目次
羅生門《らしょうもん》
鼻
芋《いも》粥《がゆ》
運
袈裟《けさ》と盛遠《もりとお》
邪宗門
好色
俊寛《しゅんかん》
芥川龍之介 人と文学(三好行雄)
『羅生門《らしようもん》・鼻』について(吉田精一)
年譜
羅《ら》生《しよう》門《もん》
或日の暮方の事である。一人の下《げ》人《にん》が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯《ただ》、所々丹《に》塗《ぬり》の剥《は》げた、大きな円柱《まるばしら》に、蟋蟀《きりぎりす》が一匹とまっている。羅生門が、朱《す》雀大《ざくおお》路《じ》にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市《いち》女《め》笠《がさ》や揉《もみ》烏帽子《えぼし》が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男の外には誰もいない。
何故《なぜ》かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風《つじかぜ》とか火事とか饑《き》饉《きん》とか云う災がつづいて起った。そこで洛中《らくちゆう》のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹《に》がついたり、金銀の箔《はく》がついたりした木を、路《みち》ばたにつみ重ねて、薪《たきぎ》の料《しろ》に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理《しゆり》などは、元より誰も捨てて顧《かえりみ》る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐《こ》狸《り》が棲《す》む。盗人《ぬすびと》が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代り又鴉《からす》が何《ど》処《こ》からか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が、何羽となく輪を描いて、高い鴟《し》尾《び》のまわりを啼《な》きながら、飛びまわっている。殊に門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻《ごま》をまいたように、はっきり見えた。鴉は、勿論《もちろん》、門の上にある死人の肉を、啄《ついば》みに来るのである。――尤《もつと》も今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。唯、所々、崩《くず》れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞《くそ》が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖《あお》の尻を据えて、右の頬《ほお》に出来た、大きな面皰《にきび》を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺《なが》めていた。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可《べ》き筈《はず》である。ところがその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波に外ならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申《さる》の刻下《こくさが》りからふり出した雨は、未《いまだ》に上《あが》るけしきがない。そこで、下人は、何を措《お》いても差当《さしあた》り明《あ》日《す》の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇《ゆうやみ》は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜《ななめ》につき出した甍《いらか》の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑《いとま》はない。選んでいれば、築土《ついじ》の下か、道ばたの土の上で、饑死《うえじに》をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊《ていかい》した揚句に、やっとこの局所へ逢着《ほうちやく》した。しかしこの「すれば」は、何時《いつ》までたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、当然、その後《のち》に来《きた》る可き「盗人《ぬすびと》になるより外に仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きな嚔《くさめ》をして、それから、大《たい》儀《ぎ》そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火《ひ》桶《おけ》が欲しい程の寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗の柱にとまっていた蟋蟀《きりぎりす》も、もうどこかへ行ってしまった。
下人は、頸《くび》をちぢめながら、山吹の汗袗《かざみ》に重ねた、紺の襖《あお》の肩を高くして、門のまわりを見まわした。雨風の患《うれえ》のない、人目にかかる惧《おそれ》のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸《さいわい》門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯《はし》子《ご》が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖《ひじり》柄《づか》の太刀《たち》が鞘走《さやばし》らないように気をつけながら、藁《わら》草《ぞう》履《り》をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の容《よう》子《す》を窺《うかが》っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚《ひげ》の中に、赤く膿《うみ》を持った面皰《にきび》のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括《くく》っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其《そ》処此処《こここ》と、動かしているらしい。これは、その濁った、黄いろい光が、隅々《すみずみ》に蜘蛛《くも》の巣をかけた天井裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせ唯の者ではない。
下人は、守宮《やもり》のように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這《は》うようにして上りつめた。そうして体を出来るだけ、平《たいら》にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗《のぞ》いて見た。
見ると、楼の内には、噂《うわさ》に聞いた通り、幾つかの屍《し》骸《がい》が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云う事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。そうして、その屍骸は皆、それが、嘗《かつて》、生きていた人間だと云う事実さえ疑われる程、土を捏《こ》ねて造った人形のように、口を開《あ》いたり手を延ばしたりして、ごろごろ床《ゆか》の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖《おし》の如く黙っていた。
下人は、それらの屍骸の腐《ふ》爛《らん》した臭気に思わず、鼻を掩《おお》った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。或る強い感情が、殆悉《ほとんどことごとく》この男の嗅覚《きゆうかく》を奪ってしまったからである。
下人の眼は、その時、はじめて、その屍骸の中に蹲《うずくま》っている人間を見た。檜皮《ひわだ》色《いろ》の着物を着た、背の低い、痩《や》せた、白髪《しらが》頭の、猿《さる》のような老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木《き》片《ぎれ》を持って、その屍骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の屍骸であろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫《ざん》時《じ》は呼吸《いき》をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身《とうしん》の毛も太《ふと》る」ように感じたのである。すると、老婆は、松の木片を、床板の間に挿《さ》して、それから、今まで眺めていた屍骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱《しらみ》をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。寧《むしろ》、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢よく燃え上り出していたのである。
下人には、勿論、何故《なぜ》老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪の何《いず》れに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許す可《べか》らざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れているのである。
そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖《ひじり》柄《づか》の太刀《たち》に手をかけながら、大股《おおまた》に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚いたのは云うまでもない。
老婆は、一目下人を見ると、まるで弩《いしゆみ》にでも弾《はじ》かれたように、飛び上った。
「おのれ、どこへ行く」
下人は、老婆が屍骸につまずきながら、慌《あわ》てふためいて逃げようとする行手を塞《ふさ》いで、こう罵《ののし》った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は屍骸の中で、暫《しばらく》、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめから、わかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへム《ね》じ倒した。丁度、鶏《とり》の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ」
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘《さや》を払って、白い鋼《はがね》の色を、その眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球《がんきゆう》がメ《まぶた》の外へ出そうになる程、見開いて、唖のように執拗《しゆうね》く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、何時《いつ》の間にか冷《さ》ましてしまった。後に残ったのは、唯、或仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を、見下しながら、少し声を柔《やわら》げてこう云った。
「己《おれ》は検非違使《けびいし》の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。唯、今時分、この門の上で、何をしていたのだか、それを己に話しさえすればいいのだ」
すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。メの赤くなった、肉食鳥《にくしよくちよう》のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺《しわ》で、殆、鼻と一つになった唇《くちびる》を、何か物でも噛《か》んでいるように、動かした。細い喉《のど》で、尖《とが》った喉仏《のどぼとけ》の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉《からす》の啼《な》くような声が、喘《あえ》ぎ喘《あえ》ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘《かずら》にしょうと思うたのじゃ」
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、又前の憎悪が、冷《ひややか》な侮《ぶ》蔑《べつ》と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気《け》色《しき》が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ屍骸の頭から奪《と》った長い抜け毛を持ったなり、蟇《ひき》のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。
「成程な、死《し》人《びと》の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、その位な事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇《へび》を四《し》寸《すん》ばかりずつに切って干したのを、干魚《ほしうお》だと云うて、太刀《たて》帯《わき》の陣へ売りに往《い》んだわ。疫《え》病《やみ》にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料《さいりょう》に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今又、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ」
老婆は、大体こんな意味の事を云った。
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄《つか》を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、又さっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人《ぬすびと》になるかに、迷わなかったばかりではない。その時の、この男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、殆、考える事さえ出来ない程、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
老婆の話が完《おわ》ると、下人は嘲《あざけ》るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上《えりがみ》をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己が引《ひ》剥《はぎ》をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体《からだ》なのだ」
下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴《け》倒《たお》した。梯子の口までは、僅《わずか》に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮《ひわだ》色《いろ》の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。暫《しばらく》、死んだように倒れていた老婆が、屍骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆は、つぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪《しらが》を倒《さかさま》にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒《こく》洞々《とうとう》たる夜があるばかりである。
下人の行《ゆく》方《え》は、誰も知らない。
鼻
禅《ぜん》智《ち》内《ない》供《ぐ》の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって、上唇《うわくちびる》の上から顋《あご》の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば、細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
五十歳を越えた内供は、沙《しや》弥《み》の昔から内道《ないどう》場供奉《じようぐぶ》の職に陞《のぼ》った今日《こんにち》まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。勿論《もちろん》表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に当来の浄土を渇仰《かつごう》すべき僧侶の身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。それより寧《むしろ》、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌《いや》だったからである。内供は日常の談話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧《おそ》れていた。
内供が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺《かなまり》の中の飯へとどいてしまう。そこで内供は弟子の一人を膳《ぜん》の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰《もら》う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている弟子にとっても、持上げられている内供にとっても、決して容易な事ではない。一度この弟子の代りをした中童子《ちゆうどうじ》が、嚔《くさめ》をした拍子に手がふるえて、鼻を粥《かゆ》の中へ落した話は、当時京都まで喧伝《けんでん》された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷《きずつ》けられる自尊心の為《ため》に苦しんだのである。
池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供の為に、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中には又、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧である為に、幾分でもこの鼻に煩《わずらわ》される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右される為には、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀《き》損《そん》を恢復《かいふく》しようと試みた。
第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝らして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖《ほおづえ》をついたり頤《あご》の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗《のぞ》いて見る事もあった。しかし自分でも満足する程、鼻が短く見えた事は、これまでに唯《ただ》の一度もない。時によると、苦心すればする程、却《かえつ》て長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を筥《はこ》へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承に又元の経机へ観音経《かんのんぎよう》をよみに帰るのである。
それから又内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧《そう》供《ぐ》講説《こうせつ》などの屡《しばしば》行われる寺である。寺の内には、僧坊が隙《すき》なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸かしている。従ってここへ出入する僧俗の類《たぐい》も甚《はなはだ》多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干《すいかん》も白の帷《かた》子《びら》もはいらない。まして柑《こう》子《じ》色《いろ》の帽子や、椎《しい》鈍《にび》の法衣《ころも》なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、唯、鼻を見た。――しかし鍵鼻《かぎばな》はあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度《たび》重なるに従って、内供の心は次第に又不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年《とし》甲《が》斐《い》もなく顔を赤《あから》めたのは、全くこの不快に動かされての所《しょ》為《い》である。
最後に、内供は、内典《ないてん》外《げ》典《てん》の中に、自分と同じような鼻のある人物を見《み》出《いだ》して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連《もくれん》や舎《しや》利《り》弗《ほつ》の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹《りゆうじゆ》や馬鳴《めみよう》も、人並の鼻を備えた菩《ぼ》薩《さつ》である。内供は、震旦《しんたん》の話の序《ついで》に蜀漢《しょくかん》の劉玄徳《りゆうげんとく》の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どの位自分は心細くなくなるだろうと思った。
内供がこう云う消極的な苦心をしながらも、一方では又、積極的に鼻の短くなる方法を試みた事は、わざわざここに云うまでもない。内供はこの方面でも、殆《ほとんど》出来るだけの事をした。烏瓜《からすうり》を煎《せん》じて飲んで見た事もある、鼠《ねずみ》の尿《いばり》を鼻へなすって見た事もある。しかし何をどうしても、鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げているではないか。
ところが或年の秋、内供の用を兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己《しるべ》の医者から長い鼻を短くする法を教わって来た。その医者と云うのは、もと震旦から渡って来た男で、当時は長楽寺《ちようらくじ》の供僧になっていたのである。
内供は、いつものように、鼻などは気にかけないと云う風をして、わざとその法もすぐにやって見ようとは云わずにいた。そうして一方では、気軽な口調で、食事の度毎に、弟子の手数をかけるのが、心苦しいと云うような事を云った。内心では勿論弟子の僧が、自分を説《とき》伏《ふ》せて、この法を試みさせるのを待っていたのである。弟子の僧にも、内供のこの策略がわからない筈《はず》はない。しかしそれに対する反感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強くこの弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供の予期通り、口を極《きわ》めて、この法を試みる事を勧め出した。そうして、内供自身もまた、その予期通り、結局この熱心な勧告に聴従する事になった。
その法と云うのは、唯、湯で鼻を茹《ゆ》でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。
湯は寺の湯屋で、毎日沸かしている。そこで弟子の僧は、指も入れられないような熱い湯を、すぐに提《ひさげ》に入れて、湯屋から汲《く》んで来た。しかしじかにこの提へ鼻を入れるとなると、湯気に吹かれて顔を火傷《やけど》する惧《おそれ》がある。そこで折《お》敷《しき》へ穴をあけて、それを提の葢《ふた》にして、その穴から鼻を湯の中へ入れる事にした。鼻だけはこの熱い湯の中へ浸しても、少しも熱くないのである。しばらくすると弟子の僧が云った。
――もう茹《うだ》った時分でござろう。
内供は苦笑した。これだけ聞いたのでは、誰も鼻の話とは気がつかないだろうと思ったからである。鼻は熱湯に蒸されて、蚤《のみ》の食ったようにむず痒《がゆ》い。
弟子の僧は、内供が折敷の穴から鼻をぬくと、そのまだ湯気の立っている鼻を、両足に力を入れながら、踏みはじめた。内供は横になって、鼻を床板の上へのばしながら、弟子の僧の足が上下《うえした》に動くのを眼の前に見ているのである。弟子の僧は、時々気の毒そうな顔をして、内供の禿《は》げ頭を見下しながら、こんな事を云った。
――痛うはござらぬかな。医師は責《せ》めて踏めと申したで。じゃが、痛うはござらぬかな。
内供は、首を振って、痛くないと云う意味を示そうとした。ところが鼻を踏まれているので思うように首が動かない。そこで、上《うわ》眼《め》を使って、弟子の僧の足に皹《あかぎれ》のきれているのを眺《なが》めながら、腹を立てたような声で、
――痛うはないて。
と答えた。実際鼻はむず痒い所を踏まれるので、痛いよりも却《かえつ》て気もちのいい位だったのである。
しばらく踏んでいると、やがて、粟粒《あわつぶ》のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙《まるやき》にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
――これを鑷子《けぬき》でぬけと申す事でござった。
内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂《あぶら》をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。
やがてこれが一通りすむと、弟子の僧は、ほっと一息ついたような顔をして、
――もう一度、これを茹でればようござる。
と云った。
内供はやはり、八の字をよせたまま不服らしい顔をして、弟子の僧の云うなりになっていた。
さて二度目に茹でた鼻を出して見ると、成《なる》程《ほど》、何時《いつ》になく短くなっている。これではあたりまえの鍵鼻《かぎばな》と大した変りはない。内供はその短くなった鼻を撫《な》でながら、弟子の僧の出してくれる鏡を、極《きま》りが悪るそうにおずおず覗いて見た。
鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、殆嘘《ほとんどうそ》のように萎《い》縮《しゆく》して、今は僅《わずか》に上唇の上で意気地なく残喘《ざんぜん》を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕《あと》であろう。こうなれば、もう誰も哂《わら》うものはないのにちがいない。――鏡の中にある内供の顔は、鏡の外にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたたいた。
しかし、その日はまだ一日、鼻が又長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経《ずきよう》する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る気色もない。それから一晩寝て、あくる日早く眼がさめると内供は先《まず》、第一に、自分の鼻を撫《な》でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経《ほけきよう》書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
ところが二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑《おか》しそうな顔をして、話も碌々《ろくろく》せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、嘗《かつて》、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法《しもほう》師《し》たちが、面と向っている間だけは、慎んで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。
内供は始《はじめ》、これを自分の顔がわりがしたせいだと解釈した。しかしどうもこの解釈だけでは十分に説明がつかないようである。――勿論、中童子や下法師が哂《わら》う原因は、そこにあるのにちがいない。けれども同じ哂うにしても、鼻の長かった昔とは、哂うのにどことなく容《よう》子《す》がちがう。見慣れた長い鼻より、見慣れない短い鼻の方が滑稽《こつけい》に見えると云えば、それまでである。が、そこにはまだ何かあるらしい。
――前にはあのようにつけつけとは哂わなんだて。
内供は、誦《ず》しかけた経文をやめて、禿げ頭を傾けながら、時々こう呟《つぶや》く事があった。愛すべき内供は、そう云う時になると、必《かならず》ぼんやり、傍《そば》にかけた普《ふ》賢《げん》の画像を眺めながら、鼻の長かった四五日前の事を憶《おも》い出して、「今はむげにいやしくなりさがれる人の、さかえたる昔をしのぶがごとく」ふさぎこんでしまうのである。――内供には、遺《い》憾《かん》ながらこの問に答を与える明が欠けていた。
――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうして何時《いつ》の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱《いだ》くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。
そこで内供は日毎に機《き》嫌《げん》が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪《ほうけんどん》の罪を受けられるぞ」と陰口をきく程になった。殊《こと》に内供を忿《おこ》らせたのは、例の悪戯《いたずら》な中童子である。或日、けたたましく犬の吠《ほ》える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片《きれ》をふりまわして、毛の長い、痩《や》せた尨犬《むくいぬ》を逐《お》いまわしている。それも唯、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃《はや》しながら逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻《はな》持上《もた》げの木だったのである。
内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、反《かえつ》て恨めしくなった。
すると或夜の事である。日が暮れてから急に風が出たと見えて、塔の風鐸《ふうたく》の鳴る音が、うるさい程枕に通《かよ》って来た。その上、寒さもめっきり加わったので、老年の内供は寝つこうとしても寝つかれない。そこで床の中でまじまじしていると、ふと鼻が何時になく、むず痒《かゆ》いのに気がついた。手をあてて見ると少し水《すい》気《き》が来たようにむくんでいる。どうやらそこだけ、熱さえもあるらしい。
――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
内供は、仏前に香《こう》花《げ》を供えるような恭《うやうや》しい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
翌朝、内供が何時ものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏《いちよう》や橡《とち》が、一晩の中に葉を落したので、庭は黄金《きん》を敷いたように明《あかる》い。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九《く》輪《りん》がまばゆく光っている。禅智内供は、蔀《しとみ》を上げた椽《えん》に立って、深く息をすいこんだ。
殆、忘れようとしていた或感覚が、再《ふたたび》内供に帰って来たのはこの時である。
内供は慌《あわ》てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜《ゆうべ》の短い鼻ではない。上唇の上から顋《あご》の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、又元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
内供は心の中でこう自分に囁《ささや》いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。
芋《いも》粥《がゆ》
元慶の末か、仁《にん》和《な》の始にあった話であろう。どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めていない。読者は唯《ただ》、平安朝と云う、遠い昔が背景になっていると云う事を、知ってさえいてくれれば、よいのである。――その頃、摂政《せつしよう》藤原基経《もとつね》に仕えている侍の中に、某《なにがし》と云う五位《ごい》があった。
これも、某と書かずに、何の誰と、ちゃんと姓名を明《あきらか》にしたいのであるが、生憎《あいにく》旧記には、それが伝わっていない。恐らくは、実際、伝わる資格がない程、平凡な男だったのであろう。一体旧記の著者などと云う者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかったらしい。この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがう。王朝時代の小説家は、存外、閑人《ひまじん》でない。――とにかく、摂政藤原基経に仕えている侍の中に、某と云う五位があった。これが、この話の主人公である。
五位は、風采《ふうさい》の甚《はなはだ》揚らない男であった。第一背《せい》が低い。それから赤鼻で、眼尻が下っている。口髭《くちひげ》は勿論《もちろん》薄い。頬《ほお》が、こけているから、頤《あご》が、人並はずれて、細く見える。唇《くちびる》は――一々、数え立てていれば、際限はない。我五位の外貌《がいぼう》はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上っていたのである。
この男が、何時《いつ》、どうして、基経に仕えるようになったのか、それは誰も知っていない。が、余程以前から、同じような色の褪《さ》めた水《すい》干《かん》に、同じような萎々《なえなえ》した烏帽子《えぼし》をかけて、同じような役目を、飽きずに、毎日、繰返している事だけは、確である。その結果であろう、今では、誰が見ても、この男に若い時があったとは思われない。(五位は四十を越していた)その代り、生まれた時から、あの通り寒むそうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱《す》雀《ざく》大《おお》路《じ》の衢風《ちまたかぜ》に、吹かせていたと云う気がする。上《かみ》は主人の基経から、下《しも》は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉《ことごとく》そう信じて疑う者がない。
こう云う風采を具《そな》えた男が、周囲から、受ける待遇は、恐らく書くまでもない事であろう。侍所《さぶらいどころ》にいる連中は、五位に対して、殆《ほとん》ど蠅《はえ》程の注意も払わない。有位無位《ういむい》、併せて二十人に近い下役さえ、彼の出《で》入《はい》りには、不思議な位、冷淡を極《きわ》めている。五位が何か云いつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。彼等にとっては、空気の存在が見えないように、五位の存在も、眼を遮《さえぎ》らないのであろう。下役でさえそうだとすれば、別当とか、侍所の司《つかさ》とか云う上役たちが、頭から彼を相手にしないのは、寧《むし》ろ自然の数《すう》である。彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後《うしろ》に隠して、何を云うのでも、手真似だけで、用を足した。人間に言語があるのは、偶然ではない。従って、彼等も手真似では、用を弁じない事が、時々ある。が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思っているらしい。そこで彼等は用が足りないと、この男の歪《ゆが》んだ揉《もみ》烏帽子《えぼし》の先から、切れかかった藁草《わらぞう》履《り》の尻まで、万遍なく、見上げたり、見《み》下《おろ》したりして、それから、鼻で哂《わら》いながら、急に後を向いてしまう。それでも、五位は、腹を立てた事がない。彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だったのである。
ところが、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄《ほんろう》しようとした。年かさの同僚が、彼れの振わない風采を材料にして、古い洒落《しやれ》を聞かせようとする如く、年下の同僚も、またそれを機会にして、所謂《いわゆる》興言利口《きようげんりこう》の練習をしようとしたからである。彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲《ひんしつ》して飽きる事を知らなかった。そればかりではない。彼が五六年前に別れたうけ唇《くち》の女房と、その女房と関係があったと云う酒のみの法師とも、屡《しばしば》彼等の話題になった。その上、どうかすると、彼等は甚《はなはだ》、性質《たち》の悪い悪《いた》戯《ずら》さえする。それを今一々、列記する事は出来ない。が、彼の篠《ささ》枝《え》の酒を飲んで、後へ尿《いばり》を入れて置いたと云う事を書けば、その外は凡《およそ》、想像される事だろうと思う。
しかし、五位はこれらの揶揄《やゆ》に対して、全然無感覚であった。少くも、わき眼には、無感覚であるらしく思われた。彼は何を云われても、顔の色さえ変えた事がない。黙って例の薄い口髭を撫《なで》ながら、するだけの事をしてすましている。唯、同僚の悪戯が、高《こう》じすぎて、髷《まげ》に紙切れをくつけたり、太刀《たち》の鞘《さや》に草履を結びつけたりすると、彼は笑うのか、泣くのか、わからないような笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは」と云う。その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いじらしさに打たれてしまう。(彼等にいじめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めている)――そう云う気が、朧《おぼろ》げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。その少い中の一人に、或無位の侍があった。これは丹《たん》波《ば》の国から来た男で、まだ柔かい口髭が、やっと鼻の下に、生えかかった位の青年である。勿論、この男も始めは皆と一しょに、何の理由もなく、赤鼻の五位を軽蔑《けいべつ》した。ところが、或日何かの折に、「いけぬのう、お身たちは」と云う声を聞いてからは、どうしても、それが頭を離れない。それ以来、この男の眼にだけは、五位が全く別人として、映るようになった。栄養の不足した、血色の悪い、間のぬけた五位の顔にも、世間の迫害にべそ《・・》を掻《か》いた、「人間」が覗《のぞ》いているからである。この無位の侍には、五位の事を考える度《たび》に、世の中のすべてが、急に、本来の下等さを露《あらわ》すように思われた。そうしてそれと同時に霜げた赤鼻と、数える程の口髭とが、何となく一味の慰安を自分の心に伝えてくれるように思われた。……
しかし、それは、唯この男一人に、限った事である。こう云う例外を除けば、五位は、依然として周囲の軽蔑の中に、犬のような生活を続けて行かなければならなかった。第一彼には着物らしい着物が一つもない。青鈍《あおにび》の水干と、同じ色の指貫《さしぬき》とが一つずつあるが、今ではそれが上白《うわじろ》んで、藍《あい》とも紺とも、つかないような色に、なっている。水干はそれでも、肩が少し落ちて、丸組の緒《お》や菊綴《きくとじ》の色が怪しくなっているだけだが、指貫になると、裾《すそ》のあたりのいたみ方が、一通りでない。その指貫の中から、下の袴《はかま》もはかない、細い足が出ているのを見ると、口の悪い同僚でなくとも、痩《やせ》公卿《くげ》の車を牽《ひ》いている、痩牛の歩みを見るような、みすぼらしい心もちがする。それに佩《はい》ている太刀《たち》も、頗《すこぶ》る覚束《おぼつか》ない物で、柄《つか》の金具も如何《いかが》わしければ、黒鞘《くろざや》の塗《ぬり》も剥《は》げかかっている。これが例の赤鼻で、だらしなく草履をひきずりながら、唯でさえ猫《ねこ》背《ぜ》なのを、一層寒空の下に背《せ》ぐくまって、もの欲しそうに、左右を眺《なが》め眺め、きざみ足に歩くのだから、通りがかりの物売りまで莫迦《ばか》にするのも、無理はない。現に、こう云う事さえあった。……
或る日、五位が三条坊門を神泉苑《しんぜんえん》の方へ行く所で、子供が六七人、路《みち》ばたに集って何かしているのを見た事がある。「こまつぶり」でも、廻しているのかと思って、後ろから覗いて見ると、何処《どこ》かから迷って来た、尨犬《むくいぬ》の首へ縄をつけて、打ったり殴《たた》いたりしているのであった。臆病な五位は、これまで何かに同情を寄せる事があっても、あたりへ気を兼ねて、まだ一度もそれを行為に現わした事がない。が、この時だけは相手が子供だと云うので、幾分か勇気が出た。そこで出来るだけ、笑《え》顔《がお》をつくりながら、年かさらしい子供の肩を叩《たた》いて、「もう、勘忍《かんにん》してやりなされ。犬も打たれれば、痛いでのう」と声をかけた。するとその子供はふりかえりながら、上《うわ》眼《め》を使って、蔑《さげ》すむように、じろじろ五位の姿を見た。云わば侍所の別当が用の通じない時に、この男を見るような顔をして、見たのである。「いらぬ世話はやかれとうもない」その子供は一足下りながら、高慢な唇を反《そ》らせて、こう云った。「何じゃ、この鼻赤めが」五位は、この語《ことば》が自分の顔を打ったように感じた。が、それは悪態《あくたい》をつかれて、腹が立ったからでは毛頭ない。云わなくともいい事を云って、恥をかいた自分が、情なくなったからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙って、又、神泉苑の方へ歩き出した。後《あと》では、子供が、六七人、肩を寄せて、「べっかっこう」をしたり、舌を出したりしている。勿論彼はそんな事を知らない。知っていたにしても、それが、この意気地のない五位にとって、何であろう。……
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持っていないかと云うと、そうでもない。五位は五六年前から芋粥《いもがゆ》と云う物に、異常な執着を持っている。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛《あまずら》の汁で煮た、粥の事を云うのである。当時はこれが、無上の佳味《かみ》として、上は万乗《ばんじよう》の君《きみ》の食膳《しよくぜん》にさえ、上せられた。従って、吾《わが》五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさえ飲めるのは、僅《わずか》に喉《のど》を沾《うるお》すに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云う事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になっていた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。いや彼自身さえ、それが、彼の一生を貫いている欲望だとは、明白に意識しなかった事であろう。が事実は、彼がその為に、生きていると云っても、差支《さしつかえ》ない程であった。――人間は、時として、充《みた》されるか、充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧《ささ》げてしまう。その愚《ぐ》を哂《わら》う者は、畢《ひっ》竟《きよう》、人生に対する路傍の人に過ぎない。
しかし、五位が夢想していた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となって、現れた。その始終を書こうと云うのが、芋粥の話の目的なのである。
――――――――
或年の正月二日、基経の第に、所謂臨時の客があった時の事である。(臨時の客は二《に》宮《ぐう》の大饗《だいきよう》と同日に摂政関白家が、大臣以下の上《かん》達部《だちめ》を招いて、催す饗宴で、大饗と別に変りがない。)五位も、外の侍たちにまじって、その残肴《ざんこう》の相伴《しようばん》をした。当時はまだ、取《とり》食《ば》みの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まって、食う事になっていたからである。尤《もつと》も、大饗に比《ひと》しいと云っても昔の事だから、品数《しなかず》の多い割に碌《ろく》な物はない、餅《もち》、伏菟《ふと》、蒸《むし》鮑《あわび》、干鳥《ほしどり》、宇治《うじ》の氷《ひ》魚《うお》、近江《おうみ》の鮒《ふな》、鯛《たい》の楚割《すわやり》、鮭《さけ》の内子《こごもり》、焼蛸《やきだこ》、大《おお》海老《えび》、大柑《おおこう》子《じ》、小《こ》柑《こう》子《じ》、橘《たちばな》、串柿《くしがき》などの類《たぐい》である。唯、その中に、例の芋粥があった。五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。それが今年は、特に、少かった。そうして気のせいか、何時もより、余程味が好《い》い。そこで、彼は飲んでしまった後の椀《わん》をしげしげと眺めながら、うすい口髭についている滴《しずく》を、掌《てのひら》で拭《ふ》いて誰に云うともなく、「何時になったら、これに飽ける事かのう」と、こう云った。
「大夫《たゆう》殿は、芋粥に飽かれた事がないそうな」
五位の語《ことば》が完《おわ》らない中に、誰かが、嘲笑《あざわら》った。錆《さび》のある、鷹揚《おうよう》な、武人らしい声である。五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。声の主は、その頃、同じ基経の恪勤《かくごん》になっていた、民部卿《みんぶきよう》時長《ときなが》の子藤原利仁《としひと》である。肩幅の広い、身長《みのたけ》の群を抜いた逞《たくま》しい大男で、これは、ト栗《ゆでぐり》を噛《か》みながら、黒《くろ》酒《き》の杯を重ねていた。もう大《だい》分《ぶ》酔がまわっているらしい。
「お気の毒な事じゃ」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫《れんびん》とを一つにしたような声で、語を継いだ。「お望みなら、利仁がお飽かせ申そう」
始終、いじめられている犬は、たまに肉を貰《もら》っても容易によりつかない。五位は、例の笑うのか、泣くのか、わからないような笑顔をして、利仁の顔と、空《から》の椀とを、等分に見比べていた。
「おいやかな」
「……」
「どうじゃ」
「……」
五位は、その中《うち》に、衆人の視線が、自分の上に、集まっているのを感じ出した。答え方一つで、又、一同の嘲弄《ちようろう》を、受けなければならない。或は、どう答えても、結局、莫迦《ばか》にされそうな気さえする。彼は躊躇《ちゆうちょ》した。もし、その時に、相手が、少し面倒臭そうな声で、「おいやなら、たってとは申すまい」と云わなかったら、五位は、何時までも、椀と利仁とを、見比べていた事であろう。
彼は、それを聞くと、慌《あわただ》しく答えた。
「いや……忝《かたじけの》うござる」
この問答を聞いていた者は、皆、一時に、失笑した。「いや、忝うござる」――こう云って、五位の答を、真似《まね》る者さえある。所謂《いわゆる》、橙黄橘紅《とうこうきつこう》を盛った、窪坏《くぼつき》や高坏《たかつき》の上に、多くの揉烏帽子や立《たて》烏帽子が、笑声《わらいごえ》と共に一しきり、波のように動いた。中でも、最《もつとも》、大きな声で、機嫌よく、笑ったのは、利仁自身である。
「では、その中に、御誘い申そう」そう云いながら、彼は、ちょいと顔をしかめた。こみ上げて来る笑と今、飲んだ酒とが、喉《のど》で一つになったからである。「……しかと、よろしいな」
「忝うござる」
五位は赤くなって、吃《ども》りながら、又、前の答を繰返した。一同が今度も、笑ったのは、云うまでもない。それが云わせたさに、わざわざ念を押した当の利仁に至っては、前よりも一層可笑《おか》しそうに広い肩をゆすって、哄笑《こうしよう》した。この朔北《さくほく》の野人は、生活の方法を二つしか心得ていない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑う事である。
しかし幸《さいわい》に談話の中心は、程なく、この二人を離れてしまった。これは事によると、外の連中が、たとい嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だったからかも知れない。とにかく、談柄《だんぺい》はそれからそれへと移って、酒も肴《さかな》も残少《のこりずくな》になった時分には、某《なにがし》と云う侍学生《さむらいがくしよう》が、行縢《むかばき》の片皮《かたがわ》へ、両足を入れて馬に乗ろうとした話が、一座の興味を集めていた。が、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配しているからであろう。前に雉子《きぎす》の炙《や》いたのがあっても、箸《はし》をつけない。黒《くろ》酒《き》の杯があっても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝《ひざ》の上へ置いて、見合いをする娘のように、霜に犯されかかった鬢《びん》の辺《あたり》まで、初心《うぶ》らしく上気しながら、何時までも空になった黒塗の椀を見つめて、多《た》愛《わい》もなく、微笑しているのである。……
――――――――
それから、四五日たった日の午前、加茂《かも》川《がわ》の河《か》原《わら》に沿って、粟《あわ》田《た》口《ぐち》へ通う街道を、静に馬を進めてゆく二人の男があった。一人は、濃い縹《はなだ》の狩衣《かりぎぬ》に同じ色の袴をして、打出《うちだし》の太刀を佩《は》いた、「鬚《ひげ》黒く鬢《びん》ぐきよき」男である。もう一人は、みすぼらしい青鈍《あおにび》の水干に、薄綿の衣《きぬ》を二つばかり重ねて着た、四十恰好《かつこう》の侍で、これは、帯のむすび方のだらしのない容《よう》子《す》と云い、赤鼻で、しかも穴のあたりが、洟《はな》にぬれている容子と云い、身のまわり万端のみすぼらしい事夥《おびただ》しい。尤も、馬は二人とも、前のは月《つき》毛《げ》、後《あと》のは蘆《あし》毛《げ》の三才駒《さんさいごま》で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足《しゆんそく》である。その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとして随《つ》いて行くのは、調度掛《かけ》と舎人《とねり》とに相違ない。――これが、利仁《としひと》と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であろう。
冬とは云いながら、物静に晴れた日で、白けた河原の石の間、潺湲《せんかん》たる水の辺《ほとり》に立枯れている蓬《よもぎ》の葉を、ゆする程の風もない。川に臨んだ背の低い柳は、葉のない枝に飴《あめ》の如く、滑《なめら》かな日の光りをうけて、梢《こずえ》にいる鶺鴒《せきれい》の尾を動かすのさえ、鮮《あざやか》にそれと、影を街道に落している。東山の暗い緑の上に、霜に焦げた天鵞絨《びろうど》のような肩を、丸々と出しているのは、大方、比《ひ》叡《えい》の山であろう。二人は、その中に鞍《くら》の螺《ら》鈿《でん》を、まばゆく日にきらめかせながら、鞭《むち》をも加えず悠々《ゆうゆう》と、粟田口を指して行くのである。
「どこでござるかな、手前をつれて行って、やろうと仰せられるのは」五位が馴《な》れない手に手《た》綱《づな》をかいくりながら、云った。
「すぐ、そこじゃ。お案じになる程遠うはない」
「すると、粟田口辺《へん》でござるかな」
「まず、そう思われたがよろしかろう」
利仁は今朝《けさ》五位を誘うのに、東山の近くに湯の湧《わ》いている所があるから、そこへ行こうと云って出て来たのである。赤鼻の五位は、それを真《ま》にうけた。久しく湯にはいらないので、体中がこの間からむず痒《がゆ》い。芋粥の馳走になった上に、入湯《にゆうとう》が出来れば、願ってもない仕合せである。こう思って、予《あらかじ》め利仁が牽《ひ》かせて来た、蘆毛の馬に跨《またが》った。ところが、轡《くつわ》を並べて、此処《ここ》まで来てみると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現にそうこうしている中に、粟田口は通りすぎた。
