TITLE : 或阿呆の一生・侏儒の言葉
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目 次
たね子の憂《ゆう》鬱《うつ》
古《こ》千《ち》屋《や》
冬
手紙
三つの窓
歯車
闇《あん》中《ちゆう》問《もん》答《どう》
夢
或《ある》阿《あ》呆《ほう》の一生
本《ほん》所《じよ》両《りよう》国《ごく》
機関車を見ながら
凶
鵠《くげ》沼《ぬま》雑記
或《ある》旧《きゆう》友《ゆう》へ送る手記
侏儒の言葉
十本の針
西《さい》方《ほう》の人
続《ぞく》西《さい》方《ほう》の人
注 釈
たね子の憂《ゆう》鬱《うつ》
たね子は夫の先輩に当たるある実業家の令嬢の結婚披《ひ》露《ろう》式《しき》の通知を貰《もら》った時、ちょうど勤め先へ出かかった夫にこう熱心に話しかけた。
「あたしも出なければ悪いでしょうか?」
「それは悪いさ」
夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪《たん》笥《す》の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉《まゆ》に返事をした――のに近いものだった。
「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」
「帝国ホテル――か?」
「あら、ご存知なかったの?」
「うん、……おい、チョッキ!」
たね子は急いでチョッキをとり上げ、もう一度この披露式の話をし出した。
「帝国ホテルじゃ洋食でしょう?」
「あたりまえなことを言っている」
「それだからあたしは困ってしまう」
「なぜ?」
「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの」
「誰でも教わったり何かするものか!」
夫は上着をひっかけるが早いか、むぞうさに春の中折れ帽をかぶった。それからちょっと箪《たん》笥《す》の上の披露式の通知に目を通し「なんだ、四月の十六日《じゆうろくんち》じゃないか?」と言った。
「そりゃ十六日だって十七日《じゆうしちんち》だって……」
「だからさ、まだ三日もある。そのうちに稽《けい》古《こ》をしろと言うんだ」
「じゃあなた、あしたの日曜にでもきっとどこかへつれて行ってくださる!」
しかし夫はなんとも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子は夫を見送りながら、ちょっと憂《ゆう》鬱《うつ》にならずにはいられなかった。それは彼女の体の具合も手伝っていたことは確かだった。子供のない彼女はひとりになると、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の前の新聞をとり上げ、何かそういう記事はないかといちいち欄外へも目を通した。が、「今日《きよう》の献立」はあっても、洋食の食べかたなどというものはなかった。洋食の食べかたなどというものは?――彼女はふと女学校の教科書にそんなことも書いてあったように感じ、早《さつ》速《そく》用箪笥の抽斗《ひきだし》から古い家政読本を二冊出した。それらの本はいつの間にか手ずれの痕《あと》さえ煤《すす》けていた。のみならずまた争われない過去の匂《にお》いを放っていた。たね子は細い膝《ひざ》の上にそれらの本を開いたまま、どういう小説を読む時よりもいっしょうけんめいに目次を辿《たど》っていった。
「木《も》綿《めん》および麻織物洗《せん》濯《たく》。ハンケチ、前掛け、足袋《たび》、食卓《テエブル》掛け、ナプキン、レエス、……
「敷物。畳、絨《じゆう》毯《たん》、リノリウム、コオクカアペト《*》……
「台所用具。陶磁器類、硝子《ガラス》器類、金銀製器具……」
一冊の本に失望したたね子はもう一冊の本を検《しら》べ出した。
「繃《ほう》帯《たい》法。巻き軸帯、繃帯巾《ぎれ》、……
「出産。生児の衣服、産室、産具……
「収入および支出。労銀、利子、企業所得……
「一家の管理。家風、主婦の心得、勤勉の節倹、交際、趣味、……」
たね子はがっかりして本を投げ出し、大きい樅《もみ》の鏡台の前へ髪を結いに立って行った。が、洋食の食べかただけはどうしても気にかかってならなかった。……
その次の午後、夫はたね子の心配を見かね、わざわざ彼女を銀座の裏のあるレストオランへつれて行った。たね子はテエブルに向かいながら、まずそこには彼ら以外に誰もいないのに安心した。しかしこの店もはやらないのかと思うと、夫のボオナスにも影響した不景気を感ぜずにはいられなかった。
「きのどくだわね、こんなにお客がなくっては」
「常談言っちゃいけない。こっちはお客のない時間を選《よ》って来たんだ」
それから夫はナイフやフォオクをとり上げ、洋食の食べかたを教え出した。それもまた実は必ずしも確かではないのに違いなかった。が、彼はアスパラガスにいちいちナイフを入れながら、とにかくたね子を教えるのに彼の全智識を傾けていた。彼女ももちろん熱心だった。しかし最後にオレンジだのバナナだのの出て来た時にはおのずからこういう果物の値段を考えないわけにはゆかなかった。
彼らはこのレストオランをあとに銀座の裏を歩いて行った。夫はやっと義務を果たした満足を感じているらしかった。が、たね子は心の中に何度もフォオクの使いかただのカッフェの飲みかただのを思い返していた。のみならず万一間違った時には――という病的な不安も感じていた。銀座の裏は静かだった。アスファルトの上へ落ちた日あしもやはり静かに春めかしかった。しかしたね子は夫の言葉にいいかげんな返事を与えながら、遅れがちに足を運んでいた。……
帝国ホテルの中へはいるのはもちろん彼女にははじめてだった。たね子は紋《もん》服《ぷく》を着た夫を前に狭い階段を登りながら、大《おお》谷《や》石《いし》や煉《れん》瓦《が》を用いた内部に何か無気味に近いものを感じた。のみならず壁を伝わって走る、大きい一匹の鼠《ねずみ》さえ感じた。感じた?――それは実際「感じた」だった。彼女は夫の袂《たもと》を引き「あら、あなた、鼠が」と言った。が、夫はふり返ると、ちょっと当惑らしい表情を浮かべ、「どこに?……気のせいだよ」と答えたばかりだった。たね子は夫にこう言われない前にも彼女の錯《さつ》覚《かく》に気づいていた。しかし気づいていればいるだけますます彼女の神経にこだわらないわけにはゆかなかった。
彼らはテエブルの隅《すみ》に坐《すわ》り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角《つの》隠《かく》しをかけた花嫁にも時々目を注いでいた。が、それよりも気がかりだったのはもちろん皿《さら》の上の料理だった。彼女はパンを口へ入れるのにも体じゅうの神経の震《ふる》えるのを感じた。ましてナイフを落とした時には途方に暮れるよりほかなかった。けれども晩《ばん》餐《さん》は幸いにもおもむろに最後に近づいていった。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものの出て来た時には食事もおしまいになったと思え」という夫の言葉を思い出した。しかしやっとひと息ついたと思うと、今度は三鞭酒《シャンパン》の杯を挙《あ》げて立ち上がらなければならなかった。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだった。彼女はおずおず椅《い》子《す》を離れ、目八分に杯をさし上げたまま、いつか脊骨《せぼね》さえ震え出したのを感じた。
彼らはある電車の終点から細い横町を曲がって行った。夫はかなり酔っているらしかった。たね子は夫の足もとに気をつけながらはしゃぎぎみに何かと口を利《き》いたりした。そのうちに彼らは電灯の明るい「食堂」の前へ通りかかった。そこにはシャツ一枚の男が一人「食堂」の女中とふざけながら、章魚《たこ》を肴《さかな》に酒を飲んでいた。それはもちろん彼女の目にはちらりと見えたばかりだった。が、彼女はこの男を、――この無《ぶ》精《しよう》髭《ひげ》を伸ばした男を軽《けい》蔑《べつ》しないわけにはゆかなかった。同時にまた自然と彼の自由を羨まないわけにもゆかなかった。この「食堂」を通り越したあとはじきにしもた家ばかりになった。したがってあたりも暗くなりはじめた。たね子はこういう夜の中に何か木の芽の匂《にお》うのを感じ、いつかしみじみと彼女の生まれた田舎《いなか》のことを思い出していた。五十円の債券を二、三枚買って「これでも不動産(!)が殖《ふ》えたのだからね」などと得意になっていた母親のことも。……
次の日の朝、妙に元気のない顔をしたたね子はこう夫に話しかけた。夫はやはり鏡の前にタイを結んでいるところだった。
「あなた、けさの新聞を読んで?」
「うん」
「本《ほん》所《じよ》かどこかのお弁当屋の娘の気違いになったという記事を読んで?」
「発狂した? なんで?」
夫はチョッキへ腕を通しながら、鏡の中のたね子へ目を移した。たね子というよりもたね子の眉《まゆ》へ。……
「職工か何かにキスされたからですって」
「そんなことくらいでも発狂するものかな」
「そりゃするわ。すると思ったわ。あたしもゆうべは怖《こわ》い夢を見た……」
「どんな夢を?――このタイはもう今《こ》年《とし》ぎりだね」
「何か大へんな間違いをしてね、――何をしたのだかわからないのよ。何か大へんな間違いをして汽車の線路へとびこんだ夢なの。そこへ汽車が来たものだから、――」
「轢《ひ》かれたと思ったら、目を醒《さま》したのだろう」
夫はもう上衣《うわぎ》をひっかけ、春の中折れ帽をかぶっていた。が、まだ鏡に向かったまま、タイの結びかたを気にしていた。
「いいえ、轢かれてしまってからも、夢の中ではちゃんと生きているの。ただ体はめちゃめちゃになって眉毛だけ線路に残っているのだけれども、……やっぱりこの二三日《にさんち》洋食の食べかたばかり気にしていたせいね」
「そうかもしれない」
たね子は夫を見送りながら、半《なか》ば独《ひとり》言《ごと》のように話しつづけた。
「もうゆうべ大しくじりをしたら、あたしでも何をしたかわからないのだから」
しかし夫はなんとも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子はやっとひとりになると、その日も長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の前に坐《すわ》り、急《きゆう》須《す》の湯飲みについであった、ぬるい番茶を飲むことにした。が、彼女の心もちは何か落ち着きを失っていた。彼女の前にあった新聞は花盛りの上《うえ》野《の》の写真を入れていた。彼女はぼんやりこの写真を見ながら、もう一度番茶を飲もうとした。すると番茶はいつの間にか雲母《きらら》に似たあぶらを浮かせていた。しかもそれは気のせいか、彼女の眉《まゆ》にそっくりだった。
「…………」
たね子は頬《ほお》杖《づえ》をついたまま、髪を結う元気さえ起こらずにずっと番茶ばかり眺めていた。
(昭和二年三月二十八日)
古《こ》千《ち》屋《や》
一
樫《かし》井《い》の戦い《*》のあったのは元和《げんな》元年四月二十九日だった。大阪勢の中でも名を知られた塙《ばん》団《だん》右衛《え》門《もん》直《なお》之《ゆき*》、淡輪《たんなわ》六《ろく》郎《ろう》兵《びよう》衛《え》重《しげ》政《まさ*》らはいずれもこの戦いのために打ち死にした。ことに塙団右衛門直之は金の御《ご》幣《へい》の指《さ》し物《もの》に十文字の槍《やり》をふりかざし、槍の柄《つか》の折れるまで戦ったのち、樫井の町の中に打ち死にした。
四月三十日の未《ひつじ》の刻、彼らの軍勢を打ち破った浅《あさ》 野《の》 但 馬 《たじまの》守《かみ》 長《なが》 晟《あきら*》は大御所徳川家康に戦いの勝利を報じた上、直之の首を献上した。(家康は四月十七日以来、二条の城にとどまっていた。それは将軍秀《ひで》忠《ただ》の江戸から上《じよう》洛《らく》するのを待ったのち、大阪の城をせめるためだった)この使に立ったのは長晟の家来、関《せき》宗《そう》兵衛《べえ》、寺《てら》川《かわ》左馬助《さまのすけ》の二人だった。
家康は本《ほん》多《だ》佐渡守《さどのかみ》正《まさ》純《ずみ*》に命じ、直之の首を実《じつ》検《けん》しようとした。正純は次の間に退いて静かに首《くび》桶《おけ》の蓋《ふた》をとり、直之の首を内《ない》見《けん》した。それから蓋の上に卍《まんじ》を書き、さらにまた矢の根を伏せたのち、こう家康に返事をした。
「直之の首は暑中の折から、頬《ほお》たれ首になっております。したがって臭気もはなはだしゅうございますゆえ、ご検分はいかがでございましょうか?」
しかし家康は承知しなかった。
「誰《だれ》も死んだ上は変わりはない。とにかくこれへ持って参るように」
正純はまた次の間へ退き、母布《ほろ》をかけた首《くび》桶《おけ》を前にいつまでもじっと坐《すわ》っていた。
「早《はよ》うせぬか」
家康は次の間へ声をかけた。遠《えん》州《しゆう》横《よこ》須《す》賀《か》の徒士《かち》のものだった塙団右衛門直之はいつか天下に名を知られた物《もの》師《し》の一人に数えられていた。のみならず家康の妾《しよう》お万の方も彼女の生んだ頼《より》宣《のぶ*》のために一時は彼に年ごとに二百両の金を合《ごう》力《りよく》していた。最後に直之は武芸のほかにも大《だい》龍《りゆう》和尚《おしよう*》の会《え》下《か》に参じて一字不立《ふりゆう》の道を修めていた。家康のこういう直之の首を実検したいと思ったのも必ずしも偶然ではないのだった。……
しかし正純は返事をせずに、やはり次の間に控えていた成《なる》瀬《せ》隼人《はやとの》正《しよう》正《まさ》成《なり*》や土《ど》井《い》大炊頭《おおいのかみ》利《とし》勝《かつ*》へ問わず語りに話しかけた。
「とかく人と申すものは年をとるに従って情ばかり剛《こわ》くなるものと聞いております。大御所ほどの弓取りもやはりこれだけは下々のものと少しもお変わりなさりませぬ。正純も弓矢の故《こ》実《じつ》だけはいささかわきまえたつもりでおります。直之の首は一つ首でもあり、目を見開いておればこそ、ご実検をお断わり申し上げました。それをしいてお目通りへ持って参れと御《ぎよ》意《い》なさるのはそのよい証拠ではございませぬか?」
家康は花鳥の襖《ふすま》越《ご》しに正純の言葉を聞いたのち、もちろん二度と直之の首を実検しようとは言わなかった。
ニ
すると同じ三十日の夜、井《い》伊《い》掃部頭《かもんのかみ》直《なお》孝《たか*》の陣屋に召使になっていた女が一人にわかに気の狂ったように叫び出した。彼女はやっと三十を越した、古《こ》千《ち》屋《や》という名の女だった。
「塙団右衛門ほどの侍《さむらい》の首も大御所の実《じつ》検《けん》には具《そな》えおらぬか? 某《それがし》も一《ひと》手《て》の大将だったものを。こういう辱《はずか》しめを受けた上は必ず祟《たた》りをせずにはおかぬぞ。……」
古千屋はつづけさまに叫びながら、そのたびに空中へ踊り上がろうとした。それはまた左右の男《なん》女《によ》たちの力もほとんど抑《おさ》えることのできないものだった。すさまじい古千屋の叫び声はもちろん、彼らの彼女を引き据《す》えようとする騒ぎもひとかたならないのに違いなかった。
井伊の陣屋の騒がしいことはおのずから徳川家康の耳にもはいらないわけにはゆかなかった。のみならず直孝は家康に謁《えつ》し、古千屋に直之の悪霊の乗り移ったために誰も皆恐れていることを話した。
「直之の怨《うら》むのも不思議はない。では早《さつ》速《そく》首実検しよう」
家康は大《おお》蝋《ろう》燭《そく》の光の中にこうきっぱり言葉を下した。
夜ふけの二条の城の居間に直之の首を実検するのは昼間よりもかえってものものしかった。家康は茶色の羽《は》織《おり》を着、下《した》括《くく》りの袴《はかま》をつけたまま、式通りに直之の首を実検した。そのまた首の左右には具足をつけた旗《はた》本《もと》が二人いずれも太刀《たち》の柄《つか》に手をかけ、家康の実検する間はじっと首へ目を注いでいた。直之の首は頬《ほお》たれ首ではなかった。が、赤《しやく》銅《どう》色《いろ》を帯びた上、本多正純の言ったように大きい両眼を見開いていた。
「これで塙団右衛門もさだめし本《ほん》望《もう》でございましょう」
旗本の一人、――横田甚《じん》右衛《え》門《もん*》はこう言って家康に一礼した。
しかし家康は頷《うなず》いたぎり、なんともこの言葉に答えなかった。のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素《す》姓《じよう》だけは検《しら》べておけよ」と小声に彼に命令した。
三
家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋はこの話を耳にすると、「本望、本望」と声をあげ、しばらく微笑を浮かべていた。それからいかにも疲れはてたように深い眠りに沈んでいった。井伊の陣屋の男《なん》女《によ》たちはやっと安《あん》堵《ど》の思いをした。実際古千屋の男のように太い声に罵《ののし》りたてるのは気味の悪いものだったのに違いなかった。
そのうちに夜は明けていった。直孝はさっそく古千屋を召し、彼女の素姓を尋ねてみることにした。彼女はこういう陣屋にいるにはあまりにか細い女だった。ことに肩の落ちているのはもの哀れよりもむしろいたいたしかった。
「そちはどこで産まれたな?」
「芸《げい》州《しゆう》広島のご城下でございます」
直孝はじっと古千屋を見つめ、こういう問答を重ねたのち、おもむろに最後の問いを下した。
「そちは塙《ばん》のゆかりのものであろうな?」
古千屋ははっとしたらしかった。が、ちょっとためらったのち、存外はっきり返事をした。
「はい。お羞《はずか》しゅうございますが」
直之は古千屋の話によれば、彼女に子を一人生ませていた。
「そのせいでございましょうか、昨夜もご実《じつ》検《けん》くださらぬと聞き、女ながらも無念に存じますと、いつか正《しよう》気《き》を失いましたとみえ、何やら口走ったように承っております。もとよりわたくしの一存には覚えのないことばかりでございますが。……」
古千屋は両手をついたまま、明らかに興奮しているらしかった。それはまた彼女のやつれた姿にちょうど朝日に輝いている薄《うす》ら氷《い》に近いものを与えていた。
「よい。よい。もう下がって休息せい」
直孝は古千屋を退けたのち、もう一度家康の目《め》通《どお》りへ出、いちいち彼女の身の上を話した。
「やはり塙団右衛門にゆかりのあるものでございました」
家康ははじめて微笑した。人生は彼には東海道の地図のように明らかだった。家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏のあるという事実を感じないわけにはゆかなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合していた。……
「さもあろう」
「あの女はいかがいたしましょう?」
「よいわ、やはり召し使っておけ」
直孝はやや苛《いら》立《だ》たしげだった。
「けれども上《かみ》を欺《あざむ》きました罪は……」
家康はしばらくだまっていた。が、彼の心の目は人生の底にある闇《あん》黒《こく》に――そのまた闇黒の中にいるいろいろの怪物に向かっていた。
「わたくしの一存にとり計らいましても、よろしいものでございましょうか?」
「うむ、上を欺いた……」
それは実際直孝には疑う余地などのないことだった。しかし家康はいつの間にか人一倍大きい目をしたまま、何か敵勢にでも向かい合ったようにこう堂々と返事をした。――
「いや、おれは欺かれはせぬ」
(昭和二年五月七日)
冬
僕は重い外《がい》套《とう》にアストラカンの帽をかぶり、市《いち》ヶ谷《や》の刑務所へ歩いて行った。僕の従兄《いとこ*》は四、五日前にそこの刑務所にはいっていた。僕は従兄を慰《なぐさ》める親《しん》戚《せき》総代にほかならなかった。が、僕の気もちの中には刑務所に対する好奇心もまじっていることは確かだった。
二月に近い往来は売出しの旗などの残っていたものの、どこの町全体も冬枯れていた。僕は坂を登りながら、僕自身も肉体的にしみじみ疲れていることを感じた。僕の叔《お》父《じ》は去年の十一月に喉《こう》頭《とう》癌《がん》のために故人になっていた。それから僕の遠《とお》縁《えん》の少年はこの正月に家出していた。それから――しかし従兄の収監は僕には何よりも打撃だった。僕は従兄の弟といっしょに最も僕には縁の遠い交渉を重ねなければならなかった。のみならずそれらの事件にからまる親戚同志の感情上の問題は東京に生まれた人々以外に通じにくいこだわりを生じがちだった。僕は従兄と面会した上、ともかくどこかに一週間でも静養したいと思わずにはいられなかった。
市ヶ谷の刑務所は草の枯れた、高い土《ど》手《て》をめぐらしていた。のみならずどこか中世紀じみた門には太い木の格《こう》子《し》戸《ど》の向こうに、霜に焦《こ》げた檜《ひのき》などのある、砂利《じやり》を敷いた庭を透《す》かしていた。僕はこの門の前に立ち、長い半白の髭《ひげ》を垂《た》らした、好人物らしい看守に名刺を渡した。それからあまり門と離れていない、庇《ひさし》の厚い苔《こけ》の乾いた面会人控え室へつれて行ってもらった。そこにはもう僕のほかにも薄《うす》縁《べり》を張った腰かけの上に何人も腰をおろしていた。しかしいちばん目立ったのは黒《くろ》縮《ちり》緬《めん》の羽《は》織《おり》をひっかけ、何か雑誌を読んでいる三十四、五の女だった。
妙に無《ぶ》愛《あい》想《そう》な一人の看守は時々こういう控え室へ来、少しも抑《よく》揚《よう》のない声にちょうど面会の順に当たった人々の番号を呼び上げて行った。が、僕はいつまで待っても、容易に番号を呼ばれなかった。いつまで待っても――僕の刑務所の門をくぐったのはかれこれ十時になりかかっていた。けれども僕の腕時計はもう一時十分前だった。
僕はもちろん腹も減りはじめた。しかしそれよりもやり切れなかったのは全然火の気《け》というもののない控え室の中の寒さだった。僕は絶えず足踏みをしながら、苛《いら》々《いら》する心もちを抑《おさ》えていた。が、大勢の面会人は誰《だれ》も存外平気らしかった。ことに丹《たん》前《ぜん》を二枚重ねた、博《ばく》奕《ち》打ちらしい男などは新聞一つ読もうともせず、ゆっくり蜜柑《みかん》ばかり食いつづけていた。
しかし大勢の面会人も看守の呼び出しに来るたびにだんだん数を減らしていった。僕はとうとう控え室の前へ出、砂《じや》利《り》を敷いた庭を歩きはじめた。そこには冬らしい日の光も当たっているのに違いなかった。けれどもいつか立ち出した風も僕の顔へ薄い塵《ちり》を吹きつけて来るのに違いなかった。僕は自然と依《え》怙《こ》地《じ》になり、とにかく四時になるまでは控え室へはいるまいと決心した。
僕はあいにく四時になっても、まだ呼び出してもらわれなかった。のみならず僕よりあとに来た人々もいつか呼び出しに遇《あ》ったとみえ、たいていはもういなくなっていた。僕はとうとう控え室へはいり、博奕打ちらしい男にお時宜《じぎ》をした上、僕の場合を相談した。が、彼はにこりともせず、浪花《なにわ》節《ぶし》語りに近い声にこういう返事をしただけだった。
「一日《いちんち》に一人しか合わせませんからね。お前さんの前に誰か会っているんでしょう」
もちろんこういう彼の言葉は僕を不安にしたのに違いなかった。僕はまた番号を呼びに来た看守にいったい従兄《いとこ》に面会することはできるかどうか尋ねることにした。しかし看守は僕の言葉に全然返事をしなかった上、僕の顔を見ずに歩いて行ってしまった。同時にまた博奕《ばくち》打ちらしい男も二、三人の面会人といっしょに看守のあとについて行ってしまった。僕は土《ど》間《ま》のまん中に立ち、機械的に巻《ま》き煙草《たばこ》に火をつけたりした。が、時間の移るにつれ、だんだん無《ぶ》愛《あい》想《そう》な看守に対する憎しみの深まるのを感じ出した。(僕はこの侮《ぶ》辱《じよく》を受けた時に急に不快にならないことをいつも不思議に思っている)
看守のもう一度呼び出しに来たのはかれこれ五時になりかかっていた。僕はまたアストラカンの帽をとった上、看守に同じことを問いかけようとした。すると看守は横を向いたまま、僕の言葉を聞かないうちにさっさと向こうへ行ってしまった。「あまりと言えばあまり」とは実際こういう瞬間の僕の感情に違いなかった。僕は巻き煙草の吸いさしを投げつけ、控え室の向こうにある刑務所の玄関へ歩いて行った。
玄関の石段を登った左には和服を着た人も何人か硝子《ガラス》窓《まど》の向こうに事務を執《と》っていた。僕はその硝子窓をあけ、黒い紬《つむぎ》の紋つきを着た男にできるだけ静かに話しかけた。が、顔色の変わっていることは僕自身はっきり意識していた。
「僕はTの面会人です。Tには面会はできないんですか?」
「番号を呼びに来るのを待ってください」
「僕は十時ごろから待っています」
「そのうちに呼びに来るでしょう」
「呼びに来なければ待っているんですか? 日が暮れても待っているんですか?」
「まあ、とにかく待ってください。とにかく待った上にしてください」
相手は僕のあばれでもするのを心配しているらしかった。僕は腹の立っているうちにもちょっとこの男に同情した。「こっちは親《しん》戚《せき》総代になっていれば、向こうは刑務所総代になっている」――そんなおかしさも感じないのではなかった。
「もう五時過ぎになっています。面会だけはできるように取り計らってください」
僕はこう言い捨てたなり、ひとまず控え室へ帰ることにした。もう暮れかかった控え室の中にはあの丸《まる》髷《まげ》の女が一人、今度は雑誌を膝《ひざ》の上に伏せ、ちゃんと顔を起こしていた。まともに見た彼女の顔はどこかゴシックの彫刻らしかった。僕はこの女の前に坐《すわ》り、いまだに刑務所全体に対する弱者の反感を感じていた。
僕のやっと呼び出されたのはかれこれ六時になりかかっていた。僕は今度は目のくりくりした、機敏らしい看守に案内され、やっと面会室の中にはいることになった。面会室は室《へや》というものの、せいぜい、二、三尺四方ぐらいだった。のみならず僕のはいったほかにもペンキ塗りの戸の幾つも並んでいるのは共同便所にそっくりだった。面会室の正面にこれも狭い廊下越しに半月形の窓が一つあり、面会人はこの窓の向こうに顔を顕《あらわ》す仕組みになっていた。
従兄《いとこ》はこの窓の向こうに、――光の乏しい硝子《ガラス》窓《まど》の向こうにまるまると肥《ふと》った顔を出した。しかし存外変わっていないことはいくぶんか僕を力丈夫にした。僕らは感傷主義を交えずに手短に用事を話し合った。が、僕の右隣には兄に会いに来たらしい十六、七の女が一人とめどなしに泣き声を洩《も》らしていた。僕は従兄と話しながら、この右隣の泣き声に気をとめないわけにはゆかなかった。
「今度のことは全然冤《えん》罪《ざい》ですから、どうか皆さんにそう言ってください」
従兄《いとこ》は切り口《こう》上《じよう》にこう言ったりした。僕は従兄を見つめたまま、この言葉にはなんとも答えなかった。しかしなんとも答えなかったことはそれ自身僕に息苦しさを与えないわけにはゆかなかった。現に僕の左隣にはまだらに頭の禿《は》げた老人が一人やはり半月形の窓越しに息《むす》子《こ》らしい男にこう言っていた。
「会わずにひとりでいる時にはいろいろのことを思い出すのだが、どうも会うとなると忘れてしまってな」
僕は面会室の外へ出た時、何か従兄にすまなかったように感じた。が、それは僕ら同志の連帯責任であるようにも感じた。僕はまた看守に案内され、寒さの身にしみる刑務所の廊下を大股に玄関へ歩いて行った。
ある山の手の従兄の家には僕の血を分けた従姉《いとこ》が一人僕を待ち暮らしているはずだった。僕はごみごみした町の中をやっと四《よつ》谷《や》見《み》附《つけ》の停留所へ出、満員の電車に乗ることにした。「会わずにひとりいる時には」と言った、妙に力のない老人の言葉はいまだに僕の耳に残っていた。それは女の泣き声よりもいっそう僕には人間的だった。僕は吊《つり》り革《かわ》につかまったまま、夕明りの中に電灯をともした麹《こうじ》町《まち》の家々を眺《なが》め、いまさらのように「人さまざま」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
三十分ばかりたったのち、僕は従兄の家の前に立ち、コンクリイトの壁についたベルの鈕《ボタン》へ指をやっていた。かすかに伝わって来るベルの音は玄関の硝子《ガラス》戸《ど》の中に電灯をともした。それから年をとった女中が一人細目に硝子戸をあけて見たのち、「おや……」なんとか間《かん》投《とう》詞《し》を洩《も》らし、すぐに僕を往来に向かった二階の部屋へ案内した。僕はそこのテエブルの上へ外《がい》套《とう》や帽子を投げ出した時、一時に今まで忘れていた疲れを感じずにはいられなかった。女中は瓦斯《ガス》暖《だん》炉《ろ》に火をともし、僕一人を部屋の中に残して行った。多少の蒐《しゆう》集《しゆう》癖《へき》を持っていた従兄はこの部屋の壁にも二、三枚の油画や水彩画をかかげていた。僕はぼんやりそれらの画を見比べ、いまさらのように有《う》為《い》転変などという音の言葉を思い出していた。
そこへ前後してはいって来たのは従姉《いとこ》や従兄の弟だった。従姉も僕の予期したよりもずっと落ち着いているらしかった。僕はできるだけ正確に彼らに従兄の伝言を話し、今度の処置を相談し出した。従姉は格別積極的にどうしようという気も持ち合わせなかった。のみならず話の相間にもアストラカンの帽をとり上げ、こんなことを僕に話しかけたりした。
「妙な帽子ね。日本でできるもんじゃないでしょう?」
「これ? これはロシア人のかぶる帽子さ」
しかし従兄の弟は従兄以上に「仕事師」だけにいろいろの障害を見越していた。
「なにしろこの間も兄貴の友だちなどは××新聞の社会部の記者に名刺を持たせてよこすんです。その名刺には口止め料金のうち半金は自腹を切っておいたから、残金を渡してくれと書いてあるんです。それもこっちで検《しら》べてみれば、その新聞記者に話したのは兄貴の友だち自身なんですからね。もちろん半金などを渡したんじゃない。ただ残金をとらせによこしているんです。そのまた新聞記者も新聞記者ですし、……」
「僕もとにかく新聞記者《*》ですよ。耳の痛いことはご免《めん》蒙《こうむ》りますかね」
僕は僕自身を引き立てるためにも常《じよう》談《だん》を言わずにはいられなかった。が、従兄《いとこ》の弟は酒気を帯びた目を血走らせたまま、演説でもしているように話しつづけた。それは実際常談さえうっかり言われない権《けん》幕《まく》に違いなかった。
「おまけに予審判事を怒《おこ》らせるためにわざと判事をつかまえては兄貴を弁護する手合いもあるんですからね」
「それはあなたからでも話していただけば、……」
「いや、もちろんそう言っているんです。ご厚意は重々感謝しますけれども、判事の感情を害すると、かえってご厚意に背《そむ》きますからと頭を下げて頼んでいるんです」
従姉《いとこ》は瓦斯《ガス》暖《だん》炉《ろ》の前に坐《すわ》ったまま、アストラカンの帽をおもちゃにしていた。僕は正直に白状すれば、従兄の弟と話しながら、この帽のことばかり気にしていた。火の中にでも落とされてはたまらない。――そんなことも時々考えていた。この帽は僕の友だちのベルリンのユダヤ人町を探《さが》した上、偶然モスクワへ足を伸ばした時、やっと手に入れることのできたものだった。
「そう言っても駄《だ》目《め》ですかね?」
「駄目どころじゃありません。僕は君たちのためを思って骨を折っていてやるのに失敬なことを言うなとくるんですから」
「なるほどそれじゃどうすることもできない」
「どうすることもできません。法律上の問題にはもちろん、道徳上の問題にもならないんですからね。とにかく外見は友人のために時間や手数をつぶしている、しかし事実は友人のために陥《おと》し穽《あな》を掘る手伝いをしている、――あたしもずいぶん奮闘主義ですが、ああいうやつにかかっては手も足も出すことはできません」
こういう僕らの話のうちににわかに僕らを驚かしたのは「T君万《ばん》歳《ざい》」という声だった。僕は片手に窓かけを挙《あ》げ、窓越しに往来へ目を落とした。狭い往来には人々が大勢道幅いっぱいに集まっていた。のみならず××町青年団と書いた提《ちよう》灯《ちん》が幾つも動いていた。僕は従姉たちと顔を見合わせ、ふと従兄には××青年団団長という肩書もあったのを思い出した。
「お礼を言いに出なくっちゃいけないでしょうね」
従姉はやっと「たまらない」という顔をし、僕ら二人を見比べるようにした。
「なに、わたしが行って来ます」
従兄の弟はむぞうさにさっさと部屋を後ろにして行った。僕は彼の奮闘主義にある羨《うらやま》しさを感じながら、従姉の顔を見ないように壁の上の画《え》などを眺《なが》めたりした。しかし何も言わずにいることはそれ自身僕には苦しかった。といって何か言ったために二人とも感傷的になってしまうことはなおさら僕には苦しかった。僕は黙って巻き煙草に火をつけ、壁にかかげた画の一枚に、――従兄自身の肖《しよう》像《ぞう》画《が》に遠近法の狂いなどを見つけていた。
「こっちは万《ばん》歳《ざい》どころじゃありはしない。そんなことを言ったってしかたはないけれども……」
従姉は妙にそらぞらしい声にとうとう僕に話しかけた。
「町内ではまだ知らずにいるのかしら」
「ええ、……でもいったいどうしたんでしょう?」
「何が?」
「Tのことよ。お父さんのこと」
「それはTさんの身になってみれば、いろいろ事情もあったろうしさ」
「そうでしょうか?」
僕はいつか苛《いら》立《だ》たしさを感じ、従姉に後ろを向けたまま、窓の前へ歩いて行った。窓の下の人々は相変わらず万歳を挙げていた。それはまた「万歳、万歳」と三度繰り返して唱えるものだった。従兄の弟は玄関の前へ出、手ん手に提灯《ちょうちん》をさし上げた大勢の人々にお時《じ》宜《ぎ》をしていた。のみならず波の左右には小さい従兄の娘たちも二人、彼に手をひかれたまま、時々取ってつけたようにちょっとお下げの頭を下げたりしていた。……
それからもう何年かたった、ある寒さの厳《きび》しい夜、僕は従兄の家の茶の間に近ごろ始めた薄荷《はっか》パイプを啣《くわ》え、従姉と差し向かいに話していた。初《しよ》七日《なのか》を越した家の中は気味の悪いほどもの静かだった。従兄の白木の位《い》牌《はい》の前には灯心が一本火を灯《とも》していた。そのまた位牌を据《す》えた机の前には娘たちが二人夜《よ》着《ぎ》をかぶっていた。僕はめっきり年をとった従姉の顔を眺めながら、ふとあの僕を苦しめた一日の出来事を思い出した。しかし僕の口に出したのはこういうあたりまえの言葉だけだった。
「薄荷《はつか》パイプを吸っていると、よけい寒さも身にしみるようだね」
「そうお、あたしも手足が冷えてね」
従姉はあまり気のないように長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の炭などを直していた。……
(昭和二年六月四日)
手 紙
僕は今この温泉宿に滞在しています。避暑する気もちもないではありません。しかしまだそのほかにゆっくり読んだり書いたりしたい気もちもあることは確かです。ここは旅行案内の広告によれば、神経衰弱によいとかいうことです。そのせいか狂人も二人ばかりいます。一人は二十七、八の女です。この女は何も口を利《き》かずに手《て》風《ふう》琴《きん》ばかり弾《ひ》いています。が、身なりはちゃんとしていますから、どこか相当な家の奥さんでしょう。のみならず二、三度見かけたところではどこかちょっと混血児《あいのこ》じみた、輪《りん》廓《かく》の正しい顔をしています。もう一人の狂人は赤あかと額の禿《は》げ上がった四十前後の男です。この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところをみると、まだ狂人にならない前には何か意《い》気《き》な商売でもしていたのかもしれません。僕はもちろんこの男とはたびたび風呂の中でもいっしょになります。K君は(これはここに滞在しているある大学の学生です)この男の入れ墨を指さして、いきなり「君の細君の名はお松さんだね」と言ったものです。するとこの男は湯に浸ったまま、子供のように赤い顔をしました。……
K君は僕よりも十も若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子とかなり懇《こん》意《い》にしている人です。M子さんは昔ふうに言えば、若《わか》衆《しゆう》顔《がお》をしているとでも言うのでしょう。僕はM子さんの女学校時代にお下《さ》げに白い後《うし》ろ鉢《はち》巻《まき》をした上、薙《なぎ》刀《なた》を習ったということを聞き、さだめしそれは牛若丸か何かに似ていたことだろうと思いました。もっともこのM子さん親子にはS君もやはり交際しています。S君はK君の友だちです。ただK君と違うのは、――僕はいつも小説などを読むと、二人の男性を差別するために一人を肥《ふと》った男にすれば、一人を痩《や》せた男にするのをちょっとこっけいに思っています。それからまた一人を豪放な男にすれば、一人を繊《せん》弱《じやく》な男にするのにもやはり微笑《ほほえ》まずにはいられません。現にK君やS君は二人とも肥ってはいないのです。のみならず二人とも傷つきやすい神経を持って生まれているのです。が、K君はS君のように容易に弱みを見せません。実際また弱みを見せない修業を積もうともしているらしいのです。
K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合っているのはこれだけです。もっともつき合いと言ったにしろ、ただいっしょに散歩したり話したりするほかはありません。なにしろここには温泉宿のほかに(それもたった二軒だけです)カッフェ一つないのです。僕はこういう寂しさを少しも不足には思っていません。しかしK君やS君は時々「我らの都会に対する郷愁」というものを感じています。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雑です。M子さん親子は貴族主義者です。したがってこういう山の中に満足しているわけはありません。しかしその不満の中に満足を感じているのです。少なくともかれこれ一月だけの満足を感じているのです。
僕の部屋は二階の隅《すみ》にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かい、午前だけはちゃんと勉強します。午後はトタン屋根に日が当たるものですから、その烈《はげ》しい火照《ほて》りだけでもとうてい本などは読めません。では何をするかと言えば、K君やS君に来てもらってトランプや将《しよう》棊《ぎ》に閑《ひま》をつぶしたり、組み立て細工の木《き》枕《まくら》をして(これはここの名産です)昼寝をしたりするだけです。五、六日前の午後のことです。僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋《しぶ》紙《がみ》の表紙をかけた「大《おお》久《く》保《ぼ》武蔵《むさし》鐙《あぶみ*》」を読んでいました。するとそこへ襖《ふすま》をあけていきなり顔を出したのは下の部屋にいるM子さんです。僕はちょっと狼《ろう》狽《ばい》し、ばかばかしいほどちゃんと坐《すわ》り直しました。
「あら、皆さんはいらっしゃいませんの?」
「ええ。きょうは誰《だれ》も、……まあ、どうかおはいりなさい」
M子さんは襖をあけたまま、僕の部屋の縁《えん》先《さき》に佇《たたず》みました。
「この部屋はお暑うございますわね」
逆光線になったM子さんの姿は耳だけ真紅に透《す》いて見えます。僕は何か義務に近いものを感じ、M子さんの隣に立つことにしました。
「あなたのお部屋は涼しいでしょう」
「ええ、……でも手《て》風《ふう》琴《きん》の音ばかりして」
「ああ、あの気違いの部屋の向こうでしたね」
僕らはこんな話をしながら、しばらく縁先に佇んでいました。西日を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいています。そこへ庭の葉桜の枝から毛虫が一匹転《ころ》げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二、三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実にあっけない死です。同時にまた実に世話のない死です。――
「フライ鍋の中へでも落ちたようですね」
「あたしは毛虫は大きらい」
「僕は手でもつまめますがね」
「Sさんもそんなことを言っていらっしゃいました」
M子さんはまじめに僕の顔を見ました。
「S君もね」
僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞こえたのでしょう。(僕は実はM子さんに、――というよりもM子さんという少女の心理に興味を持っていたのですが)M子さんはいくぶんか拗《す》ねたようにこう言って手すりを離れました。
「じゃまたのちほど」
M子さんの帰って行ったのち、僕はまた木《き》枕《まくら》をしながら、「大久保武蔵鐙」を読みつづけました。が、活字を追う間に時々あの毛虫のことを思い出しました。……
僕の散歩に出かけるのはいつもたいていは夕飯前です。こういう時にはM子さん親子をはじめ、K君やS君もいっしょに出るのです。そのまた散歩する場所もこの村の前後二、三町の松林よりほかにはありません。これは毛虫の落ちるのを見た時よりもあるいは前の出来事でしょう。僕らはやはりはしゃぎながら、松林の中を歩いていました。僕らは?――もっともM子さんのお母さんだけは例外です。この奥さんは年よりは少なくとも十ぐらいはふけて見えるのでしょう。僕はM子さんの一家のことは何も知らないものの一人です。しかしいつか読んだ新聞記事によれば、この奥さんはM子さんやM子さんの兄さんを産んだ人ではないはずです。M子さんの兄さんはどこかの入学試験に落第したためにお父さんのピストルで自殺しました。僕の記憶を信ずるとすれば、新聞は皆兄さんの自殺したのもこの後妻に来た奥さんに責任のあるように書いていました。この奥さんの年をとっているのもあるいはそんなためではないでしょうか? 僕はまだ五十を越していないのに髪の白い奥さんを見るたびにどうもそんなことを考えやすいのです。しかし僕ら四人だけはとにかくしゃべりつづけにしゃべっていました。するとM子さんは何を見たのか、「あら、いや」と言ってK君の腕を抑《おさ》えました。
「なんです? 僕は蛇《へび》でも出たのかと思った」
それは実際なんでもない。ただ乾《かわ》いた山砂の上に細かい蟻《あり》が何匹も半《はん》死《し》半《はん》生《しよう》の赤《あか》蜂《はち》を引きずって行こうとしていたのです。赤蜂は仰《あおむ》けになったなり、時々裂けかかった翅《はね》を鳴らし、蟻の群を逐《お》い払っています。が、蟻の群れは蹴《け》散《ち》らされたと思うと、すぐにまた赤蜂の翅や脚《あし》にすがりついてしまうのです。僕らはそこに立ちどまり、しばらくこの赤蜂のあがいているのを眺《なが》めていました。現にM子さんも始めに似合わず、妙に真剣な顔をしたまま、やはりK君の側《そば》に立っていたのです。
「時々剣を出しますわね」
「蜂の剣は鉤《かぎ》のように曲がっているものですね」
僕は誰も黙っているものですから、M子さんとこんな話をしていました。
「さあ、行きましょう。あたしはこんなものを見るのは大きらい」
M子さんのお母さんは誰よりも先に歩き出しました。僕らも歩き出したのはもちろんです。松林は路《みち》をあましたまま、ひっそりと高い草を伸ばしていました。僕らの話し声はこの松林の中に存外高い反響を起こしました。ことにK君の笑い声は――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話していました。この田舎《いなか》にいる妹さんは女学校を卒業したばかりらしいのです。が、なんでも夫になる人は煙草《たばこ》ものまなければ酒ものまない、品行方正の紳士でなければならないと言っているということです。
「僕らは皆落第ですね?」
S君は僕にこう言いました。が、僕の目にはいじらしいくらい、妙にてれ切った顔をしていました。
「煙草ものまなければ酒ものまないなんて、……つまり兄貴へ当てつけているんだね」
K君もとっさにつけ加えました。僕はいいかげんな返事をしながら、だんだんこの散歩を苦にし出しました。したがって突然M子さんの「もう帰りましょう」と言った時にはほっとひと息ついたものです。M子さんは晴れ晴れした顔をしたまま、僕らのなんとも言わないうちにくるりと足を返しました。が、温泉宿へ帰る途中はM子さんのお母さんとばかり話していました。僕らはもちろん前と同じ松林の中を歩いて行ったのです。けれどもあの赤《あか》蜂《はち》はもうどこかへ行っていました。
それから半月ばかりたったのちです。僕はどんより曇っているせいか、何をする気もなかったものですから、池のある庭へおりて行きました。するとM子さんのお母さんが一人船《ふな》底《ぞこ》椅《い》子《す》に腰をおろし、東京の新聞を読んでいました。M子さんはきょうはK君やS君と温泉宿の後ろにあるY山へ登りに行ったはずです。この奥さんは僕を見ると、老眼鏡をはずして挨《あい》拶《さつ》しました。
「こちらの椅《い》子《す》をさし上げましょうか?」
「いえ、これでけっこうです」
僕はちょうどそこにあった、古い籐《とう》椅《い》子《す》にかけることにしました。
「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」
「いいえ、……何かあったのですか?」
「あの気の違った男のかたがいきなり廊下へ駈《か》け出したりなすったものですから」
「そんなことがあったんですか?」
「ええ、どこかの銀行の取りつけ騒ぎを新聞でお読みなすったのが始まりなんですって」
僕はあの松葉の入れ墨をした気違いの一生を想像しました。それから、――笑われてもしかたはありません、僕の弟の持っている株券のことなどを思い出しました。
「Sさんなどはこぼしていらっしゃいましたよ。……」
M子さんのお母さんはいつか僕に婉《えん》曲《きよく》にS君のことを尋ね出しました。が、僕はどういう返事にも「でしょう」だの「と思います」だのとつけ加えました。(僕はいつも一人の人をその人としてだけしか考えられません。家族とか財産とか社会的地位とかいうことには自然と冷淡になっているのです。おまけにいちばん悪いことはその人としてだけ考える時でもいつか僕自身に似ている点だけその人の中から引き出した上、かってに好《こう》悪《お》を定めているのです)のみならずこの奥さんの気もちに、――S君の身もとを調べる気もちにあるおかしさを感じました。
「Sさんは神経質でいらっしゃるでしょう?」
「ええ、まあ神経質というのでしょう」
「人ずれはちっともしていらっしゃいませんね」
「それはなにしろ坊《ぼつ》ちゃんですから、……しかしもう一通りのことは心得ていると思いますが」
僕はこういう話の中にふと池の水《みず》際《ぎわ》に沢《さわ》蟹《がに》の這《は》っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、――甲《こう》羅《ら》の半《なか》ば砕《くだ》けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相《そう》互《ご》扶《ふ》助《じよ》論《ろん*》の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪《け》我《が》をした仲間を扶《たす》けて行ってやるということです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我をした仲間を食うためにやっているということです。僕はだんだん石《せき》菖《しよう》のかげに二匹の沢蟹の隠れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話していました。が、いつか僕らの話に全然興味を失っていました。
「みんなの帰って来るのは夕がたでしょう?」
僕はこう言って立ち上がりました。同時にまたM子さんのお母さんの顔にある表情を感じました。それはちょっとした驚きといっしょに何か本能的な憎しみを閃《ひらめ》かせている表情です。けれどもこの奥さんはすぐにもの静かに返事をしました。
「ええ、M子もそんなことを申しておりました」
僕は僕の部屋へ帰って来ると、また縁《えん》先《さき》の手すりにつかまり、松林の上に盛り上がったY山の頂を眺《なが》めました。山の頂は岩むらの上に薄い日の光をなすっています。僕はこういう景《け》色《しき》を見ながら、ふと僕ら人間を憐《あわれ》みたい気もちを感じました。……
M子さん親子はS君といっしょに二、三日前に東京へ帰りました。K君はなんでもこの温泉宿へ妹さんの来るのを待ち合わせた上、(それは多分僕の帰るのよりも一週間ばかり遅れるでしょう)帰り仕度《じたく》をするとかいうことです。僕はK君と二人だけになった時にいくぶんか寛《くつろ》ぎを感じました。もっともK君を劬《いたわ》りたい気もちのかえってK君にこたえることを惧《おそ》れているのに違いありません。が、とにかくK君といっしょに比較的気楽に暮らしています。現にゆうべも風呂にはいりながら、一時間もセザアル・フランク《*》を論じていました。
僕は今僕の部屋にこの手紙を書いています。ここはもう初秋にはいっています。僕はけさ目を醒《さま》した時、僕の部屋の障《しよう》子《じ》の上に小さいY山や松林のさかさまに映っているのを見つけました。それはもちろん戸の節穴からさして来る光のためだったのです。しかし僕は腹ばいになり、一本の巻き煙草をふかしながら、この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。……
ではさようなら。東京ももう朝晩はだいぶ凌《しの》ぎよくなっているでしょう。どうかお子さんたちにもよろしく言ってください。
(昭和二年六月七日)
三つの窓
1 鼠《ねずみ》
一等戦闘艦××の横《よこ》須《す》賀《か》軍港へはいったのは六月にはいったばかりだった。軍港を囲んだ山々はどれも皆雨のために煙っていた。元来軍艦は碇《てい》泊《はく》したが最後、鼠《ねずみ》の殖《ふ》えなかったというためしはない。――××もまた同じことだった。長雨の中に旗を垂《たら》した二万噸《トン》の××の甲《かん》板《ぱん》の下にも鼠はいつか手箱だの衣《い》嚢《のう》だのにもつきはじめた。
こういう鼠を狩るために鼠を一匹捉《とら》えたものには一日の上陸を許すという副長の命令の下ったのは碇泊後三日にならないころだった。もちろん水兵や機関兵はこの命令の下った時から熱心に鼠狩りにとりかかった。鼠は彼らの力のために見る見る数を減らしていった。したがって彼らは一匹の鼠も争わないわけにはゆかなかった。
「このごろみんなの持って来る鼠はたいてい八つ裂きになっているぜ。寄ってたかって引っぱり合うものだから」
ガンルウムに集まった将校たちはこんなことを話して笑ったりした。少年らしい顔をしたA中《ちゆう》尉《い》もやはり彼らの一人だった。つゆ空に近い人生はのんびりと育ったA中尉にはほんとうには何もわからなかった。が、水兵や機関兵の上陸したがる心もちは彼にもはっきりわかっていた。A中尉は巻き煙草をふかしながら、彼らの話にまじる時にはいつもこういう返事をしていた。
「そうだろうな。おれでも八つ裂きにしかねないから」
彼の言葉は独身者の彼だけに言われるのに違いなかった。彼の友だちのY中尉は一年ほど前に妻帯していたためにたいてい水兵や機関兵の上にわざと冷笑を浴びせていた。それはまた何ごとにも容易に弱みを見せまいとするふだんの彼の態度にも合していることは確かだった。褐《かつ》色《しよく》の口《くち》髭《ひげ》の短い彼は一杯の麦酒《ビール》に酔った時さえ、テエブルの上に頬《ほお》杖《づえ》をつき、時々A中尉にこう言ったりしていた。
「どうだ、おれたちも鼠《ねずみ》狩《が》りをしては?」
ある雨の晴れ上がった朝、甲《かん》板《ぱん》士官だったA中尉はSという水兵に上陸を許可した。それは彼の小鼠を一匹、――しかも五体の整った小鼠を一匹とったためだった。人一倍体《からだ》のたくましいSは珍しい日の光を浴びたまま、幅の狭い舷《げん》梯《てい》を下って行った。すると仲間の水兵が一人身軽に舷梯を登りながら、ちょうど彼とすれ違う拍《ひよう》子《し》に常《じよう》談《だん》のように彼に声をかけた。
「おい輸入か?」
「うん、輸入だ」
彼らの問答はA中尉の耳にはいらずにはいなかった。彼はSを呼び戻し、甲板の上に立たせたまま、彼らの問答の意味を尋ね出した。
「輸入とは何か?」
Sはちゃんと直立し、A中尉の顔を見ていたものの、明らかにしょげ切っているらしかった。
「輸入とは外から持って来たものであります」
「なんのために外から持って来たか?」
A中尉はもちろんなんのために持って来たかを承知していた。が、Sの返事をしないのを見ると、急に彼に忌《いま》々《いま》しさを感じ、力いっぱい彼の頬《ほお》を擲《なぐ》りつけた。Sはちょっとよろめいたものの、すぐにまた不動の姿勢をした。
「誰が外から持って来たか?」
Sはまたなんとも答えなかった。A中尉は彼を見つめながら、もう一度彼の横顔を張りつける場合を想像していた。
「誰だ?」
「わたくしの家内であります」
「面会に来たときに持って来たのか?」
「はい」
A中尉は何か心の中に微笑しずにはいられなかった。
「何に入れて持って来たか?」
「菓子折りに入れて持って来ました」
「お前の家はどこにあるのか」
「平《ひら》坂《さか》下《した》であります」
「お前の親は達者でいるか?」
「いえ、家内と二人暮らしであります」
「子供はないのか?」
「はい」
Sはこういう問答のうちも不安らしい容《よう》子《す》を改めなかった。A中尉は彼を立たせておいたまま、ちょっと横須賀の町へ目を移した。横須賀の町は山々の中にもごみごみと屋根を積み上げていた。それは日の光を浴びていたものの、妙にみすぼらしい景《け》色《しき》だった。
「お前の上陸は許可しないぞ」
「はい」
SはA中尉の黙っているのを見、どうしようかと迷っているらしかった。が、A中尉は次に命令する言葉を心の中に用意していた。が、しばらく何も言わずに甲《かん》板《ぱん》の上を歩いていた。「こいつは罰を受けるのを恐れている」――そんな気もあらゆる上官のようにA中尉には愉快でないことはなかった。
「もういいあっちへ行け」
A中尉はやっとこう言った。Sは挙手の礼をしたのち、くるりと彼に後ろを向け、ハッチの方へ歩いて行こうとした。彼は微笑しないように努力しながら、Sの五、六歩隔たったのち、にわかにまた「おい待て」と声をかけた。
「はい」
Sはとっさにふり返った。が、不安はもう一度体じゅうに漲《みなぎ》ってきたらしかった。
「お前に言いつける用がある。平坂下にはクラッカアを売っている店があるな?」
「はい」
「あのクラッカアを一袋買って来い」
「今でありますか?」
「そうだ。今すぐに」
中尉は日に焼けたSの頬《ほお》に涙の流れるのを見のがさなかった。――
それから二、三日たったのち、A中尉はガンルウムのテエブルに女名前の手紙に目を通していた。手紙は桃色の書《しよ》簡《かん》箋《せん》におぼつかないペンの字を並べたものだった。彼は一通り読んでしまうと、一本の巻き煙草に火をつけながら、ちょうど前にいたY中尉にこの手紙を投げ渡した。
「なんだ、これは?……『昨日のことは夫の罪にては無之《これなく》、皆あさはかなるわたくしの心より起こりしことゆえ、なにとぞあしからずおゆるしくだされたく候《そろ》。……なおまたお志のほどはのちのちまでも忘れまじく』……」
Y中尉は手紙を持ったまま、だんだん軽《けい》蔑《べつ》の色を浮かべ出した。それから無《ぶ》愛《あい》想《そう》にA中尉の顔を見、冷かすように話しかけた。
「善《ぜん》根《こん》を積んだという気がするだろう?」
「ふん、多少しないこともない」
A中尉は軽がると受け流したまま、円《まる》窓《まど》の外を眺《なが》めていた。円窓の外に見えるのは雨あしの長い海ばかりだった。しかし彼はしばらくすると、にわかに何かに羞《は》じるようにこうY中尉に声をかけた。
「けれども妙に寂しいんだがね。あいつのビンタを張った時にはかわいそうだともなんとも思わなかったくせに……」
Y中尉はちょっと疑惑とも躊《ちゆう》躇《ちよ》ともつかない表情を示した。それからなんとも返事をしずにテエブルの上の新聞を読みはじめた。ガンルウムの中には二人のほかにちょうど誰もい合わせなかった。が、テエブルの上のコップにはセロリイが何本もさしてあった。A中尉もこの水々しいセロリイの葉を眺めたまま、やはり巻き煙草ばかりふかしていた。こういうそっけないY中尉に不思議にも親しみを感じながら。……
2 三 人
一等戦闘艦××はある海戦を終わったのち、五隻の軍艦を従えながら、静かに鎮《ちん》海《かい》湾《わん*》へ向かって行った。海はいつか夜になっていた。が、左《さ》舷《げん》の水平線の上には大きい鎌《かま》なりの月が一つ赤あかと空にかかっていた。二万噸《とん》の××の中はもちろんまだ落ち着かなかった。しかしそれは勝利のあとだけに活《い》き活《い》きとしていることは確かだった。ただ小心者のK中《ちゆう》尉《い》だけはこういう中にも疲れ切った顔をしながら、何か用を見つけてはわざとそこここを歩きまわっていた。
この海戦の始まる前夜、彼は甲《かん》板《ぱん》を歩いているうちにかすかな角《かく》灯《とう》の光を見つけ、そっとそこへ歩いて行った。するとそこには年の若い軍楽隊の楽《がく》手《しゆ》が一人甲板の上に腹ばいになり、敵の目を避けた角灯の光に聖書を読んでいるのであった。K中尉は何か感動し、この楽手に優しい言葉をかけた。楽手はちょいと驚いたらしかった。が相手の上官の小《こ》言《ごと》を言わないことを発見すると、たちまち女らしい微笑を浮かべ、おずおず彼の言葉に答え出した。……しかしその若い楽手ももう今ではメエン・マストの根もとに中《あた》った砲弾のために死《し》骸《がい》になって横になっていた。K中尉は彼の死骸を見た時、にわかに「死は人をして静かならしむ」という文章を思い出した。もしK中尉自身も砲弾のためにとっさに命を失っていたとすれば、――それは彼にはどういう死よりも幸福のように思われるのだった。
けれどもこの海戦の前の出来事は感じやすいK中尉の心にいまだにはっきり残っていた。戦闘準備を整えた一等戦闘艦××はやはり五隻の軍艦を従え、浪《なみ》の高い海を進んで行った。すると右《う》舷《げん》の大砲が一門なぜか蓋《ふた》を開かなかった。しかももう水平線には敵の艦隊の挙《あ》げる煙も幾すじかかすかにたなびいていた。この手ぬかりを見た水兵たちの一人は砲身の上へ跨《またが》るが早いか、身軽に砲口まで腹《はら》這《ば》って行き、両足で蓋を押しあけようとした。しかし蓋をあけることは存外容易にはできないらしかった。水兵は海を下にしたまま、何度も両足をあがくようにしていた。が、時々顔を挙げては白い歯を見せて笑ったりもしていた。そのうちに××は大うねりに進路を右へ曲げはじめた。同時にまた海は右舷全体へすさまじい浪を浴びせかけた。それはもちろんあっと言う間に大砲に跨った水兵の姿をさらってしまうのに足るものだった。海の中に落ちた水兵はいっしょうけんめいに片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちの罵《ののし》る声といっしょに海の上へ飛んで行った。しかしもちろん××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろすわけにはゆかなかった。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ溺《でき》死《し》するのに定《き》まっていた。のみならず鱶《ふか》はこの海にも決して少ないとは言われなかった。……
若い楽《がく》手《しゆ》の戦死に対するK中尉の心もちはこの海戦の前の出来事の記憶と対照を作らずにいるわけはなかった。彼は兵学校にはいったものの、いつか一度は自然主義の作家になることを空想していた。のみならず兵学校を卒業してからもモオパスサンの小説などを愛読していた。人生はこういうK中尉には薄暗い一面を示しがちだった。彼は××に乗り組んだのち、エジプトの石《せつ》棺《かん》に書いてあった「人生――戦闘」という言葉を思い出し、××の将校や下《か》士《し》卒《そつ》はもちろん、××そのものこそ言葉通りにエジプト人の格言を鋼鉄に組み上げていると思ったりした。したがって楽手の死骸の前には何かあらゆる戦いを終わった静かさを感じずにはいられなかった。しかしあの水兵のようにどこまでも生きようとする苦しさもたまらないと思わずにはいられなかった。
K中尉は額の汗を拭《ふ》きながら、せめては風にでも吹かれるために後部甲板のハッチを登って行った。すると十二吋《インチ》の砲塔の前にきれいに顔を剃《そ》った甲板士官が一人両手を後ろに組んだまま、ぶらぶら甲板を歩いていた。そのまた前には下士が一人頬《ほお》骨《ぼね》の高い顔を半《なか》ば俯《うつ》向《む》け、砲塔を後ろに直立していた。K中尉はちょっと不快になり、そわそわ甲板士官の側《そば》へ歩み寄った。
「どうしたんだ?」
「なに、副長の点検前に便所へはいっていたもんだから」
それはもちろん軍艦の中ではあまり珍しくない出来事だった。K中尉はそこに腰をおろし、スタンションを取り払った左《さ》舷《げん》の海や赤い鎌《かま》なりの月を眺《なが》め出した。あたりは甲板士官の靴《くつ》の音のほかに人声も何も聞こえなかった。K中尉はいくぶんか気安さを感じ、やっときょうの海戦中の心もちなどを思い出していた。
「もう一度わたくしはお願いいたします。善行賞はお取り上げになってもしかたはありません」
下士はにわかに顔を挙げ、こう甲板士官に話しかけた。K中尉は思わず彼を見上げ、薄暗い彼の顔の上に何か真剣な表情を感じた。しかし快活な甲板士官はやはり両手を組んだまま、静かに甲板を歩きつづけていた。
「ばかなことを言うな」
「けれどもここに起立していてはわたくしの部下に顔も合わされません。進級の遅れるのも覚悟しております」
「進級の遅れるのは一大事だ。それよりそこに起立していろ」
甲板士官はこう言ったのち、気軽にまた甲板を歩きはじめた。K中尉も理智的には甲板士官に同意見だった。のみならずこの下士の名誉心を感傷的と思う気もちもないわけではなかった。が、じっと頭を垂《た》れた下士は妙にK中尉を不安にした。
「ここに起立しているのは恥《ち》辱《じよく》であります」
下士は低い声に頼みつづけた。
「それはお前の招いたことだ」
「罰は甘んじて受けるつもりでおります。ただどうか起立していることは」
「ただ恥辱という立てまえから見れば、どちらもひっきょう同じことじゃないか?」
「しかし部下に威厳を失うのはわたくしとしては苦しいのであります」
甲板士官はなんとも答えなかった。下士は、――下士もあきらめたと見え、「あります」に力を入れたぎり、一言も言わずに佇《たたず》んでいた。K中尉はだんだん不安になり、(しかもまた一面にはこの下士の感傷主義に欺《だま》されまいという気もないわけではなかった)何か彼のために言ってやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に変わっていた。
「静かだな」
「うん」
甲板士官はこう答えたなり、今度は顋《あご》をなでて歩いていた。海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重《しげ》成《なり》は……」などと言い、特にていねいに剃《そ》っていた顋を。……
この下士は罰をすましたのち、いつか行《ゆく》方《え》不明になってしまった。が、投身することはもちろん当直のある限りは絶対にできないのに違いなかった。のみならず自殺の行なわれやすい石炭庫の中にもいないことは半日とたたないうちに明らかになった。しかし彼の行方不明になったことは確かに彼の死んだことだった。彼は母や弟にそれぞれ遺書を残していた。彼に罰を加えた甲板士官は誰の目にも落ち着かなかった。K中尉は小心ものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飲まない麦酒《ビール》を何杯も強《し》いずにはいられなかった。が、同時にまた相手の酔うことを心配しずにもいられなかった。
「なにしろあいつはいじっぱりだったからなあ。しかし死ななくってもいいじゃないか?――」
相手は椅《い》子《す》からずり落ちかかったなり、何度もこんな愚《ぐ》痴《ち》を繰り返していた。
「おれはただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって」
××の鎮海湾へ碇《てい》泊《はく》したのち、煙突の掃《そう》除《じ》にはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじの鎖に縊《い》死《し》していた。が、彼の水兵服はもちろん、皮や肉も焼け落ちたために下がっているのは骸《がい》骨《こつ》だけだった。こういう話はガンルウムにいたK中尉にも伝わらないわけはなかった。彼はこの下士の砲塔の前に佇《たたず》んでいた姿を思い出し、まだどこかに赤い月の鎌《かま》なりにかかっているように感じた。
この三人の死はK中尉の心にいつまでも暗い影を投げていた。波はいつか彼らの中に人生全体さえ感じ出した。しかし年月はこの厭《えん》世《せい》主義者をいつか部内でも評判のよい海軍少将の一人に数えはじめた。彼は揮《き》毫《ごう》を勧められても、めったに筆をとり上げたことはなかった。が、やむを得ない場合だけは必ず画《が》帖《しよう》などにこう書いていた。
君《きみ》 看《みよ》 双《そう》 眼 色《がんのいろ》
不 語 《かたらざれば》似 無 愁 《うれいなきににたり*》
3 一等戦闘艦××
一等戦闘艦××は横須賀軍港のドックにはいることになった。修繕工事は容易に渉《はかど》らなかった。二万噸《トン》の××は高い両《りよう》舷《げん》の内外に無数の職工をたからせたまま、何度もいつにない苛《いら》立《だ》たしさを感じた。が、海に浮かんでいることも蠣《かき》にとりつかれることを思えば、むずがゆい気もするのに違いなかった。
横須賀軍港には××の友だちの△△も碇《てい》泊《はく》していた。一万二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だった。彼らは広い海越しに時々声のない話をした。△△は××の年齢にはもちろん、造船技師の手落ちから舵《かじ》の狂いやすいことに同情していた。が、××を劬《いたわ》るために一度もそんな問題を話し合ったことはなかった。のみならず何度も海戦をして来た××に対する尊敬のためにいつも敬語を用いていた。
するとある曇った午後、△△は火薬庫に火のはいったためににわかに恐ろしい爆声を挙げ、半ば海中に横になってしまった。××はもちろんびっくりした。(もっとも大勢の職工たちはこの××の震《ふる》えたのを物理的に解釈したのに違いなかった)海戦もしない△△の急に片輪になってしまう、――それは実際××にはほとんど信じられないくらいだった。彼はつとめて驚きを隠し、はるかに△△を励ましたりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇《のぼ》る中にただ唸《うな》り声を立てるだけだった。
それから三、四日たったのち、二万噸の××は両舷の水圧を失っていたためにだんだん甲板も乾《ひ》割《わ》れはじめた。この容《よう》子《す》を見た職工たちはいよいよ修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離していた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまった。こういう△△の運命を思えば、彼の生《しよう》涯《がい》は少なくとも喜びや苦しみを嘗《な》め尽くしていた。××はもう昔になったある海戦の時を思い出した。それは旗もずたずたに裂《さ》ければ、マストさえ折れてしまう海戦だった……
二万噸《トン》の××はしらじらと乾《かわ》いたドックの中に高だかと艦首を擡《もた》げていた。彼の前には巡洋艦や駆《く》逐《ちく》艇《てい》が何隻も出入りしていた。それから新しい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかった。しかしそれらは××には果《はか》なさを感じさせるばかりだった。××は照ったり曇ったりする横須賀軍港を見渡したまま、じっと彼の運命を待ちつづけていた。その間もやはりおのずから甲板のじりじり反《そ》り返ってくるのにいくぶんか不安を感じながら。……
(昭和二年六月十日)
歯 車
一 レエン・コオト
僕はある知り人の結婚披《ひ》露《ろう》式《しき》につらなるために鞄《かばん》を一つ下げたまま、東海道のある停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がわはたいてい松ばかり茂っていた。上り列車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。自動車にはちょうど僕のほかにある理髪店の主人も乗り合わせていた。彼は棗《なつめ》のようにまるまると肥《ふと》った、短い顋《あご》髯《ひげ》の持ち主だった。僕は時間を気にしながら時々彼と話をした。
「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るっていうんですが」
「昼間でもね」
僕は冬の西日の当たった向こうの松山を眺《なが》めながら、いいかげんに調子を合わせていた。
「もっとも天気のいい日には出ないそうです。いちばん多いのは雨のふる日だっていうんですが」
「雨の降る日に濡《ぬ》れに来るんじゃないか?」
「ご常《じよう》談《だん》で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だっていうんです」
自動車はラッパを鳴らしながら、ある停車場へ横着けになった。僕はある理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。するとはたして上り列車は二、三分前に出たばかりだった。待合室のベンチには、レエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つために停車場前のカッフェへはいることにした。
それはカッフェという名を与えるのも考えものに近いカッフェだった。僕は隅《すみ》のテエブルに坐《すわ》り、ココアを一杯註《ちゆう》文《もん》した。テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格《こう》子《し》に引いたものだった。しかしもう隅々には薄《うす》汚《ぎたな》いカンヴァスを露《あらわ》していた。僕は膠《にかわ》臭いココアを飲みながら、人げのないカッフェの中を見まわした。埃《ほこり》じみたカッフェの壁には「親《おや》子《こ》丼《どんぶり》」だの「カツレツ」だのという紙札が何枚も貼《は》ってあった。
「地玉子、オムレツ」
僕はこういう紙札に東海道線に近い田舎《いなか》を感じた。それは麦畑やキャベツ畑の間に電気機関車の通る田舎だった。……
次の上り列車に乗ったのはもう日暮れに近いころだった。僕はいつも二等に乗っていた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。
汽車の中はかなりこみ合っていた。しかも僕の前後にいるのは大《おお》磯《いそ》かどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女生徒ばかりだった。僕は巻き煙草《たばこ》に火をつけながら、こういう女生徒の群れを眺めていた。彼らはいずれも快活だった。のみならずほとんどしゃべり続けだった。
「写真屋さん、ラブ・シインって何?」
やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋」さんはなんとかお茶を濁《にご》していた。しかし十四、五の女生徒の一人はまだいろいろのことを問いかけていた。僕はふと彼女の鼻に蓄《ちく》膿《のう》症《しよう》のあることを感じ、何か頬《ほほ》笑《え》まずにはいられなかった。それからまた僕の隣にいた十二、三の女生徒の一人は若い女教師の膝《ひざ》の上に坐《すわ》り、片手に彼女の頸《くび》を抱きながら、片手に彼女の頬《ほお》をさすっていた。しかも誰《だれ》かと話す合い間に時々こう女教師に話しかけていた。
