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イグナシオ
花村萬月
目 次
プロローグ
第一章 檻の中
第二章 豚小屋
第三章 檻の外
第四章 罠
第五章 祈 り
エピローグ
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プロローグ
新学期で中学二年になるイグナシオが洗礼を受けようと思いたったのは、宗教的な心からではなかった。
施設の中では洗礼を受けていたほうが何かと有利であったし、洗礼を受けること自体が流行であり、ステイタスであった。
イグナシオが収容されていた社会福祉施設はキリスト教修道会の経営だった。一応は学校の体裁をとってはいたが、実質的には教護院であり、日本が高度成長期に生みおとした十五歳以下の不良少年たちが、神父や修道士の厳しい監督のもと、社会から完全に隔絶した集団生活を強いられていた。
十字架上で死んだキリストの復活を祝うイースターは、春分後の満月直後の日曜日におこなわれる移動祝日である。
昭和四十七年の復活祭は四月二日であった。復活祭のひと月半ほど前、二月下旬には連合赤軍による浅間山荘事件がおきていた。
この頃イグナシオは洗礼を受けるために公教要理の最後の勉強に熱中していた。
施設の中には、外のニュースは一切伝わらなかった。だからイグナシオは浅間山荘でおきた血腥《ちなまぐさ》い事件も知らず、ひたすら主キリストの教えを丸暗記することに励んでいた。
公教要理の試験は、神父と向かいあって口頭試問のかたちでおこなわれる。イグナシオは他の七人の仲間と共にかろうじてこれに合格し、洗礼を受ける資格を得た。
*
洗礼は、復活祭の日におこなわれた。洗礼式は午前中のミサに組みこまれていた。イグナシオは神妙な顔をつくって、頭に聖水を受けた。
施設の中にある教会は、一般のキリスト教徒の礼拝を兼ねていた。そのため聖堂のなかは、くっきりとふたつに分かれていた。
ひとつはイグナシオをはじめとする少年たちの飢えた眼差しと投げ遣りな態度の集団である。
もうひとつは、外来の信者たちの、抑えてはいるがどこか社交界的な匂いのする着飾った姿であった。
聖水は、ただの生あたたかい水だった。イグナシオは気抜けして、上眼遣いで祭壇上の十字架を見あげた。
外来の信者は、女が圧倒的に多かった。
高価な生地。そして申し合わせたように白。そんな衣裳を身に着けた女たちの視線がイグナシオに絡んだ。イグナシオの横顔から首筋あたりを盗み見て、溜息を圧《お》しころす中年女もいた。
イグナシオは混血児だった。ラテンの血だろうか。女たちにとってイグナシオは、聖画の中で悪魔と闘う凜々しい天使のように見えた。
洗礼を授け終えた主任司祭が、イグナシオに柔らかな眼差しを向けて促した。
イグナシオは黙礼をかえした。日本人離れした顔をうつむかせて跪《ひざまず》いた。司祭に合わせて小声で祈りのことばを呟いた。うしろの席から漂う幽かな女たちの匂いを胸に満たした。
米軍横田基地の軍人たちの妻が組織している慈善団体が七面鳥を用意していた。調理場のオーヴンの中で皮を飴色に焼かれていく七面鳥の香りが聖堂にまで流れこんできた。
焦げた肉の匂いが、女たちの香りと混じりあった。イグナシオは唾を呑みこんだ。
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第一章 檻の中
1
狙いを定めた。
おもいきり息を吸った。そのまま止めた。額の血管が脈をうつ。
フルスイングした。
硬球をジャストミートしたときの爽快な手応えを空想していた。
バットを地面に叩きつけたときの重さにちかかった。
肘から肩にかけて痺れた。やがてそれは鈍い痛みに変わった。
バットの先端に、下山《しもやま》の髪が数本まとわりついていた。
イグナシオの掌には、うきあがってきた冷たい汗と共に、下山の後頭部を打ち砕いた衝撃がはっきりと残っていた。
洗礼を受けた頃から一年ちかく、こうすることを想い続けてきたのだ。イグナシオは唇の端《はし》を歪めた。それは、笑いだった。
バットを握りしめた指は、硬直して動かなかった。指先はイグナシオの意志を無視してきつくバットに喰い込んでいる。
イグナシオは狼狽しかけた。指先の硬直は計画にはなかった。予測もつかなかった。背筋からふるえが這い昇った。
下山はホームベースの三塁側に腹這いになって倒れていた。細かく烈しく狂おしく痙攣していた。目を凝らすと、痙攣のせいでわずかだが土埃がたっているのがわかった。
「下山……」
囁くようにイグナシオは声をかけた。
そのとたんに下山の髪を濡らして光らせていた血が、炸裂するように地面にひろがった。
血は乾ききった赤土に、黒ぐろと滲みた。
イグナシオは目を見張った。それほどに大量の血だった。さらに、その血を薄めるかのように流れだしたものがあった。脳漿だった。
血のひろがりを見つめるうち、イグナシオは虚脱した。バットが手から落ちた。掌の汗を運動着の太腿のあたりで丹念に拭った。
バックネットで羽を休めていたカラスが一声鳴いて、三月の夕暮れの終わりを告げた。
躯中の筋肉が重ったるく、懈《だる》かった。暗くなりかかったグラウンドにはイグナシオと、下山だった肉塊と、春の夜風があった。
微かにロザリオの祈りが聴こえていた。イグナシオは聖堂の方向に顔をむけた。柔らかな風にのって流れる天使祝詞に耳を澄ました。
落ち着きがもどっていた。すこしふかく息を吸った。吐いた息は、まだわずかに白く見えた。
「めでたし、聖寵|充《み》ち満てるマリア……」
小声で天使祝詞を唱和した。農場から漂う腐りかけた牛糞の臭いに顔をしかめた。両膝をつき、大げさに下山を抱き起こした。
右の眼球が露出していた。
眼球は視神経の鞘《さや》でかろうじて眼窩から脳につながり、自動的に痙攣する下山の動きに合わせて振り子のように揺れた。
イグナシオはふたたび動顛した。自分がバットで下山の後頭部に加えた力の結果が、露出した眼球というかたちで眼前にあった。
眼球にはグラウンドの小砂利や赤土が附着していた。あわててイグナシオは眼球を押し込んだ。眼球は眼窩の大きさに較べていくぶんちいさくなっており、簡単におさまった。
しかし、それはもう、下山の顔と呼べる代物ではなかった。
下山の躯を支えていた左膝のあたりが、ねっとりあたたかく粘った。イグナシオの運動着は下山の血を吸って、ひどく重くなっていた。
イグナシオは周囲を見廻した。陽は完全に落ちて、春の匂いを含んだ夜風がイグナシオの巻き毛を柔らかく躍らせた。
誰もいなかった。いちおう下山の躯を揺すってみた。
「下山! 下山」
取って付けたように切迫した声をかけてみた。
もちろん下山は答えるはずもない。痙攣もやんでいた。
イグナシオは下山を投げだすように地面に横たわらせ、本館に駆けた。
2
影が横たわる下山の背に降りたつのが見えた。
駆けよった修道士は荒い息のまま、下山の背にとまったカラスを追いはらった。
カラスは馬鹿にしたように飛びあがった。
バックネットの上で不服そうに鳴いた。
牛の後産《あとざん》で排出された赤黒い胎盤をカラス共が啄《ついば》んでいるところを、イグナシオは農場の糞棄て場で見たことがある。よじれたまま動かない下山は、それに似ていた。
修道士は下山を抱きおこし、その口許に顔をよせた。
「まだ生きている!」
予想外のことばだった。傍らに立ちつくしていたイグナシオの頬が青ざめた。
「ほんとうですか……先生」
もっともらしい、しかし弱々しい声をあげて、イグナシオは下山を覗きこんだ。
それを外人神父が制した。朝鮮戦争のときに従軍司祭として最前線にいた神父だった。
神父は無言で下山の脈をとった。首を左右に振った。唇から洩れてきたのは、ラテン語の死者のための祈りだった。
イグナシオは安堵の息を呑みこんだ。うなだれた表情をつくった。
神父は下山の死体を仰向けに地面に寝かせた。胸の上に手を組ませ、ロザリオを持たせた。修道士になにごとか耳打ちした。修道士は小走りに去った。
*
イグナシオは首を折り、地面を見つめていた。神父はイグナシオと下山の死体を見較べるようにして口をひらいた。
「おきたことを、正直に話しなさい」
流暢な日本語だった。右顧左眄《うこさべん》といったことばをつかって生徒たちに首をかしげさせるほど日本語に堪能している神父だった。
イグナシオは顔をあげ、口をひらきかけたが、けっきょく黙りこんだ。
グラウンドからはるか離れた本館の玄関口では、事件をひと目見ようと集まった少年たちがざわついた声をたてていた。それを叱り、自習室に戻れと命令する修道士の声がとどいた。
「さあ」
神父が促した。
「はい」
イグナシオは小声で返事をして、神父にすがるような眼差しを向けた。
「オレと下山は野球部の自主練習の当番で、グラウンドの整備をしてあがる日でした」
神父はうなずいた。イグナシオの運動着を汚した下山の血に視線を据えた。
握り締めたイグナシオの掌に、ふたたび冷たい汗がうかびあがってきた。
「いつもは練習を十五分前にきりあげることになっているんですけど、みんな時間いっぱいまでだらだらと練習して、道具を放りだして逃げてしまいました」
「それは、いつものことだろう」
「はい。当番はそれを悪用するっていうんですか、とにかく自習やロザリオの祈りをさぼる口実につかってきました」
「キミと下山も、そうしたのか」
「はい……」
部活動を終えてから夕食までの一時間ほどは自習室で自習をするか、聖堂でロザリオとよばれる数珠をまさぐりつつ天使祝詞を唱えるかを、少年たちは自分の意志で選択することになっていた。
ロザリオの祈りとは、キリストとマリアについて黙想しながら天使祝詞を百五十回唱える祈りである。
そのときに使われる数珠が、ロザリオだ。神父とイグナシオは同時に、下山の手に握らせたロザリオに視線をはしらせた。
*
修道士たちが担架で下山の死体を運んでいった。神父とイグナシオはそれを見送り、しばらく黙って立っていた。
先に口をひらいたのは、イグナシオだった。
「ロザリオの祈りをさぼったから、マリアさまが罰をお与えになったのかもしれません」
神父は首を左右に振った。
「聖母マリアは罰する存在ではないよ」
「でも、オレはただ、素振りをしていただけなんです」
神父はイグナシオにむきなおり、まっすぐ見つめた。
「そのときのことを、正確に話しなさい」
イグナシオは上眼遣いで拳を咬んだ。どこか媚びを含んだ仕草だった。
「――オレはバットで素振りをしてました」
「それは、さっき聞いたよ」
「時間をもてあましていました。さぼったのはいいけど、じっとしていると、まだ寒いですから」
「それで素振りか」
「はい。下山はボールをおもいきり上に投げて、フライをキャッチする練習をしていたと思います」
「下山がなにをしていたか正確に見てはいないんだね」
「見てませんでした。ただ、下山はオーライとか言って、はしゃいでました。オレはバットをブンブンいわせるのに熱中してました」
神父は短く溜息をついた。
イグナシオはさぐるように神父を見つめ、声をおとして続けた。
「オレもはしゃいだ気分でした。あと半月で卒業ですから。シャバ[#「シャバ」に傍点]にでられるぜ、下山はオレの顔を見るといつも言ってました」
「そんなにここの生活が嫌か?」
「下山は、嫌だったと思います。オレは、そうでもありません。ただ」
「ただ?」
「勉強しなくてすむと思うと……」
「キミは卒業後、農場に残ることを希望していたな。シャバ[#「シャバ」に傍点]に出たくないのか」
「――オレには親兄弟がありませんから」
神父は口をすぼめるようにして、咳払いした。
「話をもとに戻そう。キミは素振りをしていた。そこへ下山がボールを追って」
「バックしてきたんです。バックしてきたんだと思います」
「で、キミはどうした?」
「素振りしてました」
「ちがう。下山にバットをあててしまってからのことだ」
「驚きました」
「驚いたか」
「現実感というんですか。まったくなくて……夢を見てるみたいなかんじで、他人事《ひとごと》みたいなんです」
神父は顎の先にあてた指先を細かく動かした。貧乏揺すりの代償行為だった。
「そのとき下山は生きていたか?」
訊いてから、神父は尋ねなおした。
「下山は動いていたか」
「痙攣というんですか? ビクビク動いていました。蛙みたいに」
「蛙?」
「―――」
イグナシオは口を噤んだ。
神父は|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を指圧した。蛙のように痙攣していたとすると、そのときはもう絶望だったはずだ。
従軍していたときに、まるで踊るように痙攣する兵士を幾度か目にしたことがあった。頭部に損傷を受けた場合だった。兵士は例外なく死んでいき、神父は死者のための祈りを呟き、ロザリオを握らせた。
痙攣する死体は、生きているように見えるものだ。神父が死者のための祈りを唱えているところへ経験の浅い新兵がやって来て死体を抱きおこし、その微かに痙攣する様を生きていると勘違いし、神父に喰ってかかったこともあった。
下山を抱きおこした修道士も、下山の最後の痙攣を、生きていると勘違いしたのだ。
「キミは、下山にバットをあててしまってから、どうした?」
「動けなかったんです。まったく動けなかったんです。ぼんやり立って……よく、わかりません。オレ、わかりません」
「どれくらい下山を放っておいた?」
「わかりません……よく、わかりません」
それは真実だろう、と神父は判断した。しかし園長に報告するときは、イグナシオは精いっぱい下山を介抱したと伝えるだろう。園長は事実よりも対外的な評判を気にする老人だ。
神父はイグナシオを哀れに思った。美しい少年だ。ひどく怯えている。
振られるバットがあった。そこに、たまたま下山の後頭部があった。
神は何を考えているのだろう……神父は、ふとそんなことを思ってしまい、あわてて心の中で打ち消し、イグナシオの肩に手をおいた。
イグナシオは躯を硬直させた。それからふるえてみせた。
神父は二度うなずき、そっとイグナシオを胸に抱き寄せた。痩せた少年だ。どこか乳臭い匂いがする。腋か、首筋か。あるいは髪かもしれない。愛《いと》しい匂いだった。
イグナシオは、さらにふるえてみせた。大げさなくらいにふるえてみせた。自分の演技に酔った。
神父の胸に頬をあて、イグナシオは唇を歪めて笑った。声をださずに笑った。図書室で読んだ、埃をかぶった六法全書を思い出して笑った。ふるえているのか、笑っているのか、自分でもわからなくなってきた。
*
刑法二一〇条
過失致死
過失ニ因リ人ヲ死ニ致シタル者ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
*
自習時間にイグナシオは、刑法二六章の殺人ノ罪を幾度読んだことか。図書室はいつだって無人で、イグナシオは頬杖ついて誰も手にとった形跡のない六法全書を開いた。
漢字とカタカナで書かれた、わかりづらい奇妙な日本語だった。しかし、じっと見つめているうちに、あることに気づいた。
殺人、つまり人を殺した者は死刑、無期懲役、あるいは三年以上の懲役と明記してあるのに、過失致死の場合は、千円以下の罰金としか書かれていないのだ。
いかに過失とはいえ、人を殺して千円ということはないだろう。はじめは信じることができなかった。六法全書が古いせいかもしれないと考えた。
しかし、過失傷害は五百円以下の罰金である。過って人を傷つけて五百円ならば、過失致死の千円は妥当にも思えた。
とにかく法律というものは、どこか滑稽だ。傷害が五百円で致死がその倍という額の算定基準はどこにあるのか。これを論理的に説明できる人はいないのではないか、とイグナシオは少年ながら考えた。
やがて、どうでもよくなった。イグナシオは下山を殺したかったのだ。下山という存在をこの世から消し去りたかった。
その思いばかりが募っていき、イグナシオは破裂寸前だった。
卒業まで、あとわずかだった。卒業してしまえば、もう下山に会うこともないかもしれないし、チャンスは確実にへる。
どうせオレは生まれたときから施設《オリ》の中にいた。いまさら自分が無罪になることを考えてもしようがない。
イグナシオはあせった。
そして今日、おこなった。
神父は咎めず、イグナシオを抱き締めている。
過失致死なのだ。千円なのだ。卒業して稼げるようになったら、よろこんで払ってやろう。払い込む場所は、どこだろう。警察か、裁判所か。あるいは下山の両親に向けて、千円札を叩きつける。
施設に下山を放りこんだくせに、毎月第一日曜の面会日には必ずやってくるあの両親。
イグナシオが棄て子であり、物心ついたときにはもう施設の中にいたことを知って哀れんでみせた下山の母。
そしてイグナシオの顔をジロジロ眺めまわし、冷笑して鼻であしらった下山の父。
そんな父母に向かって得意気に、これがボクの親友だ、と紹介した下山。
「落ち着いたか?」
耳許で神父が囁いた。
「戻って、シャワーを浴びなさい」
イグナシオの運動着は血で汚れ、その白い肌にも下山の血が凝固していた。
顎でしゃくるようにして神父が本館を示した。それから思いなおしたようにイグナシオの肩に手をおいた。
「わたしも一緒に行ってあげよう。教師用のシャワーを使うといい」
イグナシオは神父に押されるようにして歩きはじめた。
神父はグラウンドの中ほどまで行って、立ち止まった。独り言のように呟いた。
「下山は、ボールをとるのに、グローブをしていなかったのか?」
3
蛍光灯の白い光の下で、下山の血に汚れたイグナシオの姿は生なましかった。神父はわずかに眉をしかめた。
「ここで待ちなさい。新しい着替えを持ってこさせる」
イグナシオはハイとうなずいた。神父は靴音を響かせて、シャワー室から出ていった。
タイル張りの床は、ところどころタイルが剥離して、ひどくカビ臭い。立ちつくすイグナシオの足許から湿気が這い昇った。亜鉛の配管からは、水滴が規則正しいリズムを刻んで落ちている。
白いタイルの上で弾ける水滴を見つめるうち、イグナシオは無意識に胴ぶるいした。凍えそうな気がした。腕をきつく組んで躯を縮めた。
『下山は、ボールをとるのに、グローブをしていなかったのか?』
そう神父は独白した。
イグナシオはきつく目を閉じた。奥歯を噛みしめた。
いかにフライをキャッチする練習とはいえ、素手で硬球を捕るというのは確かに不自然だ。
シャワーを浴びて血を流してから、さらにいろいろ質問されるだろう。とくに野球部の監督をしている修道士は、自分の責任問題もあるから、しつこく訊いてくるはずだ。
こうなったら、知らぬ存ぜぬでとおすしかない。自分はバットの素振りに熱中していて、下山が何をしているか、一切気がつかなかった。
「わかり……ません」
イグナシオは口の中で呟いてみた。重要な部分へきたら、すべてこのひとことで押しとおすのだ。
押しとおせるだろうか? 不安で胃のあたりが収縮した。下山を殺せるならば、一生檻の中に閉じこめられてもかまわないと思っていた。
しかし、実際に過失致死で逃げられる可能性があると、イグナシオの頭の中で自由に対する思いが烈しく膨らんだ。
檻は、ごめんだ。自分の意志で歩きたい。
物心ついてから、いままで、イグナシオは常に集団の中にあり、規則に縛られてきた。可愛がられた記憶もあるが、心の底から甘えたことはない。
幼い頃からイグナシオは、他者に甘える場合、純粋に甘えるのではなくて、自分を抱きあげてくれた者の機嫌を損なわぬよう気を遣い、計算をしてきた。
オレは他人に生かして貰っている、そんな思いが常にイグナシオの心の中にはあった。
食べるものも、着るものも、そしてベッドも、すべてが見ず知らずの善意の人から与えられた、という負いめがイグナシオの内部にはあった。
与える者は、与えられる者の悲哀になかなか気づこうとはしない。人の心を蕩《とろ》かすイグナシオのとっておきの笑顔は、じつは殆ど泣き顔にちかかった。イグナシオは、心の底から笑ったことがなかった。
*
人の気配がした。イグナシオは閉じていた瞳を開き、咬んでいた唇をもとにもどした。完璧な無表情をつくった。哀れっぽく肩をおとし、うつむいた。
声をかけられるのを待った。しばらく待っても声をかけてこないので、ゆっくりと振り向いた。
イグナシオは目を見張った。若い修道女《シスター》が着替えを持って立っていた。
修道女が微かに会釈したように見えた。イグナシオは我にかえった。
少年たちが『マドンナ一号』と密かに呼んでいる修道女だった。少年たちは、自分たちの食事をつくり、汚れ物の洗濯をするために奉仕している修道女たちに、美しい順から番号をつけて勝手な妄想を膨らませていた。
修道女につける番号は各人の好みもあり、気分しだいで入れ替わりもした。
しかし彼女は常に『一号』だった。修道女たちは、いつも伏し目がちに歩き、少年たちと視線を合わそうとしなかった。なかでも『一号』は、とくに慎みぶかかった。そして、美しかった。彼女を目にしただけで頬を染めてうつむく少年が幾人もいた。そればかりか神父や修道士までもが、彼女に対してはあきらかに態度を変えた。
精液ではちきれそうな年頃の少年たちである。彼女は少年たちの妄想とマスターベーションで、限りなく穢《けが》されていた。
そればかりか、ボイラー室で神父に背後から犯されていた、といったまことしやかな噂さえ流れていた。
イグナシオも夜毎、彼女を想って自慰をした。ただしイグナシオは肉体はともかく精神的にはまだ性的に未熟で、女に対する性器的興味は薄かった。
「神父さまに命じられて来ました」
修道女は血まみれのイグナシオをまっすぐ見つめた。
「めんどうをみてあげなさい、と命じられました」
イグナシオは喉を鳴らしかけ、ぎこちなく頭をさげた。
「ボイラーに火が入ってないでしょう」
小首をかしげるようにして修道女が訊いた。
「ボイラー……」
イグナシオはうろたえ気味に繰りかえした。
「火のつけかたは、わかりますか」
「わからない……わかりません」
「つけてあげます」
「おねがいします」
「いらっしゃい、いっしょに」
修道女はシャワー室の奥のボイラー室を瞳で示した。
イグナシオはかろうじてうなずいた。ボイラー室ということばが頭の中で渦巻いた。ボイラー室でうしろから神父に犯《や》られてた……少年たちはわざと下卑た口調で囁きあったものだ。
修道女は黒い修道服の裾を濡らさぬよう、わずかに持ちあげて先に立った。彼女の履き物は、幾度も洗いこんだ白い粗末なズック靴だった。
イグナシオは修道女のうしろ姿を凝視した。修道女はボイラー室のドアの前でゆっくりとイグナシオを振りかえった。
*
修道女はイグナシオを見つめたまま、後ろ手でボイラー室のドアを閉じた。
室内は天井が高く、壁ぎわに二基のボイラーが据えつけられていた。大きなほうは白っぽいコンクリートのようなもので覆われて、それがところどころ剥げ落ちている。
修道女はちいさなステンレス製のボイラーの前にしゃがみこんだ。しばらくすると、ボッと点火する音がした。彼女はボイラーの上部に視線をはしらせた。
イグナシオは彼女の視線を追い、煤で汚れて読みとりづらいメーターを見つめた。
メーターの針は、なかなか動かなかった。それはどうやら湯の温度を示しているらしい。
「しばらく、時間がかかります」
修道女が呟いた。ボイラーの熱気のせいで、イグナシオの背がわずかに汗ばんできた。
「汚れた服を着替えたいでしょうが、もうすこし待ちなさい」
いつのまにか修道女の口調は命令口調になっていた。イグナシオはハイと小声で返事した。じっと彼女のうしろ姿を見つめた。
修道女はあきらかにイグナシオの視線を意識していた。彼女はボイラーを向いたまま、唐突に言った。
「神父さまは、警察に連絡なさいました」
イグナシオは彼女のことばを、しばらく理解しなかった。ぼんやりと彼女の背を見つめ続けていた。
修道女がイグナシオに向きなおった。一歩踏みだして、言った。
「わたしは、黙っていて、あげます」
修道女は瞬きせずに、イグナシオの目を見つめた。
ボイラーの熱のせいでうかびあがっていた汗が、つめたい汗に変わった。
黙っていてあげる……なにを? イグナシオは自問した。
答えは、ひとつしかない。見られたのだ。
イグナシオの心に、下山を殺したときとは別の狂暴な衝動が湧きあがった。
修道女はイグナシオからゆっくりと視線をはずした。さらに一歩踏みだした。イグナシオの耳許に顔を寄せた。
「ボイラーは大丈夫です。もう、シャワーを浴びることができます」
彼女の肌の匂いがした。甘かった。イグナシオは彼女の首に手を伸ばした。
「やめなさい」
やさしい息がイグナシオの耳を擽《くすぐ》った。
「わたしの修道服を血で汚す気ですか」
その声は、イグナシオの殺意にまったく気づいていないかのようだった。
イグナシオは泣き顔になった。
「黙っていてあげる、と言ったでしょう」
彼女の唇が、イグナシオの耳朶《みみたぶ》に微かに触れた。
「なぜ……」
「わたしは神ではありません。人を裁くことのできるのは、神だけです」
「神はオレを裁きますか?」
ムキになった声で、イグナシオは訊いた。
「あなたを裁くかどうかは、わたしにはわかりません。でも、わたし自身は裁かれるでしょう」
イグナシオは彼女のことばが理解できなかった。イグナシオのことについて沈黙を守るから裁かれるのか、それとも他の彼女自身の問題があるのか。
「あなたは、わたしのことなど考えなくてよいのです」
囁きながら、修道女はイグナシオの頬にぴったりと自分の頬を押しあてた。
「毎朝きちっと顔を洗っていますか? 肌が荒れています。清潔にしなくては」
イグナシオは気が遠くなりかけた。修道女は下山殺しを目撃したのに、肌荒れについて注意をしている。
*
教師用のシャワー室は、生徒のものとちがって浴槽もついていて、かなり広かった。
「脱ぎなさい」
そう命令されて、はじめてイグナシオは修道女がシャワー室の中にまでついてきていたことを実感した。そして、困惑した。
「脱ぎなさい」
もう一度小声で修道女は命じ、シャワー室のドアをロックした。
イグナシオは彼女を見つめた。開きなおった気分になった。
幼い頃、孤児院で修道女に躯を洗ってもらったものだ。小学生の頃は修道女見習いの娘に風呂場で悪戯《いたずら》されて、射精を伴わぬ快感を教えこまれたこともある。
イグナシオは裸になった。下着が汚れているのが恥ずかしかった。さすがに、前をぎこちなく隠した。
修道女はズック靴を脱ぎ、修道服の裾をまくりあげた。足首が折れそうに細かった。滑らかで、白かった。彼女は上眼遣いで微笑して、腕まくりをした。
「ざっとお湯を浴びなさい」
イグナシオはうなずき、シャワーの温度を調節した。
教師用のシャワーは、生徒のものとちがって勢いよく湯が迸《ほとばし》った。飛沫《しぶき》を避けるため、修道女は隅へ逃げた。
湯は肌にこびりついて凝固した下山の血を流していき、オレンジ色に染まった。
イグナシオは排水孔に消えていく下山の名残を見つめながら、この修道女に自分の運命をまかせてしまおうと考えた。
計算もないではなかった。しかし、なによりも甘えてみたかった。
「もう、いいでしょう」
修道女が言った。湯が熱めだったので、イグナシオはすこしのぼせていた。
イグナシオは恥ずかしさを隠し、彼女を見ずに尋ねた。
「あの……名前は?」
「なんのことです」
彼女はさぐるように訊きかえした。
「名前を教えてください」
「わたしの?」
「はい」
「カタリナ、です」
「洗礼名ではなく……」
修道女は石鹸を手にとり、微笑した。
「藤沢|文子《あやこ》です」
「あやこ」
「古くさい名前でしょう」
「そんなこと、ありません」
「両親ではなくて、おばあさまがつけたのです」
微笑したまま、文子は付け加えた。
「出身は長崎です。ここにいる修道女《シスター》の殆どが長崎出身なんですよ」
イグナシオは神妙な顔をしてうなずいた。彼女の歳を訊こうと思った。思いとどまった。二十代なかばくらいだろうと納得した。
文子はイグナシオの躯に石鹸を泡立てはじめた。ふと、その手を止め、もういちど呟いた。
「洗礼名は、カタリナです」
「聖女カタリナ」
「そう。そしてあなたは、聖イグナシオ」
言いながら文子は、さりげなくイグナシオの躯から手をはずした。微笑をくずさぬまま、イグナシオの下腹を盗み見た。
「洗ってあげようと思っていましたが、こまりましたね」
イグナシオの下腹は昂り、硬直して天を示していた。
神父は警察に連絡したという。こんなことをしていていいのだろうか。
イグナシオは不安と昂った気持ちが入りまじった、いてもたってもいられぬ気分に息を荒らげた。すがるように文子を見つめた。
文子は身を引いた。両腕を胸の上で組むようにした。きつく胸を押さえつけているようだった。イグナシオから顔をそらし、ふるえた息を吐いた。
「自分で洗いなさい」
怒ったような声で言った。耳朶が朱に染まっていた。
「着替えは外に置いてあります」
イグナシオは自分の意志ではまったく制御することのできぬ硬直を、呆然と見つめた。
「いいこと。着替えは、外です。汚れ物は、わたしが処分しておきます」
文子は、下山の血が染みた運動着を示した。潤んだ瞳でイグナシオを素早く見た。逃げるようにシャワー室から出て行った。
4
現実感がないまま、イグナシオは躯を拭いた。まだ吐息は荒い。
タイルの壁には、イグナシオの放った白濁が光っていた。大量だった。弾けるように散っていた。粘って、なかなか下に落ちていかない。お湯を叩きつけるようにして、それを流した。
白濁を放出して呻《うめ》いたとたん、下腹の硬直は呪術を解かれたかのように緊張をやめ、ふと気づくと、だらしなくちいさい柔らかい無害な器官にもどっていた。
やっかいなものだ……溜息をついた。いつものベッドの中でするマスターベーションとは違ったひどい疲労感がのこっていた。
イグナシオは、みじめなくらいに縮んだものをつまみ、だらしなく放尿した。どうせ教師のシャワー室だ。流さずに、そのままにした。
軽く目を閉じた。文子の面影が瞼の裏側にうかんだ。
耳朶に触れた唇の意外に乾いた感触。こすりつけられた柔らかな滑らかな頬。甘くしっとりした肌の匂い。
イグナシオの下腹は、ふたたび硬直をはじめた。右手を添えた。狂おしくこすりあげた。痛みさえ覚えた。
わずかに頬や唇が触れあっただけなのだ。それなのに、その感触は悪友が隠し持つ擦り切れたヌード写真とは比較にならぬ昂りをイグナシオにもたらした。
それは殆ど、下山を殴り殺したときの昂った気分にちかかった。イグナシオにとって暴力と性は、あきらかにひとつの方向を示すものであった。それは、イグナシオを解き放つもの、なのだ。
イグナシオの世界は、少年らしくない色彩に彩られている。それはみじめなくらいにくすんで、灰色だ。風景は、人物は、イグナシオにとって、ただ単に情報にすぎない。
わずかに、サッカーに熱中しているときだけ、イグナシオの周囲は色彩をとりもどした。
しかし、下山を殺したとき、そして修道女の肌に触れ、その匂いを鼻腔に満たしたとき、世界は極彩色に輝いた。
*
射精した。二度めの射精は痛みさえ伴っていて、イグナシオは簀《す》の子の上にへたりこみたい気分だった。
きつく握り締めていた右手指がつりそうな気さえした。あわてて呼吸を整えた。
タイル壁を汚した白濁は、薄く、少量だった。さきほどの放尿の臭いと白濁の匂いがイグナシオを急《せ》きたてた。
シャワー室のドアをちいさく開け、手を伸ばして着替えを取った。
二度めの自慰のあとに残ったのは、みじめな寒々としたものだった。
射精の快感がうすかったことについて、イグナシオは服を身に着けながら独りごちた。
「垂れ流しはつまらねえな……」
呟いてから、いま自分のおかれている状況に気づいた。下山を殺したことも、文子の頬の感触も、まったく現実感がなくなっていた。
これなら、どんなに問いつめられてもシカト[#「シカト」に傍点]できる。そんな奇妙な自信を持ってイグナシオはシャワー室を出た。
グラウンドで、そしてシャワー室で、ひどく長い時間がたったように感じていたが、じっさいにはイラつくほど短い時間しかたっていなかった。
オレは、どこへ行こう……寂しさが這い昇ってきた。下山も、文子もいない。壁の時計は凍りついて、動いているようにはとても見えない。
ひどい倦怠感だった。とても少年の味わう気分ではなかった。世界はふたたび灰色にくすみはじめ、曇りガラスをとおした景色のようにはっきりしない。
廊下の長椅子に座って両手両足を投げ出すようにしてぼんやりしていると、下級生がちかづいた。
少年は英雄を見るような眼差しをイグナシオに向けた。
施設の中は、完全な力の世界なのだ。喧嘩が強い奴が偉い。ためらわず暴力をふるい、徹底できる者が畏怖される。
事故らしい、という噂であるが、イグナシオはとにかく人殺しなのだ。イグナシオは卒業間近になって、施設内の少年たちの究極の権力者となった。
「先輩。園長の野郎が呼んでます」
イグナシオは下級生を睨みつけ、鷹揚《おうよう》にうなずいた。
あれは事故ではないんだぜ、そう下級生に誇りたい欲求を、かろうじて抑えこんだ。そのせいで、唇の端に複雑な微笑がうかんだ。
それに気づいた下級生は、直感的にイグナシオが下山を殺したことを理解した。
「先輩。オレ、黙ってますからね」
「――なにを」
下級生が笑いかえした。共犯者の笑いだった。
「おまえ、なにか考えすぎてないか」
醒めた声でイグナシオが言うと、下級生はへへへ……と奇妙な笑い声をあげ、尊敬と親愛のまじった眼差しを向けた。
イグナシオは下級生の頭を軽く小突いて、園長室に通じる階段を登った。
*
教務主任と園長が同時に立ちあがった。イグナシオはうなだれてみせた。
園長は巨大な鷲鼻を中心に、まっかな顔をしていた。彼はソビエト連邦ラトビア共和国の出身で、現在は日本に帰化していた。
イグナシオは、園長が故国へ帰りたくても帰れないことを知っていた。七十歳をはるかに超える園長は、ロシア革命のときに、聖職者に対する迫害から逃れるために故国を棄てたのだ。数えきれない聖職者が投獄され、殺されたという。
だから園長は、なによりも共産主義を嫌う。だが、イグナシオの眼前で、園長はソビエトの国旗よりも赤かった。
逆に教務主任は、まっしろい頬をしていた。イグナシオは、この日本人神父が苦手であった。教務主任はイグナシオの表裏ある性格を見抜いていて、イグナシオのことを忍者≠ニ呼んでいた。
園長が咳払いした。美食に膨らんだ腹のせいで、その僧衣《スータン》ははち切れそうだ。苦しそうに躯を曲げ、椅子に腰を降ろした。
「顔をあげろ」
教務主任が命令した。イグナシオは反抗的になりそうな眼差しを伏せて、顔をあげた。
「刑事さんがいらしている」
イグナシオの胸が高鳴った。園長が溜息をついた。
「お訊きになりたいことがあるそうだ。応接室へ行け」
イグナシオは小声でハイ、と返事した。園長がふたたび立ちあがった。
「話は聞いているよ、イグナシオ」
両手をデスクについて、園長は身をのりだして言った。
「事故だった。そうだろう?」
もういちどイグナシオはハイとうなずいた。園長は首を左右に振った。
「かわいそうに」
イグナシオは伏せていた眼をあげた。意外なことばだった。意味がつかめなかった。死んだ下山がかわいそうなのか、とも思ったが、この場合はやはりイグナシオに向けられたことばだろう。
教務主任が顎をしゃくった。先に立って園長室を出た。イグナシオは後に従った。
隣の応接室に刑事はいなかった。教務主任はイグナシオを睨みつけるようにして出ていった。
応接室にひとり残されたイグナシオは、幼児のように爪を噛んだ。しばらく立ちつくしていたが、居直ってモヘアのソファに腰をおろした。暖房が入っていなかった。身震いした。
5
「キミは前田一夫の同級生か?」
ゴマ塩頭の刑事に呼びとめられた少年は、つっぱった眼差しで振り向いた。若い刑事が少年の自尊心を擽《くすぐ》るかのように、巧みに頭をさげた。
「前田一夫?」
少年はわざとらしく首をかしげた。
「ああ、イグナシオのことか」
少年は口の端で笑い、ズボンのポケットに手をつっこんで反りかえった。
「なあ、オッサン。人にモノを訊くときは名のるのが礼儀ってもんだろ」
「失礼。中村っていうんだ」
ゴマ塩頭の刑事は言い、一歩踏みだして少年に顔を寄せた。
「前田クンについてすこし訊きたいんだが」
少年は身を引き、後ろの壁に躯を当てた。中村はさらに踏み込み、つくり笑いした。
「もう、さがれないよ。喋ってくれるかい」
少年は中村と壁にサンドイッチにされて、幾度もうなずいた。若い刑事はすこし離れて腕組みして無表情だ。
「前田クンは死んだ下山クンとは、どんな関係だったか知りたいんだ」
中村は柔らかな声で訊いた。少年は乾いた唇を舐めた。
「イグナシオは……下山とホモダチだった」
「ホモダチ?」
「ホモのお友だちだよ」
「ほんとうなのか?」
「――ウワサだよ。オレはただのマブダチだと思う」
「親友ということか?」
「ああ、あいつら、かなり仲良かったよ」
「喧嘩とかは?」
「さあな。仲良かったよ」
「してない?」
「たぶんな。イグナシオは、いつだつて下山をかばってたぜ」
中村は若い刑事を振り向いた。若い刑事が口をひらいた。
「下山クンは、どんな性格だった?」
「どんなって……喧嘩は弱くて、運動神経はイマイチで、そのくせ出たがりで、野球部なんだけどよ、四番を打たせろとか騒いだらしい」
「目立ちたがりなんだ?」
「そう。先公によろこばれるようなすごくきれいな字を書くんだ。気持ちわるいぜ」
「きれいな字っていうのは、気持ちわるいかな?」
少年は詰まった。唇を舐めてすこし思案した。唇を舐めるのが癖らしい。
「イグナシオなんか字がすごくうまいけどよ、わざと汚く書いてるぜ。だいたいオレもイグナシオもノートなんかとらねえよ」
中村は微笑した。少年から一歩さがって尋ねた。
「キミはイグナシオだっけ? 前田クンのことをどう思う?」
「けっこう男だな」
「男?」
「ホネ、あるよ。先公には逆らうけど、オレらとの約束は守る」
「先生に逆らうんだ?」
「バンバン逆らう。それだけじゃなくて口とかうまいんだ。コロッとだましちまう。教務主任なんか忍者って呼んでるよ」
「忍者?」
「忍者ってのは、送りこまれた土地で地味にまじめに暮らして、その裏でいろいろ活動するだろ。それと――」
少年は自分のことばがイグナシオにとってプラスにならないことに気づいて、口を噤んだ。
「それは裏表があるというか、嘘つきってことだろう」
「ちがう。オレらとの約束は守るし、裏切らないんだ」
中村は指先で無精鬚に触れた。イグナシオこと前田一夫は、かなり複雑な性格らしい。
深読みすれば、同級生に対して誠実であるというのは、単なる保身ではないか。教師をだましたり逆らったりするのは、同級生にとっては痛快である。しかし、それと同じことを同級生にすると施設の共同生活である、かなり暮らしにくくなるだろう。
前田一夫の性格は、教師に対するものが本当の性格ではないか。中村は無精鬚をもてあそびながら、そう考えた。
「前田は、いい奴か?」
「いい奴だよ。わるくない」
そこまで言って、少年は照れた顔をした。
「よすぎるよな。けっこう奴は苦労してるって」
「どういうことかな?」
「まだ会ってないの?」
「会ってない」
「会えばわかるけどよ、いい男なんだ」
中村はわずかに首をかしげた。少年は照れたまま唇を舐めた。
「美男子なんだよ、イグナシオは」
「それが苦労するのか」
「――言っちまおうか」
「言ってほしいな。ここで聞いたことは、誰にも口外しないから」
「イグナシオはハーフって奴でよ」
「ハーフ? 混血か」
それでイグナシオと呼ばれているのか。中村は、なんとなく納得した。
「いまじゃイグナシオは最上級だからいいけど、下級生のときは大変だったんだ。先輩に狙われてよォ」
中村は少年から視線をはずした。刑務所と同じことが、この施設の中でもおこなわれている。
「イグナシオは強気だからな。中一のときから、上級生と喧嘩してたよ」
少年は下卑た表情で続けた。
「ま、オレがイグナシオと同じ立場だとしたら、やっぱ喧嘩するわな。誰が尻を貸すかよ。誰が他人《ひと》のチンポ咥《くわ》えるかよ」
若い刑事が苦笑まじりに頭を掻いた。少年は中村を睨み据えた。
「先公までもがよォ、イグナシオを狙ってんだぜ。イグナシオが忍者になんのは、あったりまえだろ」
この施設でいう先公――教師とは、修道服を着た神父であり、修道士である。少年の言うことがあながちでたらめであるとは、中村も思えなかった。
中村は、この施設の教師たちに共通するある匂いをかんじていた。それは、ひとことで言ってしまえば偽善、だった。
