は男の体臭に顔をしかめた。男の爪《つめ》にはまっ黒な垢《あか》がつまっていた。
「ところでさぁ」
男はさっと表情を変えた。愛想笑いして、踏みこむ。
「買わない?」
「何を」
村上はサチオの背を見つめながら、投げ遣りに問いかえした。
男はサスペンダーのゴムをパシッとならした。
「ブラック・アフガン」
「なんだ、それは」
「とぼけちゃって、もォ」
売人はトイレの入口をロックした。サラリーマンが通勤に使うような地味なバッグから、茶色く乾燥した植物を取りだした。スーパーマーケットで使うビニール袋に詰めてある。
「極上のハッパなんだ」
口をひらきかけた村上に喋《しやべ》らせず、売人は続ける。
「十万でどォ? 大サービス。こんなにたくさんあるんだから、うまく使えば毎日やったって、三ヵ月はバッチリ」
「十万だ? そんな銭がどこにある」
「見たんだよ。カウンターに札を放りだして、マスターとなにか喋ってた」
村上は鼻でせせら笑った。
「極上品にしては、ずいぶん雑なパッケージだな。アカプルコ・ゴールドなんか、真空パックだぜ」
「アフガニスタンだぜ。真空パックなんかあるわけないだろ。国情ってやつを考えろや」
「なるほど。マーケットの濡《ぬ》れ物用ビニール袋ならあるわけだ」
売人は舌打ちした。勢いこんで言い訳をはじめる。村上はいいかげん喋らせておいて、
「五万」
ひとこと言った。売人は、
「ごっまぁーん?」
おおげさな声をだし、
「冗談じゃねえよ。シャレにもならん。遊びでやってるわけじゃねえんだ」
しばらく文句を言いつづけ、
「五万ね」
あっさり納得してみせた。
「三万だ」
村上は冷たく無表情に言い放った。売人は口をポカンと開けた。
「あんたみたいに要領してる奴が、なんでコトブキなんかにくすぶってんだよ」
「ニブイ奴だな。俺は欲しくないと言っているんだよ」
売人は、即座に迎合した。
「いいよ。三万。ほら」
村上に大麻を押しつけた。村上は苦笑した。
「十代のガキじゃねえんだ。ハッパなんぞ、ありがたがるかよ」
売人は狡猾《こうかつ》な笑いをかえした。
「ミュージシャンだろ、あんた。やっぱ、ハッパでビシキメして弾くべきだよ」
「偉そうなことを言うなら、コカインを持ってこい」
「コケインか。いずれ、な。とりあえず、代金をいただきたいんですがね」
村上は苦笑したまま、三万払った。サチオの背にむかって言った。
「やってみるか?」
売人はサチオと村上を見較べた。
サチオは背をむけたまま、小声で答えた。
「ほっといてくれよ」
しばらく沈黙が続いた。
村上は大麻のビニール袋を両手で圧縮し、作業ズボンの太腿《ふともも》の外側にある大きなポケットに押し込んだ。乾燥した葉がつぶれる秘めやかな音がした。
売人が呟《つぶや》いた。
「負け犬が。てめえにはギターより、包茎チンポが似合ってるよ。前っから思ってたんだ。てめえのギターはオナニー臭ェんだよ」
サチオに毒づくと、村上に笑いかけた。
村上は笑わなかった。
売人は舌打ちした。
「なんだよ、その面は」
ニヤニヤしながら売人は小首をかしげ、村上に迫った。
「文句あるのかよ、ニコヨンが」
村上の頬から酔いのいろがひいた。
売人は村上を睨《にら》みつけたまま、かがんだ。スラックスをたくしあげる。ソックスに挾んでいた飛びだしナイフをぬきとる。
「オモチャっぽいだろう」
金属音をたてて飛びだした刃が、村上の頬を叩《たた》く。
「オモチャかもしんないよ。ためしに引いてみようか」
ステンレスの刃が、村上の頬にめり込んだ。
「申し訳ありません」
のけぞるようにして村上があやまった。
売人は、さらにナイフを押しつける。
「なに? 聞こえないよ」
「申し訳ありませんでした」
「それで?」
「勘弁してください」
「もうひと息かな。わるうございました、なんてのは、どうかな?」
「わるうございました。お許しください」
「いいねえ。素直だ。素直さは大切さ。もうすこし誠意を見せて欲しいな」
「ニコヨンが出すぎました。反省しています。お許しください」
「うん。よくわかっているじゃない。でも、誠意って、ことばじゃなかなか伝わんないの」
村上はあわてて胸ポケットをあさった。山野興業の封筒を取りだした。
売人は唇を接吻のかたちに突きだした。
「いいなあ、誠意。かたちのある誠意」
村上の手から、金の入った封筒をひったくる。
「かたちのある誠意のつぎは、いよいよ心の誠意だろうな」
「どう、すればいいですか?」
「どのようにいたせばよろしいですか、だろ」
「──どのようにいたせばよろしいでしょうか?」
「きまってるじゃん。土下座だよ」
村上は卑屈に笑い、便所のタイルに両|膝《ひざ》をついた。
サチオはあっけにとられ、あきれはてていた。
売人は土下座する村上を見下ろした。唾《つば》を吐いた。
唾は村上の頭頂部を汚した。売人はナイフをしまった。
「めずらしい男だな、おまえは。情けねえ。金玉、どこに忘れてきたんだよ」
棄て台詞《ぜりふ》を吐いて、売人は背を向けた。
村上は膝をついたまま、流しの下に手をのばす。トイレ磨きの業務用洗剤を掴《つか》む。
「おい、チンピラ」
売人が振り向いた。
村上はグリーンのプラボトルを両手で握り、押し潰《つぶ》した。
薄黄色の液体がほとばしった。
売人は、顔を掻《か》きむしる。
塩素の臭いがトイレに充満した。
サチオは見た。大きく見開かれた売人の眼が、白く泡立っているのを。
村上はゆっくり売人にちかづいた。
「金玉、もどってきたみたいだ」
囁《ささや》くように言う。さらに塩素系洗剤を売人の顔に振りかける。
「凄《すご》いな。沁《し》みるよ。毒じゃないか、塩素ガス」
他人事のように呟《つぶや》く。売人に足払いをかける。売人はタイルの上に転がった。のたうちまわる。子供のように騒ぐ。
「痛いよ、痛いよ、痛てぇよお」
村上は苦笑する。横柄な態度をとるわりに、自分に与えられた痛みには、異常に過剰反応する男がいる。そういった意味のことを真顔でサチオに説いた。
サチオは顔をそむけた。村上の瞳には、暴力に対するあきらかな陶酔があった。
「おい。はやく洗い流さないと、眼が見えなくなっちまうぞ」
「洗ってくれよお」
「洗ってください」
「洗ってください! 申し訳ありませんでした」
「その前に、お金を返してもらうよ」
村上は自分の封筒と、売人の財布《さいふ》を抜き取った。頭を掻《か》いてサチオを向き、苦笑した。
サチオはどのような顔をつくっていいかわからず、後ずさった。
「あまり悠長に構えてられんな」
独白して村上は、売人の赤シャツの襟首を掴《つか》んだ。大便器のところまで引きずっていく。
「さあ、顔を洗ってやる」
呻《うめ》く売人を便器に押しつける。売人の顔を便器のなかに突っ込む。
「流すぞ」
村上は片足で売人の頭を押さえ、もう片方の足でノブを踏む。勢いよく水が流れた。
水は流れつづけている。サチオは顔をそむけた。溺《おぼ》れた売人の足が細かく痙攣《けいれん》をおこしている。
村上は売人の髪を掴んだ。便器から引きあげた。
売人の眼は、洗剤のせいで白く濁っていた。顔の皮膚も、赤く焼けただれたようになっている。村上はしばらく売人の顔を見つめていたが、溜息《ためいき》をついてサチオを向いた。
「今夜だけで、暴力|沙汰《ざた》は、二度めだ……」
苦しげに首を左右に振る。
「俺は……こんなじゃなかった。暴力は……好きじゃなかった」
タイルの壁に躯《からだ》をあずけ、自嘲《じちよう》気味に独白する。
「朱に交わればドドメ色……か」
徳山の得意な台詞《せりふ》を呟いた。村上は自分のなかにある暴力衝動の強さにはじめて気づき、もてあまし、できれば徳山と交わったことによるものであると、自分を納得させたかった。
もういちど溜息をつき、村上は売人に向きなおった。
「冗談でなく、便器で溺れ死ぬこともあるんだぜ。よく覚えておけ」
村上が呟いた直後、売人は烈しく噎《む》せた。村上の頬が引き攣《つ》れた。
「うるせえ!」
金隠しに売人の顔を叩《たた》きつける。便器の白、タイルの白に、真紅が散った。鮮やかだった。サチオは呆然《ぼうぜん》とした。現実感がない。
折れた歯が、売人の口のなかで、白いキャンデーのように見えた。
売人が咳《せ》き込んだ。血といっしょに乾いた音をたてて、幾本もの歯がタイルの上を跳ねた。
売人の前歯は全てなくなっていた。出血は烈しく、血はタイルの上に盛りあがるほどだ。
村上はサチオの顔を覗《のぞ》きこみ、ニヤリと笑った。村上は正気ではない。サチオは後ずさった。
売人の唇は、ふつうの三倍くらいに腫《は》れあがっていた。歯を喪ったピンクの歯茎に深紅の血が絡み、まとわりつき、泡だって、溢《あふ》れていた。
「記念に、どうだい?」
村上はタイルの上に散った売人の歯を示した。サチオは顔をそむけたまま、ふるえている。
「じゃあな」
村上はサチオに頷《うなず》きかけ、便所から出ていった。サチオは床で痙攣している売人を呆然と見つめた。動けなかった。
3
村上はカウンターに戻った。浮かれた足どりだった。表情にも暴力のあとの昂《たかぶ》りと解放感があった。
綾をはじめ、バンドのメンバーが待ちわびていた。趙が合図を送った。綾はわずかにためらい、しかし素直に頭をさげた。
「村上さん。バンドに入って」
「寝惚《ねぼ》けるな。ギターが二本も要るか」
村上は綾たちの顔を見ようとはしなかった。しかし口調には断固とした拒絶の響きがあった。
アルバイトの少年は村上を盗み見ながら、後かたづけに手がつかない。眼差しには村上にたいする憧《あこが》れと、尊敬がみえた。それに気づいた村上は、鋭く言った。
「青臭い眼で俺を見るな」
少年は育ちの良さそうな顔をさっとそらした。世間知らずであるという自覚があった。うつむいたきり、顔を上げられなくなった。
村上はさらに憤った声で言った。
「とっとと便所掃除でもしろ。粗大ゴミが転がってるぜ」
少年は下唇を噛《か》んだ。なぜ、自分が嫌われるのか理解できない。村上はさらに少年を睨《にら》みつけ、なにか言いかけたが、首を左右に振って苦笑した。
「幾らだ? マスター」
マスターは軽く頭をさげ、伝票を引きよせた。釣りをわたしながら、おもむろに口をひらいた。
「まだジンのボトルが半分以上残っています。またいらしてくださいね」
村上はマスターから顔をそらし、深呼吸した。
「私はしつこい性格ですから、こいつを十年でも二十年でもキープしておきますよ」
村上はジンのボトルを見あげて、肩をすくめた。
「それは、うれしいね。二十年後もつぶれずに繁盛していることを祈っているよ」
機嫌よく村上は笑った。出口へ向かう。肩で鉄扉を押しあける。地上から、階段を伝って木枯らしが吹き下りてきた。
三角関係
1
徳山は凍えた指先に息を吹きかけた。瞳を細めて五階建てのマンションを見上げる。
美也子のマンションは、外人墓地の近くにあった。マネージャーが徳山に教えた住所は、ここだった。坂の多い地区だ。美也子が働いていた新山下の店からはひたすら上り坂が続いたが、躯《からだ》はあたたまらず、冷えきったままだった。
「けっこうましな住まいだよな」
呟《つぶや》いて徳山は、寒さに強張った肩をほぐすため、ラジオ体操をはじめた。通行人が怪訝《けげん》そうな視線を向けた。さりげなく表情を窺《うかが》う。徳山は微笑をかえした。通行人も、曖昧《あいまい》な微笑をかえし、家路をいそいだ。
徳山は大きく息を吸った。血まみれの八木を運んだタクシーの運転手は、八木を埠頭《ふとう》の近くの道路で拾ったと証言した。徳山は美也子の働いている店に顔をだして探りをいれたあと、埠頭の近くの倉庫区域を丹念に調べてまわった。
無人の倉庫区域からはなにも発見できなかった。探索は徒労に終わった。
しかし徳山には確信があった。八木は埠頭の倉庫区域に運ばれて、いたぶられたのだ。マンションの駐車場には、美也子の愛車が停めてあり、車内にはわずかだが血痕《けつこん》らしきものが見てとれた。
「仇《かたき》、討ってあげるからね」
エレベーターのなかは、香水の匂《にお》いがした。
「ゲラン、か。水商売の女ばかり住んでるみたいだな」
徳山は香水の銘柄を呟き、うすく眼を閉じた。軽いショックがあり、エレベーターは四階に止まった。
フロアからは本牧《ほんもく》埠頭のABCDそれぞれの突堤が見渡せた。徳山は港の夜景を見おろしながら、かじかんだ手をこすりあわせた。手は刀を扱うすべてであり、命であると信じていた。徳山は神経質に、しつこく指先をウォームアップした。
頭上の蛍光灯が切れかけている。建物の外観ほどに管理は行き届いていないようだ。徳山は明滅する白い光を浴びて、深呼吸した。
部屋に表札は出ていなかった。しかし一階のフロアにあった郵便受けに美也子の苗字《みようじ》が書かれたものがあり、ルーム・ナンバーは確認してあった。
ノックした。耳を澄ます。人の気配はたしかにする。徳山はゴルフバッグから日本刀をとりだし、軽く咳払《せきばら》いした。
「美也子さん。私です。マネージャーが様子を伺ってこいって。なにか困ったことがあったら、相談にのりますから。いるんでしょう、美也子さん。マネージャーに内緒にしときたいことだって、私にならしゃべって大丈夫ですよ」
徳山は店に顔を出したときに、美也子といちばん親しくしていたというボーイを呼びつけ、喋《しやべ》らせて、その口調や特徴を覚えこんでいた。
なによりも私です、というひとことが効いた。美也子は舌足らずな徳山の声を店の若いボーイであると勘違いしてしまった。
「伸ちゃん? 相変わらずマネージャーも心配性ね。明日からとはいわないけどさ、そろそろ出ようと思ってたのよ。いつまでもブラブラしているわけにはいかないからさ」
毎日通っていたときは、あれほど嫌だった店なのに、しばらく休んでいると妙になつかしい。美也子はドアを開けてしまった。徳山の手がのびた。
「伸ちゃんじゃないよ。徳ちゃんだ」
徳山の口許に、蕩《とろ》けるような微笑がうかんでいる。美也子はドアを開けてしまった。腕を掴《つか》まれてしまった。
「わるい女じゃないね。いっぱいだまされてきたんじゃないかい? だまされるのは、これで最後だからね」
徳山は美也子の腕を掴んだまま、鞘《さや》を口でくわえ、日本刀を抜き放った。
せまい玄関口だが、徳山の刀の扱いは見事で、美也子の首筋にぴったり刀身があてられていた。
「切れるよ、こいつは。じっとしてなけりゃだめ。切れちゃうからね」
奥の部屋から、男が顔をだした。徳山と美也子を見て、一瞬緊張したが、すぐに薄笑いをうかべた。
「御大層に。なにかあったのか?」
「舎弟が死んじゃったからね」
男は薄笑いをうかべたまま、ズボンのベルトを抜いた。
「おかしいなあ。すぐに病院に駆けこめば、死なない程度にいたぶってやったんだがな」
呟くように言いながら、男は拳にベルトを巻きつけた。落ちついていた。
「病院に行かずに、コトブキに戻ってきちまってね」
「なんだ? コトブキってのは」
「スイート・ホーム・シカゴってブルースがあるんだけどね」
「あのガキは、スイート・ホームに帰ったってわけか。病院にも行かずに」
小首をかしげて、男は徳山を覗《のぞ》きこむように見つめた。
左手に巻いたベルトで、刀身を受けるつもりだ。最初のひと太刀さえ外せば、形勢は逆転する。
幾重にも巻きつけた革は、鎧《よろい》といっしょで、適度に収縮して、刀身を包みこむ。
切っ先の動きは烈しく、威力もおおきいが、一歩踏み込んで、刀身の根元を受けるようにすれば、革は絶対に切断されることがない。
「しかし、あんた、チビ、デブ、ハゲと三拍子そろった不細工な親父だな。舎弟も舎弟なら、兄貴分も兄貴分だ」
「あんたは、いい男だ。大した貫禄だよ。修羅場もいっぱいくぐり抜けてきたんだろ。それなのに、なぜ?」
「なにが言いたい?」
「なぜ人の土地へきて、餓鬼みたいな無茶をするのかな。悩んじゃうよ。まるで愚連隊のようだよ。ききわけのない子供みたいなことをする」
「説明する気はないが、強いて言えば、この女の取りあいだな」
「──三角関係ってやつか」
徳山が呟くと、男は美也子に軽くウインクした。
「たいした余裕だ……」
徳山は溜息《ためいき》をついた。美也子の首筋にあてた刀をすばやく手前に引いた。
美也子は頸動脈が切断されたことに気づいていない。
男に向かって噴きあがった血を、美也子は他人の血のように眺めている。
美也子の血は、男の顔から胸にかけてを濡《ぬ》らした。生あたたかかった。美也子の体温が、男の肌に移った。鉄の匂いが漂った。
徳山は美也子を男に向けて突き放した。心臓の鼓動にあわせて血を噴く美也子を男は抱きかかえる恰好《かつこう》になった。
徳山は天井に切っ先をあてぬよう、ななめに振りかぶった。
ひっ、と空気が鳴った。
声をあげずに、躯のなかの気をすべて吐きつくした。
気は刀身に集中した。
美也子と男、ふたりの肩口に刀身が滑りこんだ。
肩から胸をななめに切断した。
ほぼ胸の中央で刀身は止まった。
徳山の手から、刀がすっぽ抜けた。
男と美也子は、刀ごと床に転がった。
美也子はこと切れていた。微動だにしない。男は四肢を細かく痙攣《けいれん》させている。
徳山は無表情にふたりを見下ろす。
男の口が動いた。
徳山は血溜まりを避けて膝《ひざ》をつき、男に顔を寄せた。
「人質をあっさり殺《や》っちまうなんてよ……そんなのありかよ」
「いま、見ただろ。あるんだよ」
「あるんだな……」
「あるんだよ」
「まいったな」
「もう遅いけど、アドバイスしといてやるよ。いいか。三角関係は、尖《とが》ってるんだ。絶対にうまくいかない。三角関係ってやつは、割りきれないからね。おまえは八木を殺して、無理に割りきろうとしただろ。小数点以下のあまりがでちゃったよ」
男はもう息をしていなかった。徳山は咳払《せきばら》いした。
部屋のなかを見まわした。電話をさがした。玄関ちかくにコードレス電話の子機があった。徳山は眼の端に子機をとらえながら、美也子と男の躯から刀を抜こうとした。
柄に手をかけ、力をいれた。筋肉の収縮がはじまっていた。ふたりの肉は刀身に絡みついて離れない。徳山は息んだ。血溜まりに足を突っ込んでしまった。
血で足が滑った。徳山は血溜まりのなかに不恰好に尻餅《しりもち》をついた。掌が血で粘った。徳山の額に血管が浮きあがった。
徳山は死体に向かって切りつけた。無言で切りつけた。幾度も、幾度も、切りつけた。やがて肩で息をした。
満足そうに微笑した。つまらなさそうに離れた。子機を手にとった。山野興業に電話した。
「始末してほしいゴミがあるの。ちょっと大きなゴミ。そう。肉。新鮮だけど臭い肉。ふたり分あるのよ。ウーン、埋め立てに使うよりも、水葬にして。沈めちゃってよ。ごめんね。世話かけるね。場所はね、ええと……」
2
MOJOから地上にもどると、木枯らしが吹き荒れていた。よく晴れた夜だ。右側のかけた月が白く冷たく凍えながら光っている。雲は強風に追い散らされて消えていた。
山下公園の方向から吹きつける風に、村上は躯を縮め、ちいさくふるえた。まっ白い息を吐く。ぎこちない手つきで作業衣の前ボタンをはめる。腕を組み、剥《む》きだしの部分を掌で覆う。
「まって!」
ブーツの音を響かせて、綾が追った。
「お願い。まって」
村上は振りかえった。
「立派なコートだなあ」
的はずれなことを呟《つぶや》いた。MOJOでの尖《とが》った雰囲気は、ない。
綾は村上に追いつき、白い息を吐き、得意そうに言った。
「おかあさんからもらったんだ。村上さん、寒そう。着る?」
「その下は、Tシャツ一枚だろう」
「あたしなら、へーきだよ。これ、毛皮の王様だよ。とってもあったかいんだから」
綾はコートを脱ぎかけた。
「よせよ。俺は寒いのには慣れているさ」
プラタナスの街路樹は完全に葉をおとしていた。背後から吹きつける木枯らしに、枯れ葉が足元を走っていく。枯れ葉は路地の角や隅に吹き溜《だ》まり、かさこそ寂しげに囁《ささや》き声をあげる。
村上の躯のなかには、さきほどのMOJOでの演奏の余韻が残っていた。そして村上自身は意識していないが、売人を痛めつけ、暴力衝動を吐きだしつくしたことからくる解放感が村上を支配していた。村上はひとなつこく綾に笑いかけた。
「なにか用か? お嬢さん」
「バンド……」
「そのことか」
村上は寒そうに肩を強張らせた。
「わかってるでしょう」
うらめしそうに綾は躯を寄せた。
「──サチオって奴な」
「うん」
綾は、歩きはじめた村上にしたがった。
「いや、サチオって奴だけじゃなくて、バンドの奴らはみんなおまえに夢中さ」
綾には答えようがない。
「でもなあ……サチオってガキは、特におまえに夢中なんだ。だから、ほんとうなら、とっくに他のもっと軽いバンドに移っているはずなのに、一生懸命あわせていたわけだ。俺は罪つくりなことをしたよ」
村上はMOJOの店内とは別人のようだ。綾は念を押した。
「罪つくりなことをしたって思う?」
「ああ。だけど、おまえの存在自体も問題だぜ。きれいで、イロっぽくて、女王様で、しかも素晴らしい才能がある。男なら、誰だって夢中になるさ」
綾は冗談めかして尋ねた。
「村上さんは?」
「俺か。俺は夢中になるまえに」
「なに?」
「言わせるのか?」
「──言って」
「劣等感を刺激される。男とか女というまえに、なんというのかな、人間としてな……」
「村上さん、恰好《かつこう》つけすぎ」
「まあな。俺には青臭いところがある。自分でもわかっているんだ。でも、困ったことに、青臭い部分というのがすごく強力でな」
村上は赤と青に光輝くマリン・タワーを見あげた。
「登ったことは、あるか?」
「村上さんは?」
「ない」
「ハマッ子だったら、絶対に登らないよね」
「──東京タワーといっしょか」
村上は笑った。国道一三三号線につきあたった。村上は高速横羽線の方向へ歩きはじめた。深夜であることをいいことに、直管マフラーの四輪が交差点を信号無視で突っきった。
「訊いていい?」
「なにを?」
「村上さんほどのギタリストが、なぜみんなに知られてないんだろう?」
「くすぐってえなあ」
反対側からやってきたサラリーマン風が、綾と村上を怪訝《けげん》な顔をして盗み見た。頬に緊張がある。労務者が通りがかりの女の子に絡んでいると誤解しているからだ。村上が一瞥《いちべつ》をくれると、足早に逃げるように立ち去った。
「俺はプロとしてやっていこうと決心した時点で、アメリカへ渡ったんだ」
綾は立ち止まり、顔を輝かせた。
「日本なんか飛び越しちゃったんだ!」
「スイート・ホーム・シカゴ。デトロイト・モータータウン」
村上は自嘲《じちよう》した。
「どォしょもねえさ」
「なにがどうしょうもないの?」
「なにもかもが、だ」
中村川に突きあたった。石川町の駅に向かって右に折れる。
「見ろよ。手も足も出ねえダルマ船」
村上は黒く澱《よど》んだ川面を指差した。そして、笑った。
「酔ってるな。つまらねえこと言ってやがる」
他人ごとのように呟くと、おおきく溜息をついた。
3
ぐるっと大まわりして、横浜公園までやってきた。綾も村上も、口にこそださないが、離れがたかった。
イベントをやっているらしい。巨大なテントが張りめぐらされていた。その背後に、横浜スタジアムのシルエットが夜空に浮かびあがっていた。
街灯が切れかかっていた。白い光が黄ばんで不規則に明滅していた。二人の影が伸び縮みしているのを見据え、村上は表情を変えた。
「楽しいデートだった。お嬢さんは、もうお家に帰る時間だ」
村上は綾の顔を見ないようにして、小声で続けた。
「お嬢さんは、お嬢さんの世界へ帰る。俺は俺のスイート・ホーム・コトブキに帰る」
「いや。ついていく」
「おまえみたいな娘が俺についてきたら、焚き火にあたりながら日の出を待っている野郎共にブッこまれちまうぜ」
「平気。あたし、平気だよ」
「焼酎でタガのはずれた連中に強姦《ごうかん》されちまうってんだよ!」
村上は大声で怒鳴った。公園の樹木のあいだから、刺すような視線がとどいた。綾は身をかたくした。
「あそこで寝ている連中もいるんだよ」
諭すように言い、村上は車道を渡りはじめた。
「イヤ! 帰らない」
綾は切迫した声をあげ、村上に駆け寄った。
「いいかげんにしろ。どォしろってんだ?」
村上が凄《すご》んだ。綾は村上の腕にしがみついた。
「バンドに入ってくれるまでは離れないからね!」
「わがままはよせ。いい子だから」
「子供扱いするなよ! あたしは本気だよ!」
村上は綾の気迫に息を呑んだ。熱い。火傷《やけど》しそうに熱い。外見だけではなかった。綾は村上の腕にきつくしがみついている。綾の心と躯の熱が、村上の腕に伝わる。村上は綾を凝視した。綾は村上を見つめかえした。
村上は綾の背に腕をまわした。綾の躯から力が抜けていく。綾の髪の匂い。村上は綾を抱きよせて、ふるえた。腕のなかの綾は、華奢《きやしや》だった。壊れものだった。脆《もろ》い宝石だった。力をいれて抱きしめることがためらわれた。
そして村上は、息を呑んだ。硬直した。
「徳山……」
「まいっちゃったな。ラブ・シーンか」
ゴルフバッグを肩にかけた徳山が苦笑していた。眼は笑っていない。
切れかけた街灯に伸び縮みする影が、三つにふえた。
いちばん華奢な影が、走りでた。村上の影にかぶさるようにして、両手をひろげる。
「徳山!」
綾が徳山を呼び棄てにした。村上はあっけにとられた。綾と徳山をすばやく見較べた。綾の頬からは、血の気がひいていた。ことばが続かず、唇をふるわせた。徳山を睨《にら》みつけている。
徳山は綾から視線をはずした。うつむいて、溜息《ためいき》を洩《も》らす。華奢で健気《けなげ》な雌の獣だった。必死に村上を護ろうとしている。
やがて綾は、辛うじて言った。
「……あたしはどうなってもかまわない。でも、このひとだけは」
綾の視線は、徳山のゴルフバッグに据えられている。幾度かゴルフバッグの中身を見せてもらったことがある。
人殺しの道具であるという実感はなかった。蒼《あお》と白銀が交差するつめたい光に息をつめ、美しさにうっとりした。柄に染みた血の匂いは、エロティックでさえあった。
津田越前守助広。見つめているうちに、催眠術にかかったようになってしまう濤瀾《とうらん》とよばれる乱刃。
4
徳山はうつむいたまま、苦く笑った。最愛の男は、ただひとり心を許した女の背に腕をまわし、いままさに抱きしめようとしていた。徳山にとって、村上も綾も、どちらも大切な人間であった。
皮肉なものだ。八木と美也子と流れ者の三角関係で、まず八木が死に、徳山は美也子と流れ者を殺した。三角関係は、三者の死で片がついた。
「どうしていいか、わからないよ」
顔をあげて呟いた徳山は、泣き笑いの表情で、首を左右に振った。
「村上ちゃんも綾も殺して、俺も死んじまいたいよ」
村上はようやく我にかえり、綾の肩に手をおいた。そっと引き寄せ、自分の後ろにさがるように命じる。
「だめ。あのゴルフバッグのなかには、刀が入っているのよ」
村上はやさしく頷《うなず》き、綾の肩においた手に、力をこめた。綾をかばい、前にでる。
「なんでこんなことになっちまったんだよ」
恨めしそうに徳山が言った。村上は、落ちつきはらった声で、答えた。
「徳山さんとこの舎弟……なんて言ったっけ、あの男は」
「八木……?」
「そう。八木だ。八木が俺を助けたんだ」
「八木が……」
「俺は、ここのところ、すこしおかしいんだ。なんといえばいいのかな、うまくいえないが、暴力をふるっていると、なんとも気分がいいというか、すべてを忘れられるというか……」
「村上ちゃんが?」
「そう。俺が、だ。おかしいんだ」
徳山は信じがたそうな表情で村上を見つめた。懐から、煙草をとりだす。気持ちを落ちつかせるようにふかく吸い、溜息のように煙を吐き、小声で言う。
「八木が、どうかしたの?」
「ガキをひとり、看板で殴りつけた。きっかけはよく覚えてない。ガキがなにか俺に言ったと思うんだが……思い出せないんだ。ただ、|かん《ヽヽ》に障った。殺してやろうと思った。とどめを刺そうとしたら、八木に止められた」
村上は外国船員の溜まり場であるバーの十字路でリーゼントの若者相手におこした暴力|沙汰《ざた》、そして偶然通りかかった八木に止められ、MOJOの地下に逃げたことをかいつまんで語った。
「ブルースの店だった。そこにこの女がいた。俺はギターを弾かなければならんはめになり……正直に言おう。音楽家にしかわからんだろうが、音楽ってのは、ただのことば以上なんだ。だから……」
綾は村上の背に躯《からだ》をぴったりよせた。
「音楽……ね」
徳山は嘲笑《あざわら》い、細く、長く、煙草の煙を吐いた。村上は剥《む》きだしの腕を寒そうにこすった。
「村上ちゃん、落ちついてるね」
「この女がいるからな。不細工なところは見せられないよ」
「そういうことじゃないと思うよ。村上ちゃんが落ちついてるのは、その返り血のせいだよ」
徳山は村上の作業衣の黒い染みを指差した。村上は作業衣をよごして固まった血を見つめ、硬い表情で、徳山を見つめかえした。
「派手だよ。そんなに返り血を浴びたんじゃ、リーゼントのガキは死んでるんじゃないかな」
村上はハッとした表情で否定した。
「ちがう。これは……」
「ちがわないよ。トーシロの眼はごまかせても、俺はプロだからね」
この返り血は、MOJOのトイレで売人を叩《たた》きのめしたときの血でもある、とは言えず、村上は口を噤《つぐ》んだ。
「ねえ村上ちゃん。俺の服を見てごらんよ。村上ちゃんなんか目じゃないよ。俺の返り血は、チンチロリンでいったらシゴロの目だよな」
得意そうに徳山は言った。村上は瞳を細めて、凝視した。綾の頬が恐怖にひきつった。はじめは白いニッカーボッカーであり、上着だったのだ。しかし夜目には、全身まだらで黒っぽい柄の模様に覆われているようにみえた。
「無様なことにさ、血溜まりに尻餅《しりもち》ついちゃってね。だからケツも血まみれだと思うよ。リャンメン血まみれさ。村上ちゃんなんて目じゃない、目じゃない」
言いながら、徳山は綾の表情を窺《うかが》った。
「そんな顔しないでよ。程度こそ違うけど、村上ちゃんだってけっこう血まみれさ。五十歩百歩ってやつ」
徳山は苦笑して、息をついた。綾から視線をはずした。
「好きな男の汚れは愛《いと》しいってね。好きな男の爪《つめ》に黒い垢《あか》が詰まってるのに感じてしまったっていう女を知ってるよ。綾も、村上ちゃんの汚れなら、たぶんなんでも許しちゃうんだろうな」
そっと徳山は綾を窺った。綾の頬からは恐怖が消えていた。かわりに羞恥《しゆうち》があらわれていた。綾は頬を赤く染めていた。
「腹立つな。俺の血はおっかなくて、村上ちゃんの血だと、ほっぺ赤くするんだもんな」
冗談めかして徳山は言い、さらに続けた。
「お喋《しやべ》りな親父だって嫌われるかもしれないけどさ、あえて言わせてもらうよ。コミュニケーションの究極は、なんだと思う?
まず、セックス。そして暴力だよ。セックスについては説明、要らないよね。でも、暴力については、ひとこと言っておきたいんだ。
口で言ってもわかんないから、殴っちゃう。拳でわからせちゃう。これって哀しいけどさ、殴ったほうは、凄《すご》く気持ちがいいんだよね。
俺、村上ちゃんと綾がキスしようとしているのを見て逆上しかけたけどさ、けっきょく破裂しなかったでしょ。なぜだと思う?」
村上と綾は徳山を喰い入るように見つめている。徳山は微笑をうかべていた。切れかけた街灯から、ぢっ……ぢ……とノイズが降ってくる。ノイズにあわせて、三人の影が踊る。
「俺、いま、ふたり、殺してきたんだ」
囁《ささや》くように徳山が言った。村上と綾にことばはない。
「ちょうどセックスしたあとみたいな気分でさ。ぜんぶ億劫《おつくう》なの。心地よい倦怠《けんたい》っていうのかな。正直なとこ、眠りたいんだ。セックスしたあとって、そうだろ? 俺、暴力のあとは、いつも眠くなるよ。肩から力が抜けてさ、すべてのことが、どうでもよくなるの。村上ちゃんと綾は、ついてたよ。これが殺しのあとじゃなかったら、俺、ふたりを殺してたと思うよ。理屈じゃないからね。感情で生きてるんだ、俺は」
徳山は村上を見据えた。鋭く言った。
「八木、死んだよ」
「死んだ? 八木が!」
「村上ちゃんと綾は、八木に助けられたんだよ。八木が死んだから、俺は仇を討って精力をつかい果たしちゃったんだ。もしそうでなかったら、俺は村上ちゃんと綾を殺してたよ」
徳山は唇を舐《な》めまわし、ふたりを睨《ね》めつけた。薄笑いをうかべ、ゆっくり背を向ける。村上と綾は、コトブキの方向に消えていく徳山の後ろ姿を呆然《ぼうぜん》と見送った。
バス・ルーム
1
最上階の綾の部屋からは、山下公園が見おろせた。村上は腕組みして、港の灯を見つめた。
「天国と……地獄だな」
「なに?」
村上は黙っていた。自分のドヤと、綾のマンション。同じワン・ルームでも、まったく別世界だった。
エアコンの熱気が室内を循環しはじめ、一枚ガラスのおおきな窓は、ゆっくりと曇りはじめた。
腕組みをとき、村上は壁際のアップライト・ピアノに近づいた。ベーゼンドルファーだった。ヤマハでもなく、スタンウェイでもないところが、独特の感性とこだわりをかんじさせた。
「部屋といい、ピアノといい、たいしたもんだ」
「実家は、とくに母方は、お金持ちだから」
「愛されているか?」
「なに? いきなり」
村上は軽く鍵盤を叩《たた》いた。アルバート・アモンズ風のヴギが流れた。
たどたどしかった。フレーズはすぐに詰まり、村上は舌打ちした。指先はしばらく鍵盤上をさまよい、やがてワン・コードのブルースに変化した。これもたどたどしい。
綾は微笑した。あれほどのギターを弾く男が、これほどたどたどしいピアノを弾く様は、なんともいえず、可愛らしい。
「どこかで聴いたことがあるわ」
「ディヴ・アレクサンダーだ」
「どんな人?」
「女房に撃ち殺されかけた」
「死ななかったの?」
「重傷だったが、再起した」
「なぜ撃たれたの?」
「ミュージシャンなんかやめて、まっとうな仕事につけと女房に言われつづけて、口論になった。女房はピストルを持ちだした」
「ひどい話」
「おまえの親は、なにも言わないか?」
「言わない。応援してくれている」
「ディヴは金がなかった。おまえは金がある」
「それって、あたしを責めているの?」
「いや」
村上はピアノから離れた。綾は親指の爪を噛んで考えこんでいる。
「気にするな」
「うん」
「会話の流れで、言わなくてもいいことを言った」
「言わなくてもいいこと、ということは、思ってはいるのね」
村上は曖昧《あいまい》に笑った。綾は村上に向かって一歩踏みだした。
「こういうのって、階級闘争っていうんだよね」
「闘争する気はない」
「なぜ?」
「いまどき階級闘争なんて流行《はや》らんだろう。死語ってやつだ。いまの若い者で階級闘争なんて台詞《せりふ》を口にするのは……」
村上は口を噤《つぐ》んだ。崔《さい》を思った。溜息《ためいき》をついた。崔の言うことは、新左翼はなやかなりし頃とまったく同じで、ひどくもっともで、なぜか虚《むな》しかった。
体制は揺るがず、とりあえず日本で飢えて死ぬ者はなく、物はあたりに満ちあふれ、クリスマスにはプレゼントをして、セックスをする。
「黙りこむなんて、ずるいな」
綾が呟《つぶや》いた。村上はフロアの隅に飾られた小さなクリスマスツリーに視線を向けたまま、言った。
「おまえの口から、階級闘争とはな」
「よく意味がわかって言っているわけじゃないわ」
「俺は……すべての表現は階級の表現だと思う」
「そうね。たぶん、あたしと村上さんのブルースは、違う」
「俺にもよくわからんが……おまえのように美貌《びぼう》に恵まれ、経済的にも恵まれ、すべてを与えられた女が、なぜブルースを唄うのか。そして、なぜ、そのブルースが、深く胸を打つのか……俺にはわからない」
綾は頬を染め、上気した。うつむいて、呟いた。
「村上さんのブルースに較べたら、まだまだ、よ。較べものにならない」
村上は首を左右に振った。苦しげに言った。
「俺には資格がない」
「なんの?」
「ブルースをやる資格。階級闘争をする資格」
「よくわからないけど、さっき闘争する気はないって言ったものね」
「そのとおり。政治は嫌いだ。長生きする気もない」
「恰好《かつこう》つけてる」
綾は茶化したが、長生きする気はないということばを冗談としてとらえることはできなかった。
「──徳山、なんだか可哀想《かわいそう》だったな」
綾は村上に対する思いを、徳山にすり替えて言った。村上は声をおとして訊《き》いた。
「徳山とは、どういう関係なんだ?」
綾は肩をすくめ、いままでの経緯を語った。途中から村上は、躯をかがめるようにして笑いだした。
「どうしたの?」
綾が覗《のぞ》き込むと、村上の笑い声はさらに大きくなった。
「徳山は俺に惚《ほ》れていて、おまえは徳山の唯一の友達で、そして俺に惚れている」
「ずいぶん自信家ね。あたしははっきり言って、村上さんなんて男だとは思ってないもの」
「そうか。そうだろうな。反論する気もない。俺は、男の腐った奴だ。徳山以下だ。人間以下って奴だ」
「やめてよ。なにが人間以下、よ。恰好つけすぎ。厭味だよ」
村上はソファに浅く座ったままうつむき、貧乏ゆすりした。
「──俺が言いたいのは、三角関係のことだ。笑っちまうだろう。おかしいだろう。俺はついこのあいだまで、心の底で、他人よりも優れているという自負をもっていたのさ。口にこそださなかったが、コトブキでくすぶってはいるが、そこいらの奴など足元にも及ばない……その……」
村上は顔を覆った。自分でなにを言っているのかわからなくなっていた。胃のあたりが縮み、鈍く痛んだ。
綾は立ちあがった。村上の頭に手をおいた。村上は小刻みにふるえている。表情は、わからない。綾は両手で村上の頭を抱いた。抱いたまま、絨毯《じゆうたん》の上に座る。村上は引きずられるようにしてソファから滑り落ち、綾の膝《ひざ》に顔を埋めた。
村上の涙がジーンズ地をとおして、綾の太腿《ふともも》を濡《ぬ》らした。
男は泣き虫ばかりだ。ピザ・ハウスで徳山は村上に失恋したと綾に泣きつき、村上は綾の膝で、声をたてずに涙を流す。
男は自意識や面子《メンツ》にこだわって、突っ張って、無理をして笑い、涼しい顔して心に傷を負う。可愛らしいものだ。子供のままではないか。綾は村上の背をさする。母のように声をかける。
「男でしょう。しょうがないわね。おもいきり泣いていい。でも、いまだけよ。他のところで泣いたりしたら、恰好悪いから」
村上は綾の太腿に顔をこすりつけた。幾度も、幾度もこすりつけた。泣きやんだ。じっとしている。動かない。頬に綾の弾力。綾の体温。微《かす》かな綾の匂《にお》い。ジーンズ地のインディゴ・ブルーに溶けあった秘めやかで控えめな綾の香り。
「床暖房か?」
唐突に村上が訊いた。綾は頷《うなず》いた。ちいさく、笑った。
「立派な絨毯だろう。暖かいんで、驚いた」
「おくれてる。いまはみんな、これよ」
「──こんなに暖かいんじゃ、おまえをいきなり押し倒したくなるぜ」
「せっかくですけど」
「だめか?」
綾はクスッと笑って、囁《ささや》いた。
「村上さん、酔ってる。シャワー、浴びなさいよ」
「めんどうだな」
「浴びなさいってば。遠慮して言わなかったけど、村上さん、かなり臭いよ。それに服から血の匂いもするし……」
「汚いと思わないのか?」
綾の腰を抱きながら、村上が訊いた。綾は親指の爪を噛み、真剣な眼差しで言った。
「徳山が言ったでしょう。好きな男の汚れは愛《いと》しいって」
とたんに村上の背に緊張がはしった。それを見てとった綾は、かるい、ばかにしたような口調で言った。
「でも、ほんと、臭いよ。はっきりいって、あたしは不潔な奴は、大嫌い。コトブキから抜けだす第一歩は、お風呂《ふろ》に入ることね」
村上は顔をあげた。綾と視線が交差した。綾は強引に村上の頭を抱き、太腿に押しつけた。
「怒った?」
「───────」
「怒らないの?」
「───────」
「殴ってもいいのよ」
「殴られたいのか?」
「殴られても……いいよ」
綾は呟《つぶや》くように言い、手を伸ばし、指先で村上の唇に触れた。
村上の唇は荒れて、ひび割れていた。綾の指先が、村上の唇をさぐる。やさしく、やわらかく、慈しみをこめて、さぐる。
綾の指先は、労りに溢《あふ》れていた。村上は気弱に苦笑した。
「臭いのは……事実だからな」
2
バス・ルームは掃除がゆきとどいていた。オレンジ色をしたドイツ製の浴剤の香りが微《かす》かにした。
村上は深く濃い紺色のタイルの上で、所在なげに立ち尽くしていた。
ぼんやり拳《こぶし》を見つめる。綾を殴るところを空想する。綾の顔が変形するまで殴りつける。あの尖《とが》った生意気そうな鼻を拳で叩《たた》き潰《つぶ》す。
村上は溜息《ためいき》をついた。首を左右に振った。握っていた拳をひらく。掌を見つめる。
村上の手相は、頭脳線が掌を横切っている枡掛《ますかけ》というものだ。アメリカ人は、これをシミアン・ラインと呼んで嫌った。猿線といい、犯罪者の手相であるという。村上は掌を一直線に横切る頭脳線を凝視した。
ドアが開く音がした。村上は思いから醒《さ》め、あわてて前を隠した。
「なにしているの? まさかシャワーの使い方がわからない?」
綾は長袖のTシャツを腕まくりして、物怖《ものお》じせずに村上に近づいた。村上は後退《あとずさ》った。綾の手が伸びた。頭上から湯が迸《ほとばし》り、村上の躯を叩いた。
「ゆっくりお湯に浸《つ》かりたい?」
「いや……」
曖昧《あいまい》に村上は顔をそむけた。綾はシャワーを手にとり、村上の全身を濡《ぬ》らした。
「洗ったげるね」
ここまで綾があっけらかんとしていると、前をおおげさに隠しているのが逆に不自然に感じられた。村上は居直って、躯から力を抜いた。
「ちょっと、前かがみになって」
姉のような口調で言い、微笑して、村上の頭をシャンプーで泡立てる。村上の眼前に、綾の首筋。男物の、しかも米軍規格のLLサイズのTシャツの襟首から、乳房のふくらみが覗《のぞ》けた。
綾が腕を動かすと、襟首から覗けるふくらみが微妙に動く。白い。皮膚の下を、青い静脈が控えめにはしっているのが、幽《かす》かに透けてみえる。
綾は村上の視線に気づかぬふりをして、しかし、どこかはしゃいだ様子で村上の頭を洗う。
「ちょっと癖毛?」
「──すこし、な」
綾はしばらく指先で村上の髪を弄《もてあそ》び、含み笑いして、シャンプーをスポンジに染ませた。村上はシャンプーのボトルを盗み見た。どうやらボディ・シャンプーらしい。
「あたし、子供のころ、もっと髪の色がうすくて、栗色をしていたの」
淡々とした口調で言い、綾は村上の躯をスポンジでこすりだした。
「アイノコとか毛唐って言われてさ。口惜しくて、髪をマジックで黒く塗ったこともあったな」
村上は綾の髪からうなじにかけて視線をはしらせた。髪は細く、どちらかといえば腰がない感じがした。うなじの線には痛々しいものが漂っていた。村上は口ごもりながら、ぎこちなく言った。
「きれい、だよ」
綾はスポンジを持つ手をはずし、肩をすくめてみせた。顔いっぱいの、笑顔だった。
「健気《けなげ》だな」
「なに?」
「おまえはほんとうに、健気だ」
「心にもないことを言うから、村上さん、声がふるえているよ」
「いや……本気でそう思ったんだ。心も躯も、健気だ」
「躯も?」
小首をかしげて、綾は村上を見つめた。
「あたしの躯は健気?」
村上はことばに詰まった。綾は悪戯《いたずら》っぽい眼差しで、村上の下腹を盗み見た。すぐに真顔になった。ジーンズが濡れるのもかまわずに片膝をつき、掌にシャンプーをとった。硬直した村上に手を添える。柔らかく泡をまとわりつかせる。丁寧に洗う。
「この子のほうが、よっぽど健気よ」
村上は脈打ち、綾の手にあまる大きさだ。綾はやさしく洗いながら、掌で村上の鼓動を感知する。
「とても……熱いよ。怖いくらい……」
顔を近づけ、綾が囁《ささや》く。とたんに綾の手のなかの村上がひとまわり大きく変化した。
直後、村上は破裂した。綾の顔に村上が散った。
「すまん……」
掠《かす》れ声で村上はあやまった。
「驚いた」
綾は瞳を見ひらいて、顔を汚した村上の白濁に触れた。
「幾年も──」
呟《つぶや》いて、村上は口を噤《つぐ》んだ。
綾は繰り返した。
「幾年も?」
「もう、幾年も女に触れていない……」
「うれしい」
上気した顔で村上を見あげ、綾は村上の硬直をきつく握りしめた。
「まだ、かちかち」
そっと顔を近づける。
「とても……おおきくて……」
しばらく見つめ、両手で触れ、思いつめた、そのくせ挑むような表情をして立ちあがった。
「ずっと女のひとに触れていないの?」
村上はぎこちなく、しかし憤ったように頷《うなず》いた。
「嘘ついているでしょう」
村上は憤った表情のまま、綾を無視した。
「見る?」
「なにを」
「あたし」
「───────」
「見たい?」
3
綾は村上を見ないようにして、伏目がちにジーンズのベルトをゆるめた。ベルトの金具が秘めやかな金属音をたてる。
呼吸をととのえる。オリーブ・グリーンのTシャツをひと息に脱ぐ。尖《とが》った乳首にTシャツのコットン地がきつくこすれ、その痛みに綾はおもわず声をあげかける。
村上の怪訝《けげん》そうな視線がとどく。綾は曖昧《あいまい》に笑って、ごまかす。すると村上に、妙に真摯《しんし》なものが漂った。綾は唇を笑いのかたちのまま硬直させて、うつむく。
生理前でもないのに、なぜこのように胸が張るのか。痛むのか。
かたい。相当にかたい。綾はそれを触って確かめたい衝動を覚えた。かろうじて、耐えた。不安になった。
綾は自分の乳房の内部で硬直している異物感に微かな苛《いら》だちと、不安をもった。
溜息が聞こえた。村上だった。綾の胸を喰い入るように見つめていた。
唇がふるえた。胸の痛みが、徐々に快感に変化していくのを気が遠くなるような思いで味わった。綾は痛みのわけを知った。痛みは村上の視線からもたらされたものだ。視線は、ほんとうに、刺さるのだ。
ステージ上でも、これほど強い視線を味わったことはなかった。綾はこれまでなんとなくサディズムは理解しても、マゾヒズムを理解できなかった。しかし、視線が刺さる痛みに身をさらしていると、自分がじつはマゾヒストではないか……と思う。
痛みは、ほんとうに、快感、なのだ。
触ってほしかった。村上の、油脂が染みた汚れた手で、ギターの弦を押さえることで変形したあの指先で、この硬直した乳房を思い切り掴《つか》んでほしかった。
乳房は歪《ゆが》む。村上の指で、醜く変形する。いつもの澄ました涼しげなかたちではなく、ただの肉の塊であることを眼前に突きつけられる。
綾は村上の口許を盗み見る。わずかに煙草の脂《やに》で黄ばんだ前歯が覗《のぞ》ける。あの前歯が乳首を噛むとき、綾は身をよじって泣きそうになり、村上から逃げだそうとするのではないか。あまりの痛み、いや快感に。
「無理を、するな」
小声で村上が言い、綾は我にかえった。
「もう、いい。服を着ろ」
「ちがうの」
村上は首をかしげた。
「なにが違うんだ?」
問いかえされて綾は、首まで赤くなった。羞恥《しゆうち》に泣きそうな笑顔がうかび、そして意地になった。
綾はジーンズに手をかけた。ひと息に脱いだ。事務的な仕草でショーツに手をかけた。ひたすら村上の眼を睨《にら》みつけ、挑むような表情をして全裸になった。濃紺のタイルの上にしゃがみこんだ。
タイルの冷たさが背筋を突き抜けていき、綾はますます動転した。
綾の動転はその顔にはあらわれず、村上はどちらかといえば冷たい、ふしぎな微笑のような印象を綾の表情や躯から受けた。
抑えた艶《つや》のある濃紺の色彩のタイルの上で、綾の裸身は病的なほどに白く見えた。村上は美しいと感じると同時に、微《かす》かな違和感も覚えていた。
絶対に日本人ではありえない肌の色だった。眼を凝らすと、肌の下をはしる静脈が青い稲妻のように感じられそうなほどだった。
痛々しさがあった。痛々しさゆえに、よけいに健気にみえた。護ってやりたくなった。抱きしめてやりたくなった。
上眼遣いで綾が見つめた。村上は見つめかえした。綾はきつく口を結び、タイルの上に横になった。顔を横にむけ、眼を閉じた。
緊張していた。胸が激しく上下した。無意識のうちに両手を組んで、乳房を隠すようにした。
「冷たくないか?」
「──だいじょうぶ」
消えいるような声で答えると、躯から力が抜けた。わずかに足が開いた。
村上の手が綾の足首にかかった。加減のない、凄《すさ》まじい力だった。
綾はおおきく瞳を見開いた。バス・ルームの白い天井が歪んで揺れてみえた。
ぼんやり、考えた。照明を、もっと柔らかいものにしよう。
綾はひろげられた。おおきくひろげられた。男のダイレクトな力と欲望が、綾を剥《む》きだしにした。秘密を暴こうとする村上の視線が、舐《な》めるように移動し、一点に集中した。綾は耐えられず、瞼《まぶた》をきつく閉じ、ふるえ声で訊いた。
「見える?」
「見える」
村上が溜息に似た息を吐くのが伝わった。
「おまえは、きれいだ」
ひと呼吸おいて、言った。
「ほんとうにきれいだ」
村上の手が伸びた。
体制を撃て
1
綾は恨めしそうに村上を見つめ、タイルの上から上体を起こした。下半身が重い。ひどく重い。村上の指先のせいだ。まだ強く余韻が残っていて、気を許すとふるえた吐息を洩《も》らしてしまいそうだ。
悔しかった。村上に、いや、村上のたかが指先に我を忘れた自分が許せなかった。綾は村上の使っているシャワーを奪いとった。喧嘩腰《けんかごし》だった。
「なにを怒っている?」
「うるさい!」
村上は肩をすくめた。まるで外人のような仕草で、綾はさらにカチンときた。
「嘘つき!」
「なにを言ってるのか、わからん」
「頭がわるいからよ!」
綾はシャワーの温度をあげ、湯を全身に叩きつけるように浴びせかけた。バス・ルームは白い蒸気に埋めつくされ、綾をどのように扱っていいかわからない村上は、ぎこちなく咳払《せきばら》いをして、綾にちかづき、そっと抱きしめた。
「はなせよ!」
「どうしたというんだ?」
「なにが幾年も女に触れてない、だよ!」
綾は村上の腕のなかで暴れた。村上は腕に力を込めた。綾は息をとめた。背骨が軋《きし》むほどだった。やがて、村上の腕から力が抜けていき、すると綾は村上の躯に体重をあずけるようによりかかり、身をまかせていた。
「──そうやって、女をだましてきたんだろ」
村上はなにか言いかけたが、けっきょく黙った。そっと綾の背をさする。綾の肌がやわらいでいく。
綾は自分がなにに対して嫉妬《しつと》していたのかわからなくなり、村上の胸に顔を埋めるようにして苦笑する。
「泣いて……いるのか?」
村上が誤解して声をかけた。すると綾は悲しくなった。涙がでた。溢《あふ》れる涙にあきれながら、綾は泣いた。自分の精神状態がよくわからない。泣いている自分に呆気《あつけ》にとられつつ、涙を流した。
「泣くな……」
もてあました声で村上が囁《ささや》いた。綾は村上の肩口に頬を押しあて、コクリ、頷《うなず》いた。小声で言った。
「はなして」
村上はそっと綾を解放した。綾は照れ笑いをうかべて涙をこすり、村上から離れた。
「どこへ行く?」
綾は村上の顔を見ないようにして、バス・ルームからでていった。
取り残された村上は、湯気に曇った鏡をぼんやり眺め、苦笑し、溜息をついた。理解できない。柔らかな、毛のない獣。バス・ルームから出ていった愛くるしい尻のしっとりした膨らみ。
気をとりなおして、湯を浴びる。鳥肌が立ちかけた肌が緩んでいく。綾の肌は滑らかなままだった。寒さを感じないのだろうか。
湯に躯を打たせていると、新しいジーンズとトレーナーに着替えた綾が顔をのぞかせた。
「はやく出ろよ」
憎らしい口調だ。その手には村上の作業服や下着があった。
「はやく出ろってば。洗濯するんだから」
「洗濯してくれるのはありがたいが……乾かないだろう?」
「乾燥機っていうものがあるのよ」
「だが、ここには洗濯機もない」
「うるさいなあ、村上は。血は手洗いのほうがいいんだよ。血を洗い流したら、洗濯機にかけて垢《あか》や汚れを落とすから」
村上がシャワーを止めると、綾は村上の洗濯物を投げ出すようにタイルの上に放りだした。
「こっち、来て」
村上は命令されるまま、タイルの上に投げ出された洗濯物を盗み見ながら、綾のところへ行った。
綾はバスタオルを手に取り、村上の躯を覆った。綾は村上の躯を丹念に拭いていく。髪からはじまり、甲斐甲斐《かいがい》しく全身を拭き、耳の穴までバスタオルで拭《ぬぐ》った。村上は照れながら、身をまかせていた。
「はい、右足あげて」
綾は村上の足の裏を拭いた。
「はい、左足」
「素晴らしいサービスだな」
綾はフン、と笑った。
「はい、おしまい。外にあたしのだけど、オーバーオールとTシャツが出してあるわ。村上が着られるようなサイズの服って、それくらいしかなかったの。我慢してね」
たたんであるオーバーオールを手に取って、村上は気恥ずかしさを覚えた。純白のコットンのTシャツを着て、下着を穿《は》かずに直接オーバーオールに足をとおした。
作業服に慣れきっているので、違和感があった。オーバーオールも作業服である、と念じて、妙に浮わついている気分を引き締めた。
身のおきどころがなかった。手持ち無沙汰《ぶさた》だった。マランツのパワー・アンプを中心に据えた古びたオーディオがあった。ジムランのスピーカーは日本には輸入されていない型で、どのような音がするか興味があったが、触れる気はおきなかった。
軽く絞った洗濯物をバスケットにいれて、綾がバス・ルームから出てきた。だぶだぶのオーバーオールを着た村上を一瞥《いちべつ》して、吹きだした。
「似っあわねー」
「そぉか……俺も落ちつかんよ」
「嘘。かわいいよ」
綾はオーディオに向けられた村上の視線に気づいていた。両手がふさがっているので、足を伸ばしてパワー・オン。スピーカーが震え、保護回路がオフになり、綾は顎《あご》をしゃくった。
「適当にならして」
バスケットを抱えて村上の前を横切った。
レコード・プレーヤーは六枚のLPが連続してかけられるオートチェンジャーだった。村上は試されているような気がして、まだ酔いの残った頭で慎重にレコードを選んだ。
ケント時代のB・B・キングや六〇年代のカルヴィン・リーヴィといったところを選びだし、プレーヤーにセットした。久々に聴くジャングル =Bいまと違ってギターを弾きまくるB・B・キング。
それにかぶさるようにして、全自動洗濯機が廻りはじめた。レコードでブルースを聴くのは幾年振りだろう。村上はMOJOでレコードを聴いたことも忘れ、心地よさと同時に、不安にちかい非現実感を味わっていた。
「あたしの洗濯物も一緒に洗っちゃった」
綾がもどり、手を拭きながら、なぜか照れたような表情で言った。村上の傍らにぺたんと座る。ソファの微《かす》かなシープスキンの匂いに混じって、綾から洗剤の香りが漂った。
村上の喉仏《のどぼとけ》が上下した。綾を向いた。見つめ、すぐに視線をそらし、ふたたび見つめた。綾の口許から微笑が消えた。見つめあった。お互いの吐息がすぐそこで交差している。
綾は薄く眼を閉じる。荒れた唇。重なった。力を抜き、村上の舌を迎え入れる。舌先と舌先が触れ合う。尖《とが》って硬い感触だ。遠慮しあっているような、一瞬のためらい。どちらともなく、微かに探りあい、とたんに弾かれたように絡み合う。
村上の唾《つば》の味。煙草臭く、酒臭く、胃液の匂いさえして、男臭い。歯を磨かないひとなのだ、と案外冷静に考えて、しかし不潔感は感じず、綾はさりげなく村上の唾液を飲み込む。
乳房がななめに村上の胸のあたりに触れている。むさぼるように接吻しあっているうちに、乳房は村上の躯に押しつぶされ、こすれ、よじれる。
痛みを覚え、逃げるように腰をうごかすと、ソファがちいさな軋《きし》み音をたてた。村上の躯がさらにかぶさり、綾は不自然に躯をよじったまま、徐々にソファに倒れこむ。
いきなり村上の手が綾の太腿《ふともも》から下腹にかけてを探った。村上の爪がジーンズ地を引っ掻《か》き、即物的な音をたてた。
「まだ洗濯の途中だから」
かろうじて顔をそらして綾が言うと、村上の指先はさらにきつく喰い込んできた。