「かわいいわね、先生は。かわいい目をしていらっしゃるわね」
彼らは僕には女生徒よりも一人前の女という感じを与えた。林《りん》檎《ご》を皮ごと噛《かじ》っていたり、キャラメルの紙を剥《む》いていることをのぞけば。……しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側《そば》を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「ごめんなさいまし」と声をかけた。彼女だけは彼らよりもませているだけにかえって僕には女生徒らしかった。僕は巻き煙草を啣《くわ》えたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しないわけにはゆかなかった。
いつか電灯をともした汽車はやっとある郊外の停車場へ着いた。僕は風の寒いプラットフォオムへ下《お》り、一度橋を渡った上、省《しよう》線《せん》電車の来るのを待つことにした。すると偶然顔を合わせたのはある会社にいるT君だった。僕らは電車を待っている間に不景気のことなどを話し合った。T君はもちろん僕などよりもこういう問題に通じていた。が、たくましい彼の指にはあまり不景気には縁のない土耳古《トルコ》石《いし》の指《ゆび》環《わ》も嵌《はま》っていた。
「たいしたものを嵌《は》めているね」
「これか? これはハルビンへ商売に行っていた友だちの指環を買わされたのだよ。そいつも今は往《おう》生《じよう》している。コオペラティヴと取引きができなくなったものだから」
僕らの乗った省線電車は幸いにも汽車ほどこんでいなかった。僕らは並んで腰をおろし、いろいろのことを話していた。T君はついこの春にパリにある勤め先から東京へ帰ったばかりだった。したがって僕らの間にはパリの話も出がちだった。カイヨオ夫人《*》の話、蟹《かに》料《りよう》理《り》の話、ご外遊中のある殿下の話、……
「フランスは存外困ってはいないよ。ただ元来フランス人というやつは税を出したがらない国民だから、内閣はいつも倒れるがね。……」
「だってフランは暴落するしさ」
「それは新聞を読んでいればね。しかし向こうにいてみたまえ。新聞紙上の日本なるものはのべつ大地震や大洪水があるから」
するとレエン・コオトを着た男が一人僕らの向こうへ来て腰をおろした。僕はちょっと無気味になり、何か前に聞いた幽霊の話をT君に話したい心もちを感じた。が、T君はその前に杖《つえ》の柄《え》をくるりと左へ向け、顔は前を向いたまま、小声に僕に話しかけた。
「あすこに女が一人いるだろう? 鼠《ねずみ》色《いろ》の毛糸のショオルをした、……」
「あの西洋髪に結った女か?」
「うん、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みを抱《かか》えている女さ。あいつはこの夏は軽《かる》井《い》沢《ざわ》にいたよ。ちょっと洒落《しや》れた洋装などをしてね」
しかし彼女は誰の目にもみすぼらしいなりをしているのに違いなかった。僕はT君と話しながら、そっと彼女を眺《なが》めていた。彼女はどこか眉《まゆ》の間に気違いらしい感じのする顔をしていた。しかもそのまた風呂敷包みの中から豹《ひよう》に似た海《かい》綿《めん》をはみ出させていた。
「軽井沢にいた時には若いアメリカ人と踊ったりしていたっけ。モダアン……なんというやつかね」
レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。僕は省《しよう》線《せん》電車のある停車場からやはり鞄《かばん》をぶら下げたまま、あるホテルへ歩いて行った。往来の両側に立っているのはたいてい大きいビルディングだった。僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――というのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこういう経験を前にも何度か持ち合わせていた。歯車はしだいに数を殖《ふ》やし、半《なか》ば僕の視野を塞《ふさ》いでしまう、が、それも長いことではない、しばらくののちには消え失《う》せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。眼科の医者はこの錯《さつ》覚《かく》(?)のためにたびたび僕に節煙を命じた。しかしこういう歯車は僕の煙草に親しまない二十《はたち》前《まえ》にも見えないことはなかった。僕はまたはじまったなと思い、左の目の視力をためすために片手に右の目を塞いでみた。左の目ははたしてなんともなかった。しかし右の目の瞼《まぶた》の裏には歯車が幾つもまわっていた。僕は右側のビルディングのしだいに消えてしまうのを見ながら、せっせと往来を歩いて行った。
ホテルの玄関へはいった時には歯車ももう消え失せていた。が、頭痛はまだ残っていた。僕は外《がい》套《とう》や帽子を預けるついでに部屋を一つとってもらうことにした。それからある雑誌社へ電話をかけて金のことを相談した。
結婚披《ひ》露《ろう》式《しき》の晩《ばん》餐《さん》はとうに始まっていたらしかった。僕はテエブルの隅に坐《すわ》り、ナイフやフォオクを動かし出した。正面の新郎や新婦をはじめ、白い凹《おう》字《じ》形《けい》のテエブルに就《つ》いた五十人あまりの人びとはもちろんいずれも陽気だった。が、僕の心もちは明るい電灯の光の下にだんだん憂《ゆう》鬱《うつ》になるばかりだった。僕はこの心もちを遁《のが》れるために隣にいた客に話しかけた。彼はちょうど獅《し》子《し》のように白い頬《ほお》髯《ひげ》を伸ばした老人だった。のみならず僕も名を知っていたある名高い漢学者だった。したがってまた僕らの話はいつか古典の上へ落ちていった。
「麒麟《きりん》はつまり一《いつ》角《かく》獣《じゆう》ですね。それから鳳《ほう》凰《おう》もフェニックスという鳥の、……」
この名高い漢学者はこういう僕の話にも興味を感じているらしかった。僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破《は》壊《かい》慾《よく》を感じ、尭《ぎよう》舜《しゆん》を架空の人物にしたのはもちろん、「春《しゆん》秋《じゆう》」の著者《*》もずっとのちの漢代の人だったことを話し出した。するとこの漢学者は露《ろ》骨《こつ》に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずにほとんど虎《とら》の唸《うな》るように僕の話を截《き》り離した。
「もし尭舜もいなかったとすれば、孔子は〓《うそ》をつかれたことになる。聖人の〓をつかれるはずはない」
僕はもちろん黙ってしまった。それからまた皿《さら》の上の肉へナイフやフォオクを加えようとした。すると小さい蛆《うじ》が一匹静かに肉の縁に蠢《うごめ》いていた。蛆は僕の頭の中にWormという英語を呼び起こした。それはまた麒麟《きりん》や鳳《ほう》凰《おう》のようにある伝説的動物を意味している言葉にも違いなかった。僕はナイフやフォオクを置き、いつか僕の杯にシャンパアニュのつがれるのを眺《なが》めていた。
やっと晩《ばん》餐《さん》のすんだのち、僕は前にとっておいた僕の部屋へこもるために人《ひと》気《げ》のない廊下を歩いて行った。廊下は僕にはホテルよりも監獄らしい感じを与えるものだった。しかし幸いにも頭痛だけはいつの間にか薄らいでいた。
僕の部屋には鞄《かばん》はもちろん、帽子や外《がい》套《とう》も持って来てあった。僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣《い》裳《しよう》戸《と》棚《だな》の中へ抛《ほう》りこんだ。それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを露《あらわ》していた。蛆《うじ》はこういう僕の記憶にたちまちはっきり浮かび出した。
僕は戸をあけて廊下へ出、どこということなしに歩いて行った。するとロッビイへ出る隅《すみ》に緑いろの笠《かさ》をかけた、背の高いスタンドの電灯が一つ硝子《ガラス》戸《ど》に鮮《あざ》やかに映っていた。それは何か僕の心に平和な感じを与えるものだった。僕はその前の椅《い》子《す》に坐《すわ》り、いろいろのことを考えていた。が、そこにも五分とは坐っているわけにゆかなかった。レエン・コオトは今度もまた僕の横にあった長椅子の背中にいかにもだらりと脱ぎかけてあった。
「しかも今は寒中だというのに」
僕はこんなことを考えながら、もう一度廊下を引き返して行った。廊下の隅の給《きゆう》仕《じ》だまりには一人も給仕は見えなかった。しかし彼らの話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。それはなんとか言われたのに答えたAll right という英語だった。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴《つか》もうとあせっていた。「オオル・ライト」? 「オオル・ライト」? 何がいったいオオル・ライトなのであろう?
僕の部屋はもちろんひっそりしていた。が、戸をあけてはいることは妙に僕には無気味だった。僕はちょっとためらったのち、思い切って部屋の中へはいって行った。それから鏡を見ないようにし、机の前の椅子に腰をおろした。椅子は蜥蜴《とかげ》の皮に近い、青いマロック皮の安楽椅子だった。僕は鞄をあけて原稿用紙を出し、ある短篇を続けようとした。けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。 All right……All right……All right……sir……All right……
そこへ突然鳴り出したのはベッドの側《わき》にある電話だった。僕は驚いて立ち上がり、受話器を耳へやって返事をした。
「どなた?」
「あたしです。あたし……」
相手は僕の姉の娘だった。
「なんだい? どうかしたのかい?」
「ええ、あの大へんなことが起こったんです。ですから、……大へんなことが起こったもんですから、今叔母《おば》さんにも電話をかけたんです」
「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐ来てください。すぐにですよ」
電話はそれぎり切れてしまった。僕はもとのように受話器をかけ、反射的にベルの鈕《ボタン》を押した。しかし僕の手の震《ふる》えていることは僕自身はっきり意識していた。給仕は容易にやって来なかった。僕は苛《いら》立《だ》たしさよりも苦しさを感じ、何度もベルの鈕を押した。やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」という言葉を了解しながら。
僕の姉の夫はその日の午後、東京からあまり離れていないある田舎《いなか》に轢《れき》死《し》していた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている。真夜中の廊下には誰も通らない。が、時々戸の外に翼の音の聞こえることもある。どこかに鳥でも飼ってあるのかもしれない。
二 復《ふく》 讐《しゆう》
僕はこのホテルの部屋に午前八時ごろに目を醒《さま》した。が、ベッドをおりようとすると、スリッパアは不思議にも片っぽしかなかった。それはこの一、二年の間いつも僕に恐怖だの不安だのを与える現象だった。のみならずサンダアルを片っぽだけはいたギリシア神話の中の王子を思い出させる現象だった。僕はベルを押して給仕を呼び、スリッパアの片っぽを探《さが》してもらうことにした。給仕はけげんな顔をしながら、狭い部屋の中を探しまわった。
「ここにありました。このバスの部屋の中に」
「どうしてまたそんな所に行っていたのだろう?」
「さあ、鼠《ねずみ》かもしれません」
僕は給仕の退いたのち、牛乳を入れない珈琲《コーヒー》を飲み、前の小説を仕上げにかかった。凝《ぎよう》灰《かい》岩《がん》を四角に組んだ窓は雪のある庭に向かっていた。僕はペンを休めるたびにぼんやりとこの雪を眺《なが》めたりした。雪は莟《つぼみ》を持った沈《じん》丁《ちよう》花《げ》の下に都会の煤《ばい》煙《えん》によごれていた。それは何か僕の心に傷《いた》ましさを与える眺めだった。僕は巻き煙草《たばこ》をふかしながら、いつかペンを動かさずにいろいろの事を考えていた。妻のことを、子供たちのことを、なかんずく姉の夫のことを。……
姉の夫は自殺する前に放火の嫌《けん》疑《ぎ》を蒙《こうむ》っていた。それもまた実際しかたはなかった。彼は家の焼ける前に家の価格に二倍する火災保険に加入していた。しかも偽証罪を犯したために執行猶《ゆう》予《よ》中の体《からだ》になっていた。けれども僕を不安にしたのは彼の自殺したことよりも僕の東京へ帰るたびに必ず火の燃えるのを見たことだった。僕はあるいは汽車の中から山を焼いている火を見たり、あるいはまた自動車の中から(その時は妻子ともいっしょだった)常磐《ときわ》橋《ばし》界《かい》隈《わい》の火事を見たりしていた。それは彼の家の焼けない前にもおのずから僕に火事のある予感を与えないわけにはゆかなかった。
「今年《ことし》は家《うち》が火事になるかもしれないぜ」
「そんな縁起の悪いことを。……それでも火事になったら大変ですね。保険はろくについていないし、……」
僕らはそんなことを話し合ったりした。しかし僕の家は焼けずに、――僕はつとめて妄《もう》想《そう》を押しのけ、もう一度ペンを動かそうとした。が、ペンはどうしても一行とは楽に動かなかった。僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上に転《ころが》ったまま、トルストイの Polikouchkaを読みはじめた。この小説の主人公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交じった、複雑な性格の持ち主だった。しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加えさえすれば、僕の一生のカリカテュアだった。ことに彼の悲喜劇のうちに運命の冷笑を感じるのはしだいに僕を無気味にし出した。僕は一時間とたたないうちにベッドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂《た》れた部屋の隅《すみ》へ力いっぱい本を抛《ほう》りつけた。
「くたばってしまえ!」
すると大きい鼠《ねずみ》が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走って行った。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまわった。白いタッブのかげにも鼠らしいものは見えなかった。僕は急に無気味になり、慌《あわ》ててスリッパアを靴《くつ》に換えると、人《ひと》気《げ》のない廊下を歩いて行った。
廊下はきょうも相変わらず牢《ろう》獄《ごく》のように憂《ゆう》鬱《うつ》だった。僕は頭を垂《た》れたまま、階段を上がったり下《お》りたりしているうちにいつかコック部屋へはいっていた。コック部屋は存外明るかった。が、片側に並んだ竈《かまど》は幾つも炎を動かしていた。僕はそこを通りぬけながら、白い帽をかぶったコックたちのひややかに僕を見ているのを感じた。同時にまた僕の堕《お》ちた地獄を感じた。「神よ、我を罰し給《たま》え。怒り給うこと勿《なか》れ。おそらくは我滅《ほろ》びん」――こういう祈《き》祷《とう》もこの瞬間にはおのずから僕の脣《くちびる》にのぼらないわけにはゆかなかった。
僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。道に沿うた公園の樹木は皆枝や草を黒ませていた。のみならずどれも一本ごとにちょうど僕ら人間のように前や後ろを具《そな》えていた。それもまた僕には不快よりも恐怖に近いものを運んで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になった魂を思い出し、ビルディングばかり並んでいる電車線路の向こうを歩くことにした。しかしそこも一町とは無事に歩くことはできなかった。
「ちょっと通りがかりに失礼ですが、……」
それは金《きん》鈕《ボタン》の制服を着た二十二、三の青年だった。僕は黙ってこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側《わき》に黒子《ほくろ》のあることを発見した。彼は帽を脱いだまま、おずおずこう僕に話しかけた。
「Aさんではいらっしゃいませんか?」
「そうです」
「どうもそんな気がしたものですから、……」
「何かご用ですか?」
「いえ、ただお目にかかりたかっただけです。僕も先生の愛読者の……」
僕はもうその時にはちょっと帽をとったぎり、彼を後ろに歩き出していた。先生、A先生、――それは僕にはこのごろで最も不快な言葉だった。僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた。しかも彼らは何かの機会に僕を先生と呼びつづけていた。僕はそこに僕を嘲《あざけ》る何ものかを感じずにはいられなかった。何ものかを?――しかし僕の物質主義は神秘主義を拒絶せずにはいられなかった。僕はつい二、三か月前にもある小さい同人雑誌にこういう言葉を発表していた。――「僕は芸術的良心をはじめ、どういう良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」……
姉は三人の子供たちといっしょに露《ろ》地《じ》の奥のバラックに避難していた。褐《かつ》色《しよく》の紙を貼《は》ったバラックの中は外よりも寒いくらいだった。僕らは火《ひ》鉢《ばち》に手をかざしながら、いろいろのことを話し合った。体のたくましい姉の夫は人一倍痩《や》せ細った僕を本能的に軽《けい》蔑《べつ》していた。のみならず僕の作品の不道徳であることを公言していた。僕はいつもひややかにこういう彼を見おろしたまま、一度も打ちとけて話したことはなかった。しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕《お》ちていたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとかいうことだった。が、僕は巻き煙草に火をつけ、つとめて金のことばかり話しつづけた。
「なにしろこういう際だしするから、何もかも売ってしまおうと思うの」
「それもそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」
「ええ、それから画《え》などもあるし」
「ついでにNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画をみると、迂《う》闊《かつ》に常《じよう》談《だん》も言われないのを感じた。轢《れき》死《し》した彼は汽車のために顔もすっかり肉塊になり、わずかにただ口《くち》髭《ひげ》だけ残っていたとかいうことだった。この話はもちろん話自身も薄気味悪いのに違いなかった。しかし彼の肖像画はどこも完全に描《か》いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしていた。僕は光線の加減かと思い、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺《なが》めるようにした。
「何をしているの?」
「なんでもないよ。……ただあの肖像画は口のまわりだけ、……」
姉はちょっと振り返りながら、何も気づかないように返事をした。
「髭《ひげ》だけ妙に薄いようでしょう」
僕の見たものは錯《さつ》覚《かく》ではなかった。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、いいでしょう」
「またあしたでも、……きょうは青《あお》山《やま*》まで出かけるのだから」
「ああ、あすこ? まだ体《からだ》の具合は悪いの?」
「やっぱり薬ばかり嚥《の》んでいる、催《さい》眠《みん》薬《やく》だけでも大変だよ。ヴェロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
三十分ばかりたったのち、僕はあるビルディングへはいり、昇降機《リフト》に乗って三階へのぼった。それからあるレストオランの硝子《ガラス》戸《ど》を押してはいろうとした。が、硝子戸は動かなかった。のみならずそこには「定休日」と書いた漆《うるし》塗《ぬ》りの札《ふだ》も下がっていた。僕はいよいよ不快になり、硝子戸の向こうのテエブルの上に林《りん》檎《ご》やバナナを盛ったのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。すると会社員らしい男が二人何か快活にしゃべりながら、このビルディングにはいるために僕の肩をこすって行った。彼らの一人はその拍《ひよう》子《し》に「イライラしてね」と言ったらしかった。
僕は往来に佇《ただず》んだなり、タクシイの通るのを待ち合わせていた。タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた)そのうちに僕は縁起のいい緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。
「イライラする、―― tantalizing ―― Tantalus《*》―― inferno ……」
タンタルスは実際硝子《ガラス》戸《ど》越しに果《くだ》物《もの》を眺《なが》めた僕自身だった。僕は二度も僕の目に浮かんだダンテの地獄を詛《のろ》いながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちにまたあらゆるものの〓《うそ》であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、――いずれも皆こういう僕にはこの恐ろしい人生を隠した雑色のエナメルにほかならなかった。僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。
緑いろのタクシイはやっと神《じん》宮《ぐう》前《まえ》へ走りかかった。そこにはある精神病院へ曲がる横町が一つあるはずだった。しかもそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させたのち、とうとうあきらめておりることにした。
僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲がって行った。するといつか道を間違え、青山斎《さい》場《じよう》の前へ出てしまった。それはかれこれ十年前にあった夏目先生の告別式《*》以来、一度も僕は門の前さえ通ったことのない建物だった。十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少なくとも平和だった。僕は砂利《じやり》を敷いた門の中を眺め、「漱《そう》石《せき》山《さん》房《ぼう》」の芭《ば》蕉《しよう》を思い出しながら、何か僕の一生も一段落ついたことを感じないわけにはゆかなかった。のみならずこの墓地の前へ十年目に僕をつれて来た何ものかを感じないわけにもゆかなかった。
ある精神病院の門を出たのち、僕はまた自動車に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何か給仕と喧《けん》嘩《か》をしていた。給仕と?――いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛かりだった。僕はこのホテルへはいることに何か不《ふ》吉《きつ》な心もちを感じ、さっさともとの道を引き返して行った。
僕の銀座通りへ出た時にはかれこれ日の暮れも近づいていた。僕は両側に並んだ店やめまぐるしい人通りにいっそう憂《ゆう》鬱《うつ》にならずにはいられなかった。ことに往来の人々の罪などというものを知らないように軽快に歩いているのは不快だった。僕は薄明るい外光に電灯の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。そのうちに僕の目を捉《とら》えたのは雑誌などを積み上げた本屋だった。僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書《しよ》棚《だな》を見上げた。それから「希臘《ギリシア》神話」という一冊の本へ目を通すことにした。黄いろい表紙をした「希臘《ギリシア》神話」は子供のために書かれたものらしかった。けれども偶然僕の読んだ一行はたちまち僕を打ちのめした。
「いちばん偉いツォイス《*》の神でも復《ふく》讐《しゆう》の神にはかないません。……」
僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。いつか曲がり出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙《ねら》っている復讐の神を感じながら。……
三 夜
僕は丸善の二階の書《しよ》棚《だな》にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二、三頁《ページ》ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。のみならず黄いろい表紙をしていた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度はほとんど手当りしだいに厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿《さ》し画《え》の一枚に僕ら人間と変わりのない、目鼻のある歯車ばかり並べていた。(それはあるドイツ人の集めた精神病者の画集だった)僕はいつか憂《ゆう》鬱《うつ》の中に反抗的精神の起こるのを感じ、やぶれかぶれになった賭《と》博《ばく》狂《きよう》のようにいろいろの本を開いていった。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠していた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴァリイ」を手にとった時さえ、ひっきょう僕自身も中産階級のムッシュウ・ボヴァリイにほかならないのを感じた。……
日の暮れに近い丸善の二階には僕のほかに客もないらしかった。僕は電灯の光の中に書《しよ》棚《だな》の間をさまよっていった。それから「宗教」という札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐ろしい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕《きよう》慢《まん》、官能的慾《よく》望《ぼう》」という言葉を並べていた。僕はこういう言葉を見るが早いか、いっそう反抗的精神の起こるのを感じた。それらの敵と呼ばれるものは少なくとも僕には感受性や理《り》智《ち》の異名にほかならなかった。が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのはいよいよ僕にはたまらなかった。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿《じゆ》陵《りよう》余《よ》子《し*》」という言葉を思い出した。それは邯《かん》鄲《たん》の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇《だ》行《こう》匍《ほ》匐《ふく》して帰郷したという「韓《かん》非《ぴ》子《し*》」中の青年だった。今日の僕は誰《だれ》の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかしまだ地獄へ堕《お》ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕は大きい書棚を後ろにつとめて妄《もう》想《そう》を払うようにし、ちょうど僕の向こうにあったポスタアの展覧室へはいって行った。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジ《*》らしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜《かぶと》の下に僕の敵の一人に近いしかめ面《つら》を半《なか》ば露《あらわ》していた。僕はまた「韓非子」の中の屠《と》竜《りゆう》の技《ぎ*》の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。
僕はもう夜になった日《に》本《ほん》橋《ばし》通りを歩きながら、屠《と》竜《りゆう》という言葉を考えつづけた。それはまた僕の持っている硯《すずり》の銘《めい》にも違いなかった。この硯を僕に贈ったのはある若い事業家だった。彼はいろいろの事業に失敗したあげく、とうとう去年の暮れに破産してしまった。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらいこの地球の小さいかということを、――したがってどのくらい僕自身の小さいかということを考えようとした。しかし昼間は晴れていた空もいつかもうすっかり曇っていた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持っているのを感じ、電車線路の向こうにあるカッフェへ避難することにした。
それは「避難」に違いなかった。僕はこのカッフェの薔《ば》薇《ら》色《いろ》の壁に何か平和に近いものを感じ、いちばん奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。そこには幸い僕のほかに二、三人の客のあるだけだった。僕は一杯のココアを啜《すす》り、ふだんのように巻き煙草《たばこ》をふかし出した。巻き煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。けれども僕はしばらくののち、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろまた不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だった時、彼の地理のノオト・ブックの最後に「セエント・ヘレナ、小さい島」と記《しる》していた。それはあるいは僕らの言うように偶然だったかもしれなかった。しかしナポレオン自身にさえ恐怖を呼び起こしたのは確かだった。……
僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考え出した。するとまず記憶に浮かんだのは「侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉」の中のアフォリズムだった。(ことに「人生は地獄よりも地獄的である」という言葉だった)それから「地獄変」の主人公、――良《よし》秀《ひで》という画《え》師《し》の運命だった。それから……僕は巻き煙草をふかしながら、こういう記憶から逃《のが》れるためにこのカッフェの中を眺《なが》めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容《よう》子《す》を改めていた。なかんずく僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅《い》子《す》やテエブルの少しもあたりの薔《ば》薇《ら》色《いろ》の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ちこむのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匆《そう》々《そう》このカッフェを出ようとした。
「もし、もし、二十銭頂《いただ》きますが、……」
僕の投げ出したのは銅貨だった。
僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。それはある郊外にある僕の養父母の家ではない、ただ僕を中心にした家族のために借りた家だった。僕はかれこれ十年前にもこういう家に暮らしていた。しかしある事情のために軽率にも父母と同居し出した。同時にまた奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変わり出した。……
前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。ずっと長い途《みち》を歩いて来た僕は部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。
それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、だいたい三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。僕は火の粉の舞い上るのを見ながら、ふと宮《きゆう》城《じよう》の前にあるある銅像を思い出した。この銅像は甲《かつ》冑《ちゆう》を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に跨《またが》っていた。しかし彼の敵だったのは、――
「〓《うそ》!」
僕はまた遠い過去から目《ま》近《ぢか》い現代へすべり落ちた。そこへ幸いにも来合わせたのはある先輩の彫刻家だった。波は相変わらず天鵞絨《びろうど》の服を着、短い山羊《やぎ》髯《ひげ》を反《そ》らせていた。僕は椅子から立ち上がり、彼のさし出した手を握った。(それは僕の習慣ではない、パリやベルリンに半生を送った彼の習慣に従ったのだった)が、彼の手は不思議にも爬《は》虫《ちゆう》類《るい》の皮膚のように湿っていた。
「君はここに泊まっているのですか?」
「ええ、……」
「仕事をしに?」
「ええ、仕事もしているのです」
彼はじっと僕の顔を見つめた。僕は彼の目の中に探偵に近い表情を感じた。
「どうです、僕の部屋へ話しに来ては?」
僕は挑戦的に話しかけた。(この勇気に乏しいくせにたちまち挑戦的態度をとるのは僕の悪癖の一つだった)すると彼は微笑しながら、「どこ、君の部屋は?」と尋ね返した。
僕らは親友のように肩を並べ、静かに話している外国人たちの中を僕の部屋へ帰って行った。彼は僕の部屋へ来ると、鏡を後ろにして腰をおろした。それからいろいろのことを話し出した。いろいろのことを?――しかしたいていは女の話だった。僕は罪を犯したために地獄に堕《お》ちた一人に違いなかった。が、それだけに悪徳の話はいよいよ僕を憂《ゆう》鬱《うつ》にした。僕は一時的清教徒になり、それらの女を嘲《あざけ》り出した。
「S子さんの脣《くちびる》を見たまえ。あれは何人もの接《せつ》吻《ぷん》のために……」
僕はふと口を噤《つぐ》み、鏡の中に彼の後ろ姿を見つめた。彼はちょうど耳の下に黄いろい膏《こう》薬《やく》を貼《は》りつけていた。
「何人もの接吻のために?」
「そんな人のように思いますがね」
彼は微笑して頷《うなず》いていた。僕は彼の内心では僕の秘密を知るために絶えず僕を注意しているのを感じた。けれどもやはり僕らの話は女のことを離れなかった。僕は彼を憎むよりも僕自身の気の弱いのを恥じ、いよいよ憂鬱にならずにはいられなかった。
やっと彼の帰ったのち、僕はベッドの上に転《ころが》ったまま、「暗夜行路」を読みはじめた。主人公の精神的闘争はいちいち僕には痛切だった。僕のこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿《あ》呆《ほう》だったかを感じ、いつか涙を流していた。同時にまた涙は僕の気もちにいつか平和を与えていた。が、それも長いことではなかった。僕の右の目はもう一度半透明の歯車を感じ出した。歯車はやはりまわりながら、しだいに数を殖《ふ》やしていった。僕は頭痛のはじまることを恐れ、枕《まくら》もとに本を置いたまま○・八グラムのヴェロナアルを嚥《の》み、とにかくぐっすりと眠ることにした。
けれども僕は夢の中にあるプウルを眺《なが》めていた。そこにはまた男《なん》女《によ》の子供たちが何人も泳いだりもぐったりしていた。僕はこのプウルを後ろに向こうの松林へ歩いて行った。すると誰か後ろから「おとうさん」と僕に声をかけた。僕はちょっとふり返り、プウルの前に立った妻を見つけた。同時にまた烈《はげ》しい後悔を感じた。
「おとうさん、タオルは?」
「タオルはいらない。子供たちに気をつけるのだよ」
僕はまた歩みつづけ出した。が、僕の歩いているのはいつかプラットフォオムに変わっていた。それは田舎《いなか》の停車場だったと見え、長い生《い》け垣《がき》のあるプラットフォオムだった。そこにはまたHという大学生や年をとった女も佇《ただず》んでいた。彼らは僕の顔を見ると、僕の前に歩み寄り、口々に僕へ話しかけた。
「大火事でしたわね」
「僕もやっと逃げて来たの」
僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。のみならず彼女と話していることにある愉快な興奮を感じた。そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットフォオムへ横づけになった。僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布《ぬの》を垂《たら》した寝台の間を歩いて行った。するとある寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になっていた。それはまた僕の復《ふく》讐《しゆう》の神――ある狂人の娘に違いなかった。……
僕は目を醒《さま》すが早いか、思わずベッドを飛び下りていた。僕の部屋は相変わらず電灯の光に明るかった。が、どこかに翼の音や鼠《ねずみ》のきしる音も聞こえていた。僕は戸をあけて廊下へ出、前の炉の前へ急いで行った。それから椅《い》子《す》に腰をおろしたまま、おぼつかない炎を眺め出した。そこへ白い服を着た給《きゆう》仕《じ》が一人焚《た》き木《ぎ》を加えに歩み寄った。
「何時!」
「三時半ぐらいでございます」
しかし向こうのロッビイの隅《すみ》にはアメリカ人らしい女が一人何か本を読みつづけた。彼女の着ているのは遠目に見ても緑いろのドレッスに違いなかった。僕は何か救われたのを感じ、じっと夜のあけるのを待つことにした。長年の病苦に悩み抜いたあげく、静かに死を待っている老人のように。……
四 まだ?
僕はこのホテルの部屋にやっと前の短篇を書き上げ、ある雑誌に送ることにした。もっとも僕の原稿料は一週間の滞在費にも足りないものだった。が、僕は僕の仕事を片づけたことに満足し、何か精神的強壮剤を求めるために銀座のある本屋へ出かけることにした。
冬の日の当たったアスファルトの上には紙《かみ》屑《くず》が幾つもころがっていた。それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔《ば》薇《ら》の花にそっくりだった。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。そこもまたふだんよりもこぎれいだった。ただ目《め》金《がね》をかけた小娘が一人何か店員と話していたのは僕には気がかりにならないこともなかった。けれども僕は往来に落ちた紙屑の薔薇の花を思い出し、「アナトオル・フランスの対話集《*》」や「メリメエの書簡集《*》」を買うことにした。
僕は二冊の本を抱《かか》え、あるカッフェへはいって行った。それからいちばん奥のテエブルの前に珈琲《コーヒー》の来るのを待つことにした。僕の向こうには親子らしい男《なん》女《によ》が二人坐《すわ》っていた。その息《むす》子《こ》は僕よりも若かったものの、ほとんど僕にそっくりだった。のみならず彼らは恋人同志のように顔を近づけて話し合っていた。僕は彼らを見ているうちに少なくとも息子は性的にも母親に慰《なぐさ》めを与えていることを意識しているのに気づき出した。それは僕にも覚えのある親和力の一例に違いなかった。同時にまた現《げん》世《せ》を地獄にするある意志の一例にも違いなかった。しかし、――僕はまた苦しみに陥《おちい》るのを恐れ、ちょうど珈琲《コーヒー》の来たのを幸い、「メリメエの書簡集」を読みはじめた。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のように鋭いアフォリズムを閃《ひらめ》かせていた。それらのアフォリズムは僕の気もちをいつか鉄のようにがんじょうにし出した。(この影響を受けやすいことも僕の弱点の一つだった)僕は一杯の珈琲を飲み了《おわ》ったのち、「なんでも来い」という気になり、さっさとこのカッフェを後ろにして行った。
僕は往来を歩きながら、いろいろの飾り窓を覗《のぞ》いて行った。ある額縁屋の飾り窓はべエトオヴェンの肖像画を掲げていた。それは髪を逆《さか》立《だ》てた天才そのものらしい肖像画だった。僕はこのべエトオヴェンをこっけいに感ぜずにはいられなかった。……
そのうちにふと出合ったのは高等学校以来の旧友だった。この応用化学の大学教授は大きい中《なか》折《お》れ鞄《かばん》を抱え、片目だけまっ赤《か》に血を流していた。
「どうした、君の目は?」
「これか? これはただの結膜炎さ」
僕はふと十四、五年以来、いつも親和力を感じるたびに僕の目も彼の目のように結膜炎を起こすのを思い出した。が、なんとも言わなかった。彼は僕の肩を叩《たた》き、僕らの友だちのことを話し出した。それから話をつづけたまま、あるカッフェへ僕をつれて行った。
「久しぶりだなあ。朱《しゆ》舜《しゆん》水《すい*》の建《けん》碑《び》式《しき》以来だろう」
彼は葉巻に火をつけたのち、大理石のテエブル越しにこう僕に話しかけた。
「そうだ。あのシュシュン……」
僕はなぜか朱舜水という言葉を正確に発音できなかった。それは日本語だっただけにちょっと僕を不安にした。しかし彼はむとんじゃくにいろいろのことを話していった。Kという小説家のことを、彼の買ったブル・ドッグのことを、リュウイサイト《*》という毒《どく》瓦斯《ガス》のことを。……
「君はちっとも書かないようだね。『点《てん》鬼《き》簿《ぼ》』というのは読んだけれども。……あれは君の自《じ》叙《じよ》伝《でん》かい?」
「うん、僕の自叙伝だ」
「あれはちょっと病的だったぜ。このごろは体《からだ》はいいのかい?」
「相変わらず薬ばかり嚥《の》んでいる始末だ」
「僕もこのごろは不眠症だがね」
「僕も?――どうして君は『僕も』と言うのだ?」
「だって君も不眠症だって言うじゃないか? 不眠症は危険だぜ。……」
彼は左だけ充血した目に微笑に近いものを浮かべていた。僕は返事をする前に「不眠症」のショウの発音を正確にできないのを感じ出した。
「気違いの息《むす》子《こ》にはあたりまえだ」
僕は十分とたたないうちにひとりまた往来を歩いて行った。アスファルトの上に落ちた紙《かみ》屑《くず》は時々僕ら人間の顔のようにも見えないことはなかった。すると向こうから断髪にした女が一人通りかかった。彼女は遠目には美しかった。けれども目の前へ来たのを見ると、小《こ》皺《じわ》のある上に醜い顔をしていた。のみならず妊娠しているらしかった。僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲がって行った。が、しばらく歩いているうちに痔《じ》の痛みを感じ出した。それは僕には坐《ざ》浴《よく》よりほかに癒《なお》すことのできない痛みだった。
「坐浴、――ベエトオヴェンもやはり坐浴をしていた。……」
坐浴に使う硫《い》黄《おう》の匂《にお》いはたちまち僕の鼻を襲い出した。しかしもちろん往来にはどこにも硫黄は見えなかった。僕はもう一度紙屑の薔《ば》薇《ら》の花を思い出しながら、つとめてしっかりと歩いて行った。
一時間ばかりたったのち、僕は僕の部屋にとじこもったまま、窓の前の机に向かい、新しい小説にとりかかっていた。ペンは僕にも不思議だったくらい、ずんずん原稿用紙の上を走って行った。しかしそれも二、三時間ののちには誰《だれ》か僕の目に見えないものに抑《おさ》えられたようにとまってしまった。僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の中を歩きまわった。僕の誇《こ》大《だい》妄《もう》想《そう》はこういう時に最も著しかった。僕は野《や》蛮《ばん》な歓《よろこ》びの中に僕には両親もなければ妻子もない、ただ僕のペンから流れ出した命だけあるという気になっていた。
けれども僕は四、五分ののち、電話に向かわなければならなかった。電話は何度返事をしても、ただ何かあいまいな言葉を繰り返して伝えるばかりだった。が、それはともかくもモオルと聞こえたのに違いなかった。僕はとうとう電話を離れ、もう一度部屋の中を歩き出した。しかしモオルという言葉だけは妙に気になってならなかった。
「モオル――Mole……」
モオルは〓鼠《もぐらもち》という英語だった。この聯《れん》想《そう》も僕には愉快ではなかった。が、僕は二、三秒ののち、Mole を la mort に綴《つづ》り直した。ラ・モオルは、――死というフランス語はたちまち僕を不安にした。死は姉の夫に迫っていたように僕にも迫っているらしかった。けれども僕は不安の中にも何かおかしさを感じていた。のみならずいつか微笑していた。このおかしさはなんのために起こるか?――それは僕自身にもわからなかった。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向かい合った。僕の影ももちろん微笑していた。僕はこの影を見つめているうちに第二の僕のことを思い出した。第二の僕、――ドイツ人のいわゆるDoppelgaenger《*》 は仕合わせにも僕自身に見えたことはなかった。しかしアメリカの映画俳優になったK君《*》の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「せんだってはついご挨《あい》拶《さつ》もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている)それからもう故人になったある隻《かた》脚《あし》の翻訳家もやはり銀座のある煙草《たばこ》屋《や》に第二の僕を見かけていた。死はあるいは僕よりも第二の僕に来るのかもしれなかった。もしまた僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰って行った。
四角に凝《ぎよう》灰《かい》岩《がん》を組んだ窓は枯れ芝や池を覗《のぞ》かせていた。僕はこの庭を眺《なが》めながら、遠い松林の中に焼いた何冊かのノオト・ブックや未完成の戯曲を思い出した。それからペンをとり上げると、もう一度新しい小説を書きはじめた。
五 赤《しやつ》 光《こう》
日の光は僕を苦しめ出した。僕は実際〓鼠《もぐらもち》のように窓の前へカアテンをおろし、昼間も電灯をともしたまま、せっせと前の小説をつづけていった。それから仕事に疲れると、テエヌのイギリス文学史をひろげ、詩人たちの生《しよう》涯《がい》に目を通した。彼らはいずれも不幸だった。エリザベス朝の巨人《*》たちさえ、――一代の学者だったベン・ジョンソン《*》さえ彼の足の親指の上にローマとカルセエジ《*》との軍勢の戦いを始めるのを眺《なが》めたほど神経的疲労に陥《おち》っていた。僕はこういう彼らの不幸に残酷な悪意に充《み》ち満ちた歓《よろこ》びを感じずにはいられなかった。
ある東かぜの強い夜、(それは僕にはよい徴《しるし》だった)僕は地下室を抜けて往来へ出、ある老《ろう》人《じん*》を尋ねることにした。彼はある聖書会社の屋根裏にたった一人小使をしながら、祈《き》祷《とう》や読書に精《しよう》進《じん》していた。僕らは火《ひ》鉢《ばち》に手をかざしながら、壁にかけた十字架の下にいろいろのことを話し合った。なぜ僕の母は発狂したか? なぜ僕の父の事業は失敗したか? なぜまた僕は罰せられたか?――それらの秘密を知っている彼は妙におごそかな微笑を浮かべ、いつまでも僕の相手をした。のみならず時々短い言葉に人生のカリカテュアを描いたりした。僕はこの屋根裏の隠《いん》者《じや》を尊敬しないわけにはゆかなかった。しかし彼と話しているうちに彼もまた親和力のために動かされていることを発見した。――
「その植木屋の娘というのは器量もいいし、気立てもいいし、――それはわたしに優しくしてくれるのです」
「いくつ?」
「ことしで十八です」
それは彼には父らしい愛であるかもしれなかった。しかし僕は彼の目の中に情熱を感じずにはいられなかった。のみならず彼の勧めた林《りん》檎《ご》はいつか黄ばんだ皮の上へ一《いつ》角《かく》獣《じゆう》の姿を現わしていた。(僕は木目や珈琲《コーヒー》茶《ぢや》碗《わん》の亀裂《ひび》にたびたび神話的動物を発見していた)一角獣は麒麟《きりん》に違いなかった。僕はある敵意のある批評家の僕を「九百十年代の麒麟《きりん》児《じ》」と呼んだのを思い出し、この十字架のかかった屋根裏も安全地帯ではないことを感じた。
「いかがですか、このごろは?」
「相変わらず神経ばかり苛《いら》々《いら》してね」
「それは薬では駄《だ》目《め》ですよ。信者になる気はありませんか?」
「もし僕でもなれるものなら……」
「何もむずかしいことはないのです。ただ神を信じ、神の子の基督《キリスト》を信じ、基督の行なった奇《き》蹟《せき》を信じさえすれば」
「悪魔を信じることはできますがね。……」
「ではなぜ神を信じないのです? もし影を信じるならば光も信じずにはいられないでしょう?」
「しかし光のない暗《やみ》もあるでしょう」
「光のない暗とは?」
僕は黙るよりほかはなかった。彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕らの論理の異なるのはただこういう一点だけだった。しかしそれは少なくとも僕には越えられない溝《みぞ》に違いなかった。……
「けれども光は必ずあるのです。その証《しよう》拠《こ》には奇《き》蹟《せき》があるのですから。……奇蹟などというものは今でもたびたび起こっているのですよ」
「それは悪魔の行なう奇蹟は。……」
「どうしてまた悪魔などというのです?」
僕はこの一、二年の間、僕自身の経験したことを彼に話したい誘惑を感じた。が、彼から妻子に伝わり、僕もまた母のように精神病院にはいることを恐れないわけにもゆかなかった。
「あすこにあるのは?」
このたくましい老人は古い書《しよ》棚《だな》をふり返り、何か牧《ぼく》羊《よう》神《じん》らしい表情を示した。
「ドストエフスキイ全集です。『罪と罰』はお読みですか?」
僕はもちろん十年前にも四、五冊のドストエフスキイに親しんでいた。が、偶然(?)彼の言った『罪と罰』という言葉に感動し、この本を貸してもらった上、前のホテルへ帰ることにした。電灯の光に輝いた、人通りの多い往来はやはり僕には不快だった。ことに知り人に遇《あ》うことはとうてい堪《た》えられないのに違いなかった。僕はつとめて暗い往来を選び、盗人のように歩いて行った。
しかし僕はしばらくののち、いつか胃の痛みを感じ出した。この痛みを止めるものは一杯のウイスキイのあるだけだった。僕はあるバアを見つけ、その戸を押してはいろうとした。けれども狭いバアの中には煙草《たばこ》の煙の立ちこめた中に芸術家らしい青年たちが何人も群がって酒を飲んでいた。のみならず彼らのまん中には耳隠しに結った女が一人熱心にマンドリンを弾きつづけていた。僕はたちまち当惑を感じ、戸の中へはいらずに引き返した。するといつか僕の影の左右に揺れているのを発見した。しかも僕を照らしているのは無気味にも赤い光だった。僕は往来に立ちどまった。けれども僕の影は前のように絶えず左右に動いていた。僕はおずおずふり返り、やっとこのバアの軒に吊《つ》った色《いろ》硝子《ガラス》のランタアンを発見した。ランタアンは烈《はげ》しい風のためにおもむろに空中に動いていた。……
僕の次にはいったのはある地下室のレストオランだった。僕はそこのバアの前に立ち、ウイスキイを一杯注文した。
「ウイスキイを? Black and White ばかりでございますが、……」
僕は曹達《ソーダ》水《すい》の中にウイスキイを入れ、黙って一口ずつ飲みはじめた。僕の隣には新聞記者らしい三十前後の男が二人何か小声に話していた。のみならずフランス語を使っていた。僕は彼らに背中を向けたまま、全身に彼らの視線を感じた。それは実際電波のように僕の体《からだ》にこたえるものだった。彼らは確かに僕の名を知り、僕の噂《うわさ》をしているらしかった。
「Bien……tr?s mauvais……pourquoi?……」
「Pourquoi?……le diable est mort!……」
「Oui, oui……d'enfer……」
僕は銀貨を一枚投げ出し、(それは僕の持っている最後の一枚の銀貨だった)この地下室の外へのがれることにした。夜風の吹き渡る往来は多少胃の痛みの薄らいだ僕の神経をじょうぶにした。僕はラスコルニコフを思い出し、何ごとも懺《ざん》悔《げ》したい欲望を感じた。が、それは僕自身のほかにも、――いや、僕の家族のほかにも悲劇を生じるのに違いなかった。のみならずこの欲望さえ真実かどうかは疑わしかった。もし僕の神経さえ常人のようにじょうぶになれば、――けれども僕はそのためにはどこかへ行かなければならなかった。マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、……
そのうちにある店の軒に吊《つ》った、白い小型の看板は突然僕を不安にした。それは自動車のタイアアに翼のある商標を描いたものだった。僕はこの商標に人工の翼をたよりにした古代のギリシア人《*》を思い出した。彼は空中に舞い上がったあげく、太陽の光に翼を焼かれ、とうとう海中に溺《でき》死《し》していた。マドリッドへ、リオへ、サマルカンドへ、――僕はこういう僕の夢を嘲《あざ》笑《わら》わないわけにはゆかなかった。同時にまた復《ふく》讐《しゆう》の神に追われたオレステス《*》を考えないわけにもゆかなかった。
僕は運河に沿いながら、暗い往来を歩いて行った。そのうちにある郊外にある養父母の家を思い出した。養父母はもちろん僕の帰るのを待ち暮らしているのに違いなかった。恐らくは僕の子供たちも、――しかし僕はそこへ帰ると、おのずから僕を束縛してしまうある力を恐れずにはいられなかった。運河は波立った水の上に達《だる》磨《ま》船《ぶね》を一《いつ》艘《そう》横づけにしていた。そのまた達磨船は船の底から薄い光を洩《も》らしていた。そこにも何人かの男《なん》女《によ》の家族は生活しているのに違いなかった。やはり愛し合うために憎み合いながら。……が、僕はもう一度戦闘的精神を呼び起こし、ウイスキイの酔いを感じたまま、前のホテルへ帰ることにした。
僕はまた机に向かい、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それはまたいつの間にか僕に生活力を与えていた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になっていたことを知ると、にわかに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼もまたやはり僕らのように暗の中を歩いている一人だった。暗の中を?――「暗夜行路」はこういう僕には恐ろしい本に変わりはじめた。僕は憂《ゆう》鬱《うつ》を忘れるために「アナトオル・フランスの対話集」を読みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷《にな》っていた。
一時間ばかりたったのち、給《きゆう》仕《じ》は僕に一束の郵便物を渡しに顔を出した。それらの一つはライプツィッヒの本屋から僕に「近代の日本の女」という小論文を書けというものだった。なぜ彼らは特に僕にこういう小論文を書かせるのであろう? のみならずこの英語の手紙は「我々はちょうど日本画のように黒と白のほかに色彩のない女の肖像画でも満足である」という肉筆のP・S《*》を加えていた。僕はこういう一行に Black and White というウイスキイの名を思い出し、ずたずたにこの手紙を破ってしまった。それから今度は手当りしだいに一つの手紙の封を切り、黄いろい書《しよ》簡《かん》箋《せん》に目を通した。この手紙を書いたのは僕の知らない青年だった。しかし二、三行も読まないうちに「あなたの『地獄変』は……」という言葉は僕を苛《いら》立《だ》たせずにはおかなかった。三番目に封を切った手紙は僕の甥《おい*》から来たものだった。僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んでいった。けれどもそれさえ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。
「歌集『赤《しやつ》光《こう》』の再版を送りますから……」
赤光! 僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。廊下には誰《だれ》も人かげはなかった。僕は片手に壁を抑《おさ》え、やっとロッビイへ歩いて行った。それから椅《い》子《す》に腰をおろし、とにかく巻き煙草に火を移すことにした。巻き煙草はなぜかエエア・シップ《*》だった。(僕はこのホテルへ落ち着いてから、いつもスタア《*》ばかり吸うことにしていた)人工の翼はもう一度僕の目の前へ浮かび出した。僕は向こうにいる給仕を呼び、スタアを二箱貰《もら》うことにした。しかし給仕を信用すれば、スタアだけはあいにく品切れだった。
「エエア・シップならばございますが、……」
僕は頭を振ったまま、広いロッビイを眺めまわした。僕の向こうには外国人が四、五人テエブルを囲んで話していた。しかも彼らの中の一人、――赤いワンピースを着た女は小声に彼らと話しながら、時々僕を見ているらしかった。
「Mrs.Townshead……」
何か僕の目に見えないものはこう僕に囁《ささや》いていった。ミセス・タウンズヘッドなどという名はもちろん僕の知らないものだった。たとい向こうにいる女の名にしても、――僕はまた椅《い》子《す》から立ち上がり、発狂することを恐れながら、僕の部屋へ帰ることにした。
僕は僕の部屋へ帰ると、すぐにある精神病院へ電話をかけるつもりだった。が、そこへはいることは僕には死ぬことに変わらなかった。僕はさんざんためらったのち、この恐怖を紛《まぎ》らすために「罪と罰」を読みはじめた。しかし偶然開いた頁《ページ》は「カラマゾフ兄弟」の一節だった。僕は本を間違えたのかと思い、本の表紙へ目を落とした。「罪と罰」――本は「罪と罰」に違いなかった。僕はこの製本屋の綴《と》じ違えに、――そのまた綴じ違えた頁を開いたことに運命の指の動いているのを感じ、やむを得ずそこを読んでいった。けれども一頁も読まないうちに全身が震えるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴァンを描いた《*》一節だった。イヴァンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、あるいはこの部屋にいる僕自身を。……
こういう僕を救うものはただ眠りのあるだけだった。しかし催《さい》眠《みん》剤《ざい》はいつの間にか一包みも残らずになくなっていた。僕はとうてい眠らずに苦しみつづけるのに堪《た》えなかった。が、絶望的な勇気を生じ、珈琲《コーヒー》を持って来てもらった上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、十枚、――原稿は見る見る出来上がっていった。僕はこの小説の世界を超自然の動物に満たしていた。のみならずその動物の一匹に僕自身の肖像画を描いていた。けれども疲労はおもむろに僕の頭を曇らせはじめた。僕はとうとう机の前を離れ、ベッドの上へ仰《あお》向《む》けになった。それから四、五十分間は眠ったらしかった。しかしまた誰か僕の耳にこういう言葉を囁《ささや》いたのを感じ、たちまち目を醒《さま》して立ち上がった。
「Le diable est mort」
凝《ぎよう》灰《かい》岩《がん》の窓の外はいつか冷えびえと明けかかっていた。僕はちょうど戸の前に佇《たたず》み、誰もいない部屋の中を眺めまわした。すると向こうの窓《まど》硝子《ガラス》はまだらに外気に曇った上に小さい風景を現わしていた。それは黄ばんだ松林の向こうに海のある風景に違いなかった。僕はおずおず窓の前へ近づき、この風景を造っているものは実は庭の枯れ芝や池だったことを発見した。けれども僕の錯覚はいつか僕の家に対する郷愁に近いものを呼び起こしていた。
僕は九時にでもなりしだい、ある雑誌社へ電話をかけ、とにかく金の都合をした上、僕の家へ帰る決心をした。机の上に置いた鞄《かばん》の中へ本や原稿を押しこみながら。
六 飛行機
僕は東海道線のある停車場からその奥のある避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜかこの寒さに古いレエン・コオトをひっかけていた。僕はこの暗《あん》合《ごう》を無気味に思い、つとめて彼を見ないように窓の外へ目をやることにした。すると低い松の生《は》えた向こうに、――おそらくは古い街道に葬式が一列通るのをみつけた。白張りの提《ちよう》灯《ちん》や竜《りゆう》灯《とう》はその中に加わってはいないらしかった。が、金銀の造花の蓮《はす》は静かに輿《こし》の前後に揺らいで行った。……
やっと僕の家へ帰ったのち、僕は妻子や催眠薬の力により、二、三日はかなり平和に暮らした。僕の二階は松林の上にかすかに海を覗《のぞ》かせていた。僕はこの二階の机に向かい、鳩《はと》の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。鳥は鳩や鴉《からす》のほかに雀《すずめ》も縁側へ舞いこんだりした。それもまた僕には愉快だった。「喜《き》雀《じやく》堂に入る《*》」――僕はペンを持ったまま、そのたびにこんな言葉を思い出した。
あるなま暖かい曇天の午後、僕はある雑貨店へインクを買いに出かけて行った。するとその店に並んでいるのはセピア色のインクばかりだった。セピア色のインクはどのインクよりも僕を不快にするのを常としていた。僕はやむを得ずこの店を出、人通りの少ない往来をぶらぶらひとり歩いて行った。そこへ向こうから近眼らしい四十前後の外国人が一人肩を聳《そびや》かせて通りかかった。彼はここに住んでいる被害妄《もう》想《ぞう》狂《きよう》のスウェデン人だった。しかも彼の名はストリントベルグだった。僕は彼とすれ違う時、肉体的に何かこたえるのを感じた。
この往来はわずかに二、三町だった。が、その二、三町を通るうちにちょうど半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通って行った。僕は横町を曲がりながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思い出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だったのを思い出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考えられなかった。もし偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いているように感じ、ちょっと往来に立ち止まった。道ばたには針金の柵《さく》の中にかすかに虹《にじ》の色を帯びた硝子《ガラス》の鉢《はち》が一つ捨ててあった。この鉢はまた底のまわりに翼らしい模様を浮き上がらせていた。そこへ松の梢《こずえ》から雀《すずめ》が何羽も舞い下がって来た。が、この鉢のあたりへ来ると、どの雀も皆言い合わせたように一度に空中へ逃げのぼって行った。……
僕は妻の実家へ行き、庭先の籐《とう》椅《い》子《す》に腰をおろした。庭の隅《すみ》の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それからまた僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰《だれ》にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけはひややかに妻の母や弟《*》と世間話をした。
「静かですね、ここへ来ると」
「それはまだ東京よりもね」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だってここも世の中ですもの」
妻の母はこう言って笑っていた。実際この避暑地もまた「世の中」であるのに違いなかった。僕はわずかに一年ばかりの間にどのくらいここにも罪悪や悲劇の行なわれているかを知り悉《つく》していた。おもむろに患者を毒殺しようとした医者、養子夫婦の家に放火した老婆、妹の資産を奪おうとした弁護士、……それらの人々の家を見ることは僕にはいつも人生の中に地獄を見ることに異ならなかった。
「この町には気違いが一人いますね」
「Hちゃんでしょう。あれは気違いじゃないのですよ。ばかになってしまったのですよ」
「早《そう》発《はつ》性《せい》痴《ち》呆《ほう》というやつですね。僕はあいつを見るたびに気味が悪くってたまりません。あいつはこの間もどういう量《りよう》見《けん》か、馬《ば》頭《とう》観《かん》世《ぜ》音《おん》の前にお時《じ》宜《ぎ》をしていました」
「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄《だ》目《め》ですよ」
「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」
無《ぶ》精《しよう》髭《ひげ》を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま、いつもの通り遠慮がちに僕らの話に加わり出した。
「強い中に弱いところもあるから。……」
「おやおや、それは困りましたね」
僕はこう言った妻の母を見、苦笑しないわけにはゆかなかった。すると弟も微笑しながら、遠い垣《かき》の外の松林を眺《なが》め、何かうっとりと話しつづけた。(この若い病後の弟は時々僕には肉体を脱した精神そのもののように見えるのだった)
「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈《はげ》しいし、……」
「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」
「いや、善悪というよりも何かもっと反対なものが、……」
「じゃ大人《おとな》の中に子供もあるのだろう」
「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。なにしろ反対なものをいっしょに持っている」
そこへ僕らを驚かしたのは、烈しい飛行機の響きだった。僕は思わず空を見上げ、松の梢《こずえ》に触れないばかりに舞い上がった飛行機を発見した。それは翼を黄いろに塗った、珍しい単葉の飛行機だった。鶏や犬はこの響きに驚き、それぞれ八方へ逃げまわった。ことに犬は吠《ほ》え立てながら、尾を捲《ま》いて縁の下へはいってしまった。
「あの飛行機は落ちはしないか?」
「だいじょうぶ。……兄さんは飛行機病という病気を知っている」
僕は巻き煙草《たばこ》に火をつけながら、「いや」という代りに頭を振った。
「ああいう飛行機に乗っている人は高空の空気ばかり吸っているものだから、だんだんこの地面の上の空気に堪《た》えられないようになってしまうのだって。……」
妻の母の家を後ろにしたのち、僕は枝一つ動かさない松林の中を歩きながら、じりじり憂《ゆう》鬱《うつ》になっていった。なぜあの飛行機はほかへ行かずに僕の頭の上を通ったのであろう? なぜまたあのホテルは巻き煙草のエエア・シップばかり売っていたのであろう? 僕はいろいろの疑問に苦しみ、人《ひと》気《げ》のない道を選《よ》って歩いて行った。
海は低い砂山の向こうに一面に灰色に曇っていた。そのまた砂山にはブランコのないブランコ台が一つ突っ立っていた。僕はこのブランコ台を眺《なが》め、たちまち絞首台を思い出した。実際またブランコ台の上には鴉《からす》が二、三羽とまっていた。鴉は皆僕を見ても、飛び立つ気《け》色《しき》さえ示さなかった。のみならずまん中にとまっていた鴉は大きい嘴《くちばし》を空へ挙《あ》げながら、確かに四たび声を出した。
僕は芝の枯れた砂土手に沿い、別荘の多い小みちを曲がることにした。この小みちの右側にはやはり高い松の中に二階のある木造の西洋家屋が一軒しらじらと立っているはずだった。(僕の親友はこの家のことを「春のいる家」と称していた)が、この家の前へ通りかかると、そこにはコンクリイトの土台の上にバス・タッブが一つあるだけだった。火事――僕はすぐにこう考え、そちらを見ないように歩いて行った。すると自転車に乗った男が一人まっすぐに向こうから近づき出した。彼は焦《こげ》茶《ちや》いろの鳥打ち帽をかぶり、妙にじっと目を据《す》えたまま、ハンドルの上へ身をかがめていた。僕はふと彼の顔に姉の夫の顔を感じ、彼の目の前へ来ないうちに横の小みちへはいることにした。しかしこの小みちのまん中にも腐った〓鼠《もぐらもち》の死《し》骸《がい》が一つ腹を上にして転《ころが》っていた。
何ものかの僕を狙《ねら》っていることは一足ごとに僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮《さえぎ》り出した。僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、頸《くび》すじをまっすぐにして歩いて行った。歯車は数の殖《ふ》えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。同時にまた右の松林はひっそりと枝をかわしたまま、ちょうど細かい切り子硝子《ガラス》を透《す》かして見るようになりはじめた。僕は動《どう》悸《き》の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まろうとした。けれども誰かに押されるように立ち止まることさえ容易ではなかった。……
三十分ばかりたったのち、僕は僕の二階に仰《あお》向《む》けになり、じっと目をつぶったまま、烈《はげ》しい頭痛をこらえていた。すると僕の瞼《まぶた》の裏に銀色の羽根を鱗《うろこ》のように畳《たた》んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはっきりと映っているものだった。僕は目をあいて天《てん》井《じよう》を見上げ、もちろん何も天井にはそんなもののないことを確かめた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちゃんと暗い中に映っていた。僕はふとこの間乗った自動車のラディエエタア・キャップにも翼のついていたことを思い出した。……
そこへ誰か梯《はし》子《ご》段《だん》をあわただしく昇《のぼ》って来たかと思うと、すぐにまたばたばた駆《か》け下《お》りて行った。僕はその誰かの妻だったことを知り、驚いて体《からだ》を起こすが早いか、ちょうど梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突っ伏したまま、息切れをこらえていると見え、絶えず肩を震《ふる》わしていた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやっと顔を擡《もた》げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもしたわけではないのですけれどもね、ただなんだかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こういう気もちの中に生きているのはなんとも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?
