TITLE : 杜子春・南京の基督
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目 次
黒《こく》衣《い》聖《せい》母《ぼ》
或《ある》敵《かたき》打《うち》の話
素戔嗚尊《すさのおのみこと》
老《お》いたる素戔嗚尊《すさのおのみこと》
南《ナン》京《キン》の基督《キリスト》
杜《と》子《し》春《しゆん》
捨《すて》 児《ご》
影《かげ》
お律《りつ》と子《こ》等《ら》と
沼《ぬま》
寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく》
東洋の秋
一つの作が出来上るまで
文章と言葉と
漢文漢詩の面白味
注 釈
信《のぶ》子《こ》は女子大学にいた時から、才《さい》媛《えん》の名声をになっていた。彼女が早晩作家として文《ぶん》壇《だん》に打って出ることは、ほとんど誰《だれ》も疑わなかった。なかには彼女が在学中、すでに三百何枚かの自《じ》叙《じよ》伝《でん》体小説を書きあげたなどと吹《ふい》聴《ちよう》して歩くものもあった。が、学校を卒業してみると、まだ女学校も出ていない妹の照《てる》子《こ》と彼女とをかかえて、後《ご》家《け》を立て通してきた母の手前も、そうはわがままを言われない、複雑な事情もないではなかった。そこで彼女は創作を始める前に、まず世間の習慣どおり、縁《えん》談《だん》からきめてかかるべくよぎなくされた。
彼女には俊《しゆん》吉《きち》という従兄《いとこ》があった。彼は当時まだ大学の文科に籍《せき》を置いていたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかった。信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来していた。それが互《たが》いに文学という共通の話題ができてからは、いよいよ親しみが増したようであった。ただ、彼は信子と違《ちが》って、当世流行のトルストイズム《*》などにはいっこう敬意を表さなかった。そうして始終フランス仕《じ》込《こ》みの皮肉や警句ばかり並《なら》べていた。こういう俊吉の冷笑的な態度は、時々万事まじめな信子を怒《おこ》らせてしまうことがあった。が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽《けい》蔑《べつ》できないものを感じないわけにはいかなかった。
だから彼女は在学中も、彼といっしょに展覧会や音楽会へ行くことがまれではなかった。もっともたいていそんな時には、妹の照子も同伴《いつしよ》であった。彼ら三人は行きも返りも、気がねなく笑ったり話したりした。が、妹の照子だけは、時々話の圏《けん》外《がい》へ置きざりにされることもあった。それでも照子は子供らしく、飾《かざ》り窓の中のパラソルや絹のショオルをのぞき歩いて、格別閑《かん》却《きやく》されたことを不平に思ってもいないらしかった。信子はしかしそれに気がつくとかならず話題を転《てん》換《かん》して、すぐにまた元のとおり妹にも口をきかせようとした。そのくせまず照子を忘れるものは、いつも信子自身であった。俊吉はすべてに無《む》頓《とん》着《じやく》なのか、相変わらず気の利いた冗《じよう》談《だん》ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大《おお》股《また》にゆっくり歩いて行った。……
信子と従兄《いとこ》との間がらは、もちろん誰の眼《め》に見ても、きたるべき彼らの結《けつ》婚《こん》を予想させるのに十分であった。同窓たちは彼女の未来をてんでにうらやんだりねたんだりした。ことに俊吉を知らないものは、(滑《こつ》稽《けい》と言うよりほかはないが)いっそうこれがはなはだしかった。信子もまた一方では彼らの推測を打ち消しながら、他方ではその確かなことをそれとなく故意にほのめかせたりした。したがって同窓たちの頭の中には、彼らが学校を出るまでの間に、いつか彼女と俊吉との姿が、あたかも新婦新郎の写真のごとく、いっしょにはっきり焼きつけられていた。
ところが学校を卒業すると、信子は彼らの予期に反して、大阪のある商事会社へ近ごろ勤務することになった、高商出身の青年と、突然結婚してしまった。そうして式後二、三日してから、新夫といっしょに勤め先の大阪へ向けて立ってしまった。その時中央停車場《*》へ見送りに行ったものの話によると、信子はいつもと変わりなく、晴れ晴れした微《び》笑《しよう》を浮かべながら、ともすれば涙《なみだ》を落としがちな妹の照子をいろいろと慰《なぐさ》めていたということであった。
同窓たちは皆不思議がった。その不思議がる心の中には、妙《みよう》にうれしい感情と、前とは全然違《ちが》った意味でねたましい感情とが交じっていた。ある者は彼女を信《しん》頼《らい》して、すべてを母親の意志に帰《き》した。またあるものは彼女を疑って、心がわりがしたとも言いふらした。が、それらの解釈が結局想像にすぎないことは、彼ら自身さえ知らないわけではなかった。彼女はなぜ俊吉と結婚しなかったか? 彼らはその後しばらくの間、よるとさわると重大らしく、かならずこの疑問を話題にした。そうしてかれこれ二《ふた》月《つき》ばかり経《た》つと――まったく信子を忘れてしまった。もちろん彼女が書くはずだった長篇小説のうわさなぞも。
信子はその間に大阪の郊《こう》外《がい》へ、幸福なるべき新家庭をつくった。彼らの家はその界《かい》隈《わい》でも、最も閑《かん》静《せい》な松林にあった。松《まつ》脂《やに》の匂《にお》いと日の光と、――それがいつでも夫の留《る》守《す》は、二階建ての新しい借家の中に、活《い》き活きした沈《ちん》黙《もく》を領していた。信子はそういう寂《さび》しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きっと針箱の引き出しを開《あ》けては、その底に畳《たた》んでしまってある桃《もも》色《いろ》の書《しよ》簡《かん》箋《せん》をひろげて見た、書簡箋の上にはこんなことが、細《こま》々《ごま》とペンで書いてあった。
「――もう今日かぎりお姉《ねえ》様《さま》とごいっしょにいることができないと思うと、これを書いている間でさえ、止め度なく涙があふれて来ます。お姉様。どうか、どうか私《わたくし》をお赦《ゆる》しください。照子はもったいないお姉様の犠《ぎ》牲《せい》の前に、なんと申し上げていいかもわからずにおります。
「お姉様は私のために、今度のご縁談をおきめになりました。そうではないとおっしゃっても、私にはよくわかっております。いつぞやごいっしょに帝劇を見物した晩、お姉様は私に俊さんは好きかとお尋《き》きになりました。それからまた好きならば、お姉様がきっと骨を折るから、俊さんの所へ行けともおっしゃいました。あの時もうお姉様は、私が俊さんに差し上げるはずの手紙を読んでいらしったのでしょう。あの手紙がなくなった時、ほんとうに私はお姉様をお恨《うら》めしく思いました。(ご免《めん》あそばせ。このことだけでも私はどのくらい申しわけがないかわかりません)ですからその晩も私には、お姉様の親切なおことばも、皮肉のような気さえいたしました。私がおこってお返事らしいお返事もろくにいたさなかったことは、もちろんお忘れになりもなさりますまい。けれどもあれから二、三日たって、お姉様のご縁談が急にきまってしまった時、私はそれこそ死んでも、お詫《わ》びをしようかと思いました。お姉様も俊さんがお好きなのでございますもの(お隠《かく》しになってはいや。私はよく存じておりましてよ)。私のことさえおかまいにならなければ、きっとご自分が俊さんの所へいらしったのに違《ちが》いございません。それでもお姉様は私に、俊さんなぞは思っていないと、何度もくり返しておっしゃいました。そうしてとうとう心にもないご結婚をなすっておしまいになりました。私の大事なお姉様。私が今日鶏《にわとり》を抱《だ》いて来て、大阪へいらっしゃるお姉様に、ごあいさつをなさいと申したことをまだ覚えていらしって? 私は飼《か》っている鶏にも、私といっしょにお姉様へお詫びを申してもらいたかったの。そうしたら、なんにもご存じないお母様までお泣きになりましたのね。
「お姉様。もう明日は大阪へいらしっておしまいなさるでしょう。けれどもどうかいつまでも、お姉様の照子を見捨てずにちょうだい、照子は毎朝鶏《にわとり》に餌《えさ》をやりながら、お姉様のことを思い出して、誰にも知れず泣いています……」
信子はこの少女らしい手紙を読むごとに、かならず涙《なみだ》がにじんできた。ことに中央停車場から汽車に乗ろうとするまぎわ、そっとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思い出すと、なんとも言われずにいじらしかった。が、彼女の結《けつ》婚《こん》ははたして妹の想像どおり、全然犠《ぎ》牲《せい》的《てき》なそれであろうか。そう疑いをさしはさむことは、涙のあとの彼女の心へ、重苦しい気持ちを広げがちであった。信子はこの重苦しさを避けるために、たいていはじっと快い感傷の中に浸《ひた》っていた。そのうちに外の松林へ一面に当たった日の光が、だんだん黄ばんだ暮れ方の色に変わっていくのを眺《なが》めながら。
結婚後かれこれ三《み》月《つき》ばかりは、あらゆる新婚の夫婦のごとく、彼らもまた幸福な日を送った。
夫はどこか女性的な、口数を利《き》かない人物であった。それが毎日会社から帰って来ると、かならず晩飯後の何時間かは、信子といっしょに過ごすことにしていた。信子は編み物の針を動かしながら、近ごろ世間に騒《さわ》がれている小説や戯《ぎ》曲《きよく》の話などもした。その話の中には時によると、キリスト教の匂《にお》いのする女子大学趣味の人生観が織りこまれていることもあった。夫は晩《ばん》酌《しやく》の頬《ほお》を赤らめたまま、読みかけた夕刊を膝《ひざ》へのせて、珍《めずら》しそうに耳を傾けていた。が、彼自身の意見らしいものは、一《ひと》言《こと》も加えたことがなかった。
彼らはまたほとんど日曜ごとに、大阪やその近《きん》郊《こう》の遊覧地へ気散じな一日を暮らしに行った。信子は汽車電車へ乗るたびに、どこでも飲食することをはばからない関西人が皆卑《いや》しく見えた。それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのをうれしく感じた。実際身ぎれいな夫の姿は、そういう人《ひと》中《なか》に交じっていると、帽《ぼう》子《し》からも、背広からも、あるいはまた赤皮の編み上げからも、化《け》粧《しよう》石《せつ》鹸《けん》の匂《にお》いに似《に》た、一種清新な雰《ふん》囲《い》気《き》を放散させているようであった。ことに夏の休暇中、舞《まい》子《こ》まで足を延ばした時には、同じ茶屋に来合わせた夫の同《どう》僚《りよう》たちに比べて見て、いっそう誇《ほこ》りがましいような心もちがせずにはいられなかった。が、夫はその下《げ》卑《び》た同僚たちに、存外親しみを持っているらしかった。
そのうちに信子は長い間、捨ててあった創作を思い出した。そこで夫の留《る》守《す》のうちだけ、一、二時間ずつ机に向かうことにした。夫はその話を聞くと、「いよいよ女流作家になるかね」と言って、やさしい口もとに薄《うす》笑《わら》いを見せた。しかし机には向かうにしても、思いのほかペンは進まなかった。彼女はぼんやり頬《ほお》杖《づえ》をついて、炎《えん》天《てん》の松林の蝉《せみ》の声に、我知れず耳を傾けている彼女自身を見いだしがちであった。
ところが残暑が初秋へ振《ふ》り変わろうとする時分、夫はある日会社の出がけに、汗じみた襟《えり》を取り変えようとした。が、あいにく襟は一本残らず洗《せん》濯《たく》屋《や》の手に渡っていた。夫は日ごろ身ぎれいなだけに、不快らしく顔を曇《くも》らせた。そうしてズボン吊《つ》りを掛《か》けながら、「小説ばかり書いていちゃ困る」といつになく厭《いや》味《み》を言った。信子は黙って眼《め》を伏《ふ》せて、上《うわ》衣《ぎ》のほこりを払《はら》っていた。
それから二、三日過ぎたある夜、夫は夕刊に出ていた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減できないものかと言いだした。「お前だっていつまでも女学生じゃあるまいし」――そんなことも口へ出した。信子は気のない返事をしながら、夫の襟《えり》飾《かざ》りの絽《ろ》刺《ざ》しをしていた。すると夫は意外なくらい執《しつ》拗《よう》に、「その襟飾りにしてもさ、買うほうがかえって安くつくじゃないか」と、やはりねちねちした調子で言った。彼女はなおさら口が利《き》けなくなった。夫もしまいには白《しら》けた顔をして、つまらなそうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでいた。が、寝室の電灯を消してから、信子は夫に背を向けたまま、「もう小説なんぞ書きません」とささやくような声で言った。夫はそれでも黙《だま》っていた。しばらくして彼女は、同じことばを前よりもかすかにくり返した。それからまもなく泣く声がもれた。夫は二《ふた》言《こと》三《み》言《こと》彼女を叱《しか》った。そのあとでも彼女のすすり泣きは、まだ絶え絶えに聞こえていた。が、信子はいつの間にか、しっかりと夫にすがっていた。……
翌日彼らはまた元のとおり、仲のいい夫婦に返っていた。
と思うと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰って来ない晩があった。しかもようやく帰って来ると、雨《あま》外《がい》套《とう》も一人では脱《ぬ》げないほど、酒《さけ》臭《くさ》いにおいを呼吸していた。信子は眉《まゆ》をひそめながら、かいがいしく夫に着《き》換《が》えさせた。夫はそれにもかかわらず、まわらない舌で皮肉さえ言った。「今夜は僕《ぼく》が帰らなかったから、よっぽど小説がはかどったろう」――そういうことばが、何度となく女のような口から出た。彼女はその晩床《とこ》にはいると、思わず涙《なみだ》がほろほろ落ちた。こんなところを照子が見たら、どんなにいっしょに泣いてくれるであろう。照子。照子。私が便《たよ》りに思うのは、たったお前一人ぎりだ。――信子はたびたび心の中でこう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、ほとんど夜《よ》じゅうまんじりともせずに、寝返りばかり打っていた。
が、それもまた翌日になると、自然と仲直りができあがっていた。
そんなことが何度かくり返されるうちに、だんだん秋が深くなってきた。信子はいつか机に向かってペンを執《と》ることがまれになった。その時にはもう夫の方も、前ほど彼女の文学談を珍《めずら》しがらないようになっていた。彼らは夜ごとに長火《ひ》鉢《ばち》を隔《へだ》てて、瑣《さ》末《まつ》な家庭の経済の話に時間を殺すことを覚えだした。そのうえまたこういう話題は、少なくとも晩《ばん》酌《しやく》後の夫にとって、最も興味があるらしかった。それでも信子は気の毒そうに、時々夫の顔色をうかがって見ることがあった。が、彼は何も知らす、近ごろ延ばしたひげを噛《か》みながら、いつもよりよほど快活に、「これで子供でもできてみると――」なぞと、考え考え話していた。
するとそのころから月々の雑誌に、従兄《いとこ》の名前が見えるようになった。信子は結《けつ》婚《こん》後忘れたように、俊吉との文通を絶っていた。ただ、彼の動静は、――大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとかいうことは、妹から手紙で知るだけであった。またそれ以上彼のことを知りたいという気も起こさなかった。が、彼の小説が雑誌に載《の》っているのを見ると、なつかしさは昔と同じであった。彼女はそのページをはぐりながら、何度も独《ひと》り微《び》笑《しよう》をもらした。俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧《かい》謔《ぎやく》との二つの武器を宮《みや》本《もと》武《む》蔵《さし》のように使っていた。彼女にはしかし気のせいか、その軽快な皮肉のうしろに、何か今までの従兄《いとこ》にはない、寂《さび》しそうな捨《すて》鉢《ばち》の調子が潜《ひそ》んでいるように思われた。と同時にそう思うことが、うしろめたいような気もしないではなかった。
信子はそれ以来夫に対して、いっそう優しく振《ふる》舞《ま》うようになった。夫は夜《よ》寒《さむ》の長火鉢の向こうに、いつも晴れ晴れと微笑している彼女の顔を見いだした。その顔は以前より若々しく、化《け》粧《しよう》をしているのが常であった。彼女は針仕事の店を拡《ひろ》げながら、彼らが東京で式をあげた当時の記《き》憶《おく》なぞも話したりした。夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、うれしそうでもあった。「お前はよくそんなことまで覚えているね」――夫にこうからかわれると、信子はかならず無言のまま、眼《め》にだけ媚《こび》のある返事を見せた。が、なぜそれほど忘れずにいるか、彼女自身も心のうちでは、不思議に思うことがたびたびあった。
それからほどなく、母の手紙が、信子に妹の結《ゆい》納《のう》が済んだということを報じて来た。その手紙の中にはまた、俊吉が照子を迎《むか》えるために、山の手のある郊《こう》外《がい》へ新居を設けたこともつけ加えてあった。彼女はさっそく母と妹とへ、長い祝いの手紙を書いた。「何分当方は無《ぶ》人《にん》故《ゆえ》、式には不本意ながらまいりかね候えども……」――そんな文句を書いているうちに、(彼女にはなぜかわからなかったが)筆の渋《しぶ》ることも再三あった。すると彼女は眼をあげて、かならず外の松林を眺《なが》めた。松は初冬の空の下に、そうそうと蒼《あお》黒《ぐろ》く茂《しげ》っていた。
その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。夫はいつもの薄笑いを浮かべながら、彼女が妹の口《くち》真《ま》似《ね》をするのを、面白そうに聞いていた。が、彼女にはなんとなく、彼女自身に照子のことを話しているような心もちがした。「どれ、寝るかな」――二、三時間の後、夫は柔《やわ》らかな髭《ひげ》を撫《な》でながら、大儀そうに長火《ひ》鉢《ばち》の前を離れた。信子はまだ妹へ祝ってやる品を決しかねて、火《ひ》箸《ばし》で灰《はい》文《も》字《じ》を書いていたが、この時急に顔をあげて、「でも妙《みよう》なものね、私《わたし》にも弟が一人できるのだと思うと」と言った。「あたりまえじゃないか、妹もいるんだから」――彼女は夫にこう言われても、考え深い眼つきをしたまま、なんとも返事をしなかった。
照子と俊吉とは、師走《しわす》の中《ちゆう》旬《じゆん》に式をあげた。当日は午《ひる》少し前から、ちらちら白いものが落ち始めた。信子はひとり午《ひる》の食事をすませた後、いつまでもその時の魚の匂《にお》いが、口について離れなかった。「東京も雪が降っているかしら」――こんなことを考えながら、信子はじっとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれていた。雪がいよいよ烈《はげ》しくなった。が、口中の生《なま》臭《ぐさ》さは、やはり執《しゆう》念《ね》く消えなかった。……
信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫といっしょに、久しぶりで東京の土を踏《ふ》んだ。が、短い日限内に、はたすべき用向きの多かった夫は、ただ彼女の母親の所へ、来《き》そうそう顔を出した時のほかは、ほとんど一日も彼女をつれて、外出する機会を見いださなかった。彼女はそこで妹夫婦の郊《こう》外《がい》の新居を尋《たず》ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たった一人車に揺《ゆ》られて行った。
彼らの家は、町並みが葱《ねぎ》畑《ばたけ》に移る近くにあった。しかし隣近所には、いずれも借家らしい新築が、せせこましく軒《のき》を並べていた。のき打ちの門《*》、要《かなめ》もちの垣《かき》、それから竿《さお》に干した洗《せん》濯《たく》物《もの》、――すべてがどの家も変わりはなかった。この平《へい》凡《ぼん》な住居《すまい》の容《よう》子《す》は、多少信子を失望させた。
が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄《いとこ》の方であった。俊吉は以前と同じように、この珍《ちん》客《きやく》の顔を見ると、「やあ」と快活な声をあげた。彼女は彼がいつの間にか、いが栗《ぐり》頭でなくなったのを見た。「しばらく」「さあお上がり。あいにく僕《ぼく》一人だが」「照子は? 留《る》守《す》?」「使いに行った。女中も」――信子は妙に恥《は》ずかしさを感じながら、派《は》手《で》な裏のついたコートをそっと玄《げん》関《かん》の隅《すみ》に脱《ぬ》いだ。
俊吉は彼女を書《しよ》斎《さい》兼《けん》客間の八畳へすわらせた。座《ざ》敷《しき》の中にはどこを見ても、本ばかり乱雑に積んであった。ことに午後の日の当たった障《しよう》子《じ》ぎわの、小さな紫《し》檀《たん》の机のまわりには、新聞雑誌や原《げん》稿《こう》用紙が、手のつけようもないほどちらかっていた。その中に若い細君の存在を語っているものは、ただ床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴《こと》だけであった。信子はこういう周囲から、しばらく物《もの》珍《めずら》しい眼《め》を離《はな》さなかった。
「来ることは手紙で知っていたけれど、今日来ようとは思わなかった」――俊吉は巻き煙草《たばこ》へ火をつけると、さすがになつかしそうな眼つきをした。「どうです、大阪のご生活は?」「俊さんこそいかが? 幸福?」――信子もまた二《ふた》言《こと》三《み》言《こと》話すうちに、やはり昔のようななつかしさが、よみがえってくるのを意識した。文通さえろくにしなかった、かれこれ二年越しの気まずい記憶は、思ったより彼女をわずらわさなかった。
彼らは一つ火《ひ》鉢《ばち》に手をかざしながら、いろいろなことを話し合った。俊吉の小説だの、共通な知人のうわさだの、東京と大阪との比《ひ》較《かく》だの、話題はいくら話しても、つきないくらいたくさんあった。が、二人とも言い合わせたように、全然暮らし向きの問題には触《ふ》れなかった。それが信子にはいっそう従兄《いとこ》と、話しているという感じを強くさせた。
時々はしかし沈《ちん》黙《もく》が、二人の間に来ることもあった。そのたびに彼女は微笑したまま、眼を火鉢の灰に落とした。そこには待つとは言えないほど、かすかに何かを待つ心もちがあった。すると故意か偶《ぐう》然《ぜん》か、俊吉はすぐに話題を見つけて、いつもその心もちを打ち破った。彼女はしだいに従兄の顔をうかがわずにはいられなくなった。が、彼は平然と巻き煙草の煙《けむり》を呼吸しながら、格別不自然な表情を装《よそお》っている気《け》色《しき》も見えなかった。
そのうちに照子が帰って来た。彼女は姉の顔を見ると、手をとり合わないばかりにうれしがった。信子も脣《くちびる》は笑いながら、眼にはいつかもう涙《なみだ》があった。二人はしばらくは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互いに尋《たず》ねたり尋ねられたりしていた。ことに照子は活《い》き活きと、血の色を頬《ほお》に透かせながら、今でも飼《か》っている鶏《にわとり》のことまで、話して聞かせることを忘れなかった。俊吉は巻き煙草をくわえたまま、満足そうに二人を眺《なが》めて、相変わらずにやにや笑っていた。
そこへ女中も帰って来た。俊吉はその女中の手から、何枚かの端《は》書《がき》を受け取ると、さっそく側《そば》の机へ向かって、せっせとペンを動かしはじめた。照子は女中も留守だったことが、意外らしい気《け》色《しき》を見せた。「じゃお姉様がいらしった時は、誰も家《うち》にいなかったの」「ええ、俊さんだけ」――信子はこう答えることが、平気をしいるような心もちがした。すると俊吉が向こうを向いたなり、「旦《だん》那《な》様《さま》に感謝しろ。その茶も僕《ぼく》が入れたんだ」と言った。照子は姉と眼を見合わせて、いたずらそうにくすりと笑った。が、夫にはわざとらしく、なんとも返事をしなかった。
まもなく信子は、妹夫婦といっしょに、晩飯の食卓を囲むことになった。照子の説明するところによると、膳《ぜん》に上った玉子は皆、家の鶏が産んだものであった。俊吉は信子に葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》をすすめながら、「人間の生活は掠《りやく》奪《だつ》で持っているんだね。小はこの玉子から――」なぞと社会主義じみた理《り》窟《くつ》を並《なら》べたりした。そのくせここにいる三人のうちで、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違《ちが》いなかった。照子はそれがおかしいと言って、子供のような笑い声を立てた。信子はこういう食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂《さび》しい茶の間の暮れ方を思い出さずにいられなかった。
話は食後の果物を荒らした後もつきなかった。微《び》酔《すい》を帯びた俊吉は、夜長の電灯の下にあぐらをかいて、盛んに彼一流の詭《き》弁《べん》を弄《ろう》した。その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書きだそうかしら」と言った。すると従兄《いとこ》は返事をするかわりに、グウルモン《*》の警句をほうりつけた。それは「ミュウズたちは女だから、彼らを自由に虜《とりこ》にするものは、男だけだ」ということばであった。信子と照子とは同《どう》盟《めい》して、グウルモンの権《けん》威《い》を認めなかった。「じゃ女でなけりゃ、音楽家になれなくって? アポロは男じゃありませんか」――照子はまじめにこんなことまで言った。
その暇《ひま》に夜が更《ふ》けた。信子はとうとう泊《と》まることになった。
寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝《ね》間《ま》着《き》のまま狭《せま》い庭へおりた。それから誰を呼ぶともなく「ちょいと出てごらん。いい月だから」と声をかけた。信子は独《ひと》り彼のあとから、沓《くつ》脱《ぬ》ぎの庭下《げ》駄《た》へ足をおろした。足《た》袋《び》を脱いだ彼女の足には、冷たい露《つゆ》の感じがあった。
月は庭の隅《すみ》にある、やせがれた檜《ひのき》の梢《こずえ》にあった。従兄はその檜の下に立って、うす明るい夜空を眺めていた。「たいへん草が生《は》えているのね」――信子は荒れた庭を気味悪そうに、おずおず彼のいる方へ歩み寄った。が、彼はやはり空を見ながら「十三夜かな」とつぶやいただけであった。
しばらく沈《ちん》黙《もく》がつづいた後、俊吉は静かに眼を返して、「鶏《とり》小《ご》屋《や》へ行ってみようか」と言った。信子は黙ってうなずいた。鶏小屋はちょうど檜とは反対の庭の隅にあった。二人は肩を並べながら、ゆっくりそこまで歩いていった。しかしむしろ囲いの内には、ただ鶏《にわとり》の匂《にお》いのする、おぼろげな光と影《かげ》ばかりがあった。俊吉はその小屋をのぞいて見て、ほとんど独《ひと》り言《ごと》かと思うように、「寝ている」と彼女にささやいた。「玉子を人に取られた鶏が」――信子は草の中にたたずんたままそう考えずにはいられなかった。……
二人が庭から返って来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電灯を眺めていた。青い横ばいがたった一つ、笠《かさ》に這《は》っている電灯を。
翌《よく》朝《ちよう》俊吉は一《いつ》張《ちよう》羅《ら》の背広を着て、食後そうそう玄《げん》関《かん》へ行った。なんでも亡友の一周忌の墓参りをするのだとかいうことであった。「いいかい。待っているんだぜ。午《ひる》ごろまでにゃきっと帰って来るから」――彼は外《がい》套《とう》をひっかけながら、こう信子に念を押した。が彼女は華《きや》奢《しや》な手に彼の中《なか》折《おれ》を待ったまま、黙って微《び》笑《しよう》したばかりであった。
照子は夫を送り出すと、姉を長火《ひ》鉢《ばち》の向こうに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行ったある外国の歌劇団《*》の話、――そのほか愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかった。が、信子の心は沈《しず》んでいた。彼女はふと気がつくと、いつもいいかげんな返事ばかりしている彼女自身がそこにあった。それがとうとうしまいには、照子の眼《め》にさえ止まるようになった。妹は心配そうに彼女の顔をのぞきこんで、「どうして?」と尋《たず》ねてくれたりした。しかし信子にもどうしたのだか、はっきりしたことはわからなかった。
柱時計が十時を打った時、信子はものうそうな眼をあげて、「俊さんはなかなか帰りそうもないわね」と言った。照子も姉のことばにつれて、ちょいと時計を仰《あお》いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」とだけしか答えなかった。信子にはそのことばの中に、夫の愛にあき足りている新《にい》妻《づま》の心があるような気がした。そう思うといよいよ彼女の気もちは、憂《ゆう》鬱《うつ》に傾《かたむ》かずにはいられなかった。
「照さんは幸福ね」――信子はあごを半《はん》襟《えり》に埋《うず》めながら、冗《じよ》談《うだん》のようにこう言った。が、自然とそこへ忍《しの》びこんだ、まじめな羨《せん》望《ぼう》の調子だけは、どうすることもできなかった。照子はしかし無《む》邪《じや》気《き》らしく、やはり活《い》き活きと微笑しながら、「覚えていらっしゃい」とにらむ真《ま》似《ね》をした。それからすぐにまた「お姉様だって幸福のくせに」と、甘《あま》えるようにつけ加えた。そのことばがぴしりと信子を打った。
彼女は心もちまぶたを上げて、「そう思って?」と問い返した。問い返して、すぐに後《こう》悔《かい》した。照子は一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》妙《みよう》な顔をして、姉と眼を見合わせた。その顔にもまたおおいがたい後悔の心が動いていた。信子はしいて微笑した。――「そう思われるだけでも幸福ね」
二人の間には沈《ちん》黙《もく》が来た。彼らは柱時計の時を刻む下に、長火《ひ》鉢《ばち》の鉄《てつ》瓶《びん》がたぎる音を聞くともなく聞き澄《す》ませていた。
「でもお兄様はお優《やさ》しくはなくって?」――やがて照子は小さな声で、恐《おそ》る恐る尋《たず》ねた。その声の中には明らかに、気の毒そうな響《ひび》きがこもっていた。が、この場合信子の心は、何よりも憐《れん》憫《びん》を反《はん》撥《ぱつ》した。彼女は新聞を膝《ひざ》の上へのせて、それに眼を落としたなり、わざとなんとも答えなかった。新聞には大阪と同じように、米価問題《*》が掲《かか》げてあった。
そのうちに静かな茶の間の中には、かすかに人の泣くけはいが聞こえだした。信子は新聞から眼を離《はな》して、袂《たもと》を顔に当てた妹を長火鉢の向こうに見いだした。「泣かなくったっていいのよ」――照子は姉にそう慰《なぐさ》められても、容《よう》易《い》に泣き止もうとはしなかった。信子は残《ざん》酷《こく》な喜びを感じながら、しばらくは妹の震《ふる》える肩《かた》へ無言の視《し》線《せん》を注いでいた。それから女中の耳をはばかるように、照子の方へ顔をやりながら、「悪かったら、私《わたし》があやまるわ。私は照さんさえ幸福なら、何よりありがたいと思っているの。ほんとうよ。俊さんが照さんを愛していてくれれば――」と、低い声で言いつづけた。言いつづけるうち、彼女の声も、彼女自身のことばに動かされて、だんだん感傷的になり始めた。すると突然照子は袖《そで》を落として、涙に濡《ぬ》れている顔をあげた。彼女の眼の中には、意外なことに、悲しみも怒《いか》りも見えなかった。が、ただ、抑《おさ》えきれない嫉《しつ》妬《と》の情が、燃えるように瞳《ひとみ》をほてらせていた。「じゃお姉様は――お姉様はなぜ昨夜《ゆうべ》も――」照子は皆まで言わないうちに、また顔を袖に埋《うず》めて、発作的に烈《はげ》しく泣き始めた。……
二、三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌《ほろ》俥《ぐるま》の上に揺《ゆ》られていた。彼女の眼にはいる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであった。そこには場末らしい家々と色づいた雑《ぞう》木《き》の梢《こずえ》とが、おもむろにしかも絶え間なく、あとへあとへと流れて行った。もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲をただよわせた、ひややかな秋の空だけであった。
彼女の心は静かであった。が、その静かさを支配するものは、寂《さび》しい諦《あきら》めにほかならなかった。照子の発作が終わった後、和解は新しい涙とともに、たやすく二人を元のとおり仲のいい姉妹《きようだい》に返していた。しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかった。彼女は従兄《いとこ》の帰りも待たずこの俥《しや》上《じよう》に身を託《たく》した時、すでに妹とは永久に他人になったような心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせていたのであった。――
信子はふと眼をあげた。その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖《つえ》をかかえた従兄の姿が見えた。彼女の心は動《どう》揺《よう》した。俥《くるま》を止めようか。それともこのまま行き違《ちが》おうか。彼女は動《どう》悸《き》を抑《おさ》えながら、しばらくはただ幌《ほろ》の下に、空《むな》しい逡《しゆん》巡《じゆん》を重ねていた。が、俊吉と彼女との距離は、見る見るうちに近くなってきた。彼は薄《うす》日《び》の光を浴びて、水たまりの多い往来にゆっくりと靴《くつ》を運んでいた。
「俊さん」――そういう声が一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、信子の脣《くちびる》からもれようとした。実際俊吉はその時もう、彼女の俥《くるま》のすぐそばに、見慣れた姿を現わしていた。が、彼女はまたためらった。その暇《ひま》に何も知らない彼は、とうとうこの幌《ほろ》俥《ぐるま》とすれ違った。薄《うす》濁《にご》った空、まばらな屋並み、高い木々の黄ばんだ梢《こずえ》――あとには相変わらず人通りの少ない場末の町があるばかりであった。
「秋――」
信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみこう思わずにはいられなかった。
(大正九年三月)
黒《こく》衣《い》聖《せい》母《ぼ》
――この涙の谷に呻《うめ》き泣きて、御《おん》身《み》に願ひをかけ奉《たてまつ》る。
……御身の憐《あはれ》みの御《おん》眼《め》をわれらに廻《めぐ》らせ給《たま》へ。……深く御《ご》柔《じう》軟《なん》、深く御哀《あい》憐《れん》、すぐれて甘《うまし》くまします「びるぜん、さんたまりや《*》」様――
――和訳「けれんと《*》」――
「どうです、これは」
田代《たしろ》君はこう言いながら、一体の麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん*》をテーブルの上へ載《の》せて見せた。
麻利耶観音と称するのは、切《きり》支《し》丹《たん》宗門禁制時代《*》の天《てん》主《しゆ》教《きよう》徒《と》が、しばしば聖母麻利耶の代わりに礼《れい》拝《はい》した、多くは白《はく》磁《じ》の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中でも、博物館の陳列室や世間ふつうの蒐《しゆう》集《しゆう》家《か》のキャビネットにあるようなものではない。第一これは顔を除いて、他はことごとく黒《こく》檀《たん》を刻んだ、一尺ばかりの立像である。のみならず頸《くび》のまわりへかけた十《じゆう》字《じ》架《か》形《がた》の瓔《よう》珞《らく*》も、金と青貝とを象《ぞう》嵌《がん》した、きわめて精巧な細《さい》工《く》らしい。そのうえ顔は美しい牙《げ》彫《ぼ》りで、しかも脣《くちびる》には珊《さん》瑚《ご》のような一点の朱《しゆ》まで加えてある。……
私は黙《だま》って腕《うで》を組んだまま、しばらくはこの黒《こく》衣《い》聖《せい》母《ぼ》の美しい顔を眺《なが》めていた。が、眺めているうちに、何か怪《あや》しい表情が、象《ぞう》牙《げ》の顔のどこだかに、ただよっているような心もちがした。いや、怪しいと言ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲《ちよう》笑《しよう》をみなぎらしているような気さえしたのである。
「どうです、これは」
田代君はあらゆる蒐《しゆう》集《しゆう》家《か》に共通な矜誇《ほこり》の微《び》笑《しよう》を浮かべながら、テーブルの上の麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観音《かんのん》と私の顔とを見比べて、もう一度こうくり返した。
「これは珍《ちん》品《ぴん》ですね。が、なんだかこの顔は、無気味なところがあるようじゃありませんか」
「円《えん》満《まん》具《ぐ》足《そく》の相《そう》好《ごう》とはいきませんかな。そう言えばこの麻利耶観音には、妙《みよう》な伝説が附《ふ》随《ずい》しているのです」
「妙な伝説?」
私は眼を麻利耶観音から、思わず田代君の顔に移した。田代君は存外まじめな表情を浮かべながら、ちょいとその麻利耶観音をテーブルの上から取り上げたが、すぐにまた元の位置に戻《もど》して、
「ええ、これは禍《か》を転じて福《ふく》とするかわりに、福を転じて禍とする、縁《えん》起《ぎ》の悪い聖母だということですよ」
「まさか」
「ところが実際そういう事実が、持ち主にあったというのです」
田代君は椅《い》子《す》に腰《こし》をおろすと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰《いん》鬱《うつ》な眼つきになりながら、私にもテーブルの向こうの椅子へかけろという手《て》真《ま》似《ね》をして見せた。
「ほんとうですか」
私は椅子へかけると同時に、われ知らず怪《あや》しい声を出した。田代君は私より一、二年前《ぜん》に大学を卒業した、秀才の聞こえの高い法学士である。かつまた私の知っているかぎり、いわゆる超《ちよう》自然的現象には寸《すん》毫《ごう》の信用も置いていない、教養に富んだ新思想家である、その田代君がこんなことを言いだす以上、まさかその妙な伝説というのも、荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》な怪《かい》談《だん》ではあるまい。――
「ほんとうですか」
私がふたたびこう念を押《お》すと、田代君はマッチの火をおもむろにパイプへ移しながら、
「さあ、それはあなた自身のご判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》には、気味の悪い因《いん》縁《ねん》があるのだそうです。ご退《たい》屈《くつ》でなければ、お話ししますが。――」
この麻利耶観音は、私の手にはいる以前、新潟県のある町の稲《いな》見《み》という素《そ》封《ほう》家《か》にあったのです。もちろん骨《こつ》董《とう》としてあったのではなく、一家の繁《はん》栄《えい》を祈《いの》るべき宗《しゆう》門《もん》神《じん》としてあったのですが。
その稲見の当主というのは、ちょうど私と同期の法学士で、これが会社にも関係すれば、銀行にも手を出しているという、まあなかなかの事業家なのです。そんな関係上、私も一、二度稲見のために、ある便《べん》宜《ぎ》を計《はか》ってやったことがありました。その礼《れい》心《ごころ》だったのでしょう。稲見はある年上京したついでに、この家重《じゆう》代《だい》の麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》を私にくれて行ったのです。
私のいわゆる妙な伝説というのも、その時稲見の口から聞いたのですが、彼自身はもちろんそういう不思議を信じているわけでもなんでもありません。ただ、母親から聞かされたとおり、この聖母の謂《い》われ因《いん》縁《ねん》をざっと説明しただけだったのです。
なんでも稲見の母親が十《とお》か十一の秋だったそうです。年代にすると、黒《くろ》船《ふね》が浦《うら》賀《が》の港を擾《さわ》がせた嘉《か》永《えい》の末年にでも当たりますか――その母親の弟になる、茂《も》作《さく》という八つばかりの男の子が、重い痳疹《はしか》にかかりました。稲見の母親はお栄《えい》と言って、二、三年前《ぜん》の疾《しつ》病《ぺい》に父母とも世を去って以来、この茂作と姉弟《きようだい》二人、もう七十を越した祖母の手に育てられてきたのだそうです。ですから茂作が重病になると、稲見には曾《そう》祖《そ》母《ぼ》に当たる、その切《き》り髪《がみ*》の隠《いん》居《きよ》の心配というものは、一《ひと》通《とお》りや二《ふた》通《とお》りではありません。が、いくら医者が手をつくしても、茂作の病気は重くなるばかりで、ほとんど一週間とたたないうちに、もう今日か明日かという容体になってしまいました。
するとある夜のこと、お栄のよく寝入っている部屋へ、突然祖母がはいって来て、眠《ねむ》がるのをむりに抱《だ》き起こしてから、人手も借りずかいがいしく、ちゃんと着物を着《き》換《が》えさせたそうです。お栄はまだ夢《ゆめ》でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗いぼんぼりに人《ひと》気《け》のない廊《ろう》下《か》を照らしながら、昼でもめったにはいったことのない土《ど》蔵《ぞう》へお栄をつれて行きました。
土蔵の奥《おく》には昔から、火《ひ》伏《ぶ》せ《*》 の稲荷《いなり》が祀《まつ》ってあるという、白《しら》木《き》のお宮がありました。祖母は帯の間から鍵《かぎ》を出して、そのお宮の扉《とびら》を開《あ》けましたが、今ぼんぼりの光に透《す》かして見ると、古びた錦《にしき》の御《み》戸《と》帳《ちよう*》のうしろに、端《たん》然《ぜん》と立っているご神体は、ほかでもない、この麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》なのです。お栄はそれを見ると同時に、急にこおろぎの鳴く声さえしない真夜中の土蔵が怖《こわ》くなって、思わず祖母の膝《ひざ》へすがりついたまま、しくしく泣きだしてしまいました。が、祖母はいつもと違《ちが》って、お栄の泣くのにも頓《とん》着《じやく》せず、その麻利耶観音のお宮の前にすわりながら、うやうやしく額《ひたい》に十字を切って、何かお栄にわからないご祈《き》祷《とう》をあげ始めたそうです。
それがおよそ十分あまりもつづいてから、祖母は静かに孫《まご》娘《むすめ》を抱《だ》き起こすと、怖《こわ》がるのをしきりになだめなだめ、自分の隣《となり》にすわらせました。そうして今度はお栄にもわかるように、この黒《こく》檀《たん》の麻利耶観音へ、こんな願《がん》をかけ始めました。
「童貞聖《ビルゼンサンタ》麻《マ》利《リ》耶《ヤ》様《さま》、私《わたし》が天にも地にも杖《つえ》柱《はしら》と頼《たの》んでおりますのは、当年八歳の孫の茂作と、ここにつれてまいりました姉のお栄ばかりでございます。お栄もまだごらんのとおり、婿《むこ》をとるほどの年でもございません。もしただいま茂作の身に万一のことでもございましたら、稲見の家は明日が日にも世《よ》嗣《つ》ぎが絶えてしまうのでございます。そのような不《ふ》祥《しよう》がございませんように、どうか茂作の一命をお守りなすってくださいまし。それも私風《ふ》情《ぜい》の信心には及《およ》ばないことでございましたら、せめては私の息のござりますかぎり、茂作の命をお助けくださいまし。私もとる年でございますし、霊魂《アニマ》を天主《デウス》にお捧《ささ》げ申すのも、長いことではございますまい。しかし、それまでには孫のお栄も、不《ふ》慮《りよ》の災難でもございませなんだら、おおかた年ごろになるでございましょう。なにとぞ私が目をつぶりますまででよろしゅうございますから、死の天使《アンジヨ》の御《おん》剣《つるぎ》が茂作の体《からだ》に触《ふ》れませんよう、ご慈《じ》悲《ひ》をお垂《た》れくださいまし」
祖母は切り髪《がみ》の頭《かしら》を下げて、熱心にこう祈《いの》りました。するとそのことばが終わった時、恐《おそ》る恐る顔をもたげたお栄の眼には、気のせいか麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》が微《び》笑《しよう》したように見えたと言うのです。お栄はもちろん小さな声をあげて、また祖母の膝《ひざ》にすがりつきました。が、祖母はかえって満足そうに孫娘の背をさすりながら、
「さあ、もうあちらへ行きましょう。麻利耶様はありがたいことに、このお婆《ばあ》さんのお祈りをお聞き入れになってくだすったからね」
と、何度もくり返して言ったそうです。
さて明くる日になって見ると、なるほど祖母の願いがかなったか、茂作は昨日《きのう》よりも熱が下がって、今まではまるで夢《む》中《ちゆう》だったのが、しだいに正気さえついてきました。この容《よう》子《す》を見た祖母の喜びは、なかなか口にはつくせません。なんでも稲見の母親は、その時祖母が笑いながら、涙《なみだ》をこぼしていた顔が、いまだに忘れられないとか言っているそうです。そのうちに祖母は病気の孫がすやすや眠りだしたのを見て、自分も連夜の看病疲《づか》れをしばらく休めるつもりだったのでしょう。病《びよう》間《ま》の隣《となり》へ床《とこ》をとらせて、珍《めずら》しくそこへ横になりました。
その時お栄はおはじきをしながら、祖母の枕《まくら》もとにすわっていましたが、隠《いん》居《きよ》は精根もつきるほど、疲れはてていたとみえて、まるで死んだ人のように、すぐに寝入ってしまったとかいうことです。ところがかれこれ一時間ばかりすると、茂作の介《かい》抱《ほう》をしていた年《ねん》輩《ぱい》の女中が、そっと次の間《ま》の襖《ふすま》を開けて、「お嬢《じよう》様ちょいとご隠《いん》居《きよ》様をお起こしくださいまし」と、あわてたような声で言いました。そこでお栄は子供のことですから、さっそく祖母のそばへ行って、「お婆《ばあ》さん、お婆さん」と、二、三度掻《かい》巻《まき》の袖《そで》を引いたそうです。が、どうしたのかふだんはめざとい祖母が、今日にかぎっていくら呼んでも返事をする気《け》色《しき》さえみえません。そのうちに女中が不《ふ》審《しん》そうに、病間からこちらへはいって来ましたが、これは祖母の顔を見ると、気でも違《ちが》ったかと思うほど、いきなり隠居の掻巻にすがりついて、「ご隠居様、ご隠居様」と、必死の涙《なみだ》声《ごえ》をあげ始めました。けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫《むらさき》の色を止《とど》めたまま、やはり身動きもせずに眠《ねむ》っています。とまもなくもう一人の女中が、あわただしく襖《ふすま》を開けたと思うとこれも、色を失った顔を見せて、「ご隠居様、――坊ちゃんが――ご隠居様」と、震《ふる》え声で呼び立てました。もちろんこの女中の「坊ちゃんが――」は、お栄の耳にも明らかに、茂作の容《よう》態《だい》の変わったことを知らせる力があったのです。が、祖母は依《い》然《ぜん》として、今は枕《まくら》もとに泣き伏した女中の声も聞こえないように、じっと眼をつぶっているのでした。……
茂作もそれから十分ばかりのうちに、とうとう息を引き取りました。麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》は約束どおり、祖母の命のある間は、茂作を殺さずにおいたのです。
田代君はこう話し終わると、また陰《いん》鬱《うつ》な眼をあげて、じっと私《わたし》の顔を眺《なが》めた。
「どうです。あなたにはこの伝説が、ほんとうにあったとは思われませんか」
私はためらった。
「さあ――しかし――どうでしょう」
田代君はしばらく黙《だま》っていた。が、やがて煙の消えたパイプへもう一度火を移すと、
「私はほんとうにあったかとも思うのです。ただ、それが稲《いな》見《み》家の聖母のせいだったかどうかは、疑問ですが、――そう言えば、まだあなたはこの麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》の台座の銘《めい》をお読みにならなかったでしょう。ごらんなさい。ここに刻んである横文字を。――DESINE FATA DEUMLECTI SPERARE PRECANDO……」(「汝の祈祷、神々の定めたもうところを動かすべしと望むなかれ」の意)
私はこの運命それ自身のような麻利耶観音へ、思わず無気味な眼を移した。聖母は黒《こく》檀《たん》の衣をまとったまま、やはりその美しい象《ぞう》牙《げ》の顔に、ある悪意を帯びた嘲《ちよう》笑《しよう》を、永久に冷然とたたえている。――
(大正九月四月)
或《ある》敵《かたき》打《うち》の話
発 端
肥《ひ》後《ご》の細《ほそ》川《かわ》家《け*》の家《か》中《ちゆう》に、田《た》岡《おか》甚《じん》太《だ》夫《ゆう》という侍《さむらい》がいた。これは以前日向《ひゆうが》の伊藤家《*》の浪《ろう》人《にん》であったが、当時細川家の番《ばんが》頭《しら*》に陞《のぼ》っていた内《ない》藤《とう》三《さん》左《ざ》衛《え》門《もん》の推《すい》薦《せん》で、新《しん》知《ち*》五十石《こく》に召《め》し出されたのであった。
ところが寛《かん》文《ぶん》七年《*》の春、家中の武芸の仕《し》合《あい》があった時、彼は表《おもて》芸《げい》の槍《そう》術《じゆつ》で、相手になった侍を六人まで突き倒《たお》した。その仕合には、越《えつ》中《ちゆうの》守《かみ》綱《つな》利《とし*》自身も、老職一同とともにのぞんでいたが、あまり甚太天の槍《やり》がみごとなので、さらに剣《けん》術《じゆつ》の仕合をも所《しよ》望《もう》した。甚太夫は竹刀《しない》を執《と》って、また三人の侍を打ち据《す》えた。四人めには家中の若侍に、新《しん》陰《かげ》流《りゆう*》の剣術を指南している瀬《せ》沼《ぬま》兵《ひよう》衛《え》が相手になった。甚太夫は指南番の面《めん》目《ぼく》を思って、兵衛に勝ちを譲《ゆず》ろうと思った。が、勝ちを譲ったということが、心あるものにはわかるように、手ぎわよく負けたいという気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立ち合いながら、そういう心もちを直覚すると、急に相手が憎《にく》くなった。そこで甚太天がわざと受け太《だ》刀《ち》になった時、奮《ふん》然《ぜん》と一本突《つ》きを入れた。甚太夫は強く喉《のど》を突かれて、仰《あお》向《む》けにそこへ倒れてしまった。その容《よう》子《す》がいかにも見苦しかった。綱利は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後は、はなはだ不《ふ》興《きよう》げな顔をしたまま、一《いち》言《ごん》も彼をねぎらわなかった。
甚太夫の負けざまは、まもなく蔭《かげ》口《ぐち》の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄《え》を切り折られたら何とする。可《か》哀《わい》や剣術は竹刀《しない》さえ、一人前には使えないそうな」――こんなうわさが誰《だれ》言うとなく、たちまち家中に広まったのであった。それにはもちろん同《どう》輩《はい》の嫉《しつ》妬《と》や羨《せん》望《ぼう》も交じっていた。が、彼を推《すい》挙《きよ》した内藤三左衛門の身になってみると、綱利の手前へ対しても黙《だま》っているわけにはいかなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああいう見苦しい負けを取られては、拙《せつ》者《しや》の眼がね違《ちが》いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負をいたされるか、それとも拙者が殿への申しわけに切腹しようか」とまで激《げき》語《ご》した。家中のうわさを聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番瀬沼兵衛と三本勝負をしたいという願い書を出した。
日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合をすることになった。はじめは甚太夫が兵衛の小《こ》手《て》を打った。二度めは兵衛が甚太夫の面《めん》を打った。が、三度めにはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十石《こく》の加増を命じた。兵衛はみみず腫《ば》れになった腕《うで》を撫《な》でながら、すごすご綱利の前を退いた。
それから三、四日たったある雨の夜、加《か》納《のう》平《へい》太《た》郎《ろう》という同家中の侍《さむらい》が、西《さい》岸《がん》寺《じ》の塀《へい》外《そと》で暗《やみ》打ちに遇《あ》った。平太郎は知《ち》行《ぎよう》二百石の側《そば》役《やく》で、算《さん》筆《ぴつ》に達した老人であったが、平《へい》生《ぜい》の行状から推《お》してみても、恨《うら》みを受けるような人物ではけっしてなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐《ちく》天《てん》したことが知れるとともに、はじめてその敵《かたき》が明らかになった。甚太夫と平太郎とは、年《ねん》輩《ぱい》こそかなり違っていたが、背《せい》恰《かつ》好《こう》はよく似寄っていた。そのうえ定《じよう》紋《もん》は二人とも、同じ丸に抱《だ》き明《みよう》姜《が》であった。兵衛はまず供の仲《ちゆう》間《げん》が、雨の夜路を照らしている提灯《ちようちん》の紋《もん》に欺《あざむ》かれ、それから合《かつ》羽《ぱ》に傘《かさ》をかざした平太郎の姿に欺かれて、そこつにもこの老人を甚太夫と誤《あやま》って殺したのであった。
平太郎には当時十七歳の、求《もと》馬《め》という嫡《ちやく》子《し》があった。求馬はさっそく公《おおやけ》の許しを得て、江《え》越《ごし》喜《き》三《さぶ》郎《ろう》という若党とともに、当時の武士の習慣どおり、敵《かたき》打《うち》の旅に上ることになった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免《まぬが》れなかったのか、彼もまた後《うしろ》見《み》のために旅立ちたい旨《むね》を申し出《い》でた。と同時に求馬と念《ねん》友《ゆう*》の約があった、津《つ》崎《ざき》左《さ》近《こん》という侍《さむらい》も、同じく助《すけ》太《だ》刀《ち》の儀《ぎ》を願い出した。綱利は奇《き》特《どく》のこととあって、甚太夫の願いは許したが、左近の言い分は取り上げなかった。
求馬は甚太夫喜三郎の二人とともに、父平太郎の初七日をすますと、もう暖国の桜《さくら》は散り過ぎた熊《くま》本《もと》の城下をあとにした。
津《つ》崎《ざき》左《さ》近《こん》は助《すけ》太《だ》刀《ち》の請《こい》を却《しりぞ》けられると、二、三日家に閉じこもっていた。かねて求《もと》馬《め》と取り換《か》わした起《き》請《しよう》文《もん》の面《おもて》を反《ほ》故《ご》にするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋《ほう》輩《ばい》たちに、うしろ指《ゆび》をさされはしないかという、懸《け》念《ねん》もまんざらないではなかった。が、それにも増して堪《た》えがたかったのは、念《ねん》友《ゆう》の求馬をただ一人甚《じん》太《だ》夫《ゆう》に託《たく》すということであった。そこで彼は敵《かたき》打《うち》の一行が熊本の城下を離《はな》れた夜、とうとう一封《ぷう》の書を家に遺《のこ》して、彼らのあとを慕《した》うべく、双《ふた》親《おや》にも告げず家出をした。
彼は国《くに》境《ざかい》を離《はな》れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山《さん》駅《えき》の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太天の前へ手をつきながら、幾《いく》重《え》にも同道を懇《こん》願《がん》した。甚太夫ははじめは苦々しげに、「身どもの武道では心もとないとお思いか」と、容《よう》易《い》に承《う》け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我《が》を折って、求馬の顔を尻《しり》眼《め》にかけながら、喜三郎の取りなしを機会《しお》にして、左近の同道を承《しよう》諾《だく》した。まだ前《まえ》髪《がみ》の残っている女のような非《ひ》力《りき》の求馬は、左近をも一行に加えたい気《け》色《しき》を隠《かく》すことができなかったのであった。左近は喜びのあまり眼に涙《なみだ》を浮かべて、喜三郎にさえ何度となく礼のことばをくり返していた。
一行四人は兵《ひよう》衛《え》の妹《いもうと》婿《むこ》が浅《あさ》野《の》家《*》の家《か》中《ちゆう》にあることを知っていたから、まず文《も》字《じ》が関《せき*》の瀬《せ》戸《と》を渡って、中国街道をはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞《たい》在《ざい》して、敵《かたき》の在処《ありか》を探るうちに、家中の侍《さむらい》の家へ出入りする女の針《はり》立《たて》の世間話から、兵衛は一度広島へ来て後、妹婿の知るべがある予《よ》州《しゅう》松《まつ》山《やま》へ密々に旅立ったということがわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊《い》予《よ》船《ぶね》の便を求めて、寛《かん》文《ぶん》七年の夏の最《も》中《なか》、つつがなく松山の城下へはいった。
松山に渡った一行は、毎日編《あみ》笠《がさ》を深くして、敵の行《ゆく》方《え》を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳《きび》しいと見えて容易に在処を露《あらわ》さなかった。一度左近が兵衛らしい梵《ぼ》論《ろん》子《じ*》の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れてみたが、結局なんの由縁《ゆかり》もない他人だということが明らかになった。そのうちにもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝《みぞ》を塞《ふさ》いでいた藻《も》の下から、おいおい水の色が広がってきた。それにつれて一行の心には、だんだん焦《しよう》燥《そう》の念が動き出した。ことに左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜のきらいなく、松山の内外をうかがって歩いた。敵打《かたきうち》の初《しよ》太《だ》刀《ち》は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅《おく》れては、主《しゆう》親《おや》をも捨《す》てて一行に加わった、武士たる自分の面《めん》目《ぼく》が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅《かた》く思いつめていたのであった。
松山へ来てから二《ふた》月《つき》余り後、左近はその甲《か》斐《い》があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍《しのび》駕《か》籠《ご》につき添《そ》うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇《あ》った。やがて舟の仕《し》度《たく》ができたとみえて、駕籠の中の侍《さむらい》が外へ出た。侍はすぐに編《あみ》笠《がさ》をかぶったが、ちらりと見た顔《かお》貌《かたち》は瀬《せ》沼《ぬま》兵《ひよう》衛《え》に紛《まぎ》れなかった。左近は一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》ためらった。ここに求馬が居合わせないのは、返す返すも残念である。が、いま兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退《の》いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行《ゆく》方《え》をつき止めることもできないのに違《ちが》いない。これは自分一人でも、名《な》乗《のり》をかけて打たねばならぬ。――左近はこうとっさに決心すると、身仕度をする間《ま》も惜《お》しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分、津崎左近助《すけ》太《だ》刀《ち》覚えたか」と呼びかけながら、刀を抜《ぬ》き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気《け》色《しき》もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな」と叱《しか》りつけた。左近は思わず躊《ちゆう》躇《ちよ》した。そのとたんに侍の手が刀の柄《つか》前《まえ》にかかったと思うと、重《かさ》ね厚《あつ》の大《だい》刀《とう》が大《おお》袈《げ》裟《さ》に左近を斬《き》り倒《たお》した。左近は尻《しり》居《い*》に倒れながら、目《ま》深《ぶか》くかぶった編笠の下に、はじめて瀬沼兵衛の顔をはっきりと見ることができたのであった。
左近《さこん》を打たせた三人の侍《さむらい》は、それからかれこれ二年間、敵《かたき》兵《ひよう》衛《え》の行《ゆく》方《え》を探って、五《ご》畿《き》内《ない》から東海道をほとんどくまなく遍《へん》歴《れき》した。が、兵衛の消息は、杳《よう》としてふたたび聞こえなかった。
寛《かん》文《ぶん》九年の秋、一行は落ちかかる雁《かり*》とともに、はじめて江戸の土を踏《ふ》んだ。江戸は諸国の老《ろう》若《にやく》貴《き》賤《せん》が集まっている所だけに、敵《かたき》の手がかりを尋《たず》ねるのにも、何かと便《べん》宜《ぎ》が多そうであった。そこで彼らはまず神《かん》田《だ》の裏町に仮《かり》の宿を定めてから甚《じん》太《だ》夫《ゆう》は怪《あや》しい謡《うたい》を唱《うた》つて合《ごう》力《りき》を請《こ》う浪《ろう》人《にん》になり、求《もと》馬《め》は小《こ》間《ま》物《もの》の箱を背負って町家を廻《まわ》る商人《あきうど》に化け、喜《き》三《さぶ》郎《ろう》は旗《はた》本《もと》能《の》勢《せ》惣《そ》右《う》衛《え》門《もん》へ年《ねん》期《き》切《ぎ》りの草《ぞう》履《り》取《と》りにはいった。
求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇《おうぎ》に鳥《ちよう》目《もく》をもらいながら、根気よく盛り場をうかがいまわって、さらに倦《う》む気《け》色《しき》も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編《あみ》笠《がさ》にやつれた顔を隠《かく》して、秋晴れの日本橋を渡る時でも結《けつ》局《きよく》彼らの敵《かたき》打《うち》は徒《と》労《ろう》に終わってしまいそうな寂《さび》しさに沈《しず》みがちであった。
そのうちに筑《つく》波《ば》颪《おろ》しがだんだん寒さを加えだすと、求馬は風《か》邪《ぜ》が元になって、時々熱が昂《たか》ぶるようになった。が、彼は悪《お》感《かん》を冒《おか》しても、やはり日ごとに荷を負うて、商《あきない》に出ることを止《や》めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、かならず求馬のけなげさを語って、この主《しゆう》思いの若党の眼に涙《なみだ》を催《もよお》させるのが常であった。しかし彼らは二人とも、病さえ静かに養うに堪《た》えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
やがて寛《かん》文《ぶん》十年の春が来た。求馬はそのころから人知れず、吉《よし》原《わら》の廓《くるわ》に通いだした。相《あい》方《かた》は和泉《いずみ》屋《や》の楓《かえで》という、いわゆる散《さん》茶《ちや》女《じよ》郎《ろう*》の一人であった。が、彼女は勤《つと》めを離《はな》れて、心から求馬のためにつくした。彼も楓のもとへかよっているうちだけ、わずかに落《らく》莫《ばく》とした心もちから、自由になることができたのであった。
渋《しぶ》谷《や》の金《こん》王《のう》桜《ざくら*》の評判が、洗《せん》湯《とう》の二階に賑《にぎ》わうころ、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵《かたき》打《うち》の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍《さむらい》が松《まつ》江《え》藩の侍たちといっしょに、一《ひと》月《つき》ばかり以前和泉屋へ遊びに来たということがわかった。幸い、その侍の相方の籤《くじ》を引いた楓は、面《めん》体《てい》から持ち物まで、かなりはっきりした記《き》憶《おく》を持っていた。のみならず彼が二、三日うちに、江戸を立って雲《うん》州《しゆう》松江へ赴《おもむ》こうとしていることなぞも、ちらりと小耳にはさんでいた。求馬はもちろん喜んだ。が、ふたたび敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならないことを思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛《らん》酔《すい》した。そうして宿へ帰って来ると、すぐにおびただしく血を吐《は》いた。