村上は慌ただしく綾のトレーナーをまくりあげる。逆らいきれず、綾は上半身を村上に晒《さら》す。村上は息をつき、うつむく綾を見つめる。
「ベッドへ行け」
2
冷気が空から落ちてきて、徳山を撃つ。冷気は弾丸のように徳山に刺さる。見あげているのは綾の部屋だ。明かりはついたままだ。
「冗談じゃないよ……電気、つけたまま媾合《まぐ》わうなんてあんまりだよ」
独り言は泣き声にちかい。肩をこわばらせ、感覚を失った足先を交互に踏む。
「冗談じゃないよ、てめえら獣だよ」
徳山はぶつぶつ呟きながら交差点を離れ、赤の点滅信号の路地に入る。路地を五十メートルほど行き、引き返す。
ふたたび交差点に戻り、綾の部屋を見あげる。午前三時ちかい。道路が白い。霜がおりているのだ。群青色の地下足袋でこすると、霜はキュッと泣いて、削れていく。
徳山はしばらく霜を削り、ふかい溜息をつき、交差点をせかせかと歩きまわる。
港から潮の匂いが漂い、枯れ葉が寒風に舞いあがる。街灯は白々しくあたりをうかびあがらせ、投げ捨てられたコーラのアルミ缶が風にあおられて歩道を転がっていく。
頭のなかでは綾と村上が絡みあい、つながって、甘いことばを囁きあい、揺れている。妄想はふくらみ、極端にはしり、やがてごくあたり前の男と女の光景に収束する。
徳山にとって、いちばん辛いのがごくあたり前の男と女の光景だった。しかしどのように妄想をふくらませても綾と村上が変態行為にはしっているとは思えない。
正常な行為は徳山にとってあまりにも幸せすぎるのだ。だから許せない。ひとつになっている二人を背後から一息に切断してやりたい。
しかし津田越前守助広はコトブキに置いてきてしまった。借り物のコートを引きずるようにして、交差点を行ったり来たりしながら、綾の部屋を見あげて歯軋りしているのは我ながら情けない。
そう思うと徳山は泣きだしそうだ。いや、実際に涙ぐんでいる。鼻をすすり、唇をふるわせている。
愛する男は唯一の女友達と抱きあっている。徳山は両手をだらりとさげ、白い息を不規則に吐きながら、子供のように泣いている。
3
綾は洗濯機が廻る音とスピーカーから放たれる古いが派手なブルースにつつまれて、羞恥《しゆうち》に顔を背けるようにしてベッドに横になる。
村上が足元にまわった。ベッドがしばらく惰性で揺れる。綾はじっと揺れに身をまかせ、村上に気づかれぬように、ふるえた息を吐く。
バス・ルームで予行演習をしたんだもの……綾はつとめてリラックスしようと自分を励ます。
幾人かの男に身をまかせた。しかし初めてのときよりも緊張していた。やさしくして……綾は哀願しようとした。唇がわなないただけで、ことばは出なかった。
そして村上はそんな綾の思いを裏切った。いきなり綾を裂いた。なんの前触れもなく綾とひとつになろうとした。
綾はちいさく逆らった。
ふと気が遠くなる。あわてて意識を集中して自分を醒《さ》まそうと努力する。そんな綾にくらべると、村上は直接的で、まっすぐで、狂おしかった。切実でもあった。
綾は自分のなかの村上がひとまわり大きく、かつ硬直の度を増したことを感じとった。村上の炸裂《さくれつ》を、新鮮な驚きをもって受け止めた。綾は昇りつめることはできなかった。
しかし不満はなかった。村上がこまかい、嫌らしい技巧をつかわずに、ストレートに綾を、それこそ犯すように抱いたことが逆にうれしかった。
そっと村上の腰に腕をまわす。村上は腰のあたりにだけ汗をかいていた。
「拭かなくてはね」
掌で汗をのばすようにしていると、村上の瞳に凶暴な光が宿った。
「終わったんでしょう」
綾は驚きの声をあげた。村上は答えず、無言で動きはじめた。
村上は綾をじっと見つめている。見つめながら、一定のリズムで動いている。
ふたりは睨《にら》みあうようにして行為をつづけた。やがて綾は顔を背けた。下唇を噛んだ。吐息が洩《も》れた。綾の瞳にすがるようないろが浮かんだ。村上はペースを崩さない。正確な時計のように動きつづけている。
村上はややリズムを早めた。
冷静な演奏だった。特別な技巧や派手な技術はつかわない。ベーシックな演奏だった。
村上は綾に顔を近づけた。綾は汗に濡《ぬ》れた村上の腰に手をまわし、爪を立て、ひきよせるように力を加え、すがりついた。
村上はリズムを崩さない。そっと顔を近づけ、綾の耳朶《みみたぶ》が烈しく熱をもっているのを確認した。
後半、綾は苦痛を覚えた。じっと耐えた。耐えることがよろこびであり、このまま村上に壊されてしまいたいと密かに考えた。
耐えているうちに、いままで冷静で、ほとんど無言だった村上の様子が変化した。綾は協力した。合わせた。瞼《まぶた》の裏がまっしろになった。ひと息に落下していく。そして、村上が、吼《ほ》えた。
4
村上はちいさく鼾《いびき》をかいていた。綾は村上の寝顔をじっと見つめた。見あきなかった。ときどき村上の口が、乳児が乳を吸うような動きをすることに気づいた。
綾は、そっと村上の口に人差指を挿し入れた。
村上の舌が、綾の指先に触れた。綾は顔を輝かせた。村上は綾の指を吸った。一瞬ではあるが、たしかに吸った。
村上が吸った指先を、闇《やみ》に透かし見た。濡《ぬ》れた指先が、微《かす》かに光った。綾は息苦しくなった。ちいさな喉仏《のどぼとけ》を上下させた。
あたしは壊れてしまった……綾は心のなかで呟《つぶや》き、下唇を噛んだ。あれほど烈しく村上と交わったばかりなのに、もう欲している。
そっと村上から離れ、村上が吸った指先を躯に這《は》わせた。まだ熱っぽく、微かな痛みさえ残っていた。
綾は村上の愛撫《あいぶ》を思いかえした。村上がしたように自分の指を動かした。
くっ
すぐに吐息が洩《も》れた。もう、止まらない。
村上は目覚めた。口のなかが乾いていた。我慢できぬほどではないが、口のなかが粘ついた。
天井を見つめた。左右に揺れている。床も微かに上下している。視野の端に、金網で囲われた常夜灯をとらえた。鉄と油の匂いがした。
村上はぼんやりとした黄色い光を見つめつづけた。光栄丸は外洋を二十ノットほどで進んでいる。時化《しけ》に向かって進んでいるのだ。徳山がそう言った。おそらく海は、夜明けごろから荒れる。
村上は欠伸《あくび》した。欠伸して、泡立ち、崩れる三角波のイメージを頭のなかから追い出した。時化の海。初めてではないが、できることなら、穏やかな海であってほしい。明日はゲロを吐くのか……そんなことを思いながらも、村上はあきらめからくる安らいだ、投げ遣りな気分に身をまかせていた。
くっ
吐息──。村上は眼を見開いた。
波の音。ディーゼル機関のやや不規則な振動。マストを震わす風の音。
幻聴か……村上は苦笑した。吐息はひどくエロティックだった。そっと寝床を抜け出して、揺れるトイレのなかで孤独な処理をしようと考えた。久しく手仕事をしていない。どのエロ本を持っていこうか思案した。
くっ
村上は緊張した。幻聴ではない。村上は躯を硬くしたまま、耳を澄ました。
くっ……
崔だ。隣に寝ている崔だ。崔が声をころして泣いている。
村上の心臓の鼓動が早まった。村上はその理由がわからず、昂《たかぶ》る自分を恥じた。決心するのにしばらく時間がかかった。思いきって、囁《ささや》き声で呼んだ。
『おい』
崔が硬直する気配が伝わった。
『くるしいのか?』
崔は、答えない。村上は布団のなかを、そっと崔の側へ移動した。
『船酔いか?』
『────』
沈黙する崔を透かし見て、村上は苦笑する。
『ちゃんと眠っておかんと、明日がもたんぞ』
誰かが咳払《せきばら》いした。村上は咳払いの方向に神経を集中した。
波と風とエンジンの音だけになった。村上たちアンコが布団を敷いているのは、本来は光栄丸乗員のための柔道の道場である。過酷な作業の疲れで、二十人ほどのアンコたちは鼾《いびき》さえかかず、寝静まっていた。死体を思わせる。
『なぜ、みんな、我慢するんだ?』
うわずった囁き声で、唐突に崔が言った。
『なんのことだ?』
『なぜ、わずかな金のために、こんな命を売るような仕事をする?』
村上には答えようがなかった。かろうじて言った。
『強制されたわけじゃない』
『嘘だ。それは嘘だよ、村上さん。強制されているんだよ。そういうシステムになっているんだよ』
村上は頭の下に腕を組んで、天井を見つめた。
『理屈はそうかもしれん。土建会社や港湾関係の仕事ってやつは、忙しいときは気違いじみて忙しいが、暇なときは絶望的に暇だ。
正社員を雇って仕事のないときも給料を払うよりは、必要なときだけ日雇いをつかう。俺たちを使う側にとって、使い棄てできる日雇いは、単なる駒《こま》で、人間じゃない。そんなことは、わかっているさ。俺にだってわかる理屈だ。
俺たちは前時代的な搾取をされているってやつだ。奴隷だよ、奴隷。なんの保障もない。作業中に死んだって、住所不定、さ。戸籍さえないような連中だ』
村上は息をついだ。
『出稼ぎで東京にきて、農協の借金を返せなくて、そのまま帰れなくなっちまった東北人。そして、パチンコ屋を経営できなかった朝鮮人てとこか』
毒のある、皮肉な口調だった。村上は、口調を改めて、さらに続けた。
『だがな、俺は行き場を失って、ドヤに流れついて、初めて解放されたんだ。おまえは、そんなのは欺瞞《ぎまん》だというかもしれんがな。
その日暮らしってのは、ほんとうに悪いことなのか? 俺は明日のことを考えるのをやめて、そして過去を思い出すこともやめて、初めて楽になったんだぜ』
『──欺瞞だなんて思わないよ、村上さん』
『好きでドヤに流れてくる奴はいないさ。おまえは、おまえたちは、俺たち敗者の聖域を解放して、どうしようというんだ?』
崔は答えない。村上はまるで社会の矛盾に目覚め、理屈をこねだした十代後半のように熱くなっていた。
『俺はけっこう長いあいだ、アメリカで暮らしていたんだ。おまえたち新左翼という名の旧左翼が悪魔のように嫌うアメリカ帝国だ。シカゴに長いこといた。ニューヨークにもいた。
ニューヨークにブロンクスって場所があるんだ。知っているか?』
『聞いたことは……ある』
『サウス・ブロンクス。死の街と奴らは呼んでいる。とんでもないところさ。日本人には想像がつかないだろうな』
『そこには、なにがあるんだ?』
『犯罪だ。犯罪者が隔離されているんだ』
天井を向いたまま、村上は顔を笑いのかたちに歪《ゆが》めた。
『やっぱりアメリカは、資本主義とやらの究極の姿なのさ。落伍者をドヤに吸収して隔離するように、アメリカは犯罪者をひとつの地域に押し込んでしまうんだ』
崔は眼を凝らし、村上を見つめた。艀《はしけ》のなかで村上は、政治運動に絡んでいるのなら話しかけるなと怒ったが、いつの間にか崔と立場が逆転している。しかし崔は、真剣な表情で村上の囁き声に耳を澄ました。
『犯罪者は、革命的である。てなわけで、じつはアメリカのアカもサウス・ブロンクスに、まるでおまえのように潜りこんだのさ。──そして、殺された』
『ほんとうか?』
村上はそれに答えず、挑むように囁いた。
『サウス・ブロンクスに隔離されたギャングどもが口癖のように言う台詞《せりふ》があるんだ。知ってるか?』
『知らない』
『ビート・ザ・システム』
崔は眼を閉じた。
ビート・ザ・システム──体制を撃て。
村上が皮肉な笑い声をあげた。
『殺されたアカ共が唯一ブロンクスに残したことばさ。理想社会とやらをつくろうとした奴らがただひとつ残した痕跡《こんせき》が、ビート・ザ・システムという流行語だったのさ』
しばらく村上は息をころして笑っていたが、やがてちいさく溜息《ためいき》をついて、言った。
『社会には、眼に見えない檻《おり》がある。それにおまえは気づいているわけだ。そこいらのバカ学生よりはマシだが、まだ考えが甘い。
革命をおこしてドヤを解放しても、ドヤはなくならんぞ。ドヤはかたちや名前を変えて永遠に続くんだ。
階級を支えているものは、なんだと思う? それは人間の自尊心だよ。オレはあいつよりマシだと呟《つぶや》いて、辛うじて日々を耐えるのさ。
寿町をつくっているのは俺であり、おまえなんだ。おまえには新左翼という名の化石のような檻があり、在日朝鮮人だという檻があり、たぶん世間知らずの学生という檻がある。
満員電車に乗るサラリーマンには電車という檻があり、会社という檻があり、給料というきつい檻があり、家庭というどうしようもない檻があり、老後という来るか来ないかわからん檻さえある。
馬鹿なガキは長期ローンという檻を組んで、停める場所さえない自動車という檻を買って、渋滞のなかでカーステレオを鳴らして悦に入るってところさ。
人には自分に合った檻があるんだ。そして自分の檻よりも劣りそうな檻を見つけて、胸を撫《な》でおろす。奴隷の檻に、上下があるかよ。まったく小利口な愚鈍の群れには吐き気を催すぜ。
いいか。人には、自分に合った檻があるんだ。そして誰も檻から出られない。だから、辛い毎日は、絶対になくならない。酒でも呑め。シャブを射て。
そして他人の檻を見て胸を撫でおろせ。崔君のようにボランティアで、コトブキにいらして、タンカーに乗ってゲロを吐く。素晴らしい人生だ。
だから、コトブキはなくならない。おまえのような奴がいるかぎり、コトブキはなくならない。コトブキを必要としているのは、自分の檻は他人の檻よりましだと思いたがる崔君なのさ。
いいか。コトブキはなくならない。コトブキは不滅です、ってな』
冗談まじりではあったが、村上の否定的な口調は、崔に口をはさむ余地を与えなかった。
『自分が中産階級だと信じこんでいる日本人は、家さえ満足に持てねえでクレジットで物欲を満たし、それにあきたらないおまえたちはコトブキに潜りこむ。
ブロンクスのギャング共はビート・ザ・システムと叫んで強姦し、殺し、奪う。しかし弾の飛んでいく方向は同じ下層階級で、けっきょく自分の心臓に弾は飛んでくるのさ。──檻の外に、弾は、飛んで、いかない』
村上はひと息ついた。抑揚を欠いた声で続けた。
『コトブキがなくなったとしよう。しかし、俺は自分でコトブキをつくるぞ。どれだけの差があるってんだ? 死んじまえば、みな同じじゃねえか。死んじまえば、山の手もコトブキもない。死んじまえば日本人も朝鮮人もない』
ふたたび誰かが咳払《せきばら》いした。
とたんに村上は醒《さ》めた。自分の青臭さを呪《のろ》った。烈しい羞恥心《しゆうちしん》を抱いた。崔の気配に集中する。
わずかに船の揺れが増した。風があげる悲鳴も一段高まった。微かに船体が軋《きし》んだ。
村上はことばを呪った。沈黙すれば、無視される。口をひらけば、嫌らしい。
『すまんな。調子にのってベラベラと。わるかった。恰好《かつこう》つけちまった』
一瞬間があった。
崔が涙声をあげた。
『そんなんじゃないんだよ!』
『シッ、みんな眠っているんだ』
『そんなんじゃなくて……』
崔の手が伸びた。村上の布団のなかに伸びた。
『ばか、てめえはホモか?』
村上は茶化した。語尾がふるえた。
崔の指先が、筋ばった村上の腕を探る。
村上は動けない。
崔の指先が、村上の手の甲で止まった。崔の指先は、村上の手の甲で、動かない。
崔……村上は心のなかで名を呼んだ。
崔の指先が反応する。
村上の指先に、崔の指が絡む。
崔は村上の指を握った。きつく握った。
冷たい掌だった。村上は握られたまま、じっとしている。
柔らかな崔の掌。握力もたいしたことがない。
しかし切実だった。
村上は瞳を見開く。
やがて、ふたりの掌は熱をもつ。
かすかに汗ばんだ。
生きものの湿り気が伝わりあう。
村上は握りかえした。
崔が応える。
指先は複雑に絡みあう。絡みあって溶ける。動かなくなる。動けなくなる。ふたりの手はきつく握られている。
村上は眼を開いていた。
ベッドはかすかに揺れている。
そして綾も小刻みに揺れている。控えめな動きだったが、痛切だった。
秘めやかな綾の吐息は、遠い霧笛のように聞こえ、泣き声のようにかんじられた。
村上のとなり。お互いの体温が、そして匂いが重なりあうような位置で、綾は自らの指で、自らの孤独を塞《ふさ》いでいた。
綾のふるえが烈しさを増した。村上は宙を睨《にら》みつける。綾の躯が張りつめ、硬直した。
「むらかみさん……」
囁《ささや》いて、綾は呼吸を整える。まだ不規則な息のまま、半身をおこす。
村上は眼を閉じた。綾の顔がかぶさった。村上の頬にそっと接吻した。あわてて、しかしさりげなくベッドから出て、綾はバス・ルームへ向かう。
それぞれの朝
1
朝食はグレープフルーツ・ジュースにベーコンエッグだった。村上はパンに手をのばさなかった。コーヒーを二杯飲んだ。綾は伏目がちにフランスパンを千切った。
無言だった。村上は綾を盗み見た。女の望む殆《ほとん》ど全てのものをもっているはずなのに、その首筋には孤独があった。
綾が眼をあげた。村上は視線をそらさなかった。綾は微笑した。綾の首筋から孤独が消えた。
「おまえは、よく笑う女だな」
「──そんなこと、ない」
「おまえと結婚する男は、けっこう気分よく暮らせるかもしれんな」
「そんなこと、ない」
「まあな。そんなことはないな。歌手なんて」
「そんな歌手の女の人がいたんだ?」
「ばか。一般論だよ、一般論」
綾は上眼遣いでコクリと頷《うなず》いた。村上が視線をはずそうとすると、勢いこんで言った。
「バンドに入ってくれるでしょう」
いっしょに暮らしてほしい、と言いたかった。言えなかった。バンドに入ってくれとしか言えなかった。
村上はティッシュで口許を拭《ぬぐ》った。ぬるくなったコーヒーをサーバーから勝手に注ぎ、ひと息で飲んだ。
「ねえ、おねがいします」
村上は煙草をくわえかけ、けっきょく戻し、立ちあがった。綾は追った。
「ねえ! どうすればいいの?」
村上は口許を歪《ゆが》めた。笑おうとしたのだが、失敗した。脳裏に、照れたような崔の顔があった。見殺しにした男。しかも、子供。崔の顔がどうしても離れなかった。
「……ごちそうさま。熟睡したよ」
「あたしのどこが気に入らないの? なおします。言ってくれればなおします。だから」
「おまえの問題じゃない。俺の問題だ」
村上は綾に背を向け、玄関口にしゃがみこんだ。スニーカーに足をいれる。
綾は村上の肩を揺すった。村上はもてあまし気味に振り向いた。
「よし。俺のところへ訪ねてきたら、考えてやろう」
「ホント!」
綾には村上のことばの意味が理解できていなかった。
「ねえ、どこへ訪ねていけばいいの?」
「俺のドヤだ」
「ドヤ……」
「簡易宿泊所杉村荘≠セ」
ようやく気づいて、綾は顔を白くした。幼いころから噂《うわさ》だけは聞かされてきた寿町《ことぶきちよう》。マリン・タワーと並び、横浜で綾が唯一足を踏み入れたことのない場所。簡易宿泊所の街。ドヤ。
村上はじっと綾を見あげた。綾は弱々しく呟《つぶや》いた。
「杉村荘ね……」
「そうだ」
村上は立ちあがった。綾はハッとして踵《きびす》をかえした。
「ちょっと待って」
綾はフライト・ジャケットを脇《わき》に抱えて戻った。
「とうさんのなんだけど……」
村上は自分の着ている半袖の作業服に視線をはしらせた。綾は村上に近づき、ジャケットを着せた。
「CWU45P……か」
村上は意味もなくジャケットのタッグを読みあげた。
「流行遅れかもしれないけど……本物だし……あったかいでしょう」
「ああ。ありがとう」
村上は背を向けた。綾は絞りだすような声で言った。
「さようなら」
村上はドア・ノブに手をかけた。小声で言った。
「さようなら、綾」
村上は、初めて綾の名を呼んだ。振り向かずにドアを開く。
2
徳山は足踏みした。交差点越しに、綾の部屋を見上げ、手に息を吹きかける。
じっと立ちつくし、綾のマンションの周辺をあてどもなくうろつき、綾を抱く村上を想い、血が滲むまで下唇を噛《か》む。
そんな夜も明けて、朝がきた。
新聞屋のスーパーカブが幾台も通りを抜けていき、パンを運ぶトラックが近くのコンビニエンス・ストアにやって来て、通勤のサラリーマンが白い息を吐きながら足早に関内《かんない》方面、あるいは石川町駅に向かった。
この冬一番の寒さだった。道路にはうっすら白く霜がおりた。日が昇ったときは、嫉妬《しつと》も忘れ、思わず安堵《あんど》の吐息をついた。
徳山は苦く笑った。いったんコトブキに戻り、返り血を浴びたニッカーボッカーを隠すためのコートを調達して綾のマンションにやって来たのは午前二時ごろだったろうか。
幾度も覗《のぞ》きこんだ腕時計は、いま朝の九時を少々まわっている。徳山は爪先《つまさき》で、時計のサファイア・ガラスにこびりついて、乾き、盛りあがった返り血を剥《は》がした。
真っ白だった道路もいまは溶けはじめ、黒く濡《ぬ》れて、車の通るところは乾きはじめている。
徳山はうつむき、苦い笑いを浮かべつづけている。足元には吸殼が散乱し、口のなかは徒労の苦い味がする。塒《ねぐら》へ帰ろうと思った。自分の女々しさを呪《のろ》った。
「男は……引き際が肝心よォ」
口のなかで独白して、溜息《ためいき》をつき、綾のマンションを見ないようにして、交差点をあとにする。
振り返らないつもりだった。思わず振り返ってしまった。
世界になんの変化もなく、奇跡はおこらなかった。徳山は吹き溜まりで変色しかけている銀杏《いちよう》の落ち葉を踏みつけた。落ち葉は乾いた泣き声をあげ、ひび割れるように崩れていく。
ショーウィンドウにはクリスマスの飾りつけ。赤と白、銀に緑。徳山は瞳の端で鮮やかな色彩をとらえ、うつむいたまま横浜港からの海風に追われるようにしてコトブキに向かう。
3
村上は徳山の後ろ姿を見据えていた。綾のマンションを出て、すぐにとぼとぼ歩く徳山の後ろ姿に気づいた。
徳山は背がひくい。足もみじかい。村上は困り果てていた。歩幅を加減しているのだが、徳山に追いつくのは時間の問題だ。
かといって、道を変える気にはなれなかった。意地になっていた。
とっとと歩け! 短足野郎──村上は心のなかで毒づいた。
無様な恰好《かつこう》だった。誰に借りたのか薄茶色のコートは大きすぎて、裾《すそ》が地面をすりそうだった。薄い髪が海からの風になびいて、大きすぎるコートから時々のぞく藍色《あいいろ》の地下《じか》足袋《たび》が妙に目立つ。
村上は緊張している。もっとも顔を合わせたくない男にどんどん追いついてしまう。路地を曲がってやり過ごすこともできるのに、どうしてもそれができない。
追いついてしまった。村上は徳山の横に並んだ。
徳山は村上に気づかず、下を向いて、肩を落として歩いている。
村上の心臓は緊張に激しい動悸《どうき》を刻んでいる。息苦しい。
子供のころ、野犬の群れに立ち向かっていったことがあった。なぜそんな状況に陥ったのかいまでは記憶があやふやだが、幼い村上は棒切れを持って野犬の群れに飛び込んでいった。
無謀だった。脛《すね》を噛まれ、病院へ運ばれ、抗生物質を注射された。犬に噛まれても泣かなかったのに、注射針がまだ肌に触れもしないうちに泣き声をあげた。
あの時の野犬に向かっていく昂《たかぶ》った気持ちと、注射針が迫ってきたときの恐怖が一緒になって、ないまぜになったような気分だ。
村上は思いきって徳山を向いた。徳山はまだ気づかない。歩道に嵌《は》め込まれた絵柄のはいったブロックに視線を落としている。
「鹿十《シカトウ》か? 徳山さん」
一瞬の間をおいて、弾かれたように徳山は顔をあげた。
「……村上ちゃん」
「なにしてるの、徳山さんは。さっきからずっと横にいたんだよ」
「鹿十……するつもりはなかったんだよ。ただ、ちょっと考えごとしてたから」
村上は皮肉な笑いを浮かべようとした。意思に反して、和んだ笑顔だった。徳山は顔をクシャクシャにして笑いかえした。裏のない笑顔だった。二人のあいだに奇妙な和解が生まれていた。
「徳山さんは、そうやって笑うとガキみたいだぜ」
「なに言ってるの。村上ちゃんみたいな小僧に言われたくないよ」
「──もうひとり、いまの徳山さんみたいに笑う奴を知ってる」
「誰?」
「綾」
徳山は村上を横眼で見て、なにか言おうとした。けっきょく口を噤《つぐ》んだ。
ふたりは無言で朱色と緑に塗りわけられた中華街の東門を抜けた。徳山は駐車場脇にある自販機に百円玉を投入した。温かい缶コーヒーを手にとり、眼で村上に問う。
村上は首を左右に振った。徳山は缶コーヒーのプルトップを引き、ひと口飲んで、小声で言った。
「俺、猫舌なんだ……」
中華街大通りの正面にある交番の警官が、徳山に視線を向けた。顔馴染《かおなじ》みなのか徳山は大袈裟《おおげさ》に、卑屈に頭を下げた。
「俺、昨日から服をかえてないからね。寄ってこられるとまずいんだよ」
徳山はコートをわずかに開いてみせた。村上は顔をしかめた。
「血まみれのままじゃないか……」
「村上ちゃんはこざっぱりしちゃって。それは綾のジャンパーかい?」
「親父さんのらしい」
「綾の親父さんは、偉い兵隊さんなんだよ。士官だからね。位は……大佐かな。よく知らないけどね。一度、本牧《ほんもく》宮原のアメリカンスクール前で会ったことがあるよ。綾はまるで恋人みたいに親父さんに抱きついてた。ハリウッドの映画俳優みたいな親父さんだったな」
「───────」
「ごめんね。俺は、ほんとうにお喋《しやべ》りだよ。自分でも嫌になる。気がちいさいし、こずるいとこがあるからね、黙ってられないんだよ」
村上はぎこちなく咳払《せきばら》いした。
「徳山さんは、なんでも居直っちまうからな」
「そうかな?」
「そうだよ。いつでも居直る。居直られたら、こっちは追求しようがない」
徳山は狡《ずる》そうに笑った。
「まるで狸《たぬき》だぜ!」
吐き棄てるように村上が言った。
「あっ、村上ちゃん、けっこう憎しみがこもってる」
けっきょく村上は苦笑した。こうして歩き、ことばを交わしていると、光栄丸の船上での出来事が嘘《うそ》のように思えてくる。
「ほら、徳山さんが歩くと、前からくる観光客がよけるぜ」
「それは失礼だよ。村上ちゃんにビビってるんだよ」
村上は徳山の幸せそうな顔を盗み見た。
「すこし徳山さん、やつれたかな?」
徳山はちらっと村上を見あげ、それには答えず、村上の袖を引いた。
「腹へったよ。お粥《かゆ》を食べよう。奢《おご》ってあげる。付き合ってよ」
「あまり腹は空いてないんだがな」
「綾のところでおいしいもん、食べただろうけどさ、いいじゃない。お粥なら。腹にたまらないし」
「謝甜記《しやてんき》だろ。引き返さなくちゃならない。それにそんな血のついた服のままじゃまずいよ」
「いいじゃない。行こう。だいじょうぶだよ。世間の奴はニブい奴ばかりで、自分らのまわりに血腥《ちなまぐさ》いことがいっぱいだってことに、まったく気づいてないんだから。奴らは、てめえらだけは長生きするって思ってるの。血の匂《にお》いよりも、食い物の匂い、だよ。さっきモツ粥の匂いを嗅《か》いだら、ずっと唾《つば》が出っぱなしなんだよ」
「あんな淡白な粥の匂いがするわけないじゃないか」
「よくないよ、村上ちゃんは。全てに対して厳格すぎる。なあなあが良いことだとはいわんけど、人間が喋ることの九十八パーセントは、嘘だよ。いちいちめくじらたてるなよ」
村上はむっとしたが、すぐに肩から力を抜いた。
「粥を食べたら、どうする?」
「コトブキに帰るよ。帰って眠る」
「──綾のところの朝飯は、ベーコンエッグだった」
「そんなもん、料理じゃないよ。人類の食い物じゃない。世界に料理は二種類しかないの」
「どこと、どこ?」
「俺の手料理と、謝甜記のモツ粥」
「徳山さん、料理するのか?」
「じょうずだよ。俺、十代のころ、板前の見習いをしたこともあるし、性格が大雑把じゃないからね。料理には凄《すご》く気をつかう」
村上は曖昧《あいまい》に肩をすくめた。どちらかといえば背が高く痩《や》せた村上と、小太り気味で背の低い徳山は、道行く人にはやや危ない、しかしいいコンビに見えた。
店の前には行列ができていた。半日近くじっくり煮込んだお粥だ。開店前から行列ができる店だ。徳山は村上と行列のいちばん最後に並んで、幸せそうだった。永遠に行列が続けばいい……徳山はそう思った。
4
気にいっている部屋だった。ワン・ルームではあるが、防音がしっかりしていて、まわりに気兼ねせずにピアノが弾けるのが自慢だった。
カーテンを引けば、ななめ右から朝日が射しこむ。ベイ・ブリッジの完成とともに、ホテルを始めとして新しく高いビルが建ちはじめているのだが、このマンションの前はうまい具合にそれをまぬがれていて、山下公園から横浜港が遥《はる》か彼方《かなた》まで見渡せる。
綾は帯状に射しこむ朝の陽の光を浴びて、うつむいていた。なにもする気力がおきなかった。整然として、白く清潔な室内が疎ましかった。
村上がこの部屋にいたときは、たしかに匂いがあった。ついさきほどのことだ。清潔な匂いではないかもしれないが、綾の胸をときめかせ、そればかりか性的な想いにまで火をつける危険な匂いだった。
村上の腋《わき》の下の匂い。微《かす》かではあるが、いくら洗っても落ちない村上の体臭。綾は村上の匂いに点火される。オンとオフ、二系統しかない回路のように、即座に発情する。
眼を閉じ、あの匂いを想いうかべただけで、もう眩暈《めまい》がする。鼓動が早まり、即座に躯《からだ》が反応を示す。
綾は溜息《ためいき》をついて、瞳を見開く。自分が雌であることを思い知らされる。
男に抱かれて快感を覚えないわけではなかった。幾人かどうしようもない男に抱かれもしたが、綾の躯を探り、丹念に愛撫《あいぶ》し、そして綾を賛美しつつ虚脱した男たちは、その殆《ほとん》どが男として抜きんでた存在だった。
しかし、昨夜ほどのめくるめく快感をあの男たちは与えはしなかった。
男たちは綾に奉仕した。自分を殺し、綾の快感をたかめ、最終的に綾の全てを支配しようとした。綾を快感で縛りつけようとしたのだ。
醜く生まれた女は不幸だと思う。しかし、美しく生まれた女も、じつは不幸だ。劣等感は抱かなくてすむし、ちやほやされはするが、けっきょく女の美貌《びぼう》は男にとってブランド品のようなものにすぎない。
綾を大切に扱い、そのわがままを何でも聞き入れてきた男たちは、じつは綾を高価な時計といったあるステイタスを示す道具と同列に扱ったにすぎない。
高価なもので身を飾り、美貌を誇る女を連れて歩くことでしか自分の価値を示すことができない男たち。女を愛することができない男たち。
大人ぶってはいるが、玩具を欲しがる子供の状態から抜け出ることができない男たち。あの男たちにできるのはセックスではなく、綾の肉体を使ったマスターベーションだった。
綾はふかい溜息を洩《も》らした。力なく立ち上がった。服を脱いだ。
バス・ルームへ向かう。鏡に自分の姿を映す。
「ばかやろう」
綾は小声で呟《つぶや》き、村上を呪《のろ》った。みじめだった。中指は中指にすぎず、村上ではない。自分の躯に開いた孤独な傷口を埋めるのは、村上だ。駆け足のような快感のあとに感じたのは、怒りに似た感情だった。
「おまえを絶対にあたしのものにしてやる」
綾は村上を怨《うら》んでいることに気づいた。憎しみに躯をふるわせた。無表情にシャワーを浴びた。小声でロバート・ジョンソンのブルースを歌った。
アーリィ・ジィス・モーニング……で始まる、古い、古いブルースだ。
朝早く
おまえがドアをノックした
あたしは呟く
「さあ、悪魔。出かける時間よ」
あたしは悪魔とならんで歩く
あたしは悪魔と一緒に歩く
あたしの悪魔
気がすむまでいじめたい
始めの十二小節を歌いおわった。ふたたび最初にもどった。アーリィ・ジィス・モーニング……気持ちがこもって、ブルースは終わりそうにない。
綾の悪魔は、痩《や》せた背の高い、わずかに癖毛の日雇いだった。綾は癖毛の悪魔にその躯の奥までさぐられ、いままでに味わったことのない快感を与えられ、いや、正確には自動式の機械のように勝手に反応してしまい、いま屈辱を味わいながら、ブルースをくちずさむ。
朝のバス・ルーム。曇りガラスを通して濃紺のタイルに朝日が跳ね返る。綾は繰りかえす。熱い湯に躯を打たせながら、繰りかえす。
アーリィ・ジィス・モーニング……
5
幾度、溜息をついたことか。幾度、寝返りをうったことか。
建って十年以上たつアパートの二階の六畳一間。薄汚れてくすんだカーテンを通して射しこむ朝の光。そして茶色く変色した畳。
サチオはセミダブルのベッドのなかで、頭を抱える。
部屋のほとんどはベッドと巨大なマーシャルのギターアンプに占領されている。ベッドは綾のバンド、ブルース・スペシャルに入ってしばらくして、クレジット、十二回払いで買ったものだ。
バンドに入ったころ、夢を見た。いつか綾がこの部屋を訪れる。あまりきれいにしていると、部屋にやって来た綾は手持ち無沙汰《ぶさた》かもしれない。だから、適当にものをちらかしてみたりした。
綾はしかたないわね、といった表情で、サチオの部屋の掃除をはじめる。綾のきれい好きは有名だ。リーダーの趙《ちよう》がなんの前触れもなく幾度か綾の部屋を訪れたとき、綾はいつでも腕まくりして部屋の掃除をしていたという。
サチオ以外のバンドのメンバーは、ときどき綾の部屋に遊びにいっていた。サチオは綾に誘われるたびに、曖昧《あいまい》に笑って、誘いを拒んできた。綾は淡白というか、さっぱりした性格なので、幾度かサチオを誘って、それきり誘わなくなった。
てめえらと一緒に綾のところへ行けるかよ……というのがサチオの気持ちだった。綾がバンドの誰に対しても平等に接するのが気に喰わなかった。
いつかは綾がこの部屋にやって来る。綾のマンションはなかなかのものらしいが、サチオは背伸びする気はなかった。したくてもできなかった。バンドのメンバーは、みんな横浜生まれの横浜育ちで、サチオだけが地方出身者だった。
福岡県で生まれ育った。福岡は音楽が盛んな土地で、フォークソングの時代から、たくさんのプロミュージシャンを生んできた。いま、福岡出身のロック・ミュージシャンも多い。
九州はたしかに田舎《いなか》だが、福岡は別格なのだ。音楽関係者に出身を訊《き》かれて、福岡と答えると、それなりの目でみられる。たとえば、けっして東北出身のロック・ミュージシャンに向けられるような視線を浴びることはない。
しかしサチオの生まれ育ったところはたしかに福岡県だが、じっさいには大分県境にちかい添田《そえだ》という町だった。山岳信仰の霊山として知られる英彦山《ひこさん》があり、地元の人間が日本一の赤字線と自棄気味に自慢する日田彦山《ひたひこさん》線が通り、北の庄地区には閉山された炭鉱があった。
田舎だった。日本一の赤字線とやらに代表されるように、炭鉱がなくなって、人もいなくなった。炭鉱も田川《たがわ》ほどの規模はなく、残されたボタ山も、田川のように初めてそれを見る人の目を剥《む》かせるほどの代物《しろもの》ではなく、じんわり死んでいく、といった空気の漂う町だった。
サチオの家は母子家庭だった。父は母とサチオ、そして妹を残して消えた。噂《うわさ》では関西で女と暮らしているというが、近所の人の噂だからあてにはならない。
初めてサチオが福岡市、つまり博多《はかた》に行ったのは、中学三年のときだった。幼いときに父に連れられて遊びにいったような気もするが、記憶ははっきりしない。
サチオは孤独な少年だった。部屋にこもって、幾度も読んだ古い雑誌をまた読む、といった毎日だった。マスターベーションを覚えてからは、さらに外にでなくなった。引っ込み思案で、友達もなかった。そんなサチオに声をかけたのが、地元の不良だった。
不良たちはサチオならば金をせびりやすいと考えたのだが、実際は、サチオにはせびるような金もなく、おまえのところは本物の生活保護家庭なんだな、といった意味のことを彼らは同情まじりに言った。
けっきょくサチオは不良たちの金で夜の博多を見て歩いた。中洲の飲み屋の数に圧倒され、ソープランドの呼び込みに冗談まじりに通せんぼされ、そして、初めて入ったライブ・スポットで聴いたロックに心を奪われた。
いま思えば、へたくそなバンドだった。博多出身の七〇年代の人気バンド、サン・ハウスのコピーをしていたように記憶する。
サン・ハウスは尖《とが》っていて抜群だ。サチオは不良の家に入り浸り、サン・ハウスのレコードを聴き狂った。やがて、細かいフレーズまで全て頭に刻み込んでしまった。サチオの頭のなかでは、いつでもレコードが鳴っている状態になった。
ギターが欲しくなった。不良がフォークギターを持っていた。サチオは異常な弦高の、ネックの反ったフレット音痴のフォークギターから音楽をはじめた。
ネックの反った粗大ゴミのようなギターは演奏するのに苦労した。半年ほどそれをいじりまわして、知り合いの兄から中古のエレクトリック・ギターを買った。金は家の生活費を盗んでつくった。
中学の卒業が間近だった。母が進学のために金を貯《た》めていることを知っていたが、高校に行く気はなかった。サチオはその金を狙《ねら》っていた。
サチオは中学卒業と同時に、進学資金の一部を盗み、ソフトケースにいれたエレクトリック・ギターを背負って、故郷を後にした。いま思い返すと噴飯物の恰好《かつこう》だが、当時のサチオは真剣だったのだ。
東京について、茫然《ぼうぜん》とした。自分が東京に拒絶されている、と感じた。とりあえず、東京駅を出てみたのだが、博多のような、中洲のような、雑然とした、どこかにもぐり込んでしまえそうな感じはなかった。
スーツを着込んだサラリーマン。紺や薄灰色の制服を着たOL。その中にギター背負った渡り鳥のサチオ。
サチオはもう幾度ついたかわからない溜息を、いままたついた。セミダブルのベッドはサチオを呑《の》み込むほど大きく感じられて、天井は異様に高い。躯《からだ》が縮んでしまったかのようだ。腹這《はらば》いになって、頭を抱える。
あのときサチオは、いたたまれなくなってギターを棄てたのだった。九州から担いできたギターを、東京駅のごみ箱の陰にそっと立てかけた。切符を買い、逃げるように国電に乗った。
中央線だった。車窓の風景は、ときどき神田川が見え隠れして、どこまで行ってもビルが続いた。サチオは扉の隅に立って、自分が田舎者に見えないように、平静な顔をつくっていた。
いま考えればファッションといい、髪形といい、田舎の少年丸出しだった。しかし、あのときは、すました顔をつくっていることが、唯一自尊心を保つ方法だったのだ。
新宿《しんじゆく》。車内アナウンスを聞いたとたんに、電車を飛びおりた。
人の数にふたたび茫然《ぼうぜん》とした。昼間だというのに、人、人、人……。
歩くのにも難儀した。邪魔だ、と吐きだすように言われ、無言で押され、舌打ちされた。
心臓が張り裂けそうだった。が、東京駅のような不安はなかった。なんとかなりそうな気がした。歩く流れに乗ってさえしまえば、周囲にそれなりに溶け込んでしまえる。
ギターケースを背負った男がいた。サチオは躯が震えだすほど後悔した。新宿ならば、ギターを背負っていてもおかしくはない。あわてて切符を買い、東京駅に引き返した。
ギターは消えていた。
あれから幾年たったのだろう。地下鉄丸ノ内線、中野坂上の新聞屋に住み込み、アパートを借り、種々のアルバイトをし、渋谷《しぶや》のヤマハの音楽教室でギターを習い、ようやくできた友人に誘われて横浜へ遊びにいき、なんとなく横浜に住みついて、横浜のミュージシャンと付き合うようになり、趙を紹介され、幾度かセッションをして、セッションといえば、取り敢えずブルースと相場が決まっていて、単調な十二小節の進行を繰り返しているうちに、趙が他のバンドで歌っていた綾を強引に引っ張ってきて、綾を中心に据えてブルース・スペシャルを組み、サチオはなんとなく、いや、綾がいたからこそ、ブルース・スペシャルに加入した。
練習した。とことん練習した。もともと練習が好きだった。ギターならば、幾時間抱いていても苦痛を感じなかった。
ブルース・スペシャルに入ってからは、全然練習していないような顔をして、じつは眠る時間を削っても、密かに一日八時間は練習した。
アラン・ホワールズワースやアル・ディメオラばりの早弾きもこなせるようになった。モードもやれる。単純で単調なブルースの十二小節など、欠伸《あくび》まじりでもこなせた。
それなのに、幾年も楽器に触れていない日雇いが足元をふらつかせてステージに立ち、いきなり弾いて、全ての人々を打ちのめした。
いったい、音楽とは……。
「なんなんだよ……」
サチオは呟《つぶや》く。さきほどまでは軒を跳ねていた雀《すずめ》たちも、どこかへ消えた。下の部屋から微《かす》かにテレビの音が聞こえる。隣の部屋の大学生は、早々と帰省した。
暇ができると、楽器屋へ行く。高校生たちがサチオを取り巻く。しばらく相手にせず、おもむろにギターを弾いてみせる。歓声があがる。ガキ共はサチオさん、サチオさん、とまとわりつき、サチオは彼らをあえて無視する。
サチオは楽器屋が行っているロック・ギター教室で講師をしている。教え方は丁寧で、しかも技術的に抜群だから、とても評判がいい。
今日は今年最後のギター教室だ。昼過ぎには出かけなければならない。さぼるわけにはいかない。生活の糧だ。
ブルースなんぞにこだわらず、売れセンをやれば、とっくに武道館を一杯にして、税理士を雇って節税対策をしているはずだ。
綾も趙も他のメンバーも、けっきょくは生活なんて召使がやってくれる……といったブルジョアってやつで、坊ちゃん嬢ちゃんなのだ。
売れるはずのないブルースに打ち込んで、生活費は親が出す。
ジャズ喫茶などでたまにいる阿呆《あほう》。深刻な顔してジャズに耳を澄まし、黒人の苦しみが……などと口走る大馬鹿野郎。そんな奴にかぎって、アパートに帰れば親からの現金書留が届くのだ。
そいつらと綾や趙はどれだけの違いがあるというのか。
サチオは枕《まくら》に顔を押しつける。村上を思う。練習不足でミスだらけのへたくそなギター。満足に指も動かない。そして、異常な暴力。救急車を呼ぼうとしたマスターを押しとどめ、憎しみのことばを呟きながらMOJOから出ていった売人。
音楽家は、異常でなければなれないものなのか。六畳一間のアパート、そしてギター教室の講師から、日雇いのドヤ暮らしにまで落ちなければ、人の心を打つ音楽はできないものなのか。
サチオは納得できない。承服できない。音楽は、そんなものではないはずだ。しかし……。
枕に押しつけたサチオから、呻《うめ》きに似た嗚咽《おえつ》が洩《も》れる。朝の光を浴びて、サチオは身をよじる。
電話が鳴った。安物の留守番電話だ。たまにスタジオの仕事などが入るので、どうしても必要だから、手に入れた。
呼び出し音六回めで、サチオは辛うじて受話器を手に取った。
「──なんだ……おふくろかよ」
口調と裏腹に、懐かしさに先程とは別の涙が溢《あふ》れ出る。
「ああ。元気だよ。声が変? 風邪《かぜ》、ひいたんだよ。へいき。たいしたことないって。うん。ああ。まあな。え、そっちへか? 帰れないよ。バンド、凄《すご》く忙しいんだ。ああ。ハンパじゃない。仕事だからね。──だから、正月は帰れないってば」
母の声が詰まった。サチオは下腹に力をいれた。
「いいかい、おふくろ。俺は遊びでこっちへ来たわけじゃないんだ。学生とかのあまっとろい気分でもない。音楽で喰っていくために、俺は頑張ってんだから」
懐かしい母の福岡弁。思わずつられそうになる。しかしサチオはあくまでも標準語に固執して、故郷には帰れない、と幾度も言い、思いきって受話器を置く。
サチオはベッドから半身を起こした。口を固く結んでいる。
「舐《な》めるんじゃねえ」
小声で言い、深く息を吸う。ゆっくり白い息を吐く。胴震いする。思いきってベッドから出る。電気ストーブのスイッチをいれる。
ジャズ系の、クロスオーバーのバンドから誘われていた。サチオの腕を見込んでのことだった。
「ブルースがなんぼのもんじゃい! 糞喰《くそく》らえじゃ」
サチオは電気ストーブに積もった埃《ほこり》が焼ける甘い匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、クロスオーバーのバンドのリーダーに電話した。
来年早々、新宿のピット・インに出演するという。リーダーは、とにかく音合わせしたいと言う。
「じゃあ、昼間は俺、ギター教室がありますから、夜、ええ、遅くてもかまいません。スタジオ取れますか? 俺、楽器屋に顔きくから、確保しましょうか? だいじょうぶですか? わかりました。じゃあ、九時ということで。徹夜? かまいませんよ、ギターが弾けるなら。はい。楽しみにしています。じゃあ」
サチオは愛器レスポールに視線をやった。最高のギターだ。サチオの最高の相棒だ。昨夜、村上に抱かれて啜《すす》り泣いたことは忘れてやることにした。
ピット・インに出演するのは平日の午後だという。サチオは頷《うなず》いた。いつかは金曜日の夜の部に出演できるようになってやる。
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第三章 溶けたタイヤに白い靴
世界はゲットーだ
1
綾は唇を尖《とが》らせてコーヒーの湯気をしきりに吹いている。マンションの近くの喫茶店だ。年老いたマスターは、ネルの漉《こ》し袋の代わりに、大型の紅茶用の茶漉しにフィルター・ペーパーを敷いて、コーヒーをいれる。
「モカ三、サントス・ブルボン三、コロンビアが二で、グァテマラが二だよ。グァテマラは高地のアラビカ種で、プライムと呼ばれる豆。酸味が強いから、とくに注意して焙煎《ばいせん》は中煎《ちゆうい》りにしてあるんだ」
「凄《すご》いコクがある」
綾はまたコーヒーを吹いた。
「そんなに熱くないはずだよ」
「あたし、猫舌だもの」
マスターは落ち着きのない綾からさりげなく視線を外した。綾は酸味の強いコーヒーに舌をつけ、クリームを入れ、溜息《ためいき》をつく。
褐色の液体に白色の脂肪が円を描いてひろがっていく。
「スプーンフル、か……」
小声で綾は呟《つぶや》いた。村上とはじめて交わした会話が、スプーンフルについてだった。村上はスプーンフルが男性器のスラングであると説明した。
そのことを昨日、知り合いのブルースに詳しい男に言った。彼は首をかしげていた。なにか言いたそうだったが、村上がアメリカに住んでいたことがあると言うと、口を噤《つぐ》んだ。
村上はでたらめを言ったのかもしれない。しかし綾にとって、村上の言ったことが嘘《うそ》であろうが真実であろうがかまわない。村上が言った。それがすべてだ。
「綾ちゃん、どうしたの?」
今年六十になるという白髪の男が声をかけた。綾は笑顔をかえした。この店の客のほとんどは常連で、顔見知りだった。
「当ててみせようか。男のことでしょう」
綾はしばらく間をおいて、まっすぐ頷《うなず》いてみせた。
男は一瞬気まずそうな表情をしたが、すぐにそれを笑顔でカバーした。化粧品のポスターで顔の知られたモデルが同席していた。彼女が顔をしかめた。
「やっぱりそうか。そうじゃないかと思っていたよ」
男はかなり名の知られた写真家だった。さりげなく小型のライカをとりだす。男がカメラをとりだすと、ほとんどの娘は意識し、それとなくポーズをつくり、自分がいちばん美しくみえると信じているアングルを向ける。
「しまってよ」
顔をそむけるようにして綾は言った。
「カメラは嫌いだったかな」
「大嫌い。魂を奪われちゃうわ」
男は笑い声をあげた。わざとらしかった。男はいつだって女にやさしく、そして嘘っぽかった。男としての自意識を、たくさんの数の女を抱くことで満たしてきた、どこかマザー・コンプレックスの匂《にお》いがする男だった。
「いい歳《とし》して、不恰好よ」
「なにが?」
「カメラなんか持ち歩いちゃってさ。楽器のへたな男の子が、どこに行くにもギターケースを担いでいくようなものじゃない」
「きついなあ、綾ちゃんは」
「それに失礼だよ。ファインダーを覗《のぞ》くぶんには、いくら人の顔をジロジロ見てもかまわないっていうカメラ屋さんだけの思い込み」
男はやや鼻白んだ。綾はさらに言った。
「カメラのファインダーだからって、デバカメを正当化されちゃ、かなわないわ」
男はライカをしまった。口の端が痙攣《けいれん》する。綾はさらに重ねて言った。
「まさか、僕の写真は芸術だ、なんて言わないでしょうね」
綾の視野の端に、マスターが顔を横に向けて苦笑しているのが映った。彼は歳こそずっと上だが、どこかMOJOのマスターに似ている。綾はマスターに声をかけた。
「なにかレコードをかけてよ」
マスターは黙ってレコードを選ぶ。マスターは若かりしころ、外人の船員相手のラテン・バンドでピアノを弾いていた。ピアノは打楽器である、と言いきる根っからのラテン・ミュージシャンだ。
写真家は曖昧な薄笑いをうかべて綾から離れた。ボックスに待たせていたモデルのところに戻り、何事もなかったような表情でモデルの相手をはじめる。
取ってつけたようなモデルの笑い声。あきらかに綾に向けられていた。
綾はゆっくりモデルに視線をやった。
モデルの笑い声がぎこちなくなった。綾は彼女にウインクした。モデルは笑いやみ、肩のあたりをこわばらせた。あわせて綾は、肩をすくめ、躯《からだ》をもとに戻し、カウンターに頬杖《ほおづえ》をついた。
ラテンビートと十六ビートがひとつになった、シンプルなコード進行の、エネルギッシュな曲が流れだした。綾はマスターに眼で訊《き》く。マスターは黙ってレコードジャケットをわたす。
黒地の背景に色とりどりのバンダナで覆面をした七人の男たち。西部劇の銀行強盗を思わせる。ひとりだけ白人で、あとは黒人だ。"WAR" 'OUTLAW とある。
「これが、ウォー=H」
「聴いたことなかったか?」
「名前だけ知っていた。聴くのは初めて」
マスターはすこし寂しそうな顔をした。いまから十年ほど前のレコードだが、いまの若者はもうウォー≠ネど知らないのだ。というか、逆にポピュラーすぎて、忘れ去られてしまったのかもしれない。
綾はそんなマスターに頓着《とんちやく》せずに言った。
「アウトローってタイトルにぴったりの面構えだね、このメンバー。人相悪いなあ」
「──このアルバムはともかく、一九七三年に出した世界はゲットーだ≠ニいうアルバムは大ヒットしたんだよ」
綾は真顔になった。小声で独白した。村上を想って、呟《つぶや》いた。
「アウトローにゲットーか……」
ゲットー。ユダヤ人地区。綾は貧民街であるとか、スラム、あるいは収容所といったふうに理解していた。
アメリカン・スクールには、ユダヤ系アメリカ人がかなりいた。朝鮮人や中国人が戦争中に日本人がした仕打ちを忘れないように、ナチスドイツの行ったことをふと思い出したように口にするユダヤ系の同級生がいた。
彼はいつも決まりきった同じことばでその話を打ちきった。 『いいかい。殴った奴は殴ったことをすぐに忘れちまうけど、殴られたほうは殴られたことをいつまでも覚えているのさ』
自分が収容所に入れられたわけでもないのに……綾はいつも心のなかで思ったものだ。しかし口にだすことはできなかった。たしかに彼は、祖父や祖母が受けた絶望的な仕打ちを覚えていたのだ。
綾はこれから行こうとしている地区に思いを馳《は》せた。そこはたしかに、横浜のゲットーなのだ。常識的な、普通の生活をしている市民は、そこに近づこうとしない。綾もそこの周囲をなんとなく遠巻きにして、避けてきた。
そこになにがあるのか、じつは全くわからない。ただはっきりしていることは、杉村荘という旅館? らしきものがあり、そこに村上がいる、ということだ。
会いたい。会いたい。狂おしい。
触れたい。触れたい。触りたい。村上の癖毛に指を絡ませたい。瞳を閉じさせ、その瞼《まぶた》を舌先でそっと押してみたい。荒れた、薄い唇をむりやりこじあけて、煙草で黄ばんだ歯を探り、ふるえる舌を愛撫《あいぶ》して、粘る唾液《だえき》で濡《ぬ》れた指先をそっと見てみたい。村上の耳朶《みみたぶ》を噛《か》み、耳の穴に舌を挿し入れる。村上の尖《とが》った顎《あご》をなぞり、不精髭《ぶしようひげ》の刺す感触に、おもわず躯を硬くしてみたい。村上の腋《わき》の下に顔を埋め、その汗の匂いを胸に満たしたい。村上の浮きだした肋骨《ろつこつ》に接吻《せつぷん》したい。村上のスプーンフルに頬ずりしたい。村上の…………。
綾は我に返った。コーヒーが冷めていた。ごめんね、とマスターに謝って、コーヒーを飲みほす。カップに残ったルージュを紙ナプキンでさりげなく拭《ぬぐ》う。
トイレに立つ。まず、足元を見る。麻のデッキ・シューズ。冬に似つかわしくないし、真新しく、白い。よそよそしく、白い。綾は顔をしかめる。
鏡に顔を映す。顔も、白い。緊張している。不安に瞳が潤んでいる。小指の先で唇に触れる。抑えた色彩の、オレンジ系のルージュだった。丁寧におとす。おとしてから後悔した。冷たいプールで泳がされたあとのような唇の色だ。
綾は泣きそうな顔をして、鏡のなかの自分を見つめる。化粧バッグに視線を落とす。けっきょく化粧する気になれず、透明なリップクリームを塗る。
ぼんやり狭い空間に立ち尽くしていると壁越しにウォー≠フ派手なリズムがとどく。跳ねるリズム。がなりたてるボーカル。どこか自棄っぱちのように感じられる陽気さ。
アウトロー。ザ・ワールド・イズ・ア・ゲットー。
ふと気づく。使われているコードはマイナーばかりだ。気づいたとたんに綾の躯をマイナーの哀感がつつみこむ。
「じょうだんじゃないぜ」
男のような口調で呟《つぶや》いて、トイレから出る。勢い込んで喋《しやべ》るモデルを制して、写真家が声をかける。
「長かったじゃない。ナニしていたの?」
綾は醒《さ》めた眼で写真家を見つめる。ひとこと、言う。
「うんち」
カウンターに戻る。マスターが苦笑している。綾はおしぼりを断る。ウォー≠フ演奏に耳をかたむける。
「うまいっていうバンドじゃないけど、打楽器にフレーズを造りあげようとする意志があるだろう。ウォー∴ネ外には、ミーターズ≠フドラムスにそれを感じるよ。打楽器は単にリズムをキープするためにあるんじゃない。打楽器の究極は、やはりトーキング・ドラムだろうね」
綾はマスターの講釈を曖昧《あいまい》に聞き流す。いま、綾を力づけるのは、音楽だ。綾はリズムに乗りながら、両足をこすりあわせる。そんな綾を写真家が盗み見ていた。声をかける。
「なにしているの? せっかく真っ白な靴が……」
「いいの。白すぎるのよ。すこしは汚さなくっちゃ」
綾は純白のデッキ・シューズをこすり、踏む。リズムにあわせて汚す。
レコードが終わった。
「よォし!」
声をあげて、綾は立ちあがった。カウンターにコーヒー代を置く。
マスターは、少年のように口許を引き締めた綾を見つめる。
写真家は綾の後ろ姿を見送り、首を左右に振りながら、しみじみと言う。
「なんて……エキセントリックな娘だろう。ああ……写してみたいなぁ……写して、みたい」
モデルが拗《す》ねて横を向く。マスターは濡《ぬ》れた手で、綾がカウンターに置いていった硬貨を一枚ずつ拾い上げる。昼下がりの陽の光が店内に溢《あふ》れている。
2
クリスマスの二日後の中華街は観光客で溢れていた。海の見えるホテルでクリスマスを過ごし、そのまま横浜に居ついてしまったようなカップル。東京からやってきた学生らしい集団。お国|訛《なま》りで喋る老人たち。そして日本に留学、あるいは働きにきている中国人。
東門を抜けたとたんに綾はそういった人々の群れに囲まれていた。人通りの少ない関帝廟通《かんていびようどお》りに出ようか思案したが、けっきょく綾は大通りを行くことにした。
饅頭《マントー》を蒸すせいろから立ち昇る白い湯気。中国野菜を並べた八百屋の店先の濃い緑。金陵の店先に下がる赤い腸詰、飴色《あめいろ》のアヒル。鶏がらスープの匂いが漂い、五香粉のどこか漢方薬を思わせる芳香が綾の鼻をくすぐる。
前から家族連れがやってきた。混雑した歩道に横に広がって、まわりのことなど一切考えていない。子供たちは派手な原色の悪目立ちする服を着せられている。
綾は家族連れを一瞥《いちべつ》して、車道によけた。横眼でピエロのような服装の子供たちを盗み見る。さぞ高価なものだろう。見事に似合っていない。親が子供に見栄を着せる。
この人込みの中に乗り入れてくる車がある。他県ナンバーの車が多いが、ハマナンバーの車もある。長期ローンの群れが違法駐車して、コース料理を喰い漁り、老酒《ラオチユウ》に酔ってハンドルを握り、そのうちの幾人かは酒気帯び運転で警官に切符を切られる。