(昭和二年)
〔遺稿〕
闇《あん》中《ちゆう》問《もん》答《どう》
一
ある声 お前は俺《おれ》の思《おも》惑《わく》とは全然違った人間だった。
僕 それは僕の責任ではない。
ある声 しかしお前はその誤解にお前自身も協力している。
僕 僕は一度も協力したことはない。
ある声 しかしお前は風《ふう》流《りゆう》を愛した、――あるいは愛したように装ったろう。
僕 僕は風流を愛している。
ある声 お前はどちらかを愛している? 風流か? それとも一人の女か?
僕 僕はどちらも愛している。
ある声 (冷笑)それを矛盾とは思わないとみえるな。
僕 誰《だれ》が矛盾と思うものか? 一人の女を愛するものは古《こ》瀬《せ》戸《と》の茶《ちや》碗《わん》を愛さないかもしれない。しかしそれは古瀬戸の茶碗を愛する感覚を持たないからだ。
ある声 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。
僕 僕はあいにく風流人よりもずっと多《た》慾《よく》に生まれついている。しかし将来は一人の女よりも古瀬戸の茶碗を選ぶかもしれない。
ある声 ではお前は不徹底だ。
僕 もしそれを不徹底と言うならば、インフルエンザに罹《かか》ったのちも冷水摩《ま》擦《さつ》をやっているものは誰よりも徹底しているだろう。
ある声 もう強がるのはやめにしてしまえ。お前は内心は弱っている。しかし当然お前の受ける社会的非難をはね返すためにそんなことを言っているだけだろう。
僕 僕はもちろんそのつもりだ。第一考えてみるがいい。はね返さなかったが最後、押しつぶされてしまう。
ある声 お前はなんというずうずうしい奴《やつ》だ。
僕 僕は少しもずうずうしくはない。僕の心臓はささいなことにあっても氷のさわったようにひやひやとしている。
ある声 お前は多《た》力《りよく》者《しや》のつもりでいるな?
僕 もちろん僕は多力者の一人だ。しかし最大の多力者ではない。もし最大の多力者だったとすれば、あのゲエテという男のように安んじて偶像になっていたであろう。
ある声 ゲエテの恋愛は純潔だった。
僕 それは〓《うそ》だ。文芸史家の〓だ。ゲエテはちょうど三十五の年に突然イタリイへ逃走している。そうだ。逃走というほかはない。あの秘密を知っているものはゲエテ自身を例外にすればシュタイン夫人《*》一人だけだろう。
ある声 お前の言うことは自己弁護だ。自己弁護ぐらいたやすいものはない。
僕 自己弁護は容易ではない。もしたやすいものとすれば、弁護士という職業は成り立たないはずだ。
ある声 口《くち》巧《ごう》者《しや》なおうちゃくものめ! 誰ももうお前を相手にしないぞ。
僕 僕はまだ僕に感激を与える樹木や水を持っている。それから和漢東西の本を三百冊以上持っている。
ある声 しかしお前は永久にお前の読者を失ってしまうぞ。
僕 僕は将来に読者を持っている。
ある声 将来の読者はパンをくれるか?
僕 現《げん》世《ぜ》の読者さえろくにくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円に限っていた。
ある声 しかしお前は資産を持っていたろう?
僕 僕の資産は本《ほん》所《じよ》にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月収は最高の時でも三百円を越えたことはない。
ある声 しかしお前は家を持っている。それから近代文芸読本《*》の……
僕 あの家の棟《むな》木《ぎ》は僕には重たい。近代文芸読本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰《もら》ったのは四、五百円だから。
ある声 しかしお前はあの読本の編者だ。それだけでもお前は恥じなければならぬ。
僕 何を僕に恥じろと言うのだ?
ある声 お前は教育家の仲間入りをした。
僕 それは〓《うそ》だ。教育家こそ僕らの仲間入りをしている。僕はその仕事を取り戻したのだ。
ある声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?
僕 僕はもちろん夏目先生の弟子だ。お前は文《ぶん》墨《ぼく》に親しんだ漱《そう》石《せき》先生を知っているかもしれない。しかしあの気違いじみた天才の夏目先生を知らないだろう。
ある声 お前には思想というものはない。たまたまあるのは矛盾だらけの思想だ。
僕 それは僕の進歩する証《しよう》拠《こ》だ。阿《あ》呆《ほう》はいつまでも太陽は盥《たらい》よりも小さいと思っている。
ある声 お前の傲《ごう》慢《まん》はお前を殺すぞ。
僕 僕は時々こう思っている。――あるいは僕は畳の上では往《おう》生《じよう》しない人間かもしれない。
ある声 お前は死を怖れないと見えるな? な?
僕 僕は死ぬことを怖れている。が、死ぬことは困難ではない。僕は二、三度頸《くび》をくくったものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだのちはある快感さえ感じてくる。僕は死よりも不快なことに会えば、いつでも死ぬのにためらわないつもりだ。
ある声 ではなぜお前は死なないのだ? お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか?
僕 僕はそれも承知している。ヴェルレエン《*》のように、ワグナア《*》のように、あるいはまた大いなるストリントベリイ《*》のように。
ある声 しかしお前は贖《あがな》わない。
僕 いや、僕は贖っている。苦しみにまさる贖いはない。
ある声 お前は仕方のない悪人だ。
僕 僕はむしろ善《ぜん》男《なん》子《し》だ。もし悪人だったとすれば、僕のように苦しみはしない。のみならず必ず恋愛を利用し、女から金を絞《しぼ》るだろう。
ある声 ではお前は阿《あ》呆《ほう》かもしれない。
僕 そうだ。僕は阿呆かもしれない。あの「痴人の懺《ざん》悔《げ*》」などという本は僕に近い阿呆の書いたものだ。
ある声 その上お前は世間見ずだ。
僕 世間知りを最上とすれば、実業家は何よりも高等だろう。
ある声 お前は恋愛を軽《けい》蔑《べつ》していた。しかし今になってみればひっきょう恋愛至上主義者だった。
僕 いや、僕は今日でも断じて恋愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。芸術家だ。
ある声 しかしお前は恋愛のために父母妻子を抛《なげう》ったではないか?
僕 〓《うそ》をつけ。僕はただ僕自身のために父母妻子を抛ったのだ。
ある声 ではお前はエゴイストだ。
僕 僕はあいにくエゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。
ある声 お前は不幸にも近代のエゴ崇《すう》拝《はい》にかぶれている。
僕 それでこそ僕は近代人だ。
ある声 近代人は古人に若《し》かない。
僕 古人もまた一度は近代人だったのだ。
ある声 お前は妻子を憐《あわれ》まないのか?
僕 誰か憐まずにいられたものがあるか? ゴオギャアンの手紙を読んでみろ。
ある声 お前はお前のしたことをどこまでも是《ぜ》認《にん》するつもりだな。
僕 どこまでも是認しているとすれば、何もお前と問答などはしない。
ある声 ではやはり是認しずにいるか?
僕 僕はただあきらめている。
ある声 しかしお前の責任はどうする?
僕 四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。
ある声 お前はなんという下等な奴《やつ》だ!
僕 誰でも僕ぐらいは下等だろう。
ある声 ではお前は悪魔主義者《*》だ。
僕 僕はあいにく悪魔主義者ではない。ことに安全地帯の悪魔主義者には常に軽《けい》蔑《べつ》を感じている。
ある声 (しばらく無言)とにかくお前は苦しんでいる。それだけは認めてやってもいい。
僕 いや、うっかり買い冠《かぶ》るな。僕はあるいは苦しんでいることに誇りを持っているかもしれない。のみならず「得れば失うを惧《おそ》る」は多《た》力《りよく》者《しや》のすることではないだろう。
ある声 お前はあるいは正直者かもしれない。しかしまたあるいは道《どう》化《け》者《もの》かもしれない。
僕 僕もまたどちらかと思っている。
ある声 お前はいつもお前自身を現実主義者と信じていた。
僕 僕はそれほど理想主義者だったのだ。
ある声 お前はあるいは滅《ほろ》びるかもしれない。
僕 しかし僕を造ったものは第二の僕を造るだろう。
ある声 ではかってに苦しむがいい。俺《おれ》はもうお前に別れるばかりだ。
僕 待て。どうかその前に聞かせてくれ。絶えず僕に問いかけるお前は、――目に見えないお前は何ものだ?
ある声 俺か? 俺は世界の夜明けにヤコブと力を争った天使《*》だ。
二
ある声 お前は感心に勇気を持っている。
僕 いや、僕は勇気を持っていない。もし勇気を持っているとすれば、僕は獅《し》子《し》の口に飛び込まずに獅子の食うのを待っていただろう。
ある声 しかしお前のしたことは人間らしさを具《そな》えている。
僕 最も人間らしいことは同時にまた動物らしいことだ。
ある声 お前のしたことは悪いことではない。お前はただ現代の社会制度のために苦しんでいるのだ。
僕 社会制度は変わったとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするのに極《きま》っている。
ある声 しかしお前は自殺しなかった。とにかくお前は力を持っている。
僕 僕はたびたび自殺しようとした。ことに自然らしい死にかたをするために一日に蠅《はえ》を十匹ずつ食った。蠅は細かにむしった上、のみこんでしまうのはなんでもない。しかし噛《か》みつぶすのはきたない気がした。
ある声 その代りにお前は偉大になるだろう。
僕 僕は偉大さなどを求めていない。欲《ほ》しいのはただ平和だけだ。ワグネルの手紙を読んでみろ。愛する妻と二、三人の子供と暮らしに困らない金さえあれば、偉大な芸術などは作らずとも満足すると書いている。ワグネルでさえこの通りだ。あの我の強いワグネルでさえ。
ある声 お前はとにかく苦しんでいる。お前は良心のない人間ではない。
僕 僕は良心などを持っていない。持っているのは神経ばかりだ。
ある声 お前の家庭生活は不幸だった。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だった。
ある声 お前の悲劇は他《ほか》の人々よりもたくましい理《り》智《ち》を持っていることだ。
僕 〓《うそ》をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏《とぼ》しい世間智を持っていることだ。
ある声 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露《あらわ》れないうちにお前の愛している女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまった。
僕 それも〓《うそ》だ。僕は打ち明けずにはいられない気もちになるまで打ち明けなかった。
ある声 お前は詩人だ。芸術家だ。お前には何ごとも許されている。
僕 僕は詩人だ。芸術家だ。けれどもまた社会の一分子だ。僕の十字架を負うのは不思議ではない。それでもまだ軽すぎるだろう。
ある声 お前はお前のエゴを忘れている。お前の個性を尊重し、俗悪な民衆を軽蔑しろ。
僕 僕はお前に言われずとも僕の個性を尊重している。しかし民衆を軽蔑しない。僕はいつかこう言った。――「玉は砕《くだ》けても、瓦《かわら》は砕けない《*》」シェクスピイアや、ゲエテや近松門《もん》左衛門《ざえもん》はいつか一度は滅《ほろ》びるであろう。しかし彼らを生んだ胎《はら》は、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる芸術は形を変えても、必ずそのうちから生まれるであろう。
ある声 お前の書いたものは独創的だ。
僕 いや、決して独創的ではない。第一誰が独創的だったのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。なかんずく僕はたびたび盗んだ。
ある声 しかしお前は教えてもいる。
僕 僕の教えたのはできないことだけだ。僕にできることだったとすれば、教えない前にしてしまったであろう。
ある声 お前は超人だと確信しろ。
僕 いや、僕は超人ではない。僕らは皆超人ではない。超人はただツァラトストラだけだ。しかもそのツァラトストラのどういう死を迎えたかはニイチェ自身も知らないのだ。
ある声 お前さえ社会を怖《おそ》れるのか?
僕 誰が社会を怖れなかったか?
ある声 牢《ろう》獄《ごく》に三年もいたワイルドを見ろ。ワイルドは「みだりに自殺するのは社会に負けるのだ」と言っている。
僕 ワイルドは牢獄にいた時に何度も自殺を計っている。しかも自殺しなかったのはただその方法のなかったばかりだ。
ある声 お前は善悪を蹂《じゆう》躪《りん》してしまえ。
僕 僕は今後もいやが上にも善人になろうと思っている。
ある声 お前はあまり単純すぎる。
僕 いや、僕は複雑すぎるのだ。
ある声 しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだろう。
僕 それは著作権のなくなったのちだ。
ある声 お前は愛のため苦しんでいるのだ。
僕 愛のために? 文学青年じみたお世辞はいいかげんにしろ。僕はただ情事に躓《つまず》いただけだ。
ある声 誰も情事には躓きやすい。
僕 それは誰も金銭の慾《よく》に溺《おぼ》れやすいということだけだ。
ある声 お前は人生の十字架にかかっている。
僕 それは僕の自慢にはならない。情婦殺しや拐《かい》帯《たい》犯人も人生の十字架にかかっているのだ。
ある声 人生はそんなに暗いものではない。
僕 人生は「選ばれたる少数」を除けば、誰にも暗いのはわかっている。しかもまた「選ばれたる少数」とは阿《あ》呆《ほう》と悪人との異《い》名《みよう》なのだ。
ある声 ではかってに苦しんでいろ。お前は俺を知っているか? せっかくお前を慰めに来た俺を?
僕 お前は犬だ。昔あのファウストの部屋へ犬になってはいって行った。悪魔だ。
三
ある声 お前は何をしているのだ?
僕 僕はただ書いているのだ。
ある声 なぜお前は書いているのだ?
僕 ただ書かずにはいられないからだ。
ある声 では書け。死ぬまで書け。
僕 もちろん、――第一そのほかにしかたはない。
ある声 お前は存外落ち着いている。
僕 いや、少しも落ち着いてはいない。もし僕を知っている人々ならば、僕の苦しみを知っているだろう。
ある声 お前の微笑はどこへ行った?
僕 天上の神々へ帰ってしまった。人生に微笑を送るために第一には吊《つ》り合いの取れた性格、第二に金、第三に僕よりもたくましい神経を持っていなければならぬ。
ある声 しかしお前は気軽になったろう。
僕 うん、僕は気軽になった。その代りに裸の肩の上に一生の重荷を背《せ》負《お》わなければならぬ。
ある声 お前はお前なりに生きるほかはない。あるいはまたお前なりに。……
僕 そうだ。僕なりに死ぬほかはない。
ある声 お前は在来のお前とは違った、新しいお前になるだろう。
僕 僕はいつでも僕自身だ。ただ皮は変わるだろう。蛇《へび》の皮を脱ぎ変えるように。
ある声 お前は何もかも承知している。
僕 いや、僕は承知していない。僕の意識しているのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識していない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫《ぼう》々《ぼう》と広がっている。僕はそれを恐れているのだ。光の中には怪物は棲《す》まない。しかし無《む》辺《へん》の闇《やみ》の中には何かがまだ眠っている。
ある声 お前もまた俺の子供だった。
僕 誰だ、僕に接《せつ》吻《ぷん》したお前は? いや、僕はお前を知っている。
ある声 では俺を誰だと思う。
僕 僕の平和を奪ったものだ。僕のエピキュリアニズムを破ったものだ。僕の、――いや、僕ばかりではない。昔支《し》那《な》の聖人の教えた中《ちゆう》庸《よう》の精神を失わせるものだ。お前の犠牲になったものは至る所に横たわっている。文学史の上にも、新聞記事の上にも。
ある声 それをお前はなんと呼んでいる?
僕 僕は――僕はなんと呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕らを超え《こ》た力だ。僕らを支配する Daimon だ。
ある声 お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには来ない。
僕 いや、僕は誰よりもお前の来るのを警戒するつもりだ。お前の来るところに平和はない。しかもお前はレントゲンのようにあらゆるものを滲《しん》透《とう》して来るのだ。
ある声 では今後も油断するな。
僕 もちろん今後は油断しない。ただペンを持っている時には……
ある声 ペンを持っている時には来いと言うのだな。
僕 誰が来いと言うものか! 僕は群小作家の一人だ。また群小作家の一人になりたいと思っているものだ。平和はそのほかに得られるものではない。しかしペンを持っている時にはお前の俘《とりこ》になるかもしれない。
ある声 ではいつも気をつけていろよ。第一俺はお前の言葉をいちいち実行に移すかもしれない。ではさようなら。いつかまたお前に会いに来るから。
僕 (一人になる)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれている葦《あし》だ。空模様はいつ何時変わるかもしれない。しっかり踏んばっていろ。それはお前自身のためだ。同時にまたお前の子供たちのためだ。うぬ惚《ぼ》れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
(昭和二年)
〔遺稿〕
夢
わたしはすっかり疲れていた。肩や頸《くび》の凝るのはもちろん、不眠症もかなりはなはだしかった。のみならずたまたま眠ったと思うと、いろいろの夢を見がちだった。いつか誰《だれ》かは「色彩のある夢は不健全な証《しよう》拠《こ》だ」と話していた。が、わたしの見る夢は画家という職業も手伝うのか、たいてい色彩のないことはなかった。わたしはある友だちといっしょにある場末のカッフェらしい硝子《ガラス》戸《ど》の中へはいって行った。そのまた埃《ほこり》じみた硝子戸の外はちょうど柳の新芽をふいた汽車の踏み切りになっていた。わたしたちは隅《すみ》のテエブルに坐《すわ》り、何か椀《わん》に入れた料理を食った。が、食ってしまってみると、椀の底に残っているのは一寸ほどの蛇《へび》の頭だった。――そんな夢も色彩ははっきりしていた。
わたしの下宿は寒さの厳《きび》しい東京のある郊外にあった。わたしは憂《ゆう》鬱《うつ》になってくると、下宿の裏から土手の上にあがり、省《しよう》線《せん》電車の線路を見おろしたりした。線路は油や金《かな》錆《さび》に染まった砂利《じやり》の上に何本も光っていた。それから向こうの土手の上には何か椎《しい》らしい木が一本斜めに枝を伸ばしていた。それは憂《ゆう》鬱《うつ》そのものと言っても少しも差《さ》し支《つか》えない景《け》色《しき》だった。しかし銀座や浅《あさ》草《くさ》よりもわたしの心もちにぴったりしていた。「毒をもって毒を制す」――わたしはひとり土手の上にしゃがみ、一本の煙草《たばこ》をふかしながら、時々そんなことを考えたりした。
わたしにも友だちはないわけではなかった。それはある年の若い金持ちの息《むす》子《こ》の洋画家だった。彼はわたしの元気のないのを見、旅行に出ることを勧めたりした。「金の工《く》面《めん》などはどうにでもなる」――そうも親切に言ってくれたりした。が、たとい旅行に行っても、わたしの憂鬱の癒《なお》らないことはわたし自身誰よりも知り悉《つく》していた。現にわたしは三、四年前にもやはりこういう憂鬱に陥《おち》り、一時でも気を紛《まぎ》らせるためにはるばる長《なが》崎《さき》に旅行することにした。けれども長崎へ行ってみると、どの宿もわたしには気に入らなかった。のみならずやっと落ちついた宿も夜は大きい火取り虫が何匹もひらひら舞いこんだりした。わたしはさんざん苦しんだあげく、まだ一週間とたたないうちにもう一度東京へ帰ることにした。――
ある霜柱の残っている午後、わたしは為替《かわせ》をとりに行った帰りにふと制《せい》作《さく》慾《よく》を感じ出した。それは金のはいったためにモデルを使うことのできるのも原因になっていたのに違いなかった。しかしまだそのほかにも何か発作的に制作慾の高まり出したのも確かだった。わたしは下宿へ帰らずにとりあえずMという家へ出かけ、十号ぐらいの人物を仕上げるためにモデルを一人雇うことにした。こういう決心は憂鬱の中にも久しぶりにわたしを元気にした。「この画《え》さえ仕上げれば死んでも善《よ》い」――そんな気も実際したものだった。
Mという家からよこしたモデルは顔はあまりきれいではなかった。が、体《からだ》は――ことに胸はりっぱだったのに違いなかった。それからオオル・バックにした髪の毛もふさふさしていたのに違いなかった。わたしはこのモデルにも満足し、彼女を籐《とう》椅《い》子《す》の上へ坐《すわ》らせてみたあと、早《さつ》速《そく》仕事にとりかかることにした。裸になった彼女は花束の代りに英字新聞のしごいたのを持ち、ちょっと両足を組み合わせたまま、頸《くび》を傾けているポオズをしていた。しかしわたしは画《が》架《か》に向かうと、いまさらのように疲れていることを感じた。北に向いたわたしの部屋には火《ひ》鉢《ばち》の一つあるだけだった。わたしはもちろんこの火鉢に縁《ふち》の焦《こ》げるほど炭火を起こした。が、部屋はまだ十分に暖まらなかった。彼女は籐《とう》椅《い》子《す》に腰かけたなり、時々両《りよう》腿《もも》の筋肉を反射的に震《ふる》わせるようにした。わたしはブラッシュを動かしながら、そのたびにいちいち苛《いら》立《だ》たしさを感じた。それは彼女に対するよりもストオヴ一つ買うことのできないわたし自身に対する苛立たしさだった。同時にまたこういうことにも神経を使わずにはいられないわたし自身に対する苛立たしさだった。
「君の家《うち》はどこ?」
「あたしの家? あたしの家は谷《や》中《なか》三《さん》崎《さき》町《ちよう》」
「君一人で住んでいるの?」
「いいえ、お友だちと二人で借りているんです」
わたしはこんな話をしながら、静物を描いた古カンヴァスの上へおもむろに色を加えていった。彼女は頸《くび》を傾けたまま、全然表情らしいものを示したことはなかった。のみならず彼女の言葉はもちろん、彼女の声もまた一本調子だった。それはわたしには持って生まれた彼女の気質としか思われなかった。わたしはそこに気安さを感じ、時々彼女に時間外にもポオズをつづけてもらったりした。けれども何かの拍《ひよう》子《し》には目さえ動かさない彼女の姿にある妙な圧迫を感じることもないわけではなかった。
わたしの制作は捗《はかど》らなかった。わたしは一日の仕事を終わると、たいていは絨《じゆう》氈《たん》の上にころがり、頸《くび》すじや頭を揉《も》んでみたり、ぼんやり部屋の中を眺《なが》めたりしていた。わたしの部屋には画架のほかに籐椅子の一脚あるだけだった。籐椅子は空気の湿度の加減か、時々誰も坐《すわ》らないのに籐のきしむ音をさせることもあった。わたしはこういう時には無気味になり、早《さつ》速《そく》どこかへ散歩に出ることにしていた。しかし散歩に出るといっても、下宿の裏の土手伝いに寺の多い田舎《いなか》町《まち》へ出るだけだった。
けれどもわたしは休みなしに毎日画架に向かっていた。モデルもまた毎日通って来ていた。そのうちにわたしは彼女の体に前よりも圧迫を感じ出した。それにはまた彼女の健康に対する羨《うらやま》しさもあったのに違いなかった。彼女は相変わらず無表情にじっと部屋の隅へ目をやったなり、薄赤い絨《じゆう》氈《たん》の上に横たわっていた。
「この女は人間よりも動物に似ている」――わたしは画架にブラッシュをやりながら、時々そんなことを考えたりした。
あるなま暖かい風の立った午後、わたしはやはり画架に向かい、せっせとブラッシュを動かしていた。モデルはきょうはいつもよりはいっそうむっつりしているらしかった。わたしはいよいよ彼女の体に野蛮な力を感じ出した。のみならず彼女の腋《わき》の下や何かにある匂《にお》いも感じ出した。その匂いはちょっと黒色人種の皮膚の臭気に近いものだった。
「君はどこで生まれたの?」
「群馬県××町」
「××町? 機《はた》織《お》り場の多い町だったね」
「ええ」
「君は機《はた》を織《お》らなかったの?」
「子供の時に織ったことがあります」
わたしはこういう話の中にいつか彼女の乳首の大きくなり出したのに気づいていた。それはちょうどキャベツの芽のほぐれかかったのに近いものだった。わたしはもちろんふだんのように一心にブラッシュを動かしつづけた。が、彼女の乳首に――そのまた気味の悪い美しさに妙にこだわらずにはいられなかった。
その晩も風はやまなかった。わたしはふと目をさまし、下宿の便所へ行こうとした。しかし意識がはっきりしてみると、障《しよう》子《じ》だけはあけたものの、ずっとわたしの部屋の中を歩きまわっていたらしかった。わたしは思わず足をとめたまま、ぼんやりわたしの部屋の中に、――ことにわたしの足もとにある、薄赤い絨《じゆう》氈《たん》に目を落とした。それから素足の指先にそっと絨氈を撫《な》でまわした。絨氈の与える触覚は存外毛皮に近いものだった。「この絨氈の裏は何色だったかしら?」――そんなこともわたしには気がかりだった。が、裏をまくって見ることは妙にわたしには恐ろしかった。わたしは便所へ行ったあと、匆《そう》々《そう》床へはいることにした。
わたしは翌日の仕事をすますと、いつもよりもいっそうがっかりした。と言ってわたしの部屋にいることはかえってわたしには落ち着かなかった。そこでやはり下宿の裏の土手の上へ出ることにした。あたりはもう暮れかかっていた。が、立ち木や電柱は光の乏《とぼ》しいのにもかかわらず、不思議にもはっきり浮き上がっていた。わたしは土手伝いに歩きながら、おお声に叫びたい誘惑を感じた。しかしもちろんそんな誘惑は抑《おさ》えなければならないのに違いなかった。わたしはちょうど頭だけ歩いているように感じながら、土手伝いにあるみすぼらしい田舎《いなか》町《まち》へ下《お》りて行った。
この田舎町は相変わらず人通りもほとんど見えなかった。しかし路《みち》ばたのある電柱に朝鮮牛が一匹繋《つな》いであった。朝鮮牛は頸《くび》をさしのべたまま、妙に女性的にうるんだ目にじっとわたしを見守っていた。それは何かわたしの来るのを待っているらしい表情だった。わたしはこういう朝鮮牛の表情に穏やかに戦いを挑《いど》んでいるのを感じた。「あいつは屠《と》殺《さつ》者《しや》に向かう時もああいう目をするのに違いない」――そんな気もわたしを不安にした。わたしはだんだん憂《ゆう》鬱《うつ》になり、とうとうそこを通り過ぎずにある横町へ曲がって行った。
それから二、三日たったある午後、わたしはまた画《が》架《か》に向かいながら、いっしょうけんめいにブラッシュを使っていた。薄赤い絨《じゆう》氈《たん》の上に横たわったモデルはやはり眉《まゆ》毛《げ》さえ動かさなかった。わたしはかれこれ半月の間、このモデルを前にしたまま、捗《はかど》らない制作をつづけていた。が、わたしたちの心もちは少しも互いに打ち解けなかった。いや、むしろわたし自身には彼女の威圧を受けている感じのしだいに強まるばかりだった。彼女は休憩時間にもシュミイズ一枚着たことはなかった。のみならずわたしの言葉にもものうい返事をするだけだった。しかしきょうはどうしたのか、わたしに背中を向けたまま、(わたしはふと彼女の右の肩に黒子《ほくろ》のあることを発見した)絨氈の上に足を伸ばし、こうわたしに話しかけた。
「先生、この下宿へはいる路には細い石が何本も敷いてあるでしょう?」
「うん。……」
「あれは胞衣塚《えなづか》ですね」
「胞衣塚?」
「ええ、胞《ほう》衣《い》を埋めた標《しるし》に立てる石ですね」
「どうして?」
「ちゃんと字のあるのも見えますもの」
彼女は肩越しにわたしを眺《なが》め、ちらりと冷笑に近い表情を示した。
「誰でも胞衣をかぶって生まれてくるんですね?」
「つまらないことを言っている」
「だって胞衣をかぶって生まれてくると思うと、……」
「?……」
「犬の子のような気もしますものね」
わたしはまた彼女を前に進まないブラッシュを動かし出した。進まない?――しかしそれは必ずしも気乗りのしないというわけではなかった。わたしはいつも彼女の中に何か荒あらしい表現を求めているものを感じていた。が、この何かを表現することはわたしの力量には及ばなかった。のみならず表現することを避けたい気もちも動いていた。それはあるいは油画《え》の具やブラッシュを使って表現することを避けたい気もちかもしれなかった。では何を使うかと言えば、――わたしはブラッシュを動かしながら、時々どこかの博物館にあった石棒や石剣を思い出したりした。
彼女の帰ってしまったあと、わたしは薄暗い電灯の下に大きいゴオガンの画集をひろげ、一枚ずつタイティの画を眺めていった。そのうちにふと気づいて見ると、いつか何度も口のうちに「かくあるべしと思いしが」という文語体の言葉を繰り返していた。なぜそんな言葉を繰り返していたかはもちろんわたしにはわからなかった。しかしわたしは無気味になり、女中に床をとらせた上、眠り薬を嚥《の》んで眠ることにした。
わたしの目を醒《さま》したのはかれこれ十時に近いころだった。わたしはゆうべ暖かかったせいか、絨《じゆう》氈《たん》の上へのり出していた。が、それよりも気になったのは目の醒《さ》める前に見た夢だった。わたしはこの部屋のまん中に立ち、片手に彼女を絞《し》め殺そうとしていた。(しかもその夢であることははっきりわたし自身にもわかっていた)彼女はやや顔を仰《あお》向《む》け、やはりなんの表情もなしにだんだん目をつぶっていった。同時にまた彼女の乳《ち》房《ぶさ》はまるまるときれいにふくらんでいった。それはかすかに静脈を浮かせた、薄光のしている乳房だった。わたしは彼女を絞め殺すことになんのこだわりも感じなかった。いや、むしろ当然のことを仕《し》逐《と》げる快さに近いものを感じていた。彼女はとうとう目をつぶったまま、いかにも静かに死んだらしかった。――こういう夢から醒めたわたしは顔を洗って来たあと、濃い茶を二、三杯飲み干したりした。けれどもわたしの心もちはいっそう憂《ゆう》鬱《うつ》になるばかりだった。わたしはわたしの心の底にも彼女を殺したいと思ったことはなかった。しかしわたしの意識の外には、――わたしは巻き煙草をふかしながら、妙にわくわくする心もちを抑え、モデルの来るのを待ち暮らした。けれども彼女は一時になっても、わたしの部屋を尋ねなかった。この彼女を待っている間はわたしにはかなり苦しかった。わたしはいっそ彼女を待たずに散歩に出ようかと思ったりした。が、散歩に出ることはそれ自身わたしには怖《おそろ》しかった。わたしの部屋の障《しよう》子《じ》の外へ出る、――そんななんでもないことさえわたしの神経には堪《た》えられなかった。
日の暮れはだんだん迫り出した。わたしは部屋の中を歩みまわり、来るはずのないモデルを待ち暮らした。そのうちにわたしの思い出したのは十二、三年前の出来事だった。わたしは――まだ子供だったわたしはやはりこういう日の暮れに線香花火に火をつけていた。それはもちろん東京ではない、わたしの父母の住んでいた田舎《いなか》の家の縁《えん》先《さき》だった。すると誰かおお声に「おい、しっかりしろ」と言うものがあった。のみならず肩を揺《ゆさ》ぶるものもあった。わたしはもちろん縁先に腰をおろしているつもりだった。が、ぼんやり気がついてみると、いつか家の後ろにある葱《ねぎ》畠《ばたけ》の前にしゃがんだまま、せっせと葱《ねぎ》を火につけていた。のみならずわたしのマッチの箱もいつかあらまし空《から》になっていた。
――わたしは巻き煙草をふかしながら、わたしの生活にはわたし自身の少しも知らない時間のあることを考えないわけにはゆかなかった。こういう考えはわたしには不安よりもむしろ無気味だった。わたしはゆうべ夢の中に片手に彼女を絞め殺した。けれども夢の中でなかったとしたら、……
モデルは次の日もやって来なかった。わたしはとうとうMという家へ行き、彼女の安否を尋ねることにした。しかしMの主人もまた彼女のことは知らなかった。わたしはいよいよ不安になり、彼女の宿所を教えてもらった。彼女は彼女自身の言葉によれば谷中三崎町にいるはずだった。が、Mの主人の言葉によれば本郷東片町にいるはずだった。わたしは電灯のともりかかったころに本《ほん》郷《ごう》東《ひがし》片《かた》町《まち》の彼女の宿へ辿《たど》り着いた。それはある横町にある、薄赤いペンキ塗りの西洋洗《せん》濯《たく》屋《や》だった。硝子《ガラス》戸《ど》を立てた洗濯屋の店にはシャツ一枚になった職人が二人せっせとアイロンを動かしていた。わたしは格別急がずに店先の硝子戸をあけようとした。が、いつか硝子戸にわたしの頭をぶつけていた。この音にはもちろん職人たちをはじめ、わたし自身も驚かずにはいられなかった。
わたしはおずおず店の中にはいり、職人たちの一人に声をかけた。
「……さんという人はいるでしょうか?」
「……さんはおとといから帰って来ません」
この言葉はわたしを不安にした。が、それ以上尋ねることはやはりわたしには考えものだった。わたしは何かあった場合に彼らに疑いをかけられない用心をする気もちも持ち合わせていた。
「あの人は時々うちをあけると、一週間も帰って来ないんですから」
顔色の悪い職人の一人はアイロンの手を休めずにこういう言葉も加えたりした。わたしは彼の言葉の中にはっきり軽《けい》蔑《べつ》に近いものを感じ、わたし自身に腹を立てながら、匆《そう》々《そう》この店を後ろにした。しかしそれはまだよかった。わたしはわりにしもた家の多い東片町の往来を歩いているうちにふといつか夢の中にこんなことに出合ったのを思い出した。ペンキ塗りの西洋洗濯屋も、顔色の悪い職人も、火を透《す》かしたアイロンも――いや、彼女を尋ねて行ったことも確かにわたしには何か月か前の(あるいはまた何年か前の)夢の中に見たのと変わらなかった。のみならずわたしはその夢の中でもやはり洗濯屋を後ろにしたあと、こういう寂しい往来をたった一人歩いていたらしかった。それから、――それから先の夢の記憶は少しもわたしには残っていなかった。けれども今何か起これば、それもたちまちその夢の中の出来事になりかねない心もちもした。……
(昭和二年)
或《ある》阿《あ》呆《ほう》の一生
僕はこの原稿を発表する可否はもちろん、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。
君はこの原稿の中に出て来るたいていの人物を知っているだろう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにもらいたいと思っている。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。ただ僕のごとき悪夫、悪子、悪親を持ったものたちをいかにもきのどくに感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少なくとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托《たく》するのは君のおそらくは誰《だれ》よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人という僕の皮を剥《は》ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿《あ》呆《ほ》さかげんを笑ってくれたまえ。
昭和二年六月二十日《*》
芥川龍之介
久米正雄君
一 時 代
それはある本屋の二階だった。二十歳の彼は書《しよ》棚《だな》にかけた西洋ふうの梯《はし》子《ご》に登り、新しい本を探《さが》していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、……
そのうちに日の暮れは迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでいるのは本というよりもむしろ世紀末それ自身だった。ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
彼は薄暗がりと戦いながら、彼らの名前を数えていった。が、本はおのずからものうい影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋ふうの梯子を下《お》りようとした。すると傘《かさ》のない電灯が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇《たたず》んだまま、本の間に動いている店員や客を見《み》下《おろ》した。彼らは妙に小さかった。のみならずいかにもみすぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若《し》かない」
彼はしばらく梯子の上からこういう彼らを見渡していた。……
二 母
狂人たちは皆同じように鼠《ねずみ》色《いろ》の着物を着せられていた。広い部屋はそのためにいっそう憂《ゆう》鬱《うつ》に見えるらしかった。彼らの一人はオルガンに向かい、熱心に讃《さん》美《び》歌《か》を弾《ひ》きつづけていた。同時にまた彼らの一人はちょうど部屋のまん中に立ち、踊るというよりも跳《は》ねまわっていた。
彼は血色のいい医者といっしょにこういう光景を眺《なが》めていた。彼の母も十年前には少しも彼らと変わらなかった。少しも、――彼は実際彼らの臭気に彼の母《*》の臭気を感じた。
「じゃ行こうか」
医者は彼の先に立ちながら、廊下伝いにある部屋へ行った。その部屋の隅《すみ》にはアルコオルを満たした、大きい硝子《ガラス》の壺《つぼ》の中に脳《のう》髄《ずい》が幾つも漬《つか》っていた。彼はある脳髄の上にかすかに白いものを発見した。それはちょうど卵の白味をちょっと滴《たら》したのに近いものだった。彼は医者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思い出した。
「この脳髄を持っていた男は××電灯会社の技師だったがね。いつも自分を黒光のする、大きいダイナモだと思っていたよ」
彼は医者の目を避けるために硝子窓の外を眺めていた。そこには空《あ》き罎《びん》の破片を植えた煉《れん》瓦《が》塀《べい》のほかに何もなかった。しかしそれは薄い苔《こけ》をまだらにぼんやりと白《しら》ませていた。
三 家
彼はある郊外《*》の二階の部屋に寝起きしていた。それは地盤の緩《ゆる》いために妙に傾いた二階だった。
彼の伯《お》母《ば*》はこの二階にたびたび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかった。しかし彼は彼の伯母に誰《だれ》よりも愛を感じていた。一生独身だった彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだった。
彼はある郊外の二階に何度も互いに愛し合うものは苦しめ合うのかを考えたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
四 東 京
隅《すみ》田《だ》川《がわ》はどんより曇っていた。彼は走っている小《こ》蒸《じよう》汽《き》の窓から向こう島の桜を眺《なが》めていた。花を盛った桜は彼の目には一列の襤《ぼ》褸《ろ》のように憂《ゆう》鬱《うつ》だった。が、彼はその桜に、――江戸以来の向こう島の桜にいつか彼自身を見《みい》出《だ》していた。
五 我
彼は彼の先輩《*》といっしょにあるカッフェの卓子《テエブル》に向かい、絶えず巻き煙草をふかしていた。彼はあまり口をきかなかった。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けていた。
「きょうは半日自動車に乗っていた」
「何か用があったのですか?」
彼の先輩は頬《ほお》杖《づえ》をしたまま、きわめてむぞうさに返事をした。
「なに、ただ乗っていたかったから」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我《が》」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時にまた歓《よろこ》びも感じた。
そのカッフェはごく小さかった。しかしパンの神の額の下には赭《あか》い鉢《はち》に植えたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂《たら》していた。
六 病
彼は絶え間ない潮風の中に大きいイギリス語の辞書をひろげ、指先に言葉を探《さが》していた。
Talaria 翼の生《は》えた靴《くつ》、あるいはサンダアル。
Tale 話。
Talipot 東インドに産する椰《や》子《し》。幹は五十呎《フイイト》より百呎の高さに至り、葉は傘《かさ》、扇、帽等に用いらる。七十年に一度花を開く。……
彼の想像ははっきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉《のど》もとに今までに知らない痒《かゆ》さを感じ、思わず辞書の上へ啖《たん》を落とした。啖を?――しかしそれは啖ではなかった。彼は短い命を思い、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向こうに高だかと聳《そび》えている椰子の花を。
七 画《え》
彼は突然、――それは実際突然だった。彼はある本屋の店先に立ち、ゴオグの画集を見ているうちに突然画《え》というものを了解した。もちろんそのゴオグの画集は写真版だったのに違いなかった。が、彼は写真版の中にも鮮《あざ》やかに浮かび上がる自然を感じた。
この画に対する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頬《ほお》の膨《ふくら》みに絶え間ない注意を配り出した。
ある雨を持った秋の日の暮れ、彼はある郊外のガアドの下を通りかかった。ガアドの向こうの土手の下には荷馬車が一台止まっていた。彼はそこを通りながら、誰《だれ》か前にこの道を通ったもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身にいまさら問いかける必要もなかった。二十三歳の彼の心の中には耳を切ったオランダ人《*》が一人、長いパイプを啣《くわ》えたまま、この憂《ゆう》鬱《うつ》な風景画の上へじっと鋭い目を注いでいた。……
八 火 花
彼は雨に濡《ぬ》れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈《はげ》しかった。彼は水沫《しぶき》の満ちた中にゴム引きの外《がい》套《とう》の匂《にお》いを感じた。
すると目の前の架《か》空《くう》線《せん》が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は相変わらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲《ほ》しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
九 死 体
死体は皆親指に針金のついた札をぶら下げていた。そのまた札は名前だの年齢だのを記《しる》していた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、ある死体の顔の皮を剥《は》ぎはじめた。皮の下に広がっているのは美しい黄いろの脂肪だった。
彼はその死体を眺《なが》めていた。それは彼にはある短篇《*》を、――王朝時代に背景を求めたある短篇を仕上げるために必要だったのに違いなかった。が、腐敗した杏《あんず》の匂《にお》いに近い死体の臭気は不快だった。彼の友だちは眉《み》間《けん》をひそめ、静かにメスを動かしていった。
「このごろは死体も不足してね」
彼の友だちはこう言っていた。すると彼はいつの間にか彼の答えを用意していた。――「己《おれ》は死体に不足すれば、なんの悪意もなしに人殺しをするがね」しかしもちろん彼の答えは心の中にあっただけだった。
十 先 生《*》
彼は大きい槲《かし》の木の下に先生の本を読んでいた。槲の木は秋の日の光の中に一枚の葉さえ動かさなかった。どこか遠い空中に硝子《ガラス》の皿《さら》を垂《た》れた秤《はかり》が一つ、ちょうど平《へい》衡《こう》を保っている、――彼は先生の本を読みながら、こういう光景を感じていた。……
十一 夜明け
夜はしだいに明けていった。彼はいつかある町の角《かど》に広い市場を見渡していた。市場に群がった人々や車はいずれも薔《ば》薇《ら》色《いろ》に染まり出した。
彼は一本の巻き煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行った。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠《ほ》えかかった。が、彼は驚かなかった。のみならずその犬さえ愛していた。
市場のまん中には篠懸《すずかけ》が一本、四方へ枝をひろげていた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空にはちょうど彼の真上に星が一つ輝いていた。
それは彼の二十五の年、――先生に会った三《み》月《つき》目《め》だった。
十二 軍 港
潜《せん》航《こう》艇《てい》の内部は薄暗かった。彼は前後左右を蔽《おお》った機械の中に腰をかがめ、小さい目《め》金《がね》を覗《のぞ》いていた。そのまた目金に映っているのは明るい軍港の風景だった。
「あすこに『金《こん》剛《ごう》』も見えるでしょう」
ある海軍将校はこう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺《なが》めながら、なぜかふと阿蘭陀《おらんだ》芹《ぜり》を思い出した。一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂《にお》っている阿蘭陀芹を。
十三 先生の死《*》
彼は雨上がりの風の中にある新しい停車場のプラットフォオムを歩いていた。空はまだ薄暗かった。プラットフォオムの向こうには、鉄道工夫が三、四人、一《いつ》斉《せい》に鶴《つる》嘴《はし》を上下させながら、何か高い声にうたっていた。
雨上がりの風は工夫の唄《うた》や彼の感情を吹きちぎった。彼は巻き煙草に火もつけずに歓《よろこ》びに近い苦しみを感じていた。「センセイキトク」の電報を外《がい》套《とう》のポケットへ押しこんだまま。……
そこへ向こうの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡《なび》かせながら、うねるようにこちらへ近づきはじめた。
十四 結 婚《*》
彼は結婚した翌日に「来《き》勿《そう》々《そう》無《む》駄《だ》費《づか》いをしては困る」と彼の妻に小《こ》言《ごと》を言った。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯《お》母《ば》の「言え」という小言だった。彼の妻は彼自身にはもちろん、彼の伯母にも詫《わ》びを言っていた。彼のために買って来た黄《き》水《ずい》仙《せん》の鉢《はち》を前にしたまま。……
十五 彼 ら
彼らは平和に生活した。大きい芭《ば》蕉《しよう》の葉が広がったかげに。――彼らの家《*》は東京から汽車でもたっぷり一時間かかるある海岸の町にあったから。
十六 枕《まくら》
彼は薔《ば》薇《ら》の葉の匂《にお》いのする懐疑主義を枕《まくら》にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでいた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のいることには気づかなかった。
十七 蝶《ちよう》
藻《も》の匂《にお》いの満ちた風の中に蝶《ちよう》が一羽ひらめいていた。彼はほんの一瞬間、乾《かわ》いた彼の脣《くちびる》の上へこの蝶の翅《つばさ》の触れるのを感じた。が、彼の脣の上へいつか捺《なす》って行った翅の粉だけは数年後にもまだきらめいていた。
十八 月
彼はあるホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はこういう昼にも月の光の中にいるようだった。彼は彼女を見送りながら、(彼らは一面識もない間がらだった)今まで知らなかった寂しさを感じた。……
十九 人工の翼
彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移っていった。が、ルッソオには近づかなかった。それはあるいは彼自身の一面、――情熱に駆《か》られやすい一面のルッソオに近いためかもしれなかった。彼は彼自身の他の一面、――冷《ひや》やかな理智に富んだ一面に近い「カンディイド《*》」の哲学者に近づいていった。
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかった。が、ヴォルテエルはこういう彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、やすやすと空へ舞い上がった。同時にまた理智の光を浴びた人生の歓《よろこ》びや悲しみは彼の目の下へ沈んでいった。彼はみすぼらしい町々の上へ反語や微笑を落としながら、遮《さえぎ》るもののない空中をまっすぐに太陽へ登って行った。ちょうどこういう人工の翼を太陽の光に焼かれたためにとうとう海へ落ちて死んだ昔のギリシア人も忘れたように。……
二十 械《かせ》
彼ら夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになった。それは彼がある新聞社に入社《*》することになったためだった。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしていた。が、その契約書はのちになってみると、新聞社はなんの義務も負わずに彼ばかり義務を負うものだった。
二十一 狂人の娘
二台の人力車は人《ひと》気《げ》のない曇天の田舎《いなか》道《みち》を走って行った。その道の海に向かっていることは潮風の来るのでも明らかだった。あとの人力車に乗っていた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪しみながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考えていた。それは決して恋愛ではなかった。もし恋愛でないとすれば、――彼はこの答えを避けるために「とにかく我らは対等だ」と考えないわけにはゆかなかった。
前の人力車に乗っているのはある狂人の娘だった。のみならず彼女の妹は嫉《しつ》妬《と》のために自殺していた。
「もうどうにもしかたはない」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女にある憎《ぞう》悪《お》を感じていた。
二台の人力車はその間に磯《いそ》臭《くさ》い墓地の外へ通りかかった。蠣《かき》殻《がら》のついた粗《そ》朶《だ》垣《がき》の中には石塔が幾つも黒《くろず》んでいた。彼はそれらの石塔の向こうにかすかにかがやいた海を眺《なが》め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉《とら》えていない彼女の夫を軽《けい》蔑《べつ》し出した。……
二十二 ある画家《*》
それはある雑誌の挿《さ》し画《え》だった。が、一羽の雄《おん》鶏《どり》の墨《すみ》画《え》は著しい個性を示していた。彼はある友だちにこの画家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたったのち、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だった。彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにいた彼の魂を発見した。
ある薄ら寒い秋の日の暮れ、彼は一本の唐《から》黍《びき》にたちまちこの画家を思い出した。丈《たけ》の高い唐黍は荒あらしい葉をよろったまま、盛り土の上には神経のように細ぼそと根を露《あらわ》していた。それはまたもちろん傷つきやすい彼の自画像にも違いなかった。しかしこういう発見は彼を憂《ゆう》鬱《うつ》にするだけだった。
「もう遅い。しかしいざとなった時には……」
二十三 彼 女
ある広場の前は暮れかかっていた。彼はやや熱のある体《からだ》にこの広場を歩いて行った。大きいビルディングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電灯をきらめかせていた。
彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたったのち、彼女は何かやつれたように彼の方へ歩み寄った。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言って頬《ほほ》笑《え》んだりした。彼らは肩を並べながら、薄明るい広場を歩いて行った。それは彼らにははじめてだった。彼は彼女といっしょにいるためには何を捨ててもよい気もちだった。
彼らの自動車に乗ったのち、彼女はじっと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言った。彼はきっぱり「後悔しない」と答えた。彼女は彼の手を抑《おさ》え、「あたしは後悔しないけれども」と言った。彼女の顔はこういう時にも月の光の中にいるようだった。
二十四 出 産
彼は襖《ふすま》側《ぎわ》に佇《たたず》んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤《あか》児《ご》を洗うのを見《み》下《おろ》していた。赤児は石《せつ》鹸《けん》の目にしみるたびにいじらしい顰《しか》め顔《がお》を繰り返した。のみならず高い声に啼《な》きつづけた。彼は何か鼠《ねずみ》の仔《こ》に近い赤児の匂《にお》いを感じながら、しみじみこう思わずにはいられなかった。――
「なんのためにこいつも生まれて来たのだろう? この娑《しや》婆《ば》苦《く》の充《み》ち満ちた世界へ。――なんのためにまたこいつも己《おのれ》のようなものを父にする運命を荷《にな》ったのだろう?」
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だった。
二十五 ストリントベリイ
彼は部屋の戸口に立ち、柘榴《ざくろ》の花のさいた月明りの中に薄ぎたない支《し》那《な》人が何人か、麻雀戯《マアジアン》をしているのを眺《なが》めていた。それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴《ち》人《じん》の告白」を読みはじめた。が、二頁《ページ》も読まないうちにいつか苦笑を洩《も》らしていた。――ストリントベリイもまた情人だった伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のない〓《うそ》を書いている。……
二十六 古 代
彩色の剥《は》げた仏たちや天人や馬や蓮《はす》の華《はな》はほとんど彼を圧倒した。彼はそれらを見上げたまま、あらゆることを忘れていた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さえ。……
二十七 スパルタ式訓練
彼は彼の友だちとある裏町を歩いていた。そこへ幌《ほろ》をかけた人力車が一台、まっすぐに向こうから近づいて来た。しかもその上に乗っているのは意外にも昨夜《ゆうべ》の彼女だった。彼女の顔はこういう昼にも月の光の中にいるようだった。彼らは彼の友だちの手前、もちろん挨《あい》拶《さつ》さえ交《かわ》さなかった。
「美人ですね」
彼の友だちはこんなことを言った。彼は往来の突当りにある春の山を眺《なが》めたまま、少しもためらわずに返事をした。
「ええ、なかなか美人ですね」
二十八 殺 人
田舎《いなか》道《みち》は日の光の中に牛の糞《ふん》の臭気を漂わせていた。彼は汗を拭《ぬぐ》いながら、爪《つま》先《さき》上がりの道を登って行った。道の両側に熟した麦は香《かんば》しい匂《にお》いを放っていた。
「殺せ、殺せ。……」
彼はいつか口の中にこういう言葉を繰り返していた。誰を?――それは彼には明らかだった。彼はいかにも卑屈らしい五分刈りの男を思い出していた。
すると黄ばんだ麦の向こうにロオマカトリック教の伽藍《がらん》が一宇、いつの間にか円《まる》屋《や》根《ね》を現わし出した。……
二十九 形
それは鉄の銚《ちよう》子《し》だった。彼はこの糸《いと》目《め》のついた銚子にいつか「形」の美を教えられていた。
三十 雨
彼は大きいベッドの上に彼女といろいろの話をしていた。寝室の窓の外は雨ふりだった。浜木棉《はまゆう》の花はこの雨の中にいつか腐ってゆくらしかった。彼女の顔は相変わらず月の光の中にいるようだった。が、彼女と話していることは彼には退屈でないこともなかった。彼は腹《はら》這《ば》いになったまま、静かに一本の巻き煙草に火をつけ、彼女といっしょに日を暮らすのも七年になっていることを思い出した。
「おれはこの女を愛しているだろうか?」
彼は彼自身にこう質問した。この答えは彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だった。
「おれはいまだに愛している」
三十一 大地震
それはどこか熟し切った杏《あんず》の匂《にお》いに近いものだった。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂いを感じ、炎天に腐った死《し》骸《がい》の匂いも存外悪くないと思ったりした。が、死骸の重なり重なった池の前に立ってみると、「酸《さん》鼻《び》」という言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。ことに彼を動かしたのは十二、三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺《なが》め、何か羨《うらやま》しさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭《よう》折《せつ》す」――こういう言葉なども思い出した。彼の姉《*》や異母弟《*》はいずれも家を焼かれていた。しかし彼の姉の夫《*》は偽証罪を犯したために執行猶予中の体《からだ》だった。……
「誰もかも死んでしまえばよい」
彼は焼け跡に佇《たたず》んだまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。
三十二 喧《けん》 嘩《か》
彼は彼の異母弟と取り組み合いの喧《けん》嘩《か》をした。彼の弟は彼のために圧迫を受けやすいのに違いなかった。同時にまた彼も彼の弟のために自由を失っているのに違いなかった。彼の親《しん》戚《せき》は彼の弟に「彼を見慣《なら》え」と言いつづけていた。しかしそれは彼自身には手足を縛《しば》られるのも同じことだった。彼らは取り組み合ったまま、とうとう縁先へ転《ころ》げて行った。縁先の庭には百日紅《さるすべり》が一本、――彼はいまだに覚えている。――雨を持った空の下に赤《あか》光《びかり》に花を盛り上げていた。
三十三 英 雄
彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げていた。氷河の懸《かか》った山の上には禿《はげ》鷹《たか》の影さえ見えなかった。が、背の低いロシア人が一人、執《しつ》拗《よう》に山道を登りつづけていた。
ヴォルテエルの家も夜になったのち、彼は明るいランプの下にこういう傾《けい》向《こう》詩《し》を書いたりした。あの山道を登って行ったロシア人《*》の姿を思い出しながら。……
――誰《だれ》よりも十戒を守った君は
誰よりも十戒を破った君だ。
誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽《けい》蔑《べつ》した君だ。
誰よりも理想に燃え上がった君は
誰よりも現実を知っていた君だ。
君は僕らの東洋が生んだ
草花の匂《にお》いのする電気機関車だ。――
三十四 色 彩
三十歳の彼はいつの間にかある空き地を愛していた。そこにはただ苔《こけ》の生《は》えた上に煉《れん》瓦《が》や瓦《かわら》の欠片《かけら》などが幾つも散らかっているだけだった。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変わりはなかった。
彼はふと七、八年前の彼の情熱を思い出した。同時にまた彼の七、八年前には色彩を知らなかったのを発見した。
三十五 道《どう》化《け》人形
彼はいつ死んでも悔いないように烈《はげ》しい生活をするつもりだった。が、相変わらず養父母や伯母《おば》に遠慮がちな生活をつづけていた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。彼はある洋服屋の店に道《どう》化《け》人形の立っているのを見、どのくらい彼も道化人形に近いかということを考えたりした。が、意識の外の彼自身は、――いわば第二の彼自身はとうにこういう心もちをある短篇《*》の中に盛りこんでいた。
三十六 倦《けん》 怠《たい》
彼はある大学生と芒《すすき》原《はら》の中を歩いていた。
「君たちはまだ生《せい》活《かつ》慾《よく》を盛んに持っているだろうね?」
「ええ、――だってあなたでも……」
「ところが僕は持っていないんだよ。制作慾だけは持っているけれども」
それは彼の真情だった。彼は実際いつの間にか生活に興味を失っていた。
「制作慾もやっぱり生活慾でしょう」
彼はなんとも答えなかった。芒原はいつか赤い穂の上にはっきりと噴火山を露《あらわ》し出した。彼はこの噴火山に何か羨《せん》望《ぼう》に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜということはわからなかった。……
三十七 越し人
彼は彼と才力の上にも格闘できる女に遭遇した。が、「越し人」等の抒《じよ》情《じよう》詩《し》を作り、わずかにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍った、かがやかしい雪を落とすようにせつない心もちのするものだった。
風に舞ひたるすげ笠《がさ》の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
三十八 復《ふく》 讐《しゆう》
それは木《こ》の芽の中にあるあるホテルの露台だった。彼はそこに画《え》を描《か》きながら、一人の少年を遊ばせていた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人《ひとり》息《むす》子《こ》と。
狂人の娘は巻き煙草《たばこ》に火をつけ、彼らの遊ぶのを眺《なが》めていた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸いにも彼の子ではなかった。が、彼を「おじさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかった。
少年のどこかへ行ったのち、狂人の娘は巻き煙草を吸いながら、媚《こ》びるように彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似ていやしない?」
「似ていません。第一……」
「だって胎教ということもあるでしょう」
彼は黙って目を反《そら》した。が、彼の心の底にはこういう彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さえないわけではなかった。……
三十九 鏡
彼はあるカッフェの隅《すみ》に彼の友だちと話していた。彼の友だちは焼き林《りん》檎《ご》を食い、このごろの寒さの話などをした。彼はこういう話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だったね」
「いや、もう来月結婚する」
彼は思わず黙ってしまった。カッフェの壁に嵌《は》めこんだ鏡は無数の彼自身を映していた。冷えびえと、何か脅《おびや》かすように。……
四十 問 答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見ているから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めていないと思っていた。ではお前の生活は?