「粟田口ではござらぬのう」
「いかにも、もそっと、あなたでな」
利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないようにして、静に馬を歩ませている。両側の人家は、次第に稀《まれ》になって、今は、広々とした冬田の上に、餌《えさ》をあさる鴉《からす》が見えるばかり、山の陰に消残って雪の色も、仄《ほのか》に青く煙っている。晴れながら、とげとげしい櫨《はじ》の梢が、眼に痛く空を刺しているのさえ、何となく肌《はだ》寒い。
「では、山科辺《やましなへん》ででもござるかな」
「山科は、これじゃ。もそっと、さきでござるよ」
成程、そう云う中に、山科も通りすぎた。それどころではない。何かとする中に、関山《せきやま》も後にして、かれこれ、午《ひる》少しすぎた時分には、とうとう三井《みい》寺《でら》の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしている僧がある。二人はその僧を訪ねて、午餐《ひるげ》の馳《ち》走《そう》になった。それがすむと、又、馬に乗って、途《みち》を急ぐ。行手は今まで来た路に比べると遥《はるか》に人煙が少ない。殊に当時は盗賊が四方に横行した、物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるようにして訊《たず》ねた。
「まだ、さきでござるのう」
利仁は微笑した。悪戯《いたずら》をして、それを見つけられそうになった子供が、年長者に向ってするような微笑である。鼻の先へよせた皺《しわ》と、眼尻にたたえた筋肉のたるみとが、笑ってしまおうか、しまうまいかとためらっているらしい。そうして、とうとう、こう云った。
「実はな、敦賀《つるが》まで、お連れ申そうと思うたのじゃ」笑いながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下には、的モ《てきれき》として、午後の日を受けた近江の湖《みずうみ》が光っている。
五位は、狼狽《ろうばい》した。
「敦賀と申すと、あの越前の敦賀でござるかな。あの越前の――」
利仁が、敦賀の人、藤原有仁《ありひと》の女婿《じよせい》になってから、多くは敦賀に住んでいると云う事も、日頃から聞いていない事はない。が、その敦賀まで自分をつれて行く気だろうとは、今の今まで思わなかった。第一、幾多の山《さん》河《か》を隔てている越前の国へ、この通り、僅二人の伴《とも》人《びと》をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往《ゆき》来《き》の旅人が、盗賊の為に殺されたと云う噂《うわさ》さえ、諸方にある。――五位は歎願するように、利仁の顔を見た。
「それは又、滅相な、東山じゃと心得れば、山科。山科じゃと心得れば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どうしたと云う事でござる。始めから、そう仰せらりょうなら、下人共なりと、召つれようものを。――敦賀とは、滅相な」
五位は、殆どべそ《・・》を掻かないばかりになって、呟いた。もし「芋粥に飽かむ」事が、彼の勇気を鼓舞しなかったとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独《ひと》り帰って来た事であろう。
「利仁が一人居《お》るのは、千人ともお思いなされ。路次の心配は、御無用じゃ」
五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら、嘲笑《あざわら》った。そうして調度掛を呼寄せて、持たせて来た壺胡f《つぼやなぐい》を背に負うと、やはり、その手から、黒漆《こくしつ》の真《ま》弓《ゆみ》をうけ取って、それを鞍上《あんじよう》に横《よこた》えながら、先に立って、馬を進めた。こうなる以上、意気地のない五位は、利仁の意志に盲従するより外に仕方がない。そこで、彼は心細そうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観《かん》音経《のんぎよう》を口の中《うち》に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前《まえ》輪《わ》にすりつけるようにして、覚束ない馬の歩みを、不相変《あいかわらず》とぼとぼと進めて行った。
馬蹄《ばてい》の反響する野は、茫々《ぼうぼう》たる黄茅《こうぼう》に蔽《おお》われて、その所々にある行潦《みずたまり》も、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後を、何時かそれなり凍ってしまうかと疑われる。その涯《はて》には、一帯の山脈が、日に背《そむ》いているせいか、かがやく可《べ》き残雪の光もなく、紫がかった暗い色を、長々となすっているが、それさえ蕭《しよう》条《じよう》たる幾叢《いくむら》の枯薄《かれすすき》に遮られて、二人の従者の眼には、はいらない事が多い。――すると、利仁が、突然、五位の方をふりむいて、声をかけた。
「あれに、よい使者が参った。敦賀への言《こと》づけを申そう」
五位は利仁の云う意味が、よくわからないので、怖々《こわごわ》ながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。元より人の姿が見えるような所ではない。唯、野《の》葡《ぶ》萄《どう》か何かの蔓《つる》が、灌木《かんぼく》の一むらにからみついている中を、一疋《ぴき》の狐《きつね》が、暖かな毛の色を、傾きかけた日に曝《さら》しながら、のそりのそり歩いて行く。――と思う中に、狐は、慌ただしく身を跳《おど》らせて、一散に、どこともなく走り出した。利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。五位も、われを忘れて、利仁の後を、逐《お》った。従者も勿論、遅れてはいられない。しばらくは、石を蹴《け》る馬蹄の音が、戞々《かつかつ》として、曠《こう》野《や》の静けさを破っていたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、何時、捕えたのか、もう狐の後足を掴《つか》んで、倒《さかさま》に、鞍の側《わき》へ、ぶら下げている。狐が、走れなくなるまで、追いつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであろう。五位は、うすい髭にたまる汗を、慌《あわただ》しく拭きながら、漸《ようやく》、その傍へ馬を乗りつけた。
「これ、狐、よう聞けよ」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してこう云った。「その方、今夜の中に、敦賀の利仁が館《やかた》へ参って、こう申せ。『利仁は、唯今俄《にわか》に客人を具して下ろうとする所じゃ。明日《みょうにち》、巳時《みのとき》頃、高島の辺《あたり》まで、男たちを迎いに遣《つか》わし、それに、鞍置《くらおき》馬二疋、牽かせて参れ』よいか忘れるなよ」
云い畢《おわ》ると共に、利仁は、一ふり振って狐を、遠くの叢《くさむら》の中へ、抛《ほう》り出した。
「いや、走るわ。走るわ」
やっと、追いついた二人の従者は、逃げゆく狐の行《ゆく》方《え》を眺めながら、手を拍《う》って囃《はや》し立てた。落葉のような色をしたその獣《けもの》の背は、夕日の中を、まっしぐらに、木の根石くれの嫌《きら》いなく、何処《どこ》までも、走って行く。それが一行の立っている所から、手にとるようによく見えた。狐を追っている中に、何時か彼等は、曠《ひろ》野《の》が緩《ゆる》い斜面を作って、水の涸《か》れた川《かわ》床《どこ》と一つになる、その丁度上の所へ、出ていたからである。
「広量《こうりよう》の御使でござるのう」
五位は、ナイイヴな尊敬と賛嘆とを洩《も》らしながら、この狐さえ頤使《いし》する野育ちの武人の顔を、今更のように、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の懸隔があるか、そんな事は、考える暇《ひま》がない。唯、利仁の意志に、支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利《き》くようになった事を、心強く感じるだけである。――阿諛《あゆ》は、恐らく、こう云う時に、最《もつとも》自然に生れて来るものであろう。読者は、今後、赤鼻の五位の態度に、幇間《ほうかん》のような何物かを見出しても、それだけで、妄《みだり》にこの男の人格を、疑う可きではない。
抛り出された狐は、なぞえ《・・・》の斜面を、転げるようにして、駈《か》け下りると、水の無い河床の石の間を、器用に、ぴょいぴょい、飛び越えて、今度は、向うの斜面へ、勢よく、すじかいに駈け上った。駈け上りながら、ふりかえって見ると、自分を手捕《てど》りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立っている。それが皆、指を揃《そろ》えた程に、小さく見えた。殊に入日を浴びた、月毛と蘆毛とが、霜を含んだ空気の中に、描いたよりもくっきりと、浮き上っている。
狐は、頭《かしら》をめぐらすと、又枯薄《かれすすき》の中を、風のように走り出した。
――――――――
一行は、予定通り翌日の巳時《みのとき》ばかりに、高島の辺《ほとり》へ来た。此処は琵琶湖《びわこ》に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇った空の下に、幾戸の藁《わら》屋《や》が、疎《まばら》にちらばっているばかり、岸に生えた松の樹の間には、灰色の漣g《さざなみ》をよせる湖の水面が、磨《みが》くのを忘れた鏡のように、さむざむと開けている。――此処まで来ると利仁が、五位を顧みて云った。
「あれを御《ご》覧《ろう》じろ。男どもが、迎いに参ったげでござる」
見ると、成程、二疋の鞍置馬《くらおきうま》を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨《また》がったのもあり徒《か》歩《ち》のもあり、皆水干の袖《そで》を寒風に翻えして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなったと思うと、馬に乗っていた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒《か》歩《ち》の連中は、路傍《みちばた》に蹲踞《そんきよ》して、いずれも恭々《うやうや》しく、利仁の来るのを、待ちうけた。
「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう」
「性得《しようとく》、変《へん》化《げ》ある獣じゃて、あの位の用を勤めるのは、何でもござらぬ」
五位と利仁とが、こんな話をしている中に、一行は、郎等《ろうとう》たちの待っている所へ来た。「大《たい》儀《ぎ》じゃ」と、利仁が声をかける。蹲踞していた連中が、忙《せわ》しく立って、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になった。
「夜前、稀有《けう》な事が、ございましてな」
二人が、馬から下りて、敷皮の上へ、腰を下《おろ》すか下さない中に、檜《ひ》皮《わだ》色の水干を着た、白髪の郎等が、利仁の前へ来て、こう云った。
「何じゃ」利仁は、郎等たちの持って来た篠《ささ》枝《え》や破《わり》籠《ご》を、五位にも勧めながら、鷹揚《おうよう》に問いかけた。
「されば、でございまする。夜前、戌時《いぬのとき》ばかりに、奥方が俄《にわか》に、人心地をお失いなされましてな。『おのれは、阪本の狐じゃ。今日、殿の仰せられた事を、言《こと》伝《づ》てしょうほどに、近う寄って、よう聞きやれ』と、こう仰有《おつしや》るのでございまする。さて、一同がお前に参りますると、奥方の仰せられまするには、『殿は、唯今俄に客人を具して、下られようとする所じゃ。明日巳時《みようにちみのとき》頃、高島の辺《あたり》まで、男どもを迎いに遣わし、それに鞍置馬二疋牽かせて参れ』と、こう御意遊ばすのでございまする」
「それは、又、稀有な事でござるのう」五位は利仁の顔と、郎等の顔とを、仔《し》細《さい》らしく見比べながら、両方に満足を与えるような、相《あい》槌《づち》を打った。
「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしそうに、わなわなとお震えになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ』と、しっきりなしに、お泣きになるのでございまする」
「して、それから、如何《いかが》した」
「それから、多《た》愛《わい》なく、お休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お眼覚にはならぬようで、ございました」
「如何でござるな」郎等の話を聞き完《おわ》ると、利仁は五位を見て、得意らしく云った。「利仁には、獣《けもの》も使われ申すわ」
「何とも驚き入る外は、ござらぬのう」五位は、赤鼻を掻きながら、ちょいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆《あき》れたように、口を開《あ》いて見せた。口髭には今、飲んだ酒が、滴《しずく》になって、くっついている。
――――――――
その日の夜《よ》の事である。五位は、利仁の館《やかた》の一間に、切燈台《きりとうだい》の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長の夜《よ》をまじまじして、明《あか》していた。すると、夕方、此処へ着くまで、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木《こ》の葉《は》、石、野火の煙のにおい、――そう云うものが、一つずつ、五位の心に、浮んで来た。殊に、雀色時《すずめいろどき》の靄《もや》の中を、やっと、この館へ辿《たど》りついて、長櫃《ながびつ》に起してある、炭火の赤い焔《ほのお》を見た時の、ほっとした心もち、――それも、今、こうして、寝ていると、遠い昔にあった事としか、思われない。五位は綿の四五寸もはいった、黄いろい直垂《ひたたれ》の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。
直垂の下に利仁が貸してくれた、練色《ねりいろ》の衣《きぬ》の綿厚《わたあつ》なのを、二枚まで重ねて、着こんでいる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯《ゆうめし》の時に一杯やった、酒の酔《えい》が手伝っている。枕元の蔀《しとみ》一つ隔てた向うは、霜の冴《さ》えた広庭だが、それも、こう陶然としていれば、少しも苦にならない。万事が、京都の自分の曹《そう》司《し》にいた時と比べれば、雲泥の相違である。が、それにも係わらず、我五位の心には、何となく釣合《つりあい》のとれない不安があった。第一、時間のたって行くのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けると云う事が、――芋粥を食う時になると云う事が、そう早く、来てはならないような心もちがする。そうして又、この矛盾した二つの感情が、互に剋《こく》し合う後《うしろ》には、境遇の急激な変化から来る、落着かない気分が、今日の天気のように、うすら寒く控えている。それが、皆、邪魔になって、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘いそうもない。
すると、外の広庭で、誰か、大きな声を出しているのが、耳にはいった。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎えに出た、白髪の郎等が何か告《ふ》れているらしい。その乾《ひ》からびた声が、霜に響くせいか、凛々《りんりん》として凩《こがらし》のように、一語ずつ五位の骨に、応《こた》えるような気さえする。
「この辺の下人、承われ。殿の御意遊ばさるるには、明朝、卯時《うのとき》までに、切口《きりくち》三寸、長さ五尺の山の芋を、老若各《おのおの》、一筋ずつ、持って参る様にとある。忘れまいぞ、卯時までにじゃ」
それが、二三度、繰返されたかと思うと、やがて、人のけはいが止《や》んで、あたりは忽《たちま》ち元のように、静な冬の夜《よる》になった。その静な中に、切燈台の油が鳴る。赤い真綿のような火が、ゆらゆらする。五位は欠伸《あくび》を一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量に耽《ふけ》り出した。――山の芋と云うからには、勿論芋粥にする気で、持って来させるのに相違ない。そう思うと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れていた、さっきの不安が、何時の間にか、心に帰って来る。殊に、前よりも、一層強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないと云う心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。どうもこう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となって現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待っていたのが、如何《いか》にも、無駄な骨折のように、見えてしまう。出来る事なら、何か突然故障が起って一旦、芋粥が飲めなくなってから、又、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけると云うような、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――こんな考えが、「こまつぶり」のように、ぐるぐる一つ所を廻っている中に、何時か、五位は、旅の疲れで、ぐっすり、熟睡してしまった。
翌朝《あくるあさ》、眼がさめると、直《すぐ》に、昨夜《ゆうべ》の山の芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋の蔀《しとみ》をあげて見た。すると、知らない中に、寝すごして、もう卯時をすぎていたのであろう。広庭へ敷いた、四五枚の長筵《ながむしろ》の上には、丸太のような物が、凡《およ》そ、二三千本、斜《ななめ》につき出した、檜皮《ひわだ》葺《ぶき》の軒先へつかえる程、山のように、積んである。見るとそれが、悉《ことごと》く、切口三寸、長さ五尺の途方もなく大きい、山の芋であった。
五位は、寝起きの眼をこすりながら、殆ど周章に近い驚愕《きようがく》に襲われて、呆然《ぼうぜん》と、周囲を見廻した。広庭の所々には、新しく打ったらしい杭《くい》の上に五斛《ごく》納釜《のうがま》を五つ六つ、かけ連ねて、白い布の襖《あお》を着た若い下司《げす》女が、何十人となく、そのまわりに動いている。火を焚《た》きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白《しら》木《き》の桶《おけ》に、「あまずらみせん」を汲《く》んで釜《かま》の中へ入れるもの、皆、芋粥をつくる準備で、眼のまわる程忙しい。釜の下から上《あが》る煙と、釜の中から湧《わ》く湯気とが、まだ消え残っている明方の靄《もや》と一つになって、広庭一面、はっきり物も見定められない程、灰色のものが罩《こ》めた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、眼に見るもの、耳に聞くもの悉《ことごと》く、戦場か火事場へでも行ったような騒ぎである。五位は、今更のように、この巨大な山の芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考えた。そうして、自分が、その芋粥を食う為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考えた。考えれば考える程、何一つ、情無くならないものはない。我五位の同情すべき食慾は、実に、この時もう、一半《いつぱん》を減却してしまったのである。
それから、一時間の後、五位は利仁や舅《しゆうと》の有仁と共に、朝飯《あさめし》の膳に向った。前にあるのは、銀《しろかね》の提《ひさげ》の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたえた、恐るべき芋粥である。五位はさっき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄《うす》刃《ば》を器用に動かしながら、片端《かたつぱし》から削るように、勢よく、切るのを見た。それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳《は》せちがって、一つのこらず、五斛納釜へすくっては入れ、すくっては入れするのを見た。最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなった時に、芋のにおいと、甘葛《あまずら》のにおいとを含んだ、幾道《いくどう》かの湯気の柱が、蓬々然《ほうほうぜん》として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上って行くのを見た。これを、目《ま》のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であろう。――五位は、提を前にして、間の悪そうに、額の汗を拭いた。
「芋粥に飽かれた事が、ござらぬげな。どうぞ、遠慮なく召上って下され」
舅の有仁は、童児たちに云いつけて、更に幾つかの銀の提を膳の上に並べさせた。中にはどれも芋粥が、溢《あふ》れんばかりにはいっている。五位は眼をつぶって、唯でさえ赤い鼻を、一層赤くしながら、提に半分ばかりの芋粥を大きな土器《かわらけ》にすくって、いやいやながら飲み干した。
「父もそう申すじゃて。平《ひら》に、遠慮は御無用じゃ」
利仁も側から、新《あらた》な提をすすめて、意地悪く笑いながらこんな事を云う。弱ったのは五位である。遠慮のない所を云えば、始めから芋粥は、一椀《いちわん》も吸いたくない。それを今、我慢して、やっと、提に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉《のど》を越さない中にもどしてしまう、そうかと云って、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無にするのも、同じである。そこで、彼は又眼をつぶって、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も吸いようがない。
「何とも、忝《かたじけの》うござった。もう、十分頂戴致したて。――いやはや、何とも忝うござった」
五位は、しどろもどろになって、こう云った。余程弱ったと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思われない程、汗が玉になって、垂れている。
「これは又、御少食な事じゃ、客人は、遠慮をされると見えたぞ。それそれ、その方ども、何を致しておる」
童児たちは、有仁の語につれて、新《あらた》な提の中から、芋粥を、土器に汲もうとする。五位は、両手を蠅《はえ》でも逐うように動かして、平《ひら》に、辞退の意を示した。
「いや、もう、十分でござる。……失礼ながら、十分でござる」
もし、この時、利仁が、突然、向うの家の軒を指さして、「あれを御《ご》覧《ろう》じろ」と云わなかったなら、有仁は猶《なお》、五位に、芋粥をすすめて、止まなかったかも知れない。が、幸いにして、利仁の声は、一同の注意を、その軒の方へ、持って行った。檜皮葺の軒には、丁度、朝日がさしている。そうして、そのまばゆい光に、光沢《つや》のいい毛皮を洗わせながら、一疋の獣《けもの》が、おとなしく、坐っている。見るとそれは一昨日《おととい》、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの阪本の野狐であった。
「狐も、芋粥が欲しさに、見参《けんざん》したそうな。男ども、しゃつにも、物を食わせてつかわせ」
利仁の命令は、言《ごん》下《か》に行われた。軒からとび下りた狐は、直《すぐ》に広庭で、芋粥の馳走に、与《あずか》ったのである。
五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。京《きよう》童《わらべ》にさえ「何じゃ。この鼻赤めが」と、罵《ののし》られている彼である。色のさめた水干に、指貫《さしぬき》をつけて、飼主のない尨犬《むくいぬ》のように、朱《す》雀《ざく》大路をうろついて歩く、憐《あわれ》む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云う慾望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である。――彼は、この上芋粥を飲まずにすむと云う安心と共に、満面の汗が次第に、鼻の先から、乾いてゆくのを感じた。晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるように、風が寒い。五位は慌てて、鼻をおさえると同時に銀《しろかね》の提に向って大きな嚔《くさめ》をした。
運
目のあらい簾《すだれ》が、入口にぶらさげてあるので、往来の容《よう》子《す》は仕事場にいても、よく見えた。清水《きよみず》へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。金《こん》鼓《く》をかけた法師が通る。壺装《つぼしょう》束《ぞく》をした女が通る。その後《あと》からは、めずらしく、黄牛《あめうし》に曳《ひ》かせた網代車《あじろぐるま》が通った。それが皆、疎《まばら》な蒲《かま》の簾の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。その中で変らないのは、午後の日が暖《あたたか》に春を炙《あぶ》っている、狭い往来の土の色ばかりである。
その人の往来を、仕事場の中から、何と云《い》う事もなく眺《なが》めていた、一人の青侍《あおざむらい》が、この時、ふと思いついたように、主《あるじ》の陶器《すえもの》師《つくり》へ声をかけた。
「相不変《あいかわらず》、観音《かんのん》様へ参詣《さんけい》する人が多いようだね」
「左様でございます」
陶器師は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、何処《どこ》かひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも、悪気らしいものは、微《み》塵《じん》もない。着ているのは、麻の帷子《かたびら》であろう。それに萎《な》えた揉《もみ》烏帽子《えぼし》をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽《とば》僧正《そうじよう》の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、日参でもして見ようか。こう、うだつ《・・・》が上らなくっちゃ、やりきれない」
「御冗談で」
「なに、これで善《よ》い運が授かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、参《さん》籠《ろう》をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏《かみほとけ》を相手に、一商売をするようなものさ」
青侍は、年相応な上調子なもの言いをして、下唇《したくちびる》を舐《な》めながら、きょろきょろ、仕事場の中を見廻した。――竹藪《たけやぶ》を後《うしろ》にして建てた、藁《わら》葺《ぶ》きのあばら家だから、中は鼻がつかえる程狭い。が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、此処《ここ》では、甕《かめ》でも瓶《へい》子《し》でも、皆赭《あか》ちゃけた土器《かわらけ》の肌《はだ》をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の棟《むね》ばかりは、燕《つばめ》さえも巣を食わないらしい。……
翁《おきな》が返事をしないので、青侍は又語を継いだ。
「お爺《じい》さんなんぞも、この年までには、随分いろんな事を見たり聞いたりしたろうね。どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね」
「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いておりますが」
「どんな事があったね」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方《あなた》がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい」
「可哀そうに、これでも少しは信心《しんじん》気《ぎ》のある男なんだぜ。愈《いよいよ》運が授かるとなれば、明日《あす》にも――」
「信心気でございますかな。商売気でございますかな」
翁は、眦《めじり》に皺《しわ》をよせて笑った。捏《こ》ねていた土が、壺の形《かた》になったので、やっと気が楽になったと云う調子である。
「神仏の御考えなどと申すものは、貴方《あなた》がた位の御年では、中々わからないものでございますよ」
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善《よ》し悪《あ》しと云う事が」
「だって、授けて貰《もら》えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて」
「私には運の善し悪しより、そう云う理屈の方が、わからなそうだね」
日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭《かしら》に桶《おけ》をのせた物売りの女が二人、簾《すだれ》の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産《みやげ》らしい桜の枝を持っていた。
「今、西の市《いち》で、績麻《うみそ》のh《みせ》を出している女なぞもそうでございますが」
「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか」
二人は、暫《しばらく》の間、黙った。青侍は、爪で頤《あご》のひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、大方さっきの桜の花がこぼれたのであろう。
「話さないかね。お爺さん」
やがて、眠むそうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙《こうむ》って、一つ御話し申しましょうか。又、何時《いつ》もの昔話でございますが」
こう前置きをして、陶器師の翁は、徐《おもむろ》に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。
「もうかれこれ三四十年前《まえ》になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水の観音様へ、願《がん》をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死《しに》別《わか》れた後で、それこそ日々《にちにち》の暮しにも差支《さしつか》えるような身の上でございましたから、そう云う願をかけたのも、満更無理はございません。
「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社《はくしゆしや》の巫子《みこ》で、一しきりは大そう流行《はや》ったものでございますが、狐《きつね》を使うと云う噂《うわさ》を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これが又、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子じゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の痩《や》せ腕でございますから、いくらかせいでも、暮しの立てられようがございませぬ。そこで、あの容貌《きりよう》のよい、利発者の娘が、お籠《こも》りをするにも、襤《つづ》褸《れ》故《ゆえ》に、あたりへ気がひけると云う始末でございました」
「へえ、そんなに好《い》い女だったかい」
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、先《まず》どこへ出しても、恥しくないと思いましたがな」
「惜しい事に、昔さね」
青侍は、色のさめた藍《あい》の水干の袖口《そでくち》を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、又ゆっくり話しつづけた。後の竹藪では、頻《しきり》に鶯《うぐいす》が啼《な》いている。
「それが、三七日《さんしちにち》の間、御籠りをして、今日が満願と云う夜《よ》に、ふと夢を見ました。何でも、同じ御堂に詣《まい》っていた連中の中に、背むしの坊主が一人いて、そいつが何か陀羅尼《だらに》のようなものを、くどくど誦《ず》していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓《みみず》でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、何時《いつ》の間にやら人間の語《ことば》になって、『ここから帰る路《みち》で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい』と、こう聞えると申すのでございますな。
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼《だらに》三昧《ざんまい》でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃拝みなれた、端厳《たんごん》微《み》妙《みよう》の御顔でございますが、それを見ると、不思議にも又耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御《お》告《つげ》だと、一《いち》図《ず》に思いこんでしまいましたげな」
「はてね」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路《さかみち》を、五条へくだろうとしますと、案の定後《うしろ》から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生《あい》憎《にく》の暗《やみ》で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶《なお》の事わかりませぬ。唯《ただ》、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭《くちひげ》にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊《き》かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。唯、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚《わめ》こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ」
「ははあ、それから」
「それから、とうとう八《や》坂寺《さかでら》の塔の中へ、つれこまれて、その晩は其処《そこ》ですごしたそうでございます。――いや、その辺の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい」
翁は、又眦《めじり》に皺をよせて、笑った。往来の影は、愈々《いよいよ》長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、其処此処《ここ》に散っている桜の花も、何時の間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨《あま》落《お》ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗談云っちゃいけない」
青侍は、思い出したように、顋《あご》のひげを抜き抜き、こう云った。
「それで、もうおしまいかい」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ」翁は、やはり壺をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方宿《すく》世《せ》の縁だろうから、とてもの事に夫婦《めおと》になってくれと申したそうでございます」
「成程」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお思《ぼし》召《め》し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首《かぶり》を竪《たて》にふりました。さて形《かた》ばかりの盃事《さかずきごと》をすませると、先《まず》、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが綾《あや》を十疋《ぴき》に絹を十疋でございます。――この真似《まね》ばかりは、いくら貴方《あなた》にもちとむずかしいかも存じませんな」
青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の暮に帰ると云って、娘一人を留守居に、慌《あわただ》しく何処かへ出て参りました。その後の淋《さび》しさは、又一倍でございます。いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、何気なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう、綾や絹は愚《おろか》な事、珠玉とか砂金とか云う金《かね》目《め》の物が、皮《かわ》匣《ご》に幾つとなく、並べてあると云うじゃございませぬか。これには、ああ云う気丈な娘でも、思わず吐《と》胸《むね》をついたそうでございます。
「物にもよりますが、こんな財物《たから》を持っているからは、もう疑《うたがい》はございませぬ。引《ひ》剥《はぎ》でなければ、物《もの》盗《と》りでございます。――そう思うと、今までは唯、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか片時も此処にこうしては、いられないような気になりました。何さま、悪く放免の手にでもかかろうものなら、どんな目に遭《あ》うかも知れませぬ。
「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、皮匣の後から、しわがれた声で呼びとめました。何しろ、人はいないとばかり思っていた所でございますから、驚いたの驚かないのじゃございませぬ。見ると、人間とも海鼠《なまこ》ともつかないようなものが、砂金の袋を積んだ中に、円くなって、坐っております。――これが目くされの、皺だらけの、腰のまがった、背の低い、六十ばかりの尼法師でございました。しかも娘の思惑《おもわく》を知ってか、知らないでか、膝《ひざ》で前へのり出しながら、見かけによらない猫撫声《ねこなでごえ》で、初対面の挨拶《あいさつ》をするのでございます。
「こっちは、それどころの騒ぎではないのでございますが、何しろ逃げようと云う巧みをけどられなどしては大変だと思ったので、しぶしぶ皮匣の上に肘《ひじ》をつきながら心にもない世間話をはじめました。どうも話の容子では、この婆さんが、今まであの男の炊女《みずし》か何かつとめていたらしいのでございます。が、男の商売の事になると、妙に一口も話しませぬ。それさえ、娘の方では、気になるのに、その尼が又、少し耳が遠いと来ているものでございますから、一つ話を何度となく、云い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣き出したい程、気がじれます。――
「そんな事が、かれこれ午《ひる》までつづいたでございましょう。すると、やれ清水の桜が咲いたの、やれ五条の橋普請が出来たのと云っている中に、幸《さいわい》、年の加減か、この婆さんが、そろそろ居睡りをはじめました。一つは娘の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。そこで、娘は、折を計って、相手の寝息を窺《うかが》いながら、そっと入口まで這《は》って行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案配に、人のけはいはございませぬ。――
「此処でそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと今朝《けさ》貰《もら》った綾と絹との事を思い出したので、それを取りに、又そっと皮匣の所まで帰って参りました。すると、どうした拍子か、砂金の袋にけつまずいて、思わず手が婆さんの膝にさわったから、たまりませぬ。尼の奴め驚いて眼をさますと、暫《しばらく》は唯、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。切れ切れに、語《ことば》が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇《あ》うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。が、こっちも此処にいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。
「打つ。蹴《け》る。砂金の袋をなげつける。――梁《はり》に巣を食った鼠《ねずみ》も、落ちそうな騒ぎでございます。それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、莫迦《ばか》には出来ませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを小《こ》脇《わき》にかかえて、息を切らしながら、塔の戸口をこっそり、忍び出た時には、尼はもう、口もきかないようになっておりました。これは、後で聞いたのでございますが、屍《し》骸《がい》は、鼻から血を少し出して、頭から砂金を浴びせられたまま、薄暗い隅《すみ》の方に、仰向けになって、臥《ね》ていたそうでございます。
「こっちは八坂寺を出ると、町家の多い所は、さすがに気がさしたと見えて、五条京極《きようごく》辺の知人《しりびと》の家をたずねました。この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥《かゆ》を煮るやら、いろいろ経営してくれたそうでございます。そこで、娘も漸《ようや》く、ほっと一息つく事が出来ました」
「私も、やっと安心したよ」
青侍は、帯にはさんでいた扇をぬいて、簾の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁《はくちよう》が五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……
「じゃそれで愈けり《・・》がついたと云う訳だね」
「ところが」翁は大仰に首を振って、「その知人の家に居りますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、罵《ののし》り合う声が聞えます。何しろ、後暗《うしろぐら》い体《からだ》ですから、娘は又、胸を痛めました。あの物盗りが仕返ししにでも来たものか、さもなければ、検非違使《けびいし》の追手がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、粥《かゆ》を啜《すす》ってもおられませぬ」
「成程」
「そこで、戸の隙《すき》間《ま》から、そっと外を覗《のぞ》いて見ると、見物の男女《なんによ》の中を、放免が五六人、それに看督《かどの》長《おさ》が一人ついて、物々しげに通りました。それからその連中にかこまれて、縄にかかった男が一人、所々裂けた水干を着て烏帽子《えぼし》もかぶらず、曳《ひ》かれて参ります。どうも物盗りを捕えて、これからその住《すみ》家《か》へ、実録をしに行く所らしいのでございますな。
「しかも、その物盗りと云うのが、昨夜《ゆうべ》、五条の坂で云いよった、あの男だそうじゃございませぬか。娘はそれを見ると、何故か、涙がこみ上げて来たそうでございます。これは、当人が、手前に話しました――何も、その男に惚《ほ》れていたの、どうしたのと云う訳じゃない。が、その縄目をうけた姿を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう云うのでございますがな。まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」
「何とね」
「観音様へ願をかけるのも考え物だとな」
「だが、お爺さん。その女は、それから、どうにかやって行けるようになったのだろう」
「どうにかどころか、今では何不自由ない身の上になっております。その綾や絹を売ったのを本《もと》に致しましてな。観音様も、これだけは、御約束をおちがえになりません」
「それなら、その位な目に遇っても、結構じゃないか」
外の日の光は、何時の間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹藪の音が、かすかながら其処此処から聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ、仕方がないやね」
青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。翁も、もう提《ひさげ》の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子である。
「とにかく、その女は仕合せ者だよ」
「御冗談で」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授けて頂くがね」
「じゃ観音様を、御信心なさいまし」
「そうそう、明日《あした》から私も、お籠《こもり》でもしようよ」
袈裟《けさ》と盛遠《もりとお》
上
夜《よる》、盛遠が築土《ついじ》の外で、月魄《つきしろ》を眺めながら、落葉を踏んで物思いに耽《ふけ》っている。
その独白
「もう月の出だな。何時《いつ》もは月が出るのを待ちかねる己《おれ》も、今日ばかりは明《あかる》くなるのがそら恐しい。今までの己が一夜の中に失われて、明日《あす》からは人殺《ひとごろし》になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。この両の手が血で赤くなった時を想像して見るが好《い》い。その時の己は、己自身にとって、どの位呪《のろ》わしいものに見えるだろう。それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思をしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。
己はあの男を以前から見知っている。渡左《わたるさ》衛門尉《えもんのじよう》と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしては柔《やさ》しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、何時の事だかわからない。それが袈裟《けさ》の夫《おつと》だと云う事を知った時、己が一時嫉《しっ》妬《と》を感じたのは事実だった。しかしその嫉妬も、今では己の心の上に何一つ痕跡《こんせき》を残さないで、綺《き》麗《れい》に消え失せてしまっている。だから渡は己にとって、恋の仇《かたき》とは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。いや、寧《むしろ》己はあの男に同情していると云っても、よい位だ。衣川《ころもがわ》の口から渡が袈裟を得る為《ため》に、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛く思った事さえある。渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。己はあの生真面目《きまじめ》な侍の作った恋《れん》歌《か》を想像すると、知らず識《し》らず微笑が脣《くちびる》に浮んで来る。しかしそれは何も、渡を嘲《あざけ》る微笑ではない。己はそうまでして、女に媚《こ》びるあの男をいじらしく思うのだ。或は己の愛している女に、それ程までに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己に或種の満足を与えてくれるからかも知れない。
しかしそう云える程、己は袈裟を愛しているだろうか。己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れている。己は袈裟がまだ渡に縁づかない以前に、既に袈裟を愛していた。或は愛していると思っていた。が、これも今になって考えると、その時の己の心もちには不純なものも少くはない。己は袈裟に何を求めたのか、童貞だった頃の己は、明《あきらか》に袈裟の体を求めていた。もし多少の誇張を許すなら、己の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちに過ぎなかった。それが証拠には、袈裟との交渉が絶えたその後《ご》の三年間、成程己はあの女の事を忘れずにいたにちがいないが、もしその以前に己があの女の体を知っていたなら、それでもやはり忘れずに思いつづけていたであろうか。己は恥《はずか》しながら、然りと答える勇気はない。己が袈裟に対するその後の愛着の中には、あの女の体を知らずにいる未練が可《か》成《なり》混っている。そうして、その悶々《もんもん》の情を抱《いだ》きながら、己はとうとう己の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。では今は? 己は改めて己自身に問いかけよう。己は果して袈裟を愛しているだろうか。
が、その答をする前に、己はまだ一通り、嫌《いや》でもこう云ういきさつを思い出す必要がある。――渡辺の橋の供養の時、三年ぶりで偶然袈裟にめぐり遇《あ》った己は、それから凡《およ》そ半《はん》年《とし》ばかりの間、あの女と忍び合う機会を作る為に、あらゆる手段を試みた。そうしてそれに成功した。いや、成功したばかりではない、その時、己は、己が夢みていた通り、袈裟の体を知る事が出来た。が、当時の己を支配していたものは、必しも前に云った、まだあの女の体を知らないと云う未練ばかりだった訳ではない。己は衣川の家で、袈裟と一つ部屋の畳へ坐った時、既にこの未練が何時か薄くなっているのに気がついた。それは己がもう童貞でなかったと云う事も、その場になって、己の欲望を弱める役に立ったのであろう。しかしそれよりも、主な原因は、あの女の容色が、衰えていると云う事だった。実際今の袈裟は、もう三年前の袈裟ではない。皮膚は一体に光沢《つや》を失って、眼のまわりにはうす黒く暈《かさ》のようなものが輪どっている。頬《ほお》のまわりや顋《あご》の下にも、以前の豊な肉附きが、嘘《うそ》のようになくなってしまった。僅《わずか》に変らないものと云っては、あの張りのある、黒瞳《くろめ》勝《がち》な、水々しい眼ばかりであろうか。――この変化は己の欲望にとって、確《たしか》に恐しい打撃だった。己は三年ぶりで始めてあの女と向い合った時、思わず視線をそらさずにはいられなかった程、強い衝動を感じたのを未《いまだ》にはっきり覚えている。……
では、比較的そう云う未練を感じていない己が、どうしてあの女に関係したのであろう。己は第一に、妙な征服心に動かされた。袈裟は己と向い合っていると、あの女が夫の渡に対して持っている愛情を、わざと誇張して話して聞かせる。しかも己にはそれが、どうしても或空虚な感じしか起させない。『この女は自分の夫に対して虚栄心を持っている』――己はこう考えた。『或はこれも、己の憐憫《れんびん》を買いたくないと云う反抗心の現れかも知れない』――己は又こうも考えた。そうしてそれと共に、この嘘を曝《ばく》露《ろ》させてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。唯《ただ》、何故《なぜ》それを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った所に、己の己《うぬ》惚《ぼ》れがあると云われれば、己には元より抗弁するだけの理由はない。それにも関《かかわ》らず、己はその嘘だと云う事を信じていた。今でも猶《なお》信じている。
が、この征服心もまた、当時の己を支配していたすべてではない。その外に――己はこう云っただけでも、己の顔が赤くなるような気がする。己はその外に、純粋な情欲に支配されていた。それはあの女の体を知らないと云う未練ではない。もっと下等な、相手があの女である必要のない、欲望の為の欲望だ。恐らくは傀儡《くぐつ》の女を買う男でも、あの時の己程は卑しくなかった事であろう。
とにかく己はそう云ういろいろな動機で、とうとう袈裟と関係した。と云うよりも袈裟を辱《はずかし》めた。そうして今、己の最初に出した疑問へ立ち戻ると、――いや、己が袈裟を愛しているかどうかなどと云う事は、いくら己自身に対してでも、今更改めて問う必要はない。己は寧《むしろ》、時にはあの女に憎しみさえも感じている。殊に万事が完《おわ》ってから、泣き伏しているあの女を、無理に抱き起した時などは、袈裟は破《は》廉《れん》恥《ち》の己よりも、より破廉恥な女に見えた。乱れた髪のかかりと云い、汗ばんだ顔の化粧と云い、一つとしてあの女の心と体との醜さを示していないものはない。もしそれまでの己があの女を愛していたとしたなら、その愛はあの日を最後として、永久に消えてしまったのだ。或は、もしそれまでの己があの女を愛していなかったとしたなら、あの日から己の心には新しい憎しみが生じたと云ってもまた差支《さしつか》えない。そうして、ああ、今夜己はその己が愛していない女の為に、己が憎んでいない男を殺そうと云うのではないか!