綾は原色の通りを足早に抜けた。善隣門を抜け、とたんに人通りがへる西門通りを行き、高校と中学校の壁を左右に見ながら、西門を抜ける。
吉沢橋の下は、高速道路だ。ぼんやり歩いていると、橋と気づかず、道路の膨らみにすぎない。綾にはここのゆるやかな道路の膨らみが、最初の関門に思える。
地下を走っていた高速道路が地上にあらわれ、左に緩やかにカーブしていく。綾は年末で殺気だっている商用車の群れを見ながら、JR根岸線の高架の下を抜ける。
高架を抜けると、さらに狩場に至る高速の分岐の下のせまいトンネルが眼前にあらわれ、綾は心細げに高速の施設管制所の金網の塀《へい》の前で立ち止まる。
そこには、なぜか立派な公共の案内図が立っている。トンネルを抜けたところにある連れ込みホテルの名前までいちいち書いてあるのが奇妙だ。
トンネルは、まさに取ってつけたようで、低く、狭く、赤いスプレー・ペイントで暴走族のお決まりの落書きがしてある。
綾は足早に暗いトンネルを抜ける。愛用のブーツであれば、カッ、カッ、と靴音が響くのだが、今日はわざわざ汚したデッキ・シューズなので、猫の忍び足だ。
トンネルを抜けた。のしかかるように連れ込みホテルが迫る。観光ガイドに書かれることのない横浜がはじまる。
3
勤労会館は、結婚式場だ。関内《かんない》駅前からの通りは交通量も多く、路線バスも走っている。綾はタイミングをはかり、小走りに道路を横断した。
このあたりは遊んだ帰りなどに車でよく通る。電柱に寿町《ことぶきちよう》の表示があるのだが、さきほどの連れ込みホテル街のほうがおどろおどろしい感じで、そのあたりまえな町並みの明るさに、綾は肩から力を抜いた。
綾は笑顔をつくってみた。町名表示や番地を見ながら、コトブキのメイン・ストリートに足を踏み入れる。松影町と扇町にはさまれた細長い長方形の、五〇〇メートル少々行けば終わってしまう町だ。
なんだ……綾は拍子抜けした。きれいとは言いがたいが、ひどく汚れているわけではない。だいたい人があまりいない。
廃品回収の車がとまっている。廃品の集積場があった。古新聞や古雑誌をトラックから下ろしていた少年が、その手を止め、綾を見つめている。
敵意といったものは感じられなかった。綾が眼差しを向けると、少年は眼を伏せて、単調な作業に戻った。
歩道には四気筒のオートバイが停《と》めてあった。綾はそれが少年のものであることを確信した。
オートバイには、マフラーがなかった。排気管は車体の中央あたりで切断されていて、消音器のかわりに赤いコーラのアルミ缶が針金でくくりつけてあった。
綾は苦笑した。深夜に狂ったような爆音をまき散らして山下公園通りを駆け抜けていくのは、彼と、その仲間だろう。
オートバイにないのは消音器だけではなかった。ナンバー・プレートもついていなかった。それに気づいた綾は、すこし呆気《あつけ》にとられた。
ナンバーを折り曲げている暴走族のオートバイはよく眼にするが、ナンバーを外してしまうアナーキーさはたいしたものだ。
綾は真ん中だけすり減って溝のないツルツルのリア・タイヤを見つめて、いきなり不安を覚えた。
少年が見つめていた。美少年といっていい。服は汚れているが、整った顔だちの少年だ。少年は作業の手を止め、綾を見つめていた。
綾と少年の視線が絡む。少年はまったく感情が顔にあらわれない、完全な無表情だ。ただ瞳だけが瞬《まばた》きせずに、綾の瞳を覗《のぞ》き込んでいる。
少年は軍手を外して作業服のポケットに押しこんだ。つぎの瞬間、トラックから飛び下りていた。
「見るんじゃねえよ」
「──はい?」
「おれの単車、小汚い眼で見るんじゃねぇ」
「ごめんなさい」
「なにしにきたんだよ、腐れまんこが」
「───────」
綾は少年がみせた殺意にちかい感情の迸《ほとばし》りに絶句して、その場に立ち尽くした。
「なんだよ、あいのこかよ。ヤンキー・ゴー・ホーム、だぜ」
少年は薄笑いをうかべて綾に迫った。綾は恐怖に硬直した。
「うろついてんじゃねえよ。犯すぞ」
綾は少年の鼻の下に生えている産毛のような不精髭《ぶしようひげ》を見つめたまま、動けない。少年は躯《からだ》をかしがせるようにして、小声で命じた。
「行け」
綾は硬直したまま少年に背を向けた。ぎこちなく歩きはじめる。数メートル歩いて、唐突に屈辱を感じた。綾は振り向いた。少年を睨《にら》みつけた。
「あたしは、あいのこか?」
少年は、動じなかった。
「あいのこだ」
綾は泣き顔になった。
少年はかさねて言った。
「おまえは、あいのこだ」
綾は下唇を噛んだ。
道路がくすんできた。黒っぽく汚れている。どうやら焚き火のあとらしい。乾いた小便の臭いがきつい。にもかかわらず、メイン・ストリートに人影はほとんどない。
たまたまこざっぱりした作業着を着て、地下《じか》足袋《たび》を履いた男と視線があったが、綾はあっさり無視された。
綾は仕掛けに気づいていた。一般人の目に触れる部分だけ、建物なり道路なりを塗り替え、清掃しているのだ。普通の人の目に触れることがないコトブキの奥は、完全に放置されている。
晴れ渡っている。空の青さが眼に痛い。あまりに青いので、黒っぽく感じられるほどだ。綾はどうしていいかわからなくなり、呆然《ぼうぜん》とした。
ここは綾の知っている横浜ではなかった。この街には、いっさい手掛かりがない。
この街は、男で成り立っていた。女の姿はまったく見かけない。
飲み屋のガラス戸に貼《は》りだされたビール五〇〇円、サワー二五〇円の貼り紙。
綾はこの街のおおよその物価を知った。いままでは漠然と、この街の物価は安いだろうと考えていた。逆だった。ここは収容所であり、ゲットーだった。
人々は、いや男たちは、ここから出ていくことができないのだ。だから物の値段は山の頂上で飲むジュースのように高価になっていく。
綾は立ち止まり、左右を見まわした。人影はない。キリコの描く遠近の狂った無人の街に放り出されたような心もとなさが綾を包む。
このままでは埒《らち》があかない。誰かに杉村荘の場所を訊《き》かなければ、綾は永遠にこの長方形の閉ざされた空間をさまようしかない。
メイン・ストリートには、それに直角に交差するかたちで、幾つもの、それこそ無数の路地がある。綾はためらいを振り棄てて、路地に入りこむ決心をした。
4
路地はせまく、暗い影で満たされていた。
陽の当たらぬ場所に、焼酎の匂いとともに男たちが蠢《うごめ》いていた。
ビルの張出の下、立ち呑みの飲み屋に男たちが群がっていた。薄汚れた黒っぽい肌。眼だけがギラつき、あるいはトロリと溶けかけて、それぞれに澱《よど》んだ光を放ちながら、足元の定まらない男たちが一斉に綾を凝視した。
寒風吹きすさぶ路地裏で、男たちは申し合わせたように紺の薄い作業着をまとい、泥酔している者以外は、ゆらゆら揺れながらも寒そうに両手を組み、あるいはこすりあわせている。
ひとりの男が綾に近づいた。痩《や》せている。ひどく痩せている。
綾は無意識のうちに愛想笑いをうかべた。
とたんに男は烈しく咳《せ》きこんだ。
咳きこみながらも、綾から視線を外さない。
綾の愛想笑いが凍りつく。
男は血の混じった痰《たん》を吐き、胸を大きく上下させながら綾に迫る。
綾は逃げた。ひたすら走った。メイン・ストリートを突っ切り、反対側の路地に飛びこんだ。
この路地には人影がなかった。綾は肩で息をして、背後を見た。
誰もいない。北風だけが電線を震わせて、泣き声をあげている。
綾は眼前のあるオブジェに気がついた。
自動車だった。自動車のかたちをしていた。ライトバンだったようだ。
焦げていた。黒く焼け焦げて、ところどころ赤錆《あかさび》が浮いていた。
窓ガラスは叩《たた》き割られてなくなって、車内には山のように空き缶が放り込まれていた。誰かがこの中に空き缶を棄て、やがて誰もが、なんとなくこの車だった残骸《ざんがい》を空き缶専用のごみ箱として扱うようになったようだ。
綾はオブジェを見つめて、苦笑した。泣き笑いの表情だった。右へならえで空き缶を棄てる、という男たちの行為が妙に幼く感じられた。
タイヤのゴムが溶け、黒々と地面に染みていた。綾のデッキ・シューズは溶けたタイヤを踏んでいた。せっかく汚してきたのに、綾の靴は溶けたタイヤの上で、いやコトブキで、あまりに白い。
車は、あきらかに、放火されたものだった。
棺桶《かんおけ》のなかで
1
夢か──。
たしかにノックする音だ。
村上はむくんだ顔をしかめながら、半身を起こした。瞼《まぶた》が腫《は》れているせいで、周囲がよく見えない。
昨夜は呑んだ。毎度のことだが、金があるうちは働かず、昼間から酒を浴びるように呑む。昨夜は転がりこむように部屋にもどったところまでは覚えている。
そんな状態だから、鍵《かぎ》はかけていないはずだ。
眼の上を揉《も》みながら視線をおとすと、ありったけの服を着ている。が、服を着込んだ記憶さえない。
遠慮ぶかげなノックだ。
いくら頭をひねっても、自分を訪ねてくる人物に思いあたらない。
枕元《まくらもと》の宿泊カードをひらく。部屋代は十五日先まで支払い済だ。帳場ではないだろう。
ふたたび遠慮ぶかげなノックがした。
「あいてるよ」
声をかけてやると、外の緊張が伝わってきた。
徳山か──。それとも。
なにがあってもいいように、村上はそっとセンベイ布団から抜けだした。中腰で身構える。
「鍵はかかってないと言っているんだ」
足元のドアがゆっくり開いた。
息を呑む。
「──綾」
信じられない。たしかにあの朝、杉村荘の名は教えたが、コトブキには百軒もの宿があるのだ。しかも犬山≠ニいう偽名で泊まっている。
綾は中腰の村上に、軽く会釈した。村上の喉仏《のどぼとけ》が無様な音で鳴った。
「約束どおり、来たぜ。犬山さん」
かたちよく尖《とが》った顎《あご》をツンとあげ、綾は男の口調で得意そうに言った。しかし頬《ほお》は不自然に白く硬直している。まるで追われているかのように室内にすべりこんだ。
「鍵って、これ?」
綾は村上自前のシリンダー錠をあせった手つきでロックした。村上は酔いの抜けない眼を瞬き、まだ半信半疑だ。
「とっくに昼過ぎだぜ、犬山さん」
室内を見まわして、綾は顔をしかめる。
「くせえ! 汗くさい! 男臭い!」
鼻をつまみながら、口をすぼめる。
「ちいさい窓。光は入らないし、匂いはこもる。最悪だね」
「──ああ」
「ひどい顔。パンパンじゃない」
「ああ……。煙草、あるか?」
「メンソールだよ」
「ああ」
「あたし、吸わないの。ときどき恰好《かつこう》つけて吹かすだけ。湿気てないかしら?」
村上は返事せず、深く煙を吸いこむ。口のなかに嫌な唾《つば》が湧《わ》いた。耐えてさらに吸う。ニコチンが血のなかをめぐり、どうやら頭がすっきりしてきた。
綾は入口に立ったまま、ビールの空き缶に灰を落とす村上を見おろした。
村上は綾を一瞥《いちべつ》した。綾はあきらかに安堵《あんど》している。この棺桶《かんおけ》のような密室で、生き返ったかのような表情だ。村上は咳払《せきばら》いして痰《たん》を切り、コーラの一・五リッター入りプラボトルに入れた酔い覚め用の水をがぶ飲みして、言った。
「よく、ここまで来れたなあ」
綾は得意そうに胸をそらした。
「たいしたこと、ないよ」
しかし、それにしては、部屋に入ってきたときの、あの憔悴《しようすい》ぶりはどうだ。嫌な思い、怖い思いをしたのではないか。村上は綾を上眼遣いで見た。綾は、顔一面の笑顔をかえした。
綾の笑顔を見ると、なぜか胸が締めつけられる。綾の笑顔からは、まず健気《けなげ》さを感じる。そして、淋《さび》しさを感じる。いたたまれなくなる。かばってやりたくなる。村上はハッカの匂いのする細巻きの煙草をせわしなく吸った。
人ひとりが眠るだけの広さしかない部屋は、たちまち煙で満たされ、白灰色に霞《かす》み、澱《よど》んだ。
「窓、開けるよ。これじゃ、ガス室じゃん」
村上は首の壊れた人形のように雑に頷《うなず》いた。綾がその横をすり抜けた。
綾の太腿《ふともも》が、村上の頬に微《かす》かに触れた。村上は前かがみの体を起こし、ねじ曲げ、軋《きし》む窓と格闘している綾の尻《しり》を凝視する。
外気と煙草の煙がゆっくりと入れかわっていく。村上の頬には、よく洗いこんだ綾のジーンズのコットンの肌触りがまだ残っている。
綾が振り向いた。
「なに、見ているの?」
「──おまえの尻だ」
「ばか」
ほんのり頬を染め、綾は村上の横にペタンと座った。そっと村上に躯を寄せる。
「なぜ、あたしのお尻を見るの?」
囁《ささや》き声で訊いた綾を、村上はそっと引き寄せた。
「男をそそるってやつだ。いいかたちをしているよ。犯してやりたくなる」
「犯したい?」
「ああ。おもいきり……」
「おもいきり?」
「おもいきり噛んで、噛み千切りたい」
村上は接吻しようとした。綾は身をよじって逃げた。
「嫌。お酒臭い」
「うるせえ」
村上は強引に綾の口をふさいだ。綾はしばらく抵抗したが、やがて積極的に舌を絡ませた。
ふたりの息遣いが荒くなっていく。綾は薄く瞳を閉じている。先に村上が唇をはずした。
綾の唇は半開きのままで、赤い舌先が覗《のぞ》けた。村上はふたたび唇を寄せ、体重を預けるようにして綾の上にのしかかった。
「……いじめて」
綾が囁いた。
村上の指先が、バージン・ウールの手編みのセーターのなかにすすんだ。乳房の外周をなぞるように指先は動き、そしていきなり乳首をつまんだ。
加えられた力に加減はなかった。綾は眼を剥《む》いた。
村上はすぐに力をゆるめた。綾は村上の胸に顔を埋めた。痛みが徐々に遠のいていくと、それがじんわり快感に変化する。
村上は綾の表情を観察しながら、空き缶の上で短くなった吸いかけの煙草に手を伸ばした。
綾は呼吸を整えながら、村上の吐きだす煙を眼で追った。
「おいしい?」
村上は綾を無視して深く吸った。綾は村上の腕を枕《まくら》にして、天井を向いた。
「凄《すご》い部屋ね」
「なにが?」
「信じられない。牢屋《ろうや》というか、棺桶みたいな部屋」
村上は苦笑した。棺桶。誰でも考えることはいっしょだ。綾は口を半開きにした、なかばおどけた表情で閉じた密室を見まわしている。
「いちいち感動するんじゃねえ」
「これじゃ、三畳ないでしょう」
「ああ」
「ちょうどお布団の大きさと同じスペースだよね」
「ああ」
「押入れとかないの?」
「ああ」
「ま、荷物がなにもないか」
「うるせえよ」
「完全な長方形の部屋だもの。出っぱっているのは蛍光灯だけか」
綾は地図で見る寿町と、この部屋のかたちがそっくりであることに気づいた。
「──嫌だ! そんなところに痰、吐かないでよ。きったねえなあ」
綾は村上が痰を吐いた酒屋の紙袋を奪い、隅に押しやった。
「ああ……」
「ああ、じゃないでしょ」
「ああ」
村上は煙草を根元まで吸って、空き缶に押しつけた。腕枕している綾にのしかかるようにして、開け放たれた窓を閉める。
吐く息が白い。陽のあたらぬ室内は冷凍庫のようだ。村上はきつく綾を抱きなおし、その耳朶《みみたぶ》をかるく噛んだ。
「きたねえだろう、汚れ放題だ」
「そうね」
綾は微笑しながら村上の枕を見る。
枕は髪の脂で黒ずみ、抜け毛がたっぷりついて、よだれの染みがアクセントになっている。足元から、じんわり湿った冷たいものが這《は》い昇ってくる。なんだか敷布団が粘るような感じさえする。
「平気なのか?」
「うん」
「うん、て……半端じゃないだろう、この汚さは」
「うん。でも、いいの。あたしの好きになったひとは、汚かった。しかたないわよ」
「ありがたいお言葉だが、あまりうれしくないぜ」
「汚れは洗えばいいもん。たいしたことじゃない」
村上はおおきく息を吸った。
「おまえは……健気だ」
「けなげって意味、よくわからない」
「──いい女ってことだよ」
「ふーん」
村上はそっと綾の首筋に舌を這《は》わせた。唾液《だえき》で濡《ぬ》れた綾の首に唇を擦りつけていると、綾の肌の匂いが立ち昇った。
「なにしているの? くすぐったい」
「感じるか?」
「くすぐったい」
「血管を探っているんだ」
「血を吸うの?」
村上は曖昧《あいまい》に笑い、口調を変えて言った。
「しかし、よくここがわかったなあ」
「一時間ぐらい捜したんだよ。でも、わからなくて、開き直ったの。やさしそうなおじさんに『杉村荘はどこですか』って訊いたんだ」
「教えてくれたか?」
「うん。でもね、後をつけてくるのよ」
綾の頬に困ったような、照れたような、微妙なためらいがはしった。
「ニヤニヤ笑いながらね……後をつけてくるの」
「どうした? なにかされたのか」
「ううん。あのね……」
「なに?」
「ズボンのなかに手を入れてね、あたしの後をつけながら、ゴシゴシこすっているんだ」
「ズリネタにされたわけか」
「なに? ズリネタって」
「センズリのネタだよ」
「村上もする?」
「センズリか?」
綾はコクリ頷《うなず》いた。
「ときどきな」
「どんなことを想ってするの?」
「さあな。──おまえは、するのか?」
「しないよ! そんなこと」
綾はムキになって言い、首まで赤くなった。
「そりゃ、そうだろうな。おまえみたいないい女が自分でする必要はないもんな」
綾は村上の腋《わき》の下に顔を埋めた。小声で言った。
「あのね……あたし……村上を想って……」
「綾」
「なに?」
「言うな」
「──はい」
村上は綾の背をやさしく撫《な》でた。綾は心臓をトクトクいわせて村上にしがみついている。
「あのね……」
「なんだ?」
「杉村荘のなかに入ってホッとしたよ。すごく怖かったんだから。ところが、帳場にいるおじいさんに『村上さんはどこの部屋ですか』って訊いたら、そんな人はいないって言うんだぜ!」
綾は瞳を見開いて、両手をきつく握った。
「もう、あたし、必死。外にはゴシゴシおじさんが待ってるし、おじいさんは村上なんていないって言うし……。だからもう、いっしょうけんめい村上の特徴をならべあげたの。痩《や》せてみえるけど、けっこういい躯していて、癖毛で、寝癖で、尖《とが》った気の短そうな顔してて……。で、おじいさん、村上がお金を払うときに見ていたんだね、左手の爪《つめ》が右の半分ぐらいの人って言ったら、 『それは犬山さんだろう』って」
よほど怖かったのだろう、勢い込んでひと息に喋《しやべ》り、綾は微笑した。ひきつれたつくり笑いだった。つくり笑いは、すぐ泣き笑いに変化した。
綾は泣いた。幼児のように泣きだした。顔をくしゃくしゃにして泣きだした。声をあげて泣きだした。
胸がいたくなった。胃のあたりが縮んだ。それほど悲しい泣き声だった。ようやく村上の胸にたどり着き、綾は解き放たれ、安堵《あんど》して、嗚咽《おえつ》した。村上は綾の頭を丹念に撫《な》で、その涙を幾度もぬぐってやった。
綾はしゃくりあげながら、言った。
「ばかやろう……犬山なんて……嫌な名前、つけやがって……」
「猿山だったら、よかったか?」
「ばか! おまえなんかあたしの気持ちが全くわかってないんだから! 村上のおおばかやろう!」
「でかい声だすな」
「生まれつきだよ!」
「声量のあるのはよくわかったから」
村上は苦笑して、綾のメンソールに火をつけた。
「貸せよ」
綾は煙草を奪い、思いきり吸い、烈しくむせた。
村上は綾の背をさすり、綾が落ち着いたのを見てとってから、小声で言った。
「徳山さんの名前を出せばよかったんだ。徳山さんの名前を出せば、ここの連中はおまえをここまで黙って案内したさ」
綾は目尻《めじり》の涙をこすりながら、答えた。
「だってあたしは、徳山に会いにきたんじゃないもの。村上に会いにきたんだもん」
「──センズリおやじは、嫌がらせだよ。本気でこすってたんじゃない」
「なんでわかるの?」
「なんとなく、だ。嫌がらせをするおやじの気持ちもわかる」
綾は親指の爪を噛んだ。
「あたし、凄《すご》く、浮いてた。完全に、浮いてた。あたしね、いつかはシカゴのゲットーに行こうって考えていたの。ブルースをやる人間にとって、シカゴのサウス・サイドは、ゲットーは、聖地だもの」
「シカゴのゲットーは、コトブキよりもアレ、だぜ。行くのは勝手だが、それでブルースがさらに良く歌えるようになるかは疑問だ」
「村上の言おうとしていること、いまなら、よくわかる。コトブキもそうだけど、ゲットーというのは、家なのよ。あたしは、他人の家に土足で上がり込んだ観光客みたいなもの。譬えが悪いかもしれないけれど、あまりきれいでない我が家に、着飾った同情たっぷりの善意のおばさんが、靴を脱がないまま、土足で慈善に訪れたようなものよ」
村上は深い吐息を洩《も》らした。唇の端に煙草をくわえ、天井を見つめた。
「──なにか、ほかに嫌な思いをしたか?」
「なんのこと?」
「センズリおやじのほかに、嫌なことや屈辱的なことをされたか?」
綾はハッとした。かろうじて、ごく軽い口調をつくって言った。
「ぜんぜん。ただ、あたしが過剰に構えて、舞い上がっていただけ」
綾は村上の躯から放たれる殺気に気が遠くなりそうだった。もし、たとえばあの廃品回収の少年のことを言ったならば、村上はあの少年を殺すのではないか。
いま躯を寄せあっている男は、わたしのためならば、人を殺す。わたしに加えられた侮辱に対して、暴力で応える。
綾は危険な愛情に緊張し、やがて、うっとりした。綾は村上を抱きしめた。自分から接吻した。村上の顔中に接吻した。綾の腕のなかの男は、気弱そうな物腰をみせるくせに、じつは本物の雄だった。だから綾も、雌になった。
「抱いて。お願い。抱いて。きつく、抱いて」
2
代償行為というのだろうか。暴力的な交わりだった。村上は発情期の雄の獣だった。綾はそれに応え、同時に昇りつめた。
村上は綾に体重をあずけたまま、なかば憮然《ぶぜん》とした声で言った。
「俺は、こういったことが苦手なんだ。不器用なんだ」
自信のなさそうな調子も含まれていた。綾は村上から視線をそらして呟《つぶや》いた。
「いいの。あたしはべつに……」
満たされていた。充分だった。たぶん、技巧というものは、お互いに飽きがきたときから、重要になるのだ。綾は自分がきつく昇りつめたことを隠し、クールに振る舞うことにした。
「気にしないで。あたしのことは」
チラッと村上に視線をやる。村上は真剣な表情で、綾はもうすこしで吹きだしそうになる。
まだ村上は、綾のなかにいる。綾のなかで、息づき、強く脈打っている。綾は村上の硬直の度合いや、そのかたちを、まるで掌で包んでいるように感じることができる。
余韻は深い。それは周期的に村上を締めつけ、痙攣《けいれん》する動きで、村上にもわかりそうなものだ。綾はおかしくてしかたがない。綾は村上の首に両腕をまわして抱きよせ、とぼけている。
綾は快感が深くとも、烈しく乱れるタイプではなかった。その快感は内側に集中して熱を帯び、芯《しん》を灼《や》きつくす。
しかし外にあらわれるのは抑制のきいた囁《ささや》くような喘《あえ》ぎであり、吐息であり、村上の背を愛《いと》しむようにさする手の動きであった。
男というものは、抱いた女に自分の痕跡《こんせき》を残そうとあがくものだ。
いままで綾は男たちに種々の技巧や好みのかたちを教えこまれた。ある男は自分の腰に両足を巻きつけ、絡ませ、悩ましく踊ることを強要した。卑猥《ひわい》なことばをなんとか綾の口から引きだそうと努力する男もいた。
綾は村上との交わりで、そうしたすべての瑣末《さまつ》といっていい行為から解放されていた。夾雑物《きようざつぶつ》のない、純粋な性交を、純粋に楽しみ、愛しむことができた。村上と強い一体感を持つことができた。
相性というのだろうか。村上のすべてがしっくりきた。綾はついにこらえきれなくなり、拳《こぶし》を噛《か》むようにしてクツクツ笑いだした。
「おかしいか?」
村上の問いかけに、綾は真顔をつくった。
「あたしは、どう?」
「なにが?」
「あたしの……」
綾は言い淀《よど》んだ。
「はっきり、言え」
「あたしの躯は、どう?」
今度は村上が口を噤《つぐ》んだ。
「ねえ、言って」
「──俺は、おまえとすると、早漏《そうろう》になっちまう」
「気持ちいいの?」
村上は黙っている。
「ねえ、言って。あたしとすると、気持ちいいの?」
村上は綾を睨《にら》みつけた。
「女が、あたしとする、なんて言うんじゃねえ」
「……ごめんなさい」
村上は綾を睨みつづけている。
綾は顔をそむけた。壁の落書きが目にはいった。モルタルに釘かなにかで引っ掻《か》いて描いた稚拙な裸体だった。
こんな絵をどこかで見たことがある。綾は父に連れられて見たメトロポリタン美術館のインディアンの砂絵を思いだした。
そっくりだった。ただし、こんなに巨大な女性器は、描かれていなかった。ほかには北一輝先生に続け≠ニか国体護持≠サしてかぶ島のうみねこ∞酒だけが友≠ネど、ちょうど枕元《まくらもと》のたかさに種々の書体で書かれている。
村上が動きだした。綾を見つめたまま、ふたたび動きだした。綾はあきれた。
「強いのね」
「いや……俺は淡白なほうだ」
「嘘ばかり。つづけて、じゃない」
「いやか?」
「いやじゃない」
綾の躯は即座に反応を示す。村上の硬直をやさしく、強く包み込む。
「おまえは……生きものだ」
「なに言ってるの、あたりまえでしょう」
「いや……」
綾はやさしく微笑《ほほえ》む。微笑みはすぐに消え、薄く瞳は閉じられて、眉間《みけん》に苦しげな縦皺《たてじわ》が刻まれる。
「だいじょうぶか?」
「──いいの。すごくいいの。こわくなるくらいなの。すきにして。すきにして。あたしをすきにして」
綾は村上の背に爪をたてた。村上の背に刺すような痛みがはしった。綾は村上を引き寄せる。村上の肩口を噛む。きつく、噛む。血が滲むほど、噛む。
こんどは、村上は、綾を落ち着いて観察することができた。綾はもうある頂点を極めているのが見てとれる。村上は綾の持つ女という性に感動を覚える。
村上は思わず呟《つぶや》いてしまった。
「おまえを離したくない」
綾はおおきく瞳を見開いた。唇をふるわせた。なにか言おうとした。ことばは発せられなかった。眼球が痙攣《けいれん》したように見えた。黒眼が反転した。綾は白眼を剥《む》いた。醜くもあり、美しくもある。村上は恐れさえ感じ、綾に奉仕した。
綾は村上のリードで踊る。妖《あや》しく、切実で、狂おしい。村上は綾の子宮のなかに吸い込まれ、深く、暗く、あたたかい闇《やみ》のなかに落ちこんでいく幻を見た。
3
あれほど冷たかった布団も、ふたりで絡まるようにして、交わったあとの深く短い、死んだような眠りから覚めると、汗ばむほどにあたたまっていた。
綾は手を伸ばして、脱ぎ散らした下着類をさりげなく隅に押しやり、散乱している村上の服に視線をやった。
「あんなにいっぱい着て眠っているの?」
村上は微笑をかえした。どこか得意がっているような、子供っぽい笑顔だ。あまり笑わない男だが、笑うと妙に子供っぽい。
「俺だって、コートくらい持っているさ。おまえの毛皮のコートには負けるがな」
村上のコートとは、冷凍庫内作業に使う群青色した化繊のハーフ・コートだ。内側のアクリルの黄色いボアは、汚れで茶色に変色している。
「ずいぶん前に、監督のコレモンをおだてて、せしめといたんだ。──おまえにはじめてあった晩は、南から戻ったばかりで、半袖でひどいめにあったけどな」
道すがら、ある路地で、これと同じコートを着た男が焚き火の灰のなかに躯を突っ込むようにして倒れていたのを、綾は思いかえす。死んでいたのか、眠っていたのか。
「生活の知恵ってやつだな」
言ってから、村上は照れる。
「大げさだな。とにかく着膨れして眠るんだ。冷えるからな。モルタルが半乾きのままなんだ、この部屋は。服をぜんぶ着たって……ああ、おまえからもらったフライト・ジャケットは重宝してるよ。とにかく服をぜんぶ着たって、とことん酔ってないと寝つけないときもある。神経痛な。おまえくらいの年頃じゃあ理解できないだろうが、神経痛。俺も去年までは神経痛なんてことばだけで理解できなかったんだが、苦しいものだな。あの痛みは、おまえにはわからんさ」
村上は突然|喋《しやべ》りはじめた。綾が内心あきれるほどに意気込んで喋る。しかも不自然でぎこちない語り口だ。
「どうだ、ドヤは?」
「──そうね。おしっこ臭い」
「みんな、あたりかまわず立ち小便するからなあ」
「──みんな、焚き火が好きみたい」
「好きでやっているわけじゃないさ」
「焚き火の横に、こう肩を下にして転がっている人もいた」
「もう仕事がないんだよ。暮れから正月にかけては、俺みたいにある程度稼いでおかないと、地獄だぜ」
「みんな、正月明けまで野宿するの?」
「去年は俺も野宿した。こたえたぜ。それ以来さ、神経痛がでるようになったのは。体力には自信があったんだが……」
「道路も歩道も、いたるところが焚き火のあとで煤《すす》けているものね」
「いたく印象に残ったようだな」
綾はコクリ、頷《うなず》いた。
「あたし、ドヤって寝台車みたいなベッドが並んでいるのかと思っていたけれど、個室なんだね。家賃は、いくら?」
「相部屋もあるぜ。最近はカプセル・ホテルへ泊まる奴もいるみたいだ。ここは一泊九百円だ」
「思ったよりも安くないね」
綾は暗い声で呟いた。傍らに軍手を突っ込んだ白いヘルメットが転がっている。綾は港湾労働者のヘルメットが白に統一されているらしいことに思い至る。
「このあたりはな、朝が、陽が昇るころがいちばん活気があるんだ。昼は仕事に出るから、わりと静かなんだよ。朝はにぎやかだぜ。凍死した奴の服を剥《は》ぎ取る奴までいて大騒ぎさ」
綾にことばはない。村上の胸にしがみつくようにして黙っている。
「オマワリは、死体の内股を……」
村上は足をひろげ、手をもっていく。
「こう、こういった具合にな、思い切りつねるんだ。反応がないと、死んでらあ……てなもんで、泥酔している奴でも、内股をつねられると反応するわけだ。肉を千切るかんじさ。もし、生きていたら、たまらねえぜ」
村上は中空に向けて白い息を吐いた。独白するように、つづける。
「先月は……朝っぱらからサイコロで無一文になった奴が胴元のヤー公をバールでメッタ打ちにした。俺は飛び散った脳味噌《のうみそ》を踏んじまって……後味わるかったなあ。先月は異常だった」
「やめて」
「すまん。女の子に話すことじゃないな。でも、先月は本当におかしかった。オカマの肛門にビール瓶をブッ込んだ奴がいてな。みんな笑いながら、それを見てるんだ。オカマはもうじいさんなんだけど、顔面|蒼白《そうはく》で汗びっしょりさ。白眼剥いて死人みたいだった。医者崩れの奴が、これがショック症状だ、とか得意がって解説するんだ」
「おねがい。やめて」
「ああ。こんな話……ごめんよ。朝に来たなら、福祉会館で朝飯を喰わしてやったのにな。味噌汁定食、卵付き。社会勉強ってところか」
綾は村上を見据えた。
「どうしたの? おかしいよ、村上は」
村上はふかい溜息《ためいき》をついた。綾は村上を見据えたまま、言った。
「約束どおり、ここまで来たよ。バンドに入ってくれるでしょう」
村上の表情が曇った。切なげに綾を見つめた。綾が見つめ返すと、きつく胸に抱きこんだ。
「力に……なりたいと……思っている。だが……正直なところ、気持ちの整理がついていないんだ。おまえと一夜を過ごしてから、ずっとおまえのことばかり考えている。こうしていても、いつおまえが約束のことを言いだすか、びくびくしていたんだ。だから、つまらんことを延々と喋ってしまった。
もうすこし……もうすこし待ってくれないか。俺には女々しいところがある。俺は自分の女々しいところにケリをつけたい。よし。来年の正月いっぱいまで待ってくれ。ふっきってみせる」
綾は村上の胸に軽く爪をたてた。村上のちいさな黒い乳首を前歯で噛んで、小声で囁《ささや》く。
「わかった。あたし、待つわ」
綾は前歯に力を込める。村上は痛みに耐えきれず、ちいさく身を捩《よじ》る。
「自信があるの。村上は絶対にわたしから離れられない。そうでしょう?」
いままでどおり、傲慢《ごうまん》に
1
綾は時間が止まればいいと念じていた。しかし、棺桶《かんおけ》のなかで、裸のままのふたりは、ほとんど同時に身震いした。
交わった直後の火照った躯も冷えていき、もうここから立ち去るべきであることを綾は悟った。
泣きそうになった。こらえた。ずっと腕枕してくれていた村上の二の腕をやさしくさすった。半身を起こす。
手早く服を着た。村上は全裸のまま、身支度する綾を無表情に見つめた。綾はどんな顔をつくっていいかわからなくなり、うつむいた。
うつむいたまま、ここに着てきた海兵隊のジャンパーを引き寄せた。ポケットの中からハンカチを取りだす。村上の腰のあたりにひざまずく。
あれほど凶暴だったものが、いまは弱々しくかたちを変えている。綾はハンカチを当てた。村上を丹念に後始末した。ふたりが溶け合った名残がシルクの布に染みていく。
「あたしたち、溶けたよね」
村上は黙っている。綾から視線を外した。
「初めて村上と会った夜、あたしの喉《のど》と、弦を愛撫《あいぶ》する村上の指先がひとつになったんだよ。溶けあったんだよ」
綾は溜息《ためいき》をついた。
「音楽って……最高だね。こうして抱きあうのも好きだけど、村上の演奏で、村上のギターで歌いたいよ」
昂《たかぶ》る感情を押さえきれなくなった。綾は村上の胸に、突っ伏した。
村上の動悸《どうき》が伝わる。不規則なリズムを刻んでいた。痩《や》せているくせに、意外と厚い胸だ。もうすこしだけ太って、それなりの恰好《かつこう》をしたら、女たちが放っておかないだろう。だから、いまのままで、いい。
綾はもういちど溜息をつき、村上に服を着せていく。村上は綾のするがままになり、綾の着せ替え人形になる。綾は村上に服を着せ終えた。
「はい。おしまい」
「脱げ」
「なに?」
「脱げ」
「──脱ぐの?」
「脱げ」
綾は戸惑い、村上の顔色を窺《うかが》った。
村上は徹底した無表情だった。綾は逆らえず、曖昧《あいまい》な微笑をうかべてバージン・ウールの手編みセーターを脱いだ。蝶《ちよう》の刺繍《ししゆう》がしてあるウエスタン・シャツを脱ぐ。
乳房が露《あらわ》になった。綾はどんな顔をつくっていいかわからず、苦笑まじりに言う。
「しまったばっかりなのに」
「下も、だ」
村上が命じた。綾は真顔になった。ジーンズのジッパーを途中までおろし、途方にくれる。村上はまっすぐ綾を見つめている。
ジーンズに手をかける。抱き合ったばかりなのに、強い羞恥心《しゆうちしん》が綾を支配している。思いきってジーンズを脱ぐと、短めのショーツも一緒に引っ張られて、腰からはずれかけた。あわてて引きあげる。
「それもだ」
綾は村上を見ないようにして、うらめしそうに腰骨にひっかかっているショーツをはずす。足首から抜く。
村上は綾に視線を固定したまま起きあがり、音たててドアによりかかる。
「横になれ」
命令されてセンベイ布団に横になると、水をジクジク染ませたティッシュ・ペーパーの上に横たわったような感触がした。鳥肌がたった。
ふたりで愛しあい、抱きあったときは気にならなかったのに、いまは薄ら寒く、惨めな気分だ。
綾は足をぴっちり閉じて、ミイラのように横たわっている。村上は徹底した無表情で、視線にはくもりがない。村上の眼差しは、廃品集積場にいたあの少年と同じだった。
綾は反発を覚えた。憎しみにちかい。持たざるものは、いつだってこんな眼差しをして開き直る。
とりあえず、綾は微笑してみた。優位をとりもどすための試みだ。
村上はドアによりかかったまま、肩の力を抜いて、瞬きせずにまっすぐ綾を見下ろしていた。とりあえずつくった微笑は行き場をなくし、綾は凍った布団の上でネガ・フィルムのように笑顔を凍りつかせる。
「足をひろげろ」
腕組みしながら村上は命じた。綾の微笑は泣くときの筋肉と同様の動きに変化する。
綾は壁に描かれた稚拙な裸体画に視線をやる 。釘で引っ掻《か》いて描かれた 、巨大な女性器だ。
「あたしは……落書きじゃないわ」
村上は腕組みをとき、完全に脱力する。綾は自分のマンションのバス・ルームで村上にすべてを晒《さら》したことを思いかえす。ゆっくり足をひろげる。
「もっとだ。思いきり」
「こう?」
開き直る。さらけだす。意地だ。男たちが感嘆のことばと溜息を洩《も》らした傷口を村上に向ける。傷を覆っている扉がゆっくりと開いていくのがわかるほど大きくひろげる。
バス・ルームでは自分の意志でこうした。村上に見せたかった。
しかしいまは違う。命令されて、烈しい羞恥心と、惨めさに全身をがんじがらめに縛りつけられている。
いまだかつてこんな扱いを受けたことはない。男たちは綾を宝石のように扱った。神秘を剥《は》ぎ取るような真似は絶対にしなかった。
これは階級闘争というものかもしれない……ふと綾は思った。村上はこの棺桶《かんおけ》から抜け出そうと考えはじめている。しかし同時に村上は、棺桶から抜け出すことに、なぜか強い罪悪感のようなものを抱いている。
なぜ、生活を変えることに罪の意識を持たなくてはならないのか。理解できない。しかし、生贄《いけにえ》になってあげよう。こうして従順にさらけだすことで、村上がこの投げ遣りな生活から立ち直り、自負心を取り戻し、ミュージシャンとして復活できるならば、いくらでも醜い、隠された傷口を見せてあげよう。
村上は見つめている。
綾は瞳を閉じる。光の残像が幾何学模様を描いて瞼《まぶた》の裏で散る。瞳を閉じていても、村上の視線がわかる。バス・ルームのときとは違う。あのときの村上の視線は賛美するものだった。そして綾も自分の躯をひらくことに自信を持っていた。
いま村上は、感情のあらわれぬ冷徹な眼差しの裏で、綾を穢《けが》そうとしている。どこにでもいるただの女にまで、綾を引きずり下ろそうとしている。
それでいいと思う。お互いに幻想を剥ぎ取ったところから、生活が始まるのだ。
綾の頭のなかで、村上という名詞が増殖していく。無限に増殖していく。時間の感覚を喪っていた。
時間がよみがえったのは、寒さのせいだった。いちど震えだすと、もうとまらない。
「服を着ろ」
「はい」
躯を起こしながら、綾はいまだかつて男に使ったことのない返事をした。
脱いだときと逆の順序で服を身に着けていく。村上は綾の動作をカメラ・レンズのような眼差しで、黙って見つめている。
これでよかったのだと思う。生贄になれたと思う。満足感が湧《わ》きあがる。自己満足かもしれないが、これでよかったのだ。そう思うと、躯から力が抜けそうだ。
セーターに首を通すと、毛の刺す感じがまるで愛撫《あいぶ》のように感じられた。愛情のしるしで潤っていたことに、村上は気づいてくれただろうか。
気づかれたとすれば恥ずかしい。気づいてくれなかったとすれば、寂しい。
「帰れ」
「はい」
「ここを出たら、路地を右に行く。最短距離でドヤから離れられる」
「はい」
村上は綾の顔を見ぬようにして、舌打ちする。
「しかたがない。途中まで送っていこう」
「だいじょうぶ。ひとりで帰れる」
綾は笑いかけた。太腿《ふともも》の内側に痒《かゆ》みを感じた。そっと右手を伸ばす。
「蚤《のみ》がいるんだ」
村上が呟《つぶや》いた。
「蚤?」
「血を吸われたのは、初めてか?」
綾はちいさく頷《うなず》き、もういちど蚤……と口のなかで言う。村上を見つめる。
村上の表情が弱々しく歪《ゆが》んだ。綾は小首をかしげて微笑した。内錠を解除する。軽く頭を下げて、ドアを開く。
2
村上は綾が最後に見せた笑顔に打ちのめされていた。綾が出ていったドアを見つめ、膝《ひざ》で細かく貧乏ゆすりした。
立ちあがる。部屋から出かかり、綾からもらったフライト・ジャケットを手に取る。あせった手つきで腕をとおす。暗い廊下を走る。帳場の老人が、無関心な表情で見送る。村上は外に飛びだした。
「綾!」
「あれ、どうしたの?」
「よく躯を洗え。服も洗濯しろ」
「なんのこと?」
「──蚤がついてるかもしれないだろう」
綾は村上の顔を覗き込んだ。村上は眼をそらした。
路地にたむろしている男たちが二人を盗み見た。すぐに無関心な表情になった。綾がひとりのときとは全く様子が違う。
綾はここまで駆けてきた村上の気持ちを理解した。うれしさを押し隠し、軽くさりげない口調で言った。
「送ってくれる?」
村上は怒ったような顔をして、舌打ちした。さも面倒臭そうに顔を歪める。
「しかたがない」
「ありがとう。うれしいわ」
村上は綾を横眼で見た。
「あまり……うれしそうじゃないな」
「そう? そんなことないわよ」
ふたりは寄り添うようにして路地を行く。
「うれしそうじゃない」
「うれしいわよ」
「そうは見えない」
「うれしいって言ってるだろ」
綾は男の口調で投げ遣りに言ってみせる。村上は黙り込んだ。
風は冷たいが、よく晴れ渡っている。綾は男のように左腕にはめたハミルトン社の軍用時計を覗きこんだ。午後三時四十分。
意外だった。とっくに四時をまわっていると思っていた。綾はもう一度艶消しのステンレス製時計を確認した。時計と陽の高さを確認して、納得した。
「もっと、長い時間、ふたりでいたと思ってた」
綾は小声で囁《ささや》いた。村上は雑に頷《うなず》き、綾の左腕を見ている。
「いいでしょう。Hack≠チていうのよ」
「ホック……」
綾はオリーブドラヴのナイロンベルトをはずし、村上の腕を掴《つか》んで巻きつけた。
痩《や》せてみえる村上だが、いざ時計のベルトを巻きつけてみると、綾よりもベルトの穴三つぶんほど骨太だ。
「けっこうごついね」
「おまえが細いんだよ」
「そうかなぁ、そうでもないよ」
「いや、華奢《きやしや》だ」
「太いって言われるよりは、いいか」
村上は微笑し、時計と綾を見較べた。
「いいのか?」
「うん。ミリタリー・ウォッチだもの。安物よ。でも、良くできているんだ。デザインも粋だし、磁石の近くに置いても平気なの」
「兵隊がする時計か?」
「そう。本物だよ」
「時計をするのは……」
「なに?」
「時計をするのは、それこそ四、五年ぶりだ」
「似合ってるよ。あたしはミリタリー・ウォッチがいちばん好きなの。むかしのロレックスにもかっこいいのがあるけど、いまのは駄目ね。物って値段じゃないからね。感性のにぶいビンボーなバカヤロが、自分じゃなんにも選べないから、高価なものを身に着けて、ありがたがって、威張るんだよ」
村上は苦笑して腕時計を覗きこんだ。西陽がガラスに反射して銀の帯が瞳に刺さる。眩《まぶ》しさに顔をしかめる。綾がうっとり村上を見つめている。
路地を抜けた。コトブキは終わった。綾は舗道に立ち止まった。うつむいた。
「なにしてる? 行くぞ」
綾の顔が輝いた。ぶつかるように村上に躯を預け、腕を組む。
「どこまで?」
「おまえの部屋までだ」
「よっていく?」
「よらない。正月明けまで考えるといっただろう」
「頑固者!」
それでも綾はうれしそうに村上にまとわりつき、大桟橋通りに村上を引っ張っていく。ひどく大回りであることはわかっているが、村上は黙って従った。
横浜スタジアムは常緑樹の緑に覆われて、空気がシンとしている。関内《かんない》駅に向かう人々がスタジアムの公園内を抜け道として使っているので、人通りはかなりある。
男も女も、綾と村上を盗み見る。村上は綾がしがみつくようにしているせいで、居直ることができていた。綾が躯を寄せていることは、村上の自尊心を満たした。
「今日の村上は、かっこいいよ」
「俺は変わらんよ。日雇いだ」
「でも、あたしがあげたフライト・ジャケットのせいで、けっこうファッショナブル」
「下は作業ズボンだぜ」
「これから、そういうふうに太腿のところにでかいポッケのついたズボンが流行《はや》るって」
ふたりは愚にもつかないことを囁《ささや》きあいながら、海に向かった。徐々に散策する観光客が増えていき、村上と綾はそういった人々に紛れこみ、溶けこんだ。
山下公園から見る海は埠頭《ふとう》や突堤のせいで波がさえぎられ、凪《な》いでいて、湖のようだ。吹きつける北風に、さざ波がたち、西陽がキラキラ跳ね返って揺れている。
「きれいね。風は冷たいけど、すごく穏やか」
綾の頬は冷たい潮風に赤く染まっている。髪は複雑に乱れ、その表情を隠す。村上は潮の匂《にお》いを胸に満たし、白い鉄柵《てつさく》に両手をつく。
「ここから港を出ていくと、北水堤灯台と東水堤灯浮標のあいだを抜けるんだ。山下埠頭からベイ・ブリッジの下を抜けるときは外防波堤灯台の北と南のあいだを抜ける」
眼を細めて、村上は教えた。できれば、もう艀《はしけ》には乗りたくないと思っていた。綾は村上の視線の先を見つめて言った。
「詳しいね。村上もあかいくつ号≠ノ乗ったの?」
あかいくつ号≠ニは、山下公園から出発する遊覧船だ。一時間ほどかけて港をまわる。村上は苦笑した。遊覧ではなく、仕事で、肉体労働で船に乗るという考えが綾にはないのだ。
追い立てられるようにして艀に乗せられるときは、奴隷船に乗せられるような気分だ。陸の上ではない、ということが、どんな気分をもたらすものか、綾には理解できないだろう。
初めはちいさく揺れるだけだ。しかしさきほど綾に教えたちいさな灯台や浮標のある突堤を抜けると、艀は波に弄《もてあそ》ばれるようになる。
荒れ模様のときは、板子一枚下は地獄などという時代がかった台詞《せりふ》が脳裏をかすめる。
陸上の仕事ならば、嫌になったら逃げだせる。しかし銀色をした、あるいは赤や黄色の警戒色に塗りわけられた無機的で巨大な石油コンビナートを左右に見つつ、幅が五〇〇メートル以上ある京浜運河をちっぽけな艀で行くとき、アンコたちは絶望というには大げさな、しかしちいさな溜息《ためいき》を洩《も》らす程度の不安と諦《あきら》めを覚える。
「艀に乗って……運河を行くんだ。恵比須《えびす》や大黒といったちいさな運河を行くときは落ち着いていられる。陸の延長のような感じだ。でも、京浜運河や鶴見航路は怖い。いまでも慣れないよ。
なまじ両側に石油タンクなんかが見えて、つい目測で距離を測ったりするもんだから、万が一沈んだら、泳ぎ着くだろうか、とか余計なことばかり考える。外海に出てしまえば居直ってしまうんだがな」
綾は海面を凝視した。小声で言った。
「あたしは横浜の港を観光客みたいにしか考えたことがなかった」
「別に責めているわけではない。おまえにはおまえの、俺には俺の生活がある。でも、知っておいたほうがいいだろう。ベイ・ブリッジに車を停めて夜景に歓声をあげているとき、その下の暗い海を、膝《ひざ》を抱えたアンコたちを乗せた艀が抜けていくことを」
綾は頷《うなず》いた。鉄柵に両手をついて彼方を見つめている村上の横顔に言った。
「あたしは、悪くないと思う。でも、ごめんなさいって言わなくてはならない」
「口にすると、かっこよくなっちまうが、その『ごめんなさい』がブルースにとっては大事なことなんだ。でも、人には言うなよ。いままでどおり、傲慢《ごうまん》に」
「あたしって、傲慢?」
「いや……」
村上は頭を掻《か》いてみせた。綾はふたたび村上の腕をとった。
「まだ早いから、港の見える丘公園に行こうよ」
「公園か……」
村上はいちおう渋ってみせたが、綾に従った。腕を組み、ガウディを想わせる有機的なオブジェで飾られた階段を登り、歩道橋を渡り、人形の家を抜け、高速道路の下を行く。
山下公園から港の見える丘公園まで、美しいタイル張りの長い歩道橋のおかげで、歩行者はいちども車道に降りずにすむ。綾と村上は高速道路下の歩道橋から中村川を覗《のぞ》きこんだ。濃緑色の水面には、幾|艘《そう》ものダルマ船が係留されている。
「初めて村上に会った晩、 『手も足も出ないダルマ船』って言ったんだよ」
「俺が、か?」
「うん。うまいこと言うなぁって感心した」
村上は首をかしげた。あの夜はひどく酔っていたので、綾と歩いたあたりの記憶はほとんど欠落している。村上は無人のダルマ船を愛しむように見つめた。
「……サチオってガキはどうしてる?」
「元気みたいよ」
綾は村上を促し、歩きはじめる。
「じつは昨日、楽器屋さんでばったり会ったの。あたし、睨まれちゃった」
「睨まれたか?」
「うん。親の仇《かたき》に会ったみたいな顔してた」
村上はちいさく吹き出した。
「どうしたの? そんなにおかしい?」
「いや、おまえの口から親の仇とはな」
綾は肩をすくめる。
「おかあさんがよく言うのよ。なにかにつけて、親の仇に……みたいな」
「楽器屋、か。立ち直ってるみたいだな」
「うん。元気、元気。サチオは田舎が九州だから。あの子はけっこうあれでハングリーなのよ。自活してるもの。あたしたちみたいにお金がなくなったら親に泣きつくってわけにはいかないみたい」
「地方出身者は強いのさ」
「そうだね。サチオはたしかにあたしたちと音楽の傾向は違っていたけれど、本気だったから」
「奴は楽器屋でなにしていた?」
「なんだか、すごく気になるみたいね」
村上は照れ、口のなかで、まあな……と呟《つぶや》いた。
「サチオは楽器屋のギター教室でギターを教えているの。エレクトリック・ギター科っていうのがあるのよ。でも、昨日はそれじゃなかったみたい。新しいバンドに入ったみたいよ。地元ではけっこう有名なクロスオーバーのバンド。
で、店長にアタッチメントとかを原価で売ってもらっていたみたい。あたしたちのときは、いっさいギターに機械をくっつけなかったけど、こんどのバンドはジャズ系のクロスオーバーだから、フェイザーとか、コンプレッサーとか、あのての機械を一式仕入れてた」
「そうか……よかったよ。あいつはテクニックを追求するタイプだから、ジャズ系のバンドはぴったりだ。よかった」
村上の肩から力が抜けていくのが綾にもわかった。村上は口のなかで、幾度も、よかった……と呟いている。綾は村上のやさしさに涙ぐみそうになった。この男を愛したことは、まちがいではなかった、と思った。
それぞれの夕陽
1
サチオは咥《くわ》え煙草でレスポールの指板に指をはしらせていた。松田はアルバイトがまだ終わらず、やって来ていないが、富山はシンセサイザーでベースのかわりにベースラインを演奏し、鹿島はツインのバス・ドラムを烈しく踏み込んで、それを補強している。
三人の演奏を聞きながら、アルト・サックスにリードをセットしていた坂口が、唇を舐《な》めながら立ちあがった。軽く滑らかなフレーズを弾いているサチオに近づき、顔寄せて演奏に負けぬ大声でいった。
「これじゃ、松田君、いらないじゃない」
松田とはベーシストだ。サチオは返事のかわりに弦を揺すり、二音ひと息にチョーキングした。アンプから飛びだした音は、ジミ・ヘンドリックスばりのプラスティックな音だった。
「あ、そういうこと、する? だったら、俺もやっちゃうよ」
坂口はところどころメッキが剥《は》げおちたセルマーのアルトを咥え、歌口の隙間《すきま》から大きく息を吸い込んだ。
マイクにかぶさるようにして吹く。でたらめに聴こえる。が、花嫁人形のメロディらしきものが流れ、すぐに皆ニヤついた。
ブロバリンを九十八錠呑んで胃に穴を開けて七〇年代の終わりに二十九歳で死んだ天才アルト奏者、阿部薫のフレーズだった。
テレビの深夜番組で阿部薫の特集があり、それをメンバー全員が見たのだ。そして坂口は阿部薫のLPを入手してきた。サチオはそのレコードを聴いたとき、胃に痛みを覚えた。ところが、他のメンバーは、笑いだした。
茶番だ、というのがサチオを除いたメンバーの結論だった。たしかに阿部薫のアルトは、うまいとはいいがたい。しかし、技術では辿《たど》り着けない境地というものがあり、実際にサチオは胃に痛みを覚えるほどの衝撃を受けたのだ。
坂口は阿部の真似をして吹きつづけている。サチオは迎合の笑いをうかべながら、考えていた。──村上が阿部薫を聴いたら、どのように評価するだろうか。
村上の指は満足に動かず、フレーズはぎこちなかった。しかし、ミス・トーンさえも音楽だった。阿部薫と村上。楽器こそ違うが、似ている。
サチオは首を左右に振る。ギターに専念する。このことに深入りするべきではない。考えすぎると、これから自分が演奏する音楽を否定しなければならなくなる。方向は、ひとつではない。真実は無数にあるのだ。
芸術であるとか、魂の音楽といった大仰な表現。いまやっている自分たちの音楽は、すこし高度なポピュラー・ミュージックだ。車のなかで、カー・ステレオで聴く音楽。ドライブが楽しくなる音楽。とりあえず、それで充分ではないか。
スタジオの防音扉が重々しく開いた。ギター・ケースを背負ったベースの松田が頭を掻《か》き、遅刻を詫《わ》びながら、入ってきた。
時間|潰《つぶ》しの冗談まじりの演奏は尻切《しりき》れトンボで終わった。バンドのメンバーは、松田がやって来たとたんに真顔になり、キーボードの富山がみんなに新しい曲の譜面を配った。
「ありがとう、富山ちゃん。キイをEbにしてくれて」
坂口が猫撫《ねこな》で声をだした。アルトで吹きやすいキイで曲を書いてくれ、と言いつづけていたのだ。
「それなら俺《おれ》、半音ずらしてチューニングしますよ。きっとおもしろい音になりますよ」
サチオが割りこんだ。富山は頷《うなず》いた。
「とりあえずやってみよう。松田、はやく音合わせしろよ」
「すいません。Aの音、ください」
富山がピアノで音を出してやり、松田は素早くベースをチューニングしながら言った。
「きれいな夕焼けでしたよ。天気予報は崩れるって言ってたけど、すごい夕焼け」
サチオはセーム・スキンで弦を拭きながら、故郷の夕焼けを思った。ペンペン草のはえたボタ山の背後で醜く膨らんで朱色に揺れる巨大な夕陽。サチオにとって夕陽は、けっして美しいものではない。
住宅の共同便所は水洗ではなかった。ときどき糞尿《ふんによう》に混ざって赤黒い血が染みた脱脂綿が棄てられていた。子供心にも禍々《まがまが》しい色彩だった。
綾も月に一度、あの赤黒い血を流すのだ。夕陽に似た色彩の、血を流す。
「いこうか」
富山が声をかけた。サチオは我にかえり、パイプ椅子《いす》から立ち上がる。鹿島がスティックをあわせ、カウントをだす。八分の六拍子、ハチロクの凝った構成の曲だ。
ベースとドラムスが絡み合うようにしてラテン・ビートのノリのいいリズムを刻む。坂口とサチオがユニゾンでテーマを演奏し、そこへ富山のキーボードがかぶさってくる。
それぞれがなかなかに達者な演奏をする。初めのうちは軽い音の交換をしているが、演奏が白熱してくると、お互いに切り込んでくる。挑発しあう。このメンバーには、それを可能にする技術がある。
サチオはイオニアとミクソリディアのモードを使い、素早いフレーズをコード進行に重ねていく。音があくまでも音である、純粋な音楽だ。そこには曖昧《あいまい》な感情のはいる余地など、ない。
やがて、陶酔が訪れる。うすく眼を閉じ、音をさぐり、一気に迸《ほとばし》らせる。
インドのシタール奏者ラビ・シャンカールは言った。 『音楽は神である』と。そしてインド音楽を取り入れて演奏したジャズ・サックス奏者ジョン・コルトレーンに注文をつけた。 『音楽とは、けっして、そのように粗野なものではありません』
音楽は人のドロドロした情念であるとか感性を表現する程度のものではない。もっと純粋に美しいものだ。神の境地の音楽。サチオは漠然と考えている。一生かかるかもしれない。いつかはそこへ辿《たど》り着きたい。
このバンドはたいしたものではない。しかし、第一歩としては悪くない。すくなくとも、自分を殺す必要がない。いままでサチオは回り道していたのだ。いまは不可能かもしれない。しかし、いつか、辿り着く。
そう念じて、張り替えたばかりの曇りのない弦の上を、ひと息に指先を滑らせる。鋭く、切れのいい音が鼓膜を震わせ、メンバーたちはサチオに注目する。サチオは我を忘れて、弾く。初めてギターを弾いた日のように昂《たかぶ》っている。
2
綾と村上は夕陽に瞳を細めながら、山下公園から続いている歩道橋を下りた。港の見える丘公園の入口が見渡せる。浮浪者がふたり、ベンチに座り、カップ酒をまわし呑みしている。
だれもが浮浪者を盗み見て、さりげなく無視をする。村上だけがまっすぐ浮浪者を見た。
前を行くアベックの会話の断片が聞こえ、レゲェのおじさんといった台詞《せりふ》と息をころした笑いが綾の耳に残った。
