TITLE : 決められた以外のせりふ
決められた以外のせりふ   芥川 比呂志 著 目 次
小自伝
私の顔
あくたがわ
夏休みの記憶
只見立見《ただみたちみ》
祖母から逍遙まで
演劇雑誌
新劇俳優
「新演劇研究会」と「山の樹」
「文學界」記者時代
昭和二十年八月
「新ハムレット」
緩い曲り角
読書のたのしみ
ルオー讃
名作のなかの好きな女性
アメリカの演技
アメリカの観客席
仮面をぬぐアルレッキーノ
ベルリンの高峰秀子
ピーター・ブルックの稽古場
「リア王」の魅惑
実験的な国立劇場
ルイ・ジュヴェの幻影
ジャン・ルイ・バローの退場
モスクワ藝術座再見
マルセル・マルソーの藝
バローの「ハムレット論」
バロー一座観劇記
バローの「ハムレット」
西洋人演出家
翻訳劇繁昌
新しい局面
ジェラール・フィリップの「危険な関係」
ラルフ・リチャードスン
ソ連映画「ハムレット」
「ハムレット」の速力
「マクベス」日記
「ヴァイオリンを持つ裸婦」
「ロミオとジュリエット」開幕
「鬼の始末」のこと
ジャン・メルキュール氏の稽古
メルキュール氏の演出
「なよたけ」
「恭しき娼婦」
「黄金の国」
「榎本武揚」
「ブリストヴィルの午後」
「薔薇の館」
現代戯曲の演出
演出と演技
役者の生死
最初の実現
犬と雷雨
盛夏某日
初冬某日
けちんぼのお礼
こわい先生たち
雪の節分
雨の大安吉日
劇場について
舞台の寸法
舞台の扉
インク壺の始末
私の小道具帖から
モーリス・ジャールの舞台音楽
芝居のなかの歌
方外
父の映像
父と戯曲
父と老人達
父の出生の謎
北軽井沢にて
稽古場の神西さん
加藤道夫のこと
千田さんの演出
宮口精二氏
文学座演出部
文学座時代の矢代静一
原田義人のこと
二人の友
「ガヤガヤ」の世界
演劇の鬼
山崎正和氏の「世阿弥」
鳩のいる病室の窓で
私の黒板
手術ののち
煙霧の夜の妄想
二つの碑
旅中短信
劇団の旅
雨夜の旅
関ヶ原
津和野
無意識録音
テレビを見ながら
テレビあれこれ
淀君火傷
テレビ・ドラマへの注文
チャンピオン三態
「有間皇子」をめぐって
「夢のセレナード」
エネミー・フレンド
タクシー噺
冬の声
整然雑然
笑いたい
雪の日の昔話
同窓会
ともだち
西洋のタクシー
ベージュの祝い
道音痴
チネ子のはなし
わが家の庭
雑煮十六代
山盛りの蚕豆《そらまめ》
ぶっかけ飯
古い味新しい味
酢の味
食欲招来
服装閑語
ミンク
組み合せ服
男のきもの
戯曲を読む
あとがき
年譜
決められた以外のせりふ
ドールン 言うなかれ、わがために若き日を失いしと。
チェーホフ・倉橋健「かもめ」
アーストロフ へえ? いや、なるほど。…… 白状すりゃあ、僕もそろそろ俗物の仲間入りさ。現にこのとおり、結構酔っぱらいもするしね。
チェーホフ・神西清「ワーニャ伯父さん」
小自伝
自分の伝記を書くほど易しい事はないし、また難かしい事もない。そんなものは無いと言ってしまうのが一番かも知れぬ。
一九二〇年三月三十日、東京に生れた。聖学院付属幼稚園のクリスマスに、はじめてせりふめいたものを喚《わめ》いた。
東京高等師範の付属小学校に入学。母や祖母に連れられて、よく歌舞伎へ行った。グリムと西遊記とを愛読した。学藝会の芝居では、常に猛獣の役を演じた。一例、イソップのライオン。
同じく付属中学に入学。語学、歴史、幾何、体操を好み、化学と修身とを憎んだ。シェイクスピア、シング、チェーホフ等を読み、戯曲めいたものを幾つか書いた。学藝会では常に悪党を演じた。一例、シャイロック。外交官になりたいと思った。考古学にも憧れた。
慶応の仏文科に入り、乱読し、詩を書いた。辰野博士の戯曲講義に驚き、映画のルイ・ジュヴェに感動した。加藤道夫を知り、学生劇団を作り、戯曲の翻訳、演出、演技、装置等を試みた。芝居を生涯の仕事にしようと思いつめた。それは、一種の狂気だった。俳優としては常に振られ男を演じた。一例、スガナレル。
一九四二年、卒業と同時に軍隊に入った。戦後、二、三の職業的および非職業的劇団の舞台を踏んだ後、一九四九年三月文学座に入り、舞台と映画とラジオとで、いくつかの仕事をした。
これが総てであり、総ては仕事の中にしかない。狂気からすっかり覚め切らないうちは、ほんとうの自叙伝は書けないだろう。
――一九五三年一二月 悲劇喜劇――
私の顔
子供のころは、まんまるい顔だった。中学三年ごろから、すこしずつ長くなりはじめたようである。
小学生の時、大怪我をした。鬼ごっこをしていて、高い平行棒から、コンクリートの上へ落ちたのである。足をすくわれ、頭から落ちた。運動帽をかぶっていなかったら、傷は致命的だったかもしれぬ。繃帯がとれても、額の真中の肉は、なかなか盛り上ってこなかった。今でも、眉をあげると、額のしわが、その傷のところだけ、不規則なゆがみ方をする。
中学四年の時、ある朝、幾何の先生が大きなコンパスで黒板へ円を描いたら、その円が二つに見えた。近視性乱視の眼鏡をかけることになった。大学時代の私の写真は、だから、みんな眼鏡をかけている。
軍隊にいた時、南方から帰ってきた操縦士が、小さな猿をつれてきた。一緒に遊んでいるうちに、猿は、私の眼鏡をとって、地面にたたきつけた。それを機会に、私は眼鏡をやめた。眼鏡なしでもそれほど不自由なわけではなかったし、爆撃は、猿のように器用に――というのはつまり、眼球に傷をつけずに――眼鏡をこわしてくれるとは限らなかったからである。それ以来、なんとなく今日に及んでいる。
軍隊では、よく肥った。面長な顔がたちまちまんまるになった。体重は十六貫をこえ、当時の写真をみると、今日の面影はどこにもない。
そこまで肥らなくてもいいが、もう少し、顔に、肉がついた方がいいようである。
清水崑氏によれば、私の顔は、「鼻は並より高くて短く、顎《あご》は並より突出て長い。非常に特異な顔だから、何に扮しても地の味が人一倍露われる。その点、得でもあれば損でもある」そうである。長かったり短かったりするのが目立つのも、つまりは、顔全体の肉が薄いせいであろう。
しかしなまじ肉が厚くなって、「何に扮しても地の味が人一倍」あらわれないようになっては、やはり「その点、得でもあれば損でもある」顔が出来あがってしまうかも知れぬ。――勝手にしろ、というようなものである。
一体私は、自分の素顔にあまり興味をもたない。ずいぶん不精な役者だと思っている。ハムレットやドン・ジュアンやリチャード三世やアルセストの顔の方が、私にはずっと興味があるようである。
――一九五五年九月 サンケイ・カメラ――
あくたがわ
芥川という姓は、多くはないが、とりわけ珍しい姓ではなさそうである。東京二十三区の電話帳を繰ってみると、四十一人の芥川がならんでいる。
小学生の時、「アクタガワってのは、ゴミカワとも読めるな」と、つまらぬ発見をしたのは、級長の宮沢喜一で、それ以来、私にけんかを売ろうとする奴は、私のことを「ゴミカワ」と呼ぶだけで目的を達するようになった。気がとがめたと見えて、級長は、彼の発見した呼び名に見切りをつけ、その代りに「アク」という略称を用いるようになった。こっちも「ミヤ」と呼んでやった。あいこである。
しかし、新任の教師に、ほんとうに「ゴミカワ君」と呼ばれたこともあって、その時はさすがにがっかりした。
「セリカワ」と間違えられることは、しょっちゅうであった。
林間学校の女の先生に、「カラシガワさん」と言われた時には、あっけにとられた。ずいぶん、ややこしく間違える人だと思った。
市電の中で回数券を落したら、拾った車掌が「チャガワさん」と言った。そんな例をかぞえていたら切りがない。
ある小雨のふる晩、頼みもしない木の芽田楽が五人前とどいた。出前が「たしかに電話でこちらと伺いました、田端の芥川さんはこちらだけですから」と言う。祖母が「うちには電話はありませんよ、動坂の芥川さんの聞きちがえじゃないのかえ」と言う。押し問答をしているうちに、晩酌をちびりちびりやっていた祖父がかんしゃくを起して「しょうがねえ、さめちまっちゃ何もならねえから、喰っちまおう」と言った。田楽はうまかったが、何だかへんな気分であった。
翌日、入れ物を取りにきた出前が、あやまった。つい近頃越してきたアスカガワさんからの注文を、お宅と聞きちがえたと言う。
「へえ、めずらしい苗字があるものだ。飛ぶ鳥の川と書くんですとさ」と祖母が言った時、私はどういうわけだか、着物をきて、眼鏡をかけた眉根に皺をよせて、難かしい本を読んでいる学者のような人の姿を想像したことをおぼえている。自分の苗字よりも、もっと難かしい苗字があることを発見して、私は何となく安心した。
毎年正月になると、祖母はよく「御先祖」の話をしてくれた。
「御先祖」は三河の出である。小牧長久手の合戦の小ぜりあいに負けた「家康公」が本多忠勝といっしょに命からがら落ちのびてくると、川があった。百姓がひとり、大根を洗っていた。本多忠勝は「これは権現様だから、おぶって向う岸へお渡し申せ」と言い、自分は長柄の槍をついてざぶざぶと歩いて渡った。百姓は言いつけられた通りにした。そのお蔭で「家康公」は無事に追手からのがれて、小牧長久手の戦に勝つことができたのである。のちに千代田城に入った「家康公」は、その時の百姓を想い出し、「召し出して扶持を取らせよ」と言った。そこで「御先祖」は江戸へ出てきて、御奥坊主になったのだ。苗字を賜わるよう願い出たら、「家康公」は「あの川の名を苗字にしろ」と言った。その川の名が芥川だったから、うちは芥川というのだよ……。
怪しい話だが、芥川家が代々、御奥坊主だったことはほんとうである。
川の名として由緒の正しいのは、淀川の支流で、山崎のあたりを流れる芥川であろう。「伊勢物語」にも出てくるし、狂言にもなっている。
忍術に、芥川流というのがあるそうである。伊賀流、甲賀流ほど有名ではないが、金剛流などというのとあわせて、忍術五流の一つにかぞえられている由だから、これも由緒ある芥川にちがいない。
三河の出の芥川というのは、どうも場違いのような気がする。山城あたりが本場なのではあるまいか。漠然とそんなことを考えながら、それ以上にあれこれと調べるほどの興味もないままに過している。
先日、ある席で、かなりの年配の方から声をかけられた。「あなたとは同姓で」と言われる。
「失礼ですが、お国はどちらですか」
「私は熊本です。菊池のちかくです」
私はびっくりした。肥後の菊池は、高松出身の菊池寛の祖先の地だった筈である。
「そこには多いのですか、芥川は」
「ええ、かなりありますな。だいぶ古いようですよ」
一瞬私は、歴史好きの二人の作家が、肥後の菊池と芥川について、彼等の祖先もまた友人同士であったかどうかについて、談論風発している様子を想像したが、ちょうどその時、生憎《あいにく》なことに、スピーカーの声が私たちを呼びたてた。正確に言うと、私たちのどちらか一人を、である。スピーカーは、妙にやさしい声でこう言っていた。
「アキタガワさま、アキタガワさま、お電話です」
――一九六五年一月 中央公論――
夏休みの記憶
小学校時代の夏休みが、どんなふうなものであったか、考えてみても、なかなかはっきりしない。
夏がちかづくと、おやつがだんだん変ってくる。蚕豆《そらまめ》の塩ゆでが、目ざるに山盛りになって出たりする。ところてんや蜜豆が出たりする。昭和のはじめごろ、東京の山の手の中流家庭の食生活は、おやつも含めて、今からみるとずいぶん質素なものだった、という気がする。
ところてんや蜜豆は、その少し前までは、路傍の腰掛茶屋などでたべる、あまり上等とはいいかねる食物であったようだ。これをおやつに採用したのは、若かった母の新しい行き方であった。母がそれを作って出すと、老人たちが、「へええ、蜜豆かい」と、がっかりしたような、やや軽蔑的な歎声をいっせいにもらしたのを、私はおぼえている。
アイスクリームは、一と夏に一度か二度、自家製造をやる。ドライアイスのまだない時代だから、店売りのを買ってくるわけにはいかないのである。氷のぶっかきに塩を入れた桶の中へ、材料一式を仕込んだブリキの茶筒をつっこんで、ぐるぐるまわすと、アイスクリームができる。母がこしらえてくれるのだが、だんだん、面倒くさくなったらしく、のちにはやめてしまった。
近所の蕎麦屋が、夏になると氷水屋を兼ねた。アイスクリームより手取り早く、甘ったるくないというので、老人たちにも好評であり、よく出前でとってたべたものだ。氷あずきは腹下しのおそれありとして、子供には厳禁であったが、幸い私たちは、たべたあとで、真赤になった舌を見せ合っておもしろがる氷いちごを好んだから、さして痛痒を感じなかった。
鵠沼《くげぬま》に祖母の家があったので、夏休みになると毎年出かけた。当時の海水浴場は、じつに殺風景で、脱衣場を兼ねただだっぴろい茶店や、貸し浮き袋屋が、二、三軒あるだけの、ただの砂浜であった。近代的な遊戯設備などは何もないが、それでも、明るい色のビーチ・パラソルの群れは、子供心にも花やかな興奮を感じさせた。
海への行き帰りには、いなごやばったを捕えたり、蟹を取ったりする。
釣りに出かける。ごはんつぶで、ふなやなまずが、おもしろいように釣れる。
せみやとんぼも、たまには取る。なぜたまかというと、そんなものは東京にもうじゃうじゃいるからである。
じっさい、そのころの東京の夏は、虫の天国で、とんぼや、せみや、ちょうや、かまきりや、てんとう虫の類いが、庭や原っぱにあふれていたものだ。そんなふうだったから、私たちにとって夏休みは、十分堪能できる、けっして飽きることのない自由な時間だった。そのうえに、グリム童話集とか、八幡様の夏祭りの縁日とか、町内の空地でやる活動写真大会とか、縁側での花火とかいうものがあって、私たちは夏休みの終るころ、あわてて宿題の日記やノートをひろげたものだ。この点だけは、今の子供たちと、まったく変らない。
海で溺れかけたことがある。海水が耳にはいって中耳炎になり、手術をしたことがある。高い松の木にのぼり、あやうく足を踏みはずしかけたことがある。そして丈夫でない私は、夏になるとほとんど毎年のように、寝冷えをして熱を出した。それでも母は、水泳も、木登りも禁じなかった。こういうやり方は、母が明治時代の軍人の娘であったことも、いくらか関係があるだろう。男の子は強く育てねばならぬという考えがあっただろう。同時にこれは一種の放任主義であり、大正時代のあたらしい自由主義的教育のもたらしたあたらしい子供のしつけ方でもあったような気がしている。
――一九六五年八月 家庭の教育――
只見立見《ただみたちみ》
小学校からの帰り道に、紙芝居を見るのは、スリルがあった。
ランドセルを背負って、買い喰いは出来ない。うしろから、背伸びをして見る。横から覗くと「只見はいけないよ」と怒られる危険があるからだ。うしろから見ていても、飴をしゃぶっている有料観客の体に触れてはいけない。「小父さん、只見がいるよっ!」などと、大声を張り上げる子がいたりするからである。
その頃の紙芝居は、凝っていた。一本の竹串《たけぐし》に、紙を張り合せ、その裏表に、同じ人物の二つの姿態が描かれている。人物の周囲は、黒く塗りつぶしてある。この小さな絵《え》団扇《うちわ》が、黒幕の前で、くるくる廻ると、三好清海入道が鉄棒を振り上げたり振り下ろしたり、玉藻《たまも》の前が金毛九尾の狐になったりするのである。
裏表がすむと、ひょいと、絵団扇を取りかえる。小さな拍子木でツケを打って、はずみをつけたりする。
取っ組み合いになると、絵団扇も大きく、一つになり、忙しくくるくる廻る。ドラが鳴り、ツケが連打される。「ええいっ!」ひょいとまた、団扇が二つになり、投げた女、投げられた馬子。「恐れ入りやした」くるり。両手をつく馬子。「女と思ってばかにおしでないよ」くるり。かんざしへ手をやる女。
この素朴なアニメーションが、一枚絵に変った時、私はがっかりして、以後紙芝居を見なくなった。
八幡神社の祭りのたのしみは、お神楽《かぐら》であった。
神楽殿は、十畳よりいくらも広くはなかっただろう。笛や太鼓の単調な調べに合わせて、面をつけ、鬘《かつら》をつけ、衣裳をつけた人物たちが、踊り、舞い、身振りをする。鈴を鳴らし、剣を振り、扇を動かす。
ヤマトタケルノミコトの悪者退治は、眠くなるような、ごくゆっくりとした動きで始まり、はげしい、電光雷鳴のような勢いで終る。やがて、にぎやかな、はずむ音楽の調べに乗って、おかめとひょっとこが、のんびりとあわてながら出てくる。
ある時、好奇心を起して、神楽殿の裏へ廻って見たことがある。黒ずんだ欄干の向うに、楽屋が丸見えで、鬘と面をはずした赤ら顔のヤマトタケルノミコトが、ラムネを飲んでいた。お姫様の衣裳を着た、痩せた、渋紙色の、小さな老人が、欄干に腰かけて、うつむいて、手拭で汗をふいていた。緋《ひ》の袴《はかま》をたくし上げて、痩せた股《もも》と脛《すね》が見え、足はまだ白足袋をはいていた。私はがっかりした。
すると、その老人が汗をふきながら、私の方を見た。その顔は、まったく無表情であった。お面よりも、無表情であった。
私はびっくりして、どきどきして、駈けて神楽殿の前へ引返した。見てはならないものを見たような気がした。お神楽は安心して出来る只見だが、それは表だけで、裏へ廻ってはいけないのであった。お姫様の老人は、舞台と同様に、無言のまま、私を見ただけであったが、その無表情な顔は、紙芝居の小父さんの叱声よりも強く、私を叱っているようであった。
夏、原っぱに掛小屋の芝居が来る。丸太と葭簀《よしず》の急ごしらえの小屋で、とてもテント劇場などという立派な代物《しろもの》ではない。照明も、むろん、スポット・ライトではない。臨時に引いた電線から、普通の裸電球がいくつもぶら下っているだけである。
これが只見であったのは、どういうわけだか分らない。たぶん、町会の催しだったのであろう。その頃――昭和の初期の東京では、まだ、芝居を見る楽しみが、芝居というものが、市民生活の中に息づいていたのであろう。
原っぱだから、全員、立見である。紙芝居も八幡様のお神楽も立見だが、違うところは、ここにはでこぼこがあり、草が生えているということで、足場次第で、思わぬ特等席に恵まれたり、三等席に甘んじなければならなかったりする。特等は草の生えていないでこの所。一等はおおばこなどの生えているでこの所、やや不安定。二等は石ころのあるぼこの所、下駄の後ろの歯を石ころに乗せると割とよく見える。三等は草の生えたぼこの所、よく見えないし、足がかゆくなる。
今の新派の芝居からは想像もつかぬ古風な新派劇をやる。
飲む、打つ、買うの三拍子そろった父親が、身から出た錆《さび》の間違いが元で、一人娘に大けがをさせ、その臨終の涙ながらの諫《いさ》めの言葉に、翻然心を入れ替えて、不動の滝に打たれながら、娘の成仏《じようぶつ》を祈る、というようなあんばいである。
ただ、今でも、よく分らないのは、どうして、あんな掛小屋で、あんな不動の滝が、出来たかということだ。仕掛けが分らない。
とにかく、本物の水が、本水が、どっどどっどと、絶え間なく落ちてくるのである。
父親役の、五分刈りの頭の役者は、合掌したまま、大声で南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》を唱えながら、そのすさまじい滝にいつまでも打たれている。スペクタクルは、原っぱでも出来るのであった。
今時、こんな芝居は見られない。東京の町会は、夏になると、盆踊りばかりやっている。裏も表も明けっぴろげなのが、当世風なのであろう。
――一九六九年九月 オール読物――
祖母から逍遙まで
九代目団十郎の描いた蘭の扇子が、家にある。渡辺崋山の役を演じた時に、舞台でそれを実際に描き、後で当夜の見物に舞台から投げたものだ、と祖母から聞いた憶えがある。扇子は、あまり大きくはない。この頃は見かけなくなったが、一と昔前まで、銀行やデパートなどがおとくいさまに、宣伝を兼ねて送ってくる暑中見舞の扇子ぐらいの大きさである。絵は、墨絵で、本格的なものだ。署名は、崋山。
この祖母は、幕末の大通、細木香以の姪《めい》だったから、芝居が大好きだった。
祖母は毎月「演藝画報」と「新演藝」という、演劇雑誌をとっていた。毎月芝居を見にゆくのはぜいたくで、見られない月にはせめてグラフでたのしもうというわけである。
「今月の歌舞伎座の狂言は、いいねえ。だけれども、歌右衛門が出てるから、高いね、今月は」
親類にも芝居好きがいて、中島のおばさんはその筆頭であった。
「来月の演舞場は、吉右衛門でござんしょ。よさそうじゃござんせんか」
「またウウ、ウウ、ウウかい」
「あら、あれがいいんですよウ」
「あとは誰」
「明石屋」
「あの人は、気どるよ。そっくり返って、顎を引いてさ。はっはっは。どうしてあんなに気どるんだろうね」
「ほっほっほ。でもいいじゃござんせんか。お安いようですよ、演舞場は」
お安い所をねらう精神、必ずしも捨てたものではない。おかげで私は、本郷座で、田圃の太夫、沢村源之助の「一つ家」を見ている。幕切れの観音様が宙吊りで出て来た途端に、隣席の祖母が、眼は舞台に釘づけになったまま、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えはじめたのにびっくりした記憶がある。観音様は千代之助。今の、仁左衛門丈であった。
お安い所をねらう精神は、左団次へゆく。むろん、二代目左団次である。
これには、いくらか、私の母の考え方も反映されていたかも知れない。二代目左団次は、小山内薫と組んで自由劇場を興した歌舞伎界の革新者である。藝風が無骨で、自然、演目にも、子供に見せて親が困るような、濡れ場や色模様が、すくない。乃木大将、西郷隆盛、修善寺物語、丸橋忠弥。見送らなければならないのは鳥辺山ぐらいなものである。
祖母も左団次は大好きであった。
「いいねえ、高島屋は。押し出しがいいねえ。それに、投げないからね。六代目は投げるから。お天狗なのさ」
「ああ、落した!」と、母が小さな歎声をあげた。
菊吉合同の中幕「紅葉狩」
姫に扮した菊五郎が、踊っている内、自分の投げた扇を自分で取り損ねて、叩き落すような恰好になってしまったのである。
「ほら、機嫌のわるそうなこと」
母にそう言われると、なるほど、菊五郎の動きや表情は、急にひどく無愛想になってきたようで、ただ決ったことを決った通りにやっているように見えてきたのは不思議であった。
その不思議は、大喜利の「供奴」まで続き、仮花道の三津五郎が、子供心にもいかにも楽しそうに、うれしそうに踊っているように感じられるのに、見上げる本花道の菊五郎は、怒っているような、威張っているような、無愛想な様子が目について、こういうのを投げるというのかな、と思いはしたものの、手をのばせば届くような近さで役者が踊っていることのおもしろさ、妖しさに圧倒されて、私はその心中の疑問を、母に質《ただ》すのを忘れてしまった。
左団次一座で、そんな思いをしたことは一度もない。子供の眼には、この一座はひどく生き生きとしているように見えた。
りっぱで、重々しい声を出す左団次。
とても元気で、とてもおもしろい猿之助。
かわいい眼と、糸で括《くく》ったような唇の、美しい松蔦。
せりふの上ったり下ったりする具合が愉快な訥子。
声のきれいな、まじめな美男の寿美蔵。
鼻へ抜ける強い声の南京豆、荒次郎。
花咲爺のような左升……
ことに、私は猿之助が好きだった。
威勢がいい。茶目なことをする。軽業のようなことをする。とても愉快な踊りをおどる。扮装がうまい。はりきっている。何よりも、おもしろい役をやる。小栗栖の長兵衛。坊っちゃん。弥次郎兵衛。村田新八。研辰。
私が昨夜見た猿之助の芝居を、興奮して話すと、祖母や中島のおばさんはにこにこしながら聞く。聞き終ると、
「でも沢潟《おもだか》屋は背の低いのが玉に傷ですねえ、おばあさん」
「品がないからね、あの人は」
「けれんが多うござんしょ」
私は心中でつぶやく――自分が見られなくって口惜しいもんだから、ケチつけてるんだ、中島の小母さんは。
祖母はときどき新聞で、自分の見られなかった芝居の劇評を読んでは、大声で劇評家の悪口を言った。
「あれまあ。ひどいことをいうじゃないか。一つもいいところがない、だなんて。いくら何でもこんなことを言われちゃあ、羽左だって可哀そうだ。ほんとに憎らしいこと言うねえ、石割松太郎って人は。私は嫌いだよ、この人と鬼太郎は。意地悪だねえ。ほんとに、大嫌いだ」
祖母は、劇評を読んでから、おもしろそうだから見に行こうなどという気は一ぺんも起したことがなかったに違いない。祖母に限らず、大正の末、昭和の初めごろまでは誰もが、役者の顔ぶれと出し物とで、自分の見にゆく芝居を自分で決めたに違いない。
左団次一座が父の「地獄変」を上演したことがある。
席につこうとして、母がすぐうしろの席の黒紋付の小柄な人に、丁寧な挨拶をする。その人も、挨拶を返す。眠ったような顔をしている。にこりともしない。
誰、と小声でたずねる。母も小声で、
「正宗白鳥さん」
もう一度、そっと振り返って顔を見る。客席を見廻してつまらなそうな顔をしている。よほどえらい人らしい。
幕が明く。しばらくする内に、若殿が猿を追いかけて出てくる。
「おのれ、盗人猿め。待て。ええい、待たぬか」
若殿は、鼻のりっぱな莚升である。
――へんだなあ、と私は思う。若殿っていうのは、もっと子供じゃないのかなあ。果物を盗られたぐらいで、あんな大人が、本気で猿を追っかけるなんて、おかしいや。
演出というものに疑問をもった、これが最初である。
悪夢に身もだえ、うめきながら、我にもあらず〓と床を踏み鳴らし、仁王立ちになった瞬間目ざめて、「夢か」とつぶやく左団次の良秀。その姿と声とは、今も脳裡に鮮やかである。
同様の戦慄的な永遠の今を、私は歌舞伎の舞台から、いくたびも発見した。
おだやかな老女が、正体を覚《さと》られたと知るや、一瞬、背を丸くし、凄まじい疾風のように走り去る菊五郎の茨木。
悲痛な怒りにつらぬかれて暗い本堂に幽鬼のように立つ佐倉義民伝の吉右衛門の老僧光然。
しずかに頭を廻《めぐ》らせて皆鶴姫を見る菊畑の、さわやかな羽左衛門の虎蔵……
中学二年の時、坪内逍遙訳の「新修シェイクスピア全集」が刊行された。母が、それをとってくれた。
空色のクロースの小型本が、毎月二冊ずつ来る。総ルビつきだから、中学生にも曲りなりにも読めるのである。
第一回配本は「ハムレット」と「以尺報尺」で、読んで見ると、まるで歌舞伎であった。
「世に在る、世に在らぬ、それが疑問じゃ」というようなせりふを読んでいると、おなじみの歌舞伎役者の誰彼の声が聞えてくるようであった。
が、同時にそこには、歌舞伎とは全く異質の芝居が、見えるようであった。
木造の家と、石と鉄の家ほどの違いがあると、生意気な中学生は考えた。
シェイクスピアは、筋がおもしろい。人物がおもしろい。芝居全体のつくり方、物語の発展してゆく具合、それにつれて各人物の考えや気分の変ってゆく具合がおもしろい。何よりも、せりふがおもしろい。複雑で、気が利いていて、言葉が豊富である。シェイクスピアはおもしろい。西洋の芝居は、みなこんなにおもしろいのだろうか。
歌舞伎は少年の私に、芝居の魅惑を、そのすべてを教えてくれた。
坪内逍遙のシェイクスピアを読むことができたのは、つまるところ、歌舞伎のおかげである。
そして逍遙の歌舞伎風の翻訳によって、私は歌舞伎以外の劇に興味を持ちはじめた。それはまた別の話になる。
――一九六九年一一月 歌舞伎――
演劇雑誌
演劇雑誌というものを見たそもそもの最初は、「演藝画報」であった。芝居好きの祖母が、毎月本屋から取りよせるのを、祖母といっしょに見るのである。
祖母や母につれられて、芝居を見にゆく。その、自分の見た芝居が、もう一度写真になって雑誌に出ているということが、ただそれだけでおもしろい。「あ、左団次だ」「吉右衛門だ」「ああ、これ『一つ家』だ」などと、こちらの合の手が入ると、祖母の方もなんとなくうきうきしてくるのが、子供心にも分った。
役者の顔と名前をおぼえるのが、たのしみであった。猿之助はサルノスケではなく、エンノスケと読むのだとおぼえると、ひどく大人になったような気がしたものだ。
めずらしいのは平仮名の名前で、「もしほ」とか「しうか」とかいうと、なんだかお菓子の名前のような気がした。
権十郎と源十郎の区別が、なかなかつかなかった。もっとむずかしいのは、松蔦と秀調で、松蔦の「鳥辺山」か何かの写真を見て、ああ、これはシュウチョウではない方の人だと思って、勢いこんで名前を言ったとたんに、祖母が笑いころげた。「あ、ショウチュウだ」と言ったのである。
毎月そんな風にして「演藝画報」を見ているうちに、まだ実際の舞台では一度も見たことのない役者の顔と名前とを、どうやら一と通りおぼえてしまった。するとまた、芝居が見たくなるというあんばいだった。
三人とも眼玉が大きいが、耳も大きい人は羽左衛門で、顎の長い人は勘弥で、どっしりした人は幸四郎である。
いちばんきれいな女形は花柳(ハナヤナギではなくハナヤギ)章太郎で、いちばん肥った女形は雀右衛門で、いちばん気持のわるい女形は梅幸である。なぜ気持がわるいかといえば、お化けや入墨をした女になるからである。
いちばん大きいのは団右衛門で、いちばんかわいいのは広太郎である。
おじいさんは四人いて、善いおじいさんは中車、悪いおじいさんは仁左衛門、頑固じいさんは松助、弱虫じいさんは左升というのである。
後になって、「芝居見たまま」とか、「霊界通信」とかいう本文の記事も読むようになったが、「演藝画報」は私にとって、何よりもまず役者のグラフ雑誌であり、観劇の感興を再現し、つぎの芝居への期待と陶酔とを誘う甘美な写真帖であった。
中学生時代には、第一次の「劇作」を、創刊号からかなり熱心に読んだ。私の家にいた従兄が、内村直也氏や原千代海氏と交友があり、寄贈にあずかっていたからである。
芝居好きの子供が、こましゃくれた演劇少年になりかかるころで、築地の国民新劇場や田村町の飛行館へかよい、学藝会のたびに武者小路実篤や山本有三の一幕物をやり、神田や本郷の古本屋で「近代劇全集」の端本をあさり、そして、「劇作」を愛読した。
この「劇作」は、今ではめずらしくない体裁だが、表紙がそのまま目次になっていた。おそらく「N・R・F」などのフランスの雑誌のやり方をお手本にしたのであろうが、当時としては、思いきったレイ・アウトで、新鮮な感じがした。
内容もそれにふさわしく、ハイカラで、翻訳劇や、森本薫のしゃれた新作が、つぎつぎに発表されたり、エヴァ・アルベルチの演技入門など、西洋の演技研究論文が連載されたりした。
ただ、私にとって具合がわるいのは、この「劇作」の劇評欄では、私の感心した芝居が、たいていけなされていることであった。新協の「夜明け前」も、テアトル・コメディーの「愉しき哉《かな》人生」も、新築地の「守銭奴」も、みな、いけないのであった。
私は、岸田国士先生のリズミックな文体の戯曲を愛読していたし、また、その戯曲と表裏一体をなしている歯切れのいい演劇評論が、ことのほか気に入っていた。日本の新劇は、なぜおもしろくないか、日本の新劇役者は、どうして魅力がないかを、岸田先生は、いろいろな角度から、繰返して書いておられた。私はそういう評論を熱心に読み、築地や田村町で新劇を見るたびに、なるほど、その通りだな、と思い、しかしそれはそれとして、「夜明け前」に感心し、丸山定夫のアルパゴンの熱演に興奮し、テアトル・コメディーの奇妙な味に微笑をさそわれて、さて「劇作」の劇評を読むと、やっぱりだめで、私はその二重の喰いちがいを自分の中でどう処理すべきか、大いに思い悩んだものだ。だから、築地座の「秋水嶺」で、私のおもしろいと思った友田恭助の山口壱策と、杉村春子の朝鮮人の妻とが、「劇作」の劇評欄でほめられた時には、鼻のつまっているのがなおったような、ほがらかな気分になった。今から思うとばかばかしいようなものだが、「劇作」は、当年の私にとっては、芝居という熱病にたいする診断書、あるいは処方箋であり、その診断、処方が、じつにアトラクティヴにできているために、読めば読むほど、かえって、熱病に冒されてみたくなるような、不思議なカルテだったのである。こましゃくれた演劇少年は、劇場と活字との間を往復しながら、だんだん、頭でっかちの演劇青年になっていった。
戦後になって、自分が実際に芝居にたずさわるようになってからは、演劇雑誌というものは、ことにその劇評欄というものは、何ともいえぬ気分のものになった。こちらが加熱され、冷却される度合、あるいは具合が、まるで違ってきた。つまり、「かもめ」のトリゴーリンではないが、「ほめられればうれしいし、くさされれば二日ばかり不機嫌になります」ということになってきたのである。
しかし、もともと演劇雑誌というものは、芝居にたいして、加熱と冷却の両面の作用を持っているべきものだろう。戯曲の発表の場ということも、むろん大事だが、戯曲、演出、演技、劇場、その他、芝居の各方面にわたって、オーヴァー・ヒートをおこさぬように、体温低下を来たさぬように、たえず調節してくれるものは、演劇雑誌以外にはない。
芝居そのものが、今日では、なかなか維持してゆきにくくなってきている。大ざっぱな言い方だが、歌舞伎も、新派も、新劇も、いわゆる合同公演も、ずいぶんむずかしいところへ来ている、と私は思う。芝居が、藝術的にも、経済的にも、ひどく骨の折れる仕事であることは、何も今にはじまったことではないが、このごろは、その骨の折れ方が、よほどきつくなったような気がする。なに、骨の折れるのはおまえたちの劇団だけだろう、と言われれば、ほんとうにそう思いますか、と反問する。
今日の劇場は、商品ばかりがあふれていて買手の姿の一向に見えない商店のようであり、品物も客もあふれていてさっぱり売りあげのないデパートのようでもある。旧型新型変型の車がひしめいて最低速で走っている高速道路のようでもあり、ロビーばかりが賑わって泊り客のひとりもいないホテルのようでもある。客車を連結しないで、ひとりでむやみに走っている機関車があるかと思えば、超満員の客車が、機関車なしで走っていたりする。
演劇雑誌というものの維持のむずかしさも、存在の必要も、そういう情勢と無関係ではないだろう。装いをあらたにして再出発する「悲劇喜劇」が、今日の芝居に、どういう角度から、どんな照明を投じてくれるか、たのしみである。
――一九六六年一月 悲劇喜劇――
新劇俳優
新劇俳優というものを、ごく間近に見たのは、中学二年の時である。
何かの用があって、いつもは大塚窪町の裏門から帰るのを、その日は、小学校の校庭を横切り、氷川下の裏門へ抜けるはずであった。
放課後の小学校は、しんとしている。講堂の脇を通る。ふと頭を上げると、高い窓硝子ごしに、異様な人影が見える。
縮れた長い髪、抜け上った額、高い鼻、大きな眼玉。口髭を生やしている。おそろしく派手な柄の上着を着ている。マフラーをしている。どう見ても、西洋人である。
まわりに、四、五人、金ボタンの師範の学生がいる。
私は好奇心を起して、後戻りをし、講堂の入口の石段を上った。扉のかげから、覗き見をする。
異様な人物は、手に二本の剣を持っている。ますます西洋人のようである。
低い、聞き取れない、静かな声で、物を言う。やがて、一本を学生に渡し、自分も剣を構える。長い片手が高く上り、長い片足がすらりとうしろへ伸びる。一合、二合、三合。学生に腕を刺され、異様な人物は、獣のように素早く身を引きながら、腕を押え、剣を取り落す。同時に、学生も剣を落す。
そこが学生はうまくゆかない。異様な人物は、低い、聞き取れない、静かな声で、優しく、言い含めるように、注意を繰返す。
今度は、自分が刺す側に廻る。一合、二合、三合。すさまじい気迫の一撃。と同時に、放心したように、ばたりと剣を落す。中学生は見とれてしまう。
「じゃあ、こんどはせりふと一緒に」
剣を学生に渡しながら言う。金ボタンの学生が二人、向い合って剣を構える。
"Then, brrrrr!"
"You, shrrrrr!"