事件か事故かまだ不明であるが、下山という少年の死に対して教師たちは妙にまわりくどく曖昧だ。悪ぶっている収容生のほうが、よほど率直である。
「もう一度訊こう。前田は下山クンと親友だった」
「ああ」
「しかし、ふたりはキミの言うホモダチではなかった」
「たぶんね」
投げ遣りに少年は答え、ひくい声で付け加えた。
「この中には……オレの同級生や下級生、それに先公の中には、ほんとうのホモ野郎もいるんだよ。そういう奴ってのは、なんとなくわかるんだ」
「しかし、前田と下山クンからは同性愛の匂いはしない」
「そう。匂わない」
少年の勘は正しいだろう、と中村は考えた。少年たちに較べると、教師たちはまったく自分の意見を口にしようとしなかった。
「似ているな……」
中村は呟いた。けげんな顔をした少年に愛想笑いをかえして、とぼけた。
そっくりである。警察と、ここは。教師たちは教師である前に修道会に所属する修道士であり、神父なのだ。
教師たちは修道院長にして施設の園長である外人神父に忠誠を誓うばかりで、自分自身の意志では一切喋ろうとしないし、動こうとしない。
そのかわり、命じられれば一心不乱だ。それは完全な縦社会である警察にそっくりだった。中村は署長と園長を重ね合わせた。さしずめ自分はあの教務主任といったところか。
中村が少年に向けた愛想笑いは、自嘲の笑いに変わった。
少年が、さぐるように中村を見つめた。中村が真顔になると、少年は勢いこんで言った。
「イグナシオは、わざとやったんじゃないぜ」
「そうだな。道路でゴルフのクラブを振りまわして通行人をナニしちまうことだってある」
「偶然だよ。イグナシオもいい迷惑だぜ」
*
少年を解放して、ふたりの刑事はのんびりと廊下を歩きはじめた。コンクリートの廊下はひんやりして湿っている。
「どの生徒に訊いても、わりあい前田の評判はいいな」
「死んだ下山は、イマイチってところですね」
「とくに最後の生徒は、よく喋ってくれた」
「けっこう肩入れしてましたよね」
中村はうなずいた。若い刑事は悪戯《いたずら》っぽい笑いをうかべて続けた。
「あの生徒は、前田に惚れているんじゃないですか」
「おい」
鋭い瞳で中村は一瞥した。若い刑事は肩をすくめた。中村は窓のあるところで立ち止まり、窓外に視線をやった。
「やたら広いな」
「まったく。武蔵野の雑木林というんですか。そのまま残っていますね」
「私の子供の頃は、東京も都下になれば、ずいぶんこういう景色があったさ」
地方出身の若い刑事は調子を合わせて、なるほどとうなずいた。
「――どう、思う?」
「はあ」
「思ったとおりを言ってみろ」
「はあ。狙ったように、ど真ん中ですね」
中村と若い刑事の視線が絡んだ。
「ど真ん中か」
「ど真ん中です」
「まあ、事故ならば、たいがいずれるわな」
「はい。側頭部であるとか、微妙にずれますね。あれはストライク、いやクリーン・ヒットですよ」
「しかし、まあ、偶然でど真ん中にヒットするってこともありうる」
「そうおっしゃられると……」
「続かないか」
「はあ」
「直感でいい。あの打撲傷に作為をかんじるか」
若い刑事は間髪をいれずに答えた。
「かんじます」
中村は視線をはずし、また窓の外を向いた。林の中では山鳩がくぐもった声で鳴いていた。
「前田の資料を見ただろう」
「はい。推定生後三カ月で神奈川県横須賀の駅構内に棄てられていたとありましたね」
「混血とのことだが、父親は米軍横須賀基地の米兵だろうか」
「さあ……」
中村はしばらく物思いに沈んだ。終戦のとき中村は十八歳だった。昨日まで大和《やまと》撫子《なでしこ》だった娘たちがどぎつい口紅を塗りたくって米兵にまとわりついたものだ。そして戦災孤児。
「まだ……戦後は終わっとらんのかなあ」
中村が呟くと、若い刑事はしばらく考えこんだ。案外冷静な声で言った。
「日米安保はいまの日本にとって基本です」
「そうだな。しかし、俺の若い頃は、あれは占領軍であり、進駐軍だったんだ」
「はあ。そういえば、うちのオヤジも米軍放送のことを進駐軍放送といいますね」
中村は苦笑しかけたが、すぐにそれをおさめた。
「資料で問題にしたいのは、知能指数だ。気づいていたか?」
「いえ。見過ごしました」
「IQ百七十八」
「ほんとうですか!」
「やっかいな少年だよ。普通人のほぼ八割増しの脳ミソを持ってやがるんだ」
「百七十八といったら、大天才のIQでしょう」
「教務主任も、どうやらそれを危惧しているようだ。口にこそださなかったが、この生徒は要注意、そう顔に書いてあったさ」
「忍者と呼ばれてるそうですね。どうやら能力を悪いほうに」
「まだ決定したわけじゃない」
「しかし、生徒が話していましたよ。オレらのことは裏切らないが、先生は巧みにだましてしまうと。こういった世渡りのうまさは気に喰いませんね」
「まあ、とにかく、このことを念頭において前田に向かうとしよう。こっちが過剰反応するのも考えもんだぞ。相手をあなどってはいかんが、やはり子供だ。経験も知識もそれなりだろう。もし前田がナニなら、ひたすら頭でつくってくるだろう」
若い刑事はうなずいた。頭で組み立てたものは、現実を突きつけると案外脆いものだ。論理は論理であるがゆえに、ちいさな矛盾さえみつければ簡単に破綻する。
中村はちいさく深呼吸した。虚ろに響く山鳩の声に耳を澄ましたまま言った。
「俺がなぜ、こんなにこだわるか、わかるか?」
「いえ」
「ホトケの右眼だ」
若い刑事は曖昧に瞳を伏せた。血はきれいに拭きとられていたが、下山少年の死体の損傷はかなりのものだった。
「右眼が……どうかしたのですか?」
「あれは、いったん飛びだしたものを、無理に押しこんだんだ」
「ほんとうですか!」
「声が大きい」
「はい。申し訳ありません」
「教師はお湯で血を拭きはしたが、それ以外は一切いじってないと言っている」
「とすると……」
「押しこんだのは、前田だ」
「まちがいありませんか」
「前田が押しこんだ、という証拠はまだない。しかし、飛びだした眼球が何者かによって押しこまれたということは事実だ。瞼を裏返しにして確認したんだが、眼球には小砂利と赤土らしきものが附着したままだった。神父なり修道士なりが処置したならば、汚れたままの目玉を押しこまんだろう」
若い刑事の頬は緊張と昂奮に青ざめた。中村は柔らかく微笑した。イグナシオの待つ応接室に向かって歩きはじめ、ことばを続けた。
「眼球のことは、黙っていろよ。こっちから切りだすことはない。とぼけているんだ。なにしろIQ百七十八の少年に対する最後の切り札だからな」
中村は念を押し、歩みを早めた。
6
タバコを咥えてから、中村はこの部屋に灰皿がないことに気づいた。舌打ちしたい気分だった。思いなおした。ここは学校であり、修道院でもあるのだ。
「立派な応接室ですな」
教務主任は中村の呟きに対して、応接セットは寄附されたものである、と弁解口調で答えた。
この男は、応接室の外で中村たちが来るのをじっと待っていたのだ。中村には理解しかねる態度だった。どちらかといえば、応接室から中の生徒が逃げ出さぬよう見張っている、といったかんじだった。
あるいは、室外から中の生徒の様子を窺っていたのかもしれない。少年犯罪の捜査に深い経験を持つ中村であるが、親がわりの教師がこれでは、生徒が心をひらくことはないだろうと思わされた。
中村はわずかに上体をそらすようにして、わざと抑揚を欠いた声で言った。
「席を外していただけますか。我々は前田クンとだけ話したい」
教務主任はソファから立ちあがった。揉み手をしながらイグナシオと中村を見較べた。
「よろしく」
愛想よく、柔らかな口調で若い刑事が言った。教務主任は愛想笑いをかえし、イグナシオの横顔を見据えて言った。
「すべてを正直にお話しするんだぞ」
イグナシオはうつむいたまま、まったく表情を変えない。いまの状況での精いっぱいの反抗であると中村には思われた。
教務主任が出ていってから、中村は改めてイグナシオの顔を見つめた。若い刑事もさりげなく盗み見て、首を左右に振った。
彫刻だった。あまり美術に詳しくない中村であるが、漠然とルネッサンスの彫刻といった思いがうかんだ。ふつう美男子にはある反発を覚える中村であるが、この少年には溜息が洩れるだけだ。
中村は軽く咳払いした。イグナシオから視線をはずし、ことばを選んだ。
「楽にしてくれよ」
あえて、ざっくばらんに言った。
「前田一夫クン」
イグナシオはうつむいたまま、ハイと返事した。
「先生も、キミの同級生たちも、みんなキミのことをイグナシオと呼んでいるが、どういうニックネームなんだい?」
イグナシオは下を向いて黙っている。若い刑事が補足した。
「なぜ、そんなニックネームがついたのかってことだよ」
ゆっくりイグナシオは顔をあげた。目と目が合うと、中村も若い刑事も、なんとなく視線をはずしかけてしまい、照れ笑いをうかべた。
「ニックネームではありません。洗礼名です」
「洗礼名というと、キミもキリスト教徒か」
「はい。一年くらい前に洗礼を受けました」
「しかし、キミ以外の生徒は洗礼名で呼ばれはしないだろう」
「ええ。それは、オレがアイノコだからですよ」
イグナシオはあっさりと平然と言ってのけたが、中村は詰まってしまった。
それにしても意外なほどはきはきした口調だ。複雑な性格は読みとれるが、とりあえず演技はないようだ。中村は、あえて洗礼名に触れることにした。
「イグナシオとは、どういう意味かな?」
「もちろん人の名前ですよ。聖イグナシオ。イエズス会をつくった聖人です。同じイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたんです」
「信長の頃だったかな」
「はあ。室町時代です」
「なぜ、イグナシオという洗礼名を選んだのかな?」
「たまたま、です。洗礼を受けるための勉強をしているときに、教務主任の先生の部屋でイエズス会史の本を見たんです」
「それで?」
「それで、イグナシオという名を知って、自分は洗礼名はこれにしますと申し出ました。そうしたら誰もオレのことを前田とは呼ばなくなって、イグナシオと呼ばれるようになったんです」
「不満はないか?」
「なにがです?」
「本名でなく、洗礼名をひとりだけ呼ばれることに」
「べつに。名前なんて、ただの記号ですよ」
イグナシオの瞳に皮肉ないろがうかんだ。
「オレは棄て子ですからね。前田一夫という名前だって本当の名前じゃないですから。オレは本当の名前を知りませんから。なんだっていいんですよ。他の奴と区別がつけば」
中村は手を膝の上で組んで、じっとイグナシオを見つめた。イグナシオは挑むように声をあげた。
「どうせオレなんて半分ガイジンですからね。イグナシオって名前は、ぴったりです。オレは一生イグナシオって名前でとおすつもりですよ」
*
膠着状態に陥っていた。イグナシオは肝心な部分にくると、わかりませんを繰りかえした。
中村は現場にイグナシオをつれていって訊問しようとさえ考えたが、とうに暮れている。照明もないようであるし、かろうじてあきらめた。
「気配ぐらいしただろう」
「下山がちかづいてくる気配ですか」
「そうだ」
「わかりません」
「わからんか」
「わかりませんでした」
この刑事の執拗さは、あきらかにオレが下山を殺したのではないかと疑っているところからきている。イグナシオはそう考えて、徹底的にとぼけていた。へたなことを喋れば、この施設の教師と同じように、この刑事はネチネチとことば尻をとらえてくるだろう。
しかしイグナシオは疲労しはじめていた。一瞬どうでもいい、と投げ遣りな気分が忍びこむ瞬間があった。
それは中村の望むところであった。人間とは奇妙に脆いもので、疲労してくるとたとえ殺人者であっても喋りはじめる。
疲労と退屈は表裏なのだ。退屈は、絶対に隠しとおさねばならぬことまでを喋らせてしまう力がある。そして、知能の高い者ほど、その傾向がつよい。
いちばん状況を変えたいと思っているのは、イグナシオなのだ。なんとかこの状況から逃れたいとあせるあまり、ふとことばの端に事実の切れ端をまぎれこませてしまうものだ。
実際イグナシオは、殆ど無思考の状態に陥ることがあった。中村の誘導訊問に、あっさりのってしまいそうな瞬間があった。
中村は腕時計を覗きこんだ。
「ずいぶん前に、祈りの声が聞こえたな」
「夕《ゆう》の祈りですよ」
「下山クンの冥福を祈ったのかな」
「そうかもしれません。毎晩八時五十分からはじまる定期便みたいなもんですよ」
「夕の祈りを終えたら、キミたちはどうするんだ?」
「眠るんですよ。寝室で眠る」
「眠いか?」
「すこし」
「そうだろうなあ。じつは夕の祈りからもう三時間もたっているんだ」
イグナシオは顔をあげ、眉根に皺をよせた。三時間ということばは信じ難かった。オレは三時間も「わかりません」を繰りかえしてきたのか、と思うと、ひどくむなしい気分になってきた。
じつは、三時間というのは中村の嘘であった。実際は二時間程度である。中村は肩を重そうに落としている美少年を無表情に見つめつづけた。
あと、すこしだ。確信があった。イグナシオという少年は頭が良く、感受性も鋭い。愚鈍な少年ならば平気な数時間も、イグナシオにとっては耐えきれぬものだ。
時間をわざと多く言ったのは、もちろんイグナシオに圧迫を加えるためである。あとでイグナシオが時間の嘘に気づいて騒いだら、時計を読みまちがえた、と突っぱねるだけだ。
「もォ……十二時を過ぎたんですか」
「計算上は、そういうことだな」
「オレたち、毎朝五時に起こされるんですよ」
「ホオ。たいしたもんだ。健康にいいだろう」
イグナシオは溜息をついた。三時間と言われたとたんに退屈だけでなく、睡魔まで襲ってきた。
中村はそんなイグナシオをじっくり観察し、柔らかな、どちらかといえば猫撫で声で言った。
「野球部はたのしいかな?」
イグナシオはめんどうそうに中村に視線をはしらせ、投げ遣りに答えた。
「べつに好きじゃないよ。好きなのはサッカーだ」
中村はニヤッとした。たのしいかと尋ねたのに、イグナシオは好きではないと答えた。微妙に答えがずれている。おまけにことば遣いも乱れている。だいぶ思考力が衰えてきているのだ。
「じゃあ、なぜサッカー部を選ばずに、野球部に入ったんだ?」
中村はイグナシオに合わせて訊いた。イグナシオはしばらくしてから怒りをにじませた声で答えた。
「毎日サッカーやったら、つまらねぇじゃん」
「どういうことかな」
中村の声は、あくまでも柔らかい。
「たまにやるから、いいんだよ。大切にとっておくんだよ!」
中村は癇癪をおこしかけているイグナシオに、うわっつらだけの微笑で答えた。
「そうか。しかし、サッカーをやっていたら、下山クンを殺さずにすんだろうな」
そのひとことで、イグナシオは我にかえった。しかし、ひどく動顛してもいた。
中村は夢想した。訊問を終え、すべての真実をあきらかにして、外でタバコを喫う。ニコチンは血の中を流れ、煙は喉を心地良く刺激するだろう。
中村の横で、若い刑事が前かがみになって眼頭を揉んでいた。揉みながら溜息まじりに呟いた。
「我々の知りたいことに答えてくれれば、今夜はゆっくり眠れるんだよ」
はじめ、イグナシオは眠れるというひとことにたまらぬ誘惑をかんじた。そして、すぐに気づいた。
知りたいこと……?
イグナシオは膝に両肘をつき、顔を隠して考えた。
知りたいこと。オレが下山を殺したかどうか。それが奴らの知りたいことだ。
頭の芯が痛くなりそうだった。どうでもいい、と投げてしまいたかった。必死で考えた。
若い刑事の知りたいこと、それは下山を殺したかどうかではないような気がしてきた。なぜならば刑事たちは初めから、イグナシオが下山を殴り殺した、と決めてかかって訊問をしているからだ。
奴らは、オレが殺したことを知っているのだ。では、それ以外に知りたいこととは……。
イグナシオはゆっくりと顔をあげた。若い刑事はまだ眼頭を指圧していた。
中村はぼんやりと、タバコを喫うことを夢想しつづけていた。中村はチェーン・スモーカーだった。エントツという渾名をつけられていたこともあった。
*
「K浜少年院を知っているか?」
唐突に中村が問いかけた。イグナシオは軽くうなずいた。
「三浦半島にあるんでしょう。東京湾フェリーの港のちかく」
「残念なことだが、キミの先輩たちが、ずいぶん収容されているようだ」
「ここは、少年院予備校みたいなところですよ、刑事さん」
皮肉な声でイグナシオが答えた。中村は無視した。イグナシオには、なんとなく中村の謎かけが理解できた。
素直に下山を殺したことを告白すれば、少年院に送られはするだろうが、二十歳前には出てくることができる。K浜少年院ならば顔馴染みの先輩もいるから過ごしやすいだろう。
イグナシオは心の中で嘲《わら》った。てめえはたかが外勤、刑事じゃねえかよ。自白したとして、オレのこれから先を決める力なんか、ありはしない。本当に怖いのは、家裁送りになったときの判事サマだ。
「なあ、イグナシオ。オレはニコ中でな」
「どうりで、なんか顔が黄色っぽいですね」
中村は笑った。笑いながら、おどけて情けなさそうな表情をつくってみせた。
「いいかげん、俺に一服させてくれんか?」
若い刑事は、タバコを吹かす仕草をする中村を盗み見た。少年を相手に、とうに夜の十一時を廻っている。
もうそろそろ、眼球を押しこんだ、という切り札を使ってもいいのではないか。いま、この少年との間には、妙に和《なご》やかな空気が流れている。眼球のことを持ちだして動揺を誘い、一気に自白までもっていくには抜群のタイミングだ。
中村は、若い刑事に言われるまでもなく、タイミングを計っていた。K浜少年院のことであるとかをもちだして、着々と布石を打ってきた。
イグナシオは調子を合わせながら、刑事たちの様子を読んでいた。この施設の教師たちも、証拠を突きつける前には、優位にたっているところからくる笑みを必ず洩らす。
それと同じ表情を、この刑事たちはしていた。笑って油断させておいて、唐突に豹変して迫るのだ。
中村もタイミングを計っていたが、イグナシオも計っていた。中村に先に目玉のことを持ちだされたら、全て終わりだ。かといって、あせって不自然なときに告白するのは、最悪だ。
充分に引きのばした、とイグナシオは判断した。ふかく息を吸った。
「刑事さん……オレ……」
「どうした!」
中村も若い刑事も身をのりだした。
「オレ……」
「さあ、言ってみろ」
「オレ……隠していることがあるんです」
「悪いようにはしない。さあ」
イグナシオは、すがるように中村を見つめた。
「オレ……下山の目玉を……」
中村の顔色が変わった。若い刑事は中村とイグナシオを交互に見た。
イグナシオは勝ちを確信した。若い刑事がなにげなく呟いた『知りたいこと』とは、やはり下山の眼球を押しこんだことだったのだ。
刑事たちは、イグナシオの動揺を誘うための最後の切り札を、イグナシオ本人が口にしたことで、ひどい脱力感に襲われていた。
イグナシオは下を向いて黙りこみ、様子を窺った。しばらくして、中村が力なく言った。
「続けろ。前田」
「オレ、バットの素振りをしていて、まちがえて下山に当ててしまいました。でも、ほんとうは、よくわからないんです。掌にガツンてきたら、下山が地面に転がっていて……」
中村はイグナシオの顔をななめから見た。相槌を打つ気力もなくなっていた。
「しばらく何も考えられませんでした。やっと我にかえって、たいへんなことをしてしまった、と下山を抱き起こしたら」
しばらく間があった。かろうじて中村は声をかけた。
「――どうした?」
「はい。下山の……下山の目が飛びだしていたんです。右か左かよくわかりませんけど」
「右、だよ」
わざと言ってみただけだ。イグナシオは心の中で舌をだしながら表情を歪めてみせた。迫真の演技だった。恐怖がにじみでていた。
「びっくりして、おもわず押しこんでしまったんです」
ふるえた息を吐いてみせる。
「なぜ、そんなことをしたのか、よくわかりません。ただ、怖くて……」
中村が立ちあがった。イグナシオは掌をつきだした。
「まだ、押しこんだときの生あたたかい感触がのこっていて……」
*
中村と若い刑事は、玉砂利を踏んで駐車場に向かった。無言だった。よく晴れていて、弓張り月がふたりの背をぼんやりうかびあがらせていた。
中村はハイライトを咥えた。若い刑事がマッチを擦った。
ふかく吸った。煙は喉に嫌《いや》らしく絡んだ。中村は癇癪をおこしかけた。タバコを投げ棄てようとして、思いとどまった。
もういちど、吸った。夜気の湿った匂いがした。徒労の味は、苦かった。
*
刑事から報告を聞いた教務主任は早く寝なさい、とめずらしくやさしい口調で言った。ほっとした表情で自分の寝室に引っこんだ。
完全に寝静まっていた。イグナシオは足を忍ばせるようにして自分の寝室に向かった。
人ひとり死んだって、みんな熟睡しているのだ。世界はなにも変わりはしない。
下山の遺体は聖堂に安置されている。恐怖よりも、その死体に唾をかけて嘲笑ってやりたい気分だった。
食堂の横を抜けた。人の気配がした。藤沢文子だった。黒い修道服が闇に溶けこんで、白い顔だけがうかびあがっていた。
イグナシオは引き寄せられるように彼女にちかづいた。
厨房は清潔に磨きあげられていたが、微かに生ゴミの臭いがした。ステンレスの流し台に月の光が反射して、ぼんやり文子の顔を照らした。
「かわいそうに」
文子はイグナシオを胸に抱きこんだ。
イグナシオの頬が、ゆたかな文子の乳房を押し潰した。イグナシオは、文子の胸の先端が、布地の下で硬くなっていくのに気づいた。
文子が微妙に下半身を動かした。腰でイグナシオの下腹をさぐっていた。文子の下腹とイグナシオの下腹がこすれあった。
いままでの甘い香りとは異質の匂いが、幽かに文子から漂った。イグナシオは自分からこすりつけた。文子の修道衣とイグナシオのズボンがこすれあって秘めやかな音をたてた。
文子が喉を鳴らした。狂おしい息を洩らした。両手をのばし、イグナシオの尻をつかみ、強弱のリズムをつけて動かした。
イグナシオは文子の切実さに圧倒されながら、その靴の上から足を掻くような行為にのめりこんでいった。
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第二章 豚小屋
1
死者のためのミサは、重々しく進行していた。聖歌も、オルガンの響きも、司祭の唱えるラテン語のキリエ・エレイソンも沈鬱であった。
修道女たちは聖堂のいちばん後方にかたまっている。藤沢文子は修道女の中でも、もっとも目立たぬ左隅の席に着いていた。
朝から曇っていた。晴れていれば東向きの祭壇の背後にステンドグラスが極彩色に輝くのだが、今日は鈍くぼんやりとくすんでいた。
儀式も、そして天候も悲しみを演出してはいたが、実際に下山の死に痛みをかんじている者は皆無ではないか、と文子は考えた。
下山少年の両親は祭壇にいちばん近い席に並んで座り、ときどき息子の柩《ひつぎ》に視線をやっていた。
イグナシオの下山殺しは、防犯部少年課の刑事が直接出向いて調べた結果、事故ということで決着がついていた。
どうやら刑事たちは納得していなかったらしい。しかし事件の立証は不可能だったようだ。
文子は園長と教務主任のやりとりを聞いてしまった。下山の両親が息子の死の連絡を受けて最初に口にしたのが、補償のことだったという。
イグナシオはうつむいていた。事故として決着がついたとはいえ、下山の両親からは息子を殺してしまったことを激しく責められ、そしてやはり補償についてしつこく迫られたようだ。
それに同級生や下級生の好奇の眼差しからも逃れることはできなかった。
文子は声をあげたい衝動を抑えていた。ジロジロ見ないで! そう叫びたかった。
もちろん、イグナシオのしたたかさも充分に理解していた。老練な刑事たちの追及を撥ねのけたのだ。
イグナシオはうつむいて、笑いを噛みころしているのかもしれない。
文子は眼を閉じた。あの少年にはなにかが宿っている。卒業を間近にひかえた中学生の姿をしたなにか[#「なにか」に傍点]だ。
神に戦いを挑み、敗れ、地獄の長となった悪魔と呼ばれる天使は、なによりも美しかったという。そして知力に優れていた。
美貌と知力。イグナシオは、そのどちらも兼ね備えていた。
施設では収容生を区分けし、管理対応を考える意味で、毎年春に知能テストをおこなっていた。
イグナシオが中学一年のときに最初に受けたテストの結果、教師のあいだで起きた騒ぎを、文子はいまでもはっきりと覚えていた。
IQ百八十に迫らんとするイグナシオの能力。肯定的にとらえる者もないわけではなかったが、殆どの声は危惧するものであった。
教師たちは経験的に知っていた。ほどほどの知能を持つ少年はどちらかといえば道徳的であるが、過剰な知能を持つ少年は危険なのだ。その能力は、たいがい悪い方向に発揮される。
ところがイグナシオは、中学二年のときの二回めのテストでは、IQ九十八というごく平均的な値を残した。
学科の成績も、初めからごく中庸な、平均的な学力を示していた。中一のときの知能テスト以外、イグナシオは一切ズバ抜けたところを見せていない。
教師の中には、イグナシオの作為を指摘する者もいた。能力を隠している、というのだ。
知能テストの場合は、あきらかにそうだろう。しかし、学科となると、これは難しい問題であった。
たしかにIQの高いものは成績もそれなりに高いはずであるが、例外もあるのだ。勉強をする気がなければ、覚える気がなければ、その成績が中庸なものとなるのは当然だ。
事実イグナシオは授業中も自習中も、ノートに絵ばかり描いていて、教師に注意されていた。マンガ風もあれば意味不明の抽象的な模様もあったりと統一されたものはなかったが、絵が好きなようであった。
とにかくイグナシオという少年は、自分自身をごく普通な、平均的な人間であると見せかけようと演技している、というのが教師たちの感想であり、実感であった。
*
賛美歌にハーモニーをつける外来の信者がいた。巧みな歌唱であったが自己顕示が透けてみえ、死者のためのミサが浮わついてかんじられた。
主よ、みもとに近づかん……
賛美歌のトーンは重く沈んでいるにもかかわらず、ノルマをこなすような調子でミサは進行していた。
文子は瞳を閉じ続けていた。瞼の裏側では、イグナシオが微笑していた。
あのとき、イグナシオは、笑いながらフルスイングしたのだ。
それはボイラー室で文子に向けられた媚びの含まれた微笑とちがって、解き放たれた真実の笑いであった。
文子は胡桃《くるみ》の大木の陰に隠れて、なかば虚脱したようになってイグナシオの笑顔を凝視した。
イグナシオは、笑いながら、力をためて反りかえった。しなやかに駆けながら、下山の背後で躍った。
ゴッ、
バットが下山の後頭部を直撃した瞬間の音だ。
ごくあたりまえの音だった。ある程度硬いものを、硬い棒で叩いたときの音にすぎなかった。音は聞こえたが、血は見えなかった。
現実感は、いまでもまったくなかった。文子のもつイグナシオによる下山殺しの印象は、究極の舞踏を見た、といったかんじかもしれない。それは、あきらかに歓喜の姿であった。
*
文子は全てを目撃したのだ。農場まで出向いたのは、修道女見習いの女の子が夕食用の卵を割ってしまったからだ。
コンクリート床に散った鮮やかな黄身の色彩。砕け散った白い殻。なかなか壮観だった。生徒たちにはあきらめてもらうとして、教師のぶんは確保しなければならなかった。
農場の責任者である老修道士はロザリオの祈りに参加して不在だった。もうひとり、数年前の卒業生が農場を手伝っていたが、彼は定時制高校に通学していて、やはり不在だった。
事後承諾ということで、文子は鶏舎に入った。どうしても必要な二十個ばかりの卵を籠に入れた。
鶏糞の臭いは目にしみるほどであったが、のどかな気分だった。吐く息はまだ白かったが、かなり春めいた雰囲気だった。
見るとはなしに鶏舎の金網ごしにグラウンドを見た。文子の位置からだと、グラウンドはやや見あげるかたちになる。
少年がふたりいた。立ったまま何事か話しこんでいた。バットを持った少年がイグナシオであることに文子は気づいた。
鶏舎の金網には鶏の羽毛が附着していて、あまり見通しがよくない。文子はややあせり気味に外にでた。
身を隠す場所を探した。グラウンドにもっとも近い場所にある胡桃の大木が目にはいった。
文子は籠の卵に気を配りながらも駆けるようにして胡桃の木の陰に身を隠した。
以前からイグナシオのことは気になっていた。文子だけではない。修道女たちは罪の意識を覚えながらもイグナシオを盗み見た。
女という性にとって、イグナシオという存在は麻薬だった。美しいものに惹かれる、当然のことだ。そう文子は心の中で居直り気味に折り合いをつけていた。
ただ、最年長の老修道女だけが、あるとき小声で呟いた。
『美しすぎるものには、神ではなく、悪魔が宿ります』
夜露の降りつつある土のしっとりした匂いを胸に満たしながら、文子は老修道女のことばを反芻《はんすう》していた。
イグナシオは素振りをはじめた。どちらかといえば痩せた躯であるがタイミングがいいのだろう、文子のところまでバットが風を切る音が聴こえた。
ごく自然だった。文子はうっとりと素振りをするイグナシオを見つめた。
その直後だった。イグナシオが下山の後頭部を打ち砕いたのは。
*
神父から、シャワー室にいるイグナシオの面倒をみてやってくれと命じられたとき、文子は息が止まりそうだった。
悪魔に呼びよせられている……そんなことを思いながら、着替えを持ってシャワー室に急いだ。
ところどころタイルが剥離したシャワー室の湿った空気のなかで、イグナシオは背を向けて立ちつくしていた。寒そうだった。ときどき胴ぶるいしていた。
この子を護ってあげたい……気持ちは抑えようがなかった。殺人者であり、悪魔であっても、だ。それは文子の母性本能でもあったが、もっと別の感情もあった。
それは聖なるものに対したときの恍惚《こうこつ》にちかかった。文子の眼前に佇《たたず》んでいるのは殺人者なのだ。しかし、それは、我を忘れてキリストに祈っているときと同様の昂りを文子にもたらした。
イグナシオの後ろ姿を数分見つめた。そしてようやくイグナシオの運動着が血で茶色っぽく汚れていることに気づいた。
文子は我にかえった。わざと足音をたて、一歩前に進んだ。
イグナシオは、ゆっくりと振り向いた。
あきらかにイグナシオは目を見張った。文子は軽く会釈した。このとき、ほんとうの共犯関係ができあがったといっていい。
文子はボイラー室にイグナシオを誘った。しゃがみこんで、ボイラーに火をつけた。イグナシオが見つめていた。躯の芯にも火がついた。イグナシオの視線が文子の躯に火をつけた。
そして、文子はイグナシオに下山殺しを目撃したことを告げた。
『わたしは、黙っていて、あげます』
このことばだけで、イグナシオは全てを理解した。文子は一歩踏みだした。イグナシオの耳許に顔を寄せた。
そして、イグナシオの殺意に気づいた。死んであげてもいい、と思った。そのとたんに抑えていたものが溢れた。閉じていた扉が開くようなかんじだった。下着を汚してしまったことを自覚した。
文子は処女ではなかった。しかし修道女としての禁欲生活は長い。必死で昂りを抑えこんだ。牝の獣の衝動をかろうじて抑えることができたのは、神父が警察に連絡したという一点が脳裏を掠めたからだ。
とりあえずイグナシオの血をおとさなくては。文子は母親の気持ちでシャワー室の中に入った。
イグナシオの裸体は無駄が一切なかった。見事にバランスがとれていた。胸の筋肉には男の匂いがあったが、まだ薄い腋下からは幼い酸っぱい匂いがした。
少年から男へ変化する時期の中途半端な曖昧さに、文子はひどくエロティックな感情を抱いた。このまま成長しなければいい、心底からそう思った。
やがてイグナシオの下腹は、その幼さの残る躯に不釣り合いな状態となった。凶器めいた、危ない張りつめかたであった。
文子は一瞬、迷った。男の欲望というものはひどく直線的であることを理解していた。解放してやりたい、と思った。
まだ長崎で女子高に通っていた頃だ。結婚を誓った男がいた。躯を求められた。文子は厳格で敬虔なキリスト教徒として育てられた。
男の欲求を拒みきれないときがあった。苦肉の折衷案が、手で処理してやることだった。それは文子の頑《かたく》なさに、男が自分から言いだしたことだった。
彼は文子に男のメカニズムを教え、種々の技巧を教えこんだ。文子は男という性にどこか滑稽なものをかんじながらも、彼が呻《うめ》き声をあげる瞬間を愛《いと》しいと思った。
同時に肉体を拒みながら、このようなスリリングな瞬間を愉しんでいる自分自身に偽善的なものもかんじていた。男は文子の躯に触れたがった。自分が偽善者であるという意識のせいで、逆に文子は肌に指一本触れさせなかった。
幼い頃から美貌を讚えられて育った。年頃になると、肉体は過剰にならぬ程度に艶っぽく潤った。文子は男たちの視線を無表情に、キリスト教徒的|慇懃《いんぎん》さでかわしてきた。しかし見られることに対する快感は、その裏側で充分かんじていた。
肌に触れたがる男の欲求は切実だった。文子の拒絶には、ほんのわずかだがサディスティックな匂いさえあった。
それでも男は、とりあえず文子が処理してやれば満足した。白濁を放出してさえやれば、なんとなく納得した。
文子はイグナシオの硬直を盗み見た。その硬直を解いてやりたいという欲求にふるえがおきた。それは本能的といっていいほどのものであった。
おこなったことはないが、口に含むという技巧があることを知っていた。そうしてあげてもいい、と思った。イグナシオが口中に放った瞬間、自分はどのように対処するのだろうか。その一瞬を想っただけで腰がどんより重くなり、立っているのが辛くなった。
イグナシオのかたちは、むかしの男よりも、ひどく凶器じみていた。大きさは似たようなものなのだが、もしそれが文子のなかに打ちこまれれば、躯の襞《ひだ》という襞を全て押しひろげ、きつく接触してこすりあげ、熱をもつのではないか。
乳首が尖っていた。ひどく尖っていた。それは生理直前のあの硬直よりもきつく、切実だった。布地にこすれて、下唇を噛みたくなるほど痛んだ。
文子は男という性を前にして、しかもまだ少年の匂いのする躯を目にして、自分の肉体がこのように強烈な変化をおこすことに、眩暈《めまい》に似たときめきと不安を覚えていた。
乳首の痛みが、逆に文子に冷静さをもたらした。
『自分で洗いなさい』
そのひとことは、自分で処理しなさい、ということでもあった。
刑事が取り調べにやってくるのだ。文子にできることは、なにもない。わざとイグナシオをつきはなすことが、イグナシオを支えることだ、と文子は考えた。
*
とはいえ、応接室でイグナシオが取り調べを受けているあいだ、文子は気も狂わんばかりだった。
祈りをはじめとする諸々《もろもろ》の日常の務めをはたしながら、幾度溜息をつき唇を噛んだことか。
修道女の就寝は早い。九時にはベッドに入る。文子はいったん硬いベッドに横になった。一時間ほどして、起きあがった。
とても寝ていることはできなかった。そっと自分の寝室から忍び出た。応接室には、あかりが点っていた。まだイグナシオは取り調べを受けていた。
文子は冷える戸外に立ちつくし、ロザリオを手にした。矛盾する行為と知りながら、聖母マリアに祈った。
どれほど時間がたっただろうか。応接室で人影が動いた。文子は小走りに食堂に駆けた。厨房の入口に身を潜めた。
イグナシオが眠る大寝室は、食堂脇の階段を登らなければならない。待ち伏せるかたちだ。
文子は息をころしていた。動悸が烈しく、すっと意識を喪いそうだった。自分がまっしろな顔色であることをかんじた。
イグナシオは無表情だったが、文子は彼の唇の端《はし》にうかんだ微笑を見逃さなかった。
勝ったのだ! 声をあげたかった。かわりにイグナシオに劣らぬ無表情をつくった。
厨房の中にイグナシオを誘い、ドアをロックした。天窓から射しこむ月あかりがぼんやりイグナシオの顔をうかびあがらせた。
イグナシオの唇の端にうかんでいた微笑が歪んだ。とたんにすがりつくような泣き顔になった。
文子はイグナシオを胸に抱きこんだ。そのまま壁によりかかった。イグナシオの顔を胸に押しつけた。乳房を押し潰すようにイグナシオをきつく動かした。
イグナシオも必死で文子の胸を探った。少年の飢えの切実さ、痛々しさが文子の胃のあたりを縮みあがらせた。
護ってあげる……心の中で囁いた。とたんにイグナシオは顔をあげた。文子はうなずいた。イグナシオの肩から硬直が消えていった。文子はふたたびうなずき、もういちどイグナシオを胸に抱きこんだ。
イグナシオの肩から強《こわ》ばりは抜けたが、こんどは彼の別の部分が硬直しはじめたのが文子に伝わった。
文子が抱いていた母親の気分は、女の気持ちに変化した。しかし文子はそれを母親的な感情であると自分を偽った。
だからリードすることができた。イグナシオの硬直を解いてやるのは自分の務めであるとすることができた。
だからといって、むかしの男にしてやったように、その指先と掌でイグナシオを解放させる気にはならなかった。
衝動があった。烈しかった。イグナシオと密着していたかった。イグナシオひとりが呻くのではなく、自分も合わせて吐息を洩らしてみたかった。
もちろん明確にそのように考えたわけではない。躯が命じたのだ。
しかし文子は一直線に走らなかった。自制した。これも明確に意識したわけではない。修道女としての罪の意識もかすかにあった。イグナシオに溺れこんでしまう怖さもあった。
が、なによりも文子を自制させたのは、完全に失ってはいなかった母の感情であった。自分の欲望よりも、まずイグナシオを護ること。まだ、はしゃげる状況ではない。
しかし、イグナシオは文子の自制の気持ちなどおかまいなしに、服のまま、こすりつけてきた。
文子の自制は脆く崩れた。生ゴミの臭いのする湿ったコンクリートの床に倒れこんでもいい。肌と肌を直接触れあわせ、絡ませ、溶けあわせたい。
かろうじて、文子は気持ちを抑えた。そのかわり修道衣のまま、男を迎え入れるときの大胆で淫らな格好をとった。立ったままで、だ。
イグナシオもズボンを穿いたまま、文子の両足を割ってきた。
溢れさせたものが、文子の内腿にまで伝わった。乾いた音をたててこすれていた文子の修道衣が秘めやかな音に変化した。
文子は無意識のうちにイグナシオの尻に両手をまわしていた。自分のちいさな、しかし敏感なスイッチに、イグナシオの硬直の先端を密着させた。
強弱のリズムをつけて動かすと、狂おしい息が洩れた。自分が我を忘れ、淫らに腰をくねらすことが、罪の意識とともにすばらしい解放感をもたらすものであることをかんじていた。
文子は自分が抑圧してきたすべてのものを疎ましく思った。護っているつもりで、逆に自分はイグナシオから与えられているのではないか。
そう実感した文子は、服の上からお互いをこすりつけあうというやや遠まわしな、しかも奇妙な直接的な行為にのめりこんでいった。
イグナシオは勘が鋭かった。すぐに文子が求めているポイントを理解した。そして自分をころして奉仕をしはじめた。
文子はそれに気づき、悲しくなった。
『だめ……自分がしたいように……わたしを壊してもいいの』
そう囁くと、イグナシオの動きは一瞬止まった。
『さあ、なにも考えないで。思いきり』
さらに囁き、イグナシオにくちづけした。イグナシオの舌先を自分の口の中に吸いこんだ。
おどおどとイグナシオの舌先が文子の舌を探った。文子は自分から絡ませていった。イグナシオの唾を喉を鳴らして吸った。
イグナシオは驚いたようだ。しばらく吸われるままになっていた。唐突に吸いかえしてきた。文子のすべてを吸いつくさんばかりに強烈に吸ってきた。
同時にイグナシオの硬直はさらに硬さと大きさを増し、しかもなんの加減もなく服の上から文子の躯にブチ当たってきた。
暴力的であった。技巧も労《いたわ》りも、愛情もなかった。ただ、直線的に、暴力的にあてがってきた。
文子はおもわず痛みを訴えかけた。が、それは別の呻きにとってかわられた。文子はこみあげてきたものを、必死で引きのばし、耐えた。イグナシオの炸裂に合わせるために、だ。
*
ゆっくり、文子は瞳を開いた。死者のためのミサは終わっていた。参列者が立ちあがる気配がした。瞳を伏せたまま呼吸を整えた。
悔しさに似た気分だった。自由にイグナシオを抱き締めることができない。
まず、外来の信者が聖堂から出ていった。下山の両親が退屈を隠して、見よう見まねで十字を切って出ていった。
文子は跪《ひざまず》いたまま、考えこんでいた。
イグナシオがなぜ、下山を殺したのか。その理由がわからない。仲の良い友だち同士だったというではないか。