浮浪者と村上の視線が合った。浮浪者たちは一瞬真顔になったが、すぐに視線をそらした。
村上と綾は無言でフランス山の山道を登りはじめる。途中で、村上はおおきく息をついて遅れだした。綾は立ち止まる。
「息切れが、ひどい」
「情けないなあ、村上は」
村上は苦笑をかえす。あたりは鬱蒼《うつそう》とした常緑樹に囲まれて、もう夜の気配が漂っている。緑の匂《にお》い、土の匂い。そして夜の匂いと綾の匂い。村上は呼吸を整えた。
発情していた。村上は自分が昂っているのを驚きをもって見つめた。ここ数年は、性欲自体が減退していて、せいぜい週に一度、たまったから放出する、といった個人的排泄行為に終始していた。
最高の女は、男の生命力をも高めるのか。そんなことを考えながら、村上は綾に発情とそれに付随する肉体的変化を悟られぬようにした。そのせいで、歩行はぎこちなくなった。
「どうしたの?」
不審に思った綾が覗《のぞ》きこむ。村上は視線をそらしたが、すぐに居直った。あたりに人がいないことを確認して、綾の手をとる。股間に誘導する。
綾と村上の視線が絡みあう。綾は少々あきれたように苦笑し、すぐに悪戯《いたずら》っぽく村上を見つめる。
「絶倫パパ」
村上は顔をしかめる。自分をもてあましている。
「信じられない。あんなにしたばかりなのに、カチカチじゃない」
綾は村上の手を引く。
「どこへ行く気だ?」
綾は答えず、山道をはずれ、木々のなかに入り込む。
枯れ葉や枝を踏みならし、道からかなりはずれた斜面に村上を連れていく。
綾が斜面の窪《くぼ》みに腰を下ろすように促すと、村上はいきなり綾にむしゃぶりついた。強引に荒れた唇を押しつける。
ふたりは無言で揉《も》みあう。口をふさがれた綾は息ができず、暴れる。村上の歯があたった。綾は唇を切った。血の味に怯《ひる》んだとたん、綾は完全に押し倒された。頬に村上の不精髭《ぶしようひげ》が刺さる。
かろうじて唇をはずし、綾は怒りの声をあげる。
「もォ! あたしはその気がないんだから」
村上はかまわず左手でセーターの上から乳房を握り、右手は腰から滑らせて、尻にあてがう。
尻にあてがわれた右手は、背後から執拗《しつよう》に綾の内股をさぐる。指先とジーンズのコットン地が擦れるせわしない音。
「やめろよ。強姦《ごうかん》で訴えるぞ。あたしはもうだめなの。村上の棺桶《かんおけ》で、充分いっぱいになったの。もう、欲しくないの。これ以上したら、苦痛になるだけ」
「苦痛……」
「そう。痛くなっちゃうよ。あたしはけっこう淡白なんだから。週に二度くらいがベスト。村上には付き合いきれないよ」
囁《ささや》き声で言い、綾は切れた唇に舌を這《は》わす。血の味を確かめる。村上は不服そうな声をあげる。
「なぜ、こんな場所に誘った?」
「それは、村上を楽にしてあげようと思ったからよ」
綾は血を舐《な》めながら、村上の作業ズボンに手をかける。ジッパーをおろす。村上はみじめに萎縮《いしゆく》していた。綾は上眼遣いで村上を見つめ、腰を抱く。村上を育てる。唇をはずす。
「ほんとうに、元気がいいぜ。ここだけ別人みたい」
投げ遣りな口調と裏腹に、愛《いと》しげに頬ずりする。充分育ったことを確認して、ふたたび含む。村上は綾の口のなかにいっぱいだ。
村上は、上下する綾の表情を盗み見る。
いままでに見たことのない綾の妖《あや》しさに、村上はぎこちなく喉仏《のどぼとけ》を鳴らす。このような行為の最中も、綾には不潔感がなかった。
村上は終わりが近いことを綾に告げた。いつのまにか夜がふたりに絡みついていた。
3
さすがに躯《からだ》が重かった。酷使したせいで付け根に鈍い痛みが残っている。綾のマンションに寄ろうとしないで、こうしてコトブキに律儀に戻ってくる自分が、滑稽《こつけい》にも思えた。村上は、激しい空腹を覚えていた。
初めて女の躯を知った十代には、幾度かこのように酷使したことがあった。この歳《とし》で十代と同様のことをしでかすとは思わなかった。
悪い気分ではなかった。めずらしく切実な空腹を覚えていることも、なんとなく自分が生きている、ということを実感させて村上の口許を綻《ほころ》ばせる。
いつもと変わらぬコトブキだ。仕事から戻ったアンコ達で自棄気味な活気が溢《あふ》れている。村上はメイン・ストリートから左右の路地を、見るとはなしに覗《のぞ》いていく。
村上に声をかけ、挨拶《あいさつ》する者もいる。コトブキに流れて、幾年たったことか。いつのまにか、それなりの顔になっていた。
ヤクザ者も、そして手配師も、村上が仕事ができる男で、本人はやりたがらないが、やらせればアンコ達の中心に立って監督ができるということで、その他大勢とはあきらかに態度を変える。
「ねえ、村上ちゃん。テントの仕事、あるのよ。突貫でさ、正月のイベントなんだけど」
「沖さん、俺、もう稼いだんだ。正月明けまで働く気はない」
「スラッジだろ。徳山さんが村上ちゃんを大切にしてるのは充分わかってる。でも、俺んとこもすこしは力貸してよ。俺が指図できればいいんだけど、他にも仕事あるからさ。ねえ、頼むよ」
「アンコだけなら、考えないでもないけど、どうせ学生も来るだろ」
手配師は愛想笑いで言う。
「来ないって。セイガクは冬休みで故郷帰ってお年玉」
村上は曖昧に肩をすくめる。テントとは、鉄骨を設計図にしたがって組み立てて、それに特注の大型テントをセットする大仕事だ。キャンプのテントとはわけが違う。収容人員が百人を越すビル並みの巨大なものもある。
鉄骨は、ボルト締めで組んでいく。そのときに指でも挾めば、それこそ粉になってしまう。村上の仲の良かった男が、仕事のできない学生アルバイトに腹を立て、自分ひとりで作業して、親指を粉にした。ほんとうに鉛色の鉄骨の隙間《すきま》から、白い骨の粉が出てきたのだ。
「もう日にちもあまりないだろう」
「そうなんだよ。一月一日からだからさ。困っちゃってるんだ。大きな声ではいえないけど、村上ちゃんが案配してくれるなら、三万五千、いや七千払うよ」
日給三万七千は悪くない。監督待遇だから、他の日雇いやアルバイトに指図して、プレハブのなかで石油ストーブにあたっていればいいのだ。要は正月一杯でテントを張りおえればいい。
「指でも粉にするか」
村上が呟《つぶや》くと、手配師は顔をしかめた。
「保険屋は、親指で三百万くらい払うそうじゃない」
「やめなよ、村上ちゃん。冗談でも、やめなよ。俺は血が嫌いなんだ。親指|潰《つぶ》したって、百万ももらえないよ。潰し損だよ」
では、差引き二百万は誰が手にするのだろう。村上はそこに触れずに言った。
「それって、俺を心配してくれてるわけ?」
手配師は照れた。村上に煙草をすすめた。
「他の奴、探すよ。村上ちゃんなんかあてにしない」
「なぜ? 沖さん、拗《す》ねてんのか」
「学生は冬休みだろ。劇団がバイトで来るし」
村上は舌打ちし、煙草の煙を吐く。
「劇団か」
「そう。劇団」
劇団とは新劇の俳優や裏方のことだ。演劇では食えない連中は、女は水商売、男は肉体労働と相場が決まっている。あきれたことに中堅の劇団員が間にはいり、同じ劇団員を相手に電話一本で手配師をして、仲間の日当をピンはねしていることもままある。
「奴らは口ばかりで、仕事をせんからな」
村上が呟くと、手配師は頷《うなず》いた。学生と違って劇団員はすれていて、じつに仕事をしない。そのうえ、妙なエリート意識をもち、芸術家ヅラして、口だけは達者だ。
「人手があるなら、劇団なんか相手にせんけどね」
手配師は呟き、村上から離れていった。村上は路地に消えていく手配師を見送り、歩きはじめた。
騒ぎがおきていたのは、杉村荘の近くの路地だった。村上は直感した。喧嘩《けんか》だ。
駆けだすのも大人げない気がした。わざと歩く速度をおとした。
路地は人だかりがしていた。村上は軽く背伸びして覗《のぞ》き込んだ。よく見えなかったはずだ。道路に転がった男の顔を片足で踏んでいるのは背の低い徳山だった。
徳山は村上に気づいた。片眼をつぶってウインクした。ぎこちなかった。ひきつけをおこしたように見えた。
「徳山さん、上機嫌だな」
「まあね。飯まえの運動にはちょうどだよ」
道路に顔を押しつけられて荒い息をしている男は、見たことがない顔だ。相当殴られたのだろう、眼球が出血していて、白眼が真っ赤だ。鼻血もひどく、顔半分は泡立つほどの出血でぬめぬめ光っている。
「どうしたの、こいつ。新入りみたいだけど」
村上が訊《き》くと、徳山は男の顔から足をはずした。
「こいつ、警官崩れ。巡査部長様だよ。サラ金で署をやめさせられたの。車券狂いだってさ」
野次馬のなかから、まくれー、と競輪場なみの掛け声があがった。笑いと嘲《あざけ》り。男は意識はあるが、虚《うつ》ろな表情だ。どうやら競輪に狂ってサラ金で金を借りまくったあげく、動きがとれなくなって警官をやめ、コトブキに堕《お》ちてきたらしい。
めずらしいことではない。教師、警官。抑圧を溜《た》めこむ職業の者が堕ちてくることはままあるのだ。
徳山は急所をはずして、顔面に蹴りをいれた。男は顔を両腕で覆い、烈しく噎《む》せ、泣いた。
「頭悪いんだ、こいつ。コトブキにきても、刑事ヅラしやがってさ。俺のことはGカードで全てわかってるなんて大口|叩《たた》くんだもん」
「なに? Gカードって」
「極道カードのことだよ」
村上は失笑しながら、訊きかえした。
「極道だから、Gなの?」
「そう。個人カードってやつ。本籍から生年月日、組の名前や、前科、地位、刺青《いれずみ》の有無、小指の有無まで書いてあって、写真が付いてるの。俺にはプライバシーなんてないわけよ。刑事課にはありとあらゆるデータがあるんだ」
村上は腰をかがめて泣いている男に言った。
「おまえ、徳山さんにこうされてよかったよ。他のところで余計なこと言って、みんなにフクロにされたら、きっと死んでるよ」
こんな奴、マグロにしちまえばいいんだ、と声があがった。村上は頷いた。
「ここへ来たら、過去は関係ないんだ。それなりに扱われるのは、お医者さんだけ。よく覚えておきな。警官なんて、最悪の目だよ。二度と口にするな。おまえが今まででかいツラできたのは、国がついてたからだよ。勘違いするな。まあ、これだけ血を流したから、とりあえず中村川に死体で浮かぶことはないだろうが」
村上は顔を上げ、徳山を見つめた。村上は知っていた。徳山は情報提供者として、警察に重宝がられ、大切にされているのだ。そのことを知っているこの元刑事に、こうしてさりげなく沈黙を強制しているのだ。
これで、徳山に対して妙な噂《うわさ》が立てば、この男は死体になるだろう。村上はふたたび男に向かって言った。
「わかるだろう。過去は忘れろ。すべて、忘れろ。そして、喋《しやべ》るな。あんたみたいな立場の者がここで生きていこうと思ったら、とりあえず、沈黙、だ」
「村上ちゃん、しっかり仕切っているじゃない」
徳山が冷やかした。村上が苦笑すると、徳山は含みのある笑顔をかえした。徳山は瞳で礼を言っているのだ。
男は地面にうつ伏せになったまま、啜《すす》り泣いている。徳山は顎《あご》をしゃくった。野次馬たちは散っていき、村上は忘れていた空腹を思いだした。
「じゃ、徳山さん」
「待ちなよ、村上ちゃん。来年だけど、一月十五日から、乗る?」
村上はしばらく黙った。まっすぐ徳山を見つめて言った。
「俺、もう、リタイアするよ。船には乗らない。スラッジからは足を洗う」
「──村上ちゃん、俺のことが心底嫌になったのか?」
「そう。徳山さんは最悪だよ」
「きついよな。むかしから村上ちゃんは、時々、誰も言わないことを口にする」
村上は微笑しそうになったが、それを押しとどめた。徳山は残りすくない髪を神経質そうにいじり、怨《うら》みがましい眼で村上を見た。以前の殺気はみられない。徳山と村上のあいだには、ある馴《な》れ合いがあった。
「徳山さん、煙草、あるか?」
黙って徳山は洋モクのパッケージごと差し出す。村上は一本口に咥《くわ》え、もう一本を耳にはさんだ。
徳山はマッチをすり、反りかえるようにして村上の口の煙草に火をつけた。火をつけてから徳山は、怒った声で言った。
「態度、でかいよ。村上ちゃんは背が高いんだから、火をつけるときくらい、腰をかがめろよ」
「なあ、徳山さん」
「なに?」
「俺……まだ決心がついたわけじゃないが、たぶんギターを弾くよ。タンカーからは、リタイア、だ」
徳山は顔を横にむけ、醒《さ》めた声で呟いた。
「ということは、コトブキからもリタイアだ」
村上は考えこんだ。小声で言った。
「俺、ここが嫌いじゃない」
「なに言ってるの。綾とバンドをやるんだろ。好きとか嫌いじゃなくて、こんなところにはいられないよ」
「じゃあ、徳山さんはなんでこんなところに住んでいる?」
「組事務所の俺の部屋を覗《のぞ》いたことある?」
「いや、山野興業にはできれば顔を出したくないから」
「俺、いちおう専務なのね。組だから水牛の角が飾ってあったり、提灯《ちようちん》があったりして垢抜《あかぬ》けないけど、けっこう立派なもんだよ」
「山野興業は不動産経営もしてるはずだ」
「そう。綾の住んでるワン・ルームは俺が世話したの」
「なぜ、コトブキに住んでいる?」
「住もうと思えば、億ションにだって住めるよ、俺は」
村上は煙草の煙を吐いた。ニコチンのせいで、いくらか空腹が抑えられる。
「ちょっと厭味だよ、徳山さんは。夜になると、コトブキに帰ってくるけど、そうしなければならない理由がないぜ」
「でも、俺は、コトブキで生まれ、育ったんだ。小学校にも行ってないけど、コトブキは学校だったよ。横浜の街も学校。口にすると嫌らしいけどね。まあ、なんとなく離れられないんだ」
「徳山さんはコトブキで生まれ育ったのか……」
「生粋のコトブキっ子よ。中村川で産湯を使いってところか」
「──悪くないな」
村上は呟き、まだ地面に転がって嗚咽《おえつ》している元刑事の脇腹を軽く蹴った。
「腹、減ったな」
徳山が独白した。村上は顔を勢いよく向けた。
「じつは、俺も死にそうなんだ」
徳山はしばらくためらい、小声で言った。
「俺の部屋に来るかい? 食事も、酒もある」
「犯されちゃたまらんからな」
思わず口を滑らせて、村上は緊張した。徳山は淡々とした表情で答えた。
「いま、いっしょに暮らしている相棒がいるから」
「──徳山さん、すまない」
「気にしないで。ノンケの奴に迫るほど垢抜けない男じゃないつもりさ」
徳山はしゃがみこみ、元刑事のポケットに幾枚か札をいれた。
「サツに札やるの。なんてね」
徳山は駄洒落《だじやれ》を言い、自分で首をかしげた。
「つまらん洒落は、よしなしゃれ、なんちゃって」
徳山の部屋は、二間に台所があるドヤのなかでも最上の部屋だった。とはいえ、一般のアパートからすれば、今時こんな部屋……といった程度のものだ。
靴下が臭うので、村上は遠慮がちに部屋に入り、けっきょく軍足を脱ぎすてた。二間続きの奥の部屋から、小柄な男が顔を出した。
「健ていうんだ」
徳山が紹介した。村上は上眼遣いで、両手に包帯を巻いた男を見つめた。
「驚いたな」
健は、光栄丸の船上で、崔《さい》をタンク内に送りこもうと挑発する徳山に楯《たて》突き、日本刀を突きつけられ、思わず刀身を握ってしまい、指を切断されてしまった、東北|訛《なま》りのある彫りの深い顔だちの若者だった。
「──具合は、いいのか?」
村上が問いかけると、健は自嘲《じちよう》気味に笑い、呟いた。
「なんも、なんも……」
「東北弁、けっこう使うんだ、こいつ」
徳山が横から言った。村上は微《かす》かに血が滲み、茶色く変色している包帯を盗み見た。
「意外だったよ。驚いた」
「俺たち、うまくやってるよ。なっ」
徳山は健の肩を叩《たた》き、健は苦笑をかえした。村上は徳山と健の夜を想い、くすぐったい妙な気分になった。いつからこうなったのか訊こうと思ったが、口まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「健ちゃん、ごめんよ。ちょっとゴタゴタがあってね。おいしい寿司、つくるからさ。しばらく村上ちゃんの相手、しててよ」
徳山は台所に立った。村上と健はなんとなく照れて、あぐらをかいて畳の上に座りこんだ。お互い咳払《せきばら》いして、健が包帯でぐるぐる巻きにされた不自由な手で煙草をすすめた。
村上は徳山からせしめた、耳に挾んだ洋モクを示し、健のすすめた煙草を断った。躯を寄せ、健が咥《くわ》えた煙草に火をつけてやる。
「徳山さん、寿司職人やってたことがあるんだって」
「板前してたってのは、聞いたことがあるけどな」
「寿司も握れるんだって」
村上は頷《うなず》き、部屋のなかを見まわした。
「きれいにしてるな」
「徳山さん、すごいきれい好きなんだ。毎日掃除する。散らかしてると、本気で怒るんだ」
「けっこう、細かい親父だからな」
村上が小声で言うと、台所から徳山が大声をだした。
「聞こえてるよォ、村上ちゃん」
4
綾はビデオをセットした。日本では発売されていないので、米軍属である父に頼んでアメリカから取り寄せてもらったTHE SEVEN SAMURAI……黒澤明の七人の侍≠フ二巻組だ。
アメリカのビデオなので、英語の字幕がはいっている。綾は画面に見入る。殺陣《たて》のスローモーション・シーンなど、サム・ペキンパーが露骨に真似をしていることがよくわかる。
パート・ワンが終わった。綾は一息に見てしまうのが惜しくなり、電源を切った。
綾は時代劇が大好きだ。深夜のテレビで市川雷蔵の映画がある日は、朝から落ちつかない。雷さま命、と日記帳に書いたこともある。
村上と一緒にビデオを見る。時代劇を見る。眠狂四郎 =B雷さま素敵……。すると村上は嫉妬《しつと》する。雷さまの写真集だって持っているのよ。すると村上は、不機嫌になる。煙草をふかし、貧乏揺すりする。
綾はそんな空想をして、微笑した。溜息をついた。
口のなかにひろがった苦い味。村上の味。綾の喉《のど》を突きそうになった村上。綾の口をいっぱいにした村上。
呑み込んだのは、初めてだった。他の男に対しては、触れることさえ、ある不潔感と、抵抗があった。
それなのに、村上は愛《いと》しい。独占したい。
綾はもういちど溜息をついた。これから先、たぶん嫉妬して困らせるのは、綾のほうだ。綾がいくら雷さま命と口走っても、村上は微笑《ほほえ》んで、かるく受け流すだろう。
木々のなかで村上の硬直を解きほぐす行為をして、フランス山の展望台から横浜の街にかぶさるようにして沈んでいく夕陽を見た。凄《すさ》まじい朱色だった。
閉じた綾の瞼《まぶた》の裏で、夕陽が揺れる。港の見える丘公園から外人墓地に抜けた。完全に陽が沈んだ外人墓地で、綾は村上を抱きしめるようにして、強引にきつい接吻をした。村上は照れたが、綾は村上の唾《つば》を思い切り吸った。こんな狂おしい気持ちは初めてだ。綾は自分の内部に湧きあがる熱いものに、呆然《ぼうぜん》とする。初めて、男を、好きになった。
5
「へえー」
と、村上は感嘆の声をあげた。徳山は得意そうに村上と健の前でマグロを握った。 「近海ものは秋から冬が一番なんだ。これは三陸沖でとれた奴。知り合いの寿司屋から特別にわけてもらったんだから。さ、乾かないうちに食べて」
シモフリと呼ばれる貴重な大トロだった。村上は口にするのは初めてだ。徳山は手ずから健に食べさせてやる。くすぐったい光景だ。村上はふたりを見ないようにして握りを口に運ぶ。
これで酒があれば言うことはないが、徳山は寿司の味がわからなくなるから酒はあとだ、といって玉露の粉茶をいれた。
「昔はね、獲れすぎると肥やしにするほどの下魚だったんだよ、マグロなんてのは」
徳山は蘊蓄《うんちく》を傾けながら、赤身を食べる。歳《とし》をとると、トロなど見たくもない、と言うが、要は通を気取っているのだ。微笑《ほほえ》ましい。村上はさりげなく苦笑する。
「本マグロは回遊魚だからね、三陸沖で獲れるマグロも、ロサンゼルス沖で獲れるマグロも全く同じものなの。太平洋をグルグルまわっているんだ。だからロス沖のマグロって寿司屋が言ったら、最高のものをだしてるってことだからね。その店はなかなかだよ。……健ちゃん、おいしいかい?」
村上は咳払いしたい気持ちをどうにか押しとどめた。なんともくすぐったく、落ち着かない。微笑ましくもあるが、躯《からだ》が痒《かゆ》くなりそうだ。
徳山はそんな村上の思いを知ってか知らずか、甲斐甲斐《かいがい》しく健の面倒を見ている。健も、悪い気分ではないようだ。適当に駄々をこねて、適当に徳山に手を焼かせ、適当に迎合してみせる。
さすがにマグロばかりでは食傷ぎみだが、村上は満腹した。酒は外で飲むことにした。礼を言って立ちあがると、徳山があわてて村上を追った。
「凄《すご》かったね、今日の夕陽は」
「凄かった。あの夕焼けの色は、火山の爆発のせいで、大気に塵《ちり》がたくさんあるせいだって聞いたけど、なんだか不安な色だった」
「俺は、ああいう色、好きだけど、村上ちゃんは嫌いなんだ?」
「嫌いじゃないが……」
村上は曖昧《あいまい》に首をかしげた。徳山は離れがたそうに村上を見上げる。
「徳山さん、ごちそうさま。あんなに立派なマグロを食ったのは、生まれて初めてだよ。そうだ、あの夕焼けの色は、徳山さんが食べていた赤身の色だ」
「そうかな……」
「そう。そっくりだ。空一面、マグロの赤身」
村上はめずらしくおどけた口調で言い、あっさり背を向けた。徳山は路地に立ち尽くし、村上を見送った。村上の後ろ姿は、すぐに夜に溶けた。
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第四章 檻《おり》の中の檻に繋《つな》がれて
棺桶から棺桶へ
1
ちいさな、ちいさな、茶色の点だ。綾の内腿《うちもも》、静脈の透けてみえるあたりにへばりついて、動かない。
横たわった綾。乳房が心臓の鼓動をつたえ、かすかに律動している。
内腿とおなじように、白い手首に複雑に絡んで透けてみえる蒼《あお》い糸も、心臓の鼓動にあわせて正確なリズムを刻んでいる。
喉仏《のどぼとけ》がちいさく上下した。わずかに呼吸がはやくなったかもしれない。
着痩《きや》せする躯《からだ》だ。横たわった綾は充実していた。無駄がない。すばらしい艶《つや》だ。選ばれたものなのだ。神が調合して絶妙に混ぜあわせた黄、白、黒、三つの血。
綾の躯、とくに尻や腰をなめらかに、つややかに、誇るかのように締めあげているのが黒い血だ。裸体を凝視すると、それがよくわかる。
腰のくびれが、妙に切なさを感じさせる。脆《もろ》い。無駄がなさすぎる。しかし、なめらかな腹筋は、女という性を凝縮して村上の視線をはねかえす。節制し、自分を律していることがよくわかる腰つきだ。
細く、柔らかく、滑らかに密生している下腹の絹糸に意識を集中する。隙間風に幽《かす》かに揺れたような気がする。この奥に、村上の理性を狂わせる美しい傷口がある。
村上が凝視するなか、茶色い点は、綾の血で丸々と膨らんだ。
綾は眼を閉じている。初めて会ったときは気づかなかったが、鼻柱から頬にかけて、微《かす》かにソバカスがある。
あの夜は濃いめのアイ・メイクをしていたが、今日はかるくラインをひいただけで、唇には艶《なま》めかしい光沢がある。
その裸体は、汚れて灰色っぽく変色したシーツの上でも輝いている。村上は改めて感嘆する。夜とは別の美しさに唸《うな》る。
──綾がふるえた。腕や太腿に鳥肌がたつ。
茶色い点が逃げる気配を見せた。
村上は大きく右手をふりかぶる。
パシッ!
綾の内腿は、締まった小気味良い音をたてる。
あわてて綾は両足を閉じた。
村上の右手は、ぴっちり閉じられた綾の太腿にはさみこまれた。綾はなぜ内腿を叩《たた》かれたのか理解せず、驚愕《きようがく》の瞳を見ひらいている。
『蚤《のみ》がいるんだ』
村上が呟《つぶや》いた。
『蚤?』
『血を吸われたのは初めてか?』
綾はちいさく頷《うなず》き、もういちど、
『蚤』
と、口のなかで呟いた。村上をじっと見つめる。
綾の瞳は霞《かすみ》がかかったように潤み、村上の表情は弱々しく歪《ゆが》む。
「──霙《みぞれ》か」
村上は薄っぺらな布団を躯に巻きつけなおし、綾の内腿を叩いたはずの右手だけそっと布団の外にだす。
掌に綾の血。そっと舐《な》める。
血とはべつの、苦っぽい塩味が拡がった。垢《あか》と汗。そして汚れだ。舌先は荒れた豆だらけの掌に触れた直後、硬直し、村上は眼を閉じた。
『喰われたのは初めてか?』
『はい』
綾は真顔で頷く。綾の太腿にはさみこまれた村上の中指が、綾の隠された扉の端に触れている。このままそっと傷口に指を挿し入れても、綾はじっとしているだろう。
村上の手は綾の体温を奪い、汗ばんでいく。しかしセンベイ布団の上に無防備な裸体をさらしている綾は、唇が紫色に変色しはじめている。
『寒いか?』
『──すこし』
綾は大きくふるえた。村上は綾の内腿から右手を抜く。綾の顔の上に掌をひろげる。
『どうだ?』
『血、かしら?』
『そう。おまえの血だ。おまえの血を吸った蚤は、俺が叩きつぶした』
まわりくどい台詞《せりふ》を吐いている、と思った。瞬間、夢の続きの妄想《もうそう》は瓦解《がかい》した。
たったひとり。棺桶《かんおけ》型の空間。もういちど掌を舐めてみる。
垢の味だ。
村上は苦く笑う。現実を追体験しているかのようで、現実を微妙に修正している、だからこそ現実との落差が大きく烈しく、やるせない夢だ。
村上は掛け布団を頭からかぶる。躯を丸める。微《かす》かにうめく。
欲しい。綾の躯が欲しい。ひたすら抑えて、自分の気持ちを偽って、孤独を愛しているふりをして、孤独を受け入れて、高みから下界を嘲笑《あざわら》ってきた。
村上は蚤だ。蚤になるべきだ。綾の内腿にへばりついて黒茶に膨らんだ蚤をぼんやり見つめるのではなく、蚤のようにきつく太腿を噛めばいいのだ。そして血を吸い尽くす。
待ち焦がれている。正月明けまで、などと言っておきながら、気も狂わんばかりに綾を待ち焦がれている。綾がこの棺桶を訪れることを祈っている。そのくせ、自分から綾のマンションを訪れる決心はつかない。
「俺は……いつだって、恰好いい」
村上は独白して、うつ伏せになり、張り裂けそうな胸を両手で押さえた。
隣室から、ラジオの音が聞こえてくる。早朝の、宗教番組だろう。
──兄弟たちよ、光栄の主キリストの信仰において、人に差別をつけるな。あなたたちは集会のとき、金の指輪をはめ、派手な服を着た人がはいってきて、それにまた、汚れた服をつけた貧しい人がはいってきたとしよう。あなたたちが、その華やかな服を着た人を重んじて『あなたはこの良い席に腰掛けてください』と言い、また貧しい人に『あなたはそこに立っているか、それともわたしの足台の下に座りなさい』と言ったとすれば、あなたたちは自分のなかで差別をつけ、悪い考えで人を裁くことになるのではなかろうか……これは聖ヤコブの手紙、第二章の冒頭の部分です。みなさん、この教えを聴いて、どのように感じられましたか? おそらくは、誰もがこれを当然の教えであると感じられたであろうと思います。ところが、みなさん。現実に良い席に腰掛けるものは、つねに金の指輪をしているのではないですか……
村上は癪《かんしやく》をおこしかけた。壁を叩《たた》こうとした。それを感じたかのように、隣人はラジオのダイヤルを回した。ニュースがながれてきた。
女のアナウンサーが、うわついた早口で、今日十二月二十八日が官庁御用納めであることを告げた。
つづいて、日雇いにはもっとも切実な情報である天気予報が始まった。夜半の雪が、霙に変わったことを告げている。午後になっても小雨が降り続くらしい。
昨日の夕焼けは、なんだったのか……村上は、鮮やかすぎて、黒ずんで感じられるほどの夕陽を思いかえし、溜息をついた。
隣人は天気予報の途中でラジオを切った。今日は一日、フテ寝する気だろう。
早朝の喧騒《けんそう》がなかったわけだ。宿《ドヤ》代のない連中は、氷まじりの雨をどこの軒下で避けているのだろう。
横浜スタジアム。公衆便所。勤労会館。文化体育館。山下公園の売店。村上は思いつくまま雨風をしのげる場所を列挙して、馬鹿らしくなった。
だんだん気落ちしてくる。こんな霙の日。綾がやって来るわけがない。
天井の蛍光灯を睨《にら》みつける。失いたくないものができてしまったことを、呪う。
自炊する者たちが、声高に喋《しやべ》りながら廊下を行く。鍋《なべ》や食器の音がうっとうしい。
ドアがノックされた。
跳ね起きる。唾《つば》を呑《の》み、しかめっつらをつくり、布団の上に座りなおす。
「──開いてるぜ」
「すまんね、犬山さん。コイン、貸してくれんかね」
村上は舌打ちした。こんな朝早くから綾がやって来るわけがない。
「ほら」
「百円玉じゃ、だめさ。コンロに使うんだから」
「うるせえ。誰かに両替してもらえ」
老人は黄色い乱杙歯《らんぐいば》を見せて笑う。
「正月の宿代はできたかい?」
村上は布団の上に転がって答えない。
「いやね、さっき覗《のぞ》いたら、寄せ場で集まってやがるからさ。こんな年の暮れにニコヨン、あるわけないじゃない。ねえ」
「──俺は爺《じい》さんにずいぶん貸してるなあ」
「すまんと思っとるよ」
老人はさっとドアを閉めた。
村上はまた布団にもぐりこんだ。うつらうつらした。
2
ふたたび、綾の裸体。うつらうつらしながら、妄想《もうそう》は膨らんでいく。
綾はどこか怯《おび》えている。村上にすがるような眼差しを向ける。村上は綾の躯に手を伸ばす。
『やさしく……して』
村上は綾の訴えを無視して、強引に両足首を掴《つか》む。広げる。眺める。
綾は泣きそうに顔を歪《ゆが》める。足首を握った村上の手の甲には、血管が浮きあがっている。綾に加えられる力には、加減がない。綾は消え入るような声で苦痛を訴える。
『うしろを向け』
命じる村上の声にはサディズムの気配が漂う。
村上は綾を四つん這《ば》いにさせて、綾を穢《けが》していく。綾は逆らいきれず、村上のなすがままとなる。
『おまえは、俺のものだ』
村上は背後から綾を犯す。綾はちいさく苦痛の呻《うめ》きをあげる。
雨。そして風。地面が大きく揺れた。村上は綾を突きあげながら、周囲に視線をはしらせる。
アンコ達が綾を犯す村上を見つめていた。無言で見つめていた。
徳山が腕組みして、真ん中にいる。
時化《しけ》だ。喘《あえ》ぐ綾の顔に波|飛沫《しぶき》がかかる。綾はそのせいで呼吸困難に陥る。
村上は動きを止め、アンコや徳山の視線を意識しながら、綾の背に上体をかぶせた。
綾は首を捩《ね》じ曲げ、村上を見た。村上は顔を寄せる。唇を近づける。
『舌をだせ』
綾は強風に髪を顔中にまとわりつかせながら、かろうじて舌をつきだす。
村上は綾の舌を吸い込んだ。きつく絡ませた。
光栄丸は軋《きし》み、悩ましげに船体をよじった。
白く崩れる三角波。波は風に煽《あお》られて、繋《つな》がっている村上と綾に天から降りかかる。
綾は必死に村上の唇を吸い、舌先を絡ませる。
村上は甲板を濡《ぬ》らす雨と波、そこに浮いた油脂の七色に光る縞《しま》模様を凝視する。
潮辛い接吻だ。綾の顔が大きく歪む。
『おい』
綾が硬直する気配が伝わった。
『くるしいのか』
綾は答えない。
『船酔いか?』
綾は両手両足を甲板について、村上から顔をそむけた。
村上は再び動きはじめる。
くっ
吐息。村上はハッとする。
くっ
動きを止めても、吐息はやまず、村上は自分が犯している骨ばった痩《や》せた尻を呆然《ぼうぜん》と見つめる。
『なぜ、みんな、我慢するんだ?』
うわずった囁《ささや》き声で、唐突に崔《さい》が言った。狼狽《ろうばい》気味に村上は問いかえす。
『なんのことだ』
『なぜ、わずかな金のために、こんな命を売るような仕事をする?』
村上には答えようがなかった。かろうじて言った。
『強制されたわけじゃない』
『嘘だ。それは嘘だよ、村上さん。強制されているんだよ。そういうシステムになっているんだよ』
村上は絶句し、崔の尻から自分を外そうとあがく。
綾はどこへ行った? 狂ったように周囲に視線をやり、アンコ達の冷たい眼差しと、ニヤニヤ笑いを浮かべている徳山にうなだれる。
時化《しけ》の東シナ海。生暖かい強風、吐瀉物《としやぶつ》の臭い、スラッジの臭い。尖《とが》って崩れる波、まばらでしかし大粒な横殴りの雨。揺れる光栄丸。全裸の崔、全裸の村上。男同士で繋がって、甲板で愛しあう。
『崔! いいかげんにしてくれ! 俺を解放してくれ! いいかげんに俺を解放してくれ!』
村上は叫ぶ。ほとんど泣き声だ。
徳山が近づいた。ニヤニヤ笑ったままだ。
『汚いよ、村上ちゃんは。自分だけ楽しんでさ。俺だって、友達の輪に入りたいよ』
作業ズボンのベルトをカチャカチャいわせて、徳山が村上の腰を両手で掴《つか》む。
下半身だけ裸になった徳山。妙に白い、真新しいブリーフが甲板に投げ棄てられている。
『いくよ、村上ちゃん』
激痛。村上は徳山に犯された。
『おい、小僧、俺を犯すんだ。早く! よし。うまいよ、小僧もすてたもんじゃない。どうだ? 小僧。村上ちゃんはおまえを犯し、おまえは俺を犯し、俺は村上ちゃんを犯している。平等だろう? これなら文句はないだろう。おまえたちアカの理念にもぴったりだよ。三連|数珠《じゆず》つなぎってやつさ。いいか、合わせるんだ。勝手な動きは、平等の理念に反するからな。三連数珠つなぎこそ、究極の、完成された、共産主義さ。マルクス・レーニン主義は、この状態を求めていたのさ』
徳山はアンコ達を見まわす。猫撫《ねこな》で声で参加を促す。
『さあ、君たちも、僕たちの輪に参加しないか? 数珠つなぎは、いくらでも大きくできるんだ。手と手を、いやマラとアヌスをがっちりつないで、革命に勝利しようではないか。この友達の輪が、世界を変えるのだ。平等の第一歩であり、究極なのだ! 愛がすべてに勝つ!』
徳山の猫撫で声は演説口調に変化していき、村上は硬直し、呆然《ぼうぜん》としている。躯が動かない。悪夢だ。極めつけの悪夢だ。愛しあっていた女の名は? あの女はどこへ行った? 女? 女……? 崔……いいかげんに……俺を……解放……
3
──ノック。二度。
醒《さ》めた。悪夢から醒めた。瞳を見開く。棺桶《かんおけ》のなかだ。綾からもらった軍用時計を焦点の合わぬ眼で覗《のぞ》きこむ。さきほどから、たいして時間はたっていない。耳を澄ます。
ふたたび、ノック。
深呼吸する。わざと怒った顔をつくる。布団に入ったまま、平静をよそおう。
「鍵《かぎ》はかかってない。開いてるよ」
とんでもない勢いでドアが開いた。
ヤクザ者がふたり。
そのうちひとりが室内に足を差しいれて、ドアを閉められないようにした。鋭い眼差しで村上、そして部屋のなかを見回す。
悪夢の続きか……?
緊張と不安を隠せぬ、圧《お》しころした声で村上が問う。
「なんだ? あんたら……」
答えはなく、ふたりのヤクザ者のあいだから、白衣を着たインターンのような青年がすべりこむように室内に入ってきた。
「村上だな」
ドアを固めているヤクザ者のうち、斜視気味の、角刈りの男が村上の背後を見つめながら言った。
「K署の者だ。来てもらうことになると思うよ」
年嵩《としかさ》の胡麻塩頭《ごましおあたま》が言った。
「デカ……?」
村上は黒い手帳に眼をやる。なぜ踏み込まれたのかは、わからない。
胡麻塩頭は大きく息を吸い、見得を切るように言った。
「これが家宅捜索許可状。こっちが着衣等に対する捜索差押許可状。そして、こいつが逮捕状。全部揃えてあんだよ。あたしは手間暇惜しまんことで有名なんだ。さあ、素直に出しちまえよ」
「なにを?」
「演技派だな」
「世話をやかすなよ」
「だから、なにを?」
「大麻だよ、大麻」
「大麻……」
村上はようやく納得した。MOJOのトイレで売人から売りつけられた大麻のことだ。しかしわざわざ認める気はない。
「なにかの間違いだろう」
「ホォ。さすが元締めだけあって、肝が据わってるなあ」
「元締め……? なんのことだ」
「ドヤに隠れてるんじゃ、なかなか網に引っ掛からんわけだよな。出回っている量から考えて、月に三百万は稼いでるだろ。そんな男が、こんな牢屋《ろうや》みたいな冷たい部屋にいるとは、さすがにあたしも考えなかったよ」
呟《つぶや》くように言いながら、胡麻塩頭は微笑して、ドアを閉めた。
廊下では、野次馬が騒ぎはじめていた。胡麻塩頭は肩をすくめた。
「ぶっちゃけた話、あたしらにとって、ドヤは調べやすくっていいよ。これがマンションなんかだと、そう簡単に中に入れないし、ドア・チェーン・カッターだとか道具がいるしねえ。
ドヤってのは、完全な密室だからね。トイレもないし、なんにもない。楽でいいや。御丁寧に窓には金網まで張ってある。村上君が逃げだす気遣いがないのはいいけど、まったく火事が起きたときはどうするつもりだろうね。
消防庁は再三警告しているはずだがね。廊下が火の海になっても、窓から逃げだすわけにはいかない。こわいねえ」
白衣の刑事が、脱ぎ散らした夏用の作業着に手をかけた。
村上は観念した。しかし村上自身MOJOで大麻を買っていたことをきれいに忘れていたので、首をかしげる。
「刑事さん、タレコミか?」
斜視気味の刑事が流し眼をくれたが、なにも答えない。
「元締めっていうのは、どういうことだ?」
さらに問いかけたが、これにも答えない。
村上は布団から立ち上がり、腕組みして考えこんだ。密告したのは、痛めつけた売人か。あるいは、サチオか。
売人の線は薄いような気がする。あの男は前科者だ。匂《にお》いでわかる。村上が捕まり、取り調べを受けると、売人自身もまずいことになる。徳山の言うGカードではないが、前科者の顔写真を見せられれば、村上は一発であの売人を言い当てることができる。
あの売人が復讐《ふくしゆう》を考えるなら、警察に密告するよりは、もっと別の方法をとるだろう。暗がりで襲って、一気に殺してしまうといったやり方だ。
「高橋係長、ありました! でました」
白衣の鑑識刑事が叫んだ。脱ぎ散らした作業ズボンのポケットから、慎重にビニール袋を引っぱりだす。
村上は現実感のないまま、思わず失笑した。鑑識刑事はあまり経験がないのだろう、あきれるほど昂奮《こうふん》しているのだ。
いきなり踏み込まれたことからくる驚きが去ると、村上は冷静になった。三人の刑事が悪夢からの解放者のようにさえ感じられた。
鑑識刑事は黒いビニール・レザー張りの道具箱から試験管をとりだした。センベイ布団の上に片膝《かたひざ》をつく。
村上の位置から、試験管内に無色透明の液体が入っているのが瞬間見えた。
大麻はビニール袋のなかでコナゴナになっていた。村上は口の端に微笑をうかべて薄く眼を閉じる。どうせ捕まるのなら、一度くらい吸っておけばよかった。大麻のことなど、きれいに忘れていた。それほど綾という存在は大きい。
「どォだ?」
斜視気味の戸川刑事が覗きこむ。鑑識刑事は首をかしげ、試験管を戸川に示した。
「デュケノイか?」
「はあ……」
「ガムロイ試薬で反応を見てみろ」
「はい」
鑑識刑事は新しい試験管をとりだした。ごく少量の大麻をつまみ上げ、試験管内におとし、強く左右に振る。
高橋係長は頷きながら村上の前に立ち、村上の視線を遮るようにしておもむろに言った。
「村上哲二。大麻取締法違反現行犯で逮捕する」
若い鑑識刑事があわてて振り向いた。高橋係長は無表情に手錠をとりだした。
村上は両腕にはめられた冷たい孫悟空の輪を見つめ、ふてぶてしく笑った。
「なにがおかしい?」
「ドヤも留置場もかわらねえさ。一般人がこんな状況になったらアワ喰うだろうけどな」
サチオのハッタリのせいで元締めにされてしまったが、疑いはすぐに晴れるだろう。大麻の絶対量が少なすぎるからだ。検事もそのあたりのことはすぐにわかるはずだ。
拘留はされるだろうが、判決はたぶん執行猶予がつくだろう。初犯であるし、所持はしていたが、吸ってはいないのだ。これからのことをじっくり考えるには、留置場も悪くない。この棺桶と留置場と、どれだけの差があるというのか。
背後でシャッターを切る音がした。フラッシュの反射で壁が青白く光る。
「腐った作業服も立派な被写体になる場合があるんだな」
村上は皮肉に笑った。
「被写体──」
高橋係長は一瞬鋭い眼差しをした。素早く計算する。
いままでの態度や、こういった言葉遣いから考えて、村上はインテリ、あるいはインテリ・コンプレックスとして扱ったほうがいい。
威しに強いか弱いかはこれから様子をみるとして、さしあたりバカ扱い、ドヤの住人扱いは避けるべきだろう。おそらくは強い劣等感の持ち主だ。だから煽《おだ》てには弱いと思われる。
「腰縄は遠慮しといてやろう」
言いながら、村上の肩を押す。
「おお、そうだ。これ」
にっこり笑って、村上の腕にコートをかぶせる。
「ありがとうと言いたいが」
「なんだ」
「腰縄をしないのも、手錠を隠すのも、あんたらの都合だろう」
「なんのことだ?」
「ドヤの奴らを刺激しないためさ。留置場で三食付きの正月を迎えたい連中が、ワンサといるんだ。なにを理由に公務執行妨害にでてくるかわからんからな」
高橋係長は図星を指され、軽く狼狽《ろうばい》し、それを笑顔で隠し、村上を促す。
「さあ」
村上にぴったり寄り添い、部屋をでる。
廊下では刑事と住人が激しく揉《も》みあっていた。潜入している新左翼の男が皆を煽っている。
ふだんならば即、しょっぴくことを命じるが、高橋係長は無表情に村上の背を押す。
村上は真新しいスニーカーに足を通してから、しばらく考えこんだ。帳場の小窓の奥に声をかける。
「ジイサン、部屋を頼む」
「金貰《かねもら》ってる分だけはな」
老人は目脂《めやに》をほじった。村上は苦笑した。
「愛想がねえな。これから棺桶《かんおけ》に放り込まれるってのによ」
「犬山さんのかわりに入りたがってる連中が押し寄せてきてるぜ」
村上は振り向き、刑事たちを窺《うかが》い、素早く言った。
「伝言を頼む」
「──昨日の女か?」
「まあね。正月明けに来るかもしれない。もし来たら、こう伝えてほしい。綾もカナリア、サチオもカナリア♀oえた?」
「ああ。なんだい、カナリヤってのは?」
「暗号だよ、暗号」
背後の高橋係長が緊張した表情でメモをとっている。
村上はニヤついている。帳場の老人は係長と村上を交互に見つめ、村上にニヤッと笑いかえした。
「おちょくらんほうがいいよ。オマワリにはへーこらするのがいちばん」
老人の台詞《せりふ》を耳にした戸川刑事が苦笑した。村上は老人をたしなめるように言った。
「なに言ってるんだよ。ほどほどにしとけよ。いいか、ジイサン。伝言、頼んだよ」
「ああ、わかった。でも、あんた、なるたけ刑務所に長くいたほうがいいよ。女は魔物って言うだろ」
「冗談きついぜ……」
村上は肩をすくめた。高橋係長に促され、外にでる。ひょっとしたら徳山がいるかもしれないと思っていたのだが、凍えるように冷たい路地に人影はなかった。
村上は刑事たちに気づかれぬように苦笑した。ついさきほど、三連|数珠《じゆず》つなぎの悪夢を見たばかりではないか。胴震いした。霙《みぞれ》まじりの雨が髪を濡《ぬ》らしていく。
4
パトカーではなく、機動捜査隊の覆面車両だった。左に高橋係長、右に戸川刑事にはさまれて、村上はリア・シートで欠伸《あくび》する。
「まあ、大麻なんてのは、麻薬のうちにははいらんのだが、法は法だからな」
「ホオ」
「シャレか? ずっとその調子で頼みたいな」
高橋係長は巧みに道化ている。
「ところが刑事さん。シャレじゃないんだ」
村上は軽く伸びをして、ルーム・ミラーに顔を映す。
頭をもたげてくる反抗心を村上は持て余していた。ここは素直にふるまって、波風たてないことが得策であるとわかっていながらそれができない自分を呪《のろ》う。
「なあ、刑事さん。ホオというのは耳なしホオイチ≠フホオなんだ」
高橋係長は顔色を変えた。
「聞こえんというわけか」
村上は答えない。
「聞こえん以上、喋《しやべ》らんか」
村上は答えない。
「──いいだろう。頑張れよ」
高橋係長の額には、血管が浮きあがっていた。戸川刑事は高橋係長と村上をそっと盗み見た。
車はコトブキから逃げだすようにスピードをあげた。しばらくして村上は、唐突に独白した。
「御用納め、か」
フロント・ガラスに霙まじりの泥水が跳ねかかる。ワイパーは、きしんだ嫌な音をたてている。
八森《はちもり》、弘前《ひろさき》
1
住所や本人であるかの確認に対し、村上はわざとらしい欠伸《あくび》を洩《も》らした。係官は村上の沈黙にべつに腹も立てず、唇の端を歪《ゆが》めるようにして皮肉な笑いをうかべた。
指紋を採られるときに、村上は署内で初めて独白した。
「進歩したな……」
以前指紋を採られたときは、ガラス板上の墨を使った。今回は、専用の、黒のスタンプ台が用意されていた。
係官に促され、専用台紙に左手小指から順に押しあてていく。別に、掌もあまさず採る。村上は黒く粘る両手の掌を凝視した。係官が顎《あご》をしゃくり、ティッシュを示す。
写真撮影の部屋は三方がコンクリートの壁で、左右からきつい照明をあてる。こうすると顔に影ができぬから、あのいかにも険悪でノッペリした犯罪者の顔写真ができあがる。
五〇〇ワットのリフレクター・ランプをあてられた村上は、まぶしさに顔をしかめた。
やがて眼が慣れると、居直った笑いをうかべる。
「いい男に撮れよ」
「笑うんじゃねえ。顎をひけ」
村上はカメラ・レンズを芝居がかった表情で睨《にら》みつけた。
取調室は半地下で、上方にある小窓には分厚い曇りガラスが嵌《は》められている。
採光のための窓ではない。部屋としての体裁を繕っているだけで、嵌め殺しになっている。だから昼でも蛍光灯の光が必要だ。
写真撮影後、取調室にもどると、壁の掛け時計が外されていた。
「時計、もどせよ。時間がわからんだろう」
「村上。貴様は完黙するんじゃなかったのか?」
「そんなことはひとことも言ってない。耳なしホオイチになるとは言ったがな。喋《しやべ》ることはできるんだ。要求だけはキチッとするぜ」
高橋係長は苦笑した。連行する車中で雑談にまぎらわせて村上の性格的弱点を探ろうとする試みは見事に空転させられた。
そしていま、この男は自分があくまでも罪の確定していない被疑者であることをさりげなく主張している。高橋係長の苦笑は、やがて怒りに変わった。
「暴力はこまるぜ。民主警察のダンナ」
村上は先まわりして言った。
しばらく睨みあいがつづいた。やがて高橋係長は、粘っこく、あまっとろい声で言った。
「時計はな、はじめっからなかったんだよ、村上」
外からの光が入らぬ部屋で時計を外すという方法、時の経過を一切わからなくする取り調べは、よほど愚鈍な被疑者でないかぎり、かなりの精神的苦痛を感じるものだ。
「先は長いんだ。楽しみにしてろよ」
高橋係長は村上の前に立つ。覆いかぶさるようにして威圧を与える。
「三日、四日は頑張れるもんさ。正月明けを楽しみにしろや」
村上は鼻で嗤《わら》った。
「給料貰ってネチネチ虐《いじ》めを楽しめるんだ。サディストにはこたえられん商売だな」
高橋係長は村上の襟首を掴《つか》んだ。顔を近づける。村上はひどい口臭に顔をしかめる。
「歯槽膿漏《しそうのうろう》をなおしてから、取り調べを頼むよ。さすがの俺も、たまらねえ。弱気になるぜ」
「なにィ」
高橋係長は拳をかためた。戸川刑事があわてて止めにはいる。村上は高橋係長の額に浮いた血管を見つめる。針で突いたら、派手に血が噴き出すかな……他人事のように考える。
2
午後いちばんで、慌ただしく検察に送られた。検察地下一階の留置場は市内各警察署からの被疑者が集められている。
不安そうな顔。居直った顔。ふてくされてベンチに寝ころがる者。それを怒鳴りつける警官。
村上は幾度も欠伸《あくび》した。隣の中年男は憔悴《しようすい》しきっていて、ふてぶてしい村上を盗み見ては、溜息《ためいき》をついている。
「失礼ですけど……おたく、落ち着いてはりますな」
村上は関西弁の中年男を見ずに言った。
「こうなったら、あがいてもしょうがないよ」
「そやけど、わし、悪くないんです」
中年男は首を左右に振り、顔を覆った。
「俺も、悪くないさ」
村上は皮肉な口調で言い、また欠伸した。
「喧嘩《けんか》両成敗いいますやろ、なんでわしだけが……」
仕立てのしっかりした男のスーツを見ながら、村上は訊《き》いた。
「仕事で横浜にきたの?」
「営業です。文房具の……」
男は途中で溜息をつき、うつむいた。すぐに顔をあげ、見張りの若い警官に向かって大声をあげた。
「おまわりさん、なんでわしだけ! 喧嘩《けんか》売ってきたのはあっちなんです、それなのに!」
警官は男を怒鳴りつけ、警棒で小突いた。男はシクシク泣きだした。失笑が湧いた。同情する者などいない。いるわけがない。
村上も泣く男を横眼で見て、苦笑した。たぶん男はどこにでもいる小市民なのだ。それがちょっとした勢いで喧嘩をして、相手を殴ってしまった。相手は鼻血をだし、あるいは眼のまわりに青痣《あおあざ》をこしらえ、おおげさに病院に駆け込む。そして警察に訴える。
男にしてみれば、喧嘩はちょっとした行きがかりであり、相手を殴ってしまったことも学生時代の喧嘩のようなつもりだったのだ。
そのくらいで……というのがこの男の実感だろうが、警察はどのようなちいさな暴力であっても訴えがあれば調べるし、たとえ相手が喧嘩のきっかけをつくったにしろ、手をだして相手が傷つけばこうなるのだ。
よくいるタイプの男だ。大学時代の運動部のノリをそのまま実社会にまで持ち込んで、横柄で、押しが強く、水商売の女にはやたら威張る。
男は自分の前にぽっかりと開いた思いもかけぬ陥穽《かんせい》に、小太り気味の骨太の躯を縮めて日頃の傲慢《ごうまん》さも忘れて呆然《ぼうぜん》としている。
ようやく検事室に行く番がまわってきた。村上は手錠をされ、腰縄を巻かれた。
「よし!」
警官が声をあげた。村上は中年男を振り返り、言った。
「一週間もすれば出られるさ。ここでうまくやるには、あまり喋らんことだ。取り調べに迎合するなよ。都合のいいようにされるぞ」
「貴様! なにを言っとるか!」
若い警官が顔色を変え、村上の背を押す。
警官にぴったり密着されて、エレベーターに乗せられた。
検察官は笑顔をたやさない四十代なかばの痩《や》せた男だった。笑顔をたやさないわりに、デスクの上で組んだ両手を小刻みに動かし、落ち着きがない。
質問はマニュアルでもあるのかと思わせるほど事務的で、機械的だった。村上は最小限の答えをし、検察官の背後の窓を濡《ぬ》らす氷雨を見つめていた。
検察官は笑顔を崩さぬまま呟《つぶや》くように言った。
「もちろん拘留だよ。そのほうが君もありがたいだろう。正月には餅《もち》も喰える。よかったね」
もちろん釈放されるとは思ってはいなかったが、村上は急に躯が重くなったような気分になった。
K署へ戻されると、指紋照合の結果がでていた。高橋係長がデスクの上に尻《しり》をのせて読みあげる。
「村上哲二。三十二歳。本籍地、青森県|弘前《ひろさき》市樹木原──。二十七歳のときにアメリカ合衆国より強制送還」
消しゴムのついた黄色い鉛筆を弄《もてあそ》んでいた戸川刑事が迎合するように言った。
「東北か。津軽ジョッパリだな。俺の両親も東北だ。岩手なんだ」
「だからどォした。逃がしてくれるか」
戸川刑事はむっとして口をつぐむ。
「強制送還後、千葉県立T病院でアルコール中毒の治療のため一年間入院。ほかに犯罪歴はないようだが、それなりに華々しいな」
高橋係長は言い、姓名本籍程度しか書かれていない調書に視線を据えた。
3
この日は検察で時間を喰ったので、取り調べは中途半端のまま、終わった。捜査課わきの、人ひとり通るのがやっとの通路を、村上は腰縄をうたれ、ビニール・サンダルをペタペタいわせて抜けた。
留置場へ向かう通路がせまいのは、脱走にそなえてだ。突きあたりには頑丈な鉄扉がある。村上はMOJOの重い鉄扉を思い出した。今夜、綾はブルースを唄うのだろうか。
戸川刑事がブザーを鳴らす。鉄扉の上方にあるちいさな覗《のぞ》き窓が開く。看守が戸川刑事と村上を確認する。
鉄扉は最初|軋《きし》み、途中からガラガラと大音響をたてて開いた。さらにその奥に、鉄格子の扉がある。
村上は蝶番《ちようつがい》に注《さ》された油脂の匂《にお》いと、錆《さ》びた鉄の匂いを嗅《か》いだ。溜息《ためいき》を呑みこむ。看守がことさら鍵《かぎ》の音をたて、鉄格子を開く。
ようやく留置場だ。戸川刑事と看守は煙草に火をつけ、雑談をはじめた。煙草の香りを嗅いだ房内の被疑者が舌打ちし、小声でなにやら文句を言っている。
戸川刑事はアルマイトの灰皿に煙草を押しつけ、村上に笑いかけた。
「ま、元気でやれよ」
村上は戸川刑事を無視した。戸川刑事はニヤニヤ笑いながら、留置場から出ていった。
看守が無表情をつくり、村上の前に立った。
「村上哲二。裸になって」
「──そんなにケツの穴が見たいか?」
「口のききかたに注意しろよ。ひょっとしたら半年ここで過ごすことになるかもしれないんだ。俺を立てておいたほうがいいぞ」
「ハイ、ハイ」
「ハイは一度でよろしい」
村上は全裸になった。鳥肌がたち、身震いした。脅しだろうが、万が一ここで半年も過ごすはめになることを考えると、ひどく鬱《うつ》になる。
看守は村上の肉体を物を見る眼で眺め、身体の特徴をチェックしていく。
「右|臀部《でんぶ》に百円玉大の痣《あざ》」
「俺の尻には痣があるのか?」
看守はそれに答えず、村上に立ったまま上体を折るように命ずる。
ガサつく指先が尻の肉にかかる。視線が刺さる。ひろげられた肛門。縮み上がる睾丸《こうがん》。
下着を返してもらい、服を身に着けてしばらくしてからも、ひろげられた肛門には、痺《しび》れるような妙な異物感が残っていた。いまごろになって屈辱が這《は》い昇り、村上はきつく下唇を噛む。
「新入り! 一名」
看守が怒鳴った。まるで時代劇を見ているようだ。留置場という名の代用監獄は、封建時代そのままの世界だ。村上は突き当たりの十号房に入れられた。
4
漫画週刊誌を枕《まくら》がわりにして天井を見つめていた四十過ぎと思われる男が、笑いながら躯を起こした。
「先輩、よろしく」
村上は頭をさげる。男は場所をあけて言った。
「かたい挨拶《あいさつ》ヌキ。うまくモグリこんだじゃねえか」
房内に敷いてあるゴザが足の裏をくすぐる。村上は男の横に遠慮気味に腰をおろした。
「退屈してたんだ。俺は庄内ってんだ。傷害だ。おまえは?」
「大麻、村上」
「──大麻村上。これじゃオメ、あまりにも素っ気ないべ」
庄内は東北|訛《なま》りで苦笑した。
「大麻ってえと、人間やめますか、だべ?」
「ちがうよ。ただの草。しかも俺は持ってたけど、やってないんだ」
「よく言うよ。持っててやってないだとよ」
「ほんと。忘れてたんだ。こうして捕まるくらいだったら、ぜんぶ吸っちまうんだった」
「オメ、変な奴だな。なんだな、大麻ってのは、いいもんか?」
「俺は酒のほうがいいよ。アル中だからな」
「だったら、酒呑んでりゃよかったんべ。酒なら捕まらない」
「まったく……」
村上は頭を掻《か》いた。当分、禁酒だ。ここのところ酒を呑むと、背中が痛むことがある。体調を整えるには、ちょうどいい機会だ。村上はゆっくり庄内を向いた。
「腹、へっちまってさ」
「ああ、じき夕食だ」
「ショーガイのショーナイさん」
「なんだ、いきなり」
「秋田かどこか?」
「わかっか?」
「俺は青森なんだ」
「そォか。リンゴ園か」
村上は苦笑しながらコンクリートの壁によりかかる。
「青森にもいろいろあるさ。俺の家は畑さえない貧乏人だった」
「ま、いろいろあるわな」
庄内は人のいい笑いをうかべた。
「で、おまえ、青森ではなにやってたの?」
「いろいろ、ね」
「ふん。家族は?」
「いろいろ」
「怒るぜ、アンチャン」
庄内はひび割れた手で村上を小突いた。村上は肩をすくめて笑った。
村上はしばらく笑い、咳払《せきばら》いして喋《しやべ》りはじめる。
「──親父は、とっくに死んだ。おふくろは生きてると思うけど……」
「なんだ、頼りねえなあ」
「ずっと会ってないから。連絡もしてないし。兄貴がいるんだ。俺は次男だから哲二。兄貴は哲一。まったくいい加減なネーミングだよ。ガキがぐれるのは当然さ」
「兄貴にも会ってねえのか?」
