TITLE : 蜘蛛の糸・地獄変
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目次
袈《け》裟《さ》と盛《もり》遠《とお》
蜘《く》蛛《も》の糸《いと》
地《じ》獄《ごく》変《へん》
奉《ほう》教《きよう》人《にん》の死
枯《かれ》野《の》抄《しよう》
邪《じや》宗《しゆう》門《もん》
毛《もう》利《り》先生
犬と笛《ふえ》
注 釈
袈《け》裟《さ》と盛《もり》遠《とお*》
夜、盛《もり》遠《とお*》が築《つい》土《じ》の外で、月《つき》魄《しろ》をながめながら、落葉を踏《ふ》んで物思いにふけっている。
その独白
「もう月の出だな。いつもは月が出るのを待ちかねる己《おれ》も、今日ばかりは明るくなるのがそら恐しい。今までの己が一夜のうちに失われて、明《あ》日《す》からは人殺しになり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震《ふる》えてくる。この両の手が血で赤くなった時を想像してみるがいい。その時の己は、己自身にとって、どのくらいのろわしいものに見えるだろう。それも己の憎《にく》む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。
己はあの男を以前から見知っている。渡《わたる》左《さ》衛《え》門《もんの》尉《じよう*》と言う名は、今度のことについて知ったのだが、男にしては柔《やさ》しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつのことだかわからない。それが袈《け》裟《さ*》の夫だということを知った時、己が一時嫉《しつ》妬《と》を感じたのは事実だった。しかしその嫉妬も、今では己の心の上に何一つ痕《こん》跡《せき》を残さないで、きれいに消え失せてしまっている。だから渡《わたる》は己《おれ》にとって、恋の仇《かたき》とは言いながら、憎《にく》くもなければ、恨《うら》めしくもない。いや、むしろ、己はあの男に同情していると言っても、よいくらいだ。衣《ころも》川《がわ*》の口から渡が袈《け》裟《さ》を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男をかわゆく思ったことさえある。渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽《けい》古《こ》までしたということではないか。己はあのきまじめな侍《さむらい》の作った恋《れん》歌《か》を想像すると、知らず識《し》らず微《び》笑《しよう》が脣《くちびる》に浮んでくる。しかしそれは何も、渡をあざける微笑ではない。己はそうまでして、女に媚《こ》びるあの男をいじらしく思うのだ。あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかもしれない。
しかしそう言えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか。己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れている。己は袈裟がまだ渡に縁づかない以前に、すでに袈裟を愛していた。あるいは愛していると思っていた。が、これも今になって考えると、その時の己の心もちには不純なものも少くはない。己は袈裟に何を求めたのか、童《どう》貞《てい》だったころの己は、明かに袈裟の体を求めていた。もし多少の誇《こ》張《ちよう》を許すなら、己の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちにすぎなかった。それが証《しよう》拠《こ》には、袈裟との交《こう》渉《しよう》が絶えたその後の三年間、なるほど己はあの女のことを忘れずにいたにちがいないが、もしその以前に己があの女の体を知っていたなら、それでもやはり忘れずに思いつづけていたであろうか。己は恥しながら、しかりと答える勇気はない。己が袈裟に対するその後の愛着の中には、あの女の体を知らずにいる未練がかなり混っている。そうして、その悶《もん》々《もん》の情をいだきながら、己はとうとう己《おれ》の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。では今は? 己は改めて己自身に問いかけよう。己ははたして袈《け》裟《さ》を愛しているだろうか。
が、その答をする前に、己はまだ一通り、いやでもこういういきさつを思い出す必要がある。――渡辺の橋の供《く》養《よう》の時、三年ぶりで偶《ぐう》然《ぜん》袈裟にめぐりあった己は、それからおよそ半年ばかりの間、あの女と忍《しの》び合う機会を作るために、あらゆる手段を試みた。そうしてそれに成功した。いや、成功したばかりではない、その時、己は、己が夢みていた通り、袈裟の体を知ることができた。が、当時の己を支配していたものは、必ずしも前に言った、まだあの女の体を知らないという未練ばかりだったわけではない。己は衣《ころも》川《がわ》の家で、袈裟と一つ部屋の畳《たたみ》へすわった時、すでにこの未練がいつか薄《うす》くなっているのに気がついた。それは己がもう童《どう》貞《てい》でなかったということも、その場になって、己の欲望を弱める役にたったのであろう。しかしそれよりも、主《おも》な原因は、あの女の容色が、衰《おとろ》えているということだった。実際今の袈裟は、もう三年前の袈裟ではない。皮《ひ》膚《ふ》はいったいに光沢《つや》を失って、目のまわりにはうす黒く暈《かさ》のようなものが輪《ふち》どっている。頬《ほお》のまわりや顋《あご》の下にも、以前の豊かな肉づきが、うそのようになくなってしまった。わずかに変らないものと言っては、あの張りのある、黒《くろ》瞳《め》がちな、水々しい目ばかりであろうか。――この変化は己の欲望にとって、確かに恐しい打《だ》撃《げき》だった。己は三年ぶりではじめてあの女と向い合った時、思わず視線をそらさずにはいられなかったほど、強い衝《しよう》動《どう》を感じたのをいまだにはっきり覚えている。……
では、比《ひ》較《かく》的《てき》そういう未練を感じていない己が、どうしてあの女に関係したのであろう。己は第一に、妙《みよう》な征服心に動かされた。袈《け》裟《さ》は己《おれ》と向い合っていると、あの女が夫の渡《わたる》に対して持っている愛情を、わざと誇《こ》張《ちよう》して話して聞かせる。しかも己にはそれが、どうしてもある空虚な感じしか起させない。「この女は自分の夫に対して虚栄心を持っている」――己はこう考えた。「あるいはこれも、己の憐《れん》憫《びん》を買いたくないという反《はん》抗《こう》心《しん》の現れかもしれない」――己はまたこうも考えた。そうしてそれとともに、このうそを暴《ばく》露《ろ》させてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。ただ、なぜそれをうそだと思ったかと言われれば、それをうそだと思ったところに、己のうぬぼれがあると言われれば、己にはもとより抗《こう》弁《べん》するだけの理由はない。それにもかかわらず、己はそのうそだということを信じていた。今でもなお信じている。
が、この征服心もまた、当時の己を支配していたすべてではない。そのほかに――己はこう言っただけでも、己の顔が赤くなるような気がする。己はそのほかに、純粋な情欲に支配されていた。それはあの女の体を知らないという未練ではない。もっと下等な、相手があの女である必要のない、欲望のための欲望だ。おそらくは傀《く》儡《ぐつ》の女を買う男でも、あの時の己ほどは卑《いや》しくなかったことであろう。
とにかく己はそういういろいろな動機で、とうとう袈裟と関係した。と言うよりも袈裟をはずかしめた。そうして今、己の最初に出した疑問へ立ち戻《もど》ると、――いや、己が袈裟を愛しているかどうかなどということは、いくら己自身に対してでも、いまさら改めて問う必要はない。己はむしろ、時にはあの女に憎《にく》しみさえも感じている。ことに万事がおわってから、泣き伏しているあの女を、無理に抱《だ》き起した時などは、袈裟は破《は》廉《れん》恥《ち》の己よりも、より破廉恥な女に見えた。乱れた髪のかかりといい、汗ばんだ顔の化《け》粧《しよう》といい、一つとしてあの女の心と体との醜《みにく》さを示していないものはない。もしそれまでの己《おれ》があの女を愛していたとしたら、その愛はあの日を最後として、永久に消えてしまったのだ。あるいは、もしそれまでの己があの女を愛していなかったとしたら、あの日から己の心には新しい憎《にく》しみが生じたと言ってもまたさしつかえない。そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女のために、己が憎んでいない男を殺そうというのではないか!
それもまったく、誰の罪でもない。己がその己の口で、公然と言い出したことなのだ。「渡《わたる》を殺そうではないか」――己があの女の耳に口をつけて、こうささやいた時のことを考えると、我ながら気が違っていたのかとさえ疑われる。しかし己は、そうささやいた。ささやくまいと思いながら、歯を食いしばってまでもささやいた。己にはそれがなぜささやきたかったのか、今になってふりかえってみると、どうしてもよくわからない。が、もししいて考えれば、己はあの女をさげすめばさげすむほど、憎く思えば思うほど、ますます何かあの女に凌《りよう》辱《じよく》を加えたくてたまらなくなった。それには渡《わたる》左《さ》衛《え》門《もんの》尉《じよう》を、――袈《け》裟《さ》がその愛をてらっていた夫を殺そうというくらい、そうしてそれをあの女に否《いや》応《おう》なく承《しよう》諾《だく》させるくらい、目的にかなったことはない。そこで己は、まるで悪夢に襲《おそ》われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧《すす》めたのであろう。それでも己が渡を殺そうと言った、動機が十分でなかったなら、あとは人間の知らない力が、(天《てん》魔《ま》波《は》旬《じゆん》とでも言うがいい)己の意志を誘《さそ》って、邪《じや》道《どう》へおとしいれたとでも解《かい》釈《しやく》するよりほかはない。とにかく、己は執《しゆう》念《ねん》深く、何度も同じことを繰り返して、袈裟の耳にささやいた。
すると、袈《け》裟《さ》はしばらくして、急に顔を上げたと思うと、すなおに己《おれ》のもくろみに承知するという返事をした。が、己にはその返事の容易だったのが、意外だったばかりではない。その袈裟の顔を見ると、今までに一度も見えなかった不《ふ》思《し》議《ぎ》な輝きが目に宿っている。姦《かん》婦《ぷ》――そういう気が己はすぐにした。と同時に、失望にも似《に》た心もちが、急に己のもくろみの恐しさを、己の眼の前へひろげてみせた。その間も、あの女のみだりがましい、しおれた容色のいやらしさが、絶えず己をさいなんでいたことは、もとよりわざわざ言う必要もない。もしできたなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。そうして、あの不《ふ》貞《てい》な女を、はずかしめというはずかしめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女をもてあそんだにしても、まだそういう義《ぎ》憤《ふん》の後ろに、避《ひ》難《なん》することができたかもしれない。が、己にはどうしても、そうする余《よ》裕《ゆう》が作れなかった。まるで己の心もちを見《み》透《とお》しでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の目を見つめた時、――己は正直に白状する。己が日と時刻とをきめて、渡《わたる》を殺す約束を結ぶようなはめに陥《おちい》ったのは、まったく万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復《ふく》讐《しゆう》の恐《きよう》怖《ふ》からだった。いや、今でもなおこの恐怖は、執《しゆう》念《ねん》深《ぶか》く己の心を捕えている。臆《おく》病《びよう》だとわらう奴《やつ》は、いくらでもわらうがいい。それはあの時の袈裟を知らないもののすることだ。「己が渡を殺さないとすれば、よし袈裟自身は手を下さないにしても、必ず、己はこの女に殺されるだろう。そのくらいなら己のほうで渡を殺してしまってやる」――涙《なみだ》がなくて泣いているあの女の目を見た時に、己は絶望的にこう思った。しかもこの己《おれ》の恐《きよう》怖《ふ》は、己が誓《せい》言《ごん》をしたあとで、袈《け》裟《さ》が蒼《あお》白《じろ》い顔に片えくぼをよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。
ああ、己はそののろわしい約束のために、汚《けが》れた上にも汚れた心の上へ、今また人殺しの罪を加えるのだ。もし今夜に差し迫って、この約束を破ったなら――これも、やはり己には堪《た》えられない。一つには誓言の手前もある。そうしてまた一つには、――己は復《ふく》讐《しゆう》を恐れると言った。それもけっしてうそではない。しかしその上にまだ何かある。それはなんだ? この己を、この臆《おく》病《びよう》な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力はなんだ? 己にはわからない。わからないが、ことによると――いやそんなことはない。己はあの女をさげすんでいる。恐れている。憎《にく》んでいる。しかしそれでもなお、それでもなお、己はあの女を愛しているせいかもしれない」
盛《もり》遠《とお》は徘《はい》徊《かい》を続けながら、ふたたび、口を開《ひら》かない。月《つき》明《あか》り。どこかで今《いま》様《よう》を謡《うた》う声がする。
げに人間の心こそ、無《む》明《みよう》の闇《やみ》も異《ことな》らね、
ただ煩《ぼん》悩《のう》の火と燃《も》えて、消ゆるばかりぞ命なる。
夜、袈裟が帳《ちよう》台《だい》の外で、灯《とう》台《だい》の光にそむきながら、袖《そで》をかんで物思いにふけっている。
その独白
「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。よもや来ないことはあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしないところをみると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまるで傀《く》儡《ぐつ》の女のようにこの恥しい顔をあげて、また日の目を見なければならない。そんなあつかましい、よこしまなことがどうして私にできるだろう。その時の私こそ、あの路ばたに捨ててある死体と少しも変りはない。はずかしめられ、踏《ふ》みにじられ、あげくの果てにその身の恥をのめのめと明るみにさらされて、それでもやはり唖《おし》のように黙《だま》っていなければならないのだから。私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。いやいや、あの人は必ず、来る。私はこの間別れぎわに、あの人の目をのぞきこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。あの人は私をこわがっている。私を憎み、私をさげすみながら、それでもなお私をこわがっている。なるほど私が私自身を頼《たの》みにするのだったら、あの人が必ず、来るとは言われないだろう。が、私はあの人を頼みにしている。あの人の利己心を頼みにしている。いや、利己心が起させる卑《いや》しい恐《きよう》怖《ふ》を頼みにしている。だから私はこう言われるのだ。あの人はきっと忍《しの》んで来るのに違いない。……
しかし私自身を頼みにすることのできなくなった私は、なんというみじめな人間だろう。三年前の私は、私自身を、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。三年前というよりも、あるいはあの日までと言ったほうが、もっとほんとうに近いかもしれない。あの日、伯《お》母《ば》様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜《みにく》さを知ってしまった。あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私をそそのかすような、やさしいことばをかけてくれる。が、一度自分の醜《みにく》さを知った女の心が、どうしてそんなことばに慰《なぐさ》められよう。私はただ、くやしかった。恐しかった。悲しかった。子供の時に乳《う》母《ば》に抱《いだ》かれて、月《げつ》蝕《しよく》を見た気味の悪さも、あの時の心もちに比《くら》べれば、どのくらいましだかわからない。私の持っていたさまざまな夢《ゆめ》は、一度にどこかへ消えてしまう。後にはただ、雨のふる明け方のような寂《さび》しさが、じっと私の身のまわりを取り囲《かこ》んでいるばかり――私はその寂しさに震《ふる》えながら、死んだも同様なこの体を、とうとうあの人に任せてしまった。愛してもいないあの人に、私を憎《にく》んでいる、私をさげすんでいる、色好みなあの人に。――私は私の醜さを見せつけられた、その寂しさに堪《た》えなかったのであろうか。そうしてあの人の胸に顔を当てる、熱に浮かされたような一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》にすべてを欺《あざむ》こうとしたのであろうか。さもなければまた、あの人同様、私もただ汚《けが》らわしい心もちに動かされていたのであろうか。そう思っただけでも、私は恥しい。恥しい。恥しい。ことにあの人の腕《うで》を離れて、また自由な体に帰った時、どんなに私は私自身をあさましく思ったことであろう。
私は腹《はら》だたしさと寂しさとで、いくら泣くまいと思っても、とめどなく涙《なみだ》があふれてきた。けれども、それは何も、操《みさお》を破られたということだけが悲しかったわけではない。操を破られながら、その上にも卑《いやし》められているということが、ちょうど癩《らい》を病んだ犬のように、憎まれながらもさいなまれているということが、何よりも私には苦しかった。そうしてそれから私はいったい何をしていたのであろう。今になって考えると、それも遠い昔の記《き》憶《おく》のようにおぼろげにしかわからない。ただ、すすり上げて泣いている間に、あの人の口《くち》髭《ひげ》が私の耳にさわったと思うと、熱い息といっしょに低い声で、「渡《わたる》を殺そうではないか」と言うことばが、ささやかれたのを覚えている。私はそれを聞くと同時に、いまだに自分にもわからない、不《ふ》思《し》議《ぎ》に生《いき》々《いき》した心もちになった。生々した? もし月の光が明るいと言うのなら、それも生々した心もちであろう。が、それはどこまでも月の光の明るさとは違う、生々した心もちだった。しかし私は、やはりこの恐しいことばのために、慰《なぐさ》められたのではなかったろうか。ああ、私は、女というものは、自分の夫を殺してまでも、なお人に愛されるのがうれしく感ぜられるものなのだろうか。
私はその月夜の明るさに似《に》た、寂《さび》しい、生々した心もちで、またしばらく泣きつづけた。そうして? そうして? いつ、私は、あの人の手引をして夫を討たせるという約《やく》束《そく》を、結んでなどしまったのであろう。しかしその約束を結ぶといっしょに、私ははじめて夫のことを思い出した。私は正直にはじめてと言おう。それまでの私の心は、ただ、私のことを、はずかしめられた私のことを、いちずにじっと思っていた。それがこの時、夫のことを、あの内《うち》気《き》な夫のことを、――いや、夫のことではない。私に何か言う時の、微《び》笑《しよう》した夫の顔を、ありあり眼の前に思い出した。私のもくろみが、ふと胸に浮んだのも、おそらくその顔を思い出した刹《せつ》那《な》のことであったろう。なぜと言えば、その時に私はもう死ぬ覚《かく》悟《ご》をきめていた。そうしてまたきめることのできたのがうれしかった。しかし泣きやんだ私が顔を上げて、あの人の方をながめた時、そうしてそこに前の通り、あの人の心に映っている私の醜《みにく》さを見つけた時、私は私のうれしさが一度に消えてしまったような心もちがする。それは――私はまた、乳《う》母《ば》と見た月《げつ》蝕《しよく》の暗さを思い出してしまう。それはこのうれしさの底に隠《かく》れている、さまざまの物の怪《け》を一《いち》時《どき》に放ったようなものだった。私が夫の身代りになるということは、はたして夫を愛しているからだろうか。いや、いや、私はそういう都合のよい口実の後ろで、あの人に体を任《ま》かした私の罪の償《つぐの》いをしようという気を持っていた。自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身をよく見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私はもっと卑《いや》しかった。もっと、もっと醜《みにく》かった。夫の身代りに立つという名のもとで、私はあの人の憎《にく》しみに、あの人のさげすみに、そうしてあの人が私をもてあそんだ、そのよこしまな情欲に、仇《かたき》を取ろうとしていたではないか。それが証《しよう》拠《こ》には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不《ふ》思《し》議《ぎ》な生《いき》々《いき》しさも消えてしまって、ただ、悲しい心もちばかりが、たちまち私の心を凍《こお》らせてしまう。私は夫のために死ぬのではない。私は私のために死のうとする。私の心を傷《きず》つけられたくやしさと、私の体を汚《よご》された恨《うら》めしさと、その二つのために死のうとする。ああ、私は生き甲《が》斐《い》がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。
しかしその死に甲斐のない死に方でさえ、生きているよりは、どのくらい望ましいかわからない。私は悲しいのを無理にほほえみながら、繰り返してあの人と夫を殺す約《やく》束《そく》をした。感じの早いあの人は、そういう私のことばから、もし万一約束を守らなかった暁《あかつき》には、どんなことを私がしでかすか、おおかた推察のついたことであろう。してみれば、誓《せい》言《ごん》までしたあの人が、忍《しの》んで来ないというはずはない。――あれは風の音であろうか――あの日以来の苦しい思いが今夜でやっと尽きるかと思えば、さすがに気のゆるむような心もちもする。明日の日は、必ず、首のない私の死《し》骸《がい》の上に、うすら寒い光を落すだろう。それを見たら、夫は――いや、夫のことは思うまい、夫は私を愛している。けれど、私にはその愛を、どうしようという力もない。昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この灯《とう》台《だい》の光でさえそういう私には晴れがましい。しかもその恋《こい》人《びと》に、さいなまれ果てている私には」
袈《け》裟《さ》は、灯台の火を吹き消してしまう。ほどなく、暗の中でかすかに蔀《しとみ》を開く音。それとともにうすい月の光がさす。
(大正七年三月)
蜘《く》蛛《も》の糸《いと*》
ある日のことでございます。お釈《しや》迦《か》様《さま》は極楽の蓮《はす》池《いけ》のふちを、ひとりでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、なんとも言えないよいにおいが、絶間なくあたりへあふれております。極楽はちょうど朝なのでございましょう。
やがてお釈迦様はその池のふちにおたたずみになって、水の面《おもて》をおおっている蓮の葉の間から、ふと下のようすをご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地《じ》獄《ごく》の底に当っておりますから、水《すい》晶《しよう》のような水を透《す》きとおして、三《さん》途《ず》の河や針の山のけしきが、ちょうどのぞきめがねを見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、〓《かん》陀《だ》多《た》と言う男が一人、ほかの罪人といっしょにうごめいている姿が、お眼に止まりました。この〓陀多と言う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大どろぼうでございますが、それでもたった一つ、よいことをいたした覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘《く》蛛《も》が一匹、路ばたをはって行くのが見えました。そこで〓《かん》陀《だ》多《た》はさっそく足をあげて、踏《ふ》み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみにとるということは、いくらなんでもかわいそうだ」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘《く》蛛《も》を殺さずに助けてやったからでございます。
お釈迦様は地《じ》獄《ごく》のようすをご覧になりながら、この〓陀多には蜘蛛を助けたことがあるのをお思い出しになりました。そうしてそれだけのよいことをした報《むくい》には、できるなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸《さいわい》、そばを見ますと、翡《ひ》翠《すい》のような色をした蓮《はす》の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白《しら》蓮《はす》の間から、はるか下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをおおろしなさいました。
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人といっしょに、浮いたり沈んだりしていた〓陀多でございます。なにしろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗《やみ》からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと言ったらございません。その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものといっては、ただ罪人がつくかすかな嘆《たん》息《そく》ばかりでございます。これはここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責《せめ》苦《く》に疲《つか》れはてて、泣声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大どろぼうの〓陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかった蛙《かわず》のように、ただもがいてばかりおりました。
ところがある時のことでございます。何《なに》気《げ》なく〓陀多が頭をあげて、血の池の空をながめますと、そのひっそりとした暗《やみ》の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘《く》蛛《も》の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へたれて参るのではございませんか。〓陀多はこれを見ると、思わず手を拍《う》って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相《そう》違《い》ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいることさえもできましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
こう思いましたから〓陀多は、さっそくその蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、いっしょうけんめいに上へ上へとたぐりのぼり始めました。もとより大どろぼうのことでございますから、こういうことには昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間《あいだ》は、何万里となくございますから、いくらあせってみたところで、容易に上へは出られません。ややしばらくのぼるうちに、とうとう〓陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなってしまいました。そこでしかたがございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶらさがりながら、はるかに目の下を見おろしました。
すると、いっしょうけんめいにのぼった甲《か》斐《い》があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれております。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地《じ》獄《ごく》からぬけ出すのも、存外わけがないかもしれません。〓陀多は両手を蜘《く》蛛《も》の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出したことのない声で、「しめた。しめた」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数《かず》限《かぎ》りもない罪人たちが、自分ののぼったあとをつけて、まるで蟻《あり》の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。〓陀多はこれを見ると、驚《おどろ》いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、ばかのように大きな口をあいたまま、眼ばかり動かしておりました。自分一人でさえ、断《き》れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪《た》えることができましょう。もし万一途中で断《き》れたといたしましたら、せっかくここへまでのぼって来たこのかんじんな自分までも、もとの地獄へさか落しに落ちてしまわなければなりません。そんなことがあったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよとはい上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで〓陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己《おれ》のものだぞ。お前たちはいったい誰に尋《き》いて、のぼって来た。おりろ。おりろ」とわめきました。
そのとたんでございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急に〓陀多のぶらさがっている所から、ぷつりと音を立てて断《き》れました。ですから〓陀多もたまりません。あっと言う間もなく風を切って、独楽《こま》のようにくるくるまわりながら、見る見るうちに暗《やみ》の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
あとにはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短くたれているばかりでございます。
お釈《しや》迦《か》様《さま》は極楽の蓮《はす》池《いけ》のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて〓《かん》陀《だ》多《た》が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。自分ばかり地《じ》獄《ごく》からぬけ出そうとする、〓陀多の無《む》慈《じ》悲《ひ》な心が、そうしてその心相当な罰《ばつ》をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましく思《おぼ》し召《め》されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことにはとんじゃくいたしません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御《おみ》足《あし》のまわりに、ゆらゆら萼《うてな》を動かして、そのまん中にある金色の蕊《ずい》からは、なんとも言えないよいにおいが、絶《たえ》間《ま》なくあたりへあふれております。極楽ももう午《ひる》に近くなったのでございましょう。
(大正七年四月十六日)
地《じ》獄《ごく》変《へん*》
堀《ほり》川《かわ》の大《》おお殿《との》様《さま》のような方は、これまではもとより、後の世にはおそらく二人とはいらっしゃいますまい。うわさに聞きますと、あの方のご誕《たん》生《じよう》になる前には、大《だい》威《い》徳《とく》明《みよう》王《おう》の御《おん》姿《すがた》が御《おん》母《はは》君《ぎみ》の夢まくらにお立ちになったとか申すことでございますが、とにかくお生れつきから、なみなみの人間とはお違いになっていたようでございます。でございますから、あの方のなさいましたことには、一つとして私どもの意表に出ていないものはございません。早い話が堀川のお邸《やしき》のご規模を拝見いたしましても、壮《そう》大《だい》と申しましょうか、豪《ごう》放《ほう》と申しましょうか、とうてい私どもの凡《ぼん》慮《りよ》には及ばない、思い切ったところがあるようでございます。中にはまた、そこをいろいろとあげつらって大殿様のご性行を始《し》皇《こう》帝《てい》や煬《よう》帝《だい*》に比べるものもございますが、それはことわざに言う群《ぐん》盲《もう》の象《ぞう》をなでるようなものでもございましょうか。あの方のお思《おぼし》召《めし》は、けっしてそのようにご自分ばかり、栄《えい》耀《よう》栄《えい》華《が》をなさろうと申すのではございません。それよりはもっと下《しも》々《じも》のことまでお考えになる、いわば天下とともに楽しむとでも申しそうな、大《だい》腹《ふく》中《ちゆう》のご器量がございました。
それでございますから、二条大宮の百《ひやつ》鬼《き》夜《や》行《ぎよう》におあいになっても、格別お障《さわ》りがなかったのでございましょう。また陸奥《みちのく》の塩《しお》竈《がま》のけしきを写したので名高いあの東三条の河原《かわらの》院《いん》に、夜な夜な現われるといううわさのあった融《とおる》の左大臣《*》の霊《れい》でさえ、大《おお》殿《との》様《さま》のおしかりを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。かようなご威光でございますから、そのころ洛《らく》中《ちゆう》の老《ろう》若《にやく》男《なん》女《によ》が、大殿様と申しますと、まるで権《ごん》者《じや》の再来のように尊み合いましたも、けっして無理ではございません。いつぞや、内《うち》の梅花の宴《えん》からのお帰りにお車の牛が放れて、おりから通りかかった老人にけがをさせました時でさえ、その老人は手を合せて、大殿様の牛にかけられたことをありがたがったと申すことでございます。
さような次第でございますから、大殿様ご一代の間には、後《のち》々《のち》までも語り草になりますようなことが、ずいぶんたくさんございました。大《おお》饗《みあえ》の引出物に白《あお》馬《うま*》ばかりを三十頭、賜《たまわ》ったこともございますし、長《なが》良《ら》の橋《*》の橋柱にご寵《ちよう》愛《あい》の童《わらべ》を立てたこともございますし、それからまた華《か》陀《だ》の術を伝えた震《しん》旦《たん》の僧に、御《おん》腿《もも》の瘡《もがさ》をお切らせになったこともございますし、――いちいち数え立てておりましては、とても際限がございません。が、その数多いご逸《いつ》事《じ》の中でも、今ではお家の重《ちよう》宝《ほう》になっております地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》の由来ほど、恐ろしい話はございますまい。日ごろは物にお騒ぎにならない大殿様でさえ、あの時ばかりは、さすがにお驚《おどろ》きになったようでございました。ましておそばに仕えていた私どもが、魂《たましい》も消えるばかりに思ったのは、申し上げるまでもございません。中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年来ご奉公申しておりましたが、それでさえ、あのようなすさまじい見《み》物《もの》に出あったことは、ついぞまたとなかったくらいでございます。
しかし、そのお話をいたしますには、あらかじめまず、あの地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描《か》きました、良《よし》秀《ひで》と申す画《え》師《し》のことを申し上げておく必要がございましょう。
良秀と申しましたら、あるいはただいまでもなお、あの男のことを覚えていらっしゃる方がございましょう。そのころ絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申されたくらい、高《こう》名《みよう》な絵師でございます。あの時のことがございました時には、かれこれもう五十の阪《さか》に、手がとどいておりましたろうか。見たところはただ、背の低い、骨と皮ばかりにやせた、いじの悪そうな老人でございました。それが大《おお》殿《との》様《さま》のお邸《やしき》へ参ります時には、よく丁《ちよう》子《じ》染《ぞめ》の狩《かり》衣《ぎぬ》に揉《もみ》烏《え》帽《ぼ》子《し》をかけておりましたが、人がらはいたって卑《いや》しい方《かた》で、なぜか年よりらしくもなく、脣《くちびる》の目だって赤いのが、その上にまた気味の悪い、いかにも獣《けもの》めいた心もちを起させたものでございます。中にはあれは画筆をなめるので紅《べに》がつくのだと申した人もおりましたが、どういうものでございましょうか。もっともそれより口の悪い誰《だれ》彼《かれ》は、良秀の立居ふるまいが猿《さる》のようだとか申しまして、猿《さる》秀《ひで》と言う諢《あだ》名《な》までつけたことがございました。
いや猿秀と申せば、かようなお話もございます。そのころ大殿様のお邸《やしき》には、十五になる良秀の一人娘《むすめ》が、小《こ》女《によう》房《ぼう》に上がっておりましたが、これはまた生みの親には似もつかない、あいきょうのある娘でございました。その上早く女親に別れましたせいか、思いやりの深い、年よりもませた、りこうな生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、御《み》台《だい》様《さま》をはじめほかの女房たちにも、かわいがられていたようでございます。
すると何かのおりに、丹《たん》波《ば》の国から人馴《な》れた猿《さる》を一匹、献《けん》上《じよう》したものがございまして、それにちょうどいたずら盛りの若《わか》殿《との》様《さま》が、良《よし》秀《ひで》と言う名をおつけになりました。ただでさえその猿のようすがおかしいところへ、かような名がついたのでございますから、お邸《やしき》じゅう誰《だれ》一人笑わないものはございません。それも笑うばかりならよろしゅうございますが、おもしろ半分に皆のものが、やれお庭の松に上ったの、やれ曹《ぞう》司《し》の畳《たたみ》をよごしたのと、そのたびごとに、良秀良秀と呼び立てては、とにかくいじめたがるのでございます。
ところがある日のこと、前に申しました良秀の娘《むすめ》が、お文《ふみ》を結んだ寒《かん》紅《こう》梅《ばい》の枝を持って、長い廊《ろう》下《か》を通りかかりますと、遠くの遣《やり》戸《ど》の向うから、例の小猿の良秀が、おおかた足でもくじいたのでございましょう、いつものように柱へ駆《か》け上《のぼ》る元気もなく、びっこを引き引き、いっさんに逃《に》げて参るのでございます。しかもそのあとからは楚《すわえ》をふり上げた若殿様が「柑《こう》子《じ》盗《ぬす》人《びと》め、待て。待て」とおっしゃりながら、追いかけていらっしゃるのではございませんか。良秀の娘はこれを見ますと、ちょいとの間ためらったようでございますが、ちょうどその時逃げて来た猿が、袴《はかま》の裾《すそ》にすがりながら、哀《あわ》れな声を出して啼《な》き立てました――と、急にかわいそうだと思う心が、おさえ切れなくなったのでございましょう。片手に梅の枝をかざしたまま、片手に紫《むらさき》匂《におい》の袿《うちぎ》の袖を軽そうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱《だ》き上げて、若殿様の御《ご》前《ぜん》に小《こ》腰《ごし》をかがめながら「恐れながら畜《ちく》生《しよう》でございます。どうかご勘《かん》弁《べん》遊ばしまし」と、涼《すず》しい声で申し上げました。
が、若《わか》殿《との》様《さま》のほうは、気《き》負《お》って駆《か》けておいでになったところでございますから、むずかしいお顔をなすって、二、三度おみ足をお踏《ふ》み鳴らしになりながら、
「なんでかばう。その猿《さる》は柑《こう》子《じ》盗《ぬす》人《びと》だぞ」
「畜《ちく》生《しよう》でございますから、……」
娘《むすめ》はもう一度繰り返しましたが、やがて寂《さび》しそうにほほえみますと、
「それに良《よし》秀《ひで》と申しますと、父がご折《せつ》檻《かん》を受けますようで、どうもただ見てはおられませぬ」と、思い切ったように申すのでございます。これにはさすがの若殿様も、我《が》をお折りになったのでございましょう。
「そうか。父親の命ごいなら、枉《ま》げて赦《ゆる》してとらすとしよう」
不《ふ》承《しよう》無《ぶ》承《しよう》にこうおっしゃると、楚《すわえ》をそこへお捨てになって、もといらしった遣《やり》戸《ど》の方へ、そのままお帰りになってしまいました。
良《よし》秀《ひで》の娘とこの小猿との仲がよくなったのは、それからのことでございます。娘はお姫《ひめ》様《さま》からちょうだいした黄金《こがね》の鈴《すず》を、美しい真《しん》紅《く》の紐《ひも》に下げて、それを猿の頭へかけてやりますし、猿はまたどんなことがございましても、めったに娘の身のまわりを離《はな》れません。ある時娘の風《か》邪《ぜ》のここちで、床につきました時なども、小猿はちゃんとそのまくらもとにすわりこんで、気のせいか心細そうな顔をしながら、しきりに爪《つめ》をかんでおりました。
こうなるとまた妙《みよう》なもので、誰《だれ》も今までのようにこの小猿を、いじめるものはございません。いや、かえってだんだんかわいがり始めて、しまいには若《わか》殿《との》様《さま》でさえ、時々柿《かき》や栗《くり》を投げておやりになったばかりか、侍《さむらい》の誰やらがこの猿を足蹴《あしげ》にした時なぞは、たいそうご立腹にもなったそうでございます。その後大殿様がわざわざ良《よし》秀《ひで》の娘《むすめ》に猿を抱《いだ》いて、御《ご》前《ぜん》へ出るようとご沙《さ》汰《た》になったのも、この若殿様のお腹だちになった話を、お聞きになってからだとか申しました。そのついでに自然と娘の猿をかわいがるいわれもお耳にはいったのでございましょう。
「孝行な奴《やつ》じゃ。ほめてとらすぞ」
かような御《ぎよ》意《い》で、娘はその時、紅《くれない》の袙《あこめ》をごほうびにいただきました。ところがこの袙をまた見よう見まねに、猿がうやうやしくおしいただきましたので、大殿様のごきげんは、ひとしおよろしかったそうでございます。でございますから、大殿様が良秀の娘をごひいきになったのは、全くこの猿をかわいがった、孝行恩愛の情をご賞《しよう》美《び》なすったので、けっして世間でとやかく申しますように、色をお好みになったわけではございません。もっともかようなうわさの立ちました起りも、無理のないところがございますが、それはまた後《のち》になって、ゆっくりお話しいたしましょう。ここではただ大殿様が、いかに美しいにしたところで、絵師風《ふ》情《ぜい》の娘などに、想《おも》いをおかけになる方ではないということを、申し上げておけば、よろしゅうございます。
さて良秀の娘は、面目を施《ほどこ》して御《ご》前《ぜん》を下がりましたが、もとよりりこうな女でございますから、はしたないほかの女房たちのねたみを受けるようなこともございません。かえってそれ以来、猿《さる》といっしょに何かといとしがられまして、取り分けお姫様のおそばからはお離《はな》れ申したことがないと言ってもよろしいくらい、物《もの》見《み》車《ぐるま》のお供にもついぞ欠けたことはございませんでした。
が、娘のことはひとまずおきまして、これからまた親の良《よし》秀《ひで》のことを申し上げましょう。なるほど猿のほうは、かようにまもなく、皆のものにかわいがられるようになりましたが、かんじんの良秀はやはり誰《だれ》にでもきらわれて、相《あい》変《か》らず陰《かげ》へまわっては、猿秀呼《よばわ》りをされておりました。しかもそれがまた、お邸《やしき》の中ばかりではございません。現に横《よ》川《かわ*》の僧《そう》都《ず》様《さま》も、良秀と申しますと、魔《ま》障《しよう》にでもおあいになったように、顔の色を変えて、お憎《にく》み遊ばしました。(もっともこれは良秀が僧都様の御行状を戯《ざれ》画《え》に描《か》いたからだなどと申しますが、なにぶん下《しも》ざまのうわさでございますから、確かにさようとは申されますまい)とにかく、あの男の不評判は、どちらの方《かた》に伺《うかが》いましても、そういう調子ばかりでございます。もし悪く言わないものがあったといたしますと、それは二、三人の絵師仲間か、あるいはまた、あの男の絵を知っているだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございましょう。
