TITLE : 羅生門・鼻・芋粥
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目 次
老年
ひょっとこ
仙《せん》人《にん》
羅《ら》生《しよう》門《もん》
鼻
孤《こ》独《どく》地《じ》獄《ごく》
父
野《の》呂《ろ》松《ま》人形
芋《いも》粥《がゆ》
手《はん》巾《けち》
煙草《たばこ》と悪《あく》魔《ま》
煙管《きせる》
MENSURA ZOILI
運
尾《お》形《がた》了《りよう》斎《さい》覚《おぼ》え書《がき》
日光小品
大川の水
葬《そう》儀《ぎ》記《き》
老 年
橋《はし》場《ば*》の玉《ぎよく》川《せん》軒《けん》という茶式料理屋で、一《いつ》中《ちゆう》節《ぶし》の順《じゆん》講《こう》があった。
朝からどんより曇《くも》っていたが、午《ひる》ごろにはとうとう雪になって、あかりがつく時分にはもう、庭の松に張ってある雪よけの縄《なわ》がたるむほどつもっていた。けれども、ガラス戸と障《しよう》子《じ》とで、二重にしめきった部屋の中は、火ばちのほてりで、のぼせるくらいあたたかい。人の悪い中《なか》洲《ず*》の大将などは、鉄《てつ》無《む》地《じ》の羽《は》織《おり》に、茶のきんとうしの御《お》召《めし》揃《ぞろ》いか何かですましている六《ろつ》金《きん》さんをつかまえて、「どうです、一枚脱《ぬ》いじゃあ。黒《くろ》油《あぶら》が流れますぜ」と、からかったものである。六金さんのほかにも、柳《やなぎ》橋《ばし》のが三人、代《だい》地《ち*》の待合の女将《おかみ》が一人来ていたが、皆四十を越した人たちばかりで、それに小川の旦《だん》那《な》や中洲の大将などの御《ご》新《しん》造《ぞ》や御《ご》隠《いん》居《きよ》が六人ばかり、男客は、宇《う》治《じ》紫《し》暁《ぎよう》という、腰《こし》の曲った一《いつ》中《ちゆう》の師《し》匠《しよう》と、しろうとの旦那衆が七、八人、その中の三人は、三《さん》座《ざ*》の芝居や山《さん》王《のう》様《さま*》の御《ご》上《じよう》覧《らん》祭《まつり》を知っている連中なので、この人たちの間では深川の鳥《と》羽《ば》屋《や》の寮であった義《ぎ》太夫《だゆう》のおさらいの話や山《やま》城《しろ》河《が》岸《し》の津《つ》藤《とう*》が催《もよお》した千《せん》社《じや》札《ふだ》の会の話がだいぶにぎやかに出たようであった。
座《ざ》敷《しき》は離《はな》れの十五畳《じよう》で、このうちでは、いちばん広い間らしい。籠《かご》行灯《あんどん》の中にともした電灯が所々に丸い影を神《じん》代《だい》杉《すぎ》の天井《てんじよう》にうつしている。うす暗い床《とこ》の間《ま》には、寒《かん》梅《ばい》と水《すい》仙《せん》とが古銅の瓶《かめ》にしおらしく投げ入れてあった。軸《じく》は太《たい》祗《ぎ》の筆であろう。黄色い芭《ば》蕉《しよう》布《ふ》ですすけた紙の上下をたち切った中に、細い字で「赤き実とみてよる鳥や冬《ふゆ》椿《つばき》」とかいてある。小さな青《せい》磁《じ》の香《こう》炉《ろ》が煙《けむり》も立てずにひっそりと、紫《し》檀《たん》の台にのっているのも冬めかしい。
その前へ毛《もう》氈《せん》を二枚敷《し》いて、床《ゆか》をかけるかわりにした。あざやかな緋《ひ》の色が、三《しや》味《み》線《せん》の皮にも、ひく人の手にも、七《しつ》宝《ぽう》に花《はな》菱《びし》の紋《もん》がえぐってある、きゃしゃな桐《きり》の見《けん》台《だい》にも、あたたかく反射しているのである。その床《とこ》の間の両側へみな、向かいあって、すわっていた。上座は師匠の紫暁で、次が中《なか》洲《ず》の大将、それから小川の旦《だん》那《な》と順を追って右が殿《との》方《がた》、左が婦人方とわかれている。その右の列の末座にすわっているのがこのうちの隠《いん》居《きよ》であった。
隠居は房《ふさ》さんといって、一昨年、本《ほん》掛《け》返《がえ》りをした老人である。十五の年から茶屋酒の味をおぼえて、二十五の前《まえ》厄《やく》には、金《きん》瓶《ぺい》大《だい》黒《こく*》の若《わか》太夫《たゆう》と心《しん》中《じゆう》沙《ざ》汰《た》になったこともあるというが、それからまもなく親ゆずりの玄《げん》米《まい》問屋の身《しん》上《しよう》をすってしまい、器《き》用《よう》貧乏と、持ったが病《やまい》の酒《さけ》癖《ぐせ》とで、歌《うた》沢《ざわ》の師《し》匠《しよう》もやれば俳《はい》諧《かい》の点《てん》者《じや》もやるというぐあいに、それからそれへと微《び》禄《ろく》してひとしきりは三度のものにも事をかく始末だったが、それでも幸いに、わずかな縁《えん》つづきから今ではこの料理屋に引きとられて、楽《らく》隠《いん》居《きよ》の身の上になっている。中洲の大将の話では、子供心にも忘れないのは、そのころ盛りだった房さんが、神《かん》田《だ》祭《まつり》の晩肌《はだ》守《まも》りに「野《の》路《じ》の村《むら》雨《さめ》」のゆかたで喉《のど》をきかせた時だったというが、このごろはめっきり老いこんで、すきな歌沢もめったにうたわなくなったし、ひところ凝《こ》った鶯《うぐいす》もいつの間にか飼《か》わなくなった。かわりめごとにのぞきのぞきした芝居も、成《なり》田《た》屋《や》や五代目がなくなってからは、行く張《はり》合《あい》がなくなったのであろう。今も、黄いろい秩《ちち》父《ぶ》の対《つい》の着物に茶《ちや》博《はか》多《た》の帯で、末座にすわって聞いているのを見ると、どうしても、一生を放《ほう》蕩《とう》と遊《ゆう》芸《げい》とに費《ついや》した人とは思われない。中《なか》洲《ず》の大将や小川の旦《だん》那《な》が、「房《ふさ》さん、板《いた》新《じん》道《みち》の――なんとか言った……そうそう八《や》重《え》次《じ》お菊《きく》。久しぶりであの話でも伺《うかが》おうじゃありませんか」などと、話しかけても、「いや、もう、当《とう》節《せつ》はからいくじがなくなりまして」と、禿《はげ》頭《あたま》をなでながら、小さな体《からだ》をいっそう小さくするばかりである。
それでも妙《みよう》なもので、二段三段ときいてゆくうちに、「黒《くろ》髪《かみ》のみだれていまのものおもい」だの、「夜《よ》さこいという字を金《きん》糸《し》でぬわせ、裾《すそ》に清《せい》十《じゆう》郎《ろう》とねたところ」だのという、なまめいた文句を、二《に》の上がった、かげへかげへとまわってゆく三《しや》味《み》線《せん》の音《ね》につれて、語ってゆく、さびた声が久しく眠っていたこの老人の心を、少しずつ目ざませていったのであろう。始めは背をまげて聞いていたのが、いつの間には腰《こし》をまっすぐに体をのばして、六《ろつ》金《きん》さんが「浅間の上《じよう》」を語りだした時分には、「うらみも恋《こい》も、のこり寝の、もしや心のかわりゃせん」というあたりから、目をつぶったまま、絃《いと》の音《ね》にのるように小さく肩《かた》をゆすって、わき眼にも昔の夢《ゆめ》を今に見かえしているように思われた。しぶいさびの中に、長《なが》唄《うた》や清《きよ》元《もと》にきくことのできないつやをかくした一《いつ》中《ちゆう》の唄と絃《げん》とは、幾《いく》年となくこの世にすみふるして、すいもあまいも、かみ分けた心の底にも、時ならない情《なさけ》の波を立てさせずにはおかないのであろう。
「浅間の上《じよう》」がきれて「花子」のかけあいがすむと、房さんは「どうぞ、ごゆるり」とあいさつをして、座をはずした。ちょうど、その時、お会《かい》席《せき》でお膳《ぜん》が出たので、しばらくはいろいろな話でにぎやかだったが、中洲の大将は、房さんの年をとったのに、よくよく驚《おどろ》いたと見えて、
「ああも変わるものかね、辻《つじ》番の老爺《おやじ》のようになっちゃあ、房さんもおしまいだ」
「いつか、あなたがおっしゃったのはあの方?」と六《ろつ》金《きん》さんがきくと、
「師《》匠《しよう》も知ってるから、きいてごらんなさい。芸《げい》事《ごと》にゃあ、器用なたちでね。歌《うた》沢《ざわ》もやれば一《いつ》中《ちゆう》もやる。そうかと思うと、新《しん》内《ない》の流しに出たこともあるという男なんで。もとはあれでも師匠と同じ宇《う》治《じ》の家《いえ》元《もと》へ、稽《けい》古《こ》に行ったもんでさあ」
「駒《こま》形《かた》の、なんとかいう一中の師匠――紫《し》蝶《ちよう》ですか――あの女とできたのもあのころですぜ」と小川の旦《だん》那《な》も口を出した。
房《ふさ》さんのうわさはそれからそれへとしばらくの間つづいたが、やがて柳《やなぎ》橋《ばし》の老《ろう》妓《ぎ》の「道《どう》成《じよう》寺《じ》」がはじまるとともに、座《ざ》敷《しき》はまたもとのように静かになった。これがすむとすぐ、小川の旦那の「景《かげ》清《きよ》」になるので、旦那はちょっと席をはずして、はばかりに立った。実はそのついでに、生《なま》玉《たま》子《ご》でも吸おうという腹だったのだが、廊《ろう》下《か》へ出ると中《なか》洲《ず》の大将がやはりそっとぬけて来て、
「小川さん、ないしょで一杯《ぱい》やろうじゃあ、ありませんか。あなたの次は私《わたし》の『鉢《はち》の木《き》』だからね。しらふじゃあ、第一腹がすわりませんや」
「私も生玉子か、冷酒《ひや》で一杯ひっかけようと思っていたところで、ご同様に酒の気《け》がないといくじがありませんからな」
そこでいっしょに小《こ》用《よう》を足して、廊下づたいに母《おも》屋《や》の方へまわって来ると、どこかで、ひそひそ話し声がする。長い廊下の一方はガラス障《しよう》子《じ》で、庭の刀柏《なぎ》や高《こう》野《や》槙《まき》につもった雪がうす青く暮れた間から、暗い大川の流れをへだてて、対岸のともしびが黄いろく点々と数えられる。川の空をちりちりと銀の鋏《はさみ》をつかうように、二声ほど千鳥が鳴いたあとは、三《しや》味《み》線《せん》の声さえ聞えず戸外《そと》も内外《うち》もしんとなった。きこえるのは、藪《やぶ》柑《こう》子《じ》の紅《あか》い実をうずめる雪の音、雪の上にふる雪の音、八つ手の葉をすべる雪の音が、ミシン針《ばり》のひびくようにかすかなささやきをかわすばかり、話し声はその中をしのびやかにつづくのである。
「猫《ねこ》の水のむ音でなし」《*》と小川の旦《だん》那《な》がつぶやいた。足をとめてきいていると声は、どうやら右手の障《しよう》子《じ》の中からするらしい。それは、とぎれがちながら、こう聞えるのである。
「何をすねてるんだってことよ。そう泣いてばかりいちゃあ、仕《し》様《よう》ねえわさ。なに、お前さんは紀の国屋の奴《やつこ》さんとわけがある……冗《じよう》談《だん》言っちゃいけねえ。奴《やつ》のようなばばあをどうするものかな。さましておいて、たんとおあがんなはいだと。さあそうきくから悪いわな。自《じ》体《たい》、お前というものがあるのに、ほかへ女をこしらえてすむわけのものじゃあねえ。そもそものなれそめがさ。歌《うた》沢《ざわ》のさらいで己《おれ》が『わがもの』を語った。あの時お前が……」
「房《ふさ》的《てき》だぜ」
「年をとったって、すみへはおけませんや」小川の旦那もこう言いながら、細目にあいている障子の内を、及《およ》び腰《ごし》にそっとのぞきこんだ。二人とも、空想には白粉《おしろい》のにおいがうかんでいたのである。
部屋の中には、電灯が影も落さないばかりに、ぼんやりともっている。三尺の平《ひら》床《どこ》には、大《だい》徳《とく》寺《じ》物《もの》の軸《じく》がさびしくかかって、支《し》那《な》水《ずい》仙《せん》であろう、青い芽をつつましくふいた、白《はく》交《コオ》趾《チン》の水《すい》盤《ばん》がその下に置いてある。床《とこ》を前におきごたつにあたっているのが房さんで、こっちからは、黒ビロウドの襟《えり》のかかっている八《はち》丈《じよう》の小《こ》掻《がい》巻《まき》をひっかけた後ろ姿が見えるばかりである。
女の姿はどこにもない。紺《こん》と白《しら》茶《ちや》と格《こう》子《し》になったこたつぶとんの上には、端《は》唄《うた》本《ぼん》が二、三冊《さつ》ひろげられて頸《くび》に鈴《すず》をさげた小さな白《しろ》猫《ねこ》がそのそばに香《こう》箱《ばこ》をつくっている。猫が身うごきするたびに、頸《くび》の鈴がきこえるか、きこえぬかわからぬほどかすかな音をたてる。房さんは禿《はげ》頭《あたま》を柔《やわら》かな猫の毛に触《ふ》れるばかりに近づけて、ひとり、なまめいたことばを誰《だれ》に言うともなくくり返しているのである。
「その時にお前が来てよ。ああまで語った己《おれ》が憎《にく》いと言った。芸《げい》事《ごと》と……」
中《なか》洲《ず》の大将と小川の旦《だん》那《な》とは黙《だま》って、顔を見合わせた。そして、長い廊《ろう》下《か》をしのび足で、また座《ざ》敷《しき》へ引きかえした。
雪はやむけしきもない。……
(大正三年四月十四日)
ひょっとこ
吾《あ》妻《づま》橋《ばし*》の欄《らん》干《かん》によって、人が大ぜい立っている。時々巡《じゆん》査《さ》が来て小《こ》言《ごと》を言うが、すぐまたもとのように人山ができてしまう。皆《みな》、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。
船は川《かわ》下《しも》から、一、二艘《そう》ずつ、引き潮《しお》の川を上って来る。たいていは伝《てん》馬《ま》に帆《ほ》木綿《もめん》の天井《てんじよう》を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳《みよし》には、旗を立てたり古風な幟《のぼり》を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔《よ》っているらしい。幕の間から、おそろいの手ぬぐいを、吉原かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳《けん》をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何かうたっているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、こっけいとしか思われない。お囃子《はやし》をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」というわらい声が起る。中には「ばか」と言う声も聞える。
橋の上から見ると、川は亜鉛《とたん》板《いた》のように、白く日を反射して、時々、通りすぎる川《かわ》蒸《じよう》汽《き》がその上にまぶしい横波の鍍金《めつき》をかけている。そうして、そのなめらかな水面を、陽気な太《たい》鼓《こ》の音、笛の音《ね》、三《しや》味《み》線《せん》の音が虱《しらみ》のようにむずかゆく刺《さ》している。札《さつ》幌《ぽろ》ビールのれんが壁《かべ》のつきる所から、土手の上をずっと向こうまで、すすけた、うす白いものが、重そうにつづいているのは、ちょうど、今が盛《さか》りの桜《さくら》である。言《こと》問《とい》の桟《さん》橋《ばし*》には、和船やボートがたくさんついているらしい。それがここから見ると、ちょうど大学の艇《てい》庫《こ》に日をさえぎられて、ただごみごみした黒い一色になって動いている。
すると、そこへ橋をくぐって、また船が一艘《そう》出て来た。やはりさっきから何艘も通ったような、お花見の伝《てん》馬《ま》である。紅白の幕に同じ紅白の吹《ふき》流しを立てて、赤く桜《さくら》を染めぬいたおそろいの手ぬぐいで、はち巻きをした船《せん》頭《どう》が二、三人櫓《ろ》と棹《さお》とで、代わる代わるこいでいる。それでも船《ふな》足《あし》はあまり早くない。幕のかげから見える頭《あたま》数《かず》は五十人もいるかと思われる。橋をくぐる前までは、二《に》挺《ちよう》三《じや》味《み》線《せん》で、「梅にも春」か何かを弾《ひ》いていたが、それがすむと、急に、ちゃんぎり《*》を入れた馬《ば》鹿《か》囃子《ばやし》が始まった。橋の上の見物がまた「わあっ」とわらい声を上げる。中には人ごみに押された子供の泣き声も聞える。「あらごらんよ、踊《おど》っているからさ」と言うかんばしった女の声も聞える――船の上では、ひょっとこの面をかぶった背の低い男が、吹流しの下で、馬鹿踊りを踊っているのである。
ひょっとこは、秩《ちち》父《ぶ》銘《めい》仙《せん》の両《もろ》肌《はだ》をぬいで、友《ゆう》禅《ぜん》の胴《どう》へむき身《み》絞《しぼ》りの袖《そで》をつけた、はでな襦《じゆ》袢《ばん》を出している。黒《くろ》八《はち》の襟《えり》がだらしなくはだけて、紺《こん》献《けん》上《じよう》の帯がほどけたなり、だらりと後ろへぶらさがっているのを見ても、よほど、酔《よ》っているらしい。踊りはもちろん、でたらめである。ただ、いいかげんに、お神楽《かぐら》堂の上のばかのような身ぶりだとか、手つきだとかを、くり返しているのにすぎない。それも酒で体《からだ》がきかないと見えて、時々はただ、中心を失って舷《ふなばた》から落ちるのを防ぐために、手足を動かしているとしか、思われないことがある。
それがまた、いっそうおかしいので、橋の上では、わいわい言って、騒《さわ》いでいる。そうして、皆、わらいながら、さまざまな批評を交《こう》換《かん》している。「どうだい、あの腰《こし》つきは」「いい気なもんだぜ、どこの馬の骨だろう」「おかしいねえ、あらよろけたよ」「いっそ素《す》面《めん》で踊りゃいいのにさ」――ざっとこんな調子である。
そのうちに、酔《よ》いがきいてきたのか、ひょっとこの足取りがだんだん怪《あや》しくなってきた。ちょうど、不規則なMetronomeのように、お花見の手ぬぐいで頬《ほお》かぶりをした頭が、何度も船の外へのめりそうになるのである。船《せん》頭《どう》も心配だと見えて、二度ばかり後ろから何か声をかけたが、それさえまるで耳にははいらなかったらしい。
すると、今し方通った川《かわ》蒸《じよう》汽《き》の横波が、斜《ななめ》に川《かわ》面《も》をすべって来て、大きく伝《てん》馬《ま》の底をゆすり上げた。その拍《ひよう》子《し》にひょっとこの小《こ》柄《がら》な体は、どんとそのあおりを食ったように、ひょろひょろ前の方へ三足ばかりよろけて行ったが、それがやっと踏《ふ》み止ったと思うと、今度はいきなり廻《かい》転《てん》を止められた独楽《こま》のように、ぐるりと一つ大きな円をかきながら、あっという間に、メリヤスの股《もも》引《ひき》をはいた足を空《くう》へあげて、あおむけに伝馬の中へころげ落ちた。
橋の上の見物は、またどっと声をあげてわらった。
船の中ではそのはずみに、三《しや》味《み》線《せん》の棹《さお》でも折られたらしい。幕の間から見ると、おもしろそうに酔って騒《さわ》いでいた連中が、あわてて立ったりすわったりしている。今まではやしていた馬ば《》鹿《か》囃子《ばやし》も、息のつまったように、ぴったりやんでしまった。そうして、ただ、がやがや言う人の声ばかりする。なにしろ思いもよらない混雑が起ったのにちがいない。それからしばらくすると、赤い顔をした男が、幕の中から首を出して、さも狼《ろう》狽《ばい》したように手を動かしながら、早口で何か船頭に言いつけた。すると、伝《てん》馬《ま》はどうしたのか、急に取《とり》舵《かじ》をとって、舳《みよし》を桜《さくら》とは反対な山の宿《しゆく*》の河岸《かし》に向けはじめた。
橋の上の見物が、ひょっとこの頓《とん》死《し》したうわさを聞いたのはそれから十分ののちである。もう少し詳《くわ》しいことは、翌《よく》日《じつ》の新聞の十《じつ》把《ぱ》一《いつ》束《そく》という欄《らん》にのせてある。それによると、ひょっとこの名は山村平吉、病名は脳《のう》溢《いつ》血《けつ》ということであった。
× × ×
山村平吉はおやじの代から、日本橋の若《わか》松《まつ》町《ちよう》にいる絵具《えのぐ》屋《や》である。死んだのは四十五で、あとにはやせた、そばかすのあるおかみさんと、兵隊に行っている息子《むすこ》とが残っている。暮しはゆたかだというほどではないが、雇《やとい》人《にん》の二、三人も使って、どうにか人《ひと》並《なみ》にはやっているらしい。人のうわさでは、日《につ》清《しん》戦争ごろに、秋田あたりの岩《いわ》緑《ろく》青《しよう》を買占めにかかったのが、当ったので、それまでは老舗《しにせ》というだけで、お得意の数も指を折るほどしかなかったのだという。
平吉は、円《まる》顔《がお》の、頭の少しはげた、眼《め》尻《じり》に小《こ》皺《じわ》のよっている、どこかひょうきんなところのある男で、誰《だれ》にでも腰《こし》が低い。道《どう》楽《らく》は飲む一《いつ》方《ぽう》で、酒の上はどちらかというと、まずいいほうである。ただ、酔《よ》うと、必ず、馬《ば》鹿《か》踊《おど》りをする癖《くせ》があるが、これは当人に言わせると、昔《むかし》、浜《はま》町《ちよう》の豊《とよ》田《だ》の女将《おかみ》が、巫《み》女《こ》舞《まい》を習った時分に稽《けい》古《こ》をしたので、そのころは、新橋でも芳《よし》町《ちよう》でも、お神楽《かぐら》が大流行だったということである。しかし、踊りはもちろん、当人が味《み》噌《そ》を上げる《*》ほどのものではない。悪く言えば、でたらめで、よく言えば喜《き》撰《せん》でも踊られるより、いやみがないというだけである。もっともこれは、当人も心得ていると見えて、しらふの時には、お神楽のおの字も口へ出したことはない。「山村さん、何かお出しなさいな」などと、すすめられても、冗《じよう》談《だん》にまぎらせて逃《に》げてしまう。それでいて、少しお神《み》酒《き》がまわると、すぐに手ぬぐいをかぶって、口で笛《ふえ》と太《たい》鼓《こ》の調子を一つにとりながら、腰《こし》をすえて、肩をゆすって、ひょっとこ舞《まい》というのをやりたがる。そうして、一度踊《おど》りだしたら、いつまでも図《ず》にのって、踊っている。はたで三味線を弾《ひ》いていようが、謡《うた》をうたっていようが、そんなことにはかまわない。
ところが、その酒がたたって、卒《そつ》中《ちゆう》のように倒れたなり、気の遠くなってしまったことが、二度ばかりある。一度は町内の洗《せん》湯《とう》で、上がり湯を使いながら、セメントの流しの上へ倒れた。その時は腰を打っただけで、十分とたたないうちに気がついたが、二度目に自《う》家《ち》の蔵《くら》の中でたおれた時には、医者を呼んで、やっと正《しよう》気《き》にかえしてもらうまで、かれこれ三十分ばかりも手間どった。平吉はそのたびに、医者から酒を禁じられるが、殊《しゆ》勝《しよう》らしく、赤い顔をしずにいるのはほんのその当《とう》座《ざ》だけで、いつでも「一合くらいは」からだんだん枡《ます》数《かず》がふえて、半月とたたないうちに、いつの間にかまた元の杢《もく》阿《あ》弥《み》になってしまう。それでも、当人は平気なもので「やはり飲まずにいますと、かえって体にいけませんようで」などとかってなことを言ってすましている。
× × ×
しかし平吉が酒をのむのは、当人の言うように生理的に必要があるばかりではない。心理的にも、飲まずにはいられないのである。なぜかというと、酒さえのめば気が大きくなって、なんとなく誰《だれ》の前でも遠《えん》慮《りよ》がいらないような心持ちになる。踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰もそれをとがめる者はない。平吉には、何よりもこれがありがたいのである。なぜこれがありがたいか。それは自分にもわからない。
平吉はただ酔《よ》うと、自分が全く、別人になるということを知っている。もちろん、馬鹿踊《おど》りを踊ったあとで、しらふになってから、「昨夜《ゆうべ》はご盛んでしたな」と言われると、すっかりてれてしまって、「どうも酔っぱらうとだらしがありませんでね。何をどうしたんだか、今《け》朝《さ》になってみると、まるで夢《ゆめ》のような始末で」と月《つき》並《なみ》なうそを言っているが、実は踊ったのも、眠《ね》てしまったのも、いまだにちゃんと覚えている。そうして、その記《き》憶《おく》に残っている自分と今日の自分と比《ひ》較《かく》すると、どうしても同じ人間だとは思われない。それなら、どっちの平吉がほんとうの平吉かというと、これも彼には、判《はん》然《ぜん》とわからない。酔っているのは一時で、しらふでいるのは始《し》終《じゆう》である。そうすると、しらふでいる時の平吉のほうが、ほんとうの平吉のように思われるが、彼自身では妙《みよう》にどっちとも言い兼《か》ねる。なぜかというと、平吉があとで考えて、ばかばかしいと思うことは、たいてい酔った時にしたことばかりである。馬鹿踊りはまだいい。花を引く。女を買う。どうかすると、ここに書けもされないようなことをする。そういうことをする自分が、正《しよう》気《き》の自分だとは思われない。
Janus《*》という神様には、首が二つある。どっちがほんとうの首だか知っている者は誰もいない。平吉もその通りである。
ふだんの平吉と酔っている時の平吉とはちがうと言った。そのふだんの平吉ほど、うそをつく人間は少いかもしれない。これは平吉が自分で時々、そう思うのである。しかし、こう言ったからといって、何も平吉が損《そん》得《とく》の勘《かん》定《じよう》ずくでうそをついているというわけでは毛《もう》頭《とう》ない。第一彼は、ほとんど、うそをついているということを意識せずに、うそをついている。もっともついてしまうとすぐ、自分でもそうと気がつくが、現についている時には、全然結果の予想などをする余《よ》裕《ゆう》は、ないのである。
平吉は自分ながら、なぜそううそが出るのだかわからない。が人と話していると自然に言おうとも思わないうそが出てしまう、しかし、格別それが苦になるわけでもない。悪いことをしたという気がするわけでもない。そこで平吉は、毎日平気でうそをついている。
× × ×
平吉の口から出た話によると、彼は十一の年に南《みなみ》伝《でん》馬《ま》町《ちよう*》の紙屋へ奉《ほう》公《こう》に行った。するとそこの旦《だん》那《な》は大の法《ほつ》華《け》気《き》違《ちが》いで、三度の飯《めし》もお題《だい》目《もく》を唱《とな》えないうちは、箸《はし》をとらないといった調子である。ところが、平吉がお目《め》見《み》得《え》をしてから二月ばかりするとそこのおかみさんがふとしたできごころから店の若い者といっしょになって着のみ着のままでかけ落ちをしてしまった。そこで、一家安《あん》穏《のん》のためにした信《しん》心《じん》がいっこう役にたたないと思ったせいか、法華気違いだった旦那が急に、門《もん》徒《と》へ宗《しゆう》旨《し》替《が》えをして、帝《たい》釈《しやく》様のお掛《かけ》地《じ》を川へ流すやら、七《しち》面《めん》様《*》の御《み》影《えい》を釜《かま》の下へ入れて焼くやら、大騒《さわ》ぎをしたことがあるそうである。
それからまた、そこに二十《はたち》までいる間に店の勘《かん》定《じよう》をごまかして、遊びに行ったことがたびたびあるが、そのころ、なじみになった女に、心《しん》中《じゆう》をしてくれと言われて弱った覚えもある。とうとう一《いつ》寸《すん》のがれを言って、その場はおさまったが、あとで聞くとやはりその女は、それから三日ばかりして、錺《かざり》屋《や》の職人と心中をしていた。深《ふか》間《ま》になっていた男がほかの女に見かえたので、つら当てに誰《だれ》とでも死にたがっていたのである。
それから二十《はたち》の年におやじがなくなったので、紙屋を暇《ひま》をとって自家《うち》へ帰って来た。半月ばかりするとある日、おやじの代から使っていた番頭が、若旦《だん》那《な》に手紙を一本書いていただきたいと言う。五十を越した実《じつ》直《ちよく》な男で、その時右の手の指を痛めて、筆を持つことができなかったのである。「万《ばん》事《じ》つごうよく運んだからそのうちにゆく」と書いてくれと言うので、その通り書いてやった。宛《あて》名《な》が女なので、「すみへは置けないぜ」とかなんとか言ってひやかしたら、「これは手前の姉でございます」と答えた。すると三日ばかりたつうちに、その番頭がお得意先をまわりにゆくと言って家を出たなり、いつまでたっても帰らない。帳面をしらべてみると、大穴があいている。手紙はやはり、なじみの女のところへやったのである。書かせられた平吉ほどばかをみたものはない。……
これが皆《みな》、うそである。平吉の一生(人の知っている)から、これらのうそを除いたら、あとには何も残らないのに相《そう》違《い》ない。
× × ×
平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子《はやし》の連中にひょっとこの面を借りて、舷《ふなばた》へ上ったのも、やはりいつもの一杯きげんでやったのである。
それから踊っているうちに、船の中へころげ落ちて、死んだことは、前に書いてある。船の中の連中は、皆、驚《おどろ》いた。いちばん、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清《きよ》元《もと》のお師《し》匠《しよう》さんである。平吉の体はお師匠さんのあたまの上から、のり巻や、うで玉子の出ている胴の間の赤《あか》毛布《ゲツト》の上へころげ落ちた。
「冗《じよう》談《だん》じゃあねえや。けがでもしたらどうするんだ」これはまだ、平吉がふざけていると思った町内の頭《かしら》が、中《ちゆう》っ腹《ぱら》で言ったのである。けれども、平吉は動くけしきがない。
すると頭の隣《となり》にいた髪《かみ》結《ゆい》床《どこ》の親方が、さすがにおかしいと思ったか、平吉の肩へ手をかけて、「旦《だん》那《な》、旦那…もし…旦那…旦那」と呼んでみたが、やはりなんとも返事がない。手のさきを握《にぎ》ってみると冷たくなっている。親方は頭と二人で平吉を抱《だ》き起した。一同の顔は不安らしく、平吉の上にさしのべられた。「旦那……旦那……もし……旦那……旦那……」髪《かみ》結《ゆい》床《どこ》の親方の声がうわずってきた。
するとその時、呼吸とも声ともわからないほど、かすかな声が、面《めん》の下から親方の耳へ伝ってきた。「面を……面をとってくれ……面を」頭と親方とはふるえる手で、手ぬぐいと面をはずした。
しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。小《こ》鼻《ばな》が落ちて、脣《くちびる》の色が変わって、白くなった額《ひたい》には、油《あぶら》汗《あせ》が流れている。一《ひと》眼《め》見たのでは、誰《だれ》でもこれが、あのあいきょうのある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。ただ変わらないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤《あか》毛布《ゲツト》の上にあおむけて、静かに平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。
(大正三年十二月)
仙 人
上
いつごろの話だか、わからない。北《きた》支《し》那《な》の市《まち》から市を渡《わた》って歩く野《の》天《てん》の見《み》世《せ》物《もの》師《し》に、李《り》小《しよう》二《じ》という男があった。鼠《ねずみ》に芝居をさせるのを商売にしている男である。鼠を入れておく嚢《ふくろ》が一つ、衣《い》裳《しよう》や仮面《めん》をしまっておく笥《はこ》が一つ、それから、舞台の役をする小さな屋《や》台《たい》のような物が一つ――そのほかには、何も持っていない。
天気がいいと、よつつじの人通りの多い所に立って、まず、その屋台のような物を肩《かた》へのせる、それから、鼓《こ》板《ばん》をたたいて、人よせに、謡《うた》をうたう。物《もの》見《み》高《だか》い街《まち》中《なか》のことだから、おとなでも子供でも、それを聞いて、足を止めない者はほとんどない。さて、まわりに人の墻《かき》ができると、李は嚢《ふくろ》の中から鼠《ねずみ》を一匹《ぴき》出して、それに衣裳を着せたり、仮面をかぶらせたりして、屋台の鬼《き》門《もん》道《どう*》から、場へ上《のぼ》らせてやる。鼠は慣れているとみえて、ちょこちょこ、舞台の上を歩きながら、絹《きぬ》糸のように光沢《つや》のある尻尾《しつぽ》を、二、三度ものものしく動かして、ちょいと後《あと》足《あし》だけで立ってみせる。更《さら》紗《さ》の衣裳の下から見える前足の蹠《あしのうら》がうす赤い。――この鼠が、これから雑《ざつ》劇《げき*》のいわゆる楔《せつ》子《し*》を演じようという役者なのである。
すると、見物のほうでは、子供だと、始めから手をうって、おもしろがるが、おとなは、容易に感心したような顔を見せない。むしろ、冷然として、煙管《きせる》をくわえたり、鼻毛をぬいたりしながら、ばかにしたような眼で、舞台の上に周《しゆう》旋《せん》する鼠《ねずみ》の役者をながめている。けれども、曲が進むのに従って、錦《きん》切《ぎ》れの衣《い》裳《しよう》をつけた正《せい》旦《たん*》の鼠や、黒い仮面《めん》をかぶった浄《じよう*》の鼠が、続々、鬼《き》門《もん》道《どう》からはい出して来るようになると、そうして、それが、飛んだりはねたりしながら、李《り》のうたう曲やその間へはいる白《はく*》につれて、いろいろ所《しよ》作《さ》をするようになると、見物もさすがに冷《れい》淡《たん》を装《よそお》っていられなくなるとみえて、おいおいまわりの人だかりの中から〓《そう》子《し》大《だい*》などという声が、かかり始める。すると、李小二も、いよいよ、あぶらがのって、せわしく鼓板をたたきながら、巧みに一座の鼠を使いわける。そうして「沈 黒 江 明 妃 青 塚 恨《こくこうにしずむみんぴせいちようのうらみ》 、耐 幽 夢 孤 雁 漢 宮 秋《ゆうむにたうこがんかんきゆうのあき》」とかなんとか、題《だい》目《もく》正《せい》名《めい》を唱うころになると、屋台の前へ出してある盆《ぼん》の中に、いつの間にか、銅《どう》銭《せん》の山ができる。……
が、こういう商売をして、口を糊《のり》してゆくのは、けっして容易なものではない。第一、十日と天気が悪いと口が干《ひ》上《あ》がってしまう。夏は、麦が熟《じゆく》す時分から、例の雨《う》期《き》へはいるので、小さな衣《い》裳《しよう》や仮面《めん》にも、知らないうちにかびがはえる。冬もまた、風が吹くやら、雪がふるやらするので、とかく、商売がすたりやすい。そういう時には、ほかにしかたもないから、うす暗い客舎《はたご》の片すみで、鼠を相手に退《たい》屈《くつ》をまぎらせながら、いつもならあわただしい日の暮《く》れを、待ちかねるようにして、暮《く》らしてしまう。鼠の数《すう》は、皆《みな》で、五匹で、それに李の父の名と母の名と妻の名と、それからゆくえの知れない二人の子の名とがつけてある。それが、嚢《ふくろ》の口から順々にはい出して火の気《け》のない部屋の中を、寒そうにおずおず歩いたり、くつの先から膝《ひざ》の上へ、あぶない軽《かる》業《わざ》をしてはい上りながら、南《なん》豆《きん》玉《だま》のような黒い眼で、じっと、主人の顔を見つめたりすると、世《せ》故《せこ》のつらさになれている李《り》小《しよう》二《じ》でも、さすがに時々は涙《なみだ》が出る。が、それは、文字通り時々で、どちらかといえば、明日《あす》の暮《くら》しを考える屈《くつ》託《たく》と、そういう屈託を抑《よく》圧《あつ》しようとする、あてどのない不《ふ》愉《ゆ》快《かい》な感情とに心を奪《うば》われて、いじらしい鼠《ねずみ》の姿《すがた》も眼にはいらないことが多い。
その上、このごろは、年の加減と、体《からだ》のぐあいが悪いのとで、よけい、商売に身が入らない。節《ふし》まわしの長い所をうたうと、息が切れる。喉《のど》も昔《むかし》のようには、さえなくなった。この分では、いつ、どんなことが起らないとも限らない。――こういう不安は、ちょうど、北支《し》那《な》の冬のように、このみじめな見《み》世《せ》物《もの》師《し》の心から、いっさいの日光と空気とを遮《しや》断《だん》して、しまいには、人並に生きてゆこうという気さえ、未練未《み》釈《しやく》なく枯《か》らしてしまう。なぜ生きてゆくのは苦しいか、なぜ、苦しくとも、生きてゆかなければならないか。もちろん、李は一度もそういう問題を考えてみたことがない。が、その苦しみを、不当だとは、思っている。そうして、その苦しみを与えるものを――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎《にく》んでいる。ことによると、李が何にでも持っている、漠《ばく》然《ぜん》とした反抗的な心もちは、この無意識の憎しみが、原因になっているのかもしれない。
しかし、そうはいうものの、李も、すべての東洋人のように、運命の前には、比較的屈《くつ》従《じゆう》を意としていない。風《ふう》雪《せつ》の一日を、客《はた》舎《ご》の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹《ひき》の鼠《ねずみ》に向かって、こんなことを言った。「しんぼうしろよ。己《おれ》だって、腹がへるのや、寒いのをしんぼうしているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたりまえだと思え。それも、鼠《ねずみ》よりは、いくら人間のほうが、苦しいか知れないぞ……」
中
雪曇《ぐも》りの空が、いつの間にか、霙《みぞれ》まじりの雨をふらせて、狭《せま》い往《おう》来《らい》を文字通り、脛《はぎ》を没《ぼつ》する泥《でい》濘《ねい》に満そうとしている、ある寒い日の午後のことであった。李《り》小《しよう》二《じ》はちょうど、商売から帰るところで、例の通り、鼠《ねずみ》を入れた嚢《ふくろ》を肩《かた》にかけながら、傘《かさ》を忘れた悲しさに、ずぶぬれになって、市《まち》はずれの、人通りのない路《みち》を歩いて来る――と、路《みち》傍《ばた》に、小さな廟《びよう》が見えた。おりから、降りが、前よりもひどくなって、肩をすぼめて歩いていると、鼻の先からは、しずくがたれる。襟《えり》からは、水がはいる。途《と》方《ほう》に暮《く》れていた際だから、李は、廟を見ると、あわてて、その軒《のき》下《した》へかけこんだ。まず、顔のしずくをはらう。それから、袖《そで》をしぼる。やっと、人ごこちがついたところで頭の上の扁《へん》額《がく》を見ると、それには、山《さん》神《じん》廟《びよう》という三字があった。
入口の石段を、二、三級上ると、とびらが開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭《せま》い。正面には、一《いつ》尊《そん》の金《きん》甲《こう》山《さん》神《じん》が、蜘蛛《くも》の巣にとざされながら、ぼんやり日の暮れを待っている。その右には、判《はん》官《がん》が一体、これは、誰《だれ》にいたずらをされたのだか、首がない。左には、小鬼が一体、緑面朱《しゆ》髪《はつ》で、〓《そう》獰《どう》な顔をしているが、これもあいにく、鼻が虧《か》けている。その前の、ほこりのつもった床《ゆか》に、積み重ねてあるのは、紙《し》銭《せん*》であろう。これは、うす暗い中に、金《きん》紙《がみ》や銀《ぎん》紙《がみ》が、おぼつかなく光っているので、知れたのである。
李《り》は、これだけ、見定めたところで、視線を、廟《びよう》の中から外へ、転じようとした。するとちょうどそのとたんに、紙《し》銭《せん》の積んである中から、人間が一人出て来た。実際は、前からそこにうずくまっていたのが、その時、はじめて、うす暗いのに慣れた李の眼に、見えてきたのであろう。が、彼には、まるで、それが、紙銭の中から、忽《こつ》然《ぜん》として、姿《すがた》を現わしたように思われた。そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐《おそ》る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間をうかがって見た。
垢《あか》じみた道《どう》服《ふく》を着て、鳥が巣《す》をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、こじきをして歩く道《どう》士《し》だな――李はこう思った)やせた膝《ひざ》を、両腕《うで》で抱くようにして、その膝の上へ、髯《ひげ》の長い頤《あご》をのせている。眼は開いているが、どこを見ているのかわからない。やはり、この雨にあったということは、道服の肩《かた》がぐっしょりぬれているので、知れた。
李は、この老人を見た時に、なんとかことばをかけなければ、ならないような気がした。一つには、濡《ぬれ》鼠《ねずみ》になった老人の姿が、いくぶんの同情を動かしたからで、また一つには、世《せ》故《こ》がこういう場合に、こっちから口を切る習慣を、いつかつけてしまったからである。あるいは、また、そのほかに、始めの無《ぶ》気《き》味《み》な心もちを忘れようとする努力が、少しは加わっていたかもしれない。そこで李が言った。
「どうも、困ったお天気ですな」
「さようさ」老人は、膝の上から、頤《あご》を離して、始めて、李の方を見た。鳥の嘴《くちばし》のように曲った、鍵《かぎ》鼻《ばな》を、二、三度おおぎょうにうごめかしながら、眉《まゆ》の間を狭《せま》くして、見たのである。
「私のような商売をしている人間には、雨くらい、人泣かせのものはありません」
「ははあ、何ご商売かな」
「鼠《ねずみ》を使って、芝居をさせるのです」
「それはまたお珍《めずら》しい」
こんなぐあいで、二人の間には、少しずつ、会話が、交《こう》換《かん》されるようになった。そのうちに、老人も紙《し》銭《せん》の中から出て来て、李《り》といっしょに、入口の石段の上に腰《こし》をおろしたから、今では顔《かお》貌《かたち》も、はっきり見える。形容の枯《こ》槁《こう》していることは、さっき見た時の比ではない。李はそれでも、いい話相手を見つけたつもりで、嚢《ふくろ》や笥《はこ》を石段の上に置いたまま、対等なことばづかいで、いろいろな話をした。
道《どう》士《し》は、無口なほうだと見えて、はかばかしくは返事もしない。「なるほどな」とか「さようさ」とか言うたびに、歯のない口が、空気をかむような、運動をする。根のところで、きたない黄いろになっている髯《ひげ》も、それにつれて上《うえ》下《した》へ動く、――それがいかにも、みすぼらしい。
李は、この老道士に比べれば、あらゆる点で、自分のほうが、生活上の優者だと考えた。そういう自覚が、愉《ゆ》快《かい》でないことは、もちろんない。が、李は、それと同時に、優者であるということが、なんとなくこの老人に対して済まないような心もちがした。彼は、談《だん》柄《ぺい》を、生活難に落して、自分の暮しの苦しさを、わざわざ誇《こ》張《ちよう》して、話したのは、まったく、この済まないような心もちに、煩《わずら》わされた結果である。
「まったく、それは泣きたくなるくらいなものですよ。食わずに、一日すごしたことだって、たびたびあります。この間も、しみじみこう思いました。『己《おれ》は鼠《ねずみ》に芝居をさせて、飯《めし》を食っていると思っている。が、ことによるとほんとうは、鼠が己にこんな商売をさせて、食っているのかもしれない』実際、そんなものですよ」
李《り》は憮《ぶ》然《ぜん》として、こんなことさえ言った。が、道《どう》士《うし》の無口なことは、前といっこう、変わりがない。それが、李の神経には、前よりもいっそう、はなはだしくなったように思われた。(先生、己の言ったことを、妙《みよう》にひがんで取ったのだろう。よけいなことは言わずに、黙《だま》っていればよかった)――李は、心の中でこう自分をしかった。そうして、そっと横目を使って、老人のようすを見た。道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟《びよう》外の枯《こ》柳《りゆう》をながめながら、片手で、しきりに髪《かみ》を掻《か》いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透《す》かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹《てつ》しないという不満のほうが、それよりも大きいので、今度は話題を、今年の秋の蝗《こう》災《さい》へもっていった。この地方のこうむった惨《さん》害《がい》の話から農家一《いつ》般《ぱん》の困《こん》窮《きゆう》で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。
すると、その話の途《と》中《ちゆう》で、老道士は、李の方へ、顔を向けた。皺《しわ》の重なり合った中に、おかしさをこらえているような、筋肉の緊《きん》張《ちよう》がある。
「あなたは私に同情してくださるらしいが」こう言って、老人はこらえきれなくなったように、声をあげて笑った。烏《からす》が鳴くような、鋭い、しわがれた声で笑ったのである。「私は、金には不自由をしない人間でね、お望みなら、あなたのお暮《くら》しくらいはお助け申しても、よろしい」