「会ってない。兄貴は漆職人なんだ。器用な奴でね。凧絵《たこえ》が上手なんだ。賞をもらったよ。漆も腕はいいんだけど、やたら気が短い」
「おまえも、けっこう短いべ」
「やめてよ。俺は傷害で捕まったことはない。庄内さんとは違うぜ」
「バカ。俺の場合は、正義の鉄拳《てつけん》だ」
「どんな?」
「酒呑んでた。覚えてねえ」
ふたりは同時に声をだして笑った。
「ま、なんにしても、ここで雑煮が喰えるのはメデテェこった」
「うん。しかし、混んでるね。チラッと覗《のぞ》いたけど、満室じゃない」
「そォ。正月を三食付きの別荘で過ごそうという虫のいい奴ばっかしだ」
「それって、俺に対する皮肉か?」
「深く考えるなって。ま、むかし払った税金をほんの少しだけ還元してもらってるちゅうわけだ。それよりな……」
庄内は声をひそめた。もったいつけて村上を覗きこむ。
「なに?」
「あのな、この房は、婦人房なんだぜ。どォだ?」
「なにが?」
「ゲッケーだよ、ゲッケー。メンス臭えべ」
「ここは……女の……?」
「んだ。満員だからな。便器覗いてみな。タンポン落ちてるぞ」
村上は立ちあがり、便器を覗く。
「まずいなあ。水に溶けないものを流しちゃ」
おどけて言うと、庄内が受けた。
「それは俺の糞《くそ》だ」
村上は笑いながら横になる。粗野ではあるが、人のいい同居人だ。
5
夕食のおかずは野菜のテンプラだった。油切りがいい加減で、ころもを箸《はし》で押すと、白絞油《しらしめゆ》がジワッとにじみでる。充分に油を絞って口に放りこむ。
普段ならとても喰える代物ではないが、飢えている村上にとっては人参の甘みがなかなかだ。飯を半分食べてから、村上は庄内にならってインスタント味噌汁《みそしる》をかけて、猫マンマにした。
夕食後。ふたりは壁によりかかって雑談の続きだ。
「おめえ、親兄弟のことはともかく、自分のことはなんも喋っちゃいないぜ。青森ではなにしてた?」
「三沢《みさわ》基地で働いてた」
「三沢って、アメちゃんだべ」
「うん。四三二戦術戦闘航空団てんだ」
「どんな仕事?」
「初めは将校クラブの雑用。それからウエイター。俺は凄《すご》く耳がいいんだ。英語なんかすぐに覚えたぜ」
「それはおめえ、語学に堪能ちゅうだ」
「ちがう。俺の場合は文法なんてまったくわからんもん。耳からなんだ。言葉を音楽のように覚える」
「そォけ」
庄内は首をかしげた。
「そう。耳だけは自信があるんだ。人に聞こえない音まで、俺は聞こえるんだ。音程だけでなく、細かいリズムの裏の裏までわかる。でね、特技があってさ。俺、ギターが弾けるんだ。もともとクラシック・ギターが少し弾けたんだけど、三沢の黒人兵にブルースを習ってね。米兵相手の店で弾いて、けっこう稼いだな」
「よくわからんけど、ジャジャジャーンか」
村上は頷く。
「おふくろは、眼が見えないんだ。で、三味線が抜群にうまい。生きていくためにうまくなったんだけどね。俺にはその血がながれているからな」
村上は頭の後ろで手を組む。訛《なま》りの抜けきれない庄内の受け答えに、忘れていた故郷を思い出していた。こんな正直な気持ちになったのは久しぶりだ。
「おふくろは、凄《すご》い美人なんだ。みんな振り返るほど。で、眼が見えないことに気づくと、おふくろのことをしげしげと見たり、顔をそむけたり……。妙なもんだよ。俺はガキながら、おふくろは鏡だと思っていた。おふくろの眼が見えないことに気づいた人がどんな態度をとるかで、その人の本性がわかるんだ。おふくろは、人の心を映す鏡なんだ」
村上は柔らかな表情のまま、溜息《ためいき》をついた。
「おふくろは掟《おきて》破りで親父と一緒になったんだけど、もし眼が見えていたら、親父なんか相手にしなかっただろうな。それくらい美人。親父には釣り合わなかった」
「ふーん」
庄内は村上の顔を覗《のぞ》き込み、その整った顔だちを見つめて言った。
「おめえは、おふくろさんに似たってわけだな」
村上の顔がほころんだ。
「まあね。でも、性格的には親父かもしれない。親父は狡《ずる》くて、細かくて、情けない奴だったけど、アレは上手だったね。凄く長い時間をかけてね。おふくろは夢中だった。毎晩、毎晩、イグ、イグ、シグ、シグって、でかい声だしてやりまくってたよ」
「バカァ、刺激すんなって」
「すまん。俺、親父と違ってあっちのほうがどうも苦手で……」
ふたりはしばらく沈黙した。
「ねえ、庄内さんは?」
「──ハツモリだ」
「八森《はちもり》か。ハタハタだな」
「獲れねえんだよ。ハタハタ漁はだめだ。それよかおめえ、お化け煙突があんの、知ってっか?」
「なんだ、それ」
「知らねえか。ま、いいか」
「間瀬川に、鱒《ます》釣りにいったことがある」
庄内は顔を輝かす。
「釣れなかったけどね」
「──だめなんだよな。魚、いなくなっちまったもんなぁ」
他房から怒鳴り声が響いた。
「看守、糞《くそ》流せ!」
おそらく看守の機嫌をそこね、便所の水を流してもらえないのだろう。村上は微《かす》かに漂う大便の臭いに顔を顰《しか》めた。開き直っている者はともかく、イラついている者も多い。
庄内は細く長く息をつき、吹き出物がでている口許を掻《か》きながら、聞きとりづらい声で言った。
「俺な、八森に女房子供がおるんだ。でもな、出稼ぎに来て、新宿《しんじゆく》駅で時刻表を見てたら、なんか力が抜けちまってよ」
「時刻表?」
「八森なんて、数えるほどしか電車が来んよ。ところが新宿じゃ、二、三分ごとに電車が来る。ゲンナリしたな。なんだかつくづく厭になっちまってな。同じ税金払ってよ。なあ」
「下北も、バスさえ通っていない部落がある。ちっぽけな連絡船だけでな。ちょっと時化《しけ》たら、陸の孤島だ」
庄内は首を左右に振った。
「たまに学生みてえのが観光で来やがってな。八森を舞台にした物好きな漫画があるらしいでな、町や海見て勝手なこと言ってやがるんだ。淋《さび》しさがたまらんとか、海の色の暗さがいいとか……。まったく、ふざけやがって。てめえら、住んでみろって言いたいね」
「──奥さんとかに未練はねえの?」
「ないね。独りのほうがマシだよ」
「そォかな」
「そォだよ。親戚《しんせき》付き合いまでひっくるめて、おめえにくれてやらあ」
庄内は寄りかかっている壁からずり落ちるようにして、ゴザ敷きの床の上に寝ころがった。眼を閉じ、きつく口を結んで動かない。
6
七時半就寝用意、八時就寝。看守に急《せ》かされながら布団部屋から運んだ布団は、ドヤ備えつけの布団よりよほど清潔だ。
「ほっとしたよ。おめえが来てくれたおかげであったけえや」
「そうか。すこしは俺も役に立つんだな」
冗談まじりに答えると、庄内は愛想笑いをかえした。
村上は冷たい布団のなかにそっと躯《からだ》をすべりこませ、つけっぱなしの蛍光灯の白い光から顔をそむけた。
庄内は爪で歯垢《しこう》をほじりながら天井を見つめていたが、やがて独白するように呟《つぶや》いた。
「おめえは、訛《なま》りがねえな」
村上は微《かす》かに躯を硬くした。
「──ギター弾きだからな。耳がいいって言っただろう。英語といっしょ。標準語なんてすぐにモノにしたさ」
「ふん。俺は……だめだった。苦労したぜ。馬鹿にされてよ。すこしでも違うとこがあると、そこをつついてハケ口にしやがるんだ。それに訛りを馬鹿にする奴ってのは、たいがい先に東京に出てきたカッペでよ。妙なもんだ。カッペ同士でチクチク傷口つついてな」
それきり庄内は口をつぐんだ。
夜半、ふと村上が目を覚ますと、庄内が息をころしてマスターベーションをしていた。
俺は黄色だ
1
正月が明けた。取り調べも再開された。戸川刑事はまっしろな調書に視線をおとし、溜息《ためいき》まじりに言う。
「おまえって奴は、箸《はし》にも棒にもかからんクズ野郎だ」
「まあな。自覚はある」
「雑談や冗談にはのってくるが、肝心なところへくると、耳なしだ」
戸川刑事は顔をしかめっぱなしだ。村上はいいかげん退屈しながら、言った。
「投げたらアカン。まじめにやれよ。雑談から尻尾《しつぽ》を掴むのが取調官だろう」
「貴様に指図されるか!」
「おっかねえなあ」
高橋係長は激した戸川刑事をなだめ、苦笑まじりに話題を変える。
「なあ、村上よ。マリファナってのは、そんなにいいものか?」
「べつに。酒のほうがいい」
「ほんとか?」
「ああ。酒は麻痺《まひ》する。マリファナは鋭くなる」
「音がよく聴こえるようになるっていうな?」
村上は質問を無視してわざとらしく欠伸《あくび》する。高橋係長が下卑《げび》た声をつくって村上に顔を近づける。
「なんだってな、アレが凄《すご》く良くなるっていうじゃないか。ヒイヒイいわしちまうんだろ?」
村上は無表情に答える。
「セックスは、なかなかだ」
「そんなに良くなるのか?」
「女にもよるが、たいがいは、かなりくるな」
「ドロドロか?」
「ああ。あっけにとられるよ、最初は」
「オツに澄ましてた女が、ドロドロのヒイヒイか?」
村上は呆《あき》れ顔で高橋係長を見た。戸川刑事も、いささか閉口している。高橋係長はかまわず下卑た表情のまま会話を続ける。
「女は、さぞや夢中になるだろうなあ」
「──男も、ムキになるさ」
「そうだろうなあ。アメリカじゃ、マリファナを吸うくらい、当たり前のことなんだろうしな」
「俺《おれ》はあまり趣味じゃないんだ」
「マリファナは嫌いなのか?」
「アメリカでは、ときどき吸った。挨拶《あいさつ》代わりに勧められるからな。でもな、俺は音がよく聴こえるのは、困るんだ」
村上はデスクの上で両手を組み、物思いに耽《ふけ》っている。高橋係長は戸川刑事にそっと目くばせする。村上が大麻について喋《しやべ》ったのは、はじめてだった。
「音が聴こえると、困るのか?」
「俺は挫折《ざせつ》したんだ」
「挫折?」
「音なんぞ、聴きたくない」
「どういうことだ?」
「──音楽に挫折したんだよ。音楽なんぞ、聴きたくない。だから酒に溺《おぼ》れた」
「よくわからんなあ。音楽を聴きたくないから酒、か?」
説明しても無駄だと村上は思った。投げ遣りな笑いをうかべた。
「いいか。強制送還後、アル中で入院とあるだろう。アルコール中毒は、アメリカにいたときからだ。俺は酒好きなんだ。大麻なんかに興味はないんだよ」
言いながら、村上は戸川刑事の腕をとり、時計を覗《のぞ》きこんだ。
「はずし忘れたアンタが悪い、と。時間はたっぷりあるな。暇つぶしに身の上話でもするか」
「ぜひ、聴かせてもらおうか」
高橋係長はおおげさに身をのりだした。
村上は遠い眼差しをした。頬《ほお》がゆるみ、和やかな表情をみせる。
「──俺は、ギターがうまいんだ。いまは思いどおりに指が動かんが、ひと月も運指の練習をすれば、昔のように自由自在になるはずだ。……そのまえに、酒をへらさなければならないか」
村上は独りで笑った。綾のバンドでギターを弾く。綾のために節制する。綾の影に徹する。綾を前面に出して、その後ろで、綾の唄声にあわせて、愛撫《あいぶ》するようにオブリガードをいれる。綾は村上のギターなしではうまく唄えなくなる。綾と村上。お互いに依存しあって生きていく。
高橋係長と戸川刑事は迎合の笑いをうかべて、村上が口を開くのを待っている。
「ギターだが。初めは自己流。親父がどこからかボロボロのクラシック・ギターを貰《もら》ってきてね。俺が小学校五年のころだった。兄貴のために貰ってきたんだが、兄貴は興味を示さずに、すぐに投げ出した。かわりに俺がおもちゃにしたんだ。弦が買えなくて、おふくろの三味線の絹糸を張ったこともあったな」
「絹糸? 三味線に絹糸を張るのか」
「黄色く染めた絹糸だ。どのみち単弦で弾いていたから、弦なんて一本あればよかったんだ」
戸川刑事が口を挾む。
「俺も高校のころ、ギターをいじったことがあるんだ。コードっていうのか。ボロロン……てな。弾けるうちにはいらないけどな」
「俺がはじめたときは、コードの存在も知らなかった。単弦で、メロディを弾いていただけなんだ。チューニングのしかたさえわからなかった。青森の、田舎《いなか》の貧乏丸出しの小学生だ。和声理論なんてわかるわけないが。
ガキの俺は、耳で覚えたメロディを、親指一本使って三味線の撥《ばち》を叩《たた》きつけるみたいにして弾いてたんだ」
2
登校拒否児童のはしりだった。母は村上が学校に行かなくても気にせず、村上の弾くギターにあわせて三味線を弾いた。
冬。
父親は東京の運送屋に出稼ぎで行った。村上の母は、津軽三味線で巧みなアドリブをとることができた。降り積もった雪に押しつぶされそうな家のなかで、村上と母は、かじかむ指先に息を吹きかけながら音楽を楽しんだ。
村上は母親に理論とは無縁の、しかし弾むような、そして涙ぐみそうになるほどの音楽を教わった。
母は三味線を弾きおわると、昂《たかぶ》った。父は出稼ぎでいない。村上を抱きしめる。
乳房。村上は吸った。母が吸わせた。
母は村上に乳首を吸わせながら、モンペのなかに手をいれた。なにをしているのかは理解できなかった。ただ、下腹のあたりで激しく指先が動いているようだった。母のあまりの切実さに、村上はその行為を問いただすことはできなかった。
そんなときの母は、懐かしさを感じさせる不思議な匂いがした。母は泣いた。村上に乳房を吸わせて泣いた。それはときに一時間以上に及ぶこともあった。そして母は、その後ぐったりして、軽い寝息をたてた。
盲目の母が眉根《まゆね》に深い縦皺《たてじわ》を刻み、腰を反り返らせるようにして踊る様は、あまりに妖《あや》しく、美しかった。村上は本能的にタブーに触れていることを感じ、幼い性意識を昂らせた。
母の乳房はよそのおばさんのように大きくはなかったが、柔らかで、いつもしっとり汗ばんでいた。乳首はとてもちいさいのに、村上が赤ん坊のように吸うと、硬く尖《とが》った。腋《わき》の下には淡い産毛が生えていて、圧《お》しころした泣き声をたてると、汗で濡《ぬ》れた。
ときに母は、村上の膝頭《ひざがしら》を使った。はじめ控えめに足をひろげ、やがて幼い村上が恐怖心を覚えるほどに両足は大きく開かれる。
大きくひろげられた足の中心に、村上の膝頭が押し当てられる。モンペごしであるのに、しっとり濡れてすべる感触が膝頭に伝わってくる。
ある日、村上は見た。母は村上のかわりに見たことのない男に乳房を吸わせていた。そして村上の膝のかわりに男の股間を両足の中心に擦りつけさせていた。
村上と母の蜜月は終わった。やがて父が出稼ぎから帰り、あの毛深い男の姿も見なくなった。
3
「ギターは独学というわけか?」
「まあ、出だしはそうだな。でも、おふくろには音楽の心を教わったよ。音楽というのは切なくて、泣きたくて、愚か者のものなんだ。
そして、リズム。音楽は、リズムなんだ。ガキのころの俺は、親指一本で、おふくろを真似て、かなりリズミックな演奏をしていた。いまでいうベースのチョッパー奏法に似ているな」
「なるほど」
高橋係長はわかりもしないのに頷《うなず》いた。村上はチラッと皮肉な視線をなげる。
「中学にはいってからは、きちっとチューニングを覚えたよ。女の先生でギターを弾けるのがいてね」
「初恋か?」
村上はちいさく笑った。
「暑い日だったな。中二の夏だった。手取り足取り、クラシックの奏法を習っていたんだ。アポヤンドとかいったかな、もう正確な名前さえ覚えていないが、そんな弾き方があるんだ。
先生は俺の背中からのしかかるようにして指遣いなんかを指図してた。ふと気づいたら、背中におっぱいがぴったり押しつけられていて……先生も、こう硬くなって動かない。
ほんのちょっとの時間なんだけどね。妙な気分さ、お互い。先生はすぐに知らん顔して『はい、トレモロで』なんて言ったけど、頬はすこし上気してたな」
高橋係長も戸川刑事もくすぐったそうな顔で村上を見ている。村上は柔らかな視線をデスクに落とした。
4
中学にはいったあたりから、自分ではなぜだかわからぬまま、村上は異性に注目されるようになっていた。近所のふたつ年上の女の子に誘われて目屋《めや》渓谷にハイキングに行って山中で初めてキスをし、ペッティングをした。自慰はこのとき彼女から指遣いを教わり、覚えた。
このとき、母が自らの指で、あるいは村上の膝頭を使って、なにをしていたかを理解した。
不潔感であるとかは感じなかったが、快感と同時に厄介なものを背負いこんだ、という実感もあった。
夏休みだった。音楽室は幽《かす》かに黴《かび》臭く、外の暑さが嘘《うそ》のようにしんとしていた。音楽の教師は国立の音大をでたばかりで、なめらかな標準語を喋《しやべ》った。
なぜ村上がクラシック・ギターを教わるようになったのか、きっかけは思いだせない。ただ、音楽教師はみんなの見ていないところで村上に対してとても親切だった。
『はい。アポヤンドで、なめらかに』
教師の息が村上の耳朶《じだ》をくすぐる。彼女のは幽かな口臭がした。日向《ひなた》臭い匂いだった。彼女がわざと胸を背に押しあてているのを村上は感じていた。
彼女の胸は大きかった。呼吸にあわせて弾んでいた。きつく村上の背に押しあてて、つぶし、歪《ゆが》ませ、擦りつける。そして怒ったような声で村上にギターの奏法を教え込む。
ギターのナイロン弦に触れている中指を村上は凝視した。女は、この指を自らの躯に飲みこむのだ。
村上は振り向いた。音楽の教師はくっきりした二重の瞳を伏せ、躯を硬くした。口は半びらきで、はっきりとせわしない息の音が聞こえた。黒のタイトスカート。白いブラウス。透けてみえるブラジャーのライン。
とたんに、暑くなった。熱気を感じた。彼女はふっ、と溜息をついた。
しばらく間をおいて、掠《かす》れ声で命じた。
『トレモロで……弾きなさい』
村上はギターを床に置き、教師を向いた。彼女の瞳は濡《ぬ》れていて、涙ぐんでいるように見えた。
『村上君……』
彼女は躯を寄せてきた。見つめあった。抱きしめられた。しばらくじっとしていたが、だれか来たらまずいことになると思った。村上と教師は揉《も》み合った。村上は拒否しているつもりだったが、それは微妙な、性的な動きに変化して、やがて彼女は脱力した。
音楽室に続くブラスバンド部の楽器が置いてある小部屋に誘われた。教師が扉をロックした。
呆気《あつけ》なかった。金管楽器の金属の匂いに包まれて、こんなものかと思った。彼女の示す欲望の激しさに辟易《へきえき》したし、自慰のほうが快感が強かった。なによりも、母のような儚《はかな》さがなく、あまりにも生々しかった。しかし、それ以降、教師は村上を誘い、村上は彼女の弟のような顔をして人目を盗んでは抱き合った。
幾度か彼女と抱き合ううちに、女の躯のよさを知った。それは自慰では到底味わえぬ快感であり、また彼女の乱れる様は村上の自意識を強く満たした。さらに彼女は、慣れてくると、村上に種々の技巧やかたちを教えこんだ。村上も、初めはおぞましく見えた傷口に慣れ、一日に幾度もその傷口に自分自身を埋め込んだ。
そして彼女は妊娠した。抱き合い交わればそうなる、という当然のことに対して、現実感をもつほどに村上は精神的に成長していなかった。
彼女は逃げだすように教師をやめ、ある大きな寺の跡継ぎの嫁になった。村上はあの夏の日から、ずっと白日夢を見ているような気分で、それはいまでも強い非現実感に包まれている。
5
「どうした? 村上」
高橋係長が声をかけ、戸川刑事が覗《のぞ》きこんだ。村上は顔を上げた。
「高校は、中退した」
いきなり村上は言い、戸川刑事はその唐突さにあっけにとられたが、高橋係長は巧みに合いの手をいれた。
「中退。家庭の事情か? それとも極道したか?」
「なんとなく……だ。まあ、家の経済的なこともあるにはあったが、要は俺が勉強する気をなくしたんだな」
「俺の息子も、やめたいと言いだしてな、説得するのに苦労したことがあったよ。俺にはよくわからんが、いまの子供は、その場その場でころころ考えを変えるからな」
戸川刑事が嘆息した。高橋係長は苦笑いして、村上に声をかける。
「高校をやめて、後悔していないか?」
「わからない。きちっと行っていれば、違った人生が開けていたかもしれないと思うときもあるが……」
6
なぜだろう。十代の村上は、女に遊ばれてばかりいた。なにか女をひきつける力があったのかもしれない。村上は女たちの巧みな誘いにのせられ、断りきれずに、女たちの肉体に溺《おぼ》れた。
溺れながらも村上は、性と、その日常に対して、どことなく不潔感を抱くようになっていた。自身の欲望にも、女たちの飽くことのない欲望に対しても偏頭痛のような苛《いら》立ちを覚えていた。
しかし、長続きしないひとつの関係が終わると、また新しい関係が始まっていく。十代の村上は、女たちに付け入られやすかったようだ。
村上は幾人もの女を知りながら、彼女たちの欲望を肯定できなかった。そして白濁した粘液をまき散らす自分自身に対しても遣る瀬ない、いらついた気持ちをもっていた。
高校を中退してしばらくは、弘前《ひろさき》にあるジャズ喫茶で知り合った弘前大学医学部の女子大生と同棲《どうせい》していた。仕事もせずに、彼女の仕送りからいくらか抜き取って、ジャズ喫茶で膝《ひざ》を抱えて、ぼんやりと音楽を聴く毎日だった。
彼女は医局から睡眠薬や精神安定剤を盗み出して村上に与えた。村上は女だけでなく、薬物にも溺れた。
実家に戻ったのは、気まぐれだった。母は敏感に村上の変化を悟った。眼が見えないぶん、ちょっとした空気の違いや雰囲気の変化には過敏なほどだった。
母は村上があきれるほど取り乱し、泣いた。女と別れろと迫った。
睡眠薬のせいで霞《かすみ》のかかっている村上だったが、常軌を逸した母の取り乱しようを持て余し、ふと気づいた。
母は、嫉妬《しつと》していたのだ。母は、村上と医大生の彼女の関係を嫉妬していた。
村上は泣き騒ぐ母を抱きよせ、その頭を撫《な》でた。白髪があった。
不思議なことに、母の嫉妬に気づいたとたん、母が、女が、愛《いと》しくてならなくなった。深層に抱いていた女に対する不潔感がきれいに消えていた。
村上は医大生の彼女と別れた。そして女の誘いにノオと言えるようになった。数をこなすことに夢中になっている友人が哀れにさえ思えた。
7
「まあ、学歴だけがすべてじゃないからな」
高卒で、警察学校からの叩《たた》きあげの高橋係長が呟《つぶや》いた。自分を慰めているかのような口調だった。村上は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
「とにかく、高校をやめて、いつまでも遊んでいるわけにはいかないから、三沢《みさわ》の知り合いの紹介で、基地で働くことにしたんだ。弘前のジャズ喫茶に入り浸っていたからな。本物の黒人が見てみたかったんだ」
「変な奴だな。黒人が見たかったのか」
村上は頭を掻《か》いた。苦笑した。
「ジャズに夢中だったから……見たこともない、写真でしか知らない黒人を過剰に尊敬していたんだ」
村上は咳払《せきばら》いした。
「とにかく、三沢基地で働くことになった。三沢までは、兄貴が乗っていた原付で、スーパーカブで行ったんだ。弘前からわざわざ大鰐《おおわに》に出て、地元の奴しか知らない道で十和田湖に出た。
秋だった。紅葉の盛りで、十和田は観光客でいっぱいだった。笑っちまうのはな、背中にギターをくくりつけてオートバイを走らせたんだ。
ギター背負った渡り鳥。俺は恰好いいと思っていたんだが……十和田湖で観光客の女の子の集団に大笑いされてね。さすがに、落ち込んだ。凄《すご》く落ち込んだ。それから三沢までの長かったこと。いま思いだしても顔が熱くなるぜ」
ほんとうに村上は顔を赤くしていた。おどけた顔で戸川刑事が覗《のぞ》きこんだ。村上は深呼吸した。
「なに、見てやがる」
「いや、べつに、な。青春だよ、青春」
村上は舌打ちした。高橋係長は笑いをこらえている。
「いいか。基地で働きはじめてからは、もう達人だぜ。ジャズがどうも白人に迎合している音楽であることに気づいて、そのルーツであるブルースに夢中になった。
本場の奴らと付き合うからな、情報ははやい。東京でチャチなグループ・サウンズが流行《はや》っていたときに、俺はバリバリのブルースをやっていた。故国に帰る米兵からエレクトリック・ギターとアンプも買った。
十八のころには、基地ではもう有名人さ。フラッシュ・ムラカミ≠ネんていうニックネームがついたほどだ。
兵隊たちは、ガキばかりでね、徴兵でとられた奴ばかりだった。読み書きさえ満足にできないのがいたなあ。
初めのうちは、俺なんか猿扱いされてたが、そのうち、みんな俺を尊敬の眼差しで見るようになったよ。取り巻きまでできた」
「差別はあるのか?」
「あたりまえだろう。イエロー・モンキー。あいつらは、日本人をみんな猿だと思っているのさ。そういうふうに教育されているんだ」
「あまり気分がいい話じゃないな」
「占領されているんだよ。日本は独立してないと思うよ。俺たちは占領軍 =A米兵はみんなそういう感覚でいるよ。沖縄ほどひどくないにしろ、あんたらは横浜や横須賀《よこすか》の米兵を見て、なにも感じないか?」
「日米安保がな……」
「政治と現実は別次元だぜ」
「ま、難しい話はおいといて」
高橋係長がとりなした。
「ほら、先を聞きたいからさ」
村上はだらけていた背筋を伸ばす。
「いや、もうすこし話そうか。
下っぱの、ガキの兵隊はいいんだ。露骨に日本人を差別して、馬鹿にする。その一方で、俺が奴らよりも巧みにギターを弾いてみせれば、素直に尊敬する。
問題は将校であるとかの、教育のある、上に立っている奴らだ。奴らはとにかく笑顔がうまい。本音を出さずに、笑顔で小首をかしげて俺たちをあやし、言うことをきかなければナパームを、いや原爆を落としてジ・エンド。俺たちなんか猿扱いで、犬扱いさ」
戸川刑事は斜視気味の瞳を歪《ゆが》めた。
「黒人で苦労したから、扱いがうまくなったってところか。もちろん、上の奴でも露骨に差別してくる奴がいる。でも、教育のある奴、インテリだな。インテリは笑うのがうまい。大統領の笑顔はなかなかだろう。そして脅しも的確だ」
高橋係長が真顔になった。
「村上! おまえはアカか?」
高橋係長の発作的な大声に、戸川刑事は呆気《あつけ》にとられている。
「アカ? ふざけるなよ、係長。俺は黄色だよ。いいか、俺は国粋主義者なんだよ。いろいろな人種を知っている。アメリカという国がどんな国かも、たぶんあんたよりは詳しく知っている。いつだっておれは、自分が日本人であるってことが頭から離れないんだよ」
村上は皮肉な表情で唇を舐《な》める。
「そういえば、ドヤにはアカが潜りこんでいるな。でもあいつらは高橋係長、あんたと違って老後の恩給だか年金だかのことなんか考えていないぜ。けっこう純粋に……純粋の上に馬鹿がつくが、一生懸命やっているぜ」
高橋係長の額に血管が浮きあがった。村上の胸ぐらをつかむ。
「拷問はかんべんしてほしいな」
村上は落ち着きはらっている。それが高橋係長をさらに刺激する。昂《たかぶ》って、小刻みに震える高橋係長の背広から樟脳《しようのう》の匂いが漂う。
戸川刑事が止めにはいった。高橋係長はかろうじて村上を離した。震えは止まらない。
わざとらしく村上は胸元を直し、躯をだらけさせた。戸川刑事は素早く計算し、これ以上高橋係長を昂らせないために、大声で村上を怒鳴りつけた。
「机に肘《ひじ》をつくな!」
「──シカゴのスラムを知っているか」
村上は頬杖《ほおづえ》をついたまま、呟《つぶや》いた。
追憶のハイウェイ61
1
「シカゴのスラムだが。コトブキなんてメじゃないさ。ゲットーって言うんだけどね。ゲットーというのは、もともとは中世ヨーロッパでユダヤ人を隔離するために設けられた地域のことでね」
村上は取調室のデスクに頬杖をついたまま語りだした。高橋係長はさきほど激昂《げつこう》したばかりなのに、もう何事もなかったかのような顔をして迎合した。
「詳しいなあ。中世ヨーロッパか」
「まあな。黒人たちから習ったんだよ。ブラック・パンサーが武闘路線から進路変更して、ゲットーで学習会をひらいていたのさ」
「村上はシカゴにいたのか?」
「三年くらいな。シカゴにはいちばん長くいたよ。ほかにはL・A、シスコ、ニューヨーク、ニューオーリンズ。──シカゴのゲットーだがな。コトブキがきれいに見えるほど汚い。なぜだと思う?」
「さあな。それだけ貧しいのか」
高橋係長がうわっつらだけ合わせた。
「それもあるが、いちばんの原因は、女だ」
「女?」
高橋係長と戸川刑事は同時に声をあげた。
「なんて言えばいいのかな。生活があると言えばいいか。コトブキのドヤは野郎ばかりで、自炊するといってもタカが知れているだろう。
しかし、女子供が一緒にいると、凄《すご》い。生ゴミは路上に投げ棄てるし、いろいろくだらねえモノをため込んだあげく、放り出す。そりゃあ、すごい活気だよ」
話に女が絡みはじめると、性的抑圧の強い警察官らしく高橋係長も戸川刑事も真剣に話を聞く。村上は皮肉な眼差しをふたりに向ける。
「たとえば旅行者がまちがってゲットーに入り込んでしまうと、荒廃しているというふうに表現するんだけど、でも、しばらく生活してみると、わかる。
荒廃というと、どこか乾いて感じられるが、実際は粘るんだ。ドロドロさ。道路は脂っぽく黒ずんで、汚れた女の躯そっくりの匂いがする。
そうだな、日本でいえば魚を干していたりする漁村の匂いを強烈にして、さらに生臭い、腐った臭いをまぶしたようなものかな」
「なるほど。なんだか凄そうだな」
戸川刑事は照れて呟《つぶや》き、苦笑した。村上はだめ押しをする。
「生理の血の匂いさえ漂って、ああ……人間は動物なんだなあ、と思うよ」
高橋係長は咳払《せきばら》いした。生理の血というひとことに、過剰反応している。村上は口調を変え、話を変える。
「俺はさっきも言ったとおり、ブルースのギター弾きだった。俺の演奏を聴いた三沢基地の黒人たちが、さんざんアメリカ行きをすすめたんだ。 『ステイツへ来いよ。面倒みてやるぜ、黄色いブラザー。おまえならキャデラックを三台乗りまわせるようになる』なんておだてられてな」
「それでアメリカへ?」
「そう。あいつら……いまだにキャデラックとかの河馬みたいな車がステイタスなんだよな。ま、俺も二十歳ちょっと前。のせられちまって、観光ビザであこがれのUSAさ」
「若い頃っていうのは、外に出たくてしかたないものさ。俺も子供のころ、密航を夢見たもんさ」
「ホオ。高橋係長もですか」
「俺もハマッ子だからな」
「夢くらい、誰でも見るさ」
村上は投げだすような口調で皮肉を言った。高橋係長は不可解な微笑をうかべて頷《うなず》く。
「また発作をおこさんでくれよ」
さらに憎々しげに村上が言った。戸川刑事があわてて叱《しか》った。高橋係長はニコニコしている。
「──ゲットーは、とくにシカゴのゲットーはすさまじく汚い。はっきり言って、投げ遣りなんだ。希望を奪われ、全てをなくした人々がかろうじて息をしているといったら、いい過ぎかもしれないが、まさにそういう感じだ。
もともと黒人はアフリカから奴隷としてアメリカに連れてこられて、農業の盛んな南部に労働力として送りこまれたんだ。
俺は黒人じゃないから想像することしかできないが、とにかくひどい目にあって……なにしろ奴隷だ。人間じゃないんだからな。で、ようやく奴隷解放が行われて、黒人たちは自由を与えられた。
与えられた自由なんて、当然自由なんかじゃない。でも黒人はそれに気づかずに、夢いっぱいで、あるいは奴隷という立場から一切のフォローなしに放り出され、生きていくため、仕事を求めて大都会に向かったんだ。
戸川刑事さんの両親は岩手だって言ってたよな。わかるだろう、 『おら、東京さ行ぐだ。一旗あげるだ』ってかんじ」
戸川刑事は口を固く結んで頷いた。黙って煙草を差し出す。
「どうも」
村上は素直に頭をさげた。
「テキサス、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマ、ジョージア。こういった南部の州はとても暑い土地だけど、状況は東北に、岩手や青森に似ているんだ。とりあえず、農業しかなくってね。
綿畑……地平線まで続く綿畑。コットン・フィールズなんて感傷は受けつけない。歳《とし》とった黒人たちは、みんな顔を顰《しか》めるよ。綿にはきつい刺《とげ》が生えていて、血まみれになって綿つみをしたんだ。
で、こんな生活もォいやだってんで、ヒッチハイクして大都市を目指す。ハイウェイ61、ブルース・マンはこのハイウェイをさんざん唄にした。ミシシッピーのただの田舎道《いなかみち》なんだけどね。
ボブ・ディランも、ハイウェイ61のことを唄っていたな。黒人もユダヤ人も、アメリカでは差別される側だから、思いいれがあったんだろうな。ユダヤ人であるディランには、すこしは黒人の気持ちがわかったかもしれない。なにしろユダヤ人といえば、元祖ゲットーだからな。
ディランはガキのころ家出して、黒人のブルース・マンにくっついて放浪したことがあるんだ。あの独特の歌唱法は、じつは黒人ブルース・マンの焼き直しなんだ。知ってるか? ディラン」
「デランか」
戸川刑事が呟いた。村上は失笑しながらも、言った。
「そう。デラン。日本人が外人歌手の名前を知っていたってしょうがねえよな。いまでは俺も真剣にそう思う」
「──歌謡曲なら聴くんだが……カラオケは好かんが」
戸川刑事は小声で言った。村上は空咳《からせき》して続ける。
「ニューオーリンズをスタート地点にしよう。51号線でジャクスン、ジャクスンからは20号線でビックスバーグ。で、ハイウェイ61に入る──
2
ハイウェイという名の田舎道の両側は、赤土だらけだ。ちいさな竜巻がおきている。土埃《つちぼこり》の匂い。熱風。ヘッドライトが壊れた小型トラックが、トウモロコシを満載して、横風に煽《あお》られながら、走り去っていく。
やがて道路の両側は森になり、いきなり鹿が飛びだして、村上は驚き、和んだ気分になりかけて、なぜかやりきれなくなり、怒ったように額に浮かんだ汗を手の甲でこする。
いまだに電気さえ引かれていない集落があり、一杯の水を頼むと、十二、三歳に見える黒人の少女はブリキのカップに薄黄色に濁った水を入れて差し出す。
少女の警戒の眼差し。チャイニーズかと訊《き》かれ、ジャパニーズと答えると、少女は首をかしげる。上眼遣いに見開かれた水晶のような瞳で見つめられ、村上は下痢を覚悟して、濁った水を飲み干す。
少女は勢いこんで、チャイニーズが鉄道の線路を敷き、たくさん死んで、いまでも線路際には白い白い骨が光っていると言う。
それはどこかと村上が訊きかえすと、少女は曖昧《あいまい》に笑う。
少女の爪《つめ》のあいだにたまった垢《あか》。汚れ放題の裸足の足。村上の視線に気づき、少女は含羞《はにか》み、やがて居直った視線をかえす。
道をはずれて森のなかに入ると臭いガスがポコッと弾ける沼地に出る。ひどい湿気だ。蒸し暑い。汗が肌に粘ついて、あまりの懈《だる》さに地面に座りこむ。子供の泣き声。それを叱《しか》るヒステリー気味の母の声。
ぼんやりと泥色した沼を見つめていると、さきほどの少女が木陰から村上を盗み見ている。
村上が手招きすると、少女は肩をすくめ、さも興味がなさそうな顔をして、傍らに立つ。
なにしにきたの? どこからきたの? どこへいくの? 矢継ぎ早に質問されて、村上はそのきつい南部|訛《なま》りを持て余す。しかも少女の質問は、答えられないものばかりだった。
どこへいく……村上は両手で頭を覆うようにして考えこむ。沼にさざ波が立った。キャットフィッシュ。呟《つぶや》いて、少女が微笑する。フライにしたら、おいしいわよ。あたしと結婚したら、毎日食べさせてあげる。
毎日ナマズのフライではたまらない。村上が笑いだすと、少女は得意そうに頷《うなず》く。あんたがなにを考えているかわかるわ。いいわ。三日に一度はザリガニを食べさせてあげる。
ニューオーリンズにいる七人姉妹
あんたの星をぴたりと当てる
俺は未来を知りたくない
だからニューオーリンズから逃げだした
夜も昼も旅烏《たびがらす》
即興で、村上がブードゥ教のセブンシスターズのブルースを口ずさむと、少女の顔が輝いた。なぜ、ニューオーリンズから逃げだすの? あんたはフォーチュンテラーに呪《のろ》われてるの?
村上は立ち上がる。呪われているのは……
この土地で、働くのは黒人。遊ぶのは白いご主人様。全米一額の低い福祉手当てで辛うじて生きる黒い三五パーセント。
それでもミシシッピー・デルタを離れると、あの鼻に刺さる石油の匂いからおさらばできる。
しばらくは解放感。悪くない気分だ。
道路|脇《わき》の清潔な白人住宅。風にはためく洗濯物。ほぼ乾いた白いシーツが風に煽《あお》られ、それがふとKKKの白衣に思えて胃が縮む。
奴隷解放とともに現れた白い悪魔。クランスマンの群れに囲まれ、身体中にコールタールを塗りたくられて吊《つ》るされた奇妙な果実。
過去の話ではない。いまでも、その通り、行われている。黒も黄色も、色付きだ。黒の言う漂白された人々の蛮行。その白に名誉白人扱いされて喜ぶ黄色。
ハイウェイ61は、ミシシッピー河に沿うようにして通っている。解放された、放り出された黒い人々は、ミシシッピー河に沿って北上した。草地を抜けると、マグノリアの赤紫の花が咲き誇っている。その甘っとろい匂いに包まれて、ハイウェイ61で北へ向かう。
ブルースは、南部の黒人たちのあいだでつくられた。
そしてブルースは、ハイウェイ61で北へ向かった。
クランスマンに脅え、奴隷解放によって失われた労働力を確保するために浮浪罪という名の人間狩りに夢中になっている、大地主と結託した保安官に脅え、ブルースは北へ向かった。
不安に胸がつぶれそうなのに、空は青く、マグノリアの花は甘い芳香を漂わす。グリーンヴィラ、クラークスディル……やっとアーカンソーに入った。
白い壁、赤茶色の屋根の教会。路肩に積まれた黄色い巨大なカボチャ。左側がヘレナだ。メンフィスまであとすこし。
メンフィスまで来れば、約半分こなした。すっかり底の減ってしまった靴に視線を落とし、セントルイスを目指す。親指を立てて突き出す。ピックアップは停まらずに走り去った。あとに残った幽《かす》かな排ガスの臭いを嗅《か》いで苦く笑う。
空を仰ぐ。青かった空に黒い雲がむくむくと湧《わ》きあがって、あたりはいきなり暗くなる。溜息《ためいき》。故郷……ニューオーリンズ。砂糖黍《さとうきび》畑に立ち尽くし、湧きあがる黒雲を見上げた日。もう帰れない。
3
「それでもやっとセントルイスにたどり着いた。道程の四分の三をこなしたんだ。胸は高鳴る。北へ……北へ」
戸川刑事がしみじみと付け加える。
「行きさえすれば何かいいことがあると思ってな……」
村上はアルマイトの灰皿のなかで半分灰になってしまった煙草を咥《くわ》えた。
「やっと、シカゴ。ブルースと一緒に北上したシカゴ。ようやくたどり着いた、夢にまで見たシカゴ。五大湖の畔までやって来たんだ。ミシガン湖を渡れば、もうカナダとの国境だ。ここが目的地。北。もう、ブルースを棄てられる……」
ヂッと音たてて煙草を吸う。ゆっくり吐く。立ち昇る煙を眼で追いながら、指先の脂《やに》の匂いを嗅ぐ。
「寒いんだよな、シカゴは。スタート地点のニューオーリンズの緯度は鹿児島くらいか。シカゴはぴったり青森と同緯度なんだ」
戸川刑事も煙草を咥えた。村上が自分の吸いさしを差し出す。戸川刑事はちいさく頷き、村上の煙草から火を移す。
4
ブルースは、棄てられなかった。それどころかシカゴ・ブルース≠ニして大きく発展した。
いままでは生ギターで地味に、眼前の人々に語りかけるように唄っていたブルースが、アンプからコードを引っ張って、電気ギターに変わって、派手になった。
派手になっただけではない。大勢の人々を相手にし、孤独の匂いが強くなった。ブルース・マンは、谷底のように暗い客席に向かい、顔さえ見えぬざわめきに向かって泣きそうな声を張りあげる。
シカゴ。南部のようなあからさまな差別はないし、リンチも少ない。しかし、ちゃんとゲットーが用意されていた。黒人は、白人の住む山の手には、絶対に住むことができない。
そこには畑はなく、作物を植える土もない。コンクリート、アスファルト。人々は物をつくらずに、右から左に流すだけ。果物、野菜、肉……なんでもあるが、金がなければ手に入らない。
金が欲しい。しかし仕事はない。金がなければ生きていけない大都市で、毎日足を棒のようにして歩いても仕事は見つからない。
南部では、その気になればどこでも寝られた。太陽だけは、たくさんあって、誰にでも平等に射した。
シカゴの冬は、厳しい。とてもじゃないが野宿はできない。
凍え死ぬ。酒に麻薬。そして女。
女は愛でなく、金で買う。都市の孤独。
たしかに都市で、自由になった。意見する者など誰もいない。好きにしろ。
好きにしろ……ところがゲットー以外に行き場はない。都市は檻《おり》だった。獣にならなければ生きていけない世界だった。
忍耐や努力が通用する世界など、どこにもないが、都市では生きていくのに誠実ささえ邪魔になる。
おっとり構えていると、背中に三十八口径。金だけではない、面白半分に命まで盗られる。
やられるまえに、やれ。撃たれる前に、撃て。ビート・ザ・システム。
奴隷解放とは、アメリカが農業国から工業国に移行するための、工業労働力確保の政治的一手段にすぎなかった。
行き倒れの死体に、雪降り積もる。
5
村上は煙草を根元まで吸った。熱い煙が喉《のど》を焼く。
「俺はそんなシカゴのゲットーで暮らした。危ない橋もたくさん渡った。ゲットーで日本人なんて、もちろん俺だけさ。おかげでけっこう有名人。自分のバンドも持った。
キャデラックは買えなかったが、安い日本車を買った。昼はモグラのように寝ていて、夜はクラブで演奏する。
人気バンドだった。俺のバンドのサウンドは、スーパー・タイトと呼ばれていた。俺のバンドは引き締まっていた。タイトだった。メンバーには厳しくしたからな。キチッと音楽理論も教えた」
「観光ビザじゃまずいな」
「黒人たちはそんなことをひとことも言わなかったぜ。もっとも組合《ユニオン》に入れず、苦労したがな」
「ま、それはすんだことだ」
高橋係長が取りなした。
「それより、だ。なぜ強制送還後、ギターをやめちまったんだ?」
「どういうことだ?」
「つまり、それだけの腕があるんだ。ギターさえ弾いていればドヤ街なんかに転落せずにすんだだろうに」
村上は横を向く。奥歯にあいた虫歯の穴を舌先でさぐり、チッと音をたてる。高橋係長はおおげさに両手をあわせ、村上を覗《のぞ》きこむようにして言う。
「ああ、気にさわることを言ったみたいだな。あやまるよ。すまん」
村上は高橋係長に視線を据えた。
「おっさん、タヌキだな」
高橋係長より先に、戸川刑事が怒った。
「口のききかたに気をつけろ!」
「ふざけるな。罪が確定しとらん者は単なる被疑者だ。偉そうな口を利くのは裁判が終わってからにしてもらおう」
村上は薄笑いをうかべて、落ち着いた口調で言った。高橋係長はウンウンとわざとらしく頷いて、先を促した。
「俺は挫折《ざせつ》したと言っただろう。ギターを弾かなくなったのは、日本に戻ってからではない。アメリカで、だ」
「なにがあった?」
「たいしたことじゃない。話を聞けば、あんたらは『なんだ』と言うかもしれない」
「聞かせてもらおうか」
高橋係長は誠実な顔をつくった。村上はしばらくためらい、小声で喋《しやべ》りはじめる。
「俺は……シカゴで凄《すご》くいい女と暮らしていた。黒人で、なんて言えばいいかな。母性のかたまりって感じかな。やせていて、凄くきれいな女でね」
「あっちのほうが、凄いんだろう」
「高橋係長は話をすぐそっちに持っていきたがるな。はっきり言って、それは差別だぜ。黒も白も黄色も変わりないよ。色情狂もいれば、淡白な女もいる。まったく個人的なことだよ。高橋係長だってウタマロと言われたら、苦笑いするだろう」
「そりゃ、そうだ」
村上は、さきほどから黙って話を聞きながら貧乏揺すりしている戸川刑事を盗み見る。四十歳をこえているだろう。まだ巡査部長にもなれないでいる。高橋係長のタヌキ振りといい対照だ。
「どうした、村上。続きは?」
「──あのころ俺は、ひどく行き詰まっていたんだ。ギターを弾くと苦しくて、苦しくて耐えられなくなるんだ。
どォしょもねえ下手糞《へたくそ》の黒人ギタリストが、どォしょもねえ演奏をするわけだ。ところが……」
「ところが?」
「うねるんだ」
「うねる?」
「説明するのは難しい。やつらは下手だけど、凄いんだ。エネルギー。力。そしてリズム。日本車は優秀だが、いざというときの加速の底力では、大排気量のアメ車にはかなわないってところか」
「おまえは譬えがうまいなあ」
高橋係長がおだてた。村上は露骨に嫌な顔をする。
「とにかく当時の俺は、自分の演奏が単なる技術、テクニックだけじゃないかという不安を覚えていたんだ。それはほとんど強迫観念に近かった。
いま考えると、まったく違う文化のなかで、強いホーム・シックにかかっていたような気もする。俺はやっぱり日本人で、黒人に囲まれて、突っ張って生きていくには、少々根性が足りなかったんだ。
とにかく酒の量が増えたよ。マリファナなんて、冗談じゃない。聴覚が鋭くなるなんて、とても耐えられない。恐怖さえ感じたよ。俺はどんどん酒に逃げこんだ。とことん酔って、麻痺《まひ》しているときだけが、心が安らいだような……」
村上はうつむいた。自嘲《じちよう》の笑いが唇の端にうかぶ。戸川刑事が声をかける。
「辛かったんだろうな。マリファナではだめか?」
「──まったくやらなかったわけではないが、当時はやはりバーボンをラッパ呑《の》みさ。声が少しかすれているのは、その頃の名残なんだ。バーボンやジンで焼いたんだ。いまも呑まないわけじゃないが、とてもあの頃のようには呑めない」
戸川刑事はまっすぐ村上を見つめて言った。
「黒人の……彼女は心配しただろう」
「心配したさ。俺は酔っても暴れたりはしないが、どんどん内に籠《こ》もっていくタイプで、なんていうのかな……もう殆《ほとん》ど自殺に近い呑み方だったんだ。で、ある朝、俺がめずらしく素面《しらふ》のときだ。彼女は俺を……励ました」
村上と戸川刑事の視線が交差した。
高橋係長は足先が冷えるのか、足を交互に踏んでいる。革がこすれ、キュッ、キュッと嫌な音がする。
「どんな、励ましだったんだ?」
「すばらしい励ましだったよ。──『自信を持ちなさいよ。あんたがギターを弾けば、猿がピーナツの皮を剥《む》くよりも凄《すご》いことをするんだから』──どうだ、なかなかだろう」
「悪気じゃなかったんだろう」
「ああ。俺がまっとうだったころ、ふたりでカナダに旅行したことがあったんだ。ウィニペッグの動物園で猿と遊んだ。殼つきのピーナツを投げてね。
俺がアル中でなかったなら、それが彼女の褒め言葉であると受け取っただろうが、俺は酒でいっさい余裕がなく、破裂して……」
「猿がピーナツか。そりゃ失礼だよな」
高橋係長が口を挾んだ。
「うるせえよ」
村上は低く鋭く言い、ふと戸川刑事の前に広げられた調書に気づいた。
「なんだ? この調書は……」
調書には、米国内にてマリファナを常用、と書かれてあった。
「戸川さん。俺はこんなことを言ったか? なあ、戸川さん!」
「そういった意味のことを言ったじゃないか。おまえは」
戸川刑事は平然と言って、高橋係長と視線を交わして、ニヤニヤした。
「あんた──」
村上は絶句した。戸川刑事はニヤニヤ得意そうに笑いながら、村上に向けて調書を突き出す。
「さあ。署名|捺印《なついん》しちまえよ。悪いようにはせんから。おまえの気持ちはよくわかる。同じ東北人じゃないか」
村上は閉じた。開きかけた心は、頑《かたくな》に閉じ、絶望的な孤独感に襲われた。
「世話、やかすなよ。早く出たいだろう。正月も明けたんだ。三食付きなんて強がっていたって、やはり自由に酒が呑みたいだろう」
「今日はこれだけでいい。アメリカで吸っていたことを認めるだけでいい。さあ」
村上は眼を閉じる。頬は怒りのせいで血の気を失っている。調書という名のあらかじめ出来上がっているシナリオを完成させるために、この犬どもは村上を脅し、おだて、なだめすかしてゲームを楽しむ。
高橋係長は肩をすくめ、苦笑いして、伸びをした。
「いいよ、戸川君。こうなったら、とことん拘留延長してやる」
村上の額を小突く。睨《にら》みつける。
「覚悟しておけよ、村上。二十三日の身柄拘束だと考えているなら、あまいぞ。素直に罪を認めれば、お上にも温情というものがあるが、いまの態度では社会には出せん。貴様のような社会不適応者は徹底的に俺が鍛えなおしてやる。
五ヵ月、六ヵ月……もっとかもしれん。楽しみにしていろ。さ、戸川君。時間だ。我々は村上君が中毒するほど好きだという酒でも一杯ひっかけて、古女房でも触ろうじゃないか」
6
村上は不機嫌な戸川刑事に押されて、房に戻された。
ひとりだ。
以前入れられていた婦人房ではない。庄内は正月明けと同時に罪が確定して、移送された。
こんにゃくの炒めものをおかずに、つまらなさそうに米を口に放り込む。けっきょく胃が受けつけず、半分以上残した。
寒さにも、孤独にも、なれきっている。そう自分に言い聞かせて、村上は幾度も読んだ漫画週刊誌を眺めた。
吐きだす白い息をぼんやり追って、鉄格子を甲で叩《たた》く。塗料の剥《は》げかけた鉄の檻《おり》をぼんやりと覗める。床に敷いてあるゴザが尻《しり》にチクチク刺さる。
昂奮《こうふん》して暴れまくった新入りが、鎮静衣をかまされて、ミイラのように転がされ、防声具をあてがわれて唸《うな》っている。あの様子では、一晩中唸りまくるかもしれない。はじめは昂奮で、やがて苦痛で。
村上は上体を倒す。顔を両手で覆う。
綾……。
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第五章 中村川に浮かぶ天井の低い部屋
綾《あや》もカナリア、サチオもカナリア
1
待ちきれなくなった。
いつ来るか、いつ電話が鳴るか。正月明けから数日じっと部屋に籠《こ》もっていたが、もう我慢できなくなった。村上がまだ女々しく迷っているなら、思いきり叱《しか》って、無理に引っ張ってくる。
綾は手早く身支度した。初めてコトブキに行ったときほどの緊張はない。寒風にあたると頬が赤くなるのが気になるが、かといってファンデーションを塗る気までおきない。唇にリップクリームを塗っただけでノーメイクだ。
マンション近くの喫茶店に寄る。初めてコトブキに行ったとき、ここで景気をつけていったのだ。
「新年おめでとう」
マスターが挨拶《あいさつ》した。
「あたしはまだおめでたくないの。腹立つなあ、村上は」
「村上さん? ここに来たことがある人かな」
綾は首を左右に振った。
「いずれ紹介するわ。あたしの彼。すごくいい男。泥のなかに潜りこんでいる宝石みたいな人よ。まてよ……男だから……宝石というよりは、金か。男は金だよね」
「きん……? なに言ってるんだ」
マスターは苦笑した。綾は赤い舌をぺろっとだした。こんなきわどい危なっかしい冗談を言っても、綾にはなんともいえない可愛さがあった。隣に座った客が声をかける。
「綾ちゃん、すごいことを言うね」
「そう。あたしは欲求不満なんだ。破裂しそう」
「その村上という人の金でなくてはだめか?」
「だめ。あたしを鎮めるのは、村上の金だけ」
客は口笛を吹き、綾の顔を覗《のぞ》きこむ。
「でも、俺が推理するとだな」
「なによ?」
「綾ちゃんはまだよく知らないよ。未開発だと思うな」
「それで?」
「もしよかったら」
「けっこうです。村上に開発してもらいます」
客は肩をすくめ、マスターが割りこんだ。
「コーヒーでいいかな?」
「すごく苦いやつをバケツに頂戴」
2
メイン・ストリートではなく、脇《わき》の路地から最短距離を通って杉村荘の前にでた。綾は男たちの視線にも動じなかった。
木造モルタル塗り。全体に煤《すす》ぼけて、くすんでいて、窓という窓には金網が張りめぐらせてある。
昂然《こうぜん》と顔をあげて玄関に向かうと、入口に溜《た》まっていた男たちは綾の顔をじろじろ見ながらも道をあけた。
「すいません」
綾はにこやかに会釈した。捩《ね》じり鉢巻をした男がつられて愛想笑いをかえし、軽く頭をさげた。黒ずんだ肌をした不精髭《ぶしようひげ》の男たちは皆、毒気を抜かれた顔で綾を見つめ、その背を見送り、かたちのいい尻を凝視した。
「ねえちゃん、たまらん腰つきだぜ」
捩じり鉢巻が声をかけた。玄関口の暗がりから、綾は振り向き、笑顔をかえした。
男たちはうつむいた。綾の笑顔には曇りがなかった。自分たちの境遇には、あまりに不釣り合いなものだ。
「チクショオ……」
男たちのあいだから呪《のろ》いの呟《つぶや》きがあがった。
「こんにちわ」
綾が挨拶すると、帳場の老人は綾を一瞥《いちべつ》し、手鼻をかんだ。鼻水はごみ箱がわりの石油缶に見事に飛んでいき、綾は不潔感を覚える前にその手際のよさに感心した。
「あの……」
手鼻で機先を制せられ、綾はどう切りだすべきか少々戸惑った。老人は電気ストーブに手をかざし、目脂《めやに》の溜まった眼で綾を見あげている。
綾は咳払《せきばら》いした。ちょうど臍《へそ》の上あたりで両手を組み、帳場の小窓に歩み寄る。
「あの……村上……じゃない、犬山さんに会いたいんだけど……おじいちゃん、あたしを覚えているかしら?」
「犬山はおらん」
「おらん? いないの? 仕事?」
老人は口をもぐもぐ動かしてから、皮肉な笑いをうかべた。
「仕事というか、お務めだな」
「いつもどるの?」
「さあな」
「また、タンカーに乗ったの?」
「いや。捕まった」
「捕まった? なにに?」
「警察だ。麻薬組織の親玉だったんだ。あんたも一枚|噛《か》んでいたんじゃないのか?」
綾はあっけにとられた。警察。麻薬組織の親玉。殆《ほとん》ど理解不能だ。
「ねえ、おじいちゃん。何があったの」
「犬山は暮れに警察に踏み込まれて、捕まった。それだけだ」
「それだけって……あの人は麻薬なんかやらないわよ!」
「部屋の鍵《かぎ》を貸せと言ってきた警官は、俺《おれ》にそう言ったぞ。犬山こと村上は、麻薬の親玉で、ちょっと騒ぎがおきるかもしれんが気にするなと」
どうやら老人は嘘《うそ》や冗談を言っているのではないらしい。あまりのことに綾は、うろたえながら笑った。
「だって……麻薬なんて、お酒はすごく呑むけど、麻薬なんて」
「落ち着きな。犬山は捕まっても落ち着いとったぞ。腹が据わってる。いい根性してた」
「どこの警察に……?」
「さあな。刑事が三人きてな。ああ、そうだ。犬山からあんたに伝言がある。忘れるとまずいから、書いておいたんだ」
老人は机の上の紙束をあさり、首をかしげ、板壁にクリップで止めたメモ用紙を向いて頷《うなず》いた。
メモ用紙は新聞の折り込み広告を四つに切ったもので、四角ばった右あがりの字でこう書かれていた。──あやもかなりや さちおもかなりや
綾は喰い入るように見つめ、ボールペンで書かれた平仮名を頭のなかで組み立てなおした。
「綾もかなりや。サチオもかなりや……わからない。かなりやって、関西弁でかなりってことでしょう、まいったなあ」
泣き笑いの表情で、綾は首をかしげる。老人に迫る。
「ねえ、これだけ?」
「それだけだ。部屋に寄ってくか? 宿代をもらってるから、まだしばらくは、そのままにしてあるぞ」
3
棺桶《かんおけ》のような村上の部屋だ。狼狽《ろうばい》気味にドアをロックし、綾は立ち尽くした。室内は手荒く物色されたあとがある。センベイ布団はめくられ、裏返しにされ、わずかばかりの衣類が散乱していた。
しばらくはどうしていいかわからなかったが、気を取り直した綾は畳に膝《ひざ》をつき、散らばった衣類をたたんでいく。化繊の作業用コート。汚れ放題の作業ズボン。群青色の上着。タオルが二枚。軍足に、軍手。アンダーシャツにパンツ。
下着類。汚れている。村上の汚れ。村上の匂い。綾は口許をふるわせる。掴《つか》みあげた下着に顔を埋める。擦り切れた畳に突っ伏して、むせび泣く。涙が村上の下着に染みていく。
西陽が射した。綾の肩に、ほのかにあたたかく陽があたる。
泣き疲れた。顔をあげる。しゃくりあげながらも、口をきつく結び、下着や衣類をまとめて、あたりを見まわし、汚れ放題のシーツで包む。