求馬は翌日から枕《まくら》についた。が、なぜか敵《かたき》の行《ゆく》方《え》がほぼわかったことは、一言《ひとこと》も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖《そで》乞《ご》いに出る合い間を見ては、求馬の看《かん》病《びよう》にも心をつくした。ところがある日葺《ふき》屋《や》町《ちよう*》の芝居小屋などを徘《はい》徊《かい》して、暮れ方宿へ帰って見ると、求馬は遺《い》書《しよ》をくわえたまま、もう火のはいった行《あん》灯《どう》の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂《と》げていた。甚太夫はさすがに仰《ぎよう》天《てん》しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自《じ》刃《じん》の仔《し》細《さい》とが認《したた》めてあった。「私《わたくし》儀《ぎ》柔《にゆう》弱《じやく》多病につき、敵《かたき》打《うち》の本《ほん》懐《かい》も遂げ難《がた》きやに存ぜられ候《そうろう》間《あいだ》……」――これがその仔《し》細《さい》の全部であった。しかし血に染《そ》んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行《あん》灯《どう》をひき寄せて、灯《とう》心《しん》の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦い顔を照らした。
書面は求馬が今年の春、楓《かえで》と二《に》世《せ》の約束をした起《き》請《しよう》文《もん》の一枚であった。
寛《かん》文《ぶん》十年の夏、甚《じん》太《だ》夫《ゆう》は喜《き》三《さぶ》郎《ろう》とともに、雲《うん》州《しゆう》松《まつ》江《え》の城下へはいった。はじめて大《おお》橋《はし*》の上に立って、宍《しん》道《じ》湖《こ》の天に群がっている雲の峰《みね》を眺《なが》めた時、二人の心には言い合わせたように、悲《ひ》壮《そう》な感激が催《もよお》された。考えてみれば一行は、故郷の熊本をあとにしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
彼らはまず京《きよう》橋《ばし》界《かい》隈《わい》の旅籠《はたご》に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵《かたき》の所在をうかがい始めた。するとそろそろ秋が立つころになって、やはり松《まつだ》平《いら》家《け*》の侍 《さむらい》に不《ふ》伝《でん》流《りゆう》の指南をしている、恩《おん》地《ち》小《こ》左《ざ》衛《え》門《もん》という侍の屋敷に、兵《ひよ》衛《うえ》らしい侍のかくまわれていることが明らかになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずにはおかないと思った。ことに甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑《おさ》えがたい怒《いか》りと喜びを感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平《へい》太《た》郎《ろう》一人の敵ではなく、左《さ》近《こん》の敵でもあれば、求《もと》馬《め》の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾《いく》多《た》の艱《かん》難《なん》をなめさせた彼自身の怨《おん》敵《てき》であった。――甚太夫はそう思うと、日ごろ沈着な彼にも似《に》合《あ》わず、すぐさま恩地の屋《や》敷《しき》へ踏《ふ》みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
しかし恩地小左衛門は、山《さん》陰《いん》に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手《しゆ》足《そく》となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこではやりながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
機会は容《よう》易《い》に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。そのうちに彼らの旅《はた》籠《ご》の庭には、もう百《ひやく》日《じつ》紅《こう》の花が散って、踏《ふ》み石に落ちる日の光もしだいに弱くなり始めた。二人は苦しい焦《しよう》燥《そう》の中に、三年以前返り打ちに遇《あ》った左近の祥《しよう》月《つき》命《めい》日《にち》を迎《むか》えた。喜三郎はその夜、近くにある祥《しよう》光《こう》院《いん》の門を敲《たた》いて和尚《おしよう》に仏事を修してもらった。が、万一をおもんぱかって、左近の俗《ぞく》名《みよう》はもらさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記《しる》した位《い》牌《はい》があった。喜三郎は仏事が終わってから、なにげないふうを装《よそお》って、所《しよ》化《け》にその位牌の由縁《ゆかり》を尋《たず》ねた。ところがさらに意外なことには、祥光院の檀《だん》家《か》たる恩地小左衛門のかかり人が、月に二度の命日にかならず回《え》向《こう》に来るという答えがあった。「今日も早くに見えました」――所化は何も気がつかないように、こんなことまでもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加《か》納《のう》親子や左近の霊が彼らに冥《みよう》助《じよ》を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到《とう》来《らい》を祝すとともに、今まで兵衛の寺《てら》詣《もう》でに気づかなかったことを口《くち》惜《お》しく思った。「もう八《よう》日《か》たてば、大《おお》檀《だん》那《な》様《さま》のご命日でございます。ご命日に敵《かたき》が打てますのも、何かの因《いん》縁《ねん》でございましょう」――喜三郎はこう言って、この喜ばしい話を終わった。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行《あん》灯《どう》を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追《つい》憶《おく》をさまざま語り合った。が、彼らの菩《ぼ》提《だい》を弔《とむら》っている兵衛の心を酌《く》むことなぞは、二人とも全然忘《ぼう》却《きやく》していた。
平太郎の命日は、一日ごとに近づいて来た。二人は妬《ねた》刃《ば》を合わせながら《*》、心静かにその日を待った。今はもう敵《かたき》打《うち》は、成《せい》否《ひ》の問題ではなくなっていた。すべての懸《けん》案《あん》はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本《ほん》望《もう》を遂《と》げた後の、逃《の》き口《くち》まで思い定めていた。
ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けないうちに、行灯の光で身《み》仕《じ》度《たく》をした。甚太夫は菖《しよう》蒲《ぶ》革《がわ*》の裁《たつ》付《つけ*》に黒《くろ》紬《つむぎ》の袷《あわせ》を重ねて、同じ紬の紋《もん》付《つき》の羽《は》織《おり》の下に細い革《かわ》の襷《たすき》をかけた。差《さし》料《りよう》は長《は》谷《せ》部《べ》則《のり》長《なが》の刀に来《らい》国《くに》俊《とし》の脇《わき》差《ざし》であった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌《はだ》には着込み《*》をまとっていた。二人は冷《ひや》酒《ざけ》の盃《さかずき》を換《か》わしてから、今日までの勘《かん》定《じよう》をすませた後、勢いよく旅《はた》籠《ご》の門《かど》を出た。
外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編《あみ》笠《がさ》に顔を包んで、かねて敵打の場所と定めた祥光院の門前へ向かった。ところが宿を離れて一、二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝の勘定は四《し》文《もん》釣《つり》銭《せん》が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ」と言った。喜三郎はもどかしそうに、「高《たか》が四文のはした銭《ぜに》ではございませんか。お戻《もど》りになるがものはございますまい」と言って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥《ちよう》目《もく》はもとより惜《お》しくはない。だが甚太夫ほどの侍《さむらい》も、敵《かたき》打《うち》の前にはうろたえて、旅《はた》籠《ご》の勘定を誤ったとあっては、末《まつ》代《だい》までの恥《ち》辱《じよく》になるわ。その方は一足先へまいれ。身どもは宿まで取って返そう」――彼はこう言い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、言われたとおり自分だけ敵打の場所へ急いだ。
が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎といっしょになった。その日は薄《うす》雲《ぐも》が空に迷っておぼろげな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗《なつめ》の葉が黄ばんでいる寺の塀《へい》外《そと》を徘《はい》徊《かい》しながら、勇んで兵《ひよう》衛《え》の参《さん》詣《けい》を待った。
しかしかれこれ午《ひる》近くなっても、いまだに兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参《さん》詣《けい》の有《う》無《む》を寺の門番に尋《たず》ねてみた。が、門番の答えにも、やはり今日はどうしたのだか、まだまいられぬということであった。
二人ははやる心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間《あいだ》に時は用《よう》捨《しや》なく移って、やがて夕暮れの色とともに、棗《なつめ》の実を食《は》み落とす鴉《からす》の声が、寂《さび》しく空に響《ひび》くようになった。喜三郎は気を揉《も》んで、甚太夫の側《そば》へ寄ると、「いっそ恩地の屋《や》敷《しき》の外へまいっておりましょうか」とささやいた。が、甚太夫は頭《かしら》を振って、許す気《け》色《しき》も見せなかった。
やがて寺の門の空には、這《は》い塞《ふさが》った間に、まばらな星《ほし》影《かげ》がちらつきだした。けれども甚太夫は塀《へい》に身を寄せて、執《しゆ》念《うね》く兵衛を待ちつづけた。実際敵《かたき》を持つ兵衛の身としては、夜《よ》更《ふ》けに人知れず仏参をすますことがないともかぎらなかった。
とうとう初《しよ》夜《や*》の鐘《かね》が鳴った。それから二《に》更《こう*》の鐘が鳴った。二人は露《つゆ》に濡《つ》れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
が、兵衛はいつまでたっても、ついに姿を現わさなかった。
大団円
甚《じん》太《だ》夫《ゆう》主《しゆう》従《じゆう》は宿を変えて、さらに兵《ひよ》衛《うえ》をつけ狙《ねら》った。が、その後四、五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈《はげ》しい吐《と》瀉《しや》を催《もよお》しだした。喜《き》三《さぶ》郎《ろう》は心配のあまり、すぐにも医者を迎《むか》えたかったが、病人は大事のもれるのを惧《おそ》れて、どうしてもそれを許さなかった。
甚太夫は枕《まくら》に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉はやまなかった。喜三郎はとうとう堪《た》え兼《か》ねて、いちおう医者の診《しん》脈《みやく》を請《こ》うべく、ようやく病人を納《なつ》得《とく》させた。そこで取りあえず旅《はた》籠《ご》の主人に、かかりつけの医者を迎えてもらった。主人はすぐに人を走らせて、近くに技《ぎ》を売っている、松《まつ》木《き》蘭《らん》袋《たい》という医者を呼びにやった。
蘭袋は向《むか》井《い》霊《れい》蘭《らん》の門に学んだ、神《しん》方《ぼう》の名の高い人物であった。が、一方また豪《ごう》傑《けつ》肌《はだ》の所もあって、日夜杯《さかずき》に親しみながらさらに黄《こう》白《はく》を意としなかった。「天《あま》雲《ぐも》の上をかけるも谷水をわたるも鶴《つる》のつとめなりけり」――こうみずから歌ったほど、彼の薬を請《こ》うものは、上《かみ》は一藩《ぱん》の老職から、下《しも》は露《ろ》命《めい》もつなぎがたい乞《こ》食《じき》非《ひ》人《にん》にまで及《およ》んでいた。
蘭袋は甚太夫の脈をとってみるまでもなく、痢《り》病《びよう》という見立てを下した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒《なお》らなかった。喜三郎は看《かん》病《びよう》のかたわら、ひたすら諸《もろ》々《もろ》の仏神に甚太夫の快方を祈《き》願《がん》した。病人も夜長の枕《まくら》元《もと》に薬を煮る煙を嗅《か》ぎながら、多年の本望を遂《と》げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
秋はますます深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群れを成した水鳥が、しばしば空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬をもらいに来ている一人の仲《ちゆう》間《げん》と落ち合った。それが恩《おん》地《ち》小《こ》左《ざ》衛《え》門《もん》の屋敷のものだということは、蘭袋の内《うち》弟《で》子《し》と話していることばにもおのずから明らかであった。彼はその仲間が帰ってから、顔《かお》馴《な》染《じ》みの内弟子に向かって、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬとみえますな」と言った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこにお出でになるお客人です」――人の好さそうな内弟子は、無《む》頓《とん》着《じやく》にこう返事をした。
それ以来喜三郎は薬をもらいに行くたびに、さりげなく兵衛の容《よう》子《す》を探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平《へい》太《た》郎《ろう》の命日ごろから、甚太夫と同じ痢《り》病《びよう》のために、苦しんでいるということがわかった。してみれば兵衛が祥《しよう》光《こう》院《いん》へ、あの日にかぎって詣《もう》でなかったのも、その病のせいに違《ちが》いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、いっそう病苦に堪《た》えられなくなった。もし兵衛が病死したら、もちろんいくら打ちたくとも、敵《かたき》の打てるはずはなかった。と言って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜《お》としたら、やはり永年の艱《かん》難《なん》は水《すい》泡《ほう》に帰するのも同然であった。彼はついに枕《まくら》を噛《か》みながら彼自身の快《かい》癒《ゆ》を祈《いの》るとともに、併《あわ》せて敵《かたき》瀬《せ》沼《ぬま》兵衛の快癒も祈らざるをえなかった。
が、運命はあくまでも、田《た》岡《おか》甚太夫に刻《こく》薄《はく》であった。彼の病は重《おも》りに重って、蘭袋の薬をもらってから、まだ十日とたたないうちに、今日か明日かという容《よう》態《だい》になった。彼はそういう苦痛の中にも、執《しゆう》念《ね》く敵《かたき》打《うち》の望みを忘れなかった。喜三郎は彼の呻《しん》吟《ぎん》の中に、しばしば八《はち》幡《まん》大《だい》菩《ぼ》薩《さつ》ということばがかすかにもれるのを聞いた。ことにある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、
「おれは命が惜《お》しいわ」と言った。喜三郎は畳《たたみ》へ手をついたまま、顔をもたげることさえできなかった。
その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎《むか》えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、さっそく彼の病床を見《み》舞《ま》った。「先生、永々のご介《かい》抱《ほう》、甚太夫かたじけなく存じ申す」――彼は蘭袋の顔を見ると、床《とこ》の上に起き直って、苦しそうにこう言った。「が、身ども息のあるうちに、先生をお見かけ申し、何分願いたい一《いち》儀《ぎ》がござる。お聞き届けくださりょうか」蘭袋は快くうなずいた。すると甚太夫はとぎれとぎれに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙《ねら》う敵《かたき》打《うち》の仔《し》細《さい》を話しだした。彼の声はかすかであったが、ことばは長物語の間《あいだ》にも、さらに乱れる容《よう》子《す》がなかった。蘭袋は眉《まゆ》をひそめながら、熱心に耳を澄《す》ませていた。が、やがて話が終わると、甚太夫はもう喘《あえ》ぎながら、「身ども今《こん》生《じよう》の思い出には、兵衛の容《よう》態《だい》が承《うけたまわ》りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか」と言った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこのことばを聞いた時には、涙《なみだ》が抑《おさ》えられないようであった。しかし彼は膝《ひざ》を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「ご安心めされい。兵衛殿の臨《りん》終《じゆう》は、今《こん》朝《ちよう》寅《とら》の上《じよう》刻《こく*》に、愚《ぐ》老《ろう》確かに見届け申した」と言った。甚太夫の顔には微《び》笑《しよう》が浮かんだ。それと同時にやつれた頬《ほお》へ、冷たく涙の痕《あと》が見えた。「兵衛――兵衛は冥《みよう》加《が》なやつでござる」――甚太夫は口《くち》惜《お》しそうにつぶやいたまま、蘭袋に礼を言うつもりか、床の上へ乱れた頭《かしら》を垂れた。そうしてついに空しくなった。……
寛《かん》文《ぶん》十年陰《いん》暦《れき》十月の末、喜三郎は独《ひと》り蘭袋に辞《じ》して、故郷熊本へ帰る旅程に上《のぼ》った。彼の振《ふり》分《わ》けの行《こう》李《り》の中には、求《もと》馬《め》左《さ》近《こん》甚太夫の三人の遺《い》髪《はつ》がはいっていた。
後 談
寛文十一年の正月、雲《うん》州《しゆう》松《まつ》江《え》祥《しよう》光《こう》院《いん》の墓《はか》所《しよ》には、四《し》基《き》の石《せき》塔《とう》が建てられた。施《せ》主《しゆ》は緊《かた》く秘したとみえて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧《そう》形《ぎよう》が紅《こう》梅《ばい》の枝《えだ》を提《さ》げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
その一人は城下に名高い、松《まつ》木《き》蘭《らん》袋《たい》に紛《まぎ》れなかった。もう一人の僧形は、見る影《かげ》もなく病みほうけていたが、それでもりりしい物ごしに、どこか武士らしい容《よう》子《す》があった。二人は墓前に紅梅の枝を手《た》向《む》けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……
後年黄《おう》檗《ばく》慧《え》林《りん*》の会《え》下《か*》に、当時の病みほうけた僧形とよく似寄った老《ろう》衲《のう》子《し*》がいた。これも順《じゆん》鶴《かく》という僧《そう》名《みよう》のほかは、何も素《す》性《じよう》の知れない人物であった。
(大正九年四月)
雌《め》蜘《ぐ》蛛《も》は真夏の日の光を浴《あ》びたまま、紅い庚《こう》申《しん》薔《ば》薇《ら》の花の底に、じっと何か考えていた。
すると空に翅《は》音《おと》がして、たちまち一匹の蜜《みつ》蜂《ばち》が、なぐれる《*》ように薔薇の花へおりた。蜘《く》蛛《も》はとっさに眼《め》をあげた。ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂の翅音の名《な》残《ご》りが、かすかな波動を残していた。
雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動きだした。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊《しべ》の下にひそんでいる蜜《みつ》へ嘴《くちばし》を落としていた。
残《ざん》酷《こく》な沈《ちん》黙《もく》の数秒が過ぎた。
紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔《よ》った蜂のうしろへ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐《は》いた。と思うと蜘蛛は猛《もう》然《ぜん》と、蜂の首もとへ跳《おど》りかかった。蜂は必死に翅《はね》を鳴らしながら、無《む》二《に》無《む》三《さん》に敵を刺《さ》そうとした。花粉はその翅に煽《あお》られて、紛《ふん》々《ぷん》と日の光に舞《ま》い上がった。が、蜘蛛はどうしても、噛《か》みついた口を離さなかった。
争《そう》闘《とう》は短かった。
蜂はまもなく翅が利《き》かなくなった。それから脚《あし》には痳《ま》痺《ひ》が起こった。最後に長い嘴が痙《けい》攣《れん》的に二、三度空《くう》を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変わりない、刻《こく》薄《はく》な悲劇の終局であった。――一《いつ》瞬《しゆん》の後、蜂《はち》は紅い庚《こう》申《しん》薔《ば》薇《ら》の底に、嘴《くちばし》を伸《の》ばしたまま横たわっていた。翅《はね》も脚《あし》もことごとく、香《におい》の高い花粉にまぶされながら、…………
雌《め》蜘《ぐ》蛛《も》はじっと身じろぎもせず、静かに蜂の血をすすり始めた。
恥《はじ》を知らない太陽の光は、ふたたび薔薇に返って来た真昼の寂《せき》寞《ばく》を切り開いて、この殺《さつ》戮《りく》と掠《りやく》奪《だつ》とに勝ち誇《ほこ》っている蜘蛛の姿を照らした。灰色の繻《しゆ》子《す》に酷《こく》似《じ》した腹、黒い南《ナン》京《キン》玉《だま*》を想《おも》わせる眼、それから癩《らい》を病んだような、醜《みにく》い節《ふし》々《ぶし》の硬《かた》まった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。
こういう残《ざん》虐《ぎやく》をきわめた悲劇は、何度となくその後くり返された。が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂《くる》っていた。――
そのうちに雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙《すき》間《ま》をくぐって、一つの枝《えだ》の先へ這《は》い上った。先には土いきれに凋《しぼ》んだ莟《つぼみ》が、花びらを暑熱に捻《ねじ》られながら、かすかに甘《あま》い匂《にお》いを放っていた。雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝とのあいだに休みない往来をつづけだした。と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、なかばその素《す》枯《が》れた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわりだした。
しばらくの後、そこには絹を張ったような円《えん》錐《すい》形《けい》の嚢《ふくろ》が一つ、まばゆいほどもう白々と、真夏の日の光を照り返していた。
蜘蛛は巣《す》ができあがると、その華《きや》奢《しや》な嚢の底に、無数の卵を産み落とした。それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷《し》き物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一《ひと》天《てん》井《じよう》、紗《しや》のような幕を張り渡した。幕はまるでドオムのような、ただ一つの窓を残して、この獰《どう》猛《もう》な灰色の蜘《く》蛛《も》を真昼の青空から遮《しや》断《だん》してしまった。が、蜘蛛は――産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩《や》せ衰えた体《からだ》を横たえたまま、薔《ば》薇《ら》の花も太陽も蜂《はち》の翅《は》音《おと》も忘れたように、たった一匹こつこつ《*》と、物思いに沈《しず》んでいるばかりであった。
何週間かは経過した。
その間《あいだ》に蜘蛛の嚢《ふくろ》の中では、無数の卵に眠《ねむ》っていた、新しい生命が眼を覚ました。それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横たわっている、今は老いはてた母蜘蛛であった。蜘蛛は糸の敷き物の下に、いつの間《ま》にか蠢《うごめ》きだした、新しい生命を感ずると、おもむろに弱った脚《あし》を運んで、母と子とを隔《へだ》てている嚢の天井を噛《か》み切った。無数の仔《こ》蜘《ぐ》蛛《も》は続々と、そこから広間へあふれて来た。と言うよりはむしろその敷き物自身が、百十の微粒分子になって、動きだしたとも言うべきくらいであった。
仔蜘蛛はすぐにドオムの窓をくぐって、日の光と風との通っている、庚申薔薇の枝《えだ》へなだれだした。彼らのある一団は炎《えん》暑《しよ》を重くささえている薔薇の葉の上にひしめき合った。またその一団は珍《めずら》しそうに、幾《いく》重《え》にも蜜《みつ》の匂《にお》いを抱《いだ》いた薔薇の花の中へまぐれこんだ。そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空を裂《さ》いている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。もし彼らに声があったら、この白日の庚申薔薇は、梢《こずえ》にかけたヴィオロンがおのずから風に歌うように、鳴りどよんだのに違《ちが》いなかった。
しかしそのドオムの窓の前には、影《かげ》のごとく痩せた母蜘蛛が、寂《さび》しそうに独《ひと》りうずくまっていた。のみならずそれはいつまでたっても、脚《あし》一つ動かす気《け》色《しき》さえなかった。まっ白な広間の寂《せき》寞《ばく》と凋《しぼ》んだ薔《ば》薇《ら》の莟《つぼみ》の匂《にお》いと、――無数の仔《こ》蜘《ぐ》蛛《も》を生んだ雌《め》蜘蛛はそういう産《さん》所《じよ》と墓とをかねた、紗《しや》のような幕の天《てん》井《じよう》の下に、天職をはたした母親のかぎりない歓《かん》喜《き》を感じながら、いつか死についていたのであった。――あの蜂《はち》を噛《か》み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は。
(大正九年四月)
素《す》戔《さの》嗚《おの》尊《みこと*》
高《たか》天《まが》原《はら》の国も春になった。
今は四《よ》方《も》の山々を見渡しても、雪の残っている峰《みね》は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草《くさ》原《はら》は一面にほのかな緑をなすって、その裾《すそ》を流れて行く天《あめ》の安《やす》河《かわ*》の水の光も、いつかなんとなく人なつかしい暖かみをたたえているようであった。ましてその河《かわ》下《しも》にある部落には、もう燕《つばくら》も帰って来れば、女たちが瓶《かめ》を頭に載《の》せて、水をくみに行く噴《ふ》き井《い》の椿《つばき》も、とうに点々と白い花を濡《ぬ》れ石の上に落としていた。――
そういうのどかな春の日の午後、天の安河の河《か》原《わら》には大勢の若者が集まって、余《よ》念《ねん》もなく力《ちから》競《くら》べにふけっていた。
はじめ、彼らは手《て》ん手《で》に弓矢を執《と》って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼らの弓の林の中からは、勇ましい弦《ゆんづる》の鳴る音が風のように起こったり止《や》んだりした。そうしてその音の起こるたびに、矢は無数の蝗《いなご》のごとく、日の光に羽根を光らせながら、おりから空にかかっている霞《かすみ》の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼《はやぶさ》の羽根の矢ばかりは、かならずほかの矢よりも高く――ほとんど影《かげ》も見えなくなるほど高く揚《あ》がった。それは黒と白と市《いち》松《まつ》模様の倭衣《しずり*》を着た、容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い一人の若者が、太い白《しら》檀《まゆみ》の弓を握《にぎ》って、時々切って放す利《とが》り矢であった。
その白《しら》羽《は》の矢が舞《ま》い上がるたびに、ほかの若者たちは空を仰《あお》いで、口々に彼の技《ぎ》倆《りよう》を褒《ほ》めそやした。が、その矢がいつも彼らのより高く揚がることを知ると、彼らはしだいに彼の征《そ》矢《や》に冷淡な態《たい》度《ど》を装《よそお》いだした。のみならず彼らのうちの何者かが、彼にはとうてい及《およ》ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、かえってその方へ讃《さん》辞《じ》を与《あた》えたりした。
容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせつづけた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛《ふん》々《ぷん》と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少なくなってきた。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星のように、たった一筋空へ上がるようになった。
そのうちに彼も弓を止めて、得意らしい色を浮かべながら、仲間の若者たちの方を振《ふ》り返った。が彼の近所にはその満足をともにすべく、一人の若者も見当たらなかった。彼らはもうその時には、みんな河原の水《み》際《ぎわ》により集まって、美しい天《あめ》の安《やす》河《かわ》の流れを飛び越えるのに熱中していた。彼らは互《たが》いに競《きそ》い合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、焼《や》き太《だ》刀《ち》のように日を照り返した河の中へころげ落ちて、まばゆい水《みず》煙《けむり》を揚げることもあった。が、たいていは向こうの汀《なぎさ》へ、ちょうど谷を渡る鹿《しか》のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振《ふ》り返っては声々に笑ったり話したりしていた。
容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者はこの新しい遊《ゆう》戯《ぎ》を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨《す》てて、身軽く河の流れを躍《おど》り越えた。そこは彼らが飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓《とん》着《じやく》しなかった。彼らには彼のあとで飛んだ――彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、背《せい》の高い美《び》貌《ぼう》の若者の方が、はるかに人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の倭衣《しずり》を着ていたが、頸《くび》にかけた勾《まが》玉《たま》や腕《うで》にはめた釧《くしろ*》などは、誰よりも精《せい》巧《こう》な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいとうらやましそうな眼《め》をあげて、その若者を眺《なが》めたが、やがて彼らの群れを離れて、たった一人陽炎《かげろう》の中を河下の方へ歩き出した。
河下の方へ歩きだした彼は、やがて誰一人飛んだことのない、三丈ほども幅のある流れの汀《なぎさ》へ足を止めた。そこはいったん湍《たぎ》った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱《よど》んでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二、三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、すさまじい水《みず》煙《けむり》を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。
彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所とたいして離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼らの目にもはいった。彼らのある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」というように腹を抱《かか》えて笑いだした。と同時にまたある者は、やはりはやしたてながらも、以前よりははるかに同情のある声《せい》援《えん》のことばを与えたりした。そういう好意のある連中の中には、あの精巧な勾《まが》玉《たま》や釧《くしろ》の美しさを誇《ほこ》っている若者なども交じっていた。彼らは彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、はじめて彼にいくぶんの親しみを持つことができたのであった。が、彼らも一《いつ》瞬《しゆん》の後には、また以前の沈《ちん》黙《もく》に――敵意を蔵した沈黙にかえらなければならないことができた。
というのは河に落ちた彼が、濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》のようになったまま、向こうの汀《なぎさ》へ這《は》い上がったと思うと、執《しゆう》念《ねん》深《ぶか》くもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を縮めながら、明《みよう》礬《ばん》色《いろ*》の水の上へ踊《おど》り上がったと思ううちに、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの水《み》際《ぎわ》へ、雲のような砂《すな》煙《けむり》を舞《ま》い上げながら、どさりと大きな尻《しり》餅《もち》をついた。それは彼らの笑いを買うべく、余りに荘《そう》厳《ごん》すぎる滑《こつ》稽《けい》であった。もちろん彼らの間からは、喝《かつ》采《さい》も歓《かん》呼《こ》も起こらなかった。
彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体《からだ》を起こして、仲間の若者たちの方を眺《なが》めやった。が、彼らはもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽《あ》きたとみえて、また何か新しい力競《くら》べを試むべく、面白そうに笑い興じながら、河《かわ》上《かみ》の方へ急ぐ所であった。それでもまだ容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者は、快活な心もちを失わなかった。というよりも失うはずがなかった。なぜと言えば彼らの不快はいまだに彼には通じなかった。彼はこういう点になると、実際どこまでもおめでたくできあがった人間の一人であった。しかしまたそのおめでたさがあらゆる強者に特有な烙《やき》印《いん》であることも事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ滴《しずく》を垂《た》らしたまま、うららかな春の日に目《ま》かげをして、のそのそ砂の上を歩きだした。
その間《あいだ》にほかの若者たちは、河《か》原《わら》に散在する巌《がん》石《せき》を持ち上げ合う遊《ゆう》戯《ぎ》を始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ陽炎《かげろう》の中にころがっていた。彼らはみんな腕《うで》まくりをして、なるべく大きい岩を抱き起こそうとした。が、手ごろな巌石のほかはなかでも膂《りよ》力《りよく》のたくましい五、六人の若者たちでないと、容《よう》易《い》に砂から離《はな》れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼ら五、六人の独占する遊戯に変わってしまった。彼らはいずれも大きな岩を軽々ともたげたり投げたりした。ことに赤と白と三角模様の倭衣《しずり》の袖《そで》をまくり上げた、顔じゅう鬚《ひげ》に埋《うず》まっている、背《せい》の低い猪《い》首《くび》の若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲にたたずんだ若者たちは、彼の非《ひ》凡《ぼん》な力《ちから》業《わざ》に賞《しよう》讃《さん》の声を惜《お》しまなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、しだいに大きな巌石に力を試みようとするらしかった。
あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五、六人の力競べのまっ最中へ来合わせたのであった。
あの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者は、両《りよう》腕《うで》を胸に組んだまま、しばらくは力自慢の五、六人が勝負を争うのを眺めていた。が、やがて技《ぎ》癢《よう*》に堪《た》えかねたのか、自分も水だらけな袖《そで》をまくると、幅の広い肩《かた》をそびやかせて、まるで洞《ほら》穴《あな》を出る熊《くま》のように、のそのそとその連中の中へはいって行った。そうしてまだ誰も持ち上げない巌石の一つを抱《だ》くが早いか、何の苦もなくその岩を肩の上までさし上げて見せた。
しかし大勢の若者たちは、依《い》然《ぜん》として彼には冷淡であった。ただ、その中でもさっきから賞《しよう》讃《さん》の声を浴びていた、背《せい》の低い猪《い》首《くび》の若者だけは、容《よう》易《い》ならない競争者が現われたことを知ったとみえて、さすがにねたましそうな流し眼をじろじろ彼の方へ注いでいた。そのうちに彼は担《かつ》いだ岩を肩《かた》の上で一揺《ゆ》すり揺すってから、人のいない向こうの砂の上へ勢いよくどうと投げ落とした。するとあの猪《い》首《くび》の若者はちょうど餌《えさ》に饑《う》えた虎《とら》のように、猛《もう》然《ぜん》と身を躍《おど》らせながら、その巌石へ飛びかかったと思うと、とっさの間に抱《かか》え上げて、彼にも劣らず楽々と肩よりも高くかざして見せた。
それはこの二人の腕《わん》力《りよく》が、ほかの力自慢の連中よりも数段上にあるということを雄《ゆう》弁《べん》に語っている証《しよう》拠《こ》であった。そこで今まで臆《おく》面《めん》もなく力《ちから》競《くら》べをしていた若者たちはいずれも興のさめた顔を見合わせながら、周囲にたたずんでいる見物仲間へいやでも加わらずにはいられなかった。その代わりまたあとに残った二人は、本来さほど敵意のある間《あいだ》柄《がら》でもなかったが、騎《き》虎《こ》の勢い《*》でやむを得ず、どちらか一方が降参するまで雌《し》雄《ゆう》を争わずにはいられなくなった。この形勢を見た大勢の若者たちは、あの猪首の若者がさし上げた岩を投げると同時に、これまでよりはいっそう熱心にどっとどよみを作りながら、今度はずぶ濡《ぬ》れになった彼の方へいつになくいっせいに眼《まなこ》を注いだ。が、彼らがただ勝負にのみ興味を持っているということは、――彼自身に対してはやはり好意を持っていないということは、彼らの意地悪そうな眼の中にも、明らかによめる事実であった。
それでも彼は相変わらずゆうゆうと手に唾《つばき》など吐《は》きながら、さっきのよりさらに一《ひと》嵩《かさ》大きい巌《がん》石《せき》の側へ歩み寄った。それから両手に岩を抑《おさ》えて、しばらく呼吸を計っていたが、たちまちうんと力を入れると、一気に腹まで抱《かか》え上げた。最後にその手をさし換《か》えてから、見る見るうちにまた肩までもののみごとに担《かつ》いで見せた。が、今度は投げ出さずに、眼で猪《い》首《くび》の若者を招《まね》くと、人の好《よ》さそうな微《び》笑《しよう》を浮かべながら、
「さあ、受け取るのだ」と声をかけた。
猪首の若者は数歩を隔《へだ》てて、時々髭《ひげ》を噛《か》みながら、あざけるように彼を眺《なが》めていたが、
「よし」と一《ひと》言《こと》答えると、つかつかと彼の側へ進み寄って、すぐにその巌石を小山のような肩《かた》へ抱《だ》き取った。そうして二、三歩歩いてから、一度眼の上までさし上げておいて、力のかぎり向こうへほうり投げた。岩はすさまじい地《じ》響《ひび》きをさせながら、見物の若者たちの近くへ落ちて、銀粉のような砂《すな》煙《けむり》を揚《あ》げた。
大勢の若者たちはまた以前のようにどよめき立った。が、その声がまだ消えないうちに、もうあの猪首の若者は、さらに勝敗を争うべく、前にも増して大きい岩を水《み》際《ぎわ》の砂から抱《だ》き起こしていた。
二人はこういう力《ちから》競《くら》べを何回となく闘《たたか》わせた。そのうちにおいおい二人とも、疲《ひ》労《ろう》の気《け》色《しき》を現わしてきた。彼らの顔や手足には、玉のような汗が滴《したた》っていた。のみならず彼らの着ている倭衣《しずり》は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼らは息を切らせながら、必死に巌《がん》石《せき》をもたげ合って、最後の勝敗が決するまでは容《よう》易《い》にやめそうな容《よう》子《す》もなかった。
彼らを取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、ますます強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘《とう》鶏《けい》や闘犬の見物同様、残《ざん》忍《にん》でもあれば冷《れい》酷《こく》でもあった。彼らはもう猪《い》首《くび》の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、あまりに強く彼らの心を興《こう》奮《ふん》の網《あみ》に捉《とら》えていた。だから彼らは二人の力《りき》者《しや》に、代わる代わる声《せい》援《えん》を与えた。古来そのために無数の鶏《にわとり》、無数の犬、無数の人間がいたずらに尊い血を流した、――宿命的にあらゆるものを狂《きよう》気《き》にさせる声援を与えた。
もちろんこの声援は二人の若者にも作用した。彼らは互《たが》いに血走った眼の中に、恐るべき憎《ぞう》悪《お》を感じ合った。ことに背の低い猪首の若者は、露《ろ》骨《こつ》にその憎悪を示してはばからなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶《ぐう》然《ぜん》とは解釈しがたいほど、あの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者の足もとに近くころげ落ちた。が、彼はそういう危険に全然無《む》頓《とん》着《じやく》でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいてくる勝敗に心を奪《うば》われているのかもしれなかった。
彼は今も相手の投げた巌石を危うくかわしながら、とうとうしまいには勇を鼓《こ》して、これも水《み》際《ぎわ》に横たわっている牛ほどの岩を引き起こしにかかった。岩は斜《なな》めに流れを裂《さ》いて、淙《そう》々《そう》とたぎる春の水に千《ち》年《とせ》の苔《こけ》を洗わせていた。この大岩をもたげることは、高《たか》天《まが》原《はら》第一の強《ごう》力《りき》と言われた手《た》力《ぢから》雄《おの》命《みこ*》でさえ、たやすくできようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱《いだ》くと、片《かた》膝《ひざ》砂へついたまま、渾《こん》身《しん》の力を揮《ふる》い起こして、ともかくも岩の根を埋《うず》めた砂の中からは抱《かか》え上げた。
この人間以上の膂《りよ》力《りよく》は、周囲にたたずんだ若者たちから、ほとんど声《せい》援《えん》を与《あた》うべき余《よ》裕《ゆう》さえ奪《うば》った観があった。彼らは皆《みな》息を呑《の》んで千《ち》曳《びき》の大岩《*》を抱えながら、砂に片《かた》膝《ひざ》ついた彼の姿を眼も離《はな》さずに眺《なが》めていた。彼はしばらくの間《あいだ》動かなかった。しかし彼が懸《けん》命《めい》の力をつくしていることだけは、その手足から滴《したた》り落ちる汗の絶えないのにも明らかであった。それがやや久しくつづいた後、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみをあげた。ただそのどよみは前のような、勢いのよい声援の叫《さけ》びではなく、思わず彼らの口をもれた驚《きよう》歎《たん》の呻《うめ》きにほかならなかった。なぜと言えばこの時彼は、大岩の下に肩《かた》を入れて、今までついていた片膝を少しずつもたげだしたからであった。岩は彼が身を起こすとともに、一分ずつ、一寸ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうしてふたたび彼らの間から一種のどよみが起こった時には、彼はすでに突《とつ》兀《こつ》たる巌《がん》石《せき》を肩にささえながら、みずら《*》の髪《かみ》を額《ひたい》に乱して、あたかも大地を裂《さ》いて出た土《つち》雷《いかずち*》の神のごとく、河《か》原《わら》に横たわる乱石の中に雄《お》々《お》しくも立ち上がっていた。
千《ち》曳《びき》の大岩を担《かつ》いだ彼は、二《ふた》足《あし》三《み》足《あし》蹌《そう》踉《ろう》と流れの汀《なぎさ》から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻《しん》吟《ぎん》するような声で、「いいか渡すぞ」と相手を呼んだ。
猪《い》首《くび》の若者は逡《しゆん》巡《じゆん》した。少なくとも一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》は、凄《せい》壮《そう》そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振《ふる》い起こして、「よし」と噛《か》みつくように答えたと思うと、奮《ふん》然《ぜん》と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱《だ》き取ろうとした。
岩はほどなく彼の肩《かた》から、猪首の若者の肩へ移りだした。それはあたかも雲の堰《せき》が押《お》し移るがごとく緩《かん》慢《まん》であった。と同時にまた雲の峰《みね》が堰《せ》き止めがたいごとく刻《こく》薄《はく》であった。猪首の若者はまっかになって、狼《おおかみ》のように牙《きば》を噛《か》みながら、しだいにのしかかってくる千《ち》曳《びき》の岩をたくましい肩にささえようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体《からだ》は刹《せつ》那《な》の間《あいだ》、大風の中の旗《はた》竿《ざお》のごとく揺《ゆ》れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋《うず》めたひげを除《のぞ》いて、見る見る色を失いだした。そうしてその青ざめた額から、足もとのまばゆい砂の上へしきりに汗の玉が落ち始めた。――と思う間《ま》もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分ずつ、じりじり彼を圧していった。彼はそれでも死力をつくして、両手に岩をささえながら、最後まで悪《あく》闘《とう》をつづけようとしたが、岩は依《い》然《ぜん》として運命のごとく下がって来た。彼の体は曲がりだした。彼の頭も垂《た》れるようになった。今の彼はどこから見ても、石《いし》塊《くれ》の下にもがいている蟹《かに》とさらに変わりはなかった。
周囲に集まった若者たちは、あまりのことに気を奪《うば》われて、茫《ぼう》然《ぜん》とこの悲劇を見守っていた。また実際彼らの手では、とうてい千曳の大岩の下から彼を救い出すことはむずかしかった。いや、あの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者でさえ、今となっては相手の背《せな》からさっきもたげた大《だい》盤《ばん》石《じやく》を取りのけることができるかどうか、疑わしいのはもちろんであった。だから彼もしばらくの間《あいだ》は、恐《きよう》怖《ふ》と驚《きよう》愕《がく》とを代わる代わる醜い顔に表わしながら、ただ、漫《まん》然《ぜん》と自失した眼《まなこ》を相手に注ぐよりほかはなかった。
そのうちに猪《い》首《くび》の若者は、とうとう大岩に背を圧《お》されて、崩《くず》折《お》れるように砂へ膝《ひざ》をついた。その拍《ひよう》子《し》に彼の口からは、叫《さけ》ぶとも呻《うめ》くとも形容できない、苦しそうな声が一《ひと》声《こえ》あふれてきた。あの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚《さ》めたごとく、猛《もう》然《ぜん》と身をひるがえして、相手の上におおいかぶさった大岩を向こうへ押《お》しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけないうちに、猪首の若者は多《た》愛《あい》もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音とともに、眼からも口からもおびただしくあざやかな血をほとばしらせた。それがこの憐《あわ》れむべき強《ごう》力《りき》の若者の最《さい》期《ご》であった。
あの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者は、ぼんやり手を束《つか》ねたまま、陽炎《かげろう》の中に倒《たお》れている相手の屍《し》骸《がい》を見おろした。それから苦しそうな視《し》線《せん》をあげて、無言の答えを求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見《み》廻《まわ》した。が、大勢の若者たちはうららかな日の光を浴びて、いずれも黙《もく》念《ねん》と眼を伏《ふ》せながら、一人も彼の醜い顔を仰《あお》ぎ見ようとするものはなかった。
高《たか》天《まが》原《はら》の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装《よそお》うことができなくなった。彼らのある一団は彼の非《ひ》凡《ぼん》な腕《わん》力《りよく》に露《ろ》骨《こつ》な嫉《しつ》妬《と》を示しだした。他の一団はまた犬のごとく盲《もう》目《もく》的《てき》に彼を崇《すう》拝《はい》した。さらにまた他の一団は彼の野性とおめでたさとに残《ざん》酷《こく》な嘲《ちよう》笑《しよう》を浴《あ》びせかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼らがいずれも彼に対して、一種の威《い》圧《あつ》を感じ始めたことは、打ち消しようのない事実であった。
こういう彼らの感情の変化は、もちろん彼自身も見《み》逃《のが》さなかった。が、彼のために悲《ひ》惨《さん》な死を招いた、あの猪《い》首《くび》の若者の記《き》憶《おく》は、いまだに彼の心の底に傷《いた》ましい痕《こん》跡《せき》を残していた。この記憶を抱《いだ》いている彼は、彼らの好意と反感との前に、いずれも当《とう》惑《わく》に似た感じを味わわないではいられなかった。ことに彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞《しゆう》恥《ち》の情さえ感じがちであった。これが彼の味方には、今までよりまたいっそう、彼に好意のまなざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせることにもなるらしかった。
彼はなるべく人を避《さ》けた。そうして多くはたった一人、その部落をめぐる山間の自然のうちに時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤《こ》独《どく》に苦しんでいる彼の耳へも、人なつかしい山《やま》鳩《ばと》の声を送って来ることを忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆《あし》とともに、彼の寂《せき》寥《りよう》を慰《なぐさ》むべく、ほのかに暖かい春の雲を物静かな水に映していた。藪《やぶ》木《き》の交《ま》じる針《はり》金雀花《えにしだ》、熊《くま》笹《ざさ》の中から飛び立つ雉子《きぎす》、それから深い谷川の水光を乱す鮎《あゆ》の群れ、――彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見いだした。そこには愛《あい》憎《ぞう》の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし――しかし彼は人間であった。
時々彼が谷川の石の上に、水をかすめて去来する岩《いわ》燕《つばめ》を眺《なが》めていると、あるいは山《やま》峡《かい》の辛夷《こぶし》の下に、蜜《みつ》に酔って飛びもできない虻《あぶ》の羽《は》音《おと》を聞いていると、なんとも言いようのない寂《さび》しさが突然彼を襲《おそ》うことがあった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいないことを見せられると、かならず落《らく》莫《ばく》たる空《くう》虚《きよ》の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎《なげ》くより、より大きいという心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣《けもの》のごとくさまよいながら、幸福とともに不可解な不幸をも味わわずにはいられなかった。
彼はこの寂しさに悩《なや》まされると、しばしば山腹に枝《えだ》を張った、高い柏《かしわ》の梢《こずえ》に上って、はるか目の下の谷間の景《け》色《しき》にぼんやりと眺め入ることがあった。谷間にはいつも彼の部落が、天《あめ》の安《やす》河《かわ》の河《か》原《わら》に近く、碁《ご》石《いし》のように点々と茅《か》葺《やぶ》き屋根を並《なら》べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火《か》食《しよく》の煙《けむり》が幾すじもかすかに立ち昇っている様《さま》も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りにまたがりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝をゆすって、おりおり枝頭の若芽の匂《にお》いを日の光の中にあおり立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れるたびに、こういうことばを細々とささやいていくように思われた。
「素《す》戔《さの》嗚《お》よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれといっしょに来い。おれといっしょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」
しかし素《す》戔《さの》嗚《お》は風といっしょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤《こ》独《どく》な彼を高《たか》天《まが》原《はら》の国に繋《つな》いでいたか。――彼はみずからそう尋《たず》ねると、かならず恥《は》ずかしさに顔が赤くなった。それはこの容《よう》貌《ぼう》の醜《みにく》い若者にも、ひそかに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をするということは、彼自身にもなんとなく不似合いの感じがしたからであった。
彼がはじめてこの娘に遇《あ》ったのは、やはりあの山腹の柏《かしわ》の梢《こずえ》に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫《ぼう》然《ぜん》と、目の下に白くうねっている天《あめ》の安《やす》河《かわ》を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起こった。その声はまるで氷の上へばらばらと礫《こいし》を投げたように、彼の寂《さび》しい真昼の夢をとっさの間《あいだ》に打ち砕《くだ》いてしまった。彼は眠りを破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空《あ》き地へ眼《め》を落とした。するとそこには三人の女が、うららかな光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、しきりに何か笑い興じていた。
彼らは皆竹籠《かご》を臂《ひじ》にかけている所を見ると、花か木の芽か山《やま》独活《うど》を摘《つ》みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知っていなかった。が、彼らがあの部落の中でも、卑《いや》しいものの娘でないことは、彼らの肩《かた》にかかっている、美しい領《ひ》巾《れ*》を見ても明らかであった。彼らはその領巾を微風にひるがえしながら、若草の上に飛び悩《なや》んでいる一羽の山《やま》鳩《ばと》を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫《ぬ》って、時々一生懸《けん》命《めい》に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上がることができないようであった。
素《す》戔《さの》嗚《お》は高い柏《かしわ》の上から、しばらくこの騒《さわ》ぎを見おろしていた。するとそのうちに女たちの一人は臂《ひじ》にかけた竹籠もそこへ捨てて、危うく鳩《はと》を捕えようとした。鳩はまたひとしきり飛び立ちながら、柔らかい羽根を雪のように紛《ふん》々《ぷん》とあたりへ撒《ま》き散らした。彼はそれを見るが早いか、今までまたがっていた太《ふと》枝《えだ》をつかんで、だらりと宙に吊《つ》り下がった。と思うと一つはずみをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛びおりた。が、その拍子に足をすべらせて、あっけにとられた女たちの中へ、仰《あお》向《む》けさまにころがってしまった。
女たちは一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、唖《おし》のように顔を見合わせていたが、やがて誰から笑うともなく、愉《ゆ》快《かい》そうに皆笑いだした。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間《ま》の悪そうな顔を出しながら、それでもわざと傲《ごう》然《ぜん》と、女たちの顔をにらめまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙《けむ》っている林の奥《おく》へ、ばたばた逃《に》げて行ってしまった。
「あなたはいったいどこにいらしったの?」
やっと笑い止《や》んだ女たちの一人はさげすむようにこう言いながら、じろじろ彼の姿を眺《なが》めた。が、その声には、まだ抑《おさ》え切れないおかしさが残っているようであった。
「あすこにいた。あの柏の枝の上に」
素戔嗚は両《りよう》腕《うで》を胸に組んで、やはり傲《ごう》然《ぜん》と返事をした。
女たちは彼の答えを聞くと、もう一度顔を見合わせて笑いだした。それが素《す》戔《さの》嗚《おの》尊《みこと》には腹も立てば同時にまたなんとなくうれしいような心もちもした。彼は醜《みにく》い顔をしかめながら、ことさらに彼らをおびやかすべく、いっそう不《ふ》機《き》嫌《げん》らしい眼《め》つきを見せた。
「何がおかしい?」
が、彼らには彼の威《い》嚇《かく》も、いっこう効果がないらしかった。彼らはさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥《は》ずかしそうに、美しい領巾《ひれ》をもてあそびながら、
「じゃどうしてまた、あそこからおりていらしったの?」と言った。
「鳩《はと》を助けてやろうと思ったのだ」
「私《あたし》たちだって助けてやるつもりでしたわ」
三番目の娘は笑いながら、活《い》き活きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年《ねん》輩《ぱい》から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔もいちばん美しければ、容《よう》子《す》もすぐれて溌《はつ》溂《らつ》としていた。さっき竹籠《かご》を投げ捨てながら、危うく鳩を捕えようとしたのも、この利発らしい娘に違《ちが》いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、なぜということもなく狼《ろう》狽《ばい》した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にそのあわて方を見せたくないという心もちもあった。
「嘘《うそ》をつけ」
彼は一生懸《けん》命《めい》に、乱暴な返事をほうりつけた。が、その嘘でないことは、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘《うそ》なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやるつもりでしたわ」
彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当《とう》惑《わく》を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべりだした。
「ほんとうですわ」
「どうして嘘だとお思い?」
「あなたばかり鳩がかわいいのじゃございません」
彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣《す》を壊《こわ》された蜜《みつ》蜂《ばち》のごとく、三方から彼の耳を襲《おそ》って来る女たちの声に驚《きよう》嘆《たん》していた。が、やがて勇気を振《ふる》い起こすと、胸に組んでいた腕《うで》を解いて、今にも彼らを片っ端《ぱし》から薙《な》ぎ倒《たお》しそうな擬《ぎ》勢《せい》を示しながら、雷《いかずち》のように怒《ど》鳴《な》りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向こうへ行け。行かないと、――」
女たちはさすがに驚《おどろ》いたらしく、あわてて彼の側《かたわら》を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁《よめ》菜《な》の花を摘《つ》み取っては、いっせいに彼へほうりつけた。薄《うす》紫《むらさき》の嫁菜の花は所きらわず紛々と、素戔嗚尊の体《からだ》に降りかかった。彼はこの匂《にお》いの好い雨を浴びたまま、あっけにとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけたことを思い出して、両腕を大きく開くやいなや、猛《もう》然《ぜん》といたずらな女たちの方へ、二足三足突進した。
彼らはしかしその瞬《しゆん》間《かん》に、すばやく林の外へ逃《に》げて行った。彼は茫《ぼう》然《ぜん》と立ち止まったなり、しだいに遠くなる領巾《ひれ》の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。するとなぜか薄笑いが、自然と脣《くちびる》に上って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢《こずえ》の向こうにある、うららかな春の空を眺《なが》めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞こえた。が、まもなくそれも消えて、あとにはただ木の栄えをはらんだ、明るい沈《ちん》黙《もく》があるばかりになった。……
何分か後、あの羽根を傷つけた山《やま》鳩《ばと》は、おずおずまたそこへ還《かえ》って来た。その時もう草の上の彼は、静かな寝《ね》息《いき》をもらしていた。が、仰《あお》向《む》いた彼の顔には、梢から落ちる日の光といっしょに、いまだに微笑の影があった。鳩は嫁菜の花を踏《ふ》みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔をのぞくと、仔《し》細《さい》らしく首を傾《かたむ》けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――
その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々あざやかに浮かぶようになった。彼は前にも言ったごとく、彼自身にもこういう事実を認めることが恥《は》ずかしかった。まして仲間の若者たちには、一《ひと》言《こと》もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅《か》ぎつけるには、あまりに平《へい》生《ぜい》の素《す》戔《さの》嗚《お》が、恋愛とははるかに縁《えん》の遠い、野《や》蛮《ばん》な生活を送りすぎていた。