李《り》は、話の腰《こし》を折られたまま、呆《ぼう》然《ぜん》として、ただ、道《どう》士《し》の顔を見つめていた。(こいつは、気《き》違《ちが》いだ)――やっとこういう反省が起ってきたのは、しばらくの間〓《とう》目《もく》して、黙《だま》っていた後のことである。が、その反省は、すぐにまた老道士の次の話によって、打ちこわされた。「千《せん》鎰《いつ*》や二千鎰《いつ》でよろしければ、今でもさし上げよう。実は、私は、ただの人間ではない」老人は、それから、手短に、自分の経《けい》歴《れき》を話した。もとは、なんとかいう市《まち》の屠《と》者《しや》だったが、たまたま、呂《ろ》祖《そ*》にあって、道を学んだというのである。それがすむと、道士は、しずかに立って、廟《びよう》の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床《ゆか》の上の紙《し》銭《せん》をかき集めた。
李は五感を失った人のように、茫《ぼう》然《ぜん》として、廟の中へはいこんだ。両手を鼠《ねずみ》の糞《ふん》とほこりとの多い床の上について、平《へい》伏《ふく》するような形をしながら、首だけ上げて、下から道士の顔をながめているのである。
道士は、曲った腰《こし》を、苦しそうに、伸ばして、かき集めた紙銭を両手で床《ゆか》からすくい上げた。それから、それを掌《てのひら》でもみ合わせながら、せわしく足もとへまきちらし始めた。鏘《そう》々《そう》然《ぜん》として、床に落ちる黄白《*》の音が、にわかに、廟外の寒《かん》雨《う》の声を圧して、起った。――まかれた紙銭は、手を離れるとともに、たちまち、無数の金《きん》銭《せん》や銀《ぎん》銭《せん》に、変わったのである。……
李小二は、この雨《う》銭《せん》の中に、いつまでも、床にはったまま、ぼんやり老道士の顔を見上げていた。
下
李《り》小《しよう》二《じ》は、陶《とう》朱《しゆ》の富《*》を得た。たまたま、その仙《せん》人《にん》にあったということを疑う者があれば、彼は、その時、老人に書いてもらった、四句の語を出して示すのである。この話を、久しい以前に、何かの本で見た作者は、遺《い》憾《かん》ながら、それを、文字通りに記《き》憶《おく》していない。そこで、大《たい》意《い》を支《し》那《な》のものを翻《ほん》訳《やく》したらしい日本文で書いて、この話のおわりに附《ふ》しておこうと思う。ただし、これは、李小二が、なぜ、仙にして、乞《きつ》丐《かい》をして歩くかということをたずねた、答なのだそうである。
「人生苦あり、以《もつ》て楽むべし。人間死するあり、以《もつ》て生くるを知る。死苦共に脱《だつ》し得て甚《はなはだ》、無《ぶ》聊《りよう》なり。仙人は若《し》かず、凡人の死苦あるに」
おそらく、仙人は、人間の生活がなつかしくなって、わざわざ、苦しいことを、さがしてあるいていたのであろう。
(大正四年七月二十三日)
羅《ら》生《しよう》門《もん》
ある日の暮《く》れ方のことである。一人の下《げ》人《にん》が、羅《ら》生《しよう》門《もん*》の下で雨《あま》やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰《だれ》もいない。ただ、所々丹《に》塗《ぬり》のはげた、大きな円《まる》柱《ばしら》に、蟋蟀《きりぎりす》が一《いつ》匹《ぴき》とまっている。羅生門が、朱雀《すざく》大《おお》路《じ》にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市《いち》女《め》笠《がさ》や揉《もみ》烏帽子《えぼし》が、もう二、三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰《だれ》もいない。
なぜかというと、この二、三年、京都には、地震とか辻《つじ》風《かぜ》とか火事とか饑《き》饉《きん》とかいう災《わざわ》いがつづいて起った。そこで洛《らく》中《ちゆう》のさびれ方は一通りではない。旧《きゆう》記《き*》によると、仏像や仏具を打《うち》砕《くだ》いて、その丹《に》がついたり、金銀の箔《はく》がついたりした木を、路《みち》ばたにつみ重ねて、たきぎの料《しろ》に売っていたということである。洛中がその始末であるから、羅生門の修《しゆう》理《り》などは、もとより誰も捨てて顧《かえり》みる者がなかった。するとその荒《あ》れ果てたのをよいことにして、狐《こ》狸《り》が棲《す》む。盗《ぬす》人《びと》が棲《す》む。とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ持って来て、すてて行くという習慣さえできた。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気《き》味《み》を悪がって、この門の近所へは足ぶみをしないことになってしまったのである。
その代わりまた鴉《からす》がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描《か》いて、高い鴟《し》尾《び》のまわりをなきながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡《ご》麻《ま》をまいたようにはっきり見えた。鴉《からす》は、もちろん、門の上にある死人の肉を、ついばみに来るのである。――もっとも今日は、刻《こく》限《げん》がおそいせいか、一羽も見えない。ただ、所々、くずれかかった、そうしてそのくずれ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞《ふん》が、点々と白くこびりついているのが見える。下《げ》人《にん》は七段ある石段のいちばん上の段に、洗いざらした紺《こん》の襖《あお*》の尻《しり》をすえて、右の頬《ほお》にできた、大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのをながめていた。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。ふだんなら、もちろん、主人の家へ帰るべきはずである。ところがその主人からは、四、五日前に暇《ひま》を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰《すい》微《び》していた。今この下人が、永《なが》年《ねん》、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余《よ》波《は》にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」というよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途《と》方《ほう》にくれていた」と言うほうが、適《てき》当《とう》である。その上、今日の空模《も》様《よう》が少からず、この平《へい》安《あん》朝《ちよう》の下人のSentimentalismeに影《えい》響《きよう》した。申《さる》の刻《こく》下《さが》り《*》からふりだした雨は、いまだに上がるけしきがない。そこで、下人は、何をおいてもさしあたり明日《あす》の暮《くら》しをどうにかしようとして――いわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀《すざく》大路《おおじ》にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅《ら》生《しよう》門《もん》をつつんで、遠くから、ざあっという音をあつめてくる。夕《ゆう》闇《やみ》はしだいに空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍《いらか》の先に、重たくうす暗い雲をささえている。
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土《ついじ》の下か、道ばたの土の上で、饑《うえ》死《じに》をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のようにすてられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下《げ》人《にん》の考えは、何度も同じ道を低《てい》徊《かい》したあげくに、やっとこの局所へ逢《ほう》着《ちやく》した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないということを肯《こう》定《てい》しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、そののちにきたるべき「盗《ぬす》人《びと》になるよりほかにしかたがない」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きなくさめをして、それから、大《たい》儀《ぎ》そうに立上がった。夕冷えのする京都は、もう火おけがほしいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕《ゆう》闇《やみ》とともに遠慮なく、吹きぬける。丹《に》塗《ぬり》の柱にとまっていた蟋蟀《きりぎりす》も、もうどこかへ行ってしまった。
下人は、頸《くび》をちぢめながら、山吹の汗衫《かざみ*》に重ねた、紺《こん》の襖《あお》の肩《かた》を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患《うれえ》のない、人目にかかるおそれのない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼《ろう》へ上る、幅《はば》の広い、これも丹を塗った梯《はし》子《ご》が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰《こし》にさげた聖《ひじり》柄《づか*》の太《た》刀《ち》が鞘《さや》走《ばし》らないように気をつけながら、藁《わら》草《ぞう》履《り》をはいた足を、その梯《はし》子《ご》のいちばん下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅《ら》生《しよう》門《もん》の楼《ろう》の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫《ねこ》のように身をちぢめて、息を殺しながら、上のようすをうかがっていた。楼《ろう》の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬《ほお》をぬらしている。短い鬚《ひげ》の中に、赤く膿《うみ》を持ったにきびのある頬である。下《げ》人《にん》は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高をくくっていた。それが、梯《はし》子《ご》を二、三段上って見ると、上では誰《だれ》か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。これは、その濁《にご》った、黄いろい光が、すみずみに蜘《く》蛛《も》の巣をかけた天《てん》井《じよう》裏《うら》に、揺《ゆ》れながら映《うつ》ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅《ら》生《しよう》門《もん》の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。
下人は、守宮《やもり》のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、いちばん上の段まではうようにして上りつめた。そうして体をできるだけ、平らにしながら、頸《くび》をできるだけ、前へ出して、恐《おそ》る恐る、楼の内をのぞいてみた。
見ると、楼の内には、うわさに聞いた通り、幾《いく》つかの死《し》骸《がい》が、むぞうさにすててあるが、火の光の及ぶ範《はん》囲《い》が、思ったより狭《せま》いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸《はだか》の死《し》骸《がい》と、着物を着た死骸とがあるということである。もちろん、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その死骸は皆《みな》、それが、かつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口をあいたり手を延ばしたりして、ごろごろ床《ゆか》の上にころがっていた。しかも、肩《かた》とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影をいっそう暗くしながら、永久に唖《おし》のごとく黙《だま》っていた。
下《げ》人《にん》は、それらの死《し》骸《がい》の腐《ふ》爛《らん》した臭《しゆう》気《き》に思わず、鼻をおおった。しかし、その手は、次の瞬《しゆん》間《かん》には、もう鼻をおおうことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅《きゆう》覚《かく》を奪《うば》ってしまったからである。
下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中にうずくまっている人間を見た。檜皮《ひわだ》色《いろ》の着物を着た、背の低い、やせた、白髪《しらが》頭《あたま》の、猿《さる》のような老《ろう》婆《ば》である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片《きぎれ》を持って、その死骸の一つの顔をのぞきこむようにながめていた。髪《かみ》の毛の長いところをみると、たぶん女の死骸であろう。
下人は、六分の恐《きよう》怖《ふ》と、四分の好《こう》奇《き》心《しん》とに動かされて、暫《ざん》時《じ》は呼吸《いき》をするのさえ忘れていた。旧《きゆう》記《き》の記者の語を借りれば、「頭《とう》身《しん》の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片《きぎれ》を、床《ゆか》板《いた》の間にさして、それから、今までながめていた死骸の首に両手をかけると、ちょうど、猿《さる》の親が猿の子の虱《しらみ》をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎《ぞう》悪《お》が、少しずつ動いてきた。――いや、この老婆に対するといっては、語《ご》弊《へい》があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑《うえ》死《じに》をするか盗《ぬす》人《びと》になるかという問題を、改めて持出したら、おそらく下人は、なんの未練もなく、饑死を選んだことであろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床《ゆか》にさした松の木片《きぎれ》のように、勢いよく燃《も》え上がりだしていたのである。
下《げ》人《にん》には、もちろん、なぜ老《ろう》婆《ば》が死人の髪《かみ》の毛を抜くかわからなかった。したがって、合理的には、それを善悪のいずれにかたづけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅《ら》生《しよう》門《もん》の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで自分が、盗《ぬす》人《びと》になる気でいたことなぞは、とうに忘れていたのである。
そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯《はし》子《ご》から上へ飛び上がった。そうして聖《ひじり》柄《づか》の太《た》刀《ち》に手をかけながら、大《おお》股《また》に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚《おどろ》いたのはいうまでもない。
老婆は、一《ひと》目《め》下人を見ると、まるで弩《いしゆみ》にでもはじかれたように、飛び上がった。
「おのれ、どこへ行く」
下人は、老婆が死《し》骸《がい》につまずきながら、あわてふためいて逃げようとする行《ゆく》手《て》をふさいで、こうののしった。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無《む》言《ごん》のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕《うで》をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうど、鶏《にわとり》の脚《あし》のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞよ」
下《げ》人《にん》は、老婆をつき放すと、いきなり、太《た》刀《ち》の鞘《さや》を払って、白い鋼《はがね》の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙《だま》っている。両手をわなわなふるわせて、肩《かた》で息を切りながら、眼を、眼《め》球《だま》が〓《まぶた》の外へ出そうになるほど、見開いて、唖《おし》のように執《しゆう》拗《ね》く黙《だま》っている。これを見ると、下人ははじめて明《めい》白《はく》にこの老《ろう》婆《ば》の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃《も》えていた憎《ぞう》悪《お》の心を、いつの間にかさましてしまった。あとに残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成《じよう》就《じゆ》した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔《やわ》らげてこう言った。
「己《おれ》は検《け》非《び》違《い》使《し*》の庁《ちよう》の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄《なわ》をかけて、どうしようというようなことはない。ただ、今時分この門の上で、何をしていたのだか、それを己に話しさえすればいいのだ」
すると、老婆は、見開いていた眼を、いっそう大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭《するど》い眼で見たのである。それから、皺《しわ》で、ほとんど、鼻と一つになった脣《くちびる》を、何か物でもかんでいるように動かした。細い喉《のど》で、とがった喉《のど》仏《ぼとけ》の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉《からす》のなくような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へ伝わってきた。
「この髪《かみ》を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘《かずら》にしょうと思うたのじゃ」
下人は、老婆の答が存《ぞん》外《がい》、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮《ぶ》蔑《べつ》といっしょに、心の中へはいって来た。すると、その気《け》色《しき》が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死《し》骸《がい》の頭から奪《うば》った長い抜け毛を持ったなり、蟇《ひき》のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんなことを言った。
「なるほどな、死《し》人《びと》の髪《かみ》の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆《みな》、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女《*》などは、蛇《へび》を四寸ばかりずつに切って干したのを、干《ほし》魚《うお》だと言うて、太《た》刀《て》帯《わき》の陣《じん》へ売りに往《い》んだわ。疫病《えやみ》にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと言うて、太刀帯《たてわき*》どもが、欠かさず菜《さい》料に買っていたそうな。わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、餓《うえ》死《じに》をするのじゃて、しかたがなくしたことであろ。されば、今また、わしのしていたことも悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ」
老《ろう》婆《ば》は、だいたいこんな意味のことを言った。
下《げ》人《にん》は、太刀を鞘《さや》におさめて、その太刀の柄《つか》を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。もちろん、右の手では、赤く頬《ほお》に膿《うみ》を持った大きなにきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕《とら》えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、餓死をするか盗人《ぬすびと》になるかに、迷《まよ》わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちからいえば、餓死などということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
老《ろう》婆《ば》の話がおわると、下人はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離《はな》して、老婆の襟《えり》上《がみ》をつかみながら、かみつくようにこう言った。
「では、己《おれ》が引《ひ》剥《はぎ》をしようと恨《うら》むまいな。己もそうしなければ、餓《うえ》死《じに》をする体なのだ」
下人は、すばやく、老婆の着物をはぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死《し》骸《がい》の上へ蹴《け》倒《たお》した。梯《はし》子《ご》の口までは、わずかに五歩を数えるばかりである。下人は、はぎとった檜皮色《ひわだいろ》の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけおりた。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸《はだか》の体を起したのは、それからまもなくのことである。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃《も》えている火の光をたよりに、梯子の口まで、はって行った。そうして、そこから、短い白髪《しらが》をさかさまにして、門の下をのぞきこんだ。外には、ただ、黒《こく》洞《とう》々《とう》たる夜があるばかりである。
下人のゆくえは、誰《だれ》も知らない。
(大正四年九月)
鼻
禅《ぜん》智《ち》内《ない》供《ぐ*》の鼻といえば、池《いけ》の尾《お*》で知らない者はない。長さは五、六寸あって上《うわ》脣《くちびる》の上から顋《あご》の下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。いわば細長い腸《ちよう》詰《づ》めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶらさがっているのである。
五十歳《さい》を越えた内《ない》供《ぐ》は、沙《しや》弥《しやみ》の昔《むかし》から内《ない》道《どう》場《じよう》供《ぐ》奉《ぶ》の職にのぼった今《こん》日《にち》まで、内心ではしじゅうこの鼻を苦に病んできた。もちろん表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専《せん》念《ねん》に当《とう》来《らい》の浄《じよう》土《ど》を渇《かつ》仰《ごう》すべき僧《そう》侶《りよ》の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それよりむしろ、自分で鼻を気にしているということを、人に知られるのがいやだったからである。内供は日常の談《だん》話《わ》の中に、鼻という語が出てくるのを何よりもおそれていた。
内供が鼻をもてあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯《めし》を食う時にもひとりでは食えない。ひとりで食えば、鼻の先が鋺《かなまり*》の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟《で》子《し》の一人を膳《ぜん》の向こうへすわらせて、飯を食う間じゅう、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていてもらうことにした。しかしこうして飯を食うということは、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、けっして容易なことではない。一度この弟《で》子《し》の代わりをした中《ちゆう》童《どう》子《じ》が、くさめをした拍《ひよう》子《し》に手がふるえて、鼻を粥《かゆ》の中へ落した話は、当時京都まで喧《けん》伝《でん》された。――けれどもこれは内《ない》供《ぐ》にとって、けっして鼻を苦に病んだおもな理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷《きず》つけられる自《じ》尊《そん》心《しん》のために苦しんだのである。
池《いけ》の尾《お》の町の者は、こういう鼻をしている禅《ぜん》智《ち》内《ない》供《ぐ》のために、内供の俗《ぞく》でないことをしあわせだと言った。あの鼻では誰《だれ》も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出《しゆつ》家《け》したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧《そう》であるために、幾《いく》分《ぶん》でもこの鼻に煩《わずら》わされることが少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻《さい》帯《たい》というような結果的な事実に左右されるためには、あまりにデリケイトにできていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀《き》損《そん》を恢《かい》復《ふく》しようと試みた。
第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡《かがみ》へ向かって、いろいろな角度から顔を映《うつ》しながら、熱心にくふうを凝《こ》らしてみた。どうかすると、顔の位置を換《か》えるだけでは、安心ができなくなって、頬《ほお》杖《づえ》をついたり頤《あご》の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡をのぞいてみることもあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えたことは、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こういう時には、鏡を箱へしまいながら、いまさらのようにため息をついて、不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》にまたもとの経《きよう》机《づくえ》へ、観《かん》音《のん》経《ぎよう》をよみに帰るのである。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧《そう》供《ぐ》講《こう》説《せつ》などのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧《そう》坊《ぼう》が隙《すき》なく建て続いて、湯《ゆ》屋《や》では寺の僧が日ごとに湯を沸《わ》かしている。したがってここへ出入する僧《そう》俗《ぞく》のたぐいもはなはだ多い。内《ない》供《ぐ》はこういう人々の顔を根気よく物《ぶつ》色《しよく》した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺《こん》の水《すい》干《かん》も白の帷子《かたびら》もはいらない。まして柑《こう》子《じ》色《いろ》の帽《ぼう》子《し》や、椎《しい》鈍《にび》の法衣《ころも》なぞは、見慣れているだけに、あれどもなきがごとくである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵《かぎ》鼻《ばな》はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らないことがたび重なるに従って、内供の心はしだいにまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下がっている鼻の先をつまんでみて、年《とし》甲斐《がい》もなく顔を赤めたのは、全くこの不快に動かされての所《しよ》為《い》である。
最後に、内《ない》供《ぐ》は、内《ない》典《てん》外《げ》典《てん*》の中に、自分と同じような鼻のある人物を見いだして、せめても幾《いく》分《ぶん》の心やりにしようとさえ思ったことがある。けれども、目《もく》連《れん*》や、舎《しや》利《り》弗《ほつ*》の鼻が長かったとは、どの経《きよう》文《もん》にも書いてない。もちろん竜《りゆう》樹《じゆ》や馬《め》鳴《みよう*》も、人並の鼻をそなえた菩《ぼ》薩《さつ》である。内供は、震《しん》旦《たん*》の話のついでに蜀《しよく》漢《かん》の劉《りゆう》玄《げん》徳《とく》の耳が長かったということを聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
内供がこういう消極的な苦心をしながらも、一方ではまた、積極的に鼻の短くなる方法を試みたことは、わざわざここに言うまでもない。内供はこの方面でもほとんどできるだけのことをした。烏《からす》瓜《うり》をせんじて飲んでみたこともある。鼠の尿《いばり》を鼻へなすってみたこともある。しかし何をどうしても、鼻は依《い》然《ぜん》として、五、六寸の長さをぶらりと脣《くちびる》の上にぶらさげているではないか。
ところがある年の秋、内《ない》供《ぐ》の用を兼《か》ねて、京へ上った弟《で》子《し》の僧《そう》が、知己《しるべ》の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者というのは、もと震《しん》旦《たん》から渡って来た男で、当時は長《ちよう》楽《らく》寺《じ*》の供《ぐ》僧《そう》になっていたのである。
内供は、いつものように、鼻などは気にかけないというふうをして、わざとその法もすぐにやってみようとは言わずにいた。そうして一方では、気軽な口《く》調《ちよう》で、食事のたびごとに、弟子の手《て》数《すう》をかけるのが、心苦しいというようなことを言った。内心ではもちろん弟子の僧が、自分を説《と》き伏《ふ》せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策《さく》略《りやく》がわからないはずはない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそういう策略をとる心もちのほうが、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口をきわめて、この法を試みることを勧《すす》めだした。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧《かん》告《こく》に聴《ちよう》従《じゆう》することになった。
その法というのは、ただ、湯で鼻をゆでて、その鼻を人に踏《ふ》ませるという、きわめて簡《かん》単《たん》なものであった。
湯は寺の湯《ゆ》屋《や》で、毎日沸《わ》かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提《ひさげ》に入れて、湯屋からくんで来た。しかしじかにこの提《ひさげ》へ鼻を入れるとなると、湯げに吹かれて顔をやけどするおそれがある。そこで折《お》敷《しき*》へ穴をあけて、それを提《ひさげ》のふたにして、その穴から鼻を湯の中へ入れることにした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸《ひた》しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が言った。
――もうゆだった時《じ》分《ぶん》でござろう。
内《ない》供《ぐ》は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰《だれ》も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱《ねつ》湯《とう》に蒸《む》されて、蚤《のみ》の食ったようにむずがゆい。
弟《で》子《し》の僧は、内供が折《お》敷《しき》の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯げの立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏《ふ》みはじめた。内供は横になって、鼻を床《ゆか》板《いた》の上へのばしながら、弟子の僧の足が上《うえ》下《した》に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々きのどくそうな顔をして、内供のはげ頭を見下しながら、こんなことを言った。
――痛《いと》うはござらぬかな。医師は責めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
内供は首を振って、痛くないという意味を示そうとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上《うわ》眼《め》を使って、弟子の僧の足にあかぎれのきれているのをながめながら、腹をたてたような声で、
――痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむずがゆい所を踏まれるので、痛いよりもかえって気もちのいいくらいだったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟《あわ》粒《つぶ》のようなものが、鼻へできはじめた。いわば毛をむしった小鳥をそっくり丸《まる》炙《やき》にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めてひとり言のように言った。
――これを鑷子《けぬき》でぬけと申すことでござった。
内《ない》供《ぐ》は、不足らしく頬《ほお》をふくらせて、黙《だま》って弟《で》子《し》の僧《そう》のするなりに任《まか》せておいた。もちろん弟子の僧の親切がわからないわけではない。それはわかっても、自分の鼻をまるで物《ぶつ》品《ぴん》のように取《とり》扱《あつか》うのが、不《ふ》愉《ゆ》快《かい》に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子《けぬき》で脂《あぶら》をとるのをながめていた。脂は、鳥の羽の茎《くき》のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
――もう一度、これをゆでればようござる。
と言った。
内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の言うなりになっていた。
さて二度目にゆでた鼻を出してみると、なるほど、いつになく短くなっている。これではあたりまえの鍵《かぎ》鼻《ばな》とたいした変わりはない。内供はその短くなった鼻をなでながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、きまりが悪そうにおずおずのぞいてみた。
鼻は――あの顋《あご》の下まで下がっていた鼻は、ほとんどうそのように萎《い》縮《しゆく》して、今はわずかに上《うわ》脣《くちびる》の上でいくじなく残《ざん》喘《ぜん》を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、おそらく踏《ふ》まれた時の痕《あと》であろう。こうなれば、もう誰《だれ》もわらうものはないのにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかという不安があった。そこで内《ない》供《ぐ》は誦《ず》経《きよう》する時にも、食事をする時にも、暇《ひま》さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわってみた。が、鼻は行《ぎよう》儀《ぎ》よく脣《くちびる》の上におさまっているだけで、格別それより下へぶらさがってくるけしきもない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻をなでてみた。鼻は依《い》然《ぜん》として短い。内供はそこで、幾《いく》年《とし》にもなく、法華《ほけ》経《きよう》書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
ところが二、三日たつうちに、内供は意外な事実を発見した。それはおりから、用事があって、池《いけ》の尾《お》の寺を訪れた侍《さむらい》が、前よりもいっそうおかしそうな顔をして、話もろくろくせずに、じろじろ内供の鼻ばかりながめていたことである。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥《かゆ》の中へ落したことのある中《ちゆう》童《どう》子《じ》なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いておかしさをこらえていたが、とうとうこらえ兼《か》ねたとみえて、一度にふっと吹き出してしまった。用を言いつかった下《しも》法《ほう》師《し》たちが、面と向かっている間だけは、慎《つつし》んで聞いていても、内供が後ろさえ向けば、すぐにくすくす笑いだしたのは、一度や二度のことではない。
内《ない》供《ぐ》は始め、これを自分の顔がわりがしたせいだと解《かい》釈《しやく》した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――もちろん、中童子や下《しも》法《ほう》師《し》がわらう原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じわらうにしても、鼻の長かった昔《むかし》とは、わらうのにどことなくようすがちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻のほうがこっけいに見えるといえば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
――前にはあのようにつけつけとわらわなんだて。
内《ない》供《ぐ》は、誦《ず》しかけた経《きよう》文《もん》をやめて、はげ頭を傾けながら、時々こうつぶやくことがあった。愛すべき内供は、そういう時になると、必ずぼんやり、かたわらにかけた普《ふ》賢《げん》の画像をながめながら、鼻の長かった四、五日前のことをおもい出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺《い》憾《かん》ながらこの問に答を与《あた》える明が欠けていた。
――人間の心には互《たが》いに矛《む》盾《じゆん》した二つの感情がある。もちろん、誰《だれ》でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬけることができると、今度はこっちでなんとなく物足りないような心もちがする。少し誇《こ》張《ちよう》して言えば、もう一度その人を、同じ不幸におとしいれてみたいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵《てき》意《い》をその人に対していだくようなことになる。――内供が、理由を知らないながらも、なんとなく不快に思ったのは、池の尾の僧《そう》俗《ぞく》の態度に、この傍《ぼう》観《かん》者《しや》の利《り》己《こ》主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
そこで内《ない》供《ぐ》は日ごとにきげんが悪くなった。二《ふた》言《こと》目《め》には、誰でもいじわるくしかりつける。しまいには鼻の療《りよう》治《じ》をしたあの弟《で》子《し》の僧《そう》でさえ、「内供は法《ほう》慳《けん》貪《どん*》の罪《つみ》を受けられるぞ」と陰《かげ》口《ぐち》をきくほどになった。ことに内供をおこらせたのは、例のいたずらな中《ちゆう》童《どう》子《じ》である。ある日、けたたましく犬のほえる声がするので、内供が何気なく外へ出てみると、中童子は、二尺ばかりの木の片《きれ》をふりまわして、毛の長い、やせたむく犬をおいまわしている。それもただ、おいまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」とはやしながら、おいまわしているのである。内《ない》供《ぐ》は、中童子の手からその木の片《きれ》をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻《はな》持《も》上《た》げの木だったのである。
内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨《うら》めしくなった。
するとある夜のことである。日が暮れてから急に風が出たとみえて、塔《とう》の風《ふう》鐸《たく*》の鳴る音が、うるさいほどまくらに通《かよ》って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻がいつになく、むずかゆいのに気がついた。手をあててみると少し水《すい》気《き》が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
――無理に短うしたで、病《やまい》が起ったのかもしれぬ。
内供は、仏前に香《こう》花《げ》を供えるようなうやうやしい手つきで鼻をおさえながら、こうつぶやいた。
翌《よく》朝《あさ》、内供がいつものように早く眼をさましてみると、寺内の銀杏《いちよう》や橡《とち》が一晩のうちに葉を落したので、庭は黄金《きん》を敷《し》いたように明るい。塔の屋根には霜《しも》がおりているせいであろう。まだうすい朝日に、九《く》輪《りん》がまばゆく光っている。禅《ぜん》智《ち》内供は、蔀《しとみ》を上げた縁《えん》に立って、深く息をすいこんだ。
ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、ふたたび内供に帰って来たのはこの時である。
内《ない》供《ぐ》はあわてて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜《ゆうべ》の短い鼻ではない。上《うわ》脣《くちびる》の上から顋《あご》の下まで、五、六寸あまりもぶらさがっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜のうちに、またもとの通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
――こうなれば、もう誰《だれ》もわらうものはないにちがいない。
内《ない》供《ぐ》は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