それも完《まつた》く、誰の罪でもない。己がこの己の口で、公然と云い出した事なのだ。『渡を殺そうではないか』――己があの女の耳に口をつけて、こう囁《ささや》いた時の事を考えると、我ながら気が違っていたのかとさえ疑われる。しかし己は、そう囁いた。囁くまいと思いながら、歯を食いしばってまでも囁いた。己にはそれが何故囁きたかったのか、今になって振りかえって見ると、どうしてもよくはわからない。が、もし強《し》いて考えれば、己はあの女を蔑《さげす》めば蔑む程、憎く思えば思う程、益《ますます》何かあの女に凌辱《りようじよく》を加えたくてたまらなくなった。それには渡左衛門尉を、――袈裟がその愛を衒《てら》っていた夫を殺そうと云う位、そうしてそれをあの女に、否応《いやおう》なく承諾させる位、目的に協《かな》った事はない。そこで己は、まるで悪夢に襲われた人間のように、したくもない人殺しを、無理にあの女に勧めたのであろう。それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後《あと》は人間の知らない力が、(天《てん》魔《ま》波《は》旬《じゆん》とでも云うが好《い》い)己の意志を誘《いざな》って、邪道へ陥れたとでも解釈するより外はない。とにかく、己は執念深く、何度も同じ事を繰返して、袈裟の耳に囁いた。
すると袈裟は暫《しばら》くして、急に顔を上げたと思うと、素直に己の目《もく》ろみに承知すると云う返事をした。が、己にはその返事の容易だったのが、意外だったばかりではない。その袈裟の顔を見ると、今までに一度も見えなかった不思議な輝きが眼に宿っている。姦《かん》婦《ぷ》――そう云う気が、己はすぐにした。と同時に、失望に似た心もちが、急に己の目ろみの恐しさを、己の眼の前へ展《ひろ》げて見せた。その間も、あの女の淫《みだ》りがましい、凋《しお》れた容色の厭《いや》らしさが、絶えず己を虐《さいな》んでいた事は、元よりわざわざ云う必要もない。もし出来たなら、その時に、己は己の約束をその場で破ってしまいたかった。そうして、あの不貞な女を、辱しめと云う辱しめのどん底まで、つき落してしまいたかった。そうすれば己の良心は、たとえあの女を弄《もてあそ》んだにしても、まだそう云う義憤の後《うしろ》に、避難する事が出来たかも知れない。が、己にはどうしても、そうする余裕が作れなかった。まるで己の心もちを見《み》透《とお》しでもしたように、急に表情を変えたあの女が、じっと己の眼を見つめた時、――己は正直に白状する。己が日と時刻とをきめて、渡を殺す約束を結ぶような羽目に陥ったのは、完く万一己が承知しない場合に、袈裟が己に加えようとする復讐《ふくしゆう》の恐怖からだった。いや、今でも猶《なお》この恐怖は、執念深く己の心を捕えている。臆病だと哂《わら》う奴は、いくらでも哂うが好《い》い。それはあの時の袈裟を知らないもののする事だ。『己が渡を殺さないとすれば、よし袈裟自身は手を下さないにしても、必ず己はこの女に殺されるだろう。その位なら己の方で渡を殺してしまってやる』――涙がなくて泣いているあの女の眼を見た時に、己は絶望的にこう思った。しかもこの己の恐怖は、己が誓言《せいごん》をした後で、袈裟が蒼白《あおじろ》い顔に片靨《かたえくぼ》をよせながら、目を伏せて笑ったのを見た時に、裏書きをされたではないか。
ああ、己はその呪《のろ》わしい約束の為に、汚《けが》れた上にも汚れた心の上へ、今又人殺しの罪を加えるのだ。もし今夜に差迫って、この約束を破ったなら――これも、やはり己には堪《た》えられない。一つには誓言の手前もある。そうして又一つには、――己は復讐を恐れると云った。それも決して嘘ではない。しかしその上にまだ何かある。それは何だ? この己を、この臆病な己を追いやって罪もない男を殺させる、その大きな力は何だ? 己にはわからない。わからないが、事によると――いやそんな事はない。己はあの女を蔑んでいる。恐れている。憎んでいる。しかしそれでも猶、それでも猶、己はあの女を愛しているせいかも知れない」
盛遠は徘徊《はいかい》を続けながら、再《ふたたび》口を開《ひら》かない。月《つき》明《あかり》。どこかで今様を謡う声がする。
げに人間の心こそ、無明《むみよう》の闇《やみ》も異《ことな》らね、
ただ煩悩《ぼんのう》の火と燃えて、消ゆるばかりぞ命なる。
下
夜《よる》、袈裟が帳台の外で、燈台の光に背《そむ》きながら、袖《そで》を噛《か》んで物思いに耽《ふけ》っている。
その独白
「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしないところを見ると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私《わたし》はまるで傀儡《くぐつ》の女のようにこの恥しい顔をあげて、又日の目を見なければならない。そんなあつかましい、邪《よこしま》な事がどうして私に出来るだろう。その時の私こそ、あの路《みち》ばたに捨ててある屍《し》骸《がい》と少しも変りはない。辱《はずかし》められ、踏みにじられ、揚句の果にその身の恥をのめのめと明るみに曝《さら》されて、それでもやはり唖《おし》のように黙っていなければならないのだから。私は万一そうなったら、たとい死んでも死にきれない。いやいや、あの人は必ず来る。私はこの間別れ際《ぎわ》に、あの人の眼を覗《のぞ》きこんだ時から、そう思わずにはいられなかった。あの人は私を怖がっている。私を憎み、私を蔑みながら、それでも猶私を怖がっている。成程私が私自身を頼みにするのだったら、あの人が必ず来るとは云われないだろう。が、私はあの人を頼みにしている。あの人の利己心を頼みにしている。いや、利己心が起させる卑しい恐怖を頼みにしている。だから私はこう云われるのだ。あの人はきっと忍んで来るのに違いない。……
しかし私自身を頼みにする事の出来なくなった私は、何と云うみじめな人間だろう。三年前《まえ》の私は、私自身を、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。三年前と云うよりも、或はあの日までと云った方が、もっとほんとうに近いかも知れない。あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆《そその》かすような、やさしい語《ことば》をかけてくれる。が、一度自分の醜さを知った女の心が、どうしてそんな語に慰められよう。私は唯、口惜《くや》しかった。恐しかった。悲しかった。子供の時に乳母に抱かれて、月蝕《げっしょく》を見た気味の悪さも、あの時の心もちに比べれば、どの位ましだかわからない。私の持っていたさまざまな夢は、一度にどこかへ消えてしまう。後には唯、雨のふる明け方のような寂しさが、じっと私の身のまわりを取り囲んでいるばかり――私はその寂しさに震えながら、死んだも同様なこの体を、とうとうあの人に任せてしまった。愛してもいないあの人に、私を憎んでいる、私を蔑んでいる、色好みなあの人に。――私は私の醜さを見せつけられた、その寂しさに堪えなかったのであろうか。そうしてあの人の胸に顔を当てる、熱に浮かされたような一瞬間にすべてを欺《あざむ》こうとしたのであろうか。さもなければ又、あの人同様、私も唯汚らわしい心もちに動かされていたのであろうか。そう思っただけでも、私は恥しい。恥しい。恥しい。殊にあの人の腕を離れて、又自由な体に帰った時、どんなに私は私自身を浅ましく思った事であろう。
私は腹立たしさと寂しさとで、いくら泣くまいと思っても、止め度なく涙が溢《あふ》れて来た。けれども、それは何も、操《みさお》を破られたと云う事だけが悲しかった訳ではない。操を破られながら、その上にも卑められていると云う事が、丁度癩《らい》を病んだ犬のように、憎まれながらも虐《さいな》まれていると云う事が、何よりも私には苦しかった。そうしてそれから私は一体何をしていたのであろう。今になって考えると、それも遠い昔の記憶のように朧《おぼろ》げにしかわからない。唯、すすり上げて泣いている間に、あの人の口髭《くちひげ》が私の耳にさわったと思うと、熱い息と一しょに低い声で、『渡を殺そうではないか』と云う語が、囁《ささや》かれたのを覚えている。私はそれを聞くと同時に、未《いまだ》に自分にもわからない、不思議に生々《いきいき》した心もちになった。生々した? もし月の光が明《あかる》いと云うのなら、それも生々した心もちであろう。が、それはどこまでも日の光の明さとは違う、生々した心もちだった。しかし私は、やはりこの恐しい語の為に、慰められたのではなかったろうか。ああ、私は、女と云うものは、自分の夫を殺してまでも、猶《なお》人に愛されるのが嬉《うれ》しく感ぜられるものなのだろうか。
私はその月夜の明さに似た、寂しい、生々した心もちで、又暫く泣きつづけた。そうして? そうして? 何時《いつ》、私は、あの人の手引をして夫を討たせると云う約束を、結んでなどしまったのであろう。しかしその約束を結ぶと一しょに、私は始めて夫の事を思出した。私は正直に始めてと云おう。それまでの私の心は、唯、私の事を、辱められた私の事を、一《いち》図《ず》にじっと思っていた。それがこの時、夫の事を、あの内気な夫の事を、――いや、夫の事ではない。私に何か云う時の、微笑した夫の顔を、ありあり眼の前に思い出した。私のもくろみが、ふと胸に浮んだのも、恐らくその顔を思い出した刹《せつ》那《な》の事であったろう。何故《なぜ》と云えば、その時に私はもう死ぬ覚悟をきめていた。そうして又きめる事の出来たのが嬉しかった。しかし泣き止んだ私が顔を上げて、あの人の方を眺めた時、そうしてそこに前の通り、あの人の心に映っている私の醜さを見つけた時、私は私の嬉しさが一度に消えてしまったような心もちがする。それは――私は又、乳母と見た月蝕の暗さを思い出してしまう。それはこの嬉しさの底に隠れている、さまざまの物《もの》の怪《け》を一時《いちどき》に放ったようなものだった。私が夫の身代りになると云う事は、果して夫を愛しているからだろうか。いや、いや、私はそう云う都合の好い口実の後《うしろ》で、あの人に体を任かした私の罪の償《つぐな》いをしようと云う気を持っていた。自害をする勇気のない私は。少しでも世間の眼に私自身を善く見せたい、さもしい心もちがある私は。けれどもそれはまだ大目にも見られよう。私はもっと卑しかった。もっと、もっと醜かった。夫の身代りに立つと云う名の下《もと》で、私はあの人の憎しみに、あの人の蔑みに、そうしてあの人が私を弄《もてあそ》んだ、その邪《よこしま》な情欲に、仇《かたき》を取ろうとしていたではないか。それが証拠には、あの人の顔を見ると、あの月の光のような、不思議な生々しさも消えてしまって、唯、悲しい心もちばかりが、忽《たちま》ち私の心を凍らせてしまう。私は夫の為《ため》に死ぬのではない。私は私の為に死のうとする。私の心を傷《きずつ》けられた口惜《くや》しさと、私の体を汚された恨めしさと、その二つの為に死のうとする。ああ、私は生き甲斐《がい》がなかったばかりではない。死に甲斐さえもなかったのだ。
しかしその死甲斐のない死に方でさえ、生きているよりは、どの位望ましいかわからない。私は悲しいのを無理にほほ笑みながら、繰返してあの人と夫を殺す約束をした。感じの早いあの人は、そう云う私の語《ことば》から、もし万一約束を守らなかった暁には、どんなことを私がしでかすか、大方推察のついた事であろう。して見れば、誓言《せいごん》までしたあの人が、忍んで来ないと云う筈《はず》はない。――あれは風の音であろうか――あの日以来の苦しい思《おもい》が、今夜でやっと尽きるかと思えば、さすがに気の緩むような心もちもする。明日の日は、必ず首《こうべ》のない私の屍《し》骸《がい》の上に、うすら寒い光を落すだろう。それを見たら、夫は――いや、夫の事は思うまい、夫は私を愛している。けれども私にはその愛を、どうしようと云う力もない。昔から私にはたった一人の男しか愛せなかった。そうしてその一人の男が、今夜私を殺しに来るのだ。この燈台の光でさえ、そう云う私には晴れがましい。しかもその恋人に、虐《さいな》まれ果てている私には」
袈裟は、燈台の火を吹き消してしまう。程なく、暗の中でかすかに蔀《しとみ》を開く音。それと共にうすい月の光がさす。
邪宗門
一
先頃大殿《おおとの》様御一代中で、一番人目を駭《おどろ》かせた、地獄変の屏風《びようぶ》の由来を申し上げましたから、今度は若殿様の御生涯《しようがい》で、たった一度の不思議な出来事を御話致そうかと存じております。が、その前に一通り、思いもよらない急な御病気で、大殿様が御薨去《こうきよ》になった時の事を、あらまし申し上げて置きましょう。
あれは確《たしか》、若殿様の十九の御年だったかと存じます。思いもよらない急な御病気とは云うものの、実はかれこれその半年ばかり前から、御屋《や》形《かた》の空へ星が流れますやら、御庭の紅梅が時ならず一度に花を開きますやら、御厩《うまや》の白馬《しろうま》が一《いち》夜《や》の内に黒くなりますやら、御池の水が見る間に干上って、鯉《こい》や鮒《ふな》が泥の中で喘《あえ》ぎますやら、いろいろ凶《わる》い兆《しらせ》がございました。中でも殊に空恐ろしく思われたのは、或女房の夢枕に、良秀《よしひで》の娘の乗ったような、炎々と火の燃えしきる車が一輛《りよう》、人面《じんめん》の獣《けもの》に曳《ひ》かれながら、天から下《お》りて来たと思いますと、その車の中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ」と、呼《よば》わったそうでございます。その時、その人面の獣が怪しく唸《うな》って、頭《かしら》を上げたのを眺《なが》めますと、夢現《ゆめうつつ》の暗《やみ》の中にも、唇《くちびる》ばかり生々《なまなま》しく赤かったので、思わず金切声をあげながら、その声でやっと我に返りましたが、総身はびっしょり冷《ひや》汗《あせ》で、胸さえまるで早鐘をつくように躍っていたとか申しました。
でございますから、北の方を始め、私《わたくし》どもまで心を痛めて、御屋形の門々《かどかど》に陰陽師《おんみょうじ》の護《ご》符《ふ》も貼《はり》ましたし、有《う》験《げん》の法師たちを御召しになって、種々の御祈《き》祷《とう》も御上げになりましたが、これも誠に遁《のが》れ難い定業《じようごう》ででもございましたろう。或日――それも雪もよいの、底冷がする日の事でございましたが、今出川《いまでがわ》の大《だい》納《な》言《ごん》様の御屋形から、御帰りになる御車《みくるま》の中で、急に大熱が御発しになり、御帰館遊ばした時分には、もう唯《ただ》「あた、あた」と仰有《おつしや》るばかり、あまつさえ御身《おみ》のうちは、一面に気味悪く紫立って御褥《しとね》の白綾《しろあや》も焦げるかと思う御気《おけ》色《しき》になりました。元よりその時も御枕もとには、法師、医師、陰陽師などが、皆それぞれに肝胆を砕いて、必死の力を尽しましたが、御熱は益烈《ますますはげ》しくなって、やがて御床《おんゆか》の上まで転び出ていらっしゃると、忽《たちま》ち別人のような嗄《しわが》れた御声で、「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙《けぶ》りは如何《いかが》致した」と、狂おしく御吼《たけ》りになったまま、僅《わずか》三《み》時《とき》ばかりの間に、何とも申し上げる語《ことば》もない、無残な御最期でございます。その時の悲しさ、恐ろしさ、勿体《もったい》なさ――今になって考えましても、蔀《しとみ》に迷っている、護摩《ごま》の煙《けぶり》と、右往左往に泣き惑っている女房たちの袴《はかま》の紅《あけ》とが、あの茫《ぼう》然《ぜん》とした験《げん》者《ざ》や術師たちの姿と一しょに、ありありと眼に浮かんで、かいつまんだ御話を致すのさえ、涙が先に立って仕方がございません。が、そう云う思い出の内でも、あの御年若な若殿様が、少しも取乱した御容《よう》子《す》を御見せにならず、唯、青ざめた御顔を曇らせながら、じっと大殿様の御枕元へ坐っていらしった事を考えると、何故《なぜ》かまるで磨《みが》きすました焼《やき》刃《ば》の匂《にお》いでも嗅《か》ぐような、身にしみて、ひやりとする、それでいてやはり頼もしい、妙な心もちが致すのでございます。
二
御親《しん》子《し》の間がらでありながら、大殿様と若殿様との間位、御容子から御性質まで、うらうえなのも稀《まれ》でございましょう。大殿様は御承知の通り、大兵肥満《だいひょうひまん》でいらっしゃいますが、若殿様は中背の、どちらかと申せば痩《やせ》ぎすな御生れ立ちで、御容貌《きりょう》も大殿様のどこまでも男らしい、神将のような俤《おもかげ》とは、似もつかない御優しさでございます。これはあの御美しい北の方に、瓜《うり》二つとでも申しましょうか。眉《まゆ》の迫った、眼の涼しい、心もち口もとに癖のある、女のような御顔立ちでございましたが、どこかそこにうす暗い、沈んだ影がひそんでいて、殊に御装束でも召しますと、御立派と申しますより、殆神寂《ほとんどかみさび》ているとでも申し上げたい位、如何《いか》にももの静な御威光がございました。
が、大殿様と若殿様とが、取り分け違っていらしったのは、どちらかと云えば、御気象の方で、大殿様のなさる事は、すべてが豪放で、雄大で、何でも人目を驚かさなければ止《や》まないと云う御勢いでございましたが、若殿様の御好みは、どこまでも繊細で、またどこまでも優雅な趣がございましたように存じております。たとえば大殿様の御心もちが、あの堀川の御所に窺《うかが》われます通り、若殿様が若《にゃく》王子《おうじ》に御造りになった竜《たつ》田《た》の院は、御規模こそ小そうございますが、菅相丞《かんしようじよう》の御歌をそのままな、紅葉《もみじ》ばかりの御庭と申し、その御庭を縫っている清らかな一すじの流れと申し、或《あるい》は又その流れへ御放しになった、何羽とも知れない白鷺《しらさぎ》と申し、一つとして若殿様の奥床しい御《お》思《ぼし》召《め》しの程が、現れていないものはございません。
そう云う次第でございますから、大殿様は何かにつけて、武張《ぶば》った事を御好みになりましたが、若殿様は又詩《しい》歌《か》管絃《かんげん》を何よりも御喜びなさいまして、その道々の名人上手《じようず》とは、御身分の上下も御忘れになったような、隔てない御つき合いがございました。いや、それも唯、そう云うものが御好きだったと申すばかりでなく、御自分も永年御心を諸芸の奥《おう》秘《ひ》に御潜めになったので、笙《しよう》こそ御吹きになりませんでしたが、あの名高い帥民部卿《そちのみんぶきよう》以来三《さん》舟《しゆう》に乗るものは、若殿様御一人であろうなどと、噂《うわさ》のあった程でございます。でございますから、御家の集にも、若殿様の秀句や名歌が、今に沢山残っておりますが、中でも世上に評判が高かったのは、あの良秀が五《ご》趣生死《しゆしようじ》の図を描《か》いた竜蓋寺《りゆうがいじ》の仏事の節、二人の唐人《からびと》の問答を御聞きになって、御詠みになった歌でございましょう。これはその時磬《うちならし》の模様に、八葉の蓮《れん》華《げ》を挾《はさ》んで二羽の孔雀《くじやく》が鋳《い》つけてあったのを、その唐人たちが眺めながら、「捨《しゃく》身惜花《しんしゃくか》思《し》」と云う一人の声の下から、もう一人が「打不立有鳥《だふりゆううちよう》」と答えました――その意味合いが解《かい》せないので、そこに居合わせた人々が、とかくの詮《せん》議《ぎ》立てをしておりますと、それを御聞きになった若殿様が、御持ちになった扇《おうぎ》の裏へさらさらと美しく書き流して、その人々のいる中へ御遣《つかわ》しになった歌でございます。
身をすてて花を惜しとや思ふらむ打てども立たぬ鳥もありけり
三
大殿様と若殿様とは、かように万事がかけ離れていらっしゃいましたから、それだけまた御二方の御仲にも、そぐわない所があったようでございます。これにも世間にはとかくの噂がございまして、中には御親子で、同じ宮腹《みやばら》の女房を御争いになったからだなどと、申すものもございますが、元よりそのような莫迦《ばか》げた事があろう筈《はず》はございません。何でも私の覚えております限りでは、若殿様が十五六の御年に、もう御二方の間には、御不和の芽がふいていたように御見受け申しました。これは前にもちょいと申し上げて置きました、若殿様が笙だけは御吹きにならないと云う、その謂《い》われに縁のある事なのでございます。
その頃、若殿様は大そう笙を御好みで、遠縁の従兄《いとこ》に御当りなさる中《なか》御《み》門《かど》の少納言に、御弟子入をなすっていらっしゃいました。この少納言は、伽陵《がりよう》と云う名高い笙と、大食調《だいじきちょう》入食調《にゆうじきちよう》の譜とを、代々御家に御伝えになっていらっしゃる、その道でも稀《き》代《だい》の名人だったのでございます。
若殿様はこの少納言の御手《て》許《もと》で、長らく切《せつ》磋《さ》琢《たく》磨《ま》の功を御積みになりましたが、さてその大食調入食調の伝授を御望みになりますと、少納言はどう思召したのか、この仰せばかりは御聞き入れになりません。それが再三押して御頼みになっても、やはり御満足の行くような御返事がなかったので、御年若な若殿様は、一方ならず残念に思召したのでございましょう。或日大殿様の双六《すごろく》の御相手をなすっていらっしゃる時にふとその御不満を御洩《もら》しになりました。すると大殿様は何時《いつ》ものように鷹揚《おうよう》に御笑いになりながら、「そう不平は云わぬものじゃ。やがてはその譜も手にはいる時節があるであろう」と、やさしく御慰めになったそうでございます。ところがそれから半月とたたない或日の事、中御門の少納言は、堀川の御屋形の饗《さかもり》へ御出《いで》になった帰りに俄《にわか》に血を吐いて御歿《なくな》りになってしまいました。が、それは先ず、よろしいと致しましても、その明くる日、若殿様が何気なく御居間へ御出でになると、螺《ら》鈿《でん》を鏤《ちりば》めた御机の上に、あの伽陵の笙と大食調入食調の譜とが、誰が持って来たともなく、ちゃんと載っていたと申すではございませんか。
その後《ご》又大殿様が若殿様を御相手に双六を御打ちになった時、
「この頃は笙も一段と上達致したであろうな」と、念を押すように仰有《おつしや》ると、若殿様はじっと盤面を御眺めになったまま、
「いや笙はもう一生、吹かない事に致しました」と、吐き出すように御答えになりました。
「何として又、吹かぬ事に致したな」
「聊《いささ》かながら、少納言の菩《ぼ》提《だい》を弔おうと存じまして」
こう仰有って若殿様は、鋭く父上の御顔を御見つめになりました。が、大殿様はまるでその御声が聞えないように勢いよく筒《とう》を振りながら、
「今度もこの方が無地《むじ》勝《がち》らしいぞ」とさりげない容子で勝負を御続けになりました。でございますからこの御問答は、それぎり立ち消えになってしまいましたが、御親子の御仲には、この時から或面白くない心もちが、挟まるようになったかと存ぜられます。
四
それから大殿様の御隠れになる時まで、御親子の間には、まるで二羽の蒼鷹《あおたか》が、互に相手を窺《うかが》いながら、空を飛びめぐっているような、ちっとの隙《すき》もない睨《にら》み合いがずっと続いておりました。が、前にも申し上げました通り若殿様は、すべて喧《けん》嘩《か》口論の類《たぐい》が、大《だい》御《お》嫌《きら》いでございましたから、大殿様の御所業に向っても、楯《たて》を御つきになどなった事は、殆ど一度もございません。唯、その度に皮肉な御微笑を、あの癖のある御口元にちらりと御浮べになりながら、一言二言鋭い御批判を御漏らしになるばかりでございます。
何時ぞや大殿様が、二条大宮の百鬼夜《や》行《こう》に御遇《あ》いになっても、格別御障《さわ》りのなかったことが、洛中《らくちゆう》洛外の大《おお》評判になりますと、若殿様は私に御向いになりまして、
「鬼神が鬼神に遇うたのじゃ。父上の御《おん》身《み》に害がなかったのは、不思議もない」と、さも可笑《おか》しそうに仰有いましたが、その後又、東三条の河原院《かわらのいん》で、夜な夜な現れる融《とおる》の左大臣の亡霊を、大殿様が一喝《かつ》して御卻《しりぞ》けになった時も、若殿様は例の通り、唇《くちびる》を歪《ゆが》めて御笑いになりながら、
「融の左大臣は、風月の才に富んでおられたと申すではないか。されば父上づれは、話のあとを打たせるにも足らぬと思われて、消え失せられたに相違ない」と、仰有ったのを覚えております。
それが又大殿様には、何よりも御耳に痛かったと見えまして、ふとした拍子に、こう云う若殿様の御言葉が、御聞きに達する事でもございますと、上べは苦笑いに御紛わしなすっても、御心中の御怒りはありありと御顔に読まれました。現に内《だい》裡《り》の梅見の宴からの御帰りに、大殿様の御車《みくるま》の牛がそれて、往来の老人に怪我させた時、その老人が反《かえ》って手を合せて、権者《ごんじや》のような大殿様の御《み》牛《うし》にかけられた冥加《みようが》の程を、難有《ありがた》がった事がございましたが、その時も若殿様は、大殿様のいらっしゃる前で、牛飼の童子に御向いなさりながら、
「その方はうつけものじゃな。所詮《しよせん》牛をそらす位ならば、何故《なぜ》車の輪にかけて、あの下司《げす》を轢《ひ》き殺さぬ。怪我をしてさえ、手を合せて、随喜する程の老爺《おやじ》じゃ。轍《わだち》の下に往生を遂げたら、聖衆《しようじゆ》の来迎《らいごう》を受けたにも増して難有《ありがた》く心得たに相違ない。されば父上の御名誉も、一段と挙がろうものを。さりとは心がけの悪い奴じゃ」と、仰有ったものでございます。その時の大殿様の御機嫌の悪さと申しましたら、今にも御手の扇《おうぎ》が上って、御折檻《せっかん》位は御加えになろうかと、私ども一同が胆を冷す程でございましたが、それでも若殿様は晴々と、美しい歯を見せて御笑いになりながら、
「父上、父上、そう御腹立ち遊ばすな。牛飼めもあの通り、恐れ入っておるようでございます。この後《のち》とも精々心にかけましたら、今度こそは立派に人一人轢き殺して、父上の御名誉を震旦《しんたん》までも伝える事でございましょう」と、素知らぬ顔で仰有ったものでございますから、大殿様もとうとう我を御折りになったと見えて、苦い顔をなすったまま、何事もなく御立ちになってしまいました。
こう云う御間がらでございましたから、大殿様の御臨終を、じっと御目守《まも》りになっていらっしゃる若殿様の御姿程、私どもの心の上に不思議な影を宿したものはございません。今でもその時の事を考えますと、まるで磨《と》ぎすました焼刃の翌「を嗅《か》ぐような、身にしみてひやりとする、と同時に又何となく頼もしい、妙な心もちが致した事は、先刻もう御耳に入れて置きました。誠にその時の私どもには、心《しん》から御《ご》代《だい》替《がわ》りがしたと云う気が、――それも御屋形の中ばかりでなく、一天《てん》下《か》にさす日影が、急に南から北へふり変ったような、慌《あわただ》しい気が致したのでございます。
五
でございますから若殿様が、御家督を御取りになったその日の内から御屋形の中へはどこからともなく、今までにない長閑《のどか》な景色が、春風《しゆんぷう》のように吹きこんで参りました。歌合せ、花合せ、或は艶書《えんしよ》合せなどが、以前にも増して度々《たびたび》御催しになられたのは、申すまでもございますまい。それから又、女房たちを始め、侍どもの風俗が、まるで昔の絵巻から抜け出して来たように、みやびやかになったのも、元よりの事でございます。が、殊に以前と変ったのは御屋形へ御客に御出でになる上《うえ》つ方の御顔ぶれで、今は如何《いか》に時めいている大臣大将でも、一芸一能にすぐれていらっしゃらない方は、滅多に若殿様の御眼にはかかれません。いや、たとい御眼にかかれたのにしても、御出でになる方々が、皆風流の才子ばかりでいらっしゃいますから、さすがに御身を御愧《は》じになって、自然御み足が遠くなってしまうのでございます。
その代り又、詩歌管絃の道に長じてさえおりますれば、無位無官の侍でも、身に余るような御褒《ほう》美《び》を受けた事がございます。たとえば、或秋の夜に、月の光が格子にさして、機《はた》織《お》りの声が致しておりました時、ふと人を御召しになると、新参の侍が参りましたが、どう思召したのか、急にその侍に御向いなすって、
「機織りの声が致すのは、その方にも聞えような。これを題に一首仕《つかまつ》れ」と、御声がかりがございました。するとその侍は下《しも》にいて、暫《しばら》く頭《かしら》を傾けておりましたが、やがて、「青《あお》柳《やぎ》の」と、初《はじめ》の句を申しました。するとその季節に合わなかったのが、可笑《おかし》かったのでございましょう。女房たちの間には、忍び笑いの声が起りましたが、侍が続いて、
「みどりの糸をくりおきて夏へて秋は機織りぞ啼《な》く」と、さわやかに詠じますと、忽《たちま》ちそれは静まり返って、萩《はぎ》模様のある直垂《ひたたれ》を一領、格子の間から月の光の中へ、押し出して下さいました。実はその侍と申しますのが、私の姉の一人息子で、若殿様とは、略《ほぼ》御年輩も同じ位な若者でございましたが、これを御奉公の初めにして、その後《のち》も度々難有《ありがた》い御懇意を受けたのでございます。
先《まず》、若殿様の御平生《へいぜい》は、あらあらかようなものでございましょうか。その間に北の方も御迎えになりましたし、年々の除目《じよもく》には御官位も御進みになりましたが、そう云う事は世上の人も、よく存じている事でございますから、ここにはとり立てて申し上げません。それよりも先を急ぎますから、最初に御約束致しました通り、若殿様の御一生に、たった一度しかなかったと云う、不思議な出来事の御話へはいる事に致しましょう。と申しますのは、大殿様とは御違いになって、天《あめ》が下《した》の色ごのみなどと云う御綽《おんあだ》名《な》こそ、御受けになりましたが、誠に御無事な御生涯で、その外には何一つ、人口に膾炙《かいしや》するような御逸事と申すものも、なかったからでございます。
六
その御話の抑《そもそも》は、確《たしか》大殿様が御隠れになってから、五六年たった頃でございますが、丁度その時分若殿様は、前に申し上げました中御門の少納言様の御一人娘で、評判の美しい御姫様へ、茂々《しげしげ》御文を書いていらっしゃいました。唯今でもあの頃の御熱心だった御噂が、私どもの口から洩れますと、若殿様は何時も晴々と御笑いになって、
「爺《じい》よ。天が下は広しと云え、あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは皆恋がさせた業《わざ》じゃ。思えば狐《きつね》の塚を踏んで、物に狂うたのも同然じゃな」と、まるで御自分を嘲《あざけ》るように、洒落《しやらく》としてこう仰有います。が、全く当時の若殿様は、それ程御平生に似もやらず、恋《れん》慕《ぼ》三昧《ざんまい》に耽《ふけ》って御出でになりました。
しかし、これは、あながち、若殿様御一人に限った事ではございません。あの頃の年若な殿上人《でんじようびと》で、中御門の御姫様に想《おも》いを懸けないものと云ったら、恐らく御《お》一方《ひとかた》もございますまい。あの方が阿《お》父《とう》様の代から、ずっと御住みになっていらっしゃる、二条西洞院《にしのとういん》の御屋形のまわりには、そう云う色好みの方々が、或は車を御寄せになったり、或は御自身御拾いで御出でになったり、絶えず御通い遊ばしたものでございます。中には一《ひと》夜《や》の中に二人まで、あの御屋形の梨《なし》の花の下で、月に笛を吹いている立《たて》烏帽子《えぼし》があったと云う噂も、聞き及んだ事がございました。
いや、現に一時は秀才の名が高かった菅原雅平《まさひら》とか仰有る方も、この御姫様に恋をなすってしかもその恋がかなわなかった御恨みから、俄《にわか》に世を御捨てになって、唯今では筑《つく》紫《し》の果に流浪して御出でになるとやら、或は又東海の波を踏んで唐土《もろこし》に御渡りになったとやら、皆目御行《ゆく》方《え》が知れないと申すことでございます。この方などは若殿様とも、詩文の御交りの深かった御一人で、御消息などをなさる時は、若殿様を楽天《らくてん》に、御自分を東《とう》坡《ば》に比していらしったそうでございますが、そう云う風流第一の才子が、如何に中御門の御姫様は御美しいのに致しましても一旦の御歎きから御生涯を辺土に御送りなさいますのは、御不覚と申し上げるより外はございますまい。
が、又飜《ひるがえ》って考えますと、これも御無理がないと思われる位、中御門の御姫様と仰有る方は御美しかったのでございます。私が一両度御見かけ申しました限でも、柳桜《やなぎさくら》をまぜて召して、錦に玉を貫いた燦《きら》びやかな裳《も》の腰を、大殿油《おおとのあぶら》の明《あかる》い光に、御輝かせになりながら、御メ《おんまぶた》も重そうにうち傾いていらしった、あのあでやかな御姿は一生忘れようもございますまい。しかもこの御姫様は御気象も並々ならず御濶達《かつたつ》でいらっしゃいましたから、なまじいな殿上人《でんじようびと》などは、思召しにかなうどころか、すぐに本性を御見透《とお》しになって、とんと御寵《ちょう》愛《あい》の猫も同様、さんざん御弄《なぶ》りになった上、二度と再び御膝元《ひざもと》へもよせつけないようになすってしまいました。
七
でございますからこの御姫様に、想《おもい》を懸けていらしった方々《かたがた》の間には、まるで竹取物語の中にでもありそうな可笑しいことが沢山ございましたが、中でも一番御気の毒だったのは京極《きようごく》の左《さ》大弁《だいべん》様で、この方は京童《きようわらんべ》が鴉《からす》の左大弁などと申し上げた程、御色が黒うございましたが、それでもやはり人情には変りもなく、中御門の御姫様を恋い慕っていらっしゃいました。ところがこの方は御利巧だと同時に、気の小さい御性質だったと見えまして、如何に御姫様を懐しく思召しても、御自分の方からそれとは御打ち明けなすった事もございませんし、元より又御同輩の方々にも、ついぞそれらしい事を口に出して、仰有った例《ためし》はございません。しかし忍び忍びに御姫様の御顔を拝みに参ります事は、隠れない事でございますから、或時、それを枷《かせ》にして、御同輩の誰彼が、手を換え品を換え、いろいろと問い落そうと御かかりになりました。すると鴉の左大弁様は苦しまぎれの御一策に、
「いや、あれは何も私《わたくし》が想を懸けているばかりではない。実は姫の方からも、心ありげな風《ふ》情《ぜい》を見せられるので、ついつい足が茂くなるのだ」と、こう御逃げになりました。しかもそれを誠らしく見せかけようと云う出来心から、御姫様から頂いた御文の文句や、御歌などを、ある事もない事も皆一しょに取つくろって、さも御姫様の方が心を焦《こが》していらっしゃるように、御話しになったからたまりません。元より悪戯《いたずら》好きな御同輩たちは、半信半疑でいらっしゃりながら、早速御姫様の偽《にせ》手紙を拵《こしら》えて、折からの藤の枝か何かにつけたまま、それを左大弁様の許《もと》へ御とどけになりました。
こちらは京極の左大弁様で、何事かと胸を轟《とどろ》かせながら、慌《あわて》て御文を開けて見ますと、思いもよらず御姫様は、如何に左大弁様を思いわびてもとんとつれなく御もてなしになるから、所詮《しよせん》かなわぬ恋とあきらめて、尼法師の境涯にはいると云う事が、如何にももの哀れに書いてあるではございませんか。まさかそうまで御姫様が、思いつめていらっしゃろうとは、夢にも思召さなかったのでございますから、鴉の左大弁様は悲しいとも、嬉しいともつかない御心もちで、暫《しばら》くは唯、茫然《ぼうぜん》と御文を前にひろげたまま、溜息《ためいき》をついていらっしゃいました。が、何はともあれ、御眼にかかって、今まで胸にひそめていた想の程も申し上げようと、こう思召したのでございましょう。丁度五月雨《さみだれ》の暮方でございましたが、童子を一人御伴《とも》に御つれになって、傘《おおかさ》をかざしながら、ひそかに二条西洞院の御屋形まで参りますと、御門は堅く鎖《とざ》してあって、いくら音なっても叩《たた》いても、開ける気《け》色《しき》はございません。そうこうする内に夜になって、人の往《ゆき》来《き》も稀《まれ》な築土《ついじ》路《みち》には、唯蛙《かわず》の声が聞えるばかり、雨は益《ますます》降りしきって、御召物も濡《ぬ》れれば、御眼も眩《くら》むと云う情ない次第でございます。
それが程経てから、御門の扉がやっと開いたと思いますと、平《へい》太夫《だゆう》と申します私位の老《おい》侍《ざむらい》が、これも同じような藤の枝に御文を結んだのを渡したなり、無言で又、その扉をぴたりと閉めてしまいました。
そこで泣く泣く御立ち帰りになって、その御文を開けて御覧になると、一首の古歌がちらし書きにしてあるだけで、一言も外には御便りがございません。
思へども思はずとのみ云ふなればいなや思はじ思ふかひなし
これは云うまでもなく御姫様が、悪戯好きな若殿原から、細々《こまごま》と御消息で、鴉の左大弁様の心なしを御承知になっていたのでございます。
八
こう御話し致しますと、中には世の常の姫君たちに引き比べて、この御姫様の御行状を、嘘《うそ》のように思召す方もいらっしゃいましょうが、現在私が御奉公致している若殿様の事を申し上げながら、何もそのような空事《そらごと》をさし加えよう道理はございません。その頃洛中《らくちゆう》で評判だったのは、この御姫様ともう御一方、これは虫が大《だい》御好《おす》きで、長虫《ながむし》までも御飼いになったと云う、不思議な御姫様がございました。この後《あと》の御姫様の事は、全くの余談でございますから、ここには何も申し上げますまい。が、中御門の御姫様は、何しろ御両親とも御隠れになって、御屋形には唯、先刻御耳に入れました平太夫を頭《かしら》にして、御召使の男《だん》女《じょ》が居りますばかり、それに御先代から御有福で、何御不自由もございませんでしたから、自然御美しいのと、御濶達なのとに御任せなすって、随分世を世とも思わない、御放胆な真似もなすったのでございます。
そこで噂を立て易い世間には、この御姫様御自身が、実は少納言様の北の方と大殿様との間に御生まれなすったので、父君の御隠れなすったのも、恋の遺恨で大殿様が毒害遊ばしたのだなどと申す輩《やから》も出て来るのでございましょう。しかし少納言様の急に御歿《な》くなりになった御話は、前に一応申上げました通り、更にそのような次第ではございませんから、その噂は申すまでもなく、皆跡方のない嘘でございます。さもなければ若殿様も、決してあれ程までは御姫様へ、心を御寄せにはなりますまい。
何でも私が人伝《ひとづて》に承わりました所では、初めはいくら若殿様の方で御熱心でも、御姫様は反《かえ》って誰よりも、素気《すげ》なく御もてなしになったとか申す事でございます。いや、そればかりか、一度などは若殿様の御文を持って上った私の甥《おい》に、あの鴉の左大弁様同様、どうしても御門の扉を御開けにならなかったとかでございました。しかもあの平太夫が、何故《なぜ》か堀川の御屋形のものを仇《かたき》のように憎みまして、その時も梨の花に、うらうらと春《はる》日《び》が匂っている築土の上から白《しら》髪《が》頭《あたま》を露《あらわ》して檜皮《ひわだ》の狩衣《かりぎぬ》の袖《そで》をまくりながら、推しても御門を開こうとする私の甥に、
「やい、おのれは昼盗人《ひるぬすびと》か。盗人とあれば容赦はせぬ。一足でも門内にはいったが最期、平太夫が太刀にかけて、まっ二つに斬って捨てるぞ」と、噛《か》みつくように喚《わめ》きました。もしこれが私でございましたら、刃傷沙汰《にんじようざた》にも及んだでございましょうが、甥は唯、道ばたの牛の糞《まり》を礫代《つぶてがわ》りに投げつけただけで、帰って来たと申しておりました。かような次第でございますから、元より御文が無事に御手許にとどいても、とんと御返事と申すものは頂けません。が、若殿様は、一向にそれにも御頓《とん》着《じやく》なく、三日にあげず、御文やら御歌やら、或は又結構な絵巻やらを、凡《およ》そものの三月あまりも、根気よく御遣《つかわ》しになりました。さればこそ、日頃も仰有る通り、「あの頃の予が夢中になって、拙《つたな》い歌や詩を作ったのは、皆恋がさせた業じゃ」に、少しも違いはなかったのでございます。
九
丁度その頃の事でございます。洛中に一人の異形《いぎよう》な沙門《しやもん》が現れまして、とんと今までに聞いた事のない、摩利《まり》の教と申すものを説き弘《ひろ》め始めました。これも一時随分評判でございましたから、中には御聞き及びの方もいらっしゃる事でございましょう。よくものの草紙などに、震旦から天《てん》狗《ぐ》が渡ったと書いてありますのは、丁度あの染殿《そめどの》の御后《おきさき》に鬼が憑《つ》いたなどと申します通り、この沙門の事を譬《たと》えて云ったのでございます。
そう申せば私が初めてその沙門を見ましたのも、やはりその頃の事でございました。確《たしか》、或花曇りの日の昼中だったかと存じますが、何か用足しに出ました帰りに、神泉苑《しんぜいえん》の外を通りかかりますと、あすこの築土を前にして、揉《もみ》烏帽子《えぼし》やら、立烏帽子やら、或は又もの見高い市《いち》女《め》笠《がさ》やらが、数にして凡そ二三十人、中には竹馬に跨《またが》った童《わら》部《べ》も交って、皆一塊《ひとかたまり》になりながら、罵《ののし》り騒いでいるのでございます。さては又、福徳の大神《おおかみ》に祟《たた》られた物狂いでも踊っているか、さもなければ迂《う》濶《かつ》な近江商人《おうみあきゆうど》が、魚盗人《うおぬすびと》に荷でも攫《さら》われたのだろうと、こう私は考えましたが、あまりその騒ぎが仰々しいので、何気なく後《うしろ》からそっと覗《のぞ》きこんで見ますと、思いもよらずその真中には、乞《こ》食《じき》のような姿をした沙門が、何か頻《しきり》にしゃべりながら、見《み》慣《なれ》ぬ女《によ》菩《ぼ》薩《さつ》の画像《えすがた》を掲げた旗竿《はたざお》を片手につき立てて、佇《たたず》んでいるのでございました。年の頃はかれこれ三十にも近うございましょうか。色の黒い、眼のつり上った、如何にも凄《すさま》じい面《つら》がまえで、着ているものこそ、よれよれになった墨染の法衣《ころも》でございますが、渦を巻いて肩の上まで垂れ下った髪の毛と申し、頸《くび》にかけた十文字の怪しげな、黄《こ》金《がね》の護符と申し、元より世の常の法師ではございますまい。それが、私の覗きました時は、流れ風に散る神泉苑の桜の葉を頭から浴びて、全く人間と云うよりも、あの智羅《ちら》永寿《えいじゆ》の眷属《けんぞく》が、鳶《とび》の翼を法衣《ころも》の下に隠しているのではないかと思う程、怪しい姿に見うけられました。
するとその時、私の側にいた、逞《たくま》しい鍛冶《かじ》か何かが、素早く童《わら》部《べ》の手から竹馬をひったくって、
「おのれ、よくも地蔵菩薩を天狗だなどと吐《ぬか》したな」と、噛みつくように喚きながら、斜《はす》に相手の面《おもて》を打ち据えました。が、打たれながらも、その沙門は、にやりと気味の悪い微笑を洩らしたまま、愈《いよいよ》高く女菩薩の画像を落花の風に飜して、
「たとい今生《こんじよう》では、如何なる栄華を極《きわ》めようとも、天上皇帝の御教《おんおしえ》に悖《もと》るものは、一旦命《めい》終《しゆう》の時に及んで、忽ち阿鼻《あび》叫喚の地獄に墜《お》ち、不断の業《ごう》火《か》に皮肉を焼かれて、尽《じん》未《み》来《らい》まで吠《ほ》えおろうぞ。ましてその天上皇帝の遺《のこ》された、摩利信乃《まりしの》法師に笞《しもと》を当つるものは、命終の時とも申さず、明日《あす》が日にも諸天童子の現罰を蒙《こうむ》って、白癩《びゃくらい》の身となり果てるぞよ」と、叱りつけたではございませんか。この勢いに気を呑まれて、私は元より当の鍛冶まで、暫くは唯、竹馬を戟《ほこ》にしたまま、狂おしい沙門の振舞を、呆《あき》れてじっと見守っておりました。