しかし実際良秀には、見たところが卑《いや》しかったばかりでなく、もっと人にいやがられる悪い癖《くせ》があったのでございますから、それも全く自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》とでもなすよりほかに、いたしかたはございません。
その癖《くせ》と申しますのは、吝《りん》嗇《しよく》で、慳《けん》貪《どん》で、恥《はじ》知らずで、怠《なま》けもので、強《ごう》慾《よく》で――いや、その中でも取分けはなはだしいのは、おうへいで、高《こう》慢《まん》で、いつも本朝第一の画《え》師《し》と申すことを、鼻の先へぶらさげていることでございましょう。それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣《ならわし》とか慣例《しきたり》とか申すようなものまで、すべてばかにいたさずにはおかないのでございます。これは永年良《よし》秀《ひで》の弟《で》子《し》になっていた男の話でございますが、ある日さる方《かた》のお邸《やしき》で名高い檜《ひ》垣《がき》の巫《み》女《こ》に御《ご》霊《りよう》が憑《つ》いて、恐ろしいご託《たく》宣《せん》があった時も、あの男はそら耳を走らせながら、有り合せた筆と墨《すみ》とで、その巫女のものすごい顔を、ていねいに写しておったとか申しました。おおかた御霊のおたたりも、あの男の眼から見ましたなら、子供だましくらいにしか思われないのでございましょう。
さような男でございますから、吉《きつ》祥《しよう》天《てん》を描《か》く時は、卑《いや》しい傀《く》儡《ぐつ》の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無《ぶ》頼《らい》の放《ほう》免《めん》の姿を像《かたど》りましたり、いろいろのもったいないまねをいたしましたが、それでも当人をなじりますと「良秀の描いた神仏が、その良秀に冥《みよう》罰《ばつ》を当てられるとは、異《い》なことを聞くものじゃ」とそらうそぶいているではございませんか。これにはさすがの弟《で》子《し》たちもあきれ返って、中には未来の恐ろしさに、〓《そう》々《そう》暇《ひま》をとったものも、少くなかったように見うけました。――まず一口に申しましたなら、慢《まん》業《ごう》重《ちよう》畳《じよう》とでも名づけましょうか。とにかく当時天《あめ》が下で、自分ほどの偉《えら》い人間はないと思っていた男でございます。
したがって良秀がどのくらい画道でも、高く止《とま》っておりましたかは、申し上げるまでもございますまい。もっともその絵でさえ、あの男のは筆使いでも彩《さい》色《しき》でも、まるでほかの絵師とは違っておりましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、だいぶあったようでございます。その連中の申しますには、川《かわ》成《なり*》とか金《かな》岡《おか*》とか、そのほか昔の名《めい》匠《しよう》の筆になった物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜ごとににおったの、やれ屏《びよう》風《ぶ》の大《おお》宮《みや》人《びと》が、笛を吹く音《ね》さえ聞えたのと、優美なうわさが立っているものでございますが、良《よし》秀《ひで》の絵になりますと、いつでも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝わりません。たとえばあの男が竜《りゆう》蓋《がい》寺《じ*》の門へ描《か》きました、五《ご》趣《しゆ》生《しよう》死《じ》の絵にいたしましても、夜《よ》ふけて門の下を通りますと、天人のため息をつく音やすすり泣きをする声が、聞えたと申すことでございます。いや、中には死人の腐《くさ》ってゆく臭《しゆう》気《き》を、かいだと申すものさえございました。それから大《おお》殿《との》様《さま》のお言いつけで描いた、女房たちの似《にせ》絵《え》なども、その絵に写されただけの人間は、三年とたたないうちに、皆魂《たましい》の抜けたような病気になって、死んだと申すではございませんか。悪く言うものに申させますと、それが良秀の絵の邪《じや》道《どう》に落ちている、何よりの証《しよう》拠《こ》だそうでございます。
が、なにぶん前にも申し上げました通り、横《よこ》紙《がみ》破《やぶ》りな男でございますから、それがかえって良秀は大自《じ》慢《まん》で、いつぞや大殿様がご冗《じよう》談《だん》に、「そのほうはとかく醜《みにく》いものが好きとみえる」とおっしゃった時も、あの年に似《に》ず赤い脣《くちびる》でにやりと気味悪く笑いながら、「さようでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものの美しさなどと申すことは、わかろうはずがございませぬ」と、おうへいにお答え申し上げました。いかに本朝第一の絵師にもいたせ、よくも大殿様の御《ご》前《ぜん》へ出て、そのような高《こう》言《げん》が吐《は》けたものでございます。先刻引合いに出しました弟《で》子《し》が、内々師《し》匠《しよう》に「智《ち》羅《ら》永《えい》寿《じゆ》」と言う渾《あだ》名《な》をつけて、増《ぞう》長《ちよう》慢《まん》をそしっておりましたが、それも無理はございません。ご承知でもございましょうが、「智羅永寿」と申しますのは、昔震《しん》旦《たん》から渡って参りました天《てん》狗《ぐ》の名でございます。
しかしこの良《よし》秀《ひで》にさえ――このなんとも言いようのない、横《おう》道《どう》者《もの》の良秀にさえ、たった一つ人間らしい、情愛のあるところがございました。
と申しますのは、良秀が、あの一人娘《むすめ》の小《こ》女《によう》房《ぼう》をまるで気違いのようにかわいがっていたことでございます。先刻申し上げました通り、娘もいたって気のやさしい、親思いの女でございましたが、あの男の子《こ》煩《ぼん》悩《のう》は、けっしてそれにも劣《おと》りますまい。なにしろ娘の着る物とか、髪《かみ》飾《かざり》とかのことと申しますと、どこのお寺の勧《かん》進《じん》にも喜《き》捨《しや》をしたことのないあの男が、金銭にはさらに惜《お》しげもなく、整えてやるというのでございますから、うそのような気がいたすではございませんか。
が、良秀の娘をかわいがるのは、ただかわいがるだけで、やがてよい聟《むこ》をとろうなどと申すことは、夢《ゆめ》にも考えておりません。それどころか、あの娘へ悪く言い寄るものでもございましたら、かえって辻《つじ》冠《かん》者《じや》ばらでもかり集めて、暗《やみ》打《うち》くらいはくわせかねない量《りよう》見《けん》でございます。でございますから、あの娘が大《おお》殿《との》様《さま》のお声がかりで小女房に上がりました時も、老爺《おやじ》のほうは大不服で、当座の間は御《ご》前《ぜん》へ出ても、苦《にが》り切ってばかりおりました。大殿様が娘の美しいのにお心をひかされて、親の不承知なのもかまわずに、召し上げたなどと申すうわさは、おおかたかようなようすを見たものの当《あて》推《ずい》量《りよう》から出たのでございましょう。
もっともそのうわさはうそでございまして、子《こ》煩《ぼん》悩《のう》の一心から、良《よし》秀《ひで》が始終娘《むすめ》の下《さ》がるように祈《いの》っておりましたのは確かでございます。ある時大《おお》殿《との》様《さま》のお言いつけで、稚《ち》児《ご》文《もん》珠《じゆ》を描《か》きました時も、ご寵《ちよう》愛《あい》の童《わらべ》の顔を写しまして、みごとなできでございましたから、大殿様も至極ご満足で、「ほうびにも望みの物を取らせるぞ。遠《えん》慮《りよ》なく望め」というありがたいおことばが下りました。すると良秀はかしこまって、何を申すかと思いますと、
「なにとぞ私の娘をばお下げくださいますように」と臆《おく》面《めん》もなく申し上げました。ほかのお邸《やしき》ならばともかくも、堀川の大殿様のおそばに仕えているのを、いかにかわいいからと申しまして、かようにぶしつけにお暇《いとま》を願いますものが、どこの国におりましょう。これには大《だい》腹《ふく》中《ちゆう》の大殿様もいささかごきげんを損じたとみえまして、しばらくはただ黙《だま》って良秀の顔をながめておいでになりましたが、やがて、
「それはならぬ」と吐《は》き出すようにおっしゃると、急にそのままお立ちになってしまいました。かようなことが、前後四、五へんもございましたろうか。今になって考えてみますと、大殿様の良秀をご覧になる眼は、そのつどにだんだん冷《ひや》やかになっていらしったようでございます。するとまた、それにつけても、娘のほうは父親の身が案じられるせいででもございますか、曹《ぞう》司《し》へ下がっている時などは、よく袿《うちぎ》の袖《そで》をかんで、しくしく泣いておりました。そこで大殿様が良秀の娘に懸《け》想《そう》なすったなどと申すうわさが、いよいよひろがるようになったのでございましょう。中には地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》の由来も、実は娘が大殿様の御《ぎよ》意《い》に従わなかったからだなどと申すものもおりますが、もとよりさようなことがあるはずはございません。
私どもの眼から見ますと、大《おお》殿《との》様《さま》が良《よし》秀《ひで》の娘《むすめ》をお下《さ》げにならなかったのは、全く娘の身の上を哀《あわ》れに思《おぼ》し召《め》したからで、あのようにかたくなな親のそばへやるよりはお邸《やしき》に置いて、何不自由なく暮らさせてやろうというありがたいお考えだったようでございます。それはもとより気だての優しいあの娘を、ごひいきになったのはまちがいございません。が、色をお好みになったと申しますのは、おそらく牽《けん》強《きよう》附《ふ》会《かい》の説でございましょう。いや、跡《あと》方《かた》もないうそと申したほうが、よろしいくらいでございます。
それはともかくもといたしまして、かように娘のことから良秀のお覚えがだいぶ悪くなってきた時でございます。どう思し召したか、大殿様は突然良秀をお召しになって、地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描《か》くようにと、お言いつけなさいました。
地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、ありありと眼の前へ浮んでくるような気がいたします。
同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、ほかの絵師のに比べますと、第一図《ず》取《ど》りから似《に》ておりません。それは一《いち》帖《じよう》の屏風の片すみへ、小さく十王をはじめ眷《けん》属《ぞく》たちの姿を描いて、あとは一面にものすごい猛《もう》火《か》が剣《けん》山《ざん》刀《とう》樹《じゆ》もただれるかと思うほど渦《うず》を巻いておりました。でございますから、唐《から》めいた冥《みよう》官《かん》たちの衣《い》裳《しよう》が、点々と黄や藍《あい》をつづっておりますほかは、どこを見ても烈《れつ》々《れつ》とした火《か》焔《えん》の色で、その中をまるで卍《まんじ》のように、墨を飛ばした黒煙と金粉をあおった火の粉とが、舞い狂《くる》っているのでございます。
こればかりでも、ずいぶん人の目を驚《おどろ》かす筆勢でございますが、その上にまた、業《ごう》火《か》に焼かれて、転々と苦しんでおります罪人も、ほとんど一人として通例の地《じ》獄《ごく》絵にあるものはございません。なぜかと申しますと、良《よし》秀《ひで》はこの多くの罪人の中に、上《かみ》は月《げつ》卿《けい》雲《うん》客《かく》から下《しも》は乞《こ》食《じき》非《ひ》人《にん》まで、あらゆる身分の人間を写してきたからでございます。束《そく》帯《たい》のいかめしい殿《てん》上《じよう》人《びと》、五つ衣《ぎぬ》のなまめかしい青《あお》女《によう》房《ぼう》、珠《じゆ》数《ず》をかけた念仏僧、高《たか》足《あし》駄《だ》をはいた侍《さむらい》学《がく》生《しよう》、細長を着た女《め》の童《わらわ》、幣《みてぐら》をかざした陰《おん》陽《みよう》師《じ》――いちいち数え立てておりましたら、とても際限はございますまい。とにかくそういういろいろの人間が、火と煙とがさかまく中を、牛《ご》頭《ず》馬《め》頭《ず》の獄《ごく》卒《そつ》にさいなまれて、大風に吹き散らされる落葉のように、紛《ふん》々《ぷん》と四方八方へ逃《に》げ迷っているのでございます。鋼叉《さすまた》に髪《かみ》をからまれて、蜘《く》蛛《も》よりも手足を縮《ちぢ》めている女は、神巫《かんなぎ》のたぐいででもございましょうか。手《て》矛《ほこ》に胸を刺し通されて、蝙蝠《かわほり》のようにさかさまになった男は、生《なま》受《ず》領《りよう*》か何かに相《そう》違《い》ございますまい。そのほかあるいは鉄《くろがね》の笞《しもと》に打たれるもの、あるいは千《ち》曳《びき》の盤《ばん》石《じやく》に押されるもの、あるいは怪《け》鳥《ちよう》の嘴《くちばし》にかけられるもの、あるいはまた毒竜の顎《あぎと》にかまれるもの、――呵《か》責《しやく》もまた罪人の数に応じて、幾通りあるかわかりません。
が、その中でもことに一つ目だってすさまじく見えるのは、まるで獣《けもの》の牙《きば》のような刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹のこずえにも、多くの亡者が〓《るい》々《るい》と、五体を貫かれておりましたが)中《なか》空《ぞら》から落ちて来る一輛《りよう》の牛《ぎつ》車《しや》でございましょう。地獄の風に吹き上げられた、その車の簾《すだれ》の中には、女《によう》御《ご》、更《こう》衣《い》にもまごうばかり、綺《き》羅《ら》びやかに装《よそお》った女《によう》房《ぼう》が、丈《たけ》の黒髪を炎《ほのお》の中になびかせて、白い頸《うなじ》をそらせながら、もだえ苦しんでおりますが、その女房の姿と申し、また燃えしきっている牛《ぎつ》車《しや》と申し、何一つとして炎《えん》熱《ねつ》地《じ》獄《ごく》の責苦をしのばせないものはございません。いわば広い画面の恐ろしさが、この一人の人物にあつまっているとでも申しましょうか。これを見るものの耳の底には、自然とものすごい叫《きよう》喚《かん》の声が伝わって来るかと疑うほど、入《にゆう》神《しん》のできばえでございました。
ああ、これでございます、これを描《か》くために、あの恐ろしいできごとが起ったのでございます。またさもなければいかに良《よし》秀《ひで》でも、どうしてかように生《いき》々《いき》と奈《な》落《らく》の苦《く》艱《げん》が画《えが》かれましょう。あの男はこの屏《びよう》風《ぶ》の絵を仕上げた代りに、命さえも捨てるような、無《む》惨《ざん》な目に出あいました。いわばこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分でいつかおちて行く地獄だったのでございます。……
私はあの珍《めずら》しい地獄変の屏風のことを申し上げますのを急いだあまりに、あるいはお話の順序を顛《てん》倒《とう》いたしたかもしれません。が、これからまた引き続いて、大《おお》殿《との》様《さま》から地獄絵を描けと申す仰《おお》せを受けた良秀のことに移りましょう。
良秀はそれから五、六か月の間、まるでお邸《やしき》へも伺《うかが》わないで、屏風の絵にばかりかかっておりました。あれほどの子《こ》煩《ぼん》悩《のう》がいざ絵を描くという段になりますと、娘《むすめ》の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。先刻申し上げました弟《で》子《し》の話では、なんでもあの男は仕事にとりかかりますと、まるで狐《きつね》でも憑《つ》いたようになるらしゅうございます。いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の大《おお》神《がみ》に祈《き》誓《せい》をかけたからで、その証《しよう》拠《こ》にはあの男が絵を描《か》いているところを、そっと物《もの》陰《かげ》からのぞいて見ると、必ず陰《いん》々《いん》として霊《れい》狐《こ》の姿が、一《いつ》匹《ぴき》ならず前後左右に、群《むらが》っているのが見えるなどと申す者もございました。そのくらいでございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げるというよりほかは、何もかも忘れてしまうのでございましょう。昼も夜も一間に閉じこもったきりで、めったに日の目も見たことはございません。――ことに地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描いた時には、こういう夢中になり方が、はなはだしかったようでございます。
と申しますのは何もあの男が、昼も蔀《しとみ》をおろした部屋の中で、結《ゆい》灯《とう》台《だい》の火の下に、秘密の絵の具を合せたり、あるいは弟子たちを、水《すい》干《かん》やら狩《かり》衣《ぎぬ》やら、さまざまに着飾らせて、その姿を一人ずつていねいに写したり、――そういうことではございません。そのくらいの変ったことなら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、仕事にかかっている時とさえ申しますと、いつでもやりかねない男なのでございます。いや、現に竜《りゆう》蓋《がい》寺《じ》の五《ご》趣《しゆ》生《しよう》死《じ》の図を描きました時などは、あたりまえの人間なら、わざと眼をそらせて行くあの往来の死《し》骸《がい》の前へ、悠《ゆう》々《ゆう》と腰をおろして、半ば腐《くさ》れかかった顔や手足を、髪の毛一すじもたがえずに、写して参ったことがございました。では、そのはなはだしい夢中になり方とは、いったいどういうことを申すのか、さすがにおわかりにならない方もいらっしゃいましょう。それにはただいま詳《くわ》しいことは申し上げている暇《ひま》もございませんが、主《おも》な話をお耳に入れますと、だいたいまず、かような次第なのでございます。
良《よし》秀《ひで》の弟《で》子《し》の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)ある日絵の具を溶《と》いておりますと、急に師《し》匠《しよう》が参りまして、
「己《おれ》は少し午睡《ひるね》をしようと思う。が、どうもこのごろは夢見が悪い」とこう申すのでございます。別にこれは珍《めずら》しいことでもなんでもございませんから、弟子は手を休めずに、ただ、「さようでございますか」と一通りのあいさつをいたしました。ところが良秀はいつになく寂《さび》しそうな顔をして、
「ついては、己が午睡をしている間じゅう、まくらもとにすわっていてもらいたいのだが」と、遠《えん》慮《りよ》がましく頼むではございませんか。弟子はいつになく、師匠が夢なぞを気にするのは、不思議だと思いましたが、それも別に造《ぞう》作《さ》のないことでございますから、
「よろしゅうございます」と申しますと、師匠はまだ心配そうに、
「ではすぐに奥へ来てくれ。もっともあとでほかの弟子が来ても、己の睡《ねむ》っている所へは入れないように」と、ためらいながら言いつけました。奥と申しますのは、あの男が画を描《か》きます部屋で、その日も夜のように戸を立て切った中に、ぼんやりと灯《ひ》をともしながら、まだ焼《やき》筆《ふで》で図取りだけしかできていない屏《びよう》風《ぶ》が、ぐるりと立てまわしてあったそうでございます。さてここへ参りますと、良秀は肘《ひじ》をまくらにして、まるで疲《つか》れ切った人間のように、すやすや、睡《ね》入《い》ってしまいましたが、ものの半《はん》時《とき》とたちませんうちに、まくらもとにおります弟子の耳には、なんともかとも申しようのない、気味の悪い声がはいり始めました。
それが始めはただ、声でございましたが、しばらくしますと、しだいに切れ切れなことばになって、言わばおぼれかかった人間が水の中でうなるように、かようなことを申すのでございます。
「なに、己《おれ》に来いと言うのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈《な》落《らく》へ来い。炎《えん》熱《ねつ》地《じ》獄《ごく》へ来い。――誰《だれ》だ。そう言う貴様は。――貴様は誰だ。――誰だと思ったら」
弟《で》子《し》は思わず絵の具を溶《と》く手をやめて、恐る恐る師《し》匠《しよう》の顔を、のぞくようにして透《すか》して見ますと、皺《しわ》だらけな顔が白くなった上に、大《おお》粒《つぶ》な汗《あせ》をにじませながら、脣《くちびる》のかわいた、歯のまばらな口をあえぐように大きくあけております。そうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張っているかと疑うほど、目まぐるしく動くものがあると思いますと、それがあの男の舌だったと申すではございませんか。切れ切れなことばはもとより、その舌から出て来るのでございます。
「誰だと思ったら――うん、貴様だな。己も貴様だろうと思っていた。なに、迎《むか》えに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――己の娘《むすめ》が待っている」
その時、弟子の眼には、朦《もう》朧《ろう》とした異《い》形《ぎよう》の影が、屏《びよう》風《ぶ》の面《おもて》をかすめてむらむらとおりて来るように見えたほど、気味の悪い心もちがいたしたそうでございます。もちろん弟子はすぐに良《よし》秀《ひで》に手をかけて、力のあらん限り揺《ゆ》り起しましたが、師《し》匠《しよう》はなお夢《ゆめ》現《うつつ》にひとりごとを言いつづけて、容易に眼のさめる気《け》色《しき》はございません。そこで弟《で》子《し》は思い切って、かたわらにあった筆《ひつ》洗《せん》の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。
「待っているから、この車へ乗って来い――この車へ乗って、奈《な》落《らく》へ来い――」と言うことばがそれと同時に、喉《のど》をしめられるようなうめき声に変ったと思いますと、やっと良秀は眼をあいて、針で刺されたよりもあわただしく、やにわにそこへはね起きましたが、まだ夢の中の異類異《い》形《ぎよう》が、〓《まぶた》の後ろを去らないのでございましょう。しばらくはただ恐ろしそうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空《くう》を見つめておりましたが、やがて我に返ったようすで、
「もういいから、あっちへ行ってくれ」と、今度はいかにもそっけなく、言いつけるのでございます。弟子はこういう時に逆《さから》うと、いつでも大《おお》小《こ》言《ごと》を言われるので、〓《そう》々《そう》師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明るい外の日の光を見た時には、まるで自分が悪夢からさめたような、ほっとした気がいたしたとか申しておりました。
しかしこれなぞはまだよいほうなので、その後一月ばかりたってから、今度はまた別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油《あぶら》火《び》の光の中で、絵筆をかんでおりましたが、いきなり弟子の方へ向き直って、
「ご苦労だが、また裸《はだか》になってもらおうか」と申すのでございます。これはその時までにも、どうかすると師匠が言いつけたことでございますから、弟子はさっそく衣類をぬぎすてて、赤《あか》裸《はだか》になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
「わしは鎖《くさり》で縛《しば》られた人間が見たいと思うのだが、きのどくでもしばらくの間、わしのする通りになっていてはくれまいか」と、その癖《くせ》少しもきのどくらしいようすなどは見せずに、冷然とこう申しました。元来この弟《で》子《し》は画筆などを握《にぎ》るよりも、太刀《たち》でも持ったほうがよさそうな、たくましい若者でございましたが、これにはさすがに驚《おどろ》いたとみえて、あとあとまでもその時の話をいたしますと、「これは師《し》匠《しよう》が気が違って、私を殺すのではないかと思いました」と繰《く》り返して申したそうでございます。が、良《よし》秀《ひで》のほうでは相手のぐずぐずしているのが、じれったくなって参ったのでございましょう。どこから出したか、細い鉄の鎖をざらざらとたぐりながら、ほとんど飛びつくような勢いで、弟子の背中へ乗りかかりますと、いやおうなしにそのまま両腕をねじあげて、ぐるぐる巻きにいたしてしまいました。そうしてまたその鎖の端を邪《じや》慳《けん》にぐいと引きましたからたまりません。弟子の体ははずみを食って、勢いよく床《ゆか》を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまったのでございます。
その時の弟子のかっこうは、まるで酒《さか》甕《がめ》をころがしたようだとでも申しましょうか。なにしろ手も足もむごたらしく折り曲げられておりますから、動くのはただ首ばかりでございます。そこへ肥った体中の血が、鎖に循環《めぐり》を止められたので、顔と言わず胴《どう》と言わず、一面に皮《ひ》膚《ふ》の色が赤み走って参るではございませんか。が、良秀にはそれも格別気にならないとみえまして、その酒《さか》甕《がめ》のような体のまわりを、あちこちとまわってながめながら、同じような写真の図を何枚となく描《か》いておりました。その間、縛《しば》られている弟《で》子《し》の身が、どのくらい苦しかったかということは、何もわざわざ取り立てて申し上げるまでもございますまい。
が、もし何事も起らなかったといたしましたら、この苦しみはおそらくまだその上にも、つづけられたことでございましょう。幸《さいわい》(と申しますより、あるいは不幸にと申したほうがよろしいかもしれません)しばらくいたしますと、部屋のすみにある壺《つぼ》の陰《かげ》から、まるで黒い油のようなものが、一すじ細くうねりながら、流れ出して参りました。それが始めのうちはよほど粘《ねば》りけのあるもののように、ゆっくり動いておりましたが、だんだんなめらかにすべり始めて、やがてちらちら光りながら、鼻の先まで流れ着いたのをながめますと、弟子は思わず、息を引いて、
「蛇《へび》が――蛇が」とわめきました。その時は全く体中の血が一時に凍《こお》るかと思ったと申しますが、それも無理はございません。蛇は実際もう少しで、鎖《くさり》の食いこんでいる、頸《うなじ》の肉へその冷《つめた》い舌の先を触《ふ》れようとしていたのでございます。この思いもよらないできごとには、いくら横《おう》道《どう》な良《よし》秀《ひで》でも、ぎょっといたしたのでございましょう。あわてて画筆を投げすてながら、とっさに身をかがめたと思うと、すばやく蛇の尾をつかまえて、ぶらりとさかさまにつり下げました。蛇はつり下げられながらも、頭を上げて、きりきりと自分の体へ巻きつきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。
「おのれ故に、あったら一《ひと》筆《ふで》を仕損じたぞ」
良秀はいまいましそうにこうつぶやくと、蛇はそのまま部屋のすみの壺の中へほうりこんで、それからさも不《ふ》承《しよう》無《ぶ》承《しよう》に、弟《で》子《し》の体へかかっている鎖を解いてくれました。それもただ解いてくれたというだけで、かんじんの弟子のほうへは、優しいことば一つかけてはやりません。おおかた弟子が蛇《へび》にかまれるよりも、写真の一《ひと》筆《ふで》を誤ったのが、業《ごう》腹《はら》だったのでございましょう。――あとで聞きますと、この蛇もやはり姿を写すために、わざわざあの男が飼《か》っていたのだそうでございます。
これだけのことをお聞きになったのでも、良《よし》秀《ひで》の気違いじみた、薄気味の悪い夢《む》中《ちゆう》になり方が、ほぼ、おわかりになったことでございましょう。ところが最後にもう一つ、今度はまだ十三、四の弟子が、やはり地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》のおかげで、いわば命にもかかわりかねない、恐ろしい目に出あいました。その弟子は生れつき色の白い女のような男でございましたが、ある夜のこと、何気なく師《し》匠《しよう》の部屋へ呼ばれて参りますと、良秀は灯《とう》台《だい》の火の下で掌《てのひら》に何やらなまぐさい肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養っているのでございます。大きさはまず、世の常の猫《ねこ》ほどでもございましょうか。そう言えば、耳のように両方へつき出た羽毛といい、琥《こ》珀《はく》のような色をした、大きなまるい眼といい、見たところもなんとなく猫に似ておりました。
一〇
元来良秀と言う男は、なんでも自分のしていることに嘴《くちばし》を入れられるのが大きらいで、先刻申し上げた蛇などもそうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、いっさいそういうことは弟子たちにも知らせたことがございません。でございますから、ある時は机の上に髑髏《されこうべ》がのっていたり、ある時はまた、銀《しろがね》の椀《まり》や蒔《まき》絵《え》の高《たか》坏《つき》が並んでいたり、その時描《か》いている画次第で、ずいぶん思いもよらない物が出ておりました。が、ふだんはかような品を、いったいどこにしまって置くのか、それはまた誰《だれ》にもわからなかったそうでございます。あの男が福徳の大《おお》神《がみ》の冥《みよう》助《じよ》を受けているなどと申すうわさも、一つは確かにそういうことが起りになっていたのでございましょう。
そこで弟《で》子《し》は、机の上のその異様な鳥も、やはり地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描くのに入用なのに違いないと、こうひとり考えながら、師《し》匠《しよう》の前へかしこまって、「何かご用でございますか」と、うやうやしく申しますと、良《よし》秀《ひで》はまるでそれが聞えないように、あの赤い脣《くちびる》へ舌なめずりをして、「どうだ、よく馴《な》れているではないか」と、鳥の方へ頤《あご》をやります。
「これはなんと言うものでございましょう。私はついぞまだ、見たことがございませんが」
弟子はこう申しながら、この耳のある、猫《ねこ》のような鳥を、気味悪そうにじろじろながめますと、良秀は相変らずいつものあざ笑うような調子で、
「なに、見たことがない? 都育ちの人間はそれだから困る。これは二、三日前に鞍《くら》馬《ま》の猟《りよう》師《し》がわしにくれた耳《みみ》木《ず》兎《く》と言う鳥だ。ただ、こんなに馴れているのは、たくさんあるまい」
こう言いながらあの男は、おもむろに手をあげて、ちょうど餌《えさ》を食べてしまった耳木兎の背中の毛を、そっと下からなで上げました。するとそのとたんでございます。鳥は急に鋭い声で、短く一《ひと》声《こえ》啼《な》いたと思うと、たちまち机の上から飛び上がって、両脚の爪《つめ》を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかかりました。もしその時、弟子が袖《そで》をかざして、あわてて顔を隠《かく》さなかったら、きっともう疵《きず》の一つや二つは負わされておりましたろう。あっと言いながら、その袖《そで》を振って、逐《お》い払おうとするところを、耳《みみ》木《ず》兎《く》は蓋《かさ》にかかって、嘴《くちばし》を鳴らしながら、また一突き――弟《で》子《し》は師《し》匠《しよう》の前も忘れて、立っては防ぎ、すわっては逐《お》い、思わず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃《に》げ惑《まど》いました。怪《け》鳥《ちよう》ももとよりそれにつれて、高く低く翔《かけ》りながら、すきさえあればまっしぐらに眼を目がけて飛んで来ます。そのたびにばさばさと、すさまじく翼《つばさ》を鳴らすのが、落葉のにおいだか、滝《たき》のしぶきだか、あるいはまた猿《さる》酒《ざけ》のすえたいきれだか、何やら怪《あや》しげなもののけはいを誘《さそ》って、気味の悪さと言ったらございません。そういえばその弟子も、うす暗い油火の光さえおぼろげな月明りかと思われて、師匠の部屋がそのまま遠い山奥の、妖《よう》気《き》に閉された谷のような、心細い気がしたとか申したそうでございます。
しかし弟子が恐ろしかったのは、何も耳木兎に襲《おそ》われるという、そのことばかりではございません。いや、それよりもいっそう身の毛がよだったのは、師匠の良《よし》秀《ひで》がその騒《さわ》ぎを冷然とながめながら、おもむろに紙を展《の》べ筆をねぶって、女のような少年が異《い》形《ぎよう》な鳥にさいなまれる、ものすごいありさまを写していたことでございます。弟子は一目それを見ますと、たちまち言いようのない恐ろしさに脅《おびや》かされて、実際一時は師匠のために、殺されるのではないかとさえ、思ったと申しておりました。
一一
実際師匠に殺されるということも、全くないとは申されません。現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさえ、実は耳《みみ》木《ず》兎《く》をけしかけて、弟《で》子《し》の逃げまわるありさまを写そうという魂《こん》胆《たん》らしかったのでございます。でございますから、弟子は、師《し》匠《しよう》のようすを一目見るが早いか、思わず両《りよう》袖《そで》に頭を隠《かく》しながら、自分にもなんと言ったかわからないような悲鳴をあげて、そのまま部屋のすみの遣《やり》戸《ど》の裾《すそ》へ、居ずくまってしまいました。とその拍《ひよう》子《し》に、良《よし》秀《ひで》も何やらあわてたような声をあげて、立ち上がった気《け》色《しき》でございましたが、たちまち耳木兎の羽音がいっそう前よりもはげしくなって、物の倒れる音や破れる音が、けたたましく聞えるではございませんか。これには弟子も二度、度を失って、思わず隠《かく》していた頭を上げて見ますと、部屋の中はいつかまっ暗になっていて、師匠の弟子たちを呼び立てる声が、その中でいらだたしそうにしております。
やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯《ひ》をかざしながら、急いでやって参りましたが、そのすす臭《くさ》い明りでながめますと、結《ゆい》灯《とう》台《だい》が倒れたので、床《ゆか》も畳《たたみ》も一面に油だらけになった所へ、さっきの耳木兎が片方の翼《つばさ》ばかり苦しそうにはためかしながら、ころげまわっているのでございます。良秀は机《つくえ》の向うで半ば体を起したまま、さすがにあっけにとられたような顔をして、何やら人にはわからないことを、ぶつぶつつぶやいておりました。――それも無理ではございません。あの耳木兎の体には、まっ黒な蛇《へび》が一《いつ》匹《ぴき》、頸《くび》から片方の翼《つばさ》へかけて、きりきりとまきついているのでございます。おおかたこれは弟子が居ずくまる拍《ひよう》子《し》に、そこにあった壺《つぼ》をひっくり返して、その中の蛇がはい出したのを、耳木兎がなまじいにつかみかかろうとしたばかりに、とうとうこういう大騒ぎが始まったのでございましょう。二人の弟子は互《たがい》に眼と眼とを見合せて、しばらくはただ、この不思議な光景をぼんやりながめておりましたが、やがて師《し》匠《しよう》に黙《もく》礼《れい》をして、こそこそ部屋へ引き下がってしまいました。蛇《へび》と耳《みみ》木《ず》兎《く》とがその後《ご》どうなったか、それは誰《だれ》も知っているものはございません。――
こういうたぐいのことは、そのほかまだ、幾つとなくございました。前には申し落しましたが、地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描《か》けというご沙《さ》汰《た》があったのは、秋の初めでございますから、それ以来冬の末まで、良《よし》秀《ひで》の弟《で》子《し》たちは、絶えず師匠の怪《あや》しげなふるまいに脅《おびや》かされていたわけでございます。が、その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならないことができたのでございましょう。それまでよりはいっそうようすも陰気になり、物言いも目に見えて、荒々しくなって参りました。と同時にまた屏風の画も、下《した》画《え》が八分通りでき上がったまま、さらにはかどる模様はございません。いや、どうかすると今までに描《か》いた所さえ、塗《ぬ》り消してもしまいかねない気《け》色《しき》なのでございます。
そのくせ、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。また誰もわかろうとしたものもございますまい。前のいろいろなできごとに懲《こ》りている弟子たちは、まるで虎《とら》狼《おおかみ》と一つ檻《おり》にでもいるような心もちで、その後師匠の身のまわりへは、なるべく近づかない算段をしておりましたから。
一二
したがってその間のことについては、別に取り立てて申し上げるほどのお話もございません。もししいて申し上げるといたしましたら、それはあの強《ごう》情《じよう》な老爺《おやじ》が、なぜか妙《みよう》に涙もろくなって、人のいない所では時々ひとりで泣いていたというお話くらいなものでございましょう。ことにある日、何かの用で弟《で》子《し》の一人が、庭先へ参りました時なぞは、廊《ろう》下《か》に立ってぼんやり春の近い空をながめている師《し》匠《しよう》の眼が、涙でいっぱいになっていたそうでございます。弟子はそれを見ますと、かえってこちらが恥《はずか》しいような気がしたので、黙《だま》ってこそこそ引き返したと申すことでございますが、五《ご》趣《しゆ》生《しよう》死《じ》の図を描《か》くためには、道ばたの死《し》骸《がい》さえ写したという、傲《ごう》慢《まん》なあの男が屏《びよう》風《ぶ》の画が思うように描けないくらいのことで、子供らしく泣き出すなどと申すのはずいぶん異《い》なものでございませんか。
ところが一方良《よし》秀《ひで》がこのように、まるで正気の人間とは思われないほど夢中になって、屏風の絵を描いておりますうちに、また一方ではあの娘《むすめ》が、なぜかだんだん気《き》鬱《うつ》になって、私どもにさえ涙をこらえているようすが、眼に立って参りました。それが元来愁《うれい》顔《がお》の、色の白い、つつましやかな女だけに、こうなるとなんだか睫《まつ》毛《げ》が重くなって、眼のまわりに隈《くま》がかかったような、よけい寂《さび》しい気がいたすのでございます。始めはやれ父思いのせいだの、やれ恋《こい》煩《わずら》いをしているからだの、いろいろ臆《おく》測《そく》をいたしたものでございますが、中ごろから、なにあれは大《おお》殿《との》様《さま》が御《ぎよ》意《い》に従わせようとしていらっしゃるのだという評判が立ち始めて、それからは誰《だれ》も忘れたように、ぱったりあの娘のうわさをしなくなってしまいました。
ちょうどそのころのことでございましょう。ある夜、更《こう》が闌《た》けてから、私がひとりお廊下を通りかかりますと、あの猿《さる》の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、私の袴《はかま》の裾《すそ》をしきりにひっぱるのでございます。たしか、もう梅のにおいでもいたしそうな、うすい月の光のさしている、暖い夜でございましたが、その明りですかして見ますと、猿《さる》はまっ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺《しわ》をよせて、気が違わないばかりにけたたましく啼《な》き立てているではございませんか。私は気味の悪いのが三分と、新しい袴《はかま》をひっぱられる腹だたしさが七分とで、最初は猿を蹴《け》放《はな》して、そのまま通りすぎようかとも思いましたが、また思い返してみますと、前にこの猿を折《せつ》檻《かん》して、若《わか》殿《との》様《さま》のご不《ふ》興《きよう》を受けた侍の例もございます。それに猿のふるまいが、どうもただごととは思われません。そこでとうとう私も思い切って、そのひっぱる方へ五、六間歩くともなく歩いて参りました。
するとお廊《ろう》下《か》が一曲り曲って、夜目にもうす白いお池の水が枝ぶりのやさしい松の向うにひろびろと見渡せる、ちょうどそこまで参った時のことでございます。どこか近くの部屋の中で人の争っているらしいけはいが、あわただしく、また妙《みよう》にひっそりと私の耳を脅《おびやか》しました。あたりはどこも森《しん》と静まり返って、月明りとも靄《もや》ともつかないものの中で、魚の跳《おど》る音がするほかは、話し声一つ聞えません。そこへこの物音でございますから、私は思わず立ち止って、もし狼《ろう》藉《ぜき》者《もの》ででもあったなら、目にもの見せてくれようと、そっとその遣《やり》戸《ど》の外へ、息をひそめながら身をよせました。
一三
ところが猿は私のやり方がまだるかったのでございましょう。良《よし》秀《ひで》はさもさももどかしそうに、二、三度私の足のまわりをかけまわったと思いますと、まるで咽《のど》をしめられたような声で啼《な》きながら、いきなり私の肩《かた》のあたりへ一足飛びに飛び上がりました。私は思わず頸《くび》をそらせて、その爪《つめ》にかけられまいとする、猿《さる》はまた水《すい》干《かん》の袖《そで》にかじりついて、私の体からすべり落ちまいとする、――その拍《ひよう》子《し》に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、その遣《やり》戸《ど》へ後ろざまに、したたか私の体を打ちつけました。こうなっては、もう一刻も躊《ちゆう》躇《ちよ》している場合ではございません。私はやにわに遣戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へおどりこもうといたしました。が、その時私の眼をさえぎったものは――いや、それよりももっと私は、同時にその部屋の中から、はじかれたようにかけ出そうとした女のほうに驚《おどろ》かされました。女は出あいがしらに危く私につき当ろうとして、そのまま外へころび出ましたが、なぜかそこへ膝《ひざ》をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るように、おののきおののき見上げているのでございます。
それが良《よし》秀《ひで》の娘《むすめ》だったことは、何もわざわざ申し上げるまでもございますまい。が、その晩のあの女は、まるで人間が違ったように、生《いき》々《いき》と私の眼に映《うつ》りました。眼は大きく輝《かがや》いております。頬《ほお》も赤く燃えておりましたろう。そこへしどけなく乱れた袴《はかま》や袿《うちぎ》が、いつもの幼さとは打って変ったなまめかしささえも添《そ》えております。これが実際あの弱々しい、何事にも控《ひか》え目がちな良秀の娘でございましょうか。――私は遣戸に身をささえて、この月明りの中にいる美しい娘の姿をながめながら、あわただしく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるもののように指さして、誰《だれ》ですと静かに眼で尋《たず》ねました。
すると娘は脣《くちびる》をかみながら、黙《だま》って首をふりました。そのようすがいかにもまたくやしそうなのでございます。
そこで私は身をかがめながら、娘の耳へ口をつけるようにして、今度は「誰《だれ》です」と小声で尋《たず》ねました。が、娘はやはり首を振ったばかりで、なんとも返事をいたしません。いや、それと同時に長い睫《まつ》毛《げ》の先へ、涙をいっぱいためながら、前よりもかたく脣をかみしめているのでございます。
性《しよう》得《とく》愚《おろ》かな私には、わかりすぎているほどわかっていることのほかは、あいにく何一つのみこめません。でございますから、私はことばのかけようも知らないで、しばらくはただ、娘の胸の動《どう》悸《き》に耳を澄《す》ませるような心もちで、じっとそこに立ちすくんでおりました。もっともこれは一つには、なぜかこの上問い訊《ただ》すのが悪いような、気とがめがいたしたからでもございます。――
それがどのくらい続いたか、わかりません。が、やがて開け放した遣《やり》戸《ど》を閉《とざ》しながら、少しは上《じよう》気《き》のさめたらしい娘の方を見返って、「もう曹《ぞう》司《し》へお帰りなさい」とできるだけやさしく申しました。そうして私も、自分ながら、何か見てはならないものを見たような、不安な心もちに脅《おびやか》されて、誰にともなく恥《はずか》しい思いをしながら、そっと元《もと》来《き》た方へ歩き出しました。ところが十歩と歩かないうちに、誰かまた私の袴《はかま》の裾《すそ》を、後ろから恐る恐る、引き止めるではございませんか。私は驚《おどろ》いて、ふり向きました。あなた方はそれがなんだったと思《おぼ》し召《め》します?