――彼はこう天使と問答した。もっとも誰《だれ》にも恥ずるところのないシルクハットをかぶった天使と。……
四十一 病
彼は不眠症に襲われ出した。のみならず体力も衰えはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二、三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾《かん》性《せい》肋《ろく》膜《まく》炎《えん》、神経衰弱、蔓《まん》性《せい》結膜炎、脳疲労、……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知していた。それは彼自身を恥じるとともに彼らを恐れる心もちだった。彼らを、――彼の軽《けい》蔑《べつ》していた社会を!
ある雪曇りに曇った午後、彼はあるカッフェの隅《すみ》に火のついた葉巻を啣《くわ》えたまま、向こうの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けていた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だった。彼はその音楽の了《おわ》るのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄ってレコオドの貼《は》り札《ふだ》を検《しら》べることにした。
Magic Flute――Mozart
彼はとっさに了解した。十戒を破ったモッツァルトはやはり苦しんだのに違いなかった。しかしよもや彼のように、……彼は頭《かしら》を垂《た》れたまま、静かに彼の卓子《テエブル》へ帰って行った。
四十二 神々の笑い声
三十五歳の彼は春の日の当たった松林の中を歩いていた。二、三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のように自殺できない《*》」という言葉を思い出しながら。……
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫《しぶき》を打ち上げていた。彼はこういう空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼らには歓《よろこ》びだった。が、同時にまた苦しみだった。三人の子は彼らといっしょに沖の稲《いな》妻《ずま》を眺《なが》めていた。彼の妻は一人の子を抱《いだ》き、涙をこらえているらしかった。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ」
「檣《ほばしら》の二つに折れた船が」
四十四 死
彼はひとり寝ているのを幸い、窓《まど》格《ごう》子《し》に帯をかけて縊《い》死《し》しようとした。が帯に頸《くび》を入れてみると、にわかに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹《せつ》那《な》の苦しみのために恐れたのではなかった。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちょっと苦しかったのち、何もかもぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさえすれば、死にはいってしまうのに違いなかった。彼は時計の針を検《しら》べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだったのを発見した。窓格子の外はまっ暗だった。しかしその暗《やみ》の中に荒あらしい鶏の声もしていた。
四十五 Divan《*》
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与えようとした。それは彼の知らずにいた「東洋的なゲエテ」だった。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠《ゆう》々《ゆう》と立っているゲエテを見、絶望に近い羨《うらやま》しさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だった。この詩人の心の中にはアクロポリスやゴルゴタのほかにアラビアの薔《ば》薇《ら》さえ花をひらいていた。もしこの詩人の足あとを辿《たど》る多少の力を持っていたらば、――彼はディヴァンを読み了《おわ》り、恐しい感動の静まったのち、しみじみ生活的宦《かん》官《がん》に生まれた彼自身を軽《けい》蔑《べつ》せずにはいられなかった。
四十六 〓《うそ》
彼の姉の夫の自殺はにわかに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかった。彼の将来は少なくとも彼には日の暮れのように薄暗かった。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかっていた)相変わらずいろいろの本を読みつづけた。しかしルッソオの懺《ざん》悔《げ》録《ろく》さえ英雄的な〓《うそ》に充《み》ち満ちていた。ことに「新《しん》生《せい》」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老《ろう》獪《かい》な偽善者に出会ったことはなかった。が、フランソア・ヴィヨン《*》だけは彼の心にしみ透《とお》った。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡《おす》」を発見した。
絞《こう》罪《ざい》を待っているヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現われたりした。彼は何度もヴィヨンのように人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはこういうことを許すわけはなかった。彼はだんだん衰えていった。ちょうど昔スウィフト《*》の見た、木末《こずえ》から枯れてくる立ち木のように。……
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顔をしていた。それはちょうど朝日の光の薄氷《うすらい》にさしているようだった。彼は彼女に好意を持っていた。しかし恋愛は感じていなかった。のみならず彼女の体《からだ》には指一つ触《さわ》らずにいたのだった。
「死にたがっていらっしゃるのですってね」
「ええ。――いえ、死にたがっているよりも生きることに飽《あ》きているのです」
彼らはこういう問答からいっしょに死ぬことを約束した。
「プラトニック・スウィサイドですね」
「ダブル・プラトニック・スウィサイド」
彼は彼自身の落ち着いているのを不思議に思わずにはいられなかった。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかった。ただいまだに彼女の体《からだ》に指一つ触《さわ》っていないことは彼には何か満足だった。彼女は何ごともなかったように時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持っていた青《せい》酸《さん》加《か》里《り》を一罎《びん》渡し、「これさえあればお互いに力強いでしょう」とも言ったりした。
それは実際彼の心をじょうぶにしたのに違いなかった。彼はひとり籐《とう》椅《い》子《す》に坐《すわ》り、椎《しい》の若葉を眺《なが》めながら、たびたび死の彼に与える平和を考えずにはいられなかった。
四十九 剥《はく》製《せい》の白鳥
彼は最後の力を尽くし、彼の自叙伝を書いてみようとした。が、それは彼自身には存外容易にできなかった。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算のいまだに残っているためだった。彼はこういう彼自身を軽《けい》蔑《べつ》せずにはいられなかった。しかしまた一面には「誰《だれ》でも一皮剥《む》いてみれば同じことだ」とも思わずにはいられなかった。「詩と真実と《*》」という本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のようにも考えられがちだった。のみならず文芸上の作品に必ずしも誰も動かされないのは彼にははっきりわかっていた。彼の作品の訴えるものは彼に近い生涯を送った彼に近い人々のほかにあるはずはない。――こういう気も彼には働いていた。彼はそのために手短に彼の「詩と真実と」を書いてみることにした。
彼は「或《ある》阿《あ》呆《ほう》の一生」を書き上げたのち、偶然ある古道具屋の店に剥《はく》製《せい》の白鳥のあるのを見つけた。それは頸《くび》を挙《あ》げて立っていたものの、黄ばんだ羽根さえ虫に食われていた。彼は彼の一生を思い、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものはただ発狂か自殺かだけだった。彼は日の暮れの往来をたった一人歩きながら、おもむろに彼を滅《ほろぼ》しに来る運命を待つことに決心した。
五十 俘《とりこ》
彼の友だち《*》の一人は発狂した。彼はこの友だちにいつもある親しみを感じていた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかるためだった。彼はこの友だちの発狂したのち、二、三度この友だちを訪問した。
「君や僕は悪鬼につかれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ」
この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりした。が、それから二、三日後にはある温泉宿へ出かける途中、薔《ば》薇《ら》の花さえ食っていたということだった。彼はこの友だちの入院したのち、いつか彼のこの友だちに贈ったテラコッタの半身像を思い出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だった。彼はゴオゴリイも狂死したのを思い、何か彼らを支配している力を感じずにはいられなかった。
彼はすっかり疲れ切ったあげく、ふとラディゲ《*》の臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑い声を感じた。それは「神の兵卒たちは己《おのれ》をつかまえに来る」という言葉だった。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘《たたか》おうとした。しかしどういう闘いも肉体的に彼には不可能だった。「世紀末の悪鬼」は実際彼を虐《さいな》んでいるのに違いなかった。彼は神を力にした中世紀の人々に羨《うらやま》しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることはとうてい彼にはできなかった。あのコクトオさえ信じた神を!
五十一 敗 北
彼はペンを執《と》る手も震え出した。のみならず〓《よだれ》さえ流れ出した。彼の頭は○・八のヴェロナアルを用いて覚《さ》めたのちのほかは一度もはっきりしたことはなかった。しかもはっきりしているのはやっと半時間か一時間だった。彼はただ薄暗い中にその日暮らしの生活をしていた。いわば刃《は》のこぼれてしまった、細い剣《つるぎ》を杖《つえ》にしながら。
(昭和二年六月)
〔遺稿〕
本《ほん》所《じよ》両《りよう》国《ごく》
「大《おお》溝《どぶ》」
僕は本《ほん》所《じよ》界《かい》隈《わい》のことをスケッチしろという社命《*》を受け、同じ社のO君といっしょに久しぶりに本所へ出かけて行った。今その印象記を書くのに当たり、本《ほん》所《じよ》両《りよう》国《ごく》と題したのはあるいは意味を成していないかもしれない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂っていることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちょっと電車の方向板じみた本所両国という題を用いることにした。――
僕は生まれてから二十歳ごろまでずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落《らく》伍《ご》者《しや》が比較的大ぜい住んでいた町である。したがってどこを歩いてみても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。もしその中に少しでもにぎやかな通りを求めるとすれば、それはわずかに両国から亀《かめ》沢《ざわ》町《ちよう》に至る元《もと》町《まち》通《どお》りか、あるいは二の橋から亀沢町に至る二つ目通りくらいなものだったであろう。もちろんそのほかに石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦《かわら》屋《や》根《ね》の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし広い「お竹《たけ》倉《ぐら*》」をはじめ、「伊《だ》達《て》様《さま》」「津《つ》軽《がる》様《さま》」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。……
ことに僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小《こ》泉《いずみ》町《ちよう》である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被《ひ》服《ふく》廠《しよう*》に変わってしまった。しかし僕の小学時代にはまだ「大《おお》溝《どぶ》」に囲まれた、雑木林や竹《たけ》藪《やぶ》の多い封建時代の「お竹倉」だった。「大溝」とはその名の示す通り、少なくとも一間半あまりの溝のことである。この溝は僕の知っているころにはもう黒い泥水をどろりと淀《よど》ませているばかりだった。(僕はそこへ金魚にやる孑孑《ぼうふら》を掬《すく》いに行ったことをきのうのように覚えている)しかし「御維新」以前には溝よりも堀に近かったのであろう。僕の叔父《おじ》は十何歳かの時に年にも似合わない大小を差し、この溝の前にしゃがんだまま、長い釣《つり》竿《ざお》をのばしていた。すると誰《だれ》か叔父の刀にぴしりと鞘《さや》当てをしかけた者があった。叔父はもちろんむっとして肩越しに相手を振り返ってみた。僕の一家一族の内にもこの叔父ほど負けぬ気の強かった者はない。こういう叔父はこの時にも相手によっては売られた喧《けん》嘩《か》を買うぐらいの勇気は持っていたのであろう。が、相手は誰かと思うと、朱《しゆ》鞘《ざや》の大小を閂《かんぬき》差《ざ》しに差した身の丈《たけ》抜群の侍《さむらい》だった。しかも誰にも恐れられていた「新《しん》徴《ちよう》組《ぐみ》」の一人に違いなかった。かれは叔父を尻《しり》目《め》にかけながら、にやにや笑って歩いていた。叔父は彼を一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにいたとかいうことである。
僕は小学時代にも「大溝」の側《そば》を通るたびにこの叔父の話を思い出した。叔父は「御維新」以前には新《しん》刀《とう》無《む》念《ねん》流の剣客だった。(叔父が安房《あわ》上総《かずさ》へ武《む》者《しや》修《しゆ》行《ぎよう》に出かけ、二刀流の剣客と仕合いをした話もやはり僕を喜ばせたものである)それから「御維新」前後には彰《しよう》義《ぎ》隊《たい》に加わる志を持っていた。最後に僕の知っているころには年とった猫《ねこ》背《ぜ》の測量技師だった。「大溝」は今日の本所にはない。叔父もまた大正の末《ばつ》年《ねん》に食《しよく》道《どう》癌《がん》を病んで死んでしまった。本所の印象記の一節にこういうことを加えるのはあるいは私事に及びすぎるであろう。しかし僕はO君といっしょに両国橋を渡りながら、大《おお》川《かわ》の向こうに立ち並んだ無数のバラックを眺《なが》めた時には実際烈《はげ》しい流《る》転《てん》の相に驚かないわけにはゆかなかった。僕の「大溝」を思い出したり、そのまた「大溝」に釣をしていた叔父を思い出したりすることも必ずしも偶然ではないのである。
両 国
両《りよう》国《ごく》の鉄橋は震災前と変わらないといっても差《さし》支《つか》えない。ただ鉄の欄《らん》干《かん》の一部はみすぼらしい木造に変わっていた。この鉄橋のできたのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛《くし》形《がた》の鉄橋には懐古の情も起こってこない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛《あい》惜《じやく》を感じている。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかかっていた。僕は時々この橋を渡り、浪《なみ》の荒い「百《ひやつ》本《ぽん》杭《ぐい*》」や芦《あし》の茂った中《なか》洲《ず》を眺《なが》めたりした。中洲に茂った芦はもちろん、「百本杭」も今は残っていない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸《かし》に近い水の中に何本も立っていた乱《らん》杭《ぐい》である。昔の芝居は殺し場などに多《た》田《だ》の薬師《*》の石切り場といっしょにたびたびこの人通りの少ない「百本杭」の河岸《かし》を使っていた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覚えていない。が、朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行った。O君は僕のこういうのを聞き、大川でも魚の釣《つ》れたことに多少の驚嘆を洩《も》らしていた。一度も釣《つり》竿《ざお》を持ったことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何と何だったかを知っていない。しかしある夏の夜明けにこの河岸《かし》へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに来ていなかった。その代りに杭《くい》の間には坊主《ぼうず》頭《あたま》の土《ど》左衛門《ざえもん》が一人俯《うつ》向《む》けに浪に揺《ゆ》すられていた。……
両国橋の袂《たもと》にある表《ひよう》忠《ちゆう》碑《ひ*》も昔に変わらなかった。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍総司令官大《おお》山《やま》巌《いわお》侯爵である。日露役の始まったのは僕の中学へはいりたてだった。明治二十五年に生まれた僕はもちろん日清役のことを覚えていない。しかし北《ほく》清《しん》事変《*》の時には大《だい》平《へい》という広《ひろ》小《こう》路《じ》(両国)の絵《え》草《ぞう》紙《し》屋《や》へ行き、石《せき》版《はん》刷りの戦争の絵を時々一枚ずつ買ったものである。それらの絵には義和団の匪徒《ひと》やイギリス兵などは斃《たお》れていても、日本兵は一人も斃れていなかった。僕はもうその時にもやはり日本兵も一人くらいは死んでいるのに違いないと思ったりした。しかし日露役の起こった時には徹《てつ》頭《とう》徹《てつ》尾《び》ロシアぐらい悪い国はないと信じていた。僕のリアリズムは年とともに発達するわけにはゆかなかったのであろう。もっともそれは僕の知人なども出征していたためもあるかもしれない。この知人は南《なん》山《ざん*》の戦いに鉄《てつ》条《じよう》網《もう》にかかって戦死してしまった。鉄条網という言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起こった時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだったのである。僕は大きい表忠碑を眺《なが》め、いまさらのように二十年前の日本を考えずにはいられなかった。同時にまたちょっと表忠碑にも時代錯《さく》誤《ご》に近いものを感じないわけにはゆかなかった。
この表忠碑の後ろには確か両国劇場という芝居小屋のできるはずになっていた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉《れん》瓦《が》壁《べい》を見たことを覚えている。けれども今は薄ぎたない亜鉛《トタン》葺《ぶ》きのバラックのほかに何も芝居小屋らしいものは見えなかった。もっとも僕は両国の鉄橋に愛《あい》惜《じやく》を持っていないようにこの煉《れん》瓦《が》建ての芝居小屋にも格別の愛惜を持っていない。両国橋の木造だったころには駒《こま》止《ど》め橋《ばし》もこの辺に残っていた。のみならず井《い》生《ぶ》村《むら》楼《ろう*》や二《に》州《しゆう》楼《ろう》という料理屋も両国橋の両側に並んでいた。そのほかに鮨《すし》屋《や》の与平、鰻《うなぎ》屋《や》の須《す》崎《さき》屋《や》、牛肉のほかにも冬になると猪《しし》や猿《さる》を食わせる豊《とよ》田《だ》屋《や》、それから回《え》向《こう》院《いん》の表門に近い横町にあった「坊《ぼう》主《ず》軍鶏《しやも》」――こういちいち数え立ててみると、本《ほん》所《じよ》でも名高い食い物屋はたいていこの界《かい》隈《わい》に集まっていたらしい。
「富士見の渡し」
僕らは両《りよう》国《ごく》橋《ばし》の袂《たもと》を左へ切れ、大川に沿って歩いて行った。「百《ひやつ》本《ぽん》杭《ぐい》」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊《だ》達《て》様《さま》」は残っているかもしれない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊《にぎたま》神社《*》のお神楽《かぐら》を見に行ったものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさったまま、熱心にお神楽をみているうちに「うんこ」をしてしまったこともあったらしい。しかしどこを眺めても、亜鉛《トタン》葺《ぶ》きのバラックのほかに「伊達様」らしい屋敷は見えなかった。「伊達様」の庭には木《もく》犀《せい》が一本秋ごとに花を盛っていたものである。僕はその薄甘い匂《にお》いを子供心にも愛していた。あの木犀も震災の時にもちろん灰になってしまったことであろう。
流《る》転《てん》の相の僕を脅《おびや》かすのは「伊達様」の見えなかったことばかりではない。僕は確かこの近所にあった「富士見の渡し」を思い出した。が、渡し場らしい小屋はどこにも見えない。僕はちょうど道ばたに芋《いも》を洗っていた三十前後の男に渡し場の有無をたずねてみることにした。しかし彼は「富士見の渡し」という名前を知っていないのはもちろん、渡し場のあったことさえ知らないらしかった。「富士見の渡し」はこの河岸《かし》から「明治病院」の裏手に当たる向こう河岸へ通っていた。そのまた向こう河岸は掘割りになり、そこに時々どこかの家《うち》の家鴨《あひる》なども泳いでいたものである。僕は中学へはいったのちもある親《しん》戚《せき》を尋ねるためにたびたび「富士見の渡し」を渡って行った。その親戚は三遊派の「五りん」とかいうもののお上《かみ》さんだった。僕の家へ何かの拍《ひよう》子《し》に円朝の息《むす》子《こ》の出入したりしたのもこういう親戚のあったためであろう。僕はまたその家の近所に今村次郎《*》という標札を見つけ、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えている。――
僕は講談というものを寄席《よせ》ではほとんど聞いたことはない。僕の知っている講釈師は先代の邑《むら》井《い》吉《きつ》瓶《ぺい*》だけである。(もっとも典《てん》山《ざん*》とか伯《はく》山《ざん*》とかあるいはまた伯《はく》龍《りゆう*》とかいう新時代の芸術家を知らないわけではない)したがって僕は講談を知るためにたいてい今村次郎氏の速記本に依《よ》った。しかし落語は家族たちといっしょに相《あい》生《おい》町《ちよう》の広瀬だの米《よね》沢《ざわ》町《ちよう》(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行ったものである。ことにたびたび行ったのは相生町の広瀬だった。が、どういう落語を聞いたかはあいにくはっきりと覚えていない。ただ吉田国五郎の人形芝居を見たことだけはいまだにありありと覚えている。しかも僕の見た人形芝居はたいてい小《こ》幡《ばた》小平次《*》とか累《かさね》とかいう怪談物だった。僕は近ごろ大阪へ行き、久しぶりに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽《かる》業《わざ》じみたけれんを使っていない。吉田国五郎の人形芝居は例《たと》えば清玄《*》の庵《あん》室《しつ》などでも、血だらけな清玄の幽霊は大夫《たゆう》の見《けん》台《だい》が二つに割れると、その中から姿を現わしたものである。寄席の広瀬も焼けてしまったであろう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存しているかどうかも知らないものの一人である。
そのうちに僕は震災前と――というよりもむしろ二十年前と少しも変わらないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑《おさ》えた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手に「国亡《ほろ》びて山河在《あ》り」という詠《えい》嘆《たん》を感じずにはいられなかった。しかしこの小さい草土手にこういう詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情けなかった。
「お竹《たけ》倉《ぐら》」
僕の知人は震災のために何人もこの界《かい》隈《わい》に斃《たお》れている。僕の妻の親《しん》戚《せき》などは男女九人の家族中、やっと命を全《まつと》うしたのは二十《はたち》前後の息《むす》子《こ》だけだった。それも火の粉を防ぐために戸板をかざして立っていたのを旋風のために捲《ま》き上げられ、安田家の庭《*》の池の側《そば》へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それからまた僕の家へ毎日のように遊びに来た「お条さん」という人などは命だけは助かったものの、一時は発狂したのも同様だった。(「お条さん」は髪の毛の薄いためにどこへも片づかずにいる人だった。しかし髪の毛を生《は》やすために蝙蝠《こうもり》の血などを頭へ塗っていた)最後に僕の通っていた江《こう》東《とう》小学校の校長さんは両眼とも明《めい》を失った上、前年にはたった一人の息子を失い、震災の年にはご夫婦とも焼け死んでしまったとかいうことだった。僕も本《ほん》所《じよ》に住んでいたとすれば、おそらくはやはりこの界《かい》隈《わい》に火事を避けていたことであろう。したがってまた僕はもちろん、僕の家族も彼らのように非《ひ》業《ごう》の最後を遂《と》げていたかもしれない。僕は高い褐《かつ》色《しよく》の本所会館を眺《なが》めながらこんなことをO君と話し合ったりした。
「しかし両国橋を渡った人はたいてい助かっていたのでしょう」
「両国橋を渡った人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあったということですよ」
「とにかく東京じゅうでも被《ひ》服《ふく》廠《しよう》ほど《*》大勢焼け死んだところはなかったのでしょう」
こういう種々の悲劇のあったのはいずれも昔の「お竹倉」の跡である。僕の知っていたころの「お竹倉」はだいたい「御維新」前と変わらなかったものの、もう総武鉄道会社の敷地のうちに加えられていた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友だちだったから、みだりに人を入れなかった「お竹倉」の中へも遊びに行った。そこは前にも言ったように雑《ぞう》木《き》林《ばやし》や竹《たけ》藪《やぶ》のある、町中には珍しい野原だった。のみならず古い橋のかかった掘割りさえ大川に通じていた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝《どぶ》板《いた》の上に育った僕に自然の美しさを教えたものは何よりも先に「お竹倉」だったであろう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記」を拾い読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景《け》色《しき》を――「とりかぶと」の花の咲いた藪《やぶ》の陰《かげ》や大きい昼の月のかかった雑木林の梢《こずえ》を思い出したりした。「お竹倉」はもちろんそのころにはいかめしい陸軍被服廠や両国駅に変わっていた。けれども震災後の今日を思えば、――「卻《かえ》って拝《へい》州《しゆう》を望めば是《これ》故郷《*》」と支《し》那《な》人の歌ったのも偶然ではない。
総武鉄道の工事の始まったのはまだ僕の小学時代だったであろう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思い出さずにはいられないほどもの寂しかったのに違いない。夜は?――いや、昼間さえ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片《かた》葉《は》の芦《あし》」はどこかこのあたりにあるものと信じないわけにはゆかなかった。現に夜学に通う途中、「お竹倉」の向こうに莫《ば》迦《か》囃《ばや》しを聞き、てっきりあれは「狸《たぬき》囃《ばや》し」に違いないと思ったことを覚えている。それはおそらくは小学時代の僕一人の恐怖ではなかったのであろう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通っていた線路工夫の一人は宵《よい》闇《やみ》の中に幽霊を見、気絶してしまったとかいうことだった。
「大《おお》川《かわ》端《ばた》」
本《ほん》所《じよ》会館は震災前の安田家の跡に建ったのであろう。安田家は確かに花《か》崗《こう》石《せき》を使ったルネサンス式の建築だった。僕は椎の木などの茂った中にこの建築の立っていたのに明治時代そのものを感じている。が、セセッション式の本所会館は「牛乳デイ」とかいうもののために植込みのある玄関の前に大きいポスタアを掲げたり、宣伝用の自動車を並べたりしていた。僕の水泳を習いに行った「日本游泳協会」はちょうどこの河《か》岸《し》にあったものである。僕はいつか何かの本に三代将軍家《いえ》光《みつ》は水泳を習いに日本橋へ出かけたということを発見し、滑《こつ》稽《けい》に近い今昔の感を催さないわけにはゆかなかった。しかし僕らの大川へ水泳を習いに行ったということも後世には不可解に感じられるであろう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少なからず驚嘆していた。
僕はまたこの河岸にも昔に変わらないものを発見した。それは――あいにくなんの木かはちょっと僕には見当もつかない。が、とにかく新芽を吹いた昔の並み木の一本である。僕の覚えている柳の木は一本も今では残っていない。けれどもこの木だけは何かの拍《ひよう》子《し》に火事にも焼かれずに立っているのであろう。僕はほとんどこの木の幹に手を触れてみたい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆《ばあ》さんが二人曇《どん》天《てん》の大川を眺《なが》めながら、花見か何かにでも来ているように稲荷《いなり》鮨《ずし》を食べて話し合っていた。
本所会館の隣にあるのは建築中の同愛病院である。高い鉄の櫓《やぐら》だの、何階建てかのコンクリイトの壁だの、ことに砂《じや》利《り》を運ぶ人夫だのは確かに僕を威圧するものだった。同時にまた工業地になった、「本所の玄関」という感じを打ち込まなければ措《お》かないものだった。僕は半裸体の工夫が一人、汗に体を輝かせながら、シャベルを動かしているのを見、本所全体もこの工夫のように烈《はげ》しい生活をしていることを感じた。この界《かい》隈《わい》の家々の上に五《ご》月《がつ》幟《のぼり》の翻《ひるがえ》っていたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰も五月幟よりは新しい日本の年中行事になったメイ・デイを思い出すのに違いない。
僕は昔この辺にあった「御《お》蔵《くら》橋《ばし》」を渡り、たびたび友綱の家《うち》の側《そば》にあったある友達の家へ遊びに行った。彼もまた海軍の将校になったのち、二、三年前に故人になっている。しかし僕の思い出したのは必ずしも彼のことばかりではない。彼の住んでいた家のあたり、……瓦《かわら》屋《や》根《ね》の間に樹木の見える横町のことも思い出したのである。そこは僕の住んでいた元町通りに比べると、はるかに人通りも少なければ「しもた家」もほとんど門並みだった。「椎《しい》の木《き》松《まつ》浦《うら*》」のあった昔はしばらく問わず、「江戸の横網鶯《うぐいす》の鳴く《*》」と北原白秋氏の歌った本所さえ今ではもう「歴史的大川端」に変わってしまったと言うほかはない。いかに万《ばん》法《ぽう》を流転するとはいえ、こういう変化の絶え間ない都会は世界じゅうにも珍しいであろう。
僕らはいつか工事場らしい板囲いの前に通りかかった。そこにも労働者が二、三人、せっせと槌《つち》を動かしながら、大きい花《か》崗《こう》石《せき》を削《けず》っていた。のみならず工事中の鉄橋さえ泥濁りに濁った大川の上へ長々と橋《はし》梁《げた》を横たえていた。僕はこの橋の名前はもちろん、この橋のできる話も聞いたことはなかった。震災は僕らの後ろにある「富士見の渡し」を滅《ほろぼ》してしまった。が、その代りに僕らの前に新しい鉄橋を造ろうとしている。……
「これはなんという橋ですか?」
麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼうし》を冠《かぶ》った労働者の一人はやはり槌《つち》を動かしたまま、ちょっと僕の顔を見上げ、存外親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋です」
「一銭蒸汽《*》」
僕らはそこから引き返して川《かわ》蒸《じよう》気《き》の客になるために横《よこ》網《あみ》の浮き桟《さん》橋《ばし》へおりて行った。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさえすれば、何区でもかってに行かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災はもちろんこの浮き桟橋も炎にして空へ立ち昇《のぼ》らせたのであろう。が、一見したところは明治時代に変わっていない。僕らはベンチに腰をおろし、一本の巻《まき》き煙草《たばこ》に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。
「石《いし》垣《がき》にはもう苔《こけ》が生《は》えていますね。もっとも震災以来四、五年になるが、……」
僕はふとこんなことを言い、O君のために笑われたりした。
「苔の生えるのはあたりまえであります」
大川は前にも書いたように一面に泥濁りに濁っている。それから大きい浚《しゆん》渫《せつ》船《せん》が一《いつ》艘《そう》起《き》重《じゆう》機《き》を擡《もた》げた向こう河《か》岸《し》ももちろん「首《しゆ》尾《び》の松《*》」や土蔵の多い昔の「一番堀」や「二番堀」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽や達《だる》磨《ま》船《ぶね》である。五《ご》大《だい》力《りき》、高瀬船、伝《てん》馬《ま》、荷《に》足《た》り、田《た》船《ぶね》などという大小の和船もいつの間にか流《る》転《てん》の力に押し流されたのであろう。僕はO君と話しながら、「〓《げん》湘《しよう》日夜東に流れて去る《*》」という支《し》那《な》人の詩を思い出した。こういう大都会の中の川は〓《げん》湘のように悠《ゆう》々《ゆう》と時代を超越していることはできない。現世は実に大川さえ刻々に工業化しているのである。
しかしこの浮き桟《さん》橋《ばし》の上に川蒸汽を待っている人々はたいてい大川よりも保守的である。僕は巻き煙草をふかしながら、唐《とう》桟《ざん》柄《がら》の着物を着た男や銀杏《いちよう》返しに結った女を眺《なが》め、何か矛盾に近いものを感じないわけにはゆかなかった。同時にまた明治時代にめぐり合ったある懐しみに近いものを感じないわけにはゆかなかった。そこへ下流から漕《こ》いで来たのは久しぶりに見る五《ご》大《だい》力《りき》である。艫《へさき》の高い五大力の上には鉢《はち》巻《まき》をした船頭が一人一丈《じよう》余りの櫓《ろ》を押していた。それからお上《かみ》さんらしい女が一人ご亭主に負けずに竿《さお》を差していた。こういう水上生活者の夫婦ぐらい妙に僕らにも抒《じよ》情《じよう》詩《し》めいた心もちを起こさせるものは少ないかもしれない。僕はこの五大力を見送りながら、――そのまた五大力の上にいる四、五歳の男の子を見送りながら、いくぶんか彼らの幸福を羨《うらや》みたい気さえ起こしていた。
両国橋をくぐって来た川蒸汽はやっと浮き桟橋へ横着けになった。「隅《すみ》田《だ》丸《まる》三十号」(?)――僕はあるいはこの小蒸汽に何度も前に乗っているのであろう。とにかくこれも明治時代に変わっていないことは確かである。川蒸汽の中は満員だった上、立っている客も少なくない。僕らはやむを得ず舟ばたに立ち、薄日の光に照らされた両岸の景《け》色《しき》を見て行くことにした。もっとも船ばたに立っていたのは僕ら二人に限ったわけではない。僕らの前には夏《なつ》外《がい》套《とう》を着た、顋《あご》髯《ひげ》の長い老人さえやはり船ばたに立っていたのである。
川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢の客の中にたちまち「毎度おやかましゅうございますが」と甲《かん》高《だか》い声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。これもまた昔に変わっていない。もし少しでも変わっているとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などという言葉を挟《はさ》んでいることであろう。僕はまだ小学時代からこういう商人の売っているものを一度も買った覚えはない。が、天窓越しに彼の姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母《おば》といっしょに川蒸汽へ乗った時のことを思い出した。
乗り継ぎ「一銭蒸汽」
僕らはその時にどこへ行ったのか、とにかく伯母《おば》だけは長命寺《*》の桜《さくら》餅《もち》を一籠《かご》膝《ひざ》にしていた。すると男女の客が二人、僕らの顔を尻《しり》目《め》にかけながら、「何か匂《にお》いますね」「うん、糞《くそ》臭《くさ》いな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは、――僕はいまだに生意気にもこの二人を田舎《いなか》者めと軽《けい》蔑《べつ》したことを覚えている。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は、――もちろん今でも昔のように評判のいいことは確かである。しかし餡《あん》や皮にあった野《や》趣《しゆ》だけはいつか失われてしまった。
川蒸汽は蔵前橋の下をくぐり、厩《うまや》橋《ばし》へまっすぐに進んで行った。そこへ向こうから僕らの乗ったのとあまり変わらない川蒸汽が一艘《そう》やはり浪《なみ》を蹴《け》って近づき出した。が、七、八間《けん》隔ててすれ違ったのを見ると、この川蒸汽の後部には甲《かん》板《ぱん》の上に天幕《テント》を張り、ちゃんと大川の両岸の景色を見渡せる設備も整っていた。こういう古風な川蒸汽もまためまぐるしい時代の影響を蒙《こうむ》らないわけにはゆかないらしい。そのあとへ向こうから走って来たのはお客や芸者を乗せたモオタアボオトである。屋根船や船宿を知っている老人たちはさだめしこのモオタアボオトに苦々しい顔をすることであろう。僕は江戸趣味に随《ずい》喜《き》する者ではない。したがってまたモオタアボオトを無風流と思う者ではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだった。あるいはそのほかに利《と》根《ね》川《がわ》通いの外《がい》輪《りん》船《せん》のあるだけだった。僕は渡し舟に乗るたびに「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪のために舟の揺れることを恐れたものである。しかし今日の大川の上に大小の浪を残すものはいちいち数えるのに耐えないであろう。
僕は船《ふな》端《ばた》に立ったまま、鼠《ねずみ》色《いろ》に輝いた川の上を見渡し、確か広《ひろ》重《しげ》も描いていた河童《かつぱ》のことを思い出した。河童は明治時代には、――少なくとも「御維新」前後には大《だい》根《こん》河《が》岸《し》の川にさえ出没していた。僕の母の話に依《よ》れば、観《かん》世《ぜ》新《じん》路《みち*》に住んでいたある男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗っているうちに大根河岸の川の河童に腋《わき》の下をくすぐられたということである。(観世新路に植木屋の住んでいたことさえ僕らにはもう不思議である)まして大川にいた河童の数は決して少なくはなかったであろう。いや、必ずしも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人は夜《よ》網《あみ》を打ちに出ていたところ、何か舳《とも》へ上がったのを見ると、甲《こう》羅《ら》だけでも盥《たらい》ほどあるすっぽんだったなどと話していた。僕はもちろんこういう話をことごとく事実とは思っていない。けれども明治時代――あるいは明治時代以前の人々はこれらの怪物を目撃するほどこの町中を流れる川に詩的恐怖を持っていたのであろう。
「今ではもう河童もいないでしょう」
「こう泥だの油だの一面に流れているのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取った河童の夫婦が二匹いまだに住んでいるかもしれません」
川蒸汽は僕らの話のうちに厩橋の下へはいって行った。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼《あお》んでいた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さえ、磯《いそ》臭《くさ》い匂《にお》いのしたことを思い出した。しかし今日の大川の水はなんの匂いも持っていない。もしまた持っているとすれば、ただ泥臭い匂いだけであろう。……
「あの橋は今度できる駒《こま》形《かた》橋《ばし》ですね?」
O君はあいにく僕の問いに答えることはできなかった。駒形は僕の小学時代にはたいてい「コマカタ」と呼んでいたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するようになってしまった。「君は今駒《こま》形《かた》あたりほととぎす《*》」を作った遊女もあるいは「コマカタ」と澄んだ音を「ほととぎす」の声に響かせたかったかもしれない。支《し》那《な》人は「文章は千《せん》古《こ》の事《*》」と言った。が、文章もおのずから匂《にお》いを失ってしまうことは大川の水に変わらないのである。
柳《やなぎ》 島《しま》
僕らは川蒸汽を下《お》りて吾《あ》妻《づま》橋《ばし》の袂《たもと》へ出、そこへ来合わせた円タクに乗って柳《やなぎ》島《しま》へ向かうことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二、三度しか通った覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通ったことはなかったであろう。一度も?――もし一度でも通ったとすれば、それは僕の小学時代に業《なり》平《ひら》橋《ばし》かどこかにあったかなり大きい寺へ葬式に行った時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新」前の本《ほん》所《じよ》の話をしてもらった。父は往来の左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだった」とか「なんとか様の裏の田には鶴《つる》が下りたものだ」とか話していた。しかしそれらの話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首《くび》縊《くく》りとかの死《し》骸《がい》を早《はや》桶《おけ》に入れ、そのまた早桶を葭《よし》簀《ず》に包んだ上、白《しら》張《は》りの提《ちよう》灯《ちん》を一本立てて原の中に据《す》えておくという話だった。僕は草原の中に立った白張りの提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかもかれこれ真夜中になると、その早桶のおのずからごろりと転《ころ》げるというに至っては、――明治時代の本所はたとい草原には乏《とぼ》しかったにもせよ、おそらくまだこのあたりは多少いわゆる「御《ご》朱《しゆ》引《び》き《*》外《そと》」の面かげをとどめていたのであろう。しかし今はどこを見ても、ただ電柱やバラックの押し合いへし合いしているだけである。僕は泥のはねかかったタクシイの窓越しに往来を見ながら、金銭を武器にする修《しゆ》羅《ら》界《かい》の空気を憂《ゆう》鬱《うつ》に感じるばかりだった。
僕らは「橋《はし》本《もと*》」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝いに亀《かめ》井《い》戸《ど》の天神様へ行ってみることにした。名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変わっている。もっともこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残っている。けれども磨《す》り硝子《ガラス》へ緑いろに「食堂」と書いた軒《けん》灯《とう》は少なくとも僕にははかなかった。僕はもちろん「橋本」の料理を云《うん》々《ぬん》するほどの通人ではない。のみならず「橋本」へ来たことさえあるかないかわからないくらいである。が、五代目菊五郎の最初の脳《のう》溢《いつ》血《けつ》を起こしたのは確かこの「橋本」の二階だったであろう。
掘割りを隔てた妙《みよう》見《けん》様《*》も今ではもうすっかり裸になっている。それから掘割りに沿うた往来も、――僕は中学時代に蕪《ぶ》村《そん》句集を読み、「君行くや柳緑に路《みち》長し」という句に出合った時、この往来にあった柳を思い出さずにはいられなかった。しかし今僕らの歩いているのは有《あり》田《た》ドラッグ《*》や愛聖館《*》の並んだ、せせこましいなりににぎやかな往来である。近ごろ私《し》娼《しよう》の多いとかいうのもおそらくはこの往来の裏あたりであろう。僕は浅《あさ》草《くさ》千《せん》束《ぞく》町《まち》にまだ私娼の多かったころの夜の景《け》色《しき》を覚えている。それは窓ごとに火《ほ》かげのさした十二階《*》の聳《そび》えているためにほとんど壮厳な気のするものだった。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違いない。たといデカダンスの詩人だったとしても、僕は決してこういう町裏を徘《はい》徊《かい》する気にはならなかったであろう。けれども明治時代の諷《ふう》刺《し》詩人、斎《さい》藤《とう》緑雨《*》は十二階に悪趣味そのものを見《み》出《いだ》していた。すると明日の詩人たちは有田ドラッグや愛聖館にも彼ら自身の「悪の花」を――あるいはまた「善の花」を歌い上げることになるかもしれない。
萩《はぎ》寺《でら*》あたり
僕はろくでもないことを考えながら、ふと愛聖館の掲示板を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かこういう言葉だった。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらっしゃいます」
産児制限論者はもちろん、現世の人々はこういう言葉に微笑しないわけにはゆかないであろう。人口過剰に苦しんでいる僕らはこんなにたくさんの人間のいることを神の愛の証《しよう》拠《こ》と思うことはできない。いや、むしろ全能の主の憎しみの証拠とさえ思われるであろう。しかし本《ほん》所《じよ》のある場《ば》末《すえ》の小学生を教育している僕の旧友の言葉に依《よ》れば、少なくともその界《かい》隈《わい》に住んでいる人々は子供の数の多い家ほどかえって暮らしも楽だということである。それはまたどの家の子供もとにかく十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼《かせ》いで来るからだということである。愛聖館の掲示板にこういう言葉を書いた人はあるいはこの事実を知らなかったかもしれない。が、確かにこういう言葉は現世の本所のある場末に生活している人々の気もちを代弁することになっているであろう。もっとも子供の多いほど暮らしも楽だということは子供自身には仕合わせかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
それから僕らは通りがかりにちょっと萩《はぎ》寺《でら》を見物した。萩寺も突《つ》っかい棒はしてあるものの、幸い震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四、五株しかない上、落《おち》合《あい》直《なお》文《ぶみ*》先生の石碑を前にした古池の水も渇《か》れ渇《が》れになっているのは哀れだった。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりもいっそうもの寂《さ》びている。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿《さる》江《え》にあった僕の家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》を思い出した。この寺にはなんでも司馬江漢《*》や小林平八郎の墓のほかに名高い浦里時次郎《*》の比《ひ》翼《よく》塚《づか》も残っていたのである。僕の司馬江漢を知ったのはもちろんあまり古いことではない。しかし義士の討入りの夜に両刀を揮《ふる》って闘《たたか》った振《ふ》り袖《そで》姿の小林平八郎は小学時代の僕らには実に英雄そのものだった。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のように芝居には悪縁の深いものである。したがってやはり小学時代から浦里時次郎を尊敬していた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりもむしろ禿《かむろ》だった)この寺は――慈《じ》眼《げん》寺《じ》という日《にち》蓮《れん》宗の寺は震災よりも何年か前に染《そめ》井《い》の墓地のあたりに移転している。彼らの墓も寺といっしょにさだめし同じ土地に移転しているであろう。が、あのじめじめした猿江の墓地はいまだに僕の記憶に残っている。なかんずく薄い水《みず》苔《ごけ》のついた小林平八郎の墓の前に曼《まん》珠《じゆ》沙《しや》華《げ》の赤々と咲いていた景色は明治時代の本所以外に見ることのできないものだったかもしれない。
萩寺の先にある電柱(?)は「亀《かめ》井《い》戸《ど》天《てん》神《じん》近道」というペンキ塗りの道標を示していた。僕らはその横町を曲がり、侍合やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来を歩いて行った。が、肝《かん》腎《じん》の天神様へは容易に出ることもできなかった。すると道ばたに女の子が一人メリンスの袂《たもと》を翻《ひるがえ》しながら、傍《ぼう》若《じやく》無《ぶ》人《じん》にゴム毬《まり》をついていた。
「天神様へはどう行きますか?」
「あっち」
女の子は僕らに返事をしたのち、聞こえよがしにこんなことを言った。
「みんな天神様のことばかり訊《き》くのね」
僕はちょっと忌《いま》々《いま》しさを感じ、このいかにもこましゃくれた十ばかりの女の子を振り返った。しかし彼女は側《わき》目《め》も振らずに(しかも僕に見られていることをはっきり承知していながら)やはり毬《まり》をつき続けていた。実際支《し》那《な》人《じん》の言ったように「変わらざるものよりしてこれを見れば《*》」何ごとも変わらないのに違いない。僕もまた僕の小学時代には鉄《てつ》面《めん》皮《ぴ》にも生《き》薬《ぐすり》屋《や》へ行って
「半《はん》紙《し》をください」などと言ったものだった。
「天神様」
僕らは門並みの待合の間をやっと「天神様」の裏門へ辿《たど》りついた。するとその門の中には夏《なつ》外《がい》套《とう》を着た男が一人、何か滔《とう》々《とう》としゃべりながら、「お立ち合い」の人々へ小さい法律書を売りつけていた。僕は彼の雄弁に辟《へき》易《えき》せずにはいられなかった。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬というものを売りつけていた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかったものである。しかし広場のできたのちにもここにかかる見《み》世《せ》物《もの》小屋は活《い》き人形や「からくり」ばかりだった。
「こっちは法律、向こうは化学――ですね」
「亀《かめ》井《い》戸《ど》も科学の世界になったのでしょう」
僕らはこんなことを話し合いながら、久しぶりに「天神様」へお詣《まい》りに行った。「天神様」の拝殿は仕合わせにも昔に変わっていない。いや、昔に変わっていないのは筆《ふで》塚《づか》や石の牛《*》も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思い出した。(が、僕の字は何年たっても、いっこう上達する容《よう》子《す》はない)それからまた石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思い出した。こういう時に投げる銭は今のように一銭銅貨ではない。たいていは五厘《りん》銭《せん》か寛《かん》永《えい》通《つう》宝《ほう》である。そのまた穴《あな》銭《せん》の中の文《ぶん》銭《せん*》を集め、いわゆる「文銭の指《ゆび》環《わ》」を拵《こしら》えたのも何年前の流行であろう。僕らは拝殿の前へ立ち止まり、ちょっと帽をとってお時《じ》宜《ぎ》をした。
「太鼓橋も昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかったかな」
「子供の時に大きいと思ったものは存外あとでは小さいものですね」
「それは太鼓橋ばかりじゃないかもしれない」
僕らは暖《の》簾《れん》をかけた掛け茶屋越しにどんより水光のする池を見ながら、やっと短い花《はな》房《ぶさ》を垂《たら》した藤《ふじ》棚《だな》の下を歩いて行った。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変わっていない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立っているのは僕には何か時代錯《さく》誤《ご》を感じさせないわけにはゆかなかった。江戸時代に興った「風流」は江戸時代といっしょに滅《ほろ》んでしまった。ただ僕らの明治時代はまたどこかに二百年間の「風流」の匂《にお》いを残していた。けれども今は目《ま》のあたりに、――O君はにやにや笑いながら、おそらくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指《さ》し示した。
「カルシウム煎《せん》餅《べい》も売っていますね」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだ張り子の亀《かめ》の子は売っている」
僕らは、「天神様」の外へ出たのち、「船橋屋」の葛《くず》餅《もち*》を食う相談をした。が、本《ほん》所《じよ》に疎《そ》遠《えん》になった僕には「船橋屋」も容易に見つからなかった。僕はやむを得ず荒物屋の前に水を撒《ま》いていたお上《かみ》さんに田舎《いなか》者《もの》らしい質問をした。それから花《か》柳《りゆう》病《びよう》の医院の前をやっとまた船橋屋へ辿《たど》り着いた。船橋屋も家は新たになったものの、だいたいは昔に変わっていない。僕らは縁台に腰をおろし、鴨《かも》居《い》の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆ずつ食うことにした。
「安いものですね。十銭とは」
O君は大いに感心していた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆三銭だった。僕は僕の友だちといっしょに江東梅園《*》などへ遠足に行った帰りにたびたびこの葛餅を食ったものである。江東梅園も臥《が》竜《りゆう》梅《ばい》といっしょに滅びてしまっているであろう。水田や榛《はん》の木のあった亀《かめ》井《い》戸《ど》はこういう梅の名所だったために南画らしい趣を具《そな》えていた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来の向こうに二階建ての商店が何軒も軒を並べている。……
錦《きん》糸《し》堀《ぼり》
僕は天神橋の袂《たもと》からまた円タクに乗ることにした。この界《かい》隈《わい》はどこを見ても、――僕はもう今昔の変化を云《うん》々《ぬん》するのにも退屈した。僕の目に触れるものは半《なか》ば出来上がった小公園《*》である。あるいは亜鉛《トタン》塀《べい》を繞《めぐら》した工場である。あるいはまたみすぼらしいバラックである。斎《さい》藤《とう》茂《も》吉《きち》氏は何かの機会に「ものの行きとどまらめやも《*》」と歌い上げた。しかし今日の本所は「ものの行き」を現わしていない。そこにあるものは震災のために生じた「ものの飛び」に近いものである。僕は昔この辺に糧《りよう》秣《まつ》廠《しよう》のあったことを思い出し、さらにその糧秣廠に火事のあったことを思い出し、如《によ》露《ろ》亦《やく》如《によ》電《でん*》という言葉の必ずしも誇張でないことを感じた。
僕の通っていた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変わっている。僕はこの中学校へ五年の間通いつづけた。当時の校舎も震災のために灰になってしまったのであろう。が、僕の中学時代には鼠《ねずみ》色《いろ》のペンキを塗った二階建ての木造だった。それから校舎のまわりにはポプラアが何本かそよいでいた。(この界《かい》隈《わい》は土の痩《や》せているためにポプラア以外の木は育ちにくかったのである)僕はそこへ通っているうちに英語や数学を覚えたほかにもいかに僕ら人間の情けないものであるかを経験した。こういうのは僕の先生たちや友だちの悪口を言っているのではない。僕ら人間といううちにはもちろん僕のこともはいっているのである。たとえば僕らはある友だちをいじめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕らの彼をいじめたのは格別理由のあったわけではない。もしまた理由らしいものを挙《あ》げるとすれば、ただ彼の生意気だった、――あるいは彼は彼自身を容易に曲げようとしなかったからである。僕はもう五、六年前、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落としているのを感じた。彼は今は揚《よう》子《す》江《こう》の岸に相変わらず孤独に暮らしている。……
こういう僕の友だちといっしょに僕の記憶に浮かんでくるのは僕らを教えた先生たちである。僕はこの「繁《はん》昌《じよう》記《き*》」の中にいちいちそんな記憶を加えるつもりはない。けれどもただ一人この機会にスケッチしておきたいのは山田先生である。山田先生は第三中学校の剣道部というものの先生だった。先生の剣道は封建時代の剣客にまさるとも劣らなかったであろう。なんでも先生に学んだ一人は武《ぶ》徳《とく》会《かい*》の大会に出、相手の小手へ竹刀《しない》を入れると、あまり気合いの烈《はげ》しかったために相手の腕を一打ちに折ってしまったとかいうことだった。が、僕の伝えたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生はまた食物を減じ、仙人に成る道も修行していた。のみならず明治時代に不老不死の術に通じた、正《しよう》真《じん》紛《まぎ》れのない仙人の住んでいることを確信していた。僕は不幸にも先生のように仙人に敬意を感じていない。しかし先生の鍛《たん》煉《れん》にはいつも敬意を感じている。先生はある時博物学教室へ行き、そこにあったコップの昇《しよう》汞《こう》水《すい》を水と思って飲み干してしまった。それを知った博物学の先生は驚いて医者を迎えにやった。医者はもちろんやって来るが早いか、先生に吐《と》剤《ざい》を飲ませようとした。けれども先生は吐剤ということを知ると、自《じ》若《じやく》してこういう返事をした。
「山田次《じ》郎《ろ》吉《きち》は六十を越しても、また人様のいられる前でへどを吐くほど耄《もう》碌《ろく》はしませぬ。どうか車を一台お呼びください」
先生はなんとかいう法を行ない、とうとう医者にもかからずにしまった。僕はこの三、四年の間は誰《だれ》からも先生の噂《うわさ》を聞かない。あの面《おも》長《なが》の山田先生はあるいはもう列《れつ》仙《せん》伝《でん*》中の人々といっしょに遊んでいるのであろう。しかし僕は相変わらず埃《ほこり》臭《くさ》い空気の中に、――僕らをのせた円タクは僕のそんなことを考えているうちに江東橋を渡って走って行った。
緑《みどり》町《ちよう》、亀《かめ》沢《ざわ》町《ちよう》
江東橋を渡った向こうもやはりバラックばかりである。僕は円タクの窓越しに赤《あか》錆《さび》をふいた亜鉛《トタン》屋根だのペンキ塗りの板《は》目《め》だのを見ながら、確か明治四十三年にあった大水のことを思い出した。今日の本《ほん》所《じよ》は火事には会っても、洪水に会うことはないであろう。が、その時の大水は僕の記憶に残っているのではいちばん水《みず》嵩《かさ》の高いものだった。江東橋界《かい》隈《わい》の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあった時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に漲《みなぎ》った泥水の中を泳いで行かなければならなかった。
「実際その時は大変でしたよ。もっとも僕の家《うち》などは床《ゆか》の上へ水は来なかったけれども」
「では浅い所もあったのですね?」
「緑町二丁目――かな。なんでもあの辺は膝《ひざ》くらいまででしたがね。僕はSという友だちといっしょにその露地の奥にいるもう一人の友だちを見舞いに行ったんです。するとSという友だちが溝《どぶ》の中へ落ちてしまってね。……」
「ああ、水が出ていたから、溝のあることがわからなかったんですね」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出ていたんです。それがあっと言う拍《ひよう》子《し》にかなり深い溝だったとみえ、水の上に出ているのは首だけになってしまったんでしょう。僕は思わず笑ってしまってね」
僕らをのせた円タクはこういう僕らの話のうちに寿座《*》の前を通り過ぎた。画《え》看《かん》板《ばん》を掲げた寿座はあまり昔と変わらないらしかった。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津《つ》軽《がる》様《さま》」の屋敷だった。「御維新」前のある年の正月、父は川向こうへ年始に行き、帰りに両国橋を渡って来ると、少しも見知らない若《わか》侍《ざむらい》が一人偶然父と道づれになった。彼もちゃんと大小をさし、鷹《たか》の羽《は》の紋のついた上《かみ》下《しも》を着ていた。父は彼と話しているうちにいつか僕の家《うち》を通り過ぎてしまった。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝の中へ転《ころ》げこんでいた。同時にまた若侍はいつかどこかへ見えなくなっていた。父は泥まみれになったまま、僕の家《うち》へ帰ってきた。なんでも父の刀は鞘《さや》走《ばし》った拍《ひよう》子《し》にさかさまに溝の中に立ったということである。それから若侍に化けた狐《きつね》は(父はいまだにこの若侍を狐だったと信じている)刀の光に恐れたためにやっと逃げ出したのだということである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差《さし》支《つか》えない。僕はただ父の口からこういう話を聞かされるたびにいつも昔の本所のいかに寂しかったかを想像していた。