十
が、それはほんの僅《わずか》の間《ま》で、鍛冶は又竹馬をとり直しますと、
「まだ雑言をやめおらぬか」と、恐ろしい権幕で罵りながら、矢庭に沙門へとびかかりました。
元よりその時は私はじめ、誰でも鍛冶の竹馬が、したたか相手の面を打ち据えたと、思わなかったものはございません。いや、実際又竹馬は、あの日の焦《や》けた頬に、もう一すじ蚯蚓《みみず》腫《ばれ》の跡を加えたようでございます。が、横なぐりに打ち下した竹馬が、まだ青い笹の葉に落花を掃《はら》ったと思うが早いか、いきなり大地にどうと倒れたのは、沙門ではなくて、肝腎《かんじん》の鍛冶の方でございました。
これに辟易《へきえき》した一同は、思わず逃腰になったのでございましょう。揉烏帽子と立烏帽子も意気地なく後を見せて、どっと沙門のまわりを離れましたが、見ると鍛冶は、竹馬を持ったまま、相手の足もとにのけぞり返って、口からはまるで癲癇《てんかん》病《や》みのように白い泡さえも噴いております。沙門は暫くその呼吸を窺《うかが》っているようでございましたが、やがてその瞳《ひとみ》を私どもの方へ返しますと、
「見られい。わしの云うた事は、偽りはなかったろうな。諸天童子は即座にこの横道者を、目に見えぬ剣《つるぎ》で打たせ給うた。まだしも頭《かしら》が微《み》塵《じん》に砕けて、都大路に血をあやさなんだのが、時にとっての仕合せと云わずばなるまい」と、さも横柄に申しました。
するとその時でございます。ひっそり静まり返った人々の中から、急にけたたましい泣き声をあげて、さっき竹馬を持っていた童《わら》部《べ》が一人、切禿《きりかむろ》の髪を躍らせながら、倒れている鍛冶の傍《かたわら》へ、転がるように走り寄ったのは。
「阿《お》父《とつ》さん。阿父さんてば。よう、阿父さん」
童部はこう何度も喚きましたが、鍛冶は更に正気に還る気《け》色《しき》もございません。あの唇《くちびる》にたまった泡さえ、相不変《あいかわらず》花曇りの風に吹かれて、白く水干《すいかん》の胸へ垂れております。
「阿父さん。よう」
童部は又こう繰返しましたが、鍛冶が返事をしないのを見ると、忽ち血相を変えて、飛び立ちながら、父の手に残っている竹馬を両手でつかむが早いか、沙門を目がけて健《けな》気《げ》にも、まっしぐらに打ってかかりました。が、沙門はその竹馬を、持っていた画像の旗竿で事もなげに払いながら、又あの気味の悪い笑《えみ》を洩らしますと、わざと柔《やさ》しい声を出して、
「これは滅相な。御《お》主《ぬし》の父親《てておや》が気を失ったのは、この摩利信乃法師がなせる業《わざ》ではないぞ。さればわしを窘《くるし》めたとて、父親が生きて返ろう次第はない」と、たしなめるように申しました。
その道理が童部に通じたと云うよりは、所詮この沙門と打ち合っても、勝てそうもないと思ったからでございましょう。鍛冶の小倅《こせがれ》は五六度竹馬を振りまわした後で、べそを掻《か》いたまま、往来のまん中へ立ちすくんでしまいました。
十一
摩利信乃法師はこれを見ると、又にやにや微笑みながら、童部の傍へ歩みよって、
「さても、御主は、聞分けのよい、年には増した利発な子じゃ。そう温和《おとな》しくしておれば、諸天童子も御主にめでて、程なくそこな父親《てておや》も正気に還して下されよう。わしもこれから祈《き》祷《とう》しょう程に、御主もわしを見《み》慣《なろ》うて、天上皇帝の御慈悲に御すがり申したがよかろうぞ」
こう云うと沙門は旗竿を大きく両腕に抱《いだ》きながら、大路のただ中に跪《ひざまず》いて、恭《うやうや》しげに額を垂れました。そうして眼をつぶったまま、何やら怪しげな陀羅尼《だらに》のようなものを、声高《こわだか》に誦《ず》し始めました。それがどの位つづいた事でございましょう。沙門のまわりに輪を作って、この不思議な加持《かじ》のし方を眺めている私どもには、かれこれものの半時もたったかと思われる程でございましたが、やがて沙門が眼を開いて、跪いたなり伸ばした手を、鍛冶の顔の上へさしかざしますと、見る見る中にその顔が、暖かく血の色を盛返して、やがて苦しそうな呻《うな》り声さえ、例の泡だらけな口の中から、一しきり長く溢《あふ》れて参りました。
「やあ、阿《お》父《とつ》さんが、生き返った」
童部は竹馬を抛《ほう》り出すと、嬉しそうに小躍りして、又父親の傍へ走りよりました。が、その手で抱き起されるまでもなく、呻り声を洩らすと殆ど同時に、鍛冶はまるで酒にでも酔ったかと思うような、覚束《おぼつか》ない身のこなしで、徐《おもむろ》に体を起しました。すると沙門はさも満足そうに、自分も悠然《ゆうぜん》と立ち上って、あの女菩薩の画像《えすがた》を親子のものの頭《かしら》の上に、日を蔽《おお》う如くさしかざすと、
「天上皇帝の御威徳は、この大空のように広大無辺じゃ。何と信を起されたか」と、厳かにこう申しました。
鍛冶の親子は互にしっかり抱《いだ》き合いながら、まだ土の上に蹲《うずくま》っておりましたが、沙門の法《ほう》力《りき》の恐ろしさには、魂も空にけし飛んだのでございましょう。女菩薩の幢《はた》を仰ぎますと、二人とも殊勝げな両手を合せて、わなわな震えながら、礼拝《らいはい》いたしました。と思うとつづいて二三人、まわりに立っている私どもの中にも、笠を脱いだり、烏帽子を直したりして、画像を拝んだものが居ったようでございます。唯私は何となく、その沙門や女菩薩の画像が、まるで魔界の風に染んでいるような、忌わしい気が致しましたから、鍛冶が正気に還ったのを潮に、匆々《そうそう》その場を立ち去ってしまいました。
後で人の話を承わりますと、この沙門の説教致しますのが、震旦から渡って参りました、あの摩利の教と申すものだそうで、摩利信乃法師と申します男も、この国の生れやら、乃《ない》至《し》は唐土《もろこし》に人となったものやら、とんと確なことはわからないと云う事でございました。中には又、震旦でも本朝でもない、天竺《てんじく》の涯《はて》から来た法師で、昼こそあのように町を歩いているが夜は墨染の法衣《ころも》が翼になって、八阪《やさか》寺《でら》の塔の空へ舞上るなどと云う噂もございましたが、元よりそれはとりとめもない、嘘だったのでございましょう。が、さような噂が伝わりましたのも、一応は尤《もつと》もと存じられます位、この摩利信乃法師の仕《し》業《わざ》には、いろいろ幻妙な事が多かったのでございます。
十二
と申しますのは、先ず第一に摩利信乃法師が、あの怪しげな陀羅尼の力で、瞬《またた》く暇に多くの病者を癒《なお》した事でございます。盲目が見えましたり、跛《あしなえ》が立ちましたり、唖《おし》が口をききましたり――一々数え立てますのも、煩《わずら》わしい位でございますが、中でも一番名高かったのは、前《まえ》の摂津守《せつつのかみ》の悩んでいた人面瘡《にんめんそう》ででもございましょうか。これは甥を遠矢にかけて、その女房を奪ったとやら申す報《むくい》から、左膝頭《ひざがしら》にその甥の顔をした、不思議な瘡《かさ》が現われて、昼も夜も骨を刻《けず》るような業苦に悩んでおりましたが、あの沙門の加持を受けますと、見る間にその顔が気《け》色《しき》を和《やわら》げて、やがて口とも覚しい所から「南無《なむ》」と云う声が洩れるや否や、忽ち跡方もなく消え失せたと申すのでございます。元よりその位でございますから狐の憑《つ》きましたのも、天《てん》狗《ぐ》の憑きましたのも、或は又、何とも名の知れない、妖《よう》魅《み》鬼《き》神《しん》の憑きましたのも、あの十文字の護符を頂きますと、まるで木の葉を食う虫が、大風にでも振われて落ちるように、すぐさま落ちてしまいました。
が、摩利信乃法師の法力が評判になったのは、それだからばかりではございません。前にも私が往来で見かけましたように、摩利の教を誹《ひ》謗《ぼう》したり、その信者を呵《か》責《しやく》したり致しますと、あの沙門は即座にその相手へ、恐ろしい神罰を祈り下しました。おかげで井戸の水が腥《なまぐさ》い血潮に変ったものもございますし、持ち田の稲を一《ひと》夜《よ》の中に蝗《いなむし》が食ってしまったものもございますが、あの白朱社《はくしゆしや》の巫女《みこ》などは、摩利信乃法師を祈り殺そうとした応報で、一目見るのさえ気味の悪い白癩《びやくらい》になってしまったそうでございます。そこであの沙門は天狗の化《け》身《しん》だなどと申す噂が、一層高くなったのでございましょう。が、天狗ならば一矢に射てとって見せるとか申して、わざわざ鞍《くら》馬《ま》の奥から参りました猟師も、例の諸天童子の剣《つるぎ》にも打たれたのか、急に目がつぶれた揚句、しまいには摩利の教の信者になってしまったとか申す事でございました。
そう云う勢いでございますから、日を経《ふ》るに従って、信者になる老若男女《ろうにやくなんによ》も、追々数を増して参りましたが、その又信者になりますには、何でも水で頭を濡《ぬら》すと云う、灌頂《かんちよう》めいた式があって、それを一度すまさない中は、例の天上皇帝に帰依《きえ》した明りが立ち兼ねるのだそうでございます。これは私の甥が見かけたことでございますが、或日四条の大橋を通りますと、橋の下の河原に夥《おびただ》しい人だかりが致しておりましたから、何かと存じて覗きましたところ、これもやはり摩利信乃法師が東国者らしい侍に、その怪しげな灌頂の式を授けておるのでございました。何しろ折からの水が温《ぬる》んで、桜の花も流れようと云う加茂《かも》川《がわ》へ、大太刀を佩《は》いて畏《かしこま》った侍と、あの十文字の護符を捧げている異形な沙門とが影を落して、見慣れない儀式を致していたと申すのでございますから、余程面白い見《み》物《もの》でございましたろう。――そう云えば、前に申し上げる事を忘れましたが、摩利信乃法師は始めから、四条河原の非人小屋の間へ、小さな蓆張《むしろば》りの庵《いおり》を造りまして、そこに始終たった一人、侘《わび》しく住んでいたのでございます。
十三
そこでお話は元へ戻りますが、その間に若殿様は、思いもよらない出来事から、予《かね》て御心を寄せていらしった中御門の御姫様と、親しい御語らいをなさる事が御出来なさるように相成りました。その思いもよらない事と申しますのは、もう花橘《はなたちばな》の匂《におい》と時鳥《ほととぎす》の声とが雨もよいの空を想わせる、或夜の事でございましたが、その夜は珍しく月が出て、夜目にも、朧《おぼろ》げには人の顔が見分けられる程だったと申します。若殿様は或女房の所へ御忍びになった御帰り途で、御供の人《にん》数《ず》も目立たないように、僅に一人か二人御召連れになったまま、その明るい月の中を車でゆっくりと御出でになりました。が、何しろ時刻が遅いので、人っ子一人通らない往来には、遠《とお》田《た》の蛙《かわず》の声と、車の輪の音とが聞えるばかり、殊にあの寂しい美《び》福門《ふくもん》の外は、よく狐火《きつねび》の燃える所だけに、何となく鬼気が身に迫って、心無い牛の歩みさえ早くなるような気が致されます。――そう思うと、急に向うの築土の陰で、怪しい咳《しわぶき》の声がするや否や、きらきらと白《しら》刃《は》を月に輝かせて、盗人と覚しい覆面の男が、左右から凡そ六七人、若殿様の車を目がけて、猛々《たけだけ》しく襲いかかりました。
と同時に牛飼の童部を始め、御供の雑色《ぞうしき》たちは余りの事に、魂も消えるかと思ったのでございましょう。驚破《すわ》と云う間もなく、算を乱して、元来た方へ一散に逃げ出してしまいました。が、盗人たちはそれには目をくれる気色もなく、矢庭に一人が牛のi《はづな》を取って、往来のまん中へぴたりと車を止めるが早いか、四方から白刃の垣を造って、犇々《ひしひし》とそのまわりを取り囲みますと、先ず頭立《かしらだ》ったのが横柄に簾《すだれ》を払って、
「どうじゃ。この殿に違いはあるまいな」と、仲間の方を振り向きながら、念を押したそうでございます。その容《よう》子《す》がどうも物盗りとも存ぜられませんので、御驚きの中にも若殿様は不審に思召されたのでございましょう。それまでじっとしていらしったのが、扇を斜《ななめ》に相手の方を、透かすようにして御窺《うかが》いなさいますと、その時その盗人の中に嗄《しわが》れた声がして、
「おう、しかとこの殿じゃ」と、憎々しげに答えました。するとその声が、又何となく何処かで一度御耳になすったようでございましたから、愈《いよいよ》怪しく思召して、明るい月の光に、その声の主を、きっと御覧になりますと、面こそ包んでおりますが、あの中御門の御姫様に年久しく御仕え申している、平太夫に相違はございません。この一刹《せつ》那《な》はさすがの若殿様も、思わず総《そう》身《み》の毛がよだつような、恐ろしい思いをなすったと申す事でございました。何故と申しますと、あの平太夫が堀川の御《ご》一《いつ》家《け》を仇《かたき》のように憎んでいる事は、若殿様の御耳にも、とうからはいっていたからでございます。
いや、現にその時も、平太夫がそう答えますと、さっきの盗人は一層声を荒《あらら》げて、太刀の切先《きつさき》を若殿様の御胸に向けながら、
「さらば御《おん》命を申受けようず」と罵《ののし》ったと申すではございませんか。
十四
しかしあの飽くまでも、物に御騒ぎにならない若殿様は、すぐに勇気を御取り直しになって、悠々と扇を御弄《もてあそ》びなさりながら、
「待て。待て。予の命が欲しくば、次第によってくれてやらぬものでもない。が、その方どもは、何でそのようなものを欲しがるのじゃ」と、まるで人事のように御尋ねになりました。すると頭立った盗人は、白刃を益《ますます》御胸へ近づけて、
「中御門の少納言殿は、誰故の御最期じゃ」
「予は誰やら知らぬ。が、予でない事だけは、しかとした証《あかし》もある」
「殿か、殿の父君か。いずれにしても、殿は仇の一味じゃ」
頭立った一人がこう申しますと、残りの盗人どもも覆面の下で、
「そうじゃ。仇の一味じゃ」と、声々に罵り交《かわ》しました。中にもあの平太夫は歯噛みをして、車の中を獣のように覗きこみながら、太刀で若殿様の御顔を指さしますと、
「さかしらは御無用じゃよ。それよりは十念なと御称《とな》え申されい」と、嘲笑《あざわら》うような声で申したそうでございます。
が、若殿様は相不変《あいかわらず》落ち着き払って、御胸の先の白刃も見えないように、
「してその方たちは、皆少納言殿の御《み》内《うち》のものか」と、抛り出すように御尋ねなさいました。すると盗人たちは皆どうしたのか、一しきり答にためらったようでございましたが、その気色を見てとった平太夫は、透かさず声を励まして、
「そうじゃ。それが又何と致した」
「いや、何とも致さぬが、もしこの中に少納言殿の御内でないものがいたと思え。そのものこそは天が下の阿《あ》呆《ほう》ものじゃ」
若殿様はこう仰有って、美しい歯を御見せになりながら、肩を揺《ゆす》って御笑いになりました。これには命知らずの盗人たちも、暫くは胆《きも》を奪われたのでございましょう。御胸に迫っていた太刀先さえ、この時はもう自然と、車の外の月明りへ引かれていたと申しますから。
「何故と申せ」と、若殿様は言葉を御継ぎになって、「予を殺害《せつがい》した暁には、その方どもは悉《ことごと》く検非違使《けびいし》の目にかかり次第、極刑《ごくけい》に行わるべき奴ばらじゃ。元よりそれも少納言殿の御内のものなら、己《おのれ》が忠義に捨つる命じゃによって、定めて本望に相違はあるまい。が、さもないものがこの中《うち》にあって、僅かばかりの金銀が欲しさに、予が身に白刃を向けるとすれば、そやつは二つとない大事な命を、その褒《ほう》美《び》と換えようず阿呆ものじゃ。何とそう云う道理ではあるまいか」
これを聞いた盗人たちは、今更のように顔を見合せたけはいでございましたが、平太夫だけは独り、気違いのように吼《たけ》り立って、
「ええ、何が阿呆ものじゃ。その阿呆ものの太刀にかかって、最期を遂げる殿の方が、百層倍も阿呆ものじゃとは覚されぬか」
「何、その方どもが阿呆ものだとな。ではこの中《うち》に少納言殿の御内でないものもいるのであろう。これは一段と面白くなって参った。さらばその御内でないものどもに、ちと申し聞かす事がある。その方どもが予を殺害しようとするのは、全く金銀が欲しさにする仕事であろうな。さて金銀が欲しいとあれば、予はその方どもに何なりと望み次第の褒美を取らすであろう。が、その代り予の方にもまた頼みがある。何と、同じ金銀の為《ため》にする事なら、褒美の多い予の方に味方して、利得を計ったがよいではないか」
若殿様は鷹揚《おうよう》に御微笑なさりながら、指貫《さしぬき》の膝を扇で御叩きになって、こう車の外の盗人どもを御談じになりました。
十五
「次第によっては、御《ぎよ》意《い》通り仕《つかまつ》らぬものでもございませぬ」
恐ろしい位ひっそりと静まり返っていた盗人たちの中から、頭だったのが半《なかば》恐る恐るこう御答え申し上げますと、若殿様は御満足そうに、はたはたと扇を御鳴らしになりながら、例の気軽な御調子で、
「それは重畳《ちようじよう》じゃ。何、予が頼みと申しても、格別むずかしい儀ではない。それ、そこに居るその老爺《おやじ》は、少納言殿の御《み》内人《うちびと》で、平太夫と申すものであろう。巷《ちまた》の風聞にも聞き及んだが、そやつは日頃予に恨みを含んで、あわよくば予が命を奪おうなどと、大それた企てさえ致しておると申す事じゃ。さればその方どもがこの度《たび》の結構も、平太夫めに唆《そそのか》されて、事を挙げたのに相違あるまい。――」
「さようでございます」
これは盗人たちが三四人、一度に覆面の下から申し上げました。
「そこで予が頼みと申すのは、その張本《ちようほん》の老爺を搦《から》めとって、長く禍《わざわい》の根を断ちたいのじゃが、何とその方どもの力で、平太夫めに縄をかけてはくれまいか」
この御仰《おんおお》せには、盗人たちも、余りの事に暫らくの間は、呆《あき》れ果てたのでございましょう。車をめぐっていた覆面の頭《かしら》が、互に眼と眼を見合わしながらに、一しきりざわざわと動くようなけはいがございましたが、やがてそれが又静かになりますと、突然盗人たちの唯中から、まるで夜《よ》鳥《どり》の鳴くような、嗄《か》れた声が起りました。
「やい、ここなうっそりどもめ。まだ乳臭いこの殿の口車に乗せられおって、抜いた白刃を持て扱うばかりか、おめおめ御意に従いましょうなどとは、どの面《つら》下げて申せた義理じゃ。よしよし、ならば己《おの》れらが手は借りぬわ。高がこの殿の命一つ、平太夫が太刀ばかりで、見事申し受けようも、瞬く暇じゃ」
こう申すや否や平太夫は、太刀をまっこうにふりかざしながら、やにわに若殿様へ飛びかかろうと致しました。が、その飛びかかろうと致したのと、頭だった盗人が、素早く白刃を投げ出して、横あいからむずと組みついたのとが、殆んど同時でございます。すると外の盗人たちも、てんでに太刀を鞘《さや》におさめて、まるで蝗《いなむし》か何かのように四方から平太夫へ躍りかかりました。何しろ多勢に無勢と云い、こちらは年よりの事でございますから、こうなっては勝負を争うまでもございません。忽《たちま》ちの内にあの老爺は牛のi《はづな》でございましょう、有り合せた縄にかけられて、月明りの往来へ引き据えられてしまいました。その時の平太夫の姿と申しましたら、とんと穽《わな》にでもかかった狐のように、牙《きば》ばかりむき出して、まだ未練らしく喘《あえ》ぎながら、身《み》悶《もだ》えしていたそうでございます。
するとこれを御覧になった若殿様は、欠伸《あくび》まじりに御笑いになって、
「おお、大儀。大儀。それで予の腹も一先《ひとまず》癒《い》えたと申すものじゃ。が、とてもの事に、その方どもは、予が車を警護旁《かたがた》、そこな老耄《おいぼれ》を引き立て、堀川の屋形まで参ってくれい」
こう仰有られて見ますと盗人たちも、今更いやとは申されません。そこで一同うち揃《そろ》って、雑色がわりに牛を追いながら、縄つきを中にとりまいて、月夜にぞろぞろと歩きはじめました。天が下は広うございますが、かように盗人どもを御供に御つれ遊ばしたのは、先《まず》若殿様の外にはございますまい。尤もこの異様な行列も、御屋形まで参りつかない内に、急を聞いて駆けつけた私どもと出会いましたから、その場で面々御褒美を頂いた上、こそこそ退散致してしまいました。
十六
さて若殿様は平太夫を御屋形へつれて御帰りになりますと、そのまま、御廐《うまや》の柱にくくりつけて、雑色たちに見張りを御云いつけなさいましたが、翌朝《よくちよう》は匆々《そうそう》あの老爺《おやじ》を朝曇りの御庭先へ御召しになって、
「こりゃ平太夫、その方が少納言殿の御恨を晴そうと致す心がけは、成程愚《おろか》には相違ないが、さればとて又神妙とも申して申されぬ事はない。殊にあの月夜に、覆面の者どもを駆り催して、予を殺害《せつがい》致そうと云う趣向の程は、中々その方づれとも思われぬ風流さじゃ。が、美福門のほとりは、ちと場所がようなかったぞ。ならば糺《ただす》の森あたりの、老《おい》木《き》の下闇《したやみ》に致したかった。あすこは夏の月夜には、せせらぎの音が間近く聞えて、卯《う》の花の白く仄《ほのめ》くのも一段と風《ふ》情《ぜい》を添える所じゃ。尤もこれはその方づれに、望む予の方が、無理かも知れぬ。就いてはその殊勝なり、風流なのが目出たいによって、今度ばかりはその方の罪も赦《ゆる》してつかわす事にしよう」
こう仰有《おつしや》って若殿様は、何時《いつ》ものように晴々と御笑いになりながら、
「その代りその方も、折角これまで参ったものじゃ。序《ついで》ながら予の文を、姫君のもとまで差上げてくれい。よいか。しかと申しつけたぞ」
私はそのときの平太夫の顔位、世にも不思議なものを見た事はございません。あの意地の悪そうな、苦りきった面色《めんしょく》が、泣くとも笑うともつかない気色を浮かべて、眼ばかりぎょろぎょろ忙《いそが》しそうに、働かせているのでございます。するとその容《よう》子《す》が、笑止ながら気の毒に思召されたのでございましょう。若殿様は御笑《え》顔《がお》を御やめになると、縄尻を控えていた雑色に、
「これ、これ、永居は平太夫の迷惑じゃ。すぐさま縄目を許してつかわすがよい」と、難《あり》有《がた》い御諚《ごじよう》がございました。
それから間もなくの事でございます。一《ひと》夜《よ》の内に腰さえ弓のように曲った平太夫は、若殿様の御文をつけた花《はな》橘《たちばな》の枝を肩にして、這《ほう》々《ほう》裏の御門から逃げ出して参りました。ところがその後から又一人、そっと御門を出ましたのは、私の甥の侍で、これは万一平太夫が御文に無礼でも働いてはならないと、若殿様にも申し上げず、見え隠れにあの老爺の跡をつけたのでございます。
二人の間は凡《およ》その所、半町ばかりもございましたろうか。平太夫は気も心も緩みはてたかと思うばかり、跣足《はだし》を力なくひきずりながら、まだ雲切れのしない空に柿《かき》若葉の匂《におい》のする、築土つづきの都大路を、とぼとぼと歩いて参ります。途々《みちみち》通りちがう菜売りの女などが、稀有《けう》な文《ふ》使《づか》いだとでも思いますのか、迂《う》散《さん》らしくふり返って、見送るものもございましたが、あの老爺はとんとそれにも目をくれる気色はございません。
この調子なら先《まず》何事もなかろうと、一時は私の甥も途中から引き返そうと致しましたが、よもやに引かされて、暫くは猶《なお》も跡を慕って参りますと、丁度油小路《あぶらのこうじ》へ出ようと云う、道《さ》祖《え》の神の祠《ほこら》の前で、折からあの辻《つじ》をこちらへ曲って出た見慣れない一人の沙門が、出合いがしらに平太夫と危くつき当りそうになりました。女菩薩の幢《はた》、墨染の法衣《ころも》、それから十文字の怪しい護符、一目見て私の甥は、それが例の摩利信乃法師だと申す事に、気がついたそうでございます。
十七
危くつき当りそうになった摩利信乃法師は、咄《とつ》嗟《さ》に身を躱《かわ》しましたが、何故かそこに足を止めて、じっと平太夫の姿を見守りました。が、あの老爺はとんとそれに頓着する容子もなく、唯、二三歩路を譲っただけで、相不変とぼとぼと寂しい歩みを運んで参ります。さてはさすがの摩利信乃法師も、平太夫の異様な風俗を、不審に思ったものと見えると、こう私の甥は考えましたが、やがてその側まで参りますと、まだ我を忘れたように、道祖の神の祠《ほこら》を後《うしろ》にして、佇《たたず》んでいる沙門の眼《ま》なざしが、如何に天狗の化《け》身《しん》とは申しながら、どうも唯事とは思われません。いや、反《かえ》ってその眼なざしには何時もの気味の悪い光がなくて、まるで涙ぐんででもいるような、もの優しい潤いが、漂っているのでございます。それが祠の屋根へ枝をのばした、椎《しい》の青葉の影を浴びて、あの女菩薩の旗竿を斜《ななめ》に肩へあてながら、しげしげ向うを見送っていた立ち姿の寂しさは、一生の中にたった一度、私の甥にもあの沙門を懐しく思わせたとか申す事でございました。
が、その内に私の甥の足音に驚かされたのでございましょう。摩利信乃法師は夢のさめたように、慌《あわただ》しくこちらを振り向きますと、急に片手を高く挙げて、怪しい九字《くじ》を切りながら、何か咒文《じゆもん》のようなものを口の内に繰返して、匆々《そうそう》歩きはじめました。その時の咒文の中に、中御門と云うような語《ことば》が聞えたと申しますが、それは事によると私の甥の耳のせいだったかもわかりません。元よりその間も平太夫の方は、やはり花橘の枝を肩にして側《わき》目《め》もふらず悄々《しおしお》と歩いて参ったのでございます。そこで又私の甥も、見え隠れにその跡をつけて、とうとう西洞院の御屋形まで参ったそうでございますが、時にあの摩利信乃法師の不思議な振舞が気になって、若殿様の御文の事さえ、はては忘れそうになった位、落着かない心もちに苦しめられたとか申しておりました。
しかしその御文は恙《つつが》なく、御姫様の御手もとまでとどいたものと見えまして、珍しくも今度に限って早速御返事がございました。これは私ども下々には、何とも確な事は申し上げる訳に参りませんが、恐らくは御承知の通り御濶達な御姫様の事でございますから、平太夫からあの暗《やみ》討《う》ちの次第でも御聞きになって、若殿様の御気象の人に優れていらっしゃるのを、始めて御会得になったからででもございましょうか。それから二三度、御消息を御取り交《かわ》せになった後、とうとう或《ある》小《こ》雨《さめ》の降る夜《よ》、若殿様は私の甥を御供に召して、もう葉柳の陰に埋もれた、西洞院の御屋形へ忍んで御通いになる事になりました。こうまでなって見ますと、あの平太夫もさすがに我が折れたのでございましょう。その夜も険しく眉《まゆ》をひそめてはおりましたが、私の甥に向いましても、格別雑言などを申す勢いはなかったそうでございます。
十八
その後《ご》若殿様は殆《ほとん》ど夜毎《ごと》に西洞院の御屋形へ御伝いになりましたが、時には私のような年よりも御供に御召しになった事がございました。私が始めてあの御姫様の眩《まぶ》しいような御美しさを拝む事が出来ましたのも、そう云う折ふしの事でございます。一度などは御二人で、私を御側近《そばぢか》く御呼びよせなさりながら、今昔《こんじやく》の移り変りを話せと申す御意もございました。確《たしか》、その時の事でございましょう。御《み》簾《す》のひまから見える御池の水に、さわやかな星の光が落ちて、まだ散り残った藤の匂《におい》がかすかに漂って来るような夜でございましたが、その涼しい夜気の中《うち》に、一人二人の女房を御侍《はべ》らせになって、もの静に御酒盛をなすっていらっしゃる御二方の美しさは、まるで倭絵《やまとえ》の中からでも、抜け出していらしったようでございました。殊に白い単衣襲《ひとえかさね》に薄色の袿《うちぎ》を召した御姫様の清らかさは、おさおさあの赫《かぐ》夜《や》姫《ひめ》にも御劣りになりは致しますまい。
その内に御《ご》酒《しゆ》機《き》嫌《げん》の若殿様が、ふと御姫様の方へ御向いなさりながら、
「今も爺《じい》の申した通り、この狭い洛中でさえ、桑海《そうかい》の変は度々あった。世間一切の法はその通り絶えず生滅遷流して、刹《せつ》那《な》も住《じゆう》すと申す事はない。されば無常経にも『未 曾有 一《いまだかつていち》事不 被 無常呑 《じのむじようにのまれざるはあらず》』と説かせられた。恐らくはわれらが恋も、この掟《おきて》ばかりは逃《のが》れられまい。唯何時《いつ》始まって何時終るか、予が気がかりなのはそれだけじゃ」と、冗談のように仰有いますと、御姫様はとんと拗《す》ねたように、大殿油の明るい光をわざと御避けになりながら、
「まあ、憎らしい事ばかり仰有います。ではもう始めから私を、御捨てになる御心算《つもり》でございますか」と、優しく若殿様を御睨《にら》みなさいました。が、若殿様は益《ますます》御機嫌よく、御盃《おさかずき》を御干しになって、
「いや、それよりも始めから、捨てられる心算で居ると申した方が、一層予の心もちにはふさわしいように思われる」
「たんと御弄《なぶ》り遊ばしまし」
御姫様はこう仰有って、一度は愛くるしく御笑いになりましたが、急に又御簾の外の夜色へ、うっとりと眼を御やりになって、
「一体世の中の恋と申すものは、皆そのように果《はか》ないものでございましょうか」と、独《ひと》り語《ごと》のように仰有いました。すると若殿様は何時もの通り、美しい歯を見せて、御笑いになりながら、
「されば果《はか》なくないとも申されまいな。が、われら人間が万法の無常も忘れはてて、蓮《れん》華《げ》蔵《ぞう》世界の妙楽を暫《しば》したりとも味わうのは、唯、恋をしている間だけじゃ。いや、その間だけは恋の無常さえ忘れていると申してもよい。じゃによって予が眼からは、恋慕三昧《ざんまい》に日を送った業平《なりひら》こそ、天晴《あつぱれ》知識じゃ。われらも穢《え》土《ど》の衆苦を去って、常寂《じようじやく》光《こう》の中に住《じゆう》そうには伊勢物語をそのままの恋をするより外はあるまい。何と御《おん》身《み》もそうは思われぬか」と、横合いから御姫様の御顔を御覗きになりました。
十九
「されば恋の功徳こそ、千万無量とも申してよかろう」
やがて若殿様は、恥しそうに御眼を御伏せになった御姫様から、私の方へ、陶然となすった御顔を御向けになって、
「何と、爺《じい》もそう思うであろうな。尤《もつと》もその方には恋とは申さぬ。が、好物の酒ではどうじゃ」
「いえ、却々《なかなか》持ちまして、手前は後生が恐ろしゅうございます」
私が白《しら》髪《が》を掻きながら、慌《あわ》ててこう御答え申しますと、若殿様は又晴々と御笑いになって、
「いや、その答えが何よりじゃ。爺は後生が恐ろしいと申すが、彼岸に往生しょうと思う心は、それを闇《あん》夜《や》の燈火《ともしび》とも頼んで、この世の無常を忘れようと思う心には変りはない。じゃによってその方も、釈教と恋との相違こそあれ、所詮《しよせん》は予と同心に極《きわ》まったぞ」
「これは又滅相な。成程御姫様の御美しさは、伎《ぎ》芸《げい》天女《てんによ》も及ばぬ程ではございますが、恋は恋、釈教は釈教、まして好物の御《ご》酒《しゆ》などと、一つ際《ぎわ》には申せませぬ」
「そう思うのはその方の心が狭いからの事じゃ。弥陀《みだ》も女人《によにん》も、予の前には、皆われらの悲しさを忘れさせる傀儡《かいらい》の類《たぐ》いに外ならぬ。――」
こう若殿様が御云い張りになると、急に御姫様は偸《ぬす》むように、ちらりとその方を御覧になりながら、
「それでも女《おな》子《ご》が傀儡では、嫌《いや》じゃと申しは致しませぬか」と、小さな御声で仰有いました。
「傀儡で悪くば、仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》とも申そうか」
若殿様は勢いよく、こう御返事をなさいましたが、ふと何か御思い出しなすったように、じっと大殿油の火《ほ》影《かげ》を御覧になると、
「昔、あの菅原雅平《まさひら》と親《したしゆ》う交っていた頃にも、度々このような議論を闘わせた。御身も知っておられようが、雅平は予と違って、一図に信を起し易い、云わば朴直な生れがらじゃ。されば予が世《せ》尊《そん》金《こん》口《く》の御《おん》経《きよう》も、実は恋《こい》歌《か》と同様じゃと嘲笑《あざわら》う度に腹を立てて、煩悩《ぼんのう》外《げ》道《どう》とは予が事じゃと、再々悪《あ》しざまに罵《ののし》りおった。その声さえまだ耳にあるが、当の雅平は行方も知れぬ」と、何時になく沈んだ御声で、もの思わしげに御呟《つぶや》きなさいました。するとその御容子にひき入れられたのか、暫くの間は御姫様を始め、私までも口を噤《つぐ》んで、しんとした御部屋の中には藤の花の匂ばかりが、一段と高くなったように思われましたが、それを御座《おざ》が白けたとでも、思ったのでございましょう。女房たちの一人が恐る恐る、
「では、この頃洛中に流行《はや》ります摩利の教とやら申すのも、やはり無常を忘れさせる新しい方便なのでございましょう」と、御話の楔《くさび》を入れますと、もう一人の女房も、
「そう申せばあの教を説いて歩きます沙門には、いろいろ怪しい評判があるようでございませんか」と、さも気味悪そうに申しながら、大殿油の燈心をわざとらしく掻《かき》立《た》てました。
二十
「何、摩利の教。それは又珍しい教があるものじゃ」
何か御考えに耽《ふけ》っていらしった若殿様は、思い出したように、御盃を御挙げになると、その女房の方を御覧になって、
「摩利と申すからは、摩利支天を祭る教のようじゃな」
「いえ、摩利支天ならよろしゅうございますが、その教の本尊は、見慣れぬ女菩薩の姿じゃと申す事でございます」
「では、波斯匿《はしのく》王《おう》の妃《きさい》の宮であった、茉利《まり》夫《ぶ》人《にん》の事でも申すと見える」
そこで私は先日神泉苑の外で見かけました、摩利信乃法師の振舞を逐一御話し申し上げてから、
「その女菩薩の姿では、茉利夫人とやらのようでもございませぬ。いや、それよりはこれまでのどの仏菩薩の御像《おんかたち》にも、似ていないのでございます。別してあの赤裸の幼子《おさなご》を抱《いだ》いておるけうとさは、とんと人間の肉を食《は》む女《によ》夜《や》叉《しや》のようだとも申しましょうか。とにかく本朝には類《るい》のない、邪宗の仏に相違ございますまい」と、私の量見を言上致しますと、御姫様は美しい御眉《おんまゆ》をそっと御ひそめになりながら、
「そうしてその摩利信乃法師とやら申す男は、真実天《てん》狗《ぐ》の化身のように見えたそうな」と、念を押すように御尋ねなさいました。
「さようでございます。風俗はとんと火の燃える山の中からでも、翼に羽搏《はう》って出て来たようでございますが、よもやこの洛中《らくちゆう》に、白昼さような変《へん》化《げ》の物が出没致す事はございますまい」
すると若殿様は又元のように、冴々《さえざえ》した御笑声で、
「いや、何とも申されぬ。現に延《えん》喜《ぎ》の御《み》門《かど》の御代には、五条あたりの柿《かき》の梢《こずえ》に、七日の間天狗が御仏《みほとけ》の形となって、白毫光《びやくごうこう》を放ったとある。又仏眼《ぶつげん》寺《じ》の仁照阿闍梨《にんしようあざり》を日毎に凌《りょう》じに参ったのも、姿は女と見えたが実は天狗じゃ」
「まあ、気味の悪い事を仰有います」
御姫様は元より、二人の女房も、一度にこう云って、襲《かさね》の袖を合せましたが、若殿様は愈《いよいよ》御酒機嫌の御顔を御和げになって、
「三千世界は元より広大無辺じゃ。僅《わずか》ばかりの人間の智慧《ちえ》で、ないと申される事は一つもない。たとえばその沙門に化けた天狗が、この屋形の姫君に心を懸けて、或夜ひそかに破《は》風《ふ》の空から、爪だらけの手をさしのべようも、全くない事じゃとは誰も云えぬ。が、――」と仰有りながら、殆ど色も御変りにならないばかり、恐ろしげに御寄りそいになった御姫様の袿《うちぎ》の背を、やさしく御さすりになりながら、
「が、まだその摩利信乃法師とやらは、幸《さいわい》、姫君の姿さえ垣《かい》間《ま》見た事もないであろう。先《まず》、それまでは魔道の恋が、成就する気づかいはよもあるまい。さればもうそのように、怖《こわ》がられずとも大丈夫じゃ」と、まるで子供をあやすように、笑って御慰めなさいました。
二十一
それから一月ばかりと申すものは、何事もなくすぎましたが、やがて夏も真盛りの或日の事、加茂川の水が一段と眩《まばゆ》く日の光を照り返して、炎天の川筋には引き舟の往《ゆき》来《き》さえとぎれる頃でございます。ふだんから釣の好きな私の甥は、五条の橋の下へ参りまして、河《か》原蓬《わらよもぎ》の中に腰を下しながら、ここばかりは涼《すず》風《かぜ》の通うのを幸と、水《み》嵩《かさ》の減った川に糸を下して、頻《しきり》に鮠《はや》を釣っておりました。すると丁度頭の上の欄干で、どうも聞いた事のあるような話し声が致しますから、何気なく上を眺めますと、そこにはあの平太夫が高《たか》扇《おうぎ》を使いながら、欄干に身をよせかけて、例の摩利信乃法師と一しょに、余念なく何事か話しているではございませんか。
それを見ますと私の甥は以前油小路の辻で見かけた、摩利信乃法師の不思議な振舞がふと心に浮びました。そう云えばあの時も、どうやら二人の間には、曰《いわ》くがあったようでもある。――こう私の甥は思いましたから、眼は糸の方へやっていても、耳は橋の上の二人の話を、じっと聞き澄ましておりますと、向うは人通りも殆ど途絶えた、日盛りの寂しさに心を許したのでございましょう。私の甥の居る事なぞには、更に気のつく容子もなく、思いもよらない、大それた事を話し合っているのでございます。
「あなた様がこの摩利の教を御拡《ひろ》めになっていらっしゃろうなどとはこの広い洛中で誰一人存じているものはございますまい。私でさえあなた様が御自分でそう仰有るまでは、どこかで御見かけ申したとは思いながら、とんと覚えがございませんでした。それもまた考えて見れば、尤《もつと》もな次第でございます。何時《いつ》ぞやの春の月夜に桜人《さくらびと》の曲を御謡いになった、あの御年若なあなた様と、唯今こうして炎天に裸で御歩きになっていらっしゃる、慮外ながら天狗のような、見るのも凄《すさま》じいあなた様と、同じ方でいらっしゃろうとは、あの打伏《うちふし》の巫子《みこ》に聞いて見ても、わからないのに相違ございません」
こう平太夫が口軽く、扇の音と一しょに申しますと、摩利信乃法師はまるで又、どこの殿様かと疑われる、鷹揚《おうよう》な言《ことば》つきで、
「わしもその方に会ったのは何よりも満足じゃ。何時ぞや油小路の道祖《さえ》の神の祠《ほこら》の前でも、ちらと見かけた事があったが、その方は側《わき》目《め》もふらず、文をつけた橘《たちばな》の枝を力なくかつぎながら、もの思わしげにたどたどと屋形の方へ歩いて参った」
「さようでございますか。それは又年《とし》甲斐《がい》もなく、失礼な事を致したものでございます」
平太夫はあの朝の事を思い出したのでございましょう。苦々しげにこう申しましたが、やがて勢いの好い扇の音が、再びはたはたと致しますと、
「しかしこうして今日《こんにち》御眼にかかれたのは、全く清水寺《きよみずでら》の観世音菩薩の御利《り》益《やく》ででもございましょう。平太夫一生の内に、これ程嬉しい事はございません」
「いや、予が前で仏神の名は申すまい。不肖ながら、予は天上皇帝の神勅を蒙《こうむ》って、わが日の本に摩利の教を布《し》こうと致す沙門の身じゃ」
二十二
急に眉をひそめたらしいけはいで、こう摩利信乃法師が言を挟みましたが、存外平太夫は恐れ入った気色もなく、扇と舌と同じように働かせながら、
「成程さようでございましたな。平太夫も近頃はめっきり老《おい》耄《ぼ》れたと見えまして、する事為《な》す事悉《ことごと》く落度ばかりでございます。いや、そう云う次第ならもうあなた様の御前では、二度と神仏《かみほとけ》の御名《みな》は口に致しますまい。尤も日頃はこの老爺《おやじ》も、余り信心気などと申すものがある方ではございません。それを唯今急に、観世音菩薩などと述べ立てましたのは、全く久しぶりで御目にかかったのが、嬉しかったからでございます。そう申せば姫君も幼《おさな》馴染《なじみ》のあなた様が御無事でいらっしゃると御聞きになったら、どんなにか御喜びになる事でございましょう」と、ふだん私どもに向っては、返事をするのも面倒そうな、口の重い容子とは打って変って、勢いよく弁じ立てました。これにはあの摩利信乃法師も、返事のしようさえなさそうに暫くは唯《ただ》、頷《うなず》いてばかりいるようでございましたが、やがてその姫君と云う言を機会《しお》に、
「さてその姫君に就いてじゃが、予は聊《いささ》か密々に御《ぎよ》意《い》得たい仔《し》細《さい》がある」と、云って、一段と又声をひそめながら、
「何と平太夫、その方の力で夜分なりと、御目にかからせてはくれまいか」
するとこの時橋の上では、急に扇の音が止んでしまいました。それと同時に私の甥は、危く欄干の方を見上げようと致しましたが、元より迂《う》濶《かつ》な振舞をしては、ここに潜んでいる事が見露《みあらわ》されないものでもございません。そこでやはり河原蓬《よもぎ》の中を流れて行く水の面《おもて》を眺めたまま、息もつかずに上の容子へ気をくばっておりました。が、平太夫は今までの元気に引き換えて、容易に口を開きません。その間の長さと申しましたら、橋の下の私の甥には、体《からだ》中の筋骨《すじほね》が妙にむず痒《かゆ》くなった位、待ち遠しかったそうでございます。
「たとい河原とは申しながら、予も洛中に住まうものじゃ。堀川の殿がこの日頃、姫君のもとへしげしげと、通わるる趣も知ってはいる。――」
やがて又摩利信乃法師は、相不変《あいかわらず》もの静な声で、独り言のように言を継ぐと、
「が、予は姫君が恋しゅうて、御意得たいと申すのではない。予の業慾に憧《あこが》るる心は、一《ひと》度《たび》唐土《もろこし》にさすらって、紅毛碧眼《へきがん》の胡《こ》僧《そう》の口から、天上皇帝の御教《おんおしえ》を聴聞すると共に、滅びてしもうた。唯、予が胸を痛めるのは、あの玉のような姫君も、この天地《あめつち》を造らせ給うた天上皇帝を知られぬ事じゃ。されば神と言い仏と云う天魔外《げ》道《どう》の類《たぐい》を信仰せられて、その形になぞらえた木石にも香《こう》花《げ》を供えられる。かくてはやがて命終《めいしゆう》の期《き》に臨んで、永劫《えいごう》消えぬ地獄の火に焼かれ給うに相違ない。予はその事を思う度に、阿鼻《あび》大城《たいじよう》の暗の底へ逆落しに落ちさせらるる、あえかな姫君の姿さえありありと眼に浮んで来るのじゃ。現に昨夜《ゆうべ》も。――」
こう云いかけて、あの沙門はさも感慨に堪えないらしく、次第に力の籠《こも》って来た口を暫くの間とざしました。
二十三
「昨晩《さくばん》、何かあったのでございますか」
程経て平太夫が、心配そうに、こう相手の言を促しますと、摩利信乃法師はふと我に返ったように、又元の静な声で、一言《ひとこと》毎に間《あいだ》を置きながら、
「いや、何もあったと申す程の仔細はない。が、予は昨夜もあの菰《こも》だれの中で、独りうとうとと眠っておると、柳の五つ衣《ぎぬ》を着た姫君の姿が、夢に予の枕もとへ歩みよられた。唯、現《うつつ》と異ったは、日頃つややかな黒髪が、朦朧《もうろう》と煙《けむ》った中に、黄《こ》金《がね》の釵《さい》子《し》が怪しげな光を放っておっただけじゃ。予は絶えて久しい対面の嬉しさに、『ようこそ見えられた』と声をかけたが、姫君は悲しげな眼を伏せて、予の前に坐られたまま、答えさえせらるる気《け》色《しき》はない。と思えば紅《くれない》の袴《はかま》の裾《すそ》に、何やら蠢《うごめ》いているものの姿が見えた。それが袴の裾ばかりか、よう見るに従って、肩にも居れば、胸にも居る。中には黒髪の中にいて、えせ笑うらしいものもあった。――」
「と仰有《おつしや》っただけでは解《げ》せませんが、一体何が居ったのでございます」