見るとそれは私の足もとにあの猿《さる》の良《よし》秀《ひで》が、人間のように両手をついて、黄金《こがね》の鈴《すず》を鳴らしながら、何度となくていねいに頭を下げているのでございました。
一四
するとその晩のできごとがあってから、半月ばかり後《のち》のことでございます。ある日良《よし》秀《ひで》は突然お邸《やしき》へ参りまして、大《おお》殿《との》様《さま》へ直《じき》のお眼通りを願いました。卑《いや》しい身分のものでございますが、日ごろから格段御《ぎよ》意《い》に入っていたからでございましょう。誰《だれ》にでも容易にお会いになったことのない大殿様が、その日も快くご承知になって、さっそく御《ご》前《ぜん》近くへお召しになりました。あの男は例の通り香《こう》染《ぞ》めの狩《かり》衣《ぎぬ》になえた烏《え》帽《ぼ》子《し》をいただいて、いつもよりはいっそう気むずかしそうな顔をしながら、うやうやしく御前へ平伏いたしましたが、やがてしわがれた声で申しますには、
「かねがねお言いつけになりました地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》でございますが、私も日夜に丹《たん》誠《せい》をぬきんでて、筆を執《と》りました甲《か》斐《い》が見えまして、もはやあらましはでき上がったのも同前でございまする」
「それはめでたい。予も満足じゃ」
しかしこうおっしゃる大殿様のお声には、なぜか妙《みよう》に力のない、張《はり》合《あい》のぬけたところがございました。
「いえ、それがいっこうめでたくはござりませぬ」良秀は、やや腹だたしそうなようすでじっと眼を伏せながら、
「あらましはでき上がりましたが、ただ一つ、今もって私には描《か》けぬ所がございまする」
「なに、描けぬ所がある?」
「さようでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得《とく》心《しん》が参りませぬ。それでは描けぬも同じことでございませぬか」
これをお聞きになると、大《おお》殿《との》様《さま》のお顔には、あざけるようなご微《び》笑《しよう》が浮びました。
「では地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》を描こうとすれば、地獄を見なければなるまいな」
「さようでござりまする。が、私は先年大火事がございました時に、炎《えん》熱《ねつ》地獄の猛《もう》火《か》にもまがう火の手を、まのあたりにながめました。『よじり不動』の火《か》焔《えん》を描きましたのも、実はあの火事にあったからでございまする。御《ご》前《ぜん》もあの絵はご承知でございましょう」
「しかし罪人はどうじゃ。獄《ごく》卒《そつ》は見たことがあるまいな」大殿様はまるで良《よし》秀《ひで》の申すことがお耳にはいらなかったようなごようすで、こうたたみかけてお尋《たず》ねになりました。
「私は鉄《くろがね》の鎖《くさり》に縛《しば》られたものを見たことがございまする。怪《け》鳥《ちよう》に悩まされるものの姿も、つぶさに写しとりました。されば罪人の呵《か》責《しやく》に苦しむ様《さま》も知らぬと申されませぬ。また獄卒は――」と言って、良秀は気味の悪い苦笑をもらしながら、「また獄卒は、夢《ゆめ》現《うつつ》に何度となく、私の眼に映りました。あるいは牛《ご》頭《ず》、あるいは馬《め》頭《ず》、あるいは三《さん》面《めん》六《ろつ》臂《ぴ》の鬼の形が、音のせぬ手をたたき、声の出ぬ口を開いて、私をさいなみに参りますのは、ほとんど毎日毎夜のことと申してもよろしゅうございましょう。――私の描こうとして描けぬのは、そのようなものではございませぬ」
それには大《おお》殿《との》様《さま》も、さすがにお驚《おどろ》きになったのでございましょう。しばらくはただいらだたしそうに、良《よし》秀《ひで》の顔をにらめておいでになりましたが、やがて眉《まゆ》を険《けわ》しくお動かしになりながら、
「では何が描《か》けぬと申すのじゃ」と打《うつ》捨《ちや》るようにおっしゃいました。
一五
「私は屏風のただ中に、檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車《*》が一輛《りよう》、空から落ちて来るところを描こうと思っておりまする」良秀はこう言って、はじめて鋭く大殿様のお顔をながめました。あの男は画のことというと、気違い同様になるとは聞いておりましたが、その時の眼くばりには確《たし》かにさような恐ろしさがあったようでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな上《じよう》臈《ろう》が、猛火の中に黒《くろ》髪《かみ》を乱しながら、もだえ苦しんでいるのでございまする。顔は煙にむせびながら、眉をひそめて、空ざまに車蓋《やかた》を仰いでおりましょう。手は下《した》簾《すだれ》を引きちぎって、降りかかる火の粉の雨を防ごうとしているかもしれませぬ。そうしてそのまわりには、怪しげな鷙《し》鳥《ちよう》が十羽となく、二十羽となく、嘴《くちばし》を鳴らして紛《ふん》々《ぷん》と飛びめぐっているのでございまする。――ああ、それが、牛《ぎつ》車《しや》の中の上《じよう》臈《ろう》が、どうしても私には描けませぬ」
「そうして――どうじゃ」
大殿様はどういうわけか、妙《みよう》によろこばしそうな御《み》気《け》色《しき》で、こう良秀をお促《うなが》しになりました。が、良秀は例の赤い脣《くちびる》を熱でも出た時のように震《ふる》わせながら、夢を見ているのかと思う調子で、
「それが私には描けませぬ」と、もう一度繰り返しましたが、突然かみつくような勢いになって、
「どうか檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車を一輛《りよう》、私の見ている前で、火をかけていただきとうございまする。そうしてもしできますならば――」
大殿様はお顔を暗くなすったと思うと、突然けたたましくお笑いになりました。そうしてそのお笑い声に息をつまらせながら、おっしゃいますには、
「おお、万事そのほうが申す通りにいたして遣《つか》わそう。できるできぬの詮《せん》議《ぎ》は無《む》益《やく》の沙《さ》汰《た》じゃ」
私はそのおことばを伺《うかが》いますと、虫の知らせか、なんとなくすさまじい気がいたしました。実際また大殿様のごようすも、お口の端《はし》には白く泡《あわ》がたまっておりますし、御《おん》眉《まゆ》のあたりにはびくびくと電《いなずま》が起っておりますし、まるで良秀のもの狂いにお染《そ》みなすったのかと思うほど、ただならなかったのでございます。それがちょいとことばをお切りになると、すぐまた何かがはぜたような勢いで、とめどなく喉《のど》を鳴らしてお笑いになりながら、
「檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車にも火をかけよう。またその中にはあでやかな女を一人、上《じよう》臈《ろう》の装《よそおい》をさせて乗せて遣わそう。炎《ほのお》と黒煙とに攻《せ》められて、車の中の女が、もだえ死をする――それを描こうと思いついたのは、さすがに天下第一の絵師じゃ。ほめてとらす。おお、ほめてとらすぞ」
大殿様のおことばを聞きますと、良秀は急に色を失ってあえぐようにただ、脣ばかり動かしておりましたが、やがて体中の筋がゆるんだように、べたりと畳《たたみ》へ両手をつくと、
「ありがたいしあわせでございまする」と、聞えるか聞えないかわからないほど低い声で、ていねいにお礼を申し上げました。これはおおかた自分の考えていたもくろみの恐ろしさが、大《おお》殿《との》様《さま》のおことばにつれてありありと目の前へ浮んできたからでございましょうか。私は一生のうちにただ一度、この時だけは良《よし》秀《ひで》が、きのどくな人間に思われました。
一六
それから二、三日した夜《よる》のことでございます。大殿様はお約《やく》束《そく》通り、良秀をお召しになって、檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車の焼けるところを、目《ま》近《ぢか》く見せておやりになりました。もっともこれは堀川のお邸《やしき》であったことではございません。俗に雪《ゆき》解《げ》の御《ご》所《しよ》と言う、昔大殿様の妹君がいらしった洛《らく》外《がい》の山荘で、お焼きになったのでございます。
この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたにもお住いにならなかった所で、広いお庭も荒れほうだい荒れ果てておりましたが、おおかた人《ひと》気《け》のないごようすを拝見した者の当《あて》推《ずい》量《りよう》でございましょう。ここでお歿《な》くなりになった妹君のお身の上にも、とかくのうわさが立ちまして、中にはまた月のない夜ごと夜ごとに、今でも怪しい御《おん》袴《はかま》の緋《ひ》の色が、地にもつかずお廊《ろう》下《か》を歩むなどという取《とり》沙《ざ》汰《た》をいたすものもございました。――それも無理ではございません。昼でさえ寂《さび》しいこの御所は、一度日が暮《く》れたとなりますと、遣《やり》水《みず》の音がひときわ陰に響《ひび》いて、星明りに飛ぶ五《ご》位《い》鷺《さぎ》も、怪《け》形《ぎよう》の物かと思うほど、気味が悪いのでございますから。
ちょうどその夜はやはり月のない、まっ暗な晩でございましたが、大《おお》殿《との》油《あぶら》の灯《ほ》影《かげ》でながめますと、縁《えん》に近く座をお占めになった大殿様は、浅《あさ》黄《ぎ》の直衣《のうし》に濃い紫《むらさき》の浮《うき》紋《もん》の指《さし》貫《ぬき》をお召しになって、白地の錦《にしき》の縁《ふち》をとった円座《わろうだ》に、高々とあぐらを組んでいらっしゃいました。その前後左右におそばの者どもが五、六人、うやうやしく居並んでおりましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。が、中に一人、めだってことありげに見えたのは、先年陸奥《みちのく》の戦いに餓《う》えて人の肉を食って以来、鹿《しか》の生《いき》角《づの》さえ裂《さ》くようになったという強《ごう》力《りき》の侍《さむらい》が、下に腹巻を着こんだようすで、太刀《たち》を鴎《かもめ》尻《じり》に佩《は》きそらせながら、ご縁《えん》の下にいかめしくつくばっていたことでございます。――それが皆、夜風になびく灯《ひ》の光で、あるいは明るくあるいは暗く、ほとんど夢《ゆめ》現《うつつ》を分たない気《け》色《しき》で、なぜかものすごく見え渡っておりました。
その上にまた、お庭に引き据《す》えた檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車が、高い車蓋《やかた》にのっしりと暗《やみ》をおさえて、牛はつけず黒い轅《ながえ》を斜《ななめ》に榻《しじ》へかけながら、金物の黄金《こがね》を星のように、ちらちら光らせているのをながめますと、春とはいうもののなんとなく肌寒い気がいたします。もっともその車の内は、浮《ふ》線《せん》綾《りよう》の縁をとった青《あお》簾《すだれ》が、重く封《ふう》じこめておりますから、〓《はこ》には何がはいっているかわかりません。そうしてそのまわりには仕《じ》丁《ちよう》たちが、手ん手に燃えさかる松明《まつ》を執《と》って、煙がご縁の方へなびくのを気にしながら、仔《し》細《さい》らしく控《ひか》えております。
当の良《よし》秀《ひで》はやや離れて、ちょうどご縁の真《ま》向《むかい》に、ひざまずいておりましたが、これはいつもの香《こう》染《ぞめ》らしい狩《かり》衣《ぎぬ》になえた揉《もみ》烏《え》帽《ぼ》子《し》をいただいて、星空の重みに圧《お》されたかと思うくらい、いつもよりはなお小さく、見すぼらしげに見えました。その後ろにまた一人同じような烏《え》帽《ぼ》子《し》狩《かり》衣《ぎぬ》のうずくまったのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございましょうか。それがちょうど二人とも、遠いうす暗がりの中にうずくまっておりますので、私のいたご縁《えん》の下からは、狩衣の色さえ定かにはわかりません。
一七
時刻はかれこれ真夜中にも近かったでございましょう。林泉をつつんだ暗《やみ》がひっそりと声をのんで、一同のする息をうかがっていると思う中には、ただかすかな夜風の渡る音がして、松明《まつ》の煙がそのたびにすす臭《くさ》いにおいを送って参ります。大《おお》殿《との》様《さま》はしばらく黙《だま》って、この不思議な景色をじっとながめていらっしゃいましたが、やがて膝《ひざ》をお進めになりますと、
「良秀」と、鋭くお呼びかけになりました。
良秀は何やらご返事をいたしたようでございますが、私の耳にはただ、うなるような声しか聞えて参りません。
「良秀。今《こ》宵《よい》はそのほうの望み通り、車に火をかけて見せて遣《つか》わそう」
大殿様はこうおっしゃって、おそばの者たちの方を流し眄《め》にご覧になりました。その時何か大殿様とおそばの誰《だれ》彼《かれ》との間には、意味ありげな微笑がかわされたようにも見うけましたが、これはあるいは私の気のせいかもわかりません。すると良秀はおそるおそる頭《かしら》をあげてご縁の上を仰《あお》いだらしゅうございますが、やはり何も申し上げずに控《ひか》えております。
「よう見い。それは予が日ごろ乗る車じゃ。そのほうも覚えがあろう。予は――その車にこれから火をかけて、まのあたりに炎《えん》熱《ねつ》地《じ》獄《ごく》を現《げん》ぜさせるつもりじゃが」
大《おお》殿《との》様《さま》はまたことばをおやめになって、おそばの者たちにめくばせをなさいました。それから急に苦《にが》々《にが》しいご調子で、
「その中には罪人の女《によう》房《ぼう》が一人、縛《いまし》めたまま乗せてある。されば車に火をかけたら、必《ひつ》定《じよう》その女めは肉を焼き骨を焦《こが》して、四苦八苦の最《さい》期《ご》を遂《と》げるであろう。そのほうが屏《びよう》風《ぶ》を仕上げるには、またとない手本じゃ。雪のような肌《はだ》が燃えただれるのを見のがすな。黒《くろ》髪《かみ》が火の粉になって、舞《ま》い上がるさまもよう見ておけ」
大殿様は三度口をおつぐみになりましたが、何をお思いになったのか、今度はただ肩をゆすって、声もたてずにお笑いなさりながら、
「末代までもない観《み》物《もの》じゃ。予もここで見物しよう。それそれ、簾《すだれ》を揚《あ》げて、良《よし》秀《ひで》に中の女を見せて遣《つかわ》さぬか」
仰《おお》せを聞くと仕《じ》丁《ちよう》の一人は、片手に松明《まつ》の火を高くかざしながら、つかつかと車に近づくと、やにわに片手をさし伸ばして、簾《すだれ》をさらりと揚げて見せました。けたたましく音を立てて燃える松明《まつ》の光は、ひとしきり赤くゆらぎながら、たちまち狭い〓《はこ》の中をあざやかに照し出しましたが、〓《とこ》の上にむごたらしく、鎖《くさり》にかけられた女房は――ああ、誰か見違えをいたしましょう。きらびやかな繍《ぬい》のある桜の唐《から》衣《ぎぬ》にすべらかしの黒《くろ》髪《かみ》があでやかにたれて、うちかたむいた黄金《こがね》の釵《さい》子《し*》も美しく輝《かがや》いて見えましたが、身なりこそ違え、小《こ》造《づく》りな体つきは、猿《さる》轡《ぐつわ》のかかった頸《うなじ》のあたりは、そうしてあの寂《さび》しいくらいつつましやかな横顔は、良秀の娘《むすめ》に相違ございません。私は危く叫《さけ》び声を立てようといたしました。
その時でございます。私と向いあっていた侍《さむらい》はあわただしく身を起して、柄《つか》頭《がしら》を片手におさえながら、きっと良《よし》秀《ひで》の方をにらみました。それに驚《おどろ》いてながめますと、あの男はこの景《け》色《しき》に、半ば正気を失ったのでございましょう。今まで下にうずくまっていたのが、急に飛び立ったと思いますと、両手を前へ伸《の》ばしたまま、車の方へ思わず知らず走りかかろうといたしました。ただあいにく前にも申しました通り、遠い影の中におりますので、顔《かお》貌《かたち》ははっきりとわかりません。しかしそう思ったのはほんの一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》で、色を失った良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が宙へつりあげたような良秀の姿は、たちまちうす暗がりを切り抜いてありありと眼前へ浮び上がりました。娘《むすめ》を乗せた檳《び》榔《ろう》毛《げ》の車が、この時、「火をかけい」と言う大《おお》殿《との》様《さま》のおことばとともに、仕《じ》丁《ちよう》たちが投げる松明《まつ》の火を浴びて炎《えん》々《えん》と燃え上がったのでございます。
一八
火は見る見るうちに、車蓋《やかた》をつつみました。庇《ひさし》についた紫《むらさき》の流蘇《ふさ》が、あおられたようにさっとなびくと、その下から濛《もう》々《もう》と夜目にも白い煙が渦《うず》を巻いて、あるいは簾《すだれ》、あるいは袖《そで》、あるいは棟《むね》の金物が、一時に砕《くだ》けて飛んだかと思うほど、火の粉が雨のように舞《ま》い上がる――そのすさまじさと言ったらございません。いや、それよりもめらめらと舌を吐《は》いて袖《そで》格《ごう》子《し》にからみながら、半《なか》空《ぞら》までも立ちのぼる烈《れつ》々《れつ》とした炎《ほのお》の色は、まるで日輪が地に落ちて、天火がほとばしったようだとでも申しましょうか。前に危く叫《さけ》ぼうとした私も、今は全く魂《たましい》を消して、ただ茫《ぼう》然《ぜん》と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るよりほかはございませんでした。しかし親の良《よし》秀《ひで》は――
良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。思わず知らず車の方へ駆《か》け寄ろうとしたあの男は、火が燃え上がると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸《の》ばしたまま、食い入るばかりの眼つきをして、車をつつむ焔《えん》煙《えん》を吸いつけられたようにながめておりましたが、満身に浴びた火の光で、皺《しわ》だらけな醜《みにく》い顔は、髭《ひげ》の先までもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中と言い、引きゆがめた脣《くちびる》のあたりと言い、あるいはまた絶えず引きつっている頬《ほお》の肉の震《ふる》えと言い、良秀の心にこもごも往来する恐れと悲しみと驚《おどろ》きとは、歴々と顔に描《か》かれました。首をはねられる前の盗人でも、ないしは十王の庁へ引き出された、十《じゆう》逆《ぎやく》五《ご》悪《あく》の罪人でも、ああまで苦しそうな顔はいたしますまい。これにはさすがにあの強《ごう》力《りき》の侍《さむらい》でさえ、思わず色を変えて、おそるおそる大《おお》殿《との》様《さま》のお顔を仰《あお》ぎました。
が、大殿様はかたく脣をおかみになりながら、時々気味悪くお笑いになって、眼も放さずじっと車の方をお見つめになっていらっしゃいます。そうしてその車の中には――ああ、私はその時、その車にどんな娘《むすめ》の姿をながめたか、それを詳《くわ》しく申し上げる勇気は、とうていあろうとも思われません。あの煙《けむり》にむせんであおむけた顔の白さ、焔《ほのお》をはらってふり乱れた髪《かみ》の長さ、それからまた見る間に火と変っていく、桜の唐《から》衣《ぎぬ》の美しさ、――なんというむごたらしい景色でございましたろう。ことに夜風が一おろしして、煙が向うへなびいた時、赤い上に金粉をまいたような、焔の中から浮き上がって、猿《さる》轡《ぐつわ》をかみながら、縛《いましめ》の鎖《くさり》も切れるばかりに身もだえをしたありさまは、地《じ》獄《ごく》の業《ごう》苦《く》をまのあたりへ写し出したかと疑われて、私はじめ強《ごう》力《りき》の侍《さむらい》までおのずと身の毛がよだちました。
するとその夜風がまた一渡り、お庭の木々のこずえにさっと通う――と誰《だれ》でも、思いましたろう。そういう音が暗い空を、どことも知らず走ったと思うと、たちまち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠《まり》のように躍《おど》りながら、御《ご》所《しよ》の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびました。そうして朱《しゆ》塗《ぬり》のような袖《そで》格《ごう》子《し》が、ばらばらと焼け落ちる中に、のけぞった娘《むすめ》の肩を抱《いだ》いて、帛《きぬ》を裂《さ》くような鋭い声を、なんとも言えず苦しそうに、長く煙の外へ飛ばせました。続いてまた、二声三声――私たちは我知らず、あっと同音に叫《さけ》びました。壁《かべ》代《しろ》のような焔《ほのお》を後ろにして、娘の肩にすがっているのは、堀川のお邸《やしき》につないであった、あの良《よし》秀《ひで》と諢《あだ》名《な》のある、猿《さる》だったのでございますから。
一九
が、猿の姿が見えたのは、ほんの一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》でございました。金《きん》梨《な》子《し》地《じ*》のような火の粉がひとしきり、ぱっと空へ上ったかと思ううちに、猿はもとより娘の姿も、黒《くろ》煙《けむり》の底に隠《かく》されて、お庭のまん中にはただ、一輛《りよう》の火の車がすさまじい音を立てながら、燃えたぎっているばかりでございます。いや、火の車と言うよりも、あるいは火の柱と言ったほうが、あの星空を衝《つ》いて煮《に》え返る、恐ろしい火《か》焔《えん》のありさまにはふさわしいかもしれません。
その火の柱を前にして、凝《こ》り固まったように立っている良秀は、――なんという不思議なことでございましょう。あのさっきまで地《じ》獄《ごく》の責苦に悩んでいたような良《よし》秀《ひで》は、今は言いようのない輝《かがや》きを、さながら恍《こう》惚《こつ》とした法《ほう》悦《えつ》の輝きを、皺《しわ》だらけな満面に浮べながら、大《おお》殿《との》様《さま》の御《ご》前《ぜん》も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、たたずんでいるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘《むすめ》のもだえ死ぬありさまが映っていないようなのでございます。ただ美しい火《か》焔《えん》の色と、その中に苦しむ女《によ》人《にん》の姿とが、限りなく心をよろこばせる――そういう景《け》色《しき》に見えました。
しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断《だん》末《まつ》魔《ま》をうれしそうにながめていた、そればかりではございません。その時の良秀には、なぜか人間とは思われない、夢《ゆめ》に見る獅《し》子《し》王《おう》の怒《いか》りに似《に》た怪《あや》しげなおごそかさがございました。でございますから不意の火の手に驚《おどろ》いて、啼《な》き騒《さわ》ぎながら飛びまわる数の知れない夜《よ》鳥《どり》でさえ、気のせいか良秀の揉《もみ》烏《え》帽《ぼ》子《し》のまわりへは、近づかなかったようでございます。おそらくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭《かしら》の上に、円光のごとくかかっている、不思議な威《い》厳《げん》が見えたのでございましょう。
鳥でさえそうでございます。まして私たちは仕《じ》丁《ちよう》までも、皆息をひそめながら、身の内も震《ふる》えるばかり、異様な随《ずい》喜《き》の心に充ち満ちて、まるで開《かい》眼《げん》の仏でも見るように、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂《たましい》を奪われて、立ちすくんでいる良秀と――なんという荘《しよう》厳《ごん》、なんという歓喜でございましょう。が、その中でたった一人、ご縁《えん》の上の大殿様だけは、まるで別人かと思われるほど、お顔の色も青ざめて、口元に泡《あわ》をおためになりながら、紫《むらさき》の指《さし》貫《ぬき》の膝《ひざ》を両手にしっかりおつかみになって、ちょうど喉《のど》のかわいた獣《けもの》のようにあえぎつづけていらっしゃいました。……
二〇
その夜雪《ゆき》解《げ》の御《ご》所《しよ》で、大《おお》殿《との》様《さま》が車をお焼きになったことは、誰《だれ》の口からともなく世上へもれましたが、それについてはずいぶんいろいろな批判をいたすものもおったようでございます。まず第一になぜ大殿様が良《よし》秀《ひで》の娘《むすめ》をお焼き殺しなすったか、――これは、かなわぬ恋の恨《うら》みからなすったのだといううわさが、いちばん多うございました。が、大殿様の思し召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏《びよう》風《ぶ》の画を描《か》こうとする絵師根性のよこしまを懲《こ》らすおつもりだったのに相《そう》違《い》ございません。現に私は、大殿様が御口ずからそうおっしゃるのを伺《うかが》ったことさえございます。
それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいというその木《ぼく》石《せき》のような心もちが、やはり何かとあげつらわれたようでございます。中にはあの男をののしって、画のために親子の情愛も忘れてしまう、人《にん》面《めん》獣《じゆう》心《しん》のくせ者などと申すものもございました。あの横《よ》川《かわ》の僧《そう》都《ず》様《さま》などは、こういう考えに味方をなすったお一人で、「いかに一芸一能にひいでようとも、人として五常をわきまえねば、地《じ》獄《ごく》におちるほかはない」などとおっしゃったものでございます。
ところがその後一月ばかりたって、いよいよ地獄変の屏風ができ上がりますと、良秀はさっそくそれをお邸《やしき》へ持って出て、うやうやしく大殿様のご覧に供《そな》えました。ちょうどその時は僧都様もお居合せになりましたが、屏《びよう》風《ぶ》の画を一目ご覧になりますと、さすがにあの一《いち》帖《じよう》の天地に吹きすさんでいる火のあらしの恐ろしさにお驚《おどろ》きなすったのでございましょう。それまでは苦い顔をなさりながら、良《よし》秀《ひで》の方をじろじろにらめつけていらしったのが、思わず知らず膝《ひざ》を打って、「でかしおった」とおっしゃいました。このことばをお聞きになって、大《おお》殿《との》様《さま》が苦笑なすった時のごようすも、いまだに私は忘れません。
それ以来あの男を悪く言うものは、少くともお邸《やしき》の中だけでは、ほとんど一人もいなくなりました。誰《だれ》でもあの屏風を見るものは、いかに日ごろ良秀を憎《にく》く思っているにせよ、不思議におごそかな心もちに打たれて、炎《えん》熱《ねつ》地《じ》獄《ごく》の大《だい》苦《く》艱《げん》を如《によ》実《じつ》に感じるからでもございましょうか。
しかしそうなった時分には、良秀はもうこの世にない人の数《かず》にはいっておりました。それも屏風のでき上がった次の夜《よ》に、自分の部屋の梁《はり》へ縄《なわ》をかけて、縊《くび》れ死んだのでございます。一人娘《むすめ》を先立てたあの男は、おそらく安《あん》閑《かん》として生きながらえるのに堪《た》えなかったのでございましょう。死《し》骸《がい》は今でもあの男の家の跡《あと》にうずまっております。もっとも小さな標《しるし》の石は、その後《のち》何十年かの雨《あめ》風《かぜ》にさらされて、とうの昔誰の墓とも知れないように、苔《こけ》蒸《む》しているにちがいございません。
(大正七年四月)
奉《ほう》教《きよう》人《にん》の死
たとひ三百歳の齢《よはひ》を保ち、楽しみ身に余ると言ふとも、未来永永の果しなき楽しみに比ぶれば、夢《ゆめ》幻《まぼろし》の如し。
――慶長訳Guia do Pecador《*》――
善の道に立ち入りたらん人は、御《み》教《をしへ》にこもる不可思議の甘《かん》味《み》を覚ゆべし。
――慶長訳Imitatione Christi《*》――
去《さ》んぬるころ、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござった。これはある年ご降《こう》誕《たん》の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓《う》え疲《つか》れてうち伏しておったを、参《さん》詣《けい》の奉《ほう》教《きよう》人《にん》衆《しゆう》が介《かい》抱《ほう》し、それより伴《ば》天《て》連《れん》の憐《あわれ》みにて、寺《じ》中《ちゆう》に養われることとなったげでござるが、なぜかその身の素《す》性《じよう》を問えば、故《ふる》郷《さと》は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、いつもこともなげな笑に紛《まぎ》らいて、とんとまことは明《あか》したこともござない。なれど親の代から「ぜんちょ」(異教徒)のやからであらなんだことだけは、手くびにかけた青《あお》玉《だま》の「こんたつ」(念《ねん》珠《じゆ》)を見ても、知れたと申す。されば伴《ば》天《て》連《れん》はじめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪《あや》しいものではござるまいとおぼされて、ねんごろに扶《ふ》持《じ》して置かれたが、その信心の堅《けん》固《ご》なは、幼いにも似《に》ず「すぺりおれす」(長老衆)が舌をまくばかりであったれば、一同も「ろおれんぞ」は天童の生れがわりであろうずなどと申し、いずくの生れ、たれの子とも知れぬものを、むげにめでいつくしんでおったげでござる。
してまたこの「ろおれんぞ」は、顔かたちが玉のように清らかであったに、声ざまも女のように優しかったれば、ひとしお人々のあわれみをひいたのでござろう。中でもこの国の「いるまん」に「しめおん」と申したは、「ろおれんぞ」を弟のようにもてなし、「えけれしや」の出はいりにも、必ず仲よう手を組み合せておった。この「しめおん」は、元さる大名に仕《つか》えた、槍《やり》一すじの家がらなものじゃ。されば身のたけも抜群なに、性《しよう》得《とく》の剛《ごう》力《りき》であったによって、伴天連が「ぜんちょ」ばらの石《いし》瓦《がわら》にうたるるを、防いで進ぜたことも、一度二度の沙《さ》汰《た》ではござない。それが「ろおれんぞ」とむつまじゅうするさまは、とんと鳩《はと》になずむ荒《あら》鷲《わし》のようであったと申そうか。あるいは「ればのん」山の檜《ひのき》に、葡萄《えび》かずらがまといついて、花咲いたようであったとも申そうず。
さるほどに三《み》年《とせ》あまりの年《とし》月《つき》は、流るるようにすぎたによって、「ろおれんぞ」はやがて元服もすべき時節となった。したがそのころ怪しげなうわさが伝わったと申すは、「さんた・るちや」から遠からぬ町《まち》方《かた》の傘《かさ》張《はり》の娘《むすめ》が、「ろおれんぞ」と親しゅうするということじゃ。この傘張の翁《おきな》も天主の御《み》教《おしえ》を奉ずる人ゆえ、娘ともども「えけれしや」へは参るならわしであったに、御《おん》祈《いのり》の暇《ひま》にも、娘は香《こう》炉《ろ》をさげた「ろおれんぞ」の姿から、眼を離したと申すことがござない。まして、「えけれしや」への出はいりには、必ず髪《かみ》かたちを美しゅうして、「ろおれんぞ」のいる方へ眼づかいをするが定《じよう》であった。さればおのずと奉教人衆の人目にも止《とま》り、娘が行きずりに「ろおれんぞ」の足を踏《ふ》んだと言い出すものもあれば、二人が艶《えん》書《しよ》をとりかわすをしかと見とどけたと申すものも、出てきたげでござる。
よって伴《ば》天《て》連《れん》にも、すて置かれず思《おぼ》されたのでござろう。ある日「ろおれんぞ」を召されて、白《しら》ひげをかみながら、「その方、傘《かさ》張《はり》の娘ととかくのうわさある由を聞いたが、よもやまことではあるまい。どうじゃ」ともの優しゅう尋《たず》ねられた。したが「ろおれんぞ」は、ただ憂《うれ》わしげに頭《かしら》を振って、「そのようなことはいっこうに存じようはずもござらぬ」と、涙声に繰《く》り返すばかりゆえ、伴天連もさすがに我《が》を折られて、年配といい、日ごろの信心といい、こうまで申すものに偽《いつわり》はあるまいと思されたげでござる。
さて一応伴天連の疑は晴れてじゃが、「さんた・るちや」へ参る人々の間では、容易にとこうの沙《さ》汰《た》が絶えそうもござない。されば兄弟同様にしておった「しめおん」の気がかりは、また人一倍じゃ。始めはかようなみだらなことを、ものものしゅう詮《せん》議《ぎ》立《だ》てするが、おのれにも恥かしゅうて、うちつけに尋ねようはもとより、「ろおれんぞ」の顔さえまさかとは見られぬほどであったが、ある時「さんた・るちや」の後ろの庭で、「ろおれんぞ」へあてた娘の艶書を拾うたによって、人けない部屋にいたを幸、「ろおれんぞ」の前にその文をつきつけて、おどしつすかしつ、さまざまに問いただいた。なれど「ろおれんぞ」はただ、美しい顔を赤らめて、「娘《むすめ》は私に心を寄せましたげでござれど、私は文をもろうたばかり、とんと口をきいたこともござらぬ」と申す。なれど世間のそしりもあることでござれば、「しめおん」はなおも押して問いなじったに、「ろおれんぞ」はわびしげな眼で、じっと相手を見つめたと思えば、「私はお主《ぬし》にさえ、うそをつきそうな人間に見えるそうな」と、とがめるように言い放って、とんと燕《つばくら》かなんぞのように、そのままつと部屋を出《た》って行ってしもうた。こう言われて見れば、「しめおん」も己《おのれ》の疑深かったのが恥かしゅうもなったによって、すごすごその場を去ろうとしたに、いきなり駈《か》けこんで来たは、少年の「ろおれんぞ」じゃ。それが飛びつくように「しめおん」の頸《うなじ》をいだくと、あえぐように「私が悪かった。許してくだされい」とささやいて、こなたが一言も答えぬ間《ま》に、涙にぬれた顔を隠《かく》そうためか、相手をつきのけるように身を開いて、いっさんにまた元来た方へ、走って往《い》んでしもうたと申す。さればその「私が悪かった」とささやいたのも、娘と密通したのが悪かったと言うのやら、あるいは「しめおん」につれのうしたのが悪かったと言うのやら、一円がてんのいたそうようがなかったとのことでござる。
するとその後《ご》まものう起ったのは、その傘《かさ》張《はり》の娘がみごもったという騒《さわ》ぎじゃ。しかも腹の子の父親は、「さんた・るちや」の「ろおれんぞ」じゃと、正《まさ》しゅう父の前で申したげでござる。されば傘張の翁《おきな》は火のようにおこって、即《そつ》刻《こく》伴《ば》天《て》連《れん》のもとへ委《い》細《さい》を訴《うつた》えに参った。こうなる上は「ろおれんぞ」も、かつふつ言いわけのいたしようがござない。その日のうちに伴天連をはじめ、「いるまん」衆一同の談合によって、破門を申し渡されることになった。もとより破門の沙《さ》汰《た》がある上は、伴天連の手もとをも追い払われることでござれば、糊《こ》口《こう》のよすがに困るのも目前じゃ。したがかような罪人を、このまま「さんた・るちや」にとどめて置いては、御《おん》主《あるじ》の「ぐろおりや」(栄光)にもかかわることゆえ、日ごろ親しゅういたいた人々も、涙をのんで「ろおれんぞ」を追い払ったと申すことでござる。
その中でも哀《あわ》れをとどめたは、兄弟のようにしておった「しめおん」の身の上じゃ。これは「ろおれんぞ」が追い出されるという悲しさよりも、「ろおれんぞ」に欺《あざむ》かれたという腹だたしさが一倍ゆえ、あのいたいけな少年が、おりからのこがらしが吹く中へ、しおしおと戸口を出かかったに、かたわらから拳《こぶし》をふるうて、したたかその美しい顔を打った。「ろおれんぞ」は剛《ごう》力《りき》に打たれたによって、思わずそこへ倒れたが、やがて起きあがると、涙ぐんだ眼で、空を仰《あお》ぎながら、「御《おん》主《あるじ》も許させ給え。『しめおん』は、己《おの》がしわざもわきまえぬものでござる」と、わななく声で祈《いの》ったと申すことじゃ。「しめおん」もこれには気がくじけたのでござろう。しばらくはただ戸口に立って、拳《けん》を空《くう》にふるうておったが、そのほかの「いるまん」衆も、いろいろととりないたれば、それを機会《しお》に手をつかねて、あらしも吹きいでようず空のごとく、顔を曇《くも》らせながら、すごすご「さんた・るちや」の門《かど》を出る「ろおれんぞ」の後ろ姿を、むさぼるようにきっと見送っておった。その時居合わせた奉教人衆の話を伝え聞けば、時しもこがらしにゆらぐ日輪が、うなだれて歩む「ろおれんぞ」の頭《かしら》のかなた、長崎の西の空に沈もうず景《け》色《しき》であったによって、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火《か》焔《えん》の中に、立ちきわまったように見えたと申す。
その後《ご》の「ろおれんぞ」は、「さんた・るちや」の内陣に香《こう》炉《ろ》をかざした昔とは打って変って、町はずれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞《こつ》食《じき》であった。ましてその前身は、「ぜんちょ」のともがらにはえとりのようにさげしまるる、天主の御《み》教《おしえ》を奉ずるものじゃ。されば町を行けば、心ない童部《わらべ》にあざけらるるはもとより、刀《とう》杖《じよう》瓦石の難に遭《お》うたことも、度《ど》々《ど》ござるげに聞き及んだ。いや、かつては、長崎の町にはびこった、恐ろしい熱病にとりつかれて、七日《なぬか》七《なな》夜《よ》の間、道ばたに伏しまろんでは、苦しみもだえたとも申すことでござる。したが、「でうす」無量無辺のご愛《あい》憐《れん》は、そのつど「ろおれんぞ」が一命を救わせ給うたのみか、施《せ》物《もつ》の米銭のないおりおりには、山の木《こ》の実《み》、海の魚《ぎよ》介《かい》など、その日の糧《かて》を恵ませ給うのが常であった。よって「ろおれんぞ」も、朝夕の祈《いのり》は「さんた・るちや」に在った昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、青《あお》玉《だま》の色を変えなかったと申すことじゃ。なんの、それのみか、夜ごとに更《こう》闌《た》けて人《ひと》音《おと》も静まるころとなれば、この少年はひそかに町はずれの非人小屋をぬけ出《いだ》いて、月を踏《ふ》んでは住みなれた「さんた・るちや」へ、御《おん》主《あるじ》「ぜす・きりしと」のご加護を祈りまいらせに詣《もう》でておった。
なれど同じ「えけれしや」に詣《もう》ずる奉教人衆も、そのころとんと「ろおれんぞ」をうとんじはてて、伴《ば》天《て》連《れん》はじめ、誰《だれ》一人憐《あわれ》みをかくるものもござらなんだ。ことわりかな、破門のおりから所《しよ》行《ぎよう》無《む》慚《ざん》の少年と思いこんでおったによって、なんとして夜ごとに、ひとり「えけれしや」へ参るほどの、信心ものじゃとは知らりょうぞ。これも「でうす」千万無量の御《おん》計《はか》らいの一つゆえ、よしない儀《ぎ》とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとっては、いみじくもまた哀《あわ》れなことでござった。
さるほどに、こなたはあの傘《かさ》張《はり》の娘《むすめ》じゃ。「ろおれんぞ」が破門されるとまもなく、月も満たずの女の子を生み落いたが、さすがにかたくなしい父の翁《おきな》も、初《うい》孫《まご》の顔は憎《にく》からず思うたのでござろう、娘ともどもたいせつに介《かい》抱《ほう》して、自《みずか》らいだきもしかかえもし、時にはもてあそびの人形などもとらせたと申すことでござる。翁はもとよりさもあろうずなれど、ここに稀《け》有《う》なは「いるまん」の「しめおん」じゃ。あの「じゃぼ」(悪《あく》魔《ま》)を挫《ひし》ごうず大男が、娘に子が産まれるや否や、暇《いとま》あるごとに傘張の翁を訪《おとず》れて、無《ぶ》骨《こつ》な腕《かいな》に幼子を抱き上げては、にがにがしげな顔に涙を浮べて、弟といつくしんだ、あえかな「ろおれんぞ」の優《やさ》姿《すがた》を、思い慕《した》っておったと申す。ただ、娘のみは、「さんた・るちや」をいでてこのかた、絶えて「ろおれんぞ」が姿を見せぬのを、怨《うら》めしゅう歎《なげ》きわびた気《け》色《しき》であったれば、「しめおん」の訪《おとず》れるのさえ、何かと快からず思うげに見えた。
この国のことわざにも、光陰に関《せき》守《もり》なしと申す通り、とこうするほどに、一《ひと》年《とせ》あまりの年《とし》月《つき》は、またたくひまに過ぎたと思《おぼ》し召《め》されい。ここに思いもよらぬ大変が起ったと申すは、一夜のうちに長崎の町の半ばを焼き払った、あの大火事のあったことじゃ。まことにそのおりの景《け》色《しき》のすさまじさは、末《まつ》期《ご》の御《おん》裁判《さばき》の喇《らつ》叭《ぱ》の音《ね》が、一天の火の光をつんざいて、鳴り渡ったかと思われるばかり、世にも身の毛のよだつものでござった。その時、あの傘張の翁の家は、運悪う風《かざ》下《しも》にあったによって、見る見る焔《ほのお》に包まれたが、さて親子眷《けん》族《ぞく》、あわてふためいて、逃げ出《いだ》いて見れば、娘が産んだ女の子の姿が見えぬという始未じゃ。一《いち》定《じよう》、一《ひと》間《ま》どころに寝かいて置いたを、忘れてここまで逃《に》げのびたのであろうず。されば翁は足ずりをしてののしりわめく。娘《むすめ》もまた、人にさえぎられずば、火の中へも馳《は》せ入って、助けいだそう気色に見えた。なれど風はますます加わって、焔《ほのお》の舌は天上の星をも焦《こが》そうずたけりようじゃ。それゆえ火を救いに集った町方の人々も、ただ、あれよあれよと立ち騒いで、狂気のような娘をとりしずめるよりほかに、せん方もまたあるまじい。ところへひとり、多くの人を押しわけて、駈《か》けつけて参ったは、あの「いるまん」の「しめおん」でござる。これは矢玉の下もくぐったげな、たくましい大丈夫でござれば、ありようを見るより早く、勇んで焔の中へ向うたが、あまりの火勢に辟《へき》易《えき》いたいたのでござろう。二、三度煙《けむり》をくぐったと見る間に、背《そびら》をめぐらして、いっさんに逃《に》げ出いた。して翁《おきな》と娘とがたたずんだ前へ来て、「これも『でうす』万事にかなわせたもう御《おん》計《はか》らいの一つじゃ。詮《せん》ないこととあきらめられい」と申す。その時翁のかたわらから、誰《だれ》とも知らず、高らかに「御《おん》主《あるじ》、助け給え」と叫《さけ》ぶものがござった。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭《こうべ》をめぐらして、その声の主をきっと見れば、いかなこと、これはまがいもない「ろおれんぞ」じゃ。清らかにやせ細った顔は、火の玉の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒《くろ》髪《かみ》も、肩《かた》に余るげに思われたが、哀れにも美しい眉《み》目《め》のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞《こつ》食《じき》の姿のまま、群《むらが》る人々の前に立って、目もはなたず燃えさかる家をながめておる。と思うたのは、まことにまたたく間もないほどじゃ。ひとしきり焔をあおって、恐ろしい風が吹き渡ったと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまっしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁《うつばり》の中にはいっておった。「しめおん」は思わず遍《へん》身《しん》に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描《えが》きながら、己《おのれ》も「御主、助け給え」と叫んだが、なぜかその時心の眼には、こがらしに揺《ゆ》るる日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門《かど》に立ちきわまった、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。
なれどあたりにおった奉教人衆は、「ろおれんぞ」がけなげなふるまいに驚《おどろ》きながらも、破《は》戒《かい》の昔を忘れかねたのでもござろう。たちまちとかくの批判は風に乗って、人どよめきの上を渡って参った。と申すは、「さすが親子の情あいは争われぬものと見えた。己《おの》が身の罪を恥《は》じて、このあたりへは影も見せなんだ『ろおれんぞ』が、今こそ一人子の命を救おうとて、火の中へはいったぞよ」と、誰ともなくののしりかわしたのでござる。これには翁《おきな》さえ同心と覚えて、「ろおれんぞ」の姿をながめてからは、怪《あや》しい心の騒《さわ》ぎを隠《かく》そうずためか、立ちつ居つ身をもだえて、何やら愚《おろか》しいことのみを、声《こわ》高《だか》にひとりわめいておった。なれど当の娘《むすめ》ばかりは、狂《くる》おしく大地にひざまずいて、両の手で顔をうずめながら、一心不乱に祈《き》誓《せい》を凝《こ》らいて、身動きをする気《け》色《しき》さえもござない。その空には火の粉が雨のように降りかかる。煙《けむり》も地をはらって、面《おもて》を打った。したが娘は黙《もく》然《ねん》と頭《こうべ》をたれて、身も世も忘れた祈り三《ざん》昧《まい》でござる。
とこうするほどに、再び火の前に群った人々が、一度にどっとどよめくかと見れば、髪《かみ》をふり乱いた「ろおれんぞ」が、もろ手に幼子をかいいだいて、乱れとぶ焔《ほのお》の中から、天《あま》くだるように姿を現いた。なれどその時、燃え尽きた梁《うつぼり》の一つが、にわかに半ばから折れたのでござろう。すさまじい音とともに、一なだれの煙《えん》焔《えん》が半《なか》空《ぞら》にほとばしったと思う間もなく、「ろおれんぞ」の姿ははたと見えずなって、跡にはただ火の柱が、珊《さん》瑚《ご》のごとくそばだったばかりでござる。
あまりの凶《きよう》事《じ》に心も消えて、「しめおん」をはじめ翁まで、居あわせたほどの奉教人衆は、皆目のくらむ思いがござった。中にも娘《むすめ》はけたたましゅう泣き叫《さけ》んで、一度は脛《はぎ》もあらわに躍《おど》り立ったが、やがて雷《いかずち》に打たれた人のように、そのまま大《だい》地《ち》にひれふしたと申す。さもあらばあれ、ひれふした娘の手には、いつかあの幼い女の子が、生《しよう》死《じ》不《ふ》定《じよう》の姿ながら、ひしといだかれておったをいかにしようぞ。ああ、広大無辺なる「でうす」の御《おん》知《ち》慧《え》、御《おん》力《ちから》は、なんとたたえ奉《たてまつ》ることばだにござない。燃えくずれる梁《うつばり》に打たれながら、「ろおれんぞ」が必死の力をふりしぼって、こなたへ投げた幼子は、おりよく娘の足もとへ、けがもなくまろび落ちたのでござる。
されば娘が大地にひれ伏して、うれし涙にむせんだ声とともに、もろ手をさしあげて立った翁《おきな》の口からは、「でうす」の御《おん》慈《じ》悲《ひ》をほめ奉る声が、おのずからおごそかにあふれて参った。いや、まさにあふれようずけはいであったとも申そうか。それより先に「しめおん」は、さかまく火のあらしの中へ、「ろおれんぞ」を救おうず一念から、真一文字に躍《おど》りこんだによって、翁の声は再び気づかわしげな、いたましい祈《いの》りのことばとなって、夜空に高くあがったのでござる。これはもとより翁のみではござない。親子を囲んだ奉教人衆は、皆一同に声をそろえて、「御《おん》主《あるじ》、助け給え」と、泣く泣く祈りをささげたのじゃ。して「びるぜん・まりや《*》」の御《み》子《こ》、なべての人の苦しみと悲しみとを己《おの》がもののごとくに見そなわす、われらが御主「ぜす・きりしと」は、ついにこの祈りを聞き入れ給うた。見られい、むごたらしゅう焼けただれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕《かいな》にいだかれて、早くも火と煙とのただ中から、救い出されて参ったではないか。
なれどその夜の大変は、これのみではござなんだ。息も絶え絶えな「ろおれんぞ」が、とりあえず奉教人衆の手に舁《か》かれて、風《かざ》上《かみ》にあったあの「えけれしや」の門《かど》へ横たえられた時のことじゃ。それまで幼子を胸にいだきしめて、涙にくれていた傘《かさ》張《はり》の娘《むすめ》は、おりから門《かど》へいでられた伴《ば》天《て》連《れん》の足もとにひざまずくと、並みいる人々の目前で、「この女子《おなご》は『ろおれんぞ』様の種ではおじゃらぬ。まことは妾《わらわ》が家《いえ》隣《どなり》の『ぜんちょ』の子と密通して、もうけた娘でおじゃるわいの」と、思いもよらぬ「こひさん」(懺《ざん》悔《げ》)を仕《つかまつ》った。その思いつめた声《こわ》ざまの震《ふる》えと申し、その泣きぬれた双《そう》の眼のかがやきと申し、この「こひさん」には、露《つゆ》ばかりの偽《いつわり》さえ、あろうとは思われ申さぬ。道理《ことわり》かな、肩《かた》を並べた奉数人衆は、天を焦《こ》がす猛《もう》火《か》も忘れて、息さえつかぬように声をのんだ。
娘が涙をおさえて、申し次いだは、「妾《わらわ》は日ごろ『ろおれんぞ』様を恋《こ》い慕《しと》うておったなれど、ご信心の堅《けん》固《ご》さからあまりにつれなくもてなされるゆえ、つい怨《うら》む心も出て、腹の子を『ろおれんぞ』様の種と申し偽《いつわ》り、妾につらかった口《くち》惜《お》しさを思い知らそうといたいたのでおじゃる。なれど『ろおれんぞ』様のみ心の気《け》高《だか》さは、妾が大罪をも憎《にく》ませ給わいで、今《こ》宵《よい》は御《おん》身《み》の危さをもうち忘れ、『いんへるの』(地獄)にもまがう火《か》焔《えん》の中から、妾娘《おやこ》の一命をかたじけなくも救わせ給うた。その御《おん》憐《あわれ》み、御《おん》計《はか》らい、まことに御《おん》主《あるじ》『ぜす・きりしと』の再来かともおがまれ申す。さるにても妾が重々の極悪を思えば、この五体はたちまち『じゃぼ』の爪《つめ》にかかって、寸々に裂《さ》かれようとも、なかなか怨むところはおじゃるまい」娘は「こひさん」をいたいも果てず、大地に身を投げて泣き伏した。
二《ふた》重《え》三《み》重《え》に群った奉教人衆の間から、「まるちり」(殉《じゆん》教《きよう》)じゃ、「まるちり」じゃと言う声が、波のように起ったのは、ちょうどこの時のことでござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐《あわれ》む心から、御《おん》主《あるじ》「ぜす・きりしと」のご行《ぎよう》跡《せき》を踏《ふ》んで、乞《こつ》食《じき》にまで身を落いた。して父と仰《あお》ぐ伴《ば》天《て》連《れん》も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でのうて、なんでござろう。
したが、当の「ろおれんぞ」は、娘《むすめ》の「こひさん」を聞きながらも、わずかに、二、三度うなずいて見せたばかり、髪《かみ》は焼《や》け肌は焦《こ》げて、手も足も動かぬ上に、口をきこう気《け》色《しき》さえも今は全く尽きたげでござる。娘の「こひさん」に胸を破った翁《おきな》と「しめおん」とは、そのまくらがみにうずくまって、何かと介《かい》抱《ほう》を致いておったが、「ろおれんぞ」の息は、刻々に短うなって、最《さい》期《ご》ももはや遠くはあるまじい。ただ、日ごろと変らぬのは、はるかに天上を仰いでいる、星のような瞳《ひとみ》の色ばかりじゃ。