なるほど。師範の学生たちが英語劇の練習をしているのだ。
それにしても、どう見ても生粋の、典型的な日本人の学生たちがへんな英語をしゃべり、西洋人のような異様な人物がやわらかい声で流暢な日本語をしゃべっているのは、奇妙な取り合せだ、などと考えていると、異様な人物が、こちらを振り向いたので、私はびっくりして、扉のかげから身を退いた。
氷川下の裏門への坂道を下りながら、私は心中で呟いていた。
――知ってるぞ。あれはシェイクスピアの「ハムレット」だ。最後の決闘の場で、ハムレットが毒を塗った剣で刺される所なんだ。あの西洋人みたいな人は、きっと新劇俳優に違いない。一体、誰だろう?……
その疑問が解けたのは、大分後のことである。
邦楽座《ほうがくざ》へ、映画を見に行った。
一幕物の創作劇を、一緒にやっていた。当時は、そんな形の興行が、珍しくなかったのである。アトラクションと称した。
見覚えのある、異様な人物が、着流しの和服で出て来た。
芝居は、水木京太作「フォード驀進《ばくしん》」
舞台裏から聞えてくる肝腎のフォードの、エンジンのかかる音が、オートバイのそれだったので、客席はくすくす笑いをした。
兵児帯をだらしなく巻きつけた着流しの和服の、その口髭を生やした主人公は、自動車でも、オートバイでも、要するに似たようなものじゃないか、とでも言いたげに、悠然と芝居をしていた。
その人は、東屋三郎。今の人には耳遠い名前だろうが、築地草分けの名優の一人である。その人の舞台を見たのは、それが最初で、最後であった。
同じ邦楽座で、間もなく、もう一人の新劇俳優を、間近に見た。邦楽座は今の有楽町のピカデリー劇場の前身で、今よりは大分いい劇場であった。
小津安二郎監督が、「ひとり息子」という映画を作り、その試写会が邦楽座で行われた。学生だった私が、その試写会に招かれたのは、その映画が、冒頭、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中から、「人生の悲劇の第一幕は、親子となったことにはじまっている」という一句を、字幕として掲げた故である。小津氏はこのサブタイトルを、作品に不可欠なものと考えられ、当時助監督のチーフだった原研吉氏を介して、その使用を申し入れて来られたのだった。
母と一緒に、私は、原さんから紹介されて、小津さんに挨拶をした。やがて、私は一人廊下に残った。たぶん母は、一と足先に、客席へ入ったのだろう。私は窓際で、プログラムを読んだり、向うの電気博物館だか何だかの建物の方へぼんやりと眼をやったりしていた。
すると、誰かが、私を見ているのだ。見られている。
何ということなく、誰かに見られている、と感じて、振り向くと、そこに果して自分に視線を当てている人間がいた、という体験は、それほど珍しい体験だろうか。
振り向くと、二メートル程の所に、こちらを見つめている人がいた。
紺の背広を着ている。蝶ネクタイをしている。ハイカラな面長の、色の白い顔が、じっとこちらを見つめている。
すぐ分る。友田恭助である。
私はドギマギする。
私はそんなにうさん臭い様子はしていないつもりである。誰かと見間違えているのではあるまいか。あるいは、見覚えのある誰かの顔を、私の顔の中に探しているのではないか。こちらにして見ればむろん写真や何かで見覚えはあるけれど、困るじゃないか、そんなに見つめられては。
友田恭助は左の肩ごしに、じっと私を見つめ、時々、彼の話相手の方へ顔を向けては、またこちらへ視線を当てる。
その眼つきは、何だか、動物園へ到着した新しい珍種の獣を見るようで、こちらは照れ臭いような癪にさわるような気分になり、その内ベルが鳴ったのを幸い、私は逃げるように客席へ入った。
その後「秋水嶺」の山口壱策を演じる友田を見た。やはり私にとっては、最初で最後の舞台姿であった。
あの時分の新劇は一体に泥くさく、垢抜けのしない舞台が多かった。ことに翻訳劇となると、洋服が身につかず、イヴニングやタイツ姿は見るも無惨であった。せりふもなまりの強い人が多く、ずいぶん味気ない思いをしたものだ。
ところが、ふだんの生活では、新劇俳優というものは、地味と派手との差はあっても、概して今よりもハイカラだったように思われる。ダンディスムが生きていたように思う。
東屋三郎や友田恭助は、そういう中でもダンディスムを人一倍大切にした役者ではなかったか。たった一度きりの舞台であるにも拘らず、だらしなく兵児帯を巻きつけた「フォード驀進」の主人公ののろのろした足取りや、胡麻塩頭を畳にこすりつけるようにして名刺を差出す卑屈な山口壱策の姿が、未だに私の脳裡に鮮やかなのは、ただ単に表現技術の問題ではなく、かれら演技者・生活者としての姿勢が、その魅力が、よほど強かったからだろうと思われるのである。
――一九六九年一〇月 悲劇喜劇――
「新演劇研究会」と「山の樹」
ぼくらが、日吉の予科から三田の学部へ移ったのは、昭和十五年の四月である。
そのころの仏文は、三学年あわせて、二十人に満たない少人数だった。同級に、堀田善衞、鬼頭哲人がいた。堀田は、予科では法科だったのが、学部に進むときに、仏文に転じたのである。
加藤道夫も同期だったが、これも堀田と同様に、法科から英文に変っていた。仏文の三年に、白井浩司がいた。
堀田とは、三田で知り合ったが、加藤とは、日吉時代からのつきあいだった。日吉時代に、西洋史の神山四郎や梅田晴夫やいま丸善にいる八田徳治たちのやっていた「素描」という同人雑誌があり、加藤もそのメンバーに加わっていたので、ぼくと同級の八田が紹介してくれたのである。
文学座がマルセル・パニヨールの「蒼海亭」を飛行館で上演した。その廊下ではじめて会った。熊の仔みたいな奴だと思った。オニールが好きで、よく読んでいるらしかった。
映画にもなかなか関心があるらしく「素描」には「七面鳥と男」と題するシネ・ポエーム風のシナリオを書いたりしていた。その後、加藤とは、急速に親しくなった。一緒に「新演劇研究会」と称するグループをつくり、芝居の勉強をはじめた。
東大、商大、成城、津田英学塾など、方々の学校から、それぞれの学校の「劇研」にあきたりぬ連中が、集まってきた。そのころの「劇研」は、どこでも大抵、翼賛会のにおいのする農村劇をやっていたのである。
しかし、加藤道夫がいなかったら「新演劇研究会」もなかっただろう。加藤は友情にあつく、人を集める天分とでもいうべきものを持っていた。「新演劇研究会」には、鬼頭哲人、原田義人、鳴海弘などがいた。二年間にポール・グリーン、ジュール・ロマン、モリエールなどの作品を上演したが、学生課でなかなか許可してくれないので、困ったことをおぼえている。学生芝居の時代ではなかったのである。
芝居をやっている一方で、ぼくは、詩の同人雑誌「山の樹」にも加わっていた。これも、予科時代からで、国文へ行った鈴木亨が中心になっていた。鈴木は中学時代、伊東静雄氏の教え子だったので、自然「山の樹」も「四季」や「コギト」の色彩を帯びていた。この雑誌には、仏文で一年上の村次郎、小山弘一郎も加わっていたし、白井浩司もサルトルの「部屋」の翻訳を発表している。(これはサルトルの作品の邦訳としてはおそらく最初のものであろう)また、この雑誌を通じて、ぼくらは東大の友人達と知り合った。中村真一郎、小山正孝、福永武彦、加藤周一、白井健三郎……
ぼくらはよく、日吉と駒場から、渋谷でおちあって、今はない「ウインナ・ベーカリイ」の片隅で、濃いクリームを浮かせたウインナ・コーヒーをのみながら、コクトーの新作の戯曲の話をしたり、「イタリー・レストラン」でマカロニ・ナポリタンなどというものをたべながら、山中貞雄のモンタージュについて論じあったりしたものだった。そして、リルケとかヴァレリーとかが、いつもぼくらの話題になった。
堀田善衞は、ひとりで、やっていた。ぼくらの芝居に、無言役で出たり「山の樹」の連中ともつきあってはいたが、本当は何をしているのか、よく分らなかった。
バルザックや、ドストエフスキーや、ランボーをこつこつ読んでいるらしいことはわかったが、なにも書かないから、飄々《ひようひよう》として激しやすく、厳格でやさしい人柄が裡になにを蔵しているのか、ちょっと見当がつかなかった。
西脇順三郎先生の文学概論、折口信夫先生の藝能史、奥野信太郎先生の中国小説、佐藤朔先生のフランス近代詩などの講義をきいた後、牛込の印刷所で、ミケランジェロ作、杉浦明平訳「おいしい、あきない、ねばりつく、あなたは、お砂糖みたいだね」というような詩の校正をやったり、神田の古本屋をあさって、ジャン・アヌイという若い作家の戯曲をみつけて興奮したり、――何だか知らないが、いろいろなことをいっしょくたに夢中になってやっていたものだ。
昭和十七年十月、ぼくらは繰上卒業で、軍隊に入った。前もって、わかっていたことであった。
――一九五七年一〇月 三田新聞――
「文學界」記者時代
――内職をしよう、と加藤道夫がいった。
昭和十六年、ぼくたちは大学生だったが、その頃、まだアルバイトという言葉は使っていなかったのである。
――そうする他はないだろう、とぼくは若き「なよたけ」の作者に同意した。
そのころ、ぼくたちは「新演劇研究会」というグループをつくり、神田錦町の貸席、錦橋閣の小さな部屋を借りて、一と晩おきに集まっては、脚本の朗読をしたり、ルイ・ジュヴェとか、ベルト・ポヴィとか外国の名優の吹きこんだレコードを聴いたり、芝居についての議論をしたりしていたのだが、そのうちに、自分たちで実際に芝居をしてみなければ、どうにも収まりのつかないような気持になっていた。
それにしても、芝居をやるとなると、一体どのくらい金が要るものだろうか。さっぱり見当がつかなかったが、どの劇団でも、舞台稽古はかならず夜中にやっているところをみると、小屋代は安くないものと思わなければならなかった。
稽古期間を、六カ月ときめたのは、ひとつには、むろん、徹底的な稽古をやるためだったが、資金の積立をするためにも、それくらいの期間はどうしても必要だと思われたからである。
築地小劇場(当時はもう、国民新劇場と改称されていたが)へ様子をききにいったが、まず、大道具の高いのにびっくりした。
一ぱい(一場面)で、三百円だという。
大学出の初任給が、六十円前後だったころの三百円だから、大金である。
しかも、ぼくたちの予定している芝居はどう少なく見積っても三ばいは必要である。とすると、大道具だけで、もう、九百円かかる勘定になる。
加藤とぼくは、すこし青い顔になり、大道具部屋の框《かまち》に腰をおろしたまま、張りぼての石燈籠や、白樺の木や、壁にかけならべた鋸《のこぎり》や鉋《かんな》を、ぼんやり眺めまわした。
そのほかに、小屋代がいる。衣裳や小道具も借りなければならないし、照明や音響効果のための費用も必要だろう。ポスターは自分たちで描くとしても、切符やプログラムは、印刷所にたのまねばならぬ。
仲間は十五人ばかりいたが、公演のための多額な準備金を、皆に等分に負担してもらうことは、事実上、出来ない相談だった。といって、それをすすんで引きうけるほどの余裕は、加藤にも僕にも、ある筈がなかった。それならば、芝居をやろうといいだした責任上、何とか方策をたてなければならない。相談の結果、会員は毎日の会費のほかに、公演用として若干の積立をすることにし、加藤と僕とは「内職」によって資金の捻出をはかることになったのである。
加藤は通訳をはじめた。英語とフランス語とドイツ語がしゃべれるから、たいへん具合がいいようであった。三田の大学の教室を出て、日比谷の帝国ホテルで「内職」をして、神田の稽古場へくるから、道順もいいのである。
僕は、父の全集の出版中に、その校正の仕事をときどきのぞいたことがある。時には、見よう見真似で、朱を入れるのを手伝ったりもした。その後、友人たちの詩の同人雑誌にも加わっていたから、割りつけや、活字の指定や、校正をすることが、いくらかは出来るようになっていた。家庭教師という手も考えないではなかったが、雑誌の校正の手伝いの方が気楽だろうと、勝手にきめた。
すると、ちょうどそこへ、佐佐木茂索さんから、文藝春秋社へ嘱託の形で、しばらく来てみる気はないかというお誘いをうけたのである。たいへん、ありがたかった。こうして、僕にも「内職」ができた。
週に三日、学校の早く終る日に、社へゆく。
校正刷が出はじめると、小石川の共同印刷へ出張する。そうなると、毎晩遅くなるから、芝居の稽古は、その間だけ休まなければならない。
僕は、「文學界」の編輯部へ配属された。編輯長は庄野誠一さんだった。庄野さんは三田の先輩だが、会ったのはこの時がはじめてである。「肥った紳士」はなかなかしゃれた作品だったが、作者の庄野さんは、まぶしそうな横目をつかいながら、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮べて、低い声で話す、痩せた紳士だった。
「文學界」の編輯部には、やはり嘱託として、牧野英雄君がいた。年は僕より下だったが社内のこと、文壇のことをよく知っていたから、分らないことは、大抵牧野君にきくことにしていた。大柄な牧野君は、いつも快活で親切だった。
社へ行って、机に向っても、さてこれといった仕事があるわけではない。雑誌のバックナンバーをあれこれとひっくりかえして、活字の大きさや、組み方、目次の立て方、何号活字で何段組にすると一頁に原稿何枚分が入るかというようなことをおぼえてしまうと、後はもう、何もすることがない。ゲラ刷りが出るまで待機である。割りつけは庄野さんが、さっと片づけてしまうので、手の出しようがない。
あんまり暇なのは気がひけるから、庄野さんに、何かすることはありませんか、というと、横から牧野君が、ピンポンしませんか、あの組がもうじき空きそうだから、と笑いかける。なるほど、暇なのは自分だけではなさそうだと気がついた。
次の日から、本を持って行くことにした。
ある友人の家でロダンの彫刻の写真集を見た。見ているうちに、欲しくなったが、友人はどうしても承知しない。一週間貸してやるから、それで諦めろという。止むを得ず借りることにして、持って歩いていた。
社の机でそれを見ていたら、「それ、君のか」という声がする。ふり向くと、永井龍男さんだった。
永井さんが、何の編輯長だったか、覚えていない。とにかく、声をかけられたのははじめてである。友人からの借物である旨を答えると、永井さんは黙ってその写真集を手にとり、一枚一枚、見はじめた。
その頁を繰る手が、止った。いつまで経っても、動かない。
それは、六つの小さな彫刻の頁だった。彫刻というよりは、手すさびといった方がいいかも知れぬ。一見、子供の粘土細工かと思われるほど素朴なもので眼も鼻もない真ん丸な頭と、元も先も同じ太さの腕と脚とで出来ている。踊り子のつもりなのであろう、六つとも、それらしいポーズをしている。持てば、掌の内に入るだろう。
永井さんは、一と通り終りまで見てしまうと、また、その頁をあけて、同じようでひとつひとつ違っている六つの単純な踊り子を、しばらく眺めていた。そして、「おもしろいね、これ」と言った。
僕はそれを、いかにも「絵本」の作者らしいと思った。
それからまた、以前、永井さんが、ルナールの「にんじん」のように短い独立した話を連ねた形式の長篇を書いてみたいと、どこかに書いておられたのを、思い出したりした。
ある日、僕は机に向ってぼんやりしていた。庄野さんは風邪らしく、マスクをかけて、本をよんでいる。牧野君はいないし、隣の机の桔梗利一さんも出かけている。早くゲラが出るといい、これじゃとてもたまらないなどと思っているうちに、ふと眼をあげると、受付の方から、こちらへ向って歩いてくる異様な人物がある。
おそろしく長身である。黒紋付に羽織袴《はかま》で駒下駄をはいている。小さな風呂敷包みをもっている。猫背で、抜け上った広い額にはやわらかい黒い髪が垂れ、ぎょろりとした巨きな眼が、ななめに天井を見上げている。身体はそのまま、ゆらゆらとまっすぐに此方へ向って歩いてくるのである。ちょっと、フランケンシュタインのボリス・カーロフをやせぎすにしたような趣がある。
その人物は、そのまま、僕の後ろを通りぬけ、菊池さんのいる社長室へ入っていってしまった。
僕はよほどへんな顔をしていたらしい。庄野さんが、目だけで笑って、マスク越しに教えてくれた。「花田長太郎八段。将棋」
そんな風だったから、共同印刷へ出張校正にゆくときには、かえって張りがあった。父の全集の校正をやっておられた高橋幸一さんがご一緒なのも、心強かった。
はじめのうちは、活字が少しかすれていたり、汚れがあったりすると、むやみに赤インクで印をつけて、庄野さんに、「君の校正はすこし神経質すぎるね」とわらわれたが、だんだん要領がわかってきた。詩の雑誌と散文の雑誌とでは、校正の仕方まで違うのである。
印象にのこっているのは、森山啓さんの評論の校正である。何故印象にのこっているかというと、原稿に加えられた推敲が、実に綿密だったからだ。消しては書き、それをまた消し、真黒になって読めないところは上からその部分だけまた原稿用紙を貼りつけて、その貼りつけた部分がまた徹底的に推敲されている。一段落ついたと思うとそこから線を引いて左の欄外へ移り、足りなくなって右の欄外へ移り、実に読みにくいのである。しかしその評論は、校正の必要上というよりも、評論自体のおもしろさで、否応なしにそのつづき具合を辿らざるを得ないようにできていた。
森山さんご自身も、この校正を気にされたと見えて、わざわざ印刷所の校正室へゲラを見に来られたが、それがすむと、となりの椅子で校正をしていた僕に、いきなり挨拶をされた。
「あなた、真鍋呉夫さんですね」
僕はびっくりした。
森山さんがどうして僕を真鍋さんと間違われたか、いまだにわからない。
「新演劇研究会」の発表会は、予定通り、行うことができた。アメリカとフランスの現代劇を、加藤とぼくとが一つずつ訳し、それに加藤の創作劇一篇を加えて上演した。
会員券は九十九銭だった。一円以上になると入場税がつくので、売上高に影響しそうだということになり、敬遠したのである。当時文学座などの一般の新劇団の入場料は一円三十銭位だったように思う。
芝居を終えてみると(といっても、たった二日しかやらなかったのだが)、一円七十銭だかの黒字がのこった。
そのすぐ後で、太平洋戦争がはじまった。
しかし文藝春秋社のなかの空気は、そのために特にどう変ったということもないように見えた。いや、実際には、そうではなかったのであろう。大きな時局の変化が、文藝春秋社にかぎらず、ジャーナリズムの世界をゆすぶらなかった筈はない。
ただ、ぼくたちは、いずれ戦争に駆り出される時がくるだろうが、その時は、その時のことだと思っていたから、繰上げ卒業にそなえて、早目に卒業論文にとりかかりながら、依然として「内職」をつづけていた。そして卒業する前に(というのは、兵隊になる前に、という意味だが)モリエールを上演するべく、準備にとりかかった。
ある日、社へゆくと、見なれない人が向うの机に坐っていた。高橋幸一さんに、あれは誰ですかときくと、今度社へ入った小野詮造さんという人です、と教えられた。小野さんはそのとき、五分刈りの頭で、いかにも、学校を卒業し、徴兵検査をうけた直後の入社という感じがした。後年、映画「自由学校」の五百助に推されただけあって、小野さんは、その頃から、堂々たる体格と、悠容迫らざる風貌をそなえていた。
あまり口を利く機会はなかったが、あんなりっぱな体格の持主が、兵隊にとられなかったらしいところをみると、ぼくは当然免れるはずだなどと、無益な推量をしたことがある。
いま考えてみてどうも腑におちないのは、「文學界」の編輯の手伝いをしていたくせに、河上徹太郎さんを除いて、そのころの「文學界」の編輯同人の方に一人もお会いした覚えのないことである。校正ばかりやっていたせいもあるだろうが、それにしても、編輯室やレインボーで誰か見かけるぐらいのことはあっても不思議はない筈なのに、全然記憶がない。
まして、「文學界」以外の編輯部、――「文藝春秋」や、「オール読物」の方の様子などは、皆目わからなかった。出版部には、後に南方で戦死された江原謙三さんがいた。ときどき、新刊の本を持ってこられて、「これ、あげます」と静かな声で言われたのが、妙に印象に残っている。寡黙な、優しい人柄だった。
それでは、自分で校正した「文學界」の、創作や評論のことを、よく覚えているかというと、これも、さっぱり記憶にのこっていない。友人達とさかんに語り合った外国の文学についての記憶があるばかりである。そして、印刷所の校正室で、夜中、校了になった後、みんなでたべた鍋焼うどんが、ものすごく熱かったというような、他愛もない記憶があるばかりである。
昭和十七年の七月、予定通り、モリエールの「亭主学校」を上演して、ぼくは軍隊に入った。
二年後。ぼくらの飛行隊は、浜松の飛行場で、慰問団の訪問をうけた。一行のなかに、横山隆一さんがおられた。
横山さんは、そのとき、たいへん率直でユーモラスな挨拶をされた。
「私は漫画をかいていますが、いまは、漫画だけではなかなかむずかしい時代なので、『フクチャン』を描いている新聞社の嘱託をつとめています。そして家で、日に三度ずつ食卓についているのです」
ぼくは、ぼくの食卓と関係のなかった嘱託を、怠惰な「内職」のことを思い出し、ひとりで顔を赤くした。
――一九五七年一一月 文藝春秋――
昭和二十年八月
昭和二十年六月、私たちの陸軍戦闘機隊は、鹿児島県知覧飛行場から、愛知県小牧飛行場に転進を命じられた。
当時私は、その戦闘機隊の、整備隊の一員であった。
私は、その先発小隊引率の任にあたったが、行ってみると、受入れ態勢がまるでできていない。そんな飛行隊がくることなど、全然きいていない、というのだから、話にならなかった。軍の上層部の指揮、連絡系統が、すでに、大分混乱しているようであった。
ようやく、滋賀県八日市飛行場へゆけという指示が出て、そこへ行ったが、ここはまったくの平時用の飛行場で、格納庫や兵舎が、滑走路のまわりにあからさまに立ち並んでいたから、空襲は、毎日来た。
八月、広島に新型の爆弾が投下されたというニュースにつづいて、ソ連軍が満州にはいったという記事が新聞に出た。もう、だめだと私は思った。
東京から来た将校が、広島の爆弾は、油圧を利用した特殊爆弾らしい、と説明した。黒っぽい服よりも、白っぽい服の方が、その爆弾の発する高熱を反射するべく、有利である。整備兵は、全員、作業衣を廃して体操衣を着るように。今から思えば笑話である。
戦争が終った。その日、となりの隊では、特攻隊として出発する予定だった若い少尉が、黙って独りで出発し、琵琶湖に突入して死んだ。軍の物資を持ちだそうとした兵や下士官を、若い将校が斬った。
しかし、私たちの戦隊長の指揮は冷静沈着であった。まず兵隊を、無事に家に帰すこと、次に幹部候補生、最後に現役の将校が残って、後命を待つこと。隊長小林少佐は、当時、幹候の少尉であった二十五歳の私と、ほぼ同年だったはずである。
小林氏は、つい昨年、自衛隊のジェット機の演習で亡くなられた由、人づてにきいた。
――一九六〇年八月 主婦と生活――
「新ハムレット」
昭和十六年、太宰治の「新ハムレット」の初版が出た時、私たちは飛びつくようにして買って、何度も繰返して読み、この戯曲的小説あるいは小説的戯曲を上演することを、熱心に検討した。
私たちというのは、加藤道夫、原田義人、鳴海弘、私の四人で、私たちは「新演劇研究会」という学生劇団の上演作品選定係なのであった。既成の新劇団の演目を追うことは、はずかしいことだと思っていたから、上演作品の選定は、いつもひどく難航した。
「新ハムレット」はほとんどすべての点で、私たちの気に入った。「ハムレット」のパロディーであるという点が、ことに、私たちの若い知的虚栄心を満足させたのである。
しかし、いくらパロディーとはいっても、王が人を殺し、王妃が投身自殺し、総理大臣が劇中劇の女形を演じた末に錯乱して殺され、その娘が王子の子をみごもるというような芝居が、果して検閲にひっかからないかどうか、保証の限りではなかった。出版は許可されても上演は不許可という例が、めずらしくなかったころである。
作品自体についても、問題があった。これは要するにレーゼ・ドラマではないか、とてもしゃべれたものではない。いや、そこがおもしろいのだ、などと、議論ばかりしているうちに時間切れになるのが学生劇団の常で、私たちはモリエールと阪中正夫の、それぞれ初期の作品を上演して、戦争に出かけていった。
敗戦の翌年、加藤と私とは、思想座という劇団をつくり、その第一回公演に「新ハムレット」を上演する計画をたてた。加藤が「三田文学」に、思想座の結成について、宣言ふうのみじかい文章を発表した。
二人の合作で、プロローグをこしらえた。幕明きの舞台に、シェイクスピアの亡霊があらわれて、こんな贋物《にせもの》を上演されては迷惑だ、と文句をいう。役者たち(私たち)が、あなたもよく用いた手じゃありませんか、と反駁《はんばく》する。たあいのない代物《しろもの》だが、その時にはどうしてもこういう「前書」が必要だと思いこんでいたのである。当時、どこかの劇団がトルストイの「闇の力」を上演したら、いつまで見ていても闇屋が出てこないので、がっかりした見物がいたという実話がある。
その年の初夏、私は上演の許可を求めるために、青森県金木町の太宰治氏を訪問した。初対面だったが、氏はすぐに許可してくれた。私は氏がひっきりなしに話し、笑うのにおどろいた。
「戦争中に丸山定夫がウイスキーさげてやってきてねえ、『新・ハムレット』(と氏は新とハムレットとをはっきり区切って発音した)をやりたいと言う。クローディアスをやりたいのだ。きみはハムレットか? 丸山は広島の原爆で死んでしまったから、仕方がない」「劇とは、読んで字の如し。はげしいものだよ。チェーホフだって(と氏は津軽塗りの丸い卓のうえに指で書きながら言った)酷烈なものだ。あんなに静かな『伯父ワーニャ』でも、ちゃんとピストルが鳴るじゃないか。日本の新劇は思い入ればかりしてる。縁側から空をながめて、『ああ、秋だねえ』なんて。いやだねえ。何の意味もない」「日本の俳優はひとりも戦犯にならない。ルイ・ジュヴェをごらん。もしもあいつが対独協力してたら、きっと死刑だ。そういう顔してるよ。日本の俳優は、人格を認められてないんだよ、まだ。だめだねえ」
氏の言葉のかずかずは、今も私の耳に残っている。
しかし私たちはついに「新ハムレット」を上演することが出来なかった。思想座は、宣言だけして、何もしないで解散した。戦後生活の激動の中で、金のない非力な二十五、六歳の演劇青年たちはすっかりお手上げになってしまったのである。芝居をつづけるために、大きな新劇団に入った。やがて新しい作家たちの戯曲がつぎつぎに発表され、太宰氏の没後、私たちはあれほど思いつめた「新ハムレット」上演の意欲を、少しずつ、失っていった。
「新ハムレット」は私にとって、初恋の創作劇とも言うべき作品になっているようである。
――一九六五年一二月 朝日新聞――
緩い曲り角
どうも、開眼というようなはっきりした区切りが、自分の人生にあったとは思えない。西洋流に言うと「眼のうろこが落ちる」という所であろうか。残念ながら、そんな鮮やかな、一瞬の内に視界がにわかに開けるような思いをしたことは、一度もない。われながら、ずるずるべったりで困ったものである。
学生時代から芝居が好きで、友だちと劇団をこしらえ、自分たちで翻訳した戯曲を自分たちで演出し、役者も装置も、宣伝のポスター描きも、ついでにそれを貼って廻るのも、みな自分たちでやった。
戦争から帰って来て、しばらくは途方に暮れていたが、語学の家庭教師をしたり、翻訳をしたりしている内に、また芝居をはじめた。戯曲を書くか、舞台の実際にたずさわるか、腹をきめかねるまま、「麦の会」という小さな集まりをこしらえて、何となく芝居をやっていた。
すると、東京藝術劇場から、客演の申込みを受けた。久保栄作・演出の「林檎園日記」である。劇場は、今のではない、昔の小さな帝劇であった。
滝沢修、山本安英、森雅之の諸先輩と同じ舞台をふんだが、この劇場は、私が、小学校三年の時に、初めて新劇というものを見た劇場であった。その時の演目はレマルク作の「西部戦線異状なし」で、山本安英さんが若い娘の役で出ていたのを覚えている。その同じ舞台で、山本さんと一緒に芝居をしているのは、妙な気分であった。山本さんは、依然として若い娘の役であったから、尚更妙な気がした。
つづいて、文学座から口がかかって来た。岸田国士作「歳月」に客演しないか、という。岸田先生のお宅には、学生時代に、何度か伺ったことがある。戯曲はむろんのことだが、先生のお書きになる演劇評論には、鋭い創意と卓見があり、理想があり、私はほとんど心酔していた。私は二つ返事で、出演を承諾した。杉村春子、中村伸郎、宮口精二、三津田健の諸先輩といっしょに、名古屋、大阪で芝居をした。
実は文学座も、私たちにとってはすでに親しい存在だった。私たちの学生劇団の稽古場は、文学座と同じ貸席だったからだ。
やがて、文学座から、入座のすすめをうけた。戦後のインフレで、私たちの小さな劇団――というよりも研究会は、にっちもさっちも行かなくなっていたので、思い切って入座した。
岸田先生は、研究所の面倒を見てくれ、と言われる。大いにやり甲斐がありそうである。この期に及んでもまだ私は、舞台の仕事と書斎の仕事との、いずれを選ぶべきか、意を決しかねていたのである。書斎にいると舞台が恋しくなり、劇場にいると机へ帰りたくなる、というような気分であった。研究所で教える、戯曲の翻訳をする、演出をする、演技もする、目の廻るような毎日であった。
そうこうしている内に、だんだん、役者として使われる度数が多くなって来た。当時文学座は、戦争直後の新劇団の例に洩れず、若手の男優が不足していたからであった。私は、何となくずるずるべったりに、緩い曲り角を曲るように、役者になって行った。
むろん、うまかろうはずはない。杉村さんはじめ諸先輩から、さんざん叩かれている内に、だんだん、大きな役につくようになり、やがて大きな役ばかりつくようになって来た。つぎつぎと厚い壁の前に立たされるようなもので、とても、開眼どころか、眼の前が真暗になるような思いの連続であった。
「どん底」のサーチンを演じる舞台稽古の日、演出を担当しておられた岸田先生がお倒れになり、その夜、お亡くなりになった。
翌年、シェイクスピアの「ハムレット」を演じた。岸田先生に見て頂けないのが、無念であった。私は三十五歳になっていた。
――一九六九年四月 「〓」あなたは王様――
読書のたのしみ
大学の予科にいた時、国文学の佐藤信彦先生に、こう言われたことがある。
「夏休みには、長篇を読みたまえ。ドストエフスキーでも、トルストイでも何でもいい。好きな作家の全集を読破するなら、なお結構。読みたい時に、読みたい本が読めるのは、学生時代だけと心得てよろしい。社会へ出たら、なかなか本なんて読めるものじゃない。数を多く読むばかりが能じゃないが、仮に一日一冊読んだところで、一年間にたった三百六十五冊しか読めない勘定になる。今のうちに、精を出して読むことです」
一日一冊はおろか、十日も二十日も一冊の本とにらめっこをしていた私は、大いに恥入って、その年の夏休みには、ドストエフスキー全集を読破する計画をたて、はじめの一日二日は、われながら感心するほどのスピードで「白痴」を読み進んだが、三日目になると、何を読んでいるのやらおぼつかなくなってきて、また始めから読み直し、夏休みの終った時には、やっと「白痴」一篇を読み終えただけであった。
こう言うと、いかにも精読を事としていたように聞えるかも知れないが、その間、他の本は手あたり次第に読んでいたのだから、つまり、気まぐれなのである。
おなじころ、チェーホフの「三人姉妹」を読んで、やはり、何度読んでも先へ進まず、困ったことがある。サリョーヌイという軍人だけが、どうしても霧がかかったように不分明で、得体が知れず、いくら読み直しても、ひっかかるのであった。そのうちにあきらめて、「伯父ワーニャ」を読み出す。こんどはアーストロフという医者が、何のことやら分らない。読めば読むほど、へんな気がしてくる。これもあきらめて、ほかの作家の本を読む。やたらに読んでいるうちに、また、どうもサリョーヌイが気になってきて、「三人姉妹」へ戻ってくる。学生時代には大体そんな具合に、乱読したり、一冊の本とにらめっこしたりを、繰返していたようである。
学校を出たとたんに、ほんとうに本が読めなくなった。軍隊生活の三年間に、私の読んだ本はたった四冊で、しかもそのうちの二冊は、ふつうの意味では、本とは言えなかった。ひとつはクロースの装幀をした加藤道夫の生原稿の「なよたけ」で、もうひとつは、軍隊で知り合った友人のNがくれた手製の「斎藤茂吉歌集」であった。小さな皮表紙の手帖に、小さな丹念な字で魚や草や少女や自身の老境を歌った茂吉の歌が、数十首、清書してあった。二冊の活字本のうち、一冊は文庫版の「古事記」であった。これはずっと隠して持っていた。のこる一冊は、これも軍隊で知り合った友人のSが、隠して持っていたのを、借りて読んだ。三島由紀夫氏の処女創作集「花ざかりの森」である。
私物の検査がうるさく、読む暇もなかったとはいえ、三年間にこれだけとは、われながら呆れるが、これで結構、間に合っていたのである。
その後、私は相変らず、手あたり次第の乱読と、おなじ本にいつまでも首をつっこんでいる遅読とを繰返している。いっこうに進歩しないようである。べつにこれというあてもなく、考古学や建築の本を読む。歴史を読む。そのうちに、ついこの間読んだばかりの戯曲が、どうも気になってきて、また読み返す。読書の時間は商売柄もあって、佐藤先生の言われたほどには少なくなっていないようだが、それなら尚更、進歩どころではないことになる。せめて、読みたい本の読める商売柄をよしとし、堂々めぐりをしながらでも、本を読むことによって自分の中で霧のはれてゆくような、何かの得体が知れてくるような思いをするたのしみを失いたくないものである。
――一九六九年三月 新刊ニュース――
ルオー讃
はじめてルオーの実物を見たのは、戦前、銀座にあった三昧《さんまい》堂という本屋の二階のギャラリーで、その赤い裸婦の圧倒的な印象に、私たちは呆然としてしまった。私たち、というのは堀田善衞と私で、二人は学校からの帰り道に、ふとこのギャラリーをのぞいたのであった。
しばらくして、堀田が、ちょっとはにかむような顔になり「僕が、ルオーが好きだというのは、わかるだろう」といった。なんと答えたか、私は覚えていない。とにかくその後、私はやたらに古本屋を歩き廻り、ルオーの画集や、複製をさがし、ルオーまがいの自画像をかいたり、ルオーについて書いた本を読んだりすることに熱中した。
はじめてルオーの肖像写真を見たときには、意外な思いをした。とぼけたような、こすからいような、へんな顔をした爺さんが、あのしっかりと丹念に描きあげられた、磨きあげられた画の作者だとは――
ルオーは若い時、役者になろうと決心したことがあるそうである。思いあまって先生に打ち明けたら、めちゃくちゃにしかられて、あきらめたそうである。あの時あきらめていなかったら、私は今ごろは名優になっていたはずだ、惜しいことをした、というルオーの冗談まじりの打ち明け話を、読んだことがある。陽気な、おしゃべり好きの、たのしい人物だったらしい。