(大正五年一月)
孤《こ》独《どく》地《じ》獄《ごく》
この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大《おお》叔《お》父《じ》から聞いたと言っている。話の真《しん》偽《ぎ》は知らない。ただ大叔父自身の性《せい》行《こう》から推《お》して、こういうこともずいぶんありそうだと思うだけである。
大叔父はいわゆる大《だい》通《つう*》の一人で、幕《ばく》末《まつ》の芸人や文《ぶん》人《じん》の間に知《ち》己《き》の数が多かった。河《かわ》竹《たけ》黙《もく》阿《あ》弥《み》、柳《りゆう》下《か》亭《てい》種《たね》員《かず*》、善《ぜん》哉《ざい》庵《あん》永《えい》機《き*》、同冬《とう》映《えい*》、九代目団十郎、宇《う》治《じ》紫《し》文《ぶん*》、都《みやこ》千《せん》中《ちゆう*》、乾《かん》坤《こん》坊《ぼう》良《りよう》斎《さい*》などの人々である。中でも黙阿弥は、「江《え》戸《ど》桜《ざくら》清《きよ》水《みず》清《せい》玄《げん》」で紀国《きのくに》屋《や》文《ぶん》左《ざ》衛《え》門《もん》を書くのに、この大叔父を粉《ふん》本《ぼん》にした。物《ぶつ》故《こ》してから、もうかれこれ五十年になるが、生《せい》前《ぜん》一時は今《いま》紀《き》文《ぶん》とあだなされたことがあるから、今でも名だけは聞いている人があるかもしれない。――姓《せい》は細《さい》木《き》、名は藤《とう》次《じ》郎《ろう》、俳《はい》名《みよう》は香《こう》以《い》、俗《ぞく》称《しよう》は山《やま》城《しろ》河岸《がし》の津《つ》藤《とう》と言った男である。
その津藤がある時吉《よし》原《わら》の玉屋で、一人の僧《そう》侶《りよ》と近づきになった。本《ほん》郷《ごう》界《かい》隈《わい》のある禅《ぜん》寺《でら》の住《じゆう》職《しよく》で、名は禅《ぜん》超《ちよう》と言ったそうである。それがやはり嫖《ひよう》客《かく》となって、玉屋の錦《にしき》木《ぎ》という華《おい》魁《らん》になじんでいた。もちろん、肉《にく》食《じき》妻《さい》帯《たい》が僧侶に禁ぜられていた時分のことであるから、表向きはどこまでも出家ではない。黄《き》八《はち》丈《じよう》の着物に黒羽《はね》二重《ぶたえ》の紋《もん》付《つき》というこしらえで人には医者だと号している。――それと偶《ぐう》然《ぜん》近づきになった。
偶然というのは燈《とう》籠《ろう》時《じ》分《ぶん*》のある夜、玉屋の二階で、津《つ》藤《とう》が厠《かわや》へ行った帰りしなに何《なに》気《げ》なく廊《ろう》下《か》を通ると、欄《らん》干《かん》にもたれながら、月を見ている男があった。坊《ぼう》主《ず》頭《あたま》の、どちらかといえば背の低い、やせぎすな男である。津藤は、月あかりで、これを出《で》入《いり》の太《たい》鼓《こ》医者《*》竹《ちく》内《ない》だと思った。そこで、通りすぎながら、手をのばして、ちょいとその耳を引っぱった。驚《おどろ》いてふり向くところを、笑ってやろうと思ったからである。
ところがふり向いた顔を見ると、かえってこっちが驚いた。坊主頭ということを除いたら、竹内と似ているところなどは一つもない。――相手は額《ひたい》の広いわりに、眉《まゆ》と眉との間が険《けわ》しく狭《せばま》っている。眼の大きく見えるのは、肉の落ちているからであろう。左の頬《ほお》にある大きなほくろは、その時でもはっきり見えた。その上顴《けん》骨《こつ》が高い。――これだけの顔かたちが、とぎれとぎれに、あわただしく津藤の眼にはいった。
「何かご用かな」その坊主は腹をたてたような声でこう言った。いくらか酒《しゆ》気《き》も帯《お》びているらしい。
前に書くのを忘れたが、その時津藤には芸者が一人に幇《ほう》間《かん》が一人ついていた。この手《て》合《あい》は津藤にあやまらせて、それを黙《だま》って見ているわけにはいかない。そこで幇間が、津藤に代わって、その客にそこつの詫《わび》をした。そうしてその間に、津藤は芸者をつれて、匆《そう》々《そう》自分の座《ざ》敷《しき》へ帰って来た。いくら大《だい》通《つう》でも間《ま》が悪かったものと見える。坊主のほうでは、幇間からまちがいの仔《し》細《さい》をきくと、すぐにきげんを直して大笑いをしたそうである。その坊主が禅《ぜん》超《ちよう》だったことはいうまでもない。
そのあとで、津《つ》藤《とう》が菓子の台を持たせて、向こうへわびにやる。向こうでもきのどくがって、わざわざ礼に来る。それから二人の交情が結ばれた。もっとも結ばれたといっても、玉屋の二階であうだけで、互《たが》いに往《おう》来《らい》はしなかったらしい。津藤は酒を一滴《てき》も飲まないが、禅《ぜん》超《ちよう》はむしろ、大《たい》酒《しゆ》家《か》である。それからどちらかというと、禅超のほうが持物に贅《ぜい》をつくしている。最後に女《じよ》色《しよく》に沈《ちん》湎《めん》するのも、やはり禅超のほうがはなはだしい。津藤自身が、これをどちらが出《しゆつ》家《け》だかわからないと批評した。――大《だい》兵《ひよう》肥《ひ》満《まん》で、容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》かった津藤は、五《ご》分《ぶ》月代《さかやき》に銀《ぎん》鎖《ぐさり》の懸《かけ》守《まもり》という姿《すがた》で、平素は好んでめくら縞《じま》の着物に白《しろ》木《き》の三尺をしめていたという男である。
ある日津藤が禅超にあうと、禅超は錦《にしき》木《ぎ》のしかけを羽《は》織《お》って、三味《しやみ》線《せん》をひいていた。日ごろから血《けつ》色《しよく》の悪い男であるが、今日《きよう》はことによくない。眼も充《じゆう》血《けつ》している。弾《だん》力《りよく》のない皮膚が時々口もとで痙《けい》攣《れん》する。津藤はすぐに何か心配があるのではないかと思った。自分のようなものでも相談相手になれるなら是《ぜ》非《ひ》させていただきたい――そういう口《こう》吻《ふん》をもらしてみたが、別にこれといって打明けることもないらしい。ただ、いつもよりも口数が少くなって、ややもすると談《だん》柄《ぺい》を失しがちである。そこで津藤は、これを嫖《ひよう》客《かく》のかかりやすい倦怠《アンニユイ》だと解《かい》釈《しやく》した。酒《しゆ》色《しよく》をほしいままにしている人間がかかった倦怠《アンニユイ》は、酒色でなおるはずがない。こういうはめから、二人はいつになくしんみりした話をした。すると禅超は急に何か思い出したようなようすで、こんなことを言ったそうである。
仏説によると、地《じ》獄《ごく》にもさまざまあるが、およそまず、根《こん》本《ぽん》地獄《*》、近《きん》辺《ぺん》地獄《*》、孤《こ》独《どく》地獄の三つに分つことができるらしい。それも南 瞻 部 洲 下 過 五 百 踰 繕 那 乃 有 地 獄《なんせんぶしゆうのしもごひやくゆぜんなをすぎてすなわちじごくあり》という句があるから、たいていは昔《むかし》から地下にあるものとなっていたのであろう。ただ、その中で孤《こ》独《どく》地《じ》獄《ごく》だけは、山《さん》間《かん》曠《こう》野《や》樹《じゆ》下《か》空中、どこへでも忽《こつ》然《ぜん》として現われる。いわば目《もく》前《ぜん》の境《きよう》界《がい》が、すぐそのまま、地獄の苦《く》艱《げん》を現前するのである。自分は二、三年前から、この地獄へおちた。いっさいのことが少しも永続した興味を与えない。だからいつでも一つの境界から一つの境界を追って生きている。もちろんそれでも地獄はのがれられない。そうかといって境界を変えずにいればなお、苦しい思いをする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。しかし、それもしまいには苦しくなるとすれば、死んでしまうよりもほかはない。昔は苦しみながらも、死ぬのがいやだった。今では……
最後の句は、津《つ》藤《とう》の耳にはいらなかった。禅《ぜん》超《ちよう》がまた三味《しやみ》線《せん》の調子を合わせながら、低い声で言ったからである。――それ以来、禅超は玉屋へ来なくなった。誰《だれ》も、この放《ほう》蕩《とう》三《ざん》昧《まい》の禅《ぜん》僧《そう》がそれからどうなったか、知っている者はない。ただその日禅超は、錦《にしき》木《ぎ》のもとへ金《こん》剛《ごう》経《きよう》の疏《そ》抄《しよう*》を一《いつ》冊《さつ》忘れて行った。津藤が後《こう》年《ねん》零《れい》落《らく》して、下総《しもうさ》の寒《さむ》川《かわ*》へ閑《かん》居《きよ》した時に常に机《き》上《じよう》にあった書《しよ》籍《せき》の一つはこの疏《そ》抄《しよう》である。津藤はその表紙の裏へ「菫《すみれ》野《の》や露《つゆ》に気のつく年四十」と、自作の句を書き加えた。その本は今では残っていない。句ももう覚えている人は一人もなかろう。
安《あん》政《せい》四年ごろの話である。母は地獄という語の興味で、この話を覚えていたものらしい。
一日の大部分を書《しよ》斎《さい》で暮《く》らしている自分は、生活の上から言って、自分の大《おお》叔《お》父《じ》やこの禅僧とは、全然没《ぼつ》交《こう》渉《しよう》な世界に住んでいる人間である。また興味の上から言っても、自分は徳川時代の戯《げ》作《さく》や浮《うき》世《よ》絵《え》に、特《とく》殊《しゆ》な興味を持っている者ではない。しかも自分の中にあるある心もちは、ややもすれば孤《こ》独《どく》地《じ》獄《ごく》という語を介《かい》して、自分の同情を彼らの生活に注ごうとする。が、自分はそれを否《いな》もうとは思わない。なぜといえば、ある意味で自分もまた、孤独地獄に苦しめられている一人だからである。
(大正五年二月)
父
自分が中学の四年生《*》だった時の話である。
その年の秋、日光から足《あし》尾《お》へかけて、三泊の修学旅行があった。「午前六時三十分上野停車場前集合、同五十分発車……」こういう箇《か》条《じよう》が、学校から渡《わた》す謄《とう》写《しや》版《ばん》の刷《すり》物《もの》に書いてある。
当日になると自分は、ろくに朝《あさ》飯《めし》も食わずに家をとび出した。電車でゆけば停車場まで二十分とはかからない。――そう思いながらも、なんとなく心がせく。停留場の赤い柱の前に立って、電車を待っているうちも、気が気でない。
あいにく、空は曇《くも》っている。方々の工場で鳴らす汽笛の音《ね》が、鼠《ねずみ》色《いろ》の水《すい》蒸《じよう》気《き》をふるわせたら、それが皆《みな》霧《きり》雨《さめ》になって、降ってきはしないかとも思われる。その退《たい》屈《くつ》な空の下で、高《こう》架《か》鉄道を汽車が通る。被《ひ》服《ふく》廠《しよう*》へ通う荷馬車が通る。店の戸が一つずつあく。自分のいる停留場にも、もう二、三人、人が立った。それが皆、眠《ね》の足りなそうな顔を、陰《いん》気《き》らしくかたづけている。寒い。――そこへ割引の電車《*》が来た。
こみ合っている中を、やっとつり皮にぶらさがると、誰《だれ》か後ろから、自分の肩《かた》をたたく者がある。自分はあわててふり向いた。
「お早う」
見ると、能《の》勢《せ》五十雄《いそお*》であった。やはり、自分のように、紺《こん》のヘルの制服を着て、外《がい》套《とう》を巻いて左の肩《かた》からかけて、麻《あさ》のゲエトルをはいて、腰《こし》に弁当の包みやら水《すい》筒《とう》やらをぶらさげている。
能勢は、自分と同じ小学校《*》を出て、同じ中学校へはいった男である。これといって、得意な学科もなかったが、その代わりに、これといって、不得意なものもない。そのくせ、ちょいとしたことには、器用なたちで、流行《はやり》唄《うた》というようなものは、一度聞くと、すぐに節を覚えてしまう。そうして、修学旅行で宿屋へでも泊《とま》る晩なぞには、それを得意になって披《ひ》露《ろう》する。詩《し》吟《ぎん》、薩《さつ》摩《ま》琵《び》琶《わ》、落語、講談、声《こわ》色《いろ》、手《て》品《じな》、なんでもできた。その上また、身ぶりとか、顔つきとかで、人を笑わせるのに独特な妙《みよう》を得ている。したがって級《クラス》の気うけも、教員間の評判も悪くはない。もっとも自分とは、互《たが》いに往来《ゆきき》はしていながら、さして親しいという間がらでもなかった。
「早いね、君も」
「僕《ぼく》はいつも早いさ」能勢はこう言いながら、ちょいと小鼻をうごめかした。
「でもこの間は遅《ち》刻《こく》したぜ」
「この間?」
「国語の時間にさ」
「ああ、馬場にしかられた時か。あいつは弘《こう》法《ぼう》にも筆のあやまりさ」能勢は、教員の名まえをよびすてにする癖《くせ》があった。
「あの先生には、僕もしかられた」
「遅刻で?」
「いいえ、本を忘れて」
「仁《じん》丹《たん》は、いやにやかましいからな」「仁丹」というのは、能《の》勢《せ》が馬《ば》場《ば》教《きよう》諭《ゆ》につけたあだ名である。――こんな話をしているうちに、停車場前へ来た。
乗った時と同じように、こみあっている中をやっと電車からおりて停車場へはいると、時刻が早いので、まだ級《クラス》の連中は二、三人しか集っていない。互《たが》いに「お早う」のあいさつを交《こう》換《かん》する。先を争って、待合室の木のベンチに、腰《こし》をかける。それから、いつものように、勢いよくしゃべりだした。皆《みな》「僕《ぼく》」と言う代わりに、「己《おれ》」と言うのを得意にする年《ねん》輩《ぱい》である。その自ら「己」と称する連中の口から、旅行の予想、生徒同志の品《ひん》隲《しつ》、教員の悪評などが盛んに出た。
「泉はちゃくいぜ、あいつは教員用のチョイス《*》を持っているもんだから、一度も下読みなんぞしたことはないんだとさ」
「平野はもっとちゃくいぜ。あいつは試験の時というと、歴史の年代をみな爪《つめ》へ書いて行くんだって」
「そう言えば先生だってちゃくいからな」
「ちゃくいとも。本間なんぞはreceiveのiとeと、どっちが先へ来るんだか、それさえろくに知らないくせに、教師用でいいかげんにごまかしごまかし、教えているじゃあないか」
どこまでも、ちゃくいで持ちきるばかりで一つも、ろくなうわさは出ない。すると、そのうちに能勢が、自分の隣《となり》のベンチに腰をかけて、新聞を読んでいた、職人らしい男のくつを、パッキンレイだと批評した。これは当時、マッキンレイという新形のくつがはやったのに、この男のくつは、いったいに光沢《つや》を失って、その上先のほうがぱっくり口をあいていたからである。
「パッキンレイはよかった」こう言って、皆《みな》一《いち》時《どき》に、失笑した。
それから、自分たちは、いい気になって、この待合室に出《しゆつ》入《にゆう》するいろいろな人間を物《ぶつ》色《しよく》しはじめた。そうしていちいち、それに、東京の中学生でなければ言えないような、生意気な悪口を加えだした。そういうことにかけて、ひけをとるような、おとなしい生徒は、自分たちの中に一人もいない。中でも能《の》勢《せ》の形《けい》容《よう》が、いちばん辛《しん》辣《らつ》で、かついちばん諧《かい》謔《ぎやく》に富んでいた。
「能《の》勢《せ》、能勢、あのおかみさんを見ろよ」
「あいつは河豚《ふぐ》がはらんだような顔をしているぜ」
「こっちの赤《あか》帽《ぼう》も、何かに似ているぜ。ねえ能勢」
「あいつはカロロ五世《*》さ」
しまいには、能勢が一人で、悪口を言う役目をひきうけるようなことになった。
すると、その時、自分たちの一人は、時間表の前に立って、細《こま》かい数字をしらべている妙《みよう》な男を発見した。その男は羊《よう》羹《かん》色の背広を着て、体操に使う球《きゆう》竿《かん*》のような細い脚《あし》を、鼠《ねずみ》のあらい縞《しま》のズボンに通している。縁《ふち》の広い昔《むかし》風《ふう》の黒い中折れの下から、半白の毛がはみ出しているところを見ると、もうかなりな年配らしい。そのくせ頸《くび》のまわりには、白と黒と格子《こうし》縞《じま》のはでなハンケチをまきつけて、鞭《むち》かと思うような、寒《かん》竹《ちく》の長いつえをちょいと脇《わき》の下へはさんでいる。服装といい、態度といい、すべてが、パンチ《*》のさし絵を切《きり》抜《ぬ》いて、そのままそれを、この停車場の人ごみの中へ、立たせたとしか思われない。――自分たちの一人は、また新しく悪口の材料ができたのをよろこぶように、肩《かた》でおかしそうに笑いながら、能《の》勢《せ》の手をひっぱって、
「おい、あいつはどうだい」とこう言った。
そこで、自分たちは、皆《みな》その妙《みよう》な男を見た。男は少しそり身になりながら、チョッキのポケットから、紫《むらさき》の打《うち》紐《ひも》のついた大きなニッケルの懐《かい》中《ちゆう》どけいを出して、丹《たん》念《ねん》にそれと時間表の数字とを見くらべている。横顔だけ見て、自分はすぐに、それが能勢の父親だということを知った。
しかし、そこにいた自分たちの連中には、一人もそれを知っている者がない。だから皆、能勢の口から、このこっけいな人物を、適《てき》当《とう》に形容することばを聞こうとして、聞いた後の笑いを用意しながら、おもしろそうに能勢の顔をながめていた。中学の四年生には、その時の能勢の心もちを推測する明《めい》がない。自分は危《あやう》く「あれは能勢の父《フアザア》だぜ」と言おうとした。
するとその時、
「あいつかい。あいつはロンドン乞《こ》食《じき》さ」
こう言う能勢の声がした。皆が一時にふき出したのはいうまでもない。中にはわざわざそり身になって、懐中どけいを出しながら、能勢の父親の姿《スタイル》をまねてみる者さえある。自分は、思わず下を向いた。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。
「そいつは適評だな」
「見ろ。見ろ。あの帽《ぼう》子《し》を」
「日かげ町《ちよう*》か」
「日かげ町にだってあるものか」
「じゃあ博物館だ」
皆《みな》がまた、おもしろそうに笑った。
曇《どん》天《てん》の停車場は、日の暮《く》れのようにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そっとそのロンドン乞《こ》食《じき》の方をすかして見た。
すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭《せま》い光の帯が高い天《てん》井《じよう》の明り取りから、ぼうと斜にさしている。能《の》勢《せ》の父親は、ちょうどその光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のようにおおっている。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁のない洋服を着た、この現代と縁《えん》のない老人は、めまぐるしく動く人間の洪《こう》水《ずい》の中に、これもやはり現代を超越した、黒の中折れをあみだにかぶって、紫《むらさき》の打《うち》紐《ひも》のついた懐《かい》中《ちゆう》どけいを右の掌《たなごころ》の上にのせながら、依《い》然《ぜん》としてポンプのごとく時間表の前に佇《ちよ》立《りつ》しているのである……
あとで、それとなく聞くと、そのころ大学の薬局に通っていた能勢の父親は、能勢が自分たちといっしょに修学旅行に行くところを、出勤のみちすがら見ようと思って、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来たのだそうである。
能勢五十雄《いそお》は、中学を卒業するとまもなく、肺結核にかかって、物《ぶつ》故《こ》した。その追《つい》悼《とう》式《しき》を、中学の図書室であげた時、制《せい》帽《ぼう》をかぶった能勢の写真の前で悼《とう》辞《じ》を読んだのは、自分である。「君、父母に孝に」――自分はその悼《とう》辞《じ》の中に、こういう句を入れた。
(大正五年三月)
野《の》呂《ろ》松《ま》人形
野《の》呂《ろ》松《ま》人形《*》を使うから、見に来ないかという招《しよう》待《たい》が突《とつ》然《ぜん》来た。招待してくれたのは、知らない人である。が、文面で、その人が、僕《ぼく》の友人の知人だということがわかった。「K氏もおいでのことと存じ候《そうら》えば」とかなんとか、書いてある。Kが、僕の友人であることはいうまでもない。――僕は、ともかくも、招待に応ずることにした。
野呂松人形というものが、どんなものかということは、その日になって、Kの説明を聞くまでは、僕もよく知らなかった。その後、世《せ》事《じ》談《だん*》を見ると、のろまは「江戸和泉《いずみ》太《だい》夫《ふ》、芝居に野《の》呂《ろの》松勘兵衛《まかんべゑ》と言ふもの、頭ひらたく色青黒きいやしげなる人形を使ふ。これをのろま人形と言ふ。野呂松の略《りやく》語《ご》なり」とある。昔は蔵《くら》前《まえ》の札《ふだ》差《さし》とか諸《しよ》大《だい》名《みよう》の御《お》金《かね》御《ご》用《よう》とかあるいはまた長《なが》袖《そで*》とかが、楽しみに使ったものだそうだが、今では、これを使う人も数えるほどしかないらしい。
当日、僕は車で、その催《もよお》しがある日《につ》暮《ぽ》里《り》のある人の別《べつ》荘《そう》へ行った。二月の末のある曇《くも》った日の夕方である。日の暮《く》れには、まだ間《ま》があるので、光とも影ともつかない明るさが、往《おう》来《らい》に漂《ただよ》っている。木の芽を誘《さそ》うには早すぎるが、空気は、湿《しつ》気《け》を含《ふく》んで、どことなく暖かい。二、三か所で問うて、ようやく、見つけた家は、人通りの少い横《よこ》町《ちよう》にあった。が、想像したほど、閑《かん》静《せい》な住まいでもないらしい。昔《むかし》通りのくぐり門をはいって、幅《はば》の狭《せま》い御《み》影《かげ》石《いし》の石だたみを、玄《げん》関《かん》の前へ来ると、ここには、式《しき》台《だい》の柱に、銅《ど》鑼《ら》が一つ下がっている。そばに、手ごろな朱《しゆ》塗《ぬり》の棒《ぼう》まで添《そ》えてあるから、これでたたくのかなと思っていると、まだ、それを手にしないうちに、玄《げん》関《かん》の障《しよう》子《じ》のかげにいた人が、「どうぞこちらへ」と声をかけた。
受付のような所で、罫《けい》紙《し》の帳面に名まえを書いて、奥へ通ると、玄関の次の八畳《じよう》と六畳、二間いっしょにした、うす暗い座《ざ》敷《しき》には、もうだいぶん、客の数が見えていた。僕《ぼく》は、人《ひと》中《なか》へ出る時は、たいてい、洋服を着てゆく。袴《はかま》だと、拘《こう》泥《でい》しなければならない、繁《はん》雑《ざつ》な日本のetiquetteも、ズボンだと、しばしば、大目に見られやすい。僕のような、礼《れい》節《せつ》になれない人間には、至《し》極《ごく》便利である。その日も、こういうわけで、僕は、大学の制服を着て行った。が、ここへ来ている連中の中には、一人も洋服を着ているものがない。驚《おどろ》いたことには、僕の知っているイギリス人さえ、紋《もん》付《つき》にセルの袴で、扇《おうぎ》を前に控《ひか》えている。Kのごとき町家の子《し》弟《てい》が結《ゆう》城《き》紬《つむぎ》の二《に》枚《まい》襲《がさね》か何かで、おさまっていたのはいうまでもない。僕は、この二人の友人にあいさつをして、座につく時に、いささか、etrangerの感があった。
「これだけ、お客があっては、――さんも大よろこびだろう」Kが僕に言った。――さんというのは、僕に招《しよう》待《たい》状《じよう》をくれた人の名である。
「あの人も、やはり人形を使うのかい」
「うん、一番か二番は、習っているそうだ」
「今日も使うかしら」
「いや、使わないだろう。今日は、これでもこの道のお歴《れき》々《れき》が使うのだから」
Kは、それから、いろいろ、野《の》呂松《ろま》人形の話をした。なんでも、番組の数は、皆《みな》で七十何番とかあって、それに使う人形が二十幾《いく》つとかあるというようなことである。自分は、時々、六畳《じよう》の座《ざ》敷《しき》の正《しよう》面《めん》にできている舞《ぶ》台《たい》の方をながめながら、ぼんやりKの説明を聞いていた。
舞台というのは、高さ三尺ばかり、幅《はば》二間ばかりの金《きん》箔《ぱく》を押した歩衝《ついたて》である。Kの説によると、これを「手《て》摺《す》り」と称《しよう》するので、いつでも取りこわせるようにできているという。その左右へは、新しい三《さん》色《しよく》緞《どん》子《す》の几《き》帳《ちよう》が下がっている。後ろは、金《きん》屏《びよう》風《ぶ》をたてまわしたものらしい。うす暗い中に、その歩衝《ついたて》と屏風との金が一《ひと》重《え》、いぶしをかけたように、重々しく夕やみを破っている。――僕は、この簡《かん》素《そ》な舞台を見て非常にいい心もちがした。
「人形には、男と女とあってね、男には、青《あお》頭《あたま》とか、文《も》字《じ》兵《べ》衛《え》とか、十《じゆう》内《ない》とか、老《ろう》僧《そう》とかいうのがある」Kは弁《べん》じて倦《う》まない。
「女にもいろいろありますか」とイギリス人が言った。
「女には、朝日とか、照《てる》日《ひ》とかね、それからおきね、悪《あく》婆《ば》なんぞというのもあるそうだ。もっとも中で有名なのは、青頭でね。これは、元《がん》祖《そ》から、今の宗《そう》家《け》へ伝来したのだというが……」
あいにく、そのうちに、僕は小《こ》用《よう》に行きたくなった。
――厠《かわや》から帰ってみると、もう電《でん》灯《とう》がついている。そうして、いつの間にか「手《て》摺《す》り」の後ろには、黒い紗《しや》の覆《ふく》面《めん》をした人が一人、人形を持って立っている。いよいよ、狂《きよう》言《げん》が始まったのであろう。僕は、会《え》釈《しやく》をしながら、ほかの客の間を通って、前にすわっていた所へ来てすわった。Kと日本服を着たイギリス人との間である。
舞《ぶ》台《たい》の人形は、藍《あい》色《いろ》の素《す》袍《おう》に、立《たて》烏帽子《えぼし》をかけた大《だい》名《みよう》である。「それがし、いまだ、誇《ほこ》る宝がござらぬによって、世に稀《まれ》なる宝を都へ求めにやろうと存《ぞん》ずる」人形を使っている人が、こんなことを言った。語といい、口《く》調《ちよう》といい、間《あい》狂《きよう》言《げん*》を見るのと、たいした変わりはない。
やがて、大名が、「まず、与《よ》六《ろく》を呼び出して申しつけよう。やいやい与六あるか」とかなんとか言うと、「へえ」と答えながらもう一人、黒い紗《しや》で顔を隠《かく》した人が、太郎冠者《かじや》のような人形を持って、左の三《さん》色《しよく》緞《どん》子《す》の中から、出て来た。これは、茶色の半《はん》上《がみ》下《しも》に、無《む》腰《ごし》という着付けである。
すると、大名の人形が、左手《ゆんで》を小さ刀の柄《つか》にかけながら、右手《めて》の中《ちゆう》啓《けい》で、与六をさしまねいで、こういうことを言いつける。――「天下治《おさ》まり、めでたい御《み》代《よ》なれば、かなたこなたにて宝合わせをせらるるところ、なんじの知る通り、それがし方には、いまだ誇《ほこ》るべき宝がないによって、汝《なんじ》都へ上り、世に稀《まれ》なるところの宝があらば求めて参れ」与六「へえ」大名「急げ」「へえ」「ええ」「へえ」「ええ」「へえさてさて殿《との》様《さま》には……」――それから与六の長いsoliloque《*》が始まった。
人形のできは、はなはだ、簡《かん》単《たん》である。第一、着付けの下に、足というものがない。口があいたり、目が動いたりする後《こう》世《せい》の人形に比べれば、格段な相《そう》違《い》である。手の指を動かすことはあるが、それもめったにやらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、同時に、どこか鷹《おう》揚《よう》な、品のいいものである。僕《ぼく》は、人形に対して、ふたたびetrangerの感を深くした。
アナトオル・フランスの書いたものに、こういう一節がある、――時代と場所との制限を離《はな》れた美は、どこにもない。自分が、ある芸術の作品をよろこぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が発見した時に限るのである。Hissarlik《*》の素《す》焼《やき》の陶《とう》器《き》は自分をして、よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフイレンツェの生活を知らなかったとしたら、自分は神《しん》曲《きよく》を、今《こん》日《にち》のごとく鑑《かん》賞《しよう》することはできなかったのに相《そう》違《い》ない。自分は言う、あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、はじめて、正当に愛し、かつ、理解しえられるのである。……
僕は、金《こん》色《じき》の背景の前に、悠《ゆう》長《ちよう》な動作をくり返している、藍《あい》の素《す》袍《おう》と茶の半上下とを見て、はからず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野《の》呂《ろ》松《ま》人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、はたしてそうありたいばかりでなく、そうあることであろうか。……
野呂松人形は、そうあることを否定するごとく、木《き》彫《ぼり》の白い顔を、金の歩衝《ついたて》の上で、動かしているのである。
狂《きよう》言《げん》は、それから、すっぱが出て、与《よ》六《ろく》をだまし、与六が帰って、大《だい》名《みよう》の不《ふ》興《きよう》をこうむる所でおわった。鳴《なり》物《もの》は、三味《しやみ》線《せん》のない芝居の囃《はや》しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。
僕は、次の狂言を待つ間を、Kとも話さずに、ぼんやり、ひとり「朝日」をのんですごした。
(大正五年七月十八日)
芋《いも》粥《がゆ》
元《がん》慶《ぎよう*》の末か、仁《にん》和《な*》の始めにあった話であろう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めていない。読者はただ、平《へい》安《あん》朝《ちよう》という、遠い昔《むかし》が背《はい》景《けい》になっているということを、知ってさえいてくれれば、よいのである。――そのころ、摂《せつ》政《しよう》藤《ふじ》原《わら》基《もと》経《つね》に仕《つか》えている侍《さむらい》の中に、某《なにがし》という五《ご》位《い*》があった。
これも、某と書かずに、何の誰《だれ》と、ちゃんと姓《せい》名《めい》を明らかにしたいのであるが、あいにく旧《きゆう》記《き*》には、それが伝わっていない。おそらくは、実際、伝わる資格がないほど、平《へい》凡《ぼん》な男だったのであろう。いったい旧記の著《ちよ》者《しや》などという者は、平凡な人間や話に、あまり興味を持たなかったらしい。この点で、彼らと、日本の自然派の作家とは、だいぶんちがう。王朝時代の小説家は、存《ぞん》外《がい》、閑《ひま》人《じん》でない。――とにかく、藤原基経に仕えている侍の中に、某という五位があった。これが、この話の主人公である。
五位は、風《ふう》采《さい》のはなはだあがらない男であった。第一背が低い。それから赤鼻で、眼《め》尻《じり》が下がっている。口《くち》髭《ひげ》はもちろん薄《うす》い。頬《ほお》が、こけているから、頤《あご》が、人並《なみ》はずれて、細く見える。脣《くちびる》は――いちいち、数えたてていれば、際《さい》限《げん》はない。我《わ》が五位の外《がい》貌《ぼう》はそれほど、非凡に、だらしなく、でき上がっていたのである。
この男が、いつ、どうして、基《もと》経《つね》に仕えるようになったのか、それは誰《だれ》も知っていない。が、よほど以前から、同じような色のさめた水《すい》干《かん》に、同じようななえなえした烏帽子《えぼし》をかけて、同じような役目を、飽《あ》きずに、毎日、くり返していることだけは、確かである。その結果であろう、今では、誰が見ても、この男に若い時があったとは思われない。(五《ご》位《い》は四十を越《こ》していた)その代わり、生まれた時から、あの通り寒そうな赤鼻と、形ばかりの口《くち》髭《ひげ》とを、朱雀《すざく》大路《おおじ》の衢《ちまた》風《かぜ》に、吹かせていたという気がする。上《かみ》は主人の基経から、下《しも》は牛《うし》飼《かい》の童《どう》児《じ》まで、無意識ながら、ことごとくそう信じて疑う者がない。
こういう風《ふう》采《さい》をそなえた男が、周囲から受ける待《たい》遇《ぐう》は、おそらく書くまでもないことであろう。侍《さぶらい》所《どころ》にいる連中は、五位に対して、ほとんど蠅《はえ》ほどの注意も払《はら》わない。有位無位、あわせて二十人に近い下役さえ、彼の出入りには、不思議なくらい、冷《れい》淡《たん》をきわめている。五位が何か言いつけても、けっして彼《かれ》ら同志の雑《ざつ》談《だん》をやめたことはない。彼らにとっては、空気の存在が見えないように、五位の存在も、眼をさえぎらないのであろう。下役でさえそうだとすれば、別《べつ》当《とう》とか、侍《さぶらい》所《どころ》の司《つかさ》とかいう上役たちが頭から彼を相手にしないのは、むしろ自然の数《すう》である。彼らは、五位に対すると、ほとんど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後ろに隠《かく》して、何を言うのでも、手まねだけで用を足した。人間に、言語があるのは、偶《ぐう》然《ぜん》ではない。したがって、彼らも手まねでは用を弁《べん》じないことが、時々ある。が、彼らは、それを全然五位の悟《ご》性《せい》に、欠《けつ》陥《かん》があるからだと、思っているらしい。そこで彼らは用が足りないと、この男のゆがんだ揉《もみ》烏帽子《えぼし》の先から、切れかかった藁《わら》草《ぞう》履《り》の尻《しり》まで、まんべんなく見上げたり、見下したりして、それから、鼻でわらいながら、急に後ろを向いてしまう。それでも、五《ご》位《い》は、腹《はら》をたてたことがない。彼《かれ》は、いっさいの不正を、不正として感じないほど、いくじのない、臆《おく》病《びよう》な人間だったのである。
ところが、同《どう》僚《りよう》の侍《さむらい》たちになると、進んで、彼を翻《ほん》弄《ろう》しようとした。年かさの同僚が、彼のふるわない風《ふう》采《さい》を材料にして、古いしゃれを聞かせようとするごとく、年下の同僚も、またそれを機会にして、いわゆる興《きよう》言《げん》利《り》口《こう*》の練習をしようとしたからである。彼らは、この五位の面前で、その鼻と口《くち》髭《ひげ》と、烏帽子《えぼし》と水《すい》干《かん》とを、品《ひん》隲《しつ》して飽《あ》きることを知らなかった。そればかりではない。彼が五、六年前に別れたうけ脣《くち》の女《によう》房《ぼう》と、その女房と関係があったという酒のみの法《ほう》師《し》とも、しばしば彼らの話題になった。その上、どうかすると、彼らははなはだ、たちの悪いいたずらさえする。それを今いちいち、列《れつ》記《き》することはできない。が、彼の篠《ささ》枝《え*》の酒を飲《の》んで、あとへ尿《いばり》を入れておいたということを書けば、そのほかはおよそ、想像されることだろうと思う。
しかし、五位はこれらの揶《や》揄《ゆ》に対して、全然無感覚であった。少くもわき眼には、無感覚であるらしく思われた。彼は何を言われても、顔の色さえ変えたことがない。黙《だま》って例の薄《うす》い口髭をなでながら、するだけのことをしてすましている。ただ、同僚のいたずらが、嵩《こう》じすぎて、髷《まげ》に紙切れをつけたり、太《た》刀《ち》の鞘《さや》に草《ぞう》履《り》を結びつけたりすると、彼は笑うのか、泣くのか、わからないようなえがおをして、「いけぬのう、お身たちは」と言う。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時あるいじらしさに打たれてしまう。(彼らにいじめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼らの知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼らの無情を責めている)――そういう気が、おぼろげながら、彼らの心に、一《いつ》瞬《しゆん》の間、しみこんで来るからである。ただその時の心もちを、いつまでも持ち続ける者ははなはだ少い。その少い中の一人に、ある無《む》位《い》の侍《さむらい》があった。これは丹《たん》波《ば》の国から来た男で、まだ柔《やわら》かい口《くち》髭《ひげ》が、やっと鼻の下に、はえかかったくらいの青年である。もちろん、この男も始めは皆《みな》といっしょに、なんの理由もなく、赤鼻の五位をけいべつした。ところが、ある日何かのおりに、「いけぬのう、お身たちは」と言う声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離《はな》れない。それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映《うつ》るようになった。栄養の不足した、血《けつ》色《しよく》の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫《はく》害《がい》にべそをかいた、「人間」がのぞいているからである。この無位の侍には、五位のことを考えるたびに、世の中のすべてが急に本来の下等さをあらわすように思われた。そうしてそれと同時に霜《しも》げた赤鼻と数えるほどの口《くち》髭《ひげ》とがなんとなく一味の慰《い》安《あん》を自分の心に伝えてくれるように思われた。……
しかし、それは、ただこの男一人に、限ったことである。こういう例外を除けば、五位は、依《い》然《ぜん》として周囲のけいべつの中に、犬のような生活を続けていかなければならなかった。第一彼には着物らしい着物が一つもない。青《あお》鈍《にび》の水《すい》干《かん》と、同じ色の指《さし》貫《ぬき》とが一つずつあるが、今ではそれが上《うわ》白《じろ》んで、藍《あい》とも紺《こん》とも、つかないような色に、なっている。水干はそれでも、肩《かた》が少し落ちて、丸組の緒《お》や菊《きく》綴《とじ》の色が怪《あや》しくなっているだけだが、指《さし》貫《ぬき》になると、裾《すそ》のあたりのいたみかたが一通りでない。その指貫の中から、下の袴《はかま》もはかない、細い足が出ているのを見ると、口の悪い同《どう》僚《りよう》でなくとも、痩《やせ》公《く》卿《げ》の車をひいている、痩《やせ》牛《うし》の歩みを見るような、みすぼらしい心もちがする。それに佩《は》いている太刀も、すこぶるおぼつかない物で、柄《つか》の金具もいかがわしければ、黒《くろ》鞘《ざや》の塗《ぬり》もはげかかっている。これが例の赤鼻で、だらしなく草《ぞう》履《り》をひきずりながら、ただでさえ猫《ねこ》背《ぜ》なのを、いっそう寒空の下に背ぐくまって、ものほしそうに、左右をながめながめ、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまでばかにするのも、無理はない。現に、こういうことさえあった。……
ある日、五《ご》位《い》が三《さん》条《じよう》坊《ぼう》門《もん》を神《しん》泉《せん》苑《えん*》の方へ行く所で、子供が六、七人、路《みち》ばたに集って、何かしているのを見たことがある。「こまつぶり《*》」でも、まわしているのかと思って、後ろからのぞいてみると、どこかから迷《まよ》って来た、むく犬の首へ縄《なわ》をつけて、打ったりたたいたりしているのであった。臆《おく》病《びよう》な五位は、これまで何かに同情を寄せることがあっても、あたりへ気を兼《か》ねて、まだ一度もそれを行《こう》為《い》に現わしたことがない。が、この時だけは相手が子供だというので、幾《いく》分《ぶん》か勇《ゆう》気《き》が出た。そこでできるだけ、えがおをつくりながら、年かさらしい子供の肩《かた》をたたいて、「もう、勘《かん》忍《にん》してやりなされ。犬も打たれれば、痛《いた》いでのう」と声をかけた。すると、その子供はふりかえりながら、上眼を使って、さげすむように、じろじろ五位の姿《すがた》を見た。いわば侍《さぶらい》所《どころ》の別《べつ》当《とう》が用の通じない時に、この男を見るような顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれとうもない」その子供は一足下がりながら、高《こう》慢《まん》な脣《くちびる》をそらせて、こう言った。「何じゃ、この赤鼻めが」五位はこのことばが自分の顔を打ったように感じた。が、それは悪態をつかれて、腹《はら》がたったからでは毛《もう》頭《とう》ない。言わなくともいいことを言って、恥《はじ》をかいた自分が、情なくなったからである。彼は、きまりが悪いのを苦しいえがおに隠《かく》しながら、黙って、また、神《しん》泉《せん》苑《えん》の方へ歩きだした。後ろでは、子供が六、七人、肩を寄せて、「べっかっこう」をしたり、舌《した》を出したりしている。もちろん彼はそんなことを知らない。知っていたにしても、それが、このいくじのない五《ご》位《い》にとって、なんであろう。……
では、この話の主人公は、ただ、けいべつされるためにのみ生まれてきた人間で、別になんの希望も持っていないかというと、そうでもない。五位は五、六年前から芋《いも》粥《がゆ》というものに、異常な執《しゆう》着《ちやく》を持っている。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛《あまずら》の汁で煮《に》た、粥のことを言うのである。当時はこれが、無《む》上《じよう》の佳《か》味《み》として、上は万《まん》乗《じよう》の君の食《しよく》膳《ぜん》にさえ、上せられた。したがって、吾《わ》が五位のごとき人間の口へは、年に一度、臨《りん》時《じ》の客《*》のおりにしか、はいらない。その時でさえ、飲《の》めるのはわずかに喉《のど》をうるおすに足るほどの少量である。そこで芋粥をあきるほど飲んでみたいということが、久しい前から、彼の唯《ゆい》一《いつ》の欲《よく》望《ぼう》になっていた。もちろん、彼は、それを誰にも話したことがない。いや彼自身さえそれが、彼の一生を貫《つらぬ》いている欲望だとは、明《めい》白《はく》に意識しなかったことであろう。が事実は彼がそのために、生きていると言っても、さしつかえないほどであった。――人間は、時として、みたされるかみたされないか、わからない欲望のために、一生をささげてしまう。その愚《ぐ》をわらう者は、ひっきょう、人生に対する路《ろ》傍《ぼう》の人にすぎない。
しかし、五位が夢《む》想《そう》していた、「芋粥に飽かん」ことは、存外容《よう》易《い》に事実となって現われた。その始《し》終《じゆう》を書こうというのが、芋粥の話の目的なのである。
――――――――――――――――――
ある年の正月二日、基《もと》経《つね》の第《だい*》に、いわゆる臨《りん》時《じ》の客があった時のことである(臨時の客は二《に》宮《ぐう》の大《だい》饗《きよう*》と同日に摂《せつ》政《しよう》関《かん》白《ぱく》家《け》が、大臣以下の上達部《かんだちめ》を招いて催《もよお》す饗《きよう》宴《えん》で、大饗と別に変わりがない)。五《ご》位《い》も、ほかの侍《さむらい》たちにまじって、その残《ざん》肴《こう》の相《しよう》伴《ばん》をした。当時はまだ、取食《とりば》み《*》の習慣がなくて、残《ざん》肴《こう》は、その家の侍が一堂に集って、食うことになっていたからである。もっとも、大饗に等しいといっても昔《むかし》のことだから、品数の多いわりにろくなものはない、餅《もち》、伏菟《ふと》、蒸《むし》鮑《あわび》、干《ほし》鳥《どり》、宇《う》治《じ》の氷魚《ひお》、近江《おうみ》の鮒《ふな》、鯛《たい》の楚割《すわやり》、鮭《さけ》の内子《こごもり》、焼《やき》蛸《だこ》、大《おお》海老《えび》、大《おお》柑子《こうじ》、小《こ》柑子《こうじ》、橘《たちばな》、串《くし》柿《がき》などのたぐいである。ただ、その中に、例の芋《いも》粥《がゆ》があった。五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。が、いつも人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。それが今年は、特に、少なかった。そうして気のせいか、いつもより、よほど味がいい。そこで、彼は飲んでしまったあとの椀《わん》をしげしげながめながら、うすい口《くち》髭《ひげ》についているしずくを掌《てのひら》でふいて誰《だれ》に言うともなく、「いつになったら、これに飽《あ》けることかのう」と、こう言った。