やがて娘の「こひさん」に耳をすまされた伴天連は、吹きすさぶ夜風に白《しら》ひげをなびかせながら、「さんた・るちや」の門《かど》を後ろにして、おごそかに申されたは、「悔《く》い改むるものは、幸じゃ。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これよりますます、『でうす』の御《おん》戒《いましめ》身にしめて、心静かに末《まつ》期《ご》の御《おん》裁判《さばき》の日を待ったがよい。また『ろおれんぞ』がわが身の行《ぎよう》儀《ぎ》を、御主『ぜす・きりしと』とひとしくし奉《たてまつ》ろうず志は、この国の奉教人衆の中にあっても、たぐいまれなる徳行でござる。別して少年の身とは言い――」ああ、これはまたなんとしたことでござろうぞ。ここまで申された伴《ば》天《て》連《れん》は、にわかにはたと口をつぐんで、あたかも「はらいそ」の光を望んだように、じっと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。そのうやうやしげなようすはどうじゃ。その両の手のふるえざまも、尋常《よのつね》のことではござるまい。おう、伴天連のからびた頬《ほお》の上には、とめどなく涙があふれ流れるぞよ。
見られい。「しめおん」。見られい。傘《かさ》張《はり》の翁《おきな》。御《おん》主《あるじ》「ぜす・きりしと」の御《おん》血《ち》潮《しお》よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門《かど》に横たわった、いみじくも美しい少年の胸には、焦《こ》げ破れた衣《ころも》のひまから、清らかな二つの乳《ち》房《ぶさ》が、玉のように露《あらわ》れているではないか。今は焼けただれた面《おも》輪《わ》にも、おのずからなやさしさは、隠《かく》れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女じゃ。「ろおれんぞ」は女じゃ。見られい。猛《もう》火《か》を後ろにして、垣のようにたたずんでいる奉教人衆、邪《じや》淫《いん》の戒《いましめ》を破ったによって「さんた・るちや」を逐《お》われた「ろおれんぞ」は、傘張の娘《むすめ》と同じ、まなざしのあでやかなこの国の女じゃ。
まことにその刹《せつ》那《な》の尊い恐ろしさは、あたかも「でうす」の御《おん》声《こえ》が、星の光も見えぬ遠い空から、伝わって来るようであったと申す。されば「さんた・るちや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹かれる穂《ほ》麦《むぎ》のように、誰《だれ》からともなく頭《こうべ》をたれて、ことごとく「ろおれんぞ」のまわりにひざまずいた。その中で聞えるものは、ただ、空をどよもして燃えしきる、万丈の焔《ほのお》の響《ひびき》ばかりでござる。いや、誰やらのすすり泣く声も聞えたが、それは傘張の娘でござろうか。あるいはまた自《みずか》ら兄とも思うた、あの「いるまん」の「しめおん」でござろうか。やがてその寂《じやく》寞《まく》たるあたりをふるわせて、「ろおれんぞ」の上に高く手をかざしながら、伴天連の御《おん》経《きよう》を誦《ず》せられる声が、おごそかに悲しく耳にはいった。して御経の声がやんだ時、「ろおれんぞ」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰《あお》ぎ見て、安らかなほほえみを脣《くちびる》にとどめたまま、静かに息が絶えたのでござる。
その女の一生は、このほかに何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござろうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換《か》えがたい、刹《せつ》那《な》の感動にきわまるものじゃ。暗《やみ》夜《よ》の海にもたとえようず煩《ぼん》悩《のう》心の空に一《いつ》波《ぱ》をあげて、いまだ出ぬ月の光を、水沫《みなわ》の中に捕《とら》えてこそ、生きて甲《か》斐《い》ある命とも申そうず。されば「ろおれんぞ」が最《さい》期《ご》を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。
予が所蔵にかかる、長《なが》崎《さき》耶《や》蘇《そ》会《かい*》出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ《*》」と言う。けだし、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必ずしも、西《せい》欧《おう》のいわゆる「黄金伝説」ならず。彼《かの》土《ど》の使徒聖人が言行を録するとともに、あわせて本《ほん》邦《ぽう》西《せい》教《きよう》徒《と》が勇《ゆう》猛《もう》精進の事《じ》蹟《せき》をも採《さい》録《ろく》し、もって福音伝《でん》道《どう》の一助たらしめんとせしもののごとし。
体裁は上下二巻、美《み》濃《の》紙《がみ》摺《ずり》草《そう》体《たい》交《まじ》り平仮名文にして印刷はなはだしく鮮明を欠き、活字なりや否やを明かにせず。上巻の扉《とびら》には、羅《ら》甸《てん》字《じ》にて書名を横書し、その下に漢字にて「御《ご》出《しゆつ》世《せい》以来千五百九十六年、慶長二年三月上《じよう》旬《じゆん》鏤《る》刻《こく》也」の二行を縦書す。年代の左右には喇《らつ》叭《ぱ》を吹ける天使の画像あり。技《ぎ》巧《こう》すこぶる幼稚なれども、また掬《きく》すべき趣《しゆ》致《ち》なしとせず。下巻もとびらに「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上巻と異同なし。
両巻とも紙数は約六十頁《ページ》にして、載《の》するところの黄金伝説は、上巻八章、下巻十章を数う。その他各巻の巻首に著者不明の序文および羅《ら》甸《てん》字《じ》を加えたる目次あり。序文は文章雅《が》馴《じゆん》ならずして、間《ま》々《ま》欧文を直訳せるごとき語法を交え、一見その伴《ば》天《て》連《れん》たる西人の手になりしやを疑わしむ。
以上採録したる「奉教人の死」は、該《がい》「れげんだ・おうれあ」下巻第二章によるものにして、おそらくは当時長崎の一《いち》西《さい》教《きよう》寺《じ》院《いん》に起りし、事実の忠実なる記録ならんか。ただし、記事中の大火なるものは、「長《なが》崎《さき》港《みなと》草《ぐさ*》」以下諸書に徴するも、その有無をすら明らかにせざるをもって、事実の正確なる年代に至っては、全くこれを決定するを得ず。
予は「奉教人の死」において、発表の必要上、多少の文《ぶん》飾《しよく》をあえてしたり。もし原文の平易雅《が》馴《じゆん》なる筆致にして、はなはだしく毀《き》損《そん》せられることなからんか、予の幸《こう》甚《じん》とするところなりと云爾《しかいう》。
(大正七年八月十二日)
枯《かれ》野《の》抄《しよう》
丈《ぢやう》 艸《さう*》、去《きよ》来《らい*》を召し、昨《さく》夜《や》目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑《どん》舟《しう*》に書かせたり、おのおの咏《えい》じたまへ
旅に病むで夢は枯野をかけめぐる
――花屋日記《*》――
元《げん》禄《ろく》七年十月十二日の午後である。ひとしきり赤々と朝焼けた空は、また昨日《きのう》のようにしぐれるかと、大《おお》阪《さか》商人《あきんど》の寝《ね》起《おき》の眼を、遠いかわら屋根の向うに誘《さそ》ったが、幸《さいわい》葉をふるった柳《やなぎ》のこずえを、煙《けむ》らせるほどの雨もなく、やがて曇《くも》りながらもうす明るい、もの静かな冬の昼になった。立ちならんだ町《まち》屋《や》の間を、流れるともなく流れる川の水さえ、今日はぼんやりと光沢《つや》を消して、その水に浮く葱《ねぶか》のくずも、気のせいか青い色が冷たくない。まして岸を往く往来の人々は、丸《まる》頭《ず》巾《きん》をかぶったのも、革《かわ》足袋《たび》をはいたのも、皆こがらしの吹く世の中を忘れたように、うっそりとして歩いて行く。暖簾《のれん》の色、車の行きかい、人形芝《しば》居《い》の遠い三味線の音《ね》――すべてがうす明るい、もの静かな冬の昼を、橋の擬《ぎ》宝《ぼう》珠《しゆ》に置く町のほこりも、動かさないくらい、ひっそりと守っている……
この時、御《み》堂《どう》前《まえ》南《みなみ》久《きゆう》太《た》郎《ろう》町《まち》、花《はな》屋《や》仁《に》左《ざ》衛《え》門《もん》の裏《うら》座《ざ》敷《しき》では、当時俳《はい》諧《かい》の大《だい》宗《そう》匠《しよう》と仰《あお》がれた芭《ば》蕉《しよう》庵《あん》松《まつ》尾《お》桃《とう》青《せい》が、四方から集って来た門下の人々に介《かい》抱《ほう》されながら、五十一歳《さい》を一《いち》期《ご》として、「埋《うずみ》火《び》のあたたまりのさむるがごとく」静かに息を引きとろうとしていた。時刻はおよそ、申《さる》の中《ちゆう》刻《こく*》にも近かろうか。――隔《へだ》ての襖《ふすま》をとり払《はら》った、だだっ広い座《ざ》敷《しき》の中には、枕《ちん》頭《とう》に〓《た》きさした香《こう》の煙《けむり》が、一すじのぼって、天下の冬を庭さきに堰《せ》いた、新しい障《しよう》子《じ》の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるように冷《ひや》々《ひや》する。その障子の方をまくらにして、寂《じやく》然《ねん》と横たわった芭《ば》蕉《しよう》のまわりには、まず、医者の木《もく》節《せつ*》が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉《まゆ》をひそめていた。その後ろに居すくまって、さっきから小声の称《しよう》名《みよう》を絶たないのは、今度伊賀から伴《とも》に立って来た、老《ろう》僕《ぼく》の治《じ》郎《ろ》兵《べ》衛《え》に違いない。と思うとまた、木節の隣《となり》には、誰《だれ》の眼にもそれと知れる、大兵肥満の晋《しん》子《し》其《き》角《かく*》が、紬《つむぎ》の角《かく》通《どお》しの懐《ふところ》をおうようにふくらませて、憲《けん》法《ぽう》小《こ》紋《もん》の肩《かた》をそばだてた、ものごしのりりしい去《きよ》来《らい》といっしょに、じっと師匠の容《よう》態《だい》をうかがっている。それから其角の後ろには、法師じみた丈《じよう》艸《そう》が、手くびに菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》の珠《じゆ》数《ず》をかけて、端《たん》然《ぜん》と控《ひか》えていたが、隣に座を占めた乙《おつ》州《しゆう*》の、絶えず鼻をすすっているのは、もうこみあげてくる悲しさに、堪《た》えられなくなったからであろう。そのようすをじろじろながめながら、古《ふる》法衣《ごろも》の袖《そで》をかきつくろって、無《ぶ》愛《あい》想《そう》な頤《おとがい》をそらせている、背の低い僧《そう》形《ぎよう》は惟《い》然《ねん》坊《ぼう*》で、これは色の浅黒い、剛《ごう》愎《ふく》そうな支《し》考《こう*》と肩をならべて、木節の向うにすわっていた。あとはただ、何人かの弟子たちが皆息もしないように静まり返って、あるいは右、あるいは左と、師匠の床《とこ》を囲みながら、限りない死別のなごりを惜《お》しんでいる。が、その中でもたった一人、座敷の隅《すみ》にうずくまって、ぴったり畳《たたみ》にひれ伏したまま、慟《どう》哭《こく》の声をもらしていたのは、正《せい》秀《しゆう*》ではないかと思われる。しかしこれさえ、座敷の中のうすら寒い沈《ちん》黙《もく》に抑《おさ》えられて、枕頭の香のかすかなにおいを、みだすほどの声も立てない。
芭《ば》蕉《しよう》はさっき、痰《たん》喘《せき》にかすれた声で、おぼつかない遺《ゆい》言《ごん》をしたあとは、半ば眼を見開いたまま、昏《こん》睡《すい》の状態にはいったらしい。うす痘痕《いも》のある顔は、顴《かん》骨《こつ》ばかりあらわにやせ細って、皺《しわ》に囲まれた脣《くちびる》にも、とうに血の気はなくなってしまった。ことにいたましいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮べながら、まるで屋根の向うにある、際限ない寒空でも望むように、いたずらに遠い所を見やっている。「旅に病んで夢《ゆめ》は枯《かれ》野《の》をかけめぐる」――ことによるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三、四日前に彼自身が、その辞世の句に詠《えい》じた通り、茫《ぼう》々《ぼう》とした枯野の暮《ぼ》色《しよく》が、一《いつ》痕《こん》の月の光もなく、夢のように漂《ただよ》っていたのかもしれない。
「水を」
木《もく》節《せつ》はやがてこう言って、静かに後ろにいる治《じ》郎《ろ》兵《べ》衛《え》を顧《かえり》みた。一《いち》椀《わん》の水と一本の羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》とは、すでにこの老《ろう》僕《ぼく》が、用意しておいたところである。彼はその二《ふた》品《しな》をおずおず主人のまくらもとへ押し並べると、思い出したようにまた、口を早めて、専念に称《しよう》名《みよう》を唱えはじめた。治郎兵衛の素《そ》朴《ぼく》な、山《やま》家《が》育《そだ》ちの心には、芭蕉にせよ、誰にもせよ、ひとしく彼《ひ》岸《がん》に往生するのなら、ひとしくまた、弥《み》陀《だ》の慈《じ》悲《ひ》にすがるべきはずだという、堅《かた》い信念が根を張っていたからであろう。
一方また木節は、「水を」と言った刹《せつ》那《な》の間、はたして自分は医師として、万《ばん》方《ぽう》を尽したろうかという、いつもの疑念に遭《そう》遇《ぐう》したが、すぐまた自ら励《はげ》ますような心もちになって、隣《となり》にいた其《き》角《かく》の方をふりむきながら、無言のまま、ちょいと相《あい》図《ず》した。芭蕉の床《とこ》を囲んでいた一同の心に、いよいよという緊《きん》張《ちよう》した感じがとっさにひらめいたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛《し》緩《かん》した感じが――いわばきたるべきものがついに来たという、安心に似《に》た心もちが、通りすぎたこともまた争われない。ただ、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯《こう》定《てい》しようとはしなかったほど、微《び》妙《みよう》な性質のものであったからか、現にここにいる一同の中では、最も現実的な其《き》角《かく》でさえ、おりから顔を見合せた木《もく》節《せつ》と、きわどく相手の眼のうちに、同じ心もちを読み合った時は、さすがにぎょっとせずにはいられなかったのであろう。彼はあわただしく視線をわきへそらせると、さりげなく羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》をとりあげて、
「では、お先へ」と、隣《となり》の去《きよ》来《らい》にあいさつした。そうしてその羽根楊子へ湯のみの水をひたしながら、厚い膝《ひざ》をにじらせて、そっと今はの師《し》匠《しよう》の顔をのぞきこんだ。実を言うと彼は、こうなるまでに、師匠と今《こん》生《じよう》の別《わかれ》をつげるということは、さぞ悲しいものであろうくらいな、予測めいた考えもなかったわけではない。が、こうしていよいよ末《まつ》期《ご》の水をとってみると、自分の実際の心持は全然その芝《しば》居《い》めいた予測を裏切って、いかにも冷《れい》淡《たん》に澄《す》みわたっている。のみならず、さらに其角が意外だったことには、文字通り骨と皮ばかりにやせ衰《おとろ》えた、致《ち》死《し》期《き》の師匠の不気味な姿は、ほとんど面《おもて》をそむけずにはいられなかったほど、はげしい嫌《けん》悪《お》の情を彼に起させた。いや、単にはげしいと言ったのでは、まだ十分な表現ではない。それはあたかも目に見えない毒物のように、生理的な作用さえも及ぼしてくる、最も堪《た》えがたい種類の嫌悪であった。彼はこの時、偶《ぐう》然《ぜん》な契《けい》機《き》によって、醜《みにく》きいっさいに対する反感を師匠の病《びよう》躯《く》の上にもらしたのであろうか。あるいはまた「生」の享《きよう》楽《らく》家《か》たる彼にとって、そこに象《しよう》徴《ちよう》された「死」の事実が、この上もなくのろうべき自然の威《い》嚇《かく》だったのであろうか。――とにかく、垂《すい》死《し》の芭《ば》蕉《しよう》の顔に、言いようのない不快を感じた其《き》角《かく》は、ほとんどなんの悲しみもなく、その紫《むらさき》がかったうすい脣《くちびる》に、一《ひと》刷《は》毛《け》の水を塗《ぬ》るや否や、顔をしかめて引き下がった。もっともその引き下がる時に、自責に似《に》た一種の心もちが、刹《せつ》那《な》に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じていた嫌《けん》悪《お》の情は、そういう道徳感に顧《こ》慮《りよ》すべく、あまり強《きよう》烈《れつ》だったものらしい。
其角に次いで羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》をとり上げたのは、さっき木《もく》節《せつ》が相《あい》図《ず》をした時から、すでに心の落ち着きを失っていたらしい去《きよ》来《らい》である。日ごろから恭《きよう》謙《けん》の名を得ていた彼は、一同に軽く会《え》釈《しやく》をして、芭蕉のまくらもとへすりよったが、そこに横たわっている老俳《はい》諧《かい》師《し》の病みほうけた顔をながめると、ある満足と悔《かい》恨《こん》との不思議に錯《さく》雑《ざつ》した心もちを、いやでも味《あじわ》わなければならなかった。しかもその満足と悔恨とは、まるで陰《かげ》とひなたのように、離れられない因《いん》縁《ねん》を背負って、実はこの四、五日以前から、絶えず小心な彼の気分を掻《そう》乱《らん》していたのである。と言うのは、師《し》匠《しよう》の重病だという知らせを聞くや否や、すぐに伏《ふし》見《み》から船に乗って、深夜にもかまわず、この花《はな》屋《や》の門をたたいて以来、彼は師匠の看病を一日も怠ったということはない。その上之《し》道《どう*》に頼《たの》みこんで手伝いの周《しゆう》旋《せん》を引き受けさせるやら、住《すみ》吉《よし》大《だい》明《みよう》神《じん*》へ人を立てて病気本復を祈《いの》らせるやら、あるいはまた花屋仁《に》左《ざ》衛《え》門《もん》に相談して調度類の買入れをしてもらうやら、ほとんど彼一人が車輪になって、万事万端の世話を焼いた。それはもちろん去来自身進んで事に当ったので、誰に恩を着せようという気も、皆《かい》無《む》だったことは事実である。が、一身をあげて師匠の介《かい》抱《ほう》に没頭したという自覚は、いきおい、彼の心の底に大きな満足の種をまいた。それがただ、意識せられざる満足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげていたうちは、もとより彼も行《ぎよう》住《じゆう》坐《ざ》臥《が》に、なんらのこだわりを感じなかったらしい。さもなければ、夜《よ》伽《とぎ》の行《あん》灯《どう》の光の下で、支《し》考《こう》と浮世話にふけっている際にも、ことさらに孝道の義を釈《と》いて、自分が師《し》匠《しよう》に仕えるのは親に仕えるつもりだなどと、長々しい述《じゆつ》懐《かい》はしなかったであろう。しかしその時、得意な彼は、人の悪い支考の顔に、ちらりとひらめいた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂《くる》いのできたことを意識した。そうしてその狂いの原因は、はじめて気のついた自分の満足と、その満足に対する自己批評とに存していることを発見した。明日《あす》にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容《よう》態《だい》をでも心配することか、いたずらに自分のほねおりぶりを満足の眼でながめている。――これは確《たしか》に、彼のごとき正直者の身にとって、自らやましい心もちだったに違いない。それ以来去来は何をするのにも、この満足と悔《かい》恨《こん》との扞《かん》挌《かく》から、自然とある程度の掣《せい》肘《ちゆう》を感じ出した。まさに支考の眼のうちに、偶《ぐう》然《ぜん》でも微《び》笑《しよう》の顔が見える時は、かえってその満足の自覚なるものが、いっそう明白に意識されて、その結果いよいよ自分の卑《いや》しさを情なく思ったこともたびたびある。それが何日か続いた今日《きよう》、こうして師匠のまくらもとで、末《まつ》期《ご》の水を供する段になると、道徳的に潔《けつ》癖《ぺき》な、しかも存外神経の繊《せん》弱《じやく》な彼が、こういう内心の矛《む》盾《じゆん》の前に、全然落着きを失ったのは、きのどくではあるが無理もない。だから去来は羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》をとり上げると、妙《みよう》に体中が固くなって、その水を含《ふく》んだ白い先も、芭《ば》蕉《しよう》の脣《くちびる》をなでながら、しきりにふるえていたくらい、異常な興奮に襲《おそ》われた。が、幸《さいわい》、それとともに、彼の睫《まつ》毛《げ》にあふれようとしていた、涙のたまもあったので、彼を見ていた門弟たちは、おそらくあの辛《しん》辣《らつ》な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釈していたことであろう。
やがて去《きよ》来《らい》がまた憲《けん》法《ぽう》小《こ》紋《もん》の肩《かた》をそばだてて、おずおず席に復すると、羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》はその後ろにいた丈《じよう》艸《そう》の手へわたされた。日ごろから老実な彼が、つつましく伏眼になって、何やらかすかに口の中で誦《ず》しながら、静かに師《し》匠《しよう》の脣《くちびる》をうるおしている姿は、おそらく誰《だれ》の見た眼にもおごそかだったのに相《そう》違《い》ない。が、このおごそかな瞬《しゆん》間《かん》に突然座《ざ》敷《しき》の片すみからは、不気味な笑い声が聞え出した。いや、少くともその時は、聞え出したと思われたのである。それはまるで腹の底からこみ上げてくる哄《こう》笑《しよう》が、喉《のど》と脣とに堰《せ》かれながら、しかもなおおかしさに堪《た》えかねて、ちぎれちぎれに鼻のあなから、ほとばしってくるような声であった。が、言うまでもなく、誰もこの場合、笑を失したものがあったわけではない。声は実にさっきから、涙にくれていた正《せい》秀《しゆう》の抑《おさ》えに抑えていた慟《どう》哭《こく》が、この時胸を裂《さ》いてあふれたのである。その慟哭はもちろん、悲《ひ》愴《そう》をきわめていたのに相違なかった。あるいはそこにいた門弟の中には、「塚《つか》も動けわが泣く声は秋の風」という、師匠の名句を思い出したものも、少くはなかったことであろう。が、その凄《せい》絶《ぜつ》なるべき慟哭にも、同じく涙にむせぼうとしていた乙《おつ》州《しゆう》は、その中にある一種の誇《こ》張《ちよう》に対して、――と言うのが穏《おだや》かでないならば、慟哭を抑《よく》制《せい》すべき意志力の欠《けつ》乏《ぼう》に対して、多少不快を感じずにはいられなかった。ただ、そういう不快の性質は、どこまでも智《ち》的《てき》なものにすぎなかったのであろう。彼の頭が否《いな》と言っているにもかかわらず、彼の心《しん》臓《ぞう》はたちまち正秀の哀《あい》慟《どう》の声に動かされて、いつか眼の中は涙でいっぱいになった。が、彼が正秀の慟哭を不快に思い、ひいては彼自身の涙をも潔《いさぎよ》しとしないことは、さっきと少しも変りはない。しかも涙はますます眼にあふれてくる――乙《おつ》州《しゆう》はついに両手を膝の上についたまま、思わず嗚《お》咽《えつ》の声を発してしまった。が、この時歔《きよ》欷《き》するらしいけはいをもらしたのは、ひとり乙州ばかりではない。芭《ば》蕉《しよう》の床《とこ》の裾《すそ》の方に控《ひか》えていた、何人かの弟子の中からは、それとほとんど同時に洟《はな》をすする声が、しめやかにさえた座敷の空気をふるわせて、断続しながら聞え始めた。
その惻《そく》々《そく》として悲しい声のうちに、菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》の念《ねん》珠《じゆ》を手《て》頸《くび》にかけた丈《じよう》艸《そう》は、元のごとく静かに席へ返って、あとには其《き》角《かく》や去《きよ》来《らい》と向いあっている、支《し》考《こう》がまくらもとへ進みよった。が、この皮肉屋をもって知られた東《とう》花《か》坊《ぼう*》には周囲の感情に誘《さそ》いこまれて、いたずらに涙を落すような繊《せん》弱《じやく》な神経はなかったらしい。彼はいつもの通り浅黒い顔に、いつもの通り人をばかにしたようなようすを浮べて、さらにまたいつもの通り妙に横《おう》風《ふう》に構えながら、無造作に師匠の脣《くちびる》へ水を塗《ぬ》った。しかし彼といえどもこの場合、もちろん多少の感《かん》慨《がい》があったことは争われない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」――師《し》匠《しよう》は四、五日前に、「かねては草を敷き、土をまくらにして死ぬ自分と思ったが、こういう美しいふとんの上で、往生の素《そ》懐《かい》を遂《と》げることができるのは、何よりもよろこばしい」と繰《く》り返して自分たちに、礼を言われたことがある。が、実は枯《かれ》野《の》のただ中も、この花屋の裏《うら》座《ざ》敷《しき》も、たいした相《そう》違《い》があるわけではない。現にこうして口をしめしている自分にしても、三、四日前までは、師匠に辞世の句がないのを気にかけていた。それから昨日は、師匠の発《ほつ》句《く》を滅《めつ》後《ご》に一集する計画を立てていた。最後に今日は、たった今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその経過に興味でもあるような、観察的な眼でながめていた。もう一歩進めて皮肉に考えれば、事によるとそのながめ方の背後には、他日自分の筆によって書かるべき終《しゆう》焉《えん》記《き》の一節さえ、予想されていなかったとは言えない。してみれば師《し》匠《しよう》の命《めい》終《しゆう》に侍《じ》しながら、自分の頭を支配しているものは、他門への名《みよう》聞《もん》、門弟たちの利害、あるいはまた自分一身の興味打算――皆直接垂《すい》死《し》の師匠とは、関係のないことばかりである。だから師匠はやはり発《ほつ》句《く》の中で、しばしば予想をたくましくした通り、限りない人生の枯《かれ》野《の》の中で、野ざらしになったと言ってさしつかえない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼《いた》まずに、師匠を失った自分たち自身を悼《いた》んでいる。枯野に窮《きゆう》死《し》した先《せん》達《だつ》を歎《なげ》かずに、薄《はく》暮《ぼ》に先達を失った自分たち自身を歎いている。が、それを道徳的に非難してみたところで、本来薄情にでき上がった自分たち人間をどうしよう。――こういう厭世的な感《かん》慨《がい》に沈《しず》みながら、しかもそれに沈み得ることを得意にしていた支《し》考《こう》は、師匠の脣《くちびる》をしめし終って、羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》を元の湯のみへ返すと、涙にむせんでいる門弟たちを、あざけるようにじろりと見まわして、おもむろにまた自分の席へ立ち戻った。人のよい去《きよ》来《らい》のごときは、始めからその冷然とした態度に中《あ》てられ、さっきの不安をいまさらのようにまた新たにしたが、ひとり其《き》角《かく》が妙《みよう》にくすぐったい顔をしていたのは、どこまでも白《はく》眼《がん》で押し通そうとする、東《とう》花《か》坊《ぼう》のこの性行上の習気を、小うるさく感じていたらしい。
支考に続いて惟《い》然《ねん》坊《ぼう》が、墨《すみ》染《ぞめ》の法衣《ころも》の裾《すそ》をもそりと畳《たたみ》へひきながら、小さくはい出した時分には、芭《ば》蕉《しよう》の断《だん》末《まつ》魔《ま》もすでにもう、弾《だん》指《し》の間に迫ったのであろう。顔の色は前よりもさらに血の気を失って、水にぬれた脣の間からも、時々忘れたように息がもれなくなる。と思うとまた、思い出したようにぎくりと喉が大きく動いて、力のない空気が通い始める。しかもその喉《のど》の奥の方で、かすかに二、三度痰《たん》が鳴った。呼吸もしだいに静かになるらしい。その時羽《は》根《ね》楊《よう》子《じ》の白い先を、まさにその脣へ当てようとしていた惟《い》然《ねん》坊《ぼう》は、急に死別の悲しさとは縁《えん》のない、ある恐《きよう》怖《ふ》に襲《おそ》われ始めた。それは師《し》匠《しよう》の次に死ぬものは、この自分ではあるまいかという、ほとんど無理由に近い恐怖である。が、無理由であればあるだけに、ひとたびこの恐怖に襲われ出すと、我《が》慢《まん》にも抵《てい》抗《こう》のしようがない。元来彼は死というと、病的に驚《きよう》悸《き》する種類の人間で、昔からよく自分の死ぬことを考えると、風流の行《あん》脚《ぎや》をしている時でも、総《そう》身《み》に汗《あせ》の流れるような不気味な恐ろしさを経験した。したがってまた、自分以外の人間が、死んだということを耳にすると、まあ自分が死ぬのでなくってよかったと、安心したような心もちになる。と同時にまた、もし自分が死ぬのだったらどうだろうと、反対の不安をも感じることがある。これはやはり芭《ば》蕉《しよう》の場合も例外にはもれないで、始めまだ彼の臨終がこれほど切迫していないうちは、――障《しよう》子《じ》に冬晴れの日がさして、園《その》女《じよ*》の贈《おく》った水仙が、清らかなにおいを流すようになると、一同師匠のまくらもとに集って、病間を慰《なぐさ》める句作などをした時分は、そういう明暗二通りの心もちの間を、その時次第で徘《はい》徊《かい》していた。が、しだいにその終《しゆう》焉《えん》が近づいて来ると――忘れもしない初《はつ》時雨《しぐれ》の日に、自ら好んだ梨《なし》の実さえ、師匠の食べられないようすを見て、心配そうに木《もく》節《せつ》が首《こうべ》を傾けた、あのころから安心はおいおい不安にまきこまれて、最後にはその不安さえ、今度死ぬのは自分かもしれないという険悪な恐怖の影を、うすら寒く心の上にひろげるようになったのである。だから彼はまくらもとへすわって、刻《こく》銘《めい》に師匠の脣をしめしている間じゅう、この恐怖にたたられて、ほとんど末《まつ》期《ご》の芭蕉の顔を正視することができなかったらしい。いや、一度は正視したかとも思われるが、ちょうどその時芭《ば》蕉《しよう》の喉《のど》の中では、痰《たん》のつまる音がかすかに聞えたので、せっかくの彼の勇気も、途中で挫《ざ》折《せつ》してしまったのであろう。「師《し》匠《しよう》の次に死ぬものは、事によると自分かもしれない」――絶えずこういう予感めいた声を、耳の底に聞いていた惟《い》然《ねん》坊《ぼう》は、小さな体をすくませながら、自分の席へ返った後も、無《ぶ》愛《あい》想《そう》な顔をいっそう無愛想にして、なるべく誰《だれ》の顔も見ないように上《うわ》眼《め》ばかりを使っていた。
続いて乙《おつ》州《しゆう》、正《せい》秀《しゆう》、之《し》道《どう》、木《もく》節《せつ》と、病床を囲んでいた門人たちは、順々に師匠の脣《くちびる》をうるおした。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息ごとに細くなって、数さえしだいに減じていく。喉も、もう今では動かない。うす痘痕《いも》の浮んでいる、どこか蝋《ろう》のような小さい顔、はるかな空間を見《み》据《す》えている、光のあせた瞳《ひとみ》の色、そうして頤《おとがい》にのびている、銀のような白い鬚《ひげ》――それが皆人情の冷さに凍《い》てついて、やがておもむくべき寂《じやつ》光《こう》土《ど》をじっと夢みているように思われる。するとこの時、去《きよ》来《らい》の後ろの席に、黙《もく》然《ねん》と頭《こうべ》をたれていた丈《じよう》艸《そう》は、あの老実な禅客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに従って、限りない悲しみと、そうしてまた限りない安らかな心もちとが、おもむろに心の中へ流れこんで来るのを感じ出した。悲しみはもとより説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、あたかも明方の寒い光がしだいに暗《やみ》の中にひろがるような、不思議に朗《ほがらか》な心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雑念を溺《おぼ》らし去って、果ては涙そのものさえも、毫《ごう》も心を刺《さ》す痛みのない、清らかな悲しみに化してしまう。彼は師匠の魂が虚《きよ》夢《む》の生死を超《ちよう》越《えつ》して、常住涅《ね》槃《はん》の宝土に還《かえ》ったのを喜んででもいるのであろうか。いや、これは彼自身にも、肯《こう》定《てい》のできない理由であった。それならば――ああ、誰かいたずらに〓《し》〓《そ》逡《しゆん》巡《じゆん》して、己《おのれ》を欺《あざむ》くの愚《ぐ》をあえてしよう。丈《じよう》艸《そう》のこの安らかな心もちは、久しく芭《ば》蕉《しよう》の人格的圧力の桎《しつ》梏《こく》に、むなしく屈していた彼の自由な精神が、その本来の力をもって、ようやく手足を伸《の》ばそうとする、解放の喜びだったのである。彼はこの恍《こう》惚《こつ》たる悲しい喜びの中に、菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》の念《ねん》珠《じゆ》をつまぐりながら、周囲にすすりなく門弟たちも、眼底を払って去ったごとく、脣《しん》頭《とう》にかすかな笑《えみ》を浮べて、うやうやしく臨終の芭蕉に礼《らい》拝《はい》した。――
こうして、古今に倫《りん》を絶した俳《はい》諧《かい》の大《だい》宗《そう》匠《しよう》、芭《ば》蕉《しよう》庵《あん》松《まつ》尾《お》桃《とう》青《せい》は、「悲《ひ》歎《たん》かぎりなき」門弟たちに囲まれたまま、溘《こう》然《ぜん》として属《しよつ》〓《こう》についたのである。
(大正七年九月)
邪《じや》宗《しゆう》門《もん》
先ごろ大《おお》殿《との》様《さま*》ご一代ちゅうで、いちばん人目をおどろかせた、地《じ》獄《ごく》変《へん》の屏《びよう》風《ぶ》の由来を申し上げましたから、今度は若《わか》殿《との》様《さま》のご生《しよう》涯《がい》で、たった一度の不思議なできごとをお話しいたそうかと存じております。が、その前に一通り、思いもよらない急なご病気で、大殿様がご薨《こう》去《きよ》になった時のことを、あらまし申しあげておきましょう。
あれはたしか、若殿様の十九のお年だったかと存じます。思いもよらない急なご病気とは言うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、お屋《や》形《かた》の空へ星が流れますやら、お庭の紅《こう》梅《ばい》が時ならず一度に花を開きますやら、お廐《うまや》の白《しろ》馬《うま》が一夜のうちに黒くなりますやら、お池の水が見る間に干《ひ》上《あ》がって、鯉《こい》や鮒《ふな》が泥《どろ》の中であえぎますやら、いろいろ凶《わる》い兆《しらせ》がございました。中でもことにそら恐《おそ》ろしく思われたのは、ある女《によう》房《ぼう》の夢《ゆめ》まくらに、良《よし》秀《ひで》の娘《むすめ》の乗ったような、炎《えん》々《えん》と火の燃えしきる車が一輛《りよう》、人《じん》面《めん》の獣《けもの》にひかれながら、天からおりて来たと思いますと、その中からやさしい声がして、「大殿様をこれへお迎《むか》え申せ」と、呼《よば》わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪《あや》しくうなって、頭《かしら》を上げたのをながめますと、夢《ゆめ》現《うつつ》の暗《やみ》の中にも、脣《くちびる》ばかりがなまなましく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総《そう》身《み》はびっしょり冷《ひや》汗《あせ》で、胸さえまるで早《はや》鐘《がね》をつくように躍《おど》っていたとか申しました。でございますから、北の方《かた》をはじめ、私どもまで心を痛めて、お屋《や》形《かた》の門《かど》々《かど》に陰《おん》陽《みよう》師《じ》の護《ご》符《ふ》をはりましたし、有《う》験《げん》の法《ほう》師《し》たちをお召しになって、種々のご祈《き》祷《とう》をお上げになりましたが、これも誠にのがれがたい定《じよう》業《ごう》ででもございましたろう。
ある日――それも雪もよいの、底《そこ》冷《びえ》がする日のことでございましたが、今《いま》出《で》川《がわ*》の大《だい》納《な》言《ごん》様《さま》のお屋形から、お帰りになる御《み》車《くるま》の中で、急に大熱がお発しになり、ご帰館遊ばした時分には、もうただ「あた、あた」とおっしゃるばかり、あまつさえお身《み》のうちは、一面に気味悪く紫《むらさき》だって、お褥《しとね》の白《しろ》綾《あや》も焦《こ》げるかと思う御《み》気《け》色《しき》になりました。もとよりその時もおまくらもとには、法師、医師、陰《おん》陽《みよう》師《じ》などが、皆それぞれに肝《かん》胆《たん》を砕《くだ》いて、必死の力を尽しましたが、お熱はますますはげしくなって、やがて御《おん》床《ゆか》の上までころび出ていらっしゃると、たちまち別人のようなしわがれたお声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙《けぶ》りはいかがいたした」と、狂《くる》おしくおたけりになったまま、わずか三《み》時《とき》ばかりの間に、なんと申し上げることばもない、無残なご最《さい》期《ご》でございます。その時の悲しさ、恐《おそ》ろしさ、もったいなさ――今になって考えましても、蔀《しとみ》に迷っている、護《ご》摩《ま》の煙《けぶり》と、右《う》往《おう》左《さ》往《おう》に泣き惑《まど》っている女《によう》房《ぼう》たちの袴《はかま》の紅《あけ》とが、あの茫《ぼう》然《ぜん》とした験《げん》者《ざ》や術師たちの姿といっしょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんでお話をいたすのさえ、涙が先に立ってしかたがございません。が、そういう思い出のうちでも、あのお年若な若《わか》殿《との》様《さま》が、少しも取乱したごようすをお見せにならず、ただ、青ざめたお顔を曇《くも》らせながら、じっと大《おお》殿《との》様《さま》のおまくらもとにすわっていらしったことを考えると、なぜかまるでとぎすました焼《やき》刃《ば》のにおいでもかぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼《たの》もしい、妙《みよう》な心もちがいたすのでございます。
ご親《しん》子《し》の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間ぐらい、ごようすから性質まで、うらうえなのもまれでございましょう。大殿様はご承知の通り、大《だい》兵《ひよう》肥《ひ》満《まん》でいらっしゃいますが、若殿様は中背の、どちらかと申せばやせぎすなお生れだちで、ご容貌《きりよう》も大殿様のどこまでも男らしい、神将のようなおもかげとは、似《に》もつかないお優しさでございます。これはあのお美しい北の方《かた》に、瓜《うり》二《ふた》つとでも申しましょうか。眉《まゆ》の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖《くせ》のある、女のようなお顔だちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈《しず》んだ影がひそんでいて、ことにご装《しよう》束《ぞく》でも召しますと、ごりっぱと申しますより、ほとんど神《かみ》寂《さび》ていると申し上げたいくらい、いかにももの静かなご威《い》光《こう》がございました。
が、大殿様と若殿様が、取り分け違っていらしったのは、どちらかと言えば、ご気象のほうで、大殿様のなさることは、すべてが豪《ごう》放《ほう》で、雄大で、なんでも人《ひと》目《め》を驚《おどろ》かさなければやまないというお勢いでございましたが、若殿様のお好みは、どこまでも繊《せん》細《さい》で、またどこまでも優《ゆう》雅《が》な趣《おもむき》がございましたように存じております。たとえば大殿様のお心もちが、あの堀川の御《ご》所《しよ》にうかがわれます通り、若殿様が若《にやく》王《おう》子《じ》にお造りになった竜《たつ》田《た》の院は、ご規《き》模《ぼ》こそ小そうございますが、菅《かん》相《しよう》丞《じよう》のお歌《*》をそのままな、紅葉《もみじ》ばかりのお庭と申し、そのお庭を縫《ぬ》っている、清らかな一すじの流れと申し、あるいはまたその流れへお放しになった、何羽とも知れない白《しら》鷺《さぎ》と申し、一つとして若《わか》殿《との》様《さま》の奥ゆかしいお思《おぼ》し召《め》しのほどが、現れていないものはございません。
そういう次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武《ぶ》張《ば》ったことをお好みになりましたが、若殿様はまた詩歌《しいか》管《かん》絃《げん》を何よりもお喜びなさいまして、その道々の名人上手とは、ご身分の上下もお忘れになったような、隔《へだ》てないおつき合いがございました。いや、それもただ、そういうものがお好きだったと申すばかりでなく、ご自分も永年お心を諸芸の奥《おう》秘《ひ》にお潜《ひそ》めになったので、笙《しよう》こそお吹きになりませんでしたが、あの名高い帥《そちの》民《みん》部《ぶ》卿《きよう*》以来、三《さん》舟《しゆう》に乗るもの《*》は、若殿様お一人であろうなどと、うわさのあったほどでございます。でございますから、お家の集《しゆう》にも、若殿様の秀句や名歌が、今にたくさん残っておりますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良《よし》秀《ひで》が五《ご》趣《しゆ》生《しよう》死《じ》の図を描《か》いた竜《りゆう》蓋《がい》寺《じ*》の仏事の節、二人の唐《から》人《びと》の問答をお聞きになって、お詠《よ》みになった歌でございましょう。これはその時磬《うちならし》の模様に、八《はち》葉《よう》の蓮《れん》華《げ》をはさんで二羽の孔《く》雀《じやく》が鋳《い》つけてあったのを、その唐人たちがながめながら、「捨《しや》身《しん》惜《しやく》花《か》思《し》」という一人の声の下から、もう一人が「打《だ》不《ふ》立《りゆう》有《う》鳥《ちよう》」と答えました――その意味合いが解《げ》せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮《せん》議《ぎ》立てをしておりますと、それをお聞きになった若殿様が、お持ちになった扇《おうぎ》の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へお遣《つかわ》しになった歌でございます。
身をすてて花を惜《お》しやと思ふらむ打てども立たぬ鳥もありけり
大《おお》殿《との》様《さま》と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまたお二《ふた》方《かた》の御《おん》仲《なか》にも、そぐわないところがあったようでございます。これにも世間にはとかくのうわさがございまして、中にはご親《しん》子《し》で、同じ宮《みや》腹《ばら》の女《によう》房《ぼう》をお争いになったからだなどと、申すものもございますが、もとよりそのようなばかげたことがあろうはずはございません。なんでも私の覚えております限りでは、若殿様が十五、六のお年に、もうお二方の間には、ご不和の芽がふいていたようにお見受け申しました。これが前にもちょいと申しあげておきました、若殿様が笙《しよう》だけをお吹きにならないという、そのいわれに縁《えん》のあることなのでございます。
そのころ、若殿様はたいそう笙をお好みで、遠縁の従兄《いとこ》にお当りなさる中《なか》御《み》門《かど》の少《しよう》納《な》言《ごん》に、お弟《で》子《し》入《いり》をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽《が》陵《りよう*》と言う名高い笙と、大食調入食調《だいじきちようにゆうしきちよう*》の譜《ふ》とを、代々お家にお伝えになっていらっしゃる、その道でも稀《き》代《だい》の名人だったのでございます。
若殿様はこの少納言のお手もとで、長らく切《せつ》磋《さ》琢《たく》磨《ま》の功をお積みになりましたが、さてその大食調入食調の伝授をお望みになりますと、少納言はどう思《おぼ》し召《め》したのか、この仰《おお》せばかりはお聞き入れになりません。それが再三押してお頼《たの》みになっても、やはりご満足のいくようなご返事がなかったので、お年若な若《わか》殿《との》様《さま》は、一方ならず残念に思《おぼ》し召《め》したのでございましょう。ある日大殿様の双《すご》六《ろく》のお相手をなすっていらっしゃる時に、ふとそのご不満をおもらしになりました。すると大殿様はいつものようにおうようにお笑いになりながら、「そう不平は言わぬものじゃ。やがてはその譜《ふ》も手にはいる時節があるであろう」と、やさしくお慰《なぐさ》めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたないある日のこと、中《なか》御《み》門《かど》の少《しよう》納《な》言《ごん》は、堀川のお屋《や》形《かた》の饗《さかもり》へおいでになった帰りに、にわかに血を吐《は》いて、お歿《なくな》りになってしまいました。が、それはまず、よろしいといたしましても、その明くる日、若殿様が何気なくお居間へおいでになると、螺《ら》鈿《でん》を鏤《ちりば》めたお机の上に、あの伽《が》陵《りよう》の笙《しよう》と大《だい》食《じき》調《ちよう》入《にゆう》食《しき》調《ちよう》の譜《ふ》が、誰《だれ》が持って来たともなく、ちゃんと載《の》っていたと申すではございませんか。
その後《のち》また大殿様が若殿様をお相手に双六をお打ちになった時、
「このごろは笙もいちだんと上達いたしたであろうな」と、念を押すようにおっしゃると、若殿様は静かに盤《ばん》面《めん》をおながめになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かないことにいたしました」と、冷かにお答えになりました。
「なんとしてまた、吹かぬことにいたしたな」
「いささかながら、少納言の菩《ぼ》提《だい》を弔《とむら》おうと存じますから」
こうおっしゃって若殿様は、じっと父上のお顔をお見つめになりました。が、大殿様はまるでそのお声が聞えないように勢いよく筒《とう》を振りながら、
「今度もこのほうが無《む》地《じ》勝《がち》らしいぞ」とさりげないようすで勝負をお続けになりました。でございますからこのご問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、ご親《しん》子《し》の御《おん》仲《なか》には、この時からあるおもしろくない心もちが、はさまるようになったかと存ぜられます。
それから大《おお》殿《との》様《さま》のお隠《かく》れになる時まで、ご親子の間には、まるで二羽の蒼《あお》鷹《たか》が、互《たが》いに相手をうかがいながら、空を飛びめぐっているような、ちっとのすきもないにらみ合いがずっと続いておりました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧《けん》嘩《か》口《こう》論《ろん》のたぐいが、大《だい》おきらいでございましたから、大殿様のご所《しよ》業《ぎよう》に向っても、楯《たて》をおつきになどなったことは、ほとんど一度もございません。ただ、そのたびに皮肉なご微《び》笑《しよう》を、あの癖《くせ》のあるお口もとにちらりとお浮べになりながら、一《ひと》言《こと》二《ふた》言《こと》鋭いご批判をお漏《も》らしになるばかりでございます。
いつぞや大殿様が、二条大宮の百《ひやつ》鬼《き》夜《や》行《ぎよう》にお遇《あ》いになっても、格別お障りのなかったことが、洛《らく》中《ちゆう》洛《らく》外《がい》の大評判になりますと、若殿様は私にお向いになりまして、「鬼《き》神《じん》が鬼神に遇《お》うたのじゃ。父上のお身《み》に害がなかったのは、不思議もない」と、さもおかしそうにおっしゃいましたが、その後また、東三条の河原《かわらの》院《いん》で、夜な夜な現れる融《とおる》の左大臣の亡《ぼう》霊《れい》を、大殿様が一《いつ》喝《かつ》しておしりぞけになった時も、若殿様は例の通り、脣《くちびる》をゆがめてお笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んでおられたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足りぬと思われて、消えうせられたに相《そう》違《い》ない」と、おっしゃったのを覚えております。
それがまた大《おお》殿《との》様《さま》には、何よりもお耳に痛かったとみえまして、ふとした拍《ひよう》子《し》に、こういう若殿様のおことばが、お聞きに達することでもございますと、上《うわ》べは苦笑いにお紛《まぎら》わしなすっても、ご心中のお怒《いか》りはありありとお顔に読まれました。現に内《だい》裡《り》の梅《うめ》見《み》の宴《えん》からのお帰りに、大殿様の御《み》車《くるま》の牛がそれて、往来の老人にけがさせた時、その老人がかえって手を合せて、権《ごん》者《じや》のような大殿様の御《み》牛《うし》にかけられた冥《みよう》加《が》のほどを、ありがたがったことがございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛《うし》飼《か》いの童子にお向いなさりながら、「そのほうはうつけものじゃな。所《しよ》詮《せん》牛をそらすくらいならば、なぜ車の輪にかけて、あの下《げ》司《す》をひき殺さぬ。けがをしてさえ、手を合せて、随《ずい》喜《き》するほどの老爺《おやじ》じゃ。轍《わだち》の下に往生を遂《と》げたら、聖《しよう》衆《じゆ》の来《らい》迎《ごう》を受けたにも増して、ありがたく心得たに相《そう》違《い》ない。されば父上の御《ご》名《めい》誉《よ》も、いちだんとあがろうものを。さりとは心がけの悪い奴《やつ》じゃ」と、おっしゃったものでございます。その時の大殿様のごきげんの悪さと申しましたら、今にもお手の扇《おうぎ》が上がって、ご折《せつ》檻《かん》ぐらいはお加えになろうかと、私ども一同が胆《きも》を冷すほどでございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せてお笑いになりながら、