彼は相変わらず人を避《さ》けて、山間の自然に親しみがちであった。どうかすると一夜《ひとよ》じゅう、森林の奥《おく》を歩き廻《まわ》って、冒険《ぼうけん》を探すこともないではなかった。その間に彼は大きな熊《くま》や猪《しし》などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰《みね》を越えて、岩石の間に棲《す》んでいる大《おお》鷲《わし》を射殺しにも行ったりした。が、彼はいまだかつて、その非《ひ》凡《ぼん》な膂《りよ》力《りよく》をつくすべき、手《て》強《ごわ》い相手を見いださなかった。山の向こうに穴《けつ》居《きよ》している、慓《ひよう》悍《かん》の名を得た侏儒《こびと》でさえ彼に出合うたびごとに、かならず一人ずつは屍《し》骸《がい》になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥《ちよう》獣《じゆう》を時々部落へ持って帰った。
そのうちに彼の武勇の名は、ますます多くの敵味方を部落の中につくっていった。したがって彼らは機会さえあると、公然といがみ合うことをはばからなかった。彼はもちろんできるだけ、こういう争いを起こさせまいとした。が、彼らは彼ら自身のために、彼の意《い》嚮《こう》には頓《とん》着《じやく》なく、ほとんど何事にも軋《あつ》轢《れき》し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱《いだ》きながら、しかもその反目のただ中へ、われ知らずしだいに引き込まれていった。――
現に一度はこういうことがあった。
あるうららかな春の日暮れ、彼は弓矢をたばさみながら、部落のうしろに拡《ひろ》がっている草山を独《ひと》り下って来た。その時の彼の心のうちには、さっき射損じた一頭の牡《お》鹿《じか》が、まだおりおりは未練がましく、あざやかな姿を浮かべていた。ところが草山がやや平らになって、一本の楡《にれ》の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四、五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、しきりに何か言い争っていた。彼らが皆この草山へ、牛馬を飼《か》いに来るものたちだということは、彼らのまわりに草を食《は》んでいる家《か》畜《ちく》を見ても明らかであった。ことにその一人の若者は、彼を崇《すう》拝《はい》する若者たちの中でも、ほとんど奴《ぬ》僕《ぼく》のごとく彼に仕えるために、かえって彼の反感を買ったことがある男に違《ちが》いなかった。
彼は彼らの姿を見ると、とっさに何事か起こりそうな、忌《い》まわしい予感に襲《おそ》われた。しかしここへ来かかった以上、もとより彼らの口論を見て過ぎるわけにもいかなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ」と声をかけた。
その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭《あ》ったように、うれしそうに眼を輝《かがや》かせながら、相手の若者たちの理《り》不《ふ》尽《じん》なことをとうとうと早口にしゃべりだした。なんでもそのことばによると、彼らはその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷《きず》つけたり虐《いじ》めたりするらしかった。彼はそういう不平を鳴らす間《ま》も、時々相手をにらみつけて、
「逃《に》げるなよ。今に返報をしてやるから」などと、素戔嗚の勇力を笠《かさ》に着た、横《おう》柄《へい》な文句を並《なら》べたりした。
一〇
素《す》戔《さの》嗚《お》は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野《や》蛮《ばん》な彼にも似合わない、調停のことばを述《の》べようとした。するとその刹《せつ》那《な》に彼の崇《すう》拝《はい》者《しや》は、よくよく口《くち》惜《お》しさに堪《た》え兼《か》ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬《ほお》を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へつかみかかった。
「待て。こら、待てと言ったら待たないか」
こう叱《しか》りながら素《す》戔《さの》嗚《お》は、無理に二人を引き離《はな》そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕《うで》をつかまれると、血迷った眼をいからせながら、今度は彼へしがみついて来た。と同時に彼の崇《すう》拝《はい》者《しや》は、腰《こし》にさした鞭《むち》をふりかざして、まるで気でも違《ちが》ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちももちろんこの男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼らはとっさに二組にわかれて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不《ふ》慮《りよ》のできごとに度を失った素戔嗚へ、紛《ふん》々《ぷん》と拳《こぶし》を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧《けん》嘩《か》に加わるよりほかに途《みち》はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭《こうべ》に下った時、彼は理非も忘れるほど真《しん》底《そこ》から一時に腹が立った。
たちまち彼らは入り乱れて、互いに打ったり打たれたりしだした。あたりに草を食《は》んでいた牛や馬も、この騒《さわ》ぎに驚いて、四方へ一度に逃《に》げて行った。が、それらの飼《か》い主たちは拳をふるうのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行《ゆく》方《え》に気をとめる容《よう》子《す》は見えなかった。
が、そのうちに素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫《くじ》かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意《い》気《く》地《じ》なく草山を逃げて下って行った。
素戔嗚は相手を追い払《はら》うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼らに未練があるのを押し止《とど》めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのがいいのだ」
若者はやっと彼の手を離《はな》れると、べたりと草の上へすわってしまった。彼が手ひどくなぐられたことは、一面に地《じ》腫《ば》れのした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急におかしさがこみあげて来た。
「どうした? 怪《け》我《が》はしなかったか?」
「なに、したってかまいはしません。今日《きよう》という今日こそはあいつらに、一《ひと》泡《あわ》吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、お怪《け》我《が》はありませんか」
「うん、瘤《こぶ》が一つできただけだった」
素戔嗚はこういう一《ひと》言《こと》にいまいましさを吐《は》き出しながら、そこにあった一本の楡《にれ》の根《ね》本《もと》に腰《こし》をおろした。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮きあがっていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格《かく》闘《とう》が夢《ゆめ》のような気さえしないではなかった。
二人は草を敷いたまま、しばらくは黙《だま》って物静かな部落の日暮れを見下していた。
「どうです。瘤《こぶ》は痛みますか」
「たいして痛まない」
「米を噛《か》んでつけておくといいそうですよ」
「そうか。それはいいことを聞いた」
一一
ちょうどこの喧《けん》嘩《か》と同じように、素《す》戔《さの》嗚《お》はしだいにある一団の若者たちをいやでも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上からいうと、ほとんどこの都落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰《あお》ぐように、思兼尊《おもいかねのみこと*》だの手《た》力《ぢから》雄《おの》尊《みこと》だのという年長者に敬意を払《はら》っていた。しかしそれらの尊《みこと》たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
ことに思兼尊などは、むしろ彼の野《や》蛮《ばん》な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二、三日たったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古《ふる》沼《ぬま》へ魚を釣《つ》りに行っていると、偶《ぐう》然《ぜん》そこへ思兼尊が、これも独《ひと》り分け入って来た。そうして隔《かく》意《い》なく彼といっしょに、朽《く》ち木の幹《みき》へ腰をおろして、思いのほか打ち融《と》けた世間話などをし始めた。
尊はもう髪《かみ》も髯《ひげ》も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、かねてまた部落第一の詩人という名《めい》誉《よ》もになっていた。そのうえ部落の女たちのなかには、尊を非《ひ》凡《ぼん》な呪《まじ》物《もの》師《し》のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇《ひま》さえあると、山《さん》谷《こく》の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
彼はもらろん思兼尊に、反感を抱《いだ》くべき理由がなかった。だから糸を垂《た》れたまま、喜んで尊の話し相手になった。二人はそこで長い間、古《ふる》沼《ぬま》にのぞんだ柳《やなぎ》の枝《えだ》が、銀《しろがね》のような花をつけた下に、いろいろなことを話し合った。
「近ごろはあなたの剛《ごう》力《りき》が、だいぶ評判のようじゃありませんか」
しばらくしてから思兼尊は、こう言って、片《かた》頬《ほお》に笑《えみ》を浮かべた。
「評判だけ大きいのです」
「それだけでも結構ですよ。すべてのことは評判があって、はじめてあり甲《が》斐《い》があるのですから」
素戔嗚にはこの答えが、いっこう腑《ふ》に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私《わたくし》が剛《ごう》力《りき》でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです」
「しかし人がすくわなくっても、砂《しや》金《きん》ははじめから砂金でしょう」
「さあ、砂金だとわかるのは、人にすくわれてからのうえじゃありませんか」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思ってすくったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう」
素戔嗚はなんだか思兼尊に、からかわれているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺《しわ》だらけな目《め》尻《じり》には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気《け》色《しき》は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが」
「もちろんつまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間《ま》違《ちが》っているのです」
思兼尊はこう言うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘《つ》んで来たらしい蕗《ふき》の薹《とう》の匂《にお》いを嗅《か》ぎ始めた。
一二
素《す》戔《さの》嗚《お》はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊《おもいかねのみこと》が、彼の非《ひ》凡《ぼん》な腕《わん》力《りよく》へとぎれた話頭を持って行った。
「いつぞや力《ちから》競《くら》べがあった時、あなたと岩をもたげ合って、死んだ男がいたじゃありませんか」
「気の毒なことをしたものです」
素戔嗚はなんとなく、非《ひ》難《なん》でもされたような心もちになって、思わず眼を薄《うす》日《び》がさした古《ふる》沼《ぬま》の上へただよわせた。古沼の水は底探そうに、まわりに芽ぐんだ春の木々をひっそりとほの明るく映していた。しかし思兼尊は無《む》頓《とん》着《じやく》に、時々蕗《ふき》の薹《とう》へ鼻をやって、
「気の毒ですが、ばかげていますよ。第一私に言わせると、競争することがすでによろしくない。第二にとうてい勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨《す》てるに至っては、それこそ愚《ぐ》の骨《こつ》頂《ちよう》じゃありませんか」
「しかし私はなんとなく気がとがめてならないのですが」
「なに、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです」
「けれども私はあの連中に、かえって憎《にく》まれているようです」
「それはもちろん憎まれますよ。その代わりもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違《ちが》いないでしょう」
「世の中はそういうものでしょうか」
その時尊《みこと》は返事をする代わりに、「引いていますよ」と注意した。
素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山《やま》目《め》が一尾《び》、溌《はつ》溂《らつ》と銀のように躍《おど》っていた。
「魚は人間より幸福ですね」
尊は彼が竹の枝《えだ》を山目の顎《あご》へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理《り》窟《くつ》を並《なら》べだした。
「人間が鉤《はり》を恐《おそ》れているうちに、魚は遠《えん》慮《りよ》なく鉤を呑《の》んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚がうらやましいような気がしますよ」
彼は黙《だま》ってもう一度、古《ふる》沼《ぬま》へ糸をほうりこんだ。が、やがて当《とう》惑《わく》らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃることは、私にはよくわかりませんが」と言った。
尊は彼のことばを聞くと、思いのほかまじめな調子になって、白い顎《あご》髯《ひげ》をひねりながら、
「わからない方が結《けつ》構《こう》ですよ。さもないとあなたも私のように、何もすることができなくなります」
「どうしてですか」
彼はわからないと言う口の下から、すぐまたこう尋《たず》ねずにはいられなかった。実際思兼尊のことばは、まじめとも不まじめともつかないうちに、蜜《みつ》か毒薬か、不思議なほど心を惹《ひ》くものが潜《ひそ》んでいたのであった。
「鉤《はり》が呑《の》めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
思兼尊の皺《しわ》だらけな顔には、一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》いつにない寂《さび》しそうな色が去《きよ》来《らい》した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢《ゆめ》を見たことがありましたよ」
二人はそれから久しい間、互《たが》いに別々なことを考えながら、静かに春の木々を映している、古《ふる》沼《ぬま》の上を眺《なが》めていた。沼の上には翡《かわ》翠《せみ》が、時々水をかすめながら、礫《こいし》を打つように飛んで行った。
一三
その間もあの快活な娘の姿は、絶えず素《す》戔《さの》嗚《お》の心を領していた。ことに時たま部落の内外で、偶《ぐう》然《ぜん》彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏《かしわ》の下で、はじめて彼女と遇《あ》った時のように、わけもなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取り澄《す》まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容《よう》子《す》も見せなかった。――
ある朝彼は山へ行く途《と》中《ちゆう》、ちょうど部落のはずれにある噴《ふ》き井《い》の前を通りかかると、あの娘が三、四人の女たちといっしょに、水《みず》甕《がめ》へ水をくんでいるのに遇《あ》った。噴き井の上には白《しろ》椿《つばき》が、まだまばらに咲き残って、絶えず湧《わ》きこぼれる水の水沫《しぶき》は、その花と葉とをもれる日の光に、かすかな虹《にじ》を描《えが》いていた。娘は身をかがめながら、苔《こけ》蒸《む》した井《い》筒《づつ》にあふれる水を素焼きの甕《かめ》へ落としていたが、ほかの女たちはもう水をくみおえたのか、皆甕を頭に載《の》せて、しっきりなく飛び交う燕《つばくら》の中を、家々へ帰ろうとするところであった。が、彼がそこへ来たとたんに、彼女は品よく身を起こすと、いっぱいになった水《みず》甕《がめ》を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人なつかしげに口元へ微笑を浮かべて見せた。
彼は例のとおり当《とう》惑《わく》しながら、ちょいとあいさつの点《じ》頭《ぎ》を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でそのあいさつに答えると、仲間の女たちのあとを追って、やはり釘《くぎ》を撒《ま》くような燕の中を歩きだした。彼は娘と入れ違《ちが》いに噴《ふ》き井《い》の側へ歩み寄って、大きな掌《たなごころ》へすくった水に、二口三口喉《のど》をうるおした。うるおしながら彼女の眼つきや脣《くちびる》の微笑を思い浮かべて、何かうれしいような、恥《は》ずかしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまたおのれ自身をあざけりたいような気もしないではなかった。
その間に女たちはそよ風に領巾《ひれ》をひるがえしながら、頭の上の素焼きの甕にさわやかな朝日の光を浴びてしだいに噴き井から遠ざかって行った。が、まもなく彼らの中からは一度に愉《ゆ》快《かい》そうな笑い声が起こった。それにつれて彼らのある者は、笑《え》顔《がお》をうしろへ振《ふ》り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、あざけるような視《し》線《せん》を送りなぞした。
噴き井の水を飲んでいた彼は、幸《さいわ》いその視線にわずらわされなかった。しかし彼らの笑い声を聞くと、いよいよ妙《みよう》に間が悪くなって、今さら飲みたくもない水を、もう一《いつ》杯《ぱい》手ですくって飲んだ。すると中《なか》高《だか》になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、とっさにおぼつかない影《かげ》を落とした。素戔嗚はあわてた眼をあげて、噴き井の向こうの白《しろ》椿《つばき》の下へ、鞭《むち》を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合わせた。それは先日草山の喧《けん》嘩《か》に、とうとう彼まで巻《ま》き添《ぞ》えにした、あの牛《うし》飼《か》いの崇《すう》拝《はい》者《しや》であった。
「お早うございます」
若者は愛《あい》想《そ》笑いを見せながら、うやうやしく彼に会《え》釈《しやく》をした。
「お早う」
彼はこの若者にまで、狼《ろう》狽《ばい》したところを見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。
一四
が、若者はさりげない調子で、噴《ふ》き井《い》の上に枝《し》垂《だ》れかかった白《しろ》椿《つばき》の花をむしりながら、
「もう瘤《こぶ》はお癒《なお》りですか」
「うん、とうに癒った」
彼はまじめにこんな返事をした。
「生《なま》米《ごめ》をおつけになりましたか」
「つけた。あれは思ったより利《き》き目があるらしかった」
若者はむしった椿の花を噴き井の中へほうりこむと、急にまたにやにや笑いながら、
「じゃもう一つ、いいことをお教えしましょうか」
「なんだ。そのいいことというのは」
彼が不《ふ》審《しん》そうにこう問い返すと、若者はまだ意味ありげな笑《えみ》を頬《ほお》に浮かべたまま、
「あなたの頸《くび》にかけておいでになる、勾《まが》玉《たま》を一ついただかせてください」と言った。
「勾《まが》玉《たま》をくれ? くれと言えばやらないものでもないが、勾玉をもらってどうするのだ?」
「まあ、黙《だま》っていただかせてください。悪いようにはしませんから」
「いやだ。どうするのだか聞かないうちは、勾玉なぞをやるわけにはいかない」
素《す》戔《さの》嗚《お》はそろそろ焦《じ》れだしながら、つっけんどんに若者の請《こ》いをしりぞけた。すると相手は狡《こう》猾《かつ》そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、
「じゃ言いますよ。あなたは今ここへ水をくみに来ていた、十五、六の娘がお好きでしょう」
彼は苦い顔をして、相手の眉《まゆ》の間をにらみつけた。が、内心は少なからず、狼《ろう》狽《ばい》に狼狽を重ねていた。
「お好きじゃありませんか、あの思兼尊《おもいかねのみこと》の姪《めい》を」
「そうか。あれは思兼尊の姪か」
彼はきわどい声を出した。若者はその容《よう》子《す》を見ると、凱《がい》歌《か》をあげるように笑いだした。
「そら、ごらんなさい。隠《かく》したってすぐに露《あらわ》れます」
彼はまた口をつぐんで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫《しぶき》を浴びた石の間には、まばらに羊《し》歯《だ》の葉が芽ぐんでいた。
「ですから私《わたくし》に勾玉を一つ、およこしなさいと言うのです。お好きならまたお好きなように、取り計らいようもあるじゃありませんか」
若者は鞭《むち》をもてあそびながら、すかさず彼を追《つい》窮《きゆう》した。彼の記《き》憶《おく》には二、三日前に、思兼尊と話し合った、あの古《ふる》沼《ぬま》のほとりの柳《やなぎ》の花が、たちまちあざやかに浮かんで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石からあげると、やはり顔をしかめたなり、
「そうして勾《まが》玉《たま》をどうするのだ?」と言った。
しかし彼の眼の中には、明らかに今まで見えなかった希望の色が動いていた。
一五
若者の答えは無《む》造《ぞう》作《さ》であった。
「なに、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思《おぼ》し召《め》しを伝えるのです」
素《す》戔《さの》嗚《お》はちょいとためらった。この男の弁《べん》舌《ぜつ》を弄《ろう》することは、なんとなく彼には不快であった。と言って彼自身、彼の心を相手に訴《うつた》えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜《みにく》い顔に躊《ちゆう》躇《ちよ》の色が動くのを見ると、わざと冷ややかにことばを継《つ》いだ。
「おいやなら仕方はありませんが」
二人はしばらくの間黙《だま》っていた。が、やがて素戔嗚は頸《くび》にかけた勾玉の中から、美しい琅《ろう》〓《かん*》の玉を抜《ぬ》いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿《な》くなった母の遺《かた》物《み》であった。
若者はその琅〓に物欲しそうな眼を落としながら、
「これはりっぱな勾玉ですね、こんな性《たち》の好い琅《ろう》〓《かん》は、そうたくさんはありますまい」
「この国の物じゃない。海の向こうにいる玉《たま》造《つく》りが、七《なぬ》日《か》七《なな》晩《ばん》磨《みが》いたという玉だ」
彼は腹立たしそうにこう言うと、くるりと若者に背《せな》を向けて、大《おお》股《また》に噴《ふ》き井《い》から歩み去った。若者はしかし勾《まが》玉《たま》を掌《てのひら》の上に載《の》せながら、あわててあとを追いかけて来た。
「待っていてください。かならず二、三日ちゅうには、吉《きつ》左《そ》右《う》をお聞かせしますから」
「うん、急がなくっていいが」
彼らは倭衣《しずり》の肩《かた》を並べて、絶え間なく飛び交《か》う燕《つばくら》の中を山の方へ歩いて行った。あとには若者の投げた椿《つばき》の花が、中《なか》高《だか》になった噴き井の水に、まだくるくる廻《まわ》りながら、流れもせず浮かんでいた。
その日の暮れ方、若者は例の草山の楡《にれ》の根がたに腰《こし》をおろして、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載《の》せて見ながら、あの娘に言い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑《はん》竹《ちく》の笛《ふえ》を帯へさして、ぶらりと山を下《くだ》って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧《くしろ》の所有者として知られている、背の高い美《び》貌《ぼう》の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君」と声をかけた。若者はあわてて、顔をあげた。が、彼はこの風流な若者が彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だということを承知していた。そこでいかにも無《ぶ》愛《あい》想《そ》に、
「何かご用ですか」と返事をした。
「ちょいとその勾玉を見せてくれないか」
若者は苦《にが》い顔をしながら琅《ろう》〓《かん》を相手の手に渡した。
「君の玉かい」
「いいえ、素《す》戔《さの》嗚《おの》尊《みこと》の玉です」
今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。
「じゃいつもあの男が、自慢そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石《いし》塊《ころ》同様の玉ばかりだが」
若者は毒口を利《き》きながら、しばらくその勾《まが》玉《たま》をもてあそんでいたが、自分もその楡《にれ》の根がたへ楽々と腰《こし》をおろすと、
「どうだろう。物は相談と言うが、一つ君の計らいで、この玉を僕《ぼく》に売ってくれまいか」と、大《だい》胆《たん》なことを言いだした。
一六
牛《うし》飼《か》いの若者はいやと返事をする代わりに、頬《ほお》を脹《ふく》らせたまま黙《だま》っていた。すると相手は流し眼《め》に彼の顔をのぞきこんで、
「その代わり君にはお礼をするよ。刀が欲《ほ》しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」
「だめですよ。その勾玉は素戔嗚尊が、ある人に渡してくれと言って、私《わたし》に預けた品なのですから」
「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と言うのは、ある女ということかい」
相手は好奇心を動かしたとみえて、急に気ごんだ調子になった。
「女でも男でもいいじゃありませんか」
若者はよけいなおしゃべりを後《こう》悔《かい》しながらめんどうくさそうにこう答えを避《さ》けた。が、相手は腹を立てた気《けし》色《き》もなく、かえって薄《うす》気《き》味《み》が悪いほど、優しい微笑をもらしながら、
「そりゃどっちでもいいさ、どっちでもいいが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾《まが》玉《たま》を持って行っても、たいしたさしつかえはなさそうじゃないか」
若者はまた口をつぐんで、草の上へ眼をそらせていた。
「もちろん多少はめんどうが起こるかもしれないさ。しかしそのくらいなことはあっても、刀なり、玉なり、鎧《よろい》なり、ないしはまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」
「ですがね、もし先方が受け取らないと言ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ」
「受け取らないと言ったら?」
相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、
「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。そのうえこんな琅《ろう》〓《かん》は、若い女には似合わないよ。だからかえってこの代わりに、もっと派《は》手《で》な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかもしれない」
若者は相手の言うことも、一理ありそうな気がしだした。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こういう色の玉を好むかどうか、疑《うたが》わしいには違《ちが》いなかったのであった。
「それからだね――」
相手は脣《くちびる》をなめながら、いよいよもっともらしくことばを継《つ》いだ。
「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取ってもらった方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。してみれば玉は取り換《か》えた方が、かえって素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はないはずだがね」
若者の心の中には、両方に刃《は》のついた剣《つるぎ》やら、水晶を削《けず》った勾《まが》玉《たま》やら、たくましい月《つき》毛《げ*》の馬やらが、はっきりと浮かび上がって来た。彼は誘《ゆう》惑《わく》を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二、三度頭を強く振《ふ》った。が、眼を開《あ》けると彼の前には、依《い》然《ぜん》として微笑を含《ふく》んでいる、美しい相手の顔があった。
「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、なんとか言うよりも、僕《ぼく》の所まで来てくれたまえ。刀も鎧《よろい》もちょうど君におあつらえなのがあるはずだ。厩《うまや》には馬も五、六匹いる」
相手はあくまでもなめらかな舌を弄《ろう》しながら気軽く楡《にれ》の根がたを立ち上がった。若者はやはり黙《もく》然《ねん》と、煮え切らない考えに沈《しず》んでいた。しかし相手が歩きだすと、彼もまたそのあとから、重そうな足を運び始めた。――
彼らの姿が草山の下に、全く隠《かく》れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下って来た。夕日の光はとうに薄《うす》れて、あたりにはもう靄《もや》さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だということは、一目見てさえ知れることであった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二、三羽肩《かた》にかけて、ゆうゆうと楡《にれ》の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見おろした。そうして独《ひと》り脣《くちびる》に幸福な微笑をただよわせた。
何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮かべたのであった。
一七
素《す》戔《さの》嗚《お》は一日一日と、若者の返事を待ち暮らした。が、若者はいつになっても、容《よう》易《い》に消息をもたらさなかった。のみならず故意か偶《ぐう》然《ぜん》か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合わさないくらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会うことが恥《は》ずかしいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかもしれないと思い返さずにはいられなかった。
その間《あいだ》に彼はあの娘と、朝早く同じ噴《ふ》き井《い》の前で、たった一度落ち合ったことがあった。娘は例のごとく素焼きの甕《かめ》を頭の上に載《の》せながら、四、五人の部落の女たちといっしょに、ちょうど白《しろ》椿《つばき》の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に脣《くちびる》を歪《ゆが》めて、さげすむような表情を水々しい眼に浮かべたまま、昂《こう》然《ぜん》と一人先に立って、彼のかたわらを通り過ぎた。彼はいつものとおり顔を赤めたうえに、その日はなんとも名状しがたい不快な感じまで味わわされた。「おれはばかだ。あの娘はたとい生まれ変わっても、おれの妻になるような女ではない」――そういう絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離《はな》れなかった。しかし牛飼《か》いの若者が、否《いな》やの返事を持って来ないことは、人のよい彼に多少ながら、希望を抱《いだ》かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えにかけて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴《ふ》き井《い》の近くへも立ち寄るまいとひそかに決心した。
ところが彼はある日の日暮れ、天《あめ》の安《やす》河《かわ》の河《か》原《わら》を歩いていると、おりからその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかったことが、明らかに気まずいようであった。同時に彼もなんとなく口が利《き》きにくい気もちになって、しばらくは入り日の光に煙《けむ》った河《か》原《わら》蓬《よもぎ》の中へたたずみながら、つやつやと水をかぶっている黒馬の毛《け》並《な》みを眺《なが》めていた。が、おいおいその沈《ちん》黙《もく》が、妙に苦しくなり始めたので、とりあえず話題を開《かい》拓《たく》すべく、目前の馬を指さしながら、
「好い馬だな、持ち主は誰だい」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼をあげて、
「私《わたくし》です」と返事をした。
「そうか。そりゃ――」
彼は感《かん》嘆《たん》のことばを呑《の》みこむと、また元のとおり口をつぐんでしまった。が、さすがに若者は素《そ》知《し》らぬ顔もできないと見えて、
「せんだってあの勾《まが》玉《たま》をお預かりしましたが――」と、ためらいがちに切りだした。
「うん、渡してくれたかい」
彼の眼は子供のように、純粋な感情をたたえていた。若者は彼と眼を合わすと、あわててその視《し》線《せん》を避《さ》けながら、ことさらに馬の足《あ》掻《が》くのを叱《しか》って、
「ええ、渡しました」
「そうか。それでおれも安心した」
「ですが――」
「ですが? なんだい」
「急にはお返事ができないということでした」
「なに、急がなくってもいい」
彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないといったように、夕《ゆう》霞《がすみ》のたなびいた春の河原を元来た方へ歩きだした。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河《か》原《わら》蓬《よもぎ》も、空も、その空に一羽啼《な》いている雲雀《ひばり》も、ことごとく彼にはうれしそうであった。彼は頭《かしわ》をあげて歩きながら、危うく霞《かすみ》にまぎれそうな雲雀と時々話をした。
「おい、雲雀。お前はおれがうらやましそうだな。うらやましくないと? 嘘《うそ》をつけ。それならなぜそんなに啼《な》き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀、返事をしないか。雲雀。……」
一八
素《す》戔《さの》嗚《お》はそれから五、六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがそのころから部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行《はや》り出した。それは醜《みにく》い山《やま》鴉《がらす》が美しい白鳥に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂《わら》い物になったという歌であった。彼はその歌が唱《うた》われるのを聞くと、今まで照らしていた幸福の太陽に、雲がかかったような心もちがした。
しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢《ゆめ》から覚《さ》めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を容《い》れてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、おろかな彼を哂《わら》うのではなく、かえって仕合わせな彼をうらやんだり妬《そね》んだりしているのであった。――そう彼は信じていた。少なくともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。
だから彼はその後また、あの牛飼いの若者に遇《あ》った時も、ただ同じ答えを聞きたいばかりに、
「あの勾《まが》玉《たま》は確かに渡してくれたのだろうな」と、軽く念を押《お》しただけであった。若者はやはり間の悪そうな顔をしながら、
「ええ、確かに渡しました。しかしお返事のところは――」とかなんとか、曖《あい》昧《まい》にことばを濁《にご》していた。それでも彼は渡したということばに満足して、そのうえ立ち入った事情なぞは尋《たず》ねようとも思わなかった。
すると三、四日たったある夜のこと、彼が山へ寝《ね》鳥《どり》でも捕えに行こうと思って、月明かりを幸い、部落の往来を独《ひと》りぶらぶら歩いていると、誰か笛《ふえ》を吹きすさびながら、薄い靄《もや》のおりた中を、これもゆうゆうと来かかるものがあった。野《や》蛮《ばん》な彼は幼い時から、歌とか音楽とかいうものにはさらに興味を感じなかった。が、藪《やぶ》木《き》の花の匂《にお》いのする春の月夜に包《つつ》まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾《かたむ》けるのは、彼にとってもなんとなく、心憎《にく》い気のするものであった。
そのうちに彼とその男とは、顔を合わせるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、相変わらず笛を吹き止《や》めなかった。彼は路《みち》を譲《ゆず》りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を透《す》かして見た。美しい顔、燦《きら》びやかな勾《まが》玉《たま》、それから口に当てた斑《はん》竹《ちく》の笛――相手はあの背の高い、風流な若者に違《ちが》いなかった。彼はもらろんこの若者が、彼の野性を軽《けい》蔑《べつ》する敵の一人だということを承知していた。そこではじめは昂《こう》然《ぜん》と肩《かた》をあげて、あいさつもせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体《からだ》へ惹《ひ》きつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が遺物《かたみ》に残した、あの琅《ろう》〓《かん》の勾玉が、曇りない月の光に濡《ぬ》れて、水々しく輝《かがや》いていたではないか。
「待て」
彼はとっさに腕《うで》を伸《の》ばすと、若者の襟《えり》をしっかりつかんだ。
「何をする」
若者は思わずよろめきながら、さすがに懸《けん》命《めい》の力をしぼって、とられた襟を振《ふ》り離《はな》そうとした。が、彼の手はさながら万《まん》力《りき》にかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。
一九
「貴様はこの勾玉を誰にもらった?」
素《す》戔《さの》嗚《お》は相手の喉《のど》をしめ上げながら噛《か》みつくようにこう尋《たず》ねた。
「離せ。こら、何をする。離さないか」
「貴様が白状するまでは離さない」
「離さないと――」
若者は襟《えり》を取られたまま、斑《はん》竹《ちく》の笛《ふえ》をふり上げて、横払いに相手を打とうとした。が、素戔嗚は手もとをゆるめるまでもなく、遊んでいた片手を動かして、苦もなくその笛をねじ取ってしまった。
「さあ、白状しろ。さもないと、貴様を絞《し》め殺すぞ」
実際素戔嗚の心の中には、狂暴な怒《いか》りが燃え立っていた。
「この勾《まが》玉《たま》は――おれが――おれが馬と取り換《か》えたのだ」
「嘘《うそ》をつけ。これはおれが――」
「あの娘に」ということばが、なぜか素戔嗚の舌を硬《こわ》ばらせた。彼は相手の蒼《あお》ざめた顔に熱い息を吹きかけながら、もう一度うなるような声を出した。
「嘘をつけ」
「離さないか。貴様こそ、――ああ、喉《のど》が絞まる。――あれほど離すと言ったくせに、貴様こそ嘘をつく奴《やつ》だ」
「証《しよう》拠《こ》があるか、証拠が」
すると若者はまだ必死に、もがきながら、
「あいつに聞いて見るが好い」と吐《は》き出すような、一《ひと》言《こと》をもらした。「あいつ」があの牛《うし》飼《か》いの若者であるということは、怒《いか》り狂《くる》った素戔嗚にさえ、問うまでもなく明らかであった。
「よし。じゃ、あいつに聞いてみよう」
素戔嗚は言《げん》下《か》に意を決すると、いきなり相手を引っ立てながら、あの牛飼いの若者がたった一人住んでいる、そこをあまり離《はな》れていない小《こ》家《いえ》の方へ歩きだした。その途中も時々相手は、襟《えり》にかかった素戔嗚の手を一生懸命に振《ふ》り離そうとした。しかし彼の手は相変わらず、鉄のようにしっかり相手をとらえて、打っても、たたいても離れなかった。
空には依《い》然《ぜん》として、春の月があった。往来にも藪《やぶ》木《き》の花の匂《にお》いが、やはりうす甘《あま》く立ちこめていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで大《おお》暴風雨《あらし》の天のように、渦《うず》巻《ま》く疑《ぎ》惑《わく》の雲を裂《さ》いて、憤《ふん》怒《ぬ》と嫉《しつ》妬《と》との稲《いな》妻《ずま》が、絶え間なくひらめき飛んでいた。彼を欺《あざむ》いたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か狡《こう》猾《かつ》な手段を弄《ろう》して、娘から勾玉を巻きあげたのであろうか。……
彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす小家まで来た。見ると幸い小家の主人は、まだ眠《ねむ》らずにいるとみえて、ほのかな一《いつ》盞《さん》の灯《ともし》火《び》の光が、戸口に下げた簾《すだれ》の隙《すき》から、軒《のき》先《さき》の月明と鬩《せめ》い《*》でいた。襟《えり》をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、はじめて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払《はら》って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりがにわかに暗くなって、ただひとしきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。――彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも造《ぞう》作《さ》なく、月の光を堰《せ》いた簾の内へ、まっさかさまに投げこまれたのであった。
二〇
家の中にはあの牛《うし》飼《か》いの若者が、土器《かわらけ》にともした油《あぶら》火《び》の下に、夜なべの藁《わら》沓《ぐつ》を造っていた。彼は戸口に思いがけない人のけはいが聞こえた時、一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》忙《せわ》しい手を止めて、用心深く耳を澄《す》ませたが、そのとたんに軒《のき》の簾《すだれ》が、大きく夜を煽《あお》ったと思うと、突然一人の若者が、取り乱した藁のまん中へ、仰《あお》向《む》けざまにころげ落ちた。
彼はさすがに胆《きも》を消して、うっかりあぐらを組んだまま、半ば引きちぎられた簾の外へ、思わず狼《ろう》狽《ばい》の視《し》線《せん》を飛ばせた。するとそこには素《す》戔《さの》嗚《お》が、油火の光を全身に浴びて、顔中に怒《いか》りをみなぎらせながら、小山のごとく戸口を塞《ふさ》いでいた。若者はその姿を見るやいなや、死人のような色になって、しばらくただ狭《せま》い家の中をきょろきょろ見《み》廻《まわ》すよりほかはなかった。素戔嗚は荒々しく若者の前へ歩み寄ると、じっと彼の顔をにらみ据《す》えて、
「おい。貴様は確かにあの娘へ、おれの勾《まが》玉《たま》を渡したと言ったな」といまいましそうな声をかけた。
若者は答えなかった。
「それがこの男の頸《くび》にかかっているのはいったいどうした始末なのだ?」
素戔嗚はあの美《び》貌《ぼう》の若者へ、燃えるような瞳《ひとみ》を移した。が、彼はやはり藁の中に、気を失ったのか、仮《そら》死《じに》か、眼を閉じたまま倒《たお》れていた。
「渡したというのは嘘《うそ》か?」
「いえ、嘘じゃありません。ほんとうです。ほんとうです」
牛飼いの若者は、はじめて必死の声を出した。
「ほんとうですが、――ですが、実はあの琅《ろう》〓《かん》の代わりに、珊《さん》瑚《ご》の――その管《くだ》玉《たま*》を……」
「どうしてまたそんな真《ま》似《ね》をしたのだ?」
素戔嗚の声は雷《いかずち》のごとく、度を失った若者の心を一《ひと》言《こと》ごとに打ち砕《くだ》いた。彼はとうとうしどろもどろに、美《び》貌《ぼう》の若者が勧《すす》めるとおり、琅〓と珊瑚と取り換《か》えたうえ、礼には黒馬をもらったことまで残りなく白状してしまった。その話を聞いているうちに、刻《こく》々《こく》素戔嗚の心のうちには、泣きたいような、叫《さけ》びたいような息苦しい羞《しゆう》憤《ふん》の念が、大風のごとく昂《たか》まって来た。
「そうしてその玉は渡したのだな」
「渡しました。渡しましたが――」
若者は逡《しゆん》巡《じゆん》した。
「渡しましたが――あの娘は――なにしろああいう娘ですし、――白鳥は山《やま》鴉《がらす》になどと――、失礼な口上ですが、――受け取らないと申し――」
若者は皆まで言わないうちに、仰《あお》向《む》けにどうと蹴《け》倒《たお》された。蹴倒されたと思うと、大きな拳《こぶし》がしたたか彼の頭を打った。その拍子に灯《ともし》火《び》の盞《さら》が落ちて、あたりの床《ゆか》に乱れた藁《わら》は、たちまち、一面の炎《ほのお》になった。牛飼いの若者はその火に毛《け》脛《ずね》を焼かれながら、悲鳴をあげて飛び起きると、無我夢中に高《たか》這《ば》いをして、裏手の方へ逃《に》げ出そうとした。
怒《いか》り狂《くる》った素戔嗚は、まるで傷《きず》ついた猪《いのしし》のように、猛《もう》然《ぜん》とそのうしろから飛びかかった。いや、まさに飛びかかろうとした時、今度は足もとに倒《たお》れていた、美貌の若者が身を起こすと、これも死に物狂いに剣《つるぎ》を抜《ぬ》いて、火の中に片《かた》膝《ひざ》ついたまま、いきなり彼の足を払《はら》おうとした。
二一
その剣《つるぎ》の光を見ると、突然素《す》戔《さの》嗚《お》の心のうちには、長い間眠《ねむ》っていた、流血に憧《あこが》れる野性が目ざめた。彼はすばやく足を縮《ちぢ》めて、相手の武器を飛び越《こ》えると、とっさに腰《こし》の剣を抜《ぬ》いて、牛の吼《ほ》えるような声をあげた。そうしてその声をあげるが早いか、無《む》二《に》無《む》三《さん》に相手へ斬《き》ってかかった。彼らの剣はすさまじい音をたてて、もうもうと渦《うず》巻《ま》く煙《けむり》の中に、二、三度眼に痛い火花を飛ばせた。
しかし美《び》貌《ぼう》の若者は、もちろん彼の敵ではなかった。彼の振《ふ》り廻《まわ》す幅広の剣は、一《ひと》太《た》刀《ち》ごとにこの若者を容《よう》赦《しや》なく死地へ追いこんで行った。いや、彼は数合のうちに、ほとんど一気に相手の頭を斬《き》り割るところまで肉薄していた。するとそのとたんに甕《かめ》が一つ、どこからか彼の頭を目がけて、勢いよく宙を飛んで来た。が、幸いそれは狙《ねら》いが外《そ》れて、彼の足もとへ落ちるとともに、粉《こな》微《み》塵《じん》に砕《くだ》けてしまった。彼は太刀打ちをつづけながら、猛《たけ》り立った眼をあげて、せわしく家の中を見廻した。見廻すと、裏手の蓆《むしろ》戸《ど》の前には、さっき彼にうしろを見せた、あの牛《うし》飼《か》いの若者が、これも眼を血走らせたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶《おけ》を一つ、持ち上げているところであった。
彼はふたたび牛のような叫《さけ》び声をあげながら、若者が桶を投げるより先に、渾《こん》身《しん》の力を剣にこめて、相手の脳《のう》天《てん》へ打ちおろそうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎《ほのお》の空に風を切って、ぐゎんと彼の頭の中に中《あた》った。彼はさすがに眼がくらんだのか、大風に吹かれた旗《はた》竿《ざお》のように思わずよろよろ足を乱して、危うくそこへ倒《たお》れようとした。その暇《ひま》に相手の若者は、奮《ふん》然《ぜん》と身を躍《おど》らせると、――もう火の移った簾《すだれ》を衝《つ》いて、片手に剣《つるぎ》をひっさげながら、静かな外の春の月夜へ、一目散に逃《に》げて行った。
彼は歯を食いしばったまま、ようやく足を踏《ふ》み固めた。しかし眼を開《あ》いて見ると、火と煙《けむり》とにあふれた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。
「逃げたな、なに、逃げようと言っても、逃がしはしないぞ」
彼は髪《かみ》も着物も焼かれながら、戸口の簾を切り払《はら》って、蹌《そう》踉《ろう》と家の外へ出た。月明かりに照《て》らされた往来は、屋根を燃えぬいた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並《なら》んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒《さわ》ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ」と呼び交《かわ》す声が、たちまち高くなり始めた。彼はそういう声を浴びて、しばらくはぼんやりたたずんでいた。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心のうちには、気も狂《くる》いそうな混乱が、ますます烈《はげ》しくなっていたのであった。
そのうちに往来の人影は、見る見る数を加えだした。と同時に騒《さわ》がしい叫《さけ》び声も、いつか憎《ぞう》悪《お》をはらんでいる険《けん》悪《あく》な調子を帯び始めた。
「火つけを殺せ」
「盗《ぬす》人《びと》を殺せ」
「素戔嗚を殺せ」
二二
この時部落のうしろにある、草山の楡《にれ》の木の下には、髯《ひげ》の長い一人の老人が天心の月を眺《なが》めながら、ゆうゆうと腰《こし》をおろしていた。物静かな春の夜は、藪《やぶ》木《き》の花のかすかな匂《にお》いを柔《やわ》らかく靄《もや》に包んだまま、ここでもただ梟《ふくろう》の声が、ちょうど山そのものの吐《と》息《いき》のように、一天のまばらな星の光を時々曇《くも》らせているばかりであった。
が、そのうちに眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙《けむり》が、風の断えた中《なか》空《ぞら》へひとすじまっすぐに上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇《のぼ》る火の粉を眺めても、やはり膝《ひざ》を抱《だ》きながら、気楽そうに小声の歌を唱《うた》って、いっこう驚《おどろ》くらしい気《け》色《しき》も見せなかった。しかしまもなく部落からは、まるで蜂《はち》の巣《す》を壊《こわ》したような人どよめきの音が聞こえて来た。のみならずその音はしだいに高くざわめき立って、とうとう戦いでも起こったかと思う、烈《はげ》しい喊《かん》声《せい》さえ伝わりだした。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたとみえて、白い眉《まゆ》をひそめながら、おもむろに腰をもたげると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒《そう》動《どう》をじっと聞き澄《す》まそうとするらしかった。
「はてな。剣《つるぎ》の音なぞもするようだが」
老人はこうつぶやきながら、しばらくはそこに伸《の》び上がって、絶えず金粉を煽《あお》っている火事の煙に見入っていた。
するとほどなく部落から、逃《に》げて来たらしい七、八人の男《なん》女《によ》が、あえぎあえぎ草山へ上って来た。彼らのある者は髪《かみ》を垂《た》れた、十《とお》には足りない童《どう》児《じ》であった。ある者は肌《はだ》も見えるくらい、襟《えり》や裳《もすそ》紐《ひも》を取り乱した、寝起きらしい娘であった。そうしてまたある者は弓よりもなお腰《こし》の曲がった、立ち居さえ苦しそうな老《ろう》婆《ば》であった。彼らは草山の上まで来ると、言い合わせたように皆足を止めて、月夜の空を焦《こ》がしている部落の火事へ眼を返した。が、やがてその中の一人が、楡《にれ》の根がたにたたずんだ老人の姿を見るやいなや、気づかわしそうに寄り添《そ》った。この足弱の一群からは、「思兼尊《おもいかねのみこと》、思兼尊」と言うことばが、ため息といっしょにあふれて来た。と同時に胸も露《あらわ》な、夜目にも美しい娘が一人、「伯《お》父《じ》様」と声をかけながら、こちらを振《ふ》り向いた老人の方へ、小鳥のように身軽く走り寄った。
「どうしたのだ、あの騒《さわ》ぎは」
思兼尊はまだ眉《まゆ》をひそめながら、取りすがった娘を片手に抱《だ》いて、誰にともなくこう尋《たず》ねた。
「素《す》戔《さの》嗚《おの》尊《みこと》がどうしたことか、急に乱暴を始めたとか申すことでございます」
答えたのはあの快活な娘ではなく、彼らの中に交じっていた、眼鼻も見えないような老婆であった。
「なに、素戔嗚尊が乱暴を始めた?」
「はい、それゆえ大勢の若者たちが、尊《みこと》を搦《から》めようといたしますと、平《へい》生《ぜい》尊の味方をする若者たちが承知いたしませんで、とうとうあのように何年にもない、大騒《そう》動《どう》が始まったそうでございますよ」
思兼尊は考え深い目つきをして、部落に上がっている火事の煙《けむり》と、尊の胸にすがっている娘の顔とを見比《くら》べた。娘は月に照らされたせいか、鬢《びん》の乱れた頬《ほお》の色が、透《す》き徹《とお》るかと思うほど青ざめていた。
「火をもてあそぶものは、気をつけないと――、素戔嗚尊ばかりではない。火をもてあそぶものは、気をつけないと――」
尊は皺《しわ》だらけな顔に苦笑を浮かべて、今はさらに拡《ひろ》がったらしい火の手をはるかに眺《なが》めながら、黙《だま》って震《ふる》えている姪《めい》の髪《かみ》をいたわるように撫《な》でてやった。
二三
部落の戦いは翌朝までつづいた。が、寡《か》はついに衆の敵ではなかった。素《す》戔《さの》嗚《お》は味方の若者たちとともに、とうとう敵の手に生《いけ》捉《ど》られた。日ごろ彼に悪意を抱《いだ》いていた若者たちは、鞠《まり》のように彼を縛《いまし》めたうえ、いろいろ乱暴な凌《りよう》辱《じよく》を加えた。彼は打たれたり蹴《け》られたりするたびごとに、ごろごろ地上をころがりまわって、牛の吼《ほ》えるような怒《いか》り声をあげた。
部落の老《ろう》若《にやく》はことごとく、律《おきて》どおり彼を殺して、騒《そう》動《どう》の罪をつぐなわせようとした。が、思兼尊《おもいかねのみこと》と手《た》力《ぢから》雄《おの》尊《みこと》と、この二人の勢力家だけは、容《よう》易《い》に賛《さん》同《どう》の意を示さなかった。手力雄尊は、素戔嗚の罪を憎みながらも、彼の非《ひ》凡《ぼん》な膂《りよ》力《りよく》には愛《あい》惜《せき》の情を感じていた。これは同時にまた思兼尊が、むざむざ彼ほどの若者を殺したくない理由でもあった。のみならず尊《みこと》は彼ばかりでなく、すべて人間を殺すということに、極《きよく》端《たん》な嫌《けん》悪《お》を抱《いだ》いていた。――
部落の老《ろう》若《にやく》は彼の罪を定めるために、三日の間議論を重ねた。が、二人の尊たちはどうしても意見を改めなかった。彼らはそこで死刑の代わりに、彼を追放に処《しよ》することにした。しかしこのまま、彼の縄《なわ》を解いて、彼に広い国外の自由の天地を与《あた》えるのは、とうてい彼らの忍《しの》びがたい、寛《かん》大《だい》に過ぎた処《しよ》置《ち》であった。彼らはまず彼の鬚《ひげ》を、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪《つめ》を、まるで貝でも剥《は》がすように、未《み》練《れん》未《み》釈《しやく》なく抜《ぬ》いてしまった。そのうえ彼の縄《なわ》を解くと、ほとんど手足も利《き》かない彼へ、手《て》ん手《で》に石を投げつけたり、剽《ひよう》悍《かん》な狩《か》り犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど高《たか》這《ば》いをしないばかりに、蹌《そう》踉《ろう》と部落を逃《のが》れて行った。
彼が高《たか》天《まが》原《はら》の国をめぐる山々の峰《みね》を越えたのは、ちょうどその後二日たった、空模様の怪《あや》しい午後であった。彼は山の頂へ来た時、嶮《けわ》しい岩むらの山へ登って、住み慣れた部落の横たわっている、盆《ぼん》地《ち》の方を眺《なが》めて見た。が、彼の眼の下には、ただうす白い霧《きり》の海が、それらしい平地をぼんやりと、透《す》かして見せるばかりであった。彼はしかし岩の上に、朝焼けの空を負いながら、長い間じっとすわっていた。すると谷間から吹き上げる風が、音のとおり彼の耳へ、聞き慣れたささやきを送って来た。「素戔嗚よ。お前は何をさがしているのだ。おれといっしょに来い。おれといっしょに来い。素戔嗚よ。……」
彼はようやく立ち上がった。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を下《くだ》りだした。
そのうちに朝焼けのほてりが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の衣《ころも》のほかに、何もまとってはいなかった。頸《くび》珠《たま》や剣《つるぎ》は言うまでもなく、生《いけ》捉《ど》りになった時に奪《うば》われていた。雨はこの追放人の上に、おいおい烈《はげ》しくなり始めた。風も横なぐりに落として来ては、時々ずぶ濡《ぬ》れになった衣の裾《すそ》を裸《はだか》の脚《あし》へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。
実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧《きり》が、山や谷を封《ふう》じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、すさまじくざっと遠《おち》近《こち》に煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらにすさまじく寂《さび》しい怒《いか》りが荒れ狂《くる》っていた。
二四
やがて足もとの岩は、湿《しめ》った苔《こけ》になった。苔はまたまもなく、深い羊《し》歯《だ》の茂《しげ》みになった。それから丈《たけ》の高い熊《くま》笹《ざさ》に、――いつのまにか素《す》戔《さの》嗚《お》は、山の中腹を埋《うず》めている森林の中へはいったのであった。
森林は容《よう》易《い》につきなかった。風雨も依《い》然《ぜん》として止《や》まなかった。空には樅《もみ》や栂《とが》の枝《えだ》が、暗い霧《きり》を払《はら》いながら、悩《なや》ましい悲《ひ》鳴《めい》をあげていた。彼は熊笹を押しわけて、遮《しや》二《に》無《む》二《に》その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋《うず》めて、絶えず濡《ぬ》れた葉を飛ばせていた。まるで森林全体が、彼の行《ゆく》方《え》をさえぎるべく、生きて動いているようであった。
彼は休みなく進みつづけた。彼の心の内には相変わらず鬱《うつ》勃《ぼつ》として怒りが燃え上がっていた。が、それにもかかわらず、この荒れ模様の森林には、何か狂《きよう》暴《ぼう》な喜びを眼《め》ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦《つたか》蘿《ずら》を腕《うで》いっぱいに掻《か》きのけながら、時々大きな声を出して、吼《うな》って行く風雨に答えたりした。
午《ひる》もやや過ぎたころ、彼はとうとうひとすじの谷川に、がむしゃらな進路をさえぎられた。谷川の水のたぎる向こうは、削《けず》ったような絶《ぜつ》壁《ぺき》であった。彼はその流れに沿《そ》って、ふたたび熊《くま》笹《ざさ》を掻《か》きわけて行った。するとしばらく向こうの岸へ、藤《ふじ》蔓《づる》を編んだ桟《かけ》橋《はし》が、水《みず》煙《けむり》と雨のしぶきとの中に、危うくかかっている所へ出た。
桟橋を隔《へだ》てた絶壁には、火《か》食《しよく》の煙《けむり》がなびいている、大きな洞《ほら》穴《あな》が幾《いく》つか見えた。彼はためらわず桟橋を渡って、その穴の一つをのぞいて見た。穴の中には二人の女が、炉《ろ》の火を前にすわっていた。二人とも火の光を浴びて、描《えが》いたように赤く見えた。一人は猿《さる》のような老《ろう》婆《ば》であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声をあげながら、洞穴の奥《おく》へ逃《に》げこもうとした。が、彼は彼らのほかに男手のないのを見るが早いか、猛《もう》然《ぜん》と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造《ぞう》作《さ》もなく、老婆をそこへねじ伏《ふ》せてしまった。
若い女は壁《かべ》にかけた刀《とう》子《す*》へ手をかけるやいなや、すばやく彼の胸を刺《さ》そうとした。が、彼は片手をふるって、一打ちにその刀子を打ち落とした。女はさらに剣《つるぎ》を抜《ぬ》いて、執《しゆう》念《ね》く彼を襲《おそ》って来た。しかし剣は一《いつ》瞬《しゆん》の後、やはり鏘《そう》然《ぜん*》と床《ゆか》に落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切っ先を歯にくわえながらも苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮かべたまま、戦いをいどむように女を見た。
女はすでに斧《おの》を執《と》って、三度彼に手向かおうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨《す》てて、彼の憐《あわれ》みに訴《うつた》うべく、床の上にひれ伏《ふ》してしまった。
「おれは腹が減っているのだ。食事の仕《し》度《たく》をしれい」
彼は捉《とら》えていた手をゆるめて、猿《さる》のような老婆をも自由にした。それから炉《ろ》の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令どおり、黙《もく》々《もく》と食事の仕度を始めた。
二五
洞《ほら》穴《あな》の中は広かった。壁《かべ》にはいろいろな武器がかけてあった。それが炉の火を浴びて、いずれも美々しく輝《かがや》いていた。床《ゆか》にはまた鹿《しか》や熊《くま》の皮が、何枚もそこここに敷いてあった。そのうえ何から起こるのか、うす甘《あま》い匂《にお》いが快く暖かな空気にただよっていた。
そのうちに食事の仕度ができた。野《や》獣《じゆう》の肉、谷川の魚、森の木《こ》の実、干した貝、――そういう物が盤《さら》や坏《つき》に堆《うずたか》く盛《も》られたまま、彼の前に並《なら》べられた。若い女は瓶《ほたり》を執《と》って、彼に酒を勧《すす》むべく、炉のほとりへすわりに来た。目《ま》近《ぢか》にすわっているのを見れば、色の白い、髪《かみ》の豊かな、愛《あい》嬌《きよう》のある女であった。
彼は獣《けもの》のように、飲んだり食ったりした。盤や坏は見る見るうちに、一つ残らず空《から》になった。女は健《けん》啖《たん》な彼を眺《なが》めながら子供のように微《び》笑《しよう》していた。彼に刀《とう》子《す》を加えようとした、以前の剽《ひよう》悍《かん》な気《け》色《しき》などは、どこを探しても見えなかった。
「さあ、これで腹はできた。今度は着る物を一枚くれい」