「大《た》夫《ゆう》殿《どの》は、芋粥に飽《あ》かれたことがないそうな」
五位のことばがおわらないうちに、誰かが、あざ笑った。錆《さび》のある、鷹《おう》揚《よう》な、武《ぶ》人《じん》らしい声である。五位は、猫《ねこ》背《ぜ》の首をあげて、臆《おく》病《びよう》らしく、その人の方を見た。声の主は、そのころ同じ基《もと》経《つね》の恪《かく》勤《ごん*》になっていた、民《みん》部《ぶ》卿《きよう》時《とき》長《なが》の子藤《ふじ》原《わら》利《とし》仁《ひと》である。肩《かた》幅《はば》の広い、身長《みのたけ》の群を抜《ぬ》いたたくましい大男で、これは焼《やき》栗《ぐり》をかみながら、黒《くろ》酒《き》のさかずきを重ねていた。もうだいぶん酔《よ》いがまわっているらしい。
「おきのどくなことじゃの」利仁は、五位が顔をあげたのを見ると、けいべつと憐《れん》憫《びん》とを一つにしたような声で、語を継《つ》いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申そう」
しじゅう、いじめられている犬は、たまに肉をもらっても容易によりつかない。五《ご》位《い》は、例の笑うのか、泣くのか、わからないようなえがおをして、利《とし》仁《ひと》の顔と、からの椀《わん》とを等分に見比べていた。
「おいやかな」
「…………」
「どうじゃ」
「…………」
五位は、そのうちに、衆人の視線が、自分の上に、集っているのを感じだした。答え方一つで、また、一同の嘲《ちよう》弄《ろう》を、受けなければならない。あるいは、どう答えても、結局、ばかにされそうな気さえする。彼《かれ》は躊《ちゆう》躇《ちよ》した。もし、その時に、相手が、少しめんどうくさそうな声で、「おいやなら、たってとは申すまい」と言わなかったら、五位は、いつまでも、椀と利仁とを、見比べていたことであろう。
彼は、それを聞くと、あわただしく答えた。
「いや……かたじけのうござる」
この問《もん》答《どう》を聞いていた者は、皆、一時に、失笑した。
「いや、かたじけのうござる」――こう言って、五位の答を、まねる者さえある。いわゆる、橙《とう》黄《こう》橘《きつ》紅《こう》を盛った窪《くぼ》坏《つき》や高《たか》坏《つき》の上に多くの揉烏帽子《もみえぼし》や立烏帽子《たてえぼし》が、笑声とともにひとしきり、波のように動いた。中でも、最も、大きな声で、きげんよく、笑ったのは、利仁自身である。
「では、そのうちに、お誘《さそ》い申そう」そう言いながら、彼は、ちょいと顔をしかめた。こみ上げてくる笑いと今飲んだ酒とが、喉《のど》で一つになったからである。「……しかと、よろしいかな」
「かたじけのうござる」
五位は赤くなって、どもりながら、また、前の答をくり返した。一同が今度も、笑ったのは、いうまでもない。それが言わせたさに、わざわざ念を押した当の利《とし》仁《ひと》に至《いた》っては、前よりもいっそうおかしそうに広い肩《かた》をゆすって、哄《こう》笑《しよう》した。この朔《さく》北《ほく*》の野人は、生活の方法を二つしか心得ていない。一つは酒を飲むことで、他の一つは笑うことである。
しかし幸いに談話の中心は、ほどなく、この二人を離《はな》れてしまった。これはことによると、ほかの連中が、たとい嘲《ちよう》弄《ろう》にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五《ご》位《い》に集中させるのが、不快だったからかもしれない。とにかく、談《だん》柄《ぺい》はそれからそれへと移って、酒もさかなも残り少なになった時分には、某《なにがし》という侍《さむらい》学《がく》生《しよう》が、行縢《むかばき*》の片《かた》皮《がわ》へ、両足を入れて馬に乗ろうとした話が、一座の興味を集めていた。が、五位だけは、まるでほかの話が聞えないらしい。おそらく芋《いも》粥《がゆ》の二字が、彼のすべての思量を支配しているからであろう。前に雉《きぎ》子《す》の炙《や》いたのがあっても、箸《はし》をつけない。黒《くろ》酒《き》のさかずきがあっても、口を触《ふ》れない。彼は、ただ、両手を膝《ひざ》の上に置いて、見合いをする娘《むすめ》のように霜《しも》に犯《おか》されかかった鬢《びん》のあたりまで、初心《うぶ》らしく上気しながら、いつまでもからになった黒《くろ》塗《ぬり》の椀《わん》を見つめて、たわいもなく、微《び》笑《しよう》しているのである。……
――――――――――――――――――
それから、四、五日たった日の午前、加《か》茂《も》川《がわ》の河《か》原《わら》に沿って、粟《あわ》田《た》口《ぐち》へ通う街《かい》道《どう》を、静かに馬を進めてゆく二人の男があった。一人は濃《こ》い縹《はなだ》の狩《かり》衣《ぎぬ》に同じ色の袴《はかま》をして、打《うち》出《で》の太《た》刀《ち*》を佩《は》いた「鬚《ひげ》黒く鬢《びん》ぐきよき」男である。もう一人は、みすぼらしい青《あお》鈍《にび》の水《すい》干《かん》に、薄《うす》綿《わた》の衣を二つばかり重ねて着た、四十かっこうの侍《さむらい》で、これは、帯のむすび方のだらしのないようすといい、赤鼻でしかも穴のあたりが、洟《はな》にぬれているようすといい、身のまわり万《ばん》端《たん》のみすぼらしいことおびただしい。もっとも、馬は二人とも、前のは月《つき》毛《げ》、後のは蘆《あし》毛《げ》の三《さん》歳《さい》駒《ごま》で、道をゆく物売りや侍も、ふり向いて見るほどの駿《しゆん》足《そく》である。その後からまた二人、馬の歩みに遅《おく》れまいとしてついて行くのは、調《ちよう》度《ど》掛《がけ》と舎人《とねり*》とに相違ない。――これが、利《とし》仁《ひと》と五《ご》位《い》との一《いつ》行《こう》であることは、わざわざ、ここに断るまでもない話であろう。
冬とはいいながら、もの静かに晴れた日で、白けた河原の石の間、潺《せん》湲《かん》たる水のほとりに立《たち》枯《が》れている蓬《よもぎ》の葉を、ゆするほどの風もない。川に臨《のぞ》んだ背《せ》の低い柳《やなぎ》は、葉のない枝に飴《あめ》のごとくなめらかな日の光りをうけて、こずえにいる鶺《せき》鴒《れい》の尾《お》を動かすのさえ、あざやかに、それと、影を街《かい》道《どう》に落している。東《ひがし》山《やま》の暗い緑の上に、霜《しも》に焦《こ》げたビロウドのような肩《かた》を、まるまると出しているのは、おおかた、比《ひ》叡《えい》の山であろう。二人はその中に鞍《くら》の螺《ら》鈿《でん》を、まばゆく日にきらめかせながら鞭《むち》をも加えず悠《ゆう》々《ゆう》と、粟《あわ》田《た》口《ぐち》をさして行くのである。
「どこでござるかな、手前をつれて行って、やろうと仰《おお》せられるのは」五位がなれない手に手《た》綱《づな》をかいくりながら、言った。
「すぐ、そこじゃ。お案じになるほど遠くはない」
「すると、粟田口辺でござるかな」
「まず、そう思われたがよろしかろう」
利《とし》仁《ひと》は今朝《けさ》五《ご》位《い》を誘《さそ》うのに、東山の近くに湯のわいている所があるから、そこへ行こうと言って出て来たのである。赤鼻の五位は、それを真《ま》にうけた。久しく湯にはいらないので、体《からだ》じゅうがこの間からむずがゆい。芋《いも》粥《がゆ》の馳《ち》走《そう》になった上に、入《にゆう》湯《とう》ができれば、願ってもないしあわせである。こう思って、あらかじめ利仁がひかせて来た、蘆《あし》毛《げ》の馬にまたがった。ところが、轡《くつわ》を並《なら》べてここまで来てみると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現に、そうこうしているうちに、粟《あわ》田《た》口《ぐち》は通りすぎた。
「粟田口ではござらぬのう」
「いかにも、もそっと、あなたでな」
利仁は、微《び》笑《しよう》を含《ふく》みながら、わざと、五位の顔を見ないようにして、静かに馬を歩ませている。両側の人家は、しだいに稀《まれ》になって、今は、広々とした冬田の上に、えさをあさる鴉《からす》が見えるばかり、山の陰《かげ》に消え残って、雪の色もほのかに青く煙っている。晴れながら、とげとげしい櫨《はじ》のこずえが、眼に痛《いた》く空を刺《さ》しているのさえ、なんとなく肌《はだ》寒い。
「では、山《やま》科《しな》辺ででもござるかな」
「山科は、これじゃ。もそっと、さきでござるよ」
なるほど、そう言ううちに、山科も通りすぎた。それどころではない。何かとするうちに、関《せき》山《やま*》もあとにして、かれこれ、午《ひる》少しすぎた時分には、とうとう三《み》井《い》寺《でら*》の前へ来た。三井寺には、利仁の懇《こん》意《い》にしている僧《そう》がある。二人はその僧を訪ねて、午《ひる》餐《げ》の馳《ち》走《そう》になった。それがすむと、また、馬に乗って、途《みち》を急ぐ。行《ゆく》手《て》は今まで来た路《みち》に比べるとはるかに人煙が少ない。ことに当時は盗《とう》賊《ぞく》が四方に横《おう》行《こう》した、物《ぶつ》騒《そう》な時代である。――五《ご》位《い》は猫《ねこ》背《ぜ》をいっそう低くしながら、利《とし》仁《ひと》の顔を見上げるようにしてたずねた。
「まだ、さきでござるのう」
利仁は微《び》笑《しよう》した。いたずらをして、それを見つけられそうになった子供が、年《ねん》長《ちよう》者《しや》に向かってするような微笑である。鼻の先へよせた皺《しわ》と、眼《め》尻《じり》にたたえた筋肉のたるみとが、笑ってしまおうか、しまうまいかとためらっているらしい。そうして、とうとう、こう言った。
「実はな、敦《つる》賀《が》まで、お連れ申そうと思うたのじゃ」笑いながら、利仁は鞭《むち》をあげて遠くの空を指さした。その鞭《むち》の下には、的《てき》〓《れき》として、午後の日を受けた近江《おうみ》の湖が光っている。
五位は、狼《ろう》狽《ばい》した。
「敦《つる》賀《が》と申すと、あの越《えち》前《ぜん》の敦賀でござるかな。あの越前の――」
利仁が、敦賀の人、藤原有《あり》仁《ひと》の女《じよ》婿《せい》になってから、多くは敦賀に住んでいるということも、日ごろから聞いていないことはない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だろうとは、今の今まで思わなかった。第一、幾《いく》多《た》の山《さん》河《か》を隔《へだ》てている越前の国へ、この通り、わずか二人の伴《とも》人《びと》をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこのごろは、往《ゆき》来《き》の旅人が、盗賊のために殺されたといううわささえ、諸《しよ》方《ほう》にある。――五位は嘆《たん》願《がん》するように、利仁の顔を見た。
「それはまた、めっそうな、東《ひがし》山《やま》じゃと心得れば、山《やま》科《しな》。山科じゃと心得れば、三《み》井《い》寺《でら》。あげくが越《えち》前《ぜん》の敦《つる》賀《が》とは、いったいどうしたということでござる。始めから、そう仰《おお》せらりょうなら、下《げ》人《にん》どもなりと、召《め》しつれようものを。――敦《つる》賀《が》とは、めっそうな」
五《ご》位《い》は、ほとんどべそをかかないばかりになって、つぶやいた。もし「芋《いも》粥《がゆ》に飽《あ》かん」ことが、彼《かれ》の勇気を鼓《こ》舞《ぶ》しなかったとしたら、彼はおそらく、そこから別れて、京都へひとり帰って来たことであろう。
「利《とし》仁《ひと》が一人おるのは、千人ともお思いなされ。路《ろ》次《じ》の心配は、ご無用じゃ」
五位の狼《ろう》狽《ばい》するのを見ると、利仁は、少し眉《まゆ》をひそめながら、あざ笑った。そうして調《ちよう》度《ど》掛《がけ》を呼寄せて、持たせて来た壺《つぼ》胡《や》〓《なぐい*》を背《せ》に負うと、やはり、その手から、黒《こく》漆《しつ》の真《ま》弓《ゆみ》をうけ取って、それを鞍《あん》上《じよう》に横たえながら、先に立って、馬を進めた。こうなる以上、いくじのない五位は、利仁の意志に盲《もう》従《じゆう》するよりほかにしかたがない。それで、彼は心細そうに、荒《こう》涼《りよう》とした周囲の原《げん》野《や》をながめながら、うろ覚えの観《かん》音《のん》経《ぎよう》を口のうちに念じ念じ、例の赤鼻を鞍《くら》の前輪にすりつけるようにして、おぼつかない馬の歩みを、あいかわらずとぼとぼと進めて行った。
馬《ば》蹄《てい》の反《はん》響《きよう》する野は、茫《ぼう》々《ぼう》たる黄《こう》茅《ぼう》におおわれて、その所々にあるみずたまりも、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、いつかそれなり凍《こお》ってしまうかと疑われる。そのはてには、一帯の山脈が、日にそむいているせいか、かがやくべき残雪の光もなく、紫《むらさき》がかった暗い色を、長々となすっているが、それさえ蕭《しよう》条《じよう》たる幾《いく》叢《むら》の枯《かれ》薄《すすき》にさえぎられて、二人の従者の眼には、はいらないことが多い。――すると、利仁が、突《とつ》然《ぜん》、五位の方をふりむいて、声をかけた。
「あれに、よい使《し》者《しや》が参った。敦《つる》賀《が》へのことづけを申そう」
五位は利仁の言う意味が、よくわからないので、こわごわながら、その弓《ゆみ》で指さす方を、ながめてみた。もとより人の姿《すがた》が見えるような所ではない。ただ、野《の》葡萄《ぶどう》か何かの蔓《つる》が、灌《かん》木《ぼく》の一むらにからみついている中を、一疋《ぴき》の狐《きつね》が、暖かな毛の色を、傾きかけた日にさらしながら、のそりのそり歩いて行く。――と思ううちに、狐は、あわただしく身をおどらせて、いっさんに、どこともなく走りだした。利《とし》仁《ひと》が急に、鞭《むち》を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。五《ご》位《い》も、われを忘《わす》れて、利仁のあとを、おった。従者ももちろん、遅《おく》れてはいられない。しばらくは、石をける馬《ば》蹄《てい》の音が、戛《かつ》々《かつ》として、曠《こう》野《や》の静けさを破っていたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、いつ、捕《とら》えたのか、もう狐の後足をつかんで、さかさまに、鞍《くら》のかたわらへ、ぶらさげている。狐が、走れなくなるまで、追いつめたところで、それを馬の下に敷《し》いて、手取りにしたものであろう。五位は、うすい髭《ひげ》にたまる汗を、あわただしくふきながら、ようやく、そのそばへ馬を乗りつけた。
「これ、狐《きつね》、よう聞けよ」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざとものものしい声を出してこう言った。「そのほう、今夜のうちに、敦《つる》賀《が》の利仁がやかたへ参って、こう申せ。『利仁は、ただいまにわかに客人を具して下ろうとするところじゃ。明《みよう》日《にち》、巳《みの》時《とき*》ごろ、高《たか》島《しま*》のあたりまで、男たちを迎《むか》いにつかわし、それに、鞍《くら》置《おき》馬二疋《ひき》、ひかせて参れ』よいか忘れるなよ」
言いおわるとともに、利仁は、一ふり振って狐を、遠くのくさむらの中へ、ほうり出した。
「いや、走るわ。走るわ」
やっと、追いついた二人の従者は、逃《に》げてゆく狐のゆくえをながめながら、手をうってはやしたてた。落葉のような色をしたその獣《けもの》の背《せ》は、夕日の中を、まっしぐらに、木の根石くれのきらいなく、どこまでも、走って行く。それが一行の立っている所から、手にとるようによく見えた。狐《きつね》を追っているうちに、いつか彼らは、曠《こう》野《や》がゆるい斜面を作って、水のかれた川《かわ》床《どこ》と一つになる、そのちょうど上の所へ、出ていたからである。
「広《こう》量《りよう*》の御使でござるのう」
五《ご》位《い》は、ナイイヴな尊敬と讃《さん》嘆《たん》とをもらしながら、この狐さえ頤《い》使《し》する野育ちの武《ぶ》人《じん》の顔を、いまさらのように、仰《あお》いで見た。自分と利《とし》仁《ひと》との間に、どれほどの懸《けん》隔《かく》があるか、そんなことは、考えるいとまがない。ただ、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由がきくようになったことを、心強く感じるだけである。――阿《あ》諛《ゆ》は、おそらく、こういう時に、最も自然に生まれてくるものであろう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇《ほう》間《かん》のような何物かを見いだしても、それだけでみだりにこの男の人格を、疑うべきではない。
ほうり出された狐は、なぞえの斜《しや》面《めん》を、ころげるようにして、かけおりると、水のない河《かわ》床《どこ》の石の間を、器用に、ぴょいぴょい、飛び越えて、今度は、向こうの斜面へ、勢いよく、すじかいにかけ上った。かけ上りながら、ふりかえってみると、自分を手どりにした侍《さむらい》の一《いつ》行《こう》は、まだ遠い傾斜の上に馬を並《なら》べて立っている。それが皆、指をそろえたほどに、小さく見えた。ことに入日を浴びた、月《つき》毛《げ》と蘆《あし》毛《げ》とが、霜《しも》を含《ふく》んだ空気の中に、描いたよりもくっきりと、浮き上がっている。
狐は、頭《かしら》をめぐらすと、また枯《かれ》薄《すすき》の中を、風のように走りだした。
―――――――――――――
一《いつ》行《こう》は、予定通り翌《よく》日《じつ》の巳《みの》時《とき》ばかりに、高《たか》島《しま》のあたりへ来た。ここは琵《び》琶《わ》湖《こ》に臨《のぞ》んだ、ささやかな部《ぶ》落《らく》で、昨日に似ず、どんよりと曇《くも》った空の下に、幾《いく》戸の藁《わら》屋《や》が、まばらにちらばっているばかり、岸にはえた松の樹《き》の間には、灰色のさざなみをよせる湖の水面が、みがくのを忘れた鏡のように、さむざむと開けている。――ここまで来ると利《とし》仁《ひと》が、五《ご》位《い》を顧《かえり》みて言った。
「あれをご覧《ろう》じろ。男どもが、迎《むか》いに参ったげでござる」
見ると、なるほど、二疋《ひき》の鞍《くら》置《おき》馬《うま》をひいた、二、三十人の男たちが、馬にまたがったのもあり徒歩《かち》のもあり、皆《みな》水《すい》干《かん》の袖《そで》を寒風に翻《ひるが》えして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなったと思うと、馬に乗っていた連中は、あわただしく鞍《くら》をおり、徒歩《かち》の連中は、路《みち》傍《ばた》に蹲《そん》踞《きよ》して、いずれもうやうやしく、利仁の来るのを、待ちうけた。
「やはり、あの狐《きつね》が、使者を勤めたとみえますのう」
「生《しよう》得《とく》、変《へん》化《げ》ある獣《けもの》じゃて、あのくらいの用を勤めるのは、なんでもござらぬ」
五位と利仁とが、こんな話をしているうちに、一行は、郎《ろう》等《どう》たちの待っている所へ来た。「大《たい》儀《ぎ》じゃ」と、利仁が声をかける。蹲《そん》踞《きよ》していた連中が、せわしく立って、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になった。
「夜《や》前《ぜん》、稀《け》有《う》なことが、ございましてな」
二人が、馬からおりて、敷《しき》皮《がわ》の上へ、腰《こし》をおろすかおろさないうちに、檜《ひ》皮《わだ》色《いろ》の水干を着た、白《はく》髪《はつ》の郎《ろう》等《どう》が、利仁の前へ来て、こう言った。
「なんじゃ」利《とし》仁《ひと》は、郎《ろう》等《どう》たちの持ってきた篠《ささ》枝《え》や破籠《わりご*》を、五《ご》位《い》にも勧《すす》めながら、鷹《おう》揚《よう》に問いかけた。
「さればでございまする。夜《や》前《ぜん》、戌《いぬの》時《とき*》ばかりに、奥《おく》方《がた》がにわかに、人ごこちをお失いなされましてな。『おのれは、阪《さか》本《もと》の狐《きつね》じゃ、今日、殿《との》の仰《おお》せられたことを、ことづてしようほどに、近う寄って、よう聞きゃれ』と、こうおっしゃるのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿はただいまにわかに客人を具して、下られようとするところじゃ。明日巳《みの》時《とき》ごろ、高《たか》島《しま》のあたりまで、男どもを迎いにつかわし、それに鞍置馬二疋ひかせて参れ』と、こう御《ぎよ》意《い》あそばすのでございまする」
「それは、また、稀《け》有《う》なことでござるのう」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔《し》細《さい》らしく見比べながら、両方に満足を与えるような、相《あい》づちを打った。
「それもただ、仰せられるのではございませぬ。さも、恐《おそ》ろしそうに、わなわなとお震《ふる》えになりましてな、『遅《おく》れまいぞ、遅れれば、おのれが、殿のご勘《かん》当《どう》をうけねばならぬ』と、しっきりなしに、お泣きになるのでございまする」
「して、それから、いかがした」
「それから、たわいなく、お休みになりましてな。手《て》前《まえ》どもの出て参りまする時にも、まだ、おめざめにはならぬようで、ございました」
「いかがでござるな」郎等の話を聞きおわると、利仁は五位を見て、得意らしく言った。「利仁には、獣《けもの》も使われ申すわ」
「なんとも驚《おどろ》き入るほかは、ござらぬのう」五《ご》位《い》は、赤鼻をかきながら、ちょいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、あきれたように、口を開いて見せた。口《くち》髭《ひげ》には今、飲《の》んだ酒が、しずくになって、くっついている。
――――――――――――――――――
その日の夜《よ》のことである。五位は、利《とし》仁《ひと》のやかたの一間に、切《きり》灯《とう》台《だい》の灯《ひ》をながめるともなく、ながめながら、寝つかれない長の夜をまじまじして、明かしていた。すると、夕方、ここへ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯《かれ》野《の》、あるいは、草、木《こ》の葉《は》、石、野火の煙《けむり》のにおい、――そういうものが、一つずつ、五位の心に、浮んできた。ことに、雀《すずめ》色《いろ》時《どき》の靄《もや》の中を、やっと、このやかたへたどりついて、長《なが》櫃《びつ》に起してある、炭火の赤いほのおを見た時の、ほっとした心もち、――それも、今こうして、寝ていると、遠い昔《むかし》にあったこととしか、思われない。五位は綿《わた》の四、五寸もはいった、黄いろい直垂《ひたたれ》の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝《ね》姿《すがた》を見まわした。
直垂《ひたたれ》の下に利仁が貸してくれた、練《ねり》色《いろ》の衣《きぬ》の綿《わた》厚《あつ》なのを、二枚まで重ねて、着こんでいる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねないほど、暖かい。そこへ、夕《ゆう》飯《めし》の時に一杯《ぱい》やった、酒の酔《え》いが手伝っている。まくらもとの蔀《しとみ》一つ隔《へだ》てた向こうは、霜《しも》のさえた広庭だが、それも、こう陶《とう》然《ぜん》としていれば、少しも苦にならない。万《ばん》事《じ》が、京都の自分の曹《ぞう》司《し*》にいた時と比べれば、雲《うん》泥《でい》の相《そう》違《い》である。が、それにもかかわらず、我《わ》が五位の心には、なんとなくつりあいのとれない不安があった。第一、時間のたっていくのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けるということが、――芋《いも》粥《がゆ》を食う時になるということが、そう早く、来てはならないような心もちがする。そうしてまた、この矛《む》盾《じゆん》した二つの感情が、互《たが》いに剋《こく》し合う後ろには、境《きよう》遇《ぐう》の急《きゆう》激《げき》な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のように、うすら寒く控《ひか》えている。それが、皆、じゃまになって、せっかくの暖かさも、容易に、眠りを誘《さそ》いそうもない。
すると、外の広庭で、誰《だれ》か大きな声を出しているのが、耳にはいった。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎《むか》えに出た、白《はく》髪《はつ》の郎《ろう》等《どう》が何か告《ふ》れているらしい。そのひからびた声が、霜《しも》に響くせいか、凛《りん》々《りん》として凩《こがらし》のように、一語ずつ五《ご》位《い》の骨《ほね》に、こたえるような気さえする。
「このあたりの下《げ》人《にん》、承《うけたま》われ。殿《との》の御《ぎよ》意《い》あそばさるるには、明朝、卯《うの》時《とき*》までに、切口三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各《おのおの》、一筋ずつ、持って参るようにとある。忘れまいぞ、卯《うの》時《とき》までにじゃ」
それが、二、三度、くり返されたかと思うと、やがて、人のけはいがやんで、あたりはたちまちもとのように、静かな冬の夜になった。その静かな中に、切《きり》灯《とう》台《だい》の油が鳴る。赤い真《ま》綿《わた》のような火が、ゆらゆらする。五位はあくびを一つ、かみつぶして、また、とりとめのない、思《し》量《りよう》にふけりだした。――山の芋というからには、もちろん芋《いも》粥《がゆ》にする気で、持って来させるのに相《そう》違《い》ない。そう思うと、一時、外に注意を集中したおかげで忘《わす》れていた、さっきの不安が、いつの間にか、心に帰って来る。ことに、前よりも、いっそう強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないという心もちで、それがいじわるく、思量の中心を離《はな》れない。どうもこう容易に「芋粥に飽《あ》かん」ことが、事実となって現れては、せっかく今まで、何年となく、しんぼうして待っていたのが、いかにも、むだなほねおりのように、みえてしまう。できることなら、何か突《とつ》然《ぜん》故《こ》障《しよう》が起っていったん、芋粥が飲めなくなってから、また、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけるというような、そんな手続きに、万《ばん》事《じ》を運ばせたい。――こんな考えが、「こまつぶり」のように、ぐるぐる一つ所をまわっているうちに、いつか、五《ご》位《い》は、旅の疲《つか》れで、ぐっすり、熟《じゆく》睡《すい》してしまった。
あくる朝、眼がさめると、すぐに、昨夜《ゆうべ》の山の芋《いも》の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋の蔀《しとみ》をあげてみた。すると、知らないうちに、寝すごして、もう卯《うの》時《とき》をすぎていたのであろう。広庭へ敷《し》いた、四、五枚の長《なが》筵《むしろ》の上には、丸太のような物が、およそ、二、三千本、斜につき出した、檜《ひ》皮《わだ》葺《ぶき》の軒《のき》先《さき》へつかえるほど、山のように、積んである。見るとそれが、ことごとく、切口三寸、長さ五尺の途《と》方《ほう》もなく大きい、山の芋であった。
五位は、寝起きの眼をこすりながら、ほとんど周《しゆう》章《しよう》に近い驚《きよう》愕《がく》に襲《おそ》われて、呆《ぼう》然《ぜん》と、周囲を見まわした。広庭の所々には、新しく打ったらしい杭《くい》の上に五斛《ごく》納《のう》釜《がま》を五つ六つ、かけ連ねて、白い布の襖《あお》を着た若い下《げ》司《す》女《おんな》が、何十人となく、そのまわりに動いている。火をたきつけるもの、灰をかくもの、あるいは、新しい白《しら》木《き》のおけに、「あまずらみせん《*》」をくんで釜《かま》の中へ入れるもの、皆《みな》芋《いも》粥《がゆ》をつくる準備で、眼のまわるほど忙しい。釜の下から上る煙《けむり》と、釜の中からわく湯げとが、まだ消え残っている明け方の靄《もや》と一つになって、広庭一面、はっきり物も見定められないほど、灰色のものがこめた中で、赤いのは、烈《れつ》々《れつ》と燃《も》え上がる釜の下のほのおばかり、眼に見るもの、耳に聞くものことごとく、戦場か火事場へでも行ったような騒《さわ》ぎである。五位は、いまさらのように、この巨大な山の芋《いも》が、この巨大な五斛《ごく》納《のう》釜《がま》の中で、芋《いも》粥《がゆ》になることを考えた。そうして、自分が、その芋粥を食うために京都から、わざわざ、越《えち》前《ぜん》の敦《つる》賀《が》まで旅をして来たことを考えた。考えれば考えるほど、何一つ、情なくならないものはない。我《わ》が五《ご》位《い》の同情すべき食《しよく》欲《よく》は、実に、この時もう、一半を減《げん》却《きやく》してしまったのである。
それから、一時間ののち、五位は利《とし》仁《ひと》や舅《しゆうと》の有《あり》仁《ひと》とともに、朝《あさ》飯《めし》の膳《ぜん》に向かった。前にあるのは、銀《しろがね》の提《ひさげ》の一斗《と》ばかりはいるのに、なみなみと海のごとくたたえた、恐《おそ》るべき芋粥である。五位はさっき、あの軒《のき》まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄《うす》刃《ば》を器用に動かしながら、片《かた》端《はし》からけずるように、勢いよく切るのを見た。それからそれを、あの下《げ》司《す》女《おんな》たちが、右《う》往《おう》左《さ》往《おう》に馳《は》せちがって、一つのこらず、五斛《ごく》納《のう》釜《がま》へすくっては入れ、すくっては入れするのを見た。最後に、その山の芋が、一つも長《なが》筵《むしろ》の上に見えなくなった時に、芋のにおいと、甘《あま》葛《ずら》のにおいとを含《ふく》んだ、幾道かの湯げの柱が、蓬《ほう》々《ほう》然《ぜん》として、釜《かま》の中から、晴れた朝の空へ、舞《まい》上って行くのを見た。これを、まのあたりに見た彼《かれ》が、今、提《ひさげ》に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけないうちから、すでに、満《まん》腹《ぷく》を感じたのは、おそらく、無理もない次《し》第《だい》であろう。――五位は、提《ひさげ》を前にして、間《ま》の悪そうに、額《ひたい》の汗をふいた。
「芋粥に飽《あ》かれたことが、ござらぬげな。どうぞ、遠《えん》慮《りよ》なく召《めし》上《あ》がってくだされ」
舅《しゆうと》の有《あり》仁《ひと》は、童《どう》児《じ》たちに言いつけて、さらに幾《いく》つかの銀《しろがね》の提《ひさげ》を膳《ぜん》の上に並《なら》べさせた。中にはどれも芋粥が、あふれんばかりにはいっている。五位は眼をつぶって、ただでさえ赤い鼻を、いっそう赤くしながら、提《ひさげ》に半分ばかりの芋粥を大きな土器《かわらけ》にすくって、いやいやながら飲み干《ほ》した。
「父も、そう申すじゃて。平《ひら》に、遠《えん》慮《りよ》はご無《む》用《よう》じゃ」
利《とし》仁《ひと》もそばから、新たな提《ひさげ》をすすめて、いじわるく笑いながらこんなことを言う。弱ったのは五《ご》位《い》である。遠慮のないところを言えば、始めから芋《いも》粥《がゆ》は、一椀《わん》も吸いたくない。それを今、我《が》慢《まん》して、やっと、提《ひさげ》に半分だけ平らげた。これ以上、飲めば、喉《のど》を越さないうちにもどしてしまう。そうかといって、飲まなければ、利仁や有仁の厚《こう》意《い》を無にするのも、同じである。そこで、彼はまた眼をつぶって、残りの半分を三分の一ほど飲み干した。もうあとは一口も吸いようがない。
「なんとも、かたじけのうござった。もう十分ちょうだいいたしたて。――いやはや、なんともかたじけのうござった」
五位は、しどろもどろになって、こう言った。よほど弱ったとみえて、口《くち》髭《ひげ》にも、鼻の先にも、冬とは思われないほど、汗が玉になって、たれている。
「これはまた、ご少食なことじゃ。客人は、遠慮をされるとみえたぞ。それそれその方ども、何をいたしておる」
童《どう》児《じ》たちは、有仁の語につれて、新たな提《ひさげ》の中から、芋《いも》粥《がゆ》を、土器《かわらけ》にくもうとする。五位は、両手を蠅《はえ》でもおうように動かして、平《ひら》に、辞《じ》退《たい》の意を示した。
「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる」
もし、この時、利仁が、突《とつ》然《ぜん》、向こうの家の軒《のき》を指さして、「あれをご覧《ろう》じろ」と言わなかったなら、有仁はなお、五位に、芋粥をすすめて、やまなかったかもしれない。が、幸いにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ持って行った。檜皮葺《ひわだぶき》の軒には、ちょうど、朝日がさしている。そうして、そのまばゆい光に、光沢《つや》のいい毛皮を洗わせながら、一疋《ぴき》の獣《けもの》が、おとなしく、すわっている。見るとそれは一昨日《おととい》、利仁が枯《かれ》野《の》の路《みち》で手どりにした、あの阪《さか》本《もと》の野《の》狐《ぎつね》であった。
「狐も、芋《いも》粥《がゆ》がほしさに、見《けん》参《ざん》したそうな。男ども、しゃつにも、物を食わせてつかわせ」
利仁の命令は、言《ごん》下《か》に行われた。軒《のき》からとびおりた狐は、ただちに広庭で芋粥の馳《ち》走《そう》に、あずかったのである。
五《ご》井《い》は、芋粥を飲んでいる狐をながめながら、ここへ来ない前の彼《かれ》自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍《さむらい》たちに愚《ぐ》弄《ろう》されている彼である。京《きよう》童《わらべ》にさえ「なんじゃ。この赤鼻めが」と、ののしられている彼である。色のさめた水《すい》干《かん》に、指《さし》貫《ぬき》をつけて、飼《かい》主(ぬし)のないむく犬のように、朱雀《すざく》大路《おおじ》をうろついて歩く、あわれむべき、孤《こ》独《どく》な彼である。しかし、同時にまた、芋粥に飽きたいという欲望を、ただ一人大事に守っていた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむという安心とともに、満面の汗がしだいに、鼻の先から、かわいてゆくのを感じた。晴れてはいても、敦賀《つるが》の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位はあわてて、鼻をおさえると同時に銀《しろがね》の提《ひさげ》に向かって大きなくさめをした。
(大正五年八月)
手《はん》 巾《けち》
東京帝《てい》国《こく》法科大学教授、長谷川《はせがわ》謹造《きんぞう*》先生は、ヴェランダの籐《とう》椅子《いす》に腰《こし》をかけて、ストリントベルクの作 劇 術《ドラマトウルギイ*》を読んでいた。
先生の専門は、植民政策《せいさく》の研究である。したがって読者には、先生がドラマトゥルギィを読んでいるということが、いささか、唐突《とうとつ》の感を与えるかもしれない。が、学者としてのみならず、教育家としても、令《れい》名《めい》ある先生は、専門の研究に必要でない本でも、それがなんらかの意味で、現代の学生の思想なり、感情なりに、関係のあるものは、暇《ひま》のある限り、必ず一応は、眼を通しておく。現に、昨今《さつこん》は、先生の校長を兼《か》ねているある高等専門学校の生徒が、愛読するという、ただ、それだけの理由から、オスカア・ワイルドのデ・プロフンディスとか、インテンションズ《*》とかいうものさえ、一読の労を執《と》った。そういう先生のことであるから、今読んでいる本が、欧《おう》州《しゆう》近代の戯《ぎ》曲《きよく》および俳《はい》優《ゆう》を論じたものであるにしても、別に不思議がるところはない。なぜといえば、先生の薫《くん》陶《とう》を受けている学生の中には、イプセンとか、ストリントベルクとか、ないしメエテルリンクとかの評《ひよう》論《ろん》を書く学生が、いるばかりでなく、進んでは、そういう近代の戯曲家の跡《あと》を追って、作劇を一生の仕事にしようとする、熱心家さえいるからである。
先生は、警《けい》抜《ばつ》な一章《しよう》を読みおわるごとに、黄いろい布表紙の本を、膝《ひざ》の上へ置いて、ヴェランダにつるしてある岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんの方を、漫《まん》然《ぜん》と一《いち》瞥《べつ》する。不思議なことに、そうするや否《いな》や、先生の思《し》量《りよう》は、ストリントベルクを離《はな》れてしまう。その代わり、いっしょにその岐阜ちょうちんを買いに行った、奥《おく》さんのことが、心に浮んでくる。先生は、留学中、米国で結《けつ》婚《こん》をした。だから、奥さんは、もちろん、アメリカ人である。が、日本と日本人とを愛することは、先生と少しも変わりがない。ことに、日本の巧《こう》緻《ち》なる美術工芸品は、少からず奥さんの気に入っている。したがって、岐阜ちょうちんをヴェランダにぶらさげたのも、先生の好みというよりは、むしろ、奥さんの日本趣《しゆ》味《み》が、一《いつ》端《たん》を現わしたものとみて、しかるべきであろう。
先生は、本を下に置くたびに、奥さんと岐阜ちょうちんと、そうして、そのちょうちんによって代表される日本の文明とを思った。先生の信ずるところによると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、かなり顕《けん》著《ちよ》な進歩を示している。が、精神的には、ほとんど、これというほどの進歩も認《みと》めることができない。否、むしろ、ある意味では、堕《だ》落《らく》している。では、現代における思想家の急務として、この堕落を救《きゆう》済《さい》するみちを講《こう》ずるのには、どうしたらいいのであろうか。先生は、これを日本固《こ》有《ゆう》の武《ぶ》士《し》道《どう》によるほかはないと論《ろん》断《だん》した。武士道なるものは、けっして偏《へん》狭《きよう》なる島国民の道徳をもって、目《もく》せらるべきものでない。かえってその中には、欧《おう》米《べい》各国のキリスト教的精神と、一致《いっち》すべきものさえある。この武士道によって、現代日本の思《し》潮《ちよう》に帰《き》趣《しゆ》を知らしめることができるならば、それは、ひとり日本の精神的文明に貢《こう》献《けん》するところがあるばかりではない。ひいては、欧米各国民と日本国民との相《そう》互《ご》の理解を容易にするという利益がある。あるいは国際間の平和も、これから促《そく》進《しん》されるということがあるであろう。――先生は、日ごろから、この意味において、自ら東西両洋の間に横たわる橋《きよう》梁《りよう》になろうと思っている。こういう先生にとって、奥《おく》さんと岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんと、そのちょうちんによって代表される日本の文明とが、ある調和を保って、意識に上るのはけっして不快なことではない。
ところが、何度かこんな満足をくり返しているうちに、先生は、追い追い、読んでいるうちでも、思《し》量《りよう》がストリントベルクとは、縁《えん》の遠くなるのに気がついた。そこで、ちょいと、いまいましそうに頭を振って、それからまた丹《たん》念《ねん》に、眼を細かい活字の上にさらしはじめた。すると、ちょうど、今読みかけたところにこんなことが書いてある。
――俳《はい》優《ゆう》が最も普通なる感情に対して、ある一つのかっこうな表現法を発見し、この方法によって成功をかちえる時、彼は時《じ》宜《ぎ》に適《てき》すると適せざるとを問わず、一面には、それが楽であるところから、また一面には、それによって成功するところから、ややもすればこの手段におもむかんとする。しかしそれがすなわち型《マニイル》なのである。……
先生は、由《ゆ》来《らい》、芸術――ことに演《えん》劇《げき》とは、風《ふう》馬《ば》牛《ぎゆう》の間がらである。日本の芝居でさえ、この年まで何度と数えるほどしか、見たことがない。――かつてある学生の書いた小説の中に、梅《ばい》幸《こう》という名が、出て来たことがある。さすが、博《はく》覧《らん》強《きよう》記《き》をもって自《じ》負《じふ》している先生にも、この名ばかりはなんのことだかわからない。そこでついでの時に、その学生を呼んで、きいてみた。
――君、梅幸というのはなんだね。
――梅幸――ですか。梅幸といいますのは、当時、丸の内の帝《てい》国《こく》劇場の座《ざ》付《つき》俳《はい》優《ゆう》で、ただいま、太《たい》閤《こう》記《き》十段目の操《みさお》を勤めている役者です。
小《こ》倉《くら》の袴《はかま》をはいた学生は、いんぎんに、こう答えた。――だから、先生はストリントベルクが、簡《かん》勁《けい》な筆《ふで》で論《ろん》評《ぴよう》を加えている各種の演出法に対しても、先生自身の意見というものは、全然ない。ただ、それが、先生の留学中、西洋で見た芝居のあるものを聯《れん》想《そう》させる範《はん》囲《い》で、幾《いく》分《ぶん》か興味を持つことができるだけである。いわば、中学の英語の教師が、イディオムをさがすために、バアナアド・ショウの脚《きやく》本《ほん》を読むと、別にたいした相《そう》違《い》はない。が、興味は、曲《まが》りなりにも、興味である。
ヴェランダの天《てん》井《じよう》からは、まだ灯《ひ》をともさない岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんが下がっている。そうして、籐《とう》椅《い》子《す》の上では、長《は》谷《せ》川《がわ》謹《きん》造《ぞう》先生が、ストリントベルクのドラマトゥルギイを読んでいる。自分は、これだけのことを書きさえすれば、それが、いかに日の長い初夏の午後であるか、読者は容易に想像のつくことだろうと思う。しかし、こう言ったからといって、けっして先生が無《ぶ》聊《りよう》に苦しんでいるというわけではない。そう解《かい》釈《しやく》しようとする人があるならば、それは自分の書く心もちを、わざとシニカルに曲解しようとするものである。――現在、ストリントベルクさえ、先生は、中《ちゆう》途《と》でやめなければならなかった。なぜといえば、突《とつ》然《ぜん》、訪客を告《つ》げる小《こ》間《ま》使《づかい》が、先生の清《せい》興《きよう》を妨《さまた》げてしまったからである。世《せ》間《けん》は、いくら日が長くても、先生を忙《ぼう》殺《さつ》しなければ、やまないらしい。……
先生は、本を置いて、今し方《がた》小間使が持って来た、小さな名《めい》刺《し》を一《いち》瞥《べつ》した。象《ぞう》牙《げ》紙に、細く西《にし》山《やま》篤《あつ》子《こ》と書いてある。どうも、今までにあったことのある人では、ないらしい。交際の広い先生は、籐《とう》椅《い》子《す》を離《はな》れながら、それでも念のために、一通り、頭の中の人《じん》名《めい》簿《ぼ》を繰《く》ってみた。が、やはり、それらしい顔も、記《き》憶《おく》に浮んでこない。そこで、栞《しおり》代わりに、名《めい》刺《し》を本の間へはさんで、それを籐椅子の上に置くと、先生は、落着かないようすで、銘《めい》仙《せん》の単《ひと》衣《え》の前を直しながら、ちょいとまた、鼻の先の岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんへ眼をやった。誰《だれ》もそうであろうが、待たせてある客より、待たせておく主人のほうが、こういう場合は待遠しい。もっとも、日ごろから謹《きん》厳《げん》な先生のことだから、これが、今日《きょう》のような未知の女客に対してでなくとも、そうだということは、わざわざ断る必要もないであろう。
やがて、時刻をはかって、先生は、応接室の扉《と》をあけた。中へはいって、おさえていたノッブを離《はな》すのと、椅子にかけていた四十かっこうの婦人の立上がったのとが、ほとんど、同時である。客は、先生の判別を超《ちよう》越《えつ》した、上《じよう》品《ひん》な鉄《てつ》御《お》納《なん》戸《ど》の単《ひと》衣《え》を着て、それを黒の絽《ろ》の羽《は》織《おり》が、胸《むね》だけ細く剰《あま》した所に、帯止めの翡《ひ》翠《すい》を、涼《すず》しい菱《ひし》の形にうき上がらせている。髪《かみ》が、丸《まる》髷《まげ》に結《ゆ》ってあることは、こういう些《さ》事《じ》にむとんちゃくな先生にも、すぐわかった。日本人に特有な、丸顔の、琥《こ》珀《はく》色《いろ》の皮《ひ》膚《ふ》をした、賢《けん》母《ぼ》らしい婦人である。先生は、一《いち》瞥《べつ》して、この客の顔を、どこかで見たことがあるように思った。