逆にいえば、その理由がまったくわからないからこそ、イグナシオに対する警察や教師の追及も曖昧に終わったといえる。
もし、ふだんから憎しみあっていた関係だったとしたら、こうはいかなかっただろう。
文子は考えこみながらも、退出していく生徒たちの気配に集中していた。
さりげなく顔をあげた。
イグナシオは、文子を、完全に、無視した。
それは無視というよりも、文子がその場所に存在していないかのような態度だった。
文子の呼吸が止まった。ショックだった。イグナシオからなんらかの信号が送られてくるものであるとばかり信じていたから。
もちろん、それは大っぴらなものではありえないだろうが、男と女が放つあの独特な電気がお互いに流れると思っていたのだ。
文子は聖堂に跪いたまま、凍えていた。文子を無視したイグナシオの横顔は、いままで文子が目にしたどのイグナシオよりも端整で、美しかった。
2
緑色の便がいくらか散見された。ニューカッスル病かもしれない。イグナシオは農場責任者の老修道士カダローラのところへ駆けた。
カダローラは作業ズボンに両手をつっこんで、のんびり鶏舎の中に入ってきた。
「先生、これ……」
指差すイグナシオに向けて、イタリア人修道士は瞳を大きく見開いた。
カダローラの反応に、イグナシオは細かく喉仏を上下させた。もしニューカッスル病だとしたら、鶏は全滅するかもしれない。養鶏においてもっとも恐れられている伝染病だ。
とりあえず鶏たちは元気に餌を啄《ついば》んでいる。少々ずれた鬨《とき》の声をあげる鶏もいる。いつもと変わらぬのどかな鶏舎だ。
大きく見開かれたカダローラの瞳が悪戯《いたずら》っぽいものに変化した。それでもイグナシオは、すがるように鷲鼻のカダローラを見つめている。
カダローラはうなずき、糞を直接指でつまみあげた。イグナシオの眼前に突きだす。
「よく見てごらん。これ、葉緑素じゃないか。理科、やったろう。葉緑素。習っただろう」
イグナシオは曖昧にうなずきかえした。葉緑素ということばは、たしかに耳にしたことがある。
「くみあい飼料のほかに、昨日、なにを与えたか?」
イグナシオは手を叩いた。昨夕、鶏たちに春草を与えた。五百羽もの鶏に与える草を刈るのに、牛や豚の世話や日常的な作業をこなしながらであるが、半日かかってしまった。
「葉緑素って……草?」
素朴なイグナシオの質問に、カダローラは微笑した。
「これ、草の緑。たくさん食べたからね」
カダローラの日本語はたどたどしいが、独特のリズムがあって心地良い。
「イカスミ知ってるか?」
「イカスミ?」
「いつかイグナシオ、たんと食べさせてあげたいね」
「あの、海のイカのスミ、ですか?」
「そう。パスタにからめる」
「パスタ?」
「ウドンのこと」
「ウドンにイカのスミを?」
「そう。いちばん海の味。コクがある」
言いながらカダローラはつまんでいた鶏糞を床に棄て、汚れた指を作業ズボンで拭った。
「イタリア料理、じつは中国料理」
「なんで?」
「伝わったのね、中国から」
イグナシオは口をすぼめてカダローラを見あげた。
「フランス料理、じつはイタリア料理。フランスにはイタリアのお姫さまが嫁ぐまで、料理なんてなかったね」
イグナシオは首をかしげた。具体的にフランス料理がどのようなものかは知らないが、料理の究極といったイメージはあった。
「むかし、ヨーロッパ遅れていた。中国に習ったもの、たくさん。キリストもアジアで生まれた」
カダローラの話は脈絡がなくなってきた。イグナシオは彼の青い瞳をまっすぐ見つめながら軌道修正した。
「草の緑とイカスミは?」
カダローラは肩をすくめた。
「イカスミ食べると、イグナシオ驚くよ」
「なぜ?」
「鶏といっしょ」
「――まっくろ、になる?」
「そう」
カダローラは首を縦に振り、さきほどまで鶏糞をつまんでいた手で、イグナシオの頭を撫でた。
べつに気にならなかった。イグナシオ自身農場で働きはじめてまだひと月たらずだが、平気で家畜の糞に直接触れるようになっていた。
イグナシオは、このイタリア人老修道士が好きだった。彼はまさに世捨て人だった。透明で濁ったところがなかった。
「イグナシオが面倒みるようになって、鶏たち、卵たくさん生むようになった」
カダローラのことばに、イグナシオは顔を輝かせた。じっさいはひと月たらずで明確な結果があらわれるはずもないが、カダローラはイグナシオがいろいろ工夫しながら愛情ぶかく鶏に接していることを見抜いていた。
「配合飼料に牡蠣《かき》殻だけでも鶏は卵を生む。でも、鶏だって野菜サラダ大好き。新鮮なもの食べたから新鮮な色」
カダローラはもういちど緑色の糞を示して言った。
「じっさい草は配合飼料に較べて、たいして栄養はないよ。でも、おいしい。これが大切」
イグナシオはうなずいた。なんとなくカダローラの言うことを理解した。
「ニューカッスル病、誰から聞いた?」
「北さん。どんなことに注意したらいいかって」
「北とはうまくいってるか?」
「バッチシ」
この修道士に対してだけは、イグナシオもくだけたことば遣いだった。カダローラもそれを咎めなかった。尊敬を求める聖職者のなかにあって、彼だけは例外的な存在だった。
「ちょっと言っていいか」
「なんですか」
「うん」
カダローラは柔らかな笑顔をうかべ、鶏のトサカに触れた。
「イグナシオは、もっとも聖職者に向いている」
「――オレが?」
真顔でイグナシオは訊きかえし、あわてて茶化した。
「オレなんか、クズですよ。先生は知らないでしょうけど、悪いことばかりしてますし」
カダローラは柔らかな笑顔のまま、答えた。
「わたしも罪人だった。監獄がどんなところかさえも知り尽くしている」
*
生まれて初めて与えられた個室だった。農場のトラクターなどをしまうガレージに面して、木造モルタルの長屋のような平屋が建てられていた。
イグナシオは、そのいちばん西側の部屋を与えられていた。四畳半ほどの板張りで、暗くなってから戻ると、西日であたためられた室内の空気が温室のようにあふれだした。
机と米軍払い下げの鉄パイプベッド、ちいさな洋服ダンス。それが調度の全てだった。
イグナシオはベッドに横になっていた。窓からは五月の夜風が流れこんでいた。腹のあたりが冷えてきた。窓を閉めるために上半身を起こすのは面倒だった。両手を腹の上においた。
細かく貧乏揺すりした。カダローラは監獄を知っていると言った。刑務所と呼ぶべきところを監獄と表現するのは、カダローラが戦前から日本にいたからだ。
イグナシオはハイライトを咥《くわ》えた。フィルターを咬んだ。火をつけずに、葉の芳香を胸に満たした。
カダローラは戦時中、日本軍の収容所にいた。それを監獄と表現したのだろうか。
しかし、それならば園長も収容所にいたはずだ。天皇が神だった時代に、キリストが神であるとする外人聖職者たちは凄まじい苦汁をなめたようだ。
イグナシオの知っているかぎりでも、拷問の結果、いまだに車椅子の生活を続けているポーランド人聴罪神父がいる。僧衣の下の神父の足がどのような状態になっているのかイグナシオに判断はつかないが、神父の下半身は造りものめいた無機的で硬直したフォルムだ。
机の上を手探りして、マッチを取った。ハイライトに火をつける。煙が喉に沁みる。喫煙は中学一年の頃から知っていた。どう持ちこんだのか同級生や先輩が煙草を所持していた。
もっとも教師の監督から離れ、個室を与えられ、自由にタバコを喫えるようになった現在も、一日にせいぜい数本程度だった。
イグナシオは立ち昇る煙を目で追った。カダローラの言う監獄とは、戦争中の収容所ではない。そう結論した。
カダローラはなにか罪を犯して刑務所にいた。修道士になったのは、そのあとではないだろうか。
自分が聖職者に向いている、というカダローラの指摘は、イグナシオを面食らわせた。しかし一笑に付してしまうには、どこか引っかかるところがあった。
ハイライトを喫いながら、イグナシオは考えこんだ。カダローラはあきらかにイグナシオからなにか嗅ぎとっている。刑務所に入ったことのある自分と同じ匂いがイグナシオからする、とカダローラは言ったわけだ。
藤沢文子がカダローラに下山殺しを喋ったのだろうか。
それは、ない。イグナシオは確信をもっていた。たとえそうであっても、カダローラは警察に報告などしないだろう。
イグナシオは直感的に気づいていた。ほんとうに宗教的な人間は、じつはもっとも反社会的な人間だ。
なにしろ現世に一切価値を見出していないのだから。カダローラを見ていると、よくわかる。もし、いまイグナシオがカダローラを襲えば、カダローラは平然と死んでいくだろう。
イグナシオはタバコを消し、目を閉じた。カダローラを締め殺すところを空想した。
カダローラはいつもの柔らかな微笑をうかべている。いや、よろこびさえ、その瞳にはうかんでいる。自分の命をイグナシオに与えることができるよろこびだ。
「先生は、オレになんでもくれるだろう」
イグナシオは目を開いた。外を行く人の気配がした。起きあがり、電気湯沸し器のコンセントをつなぐ。
ペーパー・フィルターに三人分のコーヒーの粉をセットしていると、ドアがノックされた。イグナシオの返事を待たずに北が入ってきた。イグナシオは訊いた。
「教科書は?」
「自分の部屋の前に棄ててきた」
「オレの部屋まで持ってくることないもんな」
北は農場の仕事を早めに切りあげ、定時制高校に通っていた。立派な体格をしている。教師に定時制高校をすすめられ、素直に通い続けている。一生この農場で働くつもりだ、とイグナシオに言ったことがある。そうだとすると工業高校の電気科に通うことなどまったく無意味であるが、本人はべつに疑問もないらしい。
コーヒーのセットは、北が買いこんできた。はじめは北がコーヒーをたて、イグナシオにふるまっていたのだが、あるときたまたまイグナシオがコーヒーをいれた。それは北のコーヒーよりも格段にうまかった。以来、豆やフィルターは北が買い、イグナシオはコーヒーをいれる役となった。
北は工業高校の、しかも定時制に女子高生がいないことを嘆いた。イグナシオは相槌を打ちながら、コーヒーの香りとともに北の躯が弛緩していくのを見守った。
三人分のコーヒーができた。イグナシオは立ちあがり、いちばん大きなコーヒー・カップを持った。カダローラ修道士の分だ。
*
「先生。コーヒー、入りました」
「ありがとう」
カダローラは両手でカップを持った。
「イグナシオは喫茶店もできるな」
ひとくち含んで、ウインクした。
「先生も喫茶店とか行くの?」
「いや。日本では数えるほど」
「金持ってないもんな」
「ない。外出のときは、いつも汽車賃だけしか頼まない」
「コーヒー、好きですか」
「好きね」
「北さん、よろこびますよ」
「うん。礼を言わなくては」
「あの……」
「なんだ?」
「他になにか欲しいものありますか」
「七千円の給料で無理しない。毎晩コーヒー、これで充分」
こんどは自分も金をだして豆を買おう、豆を選ぼう、とイグナシオは考えた。それから大きく息を吸った。まっすぐカダローラの顔を見つめた。
「なぜ、監獄にいったんですか」
カダローラはあっさり答えた。
「人を殺した」
イグナシオはカダローラを見つめ続けた。いつもと変わらなかった。透明だった。イグナシオはゆっくり視線をはずした。軽く頭をさげた。
「おやすみ」
カダローラが声をかけた。イグナシオは顔をあげ、すがるようにカダローラを見つめた。カダローラはうなずいた。
「いつかは、とどく」
「なにが、ですか」
「祈りだ」
イグナシオは口の端を歪めた。正直に言った。
「オレは祈ったことがありません」
「聖堂で跪《ひざまず》くことが祈りではない」
カダローラは言い、ゆっくりドアを閉めた。
*
部屋へ戻ると、北が顔をくっつけるようにして週刊誌を見ていた。イグナシオに気づくと照れて言った。
「凄ェだろう」
イグナシオはヌード写真に顔を近づけ、口笛を吹いてみせた。北は肩をすくめ、コーヒー・カップを持って出ていった。イグナシオはぼんやりと平べったい女の裸を見つめた。
まったく昂らなかった。床に週刊誌を投げ棄て、ベッドに横になった。両手を頭の下で組んだ。
聖堂で跪くのは祈りではない。では、祈りとは何か。イグナシオは思い巡らした。思いは空転した。あくびが洩れた。
「オレだって人を殺したぜ」
小声で呟いた。文子を想った。厨房での行為を反芻《はんすう》した。お互いの性器を服の上からこすりつけあう。切実で、みじめだった。快感は鋭かった。|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》が裂けて、血が吹きあがりそうだった。
文子を想っているうちに、イグナシオの下腹は硬直してきた。そっと握った。刺激を加えているうちに、イグナシオは眠りこんだ。
3
昭和五十年四月。ベトナムの戦争が終わった。イグナシオは十七歳になっていた。戦争終結のニュースは北から聞いた。まだ戦争をしていたのか、という感想を持ったが、もちろん口にしなかった。北に合わせて昂奮してみせた。
一年間の農場での厳しい肉体労働は、イグナシオの躯を大きく変えていた。過剰でない、実質的な筋肉がイグナシオの躯を引き締めていた。そのため服を着ると、逆に一年前よりも痩せてみえた。
しかし、イグナシオは退屈しきっていた。あれほど夢中になっていた鶏の世話も、産卵率がどんどん伸びていき、頂点に達し、横這いになった時点で熱意をなくしていた。
鶏だけでなく、牛や豚の世話も惰性で続けているだけだった。たった一年で、イグナシオの下山殺しは忘れ去られ、施設の生徒たちは週一度、土曜日の農作業実習のときも、イグナシオを特別視しなくなっていた。
イグナシオは穏やかな表情をつくって日々を送っていたが、じつは破裂しそうだった。
発情期の牡牛が一晩中鳴き叫んだ翌日の午後だった。鶏舎でさぼっていたイグナシオのところへ北が駆けてきた。
「なんですか?」
醒めた声でイグナシオは言い、北から視線をはずした。
「いいから来いって。ちょっとした見物《みもの》なんだ」
強引に北はイグナシオの腕を引いた。イグナシオは無表情に、しかし怠《だる》そうに北に従った。
豚小屋から豚の悲鳴が聴こえた。北は満面に下卑た笑いをうかべ、イグナシオを急《せ》かした。
「見ろ! ホモってやがるぜ」
それは睾丸を刳《く》りぬかれて去勢された二頭の牡豚だった。
北は重なりあっている豚の背後にまわって指差した。
「ほら、肛門にブッ込まれちまってよ」
さらに顔を近づけ、声をあげた。
「ドリルだからよ、抜けねえんだ!」
豚のペニスは螺旋状をしている。それを肛門に挿し入れられたほうの豚は哀れっぽく悲鳴をあげていた。挿し込んだほうも抜けずに引っぱられて、後脚で烈しく地面を蹴って騒いでいる。
「血が出てるぜ、血。ケツから血ィ出して暴れてやがる」
大声で言って、振り向いて、北は息を呑んだ。
イグナシオの顔から完全に血の気が失せていた。イグナシオは一歩踏みだして、北に顔を寄せた。抑揚を欠いた声で言った。
「ばかやろう」
北は後退《あとじさ》った。いままで見たことのないイグナシオの表情だった。北の顔が泣きそうに歪んだ。
イグナシオはゆっくり左右を見廻した。やはり抑揚を欠いた声で訊いた。
「あれはどこにある?」
「あれって……」
「バラすときに使うナイフがあっただろ」
北は唇をふるわせ、首を左右に振った。イグナシオの言っているのは、豚を解体するための半月状をした刀のことだった。
イグナシオは残飯を煮込むための大鍋のある竈《かまど》に近づいた。刀はそこの天井の梁に、あった。背伸びして、イグナシオは手に取った。
刃の部分は鈍い銀色で、ひどく曇っている。血と脂のせいだ。柄もやはり血と脂を吸ってまっくろで、イグナシオの掌に粘ついた。
イグナシオは刃の横腹で北の頬を軽く叩いた。北は声にならぬ叫びをあげ、足を滑らせ、糞の中に両手をついた。
「邪魔なんだよ」
イグナシオが呟くように言うと、北は豚の糞の上を四つん這いになって逃げた。
重なりあった豚共は、あいかわらずけたたましい悲鳴をあげていた。イグナシオは上体を軽く折り、結合部分を覗きこんだ。
「いま、外《はず》してやるよ」
猫撫で声で囁いた。ペニスの根元に刃をあてた。じわじわと力を加えていく。
上に乗った豚が絶叫した。地面に転がった。死にもの狂いの勢いで脚を動かした。鉄柵に巨体をぶつけた。柵が歪んだ。
もう一匹の豚は、切断されたペニスを肛門に突っこんだまま、まだ哀れっぽい声をあげていた。
イグナシオは投げ遣りに肛門をえぐった。
*
夕食を食べずに、イグナシオはシャワーを浴びた。爪の間にのこった糞や汚れを丹念に落とした。髪も乾かさずにベッドに横になった。空腹ではあったが、天井を見つめて耐えた。
定時制高校から帰った北が、コソコソと自分の部屋に引っこんだ。イグナシオは起きあがり、習慣になっているコーヒーをいれた。
カダローラ修道士はいつもどおり、両手でコーヒー・カップを持った。
「ちょっと飲んでみてくださいよ、先生」
蕩《とろ》けるような笑顔をうかべてイグナシオが言った。カダローラは無言でひと口含んだ。
「濃いね」
「たっぷり豆をつかったから」
「うまい」
「でしょう」
カダローラは黙ってもうひと口コーヒーを飲んだ。しばらくして呟いた。
「最近、コーヒーの味が乱れていたよ」
「そうですか?」
「そう。でも、今夜の一杯は、なかなかだ」
「やったぜ」
イグナシオはおどけてみせた。カダローラは老人のシミの目立つ手の甲をイグナシオに向け、十字を切った。
「どこへゆく?」
「なんのことです?」
イグナシオはとぼけた。カダローラは大儀そうに腰を折り、床にコーヒー・カップを置いた。
「おいで」
カダローラはイグナシオを抱き寄せた。
「先生」
「なんだ?」
「オレも人を殺しました」
カダローラは答えず、腕に力をこめた。
「知ってましたか」
「いや」
「でも、先生はオレのことをいちばんわかってくれています」
「息子のような気がしていたよ」
「オレも先生が大好きです」
「――私は老人だ。もう、会えない」
イグナシオは老修道士からゆっくり躯を離した。
「ずっと訊きたかったんです」
「なにをだ?」
「先生はなぜ殺したか」
「訊きたいか?」
「いえ。先生はオレが人を殺したことを告白しても訊こうとしませんでしたから」
老修道士は深い溜息をついた。
「行け。成さんとしていることを、成せ」
顎をしゃくり、言った。それはキリストが自分を裏切ろうとして迷っているユダに囁いたことばだった。
イグナシオは冷たく笑った。
「先生。世界なんて、豚小屋ですよ。でも、先生だけはちがいます」
老修道士はもう一度溜息をつき、背を向けた。
*
改めて施設内を見廻して、イグナシオは唾を吐いた。唾は地面で泡立ち、黒く染みこんでいった。
広かった。施設の西側は昔のままの武蔵野の雑木林で、深夜だというのに山鳩がくぐもった声で鳴いていた。
土地は全て終戦直後、占領軍GHQから譲り受けたものだという。イグナシオは指を折って数えてみた。野球のグラウンドが三カ所、サッカー・コートに至っては六カ所もあった。
そして広大な農場。その北側には修道女たちが眠る建物がある。
イグナシオは農場にいちばん近いサッカー・コートに立っていた。月を見あげた。上弦の月が右半分をぼんやり輝かせていた。
ゴールに向かって駆けた。全力疾走した。幻のサッカー・ボールを蹴った。ボールは弓なりに伸びて、ゴールに突き刺さった。イグナシオは満足の笑みをうかべたが、その足はおもいきり空を切り、空気を裂いただけなので、股関節のあたりに鈍痛が残った。
イグナシオはリーのベルボトムのジーンズを穿いていた。生まれて初めて自分で買った衣服だった。
裾は自分でカットした。地面をこするほど長い。たとえば足首あたりでカットしたベルボトム・ジーンズは、マカロニ・ウエスタンの悪役のメキシコ系ガンマンのようで、イモだった。
イグナシオはリーの焼印の入ったレザー・ラベルに差した解体用の刀に触れた。深呼吸した。
修道女たちが暮らす二階建ての鉄筋の建物に向かった。バスケット・シューズが踏みつける玉砂利が軋んだ音をたてた。
4
藤沢文子の寝室は、二階の東側だ。去年のクリスマスのときに、潰す鶏の数を厨房責任者の修道女《シスター》に訊きに行ったとき、偶然二階の右端の窓から修道衣を身に着けていない文子が顔を覗かせたのだ。
イグナシオはもういちど解体用の刀を確認した。刃はつめたい。なににも増して存在感があった。
もう、ためらいはなかった。イグナシオは雨樋に取りついた。器用に登った。
幼い頃、垂直の鉄棒に登った。校庭にそんな遊具があったのだ。いちばん上まで登って、さらに登る格好をとっていると、やがて射精を伴わぬ幼い快感が下腹を奔《はし》った。
それは際限なく続きそうであったが、しまいには腕が疲れて地面に降りざるをえない。
同じ時期、修道女見習いの娘に風呂場で悪戯《いたずら》されて、やはり射精を伴わぬ快感を教えこまれたことがある。
そのどちらも眩暈《めまい》がおきそうな快感ではあったが、単なる生理的反応にすぎなかった。まだ、あの頃は、性的欲望、性的欲求がなかったのだ。だから、忘れることができた。
いまは、ちがう。肉体が疲れはて、かんべんしてくれと泣きごとを言っても、精神はひたすら欲する。幼い頃と快感の質は同じだが、白く濁った粘る液体がつきまとうようになった時点で、快感は以前とは違う回路に接続されてしまった。
なんら変わることはない。牝を求めてひと晩中泣き叫ぶ発情期の牡牛。そしてホモ行為にはしる豚。
イグナシオの下腹は雨樋に触れただけで硬直していた。ちいさく舌打ちした。息を整えた。
二階の右端の窓を軽くノックした。一回、二回、三回、四回……四回めで、室内で気配がした。起きあがり、こっちへ向かってくる影。イグナシオは身構えた。
カーテンが引かれた。ガラスに白く映った顔は文子だった。粗末な男物のシャツと白いトレパンを穿いていた。
瞳を見開いて、しかし文子は窓を開けようとはしない。イグナシオはくるしげな顔をつくった。
「落ちそうだ……開けてくれ」
もちろん芝居だが、躯を大きくゆらめかせると、文子はあわてて窓を開いた。
イグナシオは音をたてずに室内に躯をねじこんだ。文子は拳を握り、それを咬むようにして呆然としている。
「一年振りだな」
イグナシオは笑いかけた。
「何の用ですか」
掠れた、しかし尖った声を文子はだした。
「声がでかいよ」
ジーンズのレザー・ラベルに差した刀を抜き取って、イグナシオはチンピラのようなポーズで構えた。
文子はイグナシオと刀を交互に見較べた。そして失笑した。握ったままの拳をさらに咬むようにして、苦笑した。
とたんにイグナシオの肩から力が抜けた。文子の苦笑はワルガキに向けられた母の笑顔であった。イグナシオは顔をそむけつつ様子を窺った。
文子は手を伸ばした。半月状の刀をイグナシオの手からごく自然に取った。血と脂の腐った奇妙な酸っぱい匂いが刀の柄からした。文子は顔をしかめた。
「だめですよ、こんなに汚れたものを」
姉のような声を文子はつくった。顔はしかめたままだ。床に置いた刀を、そっと足で押し、ベッドの下に入れた。
「手を洗わなくては」
部屋は六畳ほどの広さがあり、ドア側の端《はし》にちいさな洗面所があった。イグナシオは石鹸を握らされ、口を尖らせて手を洗った。文子も手を洗った。
「広い部屋だな」
「たまたま、です。ほんとうは、ここは病室なんですよ」
イグナシオはそれに答えず、継ぎのあたったシャツとトレパン姿の文子をジロジロ見廻した。
「垢抜けねえ格好してるな」
だが、それらの衣服は粗末ではあっても清潔であった。ダブダブであることが、逆に文子の女らしさを強調していた。
「そんな格好で眠るのか?」
「ええ。修道衣じゃ眠れないもの」
微妙に文子の声が柔らかくなった。口調も軽い。
イグナシオはつっぱってはいたが、そのつっぱりが長もちしないであろうことも自覚していた。文子の胸に頬を押しあてたくて、そっと幾度も盗み見た。
文子はそれを意識して、腕を首のうしろにまわしたり、上半身をねじ曲げてみせたりして胸を強調した。
イグナシオは黙りこんでしまった。文子は顔を向けて、ベッドを示した。
「座れば」
ぎこちなくイグナシオは腰を降ろした。清潔なシーツからは幽かな文子の匂いがするような気がする。
文子はすこし離れて、ベッドの頭のほうに腰を降ろした。そっとイグナシオを窺う。喉仏が上下したのがわかった。
「どんな御用かしら」
イグナシオは黙りこくっている。文子はそっと上体を近づけた。距離を充分に縮めておいて、文子は咎める声で言った。
「わたしは修道女ですよ。ふつうの女ではありません。いらっしゃい、とあなたを迎えるわけにはいかないわ」
だが文子の吐息は、イグナシオの耳朶《みみたぶ》や首筋を柔らかくやさしく擽《くすぐ》った。
いきなりイグナシオが顔を向けた。泣きそうな顔だった。文子は駆け引きをする気をなくした。
「別れを言いに来たんだ」
「別れ?」
「オレは、ブタ小屋からおさらばするんだ」
そのことばで、文子は気持ちを硬化させた。
「なぜ、わたしになんかに、わざわざこんな時間に挨拶しにきたの」
我ながらまわりくどい言い方だ、とかんじた文子は、一瞬貧乏揺すりをした。
「わたしには関係ないわ」
「――そんなこと、言うなよ」
文子は声をふるわせて言った。
「一年前、死者のためのミサのとき、あなたはわたしを無視したでしょう!」
激した声だった。イグナシオはあわてて文子の口を手で押さえた。
「声がでかいよ」
ふたりは絡み合うようにしてベッドに倒れこんだ。
文子は、たまたま口の中に入りこんできたイグナシオの中指を咬んだ。加減せずに咬んだ。
イグナシオは血が滲んだ中指をあっけにとられて見つめた。
「千切れちまうぜ……」
「千切ってやる」
イグナシオは喉を鳴らした。恐怖心にちかかった。修道衣を着て、軽くうつむいて歩く文子の姿からは思いもつかぬ烈しいものがあった。鋭く、熱く、狂的な瞳だった。
イグナシオの恐怖は、すぐに愛《いと》しさに変わった。無我夢中で文子を抱き締めた。とたんにイグナシオの腕の中で、文子が溶けていくのがかんじられた。
「無視したのは……万が一のとき、巻きこみたくなかったからなんだ」
それはイグナシオの正直な気持ちだった。しかし腕の中の文子は、まったく信用していないようだった。
「悪魔が吐くセリフにしては陳腐よ」
「チンプって、なんだ」
イグナシオが訊きかえすと、文子はとたんに躯を揺らせて笑った。笑いはやがて、泣き笑いになった。
「お別れって……あなたはどこへ行くの?」
「わからない。新宿かな」
「新宿?」
急に文子は大人びた顔をつくり、イグナシオを馬鹿にしきった瞳で見つめた。
意外だった。施設の少年たちにとって新宿という街は理想であり、聖地であった。解放区といってもいい。
それは、地方の若者が東京にあこがれるのに似た感情かもしれない。イグナシオが収容されていた施設は都下にあるのだが、そのせいであこがれは東京という漠然としたものではなく、新宿、それも歌舞伎町と明確に対象が限定されていた。
東京へ行きさえすればなんとかなる……そう思いつめて上京する地方出身者。イグナシオたち施設の少年は新宿という街に同じ幻想を抱いていた。
文子はそれを理解しなかった。イグナシオは薄く笑った。しかし擦れ違いは、意図的に無視された。ふたりにはもっと切実な欲求があったからだ。
イグナシオは半開きの窓に落ち着きのない視線をはしらせた。文子はちいさく咳払いした。
緊張した空気が流れた。イグナシオは息ぐるしさが頂点に達するまで耐えた。文子を向いた。
文子は硬い表情のままイグナシオを見つめかえしたが、その瞳は濡れて輝いていた。イグナシオはそっと手を伸ばした。人差指で文子の瞼に触れた。文子は目を閉じた。肩が上下していた。
イグナシオは途方にくれた。人差指で文子の瞼に触れたまま、これから先を考えた。
考えているつもりだったが、じつは何も考えられないことに気づいた。そしておぼろげながら悟った。これは、考えることではない。
「おっぱい……」
小声で呟いた。さらに繰りかえした。
「おっぱいが……見たい」
文子がゆっくり瞼を開いた。イグナシオをまっすぐ見つめた。無言でシャツのボタンに手をかけた。
ボタンが全てはずされた。文子は両手で胸許を広げた。
淡い色彩の乳首の尖りを、イグナシオは凝視した。それから全体のかたちを確かめた。
文子は落ち着いていた。自信を持っているようにイグナシオにはかんじられた。イグナシオは右と左の乳房を見つめつづけた。
孤児には乳房の記憶は存在しない。それゆえイグナシオは文子の乳房のふくらみの存在感に圧倒されていた。
文子の乳房はイグナシオが想像していたほどに巨大ではなく、充分にふくらんではいるが、どこか淡く慎ましげであった。
イグナシオは物心ついてから、盲目的に巨大な乳房にあこがれてきた。巨大な乳房は母の象徴だった。
だからこそ北に、週刊誌であるとかのヌード写真などを見せられても、殆ど何もかんじなかった。たとえ巨大な乳房が写されていても、だ。
平面はイグナシオに昂りをもたらさなかったのだ。逆に言えば、イグナシオの内部で完全に立体的に巨大な乳房のイメージがつくりあげられていたのだ。
文子の乳房は、イグナシオが初めて目にした乳房は、イグナシオのイメージを大きく裏切っていた。
それは野放図に巨大化して肥大化したものではなかった。それは逆に凝縮されていた。おそらくは、掌にほぼぴったり収まり、ほんのわずかとどかない大きさに見える。
イグナシオは文子の乳房のふくらみがつくる淡く儚《はかな》げな影に指先を伸ばした。無意識の行為だった。
文子は胸を突きだすようにして、それを迎えた。イグナシオは乳房の影の輪郭をなぞった。擽ったさに、文子はわずかに躯をよじった。そのときだ。
ああ……
大きな溜息がイグナシオの口から洩れた。指先がきつく乳房に喰い込んでいた。文子は痛みに耐えながら、虚脱しているイグナシオを見つめた。
ここに、自分をほんとうに必要としている人間がいる……そうかんじた。文子は悟った。愛とは与えることなのだ。
そっとイグナシオを抱き寄せた。イグナシオの乾いた頬が乳房に触れた。イグナシオは置き去りにされた犬がやっと飼い主に出会えたときのように、狂おしく頬ずりした。
乳房がつめたくなったのに、文子は気づいた。イグナシオが泣いていた。両手で乳房を握りしめ、乳首を口にふくみながら大粒の涙をぼろぼろ流していた。
乳房は涙に濡れた。文子はイグナシオの髪に指をからませた。きつく抱き締めた。
イグナシオはしゃくりあげた。文子は抱き締めたまま、じっとしていた。イグナシオが何か言った。腕の力をゆるめた。
「なに?」
「宝石は、大きければいいってもんじゃない」
しゃくりあげながら、イグナシオが呟いた。文子は首をかしげた。イグナシオは文子の乳房にやさしく頬ずりしながら言った。
「これは、俺の宝石なんだ」
文子はしばらく黙りこんだ。小声で答えた。
「鉱物ではないわ。いずれ衰える」
イグナシオは顔をはずし、左右の乳房を見較べた。
「触ったかんじでは、左のほうがほんのわずか大きい」
「わかる?」
イグナシオはうなずいた。
「やっぱり宝石だよ」
「ありがとう」
会話しながら、ふたりから不要な羞恥心が消えていった。とくに文子からは完全に羞恥心が消えていた。自分自身を捧げもののようにかんじているせいだ。
無言で文子はイグナシオの前に跪いた。ジーンズに手をかける。インディゴ・ブルーの匂いがした。
イグナシオはハッとしたが、文子にまかせきった。ベルトのバックルが外され、ジッパーが降ろされた。
文子は大きく息を吸った。イグナシオは下着を穿いていなかった。そっと両手で覆った。顔をちかづけた。腰を抱いた。
イグナシオは天を向いた。文子の頭がゆっくり上下した。両手を伸ばし、文子の頭を押さえた。文子はじっとした。
文子の口の中で、柔らかくちいさかったものが、みるみるうちに硬直し、ふさいでいった。文子は上眼遣いでイグナシオを見つめ、ゆっくり首を振りはじめた。
乳房に頬ずりしていたときのイグナシオは、まったく硬直させていなかった。あれはあきらかに母に対する幼児の行為だったのだ。
いま、イグナシオは文子の舌で男になった。文子は誇らしかった。上眼遣いで、そっとイグナシオを窺う。イグナシオは両目を閉じ、下唇を咬んでいる。
文子はイグナシオのいちばん敏感な部分に歯をたてた。イグナシオは目を見開いた。文子は微笑して、ふたたび顔を埋めた。
しばらく弄んでいると、イグナシオがひとまわり大きく、硬さも増してきたのが伝わった。
文子は額の汗を手の甲で拭い、深呼吸した。ゆっくり、喉の奥まで吸いこみ、唇に力をこめて大きく首を振った。
文子の髪を探っていたイグナシオの指先までも硬直した。イグナシオは逃げようとした。文子の口の中に放つことに抵抗があるようだ。
「おとなしくなさい!」
文子は叱った。
「まかせるの、すべて、わたしに」
叱り終えると、ふたたび口に含んだ。すこし柔らかくなっていた。丹念に愛撫を加えた。すぐに最終的な状態にもどった。
こんどは、イグナシオは逃げなかった。文子の頭をつかんだ手に力を加え、その動きをさらに烈しいものにした。
イグナシオが呻いた。身をよじった。文子は口の中に溢れるものが意外に大量であることに驚きをかんじた。
呑みこんだ。喉が鳴った。
イグナシオはきつく目を閉じて、余韻にふるえている。文子はゆっくり外し、唇と舌を使って丹念に跡始末した。まだ、きつく漲《みなぎ》って硬直していた。
愛しかった。キリスト教では全ての罪悪の根源のようにいわれている器官であるが、雄々しく武骨で、曖昧さがなかった。
男を好きになるということは、じつはこの器官の個性を好きになることではないか。文子は考えた。よろこびが躯の底から湧くようだった。
そっと指を添えて、イグナシオを見あげた。イグナシオは喰い入るように見つめかえしてきた。
文子は微笑した。小声で呟いた。
「苦かった」
「――苦いのか」
「とても」
「みんな、苦いのか」
「ほかのひとは知らない。イグナシオ、あなただけ」
呟きながら文子は、先端にそっと口づけした。
イグナシオは途方にくれた顔をした。このような行為は知らなかった。想像したこともなかった。
「みんな、するのか」
「男と女が、という意味?」
「そうだ」
「さあ」
文子が笑いながら肩をすくめた。イグナシオは顔をそむけた。ひどく妖しくかんじられた。あわててジーンズのジッパーを引きあげた。
「そう」
文子は立ちあがり、ベッドの端に座った。イグナシオとは充分に距離をとっていた。
「わたしが嫌いになった?」
妖しい微笑のまま、文子が訊いた。イグナシオは顔をそむけたまま、答えた。
「好きじゃない」
しばらく間をおいて、逆に訊いた。
「なぜ、修道女《シスター》になった?」
「わたし?」
「そうだ」
「自分の意志ではないの」
「じゃあ、誰が?」
「親よ。とくに、父親。イグナシオ。あなたが考えているほどに、親なんて大したものではないわ」
イグナシオは答えない。床を見つめて黙りこんでいる。
「まだ十代の頃。結婚を誓ったひとがいたの」
イグナシオは顔をあげた。
「そう。わたしは処女じゃないわ」
イグナシオの瞳に嫉妬が宿った。
「たったいちどだけ。それもお酒を無理やり呑まされて……」
言いながら、文子は首を左右に振った。たしかに酔ってはいたが、完全に意識を失っていたわけではなかった。
男がのしかかってきたときも、だいたい覚えていた。どうでもいい、と、そのときかんじた。
「いちどだけだったわ。でも、わたしは――」
「どうした?」
イグナシオの瞳には刺すような光があった。文子は投げ遣りな口調で答えた。
「妊娠したわ」
答えながら、文子はイグナシオを睨みかえした。
「生理がなくなって三月め、お母さんに相談したの。お母さんは、お父さんに相談した。
お父さんは関西のお医者さまに連絡を取った。わたしは母に連れられて、長崎から飛行機に乗って京都へ行った」
「それで、どうした?」
「堕胎したわ」
「だたい?」
「堕胎も知らないの?」
「聞いたことがあるような気もする」
「さすが、閉鎖社会で育った十七歳ね」
文子は皮肉な口調で嘲《わら》ったが、イグナシオは真顔で頭をさげた。
「教えて欲しい」
文子はあっさりとした声で答えた。
「殺すのよ。おなかの中の赤ちゃんを、殺す」
「殺す?」
「そう。なにもあなただけではないわ。わたしだって……」
文子は吐息を洩らし、泣き笑いの声で言った。
「父も母も厳格なキリスト教徒よ。堕胎はキリスト教で大罪だけど、父と母は……とくに父は、何よりも世間体を気にした」
「そして、殺したのか」
「そうよ! 殺したのよ」
文子は顔を覆った。
「わたしは、わたしを妊娠させた男を、じつは愛していなかったわ。女王様のように扱われるのが心地良かっただけ。
でも、わたしのおなかの中の赤ちゃんは――」
文子は絶句した。
「ごめん」
囁き声でイグナシオはあやまった。とたんに文子は唇をふるわせた。イグナシオの膝に突っ伏して泣きだした。イグナシオは思いつめた表情で文子の背をさすった。
5
三十分ちかく文子は啜り泣いた。イグナシオはその背をずっと撫でつづけた。
「ごめんなさいね」
文子は涙に濡れた顔をあげて照れ笑いした。イグナシオは顔を寄せ、そっと涙に唇をあてた。そのタイミングは、天性のものだった。
「あなたのジーパンを濡らしちゃったわ」
うっとりしながら文子はイグナシオに甘えかかった。自分がいったい何を悲しんでいたのか、よくわからなくなっていた。泣きつくしたかんじがした。深層意識に打ち込まれた堕胎に対する罪の意識が完全に消えていた。
イグナシオが咳払いした。ジーンズの股間がきつく突っぱっていた。文子は盗み見て、その生命力を心地良くかんじた。
「イグナシオ」
囁いて、自分から躯を重ねていった。ふたりはベッドの上で絡みあった。くちづけしあった。
「たのみがあるんだ」
「なに?」
「仕組を……教えてほしい」
文子は軽く眉をしかめた。イグナシオはさらに迫った。
「たのむ」
「とても……恥ずかしいことなのよ」
「たのむ」
イグナシオはベッドの上で畏《かしこ》まり、頭をさげた。
文子は無言で立ちあがった。張りつめた表情で服を脱いだ。イグナシオは凝視した。下腹の繁みが鮮やかだった。
張りつめた表情のまま、文子はベッドに横になった。イグナシオに視線をはしらせ、うなずき、両手で顔を覆った。
イグナシオは唾を呑み込みながら、文子の両足をひろげた。足をひろげるのに合わせて、閉じていた扉がひらいていった。
文子の躯は柔らかく光っていた。イグナシオは、その光っている部分に指を触れさせた。
熱かった。熱と光はイグナシオの指先にまとわりつき、絡んだ。
文子がふるえだした。逆にイグナシオは冷静になった。牛と同じだ……尻尾がないだけだ……ごく自然な気持ちでそう思ったが、もちろん黙っていた。
「ゆるして」
躯をよじって文子が切迫した声をあげたのは、イグナシオの指先がごくちいさな突起に触れたときだった。
「痛かった?」
問いかけると、文子は間をおいて、曖昧にうなずいた。イグナシオは文子の顔を見つめた。文子は上気した頬をさらに染めて、下唇を咬むようにしながら横を向いた。
「痛いか?」
文子は答えない。イグナシオは小突起にあてた指先に力をこめた。文子がイグナシオの腕をきつくつかんだ。
「やさしく……して」
イグナシオは指先から力を抜いた。とたんに文子が啜り泣いた。
機械だった。人間の躯は即物的で、機械的だった。イグナシオは指先に全神経を集中して、柔らかな機械を作動させる技術を学んだ。
醒めていた。じっと文子を観察した。ときに文子の表情は大きく歪んだ。それは醜ささえかんじさせた。
イグナシオは嫌悪を覚えていた。自身の躯が文子の様子に敏感に反応しているのも許せなかった。凍ったような気分だった。
文子が反りかえった。イグナシオはあわてて彼女の口を押さえた。文子はイグナシオの手を咬んで、かろうじて呻き声を抑えた。
イグナシオは痙攣する文子を冷たく見おろした。
文子の眼尻から、涙が落ちた。
イグナシオはハッとした。涙の意味はわからなかった。ただ、胸を打つものがあった。
イグナシオは、文子の涙をなんとかしたかった。だから抱き締めた。それは心の底からの愛しさ、と表現してもたりぬほどの衝動だった。
きれいなものだけではない。美しいだけではないのだ。醜いものだ。そして文子の躯からは、きれいごとではすまぬ匂いがする。
しかし、不潔感はなかった。切実な匂いにまみれたかった。まみれたい、と必死で念じているうちに、イグナシオと文子はひとつになった。
そして気づいた。イグナシオ自身の硬直も、醜く、切実だ。意志や知性ではどうにも制御できぬ、暴走する機械を人間は躯の中に持っている。
*
これが、悪だ!