彼は食事をすませると、こう言って、大きくあくびをした。女は洞《ほら》穴《あな》の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見たことのない、精巧な織り模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁《かべ》の上の武器の中から、頭《かぶ》椎《つち》の剣《つるぎ*》を一《ひと》振《ふ》りとって、左の腰《こし》に結び下げた。それからまた炉《ろ》の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻《か》いた。
「何かまだご用がございますか」
しばらくの後、女はまた側《そば》へ来て、ためらうような尋《たず》ね方をした。
「おれは主人の帰るのを待っているのだ」
「待って、――どうなさるのでございますか」
「太《た》刀《ち》打ちをしようと思うのだ。おれは女をおびやかして、盗《ぬす》人《びと》を働いたなどとは言われたくない」
女は顔にかかる髪《かみ》を掻《か》き上げながら、あざやかな微笑を浮かべて見せた。
「それではお待ちになるがものはございません。私《わたくし》がこの洞《ほら》穴《あな》の主人なのでございますから」
素《す》戔《さの》嗚《お》は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。
「男は一人もいないのか」
「一人もおりません」
「この近くの洞穴には?」
「皆私の妹たちが、二、三人ずつ住んでおります」
彼は顔をしかめたまま二、三度頭を強く振《ふ》った。火の光、床《ゆか》の毛皮、それから壁《へき》上《じよう》の太《た》刀《ち》や剣《つるぎ》、――すべてが彼には、怪《あや》しげな幻《まぼろし》のような心もちがした。ことにこの若い女は、きらびやかな頸《くび》珠《たま》や剣《つるぎ》を飾《かざ》っているだけに、よけい人間離《ばな》れのした、山《やま》媛《ひめ》のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後この危害の惧《おそ》れのない、暖かな洞《ほら》穴《あな》にすわっているのは、とにかく快《こころよ》いには違《ちが》いなかった。
「妹たちは大勢いるのか」
「十六人おります。――ただいま姥《うば》が知らせにまいりましたから、そのうちに皆お眼にかかりに、出てまいるでございましょう」
なるほどそう言われてみれば、あの猿《さる》のような老婆の姿は、いつのまにか見えなくなっていた。
二六
素《す》戔《さの》嗚《お》は膝《ひざ》を抱《かか》えたまま、洞《どう》外《がい》をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾《かたむ》けていた。すると女は炉《ろ》の中へ、新たな焚《た》き木《ぎ》を加えながら、
「あの――お名前はなんとおっしゃいますか。私《わたくし》は大《おお》気《け》都《つ》姫《ひめ*》と申しますが」と言った。
「おれは素戔嗚だ」
彼がこう名乗った時、大気都姫は驚《おどろ》いた眼をあげて、今さらのようにこの無《ぶ》様《ざま》な若者を眺《なが》めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明らかに熟《じゆく》しているようであった。
「では今まではあの山の向こうの、高《たか》天《まが》原《はら》の国にいらしったのでございますか」
彼は黙《だま》ってうなずいた。
「高天原の国は、よい所だと申すではございませんか」
このことばを聞くとともに、一時静まっていた心頭の怒《ど》火《か》が、また彼の眼の中に燃《も》えあがった。
「高天原の国か。高天原の国は、鼠《ねずみ》が猪《いのしし》よりも強い所だ」
大気都姫は微《び》笑《しよう》した。その拍《ひよう》子《し》に美しい歯が、あざやかに火の光に映って見えた。
「ここはなんという所だ?」
彼はしいて冷ややかに、こう話題を転《てん》換《かん》した。が、彼女は微笑を含《ふく》んで、彼のたくましい肩《かた》のあたりへじっと眼を注いだまま、なんともその問いに答えなかった。彼はいらだたしい眉《まゆ》を動かして、もう一度同じことをくり返した。大気都姫ははじめてわれに返ったように、したたるような媚《こび》を眼に浮かべて、
「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます」と答えた。
その時にわかに人のけはいがして、あの老《ろう》婆《ば》を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気《け》色《しき》もなく、ぞろぞろ洞《ほら》穴《あな》の中へはいって来た。彼らは皆頬に紅《くれない》をさして、高々と黒《くろ》髪《かみ》を束《つか》ねていた。それが順々に大気都姫と、親しそうな挨《あい》拶《さつ》を交《こう》換《かん》すると、あっけにとられた彼のまわりへ、馴《な》れ馴れしく手《て》ん手《で》に席を占《し》めた。頸《くび》珠《たま》の色、耳《みみ》環《わ》の光、それから着物の絹ずれの音――洞穴の内はそういうものが、榾《ほた》明《あ》かりの中に充《み》ち満ちたせいか、急に狭《せま》くなったような心もちがした。
十六人の女たちは、すぐに彼をとりまいて、こういう山の中にも似《に》合《あ》わない、陽気な酒《さか》盛《も》りを開き始めた。彼ははじめは唖《おし》のように、ただ勧められる盃《さかずき》を一息にぐいぐい飲み干《ほ》していた。が、酔《え》いがまわって来ると、おいおい大きな声をあげて、笑ったり話したりするようになった。女たちのある者は、玉を飾《かざ》って琴《こと》を弾《ひ》いた。またある者は、盃を控《ひか》えて、なまめかしい恋の歌を唱《うた》った。洞《ほら》穴《あな》は彼らのえらく《*》声に、鳴りどよむばかりであった。
そのうちに夜になった。老婆は炉《ろ》に焚《た》き木を加えるとともに、幾《いく》つも油《あぶら》火《び》の灯《とう》台《だい》をともした。その昼のような光の中に、彼は泥《どろ》のように酔《え》い痴《し》れながら、前後左右に周《しゆう》旋《せん》する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪《うば》い合って、互《たが》いに嬌《きよう》嗔《しん》を帯びた声を立てた。が、たいていは大気都姫が、妹たちの怒《いか》りには頓《とん》着《じやく》なく、酒に中《ひた》った彼を壟《ろう》断《だん*》していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高《たか》天《まが》原《はら》の国も忘れて、洞穴をこめた脂《し》粉《ふん》の気の中に、全く沈《ちん》湎《めん》しているようであった。ただその大騒《さわ》ぎの最《も》中《なか》にも、あの猿《さる》のような老婆だけは、静かに片《かた》隅《すみ》にうずくまって、十六人の女たちの、人目をはばからない酔《すい》態《たい》に皮肉な流し目を送っていた。
二七
夜はしだいに更《ふ》けて行った。空《から》になった盤《さら》や瓶《ほたり》は、時々けたたましい音を立てて、床《ゆか》の上にころげ落ちた。床の上に敷《し》いた毛皮も、絶えず机からしたたる酒に、いつかぐっしょり濡《ぬ》らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体もないらしかった。彼らの口からもれるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐《と》息《いき》の音ばかりであった。
やがて老婆は立ち上がって、明るい油《あぶら》火《び》の灯台を一つ一つ消して行った。あとには炉《ろ》に消えかかった、煤《すす》臭《くさ》い榾《ほた》の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女にさいなまれている、小山のような彼の姿を朦《もう》朧《ろう》といつまでも照らしていた。……
翌日彼は眼をさますと、洞《ほら》穴《あな》の奥《おく》にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅《すが》畳《だたみ》を延《の》べる代わりに、うずたかく桃《もも》の花が敷《し》いてあった。昨日《きのう》から洞《ほか》中《なか》にあふれていた、あのうす甘《あま》い、不思議な匂《にお》いは、この桃の花の匂いに違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天《てん》井《じよう》を眺《なが》めていた。すると気《き》違《ちが》いじみた昨夜《ゆうべ》の記《き》憶《おく》が、夢《ゆめ》のごとく眼に浮かんで来た。と同時にまた妙《みよう》な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲《おそ》いだした。
「畜《ちく》生《しよう》」
素戔嗚はこう呻《うめ》きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍《ひよう》子《し》に桃の花が、あおったように空へ舞《ま》い上がった。
洞穴の中には例の老《ろう》婆《ば》が、余《よ》念《ねん》なく朝飯の仕度をしていた。大《おお》気《け》都《つ》姫《ひめ》はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴《くつ》を穿《は》いて、頭《かぶ》椎《つち》の太刀を腰《こし》に帯びると、老婆のあいさつには頓《とん》着《じやく》なく、大《おお》股《また》に洞外へ歩を運んだ。
微風は彼の頭から、すぐさま宿《しゆく》酔《すい》を吹き払《はら》った。彼は両《りよう》腕《うで》を胸に組んで、谷川の向こうにそよいでいる、さわやかな森林の梢《こずえ》を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹にかかった靄《もや》の上に、〓《さん》〓《がん*》たる肌《はだ》をさらしていた。しかもその巨大な山々の峰《みね》は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見おろしながら、声もなく昨夜の狂《きよう》態《たい》を嘲《あざ》笑《わら》っているように見えるのであった。
この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞《ほら》穴《あな》の空気が、嘔《おう》吐《と》を催《もよお》すほど不快になった。今は炉《ろ》の火も、瓶《ほたり》の酒も、ないし寝床の桃の花も、ことごとく忌《い》まわしい腐《ふ》敗《はい》の匂いに充《じゆう》満《まん》しているとしか思われなかった。ことにあの十六人の女たちは、いずれも死《し》穢《え》を隠《かく》すために、巧《たく》みな紅粉を装《よそお》っている、屍《し》骨《こつ》のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄《しよう》然《ぜん》と頭を低《た》れながら、洞穴の前にかかっている藤《ふじ》蔓《づる》の橋を渡ろうとした。
が、その時賑《にぎ》やかな笑い声が、静かな谷間にこだましながら、活《い》き活きと彼の耳にはいった。彼はわれ知らず足を止めて、声のする方を振《ふ》り返った。と、洞穴の前に通《かよ》っている、細い岨《そば》路《みち》の向こうから、十五人の妹をつれた、昨日よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、まばゆい絹の裳《もすそ》をひるがえしながら、こちらへ急いで来るところであった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊」
彼らは小鳥のさえずるように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、せっかく橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩《とう》漾《よう》させた。彼は彼自身の腑《ふ》甲《が》斐《い》なさに驚《おどろ》きながら、いつか顔じゅうに笑みを浮かべて、彼らの近づくのを待ちうけていた。
二八
それ以来老いたる素《す》戔《さの》嗚《お》は、この春のような洞《ほら》穴《あな》の中に、十六人の女たちと放《ほう》縦《しよう》な生活を送るようになった。
一月ばかりは、またたく暇《ま》に過ぎた。
彼は毎日酒を飲んだり、谷川の魚を釣《つ》ったりして暮らした。谷川の上流には瀑《たき》があって、そのまた瀑のあたりには年中桃《もも》の花が開いていた。十六人の女たちは、朝ごとにこの瀑《たき》壺《つぼ》へ行って、桃《とう》花《か》の匂《にお》いを浸した水に肌《はだ》を洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささないうちに、女たちといっしょに浴ぶべく、遠い上流まで熊《くま》笹《ざさ》の中を、分け上ることもまれではなかった。
そのうちに偉《い》大《だい》な山々も、谷川を隔《へだ》てた森林も、おいおい彼と交《こう》渉《しよう》のない、死んだ自然に変わって行った。彼は朝夕静《せい》寂《じやく》な谷間の空気を呼吸しても、寸《すん》毫《ごう》の感動さえ受けなくなった。のみならずそういう心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日ごとを迎《むか》えながら、幻《まぼろし》のような幸福を楽しんでいた。
しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、ふたたび高《たか》天《まが》原《はら》の国を眺《なが》めやった。高天原の国には日が当たって、天《あめ》の安《やす》河《かわ》の大きな水が焼き太《だ》刀《ち》のごとく光っていた。彼は勁《つよ》い風に吹かれながら、眼の下の景《け》色《しき》を見つめていると、急に言いようのない寂《さび》しさが、胸いっぱいにみなぎって来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙《なみだ》は実際彼の頬《ほお》に、冷たい痕《あと》を止《とど》めていた。彼はそれから身を起こして、かすかな榾《ほた》明《あ》かりに照らされた、洞《ほら》穴《あな》の中を見《み》廻《まわ》した。彼と同じ桃花の寝《ね》床《どこ》には、酒の匂いのする大気都姫が、安らかな寝息を立てていた。これはもちろん彼にとって、珍《めずら》しいことでもなんでもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉《び》目《もく》の形こそ変わらないが、垂《すい》死《し》の老《ろう》婆《ば》と同じことであった。
彼は恐《きよう》怖《ふ》と嫌《けん》悪《お》とに、わななく歯を噛《か》みしめながら、そっと生暖かい寝床をすべり脱《ぬ》けた。そうしてすばやく身《み》仕《じ》度《たく》をすると、あの猿《さる》のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍《しの》んで出た。
外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞こえていた。彼は藤《ふじ》蔓《づる》の橋を渡るが早いか、獣《けもの》のように熊《くま》笹《ざさ》を潜《くぐ》って、木の葉一つ動かない森林を、奥《おく》へ奥へと分けて行った。星の光、冷ややかな露《つゆ》、苔《こけ》の匂《にお》い、梟《ふくろう》の眼――すべてが彼には今までにない、さわやかな力にあふれているようであった。
彼はあとも振《ふ》り返らずに、夜が明けるまで歩みつづけた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂《とが》や樅《もみ》の空が燃えるように赤く染《そ》まった時、彼は何度も声をあげて、あの洞穴を逃《のが》れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢《こずえ》の山《やま》鳩《ばと》を眺《なが》めながら、弓矢を忘れて来たことを後《こう》悔《かい》した。が、空腹を充《みた》すべき木《こ》の実《み》は、どこにでもたくさんあった。
日の暮れは嶮《けわ》しい崖《がけ》の上に、寂《さび》しそうな彼を見いだした。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒《ほこ》を並《なら》べていた。彼は岩かどに腰《こし》をおろして、谷に沈《しず》む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁《かべ》にかかっている、剣《つるぎ》や斧《おの》を思いやった。するとなぜか、山々の向こうから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像もできないくらい、怪《あや》しい誘《ゆう》惑《わく》に富んだ幻《まぼろし》であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見すえたまま、必死にその誘惑を禦《ふせ》ごうとした。が、あの洞穴の榾《ほた》火《び》の思い出は、まるで眼に見えない網《あみ》のように、じりじり彼の心をとらえて行った。
二九
老いたる素《す》戔《さの》嗚《お》は一日の後、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃《に》げたことも知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を装《よそお》っているとは思われなかった。むしろ彼らははじめから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。
この彼らの無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一《ひと》月《つき》ばかりたってみると、かえって彼はそのために、前よりもなお安々と、いつまでも醒《さ》めない酔《よ》いのような、怪《あや》しい幸福に浸《ひた》ることができた。
一年ばかりの月日は、ふたたび夢《ゆめ》のように通り過ぎた。
するとある日女たちは、どこから洞《ほら》穴《あな》へつれて来たか、一頭の犬を飼《か》うようになった。犬は全身まっ黒な、犢《こうし》ほどもある牡《おす》であった。彼らは、ことに大《おお》気《け》都《つ》姫《ひめ》は、人間のようにこの犬をかわいがった。彼もはじめは彼らといっしょに、盤《さら》の魚や獣《けもの》の肉を投げてやることをきらわなかった。あるいはまた酒後のたわむれに、相《す》撲《もう》をとることもたびたびあった。犬は時々前足を飛ばせて、酔《え》い痴《し》れた彼を投げ倒《たお》した。彼らはそのたびに手をたたいて、賑《にぎ》やかに笑い興《きよう》じながら、意《い》気《く》地《じ》のない彼をあざけり合った。
ところが犬は一日ごとに、ますます彼らに愛されていった。大気都姫はとうとう食事のたびに、彼と同じ盤や瓶《ほたり》を、犬の前にも並《なら》べるようになった。彼は苦い顔をして、一度は犬を逐《お》い払《はら》おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼のわがままをとがめ立てた。その怒《いか》りを犯《おか》してまでも、犬を成《せい》敗《ばい》しようという勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬とともに、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも盤《さら》を舐《な》め廻《まわ》しながら、彼の方へ牙《きば》をむいて見せた。
しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅《おく》れて、例のとおり瀑《たき》を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃《もも》は相変わらず、谷間の霧《きり》の中に開いていた。彼は熊《くま》笹《ざさ》を押《お》し分けながら、桃の落花をたたえている、すぐ下の瀑《たき》壺《つぼ》へ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××《*》黒い獣《けもの》が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰《こし》の剣《つるぎ》を抜いて、一刺《さ》しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣をふるわせなかった。その暇《ひま》に犬は水を垂《た》らしながら、瀑《たき》壷《つぼ》の外へ躍《おど》り上がって、洞穴の方へ逃《に》げて行ってしまった。
それ以来夜ごとの酒《さか》盛《も》りにも、十六人の女たちが、一生懸《けん》命《めい》に奪《うば》い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中《ひた》りながら、洞穴の奥《おく》にうずくまって、一《ひと》夜《よ》じゅう酔《え》い泣きの涙《なみだ》を落としていた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉《しつ》妬《と》でいっぱいであった。が、その嫉妬のあさましさなどは、寸《すん》毫《ごう》も念《ねん》頭《とう》には上らなかった。
ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋《うず》めていると、突然誰かが忍《しの》びよって、両手に彼を抱《いだ》きながら艶《なま》めかしいことばをささやいた。彼は意外な眼をあげて、油《あぶら》火《び》には遠い簿《うす》暗《くら》がりに、じっと相手の顔を透《す》かして見た。と同時に怒《ど》声《せい》を発して、いきなり相手を突き放した。相手はひとたまりもなく床《ゆか》に倒れて、苦しそうな呻《しん》吟《ぎん》の声をもらした。――それはあの腰もろくに立たない、猿《さる》のような老《ろう》婆《ば》の声であった。
三〇
老婆を投げ倒した老いたる素《す》戔《さの》嗚《お》は、涙に濡《ぬ》れた顔をしかめたまま、虎《とら》のように身を起こした。彼の心はその瞬《しゆん》間《かん》、嫉《しつ》妬《と》と憤《ふん》怒《ぬ》と屈《くつ》辱《じよく》との煮え返っている坩《る》堝《つぼ》であった。彼は眼別に犬とたわむれている、十六人の女たちを見るが早いか、頭《かぶ》椎《つち》の太《た》刀《ち》を引き抜《ぬ》きながら、この女たちの群がった中へ、われを忘れて突進した。
犬はとっさに身をひるがえして、危うく彼の太刀を避《さ》けた。と同時に女たちは、たけり立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕《うで》を振《ふ》り離《はな》して、切っ先下がりにもう一度狂《くる》いまわる犬を刺《さ》そうとした。
しかし太刀は犬の代わりに、彼の武器を奪《うば》おうとした、大《おお》気《け》都《つ》姫《ひめ》の胸を刺した。彼女は苦痛の声をもらして、のけざまに床《ゆか》の上へ倒《たお》れた。それを見た女たちは、皆悲鳴をあげながら、糅《じゆう》然《ぜん》と四方へ逃《に》げのいた。灯《とう》台《だい》の倒れる音、けたたましく犬の吠《ほ》える声、それから盤《さら》だの瓶《ほたり》だのが粉《こな》微《み》塵《じん》に砕《くだ》ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞《ほら》穴《あな》の中も、ひとしきりはまるで嵐《あらし》のような、混《こん》乱《らん》の底に投げこまれてしまった。
彼は彼自身の眼を疑《うたが》うように、一《いつ》刹《せつ》那《な》は茫《ぼう》然《ぜん》とたたずんでいた。が、たちまち太刀を捨てて、両手に頭を抑《おさ》えたと思うと、息苦しそうな呻《うめ》き声を発して、弦《いと》を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走りだした。
空には暈《かさ》のかかった月が、無《ぶ》気《き》味《み》なくらいぼんやり蒼《あお》ざめていた。森の木々もその空に、暗《あん》枝《し》をさし交《かわ》せて、ひっそり谷を封《ふう》じたまま、何か凶《きよう》事《じ》が起こるのを待ち構《かま》えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走りつづけた。熊《くま》笹《ざさ》は露《つゆ》を振《ふる》いながら、あたかも彼を埋《うず》めようとするごとく、どこまで行っても浪《なみ》を立てていた。時々夜《よ》鳥《どり》がその中から、翼《つばさ》に薄《うす》い燐《りん》光《こう》を帯びて、風もない梢《こずえ》へ昇《のぼ》って行った。……
明け方彼は彼自身を、大きな湖の岸に見いだした。湖は曇《くも》った空の下にちょうど鉛《なまり》の板かと思うほど、波一つ揚《あ》げていなかった。周囲にそびえた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人《ひと》心《ごこ》地《ち》のついた彼には、ほとんど永久に癒《いや》すことを知らない、憂《ゆう》鬱《うつ》そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊《くま》笹《ざさ》をわけて、乾《かわ》いた砂の上におりた。それからそこに腰《こし》をおろして、寂《さび》しい水《みの》面《も》へ眼を送った。湖には遠く一、二点、かいつぶりの姿が浮かんでいた。
すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高《たか》天《まが》原《はら》の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵のすべてであった。――彼は両手に顔を埋《うず》めて、長い間大声に泣いていた。
その間《あいだ》に空模様が変わった。対岸を塞《ふさ》いだ山の空には、二、三度鍵《かぎ》の手の稲《いな》妻《ずま》が飛んだ。つづいていんいんと雷《いかずち》が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上にすわっていた。やがて雨をはらんだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、にわかに湖が暗くなって、ざわざわ波が騒《さわ》ぎ始めた。
雷がなお鳴りつづけた。そのうちに対岸の山が煙《けむ》りだすと、どこともなくざっと木々が鳴って、いったん暗くなった湖が、見る見る向こうからまた白くなった。彼ははじめて顔をあげた。そのとたんに天を傾《かたむ》けて、瀑《たき》のような大雨が、沛《はい》然《ぜん》と彼を襲《おそ》って来た。
三一
対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ちこめた雲《うん》煙《えん》の中に、ややともすると紛《まぎ》れそうであった。ただ、稲《いな》妻《ずま》のひらめくたびに、波の逆《さか》立《だ》った水面が、一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》遠くまで見渡された。と思うと雷《いかずち》の音が、かならず空を掻《か》きむしるように、つづけさまにごうごうと爆《ばく》発《はつ》した。
素《す》戔《さの》嗚《お》はずぶ濡《ぬ》れになりながら、いまだに汀《なぎさ》の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦《かい》濛《もう》の底へ沈《しず》んでいた。そこには穢《けが》れはてた自己に対する、憤《ふん》懣《まん》よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣をほしいままにもらす力さえ――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡《ほろ》ぼすべき、最後の力さえ涸《か》れつきていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒《さわ》ぎ立つ波にのぞんだまま、まっ白に落とす豪《ごう》雨《う》を浴びて、黙《もく》然《ねん》とすわっているよりほかはなかった。
天はいよいよ暗くなった。風雨もいっそう力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらとすさまじい薄《うす》紫《むらさき》になった。山が、雲が、湖が皆半空に浮かんで見えた。同時に地《ち》軸《じく》も砕《くだ》けたような、落雷の音が耳を裂《さ》いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒《たお》れた。雨は俯《うつ》伏《ぶ》せになった彼の上へ未《み》練《れん》未《み》釈《しやく》なく降りそそいだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋《うず》めたまま、身動きをする気《け》色《しき》も見えなかった。……
何時間か過ぎた後、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上がった。彼の前には静かな湖が油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一《いつ》幅《ぷく》の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかよりあざやかな黄ばんだ緑にほのめいていた。
彼は茫《ぼう》然《ぜん》と眼をあげて、この平和な自然を眺《なが》めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には昔見た夢《ゆめ》の中の景色のような、なつかしい寂《せき》寞《ばく》にあふれていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜《ひそ》んでいる」――彼はそう思いながら、むさぼるように湖を眺めつづけた。しかしそれが何だったかは、遠い記《き》憶《おく》をたどってみても、容《よう》易《い》に彼には思い出せなかった。
そのうちに雲の影《かげ》が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋《うず》める森の緑は、それとともに美しく湖の空に燃え上がった。この時彼の心に異様な戦慄《せんりつ》が伝わるのを感じた。彼は息を呑《の》みながら、熱心に耳を傾《かたむ》けた。すると重なり合った山々の奥《おく》から、今まで忘れていた自然のことばが声のない雷《いかずち》のようにとどろいて来た。
彼は喜びにおののいた。おののきながらそのことばの威《い》力《りよく》の前に圧《あつ》倒《とう》された。彼はしまいには砂に伏《ふ》して、必死に耳をふさごうとした。が自然は語りつづけた。彼はいやでもそのことばに、じっと聞き入るより途《みち》はなかった。
湖は日に輝《かがや》きながら、溌《はつ》溂《らつ》とそのことばに応じた。彼は――その汀《なぎさ》にひれ伏している、小さな一人の人間は、代わる代わる泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧《わ》き上がる声は、彼の悲喜には頓《とん》着《じやく》なく、あたかも目に見えない波《は》濤《とう》のように絶えまなく彼の上へみなぎって来た。
三二
素《す》戔《さの》嗚《お》はその湖の水を浴びて、全身の穢《けが》れを洗い落とした。それから岸にのぞんでいる、大きな樅《もみ》の木の陰《かげ》へ行って、久しぶりにすこやかな眠《ねむ》りに沈《しず》んだ。が、夢《ゆめ》はその間《あいだ》も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静かに彼の上へ舞《ま》い下がって来た。――
夢の中は薄《うす》暗《ぐら》かった。そうして大きな枯《か》れ木が一本、彼の前に枝を伸《の》ばしていた。
そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄《つか》に竜《りゆう》の飾《かざ》りのある高《こ》麗《ま》剣《つるぎ*》を佩《は》いていることは、その竜の首が朦《もう》朧《ろう》と金《こん》色《じき》に光っているせいか、一目にもすぐに見わけられた。
大男は腰《こし》の剣《つるぎ》を抜《ぬ》くと、無《む》造《ぞう》作《さ》にそれを鍔《つば》元《もと》まで、大木の根本へ突き通した。
素戔嗚はその非《ひ》凡《ぼん》な膂《りよ》力《りよく》に、驚《きよう》嘆《たん》しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
「あれは火《ほのい》雷《かずちの》命《みこと*》だ」と、ささやいてくれるものがあった。
大男は静かに手をあげて、彼に何か相《あい》図《ず》をした。それが彼にはなんとなく、その高麗剣を抜けという相図のように感じられた。そうして急に夢が覚《さ》めた。
彼は茫《ぼう》然《ぜん》と身を起こした。微風に動いている樅《もみ》の梢《こずえ》には、すでに星が撒《ま》かれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊《くま》笹《ざさ》のそよぎや苔《こけ》の匂《にお》いが、かすかに動いている夕《ゆう》闇《やみ》があった。彼は今見た夢《ゆめ》を思い出しながら、そういうあたりへなにげなく、懶《ものう》い視《し》線《せん》をただよわせた。
と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変わりのない、一本の枯れ木のあるのが見えた。彼は考える暇《いとま》もなく、その枯れ木の側《そば》へ足を運んだ。
枯れ木はさっきの落雷に、裂《さ》かれたものに違《ちが》いなかった。だから根元には何かの針《しん》葉《よう》が、枝《えだ》ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏《ふ》むと同時に、夢が夢でなかったことを知った。――枯れ木の根本には一振《ひとふ》りの高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》が竜の飾りのある柄《つか》を上にほとんど鍔《つば》も見えないほど、深く突き立っていたのであった。
彼は両手に柄を掴《つか》んで、渾《こん》身《しん》の力をこめながら、一気にその剣を引き抜《ぬ》いた。剣は今しがた磨《と》いだように鍔元から切っ先まで冷ややかな光を放っていた。「神々はおれを守っていてくださる」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧《わ》くような気がした。彼は枯れ木の下にひざまずいて天上の神々に祈《いの》りをささげた。
その後彼はまた樅《もみ》の木陰《こかげ》へ帰って、しっかり剣を抱《いだ》きながら、もう一度深い眠《ねむ》りに落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠りつづけた。
眠りから覚《さ》めた素《す》戔《さの》嗚《お》はふたたび体《からだ》を清むべく、湖の汀《なぎさ》へおりて行った。風の凪《な》ぎつくした湖は、小《さざ》波《なみ》さえ砂を揺《ゆ》すらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとくあざやかに映して見せた。それは高《たか》天《まが》原《はら》の国にいた時のとおり、心も体もたくましい、醜《みにく》い神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一《ひと》筋《すじ》の皺《しわ》が、いつのまにか一年間の悲しみの痕《あと》を刻んでいた。
三三
それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越《こ》えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、いまだかつて彼の足を止《とど》めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変わっていたが、そこに住んでいる民の心は、高《たか》天《まが》原《はら》の国と同じことであった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一《いつ》臂《ぴ》の労を貸してやったことはあっても、それらの民の一人となって、老いようと思ったことは一度もなかった。「素《す》戔《さの》嗚《お》よ。お前は何を探しているのだ。おれといっしょに来い。おれといっしょに来い。……」
彼は風がささやくままに、あの湖をあとにしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂《ひよう》泊《はく》をつづけて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲《いずも》の簸《ひ》の川《*》をさかのぼって行く、一艘《そう》の独木《まるき》舟《ぶね》の帆《ほ》の下に、蘆《あし》の深い両岸を眺《なが》めている、退《たい》屈《くつ》な彼自身を見いだしたのであった。
蘆の向こうには一面に、高い松の木が茂《しげ》っていた。この松の枝《えだ》が、むらむらと、互《たが》いに鬩《せめ》ぎ合った上には、夏《なつ》霞《がすみ》で煙《けむ》っている、陰《いん》鬱《うつ》な山々の頂があった。そうしてそのまた山々の空には、時々鷺《さぎ》が両三羽、まばゆく翼《つばさ》をひらめかせながら、斜《なな》めに渡って行く影《かげ》が見えた。が、この鷺の影を除《のぞ》いては、川《かわ》筋《すじ》一帯どこを見ても、ほとんど人をおびやかすような、明るい寂《せき》寞《ばく》が支配していた。
彼は舷《ふなばた》に身をもたせて、日に蒸された松《まつ》脂《やに》の匂《にお》いを胸いっぱいに吸いこみながら、長い間独木舟《まるきぶね》を風の吹きやるのにまかせていた。実際この寂《さび》しい川筋の景色も、幾《いく》多《た》の冒《ぼう》険《けん》に慣《な》れた素戔嗚には、まるで高天原の八《やち》衢《また*》のように、今まで寸《すん》分《ぶん》の刺《し》戟《げき》さえない、平《へい》凡《ぼん》な往来にすぎないのであった。
夕暮れが近くなった時、川幅が狭《せま》くなるとともに、両岸には蘆《あし》がまれになって、節《ふし》くれ立った松の根ばかりが、水と泥《どろ》との交じる所を、荒《こう》涼《りよう》とかがっているようになった。彼は今夜の泊《と》まりを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を配って行った。松は水の上まで枝《し》垂《だ》れた枝を鉄《てつ》網《もう》のようにからめ合わせて、林の奥《おく》の神《しん》秘《ぴ》な世界を、執《しゆう》念《ね》く人目から隠《かく》していた。それでも時たまその松が、鹿《しか》でも水を飲みに来るせいか、まばらに透《す》いている所には不気味なほど赤い大《おお》茸《たけ》が、薄《うす》暗《ぐら》い中に簇《そう》々《そう》と群がっている朽《く》ち木も見えた。
ますます夕暮れが迫《せま》って来た。その時、彼ははるか向こうの、水にのそんでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、すわっているのを発見した。もちろんこの川《かわ》筋《すじ》には、さっきから全然人《じん》煙《えん》のあがっている容《よう》子《す》は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼ははじめは眼を疑って、高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》の柄《つか》にこそ手をかけてみたが、まだ体《からだ》はゆうゆうと独木舟の舷《ふなばた》にもたせていた。
そのうちに舟は水《み》脈《お》を引いて、しだいにそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛《まぎ》れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白《びやく》衣《い》の裾《すそ》を長く引いた、女だということまで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝《かがや》かせながら、思わず独木舟の舳《みよし》に立ち上がった。舟はその間《あいだ》も帆《ほ》に微風をはらんで、小《お》暗《ぐら》く空にはびこった松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。
三四
舟はとうとう一枚岩の前へ来た。岩の上には松の枝《えだ》が、やはりながながと枝《し》垂《だ》れていた。素《す》戔《さの》嗚《お》はすばやく帆をおろすと、その松の枝を片手につかんで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺《ゆ》れながら、舳《みよし》に岩角《かど》の苔《こけ》をかすって、たちまちそこへ横づけになった。
女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独《ひと》り泣き伏《ふ》していた。が、人のけはいに驚《おどろ》いたのか、この時ふと顔をもたげて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴をあげながら、半ば岩を抱《いだ》いている、太い松の蔭《かげ》に隠《かく》れようとした。しかし彼はそのとたんに、片手に岩角をつかんだまま、「お待ちなさい」と言うより早く、うしろへ引き残した女の裳《もすそ》を、片手にしっかり握《にぎ》りとめた。女は思わずそこへ倒《たお》れて、もう一度短い悲鳴を漏《も》らした。が、それぎり身を起こす気《け》色《しき》もなく、また前のように泣き入ってしまった。
彼は纜《ともづな》を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上がった。そうして女の肩《かた》へ手をかけながら、
「ご安心なさい。私《わたし》は何もあなたの体《からだ》に、害を加えようというのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不《ふ》審《しん》でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです」と言った。
女はやっと顔をあげて、水の上をこめた暮色の中に、おずおず彼の姿を見上げた。彼はその刹《せつ》那《な》にこの女が、夢《ゆめ》の中にのみ見ることができる、たとえばこの夏の夕明かりのような、どことなくもの悲しい美しさにあふれていることを知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路《みち》でも迷ったのですか。それとも悪者にでもさらわれたのですか」
女は黙《だま》って、首を振《ふ》った。その拍《ひよう》子《し》に頸《くび》珠《たま》の琅《ろう》〓《かん》が、かすかに触《ふ》れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、いやと言う返事の身ぶりを見ると、われ知らず微笑が脣《くちびる》に上って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬《しゆん》間《かん》には、見る見る恥《は》ずかしそうな色に頬《ほお》を染《そ》めて、また涙《なみだ》にうるんだ眼を、もう一度膝《ひざ》へ落としてしまった。
「では、――ではどうしたのです。何か難《なん》儀《ぎ》なことでもあったら、遠《えん》慮《りよ》なく話してごらんなさい。私《わたし》にできることでさえあれば、どんなことでもしてあげます」
彼がこう優しく慰《なぐさ》めると、女ははじめて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかくいっさいの事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上の部落の長《おさ》をしている、足《あし》名《なず》椎《ち*》というものであった。ところが近ごろ部落の男《なん》女《によ》が、続々と疫《えき》病《びよう》に仆《たお》れるため、足名椎はさっそく巫《み》女《こ》に命じて、神々の心を尋《たず》ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛《くし》名《な》田《だ》姫《ひめ*》という一人娘を、高《こ》志《し*》の大蛇《おろち》の犠《いけにえ》にしなければ、部落全体が一《ひと》月《つき》のうちに、死に絶えるであろうという託《たく》宣《せん》があった。そこで足名椎はやむを得ず、部落の若者たちとともに舟を艤《ぎ》して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後、彼女一人をあとに残して、帰って行ったということであった。
三五
櫛《くし》名《な》田《だ》姫《ひめ》の話を聞き終わると、素《す》戔《さの》嗚《お》は項《うなじ》をそらせながら、愉《ゆ》快《かい》そうにたそがれの川を見《み》廻《まわ》した。
「その高《こ》志《し》の大蛇《おろち》というのは、いったいどんな怪《かい》物《ぶつ》なのです」
「人の噂《うわさ》を聞きますと、頭《かしら》と尾とが八つある、八つの谷にもわたるくらい、大きな蛇《くちなわ》だとか申すことでございます」
「そうですか。それはよいことを聞きました。そんな怪物には何年にも、出合ったことがありませんから、話を聞いたばかりでも、力《ちから》瘤《こぶ》の動くような気がします」
櫛名田姫は心配そうに、そっと涼《すず》しい眼をあげて、無《む》頓《とん》着《じやく》な彼を見守った。
「こう申すうちにもいつ何《なん》時《どき》、大蛇《おろち》がまいるかわかりませんが、あなたは――」
「大蛇を退治するつもりです」
彼はきっぱりこう答えると、両《りよう》腕《うで》を胸に組んだまま、静かに一枚岩の上を歩きだした。
「退治するとおっしゃっても、大蛇はただいま申しあげたとおり、一《ひと》方《かた》ならない神でございますから――」
「そうです」
「万一あなたがそのために、お怪《け》我《が》をなさらないともかぎりませんし、――」
「そうです」
「どうせ私《わたくし》は犠《いけにえ》になるものと、覚悟をきめた体《からだ》でございます。たといこのまま、――」
「お待ちなさい」
彼は歩みをつづけながら、何か眼に見えない物を払《はら》いのけるような手《て》真《ま》似《ね》をした。
「私《わたし》はあなたをおめおめと大蛇《おろち》の犠《いけにえ》にはしたくないのです」
「それでも大蛇が強ければ――」
「しかたがないと言うのですか。たといしかたがないにしても、私はやはり戦うのです」
櫛名田姫はまた顔を赤らめて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼のことばを押《お》し返した。
「私《わたくし》が大蛇の犠になるのは、神々の思《おぼ》し召《め》しでございます」
「そうかもしれません。しかし犠になるということがなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。してみると神々の思し召しは、あなたを大蛇の犠にするより、かえって私《わたし》に大蛇の命を断たせようというのかもしれません」
彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、厳《おごそ》かな権威のひらめきが彼の醜《みにく》い眉《び》目《もく》の間《あいだ》に磅《ぼう》〓《はく*》したように思われた。
「けれども巫《み》女《こ》が申しますには――」
櫛名田姫の声はほとんど聞こえなかった。
「巫女は神々のことばを伝《つた》えるものです。神々の謎《なぞ》を解《と》くものではありません」
この時突然二頭の鹿《しか》が、もう暗くなった向こうの松の下から、わずかに薄《うす》白《じら》んだ川の中へ、水《みず》煙《けむり》を立てて跳《おど》りこんだ。そうして角《つの》を並《なら》べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。
「あの鹿の慌《あわ》てようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐《おそ》ろしい神が、――」
櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰《こし》へすがりついた。
「そうです。とうとう来たようです、神々の謎の解ける時が」
彼は対岸に眼を配りながら、おもむろに高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》の柄《つか》へ手をかけた。するとそのことばがまだ終わらないうちに、驟《しゆう》雨《う》の襲《おそ》いかかるような音が、対岸の松林を震《ふる》わせながら、その上にまばらな星を撒《ま》いた、山々の空へ上りだした。
(大正九年五月)
老《お》いたる素《す》戔《さの》嗚《おの》尊《みこと》
高《こ》志《し》の大蛇《おろち》を退治した素《す》戔《さの》嗚《お》は、櫛《くし》名《な》田《だ》姫《ひめ》を娶《めと》ると同時に、足《あし》名《な》椎《ずち》が治めていた部落の長《おさ》となることになった。
足名椎は彼ら夫婦のために、出《いず》雲《も》の須《す》賀《が*》へ八《や》広《ひろ》殿《どの*》を建てた。宮は千《ち》木《ぎ*》が天雲に隠《かく》れるほど大きな建築であった。
彼は新しい妻とともに、静かな朝夕を送り始めた。風の声も浪《なみ》の水沫《しぶき》も、あるいは夜空の星の光も今はふたたび彼を誘《さそ》って、広《こう》漠《ばく》とした太古の天地に、さまよわせることはできなくなった。すでに父となろうとしていた彼は、この宮の太い棟《むな》木《ぎ》の下に、――赤と白とに狩《か》りの図を描《えが》いた、彼の部《へ》屋《や》の四《し》壁《へき》の内に、高《たか》天《まが》原《はら》の国が与《あた》えなかった炉辺《ろばた》の幸福を見いだしたのであった。
彼らはいっしょに食事をしたり、未来の計画を話し合ったりした。時々は宮のまわりにある、柏《かしわ》の林に歩みを運んで、その小さな花《はな》房《ぶさ》の地に落ちたのを踏《ふ》みながら、夢《ゆめ》のような小鳥の啼《な》く声に、耳を傾《かたむ》けることもあった。彼は妻に優しかった。声にも、身ぶりにも、眼のうちにも、昔のような荒々しさは、二度と影《かげ》さえも現わさなかった。
しかしまれに夢《ゆめ》の中では、暗《くら》黒《やみ》に蠢《うごめ》く怪《かい》物《ぶつ》や、見えない手のふるう剣《つるぎ》の光が、もう一度彼を殺《さつ》伐《ばつ》な争《そう》闘《とう》の心につれて行った。が、いつも眼がさめると、彼はすぐ妻のことや部落のことを思い出すほど、きれいにその夢を忘れていた。
まもなく彼らは父母になった。彼はその生まれた男の子に、八《や》島《しま》士《じ》奴《ぬ》美《み*》という名を与《あた》えた。八島士奴美は彼よりも、女親の櫛名田姫に似た、気立ての美しい男であった。
月日は川のように流れて行った。
その間《あいだ》に彼は何人かの妻を娶《めと》って、さらに多くの子の父になった。それらの子は皆《みな》人となると、彼の命ずるままに兵士を率《ひき》いて、国々の部落を従えに行った。
彼の名は子孫の殖《ふ》えるとともに、しだいに遠くまで伝わって行った。国々の部落は彼のもとへ、続々と貢《みつぎ》を奉《たてまつ》りに来た。それらの貢を運ぶ舟は、絹や毛《け》革《がわ》や玉とともに、須《す》賀《が》の宮を仰《あお》ぎに来る国々の民をも乗せていた。
ある日彼はそういう民の中に、高《たか》天《まが》原《はら》の国から来た三人の若者を発見した。彼らは皆当年の彼のような、筋《きん》骨《こつ》のたくましい男であった。彼は彼らを宮に召《め》して、手ずから酒を飲ませてやった。それは今まで何《なん》人《ぴと》も、この勇《ゆう》猛《もう》な部落の長《おさ》から、受けたことのない待《たい》遇《ぐう》であった。若者たちもはじめのうちは、彼の意《い》嚮《こう》を量《はか》りかねて、多少の畏《い》怖《ふ》を抱《いだ》いたらしかった。しかし酒がまわりだすと、彼の所《しよ》望《もう》するとおり、甕《みか》の底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱《うた》った。
彼らが宮を下がる時、彼は一《ひと》振《ふ》りの剣《つるぎ》を取って、
「これはおれが高《こ》志《し》の大蛇《おろち》を斬《き》った時、その尾《お》の中にあった剣《つるぎ*》だ。これをお前たちに預けるから、お前たちの故郷の女《おんな》君《ぎみ》に渡してくれい」と言いつけた。
若者たちはその剣を捧《ささ》げて、彼の前にひざまずきながら、死んでも彼の命令に背《そむ》かないという誓《ちか》いを立てた。
彼はそれから独《ひと》り海《うみ》辺《べ》へ行って、彼らを乗せた舟の帆《ほ》が、だんだん荒い波の向こうに、遠くなって行くのを見送った。帆は霧《きり》を破る日の光を受けて、ちょうど中《なか》空《ぞら》を行くように、たった一つひらめいていた。
しかし死は素《す》戔《さの》嗚《お》夫婦をも赦《ゆる》さなかった。
八《や》島《しま》士《じ》奴《ぬ》美《み》がおとなしい若者になった時、櫛《くし》名《な》田《だ》姫《ひめ》はふと病にかかって、一《ひと》月《つき》ばかりの後に命を殞《おと》した。何人か妻があったとはいえ、彼が彼自身のように愛していたのは、やはり彼女一人だけであった。だから彼は喪《も》屋《や》ができると、まだ美しい妻の死《し》骸《がい》の前に、七《なぬ》日《か》七《なな》晩《ばん》すわったまま、黙《もく》然《ねん》と涙《なみだ》を流していた。
宮の中はその間《あいだ》、慟《どう》哭《こく》の声にあふれていた。ことに幼い須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》が、しっきりなく歎《なげ》き悲しむ声には、宮の外を通るものさえ、涙を落とさずにはいられなかった。彼女は――この八島士奴美のたった一人の妹は、兄が母に似ているとおり、情熱の烈《はげ》しい父に似た、男まさりの娘であった。
やがて櫛名田姫の亡《なき》骸《がら》は、生前彼女が用いていた、玉や鏡や衣服とともに、須《す》賀《が》の宮から遠くない、小山の腹に埋《うず》められた。が、素《す》戔《さの》嗚《お》はその上に、黄《よ》泉《み》路《じ》の彼女を慰《なぐさ》むべく、今まで妻に仕えていた十一人の女たちをも、埋《うず》め殺すことを忘れなかった。女たちは皆、装《よそお》いを凝《こ》らして、いそいそと死に急いで行った。するとそれを見た部落の老人たちは、いずれも眉《まゆ》をひそめながら、ひそかに素戔嗚の暴《ぼう》挙《きよ》を非難し合った。
「十一人! 尊《みこと》は部落の旧習に全然無《む》頓《とん》着《じやく》でお出でなさる。第一の妃《きさき》がおなくなりなすったのに、十一人しか黄泉《よみ》のお供をおさせ申さないという法があろうか? たった皆で十一人!」
葬《ほうむ》りが全く終わった後、素戔嗚は急に思い立って、八島士奴美に世を譲《ゆず》った。そうして彼自身は須世理姫とともに、遠い海の向こうにある根《ねの》堅《かた》洲《す》国《くに*》へ移り住んだ。
そこは彼が流《る》浪《ろう》ちゅうに、最も風土の美しいのを愛した、四面海の無人島であった。彼はこの島の南の小山に、茅《か》葺《やぶ》きの宮を営ませて、安らかな余生を送ることにした。
彼はすでに髪《かみ》の毛が、麻《あさ》のような色に変わっていた。が、老年もまだ彼の力を奪《うば》い去ることができないことは、時々彼の眼に去来する、精《せい》悍《かん》な光にも明らかであった。いや、彼の顔はどうかすると、須《す》賀《が》の宮にいた時より、さらに野《や》蛮《ばん》な精《せい》彩《さい》を加えることもないではなかった。彼は彼自身気づかなかったが、この島に移り住んで以来、今まで彼の中に眠《ねむ》っていた野性が、いつかまた眼をさまして来たのであった。
彼は娘の須世理姫とともに、蜂《はち》や蛇《へび》を飼《か》い馴《な》らした。蜂はもちろん蜜《みつ》を取るため、蛇は征《そ》矢《や》の鏃《やじり》に塗《ぬ》るべき、劇《げき》烈《れつ》な毒を得るためであった。それから狩《か》りや漁の暇《ひま》に、彼は彼の学んだ武芸や魔《ま》術《じゆつ》を、いちいち須世理姫に教え聞かせた。須世理姫はこういう生活のうちに、だんだん男にも負けないような、雄《お》々《お》しい女になって行った。しかし姿だけは依《い》然《ぜん》として、櫛名田姫の面《おも》影《かげ》を止《とど》めた、気《け》高《だか》い美しさを失わなかった。
宮のまわりにある椋《むく》の林は、何度となく芽を吹いて、何度となくまた葉を落とした。そのたびに彼は髯《ひげ》だらけの顔に、いよいよ皺《しわ》の数を加え、須世理姫は始終微《ほほ》笑《え》んだ瞳《ひとみ》に、ますます涼《すず》しさを加えて行った。
ある日素《す》戔《さの》嗚《お》が宮の前の、椋《むく》の木の下にすわりながら、大きな牡《お》鹿《じか》の皮を剥《は》いでいると、海へ水を浴びに行った須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》が、見慣れない若者といっしょに帰って来た。
「お父《とう》様《さま》、この方にただいまお目にかかりましたから、ここまでお伴《とも》してまいりました」
須世理姫はこう言って、やっと身を起こした素戔嗚に、遠い国の若者を引き合わせた。
若者は眉《び》目《もく》の描《えが》いたような、肩《かた》幅《はば》の広い男であった。それが赤や青の頸《くび》珠《たま》を飾《かざ》って、太い高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》を佩《は》いている容《よう》子《す》は、ほとんど年少時代そのものが目前に現われたように見えた。
素戔嗚はうやうやしい若者の会《え》釈《しやく》を受けながら、
「お前の名は何と言う?」と、ぶしつけな問いをほうりつけた。
「葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お*》と申します」
「どうしてこの島へやって来た?」
「食物や水が欲《ほ》しかったものですから、わざわざ舟をつけたのです」
若者は悪びれた顔もせずに、いちいちはっきり返事をした。
「そうか。ではあちらへ行って、かってに食事をするがよい。須世理姫、案内はお前にまかせるから」
二人が宮の中にはいった時、素戔嗚はまた椋《むく》の木かげに、器用に刀《とう》子《す》を動かしながら、牡《お》鹿《じか》の皮を剥《は》ぎ始めた。が、彼の心はいつのまにか、妙《みよう》な動《どう》揺《よう》を感じていた。それはちょうど晴天の海に似た、今までの静かな生活の空に、嵐《あらし》を先《さき》触《ぶ》れる雲の影《かげ》が、動こうとするような心もちであった。
鹿の皮を剥ぎ終わった彼が、宮の中へ帰ったのは、もう薄《うす》暗《ぐら》い時分であった。彼は広い階《きざ》段《はし》を上がると、いつものとおりなにげなく、大広間の戸口に垂《た》れている、白い帷《とばり》を掲《かか》げて見た。すると須世理姫と葦原醜男とが、まるでねぐらを荒らされた、二羽のむつまじい小鳥のように、倉《そう》皇《こう》と菅《すが》畳《だたみ》から身を起こした。彼は苦《にが》い顔をしながら、のそのそ部屋の中へ歩を運んだが、やがて葦原醜男の顔へ、じろりといまいましそうな視《し》線《せん》をやると、
「お前は今夜ここへ泊まって、舟旅の疲れを休めて行くがよい」と、半ば命令的なことばをかけた。
葦原醜男は彼のことばに、うれしそうな会《え》釈《しやく》を返したが、それでもまだなんとなく、間の悪げな気《け》色《しき》は隠《かく》せなかった。
「ではすぐにあちらへ行って、遠《えん》慮《りよ》なく横になってくれい。須世理姫――」
素戔嗚は娘を振《ふ》り返ると、突然あざけるような声を出した。
「この男をさっそく蜂《はち》の室《むろ》へつれて行ってやるがよい」
須世理姫は一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、色を失ったようであった。
「早くしないか!」
父親は彼女がためらうのを見ると、荒《あら》熊《くま》のように唸《うな》りだした。
「はい、ではあなた、どうかこちらへ」
葦原醜男はもう一度、ていねいに素戔嗚へ礼をすると、須世理姫のあとを追って、いそいそと大広間を出て行った。
大広間の外へ出ると、須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》は肩《かた》にかけた領巾《ひれ》を取って、葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》の手に渡しながらささやくようにこう言った。
「蜂《はち》の室《むろ》へおはいりになったら、これを三遍《べん》お振《ふ》りなさいまし。そうすると蜂が刺《さ》しませんから」
葦原醜男はなんのことだか、相手のことばがのみこめなかった。が、問い返す暇《いとま》もなく、須世理姫は小さな扉《とびら》を開いて、室の中へ彼を案内した。
室の中はもうまっくらであった。葦原醜男はそこへはいると、手さぐりに彼女を捉《とら》えようとした。が、手はわずかに彼女の髪《かみ》へ、指の先が触《ふ》れたばかりであった。そうしてその次の瞬間には、あわただしく扉《とびら》を閉じる音が聞こえた。
彼は領巾《ひれ》をたまさぐりながら、茫《ぼう》然《ぜん》と室の中にたたずんでいた。すると眼が慣れたせいか、だんだんあたりが思ったより、薄《うす》明《あか》るく見えるようになった。
その薄明かりに透かして見ると、室《むろ》の天《てん》井《じよう》からは幾《いく》つとなく、大《おお》樽《たる》ほどの蜂《はち》の巣《す》が下がっていた。しかもそのまた巣のまわりには、彼の腰《こし》に下げた高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》より、さらに一かさ大きい蜂が、何《なん》匹《びき》もゆうゆうと這《は》いまわっていた。
彼は思わず身をひるがえして、扉の方へ飛んで行った。が、いくら推《お》しても引いても、扉は開《あ》きそうな気《け》色《しき》さえなかった。のみならずその時一匹の蜂は、斜《なな》めに床《ゆか》の上へ舞《ま》い下がると、鈍《にぶ》い翅《は》音《おと》を起こしながら、しだいに彼の方へ這い寄って来た。
あまりのことに度を失った彼は、まだ蜂が足もとまで来ないうちに、倉《そう》皇《こう》とそれを踏《ふ》み殺そうとした。しかし蜂はそのとたんに、いっそう翅音を高くしながら、彼の頭上へ舞い上がった。と同時に多くの蜂も、人のけはいに腹を立てたと見えて、まるで風を迎《むか》えた火矢のように、ばらばらと彼の上へ落ちかかって来た。……
須世理姫は広間へ帰って来ると、壁《かべ》に差《さ》した松《たい》明《まつ》へ火をともした。火の光は赤々と、菅《すが》畳《だたみ》の上に寝ころんだ素《す》戔《さの》嗚《お》の姿を照らし出した。
「確かに蜂の室《むろ》へ入れて来たろうな?」
素戔嗚は眼を娘の顔に注ぎながら、またいまいましそうな声を出した。
「私《わたし》はお父様のお言いつけにそむいたことはございません」
須世理姫は父親の眼を避《さ》けて、広間の隅《すみ》へ席を占《し》めた。
「そうか? ではもちろんこれからも、おれの言いつけにはそむくまいな?」
素戔嗚のこう言うことばの中には、皮肉な調子が交《ま》じっていた。須世理姫は頸《くび》珠《たま》を気にしながら、そむくともそむかないとも答えなかった。
「黙《だま》っているのはそむく気か?」
「いいえ。――お父様はどうしてそんな――」
「そむかない気ならば、言い渡すことがある。おれはお前があの若者の妻になることを許さないぞ。素戔嗚の娘は素戔嗚の目がねにかなった夫を持たねばならぬ。よいか? これだけのことを忘れるな」
夜がすでに更《ふ》けた後、素戔嗚はいびきをかいていたが、須世理姫は独《ひと》り悄《しよう》然《ぜん》と広間の窓によりかかりながら、赤い月が音もなく海に沈《しず》むのを見守っていた。
翌《よく》朝《あさ》素《す》戔《さの》嗚《お》はいつものとおり、岩の多い海へ泳ぎに行った。するとそこへ葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》が、意外にも彼のあとを追って、勢いよく宮の方から下って来た。
彼は素戔嗚の姿を見ると、愉《ゆ》快《かい》そうな微笑を浮かべながら、
「お早うございます」と、会《え》釈《しやく》をした。
「どうだな、昨夕《ゆうべ》はよく眠《ねむ》られたかな?」
素戔嗚は岩角《かど》にたたずんだまま、迂《う》散《さん》らしく相手の顔を見やった。実際この元気の好い若者がどうして室《むろ》の蜂《はち》に殺されなかったか? それは全然彼自身の推《すい》測《そく》を超《ちよう》越《えつ》していたのであった。
「ええ、おかげでよく眠られました」
葦原醜男はこう答えながら、足もとに落ちていた岩のかけを拾って、力いっぱい海の上へほうり投げた。岩は長い弧《こ》線《せん》を描《えが》いて、雲の赤い空へ飛んで行った。そうして素戔嗚が投げたにしても、届《とど》くまいと思われるほど、遠い沖《おき》の波の中に落ちた。
素戔嗚は脣《くちびる》を噛《か》みながら、じっとその岩の行《ゆく》方《え》を見つめていた。
二人が海から帰って来て、朝《あさ》餉《げ》の膳《ぜん》に向かった時、素戔嗚は苦い顔をして、鹿《しか》の片《かた》腿《もも》をかじりながら、彼と向かい合った葦原醜男に、
「この宮が気に入ったら、何日でも泊《と》まって行くがよい」と言った。
傍《かたわら》にいた須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》は、この怪《あや》しい親切を辞《じ》せしむべく、そっと葦原醜男の方へ、意味ありげな瞬《またた》きを送って見せた。が、彼はちょうどその時、盤《さら》の魚に箸《はし》をつけていたせいか、彼女の相《あい》図《ず》には気もつかずに、「ありがとうございます。ではもう二、三日、ご厄《やつ》介《かい》になりましょうか」と、うれしそうな返事をしてしまった。
しかし幸い午後になると、素戔嗚が昼寝をしている暇《ひま》に、二人の恋人は宮を抜《ぬ》け出て彼の独《まる》木《き》舟《ぶね》が繋《つな》いである、寂《さび》しい海《うみ》辺《べ》の岩の間に、あわただしい幸福を偸《ぬす》むことができた。須世理姫は香《かお》りのよい海《うみ》草《ぐさ》の上に横たわりながら、しばらくはただ夢《ゆめ》のように、葦原醜男の顔を仰《あお》いでいたが、やがて彼の腕《うで》を引き離《はな》すと、
「今夜もここにお泊《と》まりなすっては、あなたのお命が危《あぶの》うございます。私のことなぞはおかまいなく、一刻も早くお逃《に》げくださいまし」と、心配そうにうながしたてた。
しかし葦原醜男は笑いながら、子供のように首を振《ふ》って見せた。
「あなたがここにいる間は、殺されてもここを去らないつもりです」