「助けてあげる。あたしが助けてあげる」
綾は涙に濡《ぬ》れた頬を幾度もこすり、衣類をまとめたシーツを持って部屋をでた。
4
玄関口で溜まっていた男たちは、猥雑《わいざつ》な冗談を言おうとしたが、綾の泣きはらした眼に気づき、神妙な顔して距離をおいた。
綾は村上の衣類をつつんだ包みを胸に抱き、男たちを睨《にら》みつけるようにした。
「村上さんがどうなったか知っている人は?」
「村上ってのは、犬山のことだろう。奴は捕まったさ」
捩《ね》じり鉢巻が言った。綾は彼に近づいた。
「麻薬組織の親玉ですって?」
「誰が……?」
「村上さん」
「冗談だろ。奴《やつ》は徳山さんにも楯《たて》つくんで有名な、気の短いアル中だよ。奴が捕まったのは、ちびっとマリファナってのを持ってたからだ。酒を呑んでりゃあいいのに、どこでそんなもん手に入れたのか、魔がさしたってやつだろう」
「マリファナをすこし?」
「すこし。ここから連行されていくとき、若い刑事が首をかしげながら、ぶつぶつこぼしていたよ」
乱杙歯《らんぐいば》の老人が割りこんだ。
「わしはけっこうあの若造の世話をしてるんだ。ずいぶんコインを貸してる」
「コイン?」
「ガスのコインだよ」
それは自炊用ガスコンロのタイムスイッチをオンにするコインのことだが、けっきょく綾には意味がわからない。老人はかまわず喋《しやべ》る。
「奴が捕まった日の朝、コインを貸してくれって言うから、貸さんわけでもないがって、すこし話したんだがね、素面《しらふ》だったよ。二日酔いだったかもしれんが、麻薬って感じじゃない」
「じいさん、黙ってろ」
捩じり鉢巻が小突いた。乱杙歯の老人は卑屈に笑って、引っこんだ。
「ノルマってやつだよ。警察ってのは何事もないのは困るんだ。犯罪がなくて、出番がなければ世の中、平和でおめでたいはずだけどよ、奴らは困る。上から目標を定められて、それを達成するために、こんなとこにまでやって来るわけだ。村上はたまたまそれに引っ掛かったんだよ。じき出てくるよ」
そう慰められても、綾は納得できないし、安心できなかった。どう考えても村上が麻薬組織の親玉とは思えないが、逮捕されたのは事実だ。
「あなた。案内して」
「なんだよ、俺は警察なんてごめんだぜ」
捩じり鉢巻は怯《ひる》んだ。
「警察はあたしが何とかする。あなたは黙って徳山のところにあたしを案内すればいいのよ」
「ねえちゃん、態度でかいな」
捩じり鉢巻は言いながら、綾の腰に腕をまわした。
「あたしとやりたいなら、やらしてあげるから、とにかくいますぐ徳山のところへ連れていって」
「やらしてやるだ?」
「へるもんじゃないわ。あたしは村上のためだったらなんでもする」
男は綾の腰にまわした手の処置にこまり、しかしすぐに居直り、きつく引き寄せた。
「正気か?」
「人を好きになって、正気でいられるわけがないでしょう」
「──徳山さんとはどういう関係だよ?」
「ダチだよ。マブダチだ」
「それじゃあ、ねえちゃんとやるわけにはいかねえなあ」
捩じり鉢巻は綾を解放し、顎《あご》をしゃくった。
「来な。徳山さんは、今日は仕事をしてないはずだ」
「山野興業の事務所?」
「いや、御自宅だよ」
綾は捩じり鉢巻に従った。そのあとを乱杙歯の老人をはじめ、仕事にあぶれて溜まっていた連中がぞろぞろとついていく。
5
廊下にまで徳山の笑い声がながれていた。捩じり鉢巻は親指を立てて、綾に囁《ささや》いた。
「徳山さんは最近コレができたんで、仕事をさぼってばかりさ。昼間っからテレビ見て、はしゃいでる。
昔はテレビなんか見る人じゃなかったんだけどな。コレの指をナニして、コレが仕事はおろか何もできないわけだ。だからテレビを買ってきたんだ。凄《すご》いでかい画面のやつでな。この間、ちらっと見せてもらったけど、たいしたもんだ」
コレだのナニだの、綾にはいまいちよくわからないが、捩じり鉢巻は囁き声でまくしたてると、くすぐったそうに笑った。
戸口に立った徳山は、瞳を見開いた。
「綾……どうしたの? よくここがわかったね」
「この親切でいなせなオニイサンに連れてきてもらったのよ」
捩じり鉢巻は頭を掻《か》きながら、上眼遣いで頭をさげた。徳山は頷《うなず》き、捩じり鉢巻はあとをついてきた連中と一緒に帰っていった。
「徳山さんて、コトブキの王様だね」
「綾が言うと、皮肉っぽいな。実際は、隙《すき》あらば殺してやろうと思っている奴ばかりで、俺は憎まれているんだよ」
徳山の口調はあながち冗談でもなさそうだった。しかし綾にとってはどうでもいいことだ。綾は勢い込んでいった。
「村上が捕まったわ」
「知ってるよ。ま、入りなよ」
徳山は部屋のなかに声をかけた。
「健ちゃん、お客さんだ。美女の御訪問だよ」
ようやく綾は、徳山の愛人が男であることに思い至った。
「ずいぶん冷たいのね。彼ができたら、村上なんてどうでもいいわけ?」
徳山は肩をすくめ、とにかく中に入れと促した。部屋に入って、ちゃぶ台に頬杖《ほおづえ》ついてテレビを見ている小柄な男を見て、綾はハッとした。体格こそ違うが、村上にそっくりだった。
健は綾を一瞥《いちべつ》し、曖昧《あいまい》に視線をそらした。そのままブラウン管に視線を固定し、綾を見ようとしない。
「お茶でいいかな」
微笑しながら徳山が言い、綾は自分がひどく動転して落ち着きを失っていたことに気づいた。
徳山のいれた茶はおいしかった。よく蒸らしてあるのだろう、かなり濃いめだが、甘味と苦みが微妙に調和している。
「おいしい」
「お茶だけは安物は駄目だね。番茶には番茶のよさがあるけど、喉《のど》の渇きが癒されればいいってもんじゃないだろう」
「──そうね」
「ずいぶん焦ってたよね」
「うん。なにも見えなくなってた」
「落ち着いた?」
「おかげで」
「きれいになったね。凛々《りり》しくなった」
「ありがと」
「村上ちゃんだけどね、情報によると、そんな大事にはならないはずだよ」
「情報は、どこからくるの?」
「俺は、警察関係にも顔が効く。持ちつ持たれつってやつでね」
「信用していいの?」
「絶対とはいえないけどね。さっきの捩じり鉢巻が言うには、村上ちゃんはたしかに大麻を所持していたけど、なんでも喫煙具さえ見つかっていないそうじゃない。覚醒剤だったらまずいけど、大麻の初犯だからね。たぶん実刑はないと思うよ。
しかし、村上ちゃんもつまらないことをしたよ。おれはまた、綾が村上ちゃんに大麻をあげたんじゃないかと思っていたけど」
「あたしは、あげないよ。大麻をやったことがないとは言わないけど、ミュージシャン、イコール大麻だのおクスリっていうのには反発を覚えるな。あたしはああいうの大嫌い。あたしは、ナチュラルハイ、よ。それより実刑がないっていうのは本当?」
「さあ……断言はできないけどね。おれは裁判官じゃないから。でも、いままでの例からいくと、実刑を喰らうほどじゃない。俺が騒がないのは、そこいらを見越しているからさ。一般人にとっては大事でも、コトブキのもんにとっちゃ、大したことじゃない。二十日ばかり無料飯《ただめし》が食えていいだろうってなもんさ」
「でも……杉村荘の帳場のおじいさんは、刑事が村上のことを麻薬組織の親玉だと言ったって」
徳山は苦笑した。
「村上ちゃんが親玉なら、タンカーになんか乗らないよ。もっと羽振りがいいはずだ。そうだろ?」
綾は心配そうにうつむく。徳山は苦笑していたが、やがて貧乏揺すりした。
「わかった。もしもってことがある。ちょっと杉村荘のじいさんに確認してくるよ」
徳山は立ちあがり、出ていった。
二十九インチのテレビは、女優の離婚をおおげさに報じている。レポーターはマイクを振りかざし、人垣をかき分ける。
綾は健を盗み見た。健も綾を盗み見ていた。視線があってしまい、ふたりはきまり悪そうに笑った。健は咳払《せきばら》いした。小声で言った。
「村上さんの彼女ですか」
イントネーションに微《かす》かな北の訛《なま》りがある。綾は首を縦に振った。
「なんで村上さんは大麻なんかに手を出したんですかね」
綾はハッとした。村上が初めてMOJOに来た夜、綾は閉店後すぐに村上を追ってMOJOを出たので実際には見ていないが、翌日マスターが言っていた。
あの夜、村上が出ていき、綾がそれを追って出ていったあと、血まみれの男が両眼を押さえながらトイレから出てきたという。そしてそのあとトイレから出てきたサチオが言うには、血まみれの男はトイレで大麻を売りつけようとして喧嘩《けんか》になり、村上にやられたという。
いまでは記憶があやふやだが、たしかにマスターはそういった意味のことを言っていた。綾は下唇を噛む。なぜこんな重要なことを失念していたのだろう。
健は包帯で覆われた両手を両足のあいだに隠すようにして、眩《まぶ》しそうに綾を見つめている。綾は健を向いた。健が慌てて言った。
「村上さんは、男気のある人で、みんなに頼られていました」
外交辞令的なニュアンスをいくらか感じもしたが、綾は黙って頷《うなず》いた。
6
徳山が戻った。綾は勢いこんで昨年暮れのMOJOのトイレで起こったらしいことを語った。
「いまの綾の話で、村上ちゃんがどうして大麻を手に入れたかおおよそのところはわかった。杉村荘のじいさんのいうことも、嘘ではないようだ」
徳山は杉村荘から戻って、表情が硬い。きつく腕組みして独白した。
「しかし警察はなぜ村上ちゃんが大麻の総元締めだなんて考えたんだろう」
綾は徳山の顔色を窺《うかが》いながら、言った。
「あの……村上からあたしに伝言があったの」
「どういうこと?」
「村上がお巡りさんに連れていかれるとき、杉村荘のおじいさんに託したらしいの」
「どうして綾は、大切なことを黙っているの?」
「黙っているつもりはなかったんだけど、気が動転しちゃって……」
徳山の目つきは厳しい。綾は下を向いて涙ぐんだ。徳山は綾の傍らに置かれた汚れた包みに視線をやる。どうやら村上の少しばかりの衣類らしい。徳山は綾を見つめ、苦笑して、首を左右に振った。
「さあ、綾。お嬢さんしてないで、村上ちゃんの伝言を教えて」
「それが……」
「それが?」
「へんなのよ。冗談みたいな」
「──とにかく、教えて」
「はい。ええと、綾もかなりや、サチオもかなりや」
「なに? もう一度」
「綾もかなりや、サチオもかなりや……へんでしょう。かなりやって、相当って意味かしら。村上はへんなときに冗談で関西弁の伝言なんか残すんだもの」
徳山は眉《まゆ》をしかめ、顎《あご》のあたりを弄《もてあそ》んだ。
「なあ、綾。それは関西弁じゃなくて、小鳥のカナリアじゃないか?」
「カナリア……のこと?」
「たぶん」
「だって、おじいさん、メモ用紙にかなりやって……」
綾と徳山、そして健は顔を見合わせ、しばらく困った顔をしていたが、やがて苦笑いした。
「綾もカナリア、サチオもカナリア」
「そう。はっきりいって、村上ちゃんが土壇場でそういう冗談を言うとは思えないもんな」
「そうよ……ね。冗談、へただものね」
健は下を向いて笑いをこらえている。徳山は綾の瞳を覗《のぞ》きこむようにして言った。
「恋は盲目って言うけど、綾の場合は、ほんとうに重症だね」
「だって……あたしは……あの、おじいさんがかなりやって書いて、だから」
「いいよ、釈明は。それより、カナリアというのはどういう意味だろう?」
綾はもじもじしながら、言った。
「それなら、あたし、わかる」
徳山と健はまだ頬に苦笑の名残を残したまま、綾を促した。綾はしばらく口ごもっていたが、怒ったように言った。
「カナリア……アメリカ式の発音でカネリ。スラングで、歌手のこと」
「スラングというと、俗語か。──綾も歌手。サチオも歌手。なんだろ、これは」
徳山は首をかしげる。綾はためらいがちに言う。
「カナリアという俗語には、歌手以外に、もうひとつの意味があるの」
「どんな?」
「──密告者」
徳山の顔色が変わった。口の端を歪《ゆが》めて笑う。
綾も健も、顔をそむけた。徳山の表情は凄《すさ》まじい。ふだん見せることのない、徳山の心の奥底が、唇の端に薄笑いというかたちで凝固していた。
「綾は、もちろん歌手だよね。サチオっていうのは、もちろん密告者。タレ込み屋。村上ちゃんも洒落《しやれ》た伝言を残すじゃない。綾もカナリア、サチオもカナリア。ちょっとしたもんだ」
徳山は綾の肩に手を置き、引き寄せた。
「村上ちゃんは絶対に助けてあげるからね。とりあえず、組の弁護士をつけてあげる。タレ込み屋があることないことでたらめを言ったとしたら、村上ちゃんの立場はけっこう危ういものがあるからね。やつらはデッチあげだってするからさ。権力持つと、なんでもありの世界だからね。冤罪《えんざい》に陥れたって、さしあたり署の成績があがればいいんだから。あとは俺にまかせて。絶対村上ちゃんを助け出す」
津田越前守助広
1
中村川にかかる高速神奈川一号横羽線高架下。船体に無数の古タイヤをまとわりつかせたダルマ船が四|艘《そう》等間隔で係留されていた。
水面は黒く澱《よど》んで、深く暗く重い夜の匂《にお》いが漂っている。ときおり高速を行く大型トラックが威圧するようにエア・ホーンを鳴らす。その音圧で水面に微《かす》かな波紋がひろがる。そういった車の走行音が中村川に反射して、軋《きし》むように響くほかは、一切の動きがない。
徳山は眼を瞑《つむ》り、胡座《あぐら》をかいて船底に座っている。水面より低いダルマ船の居住区のなかには蝋燭《ろうそく》が灯《とも》っていた。黄色っぽい弱々しい光に横顔が揺れ、影がせわしなく伸び縮みする。
船内に暖房はないので、徳山の吐く息は白い。古い週刊誌が数冊投げだされ、中国のものだろう、白磁の灰皿がある。灰皿のなかの吸殼は種々雑多で、その殆《ほとん》どが吸湿して茶色く変色して乾き、なかには青っぽい黴《かび》がはえているものもある。
徳山はゆっくり眼を開いた。背筋がぴしっと伸びて、まるで修行をつんだ僧が瞑想《めいそう》から覚めたかのような姿勢だ。
傍らに置いたゴルフバッグを引き寄せる。津田越前守助広。破産しかけた資産家から強引に入手したもので、重要文化財級の名刀だ。
手に入れたときは、沸《にえ》のあつい華美な作風の美術品だった。江戸、寛文年間という泰平の時代に造られたせいか、やや強い反りが女の腰つきを想わせる、どことなくたおやかな刀だった。
しかし徳山に積極的に使われ、幾度も血を吸い、本来の人斬包丁としての役目を全うするうちに、えもいわれぬ凄《すご》みが刀身に現れてきていた。刃こぼれもあるが、かえってそれが生々しい美しさと刀に加えられた激烈な力の結果を示していて、凶器としての格、とでもいったものさえ漂わせている。
徳山は血と脂で曇った刀身を凝視する。鉄の匂いに混じって、たしかに人の肉を想わせる有機的な匂いがする。
白い息がさらに刀身を曇らせていく。見つめる徳山の瞳の奥に恍惚《こうこつ》が宿る。大波をかたどった刃に蝋燭の朱の炎が映える。
「無視していたわけじゃないんだよ。心配したけど、実刑は喰らわないだろうと踏んでいたし、村上ちゃんの身から出た錆《さび》だから、しょうがないと思っていたんだよ」
徳山は刀身を見つめながら、独白する。
「でも、村上ちゃんが欲しがらないのにブツを押しつけた奴がいて、押しつけられたことを知りながら総元締めなんていって警察に売った奴がいる」
徳山は刀身に顔をちかづける。唇が触れんばかりにちかづける。
「許せないよね……」
徳山は薄く眼を閉じた。呼吸が微《かす》かに荒くなる。唇がわなないた。唇は血の気を失って青褪《あおざ》めている。濡《ぬ》れた真紅が唇のあいだから突出した。
徳山は刀身を舐《な》めた。その頬《ほお》よりもさらに冷たく青褪めた鉄の肌を舌先がさぐる。
「吸いつくんだよ。この子は吸いつくんだ。肉に触れると、この子はきつく吸いついていくんだよ。村上ちゃん、俺とこの子が仇《かたき》を討ってあげるからね」
徳山はちいさく呻《うめ》いた。わずかに痙攣《けいれん》したように見える。
刀身を血が伝う。徳山の舌先はふたつに割れて、蛇の舌だ。
徳山は呼吸を整える。刀をそっとしまう。股間に手を伸ばす。叱《しか》られた子供のような顔をする。
股間が濡れていた。射精していた。下着を汚した白濁はすぐに熱を奪われ、冷たく粘ついた。それでも徳山は勃起《ぼつき》しつづけている。
2
売人は元町のやや老朽化したマンションに住んでいる。はっきりとその顔を脳裏に描けるほどではないが、横浜の裏を仕切っている徳山としては末端の売人までそれなりに把握しているのは当然のことであった。
徳山はダルマ船から抜け出し、深夜割増しの赤い表示ランプをつけたタクシーを停《と》めた。行き先を告げると、ゴルフバッグに入れた津田越前守助広を両腕で抱くようにしてシートに背をあずける。
運転手は徳山の尋常でない雰囲気を察して、少々緊張気味にタクシーを走らせている。徳山はそんな運転手に柔らかい声をかける。
「ねえ、運転手さん。タクシーってプロパンガスで動いてるんだってね」
「ええ……まあ……」
しばらく間があり、黙りこくっているのもまずいと思ったのか、運転手は徳山の機嫌を伺うように喋《しやべ》りはじめた。
「液化ガスを使っているのは、コストの問題なんですけどね、はっきり言って加速は最悪です。やはり車はガソリンでなくては。あたしら、いつだって床までアクセルを踏み込んでいますからね」
「でも、運転できるってのは、うらやましいよね」
「お客さん、免許は──」
「うん。もってないんだ」
「便利は便利ですよ。時間さえあれば、取っておいたほうが」
「いざというときに、運転手の仕事ができる」
「まあ……タクシーの運転手なんて最悪ですけどね。お客さんだから言っちゃいますけどね、結構こわい仕事なんですよ。お客さんに背を向けて運転しているわけでしょう。態度が悪いってお叱《しか》りを受けますけどね、つっぱってないと、とんでもないのを乗せちゃうときがあるんです。NHKのアナウンサーに蹴られた事件があったでしょう。あんなことは、よくあるんですよ」
徳山はくぐもった笑い声をあげた。
「おれが、その危ない客だったら、どうするの?」
「わかりますよ、お客さんは失礼ですけど、あの……」
「堅気じゃない」
「申し訳ありません」
「いいよ、事実だから」
「私、生意気言いますけどね、こうしてお客さんと話しているうちにわかるんですよ。お客さんは、人の心がわかるお方なんです。だから」
「褒《ほ》められちゃった。くすぐったいね」
運転手はミラーを覗《のぞ》き、徳山の表情を窺《うかが》い、頭を掻《か》いた。
「ねえ、運転手さん」
「はい?」
「俺ね、免許取りたくてもとれないの」
「なんでですか?」
「俺ね、戸籍がないの」
運転手はふたたびミラーを覗き、絶句した。
「信用した?」
「冗談なんですか?」
「あたりまえじゃない」
徳山は運転手と軽口をたたきながら、しきりに指先を動かしている。まだ若いころ、指を詰めなくてはならなくなってしまったことがあった。けっきょく、指を詰めずに金でカタをつけた。
小指は刀を扱ううえでもっとも重要な指であるから。
3
ドア・チェーンだけでなく、二重三重のロックがしてあった。万が一のとき、警察に踏み込まれる前に少しでもブツを処分してしまうための時間稼ぎで、売人としては当然の用心だ。
売人は怪訝《けげん》な思いを狡猾《こうかつ》な笑顔で隠して徳山を迎えた。徳山もあわせて、愛想よく低姿勢でドアが開くのを待った。
「どうしたんですか? 徳山さんほどの人がわざわざこんなところへ」
売人には前歯がなく、喋《しやべ》ると耳障りな息が漏《も》れた。徳山は歯のないピンク色した歯茎を見つめながら答える。
「ひさしぶりだね。ちょっと訊《き》きたいことがあってさ」
「呼び出してくれれば、こっちから出向くのに」
「知られたくないことだから。誰にも」
「誰にも?」
「そう。誰にも」
徳山は片眼を瞑《つむ》り、蕩《とろ》けるような笑顔をうかべてみせる。売人はつられて笑った。すぐに笑いは曖昧《あいまい》なものになった。徳山は有無をいわせぬ調子で迫る。
「玄関口じゃなんだし。ちょっと出ようか」
とうに午前零時をまわっている。売人は汗くさいガウンの前をあわせ、考えこんだ。徳山は身をのりだすようにして、訊いた。
「どうしたの、その前歯。せっかくの男前が台無しじゃない」
売人の頬に殺気がはしった。
「いずれ、ケリはつけます」
「ケリということは、転んだってわけじゃないんだね」
売人は口をきつく結んだ。村上に顔を便器の金隠しに叩《たた》きつけられた瞬間がよみがえり、頬が屈辱で震える。
「徳山さん」
「なに?」
「ようやく眼が見えるようになったんです」
「歯だけじゃなく、眼も?」
売人は口を噤《つぐ》み、こめかみを痙攣《けいれん》させた。
「力になれるかもしれないよ」
「──いえ。いずれ自分で」
「そうか。わかった。じゃあ、俺の話を聞いてよ。聞いてくれれば、おまえのナニの後始末くらいは手伝えるよ」
売人は徳山を見つめた。徳山は売人の眼を見つめかえした。瞳が微《かす》かに白い。波うつように爛《ただ》れている。
「徳山さん。着替えてきます」
徳山と売人は、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。運転手はルーム・ミラーで徳山と売人を一瞥《いちべつ》し、黙って発車させた。
「話って、なんですか?」
徳山は答えず、眼で運転手を示した。
「まずいんですか?」
「───────」
売人は沈黙に耐えられず、すがるように徳山に躯《からだ》を向けた。徳山はゴルフバッグを抱え、正面を向いたまま、口をひらいた。
「おまえ、なんていうの?」
「名前、ですか?」
「うん。お名前」
「──相良《さがら》ですよ」
「そうだっけ?」
「相良です」
売人は自分の名を忘れられていたことに腹を立て、横を向いた。それきり、徳山は口を噤《つぐ》み、売人も腹を立てた手前、不安を押しころして黙りこんだ。
深夜なので、元町から横浜スタジアムまではすぐだった。運転手は徳山からスタジアムまでと命じられていたので、花園橋を過ぎたところでアクセルを緩め、徳山の様子を窺《うかが》った。
徳山は頷《うなず》き、タクシーを停めた。
石川町を過ぎ、スタジアムまでタクシーを走らせたのはカムフラージュで、もちろん後のことを考えて慎重になっているからだ。いままで幾人も殺しながら、こうして娑婆《しやば》にいるのは運が強いということもあるが、一見大胆にみえて、細心の心遣いを忘れないからだ。
「えーと、相良だっけ?」
売人はムッとしながらも、頷いた。なんら実もないくせに、自尊心だけは人一倍強い男だった。
「おまえ、払っとけよ」
徳山はタクシーのメーターを示した。売人は口を尖《とが》らせた。徳山はゆっくり売人の顔を覗きこむ。売人は気弱に笑って、あわててポケットからグシャグシャの札を取りだす。
4
高速神奈川一号横羽線高架下。墨を流したように黒い中村川を覗きこんで、売人は泣きそうになった。
「堪忍してください……」
「なにを?」
問い返された売人は泣き笑いの表情で迎合し、首をかしげる。徳山は一切の感情が現れぬガラスのような瞳で売人を見つめている。売人は落ちつきなく躯を動かし、川面を覗きこむ。
「あの……話というのは?」
徳山はダルマ船に向かって顎《あご》をしゃくる。
「おいで。足元に注意して。けっこう滑るからね」
コンクリートで固められた運河のような人工的な水路であり、黒く濁った川だ。澱《よど》んで腐った水の臭気がきつい。徳山は売人を先に立たせて、壁面に造られたコンクリートの階段を下りる。
係留してあるダルマ船に下り立つと、臭気が一段と強くなった。ボートに毛の生えたような艀《はしけ》と違って、船底の広いダルマ船は売人の予想を裏切って、端に乗っても微動だにしなかった。
「ここで、けっこうハゼが釣れるよ」
背後から唐突に徳山が呟《つぶや》いた。
売人はビクとして、あわてて振り向いた。徳山の無表情は、売人の泣きだしそうな愛想笑いを完全に拒絶していた。売人の唇がハゼ……と動いたが、ことばは発せられなかった。
徳山はゴルフバッグのまま、津田越前守助広の鞘《さや》で売人の背を押す。売人は背に触れた物の感触に、意識を失いそうになる。
5
後頭部から巧みに延髄を突いたので、出血はたいしたことがない。売人は解剖された蛙のように細かく痙攣《けいれん》し、船内にコトコト軽い音を響かせている。
やがて痙攣もおさまった。徳山は、売人の背に据えていた視線をはずした。うつ伏せの売人は左右の足が不自然に絡みあってはいるが、まるで眠っているようだ。
徳山は眼頭を揉《も》んだ。充血した瞳がジンと音をたてるようだ。懐からテレフォンクラブで配っているティッシュ・ペーパーを取り出す。まとめて掴《つか》みだし、滲むように血のひろがった津田越前守助広の切先をぬぐう。
眉根《まゆね》をしかめ、瞳を細めて腕時計を覗き込む。午前一時二十分。夜光の針を大まかに読み、売人の死体に南京袋をかける。蝋燭を吹き消す。
6
ゴルフバッグに入れた津田越前守助広は絶対に離さない。徳山はゴルフバッグを抱きしめて、サチオの住んでいる安アパートを見上げた。
アパートの屋根越しに、よく晴れた冬の夜空がひろがっている。空気が澄んでいるせいか、流れ星が南の空を走っていくのが見えた。
「流れ星、飛んでいく、南の空へ、惨めー」
徳山は口のなかで呟《つぶや》くように歌い、拳《こぶし》を噛《か》むようにして押し殺した声で笑う。しばらく笑って、ふと真顔になり、咳払《せきばら》いして、頭を掻《か》く。殆《ほとん》ど一人芝居だ。
徳山はアパートの階段を登った。ちゃちなシリンダー錠だった。鍵《かぎ》などと呼べる代物ではない。一分もかからないうちに解除した。
狭い部屋に不釣り合いな大きさのセミダブルベッドで、サチオは口を半開きにして熟睡していた。微《かす》かに酒の匂いがする。バンドのメンバーと呑んだようだ。
大型のギター・アンプの陰からサチオの寝顔を窺《うかが》う。まだ、子供だ。MOJOのステージで、いつも綾を意識してギターを弾いていた。うっとうしくもあったが、苦笑して許すことができる程度ではあった。
しかし、村上を売ったとなれば、話は別だ。おそらくは、警察に密告して、その結果を本気で思い描くことができなかったのだ。
「坊やは、綾が好きなんだろ。気持ちはわかるよ。でも、ほんとうに好きなら、綾は村上ちゃんに任して身を引けばよかったんだよ。魔がさしたのかもしれないけど、おまえはやっちゃったんだ。村上ちゃんを売った。ユダはキリストを売って、首を吊《つ》った。しょうがないよ。あきらめるんだね」
徳山は自分が独り言していることに気づいた。苦く笑った。
幼いときから独りで喋《しやべ》り、歌い、笑った。友達と呼べる相手はなく、常に孤独だった。父の顔は知らず、幼稚園はおろか、小学校にさえ行っていない。
音楽は好きだったが、母親の前で歌うと、手ひどく殴られた。なぜ母が音楽を嫌ったのか、わからない。音楽に嫌な思い出があったのかもしれない。単純に幼い徳山の歌声にイラつき、折檻《せつかん》したのかもしれない。
愛された記憶はない。母は恐怖の対象であり、不安の源だった。いっそのこと、自分を棄ててくれればと願ったが、母は欲求不満を解消し、サディズムを満たすための道具として、徳山を傍らに置き、気まぐれに殴り、内腿《うちもも》をライターの炎で炙《あぶ》った。
幾度か死にかけたのだ。一升瓶で顔面を殴打されたときは、左の眼球が飛びだした。あわてて右手で受け、押し込んだ。
幼い徳山の包皮を剥《む》き、未発達の亀頭に縫い針を刺す、といった歪《ゆが》んだ性的虐待さえおこなわれた。
あの女は、異常だった。
それなのに、綾の姿が母にオーバーラップする。綾が歌う、その声を聞くと、瞼《まぶた》の裏に母が浮かぶ。母と綾は、似ても似つかない。それなのに……。
綾は、徳山にとって唯一の女。母、なのだ。
そう自分自身を納得させたが、どうも違うような気がする。綾は母性の象徴といったタイプではない。徳山は女という性、女という肉体から自分が生まれたことを呪《のろ》っている。
溜息《ためいき》をつく。自問する。俺にとって綾とは、いったいなんだろう……。恐怖感、嘔吐《おうと》を催す不潔感。糞《くそ》と小便だけでなく、臭い血さえ流す獣。股間に開いた醜い傷口。千切れ、裂け、乱れた、毛の生えた褐色の肉片。そういった負のイメージを与えない女は、綾だけだった。
徳山は、ちいさな鼾《いびき》をかいているサチオに向かって声をかけた。
「なあ、坊や。おまえにとって綾はいったいなんなんだい?」
サチオはうっすら眼をあけた。ぼんやり闇《やみ》を透かし見て、徳山のシルエットをとらえる。
徳山の手が伸びた。首にかかった。サチオは眼を剥いた。唇がわなないたが、声はでない。意識が遠のいていく。眼前に徳山の顔。蕩《とろ》けるような笑顔をうかべながら、唇が動く。
おまえにとって綾はいったいなんなんだい……?
そう徳山は問いかける。しかしサチオは答えることができない。視野が一気に狭くなり、朱色の光が炸裂《さくれつ》した。
7
意識が戻った。生きている。後頭部から眼球の奥にかけて激しく痛む。蝋燭《ろうそく》のちいさな炎が、気を失う直前に見た朱色の光の炸裂の残り火のように思えた。息苦しい。口はガムテープでふさがれている。躯《からだ》が動かない。やはりガムテープで縛られているようだ。
「おはよう、坊や。まだ陽は昇っていないけどね」
膝《ひざ》をついた徳山が覗《のぞ》きこんだ。サチオは叫んだ。声は出なかった。ガムテープの隙間《すきま》から息が漏《も》れ、喉《のど》の奥が鳴っただけだ。
「つぶしちゃったんだ、喉。俺、加減がきかないからね」
徳山は両手をサチオの眼前にもってきて、首を絞め、親指で喉仏をつぶす仕草をしてみせた。サチオは顔をそむけ、周囲を見まわす。ふしぎと、つぶされたらしい喉仏の痛みは感じなかった。
空気が希薄であるかのような逼塞《ひつそく》感と圧迫感。人が住む場所とは思えない、異様に低い天井。梁《はり》には湿気で垂れ下がるように蜘蛛《くも》の巣。全体的に黒く煤《すす》ぼけて、コールタールらしい油脂の匂いがする。
ここはどこだ……サチオは必死で考えた。
倉庫、物置、それとも……けっきょくわからず、サチオは躯から力が抜けていくのを他人事のように感じながら、薄く眼を閉じた。
「手荒なことして、ごめんよ。迎えにいって、素直に来てくれるとは思えなかったんでね、すこし無茶をしちゃった。
ああ、服とか汚れちゃったね。なにしろ気を失っている坊やをタクシーに乗せるわけにはいかないからね。しかたないから、廃品回収のリヤカーに積んできたんだよ、ゴミと一緒に」
柔らかな、柔らかな、わざとらしい猫撫《ねこな》で声。
「重かった。最近、愛人との性生活ばかりでね、力仕事をしてなかったから、ほんと、坊やを運ぶのは大変だった。だめだね。セックスでは体力はつかないし、痩《や》せないね。俺くらいの歳《とし》だと、何発もできないからさ。疲労が残るだけなんだ」
徳山の手が伸びた。サチオの尻。嘗《な》めるように丹念に撫でる。
サチオは躯を硬直させた。下半身が裸にされていた。ささくれだった徳山の掌が、サチオの小さな尻を撫で、尾※[#「骨+低のつくり」]骨《びていこつ》を探り、そして……。
8
徳山はあぐらをかき、サチオの血で汚れた股間を拭いている。
苦痛よりも、屈辱が勝っていた。サチオは下唇を噛み、徳山を睨《にら》みつける。幽《かす》かに汚物の臭いがする。徳山の充血した硬直器官で直腸を捏《こ》ねくりまわされたのだ。悔し涙が溢《あふ》れた。
男が男を犯す。まさか、と思っていたことが、現実に行われた。出血し、便を漏《も》らし、直腸内に徳山の精液をぶちまけられた。サチオは屈辱にふるえ、涙をながす。
血と汚物の染みたティッシュを投げ捨て、徳山がサチオを向いた。とたんにサチオの屈辱感は恐怖にかわった。
「罰だよ」
徳山は抑揚を欠いた声で呟《つぶや》く。
「俺は、強姦なんて趣味じゃない。強姦は嫌いじゃないけど、実際にはまずやらない。妄想《もうそう》するだけで、無理強いはしないさ。少々強引にやるときだって、お互いに気持ち良くなるように、けっこうサービスするんだから、俺は。
痛かっただろう、坊や。これは罰なんだ。村上ちゃんを警察に売った罰なんだよ。坊やはやってはいけないことをしたんだよ。自分の怨《うら》みを晴らすのに、なぜ権力を利用したんだ?
坊やが路地裏に隠れて、村上ちゃんを襲って殺したとしようか。俺は村上ちゃんが死んだら、泣いちゃうよ。手放しで、大声で泣いちゃう」
言いながら、徳山は実際に瞳を潤ませた。鼻をしゃくりあげ、眼頭をこする。
「でもね、それだったら、こんなことはしないよ。坊やと村上ちゃんの関係だからね。坊やが直接村上ちゃんに対してケリをつけたなら、俺の出る幕はないよ。だってそれは坊やと村上ちゃんのセックスみたいなものだもの」
サチオは茫然《ぼうぜん》と徳山を見あげる。村上を警察に売った……たしかに警察に電話した。勢い込んで、焦って、手短に、村上が大麻を持っていて、麻薬の総元締めであると告げ、電話を切った。
本当に逮捕されるとは思っていなかった。逮捕されて横浜からいなくなってしまえばいい、と夢想したが、現実に村上が逮捕されるとは考えなかった。軽い悪戯《いたずら》だったのだ。単純な鬱憤《うつぷん》ばらしだ。
そう釈明しようとした。声は出なかった。せめて口のガムテープを剥《は》がしてくれ。そう眼で訴えた。眼は口ほどにものを言い……しかし、このとき、サチオの思いは徳山に一切通じなかった。
徳山は芝居がかった仕草でうつむき、すすりあげながら、腐った臭いのする板張りの床に涙を落としている。
サチオは船底を芋虫のようにのたうちまわる。不安感に、つぶされた喉《のど》と裂けた肛門の痛みが加わって、発狂しそうだ。いや、実際に理性はどこかへ吹き飛んだ。恐怖。髪が逆立ち、鳥肌が立ち、眼球は顔から飛びだしそうだ。
「騒いだって無駄だよ。坊やは東京湾のずっと沖にいるんだから」
唐突に泣きやんで、にこにこ笑いながら徳山が言った。
サチオは徳山の豹変《ひようへん》ぶりに呆気《あつけ》にとられ、一瞬我を忘れた。そして東京湾沖というひとことに意識が集中した。
「いい海だよ。凪《な》いでいて、風もなく、穏やかな……そして深く、冷たく、暗い、冬の海」
芝居じみた徳山の口調。しかしサチオに冷静な判断力はもうない。いかに凪《なぎ》の海であっても、まったく揺れないということはありえないのだが。耳を凝らせば、頭上の高架を行く自動車の群れの軋《きし》むような走行音が聞こえるはずなのだが。
サチオは暴れた。涙をながしてのたうちまわった。徳山は津田越前守助広を顎《あご》の下のつっかえ棒にして座りこみ、錯乱しているサチオを見つめる。
9
蝋燭の炎が大きく揺らめき、あたりを浮かびあがらせ、消えた。暗黒。サチオは暴れるのを止め、硬直した。
徳山がマッチを擦った。硫黄の匂いが幽《かす》かに漂い、オレンジ色の点が中空に浮かびあがった。
煙草の匂い。湿気の多い、黴《かび》臭い船底に芳香が立ちこめる。
徳山は煙草を一本灰にした。白磁の灰皿にこすりつけて消すと、ふたたび闇《やみ》。
サチオは息をころしている。
微《かす》かに徳山が動く気配がする。布を剥《は》ぐような音がした。
あたらしい蝋燭に火がついた。
サチオと徳山。
そして揺らめく炎のなかに、もうひとり増えていた。
三人めは、サチオの隣に横たわっている。
「こいつもね……罰を与えたんだ」
徳山が囁《ささや》いた。
サチオは隣に寝ている男に視線をやった。
「見覚えがあるはずだよ」
しかし誰かわからない。あまりに近すぎて眼の焦点が合わず、ぼんやりかすんでいる。
「会ったことがあるだろう。MOJOの便所で村上ちゃんにハッパを売りつけた男だよ」
サチオは凝視した。
喉《のど》が裂けそうな息がガムテープの隙間から漏《も》れた。徳山は鳥の鳴き声が長くのびたような悲鳴を聴いた。
サチオの横に寝かされた売人の死体。両眼が蝋燭の蝋でふさがれていた。
「罰だよ」
徳山は売人の死体とサチオに向かって囁いた。
「許さない。村上ちゃんを売った奴は許さない。坊や……じっくり遊んであげるからね」
10
津田越前守助広を汚した血を後始末して、売人とサチオの死体を全裸にして顔を潰《つぶ》し、指紋を焼きおえると、さすがに深い疲労を覚えた。
寒さを忘れて作業して、徳山はダルマ船の外に出た。艫綱《ともづな》を解く。ダルマ船の船体にはまっしろい霜が降りていた。
徳山は身震いしてエンジンをかけ、ゆっくり中村川を海に向かう。
川の水と海水が混じりあうあたりでダルマ船は大きく船体を揺らす。徳山は片手で舵《かじ》を操り、沖に向かう。
沖に出るにしたがって、ダルマ船はうねりに弄《もてあそ》ばれ、徳山の顔に飛沫《しぶき》がかかった。リベリアのタンカーがすぐ近くを抜けた。徳山は壁のように屹立《きつりつ》するタンカーに和んだ視線を向ける。
日の出にはまだ間がある。徳山は傍らに立てかけた津田越前守助広をそっと撫《な》で、どのあたりに売人と坊やを沈めようか思案し、遥《はる》か遠くに滲むように浮かびあがった横浜の灯を見つめ、満足の笑みをうかべた。
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第六章 夜行急行、俺《おれ》を照らせ
ミッドナイト・スペシャル
1
明日は土曜日だ。たぶん、午前中に検察か裁判所へ送られる。判事裁定を受ける日だ。
裁定を受けたからといって、べつにこの檻《おり》から出られるわけではない。ただの儀式であり、手続きだ。それより風呂《ふろ》に入る日だ。週に一度の楽しみだ。
普段は曜日など意識したことのない村上だが、檻に放りこまれてからは、気になってしょうがない。
「就寝、用意」
看守が怒鳴った。大声をださなくても充分に通じるのだが、やはり権力のいちばん末端に位置する者は、ついつい物理的な力で相手を威圧しようとしてしまうのだ。
そんなことを考えながら、村上は布団部屋から布団を自分の房へ運ぶ。例によって初めて留置されて昂奮《こうふん》し、騒いだために防声具を噛まされた新入りの、くぐもった呻《うめ》き声を無感覚に聞きながし、だらだらと布団を敷く。
なぜか看守に気に入られている。年明けからは毛布を一枚多くしてもらった。ドヤで眠るよりもあたたかく、快適だ。村上は敷いた布団の上にぼんやり座って、就寝の命令を待つ。
たしかに住環境は快適だ。布団は清潔だし、普通の人間には臭い飯かもしれないが、村上にとっては充分だ。
しかし、檻の中の檻。身に染みた。半月ちかく経って、もう限界だ。村上は布団のなかで奥歯を噛みしめる。
ここでは歩くことさえ、いや排便排尿さえ自由ではなかった。つねに看守の眼にさらされて、すべての行為には許可がいる。
いちばん初めに肛門を広げられ、覗《のぞ》かれたときに、すべての自由を喪ったのだということを頭では理解していたが、実際に十日以上の間、すべてを監視されて過ごすと、肉体が、躯《からだ》が悲鳴をあげだす。
人はやはり動物ではなかった。日常の細々とした行為や習慣のすべてにわたって、羞恥心《しゆうちしん》というものがついてまわるのだ。
普段日常で何気なく行っていることも、他人の視線にさらされて行わなければならなくなると、強烈なストレスになるのだ。
人間には秘密がある。秘密を持つから、人間なのだ。秘められた生活は、すべての人間にあるのだ。そして秘められているうちは、なにも感じずに、当然のこととして過ごす。これが、日常というものの正体だ。
ここには日常というものがなかった。村上はなんとか居直ろうとあがいた。居直るには知性的すぎた。望む望まないにかかわらず、村上はインテリの苦痛を味わっていた。
思考。思考。思考。檻のなかでは肉体が疲労しないので、村上のようなタイプの男はひたすら思考する。思考に飽きはて、頭が空白になるのだが、その瞬間、頭が空白とはどのような状態をいうのだろう……といったことを考えはじめている。
今夜は特に眼が冴《さ》えてしまっていた。村上は幾度も寝返りをうち、眠れぬ夜と、疲れを知らず休息しようとしない脳髄を呪《のろ》う。
やがて、防声具を噛まされてのたうちまわる新入りの苦しそうな唸《うな》り声が耳につきだした。
さらには、隣の少年房、あるいはさらに隣の婦人房、そのどちらからか、啜《すす》り泣く声がする。
切ない啜り泣きだ。女の哀《かな》しそうな、切ない泣き声だ。泣き声は村上の頭のなかで、男の体重を受けて女が洩《も》らす、秘めやかな歓びの吐息に変化する。
しかし運動のときに見た眉《まゆ》を剃《そ》り落とした生意気なガキの泣き声かもしれないと思うと、妄想《もうそう》はしぼんでいく。
二十四時間消えることのない蛍光灯から眼をそむけ、村上は生《なま》欠伸《あくび》をかみころす。
姿勢を変える。左肩を下に、左腕を枕《まくら》にする。
右手で股間をさぐる。さぐるまでもなく硬直している。
啜り泣きは続いている。看守は呻《うめ》く新入りに気をとられて、啜り泣きに気づいていないようだ。村上は孤独な手仕事を開始する。
綾……
手のなかで、熱く粘るものが弾けた。快感はうすい。
村上はふかい溜息《ためいき》をついた。
ずいぶん長いあいだ忘れていた手仕事だが、ここのところ毎晩、いや、一晩に二度三度とすることもある。
酒を断たれ、規則正しい生活を強制され、粗末ではあるが一日三度、しっかりと食事をとる。
おかげでアルコールによる指先のふるえもだいぶおさまり、背中に抜ける痛みもなくなった。少々太ったかもしれない。
ギターを弾くにはちょうどいいリハビリだ。そう村上は自らの境遇を慰めてきた。じっさいにアルコールで鈍麻していた運動神経が、それなりに回復してきている実感があるし、煙草の本数も極端にすくないので、不整脈がでなくなった。
しかしアルコール中毒で入院していたことがある村上は、いかに健康的な生活を送ろうとも、自分の運動神経……脳細胞が完全に修復されはしないことを理解していた。
アルコールは有機溶剤なのだ。シンナーやトルエンといった有機溶剤と程度こそ違え、脳細胞──有機物を溶かすといった作用に変わりはない。
長期間にわたるアルコールの乱用で、溶けてしまった脳細胞は元に戻ることはない。脳細胞は再生しないのだ。酔う、ということは有機溶剤によって脳細胞を溶かすということでもあるのだ。
村上はマスターベーションばかりしている自分にある恐怖感を持った。酒ばかり呑んできたせいで、脳の抑制が効かなくなっているのではないか……そんな妄想に襲われているのだ。
じっさいは閉じこめられ、自由を奪われ、することがなくて体力を持て余しているにすぎないのだが、こんな閉鎖状況では理性など簡単に吹き飛んでしまう。
自慰行為を覚えたばかりの中学生のように、今夜はもう触らないと床に就く前にきつく決心するのだが、けっきょく眼が冴《さ》えて、右手は股間に伸びる。
毎晩のことなので、それも回数が多いので、なんだかひどく薄くて、儚《はかな》くて、惨めな、どこか痛みに似た、とらえどころのない実感だけが残る。
村上は少年のような罪悪感を覚えながら、まだ硬さを保っている自分を弄《もてあそ》ぶ。
まったく眠くならない。それどころか胸がくるしくなってきた。
「綾……」
激しく寝返りをうつ。大声で叫びたい。奥歯を思い切り噛みしめ、喉《のど》の奥でうなる。
綾が面会に来たという。高橋係長が今日の取り調べの最後でもったいつけるように言った。村上の知らないところで面会は拒否された。
ほんとうに綾は面会に来たのだろうか。村上は信じることができない。なぜか信じることができない。高橋係長の播《ま》いた囮《おとり》、餌《えさ》のような気がする。
その反面、
『おお、そうだ。麗人が面会に来ていたぞ』
そんな高橋係長のひとことだけで、村上の頭のなかは綾でいっぱいになり、破裂しそうになった。
いままでつとめて気にしないようにしてきた。しかし、布団のなかに入り、婦人房のあたりから聞こえる切なく囁《ささや》くような泣き声を耳にしているうちに、限界がきた。
村上は頭をかかえ、声をころしてのたうちまわる。拘留されてから、初めて、心底外に出たいと思った。
世界は檻にすぎない、そう偉そうに崔《さい》に言ったのだが、しかしそれは青臭い観念にすぎなかった。村上は観念的で青臭い自分を呪《のろ》う。
世界はなるほど、檻にすぎないだろう。だが、逃げ場のない、強制労働を強いられる光栄丸の船上においてさえも、この檻の中の檻にくらべれば、自由だ。この檻の中の檻では、自殺することさえ禁じられているのだ。
村上は手のなかの硬直を狂おしくこすりあげる。瞼《まぶた》の裏に焼きついている綾の裸体。妄想の、ありとあらゆる方法で彼女を穢《けが》す。
二度めの放出。完全に虚脱した。自分が猿のように感じられた。
吐きだす白い息を眼で追う。啜り泣きも、唸《うな》り声もやんでいた。房内は奇妙に静まりかえっている。
あきらめが湧いてきた。村上はつきっぱなしの蛍光灯を睨《にら》みつけ、どうせなら無期懲役がいい……そんな大袈裟《おおげさ》なことを考えた。
遠くを行く列車の音。根岸線か。あるいは新港|埠頭《ふとう》か山下埠頭の貨物引込線かもしれない。村上はあきらめに似た落ち着きを覚え、深い夜に耳を澄ます。
──タタン、タタ、タタン……タタン、タタ、タタン……タタン、タタ、タタン……タタン、タタ、タタン……タタン、タタ、タタン……
列車は正確なリズムを刻んでいる。
村上は床に耳を押しあてる。
「夜行特急……ミッドナイト・スペシャル」
素晴らしい才能を持ちながらも、どうしょうもなく悪い星の下に生まれたブルースマン、オーティス・ラッシュ。
ミスター・バッドラックという不幸なニックネームをつけられてしまったオーティスの、泣き声のような切ない歌声と、左利きのせいでちょっと真似できない個性的なギターのフレーズが村上の頭のなかで響く。
あんたの朝は起床ベル
叩《たた》き起こされ食堂へ
テーブルの上
食えそうなものはなにもない
皿とフォークがあるだけさ
おっと
愚痴をこぼすなよ
看守の野郎にドヤされる
夜行特急
俺を照らせ
夜行特急
格子ごしに俺を照らせ
いつもやさしいその光
村上の脳裏に綾の歌う姿。村上は心のなかで独白する。
綾なら……どう歌う?
ミス・ロージィがやって来た
娑婆《しやば》はどうだい
お嬢さん
しかし彼女の恰好《かつこう》は
エプロンつけて、傘かつぎ
なんとも見事に垢抜《あかぬ》けない
手には書類を幾枚か
州知事殿にご面会
彼の恩赦を願うのさ
夜行特急
俺を照らせ
夜行特急
俺を照らせ
格子の中のこの俺を
「オーティスの演奏はいまいちだ……プロデュースの問題だろうが……俺が綾に歌わせるとしたら……」
「こら、何を喋《しやべ》っている」
村上は寝たふりをした。
「寝言か……」
村上に甘い看守は、自分に言いきかせるように呟《つぶや》いた。
南部へ行くなら気をつけな
バクチはだめ
喧嘩《けんか》もノオ
ちょっとでも目立つ
まずいのさ
シェリフが飛んでやって来る
あんたを地べたに蹴転がし
翌朝目覚めりゃムショの中
夜行特急
俺を照らせ
夜行特急
俺を照らせ
まだらに光る鉄格子
はじめて東京に出てきたときのことが村上の頭のなかをかすめる。
夜行急行津軽≠ノ乗り、わざわざ大回りして奥羽本線で上野に向かった。夕方の四時すぎに発車して、翌朝の六時ちかくに上野に着いた記憶がある。
自由席の硬い座席。混みあっていた。緊張で一睡もできなかった。人いきれと汗の匂《にお》い。効きすぎる暖房。おかげで尻《しり》だけが汗ばみ、やたらに喉《のど》が渇いた。斜め前に座った娘が溜息《ためいき》を呑《の》みこむようにして、座席に尻をこすりつけるように動かすのを盗み見た。
窓外の夜は、積もった雪で光っていた。村上は夜の闇《やみ》で鏡と化した窓ガラスに顔を押しつけ、そこに映る娘の横顔を見つめつづけた。
あるとき、窓ガラスに映った娘が、村上を見つめていた。村上は躯をやや硬くしながらも、窓に映る娘を見つめつづけ、娘は窓を見つめつづける村上の横顔を控えめに見つめつづけた。
それ以上のことがあったわけではない。しかし津軽≠フ車中で、村上と娘は、淡くはあったが、たしかに結びついていた。孤独をふたりで分けあった。
上野に近づくにつれて雪は消えていった。
人々の口からもお国|訛《なま》りが消えていき、ぎこちない標準語が交わされた。
村上の、初めての夜行特急。アメリカへ飛ぶときよりも昂《たかぶ》り、不安を覚えたものだ。
寝返りをうつ。腹這《はらば》いになり、苦笑する。眼尻《めじり》に涙がうかぶ。檻《おり》の中の檻。思い出だけが自由の翼をひろげていく。
2
日曜は一日が長い。取り調べがないからだ。精液で汚したパンツを洗濯場で洗う。いささか惨めな気分だが、あまり深くものを考えないようにする。
なにかしていれば──たとえ汚れた下着を洗うことでもいいから、なにかしていれば、気が紛れるのだ。
かじかむ指先に息を吹きかけ、精液でゴワゴワになった部分をしつこく揉《も》み洗いするうちに、指先が白くふやけた。
3
留置場も世間並みに月曜日から一週間が始まる。
午前六時、起床。まず、房内を掃除する。それから洗面だ。村上は幾年ものあいだ、朝に顔など洗わぬ生活を送ってきた。強制的とはいえ、冷たい水を叩《たた》きつけるようにして顔を洗うのは、けっこう気分がいい。髭《ひげ》も毎朝|剃《そ》る。朝食はすこし堅くなってはいるが、ちいさなロールパンだ。白湯《さゆ》で一気に流しこむ。
「頼んだ覚えはないが」
白髪をオールバックになでつけた弁護士を見ずに村上は言った。
いままで村上の弁護を担当していた国選の弁護人はまったくやる気がなく、欠伸《あくび》まじりにおざなりに村上に対していた。
ドヤにすむ種々の人物からの聞きかじりで、いちばんまじめに、かつ戦闘的に仕事をこなすのは日共系の弁護士である、といった知識をもってはいたが、村上にとってはどうでもいいことであった。
「私は山野興業の顧問弁護士をしている佐竹だ」
「山野興業……」
「そう。徳山氏からの依頼でね」
「徳山……」
弁護士の言葉を無意識のうちに繰り返し、村上は眩暈《めまい》に似た昂《たかぶ》りを覚えた。いきなり娑婆《しやば》とパイプがつながったような気分だ。
「まかせるね?」
「ああ……しかし」
「安心なさい。金銭的なことは徳山氏が、ね」
弁護士はすべてを言わず、砕けた調子で片目を瞑《つむ》ってみせた。
「とりあえず、状況を。正直に。私が受けた以上、君を必ず不起訴にする。だから、すべてを私に話しなさい」
突っ張る気持ちもないではなかったが、眼前の白髪をした恰幅《かつぷく》のいい娑婆との唯一のパイプをなくしたくない思いのほうが強く、村上は淡々と大麻入手の経緯を語った。
弁護士は軸が純銀のボールペンを弄《もてあそ》びながら絶妙のタイミングで相槌《あいづち》をうち、巧みに村上の口を開かせた。最後まで相槌をうつにとどめて、村上が喋《しやべ》りおえると、しばらく中空に視線をやってから言った。
「──大麻を使用する気もなく買った、というんだね」
「そう。でも、証明は不可能だな。どうでもいい」
弁護士はやおら立ちあがり、頷《うなず》くと、接見室からでていった。これから先のアドバイスをしてくれると思っていた村上は肩透かしを喰った。
4
午後の取り調べは、高橋係長と見知らぬ麻薬取締官の担当だった。村上は弁護士をよこしてくれた徳山、そして綾のことを思い、落ち着きがない。
麻薬取締官はそんな村上の様子をさりげなく観察していた。小刻みに貧乏揺すりしている村上の眼前に、いきなり写真を突きつける。
村上の口許がほころんだ。MOJOのトイレで大麻を売りつけようとした売人だった。鼻の下にたくわえた髭《ひげ》が、汚れが付着したかのように写っている。
「知っているな?」
麻薬取締官が念を押した。
村上は肩をすくめてとぼけた。へたに知っていると答えれば、売人に対する傷害まで罪に加わる可能性がある。
「村上。いま、おまえは微笑《ほほえ》んだじゃないか。おまえは見ず知らずの他人を見て笑うのか?」
「鼻の下にゴミがついてやがるからさ」
高橋係長は腕組みして、黙って村上と麻薬取締官のやりとりを聞いている。
「この男は十二月二十二日深夜、MOJOの便所で客に大麻を売りつけていた。大麻は半透明のビニール入り。買った者のなかには、その日のステージで、飛び入りでギターを弾いた者がいる。ギターを弾いたのは、港湾関係の作業着を着た痩《や》せた男。どうだ?」
「よく調べたじゃないか。それなら、その男は大麻を売ったんだろう」
「買ったのは、おまえだ。おまえをはじめとする幾人かだ」
「まてよ。俺は元締めで売る側じゃなかったのか」
やっと高橋係長が口をひらいた。
「元締めは、この男だ」
村上はしゃあしゃあと言ってのける高橋係長を呆《あき》れて見つめた。高橋係長はとぼけて横を向いた。村上は苦笑まじりに売人の写真を指差した。
「なるほど。元締めはこいつだったのか。なるほどな。ワルそうな顔をしてやがるぜ」
高橋係長は横を向いたまま呟《つぶや》くように言った。
「あたしは初めから、おまえが元締めだなんて思っちゃいないよ」
「ずいぶん様子が変わってきたな」
弁護士をかえた効果がさっそくでてきたのだろうか。村上は皮肉をこめて言う。
「いいのかね、こんなことで。世の中、わからないことばかりだよ」
警察はこの売人をずっと内偵しつづけていたに違いない。先に俺を逮捕したのは、周辺から証拠固めをしていくためだろう……村上はそう考えた。ここはおとなしくしていて、不起訴を取ればいい。とにかくこの檻《おり》からおさらばするのだ。
そんな計算をしていた村上に向かって、高橋係長が虚勢を張るような口調で言った。
「いいか、村上。別におまえの罪が消えたわけではないんだぞ。考えちがいするな」
「あいにくだな、係長さんよ。俺は罪を犯したとは思っちゃいない」
「貴様!」
麻薬取締官が机を強打した。平手なので、音だけは派手だ。
「いいか。薬物等による悲惨な現実は、貴様のような快楽主義者によってもたらされるんだ」
一瞬、冗談を言われたような気がした。村上は失笑をこらえ、頭を掻《か》いてみせる。
「まいったな。快楽主義者ときたか」
村上は頭を掻きながら、高橋係長のほうを向く。
「気持ちいいほうがいいじゃないか。ねえ」
「いや。人間は克己心が必要だ。罪を犯した自分を正当化するんじゃない。自分を抑えること。これが人生のすべてだとあたしは思っているよ」
村上は高橋係長の顔に皮肉な視線を据える。
「酒焼けした鼻の頭をさらして、よく言ってくれるぜ。あんたはなんのために酒を呑むんだ?」
「そりゃあ、明日への英気を養うためさ。あたしはアルコール燃料で動くのさ」
体制にべったりへばりついたこの男たちとは、絶対に話が噛まない。なにしろ自分で考え、判断するということを放棄して生きてきたのだ。
この男たちにあるのは記憶力。それだけだ。村上は檻の中の檻に繋《つな》がれてからいつも感じる思いを圧しころして、デスクの上に組んでいる自分の手を見つめながら話す。
「俺は……アル中の治療で入院していた。いや、させられていた」
筋萎縮《きんいしゆく》、手指振戦、瞳孔《どうこう》障害、譫妄《せんもう》、中毒性|嫉妬《しつと》妄想、癲《てんかん》、コルサーコフ症候群、そして幻覚症。たかが酒。しかしその結果あらわれる神経的、精神的症状は絶望的だった。精神的な障害がでるまえに、先に肝臓を悪くして呑めなくなってしまうほうがよほどましだ、と感じられるほどだ。
「俺は家族も何もなかったからいっそサバサバしていたが、奥さんや子供を泣かし、傷つけて、ありとあらゆる気違いじみたことをしたあげく、廃人同様になって病院に放り込まれて……。
一度病院を見学してみな。悲惨だぜ。犯罪者も多い。麻薬と何ら変わらないさ。あの禁断症状を見たら、あんたら、酒も法律で取り締まれと言いだすかもしれないぜ。
酒呑みってのは、自分だけは大丈夫だと思っているんだが、呑めば酔うんだ。酔うということは、アル中の確実な第一歩さ。
いちばんいいのは、あんたらが得意とする、禁止、だよ。それしかない。しかし、そうしたら高橋係長は、どうやってストレスを発散するのかな。アルコール燃料の補給ができなくなることを考えたことがあるか?