この時は平太夫も、思わず知らず沙門の調子に釣り込まれてしまったのでございましょう。こう尋ねました声ざまには、もうさっきの気負った勢いも聞えなくなっておりました。が、摩利信乃法師は、やはりもの思わしげな口ぶりで、
「何が居ったと申す事は、予自身にもしかとはわからぬ。予は唯、水《みず》子《ご》程の怪しげなものが、幾つとなく群って、姫君の身のまわりに蠢《うごめ》いているのを眺めただけじゃ。が、それを見ると共に、夢の中ながら予は悲しゅうなって、声を惜まず泣き叫んだ。姫君も予の泣くのを見て、頻《しきり》に涙を流される。それが久しい間続いたと思うたが、やがて、どこやらで鶏《とり》が啼《な》いて、予の夢はそれぎり覚めてしもうた」
摩利信乃法師がこう語り終りますと、今度は平太夫も口を噤《つぐ》んで、一しきりやめていた扇を又も使い出しました。私の甥はその間中鈎《はり》にかかった鮠《はや》も忘れる位、聞き耳を立てておりましたが、この夢の話を聞いている中は、橋の下の涼しさが、何となく肌身にしみて、そう云う御姫様の悲しい御姿を、自分も何時か朧《おぼろ》げに見た事があるような、不思議な気が致したそうでございます。
その内に橋の上では、又摩利信乃法師の沈んだ声がして、
「予はその怪しげなものを妖魔じゃと思う。されば天上皇帝は、堕《だ》獄《ごく》の業《ごう》を負わせられた姫君を憐《あわ》れと見そなわして、予に教化《きようげ》を施せと霊夢を賜ったのに相違ない。予がその方の力を藉《か》りて、姫君に御意得たいと申すのは、こう云う仔細があるからじゃ。何と予が頼みを聞き入れてはくれまいか」
それでも猶《なお》、平太夫は暫くためらっていたようでございますが、やがて扇をつぼめたと思うと、それで欄干を丁《ちよう》と打ちながら、
「よろしゅうございます。この平太夫は何時《いつ》ぞや清水の阪の下で、辻冠者《つじかんじゃ》ばらと刃傷《にんじよう》を致しました時、すんでに命も取られる所を、あなた様の御かげによって、落ち延びる事が出来ました。その御恩を思いますと、あなた様の仰有る事に、いやと申せた義理ではございません。摩利の教とやらに御帰依《きえ》なさるか、なさらないか、それは姫君の御意次第でございますが、久しぶりであなた様の御目にかかると申す事は、姫君も御嫌《いや》ではございますまい。とにかく私の力の及ぶ限り、御対面だけはなされるように御取り計らい申しましょう」
二十四
その密談の仔《し》細《さい》を甥の口から私が詳しく聞きましたのは、それから三四日たった或朝の事でございます。日頃は人の多い御屋形の侍《じ》所《しよ》も、その時は私共二人だけで、眩《まば》ゆく朝日のさした植込みの梅の青葉の間からは、それでも涼しいそよ風が、そろそろ動こうとする秋の心もちを時々吹いて参りました。
私の甥はその話を終ってから、一段と声をひそめますと、
「一体あの摩利信乃法師と云う男が、どうして姫君を知っているのだか、それは元より私にも不思議と申す外はありませんが、とにかくあの沙門が姫君の御意を得るような事でもあると、どうもこの御屋形の殿様の御身の上には、思いもよらない凶変でも起りそうな不吉な気がするのです。が、このような事は殿様に申上げても、あの通りの御気象ですから、決して御取り上げにはならないのに相違ありません。そこで、私は私の一存で、あの沙門を姫君の御目にかかれないようにしようと思うのですが、叔父さんの御考えはどういうものでしょう」
「それはわしも、あの怪しげな天狗法師などに姫君の御顔を拝ませたく無い。が、御《お》主《ぬし》もわしも、殿様の御用を欠かぬ限りは、西洞院の御屋形の警護ばかりしておる訳にも行かぬ筈《はず》じゃ。されば御《お》主《ぬし》はあの沙門を、姫君の御身のまわりに、近づけぬと云うたにした所で。――」
「さあ、そこです。姫君の思召しも私共には分りませんし、その上あすこには平太夫と云う老爺《おやじ》も居りますから、摩利信乃法師が西洞院の御屋形に立寄るのは、迂《う》濶《かつ》に邪魔も出来ません。が、四条河原の蓆《むしろ》張りの小屋ならば、毎晩きっとあの沙門が寝泊りする所ですから、随分こちらの思案次第で、二度とあの沙門が洛中へ出て来ないようにすることも出来そうなものだと思うのです」
「と云うて、あの小屋で見張りをしてる訳にも行くまい。御主の申す事は、何やら謎《なぞ》めいた所があって、わしのような年寄りには十分に解《げ》し兼ねるが、一体御主はあの摩利信乃法師をどうしようと云う心算《つもり》なのじゃ」
私が不審そうにこう尋ねますと、私の甥はあたかも他聞を憚《はばか》るように、梅の青葉の影がさしている部屋の前後へ目をくばりながら、私の耳へ口を附けて、
「どうすると云うて、外に仕方のある筈《はず》がありません。夜更《よふ》けにでも、そっと四条河原へ忍んで行って、あの沙門の息の根を止めてしまうばかりです」
これにはさすがの私も暫くの間は呆《あき》れ果てて、二の句をつぐ事さえ忘れておりましたが、甥は若い者らしい、一図に思いつめた調子で、
「何、高《たか》があの通りの乞《こ》食《じき》法師です。たとい加勢の二三人はあろうとも、仕止めるのに造作はありますまい」
「が、それはどうもちと無法なようじゃ。成程あの摩利信乃法師は邪宗門を拡《ひろ》めては歩いていようが、その外には何一つ罪らしい罪も犯しておらぬ。さればあの沙門を殺すのは、云わば無辜《むこ》を殺すとでも申そう。――」
「いや、理《り》窟《くつ》はどうでもつくものです。それよりももしあの沙門が、例の天上皇帝の力か何か藉《か》りて、殿様や姫君を呪《のろ》うような事があったとして御覧なさい。叔父さん始め私まで、こうして禄を頂いている甲斐《かい》がないじゃありませんか」
私の甥は顔を火照《ほて》らせながら、どこまでもこう弁じつづけて、私などの申す事には、とんと耳を藉しそうな気色さえもございません。――すると丁度そこへ外《ほか》の侍たちが、扇の音をさせながら、二三人はいって参りましたので、とうとうこの話もその場限り、御流《ながれ》になってしまいました。
二十五
それから又、三四日はすぎたように覚えております。或星《ほし》月《づく》夜《よ》の事でございましたが、私は甥と一しょに更《こう》闌《た》けてから四条河原へそっと忍んで参りました。その時でさえまだ私には、あの天狗法師を殺そうと云う心算《つもり》もなし、又殺す方がよいと云う気もあった訳ではございません。が、どうしても甥が初《はじめ》の目《もく》ろみを捨てないのと、甥を一人でやる事が何故か妙に気がかりだったので、とうとう私までが年甲斐もなく、河原蓬の露に濡《ぬ》れながら、摩利信乃法師の住む小屋を目がけて、窺《うかが》いよることになったのでございます。
御承知の通りあの河原には、見苦しい非人小屋が、何軒となく立ち並んでおりますが、今はもうここに多い白癩《びやくらい》の乞《こ》食《じき》たちも、私などが思いもつかない、怪しげな夢をむすびながら、ぐっすり睡入《ねい》っておるのでございましょう。私と甥とが足音を偸《ぬす》み偸み、静かにその小屋の前を通りぬけました時も、蓆壁《むしろかべ》の後には唯、高鼾《たかいびき》の声が聞えるばかり、どこもかしこもひっそりと静まり返って、たった一所《ひとところ》焚《た》き残してある芥火《あくたび》さえ、風もないのか夜空へ白く、まっすぐな煙《けぶり》をあげております。殊にその煙の末が、所斑《ところまだら》な天の川と一つでいるのを眺めますと、どうやら数え切れない星屑《ほしくず》が、洛中の天を傾けて、一尺ずつ一寸ずつ、辷《すべ》る音まではっきりと聞きとれそうに思われました。
その内に私の甥は、兼ねて目星をつけて置いたのでございましょう、加茂川の細い流れに臨んでいる、菰《こも》だれの小屋の一つを指さしますと、河原蓬の中に立ったまま、私の方をふり向きまして、
「あれです」と、一言《ひとこと》申しました。折からあの焚き捨てた芥火が、まだ焔《ほのお》の舌を吐いているそのかすかな光に透かして見ますと、小屋はどれよりも小さい位で、竹の柱も古蓆《ふるむしろ》の屋根も隣近所と変りはございませんが、それでもその屋根の上には、木の枝を組んだ十文字の標《しるし》が、夜目にもいかめしく立っております。
「あれか」
私は覚束《おぼつか》ない声を出して、何と云う事もなくこう問い返しました。実際その時の私には、まだ摩利信乃法師を殺そうとも、殺すまいとも、はっきりした決断がつかずにいたのでございます。が、そう云う内にも私の甥が、今度はふり向くらしい容子もなく、じっとその小屋を見守りながら、
「そうです」と、素っ気なく答える声を聞きますと、愈太刀《いよいよたち》へ血をあやす時が来たと云う、何とも云いようのない心もちで、思わず総身がわななきました。すると甥は早くも身《み》仕《じ》度《たく》を整えたものと見えて、太刀の目《め》釘《くぎ》を叮嚀《ていねい》に潤《しめ》しますと、まるで私には目もくれず、そっと河原蓬を踏み分けながら、餌《え》食《じき》を覗《ねら》う蜘蛛《くも》のように、音もなく小屋の外へ忍びよりました。いや全く芥火の朧《おぼろ》げな光のさした、蓆壁にぴったり体《からだ》をよせて、内のけはいを窺っている私の甥の後姿は、何となく大きな蜘蛛のような気味の悪いものに見えたのでございます。
二十六
が、こう云う場合に立ち至ったからは、元よりこちらも手を束《つか》ねて、見ておる訳には参りません。そこで水干《すいかん》の袖を後で結ぶと、甥の後《あと》から私も、小屋の外へ窺いよって、蓆の隙から中の容子を、じっと覗《のぞ》きこみました。
すると先《まず》、眼に映ったのは、あの旗竿に掲げて歩く女菩薩の画像《えすがた》でございます。それが今は、向うの蓆壁にかけられて、形ははっきりと見えませんが、入口の菰を洩《も》れる芥火の光をうけて、美しい金の光輪ばかりが、まるで月蝕《げつしよく》か何かのように、ほんのり燦《きら》めいておりました。又その前に横になっておりますのは、昼の疲れに前後を忘れた摩利信乃法師でございましょう。それからその寝姿を半蔽《なかばおお》っている、着物らしいものが見えましたが、これは芥火に反《そむ》いているので、噂《うわさ》に聞く天狗の翼だか、それとも天竺《てんじく》にあると云う火鼠《ひねずみ》の裘《けごろも》だかわかりません。――
この容子を見た私どもは、云わず語らず両方から沙門の小屋を取囲んで、そっと太刀の鞘《さや》を払いました。が、私は初めからどうも妙な気おくれが致していたからでございましょう。その拍子に手もとが狂って、思わず鋭い鍔音《つばおと》を響かせてしまったではございませんか。すると私が心の中ではっと思う暇《ひま》さえなく、今まで息もしなかった菰だれの向うの摩利信乃法師が、忽《たちま》ち身を起したらしいけはいを見せて、
「誰じゃ」と、一声咎《とが》めました。もうこうなっては、甥を始め、私までも騎虎《きこ》の勢いで、どうしてもあの沙門を、殺すより外はございません。そこでその声がするや否や、前と後と一斉に、ものも云わず白刃をかざして、いきなり小屋の中へつきこみました。その白刃の触れ合う音、竹の柱の折れる音、蓆壁の裂け飛ぶ音、――そう云う物音が凄じく、一度に致したと思いますと、矢庭に甥が、二足三足後《うしろ》の方へ飛びすさって、
「おのれ、逃がしてたまろうか」と、太刀をまっこうにふりかざしながら、苦しそうな声でおめきました。その声に驚いて私も素早く跳《は》ねのきながら、まだ燃えている芥火の光にきっと向うを透かして見ますと、まあ、どうでございましょう。粉《こな》微《み》塵《じん》になった小屋の前には、あの無気味な摩利信乃法師が、薄色の袿《うちぎ》を肩にかけて、まるで猿《さる》のように身をかがめながら、例の十文字の護符を額にあてて、じっと私どもの振舞を窺っているのでございます。これを見た私は、元よりすぐにも一刀《ひとかたな》浴びせようとあせりましたが、どう云うものか、あの沙門の身をかがめたまわりには、自然と闇が濃くなるようで、容易に飛びかかる隙《すき》がございません。或はその闇の中に、何やら目に見えぬものが渦巻くようで、太刀の狙《ねら》いが定《き》まらなかったと申しましょうか。これは甥も同じ思いだったものと見えて、時々喘《あえ》ぐように叫びますが、白刃は何時《いつ》もその頭《かしら》の上に目まぐるしくくるくると輪ばかり描《えが》いておりました。
二十七
その内に摩利信乃法師は、徐《おもむろ》に身を起しますと、十文字の護符を左右にふり立てながら、嵐《あらし》の叫ぶような凄《すご》い声で、
「やい。おのれらは勿体《もつたい》なくも、天上皇帝の御威徳を蔑《ないがしろ》に致す心得か。この摩利信乃法師が一身は、おのれらの曇った眼には、唯《ただ》、墨染の法衣《ころも》の外に蔽うものもないようじゃが、誠は諸天童子の数を尽して、百万の天軍が守っておるぞよ。ならば手柄にその白《しら》刃《は》をふりかざして、法師の後に従うた聖《せい》衆《しゆう》の車馬剣戟《けんげき》と力を競うて見るがよいわ」と、末は嘲笑《あざわら》うように罵《ののし》りました。
元よりこう嚇《おど》されても、それに悸《おぞ》毛《け》を震う様な私どもではございません。甥と私とはこれを聞くと、まるで綱を放れた牛のように、両方からあの沙門を目蒐《めが》けて斬ってかかりました。いや、将《まさ》に斬ってかかろうとしたとでも申しましょうか。と申しますのは、私どもが太刀をふりかぶった刹《せつ》那《な》に、摩利信乃法師が十文字の護符を、一しきり又頭《あたま》の上で、振りまわしたと思いますと、その護符の金色《こんじき》が、稲妻《いなずま》のように宙へ飛んで、忽ち私どもの眼の前へは、恐ろしい幻が現れたのでございます。ああ、あの恐ろしい幻は、どうして私などの口の先で、御話し申す事が出来ましょう。もし出来たと致しましても、それは恐らく麒《き》麟《りん》の代りに、馬を指して見せると大した違いはございますまい。が、出来ないながら申上げますと、最初あの護符が空へあがった拍子に、私は河原の闇が、突然摩利信乃法師の後だけ、裂け飛んだように思いました。するとその闇の破れた所には、数限りもない焔《ほのお》の馬や焔の車が、竜蛇《りゆうだ》のような怪しい姿と一しょに、雨より急な火花を散らしながら、今にも私共の頭上をさして落ちかかるかと思うばかり、天に溢《あふ》れてありありと浮び上ったのでございます。と思うと又、その中に旗のようなものや、剣《けん》のようなものも、何千何百となく燦《きらめ》いて、そこからまるで大風の海のような、凄《すさま》じいもの音が、河原の石さえ走らせそうに、どっと沸き返って参りました。それを後に背負いながら、やはり薄色の袿を肩にかけて十文字の護符をかざしたまま、厳《おごそか》に立っているあの沙門の異様な姿は、全くどこかの大天狗が、地獄の底から、魔軍を率いて、この河原のただ中へ天下《あまくだ》ったようだとでも申しましょうか。――
私どもは余りの不思議に、思わず太刀を落すや否や、頭《かしら》を抱《かか》えて右左へ、一たまりもなくひれ伏してしまいました。するとその頭《かしら》の空に、摩利信乃法師の罵る声が、又いかめしく響き渡って、
「命が惜しくば、その方どもも天上皇帝に御詫《わび》申せ。さもない時は立ちどころに、護法百万の聖衆たちは、その方どもの臭骸《しゆうがい》を段々《だんだん》壊《え》に致そうぞ」と、雷《いかずち》のように呼《よば》わります。その恐ろしさ、物凄さと申しましたら、今になって考えましても、身ぶるいが出ずにはおられません。そこで私もとうとう我慢が出来なくなって、合掌した手をさし上げながら、眼をつぶって恐る恐る、「南無《なむ》天上皇帝」と称《とな》えました。
二十八
それから先の事は、申し上げるのさえ、御恥しい位でございますから、なる可《べ》く手短に御話し致しましょう。私どもが天上皇帝を祈りましたせいか、あの恐ろしい幻は間もなく消えてしまいましたが、その代り太刀音を聞いて起《おき》て来た非人たちが、四方から私どもをとり囲みました。それが又、大抵は摩利の教の信者たちでございますから、私どもが太刀を捨ててしまったのを幸に、いざと云えば手ごめにでもし兼ねない勢いで、口々に凄じく罵り騒ぎながら、まるで穽《わな》にかかった狐《きつね》でも見るように、男も女も折り重なって、憎さげに顔を覗きこもうとするのでございます。その何人とも知れない白癩どもの面《おもて》が、新に燃え上った芥火《あくたび》の光を浴びて、星《ほし》月《づき》夜《よ》の空も見えない程、前後左右から頸《くび》をのばした気味悪さは、到底この世のものとは思われません。
が、その中でもさすがに摩利信乃法師は、徐《しずか》に哮《たけ》り立つ非人たちを宥《なだ》めますと、例の怪しげな微笑を浮べながら、私どもの前へ進み出まして、天上皇帝の御威徳の難有《ありがた》い本末《もとすえ》を懇々と説いて聴かせました。が、その間も私の気になって仕方がなかったのは、あの沙門の肩にかかっている、美しい薄色の袿《うちぎ》の事でございます。
元より薄色の袿と申しましても、世間に類《るい》の多いものではございますが、もしやあれは中御門の姫君の御召し物ではございますまいか。万一そうだと致しましたら、姫君はもう何時の間にか、あの沙門と御対面になったのでございましょうし、或はその上に摩利の教も、御帰依《きえ》なすってしまわないとは限りません。こう思いますと私は、おちおち相手の申します事も、耳にはいらない位でございましたが、うっかりそんな素振を見せましては、又どんな恐ろしい目に遇《あ》わされないものでもございますまい。しかも摩利信乃法師の容子では、私どもも唯、神仏を蔑《さみ》されるのが口《くち》惜《お》しいので、闇討《やみうち》をしかけたものだとでも思ったのでございましょう。幸、堀川の若殿様に御仕え申している事なぞは、気のつかないように見えましたから、あの薄色の袿にも、成る可く眼をやらないようにして、河《か》原《わら》の砂の上に坐ったまま、わざと神妙にあの沙門の申す事を聴いているらしく装いました。
するとそれが先方には、如何にも殊勝げに見えたのでございましょう。一通り談義めいた事を説いて聴かせますと、摩利信乃法師は顔色を和げながら、あの十文字の護符を私どもの上にさしかざして、
「その方どもの罪業《ざいごう》は無知蒙昧《もうまい》の然《しか》らしめた所じゃによって、天上皇帝も格別の御宥免《ゆうめん》を賜わせらるるに相違あるまい。さればわしもこの上猶《なお》、叱り懲《こら》そうとは思うていぬ。やがては又、今夜の闇討が縁となって、その方どもが摩利の御教に帰依し奉る時も参るであろう。じゃによってその時が参るまでは、一先《まず》この場を退散致したが好い」と、もの優しく申してくれました。尤もその時でさえ、非人たちは、今にも掴《つか》みかかりそうな、凄じい気色を見せておりましたが、これもあの沙門の鶴の一声で、素直に私どもの帰る路を開いてくれたのでございます。
そこで私と甥とは、太刀を鞘《さや》におさめる間も惜しいように、匆々《そうそう》四条河原から逃げ出しました。その時の私の心もちと申しましたら、嬉しいとも、悲しいとも、乃《ない》至《し》は又残念だとも、何ともお話しの致しようがございません。でございますから河原が遠くなって、唯、あの芥火の赤く揺《ゆら》めくまわりに、白癩どもが蟻《あり》のように集って、何やら怪しげな歌を唄っておりますのが、かすかに耳へはいりました時も、私どもは互の顔さえ見ずに、黙って吐息ばかりつきながら、歩いて行ったものでございます。
二十九
それ以来私どもは、よるとさわると、額を鳩《あつ》めて、摩利信乃法師と中御門の姫君とのいきさつを互に推量し合いながら、どうかしてあの天狗法師を遠ざけたいと、いろいろ評議を致しましたが、さて例の恐ろしい幻の事を思い出しますと、容易に名案も浮びません。尤《もつと》も甥の方は私より若いだけに、まだ執念深く初一念を捨てないで場合によったら平太夫のしたように、辻冠者《つじかんじや》どもでも駆り集めたらもう一度四条河原の小屋を刧《おびやか》そう位な考えがあるようでございました。ところがその内に、思いもよらず、又私どもは摩利信乃法師の神変不思議な法力《ほうりき》に、驚くような事が出来たのでございます。
それはもう秋風の立ち始めました頃、長尾の律師様が嵯峨《さが》に阿弥陀《あみだ》堂《どう》を御建てになって、その供養をなすった時の事でございます。その御《み》堂《どう》も只今は焼けてございませんが、何しろ国々の良材を御集めになった上に、高名《こうめい》な匠《たくみ》たちばかり御召しになって、莫大《ばくだい》な黄《こ》金《がね》も御かまいなく、御造りになったのでございますから、御規模こそさのみ大きくなくっても、その荘厳を極めておりました事は、略《ほぼ》御推察が参るでございましょう。
別してその御《み》堂《どう》供養の当日は、上達《かんだち》部《め》殿上人は申すまでもなく、女房たちの参ったのも数限りない程でございましたから、東西の廊に寄せてあるさまざまの車と申し、その廊々の桟《さ》敷《じき》をめぐった、錦の縁《へり》のある御簾《みす》と申し、或は又御簾際《ぎわ》になまめかしくうち出した、萩《はぎ》、桔《き》梗《きよう》、女郎花《おみなえし》などの褄《つま》や袖口の彩《いろど》りと申し、うららかな日の光を浴びた、境内一面の美しさは、目《ま》のあたりに蓮《れん》華《げ》宝《ほう》土《ど》の景色を見るようでございました。それから、廊に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮《ぐれんびやくれん》の造り花が簇々《ぞくぞく》と咲きならんで、その間を竜舟《りゆうしゆう》が一艘《そう》、錦の平《ひら》張《ば》りを打ちわたして、蛮絵《ばんかい》を着た童《わら》部《べ》たちに画《が》棹《とう》の水を切らせながら、微妙な楽の音《ね》を漂わせて、悠々と動いておりましたのも、涙の出る程尊げに拝まれたものでございます。
まして正面を眺めますと、御堂の犬防《いぬふせ》ぎが燦々《きらきら》と螺《ら》鈿《でん》を光らせている後には、名香の煙《けぶり》のたなびく中に、御本尊の如来《によらい》を始め勢至観《せいしのかん》音《のん》などの御姿が、紫磨《しま》黄金《おうごん》の御顔や玉の瓔珞《ようらく》を仄々《ほのぼの》と、御現しになっている難有《ありがた》さは、又一層でございました。その御仏《みほとけ》の前の庭には、礼磐《らいばん》を中に挟みながら、見るも眩《まばゆ》い宝蓋《ほうがい》の下《もと》に、講師読《どく》師《し》の高座がございましたが、供養の式に連っている何十人かの僧どもも、法衣《ころも》や袈裟《けさ》の青や赤が如何にも美々しく入り交って、経を読む声、鈴《れい》を振る音、或は栴檀《せんだん》沈水《ちんすい》の香《かおり》などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。
するとその供養のまっ最中、四方の御門の外に群って、一目でも中の御容子を拝もうとしていた人々が、俄《にわか》に何事が起ったのか、見る見るどっとどよみ立って、まるで風の吹き出した海のように、押しつ押されつし始めました。
三十
この騒ぎを見た看督《かどの》長《おさ》は、早速そこへ駈《か》けつけて、高々と弓をふりかざしながら、御門の中《うち》へ乱れ入った人々を、打ち鎮めようと致しました。が、その人波の中を分けて、異様な風俗の沙門が一人、姿を現したと思いますと、看督長は忽ち弓をすてて、往来の遮《さまたげ》をするどころか、そのままそこへひれ伏しながら、まるで帝《みかど》の御出ましを御拝み申す時のように、礼を致したではございませんか。外の騒動に気をとられて、一しきりざわめき立った御門の中《うち》が、急にひっそりと静まりますと、又「摩利信乃法師、摩利信乃法師」と云う囁《ささや》き声が、丁度蘆《あし》の葉に渡る風のように、どこからともなく起ったのは、この時の事でございます。
摩利信乃法師は、今日も例の通り、墨染の法衣の肩へ長い髪を乱しながら、十文字の護符の黄《こ》金《がね》を胸のあたりに燦《かがや》かせて、足さえ見るも寒そうな素《す》跣足《はだし》でございました。その後《うしろ》には何時もの女菩薩の幢《はた》が、秋の日の光の中にいかめしく掲げられておりましたが、これは誰か供のものが、さしかざしてでもいたのでございましょう。
「方々にもの申そう。これは天上皇帝の神勅を賜わって、わが日の本に摩利の教を布《し》こうとする摩利信乃法師と申すものじゃ」
あの沙門は悠々と看督長の拝に答えてから、砂を敷いた御庭の中へ、恐れげもなく進み出て、こう厳《おごそか》な声で申しました。それを聞くと御門の中は、又ざわめきたちましたが、さすがに検非違使《けびいし》たちばかりは、思いもかけない椿《ちん》事《じ》に驚きながらも、役目は忘れなかったのでございましょう。火長《かちよう》と見えるものが二三人、手に手に得物提《えものひつさ》げて、声高《こわだか》に狼藉《ろうぜき》を咎《とが》めながら、あの沙門へ走りかかりますと、矢庭に四方から飛びかかって、搦《から》め取ろうと致しました。が、摩利信乃法師は憎さげに、火長たちを見やりながら、
「打たば打て。取らば取れ。但《ただし》、天上皇帝の御罰は立ち所に下ろうぞよ」と、嘲笑《あざわら》うような声を出しますと、その時胸に下っていた十文字の護符が日を受けて、眩《まばゆ》くきらりと光ると同時に、何故か相手は得物を捨てて、昼雷《ひるかみなり》にでも打たれたかと思うばかり、あの沙門の足もとへ、転《まろ》び倒れてしまいました。
「如何に方々。天上皇帝の御威徳は、唯今目《ま》のあたりに見られた如くじゃ」
摩利信乃法師は胸の護符を外して東西の廊へ代る代る、誇らしげにさしかざしながら、
「元よりかような霊験《れいげん》は不思議もない。抑《そもそ》も天上皇帝とは、この天地《あめつち》を造らせ給うた、唯一不二《ふじ》の大《おお》御《み》神《かみ》じゃ。この大御神を知らねばこそ、方々はかくも信心の誠を尽して、阿弥陀如来なんぞと申す妖《よう》魔《ま》の類《たぐい》を事々しく、供養せらるるげに思われた」
この暴言にたまり兼ねたのでございましょう。さっきから誦経《ずきよう》を止めて、茫然《ぼうぜん》と事の次第を眺めていた僧たちは、俄《にわか》にどよめきを挙げながら、「打ち殺せ」とか「搦《から》め取れ」とか頻《しきり》に罵《ののし》り立てましたが、さて誰一人として席を離れて、摩利信乃法師を懲《こら》そうと致すものはございません。
三十一
すると摩利信乃法師は傲然《ごうぜん》と、その僧たちの方を睨《ね》めまわして、
「過《あやま》てるを知って憚《はばか》る事勿《なか》れとは、唐国《からくに》の聖人も申された。一旦、仏菩薩の妖魔たる事を知られたら、匆々《そうそう》摩利の教に帰依あって、天上皇帝の御威徳を讃《たた》え奉るに若《し》くはない。又もし、摩利信乃法師の申し条に疑いあって、仏菩薩が妖魔か、天上皇帝が邪神か、決定《けつじよう》致し兼ぬるとあるならば、如何ようにも法力を較べ合せて、いずれが正法《しようほう》か弁別申そう」と、声も荒らかに呼ばわりました。
が、何しろ唯今も、検非違使たちが目のあたりに、気を失って倒れたのを見ておるのでございますから、御簾《みす》の内も御簾の外も、水を打ったように声を呑んで、僧俗ともに誰一人、進んであの沙門の法力を試みようと致すものは見えません。所詮《しよせん》は長尾の僧《そう》都《ず》は申すまでもなく、その日御見えになっていらしった山の座主《ざす》や仁《にん》和《な》寺《じ》の僧正《そうじよう》も、現人神《あらひとがみ》のような摩利信乃法師に、胆を御挫《くじ》かれになったのでございましょう。供養の庭は暫《しばら》くの間、竜舟の音楽も声を絶って、造り花の蓮華にふる日の光の音さえ聞えた位、しんと静まり返ってしまいました。
沙門はそれに又一層力を得たのでございましょう。例の十文字の護符をさしかざして、天狗のように嘲笑《あざわら》いますと、
「これは又笑止千万な。南都北嶺《ほくれい》とやらの聖僧《ひじり》たちも少からぬように見うけたが、一人としてこの摩利信乃法師と法力を較《くら》べようずものも現れぬは、さては天上皇帝を始め奉り、諸天童子の御神光に恐れをなして、貴賤老若《きせんろうにやく》の嫌《きら》いなく、吾が摩利の法門に帰依し奉ったものと見える。さらばこの場に於て、先ず山の座主から一人一人灌頂《かんちよう》の儀式を行うてとらせようか」と、威《い》丈高《たけだか》に罵りました。
ところがその声がまだ終らない中に、西の廊からただ一人、悠然と庭へ御下りになった、尊げな御僧がございます。金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、水晶の念《ねん》珠《ず》、それから白い双の眉毛――一目見ただけでも、天が下に功徳無量の名を轟《とどろ》かせた、横《よ》川《かわ》の僧都だと申す事は疑おうようもございません。僧都は年こそとられましたが、たぶたぶと肥え太った体を徐《おもむろ》に運びながら、摩利信乃法師の眼の前へ、おごそかに歩みを止めますと、
「こりゃ下《げ》郎《ろう》。唯今もその方が申す如く、この御堂供養の庭には、法界《ほうかい》の竜象《りゆうぞう》数を知らず並みいられるには相違ない。が、鼠《ねずみ》に抛《なげう》つにも器物《うつわもの》を忌むの慣い、誰かその方如き下郎づれと、法力の高下を競わりょうぞ。さればその方は先ず己を恥じて、匆々この宝前を退散す可き分際ながら、推して神通《じんづう》を較べようなどは、近頃以て奇《き》怪《かい》至《し》極《ごく》じゃ。思うにその方は何処《いずこ》かにて金剛邪禅《こんごうじやぜん》の法を修した外道の沙門と心得る。じゃによって一つは三宝の霊験《れいげん》を示さん為《ため》、一つはその方の魔縁に惹《ひ》かれて、無《む》間《げん》地《じ》獄《ごく》に墜《お》ちようず衆生《しゆうじよう》を救うてとらさん為、老衲《ろうのう》自らその方と法験《ほうけん》を較べに罷《まか》り出《で》た。たといその方の幻術がよく鬼神を駆り使うとも、護法の加護ある老衲には一指を触るる事すらよも出来まい。されば仏力《ぶつりき》の奇《き》特《とく》を見て、その方こそ受戒致してよかろう」と、大獅子《だいしし》吼《く》を浴せかけ、忽ち印《いん》を結ばれました。
三十二
するとその印を結んだ手の中《なか》から、俄《にわか》に一道の白《はく》気《き》が立上《たちのぼ》って、それが隠々と中空《ちゆうくう》へたなびいたと思いますと、丁度僧都の頭《かしら》の真上に、宝蓋《ほうがい》をかざしたような一団の靄《もや》がたなびきました。いや、靄と申したのでは、あの不思議な雲気の模様が、まだ十分御《ご》会《え》得《とく》には参りますまい。もしそれが靄だったと致しましたら、その向うにある御《み》堂《どう》の屋根などは霞《かす》んで見えない筈《はず》でございますが、この雲気は唯、虚空に何やら形の見えぬものが蟠《わだか》まったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ、元の通り朗かに見透かされたのでございます。
御庭をめぐっていた人々は、いずれもこの雲気に驚いたのでございましょう。又どこからともなく風のようなざわめきが、御簾を動かすばかり起りましたが、その声のまだ終らない中に、印を結び直した横川の僧都が、徐に肉《にく》の余った顎《あご》を動かして、秘密の呪文《じゆもん》を誦《ず》しますと、忽ちその雲気の中に、朦朧《もうろう》とした二尊の金甲神《きんこうじん》が、勇ましく金剛杵《こんごうしょ》をふりかざしながら、影のように姿を現しました。これもあると思えばあり、ないと思えばないような幻ではございます。が、その宙を踏んで飛舞する容子は、今にも摩利信乃法師の脳上へ、一杵《いつしよ》を加えるかと思う程、神威を帯びておったのでございます。
しかし当の摩利信乃法師は、相不変《あいかわらず》高慢の面《おもて》をあげて、じっとこの金甲神の姿を眺めたまま、眉毛一つ動かそうとは致しません。それどころか、堅く結んだ唇《くちびる》のあたりには、例の無気味な微笑の影が、さも嘲《あざけ》りたいのを堪《こら》えるように、漂っておるのでございます。するとその不敵な振舞に腹を据え兼ねたのでございましょう。横川の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠《ねんじゆ》を振りながら、
「叱《しつ》」と、嗄《しわが》れた声で大喝《たいかつ》しました。
その声に応じて金甲神が、雲気と共に空中から、舞下ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬《またた》く間《あいだ》、虹《にじ》のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰《あられ》のように、戞然《かつぜん》と四方へ飛び散りました。
「御坊の手なみは既に見えた。金剛邪禅の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ」
勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨《とき》をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川の僧都が、どんなに御悄《しお》れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、愈《いよいよ》誇らしげに胸を反《そ》らせて、
「横川の僧都は、今天《あめ》が下に法誉無上の大和《お》尚《しよう》と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏《くら》まし奉って、妄《みだり》に鬼神を使役する、云おうようない火宅僧じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類《たぐい》、釈教は堕獄の業因《ごういん》と申したが、摩利信乃法師一人《にん》の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立《おぼした》たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人《なんぴと》なりともこの場に於《おい》て、天上皇帝の御威徳を目のあたりに試みられい」と、八方を睨《にら》みながら申しました。
その時、又東の廊に当って、
「応」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下《お》りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。(未完)
好色
平中《へいちゆう》といふ色ごのみにて、宮仕人《みやづかへびと》はさらなり、人の女《むすめ》など忍びて見ぬはなかりけり。
宇治拾遺物語《うじしゆういものがたり》
何《いか》でかこの人に不会《あは》では止まむと思ひ迷ける程に、平中病付《やみつき》にけり。然《しかうし》て悩《なやみ》ける程に死《しに》にけり。
今昔物語《こんじやくものがたり》
色を好むといふは、かやうのふるまひなり。
十訓抄《じつきんしよう》
一 画姿
泰平の時代にふさわしい、優美なきらめき烏帽子《えぼし》の下には、下《しも》ぶくれの顔がこちらを見ている。そのふっくりと肥《ふと》った頬《ほお》に、鮮《あざや》かな赤みがさしているのは、何も臙《えん》脂《じ》をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌《もちはだ》が、自然と血の色を透《す》かせたのである。髭《ひげ》は品の好い鼻の下に、――と云うよりも薄い唇《くちびる》の左右に、丁度薄墨を刷《は》いたように、僅《わずか》ばかりしか残っていない。しかしつややかな鬢《びん》の上には、霞《かすみ》も立たない空の色さえ、ほんのりと青みを映している。耳はその鬢のはずれに、ちょいと上った耳たぶだけ見える。それが蛤《はまぐり》の貝のような、暖かい色をしているのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い中《うち》に、絶えず微笑が漂っている。殆《ほとんど》その瞳《ひとみ》の底には、何時《いつ》でも咲き匂《にお》った桜の枝が、浮んでいるのかと思う位、晴れ晴れした微笑が漂っている。が、多少注意をすれば、其処《そこ》には必しも幸福のみが住まっていない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、bj《しようけい》を持った微笑である。同時に又手近い一切に、軽蔑《けいべつ》を抱《いだ》いた微笑である。頸《くび》は顔に比べると、寧《むし》ろ華奢《きやしや》すぎると評しても好《よ》い。その頸には白い汗衫《かざみ》の襟《えり》が、かすかに香《こう》を焚《た》きしめた、菜の花色の水《すい》干《かん》の襟と、細い一線を画《えが》いている。顔の後にほのめいているのは、鶴を織り出した几帳《きちよう》であろうか? それとものどかな山の裾《すそ》に、女《め》松《まつ》を描《えが》いた障子であろうか? とにかく曇った銀のような、薄白い明《あかる》みが拡がっている。……
これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天《あま》が下《した》の色好《いろごの》み」平《たいら》の貞文《さだぶみ》の似顔である。平の好風《よしかぜ》に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中と渾名《あだな》を呼ばれたと云う、わたしの Don Juan の似顔である。
二 桜
平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めている。近近《ちかぢか》と軒に迫った桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪《あ》せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交《かわ》した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合っている。が、平中の眼は桜にあっても、平中の心は桜にない。彼はさっきから漫然と、侍従の事を考えている。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
平中はこう思い続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時《いつ》の事だったかな? そうそう、何でも稲荷《いなり》詣《もう》でに出かけると云っていたのだから、初午《はつうま》の朝だったのに違いない。あの女が車へ乗ろうとする、おれが其処《そこ》へ通りかかる、――と云うのが抑抑《そもそも》の起りだった。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだったが、紅梅や萌《もえ》黄《ぎ》を重ねた上へ、紫の袿《うちぎ》をひっかけている、――その容《よう》子《す》が何とも云えなかった。おまけに┬《はこ》へはいる所だから、片手に袴《はかま》をつかんだまま、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好《かっこう》もたまらなかったっけ。本院の大臣《おとど》の御《おん》屋《や》形《かた》には、ずいぶん女房も沢山いるが、まずあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚《ほ》れたと云っても、――」
平中はちょいと真顔になった。
「だが本当に惚れているかしら? 惚れていると云えば、惚れているようでもあるし、惚れていないと云えば、惚れて、――一体こんな事は考えていると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れているな。尤《もつと》もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云っても、眼さきまで昏《くら》んでしまいはしない。何時かあの範実《のりざね》のやつと、侍従の噂《うわさ》をしていたら、憾《うら》むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云ったっけ、あんな事は一目見た時に、もうちゃんと気がついていたのだ。範実なぞと云う男は、篳篥《ひちりき》こそちっとは吹けるだろうが、好色の話となった日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考えたいのは、侍従一人の事なのだから、――ところでもう少し欲を云えば、顔もあれじゃ寂しすぎるな。それも寂しすぎると云うだけなら、何処《どこ》か古い画《え》巻《まき》じみた、上品な所がある筈《はず》だが、寂しい癖には薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考えても頼もしくない。女でもああ云う顔をしたのは、存外人を食っているものだ。その上色も白い方じゃない。浅黒いとまでは行かなくっても、琥《こ》珀《はく》色位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかこう水際《みずぎわ》立った、震いつきたいような風をしている。あれは確かにどの女も、真似《まね》の出来ない芸当だろう。……」
平中は袴の膝《ひざ》を立てながら、うっとりと軒の空を見上げた。空は簇《むらが》った花の間に、薄青い色をなごませている。
「それにしてもこの間から、いくら文《ふみ》を持たせてやっても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるじゃないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡《なび》いてしまう。たまに堅い女があっても、五度と文をやった事はない。あの恵《え》眼《げん》と云う仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作った歌じゃない。誰かが、――そうそう、義輔《よしすけ》が作った歌だっけ。義輔はその歌を書いてやっても、とんと先方の青女房には相手にされなかったとか云う話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やっぱり返事はくれなかったから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかしとにかくおれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢《あ》う事になる。逢う事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――じきに又それが鼻についてしまう。こうまあ相場がきまっていたものだ。ところが侍従には一月ばかりに、ざっと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書《えんしょ》の文体にしても、そう無際限にある訳じゃなし、そろそろもう跡が続かなくなった。だが今日やった文の中には、『せめては唯《ただ》見つとばかりの、二《ふた》文字《もじ》だに見せ給え』と書いてやったから、何とか今度こそ返事があるだろう。ないかな? もし今日もまたないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間じゃなかったのだがな。何でも豊《ぶ》楽《らく》院《いん》の古狐《ふるぎつね》は、女に化けると云う事だが、きっとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違いない。同じ狐でも奈良《なら》坂《ざか》の狐は、三《み》抱《かか》えもあろうと云う杉の木に化ける。嵯峨《さが》の狐は牛車《ぎつしや》に化ける。高陽《かや》川《がわ》の狐は女《め》の童《わらわ》に化ける。桃薗《ももぞの》の狐は大《おお》池《いけ》に化け――狐の事なぞはどうでも好《い》い。ええと、何を考えていたのだっけ?」