ルオーの画に、そういう感じは充満している。しっかりと、堅固に構築され、たたき込まれ磨きあげられた画面の奥に、いつも自由な、即興的な、流動的なものが動いている。ぴちぴち動いているものがある。造形的なきびしい追求がそのまま、無上にたのしい遊びであるという趣がある。
何度か病院生活をした私は、いつも、病室の壁にルオーのさまざまな「道化師」の複製をかかげた。そこに、人を健康にする気力と体力との源泉がある、というふうに、私には感じられたからであった。この感じは、今も変らない。
――一九六六年二月 北日本新聞――
名作のなかの好きな女性
文学作品中に登場する女性のなかから、好きな女性をえらべと言われると、ちょっと、まごつく。「好き」にもいろいろあって、一概には言えないからである。
たとえば、バーナード・ショーの書いたジャンヌ・ダークや、ジャン・アヌイの書いたアンチゴーヌは、実に魅力のある少女で、私は大好きである。
彼女たちは、どんな現実の少女よりも、生き生きとして見える。ことに舞台の上で、血肉をそなえた現実の女優によって演じられている時には、文字通り生きて見えるだろう。
しかし私は、もしこんな少女たちに現実の人生でお目にかかったら、敬して遠ざけたいと思っている。向うでも、ごめんだと言うにちがいない。私は彼女たちの強い「自我」と付き合うのは、まっぴらごめんである。殉教や死刑のまきぞえにならないまでも、へとへとにくたびれることは確実である。
自我のない女性は、論外だが、自我のかたまりのような女性も、困りものである。何事によらず、自分自身の考えをもつということは、結構なことだが、すべての物事を自分を中心にしてしか考えられない女性、世界が自分を中心にして廻っていなくては気のすまない女性は、困りものである。
そういう現実にいたら困りものの女性、厄介者の女性、あまりつき合いたくない女性を主人公にした小説や劇の傑作はたくさんあって、彼女らは、実にみごとに、魅力的に生きているから、私たちは何も現実の世界でまで、彼女らと暮す必要はないのである。
それとは反対に、こういう女性が現実にいたら、さぞ面白いだろう、さぞかわいいだろう、すばらしいだろうと思われる女性も、たくさんいて、こちらの方も、私は「好き」である。作中人物と現実の人間とは、別の次元に生きているのだが、その次元のちがいが消えてなくなってしまったらどんなにいいだろうと思わせるのは、作者の筆の力にちがいない。
そういう大勢の「好き」な女性の中から、一人だけえらぶのは、難事業だが、強いてと言われれば、ジャン・ジロドゥーの同名の戯曲の女主人公、オンディーヌを挙げる。
オンディーヌは、人間の女ではない。オンドはフランス語の「波」で、オンディーヌはさしあたり「波おんな」というところであろうが、この「波おんな」は「雪おんな」のような陰性の女性ではなくもっとはつらつとしたかわいらしい存在である。
オンディーヌは、騎士ハンスに一目ぼれする。ハンスもオンディーヌに心を動かす。しかし、オンディーヌのすむ湖には掟《おきて》がある。人間を愛してはならぬ。人間は移り気なものであり、人間に欺かれることは湖の住人たちの恥なのだ。オンディーヌは掟に背いて男を追い、そして、欺かれる。湖の住人を欺いた人間は殺される定めである。オンディーヌはハンスを救おうとして、自分が先に心変りしたのだと嘘をつく。そして罰として人間の世界に関するすべての記憶を消され湖へ引戻されてゆく。
一種の童話である。しかし、このオンディーヌはまったく私を魅了する。かわいらしく、いたずらで、ナイーヴで、すばらしい想像力と古風なまごころの持主であり、野蛮なくせに利口である。嘘が死ぬほどきらいで、愛する男が死ぬかも知れない時、彼女ははじめて嘘をつく。こんな女性も、現実にいたら、つき合いにくいかも知れない。一緒に生活したらへとへとにくたびれるかも知れないが、どうも、その苦労をまっぴらごめんとは言いきれぬ――どころかその苦労もたのしいと思わせるような、ふしぎな明るさを彼女はもっている。と言っても先ごろ流行した「妖精型」の女性などを、連想しないで頂きたい。オンディーヌは、恋人と妻と娼婦と母とを、一身に兼ねたようなところがある。ぜひ上演したい芝居の一つである。
――一九六四年九月 婦人文化新聞――
ハムレット あの役者を見ろ。ただの繪そらごとではないか。それを、いつはりの感動にわれとわが心を欺き、目には涙をため、顔色蒼然としてとりみだし、聲も苦しげに、一擧手一投足、その人物になり切つてゐる。
劇といふものは、いはば、自然に向つて鏡をかかげ、善は善なるままに、惡は惡なるままに、その眞の姿を抉《ゑぐ》り出し、時代の様相を浮びあがらせる……
シェイクスピア・福田恆存「ハムレット」
アメリカの演技
アメリカの芝居の役者の演技を見ていると、せりふもしぐさも極めて自然で、作為を加えた風が無く、内面的な真実の心の動きを捉えることを第一としていること、個人の藝を主張する前に全体のアンサンブルを緊密に保持しようとしていることなどが、よく分る。今日のアメリカの演技術は、スタニスラフスキー・システムの上に立っている、と言ってもいいだろう。ほうぼうの大学の演劇学部や、市中の演技研究所の授業を見ても、演劇書店の棚を見ても、スタニスラフスキー・システムの浸透は深く、強く、圧倒的であった。
ただ、今日のモスクワ藝術座の演技を正統スタニスラフスキー・システムとすると、アメリカの役者の演技は、修正スタニスラフスキー・システムぐらいの所かも知れぬ。
極めて自然だが、時として、自然すぎる趣がある。それも、ひとつの現代の風かも知れぬが、映画にも、テレビにも、そのまま通用しそうな演技である。
一方には、むろんコンヴェンショナルな演技も存在する。ブロードウェイだから通俗的、オフ・ブロードウェイだから前衛的とばかりは言えない。オフにも、ずいぶん旧式な芝居をする役者がいるし、ブロードウェイにも、見ていて戦慄を覚えるようなすぐれた演技をする役者が、何人かいた。
更に、ヨーロッパ風の演技、それも主として、イギリス風の演技というものがある。私がそれに気づいたのは、四十五日のアメリカ滞在がまさに終ろうとする寸前であった。
これは、アメリカ流のリアリズムの演技よりも、一段と振幅の大きい演技で、せりふも、しぐさも、動きも、抑揚が強く、見ていて、如何にも舞台の演技という気がする。アメリカ流の演技にいささか食傷気味で、同時に今日の西洋の役者の演技というものは、こんなにすらすらと、なだらかなものになってしまったのかと、心細い気分になりかけていた私にとって、この発見は、はなはだ愉快であった。
私たちの芝居、日本の新劇の「学校」は、ヨーロッパにあった。イギリスに、ロシアに、ドイツに、フランスにあった。その「学校」の伝統が健在であることを知って愉快になるのは、人情の自然というものである。修正スタニスラフスキー、旧式、イギリス風と、仮に分類はしたが、むろんこの三種の演技は三原色のように截然《せつぜん》と区別されているわけではない。中間の演技、紫、橙《だいだい》、緑の演技にも少なからず対面した。たとえば、ブロードウェイのある役者は、正に旧式な型通りの喜劇の演技をしながら、クライマックスの親友の死に立会う場面で、感動的な、深味のある演技をした。
これらのほかに、これらの演技とは全く異質な演技をする若い役者たちがいる。リヴィング・シアター、オープン・シアターなどというのがそれで、私はそういう新傾向の演技を、ミネアポリスの「消防劇場」で見た。演目は「ヴォイツェク」であった。
この新傾向の演技とは、一口に言って、即興劇の演技である。今様に言えば、ハプニングということになろうか。文字通りの即興劇ではなく、台本もあり、稽古も積んだ上での芝居なのだが、役者はみな、素顔のまま出てくる。ふだん着のまま出てくることもあるらしい。
ニューヨークで見た「アメリカばんざい」もこの新傾向に属した芝居だったが、これは、脚本も、演出も、演技も、アメリカの学生演劇なみで、私にはそれほど大したものとは思われなかった。
ただ、これが、日本のアンダーグラウンド演劇の演技と違うのは、役者たちがみな、演技の基本的な勉強を、ちゃんと身につけているところである。発声も、動きも、しっかりしているところである。
「消防劇場」の役者諸君は、アントナン・アルトーに心酔していた。芝居から、文学的要素を可能な限り閉め出してしまおうというわけなのだろう。サルトルも、ピランデルロも、偉大には違いない、しかし彼らの芝居は、映画にもテレビにも出来るじゃないか、ぼくたちは劇場でしか出来ないことをやるんだ、と彼らは言った。
この志向は、イギリスの演出家ピーター・ブルックや、ポーランドの演出家グロトフスキーの志向にも通じるだろう。即興は、忘れられかけていた演技の、あるいは演劇の、もっとも魅力的な側面のひとつである。
結論は、ない。ただ私は、五カ月の西洋旅行の後、アメリカの芝居や、ヨーロッパの芝居を、つまり翻訳劇をやることに、妙に気が重くなっていることを、告白する。あらためて、翻訳劇というものに対する疑問が生じたのである。日本には日本なりの、西洋の芝居のやり方があるなどという在り来たりの言い方では間に合わぬものが、あるような気がしてならない。「学校」を出たら、何とかして自分の「仕事」に就きたいものである。
――一九六八年一一月 民藝の仲間――
アメリカの観客席
ニューヨークのブロードウェイ劇場の、幕間の賑やかなことは、一と通りではない。
一体にブロードウェイの観客は、陽気で、屈託がなく、芝居の進行中にも、大声で笑ったり拍手をしたり一斉に歎声を発したりすることを憚らない。憚らないどころか、笑ったり拍手をしたりする機会の来るのを、手ぐすね引いて待ち構えているような感じがする。幕が上るや否や、すぐに反応してしまうこともあって、そういう時には、装置がいいのである。私はそういう経験を、二度した。
一度は、アーサー・ミラーの新作「価値」の幕明きで、骨董物の家具を山のように積み上げたニューヨークのある屋根裏部屋の、おそろしく写実的な舞台があらわれた時であり、二度目は、イヨネスコの「王様御退場」の幕明き、広大な透明ビニールのカーテンと金属質の玉座だけの、極めて抽象的な装置が出現した時である。二度とも、「ビューティフル!」という歓声が、そこかしこに起り、激しい拍手が、役者のいない舞台を前にして、ひとしきり鳴り止まなかった。
「価値」の幕明きには、その前に、もう一つ、小さなおまけがついた。舞台監督か、表方か、見当がつき兼ねたが、背広姿の中年の男が舞台の下の通路にあらわれて、短い挨拶をした。
「プログラムには、途中に休憩が一回あると印刷してありますが、これは間違いです。申訳ありません。この芝居には幕間がありません。ですから」と、一寸間をおいて、にっこり客席を眺めた後、「幕間にどなたかへ電話をおかけになるおつもりだった方は、今の内におかけ下さい」会釈して歩き出そうとして、振り返り、「電話がおすみになったら、幕を明けます」
劇場側も心得たものである。スピーカーなんか使わない。いかにも劇場という場所にふさわしい挨拶の仕方である。忽ち拍手と笑声が起った。
そういう劇場であり、そういう観客だから、幕間のロビーは一段と賑やかになる。賑やかを通り越して、騒がしくなる。
ふだん着、よそ行き、古風、当世風、冬物、夏物、千差万別の服装の老若男女が、ひしめき合っている。芝居の批評をする、世間話をする、友達を呼ぶ、役者の品定めをする、相談する、議論する、ふざける、笑う、大変である。
この大変から免れようと思ったら、自分の席へ戻るか、往来へ出てしまうかする他はない。舗道へ出て、煙草をふかしていると、向うの劇場も休憩になって、向うの大変を逃れる客がぞろぞろ出て来たりする。
ブロードウェイには、十九世紀から二十世紀の初頭へかけて建築された古い劇場が、珍しくない。ヨーロッパの劇場を手本にした、バロック様式の建築が多い。
そういう古風な劇場が、観客にとっては、ロビーの狭いことさえ別にすれば、一向、不都合でない。客席の奥行が浅く、舞台が低く、一階平土間の傾斜がひどく急に出来ているから、芝居が見易い。二階席、三階席の平面がU字形になった構造は、興行者にとっては経済的でないだろうが、観客にとっては視覚的にも聴覚的にも、はなはだ有利である。客席の数も、せいぜい七百から八百どまりの劇場が多い。舞台の型式は例外なく、イタリア式の額縁舞台である。
オフ・ブロードウェイへ行くと、元倉庫、元映画館、元レストランといった風情の小さな劇場がたくさんある。定員三十人などというのは、ごく普通で、客席のつづきの同じ床で芝居が始まったりする。
アメリカで、第二次大戦後に出来た新しい大きな劇場の中には、押出し舞台(スラスト・ステージ)の型式を取っている劇場が、少なくない。三方を客席に囲まれた、能舞台に似た型式で、客席は摺鉢《すりばち》状の階段席になっている。ミネアポリスのタイロン・ガスリー劇場などが口火を切った形だが、四方を客席に囲まれた円形劇場や、古くさい額縁舞台よりも、押出し舞台の方が、演じる側にも見る側にも、はるかに有利だという説をなす劇場人が、ずいぶんいた。舞台と客席との融和、役者の演技の真実性、観客の視点の選択の自由など、挙げればきりがないという調子で、説明されると、よく分りました、と答える他はない。
押出し舞台は、一部のアメリカの演劇人にとっては、アメリカ演劇の明日のシンボルで、ジャンルとしてのミュージカルが今日のアメリカ演劇をシンボライズしているように、押出し舞台も間もなく、アメリカ演劇独自の舞台様式として完成されることを信じているように見える。古い額縁舞台の擁護論など、到底聞いてもらえるものではない。そういうかれらの打ち込み方は、かれらの演劇的情熱の若々しさを感じさせると同時に、いくらかは、ヨーロッパ演劇に対する裏返しの憧憬をも語っているように、私には思われた。
ブロードウェイの古い劇場と、オフ・ブロードウェイの小さい劇場と、新型式の大劇場(例えばリンカン・センターのヴィヴィアン・ボーモント劇場は必要に応じて額縁式と押出し式の両方を使い分けることが出来るようになっている)とでは、観客の質に自ずから相違がある。
しかし、実に種々様々な老若男女がその劇場へ集まってくるという点では全く同じである。
どの劇場で、何を見るかは趣味の問題かも知れないが、誰でも月に一度か二度、劇場へ行くことは、床屋へ行くことのように、当り前だ、という具合である。今日の東京では、観劇自体が趣味の問題だから、比較にならない話である。
――一九四四年一月 三田評論――
仮面をぬぐアルレッキーノ
ミラノのピッコロ・テアトロの芝居を見ることは、今度の――私にとっては最初の外国旅行の、かなり大事なプログラムの一つであった。
ピッコロ・テアトロはこの数年来、目ざましい活動をしている劇団である。演出家ジョルジオ・ストレレルの名前は、私のようにイタリアの現代演劇についてあまり知識を持っていない者の耳にもとどいている。ストレレル演出のイタリアの古典劇や現代劇――ゴルドニやピランデルロの芝居の衝撃的なおもしろさについては、それを見た人たちが口を極めて激賞しており、私の想像によると、そのおもしろさは、主として演出家の創意から来るもののようであった。たとえば、あるゴルドニの喜劇の幕明きは、これまでイタリアの古典喜劇――コメディア・デル・アルテの幕明きにつきものとされていた陽気な賑やかな快速調のテンポを完全に無視して、静かな、リアルな会話で始められたという。演出家の創意が梃子《てこ》を動かして、重い古典劇をひっくり返し、いままで隠されていたまったく新しい面を見せてくれるのであろう。
ミラノへ着いたのが三月三十一日である。
日本領事館の野間佳子さんが、ホテルのフロントに託しておいて下さった劇場案内を見ると、ピッコロ・テアトロは、ブレヒト作「一四三一年ルーアンにおけるジャンヌ・ダルクの裁判」という芝居をやっている。演出はストレレル、しかも今日が千秋楽である。翌日からは休演になっている。せっかくミラノに四泊の予定を取っておきながら、ピッコロの芝居が一つだけしか見られないとは情けない。
もっとも、野間さんの手紙によると、この劇団はもう一つ、テアトロ・リリコという大劇場も持っており、そちらの方では、ジアンカルロ・ズブラージャ作・演出の「六月の行動」という芝居をやっている。これは当分続くらしい。
何はともあれ、ピッコロ・テアトロへ行かなくてはならぬ。ホテルのフロントで、地図を拡げ、劇場の所在を確かめる。幸いあまり遠くないので、歩いてゆくことにする。
ところが町へ出てみると、この地図が不完全で、さっぱり役に立たない。通りかかった青年に道をきくと、親切に案内してくれる。お互いにあまり正確とは言いかねるフランス語に身振り手真似を交えて話しながら歩く内、ピッコロ・テアトロに到着する。
鉄柵の扉が締っている。電燈もついていない。案内の青年が声をかけて、守衛を呼び出す。
守衛の説明によると、今日のマチネーが千秋楽、夜は休演だという。冗談じゃない、劇場案内にはそんなことは書いてないじゃないかというと、書いてなくても、とにかくそうなんだという。押問答をしているところへ、若い二人連れの女性が来る。私と同様、劇場案内をたよりにピッコロ・テアトロを見に来た客であった。
案内の青年は、諦めたまえ、君は運がわるかったんだと、大きなジェスチュアをしながら溜息をついて見せる。二人の女性客と何か話し合った後、私のところへ引返して来て、あのお嬢さんたちにもすすめて来た、今夜はテアトロ・リリコへ行きたまえ、同じ劇団の芝居だから、よその芝居を見るよりましだろう、道案内はあのお嬢さんたちに頼んでおいた、ぼくはもう時間がないんでね、じゃさよならと、気軽に手を振って、大股に歩き出す。親切で気さくなイタリア青年に感謝の意を十分に伝えられなかったのは、残念であった。
それにしても、半日違いでテアトロ・ピッコロを見損ったことは残念とも無念とも言いようがない。二人のお嬢さんは先に立ってさっさと歩き出す。その足どりの速いことは一と通りではない。ついてゆくのが精一杯で、うっかりするとたちまち引離される。先程の青年とは違って、こちらの方は、思わぬ東洋人の道づれの出来たことに、迷惑を感じているらしいふしがある。背はあまり高くないのに、むやみにスピードがあるのは、脚が長いせいである。おかげでテアトロ・リリコに辿り着いた時には、すっかり息が切れて、口も満足にきけないありさまであった。
そんな状態で見た「六月の行動」が、おもしろかろうはずがない。ムッソリーニを主人公にしたブレヒト風の叙事史劇で、演技の水準とアンサンブルの点では、ローマで見たどの芝居よりもすぐれており、感心したが、それとこれとは話が違うのである。私はストレレルの演出の芝居が見たいのだ。
四月八日にパリに到着する。
アントワーヌ座に、ピッコロ・テアトロが出ている。演目はゴルドニ作「アルレッキーノ・二人の主人の召使」である。演出はまぎれもないストレレルである。私は有頂天になった。
翌日、夜の九時開演が待ちきれない。六時半ごろ、劇場へ行き、切符を買う。大当りの上に千秋楽が間近だから、買えないかも知れないと言われたのが、うまい具合に、平土間のいい席が一枚だけ残っている。となりのカッフェで軽い食事をする。
八時十五分、客はもうつめかけている。開場を待ちかねて、入る。
アントワーヌ座は、フランス近代劇運動の発祥の地である。
廊下には、その自由劇場の初演のポスターが貼ってある。ハウプトマン作「ハンネレの昇天」、トルストイ作「闇の力」、イプセン作「野鴨」……二階のロビーの壁には、自由劇場の作者たちの名前が色とりどりの散らし書きになっている。ゴンクール、ポルトリッシュ、アンリ・ベック……この劇場が、つとめて古風を存しようと心がけているのが感じられる。
客席に入ると、バロック風のプロセニアムのてっぺんに、大きな時計のあるのが目を惹く。客席は四階、約千席。
支配人シモーヌ・ベリオー夫人の才腕は、つとに定評がある。戦後、サルトルの一連の作品「墓場なき死者」「恭しき娼婦」「汚れた手」「悪魔と神」「ネクラーソフ」などを上演したのはこの劇場である。
さて、幕が上る。ミラノ以来、待ちに待った開幕である。
舞台の上に、もう一つ、低い、掛小屋風の舞台がある。
舞台の後方には室内を現わす色あせた絵幕が垂れている。上方には、日除けの白い幕がかかげられている。
掛小屋の左右の後方には、イタリアの古い町によく見かける、崩れ残った煉瓦の壁が一つずつ。そのさらに後方には青空がひろがっている。明るい淡彩の装置である。
アルレッキーノが登場する。コメディア・デル・アルテの古式通り、赤・橙・黄などの三角模様の服を着、革製の黒い仮面をつけている。衣裳の色は程よく和らげられていて、淡彩の装置とよく調和している。
次々に、パンタローネ、ロンバルディ医師、ベアトリーチェ、フロリンドなどという人物が登場する。仮面をつけている者もいれば、つけていないものもある。衣裳は黒、淡紅、空色、萌黄《もえぎ》、鼠、白など、多彩だがいずれもパステル調の明るい和やかな色である。
この芝居は日本でも俳優座が「一度に二人の主人を持つと」という題で上演したことがあるから、筋は知っている。知らなくても、見ているうちに自然に分ってくる仕掛けになっているから、心配はいらない。ゆくえ不明の恋人フロリンドをたずねて、美少女ベアトリーチェが男装して旅に出る。フロリンドの方でも、ベアトリーチェを探している。おかしな偶然から、陽気で、おしゃべりで、いたずら好きで、目から鼻へぬける悪知恵の持主アルレッキーノが、掛持ちで二人の恋人に仕えることになる。もう一組の恋人たち、その父親たちが、それに絡む。お定まりの古典喜劇の筋立てである。
まず驚いたのは演技の速度であった。
あんなに速いテンポで語られるせりふを、私は後にも先にも聴いたことがない。ことに、アルレッキーノを演じるフェルッキオ・ソレリのせりふ廻しは、抜群の速度を持っていて、その速度自体が一種の爽快感を呼び起したといってもいいくらいである。スプリンターの疾走を見るのに似た、直接的で、肉体的な爽快感である。
そして、せりふの速度をつくり出し、それに拍車をかけ、それを絶えず更新しているのは、身体の動き、ことに足の動きである。
俳優たちは、足拍子を鳴らす。軽く、強く、優しく、激しく、繰返して床を踏み鳴らす。それによって呼吸を整え、同時に次に語られるせりふの局面を変化させるというふうである。またそれは打楽器のリズムのように、俳優自身の感情に活気を与え、自発性を高める作用をもしているようであった。
みごとな柔軟な身振り、雄弁な千変万化の手の動きが、それに加わる。
能の演技を、静の極点におくとすれば、これはまさに、動の極点に位する演技である。一瞬の休止もなく、停滞もなく、演技は流れるように進行する。活溌なマイムのやりとり、果てしのない口喧嘩、恋人が足拍子を鳴らしてオペラ風に歌い出し、アルレッキーノは逆立ちをしたまま歩きだす。
そして掛小屋の舞台をおりると、アルレッキーノは仮面をはずして、汗をふく。彼はもはやアルレッキーノではなく、アルレッキーノを演じる役者になる。パンタローネも、ブリゲルラも、同様に、水をのんだり、椅子に腰を下ろしたりする。
この掛小屋の外の空間があるために、激しいたたみ込むような調子で進行する芝居が、ますます引立つ。同時に芝居全体が、何かしら軽い、のんびりした、柔らかな気分を帯びてくる。舞台の上で火の出るようなテンポで動き廻り、しゃべりあっている役者たちと、舞台を下りて、裏方にダメ出しをしたり、仲間の芝居を見物している役者たちとを、のどかな淡彩の青空の下に並べて眺めているうちに、演出家ストレレルのねらいがだんだん飲み込めて来た。
これだけ、鍛練された藝を持っている俳優たちならば、元のままのコメディア・デル・アルテを演じても――ということは、掛小屋の舞台などを置かず、裸の舞台で演じても、十分に見物を堪能させることができるはずである。が、ストレレルは、掛小屋の舞台を置くことによって、楽屋裏までさらけ出して見せたのだ。ごらんなさい、種も仕掛けもありませんよと、鍛練された肉体の藝と、その藝から解放された役者の姿とを、――緊張と弛緩《しかん》とを、そっくりそのまま、まるごと見せてくれたのである。彼はいわば、近代劇を通過したコメディア・デル・アルテを創りあげたと言えるだろう。
ストレレルの演出について、私が想像していたことは、当っていたとも言えるし、当っていなかったとも言える。ここには、ゴルドニの喜劇についての、ことさらな新解釈は、何もない。ただ、昔ながらの掛小屋が一つ、舞台の上にあるだけである。平凡と言えば平凡である。しかし、その二重の舞台から生じる効果の新鮮で強烈なことは、類がない。これは、ストレレルの非凡な発見である。
偶然、同じ宿屋へ泊り合せた二人の主人から、同時に食事の用意を命じられたアルレッキーノは、二人のコックを相手に、てんてこ舞いをする。
ここで、フェルッキオ・ソレリは、完璧なアクロバットを演じた。一方の主人の部屋へ向って、早口でしゃべりながら全速力で駆け出す。コックが勢いよく皿を投げる。ソレリは高々とジャンプして空中の皿を受けとめ、主人の部屋へ抛り込むや、身をひるがえして、もう一人の主人の部屋へ駆けつける。その途中で、別のコックが、水差しを抛る。これもジャンプして、こんどは片手で受けとめる。コックは次々にパンや酒瓶やチーズの塊を投げ、ソレリはその度に飛上って間一髪のところで受けとめる、往復数回、しかもその間中、しゃべり通しである。あれだけ鮮やかなアクロバットは、劇場ではむろんのこと、サーカスでもめったには見られまい。
最後に受けとめるのが、ばかばかしい大きさのゼリーで、さすがのアルレッキーノも立往生してしまう。ゼリーがぶるぶる震えるので、歩けないのである。震えをとろうとしてぶつぶつ文句を言いながら、皿を捧げてじっとしているうちに、今度は自分の身体が震え出して止らない。このあたりになると見物の笑いも止らなくなる。
二人の主人に仕えたことがばれて、アルレッキーノはさんざんにやりこめられる。叱られた照れかくしに、床に置いたゼリーの皿においでおいでをすると、どういう仕掛けになっているのか、ゼリーがぶるぶる震えながらアルレッキーノの方へ寄ってゆく。種も仕掛けもないと見せて、こんなところへ手品を応用してみせるストレレルは、アルレッキーノどころではない、大した悪知恵の持主である。
終演後の客席の熱狂はすさまじいもので、拍手は自然に一つの大きな波になり、カーテンコールは二十回を越えた。
それにしても、あの絶え間のない流動の演技、あの一瞬の休止も、停滞もないハイ・スピードの演技は、私たちにとって、果して可能であろうか。あれほどの持続的運動を可能にするほどの体力を、私たちは果して持っているだろうか。ミラノの町で、二人のお嬢さんの後を追って息を切らした私自身の貧弱な肉体は例外としても、これはなかなかの問題である。
時間にかかわることを、空間に移して考えるのは、正しい類推の方法ではないかも知れないが、たとえばフィレンツェのウフィッツィ美術館のことを、私は考える。あそこでは、扉も、床も、天井も、柱も、壁も、すべてが人工の極であった。どこにもかしこにも、彫刻があり、モザイクがあり、絵があり、その中に、ボッティチェリやウッチェロの絵がかかっているのである。自然の材質はどこにもない。石の素肌を見せた壁や、木地のままの扉など、薬にしたくても見当らないのである。とても日光の東照宮などという代物《しろもの》ではない。
もしかすると、私たちは、西洋の芝居というものを、土台のところで支えている肉体的エネルギーの問題、その質の問題を、言うだけ野暮なこととして、いつも、二の次にして来たのではあるまいか。
「アルレッキーノ」は大当りで、再演が決った。私はその千秋楽、六月八日の切符を前売りで買ったが、例の五月革命の余波で、再見することができなかった。これが、こんどの旅のいちばんの痛恨事であった。
――一九六八年九月 藝術新潮――
ベルリンの高峰秀子
ドイツ語ときたら、自慢ではないが、まるで分らない。
だから、ベルリンのテンペルホフ空港にパン・アメリカンの日本人社員M君が出迎えてくれたのは、大助かりであった。乗り換えのフランクフルト空港の、同じ会社が、連絡を取ってくれたのである。
「ドイツは初めてでいらっしゃいますか」
「ええ。西洋がはじめて」
「ベルリンにお知り合いは?」
「ええ。吉田秀和さんが……」
すると、M君はびっくりしたように声をあげた。
「あ。吉田さんは一昨日ストゥットガルトへおいでになりましたよ」
さあ、一大事である。
わずか四日間のベルリン滞在だが、できることなら、いい芝居が見たい。東ベルリンのベルリーナ・アンサンブルは見逃せないが、西ベルリンの芝居となると、さっぱり見当がつかない。吉田さんの助言にすがるほかはあるまいと、厚かましく独りぎめをしていた。その杖とも柱とも頼む吉田さんがお留守とは、情けない。
タクシーが来る。ドアを明けてくれながらM君が言う。
「ホテルはどちらですか?」
「アム・ズー」
「は? ああ、アム・ツォーですね」
これだからドイツ語は、閉口である。動物園ホテルという名前まで、なんだか人を馬鹿にしているようで、おもしろくない。
走り出す。熊のように大きな背中のジャンパー姿の運転手が、ふと、聞き返す。
"Am Zoo?"
妙に眠たいような声で、見ると、女である。ぎょっとする。
「ヤア、ヤア、ヤア」
いくら知っている言葉だからといって、三べんも言う必要はない。あわてているのである。
動物園ホテルは、目抜き通りのクルフュアステンダムに面した小ぢんまりとしたホテルであった。
眼鏡をかけた、血色のいい、小肥りのフロント係の老人が、鍵をくれる。ここは英語が通じるから、有難い。昨日まで四泊したミラノのホテルの大きな鍵は、鶏卵大のずっしりと重い鉛の球がぶら下っていて、びっくりしたが、ここの鍵も、よく似た形をしている。ただ、ここのは、ジュラルミン製の球で、軽いのが取柄である。
内扉のないエレベーターに乗って、部屋に入る。万事、頼りない気分である。
浴室の鏡をのぞくと、蒼ざめた、不安そうな顔がうつる。これが自分の顔か。四十五日間アメリカに腰を落ちつけた後、重いスーツケースを提げて、イタリア一週間の汽車の一人旅が、こたえているのだろう。
一と休みした後、吉田さんのお宅へ電話をする。果してベルが空しく鳴るばかりである。
そのうちに、ふと思いついた。誰か、演劇関係の留学生はいないか。
ニューヨークのリー・ストラスバーグの俳優学校と、ローマの国立演劇学校には、一人ずつ日本人の学生がいて、いずれも未知の方だったが、いろいろおもしろい話を聞くことができた。ベルリンにも、誰か、いるだろう。
日本総領事館に照会を頼むのが、近道だろう。電話では意が尽せないから訪問するに限る。訪問するには、まず電話すべきである。しかし、電話をすれば、まずドイツ語が聞えてくるだろう。しかし、すぐに英語か日本語が聞えてくるから、心配はない。しかし、そのちょっとの間が、いやだ。とても、いやだ。しかし、せいてはことをし損ずる。しかし、当って砕けろということもある。だめならだめで、町歩きに切り換えればいい。手間と時間が惜しい。よし、出かけよう。
論理が飛躍している。不連続である。疲れているせいもあるが、旅行は、多少行きあたりばったりのあった方がおもしろい。いや、旅に限らず、人生、理性だけが行動を決定すべきであるという考え方は、おもしろくない。
今度のタクシーの運転手は、律義な背広姿の老人で、私の差出した紙片に眼を通すと、にっこりうなずいてスタートする。
ところが、いくら走っても、総領事館に到着しない。商店街を過ぎ、住宅街を通り、高速道路に入り、静かな郊外の住宅地を走るうちに、あたりはだんだん、別荘地のような眺めになってきた。林の中に家がちらほらしている。白樺なども生えている。高原のようである。
こんなところに総領事館があるはずはない、と思った次の瞬間、私は、とんでもない想像をして、ゾッとした。もしや、私は、誘拐されかけているのではないか。何者かが私のパスポートをねらっているのではないか。
突然の恐怖、とはこのことで、私は「遠すぎる」と英語で叫び、反射的にドアの把手に手をかけた。いざとなったら、昔のイギリス映画「二つの世界の男」のジェイムス・メイスンのように、車から飛び降りて逃げるほかはない。
しかし、老運転手は一向に動じない。にっこり振り向いて、大丈夫、もうすぐだ、というようなことをドイツ語でいう。メーターを指して、あと一マルクもないから安心しろ、と付け加える。私が料金を気にしているものと思っているらしい。いや、料金も大いに気になるのである。
間もなく、無事、総領事館に到着する。ほら、ちゃんと着いたでしょう。老運転手はまたにっこりする。ごく自然に、チップをやる。
あたりには落葉松《からまつ》や、楡《にれ》や、白樺が生い茂り、どこかで山鳩が啼いている。四月のはじめだというのに、空気は澄んで冷たく、軽井沢のようである。総領事館の建物もどこやら、古い山荘めいた風情がある。呼鈴を押す。
やがて、内に人の気配がする。扉が明く。
若い、かわいらしいドイツ人の女性が立っている。少女、と言った方がいいかも知れない。黙ってこちらを見る。
私は用意していた名刺を差出し、前もって電話をしなかった非礼をわびた後、どなたか日本人の職員の方は、と英語でたずねた。
「皆さん、今、お仕事中です。どういう御用件ですか?」
軽く顎をひいて、じっとこちらを見たまま、英語で返事をする。
「日本人の演劇関係の留学生の方を紹介していただきたいのです」
「ああ、そうですか」
ちらと私の名刺に目を落す。そこには私の職業も書いてある。
「困りましたね。皆さん、会議中なので」
また、青い眼が、じっとこちらを見る。なんだか、点検されているようである。美人である。
「残念です。ぼくは日本の留学生の方と、西ベルリンの芝居について緊急会議を開きたいと思って伺ったのですが」
美少女ははじめて、小さく笑った。歯並みがきれいである。
「分りました。中へ入ってお待ち下さい」
通された部屋は玄関に続く広い応接室で、二階への階段口の向うに、タイプライターをおいたデスクが見える。その机の上を手早く片づけながら、
「お取次ぎしますけれど、しばらくお待たせするかも知れません。何分、突然なので」
青い眼が、なごんでいる。そして、すらりとした脚が、階段へ消える。
実は、この時にはまだ、私は何も気づいてはいなかった。それに気がついたのは、彼女が階段を降りて来る直前であった。
――待てよ、誰かに似ているぞ、あの人は……誰だろう? ニューヨークのジャパン・ソサエティの……いや違う。ローマの劇場で見た……いや違う……。誰だっけ?
その時、階段口に、その人が姿を現わした。相変らず微笑している。褐色の髪、卵形の顔、さわやかな青い眼、形のよい鼻、唇……
「お待たせしました。あと、二、三分で会議が終り……」
その言葉が終らないうちに、突然、電光に打たれたように、私は思い出した。
――そうだ! 高峰秀子だ、この人は!