僕らは亀《かめ》沢《ざわ》町《ちよう》の角で円タクをおり、元町通りを両国へ歩いて行った。菓子屋の寿《じゆ》徳《とく》庵《あん》は昔のようにやはり繁《はん》昌《じよう》しているらしい。しかしその向こうの質屋の店は安田銀行に変わっている。この質屋の「利いちゃん」も僕の小学時代の友だちだった。僕はいつか遊び時間に僕らの家にあるものを自慢し合ったことを覚えている。僕の友だちは僕のように年とった小役人の息子《むすこ》ばかりではない。が、誰も「利いちゃん」の言葉には驚嘆せずにはいられなかった。
「僕の家の土蔵の中には大《おお》砲《づつ》万《まん》右衛《え》門《もん》の化《け》粧《しよう》廻《まわ》しもある」
大《おお》砲《づつ》は僕らの小学時代に、――常陸《ひたち》山《やま》や梅《うめ》ヶ谷《たに》の大関だった時代に横綱を張った相撲《すもう》だった。
相生町
本所警察署もいつの間にかコンクリイトの建物に変わっている。僕の記憶にある警察署は古い赤《あか》煉《れん》瓦《が》の建物だった。僕はこの警察署長の息子《むすこ》も僕の友だちだったのを覚えている。それから警察署の隣にある蝙《こう》蝠《もり》傘《がさ》屋《や》も――傘屋の木島さんは今日でも僕のことを覚えていてくれるであろうか? いや、木島さん一人ではない。僕はこの界《かい》隈《わい》に住んでいた大勢の友だちを覚えている。しかし僕の友だちは長い年月の流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮らしをしているであろう。僕は四、五年前の簡《かん》閲《えつ》点《てん》呼《こ*》に大紙屋の岡《おか》本《もと》さんといっしょになった。僕の知っていた大紙屋は封建時代に変わりのない土蔵造りの紙屋である。そのまた薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙しそうに歩きまわっていた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変わり、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立てているらしい。
「この辺もすっかり変わっていますか?」
「昔からある店もありますけれども、……町全体の落ち着かなさかげんはね」
僕はその大紙屋のあった「馬車通り」(「馬車通り」というのは四つ目あたりへ通うガタ馬車のあったためである)のぬかるみを思い出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあったように封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残っていた。僕はこの馬車通りにあった「魚《うお》善《ぜん》」という肴《さかな》屋《や》を覚えている。それからまた樋《ひ》口《ぐち》さんという門構えの医者を覚えている。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗清水定吉《*》の住んでいたことを覚えている。明治時代もあらゆる時代のように何人かの犯罪的天才を造り出した。ピストル強盗も稲《いな》妻《ずま》強盗《*》や五寸釘《くぎ》の虎吉《*》といっしょにこういう天才たちの一人だったであろう。僕は彼の按《あん》摩《ま》になって警官の目をくらませていたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしていたことにロマン趣味を感じずにはいられなかった。これらの犯罪的天才はたいていは小説の主人公になり、さらにまたいわゆる壮《そう》士《し》芝居の劇中人物になったものである。僕はこういう壮士芝居の中に「大《だい》悪《あく》僧《そう》」とかいうものを見、一場一場の血なまぐささに夜もろくろく眠られなかった。もっともこの「大悪僧」はあるいはピストル強盗のように実在の人物ではなかったかもしれない。
僕らはいつか埃《ほこり》の色をした国技館の前へ通りかかった。国技館はちょうど日光の東照宮の模型か何かを見《み》世《せ》物《もの》にしているところらしかった。僕の通っていた江東小学校はちょうどここに建っていたものである。現に残っている大《おお》銀杏《いちよう》も江東小学校の運動場の隅《すみ》に、――というよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしていた。当時の小学校の校長の震災のために死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近ごろやはり当時から在職していたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫を教えていたある女の先生も割《わ》り下《げ》水《すい》に近い京極子爵家(?)の溝《どぶ》の中に死んだことを知ったりした。この先生は着物は腐れ、体《からだ》は骨になっているものの、貯金帳だけはちゃんと残っていたためにやっと誰だかわかったそうである。T先生の話によれば、僕らを教えた先生たちはたいていは本所にいないらしい。僕は比《ひ》留《る》間《ま》先生に張り倒されたことを覚えている。それから宗《そう》先生に後頭部を突かれたことを覚えている。それから葉若先生に、――けれども僕の覚えているのは体罰を受けたことばかりではない。僕はまたこの小学校の中にいろいろの喜劇のあったことも覚えている。ことに大島という僕の親友のちゃんと机に向かったまま、いつかうんこをしていたのは喜劇中の喜劇だった。しかしこの大島敏《とし》夫《お》も――花や歌を愛していた江東小学校の秀才も二十《はたち》前後に故人になっている。……
国技館の隣に回《え》向《こう》院《いん》のあることはたいてい誰でも知っているであろう。いわゆる本場所の相撲《すもう》もまた国技館のできない前には回向院の境内に蓆《むしろ》張《ば》りの小屋をかけていたものである。僕らはこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見るために国技館の横を曲がって行った。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期していたようにすっかり昔に変わっていた。
回《え》向《こう》院《いん》
今日の回《え》向《こう》院《いん》はバラックである。いかに金の紋を打った亜鉛《トタン》葺《ぶ》きの屋根は反《そ》っていても、硝子《ガラス》戸《ど》を立てた本堂はバラックというほかにしかたはない。僕らは読《ど》経《きよう》の声を聞きながら、やはり僕には昔馴《な》染《じ》みの鼠《ねずみ》小《こ》僧《ぞう》の墓を見物に行った。墓の前には今日でも乞《こ》食《じき》が三、四人集まっていた。が、そんなことはどうでもよい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣《おつとせい》供《く》養《よう》塔《とう*》というものの立っていたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しないわけにはゆかなかった。
鼠小僧治《じ》郎《ろ》太《だ》夫《ゆう》の墓は建て札も示している通り、震災の火事にも滅《ほろ》びなかった。赤い提《ちよう》灯《ちん》や蝋《ろう》燭《そく》や教《きよう》覚《かく》速《そく》善《ぜん》居《こ》士《じ》の額もだいたい昔の通りである。もっとも今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちゃんと「ご用のおかたにはお守り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札も貼《は》りつけてある。僕らはこの墓を後ろにし、今度はまた墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝《*》の墓を尋ねて行った。
この墓地も僕にはなつかしかった。僕は僕の友だちといっしょにたびたびいたずらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追いかけられたものである。もっとも昔は樹木も茂り、一口に墓地というよりも卵《らん》塔《とう》場《ば》という気のしたものだった。が、今は墓石はもちろん、墓を繞《めぐ》った鉄《てつ》柵《さく》にもすさまじい火の痕《あと》は残っている。僕は「水《みず》子《こ》塚《づか*》」の前を曲がり、京伝の墓の前へ辿《たど》り着いた。京伝の墓も京山《*》の墓といっしょにやはり昔に変わっていない。ただそれらの墓の前に柿《かき》か何かの若木が一本、ひょろりと枝をのばしたまま、若葉を開いているのは哀れだった。
僕らは回向院の表門を出、これもバラックになった坊《ぼう》主《ず》軍鶏《しやも》を見ながら、一つ目の橋へ歩いて行った。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にもいくぶんか広《ひろ》重《しげ》らしい画《が》趣《しゆ》を持っていたものである。しかしもう今日ではどこにもそんな景《け》色《しき》は残っていない。僕らは無《む》慙《ざん》にもひろげられた路《みち》を向こう両国へ引き返しながら、偶然「泰《たい》ちゃん」の家《うち》の前を通りかかった。「泰ちゃん」は下《げ》駄《た》屋《や》の息子《むすこ》である。僕は僕の小学時代にも作文は多少上手《じようず》だった。が、僕の作文は、――と言うよりも僕らの作文は、たいていはいわゆる美文だった。「富士の峰《みね》白くかりがね池の面《おもて》に下り、空仰げば月麗しく、余《よ》が影《かげ》法《ぼう》師《し》黒し」――これは僕の作文ではない。二、三年前に故人になった僕の小学時代の友だちの一人、――清水昌《まさ》彦《ひこ》君の作文である。「泰ちゃん」はこういう作文の中にひとり教科書の匂《にお》いのない、活《い》き活《い》きした口語文を作っていた。それはなんでも「虹《にじ》」という作文題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じていた。が、先生の一番にしたのは「泰ちゃん」――下駄屋「伊《い》勢《せ》甚《じん》」の息子木村泰《たい》助《すけ》君の作文だった。「泰ちゃん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読した。それはおそらくは誰《だれ》よりも僕を動かさずにはおかなかった。僕はもちろん「泰ちゃん」のためにみごとに敗北を受けたことを感じた。同時にまた「泰ちゃん」の描いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亙《わた》って少なくはない。しかしまず僕を動かしたのはこの「泰ちゃん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。もし「泰ちゃん」も僕のようにペンを執《と》っていたとすれば、「大東京繁《はん》昌《じよう》記《き*》」の読者はこの「本《ほん》所《じよ》両《りよう》国《ごく》」よりもあるいは数等美しい印象記を読んでいたかもしれない。けれども「泰ちゃん」はどうしているであろう? 僕は幾つも下《げ》駄《た》の並んだ飾り窓の前に佇《たたず》んだまま、そっと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちゃん」のお母さんらしい人が一人坐《すわ》っている。が、木村泰助君はあいにくどこにも見えなかった。……
方《ほう》丈《じよう》記《き》
僕「今日《きよう》は本《ほん》所《じよ》へ行って来ましたよ」
父「本所もすっかり変わったな」
母「うちの近所はどうなっているえ?」
僕「どうなっているって、……釣《つり》竿《ざお》屋《や》の石井さんにうちを売ったでしょう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提《ちよう》灯《ちん》屋《や》もあった。……」
伯母《おば》「あすこには洗《せん》湯《とう》もあったでしょう」
僕「今でも常磐《ときわ》湯《ゆ》という洗湯はありますよ」
伯母「常磐湯と言ったかしら」
妻「あたしのいた辺も変わったでしょうね?」
僕「変わらないのは石《いし》河《が》岸《し》だけだよ」
妻「あすこにあった、大きい柳は?」
僕「柳などはもちろん焼けてしまったさ」
母「お前のまだ小さかったころには電車も通っていなかったんだからね」
父「上《うえ》野《の》と新《しん》橋《ばし》との間さえ鉄道馬車があっただけなんだから。――鉄道馬車と言うたびに思い出すのは……」
僕「僕の小便をしてしまった話でしょう。満員の鉄道馬車に乗ったまま。……」
伯母《おば》「そうそう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」
父「なに、あの鉄道馬車会社の神《かん》戸《べ》さんのことさ。神戸さんもこの間死んでしまったな」
僕「東京電灯の神戸さんでしょう。へええ、神戸さんを知っているんですか?」
父「知っているとも。大倉さんなども知っていたもんだ」
僕「大倉喜八郎をね……」
父「僕もあの時分にどうかすれば、……」
僕「もうそれだけでたくさんですよ」
伯母「そうだね。この上損でもされていた日には……」(笑う)
僕「『榛《はん》の木《き》馬場《*》あたりはかたなしですね」
父「あすこには葛《かつ》飾《しか》北斎が住んでいたことがある」
僕「『割《わ》り下《げ》水《すい*》』もやっぱり変わってしまいましたよ」
母「あすこには悪《わる》御《ご》家《け》人《にん》がたくさんいてね」
僕「僕の覚えている時分でも何かそんな気のする所でしたね」
妻「お鶴《つる》さんの家《うち》はどうなったでしょう?」
僕「お鶴さん? ああ、あの藍《あい》問《どん》屋《や》の娘さんか?」
妻「ええ、兄さんの好きだった人」
僕「あの家《うち》どうだったかな。兄さんのためにも見て来るんだっけ。もっとも前は通ったんだけれども」
伯母「あたしは地震の年以来一度も行ったことはないんだから、――行っても驚くだろうけれども」
僕「それは驚くだけですよ。伯母さんには見当もつかないかもしれない」
父「なにしろ変わりも変わったからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目にあけて往来を見ていたもんだろう?」
母「法《ほう》界《かい》節《ぶし》や何かの帰って来るのをね」
伯母「あの時分は蝙《こう》蝠《もり》もたくさんいたでしょう」
僕「今は雀《すずめ》さえ飛んでいませんよ。僕は実際無常を感じてね。……それでも一度行ってごらんなさい。まだずんずん変わろうとしているから」
妻「わたしは一度子供たちに亀《かめ》井《い》戸《ど》の太鼓橋を見せてやりたい」
父「臥《が》竜《りゆう》梅《ばい》はもうなくなったんだろうな?」
僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたということを十五回《*》だけ書かなければならない」
妻「驚いた、驚いたと書いていればいいのに」(笑う)
僕「そのほかに何も書けるもんか。もし何か書けるとすれば、……そうだ。このポケット本の中にちゃんともう誰《だれ》か書き尽くしている。――『玉《たま》敷《しき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代《よ》々《よ》を経てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅《わづか》に一人二人なり。朝《あした》に死し、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、何《いづ》方《かた》より来《きた》りて、何方へか去る』……」
母「なんだえ、それは? 『お文《ふみ》様《さま*》』のようじゃないか?」
僕「これですか? これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちょっと偉かった鴨《かも》の長明という人の書いた本ですよ」
(昭和二年五月)
機関車を見ながら
……わたしの子供たちは、機関車の真《ま》似《ね》をしている。もっとも動かずにいる機関車ではない。手をふったり、「しゅっしゅっ」と言ったり、進行中の機関車の真似をしている。これはわたしの子供たちに限ったことではないであろう。ではなぜ機関車の真似をするか? それはもちろん機関車に何か威力を感じるからである。あるいは彼ら自身も機関車のように激しい生命を持ちたいからである。こういう要求を持っているのは子供たちばかりに限っていない。大人《おとな》たちもやはり同じことである。
ただ大人たちの機関車は言葉通りの機関車ではない。しかしそれぞれ突進し、しかも軌《き》道《どう》の上を走ることもやはり機関車と同じことである。この軌道はあるいは金銭であり、あるいはまた名誉であり、最後にあるいは女《によ》人《にん》であろう。我々は子供と大人とを問わず、我々の自由に突進したい欲望を持ち、その欲望を持つところにおのずから自由を失っている。それは少しも逆説ではない。逆説的な人生の事実である。が、我々自身の中にある無数の我々の祖先たちや一時代の一国の社会的約束は多少こういう要求に歯どめをかけないことはない。しかしこういう要求は太古以来我々のうちに潜《ひそ》んでいる。……
わたしは高い土手の上に立ち、子供たちと機関車の走るのを見ながら、こんなことを思わずにはいられなかった。土手の向こうには土手がまた一つあり、そこにはなかば枯れかかった椎《しい》の木が一本斜めになっていた。あの機関車――3271号はムッソリニである。ムッソリニの走る軌《き》道《どう》はあるいは光に満ちているであろう。しかしどの軌道もその最後に一度も機関車の通らない、さびた二、三尺のあることを思えば、ムッソリニの一生もおそらくは我々の一生のように老いてはどうすることもできないかもしれない。のみならず――
のみならず我々はどこまでも突進したい欲望を持ち、同時にまた軌道を走っている。この矛盾はいいかげんに見のがすことはできない。我々の悲劇と呼ぶものは正《まさ》にそこに発生している。マクベスはもちろん小《こ》春《はる》治《じ》兵《へ》衛《え*》もやはりついに機関車である。小春治兵衛は、マクベスのように強い性格を持っていないかもしれない。しかし彼らの恋愛のためにやはりがむしゃらに突進している。(紅《こう》毛《もう》人《じん》たちの悲劇論はここでは不幸にも通用しない。悲劇を作るものは人生である。美学者の作るわけではない)この悲劇を第三者の目に移せば、あらゆる動機のはっきりしないために(あらゆる動機のはっきりすることは悲劇中の人物にも望めないかもしれない)ただいたずらに突進し、いたずらに停止、――あるいは顛《てん》覆《ぷく》するのを見るだけである。したがって喜劇になってしまう。すなわち喜劇は第三者の同情を通過しない悲劇である。畢《ひつ》竟《きよう》我々は大小を問わず、いずれも機関車に変わりはない。わたしはその古風な機関車――煙突の高い3236号にわたし自身を感じている。トランス・テエブル《*》の上に乗っておもむろに位置を換えている3236号に。
しかし一時代の一国の社会や我々の祖先はそれらの機関車にどのくらい歯どめをかけるであろう? わたしはそこに歯どめを感じるとともにエンジンを、――石炭を、――燃え上がる火を感じないわけにもゆかないのである。我々は我々自身ではない。実はやはり機関車のように長い歴史を重ねてきたものである。のみならず無数のピストンや歯車の集まっているものである。しかも我々を走らせる軌道は、機関車にはわかっていないように我々自身にもわかっていない。この軌道もおそらくはトンネルや鉄橋に通じていることであろう。あらゆる解放はこの軌道のために絶対に我々には禁じられている。こういう事実は恐ろしいかもしれない。が、いかに考えてみても事実に相違ないことは確かである。
もし機関手さえしっかりしていれば、――それさえ機関車の自由にはならない。ある機関手をある機関車へ乗らせるのは気まぐれな神々の意志によるのである。ただたいていの機関車はとにかく全然さびはてるまで走ることを断念しない。あらゆる機関車の外見上の荘厳はそこにかがやいているであろう。ちょうど油を塗った鉄のように。……
我々はいずれも機関車である。我々の仕事は空の中に煙や火花を投げあげるほかはない。土手の下を歩いている人々もこの煙や火花により、機関車の走っているのを知るであろう。あるいはとうに走って行ってしまった機関車のあるのを知るであろう。煙や火花は電気機関車にすれば、ただその響きに置き換えてもよい。「人は皆無、仕事は全部」というフロオベエルの言葉《*》はこのためにわたしを動かすのである。宗教家、芸術家、社会運動家、――あらゆる機関車は彼らの軌道により、必然にどこかへ突進しなければならぬ。もっと早く、――そのほかに彼らのすることはない。
我々の機関車を見るたびにおのずから我々自身を感ずるのは必ずしもわたしに限ったことではない。斎《さい》藤《とう》緑雨は箱根の山を越える機関車の「ナンダ、コンナ山、ナンダ、コンナ山」と叫ぶことを記《しる》している。しかし碓氷《うすい》峠《とうげ》を下る機関車はさらに歓《よろこ》びに満ちているのであろう。彼はいつも軽快に「タカポコ高《たか》崎《さき》タカポコ高崎」と歌っているのである。前者を悲劇的機関車とすれば後者は喜劇的機関車かもしれない。
(昭和二年七月)
凶
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本《ほん》郷《ごう》通《どお》りを一《いち》高《こう》の横から藍《あい》染《ぞめ》橋《ばし》へ下ろうとしていた。あの通りははなはだ街灯の少ない、いつも真《まつ》暗《くら》な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走っていた。僕は巻《ま》き煙草《たばこ》を啣《くわ》えながら、もちろんその車に気もとめなかった。しかしだんだん近寄って見ると、――僕のタクシイのヘッド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐《から》艸《くさ》をつけた、葬式に使う自動車だった。
大正十三年の夏、僕は室《むろ》生《う》犀《さい》星《せい》と軽《かる》井《い》沢《ざわ》の小みちを歩いていた。山砂もしっとりと湿気を含んだ、いかにももの静かな夕暮れだった。僕は室生と話しながら、ふと僕らの頭の上を眺《なが》めた。頭の上には澄み渡った空に黒ぐろとアカシヤが枝を張っていた。のみならずそのまた枝の間に人の脚《あし》が二本ぶら下がっていた。僕は「あっ」と言って走り出した。室生もまた僕のあとから「どうした? どうした?」と言って追いかけて来た。僕はちょっと羞《はずか》しかったから、なんとか言って護《ご》摩《ま》化《か》してしまった。
大正十四年の夏、僕は菊池寛《ひろし》、久《く》米《め》正《まさ》雄《お》、植村宗《そう》一《いち*》、中山太陽堂社長《*》などと築《つき》地《じ》の待《まち》合《あい》に食事をしていた。僕は床柱の前に坐《すわ》り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――という順序に坐《すわ》っていたのである。そのうちに僕は何かの拍《ひよう》子《し》に餉《ちやぶ》台《だい》の上の麦酒《ビイル》罎《びん》を眺《なが》めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映っていた。それは僕の顔にそっくりだった。しかし何も麦酒《ビイル》罎《びん》は僕の顔を映していたわけではない。その証《しよう》拠《こ》には実在の僕は目を開いていたのにもかかわらず、幻《まぼろし》の僕は目をつぶった上、やや仰《あお》向《む》いていたのである。僕は傍《かたわら》にいた芸者を顧み、「妙な顔が映っている」と言った。芸者は始めは常《じよう》談《だん》にしていた。けれども僕の座に坐《すわ》るが早いか、「あら、ほんとうに見えるわ」と言った。菊池や久米もかわるがわる僕の座に来て坐って見ては、「うん、見えるね」などと言い合っていた。それは久米の発見によれば、麦酒《ビイル》罎《びん》の向こうに置いてある杯《はい》洗《せん》や何かの反射だった。しかし僕はなんとなしに凶を感ぜずにはいられなかった。
大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下ろうとしていた。するとあの唐《から》艸《くさ》をつけた、葬式に使う自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現わし出した。僕はまだその時までは前に挙《あ》げた幾つかの現象を聯《れん》絡《らく》のあるものとは思わなかった。しかしこの自動車を見た時、――ことにその中の棺《かん》を見た時、何ものか僕に冥《めい》々《めい》の裡《うち》にある警告を与えている、――そんなことをはっきり感じたのだった。
(大正十五年四月十三日鵠《くげ》沼《ぬま》にて浄書)
〔遣稿〕
鵠《くげ》沼《ぬま》雑記
僕は鵠《くげ》沼《ぬま》の東《あずま》屋《や*》の二階にじっと仰《あお》向《む》けに寝ころんでいた。そのまた僕の枕《まくら》もとには妻と伯母《おば》とが差し向かいに庭の向こうの海を見ていた。僕は目をつぶったまま、「今に雨がふるぞ」と言った。妻や伯母はとり合わなかった。ことに妻は「このお天気に」と言った。しかし二分とたたないうちに珍しい大雨になってしまった。
×
僕は全然人かげのない松の中の路《みち》を散歩していた。僕の前には白犬が一匹、尻《しり》を振り振り歩いて行った。僕はその犬の睾《こう》丸《がん》を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲がり角《かど》へ来ると、急に僕をふり返った。それから確かににやりと笑った。
×
僕は路ばたの砂の中に雨《あま》蛙《がえる》が一匹もがいているのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだろうと考えた。しかしそれは自動車などのはいるはずのない小みちだった。しかし僕は不安になり、路ばたに茂った草の中へ杖《つえ》の先で雨蛙をはね飛ばした。
×
僕は風向きに従って一様に曲がった松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪《ゆが》んでいた。僕は僕の目のせいだと思った。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでいた。これは不《ぶ》気《き》味《み》でならなかった。
×
僕は風《ふ》呂《ろ》へはいりに行った。かれこれ午後の十一時だった。風呂場の流しには青年が一人、手《て》拭《ぬぐい》を使わずに顔を洗っていた。それは毛を抜いた鶏のように痩《や》せ衰えた青年だった。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引き返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであった。僕は驚いて帯をといてみたら、やはり僕の腹巻だった。
(以上東屋にいるうち)
×
僕は夢を見ているうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂《も》索《さく》君と馬車に乗って歩きながら、麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》をかぶった馭《ぎよ》者《しや》に北京《ペキン》の物価などを尋ねていた。しかしはっきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂《ゆう》鬱《うつ》になってしまう。ただ灰色の天幕《テント》の裂《さ》け目から明るい風景が見えるように時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参ってくるのらしい。
×
僕はやはり散歩しているうちに白い水着を着た子供に遇《あ》った。子供は小さい竹の皮を兎《うさぎ》のように耳につけていた。僕は五、六間《けん》離れているうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐ろしくてならなかった。その恐怖は子供とすれ違ったのちも、しばらくの間はつづいていた。
×
僕はぼんやり煙草《たばこ》を吸いながら、不快なことばかり考えていた。僕の前の次の間にはここへ来て雇った女中が一人、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでいるらしかった。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかっているぞ」と言った。どうしてそんなことを言ったかは僕自身にもわからなかった。すると女中は頓《とん》狂《きよう》な調子で「あら、ほんとうにたかっている」と言った。
×
僕はバタの缶《かん》をあけながら、軽井沢の夏を思い出した。その拍《ひよう》子《し》に頸《くび》すじがちくりとした。僕は驚いてふり返った。すると軽井沢にたくさんいる馬《うま》蠅《ばえ》が一匹飛んで行った。それもこのあたりの馬蠅ではない。ちょうど軽井沢の馬蠅のように緑色の目をした馬蠅だった。
×
僕はこのごろ空の曇った、風の強い日ほど恐ろしいものはない。あたりの風景は敵意を持ってじりじり僕に迫るような気がする。そのくせ前に恐ろしかった犬や神《かみ》鳴《なり》はなんともない。僕はおととい(七月十八日)も二、三匹の犬が吠《ほ》え立てる中を歩いて行った。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団《ふとん》をかぶるか、妻のいる次の間へ避難してしまう。
×
僕はひとり散歩しているうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二、三日たったのち、妻とそこを通ってみると、そんな家は見えなかった。僕は「確かにあった」と言い、妻は「確かになかった」と言った。それから妻の母に尋ねてみた。するとやはり「ありません」と言った。しかし僕はどうしても、確かにあったと思っている。その札は齒と本字を書き、イシャと片《かた》仮《か》名《な》を書いてあったから、珍しいだけでも見違えではない。
(以上家を借りてから)
(大正十五年七月二十日)
〔遺稿〕
遺 書
或《ある》旧《きゆう》友《ゆう》へ送る手記
誰《だれ》もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心やあるいは彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。もっとも僕の自殺する動機は特に君に伝えずともいい。レニエ《*》は彼の短篇の中にある自殺者を描いている。この短篇の主人公は何のために自殺するかを彼自身も知っていない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、あるいはまた精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならずたいていは動機に至る道程を示しているだけである。自殺者はたいていレニエの描いたように何のために自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少なくとも僕の場合はただぼんやりした不安である。何か僕の将来に対するただぼんやりした不安である。君はあるいは僕の言葉を信用することはできないであろう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にいない限り、僕の言葉は風の中の歌のように消えることを教えている。したがって僕は君を咎《とが》めない。……
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考えつづけた。僕のしみじみした心もちになってマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向かう道程を描いているのに違いない。が、僕はもっと具体的に同じことを描きたいと思っている。家族たちに対する同情などはこういう欲望の前にはなんでもない。これもまた君には、Inhuman の言葉を与えずには措《お》かないであろう。けれどももし非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。
僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持っている。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿《あ》呆《ほう》の一生」の中にだいたいは尽くしているつもりである。ただ僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかった。なぜまた故意に書かなかったと言えば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にいるからである。僕はそこにある舞台のほかに背景や照明や登場人物の――たいていは僕の所《しよ》作《さ》を書こうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にいる僕自身に判然とわかるかどうかも疑わないわけにはゆかないであろう)――僕の第一に考えたことはどうすれば苦しまずに死ぬかということだった。縊《い》死《し》はもちろんこの目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死している姿を想像し、ぜいたくにも美的嫌《けん》悪《お》を感じた。(僕はある女《によ》人《にん》を愛した時も彼女の文字の下手《へた》だったために急に愛を失ったのを覚えている)溺《でき》死《し》もまた水泳のできる僕にはとうてい目的を達するはずはない。のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。轢《れき》死《し》も僕には何よりも先に美的嫌悪を与えずにはいなかった。ピストルやナイフを用うる死は僕の手の震えるために失敗する可能性を持っている。ビルディングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。僕はこれらの事情により、薬品を用いて死ぬことにした。薬品を用いて死ぬことは縊《い》死《し》することよりも苦しいであろう。しかし縊死することよりも美的嫌悪を与えないほかに蘇《そ》生《せい》する危険のない利益を持っている。ただこの薬品を求めることはもちろん僕には容易ではない。僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。同時にまた毒物学の知識を得ようとした。
それから僕の考えたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手《た》よらなければならぬ。僕の遺産は百坪《つぼ》の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺したために僕の家の売れないことを苦にした。したがって別荘の一つもあるブルジョアたちに羨《うらやま》しさを感じた。君はこういう僕の言葉にあるおかしさを感じるであろう。僕もまた今は僕自身の言葉にあるおかしさを感じている。が、このことを考えた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便はとうてい避けるわけにゆかない。僕はただ家族たちのほかにできるだけ死体を見られないように自殺したいと思っている。
しかし僕は手段を定めたのちも半《なか》ばは生に執着していた。したがって死に飛び入るためのスプリング・ボオドを必要とした。(僕は紅《こう》毛《もう》人《じん》たちの信ずるように自殺することを罪悪とは思っていない。仏《ぶつ》陀《だ》は現に阿《あ》含《ごん》経《きよう*》の中に彼の弟子の自殺を肯定している。曲《きよく》学《がく》阿《あ》世《せい》の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合のほかはなどと言うであろう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合というのはみすみすより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行なうのである。その前に敢《かん》然《ぜん》と自殺するものはむしろ勇気に富んでいなければならぬ)このスプリング・ボオドの役に立つものはなんと言っても女《によ》人《にん》である。クライスト《*》は彼の自殺する前にたびたび彼の友だちに(男の)途《みち》づれになることを勧誘した。またラシイヌもモリエエルやボアロオ《*》といっしょにセエヌ河に投身しようとしている。しかし僕は不幸にもこういう友だちを持っていない。ただ僕の知っている女人は僕といっしょに死のうとした。が、それは僕らのためにはできない相談になってしまった。そのうちに僕のスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰もいっしょに死ぬもののないことに絶望したために起こったためではない。むしろしだいに感傷的になった僕はたとい死別するにもしろ、僕の妻を劬《いたわ》りたいと思ったからである。同時にまた僕一人自殺することは二人いっしょに自殺するよりも容易であることを知ったからである。そこにはまた僕の自殺する時を自由に選ぶことのできるという便《べん》宜《ぎ》もあったのに違いない。
最後に僕の工《く》夫《ふう》したのは家族たちに気づかれないように巧みに自殺することである。これは数箇月準備したのち、とにかくある自信に到達した。(それらの細部に亙《わた》ることは僕に好意を持っている人々のために書くわけにはゆかない。もっともここに書いたにしろ、法律上の自殺幇《ほう》助《じよ》罪《ざい》このくらいこっけいな罪名はない。もしこの法律を適用すれば、どのくらい犯罪人の数を殖《ふ》やすことであろう。薬局や銃砲店や剃刀《かみそり》屋《や》はたとい「知らない」と言ったにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現われる限り、多少の嫌《けん》疑《ぎ》を受けなければならぬ。のみならず社会や法律はそれら自身自殺幇助罪を構成している。最後にこの犯罪人たちはたいていはいかにもの優しい心臓を持っていることであろう。を構成しないことは確かである)僕はひややかにこの準備を終わり、今はただ死と遊んでいる。この先の僕の心もちはたいていマインレンデルの言葉に近いであろう。
我々人間は人間獣であるために動物的に死を怖《おそ》れている。いわゆる生活力というものは実は動物力の異《い》名《みよう》に過ぎない。僕もまた人間獣の一匹である。しかし食《しよく》色《しよく》にも倦《あ》いたところを見ると、しだいに動物力を失っているであろう。僕の今住んでいるのは氷のように透《す》み渡った、病的な神経の世界である。僕はゆうべある売《ばい》笑《しよう》婦《ふ》といっしょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きるために生きている」我々人間の哀れさを感じた。もしみずから甘んじて永久の眠りにはいることができれば、我々自身のために幸福でないまでも平和であるには違いない。しかし僕のいつ敢然と自殺できるかは疑問である。ただ自然はこういう僕にはいつもよりもいっそう美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは僕の末《まつ》期《ご》の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、かつまた理解した、それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずにおいてくれたまえ。僕はあるいは病死のように自殺しないとも限らないのである。
附記。僕はエンペドクレス《*》の伝を読み、みずから神としたい欲望のいかに古いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである。いや、みずから大《だい》凡《ぼん》下《げ》の一人としているものである。君はあの菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》の下に「エトナ《*》のエンペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみずから神にしたい一人だった。
(昭和二年七月)
侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉
「侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉《*》」の序
「侏儒の言葉」は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。ただわたしの思想の変化を時々窺《うかが》わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓《つる》草《くさ》、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかもしれない。
星
太陽の下に新しきことなし《*》とは古人の道《どう》破《は》した言葉である。しかし新しいことのないのは独《ひと》り太陽の下ばかりではない。
天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我々の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群といえども、永久に輝いていることはできない。いつか一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死はどこへ行っても常に生を孕《はら》んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無《む》辺《へん》の天をさまよううちに、都合のいい機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすればまた新しい星は続々とそこに生まれるのである。
宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐《りん》火《か》に過ぎない。いわんや我々の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起こっていることも、実はこの泥《でい》団《だん*》の上に起こっていることと変わりはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そういうことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明《めい》滅《めつ》する星の光は我々と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。
真《ま》砂《さご》なす数なき星のその中に吾《われ》に向かひて光る星あり
しかし星も我々のように流《る》転《てん》を閲《けみ》するということは――とにかく退屈でないことはあるまい。
鼻
クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、世界の歴史はそのために一変していたかもしれないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人というものはめったに実《じつ》相《そう》を見るものではない。いや、我々の自己欺《ぎ》瞞《まん》は一たび恋愛に陥《おちい》ったが最後、最も完全に行なわれるのである。
アントニイもそういう例に洩《も》れず、クレオパトラの鼻が曲がっていたとすれば、つとめてそれを見まいとしたであろう。また見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探《さが》したであろう。何か他の長所と言えば、天下に我々の恋人ぐらい、無数の長所を具《そな》えた女性は一人もいないのに相違ない。アントニイもきっと我々同様、クレオパトラの眼《め》とか脣《くちびる》とかに、あり余る償《つぐな》いを見《み》出《いだ》したであろう。その上また例の「彼女の心」! 実際我々の愛する女性は古《こ》往《おう》今《こん》来《らい》飽《あ》き飽きするほど、すばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、あるいは彼女の財産とか、あるいはまた彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。さらにはなはだしい場合を挙《あ》げれば、以前ある名士に愛されたという事実ないし風評さえ、長所の一つに数えられるのである。しかもあのクレオパトラは豪《ごう》奢《しや》と神秘とに充《み》ち満ちたエジプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇《のぼ》る中に、冠の珠《しゆ》玉《ぎよく》でも光らせながら、蓮《はす》の花か何か弄《もてあそ》んでいれば、多少の鼻の曲がりなどは何《なん》人《ぴと》の眼にも触れなかったであろう。いわんやアントニイの眼をやである。
こういう我々の自己欺《ぎ》瞞《まん》はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、たいてい我々の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。たとえば歯科医の看板にしても、それが我々の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも看板のあることを欲する心、――ひいては我々の歯痛ではないか? もちろん我々の歯痛などは世界の歴史には没《ぼつ》交《こう》渉《しよう》であろう。しかしこういう自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、あるいはまた財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起こるのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否《いな》みはしない。同時にまた百般の人事を統べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れやすい。「偶然」はいわば神意である。すると我々の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かもしれない。
つまり二千余年の歴史は眇《びょう》たる一クレオパトラの鼻のいかんに依《よ》ったのではない。むしろ地上に遍《へん》満《まん》した我々の愚《ぐ》昧《まい》に依ったのである。晒《わら》うべき、――しかし壮厳な我々の愚昧に依ったのである。
修 身
道徳は便《べん》宜《ぎ》の異《い》名《みよう》である。「左側通行」と似たものである。
×
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻《ま》痺《ひ》である。
×
みだりに道徳に反するものは経済の念に乏《とぼ》しいものである。みだりに道徳に屈するものは臆《おく》病《びよう》ものか怠《なま》けものである。
×
我々を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我々はほとんど損害のほかに、何の恩恵にも浴していない。
×
強者は道徳を蹂《じゆう》躪《りん》するであろう。弱者はまた道徳に愛《あい》撫《ぶ》されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
×
道徳は常に古着である。
×
良心は我々の口《くち》髭《ひげ》のように年齢とともに生ずるものではない。我々は良心を得るためにも若干の訓練を要するのである。
×
一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
×
我々の悲劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、まだ良心を捉《とら》え得ぬ前に、破《は》廉《れん》恥《ち》漢《かん》の非難を受けることである。
我々の喜劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、破廉恥漢の非難を受けたのちに、やっと良心を捉えることである。
×
良心とは厳粛なる趣味である。
×
良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳はいまだかつて、良心の良の字も造ったことはない。
×
良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そういう愛好者は十中八、九、聡《そう》明《めい》なる貴族か富豪かである。
好《こう》 悪《お》
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説《*》を愛するものである。我々の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我々の好《こう》悪《お》である。あるいは我々の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我々は極《ごつ》寒《かん》の天にも、将《まさ》に溺《おぼ》れんとする幼児を見る時、進んで水に入《はい》るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依《よ》ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依《よ》らぬはずである。いや、この二つの快不快は全然相《あい》容《い》れぬものではない。むしろ鹹《かん》水《すい》と淡水とのように、一つに融《と》け合っているものである。現に精神的教養を受けない京《けい》阪《はん》辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜《すす》ったのち、鰻《うなぎ》を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? かつまた水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるがよい。あの呪《のろ》うべきマソヒズムはこういう肉体的快不快の外見上の倒《とう》錯《さく》に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、あるいは柱《ちゆう》頭《とう》の苦《く》行《ぎよう*》を喜び、あるいは火《か》裏《り》の殉教を愛した基督《キリスト》教の聖人たちはたいていマソヒズムに罹《かか》っていたらしい。
我々の行為を決するものは昔のギリシア人の言った通り、好悪のほかにないのである。我々は人生の泉から、最大の味を汲《く》み取らねばならぬ。「パリサイの徒のごとく、悲しき面もちをなすことなかれ」耶《ヤ》蘇《ソ》さえすでにそう言ったではないか。賢人とはひっきょう荊《けい》蕀《きよく》の路《みち》にも、薔《ば》薇《ら》の花を咲かせるもののことである。
侏《しゆ》儒《じゆ》の祈り
わたしはこの綵《さい》衣《い》を纏《まと》い、この筋《きん》斗《と*》の戯《ぎ》を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏《しゆ》儒《じゆ》でございます。どうかわたしの願いをおかなえくださいまし。
どうか一粒の米すらないほど、貧乏にしてくださいますな。どうかまた熊《ゆう》掌《しよう》にさえ飽《あ》き足りるほど、富裕にもしてくださいますな。
どうか採《さい》桑《そう》の農婦すら嫌《きら》うようにしてくださいますな。どうかまた後《こう》宮《きゆう》の麗人さえ愛するようにもしてくださいますな。
どうか菽《しゆく》麦《ばく*》すら弁ぜぬほど、愚《ぐ》昧《まい》にしてくださいますな。どうかまた雲《うん》気《き》さえ察するほど、聡《そう》明《めい》にもしてくださいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にしてくださいますな。わたしは現に時とすると、攀《よ》じ難い峰《みね》の頂を窮め、越え難い海の浪《なみ》を渡り――いわば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そういう夢を見ている時ほど、そら恐しいことはございません。わたしは竜と闘《たたか》うように、この夢と闘うのに苦しんでおります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起こさぬように力のないわたしをお守りくださいまし。
わたしはこの春酒に酔《え》い、この金《きん》縷《る》の歌を誦《じゆ》し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。
自由意志と宿命と
とにかく宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しないために懲《ちよう》罰《ばつ》という意味も失われるから、罪人に対する我々の態度は寛大になるのに相違ない。同時にまた自由意志を信ずれば責任の観念を生ずるために、良心の麻《ま》痺《ひ》を免れるから、我々自身に対する我々の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか。
わたしは恬《てん》然《ぜん》と答えたい。半《なか》ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。あるいは半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと言えば我々は我々に負わされた宿命により、我々の妻を娶《めと》ったではないか? 同時にまた我々は我々に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽《は》織《おり》や帯を買ってやらぬではないか?
自由意志と宿命とにかかわらず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯《きよう》懦《だ》、理性と信仰、――その他あらゆる天《てん》秤《びん》の両端にはこういう態度をとるべきである。古人はこの態度を中《ちゆう》庸《よう》と呼んだ。中庸とはイギリスの good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、いかなる幸福も得ることはできない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁したり、大寒に団扇《うちわ》を揮《ふる》ったりする痩《や》せ我慢の幸福ばかりである。
小 児
軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振りを喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのはいまさらここに言う必要はない。機械的訓練を貴《たっと》んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺《さつ》戮《りく》をなんとも思わぬなどはいっそう小児と選ぶところはない。ことに小児と似ているのは喇叭《らっぱ》や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣《きん》然《ぜん》と敵に当たることである。
このゆえに軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具《おもちゃ》に似ている。緋《ひ》縅《おどし》の鎧や鍬《くわ》形《がた》の兜《かぶと》は成人の趣味にかなったものではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?
武 器
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理《り》窟《くつ》をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」という名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、めったに判然したためしはない。
日本人の労働者は単に日本人と生まれたがゆえに、パナマから退去を命ぜられた《*》。これは正義に反している。アメリカは新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と言わなければならぬ。しかし支《し》那《な》人の労働者も単に支那人と生まれたがゆえに、千《せん》住《じゆ》から退去を命ぜられた。 これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。
武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技《ぎ》倆《りよう》である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽《せん》動《どう》家《か》の雄弁である。武《ぶ》后《こう*》は人天を顧みず、冷然と正義を蹂《じゆう》躪《りん》した。しかし李《り》敬《けい》業《ぎよう》の乱《*》に当たり、駱《らく》賓《ひん》王《おう》の檄《げき*》を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一《いつ》 杯《ぽうの》 土《ど》 未《いまだ》 乾《かわかず》 六《ろく》 尺《しやくの》 孤《こ》 安《いずくにか》 在《ある》」の双《そう》句《く》は天成のデマゴオグを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
わたしは歴史を翻《ひるが》えすたびに、遊就館《*》を想《おも》うことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青《せい》竜《りゆう》刀《とう》に似ているのは儒教の教える正義であろう。騎士の槍《やり》に似ているのは基督《キリスト》教の教える正義であろう。ここに太い棍《こん》棒《ぼう》がある。これは社会主義者の正義であろう。かしこに房《ふさ》のついた剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそういう武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心《しん》悸《き》の高まることがある。しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執《と》りたいと思った記憶はない。
尊 王
十七世紀のフランスの話である。ある日 Duc de Bourgogne《*》 が Abb? Choisy《*》にこんなことを尋ねた。シャルル六世《*》は気違いだった。その意味を婉《えん》曲《きよく》に伝えるためには、なんと言えば、よいのであろう? アべは言下に返答した。「わたしならばただこう申します。シャルル六世は気違いだったと」アべ・ショアズイはこの答えを一生の冒険の中に数え、のちのちまでも自慢にしていたそうである。
十七世紀のフランスはこういう逸《いつ》話《わ》の残っているほど、尊王の精神に富んでいたという。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでいることは当時のフランスに劣らなそうである。まことに、――欣《きん》幸《こう》の至りに堪えない。
創 作
芸術家はいつも意識的に彼の作品を作るのかもしれない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一《いつ》半《ぱん》は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? あるいは大半と言ってもよい。
我々は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我々の魂はおのずから作品に露《あらわ》るることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏《い》怖《ふ》を語ってはいないであろうか?
創作は常に冒険である。所《しよ》詮《せん》は人力を尽くしたのち、天命に委《まか》せるより仕方はない。
少 時 学 語 苦 難 円《しようじごをまなんでえんなりがたきをくるしむ》 唯 道 工 夫 未 全《ただいうくふうなかばいまだまつたからずと》
到 老 始 知 非 力 取《ろうにいたってはじめてしるりよくしゆにあらざるを》 三《さん》 分《ぶの》 人《じん》 事《じ》 七《しち》 分《ぶの》 天《てん》
鞘《ちよう》甌《おう》北《ほく*》の「論詩《*》」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄《すご》みを帯びているものである。我々も金を欲《ほ》しがらなければ、また名《みよう》聞《もん》を好まなければ、最後にほとんど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起こらなかったかもしれない。
鑑 賞
芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。いわば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。このゆえにいかなる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具《そな》えている。しかし種々の鑑賞を可能にするという意味はアナトオル・フランスの言うように、どこか曖《あい》昧《まい》にできているため、どういう解釈を加えるのもたやすいという意味ではあるまい。むしろ廬《ろ》山《ざん》の峰《みね》々《みね*》のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。
古 典
古典の作者の幸福なる所以《ゆえん》はとにかく彼らの死んでいることである。
又
我々の――あるいは諸君の幸福なる所以《ゆえん》もとにかく彼らの死んでいることである。
幻《げん》滅《めつ》した芸術家
ある一群の芸術家は幻《げん》滅《めつ》の世界に住している。彼らは愛を信じない。良心なるものをも信じない。ただ昔の苦《く》行《ぎよう》者《しや》のように無《む》何《か》有《う*》の砂《さ》漠《ばく》を家としている。その点はなるほど気の毒かもしれない。しかし美しい蜃《しん》気《き》楼《ろう》は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼らもたいてい芸術には幻滅していない。いや、芸術と言いさえすれば、常人の知らない金《こん》色《じき》の夢はたちまち空中に出現するのである。彼らも実は思いのほか、幸福な瞬間を持たぬわけではない。
告 白
完全に自己を告白することは何《なん》人《ぴと》にもできることではない。同時にまた自己を告白せずにはいかなる表現もできるものではない。
ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤《せき》裸《ら》々《ら》の彼自身は「懺《ざん》悔《げ》録《ろく》」の中にも発見できない。メリメは告白を嫌《きら》った人である。しかし「コロンバ」は隠《いん》約《やく》の間《かん》に彼自身を語ってはいないであろうか? 所《しよ》詮《せん》告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはっきりしていないのである。
人 生
――石黒定一《*》君に――
もし游《ゆう》泳《えい》を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何《なん》人《ぴと》も無理だと思うであろう。もしまたランニングを学ばないものに駈《か》けろと命ずるものがあれば、やはり理《り》不《ふ》尽《じん》だと思わざるを得まい。しかし我々は生まれた時から、こういう莫《ば》迦《か》げた命令を負わされているのも同じことである。
我々は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。もちろん遊《ゆう》泳《えい》を学ばないものは満足に泳げる理《り》窟《くつ》はない。同様にランニングを学ばないものはたいてい人《じん》後《ご》に落ちそうである。すると我々も創《そう》痍《い》を負わずに人生の競技場を出られるはずはない。
なるほど世人は言うかもしれない。「前人の跡を見るがよい。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺《なが》めたにしろ、たちまち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者はことごとく水を飲んでおり、そのまたランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見たまえ、世界の名選手さえたいていは得意の微笑のかげに渋《じゆう》面《めん》を隠しているではないか?