――私が長谷川です。
先生は、あいそよく、会《え》釈《しやく》した。こう言えば、あったことがあるのなら、向こうで言いだすだろうと思ったからである。
――私は、西山憲《けん》一《いち》郎《ろう》の母でございます。
婦人は、はっきりした声で、こう名のって、それから、ていねいに、会釈を返した。
西山憲一郎といえば、先生も覚えている。やはりイブセンやストリントベルクの評《ひよう》論《ろん》を書く生徒の一人で、専門は確か独《どく》法《ほう》だったかと思うが、大学へはいってからも、よく思想問題をひっさげては、先生のもとに出入した。それが、この春、腹《ふく》膜《まく》炎《えん》にかかって、大学病院へ入院したので、先生もついでながら、一、二度見《み》舞《ま》いに行ってやったことがある。この婦人の顔を、どこかで見たことがあるように思ったのも、偶《ぐう》然《ぜん》ではない。あの眉《まゆ》の濃《こ》い、元気のいい青年と、この婦人とは、日本の俗《ぞく》諺《げん》が、瓜《うり》二《ふた》つと形容するように、驚《おどろ》くほど、よく似ているのである。
――はあ、西山君の……そうですか。
先生は、ひとりでうなずきながら、小さなテエブルの向こうにある椅《い》子《す》をさした。
――どうか、あれへ。
婦人は、一応、突《とつ》然《ぜん》の訪問を謝《しや》してから、また、ていねいに礼をして、示された椅子に腰《こし》をかけた。その拍《ひよう》子《し》に、袂《たもと》から白いものを出したのは、手《はん》巾《けち》であろう。先生は、それを見ると、さっそくテエブルの上の朝《ちよう》鮮《せん》うちわをすすめながら、その向こうの側の椅子に、座をしめた。
――けっこうなおすまいでございます。
婦人は、やや、わざとらしく、室《へや》の中を見まわした。
――いや、広いばかりで、いっこうかまいません。
こういうあいさつに慣れた先生は、おりから小《こ》間《ま》使《づかい》の持って来た、冷《れい》茶《ちや》を、客の前に直させながら、すぐに話《わ》頭《とう》を相手のほうへ転《てん》換《かん》した。
――西山君はいかがです。別段ご容《よう》態《だい》に変わりはありませんか。
――はい。
婦人は、つつましく両手を膝《ひざ》の上に重ねながら、ちょいとことばを切って、それから、静かにこう言った。やはり、落着いた、なめらかな調子で言ったのである。
――実は、今日もせがれのことで上がったのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在《ざい》生《せい》中《ちゆう》は、いろいろ先生にごやっかいになりまして……
婦人が手にとらないのを遠《えん》慮《りよ》だと解《かい》釈《しやく》した先生は、この時ちょうど、紅茶茶わんを口へ持っていこうとしていた。なまじいに、くどく、すすめるよりは、自分ですすってみせるほうがいいと思ったからである。ところが、まだ茶わんが、柔《やわら》かな口《くち》髭《ひげ》にとどかないうちに、婦人のことばは、突《とつ》然《ぜん》、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだろうか、飲まないものだろうか。――こういう思案が、青年の死とは、全く独《どく》立《りつ》して、一《いつ》瞬《しゆん》の間、先生の心を煩《わずら》わした。が、いつまでも、持ち上げた茶わんを、かたづけずにおくわけにはいかない。そこで先生は思い切って、がぶりと半わんの茶を飲むと、心もち眉《まゆ》をひそめながら、むせるような声で、「そりゃあ」と言った。
――……病院におりました間も、よくあれがおうわさなどいたしたものでございますから、お忙《いそが》しかろうとは存じましたが、お知らせかたがた、お礼を申上げようと思いまして……
――いや、どうしまして。
先生は、茶わんを下へ置いて、その代わりに青い蝋《ろう》を引いたうちわをとりあげながら、憮《ぶ》然《ぜん》として、こう言った。
――とうとう、いけませんでしたかなあ。ちょうど、これからという年だったのですが……私はまた、病院のほうへもごぶさたしていたものですから、もうたいてい、よくなられたことだとばかり、思っていました――すると、いつになりますかな、なくなられたのは。
――昨日が、ちょうど初《しよ》七日でございます。
――やはり病院のほうで……
――さようでございます。
――いや、実際、意外でした。
――なにしろ、手のつくせるだけは、つくした上なのでございますから、あきらめるよりほかは、ございませんが、それでも、あれまでにいたしてみますと、何かにつけて、愚《ぐ》痴《ち》が出ていけませんものでございます。
こんな対話を交《こう》換《かん》している間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙《きよ》措《そ》なりが、少しも自分の息《むす》子《こ》の死を、語っているらしくないということである。眼には、涙《なみだ》もたまっていない。声も、平《へい》生《ぜい》の通りである。その上、口《こう》角《かく》には、微《び》笑《しよう》さへ浮んでいる。これで、話を聞かずに、外《がい》貌《ぼう》だけ見ているとしたら、誰《だれ》でも、この婦人は、家《か》常《じよう》茶《さ》飯《はん》事《じ》を語っているとしか、思わなかったのに相《そう》違《い》ない。――先生には、これが不思議であった。
――昔《むかし》、先生が、ベルリンに留学していた時分のことである。今のカイゼルのおとうさんに当る、ウィルへルム第一世が、崩《ほう》御《ぎよ》された。《*》先生は、この訃《ふ》音《いん》を行きつけの珈《コオ》琲《ヒイ》店《てん》で耳にしたが、もとより一通りの感《かん》銘《めい》しかうけようはない。そこで、いつものように、元気のいい顔をして、つえを脇《わき》にはさみながら、下宿へ帰って来ると、下宿の子供が二人、扉《ドア》をあけるや否《いな》や、両方から先生の頸《くび》に抱《だ》きついて、一度にわっと泣きだした。一人は、茶色のジャケットを着た、十二になる女の子で、一人は、紺《こん》の短いズボンをはいた、九つになる男の子である。子《こ》煩《ぼん》悩《のう》な先生は、訳《わけ》がわからないので、二人の明るい色をした髪《かみ》の毛をなでながら、しきりに「どうした。どうした」と言って慰《なぐさ》めた。が、子供はなかなか泣きやまない。そうして、洟《はな》をすすり上げながら、こんなことを言う。
――おじいさまの陛《へい》下《か》が、おなくなりなすったのですって。
先生は、一国の元《げん》首《しゆ》の死が、子供にまで、これほど悲しまれるのを、不思議に思った。ひとり皇《こう》室《しつ》と人民との関係というような問題を、考えさせられたばかりではない。西洋へ来て以来、何度も先生の視《し》聴《ちよう》を動かした、西洋人の衝《しよう》動《どう》的《てき》な感情の表《ひよう》白《はく》が、いまさらのように、日本人たり、武《ぶ》士《し》道《どう》の信者たる先生を、驚《おどろ》かしたのである。その時の怪《かい》訝《が》と同情とを一つにしたような心もちは、いまだに忘《わす》れようとしても、忘れることができない。――先生は、今もちょうど、そのくらいな程度で、逆に、この婦人の泣かないのを、不思議に思っているのである。
が、第一の発見ののちには、まもなく、第二の発見が次いで起った。――
ちょうど、主客の話題が、なくなった青年の追《つい》懐《かい》から、その日常生活のディテイルに及《およ》んで、さらにまた、もとの追懐へもどろうとしていた時である。何かの拍《ひよう》子《し》で、朝《ちよう》鮮《せん》うちわが、先生の手をすべって、ぱたりと寄木《モザイク》の床《ゆか》の上に落ちた。会話はむろん寸《すん》刻《こく》の断続を許さないほど、切《せつ》迫《ぱく》しているわけではない。そこで、先生は、半身を椅《い》子《す》から前へのり出しながら、下を向いて、床の方へ手をのばした。うちわは、小さなテエブルの下に――上ぐつにかくれた婦人の白たびのそばに落ちている。
その時、先生の眼には、偶《ぐう》然《ぜん》、婦人の膝《ひざ》が見えた。膝の上には、手巾《はんけち》を持った手が、のっている。もちろんこれだけでは、発見でもなんでもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激《げき》動《どう》をしいておさえようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂《さ》かないばかりにかたく、握《にぎ》っているのに気がついた。そうして、最後に皺《しわ》くちゃになった絹《きぬ》の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微《び》風《ふう》にでもふかれているように、ぬいとりのあるふちを動かしているのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。
うちわを拾って、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があった。見てはならないものを見たという敬《けい》虔《けん》な心もちと、そういう心もちの意識から来るある満足とが、多少の芝居気で、誇《こ》張《ちよう》されたような、はなはだ、複雑な表情である。
――いや、ご心《しん》痛《つう》は、私のような子供のない者にも、よくわかります。
先生は、まぶしいものでも見るように、やや、おおぎょうに、頸《くび》をそらせながら、低い感情のこもった声でこう言った。
――ありがとうございます。が、いまさら、なんと申しましても、かえらないことでございますから……
婦人は、心もち頭を下げた。晴《はれ》々《ばれ》とした顔には、依《い》然《ぜん》として、ゆたかな微笑が、たたえている。
× × ×
それから、二時間ののちである。先生は、湯にはいって、晩《ばん》飯《めし》をすませて、食後の桜実《さくらんぼう》をつまんで、それからまた、楽々と、ヴェランダの籐《とう》椅《い》子《す》に腰《こし》をおろした。
長い夏の夕《ゆう》暮《ぐ》れは、いつまでも薄《うす》明りをただよわせて、ガラス戸をあけはなした広いヴェランダは、まだ容易に、暮れそうなけはいもない。先生は、そのかすかな光の中で、さっきから、左の膝《ひざ》を右の膝の上へのせて、頭を籐椅子の背《せ》にもたせながら、ぼんやり岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんの赤いふさをながめている。例のストリントベルクも、手にはとってみたものの、まだ一ページも読まないらしい。それも、そのはずである。――先生の頭の中は、西山篤《あつ》子《こ》夫人のけなげなふるまいで、いまだにいっぱいになっていた。
先生は、飯を食いながら、奥《おく》さんに、その一部始《し》終《じゆう》を、話して聞かせた。そうして、それを、日本の女の武《ぶ》士《し》道《どう》だと賞《しよう》讃《さん》した。日本と日本人とを愛する奥さんが、この話を聞いて、同情しないはずはない。先生は、奥さんに熱心なきき手を見いだしたことを、満足に思った。奥さんと、さっきの婦人と、それから岐阜ちょうちんと――今では、この三つが、ある倫《りん》理《り》的な背景を持って、先生の意識に浮んでくる。
先生はどのくらい、長い間、こういう幸福な回想にふけっていたか、わからない。が、そのうちに、ふとある雑誌から、寄《き》稿《こう》を依《い》頼《らい》されていたことに気がついた。その雑誌では「現代の青年に与《あた》うる書」という題で、四《し》方《ほう》の大《たい》家《か》に、一般道徳上の意見を徴《ちよう》していたのである。今日の事件を材料にして、さっそく、所《しよ》感《かん》を書いて送ることにしよう。――こう思って、先生は、ちょいと頭をかいた。
かいた手は、本を持っていた手である。先生は、今まで閑《かん》却《きやく》されていた本に、気がついて、さっき入れておいた名《めい》刺《し》を印《しるし》に、読みかけたページを、開いてみた。ちょうど、その時、小《こ》間《ま》使《づかい》が来て、頭の上の岐《ぎ》阜《ふ》ちょうちんをともしたので、細かい活字も、さほど読むのに煩《わずら》わしくない。先生は、別に読む気もなく、漫《まん》然《ぜん》と眼をページの上に落した。ストリントベルクは言う。――
――私の若い時《じ》分《ぶん》、人はハイベルク夫人《*》の、たぶんパリから出たものらしい、手《はん》巾《けち》のことを話した。それは、顔は微《び》笑《しよう》していながら、手は手巾を二つに裂《さ》くという、二重の演技であった。それを我《われ》らは今、臭味《メツツヘン*》と名づける。……
先生は、本を膝《ひざ》の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤《あつ》子《こ》という名刺が、またページのまん中にのっている。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。そうかといって、奥《おく》さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平《へい》穏《おん》な調和を破《やぶ》ろうとする、えたいの知れないなにものかである。ストリントベルクの指《し》弾《だん》した演出法と、実《じつ》践《せん》道徳上の問題とは、もちろんちがう。が、今、読んだところからうけとった暗《あん》示《じ》の中には、先生の、湯上がりののんびりした心もちを、みだそうとするなにものかがある。武《ぶ》士《し》道《どう》と、そうしてその型《マニイル》と――
先生は、不快そうに二、三度頭を振って、それからまた上《うわ》眼《め》を使いながら、じっと、秋《あき》草《くさ》を描いた岐阜ちょうちんの明るい灯《ひ》をながめ始めた。……
(大正五年九月)
煙草《たばこ》と悪《あく》魔《ま》
煙草《たばこ》は、本来、日本になかった植物である。では、いつごろ、舶《はく》載《さい》されたかというと、記録によって、年代が一《いつ》致《ち》しない。あるいは、慶《けい》長《ちよう》年間と書いてあったり、あるいは天《てん》文《ぶん》年間と書いてあったりする。が、慶長十年ごろには、すでに栽《さい》培《ばい》が、諸《しよ》方《ほう》に行われていたらしい。それが文《ぶん》禄《ろく》年間になると、「きかぬものたばこの法《はつ》度《と》銭《ぜに》法《はつ》度《と*》玉のみこえにげんたくの医者」という落《らく》首《しゆ》ができたほど、一《いつ》般《ぱん》に喫《きつ》煙《えん》が流行するようになった。――
そこで、この煙草は、誰《だれ》の手で舶《はく》載《さい》されたかというと、歴史家なら誰でも、ポルトガル人とか、スペイン人とか答える。が、それは必ずしも唯《ゆい》一《いつ》の答ではない。そのほかにまだ、もう一つ、伝説としての答が残っている。それによると、煙草は、悪《あく》魔《ま》がどこからか持って来たのだそうである。そうして、その悪魔なるものは、天《てん》主《しゆ》教《きよう》の伴《ば》天《て》連《れん*》か(おそらくは、フランシス上《しよう》人《にん*》)がはるばる日本へつれて来たのだそうである。
こう言うと、切《きり》支《し》丹《たん》宗《しゆう》門《もん》の信者は、彼らのパアテル《*》を誣《し》いるものとして、自分をとがめようとするかもしれない。が、自分に言わせると、これはどうも、事実らしく思われる。なぜと言えば、南《なん》蛮《ばん》の神が渡《と》来《らい》すると同時に、南《なん》蛮《ばん》の悪魔が渡来するということは――西洋の善《ぜん》が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されるということは、至《し》極《ごく》、当然なことだからである。
しかし、その悪《あく》魔《ま》が実際、煙草《たばこ》を持って来たかどうか、それは、自分にも、保《ほ》証《しよう》することができない。もっとアナトオル・フランスの書いたもの《*》によると、悪魔は木《もく》犀《せい》草《そう》の花で、ある坊《ぼう》さんを誘《ゆう》惑《わく》しようとしたことがあるそうである。してみると、煙草を、日本へ持って来たということも、まんざらうそだとばかりは、言えないであろう。よしまたそれがうそにしても、そのうそはまた、ある意味で、存外、ほんとうに近いことがあるかもしれない。――自分は、こういう考えで、煙草の渡《と》来《らい》に関する伝説を、ここに書いてみることにした。
× × ×
天《てん》文《ぶん》十八年、悪魔は、フランシス・ザヴィエルに伴《つ》いている伊《い》留《る》満《まん*》の一人に化けて、長い海《かい》路《ろ》をつつがなく、日本へやって来た。この伊留満の一人に化けられたというのは、正《しよう》物《ぶつ*》のその男が、阿《あ》媽《まか》港《は*》かどこかへ上陸しているうちに、一《いつ》行《こう》をのせた黒《くろ》船《ふね》が、それとも知らずに出《しゆつ》帆《ぱん》をしてしまったからである。そこで、それまで、帆《ほ》桁《げた》へ尻《しつ》尾《ぽ》をまきつけて、さかさまにぶらさがりながら、ひそかに船中のようすをうかがっていた悪魔は、さっそく姿《すがた》をその男に変えて、朝夕フランシス上人に、給仕することになった。もちろん、ドクトル・ファウストを尋《たず》ねる時には、赤い外《がい》套《とう》を着たりっぱな騎《き》士《し》に化けるくらいな先生のことだから、こんな芸当なぞは、なんでもない。
ところが、日本へ来てみると、西洋にいた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、だいぶ、ようすがちがう。第一、あの旅行記によると、国じゅう至《いた》るところ、黄《おう》金《ごん》がみちみちているようであるが、どこを見まわしても、そんなけしきはない。これなら、ちょいと磔《くるす》を爪《つめ》でこすって、金にすれば、それでもかなり、誘《ゆう》惑《わく》ができそうである。それから、日本人は、真《しん》珠《じゆ》か何かの力で、起《き》死《し》回《かい》生《せい》の法を、心得ているそうであるが、それもマルコ・ポオロのうそらしい。うそなら、方《ほう》々《ぼう》の井《い》戸《ど》へつばを吐《は》いて、悪い病さえはやらせれば、たいていの人間は、苦しまぎれに当《とう》来《らい》の波《は》羅《ら》葦《い》僧《そ*》なぞは、忘れてしまう。――フランシス上人のあとへついて、殊《しよ》勝《しよう》らしく、そこいらを見物して歩きながら、悪《あく》魔《ま》は、ひそかにこんなことを考えて、ひとり会《かい》心《しん》の微《び》笑《しよう》をもらしていた。
が、たった一つ、ここに困《こま》ったことがある。こればかりは、さすがの悪魔が、どうするわけにもいかない。というのは、まだフランシス・ザヴィエルが、日本へ来たばかりで、伝道も盛んにならなければ、切《きり》支《し》丹《たん》の信者もできないので、かんじんの誘《ゆう》惑《わく》する相手が、一人もいないということである。これには、いくら悪魔でも、少からず、当《とう》惑《わく》した。第一、さしあたり退《たい》屈《くつ》な時間を、どうして暮《く》らしていいか、わからない。――
そこで、悪魔は、いろいろ思案した末に、まず園芸でもやって、暇《ひま》をつぶそうと考えた。それには、西洋を出る時から、種々雑多な植物の種を、耳の穴の中へ入れて持っている。地面は、近所の畠《はたけ》でも借りれば、造《ぞう》作《さ》はない。その上、フランシス上人さえ、それは至《し》極《ごく》よかろうと、賛《さん》成《せい》した。もちろん、上人は、自分についている伊《い》留《る》満《まん》の一人が、西洋の薬用植物か何かを、日本へ移植しようとしているのだと、思ったのである。
悪魔は、さっそく、鋤《すき》鍬《くわ》を借りて来て、路《みち》ばたの畠《はたけ》を、根気よく、耕《たがや》しはじめた。
ちょうど水《すい》蒸《じよう》気《き》の多い春の始めで、たなびいた霞《かすみ》の底からは、遠くの寺の鐘《かね》が、ぼうんと、眠そうに、響《ひび》いて来る。その鐘の音《ね》が、いかにもまたのどかで、聞きなれた西洋の寺の鐘のように、いやにさえて、かんと脳《のう》天《てん》へひびくところがない。――が、こういう太平な風《ふう》物《ぶつ》の中にいたのでは、さぞ悪《あく》魔《ま》も、気が楽だろうと思うと、けっしてそうではない。
彼《かれ》は、一度この梵《ぼん》鐘《しよう》の音を聞くと、聖保羅《さんぼおろ*》の寺の鐘《かね》を聞いたよりも、いっそう、不快そうに、顔をしかめて、むしょうに畑を打ち始めた。なぜかというと、こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖《あい》々《あい》たる日光に浴していると、不思議に、心がゆるんでくる。善《ぜん》をしようという気にもならないと同時に、悪を行おうという気にもならずにしまう。これでは、せっかく、海を渡《わた》って、日本人を誘《ゆう》惑《わく》に来たかいがない。――掌《てのひら》に肉《ま》豆《め》がないので《*》、イワンの妹にしかられたほど、労働のいやな悪魔が、こんなに精を出して、鍬《くわ》を使う気になったのは、全く、このややもすれば、体《からだ》にはいかかる道徳的の眠けを払《はら》おうとして、いっしょうけんめいになったせいである。
悪魔は、とうとう、数日のうちに、畑打ちをおわって、耳の中の種を、その畦《うね》にまいた。
× × ×
それから、幾《いく》月《つき》かたつうちに、悪魔のまいた種は、芽を出し、茎《くき》をのばして、その年の夏の末には、幅《はば》の広い緑の葉が、もう残りなく、畑の土を隠《かく》してしまった。が、その植物の名を知っている者は、一人もない。フランシス上人が、尋《たず》ねてさえ、悪魔は、にやにや笑うばかりで、なんとも答えずに、黙《だま》っている。
そのうちに、この植物は、茎の先に、簇《そう》々《そう》として、花をつけた。漏《じよう》斗《ご》のような形をした、うす紫《むらさき》の花である。悪魔には、この花のさいたのが、ほねをおっただけに、たいへんうれしいらしい。そこで、彼は、朝夕の勤《ごん》行《ぎよう》をすましてしまうと、いつでも、その畑へ来て、余念なく培《ばい》養《よう》につとめていた。
すると、ある日のこと、(それは、フランシス上《しよう》人《にん》が伝《でん》道《どう》のために、数日間、旅行をした、そのるす中のできごとである)一人の牛《うし》商《あき》人《うど》が、一頭の黄《あめ》牛《うし》をひいて、その畑のそばを通りかかった。見ると、紫《むらさき》の花のむらがった畑の柵《さく》の中で、黒い僧《そう》服《ふく》に、つばの広い帽《ぼう》子《し》をかぶった、南《なん》蛮《ばん》の伊《い》留《る》満《まん》が、しきりに葉へついた虫をとっている。牛商人は、その花があまり、珍《めずら》しいので、思わず足を止めながら、笠《かさ》をぬいで、ていねいにその伊留満へ声をかけた。
――もし、お上《しよう》人《にん》様《さま》、その花はなんでございます。
伊留満は、ふりむいた。鼻の低い、眼の小さな、いかにも、人のよさそうな紅《こう》毛《もう》である。
――これですか。
――さようでございます。
紅毛は、畑の柵《さく》によりかかりながら、頭をふった。そうして、なれない日本語で言った。
――この名だけは、おきのどくですが、人には教えられません。
――はてな、すると、フランシス様が、言ってはならないとでも、おっしゃったのでございますか。
――いいえ、そうではありません。
――では、一つお教えくださいませんか、手前も、近ごろはフランシス様のご教化をうけて、この通りご宗《しゆう》旨《し》に、帰《き》依《え》しておりますのですから。
牛商人は、得意そうに自分の胸《むね》を指さした。見ると、なるほど、小さな真《しん》鍮《ちゆう》の十字架《か》が、日に輝《かがや》きながら、頸《くび》にかかっている。すると、それがまぶしかったのか、伊《い》留《る》満《まん》はちょいと顔をしかめて、下を見たが、すぐにまた、前よりも、人なつこい調子で、冗《じよう》談《だん》ともほんとうともつかずに、こんなことを言った。
――それでも、いけませんよ。これは、私の国のおきてで、人に話してはならないことになっているのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本人は賢《かしこ》いから、きっとあたります。あたったら、この畑にはえているものを、みんな、あなたにあげましょう。
牛商人は、伊留満が、自分をからかっているとでも思ったのであろう。彼は、日にやけた顔に、微《び》笑《しよう》を浮べながら、わざとおおぎょうに、小《こ》首《くび》を傾《かたむ》けた。
――なんでございますかな。どうも、早《さつ》急《きゆう》には、わかりかねますが。
――なに今日《きよう》でなくっても、いいのです。三日の間に、よく考えておいでなさい。誰《だれ》かに聞いて来ても、かまいません。あたったら、これをみんなあげます。このほかにも、珍《ちん》陀《だ》の酒《さけ*》をあげましょう。それとも、波《は》羅《ら》葦《い》僧《そ》垤《て》利《れ》阿《あ》利《る*》の絵をあげますか。
牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚《おどろ》いたらしい。
――では、あたらなかったら、どういたしましょう。
伊留満は、帽《ぼう》子《し》をあみだに、かぶり直しながら、手を振《ふ》って、笑った。牛商人が、いささか、意外に思ったくらい、鋭《するど》い、鴉《からす》のような声で、笑ったのである。
――あたらなかったら、私があなたに、何かもらいましょう。賭《かけ》です。あたるか、あたらないかの賭です。あたったら、これをみんな、あなたにあげますから。
こう言ううちに紅《こう》毛《もう》は、いつかまた、人なつこい声に、帰っていた。
――よろしゅうございます。では、私も奮《ふん》発《ぱつ》して、なんでもあなたのおっしゃるものを、差《さし》上《あ》げましょう。
――なんでもくれますか、その牛でも。
――これでよろしければ、今でも差上げます。
牛商人は、笑いながら、黄《あめ》牛《うし》の額《ひたい》を、なでた。彼《かれ》はどこまでも、これを、人のいい伊《い》留《る》満《まん》の、冗《じよう》談《だん》だと思っているらしい。
――その代わり、私が勝ったら、その花のさく草をいただきますよ。
――よろしい。よろしい。では、確かに約《やく》束《そく》しましたね。
――確かに、御《お》約《やく》定《じよう》いたしました。御《おん》主《あるじ》エス・クリストの御《み》名《な》にお誓《ちか》い申しまして。
伊留満は、これを聞くと、小さな眼を輝《かがや》かせて、二、三度、満足そうに、鼻を鳴《な》らした。それから、左手を腰《こし》にあてて、少しそり身になりながらも、右手で紫《むらさき》の花にさわってみて、
――では、あたらなかったら――あなたの体と魂《たましい》とを、もらいますよ。
こう言って、紅毛は、大きく右の手をまわしながら、帽《ぼう》子《し》をぬいだ。もじゃもじゃした髪《かみ》の毛の中には、山《や》羊《ぎ》のような角《つの》が二本、はえている。牛商人は思わず顔の色を変えて、持っていた笠《かさ》を、地に落した。日のかげったせいであろう、畑の花や葉が、一時に、あざやかな光を失った。牛さえ、何におびえたのか、角を低くしながら、地《じ》鳴《な》りのような声で、うなっている。……
――私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を言えないものをさして、あなたは、誓ったでしょう。忘《わす》れてはいけません。期《き》限《げん》は、三日ですから。では、さようなら。
人をばかにしたような、いんぎんな調子で、こう言いながら、悪《あく》魔《ま》は、わざと、牛商人にていねいなおじぎをした。
× × ×
牛商人は、うっかり、悪魔の手にのったのを、後《こう》悔《かい》した。このままでいけば、結《けつ》局《きよく》、あの「じゃぼ《*》」につかまって、体も魂《たましい》も、「亡《ほろ》ぶことなき猛《みよう》火《か》」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗《しゆう》旨《し》をすてて、波《は》宇《う》寸《す》低《ち》茂《も*》をうけたかいが、なくなってしまう。
が、御《おん》主《あるじ》エス・クリストの名で、誓《ちか》った以上、一度した約《やく》束《そく》は、破《やぶ》ることができない。もちろん、フランシス上《しよう》人《にん》でも、いたのなら、またどうにかなるところだが、あいにく、それも今はるすである。そこで、彼は三日の間、夜の眼もねずに、悪魔の巧《たく》みの裏《うら》をかく手だてを考えた。それには、どうしても、あの植物の名を、知るよりほかに、しかたがない。しかし、フランシス上人でさえ、知らない名を、どこに知っているものが、いるであろう。……
牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩《ばん》に、またあの黄《あめ》牛《うし》をひっぱって、そっと、伊《い》留《る》満《まん》の住んでいる家のそばへ、忍《しの》んで行った。家は畑とならんで、往《おう》来《らい》に向かっている。行ってみると、もう伊留満も寝しずまったとみえて、窓《まど》からもる灯《あかり》さえない。ちょうど、月はあるが、ぼんやりと曇《くも》った夜で、ひっそりした畑のそこここには、あの紫《むらさき》の花が、心ぼそくうす暗い中に、ほのめいている。元《がん》来《らい》、牛商人は、おぼつかないながら、一《いつ》策《さく》を思いついて、やっとここまで、忍んで来たのであるが、このしんとしたけしきを見ると、なんとなく恐《おそろ》しくなって、いっそ、このまま、帰ってしまおうかという気にもなった。ことに、あの戸の後ろでは、山羊《やぎ》のような角《つの》のある先生が、因《いん》辺《へ》留《る》濃《の*》の夢《ゆめ》でも見ているのだと思うと、せっかく、はりつめた勇気も、いくじなく、くじけてしまう。が、体と魂《たましい》を、「じゃぼ」の手に、渡《わた》すことを思えば、もちろん、弱い音なぞを吐《は》いているべき場合ではない。
そこで、牛商人は、毘《び》留《る》善《ぜん》麻《ま》利《り》耶《や*》の加《か》護《ご》を願《ねが》いながら、思い切って、あらかじめ、もくろんでおいた計画を、実行した。計画というのは、別でもない。――ひいて来た黄《あめ》牛《うし》の綱《はづな》を解《と》いて、尻《しり》をつよく打ちながら、例の畑へ勢《いきお》いよく追いこんでやったのである。
牛は、打たれた尻《しり》の痛《いた》さに、はね上がりながら、柵《さく》を破《やぶ》って、畑をふみ荒《あ》らした。角を家の板《は》目《め》につきかけたことも、一度や二度ではない。その上、蹄《ひづめ》の音と、鳴く声とは、うすい夜の霧《きり》をうごかして、ものものしく、あたりに響《ひび》き渡《わた》った。すると、窓《まど》の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊《い》留《る》満《まん》に化けた悪《あく》魔《ま》には、相《そう》違《い》ない。気のせいか、頭の角は、夜《よ》目《め》ながら、はっきり見えた。
――この畜《ちく》生《しよう》、なんだって、己《おれ》の煙草《たばこ》畑を荒らすのだ。
悪魔は、手をふりながら、ねむそうな声で、こうどなった。寝入りばなのじゃまをされたのが、よくよくしゃくにさわったらしい。
が、畑の後ろへかくれて、ようすをうかがっていた牛商人の耳へは、悪魔のこの語が、泥《で》烏《う》須《す*》の声のように、響いた。……
――この畜《ちく》生《しよう》、なんだって、己の煙草畑を荒らすのだ。
× × ×
それから、先のことは、あらゆるこの種類の話のように、至《し》極《ごく》、円満におわっている。すなわち、牛商人は、首《しゆ》尾《び》よく、煙草《たばこ》という名を、言いあてて、悪《あく》魔《ま》に鼻をあかさせた。そうして、その畑にはえている煙草を、ことごとく自分のものにした。というような次《し》第《だい》である。
が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思っている。なぜと言えば、悪魔は、牛商人の肉体と霊《れい》魂《こん》とを、自分のものにすることはできなかったが、その代わりに、煙草は、あまねく日本全国に、普《ふ》及《きゆう》させることができた。してみると牛商人の救《きゆう》抜《ばつ》が、一面堕《だ》落《らく》を伴っているように、悪魔の失敗も、一面成功を伴《ともな》っていはしないだろうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘《ゆう》惑《わく》に勝ったと思う時にも、人間は存外、負けていることがありはしないだろうか。
それからついでに、悪魔のなり行きを、簡《かん》単《たん》に、書いておこう。彼《かれ》は、フランシス上人が、帰って来るとともに、神《しん》聖《せい》なペンタグラマ《*》の威《い》力《りよく》によって、とうとう、その土地から、おい払《はら》われた。が、その後も、やはり伊《い》留《る》満《まん》のなりをして、方々をさまよって、歩いたものらしい。ある記録によると、彼は、南《なん》蛮《ばん》寺《じ*》の建《こん》立《りゆう》前後、京都にも、しばしば出《しゆつ》没《ぼつ》したそうである。松《まつ》永《なが》弾《だん》正《じよう*》を翻《ほん》弄《ろう》した例の果《か》心《しん》居《こ》士《じ*》という男は、この悪魔だという説もあるが、これはラフカディオ・へルン先生が書いているから、ここには、ご免《めん》をこうむることにしよう。それから、豊《とよ》臣《とみ》徳川両氏の外教禁《きん》遏《あつ》に会って、始めのうちこそ、まだ、姿《すがた》を現わしていたが、とうとう、しまいには、まったく日本にいなくなった。記録は、だいたいここまでしか、悪魔の消《しよう》息《そく》を語っていない。ただ、明治以後、ふたたび、渡来した彼の動《どう》静《せい》を知ることができないのは、かえすがえすも、遺《い》憾《いかん》である。
(大正五年十月二十一日)
煙《き》 管《せる》
一
加州石《いし》 川《かわ》 郡《ごおり》 金《かな》 沢《ざわ》 城《じよう》 の 城《じよう》 主《しゆ》、前田斉《なり》広《なりひろ*》は、参《さん》覲《きん》中《ちゆう》、江《え》戸《ど》城の本《ほん》丸《まる》へ登《と》城《じよう》するごとに、必ず愛用の煙《き》管《せる》を持って行った。当時有名な煙管商、住《すみ》吉《よし》屋《や》七《しち》兵《べ》衛《え》の手に成った、金《きん》無《む》垢《く》地《じ》に、剣《けん》梅《うめ》鉢《ばち》の紋《もん》ぢらしという、数《す》寄《き》を凝《こ》らした煙管である。
前田家は、幕《ばく》府《ふ》の制度によると、五《ご》世《せ》、加《か》賀《が》守《のかみ》綱《つな》紀《のり》以来、大《おお》廊《ろう》下《か》詰《づめ*》で、席《せき》次《じ》は、世《よ》々《よ》尾《び》紀《き》水《すい》三《さん》家《け》の次を占《し》めている。もちろん、裕《ゆう》福《ふく》なことも、当時の大《だい》小《しよう》名《みよう》の中で、肩《かた》を比べる者は、ほとんど、一人もない。だから、その当主たる斉《なり》広《ひろ》が、金《きん》無《む》垢《く》の煙《き》管《せる》を持つということは、むしろ身分相当の装《そう》飾《しよく》品《ひん》を持つのにすぎないのである。
しかし斉広は、その煙管を持っていることとはなはだ、得意に感じていた。もっとも断っておくが、彼《かれ》の得意はけっして、煙管そのものを、どんな意味ででも、愛《あい》翫《がん》したからではない。彼はそういう煙管を日常口にしうる彼自身の勢力が、他の諸《しよ》侯《こう》に比して、優《ゆう》越《えつ》なゆえんをよろこんだのである。つまり、彼は、加《か》州《しゆう》百万石《ごく》が金無垢の煙管になって、どこへでも、持って行けるのが、得意だった――と言ってもさしつかえない。
そういう次《し》第《だい》だから、斉《なり》広《ひろ》は、登《と》城《じよう》している間じゅう、ほとんどその煙《き》管《せる》を離《はな》したことがない。人と話をしている時はもちろん、ひとりでいる時でも、彼はそれを懐《かい》中《ちゆう》から出して、鷹《おう》揚《よう》に口にくわえながら、長《なが》崎《さき》煙草《たばこ》か何かのにおいの高い煙《けむり》を、必ず悠《ゆう》々《ゆう》とくゆらせている。
もちろんこの得意な心もちは、煙管なり、それによって代表される百万石《ごく》なりを、人に見せびらかすほど、増《ぞう》長《ちよう》慢《まん》な性《せい》質《しつ》のものではなかったかもしれない。が、彼自身が見せびらかさないまでも、殿《でん》中《ちゆう》の注意は、明らかに、その煙管に集注されている観《かん》があった。そうして、その集注されているということを意識するのが斉広にとっては、かなり愉《ゆ》快《かい》な感じを与《あた》えた。――現に彼には、同席の大《だい》名《みよう》に、あまりお煙管がみごとだからちょいと拝《はい》見《けん》させていただきたいと、言われたあとでは、のみなれた煙草の煙までがいつもより、いっそう快《こころよ》く、舌《した》を刺《し》戟《げき》するような気さえ、したのである。
二
斉《なり》広《ひろ》の持っている、金《きん》無《む》垢《むく》の煙《き》管《せる》に、眼をおどろかした連中の中で、最もそれを話題にすることを好んだのはいわゆる、お坊《ぼう》主《ず》の階級である。彼らはよるとさわると、鼻をつき合わせて、この「加《か》賀《が》の煙管」を材料に得意の饒《じよう》舌《ぜつ》を闘《たたか》わせた。
「さすがは、大名道具だて」
「同じ道具でも、ああいう物は、つぶしがききやす」
「質《しち》に置いたら、何両貸すことかの」
「貴公じゃあるまいし、誰《だれ》が質になんぞ、置くものか」
ざっと、こんな調子である。
するとある日、彼《かれ》らの五、六人が、まるい頭をならべて、一服やりながら、例のごとく煙《き》管《せる》のうわさをしていると、そこへ、偶《ぐう》然《ぜん》、御《お》数《すき》寄《き》屋《や》坊《ぼう》主《ず*》の河《こ》内《うち》山《やま》宗《そう》俊《しゆん》が、やって来た。――後《こう》年《ねん》「天《てん》保《ぽう》六《ろつ》歌《か》仙《せん》」の中の、主なrole《*》をつとめることになった男である。
「ふんまた煙管か」
河内山は、一座の坊《ぼう》主《ず》を、尻《しり》眼《め》にかけて、そらうそぶいた。
「彫《ほり》といい、地《じ》金《がね》といい、みごとな物さ。銀の煙管さえ持たぬこちとらには見るも眼の毒《どく》……」
調子にのって弁《べん》じていた了《りよう》哲《てつ》という坊主が、ふと気がついてみると、宗俊は、いつの間にか彼の煙草《たばこ》入れをひきよせて、その中から煙草をつめては、悠《ゆう》然《ぜん》と煙《けむり》を輪にふいている。
「おい、おい、それは貴公の煙草入れじゃないぜ」
「いいってことよ」
宗俊は、了哲の方を見むきもせずに、また煙草をつめた。そうして、それを吸《す》ってしまうと、なまあくびを一つしながら、煙草入れをそこへほうり出して、
「ええ、悪い煙草だ。煙管ごのみが、聞いてあきれるぜ」
了哲はあわてて、煙草入れをしまった。
「なに、金《きん》無《む》垢《く》の煙管なら、それでも、ちょいとのめようというものさ」
「ふんまた煙《き》管《せる》か」とくり返して、「そんなに金《きん》無《む》垢《く》がありがたけりゃなぜお煙管拝《はい》領《りよう》と出かけねえんだ」
「お煙管拝領?」
「そうよ」
さすがに、了《りよう》哲《てつ》も相手の傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》なのにあきれたらしい。
「いくらお前、わしが欲《よく》ばりでも、……せめて、銀ででもあれば、格別さ。……とにかく、金無垢だぜ。あの煙管は」
「知れたことよ、金無垢ならばこそ、もらうんだ。真《しん》鍮《ちゆう》の駄《だ》六《ろく*》を拝領に出るやつがどこにある」
「だが、そいつは少し恐《おそ》れだて」
了哲はきれいにそった頭を一つたたいて恐《きよう》縮《しゆく》したような身ぶりをした。
「手前がもらわざ、己《おれ》がもらう。いいか、あとでうらやましがるなよ」
河内山はこう言って、煙管をはたきながら肩《かた》をゆすって、せせら笑った。
三
それからまもなくのことである。
斉《なり》広《ひろ》がいつものように、殿《でん》中《ちゆう》の一《ひと》間《ま》で煙草《たばこ》をくゆらせていると、西《せい》王《おう》母《ぼ》を描いた金《きん》襖《ぶすま》が、静かにあいて、黒手の黄《き》八《はち》丈《じよう》に、黒の紋《もん》附《つき》の羽《は》織《おり》を着た坊《ぼう》主《ず》が一人、うやうやしく、彼《かれ》の前へはって出た。顔を上げずにいるので、誰《だれ》だかまだわからない。――斉《なり》広《ひろ》は、何か用ができたのかと思ったので、煙《き》管《せる》をはたきながら、寛《かん》濶《かつ》に声をかけた。
「何用じゃ」
「ええ、宗《そう》俊《しゆん》お願《ねが》いがございまする」
河《こ》内《うち》山《やま》はこう言って、ちょいとことばを切った。それから、次の語を言っているうちに、だんだん頭《かしら》を上げて、しまいには、じっと斉《なり》広《ひろ》の顔を見つめだした。こういう種類の人間のみが持っている、一種のあいきょうをたたえながら、蛇《へび》が物をねらうような眼で見つめたのである。
「別《べつ》儀《ぎ》でもございませんが、そのお手もとにございまするお煙管を、手前、拝《はい》領《りよう》いたしとうございまする」
斉広は思わず手にしていた煙管を見た。その視線が、煙管へ落ちたのと、河内山が追いかけるように、語を次いだのとが、ほとんど同時である。
「いかがでございましょう。拝領仰《おお》せつけられましょうか」
宗俊の語のうちにあるものは懇《こん》請《せい》の情ばかりではない、お坊《ぼう》主《ず》という階級があらゆる大《だい》名《みよう》に対して持っている、威《い》嚇《かく》の意もこもっている。煩《はん》雑《ざつ》な典《てん》故《こ》をとうとんだ、殿《でん》中《ちゆう》では、天下の侯《こう》伯《はく》も、お坊主の指導に従《したが》わなければならない。斉広には一方にそういう弱みがあった。それからまた一方には体面上卑《ひ》吝《りん》の名を取りたくないという心もちがある。しかも、彼にとって金《きん》無《む》垢《く》の煙管そのものは、けっして得がたい品ではない。――この二つの動機が一つになった時、彼の手はおのずから、その煙管を、河内山の前へさし出した。
「おお、とらす。持ってまいれ」
「ありがとうございまする」
宗《そう》俊《しゆん》は、金《きん》無《む》垢《く》の煙《き》管《せる》をうけとると、うやうやしくおしいただいて、そこそこ、また西《せい》王《おう》母《ぼ》の襖《ふすま》の向こうへ、ひき下がった。すると、ひき下がる拍《ひよう》子《し》に、後ろから袖《そで》を引いたものがある。ふりかえると、そこには、了《りよう》哲《てつ》が、うすいもの《* 》ある顔をにやつかせながら、彼《かれ》の掌《てのひら》の上にある金無垢の煙管をものほしそうに、指さしていた。
「こう、見や」
河《こ》内《うち》山《やま》は、小声でこう言って、煙管のがん首《くび》を、了哲の鼻の先へ、持っていった。
「とうとう、せしめたな」
「だから、言わねえことじゃねえ。今になって、うらやましがったって、あとの祭だ」
「今度は、私《わし》も拝《はい》領《りよう》と出かけよう」
「へん、ごかってになせえましだ」
河内山は、ちょいと煙管の目方をひいて見て、それから、襖《ふすま》ごしに斉《なり》広《ひろ》の方を一《いち》瞥《べつ》しながら、また、肩《かた》をゆすってせせら笑った。
四
では、煙管をまき上げられた斉広のほうは、不《ふ》快《かい》に感じたかというと、必ずしもそうではない。それは、彼が、下《げ》城《じよう》をする際に、いつになくきげんのよさそうな顔をしているので、供《とも》の侍たちが、不思議に思ったというのでも、知れるのである。
彼は、むしろ、宗《そう》俊《しゆん》に煙《き》管《せる》をやったことに、一種の満足を感じていた。あるいは、煙管を持っている時よりも、その満足の度は、大きかったかもしれない。しかしこれは至《し》極《ごく》当然な話である。なぜと言えば、彼が煙管を得意にするのは、前にも断ったように、煙管そのものを、愛《あい》翫《がん》するからではない。実は、煙管の形をしている、百万石《ごく》が自《じ》慢《まん》なのである。だから、彼のこの虚《きよ》栄《えい》心《しん》は、金《きん》無《む》垢《く》の煙管を愛用することによって、満足させられると同じように、その煙管を惜《お》しげもなく、他人にくれてやることによって、さらによく満足させられるわけではあるまいか。たまたまそれを河《こ》内《うち》山《やま》にやる際に、いくぶん外部の事情に、しいられたようなところがあったにしても、彼の満足が、そのために、少しでも損ぜられることなぞはないのである。