「……から、もうしばらくお待ち下さい」
「メルシー・ボクウ・マドモアゼル」
どうして急にフランス語を使ったのか、分らない。意外な発見に、心がおどったせいかも知れない。カッコイイところを見せたかったのかも知れない。英語には「マドモアゼル」に相当する呼びかけの言葉がない。なんとか親愛の情を表わしたいという気持が、フランス語になって飛出したのかも知れない。
ベルリンの高峰秀子は微笑して――何も言わなかった。
知人とよく似た外国人を見るのは、実はこれが初めてではない。今度の旅行でも、すでに三人お目にかかっている。
日本を発って五日目に、サンフランシスコで、略称A・C・Tという劇団の、シェイクスピア作「十二夜」を見た。オリヴィアを演じているデボラ・サッセルという女優が、私たちの劇団「雲」の、戸山啓子と瓜二つであった。しかし、戸山さんは、もともとキューピー人形に似たエキゾティックな容貌の持主であるから、この時は、あまり驚かなかった。これが第一。
二度目は、ニューヨークのブルック・アトキンソン劇場で、アルバート・フィーニーを見た時で、この英国生れの卓抜な俳優は、伊丹十三氏に似ていた。フィーニーが伊丹氏に似ているとは、かねてから秘かに思っていたことなので、この時も、再確認したというに止まった。
びっくり仰天したのは三度目で、これはちょっとやそっとの似方ではなかった。
ニューヨークに、略称A・P・Aという、非常にすぐれた劇団がある。そこで、イヨネスコ作の「王様御退場」を見た。主役の王様を演じるリチャード・イーストンという俳優が、千田是也氏そっくりである。「桜の園」では、このイーストンが、千田さんの持役のトロフィーモフを演じるから、なおさら気味が悪かった。顔、体つきばかりでなく、身振り手振り、芝居の端々に至るまで、よくもこう似たものだと感心し、千田さん、どうしてこんなところで、英語なんかで芝居をしているのですか、と声をかけたくなったほどであった。
しかし、四人目の似方は、どうも、少し違うようであった。アメリカの三人は、似ていることにすぐ気づいたのだが、ベルリンの総領事館のお嬢さんが、高峰さんに似ていると気づいたのは、大分時間が経ってからであった。いわば、じわじわと気づいたのである。
その分だけ、前の三人は客観的に似ていて、後の一人は、主観的に似ていた、ということになるかも知れない。
主観的に似ている、ということは、感傷のなせる業かも知れない。ベルリン空港到着以来の私の肉体的心理的疲労が、タクシーの中で突然、映画的空想となって現われたように、ベルリンの高峰さんとなって現われたのではないか。つまりこれは、一種の郷愁なのではないか。私はべつに、高峰さんとも、松山善三さんとも、とりわけ親交があるわけではないが、これはいわば、フランスのモンマルトルの踊り場に笛吹く男海老蔵《えびぞう》に似る(久保田万太郎)というようなものではあるまいか。
結局、演劇関係の留学生はベルリンには一人もいないことが分り、私は総領事館を辞去した。ベルリンの高峰さんは、最後まで、ベルリンの高峰さんであることを止めなかった。彼女は玄関まで私を送ってくれた。そして、フランス語で言った。
「ボン・ヴォワイヤージュ・ムッシウ」
郷愁か、それも良し、感傷か、それもまた良し、という気分になった私は、帰途、チャーリー・チャップリンがスポーツ・シャツ姿でオープン・カーを運転しているのを見た。ホテルのフロント係は、細川隆元氏であった。彼らはミラノのホテルの鍵と動物園ホテルの鍵が似ている以上に、よく似ていた。ノスタルジアの連鎖反応である。
よく食べて、よく寝たが、反応は翌日まで持ち越した。ベルリーナ・アンサンブルは、ショーン・オケイシーの「真紅の塵」を上演していたが、その、ブルジョアの家族の女中の役を演じているアグネス・クラウスという達者な女優が、顔形といい、大きな物憂げな眼ざしといい、官能的な唇といい、低い声音といい、まったく、西村晃氏にそっくりであった。じわじわと気がついたところは、総領事館のお嬢さんと同じである。
昔、徳川夢声氏が、日本人の顔は何種類かの原型に分類することができるのではないか、という意見をのべられたことがある。それを読んで、私は、わが意を得たり、という気がした覚えがある。
その筆法でゆくと、ドイツ人やアメリカ人や、中国人などの顔も、何種類かに分類できるはずである。アングロサクソンとラテンとでは、ずいぶん違うかも知れないが、現実のイギリス人と、たとえばフランス人とは、その分類図の端の方で、重なり合うのである。日本人は、その重なり方が、西洋人に対して、少ないには違いないが、とにかく、重なっている部分があることは、間違いなさそうである。
そうして見ると、俳優の個性などというものも、ずいぶん頼りないものかも知れない。「私は私なりに」などと、すぐに言いたがるが、その私と瓜二つの俳優が地球の向う側で、私の役を演じているかも知れないのだ。
私の観察も、あながち、感傷とばかりはいい切れないかも知れぬ。
――一九六八年一〇月 藝術新潮――
ピーター・ブルックの稽古場
パリへ着いたのが、四月八日である。
花祭りの日にパリへ着いたからといって、別にどうということもないが、今度の旅行中この国では、演劇研究の外国人学生としての待遇を受けることになっている。四月八日は、始業式にふさわしい。
オルリー空港に、ジャン・メルキュール、中村雄二郎の両氏が出迎えて下さる。両氏とも旧知の間柄だが、中村氏の漆黒の口髭はいよいよ濃いのに、フランスの演出家の半白の髪はひときわその白さを増している。
「ヤマは元気かね? この間、キョーコが来たよ。電話がかかって来て、出たら、キョーコさ。東京からと思ったら、モンパルナスからだと言う。驚いたの何の」
メルキュール氏は、相変らず活力に溢れていて、車を運転しながらも、話しつづける。私は、東京の氏のドン・ジュアンを演じた山崎努や、ドーヌ・エルヴィールを演じた岸田今日子の無事息災を伝えるが、その言葉は、たちまち氏の新しい質問の洪水に呑み込まれてしまう……。
ホテルに入る。手紙が待っていた。東京の鈴木力衞氏からである。
――ジャン・ルイ・バロー氏から来信があって、英・仏・米・日四カ国の俳優の合同公演を、パリで六月に行いたい由である。日本からは、男優二名、女優一名の参加を希望する由。会場は国立調度博物館、演目は「テンペスト」に基づく即興劇。もし興味があれば、バロー氏に会って欲しい。
鈴木氏の手紙は、委曲を尽していたが、鈴木氏に宛てたバロー氏の勧誘の手紙は、十分に委曲を尽しているとは言い難いのではないかと推察した。
とにかく、これだけでは、見当のつけようがない。多少とも見当のつくのは、バロー氏の考えている日本の役者とは、能や狂言や歌舞伎の役者であって、新劇役者ではあるまいということだ。氏は地平線の彼方から日本の役者を招こうとしているが、それはつまり、西欧の演劇的地平線の彼方から、という意味であるに違いない。
第一、四カ国の役者が一緒に芝居をすると、言葉はどうなるのか。即興劇には興味は大いにあるが、いずれにしても私に勤まる仕事とはとうてい思えない。
しかし、バロー氏には会っておいたほうがよさそうである。その後、話が具体的に進んでいるかも知れないし、両氏の情報交換を円滑にするために、いくらかの役に立つことが出来るかも知れない。
明日、早速オデオン座へ行ってみよう、などと思案しながら、時計を見ると、午後の七時である。パリの劇場は九時開演の所が多いと、先ほど中村氏から聞かされた。とすると、楽屋入りは七時半か、八時か。今からでも間に合う。と思うと矢も楯もたまらない。つまりは、パリの町が、パリの芝居が早く見たいのである。
憂鬱な、不機嫌な顔をしたジャン・ルイ・バローが、ゆっくりと楽屋の階段を登ってくる。黒のコート、オレンジの絹のマフラー。じろりとこちらを見る。
挨拶をすると、ようやく思い出したらしく、微笑する。
「ああ、君か。憶えている。君だな」
名前は忘れているに違いない。日本へ来た時も、こちらが何度繰返して名乗っても、バロー氏は覚えなかった。アクタガワと正確に発音するのさえひどく難儀な様子であった。「アキタガワか?」と言うから、「アクタガワです」と答えると、憮然とした表情になり、横を向いてしまったりしたものだ。覚えているわけがない。
鈴木氏の手紙の件を切り出すと、
「ああ、そうなんだ。それについては近い内に話をしよう。君のアドレスを秘書に渡しておいてくれ給え。君、一人か?」
私がその即興劇に参加するためにわざわざ東京から来たものと思ったらしい。バロー氏も、メルキュール氏のようにせき込んで、早口で話す。片言のフランス語の相手をしていると、いらいらしてくるのであろう。再会を約して客席へ廻る。当夜の演目はポール・クローデル作の「黄金の頭」で、アラン・キュニーが大熱演をしていた。
数日後、バロー氏を楽屋に訪問する。
二重の、軽い革張りの扉。厚い紅い絨毯《じゆうたん》。部屋は十五、六畳ほどもあろうか。大きな書物机。寝椅子。壁には仮面、剣。師シャルル・デュランの写真とマドレーヌ・ルノーの写真が並んでいる。
先客がある。黒い服を着た小肥りの、血色のよい、中年の紳士である。びんに残った髪も白く、この部屋の主より老けて見える。青い眼が、じっとこちらを見る。素顔のチャーリー・チャップリンを思わせる風貌である。
バロー氏が来て、言う。
「ピーター・ブルックだ」
私の名前は発音しにくいから、
「こちら、日本の役者」
まあ、それでいいわけである。
名刺を差出し、挨拶をすませた後、バロー氏が、ブルック氏と私とに、こもごもに説明をする。
今度の公演のプロデューサーはバローであり、演出家はブルックである。俳優はイギリス・フランス各十人、アメリカ五人、日本三人の予定である。せりふは各自、自国語を用いる。公演のタイトルは「即興と選択」、一応「テンペスト」を台本とするが、まだ決定したわけではない。すべてはブルックの頭の中にあり、私には分らぬ。鈴木との連絡はついたが、日本の俳優はまだ到着していない。この男は偶然旅行者として来合せた役者である。私は鈴木からいい返事が来ることを期待している……
私はブルック氏にマイケル・ベントール氏の話をする。数年前、私たちの劇団はベントール氏を招いて、「ロミオとジュリエット」を上演したことがある。
「ああ、その話は知っている。君の劇団ですか」
と、ブルック氏は興味を催したらしく、こちらを見ながら、
「あの東京のベンソールのロミオはあまり良くなかったという話を聞いたことがある。入りはどうでした?」
ひどく心配そうに訊ねる。Bentholをベンソールと発音する。私の名前の正しい発音はベントールだと、当のベントール氏は言っていた。とするとこれは福田恆存《つねあり》氏を、福田恆存《こうぞん》と呼ぶようなものか。
「東京のロミオは興行的には大成功でした。藝術的には、十分に成功したとは言えません。何故かというと、私たち役者が演出家の意図を十分に実現し得なかったからです。ベントールさんの演出は、日本では非常に高く評価されました」
ありのままを言う。
「そう。そりゃ良かった。君はどの役を演《や》りました?」
「序詞役と、薬屋を」
「ああ、薬屋ね……小さいけれども面白い役だ」
「病後だったので、大きい役はまだ無理だったのです」
余計なことを言った。
ふと気がつくと、バロー氏がめずらしい上機嫌の笑顔を見せて、私たちの話を聞いている。
日本の役者が初対面のブルック氏と、具体的な共通の話題を持ち、曲りなりにも話の通じることに、安心したのかも知れない。
「どうです、君も一緒にやる気はありませんか?」
ブルック氏が言う。青い眼が微笑している。やる気がないこともないが、何分こちらには見たいもの、行きたいところが沢山ある。公演は六月だということだが、その頃にはイギリスにいるはずである。
「残念ですが」
「それじゃ、日本の俳優が来たら、また一緒に会いましょう。暇を見て、稽古を手伝って下さい」
日本から劇団四季の笈田勝弘君と、文学座の若林彰君とが来る。若林君は私同様旅行中の身で、参加するためには、スケジュールの上でかなりの無理をしなければならぬ模様である。
利光哲夫氏が通訳として参加する。
ある日呼ばれて、またバロー氏の楽屋へ行く。
ブルック氏の左右に、二人の青年がいる。
一人は肥って背の高いイギリス人である。頬から顎へかけて、みごとな髯を蓄えてはいるが、色白で、あどけない眼をしている。これはブルック氏の主宰するロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに所属するジョージ・リーヴズという演出家で、体に似合わぬ小さな声で、静かにものを言う。
もう一人は、反対に痩せた小柄なスペイン人で、素早く動く眼と手を持っている。早口でしゃべり、笑い、耳を傾け、またしゃべる。これは、パリの若手演出家の三羽烏の一人、ヴィクトル・ガルシアで、リーヴズと共に、ブルック氏の演出助手をつとめるらしい。今シーズンは、アラバルの「自動車の墓場」を出して、やたらに評判が高い。もう一人、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで「アメリカばんざい」という芝居を演出して大当りを取っているジョー・チャイキンが加わる予定だが、ヨーロッパ巡業中で未到着だという。
この日は笈田君と若林君との面接の後、台本についての相談が始まった。リーヴズ君の説明によると、一応「テンペスト」と、ゲルドロードのいくつかの戯曲が候補に上っているが、他にもっと適当なものはないかと物色中なのだと言う。
「日本の小説なんですが」と、ガルシア君が私たちのほうをちらりちらりと見ながら、ブルック氏に言う。
「水の中に棲んでいる怪物の話でね、というよりその怪物の国へ行った男の話なんです。その作者は青年時代に自殺したんだそうですが」
「題は何と言うの?」とブルック氏。
「それがねえ、ちょっと思い出せないんです。その怪物の名前なんですけれどね。あなた、知りませんか、ムッシュー……」
と私のほうを振り向いたガルシア君が口ごもると、
「アクタガワ」
間髪を入れずに正確な発音でブルック氏が答える。バロー氏とは大分違う。
「河童でしょう」と私。
「ああ、そうだ。カッパだ」
「聞いたことがある。英訳があるはずだ」とブルック氏。
にやにや笑って聞いていた利光氏が、私を指しながら、この人はその作者の息子だ、と言うと、ブルック氏もガルシア君もリーヴズ君も、一瞬ぽかんとし、ああと軽い溜息のような声を出し、私の顔を、まじまじと眺める。私は何だか、自分が河童になったような気がして、目を伏せる。
この日、ブルック氏は計画の内容をはじめて私たちに明らかにした。調度博物館というのは、タピストリーの展示場で、新館が落成したため、目下のところ、空屋の状態になっている。会場は、その二階の大広間である。
大広間に、四つの小舞台を作る。各舞台は、通路で結ばれる。
俳優たちはAの舞台からBの舞台へ、さらにCの舞台へと、演技をしながら移動する。二つの舞台の劇が、相呼応する場合もあるだろうし、同時に四つの舞台で演技をする場合もあるだろう。観客は回転椅子に坐っていて、自由に自分の舞台を選ぶことが出来る。
話を聞いているうちに、私はだんだん、自分が、この演出家に魅惑されつつあるのを感じていた。
話す声は、静かで、ゆっくりしている。歯切れがよく、声の抑揚は微妙である。言葉が一つ一つ、よく考えられ、選ばれて、語られるためである。あるいは、そのように語られていることを示すためである。青い、表情の豊かな眼がじっと一人の顔に注がれ、次の顔に移る。それが、ふと自分の内部の声に耳を澄ます眼になる。言葉が途切れる。手がゆっくりと上り、指が動く。それはある想念を喚起しようとする際の無意識の動きのようにも見え、あるイメージを明確にするための意識的な動きのようにも見える。聞えない旋律と、見えない動きとを暗示するように、ある時は花を摘み取るように、ある時は翻る鳥のように、ある時は水中の小石を探るように、ある時は幼児の頬に触れるように、指が、掌が動く。そして、新しい言葉が生れてくる。
ブルック氏は一種の親和力を具えた演出家で、話を聞いていると、この人と一緒に未知の演劇的空間へ飛立つことは、この上ない楽しみだという気がしてくる。学者肌、役者気質、詩人型、教師風、批評家的、棟梁式と、演出家にもいろいろなタイプがあるが、ブルック氏は強いて分類すれば司祭流、教祖流の演出家であろうか。
やがて、稽古が始まる。
調度博物館の二階の大広間に、四カ国の役者たちが集まってくる。
イギリスの役者は、殆どみな、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー系の人たちで、言わばブルック氏の子飼いの連中ばかりである。フランスは混成的で、バロー劇団の役者もいれば、デルフィーヌ・セイリーグやサミイ・フレイのように、映画で日本にもお馴染の連中も加わっている。アメリカは主としてオープン・シアター系の役者諸君だが、何といっても異色は笈田君で、浴衣《ゆかた》に袴《はかま》といういでたちだから、トレーニング・シャツやタイツ姿の西洋の役者衆が目を丸くするのも無理はない。
役者を三組に分けて、ブルック氏と、ガルシア君と、リーヴズ君がそれぞれ指導する。ブルック氏は、役者たちにせりふを言うことを禁じた。声あるいは音は出してもよいが、意味のある言葉を言ってはいけないのである。役者は、いわば言葉を持つ以前の人類、原始人の如きものに還元させられてしまうわけである。
ブルック氏は、初めにこんな説明をする。
――われわれの即興劇の原則は二つある。一つは、けっして人に見せようとしないこと、説明しようとしないことだ。二つは、行動を先にし、感情を後にすること。ある行動によって感情が生じる、その感情が次の行動を呼び起すのだが、最初に来るものは、そして常に先立つものは行動である。行動によって生じた感情は、変質させたり、抑制したりしてはいけない。最後まで突き進めること。
それから始まった即興劇の数々は、まことにおどろくべきものであった。ある日は、役者たちは、火・風・土・木・水のいずれかになることを要求される。眼をつぶり、思い思いの姿勢で、彼らが自分たちを火あるいは風であると感じられるようになるまで、ブルック氏はじっと待っている。二十分ほど経つと、そろそろ動き出す者が出てくる。幽《かす》かな呟きのようなものを洩らす者もある。ゆるやかに身もだえする者もある。やがて、手探りで歩く者、泳ぐような身振りをする者、歌うように声を出す者が多くなり、ある者は他の者を捉えようとし、捉えられた者は逃れようとしてすさまじい唸り声をあげ、盲目の群れは収拾のつかない混乱に陥ってゆく。その激しい二時間の惑乱と狂気の果てに、役者たちは疲労し、床に横たわり、即興劇を始める前と同じように静かになってしまう。想像力の炎の消え鎮まるのを待って、ブルック氏がそっと声を掛ける。
「終った。さあ、今、どんなことが君に起ったのか、聞かせてくれ給え」
こういう催眠術師のようなやり方で、ブルック氏は、役者の心の無意識の領域に眠っているものを揺り動かし、眼ざめさせ、拡大させようとしているらしい。言葉と行動の、理性と感情の、精神と肉体の分離以前の状態、暗い混沌《こんとん》とした、血まみれの内臓のような魂を呼び起そうとしているらしい。
リーヴズ君の説明によると、こういう方法を最初に思いついたのは、ポーランドの演出家グロトフスキーで、彼はこの手法を用いて旧約聖書をそのまま上演したそうである。ブルック氏は、グロトフスキーから強い影響を受けた由で、その最初の成果が、四年間のロング・ランとなったポール・スコフィールド主演の「リア王」だったという。
つづいてペーター・ヴァイス作「マラー〓サド」の勝利が来る。
グロトフスキーの立場、あるいはブルック氏の立場は、つまるところ、反文学の立場であると言えるだろう。演劇の自立性を極度に押し進めようとする立場である。
フランスでそういう立場を取ったのは、アントナン・アルトーである。アルトーはフランス演劇の主流からははずれていた人だが、バロー氏やブルック氏がその影響を受けているせいもあって、この頃はブレヒトと並んで、世界的に名声が高い。
しかし、ブルック氏の演出の反文学の立場が、シェイクスピアの文学、あるいはぺーター・ヴァイスの文学と結びついた時に、圧倒的な、革命的な成果をあげ得たという事実は、何となく、象徴的な出来事のように思える。
昨年五月、パリには学生革命が起った。ブルック氏は一座を引き連れて、ロンドンへ移り、自身のプロデュースによって、「テンペスト」を上演した。私はそのロンドンの稽古の途中で帰国したために、上演を見ることが出来なかった。動乱中のフランスの役者は、ユニオンの規定によって、参加できなかった。ブルック氏は、「テンペスト」の原作中、不可欠のせりふは十行であるとして、他は全部抹殺したという。笈田君は、エーリエルの役を勤めて、大好評を博したそうである。
―一九六九年九月 海――
「リア王」の魅惑
稽古が終る。パリ・国立調度博物館の大広間を領していた緊迫した空気が、一挙に和む。
若いフランスの演出家、目下は助手格の小柄なヴィクトル・ガルシアが来て私に言う、「いってらっしゃい」
「グッド・ラック」と、アメリカの青年俳優、ミネアポリスから来たポール・ロウブリソグが私の肩を叩く。
「じゃ、お元気で」とおじぎをするのは、稽古着の浴衣に袴をつけ白足袋を穿いた劇団四季の笈田勝弘である。
「何日ぐらい、行っているんだい?」と、顎鬚の若いイギリス人演出家、これも目下は演出助手の、ジョージ・リーヴズが聞く。
「約二週間」
「なんだって! ロンドンの芝居を見るんだったら、一週間で十分だよ。下らない芝居を見ることはない」
「あなたにとっては、そうかも知れないが」と、私。「私にとっては、初めての外国旅行なのですからね。芝居だけでなく、他のものも見たい。ロンドンだけではなく田舎も見たい」
「なるほどね」と、頷《うなず》いて、「イギリスは、これからがいちばんいい季節なんだ。じゃ、ストラットフォードへも、むろん行くんだろうね?」
「ええ、もちろん」
「ぜひ『リア王』を見たまえ。すばらしい出来だから」
「演出家は?」
「トレヴァ・ナン。若い、優秀なやつだ」
そこへ、ピーター・ブルック氏が来る。ロンドンとストラットフォードとに劇場をもつロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの最高責任者である。四十五歳だそうだが、ひどく老けて見える。いくらかフルシチョフに似て、いくらかチャップリンにも似ている温顔に、いつもの魅力的な微笑を湛えながら、この「マラー〓サド」の演出家は、いつものように静かな声で私に言う。
「じゃあ、楽しくやって来たまえ」
広間では、俳優たちがバレエ・ボールの練習を始めている。七時間に及ぶ猛烈な稽古の後で、こんな遊戯をする彼らの体力には、まったくかなわない。デルフィーヌ・セイリーグがいる。サミー・フレイがいる。トム・ケンピンスキーがいる。ヘンリー・ウルフがいる。その中に混って、いつの間にか笈田君も、一所懸命に球を追っている……
そもそも、このプロダクションは、毎年パリで開催される世界演劇祭の、今年のプログラムの付録とでも言うべき形で、立案されたものであった。
この、仮に「即興と選択」と名づけられた冒険的な試みは、英仏米日四カ国の俳優が、それぞれの国語でせりふをしゃべりながら、一つの芝居を演じるという、文字通り画期的な実験で、プロデューサーのジャン・ルイ・バロー氏、演出のブルック氏、年来の友人である二人は大した熱の入れようであった。日本からは、鈴木力衞氏の推挙によって、笈田君が参加し、たまたまパリに到着した私は、ヴィジターとして、いわば介添の役をつとめたのである。
即興劇の骨格をなす物語として、シェイクスピアの「テンペスト」が選ばれた。
ブルック氏の稽古は、かなり異様なもので、俳優たちに一切、言葉を禁じることから始まった。声あるいは音は出してもよいが、意味のある言葉を口にしてはいけないのだ。俳優たちは思考と伝達の記号としての言葉を奪われて、原始人のごとき存在に還元されてしまうのである。
原則は二つある。その第一は、必ず身振りや行動の結果として感情があらわれるようにすること。第二は、一旦ある感情が生じたら、決してそれを中断せず、理性や意志による抑制や転換を行わず、感情のおもむくままに、その発展、拡大、高揚を、極限まで押し進めることである。
闘争と、その後の深い眠り。緩慢な眼覚め。知覚が戻ってくる。彼らは自分の存在を確かめ、周囲の空間を手探り、互いに触れ合い、他者の存在に気づく。その接触から、どんな感情が生れるか。
これだけのテーマに、一日、七時間を費やすのだから、演出家も、俳優も楽ではない。
ある日は、俳優たちに、樹木や土や火や水や空気に化身することを要求する。
次の日には、地底で眼ざめ、硬い礫層《れきそう》と、柔らかい泥と砂とをかき分けて、海中を泳ぎ昇り、空中を上昇するうち、炎に包まれ、身を焼かれながら遂に天上に到達するある存在を演じさせる。
他の日は、自分の子供を食べてしまった伝説中の隻眼の巨人の体験を、身振りと声だけで語らせる。
稽古の合間には、他者との接触、交流のための練習課題を、自習させる。
ブルック氏の計算は綿密で、日を追うにつれて、俳優たちは超人間的な感情の体験から、その深さと激しさとを保ちながら、次第に人間的な感情の体験へと導かれて行った。そしてブルック氏は、どうやら、言葉と身振り、あるいは思考と官能、精神と肉体の未分の状態、一切が混沌《こんとん》としていて、不定形で、流動している状態の人間に興味を持っているようであった。
ブルック氏はこういう方法を、単に即興劇の稽古のための課題として用いているのではなく、実際の演出に際しても、全面的に採り入れているらしい。ジョージ・リーヴズによれば、その最初の試みは、数年前の「リア王」であり、後の「マラー〓サド」に至って定着した由である。
ブルック氏の「リア王」とほぼ同時期に、ポーランドの演出家グロトフスキーが、「聖書」を上演した。その手法は、まったくブルック氏のそれに似て、声と身振りと歌とによる一種の儀式であったという。「聖書」と「リア王」と「マラー〓サド」の上演のもたらした衝撃的な効果は、今でも、イギリスの俳優たちの語り草になっているようであった。
「トレヴァ・ナンの『リア王』? 悪くないよ。いや、それどころじゃない、とてもいい。難を言えば、美しすぎるくらいだな。そこへ行くとブルックの『リア王』は、凄かったからなあ。スコフィールドのリアもよかったしね。まあ、見て来たまえ」
あるイギリスの青年俳優は、そう言って、別れの手を振った。
ロンドンに一週間。ストラットフォード・アポン・エイヴォンを訪れる。シェイクスピアの生れ故郷は、つつましい、閑雅な、美しい町である。
劇場は、エイヴォン河の畔《ほと》りにある。
幕は、初めから明いたままである。
おどろいたことに、舞台には何もない。柱もなければ、階段もない。ただの、空《から》の舞台である。正面奥に黒幕が一枚あるばかりである。
その黒幕も、幕とは見えない。光を完全に吸収してしまっているからだ。トレヴァ・ナン演出の「リア王」は、深い暗黒の空虚の中で始まった。音楽はない。
上手から、グロスターとケントが登場する。二人とも、黒い服を着ている。
二人の忠臣は舞台中央前面に、観客に向って立つ。二人はそのままの姿勢で会話を交わす。能の名告《なの》りを聴くようである。
グロスターの庶子、エドマンドと、ケントの家来とが、二人の後方に立つ。二人とも、濃い灰色の服を着ている。
嚠喨《りゆうりよう》たるラッパの響きが、王の出御を告げる。グロスターとケントは、マントを纏う。二人とも、同じ黄金の網のマントである。
と、仄暗い上手の奥から、リア王の三人娘、ゴネリル、リーガン、コーディリアを先頭に、廷臣たちが登場する。三人の娘たちは三人とも、黒い服を着て、三人とも、ガーベラの花弁のような黄金の冠、黄金の網のマントを纏っている。廷臣たちはみな、グロスターやケントと同じ恰好をしている。
つまり、ここでは、衣裳や小道具による性格の表現は、初めから抛棄されてしまっているのだ。
つづいて、王位の象徴と見られる、巨大な黄金の剣を捧持した兵士。
その後から、途方もなく巨大な、黄金の網に被われたピラミッドのような、得体の知れない物体が、ゆらめきながら現われる。三十人ほどの兵士に担われている、その化物のような輿《こし》の頂には、これも、玉座の象徴であるかのように、生火《なまび》が燃えさかっている。
すると、三人の娘をはじめ一同は、まったく意外な迎え方をする。日本式に膝をついて正坐し、双手をあげ、祝詞か呪文を唱えでもするように、一斉に低い唸り声を発して平伏するのである。まさしくブルック流である。
兵士が、輿の黄金の網を左右に開く。丈の高い、黄金の椅子に倚って、そこに、リア王がいる。黒と黄金の衣裳。ガーベラの花弁に似た黄金の冠。炎を頂いた巨大なピラミッドのような黄金の網が、漆黒の背景の中に浮び上る。リアの玉座、リアの威光を唯一の装置として、悲劇がはじまる。
この開幕の効果は圧倒的で、眼を見はらせる美しさがあり、同時に、リアの悲劇を、一切の歴史的背景から切り離して、詩的宇宙の一王国の物語たらしめようとする演出家の意図が、水際だった手並みで呈示されている点から見ても、トレヴァ・ナンの演出家的天分は疑いようがないのだった。エリック・ポーターのリアもみごとだが、これは、演出の勝利である。
彼はまた随所に、すばらしい「つなぎ」の場面を見せてくれた。
狩りから帰ったリアと家来たちの「大騒ぎ」は、狩りの儀式のパントマイムとして表現された。猪の皮を冠った一人の兵士を、他の兵士たちが円陣を描いて取り囲み、槍の石突で床を鳴らして攻め立てる。猪が遂に倒れると、リアが現われて双手を挙げる。猪はリアの足元に身を投げる。私は、ハリソンの名著「古代藝術と祭式」を思い出し、折口信夫を思いだした。それは私が、劇場の舞台で見ることを、まったく予測し得なかった情景であると同時に、まさに劇場以外には見ることの不可能な生き生きとした行動の再生であった。
また邪《よこしま》な二人の姉娘、ゴネリルとリーガンの館への道中は、暗い逆光の中の暗鬱な行列の行進によって示された。先頭には、道化が、響きの鈍い小太鼓を打ち鳴らしながら、踊っていた。
後になって、この、装置もなく、音楽もなく、照明の変化と、音響効果のみで、四時間に余る大作を、しかも途中一回の休憩のみで、いささかの緩みもなく演出し通したトレヴァ・ナンが、二十八歳の青年であると聞かされた時のおどろきを、私は今でも覚えている。
とんでもないやつがいるものだ、と思ったが、つまり、これが、伝統というものだろうと、思い直した。ブルック小父さんのやったことも見ているし、もう一人のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの責任者である、ピーター・ホール小父さんの、より保守的な演出も、ちゃんと勉強している。むろん、ロンドンのもう一つの国立劇場、オールド・ヴィックの演出家たちからも、学ぶ所があったにちがいない。
ピーター・ホールがやめたので、今シーズンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの藝術監督には、トレヴァ・ナンが就任するそうである。三十代、四十代の先輩演出家を追越したわけだ。ブルック氏も、いい弟子を持ったものである。
二週間の予定だった私のイギリス滞在は、延びに延びて、四十日に及んでしまった。フランスの学生騒動で、飛行機が止り、パリへ帰れなくなってしまったせいもあるが、イギリスの芝居がおもしろかったせいもある。私は、イギリスの芝居の魅惑に、その大胆な革新によって、伝統が再発見され、その古きをたずねて新しい表現を発見するに至るいかにもイギリス人らしい手続きと気組みのおもしろさにすっかり感心してしまったのであった。
パリでの公演が不可能になったので、ブルック氏とその一座は、ロンドンへ引越して来た。コヴェント・ガーデンの青物市場の中にあるロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの稽古場で、相変らずの稽古が続いていた。
公演を見て帰りたいが、それだけの余裕はない。六月の末のある日、私は別れの挨拶をしに稽古場を訪れた。
「しょっちゅう、すれ違いだね、お前さんとは」と、顎鬚のジョージ・リーヴズが言う、「しかし、まあ、四十日もいれば、もうイギリスの芝居も見尽したろう。もっとも、パリへ帰ったって、何もやっていないけれど」
「芝居より何より」と、私。「荷物が置いてあるから、パリに帰らないわけには行かないんだ」
「じゃ、お元気で」と笈田君。振り向くと、ピーター・ブルック氏の笑顔がある。
「いろいろ有難うございました」
「こちらこそ」と、握手をしながら、ブルック氏は意外なことを言った。「今度は東京で会いましょう。その節はよろしく」
私は、びっくりしたが、翌日、ブリティッシュ・カウンシルのミス・エッジワースが教えてくれた。
「来年、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが、日本へ行きますよ」
トレヴァ・ナン演出の舞台が、東京で見られることは、ほぼ確実である。
――一九六八年一二月 藝術新潮――
実験的な国立劇場
フランスの五月革命が一挙に大爆発を起した翌十四日、束の間の平穏に乗じて、私はオルリー空港からロンドンへ飛んだ。
今夜は特別公演ですよと念を押されて、オールド・ヴィックへかけつけると、玄関は早くもブラック・タイとイヴニングのはんらんであった。コートを脱ぐ客にぶつかり、見ると、ローレンス・オリヴィエである。失礼。客ではなかった。この劇場の主である。
プログラムを見ると、今夜は、この国立劇場オールド・ヴィック、前名ロイヤル・コバーグ劇場が、一八一八年五月十四日に開場して以来、ちょうど百五十年目に当っている。
幕が上る。素顔のジョン・ギルグッドが、詩人C・デイ・ルイスの頌《しよう》を朗読する。
この舞台は世界、われらの心の世界、そこに
ロザリンドはほほえみ、イアゴウは憎む、
リアは咆哮《ほうこう》し、マルヴォリオはめかしこむ。
二十世紀最高のハムレット役者、サー・ジョンの格調の高い朗読が終るとすぐ芝居が始まる。祝詞、あいさつの類いは一つもない。
シェイクスピアの「お気に召すまま」を中堅のクリフォード・ウィリアムズが演出する。
女の役を演じるのが、すべて若い男優である。演出家は、少年俳優が女性役を演じるという昔の習慣を復活させる気はないと断わった上、ヤン・コットの論文から刺激を受けたと述べている。
この、今評判のシェイクスピア学者は、シェイクスピアがプラトンの哲学にかなり精通していたという見方をしており、また、ルネサンス期の人体の美の、理想の一形態が、少年のような女性あるいは女性のような少年であったことを、ヴェロッキオの彫刻やボッティチェリの絵を例証にあげて説明している。そこから、シェイクスピア劇における同性愛、男装と女装、ひいてはエロティシズムの問題に、新鮮なアプローチを試みているのだ。
気鋭の装置家ラルフ・コルタイの、プラスチック製の冷たい透明なアーデンの森に、ビニールや金属を多用した現代的あるいは超現代的衣裳の人物たち――ミニスカートやらパンタロンやら、流行のサングラスをかけた宇宙人のような人物までが現われて、快いリズムで動き、語り、踊り、大団円の背景に投影された明るいオレンジと赤との縞模様が、サイケデリック風に動き出して、幕がおりるまで、舞台には、現代的感覚の波動が絶えず流れていた。まかりまちがえば、新奇をてらった見世物に堕しかねない危険な行き方だが、俳優たちの演技には節度があり、みごとに統一された演出であった。
百五十年祭を記念して、国立劇場オールド・ヴィックは、単に現代服上演という域を脱したこの二十世紀のシェイクスピア劇を、その演劇的冒険を、誇示したかに見えた。少なくとも、私の目にはそう映ったのである。
が、これはいささか早計であった。この程度の冒険は、オールド・ヴィックでは、一向に珍しくないのだ。
タイロン・ガスリー演出の「タルチュフ」は、これまで脇役とされていた市民オルゴンを、主役にしていた。
オリヴィエ演出の「三人姉妹」は、屋内屋外の両場面とも鋼鉄のテープを並べた巨大なカーテンを使用し、チェーホフ劇につきものの写実的な装置に代る、密度の高い空間をつくりあげていた。三人姉妹は能の橋がかりの出のように、一筋の光に導かれて、闇の中から登場した。
そしてピーター・ブルック演出のセネカ作「エディプス王」は、冒険という点では、オールド・ヴィックの全演目中、最左翼に位する作品であった。
舞台中央に、自由に回転する大きな黄金色の立方体がある。装置はそれだけである。
全登場人物はほとんど黒色に見えるシャツとズボンを着用しているが、その色合には微妙なニュアンスがあって、完全に同じ服装をした人物は一人もいない。
エディプス王をギルグッドが演じる。黒シャツ、黒ズボン。素顔のままだ。
舞台の左右前面と客席に、合唱隊がいる。客席の合唱隊は、二階、三階、四階を支える十数本の柱に、一人ずつ、革帯に身を托し、舞台に呼びかける。せりふばかりではない。言葉にならない溜息。呪文めいた記号のような音をつぎつぎに、ある時は一斉に舞台へ送る。
しぐさは極度に様式化されている。荘重な儀式を見るようである。
そして、エディプス王の悲劇が終るや、とてつもない饗宴が始まる。舞台中央にすえられる巨大な黄金の男根。黄金の衣裳に黄金のマスクをつけた青年たちが、ジャズを演奏しながら客席を練り歩き、ゴーゴーを踊る。
精神と肉体との未分の状態とでも呼ぶべきもの、そこから言葉や身振りが生れてくるどろどろした混沌を、この卓抜な演出家は数年来追い求めているようであった。
オールド・ヴィックは、一口に言って、保存のための劇場ではなく、創造のための劇場なのだ。われわれの国立劇場や、コメディー・フランセーズに見られる保守の風は、ここにはない。オリヴィエ主演のストリンドベルイ作「死の舞踏」のような、折目正しい近代劇が、むしろ古色を帯びて見えるほどで、これほど進取の気に富んだ国立劇場はざらにはあるまいと思われた。国立劇場が、どんな実験的劇場よりも実験的な芝居を上演しているのである。詩人ルイスは、オールド・ヴィックにつぎのように呼びかけて、その頌を結んでいる。
きみは世界中の劇を見せてくれる、古い、新しい、今日の劇を――
人間の高さと深さと、いつの日にか私たちが
かくありたいと熱望する姿とを。
――一九六八年八月 朝日新聞――
ルイ・ジュヴェの幻影
夜中の十二時、ヴァヴァンの駅で地下鉄を降り、階段を昇ると、目の前がカッフェ「ロトンド」である。
往来に面した籐椅子に腰をおろし、指を挙げると、給仕がやって来る。
「いらっしゃい。今夜は、どうでした、芝居?」
「まあまあ、だな」
「ビールですか?」
「ええ、いつもの通り」
「ドミをね」
ビールが葡萄酒になることもある。クロック・ムッシウの一皿が、付け加えられることもある。隣の卓の客も、日によってさまざまである。賑やかに談笑するアリアンス・フランセーズの学生たち、足の短い犬を連れたつつましい老夫婦、気むずかしげにパイプをくゆらせる髯の中年男、無限抱擁とはこのことかと思われるほどいつまでも顔を寄せ合っている若い二人……