人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘《たたか》うことを学ばねばならぬ。こういうゲエムの莫《ば》迦《か》莫《ば》迦《か》しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒《らち》外《がい》に歩み去るがよい。自殺もまた確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止《とど》まりたいと思うものは創《そう》痍《い》を恐れずに闘わなければならぬ。
又
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫《ば》迦《か》莫《ば》迦《か》しい。重大に扱わなければ危険である。
又
人生は落《らく》丁《ちよう》の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。
地上楽園
地上楽園の光景はしばしば詩歌にもうたわれている。が、わたしはまだ残念ながら、そういう詩人の地上楽園に住みたいと思った覚えはない。基督《キリスト》教徒の地上楽園はひっきょう退屈なるパノラマである。黄《こう》老《ろう*》の学者の地上楽園もつまりは索《さく》漠《ばく》とした支《し》那《な》料理屋に過ぎない。いわんや近代のユウトピアなどは――ウイリアム・ジェエムス《*》の戦《せん》慄《りつ》したことは何《なん》びとの記憶にも残っているであろう。
わたしの夢みている地上楽園はそういう天然の温室ではない。同時にまたそういう学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。ただここに住んでいれば、両親は子供の成人とともに必ず息を引き取るのである。それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫《ば》迦《か》には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿すために従順そのものに変わるのである。それから子供は男女を問わず、両親の意志や感情通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とになることができるのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時にまた乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互いに相手を褒《ほ》め合うことに無上の満足を感ずるのである。それから――ざっとこういうところを思えばよい。
これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時にまた天下に充満した善男善女の地上楽園である。ただ古来の詩人や学者はその金《こん》色《じき》の瞑《めい》想《そう》のうちにこういう光景を夢みなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。こういう光景は夢みるにさえ、あまりに真実の幸福に溢《あふ》れすぎているからである。
附記 わたしの甥《おい》はレンブラントの肖像画を買うことを夢みている。しかし彼の小《こ》遣《づか》いを十円貰《もら》うことは夢みていない。これも十円の小遣いはあまりに真実の幸福に溢れすぎているからである。
暴 力
人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力よりほかにあるはずはない。このゆえに往々石器時代の脳《のう》髄《ずい》しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかしまた権力もひっきょうはパテントを得た暴力である。我々人間を支配するためにも、暴力は常に必要なのかもしれない。あるいはまた必要でないのかもしれない。
「人間らしさ」
わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、しばしば「人間らしさ」に軽《けい》蔑《べつ》を感ずることは事実である。しかしまた常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――あるいは愛よりも憐《れん》憫《びん》かもしれない。が、とにかく「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生はとうてい住するに堪えない精神病院に変わりそうである。Swift のついに発狂したのも当然の結果と言うほかはない。
スウィフト《*》は発狂する少し前に、梢《こずえ》だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟《つぶや》いたことがあるそうである。この逸《いつ》話《わ》は思い出すたびにいつも戦《せん》慄《りつ》を伝えずにはおかない。わたしはスウィフトほど頭のいい一代の鬼才に生まれなかったことをひそかに幸福に思っている。
椎《しい》の葉
完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。いかなる楽天主義者にもせよ、笑《え》顔《がお》に終始することのできるものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それはただいかに幸福に絶望するかということのみである。
「家にあれば笥《け》にもる飯《いひ》を草まくら旅にしあれば槲《しひ》の葉にもる《*》」とは行《こう》旅《りよ》の情をうたったばかりではない。我々は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取って見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。
椎の葉の椎の葉たるを歎《たん》ずるのは椎の葉の笥《け》たるを主張するよりも確かに尊敬に価《あたい》している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少なくとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦《う》まないのは滑《こつ》稽《けい》であるとともに不道徳である。実際また偉大なる厭《えん》世《せい》主義者は渋《じゆう》面《めん》ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディ《*》さえ、時には蒼《あお》ざめた薔《ば》薇《ら》の花に寂しい頬《ほほ》笑《え》みを浮かべている。……
追記 不道徳とは過度の異《い》名《みよう》である。
仏《ぶつ》 陀《だ》
悉達多《したあるた*》は王城を忍び出たのち六年の間苦《く》行《ぎよう》した《*》。六年の間苦行した所以《ゆえん》はもちろん王城の生活の豪《ごう》奢《しや》を極《きわ》めていた祟《たた》りであろう。その証《しよう》拠《こ》にナザレの大工の子は、四十日の断食しかしなかったようである。
又
悉達多《したあるた》は車《しや》匿《のく*》に馬《ば》轡《ひ》を執《と》らせ、ひそかに王城を後ろにした。が、彼の思《し》弁《べん》癖《へき》はしばしば彼をメランコリアに沈ましめたということである。すると王城を忍び出たのち、ほっと一息ついたものは実際将来の釈《しや》迦《か》無《む》二《に》仏《ぶつ》だったか、それとも彼の妻の耶《や》輪《す》陀《だ》羅《ら*》だったか、容易に断定はできないかもしれない。
又
悉達多《したあるた》は六年の苦行ののち、菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》下《か》に正《しよう》覚《がく》に達した。彼の成《じよう》道《どう》の伝説《*》はいかに物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまず水浴している。それから乳《にゆう》糜《び》を食している。最後に難《なん》陀《だ》婆《ば》羅《ら*》と伝えられる牧牛の少女と話している。
政治的天才
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。むしろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことをいうのである。少なくとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものをいうのである。このゆえに政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑《こつ》稽《けい》との差はわずかに一歩である」と言った。この言葉は帝王の言葉というよりも名優の言葉にふさわしそうである。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛《なげう》たないものである。ただ民衆を支配するためには大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし、また強《し》いて脱そうとすれば、いかなる政治的天才もたちまち非命に仆《たお》れるほかはない。つまり帝王も王冠のためにおのずから支配を受けているのである。このゆえに政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとえば昔仁《にん》和《な》寺《じ》の法師の鼎《かなえ》をかぶって舞ったという「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。
恋は死よりも強し
「恋は死よりも強し」というのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものはもちろん天下に恋ばかりではない。たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食ったために知れ切った往《おう》生《じよう》を遂《と》げたりするのは食《しよく》慾《よく》も死よりは強い証《しよう》拠《こ》である。食慾のほかにも数え挙《あ》げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものはたくさんあるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(もちろん死に対する情熱は例外である)。かつまた恋はそういうもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂《う》闊《かつ》に断言はできないらしい。一見、死よりも強い恋と見《み》做《な》されやすい場合さえ、実は我々を支配しているのはフランス人のいわゆるボヴァリズムである。我々自身を伝奇の中の恋人のように空想するボヴァリイ夫人以来の感傷主義である。
地 獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓《が》鬼《き》道《どう》の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、また存外楽々と食い得ることもあるのである。のみならず楽々と食い得たのちさえ、腸《ちよう》加《カ》太《タ》児《ル》の起こることもあると同時に、また存外楽々と消化し得ることもあるのである。こういう無法則の世界に順応するのは何《なん》びとにも容易にできるものではない。もし地獄に墜《お》ちたとすれば、わたしは必ずとっさの間に餓鬼道の飯も掠《かす》め得るであろう。いわんや針の山や血の池などは、二、三年そこに住み慣れさえすれば格別跋《ばつ》渉《しよう》の苦しみを感じないようになってしまうはずである。
醜 聞
公衆は醜聞を愛するものである。白《びやく》蓮《れん》事件《*》、有《あり》島《しま》事件《*》、武《む》者《しやの》小《こう》路《じ》事件《*》――公衆はいかにこれらの事件に無上の満足を見《み》出《いだ》したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――ことに世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモン《*》はこれに答えている。――「隠れたる自己の醜聞もあたりまえのように見せてくれるから」
グルモンの答えは中《あた》っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起こし得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼らの怯《きよう》懦《だ》を弁解する好個の武器を見出すのである。同時にまた実際には存しない彼らの優越を樹立する、好個の台《だい》石《いし》を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞《てい》淑《しゆく》である」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆はいかにこう言ったのち、豚《ぶた》のように幸福に熟睡したであろう。
又
天才の一面は明らかに醜聞を起こし得る才能である。
輿《よ》 論《ろん》
輿《よ》論《ろん》は常に私刑であり、私刑はまた常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。
又
輿論の存在に価《あたい》する理由はただ輿論を蹂《じゆう》躪《りん》する興味を与えることばかりである。
敵 意
敵意は寒気と選ぶところはない。適度に感ずる時は爽《そう》快《かい》であり、かつまた健康を保つ上には何《なん》びとにも絶対に必要である。
ユウトピア
完全なるユウトピアの生まれない所以《ゆえん》はだいたい下《しも》の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれるはずはない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものもたちまちまた不完全に感ぜられてしまう。
危険思想
危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。
悪
芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰《だれ》よりもおそいのを常としている。
二宮尊徳
わたしは小学校の読《とく》本《ほん》の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり《*》、夜は草鞋《わらじ》を造ったり、大人《おとな》のように働きながら、けなげにも独学をつづけていったらしい。これはあらゆる立《りつ》志《し》譚《だん》のように――と言うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与えやすい物語である。実際また十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。……
けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼らは尊徳の教育に寸《すん》毫《ごう》の便《べん》宜《ぎ》をも与えなかった。いや、むしろ与えたものは障《しよう》碍《がい》ばかりだったくらいである。これは両親たる責任上、明らかに恥《ち》辱《じよく》と言わなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでもあるいはまた博奕《ばくち》打ちでもよい。問題はただ尊徳である。どういう艱《かん》難《なん》辛《しん》苦《く》をしても独学を廃さなかった尊徳である。我々少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。
わたしは彼らの利己主義に驚嘆に近いものを感じている。なるほど彼らには尊徳のように下男も兼ねる少年は都合のいい息子《むすこ》に違いない。のみならず後年声《せい》誉《よ》を博し、大いに父母の名を顕《あらわ》したりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。ちょうど鎖に繋《つなが》れた奴隷のもっと太い鎖を欲《ほ》しがるように。
奴 隷
奴隷廃止ということはただ奴隷たる自意識を廃止するということである。我々の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオン《*》の共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。
又
暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはりはなはだ危険である。
悲 劇
悲劇とはみずから羞《は》ずる所業をあえてしなければならぬことである。このゆえに万人に共通する悲劇は排《はい》泄《せつ》作用を行なうことである。
強 弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことにはなんの痛《つう》痒《よう》も感じない代りに、知らず識らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。このゆえにまた至る処《ところ》に架空の敵ばかり発見するものである。
S・M《*》の智《ち》慧《え》
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
弁証法の功績。――所《しよ》詮《せん》何ものも莫《ば》迦《か》げているという結論に到達せしめたこと。
少女。――どこまで行っても清《せい》冽《れつ》な浅瀬。
早教育。――ふむ、それもけっこうだ。まだ幼稚園にいるうちに智《ち》慧《え》の悲しみを知ることには責任を持つことにも当たらないからね。
追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。
女。――メリイ・ストオプス夫人《*》によれば女は少なくとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節にできているものらしい。
年少時代。――年少時代の憂《ゆう》鬱《うつ》は全宇宙に対する驕《きよう》慢《まん》である。
艱《かん》難《なん》汝《なんじ》を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男はとうてい玉になれないはずである。
我らいかに生くべきか。――未知の世界を少し残しておくこと。
社 交
あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸《すん》毫《ごう》の虚偽をも加えず、我々の友人知己に対する我々の本心を吐《と》露《ろ》するとすれば、古《いにしえ》の管《かん》鮑《ぼう》の交わり《*》といえども破《は》綻《たん》を生ぜずにはいなかったであろう。管鮑の交わりはしばらく問わず、我々は皆多少にもせよ、我々の親密なる友人知己を憎《ぞう》悪《お》しあるいは軽《けい》蔑《べつ》している。が、憎悪も利害の前には鋭《えい》鋒《ぼう》を納めるのに相違ない。かつまた軽蔑は多々ますます恬《てん》然《ぜん》と虚偽を吐《は》かせるものである。このゆえに我々の友人知己と最も親密に交わるためには、互いに利害と軽蔑とを最も完全に具《そな》えなければならぬ。これはもちろん何《なん》びとにもはなはだ困難なる条件である。さもなければ我々はとうの昔に礼《れい》譲《じよう》に富んだ紳士になり、世界もまたとうの昔に黄金時代の平和を現出したであろう。
瑣《さ》 事《じ》
人生を幸福にするためには、日常の瑣《さ》事《じ》を愛さなければならぬ。雲の光、竹の戦《そよ》ぎ、群《むら》雀《すずめ》の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事のうちに無上の甘《かん》露《ろ》味《み》を感じなければならぬ。
人生を幸福にするためには? しかし瑣事を愛するものは瑣事のために苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙《かわず》は百年の愁《うれ》いを破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁いを与えたかもしれない。いや、芭《ば》蕉《しよう》の一生は享楽の一生であるとともに、誰《だれ》の目にも受苦の一生である。我々も微妙に楽しむためには、やはりまた微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にするためには、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事のうちに堕《だ》地《じ》獄《ごく》の苦痛を感じなければならぬ。
神
あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺のできないことである。
又
我々は神を罵《ば》殺《さつ》する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価《あたい》するほど、全能の神を信じていない。
民 衆
民衆は穏《おん》健《けん》なる保守主義者である、制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛されるためには、前時代の古色を帯びなければならぬ。いわゆる民衆芸術家の民衆のために愛されないのは必ずしも彼らの罪ばかりではない。
又
民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我々自身もまた民衆であることを発見するのはともかくも誇るに足ることである。
又
古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。ちょうどまたこの上にも愚にすることのできるように。――あるいはまたどうかすれば賢にでもすることのできるように。
チェホフの言葉
チェホフはその手記の中に男女の差別を論じている。――「女は年をとるとともに、ますます女のことに従うものであり、男は年をとるとともに、ますます女のことから離れるものである」
しかしこのチェホフの言葉は男女とも年をとるとともに、おのずから異性との交渉に立ち入らないというのも同じことである。これは三歳の童児といえどもとうに知っていることといわなければならぬ。のみならず男女の差別よりもむしろ男女の無差別を示しているものと言わねばならぬ。
服 装
少なくとも女《によ》人《にん》の服装は女人自身の一部である。啓《けい》吉《きち》の誘惑に陥《おちい》らなかったのはもちろん道念にも依《よ》ったのであろう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借り着をしている。もし借り着をしていなかったとすれば、啓吉もさほど楽々とは誘惑の外には出られなかったかもしれない。
註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。
処女崇《すう》拝《はい》
我々は処女を妻とするためにどのくらい妻の選択に滑《こつ》稽《けい》なる失敗を重ねてきたか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けてもいい時分である。
又
処女崇拝は処女たる事実を知ったのちに始まるものである。すなわち率直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。このゆえに処女崇拝者は恋愛上の衒《げん》学《がく》者《しや》と言わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのもあるいは偶然ではないかもしれない。
又
もちろん処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものはおそらく女《によ》人《にん》の俳優的才能をあまりに軽々に見ているものであろう。
礼 法
ある女学生はわたしの友人にこういうことを尋ねたそうである。
「いったい接《せつ》吻《ぷん》をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生とともにはなはだ遺《い》憾《かん》に思っている。
貝原益軒《*》
わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸《いつ》事《じ》を学んだ。益軒はかつて乗合船の中に一人の書生といっしょになった。書生は才力に誇っていたとみえ、滔《とう》々《とう》と古《こ》今《こん》の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。そのうちに船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生ははじめて益軒を知り、この一代の大《たい》儒《じゆ》の前に忸《じく》怩《じ》として先刻の無礼を謝した。――こういう逸事を学んだのである。
当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少なくとも発見するために努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸《すん》毫《ごう》の教訓さえ発見できない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるはわずかに下《しも》のように考えるからである。――
一 無言に終始した益軒の侮《ぶ》蔑《べつ》はいかに辛《しん》辣《らつ》を極《きわ》めていたか!
二 書生の恥じるのを欣《よろこ》んだ同船の客の喝《かつ》采《さい》はいかに俗悪を極めていたか!
三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にもいかに溌《はつ》剌《らつ》と鼓動していたか!
ある弁護
ある新時代の評論家は「蝟《い》集《しゆう》する」という意味に「門前雀《じやく》羅《ら》を張る《*》」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支《し》那《な》人《じん》の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏《とう》襲《しゆう》しなければならぬという法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬《ほほ》笑《え》みは門前雀羅を張るようだった」と形容してもよいはずである。
もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸《かか》っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich-Roman という意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定《き》まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲《えつ》歴《れき》談《だん》と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これはもちろんドイツ人の――あるいは全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかもしれない。
するとある評論家は特に学識に乏《とぼ》しかったのではない。ただいささか時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶《や》揄《ゆ》を受けたのは、――とにかくあらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。
制 限
天才もそれぞれ乗り越え難いある制限に拘《こう》束《そく》されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にかかえって親しみを与えるものである。ちょうど竹は竹であり、蔦《つた》は蔦であることを知ったように。
火 星
火星の住民の有無を問うことは我々の五感に感ずることのできる住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我々の五感に感ずることのできる条件を具《そな》えるとは限っていない。もし火星の住民も我々の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼らの一群は今夜もまた篠《すず》懸《かけ》を黄ばませる秋風とともに銀座へ来ているかもしれないのである。
Blanqui《*》 の夢
宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。これらの元素の結合はいかに多数を極《きわ》めたとしても、ひっきょう有限を脱することはできない。するとこれらの元素から無限大の宇宙を造るためには、あらゆる結合を試みるほかにも、そのまたあらゆる結合を無限に反覆してゆかなければならぬ。してみれば我々の棲《せい》息《そく》する地球も、――これらの結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在しているはずである。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦い《*》に大勝を博した。が、茫《ぼう》々《ぼう》たる大虚に浮かんだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦いに大敗を蒙《こうむ》っているかもしれない。
これは六十七歳のブランキ《*》の夢みた宇宙観である。議論の是《ぜ》非《ひ》は問うところではない。ただブランキは牢《ろう》獄《ごく》の中にこういう夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我々の心の底へ滲《し》み渡る寂しさを蓄《たくわ》えている。夢はすでに地上から去った。我々も慰《なぐさ》めを求めるためには何万億哩《マイル》の天上へ、――宇宙の夜に懸《かか》った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。
庸《よう》 才《さい》
庸《よう》才《さい》の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利《き》かない。
機《き》 智《ち》
機《き》智《ち》とは三段論法を欠いた思想であり、彼らのいわゆる「思想」とは思想を欠いた三段論法である。
又
機《き》智《ち》に対する嫌《けん》悪《お》の念は人類の疲労に根ざしている。
政治家
政治家の我々素人《しろうと》よりも政治上の知識を誇り得るのは紛《ふん》々《ふん》たる事実の知識だけである。ひっきょう某《ぼう》党《とう》の某首領はどういう帽子をかぶっているかというのと大差のない知識ばかりである。
又
いわゆる「床《とこ》屋《や》政治家」とはこういう知識のない政治家である。もしそれ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。かつまた利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高《こう》尚《しよう》である。
事 実
しかし紛《ふん》々《ふん》たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼らの最も知りたいのは愛とは何かということではない。クリストは私生児かどうかということである。
武《む》者《しや》修《しゆ》行《ぎよう》
わたしは従来武《む》者《しや》修《しゆ》行《ぎよう》とは四万の剣客と手合せをし、武技を磨《みが》くものだと思っていた。が、今になってみると、実は己《おのれ》ほど強いもののあまり天下にいないことを発見するためにするものだった――宮《みや》本《もと》武《む》蔵《さし》伝読後。
ユウゴオ
全フランスを蔽《おお》う一片のパン。しかもバタはどう考えても、あまりたっぷりはついていない。
ドストエフスキイ
ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に充《み》ち満ちている。もっともそのまた戯画の大半は悪魔をも憂《ゆう》鬱《うつ》にするに違いない。
フロオベル
フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあるということである。
モオパスサン
モオパスサンは氷に似ている。もっとも時には氷砂糖にも似ている。
ポ オ
ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後《こう》代《だい》を震《しん》駭《がい》した秘密はこの研究に潜《ひそ》んでいる。
ある資本家の論理
芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹《かに》の缶《かん》詰《づ》めを売るのも、格別変わりのあるはずはない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああいう芸術家の顰《ひそ》みに傚《なら》えば、わたしもまた一缶六十銭の蟹の缶詰めを自慢しなければならぬ。不《ふ》肖《しよう》行《ぎよう》年《ねん》六十一、まだ一度も芸術家のようにばかばかしい己《うぬ》惚《ぼ》れを起こしたことはない。
批評学
――佐佐木茂索君に――
ある天気のいい午前である。博士に化けた Mephistopheles はある大学の講壇に批評学の講義をしていた。もっともこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。ただいかに小説や戯曲の批評をするかという学問である。「諸君、先週わたしの申し上げたところはご理解になったかと思いますから、今日はさらに一歩進んだ『半《はん》肯《こう》定《てい》論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、ある作品の芸術的価値を半《なか》ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『よりよい半ば』を肯定することはすこぶるこの論法には危険であります。
「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いてごらんなさい。桜の花の『よりよい半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『よりよい半ば』よりも『より悪い半ば』――すなわち桜の花の匂《にお》いを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正《まさ》にある。が、ひっきょうそれだけだ』と断案を下してしまうのであります。もしまた万一『より悪い半ば』の代りに『よりよい半ば』を肯定したとすれば、どういう破《は》綻《たん》を生じますか?
『色や形は正に美しい。が、ひっきょうそれだけだ』――これでは少しも桜の花を貶《けな》したことにはなりません。
「もちろん批評学の問題はいかにある小説や戯曲を貶すかということに関しています。しかしこれはいまさらのように申し上げる必要はありますまい。
「ではこの『よりよい半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こういう問題を解決するためには、これもたびたび申し上げた価値論へ溯《さかのぼ》らなければなりません。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にあるわけではない、作品を鑑賞する我々の心の中にあるものであります。すると『よりよい半ば』や『より悪い半ば』は我々の心を標準に、――あるいは一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。
「たとえば今日の民衆は日本ふうの草花を愛しません。すなわち日本ふうの草花は悪いものであります。また今日の民衆はブラジル珈《コオ》琲《ヒイ》を愛しています。すなわちブラジル珈琲はよいものに違いありません。ある作品の芸術的価値の『よりよい半ば』や『より悪い半ば』も当然こういう例のように区別しなければなりません。
「この標準を用いずに、美とか真とか善とかいう他の標準を求めるのは最も滑《こつ》稽《けい》な時代錯《さく》誤《ご》であります。諸君は赤らんだ麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》のように旧時代を捨てなければなりません。善悪は好《こう》悪《お》を超越しない、好悪はすなわち善悪である。愛《あい》憎《ぞう》はすなわち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、いやしくも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。
「さて『半肯定論法』とはだいたい上《かみ》の通りでありますが、最後にご注意を促《うなが》したいのは『それだけだ』という言葉であります。この『それだけだ』という言葉は是《ぜ》非《ひ》使わなければなりません。第一『それだけ』と言う以上、『それ』すなわち『より悪い半ば』を肯定していることは確かであります。しかしまた第二に『それ』以外のものを否定していることも確かであります。すなわち『それだけだ』という言葉はすこぶる一《いち》揚《よう》一《いち》抑《よく》の趣に富んでいると申さなければなりません。が、さらに微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さえ、隠《いん》約《やく》の間に否定しています。もちろん否定していると言っても、なぜ否定するかということは説明も何もしていません。ただ言外に否定している、――これはこの『それだけだ』という言葉の最も著しい特色であります。顕《けん》にして晦《かい》、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂《いい》でありましょう。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』あるいは『木に縁《よ》って魚を求むる《*》論法』よりも信用を博しやすいかと思います。『全否定論法』あるいは『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念のためにざっと繰り返すと、ある作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえばある悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂《ゆう》鬱《うつ》等の非難を加えることと思えばよろしい。またこの非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵《ののし》ってもかまいません、一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのはのちに挙《あ》げた場合を指《さ》したのであります。『全否定論法』あるいは『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極《きわ》めている代りに、時には偏《へん》頗《ぱ》の疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』はとにかくある作品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るのであります。
「ついては演習の題目に佐佐木茂《も》索《さく》氏の新著『春の外《がい》套《とう》』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来てください。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加えることは少なくとも当分の間は見合わせなければなりません。佐佐木氏はとにかく声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』ぐらいを加えるのに限ると思います。……」
× × ×
一週間たったのち、最高点を採った答案は下《しも》に掲げる通りである。
「正《まさ》に器用には書いている。が、ひっきょうそれだけだ」
親 子
親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。なるほど牛馬は親のために養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習を弁護するのは確かに親の我《わが》儘《まま》である。もし自然の名のもとにいかなる旧習も弁護できるならば、まず我々は未開人種の掠《りやく》奪《だつ》結婚を弁護しなければならぬ。
又
子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少なくとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。
又
人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。
又
古来いかに大勢の親はこういう言葉を繰り返したであろう。――「わたしはひっきょう失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ」
可 能
我々はしたいことのできるものではない。ただできることをするものである。これは我々個人ばかりではない。我々の社会も同じことである。おそらくは神も希望通りにこの世界を造ることはできなかったであろう。
ムアアの言葉
ジョオジ・ムアア《*》は「我死せる自己の備《び》忘《ぼう》録《ろく》」の中にこういう言葉を挟《はさ》んでいる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ているものである。また決して同じ所に二度と名前を入れぬものである」
「もちろん決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」はいかなる画家にも不可能である。しかしこれは咎《とが》めずともよい。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている」という言葉である。東洋の画家にはいまだかつて落《らつ》款《かん》の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳《ちん》套《とう》語《ご》である。それを特筆するムアアを思うと、そぞろに東西の差を感ぜざるを得ない。
大 作
大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手《て》間《ま》賃《ちん》の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりもはるかに六十何歳かのレンブラントの自画像を愛している。
わたしの愛する作品
わたしの愛する作品は、――文芸上の作品はひっきょう作家の人間を感ずることのできる作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具《そな》えた人間を。しかし不幸にもたいていの作家はどれか一つを欠いた片輪である。(もっとも時には偉大なる片輪に敬服することもないわけではない)
「虹《こう》霓《げい》関《かん》」を見て
男の女を猟《りよう》するのではない。女の男を猟するのである。――ショウ《*》は「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必ずしもショウにはじまるのではない。わたくしは梅《メイ》蘭《ラン》芳《フアン*》の「虹《こう》霓《げい》関《かん》」を見、支《し》那《な》にもすでにこの事実に注目した戯曲家のあるのを知った。のみならず「戯考《*》」は「虹霓関」のほかにも、女の男を捉《とら》えるのに孫《そん》呉《ご*》の兵機と剣《けん》戟《げき》とを用いた幾多の物語を伝えている。
「董《とう》家《か》山《ざん*》」の女《じよ》主人公金《きん》蓮《れん》、「轅《えん》門《もん》斬《ざん》子《し》」の女主人公桂《けい》英《えい》、「双《そう》鎖《さ》山《ざん》」の女主人公金《きん》定《てい》らはことごとくこういう女傑である。さらに「馬《ば》上《じよう》縁《えん》」の女主人公梨《り》花《か》を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上に俘《とりこ》にするばかりではない。彼の妻にすまぬというのを無理に結婚してしまうのである。胡《こ》適《てき*》氏はわたしにこう言った。「わたしは『四《し》進《しん》士《し*》』を除きさえすれば全京《けい》劇《げき》の価値を否定したい。」しかしこれらの京劇は少なくともはなはだ哲学的である。哲学者胡《こ》氏はこの価値の前に多少氏の雷《らい》霆《てい》の怒りを和らげるわけにはゆかないであろうか?
経 験
経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時にまた経験をいたずらにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力ばかりにたよるものである。
アキレス
ギリシアの英雄アキレスは踵《かかと》だけ不死身ではなかったそうである。――すなわちアキレスを知るためにはアキレスの踵を知らなければならぬ。
芸術家の幸福
最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。国木田独歩もそれを思えば、必ずしも不幸な芸術家ではない。
好人物
女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。
又
好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのによい。第二に不平を訴えるのによい。第三に――いてもいないでもよい。
罪
「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必ずしも行なうに難いことではない。たいていの子はたいていの親にちゃんとこの格言を実行している。
桃《とう》 李《り》
「桃《とう》李《り》言わざれども、下《しも》自《おのずか》ら蹊《けい》を成す」とは確かに知者の言である。もっとも「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば」である。
偉 大
民衆は人格や事業の偉大に籠《ろう》絡《らく》されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。
広 告
「侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉」十二月号の「佐佐木茂《も》索《さく》君の為《ため》に」は佐佐木君を貶《けな》したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲《あざけ》ったものであります。こういうことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽《けい》蔑《べつ》することになるのかもしれません。しかし実際ある批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。かつまたこの批評家の亜《あ》流《りゆう》も少なくないように聞き及びました。そのために一言広告します。もっともこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見〓《とん》君の煽《せん》動《どう》によった結果であります。どうかこの広告に憤《いきどお》る読者は里見君に非難を加えてください。「侏儒の言葉」の作者。
追加広告
前掲の広告中、「里見君に非難を加えてください」と言ったのはもちろんわたしの常《じよう》談《だん》であります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしはある批評家の代表する一団の天才に敬服したあまり、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上。
再追加広告
前掲の追加広告中、「ある批評家の代表する一団の天才に敬服した」というのはもちろん反語というものであります。同上。
芸 術
画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千《せん》古《こ》無《む》窮《きゆう》とは王《おう》世《せい》貞《てい*》の言うところである。しかし敦《とん》煌《こう》の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲《けみ》したのちにも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることのできるものではない。我々の祖先は「神」という言葉に衣《い》冠《かん》束《そく》帯《たい》の人物を髣《ほう》髴《ふつ》していた。しかし我々は同じ言葉に髯《ひげ》の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起こり得るものと思わなければならぬ。
又
わたしはいつか東《とう》洲《しゆう》斎《さい》写《しや》楽《らく》の似《に》顔《がお》画《え》を見たことを覚えている、その画中の人物は緑いろの光《こう》琳《りん》波《は》を描《か》いた扇《せん》面《めん》を胸に開いていた。それは全体の色彩の効果を強めているのに違いなかった。が廓《かく》大《だい》鏡《きよう》に覗《のぞ》いて見ると、緑いろをしているのは緑《ろく》青《しよう》を生じた金いろだった。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の捉《とら》えた美しさと異なっていたのも事実である。こういう変化は文章の上にもやはり起こるものと思わなければならぬ。
又
芸術も女と同じことである。最も美しく見えるためには一時代の精神的雰《ふん》囲《い》気《き》あるいは流行に包まれなければならぬ。
又
のみならず芸術は空間的にもやはり軛《くびき》を負わされている。一国民の芸術を愛するためには一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺《*》に浪《ろう》士《し》の襲撃を受けたイギリスの特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコック《*》は我々日本人の音楽にも騒音を感ずるばかりだった。彼の「日本における三年間」はこういう一節を含んでいる。――「我々は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い鶯《うぐいす》の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教えたと言うことである。それはもしほんとうとすれば、驚くべきことに違いない。元来日本人は音楽と言うものをみずから教えることも知らないのであるから」(第二巻第二十九章)
天 才
天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半《なか》ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
又
天才とはわずかに我々と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代はまたこの千里の一歩であることに盲目である。同時代はそのために天才を殺した。後代はまたそのために天才の前に香を焚《た》いている。
又
民衆も天才を認めることに吝《やぶさ》かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常にすこぶる滑《こつ》稽《けい》である。
又
天才の悲劇は「小ぢんまりした、居《い》心《ごころ》のいい名声」を与えられることである。
又
耶《ヤ》蘇《ソ》「我笛吹けども、汝《なんじ》ら踊《おど》らず」
彼ら「我ら踊れども、汝足《た》らわず」
〓《うそ》
我々はいかなる場合にも、我々の利益を擁《よう》護《ご》せぬものに「清き一票」を投ずるはずはない。この「我々の利益」の代りに「天下の利益」を置き換えるのは全共和制度の〓《うそ》である。この〓だけはソヴィエットの治下にも消《しよう》滅《めつ》せぬものと思わなければならぬ。
又
一体になった二つの観念を採《と》り、その接触点を吟味すれば、諸君はいかに多数の〓《うそ》に養われているかを発見するであろう。あらゆる成語はこのゆえに常に一つの問題である。
又
我々の社会に合理的外観を与えるものは実はその不合理の――そのあまりにはなはだしい不合理のためではないであろうか?
レニン
わたしの最も驚いたのはレニンのあまりにあたりまえの英雄だったことである。
賭《と》 博《ばく》
偶然すなわち神と闘《たたか》うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭《と》博《ばく》者《しや》もまたこの例に洩《も》れない。
又
古来賭《と》博《ばく》に熱中した厭《えん》世《せい》主義者のないことはいかに賭博の人生に酷《こく》似《じ》しているかを示すものである。
又
法律の賭《と》博《ばく》を禁ずるのは賭博による富の分配法そのものを非とするためではない。実はただその経済的ディレッタンティズムを非とするためである。
懐疑主義
懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬという信念の上に立つものである。なるほどそれは矛盾かもしれない。しかし懐疑主義は同時にまた少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。
正 直
もし正直になるとすれば、我々はたちまち何《なん》びとも正直になられぬことを見《み》出《いだ》すであろう。このゆえに我々は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。
虚 偽
わたしはある〓《うそ》つきを知っていた。彼女は誰《だれ》よりも幸福だった。が、あまりに〓の巧みだったためにほんとうのことを話している時さえ〓をついているとしか思われなかった。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違いなかった。
又
わたしもまたあらゆる芸術家のようにむしろ〓《うそ》には巧みだった。が、いつも彼女には一《いつ》籌《ちゆう》を輸《ゆ》するほかはなかった。彼女は実に去年の〓をも五分前の〓のように覚えていた。
又
わたしは不幸にも知っている。時には〓《うそ》に依《よ》るほかは語られぬ真実もあることを。
諸 君
諸君は青年の芸術のために堕《だ》落《らく》することを恐れている。しかしまず安心したまえ。諸君ほどは容易に堕落しない。
又
諸君は芸術の国民を毒することを恐れている。しかしまず安心したまえ。少なくとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。
忍 従
忍従はロマンティックな卑屈である。
企 図
成すことは必ずしも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少なくとも成すに足ることを欲するのは。
又
彼らの大小を知らんとするものは彼らの成したことに依《よ》り、彼らの成さんとしたことを見なければならぬ。
兵 卒
理想的兵卒はいやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に批判を加えぬことである。すなわち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。
又
理想的兵卒はいやしくも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。すなわち理想的兵卒はまず無責任を好まなければならぬ。
軍事教育
軍事教育というものはひっきょうただ軍事用語の知識を与えるばかりである。その他の知識や訓練は何も特に軍事教育を待ったのちに得られるものではない。現に海陸軍の学校さえ、機械学、物理学、応用化学、語学等はもちろん、剣道、柔道、水泳等にもそれぞれ専門家を傭《やと》っているではないか? しかもさらに考えてみれば、軍事用語も学術用語と違い、大部分は通俗的用語である。すると軍事教育というものは事実上ないものと言わなければならぬ。事実上ないものの利害得失はもちろん問題にはならぬはずである。
勤《きん》倹《けん》尚《しよう》武《ぶ》
「勤《きん》倹《けん》尚《しよう》武《ぶ》」という成語くらい、無意味を極《きわ》めているものはない。尚武は国際的奢《しや》侈《し》である。現に列強は軍備のために大金を費やしているではないか? もし「勤倹尚武」ということも痴人の談でないとすれば、「勤倹遊《ゆう》蕩《とう》」ということもやはり適用すると言わなければならぬ。
日本人
我々日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿《さる》田《た》彦《ひこの》命《みこと》もコスメ・ティックをつけていたと思うのと同じことである。もうそろそろありのままの歴史的事実に徹してみようではないか?
倭《わ》 寇《こう》
倭《わ》寇《こう》は我々日本人も優に列強に伍《ご》するに足る能力のあることを示したものである。我々は盗賊、殺《さつ》戮《りく》、姦《かん》淫《いん》等においても、決して「黄金の島」を探《さが》しに来たスペイン人、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人等に劣らなかった。
つれづれ草
わたしはたびたびこう言われている。――「つれづれ草などはさだめしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などはいまだかつて愛読したことはない。正直なところを白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしにはほとんど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。
徴 候
恋愛の徴候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、あるいはどういう男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠《ばく》然《ぜん》とした嫉妬を感ずることである。
又
また恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に鋭敏になることである。
恋愛と死と
恋愛の死を想《おも》わせるのは進化論的根拠を持っているのかもしれない。蜘《く》蛛《も》や蜂《はち》は交尾を終わると、たちまち雄は雌のために刺し殺されてしまうのである。わたしはイタリイの旅役者の歌劇「カルメン」を演ずるのを見た時、どうもカルメンの一挙一動に蜂を感じてならなかった。
身代り
我々は彼女を愛するために往々彼女のほかの女《によ》人《にん》を彼女の身代りにするものである。こういう羽《は》目《め》に陥《おちい》るのは必ずしも彼女の我々を却《しりぞ》けた場合に限るわけではない。我々は時には怯《きよう》儒《だ》のために、時にはまた美的要求のためにこの残酷な慰安の相手に一人の女人を使いかねぬのである。
結 婚
結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。
又
彼は二十代に結婚したのち、一度も恋愛関係に陥らなかった。なんという俗悪さ加減!
多 忙
我々を恋愛から救うものは理性よりもむしろ多忙である。恋愛もまた完全に行なわれるためには何よりも時間を持たなければならぬ。ウェルテル、ロミオ、トリスタン――古来の恋人を考えてみても、彼らは皆閑《かん》人《じん》ばかりである。
男 子
男子は由来恋愛よりも仕事を尊重するものである。もしこの事実を疑うならば、バルザックの手紙を読んでみるがよい。バルザックはハンスカ伯爵夫人《*》に「この手紙も原稿料に換算すれば、何フランを越えている」と書いている。
行 儀
昔わたしの家に出入りした男まさりの女髪《かみ》結《ゆ》いは娘を一人持っていた。わたしはいまだに蒼《あお》白《じろ》い顔をした十二、三の娘を覚えている。女髪結いはこの娘に行儀を教えるのにやかましかった。ことに枕《まくら》をはずすことにはそのつど折《せつ》檻《かん》を加えていたらしい。が、近ごろふと聞いた話によれば、娘はもう震災前に芸者になったとかいうことである。わたしはこの話を聞いた時、ちょっともの哀れに感じたものの、微笑しないわけにはゆかなかった。彼女はさだめし芸者になっても、厳格な母親の躾《しつけ》通り、枕だけははずすまいと思っているであろう。……
自 由
誰《だれ》も自由を求めぬものはない。が、それは外見だけである。実は誰も肚《はら》の底では少しも自由を求めていない。その証《しよう》拠《こ》には人命を奪うことに少しも躊《ちゆう》躇《ちよ》しない無《ぶ》頼《らい》漢《かん》さえ、金《きん》甌《おう》無《む》欠《けつ*》の国家のために某《ぼう》々《ぼう》を殺したと言っているではないか? しかし自由とは我々の行為になんの拘《こう》束《そく》もないことであり、すなわち神だの道徳だのあるいはまた社会的習慣だのと連帯責任を負うことを潔《いさぎよ》しとしないものである。
又
自由は山《さん》巓《てん》の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることはできない。
又
まことに自由を眺《なが》めることは直ちに神々の顔を見ることである。
又
自由主義、自由恋愛、自由貿易、――どの「自由」もあいにく杯の中に多量の水を混じている。しかもたいていはたまり水を。
言行一致
言行一致の美名を得るためにはまず自己弁護に長じなければならぬ。
方 便
一人を欺《あざむ》かぬ聖賢はあっても、天下を欺かぬ聖賢はない。仏家のいわゆる善巧方便とはひっきょう精神上のマキァヴェリズム《*》である。
芸術至上主義
古来熱烈なる芸術至上主義者はたいてい芸術上の去《きよ》勢《せい》者《しや》である。ちょうど熱烈なる国家主義者はたいてい亡国の民であるように――我々は誰《だれ》でも我々自身の持っているものを欲《ほ》しがるものではない。
唯《ゆい》物《ぶつ》史《し》観《かん》
もしいかなる小説家もマルクスの唯《ゆい》物《ぶつ》史《し》観《かん》に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様にまたいかなる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻《かい》転《てん》し」と言うのは必ずしも常に優美ではあるまい。
支《し》 那《な》
蛍《ほたる》の幼虫は蝸牛《かたつむり》を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新しい肉を食うために蝸牛を麻《ま》痺《ひ》させてしまうだけである。わが日本帝国をはじめ、列強の支《し》那《な》に対する態度はひっきょうこの蝸牛に対する蛍《ほたる》の態度と選ぶところはない。
又
今日の支《し》那《な》の最大の悲劇は無数の国家的羅曼《ロマン》主義者すなわち「若き支那」のために鉄のごとき訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。
小 説
本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。おそらくは人生におけるよりも偶然性の少ない小説である。
文 章
文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。
又
彼らは皆樗《ちよ》牛《ぎゆう》のように「文は人なり」と称している。が、いずれも内心では「人は文なり」と思っているらしい。
女の顔
女は情熱に駆《か》られると、不思議にも少女らしい顔をするものである。もっともその情熱なるものはパラソルに対する情熱でも差《さし》支《つか》えない。
世間智
消火は放火ほど容易ではない。こういう世間智の代表的所有者は確かに「ベル・アミ」の主人公であろう。彼は恋人をつくる時にもちゃんともう絶縁することを考えている。
又
単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患《わずら》わずともよい。それよりもむしろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。
恒《こう》 産《さん》
恒《こう》産《さん》のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものはむしろ恒心のないものらしい。
彼 ら
わたしは実は彼ら夫婦の恋愛もなしに相《あい》抱《いだ》いて暮らしていることに驚嘆していた。が、彼らはどういうわけか、恋人同志の相抱いて死んでしまったことに驚嘆している。
作家所《しよ》生《せい》の言葉
「振《ふる》っている」「高《こう》等《とう》遊《ゆう》民《みん》」「露《ろ》悪《あく》家《か》」「月並み」等の言葉の文壇に行なわれるようになったのは夏目先生から始まっている。こういう作家所《しよ》生《せい》の言葉は夏目先生以後にもないわけではない。久米正雄君所生の「微《び》苦《く》笑《しよう》」「強《つよ》気《き》弱《よわ》気《き》」などはその最たるものであろう。なおまた「等《とう》、等《とう》、等《とう》」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我々は常に意識して帽子を脱いでいるものではない。のみならず時には意識的には敵とし、怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでいるものである。ある作家を罵《ののし》る文章の中にもその作家の作った言葉の出るのは必ずしも偶然ではないかもしれない。
幼 児
我々はいったいなんのために幼い子供を愛するのか? その理由の一《いつ》半《ぱん》は少なくとも幼い子供にだけは欺《あざむ》かれる心配のないためである。
又
我々の恬《てん》然《ぜん》と我々の愚を公にすることを恥じないのは幼い子供に対する時か、――あるいは、犬《いぬ》猫《ねこ》に対する時だけである。
池《いけの》大《たい》雅《が*》
「大《たい》雅《が》はよほどのんきな人で、世情にうとかったことは、その室《しつ》玉《ぎよく》瀾《らん*》を迎えた時に夫婦の交わりを知らなかったというのでほぼその人物が察せられる」
「大雅が妻を迎えて夫婦の道を知らなかったというような話も、人間離れがしていておもしろいと言えば、おもしろいと言えるが、まるで常識のない愚かなことだと言えば、そうも言えるだろう」
こういう伝説を信ずる人はここに引いた文章の示すように今日もまだ芸術家や美術史家の間に残っている。大雅は玉瀾を娶《めと》った時に交《こう》合《ごう》のことを行なわなかったかもしれない。しかしそのゆえに交合のことを知らずにいたと信ずるならば、――もちろんその人はその人自身烈《はげ》しい性欲を持っているあまり、いやしくもちゃんと知っている以上、行なわずにはすませられるはずはないと確信しているためであろう。
荻生《おぎゆう》徂《そ》徠《らい*》
荻生《おぎゆう》徂《そ》徠《らい》は煎《い》り豆を噛《か》んで古人を罵《ののし》るのを快としている。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約のためと信じていたものの、彼の古人を罵ったのはなんのためかいっこうわからなかった。しかし今日考えてみれば、それは今《こん》人《じん》を罵るよりも確かに当り障《さわ》りのなかったためである。
作 家
文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。そのまた創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりもある程度の健康である。スエエデン式体操、菜食主義、複方ジアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。
又
文を作らんとするものはいかなる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ。
又
文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上にはいかなる独創の芽も生《は》えたことはない。
又
百足《むかで》 ちっとは足でも歩いてみろ。
蝶《ちよう》 ふん、ちっとは羽根でも飛んでみろ。
又
気《き》韻《いん》は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。もしまた無理に見ようとすれば、頸《くび》の骨を折るのに了《おわ》るだけであろう。
又
批評家、君は勤め人の生活しか書けないね?
作家 誰《だれ》かなんでも書けた人がいたかね?
又
あらゆる古来の天才は、我々凡人の手のとどかない壁上の釘《くぎ》に帽子をかけている。もっとも踏み台はなかったわけではない。
又
しかしああいう踏み台だけはどこの古道具屋にも転《ころが》っている。
又
あらゆる作家は一面には指《さし》物《もの》師《し》の面《めん》目《ぼく》は具《そな》えている。が、それは恥《ち》辱《じよく》ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具えている。
又
のみならずまたあらゆる作家は一面には店を開いている。なに、わたしは作品は売らない?
それは君、買い手のない時にはね。あるいは売らずともよい時にはね。
又
俳優や歌手の幸福は彼らの作品ののこらぬことである。――と思うこともないわけではない。
〔以下遺稿〕
弁 護
他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。
女 人
健全なる理性は命令している。――「爾《なんじ》、女《によ》人《にん》を近づくる勿《なか》れ」
しかし健全なる本能は全然反対に命令している。――「爾、女人を避くる勿れ」
又
女人は我々男子には正《まさ》に人生そのものである。すなわち諸悪の根源である。
理 性
わたしはヴォルテエルを軽《けい》蔑《べつ》している。もし理性に終始するとすれば、我々は我々の存在に満《まん》腔《こう》の呪《じゆ》詛《そ》を加えなければならぬ。しかし世界の賞《しよう》讃《さん》に酔った Candide の作者の幸福さは!
自 然
我々の自然を愛する所以《ゆえん》は、――少なくともその所以の一つは自然は我々人間のように妬《ねた》んだり欺《あざむ》いたりしないからである。
処世術
最も賢い処世術は社会的因襲を軽《けい》蔑《べつ》しながら、しかも社会的因《いん》襲《しゆう》と矛盾せぬ生活をすることである。
女人崇《すう》拝《はい》
「永遠に女性なるもの」を崇《すう》拝《はい》したゲエテは確かに仕合わせものの一人だった。が、Yahoo《*》 の牝《めす》を軽《けい》蔑《べつ》したスウィフトは狂死せずにはいなかったのである。これは女性の呪《のろ》いであろうか? あるいはまた理性の呪いであろうか?
理 性
理性のわたしに教えたものはひっきょう理性の無力だった。
運 命
運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」という言葉は決して等《とう》閑《かん》に生まれたものではない。
教 授
もし医家の用語を借りれば、いやしくも文芸を講ずるには臨床的でなければならぬはずである。しかし彼らはいまだかつて人生の脈《みやく》搏《はく》に触れたことはない。ことに彼らのあるものは英仏の文芸には通じても彼らを生んだ祖国の文芸には通じていないと称している。
知徳合一
我々は我々自身さえ知らない。いわんや我々の知ったことを行ないに移すのは困難である。「知《ち》慧《え》と運命」を書いたメエテルリンクも知慧や運命を知らなかった。
芸 術
最も困難な芸術は自由に人生を送ることである。もっとも「自由に」という意味は必ずしも厚顔にという意味ではない。
自由思想家
自由思想家の弱点は自由思想家であることである。彼はとうてい狂信者のように獰《どう》猛《もう》に戦うことはできない。
宿 命
宿命は後悔の子かもしれない。――あるいは後悔は宿命の子かもしれない。
彼の幸福
彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時にまた彼の不幸も、――ああ、なんという退屈さ加減!
小説家
最も善《よ》い小説家は「世《せ》故《こ》に通じた詩人」である。
言 葉
あらゆる言葉は銭のように必ず両面を具《そな》えている。例《たと》えば「敏感な」という言葉の一面はひっきょう「臆《おく》病《びよう》な」ということにすぎない。
ある物質主義者の信条
「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている」
阿《あ》 呆《ほう》
阿《あ》呆《ほう》はいつも彼以外の人々をことごとく阿呆と考えている。
処世的才能
なんと言っても「憎《ぞう》悪《お》する」ことは処世的才能の一つである。
懺《ざん》 悔《げ》
古人は神の前に懺《ざん》悔《げ》した。今人は社会の前に懺悔している。すると阿《あ》呆《ほう》や悪党を除けば、何びとも何かに懺悔せずには裟《しや》婆《ば》苦《く》に堪《た》えることはできないのかもしれない。
又
しかしどちらの懺《ざん》悔《げ》にしても、どのくらい信用できるかということはおのずからまた別問題である。
「新生」読後
はたして「新生」はあったであろうか?
トルストイ
ビュルコフ《*》のトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺《ざん》悔《げ》」や「わが宗教」の〓《うそ》だったことは明らかである。しかしこの〓を話しつづけたトルストイの心ほど傷《いた》ましいものはない。彼の〓は余人の真実よりもはるかに紅血を滴《したたら》している。
二つの悲劇
ストリントベリイの生涯の悲劇は「観覧随《ずい》意《い》」だった悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「観覧随意」ではなかった。したがって後者は前者よりもいっそう悲劇的に終わったのである。
ストリントベリイ
彼はなんでも知っていた。しかも彼の知っていたことをなんでも無遠慮にさらけ出した。なんでも無遠慮に、――いや、彼もまた我々のように多少の打算はしていたであろう。
又
ストリントベリイは「伝説」の中に死は苦痛か否かという実験をしたことを語っている。しかしこういう実験は遊戯的にできるものではない。彼もまた「死にたいと思いながら、しかも死ねなかった」一人である。
ある理想主義者
彼は彼自身の現実主義者であることに少しも疑惑を抱《いだ》いたことはなかった。しかしこういう彼自身はひっきょう理想化した彼自身だった。
恐 怖
我々に武器を執《と》らしめるものはいつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。
我 々
我々は皆我々自身を恥じ、同時にまた彼らを恐れている。が、誰《だれ》も率直にこういう事実を語るものはない。
恋 愛
恋愛はただ性《せい》慾《よく》の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価《あたい》しない。
ある老練家
彼はさすがに老練家だった。醜聞を起こさぬ時でなければ、恋愛さえめったにしたことはない。
自 殺
万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかもしれない。
又
自殺に対するモンテェエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することのできないのである。
又
死にたければいつでも死ねるからね。
ではためしにやってみたまえ。
革 命
革命の上に革命を加えよ。しからば我らは今日よりも合理的に娑《しや》婆《ば》苦《く》を嘗《な》むることを得べし。
死
マインレンデルはすこぶる正確に死の魅力を記述している。実際我々は何かの拍《ひよう》子《し》に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることはできない。のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るのである。
「いろは」短歌
我々の生活に欠くべからざる思想はあるいは「いろは」短歌に尽きているかもしれない。
運 命
遺伝、境遇、偶然、――我々の運命を司《つかさど》るものはひっきょうこの三者である。みずから喜ぶものは喜んでもよい。しかし他を云《うん》々《ぬん》するのは僭《せん》越《えつ》である。
嘲《あざ》けるもの
他を嘲《あざ》けるものは同時にまた他に嘲けられることを恐れるものである。
ある日本人の言葉
我にスウィツルを与えよ。しからずんば言論の自由を与えよ。
人間的な、余りに人間的な
人間的な、余りに人間的なものはたいていは確かに動物的である。
ある才子
彼は悪党になることはできても、阿《あ》呆《ほう》になることはできないと信じていた。が、何年かたってみると、少しも悪党になれなかったばかりか、いつもただ阿呆に終始していた。
希臘《ギリシア》人《じん》
復《ふく》讐《しゆう》の神をジュピタアの上に置いた希臘《ギリシア》人よ。君たちは何もかも知り悉《つく》していた。
又
しかしこれは同時にまたいかに我々人間の進歩の遅《おそ》いかということを示すものである。
聖 書
一人の知《ち》慧《え》は民族の知慧に若《し》かない。ただもう少し簡潔であれば。……
ある孝行者
彼は彼の母に孝行した。もちろん愛《あい》撫《ぶ》や接《せつ》吻《ぷん》が未亡人だった彼の母を性的に慰めるのを承知しながら。
ある悪魔主義者
彼は悪魔主義の詩人だった。が、もちろん実生活の上では安全地帯の外に出ることはたった一度だけで懲《こ》り懲《ご》りしてしまった。
ある自殺者
彼はある瑣《さ》末《まつ》なことのために自殺しようと決心した。が、そのくらいのことのために自殺するのは彼の自尊心には痛手だった。彼はピストルを手にしたまま、傲《ごう》然《ぜん》とこう独《ひとり》語《ごと》を言った。――「ナポレオンでも蚤《のみ》に食われた時はかゆいと思ったのに違いないのだ」
ある左傾主義者
彼は最左翼のさらに左翼に位していた。したがって最左翼をも軽《けい》蔑《べつ》していた。
無意識
我々の性格上の特色は、――少なくとも最も著しい特色は我々の意識を超越している。
矜《きよう》 誇《か》
我々の最も誇りたいのは我々の持っていないものだけである。実例。――Tはドイツ語に堪《たん》能《のう》だった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。
偶 像
何《なん》びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはない。同時にまた彼自身を偶像にすることに異存を持っているものもない。
又
しかしまた泰然と偶像になり了《おお》せることは何《なん》びとにもできることではない。もちろん天運を除外例としても。
天国の民
天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていないはずである。
ある仕合せ者
彼は誰《だれ》よりも単純だった。
自己嫌《けん》悪《お》
最も著しい自己嫌《けん》悪《お》の徴候はあらゆるものに〓《うそ》を見つけることである。いや、必ずしもそればかりではない。そのまた〓を見つけることに少しも満足を感じないことである。
外 見
由来最大の臆《おく》病《びよう》者《もの》ほど最大の勇者に見えるものはない。
人間的な
我々人間の特色は神の決して犯さない過失を犯すということである。
罰
罰せられぬことほど苦しい罰はない。それも決して罰せられぬと神々でも保証すれば別問題である。
罪
道徳的並びに法律的範囲における冒険的行為、――罪はひっきょうこういうことである。したがってまたどういう罪も伝奇的色彩を帯びないことはない。
わたし
わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。
又
わたしはたびたび他人のことを「死ねばよい」と思ったものである。しかもそのまた他人の中には肉親さえ交じっていなかったことはない。
又
わたしはたびたびこう思った。――「俺《おれ》があの女に惚《ほ》れた時にあの女も俺に惚れた通り、俺があの女をきらいになった時にはあの女も俺をきらいになればよいのに」
又
わたしは三十歳を越したのち、いつでも恋愛を感ずるが早いか、いっしょうけんめいに抒《じよ》情《じよう》詩《し》を作り、深入りしない前に脱却した。しかしこれは必ずしも道徳的にわたしの進歩したのではない。ただちょっと肚《はら》の中に算《そろ》盤《ばん》をとることを覚えたからである。
又
わたしはどんなに愛していた女とでも一時間以上話しているのは退屈だった。
又
わたしはたびたび〓《うそ》をついた。が、文字にする時はとにかく、わたしの口《くち》ずから話した〓はいずれも拙《せつ》劣《れつ》を極《きわ》めたものだった。
又
わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかし第三者が幸か不幸かこういう事実を知らずにいる時、何か急にその女に憎《ぞう》悪《お》を感ずるのを常としている。
又
わたしは第三者と一人の女を共有することに不平を持たない。しかしそれは第三者と全然見ず知らずの間がらであるか、あるいはごく疎《そ》遠《えん》の間がらであるか、どちらかであることを条件としている。
又
わたしは第三者を愛するために夫の目を偸《ぬす》んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛するために子供を顧みない女には満身の憎《ぞう》悪《お》を感じている。
又
わたしを感傷的にするものはただ無邪気な子供だけである。
又
わたしは三十にならぬ前にある女を愛していた。その女はある時わたしに言った。――「あなたの奥さんにすまない」わたしは格別わたしの妻にすまないと思っていたわけではなかった。が、妙にこの言葉はわたしの心に滲《し》み渡った。わたしは正直にこう思った。――「あるいはこの女にもすまないのかもしれない」。わたしはいまだにこの女にだけは優しい心もちを感じている。
又
わたしは金銭には冷淡だった。もちろん食うだけには困らなかったから。
又
わたしは両親には孝行だった。両親はいずれも年をとっていたから。
又
わたしは二、三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、〓《うそ》をついたことは一度もなかった。彼らもまた〓をつかなかったから。
人 生
革命に革命を重ねたとしても、我々人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗《あん》澹《たん》としているはずである。しかも「選ばれたる少数」とは「阿《あ》呆《ほう》と悪党と」の異《い》名《みよう》にすぎない。
民 衆
シェクスピイアも、ゲエテも、李《り》太《たい》白《はく》も、近《ちか》松《まつ》門《もん》左《ざ》衛《え》門《もん》も滅《ほろ》びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。わたしは大正十二年に「たとい玉は砕けても、瓦《かわら》は砕けない」ということを書いた。この確信は今日でもいまだに少しも揺《ゆる》がずにいる。
又
打ち下《おろ》すハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)
又
わたしはもちろん失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ずまた誰《だれ》かを作り出すであろう。一本の木の枯れることはきわめて区々たる問題にすぎない。無数の種子を宿している。大きい地面が存在する限りは。(同上)
ある夜の感想
眠りは死よりも愉快である。少なくとも容易には違いあるまい。(昭和改元の第二日)
(大正十二年―昭和二年)
〔侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉〕補《ほ》輯《しゆう》
(いったん雑誌に発表したが、単行本にまとめる際に著者が削除した)
神秘主義
神秘主義は文明のために衰退し去るものではない。むしろ文明は神秘主義に長《ちよう》足《そく》の進歩を与えるものである。
古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。という意味は創世記を信じていたということである。今人はすでに中学生さえ、猿《さる》であると信じている。という意味はダアウインの著書を信じているということである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変わりはない。そのうえ古人は少なくとも創世記に目を曝《さら》していた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬくせに、恬《てん》然《ぜん》とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息《い》吹《ぶ》きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今は人ことごとくこういう信念に安んじている。
これは進化論ばかりではない。地球は円《まる》いということさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数はいつか教えられたように、円いといちずに信じているのにすぎない。なぜ円いかと問いつめてみれば、上《じよう》愚《ぐ》は総理大臣から下《か》愚《ぐ》は腰弁に至るまで、説明のできないことは事実である。
次にもう一つ例を挙げれば、今人は誰《だれ》も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たという話はいまだに時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚《とら》われているからである。ではなぜ迷信に囚われているのか? 幽霊などを見るからである。こういう今人の論法はもちろんいわゆる循環論法にすぎない。
いわんやさらにこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」という以前に、ふさわしい名前さえ発見できない。もししいて名づけるとすれば、薔《ば》薇《ら》とか魚とか蝋《ろう》燭《そく》とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好《よ》い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中《なか》折《お》れをかぶるように、祖先の猿だったことを信じ、幽霊の実在しないことを信じ、地球の円いことを信じている。もし嘘《うそ》と思う人は日本におけるアインシュタイン博士、あるいはその相対性原理の歓迎されたことを考えるがよい。あれは神秘主義の祭りである。不可解なる荘厳の儀式である。なんのために熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さえ知らない。
すると偉大なる神秘主義者はスウェデンボルグだのべエメ《*》だのではない。実は我々文明の民である。同時にまた我々の信念も三《みつ》越《こし》の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉《とら》え難い流行である。あるいは神意に似た好《こう》悪《お》である。実際また西《せい》施《し》や竜陽君《*》の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。
ある自警団員の言葉
さあ、自警の部署に就《つ》こう。今夜は星も木々の梢《こずえ》に涼しい光を放っている。微風もそろそろ通い出したらしい。さあ、この籘《とう》の長《なが》椅《い》子《す》に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉《のど》の渇《かわ》いた時には水筒のウィスキイを傾ければ好《よ》い。幸いまだポケットにはチョコレエトの棒も入っている。
聴《き》きたまえ、高い木々の梢に何か寝《ね》鳥《とり》の騒いでいるのを。鳥は今度の大地震にも困るということを知らないであろう。しかし我々人間は衣食住の便《べん》宜《ぎ》を失ったためにあらゆる苦痛を味わっている。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬために少なからぬ不自由を忍んでいる。人間という二足の獣はなんという情けない動物であろう。我々は文明を失ったが最後、それこそ風前の燈火のようにおぼつかない命を守らなければならぬ。見たまえ。鳥はもう静かに寝入っている。羽《は》根《ね》蒲団《ぶとん》や枕《まくら》を知らぬ鳥は!
鳥はもう静かに寝入っている。夢も我々より安らかであろう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我々人間は過去や未来にも生きなければならぬ。という意味は悔《かい》恨《こん》や憂《ゆう》慮《りよ》の苦痛を嘗《な》めなければならぬ。ことに今度の大地震はどのくらい我々の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我々は今日《きよう》の餓《う》えに苦しみながら、明日《あす》の餓えにも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ。いや、鳥に限ったことではない。三《さん》世《ぜ》の苦痛を知るものは我々人間のあるばかりである。
小泉八雲は人間よりも蝶《ちよう》になりたいと言ったそうである。蝶――といえばあの蛾《が》を見たまえ。もし幸福ということを苦痛の少ないことのみとすれば、蛾もまた我々よりは幸福であろう。けれども我々人間は蛾の知らぬ快楽をも心得ている。蛾は破産や失恋のために自殺をする患《うれ》いはないかもしれぬ。が、我々と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕はいまだに覚えている。月明りの仄《ほのめ》いた洛《らく》陽《よう》の廃都に、李《り》太《たい》白《はく》の詩の一行さえ知らぬ無数の蛾の群れを憐《あわれ》んだことを!
しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにしたまえ。我々はとにかくあそこへ来た蛾と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部はいっそうたいせつにしなければならぬ。自然はただ冷然と我々の苦痛を眺《なが》めている。我々は互いに憐まなければならぬ。いわんや殺《さつ》戮《りく》を喜ぶなどは、――もっとも相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
我々は互いに憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭《えん》世《せい》観《かん》の我々に与えた教訓もこういうことではなかったであろうか?
夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相変わらず頭の上に涼しい光を放っている。さあ、君はウィスキイを傾けたまえ。僕は長《なが》椅《い》子《す》に寝ころんだまま、チョコレエトの棒でも噛《かじ》ることにしよう。
若《わか》楓《かえで》
若《わか》楓《かえで》は幹に手をやっただけでも、もう梢《こずえ》に簇《むらが》った芽を神経のように震《ふる》わせている。植物というものの気味の悪さ!