「それでもあなたのお体《からだ》に、万一のことでもあった日には――」
「ではすぐにも私《わたし》といっしょに、この島を逃げてくれますか?」
須世理姫はためらった。
「さもなければ私はいつまでも、ここにいる覚《かく》悟《ご》をきめています」
葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱《だ》きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起こして、
「お父様が呼んでいます」と、気づかわしそうな声を出した。そうしてとっさに岩の間を、若い鹿《しか》よりも身軽そうに、宮の方へ上って行った。
あとに残った葦原醜男は、まだ微笑を浮かべながら、須世理姫の姿を見送った。と、彼女の寝ていた所には、昨夕《ゆうべ》彼がもらったような、領巾《ひれ》がもう一枚落ちていた。
その夜素《す》戔《さの》嗚《お》は人手を借らず、蜂《はち》の室《むろ》と向かい合った、もう一つの室の中に、葦原醜男《あしはらしこお》をほうりこんだ。
室の中は昨日《きのう》のとおり、もう暗《くら》黒《やみ》が拡《ひろ》がっていた。が、ただ一つ昨日と違って、その暗《くら》黒《やみ》のそこここには、まるで地の底に埋《うず》もれた無数の宝石の光のように、点々ときらめく物があった。
葦原醜男は心の中に、この光り物の正体を怪《あや》しみながら、しばらくは眼が暗《くら》黒《やみ》に慣れる時の来るのを待っていた。するとまもなく彼の周囲が、しだいにうす明るくなるにつれて、その星のような光り物が、ほとんど馬さえ呑《の》みそうな、すさまじい大蛇《おろち》の眼に変わった。しかも大蛇は何《なん》匹《びき》となく、あるいは梁《はり》に巻きついたり、あるいは桷《たるき》を伝わったり、あるいはまた床《ゆか》にとぐろを巻いたり、室《むろ》いっぱいに気味悪く、蠢《うごめ》き合っているのであった。
彼は思わず腰《こし》に下げた剣《つるぎ》の柄《つか》に手をかけた。が、たとい剣を抜《ぬ》いたところが、彼が一匹斬《き》るうちには、もう一匹が造《ぞう》作《さ》なく彼を巻き殺すのに違《ちが》いなかった。いや、現に一匹の大蛇《おろち》が、彼の顔を下からのぞきこむと、それよりさらに大きい一匹は、梁に尾《お》をからんだまま、ずるりと宙に吊《つ》り下がって、ちょうど彼の肩《かた》の上へ、鎌《かま》首《くび》をさしのべているのであった。
室の扉《とびら》はもちろん開《あ》かなかった。のみならずそのうしろには、あの白《しら》髪《が》の素戔嗚が、皮肉な微笑を浮かべながら、じっと扉の向こうの容《よう》子《す》に耳を傾《かたむ》けているらしかった。葦原醜男は懸命に剣の柄を握りながら、暫《ざん》時《じ》は眼ばかり動かせていた。そのうちに彼の足もとの大蛇は、おもむろに山のようなとぐろを解くと、ひときわ高く鎌首をあげて、今にも猛《もう》然《ぜん》と彼の喉《のど》へ噛《か》みつきそうなけはいを示しだした。
この時彼の心の中には、突然光がさしたような気がした。彼は昨夜《ゆうべ》室の蜂《はち》が、彼のまわりへ群がって来た時、須世理姫にもらった領巾《ひれ》を振《ふ》って、危《あぶな》い命を救うことができた。して見ればさっき須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》が、海《うみ》辺《べ》の岩の上に残して行った領巾にも、同じような奇《き》特《どく》があるかもしれぬ――そう思った彼はとっさの間に、拾《ひろ》っておいた領巾を取り出して、三度ひらひらと振り廻《まわ》してみた……
翌《よく》朝《あさ》素戔嗚はまた石の多い海のほとりで、いよいよ元気のよさそうな葦原醜男と顔を合わせた。
「どうだな。昨夜《ゆうべ》はよく眠《ねむ》られたかな?」
「ええ、おかげでよく眠られました」
素戔嗚は顔じゅうに不快そうな色をみなぎらせて、じろりと相手をにらみつけたが、どう思ったかもう一度、いつもの冷静な調子に返って、
「そうか。それはよかった。ではこれからおれといっしょに、一泳ぎ水を浴びるがよい」と隔《かく》意《い》なさそうな声をかけた。
二人はすぐに裸《はだか》になって、波の荒い明け方の海を、沖《おき》へ沖へと泳ぎだした。素戔嗚は高《たか》天《まが》原《はら》の国にいた時から、並《なら》ぶもののいない泳ぎ手であった。が、葦原醜男は彼にも増して、ほとんど海豚《いるか》にも劣《おと》らないほど、自由自在に泳ぐことができた。だから二人のみずらの頭は、黒《こく》白《びやく》二羽の鴎《かもめ》のように、岩の屏《びよ》風《うぶ》を立てた岸《きし》から、見る見るうちに隔《へだ》たってしまった。
海は絶えずふくれ上がって、雪のような波の水沫《しぶき》を二人のまわりへみなぎらせた。素《す》戔《さの》嗚《お》はその水沫の中に、時々葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》の方へ意地悪そうな視《し》線《せん》を投げた。が、相手はゆうゆうとどんなに高い波が来ても、乗り越《こ》え乗り越え進んでいた。
それがしばらくつづくうちに、葦原醜男は少しずつ素戔嗚より先へ進み出した。素戔嗚はひそかに牙《きば》を噛《か》んで、一尺でも彼に遅《おく》れまいとした。しかし相手は大きな波が、二、三度泡《あわ》を撒《ま》き散らす間《あいだ》に、苦もなく素戔嗚を抜いてしまった。そうして重《かさ》なる波の向こうに、いつの間にか姿を隠《かく》してしまった。
「今度こそあの男を海に沈《しず》めて、邪《じや》魔《ま》を払《はら》おうと思ったのだが、――」
そう思うと素戔嗚は、いよいよ彼を殺さないうちは、腹が癒《い》えないような心もちになった。
「畜《ちく》生《しよう》! あんな悪《わる》賢《がしこ》い浮浪人は、鰐《わに》にでも食われてしまうがよい」
しかしほどなく葦原醜男は、彼自身がまるで鰐のように、楽々とこららへ返って来た。
「もっとお泳ぎになりますか?」
彼は波に揺《ゆ》られながら、日ごろに変わらない微笑を浮かべて、はるかに素戔嗚へ声をかけた。素戔嗚はいかに剛《ごう》情《じよう》を張っても、このうえ泳ごうという気にはなれなかった。……
その日の午後素戔嗚は、さらに葦原醜男をつれて、島の西に開いた荒《あら》野《の》へ、狐《きつね》や兎《うさぎ》を狩《か》りに行った。
二人は荒野のはずれにある、小高い大岩の上へ登った。荒野は眼の及ぶかぎり、二人のうしろから吹きおろす風に、枯《か》れ草の波をなびかせていた。素戔嗚は少時《しばらく》黙《もく》然《ねん》と、そういう景《け》色《しき》を見守った後、弓に矢をつがえながら、葦原醜男を振《ふ》り返った。
「風があっては都合が悪いが、とにかくどちらの矢が遠くへ行くか、お前と弓《ゆん》勢《ぜい》を比《くら》べてみよう」
「ええ、比べてみましょう」
葦原醜男は弓矢を執《と》っても、自信のあるらしい容《よう》子《す》であった。
「よいか? 同時に射るのだぞ」
二人は肩《かた》を並べながら、力いっぱい弓を引き絞《しぼ》って、そうして同時に切って離《はな》した。矢は波立った荒野の上へ、一文字に遠く飛んで行った。が、どちらが先へ行ったともなく、ただ一度日の光にきらりと矢《や》羽《ば》根《ね》が光ったまま、たちまち風《かざ》下《しも》の空に紛《まぎ》れて、二本ともいっしょに消えてしまった。
「勝負があったか?」
「いいえ。――もう一度やってみましょうか?」
素戔嗚は眉《まゆ》をひそめながら、いらだたしそうに頭《かしら》を振《ふ》った。
「何度やっても同じことだ。それよりめんどうでも一走り、おれの矢を探しにいってくれい。あれは高《たか》天《まが》原《はら》の国から来た、おれの大事な丹《に》塗《ぬ》りの矢だ」
葦原醜男は言いつかったとおり、風に鳴る荒野へ飛びこんで行った。すると素戔嗚はそのうしろ姿が高い枯《か》れ草に隠《かく》れるやいなや、腰《こし》に下げた袋の中から、手早く火打ち鎌《がま》と石とを出して、岩の下の枯れ茨《いばら》へ火を放った。
色のない焔《ほのお》はまたたくうちに、もうもうと黒煙をあげ始めた。と同時にその煙《けむり》の下から、茨《いばら》や小《お》篠《ざさ》の焼ける音が、けたたましく耳を弾《はじ》きだした。
「今度こそあの男をかたづけたぞ」
素《す》戔《さの》嗚《お》は高い岩の上に、じっと弓《ゆん》杖《づえ》をつきながら、兇《きよう》猛《もう》な微笑を浮かべていた。
火はますます燃え拡《ひろ》がった。鳥は苦しそうに鳴きながら、何羽も赤黒い空へ舞《ま》い上がった。が、すぐにまた煙に巻かれて、紛《ふん》々《ぷん》と火の中へ落ちて行った。それがまるで遠くからは、嵐《あらし》に振《ふる》われた無数の木《こ》の実が、しっきりなくこぼれ飛ぶように見えた。
「今度こそあの男をかたづけたぞ」
素戔嗚はこう心のうちに、もう一度満足の吐《と》息《いき》をもらすと、なぜか言いようのない寂《さび》しさがかすかに湧《わ》いて来るような心もちがした。……
その日の薄《はく》暮《ぼ》、勝ち誇《ほこ》った彼は腕《うで》を組んで、宮の門にたたずみながら、まだ煙の迷《まよ》っている荒野《あらの》の空を眺《なが》めていた。するとそこへ須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》が、夕《ゆう》餉《げ》の仕度のできたことを気がなさそうに報じに来た。彼女は近親の喪《も》を弔《ともら》うように、いつのまにかまっ白な裳《も》を夕明かりの中に引きずっていた。
素戔嗚はその姿を見ると、急に彼女の悲しさを踏《ふ》みにじりたいような気がしだした。
「あの空を見ろ。葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》は今時分――」
「存じております」
須世理姫は眼を伏《ふ》せていたが、思いのほかはっきりと、父親のこととばをさえぎった。
「そうか? ではさぞ悲しかろうな?」
「悲しゅうございます。よしんばお父様がお歿《な》くなりなすっても、これほど悲しくございますまい」
素戔嗚は色を変えて、須世理姫の顔をにらみつけた。が、それ以上彼女を懲《こ》らすことは、どういうものかできなかった。
「悲しければ、かってに泣くがよい」
彼は須世理姫に背を向けて、荒々しく門の内へはいって行った。そうして宮の階《きざ》段《はし》を上りながら、いまいましそうに舌《した》を打った。
「いつものおれなら口も利《き》かずに、打ちのめしてやるところなのだが……」
須世理姫は彼の去った後も、しばらくは、暗くほてった空へ、涙《なみだ》ぐんだ眼をあげていたが、やがて頭《かしら》を垂《た》れながら、悄《しよう》然《ぜん》と宮へ帰って行った。
その夜素戔嗚はいつまでも、眠《ねむ》りに就《つ》くことができなかった。それは葦原醜男を殺したことが、なんとなく彼の心の底へ毒をさしたような気がするからであった。
「おれは今までにもあの男を何度殺そうと思ったかわからない。しかしまだ今夜のように、妙《みよう》な気のしたことはないのだが……」
彼はこんなことを考えながら、青い匂《にお》いのする菅《すが》畳《だたみ》の上に、幾《いく》度《たび》となく寝返りを打った。眠りはそれでも彼の上へ、容易《ようい》に下《くだ》ろうとはしなかった。
その間に寂《さび》しい暁《あかつき》は早くも暗い海の向こうに、うすら寒い色を拡《ひろ》げだした。
翌《よく》朝《あさ》もう朝日の光が、海いっぱいに当たっているころであった。まだ寝の足りない素《す》戔《さの》嗚《お》はまぶしそうに眉《まゆ》をひそめながら、のそのそ宮の戸口へ出かけて来た。するとそこの階《きざ》段《はし》の上には、驚《おどろ》くまいことか、葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》が、須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》といっしょに腰《こし》をかけて、なにごとかうれしそうに話し合っていた。
二人も素戔嗚の姿を見ると、びっくりしたらしい容《よう》子《す》であった。が、すぐに葦原醜男は相変わらず快活に身を起こして、一《ひと》筋《すじ》の丹《に》塗《ぬ》り矢《や》をさし出しながら、
「幸い矢も見つかりました」と言った。
素戔嗚はまだ驚きが止《や》まなかった。しかしそのうちにもなんとなく、無事な若者の顔を見るのが、悦《よろこ》ばしいような心もちもした。
「よく怪《け》我《が》をしなかったな?」
「ええ。全く偶《ぐう》然《ぜん》助かりました。あの火事が燃えて来たのは、ちょうど私《わたし》がこの丹塗り矢を拾《ひろ》い上げた時だったのです。私は煙《けむり》の中をくぐりながら、ともかく火のつかない方へ、一生懸《けん》命《めい》に逃《に》げて行きましたが、いくらあせってみたところが、とうてい西風にあおられる火よりも早くは走られません。……」
葦原醜男はちょいとことばを切って、彼の話に聞き入っている親子の顔へ微笑を送った。
「そこでもう今度は焼け死ぬに違《ちが》いないと、覚《かく》悟《ご》をきめた時でした。走っているうちにどうしたはずみか、急に足もとの土がくずれると、大きな穴の中へ落ちこんたのです。穴の中は最初まっくらでしたが、縁《ふち》の枯《か》れ草が燃えるようになると、たちまち底まで明るくなりました。見ると私のまわりには、何百匹とも知れない野《の》鼠《ねずみ》が、土の色も見えないほどひしめき合っているのです……」
「まあ、野鼠でよろしゅうございました。それが蝮《まむし》ででもございましたら……」
須世理姫の眼の中には、涙《なみだ》と笑いとが刹《せつ》那《な》の間《あいだ》、同時に動いたようであった。
「いや、野鼠でもばかにはなりません。この丹《に》塗《ぬ》り矢《や》の羽根のないのは、その時みんな食われたのです。が、仕合わせと火事はなにごともなく、穴の外を焼き通ってしまいました」
素《す》戔《さの》嗚《お》はこの話を聞いているうちに、だんだんまたこの幸運な若者を憎《にく》む心が動いて来た。のみならず、一度殺そうと思った以上、どうしてもその目的を遂《と》げないうちは、昔から挫《ざ》折《せつ》した覚《おぼ》えのない意力の誇《ほこ》りが満足しなかった。
「そうか。それは運がよかったな。が、運というものは、いつ風《かざ》向《む》きが変わるかわからないものだ。……が、そんなことはどうでもよい。とにかく命が助かったのなら、おれといっしょにこちらへ来て、頭の虱《しらみ》をとってくれい」
葦原醜男と須世理姫とは、しかたなく彼のあとについて、朝日の光のさしこんでいる、大広間の白い帷《とばり》をくぐった。
素戔嗚は広間のまんなかに、不《ふ》機《き》嫌《げん》らしい大あぐらを組むと、みずらに結んだ髪《かみ》を解《と》いて、無《む》造《ぞう》作《さ》に床《ゆか》の上に垂《た》らした。素《す》枯《が》れた蘆《あし》の色をした髪は、ほとんど川のように長かった。
「おれの虱はちと手《て》強《ごわ》いぞ」
こう言う彼のことばを聞き流しながら、葦原醜男はその白《しら》髪《が》をわけて、見つけしだい虱を捻《ひね》ろうとした。が、髪の根に蠢《うごめ》いているのは、小さな虱と思いのほか、毒々しい、銅《あかがね》色《いろ》の、大きな百足《むかで》ばかりであった。
一〇
葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》はためらった。すると側にいた須《す》世《せ》理《り》姫《ひめ》が、いつのまに忍《しの》ばせて持って来たか、一《ひと》握《にぎ》りの椋《むく》の実と赤土とをそっと彼の手へ渡した。彼はそこで歯を鳴らして、その椋の実を噛《か》みつぶしながら、赤土もいっしょに口へ含《ふく》んで、さも百足《むかで》をとっているらしく、床《ゆか》の上へ吐《は》き出し始めた。
そのうちに素《す》戔《さの》嗚《お》は、昨夜《ゆうべ》寝《ね》なかった疲れが出て、われ知らずにうとうと眠《ねむ》りにはいった。
……高《たか》天《まが》原《はら》の国を逐《お》われた素戔嗚は、爪《つめ》を剥《は》がれた足に岩を踏《ふ》んで、嶮《けわ》しい山路を登っていた。岩むらの羊歯《しだ》、鴉《からす》の声、それから冷たい鋼《はがね》色《いろ》の空、――彼の眼にはいるかぎりの風物は、ことごとく荒《こう》涼《りよう》それ自身であった。
「おれになんの罪があるか? おれは彼らよりも強かった。が、強かったことは罪ではない。罪はむしろ彼らにある。嫉《しつ》妬《と》心《しん》の深い、陰《いん》険《けん》な、男らしくもない彼らにある」
彼はこう憤《いきどお》りながら、しばらく苦しい歩みをつづけて行った。と、路《みち》をさえぎった、亀《かめ》の背のような大岩の上に、六つの鈴《すず》のついている、白《はく》銅《どう》鏡《きよう*》が一面のせてあった。彼はその岩の前に足をとめると、なにげなく鏡へ眼を落とした。鏡は冴《さ》え渡った面《おもて》の上に、ありありと年若な顔を映《うつ》した。が、それは彼の顔ではなく、彼が何度も殺そうとした、葦原醜男の顔であった。……そう思うと、急に夢《ゆめ》がさめた。
彼は大きな眼を開いて、広間の中を見《み》廻《まわ》した。広間にはただ朝日の光が、うららかにさしているばかりで、葦原醜男も須世理姫も、どうしたか姿が見えなかった。のみならずふと気がついて見ると、彼の長い髪は三つにわけて、天井の桷《たるき》にくくりつけてあった。
「欺《だま》しおったな!」
とっさにいっさい悟《さと》った彼は稜《い》威《つ》の雄《お》たけびを発しながら、力いっぱい頭《かしら》を振《ふ》った。するとたちまち宮の屋根には、地《じ》震《しん》よりもすさまじい響《ひび》きが起こった。それは髪をくくりつけた、三本の桷が三本とも一時にひしげ飛んだ響きであった。しかし素戔嗚は耳にもかけず、まず右手をさし伸《の》べて、太い天《あめ》の鹿《か》児《ご》弓《ゆみ*》を取った。それから左手をさし伸べて、天《あめ》の羽《は》羽《ば》矢《や*》の靱《ゆき》を取った。最後に両足へ力を入れて、うんと一息に立ち上がると、三本の桷を引きずりながら、雲の峰《みね》のくずれるように、傲《ごう》然《ぜん》と宮の外へ揺《ゆ》るぎ出した。
宮のまわりの椋《むく》の林は、彼の足音に鳴りどよんだ。それは梢《こずえ》に巣《す》食《く》った栗《り》鼠《す》も、ばらばらと大地へ落ちるほどであった。彼はその椋の木の間を、嵐《あらし》のように通り抜《ぬ》けた。
林の外は切り岸の上、切り岸の下は海であった。彼はそこに立ちはだかると、眉《まゆ》の上に手をやりながら、広い海を眺《なが》め渡した。海は高い浪《なみ》の向こうに、日《にち》輪《りん》さえかすかに蒼《あお》ませていた。そのまた浪の重《かさ》なった中には、見覚えのある独木《まる》舟《きぶね》が一艘《そう》、沖《おき》へ沖へと出るところだった。
素戔嗚は弓《ゆん》杖《づえ》をついたなり、じっとこの舟へ眼を注いだ。舟は彼をあざけるように、小さい筵《むしろ》帆《ほ》を光らせながら、軽々と浪を乗り越《こ》えていった。のみならず舳《とも》には葦原醜男、艫《へさき》には須世理姫の乗っている容《よう》子《す》も、手にとるように見ることができた。
素戔嗚は天《あめ》の鹿《か》児《ご》弓《ゆみ》に、しずしずと天《あめ》の羽《は》羽《ば》矢《や》をつがえた。弓は見る見る引き絞《しぼ》られ、鏃《やじり》は目の下の独木《まるき》舟《ぶね》に向かった。が、矢は一文字に保たれたまま、容《よう》易《い》に弦《つる》を離《はな》れなかった。そのうちにいつか彼の眼には、微笑に似《に》たものが浮かび出した。微笑に似た、――しかしそこには同時にまた涙《なみだ》に似たものもないではなかった。彼は肩《かた》をそびやかせた後、無《む》造《ぞう》作《さ》に弓矢をほうり出した。それから、――さもこらえかねたように、瀑《たき》よりも大きい笑い声を放った。
「おれはお前たちを祝《ことほ》ぐぞ!」
素戔嗚は高い切り岸の上から、はるかに二人をさし招いた。
「おれよりももっと手《た》力《ぢから》を養え。おれよりももっと知《ち》慧《え》を磨《みが》け。おれよりももっと、……」
素戔嗚はちょいとためらった後、底力のある声に祝ぎつづけた。
「おれよりももっと仕合わせになれ!」
彼のことばは風とともに、海《うな》原《ばら》の上へ響《ひび》き渡った。この時わが素戔嗚は、大《おお》日〓貴《ひるめのむち*》と争った時より、高《たか》天《まが》原《はら》の国を逐《お》われた時より、高《こ》志《し》の大蛇《おろち》を斬《き》った時より、ずっと天上の神々に近い、ゆうゆうたる威《い》厳《げん》に充《み》ち満ちていた。
(大正九年)
南《ナン》京《キン》の基督《キリスト》
ある秋の夜《や》半《はん》であった。南《ナン》京《キン》奇《き》望《ぼう》街《がい*》のある家の一《ひと》間《ま》には、色の蒼《あお》ざめた支《シ》那《ナ》の少女が一人、古びたテーブルの上に頬《ほお》杖《づえ》をついて、盆《ぼん》に入れた西瓜《すいか》の種を退《たい》屈《くつ》そうに噛《か》み破っていた。
テーブルの上には置きランプが、うす暗い光を放っていた。その光は部《へ》屋《や》の中を明るくするというよりも、むしろいっそう陰《いん》鬱《うつ》な効果を与えるのに力があった。壁《かべ》紙《がみ》のはげかかった部屋の隅《すみ》には、毛布のはみ出した籐《とう》の寝《ね》台《だい》が、ほこり臭《くさ》そうな帷《とばり》を垂《た》らしていた。それからテーブルの向こうには、これも古びた椅《い》子《す》が一《いつ》脚《きやく》、まるで忘れられたように置き捨ててあった。が、そのほかはどこを見ても、装《そう》飾《しよく》らしい家具の類なぞは何一つ見当たらなかった。
少女はそれにもかかわらず、西瓜の種を噛《か》みやめては、時々涼《すず》しい眼をあげて、テーブルの一方に面した壁をじっと眺《なが》めやることがあった。見るとなるほどその壁には、すぐ鼻の先の折れ釘《くぎ》に、小さな真《しん》鍮《ちゆう》の十《じゆう》字《じ》架《か》がつつましやかにかかっていた。そうしてその十字架の上には、稚《ち》拙《せつ》な受難の基督《キリスト》が、高々と両《りよう》腕《うで》をひろげながら、手ずれた浮き彫《ぼ》りの輪《りん》廓《かく》を影《かげ》のようにぼんやり浮かべていた。少女の眼《め》にはこの耶《や》蘇《そ》を見るごとに、長いまつげのうしろの寂《さび》しい色が、一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》どこかへ見えなくなって、そのかわりに無《む》邪《じや》気《き》な希望の光が、生き生きとよみがえっているらしかった。が、すぐにまた視《し》線《せん》が移ると、彼女はかならず吐《と》息《いき》をもらして、光沢《つや》のない黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の上《うわ》衣《ぎ》の肩《かた》を所在なさそうに落としながら、もう一度盆《ぼん》の西瓜《すいか》の種をぽつりぽつり噛《か》みだすのであった。
少女は名を宋《そう》金《きん》花《か》と言って、貧しい生計を助けるために、夜《よ》な夜《よ》なその部屋に客を迎《むか》える、当年十五歳の私《し》窩《か》子《し*》であった。秦《しん》淮《わい*》に多い私窩子の中《なか》には、金花ほどの容《よう》貌《ぼう》の持ち主なら、何人でもいるのに違《ちが》いなかったが、金花ほど気だての優しい少女が、二人とこの土地にいるかどうか、それは少なくとも疑問であった。彼女は朋《ほう》輩《ばい》の売《ばい》笑《しよう》婦《ふ》と違って、嘘《うそ》もつかなければわがままも張らず、夜ごとに愉《ゆ》快《かい》そうな微《び》笑《しよう》を浮かべ、この陰《いん》鬱《うつ》な部屋を訪れる、さまざまな客とたわむれていた。そうして彼らの払《はら》って行く金が、まれに約束の額より多かった時は、たった一人の父親を、一《いつ》杯《ぱい》でも余計好きな酒に飽《あ》かせてやることを楽しみにしていた。
こういう金花の行状は、もちろん彼女が生まれつきにも、よっているのに違いなかった。しかしまだそのほかに何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁《かべ》の上の十字架が示すとおり、歿《な》くなった母親に教えられた、羅馬加特力《ローマカトリツク》教《きよう》の信《しん》仰《こう》をずっと持ちつづけているからであった。
――そういえば今年の春、上海《シヤンハイ》の競馬を見物かたがた、南部支《シ》那《ナ》の風光を探りに来た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かしたことがあった。その時彼は葉巻きをくわえて、洋服の膝《ひざ》に軽々と小さな金花を抱《だ》いていたが、ふと壁の上の十《じゆう》字《じ》架《か》を見ると、不《ふ》審《しん》らしい顔をしながら、
「お前は耶《や》蘇《そ》教徒かい」と、おぼつかない支《シ》那《ナ》語で話しかけた。
「ええ、五つの時に洗礼を受けました」
「そうしてこんな商売をしているのかい」
彼の声にはこの瞬《しゆん》間《かん》、皮肉な調子が交じったようであった。が、金花は彼の胸に、鴉《あ》髻《けい》の頭《かしら》をもたせながら、いつものとおり晴れ晴れと、糸切り歯の見える笑いをもらした。
「この商売をしなければ、阿《お》父《とう》様《さん》も私《わたし》も餓《う》え死にをしてしまいますから」
「お前の父親は老人なのかい」
「ええ――もう腰《こし》も立たないのです」
「しかしだね、――しかしこんな稼《か》業《ぎよう》をしていたのでは、天国に行かれないと思やしないか」
「いいえ」
金花はちょいと十《じゆう》字《じ》架《か》を眺《なが》めながら、考え深そうな眼つきになった。
「天国にいらっしゃる基督《キリスト》様は、きっと私《わたし》の心もちをくみとってくださると思いますから。――それでなければ基督様は姚《よう》家《か》巷《こう*》の警察署のお役人も同じことですもの」
若い日本の旅行家は微笑した。そうして上《うわ》衣《ぎ》の隠《かく》しを探ると、翡《ひ》翠《すい》の耳《みみ》環《わ》を一双《そう》出して、手ずから彼女の耳へ下げてやった。
「これはさっき日本へ土産《みやげ》に買った耳環だが、今夜の記念にお前にやるよ」――
金花ははじめて客をとった夜から、実際こういう確信にみずから安んじていたのであった。
ところがかれこれ一《ひと》月《つき》ばかり前から、この敬《けい》虔《けん》な私《し》窩《か》子《し》は不幸にも、悪性の楊《よう》梅《ばい》瘡《そう*》が病む体《からだ》になった。これを聞いた朋《ほう》輩《ばい》の陳《ちん》山《さん》茶《さ》は、痛みを止めるのにいいと言って、鴉《あ》片《へん》酒《しゆ》を飲むことを教えてくれた。その後またやはり朋輩の毛《もう》迎《げい》春《しゆん》は、彼女自身が服用した汞《こう》藍《らん》丸《がん*》や迦《か》路《ろ》米《まい*》の残りを、親切にもわざわざ持って来てくれた。が、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引きこもっていても、いっこう快方には向かわなかった。
するとある日陳山茶が、金花の部屋へ遊びに来た時に、こんな迷《めい》信《しん》じみた療法をもっともらしく話して聞かせた。
「あなたの病気はお客から移ったのだから、早く誰かに移し返しておしまいなさいよ。そうすればきっと二、三日うちに、よくなってしまうのに違《ちが》いないわ」
金花は頬《ほお》杖《づえ》をついたまま、浮かない顔色を改めなかった。が、山茶のことばには多少の好《こう》奇《き》心《しん》を動かしたとみえて、
「ほんとう?」と、軽く聞き返した。
「ええ、ほんとうだわ。私《わたし》の姉さんもあなたのように、どうしても病気がなおらなかったのよ。それでもお客に移し返したら、じきによくなってしまったわ」
「そのお客はどうして?」
「お客はそれはかわいそうよ。おかげで目までつぶれたって言うわ」
山茶が部屋を去った後、金花は独《ひと》り壁《かべ》にかけた十《じゆう》字《じ》架《か》の前にひざまずいて、受難の基督《キリスト》を仰《あお》ぎ見ながら、熱心にこういう祈《き》祷《とう》を捧《ささ》げた。
「天国にいらっしゃる基督様。私《わたくし》は阿《お》父《とう》様《さま》を養うために、いやしい商売をいたしております。しかし私の商売は、私一人を汚《けが》すほかには、誰にも迷《めい》惑《わく》はかけておりません。ですから私は、このまま死んでも、かならず天国に行かれると思っておりました。けれどもただいまの私は、お客にこの病を移さないかぎり、今までのような商売をいたしてまいることはできません。してみればたとい餓《う》え死にをしても、――そうすればこの病気も、なおるそうでございますが、――お客と一つ寝台に寝ないように、心がけねばなるまいと存じます。さもなければ私は、私どもの仕合せのために、怨《うら》みもない他人を不仕合せにいたすことになりますから。しかしなんと申しても、私は女でございます。いつなんどきどんな誘《ゆう》惑《わく》に陥《おちい》らないものでもございません。天国にいらっしゃる基督様。どうか私をお守りくださいまし。私はあなたお一人のほかに、たよるもののない女でございますから」
こう決心した宋金花は、その後山茶や迎春にいくら商売を勧《すす》められても、剛《ごう》情《じよう》に客をとらずにいた。また時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに来ても、いっしょに煙草《たばこ》でも吸《す》い合うほかに、決して客の意に従わなかった。
「私《わたし》は恐《おそ》ろしい病気を持っているのです。そばへいらっしゃると、あなたにも移りますよ」
それでも客が酔《よ》ってでもいて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花はいつもこう言って、実際彼女の病んでいる証《しよう》拠《こ》を示すことさえはばからなかった。だから客は彼女の部屋には、おいおい遊びに来ないようになった。と同時にまた彼女の家計も、一日ごとに苦しくなっていった。……
今夜も彼女はこのテーブルによって、長い間ぼんやりすわっていた。が、相変わらず彼女の部屋へは、客の来るけはいも見えなかった。そのうちに夜は遠《えん》慮《りよ》なく更《ふ》け渡って、彼女の耳にはいる音といっては、ただどこかで鳴いている蟋蟀《こおろぎ》の声ばかりになった。のみならず火の気《け》のない部屋の寒さは、床《ゆか》に敷《し》きつめた石の上から、しだいに彼女の鼠《ねずみ》繻《じゆ》子《す》の靴《くつ》を、その靴の中のきゃしゃな足を、水のようにおそって来るのであった。
金花はうす暗いランプの火に、さっきからうっとり見入っていたが、やがて身《み》震《ぶる》いを一つすると翡《ひ》翠《すい》の輪の下がった耳を掻《か》いて、小さなあくびを噛《か》み殺した。するとほとんどそのとたんに、ペンキ塗《ぬ》りの戸が勢いよく開いて、見慣れない一人の外国人が、よろめくように外からはいって来た。その勢いが烈《はげ》しかったからであろう。テーブルの上のランプの火は、ひとしきりぱっと燃え上がって、妙に赤々とすすけた光を狭《せま》い部屋の中にみなぎらせた。客はその光をまともに浴びて、一度はテーブルの方へのめりかかったが、すぐにまた立ち直ると、今度はうしろへたじろいで、今し方しまったペンキ塗りの戸へ、どしりと背をもたせてしまった。
金花は思わず立ち上がって、この見慣れない外国人の姿へ、あっけにとられた視《し》線《せん》を投げた。客の年ごろは三十五、六でもあろうか。縞《しま》目《め》のあるらしい茶の背広に、同じ巾《きれ》地《じ》の鳥打ち帽《ぼう》をかぶった、眼の大きい、あごひげのある、頬《ほお》の日に焼けた男であった。が、ただ一つ合《が》点《てん》のゆかないことには、外国人には違《ちが》いないにしても、西洋人か東洋人か、奇《き》体《たい》にその見わけがつかなかった。それが黒い髪《かみ》の毛を帽子の下からはみ出させて、火の消えたパイプをくわえながら、戸口に立ちふさがっているありさまは、どう見ても泥《でい》酔《すい》した通行人が戸まどいしたらしく思われるのであった。
「何かご用ですか」
金花はやや無気味な感じにおそわれながら、やはりテーブルの前に立ちすくんだまま、なじるようにこう尋《たず》ねてみた。すると相手は首を振《ふ》って、支《シ》那《ナ》語はわからないという相《あい》図《ず》をした。それから横ぐわえにしたパイプを離《はな》して、何やら意味のわからないなめらかな外国語を一《ひと》言《こと》もらした。が、今度は金花の方が、テーブルの上のランプの光に、耳《みみ》環《わ》の翡《ひ》翠《すい》をちらつかせながら、首を振ってみせるよりほかに仕方がなかった。
客は彼女が当《とう》惑《わく》らしく、美しい眉《まゆ》をひそめたのを見ると、突然大声に笑いなから、無《む》造《ぞう》作《さ》に鳥打ち帽を脱《ぬ》ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄った。そうしてテーブルの向こうの椅《い》子《す》へ、腰《こし》が抜《ぬ》けたように尻《しり》をおろした。金花はこの時この外国人の顔が、いつどこという記《き》憶《おく》はないにしても、確かに見覚えがあるような、一種の親しみを感じだした。客は無《ぶ》遠《えん》慮《りよ》に盆《ぼん》の上の西瓜《すいか》の種をつまみながら、といってそれを噛《か》むでもなく、じろじろ金花を眺《なが》めていたが、やがてまた妙な手《て》真《ま》似《ね》まじりに、何か外国語をしゃべりだした。その意味も彼女にはわからなかったが、ただこの外国人が彼女の商売に、多少の理解を持っていることは、おぼろげながらも推《すい》測《そく》がついた。
支郡語を知らない外国人と、長い一《いち》夜《や》を明かすことも、金花には珍《めずら》しいことではなかった。そこで彼女は椅子にかけると、ほとんど習慣になっている、愛《あい》想《そ》のいい微《び》笑《しよう》を見せながら、相手には全然通じない冗《じよう》談《だん》などを言い始めた。が、客はその冗談がわかるのではないかと疑《うたが》われるほど、一《ひと》言《とこ》二《ふた》言《こと》しゃべっては、上機《き》嫌《げん》の笑い声をあげながら、前よりもさらに目まぐるしく、いろいろな手真似を使いだした。
客の吐《は》く息は酒臭《くさ》かった。しかしその陶《とう》然《ぜん》と赤くなった顔は、この索《さく》寞《ばく》とした部屋の空気が、明るくなるかと思うほど、男らしい活力にあふれていた。少なくともそれは金花にとっては、日ごろ見慣れている南《ナン》京《キン》の同国人はいうまでもなく、今まで彼女が見たことのある、どんな東洋西洋の外国人よりもりっぱであった。が、それにもかかわらず、前にも一度この顔を見た覚えのあるという、さっきの感じだけはどうしても、打ち消すことができなかった。金花は客の額にかかった、黒いまき毛を眺《なが》めながら、気軽そうに愛《あい》嬌《きよう》を振《ふ》りまくうちにも、この顔にはじめて遇《あ》った時の記《き》憶《おく》を、一生懸命に喚《よ》び起こそうとした。
「この間肥《ふと》った奥さんといっしょに、画《が》舫《ぼう*》に乗っていた人かしら。いやいや、あの人は髪《かみ》の色が、もっとずっと赤かった。では秦《しん》淮《わい》の孔《こう》子《し》様《さま》の廟《びよう》へ、写真機を向けていた人かもしれない。しかしあの人はこのお客より、年をとっていたような心もちがする。そうそう、いつか利《り》渉《しよう》橋《きよう*》の側の飯《はん》館《かん》の前に、人だかりがしていると思ったら、ちょうどこのお客によく似た人が、太い籐《とう》の杖《つえ》を振《ふ》り上げて、人力車夫の背中を打っていたっけ。ことによると、――が、どうもあの人の眼は、もっと瞳《ひとみ》が青かったようだ。……」
金花がこんなことを考えているうちに、相変わらず愉《ゆ》快《かい》そうな外国人は、いつかパイプに煙草をつめて、匂《にお》いのいい煙を吐《は》き出していた。それが急にまたなんとか言って、今度はおとなしくにやにや笑うと、片手の指を二本延《の》べて、金花の眼の前へ突き出しながら、?という意味の身ぶりをした。指二本が二ドルという金額を示していることは、もちろん誰の眼にも明らかであった。が、客を泊《と》めない金花は、器用に西瓜《すいか》の種を鳴らして、いやという印に二度ばかり、これも笑い顔を振って見せた。すると客はテーブルの上に横《おう》柄《へい》な両肘《ひじ》をもたせたまま、うす暗いランプの光の中に、ちかぢかと酔《すい》顔《がん》をさし延《の》ばして、じっと彼女を見守ったが、やがてまた指を三本出して、答えを待つような眼つきをした。
金花はちょいと椅《い》子《す》をずらせて、西瓜の種を含《ふく》んだまま、当《とう》惑《わく》らしい顔になった。客は確かに二ドルの金では、彼女が体を任せないと言ったように思っているらしかった。といってことばの通じない彼に、立ち入った仔《し》細《さい》をのみこませることは、とうていできそうにも思われなかった。そこで金花はいまさらのように、彼女の軽《けい》率《そつ》を後《こう》悔《かい》しながら、涼《すず》しい視《し》線《せん》をほかへ転じて、しかたなくさらにきっぱりと、もう一度頭を振ってみせた。
ところが相手の外国人は、しばらくうす笑いを浮かべながら、ためらうような気《け》色《しき》を示した後、四の指をさし延ばして、何かまた外国語をしゃべって聞かせた。途方に暮れた金花は頬《ほお》を抑《おさ》えて、微笑する気力もなくなっていたが、とっさにもうこうなったうえは、いつまでも首を振りつづけて、相手が思い切る時を待つほかはないと決心した。が、そう思ううちにも客の手は、何か眼に見えないものでも捉《とら》えるように、とうとう五指とも開いてしまった。
それから二人は長い間、手《て》真《ま》似《まね》と身ぶりとの入り交じった押し問答をつづけていた。その間《あいだ》に客は根気よく、一本ずつ指の数を増したあげく、しまいには十ドルの金を出しても、惜《お》しくないという意気ごみを示すようになった。が、私《し》窩《か》子《し》には大金の十ドルも、金花の決心は動かせなかった。彼女はさっきから椅《い》子《す》を離れて、斜《なな》めにテーブルの前へたたずんでいたが、相手が両手の指を見せると、いらだたしそうに足《あし》踏《ぶ》みして、何度もつづけさまに頭を振った。そのとたんにどういう拍《ひよう》子《し》か釘《くぎ》にかかっていた十《じゆう》字《じ》架《か》がはずれて、かすかな金属の音を立てながら、足もとの敷《しき》石《いし》の上に落ちた。
彼女はあわただしい手を延《の》べて、大切な十字架を拾《ひろ》い上げた。その時なにげなく十字架に彫《ほ》られた、受難の基《キリ》督《スト》の顔を見ると、不思議にもそれがテーブルの向こうの、外国人の顔と生き写しであった。
「なんでもどこかで見たようだと思ったのは、この基督様のお顔だったのだ」
金花は黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の上《うわ》衣《ぎ》の胸に、真《しん》鍮《ちゆう》の十字架を押《お》し当てたまま、テーブルを隔《へだ》てた客の顔へ、思わず驚《おどろ》きの視《し》線《せん》を投げた。客はやはりランプの光に、酒気を帯びた顔をほてらせながら、時々パイプの煙《けむり》を吐《は》いては、意味ありげな微《び》笑《しよう》を浮かべていた。しかもその眼は彼女の姿へ、――おそらくは白い頸《くび》すじから、翡《ひ》翠《すい》の輪《わ》を下げた耳のあたりへ、絶えずさまよっているらしかった。しかしこういう客の容《よう》子《す》も、金花には優しい一種の威《い》厳《げん》に、充《み》ち満ちているかのような心もちがした。
やがて客はパイプを止《や》めると、わざとらしく小首を傾《かたむ》けて、何やら笑い声のことばをかけた。それが金花の心には、ほとんど巧《こう》妙《みよう》な催《さい》眠《みん》術《じゆつ》師《し》が、被《ひ》術《じゆつ》者《しや》の耳にささやき聞かせる、暗示のような作用を起こした。彼女はあのけなげな決心も、全く忘れてしまったのか、そっとほほえんだ眼を伏《ふ》せて、真鍮の十字架を手まさぐりながら、この怪《あや》しい外国人の側《そば》へ、羞《は》ずかしそうに歩み寄った。
客はズボンの隠《かく》しを探って、じゃらじゃら銀の音をさせながら、依《い》然《ぜん》とうす笑いを浮かべた眼に、しばらくは金花の立ち姿を好ましそうに眺めていた。が、その眼の中のうす笑いが、熱のあるような光に変わったと思うと、いきなり椅《い》子《す》から飛び上がって、酒の匂《にお》いのする背広の腕《うで》に、力いっぱい金花を抱《だ》きすくめた。金花はまるで喪《そう》心《しん》したように、翡《ひ》翠《すい》の耳《みみ》輪《わ》の下がった頭をぐったりとうしろへ、仰《あお》向《む》けたまましかし蒼《あお》白《じろ》い頬《ほお》の底には、あざやかな血の色をほのめかせて、鼻の先に迫《せま》った彼の顔へ、恍《こう》惚《こつ》としたうす眼を注いでいた。この不思議な外国人に、彼女の体を自由にさせるか、それとも病を移さないために、彼の接《せつ》吻《ぷん》をはねつけるか、そんな思《し》慮《りよ》をめぐらす余《よ》裕《ゆう》は、もちろんどこにも見当たらなかった。金花はひげだらけな客の口に、彼女の口を任せながら、ただ燃えるような恋愛の歓《かん》喜《き》が、はじめて知った恋愛の歓喜が、激《はげ》しく彼女の胸《むな》もとへ、突き上げて来るのを知るばかりであった。……
数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、ただかすかな蟋蟀《こおろぎ》の声が、寝《ね》台《だい》をもれる二人の寝息に、寂《さび》しい秋意を加えていた。しかしその間《ま》に金花の夢《ゆめ》は、ほこりじみた寝台の帷《とばり》から、屋根の上にある星月夜へ、煙《けむり》のように高々と昇《のぼ》って行った。
×××
――金花は紫《し》檀《たん》の椅《い》子《す》にすわって、テーブルの上に並《なら》んでいる、さまざまな料理に箸《はし》をつけていた。燕《つばくろ》の巣《す》、鮫《さめ》の鰭《ひれ》、蒸《む》した卵、燻《いぶ》した鯉《こい》、豚《ぶた》の丸《まる》煮《に》、海参《なまこ》の羹《あつもの》、――料理はいくら数えても、とうてい数えつくされなかった。しかもその食器がことごとく、べた一面に青い蓮《れん》華《げ》や金の鳳《ほう》凰《おう》を描《か》き立てた、りっぱな皿《さら》小《こ》鉢《ばち》ばかりであった。
彼女の椅子のうしろには、降《こう》紗《しや》の帷《とばり》を垂《た》れた窓があって、そのまた窓の外には川があるのか、静かな水の音や櫂《かい》の音が、絶えずここまで聞こえて来た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れている、秦《しん》淮《わい》らしい心もちがした。しかし彼女が今いる所は、確かに天国の町にある、基督《キリスト》の家に違《ちが》いなかった。
金花は時々箸《はし》を止めて、テーブルの周囲を眺《なが》めまわした。が、広い部屋の中には、竜《りゆう》の彫《ちよう》刻《こく》のある柱だの、大《だい》輪《りん》の菊の鉢《はち》植《う》えだのが、料理の湯《ゆ》気《げ》にほのめいているほかは、一人も人《ひと》影《かげ》は見えなかった。
それにもかかわらずテーブルの上には、食器が一つからになると、たちまちどこからか新しい料理が、暖かな香《こう》気《き》をみなぎらせて、彼女の眼の前へ運ばれて来た。と思うとまた箸をつけないうらに、丸焼きの雉《きじ》なぞが羽《は》ばたきをして、紹《しよう》興《こう》酒《しゆ*》の瓶《びん》を倒《たお》しながら、部屋の天井へばたばたと、舞《ま》い上がってしまうこともあった。
そのうちに金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子のうしろへ、歩み寄ったのに心づいた。そこで箸を持ったまま、そっとうしろを振《ふ》り返ってみた。するとそこにはどういうわけか、あると思った窓がなくて、緞《どん》子《す》の蒲団《ふとん》を敷いた紫《し》檀《たん》の椅子に、見慣れない一人の外国人が、真《しん》鍮《ちゆう》の水《みず》煙管《きせる*》をくわえながらゆうゆうと腰《こし》をおろしていた。
金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊《と》まりに来た男だということがわかった。が、ただ一つ彼と違《ちが》うことには、ちょうど三《み》日《か》月《づき》のような光の環《わ》が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空《くう》にかかっていた。
その時また金花の眼の前には、なんだか湯気の立つ大皿《おおざら》が一つ、まるでテーブルから湧《わ》いたように、突然うまそうな料理を運んで来た。彼女はすぐに箸《はし》をあげて、皿の中の珍味《ちんみ》をはさもうとしたが、ふと彼女のうしろにいる外国人のことを思い出して、肩《かた》越《ご》しに彼を見返りながら、
「あなたもここへいらっしゃいませんか」と遠《えん》慮《りよ》がましい声をかけた。
「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜のうちによくなるから」
円光をいただいた外国人は、やはり水煙管をくわえたまま、無限の愛を含《ふく》んだ微《び》笑《しよう》をもらした。
「ではあなたは召《め》し上がらないのでございますか」
「私《わたし》かい。私は支《シ》那《ナ》料理は嫌《きら》いだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶《や》蘇《そ》基督《キリスト》はまだ一度も、支那料理を食べたことはないのだよ」
南《ナン》京《キン》の基督はこう言ったと思うと、おもむろに紫《し》檀《たん》の椅子を離《はな》れて、あっけにとられた金花の頬《ほお》へ、うしろから優しい接《せつ》吻《ぷん》を与《あた》えた。
×××
天国の夢がさめたのは、すでに秋の明け方の光が、狭《せま》い部屋じゅうにうすら寒く拡《ひろ》がりだしたころであった。が、ほこり臭《くさ》い帷《とばり》を垂《た》れた、小《しよう》舸《か》のような寝台《ねだい》の中には、さすがにまだ生《なま》暖かいほのかな闇《やみ》が残っていた。そのうす暗がりに浮かんでいる、半ば仰向《あおむ》いた金花の顔は、色もわからない古毛布に、円いくくりあごを隠《かく》したまま、いまだに眠《ねむ》い眼を開かなかった。しかし血色の悪い頬《ほお》には、昨夜《ゆうべ》の汗《あせ》にくっついたのか、べったり油じみた髪《かみ》が乱れて、心もち明《あ》いた脣《くちびる》の隙《すき》にも、糯《もち》米《ごめ》のように細い歯が、かすかに白《しろ》々《じろ》とのぞいていた。
金花は眠《ねむ》りがさめた今でも、菊《きく》の花や、水の音や、雉《きじ》の丸焼きや、耶《や》蘇《そ》基督《キリスト》や、そのほかいろいろな夢《ゆめ》の記憶に、うとうと心をさまよわせていた。が、そのうちに寝台の中が、だんだん明るくなってくると、彼女の快い夢《ゆめ》見《み》心《ごころ》にも、傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》な現実が、昨夜不思議な外国人といっしょに、この籐《とう》の寝台へ上がったことが、はっきりと意識に踏《ふ》みこんで来た。
「もしあの人に病気でも移したら、――」
金花はそう考えると、急に心が暗くなって、今朝《けさ》はふたたび彼の顔を見るにたえないような心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に焼けた顔をいつまでも見ずにいることは、なおさら彼女には堪《た》えられなかった。そこでしばらくためらった後、彼女はおずおず眼を開いて、今はもう明るくなった寝台の中を見わました。しかしそこには思いもよらず、毛布におおわれた彼女のほかは、十字架の耶蘇に似た彼はもらろん、人の影《かげ》さえも見えなかった。
「ではあれも夢だったかしら」
垢《あか》じみた毛布をはねのけるが早いか、金花は寝台の上に起き直った。そうして両手に眼をこすってから、重そうに下がった帷《とばり》を掲《かか》げて、まだ渋《しぶ》い視《し》線《せん》を部屋の中へ投げた。
部屋はひややかな朝の空気に、残《ざん》酷《こく》なくらい歴々と、あらゆる物の輪《りん》廓《かく》を描《えが》いていた。古びたテーブル、火の消えたランプ、それから一《いつ》脚《きやく》は床《ゆか》に倒《たお》れ、一脚は壁《かべ》に向かっている椅《い》子《す》、――すべてが昨夜のままであった。そればかりか現にテーブルの上には、西瓜《すいか》の種がちらばった中に、小さな真《しん》鍮《ちゆう》の十《じゆう》字《じ》架《か》さえ、鈍い光を放っていた。金花はまばゆい眼をしばたたいて、茫《ぼう》然《ぜん》とあたりを見まわしながら、しばらく取り乱した寝台の上に、寒そうな横《よこ》坐《ずわ》りを改めなかった。
「やっぱり夢ではなかったのだ」
金花はこうつぶやきながら、さまざまにあの外国人の不可解な行《ゆく》方《え》を思いやった。もちろん考えるまでもなく、彼は彼女が眠《ねむ》っている暇《ひま》に、そっと部屋を抜《ぬ》け出して、帰ったかもしれないという気はあった。しかしあれほど彼女を愛《あい》撫《ぶ》した彼が、一《ひと》言《こと》も別れを惜《お》しまずに、行ってしまったということは、信じられないというよりも、むしろ信じるに忍《しの》びなかった。その上彼女はあの怪《あや》しい外国人から、まだ約束の十ドルの金さえ、もらうことを忘れていたのであった。
「それとも本当に帰ったのかしら」
彼女は重い胸を抱《いだ》きながら、毛布の上に脱《ぬ》ぎ捨《す》てた、黒《くろ》繻《じゆ》子《す》の上《うわ》衣《ぎ》をひっかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顔には見る見るうちに、生き生きした血の色が拡《ひろ》がり始めた。それはペンキ塗《ぬ》りの戸の向こうに、あの怪しい外国人の足音でも聞こえたためであろうか。あるいはまた枕《まくら》や毛布にしみた、酒《さけ》臭《くさ》い彼の移《うつ》り香《が》が、偶《ぐう》然《ぜん》恥《は》ずかしい昨夜の記《き》憶《おく》を喚《よ》びさましたためであろうか。いや、金花はこの瞬《しゆん》間《かん》、彼女の体《からだ》に起こった奇《き》蹟《せき》が、一《いち》夜《や》のうちに跡《あと》方《かた》もなく、悪性をきわめた楊《よう》梅《ばい》瘡《そう》をなおしたことに気づいたのであった。
「ではあの人が基督《キリスト》様だったのだ」
彼女は思わず襯《した》衣《ぎ》のまま、ころぶように寝台を這《は》いおりると、冷たい敷《し》き石の上にひざまずいて、再生の主《しゆ》とことばを交《かわ》した、美しいマグダラのマリア《*》のように、熱心な祈《き》祷《とう》を捧《ささ》げだした。……
翌年の春のある夜、宋《そう》金《きん》花《か》を訪れた、若い日本の旅行家は、ふたたびうす暗いランプの下《もと》に、彼女とテーブルをはさんでいた。
「まだ十《じゆう》字《じ》架《か》がかけてあるじゃないか」
その夜彼が何かの拍子に、ひやかすようにこう言うと、金花は急にまじめになって、一夜南《ナン》京《キン》に降《くだ》った基督《キリスト》が、彼女の病をなおしたという、不思議な話を聞かせ始めた。
その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんなことを独《ひと》り考えていた。――
「おれはその外国人を知っている。あいつは日本人とアメリカ人との混《こん》血《けつ》児《じ》だ。名前は確かGeorge Murryとか言ったっけ。あいつはおれの知り合いのロイテル電報局《*》の通信員に、基督教を信じている、南《ナン》京《キン》の私《し》窩《か》子《し》を一晩買って、その女がすやすや眠《ねむ》っている間《ま》に、そっと逃《に》げて来たという話を得意らしく話したそうだ。おれがこの前に来た時には、ちょうどあいつもおれと同じ上《シヤン》海《ハイ》のホテルに泊《と》まっていたから、顔だけは今でも覚えている。なんでもやはり英字新聞の通信員だと称していたが、男振《ぶ》りに似《に》合《あ》わない、人の悪そうな人間だった。あいつがその後悪性な梅《ばい》毒《どく》から、とうとう発狂してしまったのは、ことによるとこの女の病気が伝染したのかもしれない。しかしこの女は今になっても、ああいう無《ぶ》頼《らい》な混血児を耶《や》蘇《そ》基督だと思っている。おれはいったいこの女のために、蒙《もう》を啓《ひら》いてやるべきであろうか。それとも黙《だま》って永久に、昔の西洋の伝説のような夢を見させておくべきだろうか……」
金花の話が終わった時、彼は思い出したようにマッチをすって、匂《にお》いの高い葉巻きをふかしだした。そうしてわざと熱心そうに、こんな窮《きゆう》した質問をした。
「そうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度もわずらわないかい」
「ええ、一度も」
金花は西瓜《すいか》の種をかじりながら、晴れ晴れと顔を輝《かがや》かせて、少しもためらわずに返事をした。
本篇を草するに当たり、谷崎潤一郎氏作「秦《しん》淮《わい》の一夜」《*》に負う所尠《すくな》からず。付記して感謝の意を表す。
(大正九年六月二十二日)
杜《と》子《し》春《しゆん*》
ある春の日暮れです。
唐《とう》の都洛《らく》陽《よう*》の西の門の下に、ぼんやり空を仰《あお》いでいる、一人の若者がありました。
若者は名を杜《と》子《し》春《しゆん》といって、元は金持ちの息《むす》子《こ》でしたが、今は財産を費《つか》いつくして、その日暮らしにも困るくらい、憐《あわ》れな身分になっているのです。
なにしろそのころ洛陽といえば、天下に並《なら》ぶもののない、繁《はん》昌《じよう》をきわめた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門いっぱいに当たっている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗《しや》の帽《ぼう》子《し》や、トルコの女の金の耳《みみ》環《わ》や、白《しろ》馬《うま》に飾《かざ》った色糸の手《た》綱《づな》が、絶えず流れて行く容《よう》子《す》は、まるで画《え》のような美しさです。
しかし杜子春は相変わらず、門の壁《かべ》に身をもたせて、ぼんやり空ばかり眺《なが》めていました。空には、もう細い月が、うらうらとなびいた霞《かすみ》の中に、まるで爪《つめ》の痕《あと》かと思うほど、かすかに白く浮かんでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊《と》めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きているくらいなら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかもしれない」
杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇《すがめ》の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影《かげ》を門へ落とすと、じっと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考えているのだ」と、横《おう》柄《へい》にことばをかけました。
「私《わたし》ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」
老人の尋《たず》ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏《ふ》せて、思わず正直な答えをしました。
「そうか。それはかわいそうだな」
老人はしばらく何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影《かげ》が地に映《うつ》ったら、その頭に当たる所を夜中に掘《ほ》ってみるがいい。きっと車いっぱいの黄《おう》金《ごん》が埋《う》まっているはずだから」
「ほんとうですか」
社子春は驚《おどろ》いて、伏《ふ》せていた眼をあげました。ところがさらに不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当たりません。その代わり空の月の色は前よりもなお白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙《こう》蝠《もり》が二、三匹《びき》ひらひら舞っていました。
杜《と》子《し》春《しゆん》は一日のうちに、洛《らく》陽《よう》の都でもただ一人という大金持ちになりました。あの老人のことばとおり、夕日に影を映《うつ》してみて、その頭にあたる所を、夜中にそっと掘ってみたら、大きな車にも余《あま》るくらい、黄《おう》金《ごん》が一山出て来たのです。
大金持ちになった杜子春は、すぐにりっぱな家《うち》を買って、玄《げん》宗《そう》皇帝にも負けないくらい、ぜいたくな暮らしをしはじめました。蘭《らん》陵《りよう》の酒《*》を買わせるやら、桂《けい》州《しゆう》の竜《りゆう》眼《がん》肉《にく*》をとりよせるやら、日に四《よ》度《たび》色の変わる牡《ぼ》丹《たん》を庭に植えさせるやら、白《しろ》孔《く》雀《じやく》を何羽も放し飼《が》いにするやら、玉を集めるやら、錦《にしき》を縫《ぬ》わせるやら、香《こう》木《ぼく》の車を造《つく》らせるやら、象《ぞう》牙《げ》の椅《い》子《す》を誂《あつら》えるやら、そのぜいたくをいちいち書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならないくらいです。
するとこういううわさを聞いて、今まで路《みち》で行き合っても、あいさつさえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日ごとに数が増して、半年ばかり経《た》つうちには、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もないくらいになってしまったのです。杜子春はこのお客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りのまた盛んなことは、なかなか口にはつくされません。ごくかいつまんだだけをお話ししても、杜子春が金の杯《さかずき》に西洋から来た葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》をくんで、天《てん》竺《じく》生まれの魔《ま》法《ほう》使《つか》いが刀を呑《の》んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡《ひ》翠《すい》の蓮《はす》の花を、十人は瑪《め》瑙《のう》の牡《ぼ》丹《たん》の花を、いずれも髪《かみ》に飾《かざ》りながら、笛《ふえ》や琴《こと》を節《ふし》面白く奏しているという景《け》色《しき》なのです。
しかしいくら大金持ちでも、お金には際限がありますから、さすがにぜいたくやの杜子春も、一年二年と経《た》つうちには、だんだん貧乏になりだしました。そうすると人間は薄《はく》情《じよう》なもので、昨日《きのう》まで毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、あいさつ一つして行きません。ましてとうとう三年めの春、また杜子春が以前のとおり、一文なしになってみると、広い洛《らく》陽《よう》の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀《わん》に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
そこで彼はある日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途《と》方《ほう》に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇《すがめ》の老人が、どこからか姿を現わして、
「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥《は》ずかしそうに下を向いたまま、しばらくは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じことばをくり返しますから、こちらも前と同じように、
「私《わたし》は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐《おそ》る恐る返事をしました。
「そうか。それはかわいそうだな。ではおれがいいことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影《かげ》が地に映ったら、その胸に当たる所を、夜中に掘《ほ》ってみるがいい。きっと車にいっぱいの黄《おう》金《ごん》が埋《う》まっているはずだから」
老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、かき消すように隠《かく》れてしまいました。
杜子春はその翌日から、たちまち天下第一の大金持ちに返りました。と同時に相変わらず、仕《し》放《ほう》題《だい》なぜいたくをし始めました。庭に咲いている牡《ぼ》丹《たん》の花、その中に眠《ねむ》っている白《しろ》孔《く》雀《じやく》、それから刀を呑《の》んで見せる、天《てん》竺《じく》から来た魔《ま》法《ほう》使《つか》い――すべてが昔のとおりなのです。
ですから車にいっぱいあった、あのおびただしい黄金も、また三年ばかり経《た》つうちには、すっかりなくなってしまいました。
「お前は何を考えているのだ」
片目眇《すがめ》の老人は、三《み》度《たび》杜《と》子《し》春《しゆん》の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、洛《らく》陽《よう》の西の門の下に、ほそぼそと霞《かすみ》を破っている三《み》日《か》月《づき》の光を眺めながら、ぼんやりたたずんでいたのです。
「私《わたし》ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」
「そうか。それはかわいそうだな。ではおれがいいことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当たる所を、夜中に掘ってみるがいい。きっと車にいっぱいの――」
老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手をあげて、そのことばをさえぎりました。
「いや、お金はもういらないのです」
「金はもういらない? ははあ、ではぜいたくをするにはとうとう飽《あ》きてしまったとみえるな」
老人はいぶかしそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、ぜいたくに飽きたのじゃありません。人間というものに愛《あい》想《そ》がつきたのです」
杜子春は不平そうな顔をしながら、つっけんどんにこう言いました。
「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想がつきたのだ?」
「人間は皆薄《はく》情《じよう》です。私《わたし》が大金持ちになった時には、世《せ》辞《じ》も追《つい》従《しよう》もしますけれど、いったん貧乏になってごらんなさい。柔《やさ》しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持ちになったところが、なんにもならないような気がするのです」
老人は杜子春のことばを聞くと、急ににやにや笑いだしました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか」
杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼をあげると、訴《うつた》えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私《わたし》にはできません。ですから私はあなたの弟《で》子《し》になって、仙《せん》術《じゆつ》の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠《かく》してはいけません、あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜のうちに私を天下第一の大金持ちにすることはできないはずです。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えてください」
老人は眉《まゆ》をひそめたまま、しばらくは黙《だま》って、何事か考えているようでしたが、やがてまたにっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨《が》眉《び》山《さん》に棲《す》んでいる、鉄《てつ》冠《かん》子《し*》という仙《せん》人《にん》だ。初めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持ちにしてやったのだが、それほど仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、こころよく願いを容《い》れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人のことばがまだ終わらないうちに、彼は大地に額《ひたい》をつけて、何度も鉄冠子にお時《じ》宜《ぎ》をしました。
「いや、そうお礼などは言ってもらうまい。いくらおれの弟子にしたところで、りっぱな仙人になれるかなれないかは、お前しだいできまることだからな。――が、ともかくもまずおれといっしょに、峨眉山の奥《おく》へ来てみるがいい。おお、幸い、ここに竹《たけ》杖《づえ》が一本落ちている。ではさっそくこれへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾《ひろ》い上げると、口のうちに咒《じゆ》文《もん》を唱《とな》えながら、杜子春といっしょにその竹へ、馬にでも乗るようにまたがりました。すると不思議ではありませんか。竹《たけ》杖《づえ》はたちまち竜《りゆう》のように、勢いよく大空へ舞《ま》い上がって、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は胆《きも》をつぶしながら、恐《おそ》る恐る下を見おろしました。が、下にはただ青い山々が夕明かりの底に見えるばかりで、あの洛《らく》陽《よう》の都の西の門は、(とうに霞《かすみ》にまぎれたのでしょう)どこを探《さが》しても見当たりません。そのうちに鉄冠子は、白い鬢《びん》の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱《うた》いだしました。
朝《あした》に北《ほつ》海《かい*》に遊び、幕《くれ》には蒼《そう》梧《ご*》
袖裏《しゅうり》の青蛇《せいだ》、胆気粗《たんきそ*》なり。
三たび岳《がく》陽《よう*》に入れども、人識《し》らず。
朗《ろう》吟《ぎん》して、飛《ひ》過《か》す洞《どう》庭《てい》湖《こ》。
二人を乗せた青竹は、間《ま》もなく峨《が》眉《び》山《さん》へ舞い下がりました。