*
イグナシオは心の中で叫んだ。聖書で、ミサの最中の説教で、ありとあらゆる場所で、善と悪について教えられた。
しかし、それらは単なることばに過ぎなかった。神父や修道士は、単なることばをきっちり暗記して、なんの疑問も抱かぬ子供を良い子として可愛がった。
イグナシオは、つねに悪い子だった。だが、まだ、ほんとうに悪い子ではなかった。なぜならば、知らなかったからだ。
イグナシオは、いま、知った。神に隠れて知恵の木の実を食べたというアダムとイヴが、じっさいになにをしたか、を。
イグナシオは文子という名のイヴを、必死で抱き締めた。醜く腰を振った。文子もまるで解剖される蛙のような醜いかたちでイグナシオに応えた。
しっとり汗ばんでいた。外そうとすると、文子は怒った顔をして、イグナシオの腰を押さえた。
「重くないのか?」
「重い。とても。でも、こうしていて。あとすこしだけ」
イグナシオは首を左右に振った。愛しさを表現しようとしたのだが、なんのことばも見つからなかったいらだちだ。
かわりに、無粋だと思いながらも、我慢できずに囁いた。
「オレ、わかったぜ」
「なにが、わかったの?」
文子の声は気怠さでいっぱいだ。イグナシオは微笑した。
「うまく言えないけど、オレはオレじゃない状態のときがあるんだ」
「どんなとき?」
「いま、さっき。ふたりで必死に動いていたとき」
「いや」
文子は媚びを含んだ声で言い、顔をそむけた。
「もうひとつ」
イグナシオは息を継いだ。
「――下山の頭をバットでカチ割ったとき」
文子は瞳を見開いた。そのとたんに文子とイグナシオは別れ別れになってしまった。イグナシオは文子の上からゆっくり降りた。文子は寂しそうに爪を咬んだ。
「ガキの頃から善だ、悪だって説教されてきたけど、悪の始まりってのは、我を忘れることで、悪の本当の意味は、知っているのにおこなうことなんだ」
「よくわからないわ」
文子は投げ遣りに答えたが、内心まるで神学者のようなことを喋るイグナシオに驚いていた。
「知ってるのにやるってことは、暴走する機械を許すってことかな」
ことばの最後のほうは、イグナシオも自信がなさそうだった。文子は天井を向いているイグナシオの胸に頬をあてた。
「いいこと、イグナシオ。わたしは、あなたのためならば、どんな暴走でもしてみせる」
イグナシオが息を詰めるのがわかった。文子は満足した。さらに言った。
「あなたを縛る気はないわ。でも、新宿で落ち着いたら、連絡して」
イグナシオは小さくうなずいた。
「必ず、よ。それから、ひとつだけ知りたいことがあるのよ」
「なに?」
「なぜ、下山くんを殺したの?」
「知りたいの?」
「なにがなんでもってわけじゃないわ」
「――中二の頃かな。将棋が流行ったんだ」
文子はイグナシオの心臓の鼓動を聴きながら、じっとしていた。
「オレは興味なかったけれど、まわりがうるさいから、駒の動かしかただけは覚えた」
施設という閉ざされた環境の将棋である。定跡《じようせき》を知る者など、誰もいなかった。少年たちは気ままに、非論理的に駒を動かしていた。
そんななかでも、あきらかに強い者と弱い者がでてきた。イグナシオはやる気がなく、かなりいいかげんに駒を動かしているにもかかわらず、抜きんでて強かった。
下山も、強かった。実力はイグナシオとほぼ拮抗していたが、駒を可愛がりすぎ、また惜しがるので、けっきょくはイグナシオに歯がたたなかった。あと一歩のところで負ける、という状態を繰りかえしていた。
イグナシオは、この将棋ブームに辟易していた。最初のうち、なまじ皆に勝ってしまったせいで、自由時間となると常に声をかけられた。
ところが、あれほどしつこかった下山がイグナシオを誘わなくなった。イグナシオはホッとした。下山の将棋に対する打ち込みかたは異様なほどであったからだ。
下山とイグナシオは仲が良かった。下山はかなり我がままな少年だったが、イグナシオとはウマが合った。
しかし下山は、なにをやってもイグナシオにかなわなかった。運動も、勉強もだ。そんな中で将棋だけはイグナシオに勝つ可能性があった。
イグナシオは訝《いぶか》しんだ。もともとイグナシオは将棋を指すことに何の価値も見出していなかったから、そろそろ適当なところで負けてやってもいいと考えていたのだ。
「ところが、ひと月くらいして、下山が凄く意気ごんだ顔して駒と将棋盤を持ってきたんだ」
文子はイグナシオの胸に頬を押しあてたまま、黙っていた。イグナシオの下山殺しは、どうやら将棋に端を発しているらしい。
イグナシオも、しばらく黙りこんだ。さりげなく文子が様子をうかがうと、イグナシオは深い溜息を洩らした。
「強くなってたよ、下山は」
文子はひと呼吸おいて、受けた。
「ひと月、勉強したのね」
イグナシオは皮肉な眼差しをした。吐きだすように言った。
「たかが、将棋じゃねえか」
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第三章 檻の外
1
イグナシオは黙りこんでしまった。文子《あやこ》はイグナシオの鼓動に耳を澄ましながら、後悔していた。下山殺しの理由など、訊くべきではなかった。
「ごめんなさい……もう、いいわ」
かろうじて文子は言った。どんなことばを口にしても、イグナシオを傷つけてしまいそうな気がしていたので、息ぐるしくなった。汗ばんだイグナシオの胸に、きつく頬を押しあてた。
「強くなってたよ、下山は」
さきほど呟いたことばを、イグナシオはもう一度、口にした。抑揚を欠いた声で、続けた。
「面会日に下山は、親に頼みこんで、将棋の本を買ってもらったんだ」
イグナシオはちいさく笑い声をあげた。含み笑いにちかかったが、もっと凍えたトーンだった。
「下山は、定跡ってのを覚えたんだ。いろいろな戦法も覚えてやがった。
初めてオレに勝ったときは、棒銀とかいう戦法を使ったんだ。奴は、オレがあきれるほどはしゃいだよ。はしゃいだあげく、言ったんだ『棒銀というのはヘタの棒銀≠ニいって、バカにされる戦法なんだ。それにあっさり負けるんだから、イグナシオもたいしたことないぜ』。
それは憎らしい口調だったけど、オレは苦笑いして黙ってたよ。クラスで流行していたのは、一切論理的なところがない、でたらめ将棋だったからな。幾度か下山と指せば、オレも棒銀というのをマスターする自信があったし」
文子はイグナシオを上眼遣いで見た。イグナシオは薄笑いをうかべていた。
「単純に勝ったってよろこんでるなら、なんてことないよな」
イグナシオは同意を求めた。文子は返事のかわりにイグナシオの肩口にまわした手に力をこめた。
「将棋は日本人のもんだぜ。毛唐なんかにいつまでも負けてられるかよ」
いきなりイグナシオは、黄色い声をつくって言った。
「毛唐とは、ここのデキがちがうぜ。オマエなんかチェスでも指してな」
「――そう、下山くんが言ったのね」
イグナシオは答えない。文子はイグナシオの胸から降り、半身を起こした。
「言ったのね!」
イグナシオは天井を向いたまま、あいかわらず薄笑いをうかべていた。文子は下唇を咬んだ。イグナシオの凍った薄笑いが痛々しかった。文子は悔し涙を流した。
イグナシオの頬から薄笑いが消えた。文子を凝視した。
「なぜ……泣く?」
「悔しいじゃない!」
文子は激した声をあげた。イグナシオはあわてて文子の口を押さえた。
「大声だすなよ」
もてあましたような表情をつくりながら、イグナシオは文子の涙を凝視し続けた。自分のために泣く者がいる。イグナシオに加えられた屈辱を、我がことのように受けとめて泣く女がいる。
「オレの思いこみだったんだけど……なんとなく下山だけは、オレの混血のことを言わないと思っていたんだ」
イグナシオは柔らかな声で独白した。
「たかが将棋じゃねえかって、いいかげん嫌気がさしてたんだ。そこへ毛唐、だもんな。
下山は、それまでオレのことを一度も外人扱いしなかったんだぜ。友だちだと思ってたよ。情けない奴だったけど、差別しない奴だと思ってたんだ。
オレはオレなりに下山をカバーしてきてやったんだ。どちらかといえば、下山はイジメられるタイプだから。ケンカも弱いしな。
ところが将棋に勝ったとたんに、オレのこと、毛唐呼ばわりだもんな。ずっと奴はオレのことを外人だと思ってたんだよ。ただ、オレのこと利用できるから、それを口にはださなかったんだ。
勝ったとたんに、本音がでたんだよ。あいつは心の中では、オレのことを毛唐だと思ってたんだ」
幾多の人間に傷つけられてきたのだろう。黄色い群れの中に、半分白い少年。百八十ちかいIQを持ちながらも、その能力を隠し、なるべく目立たぬよう生きて、教師からは忍者と呼ばれた少年。その美貌のせいで、同性愛の対象として見つめられた少年。
イグナシオは奥歯を噛みしめた。絞りだすように、言った。
「オレは、日本人だ」
*
イグナシオは、ゆっくりと身支度した。ベッドに俯せになって泣く文子を見おろして言った。
「よく泣くなあ」
憎々しげな口調だった。しかし、イグナシオの瞳はやさしかった。文子の足許にまわった。跪き、そっと尻に頬をあてた。
「いいなあ……」
しみじみと呟いた。それは十七歳の少年というよりは、人生の辛酸をなめつくした男のように老成した口調だった。
文子は泣きやみ、じっとしていた。イグナシオが小声で言った。
「オレと文子さんの匂いが溶けてるよ」
文子の尻がピクと動いた。
「力を入れたら、見えないよ」
「いや」
「見るだけだよ」
「いや」
「見せてくれよ」
「いや」
文子の耳に、イグナシオがベルトのバックルをはずす金属音がとどいた。文子の尻から力が抜けた。
「身支度したばかりでしょう」
イグナシオは答えず、いきなり押し入ってきた。文子にとって背後からのかたちは初めてだった。
「いや」
「動物はみんなこうだぜ。農場で見たことない?」
「いや」
「暴れないで。はずれちまったじゃないか」
「いや」
文子はしばらく逆らってみせ、けっきょく軽く尻をつきだして、協調体勢をとった。イグナシオの上体がかぶさってきた。
*
雨樋を伝って地面に降り立つと、さすがにふらついた。イグナシオは文子の部屋を見あげた。
文子も立っているのがやっとだった。腰のあたりが重く、しびれていた。振りかえり、振りかえりするイグナシオに向けて、ちいさく手を振っていると、躯の奥からイグナシオの放ったものが流れだし、下着を汚した。
ふたたび文子は躯が火照《ほて》るのをかんじた。イグナシオを追いたかった。
イグナシオは最後に大きく手を振ると、本館の陰に消えた。文子はふかい溜息をついた。躯は火照っているのだが、もうイグナシオの熱はない。
*
夜明けには、まだ間があった。イグナシオは瞳を凝らして花壇を見つめた。黄、紫、白、赤、かろうじて花の色を見分けた。クロッカスやアネモネだろう。
生まれて初めて、花を見たような気分だった。イグナシオは、もうひとつ大きな血の花を咲かせるつもりだった。イグナシオを忍者と呼んだ教務主任を殺すつもりだった。
植えこみの陰で、イグナシオはジーンズのレザー・ラベルに手を伸ばした。
ない……。差しておいたはずの解体用の刀がない。
文子だ。文子の部屋で、刀を構えたところまでは覚えている。それから、どうしたのだろう。
イグナシオは眉間に皺よせて、考えこんだ。見事に記憶が欠落していた。おそらくは、文子に刀を奪われ、それっきりになったのだろう。イグナシオは舌打ちした。
雑ではあったが、いちおう計画をたてていたのだ。あの感情のまったくない事なかれ主義の教務主任の喉をえぐり、逆さまに吊るす。
殺した豚の血を抜くのと同じことを、あの青白い顔をした神父にしてやりたかった。あの男の喉から溢れ、滴《したた》りおちる血は、人並みに赤いのだろうか。
気管を切開された豚のように、ゼイゼイと吐息を洩らし、泡立つ血を垂れ流す教務主任。瞳を閉じて、脳裏に描いた。
「ま、いいか」
イグナシオは呟いた。じつは、暴力衝動は、きれいにおさまっていた。イグナシオは文子を思った。文子の躯を思った。
生まれてこのかた、イグナシオが溜めこんだ呪いの全てを、文子の中に吐きだしつくした実感があった。
自分をあのように受けとめ、解放する存在は他にないだろう。イグナシオは文子の躯のぬくもりを思いかえし、感謝した。
感謝してから、狼狽した。自分はいったい誰に感謝したのか?
文子に、ではない。文子の彼方にあるなにか、にだ。
イグナシオはゆっくり顔をあげた。カダローラ修道士とのやりとりを反芻《はんすう》した。
『いつかは、とどく』
『なにが、ですか?』
『祈りだ』
『オレは祈ったことがありません』
『聖堂で跪くことだけが祈りではない』
*
イグナシオは微笑した。オレは、なにも知らない。無知だ。無知ではあるが、すこしだけ知ってしまった。こうなったら、とことん知るしかない。アダムとイヴの知恵の木の実を、オレは他の誰よりも食べ尽くすのだ。
奇妙な、不可解な決意だった。イグナシオが施設という檻から、いままさに飛びだそうとした瞬間に与えられた、天啓のような決意だった。
植え込みから出た。バスケット・シューズの下で玉砂利が鳴いた。西側の雑木林の山鳩の声が忙しくなってきた。
黒い林のシルエットに、朝霧が絡んでいた。朝霧は地面を這うようにして、イグナシオの足許にまでやってきた。
雀が朝を告げた。山鳩がひと休みすると、郭公や鶯までもが鳴きだした。
正門を乗り越えた。檻の外に飛び降りた。灰色の壁で囲まれた檻。まだ、文子が閉じこめられている。
歩きはじめたイグナシオの背に、朝陽が射した。
2
イグナシオは新宿駅の西口と東口をつなぐ地下道に座りこんでいた。顔をあげると、左ななめに地下鉄の改札がある。ひんやりしていた尻も、いつの間にか、それなりにあたたまっていた。
空気は生ぬるく淀んでいた。立っているとよくわからないが、座りこむとカビ臭い匂いが漂っていた。
たまに女の香水の匂いなどが絡むこともあったが、こうしていると、それは芳香というよりも汚物の匂いにちかかった。
地下鉄の改札の脇を、黒灰色した影が駆け抜けた。ドブネズミだった。イグナシオ以外誰も気づかなかった。イグナシオは両腕で膝を抱え、溜息をついた。
始発に乗って新宿へやってきた。すぐに歌舞伎町へ向かった。しばらく迷って、やっとたどり着いた早朝の歌舞伎町は、ゴースト・タウンだった。
裏通りはポリバケツが倒されて、生ゴミが散乱していた。そこかしこにタバコの吸い殻が棄てられ、電柱の陰には反吐《へど》が散って酸っぱい匂いを漂わせていた。
コマ劇場のあたりには、いくらか人がいたが、みな疲れはてて重そうに歩いていた。歩道に転がっている者もいた。浮浪者が茶色く変色した頬を手の甲でこすりながら、イグナシオの前を横切った。
二十四時間営業の立ち喰いソバ屋だけが、景気よく路上にまで白い湯気と醤油の匂いを放っていた。
それほど空腹ではなかったが、イグナシオはいたたまれなくなって、ソバ屋に入った。月見ソバを注文した。
ゲーム・センターを覗いた。べつにおもしろいとも思わなかったが、とりあえずコインを投入した。
有線放送が耳についた。昨年流行したダウン・タウン・ブギウギ・バンドのスモーキン・ブギ≠ェしつこく流れていた。つられてタバコを咥えたとたん、イグナシオはむなしさを覚え、ゲーム・センターをでた。
けっきょく落ち着いた場所が、地下道だった。地下道には浮浪者とフーテンが座りこんでいた。もっともフーテンといっても、最盛期はとうに過ぎ、浮浪者と殆ど区別がつかなかった。
座りこむまでに、イグナシオは地下道を三往復した。決心がつかなかったのだ。所持金は千円札が一枚と小銭が幾らかだった。それをポケットの中で確認して、呆然とした。
新宿へ行けばなんとかなる。そう信じていた。しかし歌舞伎町はゴースト・タウンで、解放区ではなかった。
イグナシオは、いきなり挫折感を味わった。物心ついたときから施設の中で育った少年は、自分の意志で一歩踏みだしたとたん、途方にくれた。
地下道に座りこんでしばらくは顔をあげることができなかった。文子が咬んだ中指の傷を見つめ、顔を覆い、そっと舌を這わせた。うずくような鈍い痛みが、かろうじてイグナシオを支えた。
一時間ほどして、顔をあげた。すっかり開き直ってはいたが、瞳は伏せたままだった。
人々の足。いらいらと、せかせかと。人々の足を見つめているうちに、イグナシオは悟った。
檻の外にも、自由はなかった。灰色の塀はないが、人々は自由に歩いているわけではなかった。行きたいところへ向かっているのではない。行かねばならぬから、歩いているのだ。
人々は、なぜ生きているのだろう。座りこんで考えた。答えはでないが、ひどく否定的な気持ちになった。通行人の中には、明確な殺意を抱いている者さえいた。先を行く幾千、幾万の人間に、マシンガンを連射する。
座っていると、よく見えた。幾千、幾万の欺瞞の群れが、かろうじて自分を抑えて、歩いて……いや、歩かされていた。
イグナシオは薄く笑った。こんな群れを、農場で毎日目にしていた。人々は家畜だった。牛であり、豚であり、鶏だった。
牛たちはイグナシオに追われて、畜舎から牧場に出た。牛たちは、その生の全てが乳をだすためだけにあった。
乳を絞り吸いあげているのは、誰だろう。漠然とイグナシオは考えた。
人々は死にたくないがために、足をひきずって歩く。イグナシオのように、浮浪者のように地下道に座りこんだら終わりだ、と信じているようだ。
人は簡単に死ぬんだ。
心の中でイグナシオは呟いた。イグナシオは自分が殺人者であることを誇った。
下山はイグナシオの一撃で、あっさり死んだ。イグナシオ自身もあっさり死ぬだろう。
自分があっさり死ぬ存在であるという確認は、逆にイグナシオを支えた。
半日座りこんで、青臭い思考を続け、それに飽きてイグナシオは立ちあがった。
死ぬのは簡単だ。とりあえず腹がへった。地下から地上に出ると、昼下がりの太陽がイグナシオを迎えた。
「春だなあ」
イグナシオは瞳を細めて呟いた。のどかな口調ではあったが、悪意にちかいものが込められていた。
*
東口から二幸の方向へ歩いた。イグナシオに気づいた女たちは、見つめるにしろ、無視するにしろ、あきらかに意識していた。
イグナシオは呼吸を整えた。ジーンズを穿いている女の子に狙いを絞った。しかし、ことばは喉まで出かかるのだが、けっきょく声をかけることはできなかった。イグナシオの視線に気づいて、女の子が期待に頬を染めているにもかかわらず、だ。
イグナシオは新宿通りを彷徨した。ふと気づいた。これでは地下道を行ったり来たりしていたのと、何ら変わらない。腹を立てた。自分自身に腹を立てた。
四十五度の角度で地面を向いた。視野に入ったジーンズの足に向かって声をかけた。
「あの」
「はい?」
返事がかえってきて、はじめて顔をあげた。長い髪の女の子だった。
「オレ、新宿よくわからないんです」
「はあ……」
「どこか、安い食堂、ないですか」
女の子は小首をかしげた。
「食堂?」
訊きかえされて、イグナシオはことばが続かなくなった。オレはなにを言っているのだろう。猛然と自己嫌悪が襲った。
女の子は困りはてたように背後を見た。紀伊國屋書店の前だった。
「わたし、ここで待ち合わせなんです。だから」
イグナシオはうつむいたまま、逃げるように歩きはじめた。烈しい羞恥がイグナシオの心臓をかきまわした。
クラクションが鳴った。新宿三丁目、新宿通りと明治通りの交差点だった。イグナシオはあわてて上を見た。赤信号だった。
立ちつくし、下唇を咬んだ。怒りの感情だった。赤らんでいた頬が白っぽくなった。しかし、一瞬だった。遠慮ぶかげに肩を叩かれたからだ。
*
「すごく、足が早いんだもの」
女の子の口調には媚びのようなものが含まれていたが、イグナシオは気づかなかった。女の子は大げさに息をつき、いきなり名のった。
「わたし、山代|幸子《ゆきこ》」
イグナシオは、けげんそうに訊いた。
「あの……待ち合わせは」
「いいの。それより、あなたは」
「なにが」
「名前よ」
「――イグナシオ」
「日本語、じょうずね」
「日本人だから」
幸子は首をかしげた。
イグナシオは曖昧に笑いかえした。笑いかえしてから、自分が奴隷になったような気分がした。
幸子は顎をしゃくった。ついてこいという合図らしい。交差点を左に折れて、明治通りに入った。
幸子は小気味良い歩きかたをした。歩幅も大きく、ためらいがない。腰骨が見事に張って、尻はかたちよく締まって無駄がない。
先を行く幸子の腰から、尻にかけてのラインを、イグナシオはうっとり見つめた。
自分がひどく甘ったれである、と実感した。幸子に従っていれば、なんとかなると考えた。
「どこへ行く?」
「安い食堂」
振りかえって、幸子は微笑んだ。つめたく整った表情だが、笑いに裏はかんじられなかった。赤い唇から覗ける歯が、まっしろだった。
幸子とイグナシオは並んで歩きはじめた。イグナシオは緊張し、臆した。幸子の髪が風になびき、イグナシオの頬を撫でたからだ。さらに軽く肩と肩が触れあった。直後、幸子は思いつめたように言った。
「すっぽかしちゃった」
「彼?」
「うーん。彼、かな」
「わるいことしちゃったな」
「反省してる?」
神妙にイグナシオはうなずいてみせた。幸子はイグナシオの横顔に視線をはしらせた。
「これだけは言っておくわ」
「なに?」
「あなたが、もし『お茶でも飲みませんか』って誘ってきたら、わたしはあなたを無視したわよ」
息を深く吸い、憤った口調で付け加えた。
「いくら、あなたみたいに、きれいな人だって……」
「オレ、きれいか?」
「きれいよ。みんなイグナシオのこと、見てるじゃない」
「そうかな?」
「そうよ」
「きれいって言われても、オレは男だから、あまりうれしくないぜ」
「汚いの反対は、きれいじゃない」
イグナシオは肩をすくめた。
「とにかくわたしは、イグナシオがおなかを空かしているみたいだから、付き合ってあげてるのよ」
幸子は姉のような口調で言った。イグナシオは調子を合わせた。
「そうなんだよ。腹ペコなんだ」
ふたたび肩と肩が触れあった。幸子は黙りこんだ。伊勢丹に沿って左に曲がった。もう、どこを歩いているのかイグナシオにはわからなかったが、かろうじて新宿駅の方向に戻っていることだけは、わかった。
歩きながら、イグナシオは訝しんだ。『日本語、じょうずね』と言われたとき、なぜ破裂しなかったのか。たしかにすこしムッとしたが、それだけだった。
横眼で幸子を盗み見た。かわいさと凜々しさが溶けあって、ジャンヌ・ダルクの聖画を思わせた。長くまっすぐな髪が、歩行のリズムに合わせて揺れている。けっこう鼻が高い。オレの鼻に似ているな、イグナシオはちいさく笑った。
そして、あきれた。いままでの緊張や鬱な気分が、きれいにどこかへ消えてしまっていた。
「なに見てるのよ」
イグナシオはあわてた。
「きれいだなって……」
幸子の頬がみるみるうちに朱に染まった。
「男は、みんなそんなことを言うのよ」
「みんなに言われてるんだ?」
「ばか!」
幸子は怒った顔をつくって、さらに足早に歩きはじめた。イグナシオは、おずおずと訊いた。
「幸子さんは、幾つ?」
幸子は投げだすように言った。
「女に歳を訊くもんじゃないわ」
「いいじゃん」
「――十九、よ」
「オレよりふたつ上か」
「言っとくけどね」
幸子は立ち止まった。
「わたしは歳下は嫌なんだから。とくにイグナシオみたいな子は、大嫌い」
イグナシオは上眼遣いで幸子を見つめた。
「オレに姉がいたら、きっと……」
「冗談じゃないわ!」
しまった、と思った。幸子は本気で怒っている。なんとかなだめなくては。しかし、口からでたのは、こんなセリフだった。
「オレに頼りがいを求められてもこまるよな。中年のオヤジじゃないんだから」
「誰が中年なんか!」
「ムキになるとこが怪しいぜ」
幸子はイグナシオをななめから見た。その瞳には、たっぷり軽蔑がつまっていた。イグナシオは、うつむいた。これで終わってしまった。ところが、幸子の瞳からあっさりと軽蔑が消えた。
イグナシオの肩に、幸子の手が伸びた。
「だめじゃない。通行の邪魔よ」
やさしい声だった。そっとイグナシオを引き寄せた。
意外だった。イグナシオは幸子を凝視した。息遣いがわかるほどちかくに、幸子の顔があった。ふたたびイグナシオはうつむいた。不覚にも涙ぐんでしまった。
「おなか、空いた?」
イグナシオはうなずいた。
「安い食堂がいいんでしょう」
イグナシオは、もういちどうなずいた。
「鶴亀って雰囲気じゃないわよね」
「ツルカメ?」
「そういう食堂があるの」
「安い?」
「うん。でも、わたしひとりじゃ入る気しない」
なんとなくイグナシオは、その食堂の様子を想像することができた。
「なぜ、知ってる?」
「鶴亀食堂?」
「うん」
「デモの帰りに……ね」
幸子の眼差しは暗かった。
「もう、おしまいよ。おしまいに、したいわ。内ゲバばかり。何人死ねばケリがつくのかしら」
自嘲の口振りだった。しかし施設の中に隔離されていたイグナシオには政治的なことはわからなかった。そればかりか、数年前に起きた石油ショックさえも知らなかった。
「アカシヤにしようか。ロールキャベツでいいでしょう」
ロールキャベツがどのような料理なのか、イグナシオには想像もつかなかった。幸子は明るい声をつくって言った。
「おごってくれる?」
イグナシオは不安を隠して、うなずいた。千円札一枚でロールキャベツは大丈夫だろうか。
3
アカシヤの店内で、イグナシオは肩の力を抜いた。なんとかなりそうだった。客は若者ばかりで、それもどちらかといえば金をあまり持っていそうもないかんじがしたからだ。
ひどく混んでいた。二階はジャズ喫茶だと幸子が囁いた。イグナシオは興味を覚えたが、黙っていた。ジャズ喫茶に入る金はない。しかし、ジャズということばの響きは、魅力的だった。
ロールキャベツとは、挽き肉にキャベツを巻き、スープで煮込んだものだった。柔らかく煮込んだキャベツは甘く、イグナシオは夢中で食べた。
「ほんとうに飢えてるのね」
イグナシオを覗きこむようにして幸子は言い、自分が半分齧ったロールキャベツを、イグナシオの皿に入れた。
イグナシオは戸惑った。施設の中で、食べかけを相手の皿に放りこめば、大喧嘩だ。幸子と視線が絡んだ。幸子はオレを試している。そう直感した。イグナシオは幸子の食べかけを口に入れ、よく噛み、呑みこんで微笑した。
幸子はフン、と横を向いた。しばらくしてから呟いた。
「みんな、イグナシオのことを見てるんだもの」
だから、食べかけをイグナシオの皿に入れたらしい。なんとなく幸子の気持ちを察したイグナシオは照れ笑いした。
「あなたと一緒だと、目立つから嫌だな」
幸子は顔をしかめて言った。イグナシオは感情を正直に顔にだした。
「しょォがねえだろ」
ふたりは見つめあった。先に幸子のほうが視線をそらした。
「内ゲバで人がたくさん死んだって言ったな」
「なによ、いきなり」
幸子は釈明するように続けた。
「わたしは別に思想はないのよ。高校の頃、部室にヘルメットと角材があって……」
ふかい溜息を洩らし、幸子は首を左右に振った。
「うしろめたさは、あるの。気分しだいで闘争に参加して、でも、心のどこかには、けっして革命なんて起こりっこないという思いがあって……」
幸子は舌をだした。
「こんなこと聞かれたら、それこそ内ゲバで殺されちゃうわ」
イグナシオには幸子の言っていることが殆ど理解できなかった。しかし、檻の外も、中に劣らず暴力的な世界らしい。女の子まで巻きこんで派手にやっているようだ。
唯一わかったことは、どうやら幸子が大学生らしいということだ。イグナシオは見栄を張って、幸子のことばにうなずきかえしていた。幸子は拳を咬むようにして笑いだした。
「誰もわたしなんか殺しにこないか」
イグナシオは思わず言った。
「オレが、護る」
幸子はけげんな顔をして、醒めた声で言った。
「わたしは、活動家じゃないもの。なにも関係ないわ。それより、出ましょう」
幸子の視線の先に、席が空くのを待っているアベックがいた。イグナシオは立ちあがり、ポケットの中の千円札を握り締めた。
*
ポケットの中は、小銭だけになってしまった。イグナシオは居直っていたが、さすがに心細かった。しかし、口が裂けても金がないなどとは言えない。店の外に出ると、幸子はさりげなく躯を寄せてきた。
活動とか運動とかいうものは、どうやら幸子にとってファッションのようなものだったらしい。そして若干のうしろめたさを覚えながらも、逆に活動自体に疑問を抱き、醒めているようだ。
イグナシオは自販機に百円玉を入れた。幸子の手が伸び、セブン・スターのボタンを押した。
ハイライトを買うつもりだった。セブン・スターでは釣りがでない。イグナシオは溜息を呑みこんだ。たかが二十円の釣りにこだわっていることが情けなかった。
幸子はパッケージを雑に裂き、糸切り歯のあたりでタバコをくわえた。格好いい……と見惚れたが、やはり二十円は惜しかった。
「家出したの?」
唐突に幸子が尋ねてきた。不意打ちに、イグナシオはタバコの煙に噎《む》せた。
幸子がイグナシオの背後にまわり、背中をさすった。すぐにおさまったが、幸子はイグナシオの背をさすりつづけた。
イグナシオの二の腕に、きつく乳房が押しつけられていた。イグナシオはじっとしていた。藤沢文子の胸よりも硬いかんじがした。
幸子はじっとイグナシオを見つめた。視線が絡んだ。幸子の口にタバコはなかった。イグナシオは指にはさんだタバコを棄てた。
「家出したのね」
イグナシオは微笑した。自分の過去やこうなったいきさつを喋る気はなかった。
「ワルぶっても、イグナシオって育ちがとてもいいのよね」
幸子は独り言のように呟き、うなずいた。イグナシオの微笑が苦笑に変化した。
「ねえ、幸子さん」
「幸子、でいいわよ」
すこし照れくさかったが、思いきって呼び棄てにした。
「ねえ、幸子。くわえタバコで歩いてよ」
「だめ。一日三本て決めてるから。もう打ち止めよ」
「打ち止め?」
「パチンコもしたことないの?」
したことがないのを認めるのはシャクなので、イグナシオはとぼけた。幸子は軽くイグナシオの頭を小突いた。
「もっとワルくならなくっちゃ。イグナシオって世の中のことをなにも知らないかんじがするもの。心配だわ」
幸子は年上ぶった口調で言いながら、躯を寄せてきた。イグナシオは前を行くカップルに視線をやった。カップルを真似て、思いきって幸子の肩に腕をまわした。幸子はそれを待っていたかのように、きつく躯を押しつけてきた。
ふたりは黙りこんだ。ことばは邪魔だ。イグナシオの五感すべてが幸子の躯の熱や匂いを感知することに向けられた。幸子も同じであることが、イグナシオには理解できた。
距離をようやくゼロに縮め、なんとかお互いの実体を知ろうとする。切実な欲望ではあったが、おそらくほんとうに幸子の実体をつかむことはありえないであろうことも、イグナシオにはわかっていた。
気持ちは昂っていたが、クリアだった。まわりの人々やすべてのものを肯定的に見ることができた。
「わたしたち、どこへ行くの?」
どこへ行く? イグナシオは幸子の問いかけに一瞬、哲学的な気分になったが、あわてて思考を現実に戻した。
「ジャズ」
「聴きたいの?」
返事のかわりに、イグナシオは幸子の肩にまわした手に力をこめた。
「――ロックでもいい?」
含みのある声で、幸子が訊いた。イグナシオの返事を待たずに続けた。
「今日すっぽかした男が、ジャズ狂いなの」
言いながら、幸子はイグナシオの肩口に頬ずりした。
「わかった。ロックでいい」
「どこにしようか? すこし歩くけど、拓地にしようか?」
「タクチ?」
「開拓地よ」
「詳しいんだな」
なにがおかしいのか、幸子はイグナシオの腕の中でクッと笑った。
「それとも潜水館がいいかしら。新宿通りに二軒並んであるのよ」
「まかせるよ」
ひと呼吸おいて、イグナシオは告白した。
「オレ……金、ないんだ」
「だいじょうぶ。わたしもないから」
幸子はカラッとした声で言い、イグナシオに体重をあずけた。
*
潜水艦[#「艦」に傍点]だと思っていた。潜水館[#「館」に傍点]だった。イグナシオと幸子は躯を密着させたまま、地下に降りていった。
防音扉が音楽の響きに合わせて振動していた。ノブに手をかけようとすると、幸子が止めた。キラキラ光る瞳でイグナシオを見つめ、手を引っぱった。
階段の陰にある物置きのようなスペースだった。頭がつかえそうだった。かろうじてふたり入ることができた。
幸子は自分からイグナシオにくちづけした。舌を絡ませあい、躯をこすりつけあった。息がくるしくなった。イグナシオは幸子のブラウスの中にそっと手を差し入れた。
あきらかに文子とは手触わりがちがった。硬かった。ちいさかった。しかし尖っていた。重力を完全に無視したかたちだった。
イグナシオは幸子の乳房を充分に確認してから、その手を下に伸ばした。
「だめ」
幸子は躯をよじって逃げた。ふたりは揉みあった。やがて幸子の躯から力が抜けた。幸子のジーンズは腰にぴったりなので、脱がすのに苦労した。イグナシオは絞り染めのパンティの中に指をすすめた。
幸子の匂いが立ち昇った。なぜ、身をよじって逃げたのか理解した。幸子は躯を洗いたかったのだ。もちろん、それはこの場所では不可能だが。
イグナシオは幸子の匂いが嫌いではなかった。農場の匂いをごく薄くした匂いかもしれない。馴染みのある、そして懐かしい匂いだ。イグナシオは覚えたばかりの指を使った。
幸子は自分の拳を咬んで、声をころした。幸子の切迫した訴えかけるような瞳が愛しかった。文子に較べると幸子は直線的だった。すべてにおいて、率直だった。
*
潜水館の店内に踏みこんで、イグナシオの胃袋は一瞬縮みあがった。天井ちかくに据えられたスピーカーからの大音量は、イグナシオの予測をはるかに超えていた。
しかもそれは、イグナシオの認識にとっては音楽と言い難いものだった。ベースが中心になっていて、ずいぶん遠くでドラムスが細かくリズムを刻んでいる。そこへ引き裂くような高音が刺さる。どうやらバイオリンらしい。
店内の娘たちは一斉にイグナシオに注目したが、イグナシオは凄まじい音の直撃に呆然としていた。幸子は慣れた様子でイグナシオの手を引き、奥の席に向かった。
イグナシオは壁によりかかって座り、音に躯を揺すられるままになっていた。ふと、自分が恍惚としていることに気づいた。
いつ注文したのか、苦いだけのコーヒーがちいさなテーブルの上で湯気をあげていた。
「これ……なに?」
幸子の耳に口をつけるようにしてバンド名を訊くと、幸子は身軽に立ちあがり、レコード・ジャケットを持ってきた。
直後、曲は一転して彼方にオーケストラの弦の音色の入ったメロディアスなものとなった。イグナシオは三人の男の顔が写った白黒のジャケットの英語を目で追った。キング・クリムゾン、レッドとあった。
ジャケットを裏返すと一から七まで数字の目盛られた丸いメーターの写真があり、その指針は赤文字《レツド・ゾーン》の七を過ぎて振り切ろうとしていた。
イグナシオは息ぐるしくなった。メーターはイグナシオ自身だった。指針をレッド・ゾーンにまで跳びこませて、機関は破裂寸前だ。そんなことが、いままでに幾度もあった。
スピーカーから流れる曲は、たいそう美しかった。シルバーであるとかグレーといった色を表わす単語を聴きとることができた。
さらに曲は展開し、イグナシオはスターレス・アンド・バイブルブラックという詞を聴きとった。
星のない、そして黒い聖書……明確な意味とは無縁のことばであったが、イグナシオの胸にふかく突き刺さった。
幸子はイグナシオがひどく呼吸を荒くしていることに驚いた。イグナシオは音楽によってその生理まで深い影響を受けていた。幸子はイグナシオの感受性に圧倒された。
がっくりと首を折り、イグナシオは心の中のメーターを見つめていた。メーターは、レッド・ゾーンの手前で安定していた。音楽のせいで気持ちは昂っていたが、それはレッド・ゾーンにまで針を進めて自らと周囲を破壊するものではなかった。
曲は楽器だけの演奏のパートへ進んだ。違和感のあるリズムだった。指先でカウントしてみた。十四拍をひとつのユニットとして数えることができた。八分の十四拍子、あるいは四分の七拍子。
イグナシオは新しい世界を知った。教会の聖歌は四分の二か四分の四拍子だったし、音楽の授業では他に四分の三拍子、ワルツを習っただけだ。ところが、このような変拍子も存在するのだ。
割りきることのできない七拍子は、イグナシオの心に衝撃と共感をもたらした。理屈ではなく、生理的にイグナシオを支配した。
主旋律を奏でる楽器は、どうやらオーボエだった。イグナシオが初めて耳にしたロックは、施設の中で想像していたものとはまったく違った。
キング・クリムゾンのレコードが終わった。ハード・ロックがかかった。イグナシオは耳が麻痺していくのをたのしんだ。世界には、自分と、そしてぴったり躯を寄せあっている幸子だけが存在している。
やがてイグナシオは尿意を催した。そっと立ちあがり、奥のトイレに向かった。
トイレの中は黒く塗られていた。壁にはバンドのメンバー募集の貼り紙やコンサートのポスターが貼られていた。
イグナシオの視線はそのうちの一枚に釘付けになった。ウエイター募集、夜の部、夕食と眠る場所付きとあった。時給は書かれていない。この店の従業員募集の貼り紙であった。詳細はカウンターまで、とある。イグナシオは即座に決心した。
肩の荷がおりたようだった。気分よく放尿した。席に戻って、幸子に告げた。
「この店、ウエイターを募集してるんだ。オレ、ここで働かせてもらうよ」
「こういうところは時給、安いわよ」
「いいよ。とりあえず、だから」
幸子は真に受けていないようだった。イグナシオが立ちあがろうとして、はじめてその手を引いた。
「本気なの?」
イグナシオはうなずいた。幸子は考えこんだ。
「今日からいきなり働かないで……今夜は、わたしのアパートに泊まっていいから」
「わかった」
イグナシオは足早にカウンターに向かい、肩まである長髪の青年に働きたいと告げた。
青年はイグナシオにカウンター内に入るように指で合図した。
「マスター、厨房の奥で本読んでるから」
イグナシオは軽く頭を下げた。青年は殆ど感情のあらわれぬ声で付け加えた。
「おまえなら雇ってもらえるよ。ウチはなかなか人選が厳しいんだ。募集の貼り紙は、半年ぐらい前から貼ってあるんだぜ」
イグナシオは不安になった。ひょっとしたら断わられるのかもしれない。
マスターは長髪の巣のようなこの店で、丸坊主だった。痩せている。金縁のメガネがイグナシオをさらに不安にした。
「ウエイター?」
とだけ、マスターは言った。読んでいた本を閉じた。フロイト左派、と題が見えた。ライヒ、ローハイム、マルクーゼと表紙に並んでいるのは人名だろうか。
「サウンド・オブ・サイレンス。わかる?」
「いいえ」
「俺は、鼓膜が裂けるほどの大音量の中で、はじめて沈黙をかんじることができるんだ」
イグナシオは曖昧にうなずいた。
「だが、ロックは嫌いだ。もちろん、ジャズもだ。ジャズは最悪だ」
「ジャズはよくわかりませんが、キング・クリムゾンは凄いと思いました」
「子供だまし……いや、インテリだまし、だよ」
「キング・クリムゾンが、ですか?」
マスターはそれに答えず、いきなり訊いた。
「十八歳?」
イグナシオはその質問の意味を解さなかった。もうすこしで十七、と答えそうになった。
「十八歳だろう?」
「――はい」
マスターは満足そうにうなずいた。
「履歴書は?」
尋ねられ、イグナシオはうつむいた。マスターはメガネをはずし、目頭を揉みながら笑った。
「冗談だよ。どうせフーテンだろ?」
「はあ……」
「宿無しだろうって訊いてるんだよ」
「はい」
「バッティング・センター知ってるか? 風林会館の先、新大久保へ行く途中の」
イグナシオはイイエ、と首を振った。
「マンションの部屋が空いている。使っていい。金はあるか」
もういちどイグナシオは首を左右に振った。マスターはスラックスのポケットに手をつっこんだ。札を取りだし、数えた。
「五万、貸しておく」
受けとってから、イグナシオはあわてて言った。
「明日から……働かせてほしいんですけど」
「今日はなにかあるのか」
「ちょっと……」
「どうせ、これだろう」
マスターは小指を立てた。ニヤッと笑い、行けと顎をしゃくった。
*
幸子のアパートは中央線の高円寺で降りて、環七と青梅街道の交差する高円寺陸橋を渡って、さらに五分ほど歩いたところにあった。
「男子禁制なのよ」
幸子は囁いた。どうやら女子大生とOL専門のアパートらしい。
「ちょっと様子を見てくる」
イグナシオに待つように命じて、幸子は玄関に消えた。すぐに顔をだし、手招きした。古い木造アパートだったが、廊下はきれいに磨きあげられていた。
靴を持ってあがるように、と促されて、イグナシオは忍び足で階段を登った。幸子の部屋は二階のいちばん左端だった。トイレは共同で、六畳ひと間にちいさな流しとガスコンロがついている。
幸子は小走りに衣裳ダンスに向かい、その上に飾ってある写真の額を伏せた。
「彼の写真?」
イグナシオが訊くと、幸子は怒ったような顔でイグナシオを睨んだ。べつにイグナシオは追及する気がなかった。嫉妬の感情も湧かなかった。
「すごい本だな……」
壁の本棚に並ぶ書物の量がイグナシオを圧倒した。どうやら幸子は大学の文学部の学生らしい。