「父上、父上、そうお腹だち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入っておるようでございます。この後《のち》ともせいぜい心にかけましたら、今度こそはりっぱに人一人ひき殺して、父上の御名誉を震《しん》旦《たん》までも伝えることでございましょう」と、そ知らぬ顔でおっしゃったものでございますから、大殿様もとうとう我をお折りになったとみえて、苦《にが》い顔をなすったまま、何事もなくお立ちになってしまいました。
こういうお間がらでございましたから、大《おお》殿《との》様《さま》のご臨終を、じっとお目守《まも》りになっていらっしゃる若殿様のお姿ほど、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時のことを考えますと、まるでとぎすました焼《やき》刃《ば》のにおいをかぐような、身にしみてひやりとする、と同時にまたなんとなく頼《たの》もしい、妙《みよう》な心もちがいたしたことは、先刻もうお耳に入れておきました。まことにその時の私どもには、心からご代《だい》替《がわ》りがしたという気が、――それもお屋《や》形《かた》の中ばかりでなく、一《いつ》天《てん》下《か》にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、あわただしい気がいたしたのでございます。
でございますから若殿様が、ご家《か》督《とく》をお取りになったその日のうちから、お屋形の中へはどこからともなく、今までにないのどかな景《け》色《しき》が、春《しゆん》風《ぷう》のように吹きこんで参りました。歌《うた》合《あわ》せ《*》、花合せ《*》、あるいは艶《えん》書《しよ》合《あわ》せなどが、以前にも増してたびたびお催《もよお》しになられたのは、申すまでもございますまい。それからまた、女《によう》房《ぼう》たちをはじめ、侍《さむらい》どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、もとよりのことでございます。が、ことに以前と変ったのは、お屋形のお客においでになる上《うえ》つ方《がた》のお顔ぶれで、今はいかに時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、めったに若殿様のお眼にはかかれません。いや、たといお眼にかかれたのにしても、おいでになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがにお身をおはじになって、自然おみ足が遠くなってしまうのでございます。
その代りまた、詩歌《しいか》管《かん》絃《げん》の道に長じてさえおりますれば、無位無官の侍《さむらい》でも、身に余るようなごほうびを受けたことがございます。たとえば、ある秋の夜に、月の光が格子にさして、機《はた》織《お》りの声がいたしておりました時、ふと人をお召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思《おぼ》し召《め》したのか、急にその侍にお向いなすって、
「機織りの声がいたすのは、そのほうにも聞えような。これを題に一首仕《つかまつ》れ」と、お声がかりがございました。するとその侍は下《しも》にいて、しばらく頭《かしら》を傾けておりましたが、やがて、「青《あお》柳《やぎ》の」と、初の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、おかしかったのでございましょう。女《によう》房《ぼう》たちの間には、忍《しの》び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織りぞ啼《な》く」と、さわやかに詠《えい》じますと、たちまちそれは静まり返って、萩《はぎ》模《も》様《よう》のある直垂《ひたたれ》を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出してくださいました。実はその侍と申しますのが、私の姉の一人息子で、若《わか》殿《との》様《さま》とは、ほぼご年《ねん》輩《ぱい》も同じくらいな若者でございましたが、これをご奉《ほう》公《こう》の初めにして、その後《のち》もたびたびありがたいご懇《こん》意《い》を受けたのでございます。
まず、若殿様のご平《へい》生《ぜい》は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方《かた》もお迎《むか》えになりましたし、年々の除《じ》目《もく》にはご官位もお進みになりましたが、そういうことは世上の人も、よく存じていることでございますから、ここにはとり立てて申しあげません。それよりも先を急ぎますから、最初にお約《やく》束《そく》いたしました通り、若殿様のご一生に、たった一度しかなかったという、不思議なできごとのお話へはいることにいたしましょう。と申しますのは、大《おお》殿《との》様《さま》とはお違いになって、天《あめ》が下《した》の色ごのみなどという御《おん》渾《あだ》名《な》こそ、お受けになりましたが、まことにご無事なご生《しよう》涯《がい》で、そのほかには何一つ、人口に膾《かい》炙《しや》するようなご逸《いつ》事《じ》と申すのも、なかったからでございます。
そのお話のそもそもは、たしか大殿様がお隠《かく》れになってから、五、六年たったころでございますが、ちょうどその時分若殿様は、前に申しあげました中《なか》御《み》門《かど》の少《しよう》納《な》言《ごん》様《さま》のお一人娘《むすめ》で、評判の美しいお姫《ひめ》様《さま》へ、しげしげお文《ふみ》を書いていらっしゃいました。ただいまでもあのころのご熱心だったうわさが、私どもの口からもれますと、若殿様はいつも晴《はれ》々《ばれ》とお笑いになって、
「爺《じい》よ。天が下は広しと言え、あのころの予が夢《む》中《ちゆう》になって、つたない歌や詩を作ったのは皆、恋《こい》がさせたわざじゃ。思えば狐《きつね》の塚《つか》を踏《ふ》んで、物に狂《くる》うたのも同然じゃな」と、まるでご自分をあざけるように、洒《しや》落《らく》としてこうおっしゃいます。が、全く当時の若殿様は、それほどご平《へい》生《ぜい》に似《に》もやらず、恋《れん》慕《ぼ》三《ざん》昧《まい》にふけっておいでになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様お一人に限ったことではございません。あのころの年若な殿《てん》上《じよう》人《びと》で中《なか》御《み》門《かど》のお姫様に想いをかけないものと言ったら、おそらくお一方もございますまい。あの方が阿《お》父《とう》様《さま》の代から、ずっとお住みになっていらっしゃる、二条西《にしの》洞《とう》院《いん》のお屋《や》形《かた》のまわりには、そういう色好みの方々が、あるいは車をお寄せになったり、あるいはご自身お拾いでおいでになったり、絶えずお通い遊ばしたものでございます。中には一《いち》夜《や》のうちに二人まで、あのお屋《や》形《かた》の梨《なし》の花の下で、月に笛《ふえ》を吹いている立《たて》烏《え》帽《ぼ》子《し》があったと言ううわさも、聞き及んだことがございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅《すが》原《わら》雅《まさ》平《ひら》とかおっしゃる方も、このお姫《ひめ》様《さま》に恋《こい》をなすって、しかもその恋がかなわなかったお恨《うら》みから、にわかに世をお捨てになって、ただいまでは筑《つく》紫《し》の果に流《る》浪《ろう》しておいでになるとやら、あるいはまた東海の波を踏《ふ》んで唐土《もろこし》にお渡りになったとやら、皆《かい》目《もく》おゆくえが知れないと申すことでございます。この方などは若《わか》殿《との》様《さま》とも、詩文のお交りの深かったお一人で、ご消息などをなさる時は、若殿様を楽《らく》天《てん》に、ご自分を東《とう》坡《ば*》に比していらしったそうでございますが、そういう風流第一の才子が、いかに中《なか》御《み》門《かど》のお姫様はお美しいのにいたしましても、いったんのお歎《なげ》きからご生《しよう》涯《がい》を辺土にお送りなさいますのは、ご不覚と申し上げるよりほかはございますまい。
が、また翻《ひるがえ》って考えますと、これもご無理がないと思われるくらい、中御門のお姫様とおっしゃる方は、お美しかったのでございます。私が一両度お見かけ申しました限りでも、柳《やなぎ》桜《さくら》をまぜて召して、錦《にしき》に玉を貫いたきらびやかな裳《も》の腰を、大《おお》殿《との》油《あぶら》の明るい光に、お輝《かがや》かせになりながら、御《おん》〓《まぶた》も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかなお姿は一生忘れようもございますまい。しかもこのお姫様はご気象もなみなみならずご濶《かつ》達《たつ》でいらっしゃいましたから、なまじいな殿《てん》上《じよう》人《びと》などは、思《おぼ》し召《め》しにかなうどころか、すぐに本《ほん》性《しよう》をお見《み》透《とお》しになって、とんとご寵《ちよう》愛《あい》の猫《ねこ》も同様、さんざんおなぶりになった上、二度とふたたびお膝《ひざ》もとへもよせつけないようになすってしまいました。
でございますからこのお姫《ひめ》様《さま》に、想いをかけていらしった方々の間には、まるで竹《たけ》取《とり》物語の中にでもありそうな、おかしいことがたくさんございましたが、中でもいちばんおきのどくだったのは京《きよう》極《ごく》の左《さ》大《だい》弁《べん》様《さま》で、この方は京《きよう》童《わらんべ》が鴉《からす》の左大弁などと申し上げたほど、顔色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中《なか》御《み》門《かど》のお姫様を恋《こ》い慕《した》っていらっしゃいました。ところがこの方はおりこうだと同時に、気の小さいご性質だったとみえまして、いかにお姫様をなつかしく思《おぼ》し召《め》しても、ご自分のほうからそれとはお打ち明けなすったこともございませんし、もとよりまたご同《どう》輩《はい》の方にも、ついぞそれらしいことを口に出して、おっしゃったためしはございません。しかし忍《しの》び忍びにお姫様のお顔を拝みに参りますことは、隠《かく》れないことでございますから、ある時、それを枷《かせ》にして、ご同輩の誰《だれ》彼《かれ》が、手を換《か》え品を換え、いろいろと問い落そうとおかかりになりました。すると鴉《からす》の左《さ》大《だい》弁《べん》様《さま》は、苦しまぎれのご一策に、
「いや、あれは何も私が想いをかけているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風《ふ》情《ぜい》を見せられるので、ついつい足がしげくなるのだ」と、こうお逃《に》げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようというできごころから、お姫様からいただいたお文《ふみ》の文句や、お歌などを、あることもないことも皆いっしょに取りつくろって、さもお姫様の方が心を焦《こが》していらっしゃるように、お話しになったからたまりません。もとよりいたずら好きなご同《どう》輩《はい》たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、さっそくお姫様の偽《にせ》手紙をこしらえて、おりから藤《ふじ》の枝か何かにつけたまま、それを左《さ》大《だい》弁《べん》様《さま》のもとへおとどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸をとどろかせながら、あわててお文《ふみ》をあけて見ますと、思いもよらずお姫《ひめ》様《さま》は、いかに左大弁様を思いわびてもとんとつれなくおもてなしになるから、所《しよ》詮《せん》かなわぬ恋とあきらめて、尼《あま》法《ほう》師《し》の境《きよう》涯《がい》にはいるということが、いかにももの哀《あわ》れに書いてあるではございませんか。まさかそうまでお姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢《ゆめ》にも思《おぼ》し召《め》さなかったのでございますから、鴉《からす》の左大弁様は悲しいとも、うれしいともつかないお心もちで、しばらくはただ、茫《ぼう》然《ぜん》とお文を前にひろげたまま、ため息をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、お眼にかかって、今まで胸にひそめていた想いのほども申し上げようと、こう思し召したのでございましょう。ちょうど五月雨《さみだれ》の暮《くれ》方《がた》でございましたが、童子を一人お伴《とも》におつれになって、傘《おおかさ》をかざしながら、ひそかに二条西《にしの》洞《とう》院《いん》のお屋《や》形《かた》まで参りますと、ご門は堅《かた》くとざしてあって、いくら音なってもたたいても、あける気《け》色《しき》はございません。そうこうするうちに夜になって、人の往《ゆき》来《き》もまれな築《つい》土《じ》路《みち》には、ただ、蛙《かわず》の声が聞えるばかり、雨はますます降りしきって、お召物もぬれれば、お眼もくらむという情ない次第でございます。
それがほど経てから、ご門のとびらが、やっと開いたと思いますと、平《へい》太夫《だゆう》と申します私ぐらいの老《おい》侍《ざむらい》が、これも同じような藤の枝にお文を結んだのを渡したなり、無言でまた、そのとびらをぴたりとしめてしまいました。
そこで泣く泣くお立ち帰りになって、そのお文《ふみ》をあけてご覧になると、一首の古歌がちらし書きにあるだけで、一言もほかにはおたよりがございません。
思へども思はずとのみ言ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは言うまでもなくお姫《ひめ》様《さま》が、いたずら好きの若《わか》殿《との》ばらから、細《こま》々《ごま》とご消息で、鴉《からす》の左《さ》大《だい》弁《べん》様《さま》の心なしをご承知になっていたのでございます。
こうお話しいたしますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、このお姫様のご行《ぎよう》状《じよう》を、うそのように思《おぼ》し召《め》す方もいらっしゃいましょうが、現在私がご奉《ほう》公《こう》いたしている若殿様のことを申し上げながら、何もそのようなそらごとをさし加えよう道理はございません。そのころ洛《らく》中《ちゆう》で評判だったのは、このお姫様ともうお一方、これは虫が大お好きで、長《なが》虫《むし》までもお飼《か》いになったと言う、不思議なお姫様《*》がございました。このあとのお姫様のことは、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中《なか》御《み》門《かど》のお姫様は、なにしろご両親ともお隠《かく》れになって、お屋《や》形《かた》にはただ、先刻お耳に入れました平《へい》太夫《だゆう》を頭《かしら》にして、お召使の男《なん》女《によ》がおりますばかり、それにご先代からご有福で、何ご不自由もございませんでしたから、自然お美しいのと、ご闊《かつ》達《たつ》なのとにお任せなすって、ずいぶん世を世とも思わない、ご放《ほう》胆《たん》なまねもなすったのでございます。
そこでうわさを立てやすい世間には、このお姫《ひめ》様《さま》ご自身が、実は少《しよう》納《な》言《ごん》の北の方《かた》と大《おお》殿《との》様《さま》との間にお生まれなすったので、父君のお隠《かく》れなすったのも、恋《こい》の遺《い》恨《こん》で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩《やから》も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急にお歿《な》くなりになったお話は、前に一応申し上げました通り、さらにそのような次第ではございませんから、そのうわさは申すまでもなく、皆跡《あと》方《かた》のないうそでございます。さもなければ若殿様も、けっしてあれほどまではお姫様へ、心をお寄せにはなりますまい。
なんでも私が人づてに承りましたところでは、初めはいくら若殿様のほうでご熱心でも、お姫様はかえって誰《だれ》よりも、すげなくおもてなしになったとか申すことでございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様のお文《ふみ》を持って上がった私の甥《おい》に、あの鴉《からす》の左《さ》大《だい》弁《べん》様《さま》同様、どうしてもご門のとびらをおあけにならなかったとかでございました。しかもあの平《へい》太夫《だゆう》が、なぜか堀川のお屋《や》形《かた》のものを仇《かたき》のように憎《にく》みまして、その時も梨《なし》の花に、うらうらと春《はる》日《び》がにおっている築《つい》土《じ》の上から白髪《しらが》頭《あたま》をあらわして、檜皮《ひわだ》の狩《かり》衣《ぎぬ》の袖《そで》をまくりながら、推してもご門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼《ひる》盗人《ぬすつと》か。盗人とあれば容《よう》赦《しや》はせぬ。一足でも門内にはいったが最《さい》期《ご》、平太夫が太《た》刀《ち》にかけて、まっ二つに斬《き》って捨てるぞ」と、かみつくようにわめきました。もしこれが私でございましたら、刃《にん》傷《じよう》沙《ざ》汰《た》にも及んだことでございましょうが、甥はただ、道ばたの牛の糞《まり》を礫《つぶて》代《がわ》りに投げつけただけで、帰って来たと申しておりました。かような次第でございますから、もとよりお文《ふみ》が無事にお手もとにとどいても、とんとご返事と申すものはいただけません。が、若《わか》殿《との》様《さま》は、いっこうそれにもごとんじゃくなく、三日にあげず、お文やらお歌やら、あるいはまたけっこうな絵巻やらを、およそものの三月あまりも、根気よくお遣《つかわ》しになりました。さればこそ、日ごろもおっしゃる通り、「あのころの予が夢《む》中《ちゆう》になって、つたない歌や詩を作ったのは、皆恋《こい》がさせたわざじゃ」に、少しも違《ちが》いはなかったのでございます。
ちょうどそのころのことでございます。洛《らく》中《ちゆう》に一人の異《い》形《ぎよう》な沙《しや》門《もん》が現れまして、とんと今までに聞いたことのない、摩《ま》利《り》の教《おしえ*》と申すものを説きひろめ始めました。これも一時ずいぶん評判でございましたから、中にはお聞き及びの方もいらっしゃることでございましょう。よくものの草紙などに、震《しん》旦《たん》から天《てん》狗《ぐ》が渡ったと書いてありますのは、ちょうどあの染《そめ》殿《どの》のお后《きさき》に鬼《おに》が憑《つ》いたなどと申します通り、この沙門のことをたとえて言ったのでございます。
そう申せば私がはじめてその沙門を見ましたのも、やはりそのころのことでございました。たしか、ある花《はな》曇《ぐも》りの日の昼《ひる》中《なか》だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神《しん》泉《せん》苑《えん》の外を通りかかりますと、あすこの築《つい》土《じ》を前にして、揉《もみ》烏《え》帽《ぼ》子《し》やら、立《たて》烏《え》帽《ぼ》子《し》やら、あるいはまたもの見高い市《いち》女《め》笠《がさ》やらが、数にしておよそ二、三十人、中には竹馬にまたがった童部《わらべ》も交って、皆一かたまりになりながら、ののしり騒《さわ》いでいるのでございます。さてはまた、福徳の大《おお》神《かみ》にたたられた物《もの》狂《ぐる》いでも踊《おど》っているか、さもなければうかつな近江《おうみ》商人《あきゆうど》が、魚《うお》盗《ぬす》人《びと》に荷でもさらわれたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰《ぎよう》々《ぎよう》しいので、何《なに》気《げ》なく後ろからそっとのぞきこんで見ますと、思いもよらずそのまん中には、乞《こつ》食《じき》のような姿をした沙《しや》門《もん》が、何かしきりにしゃべりながら、見慣れぬ女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の画《え》像《すがた》を掲げた旗ざおを片手につき立てて、たたずんでいるのでございました。年のころはかれこれ三十にも近うございましょうか、色の黒い、眼のつり上がった、いかにもすさまじい面《つら》がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨《すみ》染《ぞめ》の法衣《ころも》でございますが、渦《うず》を巻いて肩《かた》の上までたれ下がった髪《かみ》の毛と申し、頸《くび》にかけた十文字の怪《あや》しげな黄金《こがね》の護《ご》符《ふ》と申し、もとより世の常の法《ほう》師《し》ではございますまい。それが、私ののぞきました時は、流れ風に散る神《しん》泉《せん》苑《えん》の桜の葉を頭から浴びて、全く人間というよりも、あの智《ち》羅《ら》永《えい》寿《じゆ》の眷《けん》属《ぞく》が、鳶《とび》の翼《つばさ》を法衣の下に隠しているのではないかと思うほど、怪《あや》しい姿に見うけられました。
するとその時、私のそばにいた、たくましい鍛《か》冶《じ》か何かが、すばやく童部《わらべ》の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地《じ》蔵《ぞう》菩《ぼ》薩《さつ》を天《てん》狗《ぐ》だなどとぬかしたな」と、かみつくようにわめきながら、斜《はす》に相手の面《おもて》を打ち据《す》えました。が、打たれながらも、その沙門は、にやりと気味の悪い微《び》笑《しよう》をもらしたまま、いよいよ高く女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の画《え》像《すがた》を落花の風に翻《ひるがえ》して、
「たとい今《こん》生《じよう》では、いかなる栄《えい》華《が》をきわめようとも、天上皇帝の御《み》教《おしえ》にもとるものは、いったん命《めい》終《しゆう》の時に及んで、たちまち阿《あ》鼻《び》叫《きよう》喚《かん》の地《じ》獄《ごく》に堕《お》ち、不断の業《ごう》火《か》に皮肉を焼かれて、尽《じん》未《み》来《らい》まで吠《ほ》えおろうぞ。ましてその天上皇帝の遺《のこ》された、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》に笞《しもと》を当つるものは、命終のときとも申さず、明日《あす》が日にも諸天童子の現《げん》罰《ばつ》をこうむって、白《びやく》癩《らい》の身となり果てるぞよ」と、しかりつけたではございませんか。この勢いに気をのまれて、私はもとより当の鍛《か》冶《じ》まで、しばらくはただ、竹馬を戟《ほこ》にしたまま、狂《くる》おしい沙《しや》門《もん》のふるまいを、あきれてじっと見守っておりました。
一〇
が、それはほんのわずかの間《ま》で、鍛冶はまた竹馬をとり直しますと、
「まだ雑《ぞう》言《ごん》をやめおらぬか」と、恐《おそ》ろしいけんまくでののしりながら、やにわに沙門へとびかかりました。
もとよりその時は私はじめ、誰《だれ》でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面《おもて》を打ち据《す》えたと、思わなかったものはございません。いや、実際竹馬は、あの日の焦《や》けた頬《ほお》に、もう一すじみみずばれの跡《あと》を加えたようでございます。が、横なぐりに打ちおろした竹馬が、まだ青い笹《ささ》の葉に落花をはらったと思うが早いか、いきなり大《だい》地《ち》にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、かんじんの鍛冶のほうでございました。
これにへきえきした一同は、思わず逃《にげ》腰《ごし》になったのでございましょう。揉《もみ》烏《え》帽《ぼ》子《し》も立《たて》烏《え》帽《ぼ》子《し》もいくじなく後ろを見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲《てん》癇《かん》病《や》みのように白い泡《あわ》さえもふいております。沙門はしばらくその呼吸をうかがっているようでございましたが、やがてその瞳《ひとみ》を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの言うたことに、偽《いつわ》りはなかったろうな。諸天童子は即《そく》座《ざ》にこの横《おう》道《どう》者《もの》を、目に見えぬ剣《つるぎ》で打たせ給うた。まだしも頭《かしら》がみじんに砕《くだ》けて、都《みやこ》大《おお》路《じ》に血をあやさなんだのが、時にとってのしあわせと言わずばなるまい」と、さもおうへいに申しました。
するとその時でございます。ひっそりと静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童部《わらべ》が一人、切《きり》禿《かむろ》の髪《かみ》を躍《おど》らせながら、倒れている鍛《か》冶《じ》のかたわらへ、ころがるように走り寄ったのは。
「阿《お》父《とつ》さん。阿父さんてば。よう。阿父さん」
童部はこう何度もわめきましたが、鍛冶はさらに正《しよう》気《き》にかえる気《け》色《しき》もございません。あの脣《くちびる》にたまった泡《あわ》さえ、相変らず花《はな》曇《ぐも》りの風に吹かれて、白く水《すい》干《かん》の胸へたれております。
「阿父さん。よう」
童部はまたこう繰《く》り返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、たちまち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙《しや》門《もん》を目がけてけなげにも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画《え》像《すがた》の旗ざおで、事もなげに払《はら》いながら、またあの気味の悪い笑《えみ》をもらしますと、わざと柔《やさ》しい声を出して、
「これはめっそうな。お主の父《てて》親《おや》が気を失ったのは、この摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》がなせるわざではないぞ。さればわしをくるしめたとて、父親が生きて返ろう次第はない」と、たしなめるように申しました。
その道理が童部に通じたと言うよりは、所《しよ》詮《せん》この沙《しや》門《もん》と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛《か》冶《じ》の小《こ》伜《せがれ》は、五、六度竹馬を振りまわしたあとで、べそをかいたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。
一一
摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》はこれを見ると、またにやにやほほえみながら、童部《わらべ》のかたわらへ歩みよって、
「さてもお主《ぬし》は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そうおとなしくしておれば、諸天童子もお主《ぬし》にめでて、ほどなくそこな父《てて》親《おや》も正《しよう》気《き》にかえしてくだされよう。わしもこれから祈《き》祷《とう》しようほどに、お主もわしを見《み》慣《な》ろうて、天上皇帝のお慈《じ》悲《ひ》におすがり申したがよかろうぞ」
こう言うと沙門は旗ざおを大きく両腕にいだきながら、大《おお》路《じ》のただ中にひざまずいて、うやうやしげに頭をたれました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀《だ》羅《ら》尼《に》のようなものを、声《こわ》高《だか》に誦《ず》し始めました。それがどのくらいつづいたことでございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加《か》持《じ》のしかたをながめている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われるほどでございましたが、やがて沙門が眼を開《ひら》いて、ひざまずいたなり伸《の》ばした手を、鍛冶の頭の上へさしかざしますと、見る見るうちにその顔が、暖かく血の色を盛り返して、やがて苦しそうなうなり声さえ、例の泡《あわ》だらけな口の中から、ひとしきり長くあふれて参りました。
「やあ、阿《お》父《とつ》さんが、生き返った」
童部《わらべ》は竹馬をほうり出すと、うれしそうに小《こ》躍《おど》りして、また父親のかたわらへ走りよりました。が、その手で抱《だ》き起されるまでもなく、うなり声をもらすとほとんど同時に、鍛《か》冶《じ》はまるで酒にでも酔《よ》ったかと思うような、おぼつかない身のこなしで、おもむろに体を起しました。すると沙《しや》門《もん》はさも満足そうに、自分も悠《ゆう》然《ぜん》と立ち上がって、あの女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の画《え》像《すがた》を親子のものの頭《かしら》の上に、日をおおうごとくさしかざすと、
「天上皇帝のご威《い》徳《とく》は、この大空のように広大無辺じゃ。なんと信を起されたか」と、おごそかにこう申しました。
鍛冶の親子は互いにしっかりいだき合いながら、まだ土の上にうずくまっておりましたが、沙門の法《ほう》力《りき》の恐《おそ》ろしさには、魂《たましい》も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢《はた》を仰《あお》ぎますと、二人とも殊《しゆ》勝《しよう》げな両手を合せて、わなわな震《ふる》えながら、礼《らい》拝《はい》いたしました。と思うとつづいて二、三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠《かさ》をぬいだり、烏《え》帽《ぼ》子《し》を直したりして、画像を拝んだものがおったようでございます。ただ私はなんとなく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔《ま》界《かい》の風に染んでいるような、いまわしい気がいたしましたから、鍛冶が正《しよう》気《き》にかえったのを潮《しお》に、〓《そう》々《そう》その場を立ち去ってしまいました。
あとで人の話を承《うけたま》わりますと、この沙門の説教いたしますのが、震《しん》旦《たん》から渡って参りました、あの摩《ま》利《り》の教《おしえ》と申すものだそうで、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》と申します男も、この国の生れやら、ないしは唐土《もろこし》に人となったものやら、とんと確かなことはわからないということでございました。中にはまた、震《しん》旦《たん》でもない本朝でもない、天《てん》竺《じく》の涯《はて》から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが、夜は墨《すみ》染《ぞめ》の法衣《ころも》が翼《つばさ》になって、八《や》阪《さか》寺《でら》の塔《とう》の空へ舞い上がるなどといううわさもございましたが、もとよりそれはとりとめもない、うそだったのでございましょう。が、さようなうわさが伝わりましたのも、一応はもっともかと存じられますくらい、この摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》のしわざには、いろいろ幻《げん》妙《みよう》なことが多かったのでございます。
一二
と申しますのは、まず第一に摩利信乃法師が、あの怪《あや》しげな陀《だ》羅《ら》尼《に》の力で、またたく暇《ひま》に多くの病者を癒《なお》したことでございます。盲目《めしい》が見えましたり、跛《あしなえ》が立ちましたり、唖《おし》が口をききましたり――いちいち数え立てますのも、煩《わずら》わしいくらいでございますが、中でもいちばん名高かったのは、前《さき》の摂《せつ》津《つの》守《かみ》の悩んでいた人《にん》面《めん》瘡《そう》ででもございましょうか。これは甥《おい》を遠矢にかけて、その女《によう》房《ぼう》を奪《うば》ったとやら申す報《むくい》から、左の膝《ひざ》頭《がしら》にその甥の顔をした、不思議な瘡《かさ》が現われて、昼も夜も骨をけずるような業《ごう》苦《く》に悩んでおりましたが、あの沙《しや》門《もん》の加《か》持《じ》を受けますと、見る間にその顔が気《け》色《しき》を和《やわら》げて、やがて口とも覚しい所から「南《な》無《む》」と言う声がもれるや否や、たちまちあとかたもなく消え失せたと申すのでございます。もとよりそのくらいでございますから、狐《きつね》の憑《つ》きましたのも、天狗の憑きましたのも、あるいはまた、なんとも名の知れない、妖《よう》魅《み》鬼《き》神《じん》の憑きましたのも、あの十《じゆう》文《もん》字《じ》の護《ご》符《ふ》をいたただきますと、まるで木《こ》の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》の法《ほう》力《りき》が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩《ま》利《り》の教《おしえ》を誹《ひ》謗《ぼう》したり、その信者を呵《か》責《しやく》したりいたしますと、あの沙《しや》門《もん》は即《そく》座《ざ》にその相手に、恐《おそ》ろしい神《しん》罰《ばつ》を祈《いの》り下しました。おかげで井戸の水がなまぐさい血潮に変ったものもございますし、持《も》ち田《だ》の稲《いね》を一夜のうちに蝗《いなむし》が食ってしまったのもございますが、あの白《はく》朱《しゆ》社《しや*》の巫女《みこ》などは、摩利信乃法師を祈《いの》り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白《びやく》癩《らい》になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天《てん》狗《ぐ》の化《け》身《しん》だなどと申すうわさが、いっそう高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍《くら》馬《ま》の奥から参りました猟《りよう》師《し》も、例の諸天童子の剣《つるぎ》にでも打たれたのか、急に目がつぶれたあげく、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申すことでございました。
そういう勢いでございますから、日が経《ふ》るに従って、信者になる老《ろう》若《にやく》男《なん》女《によ》も、おいおい数を増して参りましたが、その信者になりますには、なんでも水で頭《かしら》をぬらすという、灌《かん》頂《ちよう》めいた式があって、それを一度すまさないうちは、例の天上皇帝に帰《き》依《え》した明りが立ちかねるのだそうでございます。これは私の甥《おい》が見かけたことでございますが、ある日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原《かわら*》におびただしい人だかりがいたしておりましたから、何かと存じてのぞきましたところ、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍《さむらい》に、その怪《あや》しげな灌頂の式を授けておるのでございました。なにしろおりからの水がぬるんで、桜の花も流れようという加《か》茂《も》川《がわ》へ、大《おお》太《た》刀《ち》を佩《は》いてかしこまった侍と、あの十《じゆう》文《もん》字《じ》の護《ご》符《ふ》をささげている異《い》形《ぎよう》な沙門とが影を落して、見慣れない儀《ぎ》式《しき》をいたしていたと申すのでございますから、よほどおもしろい見《み》物《もの》でございましたろう。――そう言えば、前に申し上げることを忘れましたが、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は始めから、四条河原の非人小屋の間へ、小さなむしろ張りの庵《いおり》を造りまして、そこに始終たった一人、わびしく住んでいたのでございます。
一三
そこでお話は元へ戻りますが、その間に若《わか》殿《との》様《さま》は、思いもよらないできごとから、かねてお心を寄せていらしった中《なか》御《み》門《かど》のお姫《ひめ》様《さま》と、親しいお語《かたら》いをなさることがおできなさるように相成りました。その思いもよらないことと申しますのは、もう花《はな》橘《たちばな》のにおいと時鳥《ほととぎす》の声とが雨もよいの空を想わせる、ある夜のことでございましたが、その夜は珍《めずら》しく月が出て、夜目にも、おぼろげには人の顔が見分けられるほどだったと申します。若殿様はある女《によう》房《ぼう》の所へお忍《しの》びになったお帰り途《みち》で、お供の人《にん》数《ず》も目立たないように、わずか一人か二人お召し連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりとおいでになりました。が、なにしろ時刻がおそいので、人っ子一人通らない往来には、遠《とお》田《だ》の蛙《かわず》の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、ことにあの寂《さび》しい美《び》福《ふく》門《もん*》の外は、よく狐《きつね》火《び》の燃える所だけに、なんとなく、鬼《き》気《き》が身に迫《せま》って、心ない牛の歩みさえ早くなるような気がいたされます。――そう思うと、急に向うの築《つい》土《じ》の陰《かげ》で、怪《あや》しい咳《しわぶき》の声がするや否や、きらきらと白《しら》刃《は》を月に輝《かがや》かせて、盗《ぬす》人《びと》と覚しい覆《ふく》面《めん》の男が、左右からおよそ六、七人、若殿様の車を目がけて、たけだけしく襲《おそ》いかかりました。
と同時に牛《うし》飼《かい》の童部《わらべ》をはじめ、お供の雑《ぞう》色《しき》たちはあまりのことに、魂《たましい》も消えるかと思ったのでございましょう。すわと言う間もなく、算《さん》を乱して、元来た方へいっさんに逃《に》げ出してしまいました。が、盗《ぬす》人《びと》たちはそれには目をくれる気《け》色《しき》もなく、やにわに一人が牛の〓《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白《しら》刃《は》の垣を造って、ひしひしとそのまわりを取り囲みますと、まず頭《かしら》だったのがおうへいに簾《すだれ》を払って、「どうじゃ。この殿《との》に違いはあるまいな」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。そのようすがどうも物《もの》盗《と》りとも存ぜられませんので、お驚《おどろ》きのうちにも若殿様は不《ふ》審《しん》に思《おぼ》し召《め》されたのでございましょう。それまでじっとしていらしったのが、扇《おうぎ》を斜《ななめ》に相手の方を、透《す》かすようにしておうかがいなさいますと、その時その盗人の中にしわがれた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ」と、憎《にく》々《にく》しげに答えました。するとその声が、またなんとなくどこかで一度、お耳になすったようでございましたから、いよいよ怪《あや》しく思し召して、明るい月の光に、その声の主《ぬし》を、きっとご覧になりますと、面《おもて》こそ包んでおりますが、あの中《なか》御《み》門《かど》のお姫《ひめ》様《さま》に年久しくお仕え申している、平《へい》太夫《だゆう》に相違はございません。この一刹《せつ》那《な》はさすがの若殿様も、思わず総《そう》身《み》の毛がよだつような、恐《おそ》ろしい思いをなすったと申すことでございました。なぜと申しますと、あの平太夫が堀川の御《ご》一《いつ》家《け》を仇《かたき》のように憎《にく》んでいることは、若殿様のお耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人はいっそう声を荒《あらら》げて、太《た》刀《ち》のきっ先を若殿様のお胸に向けながら、
「さらば御《おん》命《いのち》を申し受けようず」とののしったと申すではございませんか。
一四
しかしあのあくまでも、物にお騒《さわ》ぎにならない若《わか》殿《との》様《さま》は、すぐに勇気をお取り直しになって、悠《ゆう》々《ゆう》と扇《おうぎ》をおもてあそびなさりながら、
「待て。待て。予の命がほしくば、次第によってくれてやらぬものでもない。が、そのほうどもは、なんでそのようなものをほしがるのじゃ」と、まるで人事のようにお尋《たず》ねになりました。すると頭《かしら》だった盗《ぬす》人《びと》は、白《しら》刃《は》をますますお胸へ近づけて、
「中《なか》御《み》門《かど》の少《しよう》納《な》言《ごん》殿《どの》は、誰《たれ》ゆえのご最《さい》期《ご》じゃ」
「予は誰やら知らぬ。が、予でないことだけは、しかとした証《あかし》もある」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇《かたき》の一味じゃ」
頭だった一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆《ふく》面《めん》の下で、
「そうじゃ。仇《かたき》の一味じゃ」と、声々にののしりかわしました。中にもあの平《へい》太夫《だゆう》は歯がみをして、車の中を獣《けもの》のようにのぞきこみながら、太《た》刀《ち》で若殿様のお顔を指さしますと、
「さかしらはご無用じゃよ。それよりは十《じゆう》念《ねん》なとおとなえ申されい」と、あざ笑うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相変らず落ち着き払って、お胸の先の白刃も見えないように、
「してそのほうたちは、皆少《しよう》納《な》言《ごん》殿《どの》の御《み》内《うち》のものか」と、ほうり出すようにお尋ねなさいました。すると盗《ぬす》人《びと》たちは皆どうしたのか、ひとしきり答にためらったようでございましたが、その気《け》色《しき》を見てとった平《へい》太夫《だゆう》は、すかさず声を励《はげ》まして、
「そうじゃ。それがまたなんといたした」
「いや、なんともいたさぬが、もしこの中に少《しよう》納《な》言《ごん》殿《どの》の御《み》内《うち》でないものがいたと思え。そのものこそは天《あめ》が下《した》のあほうものじゃ」
若《わか》殿《との》様《さま》はこうおっしゃって、美しい歯をお見せになりながら、肩《かた》をゆすってお笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、しばらくは胆《きも》を奪《うば》われたのでございましょう。お胸に迫《せま》っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「なぜと申せ」と、若殿様はことばをお継《つ》ぎになって、「予を殺《せつ》害《がい》した暁《あかつき》には、そのほうどもはことごとく検《け》非《び》違《い》使《し》の目にかかりしだい、極《ごつ》刑《けい》に行わるべき奴《やつ》ばらじゃ。もとよりそれも少納言殿の御内のものなら、己《おの》が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本《ほん》望《もう》に相《そう》違《い》はあるまい。が、さもないものがこの中にあって、わずかばかりの金銀がほしさに、予が身に白《しら》刃《は》を向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、そのほうびと換《か》えようずあほうものじゃ。なんとそう言う道理ではあるまいか」
これを聞いた盗人たちは、いまさらのように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫だけはひとり、気違いのようにたけり立って、
「ええ、何があほうものじゃ。そのあほうものの太刀にかかって、最《さい》期《ご》を遂《と》げる殿のほうが、百層倍もあほうものじゃとは覚《おぼ》されぬか」
「何、そのほうどもがあほうものだとな。ではこのうちに少《しよう》納《な》言《ごん》殿《どの》の御《み》内《うち》でないものもいるのであろう。これはいちだんとおもしろうなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かすことがある。そのほうどもが予を殺《せつ》害《がい》しようとするのは、全く金銀がほしさにする仕事であろうな。さて金銀がほしいとあれば、予はそのほうどもになんなりと望みしだいのほうびを取らすであろう。が、その代り予のほうにもまた頼《たの》みがある。なんと、同じ金銀のためにすることなら、ほうびの多い予のほうに味方して、利得を計ったがよいではないか」
若《わか》殿《との》様《さま》はおうように御微《び》笑《しよう》なさりながら、指《さし》貫《ぬき》の膝《ひざ》を扇《おうぎ》でおたたきになって、こう車の外の盗《ぬす》人《びと》どもとお談じになりました。
一五
「次第によっては、御《ぎよ》意《い》通り仕《つかまつ》らぬものでもございませぬ」
恐《おそ》ろしいくらいひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭《かしら》だったのが半《なかば》恐《おそ》る恐《おそ》るこうお答え申し上げますと、若殿様はご満足そうに、はたはたと扇をお鳴らしになりながら、例の気軽なお調子で、
「それは重《ちよう》畳《じよう》じゃ。なに、予が頼《たの》みと申しても、格別むずかしい儀《ぎ》ではない。それ、そこにおる老爺《おやじ》は、少納言殿の御《み》内《うち》人《びと》で、平《へい》太夫《だゆう》と申すものであろう。巷《ちまた》の風《ふう》聞《ぶん》にも聞き及んだが、そやつは日ごろ予に恨《うら》みを含《ふく》んで、あわよくば予が命を奪《うば》おうなどと、大それた企《くわだ》てさえいたしておると申すことじゃ。さればそのほうどもがこのたびの結構も、平太夫めにそそのかされて、事をあげたのに相《そう》違《い》あるまい。――」
「さようでございます」
これは盗《ぬす》人《びと》たちが三、四人、一度に覆《ふく》面《めん》の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張《ちよう》本《ほん》の老爺《おやじ》をからめとって、長くわざわいの根を断ちたいのじゃが、なんとそのほうどもの力で、平《へい》太夫《だゆう》めに縄《なわ》をかけてはくれまいか」
この御《おん》仰《おお》せには、盗人たちも、あまりのことにしばらくの間は、あきれ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆《ふく》面《めん》の頭《かしら》が、互いに眼と眼を見合わしながら、ひとしきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれがまた静かになりますと、突然盗人たちのただ中から、まるで夜《よ》鳥《どり》の鳴くような、しわがれた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭《くさ》いこの殿《との》の口車に乗せられおって、抜いた白《しら》刃《は》を持て扱うばかりか、おめおめ御《ぎよ》意《い》に従いましょうなどとは、どの面《つら》下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己《おの》れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、みごと申し受けようも、またたく暇《ま》じゃ」
こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若《わか》殿《との》様《さま》へ飛びかかろうといたしました。が、その飛びかかろうといたしたのと、頭《かしら》だった盗人が、すばやく白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、ほとんど同時でございます。するとほかの盗人たちも、てんでに太刀を鞘《さや》におさめて、まるで蝗《いなむし》か何かのように、四方から平太夫へ躍《おど》りかかりました。なにしろ多《た》勢《ぜい》に無《ぶ》勢《ぜい》と言い、こちらは年よりのことでございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。たちまちのうちにあの老爺《おやじ》は、牛の〓《はづな》でございましょう、有り合せた縄《なわ》にかけられて、月明りの往来へ引き据《す》えられてしまいました。その時の平《へい》太夫《だゆう》の姿と申しましたら、とんと穽《わな》にでもかかった狐《きつね》のように、牙《きば》ばかりむき出して、まだ未練らしくあえぎながら、身もだえしていたそうでございます。
するとこれをご覧になった若《わか》殿《との》様《さま》は、あくびまじりにお笑いになって、
「おお、大《たい》儀《ぎ》。大儀。それで予の腹もひとまずいえたと申すものじゃ。が、とてもの事に、そのほうどもは、予が車を警《けい》護《ご》かたがた、そこな老耄《おいぼれ》を引き立て、堀川の屋《や》形《かた》まで参ってくれい」
こうおっしゃられてみますと盗人たちも、いまさらいやとは申されません。そこで一同うちそろって、雑《ぞう》色《しき》がわりに牛を追いながら、縄《なわ》つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天《あめ》が下《した》は広うございますが、かように盗人どもをお供におつれ遊ばしたのは、まず若殿様のほかにはございますまい。もっともこの異様な行列も、お屋形まで参りつかないうちに、急を聞いて駆《か》けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々ごほうびをいただいた上、こそこそ退散いたしてしまいました。
一六
さて若殿様は平太夫をお屋敷へつれてお帰りになりますと、そのまま、お廐《うまや》の柱にくくりつけて、雑《ぞう》色《しき》たちに見張りをお言いつけなさいましたが、翌《よく》朝《ちよう》は〓《そう》々《そう》あの老爺《おやじ》を、朝《あさ》曇《ぐも》りのお庭先へお召しになって、
「こりゃ平《へい》太夫《だゆう》、そのほうが少《しよう》納《な》言《ごん》殿《どの》のお恨《うらみ》を晴そうといたす心がけは、なるほど愚《おろか》には相違ないが、さればとてまた、神《しん》妙《みよう》とも申されぬことはない。ことにあの月夜に、覆《ふく》面《めん》の者どもを駆《か》り催して、予を殺《せつ》害《がい》いたそうという趣《しゆ》向《こう》のほどは、なかなかそのほうづれとも思われぬ風流さじゃ。が、美《び》福《ふく》門《もん》のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺《ただす》の森《*》あたりの、老《おい》木《き》の下《した》闇《やみ》にいたしたかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯《う》の花の白くほのめくのもいちだんと風《ふ》情《ぜい》を添《そ》える所じゃ。もっともこれはそのほうづれに、望む予のほうが、無理かもしれぬ。ついてはその殊《しゆ》勝《しよう》なり、風流なのがめでたいによって、今度ばかりはそのほうの罪もゆるしてつかわすことにしよう」