そこは深い谷にのぞんだ、幅《はば》の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だとみえて、中《なか》空《ぞら》に垂《た》れた北《ほく》斗《と》の星が、茶《ちや》碗《わん》ほどの大きさに光っていました。もとより人《じん》跡《せき》の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、うしろの絶《ぜつ》壁《ぺき》に生えている、曲がりくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄《てつ》冠《かん》子《し》は杜《と》子《し》春《しゆん》を絶壁の下にすわらせて、
「おれはこれから天上へ行って、西《せい》王《おう》母《ぼ*》にお眼にかかって来るから、お前はその間はここにすわって、おれの帰るのを待っているがいい。たぶんおれがいなくなると、いろいろな魔《ま》性《しよう》が現われて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ころうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一《ひと》言《こと》でも口を利《き》いたら、お前はとうてい仙《せん》人《にん》にはなれないものだと覚《かく》悟《ご》をしろ。いいか。天地が裂《さ》けても、黙《だま》っているのだぞ」と言いました。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
老人は杜子春に別れを告げると、またあの竹《たけ》杖《づえ》にまたがって、夜目にもけずったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上にすわったまま、静かに星を眺《なが》めていました。するとかれこれ半《はん》時《とき》ばかり経《た》って、深山の夜気が肌《はだ》寒く薄《うす》い着物に透《とお》りだしたころ、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」と、叱《しか》りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教えどおり、なんとも返事をしずにいました。
ところがまたしばらくすると、やはり同じ声が響《ひび》いて、
「返事をしないとたちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇《おど》しつけるのです。
杜子春はもちろん黙っていました。
と、どこから登って来たか、らんらんと眼を光らせた虎《とら》が一匹、忽《こつ》然《ぜん》と岩の上に躍《おど》り上がって、杜子春の姿をにらみながら、一声高くたけりました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝《えだ》が、烈《はげ》しくざわざわ揺《ゆ》れたと思うと、うしろの絶《ぜつ》壁《ぺき》の頂《いただき》からは、四《し》斗《と》樽《だる》ほどの白《はく》蛇《だ》が一匹《ぴき》、炎《ほのお》のような舌《した》を吐《は》いて、見る見る近くへおりて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉《まゆ》毛《げ》も動かさずにすわっていました。
虎と蛇《へび》とは、一つ餌《え》食《じき》を狙《ねら》って、互いに隙《すき》でもうかがうのか、しばらくはにらみ合いの体《てい》でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙《きば》に噛《か》まれるか、蛇の舌に呑《の》まれるか、杜子春の命はまたたくうちに、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧《きり》のごとく、夜風とともに消え失《う》せて、あとにはただ、絶《ぜつ》壁《ぺき》の松が、さっきのとおりこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一《ひと》息《いき》しながら、今度はどんなことが起こるかと、心待ちに待っていました。
すると一《いち》陣《じん》の風が吹き起こって、墨《すみ》のような黒《くろ》雲《くも》が一面にあたりをとざすやいなや、うす紫《むらさき》の稲《いな》妻《ずま》がやにわに闇《やみ》を二つに裂《さ》いて、すさまじく雷《らい》が鳴りだしました。いや、雷ばかりではありません。それといっしょに瀑《たき》のような雨も、いきなりどうどうと降りだしたのです。杜子春はこの天変の中に、恐《おそ》れげもなくすわっていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――しばらくはさすがの峨《が》眉《び》山《さん》も、くつがえるかと思うくらいでしたが、そのうちに耳をもつんざくほど、大きな雷鳴が轟《とどろ》いたと思うと、空に渦《うず》巻《ま》いた黒雲の中から、まっかな一本の火《ひ》柱《ばしら》が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳をおさえて、一枚岩の上へひれ伏《ふ》しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前のとおり晴れ渡って、向こうにそびえた山々の上にも、茶《ちや》碗《わん》ほどの北《ほく》斗《と》の星が、やはりきらきら輝《かがや》いています。してみれば今の大あらしも、あの虎や白《はく》蛇《だ》と同じように、鉄《てつ》冠《かん》子《し》の留《る》守《す》をつけこんだ、魔《ま》性《しよう》のいたずらに違《ちが》いありません。杜子春はようやく安心して、額《ひたい》の冷《ひや》汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら、また岩の上にすわり直しました。
が、そのため息がまだ消えないうちに、今度は彼のすわっている前へ、金の鎧《よろい》を着《き》下《くだ》した、身の丈《たけ》三丈もあろうという、厳《おごそ》かな神《しん》将《しよう》が現われました。神将は手に三《みつ》叉《また》の戟《ほこ》を持っていましたが、いきなりその戟の切っ先を杜子春の胸《むな》もとへ向けながら、眼をいからせて叱《しか》りつけるのを聞けば、
「こら、その方はいったい何物だ。この峨《が》眉《び》山《さん》という山は、天地開《かい》闢《びやく》の昔から、おれが住《す》居《まい》をしている所だぞ。それをはばからずたった一人、ここへ足を踏《ふ》み入れるとは、よもやただの人間ではあるまい。さあ命が惜《お》しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。
しかし杜子春は老人のことばどおり、黙《もく》然《ねん》と口をつぐんでいました。
「返事をしないか。――しないな。よし。しなければ、しないで勝手にしろ、その代わりおれの眷《けん》属《ぞく》たちが、その方をずたずたに斬《き》ってしまうぞ」
神将は戟を高くあげて、向こうの山の空を招《まね》きました。そのとたんに闇《やみ》がさっと裂《さ》けると、驚《おどろ》いたことには、無数の神兵が、雲のごとく空に充《み》ち満ちて、それが皆槍《やり》や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
この景《け》色《しき》を見た杜子春は、思わずあっと叫《さけ》びそうにしましたが、すぐにまた鉄《てつ》冠《かん》子《し》のことばを思い出して、一生懸《けん》命《めい》に黙《だま》っていました。神将は彼が恐《おそ》れないのを見ると、怒《おこ》ったの怒らないのではありません。
「この剛《ごう》情《じよう》者《もの》め。どうしても返事をしなければ、約束どおり命はとってやるぞ」
神将はこうわめくが早いか、三叉の戟をひらめかせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむほど、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。もちろんこの時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音といっしょに、夢《ゆめ》のように消え失せたあとだったのです。
北斗の星はまた寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変わらず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰《あお》向《む》けにそこへ倒《たお》れていました。
杜《と》子《し》春《しゆん》の体《からだ》は岩の上へ、仰《あお》向《む》けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静かに体から抜《ぬ》け出して、地《じ》獄《ごく》の底へおりて行きました。
この世と地獄との間には、闇《あん》穴《けつ》道《どう*》という道があって、そこは年じゅう暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒《すさ》んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、しばらくはただ木《こ》の葉《は》のように、空をただよって行きましたが、やがて森《しん》羅《ら》殿《でん》という額《がく》のかかったりっぱな御《ご》殿《てん》の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼《おに》は、杜子春の姿を見るやいなや、すぐにそのまわりを取り捲《ま》いて、階《きざはし》の前へ引き据《す》えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍《きもの》に金の冠《かんむり》をかぶって、いかめしくあたりをにらんでいます。これはかねてうわさに聞いた、閻《えん》魔《ま》大《だい》王《おう》に違《ちが》いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐《おそ》る恐るそこへひざまずいていました。
「こら、その方はなんのために、峨《が》眉《び》山《さん》の上へすわっていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階の上から響《ひび》きました。杜子春はさっそくその問いに答えようとしましたが、ふとまた思い出したのは、「決して口を利《き》くな」という鉄《てつ》冠《かん》子《し》の戒《いまし》めのことばです。そこでただ頭を垂《た》れたまま、唖《おし》のように黙《だま》っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏《しやく》をあげて、顔じゅうのひげを逆《さか》立《だ》てながら、
「その方はここをどこだと思う? すみやかに返答をすればよし、さもなければ時を移さず、地《じ》獄《ごく》の呵《か》責《しやく》に遇《あ》わせてくれるぞ」と、威《い》丈《たけ》高《だか》にののしりました。
が、杜子春は相変わらず脣《くちびる》一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度にかしこまって、たちまち杜子春を引き立てながら、森《しん》羅《ら》殿《でん》の空へ舞い上がりました。
地獄には誰でも知っているとおり、剣《つるぎ》の山や血の池のほかにも、焦《しよう》熱《ねつ》地獄という焔《ほのお》の谷や極《ごつ》寒《かん》地獄という氷の海が、まっくらな空の下に並《なら》んでいます。鬼《おに》どもはそういう地獄の中へ、かわるがわる杜子春をほうりこみました。ですから杜子春は無残にも、剣《つるぎ》に胸を貫《つらぬ》かれるやら、焔《ほのお》に顔を焼かれるやら、舌を抜《ぬ》かれるやら、皮を剥《は》がれるやら、鉄の杵《きね》に撞《つ》かれるやら、油の鍋《なべ》に煮られるやら、毒《どく》蛇《じや》に脳《のう》味《み》噌《そ》を吸《す》われるやら、熊《くま》鷹《たか》に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、とうてい際限がないくらい、あらゆる責め苦に遇《あ》わされたのです。それでも杜子春は我《が》慢《まん》強く、じっと歯を食いしばったまま、一《ひと》言《こと》も口を利《き》きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、あきれ返ってしまったのでしょう。もう一度夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきのとおり杜子春を階《きざはし》の下に引き据《す》えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気《け》色《しき》がございません」と、口をそろえて言《ごん》上《じよう》しました。
閻《えん》魔《ま》大王は眉《まゆ》をひそめて、しばらく思案にくれていましたが、やがて何か思いついたとみえて、
「この男の父《ちち》母《はは》は、畜《ちく》生《しよう》道《どう》に落ちているはずだから、さっそくここへ引き立てて来い」と、一《いつ》匹《ぴき》の鬼に言いつけました。
鬼はたちまち風に乗って、地獄《じごく》の空へ舞《ま》いあがりました。と思うと、また星が流れるように、二匹の獣《けもの》を駆り立てながら、さっと森《しん》羅《ら》殿《でん》の前へおりて来ました。その獣を見た杜子春は、驚《おどろ》いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩《や》せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母のとおりでしたから。
「こら、その方はなんのために、峨《が》眉《び》山《さん》の上にすわっていたか、まっすぐに白《はく》状《じよう》しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」
杜子春はこう嚇《おど》されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合がよければ、いいと思っているのだな」
閻魔大王は森羅殿もくずれるほど、すさまじい声でわめきました。
「打て。鬼《おに》ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕《くだ》いてしまえ」
鬼どもはいっせいに「はっ」と答えながら、鉄の鞭《むち》をとって立ち上がると、四方八万から二匹の馬を、未《み》練《れん》未《み》釈《しやく》なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所きらわず雨のように、馬の皮《ひ》肉《にく》を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身をもだえて、眼には血の涙《なみだ》を浮かべたまま、見てもいられないほどいななき立てました。
「どうだ。まだその方は白《はく》状《じよう》しないか」
閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答えをうながしました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂《さ》け骨は砕けて、息も絶え絶えに階《きざはし》の前へ、倒《たお》れ伏《ふ》していたのです。
杜子春は必死になって、鉄《てつ》冠《かん》子《し》のことばを思い出しながら、緊《かた》く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声とはいえないくらい、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結《けつ》構《こう》なことはないのだからね。大王がなんとおっしゃっても、言いたくないことは黙《だま》っておいで」
それは確かになつかしい、母親の声に違《ちが》いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息《むす》子《こ》の心を思いやって、鬼どもの鞭《むち》に打たれたことを、うらむ気《け》色《しき》さえも見せないのです。大金持ちになればお世《せ》辞《じ》を言い、貧乏人になれば口も利《き》かない世間の人たちに比《くら》べると、なんというありがたい志でしょう。なんというけなげな決心でしょう。杜子春は老人の戒《いまし》めも忘れて、転《ころ》ぶようにそのそばへ走りよると、両手に半死の馬の頸《くび》を抱《だ》いて、はらはらと涙《なみだ》を落としながら、「お母さん」と一《ひと》声《こえ》叫《さけ》びました。……
その声に気がついてみると、杜《と》子《し》春《しゆん》はやはり夕日を浴びて、洛《らく》陽《よう》の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいるのでした。霞《かす》んだ空、白い三《み》日《か》月《づき》、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨《が》眉《び》山《さん》へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟《で》子《し》になったところが、とても仙《せん》人《にん》にはなれはすまい」
片目眇《すがめ》の老人は微《び》笑《しよう》を含《ふく》みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私《わたし》はなれなかったことも、かえってうれしい気がするのです」
杜子春はまだ眼に涙を浮かべたまま、思わず老人の手を握《にぎ》りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地《じ》獄《ごく》の森《しん》羅《ら》殿《でん》の前に、鞭《むち》を受けている父《ちち》母《はは》を見ては、黙《だま》っているわけには行きません」
「もしお前が黙っていたら――」と鉄《てつ》冠《かん》子《し》は急に厳《おごそ》かな顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即《そく》座《ざ》にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという望みも持っていまい。大金持ちになることは、もとより愛《あい》想《そ》がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子がこもっていました。
「そのことばを忘れるなよ。ではおれは今日《きよう》かぎり、二度とお前には遇《あ》わないから」
鉄冠子はこう言ううちに、もう歩きだしていましたが、急にまた足を止めて、杜子春の方を振《ふ》り返ると、
「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰《たい》山《ざん*》の南の麓《ふもと》に一《いつ》軒《けん》の家を持っている。その家を畑《はたけ》ごとお前にやるから、さっそく行って住まうがいい。今ごろはちょうど家のまわりに、桃《もも》の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉《ゆ》快《かい》そうにつけ加えました。
(大正九年六月)
捨《すて》 児《ご》
「浅《あさ》草《くさ》の永《なが》住《すみ》町《ちよう*》に、信《しん》行《ぎよう》寺《じ》という寺がありますが、――いえ、大きな寺じゃありません。ただ日《にち》朗《ろう》上《しよう》人《にん*》の御木像があるとかいう、相応に由《ゆい》緒《しよ》のある寺だそうです。その寺の門前に、明治二十二年の秋、男の子が一人捨ててありました。それがまた生まれ年はもちろん、名前を書いた紙もついていない。――なんでも古い黄《き》八《はち》丈《じよう》の一つ身にくるんだまま、緒《お》の切れた女の草《ぞう》履《り》を枕《まくら》に、捨ててあったということです。
「当時信行寺の住職は、田《た》村《むら》日《につ》錚《そう》という老人でしたが、ちょうど朝のお勤《つと》めをしていると、これもいい年をした門番が、捨《すて》児《ご》のあったことを知らせに来たそうです。すると仏前に向かっていた和尚《おしよう》は、ほとんど門番の方も振《ふ》り返らずに、「そうか。ではこちらへ抱《だ》いて来るがいい」と、さもこともなげに答えました。のみならず門番が、こわごわその子を抱いて来ると、すぐに自分が受け取りながら、「おお、これは可愛《かわい》い子だ。泣くな。泣くな。今日《きよう》からおれが養ってやるわ」と、気軽そうにあやし始めるのです。――この時のことは後になっても、和尚《おしよう》びいきの門番が、樒《しきみ》や線香を売る片《かた》手《で》間《ま》に、よく参《さん》詣《けい》人《にん》へ話しました。ご承知かもしれませんが、日錚和尚という人は、もと深《ふか》川《がわ》の左官だったのが、十九の年に足場から落ちて、一時正気を失った後、急に菩《ぼ》提《だい》心《しん》を起こしたとかいう、でんぼう肌《はだ》の畸《き》人《じん》だったのです。
「それから和尚はこの捨《すて》児《ご》に、勇《ゆう》之《の》助《すけ》という名をつけて、わが子のように育て始めました。が、なにしろご維《い》新《しん》以来、女《おんな》気《け》のない寺ですから、育てるといったにしたところが、容《よう》易《い》なことじゃありません。守《も》りをするのから牛乳の世話まで、和尚自身が看《かん》経《きん》の暇《ひま》には、めんどうをみるという始末なのです。なんでも一度なぞは勇之助が、風か何か引いていた時、折《おり》悪《あ》しく河《か》岸《し*》の西《にし》辰《たつ》という大《おお》檀《だん》家《か》の法事があったそうですが、日錚和尚は法衣《ころも》の胸に、熱の高い子供を抱《だ》いたまま、水《すい》晶《しよう》の念《ねん》珠《じゆ》を片手にかけて、いつものとおり平然と、読経《どきよう》をすませたとかいうことでした。
「しかしその間《ま》もできることなら、生みの親に会わせてやりたいというのが、豪《ごう》傑《けつ》じみていても情にもろい日錚和尚の腹だったのでしょう。和尚は説教の座へ登ることがあると、――今でも行ってごらんになれば、信行寺の前の柱には『説教、毎月十六日』という、古い札《ふだ》が下がっていますが、――時々和《わ》漢《かん》の故《こ》事《じ》を引いて、親子の恩愛を忘れぬことが、すなわち仏恩をも報ずる所以《ゆえん》だ、とねんごろに話して聞かせたそうです。が、説教日はたびたびめぐって来ても、誰一人進んで捨児の親だと名のって出るものは見当たりません。――いや勇之助が三歳の時、たった一《いつ》遍《ぺん》、親だという白粉《おしろい》焼けのした女が、尋《たず》ねて来たことがありました。しかしこれは捨児を種に、悪事でもたくらむつもりだったのでしょう。よくよく問い質《ただ》してみると、疑わしいことばかりでしたから、癇《かん》癖《ぺき》の強い日錚和尚は、ほとんど腕《わん》力《りよく》をふるわないばかりに、さんざん毒舌を加えたあげく、即《そく》座《ざ》に追い払《はら》ってしまいました。
「すると明治二十七年の冬、世間は日《につ》清《しん》戦争のうわさに湧《わ》き返っている時でしたが、やはり十六日の説教日に、和尚が庫《く》裡《り》から帰って来ると、品のいい三十四、五の女が、しとやかにあとを追って来ました。庫裡には釜《かま》をかけた囲《い》炉《ろ》裡《り》の側《そば》に、勇之助が蜜《み》柑《かん》をむいている。――その姿を一目見るが早いか、女はなんの取っ付きもなく、和尚の前へ手をついて、震《ふる》える声をおさえながら、「私《わたし》はこの子の母親でございますが」と、思い切ったように言ったそうです。これにはさすがの日錚和尚も、しばらくあっけにとられたまま、あいさつのことばさえ出ませんでした。が、女は和尚に頓《とん》着《じやく》なく、じっと畳《たたみ》を見つめながら、ほとんど暗《あん》誦《しよう》でもしているように――といって心の激《げき》動《どう》は、体《からだ》じゅうに露《あら》われているのですが――今《こん》日《にち》までの養育の礼をいちいちていねいに述《の》べだすのです。
「それがややしばらくつづいた後、和尚は朱《しゆ》骨《ぼね》の中《ちゆう》啓《けい》をあげて、女のことばをさえぎりながら、まずこの子を捨てたわけを話して聞かすように促《うなが》しました。すると女は相変わらず畳へ眼を落としたまま、こういう話を始めたそうです――
「ちょうど今から五年以前、女の夫は浅《あさ》草《くさ》田《た》原《わら》町《まち》に米屋の店を開いていましたが、株に手を出したばっかりに、とうとう家庭を蕩《とう》尽《じん》して、夜《よ》逃《に》げ同様横浜へ落ちて行くことになりました。が、こうなると足手まといなのは、生まれたばかりの男の子です。しかもあいにく女には乳がまるでなかったものですから、いよいよ東京を立ち退《の》こうという晩、夫婦は信《しん》行《ぎよう》寺《じ》の門前へ、泣く泣くその赤子を捨てて行きました。
「それからわずかの知るべをたよりに、汽車にも乗らず横浜へ行くと、夫はある運送屋へ奉公をし、女はある糸屋の下女になって、二年ばかり二人とも一生懸《けん》命《めい》に働いたそうです。そのうちに運が向いて来たのか、三年めの夏には運送屋の主人が、夫の正直に働くのを見こんで、そのころようやく開けだした本牧《ほんもく》辺りの表通りへ、小さな支店を出させてくれました。同時に女も奉公をやめて、夫といっしょになったことはもとよりいうまでもありますまい。
「支店は相当に繁《はん》昌《じよう》しました。そのうえまた年が変わると、今度も丈夫そうな男の子が、夫婦の間に生まれました。もちろん悲《ひ》惨《さん》な捨《すて》児《ご》の記《き》憶《おく》は、この間も夫婦の心の底に、わだかまっていたのに違いありません。ことに女は赤子の口へとぼしい乳を注ぐたびに、かならず東京を立ち退《の》いた晩《ばん》がはっきりと思い出されたそうです。しかし店は忙《いそが》しい。子供も日に増し大きくなる。銀行にも多少は預金ができた。――というような始末でしたから、ともかくも夫婦は久しぶりに、幸福な家庭の生活を送ることだけはできたのです。
「が、そういう幸運がつづいたのも、長い間のことじゃありません。やっと笑うこともあるようになったと思うと、二十七年の春そうそう、夫はチブスにかかったなり、一週間とは床につかず、ころりと死んでしまいました。それだけならばまだ女も、諦《あきら》めようがあったのでしょうが、どうしても思い切れないことには、せっかく生まれた子供までが、夫の百《ひやつ》か日《にち》も明けないうちに、突然疫《えき》痢《り》で歿《な》くなったことです。女はその当座昼も夜も気《き》違《ちが》いのように泣きつづけました。いや、当座ばかりじゃありません。それ以来かれこれ半年ばかりは、ほとんど放心同様な月日さえ送らなければならなかったのです。
「その悲しみが薄《うす》らいだ時、まず女の心に浮かんだのは、捨てた長男に会うことです。『もしあの子が達者だったら、どんなに苦しいことがあっても、手もとへ引き取って養育したい』――そう思うと矢も楯《たて》もたまらないような気がしたのでしょう。女はすぐさま汽車に乗って、なつかしい東京へ着くが早いか、なつかしい信《しん》行《ぎよう》寺《じ》の門前へやって来ました。それがまたちょうど十六日の説教日の午前だったのです。
「女はさっそく庫《く》裡《り》へ行って、誰かに子供の消息を尋《たず》ねたいと思いました。しかし説教がすまないうちは、もちろん和尚《おしよう》にも会われますまい。そこで女はいらだたしいながらも、本堂いっぱいにつめかけた大勢の善《ぜん》男《なん》善《ぜん》女《によ》に交じって、日錚和尚の説教に上《うわ》の空《そら》の耳を貸していました。――というよりも実際は、その説教が終わるのを待っていたのにすぎないのです。
「ところがその和尚はその日もまた、蓮《れん》華《げ》夫《ふ》人《じん*》が五百人の子とめぐり遇《あ》った話を引いて、親子の恩愛が尊《たつと》いことを親切に説いて聞かせました。蓮華夫人が五百の卵を生む。その卵が川に流されて、隣《りん》国《こく》の王に育てられる。卵から生まれた五百人の力士は、母とも知らない蓮華夫人の城を攻《せ》めに向かって来る。蓮華夫人はそれを聞くと、城の上の楼《たかどの》に登って、『私《わたし》はお前たち五百人の母だ。その証《しよう》拠《こ》はここにある』と言う。そうして乳を出しながら、美しい手に絞《しぼ》って見せる。乳は五百条《すじ》の泉のように、高い楼《ろう》上《じよう》の夫人の胸から、五百人の力士の口へ一人ももれず注がれる。――そういう天《てん》竺《じく》の寓《ぐう》意《い》譚《たん》は、聞くともなく説教を聞いていた、この不幸な女の心に異常な感動を与《あた》えました。だからこそ女は説教がすむと、眼に涙《なみだ》をためたまま、廊《ろう》下《か》伝《づた》いに本堂から、すぐに庫裡へ急いで来たのです。
「委《い》細《さい》を聞き終わった日錚和尚は、囲《い》炉《ろ》裡《り》の側《そば》にいた勇之助を招《まね》いて、顔も知らない母親に五年ぶりの対面をさせました。女のことばが嘘《うそ》でないことは、自然と和尚にもわかったのでしょう。女が勇之助を抱《だ》き上げて、しばらく泣き声をこらえていた時には、豪《ごう》放《ほう》闊《かつ》達《たつ》な和尚の眼にも、いつか微《び》笑《しよう》を伴《ともな》った涙《なみだ》が、まつげの下に輝《かがや》いていました。
「その後のことは言わずとも、たいていお察《さつ》しがつくでしょう。勇之助は母親につれられて、横浜の家へ帰りました。女は夫や子供の死後、情け深い運送屋主人夫婦の勧《すす》めどおり、達者な針仕事を人に教えて、つつましいながらも苦しくない生計を立てていたのです」
客は長い話を終わると、膝《ひざ》の前の茶《ちや》碗《わん》をとり上げた。が、それに脣《くちびる》は当てず、私の顔へ眼をやって、静かにこうつけ加えた。
「その捨《すて》児《ご》が私《わたし》です」
私は黙《だま》ってうなずきながら、湯ざましの湯を急《きゆう》須《す》に注《つ》いだ。この可《か》憐《れん》な捨児の話が、客松《まつ》原《ばら》勇《ゆう》之《の》助《すけ》君の幼年時代の身の上話だということは、初対面の私にもとうに推《すい》測《そく》がついていたのであった。
しばらく沈《ちん》黙《もく》がつづいた後、私は客にことばをかけた。
「阿《おつ》母《か》さんは今でも丈《じよう》夫《ぶ》ですか」
すると意外な答えがあった。
「いえ、一昨年歿《な》くなりました――しかし今お話しした女は、私《わたし》の母じゃなかったのです」
客は私の驚《おどろ》きを見ると、眼だけにちらりと微笑を浮かべた。
「夫が浅《あさ》草《くさ》田《た》原《わら》町《まち》に米屋を出していたということや、横浜へ行って苦労したということはもちろん嘘《うそ》じゃありません。が、捨児をしたということは、嘘だったことが後に知れました。ちょうど母が歿くなる前年、店の商用をかかえた私《わたし》――はご承知のとおり私の店は綿糸の方をやっていますから、新潟界《かい》隈《わい》を廻《まわ》って歩きましたが、その時田原町の母の家の隣《となり》に住んでいた袋《ふくろ》物《もの》屋《や》と、一つ汽車に乗り合わせたのです。それが問わず語りに話したところでは、母は当時女の子を生んで、その子がまた店をしまう前に、死んでしまったとかいうことでした。それから横浜へ帰って後、さっそく母に知れないように戸《こ》籍《せき》謄《とう》本《ほん》をとって見ると、なるほど袋物屋のことばどおり、田原町にいた時に生まれたのは、女の子に違《ちが》いありません。しかも生後三《み》月《つき》めに死んでしまっているのです。母はどういう量《りよう》見《けん》か、子でもない私を養うために、捨《すて》児《ご》の嘘《うそ》をついたのでした。そうしてその後二十年あまりは、ほとんど寝食さえ忘れるくらい、私につくしてくれたのでした。
「どういう量《りよう》見《けん》か、――それは私《わたし》が今《こん》日《にち》までには、何度考えてみたかわかりません。が、事実は知れないまでも、いちばんもっともらしく思われる理由は、日《につ》錚《そう》和尚《おしよう》の説教が、夫や子に遅《おく》れた母の心へ異常な感動を与《あた》えたことです。母はその説教を聞いているうちに、私の知らない母の役を勤《つと》める気になったのじゃありますまいか。私が寺に拾《ひろ》われていることは、当時説教を聞きに来ていた参《さん》詣《けい》人《にん》からでも教わったのでしょう。あるいは寺の門番が、話して聞かせたかもしれません」
客はちょいと口をつぐむと、考え深そうな眼をしながら、思い出したように茶をすすった。
「そうしてあなたが子でないということは、――子でないことを知ったということは、阿《おつ》母《か》さんにも話したのですか」
私は尋《たず》ねずにはいられなかった。
「いえ、それは話しません。私《わたし》の方から言いだすのは、あまり母に残《ざん》酷《こく》ですから。母も死ぬまでそのことは一《いち》言《ごん》も私に話しませんでした。やはり話すことは私にも、残酷だと思っていたのでしょう。実際私の母に対する情も、子でないことを知った後、一転化を来たしたのは事実です」
「というのはどういう意味ですか」
私はじっと客の目を見た。
「前よりもいっそうなつかしく思うようになったのです。その秘密を知って以来、母は捨《すて》児《ご》の私《わたし》には、母以上の人間になりましたから」
客はしんみりと返事をした。あたかも彼自身子以上の人間だったことも知らないように。
(大正九年七月)
影《かげ》
横浜。
日《につ》華《か》洋《よう》行《こう*》の主人陳《ちん》彩《さい》は、机に背広の両《りよう》肘《ひじ》をもたせて、火の消えた葉巻きをくわえたまま、今日《きよう》もうずたかい商用書類に繁《はん》忙《ぼう》な眼をさらしていた。
更《さら》紗《さ》の窓《まど》掛《か》けを垂《た》れた部屋の内には、相変わらず残暑の寂《せき》寞《ばく》が、息苦しいくらい支配していた。その寂寞を破るものは、ニスの匂《にお》いのする戸の向こうから、時々ここへ聞こえて来る、かすかなタイプライタアの音だけであった。
書類が一山かたづいた後、陳《ちん》はふと何か思い出したように、卓《たく》上《じよう》電話の受話器を耳へ当てた。
「私《わたし》の家《いえ》へかけてくれたまえ」
陳の脣《くちびる》をもれることばは、妙《みよう》に底力のある日本語であった。
「誰?――婆《ばあ》や?――奥《おく》さんにちょいと出てもらってくれ。――房《ふさ》子《こ》かい?――私《わたし》は今夜東京へ行くからね。――ああ、向こうへ泊《と》まって来る。――帰れないか?――とても汽車に間《ま》にあうまい。――じゃ頼《たの》むよ。――何? 医者に来てもらった?――それは神経衰《すい》弱《じやく》に違《ちが》いないさ。よろしい。さようなら」
陳は受話器を元の位置に戻《もど》すと、なぜか顔を曇《くも》らせながら、肥《ふと》った指にマッチをすって、くわえていた葉巻きを吸い始めた。
……煙草《たばこ》の煙《けむり》、草花の匂《にお》い、ナイフやフォオクの皿《さら》に触《ふ》れる音、部屋の隅《すみ》から湧《わ》き上る調子外《はず》れのカルメンの音楽、――陳はそういう騒《さわ》ぎの中に、一《いつ》杯《ぱい》のビールを前にしながら、たった一人茫《ぼう》然《ぜん》と、テーブルに肘《ひじ》をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、扇《せん》風《ぷう》機《き》も、何一つ目まぐるしく動いていないものはない。が、ただ、彼の視《し》線《せん》だけは、帳場机のうしろの女の顔へ、さっきからじっと注がれている。
女はまだ見たところ、二十《はたち》を越《こ》えてもいないらしい。それが壁《かべ》へ貼《は》った鏡をうしろに、絶えず鉛《えん》筆《ぴつ》を動かしながら、忙《せわ》しそうにビルを書いている。額の捲《ま》き毛、かすかな頬《ほお》紅《べに》、それから地《じ》味《み》な青《せい》磁《じ》色《いろ》の半《はん》襟《えり》。――
陳はビールを飲み干《ほ》すと、おもむろに大きな体《からだ》を起こして、帳場机の前へ歩み寄った。
「陳さん。いつ私《わたし》に指《ゆび》環《わ》を買ってくだすって?」
女はこう言う間にも、依《い》然《ぜん》として鉛筆を動かしている。
「その指環がなくなったら」
陳は小《こ》銭《ぜに》を探りながら、女の指へ顋《あご》を向けた。そこにはすでに二年前から、延《の》べの金《きん》の両《りよう》端《はし》を抱《いだ》かせた、約《やく》婚《こん》の指環がはまっている。
「じゃ今夜買ってちょうだい」
女はとっさに指環を抜《ぬ》くと、ビルといっしょに彼の前へ投げた。
「これは護身用の指環なのよ」
カッフェの外のアスファルトには、涼《すず》しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交じりながら、何度も町の空の星を仰《あお》いで見た。その星も皆《みな》今夜だけは、……
誰かの戸をたたく音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚《よ》び返した。
「おはいり」
その声がまだ消えないうちに、ニスの匂《にお》いのする戸がそっとあくと、顔色の蒼《あお》白《じろ》い書記の今《いま》西《にし》が、無気味なほど静かにはいって来た。
「手紙がまいりました」
黙《だま》ってうなずいた陳の顔には、そのうえ今西に一《いち》言《ごん》も口を開かせない不《ふ》機《き》嫌《げん》さがあった。今西は冷《ひや》やかに目礼すると、一通の封《ふう》書《しよ》を残したまま、また前のように音もなく、戸の向こうの部屋へ帰って行った。
戸が今西のうしろにしまった後、陳は灰《はい》皿《ざら》に葉巻きを捨てて、机の上の封書を取り上げた。それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛《あて》名《な》を打った、格別ふつうの商用書《しよ》簡《かん》と、変わるところのない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔にはいいようのない嫌《けん》悪《お》の情が浮かんで来た。
「またか」
陳は太い眉《まゆ》をしかめながら、いまいましそうに舌打ちをした。が、それにもかかわらず、靴《くつ》の踵《かかと》を机の縁《ふち》へ当てると、ほとんど輪《りん》転《てん》椅《い》子《す》の上に仰《あお》向《む》けになって、紙切り小刀も使わずに封を切った。
「拝《はい》啓《けい》、貴下の夫人が貞操を守られざるは、再三ご忠告……貴下が今《こん》日《にち》に至るまで、なんら断《だん》乎《こ》たる処《しよ》置《ち》に出でられざるは……されば夫人の旧日の情夫とともに、日夜……日本人にしてかつコーヒー店の給仕女たりし房《ふさ》子《こ》夫人が、……支《シ》那《ナ》人《じん》たる貴下のために、万《ばん》斛《こく》の同情なきあたわず候。……今後もし夫人を離《り》婚《こん》せられずんば、……貫下は万人の嗤《し》笑《しよう》するところとなるも……微《び》衷《ちゆう》不悪《あしからず》ご推《すい》察《さつ》……敬白。貴下の忠実なる友より」
手紙は力なく陳《ちん》の手から落ちた。
……陳はテーブルによりかかりながら、レエスの窓《まど》掛《か》けをもれる夕明かりに、女持ちの金時計を眺《なが》めている。が、蓋《ふた》の裏に彫《ほ》った文字は、房子のイニシアルではないらしい。
「これは?」
新婚後まだ何日も経《た》たない房子は、西洋箪《だん》笥《す》の前にたたずんたまま、テーブル越《ご》しに夫へ笑《え》顔《がお》を送った。
「田《た》中《なか》さんがくだすったの。ご存じじゃなくて? 倉庫会社の――」
テーブルの上にはその次に、指《ゆび》環《わ》の箱が二つ出て来た。白《しろ》天鵞絨《びろうど》の蓋《ふた》をあけると、一つには真《しん》珠《じゆ》の、他の一つにはトルコ玉の指環がはいっている。
「久米さんに野村さん」
今度は珊《さん》瑚《ご》珠《じゆ》の根《ね》懸《か》け《*》が出た。
「古風だわね。久保田さんにいただいたのよ」
そのあとから――何が出て来ても知らないように、陳はただじっと妻の顔を見ながら、考え深そうにこんなことを言った。
「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちゃすまないよ」
すると房子は夕明かりの中に、もう一度あでやかに笑って見せた。
「ですからあなたの戦利品もね」
その時は彼もうれしかった。しかし今は……
陳は身ぶるいを一つすると、机にかけていた両足をおろした。それは卓《たく》上《じよう》電話のベルが、突然彼の耳を驚《おどろ》かしたからであった。
「私《わたし》。――よろしい。つないでくれたまえ」
彼は電話に向かいながら、いらだたしそうに額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「誰?――里見探《たん》偵《てい》事務所はわかっている。事務所の誰?――吉井君?――よろしい。報告は?――何が来ていた?――医者?――それから?――そうかもしれない。――じゃ停《てい》車《しや》場《ば》へ来ていてくれたまえ。――いや、終列車にはきっと帰るから。――間《ま》違《ちが》わないように。さようなら」
受話器を置いた陳彩は、まるで放心したように、少時《しばらく》は黙《もく》然《ねん》とすわっていた。が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルのボタンを押した。
書記の今西はその響《ひび》きに応じて、心もちあけた戸のうしろから、痩《や》せた半身をさし延《の》ばした。
「今西君。鄭《てい》君にそう言ってくれたまえ。今夜はどうか私《わたし》の代わりに、東京へおいでを願いますと」
陳の声はいつの間にか、力のある調子を失っていた。今西はしかし例のとおり、冷然と目礼を送ったまま、すぐに戸の向こうへ隠《かく》れてしまった。
そのうちに更《さら》紗《さ》の窓《まど》掛《か》けへ、おいおい当たってきた薄《うす》曇《ぐも》りの西日が、この部屋の中の光線に、どんよりした赤みを加えはじめた。と同時に大きな蠅《はえ》が一匹、どこからここへ紛《まぎ》れこんだか、鈍い羽《は》音《おと》を立てながら、ぼんやり頬《ほお》杖《づえ》をついた陳のまわりに、不規則な円を描《えが》き始めた。……
鎌《かま》倉《くら》。
陳《ちん》彩《さい》の家の客間にも、レエスの窓掛けを垂《た》れた窓の内には、晩《おそ》夏《なつ》の日の暮れが近づいてきた。しかし日の光は消えたものの、窓掛けの向こうに煙《けむ》っている、まだ花盛りの夾《きよう》竹《ちく》桃《とう》は、この涼《すず》しそうな部屋の空気に、快い明るさをただよわしていた。
壁《かべ》際《ぎわ》の籐《とう》椅《い》子《す》によった房子は、膝《ひざ》の三《み》毛《け》猫《ねこ》をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物《もの》憂《う》そうな視《し》線《せん》を遊ばせていた。
「旦《だん》那《な》様《さま》は今晩もお帰りにならないのでございますか?」
これはそのそばのテーブルの上に、紅茶の道具をかたづけている召《めし》使《つかい》の老女のことばであった。
「ああ、今夜もまた寂《さび》しいわね」
「せめて奥様がご病気でないと、心丈《じよう》夫《ぶ》でございますけれども――」
「それでも私《わたし》の病気はね、ただ神経が疲《つか》れているのだって、今日《きよう》も山内《やまのうち》先生がそうおっしゃったわ。二、三日よく眠《ねむ》りさえすれば、――あら」
老女は驚《おどろ》いた眼を主人へあげた。すると子供らしい房子の顔には、なぜか今までにない恐《きよう》怖《ふ》の色が、ありありと瞳《ひとみ》にみなぎっていた。
「どう遊ばしました? 奥《おく》様《さま》」
「いいえ、なんでもないのよ。なんでもないのだけれど――」
房子はむりに微《び》笑《しよう》しようとした。
「誰か今あすこの窓から、そっとこの部屋の中を、――」
しかし老女が一《いつ》瞬《しゆん》の後に、その窓から外をのぞいた時には、ただ微風にそよいでいる夾《きよう》竹《ちく》桃《とう》の植え込みが、人《ひと》気《け》のない庭の芝《しば》原《はら》を透《す》かして見せただけであった。
「まあ、気味の悪い。きっとまたお隣《となり》の別《べつ》荘《そう》の坊《ぼつ》ちゃんが、いたずらをなすったのでございますよ」
「いいえ、お隣の坊ちゃんなんぞじゃなくってよ。なんだか見たことがあるような――そうそう、いつか婆《ばあ》やと長《は》谷《せ》へ行った時に、私《わたし》たちのあとをついて来た、あの鳥打ち帽《ぼう》をかぶっている、若い人のような気がするわ。それとも――私の気のせいだったかしら」
房子は何か考えるように、ゆっくり最後のことばを言った。
「もしあの男でしたら、どういたしましょう。旦《だん》那《な》様はお帰りになりませんし、――なんなら爺《じい》やでも警察へ、そう申しにやってみましょうか」
「まあ、婆《ばあ》やは臆《おく》病《びよう》ね。あの人なんぞ何人来たって、私《わたし》はちっとも怖《こわ》くないわ。けれどももし――もし私の気のせいだったら――」
老女は不《ふ》審《しん》そうにまばたきをした。
「もし私《わたし》の気のせいだったら、私はこのまま気《き》違《ちが》いになるかもしれないわね」
「奥様はまあ、ご冗《じよう》談《だん》ばっかり」
老女は安心したように微《び》笑《しよう》しながら、また紅茶の道具を始末し始めた。
「いいえ、婆《ばあ》やは知らないからだわ。私《わたし》はこのごろ一人でいるとね、きっと誰かが私のうしろに立っているような気がするのよ。立って、そうして私の方をじっと見つめているような――」
房子はこう言いかけたまま、彼女自身のことばに引き入れられたのか、急に憂《ゆう》鬱《うつ》な眼つきになった。
……電灯を消した二階の寝室には、かすかな香《こう》水《すい》の匂《にお》いのする薄《うす》暗《くら》がりが拡《ひろ》がっている。ただ窓《まど》掛《か》けを引かない窓だけが、ぼんやり明るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独《ひと》り窓の側にたたずみながら、眼の下の松林を眺《なが》めている。
夫は今夜も帰って来ない。召《めし》使《つかい》たちはすでに寝静まった。窓の外に見える庭の月夜も、ひっそりと風を落としている。その中に鈍《にぶ》い物音が、間《ま》遠《どお》に低く聞こえるのは、今でも海が鳴っているらしい。
房子は少時《しばらく》立ちつづけていた。するとしだいに不思議な感覚が、彼女の心に目ざめてきた。それは誰かがうしろにいて、じっとその視《し》線《せん》を彼女の上に集注しているような心もちである。
が、寝室の中には彼女のほかに、誰も人のいる理由はない。もしいるとすれば、――いや、戸には寝る前に、ちゃんと錠《じよう》がおろしてある。ではこんな気がするのは、――そうだ。きっと神経が疲《つか》れているからに相《そう》違《い》ない。彼女は薄《うす》明《あか》るい松林を見おろしながら、何度もこう考え直そうとした。しかし誰かが見守っているという感じは、いくら一生懸《けん》命《めい》に打ち消してみても、だんだん強くなるばかりである。
房子はとうとう思い切って、こわごわうしろを振《ふ》り返って見た。が、はたして寝室の中には、飼《か》い馴《な》れた三毛猫《ねこ》の姿さえ見えない。やはり人がいるような気がしたのは、病的な神経の仕業《しわざ》であった。――と思ったのはしかしことばどおり、ほんの一《いつ》瞬《しゆん》の間だけである。房子はすぐにまた前のとおり、何か眼に見えない物が、この部屋を満たした薄暗がりのどこかに、潜《ひそ》んでいるような心もちがした。しかし以前よりさらに堪《た》えられないことには、今度はその何物かの眼が、窓をうしろにした房子の顔へ、まともに視《し》線《せん》を焼きつけている。
房子は全身の戦《せん》慄《りつ》と闘《たたか》いながら、手近の壁《かべ》へ手をのばすと、とっさに電灯のスウィッチをひねった。と同時に見慣れた寝室は、月明かりに交じった薄暗がりを払って、頼《たの》もしい現実へ飛び移った。寝台、西《せい》洋《よう》〓《がや》、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に、うれしいほどはっきり浮き上がっている。その上それが何一つ、彼女が陳と結《けつ》婚《こん》した一年以前と変わっていない。こういう幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻《まぼろし》も、――いや、しかし怪《あや》しい何物かは、まぶしい電灯の光にも恐《おそ》れず、寸刻もたゆまない凝《ぎよう》視《し》の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠《かく》すが早いか、無我夢中に叫《さけ》ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その時彼女の心の上には、あらゆる経験を超《ちよう》越《えつ》した恐《きよう》怖《ふ》が、……
房子は一週間以前の記《き》憶《おく》から、吐《と》息《いき》といっしょに解放された。その拍《ひよう》子《し》に膝《ひざ》の三毛猫は、彼女の膝を飛びおりると、毛《け》並《な》みの美しい背を高くして、快《こころよ》さそうにあくびをした。
「そんな気は誰でもいたすものでございますよ。爺《じい》やなどはいつぞやお庭の松へ、鋏《はさみ》をかけておりましたら、まっ昼《ぴる》間《ま》空に大勢の子供の笑い声がいたしたとか、そう申しておりました。それでもあのとおり気が違《ちが》うどころか、ご用の暇《ひま》には私《わたし》へ小《こ》言《ごと》ばかり申しておるじゃございませんか」
老女は紅茶の盆《ぼん》をもたげながら、子供を慰《なぐさ》めるようにこう言った。それを聞くと房子の頬《ほお》には、はじめて微《び》笑《しよう》らしい影《かげ》がさした。
「それこそお隣《となり》の坊ちゃんが、おいたをなすったのにちがいないわ。そんなことにびっくりするようじゃ、爺やもやっぱり臆《おく》病《びよう》なのね。――あら、おしゃべりをしているうちに、とうとう日が暮れてしまった。今夜は旦《だん》那《な》様がお帰りにならないから、いいようなものだけれど、――お湯は? 婆《ばあ》や」
「もうよろしゅうございますとも。なんならちょいと私がお加《か》減《げん》を見てまいりましょうか」
「いいわ。すぐにはいるから」
房子はようやく気軽そうに、壁《かべ》ぎわの籐《とう》椅《い》子《す》から身を起こした。
「また今夜もお隣の坊ちゃんたちは、花火をお揚《あ》げなさるかしら」
老女が房子のあとから、静かに出て行ってしまった跡《あと》には、もう夾《きよう》竹《ちく》桃《とう》も見えなくなった、薄《うす》暗《ぐら》い空《くう》虚《きよ》の客間が残った。すると二人に忘れられた、あの小さな三毛猫は、急に何か見つけたように、一飛びに戸口へ飛んで行った。そうしてまるで誰かの足に、体《からだ》をすりつけるような身ぶりをした。が、部屋に拡《ひろ》がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐《りん》光《こう》を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった……
横浜。
日《につ》華《か》洋《よう》行《こう》の宿直室には、長《なが》椅《い》子《す》に寝ころんだ書記の今《いま》西《にし》が、あまり明るくない電灯の下に、新刊の雑誌を広げていた。が、やがて手近のテーブルの上へ、その雑誌をばたりとなげると、大事そうに上《うわ》衣《ぎ》の隠《かく》しから、一枚の写真をとり出した。そうしてそれを眺《なが》めながら、蒼《あお》白《じろ》い頬《ほお》にいつまでも、幸福らしい微《び》笑《しよう》を浮かべていた。
写真は陳《ちん》彩《さい》の妻の房《ふさ》子《こ》が、桃《もも》割《わ》れに結《ゆ》った半身であった。
鎌《かま》倉《くら》。
下り終列車の笛《ふえ》が、星月夜の空に上った時、改札口を出た陳彩は、たった一人跡《あと》に残って、二つ折りの鞄《かばん》を抱《かか》えたまま、寂《さび》しい構内を眺《なが》めまわした。すると電灯の薄《うす》暗《ぐら》い壁《かべ》ぎわのベンチにすわっていた、背の高い背広の男が一人、太い籐《とう》の杖《つえ》を引きずりながら、のそのそ陳の側《そば》へ歩み寄った。そうして闊《かつ》達《たつ》に鳥打ち帽《ぼう》を脱《ぬ》ぐと、声だけは低くあいさつをした。
「陳さんですか? 私《わたし》は吉井です」
陳はほとんど無表情に、じろりと相手の顔を眺めた。
「今《こん》日《にち》はご苦労でした」
「先《さき》程《ほど》電話をかけましたが、――」
「その後何もなかったですか?」
陳の語気には、相手のことばを弾《はじ》きのけるような力があった。
「何もありません。奥《おく》さんは医者が帰ってしまうと、日暮れまでは婆《ばあ》やを相手に、何か話しておいででした。それからお湯やお食事をすませて、十時ごろまでは蓄《ちく》音《おん》機《き》をお聞きになっていたようです」
「客は一人も来なかったですか?」
「ええ、一人も」
「君が監《かん》視《し》をやめたのは?」
「十一時二十分です」
吉井の返答《ことば》もてきぱきしていた。
「その後終列車まで汽車はないですね」
「ありません。上りも、下りも」
「いや、ありがとう。帰ったら里見君に、よろしく言ってくれたまえ」
陳は麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》の庇《ひさし》へ手をやると、吉井が鳥打ち帽を脱ぐのには眼もかけず、砂《じや》利《り》を敷《し》いた構外へ大《おお》股《また》に歩み出した。その容《よう》子《す》があまり無《ぶ》遠《えん》慮《りよ》すぎたせいか、吉井は陳のうしろ姿を見送ったなり、ちょいと両《りよう》肩《かた》をそびやかせた。が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口《くち》笛《ぶえ》を鳴らしながら、停《てい》車《しや》場《ば》前の宿屋の方へ、太い籐《とう》の杖《つえ》を引きずって行った。
鎌《かま》倉《くら》
一時間の後陳《ちん》彩《さい》は、彼ら夫婦の寝室の戸へ、盗《とう》賊《ぞく》のように耳を当てながら、じっと容《よう》子《す》をうかがっている彼自身を発見した。寝室の外の廊《ろう》下《か》には、息のつまるような暗《くら》闇《やみ》が、一面にあたりを封《ふう》じていた。そのうちにただ一点、かすかな明かりが見えるのは、戸の向こうの電灯の光が、鍵《かぎ》穴《あな》をもれるそれであった。
陳はほとんど破《は》裂《れつ》しそうな心臓の鼓《こ》動《どう》を抑《おさ》えながら、ぴったり戸へ当てた耳に、全身の注意を集めていた。が、寝室の中からはなんの話し声も聞こえなかった。その沈《ちん》黙《もく》がまた陳にとっては、いっそう堪《た》えがたい呵《か》責《しやく》であった。彼は目の前の暗《くら》闇《やみ》の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。
……枝《えだ》を交《かわ》した松の下には、しっとり砂に露《つゆ》のおりた細い路《みち》がつづいている。大空に澄《す》んだ無数の星も、その松の枝の重なったここへは、めったに光を落としてこない。が、海の近いことは、まばらな芒《すすき》に流れて来る潮《しお》風《かぜ》が明らかに語っている。陳はさっきからたった一人、夜とともに強くなった松《まつ》脂《やに》の匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、こういう寂《さび》しい闇《やみ》の中に、注意深い歩みを運んでいた。
そのうちに彼はふと足を止めると、不《ふ》審《しん》そうに行く手を透《す》かして見た。それは彼の煉《れん》瓦《が》塀《べい》が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常《き》春《づ》藤《た》におおわれた、古風な塀《へい》の見えるあたりに、忍《しの》びやかな靴《くつ》の音が、突然聞こえだしたからである。
が、いくら透《す》かして見ても、松や芒《すすき》の闇が深いせいか、肝《かん》腎《じん》の姿は見ることができない。ただ、とっさに感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向こうへ行くらしいということである。
「ばかな、この路を歩く資格は、おればかりにあるわけじゃあるまいし」
陳はこう心の中に、早くも疑《ぎ》惑《わく》を抱《いだ》きだした彼自身を叱《しか》ろうとした。が、この路は彼の家の裏門の前へ出るほかには、どこへも通じていないはずである。してみれば、――と思う刹《せつ》那《な》に陳の耳には、その裏門の戸の開く音が、おりから流れて来た潮風といっしょに、かすかながらも伝わって来た。
「おかしいぞ。あの裏門には今《け》朝《さ》見た時も、錠《じよう》がかかっていたはずだが」
そう思うとともに陳彩は、獲《え》物《もの》を見つけた猟《りよう》犬《けん》のように、油《ゆ》断《だん》なくあたりへ気を配りながら、そっとその裏門の前へ歩み寄った。が、裏門の戸はしまっている。力いっぱい押《お》してみても、動きそうな気《け》色《しき》も見えないのは、いつの間にか元のとおり、錠がおりてしまったらしい。陳はその戸によりかかりながら、膝《ひざ》を埋《うず》めた芒の中に、少時《しばらく》は茫《ぼう》然《ぜん》とたたずんでいた。
「門があくような音がしたのは、おれの耳の迷いだったかしら」
が、さっきの足音は、もうどこからも聞こえて来ない。常《き》春《づ》藤《た》のむらがった塀《へい》の上には、火の光もささない彼の家が、ひっそりと星空にそびえている。すると陳の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。何がそんなに悲しかったか、それは彼自身にもはっきりしない。ただそこにたたずんだまま、乏《とぼ》しい虫の音《ね》に聞き入っていると、自然と涙《なみだ》が彼の頬《ほお》へ、ひややかに流れ始めたのである。
「房《ふさ》子《こ》」
陳はほとんど呻《うめ》くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。
するとそのとたんである。高い二階の室《へや》の一つには、意外にもまぶしい電灯がともった。
「あの窓は、――あれは、――」
陳は際《きわ》どい息を呑《の》んで、手近の松の幹を捉《とら》えながら、延《の》び上がるように二階の窓を見上げた。窓は、――二階の寝室の窓は、ガラス戸をすっかり明け放った向こうに、明るい室内をのぞかせている。そしてそこから流れる光が、塀《へい》の内に茂《しげ》った松の梢《こずえ》をぼんやり暗い空にただよわせている。
しかし不思議はそればかりではない。やがてその二階の窓ぎわには、こちらへ向いたらしい人《ひと》影《かげ》が一つ、おぼろげな輪《りん》廓《かく》を浮き上がらせた。あいにく電灯の光がうしろにあるから、顔かたちは誰だか判然しない。が、ともかくもその姿が、女でないことだけは確かである。陳は思わず塀の常《き》春《づ》藤《た》をつかんで、倒れかかる体《からだ》を支えながら、苦しそうに切れ切れな声をもらした。
「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」
一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》の後陳彩は、やすやす塀を乗り越えると、庭の松の間をくぐりくぐり、首尾よく二階の真下にある、客間の窓ぎわへ忍《しの》び寄った。そこには花も葉も露《つゆ》に濡《ぬ》れた、水々しい夾《きよう》竹《ちく》桃《とう》の一むらが、……
陳はまっ暗な外の廊《ろう》下《か》に、乾《かわ》いた脣《くちびる》を噛《か》みながら、いっそう嫉《しつ》妬《と》深い聞き耳を立てた。それはこの時戸の向こうに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴《くつ》の音が、二、三度床《ゆか》に響《ひび》いたからであった。
足《あし》響《おと》はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓《こ》膜《まく》を刺《さ》すように聞こえて来た。そのあとには、――また長い沈《ちん》黙《もく》があった。
その沈黙はたちまち絞《し》め木《ぎ》のように、色を失った陳の額へ、冷たい脂《あぶら》汗《あせ》を絞《しぼ》り出した。彼はわなわな震《ふる》える手に、戸のノッブを探り当てた。が、戸に錠《じよう》のおりていることは、すぐにそのノッブが教えてくれた。
すると今度は櫛《くし》かピンかが、突然ばたりと落ちる音が聞こえた。しかしそれを拾《ひろ》い上げる音は、いくら耳を澄《す》ましていても、なぜか陳には聞こえなかった。
こういう物音は一《ひと》つ一《びと》つ、文字どおり陳の心臓を打った。陳はそのたびに身を震わせながら、それでも耳だけは剛《ごう》情《じよう》にも、じっと寝室の戸へ押《お》しつけていた。しかし彼の興《こう》奮《ふん》が極度に達していることは、時々彼があたりへ投げる、気《き》違《ちが》いじみた視《し》線《せん》にも明らかであった。
苦しい何秒かか過ぎた後、戸の向こうからはかすかながら、ため息をつく声が聞こえて来た。と思うとすぐに寝台の上へも、誰かが静かに上がったようであった。
もしこんな状態が、もう一分つづいたなら、陳は戸の前に立ちすくんだまま、失心してしまったかもしれなかった。が、この時戸からもれる、蜘《く》蛛《も》の糸ほどのおぼろげな光が、天《てん》啓《けい》のように彼の眼を捉《とら》えた。陳はとっさに床へ這《は》うと、ノッブの下にある鍵《かぎ》穴《あな》から、食い入るような視線を室内へ送った。
その刹《せつ》那《な》に陳の眼には、永久に呪《のろ》わしい光景が開けた。………
横浜。
書記の今《いま》西《にし》は内《うち》隠《かく》しへ、房子の写真を還《かえ》してしまうと、静かに長《なが》椅《い》子《す》から立ち上がった。そうして例のとおり音もなく、まっ晴な次の間《ま》へはいって行った。
スウィッチをひねる音とともに、次の間はすぐに明るくなった。その部《へ》屋《や》の卓上電灯の光は、いつの間にそこへすわったか、タイプライタアに向かっている今西の姿を照らし出した。
今西の指はたちまちのうちに、目まぐるしい運動をつづけだした。と同時にタイプライタアは、休みない響《ひび》きをきざみながら、何行かの文字が断続した一枚の紙を吐《は》きはじめた。
「拝《はい》啓《けい》、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上なおも申し上ぐべき必要なきことと存じ候。されど貴下は溺《でき》愛《あい》のあまり……」
今西の顔はこの瞬《しゆん》間《かん》、憎《ぞう》悪《お》そのもののマスクであった。
鎌《かま》倉《くら》。
陳《ちん》の寝室の戸は破れていた。が、そのほかは寝台も、西《せい》洋《よう》〓《がや》も、洗面台も、それから明るい電灯の光も、ことごとく一瞬間以前と同じであった。
陳《ちん》彩《さい》は部屋の隅《すみ》にたたずんだまま、寝台の前に伏《ふ》し重なった、二人の姿を眺《なが》めていた。その一人は房《ふさ》子《こ》であった。――というよりもむしろさっきまでは、房子だった「物」であった。この顔じゅう紫《むらさき》に腫《は》れ上がった「物」は、半ば舌を吐いたまま、薄《うす》眼《め》に天《てん》井《じよう》を見つめていた。もう一人は陳彩であった。部屋の隅にいる陳彩と、寸分も変わらない陳彩であった。これは房子だった「物」に重なりながら、爪《つめ》も見えないほど相手の喉《のど》に、両手の指を埋《うず》めていた。そうしてその露《あら》わな乳《ち》房《ぶさ》の上に、生死もわからない頭をもたせていた。
何分かの沈《ちん》黙《もく》が過ぎた後、床の上の陳彩は、まだ苦しそうにあえぎながら、おもむろに肥《ふと》った体《からだ》を起こした。が、やっと体を起こしたと思うと、すぐまたそばにある椅《い》子《す》の上へ、倒《たお》れるように腰《こし》をおろしてしまった。
その時部屋の隅にいる陳彩は、静かに壁《かべ》ぎわを離《はな》れながら、房子だった「物」の側《そば》に歩み寄った。そうしてその紫に腫れ上がった顔へ、かぎりなく悲しそうな眼を落とした。
椅子の上の陳彩は、彼以外の存在に気がつくが早いか、気《き》違《ちが》いのように椅子から立ち上がった。彼の顔には、――血走った眼の中には、すさまじい殺意がひらめいていた。が、相手の姿を一目見るとその殺意は見る見るうちに、いいようのない恐《きよう》怖《ふ》に変わっていった。
「誰だ、お前は?」
彼は椅子の前に立ちすくんだまま、息のつまりそうな声を出した。
「さっき松林の中を歩いていたのも、――裏門からそっと忍《しの》びこんだのも、――この窓ぎわに立って外を見ていたのも、――おれの妻を、――房子を――」
彼のことばは一度とだえてから、また荒々しいしわがれ声になった。
「お前だろう。誰だ、お前は?」
もう一人の陳彩は、しかしなんとも答えなかった。そのかわりに眼をあげて、悲しそうに相手の陳彩を眺めた。すると椅《い》子《す》の前の陳彩は、この視《し》線《せん》に射すくまされたように、無気味なほど大きな眼をしながら、だんだん壁ぎわの方へすさり始めた。が、その間も彼の脣《くちびる》は、「誰だ、お前は?」をくり返すように、時々声もなく動いていた。
そのうちにもう一人の陳彩は、房子だった「物」の側にひざまずくと、そっとその細い頸《くび》へ手を廻《まわ》した。それから頸に残っている、無残な指の痕《あと》に脣《くちびる》を当てた。
明るい電灯の光に満ちた、墓《はか》窖《あな》よりも静かな寝室の中には、やがてかすかな泣き声が、とぎれとぎれに聞こえだした。見るとここにいる二人の陳彩は、壁ぎわに立った陳彩も、床にひざまずいた陳彩のように、両手に顔を埋《うず》めながら……
東京。
突然『影《*》』の映画が消えた時、私は一人の女といっしょに、ある活動写真館のボックスの椅子にすわっていた。
「今の写真はもうすんだのかしら」
女は憂《ゆう》鬱《うつ》な眼を私に向けた。それが私には『影』の中の房《ふさ》子《こ》の眼を思い出させた。
「どの写真?」
「今のさ。『影』というのだろう」
女は無言のまま、膝《ひざ》の上のプログラムを私に渡してくれた。が、それにはどこを探しても、
『影』という標《ひよう》題《だい》は見当たらなかった。
「するとおれは夢《ゆめ》を見ていたのかな。それにしても眠《ねむ》った覚えのないのは妙《みよう》じゃないか。おまけにその『影』というのが妙な写真でね。――」
私は手短かに『影』の梗《こう》概《がい》を話した。
「その写真なら、私も見たことがあるわ」
私が話し終わった時、女は寂《さび》しい眼の底に微《び》笑《しよう》の色を動かしながら、ほとんど聞こえないようにこう返事をした。
「お互《たが》いに『影』なんぞは、気にしないようにしましょうね」
(大正九年七月十四日)
お律《りつ》と子《こ》等《ら》と
雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円《まる》くしながら、北《きた》原《はら》白《はく》秋《しゆう》ふうの歌を作っていた。すると「おい」と言う父の声が、突然彼の耳を驚《おどろ》かした。彼は倉《そう》皇《こう》と振《ふ》り返る暇《ひま》にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌《か》稿《こう》を隠《かく》すことを忘れなかった。が、幸い父の賢《けん》造《ぞう》は、夏《なつ》外《がい》套《とう》をひっかけたまま、うす暗い梯《はし》子《ご》の上がり口へ胸までのぞかせているだけだった。