酒の運ばれて来るのを待ちながら、私は今見て来たばかりの芝居のプログラムをひろげ、写真や配役表を眺めたり、記事を読んだりする。
パリ到着以来、およそ一カ月の間に、いつとはなしに出来上った、これが私の日課のひとつで、後は、歩いて五分とはかからぬホテルの二階の部屋へ戻って、手紙を書くか、今夜の芝居の舞台装置や衣裳を、心覚えのクレヨン画にするかして、寝てしまうだけである。
その夜も、私はロトンドの椅子にすわって、ビールを飲みながら、芝居のプログラムを眺めていた。私の気分は妙に沈んでいた。
今夜の芝居も、いくらかの満足と、いくらかの不満足とを、与えてくれた。
一体これはどういうことだ、と私は思案した。一と月近くパリにいて、完全満足の芝居に一向にぶつからないとは、どうしたわけか。
唯一の例外が、到着早々に見たイタリア人劇団によるゴルドニの喜劇である。あれだけには、文句なしの超完全満足を味わった。
初めが良すぎたせいか、後が、どうも冴えない。フランスには、三カ月余り滞在する予定だが、この調子では先が思いやられる。
むろん、すぐれた才能の持主もいる。創意ゆたかなジャン・ルイ・バロー、才気煥発のジャック・シャロン。滋味掬《きく》すべきレイモン・ルーローらの演出には、学ぶべきものが大いにあった。気鋭の青年演出家ヴィクトル・ガルシアの仕事などからも、刺激を受けたことは確かである。装置家にもパースのような清新な感覚と技術の持主がいる。
役者とて、同様である。洒脱、重厚、理知的、情熱的、軽妙、緻密《ちみつ》と、さまざまな藝風、さまざまなタイプの練達の役者が少なからずいて、それぞれみごとな演技を見せてくれた。加えて、女優の美しいことは、一と通りではない。可憐あり、妖艶あり、清楚あり、神秘的ありで、これまた、刺激を受けたことは間違いない。
だが、どういうわけか、渾然《こんぜん》とした演劇的感銘が得られない。圧倒する魅力が、舞台から来ない。有無を言わせぬ劇的律動の高まりが感じられない。おもしろくないのだ。
昔からフランスの芝居に関心を持って来た私には、これははなはだ具合の悪い事態であった。
「フランス演劇の精髄は、言葉にあるという。正にその通り、役者たちは喋り、喋り、喋り――ただ喋るだけである」
「フランス演劇の美を形造る重要な要素は、装置や衣裳の色と形の洗練であるという。正にその通り、舞台はさながら、ギャラリーである。ただし、ドラマは不在である」
仮に、そんな皮肉な悪口を言うものが現われたとしたら、私は何と答えればいいのか。どの劇場へ行って、何を見給えと言えばよいのか。
いや、そもそも私自身、これから先、何を見たらよいのか。
一体、これは今シーズンだけの現象であろうか、たまたま、演劇的不作の年にぶつかったのだとすれば、まだしも諦めがつく。
だが、どうも、そうではなさそうである。何か、もっと由来する所の遠い、深いものが、フランスの芝居全体から、活気を奪っているように思われる。
私は沈みがちな気分のまま、ふと、その日が水曜日で、ロフィシエル・デ・スペクタークルの発売日に当っていることに気付いた。ロフィシエルは週刊のパリ案内誌で、芝居見物にはたいそう重宝なパンフレットである。
ロトンドの隣の本屋で、ロフィシエルを買って、ホテルへ引上げる。
ベッドの上でページを繰る。
映画案内欄に、ルイ・ジュヴェの「クノック」が出ている。私は眼を疑った。
ルイ・ジュヴェなしには、夜も日も明けぬ思いをした一時期が、私にはある。
初めてジュヴェを見たのは、ジャック・フェデエ監督の映画「女だけの都」であった。
脇役のジュヴェは従軍僧を演じていたが、その圧倒的な、戦慄的な印象は、二十数年後の今日でも、忘れ難い。シニカルで、滑稽で、無気味で、威厳があり、ジュヴェの破戒僧は、この秀抜な時代喜劇全体があたかも彼ひとりのために存在しているような印象を与えた。
私は映画館の暗がりの中で、映写幕の上に、ジュヴェの幻影を見ただけだが、この幻影は、どんな生身の俳優よりも強く私を打った。この幻の現実は、他のどんな現実の演技よりも実在的で強固だった。これは俳優の演技というものの到達し得る一つの極限を示しているように、私には思われた。
以来、私はジュヴェという熱病の患者になった。「女だけの都」を、「舞踏会の手帖」を、「北ホテル」を、「幻の馬車」を、「旅路の果て」を、彼の出演するあらゆる映画を繰返して見、彼のレコードを繰返して聴き、大学生にはひどく難解な、息の長い文章で書かれた彼の演劇論を、辞書を頼りに苦心して読んだ。
あらゆる映画の中で、ジュヴェは常に役の人間であり、同時に彼自身であった。巨大な体躯、長い腕と長い脚の緩やかな動き、見ているのは私なのに、逆に私が見られているような気持を起させる大きな眼。相手の役者たちを、演出者を、作者を、見物を、すべてを見通してしまうような不思議な眼。その冷たい、熱い眼差。大きな肉感的な唇から洩れる、抑揚の強いせりふ。やがてその錆《さ》びた声音が、低まり、呪文のように、果てしなく続く。
どの映画でも、ジュヴェは、落雷のように、突然出現した。彼が登場すると、映画は突然、別の劇になってしまうのだった。それはシナリオや演出の問題ではなく、明らかに、ジュヴェという非凡な一俳優の放射する人間的魅力が、他の何物にもまして強烈だったからである。彼の演じている人間の心奥のドラマの熱が、外枠の物語のドラマを溶かして、作者にさえ思いがけぬ恐ろしい合金を創り出してしまうのだった。
しばしば映画の最高の主役である広大な、あるいは奇怪な、あるいは美しい自然の風景さえも、ジュヴェが登場すると、徐々に身を退いて、甘んじて彼のための背景となるのだった。
そのジュヴェの舞台の、前期の最高傑作「クノック」が映画化されたという小さな記事を、私は、戦前の日本の映画雑誌の、海外ニュース欄で読んだ覚えがある。
二十数年を隔てて、パリで、その映画を見ることになろうとは、思っても見なかった。
パリは、いや、パリに限らずヨーロッパの都市は、一体に物保《も》ちがいいから、映画でも、昔の作品がたくさん見られる。
パリの芝居の冴えないのは、今年だけの現象なのか、それとも、ここ十年来、というような、もう少し長期にわたる現象なのか。
いずれにしても、その傾斜が、ジュヴェの時代、第一、第二次大戦間の、いわゆるフランス演劇の「美しき時代」の末期にすでに始まっていたかどうかは、明日の「クノック」を見れば見当がつくだろう。
灯を消す。
時折、自動車の走る音が聞える。甃《いしだたみ》を歩く小さい固い靴音が、次第に明瞭になり、やがて遠ざかっていく。
明日は、ジュヴェに会えるのだ。
「クノック」はすばらしかった。
ラ・アルプ通りの映画館は小さくて、五十とはない客席の正面には、舞台も映写幕もなく、映画はいきなり白壁の上で始まった。
山奥のはやらない病院を譲り受けたクノック先生が、完全な健康体は存在しないという理屈を、巧妙な宣伝技術と、催眠術師的な言葉の駆使とによって村民たちに呑込ませ、商売大繁昌となる喜劇は、今見ても十分皮肉がきいている。
それにしても、なんというジュヴェの生気、なんというジュヴェの迫力であろう。
私はかつて、テレビの深夜劇場で、ジュヴェの昔の映画を見て、物足りぬ思いをしたことがある。死んでしまった役者の映画は、味気ないものだ、と思ったことがある。しかし、その日、白壁の上に現われたジュヴェの幻影は、昔通り、生気に溢れ、昔通りに堂々と実在していた。
ぶつぶつと呟く錆のある声が、不意に抑揚の強い断然とした調子に移り、大きな官能的な唇が薄笑いを浮べるかと思うと、眼は大きく、冷たく見ひらかれている。その眼が、一瞬、虚空を見る。そのままゆっくりと、背を向けて、ジュヴェは歩み去る。緩やかに動く長い腕、長い脚。巨大な体躯。
その日、「クノック」のジュヴェが、それほど生き生きと見えたのは、これが、彼の当り役であったからだろう。初演の稽古を見た作者ジュール・ロマンは、扮装は不要、君の地で演じ給えと、ジュヴェに言ったそうである。
また一つには、そこがパリであったからだろう。そこにジュヴェがいるために、青年時代の私がそこへ行くことを熱烈に夢みた、そして、二十数年の後に、今初めて私がそこにいるパリであったからだろう。
生けるジュヴェの幻影は、今、フランスの芝居がおもしろかろうが、つまらなかろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか、またおいで、と言っているようであった。
やがて私はイギリスへ渡り、渡ったまま帰れなくなった。五月革命である。
ようやくパリへ帰ったのは、六月の末で、その一と月余りの間に、パリの劇場の半数近くが、早々と暑中休暇に入ってしまっていた。私も予定を繰上げて、帰国することにした。
帰国を三日後に控えた七月六日の午後、サン・トノレ街を歩いていて、私ははっと気づいた。
六日はジュヴェの命日である。祥月命日は、八月六日であるが、それでは、間に合わない。
タクシーを拾う。モンマルトルの墓地に着く。五時四十五分である。パリの墓地は、六時に閉ざされる。私は門前の花屋へ飛込んだ。
怪訝《けげん》そうに、肥った髯の主人がこちらを見る。名優レイミュに似ているような気がする。
「墓参をしたいのです。花を下さい」
「もう遅いよ」
「まだ十五分ある」
「一体、誰の墓参りだね?」
「ムッシウ・ルイ・ジュヴェ」
主人が奥へ声をかけると、痩せた、小柄な、やぶにらみの爺さんが現われる。鳥打帽を冠っている。
「ジュヴェの墓参りだそうだよ。案内してやんな」
「花を下さい」
「家は墓石屋だ」
なるほど、窓の花輪は、よく見れば造花である。
やぶにらみの爺さんが、一軒おいた隣の花屋へ案内してくれる。大きな前掛をかけた、これも肥った老婆がゆっくり出てくる。これがまた、ジュリアン・デュヴィヴィエ好みの、妙に落ちついた婆さんである。
紅い菊の花の、大きな一束を、ゆっくりと運んでくる。気が気ではない。
それを察して、やぶにらみの爺さんが脇からしゃべる。これは、無闇な早口である。
「だいじょうぶだ。私が門番に話してやるよ。私がついてりゃ、だいじょぶだ。私は墓地の案内役だからね。だいじょぶだ」
若い門番は、もう大きな鉄の扉を締めようとしている。案内の老人が早口で二言三言、何か言うと、それでも私たちを通してくれた。
「ね、だいじょぶだろう」
チップをやる。やらざるを得ない。
「あんた、運がよかったよ。ジュヴェの墓は、近いからね。これが、奥の方の墓だったら、えらいこった。通しちゃくれないよ。広いからね、ここは」
墓石の間の道を早足で歩きながら、小止みもなしに喋る。
「ジュヴェの墓は、お参りが多いよ。ドイツ人が多いね」
「どうしてだろう?」
「私が知るもんか。来たいからだろう。フランス人も多いよ。日本人を案内するのは初めてだ」
やがて、道は左へ折れ、細くなる。墓石の間を縫うようにして進む。
「ここだよ」
眼の前に、畳一畳ほどの、白い大理石がある。その白い平らな墓を見た途端に、不意に、あたりが静かになり、風景が幽《かす》かに明るさを増したように思われ、私は空を見上げたが、相変らず空は曇ったままだった。
案内の老人の去った後、私はしばらく、墓のほとりに佇んでいた。
平らに置かれた墓石の足の方には、赤いゼラニウムの鉢植が四つほど、手向けられている。頭の方には、蔓草《つるくさ》が植えられている。蔓草は道糸《みちいと》づたいに墓石の縁取りを形造ろうとして、すでに墓石の両側に、やさしい茂みを這わせている。墓石の頭部にはまた、ギリシア風の花壺が置かれていた。その花壺の、枯れた金盞花《きんせんか》の脇へ、私は赤い菊の花の束を挿した。
Louis JOUVET1887―1951
MME Louis JOUVET1886―1967
活字体の、黒い石の象嵌《ぞうがん》を見ているうちに、私は、理由の分らぬ興奮を感じ、動悸と息切れを静める眼のやり場に困った。
――一九六八年一一月 藝術新潮――
ジャン・ルイ・バローの退場
暑い。風がない。
日曜なのに、リュクサンブール公園は閑散としている。円形の池のまわりに散らばったおびただしい鉄製の椅子が、空しく日に焼かれている。
門を出る。
目の前にオデオン座の楽屋口。金網張りの掲示板に、中止になった世界演劇祭の青緑色のポスターが、所在なげに残っている。
いわゆる五月革命が一段落したパリの町の、やや色あせた平穏。
円筒形の帽子の警官が二人。
舗道を渡ろうとすると、その二人が、私を見る。年嵩《としかさ》の一人が、近寄るなという身振りをする。
劇場側面の、反対側の歩道に移り、暑い六月の日射しの中を、往来ごしに劇場を見ながら歩く。その劇場の歩廊にも、警官が二人。その二人が、また私を見る。
劇場の淡黄色の石の壁に、黒インクのいたずら書きがある。
「恋人を抱け、銃を離さずに」
「藝術はくだらん」
「詩は黄金、前進せよ、町へ」
………………
詩は黄金、という文句は、「黄金の頭」にひっかけてあるらしい。この詩劇は、オデオン座のレパートリーの一つで、現に今シーズンも、作者クローデルの百年祭を記念して、世界演劇祭のはじまる直前まで(ということは、学生のデモのはじまる直前まで)上演されていたのだ。
劇場の前の広場へ出る。
警察機動隊の黒塗りのバスが二台、劇場の正面玄関を塞ぐように駐車している。
窓ごしに、新聞を読んだり、談笑したりしている警官たちの姿が見える。武装はしていない。上着を脱いでいる者もいる。トランシーバーを持って、何かしゃべっている者もいる。
オデオン座を占領していた学生たちの、最後の一群が、警官隊との小競《ぜ》り合いの後、劇場を明け渡したという記事が新聞にのったのは、もう一週間以上前のことだ。私はその記事を、ロンドンで読んだ。
私が立止ると、二台のバスの中の警官たちが、一斉に私を見る。人通りは少ない。私はまた歩き出す。
ゆっくり十メートルほど歩いて、また立止り、振り返る。一人だけ、まだこちらを見つめているのがいる。窓枠に、両腕を組み、顎をのせている。警戒心が強いのか、退屈しているのか、東洋人が珍しいのか。
すると、黒い影が視野にはいり、黒い背広の男が、うつむき加減に私の前を横切ろうとして、こちらを見る。
気づいたのは、ほとんど同時である。
ジャン・ルイ・バロー氏だ。
「やあ、元気かい」
いつもの、錆のある、静かな声。いつもの、猫背気味の姿勢。縮れた髪、鋭く弧を描く鼻梁《びりよう》。そして、快活な苦笑とでもいうべき、一種独特の笑顔。
「昨日ロンドンから帰って来ました」
「それじゃ、ずいぶんたくさん芝居が見られたわけだ」
「ええ、ピーター・ブルックさんの稽古もときどき」
「そう。それは良かった」
「大変でしたね」
「まあまあ、ね」
「…………」
話しかけたい気持があふれているが、言葉にならない。これは、語学力の問題だ。が、それだけではない。この場所で、この人に、どう話しかけたらよいのか。
私は、数日前、フランス政府が、国立劇場オデオン座の総支配人ジャン・ルイ・バロー氏を職務遂行不十分の故をもって解任したことを、新聞で読んで知っていたからだ。
バロー氏の主宰する世界演劇祭は、イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー、日本の文楽と、いずれも好評で、五月三日ごろから次第に激化してきたデモにも拘らず、オデオン座は盛況、大入りつづきだった。
ところが、五月十三日、最初の大爆発が起った。ゼネストである。そのあおりを食って、演劇祭の第三のプログラム、アメリカのポール・テーラー舞踊団は、公演を中止してしまった。オデオン座だけではない。パリの全劇場が、閉鎖してしまったのである。俳優組合がストライキに参加したから、芝居の続けようがないのだった。
そこへ、学生たちが乗込んできたのである。
五月十三日に、オルリー空港で立往生し、翌日の飛行機で辛うじてロンドンに渡った私は、イギリスの新聞やテレビの報道と、また、飛行機が止ってしまっているにも拘らず、どういうわけか、ちゃんと毎朝とどく「フィガロ」の記事を頼りに、成り行きを見守るほかはなかった。
五月十八日、バロー氏はオデオン座で学生たちの委員会と会見を行なった。
学生側の代表は、五月革命の立役者、「赤毛のダニー」と呼ばれるダニエル・コーン・バンディである。
学生側の要求は、劇場を明け渡すこと、ただし、電源のスイッチや、鍵の管理者を残して、学生委員会の指揮下に入れよ、というのであった。
バロー氏はこの要求を受け入れた。受け入れたばかりでなく、舞台から、学生たちに向ってこう言った。
「劇場支配人バローは死にました。ここにいるのは一人の俳優バローに過ぎません」
正直に言って、これはいささか早とちりだな、と私は思った。言う必要のない事だ。新しいものに対する好奇心の、人一倍旺盛なバロー氏が、学生たちの動きに敏感なのは当然だが、自分のポジションを、自分から投げ出してしまったようなことを言う必要はなかったろう。あるいは、舞台という場所が、場所の「魔力」が、俳優バロー氏をそこまで「歌う」気にさせたのか。学生たちがバロー発言を歓迎したのは無論である。
果して、翌日の新聞に、文化相アンドレ・マルローが、バロー氏を正式に非難する声明を発表した。
――バロー氏は政府によって任命された国立劇場の最高責任者である。氏が学生たちに迎合するごとき発言を行い、学生たちの要求によって鍵をかれらに委ね、劇場を明け渡したことは、不当な措置であった。もし退去するのなら、氏は劇場を閉鎖し、氏の管轄下にある全員を率いて退去すべきであった……
こちらの方は、まことに理路整然、筋が通っている。
バロー氏も黙って引き下ってはいない。日をおかず、早速、マルローの非難に答える声明を発表した。
――マルロー氏の非難は当っていない。興奮した学生たちを相手に交わした問答の一部を引用した記事から、私の真意を推測されては迷惑である。私があのような処置を取ったのは、オデオン座を守るためだ。オデオン座は建築自体はむろんのこと、多くの演劇的遺産を蔵している。もし学生たちの要求を入れなかったら、かれらは劇場を破壊してしまったに違いない。マルロー氏は演劇人が劇場に対してもつ愛を忘れているのではないか。私はなるほど政府によって任命された者だが、その任務の第一は、政府に奉仕することではなく、演劇に奉仕することなのだ。私は学生たちに迎合したのではない。演劇人として私は答える。演劇に対する奉仕者《セルヴイトウール》たれといわれればウイ(諾)だが、われわれの下男《ヴアレー》になれといわれればノン(否)だ……
結びの「セルヴィトゥール・ウイ、ヴァレー・ノン」という文句は、その数日前、ルーマニアから帰ったドゴール大統領が語った「レフォルム・ウイ、シアンリ・ノン」(改革は可、ごろつきは不可)と、韻を合わせたような感じがする。
しかし、芝居がしやすいように、見やすいように、細心の注意のもとに設計され、管理されて来たオデオン座の美しい裏表を見知っている私には、バロー氏の心情が、人ごとならずわかるような気がした。しかし、恐らく、それで失言が消えるというわけには行かぬだろう。
間もなく、政府はバロー氏に、解任通知状を送ったが、その通知状には、マルローの署名がない。バロー氏は、解任はマルローの真意ではなく、通知状は無効であるとして、受理を拒んでいるという。
かつて、国立劇場の不振を打破するために、在野のバロー氏をオデオン座の総支配人に推挙したのは、他ならぬマルローであった。皮肉なめぐり合せである。
一方、オデオン座の内部は、バロー氏の願いも空しく、荒廃しているという。ごみの山が出来、衣裳類は破損し、廊下にも広間にも客席にも楽屋にも、外壁と同様、いたずら書きが書き散らされているという……
言うべき言葉が見つからないまま、私は帰国の挨拶を述べる。
「御健康を祈ります」
「有難う。君もね。鈴木さんによろしく」
手を振って、バロー氏は歩き出す。
その前こごみの後姿が、レストラン「地中海」の扉の向うに消えるまで見送って、私も歩き出す。
バロー氏が再びこの劇場の指揮をとり、この舞台に立つ日が、来るだろうか? ほかに適任者があるとも思えない。しかし……
暑い。あいかわらず風がない。
ドゴール派が、圧倒的な票を集めつつあった投票日の午後のことであった。
――一九六八年八月 東京新聞――
モスクワ藝術座再見
十年ぶりに、モスクワ藝術座が東京にやって来た。
くすんだオリーブ色の幕の、栗色の渦巻模様や、座紋の白いかもめの縫取りをながめていると、十年前とそっくりそのままのような気がする。古びた気配はなく、むろん新調のけばけばしさはない。落ちついたいい幕だが、こういう備品類の保管なども、よほど丁寧に、大事にしているのであろう。そう思わせるものが、モスクワ藝術座という劇団にはある。
その大きな引幕が左右に開いて芝居が始まる。初日の演目は、ゴーゴリの喜劇「検察官」である。
「検察官」という喜劇は、最初の幕明きと最後の幕切れとに、強い独特の効果をもった芝居である。最初のせりふで、いきなり事件の核心が語られ、たちまち大さわぎが始まる――はずなのだが、ケードロフ演出の舞台は、むしろ抑制された調子で進む。汚職、賄賂に明け暮れる地方の小都市の、市長(ベロクーロフ)や官吏たちが、検察官到着の報にあわてふためき、その対策に頭をなやますおかしみは、よく計算された、控え目で正確な、身振りの集団的反応によって示される。
しかし、どうも芝居が、湧いて来ない。あふれない。日本初日のせいか。それとも、などと思っているうちに、検察官と間違えられたいささか左巻きの青年フレスタコーフ(ネウィーンヌイ)が、市長の家へ招待され、渡りに舟と乗込んで来るあたりから、芝居は尻上りに面白くなって来た。
慈善病院監督を演じるグリーボフ、市長夫人役のアンドロフスカヤ、ちょっと出るだけの錠前屋の女房、ズーエワ。こういう人たちのまさに間然するところのない演技を見ていると、せりふのわからぬもどかしさ(インタホンがあるにもせよ)が、すっかり消えてしまう。大安心といった気分になる。
表情、しぐさ、身振りの誇張と、より写実的な表現との、混ざり具合、続き具合が面白い。十年前の演目には現われなかった演技術で、これはスタニスラフスキー・システムというものの弾力性と幅の広さとを示したことになる。
役人たちがフレスタコーフに一人ずつ賄賂をおくる、というよりも、まんまと金をまき上げられる第四幕がたのしい。ゴーゴリの毒のある笑いは、第五幕に至って最高潮に達するが、あの有名な、私の大好きな長いストップ・モーションの幕切れが、幕明き以上にあっさりと処理されたのは残念無念であった。
第二夜を見る。チェーホフ作「三人姉妹」
幕明きからすでに、濃い、密度の高い時間が流れている。これはもう、見事というほかはない。
十年前の「三人姉妹」も、陰影に富んだすぐれた舞台だった。同じダンチェンコの演出を基にしているから、今度のラエフスキー演出の「三人姉妹」も、根本のところでは変っていない。しかし趣は大分変っていて、演技、照明、衣裳、装置、その他万事、多彩で明るい「三人姉妹」になっている。
むろん、ただ新しい趣向で行こう、というような調子ではなく、その結果、姉妹たちの三人三様の苦しみや孤独感や、それを乗りこえて生きようとする意志を、より明確にとらえ、よりドラマの中心に位置させるように配慮したための多彩さ、明るさなのだ。
「三人姉妹」は音楽的な構成をもっている芝居で、チェーホフの対位法的な作劇のすばらしさにはあらためて感歎したが、舞台もまたこれに劣らず、終始一貫、いささかの緩みもなく、演じおおせたのは、さすがであった。
三人姉妹たち、オーリガ(ゴロフコ)、マーシャ(ユーリエワ)、イリーナ(マクシーモワ)はもとより、無言の役々に至るまで、まったくすきがない。生きている。
それにしても、何という手ぞろいの劇団だろう。豊かな感情と、確かな技術とを持った俳優たちが、何と大勢いることであろう。ソリョーヌイ大尉(レオニードフ)のいらだち、教師クルイギン(ベロクーロフ)の微笑、「恋の少佐」ウェルシーニン(マッサリスキー)の優しさと苦さ、老婆アンフィーサ(ズーエワ)の悲歎、軍医チェブトゥイキン(グリーボフ)のおどけと悔恨……
軍楽が鳴り、寄りそう二人の妹に、オーリガが最後のせりふを言う。「もしそれがわかったら。もしそれがわかりさえすれば!」
カーテン・コールは感動的であった。
こういう芝居は、十年ぶりなんかではなく、せめて五年ぶりぐらいに見たいものである。
――一九六八年九月 朝日新聞――
マルセル・マルソーの藝
十年前の冬、マルセル・マルソーが日本へ来た時には、ちょっとした「事件」だった。テレビの舞台中継をしたNHKは歓迎のパーティーをひらき、参会者はおびただしい数にのぼった。初日の劇場の廊下は、作家、ジャーナリスト、外国文学者、舞踊家、画家、演出家、俳優などでいっぱいだった。むろん、イタリア・オペラも、モスクワ藝術座も、ジャン・ルイ・バロー一座も、コメディー・フランセーズも、まだ日本へは来ていなかった。ほぼ同じころ来日したミア・スラヴェンスカのバレー団とともに、パントマイムのマルソーは、言わば西洋の舞台藝術の、戦後最初の使者として私たちの前に現われたのである。
あの時のにぎやかさにくらべると、こんどの公演は、ひどく地味におこなわれた。劇場は初演の時よりもはるかに小さく、若い熱心な観客が少なくないにもかかわらず、正味のところ、入りも上乗とは言いかねるように見うけられた。
しかし十年の間に、変ったのはこちら側の事情だけで、マルソーの藝は、ほとんど変っていないと、私には思われた。まったく変っていないとは言い切れない。白塗りの顔が笑ったり、眉をしかめたりする時、目尻や口許に刻まれる皺が、ずいぶん深くなったような気がする。激しい精力的な動きを必要とするプログラムでは、ときどき、下半身の動きが雑になったような気がする。初演の時には、片足を膝に乗せて、片足で、みごとに空《くう》に腰をおろしてみせたものだが、こんどは、その同じ姿勢が、まるでバーの椅子に腰かけてでもいるかのように、腰高に見える。そういう体力の衰えが、ところどころに感じられはしたが、マルソーの藝は、あいかわらず達者なもので、緊張し、弛緩し、飛躍し、持続する身振りと表情の一貫した動きに、私は十分堪能した。
十年前、私はマルソーの足の藝に感心したものだ。あの鍛えられた強靱な足がマルソーの藝の核心であり、身体のほんとうの重心を外れかけるぎりぎりのところで踏み止まりながら、見かけ上の重心を作って見せることによって、あのスローモーション・フィルムを見るような独特の動きを描くことが可能になるのだと考えた。その考えは今でも変らないが、こんど見てあらためて再認識したことは、マルソーの藝のいかにもしつこいことである。
舞踏会へ出かける。手袋をはめる。その手順のばかばかしいほど克明な描写。
パーティーで左側にいる客に愛想よく話しかける。右側の客から話しかけられて、いかにもつまらなそうに相槌を打つ。また左側の客と上機嫌で話をする。ふたたび右側の客と退屈な話。その左右交互の変化のおそろしく長い連続。
町のヴァイオリン弾きが、弾こうとするたびに軍楽隊の演奏にじゃまされる。軍楽隊が去った後、昂然として一節を弾き、「どうだ、もう俺の音楽をじゃますることは出来まい、口惜しかったら、何とか言ってみろ」とでも言いたげな表情で、軍楽隊の行った方向をにらむ。また一節弾く。にらむ。弾く。にらむ。弾くのがだんだんみじかくなってゆき、最後は、弦の一とはじき。それがいかにも「ふん!」という感じになっておかしかったが、そこへゆきつくまでの感情の下降の長さ。
こういうしつこさは、初演の時にもたしかにあったと記憶する。
日本人ならば、年を経るに従って、より簡潔な動きへ、より単純な身振りへ、より淡白な表情へと移ってゆき、味わいが深まり、円熟した表現となってゆくべきところを、あいかわらずしつこく、克明に、筆致を惜しまず描きあげてゆくマルソーのパントマイムに、私はあらためて「西洋」の藝を感じずにはいられなかった。こういう藝は「枯れる」ことは無いに違いない。
「檻」という、ごくみじかい、単純なパントマイムが、私にはいちばんおもしろかった。
男が坐っている。立上る。前へ歩む。壁。押しても叩いても、びくともしない厚い壁。壁をつたわって、出口を求める。しかし、出口はない。壁は四方から男を取り囲んでいる。壁の中の空間がだんだん狭くなる。男はうずくまり、身動きが出来なくなる。ついに、奇蹟を求めるように、片手をそっと前の壁へ差入れる。奇蹟がおこる。男は透明な壁をやわらかくかきわけ、ゆっくりと外へ出る。歓喜。前へ歩む。するとふたたび、壁がある。四方から取り囲む壁。せばまる壁の中の空間……
ひたひたと空間をおさえてゆくマルソーの手は、どんな現実の壁よりも強固な、確実な壁を感じさせた。この地味な小品には、たしかに黙劇という形でしか表現できぬ詩があり、マルソーのしつこい、克明な藝のみが捉えうる単純簡潔な美が、みごとに実現されていると私には思われたのである。
――一九六五年七月 文藝――
バローの「ハムレット論」
ジャン・ルイ・バローの劇団が、日本へ来るという話は、大分前から聞いていたが、今度、いよいよ実現のはこびとなったのは、うれしいことだ。
うれしい、と一口にいってしまっては、少し違うような気もする。実は私は、昨年の十一月に入院し、肺の手術をうけて、一週間ほど前に、退院したばかりである。経過は良好で、手術としては、まず大成功だったらしい。永年悩まされたストレプトマイシンの注射とも、後三月足らずで、きれいさっぱり手が切れる。
一昨年の「マクベス」以来、私は仕事から離れている。自分で仕事をしないばかりでなく、劇場へ足をはこぶことも、ほとんどしなかった。自分の劇団の芝居さえ、満足には見ていない。手術の時の体の調子を、最高の状態にもってゆかなければならないという考えが、いつも頭にあったからである。
さて、手術が終り、仕事はこの秋からはじめてよろしいという医師の保証をもらって、退院してみると、自分のこれからしなければならぬ仕事が、何か、途方もなく堅い、重い、巌石のようなものに思われてくる。どこからどう手をつけるにしても、うっかりすれば、たちまち逆に弾きとばされ、のしかかられて圧し潰《つぶ》されてしまいそうである。
前に、二度、同じ病気で仕事を休んだことがあったが、その時にはこんなふうではなかった。病気がなおった、さあ仕事だと、勇み立つような気分だったが、今度は、違う。厄介なことになったぞ、という感じである。前のときには、病気は完全になおっていなかったのであり、今度は、手術をして、すっかり縁切りになったのだから、病後の気分としては、どうも逆のような気がしないでもないが、また一方、これでよし、とも思う。
バローの芝居を見るのは、むろんはじめてだし、「ハムレット」をはじめ、私には馴染のふかいレパートリーが並んでいるので、ずいぶん愉しみだが、それでもって、私のこれからはじめなければならぬ厄介なことが、すこしも減るわけではない。
手術後、間もないころ、福田恆存さんから、新版の「ハムレット」をいただいた。まだ、本を読むことは許されていなかったが、私はさっそく読みはじめた。仰向きのまま、寝返りも打てない状態だったから、一度に三、四ページずつ読むのが、やっとだった。活字が、ゆらゆら揺れてみえた。いま私は、無理なことをしたと思うが、その時は、気力を失わないために、これだけは、ぜひつづけなければならぬ、というような気持だった。
読んでいると、ハムレットの声のないせりふが、いつの間にか、自分の方から流れ出ていて、そこのページのうえで、たちまちゆらゆら揺れる活字になり、眼がそれを追っているとでもいうような、妙な錯覚に陥ることもあった。読みすすんでいるつもりで、いつまでも、同じ二、三行を繰返して読んでいる時もあった。だから、読んだ、というより、眺めたというのに近かったかもしれぬ。そうして、読んだか眺めたかした後では、ひどく疲れて、すぐ眠った。
ところどころに、おかしなせりふがあった。私の記憶では、たしかに、「雲泥のちがひ」であったはずのせりふが、「雪と墨とのちがひ」となっていたり、「そいつが疑問だ」というせりふが、「それが疑問だ」となっていたりする。そのたびに、小さな声で、せりふを呟いてみるが、記憶ちがいらしいせりふもあり、なんべん繰返してみても間違いのないせりふもあり、どちらとも一向に見当のつかないせりふもあった。「『そいつが疑問だ』に疑問はない」と、へんな独り言を言ったりしたが、それが、福田さんが旧訳を改められた結果であることを、人から教えられたのは、大分後のことであった。
バローのハムレットは、たいへん激情的なハムレットだそうである。狂気の表現がすさまじいという話もきいた。
しかし何分にも、実際に見た方々からいろいろ伺ったり、バローの映画の演技や、ハムレットについて書いたり話したりしている記事や、舞台写真などから、あれこれと勝手に想像しているだけだから、どんなハムレットがあらわれるか、たのしみである。熱に浮かされた頭で読んだ時とは違って、一挙手一投足ごとに、はっきりと、自分の中にある福田訳のせりふをしゃべるハムレットと、向うにいるバローのジッド訳のせりふをしゃべるハムレットとが、そのちがいが、見分けられ、聞き分けられることだろう。
私達の「ハムレット」の初演のとき、私の演技について、いろいろ批評のあった中に、いま手元に元の文章がないので正確な引用が出来ず、申訳ないが、山本修二先生の「ハムレットの内なる生命の爆発力、あるいはそれを狂気とよんでもいいが、そういうものの表現が不十分である」という批評は、忘れられない。初演の四日目に、京都で見られた折の批評で、これは演出家である福田さんの要求にもそのまま通じているところがあった。むろん、表現の技術のみに関わる批評ではなかった。同時に、もっと深いもの、もっと本質的なもの、ハムレットを演じる役者にとって、というよりも、およそ役者にとって、いちばん大切なものにたいする強い要求を、それは含んでいるように、私には思われた。そういうものを、福田さんが私に要求し、山本先生は、私がそれにこたえていないことを、指摘されたのである。
私にとって、ハムレットを演じることは、なんとでもして、その要求にこたえたい、そこへ突き抜けてゆきたいと、努力することに他ならなかった。突き抜けたい、というのは、まったく言葉通りにそうなので、早口でせりふをしゃべり、跳ね廻り、変幻自在のハムレットを演じているつもりで、ふと気がつくと、硬い、強い殻のようなものが、私をつつみ、私を締めつけているようだった。いくら早く、はげしい抑揚でせりふをしゃべっても、力いっぱいに動き廻っても、そんなことではどうにも追いつかぬほど、堅い、重いものが、私を突き返し、私を拒んでいるようであった。殻は、私の内部にあったのである。
いま私は、ハムレットを演じたことによって、その初演と再演とによって、それまで私の内部にあった堅い殻を、けっして十分だとはいえないが、いくらかは揺すぶり動かすことが出来、ごく小さな部分は、突き崩すことが出来たような気がしている。そして、そのことを、ほんとうに役者冥利《みようり》だったと、私は思う。しかし、山本先生の批評は、いつの間にか、「内なる生命の表現」という言葉につづまって、私の心に棲みついたまま、今に離れない。これから先、ハムレットをまた演じる機会が来るかどうか、私にはなんともいえないが、ハムレットを演じることによって私に向けられ、やがて私自身のものとなった要求は、いつまでも私をうながしつづけることをやめないだろうと思う。
激情的だといわれ、狂気の表現がすぐれているといわれるバローのハムレットは、私の苦しんだことをどういうふうに解決しているだろうか。これが、いちばんの期待である。
ハムレットについて、役者が書いた本を、いろいろ読んだが、いままで読んだものの中では、ジョン・ギルグッド、ロザモンド・ギルダー共著の「ギルグッドのハムレット」という本が、いちばんおもしろく、有益であった。ギルグッドの演じた「ハムレット」の具体的で綿密な記録であり、教えられるところが多かったが、それを自分の演技にとり入れることはしなかった。ギルグッドに限らず、誰の「型」も、私はとり入れなかった。べつに自慢しているわけではなく、そういうことをする心の余裕がなかったからである。
ただ、バローの説だけは、なるほどと思い、自分でもやってみる気になった。
「ハムレットのような役では、スタミナの配分ということをよくよく考える必要がある。ハムレットを演じる役者は、五千メートル競技のランナーのようなものだから、スタミナの配分を工夫し、それを実行することは、ほとんど、役を演じることから独立した、別の困難な課題と考えてもよいくらいである。楽屋でちょっと息をつけるのは、オフィーリア狂乱の場ぐらいのものだが、ここで休息をとりすぎるとすぐ後の、墓場でのレアティーズとのはげしいやりとりや、次の決闘の場で、かえって息切れがして苦しくなるから、あまりゆっくりとくつろがぬ方がよい。また、ハムレット上演中は、同様の理由で、煙草は禁物である。云々……」
スタミナの配分の方は、どうもうまく行かなかったが、禁煙は、たしかに効果があったようである。
バローが、一九四七年に「シェイクスピアのメッセージ」と題して行なった講演がある。バローのハムレット論としては、いちばん纏まったもので、演出家としてのバローの考え方がよく分る。
「ハムレット」を、外国の古典劇としてではなく、一九四七年のフランスの状況に適応する劇として、つまり、一種の現代劇として上演しようとした意図をのべたものだ。「ハムレット」を生んだ十七世紀のイギリスの社会的・精神的状況と、現代のフランスのそれとの酷似していることを強調し、二十世紀のフランスのハムレットを創り出そうとする態度を、明らかにしているのだが、こういう種類のものとしては、ゴードン・クレイグの方が、はるかに独創的で、おもしろい。
長らく、そう、私は思い込んでいたのだが、入院中に、ひさしぶりに読み返してみたら、これはこれで、なかなかおもしろかった。
バローが、一時籍をおいていたコメディー・フランセーズを出て、自分達の劇団を結成し、その旗挙げ公演に「ハムレット」を上演したのは、この講演を行なった前の年、一九四六年のことである。戦前、コメディー時代に一度手がけたことがあり、下地はできていたのかもしれないが、それにしても、大戦直後の混乱の時期に、ジッドのあたらしい翻訳によって、自分なりの意図をもった「ハムレット」を確立しようとしたバローという役者は、やはり、ただものではないという感じがした。
ハムレットは一種の万華鏡のような存在であり、哲学者のように見えるかと思えば狂人のようにも見え、無気力な男に見えるかと思えば一流の意識家とも見える、その全体がハムレットなのだという指摘などは、福田さんも、演出に際して強調されたことである。ハムレット劇におけるフォーティンブラスの役割を、重要視している点も、共通している。
「玉子の殻ほどのくだらぬこと」のために、剣をとって起ち、生命を賭けて危難に赴くフォーティンブラスこそ、真に行動的な英雄であり、彼を後継者とし、一切をゆだねて死んでゆくことによって、ハムレットの精神は力づよく甦《よみがえ》るのである。
「傷つき、毒がまわって、死のうとする時、ハムレットはホレイショーに心をうちあけます。