平中は空を見上げたまま、そっと欠伸《あくび》を噛《かみ》殺《ころ》した。花に埋《うず》まった軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時時白いものが飜《ひるがえ》って来る。何処かに鳩《はと》も啼《な》いているらしい。
「とにかくあの女には根負けがする。たとい逢うと云わないまでも、おれと一度話さえすれば、きっと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢いでもすれば、――あの摂《せつ》津《つ》でも小中将《こちゆうじよう》でも、まだおれを知らない内は、男嫌《ぎら》いで通していたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるじゃないか? 侍従にしたところが金仏《かなぼとけ》じゃなし、有頂天にならない筈《はず》はあるまい。しかしあの女はいざとなっても、小中将のようには恥しがるまいな。と云って又摂津のように、妙にとりすます柄《がら》でもあるまい。きっと袖《そで》を口へやると、眼だけにっこり笑いながら、――」
「殿様」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともっている。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様」
平中はやや慌《あわ》てたように、烏帽子の頭を後へ向けた。後には何時か童《わらべ》が一人、じっと伏し眼になりながら、一通の文をさし出している。何でもこれは一心に、笑うのをこらえていたものらしい。
「消息《しようそこ》か?」
「はい、侍従様から、――」
童はこう云い終ると、匆匆《そうそう》主人の前を下った。
「侍従様から? 本当かしら?」
平中は殆《ほとんど》恐る恐る、青い薄葉《うすよう》の文を開いた。
「範実や義輔の悪戯《いたずら》じゃないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人《ひまじん》だから、――おや、これは侍従の文《ふみ》だ。侍従の文には違いないが、――この文は、これは、何と云う文だい?」
平中は文を抛《ほう》り出した。文には「唯見つとばかりの、二《ふた》文字《もじ》だに見せ給え」と書いてやった、その「見つ」と云う二文字だけが、――しかも平中の送った文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼《は》りつけてあったのである。
「ああ、ああ、天が下の色好みとか云われるおれも、この位莫迦《ばか》にされれば世話はないな。それにしても侍従と云うやつは、小《こ》面《づら》の憎い女じゃないか? 今にどうするか覚えていろよ。……」
平中は膝を抱えたまま、茫然《ぼうぜん》と桜の梢《こずえ》を見上げた。青い薄葉の飜った上には、もう風に吹かれた落花が、点点と幾ひらもこぼれている。……
三 雨夜
それから二月程たった後《のち》である。或長雨《ながあめ》の続いた夜《よ》、平中は一人本院の侍従の局《つぼね》へ忍んで行った。雨は夜空が溶け落ちるように、凄《すさ》まじい響を立てている。路《みち》は泥濘《でいねい》と云うよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐《あわ》れに思うのは当然である、――こう考えた平中は、局の口へ窺《うかが》いよると、銀を張った扇を鳴らしながら、案内を請うように咳《せき》ばらいをした。
すると十五六の女《め》の童《わらわ》が、すぐに其処《そこ》へ姿を見せた。ませた顔に白粉《おしろい》をつけた、さすがに睡《ね》むそうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
一度引きこんだ女《め》の童は、局の口へ帰って来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢いになるそうでございますから」
平中は思わず微笑した。そうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣《やり》戸《ど》の側に腰を下した。
「やっぱりおれは智慧《ちえ》者《しや》だな」
女の童が何処かへ退いた後《のち》、平中は独《ひと》りにやにやしていた。
「さすがの侍従も今度と云う今度は、とうとう心が折れたと見える。とかく女と云うやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさえすれば、すぐにころりと落ちてしまう。こう云う甲所《かんどころ》を知らないから、義輔や範実は何と云っても、――待てよ。だが今夜逢えると云うのは、何だか話が旨《うま》すぎるようだぞ。――」
平中はそろそろ不安になった。
「しかし逢いもしないものが、逢うと云う訳もなさそうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざっと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやっても、返事一つ貰《もら》えなかったのだから、ひがみの起るのも尤《もつと》もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考えると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆《ほだ》されても、今までは見向きもしなかった侍従が、――と云っても相手はおれだからな。この位平中に思われたとなれば、急に心も融《と》けるかも知れない」
平中は衣《え》紋《もん》を直しながら、怯《お》ず怯《お》ずあたりを透かして見た。が、彼のいまわりには、くら闇《やみ》の外に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜《ひ》肌《わだ》葺《ぶき》の屋根をどよませている。
「ひがみだと思えば、ひがみのようだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思っていれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思っていれば、案外ひがみですみそうな気がする。一体運なぞと云うやつは、皮肉に出来ているものだからな。して見れば何でも一心にひがみでないと思う事だ。そうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ」
平中は耳を側《そば》立《だ》てた。成程ふと気がついて見れば、不相変《あいかわらず》小止《こや》みない雨《う》声《せい》と一しょに、御《ご》前《ぜん》へ詰めていた女房たちが局局に帰るらしい、人ざわめきも聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時もたちさえすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思いが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚《はら》の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。そうそう、これが好いのだっけ。逢われないものだと思っていれば、不思議に逢う事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、そう云うおれの胸算用《むなざんよう》も、見透かしてしまうかも知れないな。じゃ逢われると考えようか? それにしても勘定ずくだから、やっぱりこちらの思うようには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考えよう。大《だい》分《ぶ》どの局もひっそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。じゃ早速眼をつぶって、雨の事でも考えるとしよう。春雨《はるさめ》、五月雨《さみだれ》、夕立《ゆうだち》、秋雨《あきさめ》、……秋雨と云う言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨《あま》だれ、雨《あま》漏《も》り、雨《あま》傘《がさ》、雨《あま》乞《ご》い、雨竜《あまりゆう》、雨蛙《あまがえる》、雨革《あまがわ》、雨宿《あまやど》り、……」
こんな事を思っている内に、思いがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然弥陀《みだ》の来迎《らいこう》を拝した、信心深い法師よりも、もっと歓喜に溢《あふ》れていた。何故と云えば遣《やり》戸《ど》の向うに、誰か懸《か》け金《がね》を外《はず》した音が、はっきり耳に響いたのである。
平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思った通り、するりと閾《しきい》の上を辷《すべ》った。その向うには不思議な程、空《そら》焚《だ》きの浴sにおい》が立ち罩《こ》めた、一面の闇が拡がっている。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這《は》いながら、手探りに奥へ進み寄った。が、この艶《なまめ》いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはいもしない。たまたま手がさわったと思えば、衣《い》桁《こう》や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動《どう》悸《き》が、高まるような気がし出した。
「いないのかな? いれば何とか云いそうなものだ」
こう彼が思った時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさわった。それからずっと探りまわすと、絹らしい打衣《うちぎぬ》の袖にさわる。その衣《きぬ》の下の乳《ち》房《ぶさ》にさわる。円円《まるまる》した頬や顋《あご》にさわる。氷よりも冷たい髪にさわる。――平中はとうとうくら闇の中に、じっと独り横になった、恋しい侍従を探り当てた。
これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけたまま、しどけない姿を横たえている。彼は其処にいすくんだなり、我知らずわなわな震え出した。が、侍従は不《あい》相変《かわらず》、身動きをする気《け》色《しき》さえ見えない。こんな事は確か何かの草《そう》紙《し》に、書いてあったような心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油《おおとのあぶら》の火《ほ》影《かげ》に見た何かの画巻にあったのかも知れない。
「忝《かたじけ》ない。忝ない。今まではつれないと思っていたが、もう向後は御仏《みほとけ》よりも、お前に身命を捧《ささ》げるつもりだ」
平中は侍従を引き寄せながら、こうその耳に囁《ささや》こうとした。が、いくら気は急《せ》いても、舌は上顋に引《ひき》ついたまま、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の翌竅A妙に暖い肌《はだ》の翌ヘ、無遠慮に彼を包んで来る。――と思うと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかった。
一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまえば、彼等は必ず愛欲の嵐《あらし》に、雨の音も、空《そら》焚《だ》きの翌焉A本院の大臣《おとど》も、女の童も忘却してしまったに相違ない。しかしこの際《きわ》どい刹《せつ》那《な》に、侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しそうな声を出した。
「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸け金が下してございませんから、あれをかけて参ります」
平中は唯頷《うなず》いた。侍従は二人の褥《しとね》の上に、翌フ好《い》い暖《ぬく》みを残したまま、そっと其処を立って行った。
「春雨、侍従、弥陀《みだ》如来《によらい》、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」
平中はちゃんと眼を開《あ》いたなり、彼自身にも判然《はつきり》しない、いろいろな事を考えている。すると向うのくら闇に、かちりと懸け金を下す音がした。
「雨竜、香炉、雨《あま》夜《よ》のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、――どうしたのだろう? 懸け金はもう下りたと思ったが、――」
平中は頭を擡《もた》げて見た。が、あたりにはさっきの通り、空焚きの翌ェ漂った、床《ゆか》しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行ったものか、衣《きぬ》ずれの音も聞えて来ない。
「まさか、――いや、事によると、――」
平中は褥を這い出すと、又元のように手探りをしながら、向うの障子へ辿《たど》りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局局は大雨の中に、いずれもひっそりと寝静まっている。
「平中、平中、お前はもう天《あま》が下の色好みでも何でもない。――」
平中は障子に寄りかかったまま、失心したように呟《つぶや》いた。
「お前の容色も劣《おとろ》えた。お前の才も元のようじゃない。お前は範実や義輔よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」
四 好色問答
これは平中の二人の友達――義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節である。
義輔「あの侍従と云う女には、さすがの平中もかなわないそうだね」
範実「そう云う噂《うわさ》だね」
義輔「あいつには好い見せしめだよ。あいつは女《によ》御《ご》更《こう》衣《い》でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちっとは懲《こ》らしてやる方が好い」
範実「へええ、君も孔子の御弟子か?」
義輔「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為《ため》に、泣かされたか位は知っているのだ。もう一言《ひとこと》次《つい》手《で》につけ加えれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨《うら》んだ家来があるか、それもまんざら知らないじゃない。そう云う迷惑をかける男は当然鼓《こ》を鳴らして責むべき者だ。君はそう考えないかね?」
範実「そうばかりも行かないからね。成程平中一人の為に、世間は迷惑しているかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負うべきものでもなかろうじゃないか?」
義輔「じゃ又外は誰が負うのだね?」
範実「それは女に負わせるのさ」
義輔「女に負わせるのは可哀《かわい》そうだよ」
範実「平中に負わせるのも可哀そうじゃないか?」
義輔「しかし平中が口説いたのだからな」
範実「男は戦場に太刀打《たちう》ちをするが、女は寝首しか掻《か》かないのだ。人殺しの罪は変るものか」
義輔「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだろう? 我我は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませている」
範実「それもどうだかわからないね。一体我我人間は、如何《いか》なる因果か知らないが、互に傷《きずつ》け合わないでは、一刻も生きてはいられないものだよ。唯平中は我我よりも、余計に世間を苦しませている。この点は、ああ云う天才には、やむを得ない運命だね」
義輔「冗談じゃないぜ。平中が天才と一しょになるなら、この池の鰌《どじよう》も竜になるだろう」
範実「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給え。あの男の声を聞き給え。あの男の文を読んで見給え。もし君が女だったら、あの男と一晩逢って見給え。あの男は空海上《くうかいしよう》人《にん》だとか小《お》野《のの》道風《とうふう》だとかと同じように、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かって来たのだ。あれが天才でないと云えば、天下に天才は一人もいない。その点では我我二人の如きも、到底平中の敵じゃないよ」
義輔「しかしだね。しかし天才は君の云うように、罪ばかり作ってはいないじゃないか? たとえば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経《ずきよう》を聞けば、――」
範実「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云いはしない。罪も作ると云っているのだ」
義輔「じゃ平中とは違うじゃないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ」
範実「それは我我にはわからない筈《はず》だ。仮名《かな》も碌《ろく》に書けないものには、道風の書もつまらないじゃないか? 信心気のちっともないものには、空海上人の誦経よりも、傀儡《くぐつ》の歌の方が面白いかも知れない。天才の功《く》徳《どく》がわかる為には、こちらにも相当の資格が入《い》るさ」
義輔「それは君の云う通りだがね、平中尊者の功徳なぞは、――」
範実「平中の場合も同じじゃないか? ああ云う好色の天才の功徳は、女だけが知っている筈だ。君はさっきどの位女が平中の為に泣かされたかと云ったが、僕は反対にこう云いたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味わったか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐《がい》を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教えられたか、どの位女が平中の為に、――」
義輔「いや、もうその位で沢山だよ。君のように理《り》窟《くつ》をつければ、案山子《かかし》も鎧武者《よろいむしや》になってしまう」
範実「君のように嫉《しつ》妬《と》深いと、鎧武者も案山子と思ってしまうぜ」
義輔「嫉妬深い? へええ、これは意外だね」
範実「君は平中を責める程、淫奔《いんぽん》な女を責めないじゃないか? たとい口では責めていても、肚《はら》の底では責めていまい。それはお互に男だから、何時《いつ》か嫉妬が加わるのだ。我我はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になって見たいと云う、人知れない野心を持っている。その為に平中は謀《む》叛《ほん》人《にん》よりも、一層我我に憎まれるのだ。考えて見れば可哀そうだよ」
義輔「じゃ君も平中になりたいかね?」
範実「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽《たちま》ちその女に飽きてしまう。そうして誰か外の女に、可笑《おか》しい程夢中になってしまう。あれは平中の心の中には、何時も巫《ふ》山《ざん》の神女《しんによ》のような、人倫を絶した美人の姿が、髣髴《ほうふつ》と浮んでいるからだよ。平中は何時も世間の女に、そう云う美しさを見ようとしている。実際惚《ほ》れている時には、見る事が出来たと思っているのだ。が、勿論《もちろん》二三度逢えば、そう云う蜃《しん》気《き》楼《ろう》は壊れてしまう。その為にあいつは女から女へ、転転と憂き身をやつしに行くのだ。しかも末法《まつぽう》の世の中に、そんな美人のいる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遥《はる》かに仕合せだと云うものさ。しかし平中の不幸なのは、云わば天才なればこそだね。あれは平中一人じゃない。空海上人や小野の道風も、きっとあいつと似ていたろう。とにかく仕合《しあわせ》になる為には、御同様凡人が一番だよ……」
五 まりも美しとなげく男
平中は独り寂しそうに、本院の侍従の局《つぼね》に近い、人気のない廊下に佇《たたず》んでいる。その廊下の欄にさした、油のような日の色を見ても、又今日は暑さが加わるらしい。が、庇《ひさし》の外の空には、簇簇《そうそう》と緑を抽《ぬ》いた松が、静かに涼しさを守っている。
「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思い切った。――」
平中は蒼白《あおじろ》い顔をしたまま、ぼんやりこんな事を思っている。
「しかしいくら思い切っても、侍従の姿は幻のように、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝らしたかわからない。が、加茂《かも》の御社《みやしろ》へ行けば、御鏡《みかがみ》の中にありありと、侍従の顔が映って見える。清水《きよみず》の御《み》寺《てら》の内陣にはいれば、観《かん》世《ぜ》音《おん》菩《ぼ》薩《さつ》の御姿《みすがた》さえ、そのまま侍従に変ってしまう。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきっと焦《こが》れ死《じに》に、死んでしまうのに相違ない。――」
平中は長い息をついた。
「だがその姿を忘れるには、――たった一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅ましい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵しているだろう。其処を一つ見つけさえすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたように、侍従の幻も崩《くず》れてしまう。おれの命はその刹《せつ》那《な》に、やっとおれのものになるのだ。が、何処が浅ましいか、何処が不浄を蔵しているか、それは誰も教えてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従が河原の女乞《こ》食《じき》と、実は少しも変らない証拠を。……」
平中はこう考えながら、ふと懶《ものう》い視線を挙げた。
「おや、あすこへ来かかったのは、侍従の局の女の童ではないか?」
あの利巧そうな女の童は、撫子《なでしこ》重《がさ》ねの薄物の袙《あこめ》に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇《えおうぎ》の陰に、何か筥《はこ》を隠しているのは、きっと侍従のした糞《まり》を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中《うち》には、或大胆な決心が、稲妻のように閃《ひらめ》き渡った。
平中は眼の色を変えたなり、女の童の行く手に立ち塞《ふさ》がった。そしてその筥をひったくるや否や、廊下の向うに一つ見える、人のいない部屋へ飛んで行った。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追いかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまった。
「そうだ。この中を見れば間違いない。百年の恋も一瞬の間《あいだ》に、煙よりもはかなく消えてしまう。……」
平中はわなわな震える手に、ふわりと筥の上へかけた、香染の薄物を掲げて見た。筥は意外にも精巧を極きわめた、まだ真新しい蒔《まき》絵《え》である。
「この中に侍従の糞《まり》がある。同時におれの命もある。……」
平中は其処に佇んだまま、じっと美しい筥を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いている。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまう。と思うと遣戸や障子も、だんだん霧のように消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさえ平中には判然《はんぜん》しない。唯彼の眼の前には、時《ほとと》鳥《ぎす》を描《か》いた筥が一つ、はっきり空中に浮き出している。……
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筥に懸っている。この筥の蓋《ふた》を取りさえすれば、――いや、それは考えものだぞ。侍従を忘れてしまうのが好いか、甲斐《かい》のない命を長らえるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとい焦がれ死をするにもせよ、この筥の蓋だけは取らずに置こうか?……」
平中は窶《やつ》れた頬の上に、涙の痕《あと》を光らせながら、今更のように思い惑った。しかし少時《しばらく》沈吟《ちんぎん》した後《のち》、急に眼を輝かせると、今度はこう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
「平中! 平中! お前は何と云う意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑《あざわら》っているかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞を見さえすれば、必《かならず》お前は勝ち誇れるのだ。……」
平中は殆《ほとんど》気違いのように、とうとう筥の蓋を取った。筥には薄い香色《こういろ》の水が、たっぷり半分程はいった中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでいる。と思うと夢のように、丁子《ちようじ》の浴sにおい》が鼻を打った。これが侍従の糞であろうか? いや、吉祥天女《きっしようてんによ》にしても、こんな糞はする筈がない。平中は眉《まゆ》をひそめながら、一番上に浮いていた、二寸程の物をつまみ上げた。そうして髭《ひげ》にも触れる位、何度も翌嗅《か》ぎ直して見た。翌ヘ確かに紛れもない、飛び切りの沈《じん》の翌ナある。
「これはどうだ! この水もやはり翌、ようだが、――」
平中は筥を傾けながら、そっと水を啜《すす》って見た。水も丁子を煮返した、上《うわ》澄《ず》みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木《こうぼく》かな?」
平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透《とお》る位、苦味の交《まじ》った甘さがある。その上彼の口の中には、忽《たちま》ち橘《たちばな》の花よりも涼しい、微妙な翌ェ一ぱいになった。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくったのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
平中はこう呻《うめ》きながら、ばたりと蒔絵の筥を落した。そうして其処の床《ゆか》の上へ、仏倒《ほとけだお》しに倒れてしまった。その半死の瞳《ひとみ》の中《うち》には、紫摩《しま》金《ごん》の円光にとりまかれたまま、├然《てんぜん》と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
しかしその時の侍従の姿は、何時《いつ》か髪も豊かになれば、顔も殆《ほとんど》玉のように変っていた事は事実である。
俊《しゆん》寛《かん》
俊寛云ひけるは……神明《しんめい》外になし。唯《ただ》我等が一念なり。……唯仏法を修行して、今度生死《しようじ》を出で給ふべし。
源平《げんぺい》盛衰《せいすい》記《き》
(俊寛)いとど思ひの深くなれば、かくぞ思ひつづけける。「見せばやな我を思はん友もがな磯《いそ》のとまやの柴《しば》の庵《いほり》を」
同 上
一
俊寛様の話ですか? 俊寛様の話位、世間に間違って伝えられた事は、まず外にはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――有王《ありおう》自身の事さえ、飛《とん》でもない嘘《うそ》が伝わっているのです。現についこの間も、或琵琶《びわ》法《ほう》師《し》が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎《なげ》きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂い死をなすってしまうし、わたしはその御《お》屍骸《なきがら》を肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? 又もう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談《かた》らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯を御送りになったとか、まことしやかに語っていました。前の琵琶法師の語った事が、跡方もない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはり好《い》い加減の出たらめなのです。
一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも我は顔に、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも褒《ほ》めずにはいられません。わたしはあの笹葺《ささぶき》の小屋に、俊寛様が子供たちと、御戯れになる所を聞けば、思わず微笑も浮べましたし、又あの浪音《なみおと》の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師の語った嘘は、きっと琥《こ》珀《はく》の中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘は何時《いつ》の間にか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたは仰有《おつしや》るのですか? 成程それも御尤《もつと》もです。では丁度夜長を幸い、わたしがはるばる鬼《き》界《かい》が島《しま》へ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。唯わたしの話の取り柄《え》は、この有王が目《ま》のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。ではどうか少時《しばらく》の間、御退屈でも御聞き下さい。
二
わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承《じしよう》三年五月の末、或曇った午《ひる》過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと俊寛様に、めぐり遇《あ》う事が出来ました。しかもその場所は人気のない海べ、――唯灰色の浪ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、如何《いか》にも寂しい海べだったのです。
俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのには、「童《わらは》かとすれば年老いてその貌《かほ》にあらず、法師かと思へば又髪は空《そら》ざまに生《お》ひ上《あが》りて白髪多し。よろずの塵《ちり》や藻《も》屑《くづ》のつきたれども打ち払はず。頸《くび》細くして腹大きに脹《は》れ、色黒うして足手細し。人に似て人に非ず」と云うのですが、これも大抵は作り事です。殊に頸が細かったの、腹が脹れていたのと云うのは、地獄変の画からでも思いついたのでしょう。つまり鬼界が島と云う所から、餓鬼の形容を使ったのです。成程その時の俊寛様は、髪も延びて御出でになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、その外は昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。昔よりも一層丈夫そうな、頼もしい御姿《おすがた》だったのです。それが静かな潮風に、法衣《ころも》の裾《すそ》を吹かせながら、浪打《なみうち》際《ぎわ》を独り御出《おい》でになる、――見れば御手には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「僧《そう》都《ず》の御《ご》房《ぼう》! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王です!」
わたしは思わず駈《か》け寄りながら、嬉《うれ》しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
俊寛様も驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝《ひざ》を抱いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生《こんじよう》では、お前にも会えぬと思っていた」
俊寛様も少時《しばらく》の間は、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日会っただけでも、仏《ぶつ》菩《ぼ》薩《さつ》の御慈悲と思うが好い」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房は、――御房の御《お》住居《すまい》は、この界隈《かいわい》でございますか?」
「住居か? 住居はあの山の陰じゃ」
俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山《いそやま》を御指しになりました。
「住居と云っても、檜《ひ》肌《わだ》葺《ぶ》きではないぞ」
「はい、それは承知しております。何しろこんな離れ島でございますから、――」
わたしはそう云いかけたなり、又涙に咽《むせ》びそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心は悪くない住居じゃ。寝所《ねどころ》もお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが好い」と、気軽に案内をして下さいました。
少時《しばらく》の後《のち》わたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村へはいりました。薄白い路《みち》の左右には、梢《こずえ》から垂れた榕樹《あこう》の枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、赤々と竈《かまど》の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐しい気もちだけはして来ました。
御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球《りゆうきゆう》人だとか、あの檻《おり》には豕《いのこ》が飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子《えぼし》さえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必《かならず》頭を下げた事です。殊に一度なぞは或家の前に、鶏《とり》を追っていた女の児さえ、御時宜《じぎ》をしたではありませんか? わたしは勿《もち》論《ろん》嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺って見ました。
「成経《なりつね》様や康頼《やすより》様が、御話しになったところでは、この島の土人も鬼のように、情《なさけ》を知らぬ事かと存じましたが、――」
「成程、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流《る》人《にん》とは云うものの、おれたちは皆都人《みやこびと》じゃ。辺土の民は何時《いつ》の世にも、都人と見れば頭を下げる。業平《なりひら》の朝臣《あそん》、実方《さねかた》の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、東《あずま》や陸奥《みちのく》へ下《くだ》った事は、思いの外楽しい旅だったかも知れぬ」
「しかし実方の朝臣なぞは、御隠れになった後《のち》でさえ、都恋しさの一念から、台盤所《だいばんどころ》の雀になったと、云い伝えておるではありませんか?」
「そう云う噂《うわさ》を立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界が島の土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ」
その時又一人御主人に、頭を下げた女がいました。これは丁度榕樹《あこう》の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後を遮《さえぎ》られたせいか、紅《べに》染《ぞ》めの単衣《ひとえ》を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優しい会釈を返されてから、
「あれが少将の北の方じゃぞ」と、小声に教えて下さいました。
わたしはさすがに驚きました。
「北の方と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷《うなず》いて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の胤《たね》じゃよ」
「成程、そう伺って見れば、こう云う辺土にも似合わない、美しい顔をしておりました」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、頬《ほお》のふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬の何処《どこ》かほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。その為《ため》に今の女なぞも、此処《ここ》では誰も美しいとは云わぬ」
わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈《じようろう》を見せてやっても、皆醜いと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。唯好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代《ばんだい》不《ふ》変《へん》とは請合われぬ。その証拠には御《み》寺《てら》御寺の、御仏《みほとけ》の御《み》姿《すがた》を拝むが好い。三界《さんがい》六道《ろくどう》の教主、十方最勝《じつぽうさいしよう》、光明無量《こうみょうむりょう》、三学《さんがく》無碍《むげ》、億々衆生引導《おくおくしゆじよういんどう》の能《のう》化《げ》、南無《なむ》大《だい》慈《じ》大《だい》悲《ひ》釈《しや》迦《か》牟尼《むに》如来《によらい》も、三十二相八十種好の御姿《おすがた》は、時代毎にいろいろ御変りになった。御仏でももしそうとすれば、如何《いかん》かこれ美人と云う事も、時代毎にやはり違う筈《はず》じゃ。都でもこの後《のち》五百年か、或は又一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮《なんばん》北狄《ほくてき》の女のように、凄《すさ》まじい顔がはやるかも知れぬ」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりは何時《いつ》の世にも、我国ぶりでいる筈ですから」
「ところがその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈の顔は、唐《とう》朝《ちよう》の御仏に活写《いきうつ》しじゃ。これは都人の顔の好みが、唐土《もろこし》になずんでいる証拠ではないか?すると人皇《にんのう》何代かの後《のち》には、碧眼《へきがん》の胡人《えびす》の女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ」
わたしは自然とほほ笑みました。御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教訓なすったのです。「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、通《かよ》って来るような気がしました。が、御主人は榕樹の陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまた仰有《おつしや》るのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房のやつに、毎日小言を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ」
三
その夜《よ》わたしは結い燈台の光に、御主人の御飯を頂きました。本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇《みつくち》の童《わらべ》も居りましたから、御招伴に預った訳なのです。
御部屋は竹椽《たけえん》をめぐらせた、僧庵《そうあん》とも云いたい拵《こしら》えです。椽先に垂れた簾《すだれ》の外には、前《せん》栽《ざい》の竹《たか》むらがあるのですが、椿《つばき》の油を燃やした光も、さすがに其処までは届きません。御部屋の中には皮《かわ》籠《ご》ばかりか、厨子《ずし》もあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになっていたのですが、厨子や机はこの島の土人が、不束《ふつつか》ながらも御拵え申した、琉《りゆう》球《きゆう》赤木とかの細工だそうです。その厨子の上には経文と一しょに、阿弥陀《あみだ》如来《によらい》の尊像が一体、端然と金色《こんじき》に輝いていました。これは確か康頼様の、都返りの御《お》形《かた》見《み》だとか、伺ったように思っています。