こうおっしゃって若《わか》殿《との》様《さま》は、いつものように晴々とお笑いになりながら、
「その代りそのほうも、せっかくこれまで参ったものじゃ。ついでながら予の文《ふみ》を、姫《ひめ》君《ぎみ》のもとまで差し上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ」
私はそのときの平太夫の顔くらい、世にも不思議なものを見たことはございません。あのいじの悪そうな、苦《にが》りきった面《めん》色《しよく》が、泣くとも笑うともつかない気《け》色《しき》を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろせわしそうに、働かせておるのでございます。するとそのようすが、笑《しよう》止《し》ながらきのどくに思《おぼ》し召《め》されたのでございましょう。若殿様はお笑《え》顔《がお》をおやめになると、縄《なわ》尻《じり》を控《ひか》えていた雑《ぞう》色《しき》に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷《めい》惑《わく》じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい」と、ありがたい御《ご》諚《じよう》がございました。
それからまもなくのことでございます。一夜のうちに腰《こし》さえ弓のように曲った平《へい》太夫《だゆう》は、若《わか》殿《との》様《さま》のお文をつけた花《はな》橘《たちばな》の枝を肩《かた》にして、ほうほう裏の御門から逃《に》げ出して参りました。ところがその後からまた一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥《おい》の侍《さむらい》で、これは万一平太夫がお文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠《かく》れにあの老爺《おやじ》の跡《あと》をつけたのでございます。
二人の間はおよその所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気もゆるみはてたかと思うばかり、跣足《はだし》を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿《かき》若葉のにおいのする、築《つい》土《じ》つづきの都大路を、とぼとぼと歩いて参ります。途《みち》々《みち》通りちがう菜《な》売《う》りの女などが、稀《け》有《う》な文《ふ》使《づか》いだとでも思いますのか、うさんらしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺《おやじ》はとんとそれにも目をくれる気《け》色《しき》はございません。
この調子ならまず何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうといたしましたが、よもやに引かされて、しばらくはなおも跡《あと》を慕《した》って参りますと、ちょうど油《あぶら》小《こう》路《じ*》へ出ようという、道祖《さえ》の神の祠《ほこら*》の前で、おりからあの辻《つじ》をこちらへ曲って出た、見慣れない一人の沙《しや》門《もん》が、出合いがしら平太夫と危くつき当りそうになりました。女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の幢《はた》、墨《すみ》染《ぞめ》の法衣《ころも》、それから十文字の怪《あや》しい護《ご》符《ふ》、一目見て私の甥は、それが例の摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》だと申すことに、気がついたそうでございます。
一七
危くつき当りそうになった摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、とっさに身をかわしましたが、なぜかそこに足を止めて、じっと平《へい》太夫《だゆう》の姿を見守りました。が、あの老爺《おやじ》はとんとそれにとんじゃくするようすもなく、ただ、二、三歩譲《ゆず》っただけで相変らずとぼとぼと寂《さび》しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不《ふ》審《しん》に思ったものと見えると、こう私の甥《おい》は考えましたが、やがてそのそばまで参りますと、まだ我を忘れたように、、道祖《さえ》の神の祠《ほこら》を後ろにして、たたずんでいる沙《しや》門《もん》のまなざしが、いかに天《てん》狗《ぐ》の化《け》身《しん》とは申しながら、どうも唯《ただ》事《ごと》とは思われません。いや、かえってそのまなざしには、いつもの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤《うるお》いが、漂《ただよ》っているのでございます。それが祠《ほこら》の屋根へ枝をのばした、椎《しい》の青葉の影を浴びて、あの女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の旗ざおを斜《ななめ》に肩《かた》へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生のうちにたった一度、私の甥にもあの沙門をなつかしく思わせたとか申すことでございました。
が、そのうちに私の甥の足音に驚《おどろ》かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢《ゆめ》のさめたように、あわただしくこちらをふり向きますと、急に片手を高くあげて、怪《あや》しい九《く》字《じ》を切り《*》ながら、何か咒《じゆ》文《もん》のようなものを口の内に繰《く》り返して、〓《そう》々《そう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中《なか》御《み》門《かど》と言うようなことばが聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。もとよりその間も平太夫のほうは、やはり花《はな》橘《たちばな》の枝を肩にして、わき目もふらずしおしおと歩いて参ったのでございます。そこでまた私の甥《おい》も、見え隠《かく》れにその跡《あと》をつけて、とうとう西《にしの》洞《とう》院《いん》のお屋《や》形《かた》まで参ったそうでございますが、時にあの摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》の不思議なふるまいが気になって、若《わか》殿《との》様《さま》のお文《ふみ》のことさえ、はては忘れそうになったくらい、落着かない心もちに苦しめられたとか申しておりました。
しかしそのお文はつつがなく、お姫《ひめ》様《さま》のお手もとまでとどいたものとみえまして、珍《めずら》しくも今度に限ってさっそくご返事がございました。これは私ども下《しも》々《じも》には、なんとも確なことは申し上げるわけには参りませんが、おそらくはご承知の通りご闊《かつ》達《たつ》なお姫様のことでございますから、平《へい》太夫《だゆう》からあの暗《やみ》討《う》ちの次第でもお聞きになって、若殿様のご気象の人にすぐれていらっしゃるのを、はじめてご会《え》得《とく》になったからでもございましょうか。それから二、三度、ご消息をお取りかわせになった後、とうとうある小《こ》雨《さめ》の降る夜、若殿様は私の甥をお供に召して、もう葉柳の陰《かげ》に埋《うず》もれた、西洞院のお屋形へ忍《しの》んでお通いになることになりました。こうまでなってみますと、あの平太夫もさすがに我《が》が折れたのでございましょう。その夜も険《けわ》しく眉《まゆ》をひそめておりましたが、私の甥に向いましても、格別雑《ぞう》言《ごん》などを申す勢いはなかったそうでございます。
一八
その後若殿様はほとんど夜ごとに西洞院のお屋形へお通いになりましたが、時には私のような年よりもお供にお召しになったことがございました。私がはじめてあのお姫様の、まぶしいようなお美しさを拝むことができましたのも、そういうおりふしのことでございます。一度などはお二人で、私をおそば近くお呼びよせなさりながら、今《こん》昔《じやく》の移り変りを話せと申す御《ぎよ》意《い》もございました。たしか、その時のことでございましょう。御《み》簾《す》のひまから見えるお池の水に、さわやかな星の光が落ちて、また散り残った藤《ふじ》のにおいがかすかに漂《ただよ》って来るような夜でございましたが、その涼《すず》しい夜気の中に、一人二人の女《によう》房《ぼう》をお侍《はべ》らせになって、もの静かにお酒盛をなすっていらっしゃるお二方の美しさは、まるで倭《やまと》絵《え》の中からでも、抜け出していらしったようでございました。ことに白い単衣《ひとえ》襲《がさね》に薄《うす》色《いろ》の袿《うちぎ》を召したお姫《ひめ》様《さま》の清らかさは、おさおさあの赫夜《かぐや》姫《ひめ》にもお劣《おと》りになりはしますまい。
そのうちにご酒《しゆ》きげんの若殿様が、ふとお姫様の方へお向いなさりながら、
「今も爺《じい》の申した通り、この狭《せま》い洛《らく》中《ちゆう》でさえ、桑《そう》海《かい》の変《へん》はたびたびあった。世間一切の法はその通り絶えず生《せい》滅《めつ》遷《せん》流《りゆう》して、刹《せつ》那《な》も住《じゆう》すと申すことはない。されば無《む》常《じよう》経《きよう》にも『未《いまだ》四曾《かつ》有《ていち》三一《じのむ》事《じよ》不《うにの》レ被《まれ》二無《ざる》常《はあ》呑《らず》一』と説かせられた。おそらくはわれらが恋《こい》も、このおきてばかりはのがれられまい。ただいつ始まっていつ終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ」と、冗《じよう》談《だん》のようにおっしゃいますと、お姫様はとんとすねたように、大《おお》殿《との》油《あぶら》の明るい光をわざとお避《さ》けになりながら、
「まあ、憎《にく》らしいことばかりおっしゃいます。ではもう始めから私を、お捨てになるおつもりでございますか」と、優しく若殿様をおにらみなさいました。が、若殿様はますますごきげんよく、お盃《さかずき》をお干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられるつもりでおると申したほうが、いっそう予の心もちにはふさわしいように思われる」
「たんとおなぶり遊ばしまし」
お姫《ひめ》様《さま》はこうおっしゃって、一度は愛くるしくお笑いになりましたが、急にまた御《み》簾《す》の外の夜《や》色《しよく》へ、うっとりと眼をおやりになって、
「いったい世の中の恋《こい》と申すものは、皆《みな》そのようなはかないものでございましょうか」とひとりごとのようにおっしゃいました。すると若《わか》殿《との》様《さま》はいつもの通り、美しい歯を見せて、お笑いになりながら、
「さればはかなくないとも申されまいな。が、われら人間が万《ばん》法《ぽう》の無常も忘れはてて、蓮《れん》華《げ》蔵《ぞう》世界の妙《みよう》楽《らく》をしばしたりとも味わうのは、ただ、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは、恋《れん》慕《ぼ》三《ざん》昧《まい》に日を送った業《なり》平《ひら*》こそ、あっぱれ知識じゃ。われらも穢《え》土《ど》の衆苦を去って、常《じよう》寂《じやつ》光《こう》の中に住《じゆう》そうには伊勢物語をそのままの恋をするよりほかはあるまい。なんとお身《み》もそうは思われぬか」と、横合いからお姫様のお顔をおのぞきになりました。
一九
「されば恋の功《く》徳《どく》こそ、千《せん》万《まん》無《む》量《りよう》とも申してよかろう」
やがて若殿様は、恥《はず》かしそうに眼をお伏《ふ》せになったお姫様から、私の方へ、陶《とう》然《ぜん》となすったお顔をお向けになって、
「なんと、爺《じい》もそう思うであろうな。もっともそのほうには恋《こい》とは申さぬ。が、好《こう》物《ぶつ》の酒ではどうじゃ」
「いえ、なかなか持ちまして、手前は後《ご》生《しよう》が恐《おそ》ろしゅうございます」
私が白髪《しらが》をかきあげながら、あわててこうお答え申しますと、若《わか》殿《との》様《さま》はまた晴々とお笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼《ひ》岸《がん》に往生しようと思う心は、それを暗《あん》夜《や》のともしびとも頼《たの》んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってそのほうも、釈《しやつ》教《きよう》と恋との相《そう》違《い》こそあれ、所《しよ》詮《せん》は予と同心にきわまったぞ」
「これはまためっそうな。なるほどお姫《ひめ》様《さま》のお美しさは、伎《ぎ》芸《げい》天《てん》女《によ》も及ばぬほどではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物のご酒《しゆ》などと、一つぎわには申せませぬ」
「そう思うのはそのほうの心が狭《せま》いからのことじゃ。弥《み》陀《だ》も女《によ》人《にん》も、予の前には、皆《みな》われらの悲しさを忘れさせる傀《く》儡《ぐつ》のたぐいにほかならぬ。――」
こう若殿様がお言い張りになると、急にお姫様はぬすむように、ちらりとその方をご覧になりながら、
「それでも女《おな》子《ご》が傀儡では、いやじゃと申しはいたしませぬか」と、小さなお声でおっしゃいました。
「傀儡で悪くば、仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》とも申そうか」
若《わか》殿《との》様《さま》は勢いよく、こう返事をなさいましたが、ふと何かお思い出しなすったように、じっと大《おお》殿《との》油《あぶら》の火《ほ》影《かげ》をご覧になると、
「昔、あの菅《すが》原《わら》雅《まさ》平《ひら》と親《したし》ゅう交っていたころにも、たびたびこのような議論をたたかわせた。お身《み》も知っておられようが、雅平は予と違って、いちずに信を起しやすい、いわば朴《ぼく》直《ちよく》な生れがらじゃ。されば予が世《せ》尊《そん》金《こん》口《く》の御《おん》経《きよう》も、実は恋《こい》歌《か》と同様じゃとあざ笑うたびに腹をたてて、煩《ぼん》悩《のう》外《げ》道《どう》とは予がことじゃと、再々あしざまにののしりおった。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平はゆくえも知れぬ」と、いつになく沈《しず》んだお声でもの思わしげにおつぶやきなさいました。するとそのごようすにひき入れられたのか、しばらくの間はお姫様をはじめ、私までも口をつぐんで、しんとしたお部屋の中には藤《ふじ》の花のにおいばかりが、いちだんと高くなったように思われましたが、それをお座《ざ》が白けたとでも、思ったのでございましょう。女《によう》房《ぼう》たちの一人が恐る恐る、
「では、このごろ洛《らく》中《ちゆう》にはやります摩《ま》利《り》の教《おしえ》とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう」と、お話のくさびを入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙《しや》門《もん》には、いろいろ怪《あや》しい評判があるようでございませんか」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油の灯《とう》心《しん》をわざとらしくかき立てました。
二〇
「何、摩利の教。それはまた珍《めずら》しい教があるものじゃ」
何かお考えにふけっていらしった若《わか》殿《との》様《さま》は、思い出したように、お盃《さかずき》をおあげになると、その女《によう》房《ぼう》の方をご覧になって、
「摩《ま》利《り》と申すからは、摩《ま》利《り》支《し》天《てん*》を祭る教《おしえ》のようじゃな」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の姿じゃと申すことでございます」
「では、波《は》斯《しの》匿《く》王《おう*》の妃《きさい》の宮であった、茉《ま》利《り》夫人のことでも申すとみえる」
そこで私は先日神《しん》泉《せん》苑《えん》の外で見かけました、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》のふるまいを逐《ちく》一《いち》お話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》のお像《すがた》にも似《に》ていないのでございます。別してあの赤《あか》裸《はだか》の幼《おさな》子《ご》をいだいておるけうとさは、とんと人間の肉を食《は》む女《によ》夜《や》叉《しや》のようだとも申しましょうか。とにかく本朝にはたぐいのない、邪《じや》宗《しゆう》の仏《ほとけ》に相《そう》違《い》ございますまい」と、私の量見を言《ごん》上《じよう》いたしますと、お姫《ひめ》様《さま》は美しい御《おん》眉《まゆ》をそっとおひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天《てん》狗《ぐ》の化《け》身《しん》のように見えたそうな」と、念を押すようにお尋《たず》ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼《つばさ》に羽《は》搏《う》って出て来たようでございますが、よもやこの洛《らく》中《ちゆう》に、白昼さような変《へん》化《げ》の物が出没いたすことはございますまい」
すると若《わか》殿《との》様《さま》はまた元のように、さえざえしたお笑い声で、
「いや、なんとも申されぬ。現に延《えん》喜《ぎ》の御《み》門《かど》の御《み》代《よ》には、五条あたりの柿《かき》のこずえに、七日の間天《てん》狗《ぐ》が御仏の形となって、白《びやく》毫《ごう》光《こう》を放ったとある。また仏《ぶつ》眼《げん》寺《じ》の仁《にん》照《しよう》阿《あ》闍《ざ》梨《り》を日ごとに凌《りよう》じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ」
「まあ、気味の悪いことをおっしゃいます」
お姫《ひめ》様《さま》はもとより、二人の女《によう》房《ぼう》も、一度にこう言って、襲《かさね》の袖《そで》を合せましたが、若殿様は、いよいよご酒《しゆ》きげんのお顔をお和《やわら》げになって、
「三千世界はもとより広大無辺じゃ。わずかばかりの人間の智《ち》慧《え》で、ないと申されることは一つもない。たとえばその沙《しや》門《もん》に化けた天狗が、この屋《や》形《かた》の姫君に心をかけて、ある夜ひそかに破《は》風《ふ》の空から、爪《つめ》だらけの手をさしのべようも、全くないことじゃとは誰《だれ》も言えぬ。が、――」とおっしゃりながら、ほとんど色もお変りにならないばかり、恐《おそ》ろしげにお寄りそいになったお姫様の袿《うちぎ》の背を、やさしくおさすりになりながら、
「が、まだその摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》とやらは、幸《さいわい》、姫君の姿さえかいま見たこともないであろう。まず、それまでは魔《ま》道《どう》の恋《こい》が、成《じよう》就《じゆ》する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、こわがられずともだいじょうぶじゃ」と、まるで子供をあやすように、笑ってお慰《なぐさ》めなさいました。
二一
それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りのある日のこと、加《か》茂《も》川《がわ》の水がいちだんとまばゆく日の光を照り返して、炎《えん》天《てん》の川《かわ》筋《すじ》には引き舟の往《ゆき》来《き》さえとぎれるころでございます。ふだんから釣《つり》の好きな私の甥《おい》は、五条の橋の下へ参りまして、河原《かわら》蓬《よもぎ》の中に腰《こし》をおろしながら、ここばかりは涼《すず》風《かぜ》の通うのを幸と、水《み》嵩《かさ》の減った川に糸を下《おろ》して、しきりに鮠《はえ》を釣《つ》っておりました。するとちょうど頭の上の欄《らん》干《かん》で、どうも聞いたことのあるような話し声がいたしますから、何《なに》気《げ》なく上をながめますと、そこにはあの平《へい》太夫《だゆう》が高《たか》扇《おうぎ》を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》といっしょに、余念なく何事か話しておるではございませんか。
それを見ますと私の甥は、以前油《あぶら》小《こう》路《じ》の辻《つじ》で見かけた、摩利信乃法師の不思議なふるまいがふと心に浮びました。そう言えばあの時も、どうやら二人の間には、いわくがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄《すま》しておりますと、向うは人通りもほとんどとだえた、日盛りの寂《さび》しさに心を許したのでございましょう。私の甥のおることなぞには、さらに気のつくようすもなく、思いもよらない、大それたことを話し合っておるのでございます。
「あなた様がこの摩利の教《おしえ》をおひろめになっていらっしゃろうなどとは、この広い洛《らく》中《ちゆう》で誰《だれ》一人存じておるものはございますまい。私でさえあなた様がご自分でそうおっしゃるまでは、どこかでお見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えてみれば、もっともな次第でございます。いつぞやの春の月夜に桜《さくら》人《びと》の曲をお謡《うた》いになった、あのお年若なあなた様と、ただいまこうして炎《えん》天《てん》に裸《はだか》でお歩きになっていらっしゃる、慮《りよ》外《がい》ながら天《てん》狗《ぐ》のような、見るのもすさまじいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打《うち》伏《ふし》の巫《み》子《こ》に聞いてみても、わからないのに相《そう》違《い》ございません」
こう平《へい》太夫《だゆう》が口軽く、扇《おうぎ》の音といっしょに申しますと、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》はまるでまた、どこの殿《との》様《さま》かと疑われる、おうようなことばつきで、
「わしもそのほうに会ったのは何よりも満足じゃ。いつぞや油《あぶら》小《こう》路《じ》の道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前でも、ちらと見かけたことがあったが、そのほうはわき目もふらず、文《ふみ》をつけた橘《たちばな》の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋《や》形《かた》の方へ歩いて参った」
「さようでございますか。それはまた年《とし》甲《が》斐《い》もなく、失礼なことをいたしたものでございます」
平太夫はあの朝のことを思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いのよい扇の音が、再びはたはたといたしますと、
「しかしこうして今《こん》日《にち》お眼にかかれたのは、全く清《きよ》水《みず》寺《でら》の観《かん》世《ぜ》音《おん》菩《ぼ》薩《さつ》のご利《り》益《やく》ででもございましょう。平太夫一生のうちに、これほどうれしい事はございません」
「いや、予が前で神《しん》仏《ぶつ》の名は申すまい。不《ふ》肖《しよう》ながら、予は天上皇帝の神《しん》勅《ちよく》をこうむって、わが日の本に摩《ま》利《り》の教《おしえ》を布《し》こうといたす沙《しや》門《もん》の身じゃ」
二二
急に眉《まゆ》をひそめたらしいけはいで、こう摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》がことばをはさみましたが、存外平《へい》太夫《だゆう》は恐《おそ》れ入った気《け》色《しき》もなく、扇《おうぎ》と舌と同じように働かせながら、
「なるほどさようでございましたな。平太夫も近ごろはめっきり老いぼれたとみえまして、することなすことことごとく落《おち》度《ど》ばかりでございます。いや、そういう次第ならもうあなた様のお前《まえ》では、二度と神仏の御《み》名《な》は口にいたしますまい。もっとも日ごろはこの老爺《おやじ》も、あまり信《しん》心《じん》気《ぎ》などと申すものがあるほうではございません。それをただいま急に、観《かん》世《ぜ》音《おん》菩《ぼ》薩《さつ》などと述べ立てましたのは、全く久しぶりでお目にかかったのが、うれしかったからでございます。そう申せば姫《ひめ》君《ぎみ》も、幼なじみのあなた様がご無事でいらっしゃるとお聞きになったら、どんなにかお喜びになることでございましょう」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのもめんどうそうな、口の重いようすとは打って変って、勢いよく、弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうにしばらくはただ、うなずいてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と言うことばを機《し》会《お》に、
「さてその姫君についてじゃが、予はいささか密々に御《ぎよ》意《い》得たい仔《し》細《さい》がある」と、言って、いちだんとまた声をひそめながら、
「なんと平太夫、そのほうの力で夜分なりと、お目にかからせてはくれまいか」
するとこの時橋の上では、急に扇の音がやんでしまいました。それと同時に私の甥《おい》は、危く欄《らん》干《かん》の方を見上げようといたしましたが、もとより迂《う》濶《かつ》なふるまいをしては、ここに潜《ひそ》んでいることが見《み》露《あらわ》されないものでもございません。そこでやはり河原《かわら》蓬《よもぎ》の中を流れて行く水の面《おもて》をながめたまま、息もつかずに上のようすへ気をくばっておりました。が、平《へい》太夫《だゆう》は今までの元気に引き換《か》えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥《おい》には、体中の筋《すじ》骨《ぼね》が妙《みよう》にむずがゆくなったくらい、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛《らく》中《ちゆう》に住まうものじゃ。堀川の殿《との》がこの日ごろ、姫《ひめ》君《ぎみ》のもとへしげしげと、通わるる趣《おもむき》も知ってはおる。――」
やがてまた摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、相変らずもの静かな声で、ひとり言のようにことばを継《つ》ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御《ぎよ》意《い》得たいと申すのではない。予の業《ごう》慾《よく》にあこがるる心は、ひとたび唐土《もろこし》にさすらって、紅《こう》毛《もう》碧《へき》眼《がん》の胡《こ》僧《そう》の口から、天上皇帝の御《み》教《おし》えを聴《ちよう》聞《もん》するとともに、滅《ほろ》びてしもうた。ただ、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天《あめ》地《つち》を造らせ給うた天上皇帝を知られぬことじゃ。されば、神と言い仏《ほとけ》と言う天《てん》魔《ま》外《げ》道《どう》のたぐいを信《しん》仰《こう》せられて、その形になぞらえた木石にも香《こう》花《げ》を供えられる。かくてはやがて命《めい》終《しゆう》の期《ご》に臨んで、永《えい》劫《ごう》消えぬ地《じ》獄《ごく》の火に焼かれ給うに相《そう》違《い》ない。予はそのことを思うたびに、阿《あ》鼻《び》大《たい》城《じよう》の暗《やみ》の底へさか落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んでくるのじゃ。現に昨夜《ゆうべ》も。――」
こう言いかけて、あの沙《しや》門《もん》はさも感《かん》慨《がい》に堪《た》えないらしく、しだいに力のこもってきた口をしばらくの間とざしました。
二三
「昨晩《ゆうべ》、何かあったのでございますか」
ほど経て平《へい》太夫《だゆう》が、心配そうに、こう相手のことばを促《うなが》しますと、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》はふと我に返ったように、また元の静かな声で、一《ひと》言《こと》ごとに間を置きながら、
「いや、何もあったと申すほどの仔《し》細《さい》はない。が、予は昨夜《ゆうべ》もあの菰《こも》だれの中で、ひとりうとうとと眠《ねむ》っておると、柳《やなぎ》の五つ衣《ぎぬ》を着た姫《ひめ》君《ぎみ》の姿が、夢《ゆめ》に予のまくらもとへ歩みよられた。ただ、現《うつつ》と異ったのは、日ごろつややかな黒《くろ》髪《かみ》が、朦《もう》朧《ろう》と煙《けぶ》った中に、黄金《こがね》の釵《さい》子《し》が怪《あや》しげな光を放って、おっただけじゃ。予は絶えて久しい対面のうれしさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前にすわられたまま、答えさえせらるる気《け》色《しき》はない。と思えば紅《くれない》の袴《はかま》の裾《すそ》に、何やらうごめいているものの姿が見えた、それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩《かた》にもおれば、胸にもおる。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「とおっしゃっただけでは解《げ》せませんが、いったい何がおったのでございます」
この時は平太夫も、思わず知らず沙《しや》門《もん》の調子に釣《つ》り込まれてしまったのでございましょう。こう尋《たず》ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなっておりました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何がおったと申すことは、予自身にもしかとはわからぬ。予はただ、水《みず》子《ご》ほどの怪しげなものが、幾つとなく群って、姫《ひめ》君《ぎみ》の身のまわりにうごめいているのをながめただけじゃ。が、それを見るとともに、夢《ゆめ》の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜《おし》まず泣き叫《さけ》んだ。姫君も予の泣くのを見て、しきりに涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏《とり》が啼《な》いて、予の夢はそれぎりさめてしもうた」
摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》がこう語り終りますと、今度は平《へい》太夫《だゆう》も口をつぐんで、ひとしきりやめていた扇《おうぎ》をまたも使いだしました。私の甥《おい》はその間じゅう鉤《はり》にかかった鮠《はえ》も忘れるくらい、聞き耳を立てておりましたが、この夢の話を聞いているうちは、橋の下の涼《すず》しさが、なんとなく肌《はだ》身《み》にしみて、そういうお姫《ひめ》様《さま》の悲しいお姿を、自分もいつかおぼろげに見たことがあるような、不思議な気がいたしたそうでございます。
そのうちに橋の上では、また摩利信乃法師の沈《しず》んだ声がして、
「予はその怪《あや》しげなものを妖《よう》魔《ま》じゃと思う。されば天上皇帝は、堕《だ》獄《ごく》の業《ごう》を負わせられた姫君を憐《あわ》れと見そなわして、予に教《きよう》化《げ》を施《ほどこ》せと霊《れい》夢《む》を賜《たまわ》ったのに相《そう》違《い》ない。予がそのほうの力をかりて、姫君に御《ぎよ》意《い》得たいと申すのは、こういう仔《し》細《さい》があるからじゃ。なんと予が頼《たの》みを聞き入れてはくれまいか」
それでもなお、平太夫はしばらくためらっていたようでございますが、やがて扇《おうぎ》をつぼめたと思うと、それで欄《らん》干《かん》を丁《ちよう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫はいつぞや清《きよ》水《みず》の阪《さか》の下で、辻《つじ》冠《かん》者《じや》ばらと刃《にん》傷《じよう》をいたしました時、すんでに命も取られるところを、あなた様のおかげによって、落ち延びることができました。そのご恩を思いますと、あなた様のおっしゃることに、いやと申せた義理ではございません。摩《ま》利《り》の教《おしえ》とやらにご帰《き》依《え》なさるか、なさらないか、それは姫《ひめ》君《ぎみ》の御《ぎよ》意《い》しだいでございますが、久しぶりであなた様のお目にかかると申すことは、姫君もおいやではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、ご対面だけはなされるようにお取り計《はか》らい申しましょう」
二四
その密談の仔《し》細《さい》を甥《おい》の口から私が詳《くわ》しく聞きましたのは、それから、三、四日たったある朝のことでございます。日ごろは人の多いお屋《や》形《かた》の侍《さむらい》所《どころ》も、その時は私ども二人だけで、まばゆく朝日のさした植込みの梅《うめ》の青葉の間からは、それでも涼《すず》しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、いちだんと声をひそめますと、
「いったいあの摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》と言う男が、どうして姫を知っておるのだか、それはもとより私にも不思議と申すほかはありませんが、とにかくあの沙《しや》門《もん》が姫君の御意を得るようなことでもあると、どうもこのお屋形の殿《との》様《さま》のお身の上には、思いもよらない凶《きよう》変《へん》でも起りそうな不《ふ》吉《きつ》な気がするのです。が、このようなことは殿様に申し上げても、あの通りのご気象ですから、けっしてお取り上げにはならないのに相《そう》違《い》ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君のお目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父《おじ》さんのお考えはどういうものでしょう」
「それはわしも、あの怪《あや》しげな天《てん》狗《ぐ》法師などに姫《ひめ》君《ぎみ》のお顔を拝ませたくない。が、お主《ぬし》もわしも、殿《との》様《さま》のご用を欠かぬ限りは、西《にしの》洞《とう》院《いん》のお屋《や》形《かた》の警《けい》護《ご》ばかりしておるわけにもいかぬはずじゃ。さればお主《ぬし》はあの沙《しやもん》門を、姫君のお身《み》のまわりに、近づけぬと言うたにしたところで。――」
「さあ、そこです。姫君の思《おぼ》し召《め》しも私どもにはわかりませんし、その上あすこには平《へい》太夫《だゆう》と言う老爺《おやじ》もおりますから、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》が西洞院のお屋形に立ち寄るのは、迂《う》闊《かつ》にじゃまもできません。が、四条河原のむしろ張りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝《ね》泊《とま》りする所ですから、ずいぶんこちらの思案しだいで、二度とあの沙門が洛《らく》中《ちゆう》へ出て来ないようにすることもできそうなものだと思うのです」
「と言うて、あの小屋で見張りをしているわけにもいくまい。お主《ぬし》の申すことは、何やらなぞめいたところがあって、わしのような年寄りには、十分に解《げ》しかねるが、いったいお主はあの摩利信乃法師をどうしようというつもりなのじゃ」
私が不《ふ》審《しん》そうにこう尋ねますと、私の甥《おい》はあたかも他聞をはばかるように、梅《うめ》の青葉の影がさしている部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口をつけて、
「どうすると言うて、ほかにしかたのあるはずがありません。夜ふけにでも、そっと四条河原へ忍《しの》んで行って、あの沙門の息《いき》の根を止めてしまうばかりです」
これにはさすがの私もしばらくの間はあきれ果てて、二の句をつぐことさえ忘れておりましたが、甥は若い者らしい、いちずに思いつめた調子で、
「何、高があの通りの乞《こつ》食《じき》法師です。たとい加勢の二、三人はあろうとも、仕止めるのに造《ぞう》作《さ》はありますまい」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。なるほどあの摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、邪《じや》宗《しゆう》門《もん》をひろめては歩いていようが、そのほかには何一つ罪らしい罪も犯しておらぬ。さればあの沙《しや》門《もん》を殺すのは、いわば無《む》辜《むこ》を殺すとでも申そう。――」
「いや、理《り》窟《くつ》はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何かかりて、殿《との》様《さま》や姫《ひめ》君《ぎみ》をのろうようなことがあったとしてご覧なさい。叔父《おじ》さんはじめ私まで、こうして禄《ろく》をいただいている甲《か》斐《い》がないじゃありませんか」
私の甥《おい》は顔をほてらせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申すことには、とんと耳をかしそうな気《け》色《しき》さえもございません。――するとちょうどそこへほかの侍《さむらい》たちが、扇《おうぎ》の音をさせながら、二、三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、お流《ながれ》になってしまいました。
二五
それからまた、三、四日はすぎたように覚えております。ある星《ほし》月《づく》夜《よ》のことでございましたが、私は甥といっしょに更《こう》闌《た》けてから四条河原へそっと忍《しの》んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天《てん》狗《ぐ》法師を殺そうというつもりもなし、また殺すほうがよいという気もあったわけではございません。が、どうしても甥が初めのもくろみを捨てないのと、甥を一人やることがなぜか妙《みよう》に気がかりだったのとで、とうとう私までが年《とし》甲《か》斐《い》もなく、河原《かわら》蓬《よもぎ》の露《つゆ》にぬれながら、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》
の住む小屋を目がけて、うかがいよることになったのでございます。
ご承知の通りあの河原には、見苦しい非人小屋が、何《なん》軒《けん》となく立ち並《なら》んでおりますが、今はもうここに多い白《びやく》癩《らい》の乞《こつ》食《じき》たちも、私などが思いもつかない、怪《あや》しげな夢《ゆめ》をむすびながら、ぐっすり睡《ね》入《い》っておるのでございましょう。私と甥《おい》とが足音をぬすみぬすみ、静かにその小屋の前を通りぬけました時も、むしろ壁《かべ》の後ろにはただ、高いびきの声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一《ひと》所《ところ》焚《た》き残してある芥《あくた》火《び》さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙《けぶり》をあげております。ことにその煙の末が、所はだらな天の川と一つでいるのをながめますと、どうやら数え切れない星くずが、洛《らく》中《ちゆう》の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、すべる音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
そのうちに私の甥は、かねて目星をつけて置いたのでございましょう、加《か》茂《も》川《がわ》の細い流れに臨んでいる、菰《こも》だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私のほうをふり向きまして、「あれです」と、一《ひと》言《こと》申しました。おりからあの焚き捨てた芥火が、まだ焔《ほのお》を舌を吐《は》いているそのかすかな光に透《す》かして見ますと、小屋はどれよりも小さいくらいで、竹の柱も古むしろの屋根も隣《となり》近《きん》所《じよ》と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標《しるし》が、夜目にもいかめしく立っております。
「あれか」
私はおぼつかない声を出して、なんということもなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう言ううちにも私の甥《おい》が、今度はふり向くらしいようすもなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです」と、そっけなく答える声を聞きますと、いよいよ太《た》刀《ち》へ血をあやす時が来たという、なんとも言いようのない心もちで、思わず総《そう》身《み》がわななきました。すると甥は早くも身じたくを整えたものとみえて、太刀の目《め》釘《くぎ》をていねいに潤《しめ》しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原を踏《ふ》み分けながら、えじきをうかがう蜘《く》蛛《も》のように、音もなく小屋の外へ忍《しの》びよりました。いや全く芥《あくた》火《び》のおぼろげな光のさした、むしろ壁《かべ》にぴったり体をよせて、内のけはいをうかがっている私の甥の後ろ姿は、なんとなく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。
二六
が、こういう場合に立ち至ったからは、もとよりこちらも手をつかねて、見ておるわけには参りません。そこで水《すい》干《かん》の袖《そで》を後ろで結ぶと、甥の後ろから私も、小屋の外へうかがいよって、むしろのすきまから中のようすを、じっとのぞきこみました。
するとまず、眼に映ったのは、あの旗ざおに掲げて歩く女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の画《え》像《すがた》でございます。それが今は、向うのむしろ壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰《こも》をもれる芥火の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月《げつ》蝕《しよく》か何かのように、ほんのりきらめいておりました。またその前に横になっておりますのは、昼の疲《つか》れに前後を忘れた摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》でございましょう。それからその寝姿を半《なかば》おおっている、着物らしいものが見えましたが、これは芥《あくた》火《び》にそむいているので、うわさに聞く天《てん》狗《ぐ》の翼《つばさ》だか、それとも天《てん》竺《じく》にあると言う火《ひ》鼠《ねずみ》の裘《けごろも*》だかわかりません。――
このようすを見た私どもは、言わず語らず両方から沙《しや》門《もん》の小屋を取り囲んで、そっと太《た》刀《ち》の鞘《さや》を払いました。が、私は初めからどうも妙《みよう》な気おくれがいたしていたからでございましょう。その拍《ひよう》子《し》に手もとが狂《くる》って、思わず鋭《するど》い鍔《つば》音《おと》を響《ひび》かせてしまったではございませんか。すると私が心の中で、はっと思う暇《いとま》さえなく、今まで息《いき》もしなかった菰《こも》だれの向うの摩利信乃法師が、たちまち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰《だれ》じゃ」と、一声とがめました。もうこうなっては、甥《おい》をはじめ、私までも騎《き》虎《こ》の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すよりほかはございません。そこでその声がするや否や、前と後ろと一《いつ》斉《せい》に、ものも言わずに白《しら》刃《は》をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触《ふ》れ合う音、竹の柱の折れる音、むしろ壁《かべ》の裂《さ》け飛ぶ音、――そういう物音がすさまじく、一度にいたしたと思いますと、やにわに甥が、二足三足後ろの方へ飛びすさって、「おのれ、逃《に》がしてたまろうか」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚《おどろ》いて私もすばやく跳《は》ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透《す》かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉みじんになった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄《うす》色《いろ》の袿《うちぎ》を肩《かた》にかけて、まるで猿《ましら》のように身をかがめながら、例の十文字の護《ご》符《ふ》を額にあてて、じっと私どものふるまいをうかがっているのでございます。これを見た私は、もとよりすぐにも一刀浴びせようとあせりましたが、どういうものか、あの沙《しや》門《もん》の身をかがめたまわりには、自然と闇《やみ》が濃《こ》くなるようで、容易に飛びかかるすきがございません。あるいはその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦《うず》巻《ま》くようで、太《た》刀《ち》のねらいが定まらなかったとも申しましょうか。これは甥《おい》も同じ思いだったものとみえて、時々あえぐように叫びますが、白《しら》刃《は》はいつまでもその頭《かしら》の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描《か》いておりました。
二七
そのうちに摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、おもむろに身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、あらしの叫《さけ》ぶようなすごい声で、
「やい。おのれらはもったいなくも、天上皇帝のご威《い》徳《とく》をないがしろにいたす心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇《くも》った眼には、ただ、墨《すみ》染《ぞめ》の法衣《ころも》のほかにおおうものもないようじゃが、真《まこと》は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守っておるぞよ。ならばてがらにその白刃をふりかざして、法師の後ろに従うた聖《しよう》衆《じゆ》の車《しや》馬《ば》剣《けん》戟《げき》と力を競《きそ》ってみるがよいわ」と、末は嘲《あざ》笑《わら》うようにののしりました。
もとよりこうおどされても、それにおぞけを震《ふる》うような私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱《つな》を放れた牛のように、両方からあの沙門を目がけて斬《き》ってかかりました。いや、まさに斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太《た》刀《ち》をふりかぶった刹《せつ》那《な》に、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》が十文字の護《ご》符《ふ》を、ひとしきりまた頭《かしら》の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金《こん》色《じき》が、いなずまのように宙へ飛んで、たちまち私どもの眼の前へは、恐《おそ》ろしい幻《まぼろし》が現れたのでございます。ああ、あの恐ろしい幻は、どうして私などの口の先で、お話し申すことができましょう。もしできたといたしましても、それはおそらく麒《き》麟《りん》の代りに、馬を指《さ》して見せるとたいした違いはございますまい。が、できないながら申し上げますと、最初あの護符が空へあがった拍《ひよう》子《し》に、私は河原の闇《やみ》が、突然摩利信乃法師の後ろだけ、裂《さ》け飛んだように思いました。するとその闇の破《やぶ》れた所には、数限りもない焔《ほのお》の馬や焔の車が、竜《りゆう》蛇《だ》のような怪《あや》しい姿といっしょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私どもの頭上をさして落ちかかると思うばかり、天にあふれてありありと浮び上がったのでございます。と思うとまた、その中に旗のようなものや、剣《つるぎ》のようなものも、何千何百となくきらめいて、そこからまるで大風の海のような、すさまじいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸《わ》き返って参りました。それを後ろに背負いながら、やはり薄《うす》色《いろ》の袿《うちぎ》を肩《かた》にかけて、十文字の護符をかざしたまま、おごそかに立っているあの沙《しや》門《もん》の異様な姿は、全くどこかの大天《てん》狗《ぐ》が、地《じ》獄《ごく》の底から魔《ま》軍《ぐん》を率《ひき》いて、この河原のただ中へ天《あま》下《くだ》ったようだとでも申しましょうか。――
私どもはあまりの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭をかかえて右左へ、ひとたまりもなくひれ伏《ふ》してしまいました。するとその頭の空に、摩利信乃法師のののしる声が、またいかめしく響《ひび》き渡って、
「命が惜《お》しくば、そのほうどもも天上皇帝におわび申せ。さもない時は立ちどころに、護《ご》法《ほう》百万の聖《しよう》衆《じゆ》たちは、そのほうどもの臭《しゆう》骸《がい》を段《だん》々《だん》壊《え》にいたそうぞよ」と、雷《いかずち》のように呼ばわります。その恐《おそ》ろしさ、ものすごさと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずにはおられません。そこで私もとうとう我《が》慢《まん》ができなくなって、合《がつ》掌《しよう》した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南《な》無《む》天上皇帝」ととなえました。