ハムレット 頼む、ホレイショー、このままでは、のちにどのやうな汚名が、残らうもはかりがたい! ハムレットのことを思ふてくれるなら、ホレイショー、しばし平和の眠りから遠ざかり、生きながらへて、この世の苦しみにも堪へ、せめてこのハムレットの物語を……(福田恆存訳)
ハムレットはこのとき、高貴で、優しさにあふれています。役者は、ここではもう、肉体的な死の苦痛の演技をやめるべきだと、私は思っております。ハムレットは浄らかな存在、自己を超えた存在になりつつあるのです」
こんな箇所にぶつかると、私は思わず微笑する。そうか、あなたもやっぱり、そう思って、やっているのですね。
そうだった。福田さんになんべんも注意され、自分でも、たしかにそうあるべきだと思いながら、激しい決闘の場面の後で、あの、一晩の芝居の最後を締めくくる、静かないくつかのせりふをいうことは、ほんとうに辛かった。息が切れ、涙がこみあげ、心をしずめようとすればするほど、肉体的なもの、生理的なものが沸き立って、私を苦しめた。あの時、汗みどろになって横たわっていた私は、高貴でもなく、優しくもなかった。ただ、最後のせりふを言いおわった後にかならずやってくる朗らかな解放感を、天使のおとずれをでも待つように、待ちのぞんでいるだけだった。
バローは、あの決闘の後の場で、どんな演技を見せてくれるだろうか。これも、私のひそかな期待の一つである。
――一九六〇年四月 藝術新潮――
バロー一座観劇記
いま、マドレーヌ・ルノー〓ジャン・ルイ・バロー劇団の東京公演を、その全部のだしものを一と通り見終えて、私は、ひどく骨が折れたような、気の抜けたような、苛立たしいような、茫然としたような、妙な気分になっている。この気分は、観劇の緊張、興奮、感動の後にくる疲労感を含んでいるが、必ずしもそればかりとは言いきれない。もっと複雑なものを含んでいるように思われる。
芝居を、ことに外国人の演じる芝居を四日間たてつづけに見ることは、まったく、たいへんなことだ。言葉の障害がある。生活感情のちがいがある。だいぶ前から原文と翻訳とを読みくらべ、レコードのあるものはそれも聴いて、予習して出かけたのだが、果してどれだけの効果があっただろうか。むろん、せりふをいちいち克明に聴きとろうとすることだけに注意を集中したわけではない。それでも、せりふのテンポが速くなったり、他に気をとられたりして、何を言っているのか分らなくなると、ついそのことが気になり、反射的に、すこし先廻りをして、記憶している言葉や文句をたよりに、せりふを捉まえる。また、ふり放される。そんなことの連続であった。私は、予習をしたことが、かえって観劇にわざわいしたとは思わない。むしろその反対である。しかし、それでは予習にもっと長い時間をかけて、たとえばせりふを諳《そら》んじて芝居を見たら、骨が折れず、苛立たしい気分にならなかったろうかと考えると、あるいは、もっと感動が深まったろうかと考えると、そうは思えないのである。
いま私が、茫然とした妙な気分になっていることについては、バローの劇団の一つ一つの芝居について、具体的に語るほかはない。それは、役者として、また、ずいぶん長く仕事をしていないが演出者として、私がバローの芝居にかけた期待がどう報いられ、あるいはどうはぐらかされたかということと関係があるからである。
クリストファ・コロンブス
オーケストラ・ボックスで音楽がはじまる。幕があがる。舞台の中央には二重が組んである。その上に、天井から、ほとんど舞台の空間の半ばを領するかと思われるほど、大きな白い幕が、二つにたたまれたまま、垂れている。上手と下手の袖から、楽手がラッパを奏しながらあらわれ、階段をおりてオーケストラに加わる。上手の袖花道から、旗手を先頭に、葡萄酒色のマントを着た説明役とコーヒー色のマントをまとった役者達の行列があらわれる。燭をささげる者もあり、棒をもつ者もあり、椅子を担ぐものもあり、藁束をかかえている者もある。
長い行列は静かに上手から奥の壁にそって進み、やがて二重の上に並ぶ。音楽がやむ。とたちまち、彼らは隊伍をみだし、話し合ったり、肩を叩きあったり、笑いあったりする。青年時代のコロンブスに扮したバローが、役者たちと打ち合せをし、帆の具合をたしかめ、オーケストラの指揮者に眼くばせをし、いそがしげに舞台を走りまわる。大きな本を抱えた説明役が、声高らかに叫ぶ、「静かに!」役者たちは口をつぐみ、身構える。彼らは合唱隊となる。合唱隊の長(コロンブスの保護者)が、杖で舞台を三度叩く。芝居のはじまる合図である。
いかにも、バローの劇団の初日にふさわしい幕明きだった。写実風の芝居とは全く異質の芝居がこれからはじまるのだという期待、というよりも、私たちがかねてからバローの劇団に寄せていた期待がまざまざと眼前に現在したという感じを、それはもっていた。
しかし、それにつづいて起ったことは、すこし私を戸惑わせた。
開幕の合図に応じて、ラッパ奏者が、高らかにファンファーレを吹きならす。と、保護者があわてて取消しの合図をする。楽手は「ごめんなさい」と大声であやまる。喜劇的で即興的な効果をねらった演出である。同様な演出が、以後もたびたび見られた。
白い幕のうえに、大きな手が映しだされる。神の手である。手は闇と煙の中を下降し、たゆとう暗い流れを探り、一塊の混沌《こんとん》とした球状のものをつくり出す。地球である。合唱隊は聖書の天地創造のくだりをうたう。ところが、二つにたたまれた白い幕の襞《ひだ》は、この折角のイメージを十分鮮明に映しださない。
これは後にもふれるが、バローの劇団の俳優たちの演技は、ことに動きや身振りは、一体に自発的であり、自由であって、モスクワ藝術座の俳優たちのように、演出の統制によって、細部まで整えられ、磨きあげられているという趣を欠いている。その特質が、モリエールやマリヴォーのような作品ならばともかくも、「コロンブス」のような一種の群衆劇では、いっそうはっきりあらわれる。
たとえばそういうようなことが、私を戸惑わせたのだ。劇が、いよいよ軌道にのろうとしているのに、それにふさわしい整然たる気配が感じられない。騒がしい感じがする。大胆で独創的な照明や、簡素な落ちついた配色の衣裳が、あきらかに私たちをそこへ誘っているのに、その劇中の世界へ安んじて入ってゆけないような何かが、全体に感じられる。
ことに、開幕早々の喜劇的な即興的な演出は、言葉の通じない観客にたいするバロー氏の親切から出た配慮だったかも知れぬが、作品のもつ悲劇的緊張感を弱めたように思う。
しかしそうはいうものの、見ているうちに、私はだんだん舞台にひかれていった。
藁束にもたれた老残のコロンブスにオーケストラ・ボックスから呼びかける合唱隊の力強い声。コロンブスは舞台を下り観客とともに彼の一生をながめる。幕に、幼いイザベル女王が、白鳩の脚に指輪をつけて放す場面が映る。海上を翔《かけ》る鳩。明るくなると舞台には若き日のコロンブスの家族たちがいる。コロンブスはマルコ・ポーロの伝記を読んでいる。彼は東方の国へ旅することを夢みる。と、下手から、こんどは本物の白鳩が、とんできて、コロンブスの妹の手にとまる。……
騒然たるままに、そこにはあきらかに演劇的なヴィジョンがあった。ゆれる甲板のうえをゆくバローのマイム。合唱隊と、その長であるコロンブスの保護者と反対者とのはげしい応酬。ことに四度目の航海に出たコロンブスが嵐にあう場面の、帆(幕)のはげしい動き。船艙の柱に縛られ、苦しい過去の思い出にさいなまれつつ、口ぎたなくののしる料理番にこたえるコロンブスのうしろで、大きくあおられ、ひるがえる帆の効果は、すばらしいものだった。
クローデルの荘重な悲劇が、こういういろいろな演劇的表現のつみ重なりの中に埋もれてしまって、本来あるべき重量感や緊密感を失っているという気が、しないでもない。しかしまた、こういう演出でもしなければ、この作品は、荘重には違いないが退屈な、だらだらした芝居になっただろうという気もする。
場面の転換は早く、人物の出入りも早い。いちいちの劇的効果を、じっくりと念を押すということを一切しない。せりふが終れば、その場面は終る。幕切れちかく、オーケストラ・ボックスにいた伝説中のコロンブスが舞台に上り、彼と同様に老い朽ちた劇中のコロンブスと肩を組んで退場する感動的な場面でも、二人が観客に背をむけて一足、二足ふみ出すと、もう上手から、他の人物が、藁束をかたづけに出てくる。そういうところは、むしろ小気味がよいくらいである。芝居に対するバローの燃えるような信念の感じられる、感動的な初日だった。
人間嫌い
この日も、バローはおもしろい幕明きを見せてくれた。
古風な、快活な音楽で幕があがると、暗い舞台の一隅に、上手前面に置かれた作者モリエールの石膏の胸像が、一条の光線の中に白く、くっきりと浮んでいる。像は、二メートルほどもあろうかと思われる台の上に置いてある。花束が二つ、白い小さな花束は台の上の像に添えて、色とりどりの大きな花束は台の下に置かれている。その二つの花束の関係は、ちょうど、芝居における作者と、役者達との関係を示しているようで、おもしろかったが、音楽はかなり長くつづき、私はなんだか読みたいと思っている本の表紙を、なかなか開けてもらえないでいるような、もどかしさを覚えた。
音楽が終ると、舞台が明るくなり、口絵と本文とがいっしょにはじまる。というのは、古い銅版画に描かれた十七世紀の舞台図をそのままにひきうつした装置のなかへ、しゃべりながらアルセストとフィラントとが入ってきたからだ。
照明もまた、こういう装置にふさわしく、フット・ライトを入れて、いやがうえにも明るく、人物たちを浮彫りにする。細かい白と灰色の線だけでできている背景の効果は、たとえば日本舞踊や歌舞伎の新作などにつかわれる墨絵風、絵巻物風の背景が、しばしば、絵としての効果をもちすぎるのにくらべると、はるかに無機的で、乾いた味わいをもっている。
衣裳は、あいかわらず美しい。十七世紀風の衣裳を、現代的な感覚で、しかも比較的おだやかに扱っている。これは、演出全般にわたって言えることだが、こういう古典を、ことさら手荒く、新奇な手つきで扱わず、作品自体の内に、その現代性を求めようとするバローの態度は、おそらく正しいだろう。バローは、東京における記者会見の際、フランスにおける反演劇派《アンチ・テアトル》についての質問に答えて「演劇には良い演劇と悪い演劇の二つしかない。私の立場は、反悪演劇だ」と答えたそうである。それは、私に、バローの師匠シャルル・デュランの言葉を思い出させる。デュランは、第一次大戦後の演劇革新運動の一方の旗頭だったが、「新しいことが大切なのではない、良く、そして真実であることが、私たちの劇場の目標だ」と書いた。この言葉は、さらに、デュランの先輩ジャック・コポーの思想につながるだろう。コポーは、演劇が、本来保守性のうえに成り立っている藝術であることに気づき、その保守性を梃子《てこ》にして芝居を革新しようとした最初の人である。
私は舞台をながめながら、コポーの演出した「人間嫌い」はどんなふうだったろうかと、ふと思った。コポーは、バローと同様、主人公アルセストの役を演じたはずである。そして、良識家の友人フィラントを演じたのは、ルイ・ジュヴェだったはずである。もしジュヴェがアルセストをやったら、どうだろうか。
そんなことを考えるのは、現にアルセストを演じているバロー氏にたいして、はなはだ失礼なことだとは思いながら、私はしばらくこの空想をたのしんだ。
女優は、セリメーヌを演じるルノー、エリアントを演じるヴァレール、アルシノエを演じるネルヴァル、三人ともそれぞれに、すばらしい雰囲気をもっている。それは、まったく「雰囲気」という字の示すとおりのもので、身体のまわりに靄《もや》のようなものが立ちこめている感じである。たとえば、淡い藤色の衣裳を着たヴァレールは、淡い藤色の靄につつまれており、その靄の実質的なことは、眼に見え、手にふれることができるかのようだった。雰囲気のある役者、という言葉は生活のある役者という言葉とともに、岸田国士先生の愛用された言葉だが、それはたんなる形容ではなく、文字通りに、そういうものがあるのだという強い感じを、私はうけた。ルノーが退場すると、彼女のひくクリーム色の靄が、まだしばらくは、舞台に漂っているようだった。
五幕の芝居だが、幕は、第二幕の終りにおりるだけで、後は暗転でつないでゆく。暗くなると、ほとんどすぐに、床を叩き鳴らす例の合図がはじまり、大きく三度鳴るのをきっかけに、明るくなり、芝居がはじまる。そのテンポが、快い。こういうやり方は、私たちも「守銭奴」でこころみたが、なかなか思うようにはゆかなかった。第一には、役者の体力の問題であり、第二には、装置の問題があるだろう。暗転の舞台で、役者がまごつかないためには、舞台への通路の単純化されていることが必要である。つまらぬことのようだが、こんなことが役者を落ちつけ、すぐ次の場面の演技に応じられるように、心にゆとりを与えるのである。この日の舞台は、正面奥に、大きな両開きの扉があるだけで、上手下手には、それぞれ扉のない広い出入口があり、役者はどこにも、引っかかりようのないように出来ていた。
さて、肝腎の芝居だが、昨日と同じように、言葉の通じない私たちに見せるための配慮が今日も感じられた。動き、身振り、手振り、表情がいくらかずつ誇張されている感じである。ことに、アカストとクリタンドルにおいてそうである。しかし、それはまあたいしたことではない。
上品ぶった浮薄な社交界に愛想をつかしている男がある。彼は正義の士であり、心にもない世辞や愛嬌を振りまき、面白おかしく毎日を暮している紳士淑女に腹を立てている。そういうことは恐るべき偽善としか彼には思えないからである。彼はことごとに当り散らす。ところが、彼にとって具合の悪いことに、彼はその偽善のかたまりのような美しい浮気な未亡人セリメーヌに恋をしている。浮気なセリメーヌは、相手かまわず恋文を書く。それを知った彼は、激怒のあまり逆上して優しいエリアントに結婚を申し込む。「結婚して下さい。仇討だ」こう言うアルセストは確かに滑稽でいくらか悲痛な人物である。バローは、そういうアルセストを巧みに表現していたし、ルノーのセリメーヌに至っては、まさに彼女の真価を発揮したものといってよい。ドサイのひかえめなフィラント、ネルヴァルの皮肉なアルシノエ、ベルタンのもったいぶったオロント、この「人間嫌い」は、確かにみごとな室内楽を聞いているような趣がある。しかし、少し室内楽的にすぎはしないか。
これこそ言葉の芝居であり、言葉がわからないことは、この場合「コロンブス」とは比べものにならぬほど決定的な意味をもつだろう。しかし私はどうもそういう気がするのである。社交界の風景の中にアルセストがぴたりとはまりこむことによってではなく、逆にその枠からはみ出ることによって、言いかえれば、この作品の副題の「怒りっぽい恋人」であるだけではなく、ミザントロープ(人間嫌い)というおぞましいギリシア語にふさわしい存在になることによって、この作品は初めて格調の高い悲喜劇となり得るのではないかと。
ハムレット
幕明きのことばかり書くようだが、実際どの芝居も幕明きの印象が強いのだからしかたがない。(モスクワ藝術座の時には、逆に、幕切れが印象的であった)ハムレットの幕明きは、観客をいきなり劇の世界に引き込む、その強烈な効果の点で、今度の五つの出し物の中では最も秀《すぐ》れている。私達はいきなりエルシノア城の夜の中にいる。といって別に凝った装置や綿密な照明があるわけではない。舞台前面にごくかすかな明りがただよっている。それだけである。舞台の奧に観客に背を向けて立っている兵士がかろうじて見わけられるだけである。と、兵士が身がまえる。「誰か」闇の中から激しい声がする。「何、きさまこそ。動くな、名前を言え」「我が君のご長命を」「バーナードか」「おお」緊迫したやりとりである。私達も暗い客席で身がまえ、耳をすます。私達はもはや劇の中にいる。
実を言うと、この幕明きから私にははっきりした予感があった。それは幕明きの効果そのものを狙っただけでは決して生れないはずの鋭い、そして的確な効果であった。いわば「ハムレット」という巨大な作品が動き出す時の、最初のきしみのように、この幕明きは鳴り響いたのである。私は息をのんだ。そして私の予感はあたったのだ。
ホレイショーと兵士達の切迫したやりとり。灰色の衣をまとった亡霊が現われる。青白い光が激しく明滅する。やがて鶏が鳴き、亡霊は消える。鶏の声は管楽器で表現される。芝居になまの現実を持ち込むまいとするバローの考えが、ここにもあらわれている。朝日がさす。それも背後の空が心もち明るくなり、暗がりに立っている三人にわずかに赤味を帯びた光があたるだけである。それだけで暗い陰鬱な恐ろしい夜明けがきたことがはっきり分る。プログラムを見ると、音楽や装置や衣裳はいろいろ作品によって担当者の名が変っているが、照明という字は見あたらない。これは照明が全部バローの演出のうちに含まれているからである。実際、光を扱うことにかけて、バローはずばぬけた感覚を持っている。
アルチュール・オネゲルの音楽で、場面がかわる。灰色と黒の幕をいろいろに組み合せ、変化させるだけで場面を変えていくアンドレ・マッソンの装置が、照明とともに見事である。マッソンは衣裳も担当している。黒、灰色、茶色を主調とした地味で、単純なデザインである。色や光を、おさえて、惜しんで使った照明と装置と衣裳が、この悲劇を生かすうえでどんなに重要な役割をつとめているかは、実際に見なければわからないかもしれない。こういうことは、テレビではまったく分らないのである。
バローのハムレットは、内面の感情の曲折、変化を確かなメチエによって表現する。台詞《せりふ》や身振りによって表情や姿態によって、ハムレットの快活、憂鬱、懐疑、率直さなど、この複雑な王子のもつあらゆる面を次々とあますところなく、的確に演じわけてゆく。
演出の細部のすぐれた着想が更にそれを助けている。背を向けているハムレットの前で、退場しようとして、王が王妃の手を取る。と、ハムレットは振り向き、目の前に堅く結ばれている二人の手を嫌悪のまなざしで眺める。そういう工夫が随所にある。
ハムレットと亡霊との出会いの場は、素晴らしい。灰色の長いマントをまとった亡霊は、上手《かみて》寄りに細長くたれた同じ灰色の幕の前に彫像のように立ったまま、長い独白をする。亡霊は強烈な光の中におり、現身《うつしみ》のハムレットは、かえって暗い闇の中にいる。怒り、歎き、恨むレジ・ウータンの亡霊の独白が、すさまじい迫力をもって私たちにせまる。
この後、ホレイショーたちと出会ったハムレットは、今夜見たことを誰にも言わないことを誓わせた後、例の有名な台詞を言う。「この世の関節がはずれてしまったのだ。何の因果か、それをなおす役目をおしつけられるとは!」そして、さも重荷を背負いこんだ人のように、気だるげに剣をかつぎ、退場する。
この最初の幕を、私は、ほとんど固唾《かたず》を呑む思いで見終った。私は、バローのハムレットに魅了されたのである。
ハムレットは、バロー自身が書いているように、万華鏡的存在である。彼がポローニアスをからかって言うように、或る時は駱駝のように見え、或る時はいたちに似ており、また或る時は鯨のように見える存在である。そのハムレットの多様性を、バローはくまなく表現するが、ことに、感情の低音部、あるいは陰影の部分の表現が、ちょっと類がないと思われるほど、巧みである。独特のマスクと声音とがハムレットの倦怠や嫌悪やシニスムや悲哀や、そういうものの描出に、ひどく個性的な生彩を与えるのだ。一方、軽快な手振りや身振りが、おどけた、奇矯な、あるいは無邪気な王子のいたずらぶりや、機知に富んだ応対ぶりや、力強い行動に明るいアクセントをつける。こういう明暗二様の表現が交錯する時、バローのハムレットはことに見事である。道化の頭蓋骨をもてあそびながら、人間の運命について、なかば独白的にホレイショーに語りかける場面の演技が、そのいい例であろう。
第二幕は、ポローニアスとのやりとり、「言葉だ、言葉、言葉」の場面からはじまって、フォーティンブラスの軍隊を望み見る広野の場面に終る。もっとも長い幕である。「生か死かそれが疑問だ」の独白を、バローは舞台前面にじっと佇んだままでやった。短剣をいじりながら出て来て、立止ると、やがて、切先を自分の胸にあてて、せりふになる。これも、いかにもバローらしいやり方だ。
王妃諫言《かんげん》や、墓場などでの激しい台詞は、ずっと一直線につき進むという調子で、最も重要と思われる台詞を、大きな身振りとともに強調する、というやりかたをする。ただ、この長い幕の進行につれて、ハムレットの内面の劇が、うねり、高まり、それが更に、次の場面に波動を及ぼしていくという趣があまり感じられなかったのはどういうわけであろうか。
デンマークの広野で、フォーティンブラスの軍隊をのぞみ見ながら、ハムレットは独白する。
「ああ、今からはどんな残忍なことでも恐れぬぞ」それを言う時、バローは腰を下ろしたまま、じっと自分の心の中を覗き込むような調子で、暗い表情をしている。それは、まぎれもなく、ハムレットの像である。しかし、この像は、そのまま他の場面へ移すことも出来そうに思われる。そういう疑問を私は持った。その疑問については、もっと時間をかけて、ゆっくり考えてみる必要があるだろう。
決闘の場面は、ゆるやかなテンポで演じられた。見ようによっては、ハムレットもレアティーズも、あまり大した腕前ではないのではないかと思われるくらい、たどたどしい。これも、あるいは、管楽器の鶏鳴のように、なまな現実感を避けようとする計算から出た方策かもしれぬ。しかし、それにしては様式を欠いている。
だが、そんなことはどうでもよい。この夜、シェイクスピアの声は、三百年をへだてて、たがいに言語を異にする俳優と観客とをたしかに結びつけ、鳴りひびいたのである。そのことに、私は何よりも感動する。
マリヴォー作「偽りの告白」
パントマイム「バチスト」
「映画でみると、バローの身のこなしはいつも軽く、やわらかい。しかし、舞踊的ではない。パントマイムが沁みこんでいるのだろう」と、私はプログラムに書いたが、これは、想像していた以上に、そうであった。身振りの演技の占める比重が、ずいぶん大きいのである。そのたたきこんだ藝を十分に発揮したのが、この日の二つの出しものであった。
マリヴォーの「偽りの告白」は、バロー一座の十八番中の十八番である。ルノーの繊細なニュアンスに富んだせりふの藝と、バローの柔軟なパントマイムの藝とをかみ合せ、生かすのに、これほど適当な作品はないだろう。
バローの下僕デュボワは、コメディア・デラルテ風の軽快な衣裳で、はねまわり、ルノーのアラマント夫人は、淡彩の五色の花のような裳《もすそ》をひるがえして歩む。
からくりが重なりあい、いつわりの告白が真実となり、ふとした思い違いが意外な方向へ発展する。恋の心理の綾とりのおもしろさは、「人間嫌い」と同様、言葉が障害となって、十分には汲みとれないが、察しはつく。バローのデュボワを見ているだけでも、十分おもしろい見物《みもの》なのである。
装置、衣裳などの感覚的要素は、「人間嫌い」よりも更に現代的感覚を強く生かしている。桃色の空や、黄色の木立の、装飾的な背景は、この精妙な言葉の芝居とよく照応していた。
速いテンポで語られる、マリヴォーのせりふには、とてもついてゆけず、私はやや茫然として、しかし、楽しくこの芝居を見ることができた。その楽しい気持は、次の「バチスト」によっていっそう強められた。ここで私は、初めて、言葉の絆《きずな》から解放されたからである。
色つき木版画の稚拙な風趣をそのまま生かした引幕が、十九世紀の見せ物小屋の空気をよくあらわしている。女神像に恋をしたバチストは、うたた寝をして夢をみる。彼は夢の中で首をくくりそこねたり、女神像に宝石を買ってやったり、夜会に着ていく服を手に入れるために古着屋を殺したりする。アルルカンに恋人を取られて地団駄を踏んでくやしがるバチストの白塗りの顔の下に、昨日のハムレットの顔を想像し、それが私をなんとなく割りきれぬ気持にした。演技は早間にはこばれ、克明な描写に堪能することを期待していた私は、いささか勝手がちがい、とまどったが、ふと、私たちのハムレットの初演のときも、この五月のはじめの一日おきのマチネー、その挙句の土日連続のマチネーの荒波にゆさぶられたことを思い出し、苦笑を禁じ得なかった。
バローの劇団の芝居は、どれも、テンポがかなり早い。演出は周到だが、細部の仕上げや、かみ合せというような点には、あまり拘泥していない。むしろ、大ざっぱでさえある。
演技について、バローは独自の見解をもっていて、役になりきることを理想とする伝統的な考え方にはっきり反対している。いまここで、彼の演技論をくわしく紹介する暇はないが、バローをはじめ、彼の劇団の役者たち、ことに若い役者たちの演技には、たしかに、役と役者との生命のかかわり合いを、自由に動的に処理してゆこうとする傾向がみられたように思う。役の生命と役者の生命とが渾然《こんぜん》一体となり、その一定の均質状態の持続によってなり立っている演技とは、だいぶ趣を異にしている。
こういう演技と、演出とによって、バローの劇団の芝居は、落ちついた完成した藝術作品としてよりも、より多く、探求途上にある演劇的行動としての魅力をもつ。バローは、朗誦やマイムなどの伝統的な藝を錘《おもり》として、舞台をあたらしい面へ引きあげようとしているように見える。
モスクワ藝術座の芝居を、すでに完成した、仕上げをほどこした絵とすれば、バローの芝居は、デッサンの跡もところどころに透いてみえる、今描きあげたばかりの絵に似ている。それは、いかにも現代の劇場らしい、生気と動きにあふれていた。
しかし、たとえば狂乱のオフィーリアの撒いた花が、次の場でもそのままになっているというようなことは、やはり私は気になる。
他の人物たちから離れて、下僕デュボワだけが、ひとり、マイム的であることは、気になる。もう一人の下僕アルルカンが、同じようにマイム的でないことが、気になる。
やはり、私は日本人なのであろう。
――一九六〇年六月 藝術新潮――
バローの「ハムレット」
ジャン・ルイ・バローの劇団の「ハムレット」の出来栄えは、けっして完璧とは言えなかったように思う。しかし、バローの劇団が去って、一と月ちかく経った今、その五つの演目のなかで、どれがいちばん心に残っているかと訊かれれば、私はやはり「ハムレット」と答えるだろう。
それは、私自身がかつてハムレットを演じたということ、しかも、たいへん苦労して演じたということと関係がある。バローのハムレットを見ていると、自分の演じたハムレットの意識や感情の動き、せりふのテンポやリズム、表情や身振りの変化、そういうものの記憶が、つぎつぎと甦《よみがえ》ってきた。バローのハムレットの行動と、私の内部にあるハムレットの行動とは、ある時は似通い、他の時はまったく別々に、並行して進んでいった。
歩きながらしゃべるところを、坐ったままで呟く。語気鋭く迫るところを、空とぼけて見せる。かと思うと、同じように明るく叫び、笑う。次の瞬間、私は軽蔑して唇をゆがめた、と見るとバローが、冷淡な無表情な顔をこちらへ向けている。その似方や違い方は、格別のおもしろさで、期待通りぴたりと一致することもあれば、みごとに肩すかしをくうこともあり、こちらが力を入れようとしているのにあちらはいつまでもふざけていたり、快活にふるまおうと思うと、向うはしかめ面をして坐ってしまうのであった。しかし、「ハムレット」が心に残っているのは、むろん、そんなことのためばかりではない。
私は「ハムレット」を見ながら、演出上、演技上の破綻《はたん》を、たびたび感じた。それにも拘らず、その破綻のおおい舞台が、同時に私を、シェイクスピアの世界へ、あるいは劇の世界へ、誘いつづけているのを、絶えず感じていたのである。モリエールやマリヴォーなどの、他の演目には含まれていない強い磁力のようなものを「ハムレット」はもっているようであった。それは、私の個人的事情にも基づいているかも知れないが、同時に、より多く「ハムレット」という作品が、今度の演目の中では、劇としてもっとも傑出しており、今日でも依然として、私たちに問いかけてくる主題をもった作品であるという事情に基づいているように思われた。
しかし、そうだからと言って、バローに失望し、シェイクスピアに感動した、と割り切って言ってしまうと、またすこし違うような気がする。バローの「ハムレット」には、優れた表現が随所にあって、ある時は、そういうものにほとんど魅了されたと言ってもよいくらいなのである。破綻も大きいかわりに、まさに劇的瞬間とよぶより他ないような場面も、少なからずあったのだ。それと、芝居全体の蔽《おお》いがたい単調さとは、奇妙な、対照的な印象を、いまだに私にのこしている。
「もう何も言わぬ」という最後のせりふを、バローは、その前にごく短い間をおいて、息だけで言った。言い終るとホレイショーの腕の中へ崩折れた。王を斃《たお》してからここまで、ずっと立ったままである。
なるほど、バローはついに最後まで、バロー流だな、と見ていて私は思ったが、すぐ後で、物足りない気がした。毅然《きぜん》として死をむかえるハムレットを強調しようというねらいは、よく分るが、瀕死のハムレットを、いつまでも立たせ放しにしているホレイショーは、少し、つらすぎはしなかったろうか。死を目前にして動じないのは、結構だが、そこまでやる必要があるだろうか。これではかえって、逆効果になりかねない。私たちの「ハムレット」の演出に際して、福田恆存氏がそうしたように、ホレイショーをもっと大事に扱った方が、かえってハムレットも生きるのではあるまいか。
たとえば、ホレイショーは殉死しようとして毒酒をあおりかける、ハムレットはその杯をもぎとって投げ捨てる、その短い重要な場面を、バローの演出はカットしていた。ホレイショーは、ハムレットが、それこそ、もう何も言わなくなるまで、黙って後ろから支えているだけであった。
「ハムレット」におけるホレイショーは、劇と観客とを結びつける合唱隊のような役割を担っている。バローの演出は、それを十分意識しているように見えた。しかしホレイショーはその役割を、劇中人物として、王子の親友として行動することを止めずに、同時に、果さなければならない筈である。あの最後の場では、フォーティンブラスを王位継承者に指名し、後事を托して死んでゆく王子ハムレットと、その心中を察して遺志をしかと胸におさめる親友ホレイショーと、その二人の心の結びつきにはっきり焦点が合わないと、王子ハムレットの悲劇の締め括りがつかなくはないか。
しかし、バローの演出では、そういうことよりも、ハムレットが、いかに毅然と死んでゆくか、あるいは、バローがいかに独自のやり方で死んで見せるか、ということの方に、重点がおかれているように見えるのだ。しかも、これは何もこの最後の場だけに限ったことではない。バローのハムレット全体が、そういう風に出来あがっていたのである。そのことに、私はいちばん不満をもった。
ハムレット以外の人物が、みな、あまりにも肉づけが足りないのである。バローのハムレットと絡んで、光彩を失わなかったのは、老練なベルタンのポローニアスと、ウータンの亡霊だけであった。それぞれの役者の力倆ということもあるだろうが、そればかりとも思えない。
「ハムレット」という芝居は、もともと、ハムレット役者の独り舞台になる傾向を、おのずから含んでいるが、バローの演出が、その傾向を極端に押しすすめてしまったのではないかという気がする。王も王妃もレアティーズもオフィーリアも、妙に、行儀がいい。一歩退いたところで、芝居をしているような感じである。ハムレットの行動にたいして、彼をとりまくすべての人物が、彼等自身の行動によって、それを受け入れたり、なだめたり、促したり、拒否したりしなければならないのに、そういうものがあまりはっきり伝わってこない。だから、ハムレットの演じる劇が周囲に波動をおよぼし、それが周囲の情勢を変化させ、その変化がまたハムレットに働きかけて、彼の次の行動にひきつがれてゆくという、劇の継起のおもしろさが出ない。人物相互の対立と融和とを通じて、自ずからうねり、高まり、突き進んでゆくドラマの波動が弱い。肝腎要《かなめ》の、劇の発展力が弱いのである。
そういう重大な欠陥にも拘らず「ハムレット」が私におもしろかったのは、演出家としても、役者としても、ゆたかな想像力をもっているバローが要所要所に決め手を打ち込んでゆく、するとそれがみごとな劇的ヴィジョンとなって結晶する、そのあざやかな効果の故であった。どんな芝居でも、そんな重大な欠陥に堪えられるだけの美質をもち合せているものだろうか。私には、そうは思えないのである。
劇中劇の場がはじまるまえ、不誠実な友人ギルデンスターンらとのやりとりに倦《う》み果てたハムレットは、ひとり正面を向き、両手を挙げ、ふとためらうが、思い切って、何か、賭をいどむように「ホレイショー」と呼ぶ。と、下手奥からたしかにホレイショーが静かに歩み入ってくる。こういう美しい劇的瞬間が、劇全体の効果と関係なく、方々に散在しているのだ。惜しいことだが、仕方がない。もしそれを散在していたものではないとして、何か一貫したものに結びつけようとすると、バローの演じるハムレットに結びつけるしかなくなってしまうのだ。
バローのハムレットは、自分の低い声や、特異な柄をよくつかんだ、そしてそれを土台としてうまく生かした、演じ方をしていた。役者としての彼の決め手は、身振りや、手振りや、せりふの言い方や、表情や、感情や意識の切りかえなど、ありとあらゆる面にわたっていて、それらを情況に応じて、たくみに使いわけてゆくのだが、ひき出しの多い役者という感じはしない。むしろ、一つ一つの決め手ごとに、複雑なハムレットという男の思いがけぬ一面が、さっと一刷毛《ひとはけ》で描かれるのを見るような、新鮮さがあった。ハムレットという存在が、絶えず内部から溢れ出し、躍動しているという趣はないが、ここぞというところでひょいと首をひねったり、声の調子を変えたりすると、ハムレットの深い内部の生命が、そこから迸《ほとばし》り出るような感じの表現になる。
しかし、こういうバロー流のやり方は、間歇泉《かんけつせん》のようなもので、はじめのうちこそ、眼を瞠《みは》らせるが、だんだんその手法に馴れてくると、よほど突拍子もないことでもしない限り、べつにどうということもなくなってくる。ハムレットは、絶えず流動しつづけている筈の存在だからである。
劇の行動が弱く、ハムレットの行動だけが空転したために、芝居全体が単調平板に陥ったことは事実だが、バロー自身の演技にも、その原因はあったように思う。
第一幕だけが、際立って良かったのは、どういうわけだろうか。私はふしぎに思う。あれほどすぐれた芝居の序幕を、私は他に知らない。エルシノア城の夜の城壁の深い夜、兵士たちの緊迫した会話、亡霊の声をきくハムレットの会心の笑い、すべてがあそこでは完璧にちかかった。悲劇の発条は、これ以上強くは緊めつけられないと思うほど、しっかりと捲かれていた。だが第二幕以後は、そうはゆかなかったのである。
――一九六〇年夏 声――
西洋人演出家
私たちの劇団「雲」では、一昨年から、西洋の演出家を招いて、西洋の芝居の演出をしてもらう試みを、三回おこなった。
イギリスからは、オールド・ヴィックの演出家であったマイケル・ベントール氏が来てくれた。ローレンス・オリヴィエやラルフ・リチャードスンや、リチャード・バートンやピーター・オトゥールなど、イギリスの一流俳優たちを演出している現役第一線の演出家である。ベントール氏はシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を演出した。
フランスからは、演出家でもあり、俳優でもあるジャン・メルキュール氏が来た。モリエールの「ドン・ジュアン」を上演した。メルキュール氏は、映画にもよく出ていて、ジェラール・フィリップの「赤と黒」のラ・モールなんかが、代表作と言えるかも知れない。
アメリカからは、アメリカ近代劇史にのこる三〇年代の「群衆劇場」の指導的演出家、ハロルド・クラーマン氏が、五人の俳優をつれてやって来て、ユージン・オニールの悲劇「夜への長い旅路」を演出した。私たちは一カ月にわたるその稽古を見学し、後に自分たちの手で同じ作品を上演した。
このクラーマン氏の場合だけが、いわば間接的演出であり、ベントール氏とメルキュール氏の場合はまったくの直接的演出で(厳密に言うと、通訳がいたから直接ではないが、その点を除けば)、両氏はそれぞれ自分の国でする通りの稽古を、私たちに課したのであった。
「いや、実をいうと、本国ではこんなにたっぷり稽古は出来ない」とベントール氏が言っていたのを思い出す。「イギリスでは、古典劇は、一カ月ぐらいの稽古というのがいちばん多い。稽古が長くなると俳優費がかさむからだ。今度のように、『ロミオとジュリエット』を二カ月も稽古出来るというのは、演出家としてうれしいことだ」
この三人の演出家は、それぞれに、はなはだユニークな演出をして、私たちをびっくりさせたり、感心させたり、楽しませたり、絶望させたり、興奮させたりした。
ベントール氏――堂々たる体格の紳士。ライオンのごとき声、風貌。演出プランは綿密周到、読み合せの初日に、もう、衣裳、装置、音楽、音響、照明、すべてのデザインが出来上っている。さっさと手際よく動きをつけてゆく。要所要所で、その場の演出意図をよくひびく声で話す。しばらく様子を見ていて、具合のわるい所は、ガラリと動きを変える。豪放のようで、よく光る眼は、いつも神経質にまたたいている。
メルキュール氏――小柄で、敏感で、おしゃべりで超精力的な演出家。一日中しゃべり通し、動き通しである。万事、現物に当りながら、現場でこしらえあげてゆくタイプ。三分ぐらいの場面に、一時間以上かける。演技指導の猛烈なことはずば抜けていて、役者はみな、野球でいえば千本ノックを連日浴びせられた。六時間の稽古のうち、休みは十五分一回だけ、その休み中もダメ出しの嵐。舞台稽古は殆ど夜明かしで一週間。若いスタッフがみんなのびてしまったのに、この還暦ちかい演出家はケロリとしていた。
クラーマン氏――肥った、辛辣《しんらつ》な老人。役の感情、主題の展開との関連をじつにたくみに捉え、説明する。強調の確かさ。彼の説明の仕方は、はなはだドラマチックな効果を発揮する。大きなジェスチュア、雄弁、満面朱を注いだ意気ごみ。そして、ダメ出しの後、役者をリラックスさせる絶妙のユーモア。
三人三様の演出ぶりであったが、その演出を通じて、私たちはそれぞれの国を代表する劇作家のいちばん深い部分にふれたという実感を持つことができた。
私たちは有意義な試みだと思っているが、こんなことにもいちいち文句をつける人があって、りっぱな伝統をもつ日本の新劇が今更西洋人の演出家から教わる必要はあるまいとか、西洋でやる通りに日本人に出来るはずがないとか、いろいろなことを言う。
まるで、私たちが西洋かぶれ、西洋崇拝の哀れな連中だと言わぬばかりである。
しかし実際は、そんな考え方のほうが、ずっと体裁にとらわれているので、つまり、西洋コンプレックスの裏がえしにすぎないのである。