「現役で入ったのよ。やった! ってよろこび勇んで北海道から出てきたんだけど……」
幸子は自嘲の口振りだったが、イグナシオは大学のランクも理解できなかったし、興味もなかった。
「幸子は北海道で生まれたのか?」
「ジャガイモ畑の中でとれたイモ姉ちゃんよ」
拗《す》ねた口調だった。イグナシオは困ってしまった。ふたたび本棚に視線をやった。幸子はイグナシオの視線を追った。三島由紀夫の禁色≠セった。
「三島に興味があるの?」
イグナシオは曖昧にうなずいた。イグナシオは三島を知らなかった。ただ、禁色とはどう読むのだろうかと思っただけだ。きんいろ、だろうか? きんしょく、だろうか。どちらも直感的に誤っているかんじがしたので、口には出さなかった。
「三島は言ったわ。左翼は論理だけれど、右翼は詩である。聞きかじりだから、正確じゃないかもしれないけれど……」
溜息まじりの幸子の口調には、その年齢に似つかわしくない疲労があった。
「北海道ではひたすら勉強をしたわ。記憶力だけなんだけれど。まあ、それなりに論理を積み重ねたのよ、自分なりに。
でも、上京したら、自分がひどいノンポリだってことを思い知らされて……なんていうのかな、学生という自分の立場に罪悪感を覚えたの。だから、さらに論理を重ねたわ。
ところが論理って、論理のための論理でしかないのよ。けっきょくマルクーゼがいくらおだてたって、学生なんて青臭いだけで、本気になっている者はごく少数で……。
もう、たくさんよ。わたしは論理ではなくて、詩を欲しているってことに、最近気がついたのよ」
イグナシオはあくびを噛みころして適当に相槌をうった。幸子はくどくどと喋りつづけた。イグナシオは聞いているのが馬鹿らしくなった。
「いやなら、やめちまえ」
幸子はムッとしてイグナシオを見た。そして喉を鳴らした。薄笑いをうかべているイグナシオの瞳に宿っている殺意に気づいたのだ。
いままで見たことのない光だった。イグナシオの瞳に宿った光は、論理ではなかった。
「社会がどうのこうのって、うるせえよ。社会がオレになにをしてくれる? 甘えるなよ。関係ねえよ。社会があって、オレがあるんじゃないよ。オレがあるんだ。それだけだ」
イグナシオは机の隅に置かれた現金封筒を横目で見た。幸子には金を送ってくれる両親がいる。
「なにが革命だよ。反体制というのは、よくわかんないけど、でも、反体制というのは、英雄なんかじゃなくて、やっぱ犯罪者だろ。それ以外に考えられないよ」
イグナシオは幸子の首に手をかけた。
「わかんないよ。オレにはわかんない。なにかやるんなら、オレはひとりでやるよ。それが犯罪って言われてもかまわないよ。ひとりでやって、ひとりで死ぬんだ」
イグナシオは親指に力を加えた。幸子の喉仏はちいさくて、控えめだった。力を抜いた。幸子を抱き締めた。幸子の耳朶を噛むようにして囁いた。
「オレはおまえを殺せるんだぜ。ことばなんかじゃなくって、じっさいにできるんだ。やるときは、ためらわないぜ」
幸子は瞳を見開いていた。イグナシオの背に両腕をまわし、すがるように力を加えていた。イグナシオは幸子を畳の上に押し倒した。ブラウスに手をかけた。乳房を露《あらわ》にした。幸子はハッとした表情を浮かべ、掠れ声で言った。
「まって……躯を拭くわ」
「いいよ、このままで」
「おねがい。このお部屋にはお風呂がないから。おねがい。きれいにしたいの」
イグナシオは幸子を解放し、あぐらをかいて、セブン・スターをくわえた。幸子は立ちあがり、うつむきかげんでガスに火をつけ、ヤカンをかけた。
湯が沸いた。部屋の中は、イグナシオの喫ったタバコの煙で白く濁っていた。流しの前に立つ幸子と畳の上でだらしなく座っているイグナシオの視線が絡んだ。
「きれいにしてるな、部屋」
イグナシオが呟くと、幸子はなにをいまさらと苦笑した。
「おねがい。うしろを向いてて」
「なんで?」
「なんでって……」
イグナシオは悪戯っぽく笑った。子供じみた表情になった。幸子がうっとり見つめると、照れてうしろを向いた。
洗面器に湯をあける音がした。水道の流れる音はすこしばかりきしんで聞こえた。タオルを絞る音は意外に力強かった。
イグナシオはゆっくり振り向いた。幸子は全裸で、左腋下を拭いていた。
幸子はまっすぐ見つめかえした。
「見たいの?」
イグナシオはうなずいた。
「……見て」
思いつめたような表情だった。幸子はぎこちなく足をひろげた。イグナシオは見つめた。
しばらくして、まっしろなタオルが翳りを隠した。イグナシオは凝視した。タオルを持つ幸子の指先は小刻みにふるえていた。
*
幸子はイグナシオの胸の上で、小声で呟いた。
「わたし……自分が嫌になるの」
「なぜ?」
「欲望がつよいみたいで」
真剣だった。イグナシオは幸子の率直さを好ましく思った。
「そんなこと、ないよ」
「あるのよ。自分がどこか壊れてるんじゃないかって心配になるのよ。煩悩のかたまりよ」
幸子の躯はまだ桜色して熱っぽく、しっとり汗ばんでいた。たしかに幸子は烈しかったが、貪《むさぼ》るというかんじからは程遠かった。もっと真摯で切実だった。
イグナシオは心の中で幸子と文子を較べた。どちらも切実だったが、奇妙なことに、こうして幸子を抱き終えてみると、文子には微妙な媚びといったものが含まれているように思えた。
肉体のメカニズムは、文子が数段勝っていた。幸子は分が悪い。しかし、幸子がごく平均的であろうことも、イグナシオは理解していた。
「正直なんだよ」
イグナシオは大人びた手つきで、幸子の頭を撫でた。
いきなり幸子はイグナシオの首筋を咬んだ。
「がっかりよ! もっと純情かと思っていたのに。慣れすぎよ。大嫌い!」
イグナシオは苦笑した。幸子が愛しかった。まだ女を知りはじめたばかりなのだ。幸子のことばはイグナシオの自尊心を擽《くすぐ》りもした。
やがて幸子は安らかな寝息をたてはじめた。健康だった。影がなかった。幸子の寝顔を見つめるうちに、文子が病的に思えてきた。本当に自分を必要としているのは、藤沢文子だろうとイグナシオは考えた。
イグナシオはそっと立ちあがった。衣裳ダンスの上に伏せられた写真立てを手にとった。赤いヘルメットを被って角材を持った男が微笑んでいた。
「記念写真かよ」
皮肉な口調でイグナシオは呟いた。
4
ロック喫茶のウエイターは客の唇の動きを読んで注文を察する。スピーカーからの大音響のせいで、とても客の声など聞きとれぬからだ。イグナシオはすぐに慣れた。
潜水館はイグナシオが働きはじめてから、あきらかに女の客が増えた。いろいろな女がいた。たいがいは控えめにイグナシオを見つめる程度だったが、なかには図々しいというか正気とは思えぬ女もいた。
イグナシオは男ばかりの世界で育ったせいで、初めのうちは女にも異常な者がいるということを理解できなかった。だから、いきなり抱きつかれたときには、呆然とした。
半月ほどで新宿の街にも慣れた。刺激的な街だった。歌舞伎町の公衆便所には注射針がたくさん落ちていた。シンナーは言うにおよばず、シャブの売人からも声をかけられた。
週に一度、幸子を抱くぐらいで、イグナシオはストイックに生きていた。自分が女にとって特別な存在であることは充分に理解したが、数をこなそうとは考えなかった。
与えられたマンションの一室には、マスターが運んでくれたマットレスがある程度で、あとは三島由紀夫の文庫本があるだけだった。
イグナシオは三島を貪るように読んだ。幸子の部屋にあった禁色≠ェきっかけだった。三島が割腹自殺を遂げたことを知ったときには烈しい衝撃を受けた。施設の中は逆説的にのどかな世界だったと思った。
幸子からはマルクスや毛沢東思想の初歩を教わった。共産主義はもっともだと思ったが、それが実現できるとは考えられなかった。
施設の中はある意味において共産主義的な世界だった。そして平等をおしつけられた生徒たちは常に反抗を試みていたし、ある者は無気力に陥っていった。
ウエイターの仕事を終え、深夜から早朝まで文庫本を読むのはイグナシオにとってなによりもよろこびだった。
施設の中で読める本は教師の検閲を受けた人畜無害なものばかりで、文学とはまったく無縁だったのだ。
ドアがノックされた。イグナシオは文庫本を置いて舌打ちした。時計を持っていないので正確な時間は不明だが、午前三時くらいだろう。
「たまには掃除しろよ」
マスターが酒臭い息を吐きながら言った。
「掃除するほど物がないか」
独りで納得して、けたたましく笑った。イグナシオは愛想笑いをかえした。
「どうだ。呑みに行くか?」
イグナシオは酒を呑んだことがなかった。子供の頃内緒でミサに使う葡萄酒を舐めたことがあるだけだ。イグナシオは読みかけの文庫本の背表紙に視線をはしらせた。
「読書熱心だな。美徳のよろめき、か。三島ばかりだな」
「マスターも、たくさん本を読みますよね」
「まあな」
「なにか本を貸してくださいよ」
マスターは探るようにイグナシオを見た。視線をそらし、くぐもった声でなにか言った。イグナシオは訊きなおした。マスターは、上眼遣いで言った。
「ジャン・ジュネ」
「それは、どんな本ですか」
「薔薇《ばら》」
イグナシオは迎合の笑いをうかべたまま、首をかしげた。
「稲垣足穂」
「タルホ?」
「少年愛」
「どういう意味ですか」
「三島を読みながら、俺に問うのか」
「オレには訳がわかりません」
マスターはイグナシオを凝視した。
「ヒゲが生えたのは、いつごろだ」
「さあ……意識したのは中二くらいです」
「まだおまえのヒゲは柔らかい」
ねっとり漂うものがあった。イグナシオは確信した。マスターは同性愛者だ。
「おまけにその腋下からは乳臭い匂いがする」
施設の中で先輩たちは、イグナシオを女の代用として扱おうとした。
「禁色は禁色であるがゆえに、めくるめく」
神父のある者は、イグナシオを女としてではなく、同性として愛そうとして、イグナシオにまったくその気がないことを知ると、曖昧に笑って距離をとった。
「なぜ、おまえは三島を読む」
「――たまたま、です」
「たまたま、か。たまが二個で、男じゃないか」
マスターは神父とちがって強引だった。
「男同士。たまたま、しようじゃないか」
イグナシオは手首をつかまれた。マスターは掌にべっとり汗をかいていた。たまたま、と繰りかえして、喉の奥で笑う。
「オレはマスターに恩をかんじています」
「恩をかんじているのか。もっとかんじさせてやろう。無理や無茶はしない。俺を犯してもいいんだよ」
「マスターは行き場のないオレを……」
「だから、イカせてやろうじゃないか」
マスターは眼を三日月のかたちに歪めている。笑っているつもりらしい。イグナシオはマスターの瞳に欲望の深さを見た。深く、暗く、濁っていた。
イグナシオは冷静に言った。
「どうやら、行き場のないのは、マスターですね」
「シャレたことを言うじゃないか。おまえには素質がある。ホモ、とはラテン語で人のことだが、ギリシア語では同性愛を意味するんだ。ほら、俺はホモ・エレクトスだ」
マスターは異様な饒舌《じようぜつ》さだ。あげくのはて、女のようにクツクツ笑う。笑いながらスラックスのジッパーを降ろし、勃起《エレクト》した男根を示す。
「ホモ・エレクトス……俺は直立猿人なんだ。お喋りは嫌いか? イグナシオ。すまんな。おまえに対して昂る俺は、道化てみせるしかないではないか」
マスターはイグナシオを引き寄せた。マスターは喉仏を上下させた。口の中で唾液が泡だっていた。
「せめて、せめて握ってくれ。俺の熱をかんじてくれ」
イグナシオは醒めた眼でマスターの赤黒い硬直を見つめた。道化てみせるしかないとマスターは言ったが、たしかに芝居じみていた。
同性愛者の性欲は、幸子がイグナシオにぶつけるようなストレートさをとらず、曲がりくねって錯綜している。男が男に発情するためには、大脳皮質を、前頭葉をフルに活動させねばならぬ。
農場の豚は発情して牡豚を犯した。しかしこれは同性愛ではない。犯された牡豚は、たんなる牝の代理だ。
イグナシオはマスターの充血器官に嘘を見た。マスターは虚構を硬直させ、発情させているのだ。哀れでかなしいが、ひどく馬鹿らしくもある。イグナシオはマスターの手をゆっくり振りほどいた。
マスターは驚きを瞳いっぱいにあらわした。
「おまえは、俺の仲間のはずだ……」
そうかもしれない。イグナシオは心の中でうなずいた。しかし錯綜した、高度な前頭葉を持つ者が、すべて同性愛者であるとはかぎらない。
「お世話になりました」
イグナシオは頭をさげた。顔をあげてから微笑した。とびきりの、蕩《とろ》けるような笑顔だった。マスターが息を呑んだ。その股間の硬直は、だらしなく凋《しぼ》んでいった。
「借りた金は、いつか必ず返しますから」
言いながら腰をかがめ、イグナシオは読みかけの文庫本を手に取った。
*
エレベーターを使わずに、階段で降りた。首をねじ曲げて、ひと月ほど世話になったマンションの建物を見あげた。
梅雨に入ったらしい。雨は降っていないが、いまにも泣きだしそうな空だ。なまあたたかい湿った夜風が吹いていた。イグナシオは髪を伸ばしはじめていた。イグナシオの髪の色は黒だが、生まれつき柔らかなウエーブがかかっていた。イグナシオは夜風に乱れる巻き毛を押さえた。
じき夜が明けるだろう。初めて新宿にやってきて地下道に座りこんだときとはちがい、不安感はなかった。イグナシオは微笑んでさえいた。ゆっくり歌舞伎町に向けて歩きはじめた。
靴音が迫った。マスターだった。イグナシオは周囲を見廻した。この時間は商売を終えたオカマが塒《ねぐら》に帰る程度で、殆ど人通りはない。
マスターが声をあげる前に、イグナシオは腰をひねり、充分にためて、マスターの顔面に肘を叩きこんだ。
イグナシオの右肘が痺れた。が、痺れる直前、マスターの鼻を潰した感触が確実に伝わった。
マスターは膝から歩道に崩れ落ち、跪いて祈るような格好でイグナシオを見あげた。潰れた鼻から血が噴きだしている。
イグナシオは顔をしかめた。血で服を汚したくはなかった。マスターは顔の下半分を両手で押さえ、すがるようにイグナシオを見つめている。イグナシオは服を血で汚したくなかったのだ。しかし、足が裏切った。
ゴール・シュートするときのようにキックした。マスターは昏倒した。スラックスの股間が黒ぐろと濡れていった。睾丸が潰れたかどうかはわからぬが、陰嚢は確実に裂けているだろう。
マスターは歩道に大の字に倒れ、天を向いて痙攣している。口からは泡を吹いていた。あまりに大量の泡なので、イグナシオはおかしくなってきた。
「笑わせるなよ」
イグナシオは笑いを噛みころしながら、血まみれのマスターの顔面に蹴りをいれた。マスターは首のあたりを掻きむしるようにして身悶えしたが、吐息ばかりで声は洩れなかった。
拍子抜けした。バッティング・センターのあかりがわずかにとどいて、歩道の上はまるで舞台のようだった。現実感がないまま、イグナシオはマスターの|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》を狙ってふたたび蹴りをいれようとした。
「やめとけよ」
声の方向を振りかえると、黒い地味なスーツを着た男だった。ネクタイはしていない。
「ほどほどにしとかんと、殺しちまうぞ」
イグナシオは落ち着いた声で応じた。
「殺すつもりだから」
男は首を左右に振った。額が見事に禿げあがっていた。バッティング・センターの照明に光っていた。
「危ないなあ、おまえは」
イグナシオは男を睨みかえした。危険物のように言われるのは納得できない。
「おっかねえ眼で睨むなよ」
男は大げさに躯を竦《すく》めてみせた。イグナシオはハッとした。本能的に悟った。この男こそ危ない。視線をそらしたかった。そらしたら終わりのような気がした。睨み続けた。
男の顔が溶けるように弛《ゆる》んだ。笑顔だった。見事な笑顔だった。笑いながらイグナシオに近づいた。イグナシオの肩を抱いた。
「よく見ろ。こいつを」
男は転がっているマスターを示した。
「きんたま、破れちゃってるだろ。血がたっぷり出てる」
男は腋臭《わきが》のにおいがきつかった。不快感はなかった。男はイグナシオの肩にまわした手に力をこめ、行こうと促した。
「とどめ、くれてやんなくったって、ひょっとしたら死ぬぜ」
「マスターは死にますか?」
「マスターか。血がたっぷり出てた。止まる様子もない。意識を失ってるから、出っぱなしなんだ」
イグナシオは歩きながら男を盗み見た。四十歳代だろうか。側頭部と後頭部だけに申し訳程度髪が残っている。眼差しは柔らかいが、どこを見ているのかよくわからない。背はイグナシオよりすこし低い。
「おまえがとどめをさすこともできるけど、やらずにすます余裕をもったら、格好いいぜ」
男の靴は、一歩ごとに金属音をたてた。どうやら鋲かなにかを打ってあるようだ。
「マスターにもチャンスを与えてやれよ」
「チャンス?」
「そう。チャンス。賭けといってもいいか。出血多量で死んじまうか、それとも立ちカマ[#「立ちカマ」に傍点]でも通りかかって救急車を呼ぶか」
「運だめしみたいなものだね」
「そう。バクチだよ。うるせえオヤジだと思うかもしれんけど、俺はおまえにアドバイスしたいね」
男はイグナシオを向いてウインクした。なんともふしぎな魅力があった。イグナシオは照れ笑いした。
「いいか、少年。マジになるな」
「マジになるな?」
「スカした言いかただが、人生はゲームさ」
「人生はゲーム」
「死ぬまで、ゲーム。なぜ、ムキになってマスターの頭を蹴る?」
イグナシオは答えられなかった。返事のかわりに、なんとなく頭を掻いてみせた。
「殺しちゃったっていいんだよ」
男は諭すように言った。
「遊んで殺すなら、俺は止めない。でもマジになって殺すなよ。腹が立ったら、殺す一歩手前までたのしんで、あとはバクチにするのがスマートだぜ」
「よくわかんないけど……」
危ない考えだ、ということをイグナシオは呑みこんだ。かわりに訊いた。
「遊んで殺すって、どういうこと?」
「自分になんの関係もない奴を、いきなりやっちゃうのね。理由は……そうだな。そいつが空気を呼吸すると酸素がへるから、とかね」
イグナシオは苦笑した。
「そんなの、無理だよ。殺せない。理由になってないじゃん」
「理由がないと、殺せないか」
問いかけられて、イグナシオは弱りはてた。ことばの遊びはよしてくれ、といったところだ。
「おじさん、わけわかんないや」
「おじさんじゃない。大谷だ」
「大谷さん」
「そう。呼び棄てにするなよ」
「おい、大谷」
「こら」
大谷はイグナシオを小突こうとした。イグナシオは巧みにすりぬけた。ふたたび酔っぱらいがするように肩を組んだ。
イグナシオは和《なご》んでいた。ごく自然に甘えることができた。肩を組んで躯と躯が触れあっても、そこに性的なものはなかった。歳上の友だち、あるいは兄といったかんじがした。
「ねえ、大谷さん」
「なんだ?」
「オレの名前を訊かないの?」
「まだ訊いてなかったか」
「訊いてない」
「なんだか初めて会ったってかんじがしないんだな」
「オレ、イグナシオ」
「よし。イグナシオ。おまえはなぜマスターとやらを殺そうとした?」
「マスターは、ホモなんだ。オレに迫ってきた。でもオレは恩があるから、黙って部屋を出たんだ」
「やられちまったのか」
「まさか。やらせるわけないじゃん」
大谷は顎をしゃくった。話を続けろという合図だ。
「マスター、あとを追ってきたんだ。だから」
「だから?」
問いかえす大谷の瞳には含みがあった。イグナシオの代弁をするように言った。
「だから、殺そうとした」
イグナシオは大谷を盗み見た。大谷は悪戯っぽい笑顔をかえした。
「追ってきたから、殺そうとした。殆ど理由になってないな。すくなくとも一般人、常識的な人間を説得することはできない」
「でも……」
「追ってきたら、逃げる。これが常識だ」
イグナシオは黙りこんだ。自分の攻撃衝動は、酸素がへるからといって人を殺すのと五十歩百歩だ。しかし、イグナシオは大谷の論理の矛盾をかんじた。
「大谷さんはさっき、遊びで殺すならかまわないと言った。オレがマスターを蹴るのは、酸素がへるというのにちかいからだよ」
大谷は立ち止まり、イグナシオの顔を覗きこんだ。
「息ぐるしいか」
イグナシオは呼吸を止めた。
「息をするのが、くるしいか。酸素がうすいのを感じるか」
イグナシオは深くうなずいた。理由を説明することはできない。とにかく息ぐるしいのだ。しばらくは、それを耐えることができるのだが、周期的に裂けそうになる。
*
いかにもヤクザといった若者が、大谷に深々と頭をさげた。一緒にいるというだけで、イグナシオにも頭をさげた。
ヤクザだけではなかった。歌舞伎町に近づくにつれ、オカマやいかにも古顔のバーテン、それにホステスといった者たちが挨拶した。
「大谷さん……偉いんだな」
「でたらめで気のちいさいオッサンだよ。あまりに気を遣いすぎるから、頭も禿げちまった」
「たしかに言うことはでたらめだけど」
「ことばっていうのはな、でたらめや嘘を言うためにあるんだよ」
「大谷さん、居直ってるぜ」
イグナシオは大谷と歩いていて、誇らしかった。歌舞伎町で大谷は、尊敬されていた。
「大谷さんの職業は、なに?」
「ヤクザだよ。ちいさな組の組長だ」
イグナシオは唾を呑みこんだ。たしかに黒いスーツはヤクザっぽい。しかし大谷本人にヤクザめいたところは殆どない。
「硬くなるな。いままでどおりに」
「はい」
大谷は苦笑した。
「盃を交わしたわけじゃない。おまえをスカウトする気もない。なんていえばいいかな」
顎のあたりをもてあそんで、大谷はしばらく考えこんだ。
「――おまえを犯そうとしたマスターの気持ちがわかるんだ」
イグナシオは躯をさらに硬くした。
「誤解するな。俺にそっちの興味はない。ただ、心情的には理解できるってことだよ」
大谷は頭を指差して笑った。
「アタマでわかるだけ。知性でわかるってやつだ。躯は反応を示さんよ」
イグナシオは徐々に緊張を解いた。しかし大谷に底知れないものをかんじていた。
「息ぐるしいのは、イグナシオだけじゃないんだ。でも、大部分は鈍くてな。自分《テメエ》が酸欠金魚だってことに気づいてないんだ」
イグナシオの脳裏に、新宿駅の地下道を行く人々の群れがうかんだ。
「ヤクザってのは鏡なんだよ。少々曇って汚れてはいるがな」
「映るんだ?」
「そう。現実が映る」
「大谷さんも酸欠金魚か」
「ああ。なんとか酸素をとりこもうと思ったんだがな。ヤクザになったら、よけい酸欠になっちまったようだ。躯張って、意地張って、見栄張ってな。張りどおしってやつよ」
大谷は息を継ぎ、ニヤリと笑った。
「だがな、命張ってるから、じつに空気はうまいよ。いや、ありがたみがわかるってことか」
*
大谷組の事務所は歌舞伎町東通りに面した雑居ビルの四階にあった。新宿区役所が目と鼻の先だ。詰めていた組員が、おかえりなさいと一斉に頭をさげた。
事務所内はタバコの煙で白く濁っていた。大谷は小声で空気を入れ替えろと命じた。イグナシオについてはなにも言わなかった。
組員が茶をいれて、上眼遣いで頭をさげ、イグナシオの前に置いた。
「すいません」
イグナシオも上眼遣いで礼を言った。隣室からはマージャン牌をかきまわす音が響いていた。
組員のひとりが、顔をまっしろにして大谷に文句を言った。
「自重していただかないと。ガードもつけずに、おまけに行く先も告げずに出かけられては」
大谷は組員を手で制した。組員は溜息をつき、大谷の背後にまわった。大谷の肩を丹念に揉みはじめる。
「こちらは?」
肩を揉む手を止めずに、鋭い眼差しで組員が訊いた。イグナシオは茶碗を両手で持って、頭をさげた。
「生き別れになっていた弟だ」
薄く目を閉じて大谷が答えた。そんな答えで納得するのだろうか、とイグナシオはあきれたが、部屋にいた組員は全員立ちあがり、
「お初にお目にかかります」
と声を揃えて頭をさげた。組長、つまり親が白いものを黒と言ったら、子はそれをあくまでも黒として死んでいくというヤクザの美学をイグナシオは知らなかった。あっけにとられた。
「ジャラジャラ、うるさいね」
大谷が呟いた。即座にいちばん末席にあたる位置に控えていた若い組員が隣室に走った。
「姐さんがた。もうおひらきの時間です」
そんな声がイグナシオの耳にとどいた。
「あと半チャンだけよ」
「親分がお戻りになられました」
即座に点棒を数える女の声がした。大谷は閉じていた眼を開き、組員に声をかけた。
「変わりはないか」
年嵩《としかさ》の組員が近づき、大谷になにか耳打ちした。大谷は手短に指図した。イグナシオは壁に下がっている大谷組の名の入った無数の提灯を見つめた。
「よし。ごくろうさん」
座ったまま、大谷が言った。詰めていた組員が次々に事務所から出ていった。窓の外から雀の声がした。
隣室から、女が四人出てきた。ファッション雑誌のモデルのような女たちだった。化粧はかなり濃い。
女たちはイグナシオを見つめた。ひとりだけ鼻で嘲った。大谷は、その女に声をかけた。
「めんどうみてやってくれ」
「この子?」
「そう。俺の弟だ」
女はイグナシオの前に立った。
「茜《あかね》って呼んで」
他の女たちが、うらやましそうに茜を見た。
「気兼ねすることはないぞ。茜は細かいことにこだわらんから」
大谷が声をかけた。イグナシオは曖昧に頭をさげた。
「ちょっと待ってね」
茜はイグナシオに声をかけ、若い組員に言った。
「信ちゃん。氷、おねがい」
若い組員はすぐにアイス・ペールに氷を満たして戻った。
「こんなにいらないわよ」
茜は右手と左手にひとつずつの氷片をつかんだ。他の女たちは手持ち無沙汰な表情をしながらも帰ろうとはしないで、イグナシオにチラチラと視線をはしらせている。
大谷は応接用のソファに移り、ズボンのベルトを緩めて寝息をたてはじめた。ほんとうにこの人は組長なのだろうか。イグナシオは大谷ののどかな寝顔を盗み見た。
茜はふたつの氷片で左の耳朶をはさんだ。溶けた氷が滴りおち、テーブルを濡らした。
イグナシオは不安になった。女たちの他には組員が三人残っていて、無表情にタバコを吹かしている。
「うー、つめてえ」
男のような口調で言い、茜は角が溶けて丸くなった氷をアイス・ペールに戻した。茜のかたちのよい耳朶は、氷のあてられていた部分がもとのままで凍えて変色していた。
茜はチラッとイグナシオを見た。親しげな眼差しだった。イグナシオは面喰らった。
茜の手には安全ピンが握られていた。茜は安全ピンを耳朶に刺した。茜は軽く下唇を咬んで力を加えた。
氷で冷やした部分を安全ピンが突き抜けた。茜は肉を突き破ったピンを動かしてみせた。血が銀色をしたピンを伝い、茜の指先を朱に染めた。
「たのしむなよ」
女のひとりが茜の手をつかんだ。
「あんたは血が止まらないたちなんだからさ」
茜はうっとり微笑していた。女が舌打ちして茜の耳朶からピンを引き抜いた。
茜は我にかえり、あわてて開けたばかりの穴に金のイヤリングを通した。黄金色が血まみれで、複雑な模様を見せていた。血は少量ながら滴りおち、サテン地のブラウスを汚したが、茜はまったく気にとめてはいない。
たかがピンで耳朶に穴を開けただけだ。それなのにイグナシオの心臓は壊れそうにふるえていた。
茜がちいさくあくびをした。行こう、とイグナシオに声をかけた。事務所の雑居ビルを出ると、タクシーが待っていた。
「あんたたち、先に乗りなよ」
茜の耳朶からピンを引き抜いた女が、気のよさそうな声で言い、茜とイグナシオの背を押した。
タクシーは代々木に向かっている。イグナシオはそっと茜を盗み見た。耳朶からはまだ血が滲んでいた。イグナシオの視線に気づいた茜が呟くように言った。
「あたし、パンパンなんだ」
さらに挑むように続けた。
「でも、安くないよ。あたしと寝ようと思ったら、サラリーマンの安月給なんて吹っとんじまうよ。超高級コール・ガールだから」
イグナシオは喰い入るように茜を見つめた。
「組長もナニ考えてるんだか」
茜はイグナシオに流し目をくれた。
「でも、あたしにまかせたのは正解ね。ハーフの気持ちはハーフがいちばんわかるもんね」
「ハーフ……」
「そう。あたしは朝鮮人と日本人のハーフ」
言い終わると同時に、茜は虚ろな笑い声をあげた。唐突に笑いやんで、すがるようにイグナシオを見た。
「厚化粧をしてるけどさ、これで化粧を落とすと素顔はなかなか可愛いんだから」
イグナシオは深くうなずいた。茜はそこいらの芸能人など比較にならぬ美貌だ。
「あんたも不幸だよね。目立つ顔に生まれちゃって。組長が言ってたよ。中庸がいちばんだって。普通なのがいちばんなんだって」
茜は自分自身に言いきかせるように言い、耳朶に触れた。血のついた指先をイグナシオに突きだす。
「舐めて」
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第四章 罠
1
イグナシオは茜《あかね》の人差指に舌先を触れさせた。指先をそっと口の中に含んだ。茜の血は殆ど味がしなかった。
タクシーの運転手がミラーを盗み見た。茜がわざとらしく欠伸《あくび》をするのが映った。イグナシオの唇から指先をはずした。
「ちょっとセクシーだったわね」
茜が茶化した。化粧の下の頬は赤らんでいたが、イグナシオにはわからなかった。イグナシオはなんとなく苦笑した。
「酸っぱかったよ」
「あたしの血?」
「そう」
イグナシオは嘘をついた。茜の血に、味はなかった。しかし口にだして酸っぱいと言ったとたんに、ほんとうにそう思えてきた。
茜のマンションは代々木の参宮橋ちかくにあった。部屋はメインが十畳ほどのフロアで、思わずイグナシオが目を剥くほど汚れていた。
「いらっしゃいませ」
皮肉な声で言いながら、床に散った派手な衣裳を茜は蹴った。経血だろうか。イグナシオの瞳は黒っぽい染みのある下着をとらえた。
「ヘンタイ。なに見てるのよ」
茜はイグナシオを小突いたが、汚れた下着などを隠そうとはしなかった。茜は化粧台の前に座り、クレンジング・クリームを顔に塗りたくった。アイラインがクリームの油分で落ち、眼のまわりを青黒く変えた。
イグナシオは茜の背後に立ち、化粧を落とす茜をぼんやり見守った。茜はティッシュを雑につかみだし、クリームを拭った。鏡に映ったイグナシオを睨みつけた。
「チクショオ」
唐突に言って、茜は振り向いた。このとき、イグナシオは恋におちた。
「なに、見てるんだよ」
茜は眉間に皺よせて言った。イグナシオは顔をそらした。うつむいた。顔が火照るのを止めようがなかった。
「あんた、熱でもあるの?」
イグナシオは首を左右に振った。よけい顔が火照った。首まで赤くなった。茜はちかづき、手を伸ばした。イグナシオの額に触れた。
「熱、あるよ。火傷《やけど》しそうだ」
嘲笑うような口調で茜が言った。かろうじてイグナシオは顔をあげた。素顔の茜が微笑していた。化粧のせいか肌は少々荒れていた。それを含めて、イグナシオは茜を愛しいとかんじた。
「初めて化粧をしたのは、十八のとき」
茜はイグナシオの額に手をあてたまま、独白した。
「そのとき以来、あたしの素顔を見た男はいないの。新聞屋が来たって、あたしは待たせて化粧して、ドアを開けるの」
イグナシオは茜の素顔をうっとり見つめた。
「へんな顔でしょう」
小首をかしげるようにして、茜は笑った。イグナシオの額から手をはずした。背を向けると、あっさりと服を脱いだ。下着も脱いだ。イグナシオは茜の尻を喰い入るように見つめた。
床に投げ棄ててあったジーンズを手にとると、茜は下着を穿かずに、直接ジーンズを穿いた。ゆっくり振り向くと、イグナシオに近づいた。
「どいてよ」
イグナシオの足許にある赤白の縞模様のTシャツを拾いあげた。乳房をイグナシオに見せつけるようにしてTシャツを着た。それから茜は両手を突っぱるようにして欠伸した。
「あたしは寝るけど、あんたはどうする?」
「――オレも、いつもいまごろ眠る」
「じゃ、寝ようか」
茜は窓際のダブル・ベッドを顎でしゃくって示した。イグナシオは唾を呑みこんだ。茜はカーテンを引いて朝の光を遮断した。
ジーンズとTシャツのまま茜は横になり、腹の上にブランケットをかけた。
「なにしてるの? 早く寝なよ」
「ジーンズのまま、寝るのか」
おずおずとイグナシオが訊くと、茜は怒ったように言った。
「あんたがいるんだもの。裸で眠るわけにはいかないだろ」
イグナシオはうつむいた。茜は険しい顔をした。
「なに格好つけてんだよ! とっとと寝ろよ」
「どこに……?」
「どこに? ここに、だよ。これはダブル・ベッドだろ!」
茜は自分の横を平手で叩いた。イグナシオは遠慮気味に横になった。
「言っとくけど。寝るところとメシは面倒みてあげるけど、それ以外は知らないよ」
「わかった。迷惑かけます」
「ホントにわかってるの?」
「わかってる」
「あたしに指一本触れるなってことよ」
「指……」
人差指についた血を舐めたではないか。イグナシオは不満そうな顔をした。茜はイグナシオを睨みつけた。
「あたしに触わりたかったら、金持ってこい」
*
すぐに茜は寝息をたてた。イグナシオは躯を硬くしていた。窓の外では雀が鳴いていた。部屋は汚れ放題だが、ふしぎに匂いはなかった。山代幸子のアパートはきれいに片づいてはいたが、あきらかに彼女の匂いがした。さらに清潔だった藤沢文子の部屋にも、やはり独得の女っぽい匂いがあった。
イグナシオは烈しい衝動を覚えていた。茜の腋下や下腹に顔を押しあて、茜の香りを確かめたい。
かろうじてイグナシオは耐えていた。瞳を見開き、天井を凝視していた。やがて溜息をついた。『あたしに触わりたかったら、金持ってこい』という茜のことばは重かった。
あきらめて眼を閉じた。心臓の鼓動が耳の奥まったところで響いた。瞼の裏側に、ジーンズに着替えるときの茜の裸のうしろ姿がうかんだ。
見事なバランスだった。過剰に突出したところはなく、どちらかといえば痩せていた。尻や脇腹はとくにきっちりと締まり、崩れたところは一切なかった。
乳房は痛々しくかんじられるほど張っていた。イグナシオはそこへ爪を立てることを空想した。イグナシオの手の中で茜の胸はよじれ、くびれて、歪む。
乳房を握り潰しながら、艶やかな尻に咬みつく。歯の跡が茜の白く滑らかな尻に刻印される。そして、尻の割れめを押しひろげ……そこでイグナシオの妄想は瓦解した。
どのように妄想をひろげようと、茜の隠された部分は曖昧なまま、明確な像を結ばなかった。
イラつきながら殆ど無意識のうちにイグナシオは自慰に耽りはじめた。穏やかな寝息をたてている茜に意識を集中しながら、孤独な作業を開始した。
久々だった。躯が重くかんじられだすと、幸子と会って、殆ど丸一日ぶっ続けで抱き合っていた。それで解消していたので、自慰行為をイグナシオは忘れていたのだ。
手仕事を開始した直後だった。茜が声をあげた。
「ガサゴソ、うるさいなあ」
イグナシオは硬直した自分を握り締めたまま呼吸を止めた。茜は追い打ちをかけるかのように、舌打ちした。
とたんに、イグナシオの掌の中のものは萎えていった。烈しい羞恥心に、眩暈《めまい》がした。
茜がゆっくりとイグナシオを向いた。イグナシオは顔をそむけた。この場から逃げ出したかった。躯は金縛りにあったように動かなかった。
「誰を想ってしてたの?」
「―――」
「正直に言いなよ」
イグナシオは答えない。口が動かないのだ。
「じゃあ、質問を変えようか。誰か好きなひとはいる?」
「――茜さん」
言ってしまってから、イグナシオは口を押さえた。自分が自分でない気がした。
「あたしを抱きたい?」
イグナシオは奥歯を噛みしめた。
「あたしが欲しかったら、お金。あるいは、他になにか、あたしに与えられるものがある?」
「なにも、ない」
「じゃあ、あきらめて、独りでゴシゴシやってなさい」
「なにもないけど……」
「なに?」
「たとえお金があったって、オレは茜さんを」
「あたしを、どうするの」
イグナシオは勢いよく躯を起こした。ベッドから立ちあがる。
「お世話になりました」
茜は横になったまま、イグナシオを見あげて薄く笑った。
「格好いいじゃない」
ゆっくり上体を起こして、茜はイグナシオを睨みつけた。
「とっとと出ていけ、弱虫」
イグナシオは深く息を吸った。背を向ける。
「ばかやろォ!」
茜が怒鳴った。イグナシオに枕を投げつけた。枕はイグナシオの後頭部にあたった。イグナシオはしばらく動かなかった。振り向いた。無表情だった。
茜はイグナシオを凝視した。その瞳に恍惚がうかんだ。イグナシオは茜に近づいた。茜は動かない。うっとりイグナシオを見つめている。掠れ声で言った。
「やっと本性をだしたわね」
イグナシオは茜の首に手をかけた。加減せずに力を加えた。茜はじっとしていた。やがて下唇を咬んだ。白眼を剥いた。手足が痙攣を起こしはじめた。
イグナシオの手から、力が抜けた。イグナシオの頬を涙が伝った。傍らで茜は烈しく噎《む》せていた。
*
「なぜ……やめたの?」
イグナシオを胸に抱きこんで、茜が訊いた。その首には、イグナシオの手の跡がくっきり赤く残っていた。
「あのまま力を加えてくれたら、楽になれたのに」
呟きながら茜は、声をころして泣いているイグナシオの頭を撫でた。涙声でイグナシオが言った。
「痛かったんだ」
「痛かった?」
「胃のあたりが引き千切れそうに痛かった」
茜の首を絞めれば絞めるほど、イグナシオの胃は烈しく痛んだ。茜を殺すくらいなら、自分が死んだほうが早いとかんじた。下山を殴殺したときの解放感とは正反対だった。
殺人という行為は同じなのに、イグナシオの胃はただれ、出血した。イグナシオは吐血した。少量ではあったが、茜の胸を血で汚した。
2
医師は心因性ストレスのせいで胃が傷ついたと診断した。潰瘍になりかかってはいるが入院の必要はなく、薬で治ると請け合った。
茜が病院に同行してくれなかったことを恨みがましく思いながら部屋に戻ると、様子が一変していた。
部屋はきれいに片づき、磨きあげられていた。洗濯機がまわる音がした。エプロンで手を拭きながら、茜が頭を覗かせた。
「どうだって?」
「たいしたことない」
「正確に」
イグナシオは医師のことばをさらに柔らかく茜に伝えた。茜の肩から力が抜けた。
「あんたは、殺しても死なないタイプだよ」
茜は憎まれ口を叩いた。イグナシオも負けていない。
「茜さんには勝てないよ」
言いかえしながら、イグナシオは発情していた。しかし、それを笑いにまぎらして、茜に気づかれぬようにした。
麻のスカートから伸びた茜の足は華奢《きやしや》だった。膝小僧に、ちいさな傷跡があった。茜はベランダの洗濯機に戻っていった。イグナシオはシーツを外されて剥き出しになったベッドのマットに腰をおろした。
「はやく夏にならないかな」
弾んだ声で茜が言った。
「あたしって、カッパなんだから」
「カッパ?」
「平泳ぎの二百メートルで、高二のとき都大会で一位だったんだから」
「――オレは泳げないわけじゃないけど、ドン臭いな」
ことばを返しながら、イグナシオは首を左右に振った。茜の水着姿が人々の視線にさらされることを思うと、烈しい嫉妬がおきた。
嫉妬しながら、気づいた。水着どころではない。茜は、娼婦なのだ。とたんにイグナシオの胃が痛んだ。キッチンに立ち、医者からもらった薬を服《の》んだ。
ドア・チャイムが鳴った。茜の仲間の三人の娼婦だった。それぞれがツギのあたったコットン・パンツであるとかオーバーオールといったラフな格好をしていたが、ふつうの女の子とは微妙に違っていた。
どこが違うのかイグナシオにもはっきりわからないのだが、強いて言えば、午後に目覚め、夜に働く者の匂いがマニキュアであるとかブレスレットといった物に凝縮されていて、それが違和感を醸しだしていた。
彼女たちは陽気だった。手土産のケーキを食べ散らし、紅茶をおかわりして、唐突に紅茶きのこの効用について喋り、歌舞伎町にできた二十四時間営業のスーパーマーケットのステーキ肉に陰毛らしきものが入っていたことを話題にして笑い転げた。
それでも初めのうちはイグナシオを意識してぎこちなかったのだ。しかし、彼女たちはふつうの娘とちがって居直るのも早かった。
イグナシオは躁病を思わせる彼女たちの騒ぎを聞きながら、病院の帰りに買った文庫本を開いた。コリン・ウィルソンの殺人の哲学≠セった。
偶然開いたページに、こんな文句が載っていた。――「自分が義姉を殺したのは、彼女のぼってりした足首が嫌いだったからだ」
トマス・グリフィスという殺人者のことばだった。イグナシオは文庫本を閉じた。トマス・グリフィスのことばのリアリティになかば呆然としていた。
おそらく人間は、ふたつに分かれるのだ。ぼってりした足首が嫌い≠セから義姉を殺してしまうことに共感する人間と、それがまったく理解できない人間とに。
それは育ちであるとか環境や階級とは無関係だ。イグナシオは、そうかんじた。騒々しい娼婦たちを盗み見た。彼女たちも、おそらくは、くっきりとふたつに分かれるのだ。茜はどっちだろう。
そこまで考えて、茜のことは殆どなにもわかっていないことを思い知らされた。
藤沢文子ならばぼってりした足首≠フせいで殺人を犯す者を理解するだろう。カダローラ修道士も誰よりもそれを理解するだろう。思い出すのも嫌な、あの教務主任も、たぶん仲間のはずだ。
では、キリストは? 聖母マリアは?