そこで、斉《なり》広《ひろ》は、本《ほん》郷《ごう》の屋《や》敷《しき*》へ帰ると、近《きん》習《じゆ》の侍《さむらい》に向かって、愉《ゆ》快《かい》そうにこう言った。
「煙管は宗俊の坊《ぼう》主《ず》にとらせたぞよ」
五
これを聞いた家《か》中《ちゆう》の者は、斉《なり》広《ひろ》の宏《こう》量《りよう》なのに驚《おどろ》いた。しかし御《ご》用《よう》部《べ》屋《や》の山《やま》崎《ざき》勘《かん》左《ざ》衛《え》門《もん》、御《お》納《なん》戸《ど》掛《がかり》の岩《いわ》田《た》内蔵《くら》之《の》助《すけ》、御《お》勝《かつ》手《て》方《がた》の上《かみ》木《き》九《く》郎《ろ》右《う》衛《え》門《もん》――この三人の役人だけは思わず、眉《まゆ》をひそめたのである。
加《か》州《しゆう》一《いつ》藩《ぱん》の経《けい》済《ざい》にとっては、もちろん、金《きん》無《む》垢《く》の煙《き》管《せる》一本の費《ひ》用《よう》くらいは、なんでもない。が、賀《が》節《せつ》朔《さく》望《ぼう*》二十八日の登《と》城《じよう》のたびに、必ず、それを一本ずつ、坊主たちにとられるとなると、容易ならない支出である。あるいは、そのために運《うん》上《じよう*》を増して煙《き》管《せる》の入《いり》目《め》を償うようなことが、起らないともかぎらない。そうなっては、たいへんである。――三人の忠《ちゆう》義《ぎ》の侍《さむらい》は、皆《みな》言い合わせたように、それを未《み》然《ぜん》におそれた。
そこで、彼《かれ》らは、さっそく評《ひよう》議《ぎ》を開いて、善《ぜん》後《ご》策《さく》を講《こう》じることになった。善後策といっても、もちろん一つしかない。――それは、煙管の地《じ》金《がね》を全然変《へん》更《こう》して、坊《ぼう》主《ず》どものほしがらないようなものにすることである。が、その地金を何にするかという問題になると、岩田と上《かみ》木《き》とで、互《たが》いに意見を異《こと》にした。
岩田は君公の体面上銀より卑《いや》しい金属を用いるのは、異《い》なものであると言う。上木はまた、すでに坊《ぼう》主《ず》どもの欲《よく》心《しん》を防《ふせ》ごうというのなら、真《しん》鍮《ちゆう》を用いるのに越《こ》したことはない。いまさら体面を、顧《こ》慮《りよ》するごときは、姑《こ》息《そく》の見《けん》であると言う。――二人は、おのおの、自説を固《こ》守《しゆ》して、極《きよく》力《りよく》論《ろん》駁《ぱく》を試《こころ》みた。
すると、老《ろう》功《こう》な山崎が、両説とも、至《し》極《ごく》道理がある。が、まず、一応、銀を用いてみて、それでも坊主どもがほしがるようだったら、その後に、真《しん》鍮《ちゆう》を用いても、おそくはあるまい。という折《せつ》衷《ちゆう》説《せつ》を持出した。これには二人とも、もちろん、異議のあるべきはずがない。そこで評《ひよう》議《ぎ》は、とうとう、また、住《すみ》吉《よし》屋《や》七《しち》兵《べ》衛《え》に命じて銀の煙管を造《つく》らせることに、一決した。
六
斉《なり》広《ひろ》は、爾《じ》来《らい》登《と》城《じよう》するごとに、銀の煙《き》管《せる》を持って行った。やはり、剣《けん》梅《うめ》鉢《ばち》の紋《もん》ぢらしの、精《せい》巧《こう》をきわめた煙《き》管《せる》である。
彼が新調の煙管を、以前ほど、得意にしていないことはもちろんである。第一人と話をしている時でさえめったに手にとらない。手にとってもすぐにまたしまってしまう。同じ長《なが》崎《さき》煙草《たばこ》が、金《きん》無《む》垢《く》の煙管でのんだ時ほど、うまくないからである。が、煙管の地《じ》金《がね》の変わったことはひとり斉広の上に影《えい》響《きよう》したばかりではない。三人の忠《ちゆう》臣《しん》が予想した通り、坊《ぼう》主《ず》どもの上にも、影響した。しかし、この影響は結果において彼らの予想を、全然裏切ってしまうことに、なったのである。なぜと言えば坊主どもは、金が銀に変わったのを見ると、今まで金無垢なるがゆえに、遠《えん》慮《りよ》をしていた連中さえ、先を争ってお煙管拝《はい》領《りよう》に出かけて来た。しかも、金無垢の煙管にさえ、愛《あい》着《じやく》のなかった斉《なり》広《ひろ》が、銀の煙管をくれてやるのに、未《み》練《れん》のあるべきはずはない。彼は、請《こ》われるままに、惜《お》しげもなく煙管を投げてやった。しまいには、登《と》城《じよう》した時に、煙管をやるのか、煙管をやるために登城するのか、彼自身にも判《はん》別《べつ》ができなくなった――少くともなったくらいである。
これを聞いた、山崎、岩田、上《かみ》木《き》の三人は、また、愁《しゆう》眉《び》をあつめて評《ひよう》議《ぎ》した。こうなっては、いよいよ、上木の献《けん》策《さく》通り、真《しん》鍮《ちゆう》の煙《き》管《せる》を造《つく》らせるよりほかに、しかたがない。そこで、また、例のごとく、命が住《すみ》吉《よし》屋《や》七《しち》兵《べ》衛《え》へ下ろうとした――ちょうど、その時である。一人の近《きん》習《じゆ》が斉広の旨《むね》を伝えに、彼らの所へやって来た。
「御《ご》前《ぜん》は銀の煙管を持つと坊主どもの所《しよ》望《もう》がうるさい。以来従《じゆう》前《ぜん》通り、金の煙管にいたせと仰《おお》せられまする」
三人は、唖《あ》然《ぜん》として、なすところを知らなかった。
七
河《こ》内《うち》山《やま》宗《そう》俊《しゆん》は、ほかの坊《ぼう》主《ず》どもが先を争って、斉《なり》広《ひろ》の銀の煙《き》管《せる》をもらいにゆくのを、かたわら痛《いた》くながめていた。ことに、了《りよう》哲《てつ》が、八《はつ》朔《さく》の登《と》城《じよう*》の節か何かに、一本もらって、うれしがっていた時なぞは、持ちまえのかん高い声で、頭から「ばかめ」をあびせかけたほどである。彼《かれ》はけっして銀の煙《き》管《せる》がほしくないわけではない。が、ほかの坊主どもといっしょになって、同じ煙管の跡《あと》を、追いかけて歩くには、あまりに、「金《きん》箔《ぱく》」がつきすぎている。この高《こう》慢《まん》と欲とのせめぎあうのに苦しめられた彼は、今に見ろ、己《おれ》が鼻をあかしてやるから――という気で、何《なに》気《げ》ない体《てい》を装《よそお》いながら、油《ゆ》断《だん》なく、斉広の煙管へ眼をつけていた。
すると、ある日、彼は、斉広が、以前のような金《きん》無《む》垢《く》の煙管で悠《ゆう》々《ゆう》と煙草《たばこ》をくゆらしているのに、気がついた。が、坊主仲間では誰《だれ》ももらいに行くものがないらしい。そこで彼はおりから通りかかった了哲をよびとめて、そっと顋《あご》で斉広の方を教えながらささやいた。
「また金無垢になったじゃねえか」
了哲はそれを聞くと、あきれたような顔をして、宗俊を見た。
「いいかげんに欲ばるがいい。銀の煙管でさえ、あの通りねだられるのに、なんで金無垢の煙管なんぞ持って来るものか」
「じゃあれはなんだ」
「真《しん》鍮《ちゆう》だろうさ」
宗《そう》俊《しゆん》は肩《かた》をゆすった。あたりをはばかって笑い声を立てなかったのである。
「よし、真《しん》鍮《ちゆう》なら、真鍮にしておけ。己《おれ》が拝《はい》領《りよう》と出てやるから」
「どうして、また、金だと言うのだい」了《りよう》哲《てつ》の自信は、怪《あや》しくなったらしい。
「手前たちのおもわくは先《さき》様《さま》ご承《しよう》知《ち》でよ。真鍮と見せて、実は金《きん》無《む》垢《く》を持って来たんだ。第一、百万石《ごく》の殿《との》様《さま》が、真鍮の煙《き》管《せる》を黙《だま》って持っているはずがねえ」
宗俊は、口早にこう言って、ひとり、斉《なり》広《ひろ》の方へやって行った。あっけにとられた了哲を、例の西《せい》王《おう》母《ぼ》の金《きん》襖《ぶすま》の前に残しながら。
それから、半《はん》時《とき》ばかりのちである。了哲は、また畳《たたみ》廊下で、河《こ》内《うち》山《やま》に出っくわした。
「どうしたい、宗俊、一《いつ》件《けん》は」
「一件たなんだ」
了哲は、下《した》脣《くちびる》をつき出しながら、じろじろ宗俊の顔を見て、
「とぼけなさんな。煙管のことさ」
「うん、煙管か。煙管なら、手前にくれてやらあ」
河内山はふところから、黄いろく光る煙管を出したかと思うと、了哲の顔へほうりつけて、足早に行ってしまった。
了哲は、ぶつけられた所をさすりながら、こぼしこぼし、下に落ちた煙管を手にとった。見ると剣《けん》梅《うめ》鉢《ばち》の紋《もん》ぢらしの数《す》寄《き》を凝《こ》らした、――真《しん》鍮《ちゆう》の煙《き》管《せる》である。彼はいまいましそうに、それを、また、畳《たたみ》の上へほうり出すと、白たびの足を上げて、この上をおおぎょうに踏《ふ》みつけるまねをした。……
八
それ以来、坊《ぼう》主《ず》が斉《なり》広《ひろ》の煙《き》管《せる》をねだることは、ぱったり跡《あと》を絶《た》ってしまった。なぜといえば、斉広の持っている煙管は真鍮だということが、宗《そう》俊《しゆん》と了《りよう》哲《てつ》とによって、一同に証《しよう》明《めい》されたからである。
そこで、一時、真鍮の煙管を金と偽《いつわ》って、斉広を欺《あざむ》いた三人の忠《ちゆう》臣《しん》は、評《ひよう》議《ぎ》の末《すえ》ふたたび、住《すみ》吉《よし》屋《や》七《しち》兵《べ》衛《え》に命じて、金《きん》無《む》垢《く》の煙管を調《ちよう》製《せい》させた。前に河内山にとられたのと寸《すん》分《ぶん》もちがわない、剣《けん》梅《うめ》鉢《ばち》の紋《もん》ぢらしの煙管である。――斉広はこの煙管を持って内《ない》心《しん》、坊主どもにねだられることを予期しながら、揚《よう》々《よう》として登《と》城《じよう》した。
すると、誰《だれ》一人、拝《はい》領《りよう》を願《ねが》いに出るものがない。前に同じ金無垢の煙管を二本までねだった河《こ》内《うち》山《やま》さえ、じろりと一《いち》瞥《べつ》を与えたなり、小《こ》腰《ごし》をかがめて行ってしまった。同席の大《だい》名《みよう》は、もちろん拝《はい》見《けん》したいともなんとも言わずに、黙《だま》っている。斉広には、それが不思議であった。
いや、不思議だったばかりではない。しまいには、それがなんとなく不安になった。そこで彼はまた河内山の来かかったのを見た時に、今度はこっちから声をかけた。
「宗俊、煙管をとらそうか」
「いえ、ありがとうございますが、手前はもう、以前にいただいておりまする」
宗俊は、斉広が翻《ほん》弄《ろう》するとでも思ったのであろう。ていねいな語のうちに、鋭《するど》い口《こう》気《き》をこめてこう言った。
斉《なり》広《ひろ》はこれを聞くと、不快そうに、顔をくもらせた。長《なが》崎《さき》煙草《たばこ》の味も今では、口にあわない。急に今まで感じていた、百万石《ごく》の勢力が、この金《きん》無《む》垢《く》の煙《き》管《せる》の先から出る煙《けむり》のごとく、たわいなく消えてゆくような気がしたからである。……
古《こ》老《ろう》の伝えるところによると、前田家では斉広以後、斉《なり》泰《やす*》も、慶《よし》寧《やす*》も、煙管は皆《みな》真《しん》鍮《ちゆう》のものを用いたそうである、ことによると、これは、金無垢の煙管に懲《こ》りた斉広が、子《し》孫《そん》に遺《い》誡《かい》でもたれた結果かもしれない。
(大正五年十月)
MENSURA ZOILI《*》
僕《ぼく》は、船のサルーンのまん中に、テーブルをへだてて、妙《みよう》な男と向かいあっている。
――待《ま》ってくれ給《たま》え。その船のサルーンというのも、実はあまり確かでない。部《へ》屋《や》のぐあいとか窓《まど》の外の海とかいうもので、やっとそういう推《すい》定《てい》を下《くだ》してはみたものの、ことによると、もっと平《へい》凡《ぼん》な場所かもしれないという懸《け》念《ねん》がある。いや、やっぱり船のサルーンかな。それでなくては、こう揺《ゆ》れるはずがない。僕は木《きの》下《した》杢《もく》太《た》郎《ろう*》君ではないから、何サンチメートルくらいな割合で、揺れるのかわからないが、揺れることは、確かに揺れる。うそだと思ったら、窓の外の水平線が、上がったり下がったりするのを、見るがいい。空が曇《くも》っているから、海は煮《にえ》切《き》らない緑《ろく》青《しよう》色《いろ》を、どこまでも拡《ひろ》げているが、それと灰色の雲との一つになる所が、窓わくの円形を、さっきからいろいろな弦《げん》に、切って見せている。その中に、空と同じ色をしたものが、ふわふわ飛んでいるのは、おおかた鴎《かもめ》か何かであろう。
さて、僕の向かいあっている妙な男だが、こいつは、鼻の先へ度の強そうな近眼鏡をかけて、退《たい》屈《くつ》らしく新聞を読んでいる。口《くち》髭《ひげ》の濃《こ》い、顋《あご》の四角な、どこかで見たことのあるような男だが、どうしても思い出せない。頭の毛を、長くもじゃもじゃはやしているところでは、どうも作家とか画家とかいう階級の一人ではないかと思われる。が、それにしては着ている茶の背《せ》広《びろ》が、なんとなくつりあわない。僕は、しばらく、この男の方をぬすみ見ながら、小さなさかずきへついだ、甘い西《せい》洋《よう》酒《しゆ》を、少しずつなめていた。これは、こっちも退《たい》屈《くつ》している際だから、話しかけたいのはやまやまだが、相手の男の人《にん》相《そう》が、はなはだ、ぶあいそうに見えたので、しばらく躊《ちゆう》躇《ちよ》していたのである。
すると、角《かく》顋《あご》の先生は、足をうんと踏《ふ》みのばしながら、なまあくびをかみつぶすような声で、「ああ、退屈だ」と言った。それから、近眼鏡の下から、僕の顔をちょいと見て、また、新聞を読みだした。僕はその時、いよいよ、こいつにはどこかで、会ったことがあるのにちがいないと思った。
サルーンには、二人のほかに誰《だれ》もいない。
しばらくして、この妙《みよう》な男は、また、「ああ、退屈だ」と言った。そうして、今度は、新聞をテーブルの上へほうり出して、ぼんやり僕の酒を飲むのをながめている。そこで僕は言った。
「どうです。一杯《ぱい》おつきあいになりませんか」
「いや、ありがとう」彼は、飲むとも飲まないとも言わずに、ちょいと頭をさげて、「どうも、実際退屈しますな。これじゃ向こうへ着くまでに、退《たい》屈《くつ》死《じに》に死んじまうかもしれません」
僕は同意した。
「まだ、ZOILIA《*》の土を踏《ふ》むには、一週間以上かかりましょう。私は、もう、船が飽《あ》き飽きしました」
「ゾイリア――ですか」
「さよう、ゾイリア共和国です」
「ゾイリアという国がありますか」
「これは、驚《おどろ》いた。ゾイリアをご存じないとは、意外ですな。いったいどこへおいでになるおつもりかしりませんが、この船がゾイリアの港へ寄《き》港《こう》するのは、よほど前からの慣《かん》例《れい》ですぜ」
僕は当《とう》惑《わく》した。考えてみると、なんのためにこの船に乗っているのか、それさえもわからない。まして、ゾイリアなどという名まえは、いまだかつて、一度も聞いたことのない名まえである。
「そうですか」
「そうですとも。ゾイリアと言えば、昔から、有名な国です。ご承《しよう》知《ち》でしょうが、ホメロスに猛《もう》烈《れつ》な悪《わる》口《くち》をあびせかけたのも、やっぱりこの国の学者です。今でも確かゾイリアの首府には、この人のりっぱな頌《しよう》徳《とく》表《ひよう》が立っているはずですよ」
僕《ぼく》は、角《かく》顋《あご》の見かけによらない博《はく》学《がく》に、驚いた。
「すると、よほど古い国とみえますな」
「ええ、古いです。なんでも神話によると、始めは蛙《かえる》ばかり住んでいた国だそうですが、パラス・アテネ《*》がそれを皆《みな》、人間にしてやったのだそうです。だから、ゾイリア人の声は、蛙に似ていると言う人もいますが、これはあまり当《あて》になりません。記録に現われたのでは、ホメロスを退《たい》《治じ》した豪《ごう》傑《けつ》が、いちばん早いようです」
「では今でも相当な文明国ですか」
「もちろんです、ことに首府にあるゾイリア大学は、一国の学者の粋《すい》を抜《ぬ》いている点で、世界のどの大学にも負けないでしょう。現に、最近、教《きよう》授《じゆ》連が考《こう》案《あん》した、価《か》値《ち》測《そく》定《てい》器《き》のごときは、近代の驚《きよう》異《い》だという評《ひよう》判《ばん》です。もっとも、これは、ゾイリアで出るゾイリア日報のうけ売りですが」
「価値測定器というのはなんです」
「文字通り、価値を測定する器械です。もっとも主として、小説とか絵とかの価値を、測定するのに、使用されるようですが」
「どんな価値を」
「主として、芸術的な価値をです。むろんまだその他の価値も、測定できますがね。ゾイリアでは、それを祖先の名《めい》誉《よ》のためにMENSURA ZOILIと名をつけたそうです」
「あなたは、そいつをご覧《らん》になったことがあるのですか」
「いいえ。ゾイリア日報のさし絵で、見ただけです。なに、見たところは、普通の計量器と、ちっとも変わりはしません。あの人が上がる所に、本なりカンヴァスなりを、のせればよいのです。額《がく》縁《ぶち》や製本も、少しは測定上じゃまになるそうですが、そういう誤《ご》差《さ》はあとで訂《てい》正《せい》するから、だいじょうぶです」
「それはとにかく、便利なものですね」
「非常に便利です。いわゆる文明の利器ですな」角《かく》顋《あご》は、ポケットから朝日を一本出して、口へくわえながら、「こういうものができると、羊《よう》頭《とう》を掲《かか》げて狗《く》肉《にく》を売るような作家や画家は、屏《へい》息《そく》せざるを得なくなります。なにしろ、価値の大小が、明《めい》白《はく》に数字で現われるのですからな。ことにゾイリア国民が、さっそくこれを税《ぜい》関《かん》にすえつけたということは、最も賢《けん》明《めい》な処《しよ》置《ち》だと思いますよ」
「それは、またなぜでしょう」
「外国から輸入される書物や絵を、いちいちこれにかけて見て、無価値なものは、絶対に輸入を禁止するためです。このごろでは、日本、イギリス、ドイツ、オオストリイ、フランス、ロシア、イタリイ、スペイン、アメリカ、スウエエデン、ノオルウエエなどから来る作品が、皆《みな》、一度はかけられるそうですが、どうも日本のものは、あまり成績がよくないようですよ。我《われ》々《われ》のひいきめでは、日本には相当な作家や画家がいそうに見えますがな」
こんなことを話しているうちに、サルーンの扉《ドア》があいて、黒《くろん》坊《ぼ》のボイがはいって来た。藍《あい》色《いろ》の夏服を着た、敏《びん》捷《しよう》そうなやつである、ボイは、黙《だま》って、脇《わき》にかかえていた新聞の一束《たば》を、テーブルの上へのせる。そうして、すぐまた、扉《ドア》の向こうへ消えてしまう。
そのあとで角《かく》顋《あご》は、朝日の灰を落しながら、新聞の一枚をとりあげた。楔《せつ》形《けい》文《も》字《じ》のような、妙《みよう》な字が行列した、いわゆるゾイリア日報なるものである。僕は、この不思議な文字を読みうる点で、ふたたびこの男の博学なのに驚いた。
「あいかわらず、メンスラ・ゾイリのことばかり出ていますよ」彼は、新聞を読み読み、こんなことを言った。「ここに、先月日本で発表された小説の価値が、表になって出ていますぜ。測定技師の記《き》要《よう》まで、附いて」
「久《く》米《め*》という男のは、あるでしょうか」
僕は、友だちのことが気になるから、きいてみた。
「久米ですか。『銀貨《*》』という小説でしょう。ありますよ」
「どうです。価値は」
「だめですな。なにしろこの創作の動機が、人生のくだらぬ発見だそうですからな。そしておまけに、早く大人《おとな》がって通《つう》がりそうなトーンが、作全体を低級な卑《いや》しいものにしていると書いてあります」
僕《ぼく》は、不快になった。
「おきのどくですな」角《かく》顋《あご》は冷笑した。「あなたの『煙《き》管《せる*》』もありますぜ」
「なんと書いてあります」
「やっぱり似たようなものですな。常識以外に何もないそうですよ」
「へええ」
「またこうも書いてあります。――この作者早くも濫《らん》作《さく》をなすか。……」
「おやおや」
僕は、不快なのを通り越《こ》して、少しばかばかしくなった。
「いや、あなたがたばかりでなく、どの作家や画家でも、測定器にかかっちゃ、往《おう》生《じよう》です。とてもまやかしはききませんからな。いくら自分で、自分の作品をほめ上げたって、現に価値が測定器に現われるのだから、だめです。むろん、仲間同志のほめ合いにしても、やっぱり評価表の事実を、変えるわけにはいきません。まあせいぜい、ほねをおって、実際価値があるようなものを書くのですな」
「しかし、その測定器の評価が、確かだということは、どうしてきめるのです」
「それは、傑《けつ》作《さく》をのせてみれば、わかります。モオパッサンの『女の一生』でも載《の》せてみれば、すぐ針《はり》が最高価値をさしますからな」
「それだけですか」
「それだけです」
僕は、黙《だま》ってしまった。少々、角《かく》顋《あご》の頭が、没《ぼつ》論《ろん》理《り》にでき上がっているような気がしたからである。が、また、別な疑問が起《おこ》ってきた。
「じゃ、ゾイリアの芸術家の作ったものも、やはり測定器にかけられるのでしょうか」
「それは、ゾイリアの法律が禁じています」
「なぜでしょう」
「なぜといって、ゾイリア国民が承《しよう》知《ち》しないのだから、しかたがありません。ゾイリアは昔《むかし》から共和国ですからな。Vox Populi,vox Dei《*》を文字通りに遵《じゆん》奉《ぽう》する国ですからな」
角顋は、こう言って、妙《みよう》に微《び》笑《しよう》した。「もっとも、彼《かれ》らの作《さく》物《もつ》を測定器へのせたら、針が最低価値をさしたという風《ふう》説《せつ》もありますがな。もしそうだとすれば、彼らはディレンマにかかっているわけです。測定器の正確を否《ひ》定《てい》するか、彼らの作物の価値を否定するか、どっちにしても、ありがたい話じゃありません。――が、これは風説ですよ」
こう言う拍《ひよう》子《し》に、船が大きく揺《ゆ》れたので、角顋はあっと言う間に椅《い》子《す》から、ころがり落ちた。するとその上へテーブルが倒れる。酒の罎《びん》とさかずきとがひっくりかえる。新聞が落ちる。窓《まど》の外の水平線が、どこかへ見えなくなる。皿《さら》のわれる音、椅《い》子《す》の倒れる音、それから、波の船《せん》腹《ぷく》へぶつかる音、――衝《しよう》突《とつ》だ。衝突だ。それとも海底噴《ふん》火《か》山《ざん》の爆《ばく》発《はつ》かな。
気がついてみると、僕は、書《しよ》斎《さい》のロッキング・チェアに腰《こし》をかけてSt.John Ervine《*》のThe Critics 《*》という脚《きやく》本《ほん》を読みながら、昼寝をしていたのである。船だと思ったのは、おおかた椅子の揺れるせいであろう。
角《かく》顋《あご》は、久米のような気もするし、久米でないような気もする。これは、いまだにわからない。
(大正五年十一月二十三日)
運
目のあらい簾《すだれ》が、入口にぶらさげてあるので、往《おう》来《らい》のようすは仕事場にいても、よく見えた。清《きよ》水《みず》へ通う往来は、さっきから、人通りが絶《た》えない。金鼓《こんく》をかけた法師《ほうし》が通る。壺《つぼ》装《そう》束《ぞく》をした女が通る。その後ろからは、めずらしく、黄牛《あめうし》にひかせた網代車《あじろぐるま》が通った。それが皆《みな》、まばらな蒲《かま》の簾の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。その中で変わらないのは、午後の日が暖かに春を炙《あぶ》っている、狭《せま》い往来の土の色ばかりである。
その人の往来を、仕事場の中から、なんということもなくながめていた、一人の青《あお》侍《ざむらい》が、この時、ふと思いついたように、主《あるじ》の陶器師《すえものつくり》へ声をかけた。
「あいかわらず、観《かん》音《のん》様《さま》へ参《さん》詣《けい》する人が多いようだね」
「さようでございます」
陶器師《すえものつくり》は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷《めい》惑《わく》そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんなところのある老人で、顔つきにもようすにも、悪気らしいものは、みじんもない。着ているのは、麻《あさ》の帷子《かたびら》であろう。それになえた揉烏帽子《もみえぼし》をかけたのが、このごろ評判の高い鳥《と》羽《ば》僧《そう》正《じよう*》の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、日参《につさん》でもしてみようか。こう、うだつが上がらなくちゃ、やりきれない」
「ご冗《じよう》談《だん》で」
「なに、これでよい運が授《さず》かるとなれば、私だって、信《しん》心《じん》をするよ。日参《につさん》をしたって、参《さん》籠《ろう》をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ」
青《あお》侍《ざむらい》は、年《とし》相《そう》応《おう》な上《うわ》調《ちよう》子《し》なもの言いをして、下《した》脣《くちびる》をなめながら、きょろきょろ、仕事場の中を見まわした。――竹やぶを後ろにして建てた、わらぶきのあばら家《や》だから、中は鼻がつかえるほど狭《せま》い。が、簾《すだれ》の外の往《おう》来《らい》が、目まぐるしく動くのに引《ひき》換《か》えて、ここでは、甕《かめ》でも瓶《へい》子《へいし》でも、皆赭《あか》ちゃけた土器《かわらけ》の肌《はだ》をのどかな春風に吹《ふ》かせながら、百年も昔《むかし》からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の棟《むね》ばかりは、燕《つばめ》さえも巣を食わないらしい。……
翁《おきな》が返事をしないので、青侍はまた語を継《つ》いだ。
「おじいさんなんぞも、この年までには、ずいぶんいろんなことを見たり聞いたりしたろうね。どうたい。観《かん》音《のん》様《さま》は、ほんとうに運を授《さず》けてくださるものかね」
「さようでございます。昔はおりおり、そんなこともあったように聞いておりますが」
「どんなことがあったね」
「どんなことといって、そう一口には申せませんがな。――しかし、あなたがたは、そんな話をお聞きなすっても、格別おもしろくもございますまい」
「かわいそうに、これでも少しは信《しん》心《じん》気《ぎ》のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日《あす》にも――」
「信心気でございますかな。商売気でございますかな」
翁《おきな》は、眦《じり》に皺《しわ》をよせて笑った。こねていた土が、壺《つぼ》の形になったので、やっと気が楽になったという調子である。
「神《しん》仏《ぶつ》のお考えなどと申すものは、あなたがたくらいのお年では、なかなかわからないものでございますよ」
「それはわからなかろうさ。わからないから、おじいさんに聞くんだあね」
「いやさ、神仏が運をお授《さず》けになる、ならないということじゃございません。そのお授けになる運のよしあしということが」
「だって、授けてもらえばわかるじゃないか。よい運だとか、悪い運だとか」
「それが、どうもあなたがたには、ちとおわかりになりかねましょうて」
「私には運のよしあしより、そういう理《り》屈《くつ》のほうがわからなそうだね」
日が傾きだしたのであろう。さっきから見ると、往《おう》来《らい》へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭《かしら》に桶《おけ》をのせた物売りの女が二人、簾《すだれ》の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿へのみやげらしい桜《さくら》の枝を持っていた。
「今、西《にし》の市《いち*》で、績麻《うみそ》の廛《みせ》を出している女なぞもそうでございますが」
「だから、私はさっきから、おじいさんの話を聞きたがっているじゃないか」
二人は、しばらくの間、黙《だま》った。青《あお》侍《ざむらい》は、爪《つめ》で頤《あご》のひげを抜《ぬ》きながら、ぼんやり往来をながめている。貝がらのように白く光るのは、おおかたさっきの桜の花がこぼれたのであろう。
「話さないかね。おじいさん」
やがて、眠そうな声で、青《あお》侍《ざむらい》が言った。
「では、ご免《めん》をこうむって、一つお話し申しましょうか。また、いつもの《むかし》昔話《ばなし》でございますが」
こう前置きをして、陶器師《すえものつくり》の翁《おきな》は、おもむろに話しだした。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠《ゆう》長《ちよう》な口ぶりで話しだしたのである。
「もうかれこれ三、四十年前になりましょう。あの女がまだ娘《むすめ》の時分に、この清《きよ》水《みず》の観《かん》音《のん》様《さま》へ、願《がん》をかけたことがございました。どうぞ一生安楽に暮《く》らせますようにと申しましてな。なにしろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死《しに》別《わか》れたあとで、それこそ日々の暮《くら》しにもさしつかえるような身の上でございましたから、そういう願《がん》をかけたのも、まんざら無理はございません。
「死んだおふくろと申すのは、もと白《はく》朱《しゆ》社《しや*》の巫子《みこ》で、ひとしきりはたいそうはやったものでございますが、狐《きつね》を使うといううわさをたてられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わずみずみずしい、大がらなばあさんでございましてな、なにさま、あのようすじゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話のほうを伺《うかが》いたいね」
「いや、これはごあいさつで。――そのおふくろが死んだので、あとは娘一人のやせ腕《うで》でございますから、いくらかせいでも、暮しの立てられようがございませぬ。そこで、あの容貌《きりよう》のよい、利《り》発《はつ》者《もの》の娘が、おこもりをするにも、襤褸《つづれ》ゆえに、あたりへ気がひけるという始末でございました」
「へえ。そんなにいい女だったかい」
「さようでございます。気だてといい、顔といい、手前の欲《よく》目《め》では、まずどこへ出しても、恥《はずか》しくないと思いましたがな」
「惜《お》しいことに、昔さね」
青《あお》侍《ざむらい》は、色のさめた藍《あい》の水《すいかん》の袖《そで》口《ぐち》を、ちょいとひっぱりながら、こんなことを言う。翁《おきな》は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。後ろの竹やぶでは、しきりに鶯《うぐいす》がないている。
「それが、三《さん》七《しち》日《にち》の間、おこもりをして、今日《きよう》が満願という夜に、ふと夢《ゆめ》を見ました。なんでも、同じお堂に詣《まい》っていた連中の中に、背《せ》むしの坊主《ぼうず》が一人いて、そいつが何か陀《だ》羅《ら》尼《に》のようなものを、くどくど誦《ず》していたそうでございます。おおかたそれが、気になったせいでございましょう。うとうと眠けがさしてきても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁《えん》の下で蚯蚓《みみず》でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間のことばになって、『ここから帰る路《みち》で、そなたに言いよる男がある。その男の言うことを聞くがよい』と、こう聞えると申すのでございますな。
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀《だ》羅《ら》尼《に》三《ざん》昧《まい》でございます。が、なんと言っているのだか、いくら耳を澄《す》ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向こうを見ると、常《じよう》夜《や》灯《とう》のぼんやりした明りで、観音様のお顔が見えました。日ごろ拝《おが》みなれた、端厳微妙《たんごんみみよう》のお顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の言うことを聞くがよい』と、誰《だれ》だか言うような気がしたそうでございます。そこで、娘《むすめ》はそれを観《かん》音《のん》様《さま》のお告《つ》げだと、いちずに思いこんでしまいましたげな」
「はてね」
「さて、夜がふけてから、お寺を出て、だらだら下りの坂《さか》路《みち》を、五《ご》条《じよう》へくだろうとしますと、安の定《じよう》後ろから、男が一人抱《だ》きつきました。ちょうど、春さきの暖かい晩《ばん》でございましたが、あいにくの暗《やみ》で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、なおのことわかりませぬ。ただ、ふり離《はな》そうとする拍子に、手が向こうの口《くち》髭《ひげ》にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名をきかれても、名を申しませぬ。所をきかれても、所を申しませぬ。ただ、言うことを聞けと言うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、わめこうにも、まるで人通りのない時分なのだから、しかたがございませぬ」
「ははあ、それから」
「それから、とうとう八《や》坂《さか》寺《でら》の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺のことなら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい」
翁《おきな》は、また眦《めじり》に皺《しわ》をよせて、笑った。往《おう》来《らい》の影は、いよいよ長くなったらしい。吹《ふ》くともなく渡《わた》る風のせいであろう。そこここに散っている桜《さくら》の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗《じよう》談《だん》言っちゃいけない」
青《あお》侍《ざむらい》は、思い出したように、頤《あご》のひげを抜《ぬ》き抜き、こう言った。
「それで、もうおしまいかい」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ」翁《おきな》は、やはり壺《つぼ》をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのもおおかた宿世《すくせ》の縁《えん》だろうから、とてものことに夫婦《みようと》になってくれと申したそうでございます」
「なるほど」
「夢《ゆめ》のお告《つ》げでもないならともかく、娘《むすめ》は、観《かん》音《のん》様《さま》のおおぼしめし通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首《かぶり》を竪《たて》にふりました。さて形《かた》ばかりの盃《さかずき》事《ごと》をすませると、まず、当《とう》座《ざ》の用にと言って、塔《とう》の奥《おく》から出して来てくれたのが綾《あや》を十疋《ぴき》に絹《きぬ》を十疋でございます。――このまねばかりは、いくらあなたにもちとむずかしいかも存じませんな」
青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯《うぐいす》も、もうなかなくなった。
「やがて、男は、日の暮《く》れに帰ると言って、娘一人を留《る》守《す》居《い》に、あわただしくどこかへ出て参りました。その後のさびしさは、また一倍でございます。いくら利《り》発《はつ》者《もの》でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、何《なに》気《げ》なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。綾《あや》や絹はおろかなこと、珠《しゆ》玉《ぎよく》とか砂《さ》金《きん》とかいう金《かね》目《め》の物が、皮《かわ》匣《ご》に幾《いく》つともなく、並べてあるというじゃございませぬか。これにはああいう気《き》丈《じよう》な娘でも、思わず肚《と》胸《むね》をついたそうでございます。
「物にもよりますが、こんな財物《たから》を持っているからは、もう疑いはございませぬ。引剥《ひはぎ》でなければ、物《もの》盗《と》りでございます。――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、こわいのも手伝って、なんだか片《かた》時《とき》もこうしては、いられないような気になりました。なにさま、悪く放《ほう》免《めん*》の手にでもかかろうものなら、どんな目にあうかもしれませぬ。
「そこで、逃《に》げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうといたしますと、誰《だれ》だか、皮匣《かわご》の後ろから、しわがれた声で呼びとめました。なにしろ、人はいないとばかり思っていたところでございますから、驚《おどろ》いたの驚かないのじゃございませぬ。見ると、人間とも海鼠《なまこ》ともつかないようなものが、砂《さ》金《きん》の袋《ふくろ》を積んだ中に、まるくなって、すわっております。――これが目くされの、皺《しわ》だらけの、腰《こし》のまがった、背《せ》の低い、六十ばかりの尼《あま》法師《ほうし》でございました。しかも娘のおもわくを知ってか知らないでか、膝《ひざ》で前へのり出しながら、見かけによらない猫《ねこ》撫声《なでごえ》で、初《しよ》対《たい》面《めん》のあいさつをするのでございます。
「こっちは、それどころの騒《さわ》ぎではないのでございますが、なにしろ逃げようという巧《たくら》みをけどられなどしてはたいへんだと思ったので、しぶしぶ皮匣《かわご》の上に肘《ひじ》をつきながら心にもない世間話をはじめました。どうも話のようすでは、このばあさんが、今まであの男の炊女《みずし》か何かつとめていたらしいのでございます。が、男の商売のことになると、妙《みよう》に一口も話しませぬ。それさえ、娘のほうでは、気になるのに、その尼がまた、少し耳が遠いときているものでございますから、一つ話を何度となく、言い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣きだしたいほど、気がじれます。――
「そんなことがかれこれ午《ひる》までつづいたでございましょう。すると、やれ清《きよ》水《みず》の桜《さくら》が咲いたの、やれ五《ご》条《じよう》の橋《はし》普《ぶ》請《しん》ができたのと言っているうちに、幸い、年の加減か、このばあさんが、そろそろ居睡《いねむ》りをはじめました。一つは娘《むすめ》の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。そこで、娘は、おりを計《はか》って、相手の寝息をうかがいながら、そっと入口まではって行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案《あん》配《ばい》に、人のけはいはございませぬ。――
「ここでそのまま、逃《に》げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと今朝《けさ》もらった綾《あや》と絹《きぬ》とのことを思い出したので、それを取りに、またそっと皮匣《かわご》の所まで帰って参りました。すると、どうした拍子《ひようし》か、砂《さ》金《きん》の袋《ふくろ》にけつまずいて、思わず手がばあさんの膝《ひざ》にさわったから、たまりませぬ。尼《あま》のやつめ驚《おどろ》いて眼をさますと、しばらくはただ、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべりたてます。切れ切れに、ことばが耳へはいるところでは、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目にあうかもしれないと、こう言っているらしいのでございますな。が、こっちもここにいては命にかかわるという時でございますから、もとよりそんなことに耳をかすわけがございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合いがはじまりました。
「打つ。蹴《け》る。砂金の袋をなげつける。――梁《はり》に巣を食った鼠《ねずみ》も、落ちそうな騒《さわ》ぎでございます。それに、こうなると、死物狂《しにものぐる》いだけに、ばあさんの力も、ばかにはできませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。まもなく、娘が、綾と絹とを小《こ》脇《わき》にかかえて、息を切らしながら、塔《とう》の戸口をこっそり、忍《しの》び出た時には、尼《あま》はもう、口もきかないようになっておりました。これは、あとで聞いたのでございますが、死《し》骸《がい》は、鼻から血を少し出して、頭から砂《さ》金《きん》を浴びせられたまま、薄《うす》暗いすみの方に、あおむけになって、臥《ね》ていたそうでございます。
「こっちは八《や》坂《さか》寺《でら》を出ると、町《まち》家《や》の多い所は、さすがに気がさしたとみえて、七条京《きよう》極《ごく》辺の知人《しりびと》の家をたずねました。この知人というのも、その日暮《ぐら》しの貧《びん》乏《ぼう》人《にん》なのでございますが、絹《きぬ》の一疋《ぴき》もやったからでございましょう、湯を沸《わ》かすやら、粥《かゆ》を煮《に》るやら、いろいろ経営《*》してくれたそうでございます。そこで、娘《むすめ》もようやく、ほっと一息つくことができました」
「私も、やっと安心したよ」
青《あお》侍《ざむらい》は、帯にはさんでいた扇《おうぎ》をぬいて、簾《すだれ》の外の夕日をながめながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白《はく》丁《ちよう*》が五、六人、騒《そう》々《ぞう》しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往《おう》来《らい》に残っている。……
「じゃそれでいよいよけりがついたというわけだね」
「ところが」翁《おきな》はおおぎょうに首を振《ふ》って、「その知《しり》人《びと》の家におりますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、ののしり合う声が聞えます。なにしろ、後ろ暗い体ですから、娘はまた、胸《むね》を痛《いた》めました。あの物《もの》盗《と》りが仕返ししにでも来たものか、さもなければ、検非違使《けびいし》の追手《おつて》がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、粥《かゆ》をすすってもいられませぬ」
「なるほど」
「そこで、戸のすきまから、そっと外をのぞいて見ると、見物の男《なん》女《によ》の中を、放《ほう》免《めん》が五、六人、それに看督長《かどのおさ*》が一人ついて、ものものしげに通りました。それからその連中にかこまれて、縄《なわ》にかかった男が一人、所々裂《さ》けた水《すい》干《かん》を着て烏帽子《えぼし》もかぶらず、ひかれて参ります。どうも物《もの》盗《と》りを捕《とら》えて、これからその住家《すみか》へ、実《じつ》録《ろく*》をしに行くところらしいのでございますな。
「しかも、その物盗りというのが、昨夜《ゆうべ》、五条の坂で言いよった、あの男だそうじゃございませぬか。娘はそれを見ると、なぜか、涙がこみ上げてきたそうでございます。これは、当人が、手前に話しました。――何も、その男にほれていたの、どうしたのというわけじゃない。が、その縄目をうけた姿《すがた》を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう言うのでございますがな。まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」
「何とね」
「観《かん》音《のん》様《さま》へ願《がん》をかけるのも考えものだとな」