「どうもお律《りつ》の容《よう》態《だい》が思わしくないから、慎《しん》太《た》郎《ろう》のところへ電報を打ってくれ」
「そんなに悪いの」
洋一は思わず大きな声を出した。
「まあふだんが達者だから、急にどうということもあるまいがね、――慎太郎へだけ知らせた方が――」
洋一は父のことばを奪《うば》った。
「戸《と》沢《ざわ》さんはなんだって言うんです?」
「やっぱり十二指腸の潰《かい》瘍《よう》だそうだ。――心配はなかろうって言うんだが」
賢造は妙《みよう》に洋一と、視《し》線《せん》の合うことを避《さ》けたいらしかった。
「しかしあしたは谷村博士に来てもらうように頼《たの》んでおいた。戸沢さんもそう言うから、――じゃ慎太郎のところを頼んだよ。宿所はお前が知っているね」
「ええ、知っています――お父さんはどこかへ行くの?」
「ちょいと銀行へ行って来る。――ああ、下に浅《あさ》川《かわ》の叔《お》母《ば》さんが来ているぜ」
賢造の姿が隠《かく》れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。ぐずぐずしている場合じゃない――そんなこともはっきり感じられた。彼はすぐに立ち上がると、真《しん》鍮《ちゆう》の手すりに手を触《ふ》れながら、どしどし梯《はし》子《ご》をおりて行った。
まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚《たな》の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。――その店先の雨《あま》明《あ》かりの中に、パナマ帽《ぼう》をかぶった賢造は、こちらへうしろを向けたまま、もう入り口に直した足《あし》駄《だ》へ、片足おろしているところだった。
「旦《だん》那《な》。工場から電話です。今日《きよう》あちらへお見えになりますか、伺《うかが》ってくれろと申すんですが……」
洋一が店へ来ると同時に、電話に向かっていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。店員はほかにも四、五人、金庫の前や神《かみ》棚《だな》の下に、主人を送り出すというよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。
「今日《きよう》は行けない。あした行きますってそう言ってくれ」
電話の切れるのが合い図だったように、賢造は大きな洋《こうもり》傘《こうもり》を開くと、さっさと往来へ歩きだした。その姿がちょいとの間、浅く泥《どろ》を刷《は》いたアスファルトの上に、かすかな影《かげ》を落として行くのが見えた。
「神《かみ》山《やま》さんはいないのかい?」
洋一は帳場机にすわりながら、店員の一人の顔を見上げた。
「さっき、なんだか奥《おく》の使いに行きました。――良《りよう》さん。どこだか知らないかい?」
「神山さんか? I don't know《*》 ですな」
そう答えた店員は、上がり框《がまち》にしゃがんだまま、あとは口《くち》笛《ぶえ》を鳴らし始めた。
その間に洋一は、そこにあった頼《らい》信《しん》紙《し》へ、せっせと万年筆を動かしていた。ある地方の高等学校へ、去年の秋入学した兄、――彼よりも色の黒い、彼よりも肥《ふと》った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮かんで見えるような気がした。「ハハワルシ、スグカエレ」――彼ははじめこう書いたが、すぐにまた紙を裂《さ》いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。それでも「ワルシ」と書いたことが、何か不吉な前《ぜん》兆《ちよう》のように、頭にこびりついて離《はな》れなかった。
「おい、ちょいとこれを打って来てくれないか?」
やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛《か》み噛み、店のうしろにある台所へ抜《ぬ》けて、晴れた日も薄《うす》暗《ぐら》い茶の間へ行った。茶の間には長火《ひ》鉢《ばち》の上の柱に、ある毛糸屋の広告をかねた、大きな日《ひ》暦《ごよみ》がかかっている。――そこに髪《かみ》を切った浅川の叔《お》母《ば》が、しきりと耳かきを使いながら、忘れられたようにすわっていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳かきを当てがったまま、始終ただれている眼をもたげた。
「今日は。お父さんはもうお出かけかえ?」
「ええ今し方。――お母さんにも困りましたね」
「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ」
洋一は長火《ひ》鉢《ばち》の向こうに、いやいや落ち着かない膝《ひざ》を据《す》えた。襖《ふすま》一つ隔《へだ》てた向こうには、大病の母が横になっている。――そういう意識がいつもよりも、いっそうこの昔ふうな老人の相手をいらだたしいものにさせるのだった。叔母は少時《しばらく》黙《だま》っていたが、やがて額で彼を見ながら、
「お絹《きぬ》ちゃんが今来るとさ」と言った。
「姉さんはまだ病気じゃないの?」
「もう今日はいいんだとさ。何、またいつもの鼻っ風《か》邪《ぜ》だったんだよ」
浅川の叔母のことばには、軽い侮《ぶ》蔑《べつ》を帯びた中に、かえって親しそうな調子があった。三人きょうだいがあるうちでも、お律の腹を痛めないお絹が、いちばん叔母には気に入りらしい。それには賢造の先妻が、叔母の身内だという理由もある。――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら少時《しばらく》の間は不《ふ》承《しよう》不《ぶ》承《しよう》に、一昨年ある呉《ご》服《ふく》屋《や》へ縁《えん》づいた、病気がちな姉のうわさをしていた。
「慎ちゃんのところはどうおしだえ? お父さんは知らせた方がいいと言っておいでだったけれど」
そのうわさが一段落着いた時、叔母は耳かきの手をやめると、思い出したようにこう言った。
「今、電報を打たせました。今日《きよう》じゅうにゃまさか届《とど》くでしょう」
「そうだねえ。何も京大阪というんじゃあるまいし、――」
地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖《あい》昧《まい》だった。それがなぜか唐《とう》突《とつ》と、洋一の内に潜《ひそ》んでいたある不安を呼び醒《さ》ました。兄は帰って来るだろうか?――そう思うと彼は電報に、もっと大《おお》仰《ぎよう》な文句を書いても、よかったような気がしだした。母は兄に会いたがっている。が、兄は帰って来ない。そのうちに母は死んでしまう。すると姉や浅川の叔母が、親不孝だと言って兄を責める。――こんな光景も一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、はっきり眼の前に見えるような気がした。
「今日届《とど》けば、あしたは帰りますよ」
洋一はいつか叔母よりも、彼自身に気休めを言い聞かせていた。
そこへちょうど店の神山が、汗《あせ》ばんだ額を光らせながら、足音をぬすむようにはいって来た。なるほどどこかへ行ったことは、袖《そで》に雨《あま》じみの残っている縞《しま》絽《ろ》の羽織にも明らかだった。
「行ってまいりました。どうも案外待たされましてな」
神山は浅川の叔母に一礼してから、懐《ふところ》に入れて来た封《ふう》書《しよ》を出した。
「ご病人の方は、少しもご心配には及《およ》ばないとか申しておりました。追っていろいろ詳《くわ》しいことは、その中に書いてありますそうで――」
叔母はその封書を開く前に、まず、度の強そうな眼鏡《めがね》をかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折りのままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太《たい》極《きよく》堂《どう》というのは」
洋一はそれでも珍《めずら》しそうに、叔母の読んでいる手紙をのぞきこんだ。
「二町目の角《かど》に洋食屋がありましょう。あの露《ろ》路《じ》をはいった左側です」
「じゃ君の清《きよ》元《もと》のお師《し》匠《しよう》さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です」
神山はにやにや笑いながら、時計の紐《ひも》をぶら下げた瑪《め》瑙《のう》の印《いん》形《ぎよう》をいじっていた。
「あんな所に占《うらな》い者《しや》なんぞがあったかしら。――ご病人は南《みなみ》枕《まくら》にせらるべく候か」
「お母さんはどっち枕だえ?」
叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へあげた。
「東《ひがし》枕《まくら》でしょう。この方角が南だから」
多少心もちの明るくなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂《たもと》の底にある巻き煙草《たばこ》の箱を探っていた。
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――神山さん。一本あげようか? ほうるよ。失敬」
「こりゃどうも。E・C・C《*》ですな。じゃ一本いただきます――。もうほかにご用はございませんか? もしまたございましたら、ご遠《えん》慮《りよ》なく――」
神山は金《きん》口《ぐち》を耳にはさみながら、急に夏羽織の腰《こし》をもたげて、そうそう店の方へ退こうとした。そのとたんに障《しよう》子《じ》が明くと、頸《くび》に湿《しつ》布《ぷ》を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱《ぬ》がず、果《くだ》物《もの》の籠《かご》を下げてはいって来た。
「おや、おいでなさい」
「降りますのによくまた、――」
そう言うことばが、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。お絹は二人に会《え》釈《しやく》をしながら、手早くコオトを脱《ぬ》ぎ捨てると、がっかりしたように横ずわりになった。その間に神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気《き》忙《ぜわ》しそうに茶の間を出て行った。果物の籠には青りんごやバナナがきれいにつやつやと並《なら》んでいた。
「どう? お母さんは。――ご免《めん》なさいよ。電車がそりゃこむもんだから」
お絹はやはり横すわりのまま、器用に泥《どろ》だらけの白《しろ》足《た》袋《び》を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸《まる》髷《まげ》に結《ゆ》った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。
「やっぱりお肚《なか》が痛むんでねえ。――熱もまだ九度からあるんだとさ」
叔母は易《えき》者《しや》の手紙をひろげたなり、神山と入れ違《ちが》いに来た女中の美《み》津《つ》と、茶を入れる仕《し》度《たく》に忙《いそが》しかった。
「あら、だって電話じゃ、昨日《きのう》よりたいへんよさそうだったじゃありませんか? もっとも私《わたし》は出なかったんですけれど、――誰? 今日電話をかけたのは。――洋ちゃん?」
「いいえ、僕《ぼく》じゃない。神山さんじゃないか?」
「さようでございます」
これは美津が茶をすすめながら、そっとつけ加えたことばだった。
「神山さん?」
お絹ははすはに顔をしかめて、長火《ひ》鉢《ばち》の側《そば》へすり寄った。
「なんだねえ。そんな顔をして。――おまえさんのところはみんなお達者かえ?」
「ええ、おかげ様で、――叔母さんのところでも皆さんお丈夫ですか?」
そんな対話を聞きながら、巻き煙草をくわえた洋一は、ぼんやり柱《はしら》暦《ごよみ》を眺《なが》めていた。中学校を卒業して以来、彼には何日という記《き》憶《おく》はあっても、何曜日かは終始忘れている。――それがふと彼の心に、寂《さび》しい気もちを与《あた》えたのだった。その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。入学試験に及《きゆう》第《だい》しなかったら、……
「美津がこのごろは、たいへん女ぶりを上げたわね」
姉のことばが洋一には、急にはっきり聞こえたような気がした。が、彼は何も言わずに、金口をふかしているばかりだった。もっとも美津はその時にはとうにもう台所へ下がっていた。
「それにあの人はなんといっても、男好きのする顔だから、――」
叔母はやっと膝《ひざ》の上の手紙や老眼鏡をかたづけながら、さげすむらしい笑いかたをした。するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、
「なに? 叔母さん、それは」と言った。
「今神山さんに墨《すみ》色《いろ》を見て来てもらったんだよ。――洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。さっきよく休んでおいでだったけれど、――」
ひどく厭《いや》な気がしていた彼は金口を灰に突き刺《さ》すが早いか、叔母や姉の視《し》線《せん》を逃《のが》れるように、さっそく長火《ひ》鉢《ばち》の前から立ち上がった。そうして襖《ふすま》一つ向こうの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。
そこは突き当たりのガラス障《しよう》子《じ》の外に、狭《せま》い中庭を透《す》かせていた。中庭には太い冬《も》青《ち》の樹《き》が一本、手水《ちようず》鉢《ばち》にのぞんでいるだけだった。麻《あさ》の掻《かい》巻《まき》をかけたお律は氷《ひよう》嚢《のう》を頭に載《の》せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕《まくら》もとには看護婦が一人、膝《ひざ》の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。
看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚《こび》のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無《ぶ》愛《あい》想《そう》な会《え》釈《しやく》を返した。それから蒲《ふ》団《とん》の裾《すそ》をまわって、母の顔がよく見える方へすわった。
お律は眼をつぶっていた。生来薄《うす》手《で》にできた顔がいっそう今日はやつれたようだった。が、洋一の差《さ》しのぞいた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんのとおりかすかに頬《ほほ》笑《え》んで見せた。洋一はなんだか叔《お》母《ば》や姉と、いつまでも茶の間に話していたことがすまないような心もちになった。お律は少時《しばらく》黙《だま》っていてから、
「あのね」とさも大《たい》儀《ぎ》そうに言った。
洋一はただうなずいて見せた。その間も母の熱《ねつ》臭《くさ》いのがやはり彼には不快だった。しかしお律はそう言ったぎり、なんともあとをつづけなかった。洋一はそろそろ不安になった。遺《ゆい》言《ごん》、――という考えも頭へ来た。
「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」
やっと母は口を開いた。
「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た」
「叔母さんにね、――」
「叔母さんに用があるの?」
「いいえ、叔母さんに梅《うめ》川《がわ》の鰻《うなぎ》をとってあげるの」
今度は洋一が微《び》笑《しよう》した。
「美津にそう言ってね。いいかい?――それでおしまい」
お律はこう言い終わると、頭の位置を変えようとした。その拍《ひよう》子《し》に氷《ひよう》嚢《のう》がすべり落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元どおりそれを置き直した。するとなぜか睚《まぶた》の裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない」――彼はとっさにそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙《なみだ》のたまるのを感じていた。
「ばかだね」
母はかすかにつぶやいたまま、疲《つか》れたようにまた眼をつぶった。
顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥《は》じながら、すごすご茶の間へ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母が、肩《かた》越《ご》しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは」と声をかけた。
「目がさめています」
「目はさめているけれどさ」
叔母はお絹と長火《ひ》鉢《ばち》越《ご》しに、顔を見合わせたらしかった。姉は上《うわ》眼《め》を使いながら、かんざしで髷《まげ》の根を掻《か》いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来たことは言わなかったの?」と言った。
「言わない。姉さんが行って言うといいや」
洋一は襖《ふすま》ぎわに立ったなり、ゆるんだ帯をしめ直していた。どんなことがあってもお母さんを死なせてはならない。どんなことがあっても――そう一心に思いつめながら、……
翌日《あくるひ》の朝洋一は父と茶の間の食《しよく》卓《たく》に向かった。食卓の上には、昨夜《ゆうべ》泊《と》まった叔《お》母《ば》の茶《ちや》碗《わん》も伏《ふ》せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間、母の側《そば》へそのかわりに行っているとかいうことだった。
親子は箸《はし》を動かしながら、時々短い口を利《き》いた。この一週間ばかりというものは、毎日こういう二人きりの、寂《さび》しい食事がつづいている。しかし今日《きよう》はいつもよりは、いっそう二人とも口が重かった。給仕の美津も無言のまま、盆《ぼん》をさし出すばかりだった。
「今日は慎太郎が帰って来るかな」
賢造は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺《なが》めた。が、洋一は黙《だま》っていた。兄が今日帰るか帰らないか、――というよりいったい帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不《ふ》確《たし》かでならないのだった。
「それとも明《あ》日《す》の朝になるか?」
今度は洋一も父のことばに、答えないわけにはいかなかった。
「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね」
「そうか」
賢造は何か考えるように、ちょいとことばを途《と》切《ぎ》らせたが、やがて美津に茶をつがせながら、
「お前も勉強しなくっちゃいけないぜ。慎太郎はもうこの秋は《*》、大学生になるんだから」と言った。
洋一は飯を代えながら、なんとも返事をしなかった。やりたい文学もやらせずに、勉強ばかりしいるこのごろの父が、急に面《つら》憎《にく》くなったのだった。その上兄が大学生になるということは、弟が勉強するということと、何も関係などはありはしない。――そうまた父の論理の矛《む》盾《じゆん》もあざ笑う気もちもないではなかった。
「お絹は今日は来ないのかい?」
賢造はすぐに気を変えて言った。
「来るそうです。が、とにかく戸《と》沢《ざわ》さんが来たら、電話をかけてくれって言っていました」
「お絹のところでもたいへんだろう。今度はあすこも買った方だから」
「やっぱりちっとはすったかしら」
洋一ももう茶を飲んでいた。この四月以来市《し》場《じよう》には、前《ぜん》代《だい》未《み》聞《もん》だという恐《きよう》慌《こう*》が来ている。現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代《だい》払《ばら》いの厄《やく》に遇《あ》った。そのほかまだなんだかだといろいろな打《だ》撃《げき》を通算したら、少なくとも三万円内外は損失をこうむっているのに相《そう》違《い》ない。――そんなことも洋一は、小耳にはさんでいたのだった。
「ちっとやそっとでいてくれりゃいいが、――なにしろこういう景気じゃ、いつ何《なん》時《どき》うちなんぞも、どんなことになるか知れないんだから、――」
賢造は半ば冗《じよう》談《だん》のように、心細いことを言いながら、大《たい》儀《ぎ》そうに食卓の前を離《はな》れた。それから隔《へだ》ての襖《ふすま》を明けると、隣《となり》の病室へはいって行った。
「ソップ《*》も牛乳もおさまった? そりゃ今日はおおできだね。まあせいぜい食べるようにならなくちゃいけない」
「これで薬さえ通るといいんですが、薬はすぐに吐《は》いてしまうんでね」
こういう会話も耳へはいった。今《け》朝《さ》は食事前に彼が行ってみると、母は昨日《きのう》一昨日《おととい》よりも、ずっと熱が低くなっていた。口を利《き》くのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。「お肚《なか》はまだ痛むけれど、気分はたいへんよくなったよ」――母自身もそう言っていた。その上あんなに食《しよく》気《け》までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外回《かい》復《ふく》は容《よう》易《い》かもしれない。――洋一は隣をのぞきながら、そういううれしさにそやされていた。が、あまり虫のいい希望を抱《いだ》きすぎると、かえってそのために母の病気が悪くなってきはしないかという、迷《めい》信《しん》じみたおそれも多少はあった。
「若《わか》旦《だん》那《な》様《さま》、お電話でございます」
洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振《ふ》り返った。美津は袂《たもと》をくわえながら、食《しよく》卓《たく》に布《ふ》巾《きん》をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松という年上の女中だった。松は濡《ぬ》れ手を下げたなり、銅《どう》壺《こ》の見える台所の口に、たすきがけの姿を現わしていた。
「どこだい?」
「どちらでございますか、――」
「しようがないな、いつでもどちらでございますかだ」
洋一は不服そうにつぶやきながら、すぐに茶の間を出て行った。おとなしい美津に負けぎらいの松の悪《あつ》口《こう》を聞かせるのが、彼にはなんとなく愉《ゆ》快《かい》なような心もちも働いていたのだった。
店の電話に向かってみると、さきはいっしょに中学を出た、田《た》村《むら》という薬屋の息《むす》子《こ》だった。
「今日ね。いっしょに明治座をのぞかないか? 井上《*》だよ。井上なら行くだろう?」
「僕《ぼく》はだめだよ。お袋《ふくろ》が病気なんだから――」
「そうか。そりゃ失敬した。だが残念だね。昨日堀《ほり》やなんかは行って見たんだって。――」
そんなことを話し合った後、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯《はし》子《ご》を上がって、例《れい》のとおり二階の勉強部屋へ行った。が、机に向かってみても、受験の準備はいうまでもなく、小説を読む気さえ起こらなかった。机の前には格《こう》子《し》窓《まど》がある、――その窓から外を見ると、向こうの玩具《おもちや》問《どん》屋《や》の前に、半《はん》天《てん》着《ぎ》の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押《お》しこんでいた。なんだかそれが洋一には、気《き》忙《ぜわ》しそうな気がして不快だった。といってまた下へおりて行くのも、やはり気が進まなかった。彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕《まくら》にしながら、ごろりと畳《たたみ》に寝ころんでしまった。
すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違《ちが》っている、兄のことが浮かんで来た。彼には父が違っている、――しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情が、世間ふつうの兄弟に変わっていると思ったことはなかった。いや、母が兄をつれて再《さい》縁《えん》したということさえ、彼が知るようになったのは、割合に新しいことだった。ただ父が違っているといえば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――
それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒だてなかった。が、時々さげすむようにじろじろ彼の顔を見ながら、いちいち彼をきめつけていった。洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプをつかむが早いか、いきなり兄の顔へたたきつけた。トランプは兄の横顔にあたって、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬《ほお》をぶった。
「生意気なことをするな」
そう言う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、はるかに体《からだ》も大きかった。しかし彼は兄よりもがむしゃらなところに強みがあった。二人は少時《しばらく》獣《けもの》のように、なぐったりなぐられたりし合っていた。
その騒《さわ》ぎを聞いた母は、あわててその座《ざ》敷《しき》へはいって来た。
「何をするんです? お前たちは」
母の声を聞くか聞かないうちに、洋一はもう泣きだしていた。が、兄は眼を伏《ふ》せたまま、むっつりたたずんでいるだけだった。
「慎太郎。お前は兄さんじゃないか? 弟を相手に喧《けん》嘩《か》なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」
母にこう叱《しか》られると、兄はさすがに震《ふる》え声だったが、それでも突っかかるように返事をした。
「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプをたたきつけたんだもの」
「嘘《うそ》つき。兄さんがさきにぶったんだい」
洋一は一生懸《けん》命《めい》に泣き声で兄に反対した。
「ずるをしたのも兄さんだい」
「何」
兄はまだ擬《ぎ》勢《せい》を見せて、一足彼の方へ進もうとした。
「それだから喧《けん》嘩《か》になるんじゃないか? いったいお前が年《とし》嵩《かさ》なくせに勘《かん》弁《べん》してやらないのが悪いんです」
母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離《はな》した。すると兄の眼の色が、急に無気味なほど険しくなった。
「いいやい」
兄はそう言うより早く、気《き》違《ちが》いのように母をぶとうとした。が、その手がまだ振《ふ》りおろされないうちに、洋一よりも大声に泣きだしてしまった。――
母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記《き》憶《おく》になかった。しかし兄のくやしそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱《しか》られたのが、癇《かん》癪《しやく》にさわっただけかもしれない。もう一歩臆《おく》測《そく》をたくましくするのは、よくないことだという心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。しかもそういう気がしだしたのには、もう一つ別な記憶もある。――
三年前の九月、兄が地方の高等学校へ、明《あ》日《す》立とうという前日だった。洋一は兄と買い物をしに、わざわざ銀《ぎん》座《ざ》まで出かけて行った。
「当分大時計《*》とも絶《ぜつ》縁《えん》だな」
兄は尾張《おわり》町《ちよう》の角《かど》へ出ると、半ば独《ひと》り言《ごと》のようにこう言った。
「だから一《いち》高《こう》へはいりゃいいのに」
「一高へなんぞちっともはいりたくはない」
「負け惜《お》しみばかり言っていらあ。田舎《いなか》へ行けば不便だぜ。アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」
洋一は顔を汗《あせ》ばませながら、まだ冗《じよう》談《だん》のような調子で話しつづけた。
「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」
「そんなことはあたりまえだ」
「じゃお母さんでも死んだら、どうする?」
歩道の端《はし》を歩いていた兄は、彼のことばに答える前に、手を伸《の》ばして柳《やなぎ》の葉をむしった。
「僕《ぼく》はお母さんが死んでも悲しくない」
「嘘《うそ》つき」
洋一は少し昂《こう》奮《ふん》して言った。
「悲しくなかったら、どうかしていらあ」
「嘘じゃない」
兄の声には意外なくらい、感情のこもった調子があった。
「お前はいつでも小説なんぞ読んでいるじゃないか? それなら、僕《ぼく》のような人間のあることも、すぐに理解できそうなもんだ。――おかしなやつだな」
洋一は内心ぎょっとした。と同時にあの眼つきが、――母をぶとうとした兄の眼つきが、はっきり記《き》憶《おく》に浮かぶのを感じた。が、そっと兄の容《よう》子《す》を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。――
そんなことを考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪《あや》しい心もちがする。ことに試験でも始まっていれば、二日や三日遅《おく》れることは、なんとも思っていないかもしれない。遅れてもとにかく帰って来ればいいが、――彼の考えがそこまで来た時、誰かの梯《はし》子《ご》を上がって来る音が、みしりみしり耳へはいりだした。洋一はすぐに飛び起きた。
すると梯子の上がり口には、もう眼の悪い浅川の叔母が、前《まえ》屈《かが》みの上半身を現わしていた。
「おや、昼寝かえ」
洋一はそう言う叔《お》母《ば》のことばに、かすかな皮肉を感じながら、自分の座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》を向こうへ直した。が、叔母はそれは敷《し》かずに、机の側《そば》へ腰《こし》を据《す》えると、さも大事件でも起こったように、小さな声で話しだした。
「私《わたし》は少しお前に相談があるんだがね」
洋一は胸がどきりとした。
「お母さんがどうかしたの?」
「いいえ、お母さんのことじゃないんだよ。実はあの看護婦だがね、ありゃお前、仕方がないよ。――」
叔母はそれからねちねちと、こんな話をし始めた。――昨日《きのう》あの看護婦は、戸《と》沢《ざわ》さんが診《しん》察《さつ》に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、いったいこの患《かん》者《じや》はいつごろまで持つお見込みなんでしょう? もし長く持つようでしたら、私《わたし》はお暇《いとま》をいただきたいんですが」と言った。看護婦はもちろん医者のほかには、誰もいないつもりに違《ちが》いなかった。が、あいにく台所にいた松がみんなそれを聞いてしまった。そうしてぷりぷり怒《おこ》りながら、浅川の叔母に話して聞かせた。のみならず叔母が気をつけていると、その後も看護婦の所置ぶりには、不親切なところがいろいろある。現に今《け》朝《さ》なぞも病人にもかまわず、一時間もお化《け》粧《しよう》にかかっていた……
「いくら商売柄《がら》だって、それじゃお前、あんまりじゃないか。だから私《わたし》の量《りよう》見《けん》じゃ、取り換《か》えた方がいいだろうと思うのさ」
「ええ、そりゃその方がいいでしょう。お父さんにそう言って――」
洋一はあんな看護婦なぞに、母の死《し》期《ご》を数えられたと思うと、腹がたってくるよりも、かえって気がふさいでならないのだった。
「それがさ。お父さんは今し方、工場の方へ行ってしまったんだよ。私《わたし》がまたどうしたんだか、話し忘れているうちにさ」
叔母はややもどかしそうに、ただれている眼を大きくした。
「私はどうせ取り換《か》えるんなら、早い方がいいと思うんだがね、――」
「それじゃ神《かみ》山《やま》さんにそう言って、今すぐに看護婦会へ電話をかけてもらいましょうよ。――お父さんにゃ帰って来てから話しさえすればいいんだから、――」
「そうだね。じゃそうしてもらおうかね」
洋一は叔母のさきに立って、勢いよく梯《はし》子《ご》を走りおりた。
「神山さん。ちょいと看護婦会へ電話をかけてくれたまえ」
彼の声を聞いた五、六人の店員たちは、店先にちらばった商品の中から、驚《おどろ》いたような視《し》線《せん》を洋一に集めた。と同時に神山は、派《は》手《で》なセルの前《まえ》掛《か》けに毛《け》糸《いと》屑《くず》をくっつけたまま、さっそく帳場机から飛び出して来た。
「看護婦会は何番でしたかな?」
「僕《ぼく》は君が知っていると思った」
梯子の下に立った洋一は、神山といっしょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没《ぼつ》交《こう》渉《しよう》な、平日と変わらない店の空気に、軽い反感のようなものを感じないわけにはいかなかった。
午《ひる》過ぎになってから、洋一がなにげなく茶の間へ来ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造が、長火《ひ》鉢《ばち》の前にすわっていた。そうしてその前には姉のお絹が、火鉢の縁《ふち》に肘《ひじ》をやりながら、今日は湿《しつ》布《ぷ》を巻いていない、きれいな丸《まる》髷《まげ》の襟《えり》足《あし》をこちらへまともに露《あら》わしていた。
「そりゃおれだって忘れるもんかな」
「じゃそうしてちょうだいよ」
お絹は昨日《きのう》よりもまた一倍、血色の悪い顔をあげて、ちょいと洋一のあいさつに答えた。それから多少彼をはばかるような、薄《うす》笑《わら》いを含《ふく》んだ調子で、おずおず話のあとをつづけた。
「その方《ほう》がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私《わたし》だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下がってしまったし、――」
「よし、よし、万事呑《の》みこんだよ」
父は浮かない顔をしながら、そのくせ冗《じよう》談《だん》のようにこんなことを言った。姉は去年縁《えん》づく時、父にわけてもらうはずだった物が、いまだに一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そういう消息に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所に、黙《もく》然《ねん》と新聞をひろげたまま、さっき田村に誘《さそ》われた明治座の広告を眺《なが》めていた。
「それだからお父さんはいやになってしまう」
「お前よりおれの方がいやになってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚《ぐ》痴《ち》ばかりこぼされるし、――」
洋一は父のことばを聞くと、我知らず襖《ふすま》一つ向こうの、病室の動静に耳を澄《す》ませた。そこではお律がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうなうなり声をもらしているらしかった。
「お母さんも今日は楽じゃないな」
独《ひと》り言《ごと》のような洋一のことばは、一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》彼ら親子の会話をとぎらせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔をにらみながら、
「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私《わたし》がそう言った時に、お医者様を取り換《か》えていさえすりゃ、きっとこんなことにゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮《に》え切らないで、――」と、感《かん》傷《しよう》的《てき》に父を責《せ》め始めた。
「だからさ、だから今日は谷村博士に来てもらうと言っているんじゃないか?」
賢造はとうとう苦い顔をして、ほうり出すようにこう言った。洋一も姉の剛《ごう》情《じよう》なのが、さすがに少し面《つら》憎《にく》くもなった。
「谷村さんは何時ごろ来てくれるんでしょう?」
「三時ごろ来るって言っていた。さっき工場の方からも電話をかけておいたんだが、――」
「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな」
洋一は立て膝《ひざ》を抱きながら、日《ひ》暦《ごよみ》の上にかかっている、大きな柱時計へ眼をあげた。
「もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「さっきも叔《お》母《ば》さんがかけたってそう言っていたがね」
「さっきって?」
「戸《と》沢《ざわ》さんが帰るとすぐだとさ」
彼らがそんなことを話しているうちに、お絹はまだ顔を曇《くも》らせたまま、急に長火《ひ》鉢《ばち》の前から立ち上がると、さっさと次の間へはいって行った。
「やっと姉さんからお暇《いとま》が出た」
賢造は苦笑をもらしながら、はじめて腰《こし》の煙草《たばこ》入れを抜《ぬ》いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、なんともそれには答えなかった。
病室からは相変わらず、お律のうなり声が聞こえて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだろう? もっとも向こうの身になってみれば、母一人が患《かん》者《じや》ではなし、今ごろはまだべんべんと、回《かい》診《しん》か何かをしているかもしれない。いや、もう四時を打つところだから、いくら遅《おそ》くなったにしても、病院はとうに出ているはずだ。ことによると今にも店さきへ、――
「どうです?」
洋一は陰《いん》気《き》な想像から、父の声といっしょに解放された。見ると襖《ふすま》のあいたところに、心配そうな浅《あさ》川《かわ》の叔母が、いつか顔だけのぞかせていた。
「よっぽど苦しいようですがね、――お医者様はまだ見えませんかしら」
賢造は口を開く前に、まずそうに刻みの煙《けむり》を吐《は》いた。
「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「そうですね、一時しのぎさえつけていただけりゃ、戸沢さんでもいいんですがね」
「僕《ぼく》がかけて来ます」
洋一はすぐに立ち上がった。
「そうか。じゃ先生はもうお出かけになりましたでしょうかってね。番号は小《こ》石《いし》川《かわ》の×××番だから、――」
賢造のことばが終わらないうちに、洋一はもう茶の間から、台所の板の間《ま》へ飛び出していた。台所にはたすきがけの松が鰹《かつお》節《ぶし》の鉋《かんな》を鳴らしている。――そのそばを乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭《がしら》に向こうからも、小走りに美《み》津《つ》が走って来た。二人はまともにぶつかるところを、やっと両方へ身をかわした。
「ご免《めん》くださいまし」
結《ゆ》いたての髪を匂《にお》わせた美津は、きまり悪そうにこう言ったまま、ばたばた茶の間の方へ駆《か》けて行った。
洋一は妙《みよう》にてれながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交《こう》換《かん》手《しゆ》が出ないうちに、帳場机にいた神山が、うしろから彼へ声をかけた。
「洋一さん。谷村病院ですか?」
「ああ、谷村病院」
彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金《かね》格《ごう》子《し》でかこった本立てへ、大きな簿記帳を戻《もど》していた。
「じゃ今向こうからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥《おく》へそう言いに行ったはずです」
「なんてかかって来たの?」
「先生はただいまお出かけになったって言ってたようですが、――ただいまだね? 良《りよう》さん」
呼びかけられた店員の一人は、ちょうど踏《ふ》み台の上にのりながら、高い棚《たな》に積んだ商品の箱を取りおろそうとしているところだった。
「ただいまじゃありませんよ。もうそちらへいらっしゃる時分だって言っていましたよ」
「そうか。そんなら美津のやつ、そう言えばいいのに」
洋一は電話を切ってから、もう一度茶の間へ引き返そうとした。が、ふと店の時計を見ると、不《ふ》審《しん》そうにそこへ立ち止った。
「おや、この時計は二十分過ぎだ」
「何、こりゃ十分ばかり進んでいますよ。まだ四時十分過ぎくらいなもんでしょう」
神山は体《からだ》をねじりながら、帯の金時計をのぞいて見た。
「そうです。ちょうど十分過ぎ」
「じゃやっぱり奥の時計が遅《おく》れているんだ。それにしちゃ谷村さんは遅すぎるな。――」
洋一はちょいとためらった後、大《おお》股《また》に店さきへ出かけて行くと、もう薄《うす》日《び》もささなくなった、もの静かな往来を眺《なが》めまわした。
「来そうもないな。まさか家《うち》がわからないんでもなかろうけれど、――じゃ神山さん、僕《ぼく》はちょいとそこいらへ行って見て来らあ」
彼は肩《かた》越《ご》しに神山へ、こうことばをかけながら、店員の誰かが脱《ぬ》ぎ捨てた板《いた》草《ぞう》履《り》の上へ飛びおりた。そうしてほとんど走るように、市街自動車や電車が通る大通りの方へ歩いて行った。
大通りは彼の店の前から、半町も行かない所にあった。そこの角《かど》にある店《みせ》蔵《ぐら》が、半分は小さな郵便局に、半分は唐《とう》物《ぶつ》屋《や》になっている。――その唐物屋の飾《かざ》り窓には、麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》や籐《とう》の杖《つえ》が奇《き》抜《ばつ》な組み合わせを見せた間に、もう派《は》手《で》な海水着が人間のように突っ立っていた。
洋一は唐物屋の前まで来ると、飾り窓をうしろにたたずみながら、大通りを通る人や車に、いらだたしい視《し》線《せん》を配り始めた。が、少時《しばらく》そうしていても、この問屋ばかり並《なら》んだ横町には、人力車一台曲がらなかった。たまに自動車が来たと思えば、それは空《あき》車《ぐるま》の札《ふだ》を出した、泥《どろ》にまみれているタクシイだった。
そのうちに彼の店の方から、まだ十四、五歳の店員が一人、自転車に乗って走って来た。それが洋一の姿を見ると、電柱に片手をかけながら、器用に彼の側《そば》へ自転車を止めた。そうしてペダルに足をかけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました」と言った。
「何か用だったかい」
洋一はそう言う間でも、絶えずにぎやかな大通りへ眼をやることを忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを言いに来たの?」
「いいえ、私《わたし》はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦《だん》那《な》が洋一さんに用があるって言っていましたぜ」
「お父さんが?」
洋一はこう言いかけたが、ふと向こうを眺《なが》めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾《かざ》り窓の前を飛び出した。人通りもまばらな往来には、ちょうど今一台の人力車が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫《かじ》棒《ぼう》の先へ立つが早いか、彼は両手をあげないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
車夫は体《からだ》をうしろにそらせて、際《きわ》どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎が、高等学校の夏服に白い筋《すじ》の制《せい》帽《ぼう》をかぶったまま、膝《ひざ》にはさんだトランクを骨太な両手に抑《おさ》えていた。
「やあ」
兄は眉《まゆ》一つ動かさずに、洋一の顔を見おろした。
「お母さんはどうした?」
洋一は兄を見上げながら、体じゅうの血が生き生きと、急に両《りよう》頬《ほお》へ上がるのを感じた。
「この二、三日悪くってね。――十二指腸の潰《かい》瘍《よう》なんだそうだ」
「そうか。そりゃ――」
慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も言わなかった。が、その母譲《ゆず》りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とはいえ無意識に求めていたある表情がひらめいていた。洋一は兄の表情に愉《ゆ》快《かい》な当《とう》惑《わく》を感じながら、口早に切れ切れなことばをつづけた。
「今日はいちばん苦しそうだけれど――でも兄さんが帰って来てよかった。――まあ早く行くといいや」
車夫は慎太郎の合い図といっしょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今《け》朝《さ》上りの三等客車に腰《こし》を落ち着けた彼自身が、頭のどこかに映るような気がした。それは隣《となり》に腰をかけた、血色のいい田舎《いなか》娘の肩《かた》を肩に感じながら、母の死に目に会うよりは、むしろ死んだあとに行った方が、悲しみが少ないかもしれないなどと思いふけっている彼だった。しかも眼だけはその間もレクラム版《*》のゲエテの詩集へぼんやり落としている彼だった。……
「兄さん。試験はまだ始まらなかった?」
慎太郎は体を斜《なな》めにして、驚《おどろ》いた視《し》線《せん》を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板《いた》草《ぞう》履《り》を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日《あす》からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅《おそ》いから、立って待っていたんだけれど、――」
洋一はこう答えながら、かすかに声をはずませていた。慎太郎は弟をいたわりたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平《へい》凡《ぼん》なことばに変わっていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ」
車夫は五、六歩行き過ぎてから、大廻《まわ》しに楫《かじ》棒《ぼう》を店の前へおろした。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚なガラス戸の立った店の前へ。
一時間の後店の二階には、谷村博士を中心に、賢造、慎太郎、お絹の夫の三人が浮かない顔をそろえていた。彼らはお律の診《しん》察《さつ》が終わってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格のたくましい谷村博士は、すすめられた茶をすすった後、少時《しばらく》はチョッキの金《きん》鎖《ぐさり》を太い指にからめていたが、やがて電灯に照らされた三人の顔を見廻《みまわ》すと、
「戸沢さんとかいう、――かかりつけの医者はお呼びくだすったでしょうな」と言った。
「ただいま電話をかけさせました。――すぐに上がるとおっしゃったね」
賢造は念を押《お》すように、慎太郎の方を振《ふ》り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向かい合った父の隣《となり》に、窮《きゆう》屈《くつ》そうな膝《ひざ》を重ねていた。
「ええ、すぐに見えるそうです」
「じゃその方《かた》が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな」
谷村博士はこう言いながら、マロック革《がわ*》の巻き煙草《たばこ》入れを出した。
「当年は梅雨《つゆ》が長いようです」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
お絹の夫も横合いから、なめらかなことばをつけ加えた。ちょうど見《み》舞《ま》いに来合わせていた、この若い呉《ご》服《ふく》屋《や》の主人は、短い口《くち》髭《ひげ》に縁《ふち》なしの眼鏡《めがね》という、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服《ふく》装《そう》の持ち主だった。慎太郎はこういう彼らの会話に、妙な歯がゆさを感じながら、剛《ごう》情《じよう》に一人黙《だま》っていた。
しかし戸沢という出入りの医者が、彼らの間に交《ま》じったのは、それから間もない後のことだった。黒《くろ》絽《ろ》の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士といんぎんな初対面のあいさつをすませてから、すじかいにすわった賢造へ、
「もうご診《しん》断《だん》はお伺《うかが》いになったんですか?」と、強い東北訛《なまり》の声をかけた。
「いや、あなたがお見えになってから、申しあげようと思っていたんですが、――」
谷村博士は指の間に短い巻き煙草をはさんだまま、賢造の代わりに返事をした。
「なおあなたのお話をうけたまわる必要もあるものですから、――」
戸沢は博士に問われるとおり、ここ一週間ばかりのお律の容《よう》態《だい》をかなり詳《しよう》細《さい》に説明した。慎太郎には薄《うす》い博士の眉《まゆ》が、戸沢の処《しよ》方《ほう》を聞いた時、かすかに動いたのが気かかりだった。
しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大《おお》様《よう》に、二、三度独《ひと》りうなずいて見せた。
「いや、よくわかりました。むろん十二指腸の潰《かい》瘍《よう》です。が、ただいま拝見したところじゃ、腹《ふく》膜《まく》炎《えん》を起こしていますな。なにしろこう下《した》腹《はら》が押《お》し上げられるように痛いと言うんですから――」
「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」
戸沢はセルの袴《はかま》の上に威《い》かつい肘《ひじ》を張りながら、ちょいと首を傾《かたむ》けた。
少時《しばらく》は誰も息を呑《の》んだように、口を開こうとするものがなかった。
「熱なぞはそれでも昨日《きのう》よりは、ずっと低いようですが、――」
そのうちにやっと賢造は、おぼつかない反問の口を切った。しかし博士は巻き煙草を捨《す》てると、無《む》造《ぞう》作《さ》にそのことばをさえぎった。
「それがいかんですな。熱はずんずん下がりながら、脈《みやく》搏《はく》はかえってふえてくる。――というのがこの病のくせなんですから」
「なるほど、そういうものですかな。こりゃわれわれ若いものも、うかがっておいていいことですな」
お絹の夫は腕《うで》組《ぐ》みをした手に、時々口《くち》ひげをひっぱっていた。慎太郎は義兄のことばの中に、他人らしい無関心の冷たさを感じた。
「しかし私《わたし》が診察した時にゃ、まだ別に腹膜炎などの兆《ちよう》候《こう》も見えないようでしたがな。――」
戸沢がこう言いかけると、谷村博士は職業的に、透《す》かさず愛《あい》想《そ》のいい返事をした。
「そうでしょう。たぶんはあなたのご覧《らん》になったあとで発したかと思うんです。第一まだ病状が、それほど昂《こう》進《しん》してもいないようですから、――しかしともかくも現在は、腹膜炎に違《ちが》いありませんな」
「じゃすぐに入院でも、させてみちゃいかがでしょう?」
慎太郎は険《けわ》しい顔をしたまま、はじめて話に口をはさんだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうなまぶたの下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。
「今はとても動かせないです。まずさしあたりはできるかぎり、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いようなら、戸沢さんにお願いして、注射でもしていただくとか、――今夜はまだなかなか痛むでしょう。どの病気でも楽じゃないが、この病気はことに苦しいですから」
谷村博士はそう言ったぎり、沈《しず》んだ眼を畳へやっていたが、ふと思い出したように、チョッキの時計を出して見ると、
「じゃ私《わたし》はもうお暇《いとま》します」と、すぐに背広の腰《こし》をもたげた。
慎太郎は父や義兄といっしょに、博士の来《らい》診《しん》の礼を述《の》べた。が、その間も失望の色が彼自身の顔には歴《れき》々《れき》と現われていることを意識していた。
「どうか博士もまた二、三日うちに、もう一度ご診《しん》察《さつ》を願いたいもので、――」
戸沢はあいさつをすませてから、こう言ってまた頭を下げた。
「ええ、上がることはいつでも上がりますが、――」
これが博士の最後のことばだった。慎太郎は誰よりずっとあとに、暗い梯《はし》子《ご》をおりながら、しみじみ万事休すという心もちを抱《いだ》かずにはいられなかった。……
戸《と》沢《ざわ》やお絹《きぬ》の夫が帰ってから、和服に着《き》換《か》えた慎《しん》太《た》郎《ろう》は、浅《あさ》川《かわ》の叔《お》母《ば》や洋《よう》一《いち》といっしょに、茶の間の長火《ひ》鉢《ばち》を囲んでいた。襖《ふすま》の向こうからは相変わらず、お律《りつ》のうなり声が聞こえて来た。彼ら三人は電灯の下に、はずまない会話をつづけながら、ややもすると言い合わせたように、その声へ耳を傾《かたむ》けている彼ら自身を見出すのだった。
「いけないねえ。ああ始終苦しくっちゃ、――」
叔母は火《ひ》箸《ばし》を握《にぎ》ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据《す》えていた。
「戸沢さんは大丈夫だって言ったの?」
洋一は叔母には答えずに、E・C・Cをくわえている兄の方へことばをかけた。
「二、三日は間《ま》違《ちが》いあるまいって言った」
「怪《あや》しいな。戸沢さんの言うことじゃ――」
今度は慎太郎が返事せずに、煙草《たばこ》の灰を火鉢へ落としていた。
「慎ちゃん。さっさお前が帰って来た時、お母さんはなんとか言ったかえ?」
「なんとも言いませんでした」
「でも笑ったね」
洋一は横からのぞくように、静かな兄の顔を眺《なが》めた。
「うん、――それよりもお母さんの側《そば》へ行くと、莫《ば》迦《か》にいい匂《にお》いがするじゃありませんか?」
叔母は答えをうながすように、微《び》笑《しよう》した眼を洋一へ向けた。
「ありゃさっきお絹ちゃんが、持って来た香《こう》水《すい》をまいたんだよ。洋ちゃん。なんとか言ったね? あの香水は」
「なんですか、――多分床《とこ》まき香水とか何んとか言うんでしょう」
そこへお絹が襖《ふすま》の陰《かげ》から、そっと病人のような顔を出した。
「お父さんはいなくって?」
「店にお出でだよ。何か用かえ?」
「ええ、お母さんが、ちょいと――」
洋一はお絹がそう言うと同時に、さっそく長火《ひ》鉢《ばち》の前から立ち上がった。
「僕《ぼく》がそう言って来る」
彼が茶の間から出て行くと、米《こめ》噛《か》みに即《そつ》効《こう》紙《し》を貼《は》ったお絹は、両《りよう》袖《そで》に胸を抱《だ》いたまま、忍《しの》び足にこちらへはいって来た。そうして洋一の立った跡《あと》へ、薄《うす》ら寒そうにちゃんとすわった。
「どうだえ?」
「やっぱり薬が通らなくってね。――でも今度の看護婦になってからは、年をとっているだけでも気丈《じよう》夫《ぶ》ですわ」
「熱は?」
慎太郎は口をはさみながら、まずそうに煙草の煙《けむり》を吐《は》いた。
「今計《はか》ったら七度二分――」
お絹は襟《えり》にあごをうずめたなり、考え深そうに慎太郎を見た。
「戸沢さんがいた時より、また一《いち》分《ぶ》下がったんだわね」
三人は少時《しばらく》黙《だま》っていた。するとそのひっそりした中に、板の間を踏《ふ》む音がしたと思うと、洋一をさきに賢《けん》造《ぞう》が、そわそわ店から帰って来た。
「今お前の家《うち》から電話がかかったよ。後ほどどうかお上《かみ》さんにお電話を願いますって」
賢造はお絹にそう言ったぎり、すぐに隣《となり》へはいって行った。
「しようがないわね。家《うち》じゃ女中が二人いたって、ちっとも役にゃ立たないんですよ」
お絹はちょいと舌打ちをしながら、浅川の叔母と顔を見合わせた。
「この節《せつ》の女中はね。――私《わたし》のところなんぞも女中はいるだけ、かえって世話が焼けるくらいなんだよ」
二人がこんな話をしている間に、慎太郎は金《きん》口《ぐち》をくわえながら、寂《さび》しそうな洋一の相手をしていた。
「受験準備はしているかい?」
「している。――だけど今《こ》年《とし》は投げているんだ」
「また歌ばかり作っているんだろう」
洋一はいやな顔をして、自分も巻《ま》き煙草《たばこ》へ火を移した。
「僕は兄さんのように受験向きな人間じゃないんだからな。数学はだいきらいだし、――」
「きらいだってやらなけりゃ、――」
慎太郎がこう言いかけると、いつか襖《ふすま》際《ぎわ》へ来た看護婦と、小声に話していた叔母が、
「慎ちゃん。お母さんが呼んでいるとさ」と火鉢越しに彼へ声をかけた。
彼は吸いさしの煙草を捨《す》てると、無言のまま立ち上がった。そして看護婦を押《お》しのけるように、ずかずか隣の座敷へはいって行った。
「こっちへおいで。何かお母さんが用があるって言うから」
枕《まくら》もとに独《ひと》りすわっていた父はあごで彼に差《さし》図《ず》をした。彼はその差図通り、すぐに母の鼻の先へすわった。
「何か用?」
母はくくり枕《まくら》の上へ、櫛《くし》巻《ま》きの頭を横にしていた。その顔が巾《きれ》をかけた電灯の光に、さっきよりもいっそうやつれて見えた。
「ああ、洋一がね、どうも勉強をしないようだからね、――お前からもよくそう言ってね、――お前の言うことは聞く子だから、――」
「ええ、よく言っておきます。実は今もその話をしていたんです」
慎太郎はいつもより大きい声で返事をした。
「そうかい。じゃ忘れないでね、――私《わたし》も昨日《きのう》あたりまでは、死ぬのかと思っていたけれど、――」
母は腹痛をこらえながら、歯ぐきの見える微《び》笑《しよう》をした。
「帝《たい》釈《しやく》様《さま》の御《ご》符《ふ》をいただいたせいか、今日は熱も下がったしね、この分で行けばなおりそうだから、――美《み》津《つ》の叔《お》父《じ》さんとかいう人も、やっぱり十二指腸の潰《かい》瘍《よう》だったけれど、半月ばかりでなおったというしね、そう難病でもなさそうだからね。――」
慎太郎は今になってさえ、そんなことを頼《たの》みにしている母が、あさましい気がしてならなかった。
「なおりますとも。大丈夫なおりますからね、よく薬を飲むんですよ」
母はかすかにうなずいた。
「じゃ唯《ただ》今《いま》一つ召《め》し上がってご覧《らん》なさいまし」
枕もとに来ていた看護婦は器用にお律の脣《くちびる》へ水《みず》薬《ぐすり》のガラス管《くだ》を当てがった。母は眼をつぶったなり、二《ふた》吸《す》いほど管の薬を飲んだ。それが刹《せつ》那《な》の間ながら、慎太郎の心を明るくした。
「いいあんばいですね」
「今度はおさまったようでございます」
看護婦と慎太郎とは、親しみのある視《し》線《せん》を交《こう》換《かん》した。
「薬がおさまるようになれば、もうしめたものだ。だがちっとは長びくだろうし、床《とこ》上《あ》げの時分は暑かろうな。こいつは一つ赤《せき》飯《はん》の代わりに、氷あずきでも配ることにするか」
賢造の冗《じよう》談《だん》をきっかけに、慎太郎は膝《ひざ》をついたまま、そっと母の側《そば》を引き下がろうとした。すると母は彼の顔へ、突然不《ふ》審《しん》そうな眼をやりながら、
「演《えん》説《ぜつ》? どこに今夜演説があるの?」と言った。
彼はさすがにぎょっとして、救いを請《こ》うように父の方を見た。
「演説なんぞありゃしないよ。どこにもそんな物はないんだからね、今夜はゆっくり寝た方がいいよ」
賢造はお律《りつ》をなだめると同時に、ちらりと慎太郎の方へ眼くばせをした。慎太郎はさっそく膝《ひざ》をもたげて、明るい電灯に照らされた、隣《となり》の茶の間へ帰って来た。
茶の間にはやはり姉や洋一が、叔母とひそひそ話していた。それが彼の姿を見ると、皆《みな》一度に顔をあげながら、何か病室の消《しよう》息《そく》を尋《たず》ねるような表情をした。が、慎太郎は口をつぐんだなり、相変わらず冷ややかな眼つきをして、もとの座《ざ》蒲《ぶ》団《とん》の上にあぐらをかいた。
「なんの用だって?」
まっさきに沈《ちん》黙《もく》を破ったのは、今も襟《えり》にあごをうずめた、顔色のよくないお絹だった。
「なんでもなかった」
「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ」
慎太郎は姉のことばの中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑したぎり、なんともそれには答えなかった。
「洋ちゃん。お前今夜夜《よ》伽《とぎ》をおしかえ?」
少時《しばらく》無言がつづいた後、浅川の叔母はあくびまじりに、こう洋一へ声をかけた。
「ええ、――姉さんも今夜はするって言うから、――」
「慎ちゃんは?」
お絹は薄《うす》いまぶたをあげて、じろりと慎太郎の顔を眺《なが》めた。
「僕《ぼく》はどうでもいい」
「相変わらず慎ちゃんは煮《に》え切らないのね。高等学校へでもはいったら、もっとはきはきするかと思ったけれど。――」
「この人はお前、疲《つか》れているじゃないか?」
叔母は半ばたしなめるように、癇《かん》高《だか》いお絹のことばを制した。
「今夜は一番さきへ寝かした方がいいやね。なにも夜伽をするからって、今夜にかぎったことじゃあるまいし、――」
「じゃ一番さきに寝るかな」
慎太郎はまた弟のE・C・Cに火をつけた。垂《すい》死《し》の母を見て来たくせに、もう内心ははしゃいでいる彼自身の軽《けい》薄《はく》を憎《にく》みながら、……
それでも店の二階の蒲《ふ》団《とん》に、慎《しん》太《た》郎《ろう》が体《からだ》を横たえたのは、その夜の十二時近くだった。彼は叔《お》母《ば》のことば通り、実際旅《たび》疲《づか》れを感じていた。が、いよいよ電灯を消してみると、何度か寝返りをくり返しても、容《よう》易《い》に睡《ねむ》気《け》を催《もよお》さなかった。
彼の隣《となり》には父の賢《けん》造《ぞう》が、静かな寐《ね》息《いき》をもらしていた。父と一つ部屋に眠《ねむ》るのは、少なくともこの三、四年以来、今夜が彼にははじめてだった。父はいびきをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透《す》かして見ながら、そんなことさえ不《ふ》審《しん》に思いなぞした。
しかし彼の〓《まぶた》の裏には、やはりさまざまな母の記《き》憶《おく》が、乱雑にただよって来がちだった。その中にはうれしい記憶もあれば、むしろいまわしい記憶もあった。が、どの記憶も今となってみれば、同じように寂《さび》しかった。
「みんなもう過ぎ去ったことだ。よくっても悪くっても仕方がない」――慎太郎はそう思いながら、糊《のり》の匂《にお》いのするくくり枕《まくら》に、ぼんやり五《ご》分《ぶ》刈《がり》の頭を落ち着けていた。
――まだ小学校にいた時分、父がある日慎太郎に、新しい帽《ぼう》子《し》を買って来たことがあった。それはかねがね彼が欲しがっていた、庇《ひさし》の長い大《だい》黒《こく》帽《ぼう》だった。するとそれを見た姉のお絹《きぬ》が、来月は長《なが》唄《うた》のおさらいがあるから、今度は自分にも着物を一つ、こしらえてくれろと言いだした。父はにやにや笑ったぎり、全然そのことばに取り合わなかった。姉はすぐに怒《おこ》りだした。そうして父に背を向けたまま、くやしそうに毒《どく》口《ぐち》を利《き》いた。
「たんと慎ちゃんばかりおかわいがりなさいよ」
父は多少持て余《あま》しながらも、まだ薄《うす》笑《わら》いを止《や》めなかった。
「着物と帽《ぼう》子《し》とが一つになるものかな」
「じゃお母さんはどうしたんです? お母さんだってこの間は、羽織を一つこしらえたじゃありませんか?」
姉は父の方へ向き直ると、突然険《けわ》しい目つきを見せた。
「あの時はお前もかんざしだのくしだの買ってもらったじゃないか?」
「ええ、買ってもらいました。買ってもらっちゃいけないんですか?」
姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊《きく》の花かんざしをいきなり畳《たたみ》の上へほうり出した。
「なんだ、こんなかんざしくらい」
父もさすがに苦《にが》い顔をした。
「莫《ば》迦《か》なことをするな」
「どうせ私《わたし》は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利《り》口《こう》じゃありません。私のお母さんは莫迦だったんですから、――」
慎太郎は蒼《あお》い顔をしたまま、このいさかいを眺《なが》めていた。が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙《だま》って畳《たたみ》の上の花かんざしをつかむが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
「何をするのよ。慎ちゃん」
姉はほとんど気《き》違《ちが》いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