イグナシオは聖母マリアもキリストも理解するだろうと直感した。論理的裏付けはまったくないが、そうかんじた。
理解しないのは、たとえば農場で豚の世話をしていた北のような男だ。そしてファッションのように学生運動に参加していた山代幸子。
茜はどっちだろう。イグナシオはベッドに転がって、天井を向いて考えた。水泳をやっていた茜。そういえば水の抵抗のすくなそうな躯だ。茜の滑らかな流線形に水がやさしく絡んで抜けていくところを空想した。
イグナシオは苦笑した。意識は茜の心ではなく、その均整の極致のような肉体に向かってしまう。
「なに、ニヤついてるんだよ」
イグナシオの視野を、いちばん年上と思われる娼婦の顔がふさいだ。
「オレ、ニヤニヤしてた?」
「とぼけちゃって」
「他のひとは?」
「茜に強制されて、バス・ルームを磨かされてるよ」
イグナシオは半身を起こした。彼女はノースリーブを着ていた。イグナシオは彼女の腋下に視線をはしらせた。
「あの……なんて呼べばいいんですか」
「ひとのおっぱい見ながら、よく言うよ」
「そんな……」
「道代っていうの」
名のると、道代は瞳でベランダを示した。
ベランダは乾してある洗濯物がはためいて、洗剤のいい匂いがした。イグナシオと道代は下界を見おろした。神宮の森の緑が濃い。乗馬クラブでは、ぎこちない騎手をあやすように、のんびり馬が散歩していた。
乾してあるシーツが、ちょうどカーテンのようになって、イグナシオと道代の姿を室内から隠していた。
道代は西日に眼を細めた。眼尻にういた皺をぼんやりイグナシオは見ていた。
「こんな明るい茜の顔を見たのは初めてだよ」
イグナシオは黙っている。
「あんた、よほどアレが上手なんだね」
「アレ?」
「セックス」
口をはさもうとしたイグナシオに喋らせず、道代は続けた。
「こんな商売してる女ってさ、アレが好きで好きでたまらないか、不感症かのどっちかなんだ」
道代は複雑な笑顔をうかべた。
「あたしは、どっちだと思う?」
「さあ」
「茜は不感症だよ」
イグナシオは道代から視線をそらした。
「オレ、茜さんとやってません」
「ホント?」
道代はイグナシオの股間に手を伸ばした。ジーンズの上から爪先でイグナシオを愛撫した。
「ホントみたいね。即、カチカチだもん」
愛撫を続けながら道代は笑い声をあげた。
「電球よね。蛍光灯じゃないわ。スイッチ入れたらピカッ」
「かんべんしてください」
イグナシオの声は弱々しい。道代は愛撫の手をやすめない。道代の爪の動きは微妙だった。イグナシオは顔をそむけた。
「きっちり見守ってあげるのよ」
「はい?」
「茜」
道代はイグナシオのいちばん敏感な部分をジーンズの上から親指と中指でつまむようにした。イグナシオは道代にむしゃぶりつきたかったが、かろうじて耐えた。
「茜さんが……どうかしましたか?」
「これまで、幾度も自殺しかかってるの」
「自殺」
「こうしてあたしたちが毎日茜のところに遊びに来るのも、心配でしようがないからなのよ」
道代は柔らかくなりかけたイグナシオの股間に視線をはしらせながら続けた。
「茜は組長の妹なんだ」
「大谷さんの!?」
「そう。腹違いってやつ」
道代はイグナシオに対する愛撫を再開した。イグナシオはすぐに反応した。
「組長、あんたを見つけて、ホッとしてるんじゃないかな」
道代はふたたびイグナシオの敏感な部分をつまむようにした。
「茜にやさしくしてあげて」
囁きながら、力を加えた。イグナシオは痛みに顔をしかめた。そこへ道代はたたみこむように言った。
「茜になにかあったら、それこそあんたの命がなくなるよ」
道代はイグナシオから指先をはずした。
「セントルイス・ブルース、知ってる?」
顎をしゃくって、だいぶ西に傾いた太陽を示した。
「これでもあたし、むかしジャズ・ボーカル習ってたんだ」
自分に言いきかせるように、道代は言った。
「夕陽が沈むのを見るのは嫌だ、そういう詞なのよ」
手を伸ばし、洗濯物に触れた。
「もう薄物は乾いてるわね」
道代は乾いた洗濯物を取りこんだ。イグナシオは洗濯バサミを持たされて、ぼんやり立ちつくした。
*
部屋に戻ると、いちばん若い娼婦が道代に声をかけた。
「なにしてたのよ?」
「茜の彼の持ち物を調べてたのよ」
「どォだった?」
「だめ。インポ・短小・包茎と三拍子揃ってる」
「こんないい男なのにねえ。天は二物を与えずって」
「ちがう。天はイチモツを与えず」
茜が割りこんで冗談を言った。女たちは躁的な笑い声をあげた。茜だけは付きあい程度に笑い、イグナシオを見つめた。
イグナシオは深くうなずいた。うなずいてやることしかできなかった。茜は視線をそらし、大声で言った。
「よし。今夜も稼ぐぞ!」
「養わなけりゃなんない若いツバメがいるもんね」
「とりあえず腹ごしらえね」
「インドネシアラヤのカレーがいいな」
「和食のほうがいいよ」
「あたしは食欲ないよォ」
女たちはそれぞれ声をあげ、立ちあがった。
3
けっきょくイグナシオは四人の女たちに付きあって、インドネシア料理を食べた。骨付きチキンのカレーであるとか、ピーナツで味付けしたサラダであるとかの料理は、施設での決まりきった食べ物しか知らないイグナシオに、あるカルチャー・ショックを与えた。
完全に陽が暮れると、女たちは大谷組の事務所へ向かった。イグナシオもついていったが、靖国通りの「トップ」という喫茶店に置き去りにされた。
組事務所で服を着替え、化粧して、政治家や財界人の要望、正確には仲介者からの注文連絡を待つ現場にいてほしくない気持ちはイグナシオにも充分理解できたが、単純に仲間はずれにされたかのような孤独感と憤りも覚えた。
イグナシオは夜の歌舞伎町を彷徨《さまよ》った。もとボクシングのチャンピオンだったという痩せた小柄な男が店で使う氷の入ったビニール袋を持って歩いていた。イグナシオと視線が合うとチャンピオンは軽く頭をさげた。
銭湯帰りだろう、風呂桶を持った毛糸の帽子をかぶった男が歩いていた。通行人が彼を盗み見て得意そうに、小説家だ、と囁いた。
小説家はやさしい眼をしていた。しかし、その瞳は鋭くもあった。全体の雰囲気は飄々としていた。イグナシオの持っていた小説家のイメージを吹き飛ばす、ふしぎなリアリティがあった。
金は茜から充分に与えられていた。客引きに誘われるままに、イグナシオはコンパに入った。
カウンターに腰をおろすと、制服を着た女の子が眼を見開いた。ビールを飲みながらイグナシオは彼女の故郷である山形県のちいさな祭りの話を聞いた。
女の子はもうイグナシオに夢中だった。東北訛がでないように気にするあまり、逆にイントネーションがおかしくなったりした。
相槌を打ちながら、イグナシオは発情していた。彼女の安っぽい香水の匂い、口許を歪めてみせる八重歯、立派な胸、すべてがイグナシオを昂らせた。
いまだかつてイグナシオは、これほど烈しい性的衝動に襲われたことがなかった。それは全て茜に収束した。しかし、とにかく、いま、精を躯の外に放ちたかった。女の子を誘おうと思ったが、まだ十時を数分過ぎただけだ。彼女が店を出られるまでに、あと一時間半以上ある。
十時半、イグナシオは立ちあがった。勃起し続けているせいで、下腹に鈍い痛みがあった。不機嫌にビール代金を支払って、イグナシオは外に出た。
夜風もイグナシオを醒ましはしなかった。勃起しているせいで、歩き方がぎこちなかった。自分の欲望を呪いたい気分だった。
茜はいま迎えのハイヤーに乗って、赤坂のホテルへ向かっているかもしれない。あるいは白髪の紳士に裸体をさらしているかもしれない。躯中にくちづけされているかもしれない。
イグナシオはきつく拳を握りしめて歩いていた。通行人がよけた。イグナシオは電柱であるとか壁に、思いきり拳を叩き込みたかった。もしイグナシオにぶつかったりする者がいたら、イグナシオは即座に裂けていただろう。
ネオンの赤や緑にイラついた。イグナシオに声をかけた呼びこみは、睨みかえされて、うつむいた。
やがて嫌悪感がおきた。自分が情けなくなった。たまっているものは、出せばいいのだ。わかりきったことだ。問題は、相手だ。この衝動がマスターベーションでは解決できないことを、イグナシオは直感していた。
欲しいのは、茜だ。茜はいま、他の男に抱かれている。嫉妬が欲望を加速した。イグナシオの目つきは、正常ではなかった。
イグナシオは新宿駅へ向かった。高円寺までの切符を買った。とりあえず、いまのイグナシオを醒ますのは、山代幸子の肉体だ。
*
幸子のアパートは高円寺駅からかなり歩く。商店街を抜けると、人通りは極端にへった。イグナシオはジーンズのポケットに手をつっこんだ。その手でポケットごしに勃起した自分に触れた。
アパートのちかくには火葬場があった。夜の十一時を過ぎたそのあたりは、完全に無人だった。弱々しい光を放つ街灯には蝙蝠《こうもり》がまとわりつくように飛びまわっていた。光に集まった羽虫を食べているのだろう。
イグナシオは立ち止まった。火葬場の塀の引っこんだ部分に人影があった。仄暗い。瞳をこらした。人影はふたつ。男と女。抱き合っていた。
ふたつの人影はイグナシオに気づかず、重なりあっていた。男は女の尻のあたりを両手で抱いて、自分にこすりつけるようにして押しあてている。
幸子……。
イグナシオが女の影が幸子であることに気づいた瞬間、幸子のほうもイグナシオに気づいた。
幸子は硬直した。男のほうは、まだ幸子の尻に手をまわし、熱っぽい動作を続けていた。
イグナシオは呆然と見つめた。幸子は男から離れようと躯をそらした。男が振りかえった。緊張した瞳でイグナシオを凝視した。口の中で何事か呟いた。新左翼の集団の名だった。
男は幸子の部屋の衣裳ダンスの上にあった写真立ての男だった。写真の中では赤いヘルメットを被って角材を持って微笑んでいた。
いま、男は眼を剥きだすようにして、口を半開きにして立ちつくしていた。もういちど新左翼集団の名を口ばしった。幸子がちがうと声をあげた。
イグナシオは立ち去る機会を失したことを悟った。男は地面に置いた群青《ぐんじよう》色のバッグから長さ四十五センチほどの鉄パイプを取り出した。水道の配管に使う亜鉛|鍍金《メツキ》された鉄パイプだ。
男は身構えた。頬のあたりに恐怖からくる引き攣《つ》れがはしっていた。イグナシオは下腹に力を入れ、呼吸を整えた。男の窮鼠猫を噛むといった状態は危険だ。施設内での喧嘩で、弱い者を限界まで追いこんでしまって、逆に大怪我をさせられてしまった上級生や同級生が幾人かいた。
イグナシオは後退って間合いをはずした。幸子が必死でなにか言っているのだが、もう男の耳にもイグナシオの耳にも、幸子のことばは聞こえない。
最初の一撃さえ外せば、男のような状態にある者は脆いものだ。後退って間合いをはずしてから、イグナシオは誘いをかける気になった。
ななめに踏み込むポーズをとった。派手な音をたてて地面を蹴った。音だけで、イグナシオはその位置にとどまっていた。
男が鉄パイプを薙ぎはらうように振った。ひゅう、中空のパイプが笛の音のように鳴った。
腰が泳いでいた。男はバランスを崩した。イグナシオは両手で顔をカバーして、頭から男の胸許に飛びこんだ。
顔を隠したのは、恐怖心からだ。しかし、男が鉄パイプを逆方向に振る前に、イグナシオの頭突きが男の鼻を潰していた。
鉄パイプがイグナシオの脇腹をかすった。イグナシオは吼えた。男の腕をとり、手首に噛みついた。
犬歯が手首の腱にとどいた。さらに顎に力を加えた。とても腱を噛み千切れるものではないが、男の手から力を奪うことはできた。
鉄パイプがアスファルトの上に落ちた。イグナシオと男は同時に手を伸ばした。
男は鉄パイプをつかむことができなかった。イグナシオの歯で複雑に噛み千切られた手首から白い腱が覗いていた。
イグナシオは鉄パイプを拾いあげ、男を見おろした。男は鼻血と手首からの烈しい出血でショック症状をおこし、ふるえていた。瞳孔が開いて、虚ろな眼差しだ。腰が抜けて動けないようだ。
幸子がイグナシオに駆け寄った。
「やめて!」
やめて……心の中で繰りかえし、視線の端《はし》に幸子をとらえた。やめて……イグナシオは反芻《はんすう》した。ようやくことばが返ってきた。
「やめられない」
イグナシオは冷たく言った。
「勘違いしたのは、この男だ。オレは殺されそこなったんだ」
ことばと裏腹に、イグナシオの瞳は暴力の予感に対する陶酔で濡れていた。それが幸子には涙ぐんでいるように見えた。
男はショック症状を起こしたまま、アスファルトの上にへたりこんで、惚けた眼差しでイグナシオを見あげている。
イグナシオは男の死人のように白い顔と、音をたてて滴り落ちる手首からの静脈血を見つめ、溜息をついた。ふるえた息だった。
直後、肩が力で膨らんだ。鉄パイプが哭いた。男の頭髪が散った。
イグナシオは機械的に、男の頭の同じ部分に鉄パイプを叩きこんだ。男の頭はかたちを喪っていった。五十回ほどで、男の頭はほぼ消滅した。
イグナシオは長距離走者のような息をして、路上に転がった肉片を見つめた。指先であるとかの末端だけが自動運動的に痙攣していた。
ぎこちなく首をねじ曲げ、幸子を向いた。幸子は立ったまま、気を失っているような状態だった。イグナシオは幸子を向いて、烈しく武者震いした。自分の意志では御することのできぬひどい震えであった。
歯がガチガチ音をたてた。鉄パイプに視線を据えた。ふるえる息を吐きつくし、指先から力を抜いた。鉄パイプはアスファルトの上に転がった。
イグナシオは舌先で口の中をさぐった。さぐっているうちに、わずかだが唾液が湧いた。唇を湿らせた。周囲をうかがった。
うかがったが、転がっている死体をどうこうしようという気は起きなかった。イグナシオは幸子の腕をとった。幸子を引っぱった。火葬場の裏手にまわった。空き地があり、雑草が生い茂っていた。
草の匂いを嗅いだとたん、幸子にむしゃぶりついた。幸子の顎や首筋を唾で濡らした。むしゃぶりついているうちに、すこし醒めた。
有刺鉄線の切れめを見つけた。幸子の手を引いて、空き地に入りこんだ。野生化した紫陽花《あじさい》の薄紫色が鮮やかだった。ふたりは草叢《くさむら》の中に倒れこんだ。
くちづけした。舌と舌が絡んだ。絡みはしたが、幸子には力がなかった。イグナシオは餌を前にした豚のような音をたてて、幸子を吸った。
幸子の着ているコットンのシャツをまくりあげた。ブラジャーをずらし、乳房を露《あらわ》にした。加減せずに力をくわえ、変形させた。
ジーンズ地のスカートの中へ、イグナシオの手が進んだ。イグナシオの指先に、しっとりした感触が伝わった。
濡れていた。ショーツの隙間からイグナシオは指を挿し入れた。イグナシオの指は滑り、呑みこまれた。
意外さに、イグナシオは幸子を見つめた。
「欲しいか」
耳許で訊いた。幸子は答えない。
「欲しいのか」
もういちど問いかけながら、イグナシオは幸子のショーツを脱がせた。イグナシオは幸子に埋めこんだ。しばらく、じっとしていた。幸子も動かない。
「なにを考えている」
幸子は瞳を大きく見開いて、首を左右に振った。掠れ声で言った。
「血まみれよ」
「誰が」
「イグナシオにきまってる」
抑揚を欠いた声で幸子は答え、小刻みにふるえた。
「獣のように噛んだのよ」
「よく覚えてない」
イグナシオは手の甲で、口のまわりを拭った。なるほど、血だ。ひどく粘ついた。
「さっきキスしただろう。彼の血の味がしたか」
幸子のふるえが烈しくなった。
イグナシオは動きはじめた。動きはじめると、ふたたび獣になった。空白。幸子がイグナシオの腰に両足をまわした。イグナシオの烈しい動きを規制した。
幸子は密着を求めた。突き放すようにイグナシオは動いた。すぐにゴールが近づいた。
*
目覚めた。イグナシオは狼狽し、声にならない声をあげた。イグナシオの下に幸子がいた。
「オレ……どれくらい眠った?」
「ほんの二、三分」
イグナシオは周囲をうかがった。草々は生あたたかい風に揺れていた。折れた茎から漂うのだろう、苦っぽい植物の匂いがした。
ふかい眠りだった。これほどふかい眠りを知らなかった。男を殺し、女を抱いた。そして数分の眠りを得た。
憑きものが落ちたような気分だった。わずかに懈《だる》さがのこってはいるが、気持ちは平静で、透明だった。
空気は酸素だけでできているかのようだ。ついさきほどまでイグナシオは、水槽の中で死にかけていた酸欠金魚だったのだが。
「わたし、黙っていてあげる」
「なにを」
「全部」
言いながら、幸子は泣き笑いの表情を見せた。
「彼を殺したことも、わたしを犯したことも」
イグナシオは現実感のなさに戸惑い、苦笑した。そっと幸子の上から降りた。筋肉に残っている重さだけが、かろうじて自分の行為の証だった。
「オレ……捕まるかな?」
幸子は答えず、倒れた草の上に横になったまま、天を向いている。
「捕まったら、死刑になるかもしれないな」
イグナシオは独白し、忍び笑いを洩らした。
「計算が合わねえや。オレはふたり殺したのに、オレは一度しか死ねないもんな」
「ふたり?」
「そう」
イグナシオはうなずいた。幸子はイグナシオに向けていた顔を天にもどした。
「雨よ」
「ほんとだ。誰かが空《から》梅雨《つゆ》だって言ってたけど」
「雨があがったら、夏よ」
呟きながら、幸子はイグナシオに向けて手を伸ばした。
「起こして」
イグナシオは幸子の手を引いた。足首にひっかかっていたショーツを穿かせてやった。
そのときイグナシオは見た。自分の放った精が、幸子の傷口のような部分から流れだしているのを。夜目にも鮮やかな白だった。
「血とか、拭かなくてはね」
立ちあがった幸子は母親のような口調で囁いた。
「ひどいもんよ。服とかも血だらけよ。わたしの服で着られそうなのを選んであげる」
幸子は落ち着きはらって見えた。イグナシオは少々驚いた。女とは、このように立ち直りがはやいものなのだろうか。
イグナシオの視線に、幸子はけげんそうな表情をかえした。イグナシオはとぼけた。火葬場の煙突を見あげた。
草叢から忍び出ると、雨は強さを増した。ふたりは小走りにアパートへ駆けた。
*
雨は死体を清めていった。さらに、路上に転がった鉄パイプを洗った。血によって残されていたイグナシオの指紋は淡く滲んで、徐々に不明瞭になっていった。
酔客を降ろしてから、一方通行の標識に従って走っているうちに道に迷ってしまったタクシーが死体の直前で急停止した。
運転手は瞳を凝らした。
死体は叩きつけるような雨に烟《けぶ》っていた。
4
幸子が買い集めてきた新聞は、またしても内ゲバ殺人といった調子の見出しを掲げているものが多かった。
イグナシオは悪びれたところがなく、平静で、外出しようとするのを逆に幸子が止めるほどだった。
幸子はタンスの上の写真を含めて、死んだ彼に関するもの全てを処理した。そして三日間、イグナシオを貪《むさぼ》った。イグナシオは献身的にそれに応え、ついに幸子は出血してイグナシオを迎え入れることができなくなった。
ティッシュは淡い桜色に染まった。幸子はそれを見つめ、首を左右に振った。
「夢を見ていたみたい」
イグナシオは黙って服を着た。幸子は乱れに乱れた布団とシーツの上に横座りして、動かない。
「隣がなにか言ってくるんじゃないかな?」
幸子はイグナシオを向かずに答えた。
「隣だって適当に男を連れこんでるんだからいっしょよ」
イグナシオが肩をすくめると、幸子は自分とイグナシオの体液で汚れたシーツを指先でつまみながら呟いた。
「わたし、勉強しよう」
「勉強?」
「そう。なぜイグナシオみたいな子ができたか分析するの」
「オレって研究材料?」
「たぶん、わたしにとって一生の」
幸子は真剣だった。イグナシオは表情を真顔にもどした。
「オレ、思うんだ。神様って、いるよ。オレを研究するなら、神様のこともいっしょにね」
「イグナシオを見てると、たしかに神様はいるみたいね。イグナシオは神様に護られているのよ」
イグナシオは、しばらく考えこんだ。ためらいがちに言った。
「オレって、なんのためにこの世にいるんだろう」
親に棄てられ、施設で育ち、二度の殺人を犯し、未来のことなど考えたことのない少年。幸子はイグナシオを見あげた。脆く繊細な顎の線に視線を据える。
「イグナシオって、天使かもしれないね」
「オレが? 天使? こんなヒネた?」
イグナシオは自分で茶化して、笑った。幸子は笑わず、イグナシオを見据えたまま、言った。
「わたし、この三日間で妊娠したと思う」
イグナシオの笑いが曖昧なものに変化した。
「わたし、妊娠しやすいたちなの。一度失敗してるんだ」
イグナシオの顔から笑いが消えた。
「こんど妊娠していたら、わたし、生んじゃう」
難問だった。予想外だった。イグナシオは対処しようがなく、立ちつくした。幸子のほうが答えをだした。
「あなたは、もうわたしと会う気がない。わかっているわ。もし、わたしが妊娠したら、赤ちゃんは、わたしのものよ。いいこと、イグナシオ」
イグナシオはうなずいた。うなずくことしかできなかった。幸子が理解できなかった。女は単純で、理解不能で、ふしぎだった。
「さようなら」
幸子はきっぱり言った。イグナシオは深く頭をさげた。
*
夏の陽射しだった。イグナシオは軽い眩暈を覚えた。環七通りにでた。渋滞していた。排ガスで路上は青白く霞んでいた。動きを止めた車の群れ。エンジンやエアコンの熱で陽炎《かげろう》が揺れていた。
三日三晩、幸子はイグナシオを求め続けた。それは快楽を貪るというよりは、苦行にちかかった。イグナシオは、それに応えた。義務であるかのように感じたからだ。
躯がふらついた。下腹が鈍く痛んだ。眼がしょぼついた。しかし、わるい気分ではなかった。
食いだめ、寝だめ、そしてやりだめができればな……イグナシオは歩道を歩きながら思い、苦笑した。
幸子はイグナシオと交わることで、忘れようとしたのだ。
彼の頭上に振りおろされた鉄パイプ。あのとき幸子が『やめて』と言わなければ、イグナシオは五十回も鉄パイプを叩きこまなかっただろう。
じっさい、十数回で、暴力衝動はおさまっていた。あとは幸子に対するみせしめだった。幸子に彼がいることは、わかっていた。許せなかったのは、イグナシオの目の前でくちづけしあっていたことだ。
いま、イグナシオは穏やかな気分だった。異常に昂進した幸子の性欲も理解することができた。この理性的な状態がいつまでも続けばいいと願った。しかし、時間がたてば再び破綻するであろうことも直感していた。
*
茜は仲間の娼婦に囲まれて、笑っていた。イグナシオを一瞥すると、悪戯っぽくウインクしてみせた。
「あたし、今日休んじゃおうかな」
年長の娼婦に甘え声で言った。娼婦たちは皮肉を言い、茜を小突いたりもしたが、けっきょく気をきかして部屋から出ていった。
「どこ、行ってたの」
「彼女にさよならをしてきた」
「別れちゃったの」
「そう」
「無料《ただ》でできる女と別れちゃったの」
「そう」
「ばかねえ。これから先、どうするの」
「だいじょうぶ。やりだめしてきたから」
「そういえば、すこしやつれたかな」
茜は上眼遣いでイグナシオを探るように見つめ、イグナシオは照れ笑いをかえした。茜は顔をしかめた。
「なんか女臭い。いやだな」
心底|嫌《いや》そうな茜の顔が愛しかった。イグナシオはテーブルの上に残されたクッキーをつまみながら、言った。
「じゃあ、躯、流してくるよ」
バス・ルームは磨きあげられていた。幽かな塩素の臭いがした。たしかにイグナシオの下腹からは幸子の香りがした。股間から泡立てていると、茜が覗いた。
「きれいに洗えよ」
「うん」
「しかし、まあ、若者とは思えないね。みじめに凋《しぼ》んじゃって、毛の中に隠れちゃってるじゃない」
「茜さんに見られて、恥ずかしがってるんだよ」
「ばか言ってんじゃないよ。でも、あんた、けっこういい躯してるね」
「肉体労働で鍛えたから」
「やれやれ。力仕事じゃ頭まで鍛えられなかったみたいだね」
「それって、オレのこと?」
「他に誰がいるかよ」
投げだすように言って、茜はバス・ルームから顔をひっこめた。外から大声で言った。
「元気がでるように、焼肉食べにつれてってあげるよ」
イグナシオは眼を閉じていた。男みたいな口調で喋る茜の口許を、唇を思いかえしていた。下腹が硬直しはじめていた。イグナシオはあきれた。切なくもあった。
*
タクシーを停めようと、茜が手をあげた。その手をイグナシオがつかんだ。
「たいした距離じゃないし、歩いて行こうよ」
「いやだ。貧乏臭いから」
茜は逆らったが、けっきょく歩きはじめた。昼の暑さも和らいで、夜風が肌に心地良い。イグナシオは茜からすこし離れて歩いた。たいして歩かぬうちに、茜が声をあげた。
「疲れちゃった。歩けない」
「冗談やめろよ」
「ほんと。おんぶして」
「おんぶぅ?」
語尾を持ちあげるような口調で、イグナシオは茜を覗きこんだ。
静かな裏道だ。人通りは殆どない。イグナシオは茜をおぶった。意外に重かった。しばらく力仕事から離れていたので、躯がそれを思いだすまで、イグナシオの歩調はぎこちなかった。
やがて、イグナシオは雄々しく胸を張って歩けるようになった。茜は脱力してイグナシオに密着している。
「わかる?」
「なに」
「ノーブラ」
イグナシオはうなずいた。茜は押しつけてみせた。
「尖っちゃった。痛いくらい」
茜はさらに乳首を押しつけた。イグナシオはドキドキしたが、それをたのしむ余裕もあった。茜はイグナシオの首筋に唇をあてた。
「やめろよ」
「キスマークつけられたらこまる?」
「――擽《くすぐ》ったいよ。茜さんを落としちまうぜ」
歩行者がいないわけではないが、茜とイグナシオはふたりだけの世界にいた。やがて茜は黙りこみ、イグナシオは足腰、そして腕に疲労をかんじはじめた。
「おりる」
怒ったように茜が言った。イグナシオは限界をかんじてはいたが、茜を離したくなかった。最後の力を振り絞って腕に力をこめ、ずり落ちる茜を支えなおした。
茜は腰を中心に躯を左右に動かし、イグナシオの腕を振りほどいた。茜が地面に降り立つ音がした。とたんにイグナシオは重力から解き放たれたかのような解放感を覚えた。
それは宙に浮きあがるようなかんじだった。イグナシオは溜息をついた。大切なものが逃げてしまった。徐々に腹が立ってきた。
「よし。こんどはあたしがおぶってやるよ」
茜が言った。無表情だった。イグナシオの腹立ちは戸惑いに変わった。茜は躯をかがめて急かした。
イグナシオは遠慮がちに茜の背に体重をあずけた。茜は息《いき》んだ。
「どっこいしょ」
イグナシオの躯が持ちあがった。数歩行ってよろけた。立ちなおった。さらに十数歩、つんのめるようにして進み、茜はギブアップした。
「茜さん、けっこう力持ち」
「うるせえ」
茜は額の汗を拭った。イグナシオも汗ばんでいた。ふたりは微笑みあった。肩を並べて歩きはじめた。
「イグナシオ、てめえ、おっ立てただろ」
茜が囁いた。
「そんな気になんなかったよ。だいたい茜さんだって、おっぱい尖ってたじゃん」
茜はきまりわるそうな顔をした。うなずきながら、イグナシオは言った。
「すごく、よかったぜ」
茜は食い入るようにイグナシオを見つめた。
「よかったか?」
「よかった。スケベな気分とかじゃなくて、重くて、あったかくて……」
イグナシオはことばに詰まった。茜は皮肉な、嘲笑うような瞳をイグナシオに向けた。そんな表情と裏腹に、躯をイグナシオにあずけた。
「恋人のふり、してやるよ」
恩きせがましく茜が言った。イグナシオは茜の滑らかな二の腕に手をまわした。そしてようやく気づいた。茜はノーメイクの素顔だった。
*
新宿はにぎわっていた。茜とイグナシオのカップルは人目をひいた。典型的な美男美女のカップルである。人々はイグナシオが人殺しで、茜が娼婦であるとは思いもしない。
「オレが新宿に初めて来たとき、すごく朝早くだったんだ。ショックだったな。ゴースト・タウンみたいで」
「夜明けからしばらくの、ほんのわずかの間だけ、人がいなくなるのよ」
「今夜はすごいね」
イグナシオは人波を示した。
「土曜だもん」
茜はつまらなさそうな口調で答えた。それからコーヒーを飲んでひと休みしようと提案した。イグナシオはジャズが聴きたいと答えた。
コマ劇場ちかくのビルの地下に降りた。「木馬」というむかしからあるジャズ喫茶だった。古い時計のコレクションに驚かされた。スピーカーもあっけにとられるほど巨大であったが、音量自体は控えめだった。
ふたりは濃緑に塗られた壁際に座った。店内中央には電話ボックスがあった。イグナシオは「潜水館」のような雰囲気を想像していたのだが、客は地味でおとなしかった。
「落ち着けるでしょう」
茜はイグナシオのコーヒーにまで砂糖を入れながら、言った。イグナシオはうなずいた。
「なんか不服そうね」
「そんなことないよ」
あわててイグナシオは否定した。本音は、もうすこしだけ大きな音で音楽を聴いてみたかった。
「ここ、あたしの思い出の店なの」
「思い出?」
「高校をさぼって、私服に着替えて、ここで時間をつぶしてたんだ」
「茜さん、不良だったの?」
「ばか、あたしはまじめだったよ。高二のときは生徒会長に選ばれたんだから」
「水泳は都大会で一位で、生徒会長か」
茜はコーヒーをひとくち飲んで呟いた。
「どっちも嘘。一位も、生徒会長も」
イグナシオは茜の横顔をうかがった。茜は口の端で笑った。
「あたしって嘘つきなんだよね」
そうは思えなかったが、イグナシオは黙っていた。
「ここが思い出の店であることは本当よ。高三になったら、全てがばからしくなっちゃって、本ばかり読んでたの。ここは広いし、明るいでしょう」
「なんで、ばからしくなったの?」
「銀行員になれなかったからよ」
「なぜ?」
「ハーフだから」
イグナシオの瞳に殺気がはしった。茜はそれを見逃さなかった。手を伸ばし、イグナシオの膝の上に置いた。
「嘘よ。銀行員なんて、初めからなる気がなかったわ」
茜はイグナシオの膝の上に置いた手に力をこめた。
「なんとなく、よ。とにかく勉強する気力がなくなっちゃったのよ。あたしって、けっこうガリ勉で、日本人を見返すには勉強しかないって思いつめたりしてたんだけど、息切れしちゃったのね」
イグナシオはふたたび茜の横顔に視線を据えた。自分はあきらかに日本人とはちがう。その目鼻立ちから外人扱いされてもしかたない。しかし茜は自分から母が朝鮮人であると名のらなければ、誰にもわかりはしない。
差別とは、なにか? イグナシオのように毛色がちがえば区別されもしようが、茜の場合は?