「だが、おじいさん。その女は、それから、どうにかやっていけるようになったのだろう」
「どうにかどころか、今では何不自由ない身の上になっております。その綾《あや》や絹《きぬ》を売ったのを本《もと》にいたしましてな。観音様も、これだけは、お約《やく》束《そく》をおちがえになりません」
「それなら、そのくらいなめにあっても、けっこうじゃないか」
外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹やぶの音が、かすかながらそこここから聞えてくる。往《おう》来《らい》の人通りも、しばらくはとだえたらしい。
「人を殺《ころ》したって、物《もの》盗《と》りの女《によう》房《ぼう》になったって、する気でしたんでなければしかたがないやね」
青《あお》侍《ざむらい》は、扇《おうぎ》を帯へさしながら、立上がった。翁《おきな》も、もう提《ひさげ》の水で、泥《どろ》にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮《く》れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感あじてでもいるようなようすである。
「とにかく、その女はしあわせ者だよ」
「ご冗《じよう》談《だん》で」
「まったくさ。おじいさんも、そう思うだろう」
「手前でございますか。手前なら、そういう運はまっぴらでございますな」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授《さず》けていただくがね」
「じゃ観《かん》音《のん》様《さま》を、ご信《しん》心《じん》なさいまし」
「そうそう、明日から私も、おこもりでもしようよ」
(大正五年十二月)
尾《お》形《がた》了《りよう》斎《さい》覚《おぼ》え書《がき*》
今《こん》般《ぱん》、当村内にて、切支丹宗門《きりしたんしゆうもん》の宗徒ども、邪《じや》法《ほう》を行い、人《じん》目《もく》を惑《まど》わし候《そうろう》儀《ぎ》に付き、私《わたくし》見《けん》聞《ぶん》致《いた》し候次第《しだい》を、逐《ちく》一《いち》公《こう》儀《ぎ》へ申上ぐべき旨《むね》、御沙汰《ごさた》相《あい》成《な》り候段屹度《だんきつと》承知仕《しようちつかまつ》り候。
陳者《のぶれば》、今《こん》年《ねん》三月七日《なのか》、当村百《ひやく》姓《しよう》与《よ》作《さく》後《ご》家《け》篠《しの》と申す者、私《わたくし》宅《たく》へ参り、同人娘《むすめ》里《さと》(当年九歳)大病に付き、検脈《*》致し呉《く》れ候様《よう》、懇《こん》々《こん》頼《たのみ》入《い》り候。
右篠《しの》と申《もうし》候は、百姓惣兵衛《そうべえ》の三女に有之《これあり》、十年以前与《よ》作《さく》方へ縁《えん》付《づ》き、里を儲《もう》け候も、ほどなく夫に先立たれ、爾《じ》後《ご》再《さい》縁《えん》も仕《つかまつ》らず、機織《はたお》り乃至《ないし》賃《ちん》仕事など致《いた》し候うて、その日を糊口《ここう》しおる者に御《ご》座《ざ》候。なれどもいかなる心得違《こころえちが》いにてか、与作病死の砌《みぎり》より、専《もつぱ》ら切支丹宗門に帰依《きえ》致し、隣《となり》村《むら》の伴天連《ばてれん》ろどりげと申す者方へ、繁《しげ》々《しげ》出《で》入《いり》致し候間《あいだ》、当村内にても、右伴天連の妾《てかけ》と相成候由、取《とり》沙《ざ》汰《た》致す者なども有之《これあり》、とかくの批評絶え申さず、依《よ》って、父惣兵衛始め姉《あね》弟《おとと》ども一同、種々意見仕り候えども、泥《で》烏《う》須《す》如《によ》来《らい*》よりありがたきものなしなど申し候うて、一向に合点《がてん》仕らず、朝《ちよう》夕《せき》、ただ、娘里《さと》とともにくるすと称《とな》え候小さき磔柱形《はりきがた》の守り本尊を礼《れい》拝《はい》致し、夫与作の墓参さえ怠《おこた》りおる始末に付き、ただ今にては、親類縁者とても義《ぎ》絶《ぜつ》致しおり、追っては、村方にても、村払《はら》い《*》に行うべき旨、寄り寄り評議致しおる由《よし》に御座候。
右《みぎ》様《よう》の者に候えば、重《じゆう》々《じゆう》頼み入り候えども、私検脈の儀は、叶《かな》うまじき由申し聞け候ところ、一度は泣く泣く帰宅致し候《そうら》えども、翌《よく》八日、ふたたび私《わたくし》宅《たく》へ参り、「一生の恩《おん》に着申すべく候えば、何《なに》卒《とぞ》ご検脈下されたし」など申し候うて、如何《いか》様《よう》断り候も、聞き入れ申さず、はては、私宅玄《げん》関《かん》に泣き伏《ふ》し、「お医者様の御《お》勤《つとめ》は、人の病《やまい》を癒《いや》すことと存じ候。然《しか》るに、私娘《むすめ》大病の儀《ぎ》、御聞き棄《す》てに遊ばさるる条《じよう》、何とも心《こころ》得《え》難《がた》く候」など、怨《えん》じ候えば、私申し候は、「貴《き》殿《でん》の申し条、万々道理には候えども、私検脈致《いた》さざる儀も、全くその理なしとは申し難く候。何《なに》故《ゆえ》と申し候わば、貴殿平《へい》生《ぜい》の行《ぎよう》状《じよう》まことに面白からず、別して、私始め村方の者の神仏を拝《おが》み候を、悪《あく》魔《ま》外《げ》道《どう》に憑《つ》かれたる所《しよ》行《ぎよう》なりなど、しばしば誹《ひ》謗《ぼう》致され候由、確《しか》と承《うけたまわ》りおり候。然《しか》るに、その正《しよう》道《どう》潔《けつ》白《ぱく》なる貴殿が、私ども天魔に魅《み》入《い》られ候者に、ただ今、娘《むすめ》御《ご》の大病を癒《いや》し呉《く》れよと申され候は、なぜに御座候や。右様の儀は、日ごろご信仰の泥《で》烏《う》須《す》如《によ》来《らい》にお頼《たの》みあって然るべく、もし、たって私、検脈を所《しよ》望《もう》致され候上は、切《きり》支《し》丹《たん》宗《しゆう》門《もん》御《おん》帰《き》依《え》の儀、以後堅《かた》くご無用たるべく候。此《この》段《だん》御《ご》承《しよう》引《いん》無之《これなき》においては、仮令《たとい》、医は仁《じん》術《じゆつ》なりと申し候えども、神仏の冥《みよう》罰《ばつ》も恐《おそろ》しく候えば、検脈の儀平《ひら》にお断り申候」斯《か》様《よう》、説得致し候えば、篠《しの》もさすがに、推《お》してとも申し難く、そのまま凄《すご》々《すご》帰宅致し候。
翌《よく》九日《ここのか》は、ひき明け方より大《たい》雨《う》にて、村内一時は人通りも絶え候ところ、卯《うの》時《とき*》ばかりに、篠、傘《かさ》をも差さず、濡《ぬれ》鼠《ねずみ》のごとくなりて、私宅へ参り、またまた検脈致しくれ候様、頼み入り候間、私申し候は、「長《なが》袖《そで》ながら、二《に》言《ごん》は卸座無く候。しかれば、娘御の命か、泥《で》烏《う》須《す》如《によ》来《らい》か、いずれか一つお棄《す》てなさるる分《ふん》別《べつ》肝《かん》要《よう》と存じ候」斯《か》様《よう》申し聞け候えば、篠、この度《たび》は狂《きよう》気《き》のごとく相《あい》成《な》り、私前に再三額《ぬか》づきまたは手を合わせて拝みなど致し候うて、「仰《おお》せ千万ごもっともに候。なれども、切《きり》支《し》丹《たん》宗《しゆう》門《もん》の教にて、一《ひと》度《たび》ころび候《そうろう》上《うえ》は、私《わたくし》魂《たましい》躯《むくろ》とも、生《しよう》々《じよう》世《せ》々《せ》亡《ほろ》び申すべく候。何《なに》卒《とぞ》、私心《こころ》根《ね》を不《ふ》憫《びん》と思《おぼし》召《め》され、この儀《ぎ》のみは、ご容《よう》赦《しや》下されたく候」など掻《か》き口《く》説《ど》き咽《むせ》び入り候。邪《じや》宗門の宗徒とは申しながら、親心に二なき体《てい》相見え、多少とも哀《あわ》れには存じ候えども、私情をもって、公道を廃《はい》すべからざるの道理に候えば、いかよう申し候うても、ころび候上ならでは、検脈かないがたき旨《むね》、申し張り候ところ、篠《しの》、何とも申しようなき顔を致《いた》し、少時《しばらく》私顔を見つめおり候が、突《とつ》然《ぜん》涙《なみだ》をはらはらと落し、私足《あし》下《もと》に手をつき候うて、何やら蚊《か》のようなる声にて申し候えども、折《おり》からの大雨の音にて、確《しか》と聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、ようやく、しからば詮《せん》なく候えば、ころび候べき趣《おもむき》、判然致し候。なれどもころび候実《じつ》証《しよう》無之《これなく》候えば、右証明《あかし》を立つべき旨、申し聞け候ところ、篠、無言のまま、懐《かい》中《ちゆう》より彼《かの》くるすを取り出《いだ》し、玄《げん》関《かん》式台上へ差し置き候うて、静《しずか》に三度まで踏《ふ》み候。その節は格別取《とり》乱《みだ》したる気《け》色《しき》も無之《これなく》、涙も既《すで》に乾きしごとく思われ候えとも、足下のくるすを眺《なが》め候眼の中、何となく熱病人のようにて、私方下男《げなん》など、皆《みな》皆気《き》味《み》悪《あ》しく思いし由に御座候。
扨《さて》、私申し条も相立ち候えば、即《そく》刻《こく》下男に薬《やく》籠《ろう》を担《にな》わせ、大雨の中を、篠同道にて、同人宅へ参り候ところ、至《し》極《ごく》手《て》狭《ぜま》なる部屋《へや》に、里《さと》独《ひと》り、南を枕《まくら》にして打《うち》臥《ふ》しおり候。もっとも身熱烈《はげ》しく候えば、ほとんど正《しよう》気《き》無之《これな》き体《てい》に相見え、いたいけなる手にて繰《くり》返し、繰返し、空《くう》に十字を描き候うては、頻《しきり》にはるれやと申す語を、うつつのごとく口走り、そのつどうれしげに、微笑《ほほえ》みおり候。右、はるれやと申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃《さん》頌《しよう》を捧《ささ》ぐる儀に御座候由《よし》、篠、その節枕辺にて、泣く泣く申し聞かし候。依《よ》って、早速《さっそく》検脈致し候えば、傷《しよう》寒《かん*》の病《やまい》に紛《まぎ》れなく、かつは手《て》遅《おく》れの儀《ぎ》も有之《これあり》、今《こん》日《にち》中にも、存命覚束《おぼつか》なかるべきやに見立て候《そうろう》間《あいだ》、詮《せん》方《かた》なくその旨《むね》、篠《しの》へ申し聞け候ところ、同人またまた狂《きよう》気《き》のごとく相《あい》成《な》り、「私ころび候仔《し》細《さい》は、娘《むすめ》の命助けたき一念よりに御座候。然《しか》るを落命致《いた》させては、その甲斐《かい》、万が一にも無之《これな》かるべく候。何《なに》卒《とぞ》泥烏須如来《でうすによらい》にそむき奉《たてまつ》り候私心苦しさをお汲《く》み分け下され、娘一命、いかにもして、お取り留め下されたく候」と申し、私のみならず、私下《げ》男《なん》足下にも、手をつき候うて、頻《しきり》に頼《たの》み入り候えども、人《じん》力《りき》にては如何《いかん》とも致し難き儀に候えば、心得違い致さざるよう、くれぐれも、申し諭《さと》し、煎《せん》薬《やく》三《さん》貼《じよう*》差し置き候上、折《おり》からの雨止みを幸《さいわ》い、立ち帰らんと致し候ところ、篠、私袂《たもと》にすがりつき候うて離《はな》れ申さず、何やら申さんとする気色《けしき》にて、脣《くちびる》を動かし候えども、一言も申し果てざるうちに、見る見る面《めん》色《しよく》変わり、たちまち、その場に悶《もん》絶《ぜつ》致し候。しかれば、私大いに仰《ぎよう》天《てん》致し、早速《さつそく》下《げ》男《なん》ともども、介《かい》抱《ほう》仕《つかまつ》り候ところ、ようやく、正《しよう》気《き》づき候えども、最早《もはや》立上がり候気《き》力《りよく》も無之《これなく》、「所詮は、私心浅く候まま、娘一命、泥烏須如来、二つながら失いしに極《きわ》まり候」とて、さめざめと泣き沈《しず》み、種々申し慰《なぐさ》め候えども、一《いつ》向《こう》耳に掛《か》くる体《てい》も御座なく、且《かつ》は娘《むすめ》容《よう》態《だい》も詮《せん》なく相見え候間、止むを得ず、ふたたび下男召《め》し伴《つ》れ、匆《そう》々《そう》帰宅仕り候。
然《しか》るに、その日未《ひつじ》時《どき》下《さ》がり《*》、名《な》主《ぬし》塚越弥左衛門《つかこしやざえもん》殿母《ぼ》儀《ぎ》検脈に参り候ところ、篠娘死《し》去《きよ》致《いた》し候由、並《ならび》に篠、悲《ひ》嘆《たん》のあまり、遂《つい》に発《はつ》狂《きよう》致し候由《よし》、弥左衛門殿より承《うけたまわ》り候。右に依《よ》れば、里落《らく》命《めい》致し候は、私検脈後一《ひと》時《とき》の間と相見え、巳《み》の上《じよう》刻《こく*》には、篠すでに乱《らん》心《しん》の体《てい》にて、娘死《し》骸《がい》を掻《か》き抱き、声《こわ》高《だか》に何やら、蛮《ばん》音《いん》の経《きよう》文《もん》読《どく》誦《じゆ》致しおりし由に御座候。なお、この儀は、弥左衛門殿直《じき》に見受けられ候趣《おもむき》にて、村《むら》方《かた》嘉右衛門《かえもん》殿《どの》、藤吾《とうご》殿、治兵衛《じへえ》殿らも、その場に居合わされし由に候えば、千万実事たるに紛《まぎ》れなかるべく候《そうろう》。
追って、翌《よく》十日《とおか》は、朝来小《しよう》雨《う》有之《これあり》候えども辰《たつ》の下《げ》刻《こく*》より春《しゆん》雷《らい》を催《もよお》し、やや、晴れ間相《あい》きざし候折《おり》から――村《むら》郷《ごう》士《し》梁瀬金十郎《やなせきんじゆうろう》殿《どの》より、迎えの馬差し遣《つか》わされ、検脈致《いた》しくれ候様、申し越《こ》され候間、早速《さっそく》馬《ば》上《じよう》にて、私《わたくし》宅《たく》を立ち出で候ところ、篠《しの》宅の前へ来かかり候えば、村方の人々大《おお》勢《ぜい》佇《たたず》みおり、伴天連《ばてれん》よ、切支丹《きりしたん》よなど、罵《ののし》り交《かわ》し候うて、馬を進み候ことさえ《かな》い申さず、依《よ》って、私馬上より、家内の容子《ようす》差し覗《のぞ》き候ところ、篠宅の戸を開《あ》け放《はな》ち候中《なか》に、紅《こう》毛《もう》人《じん》一名、日本人三名、各々法衣《ころも》めきし黒衣を着し候者ども、手に手に彼《かの》くるす、乃至《ないし》は香《こう》炉《ろ》様《よう》の物を差しかざし候うて、同音に、はるれや、はるれやと唱《とな》えおり候。しかのみならず、右紅毛人の足下には、篠、髪《かみ》を乱《みだ》し候まま、娘里《さと》を掻《か》き抱《いだ》き候うて、失神《しつしん》致し候ごとく、蹲《うずくま》りおり候。別して、私眼を驚《おどろ》かし候は、里、両手にてひしと、篠《しの》頸《うなじ》を抱《いだ》きおり、母の名とはるれやと、代わる代わる、あどけなき声にて、唱えおりしことに御座候。もっとも、遠《とお》眼《め》のこととて、確《しか》とは弁《わきま》え難《がた》く候えども、里血《けつ》色《しよく》至極《しごく》麗《うるわ》しき様に相見え、折々母の頸《うなじ》より手を離し候うて、香炉ようの物より立ち昇《のぼ》り候煙《けむり》を捉《とら》えんとする真似《まね》など致しおり候。しかれば、私馬より下り、里蘇《そ》生《せい》いたし候次第《しだい》に付き、村方の人々に委《い》細《いさい》相《あい》尋《たず》ね候えば、右紅《こう》毛《もう》の伴天連《ばてれん》ろどりげ儀、今《こん》朝《ちよう》、伊留満《いるまん》ども相従え、隣《となり》村《むら》より篠宅へ参り、同人懴《こい》悔《さん*》聞き届《とど》け候上、一同宗《しゆう》門《もん》仏に加持《かじ》致し、あるいは異《い》香《こう》を焚《た》き薫《くゆ》らし、あるいは神《しん》水《すい》を振《ふ》り濺《そそ》ぎなど致し候ところ、篠の乱心は自《おのずか》ら静まり、里もほどなく蘇《そ》生《せい》致し候由、皆《みな》皆《みな》恐《おそろ》しげに申し聞かせ候。古《こ》来《らい》一旦《いつたん》落命致し候上、蘇生仕り候類《たぐい》、元より少からずとは申し候えども、多くは、酒《しゆ》毒《どく》に中《あた》り、乃至《ないし》は瘴《しよう》気《き*》に触《ふ》れ候者のみに有之《これあり》、里のごとく、傷《しよう》寒《かん》の病にて死《し》去《きよ》致《いた》し候《そうろう》者《もの》の、還《かん》魂《こん》仕《つかまつ》り候例《ためし》は、いまだかつて承《うけたまわ》り及《およ》ばざるところに御座候えば、切支丹《きりしたん》宗《しゆう》門《もん》の邪《じや》法《ほう》たる儀《ぎ》この一事にても分《ぶん》明《みよう》致すべく、別して伴天連《ばてれん》当村へ参り候節、春《しゆん》雷《らい》頻《しきり》に震《ふる》い候も、天の彼《かれ》を憎《にく》ませ給《たま》うところかと推《すい》察《さつ》仕り候。
なお、篠《しの》及《およ》び娘《むすめ》里《さと》当日伴天連《ばてれん》ろどりげ同道にて、隣《りん》村《そん》へ引移り候次第、並《ならび》に慈元寺《じげんじ》住職《じゆうしよく》日寛《につかん》殿《どの》計《はか》らいにて同人宅焼き棄《す》て候次第は、すでに名《な》主《ぬし》塚越《つかこし》弥左衛門《やざえもん》殿より、言《ごん》上《じよう》仕り候えば、私見聞致し候仔《し》細《さい》は、荒《あら》々《あら》右にて相尽《つ》き申すべく候。但《ただし》、万一記《しる》し洩《も》れも有之《これあり》候節は、後《ご》日《じつ》再《さい》応《おう》書面をもって言《ごん》上《じよう》仕るべく、まずは私《わたくし》覚え書《がき》斯《か》くのごとくに御座候。以上
申《さる》年《どし》三月二十六日
伊予国《いよのくに》宇《う》和《わ》郡《ごおり》――村 医師 尾形《おがた》了斎《りようさい》
(大正五年十二月七日)
日光小品
大谷川
馬返しをすぎて少し行くと大谷川の見える所へ出た。落葉に埋《う》もれた石の上に腰《こし》をおろして川を見る。川はずうっと下の谷底を流れているので幅《はば》がやっと五、六尺に見える。川をはさんだ山は紅葉と黄葉とにすきまなくおおわれて、その間をほとんど純《じゆん》粋《すい》に近い藍《あい》色《いろ》の水が白い泡《あわ》を噴《ふ》いて流れてゆく。
そうしてその紅葉と黄葉との間をもれてくる光がなんとも言えない暖かさをもらして、見上げると山は私の頭の上にもそびえて、青空の画室のスカイライトのように狭《せま》く限られているのが、ちょうど岩の間から深い淵《ふち》をのぞいたような気を起させる。
対岸の山は半ばは同じ紅葉につつまれて、その上はさすがに冬枯《が》れた草山だが、そのゆったりした肩《かた》には紅《あか》い光のある靄《もや》がかかって、かっ色の毛きらずビロードをたたんだような山の肌《はだ》がいかにも優《やさ》しい感じを起させる。その上に白い炭焼の煙《けむり》が低く山《さん》腹《ぷく》をはっていたのはさらに私をゆかしい思いにふけらせた。
石をはなれてふたたび山道にかかった時、私は「谷水のつきてこがるる紅葉かな」という蕪《ぶ》村《そん》の句を思い出した。
戦場が原
枯《かれ》草《くさ》の間を沼《ぬま》のほとりへ出る。
黄《こう》泥《でい》の岸には、薄《うす》氷《ごおり》が残っている。枯《かれ》蘆《あし》の根にはすすけた泡《あぶく》がかたまって、家鴨《あひる》の死んだのがその中にぶっくり浮んでいた。どんよりと濁《にご》った沼の水には青空がさびついたように映《うつ》って、ほの白い雲の影《かげ》が静かに動いてゆくのが見える。
対岸には接骨木《にわとこ》めいた樹《き》がすがれかかった黄葉を低《た》れて力なさそうに水にうつむいた。それをめぐって黄ばんだ葭《よし》がかなしそうに戦《おのの》いて、その間からさびしい高原のけしきがながめられる。
ほおけた尾《お》花《ばな》のつづいた大野には、北国めいた、黄葉した落葉松《からまつ》が所々に腕《うで》だるそうにそびえて、その間をさまよう放《ほう》牧《ぼく》の馬の群れはそぞろに我《われ》々《われ》の祖先の水草を追うて漂《ひよう》浪《ろう》した昔《むかし》をおもい出させる。原をめぐった山々はいずれもわびしい灰色の霧《きり》につつまれて、薄《うす》い夕日の光がわずかにその頂《いただき》をぬらしている。
私は荒《こう》涼《りよう》とした思いをいだきながら、この水のじくじくした沼の岸にたたずんでひとりでツルゲーネフの森の旅を考えた。そうして枯草の間に竜胆《りんどう》の青い花が夢《ゆめ》見顔に咲いているのを見た時に、しみじみあのI have nothing to do with thee《*》という悲しい言が思い出された。
巫女《みこ》
年をとった巫女《みこ》が白い衣に緋《ひ》の袴《はかま》をはいて御簾《みす》の陰《かげ》にさびしそうにひとりですわっているのを見た。そうして私もなんとなくさびしくなった。
時雨《しぐれ》もよいの夕《ゆうべ》に春日《かすが》の森で若い二人の巫女にあったことがある。二人とも十二、三でやはり緋の袴に白い衣をきて白粉《おしろい》をつけていた。小暗い杉《すぎ》の下かげには落葉をたく煙《けむり》がほの白く上って、しっとりと湿《しめ》った森の大気は木《もく》精《せい》のささやきも聞えそうな言いがたいしずけさを漂《ただよわ》せた。そのもの静かな森の路《みち》をもの静かにゆきちがった、若い、いや幼い巫女の後ろ姿《すがた》はどんなにか私にめずらしく覚えたろう。私はほほえみながら何度も後ろをふりかえった。けれども今、冷やかな山《さん》懐《かい》の気が肌《はだ》寒く迫《せま》ってくる社《やしろ》の片かげに寂《せき》然《ぜん》とすわっている老年《としより》の巫女を見ては、そぞろにかなしさを覚えずにはいられない。
私は、一生を神にささげた巫女の生《しよう》涯《がい》のさびしさが、なんとなく私の心をひきつけるような気がした。
高原
裏《うら》見《み》が滝《たき》へ行った帰りに、ひとりで、高《こう》原《こうげん》を貫《つらぬ》いた、日光街《かい》道《どう》に出る小さな路《みち》をたどって行った。
武蔵野《むさしの》ではまだ百舌鳥《もず》がなき、鵯《ひよどり》がなき、畑の玉蜀黍《とうもろこし》の穂《ほ》が出て、薄《うす》紫《むらさき》の豆の花が葉のかげにほのめいているが、ここはもうさながらの冬のけしきで、薄《うす》い黄色の丸葉がひらひらついている白《しら》樺《かば》の霜《しも》柱《ばしら》の草の中にたたずんだのが、静かというよりは寂《さび》しい感じを起《おこ》させる。この日は風のない暖かなひよりで、樺《かば》林《ばやし》の間からは、菫《すみれ》色《いろ》の光を帯《お》びた野《や》州《しゆう》の山々の姿《すがた》が何か来るのを待っているように、冷《ひ》え冷《び》えする高原の大気を透《とお》してなごりなく望まれた。
いつだったかこんな話をきいたことがある。雪国の野には冬の夜なぞによくものの声がするという。その声が遠い国に多くの人がいて口々に哀《あい》歌《か》をうたうともきければ、森かげの梟《ふくろう》の十羽二十羽が夜《よ》霧《ぎり》のほのかな中から心細そうになきあわすとも聞える。ただ、野の末から野の末へ風にのって響《ひび》くそうだ。なにものの声かはしらない。ただ、この原も日がくれから、そんな声が起りそうに思われる。
こんなことを考えながら半《はん》里《り》もある野路を飽《あ》かずにあるいた。なんのかわったところもないこの原のながめが、どうして私の感《かん》興《きよう》を引いたかはしらないが、私にはこの高原の、ことに薄《うす》曇《ぐも》りのした静《せい》寂《じやく》がなんとなくうれしかった。
工場(以下足《あし》尾《お*》所《しよ》見《けん》)
黄色い硫《りゆう》化《か》水《すい》素《そ》の煙《けむり》が霧《きり》のようにもやもやしている。その中に職《しよつ》工《こう》の姿《すがた》が黒く見える。すすびたシャツの胸《むね》のはだけたのや、しみだらけの手ぬぐいで頬《ほお》かぶりをしたのや、中には裸《ら》体《たい》で濡《ぬれ》菰《ごも》を袈《け》裟《さ》のように肩《かた》からかけたのが、反射炉《ろ》のまっかな光をたたえたかたわらに動いている。機械の運転する響き、職工の大きな掛《かけ》声《ごえ》、薄暗い工場の中に雑然として聞えるこれらの音が、気のよわい私には一つ一つ強く胸《むね》を圧するように思われる――裸《ら》体《たい》の一人が炉のかたわらに近づいた。汗《あせ》でぬれた肌《はだ》が露《つゆ》を置いたように光って見える。細長い鉄の棒《ぼう》で小さな炉《ろ》の口をがたりとあける。紅に輝《かがや》いた空の日を溶かしたような、火の流れがずーうっとまっすぐに流れ出す。流れ出すと、炉の下の大きなバケツのようなものの中へぼとぼとと重い響《ひび》きをさせて落ちて行く。バケツの中がいっぱいになるに従《したが》って、火の流れがはいるたびにはらはらと火の粉がちる。火の粉は職《しよつ》工《こう》のぬれ菰《ごも》にもかかる。それでも平気で何か歌をうたっている。
和田さん《*》の「〓《い》燻《くん》」を見たことがある。けれども時代の陰《いん》影《えい》とでもいうような、鋭《するど》い感《かん》興《きよう》は浮《う》かばなかった。その後にマロニックの「不《ふ》漁《りよう》」を見た時もやはり暗い切実な感じを覚えなかった。が今、この工場の中に立って、あの煙《けむり》を見、あの火を見、そうしてあの響きをきくと、労働者の真生活というような悲《ひ》壮《そう》な思いがおさえがたいまでに起《おこ》ってくる。彼らの銅《どう》のような筋《きん》肉《にく》を見給《たま》え。彼らの勇ましい歌をきき給え。私たちの生活は彼らを思うたびにイラショナル《*》なような気がしてくる。あるいは真に空《くう》虚《きよ》な生活なのかもしれない。
寺と墓《はか》
路《みち》ばたに寺があった。
丹《に》も見るかげがなくはげて、抜《ぬ》けかかった屋根がわらの上に擬《ぎ》宝《ぼう》珠《し》の金がさみしそうに光っていた。縁《えん》には烏《からす》の糞《ふん》が白く見えて、鰐《わに》口《ぐち》のほつれた紅白のひものもう色がさめたのにぶらりと長くさがったのがなんとなくうらがなしい。寺の内はしんとして人がいそうにも思われぬ。その右に墓《はか》場《ば》がある。墓場は石ばかりの山の腹《はら》にそうて開いたので、灰色をした石の間に灰色をした石《せき》塔《とう》が何本となく立っているのが、わびしい感じを起《おこ》させる。草の青いのもない。立《たて》花《ばな》さえもほとんど見えぬ。ただ灰色の石と灰色の墓である。その中に線香の紙がきわだって赤い。これでも人を埋《う》めるのだ。私はこの石ばかりの墓場が何かのシンボルのような気がした。今でもあの荒《こう》涼《りよう》とした石山とその上の曇《くも》った濁色の空とがまざまざと目にのこっている。
温《あたた》かき心
中《ちゆう》禅《ぜん》寺《じ》から足《あし》尾《お》の町へ行く路《みち》がまだ古《ふる》河《かわ》橋《ばし》の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら家の一ならびがある。石をのせた屋根、こまいの《*》あらわな壁《かべ》、たおれかかったかき根とかき根には竿《さお》を渡《わた》しておしめやらよごれた青い毛布やらが、薄《うす》い日の光に干《ほ》してある。そのかき根について、ここらには珍《めずら》しいコスモスが紅や白の花をつけたのに、片目のつぶれた黒犬がものうそうにその下に寝ころんでいた。その中で一軒《けん》門《かど》口《ぐち》の往《おう》来《らい》へむいた家があった。外の光になれた私の眼には家の中は暗くて何も見えなかったが、その明るい縁《えん》さきには、猫《ねこ》背《ぜ》のおばあさんが、古びたちゃんちゃんを着てすわっていた。おばあさんのいる所の前がすぐ往来で、往来には髪《かみ》ののびた、手も足も塵《ちり》と垢《あか》がうす黒くたまったはだしの男の児《こ》が三人で土いじりをしていたが、私たちの通るのを見て「やア」と言いながら手をあげた。そうしてただ笑った。小供たちの声に驚《おどろ》かされたとみえておばあさんも私たちの方を見た。けれどもおばあさんは盲《めくら》だった。
私はこのよごれた小供の顔と盲のおばあさんを見ると、急にピーター・クロポトキン《*》の「青年よ、温かき心をもって現実を見よ」という言が思い出された。なぜ思い出されたかはしらない。ただ、漂《ひよう》浪《ろう》の晩《ばん》年《ねん》をロンドンの孤《こ》客《かく》となって送っている、迫《はく》害《がい》と圧迫とを絶えずこうむったあのクロポトキンが温かき心をもってせよと教える心もちを思うと我《われ》知らず胸《むね》が迫《せま》ってきた。そうだ温かき心をもってするのは私たちの務《つと》めだ。
私たちはあくまで態度をヒューマナイズして人生を見なければならぬ。それが私たちの努力である。真を描《えが》く《*》という、それもけっこうだ。しかし、「形ばかりの世界」《*》を破《やぶ》ってその中の真を捕えようとする時にも必ず私たちは温かき心をもってしなければならない。「形ばかりの世界」にとらわれた人々はこのあばら家に楽しそうに遊んでいる小児《しように》のような、それでなければ盲《もう》目《もく》の顔を私たちの方にむけて私たちを見ようとするおばあさんのような人ばかりではあるまいか。
この「形ばかりの世界」を破るのに、あくまでも温かき心をもってするのは当然私たちのつとめである。文《ぶん》壇《だん》の人々が排《はい》技《ぎ》巧《こう》と言い無《む》結《けつ》構《こう》と言う《*》、ただ真を描くと言う。冷やかな眼ですべてを描いたいわゆる公《こう》平《へい》無《む》私《し》にいくばくの価値があるかは私の久しい前からの疑問である。単に著《ちよ》者《しや》の個人性が明らかに印象せられたというに止まりはしないだろうか。
私は年長の人と語るごとにその人のなつかしい世なれた風に少からず酔《よ》わされる。文芸の上ばかりでなく温かき心をもってすべてを見るのはやがて人格の上の試《し》錬《れん》であろう。世なれた人の態度はまさしくこれだ。私は世なれた人のやさしさを慕《した》う。
私はこんなことを考えながら古《ふる》河《かわ》橋《ばし》のほとりへ来た。そうして皆《みな》といっしょに笑いながら足《あし》尾《お》の町を歩いた。
雑誌の編《へん》輯《しゆう》に急がれて思うようにかけません。宿屋のランプの下で書いた日記の抄《しよう》録《ろく》に止めます。
(明治四十四年ごろ)
大川の水
自分は、大《おお》川《かわ》端《ばた*》に近い町に生まれた。家を出て椎《しい》の若葉におおわれた、黒《くろ》塀《べい》の多い横《よこ》網《あみ》の小《こう》路《じ》をぬけると、すぐあの幅《はば》の広い川筋《すじ》の見渡《わた》される、百《ひやく》本《ぽん》杭《ぐい*》の河岸《かし》へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分はほとんど毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂《すな》州《すなず》と、水の上に生まれて水の上に暮《くら》しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午《ひる》すぎ、やけた砂を踏《ふ》みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅《か》ぐともなく嗅《か》いだ河《かわ》の水のにおいも、今では年とともに、親しく思い出されるような気がする。
自分はどうして、こうもあの川を愛するのか。あのどちらかと言えば、泥《どろ》濁《にご》りのした大川のなま暖かい水に、限りないゆかしさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。ただ、自分は、昔からあの水を見るごとに、なんとなく、涙《なみだ》を落したいような、言いがたい慰《い》安《あん》と寂《せき》寥《りよう》とを感じた。まったく、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思《し》慕《ぼ》と追《つい》憶《おく》との国にはいるような心もちがした。この心もちのために、この慰安と寂寥とを味わいうるがために、自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色の靄《もや》と青い油のような川の水と、吐《と》息《いき》のような、おぼつかない汽《き》笛《てき》の音と、石炭船の鳶《とび》色《いろ》の三角帆《ほ》と、――すべてやみがたい哀《あい》愁《しゆう》をよび起すこれらの川のながめは、いかに自分の幼い心を、その岸に立つ楊《よう》柳《りゆう》の葉のごとく、おののかせたことであろう。
この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木《ぞうき》林《ばやし》のかげになっている書《しよ》斎《さい》で、平《へい》静《せい》な読書三《さん》昧《まい》にふけっていたが、それでもなお、月に二、三度は、あの大川の水をながめにゆくことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静《せい》寂《じゆく》な書斎の空気が休みなく与《あた》える刺《し》戟《げき》と緊張とに、せつないほどあわただしく、動いている自分の心をも、ちょうど、長旅に出た巡礼が、ようやくまた故郷の土を踏《ふ》んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさに、とかしてくれる。大川の水があって、はじめて自分はふたたび、純なる本来の感情に生きることができるのである。
自分は幾《いく》度となく、青い水に臨《のぞ》んだアカシアが、初夏のやわらかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落すのを見た。自分は幾度となく、霧《きり》の多い十一月の夜《よ》に、暗い水の空を寒そうに鳴く、千《ち》鳥《どり》の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、ことごとく、大川に対する自分の愛を新たにする。ちょうど、夏川の水から生まれる黒蜻蛉《とんぼ》の羽のような、おののきやすい少年の心は、そのたびに新たな驚《きよう》異《い》の眸《ひとみ》を見はらずにはいられないのである。ことに夜《よ》網《あみ》の船の舷《ふなばた》に倚《よ》って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂《ただよ》う「死」の呼《こ》吸《きゆう》を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫《せま》られたことであろう。
大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧《そう》院《いん》の鐘《かね》の音と、鵠《くぐい》の声とに暮《く》れて行くイタリアの水の都――バルコンにさく薔薇《ばら》も百合《ゆり》も、水《みな》底《そこ》に沈《しず》んだような月の光に青ざめて、黒い柩《ひつぎ》に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢《ゆめ》のように漕《こ》いでゆく、ヴェネチアの風《ふう》物《ぶつ》に、あふるるばかりの熱情を注《そそ》いだダンヌンチョ《*》の心もちを、いまさらのように慕《した》わしく、思い出さずにはいられないのである。
この大川の水に撫《ぶ》愛《あい》される沿岸の町々は、皆《みな》自分にとって、忘《わす》れがたい、なつかしい町である。吾妻《あづま》橋《ばし》から川《かわ》下《わしも》ならば、駒《こま》形《かた》、並《なみ》木《き》、蔵《くら》前《まえ》、代《だい》地《ち》、柳《やなぎ》橋《ばし》、あるいは多田の薬《やく》師《し》前、うめ堀《ぼり》、横《よこ》網《あみ》の川岸――どこでもよい。これらの町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白《しら》壁《かべ》と白壁との間から、格《こう》子《し》戸《ど》づくりの薄《うす》暗い家と家との間から、あるいは銀茶色の芽をふいた、柳《やなぎ》とアカシアとの並《なみ》樹《き》の間から、磨《みが》いたガラス板のように、青く光る大川の水は、その、冷やかな潮《しお》のにおいとともに、昔《むかし》ながら南へ流れる、なつかしいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、すねるように、舌《した》うつように、草の汁《しる》をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸の石《いし》崖《がけ》を洗《あら》ってゆく。班《はん》女《じよ*》といい、業《なり》平《ひら》という、武蔵《むさし》野《の》の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄《じよう》瑠《る》璃《り》作者、近くは河《かわ》竹《たけ》黙《もく》阿《あ》弥《み》翁《おう》が、浅《せん》草《そう》寺《じ》の鐘《かね》の音とともに、その殺《ころ》し場のシュチンムング《*》を、最も力強く表わすために、しばしば、その世《せ》話《わ》物《もの》の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響《ひび》きであった。十六夜《いざよい》清《せい》心《しん》が身をなげた時《*》にも、源《げん》之《の》丞《じよう》が鳥《とり》追《おい》姿《すがた》のおこよを見そめた時《*》にも、あるいはまた、鋳《い》掛《かけ》屋《や》松五郎《*》が蝙蝠《こうもり》の飛びかう夏の夕ぐれに、天《てん》秤《びん》をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船《ふな》宿《やど》の桟《さん》橋《ばし》に、岸の青《あお》蘆《あし》に、猪《ちよ》牙《き》船《ぶね*》の船《せん》腹《ぷく》にものういささやきをくり返していたのである。
ことにこの水の音をなつかしく聞くことのできるのは、渡《わた》し船の中であろう。自分の記《き》憶《おく》に誤《あやま》りがないならば、吾妻《あづま》橋《ばし》から新大橋までの間に、もとは五つの渡《わた》しがあった。その中で、駒《こま》形《がた》の渡し、富士見の渡し、安宅《あたか》の渡しの三つは、しだいに一つずつ、いつとなくすたれて、今ではただ一の橋から浜《はま》町《ちよう》へ渡る渡しと、御《み》蔵《くら》橋《ばし》から須《す》賀《が》町へ渡る渡しとの二つが、昔《むかし》のままに残っている。自分が子供の時に比べれば、河の流れも変わり、芦《ろ》荻《てき》の茂《しげ》った所々の砂《すな》州《ず》も、跡《あと》かたなく埋《う》められてしまったが、この二つの渡しだけは、同じような底の浅い舟《ふね》に、同じような老人の船《せん》頭《どう》をのせて、岸の柳《やなぎ》の葉のように青い河の水を、今も変わりなく日に幾度か横ぎっているのである。自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った、水の動くのにつれて、揺《ゆり》籃《かご》のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。――低い舷《ふなばた》の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍《にぶ》い光のある、幅《はば》の広い川《かわ》面《づら》は、遠い新大橋にさえぎられるまで、ただ一目に見渡される。両岸の家々はもう、たそがれの鼠《ねずみ》色《いろ》に統一されて、その所々には障《しよう》子《じ》にうつるともしびの光さえ黄色く靄《もや》の中に浮《うか》んでいる。上げ潮《しお》につれて灰色の帆《ほ》を半《なか》ば張った伝《てん》馬《ま》船《ぶね》が一艘《そう》、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、舵《かじ》を執《と》る人の有《う》無《む》さえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマンスタアル《*》のエアレエプニスという詩をよんだ時のような、言いようのないさびしさを感ずるとともに、自分の心の中にもまた、情《じよう》緒《ちよ》の色のささやきが、靄《もや》の底を流れる大川の水と同じ旋《せん》律《りつ》をうたっているような気がせずにはいられないのである。
けれども、自分を魅《み》するものはひとり大川の水の響《ひび》きばかりではない。自分にとっては、この川の水の光がほとんど、どこにも見いだしがたい、なめらかさと暖かさとを持っているように思われるのである。
海の水は、たとえば碧玉《ジヤスパア》の色のようにあまりに重く緑を凝《こ》らしている。といって潮《しお》の満《みち》干《ひ》を全く感じない上流の川の水は、言わばエメラルドの色のように、あまりに軽く、余りに薄《うす》っぺらに光りすぎる。ただ淡《たん》水《すい》と潮《ちよう》水《すい》とが交《こう》錯《さく》する平原の大河の水は、冷やかな青に、濁《にご》った黄の暖かみを交《まじ》えて、どことなく人間化《ヒユウマナイズ》された親しさと、人間らしい意味において、ライフライク《*》な、なつかしさがあるように思われる。ことに大川は、赭《あか》ちゃけた粘《ねん》土《ど》の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺《しわ》をよせて、気むずかしいユダヤの老《ろう》爺《や》のように、ぶつぶつ口《くち》小《こ》言《ごと》を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市《まち》の中を流れるにしても、なお「海」という大きな神秘と、絶えず直接の交通を続けているためか、川と川とをつなぐ掘《ほり》割《わり》の水のように暗くない。眠っていない。どことなく、生きて動いているという気がする。しかもその動いてゆく先は、無始無終にわたる「永遠」の不可思議だという気がする。吾妻《あづま》橋《ばし》、厩《うまや》橋《ばし》、両国橋の間、香《こう》油《ゆ》のような青い水が、大きな橋台の花《か》崗《こう》石《せき》とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船《ふな》宿《やど》の白い行《あん》灯《どん》をうつし、銀の葉うらを翻《ひるがえ》す柳《やなぎ》をうつし、また水門にせかれては三味《しやみ》線《せん》の音《ね》のぬるむ昼すぎを、紅《べに》芙《ふ》蓉《よう》の花になげきながら、気のよわい家鴨《あひる》の羽にみだされて、人けのない廚《くりや》の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋、永《えい》代《たい》橋《ばし》と、河《か》口《こう》に近づくに従《したが》って、川の水は、著《いちじる》しく暖《だん》潮《ちよう》の深《しん》藍《らん》色《しよく》を交えながら、騒《そう》音《おん》と煙《えん》塵《じん》とにみちた空気の下に、白くただれた日をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達《だる》磨《ま》船《ぶね》や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆすぶっているにしても、自然の呼吸と人間の呼吸とが落ち合って、いつの間にか融《ゆう》合《ごう》した都会の水の色の暖かさは、容易に消えてしまうものではない。
ことに日暮《ぐ》れ、川の上に立ちこめる水《すい》蒸《じよう》気《き》と、しだいに暗くなる夕空の薄《うす》明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比《ひ》喩《ゆ》を絶した、微《び》妙《みよう》な色調を帯《お》ばしめる。自分はひとり、渡《わた》し船の舷《ふなばた》に肘《ひじ》をついて、もう靄《もや》のおりかけた、薄《はく》暮《ぼ》の川の水面《みのも》を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙《なみだ》を流したのを、おそらく終《しゆう》世《せい》忘《わす》れることはできないであろう。
「すべての市《いち》は、その市に固有なにおいを持っている。フロレンスのにおいは、イリスの白い花とほこりと靄と古《いにしえ》の絵画のニスとのにおいである」(メレジュコウフスキイ)もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊《ちゆう》躇《ちよ》もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
(一九一二・一)
その後「一の橋の渡し」の絶えたことをきいた。「御《み》蔵《くら》橋《ばし》の渡し」の廃《すた》れるのも間があるまい。
葬《そう》儀《ぎ》記《き*》