俊寛様は円座《わろうだ》の上に、楽々と御坐りなすったまま、いろいろ御馳《ち》走《そう》を下さいました。勿論この島の事ですから、酢や醤油《しようゆ》は都程、味が好いとは思われません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠《なます》、煮つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、殆《ほとんど》一つもなかった位です。御主人はわたしが呆《あき》れたように、箸《はし》もつけないのを御覧になると、上機嫌《じようきげん》に御笑いなさりながら、こう御勧め下さいました。
「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭《くさ》梧桐《ぎり》と云う物じゃぞ。こちらの魚《うお》も食うて見るが好い。これも名産の永良部《えらぶ》鰻《うなぎ》じゃ。あの皿にある白《しろ》地《ち》鳥《どり》、――そうそう、あの焼き肉じゃ。――あれも都などでは見た事もあるまい。白地鳥と云う物は、背の青い、腹の白い、形は鸛《こう》にそっくりの鳥じゃ。この島の土人はあの肉を食うと、湿気を払うとか称《とな》えている。その芋も存外味は好いぞ。名前か? 名前は琉球芋じゃ。梶王《かじおう》などは飯の代りに、毎日その芋を食うている」
梶王と云うのはさっき申した、兎唇《みつくち》の童の名前なのです。
「どれでも勝手に箸をつけてくれい。粥《かゆ》ばかり啜《すす》っていさえすれば、得脱《とくだつ》するように考えるのは、沙門《しやもん》にあり勝ちの不量見じゃ。世《せ》尊《そん》さえ成道《じようどう》される時には、牧牛の女難《むすめなん》陀《だ》婆羅《ばら》の、乳糜《にゆうび》の供養を受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、畢《ひつ》波羅《ぱら》樹《じゆ》下《か》に坐っていられたら、第六天の魔王波旬《はじゆん》は、三人の魔女なぞを遣《つかわ》すよりも、六《ろく》牙《げの》象王《ぞうおう》の味噌漬《みそづ》けだの、天竜八部の粕《かす》漬《づ》けだの、天竺《てんじく》の珍味を降らせたかも知らぬ。尤も食足《た》れば淫《いん》を思うのは、我々凡夫の慣いじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も天《あ》っ晴《ぱれ》見上げた才子じゃ。が、魔王の浅ましさには、その乳糜を献じたものが、女人《によにん》じゃと云う事を忘れておった。牧牛の女《むすめ》難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山《せつざん》六年の苦行よりも、これが遥《はる》かに大事だったのじゃ。『取彼乳糜如《かのにゆうびをとりいのごとく》意飽食《ほうしょくし》、悉皆浄尽《しつかいじようじんす》』――仏本行《ぶつほんぎょう》経《きよう》七巻の中《うち》にも、あれ程難有《ありがた》い所は沢山あるまい。――『爾時菩薩食糜已訖従座而起《そのときぼさつびをしよくしすでにおわりてざよりしてたつ》。安庠漸々向菩《あんじようにぜんぜんぼ》提樹《だいじゆにむかう》』どうじゃ。『安庠漸々向菩提樹《あんじようにぜんぜんぼだいじゆにむかう》』女人を見、乳糜に飽かれた、端厳《たんごん》微妙《みみょう》の世尊の御姿が、目《ま》のあたりに拝まれるようではないか?」
俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい竹椽の近くへ、円座を御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、都の便りでも聞かせて貰《もら》おう」とわたしの話を御促しになりました。
わたしは思わず眼を伏せました。兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯《おく》れたのです。しかし御主人は無《む》頓着《とんじやく》に、芭蕉《ばしよう》の葉の扇を御手にしたまま、もう一度御催促なさいました。
「どうじゃ、女房は相不変《あいかわらず》小言ばかり云っているか?」
わたしはやむを得ず俯《うつ》向《む》いたなり、御留守の間に出来《しゆつたい》した、いろいろの大変を御話しました。御主人が御捕われなすった後《のち》、御《ご》近習《きんじゆ》は皆逃げ去った事、京極《きよううごく》の御《お》屋《や》形《かた》や鹿《しし》ケ谷《たに》の御山荘も、平家の侍に奪われた事、北の方は去年の冬、御隠れになってしまった事、若君も重い疱瘡《もがさ》の為に、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人姫君だけが、奈良の伯母御前《ごぜ》の御住居に、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼には何時の間にか、燈台の火《ほ》影《かげ》が曇って来ました。軒先の簾《すだれ》、厨子の上の御仏、――それももうどうしたかわかりません。わたしはとうとう御話半ばに、その場へ泣き沈んでしまいました。御主人は始終黙然《もくねん》と、御耳を傾けていらしったようです。が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配そうに、法衣《ころも》の膝を御寄せになりました。
「姫はどうじゃ? 伯母御前にはようなついているか?」
「はい。御睦《むつま》しいように存じました」
わたしは泣く泣く俊寛様へ、姫君の御消息をさし上げました。それはこの島へ渡るものには、門司《もじ》や赤《あか》間《ま》が関《せき》を船出する時、やかましい詮《せん》議《ぎ》があるそうですから、髻《もとどり》に隠して来た御文《ふみ》なのです。御主人は早速燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、所々小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍《はべ》り。……さても三人《みたり》一つ島に流されけるに、……などや御身一人残り止まり給ふらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前《ごぜ》の御許《おんもと》に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居推し量り給へ。……さてもこの三とせまで、如何《いかに》御心《みこころ》強く、有《う》とも無《む》とも承はらざるらん。……とくとく御上《おんのぼ》り候《さふら》へ。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈《はず》じゃな。――おれも都には未練はないが、姫にだけは一目会いたい」
わたしは御心中を思いやりながら、唯涙ばかり拭《ぬぐ》っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王。いや、泣きたければ泣いても好い。しかしこの娑《しや》婆《ば》世界には、一々泣いては泣き尽せぬ程、悲しい事が沢山あるぞ」
御主人は後の黒木の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦《く》艱《げん》を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人衆苦の大海に、没在していると考えるのは、仏《ぶつ》弟子《でし》にも似合わぬ増《ぞう》長慢《じようまん》じゃ。『増長驕慢、尚非世俗白衣所宜《ぞうじようきようまんはなおせぞくびやくえのよろしきところにあらず》』艱難《かんなん》の多いのに誇る心も、やはり邪業《じやごう》には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散《ぞくさん》辺土《へんど》の中《うち》にも、おれ程の苦を受けているものは、恒《ごう》河《が》沙《しや》の数《かず》より多いかも知れぬ。いや、人界《にんがい》に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎《たん》を洩《も》らしているのじゃ。村上《むらかみ》の御《み》門《かど》第七の王子、二品中務親王《にほんなかつかさしんのう》六代の後胤《こういん》、仁《にん》和《な》寺《じ》の法印《ほういん》寛《かん》雅《が》が子、京極の源大納言雅俊卿《みなもとのだいなごんまさとしきよう》の孫に生れたのは、こう云う俊寛一人じゃが、天《あめ》が下には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されている。――」
俊寛様はこう仰有《おつしや》ると、忽《たちま》ち又御《おん》眼《め》の何処かに、陽気な御《み》気《け》色《しき》が閃《ひらめ》きました。
「一条二条の大路の辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも憐《あわ》れに見えるかも知れぬ。が、広い洛中《らくちゆう》洛外、無量無数の盲人どもに、充《み》ち満ちた所を眺《なが》めたら、――有王。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。十方《じつぽう》に遍満した俊寛どもが、皆唯一人流されたように、泣きつ喚《わめ》きつしていると思えば、涙の中《うち》にも笑わずにはいられぬ。有王。三界《さんがい》一心《いつしん》と知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶ為には、まず増長慢を捨てねばならぬ。世尊の御《ご》出世《しゆつせい》は我々衆生《しゆじよう》に、笑う事を教えに来られたのじゃ。大般《だいはつ》涅《ね》槃《はん》の御時《おんとき》にさえ、摩訶《まか》伽葉《かしよう》は笑ったではないか?」
その時はわたしも何時の間にか、頬の上の涙が乾いていました。すると御主人は簾越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい」と、何事もないように仰有るのです。
「わたしは都へは帰りません」
もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。今度はそう云う御言葉を、御恨みに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、御側勤めをするつもりです。年とった一人の母さえ捨て、兄弟にも仔《し》細《さい》は話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、その為ばかりではありませんか? わたしはそう仰有られる程、命が惜《おし》いように見えるでしょうか? わたしはそれ程恩義を知らぬ、人《にん》非《ぴ》人《にん》のように見えるでしょうか? わたしはそれ程、――」
「それ程愚かとは思わなかった」
御主人は又前のように、にこにこ御笑いになりました。
「お前がこの島に止《とど》まっていれば、姫に安否を知らせるのは、誰が外に勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王と云う童がいる。――と云ってもまさか妬《ねた》みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は便船のあり次第、早速都へ帰るが好い。その代り今夜は姫への土産に、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。又お前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ」
俊寛様は悠々と、芭蕉扇《ばしようせん》を御使いなさりながら、島住居の御話をなさり始めました。軒先に垂れた簾の上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の這《は》う音が聞えています。わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。
四
「おれがこの島へ流されたのは、治承元年七月の始じゃ。おれは一度も成親《なりちか》の卿《きよう》と、天下なぞを計った覚えはない。それが西八条へ籠《こ》められた後《のち》、いきなり、この島へ流されたのじゃから、始はおれも忌々しさの余り、飯を食う気さえ起らなかった」
「しかし都の噂では、――」
わたしは御言葉を遮《さえぎ》りました。
「僧都の御房も宗《むね》人《と》の一人に、おなりになったとか云う事ですが、――」
「それはそう思うに違いない。成親の卿さえ宗人の一人に、おれを数えていたそうじゃから、――しかしおれは宗人ではない。浄海入道の天下が好いか、成親の卿の天下が好いか、それさえおれにはわからぬ程じゃ。事によると成親の卿は、浄海入道よりひがんでいるだけ、天下の政治には不向きかも知れぬ。おれは唯平家の天下は、ないに若《し》かぬと云っただけじゃ。源平《げんぺい》藤橘《とうきつ》、どの天下も結局あるのはないに若《し》かぬ。この島の土人を見るが好い。平家の代《よ》でも源氏の代でも、同じように芋を食うては、同じように子を産んでいる。天下の役人は役人がいぬと、天下も亡ぶように思っているが、それは役人のうぬ惚《ぼ》れだけじゃ」
「が僧都の御房の天下になれば、何御不足にもありますまい」
俊寛様の御眼《おめ》の中には、わたしの微笑が映ったように、やはり御微笑が浮びました。
「成親の卿の天下同様、平家の天下より悪いかも知れぬ。何故と云えば俊寛は、浄海入道より物わかりが好い。物わかりが好ければ政治なぞには、夢中になれぬ筈ではないか? 理非曲直も弁《わきま》えずに、途方もない夢ばかり見続けている、――其処が高《たか》平《へい》太《だ》の強い所じゃ。小松の内府なぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、浄海入道より数段下じゃ。内府も始終病身じゃと云うが、平家一門の為を計れば、一日も早く死んだが好い。その上又おれにしても、食色《じきしき》の二性を離れぬ事は、浄海入道と似たようなものじゃ。そう云う凡《ぼん》夫《ぷ》の取った天下は、やはり衆生の為にはならぬ。所詮《しよせん》人界《にんがい》が浄土になるには、御仏《みほとけ》の御《おん》天《てん》下《か》を待つ外はあるまい。――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、微《み》塵《じん》も貯えてはいなかった」
「しかしあの頃は毎夜のように、中《なか》御《み》門《かど》高倉《たかくら》の大《だい》納《な》言様《ごんさま》へ、御通いなすったではありませんか?」
わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました。ほんとうに当時の御主人は、北の方の御心配も御存知ないのか、夜は京極の御屋形にも、滅多に御休みではなかったのです。しかし御主人は相不変《あいかわらず》、澄ました御顔をなすったまま、芭蕉扇を使っていらっしゃいました。
「其処が凡夫の浅ましさじゃ。丁度あの頃あの屋形には、鶴の前と云う上童《うえわらわ》があった。これが如何なる天魔の化《け》身《しん》か、おれを捉えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降って湧《わ》いたと云うても好い。女房に横面《よこつら》を打たれたのも、鹿《しし》ケ谷《たに》の山荘を仮《か》したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀《む》叛《ほん》の宗人にはならなかった。女人《によにん》に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀《まれ》ではない。大幻術の摩登伽女《まとうぎやによ》には、阿難尊者《あなんそんじや》さえ迷わせられた。竜樹菩薩《りゆうじゆぼさつ》も在俗の時には、王宮の美人を偸《ぬす》む為に、隠形《おんぎょう》の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺《てんじく》震旦《しんたん》本朝を問わず、唯の一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人に愛楽を生ずるのは、五《ご》根《こん》の欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛を企てるには、貪《どん》嗔《しん》癡《ち》の三毒を具《そな》えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの知慧《ちえ》の光も、五欲の為に曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――が、それはともかくも、おれはこの島へ渡った当座、毎日忌々しい思いをしていた」
「それはさぞかし御難儀だったでしょう。御食事は勿論、御召し物さえ、御不自由勝ちに違いありませんから」
「いや、衣食は春秋二度ずつ、肥前の国鹿瀬《かせ》の荘《しよう》から、少将のもとへ送って来た。鹿瀬の荘は少将の舅《しゆうと》、平の教盛《のりもり》の所領の地じゃ。その上おれは一年程たつと、この島の風土にも慣れてしまった。が、忌々しさを忘れるには、一しょに流された相手が悪い。丹《たん》波《ば》の少将成経などは、ふさいでいなければ居睡りをしていた」
「成経様は御年若でもあり、父君の御不運を御思いになっては、御歎《なげ》きなさるのも御《ご》尤《もつと》もです」
「何、少将はおれと同様、天下はどうなってもかまわぬ男じゃ。あの男は琵琶《びわ》でも掻《か》き鳴らしたり、桜の花でも眺めたり、上臈《じようろう》に恋《れん》歌《か》でもつけていれば、それが極楽じゃと思うている。じゃからおれに会いさえすれば、謀叛人の父ばかり怨《うら》んでいた」
「しかし康頼様は僧都の御房と、御親しいように伺いましたが」
「ところがこれが難物なのじゃ。康頼は何でも願さえかければ、天神地神諸仏菩薩、悉《ことごとく》あの男の云うなり次第に、利《り》益《やく》を垂れると思うている。つまり康頼の考えでは、神仏も商人と同じなのじゃ。唯神仏は商人のように、金銭では冥護《みょうご》を御売りにならぬ。じゃから祭文《さいもん》を読む。香火を供える。この後の山なぞには、姿の好い松が沢山あったが、皆康頼に伐《き》られてしもうた。伐って何にするかと思えば、千本の卒塔婆《そとば》を拵《こしら》えた上、一々それに歌を書いては、海の中へ抛《ほう》りこむのじゃ。おれはまだ康頼位、現金な男は見た事がない」
「それでも莫迦《ばか》にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野にも一本、厳島《いつくしま》にも一本、流れ寄ったとか申していました」
「千本の中には一本や二本、日本の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに冥護を信ずるならば、たった一本流すが好い。その上康頼は難有《ありがた》そうに、千本の卒塔婆を流す時でも、始終風向きを考えていたぞ。何時かおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、帰命頂礼熊《きみょうちようらい》野《の》三所《さんしょ》の権現《ごんげん》、分けては日《ひ》吉《よし》山王《さんのう》、王子の眷《けん》属《ぞく》、総じては上《かみ》は梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》、下《しも》は堅牢《けんろう》地神、殊には内海外《げ》海《かい》竜神八部、応護の眦《まなじり》を垂れさせ給えと唱えたから、その跡へ並びに西風《にしかぜ》大明神、黒潮権現も守らせ給え、謹上再拝とつけてやった」
「悪い御冗談をなさいます」
わたしもさすがに笑い出しました。
「すると康頼は怒ったぞ。ああ云う大嗔《だいしん》恚《い》を起すようでは、現《げん》世《ぜ》利《り》益《やく》はともかくも、後生《ごしよう》往生《おうじよう》は覚束《おぼつか》ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将も何時か康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮護の為か、岩殿と云う祠《ほこら》がある。その岩殿へ詣《もう》でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、唯さっき榕樹の梢に、薄赤い煙のたなびいた、禿《は》げ山の姿を眺めただけです」
「では明日《あす》でもおれと一しょに、頂へ登って見るが好い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある。――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは容易に行こうとは云わぬ」
「都では僧都の御房一人、そう云う神詣でもなさらない為に、御残されになったと申しております」
「いや、それはそうかも知れぬ」
俊寛様は真面目《まじめ》そうに、ちょいと御首を御振りになりました。
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つ位は、何とも思わぬ禍《まが》津《つ》神《がみ》じゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。ところがその願は少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した横道者じゃ。天魔には世尊御出世の時から、諸悪を行うと云う戒行《かいぎよう》がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の途《みち》じゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。尤もこれは岩殿には限らぬ。奥州名取郡笠島《なとりのこおりかさじま》の道祖《さえ》は、都の加茂《かも》河原の西、一条の北の辺《ほとり》に住ませられる、出雲《いずも》路《じ》の道祖の御娘《おんむすめ》じゃ。が、この神は父の神が、まだ聟《むこ》の神も探されぬ内に、若い都の商人《あきゆうど》と妹《いも》脊《せ》の契《ちぎり》を結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの実方《さねかた》の中将は、この神の前を通られる時、下馬も拝もされなかったばかりに、とうとう蹴《け》殺《ころ》されておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五《ご》塵《じん》を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、崇《あが》めろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉じゃ。康頼と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野になぞらえ、あの浦は和歌浦、この坂は蕪坂《かぶらざか》なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童《わらべ》たちが鹿狩《ししがり》と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。唯音無《おとなし》の滝だけは本物よりもずっと大きかった」
「それでも都の噂では、奇《き》瑞《ずい》があったとか申していますが」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願《けちがん》の当日岩殿の前に、二人が法《ほつ》施《せ》を手向《たむ》けていると、山風が木々を煽《あお》った拍子に、椿《つばき》の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡が残っている。それが一つには帰《き》雁《がん》とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二となる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日得々と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、帰雁は如何にも無理じゃ。おれは余り可《お》笑《か》しかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの騒ぎではない。『明日《みょうにち》帰洛』と云うのもある。『清盛《きよもり》横《おう》死《し》』と云うのもある。『康頼往生《やすよりおうじよう》』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう」
「康頼は怒《おこ》るのに妙を得ている。舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは、一段と巧者じゃ。あの男は謀叛なぞに加わったのも、嗔《しん》恚《い》に牽《ひ》かれたのに相違ない。その嗔恚の源《みなもと》はと云えば、やはり増長慢のなせる業《わざ》じゃ。平家は高平《たかへい》太《だ》以下皆悪人、こちらは大納言以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚れが為《ため》にならぬ。又さっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ」
「成経様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛れになる事もありましたろうに」
「ところが始終蒼《あお》い顔をしては、つまらぬ愚痴ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でも其処にある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山へc吾《つわ》を摘みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好いのか、此処には加茂川の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣《そま》の地《じ》主《しゆ》権現《ごんげん》、日吉の御冥護《みょうご》に違いない。が、おれは莫迦々々《ばかばか》しかったから、此処には福原の獄《ひとや》もない、平《へい》相国《しようこく》入道浄海もいない、難有《ありがた》い難有いとこう云うた」
「そんな事を仰有っては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう」
「いや、怒られれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方ですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透かして見れば、あの死んだ女房も、どの位美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目に慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘《うそ》をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇うても、挨拶《あいさつ》さえ碌《ろく》にしなかった。が、その後《のち》又遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、此処には牛車《ぎつしや》も通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼でも、やはり居らぬよりは、いた方が好い。二人に都へ帰られた当座、おれは又二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった」
「都の噂では御寂しいどころか、御歎き死にもなさり兼ねない、御容《よう》子《す》だったとか申していました」
わたしは出来るだけ細々《こまごま》と、その御噂を御話しました。琵琶法師の語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯《ふ》し、悲しみ給へどかひぞなき。……猶《なほ》も船の纜《ともづな》に取りつき、腰になり脇になり、丈《たけ》の及ぶ程は、引かれておはしけるが、丈も及ばぬ程にもなりしかば、又空《むな》しき渚《なぎさ》に泳ぎ返り、……是《これ》具して行けや、我乗せて行けやとて、おめき叫び給へども、漕《こ》ぎ行く船のならひにて、跡は白浪《しらなみ》ばかりなり」と云う、御狂乱の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間は、手招ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更嘘ではない。何度もおれは手招ぎをした」と、素直に御頷《うなず》きなさいました。
「では都の噂通り、あの松《まつ》浦《ら》の佐用《さよ》姫《ひめ》のように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる琉球人じゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、その外の言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを交《かわ》る交《がわ》る、饒舌《しやべ》っていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べには何時《いつ》の間にか、土人が大勢集っている。その上に高い帆柱《ほばしら》のあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍るような気がした。少将や康頼はおれより先に、もう船の側へ駈《か》けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇《どくじや》に噛《か》まれた揚句、気が狂ったのかと思うた位じゃ。その内に六《ろく》波羅《はら》から使に立った、丹左衛門尉基安《たんのさえもんのじようもとやす》は、少将に赦免の教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の中《うち》には、僅《わず》か一弾《いちだん》指《し》の間《あいだ》じゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や若の顔、女房の罵《ののし》る声、京極の屋形の庭の景色、天竺《てんじく》の早《そう》利《り》即《そく》利《り》兄弟、震旦《しんたん》の一行阿闍梨《いちぎようあじやり》、本朝の実方の朝臣《あそん》、――とても一々数えてはいられぬ。唯今でも可笑しいのは、その中にふと車を引いた、赤牛の尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、騒がぬ容子をつくっていた。勿論《もちろん》少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の下らぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、何故おれ一人赦免に洩《も》れたか、その訳をいろいろ考えて見た。高平太はおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は憎むばかりか、内心おれを恐れている。おれは前《さき》の法勝寺《ほつしようじ》の執行《しゆぎよう》じゃ。兵仗《へいじよう》の道は知る筈《はず》がない。が、天下は思いの外、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太は其処を恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、苦笑せずにはいられなかった。山門や源氏の侍どもに、都合の好い議論を拵《こしら》えるのは、西光《さいこう》法師なぞの嵌《はま》り役じゃ。おれは眇《びよう》たる一平家に、心を労する程老《おい》耄《ぼ》れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好い。おれは一巻の経文の外に、鶴の前でもいれば安《あん》堵《ど》している。しかし浄海入道になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味に思うているのじゃ。して見れば首でも刎《は》ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている間に、愈《いよいよ》船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は咎《とが》めるにも及ぶまいと、使の基安に頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目の外は、何一つ知らぬ木偶《でく》の坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも好い。唯罪の深いのは少将じゃ。――」
俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた芭蕉扇を御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。舟《ふな》子《こ》たちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の直垂《ひたたれ》の裾《すそ》を掴《つか》んだ。すると少将は蒼い顔をしたまま、邪慳《じやけん》にその手を刎《は》ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。唯おいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼にも負けぬ大嗔《しん》恚《い》を起した。少将は人畜《じんちく》生《しよう》じゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子の所業とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれの外に誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がする位、ありとあらゆる罵詈《ばり》讒謗《ざんぼう》が、口を衝《つ》いて溢《あふ》れて来た。尤もおれの使ったのは、京童の云う悪口《あつこう》ではない。八万法蔵十二部経中の悪《あつ》鬼《き》羅《ら》刹《せつ》の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを踏みながら、返せ返せと手招ぎをした」
御主人の御腹立ちにも関《かかわ》らず、わたしは御話を伺っている内に、自然とほほ笑んでしまいました。すると御主人も御笑いになりながら、
「その手招ぎが伝わっているのじゃ。嗔恚の祟《たた》りは其処にもある。あの時おれが怒りさえせねば、俊寛は都へ帰りたさに、狂いまわったなぞと云う事も、口の端《は》へ上らずにすんだかも知れぬ」と、仕方がなさそうに仰有るのです。
「しかしその後《のち》は格別に、御歎きなさる事はなかったのですか?」
「歎いても仕方はないではないか? その上時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行った。おれは今では己《こ》身《しん》の中《うち》に、本仏を見るより望みはない。自土即浄土と観じさえすれば、大《だい》歓《かん》喜《ぎ》の笑い声も、火山から炎の迸《ほとばし》るように、自然と湧いて来なければならぬ。おれは何処までも自《じ》力《りき》の信者じゃ。――おお、まだ一つ忘れていた。あの女は泣き伏したぎり、何時までたっても動こうとせぬ。その内に土人も散じてしまう。船は青空に紛れるばかりじゃ。おれは余りのいじらしさに、慰めてやりたいと思うたから、そっと後手《うしろで》に抱き起そうとした。するとあの女はどうしたと思う? いきなりおれをはり倒したのじゃ。おれは目が眩《く》らみながら、仰向けに其処へ倒れてしもうた。おれの肉身に宿らせ給う、諸仏諸菩薩諸明王も、あれには驚かれたに相違ない。しかしやっと起き上って見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所じゃった。何、おれをはり倒した訳か? それはあの女に聞いたが好い。が、事によると人《ひと》気《け》はなし、凌《りよう》ぜられるとでも思ったかも知れぬ」
五
わたしは御主人とその翌日、この島の火山へ登りました。それから一月程御側にいた後《のち》、御名残り惜しい思いをしながら、もう一度都へ帰って来ました。「見せばやなわれを思はん友もがな磯のとまやの柴《しば》の庵《いほり》を」――これが御形見に頂いた歌です。俊寛様はやはり今でも、あの離れ島の笹《ささ》葺《ぶ》きの家に、相不変《あいかわらず》御一人悠々と、御暮らしになっている事でしょう。事によると今夜あたりは、琉球芋を召し上りながら、御仏の事や天下の事を御考えになっているかも知れません。そう云う御話はこの外にも、まだいろいろ伺ってあるのですが、それは又何時か申し上げましょう。
芥川龍之介 人と文学
三好行雄
芥川龍之介は明治二十五年三月一日に、東京市京橋区入船町(いまの中央区明《あか》石《し》町)に生まれている。外人居留地に近い一角だった。帝国憲法が公布されてから三年後、文明開化にはじまる日本の近代化はもはや後もどりの不可能な、ひとつの方向を選択し終えていた。西洋文明のあわただしい流入が日本人の生活様式を急速に変貌《へんぼう》させつつあった反面、江戸時代からひきついだ伝統も、生活や文化の内実に生きて働きかける力をまだうしなっていなかった。北村透谷が「漫《まん》罵《ば》」という感想で、龍之介の生地にちかい銀座一帯の和洋雑然とした風景への痛恨を語ったのは、明治二十六年である。
父親は新原《にいはら》敏三、芝や新宿で牧場を経営し、酪農業をいとなんでいた。しかし、龍之介の生後七カ月頃に実母のふく《・・》が発狂し、ために母の実家である芥川家で養育されたというのは有名な事実である。明治三十七年、十二歳のときに、芥川家との養子縁組みが正式にととのったが、その二年前に、ふく《・・》が精神病院で死んでいる。母親の発狂という悲劇は、幼くして乳房に別れた胎内体験の欠如とともに、心象の闇にふかく沈んだ原体験として、資質としてのペシミズムやニヒリズムを育て、また、生いたちの秘密を隠そうとする禁忌の感覚は、実生活の告白をこばむ虚構性を芥川文学の本質として決定することになった。
龍之介の養育された芥川家は、代々、江戸城のお数寄屋坊主をつとめた家柄で、本所小泉町(いまの墨田区両国二丁目)に居住していた。養父はふく《・・》の実兄道章で、東京府(都)の土木課長をつとめ、養母の儔《とも》は細《さい》木《き》香《こう》以《い》の姪《めい》にあたり、洒脱《しやだつ》、放《ほう》恣《し》な生をすごした幕末の通人の血を引いていた。道章も〈いかにも江戸の通人らしい趣のある〉人だったという(恒藤《つねとう》恭《きよう》『旧友芥川龍之介』)。隅田川に近い本所は、もともと江戸時代から文人墨客の風雅隠棲《いんせい》の地として知られ、文明開化の波に洗われる東京でわずかに、遺された江戸を彷《ほう》彿《ふつ》する土地のひとつであった。芥川家も江戸城の礼式にかかわった家柄から礼儀作法のしつけにきびしかった反面、一家そろって遊芸に親しむなど文人ふうな趣味性が濃く、本所の風土性とともに、龍之介の個性形成の見のがせない因子となった。
最初の小品「大川の水」(大正三年)で、隅田川への愛着と思慕を語ってやまぬのを見てもわかるように、本所、というより本所に象徴される下町の抒情《じよじよう》は芥川龍之介の秘めた故郷《・・》であり、かれの感受にもっともなつかしい場所であった。しかし、龍之介の個性獲得の方向は、多くの近代作家の場合とおなじように、西洋との出会いによる故郷との訣別《けつべつ》という形をとる。後年の半自伝体小説「大導寺信《しん》輔《すけ》の半生」の回想を借りていえば、〈中流下層階級〉からの脱出を〈知的にえらいもの〉をめざす学問に賭《か》けたのである。
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龍之介は本所元町の江東小学校から東京府立三中を経て、明治四十三年九月に第一高等学校一部乙(文科)に入学している。はやくから読書を好み、小学生時代に、馬琴や近松など江戸文学を好んで読んだという。中学・高校時代を通じ読書の対象は紅葉・露伴・一葉・蘆花《ろか》・漱石などの現代作家およびイプセン・アナトール = フランス・ツルゲーネフらの外国文学にひろがり、とくにストリンドベリ・ボードレエル・ワイルドなど十九世紀末文芸を耽読《たんどく》した。〈彼は人生を知る為《ため》に街頭の行人を眺めなかつた。寧《むし》ろ行人を眺める為に本の中の人生を知らうとした〉とは後年の回想である(「大導寺信輔の半生」)。
大正二年九月、龍之介は東京帝大英文科に進んだ。一高時代の親友恒藤恭が京大法科に去ったこともあって、同級生の久米正雄や菊池寛・成瀬正一・松岡譲《ゆずる》らと親交をふかめた。はじめ漠然と学者を志望していた龍之介は、これらの友人たちによって創作の世界に誘われることになる。森鴎外の歴史小説を視野に入れ、翻訳短篇《たんぺん》集『諸国物語』からは創作方法上の示唆をうけた。また、斎藤茂吉の『赤《しゃく》光《こう》』に感動して、〈詩歌に対する眼〉をひらかれたとみずから回想している(「僻見《へきけん》」)。大正三年二月には豊島与志雄や山本有三を中軸とする同人雑誌、第三次「新思潮」が創刊され、龍之介も誘われて参加した。創刊号に柳川隆之介の筆名で、アナトール = フランスの「バルタザアル」の翻訳を掲載したのが、不特定多数の読者へむけて、作品を発表した最初であった。五月号には小説の処女作「老年」も発表されている。他《ほか》に、戯曲「青年と死」(九月)、小品「大川の水」(「心の花」四月)など、詩歌をふくむ二、三の習作があるが、文壇の反響はまったく呼ばなかった。
越えて大正四年十一月、「帝国文学」に「羅生門《らしようもん》」が発表される。芥川龍之介の手に入れた最初の傑作である。『今昔物語』に素材をもとめた短篇で、王朝末期の荒廃した都を舞台に、飢餓に直面するゆき暮れた下人に托《たく》して、善悪を超越した我執のドラマが描かれる。文壇からはいぜんとして黙殺されたが、龍之介がやがて新しい領域をひらくことになる歴史小説の原型をさだめた記念碑である。龍之介の独創は内外の典籍や伝説に典拠をもとめて歴史的事象に新しい解釈を与え、現代にまで普遍的な主題を提示するところにあった。