「学校をさぼりだしたら、兄貴は怒ったな」
「大谷さん……」
「そう。自分はもうヤクザの親分だったのよ。それなのに偉そうにあれこれ言うの。あったまきちゃった」
「それは、おにいさんなら……」
「腹違いだもん。兄貴は完全に日本人なんだ」
茜はサバサバした表情で言った。イグナシオは胃が痼《しこ》るのをかんじた。茜は敏感にイグナシオの様子を察して言った。
「ごめん。つまらないこと、言っちゃった」
イグナシオは笑った。茜に負担をかけたくなかった。うまく笑えた。茜をつつみこむように笑った。そのせいで、茜は眼頭を押さえた。口の中でばかやろうと呟き、イグナシオの脇腹に肘打ちを喰らわした。茜は加減しなかったので、イグナシオは思わず呻《うめ》きそうになった。それでも、イグナシオは笑顔を崩さなかった。
*
焼肉「平壌苑」は区役所通りを北に突きあたるすこし前にあるという。そこへ行くまでに、茜はキャッチ・バーのバーテンやホステス、そしてチンピラから挨拶された。茜はそれらをきれいに無視した。
「あいつら陰では、あたしのこと、パンパンと呼んで軽蔑してんだよ。あいつらが頭をさげてるのは、あたしのうしろにいる兄貴だよ」
それが茜の言い分だった。そうかもしれない。しかしイグナシオは茜の頑《かたく》なさが悲しかった。
茜はイグナシオの思いを読んだ。吐きだすように言った。
「よく覚えときな。人間ていうのは上に甘くて、下に厳しいんだよ。てめえらだって五十歩百歩のくせして、すこしの差を見つけては細かく区分けして、差別するんだよ」
イグナシオは茜の呪いのことばを聞きながした。そんなことは、わかりきったことだ。イグナシオが鉄パイプで殴り殺した幸子の彼も、理想としては茜の言うようなことをなくすために運動し、戦っていたはずだ。
しかし、イグナシオはそれを単純すぎると思っていた。そして、考えに考え抜いたあげく、けっきょく徹底してアナーキーになり、個人主義に陥った。集団で動く者がバカに見えてしかたなかった。
イグナシオは殆ど全てにわたって選ばれた人間だった。
知性、肉体、そして美貌。
しかし、それらを発揮する場所がなかった。それを誇るという発想もなかった。もし、イグナシオが小利口な少年であったなら、その美貌なりを生かして、別の道を歩んでいただろう。しかしそうするには、イグナシオは哲学的すぎ、知性的すぎた。
知性とは詰めこまれた知識の総量ではない。思考の筋道のことだ。イグナシオはまともな教育を受けていなかったが、世の中がバカらしく見えてしかたなかった。そして実際に世の中はバカげていた。
焼肉屋は三階建てだった。濁った藍色のアクリルの自動ドアは、反応が鈍く、茜が舌打ちしてからようやく開いた。
烈しい違和感にイグナシオはたじろいだ。客も店員も、イグナシオにあからさまな視線を据えていた。
ところがイグナシオの緊張をよそに、茜の肩からは力が抜けていた。店員が奥まった席を示した。不愛想であったが、それは馴れ親しんだ者に対するぞんざいさであった。
この店は、在日朝鮮人のコミュニティの場として機能していた。茜はテキパキと注文し、甲斐甲斐しく肉を焼いた。
「おいしいでしょう」
茜はさっと火を通しただけのカルビを手ずからイグナシオに食べさせた。
イグナシオは、うなずいた。それは施設の食事でごくたまに供された肉とはまったく別物だった。
「うめえ!」
イグナシオは歓声をあげてみせた。幾人かの客が茜に声をかけ、挨拶した。茜はリラックスしきっていて、軽やかに受け答えし、笑い声をあげた。
茜からはいつもの緊張が完全に消えていた。隣のテーブルでは老人が朝鮮語にときどき日本語を交えて喋っていた。むかし話らしかった。
イグナシオは肉のうまさに舌鼓を打ってみせながら、絶望的な孤独感を覚えていた。店内でイグナシオは異物であった。茜がいるから何事も起こりはしないのだが、たまたま日本人が客として迷いこんできたときよりも烈しい拒絶がイグナシオに向けられていた。
イグナシオの胃は裂けそうだった。無言の、あからさまな差別がイグナシオに向けられていた。イグナシオは童話のみにくいアヒルの子≠ナあった。白人的な顔立ちが黄色人種の中で浮かびあがっていた。なによりも、その超越的な美貌が災いした。
炭火の熱。廻り続ける換気扇の唸り。それに絡む青白い煙。立ち昇る肉の焼ける匂い。ビールの泡。ニンニクの匂い。キムチの赤い色。朝鮮語と食欲。
ふだんはあれほどイグナシオの気持ちを察する茜だが、この店で席に着いたとたんに、和《なご》み、安らぎ、鈍化した。
イグナシオは飢えた動物のように肉を食べてみせている。胃の拒絶反応を精神力で抑えこみ、肉のうまさを絶賛する。
茜は満足そうにうなずき、姉のような顔をして甲斐甲斐しく世話をやく。
5
手酌でやるから、と大谷はイグナシオを制したが、もとよりイグナシオはこういった作法を知らなかった。
遠ざけられたホステスたちが、チラチラとイグナシオを窺っていた。大谷は芸能プロダクションにも噛んでいるらしく、イグナシオのことをデビュー前のアイドルだと信じこんでいるホステスもいた。
有線放送はポピュラーを流し続けていた。T・レックス、スージー・クアトロ……名は知らぬが、イグナシオがどこかで耳にした曲ばかりだった。
ボックス席の椅子は過剰に柔らかく、逆に尻が落ち着かない。大谷は掌で押して言った。
「これが高級であるってことに対する新宿のセンスなんだ。わるくないだろ。永久に銀座にはなれん」
笑いながら冷えすぎたビールを啜るように飲んだ。合わせてイグナシオもビールに口をつけた。大谷は躯を動かし、イグナシオに顔を寄せた。
「柔らかすぎ、冷えすぎ。これが歌舞伎町のサービスさ。ほどほどってもんがない。イクだけイッちゃえってんだから。その気にさせると、女たちも凄いよ。おまえなんか犯されちゃうから」
イグナシオは大谷の視線を追った。ホステスたちが嬌声をあげた。店は開いたばかりだった。客は大谷とイグナシオだけだった。
「あの端《はし》。かわいい顔してるだろ」
「ええ」
「あれで子持ちなんだよ」
「子持ち……」
「あれに似ても似つかねえ岩みてえな赤ん坊でさ。逃げた男に似たんだな」
大谷はビールを飲み干し、自分で注いだ。
「あんなかわいい顔してて、病気なんだ」
「病気?」
「淫乱なんだ。本人に言わせるとさ、夜になると穴ん中が痒くなんだとさ。好きずきだけど、誘われても断わったほうがいいよ。たぶん穴ん中が痒いってのはホントなんだ。おまえの尿道まで痒くなっちゃうよ」
イグナシオは苦笑した。おそらく大谷の言っていることは事実なのだろう。しかし、端に立ってこっちを見ている娘は清楚で、こんな店に似つかわしくない雰囲気であるのも事実だ。あれが子持ちで淫乱。イグナシオは娘から視線を外した。
「詳しいですね」
「この店はウチが仕切ってっからね。もっとも多くカスリをいただいてんだ。わかるだろ? 新宿的高級さを売りにしてるからね。大繁盛よ。夜八時過ぎからは、凄いよ」
大谷は息をつぎ、拳を噛むようにして含み笑いを洩らした。
「女も、いいのを揃えてんだろ。美人だけど、どっか崩れてんだよな。若づくりしてプリプリしてるけど、本物の二十代なんて幾人いるかね」
大谷は拳を唇にあてたまま、唐突に表情を変えた。
「ありがとうよ」
「なんですか、いきなり」
「茜だよ」
イグナシオは微笑した。ビールに手を伸ばした。
「あかるくなったよ。ほんとうに茜はあかるくなった」
「もともと、あかるいですよ」
「そう思うか?」
イグナシオはうなずいた。大谷はタバコを咥えた。火をつけようとしたイグナシオを制し、自分でマッチを擦った。
「正直、もてあましてたんだよ」
呟きながら大谷は、手を左右に振って眼の前に立ち昇った煙を追い払った。
「手首を切るわ、ガスの栓を開くわ、輪っかに首を通すわ……ほんと、もてあましてた」
イグナシオは大谷を見つめたまま、黙っていた。大谷は首を左右に振った。
「嘲《わら》われちまうかもしれないけど、あいつだけは、茜のことだけは、だめなのね。俺の泣きどころだよ。かわいくてしかたないんだ」
「あえて訊きますけど」
「あえて、ときたか」
「なぜ、娼婦をさせてるんですか?」
大谷はタバコを灰血に押しつけた。
「すごく頭のいい娘だったんだ。水泳も相当のもんでさ。誰よりも抜きんでてたんだよ。俺とはふたまわりちかく歳がちがうんだけどさ、議論したら俺が負けちゃうんだから。
でもさ、差別って、理屈じゃないだろ。理性的に考えれば悪いことなんだけど、世の中バカばかりじゃない。悲しいよな。自分が生きてくためには、誰かを否定しなけりゃなんないんだよ」
「否定?」
「そう。人間の本能みたいなもんだよ。誰かを否定して自分が嘘でもいいから優位に立ってないと生きていけないんだよ。
否定するとっかかりはなんでもいいんだ。頭が薄いとか、ニンニク臭いとか、かわいい顔してるけど子持ちだとか、学歴がないとか、足がO脚だとか、色が黒いとか、背が低いとか、腋の下が匂うとか、ヤクザだとか、サラリーマンだとか、フーテンだとか、バイシュンフだとか……
もし、否定が自分に向かうと、そいつは死ぬしかないんだよ。誰だって、ときどき自分を否定するんだけど、立ち直るんだよな。他と較べて、なんとなくだけど、それを拠り所にして立ち直るんだ。この、なんとなくが差別の生みの親なんだ。
で、ときどき本気で自分を否定する奴がでてくる。引き返すことができないところまで自分を否定しちまうんだ。そこまでいくと、自分で自分を殺すしかない。自殺だ。
茜が、そうだった。まわりから抜きんでてきれいで頭も良かったけど、まわりの奴の鼻には食べてもいないニンニクが臭うわけだ。茜だって世間の女の子並みの希望はあったさ。それを成しとげる自信もあった。でも世間は、いや日本国はノオ、と言った」
ふだんだったら酔いがまわりだして、指先とかが熱くなりはじめる頃だった。イグナシオは冷たくなっていた。白くなっていた。
「茜が売春婦を始めたのは、自分の意志なんだ。職業選択の自由がないのなら、人類最初の職業をやろうってわけだ。俺には止められなかった。俺にできることは、せめて自分の管理のもとにおいて、悪い客がつかんように気を配ることだけさ」
「よく、わかりました」
「ほんとにわかってるのか」
「わかりました」
「あえて、言おう。わかってないよ」
「わかりました」
「自分のことだよ。イグナシオ。おまえのことだ」
「オレの?」
「いいか。茜があかるくなったのは、自分よりも哀れな奴を見つけたからだ」
「哀れな奴って……オレですか」
「そう。おまえだ。イグナシオだ。親がいないだけでもハンディなのに、いなくなったおまえの親は、おまえの顔かたちに自分《テメエ》らの血を刻印して消えやがった。
俺から見ても、おまえは美しいぜ。その美男子ぶりは、反感を持つまえに、照れて顔をそらしちまうほどだ。
しかも、だ。しかも、おまえと話していて気づいたんだが、おまえはバカのふりをしているよな。その気がないにしろ、自分の能力を外に出さんようにしている。
とても十七歳には見えないよ。頭が良すぎるよ。ときどき、俺は調子にのって喋っていて、おまえの眼を見て萎縮するんだ」
イグナシオはテーブルの上で汗をかいているビールのグラスを見つめていた。大谷はイグナシオの横顔を見つめたまま続けた。
「おまえは自分の能力を生かす場所を知らないんだ。おまえはサラリーマンになれんだろう。サラリーマンよりはヤクザだが、ほんとうは学者だな」
「学者……」
「そう。銭金《ゼニカネ》じゃなくて研究に打ち込む学者。それが似合ってるよ。でも、なれんだろう。能力を生かす方向に、道ができていないんだ。おまえがすこし金のあるふつうの家に生まれてたらなあ。で、顔も地味で、いや女に相手にされんような顔が望ましい。そうしたら、おまえは幸せに生きたと思うよ」
イグナシオは苦笑した。自分が学者とは。
「笑ってるけどな。それは自分が進むべき道さえも見えていないからだ。茜には道が見えた。見えるだけの恵まれた環境があった。すこし進んで引きかえさなければならなかったがな。ところが、おまえは、道さえも、見えない。なにも、ない。おまえを庇《かば》う者は、いない」
イグナシオは勢いよく顔をあげた。
一瞬だが、キリストを見た。
イグナシオに手を差しのべていた。
しかし、一瞬だった。
幾人か客が入ってきて、女たちが嬌声をあげた。大谷は笑いながら言った。
「女どもは、戦闘開始だ」
イグナシオも笑った。大谷とイグナシオは見つめあいながら笑った。
「いま、見えましたよ」
「なにが?」
「神さま」
大谷は首をかしげ、曖昧に瞳を伏せた。
「見えたのはいいけど、なにもしないで消えちゃいました」
「おまえは神さまとやらがいると思っているのか?」
「いますよ、神さまは。でも、オレにはなにも関係がないんです。だから、いないのといっしょ」
「なるほど」
大谷は眼頭を揉んだ。ボーイが気をきかせて新しいビールを運んできた。突き出しのシューマイがやっとできたと言い、遅れたことを詫びた。シューマイは湯気をあげていた。イグナシオはシューマイのエビをほじくりだし、口に放りこんだ。
「段取りの悪さも、新宿だろ。考えてみたら、乾き物だけでビールを飲まされてたわけだ」
「けっこう好きですよ、新宿が」
「そうか」
「大谷さんもいるし」
「うれしいこと言うなあ。本音は茜がいるから、だろ」
「茜さんとは、なにもないんです。プラトニックっていうんですか?」
「冗談こくな」
「ほんとうです。茜さんは、そういうのはなしがいいみたいです。オレは痩せがまんですけど、最近はけっこう耐えられるようになってきました」
大谷は首を左右に振った。
「すまんなあ……。あいつの性格だろ。おまえが他の女を抱いたりしたら、怒るだろ?」
「そうですね。でも、いいんです。茜さんが笑うと、すてきですよね。すごく、いい」
「おまえは――」
大谷は絶句した。しばらく箸の先でシューマイをつついた。いきなり、顔をあげた。
「ところで、死んだってよ」
「誰が、です?」
「誰がって、オカマのマスターだよ」
イグナシオはシューマイを口に放りこんだ。「潜水館」のマスターの顔は思い出せなかった。自分とは無関係のような気がした。
「大久保病院に運ばれてたんだとよ。輸血してなんとか持ちこたえていたらしいんだが、けっきょく一度も意識がもどらなかったそうだ。おまえ、マスターの顔面を蹴っただろ。そのせいで脳が崩れかけてしまって、それが致命傷とのことだ」
「そうですか」
大谷はタバコを抜きとり、指先で弄んだ。
「おまえ、何人めだ?」
「なにがです」
「何人殺した?」
「三人です。マスターをいれて」
悪びれずにイグナシオは答えた。大谷は肩をすくめた。
「初めての殺しは、いつだ?」
「中三のときです」
「べつに話したくなければ、やめていいが」
「いえ、大谷さんに隠す気はありません」
イグナシオは冷静に下山殺しの顛末を語った。大谷は興味ぶかそうに聞き、巧みな合いの手をいれた。
防犯部少年課の刑事とのやりとり、そして自ら眼球を押しこんだことを白状するあたりは、イグナシオの口調は得意そうでさえあった。
「とんでもねえ奴だ、おまえは。たいしたもんだよ」
「なんか皮肉っぽいですね」
「いや。おまえは単に頭がいいだけの奴じゃない。情ってものがわかるからな。で、ふたりめは?」
「ふたりめは、ついこのあいだです」
イグナシオは山代幸子の彼を殺したときの様子も、つつみ隠さず話した。孤独感をもてあまし、正常でなかったことも語った。ただし、その原因が茜にあることは黙っていた。
「で、それは内ゲバってことになっちゃったのか?」
「そうみたいですね。新聞には、そう書いてありました」
「信じられんな。できすぎだよ」
「だから、神さまって、いるんですよ」
「さっきは、神さまなんて関係ねえって言ってただろうが」
「関係ないんですよ。オレが頼んだわけじゃない。オレが祈ったわけじゃない。神さまが勝手にやっているんです」
「なるほどね。でも、おまえを護っているのは、どっちかというと、神さまというよりは悪魔ってやつじゃないのか?」
「ちがいます。神さまです」
イグナシオは断言した。大谷はすこしシラけた顔をした。
「ま、このハナシは、おいといて」
大谷はボーイを呼んだ。組事務所に電話して、呑みに来られる組員は遊びに来い、と連絡するように命じた。
「ところで……な」
大谷は躯を前かがみにして、膝の間で手を組んだ。
「オカマのマスターだがな」
「はい」
「サツが嗅ぎまわっている」
「なぜ!」
「なぜって、おまえ。立派な殺人事件じゃないか。おまえ、どっか現実感覚ってのが麻痺しているぜ」
大谷はイグナシオの瞳を覗きこんだ。イグナシオの虹彩は、平均的日本人よりも色彩が薄い。
「俺は神さまっての信じていないんだ。そんなもんは存在しねえよ。あるのは、現実だけだ」
「――そうかもしれません」
「そうだよ。ところで、なぜ俺がマスターの死を知っているかというと、知り合いの刑事《デカ》が情報を求めてきたからなんだ」
イグナシオの頬に緊張がはしった。
「サツとヤクザは、持ちつ持たれつなんだ。お互いに、情報を小出しにして、恩を着せあってるってとこか」
大谷はイグナシオにタバコをすすめた。イグナシオは断わった。大谷はうなずき、自分でタバコを咥えた。
「もちろん、俺はとぼけたよ。しかし刑事は粘った。暴行の跡にためらいがないってな。素人のやりくちではないってわけだ」
大谷は上眼遣いでイグナシオを窺った。
「はっきり言って、新宿で起きた事件の裏ってのは、たいがい俺の耳に入ってくるんだ。だから刑事も粘った。でも、俺はとぼけたよ。我ながら見事なもんだったぜ」
イグナシオは大谷にすがるような視線をかえした。
「安心しろよ。マスター殺しを知ってるのは俺だけなんだ。そうだろ?」
「はい」
「俺は喋りはしない」
イグナシオも顔を知っている大谷組の組員が四人、店に入ってきた。年嵩の組員が毎度のごとく大谷の単独行動を戒めた。
「独りじゃねえよ。イグナシオがいる」
大谷は機嫌のいい声で応えた。そしてイグナシオの肩を抱くようにして、耳打ちした。
「茜を頼むぜ」
ひとことだけ言って、大谷は三日月のように眼を細めて笑った。イグナシオは勢いよく顔をあげた。
罠だったのだ。
マスターは死んだ。イグナシオの将来は大谷に握られてしまった。そればかりか大谷の誘導訊問のような口調にのってしまい、下山殺しも、そして幸子の彼を殺したことも、イグナシオは包み隠さず喋ってしまった。
調子にのって喋ってしまったことを、イグナシオは悔やんだ。マスター殺しは同性愛を迫られた結果である。捕まって少年院なりに送致されたとしても、たいしたことはないはずだ。
未成年に同性愛を迫り、断わられて暴力をふるおうとしたので逆にやりかえした。そんな具合になんとでも言い逃れることができる。
しかし、下山殺しと幸子の彼を殺したことが加わると、マスターの死もずいぶん様子がちがってくる。
大谷はひとこともイグナシオに対して脅しのことばを吐いていない。ただ『茜を頼む』とだけ言った。
しかし、そのことばは蜘蛛の糸のようにイグナシオをがんじがらめにした。つまり茜になにかあれば、イグナシオも終わりなのだ。
これから先も茜が自殺を試みないという保証はない。イグナシオは茜に惚れきっていて肉体関係もないままに同居しているが、それがいつまで続くかはわからない。
そこまで考えて、イグナシオはハッとした。警察は「潜水館」の従業員も調べているはずだ。カウンターを担当している長髪の男だ。
彼は他人のことは一切関せずといった態度と性格がマスターに気にいられて雇われていた。同性愛者ではないはずだ。
イグナシオは彼のことを念頭から追いだした。たぶんあの男は喋らないだろう。もし喋ったとしても、イグナシオになす術はない。
イグナシオは下唇を咬んだ。マスターの死だけならば、同性愛を絡ませて、自分に有利な方向へもっていく自信がある。しかし残りふたつの殺人が加われば、終わりだ。
「どうした? イグナシオ。顔が青いぜ。もっと飲め」
大谷はビールをすすめた。イグナシオは無表情にビールを飲み干した。イグナシオは、自由を喪った。
「大谷さん」
「なんだ?」
「―――」
けっきょくイグナシオは黙りこんだ。イグナシオは無力感に襲われていた。もし逃げれば警察と組に追われることになる。ふしぎなことに大谷をどうこうしようという気にはなれなかった。大谷を殺してしまえば、イグナシオは自由になれるのだが。
店内はかなり騒がしくなっていた。大谷の子分たちも酔いはじめていた。イグナシオは立ちあがった。トイレに向かった。放尿した。
「なるようにしかならねえよな」
独り言を洩らして、トイレから出た。どうでもよくなっていた。考えるのがめんどうだ。ホステスがオシボリを持ってイグナシオに駆け寄った。
イグナシオは雑に手を拭いた。視線をかんじた。ボックス席に座った二人組の男のうちの若いほうがイグナシオを睨みつけるようにしていた。カタギではない。
彼らにホステスはついていなかった。ホステスたちはどうやら大谷組が客としていることを楯にとって二人組を無視しているようだ。ヤクザの席に好んでつきたがる女はいない。大谷組のように気心もしれていて、冗談も言えるならばべつだが。
「毛唐が」
若い男が言った。酔いはじめた瞳をイグナシオに据えた。イグナシオは薄く笑った。手にしたオシボリを若い男に投げつけた。
「女に相手にされねえのは、田舎臭えからだよ。顔《つら》を洗って出なおしな」
ホステスが大谷に報告に走った。イグナシオは薄笑いをうかべて男を見おろしている。男は顔に当たってテーブルの上に落ちたオシボリとイグナシオを交互に見た。完全に血の気がひいていた。
「やめておけ」
兄貴分が男を制した。かすかな訛があった。とたんに男は立ちあがった。兄貴分は男の腰を抱くようにした。
「やらしてくれよオ! 兄貴」
大谷組の組員がやってきた。ボックス席のふたりを取りかこんだ。男は兄貴分を振りきろうと暴れた。兄貴分は必死だ。ここで騒ぎをおこしては、それこそ命があぶない。
店のマネージャーが顔色をかえてやってきた。店内で喧嘩されてはたまらない。
「やらしてくれよオ! 兄貴ィ」
男は涙声になって、躯をよじった。イグナシオは薄笑いをうかべたまま、言った。
「オレは組の者じゃないんだ。相手してやるよ。外へ出ろ」
マネージャーはホッとした顔でイグナシオを見た。男は兄貴分を振りきった。イグナシオに向かって肩から跳んだ。イグナシオの蹴りが腹にめり込んだ。
「この店に迷惑はかけられないんだ。外へ出ろと言っただろう」
言いながらイグナシオは背を向けた。男はフロアに尻餅をついて歯ぎしりした。大谷組の組員たちはイグナシオの実力がどれほどのものか、と黙って見ている。大谷がイグナシオの背を示して言った。
「ハンパじゃないんだよ、あいつは」
*
歌舞伎町の路上には、たちまち人だかりができた。イグナシオと男は向かいあった。男の瞳は血ばしっていた。鋲を打った雪駄がアスファルトにこすれて、軋んだ音をたてた。
男は呼吸を荒らげながら、間合いを詰めてきた。イグナシオは脱力して男の出かたを待った。
ヤジ馬たちは固唾をのんでイグナシオと男を見守った。男の兄貴分は大谷組の組員に両脇を固められていた。大谷は微笑しながらイグナシオを見守っていた。
男は臆した。ようやく自分がとんでもない相手を挑発してしまったことに気づいた。イグナシオの肩からは完全に力が抜けている。男は動けなくなった。
イグナシオ!
声がした。イグナシオだけに聞こえた。声の方向に首をねじ曲げた。ヤジ馬の中に、藤沢文子がいた。両手で口を覆って、失神しそうな顔色だった。修道服ではなくて、白いブラウスを着ていた。そこまで確かめたとき、イグナシオの顔前を銀色が煌《きら》めき、翻った。
かろうじてかわした。視線は藤沢文子に据えたままだ。文子を見つめながら、頬に触れた。中指の先が頬にめりこんだ。熱をもっていた。
イグナシオは傷口に指を這わした。男は唇を歪めて眼を剥いたまま笑い、短刀の刃を上に向けた。
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第五章 祈 り
1
藤沢|文子《あやこ》とイグナシオの視線が絡みあった。イグナシオは短刀を構えている男のことなど眼中にない。
男は戸惑った。男はイグナシオから完全に無視されていた。現実感がなくなっていった。ヤジ馬の人垣に囲まれて、奇妙な夢を見ているかのような気分だった。
文子が視線を男の短刀に向けた。歌舞伎町のネオンの赤や緑が短刀の刃に映っていた。それらの色彩は、血の気を喪った文子自身の顔にも映えていた。
イグナシオは文子を見つめながら眉をしかめ、指先で傷口をなぞった。傷は長さ六、七センチといったところだろうか。左の頬骨あたりから、やや左下がりに耳朶のあたりまで流れるように裂けている。
「まいったな……」
イグナシオは口の中で呟いた。指先が頬骨に触れたのである。骨の表面はわずかに柔らかい感触で、かなりでこぼこしている。流れだした血は首筋を伝い、白いシャツを朱に染め、腹のあたりで粘ついている。
男はイグナシオが傷を受けたショックで戦意を喪失していると自分に言いきかせた。角刈りにした髪が、汗で泡立つように濡れていた。
俺だって前橋では赤城のテツと呼ばれる男だ……心の中で叱咤し、汗で濡れた短刀を構えなおす。小者によくある意味のない気合いの入れかただ。
下腹に力をこめ、一歩踏みだす。鋲打ち雪駄が路面にこすれ、ふたたび軋んだ音をたてた。
唐突にイグナシオが顔を向けた。男は顔をのけぞらした。ヤジ馬から失笑が湧いた。素人にもわかる格の差だった。
イグナシオは睨みをきかせておいて、素早く思案した。文子にいいところを見せたいと思った。子供じみた、稚い名誉心のようなものだった。
しかし、計算は冷静だった。シャツの襟首を両手でつかみ、ボタンを引き千切るようにして胸をはだけ、間髪をいれずシャツを脱いだ。
締まった筋肉質の肌が露になった。ヤジ馬の中から溜息が湧いた。見つめる女たちの瞳が濡れていた。
イグナシオは右手にシャツを持ち、完全に脱力した。シャツの端が地面に着いた。
「歌舞伎町のいいところは、誰もオマワリさんを呼ばないことだよ」
イグナシオは男に向かって言いきかすように続けた。
「止める者はいない。思う存分できる」
男は喉仏を上下させた。内心、止めがはいることを期待する気持ちもあったのだ。そのために最初の一撃だけで、攻撃を控えていた。
そんな気持ちを、あっさり見透かされたのだ。メンツを潰された。逆上した。短刀の柄に右掌をあて、刀身が左右に逃げぬようにして、イグナシオに向かって駆けた。
イグナシオは男の動きを見切っていた。軽くよけて、手にしたシャツで男をあしらった。
闘牛を思わせた。ヤジ馬の中から、拍手と笑い声がおきた。男の眼が血走った。怒りに飛びだしそうだ。
男が動く前に、イグナシオが踏みこんだ。手首を利かせて、シャツを顔面に叩きこんだ。
フェイントだった。男が左手で顔面をカバーした瞬間、イグナシオは雪駄履きの男の足の甲を踏み抜いていた。
イグナシオの踵に、男の骨が砕け、潰れる感触が伝わった。イグナシオは男に密着した。短刀を持つ手を両手で掴み、膝をあてがって一気に力を加える。
短刀が地面に落ちた。イグナシオは拾いあげ、構えた。男は折れて皮膚を突き破った腕の骨を見つめて茫然としている。
大谷がイグナシオに近づいた。手をのばし、イグナシオの手から短刀を取ってうなずいた。
イグナシオは、やらせてくれと大谷に迫った。大谷は首を左右に振った。瞳には含みがあった。イグナシオは怒りと昂りに武者震いした。
「殺しちゃ、だめ」
大谷は囁いた。微笑した。
イグナシオはヤジ馬の存在に気づいた。文子を盗み見た。文子は喰い入るようにイグナシオを見つめていた。
ヤジ馬たちは、骨を露出させて呻いている男の姿の凄惨さに、声を失っていた。大谷組の組員も、イグナシオの闘いの凄まじさに、ちがう生き物を見るような視線を向けていた。
イグナシオは笑った。頬を切られているせいで、左の筋肉がうまく動かなかった。イグナシオの笑いは、顔の右半分に凝固した。
沈黙が拡がっている。息の音さえしない。蒸し暑い夜だ、とイグナシオは思った。腰をかがめ、男の履いていた雪駄を拾いあげた。
半身を起こして茫然としている男を蹴り倒す。馬乗りになる。雪駄を男の頬に叩きこむ。鋲が肉を裂いた。血がわずかに滲んだ。もう一発。さらに一発。
イグナシオは叩きつづけた。ヤジ馬の中から悲鳴があがった。肉片が飛んでいったからだ。イグナシオはやめない。血と肉片にまみれて雪駄を振るう。
男は顔を喪った。イグナシオは深い息をついた。血と脂と肉片でベトつく雪駄を投げ棄てた。
直後、イグナシオは意識を喪った。頬からの多量の出血と、暴力衝動をすべて吐きだしつくした解放感からだった。意識が遠のいていく。文子がなにか言った。
*
イグナシオは文子に答えようとあがいた。唇は動くのだが、声帯は硬直しきって、ふるえた息さえ吐くことができない。
唐突に醒めた。暗い。視線の先に窓。街灯だろうか。白い光が幽かに映っている。
消毒液の匂いだ。エアコンが低く唸っている。イグナシオはようやくここが病院であることを理解した。
点滴のボトルが視野に入った。左腕に針が挿し入れられ、絆創膏で止められている。頬が鈍く痛んだ。イグナシオは溜息をついた。
病室は個室だった。サーモスタットがオンになり、冷蔵庫が唸りはじめた。ドア・ノブを廻す音がした。
「茜《あかね》さん」
「気がついた? ごめんね。お手洗いに行ってたんだ」
茜はハンカチで手を拭きながら、イグナシオに近づいた。枕許のブザーを手に取った。
「なに? それ」
「看護婦さんを呼ぶのよ」
「ちょっと待ってくれよ」
イグナシオは茜の手をつかんだ。茜はブザーを枕許にもどした。
「オレ、ひどいの?」
茜は首を左右に振った。
「軽くはないけど、本来ならば意識を失うほどの失血じゃないってさ」
「そうか。オレ、辛かったんだよ」
「――うなされていたもんね」
「なにか言った? オレ」
「なにか言ってたみたいだけど、聴きとれなかった」
「そうか」
「聴かれちゃ困ることでもあるの?」
「まあね」
茜はイグナシオの頭を小突こうとして、やめた。
「なにが辛かったの?」
「うん。オレ……自由を失くしたんだ」
茜はキョトンとした。首をかしげた。
「なに、格好いいこと言ってるのよ」
イグナシオは答えず、笑った。頬が引き攣《つ》れ、痛んだ。大谷に全てを知られたいま、イグナシオは茜といっしょにいるしか生きる道がない。茜が溜息をついた。
「そんな笑顔はやめてよ」
「なぜ」
「寂しすぎるよ、その顔は」
イグナシオは真顔になった。
「ねえ、茜」
はじめて名を呼び棄てにした。
「おっぱいが見たいんだ」
茜はしばらく黙りこみ、小声で言った。
「わかった」
ブラウスに手を差し入れ、ブラジャーをはずした。それからブラウスのボタンをはずした。
「どう?」
「うん。すてきだ」
茜は胸を張ってポーズをつくった。照れ隠しだった。
「吸いたい」
イグナシオが呟いた。茜はうなずき、イグナシオの顔の上に上体を覆いかぶせるようにした。
イグナシオは吸った。茜の淡い乳首を吸いだした。そこは硬さを増し、尖った。イグナシオの舌は、茜の乳首の先端がざらつきだしたのを感じとった。
「妙な気分になっちゃうよ」
茜は上体を起こした。点滴に視線をはしらせた。
「もう、終わるわ。看護婦さんを呼ばなくっちゃ」
イグナシオは眼を閉じた。文子とこうしたときのことを思いかえしていた。
2
頬の傷は二週間ほどで完全に癒着した。医師はちいさな鋏を巧みに動かし、抜糸した。
「笑ってごらん」
医師が命じた。イグナシオは笑顔をつくった。医師は溜息をついた。白髪をかきあげ、看護婦に命じて鏡を持たせた。
イグナシオは頬から耳朶にかけて刻まれた直線を見つめた。傷跡は定規で引いたかのようだった。医師は傷跡の周辺を指先で押しながら、ふたたび笑えと命じた。
鏡の中のイグナシオは、顔の右半分だけが笑っていた。傷跡のある左側は、口の端だけでわずかに笑いのかたちに歪んで、頬は細かく痙攣しているだけだった。
看護婦が顔をそむけた。茜が医師に詰め寄った。医師は口の中でzygomaticus(頬骨筋)の断裂であると呟いた。茜が訊きなおした。どうやら頬骨の筋肉と神経が切断されていて、うまくつながっていないらしい。
「どうしてくれるんです!」
茜が迫った。医師は苦しげに答えた。
「再手術が必要です」
イグナシオは朗らかに声をあげた。
「そのときは、よろしくお願いします」
しかし、再手術をする気などなかった。顔のことなど、どうでもよかった。これで毎日通院する必要がなくなったという、わずかな解放感があった。
いっそのこと、まったく別の顔につくりかえて欲しかった。イグナシオには、自分の人並み以上の部分が、全て悪い方向に作用しているとしか思えなかった。
*
事務所に挨拶に顔をだすと、いままでと組員の態度があきらかに違っていた。大谷はイグナシオの顔を見つめ、首を左右に振った。
「奴は、こっちで処理しておいた。これは慰謝料だ」
投げてよこした封筒は、かなり分厚かった。イグナシオが手をだすのをためらっていると、大谷は受け取れと顎をしゃくった。茜が割り込んだ。
「組長。手数料かえしてよ」
茜は兄のことを組長と呼ぶ。大谷は苦笑した。
「カスリをハネるのが、ヤクザの商売だ。たとえおまえやイグナシオのことでも、いただくものは、いただく」
茜は舌打ちして、イグナシオを向いた。
「遠慮なく取っときなさい。半分以上はこの立派な組長がピンハネして、懐《フトコロ》ナイナイしてるんだから」
組員たちは茜と大谷のやりとりが聞こえないふりをしている。イグナシオは軽く頭をさげ、封筒を手にした。大谷は腕組みして、うなずいた。イグナシオの顔は断裂した筋肉のせいで表情を喪い、能面と化していた。大谷は眼をさりげなく伏せた。
事務所の階段を下りながら、茜は平然と封筒の中身を数えた。百万あった。たった百万、と茜は毒づいた。イグナシオにしてみれば大金だった。
茜は百万をイグナシオのジーンズの尻ポケットに無造作にねじこんだ。イグナシオはあわてた。百万を茜に渡そうとした。
「いらないわよ、そんな端金《はしたがね》!」
茜は声を荒らげた。イグナシオに躯をぶつけた。イグナシオは階段の陰に押された。茜は背伸びするようにして、イグナシオの頬に顔を寄せた。
茜の息は熱かった。茜はイグナシオの傷跡に唇をあてた。舌先でなぞった。
「誰にも渡さない。これはあたしのもの」
イグナシオの耳朶を咬むようにして囁いた。さらに、傷跡に舌を這わす。茜の息と鼓動は狂おしさを増していく。
幽かな女の匂いがした。イグナシオは初めて茜の躯から立ち昇る女の徴《しるし》をかんじた。
病院で茜の乳首を吸ったときも、茜はこの芳香を立ち昇らせなかった。いま茜は、憑かれたようにイグナシオの傷跡に舌を這わせ、女の匂いを露にしている。
茜は眉間に皺を寄せた。口惜しそうにイグナシオから離れた。しばらく下唇を咬んでいたが、いきなり顔を輝かせた。
イグナシオの腕をつかむ。二階にある共同トイレに駆けこんだ。十以上のバーや呑み屋が入っている雑居ビルだが、昼は大谷組事務所のある四階をのぞいては無人だ。
茜は個室内に入ると、ふるえる手でドアをロックした。茜とイグナシオは、せまい空間の中で見つめあった。
噎《む》せかえるような暑さだ。床を汚して乾いた汚物の臭気が漂っていた。毎日それなりに清掃はされているようだが、どうしても落としきれぬ汚れというものがあるのだ。
イグナシオは、じつはこんな匂いが嫌いではなかった。日常的に嗅がされてはたまらぬが、躯の奥底ではこれをひどく懐かしい匂いとかんじ、肯定的にとらえている。
「ああ……」
茜が切ない吐息を洩らした。イグナシオに体重をあずけた。イグナシオはトイレの壁によりかかるようにして、茜を支えた。
「あたし……おかしくなった」
囁き声で茜は言い、唇を微妙にひらき、くちづけを求めた。イグナシオは軽く首をねじ曲げ、唇を触れさせた。
ごく軽い、柔らかな接触だった。それでも口紅の甘い香りと味がした。イグナシオはその匂いを、どこか石油臭いものとして感じた。
茜が促すように舌先をみせた。かたちの良い前歯のあいだから、血の色をした舌が、ほんのわずか突きだされ、尖っていた。
イグナシオも舌先を尖らせ、触れさせた。硬い弾力があった。どちらともなく、幽かに動かした。探りはじめると、止まらなくなった。絡みあい、うねるように動いた。唾液の弾ける生なましい音がした。
茜は貪《むさぼ》った。息をするのも忘れた。限界がきた。顔をはずし、肩で息をした。
「初キッスね」
「うん」
「いっしょに暮らしているのにね」
イグナシオは眼だけ動かして返事しなかった。茜は含みのある、どこか恨めしそうな表情をした。
「あんたには、わたしの気持ちなんか、わからないわよ」
呟きながら、イグナシオのTシャツをまくりあげた。筋肉質の胸があらわれた。汗でうっすら光っていた。茜は指先で筋肉の外周をなぞった。
「きれい。彫刻みたい」
茜は薄紫色をしたブラウスの前をはだけた。胸を露にした。イグナシオを見あげる。
「病院で、赤ちゃんみたいに吸ったわね」
背伸びするようにして、茜は躯を寄せた。胸と胸とが触れあった。茜は微妙に距離をとり、おたがいの乳首と乳首が触れあうようにした。
「擽《くすぐ》ったい?」
イグナシオはうなずいた。
「あたし……尖ってきた。イグナシオのも尖ってる」
茜は手を使わずに、胸と胸との接触をたのしんだ。上体を柔らかくくねらす様は、エキゾチックな踊りにみえた。
やがて、力を加えた。乳房を、イグナシオの胸できつく押し潰した。
汗ばんでいる。イグナシオには、汗がふたりの皮膚を溶かし、接着するようにかんじられた。茜も滑りあう肌の感触をたのしんでいるようだ。潰され、動かされる乳房は、複雑な表情をみせた。
蛇のように茜は蠢《うごめ》き、イグナシオの首に両腕をまわした。ふたたびイグナシオの頬の傷に、茜の舌先が触れた。
表情をほぼ喪ってしまった顔の左半分。そして頬の裂けめを強引につなぎあわせた跡。どうやら茜は、そういったものに烈しい欲望を覚えているようだ。
イグナシオは茜のするがままにまかせて、瞳を閉じた。初めて茜と出会ったとき、茜は自らの耳にピンを突き通し、イヤリングを通した。
そのとき仲間の娼婦が、肉を突き破ったピンを動かして恍惚とする茜に向かって言ったものだ。『たのしむなよ』
傷口、そして血に対する執着。イグナシオは茜の複雑な精神に痛々しいものをかんじた。ふつうの女の子も、心の奥底に、茜のような衝動を隠し持っているのだろうか。
傷跡を探る茜の舌先の動きが狂おしさを増した。茜はスリットの入ったタイト・スカートを穿いていた。茜はスカートをまくりあげた。ショーツを露にした。あせった手つきで脱いだ。傷跡に唇をあてたままだ。
茜は指を使いはじめた。唇でイグナシオの傷跡を探り、右手で自らの下腹の傷口を愛撫した。
吐息が烈しさを増していく。イグナシオは茜の右手に自分の右手を重ねた。茜の動きが止まった。
バトン・タッチした。イグナシオは茜の傷口をとらえた。濡れていた。熱かった。太腿のあたりまで溢れていた。
イグナシオは茜の傷口に、上下に指を這わせた。幾度か往復するうちに、イグナシオの指先は呑みこまれ、搦めとられた。
そこはさらに熱く、別の生きものが棲んでいた。収縮と弛緩が周期的に訪れた。イグナシオの指先が挑発すると、収縮と弛緩の周期は短くなり、やがて細かく痙攣しはじめ、ふるえだした。
細かいふるえにまじって、内奥に向かう大きな蠕動《ぜんどう》が加わってきた。イグナシオの指先を絞りあげるような動きだ。
イグナシオはそこに自らを収め、溶けあいたい衝動をかろうじてこらえ、奉仕した。
終わりは唐突にやってきた。茜はちいさく呻き、虚脱した。イグナシオが支えなければ崩れおち、便器の上にしゃがみこんでしまいそうな状態だった。
つよく咬んだのだろうか。茜の下唇には血が滲んでいた。イグナシオは茜を支えながら、あわただしくジーンズを脱いだ。硬直した自分を剥きだしにした。
茜の左太腿に手をかけ、足をひろげ、持ちあげた。侵入しようとした。
「だめ!」
茜は鋭く叫んだ。せまい空間の中でふたりは揉みあい、ドアや壁に躯をぶつけた。鈍い音が響いた。
トイレの中では押し倒すわけにはいかない。けっきょくイグナシオは茜とひとつになることができなかった。
「なぜ……?」
切なく、疲れきった眼差しをイグナシオは向けた。茜は左足首にかかっているショーツを見つめ、首を左右に振った。
「あたしは、あんたのおかあさんだもの」
イグナシオは初め、茜がなにを言っているのか理解できなかった。
「あたしとイグナシオは、おかあさんと子供の関係なのよ。一線を越えてはだめ。ずっとふたりで一緒に暮らすためには、母と子の一線を越えてはだめなのよ」
「ふざけるなよ」
イグナシオは茜を壁に押しつけた。
「都合のいいこと抜かすんじゃねえ」
「――バカ!」
茜は涙声をあげた。
「やっちまったら、終わりじゃないか! やっちまったら、あんたはいずれ、あたしに飽きるだろ! それで終わりじゃないか」
茜は泣きだした。子供のように、泣きだした。
「あんたが好きなんだよお。おかしくなりそうなぐらいだよ」
イグナシオは茜を押さえつけていた腕から力を抜いた。
「泣くなよ」
茜はとたんに泣きじゃくった。イグナシオにすがりつくようにして、泣きじゃくった。
「泣くな」
茜は首を縦に振った。やがて泣き声は、嗚咽にかわった。イグナシオは茜を抱きしめ、その背を撫でつづけた。
「あたし、組長に頼んだんだ。あんたを殺してくれって」
「オレを?」
「そう。イグナシオを殺してくれって」
「―――」
「だって、苦しいんだもの。気が狂いそうなんだ。あんたがいなくなれば、あたしは醒めた顔していられる。
あたしはクールな顔して、あんたを追って」
「死ぬのか?」
「そう。イグナシオと一緒のお墓」
「死ぬな。オレでよかったら、茜にくれてやるから」
茜はすすりあげた。まったく飾り気がなかった。幼くみえた。
「組長は言ったよ。イグナシオはおまえから離れられないって。自信たっぷりだった。なぜ?」
イグナシオは大きく息を吸った。
「それは、茜のことが、大好きだから、だ」
ひとこと、ひとことを区切るようにして答えた。茜をきつく抱きしめた。
「ごめんね。あたし、わがまま」
「いいんだ」
「――浮気してもいいよ。病室で譫言《うわごと》で言っていた文子《あやこ》って女を抱いてもいいよ」
イグナシオは茜を凝視した。
「でも、眠るときは、いっしょ。あたしと一緒のベッドで眠って」
茜はイグナシオの首筋に頬ずりした。それから、そっとイグナシオの腕をほどいた。しゃがみこんで、イグナシオの腰を抱いた。
柔らかくなったイグナシオを口に含んだ。
「して欲しいときは、言って。これならいつでもしてあげる」
茜は、ぎこちなかった。ときどき歯があたった。
すぐにイグナシオは硬直し、茜の口をいっぱいにした。
「誰にでもするのか?」
イグナシオが問いかけると、茜はイグナシオを口に含んだまま、上眼遣いで首を左右に振った。
イグナシオは茜の髪を撫でた。茜はぎこちない動きを再開した。イグナシオは茜の頭の動きを見おろしながら、思った。
世界はおかしい。狂っている。全ては核心をはずれ、微妙にズレている。誰も実体に触れることができず、自らの幻影を追い求めて、他人と自己を同一視している。
快感が這い昇った。全てがどうでもよくなる瞬間がちかづいた。
茜はイグナシオの脈動を、うっとり瞳を閉じて味わった。イグナシオは自分からはずした。茜は顔をあげ、口を開いてみせた。
口の中で溢れているイグナシオの白濁を、どう処理しようか戸惑っているようだ。
イグナシオは顎をしゃくって、便器を示した。茜の口からイグナシオが滴りおちた。便器の水に、イグナシオの精が浮いた。イグナシオは水を流した。
白濁は、白く泡立つ水流に搦めとられ、消えた。茜はあわただしく自分とイグナシオの躯の跡始末をした。逃げるようにトイレをあとにした。