蟇《ひきがえる》
最も美しい石《せき》竹《ちく》色《いろ》は確かに蟇《ひきがえる》の舌の色である。
鴉《からす》
わたしはある雪《ゆき》霽《ば》れの薄暮、隣の屋根に止まっていた、まっ青《さお》な鴉《からす》を見たことがある。
十本の針
一 ある人々
わたしはこの世の中にある人々のあることを知っている。それらの人々は何ごとも直覚するとともに解剖してしまう。つまり一本の薔《ば》薇《ら》の花はそれらの人々には美しいとともにひっきょう植物学の教科書中の薔《しよう》薇《び》科《か》の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折っている時でも。……
ただ直覚する人々はそれらの人々よりも幸福である。真《ま》面《じ》目《め》と呼ばれる美徳の一つはそれらの人々(直覚するとともに解剖する)には与えられない。それらの人々はそれらの人々の一生を恐ろしい遊戯のうちに用い尽くすのである。あらゆる幸福はそれらの人々には解剖するために減少し、同時にまたあらゆる苦痛も解剖するために増加するであろう。「生まれざりしならば」という言葉は正《まさ》にそれらの人々に当たっている。
二 わたしたち
わたしたちは必ずしもわたしたちではない。わたしたちの祖先はことごとくわたしたちのうちに息づいている。わたしたちのうちにいるわたしたちの祖先に従わなければ、わたしたちは不幸に陥《おちい》らなければならぬ。「過去の業《ごう》」という言葉はこういう不幸を比《ひ》喩《ゆ》的に説明するために用いられたのであろう。「わたしたち自身を発見する」のはすなわちわたしたちのうちにいるわたしたちの祖先を発見することである。同時にまたわたしたちを支配する天上の神々を発見することである。
三 鴉《からす》と孔雀《くじゃく》と
わたしたちに最も恐ろしい事実はわたしたちのついにわたしたちを超《こ》えられないということである。あらゆる楽天主義的な目隠しをとってしまえば、鴉《からす》はいつになっても孔雀《くじやく》になることはできない《*》。ある詩人の書いた一行の詩はいつも彼の詩の全部である。
四 空中の花束
科学はあらゆるものを説明している。未来もまたあらゆるものを説明するであろう。しかしわたしたちの重んずるのはただ科学そのものであり、あるいは芸術そのものである。――すなわちわたしたちの精神的飛躍の空中に捉《とら》えた花束ばかりである。 L'homme est rien と言わないにもせよ、わたしたちは「人として」は格別大差のあるものではない。「人として」のボオドレエルはあらゆる精神病院に充《み》ち満ちている。ただ「悪の華《はな》」や「小さい散文詩《*》」は一度も彼らの手に成ったことはない。
五 2+2=4
2+2=4ということは真実である。しかし事実上+《プラス》の間に無数の因子のあることを認めなければならぬ。すなわちあらゆる問題はこの+のうちに含まれている。
六 天 国
もし天国を造り得るとすれば、それはただ地上にだけである。この天国はもちろん茨《いばら》の中に薔《ば》薇《ら》の花の咲いた天国であろう。そこにはまた「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかりたくさん歩いている。もっとも犬になることも悪いことではない。
七 懺《ざん》 悔《げ》
わたしたちはあらゆる懺悔にわたしたちの心を動かすであろう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしのしたことをしないように。わたしの言うことをするように」である。
八 又ある人びと
わたしはまたある人々を知っている。それらの人々は何ごとにも容易に飽《あ》くことを知らない。一人の女《によ》人《にん》や一つの想念《イデエ》や一本の石《せき》竹《ちく》や一きれのパンをいやが上にも得ようとしている。したがってそれらの人びとほどぜいたくに暮らしているものはない。同時にまたそれらの人びとほどみじめに暮らしているものはない。それらの人々はいつの間にかいろいろのものの奴隷になっている。したがって他人には天国を与えても、――あるいは天国に至る途《みち》を与えても、天国はついにそれらの人々自身のものになることはできない。「多《た》欲《よく》喪《そう》身《しん》」という言葉はそれらの人々に与えられるであろう。孔雀《くじやく》の羽根の扇や人乳を飲んだ豚《ぶた》の仔《こ》の料理さえそれらの人びとにはそれだけでは決して満足を与えないのである。それらの人々は必然に悲しみや苦しみさえ求めずにはいられない。(求めずとも与えられる当然の悲しみや苦しみのほかにも)そこにそれらの人々を他の人々から截《き》り離す一すじの溝《みぞ》は掘られている。それらの人々は阿《あ》呆《ほう》ではない。が、阿呆以上の阿呆である。それらの人々を救うものはただそれらの人々以外の人々に変わることであろう。したがってとうてい救われる道はない。
九 声
大勢の人々の叫んでいる中に一人の話している声は決して聞こえないと思われるであろう。が、事実上必ず聞こえるのである。わたしたちの心の中に一すじの炎の残っている限りは。――もっとも時々彼の声は後《こう》代《だい》のマイクロフォンを待つかもしれない。
十 言 葉
わたしたちはわたしたちの気もちを容易に他人に伝えることはできない。それはただ伝えられる他人しだいによるのである。「拈《ねん》華《げ》微《み》笑《しよう*》」の昔はもちろん、百数十行に亙《わた》る新聞記事さえ他人の気もちと応じない時にはとうてい合《が》点《てん》のできるものではない。「彼」の言葉を理解するものはいつも「第二の彼」であろう。しかしその「彼」もまた必ず植物のように生長している。したがってある時代の彼の言葉は第二のある時代の「彼」以外に理解することはできないであろう。いや、ある時代の彼自身さえ他の時代の彼自身には他人のように見えるかもしれない。が、幸いにも「第二の彼」は「彼」の言葉を理解したと信じている。
(昭和二年七月)
〔遺稿〕
西《さい》方《ほう》の人
1 この人を見よ
わたしはかれこれ十年ばかり前に芸術的にクリスト教を――ことにカトリック教を愛していた。長《なが》崎《さき》の「日本の聖母の寺《*》」はいまだに私の記憶に残っている。こういうわたしは北原白秋氏や木《きの》下《した》杢《もく》太《た》郎《ろう》氏の播《ま》いた種をせっせと拾っていた鴉《からす》にすぎない。それからまた何年か前にはクリスト教のために殉《じゆん》じたクリスト教徒たちにある興味を感じていた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のように病的な興味を与えたのである。わたしはやっとこのごろになって四人の伝記作者《*》のわたしたちに伝えたクリストという人を愛し出した。クリストは今日のわたしには行《こう》路《ろ》の人のように見ることはできない。それはあるいは紅《こう》毛《もう》人《じん》たちはもちろん、今日の青年たちには笑われるであろう。しかし十九世紀の末に生まれたわたしは彼らのもう見るのに飽《あ》きた、――むしろ倒すことをためらわない十字架に目を注ぎ出したのである。日本に生まれた「わたしのクリスト」は必ずしもガリラヤの湖《*》を眺めていない。赤あかと実った柿《かき》の木の下に長崎の入り江も見ているのである。したがってわたしは歴史的事実や地理的事実を顧みないであろう。(それは少なくともジャアナリスティックには困難を避けるためではない。もしまじめに構えようとすれば、五、六冊のクリスト伝は容易にこの役をはたしてくれるのである)それからクリストの一言一行を忠実に挙《あ》げている余裕もない。わたしはただわたしの感じた通りに「わたしのクリスト」を記《しる》すのである。いかめしい日本のクリスト教徒も売文の徒の書いたクリストだけはおそらくは大《おお》目《め》に見てくれるであろう。
2 マリア
マリアはただの女《によ》人《にん》だった。が、ある夜聖霊に感じてたちまちクリストを生み落とした。我々はあらゆる女人のうちに多少のマリアを感じるであろう。同時にまたあらゆる男《なん》子《し》のうちにも。――いや、我々は炉に燃える火や畠《はたけ》の野菜や素焼きの瓶《かめ》やがんじょうにできた腰かけのうちにも多少のマリアを感じるであろう。マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。ただ「永遠に守らんとするもの」である、クリストの母、マリアの一生もやはり「涙の谷」の中に通っていた。が、マリアは忍耐を重ねてこの一生を歩いて行った。世《せ》間《けん》智《ち》と愚と美徳とは彼女の一生のうちに一つに住んでいる。ニイチェの叛《はん》逆《ぎやく*》はクリストに対するよりもマリアに対する叛逆だった。
3 聖 霊
我々は風や旗のうちにも多少の聖霊を感じるであろう。聖霊は必ずしも「聖なるもの」ではない。ただ「永遠に超《こ》えんとするもの」である。ゲエテはいつも聖霊に Daemon の名を与えていた。のみならずいつもこの聖霊に捉《とら》われないように警戒していた。が、聖霊の子供たちは――あらゆるクリストたちは聖霊のためにいつか捉《とら》われる危険を持っている。聖霊は悪魔や天使ではない。もちろん、神とも異なるものである。我々は時々善悪の彼《ひ》岸《がん》に聖霊の歩いているのを見るであろう。善悪の彼岸に、――しかしロンブロゾオ《*》は幸か不幸か精神病者の脳《のう》髄《ずい》の上に聖霊の歩いているのを発見していた。
4 ヨセフ
クリストの父、大工のヨセフは実はマリア自身だった。彼のマリアほど尊まれないのはこういう事実にもとづいている。ヨセフはどう贔屓《ひいき》目《め》に見ても、ひっきょう余計ものの第一人だった。
5 エリザベツ《*》
マリアはエリザベツの友だちだった。バプテズマのヨハネ《*》を生んだものはこのザカリアの夫《*》、エリザベツである。麦の中に芥《け》子《し》の花の咲いたのはついに偶然と言うほかはない。我々の一生を支配する力はやはりそこにも動いているのである。
6 羊飼いたち
マリアの聖霊に感じて孕《はら》んだことは羊飼いたちを騒がせるほど、醜聞だったことは確かである。クリストの母、美しいマリアはこの時から人間苦の途《みち》に上り出した。
7 博士《はかせ》たち
東の国の博士《はかせ》たちはクリストの星の現われたのを見、黄金や乳《にゆう》香《こう》や没《もつ》薬《やく》を宝の盒《はこ》に入れて捧げに行った。が、彼らは博士たちの中でもわずかに二人か三人だった。ほかの博士たちはクリストの星の現われたことに気づかなかった。のみならず気づいた博士たちの一人は高い台の上に佇《たたず》みながら、(彼は誰《だれ》よりも年よりだった)きららかにかかった星を見上げ、はるかにクリストを憐《あわれ》んでいた。
「またか!」
8 へロデ《*》
ヘロデはある大きい機械だった。こういう機械は暴力により、多少の手数を省くためにいつも我々には必要である。彼はクリストを恐れるためにベツレヘムの幼《おさな》児《ご》を皆殺しにした。もちろんクリスト以外のクリストも彼らの中にはまじっていたであろう。ヘロデの両手は彼らの血のためにまっ赤《か》になっていたかもしれない。我々はおそらくこの両手の前に不快を感じずにはいられないであろう。しかしそれは何世紀か前のギロティンに対する不快である。我々はへロデを憎むことはもちろん、軽《けい》蔑《べつ》することもできるものではない。いや、むしろ彼のために憐《あわれ》みを感じるばかりである。ヘロデはいつも玉《ぎよく》座《ざ》の上に憂《ゆう》鬱《うつ》な顔をまともにしたまま、橄《かん》欖《らん》や無花果《いちじゆく》の中にあるベツレヘムの国を見おろしている。一行の詩さえ残したこともなしに。……
9 ボヘミア的精神
幼いクリストはエジプトへ行ったり、さらにまた「ガリラヤのうちに避け、ナザレと言える邑《むら》」に止《とど》まったりしている。我々はこういう幼《おさな》児《ご》を佐《さ》世《せ》保《ほ》や横《よこ》須《す》賀《か》に転任する海軍将校の家庭にも見《み》出《いだ》すであろう。クリストのボへミア的精神は彼自身の性格の前にこういう境遇にも潜《ひそ》んでいたかもしれない。
10 父
クリストはナザレに住んだのち、ヨセフの子供でないことを知ったであろう。あるいは聖霊の子供であることを、――しかしそれは前者よりも決して重大な事件ではない。「人の子」クリストはこの時から正《まさ》に二度目の誕生をした。「女中の子《*》」ストリントベリイはまず彼の家族に反《はん》叛《ぱん》した。それは彼の不幸であり、同時にまた彼の幸福だった。クリストもおそらくは同じことだったであろう。彼はこういう孤独の中に仕合わせにも彼の前に生まれたクリスト――バプテズマのヨハネに遭遇した。我々は我々自身のうちにもヨハネに会う前のクリストの心の陰影を感じていた。ヨハネは野《の》蜜《みつ》や蝗《いなご》を食い、荒野の中に住まっていた。が、彼の住まっていた荒野は必ずしも日の光のないものではなかった。少なくともクリスト自身の中にあった、薄暗い荒野に比べてみれば……
11 ヨハネ
バプテズマのヨハネはロマン主義を理解できないクリストだった。彼の威厳は荒《あら》金《がね》のようにそこにかがやかに残っている。彼のクリストに及ばなかったのもおそらくはその事実に存するであろう。クリストに洗礼を授けたヨハネは槲《かし》の木のようにたくましかった。しかし獄中にはいったヨハネはもう枝や葉に漲《みなぎ》っている槲の木の力を失っていた。彼の最後の慟《どう》哭《こく》はクリストの最後の慟哭のようにいつも我々を動かすのである。――
「クリストはお前だったか、わたしだったか?」
ヨハネの最後の慟哭は――いや、必ずしも慟哭ばかりではない。太い槲の木は枯れかかったものの、いまだに外見だけは枝を張っている。もしこの気力さえなかったとしたならば、二十何歳かのクリストは決してひややかにこう言わなかったであろう。
「わたしの現にしていることをヨハネに話して聞かせるがよい」
12 悪 魔
クリストは四十日の断食をしたのち、目《ま》のあたりに悪魔と問答した。我々も悪魔と問答をするためにはなんらかの断食を必要としている。我々のあるものはこの問答のうちに悪魔の誘惑に負けるであろう。またあるものは誘惑に負けずに我々自身を守るであろう。しかし我々は一生を通じて悪魔と問答しないこともあるのである。クリストは第一にパンを斥《しりぞ》けた。が、「パンのみでは生きられない」という註《ちゆう》釈《しやく》を施《ほどこ》すのを忘れなかった。それから彼自身の力を恃《たの》めという悪魔の理想主義的忠告を斥《しりぞ》けた。しかしまた「主たる汝《なんじ》の神を試みてはならぬ」という弁証法を用意していた。最後に「世界の国々とその栄華と」を斥けた。それはパンを斥けたのとあるいは同じことのように見えるであろう。しかしパンを斥けたのは現実的欲望を斥けたのにすぎない。クリストはこの第三の答えの中に我々自身のうちに絶えることのない、あらゆる地上の夢を斥けたのである。この論理以上の論理的決闘はクリストの勝利に違いなかった。ヤコブの天使と組み合ったのもおそらくはこういう決闘だったであろう。悪魔はついにクリストの前に頭を垂《た》れるよりほかはなかった。けれども彼のマリアという女《によ》人《にん》の子供であることは忘れなかった。この悪魔との問答はいつか重大な意味を与えられている。が、クリストの一生では必ずしも大事件と言うことはできない。彼は彼の一生のうちに何度も「サタンよ、退け」と言った。現に彼の伝記作者の一人、――ルカはこの事件を記《しる》したのち、「悪魔この試み皆畢《おわ》りてしばらく彼を離れたり」とつけ加えている。
13 最初の弟子たち
クリストはわずかに十二歳の時に彼の天才を示している。が、洗礼を受けたのちも誰も弟子になるものはなかった。村から村を歩いていた彼はさだめし寂しさを感じたであろう。けれどもとうとう四人の弟子《*》たちは――しかも四人の漁師たちは彼の左右に従うことになった。彼らに対するクリストの愛は彼の一生を貫いている。彼は彼らに囲まれながら、見る見る鋭い舌に富んだ古代のジャアナリストになっていった。
14 聖霊の子供
クリストは古代のジャアナリストになった。同時にまた古代のボヘミアンになった。彼の天才は飛躍をつづけ、波の生活は一時代の社会的約束を踏みにじった。彼を理解しない弟子たちの中に時々ヒステリイを起こしながら。――しかしそれは彼自身にはだいたい歓喜に満ち渡っていた。クリストは彼の詩の中にどのくらい情熱を感じていたであろう。「山上の教え《*》」は二十何歳かの彼の感激に満ちた産物である。彼はどういう前人も彼に若《し》かないのを感じていた。この海のように高まった彼の天才的ジャアナリズムはもちろん敵を招いたであろう。が、彼らはクリストを恐れないわけにはゆかなかった。それは実に彼らには――クリストよりも人生を知り、したがってまた人生に対する恐怖を抱《いだ》いている彼らにはこの天才の量《りよう》見《けん》の呑《の》みこめないためにほかならなかった。
15 女《によ》 人《にん》
大勢の女《によ》人《にん》たちはクリストを愛した。なかんずくマグダラのマリア《*》などは、一度彼に会ったために七つの悪鬼に攻められるのを忘れ、彼女の職業を超越した詩的恋愛《*》さえ感じ出した。クリストの命の終わったのち、彼女のまっ先に彼を見たのはこういう恋愛の力である。クリストもまた大勢の女人たちを、――なかんずくマグダラのマリアを愛した。彼らの詩的恋愛はいまだに燕子花《かきつばた》のようににおやかである。クリストはたびたび彼女を見ることに彼の寂しさを慰めたであろう。後《こう》代《だい》は、――あるいは後代の男《なん》子《し》たちは彼らの詩的恋愛に冷淡だった。(もっとも芸術的主題以外には)しかし後代の女人たちはいつもこのマリアを嫉《しつ》妬《と》していた。
「なぜクリスト様は誰《だれ》よりも先にお母さんのマリア様に再生をお示しにならなかったのかしら?」
それは彼女らの洩《も》らしてきた、最も偽善的な歎《たん》息《そく》だった。
16 奇《き》 蹟《せき》
クリストは時々奇《き》蹟《せき》を行なった。が、それは彼自身には一つの比《ひ》喩《ゆ》を作るよりも容易だった。彼はそのためにも奇蹟に対する嫌《けん》悪《お》の情を抱《いだ》いていた。そのためにも――クリストの使命を感じていたのは彼の道を教えることだった。彼の奇蹟を行なうことは後《こう》代《だい》にルッソオ《*》の吼《たけ》り立った通り、彼の道を教えるのには不便を与えるのに違いなかった。しかし彼の「小羊たち」はいつも奇蹟を望んでいた。クリストもまた三度に一度はこの願いに従わずにはいられなかった。彼の人間的な、あまりに人間的な性格はこういう一面にも露《あらわ》れている。が、クリストは奇蹟を行なうたびに必ず責任を回避していた。
「お前の信仰はお前を癒《いや》した」
しかしそれは同時にまた科学的真理にも違いなかった。クリストはまたある時はやむを得ず奇蹟を行なったために、――ある長《なが》病《やまい》に苦しんだ女の彼の衣にさわったために彼の力の脱《ぬ》けるのを感じた。彼の奇蹟を行なうことにいつも多少ためらったのはこういう実感にも明らかである。クリストは、後《こう》代《だい》のクリスト教徒はもちろん、彼の十二人の弟子たちよりもはるかに鋭い理智主義者だった。
17 背徳者
クリストの母、美しいマリアはクリストには必ずしも母ではなかった。彼の最も愛したものは彼の道に従うものだった。クリストはまた情熱に燃え立ったまま、大勢の人々の集まった前に大胆にもこういう彼の気もちを言い放すことさえ憚《はばか》らなかった。マリアはさだめし戸の外に彼の言葉を聞きながら、悄《しよう》然《ぜん》と立っていたことであろう。我々は我々自身のうちにマリアの苦しみを感じている。たとい我々自身の中にクリストの情熱を感じているとしても、――しかしクリスト自身もまた時々はマリアを憐《あわれ》んだであろう。かがやかしい天国の門を見ずにありのままのイエルサレムを眺《なが》めた時には。……
18 クリスト教
クリスト教はクリスト自身も実行することのできなかった、逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才のために人生さえ笑って投げ棄《す》ててしまった。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を発見したのはあたりまえである。彼の教えたところによれば、「ソロモンの栄華の極《きわ》みの時にだにその装い」は風に吹かれる一本の百《ゆ》合《り》の花に若《し》かなかった。彼の道はただ詩的に――あすの日を思い煩《わずら》わずに生活しろということに存している。何のために?――それはもちろんユダヤ人たちの天国へはいるために違いなかった。しかしあらゆる天国も流《る》転《てん》せずにはいることはできない。石《せつ》鹸《けん》の匂《にお》いのする薔《ば》薇《ら》の花に満ちたクリスト教の天国はいつか空中に消えてしまった。が、我々はその代りに幾つかの天国を造り出している。クリストは我々に天国に対する〓《しよう》〓《けい*》を呼び起こした第一人だった。さらにまた彼の逆説は後《こう》代《だい》に無数の神学者や神秘主義者を生じている。彼らの議論はクリストを茫《ぼう》然《ぜん》とさせずにはおかなかったであろう。しかし彼らのある者はクリストよりもさらにクリスト教的である。クリストはとにかく我々に現《げん》世《ぜ》の向こうにあるものを指《さ》し示した。我々はいつもクリストのうちに我々の求めているものを、――我々を無限の道へ駆《か》りやる喇叭《らつぱ》の声を感じるであろう。同時にまたいつもクリストのうちに我々を虐《さいな》んでやまないものを、――近代のやっと表現した世界苦を感じずにはいられないであろう。
19 ジャアナリスト
我々はただ我々自身に近いもののほかは見ることはできない。少なくとも我々に迫って来るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジャアナリストのようにこの事実を直覚していた。花嫁、葡《ぶ》萄《どう》園《ばたけ》、驢《ろ》馬《ば》、工人――彼の教えは目《ま》のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。「善《よ》いサマリア人」や「放《ほう》蕩《とう》息子《むすこ》の帰宅」はこういう彼の詩の傑作である。抽象的な言葉ばかり使っている後《こう》代《だい》のクリスト教的ジャアナリスト――牧師たちは一度もこのクリストのジャアナリズムの効果を考えなかったのであろう。彼は彼らに比べればもちろん、後代のクリストたちに比べても、決して遜《そん》色《しよく》のあるジャアナリストではない。彼のジャアナリズムはそのために西《さい》方《ほう》の古典と肩を並べている。彼は実に古い炎に新しい薪《たきぎ》を加えるジャアナリストだった。
20 エホバ
クリストのたびたび説いたのはもちろん天上の神である。「我々を造ったものは神ではない、神こそ我々の造ったものである」――こういう唯《ゆい》物《ぶつ》主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであろう。それは我々の腰に垂《た》れた鎖《くさり》を截《き》りはなす言葉である。が、同時にまた我々の腰に新しい鎖を加える言葉である。のみならずこの新しい鎖も古い鎖よりも強いかもしれない。神は大きい雲の中から細かい神経系統の中に下り出した。しかもあらゆる名のもとにやはりそこにくらいしている。クリストはもちろん目《ま》のあたりにたびたびこの神を見たであろう。(神に会わなかったクリストの悪魔に会ったことは考えられない)彼の神もまたあらゆる神のように社会的色彩の強いものである。しかしとにかく我々とともに生まれた「主なる神」だったのに違いない。クリストはこの神のために――詩的正義のために戦いつづけた。あらゆる彼の逆説はそこに源を発している。後《こう》代《だい》の神学はそれらの逆説を最も詩のほかに解釈しようとした。そこから、――誰《だれ》も読んだことのない、退屈な無数の本を残した。ヴォルテェエルは今日でもこっけいなほど「神学」の神を殺すために彼の剣《つるぎ》を揮《ふる》っている。しかし「主なる神」は死ななかった。同時にまたクリストも死ななかった。神はコンクリイトの壁に苔《こけ》の生《は》える限り、いつも我々の上に臨んでいるであろう。ダンテはフランチェスカを地獄に堕《おと》した。が、いつかこの女《によ》人《にん》を炎の中から救っていた。一度でも悔い改めたものは――美しい一瞬間を持ったものはいつも「限りなき命」に入《はい》っている。感傷主義の神と呼ばれやすいのもおそらくはこういう事実のためであろう。
21 故 郷
「予言者は故郷に入れられず」――それはあるいはクリストには第一の十字架だったかもしれない。彼はついには全ユダヤを故郷としなければならなかった。汽車や自動車や汽船や飛行機は今日ではあらゆるクリストに世界じゅうを故郷にしている。もちろんまたあらゆるクリストは故郷に入れられなかったのに違いない。現にポオを入れたものはアメリカではないフランスだった。
22 詩 人
クリストは一本の百《ゆ》合《り》の花を「ソロモンの栄華の極《きわ》みの時」よりもさらに美しいと感じている。(もっとも彼の弟子たちの中にも彼ほど百合の花の美しさに恍《こう》惚《こつ》としたものはなかったであろう)しかし弟子たちと話し合う時には会話上の礼節を破っても、野蛮なことを言うのを憚《はばか》らなかった。――「およそ外より人に入るものの人を汚し能《あた》わざる事を知らざるか。そは心に入らず、腹に入りて厠《かわや》に遺《おと》す。すなわち食《くら》うところのもの潔《きよま》れり」……
23 ラザロ《*》
クリストはラザロの死を聞いた時、今までにない涙を流した。今までにない――あるいは今まで見せずにいた涙を。ラザロの死から生き返ったのはこういう彼の感傷主義のためである。母のマリアを顧みなかった彼はなぜラザロの姉《きよう》妹《だい》たち、――マルタやマリアの前に涙を流したのであろう? この矛盾を理解するものはクリストの、――あるいはあらゆるクリストの天才的利己主義を理解するものである。
24 カナの饗《きよう》宴《えん*》
クリストは女《によ》人《にん》を愛したものの、女人と交わることを顧みなかった。それはモハメットの四人の女人たちと交わることを許したのと同じことである。彼らはいずれも一時代を、――あるいは社会を越えられなかった。しかしそこには何ものよりも自由を愛する彼の心も動いていたことは確かである。後《こう》代《だい》の超人は犬たちの中に仮面をかぶることを必要とした。しかしクリストは仮面をかぶることも不自由のうちに数えていた。いわゆる「炉《ろ》辺《へん》の幸福《*》」の〓《うそ》はもちろん彼には明らかだったであろう。アメリカのクリスト、――ホイットマンはやはりこの自由を選んだ一人である。我々は彼の詩の中にたびたびクリストを感ずるであろう。クリストはいまだに大笑いをしたまま、踊り子や花束や楽器に満ちたカナの饗《きよう》宴《えん》を見おろしている。しかしもちろんその代りにそこには彼の贖《あがな》わなければならぬ多少の寂しさはあったことであろう。
25 天に近い山の上の問答
クリストは高い山の上に彼の前に生まれたクリストたち――モオゼ《*》やエリヤ《*》と話をした。それは悪魔と戦ったのよりもさらに意味の深い出来事であろう。彼はその何日か前に彼の弟子たちにイエルサレムへ行き、十字架にかかることを予言していた。彼のモオゼやエリヤと会ったのは彼のある精神的危機に佇《たたず》んでいた証《しよう》拠《こ》である。彼の顔は「日のごとく輝きその衣は白く光った」のも必ずしも二人のクリストたちの彼の前に下ったためばかりではない。彼は彼の一生のうちでも最もこの時は厳粛だった。彼の伝記作者は彼らの間の問答を記録に残していない。しかし彼の投げつけた問いは「我らはいかに生くべきか」である。クリストの一生は短かったであろう。が、彼はこの時に、――やっと三十歳に及んだ時に彼の一生の総決算をしなければならない苦しみを嘗《な》めていた。モオゼはナポレオンも言ったように戦略に長じた将軍である。エリヤもまたクリストよりも政治的天才に富んでいたであろう。のみならず今日は昨日ではない。今日ではもう紅《こう》海《かい》の波《*》も壁のように立たなければ、炎の車《*》も天上から来ないのである。クリストは彼らと問答しながら、いよいよ彼の見苦しい死の近づいたのを感じずにはいられなかった。天に近い山の上には氷のように澄んだ日の光の中に岩むらの聳《そび》えているだけである。しかし深い谷の底には柘榴《ざくろ》や無花果《いちじゆく》も匂《にお》っていたであろう。そこにはまた家々の煙もかすかに立ち昇《のぼ》っていたかもしれない。クリストもまたおそらくはこういう下界の人生に懐《なつか》しさを感じずにはいなかったであろう。しかし彼の道はいやでも応でも人《ひと》気《け》のない天に向かっている。彼の誕生を告げた星は――あるいは彼を生んだ聖霊は彼に平和を与えようとしない。「山を下る時、イエス彼ら(ペテロ、ヤコブ、その兄《きよう》弟《だい》のヨハネ)に命じて人の子の死より甦《よみがえ》るまでは汝《なんじ》らの見しことを人に告ぐべからずと言えり」――天に近い山の上にクリストの彼に先立った「大いなる死者たち《*》」と話をしたのは実に彼の日記にだけそっと残したいと思うことだった。
26 幼な児の如《ごと》く
クリストの教えた逆説の一つは「我まことに汝《なんじ》らに告げん。もし改まりて幼《おさ》な児《ご》の如《ごと》くならずば天国に入ることを得じ」である。この言葉は少しも感傷主義的ではない。クリストはこの言葉のうちに彼自身の誰《だれ》よりも幼な児に近いことを現わしている。同時にまた聖霊の子供だった彼自身の立ち場を明らかにしている。ゲエテは彼の「タッソオ《*》」のうちにやはり聖霊の子供だった彼自身の苦しみを歌い上げた。「幼な児のごとくあること」は幼稚園時代にかえることである。クリストの言葉に従えば、誰かの保護を受けなければ、人生に堪《た》えないもののほかは黄金の門に入《はい》ることはできない。そこにはまた世《せ》間《けん》智《ち》に対する彼の軽《けい》蔑《べつ》も忍びこんでいる。彼の弟子たちは正直に(幼な児を前にしたクリストの図の我々に不快を与えるのは後《こう》代《だい》の偽善的感傷主義のためである)彼の前に立った幼な児に驚かないわけにはゆかなかったであろう。
27 イエルサレムへ
クリストは一代の予言者になった。同時にまた彼自身の中の予言者は、――あるいは彼を生んだ聖霊はおのずから彼を翻《ほん》弄《ろう》し出した。我々は蝋《ろう》燭《そく》の火に焼かれる蛾《が》のうちにも彼を感じるであろう。蛾はたた蛾の一匹に生まれたために蝋燭の火に焼かれるのである。クリストもまた蛾と変わることはない。ショオは十字架に懸《か》けられるためにイエルサレムへ行ったクリストに雷《らい》に似た冷笑を与えている。しかしクリストはイエルサレムへ驢《ろ》馬《ば》を駆《か》ってはいる前に彼の十字架を背負っていた。それは彼にはどうすることもできない運命に近いものだったであろう。彼はそこでも天才だったとともにやはりついに「人の子」だった。のみならずこの事実は数世紀を重ねた「メシア」という言葉のクリストを支配していたことを教えている。樹《き》の枝を敷いた道の上に「ホザナよ、ホザナよ」の声に打たれながら、驢馬を走らせて行ったクリストは彼自身だったとともにあらゆるイスラエルの予言者たちだった。彼ののちに生まれたクリストの一人は遠いロオマの道の上に再生したクリストに「どこへ行く《*》?」と詰《なじ》られたことを伝えている。クリストもまたイエルサレムへ行かなかったとすれば、やはり誰《だれ》か予言者たちの一人に「どこへ行く?」と詰られたことであろう。
28 イエルサレム
クリストはイエルサレムへはいったのち、彼の最後の戦いをした。それは水々しさを欠いていたものの、何か烈《はげ》しさに満ちたものである。彼は道ばたの無花果《いちじゆく》を呪《のろ》った。しかもそれは無花果の彼の予期を裏切って一つも実をつけていないためだった。あらゆるものを慈《いつくし》んだ彼もここでは半《なか》ばヒステリックに彼の破壊力を揮《ふる》っている。
「カイゼルのものはカイゼルに返せ」
それはもう情熱に燃えた青年クリストの言葉ではない。彼に復《ふく》讐《しゆう》し出した人生に対する(彼はもちろん人生よりも天国を重んじた詩人だった)老成人クリストの言葉である。そこに潜《ひそ》んでいるものは必ずしも彼の世《せ》間《けん》智《ち》ばかりではない。彼はモオゼの昔以来、少しも変わらない人《にん》間《げん》愚《ぐ》に愛《あい》想《そう》を尽かしていたことであろう。が、彼の苛《いら》立《だ》たしさは彼にエホバの「殿《みや》に入りてその中におる売《うり》買《かい》する者を殿より逐《お》い出《いだ》し、兌銀者《りようがえするもの》の案《だい》、鴿《はと》を売《うる》者《もの》の椅子《こしかけ》」を倒させている。
「この殿《みや》も今に壊《こわ》れてしまうぞ」
ある女《によ》人《にん》はこういう彼のために彼の額へ香油を注いだりした。クリストは彼の弟子たちにこの女人を咎《とが》めないことを命じた。それから――十字架と向かい合ったクリストの気もちは彼を理解しない彼らに対する、優しい言葉の中に忍びこんでいる。彼は香油を匂《にお》わせたまま、(それは土《つち》埃《ほこり》にまみれがちな彼には珍しい出来事の一つに違いなかった)静かに彼らに話しかけた。
「この女人はわたしを葬るためにわたしに香油を注いだのだ。わたしはいつもお前たちといっしょにいることのできるものではない」
ゲッセマネの橄《かん》欖《らん*》はゴルゴタの十字架よりも悲壮である。クリストは死力を揮《ふる》いながら、そこに彼自身とも、――彼自身のうちの聖霊とも戦おうとした。ゴルゴタの十字架は彼の上にしだいに影を落とそうとしている。彼はこの事実を知り悉《つく》していた。が、彼の弟子たちは、――ペテロさえ彼の心もちを理解することはできなかった。クリストの祈りは今日でも我々に迫る力を持っている。――
「わが父よ、もしできるものならば、この杯をわたしからお離しください。けれどもしかたはないと仰有《おつしや》るならば、どうか御《み》心《こころ》のままになすってください」
あらゆるクリストは人《ひと》気《げ》のない夜中に必ずこう祈っている。同時にまたあらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂えて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄《かん》欖《らん》の下に眠っている。……
29 ユ ダ
後《こう》代《だい》はいつかユダの上にも悪の円光を輝かせている。しかしユダは必ずしも十二人の弟子たちの中でも特に悪かったわけではない。ペテロさえ庭鳥の声を挙《あ》げる前に三たびクリストを知らないと言っている。ユダのクリストを売ったのはやはり今日の政治家たちの彼らの首領を売るのと同じことだったであろう。パピニ《*》もまたユダのクリストを売ったのを大きい謎《なぞ》に数えている。が、クリストは明らかに誰《だれ》にでも売られる危機に立っていた。祭司の長《おさ》たちはユダのほかにも何人かのユダを数えていたはずである。ただユダはこの道具になるいろいろの条件を具《そな》えていた。もちろんそれらの条件のほかに偶然も加わっていたことであろう。後代はクリストを「神の子」にした。それはまた同時にユダ自身の中に悪魔を発見することになったのである。しかしユダはクリストを売ったのち、白《はく》楊《よう》の木に縊《い》死《し》してしまった。彼のクリストの弟子だったことは、――神の声を聞いたものだったことはあるいはそこにも見られるかもしれない。ユダは誰よりも彼自身を憎んだ。十字架に懸《かか》ったクリストはもちろん彼を苦しませたであろう。しかし彼を利用した祭司の長《おさ》たちの冷淡もやはり彼を憤《いきどお》らせたであろう。
「お前のしたいことをはたすがよい」
こういうユダに対するクリストの言葉は軽《けい》蔑《べつ》と憐《れん》憫《びん》とに溢《あふ》れている。「人の子」クリストは彼自身の中にもあるいはユダを感じていたかもしれない。しかしユダは不幸にもクリストのアイロニイを理解しなかった。
30 ピラト《*》
ピラトはクリストの一生にはただ偶然に現われたものである。彼はついに代名詞にすぎない。後《こう》代《だい》もまたこの官《かん》吏《り》に伝説的色彩を与えている。しかしアナトオル・フランスだけはこういう色彩に欺《あざむ》かれなかった。
31 クリストよりもバラバを
クリストよりもバラバ《*》を――それは今日でも同じことである。バラバは叛《はん》逆《ぎやく》を企てたであろう。同時にまた人々を殺したであろう。しかし彼らはおのずから彼の所業を理解している。ニイチェは後代のバラバたちを街頭の犬に比《たと》えたりした。彼らはもちろんバラバの所業に憎しみや怒りを感じていたであろう。が、クリストの所業には、――おそらくは何も感じなかったであろう。もし何か感じていたとすれば、それは彼らの社会的に感じなければならぬと思ったものである。彼らの精神的奴隷たちは、――肉体だけたくましい兵卒たちはクリストに荊《いばら》の冠をかむらせ、紫の袍《ほう》をまとわせた上、「ユダヤの王安かれ」と叫んだりした。クリストの悲劇はこういう喜劇のただ中にあるだけにみじめである。クリストは正《まさ》に精神的ユダヤの王だったのに違いない。が、天才を信じない犬たちは――いや、天才を発見することはたやすいと信じている犬たちはユダヤの王の名のもとに真のユダヤの王を嘲《あざけ》っている。「方伯《つかさ》のいと奇《あや》しとするまでにイエス一《ひと》言《こと》も答えせざりき」――クリストは伝記作者の記《しる》した通り、彼らの訊《じん》問《もん》や嘲《ちよう》笑《しよう》にはなんの答えもしなかったであろう。のみならずなんの答えをすることもできなかったことは確かである。しかしバラバは頭《こうべ》を挙《あ》げて何ごとも明らかに答えたであろう。バラバはただ彼の敵に叛《はん》逆《ぎやく》している。が、クリストは彼自身に、――彼自身のうちのマリアに叛逆している。それはバラバの叛逆よりもさらに根本的な叛逆だった。同時にまた「人間的な、あまりに人間的な《*》」叛逆だった。
32 ゴルゴタ
十字架の上のクリストはついに「人の子」にほかならなかった。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお捨てなさる《*》?」
もちろん英雄崇《すう》拝《はい》者《しや》たちは彼の言葉を冷笑するであろう。いわんや聖霊の子供たちでないものはただ彼の言葉の中に「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》」を見《み》出《いだ》すだけである。「エリ、エリ、ラマサバクタニ」は事実上クリストの悲鳴にすぎない。しかしクリストはこの悲鳴のためにいっそう我々に近づいたのである。のみならず彼の一生の悲劇をいっそう現実的に教えてくれたのである。
33 ピエタ《*》
クリストの母、年をとったマリアはクリストの死《し》骸《がい》の前に歎《なげ》いている。――こういう図の Pi?taと呼ばれるのは必ずしも感傷主義的ということはできない。ただピエタを描こうとする画家たちはマリア一人だけを描かなければならぬ。
34 クリストの友だち
クリストは十二人の弟子たちを持っていた。が、一人も友だちは持たずにいた。もし一人でも持っていたとすれば、それはアリマタヤのヨセフ《*》である。「日暮るる時尊き議員なるアリマタヤのヨセフと言える者来れり。この人は神の国を望めるものなり。彼はばからずピラトに往きてイエスの屍《しかばね》を乞《こ》いたり」――マタイよりも古いと伝えられるマコ《*》は彼のクリストの伝記の中にこういう意味の深い一節を残した。この一節はクリストの弟子たちを「これに従いつかえしものどもなり」という言葉と全然趣を異にしている。ヨセフはおそらくクリストよりもさらに世《せ》間《けん》智《ち》に富んだクリストだったであろう。彼は「はばからずピラトに往きイエスの屍を乞」ったことはクリストに対する彼の同情のどのくらい深かったかを示している。教養を積んだ議員のヨセフはこの時には率直そのものだった。後代はピラトやユダよりもはるかに彼には冷淡である、しかし彼は十二人の弟子たちよりもあるいは彼を知っていたであろう。ヨハネの首を皿《さら》にのせたものは残酷にも美しいサロメである。が、クリストは命を終わったのち、彼を葬る人々のうちにアリマタヤのヨセフを数えていた。彼はそこにヨハネよりもまだしも幸福を見《み》出《いだ》している。ヨセフもまた議員にならなかったとしたらば、――それはあらゆる「もし……ならば」のようにひっきょう問わないでもよいことかもしれない。けれども彼は無花果《いちじゆく》の下や象《ぞう》嵌《がん》をした杯の前に時々彼の友だちのクリストを思い出していたことであろう。
35 復 活
ルナン《*》はクリストの復活を見たのをマグダレナのマリアの想像力のためにした。想像力のために、――しかし彼女の想像力に飛躍を与えたものはクリストである。彼女の子供を失った母はたびたび彼の復活を――彼の何かに生まれ変わったのを見ている。彼はあるいは大名になったり、あるいは池の上の鴨《かも》になったり、あるいは蓮《れん》華《げ》になったりした。けれどもクリストはマリアのほかにも死後の彼自身を示している。この事実はクリストを愛した人々のどのくらい多かったかを現わすものであろう。彼は三日ののちに復活した。が、肉体を失った彼の世界じゅうを動かすにはさらに長い年月を必要とした。そのために最も力のあったのはクリストの天才を全身に感じたジャアナリストのパウロ《*》である。クリストを十字架にかけた彼らは何世紀かの流れ去るのにつれ、シェクスピイアの復活を認めるようにクリストの復活を認め出した。が、死後のクリストも流《る》転《てん》を閲《けみ》したことは確かである。あらゆるものを支配する流行はやはりクリストも支配していった。クララ《*》の愛したクリストはパスカルの尊んだクリストではない。が、クリストの復活したのち、犬たちの彼を偶像とすることは、――そのまたクリストの名のもとに横暴を振《ふる》うことは変わらなかった。クリストののちに生まれたクリストたちの彼の敵になったのはこのためである。しかし彼らも同じようにダマスカスへ向かう途《みち》の上に必ず彼らの敵の中に聖霊を見ずにはいられなかった。
「サウロよ、サウロよ、なんのためにわたしを苦しめるのか? 棘《とげ》のある鞭《むち》を蹴《け》ることは決してたやすいものではない」
我々はただ茫《ぼう》々《ぼう》とした人生の中に佇《たたず》んでいる。我々に平和を与えるものは眠りのほかにあるわけはない。あらゆる自然主義者は外科医のように残酷にこの事実を解剖している。しかし聖霊の子供たちはいつもこういう人生の上に何か美しいものを残していった。何か「永遠に超《こ》えようとするもの」を。
36 クリストの一生
もちろんクリストの一生はあらゆる天才の一生のように情熱に燃えた一生である。彼は母のマリアよりも父の聖霊の支配を受けていた。彼の十字架の上の悲劇は実にそこに存している。彼ののちに生まれたクリストたちの一人、――ゲエテは「おもむろに老いたるよりもさっさと地獄へ行きたい」と願ったりした。が、おもむろに老いていった上、ストリントベリイの言ったように晩年には神秘主義者になったりした。聖霊はこの詩人のうちにマリアと吊《つ》り合いを取って住まっている。彼の「大いなる異教徒」の名は必ずしも当たっていないことはない。彼は実に人生の上にはクリストよりもさらに大きかった。いわんや他のクリストたちよりも大きかったことはもちろんである。彼の誕生を知らせる星はクリストの誕生を知らせる星よりもまるまるとかがやいていたことであろう。しかし我々のゲエテを愛するのはマリアの子供だったためではない。マリアの子供たちは麦《むぎ》畠《ばたけ》の中や長《なが》椅《い》子《す》の上にも充《み》ち満ちている。いや、兵営や工場や監獄の中にも多いことであろう。我々のゲエテを愛するのはただ聖霊の子供だったためである。我々は我々の一生のうちにいつかクリストといっしょにいるであろう。ゲエテもまた彼の詩の中にたびたびクリストの髯《ひげ》を抜いている。クリストの一生はみじめだった。彼ののちに生まれた聖霊の子供たちの一生を象徴していた。(ゲエテさえも実はこの例に洩《も》れない)クリスト教はあるいは滅《ほろ》びるであろう。少なくとも絶えず変化している。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであろう。それは天上から地上へ登るために無残にも折れた梯《はし》子《ご》である。薄暗い空から叩《たた》きつける土《ど》砂《しや》降りの雨の中に傾いたまま。……
37 東方の人
ニイチェは宗教を「衛生学」と呼んだ。それは宗教ばかりではない。道徳や経済も「衛生学」である。それらは我々におのずから死ぬまで健康を保たせるであろう。「東方の人」はこの「衛生学」をたいてい涅《ね》槃《はん》の上に立てようとした。老子は時々無《む》何《か》有《ゆう》の郷《きよう》に仏《ぶつ》陀《だ》と挨《あい》拶《さつ》をかわせている。しかし我々は皮膚の色のようにはっきりと東西を分《わか》っていない。クリストの、――あるいはクリストたちの一生の我々を動かすのはこのためである。「古来英雄の士、ことごとく山《さん》阿《あ》に帰す」の歌はいつも我々に伝わりつづけた。が「天国は近づけり」の声もやはり我々を立たせずにはいない。老子はそこに年少の孔子と、――あるいは支《し》那《な》のクリストと問答している。野蛮な人生はクリストたちをいつも多少は苦しませるであろう。太平の艸《そう》木《もく》となることを願った「東方の人」たちもこの例に洩《も》れない。クリストは「狐《きつね》は穴あり。空の鳥は巣あり。然《しか》れども人の子は枕《まくら》する所なし」と言した。彼の言葉はおそらくは彼自身も意識しなかった、恐ろしい事実を孕《はら》んでいる。我々は狐や鳥になるほかは容易に塒《ねぐら》の見つかるものではない。
(昭和二年七月十日)
続《ぞく》西《さい》方《ほう》の人
1 再びこの人を見よ
クリストは「万人の鏡」である。「万人の鏡」という意味は万人のクリストに傚《なら》えというのではない。たった一人のクリストの中に万人の彼ら自身を発見するからである。わたしはわたしのクリストを描き、雑誌の締め切り日の迫ったためにペンを抛《なげう》たなければならなかった。今は多少の閑《ひま》のあるためにもう一度わたしのクリストを描き加えたいと思っている。誰《だれ》もわたしの書いたものなどに、――ことにクリストを描いたものなどに興味を感ずるものはないであろう。しかしわたしは四《し》福《ふく》音《いん》書《しよ》の中にまざまざとわたしに呼びかけているクリストの姿を感じている。わたしのクリストを描き加えるのもわたし自身にはやめることはできない。
2 彼の伝記作者
ヨハネはクリストの伝記作者中、最も彼自身に媚《こ》びているものである。野蛮な美しさにかがやいたマタイやマコに比べれば、――いや、巧みにクリストの一生を話してくれるルカに比べてさえ、近代に生まれた我々には人工の甘《かん》露《ろ》味《み》を味わさずには措《お》かない。しかしヨハネもクリストの一生の意味の多い事実を伝えている。我々は、ヨハネのクリストの伝記にある苛《いら》立《だ》たしさを感じるであろう。けれども三人の伝記作者たちにある魅力も感じられるであろう。人生に失敗したクリストは独特の色彩を加えない限り、容易に「神の子」となることはできない。ヨハネはこの色彩を加えるのに少なくとも最も当代には、 up to date の手段をとっている。ヨハネの伝えたクリストはマコやマタイの伝えたクリストのように天才的飛躍を具《そな》えていない。が、壮厳にも優しいことは確かである。クリストの一生を伝えるのに何よりも簡《かん》古《こ》を重んじたマコはおそらく彼の伝記作者中、最もクリストを知っていたであろう。マコの伝えたクリストは現実主義的に生き生きしている。我々はそこにクリストと握手し、クリストを抱《いだ》き、――さらに多少の誇張さえすれば、クリストの髯《ひげ》の匂《にお》いを感じるであろう。しかし壮厳にも劬《いたわ》りの深いヨハネのクリストも斥《しりぞ》けることはできない。とにかく彼らの伝えたクリストに比べれば、後《こう》代《だい》の伝えたクリストは、――ことに彼をデカダンとしたあるロシア人のクリストはいたずらに彼を傷つけるだけである。クリストは一時代の社会的約束を蹂《じゆう》躪《りん》することを顧みなかった。(売《ばい》笑《しよう》婦《ふ》や税《みつぎ》吏《とり》や癩《らい》病《びよう》人《にん》はいつも彼の話し相手である)しかし天国を見なかったのではない。クリストを l'enfant に描いた画家たちはおのずからこういうクリストに憐《あわれ》みに近いものを感じていたであろう。(それは母胎を離れたのち、「唯《ゆい》我《が》独《どく》尊《そん》」の獅《し》子《し》吼《く》をした仏《ぶつ》陀《だ》よりもはるかに手《た》よりのないものである)けれども幼児だったクリストに対する彼らの憐みは多少にもしろ、デカダンだったクリストに対する彼の同情よりも勝《まさ》っている。クリストはいかに葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》に酔っても、何か彼自身のうちにあるものは天国を見せずには措《お》かなかった。彼の悲劇はそのために、――単にそのために起こっている。あるロシア人はある時のクリストのいかに神に近かったかを知っていない。が、四人の伝記作者たちはいずれもこの事実に注目していた。
3 共産主義者
クリストはあらゆるクリストたちのように共産主義的精神を持っている。もし共産主義者の目から見るとすれば、クリストの言葉はことごとく共産主義的宣言に変わるであろう。彼に先立ったヨハネさえ「二つの衣服《うわぎ》を持てる者は持たぬ者に分け与えよ」と叫んでいる。しかしクリストは無政府主義者ではない。我々人間は彼の前におのずから本体を露《あらわ》している。(もっとも彼は我々人間を操縦することはできなかった、――あるいは我々人間に操縦されることはできなかった。それは彼のヨセフではない、聖霊の子供だった所以《ゆえん》である)しかしクリストの中にあった共産主義者を論ずることはスイツル《*》に遠い日本では少なくとも不便を伴っている。少なくともクリスト教徒たちのために。
4 無抵抗主義者
クリストはまた無抵抗主義者だった。それは彼の同志さえ信用しなかったためである。近代ではちょうどトルストイ《*》の他人の真実を疑ったように。――しかしクリストの無抵抗主義は何かさらに柔らかである。静かに眠っている雪のようにひややかではあっても柔らかである。……
5 生活者
クリストは最速度の生活者である。仏《ぶつ》陀《だ》は成《じよう》道《どう》するために何年かを雪《せつ》山《ざん》のうちに暮らした。しかしクリストは洗礼を受けると、四十日の断食ののち、たちまち古代のジャアナリストになった。彼はみずから燃え尽きようとする一本の蝋《ろう》燭《そく》にそっくりである。彼の所業やジャアナリズムはすなわちこの蝋燭の蝋《ろう》涙《るい》だった。
6 ジャアナリズム至上主義者
クリストの最も愛したのはめざましい彼のジャアナリズムである。もし他のものを愛したとすれば、彼は大きい無花果《いちじゆく》のかげに年とった予言者になっていたであろう。平和はその時にはクリストの上にも下って来たのに相違ない。彼はもうその時にはちょうど古代の賢人のようにあらゆる妥協のもとに微笑していたであろう。しかし運命は幸か不幸か彼にこういう安らかな晩年を与えてくれなかった。それは受難の名を与えられていても、正《まさ》に彼の悲劇だったであろう。けれどもクリストはこの悲劇のために永久に若々しい顔をしているのである。
7 クリストの財布
こういうクリストの収入はおそらくはジャアナリズムによっていたであろう。が、彼は「明日のことを考えるな」というほどのボヘミアンだった。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼はともかくも彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかった。「ヨブ記」を書いたジャアナリストはあるいは彼よりも雄大だったかもしれない。しかし彼は「ヨブ記」にない優しさを忍びこます手腕を持っていた。この手腕は少なからず彼の収入を扶《たす》けたことであろう。彼のジャアナリズムは十字架にかかる前に正《まさ》に最高の市価を占めていた。しかし彼の死後に比べれば、――現にアメリカ聖書会社は神聖にも年々に利益を占めている。……
8 ある時のマリア
クリストはもう十二歳の時に彼の天才を示していた。彼の伝記作者の一人、――ルカの語るところによれば、「その子イエルサレムに留《とど》まりぬ。然《しか》るにヨセフと母これを知らず、三日《みつか》ののち殿《みや》にて遇《あ》う。彼教師の中に坐《ざ》し、聴《き》きかつ問いいたり。聞く者皆その知慧《さとき》とその応対《こたえ》とを奇《あや》しとせり」それは論理学を学ばずに論理に長じた学生時代のスウィフトと同じことである。こういう早熟の天才の例はもちろん世界じゅうにまれではない。クリストの父母は彼を見つけ、「さんざんお前を探《さが》していた」と言った。すると彼は存外平気に「どうしてわたしを尋ねるのです。わたしはわたしのお父さんのことを務めなければなりません」と答えた。「されど両親はその語れる事を暁《さと》らず」というのもおそらくは事実に近かったであろう。けれども我々を動かすのは「その母これらのすべての事を心に蔵《と》めぬ」という一節である。美しいマリアはクリストの聖霊の子供であることを承知していた。この時のマリアの心もちはいじらしいとともに哀れである。マリアはクリストの言葉のためにヨセフに恥じなければならなかったであろう。それから彼女自身の過去も考えなければならなかったであろう。最後に――あるいは人《ひと》気《け》のない夜中に突然彼女を驚かした聖霊の姿も思い出したかもしれない。「人の皆無、仕事は全部」というフロオベルの気もちは幼いクリストの中にも漲《みなぎ》っている。しかし大工の妻だったマリアはこの時も薄暗い「涙の谷」に向かい合わなければならなかったであろう。
9 クリストの確信
クリストは彼のジャアナリズムのいつか大勢の読者のために持て囃《はや》されることを確信していた。彼のジャアナリズムに威力のあったのはこういう確信のあったためである。したがって彼はまた最《さい》期《ご》の審判の、――すなわち彼のジャアナリズムの勝ち誇ることも確信していた。もっともこういう確信も時々は動かずにいなかったであろう。しかし大体はこの確信のもとに自由に彼のジャアナリズムを公にした。「一人のほかに善《よ》き者《もの》はなし、すなわち神なり」――それは彼の心のうちを正直に語ったものだったであろう。しかしクリストは彼自身も「善き者」でないことを知りながら、詩的正義のため戦いつづけた。この確信は事実となったものの、もちろん彼の虚栄心である。クリストもまたあらゆるクリストたちのようにいつも未来を夢みていた超阿呆の一人だった。もし超人という言葉に対して超《ちよう》阿《あ》呆《ほう》という言葉を造るとすれば。……
10 ヨハネの言葉
「世の罪を負う神の仔《こ》羊《ひつじ》を観《み》よ。我に後《おく》れ来《きた》らん者は我よりも優《まさ》れる者なり」――バプテズマのヨハネはクリストを見、彼のまわりにいた人々にこう話したと伝えられている。壁の上にストリントベリイの肖像を掲げ、「ここにわたしよりも優《すぐ》れたものがいる」と言った、たくましいイブセンの心もちはヨハネの心もちに近かったであろう。そこに茨《いばら》に近い嫉妬《しつと》よりもむしろ薔《ば》薇《ら》の花に似た理解の美しさを感じるばかりである。こういう年少のクリストのどのくらい天才的だったかは言わずともよい。しかしヨハネもこの時にはやはり最も天才的だったであろう。ちょうど丈《たけ》の高いヨルダンの芦《あし》のゆららかに星を撫《な》でているように。……
11 ある時のクリスト
クリストは十字架にかかる前に彼の弟子たちの足を洗ってやった。「ソロモンよりも大いなるもの」をもってみずから任じていたクリストのこういう謙《けん》遜《そん》を示したのは我々を動かさずには措《お》かないのである。それは彼の弟子たちに教訓を与えるためではない。彼も彼らと変わらない「人の子」だったことを感じたためにおのずからこういう所業をしたのであろう。それはヨハネのクリストを見て「神の仔《こ》羊《ひつじ》を観《み》よ《*》」と言ったのよりも壮厳である。平和に至る道は何《なん》びともクリストよりもマリアに学ばなければならぬ。マリアはただこの現世を忍耐して歩いて行った女《によ》人《にん》である。(カトリック教はクリストに達するためにマリアを通じるのを常としている。それは必ずしも偶然ではない。直ちにクリストに達しようとするのは人生ではいつも危険である)あるいはクリストの母だったという以外にいわゆるニウス・ヴァリュウのない女人である。弟子たちの足さえ洗ってやったクリストはもちろんマリアの足もとにひれ伏したかったことであろう。しかし彼の弟子たちはこの時も彼を理解しなかった。