おなじ年の十二月、龍之介は友人の林原耕三にともなわれて、夏目漱石の木曜会にはじめて出席した。漱石の知遇を得たことが運命の転機になった。漱石はわかい新人作家を愛し、親身な助言と協力を惜しまなかった。「明暗」を執筆中の漱石が龍之介に宛てた、〈勉強しますか。何か書きますか。……どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可《いけ》ません。たゞ牛のやうに図々《づうづう》しく進んで行くのが大事です〉という一節をふくむ書簡(大正五年八月二十一日付)など、偽りのない親愛感が流露している。しかし、龍之介は牛にはなれなかった。やがて才能のすべてを燃焼させて、短距離走者のように短かい生涯を駆けぬけることになる。
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大学時代の最後の年、大正五年の二月に第四次「新思潮」が創刊された。同人は龍之介をはじめ、久米・菊池・成瀬・松岡の五名で、龍之介は創刊号に「鼻」を発表した。長鼻のために悩む高僧の悲喜劇を描いた短篇で、厭《いや》味《み》のないユーモアや要領のよい文章を漱石から激賞され、作家としての命運をひらく端緒となった。さらに漱石門下の鈴木三重吉の推挙で「新小説」に執筆の機会が与えられ、九月号所掲の「芋粥《いもがゆ》」および翌十月の「中央公論」に発表した「手巾《ハンケチ》」の成功によって、新進作家としての地位をさだめた。「芋粥」は「羅生門」とおなじく『今昔物語』に素材をあおいだ短篇で、負け犬のあわれと勝ち犬の倨傲《きよごう》が非情な人間関係のからくりとして対照され、「手巾」は子を失った悲しみに耐える母親のさりげない動作をとらえて、武士道や婦徳の批判を意図した作品だが、逆に、型(マニイル)によって動く女性の美しさを彷彿するという皮肉な結果を招いている。龍之介の美意識のありかを告げる短篇である。
文名をさだめて以後の創作活動は堰《せき》を切ったようにめざましく、歴史小説を主とする短篇をあいついで発表し、批評もおおむね好意的だった。第四次「新思潮」が終刊して二カ月後の大正六年五月に、最初の短篇集『羅生門』が阿蘭陀《おらんだ》書房から刊行されたとき、龍之介はすでに、当代の一流作家としての評価を確かなものにしていた。その間、大正五年七月に、ウイリアム = モリス研究を卒業論文として東大を卒業し、おなじ年の十二月には海軍機関学校の嘱託教官に就任して鎌倉に居を定めたが、同月九日に夏目漱石の死に逢い、ふしぎな心象のゆれを体験した。「或阿呆の一生」では、〈巻煙草に火もつけず歓びに近い苦しみを感じて居た〉(十三「先生の死」)と書いている。
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龍之介の短篇小説は新技巧派の名で呼ばれたように、技巧にたけ、感情の自由な流露を知性で統御しようとする傾向が強い。一作ごとに語りくちを変え、趣向を凝らした作品の完成度は当代に比類がなく、文体も高雅に洗練され、明晰《めいせき》な知性のとらえた人生の諸相を、あるいは辛辣《しんらつ》な批評をこめ、あるいは洒脱な機知をこめて描いた。菊池寛に〈人生を銀のピンセットで弄《もてあそ》んでゐる〉との評があるが、同時に、玲瓏《れいろう》と完結したぬきさしならぬ行間に、ふときざす情念のゆらぎがあり、日本人になつかしい抒情がただよう。虚構の花の空間に、身をひそめた優しい花に龍之介の素顔も彷彿する。
龍之介の芸術観は「戯《げ》作《さく》三昧《ざんまい》」(大正六年)や「地獄変」(大正七年)などにうかがえるが、作家の実生活のみならず、日常性にからみとられた人生そのものを芸術とひきかえにして悔いないという、徹底した芸術至上主義が説かれている。たとえば「戯作三昧」の馬琴は作家生活にまつわるさまざまな塵労《じんろう》を、芸術創造の〈恍惚《こうこつ》たる悲壮の感激〉につつまれて忘却する。〈ここにこそ「人生」は、あらゆるその残《ざん》滓《し》を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いて居るではないか。……〉――作家の〈真の人生〉の明証は書くという行為のなかにのみ存在し、爾余《じよ》の日常生活はすべて人生の残滓にすぎぬという、実人生を捨象し、創造の行為にのみ絶対の価値をおく芸術観の吐露である。「地獄変」の絵師良秀は屏風《びようぶ》絵《え》の完成のために最愛の娘を葬り、「奉教人の死」のろおれんぞ《・・・・・》はイエスの行跡に倣った殉教者の〈刹《せつ》那《な》の感動〉を生きて、〈人の世の尊さ〉をきわめた。いずれもおなじモチーフの変奏として書かれた短篇であり、これらの作品をふくむ第三短篇集『傀儡《かいらい》師《し》』(大正八年刊)は、芥川文学のひとつの頂点を示している。前後して、龍之介は大正七年二月に塚本文子と結婚し、翌八年三月には機関学校を辞職し、大阪毎日新聞社に入社している。出社の義務はなく、年数篇の小説を執筆するというのが、その条件であった。翌月、鎌倉をひきあげて田端の自宅にもどり、作家生活に専念することになる。我鬼《がき》窟《くつ》と号した書斎に小島政二郎・南部修太郎・瀧井孝作ら新進作家の出入りもようやくめだち、創作活動もまた順調であった。『影《かげ》燈籠《どうろう》』(大正九年)『夜来の花』(大正十年)『春服』(大正十二年)などの短篇集がやつぎばやに刊行され、「舞踏会」「南京《ナンキン》の基督《キリスト》」「藪《やぶ》の中」「六の宮の姫君」など、珠玉の短篇が世評をあつめた。
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芥川龍之介の晩年の悲劇は、固有の芸術至上主義の動揺、瓦解とともにはじまる。大正九年から十一年を過渡期として、龍之介は自己の文学観、人生観の訂正を強いられ、〈炉辺の幸福〉 = 日常性の意味を問うべき重い主題としてひき受けてゆく。マルキシズムの擡頭《たいとう》など時代の動向にもうながされて、現実とのいやおうない対決を強いられたのである。技巧の美学も、もはや無力であった。前期の歴史小説を支えた〈意識的芸術活動〉の方法論を、龍之介がみずから否定するのは大正十二年のアフォリズム「侏儒《しゆじゆ》の言葉」の「創作」の章においてである。嫉《しつ》妬《と》をめぐる女性心理の綾《あや》をさぐった「秋」(大正九年)は現代を描いて、作風を変えようとした最初の試みだが、かならずしも成功していない。「保吉《やすきち》の手帳から」(大正十二年)以下、作者自身が保吉の仮名で登場する一連の短篇も書かれはじめる。体験の断面をコント風に仮構した作品の性格から見て、私小説との距離はまだ遠いといえるが、それにしても、告白を拒みつづけた龍之介が実生活にまで下降したことの意味は大きい。この系譜は、半生の起伏を悔恨に似た感情をこめて回想した「大導寺信輔の半生」(大正十四年)を経て、やがて、「点鬼簿」(大正十五年)の〈僕の母は狂人だつた〉という痛切な告白にまでいたりつく。龍之介がはじめて実家の父と母、姉など骨肉の死の記憶を語った短篇で、死に隣りあう憂鬱な心情をさながらに伝えている。
病魔も龍之介の心身をむしばみはじめていた。大正十年の三月から七月まで、大阪毎日新聞社の海外視察員として中国に特派されたが、このときの過密なスケジュールも原因のひとつで、帰国後、病臥《びようが》を強いられている。大正十一年の暮れに書かれた書簡(真野友二郎宛)では〈神経衰弱、胃《い》痙攣《けいれん》、腸カタル、ピリン疹《しん》、心《しん》悸《き》昂進《こうしん》〉という病名を自嘲《じちよう》まじりに列挙している。不眠に悩み、強度の神経衰弱も悪化するばかりで、ついには幻視、幻聴にも苦しめられるようになった。
大正十四年に入るころから創作活動はようやく低調となり、作風もしだいに陰鬱な心情の世界に傾斜していった。龍之介が自殺の決意を友人にはじめて打ち明けたのは、大正十五年の四月だったという(小穴隆一)。昭和二年一月、義兄の西川豊が放火の嫌疑を受けて自殺したスキャンダルも、事後の処理に奔走する龍之介の消耗をよりふかめる事件だった。そうした悪条件のなかで「玄鶴《げんかく》山房」(一、二月)が書かれ、「蜃《しん》気《き》楼《ろう》」(三月)が書かれている。いずれも〈唯《ただ》薄暗い中にその日暮しの生活をしてゐた〉(「或阿呆の一生」)作者の異常にとぎすまされた神経と、暗澹《あんたん》たる想念を伝える作品であった。架空の小動物に托して、人間社会の痛烈な戯画を描いた「河童《かつぱ》」(三月)も、所詮《しよせん》は河童が河童であること、つまり人間が人間であることへのあらわな嫌悪と絶望を語っている。狂気の遺伝に脅える心情も痛切である。
おなじく昭和二年、生涯の最後の年に、龍之介は小説のプロットをめぐる応酬を、谷崎潤一郎とかわしている(「『話』のない小説」論争)。この論争で、龍之介は物語性に富む虚構の小説を退け、志賀直哉の心境小説を、もっとも純粋な文学として高く評価した。心境の奏でる澄明な詩 = 東洋的詩的精神への憧憬《どうけい》を隠さなかったのである。このとき、龍之介は知性と抒情、西洋と日本のふかい亀裂を主体の矛盾としてかかえこんでいた。
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昭和二年七月二十四日未明、芥川龍之介は〈唯ぼんやりした不安〉(「或旧友へ送る手記」)という一語を残して、田端の自宅でヴェロナールおよびジャールの致死量をあおいで自殺した。遺稿として「歯車」「或阿呆の一生」「続西方《さいほう》の人」などが残されていた。「歯車」はみずから死をえらぶ人間の心象を伝える稀有《けう》の作で、龍之介が死を賭《と》して成功した狂気と幻想の描写は他のどういう小説でも不可能な、ぶきみな戦慄《せんりつ》にみちている。「或阿呆の一生」は終焉《しゆうえん》の地点から逆照射された半生の起伏を、敗北と自嘲の思いをにじませながら短章を連鎖して綴ってゆく。「西方の人」は正続五十九章から成るイエス伝であり、同時に、イエスを比喩《ひゆ》として描かれた悲劇の自画像である。「歯車」を評して、広津和郎の〈一糸乱れず、冷静に〉という評語があるように、これらの遺稿は絶望的な破局の淵《ふち》で書かれながら、冴《さ》えた意識による統御を失なっていない。芥川龍之介が最後まで、固有の方法を捨てなかった小説家であることを告げている。
芥川龍之介は「白樺《しらかば》」の諸作家とともに、大正期の市民文学の実質を担当した作家であり、その生涯は死をふくめて、市民文学理念の成熟と動揺と崩壊とを象徴した。龍之介の自殺が当代の知識階級にひとごとでない衝撃を与え、時代の危機と不安を告げる指標と目されたゆえんである。
(昭和五十九年九月、東京大学教授)
『羅生門《らしようもん》・鼻』について
吉田精一
この巻には、芥川龍之介の「王朝物」といわれる、平安時代に材料を得た歴史小説をおさめている。配列は大体年代順に従っているが、その発表年時と、発表機関を示すと、次のようになる。
羅 生 門 大正四年一一月 『帝国文学』
鼻 〃 五年二月 『新思潮』(創刊号)
芋《いも》 粥《がゆ》 〃 〃 九月 『新小説』
運 〃 六年一月 『文章世界』
邪 宗 門 〃 七年一〇−一二月 『東京日日新聞』
袈裟《けさ》と盛遠《もりとお》 〃 〃 四月 『中央公論』
好 色 〃 一〇年一〇月 『改造』
俊 寛 〃 一一年一月 『中央公論』
これらの芥川の歴史小説にはすべて出典がある。それを次に記しておく。
羅 生 門 『今昔物語』巻二十九「羅城門登 上層 見 死人 盗人語《こと》第十八」を主とし、同巻三十一「太刀《たて》帯《わき》陣売 魚嫗語《おうなのこと》第三十一」を部分的に挿入《そうにゆう》。
鼻 『今昔物語』巻二十六「池尾禅珍内供鼻語第二十」及び『宇治拾遺《しゆうい》物語』巻二「鼻長き僧の事」
芋 粥 『今昔物語』巻二十六「利仁将軍若時従 京敦賀将 行五位 語第十七」及び『宇治拾遺物語』巻一「利仁芋粥の事」
運 『今昔物語』巻十六「貧女仕 清水観音 値《あう》 盗人夫 語三十三」
邪 宗 門 主題の出典としてはとくべつにあげるものはない。小道具、挿《そう》話《わ》には『栄華物語』『大鏡』『今昔物語』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『平家物語』『古今集』などを採用。
袈裟と盛遠 『源平盛衰記』第十九
好 色 『今昔物語』巻三十「平定文仮 《け》 借《そう》本院侍従 語第一」
俊 寛 『平家物語』第四及び『源平盛衰記』第七
こうして見ると圧倒的に『今昔物語』に出典を仰いだものが多い。そして『今昔物語』の美しさや価値を発見したものは、専門の国文学者ではなくして、実に芥川その人であった。彼がこの物語に近づいたのは、おそらく少年のころからの「ミステリアスな話」に対する嗜《し》好《こう》からであり、彼のよった本文は明治三十四年刊の活字本(国史大系本、史籍集覧本)あるいは芳賀《はが》矢一の『攷証《こうしよう》今昔物語集』(「天竺《てんじく》震旦《しんたん》部」大正二年六月、「本朝部上」大正三年八月、「本朝部下」大正十年四月刊)の何《いず》れか(「竜」を参照すると、多分国史大系本か)のほかに、『校注国文叢書《そうしよ》』(博文館刊、本朝部のみ、所収)を見たことが最近考証されている。(長野嘗一『古典と近代作家』)
芥川はのち昭和二年『今昔物語鑑賞』(新潮社版『日本文学講座』)を書き、この物語の特色を道破している。彼はこの物語中での三面記事のような部分、「世俗」や「悪行」の部に最も興味を感じる、といっているが、事実彼の「今昔物」は、ほとんどすべてこの部のものである。しかし「仏法」の部でも、当時の人々は仏菩《ぼ》薩《さつ》や天《てん》狗《ぐ》などの、超自然の存在を如実に感じていたに違いないともいっている。そして彼は『今昔物語』の特色を、写生の「美しい生々《なまなま》しさ」にあるとして、野《ブルタ》性《リテイ》の美を強調している。
『今昔物語』の作者は事実を写すのに少しも手加減を加えていない。これは僕等人間の心理を写すにも同じことである。もっとも『今昔物語』の中の人物は、あらゆる伝説の中の人物のように複雑な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べている。しかし今日の僕等の心理にも如何《いか》に彼等の心理の中に響き合う色を持っているであろう。(略)
こういう作者の写生的筆致は当時の人々の精神的争闘もやはり鮮《あざや》かに描き出している。彼等もやはり僕等のように娑《しや》婆《ば》苦《く》の為《ため》に呻吟《しんぎん》した。『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを写している。それから『大鏡』は最も簡古に彼等の苦しみを写している。最後に『今昔物語』は最も野蛮に、――或は殆《ほとん》ど残酷に彼等の苦しみを写している。(略)
『今昔物語』は前にも書いたように野性の美しさに充ち満ちている。その又美しさに輝いた世界は宮廷の中にばかりある訳ではない。従って又この世界に出没する人物は、上は一天万乗の君から下は土民だの盗人《ぬすびと》だの乞《こ》食《じき》だのに及んでいる。いや、必ずしもそればかりではない。観世音菩薩や大《だい》天《てん》狗《ぐ》や妖怪《ようかい》変《へん》化《げ》にも及んでいる。若《も》し又紅毛《こうもう》人の言葉を借りるとすれば、これこそ王朝時代の Human Comedy (人間喜劇)であろう。僕は『今昔物語』をひろげる度に当時の人々の泣き声や笑い声の立ち昇るのを感じた。のみならず彼等の軽蔑《けいべつ》や憎《ぞう》悪《お》の(例えば武士に対する公卿《くげ》の軽蔑の)それらの声の中に交っているのを感じた。(略)
そして、『今昔物語』及びこれに準じる『宇治拾遺物語』等に出典をあおいだ十数編の短編小説において、芥川は「今日の僕等の心理」に「響き合う」古人の心理を発見し、「当時の人々の泣き声や笑い声」をききとって再現するとともに、「陰影に乏しい原色」を近代人の「複雑な心理」におきかえたのである。いわば王朝の説話物語の材料の近代的解釈をこころみることで、彼自身のもっている主題を生かそうとしたのである。ここに彼の歴史小説の特殊性があった。そしてそれは彼以前の日本文学にはかつてないものであった。それは誰かによって一度こころみられるべき企てであり、そして芥川によって「再びああいう種類の作品は我々に必要のない程度までの、それ程かんじんな一小説体をなしている」(室生犀星)出来栄えを示した完成品となった。この成功には彼の学才と、着想と、頭脳と、努力とが必要だったのである。
以下、個別的に各作品について簡単に解説する。
『羅生門』と『鼻』とは彼の学生時代の産物である。出来栄えはさして差違があるとは見えないが、作品の運命には幸不幸があり、『羅生門』がほとんど無反響に終ったに反して、『鼻』は彼がその門に出入した夏目漱石から絶讃《ぜつさん》され、ひいては彼の文壇に第一歩を印するきっかけとなった。
これには発表機関の関係もある。前者が『帝国文学』という、創作を重視しない、いささか時代遅れと見られる雑誌に発表されたのに対し、後者は『新思潮』(第四次)という、同人雑誌ながら、漱石門に集った東大生の、いわば漱石を読者の第一号とし、漱石に読んでもらうことを一つの目標として刊行したものにのったという事情があった。漱石としては、自分の崇拝者達のためにも、それを義務と感じたのであろう。毎号ていねいに全作品を読み、そしてていねいな批評をあたえている。『鼻』が材料のあたらしさと、自然なユーモアと、ととのった文章によって漱石の目にかなったのは、芥川の幸福であったが、この作品が賞讃されてしかるべき資格をそなえていたことはいうまでもない。
そうして漱石の評価が、ひいては門下の鈴木三重吉が顧問をしていた『新小説』に新作の『芋粥』をのせる段どりをつけ、芥川は順風に帆をかかげて一気に文壇にのり出したのである。その翌月には文壇随一の『中央公論』に現代小説の『手巾《ハンケチ》』をのせる約束がとりつけられていた。
『鼻』以下『運』にいたるまでの作品は、どれも歴史的な意味のとぼしい凡庸な人間のなかに、現代人としての心理を追求し、自己を流しこもうとしたものである。そこには人間の運命の必然性をきわめようとする、本格的な歴史小説のねらいはない。どの作品にも、善にも悪にも徹底し切れない、不安定な人間の姿(『羅生門』)、他人の目にうつる自分に始終注意をひかれるのみで、人生の満足も不満足も、要するに対世間的のものにすぎないという懐疑的な精神(『鼻』)、理想や欲望は達せられないうちに価値があるので、達せられれば幻滅するのみ(『芋粥』)、物質的な幸福と精神的な幸福とは、どちらが真の幸福であるか(『運』)、といったテーマが寓《ぐう》されている。いずれも表現はブリリアントだが、内容は人間のわびしさを描いた作品群といいうるだろう。
芥川は大正五年(一九一六)七月、二十四歳で東京帝大英文科を卒業。成績は二十名中二番であったが、平均点八十五点以上をとった優等生で、非常な秀才であった。そうしてそのころの彼の創作態度も、書斎中に参考書籍を山のように積み上げ、あたかも論文を書くような調子のものだったという。技巧的には、たとえば『鼻』にはゴーゴリの『鼻』が、そして『芋粥』には同じくゴーゴリの『外套《がいとう》』の影響が感じられる。とくに後者は彼の創作中机辺に置いたものであり、『芋粥』の主人公無名の五位の性格と環境は、『外套』の主人公の下級官吏と実によく似ているのである。
『邪宗門』は新聞小説ということもあって、変化に富むロマンを企画したらしいが、ついに未完に終った。あまりにも空想が拡がりすぎて、収束に困ったためと思われる。堀川の大殿と若殿との容貌《ようぼう》や性格の対照は、藤原道長、頼通《よりみち》父子のそれを思わせるが、この物語の一つの魅力はクリスト教徒と見られる摩利信乃法師の存在であり、これは芥川の「今昔物」とならんで譜代の材料というべき「切支《キリシ》丹《タン》物」の人物の、もっとも古い時代の出現であり、造型となっている。しかし、平安朝にクリスト教が日本に伝来していたかどうかについては、私にはまだ確証がない。入って来るとすれば景教であろうが、残念ながらその資料的な痕跡《こんせき》はつかむに至っていない。恐らくそれは全く芥川の空想の産物であろう。
『袈裟と盛遠』と『俊寛』はともに『今昔』以後の『平家物語』や『源平盛衰記』によったものである。前者については、貞女袈裟という一種の偶像化された女性像に対する破壊趣味が作者にあったことは否めない。しかし袈裟が盛遠とちぎったことは盛衰記の本文に見えており、芥川の創作ではない。にもかかわらず袈裟の身をまかせたのは、母の生命を助けるためという事情があったとして、なお彼女を貞女視し、芥川の近代的な女性心理解釈を憤慨する向きは、発表当時からあった。私が旧制一高の学生の時、国粋主義者の国語教授、沼波瓊音《けいおん》先生が、講義の中でやはり同様の立場から、芥川の解釈を痛《つう》罵《ば》したのをきいている。『俊寛』もまた古典の新解釈である。彼のこの作をなした動機には倉田百三《ひやくぞう》、菊池寛に対する対抗意識があった。倉田は大正九年三月『白樺』に『俊寛』と題する三幕ものの力作を発表して評判をよんだ。つづいて菊池が大正十年十月の『改造』に短編小説『俊寛』を発表して、『平家物語』の俊寛と全くちがった、幸福な俊寛を作り上げた。菊池の解釈は所伝の――平家や盛衰記、謡曲あるいは近松門左衛門の『平家女護島《によごのしま》』をふくめて――悲劇的な人間像とはことなる。そしてまた倉田の怨恨《えんこん》の亡者となって自殺する俊寛ともちがっている。
芥川の『俊寛』も、また菊池に近い「苦しまざる」俊寛であり、文明都会のわずらわしい対人関係や、口やかましい夫人から解放され、島の女を妻として満ち足りた生活をする、機智に富んだ好色家である。彼の一種の智恵のいたずらの産物といってもよいであろう。
『好色』もまた気軽で安易な作品である。主人公平中《へいちゆう》は、平安朝の色好みの代表的存在であるが、芥川は彼に現実に理想の女性を想像し追求して失望せずにはいられないドン・ジュアンの面影を見た。作品の構想も情景も、忠実に『今昔物語』巻三十の第一話を追っているが、ただ新しい解釈といえば、以上のように、平中に天才的色好みの不幸を見《み》出《いだ》した点にあるといえよう。
(昭和四十三年七月)
(一) 羅生門 平安京(京都)の中央大通り朱雀大路の南端にあった正門。二重閣の大規模な作りで五階の石段があった。
(二) 頭身の毛も太る 今昔物語巻二十四・第二十にある語。
(三) 検非違使の庁 京中の犯罪人を検察、裁判し、治安維持の役にあたった官庁。
(四) 池の尾 京都府宇治市池尾町。宇治川の上流、山の中にある。
(五) 内道場供奉 内道場は宮中で僧を召して仏道を修行したところで、高徳の僧十人を選んでそこに奉仕させ、天皇の健康などを祈る読経をさせた。そこに奉仕する者を内供奉僧(内供は略称)といった。
(六) 目連や、舎利弗 ともに釈《しや》迦《か》の高弟。竜樹、馬鳴はともに古代インドの仏教理論家である。
(七) 伏菟 油で揚げた餅。
(八) 楚割 魚を塩干しにし細かく削ったもの。
(九) 恪勤 院・摂関・大臣の家に仕える侍。
(一〇) 清水 京都市東山区の五条坂上にある清水寺。本尊は十一面観音である。
(一一) 鳥羽僧正の絵巻 鳥羽僧正は平安末期の僧侶《そうりよ》で源隆国の子。大和《やまと》絵《え》をよくし、特に戯画をもって知られる。「鳥獣戯画」「信貴山絵巻」は彼の作ともいわれる。
(一二) 陀羅尼 梵《ぼん》語《ご》dharani(総持)のこと。梵文の長句を読誦《どくしよう》するもの。仏菩薩の説いた呪文《じゆもん》で、誦すると種々の功徳や厄除《よ》けになるといわれる。
(一三) 放免 検非違使庁の下役人。放免された罪人で罪人の追《つい》捕《ぶ》や護送役をした者。
(一四) 衣川 岩手県平泉付近。北上川の支流衣川が流れる地域。ここではその地に住んで衣川殿と呼ばれていた母親のこと。
(一五) 天魔波旬 人心を悩乱し、知恵を鈍らせ、善を妨げ、仏道の障害をなす魔王の名。
(一六) 今出川 京都市上京区を流れていた川の名。及びその付近の地名で、当時このあたりには高級貴族の邸宅が多かった。
(一七) あた 「あつ、あつ」の転語。暑く苦しい時にいう感嘆詞。平家物語巻六「入道死去」に「身の内の熱き事は火をたくが如し。只宣《のたま》ふ事とてはあたあたとばかりなり」とある。
(一八) 菅相丞の御歌 菅原道真《みちざね》の歌 このたびはぬさもとりあへず手《た》向《むけ》山《やま》紅葉《もみじ》の錦神のまにまに。
(一九) 三舟に乗るもの 京都市嵐山《あらしやま》の大井川における遊覧の時、詩・歌・管絃《かんげん》のいずれの舟にも乗れる資格(才能)がある者。
(二〇) 唐人の問答 この話は古今著聞集《ここんちよもんじゆう》巻五「唐人連歌事」に出ている。
(二一) 大食調入食調 ともに雅楽の六調子の一で笙《しよう》の秘曲であった。
(二二) 無地勝 双《すご》六《ろく》の最上の勝ちかた。自分の石を二個ずつ並べて相手の陣地に入れてしまうこと。
(二三) 融の左大臣 平安前期の官吏・歌人であった源融《みなもとのとおる》のこと。この話は今昔物語巻二十七第二話などに出ている。
(二四) みどりの糸……啼く この歌の話は十訓抄《じつきんしよう》第四「花園大臣家の侍の青柳の歌十四」に出ている。
(二五) 除目 大臣以外の諸官を任ずる儀式。毎年二回清涼殿で行われ、春のを県召《あがためし》、秋のを司召《つかさめし》といい、前者で地方官を後者で京官を叙任した。
(二六) 楽天、東坡 楽天は中国唐代の詩人白楽天。東坡は同じく宋《そう》代の文章家。
(二七) 思へども……思ふかひなし 古今集「誹諧《はいかい》歌《か》」に出ている古歌。
(二八) 虫が大御好きで、……御姫様 堤《つつみ》中納言《ちゆうなごん》物語「虫めづる姫君」の主人公。
(二九) 摩利の教 キリスト教のことのようであるが、歴史的事実については詳《つまび》らかでない。しかし、中国化されたキリスト教の一派(景教《けいきよう》)はすでに八世紀ごろから日本に伝来していた。
(三〇) 染殿の御后に鬼が憑いた 今昔物語巻二十「震旦天狗智羅永寿渡此朝語《こと》第二」及び同「染殿后為天狗被d乱《にようらん》語第七」に出ている。
(三一) 迂濶な近江商人……攫われた 宇治拾遺物語巻一「大童子鮭《さけ》ぬすみたる事第十五」に出ている。
(三二) 糺の森 京都市左京区にある下賀茂神社付近の森。今出川の西の方で都城の外。ほととぎすや納涼で有名であった。
(三三) 延喜の御門の……実は天狗じゃ 今昔物語巻二十「天狗現仏坐木末語第三」および同「仏眼寺仁照阿闍梨房詫天狗女来語第六」に出ている。
(三四) 桜人 雅楽「地久楽」の節に合せて歌われた催《さい》馬楽《ばら》「桜人」。
(三五) 打伏の巫子 今昔物語巻三十一「打臥御子巫《かむなぎ》語第二十六」に出ている。
(三六) 火鼠の裘 『竹取物語』でかぐや姫が求婚者の一人阿《あ》倍《べの》御主人《みうし》に持って来るよう、条件として出したもの。「天竺《てんじく》」ではなく「唐土《もろこし》」となっている。
(三七) 過てるを知って憚る事勿れ 論語「学《がく》而《じ》第一」(八)及び同「子《し》罕《かん》第九」(二十五)に「子曰……過則勿憚改」とある。
(三八) 火宅僧 妻をもった僧。俗世間に住む堕落した僧。
(三九) 平中 平貞文(?―923)左兵衛佐《さひようえのすけ》。歌人。恋愛に関する伝説が多く、それらをもとにして『平中物語』(『源氏物語』以前に成立、作者未詳)が作られた。
(四〇) きらめき烏帽子 黒うるしで全体が塗られて、きらめくような烏帽子をいう。
(四一) Don Juan ドン・ファン。ドン・ジュアン。スペインの伝説的好色家。
(四二) 稲荷詣で 伏見(京都市伏見区)の稲荷神社にまいること。初午《はつうま》(二月初めの午の日)には盛大な祭が行われる。
(四三) 薄葉 薄く漉《す》いた鳥子紙《とりのこがみ》。薄での紙。
(四四) 衣紋 着物のえりを胸であわせるところ。
(四五) 雨竜 竜の一種で、角がなく、尾が細く長いとかいう想像上の動物。
(四六) 雨革 車などにかける雨覆い。
(四七) 空焚き どこからとも知れぬように香が匂ってくること。また、客が来る際に、香炉を隣室などにかくして焚き、客室の方を香らせるようにすること。
(四八) 雨夜のしなさだめ 『源氏物語』帚木《ははきぎ》の巻に、雨のふる夜、光源氏など貴公子たちが宮廷の女性の品評をする場面。
(四九) ぬば玉の 『古今集』恋歌三にある、よみ人しらずの歌。なお、次の「夢にだに」ではじまる恋歌は古今集に二首ある。
(五〇) 巫山の神女 巫山は中国四川省巫山県にある山。楚《そ》の襄《じよう》王《おう》が昼寝して、巫山の美しい神女と会った、という故事から、男女の情愛のこまやかなことをたとえて「巫山の雨」「巫山の夢」などという。
(五一) 丁子 熱帯地方にあるフトモモ科の植物。その蕾《つぼみ》や花や実から製した丁子香・丁子油などの香料。
(五二) 沈 沈香《じんこう》のこと。熱帯地方にあるジンチョウゲ科の植物。それから製した香料。伽《きや》羅《ら》。
(五三) 紫摩金 仏教語。紫色をした純粋な黄金。
(五四) ├然 みめうつくしいさま。
(五五) 或琵琶法師が語った「或琵琶法師」の話とは、倉田百三が大正九年三月『白樺《しらかば》』に発表した戯曲『俊寛』をさし、「もう一人の琵琶法師」の話とは、菊池寛が大正十年十月『改造』に発表した『俊寛』をさす。
(五六) 童かとすれば……人にして人に非ず 『源平盛衰記』奴巻第十「有王硫黄島に渡る事」のなかの一節。ただし、一部中略して引用されている。
(五七) 赤間が関 山口県下関市の旧称。
(五八) ……世の中かきくらして……あなかしこ 『源平盛衰記』留巻第十一「有王俊寛問答の事」に出ている姫御前の手紙の引用で、……部分は省略されている。
(五九) 天に仰ぎ、……跡は白浪ばかりなり 『平家物語』巻三「足摺《あしずり》」のなかの一節。
年譜
明治二十五年(一八九二年)三月一日、東京市京橋区入船町(現在東京都中央区明石《あかし》町)に、父新原《にいはら》敏三、母フクの長男として生れた。父四十二歳、母三十三歳のいわゆる大厄の年の子であったため形式的に捨て児とされた。拾い親は父の旧友松村浅二郎。父敏三は山口県玖珂《くが》郡賀美《かみ》畑《はた》村出身の平民で、入船町で牛乳販売業を営み、入船町と新宿に牧場をもっていた。母フクは芥川家の出。長姉初子(七歳で夭折《ようせつ》)、次姉久子との三人兄弟。生後約八カ月目に母フクは突然発狂し、母の実家芥川家に子がなかったため、本所区小泉町の母の実兄にあたる芥川道章の家にあずけられた。以後、母の姉フキに育てられた。養父道章は当時東京府の土木課に勤めていた。三十年(五歳)本所元町の回《え》向院《こういん》の隣にあった江東小学校付属幼稚園に通う。
明治三十一年(一八九八年)六歳 四月、江東小学校に入学。一家の一中節の師匠宇治紫《し》山《ざん》の息子に英語と漢学と習字を習う。三十五年(十歳)四月頃より同級生と回覧雑誌『日の出界』を刊行、自ら編集装幀《そうてい》を受持った。十一月、実母フク死去。三十六年(十一歳)この頃、神田の古本屋、大橋図書館、帝国図書館などに通って、蘆花《ろか》、鏡花、紅葉等の作品、また馬琴、近松等の江戸文学を濫読《らんどく》した。三十七年(十二歳)八月、芥川家に正式に養子縁組した。
明治三十八年(一九〇五年)十三歳 三月、江東小学校高等科三年を修了。四月、東京府立第三中学校に入学。二級上に久保田万太郎、河合栄治郎、三級上に後藤末雄がいた。この頃まで龍之助と書いた。紅葉、露伴、蘆花、鏡花、漱石、鴎外、独歩などの日本文学、またイプセン、フランス、メリメなどの外国文学に関心を持ち、濫読した。中学時代の成績は優秀で、歴史を好み、また漢文の力は抜群であった。三十九年(十四歳)四月頃より回覧雑誌『流星』(後に『曙光《しよこう》』と改題)を刊行。編集兼発行人となり、論文「廿年後之戦争」等を書いた。
明治四十三年(一九一〇年)十八歳 二月、評論「義仲論」を『校友会雑誌』に発表。三月、東京府立第三中学校を卒業。九月、第一高等学校第一部乙(文科)に成績優秀のため無試験で入学。同級に久米正雄、菊池寛、松岡譲《ゆずる》、山本有三、土屋文明、成瀬正一、恒藤《つねとう》恭《きよう》、独法科に倉田百三、藤森成吉、一級上の文科に豊島与志雄、山宮《さんぐう》允《まこと》、近衛文麿等がおり、恒藤とは最も親しく交わった。秋、一家は新宿二丁目に移転。
明治四十四年(一九一一年)十九歳 本郷の第一高等学校寮で一年間の寮生活を送る。ボードレール、ベルグソン等の作品を熟読。
明治四十五年・大正元年(一九一二年)二十歳 山宮允に伴われ、吉《よし》江《え》孤《こ》雁《がん》を中心とするアイルランド文学研究会に出席し、西条八十《やそ》、日《ひ》夏《なつ》耿《こう》之《の》介《すけ》等を知る。
大正二年(一九一三年)二十一歳 七月、第一高等学校を卒業。九月、東京帝国文科大学英文科に入学。
大正三年(一九一四年)二十二歳 二月、豊島与志雄、山宮允、久米正雄、菊池寛、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明等と第三次『新思潮』を発刊。柳川隆之介の筆名で、創刊号にフランスの翻訳を発表。五月、処女小説「老年」を『新思潮』に発表。十月、第三次『新思潮』廃刊。一家は府下豊島郡滝野川町字田端に転居。
五月、「老年」(新思潮)九月、戯曲「青年と死」(新思潮)
大正四年(一九一五年)二十三歳 八月、島根県松江に旅行。紀行「松江印象記」を『松陽新報』に発表。初めて本名を用いた。十一月、「羅生門《らしようもん》」を『帝国文学』に発表。十二月、級友林原耕三の紹介で、漱石山房の「木曜会」に出席し、江口渙《きよし》、内田百e《ひやくけん》等を知る。
八月、紀行「松江印象記」(松陽新報)十一月、「羅生門」(帝国文学)
大正五年(一九一六年)二十四歳 二月、久米、菊池、松岡、成瀬等と共に第四次『新思潮』を発刊。「鼻」をその創刊号に発表。漱石の激賞を受けた。七月、東京帝国文科大学英文科を卒業。卒業論文は「ウイリアム・モリス研究」。九月、「芋粥《いもがゆ》」を『新小説』に発表、文壇の注目を浴びた。十二月、一高教授畔柳都太郎《くろやなぎくにたろう》の紹介で横須賀の海軍機関学校の嘱託教官となり、鎌倉に下宿。夏目漱石死去。中学時代の親友山本喜誉司の姪《めい》塚本文と婚約が成立。
二月、「鼻」(新思潮)四月、「孤独地獄」(新思潮)五月、「父」(新思潮)八月、「野呂松人形」(人文)九月、「芋粥」(新小説)十月、「手巾《ハンケチ》」(中央公論)十一月、「煙草」(新思潮、後に「煙草と悪魔」と改題)
大正六年(一九一七年)二十五歳 三月、第四次『新思潮』が「漱石先生追慕号」をもって廃刊となった。佐藤春夫が来訪し、交遊を始めた。五月、処女短編集『羅生門』を阿蘭《おらん》陀《だ》書房より著者自装で刊行。六月、日本橋のレストラン鴻《こう》の巣《す》で出版記念会「羅生門の会」が催され、谷崎潤一郎、有島武郎、小宮豊隆、和辻哲郎等も出席した。九月、横須賀市汐入《しおいり》に下宿先を移転。短編集『煙草と悪魔』を新進作家叢書《そうしよ》の一冊として新潮社より刊行。この頃より我鬼《がき》と号した。
一月、「MENSURA ZOILI」(新思潮)「運」(文章世界)三月、エッセイ「葬儀記」(新思潮)九月、「或日の大石内蔵《くらの》助《すけ》」(中央公論)十月、「片恋」(文章世界)「戯《げ》作《さく》三昧《ざんまい》」(大阪毎日新聞、十一月完結)
『羅生門』短編集(五月、阿蘭陀書房刊)
『煙草と悪魔』短編集(十一月、新潮社刊)
大正七年(一九一八年)二十六歳 二月、塚本文と結婚。三月、鎌倉町大町字辻に転居し、大阪毎日新聞社社友となる。条件は、小説の雑誌発表は自由だが、新聞は大毎(東日)に限る等であった。五月、「地獄変」を『大阪毎日新聞』に発表。この頃から高浜虚子に師事、以後、『ホトトギス』に、句をたびたび発表。
一月、「西郷隆盛」(新小説)四月、「世之助の話」(新小説)五月、「地獄変」(大阪毎日新聞)七月、「開化の殺人」(中央公論)「蜘蛛《くも》の糸」(赤い鳥)九月、「奉教人の死」(三田文学)十月、「枯野抄」(新小説)「邪宗門」(東京日日新聞、十二月完結)
大正八年(一九一九年)二十七歳 三月、創作に専念するため、海軍機関学校嘱託を辞し、大阪毎日新聞社社員となる。出勤の義務は負わず、年何回か小説を書く等が条件であった。「きりしとほろ上人伝」を『新小説』(五月完結)に発表。実父新原敏三死去。四月、田端の自宅に引上げ、養父母と生活を共にした。この後、書斎「我鬼窟《くつ》」での日曜日の面会日には、小島政二郎、佐佐木茂索、瀧井孝作等の後輩作家や洋画家で俳人の小穴隆一等が出入りした。
一月、「毛利先生」(新潮)「あの頃の自分の事」(中央公論)二月、「開化の良人」(中外)三月、「きりしとほろ上人伝」(新小説、五月完結)五月、「私の出遇《であ》った事」(新潮、後に「蜜《み》柑《かん》」「沼地」と改題)九月、「妖《よう》婆《ば》」(中央公論、十月完結)
『傀儡《かいらい》師《し》』短編集(一月、新潮社刊)
大正九年(一九二〇年)二十八歳 三月、長男比呂志誕生。菊池寛が名付け親となった。この春、上野の清凌亭《せいりようてい》に座敷女中をしていた佐多稲子を知る。十一月、久米、菊池、宇野等と京阪地方を講演旅行、木曾路を回って帰京。この年、泉鏡花を知る。
一月、「鼠小僧次郎吉」(中央公論)「舞踏会」(新潮)四月、「秋」(中央公論)七月、「南京《ナンキン》の基督《キリスト》」(中央公論)「杜《と》子《し》春《しゆん》」(赤い鳥)
『影《かげ》燈籠《どうろう》』短編集(一月、春陽堂刊)
大正十年(一九二一年)二十九歳 三月、短編集『夜来の花』を小穴隆一の装幀で新潮社より刊行。以後の著作は概《おおむ》ね彼の装幀による。大阪毎日新聞社より海外視察員として中国に特派された。上海《シヤンハイ》、杭州《こうしゆう》、西湖、蘇州《そしゆう》、揚州、南京、廬《ろ》山《ざん》、洞庭湖、北京《ペキン》、朝鮮を回って、七月、帰国。旅行以来、病気がちで、神経衰弱にもなった。八月、紀行「上海游《ゆう》記《き》」を『東京日日新聞』(九月完結)に連載。南部修太郎と神奈川県湯河原に静養。
一月、「秋山図」(改造)「山鴫《やましぎ》」(中央公論)八月、紀行「上海游記」(東京日日新聞、九月完結)九月、「母」(中央公論)十月、「好色」(改造)
『夜来の花』短編集(三月、新潮社刊)
『戯作三昧』短編集(九月、春陽堂刊)
大正十一年(一九二二年)三十歳 三月、「トロッコ」を『大観』に発表。この頃より書斎の額を「澄江堂《ちようこうどう》」と改めた。四月末より五月にかけ長崎に遊び、書画骨董《こつとう》を漁《あさ》る。七月、小穴と共に我孫子《あびこ》の志賀直哉を訪問。十一月、次男多加志誕生。小穴隆一の隆をかなよみしたものである。この頃より健康が悪化した。
一月、「藪《やぶ》の中」(新潮)「将軍」(改造)「神神の微笑」(新小説)三月、「トロッコ」(大観)四月、「報恩記」(中央公論)五月、「お富の貞操」(改造、九月完結)七月、「庭」(中央公論)八月、「六の宮の姫君」(表現)九月、「おぎん」(中央公論)十月、「百合《ゆり》」(新潮)
『芋粥』短編集(一月、春陽堂刊)
『点心』エッセイ集(五月、金星堂刊)
『沙羅の花』短編集(八月、改造社刊)
『邪宗門』(十一月、春陽堂刊)
大正十二年(一九二三年)三十一歳 一月、アフォリズム「侏儒《しゆじゆ》の言葉」を『文藝春秋』創刊号(十四年九月完結)より連載。三月、「雛《ひな》」を『中央公論』に発表。翌月にかけて湯河原で湯治。八月、鎌倉に避暑に赴き、岡本一平、かの子夫妻を知る。九月、大地震にあったが、被害は受けなかった。十月、一高在学中の堀辰雄を知る。
三月、「雛」(中央公論)「猿蟹《さるかに》合戦《かつせん》」(婦人公論)五月、「保吉《やすきち》の手帳から」(改造)十月、「お時儀」(女性)十一月、評論「芭蕉雑記」(新潮、十三年七月完結)十二月、「あばばばば」(中央公論)
『春服』短編集(五月、春陽堂刊)
大正十三年(一九二四年)三十二歳 七月下旬より約一カ月間軽井沢に滞在。堀、室生、山本等と交際。十月、叔父を失い、更に義弟塚本八州の喀血《かつけつ》にあい、心身の衰弱がひどくなった。十二月、庭に書斎を増築。斎藤茂吉と親しくなる。
一月、「一塊の土」(新潮)「不思議な島」(随筆)「糸女覚え書」(中央公論)二月、「金将軍」(新小説)四月、「第四の夫から」(サンデー毎日)「或恋愛小説」(婦人グラフ)「少年」(中央公論、五月完結)
『黄雀《こうじやく》風《ふう》』短編集(七月、新潮社刊)
『百艸《ひやくそう》』エッセイ集(八月、新潮社刊)
大正十四年(一九二五年)三十三歳 二月、田端に移転してきた萩原朔太郎と交際を深めた。三月、谷崎、里見、水上、久保田、小山《おさ》内《ない》と共に『泉鏡花全集』の編集に従事。四月下旬より翌月にかけ湯治のため伊豆修善寺に滞在。七月、三男也寸志誕生。八月より翌月にかけ軽井沢に滞在。十月、興文社の依頼による『近代日本文芸読本』全五巻の編集を終えたが、徳田秋声の抗議、印税配分の問題などで精神的な打撃を受けた。十一月、この頃、俳句のほかに詩にも興味を寄せた。健康はますます悪化した。
一月、「大導寺信輔《しんすけ》の半生」(中央公論)九月、「海のほとり」(中央公論)「死後」(改造)
『芥川龍之介集』現代小説全集(四月、新潮社刊)
『支那游記』紀行集(十一月、改造社刊)
大正十五年・昭和元年(一九二六年)三十四歳 一月、療養のため湯河原に滞在。四月以降、静養のため妻子と共に神奈川県鵠沼《くげぬま》に寓《ぐう》居《きよ》。
一月、「湖南の扇」(中央公論、二月完結)「年末の一日」(新潮)十月、「点鬼簿」(改造)十一月、「夢」(婦人公論)
『或日の大石内蔵助』短編集(二月、文藝春秋社刊)
『地獄変』短編集(二月、文藝春秋社刊)
『梅・馬・鶯《うぐいす》』エッセイ集(十月、新潮社刊)
昭和二年(一九二七年)三十五歳 一月、田端の自宅に戻る。義兄西川豊宅の全焼と豊の鉄道自殺から、その後始末や整理に奔走した。三月、「河童《かつぱ》」を『改造』に発表。四月、評論「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』(八月完結)に発表し、谷崎潤一郎と小説の筋をめぐって論争した。五月、東北、北海道方面に講演旅行。発狂した宇野浩二を見舞った。六月、「或阿呆の一生」を脱稿。七月、田端の自宅において、ヴェロナール及びジャールの致死量を仰いで自殺。枕許《まくらもと》には聖書があった。遺書は妻文、小穴隆一、菊池寛、葛《くず》巻《まき》義敏、伯母フキあて等で、他に「或旧友へ送る手記」があった。谷中斎場にて葬儀が行われ、先輩総代泉鏡花、友人総代菊池寛、文芸家協会代表里見`《とん》、後輩代表小島政二郎の弔詞があった。染井の法華宗慈眼寺に納骨。
一月、「玄鶴《げんかく》山房」(中央公論、二月完結)三月、「蜃《しん》気《き》楼《ろう》」(婦人公論)「河童」(改造)四月、評論「文芸的な、余りに文芸的な」(改造、八月完結)七月、「冬と手紙と」(中央公論、後に「冬」「手紙」と改題)評論「続文芸的な、余りに文芸的な」(文藝春秋)八月、評論「西方《さいほう》の人」(改造)評論「続芭蕉雑記」(文藝春秋)九月、「闇中問答」(文藝春秋)評論「続西方の人」(改造)十月、「歯車」(文藝春秋)「或阿呆の一生」(改造)
『湖南の扇』短編集(六月、文藝春秋社刊)
『芥川龍之介全集』全八巻(十一月〜四年二月、岩波書店刊)
『侏儒の言葉』評論・エッセイ集(十二月、文藝春秋社刊)
昭和三年(一九二八年)
『三つの宝』童話集(六月、改造社刊)
昭和四年(一九二九年)
『西方の人』短編集(十二月、岩波書店刊)
昭和五年(一九三〇年)
『大導寺信輔の半生』短編集(一月、岩波書店刊)
昭和六年(一九三一年)
『文芸的な、余りに文芸的な』評論・エッセイ集(七月、岩波書店刊)
昭和八年(一九三三年)
『澄江堂遺珠』詩集(三月、岩波書店刊)
(この年譜は、諸種の年譜を参考にし、編集部で作成した。)