医者が言ってたよ。アルコール薬物による悲惨な現実。──あれ、さっき誰かが似たようなことを言ってたよな」
どのみち伝わらないのだ。麻薬取締官も高橋係長も自分で考えることをしない。杓子定規《しやくしじようぎ》に基準に当てはめるだけだ。村上は虚《うつ》ろな眼差しで首を左右に振る。精神病院のアル中病棟のことは思い出したくもない。
「そういえば、どこかの国には禁酒法というのがあったなあ」
「法とは、時代に応じて変化していくものなんだよ、村上」
生《き》真面目《まじめ》な表情で麻薬取締官が言った。もっともだ。もっともだが、正確には国家の、権力の都合に応じて変わっていくと言うべきだ。
「法律が変わったって、酒と人間の関係に変化はないさ。酔いたい奴が酒を呑む。覚めたい奴がシャブを射つ」
村上はいいかげん虚しくなり、馬鹿らしさを覚え、拗《す》ねた投げ遣りな口調で言った。崔のことが頭をかすめた。
崔はこういった硬直しきった男たちを革命でどのように変えるつもりだったのか。いや、崔や、崔の所属していた集団は、この男たちと同様に硬直してはいなかっただろうか? すくなくとも村上の知っている新左翼の男たちは、生真面目ではあったが、それはこの麻薬取締官や高橋係長に共通する生真面目さと硬直した思考、思想を持っていて、他人の意見に耳を貸す余地はいっさいなかったものだ。
粛清……村上は崔と崔の所属する集団がこの麻薬取締官や高橋係長を粛清することを思い描いた。なかなか気分のいい空想だった。しかし、どこか薄ら寒いものを感じないわけにはいかなかった。
しかし、ここで踏ん張らなければ、俺は権力に、麻薬取締官や高橋係長に粛清されてしまう……村上は顔をあげた。
高橋係長と視線が合った。
おそらく高橋係長は、自覚のないアル中だ。村上は自分の体験からそれを見抜くことができた。
すべての歯車が表面的であるにせよ、順調に回っているときはいい。村上は、中年を過ぎかけたこの鼻の頭の赤らんだ男に破綻《はたん》のくる日が遠くないことをなんとなく直観した。
「ところで高橋係長。あんた、サラ金に手をだしていないか?」
村上のことばが終わらぬうちに、高橋係長の表情が変わった。
5
村上は血の混じった唾を吐く。たいした出血ではないが、唾のせいで泡立った血は、取調室の木の床を直接汚した。
奥歯の噛み合わせが妙だ。村上は高橋係長を睨《にら》みつけながら、口を大きくあけて顎《あご》を空転させる。こめかみのあたりが小さく軋《きし》む。
高橋係長は村上の犬歯が当たって傷ついた拳《こぶし》を呆然《ぼうぜん》と震わせている。
麻薬取締官は呆気《あつけ》にとられた表情で高橋係長を凝視している。
村上も呆気にとられていた。まさか冗談が刺さってしまうとは思いもしなかった。取調室は時間が止まってしまったかのようだ。それぞれの吐く息だけが白い。
暮れにコトブキで徳山に痛めつけられていた車券狂いの元巡査部長。警官であるとか教師、一流企業のエリートサラリーマンといった抑圧を溜めこむ職業の者がドヤに落ちてくるのは珍しいことではない。
サラ金から権利を買い取ったヤクザ者が、顔写真を持ってドヤにやってくる。サラ金関係で多いのが、なぜか警官だ。動きのとれなくなった警官が失踪《しつそう》してドヤに流れこむ。
それらをふと思いだして冗談のつもりで言ってみただけなのだ。それが見事に的中し、刺さってしまった。
麻薬取締官が濡《ぬ》れタオルを持ってきた。村上は片肘《かたひじ》ついて濡れタオルで殴られた頬《ほお》を冷やした。
村上を盗み見ながら、部屋の隅で麻薬取締官と高橋係長が小声で囁《ささや》きあっている。
「国選ならともかく、佐竹さんだぞ。まずいよ、これは……まずいじゃないか」
麻薬取締官がそう迫っている声が聞こえた。佐竹とは、徳山がつけてくれた弁護士の名だ。
高橋係長は完全に悄気《しよげ》てしまっている。時々村上を恨みのこもった、しかも泣きだしそうな眼差しで盗み見る。麻薬取締官は高橋係長がサラ金をはじめどのような状況にあるのかおおよそのところを理解してしまい、口の端にうかんだ軽蔑《けいべつ》を隠そうともしない。
取り調べのムードは一変した。麻薬取締官はそれとなく村上をおだてる。あるいはなだめる。佐竹という弁護士はよほど遣り手なのだろう、麻薬取締官は保身に必死だ。高橋係長は立場上口調だけはかろうじて威厳を保ちながらも、態度はほとんど幇間《ほうかん》にちかい。
村上の気分はどんどん鬱《うつ》になっていく。ブルースは、誰かれの区別なくとりついて……。
6
麻薬取締官は取り調べを投げ出した。完全に時間的ノルマをこなすことに専念している。時に、思いだしたように、高橋係長の横顔に、皮肉な、小馬鹿にしたような視線をはしらせる。
村上は頭のなかでブルースのギター・ソロを唄いながら、額に手をやる。頭蓋《ずがい》の縫い目を指先で探りだす。このなかで、ブルースが鳴っているのだ。髪のなかへ指先はすすむ。頭頂部まで縫い目をたどる。頭のなかのブルースは激しさを増していく。
麻薬取締官が咳払《せきばら》いした。高橋係長に皮肉まじりの複雑な視線を向けながら村上に愛想のいい声をかける。
「もう、終わりにするか」
村上は黙っている。麻薬取締官にはエリート独特の冷たい要領のよさがあった。五十ちかくになってようやく係長……警部補になった高橋を露骨に馬鹿にして、いまやインテリの匂いの抜けきれない村上にやさしい、その場かぎりの声をかける。
高橋係長は十以上も年下の麻薬取締官にほとんど揉《も》み手しそうな雰囲気だ。惨めな、情けない光景だ。
「やってられんよ、まったく」
麻薬取締官は皮肉と溜息の混じった口調で呟《つぶや》いた。村上に言ったのか、高橋係長に言ったのかわからない。どちらかといえば高橋係長を責めたようなニュアンスだった。
村上は殴られて腫《は》れあがった頬にそっと触れた。熱を持ち、鈍く疼《うず》いている。被疑者を殴ったことが、それほど大ごとなのだろうか。コトブキでは、警察による拷問の数々をよく耳にしたものだが。
最後に麻薬取締官は村上に煙草をすすめ、村上と高橋係長を見較べるようにしながら、言った。
「なあ、村上。ハーブって知っているか?」
高橋係長の躯《からだ》がぎこちなく硬直した。
「ハーブ?」
村上はあまりに緊張している高橋係長を訝《いぶか》しみながら、首をかしげた。ハーブ……まったく脈絡のない問いかけだ。
「言ってることがわからんよ。なんのナゾかけだ?」
「いや、いいんだ。気にするな」
麻薬取締官はもういちど高橋係長に皮肉な視線をやり、書類をバインダーに挾み、デスクの上で音をたてて整えた。
高橋係長は、まだ硬直したままだ。それどころか頬が青褪《あおざ》めてさえいる。麻薬取締官はわざとらしい咳払いをして取調室を出ていった。村上は顎《あご》をしゃくり、高橋係長を促して立ちあがる。立ちあがってから、立場が逆転していることに気づいた。村上は苦笑する。苦笑は途中からどこにぶつけていいかわからない怒りに変化した。
檻の外、霧の海
1
一日おいて、佐竹弁護士がやってきた。開口一番、鋭い眼差しで尋ねた。
「その頬は?」
村上はかるく横を向いた。蒼黒《あおぐろ》く腫《は》れた頬骨のあたりを隠すようにして、苦笑して答えない。
「納得しているのか?」
「まあな。さわぐ気はない。それより、あんたは実力者らしいな」
「誰がそんなことを言ったのかな?」
「いや」
肩をすくめた村上を見つめ、佐竹弁護士は真似して肩をすくめてみせる。
「村上くんは時々、日本人離れした仕草をするね」
一瞬の間があって、村上は赤面した。
「なにも赤くなることはない。外国での生活が長いんだ。当然のことだろう」
佐竹弁護士は笑いながら指を鳴らし、芝居がかった声で言った。
「明日か明後日、君は自由だ」
「───────」
「不起訴だ」
執行猶予になるかもしれないと予測してはいたが、じっさい不起訴になると宣言されたとたん、村上の躯からだらしなく力が抜けていった。
佐竹弁護士は村上に頷《うなず》きかける。
「裁判は不可能なんだ。君は素晴らしく幸運な男といっていいだろう」
「なぜ?」
「答えるわけにはいかない。ただし、ひとこと言っておく。二度捕まるのは、単なる馬鹿者だ。これから先、横浜にいるかぎり、いや、どこにいても大麻等の誘惑はあるだろう。しかし、これきりにしなさい。いいね」
「俺は、馬鹿だからね」
「馬鹿には二種類ある。大麻で逮捕される馬鹿。もうひとつは、音楽馬鹿」
佐竹弁護士は言い、得意そうに腕を組んだ。説教や譬え話の大好きな学校の教師に似た悪臭が漂った。村上は黙っている。この手の相手をすることほど馬鹿らしいことはない。自分が優れ、抜きんでていると信じきっている馬鹿。
「徳山氏から伝言があるんだ。私への謝金は、綾のバンドに入るための契約金だ。そう伝えてくれ、とのことだ」
村上は徳山のどこか焦点があっていない眠たげな眼差しを想う。憎まれ口を叩《たた》く。
「大きなお世話だ。てめえには関係ないだろうが。金で縛る気か」
佐竹弁護士が笑いながら言う。
「縛られるほどの才能があるなら、いいじゃないか。レコードが、いやいまはCDか。CDができたら私に一枚持ってきなさい」
「ブルースが好きか?」
「いや。私は音楽さえ聴く暇のない生活を送ってきた。好き嫌い以前なんだ。これから先は仕事をへらし、のんびりいくつもりだ。そう決めたんだ」
佐竹は立ち上がり、首を亀のようにつきだして、村上に笑いかける。
「君を縛るものは金銭だけじゃないだろう。麗人がよろしくといっていた。徳山氏を動かしたのは、その麗人だろう」
村上を見据えたまま、佐竹は人差指をつき立てる。
「最後に言っておくが、私はかなり値が張るんだ」
たたみかけるように言い、あっさり背を向ける。村上は佐竹の背をぼんやり見送った。
「恰好《かつこう》つけやがって。立ち回りがうまい小利口なだけの馬鹿野郎が」
接見室にひとり取り残された村上は小声で呟《つぶや》き、顔を歪《ゆが》めて笑い、床に唾《つば》を落とした。それは吐くというより、引力にまかせて唾が落ちるにまかせた、というふうだった。佐竹のような自覚のない馬鹿者によく似合っている唾の泡立ち具合だった。
2
私物を受け取り、最後の鉄扉を抜けると、高橋係長と戸川刑事が待っていた。ふたりは一瞬くやしそうな表情を見せたが、すぐにそれを微笑に切りかえる。高橋係長が猫撫《ねこな》で声で言う。
「お帰りか」
「お帰りだ。ご苦労だったな」
村上は口を尖《とが》らせ、横柄に答えた。
高橋係長と戸川刑事はあくまでも微笑の仮面をかぶり、自分たちの負けを認めないつもりだ。高橋係長が一歩前に進んだ。
「最後に、いくつか訊《き》きたいことがあるんだがな。いいかな?」
村上は薄笑いをかえした。それぞれが曖昧《あいまい》な笑いをうかべ、自分のまわりにきつくバリアを張りめぐらしている。しばらくの沈黙ののち、ふんぞりかえるようにして村上が逆に言った。
「まず俺の質問に答えたら、許可しよう」
戸川刑事と高橋係長は笑いを苦笑に変えた。村上はかまわず訊いた。
「総元締めは、どうした?」
「なんのことだ?」
「俺に大麻を押しつけやがった、鼻の下に苔をはやしたチンピラ野郎だよ。逮捕したのか?」
「答える必要はないだろう」
「じゃあ、俺も黙ろう。もう取り調べを受ける理由はないんだからな」
戸川刑事が舌打ちした。高橋係長は視線を床にはしらせ、小声で言った。
「──奴は、行方不明だよ」
村上はニヤッとした。
「逃げられちまったのか」
高橋係長も戸川刑事も答えない。じつは高橋係長たちが売人の存在を知ったのは、正月明けに綾が面会に来たときのことだ。村上はMOJOのトイレで売人から大麻を押しつけられたのだという綾の訴えに従って売人を内偵しているうちに、ある夜、突然売人は姿を消した。
「やれやれ、あの野郎、うまく立ちまわりやがって。貧乏|籤《くじ》を引いたのは俺だけみたいじゃないか」
村上がぼやいた。高橋係長が咳払《せきばら》いして、機嫌をうかがうような声をだす。
「こんどはこっちが訊く番だが、いいかな?」
「手早くしてくれよ。ここは臭くてかなわん」
「すまんな。二、三はっきりさせておかないと寝覚めが悪くてな。哀れなデカの習性だよ」
高橋係長の背後で、戸川刑事がもっともらしく頷《うなず》いた。
「まず綾もカナリア、サチオもカナリア≠ニいうのはどういった意味だったのかな。じつは村上の」
「もう呼び棄てにされる理由はない」
「──そうだったな。じつは面会に来た綾さんにこのことばの意味を尋ねたんだが、彼女は首をかしげて要領をえない。 『カナリアって、小鳥でしょう』とのことだ」
「そのとおり。鳥だよ、ピーチクさえずる」
「それだけ、か?」
村上は欠伸《あくび》まじりに、横着に頷いた。ふたたび戸川刑事が舌打ちした。高橋係長は呼吸を整え、口調をかえて訊く。
「それでは、房内で庄内に喋《しやべ》ったことは事実か? 吸う気もないのに大麻を入手したということや──」
村上の瞳に怒りが宿った。高橋係長はことばを呑みこんだ。正月明けまで傷害で同房にいた秋田生まれの庄内。訛《なま》りの抜けぬ、人のいい男。
「あんたらは異常だ! スパイさせておいて平気なのか?!」
「真実を追求するためだ」
「真実……イヌの真実か」
「ことば遣いに気をつけろよ」
戸川刑事が険しい表情をみせた。高橋係長がなだめた。
「まあ、いいさ。戸川君。我々は正義のために働いておる。房内で協力者から情報を得ることは、我々が先輩から学んだことだ。あくまでも正義と真実を追求するための技術なんだ。なんら恥じることはない。それよりも、だ」
係長は息を継ぎ、村上を見据えた。
「後学のためにぜひ知りたいんだがな。村上君は冗談やどうでもいいことは平気で喋って、そのくせ重要な、つまり事件に関係するポイントでは、ほとんど完全に黙秘した。いままで機嫌良く喋っていたかと思うと、突如石になる。いや、耳なしホオイチだったな。麻薬取締官の境さんもあきれていらしてな。あたしもあきれている」
高橋係長のことばに熱がこもる。よほど悔しかったらしい。
「いいかね。徹頭徹尾我々にいっさい耳をかさず、もちろん世間話さえしない完全黙秘ならばわかる。ところが村上君の場合は違う。正月が明けてからの取り調べで、売人の写真を見せただろう。
我々は、奴の写真を見せれば、村上君が観念すると思っていたんだ。ここまで調べあげているんだぞという証拠だからね。
ところが見事に肩透かしを喰った。人間なんて弱いものでな、我々はだてに世間話をしているわけじゃない。相手に心を許して喋っていると、つい喋ってはならないと思っていることまで口にしてしまうものなんだ。
君はそれをしなかった。我々が水を向けると、巧みに切りかえた。どのようにして耐えた? 楽じゃなかっただろう、辛かったはずだ。なぜ、耐えることができた?」
村上は脇《わき》に抱えた冷凍庫内作業用のハーフ・コートを高橋係長に手渡した。
「なにかな、これは?」
「棄てといてくれ。臭くてかなわん」
高橋係長の瞳が殺気ばしる。
「別荘暮らしのおかげで、稼いだ金がたっぷり残ってるよ。さすが警察。着服はしていないようだ」
村上は小柄な高橋係長に覆いかぶさるようにして続ける。
「利子がついていないのは納得できんがな。まあ、かんべんしてやるか」
大きく息を吸う。溜息《ためいき》のように吐く。
「ここから出たら、まず、コーヒーを飲もう。熱いやつだ。砂糖とミルクをたっぷり入れて……」
村上はことばに詰まった。金の入った封筒を振る。小銭が鳴る。
「あばよ」
口を歪《ゆが》めて村上は言った。捜査課の中ほどまで行ってから、唐突に高橋係長と戸川刑事を振り返る。
「いいか。俺を支えたのは音楽だ。テメエらが調子くれて突っ込んできたら、俺はすぐにブルースを唄った。心のなかでブルースを演奏した。わかったか!」
3
署を出ると、バンドのメンバーが待っていた。通りの反対側の歩道に乗りあげるようにしてBlues・Specialとボディに書かれた大型のワゴンが停まっている。
村上はワゴン内に積まれている楽器やアンプに視線をやった。なぜか照れくさく、皆の顔を見ることができない。
趙《ちよう》が進み出た。蒼痣《あおあざ》の残る村上の頬に、視線をくもらす。
「ひどいめにあったね」
「まあな。弱気になったこともあったが、たいしたことじゃない」
趙は頷《うなず》いた。ドラムスの中沢が手を差し出した。
「あの晩が忘れられなくてね。二人だけでいきなり演奏してさ。ことしもよろしく」
村上は口を動かしかけたが、けっきょく何も言えず、頭を下げた。
ベースの清水がぶっきらぼうに手を差しだした。
「個人的な練習、久々にしたよ。正月は一日に十時間くらいスケールばかり弾いていたんだ」
握手した。清水はこんもり盛り上がった右手人差指と中指のタコを誇示するかのように村上の掌をこする。
「やめてくれ、オカマの挨拶《あいさつ》は」
村上は苦笑して手を引っこめた。趙が割りこむようにして言った。
「本当はこれから練習ね。でも、スタジオ、キャンセルします。そのかわり、今夜MOJOで呑みましょう。乾杯です。九時。九時にMOJO」
趙はゆっくり綾を向いた。
「九時だからね。綾、遅れないでよ」
清水が奇妙な笑い声をあげた。それが合図であるかのように、趙、中沢、清水の三人は車の流れの間をぬって道路を横断した。
ずっと様子をうかがっていたK署の立ち番の警官が大声で怒鳴った。
「横断歩道を渡りなさい!」
「逮捕せんでくれ!」
清水がおどけて怒鳴りかえした。
ワゴン車が走り去った。村上はぼんやり見送った。その背に向かって綾が言った。
「おつとめご苦労さんでした」
村上は、まだ一度も綾の顔を正面から見ていない。
「ああ」
偉そうに頷き、背を向けたまま訊く。
「あいつら、どこへ行っちまった?」
「気をきかせて……」
上眼遣いで綾が答えると、村上はいきなり歩きだした。十メートルほど行って、じれったそうに振り返る。
「なにしてるんだ? 俺はコーヒーが呑みてえんだ!」
走る。
綾は走る。
跳びつかんばかりの勢いで村上に駆けより、直前で急停止。
「──泣くな」
村上は綾を抱き寄せた。立ち番の警官がふたりを盗み見て、顔をそむけ、舌打ちする。
「あたしがあげたフライト・ジャケット、着てるんだ……」
綾は雑に目頭をこすり、村上の袖をつまんだ。
「留置場のなかでもこいつさ。着たまま眠った」
「あったかかった?」
村上は答えず、ふっ、と和んだ息を吐いた。綾の背を押し、歩きはじめる。
「──綾」
「なに?」
「──なんでもない」
綾は泣き笑いの表情のまま、角のハンバーガー・ショップに駆けた。
村上はぼんやり立ち止まり、綾が出てくるのを待った。綾は両手に湯気のたつ紙コップを持ち、顎《あご》をしゃくった。
「山下公園に行こうぜ」
男の口調で言い、綾は先に立って歩く。村上はぎこちなく紙コップのコーヒーの湯気を吹き、その背に向かって言った。
「ハーフ・コート、棄ててきた」
「なに?」
「あの臭いコート……」
冷凍庫内作業用のハーフ・コートを棄ててきたのは、もうコトブキにはもどらないという村上の意思表示だった。
綾は村上がなにを言おうとしているのか理解できず、振り向いたまま、村上が追いつくのを待った。
「なにを言ったの?」
「いや、いいんだ」
「いいの?」
「ああ。個人的なことだ」
「へんなの……。村上って、牢屋《ろうや》に入ったら太って肌の色艶《いろつや》がよくなったね」
綾は村上の腕をとり、あまえかかる。
「──三食きっちり食って、アルコール抜き。煙草は一日二本」
「煙草は吸えるんだ?」
「二本だけな。配給だ」
「ふうん。健康的ね」
「八時就寝、六時起床」
「人間ドックみたい」
「定期的に行くか?」
「それがいいみたい」
ふたりははじめて声をたてて笑った。
「綾」
「なに?」
「おまえ、いい匂いがするな」
村上のことばは語尾が震えていた。綾は答えず、村上の胸に乳房をぴったり押しあてた。村上の喉《のど》が鳴った。綾はさりげなく躯を離した。
曇りがちの空の下、ふたりはしばらく無言で歩いた。潮の匂いが幽《かす》かにする。村上の呼吸が早くなっていく。
「海が見えた!」
村上が大声をあげた。近くを歩いていた通行人が怪訝《けげん》そうに振り返る。
「海だ……」
さらに村上は虚脱したように呟《つぶや》いた。檻《おり》の中の檻に閉じ込められていては絶対に見ることのできない漠然とした空間が眼前に広がっていた。
綾が村上の腕をとった。小声で言った。
「霧がでてるね」
ふたりは公園のベンチに腰を下ろした。情けなく弱々しい午後の日差しに凍りついていたベンチが、ふたりの体温で溶けていく。綾の細い髪が海からの冷たい微風に揺れる。
村上は溜息を洩《も》らした。もう、壁はない。おなじ灰色でも、霧はかたちを自由に変える。村上はコーヒーの紙コップを祈るように捧《ささ》げ持つ。
「徳山さんに、礼を言いにいかなくてはな……」
綾は村上の顔を見ないようにして、曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
「──そうね」
「世話になっちまった。気分が落ち着いたら、礼を言いに行こう」
「──今日は、いいって」
「そうはいかんだろう」
「いいって。ゆっくりしろって」
村上はおおきく伸びをした。
「そうか。……甘えるか」
「あたしと一緒にいて」
村上は照れ、しかし深く頷いた。公園桟橋から港遊覧船が出航していった。村上は喰い入るように遊覧船を追った。
「あかいくつ号……か」
「乗りたい?」
「いずれ、な」
綾は村上の肩に頭をのせて、囁《ささや》くように口ずさむ。
あかいくつ
はいてた
おんなのこ
いじんさんに
つれられて
いっちゃった
綾の抑えた掠《かす》れ気味の唄声に、村上の唇が細かく震えた。
「もう……タンカーには乗りたくない……」
「村上はもう乗らない。弾くんだ」
綾の鼻先が、村上の耳朶《みみたぶ》に触れた。とても、冷たい。
「あたしはカネリ」
綾はカナリア≠アメリカ風の発音でカネリ≠ニ言った。そして、震える声で、思いきって言った。
「もうひとりのカネリは、行方不明になっちゃった」
村上はその意味を解さなかった。サチオがただ単に横浜からいなくなった、と理解した。自分がカナリアということばに、スラングの女性ボーカリストと密告者、二重の意味をこめてメッセージを残したことだけを、遠い昔のことのように思い出した。
綾は村上の横顔をうかがった。そして村上に気づかれぬよう、安堵《あんど》の息を吐き、胸をなでおろした。
サチオが突然姿を消したこと。このまま忘れ去られてしまえばいい。綾は心の底から祈った。サチオなど、はじめからこの世界に存在しなかったのだ。村上さえ自分の隣にいれば、世界など滅びてもかまわない。誰が死のうと、知ったことではない。
「ねえ、村上」
「なんだ?」
「ギターやアンプが要るね」
「そうだな。すこし稼がんとな」
「あたしがお金、貸してあげるよ。あるとき払いの催促なし。バンドは春先からツアーを開始するから、すこしずつギャラから返してくれればいいから」
もちろん綾は返済など期待していない。村上を傷つけないように言っただけだ。村上もそれを充分に承知して答えた。
「そうだな。世話になるか……」
村上は遊覧船の白い航跡を見つめている。やがて遊覧船は白い霧のなかに消えた。霧のミルクのなかで、防波堤灯台の赤い光だけが瞬間浮かびあがる。
カナリアは俺だ。俺は唄を忘れたカナリアだった……村上は心のなかで独白した。やっと籠《かご》という名の檻《おり》から出られたのだ。留置場という名の籠。そして、心のなかの檻。
「春先からツアーと言っていたな」
「決定したよ。三月二十一日から北海道。札幌からスタート。三ヵ月かけて日本全国まわる。沖縄にも行く。どんなに小さなホールだって全力でやる。お客さんが三人だって夢中で歌う」
「──青森は?」
「もちろん。青森、弘前《ひろさき》……まだあるよ。地名が覚えられないけれど」
「俺の故郷なんだ」
綾は村上の肩から頭をはずした。意外だった。村上のことを、横浜生まれだと信じきっていた。
冷静に考えれば、それは綾の単なる思いこみだったのだが、青森生まれの村上がいままで東北の出身であることをおくびにもださなかったことに、綾は村上の複雑に屈折した心理をみた。
そんな思いを隠して、綾はサラッと言った。
「ねえ、雪がある?」
「雪だらけさ」
「お客さん、入るかな?」
「さあな。入らんだろう」
「お父さんとお母さんを呼んであげる?」
「親父はいない。兄貴は呼ぼう。おふくろも。しかし、カッペだぜ。嫌になるくらい田舎《いなか》臭くて……」
村上は途中からことばに詰まり、苦笑した。綾が瞳を輝かせて言った。
「緊張するぜ!」
「なに、涙ぐんでいるんだよ」
「べつに」
「妙な奴だ」
「あ、そうだ、これ、食べる?」
綾は小脇《こわき》に抱えてきた紙袋の底のほうをさぐる。
「フライド・チキンだよ。香辛料に凝っているから、冷えたっておいしいよ」
村上は貪《むさぼ》り喰う。綾はその飢えた獣のような様子に呆《あき》れる。そして留置所の過酷な生活に思い至る。村上の唇と指先が、脂で光る。
「はじめて村上のドヤを訪ねたときも、つくったんだよ。でもけっきょく持っていくのはやめちゃった。自信がなくなっちゃって、こわくなっちゃったの」
「こんなにうまいのに、自信が持てないのか?」
「ちがう。味とかじゃなくって、なんだか叱《しか》られそうな気がしたから」
村上は鶏の骨に齧《かじ》りついたまま、顔をあげる。
「叱る──」
「あっ、もうコーヒーがないね。買ってくる。缶コーヒー」
綾は村上の顔を見ずに立ちあがった。駆ける。バスケット・シューズが路面を噛《か》む。のびやかで、速い。
自分はあのように走れるだろうか……そんなことを考えながら、村上は大声で遠ざかる綾の背に向かって怒鳴る。
「煙草も頼む!」
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第七章 横浜、横須賀、東シナ海
囀《さえず》りすぎたカナリア
1
綾はすこしだけ息を弾ませて、戻ってきた。村上の眼前に缶コーヒーをつきだす。
「意地悪しているわけじゃないんだよ。本物のコーヒーはあたしの部屋でいれてあげるから。マンションの近くには、おいしいコーヒー屋さんもあるし、豆を買って帰ろうね」
甘い、甘い缶コーヒーを口に含んで、村上は考えぶかげに瞳を伏せている。
綾は手際よく煙草のパッケージを開き、一本|咥《くわ》え、火をつける。ひと口|吸《す》って、村上の口に差しいれる。
ハイライトだった。村上の吸っていた煙草を綾はちゃんと覚えていた。だから、よけいに旨《うま》く感じられた。村上は満足げに煙を吐きだす。
「こんな辛い煙草、よく吸えるな」
「香りはともかく、味はいちばんだ」
答えながら、村上は眼を細める。
「綾」
「なに?」
「おまえの唾《つば》は、甘いな」
綾は村上の手のなかのハイライトの吸い口に視線をやる。
「ゴメン! 口紅はつけていないし……コーヒーの味かな?」
「いや、最高に──」
村上は照れてしまい、躯《からだ》をねじ曲げ、マリン・タワーを見上げて宣言する。
「いいか。俺は田舎《いなか》モンだ。マリン・タワーに登るぞ」
「いますぐ?」
「いや。ツアーが終了して、すべてがうまくいってからだ」
すべてがうまくいって……そのことばを聞いたとたんに綾の顔が輝いた。村上の肩をつかんで揺する。
「ホントだよ! 約束だよ! 一緒だよ!」
いきなり昂《たかぶ》った綾を、村上は柔らかな微笑で包みこむ。
「俺たちは、横浜を見おろすんだ」
「偉そうに?」
「まあな。すこし恥ずかしそうに、な」
村上は缶コーヒーを飲み干した。
「甘いってのも、たまにはいいもんだ」
しみじみと呟《つぶや》いた。
綾はホッ、と息をつき、やはりしみじみと言った。
「いい弁護士さんがついてよかった」
「俺にはいまだに理由がわからない。それなりの量だった。執行猶予がぎりぎりのところなのに、不起訴とはな」
「あれ? 知らなかったんだ」
「なにが?」
「村上さんが押しつけられたのは、大麻じゃないんだよ」
「なに!」
村上は眼を剥《む》き、腰をうかしかけた。
「大麻じゃない?」
「そう。タイムとかセージとかいった、香辛料……香草。ハーブよ」
「ハーブ……」
「弁護士の佐竹さんは検察のOBなんだって。で、ごく個人的に友人の検察官と話をしたとき、反応が出ないのに大麻取締法を適用してしまった事件があるって検察官が洩《も》らしたらしいの。──ちょっとまってね」
綾はジーンズのポケットをさぐった。
「佐竹さんを酔わせて喋《しやべ》らせて、メモしたの。聞きかじりだから薬の名前とかは不正確かもしれないけど、ええと、デュケノイおよびガムロイ試薬による反応テストの結果変色なし。大麻だと、透明な液が紫色に変わるんですって」
試験管を持って片膝《かたひざ》をついて首をかしげていた若い鑑識刑事を、村上はありありと思いうかべた。
反応が出なかったにもかかわらず高橋係長は、強圧的に大麻取締法違反を宣告し、村上をドヤから連れだしてしまったのだ。
「あの野郎……」
村上は奥歯を噛みしめた。こうなると高橋係長は立場上、どうしても村上の自白が必要だったわけだ。
「それから県警に送って薄層クロマトグラフィを使っても、大麻成分は検出できず。大学に送った結果、輸入物の香草であるとの鑑定結果」
綾はたどたどしい口調でメモを読みあげた。村上は虚脱した。苦笑するしかない。
「年明けに、面会に行ったあたしがチクッたせいで内偵されていた売人の部屋を調べたら、本物の大麻と一緒に大量の乾燥ハーブが発見されたんですって。一見ハーブは大麻にそっくりだから、それを偽って売りつけていたのね」
「それで十万が三万になったわけだ……」
「佐竹さんは、村上が大麻を使用する気もなく買ったということを、そく信じたんだって。というのは、捕まるまでに六日あったんだから、欲しくて買ったなら、絶対に吸っていたはずだって。そして買わされたものがじつは大麻ではないことに気づいていたはずだって」
「きれいに忘れていた……あの時、俺の心を占めていたのは……」
綾のことだった。村上は溜息《ためいき》を洩《も》らし、首を左右に振る。綾は村上の思いに気づかず、意気込んで続ける。
「なんでも年末じゃなかったら、他の大麻事犯から押収した大麻を使って村上の罪がデッチあげられた可能性があったって」
「冗談じゃない!」
「うん。それができなかったのは、御用納めの直前に、いろいろなクスリやハッパを処分してしまったからなんですって。──年末の大掃除をしちゃったせいで、手頃な大麻がなかったのね。年明けに押収した売人のところにあった大麻は、村上の担当の刑事さん以外のお巡りさんが噛んでいたから使えなかったらしいの」
「あいつら、正義だの真実だの真顔でほざきやがって……」
村上は背筋が冷たくなった。高橋係長の顔が浮かぶ。実直そうな仮面をかぶった異常者だ。自らの成績をあげるためには、積極的に冤罪《えんざい》も厭わず、平然とデッチあげをするのだ。
高橋係長だけではない。のらりくらりとして事務的な検察官、戸川刑事、村上の無実を知りながら『ハーブを知っているか?』と謎《なぞ》かけをして去っていった麻薬取締官。権力を笠《かさ》に着た犯罪者の群れ。さらには正義顔している佐竹弁護士にしてからが、元検察官でありながら、ヤクザの顧問弁護士をして稼いでいる男なのだ。
「──しかし、ずいぶん詳しく教えてもらったな」
「うん。佐竹さんに誘われて銀座のクラブへ行ったの。高いブランデーを一本あけちゃった。佐竹さんは得意がってあたしの質問になんでも答えたわ。あとで村上には言わないようにって念を押されたけれど……」
村上はわずかに口を尖《とが》らせて、霧にかすむ海を見つめている。
「どうしたの?」
「──べつに」
綾は気づいた。村上は嫉妬《しつと》しているのだ。綾は村上の横顔を見つめ、大きく息を吸う。満たされる。満たされていく。
「あたしね」
村上は答えない。
「村上を牢屋《ろうや》から出すためなら、なんだってする気でいたよ。だからあんなスカしたじいさんとだって酒呑みに行った」
村上の頬に柔らかなものがもどってきた。海を見つめたまま独白した。
「俺は……つまり、ただの乾燥した香草を三万で買って、留置所に送られたわけだ」
「いいじゃない。すっかり太って人並みになったし」
軽い口調で綾が言った。村上に苦笑がよみがえる。しばらくして、ポツリと呟《つぶや》く。
「こうして綾と再会できたしな」
「まあ、ね」
綾はどうでもいいといった調子で答え、村上によりかかった。村上の匂い。深く吸いこんで、綾は発情していた。
「ねえ……牢屋のなかであたしのことを想った?」
「ああ」
「あたしのことを想って、した?」
「なにを?」
「ばか。あれよ。ごしごしって」
「ごしごし……か。したと答えたら?」
「──べつに。村上の心のなかにおけるあたしの肖像権を主張する気はないわ」
言いながら、綾は素早く村上の股間に手を伸ばした。一瞬だが、確実に触れた。硬く、大きかった。綾は霞《かすみ》のかかった潤んだ瞳を村上に向け、ふるえた息を吐いた。
こうしているのも、限界だ。お互いの躯が、肉体が求めあっていた。ひとつになりたがっていた。
「欲しい。凄《すご》く欲しい。村上が欲しい。村上のあそこが欲しい。あたしにして欲しい。たくさんして欲しい」
綾は村上の腋《わき》の下あたりをさぐるように顔を動かして、率直に迫った。村上は後頭部が痺《しび》れるような眩暈《めまい》を感じていた。真っ直ぐな綾の欲望。夾雑物《きようざつぶつ》のない、純粋な欲求。これほどに不潔感と縁のない女を、村上は知らない。綾は男が欲しいのではない。村上が欲しいのだ。それが痛いほど伝わって、村上は綾を抱きしめたい衝動を辛うじてこらえた。
観光客らしいアベックの男のほうが、村上に躯をすり寄せる綾を物欲しそうに盗み見ていた。村上は綾を促して立ちあがる。
2
エレベーターのドアが閉まった。村上と綾は見つめあい、抱き合った。舌と舌を絡ませ、お互いの下腹をこすりつけあう。
村上の手が綾の尻にのびる。村上の指先がせわしなくさぐりかけ、綾が思わず声をあげかけたとき、エレベーターは六階に着いた。
綾はあせった手つきで部屋のドアをロックした。玄関口で靴も脱がずにふたたびきつく接吻した。村上は綾の着ているブラウスをまくりあげ、ブラジャーをずらし、よじれるように露出した乳房を握った。さらにジーンズのジッパーをおろし、ショーツに手をかけ、密生している絹糸に指先を這《は》わせた。
村上は綾が完全に溶けて、溢《あふ》れさせていることを確認した。同時に綾の指先が、村上の硬直をさぐった。綾も村上の作業ズボンのジッパーをおろし、自分のなかに押し入ってくるはずの充血器官を開放し、確認し、握りしめた。
村上が迫った。綾は村上の意図を察し、慌ただしく片足からジーンズとショーツを外した。
「お願い、顔が見ていたいから」
綾は背後からひとつになろうとした村上を押し止め、玄関の壁に背中を預け、よりかかった。
村上は綾の右足を持ち上げ、即座に肌をあわせた。
求めつづけていた感触が、村上の充血した器官を包みこんだ。即座に思考が吹き飛ぶ。村上は立ったまま、綾を突き上げる。
綾は叫びそうになり、村上の首筋を噛む。直後きつい痙攣《けいれん》が襲った。村上が留置されたのは、この激情の一瞬を与えるために神様が仕組んだ手のこんだプレゼントではないか……そんな思いが薄れゆく意識の片隅をかすめた。
村上は綾を揺すった。眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》をきざんで死んでいた綾の頬に、精気がよみがえってきた。閉じられた瞳の端から、涙がこぼれ落ちた。
「しあわせで……」
綾は唇をふるわせながら、囁《ささや》いた。幾度も、
「しあわせで……」
と繰り返した。
村上は呼吸を整えながら、綾からゆっくりはずした。
「ああ……」
綾は村上が去っていくのにあわせて、切なそうに溜息を洩《も》らした。
3
村上は崩れ落ちそうな綾を支えて、部屋にあがった。
「お願い。バス・ルームに連れていって」
綾が上気した頬のまま言った。
ふたりは衣服を脱ぎ散らして、バス・ルームに入った。
綾はふらついてはいるが、ようやくひとりで動けるようになった。濃紺の艶《つや》やかなタイルは綾の裸身の白さを引き立てる。このように美しい女を所有していることに村上はあらためて感動し、同時に不安感を覚えた。
綾は湯の温度を調節し、含羞《はにか》んだ表情で村上を見つめて誘う。
「汗を流してあげる」
村上は首を左右に振る。
「おまえが先だ」
村上はシャワーを奪い、綾の躯に湯を浴びせかける。綾は身をよじりながらはしゃぎ、バスタブに湯を張る準備をする。
「見せろ」
緊張した声で村上が迫る。綾の肌が張りつめ、光る。
綾はうつむき、濃紺色のタイルの上に直接躯を横たえる。
「ひろげろ」
村上は命令し、綾は従う。こうすることがいつのまにか儀式になっていた。綾に羞恥心《しゆうちしん》はなかった。村上ならば、この恥ずかしい部分さえも、いや、恥ずかしい部分であるからこそ、よけいにつよく愛してくれるはずだ。
村上はひろげられた綾の足先にシャワーの湯を浴びせかける。左右交互に浴びせかけ、ふくらはぎを過ぎ、膝《ひざ》を越え、太腿《ふともも》を濡《ぬ》らし、核心にちかづいていく。
村上は見つめる。村上は眼になる。
薄い褐色の控えめな扉。淡く取り巻く絹の糸。その奥の燃えるような朱。
引き締まった綾の腹が、息づかいにあわせて幽《かす》かに、しかしくっきりと上下している。村上はなめらかな綾の腹部を愛《いと》しむように見つめ、そして下腹の傷口に視線を据え、シャワーの湯を浴びせかける。
とたんに綾は痙攣《けいれん》した。下唇を噛み、瞳を見開いた。
村上は見た。綾の傷口から村上の放った精が流れだしたのを。綾の褐色の扉に絡まるようにして、白濁は濃紺色のタイルの上に流れ落ちた。
シャワーの湯を強くする。浴びせかける。指を使って綾の躯を洗い清める。ところが綾は村上の指が触れたとたんに反応して、ふたたび傷口に愛の徴《しるし》を溢《あふ》れさせる。
綾の瞳が切迫する。村上をつよく、つよく求めている。瞳の奥で揺れるものがある。その波動が村上の心に絡みつき、躯に反応を起こさせる。村上はふたたび男になった。
4
ふと目覚め、村上はベッド・サイドに投げ出した腕時計を手に取った。綾からもらった軍用時計は、チッ、チッ、チッ……控えめに、しかし規則正しく時を刻んでいる。夜光の針が緑色に光り、二十二時十五分を示している。
「十時すぎか……」
村上は声にだして呟《つぶや》き、バンドのメンバーとMOJOで九時に待ち合わせをしていたことに思い至る。
電話をしてこないところを見ると、気をきかしているのだろう。いまごろ村上と綾はみんなの酒の肴《さかな》になっているはずだ。村上は闇《やみ》を透かし見て苦笑した。
綾は軽やかな寝息をたてている。満たされた女。寝顔も美しい。童女のような邪気のない表情をしている。
交わり、食べ、交わり、まどろみ、交わった。さすがにもう不可能だ。いまはこうして一緒に横たわり、死んだように眠るのが好ましい。
村上は微《かす》かな空腹を覚えた。それは耐えがたいほどではなく、じっとしていればなんとなく忘れてしまう程度のものだった。
綾は村上のためにたくさんの、ありとあらゆる食料を買いこんでいた。それはいささか大袈裟《おおげさ》なほどの量で、村上は三年分ある、と冷やかした。
綾のつくる料理はアメリカナイズされていて、村上はシカゴでの暮らしを思いだした。ふだんはアメリカ風の食事をしているが、母に習った和食の腕もなかなかだ、と綾は自慢した。納豆だって食べられる、と得意そうに付け加えた。
村上は綾を起こさないように注意して伸びをした。こんな生活もあるのだ。なぜ、俺はこういった生活を毛嫌いしていたのか……村上は柔らかく和んだ気分で考える。
たぶん、拗《す》ねていたのだ。中産階級的なものに対する嫌悪は、今でもある。それは自分には絶対に届かないものであるという諦《あきら》めと、譲ることのできないある美意識のもたらしたものかもしれない。
プチブル的なものを嫌悪するダンディズムが村上にはあるということだ。あるいはローンという名の借金でブランド品を買って見せびらかすような今の日本人のみじめったらしい貧乏臭さが村上には許せない。
時代遅れだ、とつくづく思う。今の世の中で村上のような男は絶対に少数派だ。カードをたくさん持って、それをひけらかす者のほうが多い世の中だ。少数派はどうしても尖《とが》っていく。だからコトブキにまで落下していったのだ、とは言わないが、村上の心の底にはどこかそういったニュアンスの自負があった。
村上はとりとめのない理屈を弄《もてあそ》び、欠伸《あくび》をし、眠る綾の横顔を見つめる。つまり、幸せなのだ。自分には縁のない、手にすることのできないと思っていた生活がいまこのベッドの上にあり、それはどうやら幸せという名前で表すものらしい。
わるくない。まったく、わるくない。村上が毛嫌いしていたのは、常に中途半端なものだったのだ。
いま、村上には綾がある。ほかのそれなりに快適な生活は、たまたま付随しているもので、何ら本質には関係ない。とはいえ、コトブキの棺桶《かんおけ》のような密室や、留置所の鉄の檻《おり》、背に刺さる筵《むしろ》の感触よりは、糊《のり》のきいたベッド・シーツに幽《かす》かに唸《うな》るエア・コンディショナーの肌に心地よい温風だ。
村上の肌は緩み、心からはいままで必死に張り詰めていたどちらかといえば無意味な緊張がきれいに消えていた。
あくび。けだるい。ここちよい。やわらかい。あたたかい。ひらがなで表現するのがぴったりの時間が肌を愛撫《あいぶ》するようにながれていく。
そして、唐突に、思い至った。
高橋係長は、売人がどうしたかを訊《き》いた村上に言った。
『──奴は、行方不明だよ』
そして綾は、自分がカネリ──カナリアだと言い、続けてサチオについて言った。
『もうひとりのカネリは、行方不明になっちゃった』
行方不明……村上と、そして大麻に関係したふたりともが行方不明……。
緩んでいた村上の肌は張りつめ、呼吸が目に見えて早くなっていく。偶然にしては、できすぎだ。できすぎの偶然は、もう、偶然ではない。
尖《とが》りはじめた村上の意識に反応して、安らかな寝息をたてていた綾が眼をひらいた。
「おなか、すいたの?」
「──すこし、な」
「なにが食べたい?」
村上は腹這《はらば》いになっている。綾は起きあがろうとした。村上は制した。
「サチオってガキは、なぜ、いなくなった?」
「──さあ」
村上は闇《やみ》のなかで綾の頬をさぐった。指先が触れたのは、張りのある、そのくせ柔軟な肌ではなく、硬直した、緊張した肌だった。
「あたしは知らないよ。サチオのお守りをしているわけじゃないし」
「クロスオーバーのバンドはうまくいかなかったのか?」
綾は親指の爪《つめ》を噛《か》んだ。
「どうなんだ?」
重ねて村上が訊いた。
「──知らない」
村上は上半身を起こした。
「なにをする気?」
「確かめてくる」
「確かめる? なにを」
「MOJOへ行く。ハマのバンド事情なら、あそこへいけばわかるだろう」
綾は飛び起きた。村上の肩に手を伸ばし、揺すらんばかりに迫る。
「なぜ、他人のことをそんなに気にするの! サチオなんて関係ないじゃない! あの子は故郷に帰ったのよ、村上が気にすることじゃないよ!」
村上は抑えた、無感情な声をかえす。
「なにをそんなにムキになっているんだ?」
「村上こそ、どうでもいいことを……どうしようというのよ」
綾の声は泣きだしそうだった。村上の胸に痛みがはしった。しかし村上の口からでることばはあくまでも冷静だった。
「売人が消えた。サチオが消えた。偶然ならば、それはそれでいい。俺の思い過ごしだった、と後で苦笑いすればすむことだ。しかし、もしそうでないとしたら、はっきりさせなければならない」
「なにをはっきりさせるのよ? はっきりさせたってどうしょうもないじゃない! これが徳山の愛情の示しかたなんだから!」
「愛情……?」
綾が口を押さえた。村上は狼狽《ろうばい》している綾に冷静な声で迫る。
「徳山さんの愛情とはどういうことだ?」
綾は叫ぶように言った。
「徳山にはこうすることしかできないのよ!」
「つまり、売人とサチオが行方不明になったのは、徳山さんの俺に対する愛情の結果だということか」
「あたしが徳山と同じ立場だったら、そうするよ。村上とあたしの仲をじゃまする奴は、みんな殺してやる」
「殺してやる……」
村上はふかくながい溜息《ためいき》を洩《も》らした。がっくり首を折り、こめかみのあたりを揉《も》んだ。
「どうする気?」
綾がすがりつく。
「どうしようというのよ?」
「俺は……気取っていた」
「なにが?」
「逮捕されたとき、英雄気取りで、恰好《かつこう》つけて、よけいなことを言った」
「カナリアのこと?」
「そうだ」
「いいじゃない! 売人もサチオも村上にとってはバイ菌みたいなものじゃないか」
「バイ菌……」
「そうだろ! 村上のことをじゃまするバイ菌じゃないか、あんなやつら」
「──俺は黙って逮捕されるべきだった」
「そうしたら、いま、ここにいないよ。こうしてあたしと一緒にいないよ」
すがりつき、泣きじゃくる綾。村上は自分の青臭さを呪《のろ》った。綾もカナリア、サチオもカナリア……しかしいちばんピーチク囀《さえず》ったのは、村上自身だった。
「あたしに約束しただろ! 一緒にツアーにでるんだ……全国をまわって、村上はギターを弾いて、あたしの歌と溶けるんだよ……約束したじゃないか」
村上の胸に綾の涙。熱い。村上は天を仰いだ。漠然とした闇《やみ》がひろがっていた。泣きじゃくる綾を抱きしめた。きつく抱きしめた。
ストーミー・マンディ
1
まんじりともしない夜が明けた。綾は村上の胸に頬をあて、幾度もためらったのち、小声で訊いた。
「あたしのこと……嫌いになった?」
答えるかわりに、村上は綾をきつく抱きしめた。とたんに村上の胸が涙で濡《ぬ》れた。
「泣くな」
「嫌いじゃない?」
「嫌いじゃない」
「ほんとう?」
「ほんとうだ」
「徳山は、ほんとうに村上が好きなんだよ」
「────」
「徳山がほんとうに殺したいのは、あたしかもしれないよ」
もう、村上は考えたくなかった。徳山の愛。まるで茶番だ。いくら徳山が真剣であっても、村上にはまったく実感がない。永久に実感できないだろう。
ただ、徳山が村上を愛した結果、人が死んだ。男が男を愛して、それを殺人というかたちで昇華したのだ。村上の理解を超えている。
「眠れ」
カーテンを通して射しこむ朝日に綾の細く頼りなげな髪がうかびあがる。村上は丹念に綾の髪を撫《な》で、囁《ささや》く。
「眠れ、綾」
「……うん」
村上は綾の頬に唇をあて、涙をそっと味わう。
「どこにも……いかないで」
「ああ」
「あたしといて」
綾の孤独。村上は綾の孤独を抱きしめる。綾は敏感に反応して、小声で言う。
「MOJOのマスターに、あたしのことを女チャーリー・パットンって言ったんだって?」
「──初めておまえを見た晩のことだ。俺は歌うおまえに嫉妬《しつと》したんだ」
「どういう意味? 女チャーリー・パットンって」
「チャーリー・パットンは素晴らしいブルース・シンガーでギタリストだった」
「スプーンフル」
「そう。名曲だ。演奏のテンションも凄《すご》い。だが、おまえの歌も、凄い」
「お世辞」
「ちがう。おまえは本物だ。本物のブルース・シンガーだ」
「うれしい。でも、女チャーリー・パットンていうのは、褒《ほ》めことばに聞こえないよ」
「チャーリー・パットンは白人の血が混ざっていて、黒人にしては色が白かった。だからまわりの黒人を馬鹿にしきっていて、優越感を持って……」
「わかったわ。村上が言いたいこと。白く見えるあたしに、少しだけ混ざっている黒人の血のことね」
「つまらないことを言った」
「──前に言ったでしょう。あたし、子供のころ、あいのことか毛唐って言われて、もっと髪の色が薄かったの。栗色《くりいろ》だったのよ。マジックで黒く塗ったのよ」
「すまん」
「黄色のなかでは、黒くても、白くてもだめなのよ。とくに子供のうちは……すこしでも毛色が違うと、醜いアヒルの子なのよ。
そしていまでも、あたしはガイジンで、すらすら日本語を喋《しやべ》ると、不思議そうな顔をされる。ステージではあたしの歌よりも、日本人離れしたルックスが優先される。
だからあたしは頑《かたくな》にメジャー・デビューを拒んできた。村上と知り合って、初めて、強くなったんだよ。あたしは日本中のお客さんにあたしをさらす勇気を持てたの」
「ブルースなんだ」
「そうね」
「みんな、ブルースを少しずつ背負っている」
「村上も、あたしも、徳山も……」
綾は射しこむ朝日に視線をやった。
「朝になっちゃった」
村上の胸にきつく爪をたてる。痛みに顔を顰《しか》めた村上に向かって、囁《ささや》くように迫る。
「チャーリー・パットンの生き方は、ずるくて、汚くて、すこしだけ恰好《かつこ》良くて悲しいから。だからブルースでさ、ブルースなんだよ。人格者なんてクソ喰らえ、だ!」
「どうした? 急に」
「おまえを見てると、しみじみそう思うんだよ」
綾は男の口調で言い、村上の胸に頬擦りした。
「あたし、もう、眠る」
「そうだな。それがいい」
「村上も眠るんだぞ」
「ああ。眠る」
綾は村上の胸の上からおりた。すぐに規則正しい寝息が聞こえた。
村上は凝固したかのようにじっと天井を見つめていた。やがて綾の様子をそっと窺《うかが》った。
眠っている。激情の果て、泣き疲れ、死んだように綾は眠っている。
村上はそっとベッドを抜けだした。手早く身支度する。
机の上には、封筒が置いてあった。明日、村上の楽器を買いにいこうと綾が用意した金だった。幾ら入っているかはわからない。厚さから大まかに判断すると、百万以上だろう。
村上は封筒を掴《つか》み取り、苦渋に満ちた表情でしばらく立ち尽くした。しばらく思い悩み、決心する。封筒をフライト・ジャケットの内ポケットにねじ込む。
眠る綾を盗み見るように見つめる。背を向ける。ふかい溜息をつき、もう一度そっと綾を振り返る。
綾……
心のなかで呟《つぶや》いて、逃げるように立去る。細心の注意を払って玄関のドアを開く。
村上は出ていった。
綾は瞳をひらいていた。瞬きせずに、天井を凝視していた。涙はでない。流れない。ただ、肌がつめたく、胸がこわばり、息をするのが苦しくて……。綾は知った。ほんとうに悲しいときは、涙さえでないということを。
2
友人になる気はおろか、会話さえする気になれなかった。しかし村上は、サチオが嫌いではなかった。村上に輪をかけて青臭いあの若者は、村上の同類だった。
サチオの生い立ちであるとかを知っているわけではない。しかし、サチオからは自分によく似た匂いがした。だから嫌悪したし、うっとうしいと感じた。
村上はフライト・ジャケットに両手を突っ込んで、駅に急ぐサラリーマンの群れに混じって歩いていた。混乱していた。これから何をしようとしているのか、よくわかっていなかった。
見慣れた横浜の町が、ネガ・フィルムを見ているかのように不自然で、足が地についている感じがしない。
このまま綾のところで暮らし、バンドのツアーに参加して日本中を回ればいいのだ。バンドは成功するだろうし、永遠に続く愛を信じるほどに青臭くはないが、綾との仲はうまくいくだろう。
しかし、そうすることを許さない強烈な衝動が村上のなかにあった。渦巻いているものを表現することもできなかった。ただ村上はその湧《わ》きあがる衝動に突き動かされて、横浜スタジアムに向かっていた。
選択はふたつあった。関内《かんない》駅から横須賀《よこすか》に行く。もうひとつはコトブキに戻り、徳山のところへ行く。どちらも決めかねていた。ただ白い息を吐きながら、やみくもに歩いていた。
コンビニエンス・ストアの前に、エンジンをかけっぱなしの四〇〇CCオートバイが停《と》まっていた。ヘルメットはバック・ミラーの上にかかっている。
村上は立ち止まり、冷静にヘルメットをかぶった。ライダーはライディング・グラブを脇《わき》にはさんで、出勤前のあわただしい時間を忘れて店内で週刊誌を立ち読みしていた。村上がオートバイを発進させても、雑誌に夢中でまったく気づかなかった。
まだ走行距離が二千キロにも満たない四気筒オートバイは、滑らかに加速していく。冬の空気が刺さる。信号待ちで村上はフライト・ジャケットのジッパーを首まで引きあげた。すぐに素手の指先から感覚が消えていった。肩が強張り、ライディングはひどくぎこちない。交差点の左折で孕《はら》み、中央分離帯が迫る。
かろうじて中央分離帯を避け、車線に戻ると、後ろのバンがホーンを鳴らした。危なっかしくて見ていられないのだろう、大袈裟《おおげさ》によけて、追い越していった。
寒さに凍った指先のせいで、クラッチの操作がうまくいかない。村上は居直り、渋滞しはじめた国道一六号線を二速に入れたまま走る。エンジンは悲鳴をあげているが、二速で一〇〇キロ以上まで引っ張れるので、多少ぎくしゃくするが、走行に不自由はない。
頬が乾燥してこわばっていく。冬のオートバイ。殆《ほとん》どマゾヒズムだ。眼尻に涙をうかべ、鼻水を垂らしながら国道一六号線を行く。
タイヤはなかなか温度があがらず、路面を叩《たた》くような走行音が|かん《ヽヽ》に触る。大型トラックの真っ黒な排ガスにさえも温もりを感じる。村上はこれからしようとしていることのせいで、過剰に寒さを感じていた。心が凍えていた。
しかし、もう引き返せない。走りだしてしまったのだ。できれば、誰かに止めてほしかった。留置所に舞い戻ってもいい。止めてほしかった。
それなのに、二速に入れたまま走らせるオートバイは、エンジン回転を上げつづけたせいでマフラーにたまったカーボンが燃え落ちたらしい。アクセルに対するレスポンスが段違いによくなり、快調だ。
捕まりたかった。オートバイの盗難で、あるいは無免許運転で。しかし、一時間ほどで横須賀に着いてしまった。もう引き返すことはできない。
3
ゲート近くで、かじかんで感覚を失った指先を股間にはさんであたためながら、ジョーンズを待つ。
モス・グリーンに塗られたフリゲート艦が朝礼のときの中学生のように並んで停泊していて、レーダーからのびるアンテナが強風に煽《あお》られて、いっせいにしなって泣き声をあげている。
オートバイのエキゾースト・パイプが冷えていき、キン、キン、甲高《かんだか》い金属音をたてている。村上はシートによりかかるようにして立ち、無表情に待つ。
ジョーンズは欲の深そうな瞳をシカゴの冬の朝と同じように充血させてやってきた。村上の姿に気づくと、POOW──当直兵曹として、午前零時から朝の四時までの四時間単位のミッド・ウォッチを終えて仮眠をとっていたところだとまくしたてた。
「横須賀にまだいるとは思ってもいなかったよ」
村上が抑揚を欠いた声で呟《つぶや》くと、ジョーンズは夜より黒い顔を歪《ゆが》めるようにして笑い、早口で言った。
「日本が一番さ。女にも不自由しないしな。ここしばらくのうちに日本における黒人の地位は著しく向上したのさ」
「向上したのは、セックスに関してだけだろう」
「わかってないな、村上は。いいか、ミスター村上。血が混じるということは、じつは革命なんだよ。異民族間のセックスとは、差別根絶の第一歩さ。歩みはゆっくりだが、やがては数で圧倒するのさ。貧乏人の唯一の武器は、子だくさんてわけだ」
村上は苦笑する。ブラックパンサーの活動家の振りをして恐喝まがいのことをしていた頃とジョーンズはまったく変わっていない。
職業軍人であるジョーンズは、休暇のときはシカゴのゲットーに舞い戻り、革命をブチあげていた。べつに確たる思想があるわけではない。要は小遣い稼ぎだ。
シカゴにいたころの村上とはそれなりに気があった。村上のバンドが出演しているクラブにやって来て、マッシュ・ポテトといった化石のようなステップを踏み、女の子を引っかけようとムキになっていた。
「ジョーンズは踊りが下手だった」
「黒人がみんなダンサーだと考えているとしたら、それは差別さ」
村上は唇の端で笑った。ジョーンズもあわせて笑った。握手した。ジョーンズの掌はあたたかかったが、妙に汗ばんでいた。
「英語が下手になったな」
「俺は日本人だ。関係ない」
「──何しにきた?」
「金が欲しいだろう」
「ドルか、円か?」
「円だ」
「OK、OK、かわりになにが欲しい?」
「拳銃だ」
「こまったな」
「強力なやつだ」
「銃は売るほどある」
「期待にそえるだけの金はある」
ジョーンズは口許を歪《ゆが》めた。さぐるように村上を見つめる。
「なあ、ミスター村上。俺はストーミー・マンディの心境さ」
荒れた月曜日。Tボーン・ウオーカーのブルースだ。
「ジョーンズ。金曜日、か?」
「そう。イーグル・フライ・オン・フライディ」
ジョーンズは詞のFliesの部分をFlyと発音した。村上はわずかに顔を下に向け、失笑した。
「どうした、ミスター村上」
「日本の有名な音楽評論家のセンセイがな、イーグル・フライ……を鷲《わし》が飛んでく金曜日と訳してな」
ジョーンズの国のお金には、鷲が描かれている。ストーミー・マンディは一週間を歌ったブルースで、月曜から始まり、金曜にはイーグル・フライ──金がなくなった、と歌われている。
「見事な翻訳だ。優秀な男だ」
「ジョーンズが褒めていた、と伝えてやりたいが……」
村上は真顔になった。ジョーンズも笑いを収めた。
「金がないなら、稼ぐべきだ、ジョーンズ」
「まったく、その通りだ」
頷《うなず》きながら、ジョーンズは村上の顔からわざと視線を外す。村上は真っ直ぐジョーンズを見据えて言う。
「駆け引きをしている暇はないんだ、ジョーンズ」
「忙しいな。高くなるぜ」
「おまえ以外にも知り合いがいる、と言ったら?」
「誰だ、そいつは?」
「まさかポーカーで自分の手を教える奴はいないと思うがな」
「そりゃ、まあ、そうだ」
「いますぐ持ってくれば、五十万」
ジョーンズは曖昧《あいまい》に笑い、横を向く。
「そうか。シカゴで言ってたよな。上官と組んで日本のヤクザに銃を卸していると」
「脅す気か?」
「ひょっとしたら、そうかもしれない。今まで軍で積み上げてきたものをすべて失う可能性があるな」
「そりゃ、こまる」
「俺も友達のそんな姿は見たくないさ」
「最低だな、日本人は」
「黒人ほどじゃない」
「バンドはうまくいっているのか?」
「答えたくないな」