二八
それから先のことは、申し上げるのさえ、お恥《は》ずかしいくらいでございますから、なるべく手短にお話しいたしましょう。私どもが天上皇帝を祈《いの》りましたせいか、あの恐ろしい幻《まぼろし》はまもなく消えてしまいましたが、その代り太《た》刀《ち》音を聞いて起きた非《ひ》人《にん》たちが、四方から私どもをとり囲みました。それがまた、たいていは摩《ま》利《り》の教《おしえ》の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸《さいわい》に、いざと言えば手ごめにでもしかねない勢いで、口々にすさまじくののしり騒《さわ》ぎながら、まるで穽《わな》にかかった狐《きつね》でも見るように、男も女も折り重なって、憎《にく》さげに顔をのぞきこもうとするのでございます。その何人とも知れない白《びやく》癩《らい》どもの面《おもて》が、新たに燃え上がった芥《あくた》火《び》の光を浴びて、星《ほし》月《づく》夜《よ》も見えないほど、前後左右から頸《うなじ》をのばした気味悪さは、とうていこの世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、おもむろにたけり立つ非人たちをなだめますと、例の怪《あや》しげな微《び》笑《しよう》を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝のご威《い》徳《とく》のありがたい本《もと》末《すえ》を懇《こん》々《こん》と説いて聴《き》かせました。が、その間も私の気になってしかたがなかったのは、あの沙《しや》門《もん》の肩《かた》にかかっている、美しい薄《うす》色《いろ》の袿《うちぎ》のことでございます。もとより薄色の袿と申しましても、世間にたぐいの多いものではございますが、もしやあれは中《なか》御《み》門《かど》の姫《ひめ》君《ぎみ》のお召し物ではございますまいか。万一そうだといたしましたら、姫君はもういつの間にか、あの沙門とご対面になったのでございましょうし、あるいはその上に摩《ま》利《り》の教《おしえ》も、ご帰《き》依《え》なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申しますことも、耳にはいらないくらいでございましたが、うっかりそんなそぶりを見せましては、またどんな恐《おそ》ろしい目にあわされないものでもございますまい。しかも摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》のようすでは、私どももただ、神仏を蔑《なみ》されるのが口《くち》惜《お》しいので、闇《やみ》討《うち》をしかけたものだと思ったのでございましょう。幸《さいわい》、堀川の若《わか》殿《との》様《さま》にお仕えしていることなぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿にも、なるべく眼をやらないようにして、河原の砂の上にすわったまま、わざと神《しん》妙《みよう》にあの沙門の申すことを聴いておるらしく装いました。
するとそれが先方には、いかにも殊《しゆ》勝《しよう》げに見えたのでございましょう。一通り談義めいたことを説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和《やわら》げながら、あの十文字の護《ご》符《ふ》を私どもの上にさしかざして、
「そのほうどもの罪《ざい》業《ごう》は無知蒙《もう》昧《まい》のしからしめたところじゃによって、天上皇帝も格別のご宥《ゆう》免《めん》を賜《たまわ》わせらるるに相《そう》違《い》あるまい。さればわしもこの上なお、しかり懲《こら》そうとは思うていぬ。やがてはまた、今夜の闇《やみ》討《うち》が縁《えん》となって、そのほうどもが摩《ま》利《り》の御《み》教《おしえ》に帰依し奉《たてまつ》る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、ひとまずこの場を退散いたしたがよい」と、もの優しく申してくれました。もっともその時でさえ、非《ひ》人《にん》たちは、今にもつかみかかりそうな、すさまじい気《け》色《しき》を見せておりましたが、これもあの沙《しや》門《もん》の鶴《つる》の一声で、すなおに私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥《おい》とは、太《た》刀《ち》を鞘《さや》におさめる間《ま》も惜《お》しいように、〓《そう》々《そう》四条河原から逃《に》げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、うれしいとも、悲しいとも、ないしはまた残念だとも、なんともお話しのいたしようがございません。でございますから河原が遠くなって、ただ、あの芥《あくた》火《び》の赤く揺《ゆら》めくまわりに、白《びやく》癩《らい》どもが蟻《あり》のように集って、何やら怪《あや》しげな歌をうたっておりますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互《たが》いの顔さえ見ずに、黙《だま》って吐《と》息《いき》ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。
二九
それ以来私どもは、よるとさわると、額をあつめて、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》と中《なか》御《み》門《かど》の姫《ひめ》君《ぎみ》とのいきさつを互いに推《すい》量《りよう》し合いながら、どうかしてあの天《てん》狗《ぐ》法《ほう》師《し》を遠ざけたいと、いろいろ評議をいたしましたが、さて例の恐《おそ》ろしい幻《まぼろし》のことを思い出しますと、容易に名案も浮びません。もっとも甥のほうは私より若いだけに、まだ執《しゆう》念《ねん》深く初一念を捨てないで、場合によったら平《へい》太夫《だゆう》のしたように、辻《つじ》冠《かん》者《じや》どもでも駆《か》り集めたら、もう一度四条河原の小屋をおびやかそうぐらいな考えがあるようでございました。ところがそのうちに、思いもよらず、また私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法《ほう》力《りき》に、驚《おどろ》くようなことができたのでございます。
それはもう秋風の立ち始めましたころ、長《なが》尾《お》の律《りつ》師《し》様《さま》が嵯《さ》峨《が》に阿《あ》弥《み》陀《だ》堂《どう》をお建てになって、その供《く》養《よう》をなすった時のことでございます。その御《み》堂《どう》もただいまは焼けてございませんが、なにしろ国々の良材をお集めになった上に、高《こう》名《みよう》な匠《たくみ》たちばかりお召しになって、莫《ばく》大《だい》な黄金《こがね》もおかまいなく、お造りになったものでございますから、ご規《き》模《ぼ》こそさのみ大きくなくっても、その荘《そう》厳《ごん》をきわめておりましたことは、ほぼご推察が参るでございましょう。
別してその御《み》堂《どう》供《く》養《よう》の当日は、上《かん》達《だち》部《め》殿《てん》上《じよう》人《びと》は申すまでもなく、女《によう》房《ぼう》たちの参ったのも数限りないほどでございましたから、東西の廊《ろう》に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊々の桟《さ》敷《じき》をめぐった、錦《にしき》の縁《へり》のある御《み》簾《す》と申し、あるいはまた御簾ぎわになまめかしくうち出した、萩《はぎ》、桔《き》梗《きよう》、女郎花《おみなえし》などの褄《つま》や袖《そで》口《ぐち》のいろどりと申し、うららかな日の光を浴びた、境《けい》内《だい》一面の美しさは、まのあたりに蓮《れん》華《げ》宝《ほう》土《ど》の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれたお庭の池にはすきまもなく、紅《ぐ》蓮《れん》白《びやく》蓮《れん》の造り花が簇《ぞく》々《ぞく》と咲きならんで、その間を竜《りゆう》舟《しゆう》が一《いつ》艘《そう》、錦の平《ひら》張《ば》りを打ちわたして、蛮《ばん》絵《え*》を着た童部《わらべ》たちに画《が》棹《とう》の水を切らせながら、微《び》妙《みよう》な楽の音《ね》を漂《ただよ》わせて、悠《ゆう》々《ゆう》と動いておりましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。
まして正面をながめますと、御堂の犬《いぬ》防《ふせ》ぎが、燦《さん》々《さん》と螺《ら》鈿《でん》を光らせている後ろには、名《めい》香《こう》の煙《けぶり》のたなびく中に、ご本尊の如《によ》来《らい》をはじめ、勢《せい》至《し》観《かん》音《のん》などの御《おん》姿《すがた》が、紫《し》磨《ま》黄《おう》金《ごん》の御《おん》顔《かお》や玉の瓔《よう》珞《らく》をほのぼのと、お現しになっているありがたさは、またいっそうでございました。その御《み》仏《ほとけ》の前の庭には、礼《らい》盤《ばん》を中にはさみながら、見るもまばゆい宝《ほう》蓋《がい》の下に、講師読《とく》師《し》の高座がございましたが、供《く》養《よう》の式に連っている何十人かの僧《そう》どもも、法衣《ころも》や袈《け》裟《さ》の青や赤がいかにも美々しく入り交って、経を読む声、鈴《れい》を振る音、あるいは栴《せん》檀《だん》、沈《ちん》水《すい》のかおりなどが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらとのぼって参ります。
するとその供養のまっ最中、四方のご門の外に群って、一目でも中のごようすを拝もうとしている人々が、にわかに何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。
三〇
この騒《さわ》ぎを見た看督《かどの》長《おさ*》は、さっそくそこへ駈《か》けつけて、高々と弓をふりかざしながら、ご門のうちへ乱れ入った人々を、打ちしずめようといたしました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙《しや》門《もん》が一人、姿を現したと思いますと、看督《かどの》長《おさ》はたちまち弓をすてて、往来のさまたげをするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝《みかど》のお出ましをお拝み申す時のように、礼をいたしたではございませんか。外の騒《そう》動《どう》に気をとられて、ひとしきりざわめき立ったご門の中が、急にひっそりと静まりますと、また「摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》、摩利信乃法師」と言うささやき声が、ちょうど蘆《あし》の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時のことでございます。
摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨《すみ》染《ぞめ》の法衣の肩《かた》へ長い髪《かみ》を乱しながら、十文字の護《ご》符《ふ》の黄金《こがね》を胸のあたりにきらめかせて、足さえ見るも寒そうな素《す》跣足《はだし》でございました。その後ろにはいつもの女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の幢《はた》が、秋の日の光の中にいかめしく掲《かか》げられておりましたが、これは誰《だれ》か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方《かた》々《がた》にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜《たま》わって、わが日の本に摩《ま》利《り》の教《おしえ》を布《し》こうずる摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》と申すものじゃ」
あの沙《しや》門《もん》は悠《ゆう》々《ゆう》と看督《かどの》長《おさ》の拝に答えてから、砂を敷いたお庭の中へ、恐《おそ》れげもなく進み出て、こうおごそかな声で申しました。それを聞くとご門の中は、またざわめきたちましたが、さすがに検《け》非《び》違《い》使《し》たちばかりは、思いもかけない椿《ちん》事《じ》に驚《おどろ》きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火《か》長《ちよう》と見えるものが二、三人、手に手に得《え》物《もの》ひっさげて、声《こわ》高《だか》に狼《ろう》藉《ぜき》をとがめながら、あの沙門へ走りかかりますと、やにわに四方から飛びかかって、からめ取ろうといたしました。が、摩利信乃法師は憎《にく》さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。ただし、天上皇帝の御《おん》罰《ばつ》は立ちどころに下ろうぞよ」と、あざ笑うような声を出しますと、その時胸に下がっていた十文字の護《ご》符《ふ》が日を受けて、まぶしくきらりと光ると同時に、なぜか相手は得物を捨てて、昼《ひる》雷《かみなり》にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転《まろ》び倒れてしまいました。
「いかに方々。天上皇帝のご威《い》徳《とく》は、ただいままのあたりに見られたごとくじゃ」
摩利信乃法師は胸の護符をはずして、東西の廊《ろう》へ代る代る、誇《ほこ》らしげにかざしながら、
「もとよりかような霊《れい》験《げん》は不思議もない。そもそも天上皇帝とは、この天《あめ》地《つち》を造らせ給うた、唯《ゆい》一《いつ》不《ふ》二《じ》の大《おお》御《み》神《かみ》じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿《あ》弥《み》陀《だ》如《によ》来《らい》なんぞと申す妖《よう》魔《ま》のたぐいを事々しく、供《く》養《よう》せらるるげに思われた」
この暴言にたまりかねたのでございましょう。さっきから誦《ず》経《きよう》をやめて、茫《ぼう》然《ぜん》とことの次第をながめていた僧《そう》たちは、にわかにどよめきをあげながら、「打ち殺せ」とか「からめ取れ」とかしきりにののしり立てましたが、さて誰《だれ》一人として席を離れて、摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》を懲《こら》そうといたすものはございません。
三一
すると摩利信乃法師は傲《ごう》然《ぜん》と、その僧たちの方を睨《ね》めまわして、
「あやまてるを知ってはばかることなかれとは、唐《から》国《くに》の聖人も申された。いったん、仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》の妖魔たることを知られたら、〓《そう》々《そう》摩利の教《おしえ》に帰《き》依《え》あって、天上皇帝のご威《い》徳《とく》をたたえ奉《たてまつ》るに若《し》くはない。またもし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪《じや》神《しん》か、決《けつ》定《じよう》いたしかぬるとあらば、いかようにも法《ほう》力《りき》をくらべ合せて、いずれが正《しよう》法《ぼう》か弁別申そう」と、声も荒らかに呼ばわりました。
が、なにしろただいまも、検《け》非《び》違《い》使《し》たちがまのあたりに、気を失って倒れたのを見ておるのでございますから、御《み》簾《す》の内も御簾の外も、水を打ったように声をのんで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙《しや》門《もん》の法力を試みようといたすものは見えません。所《しよ》詮《せん》は長《なが》尾《お》の僧《そう》都《ず》は申すまでもなく、その日お見えになっていらしった山の座《ざ》主《す》や仁《にん》和《な》寺《じ》の僧《そう》正《じよう》も、現《あら》人《ひと》神《がみ》のような摩利信乃法師に、眼をおくじかれになったのでございましょう。供《く》養《よう》の庭はしばらくの間、竜《りゆう》舟《しゆう》の音楽も声を絶って、造り花の蓮《れん》華《げ》にふる日の光の音さえ聞えたくらい、しんと静まり返ってしまいました。
沙《しや》門《もん》はそれにまたいっそう力を得たのでございましょう。例の十文字の護《ご》符《ふ》をさしかざして、天《てん》狗《ぐ》のように嘲《あざ》笑《わら》いますと、
「これはまた笑止千万な。南都北《ほく》嶺《れい》とやらの聖僧《ひじり》たちも少からぬように見うけたが、一人としてこの摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》と法《ほう》力《りき》をくらべようずものも現れぬは、さては天上皇帝をはじめ奉《たてまつ》り、諸天童子のご神《しん》光《こう》に恐れをなして、貴《き》賤《せん》老《ろう》若《にやく》のきらいなく、わが摩利の法門に帰《き》依《え》し奉ったものと見える。さらばこの場において、まず山の座《ざ》主《す》から一人一人灌《かん》頂《ちよう》の儀《ぎ》式《しき》を行うてとらせようか」と、威《い》丈《たけ》高《だか》にののしりました。
ところがその声がまだ終らないうちに、西の廊《ろう》からただ一人、悠《ゆう》然《ぜん》と庭へおおりになった、尊げな御《ご》僧《そう》がございます。金《きん》襴《らん》の袈《け》裟《さ》、水晶の念《ねん》珠《ず》、それから白い双の眉《まゆ》毛《げ》――一目見ただけでも、天《あめ》が下《した》に功《く》徳《どく》無《む》量《りよう》の名をとどろかせた、横《よ》川《かわ》の僧《そう》都《ず*》だと申すことは疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体をおもむろに運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止《とど》めますと、
「こりゃ下《げ》郎《ろう》。ただいまもそのほうが申すごとく、この御《み》堂《どう》供養の庭には、法《ほつ》界《かい》の竜《りゆう》象《ぞう》数を知らず並みいられるには相《そう》違《い》ない。が、鼠《ねずみ》になげうつにも器《うつわ》物《もの》を忌《い》むの慣《なら》い、誰かそのほうごとき下郎づれと、法力の高下を競《きそ》わりょうぞ。さればそのほうはまず己《おのれ》を恥《は》じて、〓《そう》々《そう》この宝前を退散すべき分際ながら、推して神《じん》通《ずう》をくらべようなどは、近ごろもって奇《きつ》怪《かい》至《し》極《ごく》じゃ。思うにそのほうはいずこかにて金《こん》剛《ごう》邪《じや》禅《ぜん》の法を修した外《げ》道《どう》の沙《しや》門《もん》と心得る。じゃによって一つは三宝の霊《れい》験《げん》を示さんため、一つはそのほうの魔《ま》縁《えん》にひかれて、無《む》間《げん》地《じ》獄《ごく》におちようず衆《しゆ》生《じよう》を救うてとらさんため、老《ろう》衲《のう》自らそのほうと法《ほう》験《げん》をくらべに罷《まか》りいでた。たといそのほうの幻《げん》術《じゆつ》がよく鬼《き》神《しん》を駆《か》り使うとも、護《ご》法《ほう》の加護ある老衲には一指を触《ふ》るることすらよもできまい。されば仏《ぶつ》力《りき》の奇《き》特《どく》を見て、そのほうこそ受《じゆ》戒《かい》いたしてよかろう」と、大《だい》獅《し》子《し》吼《く》を浴《あび》せかけ、たちまち印《いん》を結ばれました。
三二
するとその印を結んだ手のうちから、にわかに一道の白《はく》気《き》が立ち上って、それが隠《いん》々《いん》と中《なか》空《ぞら》へたなびいたと思いますと、ちょうど僧《そう》都《ず》の頭《かしら》の真上に、宝《ほう》蓋《がい》をかざしたような一団の靄《もや》がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲《うん》気《き》の模様が、まだ十分ご会《え》得《とく》には参りますまい。もしそれが靄だったといたしましたら、その向うにある御《み》堂《どう》の屋根などはかすんで見えないはずでございますが、この雲気はただ、虚《こ》空《くう》に何やら形の見えぬものがわだかまったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見《み》透《す》かされたのでございます。
お庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚《おどろ》いたのでございましょう。またどこからともなく風のようなざわめきが、御《み》簾《す》を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らないうちに、印を結び直した横《よ》川《かわ》の僧都が、おもむろに肉《しし》の余った顎《おとがい》を動かして、秘密の呪《じゆ》文《もん》を誦《ず》しますと、たちまちその雲《うん》気《き》の中に、朦《もう》朧《ろう》とした二尊の金《きん》甲《こう》神《じん*》が、勇ましく金《こん》剛《ごう》杵《しよ》をふりかざしながら、影のような姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻《まぼろし》ではございます。が、その宙を踏《ふ》んで飛《ひ》舞《ぶ》するようすは、今しも摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》の脳上へ、一《いつ》杵《しよ》を加えるかと思うほど、神《しん》威《い》を帯びておったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、相変らず高《こう》慢《まん》の面《おもて》をあげて、じっと金《きん》甲《こう》神《じん》の姿をながめたまま、眉《まゆ》毛《げ》一つ動かそうとはいたしません。それどころか、堅《かた》く結んだ脣《くちびる》のあたりには、例の無《ぶ》気《き》味《み》な微《び》笑《しよう》の影が、さもあざけりたいのをこらえるように、漂《ただよ》っておるのでございます。するとその不敵なふるまいに腹を据《す》えかねたのでございましょう。横《よ》川《かわ》の僧《そう》都《ず》は急に印《いん》を解いて、水《すい》晶《しよう》の念《ねん》珠《じゆ》を振りながら、
「叱《しつ》」と、しわがれた声で大《だい》喝《かつ》しました。
その声に応じて金《きん》甲《こう》神《じん》が、雲気とともに空中から、舞い下《くだ》ろうといたしましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護《ご》符《ふ》を額に当てながら、何やら鋭《するど》い声で叫《さけ》びましたのとが、全く同時でございます。この拍《ひよう》子《し》にまたたく間、虹《にじ》のような光があって空へのぼったと見えましたが、金甲神の姿は跡《あと》もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰《あられ》のように、戞《かつ》然《ぜん》と四方へ飛び散りました。
「御《ご》坊《ぼう》の手なみはすでに見えた。金《こん》剛《ごう》邪《じや》禅《ぜん》の法を修したとは、とりも直さず御坊のことじゃ」
勝ち誇《ほこ》ったあの沙《しや》門《もん》は、思わずどっと閧《とき》をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこうののしりました。その声を浴びた横川の僧都が、どんなにおしおれなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時お弟《で》子《し》たちが、先を争いながら進みよって介《かい》抱《ほう》しなかったといたしましたら、おそらく満足には元の廊《ろう》へも帰られなかったことでございましょう。その間に摩《ま》利《り》信《し》乃《の》法《ほう》師《し》は、いよいよ誇《ほこ》らしげに胸をそらせて、
「横《よ》川《かわ》の僧《そう》都《ず》は、今天《あめ》が下《した》に法《ほう》誉《よ》無上の大《だい》和《お》尚《しよう》と承ったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧をくらまし奉《たてまつ》って、みだりに鬼《き》神《しん》を使《し》役《えき》する、言おうようない火《か》宅《たく》僧《そう》じゃ。されば仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》は妖《よう》魔《ま》のたぐい、釈《しやく》教《きよう》は堕《だ》獄《ごく》の業《ごう》因《いん》と申したが、摩利信乃法師一人の誤《あやま》りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰《き》依《え》しようと思《おぼ》し立たれずば、もとより僧俗のきらいはない。何《なん》人《びと》なりともこの場において、天上皇帝のご威《い》徳《とく》をまのあたりに試みられい」と、八方をにらみながら申しました。
その時、また東の廊《ろう》に当って、
「応《おう》」と、涼しく答えますと、ご装《しよう》束《ぞく》の装もあたりを払《はら》って、悠《ゆう》然《ぜん》とお庭へおおりになりましたのは、別人でもない堀川の若《わか》殿《との》様《さま》でございます。
(未完)
(大正七年一一月)
毛《もう》利《り》先生
歳《さい》晩《ばん》のある暮《くれ》方《かた》、自分は友人の批評家と二人で、いわゆる腰《こし》弁《べん》街《かい》道《どう*》の、裸《はだか》になった並《なみ》樹《き》の柳《やなぎ》の下を、神《かん》田《だ》橋《ばし》の方へ歩いていた。自分たちの左右には、昔、島《しま》崎《ざき》藤《とう》村《そん》が「もっと頭《かしら》をあげて歩け」と慷《こう》慨《がい》した、下級官吏らしい人々が、まだ漂《ただよ》っているたそがれの光の中に、蹌《そう》踉《ろう》たる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂《ゆう》鬱《うつ》な心もちを、払《はら》いのけようとしても払いのけられなかったからであろう。自分たちは外《がい》套《とう》の肩《かた》をすり合せるようにして、心もち足を早めながら、大《おお》手《て》町《まち》の停《てい》留《りゆう》場《ば》を通りこすまでは、ほとんど一《ひと》言《こと》もきかずにいた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒そうな姿を一《いち》瞥《べつ》すると、急に身ぶるいを一つして、
「毛《もう》利《り》先生のことを思い出す」と、ひとりごとのようにつぶやいた。
「毛利先生と言うのは誰《だれ》だい」
「僕《ぼく》の中学の先生さ。まだ君には話したことがなかったかな」
自分は否《いな》と言う代りに、黙《だま》って帽《ぼう》子《し》のひさしを下げた。これから下《しも》に掲《かか》げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追《つい》憶《おく》である。――
―――――――――
もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学《*》の三年級にいた時のことである。自分の級に英語を教えていた、安《あ》達《だち》先生と言う若い教師が、インフルエンザから来た急性肺《はい》炎《えん》で、冬期休業の間に物《ぶつ》故《こ》してしまった。それがあまり突然だったので、適当な後任を物色する余《よ》裕《ゆう》がなかったからの窮《きゆう》策《さく》であろう。自分の中学は、当時ある私立中学で英語の教師を勤めていた、毛《もう》利《り》先生という老人に、今まで安達先生の受け持っていた授業を一時嘱《しよく》託《たく》した。
自分がはじめて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えるという好《こう》奇《き》心《しん》に圧《あつ》迫《ぱく》されて、廊《ろう》下《か》に先生のくつ音が響《ひび》いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。ところがそのくつ音が、日かげの絶えた、寒い教室の外にとどまって、やがてドアが開かれると、――ああ、自分はこう言ううちにも、歴々とその時の光景が眼に浮んでいる。ドアを開いてはいって来た毛利先生は、何より先《さき》その背の低いのがよく縁《えん》日《にち》の見世物に出る蜘《く》蛛《も》男《おとこ》と言うものを聯《れん》想《そう》させた。が、その感じから暗《あん》澹《たん》たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、光滑《かつ》々《かつ》たる先生のはげ頭で、これまた後頭部のあたりに、種《しよう》々《しよう》たる胡《ご》麻《ま》塩《しお》の髪の毛が、わずかに残《ざん》喘《ぜん》を保っていたが、大部分は博《はく》物《ぶつ》の教科書に画が出ている駝《だ》鳥《ちよう》の卵なるものと相《そう》違《い》はない。最後に先生の風《ふ》采《さい》を凡《ぼん》人《じん》以上に超《ちよう》越《えつ》させたものは、その怪《あや》しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったという事実を危く忘《ぼう》却《きやく》させるくらい、文字通り蒼《そう》然《ぜん》たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折《おり》襟《えり》には、きわめてはでな紫《むらさき》のネクタイが、まるで翼《つばさ》をひろげた蛾《が》のように、ものものしく結ばれていたという、驚《おどろ》くべき記《き》憶《おく》さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑いをこらえる声が、そこここのすみから起ったのは、もとより不思議でもなんでもない。が、読《とく》本《ほん》と出《しゆつ》席《せき》簿《ぼ》とをかかえた毛《もう》利《り》先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠《ゆう》然《ぜん》とした態度を示しながら、一段高い教《きよう》壇《だん》に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人のよさそうな、血色の悪い丸顔にあいきょうのある微《び》笑《しよう》を漂《ただよ》わせて、
「諸君」と、金《かな》切《きり》声《こえ》で呼びかけた。
自分たちは過去三年間、いまだかつてこの中学の先生から諸君をもって遇《ぐう》せられたことは、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚《きよう》嘆《たん》の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと、息をひそめて待ちかまえていたのである。
しかし毛利先生は、「諸君」と言ったまま、教室の中を見まわして、しばらくはなんとも口を開かない。肉のたるんだ先生の顔には、悠然たる微笑の影が浮んでいるのにかかわらず、口《こう》角《かく》の筋肉は神経的にびくびく動いている。と思うと、どこか家《か》畜《ちく》のようなところのある晴《はれ》々《ばれ》した眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去《きよ》来《らい》した。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀《あい》願《がん》したいものをいだいていて、しかもその何ものかということが、先生自身にも遺《い》憾《かん》ながら判然と見きわめがつかないらしい。
「諸君」
やがて毛利先生は、こう同じ調子で繰《く》り返した。それから今度はそのあとへ、ちょうどその諸君と言う声の反《はん》響《きよう》を捕《とら》えようとするごとく、
「これから私が、諸君にチョイス・リイダア《*》を教えることになりました」と、いかにもあわただしくつけ加えた。自分たちはますます好《こう》奇《き》心《しん》の緊《きん》張《ちよう》を感じて、ひっそりと鳴りを静めながら、熱心に先生の顔を見守っていた。が、毛《もう》利《り》先生はそう言うと同時に、また哀《あい》願《がん》するような眼つきをして、ぐるりと教室の中を見まわすと、それぎりで急に椅《い》子《す》の上へバネがはずれたように腰《こし》をおろした。そうして、すでに開かれていたチョイス・リイダアのかたわらへ、出《しゆつ》席《せき》簿《ぼ》をひろげてながめだした。この唐《とう》突《とつ》たるあいさつの終り方が、いかに自分たちを失望させたか、と言うよりもむしろ、失望を通り越して、いかに自分たちをこっけいに感じさせたか、それはおそらく言う必要もないことであろう。
しかし幸《さいわい》にして先生は、自分たちが笑いをもらすのに先立って、あの家《か》畜《ちく》のような眼を出席簿からあげたと思うと、たちまち自分たちの級の一人を「さん」づけにして指名した。もちろんすぐに席を離れて、訳読してみろという相《あい》図《ず》である。そこでその生徒は立ち上がって、ロビンソン・クルウソオか何かの一節を、東京の中学生に特有な、気のきいた調子で訳読した。それをまた毛利先生は、時々紫《むらさき》のネクタイへ手をやりながら、誤訳はもとより些《さ》細《さい》な発音の相《そう》違《い》まで、いちいちていねいに直していく。発音は妙《みよう》に気どったところがあるが、だいたい正確で、明《めい》瞭《りよう》で、先生自身もこの方面が特に内心得意らしい。
が、その生徒が席に復して、先生がそこを訳読し始めると、再び自分たちの間には、そこここから失笑の声が起り始めた。と言うのは、あれほど発音の妙をきわめた先生も、いざ翻《ほん》訳《やく》をするとなると、ほとんど日本人とは思われないくらい、日本語の数を知っていない。あるいは知っていても、その場に臨んでは急には思い出せないのであろう。たとえばたった一行を訳するにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とうとう飼《か》うことにしました。何を飼うことにしたかと言えば、それ、あの妙《みよう》なけだもので――動物園にたくさんいる――なんと言いましたかね、――ええとよく芝《しば》居《い》をやる――ね、諸君も知っているでしょう。それ、顔の赤い――何、猿《さる》? そうそう、その猿です。その猿を飼うことにしました」
もちろん猿でさえこのくらいだから、少しめんどうなことばになると、何度もその周囲を低《てい》徊《かい》したあげくでなければ、容易にしかるべき訳語にはぶつからない。しかも毛《もう》利《り》先生はそのたびにひどく狼《ろう》狽《ばい》して、ほとんどあの紫《むらさき》のネクタイを引きちぎりはしないかと思うほど、しきりに喉《のど》もとへ手をやりながら、当《とう》惑《わく》そうな顔をあげて、あわただしく自分たちの方へ眼を飛ばせる。と思うとまた、両手ではげ頭をおさえながら、机の上へ顔を伏《ふ》せて、いかにも面目なさそうに行きづまってしまう。そういう時は、ただでさえ小さな先生の体が、まるで空気の抜けた護《ご》謨《む》風《ふう》船《せん》のように、いくじなく縮《ちぢ》み上がって、椅《い》子《す》からたれている両足さえ、ぶらりと宙に浮びそうな心もちがした。それをまた生徒のほうでは、おもしろいことにして、くすくす笑う。そうして二、三度先生が訳読を繰《く》り返す間《あいだ》には、その笑い声もしだいに大《だい》胆《たん》になって、とうとうしまいにはいちばん前の机からさえ、公然とわき返るようになった。こういう自分たちの笑い声がどれほど善良な毛利先生につらかったか、――現に自分ですら今日《きよう》その刻《こく》薄《はく》な響《ひびき》を想起すると、思わず耳をおおいたくなることは一《いつ》再《さい》でない。
それでもなお毛利先生は、休《きゆう》憩《けい》時間の喇《らつ》叭《ぱ》が鳴り渡るまで、勇《ゆう》敢《かん》に訳読を続けていった。そうして、ようやく最後の一節を読み終ると、ふたたび元のような悠《ゆう》然《ぜん》たる態度で、自分たちの敬礼に答えながら、今までの惨《さん》憺《たん》たる悪《あく》闘《とう》も全然忘れてしまったように、落ち着き払《はら》って出て行ってしまった。そのあとを追いかけてどっと自分たちの間から上がった、あらしのような笑い声、わざと騒《そう》々《ぞう》しく机のふたを明けたりしめたりさせる音、それから教《きよう》壇《だん》へとび上がって、毛《もう》利《り》先生の身ぶりや声《こわ》色《いろ》をさっそく使って見せる生徒――ああ、自分はまだその上に組長の章《しるし》をつけた自分までが、五、六人の生徒にとり囲まれて、先生の誤訳を得《とく》々《とく》と指《し》摘《てき》していたという事実すら、思い出さなければならないであろうか。そうしてその誤訳は? 自分は実際その時でさえ、はたしてそれがほんとうの誤訳かどうか、確かなことは何一つわからずにいばっていたのである。
―――――――――
それから三、四日経《へ》たある午《ひる》の休《きゆう》憩《けい》時間である。自分たち五、六人は、機《き》械《かい》体《たい》操《そう》場《じよう》の砂だまりに集まって、ヘルの制服の背を暖い冬のひなたにさらしながら、遠からずきたるべき学年試験のうわさなどを、口まめにしゃべりかわしていた。すると今まで生徒といっしょに鉄棒へぶらさがっていた、体量十八貫《かん》という丹《たん》波《ば》先生が、「一二」と大きな声をかけながら、砂の上へ飛びおりると、チョッキばかりに運《うん》動《どう》帽《ぼう》をかぶった姿を、自分たちの中に現して、
「どうだね、今度来た毛利先生は」と言う。丹波先生はやはり自分たちの級に英語を教えていたが、有名な運動好きで、かねて詩《し》吟《ぎん》がじょうずだと言うところから、英語そのものはきらっていた柔《じゆう》剣《けん》道《どう》の選手などという豪《ごう》傑《けつ》連《れん》の間にも、だいぶ評判がよかったらしい。そこで先生がこう言うと、その豪《ごう》傑《けつ》連の一人がミットをもてあそびながら、
「ええ、あんまり――なんです。皆あんまり、よくできないようだって言っています」と、柄《がら》にもなくはにかんだ返事をした。すると丹《たん》波《ば》先生はズボンの砂をハンケチではたきながら、得意そうに笑って見せて、
「お前よりもできないか」
「そりゃ僕《ぼく》よりできます」
「じゃ、文句を言うことはないじゃないか」
豪傑はミットをはめた手で頭をかきながら、いくじなくひっこんでしまった。が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近《きん》眼《がん》鏡《きよう》をかけ直すと、年に似《に》合《あ》わずませた調子で、
「でも先生、僕たちはたいてい専門学校《*》の入学試験を受けるつもりなんですから、できる上にもできる先生に教えていただきたいと思っているんです」と、抗《こう》弁《べん》した。が、丹波先生は相変らず勇《ゆう》壮《そう》に笑いながら、
「何、たった一学期やそこいら、誰《だれ》に教わったって同じことさ」
「じゃ毛《もう》利《り》先生は一学期だけしかお教えにならないんですか」
この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。世《せ》故《こ》にたけた先生はそれにはわざと答えずに、運《うん》動《どう》帽《ぼう》をぬぎながら、五《ご》分《ぶ》刈《がり》の頭のほこりを勢いよく払《はら》い落すと、急に自分たち一同を見渡して、
「そりゃ毛利先生は、ずいぶん古い人だから、我々とは少し違っているさ。今朝も僕が電車へ乗ったら、先生はいちばんまん中にかけていたっけが、乗《のり》換《か》えの近所になると、『車《しや》掌《しよう》、車掌』って声をかけるんだ。僕《ぼく》はおかしくって、弱ったがね。とにかく一《いつ》風《ぷう》変《かわ》った人には違いないさ」と、巧《たくみ》に話頭を一転させてしまった。が、毛《もう》利《り》先生のそういう方面に関してなら、何も丹《たん》波《ば》先生を待たなくとも、自分たちの眼をおどろかせたことは、あり余るほどたくさんある。
「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へげたをはいて来られるそうです」
「あのいつも腰《こし》に下がっている、白いハンカチへ包んだものは、毛利先生のお弁当じゃないんですか」
「毛利先生が電車のつり皮につかまっていられるのを見たら、毛糸の手《て》袋《ぶくろ》が穴だらけだったっていう話です」
自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚《ぐ》にもつかないことを、四方からやかましくしゃべり立てた。ところがそれに釣《つ》りこまれたのか、自分たちの声がひとしきり高くなると、丹波先生もいつか浮き浮きした声を出して、運《うん》動《どう》帽《ぼう》を指の先でまわしながら、
「それよりかさ、あの帽子が古《こ》物《ぶつ》だぜ――」と、思わず口へ出して言いかけた、ちょうどその時である。機《き》械《かい》体《たい》操《そう》場《じよう》と向い合って、わずかに十歩ばかり隔《へだ》たっている二階建の校舎の入口へ、どう思ったか毛利先生が、その古物の山《やま》高《たか》帽《ぼう》をいただいて、例の紫《むらさき》のネクタイへ仔《し》細《さい》らしく手をやったまま、悠《ゆう》然《ぜん》として小さな体を現した。入口の前には一年生であろう、子供のような生徒が六、七人、人《ひと》馬《うま》か何かして遊んでいたが、先生の姿を見ると、これは皆《みな》先を争って、ていねいに敬礼する。毛利先生もまた、入口の石段の上にさした日の光の中にたたずんで、山高帽をあげながら笑って礼を返しているらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一種の羞《しゆう》恥《ち》を感じて、しばらくの間はひっそりと、にぎやかな笑い声を絶ってしまった。が、その中で丹《たん》波《ば》先生だけは、ただ、口をつぐむべくあまりに恐縮と狼《ろう》狽《ばい》とを重ねたからでもあったろう。「あの帽《ぼう》子《し》が古《こ》物《ぶつ》だぜ」と、言いかけた舌をちょいと出して、すばやく運動帽をかぶったと思うと、突然くるりと向きを変えて、「一――」と大きくわめきながら、チョッキ一つの肥った体を、やにわに鉄棒へほうりつけた。そうして「海《え》老《び》上がり」の両足を遠く空ざまに伸《のば》しながら、「二――」と再びわめいた時には、もう冬の青空をあざやかに切りぬいて、楽々とその上に上がっていた。この丹波先生のこっけいなてれ隠《かく》しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》声をのんだ機械体操場の生徒たちは、鉄棒の上の丹波先生を仰《あお》ぎながら、まるで野球の応援でもする時のように、わっとはやし立てながら、拍《はく》手《しゆ》をした。
こう言う自分も皆《みな》といっしょに、喝《かつ》采《さい》をしたのはもちろんである。が、喝采しているうちに、自分は鉄棒の上の丹波先生を、半ば本能的に憎《にく》みだした。と言ってもそれだけまた、毛《もう》利《り》先生に同情を注いだというわけでもない。その証《しよう》拠《こ》にはその時自分が、丹波先生へ浴びせた拍手は、同時に毛利先生へ、自分たちの悪意を示そうという、間接目的を含《ふく》んでいたからである。今の自分の頭で解《かい》剖《ぼう》すれば、その時の自分の心もちは、道徳の上で丹波先生を侮蔑するとともに、学力の上では毛利先生もあわせて侮《ぶ》蔑《べつ》していたとでも説明することができるかもしれない。あるいはその毛利先生に対する侮蔑は、丹波先生の「あの帽子が古物だぜ」によって、いっそうしかるべき裏書きを施《ほどこ》されたような、ずうずうしさを加えていたとも考えることができるであろう。だから自分は喝《かつ》采《さい》しながら、そびやかした肩《かた》越《ご》しに、昂《こう》然《ぜん》として校舎の入口をながめやった。するとそこには依《い》然《ぜん》として、わが毛《もう》利《り》先生が、まるで日の光をむさぼっている冬《ふゆ》蠅《ばい》か何かのように、じっと石段の上にたたずみながら、一年生の無《む》邪《じや》気《き》な遊《ゆう》戯《ぎ》を、余念もなくひとり見守っている。その山《やま》高《たか》帽《ぼう》子《し》とその紫《むらさき》のネクタイと――自分は当時、むしろ、わらうべき対象として、一《いち》瞥《べつ》のうちに収めたこの光景が、なぜか今になってみると、どうしても忘れることができない。――
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就任の当日毛利先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮《ぶ》蔑《べつ》の情は、丹《たん》波《ば》先生のあの失策(?)があって以来、いよいよ級全体に盛《さか》んになった。すると、また、それから一週間とたたないある朝のことである。その日は前夜から雪が降りつづけて、窓の外にさし出ている雨天体操場の屋根などは、一面にもうかわらの色が見えなくなってしまったが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々と石炭の火を燃え立たせて、窓ガラスにつもる雪さえ、うす青い反射の光を漂《ただよ》わす暇《ひま》もなく、溶けていった。そのストオヴの前に椅《い》子《す》を据《す》えながら、毛利先生は例の通り、金《かな》切《きり》声《ごえ》をふりしぼって、熱心にチョイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフ《*》を教えていたが、もちろん誰《だれ》もまじめになって、耳を傾けている生徒はない。ないどころか、自分の隣《となり》にいる、ある柔《じゆう》道《どう》の選手のごときは、読《とく》本《ほん》の下へ武《ぶ》侠《きよう》世《せ》界《かい*》をひろげて、さっきから押川春浪《おしかわしゆんろう*》の冒《ぼう》険《けん》小《しよう》説《せつ》を読んでいる。
それがかれこれ二、三十分も続いたであろう。そのうちに毛利先生は、急に椅子から身を起すと、ちょうど今教えているロングフェロオの詩にちなんで、人生という問題を弁じだした。趣《しゆ》旨《し》はどんなことだったか、さらに記《き》憶《おく》に残っていないが、おそらくは議論というよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだったと思う。と言うのは先生が、まるで羽根を抜かれた鳥のように、絶えず両手を上げ下げしながら、あわただしい調子でしゃべった中に、
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しいことが多いです。ね。苦しいことが多い。これで私にしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資が入るでしょう。ね。だからなかなか苦しいことが多い………」と言うような文句のあった事を、かすかに覚えているからである。が、何も知らない中学生に向ってさえ、生活難を訴《うつた》える――あるいは訴えないつもりでも訴えている、先生の心もちなぞというものは、もとより自分たちに理解されようはずがない。それより訴えるというその事実の、こっけいな側面ばかり見た自分たちは、こう先生が述べ立てているうちに、誰《だれ》からともなくくすくす笑いだした。ただ、それがいつもの哄《こう》然《ぜん》たる笑声に変らなかったのは、先生のみすぼらしい服装と金《かな》切《きり》声《ごえ》をあげてしゃべっている顔つきとが、いかにも生活難それ自身のごとく思われて、幾分の同情を起させたからであろう。しかし自分たちの笑い声が、それ以上大きくならなかった代りに、しばらくすると、自分の隣《となり》にいた柔《じゆう》道《どう》の選手が、突然武《ぶ》侠《きよう》世界をさし置いて、虎《とら》のような勢いを示しながら、立ち上がった。そうして何を言うかと思うと、
「先生、僕《ぼく》たちは英語を教えていただくために、出席しています。ですからそれが教えていただけなければ、教室へはいっている必要はありません。もしもっとお話が続くのなら、僕は今から体操場へ行きます」
こう言って、その生徒は、いっしょうけんめいに苦《にが》い顔をしながら、恐《おそ》ろしい勢いでまた席に復した。自分はその時の毛《もう》利《り》先生くらい、不思議な顔をした人を見たことはない。先生はまるで雷《らい》に撃《う》たれたように、口を半ばあけたまま、ストオヴのそばへ棒立ちになって、一、二分の間はただ、その慓《ひよう》悍《かん》な生徒の顔ばかりながめていた。が、やがて家《か》畜《ちく》のような眼の中に、あの何かを哀《あい》願《がん》するような表情が、きわどくちらりとひらめいたと思うと、急に例の紫《むらさき》のネクタイへ手をやって、二、三度はげ頭を下げながら、
「いや、これは私が悪い。私が悪かったから、重々あやまります。なるほど諸君は英語を習うために出席している。その諸君に英語を教えないのは、私が悪かった。悪かったから重々あやまります。ね。重々あやまります」と、泣いてでもいるような微《び》笑《しよう》を浮べて、何度となく同じようなことを繰《く》り返した。それがストオヴの口からさす赤い火の光を斜《ななめ》に浴びて、上《うわ》衣《ぎ》の肩《かた》や腰《こし》のすり切れたところが、いっそうあざやかに浮んで見える。と思うと先生のはげ頭も、下げるたびにみごとな赤《しやく》銅《どう》色《いろ》の光沢を帯びて、いよいよ駝《だ》鳥《ちよう》の卵らしい。
が、このきのどくな光景も、当時の自分にはいたずらに、先生の下等な教師根性を暴《ばく》露《ろ》したものとしか思われなかった。毛利先生は生徒のきげんをとってまでも、失職の危険を避《さ》けようとしている。だから先生が教師をしているのは、生活のために余《よ》儀《ぎ》なくされたので、何も教育そのものに興味があるからではない。――おぼろげながらこんな批評をたくましゅうした自分は、今は服装と学力に対する侮《ぶ》蔑《べつ》ばかりでなく、人格に対する侮蔑さえ感じながら、チョイス・リイダアの上へ頬《ほお》づえをついて、燃えさかるストオヴの前へ立ったまま、精神的にも肉体的にも、火あぶりにされている先生へ、何度も生《なま》意《い》気《き》な笑い声を浴びせかけた。もちろんこれは、自分一人に限ったことでもなんでもない。現に先生をやりこめた柔道の選手なぞは、先生が色を失って謝罪すると、ちょいと自分のほうを見かえって、狡《こう》猾《かつ》そうな微《び》笑《しよう》をもらしながら、すぐまた読《とく》本《ほん》の下にある押《おし》川《かわ》春《しゆん》浪《ろう》の冒《ぼう》険《けん》小《しよう》説《せつ》を、勉強し始めたものである。
それから休《きゆう》憩《けい》時《じ》間《かん》の喇《らつ》叭《ぱ》が鳴るまで、わが毛《もう》利《り》先生はいつもよりさらにしどろもどろになって、憐《あわれ》むべきロングフェロオを無《む》二《に》無《む》三《さん》に訳読しようとした。「Life is real, life is earnest.《*》」――あの血色の悪い顔を汗《あせ》ばませて、絶えず知られざる何物かを哀《あい》願《がん》しながら、こう先生の読み上げた、喉《のど》のつまりそうな金《かな》切《きり》声《ごえ》は、今《こん》日《にち》でもなお自分の耳の底に残っている。が、その金切声の中に潜《ひそ》んでいる幾百万の悲《ひ》惨《さん》な人間の声は、当時の自分たちの鼓《こ》膜《まく》を刺《し》戟《げき》すべく、あまりに深刻なものであった。だからその時間ちゅう、倦《けん》怠《たい》に倦怠を重ねた自分たちの中には、無《ぶ》遠《えん》慮《りよ》なあくびの声をもらしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛利先生は、ストオヴの前へ小さな体を直立させて、窓ガラスをかすめて飛ぶ雪にも全然とんじゃくせず、頭の中のゼンマイが一時にほぐれたような勢いで、絶えず読本をふりまわしながら、必死になって叫《さけ》びつづける。「Life is real, life is earnest.――Life is real, life is earnest. 」……