ビルから出ると、午後の陽射しが瞳に刺さった。イグナシオと茜は同時に眉をしかめ、複雑な笑顔を交わしあった。
3
夕刻、茜は出勤≠フ準備をはじめる。ドレスなどは組事務所に置きっぱなしだから、ジーンズにブラウスといった軽装で部屋をでるが、化粧品であるとかの用意には余念がない。
最近の茜は、仕事のとき以外はノーメイクで過ごすことが多くなった。軽く口紅を塗るくらいだ。だから化粧品もずいぶん減った。
それでもイグナシオから見れば、いったいどの部分に、どのように使うのだろうかと首をかしげるほどの種々の化粧品がある。
「これは、クレンジング。白粉とかをおとすの。見たことあるでしょ」
「それは?」
イグナシオが指差したのは、透明なプラスチック容器に入ったベビー・オイルだった。茜は曖昧に笑った。
「ばかなこと訊かないでよ」
「ばかなこと?」
「――あたし、感じないのよ、なにも」
イグナシオはハッとした。茜は自嘲気味に続けた。
「でも、商売上、男を迎え入れなければならないでしょ。だから、ホテルでシャワーを浴びたあとに、このオイルを塗っておくの。
感じないだけじゃなくてさ。濡れないからさ、潤滑油がいるわけ。ちょっとしたトリックよ。男どもは、このオイルの匂いがあたしの匂いだって勘違いしているわ。
道代姐さんなんか、濡れっぱなしだってえばってたわ。ほんと、うらやましい。あたしにとって売春というのは、ほんとうに単なる職業なのよ。だから仕事の最中に感じたことって、ないわ。笑っちゃうね。肉体労働者なのよ、あたしって」
「ごめん」
「いいの。あたし、イグナシオと暮らすようになってから、張りができたもの。くるしい肉体労働にだって耐えられる。それに――」
「それに?」
「あんたのその傷にキスするときは、感じるもの。凄く、よ」
茜の瞳が潤んできた。イグナシオは茶化した。
「ヘンタイ」
「言ったな!」
茜はイグナシオに飛びかかった。傷跡に舌を這わせ、イグナシオの膝頭に下腹を押しあてる。イグナシオはカーペットの上に倒れこんで、茜のするがままにまかせた。
イグナシオの膝頭に押しつけて十分ほど。茜は最後の大波にさらわれ、虚脱した。荒い呼吸のままじっとしている。
「耳朶《みみたぶ》にピンを通すときも、感じるか?」
茜はこっくり、うなずいた。
「でも、いまは感じないだろうな」
「なぜ」
「わからない。ただ、そんな気がする」
「じゃあ、自殺するときは」
尋ねながら、イグナシオは茜の手首の傷跡を探った。
「もう、自殺なんてしないもの」
「なぜ」
「あんたがいるから。おっきな赤ちゃんが」
囁いて、茜は舌打ちした。
「あんたのせいで、下着、汚しちゃったよ。出勤前の忙しいときに、ほんと迷惑なガキだ」
憎まれ口を叩いて、茜は起きあがり、バス・ルームに消えた。
イグナシオは躯を起こせぬほどの無力感に襲われていた。茜は本気でこの脆い関係がいつまでも続くと思っているのだろうか。
*
茜が出ていった。イグナシオはベッドに横になって、天井を見つめていた。大谷はイグナシオの過去を握り、茜と暮らすことを強要する。茜はイグナシオが自分の子供であると偽って、奇妙な同棲生活を続ける。
イグナシオは茜を愛している。茜の犠牲になってもいいと考えている。大谷の思惑と、茜の望みと願い。そしてイグナシオの愛情。
なんら問題はないように見えるのだが、イグナシオはそれらが虚構の上に成り立っている夢想としか考えられなかった。
茜とイグナシオと大谷の関係を支えているのはすべてが抽象であり、実体がない。イグナシオは、その脆さに気づいていた。
イグナシオは溜息をついた。人は虚構の心地良さを求めるくせに、いつだってそれにあきたらない。脆さに気づくと、つい、その部分を押してみたくなる。
上体をベッドから起こし、イグナシオは眼頭を揉んだ。外はすっかり暮れていた。窓から入りこんでくる風には、どこかに秋の匂いがする。物寂しさをかんじた。イグナシオは微笑してみた。
*
新宿の街は、いつもどおりにぎわっていた。歌舞伎町で、イグナシオは隠れた有名人だった。頬に傷を受けたあの喧嘩以来、イグナシオには種々の噂が飛び交い、噂には尾鰭《おひれ》がついた。
イグナシオは歌舞伎町アンダーグラウンドのヒーローだった。歌舞伎町には、異端者を包みこむ包容力があった。ヤクザ者もホステスも客引きもオカマも、イグナシオに一目置きながらも気軽に声をかけた。
声をかけられると、イグナシオは顔の右半分だけで笑顔をかえした。左半分はあいかわらず硬直したままだ。
そんなイグナシオの笑顔を歌舞伎町の底に蠢《うごめ》く者以外が見たら、たぶん不気味さに顔をそむけただろう。
数日前からイグナシオは、歌舞伎町の店をシラミつぶしにあたっていた。あの喧嘩のとき、ヤジ馬の中に藤沢文子がいた。
記憶はやや曖昧になってしまったが、文子は白いブラウスを着ていた。それは修道女の外出着というよりは、水商売のホステスが着るようなものであった。薄く化粧していたような気もする。
必ず文子に会える、とはイグナシオも考えていなかった。それに文子に会えば、いまの茜との生活が崩れるおそれもある。
茜は『譫言で言っていた文子って女を抱いてもいい』と言いはしたが、現実にイグナシオがそうすれば、どうなるかわかったものではない。
しかし、イグナシオは歩きまわった。若さの持つ本能的な力が安定を嫌い、新しいなにかを求めていた。
「レグルス」は、夜十二時を過ぎると、キャッチ・ガールを店の前に立たせて客引きをする、歌舞伎町によくある店だった。
すこし物事を知っているサラリーマンであれば、キャッチ・ガールに袖を引かれても、適当にあしらって、けっして地下に下りる階段に足を踏み入れはしないであろうタイプの店でもあった。
イグナシオは「レグルス」の階段を下りた。カウンターの消毒でもしたのだろうか。階段にまでカビの匂いに混じって塩素臭が漂っていた。
彫刻の入ったハッタリのきいたドアだった。じつは東南アジアから輸入された格安のドアで、隙間にスティックと呼ばれる大麻を忍びこませて密輸することで知られてもいるドアだった。
ドアは微かに軋んで内側に開いた。客の顔も見ぬうちからホステスのいらっしゃいの声が投げかけられ、愛想のいい店だなあと店内を眺めていると、両脇をホステスから抱えられて、強引にボックスに座らされてしまう。
ホステスはイグナシオの脇を固めかけて、顔を輝かせた。
「なんだあ、大谷さんとこのハーフじゃない」
他の場所でハーフと言われれば、イグナシオは腹を立てただろうが、彼女たちにはなにを言われても腹が立たなかった。悪意がないからだ。
「やめときな。ウチは高いよ」
ウインクしながら、バーテンが声をかけた。
「だめよォ。せっかく来てくれたんだから」
客はゼロだった。イグナシオはホステスたちに囲まれるようにして、ボックスに座った。ビールを頼んだ。
「あたしたちはアレ[#「アレ」に傍点]だして」
アレとは店でホステスたちが個人的に呑むボトルである。ホステスたちのボトルは永遠になくなることがない。減れば、客のボトルから適当に注ぎたすからである。ホステスたちが自分たちのボトルを頼んだのは、イグナシオに負担をかけないための心遣いであった。
ビールをうまそうに飲み干すイグナシオに向かって、バーテンが声をかけた。
「人を捜してるんだって?」
「情報がはやいですね」
ホステスが割り込む。
「ねえ、どんな人? あたし知ってるかもしれないよ」
「ばか、女だよ。ちょっと黙ってろ」
バーテンはホステスを叱った。まだ三十歳前だろうが、用心棒を兼ねているので、態度が大きい。ホステスは舌をだして顔を歪めた。
イグナシオはバーテンに向かって文子の特徴をはなした。バーテンはバー・スプーンをバトンのように廻しながら、カウンターによりかかるようにして言った。
「そんなタイプの女が、ここいらの店でホステスやると思うかい」
「やりませんか」
「やらないね。どんなに思いつめたって、順序ってもんがあるさ。ま、そこに座ってるアッパッパーなら、いきなしパンパンだろうけどさ」
ホステスたちが馴れあいの怒声をあげた。バーテンは笑いながら彼女たちが鎮まるのを待った。
「白鳥座、知ってるか」
「白鳥座?」
どこかで聞いたことがあった。ストリップ劇場だったろうか。
「ほら、色ガラスの入った城みたいな三階建てのクラシック喫茶があるだろう」
「公園があるところの?」
「そう。あそこ。あそこのレジに、新しい女が入った。かなりいい女。清潔なかんじでさ、清楚っていうのかな。胸に、十字架さげてたよ。ちいさい金色の」
ホステスが言った。
「信ちゃん、クラシックなんか聴くの?」
「まあな。ひと眠りするには、最高なんだ」
イグナシオは立ちあがった。バーテンがうなずいた。
*
なかば駆けるようにしてイグナシオはクラシック喫茶に向かった。
ドアを開く。店内を見廻す。すぐ左側にレジがあった。文子が伏し目がちに算盤《そろばん》を弾いていた。
文子はゆっくり顔をあげた。薄く化粧をしていた。すこしやつれていた。修道女だった頃よりも、髪が伸びていたが、髪さえも細くなったようにかんじられた。
イグナシオが前に立つと、文子は顔を伏せ、算盤を弾きはじめた。細い指先がリズミカルに動く。
「九時に終わるわ。九時にマスターと交替するの」
文子は算盤に視線をおとしたまま言った。
「コーヒーでも飲んで、待っていて」
醒めた文子の口調や表情に、イグナシオは意気込みをくじかれ、席に着いた。ウエイターがさりげなくイグナシオと文子を見較べ、注文を訊いた。
リムスキー・コルサコフのエキゾチックな交響曲が流れていた。イグナシオはコーヒーを啜るように飲んだ。
女はときどき、正反対の態度を示すときがある。あんたなんか嫌い、と言いながら、なにくれとなく世話をやくような。文子のクールな態度も、それと同じだろう。
そうイグナシオは考えたが、やはり落ち着かなかった。喧嘩の直後、意識を失ったとき、なぜ文子は駆け寄らなかったのか。勝手だとは思いながらも、不満は膨らんでいった。
九時を五分ほど過ぎた。文子はあいかわらず醒めた表情で、イグナシオを促した。イグナシオのコーヒー代は文子が払った。
ふたりは無言で新宿駅に向かった。文子は切符を二枚買い、黙って一枚をイグナシオに渡した。ホームでは快速を一台見送った。
沈黙のせいで、中央線・吉祥寺駅に降り立ったときは、肩が凝ったような疲労をイグナシオは覚えていた。文子は黙ったまま南口を出て、井の頭公園に向かった。
新宿に較べると、このあたりは秋がもうそこまで来ているかんじだった。公園内はベンチでところどころアベックが語らっているほかは無人だった。文子は園内中ほどのベンチを示し、先に腰をおろした。
「駅の反対側にペット屋さんがあるの。緑色の大きなトカゲがいたわ」
いきなり文子が言い、下唇を咬んだ。文子の気持ちが痛いほど伝わってきて、イグナシオはうつむいた。
「約束したでしょう! 新宿に落ち着いたら連絡するって」
「ごめん……でも……」
本当に修道女をやめて、新宿で働くとは思ってもいなかった、ということばをイグナシオは呑みこんだ。かわりに大きく息を吸い、沈んだ声で言った。
「農場に北って奴がいただろ。奴みたいな生きかたがいちばんかもしれないって思うんだ。いまの本音を言えば、オレは修道士になりたい」
「本気で言っているの?」
イグナシオはうなずいた。脳裏にはカダローラ修道士の微笑する様があった。
「廻り道しちゃったよ。オレは自分の居場所を探してたんだ、無意識のうちに。でも、檻の外にはないようだ」
文子はイグナシオの頬の傷を見つめ、溜息をついた。秋の虫が鳴きだした。
「カダローラ先生がおっしゃっていました。あの子は求めているのだ、と」
「先生は元気?」
「もうお歳ですからね。最近はベッドにいる時間のほうが長いです」
イグナシオは唇を指先でもてあそび、ことばを探した。
「オレの中には、自分でもどうすることもできない暴走する機械があるんだ。いまオレが欲しいのは、暴走をはじめたときに叱ってくれる存在なんだ」
文子はうなずいた。
「あなたが欲しがっているのは、おとうさんなのよ」
イグナシオは瞳を見開いた。文子のことばはイグナシオの核心に触れていた。
「わたしの考えだけど、最近はおとうさんがいなくなりつつあるのよ。悩んでいるのはイグナシオだけではないわ」
「オレには初めからオヤジがいなかった」
「かわりに、神さまがいたじゃない」
「――もし、いるなら、オレを罰して欲しい」
イグナシオの声は掠れ気味だった。文子は躯を寄せた。少年のくるしみをすこしでも和らげてやりたかった。
「イグナシオ。あなたは愛されているのよ、おとうさんに」
文子は中指の先でイグナシオの頬の傷に触れた。硬直した頬にふるえがはしり、唇の端だけが笑いのかたちに歪んだ。
「喧嘩、見てただろ」
「こわかった」
「なぜ、黙って立ち去った?」
「あなたが意識を失うのと同時に、とてもきれいな女の子が駆け寄ったわ」
「茜っていうんだ」
「――いっしょに暮らしているの?」
イグナシオはうなずいた。文子はイグナシオの横顔を凝視した。瞳には嫉妬が燃えていた。イグナシオが顔を向けると、とたんに文子は微笑した。嫉妬をきれいに隠して笑った。
「あなたにぴったりよ、彼女は。とてもきれいで……」
4
文子のアパートは井の頭公園を抜けたところにあった。二階の角部屋で、木々の間から公園の池が見おろせた。
イグナシオと文子は、どちらからともなく抱きあった。くちづけし、首筋に舌を這わすと、文子は猫のように喉を鳴らした。イグナシオは文子の下腹に手を伸ばした。ショーツの中に手が侵入し、下腹の淡い絹糸に指先が触れた。
「だめ! 汗をかいているわ」
「かまわない」
「おねがい。汗を流したい」
「――いっしょに入るなら、許してやる」
バスの湯が沸くまで、二十分ほどかかった。文子は紅茶を入れ、イグナシオはカップを両手で持ってそれを飲んだ。ひどくぎこちない時間だった。
せまい風呂場だった。プラスチック製の簀の子が敷かれていた。イグナシオが桶で湯をかきまわしていると、文子がタオルで前を隠して入ってきた。
上気し、羞じらう表情が新鮮だった。イグナシオは桶を投げ棄て、文子にむしゃぶりついた。
肌はしっとり、イグナシオによく馴染んだ。イグナシオは文子の背から尻にかけて指をはしらせ、その感触を確かめ、たのしんだ。
「オレが洗ってやるよ」
文子はコックリうなずいた。イグナシオは簀の子の上にあぐらをかき、バスによりかかり、その膝の上に文子を横たわらせた。
いきなり核心から泡立てた。文子は身をよじった。イグナシオは指先を滑りこませ、覚えのある扉をこじるようにひろげた。
内側は充分潤っていた。イグナシオは指を使った。初めて文子を抱いたときとは較べものにならぬほど上達していた。
「気持ちいいか」
イグナシオの問いかけに、文子は詰まった息を洩らし、大きく瞳を見開いた切迫した表情で幾度もうなずいた。
やがて文子は圧《お》しころした声で啜り泣きはじめ、自ら乳房を鷲掴みにして爪をたて、イグナシオにしがみついた。
*
文子が丁寧に敷いた布団もしっとり湿り気をおび、シーツは烈しく乱れていた。ふたりは短いが、死んだような眠りにおちた。扇風機だけが、のどかな風切《かざきり》音をたてていた。
身震いして、イグナシオは目覚めた。文子も気怠そうに瞳をひらいた。
「ねえ、イグナシオ」
「なに?」
「立てないわ」
文子は腹這いになり、満足そうな吐息をついた。
「凄かった。凄くよかった」
文子の囁きに、イグナシオは自尊心を満たされた。イグナシオ自身も満足していた。こうして汗まみれになって抱きあい、貪《むさぼ》りあうこと。茜との生活で大きく欠けていた部分だ。
とろけるような気怠さに身をまかせていると、文子が小声で言った。
「わたし、結婚させられるかもしれない」
それはタイミングを計り、充分計算されつくしたことばだった。イグナシオの肌が緊張した。
「むかし、わたしを犯して妊娠させた男が、両親といっしょに東京へ来ているの」
文子は悲しそうな顔をつくっていたが、心の中ではイグナシオの嫉妬心をどのようにしたら煽ることができるかを考えていた。
「しかたがなかったのよ。修道女をやめるとき、両親に相談しなくてはならなかったし、わたしはイグナシオとちがって、勝手に飛びだすわけにはいかなかったから……」
イグナシオの瞳に暗い怒りが宿っていた。文子は挑発の効果を確かめながら続けた。
「お金だって、まったくなかったし。このアパートを借りるお金だって、両親の世話になったのよ。
わたしは歌舞伎町にお仕事を探して、あてにならない、いいかげんな男の子を探しはじめたわ。
ところが両親は、わたしを妊娠させた男を連れて、わたしのところへやってきたの。わたしは顔を見るのも嫌だったけれど、両親も男も必死よ。親は世間体、男はわたしの躯に対する執着。
わたしひとりが犠牲になれば、全て丸くおさまるのかしら……なんて考えはじめたとき、あなたに出会ったわ。あなたは頬を切られて、うれしそうに笑っていた。
悪魔に見えたわ。わたしの大切な悪魔。ところが、あなたには、抱きあげて、涙を流してくれるひとがいた。わたしはぼんやり立ちつくして、あなたを乗せた車が走り去るのを見送った。
わたしがどれだけがっかりしたかわかる? わたしがどれだけ落ちこんだかわかる? あなたはひどい人よ。わたしが身を引こうと考えていたら、あなたはわたしを探しだしてしまった。そして……わたしを抱いた」
「結婚するのか!」
「――あなたには、あのきれいな女の子がいるじゃない」
「結婚したいのか!?」
「したいわけがないわ。でも、わたしは独りだもの。いつまでも断わりきれないわ」
文子は投げ遣りな口調で続けた。
「わたしはいやいや結婚して、あなたのことを怨みながら、あの男に抱かれるのよ。あの男に抱かれるたびに、わたしはあなたと抱きあったときのことを思い出すのよ」
*
文子は柔らかな寝息をたてて眠っていた。満ちたりた表情をしている。イグナシオを茜から取りかえしたと確信しているのだ。しかし文子の挑発は、イグナシオの別の部分に火をつけた。
イグナシオは頬の傷に指先をはしらせた。茜はこの傷に発情し、文子はかわいそうに、と泣いた。茜はイグナシオが表情を喪ったことによって、自分により深く結びついたと考えていた。文子は傷を傷として、つまり美貌が損なわれたと口惜しがった。
イグナシオはそっと起きあがった。文子の寝顔をしばらく見つめた。
始発で新宿へ戻った。半年前、初めて早朝の新宿にやってきたとき、歌舞伎町はゴースト・タウンだった。しかし新宿通りを横断して、駅前正面通りを歌舞伎町へ向かう間に、イグナシオは肌が緩んでいくような解放感を覚えていた。
大谷は組事務所のソファに横になっていた。結婚もせず、自分の家も持たず、組事務所に寝泊まりしている。奇妙な男だ、とイグナシオは改めて思った。
「茜さんは、もう帰りましたか?」
「すこし前に帰った」
答えながら、大谷はあくびをした。居残りの組員に、帰れと命じた。組員は承知しなかったが、大谷がイグナシオに話があると言うと、黙って頭をさげて出ていった。
大谷はソファ上に半身を起こし、小指の先で目脂《めやに》をほじった。イグナシオは軽く頭をさげて大谷の前に座った。大谷はチラッとイグナシオに視線をはしらせて言った。
「酸欠気味だな」
「そうかもしれません」
「茜を抱け」
「抱けば息ができますか」
「――ひと息つくことはできるだろう」
「茜さんは、それを望んでいません」
「ほんとうに、そう思うか」
イグナシオは黙りこんだ。大谷はタバコを咥え、イグナシオにもすすめた。イグナシオは頭をさげて一本咥え、卓上ライターでまず大谷のタバコに火をつけた。
大谷はうなずき、細く長く煙を吐いた。
「俺はおまえの過去を聞きだして、それでおまえを茜に縛りつけようとした。いまでもその気ではあるが……不自然だよな」
「ええ。オレは茜さんを愛していますけど、たとえ大谷さんであっても、よけいな干渉をされたくありません」
「すまんな。すまんと思っているよ。俺はかろうじて抑えてきたんだ」
「なにを、ですか」
大谷は手の中のタバコをもてあそんだ。小声で言った。
「茜を抱きたい気持ちを、だ」
予期せぬ答えに、イグナシオは息を呑んだ。灰がデスクの上に落ちた。あわててタバコを灰皿に押しつけ、揉み消した。
大谷は苦く笑った。溜息まじりだった。
「茜自身も同じだった。俺を兄としてではなく……」
イグナシオはかろうじてことばを返した。
「そうですか」
「そうだ。なぜ茜が、兄である俺の前でこれみよがしに売春をしているか、すこしはわかっただろう」
「わかりました。大谷さんがなぜ結婚もせず、家も持たず、家庭的なものを嫌うのかも」
大谷はそれに答えず、首を左右に振って言った。
「茜はもちろん、結婚できないと承知していた。しかし茜は、俺が抱こうとしなかった理由として、自分に日本人以外の血が混ざっているせいだ、とまで思いつめたんだ」
イグナシオは感情を抑えた、ひくい声で言った。
「殆ど被害妄想なんですけどね。その気持ち、わかりますよ。大谷さんも頭では理解できるでしょうけれど、ほんとうにはわからないでしょう。なぜなら、日本人ですから。頭ではわかっても、痛くはないんです。大谷さん。自分の心がねじ曲がっていくのは、すごく痛いんです」
*
大谷とイグナシオは、無言でもう一本ずつタバコを灰にした。イグナシオはヤニっぽい唾を呑みこんだ。
「大谷さん。ピストルって、ありますか?」
「なにに使う?」
「幾人か殺したい人間がいます。とりあえず大谷さんを」
「俺を殺すか」
「はい」
大谷は肩をすくめ、ソファから立ちあがった。麻雀卓の置いてある隣の部屋へ行った。イグナシオが灰皿のシケモクをもてあそんでいると、大谷は油紙で包んだ銃をテーブルの上に置いた。
イグナシオは身をのりだして、黄色い油紙をひろげる大谷の指先を見つめた。
「ブローニングだ。戦前に輸入されたものだ。むかしの日活映画によくでてきたヤツさ。ただし、これは本物だ。戦争中は、ある士官の持ち物だった」
イグナシオは大谷に断わって、ブローニングを手にとった。遊底には細かい傷がたくさんついていたが、薄く塗りこめられたガン・オイルのせいで鈍く黒光りしていた。
「意外に軽いですね」
「ああ。弾もたいして威力はない」
「ほんと、ちいさな弾ですね」
「三八〇ACPというヤツだ。入手が簡単なんでな。重宝しているよ」
「どこに弾を込めるんですか?」
「ここを押して、弾倉を引き抜くんだ。貸してみな」
大谷は滑り落ちてきたマガジンに、得意そうに真鍮《しんちゆう》色の弾丸を装填してみせた。
「オレにも触わらしてくださいよ」
子供っぽい声でイグナシオは言い、大谷の手からブローニングを受けとった。
「安全装置をはずして、ここをうしろに引いて……これでO・Kですよね?」
イグナシオは銃口を大谷の額に向けた。大谷は苦笑しながら言った。
「おい。万が一ってことがある。危ないからやめろ」
くぐもった発射音だった。大谷はソファの背もたれに躯をブチあて、細かく痙攣をはじめた。額にはごくちいさな赤黒い穴が開いていた。
「万が一」
イグナシオは呟いて、硝煙の匂いに鼻をうごかした。呼吸を止めた大谷を見おろして、油紙に包まれた残りの弾丸を、ジーンズのポケットにねじこんだ。
5
「どこへ行っていたの?」
ガラスのポットからカップにコーヒーを注ぎながら、茜が訊いた。
「大谷さんのとこ」
「いなかったじゃない」
「茜が事務所に帰ってきた頃は、ちょっと外《はず》してたんだよ」
茜はチラッとイグナシオを窺ったが、なにも言わなかった。イグナシオは紙袋の中から無造作にブローニングを取りだした。
「これを、貸してもらったんだ」
軽い口調で付け加えた。
「ついでに、大谷さんも殺してきた」
茜は本気にするべきか、そうでないかを決めかねて、曖昧な笑顔をうかべ、ブローニングとイグナシオを交互に見つめた。やがて真顔になった。
ふたりは見つめあった。イグナシオは前に進み、銃を持ったまま茜を抱きしめた。耳許で囁いた。
「終わりにしよう」
茜は瞳を見開いた。イグナシオは茜に頬ずりした。茜の耳朶を咬み、舌先を尖らせて耳の穴をさぐった。
茜はイグナシオの躯に染みついた火薬の匂いを嗅いだ。虚脱していた。完全に力が抜けていた。かろうじて立っていた。
イグナシオは茜から離れ、銃を向けた。
「脱いでくれよ」
茜は反応を示さなかった。
「早く!」
イグナシオは声を荒らげた。茜はぼんやりとサマーセーターを脱ぎ、麻のスラックスを脱いだ。真新しい、短めのショーツだけの姿になった。
「ベッドに行って、横になれよ」
茜は言われたとおりにした。イグナシオは素早く全裸になり、右手に銃を持ってベッドに向かった。サイド・ボードに銃を置き、茜に覆いかぶさる。
イグナシオは茜に全体重をかけた。茜はしばらくじっとしていたが、やがてイグナシオの腰に腕をまわした。口を半開きにして、前歯の間から舌先を見せ、薄く眼を閉じる。
くちづけした。吸いあった。イグナシオの右手は茜の脇腹から乳房にかけてを狂おしくこすりあげ、やがてショーツにかかった。
茜は協力する体勢をとった。イグナシオは思いなおしたかのようにショーツの上から茜の核心をさぐった。
下着はひどく濡れ、透けて見えるほどだった。イグナシオは加減せず、荒く触れた。茜は奥歯を噛みしめ、躯をのけぞらした。
イグナシオは癇癪をおこし、茜のショーツを引き千切った。一瞬ふたりは見つめあった。イグナシオは重なった。そのまま押し入った。
茜は両足を宙にさまよわせ、やがてイグナシオの足に絡ませた。イグナシオはひとつになったまま、じっとしていた。
「このまま……死にたい」
掠れ声で茜が囁いた。
「死んだら、だめだ」
「だって……終わりでしょう」
「終わりだ。大谷さんは死んだ。オレもいなくなる」
「あたしひとりなんて、いや」
「茜は欲しがるばかりだから、死にたくなるんだよ」
「――意味がわからない」
イグナシオは茜の顔を首筋あたりに抱きこむようにして、わずかに動きはじめた。茜はその動きに応え、小声で呟いた。
「あつくなってきた」
「気持ちいいか」
「とても、いい。初めてよ」
「いきそうか」
「そうみたい」
「もっときつくしてほしいか」
「このまま……で」
「オレが入りこんでいるのが、わかるか」
「わからない。だって溶けてるもの」
「溶けてるのか」
「溶けてる。いままで、あたし、こうされても、なんだかモップの柄かなにかをつっこまれているみたいで……」
茜は、ああ――と吐息を洩らした。イグナシオはわずかに速度をあげた。
「あたしの中で……イグナシオがどんどん硬くなっていく……大きくなっていく」
「わかるか」
「わかる。かんじるもの」
「さっきは溶けているから、わからないと言った」
「さっきよりも溶けてるよ。でも、わかる。イグナシオがあたしにこすれてる。あたしをひろげてる。かんじるの」
「かんじるか」
「とても。とても、いいの」
「いいか」
茜は瞳を見開いた。黒眼がゆっくり上に移動した。全身がふるえはじめ、律動した。鋭く叫んだ。
「いく!」
イグナシオは即座に、動きを荒々しく素早いものに変えた。小手先の動きではなく、本能的に動いた。
茜の両眼から、涙が溢れた。律動は烈しさを増し、イグナシオを絞めあげた。茜は敏感にイグナシオの破裂を悟った。両手足をきつくイグナシオに絡ませた。直後、イグナシオは茜の中を満たした。
イグナシオは乱れた呼吸をかろうじて抑えた。茜はなかば気を喪っていた。イグナシオは茜に体重をあずけながら、思っていた。
いままでとちがって茜は、イグナシオの頬の傷に固執しなかった。忘れ去っているかのようだ。
もう、茜は大丈夫だ。そんな予感がした。短い、深い睡りにおちていった。
*
茜は意識をとりもどした。イグナシオはちいさく鼾《いびき》をかいていた。そっとサイド・テーブルに手を伸ばした。銃を取る。イグナシオの|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に押しあてる。
「――弾は出ないよ。安全装置があるんだ」
「撃つ気はないもの」
「べつに、撃ったっていいんだけどな」
「あたしは、いま、心の中でイグナシオを撃ったわ。さよならって」
「本気でさよならしたか」
「うん」
「じゃあ、幸せになれるよ」
茜は眼差しを伏せた。
「いま、が幸せだった」
イグナシオはうなずいた。
「大谷さんやオレは、酸欠金魚だから長生きできないんだ。でも、茜はちがう」
言いながら、茜の手から銃を取りかえす。唐突に茜が叫んだ。
「撃って! あたしを撃って!」
泣き崩れた茜を見おろして、イグナシオは素早く身支度した。背を向ける。二度と茜を見ない。
*
茜のマンションを出る。朝の涼しい風と昼の暑さを予感させる陽射しが微妙な調和を保っている一瞬だった。イグナシオは数歩踏みだして、プラタナスの街路樹の陰に身を隠した。
大谷組の組員が四人、車を乗り棄て、マンションのまわりに身を隠すところだった。組員たちの注意は、マンションの玄関口に集中している。懐に手を挿し入れているところをみると、どうやら銃をもっているようだ。
イグナシオは植込みの陰を躯をかがめるようにして小走りに駆けた。組員の乗ってきた車は、アイドリングのまま小刻みに車体をふるわせていた。イグナシオは車内に滑りこんだ。
免許は持っていなかったが、運転はできた。農場で作業用のトラックを運転していた。ナンバー・プレートもない、左ハンドルのダットサンだった。
イグナシオはサイド・ブレーキを倒した。ギアを入れ、アクセルを四千回転ほどまであおって、素早くクラッチを継いだ。
組員のひとりが、車に銃を向けた。あわてて兄貴分が止めた。ほかのひとりが、たまたま通りかかったタクシーの前に飛びだした。乗っていた客を引きずり降ろし、自分たちが乗りこんだ。運転手に追えと命じたときには、イグナシオの運転する車は交差点を右折して走り去っていた。
*
イグナシオは車を西新宿に向け、中央公園脇に乗り棄てた。紙袋の中に入れた銃を確認してから西新宿六丁目にあるホテルに向かった。文子の両親と、むかしの男が泊まっているホテルだ。
両親と男は、アパートを借りて自活しはじめた文子を説得し、長崎へ連れ帰るつもりらしかった。
文子は両親を憎んでいると言った。当然男もだ。そのことばで、イグナシオの心は決まった。銃もあっさり手に入れた。全ては初めから決められていた。そんな気がしていた。
「神、悪魔をつくり給う。神、レールを敷き給う。我、その上を歩かされ給う。アーメン」
イグナシオは唇を歪めて言い、雑に十字を切った。ロビーを横切り、まっすぐフロントに向かった。
フロントの男は、けげんな表情でイグナシオを迎えた。イグナシオは愛想よく頭をさげ、笑いかけたが、フロントの男は顔半分で笑うイグナシオに対して、わずかに顔をそむけた。
イグナシオは紙袋の中に手をつっこみ、声をかけた。
「ちょっと教えて欲しいんだけど」
フロントの男はイグナシオが日本語を喋ったので、得意の英会話が活かせないと内心がっかりした。取ってつけたように、笑顔をつくった。
「どのような御用でしょうか」
「このホテルに泊まっている人なんだけど」
「お呼びだしでございますか?」
「ちがう。部屋の番号を教えて欲しいんだ」
フロントの男は用心した。イグナシオの頬の傷を見ないようにして答えた。
「生憎ですが、当ホテルでは規則で、お客様のお部屋をお教えすることはできません」
「これでも?」
イグナシオは紙袋の底を裂いた。ブローニングの銃口だけ突きだしてみせた。
男はそれが何であるか理解できず、軽く首をかしげ、ついでに蝶ネクタイをなおした。
イグナシオは袋の中で、ブローニングの遊底を引いた。銃弾がバレルに装填される機械音が響き、男は紙袋の底から露出しているのが銃口であることを理解した。
イグナシオの背後で、中年男が咳払いした。
「おじさん、ちょっと待ってくれるかな。順番だよ」
「私は急いでるんだがね」
「でも、オレが先だから」
中年男はハンカチで首筋の汗を拭きながら、イグナシオを無視してフロントの男に声をかけた。
「しようがないなあ。じゃあ、順番を待たなくてもよくしてあげるよ」
イグナシオは苦笑しながら肩をすくめ、中年男のスーツの脇腹に、きつく銃口を押しあてた。
乾いた発射音がした。ぴったり躯に押しつけられていたので、たいした音ではなかった。ロビーで新聞を読んでいた男と、コンパクトを覗きこんで化粧をなおしていた外人女がフロントを向いた。
イグナシオは血の気を失って幽かに呻く中年男を支え、フロントにもたれかからせるようにして迫った。
「藤沢俊太郎、リツ夫妻の部屋は?」
フロントの男は、あわてて宿泊客の名簿を繰った。
「はやく! はやくすれば、このオッサン、助かるかもしれないぜ」
「はい。ただいま……ええと……三〇六号室でございます」
「ありがと。次は、山上澄夫って人。やはり長崎から来た人ね」
言いながら、イグナシオはフロントに上体を突っこんだ。電話をとる。内線三〇六をダイヤルする。
「もしもし、鈴木さんですか? え、藤沢さん。失礼しました」
三〇六が藤沢夫妻の部屋であることを確認したとき、控えの部屋から、もうひとりフロント・マンが顔を覗かせた。イグナシオは舌打ちした。
「山上澄夫は?」
「四一九でございます!」
イグナシオはうなずいた。引き金を引いた。電話機が踊るように跳ねて、原形を失った。イグナシオは紙袋を棄て、銃を露にした。
「ありがと。あとで、ルーム・サービスっていうのを頼むかもしれないよ」
笑顔で言って、エレベーターに駆ける。
*
イグナシオはルーム・ナンバーを見ながら、三階の廊下を駆けた。チェック・アウトした男女がけげんそうに見送った。ジーンズのベルトにつっこまれたブローニングに気づかなかったのは幸いだった。
廊下には臙脂《えんじ》色のカーペットが敷きつめられていた。柔らかく、足許が安定しなかった。三〇六号室のドアを、ブローニングで連打した。
反応がない。しかし人の気配はした。フロントが、ドアを開くなと連絡したのかもしれない。イグナシオは瞳を細め、ドア・ノブに向けて連射した。
跳弾が掠めて、耳が遠くなった。あぶねぇ、あぶねぇ……独白したつもりだが、じつはことばは発せられていなかった。
ドア・ノブは原形を失った。わずかに金属の焦げる匂いがした。イグナシオはドアを蹴破った。
文子の父は五十歳代なかばに見えた。見事な白髪だった。母も似たような年齢に見えたが、顔色を失っているせいで、じっさいはもっと若いのかもしれない。
「お迎えにあがりました。さあ、ここから出ましょう」
ふざけるつもりはないのだが、イグナシオの口調は冗談じみたものになってしまった。
「女房は許してくれ」
文子の父が言った。毅然としていた。イグナシオは引き金を引きたくなった。かろうじてこらえた。
「だめ。文子さんに頼まれたから。見逃すわけにはいかないんだ」
「文子が!」
イグナシオは貧乏揺すりした。
「さあ、早く出て!」
廊下に出ると、ドアをわずかに開いて様子を窺っていた宿泊客が、一斉にドアを閉めた。イグナシオは文子の父母を追いたて、エレベーターに乗った。
「キミは、なにが目的で……」
「黙れよ。喋っていいときは、オレが言う」
文子の父、俊太郎は口を噤んだ。エレベーターのドアが開いた。四階だった。
廊下に出たとたん、三十代なかばくらいの男が、スラックスからワイシャツをはみださせた格好のままで駆けてきた。
「澄夫クン!」
俊太郎が声をあげ、手で逆方向に逃げるようにうながした。イグナシオは俊太郎に銃を向けかけたが、思いなおして山上澄夫に銃口を向けた。
山上は唇をふるわせながら、踵を返した。足が縺《もつ》れたようになり、前へ進まない。イグナシオは引き金を引いた。十五メートルほど離れていたので、外れた。しかし山上は尻餅をつき、動けなくなった。
イグナシオは夫婦をせかし、山上のところまで行き、その尻を蹴った。
「さあ部屋へ戻るんだ」
山上は四つん這いになって、四一九号室のドアにへばりついた。
「開けろ」
「鍵……鍵が……」
「てめえが後生大事に握ってるだろ」
イグナシオは苦笑した。俊太郎も苦笑しかけた。たしかに山上の狼狽ぶりはなかなかであった。イグナシオは肩をすくめた。
シングル・ルームだった。ベッドは乱れ、衣類が散乱していた。イグナシオはドアを後ろ手にロックした。山上に銃を向けた。
「そこにあるネクタイで、お義父さん、お義母さんの腕を縛ってさしあげろ」
山上は弾かれたようにネクタイをつかみ、俊太郎の背後にまわった。幾度かイグナシオに怒鳴りつけられながら、夫妻の腕を背中で縛りあげた。
「こんどは、おまえだ。そこにある紐で、投げ縄の輪をつくれ」
イグナシオはバスローブの腰紐を示した。山上はふるえる手で輪をつくり、イグナシオの命じるとおり、両手両足をつっこんだ。イグナシオは片手で絞めあげた。
「なぜボクだけが両手足を……」
「うっとうしいからだよ。ごちゃごちゃ吐かすと、喋れなくするぞ」
銃口を向けられると、山上はとたんに顔をそむけ、イモ虫のように床を転がって逃げた。イグナシオはニヤッと笑った。
「じつはこのピストル、弾を撃ちつくしちゃったんだ。ほら、ここのスライドするところが後ろにさがったまま、止まってるだろう」
山上はおそるおそるイグナシオの手の銃を見つめ、細く長く息を吐いた。俊太郎はベッドによりかかるようにして妻をかばいながら、イグナシオを睨みつけていた。
イグナシオは弾倉を引き抜いた。ジーンズのポケットから油紙に包んだ銃弾を取りだし、悠々と装填した。弾倉をグリップに叩きこむ。遊底を引いて弾丸を送りこむ。
「これで、いつでも撃てる」
呟きながらイグナシオは、鏡台の前のスツールに座り、鏡を覗きこんだ。傷を中心に、顔の左半分は死人の顔だった。
「キミは、何が目的なんだ?」
落ち着きはらった声で俊太郎が訊いた。
「みんな殺す。それが目的」
「なぜ?」
「さあね」
「私にはキミが狂っているとは思えないが」
「正常ではないよ、オレ」
電話が鳴った。イグナシオは受話器を耳にあて、すぐに切った。
「おまわりさんからだ。新宿署がすぐ近くだからね。さすが早いや」
しばらく沈黙があった。ふたたび俊太郎が口を開いた。
「キミは、文子とどんな関係なんだ?」
「さあね」
イグナシオはとぼけたが、思いなおして言った。
「おじさん、文子さんに堕胎させただろ」
俊太郎とリツは顔を見合わせた。山上もイグナシオを窺った。
「それで?」
「べつに。ふと思い出しただけだ」
「キミは……文子に頼まれたと言ったな」
「文子さんは、この男と結婚したくないんだってさ」
「だから?」
「だから、こうする」
イグナシオはブローニングの引き金を絞った。山上の顎が欠けた。さらにイグナシオは連射した。
室内が青白い煙で霞んだ。山上は動かなくなっていた。クリーム色のカーペットが血を含んでわずかに波打っていた。
俊太郎の背後で、リツがふるえながら祈りはじめた。天使祝詞だった。イグナシオは小声で唱和した。
「――めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン」
俊太郎とリツは、イグナシオを凝視した。イグナシオは微笑して、床に落ちた薬莢を拾いあげた。
リツは血の匂いのする山上の死体に視線をはしらせ、訊いた。
「あなたは素直そうな子です。なぜ、こんなことを?」
イグナシオは照れた。すぐに表情を改めた。
「春にベトナム戦争が終わっただろ」
「ええ」
「なぜ、あんなことをしたの?」
「―――」
「屁理屈かな」
イグナシオは苦笑した。俊太郎とリツの顔を交互に見つめた。そして、ある感動を覚えた。なるほど文子は、俊太郎とリツの娘であった。両親の顔には文子の面影があった。
「オレね、親がいないの」
リツがなにか言いかけたが、イグナシオはかまわず続けた。
「キリストにも親がいる。文子さんにも親がいる。もちろんオレにも親がいたんだろうけど、なんというのかな、オレの実感としては、いきなり地上に落ちてきたってかんじかな」
小声で付け加えた。
「馴染めないね、なにもかも」
ブローニングを俊太郎に向ける。俊太郎は眼を閉じた。
電話が鳴った。イグナシオはブローニングを俊太郎に向けたまま、受話器を取った。
「文子さん」
――おねがい。無茶はやめて。両親と山上さんを解放してあげて。
「山上さんは、もう死んだ」
――ああ、イグナシオ。せめておとうさんとおかあさんだけは。
「そうだね。オレもその気をなくしかけてるんだ。うしろでごちゃごちゃ言ってるのは、おまわりさんか?」
――ええ。でも、これは、わたしの意志。
「なんだかオレ、寂しいよ」
――かわいそうなイグナシオ。
「もう電話切るよ」
イグナシオは受話器を置いた。俊太郎とリツに笑いかけた。
「こうなると思ってたよ。なんだか裏切られた気分だけど、しようがないね。行こうか」
イグナシオは俊太郎とリツの腕を縛っているネクタイをほどき、立ちあがらせた。
「すこし、腹へったよ。めんどうだな」
*
エレベーターが一階に着き、ドアが開いた。ロビーは無人に見えた。柱の陰に警官が身を潜ませていた。
「大げさなことになっちゃったな。先に出てよ」
俊太郎はうなずき、リツを促して、エレベーターから降りた。イグナシオはふたりについてロビーに出て、潜んでいる警官に銃を示した。
「もォ、終わり。銃を棄てるよ」
イグナシオは床に銃を投げた。警官が駆け寄った。俊太郎とリツを保護し、イグナシオを背丈ほどもある警棒で叩き伏せた。イグナシオの手首に、手錠がめりこんだ。
*
ホテルの周囲はヤジ馬でいっぱいだった。イグナシオは警官ふたりに引きたてられて、ホテルをでた。中央公園で蝉が弱々しく鳴きだした。夏の終わりをかんじさせた。
イグナシオは瞳を細めた。視線の先に、両腕を警官に押さえつけられた文子があった。
ヤジ馬の中から怒声があがった。人垣が揺れた。ひとりの男が走り出た。白いランニング・シャツが鮮やかだった。まだ筋彫りの刺青が肩を隈取っていた。その手には三十八口径のリボルバーが握られていた。
連続して乾いた発射音が響き、蝉が鳴き止んだ。膝を折ったイグナシオに向けて、さらに二発撃ちこんだ。
「大谷組の石崎だ。親分の仇、討たしてもらった」
警官に取りおさえられた若者は、イグナシオにも見覚えがあった。リボルバーを投げ棄てると、昂奮で大きく肩を揺らした。武者震いのせいで、喘息《ぜんそく》の発作を起こしたかのような息遣いだ。
肺に二発、腹部に一発、太腿に一発。警官が首を左右に振った。警官を振りきって、文子が駆け寄った。イグナシオを抱き起こした。イグナシオは口を動かした。
「なに!」
「カダローラ先生に伝えて……いまさら、祈れません」
「イグナシオ!」
「でも……迎えにきてくれたんだ……ふしぎだね……祈らないのに、とどいた」
イグナシオは微笑した。顔全体で微笑した。頬の筋肉と神経が断裂したままなのに、柔らかい笑顔があらわれた。イグナシオの視線の先に、茜が立ちつくしていた。ちいさな、ちいさな奇蹟に気づいたのは、茜だけだった。イグナシオは微笑したまま、息を止めた。
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エピローグ
カダローラ修道士は、イグナシオの死と伝言を文子から聞き、ふかくうなずき、瞳を閉じたという。終始無言であった。
藤沢文子は事件の後、東北にあるもっとも戒律の厳しい修道院に入り、ふたたび修道女となった。完全に世俗を棄てたのだ。もう両親も文子に会うことはできない。
山代幸子は大学の夏休みで郷里の北海道へ帰ったまま、秋になっても東京へ戻ろうとはしなかった。幸子は妊娠していた。北海道でイグナシオの子を生むつもりだった。
大谷茜は、身の廻りの物をまとめたバッグひとつを持って、イグナシオと暮らしたマンションを出ていった。マンションの管理人に向けられた笑顔は、ひどく透明だったという。その後の行方は、わからない。
●参考文献 「殺人の哲学」コリン・ウィルソン著/高儀進訳 角川書店刊
角川文庫『イグナシオ』平成11年2月25日初版発行
平成12年8月10日5版発行