ジョーンズは肩をすくめた。村上はオートバイの臙脂色《えんじいろ》したガソリンタンクを平手で叩《たた》く。
「五十万に、このモーターサイクルをつけよう」
「ヘルメットも、な」
ジョーンズは言い、手を差しだした。握手した。あいかわらず、ジョーンズは掌に汗をかいていた。村上はそのやけに白く分厚い掌に、オートバイの鍵《キイ》を落とした。
4
ドブ板通りは、まだ寝惚《ねぼ》けていた。化粧を完全におとしていない女がスナックの二階から、欠伸《あくび》まじりに村上を見おろし、鼻で嗤《わら》った。
村上は横文字の通りを抜け、横須賀中央駅から通勤のサラリーマンや通学の女子校生にまじって京浜急行に乗った。
思ったよりも混んでいた。車両が揺れ、村上にぶつかったOLが、痛そうに顔をしかめた。村上は目顔であやまり、腹の前に腕を持っていってベルトに差し込んだコルトM1911を覆うようにした。不自然な姿勢ではあるが、しかたがない。
村上は日の出町で京浜急行を降り、大岡川を渡り、コトブキへ向かった。表情には思い詰めたものが漂っていた。
フライト・ジャケットのポケットのなかの45ACP弾に触れる。三十五ミリ弱の長さの、重量感のある弾丸が二十発。コルトの弾倉内の弾とあわせると、全部で二十八発ある。
ジョーンズに言わせれば、至近距離ならば腕や足を吹き飛ばすほどの威力があるらしい。そう聞かされているのに、なんとも心もとない気分だ。雑な旋盤のあとの残る真鍮色《しんちゆういろ》した弾丸で、あの青光りする津田越前守助広に勝てるのだろうか。
村上は溜息をついた。不安を圧しころし、ポケットのなかの弾丸をいじくりまわす。殆《ほとん》ど貧乏揺すりにちかい行為だ。
綾が用意した楽器のための金で、村上は殺しの道具を買った。
5
口のなかがカラカラだ。自販機にコインを投入して、村上はビールのロング缶を飲み干した。嫌なゲップがでて、妙に腹が膨らんだ。足がよけいに重くなった。知り合いの手配師が声をかけてきたが、村上は気づかずに通り過ぎた。
仕事にあぶれた連中が、所在なげに立ち尽くし、しゃがみ、丼《どんぶり》のなかで転がる三個のサイコロに視線を集中する。
焚き火の煙に咳《せ》き込んだ老人が誰にともなく文句を言い、朝の定食の生卵の殼に穴をあけて啜《すす》っていた若者が勘違いして老人を小突く。
はやくも焼酎の匂いが漂いはじめ、垢《あか》で黒いのか酔いで赤くなっているのかわからないアル中が鼻をうごめかす。
自棄っぱちの裏返しの妙にのどかな、いつものコトブキの光景だった。村上は他人のような眼差しで、コトブキをよその世界のように眺め、徳山のドヤの前に立った。
耳鳴りがした。思いきってノックした。健が不自由な手で扉をあけた。健は村上に迷惑そうな眼差しを向けた。とたんに村上は自分を取り戻した。
幸せそうじゃないか……そんな皮肉を言うかわりに、感情を隠した微笑をうかべた。
「徳山さんは?」
「まだ寝てるんだ」
「世話になったからね、礼を言いにきたんだよ」
「──臭い飯から解放されたね。おめでとう」
健はニコリともせずに言い、さらに続けた。
「もう、あんたはコトブキの人間じゃない」
「徳山さんが言ったのか?」
「そうだ。徳山さんはあんたに会う気はない」
「つめたいな」
「ちがうだろ。心遣いだ」
「心遣いが……過ぎたんだよ」
「なんだか、因縁に聞こえるが」
「敏感だな、おまえは。東北人によくある、過剰な敏感さだよ」
「敏感……? 東北の人間なんてのは、愚鈍だよ。東北生まれの俺が言うんだから、間違いないさ」
村上は視線を外した。板張りの廊下を見つめる。掃除が行き届いていた。とてもドヤには思えない。たぶん徳山が磨きあげたのだ。
「お客さんかい?」
村上は顔をあげた。徳山が眼をこすりながら健の背後に立っていた。ステテコを穿《は》き、上半身は裸で、たるんだ皮膚に金太郎の刺青《いれずみ》が垂れさがっている。
「徳山さん。礼を言いにきた」
「村上ちゃんか。良かったね」
「いろいろ、迷惑をかけたね」
「なんも、なんも……これ、健ちゃんの東北弁。一緒に暮らしてると、うつるもんだね。明日からのスラッジ清掃を終えたら、健ちゃんの故郷に旅行しようと思っているんだよ。露天|風呂《ぶろ》の温泉で雪見酒なんて乙だろう」
徳山は健の肩を抱き、破顔した。邪気のない笑顔だった。綾に共通した、曇りのない子供のような笑いだった。
「そのスラッジだけど、俺も乗るよ」
「村上ちゃん、まじ?」
「まじめだよ。仕事したいんだ」
「綾のバンドは?」
村上は黙りこんだ。徳山は上眼遣いで村上を窺《うかが》い、健に部屋に入っているように命じた。
「去年の暮れに乗るかって訊《き》いたら、村上ちゃんはこう答えたんだ。──俺、もう、リタイアするよ。船には乗らない。スラッジからは足を洗う」
「覚えてないな」
「俺が警官崩れにヤキを入れてたときだよ」
村上はポケットのなかの銃弾を握りしめた。徳山は裸の腕をさすった。
「なあ、村上ちゃん。村上ちゃんの前に、もうなんにも邪魔なものはないはずだ。村上ちゃんはギターを弾けばいい。綾に言わせれば、それが天職だってことだ。村上ちゃんの仕事はスラッジ清掃じゃないよ」
「──俺はどうしても乗らなくてはならない。さもないと」
「こわい顔だね」
「真剣だからね」
「俺は遠くから村上ちゃんの演奏を、気づかれないようにそっと見守ろうと思っていたんだけどな……」
徳山は短い吐息を洩《も》らし、村上を見ずに言った。
「明日朝五時出航だよ。四時に集合。いつもの場所」
「わかった。めずらしいな、朝早いのは」
「隠密行動のつもりらしいよ。いろいろ石油屋も叩《たた》かれてるからね」
村上は銃弾が入っているのとは逆のポケットから煙草を取り出し、徳山にすすめた。徳山は黙って咥《くわ》え、村上は黙って火をつけてやった。
二人は沈黙したまま、一本灰にした。徳山は磨き上げられた廊下に吸殼を投げ捨てた。村上はそれに倣《なら》った。
「村上ちゃん以外の奴が廊下を汚したら、殺しちゃうけどね」
「殺しちゃう……か」
徳山の一重瞼《ひとえまぶた》の奥に、弱気なものがはしった。
「裏目に出ちゃったみたいだね……」
村上は大きく息を吸った。
「徳山さん、寒くないのか?」
「──なにが?」
「上半身裸で。自慢の金太郎が震えてるぜ」
徳山は身をくねらせるようにして照れた。
「忘れていたよ。村上ちゃんの声が聞こえたから、夢中で飛びだしてきたんだ。ああ、無事だったんだ……ってね。まいったね。俺、裸じゃないか。こんな醜い躯《からだ》、村上ちゃんには見せたくなかったよ」
村上はうつむいた。小声で言った。
「徳山さん……感謝してるよ。この気持ちに嘘《うそ》はない。でもな、徳山さんは──」
村上はことばに詰まった。徳山は柔らかく微笑した。村上は徳山の顔を盗み見た。誘われるようにして笑いをかえした。泣き笑いだった。
東シナ海、満月の夜
1
黒い海面を行く。潮の匂《にお》いに混じって艀《はしけ》のディーゼル・エンジンの排気ガスが村上の鼻に刺さる。
まだ夜は明けていない。村上の隣に崔《さい》はいない。まわりは顔なじみのアンコばかりだが、崔はいない。
アンコたちは久々に顔をあわせたのに、誰も口をきこうとしない。圧《お》し黙って下を向き、煙草をふかし、腕を組み、目脂《めやに》をほじり、貧乏揺すりして、舌打ちし、溜息《ためいき》をつき、フケだらけの頭をイラついた仕草で掻《か》き、掌の汗を作業ズボンにこすりつける。
崔はお喋《しやべ》りだった。つりあがった眼を細め、黄ばんだ八重歯をいじりまわしながら、村上にあれこれ話しかけた。甲高《かんだか》い声だった。うっとうしかった。しかし、いま村上の周囲にあるのは、重苦しい沈黙だ。
村上は筵《むしろ》の上にしゃがみこみ、立てた両膝《りようひざ》に顔を突っこむようにして薄く眼を閉じている。傍らに置いた手荷物の包みのなかにはコルトの軍用拳銃M1911が入っている。
拳銃を手に入れたはいいが、実際にそれを使うとなると、自信がなかった。村上はそれを替えのアンダーシャツで幾重にもくるみ、目に触れないようにした。それはもちろん他人の目に触れないようにとの配慮であるが、村上本人も銃を直視する気分にはなれなかった。
ただ、フライト・ジャケットのポケットには銃弾を入れたままだった。村上は銃弾を汗ばんだ手で握りしめる。さきほどから金属同士がこすれあう軋《きし》むような音がしている。隣に座っているアンコが横眼で村上を窺《うかが》った。
手のなかでこねくりまわしていては、暴発するかもしれない。そんな不安を覚えながらも、村上は銃弾を弄《もてあそ》ぶことをやめられない。
村上は隣のアンコの視線に気づいた。ポケットから手をだす。こすれた真鍮《しんちゆう》が汗に溶け、掌は黒灰色に染まっていた。金属の匂いが漂った。
背後で咳払《せきばら》い。徳山だ。村上の背が硬直した。
村上は自分の臆病《おくびよう》さを呪《のろ》った。撃てばいいのだ。引き金を引けばいい。徳山が刀を抜く前に連射すればカタがつく。
艀《はしけ》に軽い衝撃がはしった。タンカーの喫水線が眼の高さにあった。
保留チェーンがベイルを介してガラガラと音たて、アンコたちがタラップと呼んでいるラダーが下りてきた。
いつものことながら、タンカーの船員の姿は見えない。気配さえしない。それなのに艀が着くと同時にタラップが下りてくる様子は、無人船、いや幽霊船のような印象をアンコたちに与える。
凪《な》いでいるので、下部のプラットホームは波をかぶっていない。そのかわり、投光機の光をキラキラ跳ね返している。どうやら凍っているようだ。
アンコたちは顔をあげた。ようやく顔をあげた。白い息を吐き、壁のように聳《そび》え立つタンカーの横腹を見あげる。
タンカーはまだ明けぬ夜に溶けて、輪郭がはっきりしない。三十万トン級らしい。しかし闇《やみ》のおかげでその巨大さを意識しなくてすむ。アンコたちはタンカーの巨大な横腹を、首をねじ曲げて高層ビルの頂上を見あげるように見るとき、例外なくひどい無力感を覚えるものだ。
「幸福丸だってよ」
隣のアンコがぼそっと呟《つぶや》いた。村上は訊《き》きかえした。
「こうふく……?」
「幸せだよ」
アンコは吐きだすように言った。村上があっけにとられていると、アンコは底意地のわるい目をして、声をころして笑いだした。
「石油が日本の幸福を支えているんだとよ。信じられねえセンスだぜ」
村上は無意識のうちに不精髭《ぶしようひげ》をいじりながら、思った。このタンカーに幸福丸と名付けた者は、真剣だったのではないか。新しい船ではない。たぶん高度成長期に造られたタンカーだ。
幸福は村上の眼前に高層ビルの影のように聳え立っている。アンコたちが霜のおりたタラップに取りつき、注意深く登っていく。行き着くさきは闇のなかだ。夜空に溶けてしまって、目を凝らしても頂上は見えない。
村上は幸福の横腹に取りついた。幸福にしては黒すぎると思った。いつもだったら軽い身の回りの荷物の包みが、やけに重く感じられ、首をかしげた。後ろについたアンコが、立ち止まった村上の尻《しり》を押した。村上は我に返り、天国への階段を登るのを再開する。
2
バッタ打ち要員は虚脱して座りこんでいた。疲労を通りこして、口もきけない状態だった。
異様なスラッジの量だった。どうやら中東からの原油を幸福に乗せて運んでいる石油屋は、原油価格が安定しているときに幸福をフル稼働させて、スラッジ清掃の時間さえ惜しんでいたようだ。
中東での、まるでショーのような戦争が収束し、まだ火種はくすぶっているようだが、とりあえず原油価格が低いときに運び込めるだけ運び、備蓄して、いざというときに備えよう、いや儲《もう》けようという立派な心掛けだ。
おかげでバッタ打ち要員が立ち上がれなくなるほど必死になって熱湯をタンク底に注いだにもかかわらず、スラッジは表面が柔らかくなっただけで、有毒ガスの発生は止まらない。
日本刀を杖《つえ》がわりにして作業を見守っていた徳山が首を左右に振った。傍らには村上がいた。
「まいったね」
「まったく。仕事にならないですよ」
村上は徳山をたて、丁寧に受け答えをしている。
「どうしようか?」
「バッタ打ち要員を再編成して、スラッジを柔らかくする作業を続行するしかないでしょう」
「慣れない奴にホースの扱いを教えるのはことだよ」
「しかし、このままバッタ打ち要員を酷使すれば、事故がおきますよ。奴らは、限界だ」
徳山は溜息をついた。
「編成を変えるか?」
「それが一番早いですよ。作業能率は落ちるかもしれないが、スラッジを柔らかくせんことには次の段階に進めないですから」
「あたりまえの意見だよな。もっと画期的なやり方はないかな?」
「ないですよ。俺にできることといったら、作業員の組み合わせで効率をはかることだけですね」
徳山はこの航海に舎弟や弟分を乗せていなかった。山野興業の人間は、徳山だけだった。かわりに村上を横におき、作業の監督補助をさせていた。
村上は徳山に素直にしたがっていた。徳山は何でも村上に相談した。こうして意見を交えながら仕事をしていると、徳山と村上はとても相性がよかった。
村上はアンコたちを見まわしながら、新しい編成とそのユニットのリーダーを決めていく。徳山は頷《うなず》きながら古びた手帳に村上のつくりあげた編成を書きとめていく。
「大胆だね、村上ちゃんは」
徳山は潮風に乱れる薄い頭髪を押さえながら言った。村上のつくった編成は、ベテランのバッタ打ち要員のなかでイニシアチブをとれる者に、実際の肉体的作業をさせずにひとつのユニットの監督をさせていくというものだった。
ふつうの会社などでは割とあたりまえのことでも、ひとつにまとまることを嫌う日雇い労務者の社会では画期的なことだった。
案の定、反発は強かった。アンコたちは監督になった仲間の言うことをきかず、無視して、さぼった。
村上は徳山を抑えて、しばらくアンコたちの様子を見守った。徳山の忍耐が切れかけたころ、囁《ささや》いた。
「自然発生的に、仕事をさぼる側のリーダーもできあがってくんですよ。そいつだけを徳山さんがシメればじき作業能率は上がっていきます」
村上は感情のあらわれぬ冷たい表情でシメるべきアンコを指し示した。
3
穏やかな東シナ海だった。幸福丸は海のなかに根を生やしたかのように安定して、意識しても揺れは殆《ほとん》ど感じられない。
アンコたちは雑に敷いた湿った布団の上にあぐらをかき、横になり、発電機の加減で明滅する電球の黄色い光に伸び縮みする影に視線をやりながら、低い声でことばを交わしながら焼酎を呑んでいる。
関節が軋《きし》む。スラッジの有毒ガスのせいで眼がかすみ、頭痛がする。バッタ打ちの熱湯のせいでふやけた指先は乾く間もなく剥《む》けていき、裂け、血がにじんでいる。
村上は銃を包んだ手荷物を枕《まくら》にして敷布団《しきぶとん》の上に横になり、クリーム色に塗られた鋼鉄の天井を見つめている。
綾の顔が思いだせない。眼を閉じて、意識を集中しても、瞼《まぶた》の裏に綾の像はうかばない。
夢だったのだ。とどのつまりは夢だった。村上は苦笑した。すべては他人事のような気がして、現実感がない。
現実感がない……それが村上の日常だった。物心ついたときから、村上のまわりには曇りガラスが張りめぐらされていた。眼にするものははっきりせず、曖昧《あいまい》で、リアリティがなく、くすんで焦点があっていない感じがした。
世界はこんなものではないはずだ……二十代のなかばあたりまではそう考えて、あがいた。それ以降はなし崩しに諦《あきら》めた。世界はくすんでいるものだ、と結論した。
世界が突然、輝くときがあった。
母が幼い村上の膝《ひざ》を使い、自らを慰め、躯《からだ》を反り返らせてみじかい泣き声をあげたとき。
中学生になって、年上の女の子に誘われてハイキングに行き、杉の木の芳香漂う山中でお互いの躯に触れ、彼女のぎこちない指遣いでまだ幼いかたちをしていた村上が破裂し、彼女のトレーナーの胸のあたりを汚したとき。そして麦わらの匂いのする彼女の傷口に指を滑らせ、指図されるがままにちいさな突起をさぐりあて、柔らかく圧迫を加えて、十分ほどたったろうか、彼女が村上にすがりつき、きつく唇を噛んで烈しく痙攣《けいれん》したとき。
音楽教師にギターを習っているとき、彼女の胸がきつく村上の背に押しあてられ、つぶれてよじれて汗の匂いが強くなったとき。幾度か抱き合い、彼女の躯に慣れ、乳房に硬くなった村上をこすりつけ、彼女の口に押し込んで、彼女が喉《のど》を鳴らして村上を飲みこんだとき。
そういった性の頂点の一瞬だけ、世界はきらめき、輝いた。眩暈《めまい》がおきるほど世界がリアルに迫った。村上は在るものを抱きしめ、在るものを在るがままに受け入れた。
しかしそれらは一瞬で、短い、痙攣的な瞬間が去ると、ふたたび世界は濁り、くすんで、すべての存在は遠くなり、彼方に消えた。
そんな村上が、射精の瞬間に感じるはかない実存よりもっと強固な、確たる時間を知る日がきた。
まだ十代だった。三沢《みさわ》基地の米兵相手のクラブで、初めてステージに立った。ギターを弾いた。ざわめいていた客席が静まりかえった。落とされた照明に溶け込んで暗がりに消えてしまう黒い肌の人々。酔いに充血した眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼……。
技術的にはまだ幼く、リズム・アクセントもブルースにしては前ノリでどこか奇妙ではあった。しかし黒い兵隊たちは村上に流れる盲目の母の血に敏感に反応したのだった。
村上は見つめられ、見つめられることによって自分がここに在るのだ、と実感した。他者の視線を浴びることは、考えていた以上にリアルでクリアで、そして昂《たかぶ》る体験だった。
熱中した。さらに他者の視線を自分に集めるために、ギターという魔法の杖《つえ》を常に抱いて、その技術を磨いた。弦は村上の指先に正確に反応した。
ミス・トーンが出たときは、ギターがミスしたのではない、村上が失敗したのだ。エロティックに啜《すす》り泣いたときは、村上が泣かせたのだ。
ギターとは、村上の感情や思いをあらわす唯一の絶対的な道具であった。物書きはペンで、歌手は喉《のど》で、ダンサーは肉体で、騎手は馬で、二輪のレーサーはオートバイで、大工は鉋《かんな》で、絵描きは筆で……。村上は自身のビジョンを正確に投影し、拡大する道具を得たのだ。
村上は十代の終わりで、自分の道具を見つけた。それは幸せなことであった。しかし、村上の幸せは長く続かなかった。
村上はギターを弾くことを職業にした。渡米して、一晩中のハードな演奏をこなした。テクニックは飛躍的に向上した。
しかし、曇りはじめた。
世界はふたたびガラス越しに見るように、焦点がはっきりしなくなった。ギターを弾くということが、単なる仕事、になってしまった。
村上は流れ作業のようにギターを弾いた。ノルマをこなすようにギターを弾いた。悪循環だった。あれほど注目されていたのに、やがて人々は村上の音楽をただのダンスを始めるきっかけとしか感じなくなっていった。
演奏者が楽しんでいないのだ。どうして音楽がそして世界が跳ねようか。
村上は足掻《あが》いた。必死だった。あの恍惚《こうこつ》の瞬間を求めて。世界が白日のもとにあらわれる至高の時を求めて……。
しかし、いったん接続をまちがえた回路は、自然にはなおらない。村上には、原因が見えなかった。ギターを弾けば弾くほどショートして、退屈という名の危ない火花が潮垂れたように、なさけなく爆《は》ぜた。
けっきょく村上は、それを自分の日本人としての血と、黒人の血の違いであるというところに逃げ込んだ。
ブルースは、黒人音楽だ。村上の考えるような血の違いといったこともないではない。しかしそれは、単なる敗北主義にすぎなかった。それ以降村上のする事といえば、呑むこと。アルコールを体内に流し込み、挫折《ざせつ》という名の怠惰を麻痺《まひ》させることだった。
能力のない者がそうするのは不幸であるが、しかたがない。ステージという高みに立てるのは、限られた、選ばれた人間だけであるから。
村上は、選ばれた人間だったのだ。しかし、それを放棄した。原因ははっきりわからない。ただ、村上自身もぼんやりとではあるが直観していた。うまくいかない原因が、自己愛の強さにあることを。
村上は求めるばかりで、与える喜びを知るには幼く、狭量にすぎた。能力は、それによって押し止められ、ショートして、錆《さ》びついた。
十代の青臭さは微笑《ほほえ》ましく、大切である。が、三十を過ぎてもそれに固執しているのは危険である。村上は大人になれなかった。大人になる機会を失してしまった。
青臭さをなくしてはならない。それが人を突き動かして、表現衝動となるからだ。
しかし、いつだってそうなのだが、物語というものは、どんな時代や状況であっても、汚物のなかから誕生し、始まる。
村上は汚物を寂しげに笑って許容することができなかった。汚物を嫌悪した。嫌悪し、許容できないくせに、汚物を取り除くことはできなかった。なぜならば、汚物は村上自身でもあったから。
そして村上が選んだのは、アルコールによる慢性の自殺であった。すっぱり命を断ち切る青臭さも、あるいは人生に疲れ果て、失望したあげくの穏やかな諦《あきら》めの感情も持てなかった村上は、アルコールを浴びるように呑み、周囲に虚《むな》しい自己顕示をしてみせ、あわよくば同情を買おうとした。つまり、中途半端だったのだ。
村上に与えられたのは、当然同情などではなかった。与えられたのは、冷笑だった。そして幼い自己愛の塊は、ますます頑《かたくな》に閉じ、拗《す》ねていった。
そんな自己愛の塊が行き着いた先が、コトブキだった。
自己愛はいつのころからかタンカーに乗るようになった。タンカーに向かう艀《はしけ》のなかで崔《さい》という自分によく似た若者と知り合った。
青臭さという点で崔と村上はよく似ていた。しかし、大きな違いもあった。
崔は自分の青臭さを自覚していなかったが、与えようとしていた。外に向かって開いていた。村上は自身の青臭さを充分に自覚していたが、頑に閉じていた。
開いていれば、いつか大人にたどり着く。だから村上は崔に嫉妬《しつと》した。嫉妬しながら、じつは自分を愛するように、崔を愛していた。
そしてサチオ。あまりにも村上に似ていた。ギターまで弾くのである。だから嫌悪した。鏡を見ているようだった。愛憎なかばする思いで、村上はサチオを遠ざけた。
徳山。自分の分身のような崔とサチオを殺した同性愛者。村上は徳山に愛された。村上は徳山の愛情を一方的な、理不尽なものと感じた。
それはしかたのないことだ。もし徳山が村上を抱くときがあるとすれば、それは強姦《ごうかん》としか呼びようのない行為になる。
しかし、自意識過剰の村上は、こんなときにも青臭さを発揮して、必ずタンカーに乗り込んだ。村上に言わせれば、なんで徳山の一方的な理不尽な愛情ごときで自らの仕事を変えなくてはならないのか、というわけだ。
そこには、男対男であっても、やはり愛されている者につきものの傲慢《ごうまん》さがあった。村上が充分に成熟した大人ならば、徳山の痛みを自分のこととして引きよせ理解した上で、さりげなく身を引き、徳山の前から姿を隠しただろう。
あるいはそこまでしなくとも、徳山をむやみに挑発するような行動はとらなかったはずだ。
たとえ受け入れることのできない徳山の愛情であっても、村上の深層意識には見つめられることからくる自意識の充足感と快感があったのだ。じっさい、徳山の熱い眼差しを浴びた瞬間、少々|刺々《とげとげ》しくはあったが、村上のまわりはクリアに晴れ渡っていたのだから。
そして、綾……。
村上は瞼《まぶた》の裏で綾の面影を追う。あれほど愛しあったのに、もう夢にすぎなくなってしまった。呆然《ぼうぜん》としながらも、苦笑に似た諦《あきら》めが漂っている。村上は足掻《あが》きさえしない。老人が若かりし日々のできごとを愛《いと》おしむのに似た自己|憐憫《れんびん》にとらわれて、微《かす》かに上下する東シナ海に身をまかせている。
突然、頭を蹴り上げられた。
村上は頭を蹴られたと錯覚した。実際に蹴られたのは、枕がわりにしていた拳銃の入った荷物の包みだった。
「偉くなったもんだな、村上さんよ」
酔いに眼の据わったアンコが、憎々しげに薄笑いをうかべている。
村上の頬から血の気がひいた。アンコは村上を見下ろして迫る。
「利口に立ち回りやがって。すっかり徳山さんの腰巾着《こしぎんちやく》じゃないか」
アンコは膝《ひざ》をつき、村上の胸ぐらを掴《つか》んだ。
「カマ掘られちまったのか? 尻貸して、子分になったのか? 昔のあんたは、徳山みたいな野郎とは正反対だったよ。どうしちまったんだ?」
アンコたちの視線が村上に集中する。アンコたちの視線が村上に刺さる。
村上はアンコの腕を振りほどき、蹴られた荷物を引き寄せ、眼差しを伏せた。唇の端には笑いがうかんでいる。
「なにがおかしい? 村上さんよ」
村上は眼差しを伏せたまま包みを解き、呟《つぶや》くように言った。
「気にするな。俺がバッタ打ち要員を再編成したのは、そうしなければ作業の目処《めど》がたたんからだ。べつに徳山さんに迎合したからじゃない」
呟きながら、アンダー・シャツに包んだコルトM1911を取り出す。
アンコは初め怪訝《けげん》そうな眼で軍用拳銃を見つめ、やがて息を呑んだ。
「気にするな。じき、ばかな立ち回りを見せてやるから」
村上は唇を歪《ゆが》めて笑う。頬はますます白い。アンコたちのなかから唾《つば》を呑む音がした。
「気にするなよ。俺の問題だ。すぐにケリつけてやるから」
村上は作業ズボンのベルトに銃をねじ込み、立ちあがった。油脂の匂いに敏感になっているアンコたちは、銃に注されているガン・オイルの匂いを嗅《か》いだ。アンコたちは後ずさりしながら道をあけた。
4
個室のドアを開けると、徳山は津田越前守助広を抱いて、ベッドの上に横になっていた。
「来たね」
徳山は眼を閉じたまま、落ち着いた声をかけた。村上は無言で立ち尽くす。室内のあたたまった空気が村上に絡むようにして第二甲板の方向へ抜けていく。
村上は徳山を見つめる。禿《は》げあがった額を隠すようになでつけたまばらな髪。濃い眉《まゆ》。殴られて潰《つぶ》されたかのような横にひろがった鼻。分厚く血色のわるい唇。左手薬指にはめた異様な大きさの金の指輪。小太り気味のちいさな躯。短い足。
「照れるなあ」
徳山は眼を開いた。
「村上ちゃんたら、見つめるんだもん」
舌足らずな甘え声で言い、半身を起こす。村上の腰の銃を横目で見る。
「まいったなあ。チャカなんか持ってるよ」
津田越前守助広の柄を手の甲でコツコツ叩《たた》く。
「勝ち目ないよな、なあ、おまえ。村上ちゃんたら、飛び道具持ってるんだよ。飛び道具とは卑怯《ひきよう》なりィ」
おどけて言いながら、ゆっくり立ちあがる。小首をかしげて、村上の機嫌をとるように言う。
「せめて、ブッ放すのは、広いところにしてよ。ここだと満足に刀も抜けないじゃない。あまりにもフェアじゃないよ。そうだろ?」
村上はぎこちなく頷《うなず》いた。徳山が失笑した。
「変な男だよな、村上ちゃんは。問答無用でブッ放しちまえば、簡単にカタがつくじゃない」
徳山は顎《あご》をしゃくり、津田越前守助広を抱き、村上の脇《わき》をすり抜けるようにして居住用コンパートメントから出た。先に立って歩きはじめる。村上は大きく息を吸い、下腹に力をいれて徳山に従う。
「鮮やかだねえ。いい月だ。満月だったんだ、今夜は」
徳山は夜空を仰いでうっとりした声をだす。
村上は生唾《なまつば》を呑む。心臓が壊れそうに暴れている。
「村上ちゃんも深呼吸してごらん、落ち着くよ」
とたんに村上は、弾かれたように銃を抜いた。
「あいかわらず気が短いんだからな、村上ちゃんは。そんなに俺を殺したいか……」
徳山は嘆息した。甲板の上はほぼ無風で、天から夜露がゆっくりおりてくる。村上は徳山の薄い頭髪が夜露に丸まっていくのをぼんやりと見た。
「どうやら、今夜が俺の命日になりそうだね。どうあがいてもチャカにはかなわないもんな」
呟《つぶや》きながら、徳山は津田越前守助広を抜きはなった。
村上のコルトM1911が夜に溶け込んでしまうのにくらべて、徳山の津田越前守助広は月のきらめきを蒼白《あおじろ》く反射して、圧倒的な存在感があった。
「嫌だな……勝ち目のない勝負をするのは……」
ふたたび徳山は嘆息した。首を左右に振り、溜息をつく。
「満月の夜。東シナ海、凪《なぎ》の海。夜露のごとし俺の真心。辞世の句だよ。ひどいもんだね。これでけっこう動転してるんだ。村上ちゃんの手にかかって死ぬなら本望だって、さっきまで思ってたんだけど、やっぱり死ぬのは嫌だよ」
表情が変わった。正眼に構えた。隙《すき》がなかった。どうせ死ぬならば、村上の腕の一本も切り落としてやろうという気迫が徳山のちいさな躯から溢《あふ》れていた。
村上は胴を震わせた。徳山の闘争心に圧倒されていた。自身の中途半端さを心底自覚させられた。
撃たねばならぬ。村上は全存在をかけて撃たねばならぬ。これから先、生きていくつもりならば、弾倉の七発と、薬室内の一発を、すべて徳山のはち切れそうな躯に撃ち込まねばならぬ。
村上はこの歳《とし》になって、ようやく大人になる試練を迎えた。絶望的な試練だった。しかし、撃たねばならぬ。村上は女を抱き、ギターを抱き、抱くばかりで何ひとつ撃ったことがなかったのだから。
常識的な社会ではありえない大人の男への関門が、村上の前に立ちはだかっている。女を抱くことは、じつは抱かれること。ギターを抱くことは、ギターに慰められること。与えられることなのだ。だから、撃て。徳山という関門を撃て。撃ち殺せ。
徳山はにっこり笑った。硬直した村上を見つめ、微笑した。正眼の構えを崩し、左手で津田越前守助広を持ち、軽く顎《あご》を引いた自然体で礼をした。
直後ふたたび中段に構え、切っ先をぴったり村上の喉仏《のどぼとけ》に向けた。
正眼に構えた徳山の背後に東シナ海の満月。
異様な大きさで膨らんで、徳山の背を柔らかな、冷たい、青い光で包んでいる。
海鳴りが耳の奥底で響く。
東シナ海の夜は深く、しんとしている。
村上は初めて月を見た。潮騒《しおさい》を聴いた。
だから息をするのを忘れた。
村上の呼吸が止まるのを見計らったように徳山が、つぎ足で一息に間合いを詰める。
徳山が迫る。
村上は我にかえった。引き金を引く。力をこめる。
弾は出なかった。
反応しない、手のなかの黒い黒い鉄の塊を凝視する。
ジョーンズ!
叫んだ。呪った。声は出ない。
徳山が迫る。オイル・ラインを跳び越える。村上の両眼のあいだに津田越前守助広が迫る。
村上は逃げた。かろうじてかわし、背を向け、甲板を全力で駆ける。無様《ぶざま》に走る。
足の短い徳山は徐々に村上に離されていく。
徳山は息をつき、駆けるのをやめ、落ちつきはらって歩きはじめた。居住区は徳山の背後だ。幸福丸は普通の船ではない。タンカーだ。村上の逃げ場はない。船首までいけば、あとは深緑色をした東シナ海しかない。
甲板を這《は》いまわる銀のパイプに満月の光が映える。
徳山は呼吸を加減する。深く吸って、スラッジからの有毒ガスを吸わないように意識する。
村上は荒い息をして粘つく甲板を、惨めに、泡を喰って走りまわる。有毒ガスをたっぷり吸い込む。
胸が張り裂けそうになった。鋭く痛んだ。走れなくなった。眼前が揺れて歪《ゆが》んだ。村上は転んだ。倒れた。気づいたら、前甲板の中頃に尻餅《しりもち》をついていた。
徳山が見下ろしていた。
背後の月もろとも、徳山は滲んで揺れて、心臓の鼓動にあわせて振幅していた。無言で村上を見つめている。
津田越前守助広が光った。
村上は狼狽《ろうばい》して銃を投げつけた。
徳山は腰をかがめ、軍用拳銃を拾いあげた。左手に津田越前守助広、右手にコルトM1911。哀れむように村上を見下ろす。
「どうしちゃったの、無様だね」
苦笑に軽蔑《けいべつ》がまざる。
「サム・セイフティ……知らないのかな。安全装置がかかったままじゃない。遊底が固定されちゃってるからね。こいつを解除しないと、弾、出ないの。撃てないの」
徳山は親指で安全装置を解除した。グリップ・セイフティを握りこみ、引き金を引き絞る。
轟音《ごうおん》。甲板に響きわたる。
徳山は硝煙の匂いを嗅《か》ぎ、しばらく村上を見つめ、唐突に連射した。
オレンジ色の火炎噴きあがる。空薬莢《からやつきよう》が舞い、満月を映し、きらめいて、甲板に落ち、跳ねる。
全弾夜空に吸い込まれ、村上は尻餅をついたまま、呆然《ぼうぜん》と徳山を見あげている。
「意外だなあ。臆病者《おくびようもの》だったんだ……。あきれたよ。こんなに不細工な奴とは思わなかったな。恰好《かつこう》や雰囲気にだまされてたんだな」
徳山は首を左右に振る。
「いるんだよな……絶対に勝てる勝負を落とす奴。一〇〇パーセント勝てる勝負を落として、泣き顔になる奴。嫌になるなあ、涙ぐんじゃって。だめだよ、村上ちゃん。おまえみたいな奴、なにやったってうまくいかないよ。
村上ちゃん、どこが悪いと思う? 教えてやろうか。村上ちゃんは信じられないだろうけど、村上ちゃんは頭が、悪いんだよ。
自分では利口だと思ってたんだろうけどさ、その利口さって、高校生……いや、中学生のレベルなんだよね」
徳山の瞳には憤りがあった。村上を見据えたまま、銃を投げ棄てた。コルトM1911は海に消えた。
「覚悟しな、涙目野郎」
相手が隙《すき》だらけのときのセオリーどおり、徳山は右諸手上段で切りつけた。
津田越前守助広が月の光をまとわりつかせて空を切った。
烈しい火花が散った。
折れた津田越前守助広が円を描いて村上の頬をかすめていった。
「よけやがったか……」
徳山は折れた津田越前守助広を投げ棄てて呟《つぶや》いた。憎々しげな口調と裏腹に、その頬には微笑がうかんでいた。
よけたつもりはなかった。村上は硬直して腰を抜かしていただけだ。
徳山はぎりぎりを見切って、村上の躯をかすめるように振りおろし、配油管に切りつけて、津田越前守助広を叩《たた》き折ったのだ。
「しかたないな。素手で勝負してやるよ」
村上はまだ腰を抜かしている。徳山は活を入れるかのように大声を出した。
「立てよ、臆病者! ケリつけるんだろう、さあ、相手、してやるよ」
村上は瞳を見開いたまま操り人形のように立ちあがった。
とたんに世界がネガ・フィルムのように反転し、炸裂《さくれつ》した。鼻腔《びこう》の奥がキナ臭くなった。
徳山の強烈な頭突きだった。
噎《む》せた。口のなかに血が溢《あふ》れた。血の味だ。現実だ。村上は醒《さ》めた。覚醒《かくせい》した。徳山が躯を斜めにして拳を固めているのを認識した。無意識のうちに両拳をあげ、顔を防御した。
徳山の拳は顔ではなく、鳩尾《みぞおち》にめり込んだ。村上の口から血が溢れでた。甲板に滴り落ちた。かろうじてこらえていた涙がいっしょに溢れでた。血と涙と鼻水がいっしょくたになって、混じりあい、作業服からアンダーシャツに染みていく。
「チクショオ!」
村上は震えた声で叫び、泣きながら突っ込んでいった。
徳山はよけなかった。小柄な躯全体で村上を受け止めた。
村上は腕を闇雲《やみくも》に振り回し、徳山を乱打した。まるで喧嘩《けんか》をしたことのない小学生のようだった。徳山は平然と村上の拳を受け、さらに躯を近づけ、囁《ささや》いた。
「みんな、見ているよ。落ち着きな。村上ちゃんの実力はそんなもんじゃない。さあ、いいところを見せてやりなよ」
アンコたちが村上と徳山を遠巻きにして囲んでいた。焼酎の瓶を片手にさげ、あるいは煙草を吹かし、腕組みして、しゃがみこんで、無表情に、沈黙して、徳山と村上の闘争を見つめている。
徳山は村上を軽く押しかえした。村上は口中に溢れる血を吐きだし、下唇を噛んだ。
「小僧扱いするな……」
「そう。その意気だ」
「舐《な》めるな!」
村上は右ストレートを繰り出した。手応えがあった。初めて徳山の頬に拳がめり込んだ。
徳山は薄笑いをうかべ、血の混じった唾を吐いた。
「さすが、芸人。観客がいると、とたんに役者振りを発揮するじゃないか」
嘯《うそぶ》く徳山に向けて、さらにストレートを叩《たた》きこむ。
徳山は殴られっぱなしではない。しかし手数では村上が圧倒していた。徳山は後退していく。
徳山が転んだ。
転んだように見えた。
徳山の短い足が、村上のふくらはぎに絡んでいた。絶妙のタイミングだった。村上は受け身なしで後頭部から甲板に倒れこんだ。
気が遠くなった。左右の頬を張られた。それでかろうじて意識を取り戻した。徳山が馬乗りになっていた。
左右の拳が交互に村上の顔を変形させていく。痛みは感じない。このまま気を失ってしまいたい。意識の片隅でぼんやり考え、しかし、このまま意識を失うことは死に直結しているということを本能が教える。
村上は渾身《こんしん》の力を振り絞って半身を起こす。躯を大きくひねり、肘《ひじ》を徳山のこめかみのあたりに叩きこむ。
肘が烈しく痺《しび》れた。他人の腕のようで感覚がない。しかし、徳山の瞳が虚《うつ》ろになった。焦点が合っていない。
村上の闘争心に弾みがついた。馬乗りの徳山の頭を両手で掴《つか》み、頭突きを喰らわす。徳山の鼻が潰《つぶ》れる感触が伝わった。直後、急に徳山の躯から張りが失せていく。
徳山は白眼を剥《む》いていた。口から血の混じった泡を吹いている。村上は勝ちを確信した。
力を失ってまとわりつく徳山を甲板に叩きつけ、立ちあがる。
どのようにとどめを刺そうか思案したその一瞬、徳山の頭が村上の股間を突きあげていた。
空白。完全に白くなった。それほど激烈な痛みだった。村上は膝《ひざ》を折り、両手で股間を押さえ、声にならぬ呻《うめ》きをあげる。
「まだわからないの? 考えるなよ。考えちゃ、だめなんだよ。考える前に反応するんだよ。考えるのは喧嘩が終わってからゆっくりできるからさ、いまは脳味噌《のうみそ》を躯の一部にするんだよ」
村上は呻き、身を捩《よじ》りながら甲板をのたうちまわり、諭すような徳山の言葉を聴いた。ふしぎなことに気の遠くなりそうな激痛のなかで、徳山の言葉はくっきりと耳に届いた。
徳山を見あげた。脇腹を蹴りあげられた。強烈な蹴りだった。さらに徳山の膝が腹の真ん中に落ちてきた。胃が捩れた。たまらず、吐いた。顔中を吐瀉物《としやぶつ》で汚した。酸っぱい匂いが漂った。
吐瀉物が気管に入った。噎《む》せた。咳《せ》き込んだ。喉《のど》が裂けそうだ。咳き込むたびに殴られ、蹴られ、頭突きを喰らわされた場所が疼《うず》き、激烈に痛んだ。
ふたたび涙が溢れた。もう完全に躯が動かない。涙で歪《ゆが》んだ視野のなかに徳山が迫る。村上の上にのしかかっていた。
村上はかろうじて咳き込むのをこらえ、荒い呼吸を抑えて言った。
「さすが、徳山さん。強えや……」
実感した。強い。桁《けた》違いに強い。空白になりそうな意識のどこかで、俺なんかとは怨《うら》みの深さがちがう……そう、納得した。
村上は瞼《まぶた》が腫《は》れて狭まってしまった視野のなかに、どうにか徳山の顔をとらえた。無力感にとらわれた。同時に、初めて、心底、徳山という男を認めた。勝てない。実感した。嘆息した。
「必死でやったんだけどな……だめだった……」
「──村上ちゃん、顔、ボコボコだよ」
「徳山さんだって……」
「こんなに殴られたのは、俺もはじめてだよ」
「ほんとうか?」
「ほんと。村上ちゃんもたいしたもんだ」
横たわった村上の躯から力が抜けていく。村上と徳山は見つめあった。ふたりは腫れあがり、変形した顔で微笑《ほほえ》みあった。
「やっと村上ちゃん……俺のものになるね」
徳山は囁《ささや》き、蕩《とろ》けるような笑顔をうかべた。瞳には恍惚《こうこつ》があった。
「俺のものだ。俺が殺してやる。俺のものだよ、村上ちゃん……俺が殺してあげる」
徳山は憑《つ》かれたように繰り返し、村上は観念して眼を閉じる。首にかかった徳山の両手に熱がこもり、力がこもる。喉仏《のどぼとけ》が圧迫され、潰《つぶ》れていく。心臓が壊れたように脈打ち、耳の奥で鼓動が響く。意識が薄れていく。瞼の裏に、徳山の背後、銀色に光る東シナ海の満月がひろがった。
圧迫が消えた。ひんやりした液体が降ってきた。胴震いした。固まりかけた血で粘つく唇に凄《すさ》まじい刺激を感じた。
生きている……? 眼を開く。開いているつもりだが、異様に視野が狭い。瞼が腫れているせいだ。すると……やはり、生きている。
村上の舌はなぜかアルコールの、焼酎の味を感じた。幻覚ではない。顔の傷に、切れた唇に、アルコールがしみる。身体中が熱を持っている。激痛に呻《うめ》き声をあげ、傍らの呻きに気づく。
徳山だった。全身血まみれの徳山だった。徳山の周囲には、割れた焼酎の一升瓶の茶色い破片がきらきら光って散乱している。
「気がついたか? このオカマ野郎、村上さんの首を絞めながら、村上さんの上で声をだして嬉《うれ》し泣きしてやがったんだ」
アンコが小声で言った。アンコの顔は影になって、よく見えない。村上は口を動かした。喉を潰されたせいか、声はでず、なぜ……と唇が動いた。
「よがってやがるから、後ろから頭を一升瓶でカチ割ってやったんだよ」
徳山は呻いている。弱々しく呻いている。髪の薄い頭頂部が十字架のかたちに裂け、血まみれの骨が露出していた。村上は呆然《ぼうぜん》と徳山を見つめる。
顔なじみのアンコが暗い笑いをうかべた。村上に見せつけるようにして、両手で徳山の足を持ち、力を加える。
乾いた音がして、徳山の足は膝から先があらぬ方を向いた。アンコは無言で薪を折るように徳山の手足を折った。徳山の手足は奇妙にねじれ、もともと低い背丈がさらに縮んだように見える。
徳山は、失神していた。頭からの出血だけでなく、折られた手足の骨が皮膚を突き破ったのだろう、作業服が血を含み、濡《ぬ》れて輝きながら、真紅に染まっていく。
「ダルマだよ」
抑えた声で誰かが言った。べつの声が割り込んだ。
「徳山もヤキがまわったぜ。舎弟も連れず、日本刀は折っちまう。刀のない徳山なんて、みんなでかかれば屁《へ》みたいなもんだ。村上さんのかわりに畳んでやったぜ」
村上は躯に染みている焼酎の匂いを嗅《か》いだ。傷の消毒か……心のなかで投げ遣りに呟《つぶや》いて、躯を起こそうとする。無理だった。骨は折れていないようだが、立ちあがるには消耗しすぎていた。
アンコが徳山の耳のあたりを蹴った。徳山は失神から醒め、呻いた。呻きはすぐに弱々しくなっていく。頭からの出血は烈しく、少ない髪をポマードのように固めて顔にまばらに貼《は》りつかせている。
「どうする気だ……」
村上は訊《き》いた。ようやく声がでた。徳山の骨を折ったアンコは答えず、他のアンコたちに顎《あご》をしゃくった。
幾人かが進み出て、手足があらぬ方向をむいている徳山を、無言で持ち上げた。一人がチェーン・ストッパーに躓《つまず》きはしたが、徳山はまるで人形のように、軽がると舷縁《ふなべり》まで運ばれていった。
村上は呻き、全力を振り絞って立ちあがろうとした。立ちあがれず、甲板を這《は》った。誰かが手助けしようとしたが、それを邪険に振り払った。
錆《さ》びついたクローズド・チョックに村上はかろうじてしがみつき、半身を起こす。
徳山を担いだアンコたちは、舷縁から凪《なぎ》の東シナ海を見おろしている。
船首部に回り込むようにして、アンコではない一団が、無言で立ち尽くしていた。幸福丸の船員たちだった。徳山がコルトM1911を連射したときの銃声を聞きつけて出てきたらしい。
「止めろ……」
村上は船員たちに言った。しかし潰された喉のせいで、村上の声は船員たちに届かなかった。
「止めろ!」
村上は叫んだ。しかし掠《かす》れた息が洩《も》れただけだった。
「止めてくれ……」
声は届かず、崩れ落ちそうになる躯を赤錆色した係柱でどうにか保持し、村上はアンコたちに担ぎ上げられた徳山を見つめた。
徳山は観念して動かない。アンコたちは穏やかな海面を透かし見て、タイミングをはかっている。
「徳山さん!」
村上は絶叫した。しかし、息めば息むほど、潰れた喉は掠れた息を通すだけで、声は出ない。
徳山さん……村上は心のなかで徳山の名を呼んだ。徳山は反応した。かろうじて首をねじ曲げ、村上を見た。
血まみれの徳山の顔に、どこか曖昧《あいまい》な微笑のようなものがうかんだ。
村上はハッとした。
徳山のすがりつくような視線。崔《さい》と同じ瞳だった。アルミ・タラップの上からタンク底に落下していく崔とまったく同じ瞳だった。
月あかり。徳山は村上を凝視し、唇を動かした。
村上ちゃん……そう、唇は動いた。
徳山さん……村上は心のなかで叫んだ。
徳山は村上を見つめている。
徳山は微笑した。
微笑しながら小首をかしげた。
別れの挨拶《あいさつ》だった。
直後、徳山の躯は黒い虚空にあった。
5
アンコたちは舷縁から身をのりだして徳山が消えた黒い海面を見つめていた。誰も口をきこうとせず、黙りこくっている。
船員たちが村上に近づいた。村上を助け起こし、担ぎあげ、徳山の使っていた船室に運び込んだ。船長が、村上の耳元で囁《ささや》いた。
「何もなかったことにするからね。何もなかったんだ。いいね」
村上は腫《は》れあがった眼で、船長を一瞥《いちべつ》した。
「幸福丸の船長さんか……あんたら、幸福を守るのに必死だな」
さらに村上は、眼を閉じて独白した。
「徳山さん。あいかわらず俺、青臭いのがなおらないよ……」
ベッドは徳山の体臭がした。湿っていた。徳山が東シナ海に呑み込まれたことが信じられなかった。
船医が治療をはじめた。村上は気を失った。あまりに胸が、心が痛いので、気を失った。
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終 章 虚しい愛
「まったく、タンカーのハッチなみだぜ」
村上はMOJOの鋼鉄のドアを肩で押しあけ、独白した。あいかわらず店内は、青白く濁っている。
靴先を突っ込んでドアを固定し、腫《は》れあがった瞼《まぶた》を意識して広げ、わずかな隙間《すきま》から村上はステージを盗み見た。
奥まったステージでは、綾が背を向けて、バンドのメンバーになにやら指示をしている。
さらに綾は人差指を立て、ドラムスの中沢と言いあいをはじめた。村上はそこに割り込みたい衝動を覚え、苦笑した。
中沢が唐突にスティックをあわせた。カウントをだした。
綾は首を左右に振り、中沢をおしとどめた。不服そうな中沢に向かって、ステージ上を右足で踏みならして、基本のリズムを指示する。
スローなフォー・ビートだった。綾の踏み鳴らすリズムは的確で、それだけで音楽だった。
ベルリン・フィルの初代指揮者、ハンス・フォン・ビューローの『はじめにリズムありき』という名言を思い出し、村上は微笑した。
綾にあわせて、中沢はカウントをだした。綾は首を縦にふり、さらに躯を左右に振って、ビートのウラからはいる複雑なシンコペーションを指示した。
中沢は綾の顔を凝視して、必死に喰らいついていく。七、八小節目あたりから、完全に綾の意図を理解した。いいドラマーだ……村上は心のなかで唸《うな》る。
綾は他のメンバーに顎《あご》をしゃくる。あいかわらずの女王ぶりだ。趙《ちよう》のピアノが合流し、不貞腐《ふてくさ》れたように清水のベースが割り込み、しかし音楽の底をきっちり支える。
ギターはいない。ギターが立つべき位置だけ、ぽっかりと空間がある。ちゃんと村上の立つ位置が、あけてある。
村上はまだ腫れのひかぬ顔をうつむかせ、溜息《ためいき》を洩《も》らした。
客が待ちきれず、派手に拍手した。口笛を吹き、足を踏み鳴らす。MOJOが地下でなかったら、他の店から文句が出るところだろう。
「うるさい、てめえら!」
マイクスタンドからマイクを掴《つか》みとり、綾が怒鳴った。客はさらに熱狂する。
ブルースが始まった。ロバート・ジョンソンの名曲LOVE IN VAIN
──虚《むな》しい愛
駅まで彼を見送った
スーツケースを下げ
駅まで彼を……
彼のスーツケース……
黙って渡す
もう言葉もない
すべては終わった
虚しい愛
客席は静まりかえった。村上はドアを閉めた。小声で呟《つぶや》いた。
「スーツケースじゃない」
村上がわずかばかりの身のまわりの物を入れているのは、コンビニエンス・ストアの白いビニールの買い物袋だった。
鋼鉄のドアを通して、綾の声が聴こえる。綾のブルースが聴こえる。
汽車が駅に入ってきた
あたしは彼の眼を見つめる
汽車が駅に……
あたしは彼の眼を……
淋《さび》しくて
とても淋しくて
あたしは泣いた
すべては終わった
虚しい愛
村上は背を向ける。湿っぽいMOJOの階段を登る。
微《かす》かにとどく綾のブルースに合わせ、口のなかで詞を呟く。
「汽車は駅を出ていった」
綾の声が聴こえなくなった。続く詞を、心のなかで唄った。
シグナルが光る
シグナルの
青い光は俺のブルース
赤い光は俺の心……
ALL MY LOVES
IN VAIN……
地上に出ると、夜が村上を包んだ。
村上は綾から貰《もら》ったフライト・ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、スーツケースがわりのコンビニエンス・ストアの袋を脇《わき》に下げ、歩きはじめる。
綾と登ろうと約束したマリン・タワーを振り返る。赤と青の光が夜空にくっきり浮かびあがっていた。
青い光は俺のブルース
赤い光は俺の心
村上はもういちど心のなかで呟くように繰りかえした。
あえてまだ混雑している中華街を抜ける。人々は腫れ上がっている村上の顔を盗み見た。村上は平然としていた。
雑然とした中華街の匂いを胸に満たし、横浜スタジアムを抜けて関内《かんない》の駅に向かう。
吐く息は白い。しかしどこか春の匂いがした。遠くへ行こうと思った。行き先は、まだ、決めていない。
〈了〉
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文庫版あとがき
正直に告白しよう。この作品を書いた五、六年前、私は小説の基本的な作法のひとつである視点の統一ということさえ知らなかった。そんなことがあるとは思いもしなかったというのが正直なところだ。だから当然ながらこの作品は視点があちこちに飛び、定まらない。もっともノベルス作品によくみられるのだが、あえて視点統一をせず、物語のテンポを落とさないという技法もあるわけで、この作品は偶然そこにおさまって、技術的|破綻《はたん》を最小限にとどめることができた。とはいえ、恥ずかしいことである。私が小説には視点の統一という問題があるということを知ったのは、小説すばる誌でいまだに連載が続いている『風転』という作品を書きはじめ、担当編集者に「花村さん、こんどは視点の統一をしてみましょう」と囁《ささや》かれたときである。
私の手元に一冊の辞典がある。いまは亡き母が私のために購入してくれた小学館の新選国語辞典だ。奥付の脇に母の端正な字で〈昭和四十三年七月七日 小金井西友ストアー〉と記されている。昭和四十三年といえば、私が中学二年のときだ。私はこの当時、施設に収容されていたので七月七日というのは、おそらくは第一日曜日、月にいちどの面会日であったと思われる。
それはともかく私は小説家を志したときに、この辞典の付録で文法の基礎を勉強した。私は一応は中卒ということになっているが、小学校も満足に行っていないので、辞典の付録で文法を勉強しなおしたのだ。付録の中の文のでき方という章の〈文のできるもととなる単語にはいろいろな品詞があるが、その中で意味上中心となるのは、活用のない単語である名詞と、活用のある動詞・形容詞・形容動詞といってよかろう〉という部分に傍線が引いてあったりして、なんとも微笑《ほほえ》ましく、懐かしい。
私は小説家という職業に就き、お金を稼ぐようになってもこのどちらかというと子供向けの国語辞典だけで仕事をし、漢和辞典を購入したのは『ブルース』を書いたはるか後という剛の者である。まったく強《したた》かというか、図々しいものである。
だが、それでも私は商品としての小説を書き、それなりの評価を得ることができた。このことはなにを意味するのだろう。小説など適性と才能があれば他愛のないものなのだろうか。砕けた言い方をすれば楽勝というところか。
傲慢《ごうまん》のそしりを覚悟で断言してしまえば、まあ、そういうことなのだろう。しかし文庫にするために改めて『ブルース』のゲラを読みなおして感じたことがある。
重要なのは衝動だ。小説家になりたいという衝動ではなく、小説を書きたいという衝動だ。私は『ブルース』のゲラの手入れをしていて、この作品を昂《たか》ぶりながら書いていたことをありありと思い出した。
文芸という。あくまでも文の芸である。しかしこの衝動を喪《うしな》って紡ぎだす文は、おそらくただの芸に堕落するのだ。形骸《けいがい》化した芸であり、単なるスタイルである。 『ブルース』には、青臭くはあるが、切実な衝動が詰まっていた。私は、いま、これを忘れてはならぬと心底から自戒した。衝動をなくし、完成度の奴隷になったとき、姿かたちのよい抜け殼を羅列して、腰をかがめて文化勲章などもらい、老人は無様に咳《せ》き込むのだ。
*
北方謙三さんから解説をいただいた。文庫の解説などというものは、本質的に幇間《ほうかん》の仕事だ。気に喰《く》わなくたって悪く書くわけにはいかないもの。
だが──。
私は北方さんの解説を読んで、溜息《ためいき》をついた。
恩という言葉がある。これ見よがしに与えられる恩もあるが、それは除《の》けておこう。私は北方さんの著作を読み、影響され、勉強した。その恩は計り知れない。書籍代を支払ってはいるが、もちろんそんなものでは追いつかない恩を北方さんのあずかり知らぬところで受けているのだ。
近年の文芸で、誰の目にも炯《あきら》かな、明確かつ個性の横溢《おういつ》する文体(目立てばいいと言っているわけではないから誤解のなきよう)を確立した小説家は野坂昭如さんと北方謙三さんである。
野坂さんの場合、真似のしようのない独自性があり、真似をしたくても真似できない、というところがある。このことは、また別の機会にじっくりと述べるつもりなので、これだけにしておく。
北方さんの場合はどうか。その特徴的な体言止めは、いや、その前に体言止めという意味を整理しておこう。体言止めとは、本来は和歌や俳諧などで一句の末尾を体言で終らせることであり、陳腐な新聞記事のような文章とはなんの関係もない。
野坂さんとちがって北方さんには無数の追従者がある。真似しやすいのだ。──月あかり。徳山は村上を凝視し──という具合に、私も、もろに、影響を受けていた。北方さんの作品を読んだ初心者的物書きは、影響されないわけがない。
体言止めには、罠《わな》がある。和歌や俳句の一句の末尾を体言で終わらせるということからもわかるとおり、体言止めで終わらせると、まるで俳句か和歌のように削《そ》ぎ落としたあげくになにやら巧みに表現したような気になれるのだ。
現在、このジャンルで活躍する作家のなかにも、この体言止めの罠に落ちて、しかもそれに気づかずになにやら表現したような気になっている者がある。体言止めだけでなく〈……〉や〈──〉や〈?〉や〈!〉といった記号の罠もある。だが、所詮《しよせん》はローマ字的記号、体言止めの罠とちがってそれを多用するとあからさまに陳腐さと軽率が漂うということはある。
体言止めを多用する追従者たちと、北方謙三のあいだには、いったいどのような差異があるのだろうか。まず北方さんには純文学というジャンルで揉《も》まれた十年間がある。このジャンルは面白おかしい着想やお話よりも、文の芸が要求される。純粋な芸術を志向しているのだから当然である。その研鑽《けんさん》はエンタテイメントというジャンルとは比較にならないだろう。つまり基礎がちがうのだ(ただし純文学という閉ざされたジャンルゆえの弊害も多々あるが )。
もちろん基礎だけであれこれいうならば、同人誌で頑張っている人々は皆、芸術家ということになってしまう。つまり北方さんには基礎の上に抽《ぬき》んでた才能があった。以前、ダ・ヴィンチという雑誌に連載していたエッセイにも書いたのだが、北方謙三は途轍《とてつ》もない人である。唯一、体言止めを文体にまで高めた方なのだ。北方さんの体言止めには、卑しさがない。完成された文芸である。
だから私は北方さんの前にでると、畏《かしこ》まってしまう。萎縮《いしゆく》してしまう。一時期とはいえ、その文体を真似してしまったことからくる後ろめたさのようなものもあるし、尊敬の念が軽口を叩《たた》くのを躊躇《ためら》わせるのだ。私は施設の中で目上の人に対する接し方をとことん仕込まれたので、いささか慇懃《いんぎん》にすぎるかもしれないが、ほんとうはある程度甘えて、軽口を叩きたいのだ。バカ話だってしてみたい。でも、いまのところ、それはうまくいかない。
*
北方さんのことを延々と書いたのには、わけがある。この作品で私は担当宍戸から体言止めの多用を指摘され、いきなり目覚めたのだ。見事に目が覚めた。俺《おれ》は北方謙三ではなく花村萬月にならなくてはならないと。
体言止めを遣わないわけではない。しかし『ブルース』以降、私は安易に体言止めを用いなくなった。ときにその誘惑に負けることがあっても、徐々に克服した。そして自分なりの文章、自分なりの文体に対する模索は現在も続いている。
そのきっかけになったのがこの作品であり、そこに北方謙三さんから解説をいただけたことに不思議な因縁を感じる。しかも担当宍戸が「北方さんのこの解説には大人《たいじん》の風格がある」と、つくづくと嘆息するような素晴らしい解説である。私はほんとうに恵まれていると思う。
*
参考文献を記しておこう。なによりも真っ先にあげなくてはならないのは、昭和五十五年夏刊行の別冊『新評』に掲載されていた加藤邦彦氏の〈25万トンタンカーへの潜入〉というルポルタージュである。このルポがなければ、この作品は存在しなかった。またブルース関係では主婦と生活社刊、中村とうよう著〈ブルースの世界〉。講談社刊、日暮泰文著〈ブルース心の旅〉をあげておく。
*
最後に十年近い付きあいの担当編集者、宍戸健司に感謝したい。宍戸もいまや文庫編集長、お互いにずいぶんと立場が変化した。でも、付きあい自体はなにも変わらない。これからも、そうありたい。
平成十年八月三十一日午前四時
[#地付き]花 村 萬 月
本書は、92年8月に刊行したカドカワノベルズを文庫化したものです。
[#地付き](編集部)
角川文庫『ブルース』平成10年9月25日初版発行
平成11年4月5日6版発行