第一、いくら私たちがイギリス人にイギリスの芝居を演出してもらっても、イギリス人の役者のように演じられるはずはない。私たちは日本人で、日本語で芝居をするのだから、両者の間には越え難い溝がはじめからあり、この溝は消えることはないだろう。
だから、向うの作品を、こちら側へ持って来て、こちら側のやり方で上演すればよいというのでは、話が乱暴である。
また、むこうのやり方はもう十分分っている、今更ABCから始めることはない、というのも、思い上りである。私たちは「内面的感情を見失うな」「見せる芝居をするな」というような、昔から千万遍も聞いて耳にタコの出来ている言葉を彼等からも聞いたが、その指摘の仕方には鋭い剣で一挙に当の役者の存在の核心をつらぬき通す迫力があり、彼らの演出をうけることに、妙な言い方だが、その芝居を上演することから離れて、ほとんど独立した別種の喜びを感じたものだ。
いずれにせよ、こういうことは、どんな利害得失があるはずだとか、どうあるべきだとか、理屈を言っている暇に、まず実行してみるに限る。
藝術の他の分野では、西洋人の先生なんて、珍しくも何ともないことで、新劇だけが、今ごろそれを始めているわけだが、体裁なんか、どうでもよいことだ。頭をぶつけたり、足をふみちがえたり、痛い目にあえば、それが身につくのである。
私たちはその手ごたえを、すでに感じている。
――一九六七年四月 話の特集――
翻訳劇繁昌
今年の秋、東京では、国立劇場や新帝劇の開場があり、芝居の世界は、なかなかのにぎわいである。
こういう最新式の設備をそなえた大劇場が二つも(国立のほうは大劇場と小劇場とがあるので、舞台は三つということになる)同時に建つということは、めったにないことで、これがきっかけになって芝居に対する世間の関心がたかまるだろうというそれぞれの当事者の自負も、あながち、度がすぎるとは言えない。そういうことは大いに有り得ることである。魅力のある劇場が出現したということは、すぐれた劇作家や、俳優や、演出家が彗星のように突然登場した時と同じ位、世間の耳目をそばだたしめるものである。
劇場の形式や設備について、私は、是非こうでなければならぬという要求をもっていない。オープン・ステージもよし、額縁舞台も結構。設備が最新式であれば、それだけ芝居が革新されるとも思わないし、老朽した劇場からは、新しい芝居は生れないとも言い切れないのである。要は、舞台と客席との関係が、うまく行っていればいいので、舞台が、役者の夢想と行動とにふさわしく、客席が、観客の想像力を開放させるのにふさわしいように出来ていれば、それでいい。その条件さえそなえていれば、最新式の設備のととのった大劇場も、裸の椅子を三十並べただけの地下室も、芝居がそこで生れる可能性を、まったく同じだけもっている、と見るべきであろう。
さて、その新帝劇では、こけら落しに歌舞伎を、つづいて、マーガレット・ミッチェル原作の「風と共に去りぬ」を上演する。
こけら落しのほうは、怪しむにあたらないが、ミッチェルのほうは、いかにも、今日の商業劇場らしい感じがする。
日生劇場は、さかんにジロドゥーやアヌイの芝居を上演する。藝術座も、「赤と黒」の脚色や、アメリカの喜劇を上演する。
こういう傾向は、去年あたりから、すこしずつ現われて、今年になって、はっきりしてきた。つまり、翻訳劇、外国種の芝居が多くなってきたのだ。
商業劇場だけではない。新劇団でも、上演のレパートリーの比重は、翻訳劇のほうへかかって来ている。むろん創作劇も、上演されてはいる。すぐれた成果をあげた創作劇もある。しかし、観客の関心は、より多く、翻訳劇のほうへあつまっている。
創作劇か、翻訳劇かという、昔からたびたび繰返されて来た議論を、ここで蒸しかえすつもりはない。この種の議論は、いつも議論倒れに終るのが常であって、芝居をいろいろな方法で分類し、区別し、優劣を論じてみたところで、どうなるものでもない。シャルル・デュランではないが、良い、真実な芝居でありさえすれば、それでよいのである。
ただ、翻訳劇というものが、これほど広い観客層から迎えられたことは、今までに無かった現象であり、しかも、ただ一時的とばかりは言えない、かなり先まで広がってゆきそうな、現象であるように思われる。
こういう現象の起ったのは、むろん、単一の原因からではなく、さまざまな原因の、錯綜した結果であり、そのすべてを解明し、検討することは、興味のある仕事だが、到底私の任ではない。
芝居に限らず、藝能一般について言えることだが、ある変化の原因を見きわめること、その因って来たる所以《ゆえん》を見定めることは、他の藝術、たとえば文学や美術におけるよりも、ずっと難かしい。対象はすぐに消えてしまうものであり、二つのものを同時にくらべて見ることが出来ないからである。影響は、思いもかけぬところから来る場合が珍しくなく、それは、常に見すごされ易い。
今日の翻訳劇の繁昌の原因を、福田恆存氏の演出による「オセロ」にはじまる、いわゆるプロデュース・システムが、歌舞伎、新劇、映画、少女歌劇、軽演劇等、分野を異にする役者の交流を促し、広い範囲の観客に、翻訳劇を見る機会を提供したこと、と見るだけでは不十分だろう。
築地小劇場以来、翻訳劇と取り組んで来た新劇団が、成長し、役者の層が厚くなり、外国の劇の「思想」だけではなく、その「生活」を表現できるまでに成熟したことをあげても、まだ十分ではない。
この二つの活動の力は大きいが、それですべてを蔽うことは出来ない。
翻訳劇というものが、上演する側からも、受取る側からも、一と昔前とは、違ってしまっている。それほどの変化ならば、もはやそれは翻訳劇だけの問題ではなくなるはずであり、事実、そういう変化が、有形無形におこりつつあることは、疑いようがないのである。外国文学、翻訳戯曲の出版の影響も考えなくてはなるまい。
突拍子もない事を言い出すようだが、テレビの影響もあるだろう。外国人が日本語で話すアメリカ製のテレビドラマを、今日ではみな平然としてたのしんでいる。
ふだん、翻訳劇などという生硬な言葉とは、まったく縁のない生活をしている大勢の人々が、翻訳劇という名の「現代劇」を見るようになったのである。
しかし、こういうこともある。
有楽座、東京劇場、ピカデリー劇場という、かなりの収容力のある三つの劇場が、かつては、芝居専門の劇場であった。今日では、それらはみな、映画館になっている。
この三つの旧劇場が、依然として芝居をやっている上に、二つの、日生も加えれば三つの新劇場が出来たというのなら、まことにめでたいことだが、事実はそうではない。
これらの三つの旧劇場で、私たちは感動的な舞台を見ている。
しかし、そこの座席から自分の目で芝居を見た人たちは、今日、やがて四十に手のとどこうという人たち、それ以上の年齢の人たちである。
若い人たちには通じにくいかも知れぬが、演劇ブームとか、劇運隆盛とか、にわかに言い出しにくい気持が、私などにはある。
芝居は、これから、たしかに世間の関心するところとなるだろう。その関心を、どこまで、何によって、いっそう高めることが出来るかが、問題である。
――一九六六年一〇月 出版ダイジェスト――
新しい局面
今年の新劇はどうなるかという問いに答えることは、難かしい。去年は、俳優座劇場の落成だとか、合同公演の「かもめ」だとかいろいろ賑やかな話題があったが、そういう話題とは別に、いくつかの目立ったそういう話があった。その中に、今年あるいは今年以後に持越されるだろうと思われるものが二つある。
一つは、書きおろしの創作劇の上演の多かったことである。三好十郎氏、真船豊氏、飯沢匡氏、田中千禾夫氏、椎名麟三氏、木下順二氏、三島由紀夫氏、矢代静一氏、真山美保氏と数えてくると、その多彩なことは、この二、三年にちょっと例がないほどである。
もう一つは、完全に戦後派に属する新進俳優達が、続々と独立して、自分の劇団をもったことである。俳優座から出た「新人会」「青年座」「仲間」などを始めとして、これも、はなはだ多彩である。
創作劇をもっと盛んに上演しなければならぬということは、何年も前から、いや、何十年も前から言われて来たことである。今日ではもう自明の理であって、何も、去年あたりからその理想が緒につき始めたなどという性質のものではない。しかし、今度のこの動きはかなりはっきりと続くだろう。強い予感力がある真船、田中、飯沢三氏の久しぶりの新作発表や、北原武夫氏、安部公房氏の場合のように、小説家が戯曲を書き始めたことや、八木柊一郎氏のように一作ごとに異なった構成をもつ戯曲を書く新進の現われたことや、また、外国の戯曲がちゃんと舞台にのることを考慮にいれた、綿密な翻訳によって多量に紹介され、現代戯曲の豊富なパターンを示してくれたこと、そしてそれが、一部の若い作家達の戯曲に対する関心を喚《よ》んでいることなどを考えると、いままでは合言葉めいていた創作劇運動も、たしかに一つの新しい局面にのぞみつつあるように思われるのである。この新しい時期を、充実した、変革の時期とするか、それとも、混乱した、迂路の時期とするか、劇団の任務ははなはだ重いのである。
新人劇団の問題も、はなはだ重大である。
この問題は、もう少し枠をひろげ、既成劇団の中にある戦後派俳優の問題も含めて考えた方がいいかも知れない。何故なら、それぞれに独立している新人劇団も、表現技術の上では必ずしも完全に独立しているわけではなく、既成劇団の中の新人達も、必ずしもヴェテラン達の考え方を完全に受け入れているわけではないからである。去年、戦後派の劇団が続々と名乗りをあげたことは、民藝の新人公演がさかんに行われたことや、文学座のアトリエの会が以前より多く、若い作家、演出家、俳優の活躍の場となったことと、無関係ではない。そして、これ等の新人達の活動も、創作劇の上演と同様にかなりはっきりと続くだろう。
これは、戦後の新劇運動自体が新しい局面にのぞみつつあることを示すものだ。文字通り「戦後の俳優」が生れつつあるのである。
彼等はまだ、自分達にふさわしい表現形式を身につけていない。そして身につけていないことを、痛切に知りはじめている。その困難なたたかいは、今年も一層強靱につづけられるだろう。
実をいえば、去年上演された創作劇は、どういうわけだか、一体に、好評を博したものが少なかった。新劇団の動きに至っては、それどころではなく、はなはだ憂慮すべき状態だとさえ見なされているようである。
しかし僕は、右のように、必ずしも悲観しない、どころか、ここの所をつき抜けてゆく以外に、新劇が、正に新劇として成長してゆく道はないように思われる。戦後の現実は、遅ればせながら、やがて、それにふさわしい演劇的表現を発見することだろう。
――一九五五年一月 東京大学学生新聞――
ジェラール・フィリップの「危険な関係」
ロジェ・ヴァディム監督の「危険な関係」を見た。
西洋将棋盤の接写。駒は古拙な土偶である。眼の痛くなるほどあざやかな白と黒の市松模様のなかに、役者の名前がとびとびにあらわれ、やがて題名「危険な関係・一九六〇」が浮び上る。これは主題にかなった巧妙なタイトルで、効果もなかなか強烈であった。
十八世紀のラクロの原作を、こういう形で、現代化したことについては、本国のフランスでも賛否両論がさかんに行われたらしいが、映画のはじめの方、三分の一くらいまでは、原作のもつ雰囲気を、かなりうまく再生している。原作の女主人公、というよりも、唯一の主人公メルトゥイユ侯爵夫人は、映画では、外交官ヴァルモンの妻ジュリエットとなり、この夫婦は、互いに相手の情事を認めあい、その経過を報告しあい、時には共謀し、唆《そそのか》しあうのである。映画は、その不倫頽廃の生活が、ヴァルモンの意識下にある真の愛への志向によって、崩壊してゆく過程を描こうとしているように見えた。
しかし、それが崩壊するのは、ヴァルモンの内部にある志向のゆえばかりではない。共犯者のジュリエットの内部に、そんな志向が微塵《みじん》もないということの方が、肝腎なのだ。彼女は、ヴァルモンと違って、自分がもう愛などというものへ引返せないことを、十分承知しているのである。ラスト・シーンで、「ごらん、あの顔が、あの女の心の看板なのだ」と罵られる時、彼女は、みにくい火傷の顔を昂然とあげ、カメラマンのフラッシュに、身じろぎもしない。そしてこの映画は、ヴァルモンの活動を描いた割には、ジュリエットの、へんな言い方だが、不動の心を描いていないのである。
しかし、ジャンヌ・モローのジュリエットは、面白かった。こういう役柄のモローは、もうずいぶん見ているわけで、実をいうと、またか、というくらいの気持で見はじめたのだが、それが、だんだんそうでなくなった。後半の、雪の公園で、モローはすばらしい顔をした。夫が犯した少女の恋人と会い、再会を約して、枯木立の道を行く彼女の顔には、夫への復讐の決意と、倦怠との、奇妙に混りあった複雑な表情が浮び、私は、そのカットの短かすぎたことが、残念でたまらなかった。
ヴァルモンを演じるのは、ジェラール・フィリップで、この役は、いわば彼の遺作である。ジェラール・フィリップの死んだのは、一昨年の十一月二十五日である。同じ月の十三日に、私は肺の手術をした。術後の熱に浮かされた眼に、彼の死を報じる新聞記事が、とびこんできた。彼は内臓の手術後、回復不十分のままに、仕事をはじめ、それが命取りになったらしかった。
「モンパルナスの灯」を見ていない私は、ずいぶん長く彼の映画を見ていないことになる。そのせいか、老けたな、と思うこともあった。かと思うと、昔ながらのジェラール・フィリップの、華やかな、あるいはメランコリックな、いずれにしても若々しい顔や姿が、画面いっぱいにひろがった。「肉体の悪魔」はともかく、「愛人ジュリエット」や「花咲ける騎士道」のイメージが、そっくりそのまま生きている――そんな気がした瞬間さえあった。
ヴァルモンが、彼の最上の演技といえるかどうか、私には、いささか疑問がある。しかし、そんなことは、どうでもよい。青年につきとばされ、床に倒れて、あっけなく死ぬヴァルモンを演じた後、まもなく、ジェラール・フィリップ自身も、まったくあっけなく死んでしまった。そしてこの遺作は、彼のかつてのファンたちを多く集めるだろうが、やがて、過去の作品となり、人人は彼を見なくなり、彼の名前だけが語られることになるだろう。役者の「作品」は、残らない。文学や、美術や、音楽のようには、残らないのである。そして、一人の役者が死ぬと、あたらしい次の役者が前へ押し出される。芝居や映画では、そもそも、「死」は禁句なのだ。
夜、帰宅した私は、レコードをかけた。ジェラール・フィリップの演じる「ホムブルグの公子」の朗々たる長ぜりふをきいていると、私は、次の芝居の稽古のはじまりが、ひどく待遠しく思われた。
――一九六一年五月 藝術新潮――
ラルフ・リチャードスン
初めて見たのは、「女相続人」の時である。一向に、感心しなかった。
オールド・ヴィック座の重鎮、イギリス屈指の名優、そんな先入観が、却って邪魔をしたとも思われぬ。「ヘンリー五世」ではじめてオリヴィエを見た時の感動とは、むろん、較べものにならなかった。
下手ではない。堅実な、写実的な演技だが、それが如何にも古風に見えた。一緒に出ている、これもはじめて見る若い俳優――モンゴメリー・クリフトという名前を、その時知った――の演技の方に、はるかに共感を覚えた位である。
「アンナ・カレニナ」の時も、同じ印象をうけた。いかにも、内面的で緻密《ちみつ》な演技だ。生きたカレーニンが、正に眼前に動いてはいる。しかし、見る者の眼と耳とを、心臓と頭脳とを、その生きた人物へ惹きつけ、離れ難くしてしまう魅力――いわば、人間的磁力が、はなはだ不足しているのである。充実していて脈動がない。もし、「文化果つるところ」を見なかったら、僕のリチャードスンに対する関心は、決して、これ以上に高まりはしなかった筈である。
「文化果つるところ」のラスト・シーンに近く、彼の扮する老船長が、旅から帰って、留守中の出来事を――トレヴァ・ハワードの扮する無頼の男が彼を裏切り、土人の女を連れて山中に籠ったいきさつをきく場面がある。彼は、苦渋の色を浮べて、人生というものは難かしいものだ、というような独白をする。気難かしい父親、頑固なカレーニン、相変らずのリチャードスンだ、と思っているうちに、カヌーに乗った老船長は、蕃地の川を溯《さかのぼ》り、単身、荒涼たる山中に分け入って、無頼の男と対面する。
彼はいきなり相手を撲りつける。そして、俺はお前を赦しも殺しもせぬ、赦すための愛も、殺すための怒りも、お前には勿体ないのだと、痛烈な面罵を加えたかと思うと、くるりと背を向けて、さっさと山を降りてゆく。拳銃を擬して追いすがろうとする相手に一瞥《いちべつ》もくれず、沛然《はいぜん》たるスコールの中を、再びカヌーに乗って去ってゆく。
この場面のリチャードスンの演技――悪の影を曳いた老船長の、神性とも魔性とも見きわめ難い異様な激怒の表現は、役柄の上ばかりでなく、相手のハワードを圧倒していた。あの写実的な藝が、これ程までの感情の昇華に堪えようとは。
トレヴァ・ハワードは、「逢びき」以来、僕の大へん気になっている俳優である。この映画を見たのも、半ばは、ハワードへの期待で見たようなものだ。むろん彼は、期待を十分に満たしてくれたし、今でも、あれはハワードの傑作の一つだと思っている。しかし、というより、それ故に、全体としては必ずしも傑作でないリチャードスンの老船長が、あの山の場面で、ハワードに勝る卓抜な演技を示したことは、僕にとっては、はなはだ印象的な出来事だったのである。
「落ちた偶像」の執事は、彼の演技の、最良の瞬間の連続のように見える。これは、よくよくのことだ。
妻が死ぬ。調査に来た警察官達は、はじめの内は、むしろ彼に同情的である。ところが、つまらぬ隠し立てから、彼は警官の不審を招く。それがまた、次の言い抜けを思いつかせ、言い抜けがまた一層疑惑を深める。だんだん喰い違いが多くなり、しどろもどろになり、到頭、自分でも全く収拾がつかなくなってしまう。
例えばこういう場面における彼の演技には、前に挙げた作品からはほとんど感じられない、柔軟で明晰《めいせき》な感情が、独特の精気とともに、流露している。充実していたものが、あくまで充実を極めることによって、そのまま脈動し、迸りはじめた感じである。見る者の心を惹きつけようとするあらゆる手段を、厳格に、執拗に、拒みぬいた演技が、逆に、見る者を惹きつけはじめる……
こんな風に書いてくると、リチャードスンにすっかり入れ上げてしまっているように見えるかも知れないが、そういう訳ではない。如何にも古風だと思った最初の印象は、「落ちた偶像」を見た後でも消えたわけではなく、今でもそう思っている。リチャードスンよりはオリヴィエの方が魅力的だと思うし、好きだというだけなら、リチャードスンより好きな俳優は大勢いる。
ただ、僕がリチャードスンに強い関心をもつのは、彼が、おそらくは、骨太な十九世紀風のリアリズムの演技の最後衛――それを守りながら、「現代的感覚」の演技の追い討ちと頑固に戦っている最後衛の、傑《すぐ》れた第一人者であるからに他ならない。
――一九五四年三月 スクリーン――
ソ連映画「ハムレット」
気持のいい「ハムレット」である。二時間半は、たちまちのうちに過ぎる。あえてシェイクスピア劇にかぎらず一般に、劇を映画化して、これほど本来映画的なイメージを作り出し、こころよい作品に仕上げた例はめずらしい、と私は思う。
物語は、適度に刈りこまれている。大きい筋を通して、枝葉をはらってある。場面の前後の入れかえ、せりふの他の人物への移しかえは、必要と思われる最小限度に、しかもはなはだ独創的におこなわれている。原作は、烈しい北風の吹きすさぶ真冬から、柳が芽ぶき花の咲きそろう春までの物語であるのを、ほとんど冬一色の物語としてつよくまとめている。よくひきしめられた、みごとな脚色である。
いきなり、野面を疾走する馬が、鞭《むち》をあてる青年が、蹄《ひづめ》の音が、私たちをとらえる。馬は、荒涼とした海辺の城に走り入る。人々が出迎え、喪服姿の泣きぬれた王妃が青年を抱く。私たちは彼がハムレットであることをはじめて知る。オリヴィエ製作のハムレットは空虚な城内にひびくナレーションによって――装置と言葉によってはじまったが、コージンツェフの「ハムレット」は、広大な自然と人間を対象とした、まったく映画的な音と映像によって始まる。映画の基調の簡潔明瞭な呈示である。
自然描写はこの「ハムレット」の大きな魅力のひとつであり、ことに、烈しく波立つ冬の海と重畳する岩壁とは、たびたびあらわれてほとんど象徴的な効果をあげている。海と岩はオリヴィエもうまくとり入れていたが、あれは、いわば彼自身の芝居をひきたてるいちばん有効な背景として使ったのであった。この映画の風景は、ただ劇の背景というだけでなく、物語の主題に深く関わるもの、より本質的なものとして扱われているように思われる。
ことさらにあたらしい解釈を見せようとか、原作のある一面だけを強調しようとかいう気負ったところが、まったくない。原作の本質と香気とを、あやまりなくつたえようとする、誠実な演出である。原作にたいする長い期間の研究と準備のうえに立った、謙虚な、しっかりした演出である。それが、かえって独創的な、さわやかな画面をつくり出す結果になっている。
どことなく異教風な雰囲気のただよっているのも、そのひとつで、亡霊を追うハムレットが、剣の柄を十字架になぞらえて身を守ろうとはせず、刃先をまっすぐ亡霊へ突きつけたり、宮殿にあやしげな偶像が飾られていたりするのが、これまでの基督《キリスト》教的道具立ての「ハムレット」を見なれた目には、なかなか新鮮であった。
オフィーリアの発狂を、父の死とじかに結びつけたのもおもしろい。原作の時間の経過を省略し、同時進行形に改めてある。オフィーリアは喪服を着せられ、ハムレットから「尼寺へ行け」と言われた場所を通る時、発狂して歌い出す。無理のない運びである。ジーン・シモンズの伝統的な、草花を髪にかざした寝巻姿の白いオフィーリアも美しかったが、このヴェルチンスカヤの黒いオフィーリアも、哀切で美しい。彼女が髪におくのは炉辺の枯枝である。
ハムレットを演じるスモクトゥノフスキーが、実にいい。ちょっと、若いころのジェイムス・メイスンを想わせる。ただし、よくもわるくも、メイスンほど達者ではない。このハムレットは、寡黙なハムレットである。憂鬱なハムレットではない。瞑想的というのでもない。生気のある眼、意志的な口、気品のある風貌である。活気がある、しかし、黙っている。「こればかりは口が裂けても黙っていねばならぬ」というせりふの通りに、かけがえのないものをじっと胸中に守っている孤独なハムレットである。王の婚礼の広間の群衆の中を、黙って歩く場面で、このハムレットは早くも私たちをしっかりととらえてしまう。
ハムレットという役は、複雑な、たがいに矛盾するさまざまな性格を、一身に兼ねそなえているようなところがある。その多面性、千変万化性を、どう統一し、どう具体的に表現するか、ハムレット役者はみな苦労するのだが、このスモクトゥノフスキーのハムレットを見ていると、たしかに複雑な内面をもった青年が、ごく自然に、素朴な姿で生きているのに感心する。計算がおもてへ出ないのだ。終始一貫して、ゆるみがない。ただ、ハムレットの重要な属性である諧謔《かいぎやく》、快活の面がほとんどあらわれていないのが、いかにも惜しい気がするが、これはむしろ演出上の問題であり、大きい枝を切って、木の全体の姿をととのえたという風に見れば、納得できぬ事柄ではない。
そのほか、王、王妃、墓掘りなど、役者はみないい。
劇中劇を野外劇にしたこと、オフィーリアの水死の姿、ハムレットが最後に城を出て、海を見おろす岩壁で死ぬ演出など、ことに印象にのこっている。
ショスタコヴィッチの音楽がいい、と言ったら、ある音楽家が、しかしオフィーリア狂乱の歌は、ロシア民謡めいておかしかった、と言った。なるほど、そこまでは気がつかなかった。しかし、くりかえして言うが、これはみごとな気持のいい「ハムレット」である。心から拍手をおくる。
――一九六五年二月 スクリーン――
ヘンリー四世 なぜ君たち自身のために、空想の世界を創り上げ、それを生きようとしなかったのだ?……自然に、巧まず、日ごと、いわばそれがきみたちの第二の天性となるまでに、自分の役を生きるべきだったのさ!
この衣裳、これはわたしにとって、永久につづくもうひとつの仮装舞踏会、つまり人生のカリカチュア、意識されたカリカチュアだ。
ピランデルロ・佐藤信夫「ヘンリー四世」
「ハムレット」の速力
「ハムレット」の稽古は、私たちにとって速力とのたたかいであった。あんなに速いテンポで芝居をしたこと、それに苦しんだことは、それまでになかったし、その後も一度もない。
以前に私たちは、福田さんの「キティ颱風」と「竜を撫でた男」とを上演している。これは、両方とも、はなはだテンポの速い芝居であった。たまたま、そうであったというのではなく、福田さんの考えでは、今までの日本の心理劇、写実劇なるものが、そもそも、テンポが遅すぎたのであった。戯曲と演技との双方にかかわることだが、かりに演技だけについていうと、リアルな演技といわれているものに、意外に、もっともらしい思い入れや無用な間《ま》が多く、それがかえって、ドラマを弱めている場合が少なくないのである。
これは、私たちにはよく納得のゆく事柄であった。私たちは福田さんに導かれて、せりふと、そのやりとりの速度とを、今までの芝居の倍ちかく速めるという、むずかしい、しかし大いにやり甲斐のある冒険を二度こころみ、それにある程度成功していた。つまり、現代劇に関する限りでだが、テンポの速い芝居にたいする下ごしらえが、いくらかは出来ていたのである。
そこへ、「ハムレット」が来た。
坪内逍遙訳で読みなれていた「ハムレット」のイメージは、はじめて上演台本を読んだ時、たちまち粉砕された。せりふは簡潔で力づよく、律動的で、歯ぎれがよかった。これは、かなりテンポの速い芝居になるだろうという予想を、私たちは稽古にはいる前から、興奮して話しあったものだ。
しかし、実際に稽古がはじまってみると、この予想は、はなはだ甘いものであったことが、否応なしに分ってきた。それは、もはやテンポの速い芝居、というようなものではなかった。
せりふのあまりのスピードのために、私たちのもっている芝居や演技というものについての概念が空中分解をおこしてしまうほどのすさまじい速力を、速力のあるせりふの語り方を、福田さんは私たちに要求されたのである。
速く、より速く、ひたすらに速く語ることが、私たちの最初の、そして最後の仕事になった。
せりふを速く語るためには、せりふをつらぬく意識と感情とが、それに伴って、あるいはそれと相前後して、速く働かなければならなかった。急激に、強く、揺れ、変化し、高まり、流れなければならなかった。祭典劇「ハムレット」の秘儀も、ハムレットの変幻自在の魂も、この意識と感情の速い流れの中にだけ息づいているようであった。しかし、ややもすると、せりふのテンポが落ち、劇の流れが停滞した。私たちは心理劇風、写実劇風の演技から、依然として脱しきれずにいたのである。
初日は名古屋であった。上演時間は三時間半、まず異例といっていいスピードである。楽屋へ帰った私は、福田さんに、芝居の出来を訊ねた。福田さんは微笑して答えられた。
「結構でした。しかしまだテンポが遅い。東京の初日までに、もう二十分縮めるつもりでやって下さい」
私は呆然とした。一体、そんなことが可能であろうか。
しかし、福田さんの計算は適確であった。東京の初日は六時にはじまり、きっかり九時十分に終ったのである。
――一九六〇年 オセロ――
「マクベス」日記
七月二十二日
今日から「マクベス」の稽古。
ずいぶん早い稽古はじめだが、今月末から九月のはじめへかけて、「薔薇と海賊」の関西公演と「鹿鳴館」の東北・北海道公演とがあるので、このぐらいにしなければ間に合わない。福田さんから演出の意図について説明あり、「マクベス」が、生と死、勝利と絶望、観念と現実の絶えざる葛藤のドラマであることを強調される。
リチャード三世は現実的であり、酷薄であり、殺人を行うのに妖婆や夫人の助けを必要とせず、世間に正面切って生きている男だが、マクベスは人間の弱さをもち、率直で寛大なところさえあり、自分の殺した人間の死後の平和を羨んだりする。想像力が強く、自分だけの意識の世界をつくりあげ、その中で生きている男だという説明、なるほどと思う。
オールド・ヴィック一座の「マクベス」全曲のレコードをきく。マクベスはアレック・ギネス。マクベス夫人はパメラ・ブラウン。二人とも、映画でおなじみの役者である。
ギネスの恐怖、不安、絶望、憂鬱は、たしかにすばらしい。朗々たるデクラメーションから、低いささやくような調子に至るまで、みごとなものだが、「ハムレット」のときにきいた、ギルグッドほどには感動しない。あれは凄かった。
五時、「薔薇と海賊」楽屋入り。メーキャップをしながら、北村和夫と「マクベス」の話。そっちへ身が入りすぎて、靴下を穿きかえるのをあやうく忘れそうになる。
七月二十三日
颱風の荒れ模様の中で「マクベス」の稽古がはじまるのは、時宜に適っている。ほんものの電光や雷鳴に、マクベス夫人や妖婆達がほんものの悲鳴をあげ、読み合せはときどき中断された。稽古のはじめの頃は、こんな些細な事柄までが、活気と感興とを添える。
「マクベス」は五幕悲劇だが、「ハムレット」と同様、こんども三幕になおしてやる関係上、場割が変更される。どこで区切るかは、まだ未定の由、カットはほとんどないだろう。
はじめての読み合せの感じでは、マクベスは、芯の疲れることおびただしい役になりそうだ。
おなじ悲劇の主人公でも、ハムレットは、物思いに沈んでいるかと思うと忽ち快活になるという風に、動きと感情の変化に富んでいた。それはそれなり、疲れることだが、何もかも吐き出してしまう爽快な疲れだった。マクベスはそうはゆかない。登場すると、いきなり妖婆の予言をきく。いきなり「この得体の知れぬいざなひの声、善とも悪ともいへぬ。……恐ろしい、思つただけでも身の毛がよだつ」ということになり、そのままダンカンを殺し、バンクォーを殺し、その亡霊に脅やかされ、妖婆に再会し、遂に破滅するまで、この男は、気の紛れるということがまったくない。福田さんのいう通り、マクベスは笑いを知らない。
さて、どうしたものか。稽古の初日、二日目ごろのたのしさは無類のものだ。後はだんだんいけなくなる。舞台稽古で苦痛は極度に達し、初日には震えがくる。
七月二十四日
昨夜、颱風十一号襲来。瓦が落ち、薔薇がやられている。被害のニュースにつづいて、十三号接近の予報あり。
オリヴィエは、マクベスの、自分だけの意識の世界をつくりあげ、その中で生きているという、いわば詩人的気質を強調して演じた由。声も、悪人らしからぬ高い冴えた声で演じた由。写真で見ても、いかにもそうだったろうと思われる顔をしている。
ラルフ・リチャードスン、アンソニー・クウェイル、ゴッドフリー・ティアール、ポール・ロジャース等の舞台写真を見る。ロジャースの終幕の写真が、ずば抜けていい。「気が狂ったといふものもある」「足元に黄ばんだ枯葉が散りはじめ、老いが忍び寄つて来」ているマクベスの卓抜な表現。
ダンカンを殺して王位につくまでのマクベス、バンクォーを殺して亡霊に脅やかされ、妖婆を訪れるマクベス、ダンシネイン城の絶望的なマクベス。いつも気の紛れない、変らないマクベスの、三つの季節。稽古の終る頃、天候回復。今夜のお客様は大変だろうと思っていたが、まず、安心する。
墓参せず。
八月十八日 釜石
「鹿鳴館」の旅の初日。蒸暑く、おまけに冷房のない小屋なので、汗がとめどなく流れ、三幕で髯が剥《は》がれた。
「マクベス」の頃は、かなり涼しくなっているはずだが、まず、今日ぐらいの汗を毎日かくものと思っていていい。髯は、テグスで吊ること。
八月二十一日 洞爺湖
体重、十五貫五百。好調。
短剣の場の独白の中のせりふ、「やせさらばへた人殺し役が、見張りの狼に起されて」というのは、マクベスの心に浮んだ現在の彼自身の姿であろうが、初演のときのマクベス役者は、痩せていたか、肥っていたか。ハムレットについて王妃のいう「あの子は肥つてゐて疲れやすいから」というせりふも、実は初演のハムレット役者が肥っていたところから書かれたせりふだという説があるくらいだから、こちらにもそんなことがあるかも知れぬ。
九月十日
「マクベス」の稽古再開。
幕の区分は、第二幕第四場までが〓、第四幕第三場までが〓、以後が〓となる。これはマクベスの心の三つの季節に、ぴったり一致する区切り方だ。
声が、まだ定まらぬ。長い独白は単調で、激情的な場面は声ばかり大きく、息切れがする。しっかり話そうとすると若くなり、神経質な心の動きを抑えようとすると、まるで感情が死んでしまう。
九月十二日
あたりまえなことだが、せりふに書かれていることだけをしゃべらぬことが大事である。
終始一貫したマクベスの生命をつかみ、せりふが全部、そこから出てくるという風にならなければいけない。
みごとなせりふには、役者を陶酔させる魔力があるから、ことに危険である。
たとえば、「このおれは、頭には実らぬ王冠、手には不毛の笏《しやく》、つまりは赤の他人にもぎとられ、一代限りで終らせようという魂胆か」というようなせりふを、ずいぶんいい加減な、外面的な、借りものの感情でしゃべっていながら、自分では結構、ちゃんとしゃべれたつもりでいたりする。実はちゃんとしていたのは元のせりふだけで、マクベスのせりふは「赤の他人にもぎとられ」ることは決してないのである。
九月十三日
福田さんから、マクベスのせりふ、一体にテンポが速すぎると注意される。福田さんの演出で、もっとゆっくり、と言われたのは、たぶんこれがはじめてである。
ゆっくりやってみたら、ただ無闇に間のびがするような気がして、落着かなくなった。
三人の妖婆がそれぞれにおもしろい。
ウィッチの出てくる芝居は、イギリスやドイツにあってフランスには余りないようだ。
九月十四日
幕の区分、第四幕第三場以後を〓とするよう、改められる。
〓の16、マクダフ夫人殺しの場に、「刺客たちが姿を現わす」というトガキがある。ここは、マクベスも出た方がよさそうだ。その旨、福田さんに進言する。
妖婆の洞窟で、予言をきいた後、マクダフの逃亡を知ったマクベスは「もうこれからは、心に浮んだ初物はきつと手にも食はしてやるぞ……マクダフの城に不意打ちを仕かけ、ファイフを乗つとり、やつの妻子をはじめその血をひく哀れな奴どもをかたはしから刀の錆《さび》にしてくれるぞ」と言っている。
マクベスがこの場へ顔を出すことは、ダンカン殺し、バンクォー殺しの場と照応して、「時の階《きざはし》をずり落ちてゆく」マクベスを、マクベスのたどる筋道を、はっきり示すことにもなる。
今日は、登場の最初のせりふと、殺される前の最後のせりふだけ、うまくしゃべれた。変な日だ。おしゃべりのハムレットの最後のせりふは「もう何も言はぬ」。人殺しのマクベスの最後のせりふは「地獄落ちだぞ」。
九月十五日
具合のわるいところ。
3、妖婆との出会い。予言をきいた後の意識がはっきりしすぎる。悪事への予感が、濃く出ない。
7、宴会の中庭。不安動揺の独白、単調、表面的。
8、ダンカン殺し。独白、流れない。恐怖に堪えながら自分を殺人行為に駆り立ててゆく気組みがない。
決行後の恐怖、絶望のせりふ(「マクベスが眠りを殺した」など)はなはだ図式的。おおげさで、中身がない。
発覚後の貴族達に対するせりふ、内心の動揺が出ない。
10、刺客の場。刺客達に対する王としての余裕がまるでない。夫人に語る二つの独白的なせりふは、そのイメージ(「僧院の中を蝙蝠《かうもり》が飛びかひ……」など)が出ない。
12、亡霊出現の場。せりふ、すべてただ怒鳴っているだけ。しかも息切れがしている。
15、妖婆の洞窟。12におなじ。
20、ダンシネイン城。12におなじ。
22、同。独白単調。
23、同。12におなじ。
つまり、ほとんどすべて具合がわるいことになり、はなはだ面白くない。「友がみな」という啄木の歌は、こんな気分から生れたのかもしれぬが、こっちは花なんか買ってる暇はない。
九月二十日
立稽古。せりふの完全に入っているのは妖婆達だけである。
九月二十三日
マクベスは、鉄の鎧《よろい》を着て、馬から降りて歩いてくる。腰には重い剣を吊っている。
マクベスは、黄金の重い王冠をいただいている。
マクベスは、重い楯をひっさげ、血まみれの重い剣をふりかざす。
九月二十四日
まったく、息をつく暇のない役だ。早くも8ですっかり汗をかく。12で、またびしょ濡れになり、15では、最初の一言でもういけなくなる。タテがつけば、ダンシネイン城などは、眼もあてられない程の汗になるだろう。せりふをはやく入れなければならぬ。稽古中の昼食を抜きにしないこと、規則的にすること。メーキャップのスケッチをする。
九月二十六日
せりふ、〓は短剣の独白のほかはまずまず、〓がまるで入っていない。〓もだいぶあぶなっかしい。いつも早く入る方なのだが、今度はなかなか入らない。読み合せの期間が短かったせいもあるだろうが、役をつかむのが遅れたせいでもある。それにしても「元帥杖をよこせ、シートン」というせりふを「シートン杖をよこせ、元帥」と言ったのには我ながらがっかりした。シートン役の稲垣昭三、舞台上に文字通り抱腹絶倒する。
九月二十九日
〓の導入部、手ごたえができてきた。短剣の場、どうもうまくゆかず、福田さんと相談して動きをいろいろかえてみることにする。ここはよくよく念を入れる必要がある。
亡霊出現の場、洞窟の場、いかにも気が変らなすぎる。
三井山彦氏の指導で、タテがはじまる。中世風の重い剣の立廻りだから、こたえる。
九月三十日
群衆場面の細部の仕上げ。こういう場面では、若い連中は、演出家が手こずる程、どんどん自発的に動くべきだ。何から何まで演出家まかせは、演出家を信頼していることにはならぬ。
十月二日
せりふほとんど入る。
靴(焦茶の裏皮の長靴)が来たので、早速穿いて稽古をする。「シェイクスピアは裏皮ときめてるらしいよ、この人は」と、小池朝雄が茶々をいれる。ハムレットの短靴も黒の裏皮だったからだ。
踵《かかと》の注文は大体うまくいっているが、すこし高すぎたようである。先が細いわけでもないのに、ダンシネイン城の立廻りの頃になると爪先がしめつけられてくるのは、そのためらしい。直してもらうほど、痛いわけではないが、対策を講じる必要がある。
早目にたのんでおいた衣裳とかつらが、出来上ったというので、稽古後、メーキャップをする。
買ったばかりのノーズ・パテが、材料がわるいのか、製法がわるいのか、ブツブツちぎれて、全然使いものにならぬ。使い古しのパテのかけらはあるが、足りそうもない。わざわざ新しいのを買いにゆくほどのこともあるまいと思案していると、有馬昌彦が、チューインガムでも結構間に合うと教えてくれた。チューインガムの鼻なんて、はじめてきいた。おもしろそうだから、買ってきて噛むと、いやに甘くて、どこまでも噛めて、後に何ものこらない。子供用のチューインガムなる由。呆れた代物である。
二度目のガムは、うまくいった。ちゃんと鼻の形になるし、粘着力も多少はある。ところが、不用の部分を箆《へら》でけずろうとして、おどろいた。チューインガムが本性をあらわして箆にくっついて伸びてくる。指でつまんで引っ張ったら、切れるどころか、根元の方が太くなり、やがて、膜状になり、それが裂けて滝の白糸のような状態になっても、まだ切れない。チューインガムとしては優秀なのだろう。ばかな話で、結局、古いパテのかけらで我慢した。