離《はな》れで電話をかけて、皺《しわ》くちゃになったフロックの袖《そで》を気にしながら、玄《げん》関《かん》へ来ると、誰《だれ》もいない。客間をのぞいたら、奥《おく》さん《*》が誰だか黒の紋《もん》付《つき》を着た人と話していた。が、そこと書《しよ》斎《さい》との堺《さかい》には、さっきまで柩《ひつぎ》の後ろに立ててあった、白い屏《びよう》風《ぶ》が立っている。どうしたのかと思って、書斎の方へ行くと、入口の所に和《わ》辻《つじ》さん《*》や何かが二、三人かたまっていた。中にももちろん大ぜいいる。ちょうど皆《みな》が、先生の死《しに》顔《がお》に、最後の別れを惜《おし》んでいる時だったのである。
僕《ぼく》は、岡《おか》田《だ》君《*》のあとについて、自分の番が来るのを待っていた。もう明るくなったガラス戸の外には、霜《しも》よけの藁《わら》を着た芭《ば》蕉《しよう》が、何本も軒《のき》近くならんでいる。書斎でお通《つ》夜《や》をしていると、いつもこの芭蕉がいちばん早く、うす暗い中からうき上がってきた。――そんなことをぼんやり考えているうちに、やがて人が減って書斎の中へはいれた。
書斎の中には、電灯がついていたのか、それともろうそくがついていたのか、それは覚えていない。が、なんでも、外光だけではなかったようである。僕は、妙《みよう》に改まった心もちで、中へはいった。そうして、岡田君が礼をしたあとで、柩《ひつぎ》の前へ行った。
柩のそばには、松《まつ》根《ね》さん《*》が立っている。そうして右の手を平《たいら》にして、それを臼《うす》でも挽《ひ》く時のように動かしている。礼をしたら、順々に柩の後ろをまわって、出て行ってくれという合《あい》図《ず》だろう。
柩《ひつぎ》は寝《ね》棺《かん》である。のせてある台は三尺ばかりしかない。そばに立つと、眼と鼻の間に、中が見下された。中には、細くきざんだ紙に南《な》無《む》阿《あ》弥《み》陀《だ》仏《ぶつ》と書いたのが、雪のようにふりまいてある。先生の顔は、半ば頬《ほお》をその紙の中にうずめながら、静かに眼をつぶっていた。ちょうど蝋《ろう》ででもつくった、面《めん》型《がた》のような感じである。輪《りん》廓《かく》は、生前と少しもちがわない。が、どこかようすがちがう。脣《くちびる》の色が黒《くろず》んでいたり、顔色が変わっていたりする以外に、どこかちがっているところがある。僕はその前で、ほとんど無感動に礼をした。「これは先生じゃない」そんな気が、強くした。(これは始めから、そうであった。現に今でも僕は誇《こ》張《ちよう》なしに先生が生きているような気がしてしかたがない)僕は、柩の前に一、二分立っていた。それから、松根さんの合《あい》図《ず》通り、あとの人に代わって、書《しよ》斎《さい》の外へ出た。
ところが、外へ出ると、急にまた先生の顔が見たくなった。なんだかよく見て来るのを忘《わす》れたような心もちがする。そうして、それが取り返しのつかない、ばかな事だったような心もちがする。僕はよっぽど、もう一度行こうかと思った。が、なんだかそれが恥《はずか》しかった。それに感情を誇張しているような気も、少しはした。「もうしかたがない」――そう、思ってとうとうやめにした。そうしたら、いやに悲しくなった。
外へ出ると、松岡が「よく見て来たか」と言う。僕は、「うん」と答えながら、うそをついたような気がして、不快だった。
青山の斎《さい》場《じよう》へ行ったら、靄《もや》がまったく晴れて、葉のない桜《さくら》のこずえにもう朝日がさしていた。下から見ると、その桜の枝が、ちょうど鉄《てつ》網《もう》のように細《こまか》く空をかがっている。僕たちはその下に敷いた新しいむしろの上を歩きながら、みんな、体をそらせて、「やっと眼がさめたような気がする」と言った。
斎《さい》場《じよう》は、小学校の教室とお寺の本堂とを、一つにしたような建築である。丸い柱《はしら》や、両方のガラス窓《まど》が、はなはだみすぼらしい。正面には一段高い所があって、その上に朱《しゆ》塗《ぬり》の曲《きよく》禄《ろく》が三つすえてある。それが、その下に、一面に並べてある安直な椅《い》子《す》と、妙《みよう》な対照をつくっていた。「この曲《きよく》禄《ろく》を、書《しよ》斎《さい》の椅《い》子《す》にしたら、おもしろいぜ」――僕は久《く》米《め》にこんなことを言った。久米は、曲禄の足をなでながら、うんとかなんとかいいかげんな返事をしていた。
斎場を出て、入口の休《やすみ》所《どころ》へかえって来ると、もう森田さん《*》、鈴木さん《*》、安倍さん《*》、などが、かんかん火を起した炉《ろ》のまわりに集って、新聞を読んだり、駄《だ》弁《べん》をふるったりしていた。新聞に出ている先生の逸《いつ》話《わ》や、内外の人の追《つい》憶《おく》が時々問題になる。僕は、和《わ》辻《つじ》さんにもらった「朝日」を吸《す》いながら、炉《ろ》のふちへ足をかけて、ぬれたくつから煙《けむり》が出るのをぼんやり、遠い所のものを見るようにながめていた。なんだか、みんなの心もちに、どこか穴《あな》のあいている所でもあるような気がして、しかたがない。
そのうちに、葬《そう》儀《ぎ》の始まる時間が近くなってきた。「そろそろ受付へ行こうじゃないか」――気の早い赤木君《*》が、新聞をほうり出しながら、「行《い》」の所へ独特のアクセントをつけて言う。そこでみんな、ぞろぞろ、休《やすみ》所《どころ》を出て、入口の両側にある受付へ分れ分れに、行くことになった。松《まつ》浦《うら》君《*》、江口君《*》、岡君《*》が、こっちの受付をやってくれる。向こうは、和辻さん、赤木君、久《く》米《め》という顔ぶれである。そのほか、朝日新聞社《*》の人が、一人ずつ両方へ手伝いに来てくれた。
やがて、霊《れい》柩《きゆう》車《しや》が来る。続いて、一般の会《かい》葬《そう》者《しや》が、ぽつぽつ来はじめた。休《やすみ》所《どころ》の方を見ると、人影がだいぶんふえて、その中に小《こ》宮《みや》さん《*》や野《の》上《がみ》さん《*》の顔が見える。中《ちゆう》幅《はば》の白《しろ》木《も》綿《めん》を薬屋のように、フロックの上からかけた人がいると思ったら、それは宮《みや》崎《ざき》虎《とら》之《の》助《すけ*》氏だった。
始めは、時刻が時刻だから、それに前日の新聞に葬《そう》儀《ぎ》の時間がまちがって出たから、会葬者は存外少かろうと思ったが、実際はそれと全く反対だった。ぐずぐずしていると、会葬者の宿所を、帳面につけるのもまにあわない。僕はいろんな人の名《めい》刺《し》をうけとるのに忙《ぼう》殺《さつ》された。
すると、どこかで「死は厳《げん》粛《しゆく》である」と言う声がした。僕は驚《おどろ》いた。この場合、こんな芝居じみたことを言う人が、僕たちの中にいるわけはない。そこで、休《やすみ》所《どころ》の方をのぞくと、宮《みや》崎《ざき》虎《とら》之《の》肋《すけ》氏が、椅《い》子《す》の上へのって、伝道演説をやっていた。僕はちょいと不快になった。が、あまり宮崎虎之助らしいので、それ以上には腹《はら》もたたなかった。接《せつ》待《たい》係の人が止《と》めたが、やめないらしい。やっぱり右手で盛《さかん》なジェステュアをしながら、死は厳粛であるとかなんとか言っている。
が、それもほどなくやめになった。会葬者は皆、接待係の案内で、斎《さい》場《じよう》の中へはいって行く。葬儀の始まる時刻がきたのであろう。もう受付へ来る人も、あまりない。そこで、帳面や香《こう》奠《でん》をしまつしていると、向こうの受付にいた連中が、そろってぞろぞろ出て来た。そうして、その先に立って、赤木君が、しきりに何か憤《ふん》慨《がい》している。聞いてみると、誰《だれ》かが、受付係は葬儀のすむまで、受付に残っていなければならんと言ったのだそうである。至《し》極《ごく》もっともな憤慨だから、僕もさっそくこれに雷《らい》同《どう》した。そうして皆《みな》で、受付を閉《と》じて、斎場へはいった。
正面の高い所にあった曲《きよく》《ろく》は、いつの間にか一つになって、それへ向こうをむいた宗《そう》演《えん》老師《*》が腰《こし》をかけている。その両側にはいろいろな楽器を持った坊《ぼう》さんが、一列にずっと並《なら》んでいる。奥《おく》の方には、柩《ひつぎ》があるのであろう。夏《なつ》目《め》金《きん》之《の》助《すけ》之《の》柩《ひつぎ》と書いた幡《はた》が、下のほうだけ見えている。うす暗いのと香《こう》の煙《けむり》とで、そのほかは何があるのだかはっきりしない。ただ花輪の菊《きく》が、その中でうずたかく、白いものを重ねている。――式はもう誦《ず》経《きょう》がはじまっていた。
僕は、式に臨《のぞ》んでも、悲しくなる気づかいはないと思っていた。そういう心もちになるには、あまり形式が勝《まさ》っていて、万《ばん》事《じ》がおおぎょうにできすぎている。――そう思って、平気で、宗演老師の秉《へい》炬《きよ》法《ほう》語《ご》を聞いていた。だから、松《まつ》浦《うら》君の泣き声を聞いた時も、始めは誰《だれ》かが笑っているのではないかと疑ったくらいである。
ところが、式がだんだん進んで、小宮さんが伸《しん》六《ろく》さん《*》といっしょに、弔《ちよう》辞《じ》を持って、柩の前へ行くのを見たら、急に〓《まぶた》の裏が熱くなってきた。僕の左には、後《ご》藤《とう》末《すえ》雄《お*》君が立っている。僕の右には、高等学校の村田先生《*》がすわっている。僕は、なんだか泣くのが外《がい》聞《ぶん》の悪いような気がした。けれども、涙《なみだ》はだんだん流れそうになってくる。僕の後ろに久《く》米《め》がいるのを、僕は前から知っていた。だからその方を見たら、どうかなるかもしれない。――こんなあいまいな、救助を請《こ》うような心もちで、僕は後ろをふりむいた。すると、久米の眼が見えた。が、その眼にも、涙がいっぱいにたまっていた。僕はとうとうやりきれなくなって、泣いてしまった。隣にいた後藤君が、けげんな顔をして、僕の方を見たのは、いまだによく覚えている。
それから、何がどうしたか、それは少しも判然しない。ただ久米が僕の肘《ひじ》をつかまえて、「おい、あっちへ行こう」とかなんとか言ったことだけは、記《き》憶《おく》している。そのあとで、涙《なみだ》をふいて、眼をあいたら、僕の前に掃《は》きだめがあった。なんでも、斎《さい》場《じよう》とどこかの家との間らしい。掃きだめには、卵のからが三つ四つすててあった。
少したって、久《く》米《め》と斎場へ行ってみると、もう会《かい》葬《そう》者《しや》がおおかた出て行ったあとで、広い建物の中はどこを見ても、がらんとしている。そうして、その中で、ほこりのにおいと香《こう》のにおいとが、むせっぽくいっしょになっている。僕たちは、安倍さんのあとで、お焼《しよう》香《こう》をした。すると、また、涙が出た。
外へ出ると、ふてくされた日が一面に霜《しも》どけの土を照らしている。その日の中を向こうへ突《つつ》きって、休所へはいったら、誰かが蕎麦《そば》饅頭《まんじゆう》を食えと言ってくれた。僕は、腹がへっていたから、すぐに一つとって口へ入れた。そこへ大学の松《まつ》浦《うら》先生《*》が来て、骨《こつ》上《あ》げのことか何か僕に話しかけられたように思う。僕は、天とう《*》も蕎麦饅頭もしゃくにさわっていた時だから、はなはだ無《ぶ》礼《れい》な答をしたのに相《そう》違《い》ない。先生は手がつけられないという顔をして、帰られたようだった。あの時のことを今思うと、少からず恐《きよう》縮《しゆく》する。
涙のかわいたのちには、なんだか張《はり》合《あい》ない疲《ひ》労《ろう》ばかりが残った。会葬者の名《めい》刺《し》を束《たば》にする。弔《ちよう》電《でん》や宿所書きを一つにする。それから、葬《そう》儀《ぎ》式場の外の往《おう》来《らい》で、柩《きゆう》車《しや》の火葬場へ行くのを見送った。
その後は、ただ、頭がぼんやりして、眠いということよりほかに、何も考えられなかった。
(大正五年十二月)
注 釈
老 年
*橋《はし》場《ば》 東京都台《たい》東《とう》区《く》橋場。江《え》戸《ど》時代、舟《ふな》宿《やど》があった。
*中《なか》洲《ず》 中央区日本橋中洲。酒《しゆ》亭《てい》・茶《ちや》席《せき》があった。
*代《だい》地《ち》 浅草蔵前の隅《すみ》田《だ》川に面した地。舟宿があった。
*三《さん》座《ざ》 中村・市村・森田の江戸三座。公《こう》許《きよ》の歌《か》舞《ぶ》伎《き》劇場。江戸末期、浅草猿《さる》若《わか》町《ちよう》に移された。
*山《さん》王《のう》様《さま》 千代田区永《なが》田《た》町《ちよう》にある日《ひ》枝《え》山《さん》王《のう》神社。その祭礼は神田明《みよう》神《じん》とともに江戸二大祭礼の一。
*津《つ》藤《とう》 富《ふ》豪《ごう》・通《つう》人《じん》津《つ》国《くに》屋《や》藤《とう》兵《べ》衛《え》。細《さい》木《き》香《こう》以《い》と号す。文士・画人の保護者。自らも子とともに狂《きよう》歌《か》を詠んだ。龍《りゆう》之《の》介《すけ》の養母トモの叔《お》父《じ》。「孤《こ》独《どく》地《じ》獄《ごく》」参照。
*金《きん》瓶《べい》大《だい》黒《こく》 吉《よし》原《わら》の遊《ゆう》女《じよ》屋《や》の屋号か。
*「猫《ねこ》の水のむ音でなし」 よくきけば猫の水のむ音でなし。川《せん》柳《りゆう》の破《ば》礼《れ》句《く》。
ひょっとこ
*吾《あ》妻《づま》橋《ばし》 東京都台《たい》東《とう》区花《はな》川《かわ》戸《と》と吾妻橋一丁目とを結び隅《すみ》田《だ》川《がわ》にかかる東京最初の鉄橋で、ここから上流にかけての東岸一帯は桜《さくら》の名所だった。
*言《こと》問《とい》の桟《さん》橋《ばし》 現在の言問橋は昭和三年架《か》されたもので、それ以前は花見時などに河岸に桟橋を仮《か》設《せつ》した。
*ちゃんぎり 笛《ふえ》・太《たい》鼓《こ》の囃《はな》子《し》に合わせ用いる小形の鉦《しよう》。ばちで内面を打ち嶋らす。
*山の宿《しゆく》 吾妻橋と言問橋の間の西岸の上半分を浅草山の宿町といった。
*味《み》噌《そ》を上げる 自《じ》慢《まん》する。
*Janus 古代ローマの神。頭の前と後に顔をもち門口を守《しゆ》護《ご》する。
*南《みなみ》伝《でん》馬《ま》町《ちよう》 中央区の町名。問《とん》屋《や》が多い。
*七《しち》面《めん》様《さま》 七面大《だい》明《みよう》神《じん》の略《りやく》。日《にち》蓮《れん》宗《しゆう》の守護神。
仙 人
*鬼《き》門《もん》道《どう》 元《げん》曲《きよく》の舞台装《そう》置《ち》の一。役者の出入口で、わが国の能舞台における橋《はし》懸《がか》りに当る。
*雑《ざつ》劇《げき》 元《げん》の時代に流行した歌劇。元曲または北曲ともいう。歌曲・せりふ・しぐさの三者から成り、通常四折(四幕)。
*楔《せつ》子《し》 事件が複雑で四折(幕)に収《おさ》まらぬ場合、折首(序《じよ》幕)または折間(あいの幕)に用いる軽い幕。
*正《せい》旦《たん》 雑劇の女の主役(主役が男ならば正末)。
*浄《じよう》 敵《かたき》役《やく》。
*白《はく》 せりふ。
*〓《そう》子《し》大《だい》 〓操子は声、大はほめことば。「いい声だ、いいぞ」の意味。
*紙《し》銭《せん》 六道銭。葬《ほうむ》る時、紙で銭《ぜに》の形を作り、棺《かん》の中に入れるもの。
*千《せん》鎰《いつ》 鎰は金貨の目方の単位。
*呂《ろ》祖《そ》 名は真人、本名は嵒《がん》、字《あざな》は洞《とう》賓《ひん》、呂祖と称《しよう》す。唐《とう》代《だい》京兆の人。八仙《せん》の一。
*黄白 金と銀。金銭のこと。
*陶《とう》朱《しゆ》の富《とみ》 陶朱は越《えつ》王《おう》勾《こう》践《せん》の賢《けん》臣《しん》苑《はん》蠡《れい》の別名で、猪《ちよ》頓《とん》とともに有名な富《ふ》豪《ごう》。巨万の富をいう。
羅生門
*羅《ら》生《しよう》門《もん》 平《へい》安《あん》京《きよう》(京都)中央大通り朱《す》雀《ざく》大路の南端にあった門。現在、東寺の西に羅《ら》城《じよう》門《もん》趾《し》がある。
*旧《きゆう》記《き》 古い記録。素材となった「今《こん》昔《じやく》物語」などをさすのであろうが、この部分については「方《ほう》丈《じよう》記《き》」に出ている。
*襖《あお》 あわせのこと。綿《わた》を入れたものもあった。
*申《さる》の刻《こく》下《さが》り 午後四時過ぎ。
*山《やま》吹《ぶき》の汗衫《かざみ》 汗を吸い取るための黄色の単衣《ひとえ》。
*聖《ひじり》柄《づか》 鮫《さめ》皮《がわ》をつけず、木《き》地《じ》のままの刀《とう》剣《けん》の柄《つか》。
*検《け》非《び》違《い》使《し》 洛《らく》中《ちゆう》の犯《はん》罪《ざい》をとりしまり、秩《ちつ》序《じよ》の維《い》持《じ》をつかさどった職。
*髪《かみ》を抜《ぬ》いた女 この話は「今昔物語」巻二十九第十八と巻三十一第三十一にある。
*太《た》刀《て》帯《わき》 「たちはき」とも。東《とう》宮《ぐう》坊《ぼう》警《けい》固《ご》の武《ぶ》士《し》。舎人《とねり》の中から武芸にすぐれた者三十名を選び、刀を持たせたもの。「陣《じん》」とはその詰《つめ》所《しよ》。
鼻
*禅《ぜん》智《ち》内《ない》供《ぐ》 民《みん》部《ぶの》少《しよう》輔《ゆう》行《ゆき》光《みつ》の子。内供は内《ない》供《ぐ》奉《ぶ》僧《そう》の略《りやく》。広く高徳の僧《そう》十人を選び、宮中の内道場に奉《ほう》仕《し》させて天《てん》皇《のう》の健康などを祈《いの》る読《ど》経《きよう》をさせた。
*池《いけ》の尾《お》 京都府宇《う》治《じ》郡にある地名。
*鋺《かなまり》 金属製のおわん。
*内《ない》典《てん》外《げ》典《てん》 内典は仏教の教典。外典はそれ以外の一《いつ》般《ぱん》書《しよ》。
*目《もく》連《れん》 釈《しや》迦《か》の高弟子の一人。神《じん》通《つう》第一。
*舎《しや》利《り》弗《ほつ》 釈迦の高弟子の一人。知恵第一。
*馬《め》鳴《みよう》 竜《りゆう》樹《じゆ》と同じころの西インドの仏《ぶつ》教《きよう》理論家。大《だい》乗《じよう》仏教の発展につとめた。
*震《しん》旦《たん》 中国。
*長《ちよう》楽《らく》寺《じ》 京都市東山区円《まる》山《やま》公園の上にある。
*折《お》敷《しき》 四方に折りまわした緑《ふち》をつけたへぎ(杉《すぎ》や檜《ひのき》のごく薄《うす》い板)製の角盆《ぼん》。食器をのせる。
*法《ほう》慳《けん》貪《どん》 法典に対して無《む》慈《じ》悲《ひ》なこと。法術を容易に他へ伝《でん》授《じゆ》しないこと。
*風《ふう》鐸《たく》 塔《とう》などの軒《のき》の四隅《すみ》につり下げる小さい鐘《かね》。
孤独地獄
*大《だい》通《つう》 遊《ゆう》芸《げい》に精《せい》通《つう》した大趣《しゆ》味《み》人。
*柳《りゆう》下《か》亭《てい》種《たね》員《かず》 文化四年―安政五年(一八〇七―一八五八)。合巻作者。柳《りゆう》亭《てい》種《たね》彦《ひこ》の門《もん》人《じん》。
*善《ぜん》哉《ざい》庵《あん》永《えい》機《き》 文政五年―明治二十六年(一八二二―一八九三)。幕《ばく》末《まつ》の俳《はい》人《じん》。芭《ば》蕉《しよう》全集を編《あ》んだ。
*冬《とう》映《えい》 同じく幕末の俳人。
*宇《う》治《じ》紫《し》文《ぶん》 一《いつ》中《ちゆう》節《ぶし》宇治派家《いえ》元《もと》。ここは一世《せい》紫文(寛《かん》政《せい》三年―安政五年 一七九一―一八五八)をさすか。
*都《みやこ》千《せん》中《ちゆう》 一中節六代目、通《つう》称《しよう》大野万太。都姓《せい》は一中節家元の姓。天《てん》保《ぽう》五年(一八三四)没《ぼつ》。
*乾《けん》坤《こん》坊《ぼう》良《りよう》斎《さい》 通称海沢良助。幕末の落語家、講談師。
*燈《とう》籠《ろう》時《じ》分《ぶん》 吉《よし》原《わら》仲《なか》之《の》町《ちよう》で陰《いん》暦《れき》七月一日から晦《みそ》日《か》まで茶屋に燈籠をさげる。
*太《たい》鼓《こ》医者 医者の風《ふう》体《てい》をしている太鼓もち。
*根《こん》本《ぽん》地《じ》獄《ごく》 地獄の中心。八大地獄・八寒地獄をいう。
*近《きん》辺《ぺん》地獄 根本地獄におのおの十六ずつある副《ふく》地獄。
*金《こん》剛《ごう》経《きよう》の疏《そ》抄《しよう》 金剛般《はん》若《にや》波《は》羅《ら》蜜《み》多《た》経の略称。禅《ぜん》宗《しゆう》でもっぱら日常読《どく》誦《じゆ》する。疏抄は解釈ねた抄本。
*下《しも》総《うさ》の寒《さむ》川《かわ》 千葉県千葉市寒川。
父
*中学の四年生 芥《あくた》川《がわ》は明治四十一年東京府立第三中学校(現都立両国高校)第四学年に在学したが、日光へ修学旅行したのは翌《よく》四十二年十月二十六日―二十八日である。
*被《ひ》服《ふく》廠《しよう》 陸軍省の工場。陸軍用の衣服などを製造した。当時本《ほん》所《じよ》区横《よこ》網《あみ》町にあった。
*割引の電車 市電の始発から一時間の間、運賃を早朝割引した。
*能《の》勢《せ》五《い》十《そ》雄《お》 芥川と小学校および中学校同《どう》窓《そう》の実在した人物。
*同じ小学校 本所元町の江《こう》東《とう》小学校。
*チョイス チョイス・リーダー(Choice Reader)。当時一般に使用された英語教科書。
*カロロ五世 一五〇〇年―一五五八年。スペイン王カルロス一世(一五一六―一五五六在位)、ドイツ皇《こう》帝《てい》(一五一九―一五五九在位)ともなり、カール五世 Karl X と称《しよう》す。
*球《きゆう》竿《かん》 長さ一・五メートルほどの細い棒《ぼう》の両《りよう》端《たん》に木球をつけた体操用具。
*パンチ Punch(英)。ポンチ絵。諷《ふう》刺《し》的な滑《こつ》稽《けい》な絵。
*日かげ町 日影町。港区新橋四丁目あたりにあった町名。古着屋が多かった。
野呂松人形
*野《の》呂《ろ》松《ま》人形 江《え》戸《ど》の人形師野呂松勘《かん》兵《べ》衛《え》が金《きん》平《ぴら》浄《じよう》瑠《る》璃《り》の和泉《いずみ》太《だ》夫《ゆう》座で間《あい》狂《きよう》言《げん》として寛《かん》文《ぶん》年間(一六六一―一六七三)に使いだした奇《き》怪《かい》な容《よう》貌《ぼう》の道《どう》化《け》人形。幕《ばく》末《まつ》には金持のお座《ざ》敷《しき》芸になり、明治に入り少数の人々に伝《でん》承《しよう》されていたが現在は全く消《しよう》滅《めつ》し、佐《さ》渡《ど》の人形浄瑠璃の中に混《こん》同《どう》された形がわずかに残存している。
*世《せ》事《じ》談《だん》 「本《ほん》朝《ちよう》世事談綺《き》」。別名「近世世事談」。菊《きく》岡《おか》沾《てん》涼《りよう》著《ちよ》。享《きよう》保《ほう》十九年(一七三四)刊。江戸時代の民間常用物の起《き》源《げん》を列《れつ》挙《きよ》したもの。
*長《なが》袖《そで》 長い袖の衣服を着た人をあざけっていう称《しよう》。公《く》卿《げ》・医者・僧《そう》侶《りよ》・学者など。
*間《あい》狂《きよう》言《げん》 能の演《えん》奏《そう》に、シテ・ワキ・ツレ・子《こ》方《かた》などのほか、狂言師の登場すること。
*soliloque ソリロオク(仏)。ひとりごと。独《どく》白《はく》。
*Hissarlik ヒサアルリク。ギリシアのトロイの遺《い》跡《せき》が発《はつ》掘《くつ》される以前、そのあたりは、ヒサアルリクの丘《おか》と呼ばれていた。
芋 粥
*元《がん》慶《ぎよう》 八七七年―八八四年。陽《よう》成《ぜい》天《てん》皇《のう》の御《み》代《よ》。
*仁《にん》和《な》 八八五年―八八八年。光《こう》孝《こう》・宇《う》多《だ》天皇の御代。
*五《ご》位《い》 位《い》階《かい》の一。昇《しよう》殿《でん》を許《ゆる》された者の最下位。
*旧《きゆう》記《き》 素《そ》材《ざい》となった「今《こん》昔《じやく》物語」巻二十六第十七、または「宇《う》治《じ》拾《しゆう》遺《い》物語」巻一第十八をさす。
*興《きよう》言《げん》利《り》口《こう》 人々を笑わせたり、感動させたりする即《そつ》興《きよう》の話術。「古《こ》今《こん》著《ちよ》聞《もん》集《じゆう》」に例話がみえる。
*篠《ささ》枝《え》 竹の筒《つつ》で作り、酒を入れる器《うつわ》。
*神《しん》泉《せん》苑《えん》 二《に》条《じよう》城《じよう》の南にあった東西二町・南北四町の御《ぎよ》苑《えん》。
*こまつぶり こまの古《こ》称《しよう》。
*臨《りん》時《じ》の客 一月二日の大臣家の大《だい》饗《きよう》。
*第《だい》 邸《てい》宅《たく》。
*二《に》宮《ぐう》の大《だい》饗《きよう》 二宮とは、東《とう》宮《ぐう》、中《ちゆう》宮《ぐう》。旧《きゆう》暦《れき》一月二日に行われた大饗の一。
*取《とり》食《ば》み 饗《きよう》宴《えん》の残《ざん》物《ぶつ》を乞《こ》食《じき》などに投げ与《あた》えること。
*恪《かく》勤《ごん》 院《いん》・摂《せつ》関《かん》・大臣家に仕える侍《さむらい》。
*朔《さく》北《ほく》 北方の地。利《とし》仁《ひと》は多く敦《つる》賀《が》に住んでいた。
*行《むか》縢《ばき》 乗馬の際草木の露《つゆ》を防ぐために腰《こし》より下を覆《おお》うもの。鹿《しか》・熊《くま》・虎《とら》などの毛皮で作る。片《かた》皮《がわ》は片方。
*打《うち》出《で》の太《た》刀《ち》 金銀を延《の》べて飾《かざ》った太刀。
*舎《とね》人《り》 天皇・皇族および貴人に近《きん》侍《じ》する雑《ざつ》役《えき》。
*関《せき》山《やま》 逢《おう》坂《さか》山《やま》。
*三《み》井《い》寺《でら》 大《おお》津《つ》市にある園《おん》城《じよう》寺《じ》の俗《ぞく》称《しよう》。
*壷《つぼ》胡《やな》〓《ぐい》 矢を容《い》れて背《せ》に負う筒《つつ》形《がた》の具《ぐ》。
*巳《みの》時《とき》 午前十時ごろ。
*高《たか》島《しま》 滋《し》賀《が》県高島郡高島町。三井寺から約七里《り》、敦賀から約十里。
*広《こう》量《りよう》 頼《たよ》りない。「今《こん》昔《じやく》物語」などにでてくる用語。
*破《わり》籠《ご》 白《しら》木《き》で作り、内部を仕切り、かぶせ蓋《ぶた》をした弁当箱。
*戌《いぬの》時《とき》 午前八時ごろ。
*曹《ぞう》司《し》 官《かん》吏《り》や女《によ》官《かん》の用部屋。
*卯《うの》時《とき》 午前六時ごろ。
*あまずらみせん 甘《あま》葛《くず》を煎《せん》じた汁《しる》。
手 巾
*長谷川謹《きん》造《ぞう》 モデルは新《に》渡《と》戸《べ》稲《いな》造《ぞう》(文久二年―昭和八年 一八六二―一九三三)。外国語学校、札《さつ》幌《ぽろ》農学校を卒業後、明治十七年アメリカへ留学、三年後さらにドイツへ留学。帰朝後、札幌農学校、京都大学、東京大学などの教授を歴任。キリスト教信者で国際平和を主張し、しかも愛国心が強く、著《ちよ》書《しよ》の一つに英文の「武《ぶ》士《し》道《どう》」がある。マリ子夫人は留学中に結《けつ》婚《こん》したアメリカ人で子がなかった。
*ストリントベルクの作劇術《ドラマトウルギイ》 A.Strindberg(一八四九―一九一二)は、スエーデンの作家。芥《あくた》川《がわ》は非常に愛読し影《えい》響《きよう》を受けた。“Dramaturgie”(一九〇七―一九一〇)は随《ずい》想《そう》風《ふう》に書かれた演《えん》劇《げき》論《ろん》。
*オスカア・ワイルドのデ・プロフンディスとか、インテンションズ オスカー・ワイルド(Oscar Wilde 一八五六―一九〇〇)はイギリスにおける十九世紀末耽《たん》美《び》主義の代表作家。著《ちよ》書《しよ》「芸術的意《い》想《そう》」(“Intentions” 一八九一)、「深《しん》淵《えん》より」(“De Profundis” 一九〇五)。
*今のカイゼルのおとうさんに当る、ウィルヘルム第一世《せい》が、崩《ほう》御《ぎよ》された 一八八八年、ドイツ皇《こう》帝《てい》ヴィルヘルム一世(Wilhelm T)の死《し》去《きよ》後その子フリードリッヒ三世が即《そく》位《い》したが九十九日間の治《ち》世《せい》で終り、その子すなわちヴィルヘルム一世の孫《まご》のヴィルヘルムニ世(Wilhelm U 一八八二年―一九一八年在位、一九四一年没《ぼつ》)が即位した。このヴィルヘルム二世が「今のカイゼル」であるから「おとうさんに当る、ウィルヘルム第一世」とあるのはまちがい。あとで「おじいさまの陛《へい》下《か》」とあるように、彼の祖父に当る。
*ハイベルク夫人 Frau Heiberg デンマークの抒《じよ》情《じよう》詩人ヨハン・ルドビッヒ・ハイベルク(一七九一―一八六〇)の夫人か。未《み》詳《しよう》。
*臭味《メツツヘン》 エミール・シェリングのドイツ訳《やく》(一九一一年出版)にはMa《..》tzchenとある。
煙草と悪魔
*たばこの法《はつ》度《と》 銭《ぜに》法度 幕《ばく》府《ふ》によるたばこの禁止令と流通貨《か》幣《へい》の制定。
*伴《ば》天《て》連《れん》 Padre(ポルトガル語)。神《しん》父《ぷ》。
*フランシス上《しよう》人《にん》 Francis Xavier 一五〇一年―一五二五年。スペイン・ジェスイット会の宣《せん》教《きよう》師《し》。一五四九年、日本にはじめてキリスト教を伝えた。
*パアテル Pater(ラテン語)。神父。
*アナトオル・フランスの書いたもの。「司祭の木犀草《ルレゼダ・ジユ・キユレ》」。
*伊《い》留《る》満《まん》 irmao(ポルトガル語)。宣教師の位《くらい》。神父の次。
*正《しよう》物《ぶつ》 ほんもの。
*阿媽港《あまかは》 中国広《カン》東《トン》省《しよう》の港。いまのマカオ。当時、ポルトガル商人居《きよ》留《りゆう》地《ち》。
*波《は》羅《ら》葦《い》僧《そ》 Paraiso(ポルトガル語)。天国。
*聖《さん》保《ぽお》羅《ろ》 Saint Paul ロンドン市内にあるキリスト教寺《じ》院《いん》。
*掌《てのひら》に肉《ま》豆《め》がないので トルストイの「イワンのばか」による。イワンの、耳のわるい妹は、食物をもらいに来る者のうち、手にまめのないのは怠《なま》け者だといって追いかえす。
*珍《ちん》陀《だ》の酒《さけ》 赤ぶどう酒。「珍陀(tinto)」は、ポルトガル語で「赤」。
*波《は》羅《ら》葦《い》僧《そ》垤《て》利《れ》阿《あ》利《る》 Paraiso terral(ポルトガル語)。地上の楽園。
*じゃぼ Diabo(ポルトガル語)。悪《あく》魔《ま》。
*波《は》宇《う》寸《す》低《ち》茂《も》 baptismo(ポルトガル語)。洗《せん》礼《れい》。
*因《いん》辺《へ》留《る》濃《の》 inferno(ポルトガル語)。地《じ》獄《ごく》。
*毘《び》留《る》善《ぜん》麻《ま》利《り》耶《や》 Virgen Maria(ポルトガル語)。処《しよ》女《じよ》マリア(聖《せい》母《ぼ》マリアのこと)。
*泥《で》烏《う》須《す》 Deus(ラテン語)。神。
*ペンタグラマ Pentagrama(ポルトガル語)。☆の星型。魔よけのまじない。
*南《なん》蛮《ばん》寺《じ》 織《お》田《だ》信《のぶ》長《なが》の許《きよ》可《か》によって天《てん》正《しよう》四年(一五七六)、京都にたてられたキリスト教会堂。
*松《まつ》永《なが》弾《だん》正《じよう》 松永久《ひさ》秀《ひで》。永《えい》正《しよう》七年―天正五年(一五一〇―一五七七)。はじめ三《み》好《よし》長《なが》慶《よし》に仕え、その死後長慶の子義《よし》興《おき》を毒《どく》殺《さつ》、のち、足《あし》利《かが》将《しよう》軍《ぐん》義《よし》輝《てる》を自殺させ、信長にくだったが、天正五年そむいて殺された。
*果《か》心《しん》居《こ》士《じ》 別号因《いん》果《が》居士。生年不《ふ》詳《しよう》―元《げん》和《な》三年(?―一六一七)。茶《さ》道《どう》の名《めい》人《じん》で、風《ふう》雅《が》の道にすぐれていた。
煙 管
*前田斉《なり》広《ひろ》 前田家十一代の藩《はん》主《しゆ》。
*大《おお》廊《ろう》下《か》詰《づめ》 大廊下は江《え》戸《ど》城《じよう》本《ほん》丸《まる》の座《ざ》敷《しき》の名。上下に分れ、上の部屋には、将軍の親族三家三公卿《きよう》、下の部屋には、加《か》賀《が》前田、越《えち》前《ぜん》松平、因《いな》幡《ば》池田、美《みま》作《さか》松平など大《だい》諸《しよ》侯《こう》が詰めた。
*御《お》数《す》寄《き》屋《や》坊《ぼう》主《ず》 江戸幕《ばく》府《ふ》の職名。若《わか》年《どし》寄《より》の所《しよ》管《かん》に属し、茶《ちや》礼《れい》・茶器をつかさどる。二十俵《ぴよう》二人扶《ぶ》持《ち》。
*role ロオル(仏)。俳優の役割。
*駄《だ》六《ろく》 愚《ぐ》人《じん》、ろくでなし。ここでは駄《だ》物《ぶつ》。
*うすいも うすあばた。
*本《ほん》郷《ごう》の屋《や》敷《しき》 前田家の江《え》戸《ど》屋敷は、本郷の現在の東京大学の場所にあった。
*賀《が》節《せつ》朔《さく》望《ぼう》 祝日と一日と十五日。
*運《うん》上《じよう》 江戸時代の雑《ざつ》税《ぜい》の一。商・工・鉱等の各種営業に対して課《か》された。
*八《はつ》朔《さく》の登《と》城《じよう》 陰《いん》暦《れき》八月朔《さく》日《じつ》(一日)の称《しよう》。天正十八年のこの日、徳川家《いえ》康《やす》が江戸にはじめて入城をしたので特別な祝日とし、大小名および直《じき》参《さん》の諸《しよ》侯《こう》白《しろ》帷《かた》子《びら》を着て登城し、祝《しゆく》詞《じ》を申し上げた。
*斉《なり》泰《やす》 文化八年―明治十七年(一八一一―一八八四)。斉広の嫡《ちやく》男《なん》。
*慶《よし》寧《やす》 天《てん》保《ぽう》元年―明治七年(一八三〇―一八七四)。斉泰の嫡男。
MENSURA ZOILI
*MENSURA ZOILI ゾイリア価値測定器。芥《あくた》川《がわ》の造語。MENSURAはラテン語で、はかり。
*木下杢《もく》太《た》郎《ろう》 明治十八年―昭和二十年(一八八五―一九四五)。東大医学部卒。東大医学部教授、詩人、劇作家。本名太田正雄。
*ZOILIA 架《か》空《くう》の国。ギリシアの批評家Zoilusにちなんで、嫉《しつ》妬《と》深い酷《こく》評《ひよう》家《か》をZoileという。ゾイリア共和国とはそれをふまえている。
*パラス・アテネ Pallas Athene 学問・知恵などを司《つかさど》るギリシアの女《め》神《がみ》。
*久《く》米《め》 久米正雄。明治二十四年―昭和二十七年(一八九一―一九五二)。小説家、戯《ぎ》曲《きよく》家《か》。東大在学中、芥川、菊《きく》池《ち》寛《かん》、松《まつ》岡《おか》譲《ゆずる》らと第三次、第四次「新《しん》思《し》潮《ちよう》」を発刊。
*「銀貨」 大正五年十一月「新潮」に発表。商業雑誌にのせた最初の作品。あまり好評ではなかった。
*「煙管《きせる》」 大正五年十一月「新小説」に発表。
*Vox Populi,vox Dei ラテン語。民《たみ》の声は神の声なり。
*St.John Ervine 一八八三年―一九七一年。イギリスの劇作家、小説家。
*The Critics 批評家。
運
*鳥《と》羽《ば》僧《そう》正《じよう》 天《てん》喜《き》元年―保《ほう》延《えん》六年(一〇五三―一一四〇)。源《みなもとの》隆《たか》国《くに》の子。大僧正まで昇《のぼ》ったが、大《やま》和《と》絵《え》をよくし特に戯《ぎ》画《が》をもって知られる。鳥《ちよう》獣《じゆう》戯画・信《し》貴《ぎ》山《さん》縁《えん》起《ぎ》は彼の作というが疑わしい。
*西の市《いち》 朱《すざ》雀《く》大《おお》路《じ》の七条辺。東の市と並んで三十三種の品物の専門店があり、月の後半、正午から日《ひ》暮《ぐれ》まで開かれた。
*白《はく》朱《しゆ》社《しや》 近《おう》江《み》の白《しら》鬢《ひげ》社か。
*放《ほう》免《めん》 検《け》非《び》違《い》使《し》庁の下役人。放免された罪《ざい》人《にん》が罪人の追《つい》捕《ほ》や護《ご》送《そう》役をした。
*経営 接《せつ》待《たい》。
*白《はく》丁《ちよう》 白色の狩《かり》衣《ぎぬ》をきた雑《ざつ》役《えき》。
*看督《かどの》長《おさ》 検《け》非《び》違《い》使《し》の下に属する官。追捕・牢《ろう》獄《ごく》のことをつかさどった者。
*実《じつ》録《ろく》 盗《とう》品《ひん》の実体を記録すること。
尾形了斎覚え書
*覚え書《がき》 ここでは取調べに当って書いた参考人の供《きよう》述《じゆつ》書《しよ》の意。尾《お》形《がた》了《りよう》斎《さい》については未《み》詳《しよう》。架《か》空《くう》の人物か。この作品の形式には鴎《おう》外《がい》の「興《おき》津《つ》弥《や》五《ご》右衛《え》門《もん》の遺《い》書《しよ》」の影《えい》響《きよう》がある。
*検《けん》脈《みやく》 患《かん》者《じや》の脈を調べること。診《しん》察《さつ》。
*泥《で》烏《う》須《す》如《によ》来《らい》 デウスのこと。キリシタン教《きよう》義《ぎ》を説《と》くのに、多くの仏《ぶつ》教《きよう》用《よう》語《ご》が巧《たく》みに取り入れられた。
*村《むら》払《はら》い 江《え》戸《ど》時代、その居《きよ》住《じゆう》の村より放《ほう》逐《ちく》する刑《けい》。
*卯《うの》時《とき》 午前六時ごろ。
*傷《しよう》寒《かん》 重い熱病。今のチフスの類。
*煎《せん》薬《やく》三《さん》貼《じよう》 貼は、のり・紙などを数えるに用いる語であるが、ここは、煎じ薬を三包みという意か。
*未《ひつじ》時《どき》下《さ》がり 午後二時過ぎ。
*巳《み》の上《じよう》刻《こく》 午前十時半ごろ。
*辰《たつ》の下《げ》刻《こく》 午前九時過ぎ。
*懺《こい》悔《さん》 Contissao(ポルトガル語)。キリシタンが神《しん》父《ぷ》に自己の罪《つみ》を告白すること。
*瘴《しよう》気《き》 熱病を起させる山《やま》川《かわ》の悪気。山川の毒《どく》気《け》。
日光小品
*I have…… 英訳「猟《りよう》人《じん》日《につ》記《き》」中の句か。俺《おれ》はお前と何のかかわりもない、の意。
*足《あし》尾《お》 栃《とち》木《ぎ》県《けん》上《かみ》都《つ》賀《が》郡足尾町の銅《どう》精《せい》錬《れん》所《じよ》。
*和田さん 和田三造。明治から大正にかけての代表的洋画家。帝《てい》展《てん》審《しん》査《さ》員《いん》。
*イラショナル irrational(英)。不合理な。
*こまい 壁下地にわたした竹。
*ピーター・クロポトキン Peter Alexeivitch Kropotkin 一八四二年―一九一二年。ロシアの無政府主義者。この句は「青年に訴《うつた》う」にある。
*真を描《えが》く 自然主義の主張。
*「形ばかりの世界」 自然主義者田山花《か》袋《たい》の主張した平面描《びよう》写《しや》論をさす。
*排《はい》技《ぎ》巧《こう》と言い無《む》結《けつ》構《こう》と言う ともに自然主義文学の主張。
大川の水
*大《おお》川《かわ》端《ばた》 大川は隅《すみ》田《だ》川《がわ》の異《い》称《しよう》。吾《あ》妻《づま》橋《ばし》から下流の右岸一帯を大川端と呼ぶ。芥《あくた》川《がわ》は明治二十五年、中央区入《いり》船《ふね》町の新原家で生まれたが、生後九か月ごろ母の実家である芥川家にあずけられ、十二歳の時に正式に養子となり、府立第三中学校を卒業した。明治四十三年(十八歳)までそこに住んだ。
*百本杭《ぐい》 墨《すみ》田《だ》区横《よこ》網《あみ》にのぞむ一帯の旧《きゆう》俗《ぞく》称《しよう》。
*ダンヌンチョ G.D'Annunzio 一八六三―一九三八年。イタリアの作家。世紀末耽《たん》美《び》派《は》。
*班《はん》女《じよ》 父をたずねに出たわが子梅《うめ》若《わか》をたずねてはるばる東国にやって来た都の女班女の前が、隅《すみ》田《だ》川原で梅若が人買いに殺されたことを聞いて狂《きよう》乱《らん》する。謡《よう》曲《きよく》「班女」「隅田川」、浄《じよう》瑠《る》璃《り》「角《すみ》田《だ》川」「双《そう》生《せい》隅田川」などに見える。
*シュチンムング Stimmung(独)。ふんいき。情《じよう》緒《ちよ》。
*十六夜《いざよい》清《せい》心《しん》が身をなげた時 河《かわ》竹《たけ》黙《もく》阿《あ》弥《み》作「花《はな》街《もよ》模《うあ》様《ざみ》蘚《の》色《いろ》縫《ぬい》」(安《あん》政《せい》六年〈一八五九〉)。
*源《げん》之《の》丞《じよう》が……見そめた時 河竹黙阿弥作「夢《ゆめ》 結《むすぶ》 蝶《ちよう》 鳥《にとり》 追《おい》」(安政三年)。
*鋳《い》掛《かけ》屋《や》松五郎 河竹黙阿弥作「船《ふねに》打《うち》込《こむ》橋《はし》間《まの》白《しら》波《なみ》」(慶《けい》応《おう》二年〈一八六六〉)。
*猪《ちよ》牙《き》船 細長い小舟。隅田川の遊船にも用いられた。
*ホフマンスタアル Hofmannsthal 一八七四年―一九二九年。オーストリアの作家。新ロマン派。“Erlebnis”(見《けん》聞《ぶん》 一八九二年)は十八歳の時の作で、夕《ゆう》暮《ぐれ》の自然の中に死と生とを思う象《しよう》徴《ちよう》的《てき》な詩。
*ライフライク life like(英)。生きているような。真にせまる。
葬儀記
*葬《そう》儀《ぎ》記《き》 夏《なつ》目《め》漱《そう》石《せき》の葬《そう》式《しき》の記。漱石は、大正五年十二月九日胃《い》潰《かい》瘍《よう》のため死《し》去《きよ》。十日東大で解《かい》剖《ぼう》。十二日午前十時、青《あお》山《やま》斎《さい》場《じよう》で葬式を行ない、落《おち》合《あい》火葬場で荼《だ》毘《び》に付《ふ》した。芥川は大正四年十二月以来漱石に師《し》事《じ》し、その愛《あい》顧《こ》を蒙《こうむ》った。
*奥《おく》さん 漱石夫人鏡《きよう》子《こ》。明治十年―昭和四十年(一八七七―一九六五)。
*和《わ》辻《つじ》さん 和辻哲《てつ》郎《ろう》。明治二十二年―昭和三十五年(一八八九―一九六〇)。
*岡田君 林原耕《こう》三《ぞう》(旧姓岡田)。東大で芥川と同級。早くから漱《そう》石《せき》に師事、芥川を漱石に紹介した。
*松《まつ》根《ね》さん 松根東《とう》洋《よう》城《じよう》。明治十一年―昭和四十一年(一八七八―一九六六)。本名豊《とよ》次《じ》郎《ろう》。「ホトトギス」の俳《はい》人《じん》。
*森田さん 森田草《そう》平《へい》。明治十四年―昭和二十四年(一八八一―一九四九)。
*鈴木さん 鈴木三《み》重《え》吉《きち》。明治十五年―昭和十一年(一八八二―一九三六)。
*安《あ》倍《べ》さん 安倍能《よし》成《しげ》。明治十六年―昭和四十一年(一八八三―一九六六)。
*赤木君 赤木桁《こう》平《へい》。明治二十四年―昭和二十四年(一八九一―一九四九)。評論家。
*松《まつ》浦《うら》君 松浦嘉《か》一《いち》。明治二十四年―昭和四十二年(一八九一―一九六七)。英文学者。
*江《え》口《ぐち》君 江口渙《かん》。明治二十年―昭和五十年(一八八七―一九七五)。作家。
*岡君 岡栄一郎。明治二十三年―昭和四十一年(一八九〇―一九六六)。作家。
*朝日新聞社 漱石は明治四十年四月朝日新聞社に入社。この時朝日新聞に「明《めい》暗《あん》」を連《れん》載《さい》中《ちゆう》。
*小《こ》宮《みや》さん 小宮豊《とよ》隆《たか》。明治十七年―昭和四十年(一八八四―一九六五)。
*野《の》上《がみ》さん 野上豊一郎。明治十六年―昭和二十五年(一八八三―一九五〇)。英文学者。
*宮《みや》崎《ざき》虎《とら》之《の》助《すけ》 宗教家。明治三十六年ごろ、宗教的自覚に達し、第一予言者は仏《ぶつ》陀《だ》、第二予言者はキリスト、第三予言者は自分だと称《しよう》し小石川白《はく》山《さん》神社付近に自由教《きよう》団《だん》を設けて毎日説教に従事。大正初年、われはメシヤなりというたすきをかけて歩き世人の注目を引いた。
*宗《そう》演《えん》老師 釈《しやく》宗演。安《あん》政《せい》六年―大正八年(一八五九―一九一九)。明治の有名な禅《ぜん》僧《そう》。円《えん》覚《かく》寺《じ》の管長。明治二十七年漱石はこの人のもとに参禅したことがある。
*伸《しん》六《ろく》さん 夏《なつ》目《め》伸六。明治四十一年―昭和五十年(一九〇八―一九七五)。漱石の次《じ》男《なん》。
*後藤末雄 明治十九年―昭和四十二年(一八八六―一九六七)。小説家。仏文学者。
*村田先生 一高教授。
*松《まつ》浦《うら》先生 松浦一《はじめ》。明治十四年―昭和四十一年(一八八一―一九六六)。英文学者。
*天とう 点《てん》湯《とう》。寺などで仏前または人に給する湯。
羅《ら》生《しよう》門《もん》・鼻《はな》・芋《いも》粥《がゆ》
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》
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平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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角川文庫『羅生門・鼻・芋粥』刊行