「こんなかんざしなんぞいらないって言ったじゃないか? いらなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? なんだい、女のくせに、――喧《けん》嘩《か》ならいつでも向かって来い。――」
いつか泣いていた慎太郎は、菊《きく》の花びらが皆なくなるまで、剛《ごう》情《じよう》に姉と一本の花かんざしを奪《うば》い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらいあざやかに映《うつ》っているような気がしながら。――
慎太郎はふと耳を澄《す》ませた。誰かが音のしないように、暗い梯《はし》子《ご》を上がって来る。――と思うと美《み》津《つ》が上がり口から、そっとこちらへ声をかけた。
「旦《だん》那《な》様《さま》」
眠《ねむ》っていると思った賢造は、すぐに枕《まくら》から頭をもたげた。
「なんだい?」
「お上《かみ》さんが何かご用でございます」
美津の声は震《ふる》えていた。
「よし、今行く」
父が二階をおりて行った後、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家《いえ》じゅうの物音にでも聞き入るように、じっと体《からだ》を硬《こわ》ばらせていた。するとなぜかその間《あいだ》に、現在の気もちとは縁《えん》の遠い、こういう平和な思い出が、はっきり頭へ浮かんで来た。
――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷《や》中《なか》の墓地へ墓まいりに行った。墓地の松や生《いけ》垣《がき》の中には、辛夷《こぶし》の花が白《しら》んでいる。元気のいい日曜の午《ひる》過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんのお墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいとお時《じ》宜《ぎ》をしただけだった。
「それでもういいの?」
母は水を手《た》向《む》けながら、彼の方へ微《び》笑《しよう》を送った。
「うん」
彼は顔を知らない父に、漠《ばく》然《ぜん》とした親しみを感じていた。が、この憐《あわ》れな石《せき》塔《とう》には、なんの感情も起こらないのだった。
母はそれから墓の前に、少時《しばらく》手を合わせていた。するとどこかその近所に、空《くう》気《き》銃《じゆう》を打ったらしい音が聞こえた。慎太郎は母をあとに残して、音のした方へ出かけて行った。生《いけ》垣《がき》を一つ大廻《まわ》りに廻ると、路幅の狭《せま》い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人といっしょに、空気銃を片手に下げたなり、なんの木か木《こ》の芽の煙《けむ》った梢《こずえ》を残り惜《お》しそうに見上げていた。――
その時また彼の耳には、誰かの梯《はし》子《ご》を上がって来る音がみしりみしり聞こえだした。急に不安になった彼は半ば床《とこ》から身を起こすと、
「誰?」と上がり口へ声をかけた。
「起きていたのか?」
声の持ち主は賢造だった。
「どうかしたんですか?」
「今お母さんが用だって言うからね、ちょいと下へ行って来たんだ」
父は沈《しず》んだ声を出しながら、もとの蒲《ふ》団《とん》の上へ横になった。
「用って、悪いんじゃないんですか?」
「なに、用っていったところが、ただ明日《あした》工《こう》場《ば》へ行くんなら、箪《たん》笥《す》の上のひきだしに単《ひと》衣《え》物《もの》があるっていうだけなんだ」
慎太郎は母を憐《あわ》れんだ。それは母というよりも母の中の妻を憐れんだのだった。
「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱりずいぶん苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか言ってね、始終首を動かしているんだ」
「戸沢さんにまた注射でもしてもらっちゃどうでしょう?」
「注射はそうたびたびはできないんだそうだから、――どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね」
賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺《なが》めるらしかった。
「お前のお母さんなぞは後《ご》生《しよう》もいい方だし、――どうしてああ苦しむかね」
二人は少時《しばらく》黙《だま》っていた。
「みんなまだ起きていますか?」
慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」
父はこう言いかけると、急にまた枕《まくら》から頭をもたげて、耳を澄《す》ますようなけはいをさせた。
「お父さん。お母さんがちょいと、――」
今度は梯《はし》子《ご》の中段から、お絹《きぬ》が忍《しの》びやかに声をかけた。
「今行くよ」
「僕《ぼく》も起きます」
慎太郎は掻《かい》巻《ま》きをはねのけた。
「お前は起きなくってもいいよ。何かありゃすぐに呼びに来るから」
父はさっさとお絹のあとから、もう一度梯子をおりて行った。
慎太郎は床《とこ》の上に、少時《しばらく》あぐらをかいていたが、やがて立ち上がって電灯をともした。それからまたすわったまま、電灯のまぶしい光の中に、茫《ぼう》然《ぜん》とあたりを眺《なが》め廻《まわ》した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしにかかわらず、実はただ父に床の側《そば》へ来ていてもらいたいせいかもしれない。――そんなこともふと思われるのだった。
すると字を書いた罫《けい》紙《し》が一枚、机の下に落ちているのが偶《ぐう》然《ぜん》彼の眼を捉《とら》えた。彼はなにげなくそれを取り上げた。
「M子に献《けん》ず。……」
あとは洋《よう》一《いち》の歌になっていた。
慎太郎はその罫《けい》紙《し》をほうり出すと、両手を頭のうしろに廻しながら、蒲《ふ》団《とん》の上へ仰《あお》向《む》けになった。そうして一《いつ》瞬《しゆん》間《かん》、眼の涼《すず》しい美津の顔をありあり思い浮かべた。……
慎《しん》太《た》郎《ろう》がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙《すき》間《ま》も薄《うす》白《じろ》くなった二階には、姉のお絹《きぬ》と賢《けん》造《ぞう》とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。
「よし、よし、じゃお前は寝た方がいいよ」
賢造はお絹にこう言ったなり、忙《いそが》しそうに梯《はし》子《ご》をおりて行った。
窓の外では屋《や》根《ね》瓦《がわら》に、滝《たき》の落ちるような音がしていた。大《おお》降《ぶ》りだな、――慎太郎はそう思いながら、さっそく寝間着を着《き》換《か》えにかかった。すると帯を解《と》いていたお絹が、やや皮《ひ》肉《にく》に彼へ声をかけた。
「慎ちゃん。お早う」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜《ゆうべ》はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって言うんだけれど、なんだか側《そば》で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙《みよう》なこと言って、――私《わたし》夜中に気味が悪くなってしまった」
もう着《き》換《が》えのすんだ慎太郎は、梯《はし》子《ご》の上がり口にたたずんでいた。そこから見える台所のさきには、美《み》津《つ》が裾《すそ》を端《はし》折《お》ったまま、ぞうきんか何かかけている。――それが彼らの話し声がすると、急に端折っていた裾《すそ》をおろした。彼は真《しん》鍮《ちゆう》の手すりへ手をやったなり、なんだかそこへおりて行くのがはばかれるような心もちがした。
「妙なことってどんなことを?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸《と》沢《ざわ》さんが来ているわ」
「早いな」
慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子をおりて行った。
五分の後、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミン《*》の注射をすませたところだった。母は枕《まくら》もとの看護婦に、あとの手当てをしてもらいながら、昨夜《ゆうべ》父が言った通り、絶えず白いくくり枕の上に、櫛《くし》巻《ま》きの頭を動かしていた。
「慎太郎が来たよ」
戸沢の側《そば》にすわっていた父は声《こわ》高《だか》に母へそう言ってから、彼にちょいと目くばせをした。
彼は父とは反対に、戸沢の向こう側へ腰《こし》をおろした。そこには洋《よう》一《いち》が腕《うで》組《ぐ》みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
「手を握《にぎ》っておやり」
慎太郎は父の言いつけ通り、両手の掌《たなごころ》に母の手を抑《おさ》えた。母の手は冷たい脂《あぶら》汗《あせ》に、気味悪くじっとりしめっていた。
母は彼の顔を見ると、うなずくような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから」と言った。
「いや、そんなことはありません。もう二、三日の辛《しん》棒《ぼう》です」
戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並《なら》んでいますな」
母の枕もとの盆《ぼん》の上には、大神宮や氏《うじ》神《がみ》のお札《ふだ》が、柴《しば》又《また*》の帝《たい》釈《しやく》の御《み》影《えい》なぞといっしょに、並べきれないほど並べてある。――母は上《うわ》眼《め》にその盆を見ながら、あえぐように切れ切れな返事をした。
「昨夜《ゆうべ》、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今《け》朝《さ》は、お肚《なか》の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」
父は小声に看護婦へ言った。
「少し舌《した》がつれるようですね」
「口がお粘《ねば》りになるんでしょう。――これで水をさしあげてください」
慎太郎は看護婦の手から、水に浸《ひた》した筆を受け取って、二、三度母の口をしめした。母は筆に舌をからんで、乏《とぼ》しい水を吸《す》うようにした。
「じゃまた上がりますからね、ご心配なことはちっともありませんよ」
戸沢は鞄《かばん》の始末をすると、母の方へこう大声に言った。それから看護婦を見返りながら、
「じゃ十時ごろにもう一度、残りを注射してあげてください」と言った。
看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の間《ま》には今《け》朝《さ》も叔《お》母《ば》が一人気《き》抜《ぬ》けがしたようにすわっている、――戸沢はその前を通る時、ていねいな叔母のあいさつに無《む》造《ぞう》作《さ》な目礼を返しながら、あとに従った慎太郎へ、
「どうです? 受験準備は」と話しかけた。が、たちまち間《ま》違《ちが》いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
慎太郎も苦笑した。
「このごろは弟さんにお眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の忰《せがれ》なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
戸沢は台所を通り抜《ぬ》ける時も、やはりにやにや笑っていた。
医者が雨の中を帰った後、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側《そば》に、洋一が巻《ま》き煙草《たばこ》をくわえていた。
「眠《ねむ》いだろう」
慎太郎はしゃがむように、長火《ひ》鉢《ばち》の縁《ふち》へ膝《ひざ》を当てた。
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今のうちに二階へ行って、早く一寝入りして来いよ」
「うん、――昨夜《ゆうべ》夜っぴて煙草ばかり呑《の》んでいたもんだから、すっかり舌《した》が荒れてしまった」
洋一は陰《いん》気《き》な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へほうりこんだ。
「でもお母さんがうならなくなったからいいや」
「ちっとは楽になったとみえるねえ」
叔母は母の懐《かい》炉《ろ》に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
「四時までは苦しかったようですがね」
そこへ松が台所から、銀杏《いちよう》返《がえ》しのほつれた顔を出した。
「ご隠《いん》居《きよ》様《さま》。旦《だん》那《な》様《さま》がちょいとお店へ、いらしてくださいっておっしゃっています」
「はい、はい、今行きます」
叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけてあげておくれ」
叔母がこう言って出て行くと、洋一もあくびを噛《か》み殺しながら、やっと重い腰《こし》をもたげた。
「僕《ぼく》も一寝入りして来るかな」
慎太郎は一人になってから、懐炉を膝《ひざ》に載《の》せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただすさまじい雨の音が、見えない屋根の空を満たしている、――それだけが頭に広がっていた。
すると突然次の間から、あわただしく看護婦が駆《か》けこんで来た。
「どなたかいらしってくださいましよ。どなたか、――」
慎太郎はとっさに身を起こすと、もう次の瞬《しゆん》間《かん》には、隣《となり》の座《ざ》敷《しき》へ飛びこんでいた。そうしてたくましい両《りよう》腕《うで》に、しっかりお律《りつ》を抱《だ》き上げていた。
「お母さん。お母さん」
母は彼に抱かれたまま、二、三度体《からだ》を震《ふる》わせた。それから青黒い液体を吐《は》いた。
「お母さん」
誰もまだそこへ来ない何秒かの間、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。
(大正九年十月二十三日)
沼《ぬま》
おれは沼《ぬま》のほとりを歩いている。
昼か、夜か、それもおれにはわからない。ただ、どこかで蒼《あお》鷺《さぎ》の啼《な》く声がしたと思ったら、蔦《つた》葛《かずら》におおわれた木々の梢《こずえ》に、薄《うす》明《あ》かりのほのめく空が見えた。
沼にはおれの丈《たけ》よりも高い芦《あし》が、ひっそりと水面をとざしている。水も動かない。藻《も》も動かない。水の底に棲《す》んでいる魚も――魚がこの沼に棲んでいるであろうか。
昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五、六日、この沼のほとりばかり歩いていた。寒い朝日の光といっしょに、水の匂《にお》いや芦の匂いがおれの体《からだ》を包《つつ》んだこともある。と思うとまた枝《えだ》蛙《かわず》の声が、蔦葛におおわれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覚えもあった。
おれは沼のほとりを歩いている。
沼にはおれの丈よりも高い芦が、ひっそりと水面をとざしている。おれは遠い昔から、その芦の茂《しげ》った向こうに、不思議な世界のあることを知っていた。いや、今でもおれの耳には、Invitation au Voyage《*》の曲が、絶え絶えにそこからただよって来る。そう言えば水の匂いや芦の匂いといっしょに、あの「スマトラの忘れな草の花《*》」も、蜜《みつ》のような甘《あま》い匂いを送って来はしないであろうか。
昼か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五、六日、その不思議な世界にあこがれて、蔦《つた》葛《かずら》におおわれた木々の間を、夢《ゆめ》現《うつつ》のように歩いていた。が、ここに待っていても、ただ芦《あし》と水とばかりがひっそりと広がっている以上、おれは進んで沼《ぬま》の中へ、あの「スマトラの忘れな草の花」を探しに行かなければならぬ。見れば幸い、芦の中から半ば沼へさし出ている、年経《へ》た柳《やなぎ》が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさえすれば、造作《ぞうさ》なく水の底にある世界へ行かれるのに違《ちが》いない。
おれはとうとうその柳の上から、思い切って沼へ身を投げた。
おれの丈よりも高い芦が、その拍《ひよう》子《し》に何かしゃべり立てた。水がつぶやく。藻《も》が身ぶるいをする。あの蔦葛におおわれた、枝《えだ》蛙《かわず》の鳴くあたりの木々さえ、一時はさも心配そうに吐《と》息《いき》をもらし合ったらしい。おれは石のように水《みな》底《そこ》へ沈《しず》みながら、数かぎりもない青い焔《ほのお》が、目まぐるしくおれの身のまわりに飛びちがうような心もちがした。
昼か、夜か、それもおれにはわからない。
おれの死《し》骸《がい》は沼の底のなめらかな泥《どろ》に横たわっている。死骸の周囲にはどこを見ても、まっ青《さお》な水があるばかりであった。この水の下にこそ不思議な世界があると思ったのは、やはりおれの迷いだったのであろうか。ことによると Invitation au Voyage の曲も、この沼の精がいたずらに、おれの耳をだましていたのかもしれない。が、そう思っているうちに、何やら細い茎《くき》が一すじ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸《の》び始めた。そうしてそれが頭の上の水面へやっと届《とど》いたと思うと、たちまち白い睡《すい》蓮《れん》の花が《*》、丈の高い芦《あし》に囲まれた、藻《も》の匂《にお》いのする沼の中に、的《てき》〓《れき*》と、あざやかな莟《つぼみ》を破った。
これがおれのあこがれていた、不思議な世界だったのだな。――おれの死《し》骸《がい》はこう思いながら、その玉のような睡蓮の花をいつまでもじっと仰《あお》ぎ見ていた。
(大正九年三月)
寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく*》
久しぶりに漱《そう》石《せき》先生の所《*》へ行ったら、先生は書《しよ》斎《さい》のまん中にすわって、腕《うで》組《ぐ》みをしながら、何か考えていた。「先生、どうしました」と言うと、「今、護《ご》国《こく》寺《じ*》の三門で、運《うん》慶《けい》が仁《に》王《おう》を刻んでいるのを見て来たところだよ」という返事があった。この忙《いそが》しい世の中に、運慶なんぞどうでも好いと思ったから、浮かない先生をつかまえて、トルストイとか、ドストエフスキイとかいう名前のはいる、むずかしい議論を少しやった。それから先生の所を出て、元の江戸川の終点から、電車に乗った。
電車はひどくこんでいた。が、やっと隅《すみ》のつりかわにつかまって、懐《ふところ》に入れて来た英訳のロシア小説を読みだした。なんでも革《かく》命《めい》のことが書いてある《*》。労働者がどうとかしたら、気が違《ちが》って、ダイナマイトをほうりつけて、しまいにその女までどうとかしたとあった。とにかく万事が切《せつ》迫《ぱく》していて、暗《あん》澹《たん》たる力があって、とても日本の作家なんぞには、一行も書けないような代《しろ》物《もの》だった。もちろん自分は大いに感心して、立ちながら、行の間へ何本も色鉛《えん》筆《ぴつ》の線を引いた。
ところが飯《いい》田《だ》橋《ばし》の乗り換《か》えでふと気がついてみると、窓の外の往来に、妙《みよう》が男が二人歩いていた。その男は二人とも、同じようなぼろぼろの着物を着ていた。しかも髪《かみ》もひげものびほうだいで、いかにも古《こ》怪《かい》な顔つきをしていた。自分はこの二人の男にどこかで遇《あ》ったような気がしたが、どうしても思い出せなかった。すると隣《となり》のつりかわにいた道具屋じみた男が、
「やあ、また寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく》が歩いているな」と言った。
そう言われて見ると、なるほどその二人の男は、箒《ほうき》をかついで、巻き物を持って、大《たい》雅《が》の画《え》からでも脱《ぬ》け出したように、のっそりかんと歩いていた。が、いくら売り立てが流《は》行《や》るにしても、正《しよう》物《ぶつ》の寒山拾得がそろって飯田橋を歩いているのも不思議だから、隣の道具屋らしい男の袖《そで》を引っぱって、
「ありゃ本当に昔の寒山拾得ですか」と、念を押《お》すように尋《たず》ねて見た。けれどもその男はしごく家《か》常《じよう》茶《さ》飯《はん》な顔をして、
「そうです。私はこの間も、商業会議所《*》の外で遇《あ》いました」と答えた。
「へええ、僕《ぼく》はもう二人とも、とうに死んだのかと思っていました」
「なに、死にゃしません。ああ見えたって、ありゃ普《ふ》賢《げん》文《もん》殊《じゆ》です。あの友だちの豊《ぶ》干《かん》禅《ぜん》師《し*》って大将も、よく虎《とら》に騎《の》っちゃ、銀《ぎん》座《ざ》通りを歩いてますぜ」
それから五分の後、電車が動きだすと同時に、自分はまたさっき読みかけたロシア小説へとりかかった。すると一ページと読まないうちに、ダイナマイトの臭《にお》いよりも、今見た寒山拾得の怪《あや》しげな姿がなつかしくなった。そこで窓からうしろを透《す》かして見ると、彼らはもう豆のように小さくなりながら、それでもまだはっきりと、朗《ほが》らかな晩秋の日の光の中に、箒をかついで歩いていた。
自分はつりかわにつかまったまま、元の通り書物を懐《ふところ》に入れて、家《うち》へ帰ったらさっそく、漱《そう》石《せき》先生へ、今日飯田橋で寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく》に遇《あ》ったという手紙を書こうと思った。そう思ったら、彼らが現代の東京を歩いているのも、ほぼ無理がないような心もちがした。
東洋の秋
おれは日《ひ》比《び》谷《や》公園を歩いていた。
空には薄《うす》雲《ぐも》が重《かさ》なり合って、地《ち》平《へい》に近い樹《き》々《ぎ》の上だけ、わずかにほの青い色を残している。そのせいか秋の木《こ》の間の路《みち》は、まだ夕暮れが来ないうちに、砂も、石も、枯《かれ》草《くさ》も、しっとりと濡《ぬ》れているらしい。いや、路の右左に枝《えだ》をさしかわせた篠《すず》懸《かけ》にも、露《つゆ》に洗われたような薄《うす》明《あ》かりが、やはり黄色い葉の一枚ごとにかすかな陰《いん》影《えい》を交えながら、ものうげにただよっているのである。
おれは籐《とう》の杖《つえ》を小《こ》脇《わき》にして、火の消えた葉巻きをくわえながら、べつにどこへ行こうというあてもなく、寂《さび》しい散歩をつづけていた。
そのうそ寒い路の上には、おれ以外に誰も歩いていない。路をさしはさんだ篠懸も、ひっそりと黄色い葉を垂《た》らしている。ほのかに霧《きり》のかかっている行く手の樹々の間からは、ただ、噴《ふん》水《すい》のしぶく音が、百年の昔も変わらないように、小《お》止《や》みないさざめきを送って来る。そのうえ今日はどういうわけか、公園の外の町の音も、まるで風の落ちた海のごとく、蕭《しよう》条《じよう》とした木《こ》立《だち》の向こうに静まり返ってしまったらしい。――と思うと鋭い鶴《つる》の声が、しめやかな噴水の響《ひび》きを圧して、遠い林の奥《おく》の池から、一、二度高く空へあがった。
おれは散歩をつづけながらも、言いようのない疲《ひ》労《ろう》と倦《けん》怠《たい》とが、重たくおれの心の上にのしかかっているのを感じていた。寸《すん》刻《こく》も休みない売《ばい》文《ぶん》生活! おれはこのままたった一人、悩《なや》ましいおれの創作力の空に、空《むな》しく黄《たそ》昏《がれ》の近づくのを待っていなければならないのであろうか。
そういううちにこの公園にも、しだいに黄昏が近づいて来た。おれの行く路《みち》の右左には、苔《こけ》の匂《にお》いや落葉の匂いが、湿《しめ》った土の匂いといっしょに、しっとりと冷たく動いている。その中にうす甘《あま》い匂いのするのは、人知れず木《こ》の間に腐《くさ》って行く花や果物の香《かお》りかも知れない。と思えば路ばたの水たまりの中にも、誰が摘《つ》んで捨《す》てたのか、青ざめた薔《ば》薇《ら》の花が一つ、土にまみれずに匂っていた。もしこの秋の匂いの中に、困《こん》憊《ぱい》を重ねたおれ自身を名残りなく浸《ひた》すことができたら――
おれは思わず足を止めた。
おれの行く手には二人の男が、静かに竹《たか》箒《ぼうき》を動かしながら、路上に明るく散り乱れた篠《すず》懸《かけ》の落ち葉を掃《は》いている。その鳥の巣のような髪《かみ》といい、ほとんど肌《はだ》もおおわない薄《うす》墨《ずみ》色《いろ》の破れ衣《ごろも》といい、あるいはまた獣《けもの》にもまがいそうな手足の爪《つめ》の長さといい、言うまでもなく二人とも、この公園の掃除をする人《にん》夫《ぷ》の類《たぐい》とは思われない。のみならずさらに不思議なことには、おれが立って見ている間に、どこからか飛んで来た鴉《からす》が二、三羽、さっと大きな輪を描《えが》くと、黙《もく》然《ねん》と箒《ほうき》を使っている二人の肩《かた》や頭の上へ、先を争って舞《ま》い下がった。が、二人は依《い》然《ぜん》として、砂上に秋を撒《ま》き散らした篠懸の落ち葉を掃いている。
おれはおもむろに踵《くびす》を返して、火の消えた葉巻きをくわえながら、寂しい篠懸の間の路を元来た方へ歩きだした。
が、おれの心の中には、今までの疲《ひ》労《ろう》と倦《けん》怠《たい》との代わりに、いつか静かな悦《よろこ》びがしっとりと薄《うす》明《あか》るくあふれていた。あの二人が死んだと思ったのは、憐《あわ》れむべきおれの迷いたるに過ぎない。寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく》は生きている。永《えい》劫《ごう》の流《る》転《てん*》を閲《けみ》しながらも、今《こん》日《にち》なおこの公園の篠《すず》懸《かけ》の落ち葉を掻《か》いている。あの二人が生きているかぎり、なつかしい古《こ》東洋の秋の夢《ゆめ》は、まだ全く東京の町から消え去っていないのに違《ちが》いない。売文生活に疲《つか》れたおれをよみ返らせてくれる秋の夢は。
おれは籐《とう》の杖《つえ》を小《こ》脇《わき》にしたまま、気軽く口《くち》笛《ぶえ》を吹き鳴らして、篠懸の葉ばかりきらびやかな日《ひ》比《び》谷《や》公園の門を出た。「寒山拾得は生きている」と、口の内に独《ひと》りつぶやきながら。
(大正九月三月)
一つの作が出来上るまで
――「枯野抄」――「奉教人の死」
ある一つの作品を書こうと思って、それがいろいろの径《けい》路《ろ》をたどってからでき上がる場合と、すぐ初めの計画通りに書き上がる場合とがある。たとえば最初は土《ど》瓶《びん》を書こうと思っていて、それがいつの間《ま》にか鉄瓶にでき上がることもあり、またはじめから土瓶を書こうと思うと土瓶がそのままできあがることもある。その土瓶にしても蔓《つる》を籐《とう》にしようと思っていたのが竹になったりすることもある。私《わたし》の作品の名を上げて言えば「羅《ら》生《しよう》門《もん》」《*》などはその前者であり、今ここに話そうと思う「枯《かれ》野《の》抄《しよう》」《*》「奉《ほう》教《きよう》人《にん》の死」《*》などはその後者である。
その「枯野抄」という小説は、芭《ば》蕉《しよう》翁《おう》の臨《りん》終《じゆう》に会った弟《で》子《し》たち、其《き》角《かく》、去《きよ》来《らい》、丈《じよう》艸《そう》などの心もちを描《えが》いたものである。それを書く時は「花《はな》屋《や》日《につ》記《き》」という芭蕉の臨終を書いた本や、支《し》考《こう》だとか其角だとかいう連中の書いた臨終記のようなものを参考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前から死ぬところまでを書いてみる考えであった。もちろん、それを書くについては、先生の死に会う弟子の心もちといったようなものを私自身も《*》その当時痛切に感じていた。その心もちを私は芭蕉の弟子に借りて書こうとした。ところが、そういう風にして、一、二枚書いているうちに、沼《ぬ》波《なみ》瓊《けい》音《おん*》氏がちょうどそれと同じような小説(?)を書いているのを見ると、今までの計画で書く気がすっかりなくなってしまった。
そこで今度は、芭《ば》蕉《しよう》の死《し》骸《がい》を船に乗せて伏《ふし》見《み*》へ上って行くその途中にシインを取って、そして、弟子たちの心もちを書こうとした。それが当時(大正七年の九月)の「新小説《*》」に出るはずになっていたのであったが、はじめの計画が変わったので、締《し》め切りが近づいてもどうしても書けなかった。原《げん》稿《こう》紙《し》ばかり無《む》駄《だ》にしている間に締め切りの期日がつい来てしまってはなはだ心細い気がした。その時の「新小説」の編《へん》輯《しゆう》者《しや》は今「人間」の編輯をしている野《の》村《むら》治《じ》輔《すけ》君で、同君が私の書けないことに非常に同情してくれて、その原稿がなかったら実際困ったでもあろうが、心よく翌月号に延《の》ばしてくれた。それからすぐにその号のために書きだしたが、そのころ、私の知っている人が蕪《ぶ》村《そん》の書いた「芭《ば》蕉《しよう》涅《ね》槃《はん》図《ず》」――それは仏画である――を手に入れた。それが前に見ておいた川《かわ》越《ごえ》の喜《き》多《た》院《いん*》にある「芭蕉涅槃図」よりは大きさも大きかったし、それにできも面白かった。それを見ると、私の計画がまた変わった。で、今度はその「芭蕉涅槃図」からヒントを得て、芭蕉の病床を弟子たちが取り囲んでいるところを書いてようやくはじめの目的を達した。
こういうふうに持ってまわったのはまず珍《めずら》しいことで、たいていは筆を取る前に考えて、その考えたとおりに書いて行くのがふつうである。そのふつうというのはおもに短いものを書く場合で、長いものになると書いているうちに、作中の人間なり事件なりが予定とは違《ちが》った発展のしかたをすることが往々ある。
神様がこの世界を造《つく》ったものならば、どうしてこの世の中に悪だの悲しみがあるのだろうと人々はよく言うが、神様も私の小説と同じように、この世界をこしらえて行くうちに、世界それ自身が勝手に発展して思うとおりに行かなかったかもしれない。
それは冗《じよう》談《だん》であるけれども、そういうふうに人物なり事件なりが予定とちがって発展をする場合、ちがったために作品がよくなるか、わるくなるかは一《いち》概《がい》に言えないであろうと思う。しかし、ちがうにしても、およそちがう程度があるもので、馬を書こうと思ったのが馬《うま》蠅《ばえ》になったということはない。まあ牛になるとか羊になるとかいうくらいである。しかし、もう少し大《おお》筋《すじ》を離《はな》れたところになると、書いているうちにいろいろなことを思いつくので、ずいぶんちがうことがある。たとえば「奉教人の死」という小説は、昔のキリスト教徒たる女が男になっていて、いろいろの苦しい目に逢《あ》う。その苦しみを堪《た》えしのんだ後に死んだが、死んでみたらばはじめて女であったことがわかったという筋《すじ》である。その小説の仕《し》舞《まい》のところに、火事のことがある。その火事のところははじめちっとも書く気がしなかったので、ただ主人公が病気かなんかになって、静かに死んで行くところを書くつもりであった。ところが、書いているうちに、その火事場の景色を思いついてそれを書いてしまった。火事場にしてよかったか悪かったかは疑問であるけれども。
(大正九年三月)
文章と言葉と
文 章
僕《ぼく》に「文章に凝《こ》りすぎる。そう凝るな」という友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝った覚えはない。文章は何よりもはっきり書きたい。頭の中にあるものをはっきり文章に現わしたい。僕はただそれだけを心がけている。それだけでもペンを持ってみると、めったにすらすら行ったことはない。かならずごたごたした文章を書いている。僕の文章上の苦心というのは(もし苦心といい得るとすれば)そこをはっきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はっきりしない文章にはどうしても感心することはできない。少なくとも好きになることはできない。つまり僕は文章上のアポロ主義《*》を奉《ほう》ずるものである。
僕は誰になんといわれても、方《ほう》解《かい》石《せき》のようにはっきりした、曖《あい》昧《まい》を許さぬ文章を書きたい。
言 葉
五十年前の日本人は「神」という言葉を聞いた時、たいてい髪《かみ》をみずらに結い、首のまわりに勾《まが》玉《たま》をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今《こん》日《にち》の日本人は――少なくとも今日の青年はたいてい長ながとあごひげをのばした西洋人を感じているらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこのくらいすでに変《へん》遷《せん》している。
なほ見たし花に明《あ》け行《ゆ》く神の顔《*》 (葛《かつら》城《ぎ》山《さん》》(*)
僕はいつか小《こ》宮《みや》さん《*》とこういう芭《ば》蕉《しよう》の句を論じあった。子《し》規《き》居《こ》士《じ》の考えるところによれば、この句は諧《かい》謔《ぎやく》を弄《ろう》したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘《そう》厳《ごん》な句だと主張していた。画力は五百年《*》、書力は八百年につきるそうである。文章の力のつきるのは何百年くらいかかるものであろう?
漢文漢詩の面白味
漢文漢詩を読んで利益があるかどうか? 私は利益があると思う。われわれの使っている日本語は、たといフランス語のラテン語における関係はなくとも、かなり支《シ》那《ナ》語の恩を受けている。これは何もわれわれが漢字を使っているからというばかりじゃない。漢字がロオマ字になったところが、遠い過去から積んで来た支那語流のエクスプレッションは、やっぱり日本語の中に残っている。だから漢詩漢文を読むということは、過去の日本文学を鑑《かん》賞《しよう》するうえにも利益があるだろうし、現在の日本文学を創造するうえにも利益があるだろうと思う。
じゃ漢詩漢文を読んでどんな利益があるかと言うと、これははっきりと答えにくい。なにしろ漢詩漢文と言えば、支那文学と言うのも同様だから、つまりイギリス文学あるいはフランス文学を読んでどんな利益があるかと言うのと、同じように茫《ぼう》漠《ばく》とした、つかまえ処《どころ》のない問題になってしまう。もちろんなんとか答えられないこともないだろうが、それには相当な準備をしたうえでないと、結局でたらめに終わりやすい。文《ぶん》章《しよう》倶《く》楽《ら》部《ぶ*》記者に質問されて、はじめて考えてみるようなことじゃ駄《だ》目《め》である。
ただふだん思っていることを一、二言えば、漢文漢詩は一様にみんなごく大ざっぱな古《こ》淡《たん》の文字のように思われている。しかし実際は大ざっぱどころか、すこぶる細かな神経の働いている作品も少なくない。たとえば高《こう》青《せい》邱《きゆう*》(明《みん》)の、
樹《じゆ》涼《すずしゆ》うして山意秋なり。
雪淡《あお》うして川《せん》光《こう》夕《ゆうべ》なり。
林下、人に逢《あ》わず。
幽《ゆう》芳《ほう》、誰と共にか摘《つ》まん。
などという五《ご》言《ごん》絶《ぜつ》句《く》は、薄《はく》暮《ぼ》の秋の林《りん》間《かん》が、空気までもしっとりと描《えが》きだされている観がある。それから抒《リ》情《リ》詩《カ》的《ル》な感情は、漢詩に縁《えん》が薄《うす》いように思われているが、これまたかならずしもそうではない。名高い韓《かん》〓《あく*》(唐《とう》)の『香《こう》奩《れん》集《しゆう》』という詩集は、ほとんどこの種の詩に充《じゆう》満《まん》しているが、その中から一つ引くと、「想《おもい》得《え》たり」という七《しち》言《ごん》絶《ぜつ》句《く》に、
両《りよう》重《じゆう》門《もん》裏《り》、玉《ぎよく》堂《どう》の前
寒《かん》食《しよく*》の花《か》枝《し》、月《げつ》午《ご*》の天
想《おもい》得《え》たり、那《な》人《じん*》手を垂《た》れて立ち、
嬌《きよう》羞《しゆう》、肯《がえん》じて鞦《しゆう》韆《せん*》に上らざりしを。
というのがある。羞《は》じてブランコに上ることを承知しなかった少女を想《おも》う所なぞは、ほとんど生《いく》田《た》春《しゆん》月《げつ*》君の詩の中にでも出てきそうである(ついでながら言うが『香《こう》奩《れん》集《しゆう》』の中には、「手《しゆ》を詠《えい》ず」という、女の手の美しさばかり歌った詩がある。いかにも凝《こ》ったものだから、暇《ひま》な方は読んでごらんになるとよい)。またそういう恋愛以外の感情を歌った詩でも、われわれの心境に合するものが、思いのほかたくさんある。ずっと新しい所から例をあげると、孫《そん》子《し》瀟《しよう*》(清《しん》)の「雑《ざつ》憶《おく》、内《うち》に寄す」という、旅先から家へ送った詩に、こんな七言絶句がある。
郷《きよう》書《しよ》遥《はるか》に憶《おも》う、路漫《まん》々《まん》。
幽《ゆう》悶《もん》聊《いささか》憑《たの》む、鵲《じやく》語《ご》の寛《かん》なるを。
今夜合《ごう》歓《かん》花《か》底《てい》の月。
小庭の児《し》女《じよ》長《ちよう》安《あん》を話す。
この詩人のノスタルジアなぞは、しごく素《す》直《なお》にわれわれにも受け入れることができそうである。もう一つ清《しん》朝《ちよう》の詩人から例をあげると、趙《ちよう》甌《おう》北《ほく*》の「編詩」というのに、
旧《きゆう》稿《こう》叢《そう》残《ざん》、手《て》自《みずか》ら編す。
千金の敞《へい》帚《そう》、護《ご》持《じ》する事堅《かた》し。
憐《あわれ》む可《べ》し、売って街頭に到《いた》って去る。
尽《じん》日《じつ》、人の一銭を出《いだ》す無し。
というのがある。これなぞもわれわれ売《ばい》文《ぶん》生活をしているものにはまず同感というほかはない。くどいようだが、もう一つ例をあげると、名高い杜《と》牧《ぼく*》(唐《とう》)の、
江《こう》湖《こ》に落《らく》魄《はく》して酒を載《の》せて行《ゆ》く《*》。
楚《そ》腰《よう》繊《せん》細《さい》、掌《しよう》中《ちゆう》に軽《かろ》し。
十年一《ひと》たび覚《さ》む、楊《よう》洲《しゆう》の夢《ゆめ》。
贏《か》ち得たり、青《せい》楼《ろう》薄《はつ》倖《こう》の名。
なぞも吉《よし》井《い》勇《いさむ》君を想《おも》わせるところがないでもない。こんな具《ぐ》合《あい》に漢詩の中には、現在のわれわれの心もちとかなり密接な物が含《ふく》まれている。決して一《いち》概《がい》に軽《けい》蔑《べつ》してしかるべきものじゃない。単に自然を描《えが》いた詩句を抜《ぬ》き出してみても、
棗《なつめ》熟して人の打つに従い、
葵《あおい》荒れて自《みずか》ら鋤《す》かんと欲す。(杜《と》甫《ほ》)
高《こう》杉《さん》残《ざん》子《し》落ち、
深《しん》井《せい》凍《とう》痕《こん》生ず。(僧《そう》無《ぶ》己《こ*》)
疎《そ》篁《こう》晩《ばん》笋《じゆん*》を抽《ぬ》き、
幽《ゆう》薬《やく》寒《かん》芽《が》を吐《は》く。(雍《よう》陶《とう》》(*)
とかいうように、秋冬だけでさえ鋭《するど》い詩眼を感じさせるものがたくさんある。だから漢詩を読めば、少なくともこれだけの範《はん》囲《い》内では、われわれのまさに学ぶべきことが、思いのほか多くはないかと思う。
そのほかまだいろいろ益するところもあるだろうが、なにぶん前に言ったとおり準備も何もないのだから、今度はこれだけでご免《めん》をこうむりたい。それから漢詩のことばかり言って、漢文のことを言わなかったのは、例を引くのが不便でもあり、かつその方へ話が延長すると、あまり長くなることを惧《おそ》れたのである。その点も大《おお》眼《め》にごらんを願いたい。
(大正九年一月)
注 釈
*トルストイズム Tolstoism ロシアの大作家レフ・トルストイ(一八ニ八―一九一〇)の芸術観・人生観・世界観の影《えい》響《きよう》により十九世紀末から二十世紀初期にかけて世界的な流行をみた人道主義的思想。日本でも明治末から大正初期にかけて流行し、特に武《む》者《しやの》小路《こうじ》実《さね》篤《あつ》をはじめとする白《しら》樺《かば》派《は》の文学に大きな影響を与えた。
*中央停車場 東海道線東京駅
*のき打ちの門 軒《のき》から張り出した屋根に柱をつけ門としたもの。
*グウルモン Remy de Gourmont 一八五八年−一九一五年。フランスの評論家で、象《しよう》徴《ちよう》主義の理論家。「沈《ちん》黙《もく》の巡《じゆん》礼《れい》」「エピローグ」「文学的散歩」など。
*外国の歌劇団 このころでは大正八年九月にロシアのグランドオペラ団が帝《てい》劇《げき》で公演している。
*米価問題 昭和十七年まで米は自由販《はん》売《ばい》であったため、市場価格は常に変動し、社会問題となることが多かった。とくに大正中期には第1次世界大戦後のインフレや財《ざい》閥《ばつ》の外米輸入独《どく》占《せん》、シベリア出兵など米価が上《じよう》昇《しよう》し、七年には有名な米《こめ》騒《そう》動《どう》となり、寺《てら》内《うち》内閣は倒《たお》れた。
*びるぜん、さんたまりや Virgen Santa Maria (ポルトガル語)。聖母マリア。
*けれんと 祈《き》祷《とう》の名。キリシタン版(たとえばドチリナ・キリシタン)では「けれど」という。現在カトリック教会では使徒信経という。ただしこの祈《いの》りの引用は「さるべれじな」の一節で「けれんと」よりというには誤り。
*麻《マ》利《リ》耶《ヤ》観《かん》音《のん》 江戸時代において禁制下のキリシタンが聖母マリアの変身として秘《ひそ》かに礼拝した小型の観音。
*切《きり》支《し》丹《たん》宗門禁制時代 キリスト教は十六世紀に日本に伝来したが、一五八七年(天正十五年)豊《とよ》臣《とみ》秀《ひで》吉《よし》は禁教令を発し、以後一八七三年(明治六年)まで禁止。
*瓔《よう》珞《らく》 仏像などの頭・頸《くび》・肩《かた》にかける宝石の飾《かざ》り。
*切り髪《がみ》 昔、武家の未亡人などがした髪の結い方。まげの端《はし》を短くそろえ、もとどりを紫《むらさき》色の打《うち》紐《ひも》などで束《たば》ねる。
*火《ひ》伏《ぶ》せ 火災を防ぐという神仏の通力。
*御《み》戸《と》帳《ちよう》 神《かみ》棚《だな》・仏《ぶつ》壇《だん》の前に垂《た》らすとばり。きんらん、どんすなどの厚い織物で作る。
*細川家 細川忠《ただ》興《おき》の時、織《お》田《だ》・豊《とよ》臣《とみ》・徳《とく》川《がわ》の三氏に仕え、その子忠《ただ》利《とし》の時から肥《ひ》後《ご》の熊本城に封《ふう》ぜられた。肥後は今の熊本県。
*伊藤家 日向《ひゆうが》飫《お》肥《び》城主。五万石。日向は今の宮崎県。
*番頭 番衆(宿直勤番して警備・雑務に当たる武士の総称)の長。
*新知 新にもらった知行(武士の俸給)。
*寛《かん》文《ぶん》七年 一六六七年。
*越 《えつち》中 《ゆうの》守《かみ》綱《つな》利《とし》 忠《ただ》興《おき》の曾《そう》孫《そん》。四代将軍家《いえ》綱《つな》の時代の人。
*新《しん》陰《かげ》流《りゆう》 織《お》田《だ》信《のぶ》長《なが》、豊臣秀吉に仕えた柳生《やぎゆう》宗《むね》厳《よし》の創始した剣術の一流派。柳生流ともいう。
*念友 衆道(男性の同性愛)の相手方。
*浅野家 安《あ》芸《き》広島の城主。
*文字が関 今の門《も》司《じ》。関門海《かい》峡《きよう》を往来する旅客や船《せん》舶《ぱく》を取り調べた所。瀬《せ》戸《と》は小さな海峡。
*梵《ぼ》論《ろん》子《じ》 虚《こ》無《む》僧《そう》(普化宗の僧)。
*尻《しり》居《い》 うしろへ倒《たお》れて尻もちをつくこと。
*落ちかかる雁《かり》 雁がシベリアの方から渡って来るのは、秋の彼《ひ》岸《がん》ごろである。芭《ば》蕉《しよう》に「病雁の夜寒に落ちて旅《たび》寝《ね》かな」の句がある。
*散《さん》茶《ちや》女《じよ》郎《ろう》 吉《よし》原《わら》の遊女の階級の一つ。太《た》夫《ゆう》・格《こう》子《し》・散《さん》茶《ちや》・梅《うめ》茶《ちや》の順。
*金《こん》王《のう》桜《ざくら》 永《なが》井《い》荷《か》風《ふう》の随《ずい》筆《ひつ》「日《ひ》和《より》下《げ》駄《た》」に「また教はありや無しや知らねど、名所絵にて名高き渋《しぶ》谷《や》の金王桜」とある。
*葺《ふき》屋《や》町《ちよう》 江《え》戸《ど》の芝《しば》居《い》町。
*大橋 宍《しん》道《じ》湖《こ》から流出し、松江市内を貫流する大橋川に架《か》けれた橋。
*松平家 松江の藩《はん》主《しゆ》。
*妬《ねた》刃《ば》を合わせながら 刀《とう》剣《けん》の刃をとぐことを「寝刃(ねたば)を合す」というのが、妬刃としたところには、心理的な意味が付されている。
*菖《しよう》蒲《ぶ》革《がわ》 藍《あい》地《じ》に白く菖蒲の葉や花の模様を染め出した鹿《しか》のなめし皮。勝武、勝負に通じるところから、縁《えん》起《ぎ》がよいとされて武具に用いられた。
*裁《たつ》付《つけ》 袴《はかま》の一種。活動に便利なように裾《すそ》を紐《ひも》で脚《あし》の所に括《くく》りつけ、下部が脚《きや》絆《はん》仕立てになったもの。
*着込み 上着の下に着るくさりかたびらなどの称。
*初《しよ》夜《や》 戌《いぬ》の刻。今の午後八時。
*二《に》更《こう》 一夜を五等分した第二番目の時刻。今の午後九時から十一時の間。
*寅《とら》の上刻 今の午前三時すぎ。
*黄《おう》檗《ばく》慧《え》林《りん》 禅《ぜん》宗《しゆう》臨《りん》済《ざい》派《は》の一分派である黄檗宗の第三世。中国人。
*会《え》下《か》 説法集会に列する者。禅家において、師《し》の膝《しつ》下《か》で修行する者。
*衲《のう》子《し》 禅《ぜん》僧《そう》のこと。衲または衲衣は、人の棄《す》てて顧《かえり》みない下《げ》賤《せん》の布を集めて作った法衣。禅宗にはこれを着ている人が多かった。
*なぐれる 横の方にそれること。
*南《ナン》京《キン》玉《だま》 ガラス製または陶《とう》製《せい》のごく小さな穴のあいた玉。糸を通して飾《かざ》りなどに用いる。ビーズ。
*こつこつ 動かないでじっとしている状態。
*素《すさ》戔《のお》嗚《のみ》尊《こと》 日本神話中の代表的な神。イザナギノミコト、イザナミノミコトの子。天《あま》照《てらす》大《おお》神《みかみ》の弟。乱暴非行が多く、追放されて出《いず》雲《も》に下り、八《や》岐《またの》大蛇《おろち》を退治して根《ねの》国《くに》の支配者となった。
*天《あめ》の安《やす》河《かわ》 天上にあるという川。神代に諸神の会合した所。
*倭《しず》衣《り》 織物の一種。穀《かじ》・麻《あさ》などの糸を青や赤に染め乱れ模様に織ったもの。
*釧《くしろ》 装《そう》飾《しよく》用《よう》の腕《うで》輪《わ》。古くは多く小玉・小《こ》鈴《すず》をつけて左の腕に巻いた。
*明《みよう》礬《ばん》色《いろ》 無色透《とう》明《めい》な状態。
*技《ぎ》癢《よう》 自分のうでまえ・わざを見せたくてむずむずすること。腕がなること。
*騎《き》虎《こ》の勢い ゆきがかり上、中途でやめられないこと。
*手《た》力《ぢから》雄《おの》命《みこと》 天照大神が天の岩戸に隠《かく》れた時、岩戸をひらいて出したという大力の神。
*千《ち》曳《びき》の大岩 「日本書紀」に「千人所引磐《ばん》石《じやく》」とある。千人もの人が力を合わせなければ、動かせぬような大石。
*みずら 古代の成人男子の髪《かみ》型《かた》で、頂《いただき》の髪を左右に分け、両耳のあたりにたれてたばねる。
*土《つち》雷《いかずち》 根国のイザナミノミコトの右の手に成った神。大地の鳴動を起こす。
*領《ひ》巾《れ》 夫人が襟《えり》に掛《か》け飾《かざ》りとした白布。生絹・紗《しや》・羅《ら》などを用いる。
*思兼尊《おもいかねのみこと》 「古《こ》事《じ》記《き》」には思金神とある。数多の人の思《し》慮《りよ》才《さい》智《ち》をひとりで兼《か》ね備えている神。
*琅《ろう》〓《かん》 宝石の一つ。玉の美しい色が翡《ひ》翠《すい》に似ているものの称《しよう》。その青色の勝ったものを多く勾《まが》玉《たま》に用いた。
*月《つき》毛《げ》 少し赤みがかった茶色。
*鬩《せめ》ぐ 互《たがい》に争う。
*管《くだ》玉《たま》 円《えん》筒《とう》形《けい》の細長い玉。連ねて首《くび》飾《かざ》りに用いる。
*刀《とう》子《す》 短い刀。平安時代以前の呼《こ》称《しよう》。美しい拵《こしら》えをつけて装《しよう》束《ぞく》の帯の着用するもの。
*鏘《そう》然《ぜん》 金石の鳴る音の形容。
*頭《かぶ》椎《つち》の剣《つるぎ》 かぶは塊《かい》、つちは槌《つち》の義で、古代の剣の一種。柄《つか》頭《がしら》が塊状をしたもの。
*大《おお》気《け》都《つ》姫《ひめ》 五《ご》穀《こく》の神。記《き》紀《き》には素《すさの》戔《おの》鳴《み》尊《こと》が食物を求めた時、この姫が鼻や口や尻《しり》から種々のご馳《ち》走《そう》を取り出し、それを隙《すき》見《み》した尊《みこと》がおこって殺すと、その身体から、蚕《かいこ》や稲の種や粟《あわ》や小豆《あずき》や麦《むぎ》や大《だい》豆《ず》ができたとある。
*えらく 笑い興《きよう》じて楽しむ。満《まん》悦《えつ》する。
*壟《ろう》断《だん》 ひとりじめすること。
*〓《さん》〓《がん》 山がそびえつらなっているさま。また鋭《するど》くとがったさま。
*×××…… 原作のまま。大気都姫が動物を相手に性《せい》欲《よく》を満足させる行《こう》為《い》を暗示させる。
*高《こ》麗《ま》剣《つるぎ》 高麗国(古代朝《ちよう》鮮《せん》の一国)の剣。柄頭に環《かん》をつけてある。
*火 《ほのい》雷 《かずちの》命 《みこと》 根《ねの》国《くに》のイザナミノミコトの胸から生まれた神。
*簸《ひ》の川 「古《こ》事《じ》記《き》」に「肥河」とある。斐《ひ》伊《い》川《がわ》。船《せん》通《つう》山《ざん》に発して、宍《しん》道《じ》湖《こ》に入る。
*八《やち》衢《また》 たくさんの辻《つじ》。
*足《あし》名《な》椎《ずち》 稲田宮スサノヤツミミ。出《いず》雲《も》の国神の一つ。その妻の名を手《て》名《な》椎《ずち》という。「古事記」には足撫豆知手撫豆知の約、すなわち、姫の手足を撫《な》でていとしんだ意味であるという。「椎」は尊称。
*櫛《くし》名《な》田《だ》姫《ひめ》 「櫛」は「奇し」で美称。「名田」は稲田で、地名に由《ゆ》来《らい》するか。
*高《こ》志《し》 「和《わ》妙《みょう》抄《しょう》」に出雲国神門郡古志とある。島根県簸《ひ》川《かわ》郡《ぐん》古《こ》志《し》村。
*磅《ぼう》〓《はく》 みちひろがること。
*出《いず》雲《も》の須《す》賀《が》 島根県大《おお》原《はら》郡大《だい》東《とう》町《ちよう》須賀。
*八《や》広《ひろ》殿《どの》 「古《こ》事《じ》記《き》」には「八尋殿」とある。八は多数、尋《ひろ》は両手をのばした長さ、つまり広大な御殿の意。
*千《ち》木《ぎ》 社殿の屋上の破《は》風《ふ》の両《りよう》端《たん》に交《こう》差《さ》した木。
*八《や》島《しま》士《じ》奴《ぬ》美《み》 八島は広い国土の意。士奴美は知主(領《りよう》主《しゆ》)の意か。
*尾《お》の中にあった剣《つるぎ》 草《くさ》薙《なぎ》の剣。のち三種の神器の一つとなった。
*根《ねの》堅《かた》洲《す》国《くに》 黄《よ》泉《み》国の別名。しかし、作者はどこかの島のつもりで黄泉国とは区別して用いたのであろう、
*葦《あし》原《はら》醜《しこ》男《お》 大《おお》国《くに》主《ぬし》神《かみ》の別名。醜《しこ》は勇《ゆう》猛《もう》の意。スサノオノミコトの実子とも六世の孫《まご》ともいわれる。のち出《いず》雲《も》の主神となる。
*白《はく》銅《どう》鏡《きよう》 ますみの鏡。非常に澄《ちよう》明《めい》な鏡の意。
*天《あめ》の鹿《か》児《ご》弓《ゆみ》 神代に大獣《じゆう》を射るのに用いたという大きな弓。
*天《あめ》の羽《は》羽《ば》矢《や》 神代の矢。「古事記伝」は羽張矢すなわち矢羽の広く大きな矢の意と説《と》く。
*大《おお》日《ひる》〓《めの》貴《むち》  天《あま》照《てらす》大《おお》神《みかみ》。スサノオの乱暴を悲しみ、天の岩戸にかくれた。
*南《ナン》京《キン》奇《き》望《ぼう》街《がい》 中国江《こう》蘇《そ》省《しよう》にある大都会。中華民国時代の主と。奇望街は市内の大通りの名。
*私《し》窩《か》子《し》 私《し》娼《しよう》。密《みつ》淫《いん》売《ばい》婦《ふ》。
*秦《しん》淮《わい》 江蘇省西南部を流れる揚《よう》子《す》江《こう》の支流。古来舟を浮かべて遊《ゆう》宴《えん》する者が多く南京名勝の一つ。また河《かわ》沿《ぞ》いの遊里をも秦淮という。ここは後者。
*姚《よう》家《か》巷《こう》 南京市内の町名。巷は曲がって狭《せま》いまち、路地。
*楊《よう》梅《ばい》瘡《そう》 梅毒の古名。綿《めん》花《か》瘡《そう》ともいう。
*汞《こう》藍《らん》丸《がん》 青汞丸 とも言い、水銀を用いて製した梅毒の薬。
*迦《か》路《ろ》米《まい》 Calomel(オランダ語)のこと。梅毒の薬。水に溶《と》けない白色の粉末で、皮《ひ》膚《ふ》に塗《ぬ》って用いる。塩化第1水銀。
*画《が》舫《ぼう》 遊《ゆう》宴《えん》用に美しく装《そう》飾《しよく》した舟。
*利《り》渉《しよう》橋《きよう》 南《ナン》京《キン》市内の橋の名。渉《わた》るに便利なの意。
*紹《しよう》興《こう》酒《しゆ》 浙《せつ》江《こう》省《しよう》紹興県産の名酒。中国最古の酒。シャオムンチュウ。俗《ぞく》に老《ろう》酒《しゆ》・紹《しよう》酒《しゆ》・黄《おう》酒《しゆ》ともいう。日本酒に似て、宴《えん》会《かい》に多く用いる。
*水《みず》煙管《きせる》 水煙袋(シュエンタイ)のこと。中国人の愛用する品。煙草の煙《けむり》が一度パイプの底を通って口に吸《す》い込まれる。
*マグダラのマリア マグダラ(Magdala)はバレスチナの町。マリア(Maria)はそこの女の名。イエスによって七つの悪《あつ》鬼《き》から癒《いや》され、イエスに仕えた。イエスの復活の会い、弟子たちにそれを伝えたことが、マルコ伝・マタイ伝・ルカ伝などにある。
*ロイテル電報局 ドイツ人ロイタアReuter(一八一六年−一八九九年)が一八五一年イギリスに帰化して、ロンドンに設立した国際的大通信社の支局。
*「秦《しん》淮《わい》の一夜」 大正八年二月「中外日報」発表の「秦淮の夜」のこと。谷《たに》崎《ざき》潤《じゆん》一《いち》郎《ろう》は、大正七年末中国旅行をなし、翌《よく》八年この外に、「蘇《そ》州《しゆう》紀《き》行《こう》」「南《ナン》京《キン》奇《き》望《ぼう》街《がい》」などの紀行を発表した。
*杜《と》子《し》春《しゆん》 唐《とう》代《だい》の神《しん》仙《せん》小説「杜子春伝」の主人公。
*唐の都洛《らく》陽《よう》 唐は中国古代の王朝(六一八−九〇七)。唐の都は長《ちよう》安《あん》(現在の西安市)にあったが、後期は洛陽に移った。明くようは現在の河《か》南《なん》省《しよう》河南の古《こ》称《しよう》。長安を西京、洛陽を東都とも称した。ただし、杜子春は原作「杜子春伝」によれば、六朝末期の人である。
*蘭《らん》陵《りよう》の酒 華東区江《こう》蘇《そ》省《しよう》武進件の蘭陵から産する美酒。李《り》白《はく》の詩「客中行」などにも見え、古来有名。
*桂《けい》州《しゆう》の竜《りゅう》眼《がん》肉《にく》 広西省臨《りん》桂《けい》県桂州に産出する竜眼の果実。竜眼は熱帯地方に産するムクロジ科の植物。
*鉄《てつ》冠《かん》子《し》 三国時代の仙《せん》人《にん》左《さ》茲《じ》の道号。天桂山に棲《す》み、曹《そう》操《そう》に呼ばれて仙術を演じたという。時代のくいちがう点は長生不死の仙人ゆえさしつかえないわけ。
*北《ほつ》海《かい》 北方の海、また渤《ぼつ》海《かい》の一名。極北の境をいう。この詩は、呂《りよう》洞《とう》賓《ひん》の作(「全唐詩」第十二函第六冊所収)。仙術で中国全土を悠《ゆう》々《ゆう》と飛びあるくさまを詠《よ》んだ。
*蒼《そう》梧《ご》 今の広西省東部。聖人の舜《しゆん》が亡くなった所という。北海に対する極南の地。
*袖《しゆ》裏《うり》の青《せい》蛇《だ》、胆《たん》気《き》粗《そ》なり 袖《そで》に蛇《へび》を忍《しの》ばせ、気持ちは雄《ゆう》大《だい》となって遠くへ行くの意。
*岳《がく》陽《よう》 岳陽楼《ろう》のこと。湖《こ》南《なん》省《しよう》岳陽県城西門の上に位《い》置《ち》し、洞《どう》庭《てい》湖《こ》を見下ろして風景絶《ぜつ》佳《か》。もとの馬《ば》致《ち》遠《えん》作の雑劇「岳陽楼」の正名に、「呂洞賓三《さん》酔《すい》岳陽楼」とある。
*西《せい》王《おう》母《ぼ》 西方の仙境崑《こん》崙《ろん》山の住むといわれた中国神話のの女神。仙《せん》道《どう》の修行を終えた者は皆崑崙山に赴《おもむ》き、西王母から免《めん》許《きよ》を受けるとされた。
*闇《あん》穴《けつ》道《どう》 果《か》羅《ら》国《こく》(西域にあったという)へ罪人を流す時、極悪人を通すという闇《あん》黒《こく》な道の名。
*泰《たい》山《ざん》 山東省奉安府にある名山。五岳《がく》(東の泰山、西の華《か》山、南の衡《こう》山、北の恒《こう》山、中央の嵩《すう》山)の一つ。
*浅《あさ》草《くさ》の永《なが》住《すみ》町 東京都台《たい》東《とう》区永住町。ここは寺院が多いが、日《にち》蓮《れん》宗系統と思われる信行寺という名の寺はなかった。
*日《にち》朗《ろう》上《しよう》人《にん》 寛《かん》元《げん》元年―元《げん》応《おう》二年(一二四三―一三二〇)。鎌《かま》倉《くら》時代の僧《そう》。日蓮の六弟子の一人。下《しも》総《うさ》に本土寺を開いた。
*河《か》岸《し》 隅《すみ》田《だ》川河岸。特に浅草河岸をさすが。
*蓮《れん》華《げ》夫人 古代インドの仙《せん》女《によ》。提《てい》婆《ば》延《えん》の排《はい》泄《せつ》物《ぶつ》をなめた雌《め》鹿《じか》から生まれたが、容《よう》姿《し》は非常に端《たん》麗《れい》で烏《う》提《てい》延《えん》王の妃《ひ》となった。彼女の踏《ふ》む所いたるところに蓮華が生じたといい、蓮華夫人と称《しよう》された。五百人の子とめぐりあった話は、雑宝蔵経巻一の「蓮華夫人縁」にあるが、芥《あくた》川《がわ》は「今《こん》昔《じやく》物語」巻五の翻《ほん》案《あん》されてある「般《はん》沙《しや》羅《ら》王《おうの》五《ご》百《ひやくの》卵《かいご》初知父母語《はじめてぶもをしれること》」によったか。
*日《につ》華《か》洋《よう》行《こう》 中国系の貿《ぼう》易《えき》商会。ただし架《か》空《くう》。洋行は中国語で外国人が中国で開く商会を言う。
*根《ね》懸《か》け 女の髪《かみ》の後部のまげにかける装《しよう》飾《しよく》品《ひん》。
*『影《かげ》』 このような映画はなかった。
*I don't know 知りません。当時、この文句をおりこんだ俗《ぞく》揺《よう》があった。
*E・C・C Egiptian Cigarette Company エジプト産の高級紙巻きタバコ。当時よくのまれた。
*この秋は 当時の旧制高等学校は七月に卒業式を行ない、大学の入学式は九月であった。
*恐《きよう》慌《こう》 大正七、八年頃、第一次大戦の影《えい》響《きよう》で、アメリカに起こり全世界に波《は》及《きゆう》した経済不《ふ》況《きよう》。
*ソップ Soup(英)。スープの訛《なまり》。
*井上 井上正夫。明治十四年―昭和二十五年(一八八一―一九五〇)。新派の名優。生《しよう》涯《がい》を通じて老役、脇《わき》役《やく》に持ち味を発《はつ》揮《き》した。
*大時計 銀《ぎん》座《ざ》四丁目にある服《はつ》部《とり》時計店の大時計。
*レクラム版 ドイツのレクラムReclam 出版社発行の文庫本。
*マロック革《がわ》 モロッコ産の山《や》羊《ぎ》の革をなめした良質の革。
*ジキタミン digitamin 強心剤の一種。
*柴《しば》又《また》 東京都葛《かつ》飾《しか》区柴又町。日《にち》蓮《れん》宗題《だい》経《きよう》寺《じ》があり、本《ほん》尊《ぞん》は日蓮手刻という帝《たい》釈《しやく》天《てん》神。
*Invitation au Voyage 「旅への誘《さそ》い」(仏)。フランスの音楽家アンリ・デュパルク(一八四八―一九三三)の作曲した歌曲。作詞はボードレール。
*「スマトラの忘れな草の花」 原詩に「……奇《く》しきさまに競《きそ》い咲く花……かの東邦の、豪《ごう》華《か》、絢《けん》爛《らん》」とあるのをさすか。
*白い睡《すい》蓮《れん》の花が 「今《こん》昔《じやく》物語」巻十九第十四によく似た話があり、芥《あくた》川《がわ》の小説「往生絵巻」に用いられている。
*的《てき》〓《れき》 あざやかな様子。
*寒《かん》山《ざん》拾《じつ》得《とく》 共に中国唐《とう》代の僧《そう》。文《もん》殊《じゆ》・普《ふ》賢《げん》の化《け》身《しん》と称《しよう》される。禅《ぜん》画《が》の好《こう》題《だい》材《ざい》で、寒山は経巻をひらき、拾得は箒《ほうき》を持っている図が多い。
*漱《そう》石《せき》先生の所 新宿区早《わ》稲《せ》田《だ》南町の漱石山《さん》房《ぼう》。
*護《ご》国《こく》寺《じ》 東京都文京区大《おお》塚《つか》五丁目にある真《しん》言《ごん》宗新義派の寺。延《えん》宝《ぽう》八年創《そう》立《りつ》。
*革《かく》命《めい》のことが書いてある 一九〇五年のロシアの革命を描いたゴーリキ作「母」(一九〇六年)か。
*商業会議所 後の商工会議所。現在の場所(千代田区丸の内)にあった。
*豊《ぶ》干《かん》禅《ぜん》師《し》 唐代禅宗の高僧。浙《せつ》江《こう》の天台山国《こく》清《せい》寺《じ》にいて奇《き》行《こう》多く、寒山拾得と交わる。
*永《えい》劫《ごう》の流《る》転《てん》 仏教で生死の因《いん》果《が》がたえずうつりめぐってきわまりないこと。
*「羅《ら》生《しよう》門《もん》」 大正四年十一月号「帝国文学」に発表。
*「枯《かれ》野《の》抄《しよう》」 大正七年十月号「新小説」に発表。
*「奉《ほう》教《きよう》人《にん》の死」 大正七年九月号「三田文学」に発表。
*私自身も…… 芥《あくた》川《がわ》は、大正五年十二月師漱石の死にあった。
*沼《ぬ》波《なみ》瓊《けい》音《おん》 明治十年―昭和二年(一八七七―一九ニ七)。国文学者・俳《はい》人《じん》。東大在学中から俳《はい》諧《かい》史《し》の研究で有名。得に芭《ば》蕉《しよう》の研究にすぐれ「芭蕉句選講話」「芭蕉句選年考」「芭蕉全集」などを著編した。同じような小説とは「芭蕉臨《りん》終《じゆう》」のこと。
*伏《ふし》見《み》 京都市伏見。芭蕉の死《し》骸《がい》は舟で淀《よど》川《がわ》をのぼり大《おお》津《つ》の義《ぎち》仲《ゆう》寺《じ》に埋《まい》葬《そう》された。
*「新小説」 文芸雑誌。明治二十二年春陽堂より創《そう》刊《かん》。明治二十九年再刊。昭和二年終刊。
*川《かわ》越《ごえ》の喜《き》多《た》院《いん》 埼玉県川越市小《こ》仙《せん》波《ば》町《まち》にある天台宗の寺。関東天台宗の中心。
*アポロ主義 ニーチェの定式化した思想の型。調和ある統一、端《たん》正《せい》な秩《ちつ》序《じよ》を目ざす。
*なほ見たし…… 「笈《おい》の小《こ》文《ぶみ》」「猿《さる》蓑《みの》」所《しよ》載《さい》。
*葛《かつら》城《ぎ》山 大阪府と奈良県の境《さかい》にある山。修《しゆう》験《げん》道《どう》の霊《れい》場《じよう》。
*小《こ》宮《みや》さん 小宮豊《とよ》隆《たか》。明治十七年―昭和四十一年(一八八四―一九六六)。独《どく》文《ぶん》学者・国文学者。漱《そう》石《せき》に師《し》事《じ》。「漱石の芸術」、伝記「夏目漱石」を執《しつ》筆《ぴつ》、芭《ば》蕉《しよう》研究にもすぐれる。
*画力は五百年…… 中国の王《おう》世《せい》貞《てい》の言葉。
*文章倶《く》楽《ら》部《ぶ》 新潮社発行の文学雑誌。大正五年―昭和四年。芥《あくた》川《がわ》のこの文を掲《けい》載《さい》。
*高《こう》青《せい》邱《きゆう》 一三三二年―一三七〇年。明《みん》初の詩人。
*韓《かん》〓《あく》 晩唐の詩人。艶《なま》めかしい詩を作り、閨《けい》房《ぼう》婦女の媚《び》態《たい》、恋《れん》情《じよう》を主題とする。「香《こう》奩《れん》集《しゆう》」三巻。この集中にあるような艶《えん》体《たい》詩《し》を香奩体というのはこの詩集の名による。
*寒《かん》食《しよく》 冬《とう》至《じ》から百五日目の日。
*月《げつ》午《ご》 真夜中の月。
*那《な》人《じん》 あの人。
*鞦《しゆう》韆《せん》 ブランコ。漢《かん》の武《ぶ》帝《てい》の時後宮に始めた遊《ゆう》戯《ぎ》。
*生《いく》田《た》春《しゆん》月《げつ》 明治二十五年−昭和五年(一八九ニ年―一九三〇年)。詩人。「霊《れい》魂《こん》の秋」など。自殺した。
*孫《そん》子《し》瀟《しよう》 本名孫《そん》源《げん》湘《しよう》。江《こう》蘇《そ》昭文の人。詩人。「天《てん》真《しん》閣《かく》集」がある。
*趙《ちよう》甌《おう》北《ほく》 趙翼《よく》。一七二九年―一八一四年。清《しん》代の歴史家、文人。
*杜《と》牧《ぼく》 八〇三年―八五二年。晩《ばん》唐《とう》の詩人。剛《ごう》直《ちよく》で気節に富む。杜《と》甫《ほ》に対して小杜という。
*江《こう》湖《こ》に…… 樊《はん》川《せん》集にある。もっとも「落《らく》魄《はく》江南…楚《そ》腰《よう》腸断…占得青《せい》楼《ろう》…」と若《じやく》干《かん》の異《い》同《どう》がある。
*僧《そう》無《ぶ》己《こ》 陳《ちん》師《し》道《どう》のこと。中国彭《ほう》城《じよう》の人。文を曾《そう》鞏《きよう》、詩を黄《おう》庭《てい》堅《けん》に学ぶ。家がはなはだ貧しかった。
*晩《ばん》笋《じゆん》 おそく生じた竹の子。
*雍《よう》陶《とう》 字、国《こく》釣《ちよう》。唐《とう》代の人。
杜《と》子《し》春《しゅん》・南《なん》京《きん》の基《きり》督《すと》
芥《あくた》川《がわ》 龍《りゅう》之《の》介《すけ》
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平成12年9月15日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『杜子春・南京の基督』昭和43年10月20日初版刊行