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こういう次第だったから、一学期の雇《こ》傭《よう》期《き》間《かん》がすぎて、ふたたび毛《もう》利《り》先生の姿を見ることができなくなってしまった時も、自分たちは喜びこそすれ、けっして惜《お》しいなどとは思わなかった。いや、その喜ぶという気さえ出なかったほど、先生の去《きよ》就《しゆう》には冷《れい》淡《たん》だったと言えるかもしれない。ことに自分なぞはそれから七、八年、中学から高等学校、高等学校から大学と、しだいに成人《おとな》になるのに従って、そういう先生の存在自身さえ、ほとんど忘れてしまうくらい、全然何の愛《あい》惜《せき》もいだかなかったものである。
すると大学を卒業した年の秋――と言っても、日が暮《く》れると、しばしば深い靄《もや》がおりる、十二月の初《しよ》旬《じゆん》近くで、並《なみ》木《き》の柳《やなぎ》や鈴《すず》懸《かけ》などが、とうに黄いろい葉をふるっていた、ある雨《あま》あがりの夜のことである。自分は神田の古本屋を根気よくあさりまわって、欧《おう》洲《しゆう》戦争が始まってから、めっきり少くなったドイツ書を一、二冊手に入れたあげく、動くともなく動いている晩秋の冷い空気を、外《がい》套《とう》の襟《えり》に防ぎながら、ふと中西屋《*》の前を通りかかると、なぜかにぎやかな人声と、暖い飲料とが急に恋《こい》しくなったので、そこにあったカッフェの一つへ、何《なに》気《げ》なくひとりではいってみた。
ところが、はいって見るとカッフェの中は、狭《せま》いながらがらんとして、客の影は一人もない。置き並べた大理石のテエブルの上には、砂《さ》糖《とう》壺《つぼ》のめっきばかりが、冷く電《でん》灯《とう》の光を反射している。自分はまるで誰《だれ》かに欺《あざむ》かれたような、寂《さび》しい心もちを味いながら、壁《かべ》にはめこんだ鏡の前の、テエブルへ行って腰《こし》をおろした。そうして、用を聞きに来た給仕にコオヒイを言いつけると、思い出したように葉巻を出して、何本となくマチをすったあげく、やっとそれに火をつけた。すると間もなく湯げの立つコオヒイ茶わんが、自分のテエブルの上に現れたが、それでも一度沈《しず》んだ気は、外におりている靄《もや》のように、容易なことでは晴れそうもない。と言って今古本屋から買って来たのは、字の細《こまか》い哲《てつ》学《がく》の書物だから、ここではせっかくの名論文も、一頁《ページ》と読むのは苦痛である。そこで自分はしかたがなく、椅《い》子《す》の背へ頭をもたせてブラジルコオヒイとハヴァナ《*》と代る代る使いながら、すぐ鼻の先の鏡の中へ、漫《まん》然《ぜん》と煮《に》え切らない視線をさまよわせた。
鏡の中には、二階へ上るはしご段の側面をはじめとして、向うの壁《かべ》、白《しろ》塗《ぬ》りのドア、壁にかけた音楽会の広告なぞが、舞《ぶ》台《たい》面《めん》の一部でも見るように、はっきりと寒く映《うつ》っている。いや、まだそのほかにも、大理石のテエブルが見えた。大きな針葉樹の鉢《はち》も見えた。天《てん》井《じよう》から下がった電《でん》灯《とう》も見えた。大形な陶《とう》器《き》のガス煖《だん》炉《ろ》も見えた。その煖炉の前を囲んで、しきりに何か話している三、四人の給仕の姿も見えた。そうして――こう自分が鏡の中の物象を順々に点検して、煖炉の前に集まっている給仕たちに及んだ時である。自分は彼らに囲まれながら、そのテエブルに向っている一人の客の姿に驚《おどろ》かされた。それが、今まで自分の注意に上らなかったのは、おそらく周囲の給仕にまぎれて、無意識にカッフェのコックか何かと思いこんでいたからであろう。が、その時、自分が驚いたのは、何もいないと思った客が、いたというばかりではない。鏡の中に映っている客の姿が、こちらへはわずかに横顔しか見せていないにもかかわらず、あの駝《だ》鳥《ちよう》の卵のような、はげ頭のかっこうといい、あの古色蒼《そう》然《ぜん》としたモオニング・コオトのようすといい、最後にあの永遠に紫《むらさき》なネクタイの色合いといい、わが毛《もう》利《り》先生だということは、一目ですぐに知れたからである。
自分は先生を見ると同時に、先生と自分とを隔《へだ》てていた七、八年の歳《さい》月《げつ》をとっさに頭の中へ思い浮べた。チョイス・リイダアを習っていた中学の組長と、今ここで葉巻の煙《けむり》を静かに鼻から出している自分と――自分にとってその歳月は、けっして短かったとは思われない。が、すべてを押し流す「時」の流れも、すでに時代を超《ちよう》越《えつ》したこの毛《もう》利《り》先生ばかりは、いかんともすることができなかったからであろうか。現在この夜のカッフェで給仕とテエブルを分っている先生は、宛《えん》然《ぜん》として昔、あの西《にし》日《び》もささない教室で読《とく》本《ほん》を教えていた先生である。はげ頭も変らない。紫《むらさき》のネクタイも同じであった。それからあの金《かな》切《きり》声《ごえ》も――そういえば、先生は、今もあの金切声を張りあげて、忙しそうに何か給仕たちへ、説明しているようではないか。自分は思わず微《び》笑《しよう》を浮べながら、いつかひき立たない気分も忘れて、じっと先生の声に耳を借した。
「そら、ここにある形容詞がこの名詞を支配する。ね。ナポレオンと言うのは人の名まえだから、そこでこれを名詞と言う。よろしいかね。それからその名詞を見ると、すぐあとに――このすぐあとにあるのは、なんだか知っているかね。え。お前はどうだい」
「関係――関係名詞」
給仕の一人がどもりながら、こう答えた。
「何、関係名詞? 関係名詞と言うものはない。関係――ええと――関係代名詞? そうそう関係代名詞だね。代名詞だから、そら、ナポレオンと言う名詞の代りになる。ね。代名詞とは名に代る詞《ことば》と書くだろう」
話のぐあいでは、毛《もう》利《り》先生はこのカッフェの給仕たちに英語を教えてでもいるらしい。そこで自分は椅《い》子《す》をずらせて、違った位置からまた鏡をのぞきこんだ。するとはたしてそのテエブルの上には、読《とく》本《ほん》らしいものが一冊開いてある。毛利先生はそのペエジを、しきりに指でつき立てながら、いつまでも説明にあきるようすがない。この点もまた先生は、依《い》然《ぜん》として昔の通りであった。ただ、まわりに立っている給仕たちは、あの時の生徒と反対に、皆《みな》熱心な眼を輝《かがや》かせて、目《め》白《じろ》押《お》しに肩《かた》を合せながら、あわただしい先生の説明におとなしく耳を傾けている。
自分は鏡の中のこの光景を、しばらくながめている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んできた。いっそ自分もあすこへ行って、先生と久《きゆう》濶《かつ》を叙《じよ》し合おうか。が、たぶん先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よしまた覚えているとしても――自分は卒《そつ》然《ぜん》として、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局名のりなぞはあげないほうが、はるかに先生を尊敬するゆえんだと思い直した。そこでコオヒイが尽きたのを機《し》会《お》にして、短くなった葉巻を捨てながら、そっとテエブルから立ち上がると、それが静かにしたつもりでも、やはり先生の注意をみだしたのであろう。自分が椅《い》子《す》を離れると同時に、先生はあの血色の悪い丸顔を、あのうすよごれた折《おり》襟《えり》を、あの紫《むらさき》のネクタイを、一度にこちらへふり向けた。家《か》畜《ちく》のような先生の眼と自分の眼とが、鏡の中で刹《せつ》那《な》の間《あいだ》出会ったのはまさにこの時である。が、先生の眼の中には、きっき自分が予想した通り、はたして故人にあったと言う気《け》色《しき》らしいものも浮んでいない。ただ、そこにひらめいていたものは、例のごとく何ものかを、常に哀《あい》願《がん》しているような、いたましいまなざしだけであった。
自分は眼を伏《ふ》せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙《だま》ってカッフェの入口にある帳《ちよう》場《ば》の前へ勘《かん》定《じよう》に行った。帳場には自分も顔なじみの、髪《かみ》をきれいに分けた給《きゆう》仕《じ》頭《がしら》が、退屈そうに控《ひか》えている。
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼《たの》んで教えてもらうのかね」
自分は金を払《はら》いながら、こう尋《たず》ねると、給仕頭は戸口の往来をながめたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだわけじゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。なんでももう老《ろう》朽《きゆう》の英語の先生だそうで、どこでも傭《やと》ってくれないんだって言いますから、おおかた暇《ひま》つぶしに来るんでしょう。コオヒイ一《いつ》杯《ぱい》で一晩中、すわりこまれるんですから、こっちじゃあんまりありがたくもありません」
これを聞くとともに自分の想像には、とっさにわが毛《もう》利《り》先生の知られざる何物かを哀《あい》願《がん》している、あの眼つきが浮んできた。ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生のけなげな人格をはじめて髣《ほう》髴《ふつ》しえたような心もちがする。もし生れながらの教育家というものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えるということは、空気を呼吸するということとともに、寸刻といえどもやめることはできない。もししいてやめさせれば、ちょうど水分を失った植物か何かのように、先生の旺《おう》盛《せい》な活力も即《そく》座《ざ》萎《い》微《び》してしまうのであろう。だから先生は夜ごとに英語を教えるというその興味に促《うなが》されて、わざわざひとりこのカッフェへ一杯のコオヒイをすすりに来る。もちろんそれはあの給仕頭などに、暇つぶしをもって目《もく》さるべき悠《ゆう》長《ちよう》な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためとあざけったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤《ご》謬《びゆう》であった。思えばこの暇つぶしと言い生活のためと言う、世間の俗悪な解釈のために、わが毛利先生はどんなにか苦しんだことであろう。もとよりそういう苦しみの中にも、先生は絶えず悠《ゆう》然《ぜん》たる態度を示しながら、あの紫《むらさき》のネクタイとあの山《やま》高《たか》帽《ぼう》とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ましく、不退転の訳読を続けていった。しかし先生の眼の中には、それでもなお時として、先生の教授を受ける生徒たちの――おそらくは先生が面しているこの世間全体の――同情を哀《あい》願《がん》するひらめきが、いたましくも宿っていたではないか。
刹《せつ》那《な》の間こんなことを考えた自分は、泣いていいか、笑っていいか、わからないような感動に圧せられながら、外《がい》套《とう》の襟《えり》に顔をうずめて、〓《そう》々《そう》カッフェの外へ出た。が、あとでは毛利先生が、明るすぎて寒い電《でん》灯《とう》の光の下で、客がいないのを幸《さいわい》に、相変らず金切声をふり立て、熱心な給仕たちにまだ英語を教えている。
「名に代る詞《ことば》だから、代名詞と言う。ね。代名詞。よろしいかね……」
(大正七年十二月)
犬と笛《ふえ》
いく子さん《*》に献ず。
昔、大和《やまと》の国葛《かつら》城《ぎ》山《やま*》のふもとに、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》という若い木こりが住んでいました。これは顔かたちが女のようにやさしくって、その上髪までも女のように長かったものですから、こういう名まえをつけられていたのです。
髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は、たいそう笛《ふえ》がじょうずでしたから、山へ木を伐《き》りに行く時でも、仕事の合い間合い間には、腰《こし》にさしている笛を出して、ひとりでその音《ね》を楽しんでいました。するとまた不思議なことには、どんな鳥《とり》獣《けもの》や草《くさ》木《き》でも、笛のおもしろさはわかるのでしょう。髪長彦がそれを吹きだすと、草はなびき、木はそよぎ、鳥や獣はまわりへ来て、じっとしまいまで聞いていました。
ところがある日のこと、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》はいつもの通り、とある大木の根がたに腰をおろしながら、余念もなく笛を吹いていますと、たちまち自分の目の前へ、青い勾《まが》玉《たま》をたくさんぶらさげた、足の一本しかない大男が現れて、
「お前はなかなか笛がうまいな。己《おれ》はずっと昔から山奥のほら穴で、神《かみ》代《よ》の夢《ゆめ》ばかり見ていたが、お前が木を伐《き》りに来始めてからは、その笛《ふえ》の音に誘《さそ》われて、毎日おもしろい思いをしていた。そこで今日はそのお礼に、ここまでわざわざ来たのだから、なんでも好きなものを望むがいい」と言いました。
そこで木こりは、しばらく考えていましたが、
「私は犬が好きですから、どうか犬を一匹《ぴき》ください」と答えました。
すると、大男は笑いながら、
「高が犬を一匹くれなどとは、お前もよっぽど欲のない男だ。しかしその欲のないのも感心だから、ほかにはまたとないような不思議な犬をくれてやろう。こう言う己《おれ》は、葛《かつら》城《ぎ》山《やま》の足《あし》一《ひと》つの神だ」と言って、一声高く口笛を鳴らしますと、森の奥から一匹の白犬が、落葉を蹴《け》立てて駈《か》けて来ました。
足一つの神はその犬をさして、
「これは名を嗅げと言って、どんなに遠い所のことでも嗅《か》ぎ出して来るりこうな犬だ。では、一生己《おれ》の代りに、大事に飼《か》ってやってくれ」と言うかと思うと、その姿は霧《きり》のように消えて、見えなくなってしまいました。
髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は大喜びで、この白犬といっしょに里へ帰って来ましたが、あくる日また、山へ行って、何《なに》気《げ》なく笛を鳴らしていると、今度は黒い勾《まが》玉《たま》を首へかけた、手の一本しかない大男が、どこからか形を現して、
「きのう己《おれ》の兄きの足一つの神が、お前に犬をやったそうだから、己も今日は礼をしようと思ってやって来た。何かほしいものがあるのなら、遠《えん》慮《りよ》なく言うがよい。己《おれ》は、葛《かつら》城《ぎ》山《やま》の手《て》一《ひと》つの神だ」と言いました。
そうして髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》が、また「嗅《か》げにも負けないような犬がほしい」と答えますと、大男はすぐに口《くち》笛《ぶえ》を吹いて、一匹の黒犬を呼び出しながら、
「この犬の名は飛べと言って、誰《だれ》でも背中へ乗ってさえすれば百里でも千里でも、空を飛んで行くことができる。明日《あした》はまた己の弟が、何かお前に礼をするだろう」と言って、前のようにどこかへ消えうせてしまいました。
するとあくる日は、まだ、笛を吹くか吹かないのに、赤い勾《まが》玉《たま》を飾《かざ》りにした、目の一つしかない大男が、風のように空から舞い下《さが》って、
「己は葛城山の目《め》一《ひと》つの神だ、兄きたちがお前に礼をしたそうだから、己も嗅げや飛べに劣《おと》らないような、りっぱな犬をくれてやろう」と言ったと思うと、もう口笛の声が森中にひびき渡って、一匹の斑《ぶち》犬《いぬ》が牙《きば》をむき出しながら、駈《か》けて来ました。
「これは噛めという犬だ。この犬を相手にしたが最後、どんな恐《おそ》ろしい鬼《おに》神《がみ》でも、きっと一《ひと》噛《か》みに噛み殺されてしまう。ただ、己たちのやった犬は、どんな遠いところにいても、お前が笛を吹きさえすれば、きっとそこへ帰って来るが、笛がなければ来ないから、それを忘れずにいるがいい」
そう言いながら目一つの神は、また森の木の葉をふるわせて、風のように舞い上がってしまいました。
それから四、五日たったある日のことです。髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は三匹《びき》の犬をつれて葛《かつら》城《ぎ》山《やま》のふもとにある、路が三《みつ》叉《また》になった往来へ、笛《ふえ》を吹きながら来かかりますと、右と左と両方の路から、弓矢に身をかためた、二人の年若な侍《さむらい》が、たくましい馬にまたがって、しずしずこっちへやって来ました。
髪長彦はそれを見ると、吹いていた笛《ふえ》を腰へさして、ていねいにおじぎをしながら、
「もし、もし、殿《との》様《さま》、あなた方はいったいどちらへいらっしゃるのでございます」と尋《たず》ねました。
すると二人の侍が、かわるがわる答えますには、
「今度飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》のお姫《ひめ》様《さま》がお二方、どうやら鬼《おに》神《がみ》のたぐいにでもさらわれたとみえて、一晩のうちに御ゆくえが知れなくなった」
「大臣様はたいそうなご心配で、誰でもお姫様をさがし出して来たものには、厚いごほうびをくださるという仰《おお》せだから、それで我々二人も、御ゆくえを尋ねて歩いているのだ」
こう言って二人の侍は、女のような木こりと三匹の犬とをさもばかにしたように見《み》下《くだ》しながら、途《みち》を急いで行ってしまいました。
髪長彦はいいことを聞いたと思いましたから、さっそく白犬の頭をなでて、
「嗅《か》げ。嗅げ。お姫様たちの御《おん》ゆくえを嗅ぎ出せ」と言いました。
すると白犬は、おりから吹いて来た風に向って、しきりに鼻をひこつかせていましたが、たちまち身ぶるいを一つするが早いか、
「わん、わん、お姉《あねえ》様《さま》のお姫《ひめ》様《さま》は、生《い》駒《こま》山《やま*》のほら穴に住んでいる食《しよく》蜃《しん》人《じん》の虜《とりこ》になっています」と答えました。食《しよく》蜃《しん》人《じん》というのは、昔八《や》岐《また》の大蛇《おろち》を飼《か》っていた、途方もない大男の悪者なのです。
そこで木こりはすぐ白犬と斑《ぶち》犬《いぬ》とを、両方の側《わき》にかかえたまま、黒犬の背中にまたがって、大きな声でこう言いつけました。
「飛べ。飛べ。生《い》駒《こま》山《やま》のほら穴に住んでいる食《しよく》蜃《しん》人《じん》の所へ飛んで行け」
そのことばが終らないうちです。恐《おそ》ろしいつむじ風が、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木《こ》の葉《は》のように、見る見る黒犬は空へ舞《ま》い上がって、青《あお》雲《ぐも》の向うにかくれている、遠い生《い》駒《こま》山《やま》の峯の方へ、真一文字に飛び始めました。
やがて髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》が生《い》駒《こま》山《やま》へ来て見ますと、なるほど山の中ほどに大きなほら穴が一つあって、その中に金の櫛《くし》をさした、きれいなお姫《ひめ》様《さま》が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。
「お姫様、お姫様、私がお迎えにまいりましたから、もうご心配には及びません。さあ、早く、お父様の所へお帰りになるおしたくをなすってくださいまし」
こう髪長彦が言いますと、三匹《びき》の犬もお姫様の裾《すそ》や袖《そで》をくわえながら、
「さあ早く、おしたくをなすってくださいまし。わん、わん、わん」とほえました。
しかしお姫《ひめ》様《さま》は、まだお眼に涙をためながら、ほら穴の奥の方をそっと指さしてお見せになって、
「それでもあすこには、私をさらってきた食《しよく》蜃《しん》人《じん》が、さっきからお酒に酔《よ》って寝ています。あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうにちがいありません」とおっしゃいました。
髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》はにっこりほほえんで、
「高の知れた食蜃人なぞを、なんでこの私がこわがりましょう。その証拠には、今ここで、訳《わけ》なく私が退治してご覧に入れます」と言いながら、斑《ぶち》犬《いぬ》の背中を一つたたいて、
「噛《か》め。噛め。このほら穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ」と、勇ましい声で言いつけました。
すると斑犬はすぐ牙《きば》をむき出して、雷《かみなり》のようにうなりながら、まっしぐらにほら穴の中へとびこみましたが、たちまちのうちにまた血だらけな食蜃人の首をくわえたまま、尾をふって外へ出て来ました。
ところが不思議なことには、それと同時に、雲でうずまっている谷底から、一《いち》陣《じん》の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、
「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は食蜃人にいじめられていた、生《い》駒《こま》山《やま》の駒《こま》姫《ひめ》です」と、やさしい声で言いました。
しかしお姫《ひめ》様《さま》は、命拾いをなすったうれしさに、この声も聞えないようなごようすでしたが、やがて髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》の方を向いて、心配そうにおっしゃいますには、
「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目にあっておりましょう」
髪長彦はこれを聞くと、また白犬の頭をなでながら、
「嗅《か》げ。嗅げ。お姫様の御ゆくえを嗅ぎ出せ」と言いました。と、すぐに白犬は、
「わん、わん、お妹様《いもとご》のお姫様は笠《かさ》置《ぎ》山《やま*》のほら穴に棲《す》んでいる土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》の虜《とりこ》になっています」と、主人の顔を見上げながら、鼻をびくつかせて答えました。この土蜘蛛と言うのは、昔神《じん》武《む》天《てん》皇《のう》様《さま》がご征《せい》伐《ばつ》になったことのある、一《いつ》寸《すん》法《ぼう》師《し》の悪者なのです。
そこで髪長彦は、前のように二匹《ひき》の犬を小《こ》脇《わき》にかかえてお姫様といっしょに黒犬の背中へまたがりながら、
「飛べ。飛べ。笠置山のほら穴に住んでいる土蜘蛛の所へ飛んで行け」と言いますと、黒犬はたちまち空へ飛び上がって、これも青雲のたなびく中にそびえている笠置山へ矢よりも早く駈《か》け始めました。
さて笠《かさ》置《ぎ》山《やま》へ着きますと、ここにいる土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》はいたって悪《わる》知《ぢ》慧《え》のあるやつでしたから、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》の姿を見るが早いか、わざとにこにこ笑いながら、ほら穴の前まで迎えに出て、
「これは、これは、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》さん。遠方ご苦労でございました。まあ、こっちへおはいりなさい。ろくなものはありませんが、せめて鹿の生《いき》胆《ぎも》か熊《くま》の孕《はらみ》子《ご》でもご馳《ち》走《そう》しましょう」と言いました。
しかし髪長彦は首をふって、
「いや、いや、己《おれ》はお前がさらって来たお姫《ひめ》様《さま》をとり返しにやって来たのだ。早くお姫様を返せばよし、さもなければあの食《しよく》蜃《しん》人《じん》同様、殺してしまうからそう思え」と、恐《おそ》ろしい勢いでしかりつけました。
すると土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》は、ひとちぢみにちぢみ上がって、
「ああ、お返し申しますとも、なんであなたのおっしゃることに、いやだなどと申しましょう。お姫様はこの奥にちゃんと、ひとりでいらっしゃいます。どうかご遠《えん》慮《りよ》なく中へはいって、おつれになってくださいまし」と、声をふるわせながら言いました。
そこで髪長彦は、お姉《あねえ》様《さま》のお姫様と三匹《びき》の犬とをつれて、ほら穴の中へはいりますと、なるほどここにも銀の櫛《くし》をさした、かわいらしいお姫様が、悲しそうにしくしく泣いています。
それが人の来たようすに驚《おどろ》いて、急いでこちらをご覧になりましたが、お姉様のお顔を一目見たと思うと、
「お姉様」
「妹」と、二人のお姫様は一度に両方から駈《か》けよって、しばらくは互いに抱《だ》き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。髪長彦もこの気《け》色《しき》を見て、もらい泣きをしていましたが、急に三匹《びき》の犬が背中の毛をさか立てて、
「わん。わん。土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》の畜《ちく》生《しよう》め」
「憎《にく》いやつだ。わん。わん」
「わん。わん。わん。覚えていろ。わん。わん。わん」と、気の違ったようにほえだしましたから、ふと気がついてふり返《か》えると、あの狡《こう》猾《かつ》な土蜘蛛は、いつどうしたのか、大きな岩で、一分のすきまもないように、外からほら穴の入口をぴったりふさいでしまいました。おまけにその岩の向うでは、
「ざまを見ろ。髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》め。こうしておけば、貴様たちは、一月とたたないうちに、ひぼしになって死んでしまうぞ。なんと己《おれ》様《さま》の計略は、恐《おそ》れ入ったものだろう」と、手をたたいて土蜘蛛の笑う声がしています。
これにはさすがの髪長彦も、さてはいっぱい食わされたかと、一時は口《く》惜《や》しがりましたが、幸《さいわい》思い出したのは、腰《こし》にさしていた笛《ふえ》のことです。この笛を吹きさえすれば、鳥《とり》獣《けもの》は言うまでもなく、草《くさ》木《き》もうっとり聞きほれるのですから、あの狡猾な土蜘蛛も、心を動かさないとは限りません。そこで髪長彦は勇気をとり直して、ほえたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹きだしました。
するとその音《ね》色《いろ》のおもしろさには、悪者の土蜘蛛も、おいおい我を忘れたのでしょう。始めはほら穴の入口に耳をつけて、じっと聞き澄《すま》していましたが、とうとうしまいには夢《む》中《ちゆう》になって、一寸二寸と大岩を、少しずつわきへ開きはじめました。
それが人一人通れるくらい、大きな口をあいた時です。髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は急に笛《ふえ》をやめて、
「噛《か》め。噛め。ほら穴の入口に立っている土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》を噛み殺せ」と、斑《ぶち》犬《いぬ》の背中をたたいて、言いつけました。
この声に胆《きも》をつぶして、いちもくさんに土蜘蛛は、逃げ出そうとしましたが、もうその時はまにあいません。「噛め」はまるで電《いなずま》のように、ほら穴の外へ飛び出して、なんの苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。
ところがまた不思議なことには、それと同時に谷底から一《いち》陣《じん》の風が吹き起って、
「髪長彦さん。ありがとう。このご恩は忘れません。私は土蜘蛛にいじめられていた、笠《かさ》置《ぎ》山《やま》の笠《かさ》姫《ひめ》です」とやさしい声が聞こえました。
それから髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は、二人のお姫様と三匹《びき》の犬とをひきつれて、黒犬の背にまたがりながら、笠《かさ》置《ぎ》山《やま》の頂から、飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》のおいでになる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。その途中で二人のお姫様は、どうお思いになったのか、ご自分たちの金の櫛《くし》と銀の櫛とをぬきとって、それを髪長彦の長い長い髪《かみ》へそっとさしてお置きになりました。が、こっちはもとよりそんなことには、気がつくはずがありません。ただ、いっしょうけんめいに黒犬を急がせながら、美しい大和《やまと》の国《くに》原《はら》を足の下に見《み》下《おろ》して、ずんずん空を飛んで行きました。
そのうちに髪長彦は、あの始めに通りかかった、三つ叉《また》の路《みち》の空まで、犬を進めて来ましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍《さむらい》が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら、都の方へ急いでいます。これを見ると、髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は、ふと自分の大てがらを、この二人の侍たちにも聞かせたいという心もちが起ってきたものですから、
「おりろ。おりろ。あの三つ叉《また》になっている路《みち》の上へおりて行け」と、こう黒犬に言いつけました。
こっちは二人の侍です。せっかく方々さがしまわったのに、お姫《ひめ》様《さま》たちの御ゆくえがどうしても知れないので、しおしお馬を進めていると、いきなりそのお姫様たちが、女のような木こりといっしょに、たくましい黒犬にまたがって、空から舞《ま》い下《さが》って来たのですから、その驚《おどろ》きと言ったらありません。
髪長彦は犬の背中をおりると、ていねいにまたおじぎをして、
「殿《との》様《さま》、私はあなた方にお別れ申してから、すぐに生《い》駒《こま》山《やま》と笠《かさ》置《ぎ》山《やま》とへ飛んで行って、この通りお二方のお姫様をお助け申してまいりました」と言いました。
しかし二人の侍は、こんな卑《いや》しい木こりなどに、まんまと鼻をあかされたのですから、うらやましいのと、ねたましいのとで、腹がたってしかたがありません。そこでうわべはさもうれしそうに、いろいろ髪長彦のてがらをほめ立てながら、とうとう三匹《びき》の犬の由来や、腰《こし》にさした笛《ふえ》の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。そうして髪長彦の油断をしているうちに、まず大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人のお姫様と二匹の犬とを、しっかりと両《りよう》脇《わき》にかかえながら、
「飛べ。飛べ。飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け」と、声をそろえてわめきました。
髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》は驚《おどろ》いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍《さむらい》たちを乗せた黒犬は、きりきりと尾をまいたまま、はるかな青空の上の方へ舞《ま》い上がって行ってしまいました。
あとにはただ、侍たちの乗りすてた二匹《ひき》の馬が残っているばかりですから、髪長彦は三つ叉《また》になった往来のまん中につっぷして、しばらくはただ悲しそうにおいおい泣いておりました。
すると生《い》駒《こま》山《やま》の峯《みね》の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私は生駒山の駒《こま》姫《ひめ》です」と、やさしいささやきが聞えました。
それと同時にまた笠《かさ》置《ぎ》山《やま》の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私は笠置山の笠《かさ》姫《ひめ》です」と、これもやさしくささやきました。
そうしてその声が一つになって、
「これからすぐに私たちは、あの侍たちのあとを追って、笛《ふえ》をとり返して上げますから、少しもご心配なさいますな」と言うか言わないうちに、風はびゅうびゅううなりながら、さっき黒犬の飛んで行った方へ、狂《くる》って行ってしまいました。
が、少したつとその風は、またこの三つ叉《また》になった路《みち》の上へ、前のようにやさしくささやきながら、高い空からおろして来ました。
「あの二人の侍《さむらい》たちは、もうお二方のお姫《ひめ》様《さま》といっしょに、飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》の前へ出て、いろいろごほうびをいただいています。さあ、さあ、早くこの笛《ふえ》を吹いて、三匹《びき》の犬をここへお呼びなさい。その間《あいだ》に私たちは、あなたがご出世の旅立を、恥《は》ずかしくないようにして上げましょう」
こう言う声がしたかと思うと、あの大事な笛をはじめ、金の鎧《よろい》だの、銀の兜《かぶと》だの、孔《く》雀《じやく》の羽の矢《や》だの、香《こう》木《ぼく》の弓だの、りっぱな大将の装いが、まるで雨か霰《あられ》のように、まぶしく日に輝《かがや》きながら、ばらばら眼の前へ降って来ました。
それからしばらくたって、香《こう》木《ぼく》の弓に孔《く》雀《じやく》の羽の矢を背《し》負《よ》った、神様のような髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》が、黒犬の背中にまたがりながら、白と斑《ぶち》と二匹の犬を小《こ》脇《わき》にかかえて飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》のお館《やかた》へ、空から舞《ま》い下って来た時には、あの二人の年若な侍たちが、どんなにあわて騒《さわ》ぎましたろう。
いや、大臣様でさえ、あまりの不思議にお驚《おどろ》きになって、しばらくはまるで夢《ゆめ》のように、髪長彦のりりしい姿を、ぼんやりながめていらっしゃいました。
が、髪長彦はまず兜《かぶと》をぬいで、ていねいに大臣様におじぎをしながら、
「私はこの国の葛《かつら》城《ぎ》山《やま》のふもとに住んでいる、髪長彦と申すものでございますが、お二方のお姫様をお助け申したのは私で、そこにおりますお侍たちは、食《しよく》蜃《しん》人《じん》や土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》を退治するのに、指一本でもお動かしになりはいたしません」と申し上げました。
これを聞いた侍《さむらい》たちは、なにしろ今までは髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》の話したことを、さも自分たちのてがららしく吹《ふい》聴《ちよう》していたのですから、二人とも急に顔色を変えて、相手のことばをさえぎりながら、
「これはまた思いもよらないうそをつくやつでございます。食《しよく》蜃《しん》人《じん》の首を斬《き》ったのも私たちなら、土《つち》蜘《ぐ》蛛《も》の計略を見やぶったのも、私たちに相《そう》違《い》ございません」と、まことしやかに申し上げました。
そこでまん中に立った大《おお》臣《おみ》様《さま》は、どちらの言うことがほんとうとも、見きわめがおつきにならないので、侍たちと髪長彦をお見比べなさりながら、
「これはお前たちに聞いてみるよりほかはない。いったいお前たちを助けたのは、どっちの男だったと思う」と、お姫様たちの方を向いて、おっしゃいました。
すると二人のお姫《ひめ》様《さま》は、一度にお父様の胸におすがりになりながら、
「私たちを助けましたのは、髪長彦でございます。その証《しよう》拠《こ》には、あの男のふさふさした長い髪に、私たちの櫛《くし》をさしておきましたから、どうかそれをご覧くださいまし」と、恥《は》ずかしそうにお言いになりました。見るとなるほど、髪長彦の頭には、金の櫛と銀の櫛とが、美しくきらきら光っています。
もうこうなっては侍たちも、ほかにしかたはございませんから、とうとう大臣様の前にひれ伏《ふ》して、
「実は私たちが悪だくみで、あの髪長彦の助けたお姫様を、私たちのてがらのように、ここでは申し上げたのでございます。この通り白状いたしました上は、どうか命ばかりはお助けくださいまし」と、がたがたふるえながら申し上げました。
それから先のことは、別にお話しするまでもありますまい。髪《かみ》長《なが》彦《ひこ》はたくさんごほうびをいただいた上に、飛鳥《あすか》の大《おお》臣《おみ》様《さま》お婿《むこ》様《さま》になりましたし、二人の若い侍《さむらい》たちは、三匹《びき》の犬に追いまわされて、ほうほうお館《やかた》の外へ逃《に》げ出してしまいました。ただ、どちらのお姫《ひめ》様《さま》が、髪長彦のお嫁《よめ》さんになりましたか、それだけはなにぶん昔のことで、今でははっきりとわかっておりません。
(大正七年十二月)
注 釈
袈裟と盛遠
*袈裟と盛遠 「源《げん》平《ぺい》盛《せい》衰《すい》記《き》」巻十九「文《もん》覚《がく》発《ほつ》心《しん》附東《とう》帰《き》節《せつ》女《じよ》の事」に取材。
*盛遠 遠《えん》藤《どう》武《む》者《しや》盛《もり》遠《とお》。文覚上《しよう》人《にん》の青年時の名。
*渡左衛門尉 源氏の一党。左衛門尉は内《だい》裏《り》の警固にあたる判《はん》官《がん》。
*袈裟 本名は「盛衰記」によるとあとま。衣《ころも》川《がわ》殿《どの》の一人娘《むすめ》であったので、衣から「けさ」と愛称。
*衣川 岩手県平《ひら》泉《いずみ》付近。(渡が)「奥《おう》州《しゆう》衣川に有りけるが帰り上つて、故郷に住む。一家の者ども衣川殿と云《い》う」(源平盛衰記)。
蜘蛛の糸
*蜘蛛の糸 ドストエフスキイ「カラマゾフ兄弟」第七篇《へん》第三「一本の葱《ねぎ》」に取材。
地獄変
*地獄変 勧《かん》善《ぜん》懲《ちよう》悪《あく》の材料として、地《じ》獄《ごく》の恐《おそ》ろしい責苦の有様を描いた図。地獄変《へん》相《そう》図《ず》の略。この作は「宇《う》治《じ》拾《しゆう》遺《い》物語」巻三「絵仏師良《りよう》秀《しゆう》家の焼くるを見て悦《よろこ》ぶ事」および「古《こ》今《こん》著《ちよ》聞《もん》集《じゆう》」巻十一「巨《こ》勢《せの》弘《ひろ》高《たか》の地獄変の屏《びよう》風《ぶ》を画く事」をつき合わせて材料としたもの。
*煬帝 隋《ずい》の第二代皇帝。父を殺して位につく。
*融の左大臣 源《みなもとの》融《とおる》。弘仁十三―寛平七年(八二二―八九五)。平安前期の朝臣。河原の左大臣とす。この部分は、「今昔物語」巻二十七、第二話による。
*白馬 「白《あお》馬《うま》の節《せち》会《え》」に由来し、宴のあと天皇から青毛の馬を贈《おく》られた。のち白馬を用いた。
*長良の橋 大阪市大淀区豊崎町付近にあった橋。
*横川 比《ひ》叡《えい》山《ざん》の三塔《とう》の一つ。
*川成 百《くだ》済《らの》河《かわ》成《なり》。平安時代初期の画家。
*金岡 巨《こ》勢《せの》金《かな》岡《おか》。平安時代初期の画家。巨勢派の祖。
*竜蓋寺 参照
*生受領 たいしたこともない国司。「生」は未熟なさま。
*檳榔毛の車 牛車の一種。蒲葵(びろう)の葉を細かく裂《さ》いて車箱を貼《は》り覆《おお》ったもの。高位の貴族が用いた。
*釵子 朝廷で、婦人が正装する時、頭飾に用いた、銀製で二本を一組としたかんざしの類。
*金梨子地 蒔《まき》絵《え》の一種。金の粉末を散らして、梨《なし》の皮の斑《はん》点《てん》のようにした上に、漆《うるし》を塗ってとぎ出したもの。
奉教人の死
*Guia do Pecador ギヤ・ド・ペカドル(勧《かん》善《ぜん》抄《しよう》)。慶長四年(一五九九)、長崎(?)学林刊の吉《き》利《り》支《し》丹《たん》版。スペインの高僧ルイス・デ・グラナダの著を翻《ほん》訳《やく》したもので、漢字平《ひら》仮《が》名《な》交《ま》じり書。日本の信者の間に広く流布した。
*Imitatione Christi イミタシオネ・クリスティ(キリストにならいて)。ドイツの古賢トマス・ア・ケンピスが著わした世界的名著。コンテンツス・ムンジ(Contenmptus Mundi 厭《えん》世《せい》経《きよう》)と題し、抄《しよう》訳《やく》された。現在、慶長元年(一五九六)天草(?)学林刊のローマ字本と、慶長十五年(一六一〇)の京都原田アントニヨ印刷所刊の漢字平仮名交じりの国字本の二書が知られている。
*「びるぜん・まりや」 Virgen Maria(ポルトガル語)。処女マリア。
*耶蘇会 Jesuit Order(ポルトガル語)。十六世紀はローマ旧教の発展をはかるため、イスパニアのイグナティウス・デ・ロヨラIgnatius de Loyola(一四九一―一五五六)の設立した宗団。フランシスコ・ザヴィエル(Francisco Xavier)が日本に伝えた。
*「れげんだ・おうれあ」 Legenda Aurea この書名はラテン語で「黄金の聖人伝」の意。イタリア人ヤコブス・デ・ヴォラギネ Jacobus de Borgine(一二三五―一二九八)の著。ただし長崎耶蘇会出版のキリシタン版。
*「長崎港草」 熊《くま》野《の》正《せい》紹《しよう》の著。長崎開港以来の故事来歴を詳《しよう》記《き》してある。
枯野抄
*丈艸 内《ない》藤《とう》丈艸。寛文二年―宝永元年(一六六二―一七〇四)。蕉《しよう》門《もん》十哲の一人。山城の深草に遁《とん》世《せい》し芭《ば》蕉《しよう》に師事。作風は清澄。
*去来 向《むか》井《い》去来。慶安四年―宝永元年(一六五一―一七〇四)。蕉門十哲の一人。蕉門の代表選集「猿《さる》蓑《みの》」を凡《ぼん》兆《ちよう》と共編。句風は個性味に乏しいが師風に忠実。蕉風を祖述し「去来抄」その他の著がある。
*呑舟 大阪の俳人槐《えの》本《もと》之《し》道《どう》の門人。
*花屋日記 元禄七年九月二十一日後の芭蕉の旅行、病中、終《しゆう》焉《えん》、葬送に関する門人の手記、談話、書簡を収集したものであるが、文《ぶん》暁《ぎよう》の偽《ぎ》作《さく》。
*申の中刻 午後四時半―五時。
*木節 望《もち》月《づき》木節。大津の医者。芭蕉の門人。
*晋子其角 榎《えの》本《もと》其角。寛文元年―宝永四年(一六六一―一七〇七)。晋子は俳号。蕉門十哲の一人。宝井氏。近江《おうみ》の人。江戸に出て蕉門に入ったが師没後は、知的技巧に富み都会的で軽妙洒《しや》脱《だつ》な俳風を確立、江戸座を起こした。その選に「虚栗(みなしぐり)」がある。
*乙州 川《かわ》井《い》乙《おと》州《くに》。近江の人。蕉門女流俳人として名高い智《ち》月《げつ》の子。
*惟然坊 広《ひろ》瀬《せ》惟然。生年不《ふ》詳《しよう》―正徳元年(?―一七三一)。美《み》濃《の》の人。芭蕉門人。芭蕉没後自由律、口語俳《はい》諧《かい》を提唱。
*支考 各務《かがみ》支考。寛文五年―享保十六年(一六六五―一七三一)。美《み》濃《の》の人。蕉門十哲の一人。芭蕉没後平俗な美濃風を開く。
*正秀 水《みず》田《た》正秀。近江の人。元禄初年に蕉《しよう》門《もん》に入ったらしい。句風は平明温雅。
*之道 槐《えの》本《もと》之道。大阪蕉門の第一人者。
*住吉大明神 大阪市住吉区にある住吉神社。
*東花坊 支考の別号。
*園女 伊勢の人。蕉門の俳人。女らしい素直なよさを句風に持つ。
邪宗門
*大殿様 「邪宗門」の半年ほど前に、同じく大阪毎日新聞に掲《けい》載《さい》した「地獄変」の中の人物であるが、道《みち》長《なが》を念頭においたか。
*今出川 京都市の同志社大学近辺を流れていた川。この辺は高級貴族の住宅地だった。
*菅相丞(丞相)のお歌 菅《すが》原《わら》道《みち》真《ざね》の歌「このたびはぬさもとりあへずたむけ山紅葉《もみじ》の錦神のまにまに」(古今、羇《き》旅《りよ》)。
*帥民部卿 源経《つね》信《のぶ》。長和五年―承徳元年(一〇一六―一〇九七)。平安後期の公《く》卿《ぎよう》。博識でまた諸芸にひいでた。
*三舟に乗るもの 京都の大《おお》堰《い》川《がわ》遊覧の時、詩・歌・管《かん》絃《げん》のどの舟にも乗る資格がある者。三船の才ともいう。
*竜蓋寺 義《ぎ》淵《えん》開基五個竜寺の一。通称岡寺。奈良県高市郡明《あ》日《す》香《か》村にある。真言宗。
*伽陵 極楽にいる、美女のような顔をし妙音を発する鳥。伽陵頻《びん》伽《が》。
*大食調入食調 大食入調か。「古《こ》今《こん》著《ちよ》聞《もん》集《じゆう》」「歌《か》舞《ぶ》品《ひん》目《もく》」に見える笙《しよう》の秘曲。雅《が》楽《がく》の六調子の一。
*歌合せ 左右に分かれて和歌を詠《よ》み判者がその優《ゆう》劣《れつ》を決める競技。
*花合せ 花を左右から持ち出して、優劣を争い和歌などを詠み合った遊《ゆう》戯《ぎ》。物合せの一。
*東坡 蘇《そ》軾《しよく》。中国宋代の文章家。文詩書画のいずれにも長じていた。唐宋八大家の一人。
*お姫様 「堤《つつみ》中《ちゆう》納《な》言《ごん》物語」三、「虫めづる姫君」の主人公。按《あん》察《さつ》使《し》大納言の女《むすめ》。
*摩利の教 不《ふ》詳《しよう》。ただしここは山田孝三郎氏のいわれるように景教(キリスト教の一派、八世紀頃《ごろ》日本にも渡《と》来《らい》)であろう。
*白朱社 未詳。近江《おうみ》の白《はく》鬢《びん》社《しや》のことか。この末社は全国に分散している。
*河原 鴨《かも》川《がわ》の四条(四条大橋辺)河原。祇《ぎ》園《おん》に通じ、賎《せん》民《みん》がたむろしていた。
*美福門 朱《す》雀《ざく》門《もん》の東にあった内《だい》裏《り》の出入門。美福は「壬生」を佳《か》字《じ》であらわしたもの。
*糺の森 京都市左京区下賀茂神社付近の森。葵《あおい》橋の北、今出川の西方、都城の外で荒《こう》涼《りよう》とした森。古来、ほととぎす、納《のう》涼《りよう》で有名。
*油小路 北は元誓寺通より、南へ七条通まで、その南は不動堂・稲《いな》荷《り》御旅所伏見へ通う道をいう。
*道祖の神の祠 旅路の無事を守る神。八《や》衢《ちまた》彦《ひこ》および八衢姫を祀《まつ》る。俗に猿《さる》田《た》彦《ひこ》とも言われる。五条にこの祠はあった。
*九字を切り 「臨《りん》兵《ぺい》闘《とう》者《しや》皆《かい》陳《ちん》列《れつ》在《ざい》前《ぜん》」の九字を唱え、指で四縦線・五横線を描く九字の法を行うこと。護身の法ともいう。
*業平 在原業平。天長二年―元慶四年(八二五―八八〇)。六歌仙の一人。阿《あ》保《ぽ》親王第五子。奔《ほん》放《ぽう》な恋愛生活で知られる。
*摩利支天 常に日天に付《ふ》随《ずい》して、自在の通力を持つ女神。災を除き、身を隠《かく》す術が得られるという。武士などが守り神とした。
*波斯匿王 梵《ぼん》語《ご》。舎《しや》衛《え》国の王で釈《しや》迦《か》と同じ日に生まれ、のち釈迦について仏に帰依した。
*火鼠の裘 「竹取物語」にみえる仮空の品。火鼠の毛をもって織った裘で、汚れはすぐ火がついて燃えてしまうのでいつも清潔だという。
*蛮絵 鳥《ちよう》獣《じゆう》や草花などを模様として円く染め出したり、ししゅうしたもので、舞《ぶ》楽《がく》の装《しよう》束《ぞく》や調度につける。
*看督長 中古、検《け》非《び》違《い》使《し》の下にあって牢《ろう》獄《ごく》を管理、罪人の逮《たい》捕《ほ》にあたった役。赤色の狩衣に白衣布の袴《はかま》を着、白《しろ》杖《つえ》を手にした。賀茂祭の警固はこの役の者が行なった。
*横川の僧都 横川は比《ひ》叡《えい》山《ざん》三塔《とう》の一。ここの僧都で有名なのは源《げん》信《しん》。ただし以下の話は源信僧都とは関係がない。
*金甲神 仏法を守護する密《みつ》迹《しやく》金《こん》剛《ごう》と那《な》羅《ら》延《えん》金剛の二神。ふつう仁《に》王《おう》と呼び寺門の左右に安置され、寺内を守護する。
毛利先生
*腰弁街道 つとめ人のよく通る皇居と丸ノ内、大手町の間を通る路。
*ある府立中学 東京府立中学。現在の都立高校。芥川は明治四十一年春府立三中(現、都立両国高校)の三学年生であった。
*チョイス・リイダア Choice reader 当時中学でよく使われた英語教科書(読本)。
*専門学校 旧制の学校で、中等学校卒業者に専門教育を授けた。普通は三年制。
*サアム・オブ・ライフ “Psalm of Life”「人生讚《さん》歌《か》」ロングフェロオの詩集。一八三九年刊。
*武侠世界 明治四十年ごろから押《おし》川《かわ》春《しゆん》浪《ろう》が刊行した冒《ぼう》険《けん》や豪《ごう》傑《けつ》物《もの》を主とした雑《ざつ》誌《し》。
*押川春浪 明治十年―大正三年(一八七七―一九一四)。愛媛県の人。冒険小説家。「冒険世界」の主筆となり、のちに「武侠世界」を創刊し終生これに筆をとった。
*「Life is real,Life is earnest」 ロングフェロオの「人生讚歌」の一節。「人生は真実なり。人生は真剣なり」
*中西屋 神田駿《する》河《が》台《だい》にあった洋品、洋書店。
*ハヴァナ Havana キューバ共和国の首都。古来良質のたばこ(葉巻)を産する。ここは、そのたばこのこと。
犬と笛
*いく子さん 芥川夫人の母の従妹《いとこ》。大正七年文子夫人と結《けつ》婚《こん》当時の龍之介は、十五歳《さい》のいく子さんとよく会う機会があった。
*葛城山 大阪府と奈良県の境にある山。修《しゆ》験《げん》道《どう》の霊《れい》場《じよう》。海《かい》抜《ばつ》九六〇メートル。
*生駒山 奈良と大阪府の境にある山。生駒山脈の高山。海抜六四二メートル。
*笠置山 京都府相《あい》楽《ら》郡にある山。笠置山脈の高山。海抜二八九メートル。笠置寺や後《ご》醍《だい》醐《ご》天皇の行《あん》在《ざい》所《しよ》跡がある。
蜘《く》蛛《も》の糸《いと》・地《じ》獄《ごく》変《へん》
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》
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平成12年9月1日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『蜘蛛の糸』平成元年4月10日初版刊行