「お前たちはもうきれいになった」
それは彼の謙《けん》遜《そん》のうちに死後に勝ち誇る彼の希望(あるいは彼の虚栄心)の一つに溶け合った言葉である。クリストは事実上逆説的にも正《まさ》にこの瞬間には彼らに劣っていると同時に彼らに百倍するほどまさっていた。
12 最大の矛盾
クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解していたにもかかわらず彼自身を理解できなかったことである。彼は庭鳥の啼《な》く前にペテロさえ三たびクリストを知らないということを承知していた。彼の言葉はそのほかにもいかに我々人間の弱いかということを教えている。しかも彼は彼自身もやはり弱いことを忘れていた。クリストの一生を背景にしたクリスト教を理解することはこのためにいちいち彼の所業を「予言者X・Y・Zの言葉に応《かな》わせんためなり」という詭弁を用いなければならなかった。のみならずついにこういう詭《き》弁《べん》の古い貨幣になったのちはあらゆる哲学や自然科学の力を借りなければならなかった。クリスト教はひっきょうクリストの作った教訓主義的な文芸にすぎない。もし彼の(クリストの)ロマン主義的な色彩を除けば、トルストイの晩年の作品《*》はこの古代の教訓主義的な作品に最も近い文芸であろう。
13 クリストの言葉
クリストは彼の弟子たちに「わたしは誰《だれ》か?」と問いかけている。この問いに答えることは困難ではない。彼はジャアナリストであるとともにジャアナリズムの中の人物――あるいは「譬《ひ》喩《ゆ》」と呼ばれている短篇小説の作者だったとともに「新約全書」と呼ばれている小説的伝記の主人公だったのである。我々は大勢のクリストたちの中にもこういう事実を発見するであろう。クリストも彼の一生を彼の作品の索《さく》引《いん》につけずにはいられない一人だった。
14 孤《こ》 身《しん》
「イエス……家に入りて人に知られざらん事を願いしが隠れ得ざりき」――こういうマコの言葉はまた他の伝記作者の言葉である。クリストはたびたび隠れようとした。が、彼のジャアナリズムや奇《き》蹟《せき》は彼に人々を集まらせていた。彼のイエルサレムへ赴《おもむ》いたのもペテロの彼を「メシア」と呼んだ影響も全然ないことはない。しかしクリストは十二の弟子たちよりもあるいは橄《かん》欖《らん》の林だの岩の山などを愛したであろう。しかもジャアナリズムや奇蹟を行なったのは彼の性格の力である。彼はここでも我々のように矛盾せずにはいられなかった。けれどもジャアナリストとなったのち、彼の孤《こ》身《しん》を愛したのは疑いのない事実である。トルストイは彼の死ぬ時に「世界じゅうに苦しんでいる人々はたくさんある。それをなぜわたしばかり大騒ぎをするのか《*》?」と言った。この名声の高まるとともにみずから安んじない心もちは我々にも決してないわけではない。クリストは名高いジャアナリストになった。しかし時々大工の子だった昔を懐《なつか》しがっていたかもしれない。ゲエテはこういう心もちをファウスト自身に語らせている。ファウストの第二部の第一幕《*》は実にこの吐息の作ったものと言ってもよい。が、ファウストは幸いにも艸《くさ》花《ばな》の咲いた山の上に佇《たたず》んでいた。……
15 クリストの歎声
クリストは比《ひ》喩《ゆ》を話したのち、「どうしてお前たちはわからないか?」と言った。その歎《たん》声《せい》もまたたびたび繰り返されている。それは彼ほど我々人間を知り、彼ほどボヘミア的生活をつづけたものにはあるいはこっけいに見えるであろう。しかし彼はヒステリックに時々こう叫ばずにはいられなかった。阿《あ》呆《ほう》たちは彼を殺したのち、世界じゅうに大きい寺院を建てている。が、我々はそれらの寺院にやはり彼の歎《たん》声《せい》を感ずるであろう。「どうしてお前たちはわからないか?」――それはクリストひとりの歎声ではない。後《こう》代《だい》にもみじめに死んでいった、あらゆるクリストたちの歎声である。
16 サドカイの徒やパリサイの徒《*》
サドカイの徒やパリサイの徒はクリストよりも事実上不《ふ》滅《めつ》である。この事実を指摘したのは「進化論」の著者ダアウィンだった。彼らは今後も地《ち》衣《い》類のようにいつまでも地上に生存するであろう。「適者生存」は彼らには正に当て嵌《は》まる言葉である。彼らほど地上の適者はない。彼らはなんの感激もなしに油断のない処世術を講じている。マリアはおそらくクリストの彼らの一人でなかったことを悲しんだであろう。ゲエテをべエトホオヴェンの罵《ののし》ったのは《*》正にゲエテ自身の中にいるサドカイの徒やパリサイの徒を罵ったのだった。
17 カヤパ《*》
祭司の長《おさ》だったカヤパにも後《こう》代《だい》の憎しみは集まっている。彼はクリストを憎んでいたであろう。が、必ずしもこの憎しみは彼一人にあったわけではない。ただ彼を推《お》し立てることのクリストを憎みあるいは妬《ねた》んだ大勢の人々に便利だったからである。カヤパはきららに袍《ほう》を着下し、ひややかにクリストを眺《なが》めていたであろう。現世はそこにピラトとともに意《い》気《く》地《じ》のない聖霊の子供を嘲《あざけ》っている。燃えさかる松《たい》明《まつ》の光の中に。……
18 二人の盗人たち
クリストの死の不評判だったことは彼の十字架にかかる時にも盗人たちにいっしょだったのに明らかである。盗人たちの一人はクリストを罵《ののし》ることを憚《はばか》らなかった。彼の言葉は彼自身の中にやはり人生のために打ち倒されたクリストを見《み》出《いだ》したことを示している。しかしもう一人の盗人は彼よりもさらに妄《もう》想《ぞう》を持っていた。クリストはこの盗人の言葉に彼の心を動かしたであろう。この盗人を慰めた彼の言葉は同時にまた彼自身を慰めている。
「お前はお前の信仰のために必ず天国にはいるであろう」
後《こう》代《だい》はこの盗人に彼らの同情を示している。が、もう一人の盗人には、――クリストを罵《ののし》った盗人には軽《けい》蔑《べつ》を示しているのにすぎない。それは正《まさ》にクリストの教えた詩的正義の勝利を示すものであろう。が、彼らは、――サドカイの徒やパリサイの徒は今日でもひそかにこの盗人に賛成している。事実上天国にはいることは彼らには無花果《いちじゆく》や真《ま》桑《くわ》瓜《うり》の汁を啜《すす》るほど重大ではない。
19 兵卒たち
兵卒たちは十字架の下にクリストの衣を分《わか》ち合った。彼らには彼の衣のほかに彼の持っていたものは見えなかったのである。彼らはさだめし肩幅の広い模範的兵卒たちだったのに違いない。クリストはさだめし彼らを見おろし、彼らの所業を軽《けい》蔑《べつ》したであろう。しかしまた同時に是《ぜ》認《にん》したであろう。クリストはクリスト自身のほかには我々人間を理解している。彼の教えた言葉によれば、感傷主義的詠《えい》嘆《たん》は最もクリストの嫌《きら》ったものだった。
20 受 難
十字架にかかったクリストは多少の虚栄心を持っていたものの、彼の肉体的苦痛とともに精神的苦痛にも襲われたであろう。ことに十字架を見守っていたマリアを眺《なが》めることは苦しかったわけである。が、彼は「エリ、エリ、ラマサバクタニ」という必死の声を挙《あ》げたのちも(たといそれは彼の愛する讃《さん》美《び》歌《か》の一節だったにもせよ)彼の息の絶える前には何かおお声を発していた。我々はこのおお声の中にあるいはただ死に迫った力を感ずるばかりであろう。しかしマタイの言葉によれば、「殿《みや》の幔《まく》上より下まで裂けて二つになり、また地《ち》震《ふる》いて岩裂け、墓ひらけて既に寝《い》ねたる聖徒の身多く甦《よみがえ》」った。彼の死は確かに大勢の人々にこういうショックを与えたであろう。(マリアの脳貧血を起こしたことを記《しる》していないのは新約聖書の威厳を尊んだからである)クリストの一言一行に永遠の註《ちゆう》釈《しやく》を与えているパピニさえこの事実はマタイを引いているのにすぎない。彼自身を欺《あざむ》いているパピニの詩的情熱はそこにもまた馬《ば》脚《きやく》を露《あらわ》している。クリストの死は事実上彼の予言者的天才を妄《もう》信《しん》した人々には――彼自身の中にエリヤを見た人々にはあまりに我々に近いものだった。したがってまた炎の車に乗って天上に去るよりも恐ろしかった。彼らはただそのためにショックを受けずにはいなかったのである。しかし年をとった祭司たちはこのショックに欺かれはしなかったであろう。
「それ見たことか!」
彼らの言葉はイエルサレムからニュウヨウクや東京へも伝わっている。イエルサレムを囲んだ橄《かん》欖《らん》の山々を最も散文的に飛び超えながら。
21 文化的なクリスト
クリストの弟子たちに理解されなかったのは彼のあまりに文化人だったためである。(彼の天才を別にしても)彼らはだいたい少なくとも彼に奇《き》蹟《せき》を求めていた。哲学の盛んだった摩《ま》伽《か》陀《だ》国《こく》の王子《*》はクリストよりも奇蹟を行なわなかった。それはクリストの罪よりもむしろユダヤの罪である。彼はロオマの詩人《*》たちにも遜《ゆず》らない第一流のジャアナリストだった。同時にまた彼の愛国的精神さえ抛《なげう》って顧みない文化人だった。(マコはクリスト伝第七章二五以下にこの事実を記《しる》している)バプテズマのヨハネは彼の前には駱《らく》駝《だ》の毛《け》衣《ごろも》や蝗《いなご》や野《の》蜜《みつ》に野《や》人《じん》の面《めん》目《ぼく》を露《あらわ》している。クリストはヨハネの言ったように洗礼にただ聖霊を用いていた。のみならず彼の洗礼(?)を受けたのは十二人の弟子たちのほかにも売笑婦や税《みつぎ》吏《とり》や罪《つみ》人《びと》だった。我々はこういう事実にもおのずから彼に柔かい心臓のあったのを見《み》出《いだ》すであろう。彼はまた彼の行なった奇《き》蹟《せき》の中にたびたび細かい神経を示している。文化的なクリストは十字架の上に最も野蛮な死を遂《と》げるようになった。しかし野蛮なバプテズマのヨハネは文化的なサロメのために盆の上に頭《かしら》をのせられている。運命はここにも彼らのために逆説的な悪戯《いたずら》を忘れなかった。……
22 貧しい人たちに
クリストのジャアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰《なぐさ》めることになった。それはもちろん天国などに行こうと思わない貴族や金持ちに都合のよかったためもあるであろう。しかし彼の天才は彼らを動かさずにはいなかったのである。いや、彼らばかりではない。我々も彼のジャアナリズムの中に何か美しいものを見《み》出《いだ》している。何度叩《たた》いても開かれない門のあることは我々もまた知らないわけではない。狭い門《*》からはいることもやはり我々には必ずしも幸福ではないことを示している。しかし彼のジャアナリズムはいつも無花果《いちじゆく》のように甘みを持っている。彼は実にイスラエルの民の生んだ、古《こ》今《こん》に珍しいジャアナリストだった。同時にまた我々人間の生んだ、古今に珍しい天才だった。「予言者」は彼以後には流行していない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであろう。彼は十字架にかかるために、――ジャアナリズム至上主義を推《お》し立てるためにあらゆるものを犠牲にした。ゲエテは婉《えん》曲《きよく》にクリストに対する彼の軽《けい》蔑《べつ》を示している。ちょうど後《こう》代《だい》のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬《しつと》しているように。――我々はエマオの旅びと《*》たちのように我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはいられないのであろう。
(昭和二年七月二十三日)
〔遺稿〕
注 釈
*コオクカアペト Cork carpet(英)。アイルランドのコーク地方で産するカーペット。
*樫《かし》井《い》の戦い 元《げん》和《な》元年(一六一五)大坂夏の陣の時、大坂方二万が、大野治《はる》房《ふさ》の指揮で和歌山城を攻撃、和歌山城主浅《あさ》野《の》長《なが》晟《あきら》が五千の兵でこれを破った。樫井は今の大阪府泉《いずみ》佐《さ》野《の》市樫《かし》井《い》町、もと南《みなみ》中《なか》通《どおり》村。
*塙《ばん》団《だん》右衛《え》門《もん》直《なお》之《ゆき》 遠《えん》州《しゆう》の人。加藤家に仕えたり浪《ろう》人《にん》になったり僧になったり転々としたが、大坂冬の陣で大坂勢に加わり徳川軍を各所に破り戦功をたてた。
*淡輪《たんなわ》六《ろく》郎《ろう》兵《びよう》衛《え》重《しげ》政《まさ》 泉《せん》州《しゆう》淡輪《たんなわ》の領主。
*浅《あさ》野《の》但馬守《たじまのかみ》長《なが》晟《あきら》 天正十四年―寛永九年(一五八六―一六三二)。豊臣秀吉の臣下浅野長政の子。関ヶ原の戦い後徳川家康につき、大坂の陣にも徳川軍に味方して戦功をあげた。
*本《ほん》多《だ》佐《さ》渡《どの》守《かみ》正《まさ》純《ずみ》 永禄八年―寛永十四年(一五六五―一六三七)。三《み》河《かわ》の人。幼少より側近として家康に仕え、のち秀忠に仕え幕政に関与した。
*頼《より》宣《のぶ》 慶長七年―寛文十一年(一六〇二―一六七一)。家康の第十子。母は家康の側室養《よう》珠《じゆ》院《いん》お万の方。大坂の陣に十四歳で出陣。元和五年(一六一九)徳川御三家の一つである紀《き》州《しゆう》家《け》の藩祖となった。
*大《だい》龍《りゆう》和《お》尚《しよう》 京都妙《みよう》心《しん》寺《じ》の住職。直之は、福島正《まさ》則《のり》に仕えたのち芸《げい》州《しゆう》を去り、大龍和尚について銕《てつ》牛《ぎゆう》と号した。
*成《なる》瀬《せ》隼《はや》人《との》正《しよう》正《まさ》成《なり》 永《えい》禄《ろく》十年―寛永二年(一五六七―一六二五)。家康の小姓で、関ヶ原で戦功をあげ、大坂冬の陣では本多正純とともに交渉に当たり、堀を埋めさせた。
*土《ど》井《い》大炊《おおいの》頭《かみ》利《とし》勝《かつ》 天正元年―正保元年(一五七三―一六四四)。古《こ》河《が》藩主水野元《もと》信《のぶ》の庶《しよ》子《し》で、家康の従弟《いとこ》に当たる。幼少から秀忠に仕え、関ヶ原で秀忠に従って戦功をあげた。
*井《い》伊《い》掃部《かもんの》頭《かみ》直《なお》孝《たか》 天正十八年―万治二年(一五九〇―一六五九)。彦《ひこ》根《ね》藩主。井伊直政の次男。秀忠に仕え、大坂冬の陣に出陣、夏の陣に秀頼の助命を拒否した。
*横田甚《じん》右衛《え》門《もん》 初め武田氏に仕えたが、のち徳川家康に仕えて大坂の陣で武功をたてた。
*僕の従兄《いとこ》 実は芥川の姉久子の夫西川豊。偽証罪で市《いち》ヶ谷刑務所に収容されていた。
*新聞記者 芥川は大阪毎日新聞社の社友になっていた。作品・紀行などを載せたが記者の仕事はしなかった。
*「大《おお》久《く》保《ぼ》武蔵《むさし》鐙《あぶみ》」 江戸時代において広く読まれた実録本。大久保彦左衛門を中心にした物語で、江戸時代の側面史として興味がある。歌《か》舞《ぶ》伎《き》・講談になっている。
*相互扶助論 "Mutual Aid―A Factor of Evolution"ダーウィン主義が人間による人間の支配、搾《さく》取《しゆ》を正当化しているとして反対し、生存競争の他に相互の協力が生物界や人間社会にあることを主張している。
*セザアル・フランク C?sar Franck 一八二二年―一八九〇年。ベルギー生まれの作曲家。ベートーヴェン、ワグナーらの影響下にフランス交響楽派を創始した。「交響曲ニ短調」など。
*鎮《ちん》海《かい》湾《わん》 朝鮮南部にある湾。巨《きよ》済《さい》島《とう》に囲まれ、鎮海・馬《ば》山《さん》の良港がある。もと日本海軍要地。
*君《きみ》看《みよ》双《そう》眼《がんの》色《いろ》…… 「禅林句集」(句《く》双《そう》紙《し》)中の詩句。芥川は愛誦し、第一創作集「羅《ら》生《しよう》門《もん》」の表《ひよう》紙《し》扉《とびら》にしるした。
*カイヨオ夫人 Madame Caillaux 一九一四年フランスの蔵《ぞう》相《しよう》の妻。夫を中傷したフィガロ紙の支配人を射殺した。
*「春《しゆん》秋《じゆう》」の著者 「春秋」は、魯《ろ》の歴史家の手になり孔子が筆を加えたといわれる史書。周の時代に成立。「春秋」の著者が漢代の人とする説はない。「春秋左《さ》氏《し》伝《でん》」を漢代の偽作とする説はある。
*青《あお》山《やま》 芥川は青山脳病院長斎藤茂吉に薬などを請《こ》うていた。
*Tantalus タンタルス。ギリシア神話に出てくるゼウスの子。父の秘密をもらした罰として湖に浸され、水を飲もうとすれば水は減退し、飢えて果物《くだもの》を取ろうとすれば枝は後退し、永遠に苦しむ。
*夏目先生の告別式 夏目漱石は、大正五年十二月九日死去。十二日青山斎場で葬儀が行なわれた。
*ツォイス Zeus(独)。ギリシア神話における最高の神。神々と人間の王。クロノスとレアとの間の子。 ゼウス。
*「寿《じゆ》陵《りよう》余《よ》子《し》」 「余子」は、丁《てい》年《ねん》(満二十歳)に満たない少年。燕《えん》の国寿陵の少年が趙《ちよう》の都邯《かん》鄲《たん》へ行き、都ふうの歩き方を学んだが身につかず、いなかの歩き方も忘れてはって帰ったという故事による。みだりにおのれの本分を捨て他の行為をまねるのは両方とも物にならないこと。
*「韓《かん》非《び》子《し》」 中国戦国時代の韓の公子で法家の説を大成した韓非の著書。先人の説や例を集録、比《ひ》喩《ゆ》・寓《ぐう》話《わ》を用いて法律政治を説いた書で、「孟子」「荘子」とあわせて先《せん》秦《しん》の三大文学とされる。ただし、この寓話は「韓非子」ではなく、「老子」の「秋水篇」に見える。
*聖ジョオジ Saint George イングランドの守護聖人。二世紀ごろに殉教した伝説的勇士。馬上から竜を退治している姿に描かれる。四月二十三日はこの聖人の記念日とされる。
*屠《と》竜《りゆう》の技《ぎ》 世に用のない名技をいう。「荘子」の「列《れつ》禦《ぎよ》寇《こう》」に書かれている。
*「アナトオル・フランスの対話集」 芥川は、ニコラス・セギュール(Nicolas S?gur)著のもの(一九二七年刊)とポール・グセル(Paul Gsell)著のもの(一九一二年刊)を読んでいる。
*「メリメエの書簡集」 死後に発表されたもので、女性にあてた書簡が多い。
*朱《しゆ》舜《しゆん》水《すい》 一六〇〇年―一六八二年。中国の儒《じゆ》者《しや》。万治二年(一六五九)、日本に帰化、水戸光《みつ》圀《くに》に招かれた。明治四十五年六月二日、朱舜水記念会によって第一高等学校構内(旧水戸藩の下屋敷)に記念碑が建てられた。
*リュウイサイト lewisite(英)。アメリカの化学者ルイスが発明した強烈な毒ガス。
*Doppelgaenger ドッペルゲンゲル(独)。二重身。同一人物が同時に二か所に現われる現象。一種の精神病。
*K君 上《かみ》山《やま》草《そう》人《じん》であろう。
*エリザベス朝の巨人 Elizabeth 一世(一五三三年―一六〇三年)の治世四十五年間に隆盛なエリザベス朝時代を現出した。シェークスピアなどが活躍している。
*ベン・ジョンソン Ben Jonson 一五七三年―一六三七年。イギリスの詩人、劇作家。
*カルセエジ Carthago カルタゴ。北アフリカのチュニス市付近にフェニキア人が建てた古代都市。ローマと戦ったが、第三ポエニ戦争の際、スピキオに囲まれて滅《めつ》亡《ぼう》した。
*ある老人 室《むろ》賀《が》文《ふみ》武《たけ》。初め新原家の牛乳配達をし、その後雑貨の行《ぎよう》商《しよう》をし、銀座の聖書会社に動めた。句集もある。
*古代のギリシア人 ギリシア神話に出てくるイカルス Icarus。
*オレステス Orestes ギリシア神話中の人物。父を殺した母とその姦《かん》夫《ぷ》とを討ち、復讐の神々に追求されて狂人となる。
*P・S post scriptum(ラテン語)。手紙の文章の終わったあとにつけたした追加文。二伸。
*甥《おい》 姉の子葛《くず》巻《まき》義《よし》敏《とし》か。
*エエア・シップ air-ship 当時の高級の国産巻きたばこの名。
*スタア star 当時の高級の国産巻きたばこの名。
*イヴァンを描いた カラマーゾフ三兄弟の次男。イヴァン・フョードロヴィッチ。秀才の無神論者。悪魔的な存在として書かれている。
*「喜《き》雀《じやく》堂に入る」 喜雀はかささぎの別称。喜びをもたらすという。
*弟 義弟塚《つか》本《もと》八《や》洲《す》。
*シュタイン夫人 Charlotte Frau Stein 一七四二年―一八二七年。ワイマール公の母堂付きの女官で、フォン・シュタイン男爵の夫人。ゲーテのワイマール時代からクリスチァーネとの結婚までの約十四年間、愛人としてまたよき理解者として、ゲーテの奔放な生活に理性的安定を与えた。
*近代文芸読本 芥川が編集した中学生向きの副読本。一学年から五学年まで五巻。大正十四年興文社刊。当時の作家百数十名の作品を収録したが、それらの人々への謝礼の問題や、実際にはあまり売れなかったにもかかわらず、彼ひとりが印税でもうけているという非難があったりして、芥川に心労を与えた。
*ヴェルレエン Paul Marie Verlaine 一八四四年―一八九六年。年少の詩人ランボーと同性愛に陥《おちい》り、家庭を捨ててともに流浪したが、のちピストルで射って負傷させ、二か年の禁固となり、入獄中に妻を離別した。
*ワグナア Richard Wagner 一八一三年―一八八三年。ドイツの作曲家。旧来の歌劇から総合的な楽劇を創始。弟子で協力者であったビューローの妻コジマと恋愛し、これと結婚した。
*ストリントベリイ August Strindberg 一八四九年―一九一二年。人妻と関係し、結婚生活の失敗を「痴人の告白」「地獄」に書いた。
*「痴人の懺《ざん》悔《げ》」 "Le plaidoyer d'un fon"(一八九五年)。ストリンドベリーが自己の結婚地獄を告白した小説。自国語で書くのをはばかりフランス語で書かれた。
*悪魔主義者 悪魔主義は十九世紀末にあらわれた文芸思想の一傾向。好んで醜悪・退廃・怪異・恐怖などの中に美を見いだそうとする。ポー、ボードレールら。
*俺は世界の夜明けに…… 旧約聖書創世記第三十二章による。ヤコブ(Jacob)はユダヤ人の族長。
*「玉は砕《くだ》けても……」 「続野人生計事」九にも書いている。「北《ほく》斉《せい》書《しよ》」の「元《げい》景《けい》安《あん》伝」に「大丈夫寧可玉間何能瓦全」とある。
*昭和二年六月二十日 自殺したのはこの年の七月二十四日。
*彼の母 芥川の実母フクは、彼の生後九か月ごろ発狂し、明治三十五年、十一歳の時に死んだ。
*ある郊外 芥川一家は新《しん》宿《じゆく》二丁目の龍之介の実父新原氏の牧場の一部にあった新原氏の持ち家に明治四十三年移転した。
*伯《お》母《ば》 実母の姉フキ。芥川を養育した。
*先輩 谷崎潤一郎をさす。
*オランダ人 ゴッホをさす。発狂して自分の片耳を切り落とした。
*ある短篇 大正四年十月「帝国文学」に発表の「羅生門」。
*先生 夏目漱石をさす。芥川は大正四年十二月に漱石の門下にはいった。
*先生の死 大正五年十二月九日に漱石が死去した。
*結婚 大正七年二月二日、塚本文子と結婚。
*彼らの家 鎌《かま》倉《くら》市大《おお》町《まち》辻《つじ》に移り、妻と伯母と下女とで住んだ。
*「カンディイド」 "Candide"(一七五九年)。ヴォルテールの哲学小説。彼の代表作とされる。
*入社 大正八年三月から大阪毎日新聞社社員となった。四月鎌倉を引き上げ、再び田《た》端《ばた》の自宅に移った。
*ある画家 小《お》穴《あな》隆《りゆう》一《いち》。
*彼の姉 次女ヒサ。葛巻家に嫁し、のち西川家に再婚し、再び葛巻家に復縁した。
*異母弟 新原得二。実母の妹フユと実父との間の子。
*姉の夫 西川豊。
*ロシア人 レーニンをさす。
*ある短篇 大正五年八月「人文」に発表の「野《の》呂《ろ》松《まつ》人形」
*「神々は……」 「侏《しゆ》儒《がく》の言葉」に「あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺のできないことである」と書いている。
*Divan 有名な「西東詩集」(一八一九年刊)。アラビアの詩人の影響や、マリアンヌとの恋愛などが主材。円熟したゲーテの思想・情熱などを示している。
*フランソア・ヴィヨン Fran?ois Villon 一四三一年―? フランスの詩人。殺人・放浪・窃《せつ》盗《とう》の生活を送り、死刑に処された。
*スウィフト Jonathan Swift一六六七年―一七四五年。イギリスの風刺作家。愛人の死後発狂した。
*「詩と真実と」 "Dichtung und Wahrheit"(一八一一年―一八三一年)。「わが生活より」"Ausmeinen Leben"と題するゲーテの自叙伝の副題。青年時代を客観的に描く。自叙伝の古典とされる。
*彼の友だち 宇野浩二をさす。
*ラディゲ Raymond Radiguet 一九〇三年―一九二三年。フランスの小説家。その作品「ドルジェル伯の舞踏会」の序文でジャン・コクトーが「ここに彼の最後の言葉をしるす……『ねえ、大変なことになってしまったんだ。あと三日すると、僕は神の兵士たちに銃殺されるんだって……』」と書いている。
*社命 東京日日新聞社。芥川が社員だった大阪毎日新聞社の傍《ぼう》系《けい》。
*「お竹《たけ》倉《ぐら》」 江戸時代、幕府のお竹奉《ぶ》行《ぎよう》の蔵のあった所。横《よこ》網《あみ》町《ちよう》一帯。
*被《ひ》服《ふく》廠《しよう》 もと陸軍の衣服などを製造した工場。震災記念堂のあたりにあった。
*百《ひやつ》本《ぼん》杭《ぐい》 横網町の隅田川に臨む一帯の俗称。
*多《た》田《だ》の薬師 東《ひがし》駒《こま》形《がた》一丁目の東江寺の境内に多田薬師堂がある。
*表《ひよう》忠《ちゆう》碑《ひ》 両国橋の本所側たもとにあった。明治四十年一月一日建《こん》立《りゆう》された。日露戦争の戦病死者の氏名を刻む。
*北《ほく》清《しん》事変 外国の清国圧迫を憤《いきどお》り、一九〇〇年、排外愛国を主張する結社、義和団が北《ペ》京《キン》の各国公使館を襲撃したのを、日・英・米・露・仏・独・伊・墺《おう》の諸国が連合軍を組織して押えた事件。
*南《なん》山《ざん》 中国遼《りよう》東《とう》省関《かん》東《とう》州金《きん》州《しゆう》城南にある小《しよう》丘《きゆう》。明治三十七年五月、日露戦争の激戦地としても有名である。
*井《い》生《ぶ》村《むら》楼《ろう》 両国橋西岸にあった。集会その他によく使用された。
*和《にぎ》霊《たま》神社 伊《だ》達《て》騒動のとき建てられた。二十三日が祭礼だった。
*今村次郎 講談速記記者として有名。
*邑《むら》井《い》吉《きつ》瓶《ぺい》 文久二年―明治三十八年(一八六二―一九〇五)。明治前期の講談の名人といわれた。本名は渥美彦太郎。浅草生まれ。
*典《てん》山《ざん》 錦城斎典山。神田伯山と対照された講釈の上手《じようず》。
*伯《はく》山《ざん》 神田伯山。明治五年―昭和七年(一八七二―一九三二)。講談師。明治三十七年三代目を襲名した。
*伯《はく》龍《りゆう》 神田伯龍。明治二十三年―昭和二十四年(一八九〇―一九四九)。講談師。芥川の「邪宗門」などの文芸作品や世《せ》話《わ》講談で好評を得た。
*小《こ》幡《ばた》小平次 山東京伝の小説「復《ふく》讐《しゆう》奇《き》談《だん》安積《あさか》沼《ぬま》」を脚色したもの。河《かわ》竹《たけ》黙《もく》阿《あ》弥《み》作「怪談小幡小平次」「小幡怪異雨《あめの》古《ふる》沼《ぬま》」など。
*清玄 鶴《つる》屋《や》南《なん》北《ぼく》作「隅田川花《はなの》御《ご》所《しよ》染《ぞめ》」や「浮《うき》世《よ》清《せい》玄《げん》廓《くるわの》夜《よ》桜《ざくら》」などで有名な、清玄桜姫の怨《おん》霊《りよう》伝説の主人公。
*安田家の庭 旧本所区横網町にあった安田庭園。江戸名園の一つ。明治維新後、旧岡山藩主池田章政、財閥安田善次郎に所有されたが、大正十一年、東京市へ寄付された。
*被《ひ》服《ふく》廠《しよう》ほど 大震災での本所区内の死者は、市内総計の八割六分、約五万人。うち被服廠跡だけで、三万五千人であった。
*「卻《かえ》って……」 唐代の詩人賈《か》島《とう》の七言絶句。「度桑乾」の結句。
*椎《しい》の木《き》松《まつ》浦《うら》 横網町にあった肥《ひ》前《ぜんの》守《かみ》松浦侯の屋敷。舟の往来の目じるしとなった椎の大木があり、江戸名所の一つ。また、七不思議む一つ、いつ見ても一片の落ち葉もなかったという。
*「江戸の横網……」 北原白秋の処女歌集「桐《きり》の花」(大正二年刊)の「春愁」中の一首。前半は「定《じよう》斎《さい》の軋《きし》みせはしく橋わたる……」
*一銭蒸汽 隅田川の小型遊覧船のこと。吾妻橋を中心に、上は千住大橋、下は永代橋までを六区間に分け、一区間一銭の料金だった。値上げ後も俗称として残った。
*首《しゆ》尾《び》の松 台東区蔵《くら》前《まえ》にあった松の老木。対岸の椎の木とともに吉《よし》原《わら》へ舟で通う客の目じるしとなった。ともに震災で失われた。
*「〓《げん》湘《しよう》日夜……」 唐代の載叙倫の七言絶句の転句。結句は「不下為二愁人一住少時上」。「〓湘」はともに 揚《よう》子《す》江《こう》の支流。
*長命寺 墨田区向島五丁目にある天台宗の寺。芭《ば》蕉《しよう》堂《どう》、一九の句碑、蜀《しよく》山《さん》人《じん》の歌碑、橘《たちばな》守《もり》部《べ》の墓などがある。桜《さくら》餅《もち》で有名。
*観《かん》世《ぜ》新《じん》路《みち》 中央区の京橋から新橋に至る付近の旧地名。
*「君は今……」 吉原の名《めい》妓《ぎ》高《たか》尾《お》の吟と言い伝える、有名な句。
*「文章は千《せん》古《こ》の事」 杜《と》甫《ほ》の詩に「文章千古事、得失寸心知」とある。
*御《ご》朱《しゆ》引《び》き 江戸時代に江戸の地図に朱色の線で府内(江戸)と府外(郡部)とに分けた区域。
*橋《はし》本《もと》 妙《みよう》見《けん》様《さま》の向かい、柳島橋西の橋づめにあった有名な料亭。戦災で絶えた。
*妙見様 柳島橋の西側の右の橋づめにある法性寺。
*有田ドラッグ 有田音松が創業。東京では本舗の日本橋ほか本所若宮町・深川永代橋など八か所、全国に百以上の売店を有し、淋《りん》病《びよう》・梅毒専門薬のチェーン・ストア。
*愛聖館 現在の萩《はぎ》寺《でら》境内の一隅にあったキリスト教会。ミス・アーレンの経営。昭和の初めまでこの地にあり、のち亀戸《かめいど》二丁目に移った。
*十二階 浅草公園にあった八角形十二階建てれんが造りの凌《りよう》雲《うん》閣《かく》の俗称。イギリス人メルトンの設計。明治二十五年竣《しゆん》工《こう》、震災で崩壊。
*斎《さい》藤《とう》緑雨 慶応三年―明治三十七年(一八六七―一九〇四)。本名は賢《まさる》。別号正直正太夫、江東みどり。仮《か》名《な》垣《がき》魯《ろ》文《ぶん》に師事。風刺と皮肉に富んだ短い評論・批評で有名。
*萩《はぎ》寺《でら》 東京都江《こう》東《とう》区亀戸《かめいど》三丁目にある慈雲山竜眼寺の俗称。一四九五年開基。元《げん》禄《ろく》年間に庭前にはぎを植えて有名。戦災で全滅。一部再建。
*落《おち》合《あい》直《なお》文《ぶみ》 文久元年―明治三十六年(一八六一―一九〇三)。明治の国文学者・歌人。号は萩之家。「萩之家歌集」など。家の入り口の前に石碑があり、「萩寺のはぎおもしろしつゆの身のおくつきところこことさためむ」の歌を刻む。
*司馬江漢 元文三年―文政元年(一七三八―一八一八)。江戸時代後期の洋画家。
*浦里時次郎 吉原山名屋の遊女浦里と春日屋時次郎。山名屋の亭主に仲を裂かれ心中する。新《しん》内《ない》節《ぶし》「明《あけ》烏《がらす》夢《ゆめの》泡《あわ》雪《ゆき》」その歌舞伎化「明烏花《はなの》濡《ぬれ》衣《ぎぬ》」など。
*「変わらざるものよりして……」 英雄興亡のはかなさを嘆じた蘇《そ》軾《しよく》の名文「前《ぜん》赤《せき》壁《へきの》賦《ふ》」に、「自二其変者一而観レ之則天地曾不レ能二以一瞬一、自二其不レ変者一而観レ之則物与我皆無レ尽也」とある。
*石の牛 石造のすわった牛。菅《かん》公《こう》は丑《うし》年《どし》生まれで牛を愛した。額がやや平らになり、そこへ柵《さく》外《がい》から銭を投げて載れば運がいいという。
*文銭 寛永通宝の一つ。寛文のころ鋳造した銅銭。背に年号の一字である「文」の字がある。
*「船橋屋」の葛《くず》餅《もち》 亀戸町三丁目にあり六代百五十年続く。「葛餅」は関東特産で江戸名物の随一とされ、粋《すい》人《じん》・墨《ぼつ》客《きやく》が必ず口にした。
*江東梅園 亀戸天神の東にあった、もとの梅屋敷。
*小公園 錦糸公園。大震災後の帝都復興計画によってできた三大公園の一つ。昭和三年完成、七年開園した。
*「ものの行き……」 「ものの行きとどまらめやも山峡《かひ》の杉のたいぼくの寒さのひびき」
*如《によ》露《ろ》亦《やく》如《によ》電《でん》 仏教語で、人生のはかないことをいう。
*「繁《はん》昌《じよう》記《き》」 「江戸繁昌記」(寺門静軒著、天保三年刊)や「東京新繁昌記」(服部撫《ぶ》松《しよう》著、明治七年刊)をふまえている。
*武徳会 明治二十八年、平安遷《せん》都《と》千百年を記念して創立された大日本武徳会。平安神宮境内に大演武場(武徳殿)を設けた。第二次世界大戦後解体。
*列《れつ》仙《せん》伝《でん》 漢の劉《りゆう》向《きよう》の選といわれる。二巻。中国古代の仙人赤《あか》松《しよう》子《し》より、以下十一人を選び叙《じよ》述《じゆつ》したもの。
*寿座 東京都墨田区緑町二丁目にあった歌舞伎劇場。明治三十一年開場。
*簡《かん》閲《えつ》点《てん》呼《こ》 もと軍隊が予備役の下士官兵および補充兵を召集し点検したこと。
*ピストル強盗清水定吉 東京市本所区松坂町に住み、明治二年から十九年まであんまに変装変名(太田清光)して、百件以上の強盗事件を働いて全東京市民を震え上がらした。死刑に処された。
*稲《いな》妻《ずま》強盗 坂本慶太郎(一八六六年―一九〇〇年)。強盗・殺人・強《ごう》姦《かん》などを働き、関東一帯を荒し回った。ろう破りの名人でイナズマのあだ名で恐れられた。死刑に処された。
*五寸釘《くぎ》の虎吉 逃げる時に足の裏に五寸釘がささったが平気で逃走したという怪盗。
*膃《おつ》肭《と》獣《せい》供《く》養《よう》塔《とう》 国技館でおっとせいの展覧会があった際に死んだので葬ったという。
*京伝 山東京伝。宝暦十一年―文化十三年(一七六一−一八一六)。江戸末期の黄《き》表《びよう》紙《し》・洒落《しやれ》本《ぼん》・読《よみ》本《ほん》作者。
*「水《みず》子《こ》塚」 江戸時代、まびきと称し、口減らしのため堕《だ》胎《たい》した子の墓。一七九三年建立。
*京山 山東京山。明和六年―安政五年(一七六九―一八五八)。戯作者。京伝の弟。
*「大東京繁《はん》昌《じよう》記《き》」 「東京日日新聞」夕刊一面の連載読み物。昭和二年三月高浜虚子による「丸の内」に始まり田山花《か》袋《たい》の「日本橋付近」など当時の文化人による見聞記。芥川のこれは第四番目で五月六日から二十二日まで、小穴隆一がさし絵をかいている。
*「榛《はん》の木《き》馬場」 現在の墨田区亀沢一丁目のうちで、旧お竹倉の南に当たる一角。大きな榛があった広場。江戸時代に馬の練習場だった。
*「割《わ》り下《げ》水《すい》」 本所地区の南北二条の掘り割り。ここは後者。
*十五回 「大東京繁昌記」は一人一地域につき各十五回(十五日分)ずつ連載。
*「お文《ふみ》様《さま》」 蓮《れん》如《によ》上《しよう》人《にん》が真宗の要義を平易にして門徒に与えた手紙を集録した文章のこと。
*小《こ》春《はる》治《じ》兵《へ》衛《え》 近松門左衛門の浄《じよう》瑠《る》璃《り》「心中天《てんの》網《あみ》島《じま》」(一七二〇年初演)中の男女主人公。
*トランス・テエブル ターン・テーブル(turn-table)の誤りか。機関車の向きを変換させる転車台をいう。
*フロオベエルの言葉 モーパッサンあての書簡中に、「芸術家にとって……すべてを芸術への犠牲にすること。人生とは彼にとって一つの手段と考えるべきで、それ以上の何物でもない」と書き、友人アルフレッド・ルポットヴァンあてにも、「芸術以外のいっさいを無と現じる」ことを書き送っている。
*植村宗《そう》一《いち》 明治二十四年―昭和九年(一八九一―一九三四)。大衆小説家、直木三《さん》十《じゆう》五《ご》の本名。
*中山太陽堂社長 クラブ化粧品製造本舗中山太陽堂社長の中山太一。
*鵠《くげ》沼《ぬま》の東《あずま》屋《や》 鵠沼海岸の旅館名。文士たちが多く宿って原稿を書いた。
*レニエ アンリ・ド・レニエ Henri de R?gnier 一八六四年―一九三五年。フランスの詩人、小説家。“Bonheurs perdus”(失われたる幸福)の一編か。
*阿《あ》含《ごん》経《きよう》 小乗教の根本聖典。釈《しや》迦《か》の言行録のようなもの。
*クライスト Heinrich von Kleist 一七七七年―一八一一年。ドイツのロマン派作家。人妻と自殺。
*ボアロオ N.Boileau-Despr?aux 一六三六年―一七一一年。フランスの詩人。古典主義文学理論家。
*エンペドクレス 西暦前五世紀のギリシアの哲学者。
*エトナ イタリアのシチリア島の活火山。
*「侏《しゆ》儒《じゆ》の言葉」 芥川の随筆集。昭和二年十二月文芸春秋社刊。「澄江堂雑記」なども収める。
*太陽の下に…… ドイツのことわざ。Esgeschieht nicht Neues unter der Sonne.
*泥《でい》団《だん》 泥の固まり、すなわちこの地球。
*古い快楽説 古代ギリシアにおける快楽主義。瞬間的な感覚によって快楽を追求する、という、アリスティッポスらのキュレネ派の思想をさす。
*柱《ちゆう》頭《とう》の苦《く》行《ぎよう》 キリスト教の苦行の最も極端な一例で、一生涯柱の上に立ったままでいる行を続ける。シリア人シメオンの発明になり、十二世紀まで続いた。
*筋《きん》斗《と》 とんぼ返り。もんどりうつこと。
*菽《しゆく》麦《ばく》 豆と麦と。左伝成公十八年、「周子有レ足而無慧不レ能レ弁二菽麦一」(豆と麦とは形が大いに異なる、それさえも区別できない愚か者。事理を解せぬ者の意)。
*パナマから…… 排日気運の強い一九一三年ごろのアメリカでは、カリフォルニア州議会が中国人移民排《はい》斥《せき》法を日本移民にも適用し、日本人はパナマからの退去を命ぜられた。
*武《ぶ》后《こう》 則《そく》天《てん》武后。六二三年―七〇五年。唐の高宗の皇后。武氏。高宗末年に摂政、武周革命で即位し、国号を周、則天大聖皇帝と自称。
*李《り》敬《けい》業《ぎよう》の乱 六八四年、李敬業が英《えい》国《こく》公《こう》眉《び》州《しゆう》刺《し》史《し》の官を免ぜられたのを恨《うら》み、駱《らく》賓《ひん》王《おう》らと武后に反旗を翻《ひるがえ》したが失敗した。
*駱《らく》賓《ひん》王《おう》の檄《げき》 李敬業が書かせた回状で、武后を退け中宋の復位を目的とした名文。
*遊就館 東京九《く》段《だん》靖《やす》国《くに》神社所属の武器博物館。絵《え》馬《ま》堂を兼ねて、祭神の遺物陳列の目的で明治十五年に落成。
*Duc de Bourgogne ブルゴーニュ公。不詳。
*Abb? Choisy アベ・ショワジ 一六四四年―一七二四年。フランスの作家。"Memoire"がある。
*シャルル六世 Charles VI, Le Bien Aim? 一三六八年―一四二二年。フランス王(在位一三八〇年―一四二二年)。一三九二年ブルターニュ遠征中に発狂、以後国内乱れ、イギリスとの屈辱的なトロア条約により国土の大半を失った。
*趙《ちよう》 甌《おう》 北《ほく》 趙《ちよう》翼《よく》。一七二九年―一八一四年。清《しん》の江《こう》蘇《そ》陽湖の人。史学、詩に長じ、「二十二史剳《さつ》記《き》」などを著わした。
*「論詩」 絶句によって詩人の論評または詩学上の意見を述べたもの。唐の杜《と》甫《ほ》に始まる。趙甌北には五百首ある。
*廬《ろ》山《ざん》の峰《みね》々《みね》 江《こう》西《せい》省九《きゆう》江《こう》県の南にある山の名。
*無《む》何《か》有《う》 無何有の郷。
*石黒定一 大正七年東京高商卒。上《シヤン》海《ハイ》旅行での知人。
*黄《こう》老《ろう》 黄帝と老子。また、その唱えた学。厭《えん》世《せい》思想を鼓吹して儒教に反対したもの。
*ウイリアム・ジェエムス William James 一八四二年―一九一〇年。アメリカの哲学者、心理学者。主知主義・合理主義に反対して実用主義哲学・機能的心理学を提唱。
*スウィフト 一四二ページの注釈参照。
*「家にあれば……」 「万葉集」巻二にある挽《ばん》歌《か》。有《あり》間《ま》の皇《み》子《こ》の作。叛《むほん》をはかり捕えられ、紀《き》伊《い》の行《ぎよう》幸《こう》先《さき》に送られるその道での作。
*レオパルディ Giacomo Leopardi 一七九八年―一八三七年。イタリアの詩人、哲学者。生涯病弱だった。彼の思想を貫くものは厭世主義である。
*悉《した》達《ある》多《た》 Siddh?rtha 仏教の開祖釈《しや》迦《か》の太《たい》子《し》の時の名。カピラ城浄飯王の長子。
*王城を忍び出た…… 父浄飯王に出家の許しを得られず深夜ひそかに妻子に別れを告げ、苦《くぎ》行《よう》林《りん》の入り口で剃《てい》髪《はつ》出家し悟りを開くため、恆《ごう》河《が》流域の聖地などで断食などの苦行をしたのをいう。
*車《しや》匿《のく》 Chandaka 悉達多が出家の生活にはいる時、苦行林の入り口まで供をした御者。
*耶《や》輪《す》陀《だ》羅《ら》 悉達多の王妃。善覚長者の娘。悉達多十九歳のとき結婚。一子をもうけた。
*成《じよう》道《どう》の伝説 悉達多は、六年の断食苦行が解《げ》脱《だつ》の道でないのを悟り、尼《に》連《れん》禅《ぜん》河《が》で沐《もく》浴《よく》し、村長の娘善生の供養する乳《にゆう》糜《び》を取り体力を回復したのち、菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》下《か》にはじめて悟りを開いた。
*難《なん》陀《だ》婆《ば》羅《ら》 Nanda 仏の弟子。もと牧牛者であったことから牧牛難陀という。仏との問答により牧牛の法を聞いて恭《きよう》敬《けい》の心を起こし、仏《ぶつ》弟《で》子《し》になった。
*白《びやく》蓮《れん》事件 女流歌人白蓮(伯爵柳原前光の次女〓《あき》子《こ》)が良人《おつと》、福岡炭鉱王伊藤伝右衛門を捨て年少の一青年宮崎龍介のもとに走り、当時(大正十年十月二十日)の新聞紙上に騒がれた事件。
*有《あり》島《しま》事件 有島武郎が大正十二年六月九日、軽井沢の別荘で波多野秋子と情死した事件。
*武《む》者《しや》小《のこ》路《うじ》事件 武者小路実篤が、大正十一年に前夫人房子と離婚、安子夫人と家庭をもったこと。
*グルモン R?my de Gourmont 一八五八年―一九一五年。フランスの詩人、哲学者、文明批評家。この語は"Pens?es in?dites"「対語」にある。
*昼は農作の…… この話の出典は宮田高慶著「報徳記」(安政三年)。
*プラトオン Platon 紀元前四二七年―前三四七年。ギリシアの哲学者。その著「国家」の中で彼の理想とする国家は支配階級・防衛階級・栄養階級の三段階で、その支配と服従において、調和のとれた哲人政治であらねばならぬと主張する。
*S・M 室生犀星。
*メリイ・ストオプス夫人 Carmichael Marie Stopes イギリス人。アメリカのサンガー夫人とともに産児制限運動に尽くした。
*管《かん》鮑《ぽう》の交わり 中国の春秋時代斉《せい》の人管《かん》仲《ちゆう》と鮑《ほう》叔《しゆく》との親交。厚い友情の例として有名。
*貝原益軒 寛永七年―正徳四年(一六三〇―一七一四)。儒者。平明な文章で利用厚生の道を説く。著作「養生訓」「慎思録」
*門前雀《じや》羅《くら》を張る 訪れる人もなく、門前にすずめをとる網を張り得るほど寂しいこと。
*Blanqui Louis Auguste Blanqui 一八〇五年―一八八一年。フランスの社会主義者。社会の物質的条件、大衆運動を考えず、少数者の陰謀による革命達成を考えた空想的社会主義者。生涯のうち四十年を獄中に過ごした。
*マレンゴオの戦い Battle de Marengo 一八〇〇年ナポレオンの対オーストリア戦争を終結させた戦争。この勝利によってパリの政治的危機を救い、独裁の地位を固めた。
*六十七歳のブランキ 一八七一年、ブランキーが六十六歳の時、パリコンミューンの弾圧によって投獄され、一八七九年釈放。“Lepatrie endanger”の著作。
*木に縁《よ》って…… 方角違いの無理な望み。
*ジョオジ・ムアア George Moore 一八五二年―一九三三年。イギリスの詩人、小説家。ゾラの影響を受け代表的自然主義作家となった。のち、神秘的退廃的な傾向。
*ショウ George Bernard Shaw 一八五六年―一九五〇年。アイルランドの劇作家、評論家。彼の作「人と超人」"Man and Superman"(一九〇八)は「喜劇にして哲学」の語をつけて発表した四幕の戯曲。恋愛の諸相も生の力の動きにほかならぬ。女性こそが、この力の遂《すい》行《こう》者《しや》であると主張している。
*梅《メイ》蘭《ラン》芳《フアン》 一八九五年―一九六一年。中国の俳優。京《けい》劇《げき》に現代的色彩を入れた、名女形。
*「戯考」 王《おう》大《たい》錯《さく》の撰《せん》。戯曲に関する考証をした書。
*孫《そん》呉《ご》 孫《そん》武《ぶ》、呉《ご》起《き》の併称。孫武は、春秋時代斉《せい》の人。兵法に通じ世界最古といわれる兵学書「孫子」を著わす。呉起も、春秋時代衛の人。魏《ぎ》帝に仕えて戦功多く、その著「呉子」は「孫子」、と並称される。
*「董《とう》家《か》山《ざん》」 以下女性の武将が中心をなす京劇。女が男をわがものにする点で共通。
*胡《こ》適《てき》 一八九一年―一九六二年。中国の思想家、文学者。コロンビア大出身、八不主義を提唱。著「白話文学史」「胡適文集」
*「四《し》進《しん》士《し》」 楊《よう》素《そ》貞《てい》という女をめぐる四人の進士の物語をしくんだ京《けい》劇《げき》。
*王《おう》世《せい》貞《てい》 一五二六年―一五九〇年。中国、江《こう》蘇《そ》の人。文学上の復古を理想とし、多くの論文を残す。
*東禅寺 芝《しば》高《たか》輪《なわ》にあった臨済宗の寺。明治維新の際一時イギリス公使館となる。
*サア・ルサアフォオド・オルコック Sir Rutheford Alcok 一八〇九年―一八九七年。一八五九年日本総領事となる。外人不正貿易・殺傷事件などに強硬な態度を示した。水戸浪士に襲われたが難を免れ、のち、駐支大使となる。
*ハンスカ伯爵夫人 Madame Hanska ロシア、ウクライナ地方の大地主の妻。ポーランド貴族の出。バルザックからの手紙は「異国の女への手紙」(三巻)。一八五〇年、バルザックは彼女と結婚するが三月後死亡。
*金《きん》甌《おう》無《む》欠《けつ》 黄金で作った瓶《かめ》。外国の侵略を受けることなく堅固で完全なことをいう。
*マキァヴェリズム Machiavellism イタリアの政治家マキァヴェリの思想。政治上の権謀術数を是認する主義。一定目的、特に国家目的のために、いっさいの道徳的拘《こう》束《そく》を排除する。
*池大《たい》雅《が》 享保八年―安永五年(一七二三―一七七六)。南画の巨匠。自由奔放な表現、個性的様式を完成。能書家。
*玉《ぎよく》瀾《らん》 大雅二十四歳の時に結婚、書画にひいで詩文に巧み、相携えて漫遊した。室《しつ》は妻のこと。
*荻《おぎ》生《ゆう》徂《そ》徠《らい》 寛文六年―享保十三年(一六六六―一七二八)。儒者。江戸の人。儒教を政治的立場から解釈、古文献解釈の新境地を開く。
*yahoo スウィフトの「ガリバー旅行記」の中の「馬の国」に出てくる、人間に酷似した、狡《こう》猾《かつ》な動物。
*ビュルコフ Pavel Biruikov 一八六〇年―一九三四年。海軍将校、のち、民衆文学の分野に活躍。トルストイ創設の雑誌「仲裁者」の経営に従事、一九〇四年十月に、大著「トルストイ伝」をモスクワで刊行。
*ベエメ Jakob B?hme 一五七五年―一六二四年。ドイツの神秘主義思想家。光と闇《やみ》、愛と怒りの不断の闘争によるキリスト教解釈をなす。
*竜陽君 戦国時代、魏《ぎ》の安《あん》釐《りん》王《おう》の寵《ちよう》臣《しん》。男色をもって仕えたという。山典「戦国策」阮《げん》籍《せき》。
*鴉《からす》は…… イソップにある寓《ぐう》話《わ》。
*「小さい散文詩」 "Le Spleen de Paris" 死後一八六九年、晩年の作品を集めて「パリの憂愁」としてまとめられた。
*「拈《ねん》華《げ》微《み》笑《しよう》」 釈《しや》迦《か》が霊《りよう》鷲《じゆ》山《せん》で説教した際、一枝の華《はな》を拈《ひね》って目をまたたいたのを見て、ただ一人迦《か》葉《よう》のみ会《え》得《とく》して微笑したので、釈迦が心印を授けたという。
*「日本の聖母の寺」 大浦天主堂のことか。
*四人の伝記作者 「新約聖書」のマタイ伝・マルコ伝・ルカ伝・ヨハネ伝の著者。
*ガリラヤの湖 パレスチナ最大の淡水湖でヨルダン河が湖の北東部に注ぎ、南西端より出ている。予言者たちやイエスが活動した地。
*ニイチェの叛《はん》逆《ぎやく》 ニーチェに「反キリスト」(一八八八年刊)の著作がある。
*ロンブロゾオ Cesare Lombroso 一八三六年―一九〇九年。イタリアの精神病理学者、犯罪人類学者。
*エリザベツ アビヤの組の祭司ザカリアの妻。アロン家の一人娘。
*バプテズマのヨハネ 「バプテズマ」とは洗礼を施す者のことで、ヨハネは、イエスに洗礼を施し、彼の先駆者となって予言活動をした。
*ザカリアの夫 「夫」は妻の誤り。
*ヘロデ 前一世紀後半より紀元一世記を通じパレスチナとその付近の国々に対する幾多の王、およびその他の支配者を輩出したイドマヤ王家の創立者の名まえ。「新約聖書」マタイ伝第二章十六節以下。
*「女中の子」 ストリンドベリーは女中の子として生まれた。作品に「女中の子」がある。
*四人の弟子 ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。
*「山上の教え」 キリストの教訓の要約であり、かつ最も高い格調をもつことで有名な一節。マタイ伝第五章「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり……」から始まって第七章まで。
*マグダラのマリア イエスや十二使徒に従ってガリラヤ地方を巡った婦人。
*詩的恋愛 プラトニック・ラブの意。
*ルッソオ Jean Jacques Rousseau 一七一二年―一七七八年。フランスの思想家。ここはその「エミール」第四編。
*〓《しよう》〓《けい》 あこがれ。
*ラザロ ベタニヤのラザロ。イエスの友だち。
*カナの饗《きよう》宴《えん》 ヨハネ伝第二章「三日めにガリラヤのカナに婚礼ありて、イエスの母そこにおり、イエスも弟子たちとともに婚礼に招かれ給う」。
*「炉《ろ》辺《へん》の幸福」 平和で平凡な生活の中に見いだす幸福。片すみの幸福。
*モオゼ 「旧約聖書」に活躍する予言者。イスラエル民族を統一し民族的大事業を完成した。ユダヤ教の創始事業にも参与。
*エリヤ モーゼを継ぐ予言者。
*紅《こう》海《かい》の波 出《しゆつ》エジプト記第十四章二十一―二十九節。
*炎の車 「列王記略下」第二章。エリヤとエリシヤがヨルダン川を渡り、進みながら語っていた時、火の車と火の馬が現われて二人を隔てた。そしてエリヤはつむじ風にのって天にのぼった。
*「大いなる死者たち」 モオゼ、エリヤのこと。
*「タッソオ」 "Torquato Tasso" ゲーテの戯曲。
*「どこへ行く」 "Quo Vadis"(ラテン語)。使徒ペトロは、キリストの死後、迫害に耐えず、ローマを去ろうとする途上、キリストの幻影に会い、再びローマに引き返したという。
*ゲッセマネの橄《かん》欖《らん》 イエスはオリーブ山の傾斜面にあるゲッセマネの園に弟子たちとしばしばやって来た。
*パピニ Giovanni Papini 一八八一年―一九五六年。イタリアのカトリック作家。「クリスト伝」"Striadi Cristo"(一九二一年)。
*ピラト ユダヤ、サマリヤ、イドマヤを治めた第五代ローマ総督。イエスを十字架に付すべく命じた。
*バラバ 逾《すぎ》越《こし》祭の恩典の慣例的行事に従ってピラトが釈放した囚人。そしてその時もう一人の囚人であったイエスは十字架にかけられた。
*「人間的な、あまりに人間的な」 "Menschliches Allzu Menschliches" ニーチェ著作の題名である。
*「わが神……」 イエスが息を引き取る前に叫んだ言葉。
*ピエタ 十字架から取り降ろしたイエスにマリアがすがって泣いている絵。
*アリマタヤのヨセフ サンヒドリンの議員。
*マコ マルコ伝の著者といわれるマルコ。
*ルナン Joseph Ernest Renan 一八二三年―一八九二年。フランスの宗教史家、思想家。「イエス伝」"La Vie de J?sus"(一八一三年)の著者。
*パウロ キリスト教徒を迫害していたが後悔してイエスの最高の弟子となった。
*クララ Clala 一一九四年―一二五三年。クララ修道女会といわれるカトリック修道会の創立者。アシジのフランチェスコの最初の女弟子で、後年聖人の列に加えられた。
*スイツル スイス。フランス人カルヴィンは一五四一年カトリック主義に反対し、スイスのジュネーブで改革を遂《すい》行《こう》、厳格な聖書主義を奉じた。
*トルストイ ガルシンの追想録によると、「トルストイは……人間の誠意というようなことを毛《もう》頭《とう》信じなかった。優しい感情というようなものは彼にとっては全く虚偽であった」(ビュルコフ著「トルストイ伝」)。
*「神の仔《こひ》羊《つじ》を観《み》よ」 ヨハネ伝第一章三十六節。
*トルストイの晩年の作品 「愛する所に神あり」「火を等閑にせば」「イワンの馬鹿」「復活」など。
*「世界じゅうに苦しんでいる人々……」 ロマン・ロラン著「トルストイの生涯」よりの引用。「……彼は……臨終の床で自分自身のためではなく不幸な人々のために泣いた。そして歔《きよ》欷《き》の中にいった。『地上には幾百万の人々が苦しんでいる。どうしてあんた方は私一人のことをかまうのか?』……」
*ファウストの第二部の第一幕 滝が巌《いわお》の裂け目から飛び落ちて来る。あれを見ると歓喜の情が刻々につのる……あの飛《ひ》沫《まつ》の風が生んだ彩《あや》なす色の弓はなんと美しく束の間の姿をアーチ形に張ることだろう……虹こそ人生の努力を映すものだ……人生は色どられた影の上にある。
*サドカイの徒やパリサイの徒 戒律主義者。キリストにより偽善者と断じられている。
*ゲエテをベエトホオヴェンの罵《ののし》ったのは…… ベートーヴェンよりベッティーナ・ブレンターノあての手紙。「昨日我々(ゲーテとベートーヴェン)は帰り道で大公家全部の方々に出くわした――……ルードルフ公は私にむかって帽子をとられ、大公妃も私に先んじてごあいさつをなさった――ゲーテの方をながめると一行が彼の前を通り過ぎて行かれる時、帽子を脱ぎ、低く腰をかがめてわきの方に立っているので私はおかしくなった」
*カヤパ イエスを審問した大祭司。
*摩《ま》伽《か》陀《だ》国《こく》の王子 仏《ぶつ》陀《だ》のこと。
*ロオマの詩人 ヴェルギリウス(紀元前七〇年―一九年)、ホラティウス(紀元前六五年―八年)ら。
*狭い門 マタイ伝第七章「狭き門より入れ、滅《ほろ》びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者多し、生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見いだす者少なし」。
*エマオの旅びと ルカ伝第二十四章「視《み》よ、この日二人の弟子、エレサレムより三里ばかり隔たりたるエマオという村に往きつつ、すべて有りし事どもを互いに語りあう、語りかつ論じあう程にイエスみずから近づきてともに往き給う」
或《ある》阿《あ》呆《ほう》の一《いつ》生《しよう》・侏《しゆ》儒《じゆ》の言《こと》葉《ば》
芥《あくた》川《がわ》龍《りゆう》之《の》介《すけ》
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平成12年11月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『或阿呆の一生・侏儒の言葉』昭和44年9月30日初版刊行