衣裳は気に入った。かつらもいい。うしろをもう少し長くして、カールすること。髯は、いいニスを入手したので、テグスの世話にならずにすむだろう。
しかし、まだ肝腎なことで、気に入らぬことがある。あと一週間。
――一九五八年一一月 藝術新潮――
「ヴァイオリンを持つ裸婦」
疲れた。まったく、疲れた。
こんなにくたびれた芝居の稽古は、めずらしい。
私たちは、いま、東京でノエル・カワード作「ヴァイオリンを持つ裸婦」の初日をあけて、一応ホッとしているところである。
むろん実は、これからが、一日一日たいへんなのだが、あの六週間の稽古のくたびれ方はまったく異常であった。
「ハムレット」とか「マクベス」とか「ジュリアス・シーザー」とか、動きの多い、朗々たるせりふ廻しを必要とする古典劇ならば、くたびれるのはあたりまえである。しかし「ヴァイオリンを持つ裸婦」は、そんな芝居ではない。どちらかといえば、動きの少ない、デリケートな喜劇である。それが、むやみにくたびれるのである。稽古を終えて家へ帰ると、夕食までの間《ま》がもてない。ごろりと横になって、一時間ばかりいびきをかいて眠る。
私の役は召使頭で、割に出場《でば》は少ないのに、疲れることおびただしい。そこで体の具合が悪いのではないかと思って、病院でしらべてもらったが、どこも何ともない。きいてみると、私だけではない。岸田今日子も、中村伸郎も、加原夏子も、加藤武も、丹阿弥谷津子も、加藤治子も、みんなむやみにくたびれるらしいのである。
つまり、だれもかれも、緊張して黙って相手の芝居を受けている間が長く、それも表向きはごく自然に笑ったり、酒をのんだりしながら待っていなければならない。それでくたびれてしまうらしいのである。
肌理《きめ》の細かい芝居をつくりあげてゆくむずかしさは、一種独特で、せっかちな人には、そんなやり方はむだな努力と思われがちだが、実にそこが肝腎なところなのだ。そういうところを抜きにして、芝居というものは成り立たないだろう。
「ヴァイオリンを持つ裸婦」は、カワードの戦後の代表作である。去年、私たちの上演した「陽気な幽霊」は、彼の戦前の作品であり、美しい先妻の幽霊が、夫と後妻をなやますという状況自体がそもそも喜劇的だから、役者はその状況にいくらか寄りかかることができた。「ヴァイオリン」はそうはゆかない。それぞれの役の人間が、生き生きと劇的状況をつくり出してゆかなければならない。役者にとっては、芯の疲れる芝居なのである。それが、またやりがいなのだ。三人、四人、五人のみじかいせりふのやりとりが、間髪をいれず、ぴったり呼吸の合ったときの気分は、何とも言えない。そういう時、六週間の稽古の疲れはどこかへふっとんでしまうのである。
――一九六三年五月 朝日新聞――
「ロミオとジュリエット」開幕
マイケル・ベントール氏が羽田空港へついた二月四日から、およそ二カ月あまり、私たちはこのすぐれた演出家の指導のもとに、シェイクスピアの青春の愛と死の劇に取り組んできたわけだが、その充実した稽古のたのしさは、ちょっと一口には言いがたい。
ベントール氏の言うことは、すべて基本的なことばかりである。「真実の感情を忘れるな」「人間を離れるな」「客に見せようとするな」「しっかりと客の心にとどくように話せ」などという忠告は、私たちにとって、けっして耳あたらしいものではなく、何度もきいたり読んだりしたはずのことばなのだが、ベントール氏がそれをいうと、肝腎なところへぴしりと楔を打ちこむように、よく利く。ゆたかなアイデア、独創的な動き、たくみな演技のクロッキー、群衆の処理のみごとさに、私たちは毎日、目をみはる思いをしたものだ。装置、衣裳、音楽、音響効果などのプランは、稽古にはいる前にすでに完成しており、それを、最後の三日間の舞台稽古のギリギリまでに完全なものに仕上げてゆく、その水も洩らさぬ仕事ぶりも、あざやかなものであった。
氏は堂々たる体格の持主でずばりとものをいう一面、ひどく細心なところがあり、私は稽古の間じゅう、なんだか神経質なライオンといっしょに仕事をしているような、一種の緊張感をたえず味わっていた。この緊張感は、病後、三年ぶりに舞台に立つ私の不安定な心の姿勢を、うまい具合に支えてくれた。
東京の初日の夜、幕のあがる前の暗い舞台へ出てゆくと、そこにはすでにベントール氏が、手をきちんと前に組んで、にこにこしながら立っていた。その端然とした姿勢と、なごやかな表情とが、無言のうちに、私をはげまし、私をくつろがせてくれた。私たちはうなずきあった。やがて舞台監督が開幕の準備完了を告げると、氏は小声で「グッド・ラック」と言い、広い背中をみせながら、ゆっくりと暗い舞台から歩み去った。その瞬間、私は、ベントール氏とともにすごした長い時間が、大きな輪を閉じるように、確実に完結したことを感じ、あたらしいこころよい緊張が、三年間待っていた緊張が、身内におこるのを感じたのである。
――一九六五年四月 毎日新聞――
「鬼の始末」のこと
昨年の暮、私たちは岩田豊雄作の新作狂言「鬼の始末」を、中西由美の演出で上演した。
この狂言は、まったくの新作ではない。「節分」を下敷きにしている。原作には出てこない亭主が出てきたり、鬼が打出の小槌を持っていたり、いろいろ変ったところはあるが、大筋は「節分」の通りで、節分の夜、亭主の留守に異国の鬼がやってきて、女房を口説く。女房は鬼を適当にあしらった後、豆を撒いて鬼を追い払ってしまうのである。私は、シテの鬼を演じた。
「節分」は、昔、水道橋の能楽堂で見たことがある。野村万作氏の鬼が、みごとであった。橋がかりを出てくるところからして、いかにも古怪なおかしみがあり、私はそこでもう感心してしまい、鬼から目が離れなくなった。女房に豆を打ちつけられて、長く尾をひく唸り声を立てながら、たたらを踏んで逃げてゆく速い引込みは、ことにあざやかで、忘れられない。万作氏はむろん今でも若いが、あの鬼の引込みには、もっと若かった氏の気力と体力とが充溢《じゆういつ》していて、凜然《りんぜん》たる趣があった。
その氏の演技が、脳裡にちらついているので、「鬼の始末」の配役が発表された時、私は手放しでは喜べなかった。
文体が、そもそも狂言の文体なので、つい狂言まがいの演技になってしまう。それなら、本職にかなわないことになる。せりふ、動き、気持の表わし方など、万事、新劇風に自由にやる方がいいだろう。しかしそうなると、今度は文体に縛られる。堂々めぐりだが、それは言わば承知の上であった。こういうことは理屈のほうから入っていけば、いつも同じ筋道を通って、同じ場所へ出てしまうものだ。
鬼は、マスクを使用する。ただし、半仮面を使って、口の動きが見えるようにする。衣裳は明治の狂言に使われた「異人」の衣裳をアレンジする。これは、南北戦争時代の軍服に似ていて、蓬来《ほうらい》の国(アメリカに酷似している)から雲にのって日本へ攻め寄せ、途中で迷子になった「鬼の始末」の主人公にはまことに打ってつけである。ついでに軍帽をかぶる。杖のかわりに、小銃を持つ。鬼の登場にはジェット機の効果音をあしらう。女房や亭主の衣裳も鬼に準じて適当にアレンジしたものを用いる。たとえば亭主は二重廻しを着、山高帽をかぶって外出する。演技も、すべてこの調子でゆく。狂言のほうから見れば、出たらめもはなはだしいこんなやり方が、新劇役者のいい栄養になるのである。
私はあくまで自分流に演じたが、あとで万作氏に叱られた。大体お前の鬼は、客を笑わせようとするからいけない、狂言というものは、滑稽に演じるものではない、引込みにホリゾントの壁へ頭をぶつけるなんて最低だ、という。何を言ってるんだ、お前さんの鬼は橋がかりをまっすぐに引込むけれど、こっちはホリゾントの壁へ向ってまっすぐにかけ出すんだ。そういう鬼なんだ、くすぐりじゃないなどと、二人とも酒が入っているから、談論大いに風発した。鬼同士で豆をぶつけ合っているような形だったが、年来、万作氏のファンである私には、久しぶりのたのしい一夜であった。
――一九六七年四月 狂言――
ジャン・メルキュール氏の稽古
ジャン・メルキュール氏の「ドン・ジュアン」の演出助手が、氏について、または氏の仕事ぶりについて、あるいはそこから何を学んだかということについて何かを語るためには、今はあまり適当な時期ではない。初日は目前に迫っており、稽古はまさに白熱状態にある。以下の短文はその合間に書かれた、いわば現場でとったノートの断片であり、演出助手の怠惰の証明書である。
十二時きっかり、階段を駆けおりて来る。「やあ、こんにちは」しゃべりながら上着を脱ぐ。「さあ、始めよう!」いつもの葡萄酒色の裏地の黒い上着をたたんで、椅子の背にかけ「今日は第一幕から。さ、行こう!」今日は、黒地に細い赤い縞の入ったシャツ。「スガナレル! ギュスマン!」手を打ち鳴らしながら舞台へ。歩いてみせる。小柄な、やせぎすな、腕の長い、よく動く体。すわってみせる。首を前へつき出す。栗色の、半白のみじかい髪。大声でせりふを言い、陽気になり、両腕をひろげ、まばたき、皮肉な顔になり、飛上り、落胆し、駆け出し、威張って見せ、突然絶望して頭を抱え込み、演出家の椅子へ帰るかと思うと、たちまち引き返して忙しく台本のページを繰り、ローマ字で書いてある日本語のせりふを巧みに真似てみせながら、役者の欠点を指摘する。「分ったかい?」声を立てて嬉しそうに笑う。「さあ先へ行こう!」息をつく暇もない。ただ一回きりの十五分の休憩。その間もダメ出し。氏の黙っているのは、ほとんど通訳が氏の言葉を取りついでいる間だけである。
勤勉、活動的、多弁、精力的、情熱的。「額に汗して働く」演出家。古い童謡の主人公、森の鍛冶屋を思わせる演出家。
言葉の障碍。「そこから歩いて来る時、手を腰へ当てたままじゃおかしいな。楽にして、手を振ってごらん」通訳が取りつぐ。まだ終らぬ内に、じれったくなって、自分で腰に手を当てて歩き廻りながら「ほら、ね、おまえこうやって歩いているだろう? おかしいだろう? ええ? 見ろよ、へんだろう? 分ったね、さあやってごらん、もう一度」通訳は口をきく暇がない。役者は、氏がいつものようにお手本を示してくれたものと思い込む。氏の真似をして、腰へ手を当てて歩く。氏は絶望的に両手をひろげ、肩をすくめる。
つまりこれは身振りの障碍でもあるわけだ。これこれしかじかの場合に腰に手を当てたまま歩くはずがないということが、こちらには通じない。「そう振り向くと、タルチュフになるよ」「商人はそんなすわり方はしない」「驚いてもいないのにどうしてそんな恰好をするんだい?」等、等……
「ドン・ジュアンていうのは、つまり、自分に納得の行かない事柄はすべて、我慢のならない男なんだ」
「そのせりふをしゃべっている間、きみは何を見ていた? それじゃ、まるで幽霊だ」
「きみ、自分で問題を難かしくしてはいけないね。そう何もかも詰め込むことはないじゃないか」
「そこじゃない、ここへ立ちたまえ。一メートルちがっても、意味はまるで別のものになってしまう」
基本。あくまでも基本に忠実に。それが、徹底している。飽きず繰返す。前のベントール、クラーマン両氏をはるかに上廻る稽古量。千本ノック。ぶつかり稽古。
「今の場はとても良くなった。大進歩だ。ほとんど完全だ。しかし完全と、ほとんど完全とは、まるで別物だからね。たとえば……」
障碍。混乱。議論。試行錯誤。疲労。努力。忍耐。堂々めぐり。(フランスでやる通りにやらないで、どうしてモリエールの「ドン・ジュアン」が上演できるか?)身振りと日本語とフランス語の摩擦。誤解の発見。リラックス。冗談。回復。(モリエールを歪めずにわれわれの、日本人のものとすることが出来るか?)せりふ。動き。リズム。希望。努力、稽古、稽古……
五時半、稽古が終る。「小道具は?」役者のいなくなった舞台に、小道具や靴が運ばれる。デッサンと見くらべながら、一つ一つダメを出す。「これは何だい? 海老《えび》? これじゃお客には分らない。海老はこんな色じゃないよ」「この靴の先、もっと、とがらせてもらいたいな。鉛筆をけずるようには行くまいけれど、何とか、ね」七時終了。上着の袖に腕を通しながら「明日は十時から音楽の打ち合せだったね? よし。ああ、今日はよく働いた。(小声で私に)何かダメ出しはないかい、私に。(笑いながら)じゃ、明日」階段状になっている客席の通路を駆け上り、そのまま、中庭から上の道路へ、四十段の階段を一気に駆け上って、小柄なメル小父さん(私たちのつけた愛称)の姿は消える……
――一九六六年九月 雲――
メルキュール氏の演出
去年から、私たちの劇団「雲」では、外国の演出家とのつき合いを始めた。つき合いといっても、べつにのんきな交際を始めたわけではない。外国から演出家を招いて、約二カ月、本国どおりの演出をしてもらうのである。
ことしは、フランスからジャン・メルキュール氏を招いて、私たちは今、モリエールの「ドン・ジュアン」に取り組んでいる。
メルキュール氏は五十七歳。ジャン・ルイ・バローやピエール・プラッスールらと同世代の、現役第一線の演出家兼俳優である。
外国では、演出家兼俳優というのは、少しも珍しいことではない。むしろ、俳優としての体験をもたぬ演出家は、ごくまれである。日本でもこのごろは、だいぶ、兼業がふえてきたが、まだ、一般的な現象とはいえない。
メルキュール氏の演出ぶりを見ていると、演出家という職能と、俳優という職能とが、まったく一つになっていて、間然するところがない。
演出家も、俳優も、それぞれにかなり激しい体力を必要とする職業だが、氏の演出は、その二つの激しさを一身に引き受けて、ものすごい勢いで進行する。
朝十時半から、装置、衣裳、音楽などの打ち合せ。氏は通訳が追いつかぬほど、しゃべりまくる。十二時から五時まで稽古。これがまた、息つくひまもないほどのダメ出しの連続で、ドン・ジュアン役の山崎努をはじめ、俳優たちはしばしば立往生をする。ひとときも演出家の椅子にすわっていない。舞台を歩き廻り、両手を振りまわし、とび上り、駆け出し、顔をしかめ、大声で笑い、俳優のそばへ寄って演技をしげしげとながめ、突然絶望して椅子にすわり込むかと思うと、猛烈な勢いで葡萄や桃をたべながらまたダメを出す――という具合で、その忙しさといったらない。
十分か十五分の休み時間も、じっとしていない。俳優をつかまえて注意をくりかえす。稽古が終ると、また演出の打ち合せ。氏の実働時間は、十時間におよぶだろう。とても、五十七歳とは思えない。この小柄なからだのどこにこれだけの精力がひそんでいるのかと、私たちは、感心を通り越して、あっけにとられている。
相撲のぶつかり稽古とか、野球の千本ノックとかいうものを、自然に連想するような稽古ぶりである。氏は本国でも、稽古がきびしいので有名な人のようである。
東京の夏は、とくに今年の夏は、ヨーロッパからきた人には耐えられないほど暑く、湿気が多く、不健康なはずなのに、「暑い暑い」と言いながら、タフな仕事ぶりを続けた氏を見ると、やはりこれは菜食人種には真似のできない体力が、ものを言っているのだ、という気がしてくる。
しかし、そればかりでもなさそうである。氏のひとときも休むことのない活動は「ドン・ジュアン」の演出家の仕事というだけでなく、氏の俳優的生活そのもののあらわれなので、あふれ、噴出し、自発し、とどまることを知らぬ生命の動きが、それだけが戯曲をゆり動かして真に生きた舞台をつくりあげることができるのだという、ヨーロッパの劇場人に共通の信念がその仕事ぶりにはうかがわれる。
芝居というものをつくりあげているさまざまな要素を、ぎりぎりに煮つめると、戯曲と演技の二つに帰する。演出という仕事は、この二つを結びつけることなのだが、この中間的な仕事へ通じる道が、いろいろな方面からあるにしても、これまたぎりぎりに煮つめると、戯曲の方向からと、演技の方向からとの二つの大道に帰するほかはない。いずれが良いか、悪いかという問題は別として、演技の方向からくる演出家のほうが、俳優にとっては当然なことだが、刺激も多く、分り易く、勉強にもなる。メルキュール氏の稽古に接していると、そんなことを改めて考えるのである。
――一九六六年九月 神戸新聞――
「なよたけ」
「なよたけ」の稽古も、ようやく最後の仕上げの時期に入った。初日が近くなると、きまって私達をおとずれる二つの矛盾した気持――初日を待ち遠しく思う気持と、もう少し稽古をつづけることができたらと願う気持とが、そろそろやって来る頃である。
演出については、今、取りたてて言うほどのことは何もない。戦後に発表された数多い戯曲のなかでも、「なよたけ」ほど、多くの人々に愛されている戯曲は少ないのではないかと思う。多くの読者が、心の中に「なよたけ」の理想的な舞台を描いているにちがいない。そういう「なよたけ」を演出することは、たしかに気骨の折れる仕事だった。
演出をしていて、あれこれと考え迷った時、ゆたかな舞台的映像の流れにまきこまれて途方にくれた時、僕を救ってくれたのは、「なよたけ」の原文《テキスト》そのものだった。原文をくりかえして読んでいるうちに、この甘美な、凜然《りんぜん》とした戯曲をつらぬいている独特の伸びやかな声調がふたたび感じられてくるようになり、それがいつも、あたらしい動きや調子を発見する手がかりになっていった。この起死回生の劇を支えている作者の思想が、詩と演劇とに対する加藤道夫の若い純粋な信念が、絶えず僕を励まし力づけてくれたのである。そして、先輩や友人達の助言が、僕の菲才《ひさい》を補ってくれた。
「なよたけ」についての思い出はありあまるほどある。いま僕は、それらが「何千年も遠く過ぎ去った昔のこと」のようにも思われ、「かと思うとつい昨日のことだったような気も」している。
間もなく初日の幕が明く。客席に坐ってみても、となりの椅子に加藤道夫はいない。しかし、どこかの暗い隅で、舞台を見ていてくれそうな気もする。廊下へ出ると、人波のなかから、手を挙げ、優しい微笑を浮べながら、加藤があらわれてきそうな気がするのである。
――一九五五年一〇月 「なよたけ」パンフレット――
「恭しき娼婦」
サルトルの劇は難かしい、実存主義哲学が分っていなければ、サルトルの劇を見たって分る筈がないし、面白い筈がない、という説があります。なるほど、サルトルの劇は、難かしい問題を含んでいます。しかしそのことと、実存主義哲学が分っていなければサルトルの劇を見たって分らないということとは、同じことではありません。
サルトルは、現に生きているわれわれの眼の前で、現に生きているわれわれの問題をとりあげ、現代における人間の一つの生き方を提出します。観客に対する烈しい問いかけです。いわば裏も表も見通しのところで力業をやっているわけで、哲学的教養というハンディキャップをつけて勝負を楽にしようなどというのんきな了見は、恐らく起している暇がないのです。サルトルにとっては、こういう力業を敢えて行うことが――劇を書くこと、直ちに哲学的実践に連なっているのに、それを、サルトルの劇は実存主義哲学の骨組の上に芝居の肉づけをしたものだから、骨組が分らなければ面白くないというのでは、話がまるで逆です。実存主義とは、観念的体系ではなく、一つの生き方です。そしてサルトルは、実存主義者だけのためにではなく、人間のために劇を書いているに違いありません。
僕達はこの劇の上演をそういうものに――つまり、予備知識ぬきで、十分に分りもし、面白くもある芝居にしたい。サルトルの提出する難かしい問題や生き方がその中にありありと浮び上ってくるようにしたい。僕達の力業の結果がどういうことになるか、稽古中の期待と不安とは、常にもまして切実であります。
――一九五二年七月 毎日マンスリー――
「黄金の国」
遠藤周作氏の「黄金の国」は、氏が長年追求してきた主題――西欧の神、あるいは思想の根源は、日本の風土あるいは日本人の性情に適うかどうかという主題を、もっとも充実した形で提出している作品です。
濃い、密度の高い思想というものは、屡々、劇場性をもたないもの、時としては劇場性に対立するものだと、私は思います。
劇場にとって、思想は、往々にして危険な毒薬あるいは放射性物質のごときものであり、これを扱うには、よほどの注意が必要なのです。むろん私はいわゆる「思想劇」について言っているのではありません。「思想」のプロパガンダは、劇とはまったく関係のないべつの事柄に属します。
「黄金の国」は危険な要素を十二分に含んだみごとな劇ですが、この作品を演出しながら、私は、いくつかの点に特に気をつけて来ました。
例えば一つは、芝居の「たのしさ」を形造る演技のテンポやリズムやピッチを生かすという名目のもとに、思想の濃度を薄めてしまわないこと。
また一つは、叙事詩的、抒情詩的、浪漫劇的、議論劇的、その他さまざまの異質の要素を、できるだけ生《き》のままに活かし、ぶつけ合せること。
つまり外面的な動きの効果や統一感を求めすぎて、なめらかな芝居に仕上げてしまわぬこと、など。
これは手数の多い、むずかしいゲームを手強《てごわ》い相手とやっているようなもので、演出をしていてこれほど張り合いを覚えたことはありません。
稽古場の活気が、舞台でいっそう高まることを念じています。
――一九六六年五月 雲――
「榎本武揚」
急ごしらえの辰ノ口の牢の部屋の仕切りには、隙間があって、そこから物品をやりとりすることが出来た。仕切りごしに、オランダ語や英語で、話をすることもあった。差入れはかなり自由であった。榎本は獄中から家族あてにたくさん手紙を書いている。白墨の製法を教え、その製造販売を義兄にすすめる手紙、同室の「市中無頼の徒」たちと共に差入れの酒で愉快な小宴を催した旨の手紙などもある。また榎本たちは、紙細工で器械類の模型を作り、後には非常に精巧なものを作るようになったので、目に余るものとして、禁止されたという証言もある――
という具合で、榎本武揚に関する史料をいろいろ読んでみると、獄中生活のことに限らず、安部さんの史料の読みの深さと、同時にその戯曲の「まことから出た嘘」の大きさ、おもしろさが、並々でないことがよく分るのです。
むろん安部さんは「嘘」のまま蒸発してしまうような嘘をつく人ではありません。たとえば「共和」という言葉は、ただちに「民主」という言葉に結びつきます。
さらに、この戯曲の一筋繩ではゆかぬところは、たとえば「抵抗の精神」というようなそのものずばりの現代語が、ひょいひょい顔を出すという点にあります。これもまた一つの「まこと」の世界であって、仔細に見れば、この戯曲では「まこと」も「嘘」も――あるいは「歴史」も「詩」も、それぞれ二重の光源から照らし出される仕組みになっているようであります。
そこに立ちこめる、一種の論理的な悪夢ともいうべき雰囲気と、陽気な活力とは、安部さん独特のもので、演出にあたっては、そういう戯曲の生得の質を、はっきりと、剥《む》き出しにすることを心がけました。
むずかしいが、楽しい仕事でした。
――一九六七年九月 雲――
「ブリストヴィルの午後」
詩と劇とは、昔から仲のいい姉妹だった。
物語と劇とも、同様に仲がよかった。が、近代になって、小説というものが出来てからは、小説と劇とは、必ずしも具合がよくゆくとは限らなくなった。チェーホフが来て、小説と劇とを和解させた。
映画、というものが現われた。三千年の樹齢をもつ劇という巨木から生えた新しい強い枝である。
安岡章太郎氏の処女戯曲「ブリストヴィルの午後」は、その四つのジャンル、詩と小説と映画と劇とを、打って一丸としたうえ、さらにエッセイの風味を加えたような趣がある。たしかにこれは「実験」の名に値する難業で、この抒情と、描写と、洞察と、流動するイメージと、行動とを、どう束ね、どう融合させたものか。楽しい苦役《くえき》である。いつもの流儀で、手に入る限りの氏の作品を机の脇に積んで読み返しながら、演出の準備を進めている。
――一九六九年六月 雲欅――
「薔薇の館」
これは、遠藤周作氏の二番目の戯曲です。第一作は、三年前に、やはり私の演出で、私たちの劇団が上演した「黄金の国」でした。
「黄金の国」は、切支丹《キリシタン》の話で、氏が谷崎賞を受けた小説「沈黙」の、いわば戯曲篇でしたが、今度の「薔薇の館」は、文字通りの書下ろし現代劇です。
「黄金の国」上演の直後に、私は氏に、この次はぜひ現代劇を書かれるようにとすすめました。氏は直ちに快諾され、その構想を語ってくれましたが、三年の間にその構想は少しずつ変って来て、現在の「薔薇の館」は、初めの話から見るとほとんど別の話になってしまいました。小さな黒い種が、芽を出し、双葉をひらき、枝をのばし、やがてつぼみをつけ、花をひらくのを見るようで、作品形成の過程というものは、それだけで独立した一つのドラマであるように、私には思われました。
「薔薇の館」の舞台は、軽井沢にある教会の、司祭館です。
薔薇は、愛と血のシンボルであり、純潔のシンボルでもあると作者は語っています。さしずめ前者は紅薔薇、後者は白薔薇ということになります。
薔薇が二色であるように、この劇の登場人物たちは、みな、二つの極、二つの種属、二つの立場に位置するように書かれています。
神を信じる者と、何も信じない者。
愛し合う青年と、少女。
経験の豊かな、能力のある者と、未熟な無能力者。
殺す者と、殺される者。
愛し合う者たちと、憎み合う者たち。
それらの対立から、ドラマが生れ、発展してゆきます。どの人物もみな彼自身の、あるいは彼女自身のドラマの主人公であるわけですが、このドラマ全体のほんとうの主人公は、彼らを超えた存在――姿も見えなければ声も聞えない存在であるかも知れません。
しかし私はこの「薔薇の館」を、宗教劇として演出するつもりはありません。あくまで、人間の劇として演出しようと思っています。性や、狂気や、欲望や、悪意が、なまあたたかい溶岩のようにくすぶっている舞台にしたいと思っています。そう思わせるものが、氏の「薔薇の館」にはあるのです。私たちも、作者に負けないように、私たちの薔薇を育ててゆきたいと思っています。
――一九六九年一〇月 新劇通信――
現代戯曲の演出
このところ、私は現代作家の書き下ろし戯曲ばかりを演出している。
遠藤周作氏の「黄金の国」、安部公房氏の「榎本武揚」、今年は安岡章太郎氏の「ブリストヴィルの午後」、遠藤氏の「薔薇の館」と二本続いた。
べつに日本の現代戯曲だけを演出しようと一念発起したわけではなく、むろん外国の芝居を毛ぎらいしているわけでもない。半分は、めぐり合せである。
安部さんや遠藤さんに戯曲を書いてもらいたいという気持は、十数年前から持っていた。当時私は文学座に所属し、レパートリー委員をやっていたが、その委員会の作ったガリ版の報告書にも、書き下ろし委嘱作家として、安部さん、遠藤さんの名前が上っている。いろいろな事情で、実現が遅れただけである。
しかし、現代作家の戯曲の演出には、外国劇の演出とはくらべものにならない強烈なたのしみのあることも事実である。
そのたのしみは、作者と観客と俳優とが、共通の国語を持ち、同じ時代に生きているという、ごく当り前な事実に裏打ちされているようである。
外国の戯曲も、しっかりと日本語に翻訳されれば、本質的にはいわゆる創作とかわりはない。古典劇の作者も、これをわれらの同時代人と見ることが出来れば、現代作家とまったく同じである。なるほど、そうかも知れないが、観客や俳優にとっては、なかなかそうは行きかねる場合が多いのである。
現代作家の戯曲の演出はいわば表も裏も見通しのところでする仕事である。羽根飾りのついた帽子をかぶり、メダルのついた金の鎖を首にかけて、公爵。外国劇はそれでも通る場合がある。創作劇はそれではすまない。着物の生地、色合、柄、仕立て、着こなしがちゃんとそろわないと、おかみさんは出来上らない。衣裳や小道具ばかりの話ではない。せりふも身振りも動きも、さらに舞台装置も、照明も、音響効果も、すべてがそうである。写実にしても、反写実にしても、厳密でなければならない。能、狂言の生きている国である。
西洋で、西洋の芝居を見ると、当然のことだが、そういう所がいかにも厳密に、きちんと出来上っていることがわかる。表も裏も見通しの所で作りあげた芝居の、色や形やリズムの確かさがわかる。
演出者は、作者の意のあるところ、表現しようとしているものを知り、それを観客に伝えなければならぬ。ただ単に、作者の思想を理解するというようなことにとどまらず、もっと内側へ、いわば作者の呼吸や体温のようなものまで感じ取れるようなところまで、入ってゆかなければならない。
そのために、私はその作者の他の作品を出来るだけたくさん読むことを心掛けている。これはいつの間にか演出をはなれた、ほとんど独立した別のたのしみになってくるのが常だが、そういうことの出来るのも、これが現代日本の作家なればこそで、外国の作家では、いつもそううまく問屋がおろすとは限らないのである。
その作家について書かれた批評や注釈の類に目を通すのにも、外国の作家の場合は一と通りの苦労ではない。その他の参考書類に至っては、なおさらで、日本の戯曲を演出している限りは、よほど込み入った調べ物をするのにも、気分ははなはだ楽しい。
私もそのうち大奮発をして、外国の戯曲を演出する気をおこすかも知れないが、目下のところは、現代作家の戯曲さえ演出していられれば、冥利《みようり》につきると思っている。演出家とは一種の恋人のようなものだ、とルイ・ジュヴェは言った。シェイクスピアよりも遠藤を、チェーホフよりも安岡を、ブレヒトよりも安部をえらぶ演出家が、一人ぐらいいても悪くはないだろうと思っている。
――一九六九年一〇月 読売新聞――
演出と演技
今年私は、演出者として二つの芝居を上演し、役者として四つの芝居に出演した。
芝居は、よく言われるように手工業的な仕事で、幕が上るまでにずいぶん時間がかかり、幕が明いてからも毎晩、いわば一品生産をつづけなければならないのだから、これだけでも精いっぱいなのである。
演出と演技と、どちらが面白いかときかれると、両方とも面白いと答える。演出をする時には一人一人の役者の中に自分がいて演技をしている気分になるし、演技をする時には戯曲の主題、構成や、他の人物たちとの関係や、装置や照明などを考えに入れる。演出と演技とは、私の場合、原理的には同一の、二つの仕事である。
どちらの場合も、いちばん楽しいのは、台本を受け取ってから稽古の始まる前日までで、いったん稽古が始まってしまえば、毎日が煉獄の苦しみの連続となる点も共通している。
ただ、役者の場合は、台本をもらうことは役をもらうことで、稽古が始まるまでの楽しみは、どうしても自分の役が中心になる。そこから遠心的にひろがり、そこへ求心的に戻ってくる。
演出者となると、そうはいかない。同じ楽しみでもこちらの方は、私にとってははるかに忙しい楽しみで、しなければならないことが山ほどある。台本を読み、配役を考え、装置や衣裳や照明や音楽や音響効果を思案する。戯曲の主題や構成や質を生かすための現実的行動、空間、色彩、リズムなどをあれこれと工夫する。
配役通りの役者の一人一人を想像しながら台本を読む。うまく行かない。配役を変えてまた読む。稽古が始まる前は毎日大抵二回半ほど読む。稽古は私の場合、六週間ぐらいだが、この間も二回半がつづく。幕が上るまでに、一つの戯曲を二百回近く読む計算になる。そんなに読んで、あの程度のことしか出来ないのかと、笑われるかも知れないが、私は自分の演出した戯曲のまめな愛読者であったことを後悔したことは一度もない。
配役は芯の疲れる仕事であり、決断のいる仕事である。配役がうまくゆくか、ゆかないかで、その芝居の出来の良し悪しが、半分は決ってしまう。出場やせりふの多い役はむろんのこと、せりふのない通り抜けの役まで、みな大事に、はっきりと考えなければならない。こんなことは演出のABCで、いまさら何をと、言われるかも知れないが、実際にやってみると、これがなかなか容易なことではない。私は全配役をはっきりと考え切っておかないと、先へ進めないたちである。せりふのない役者でも、稽古の途中で急病になられたりすると、私はまったく途方に暮れてしまう。
稽古の初日、最初の本読みの日には、装置、衣裳、音響効果のプランがちゃんと出来上っている。大体の動きも決っている。せっかちなようだが、まず全体像を作っておいてから稽古に入るのが正しいやり方だと、私は思っている。
そんな次第で、台本の完成が遅れたりすると、稽古の始まる前に半徹夜がつづく。これは、ほんとうにつらい。
役者で出る時には、そんなことはしない。体調を整えなければならないから、半徹夜などは大禁物である。
稽古が始まるまでは、役のイメージを作ることに専念する。調べ物もしないではないが、役へのアプローチを理論的、分析的、科学的にしようと努めたことはない。稽古の始まるのを待つ楽しさは、半ば以上、想像する楽しさである。
さて稽古が始まってしまえば、前に書いたように、苦しみの連続である。
今年は「トロイアの女たち」の海神ポセイドン、「わが命つくるとも」のトーマス・モアと、外国人役がつづいた。「薔薇の館」では、折角の日本の現代劇なのに、ベルギー人神父を演じる羽目になってしまった。もっともこれは、私自身の演出だったから、誰を恨むべき筋合のものでもない。
演技をしていても、演出をしていても、私はわれながら突拍子もないことを思いつく癖があり、どうしてそうなるのか、なぜそんなことをするのか、自分でもわけが分らず、これはクレッチマー氏とやらの分類による分裂型とやらいう体質、気質のなせるわざではあるまいかなどと、考え込んでしまったりする。それともことによると、少年時代から馴染んだ歌舞伎や、寄席の藝、ことに落語の発想の突拍子のなさと関係があるのか。それとも、昔大学生時代に熱中したシュールリアリズムの文学や美術の、それらの理論の、消えがてに残っている影響のなせるわざか。あるいは、在り来たりを排し、理屈で固めた演技や演出を排し、想像力と感受性とを強調した岩田豊雄、故岸田国士両先生の「学校」出身であるせいなのか。どれとも関係があるような気がするし、ないような気もする。
いずれにしても、こういう癖を生かしたり、抑えたりしてくれるのは、いつも自分の中にいる他人、あるいは文字通りの他人で、役者をしている時には、演出家や共演者たちが、演出をしている時には、演出スタッフや役者たちや、大道具、小道具、光線、音響その他もろもろの「物」たちが、私の突拍子もない考えを支持したり、否定したりしてくれる。
目下稽古中の「棒になった男」では、作・演出の安部公房氏が、その信頼すべき他人を代表している。突拍子もないことを思いつく点にかけては、向うの方が上手《うわて》だから、支持されても否定されても、私は安心して、その通りにしている。なるほど、突拍子の方向が違うのだなと、思ったりもするが、そんなことも含めて、これは自分の仕事を進めてゆく上でのいい機会だったと思っている。
いや、そもそも、自分の演出や演技について、こんなに長いおしゃべりをするということ自体が、下手《へた》に突拍子もないことなのであろう。昔、ある席で、司会者から、役の工夫をする上での苦心を問われた折の、故三代目市川左団次丈の洒脱《しやだつ》な、簡潔な、憎い受けこたえを、その声や表情を、私はなつかしく思い出す。
「台本《ほん》を持つと、眠くなりますな」
――一九六九年一〇月 毎日新聞――
サーチン 労働が快楽なら、人生は極楽だ! 労働が義務になったら、人生は地獄だ。
ゴーリキー・神西清「どん底」
トマス・モア だが、私にも小さな……小さな領地がある……自分で支配しなければならない小さな領地が――陛下にとっては、テニス・コートほどの広さもない領地が。
ロバート・ボルト・松原正「わが命つくるとも」
役者の生死
夜遅く、眠れぬままにテレビを見ていたら、古いフランス映画「犯罪河岸」がはじまった。人生到る処挫折ありとでも言いたげな、探偵も容疑者も失敗ばかりしているへんな推理映画である。
故ルイ・ジュヴェが、主役の、うだつの上らぬ老警部補を演じている。故シャルル・デュランが、まことに打ってつけの役だが、偏執的な金持の老人を演じている。ただしこれは、出てくるとすぐに殺されてしまう。見ていて私は不思議な気分になった。
テレビだから、むろん声は贋物《にせもの》である。しかしそれにしても、二人とも如何にも幽霊じみて見える。死んだ役者が幽霊じみて見えるのは当り前だと言ってしまえばそれまでだが、私としては、デュランはともかく、ずいぶん長い間その人について、その人の仕事や藝について、あれこれ思い廻《めぐ》らしてきた他ならぬジュヴェが、幽霊じみて見えては困るのであった。
映画はもともと幻の藝術で、映画館で私たちが見るのは役者ではなく、役者の幻に過ぎない。しかし、この現実よりも現実的な幻は、セルロイドの帯に定着されて、生身の役者よりも長生きをするから、「想い出の名画祭」というような企ても可能になるのである。芝居ではそうは行かない。「想い出の名舞台」というのは、大抵グラヴィア写真か何かである。
すぐれた映画は古くならない、昔のように今も新鮮であるというのは、ある意味ではその通りで、私も昔の映画を見て大いに感心した覚えがたびたびある。例えば「女だけの都」や「孔雀夫人」や「人情紙風船」は、今見てもきっと面白いに違いない。
しかし、そういう一流の映画でも、死んだ役者の出ている場面だけは、血肉を具えた彼や彼女の肉体が克明に再生されていればいる程、何となく空虚な感じが漂う。これは私の感傷であろうか。仮に、出ている役者が皆死んでしまっている映画があるとすると、それがどんなに「名画」であるにせよ私たちの見るのは、映画というよりも、映画の生々しい記憶というようなものになっているのではあるまいか。
映画は生きている役者を、役者の藝を、呑みこんでしまう。彼や彼女の表情や身振りや行動は、余す所なく捉えられ、定着され、記録されてしまう。そうなれば、もはや現実の役者は不要である。彼の広い額、こめかみに怒張する血管、ある時は呆けたように見ひらかれ、ある時は人の心の奥底まで見通すかのように鋭く輝く大きな眼、大きな官能的な口、低く重く際限もなくつづく声、妙に緩慢な身のこなし、ゆっくり大地を踏みしめて行くようにも見え、雲の上を歩いて行くようにも見える独特の足取り、そういうものを隈《くま》なく記録したみごとな幻が生きていれば、生きたジュヴェは不要である。せむしのような奇妙な身体、よく動く、いたちのような小さな目、冷酷な感じのする細い高い鼻梁《びりよう》と薄い唇、響きのわるい声が、そっくりそのまま生きていれば、生きたデュランは不要である。生きたチャールズ・ロートンは不要である。生きたジェラール・フィリップ、生きた小堀誠、生きたマリリン・モンローは不要である……しかし、果してそうであろうか。
映画という「現実の幻」は、役者が生きているというごく当り前の事実に裏打ちされていないと言えるだろうか。観客の愛惜する役者の死によって、映画は変質しないと言い切れるであろうか。暗い幕の上に、最初のタイトルがうつし出される時、これから始まる物語が、もう決定的に過去の出来事であり、もう決して見ることの出来ぬ役者の幻であることを知っている私たちは、ひたすら画面に注目するだろう。だが、最後の字幕が出た時、私たちは、ほんとうに、十分に、解放されるであろうか。「現実の幻」そのものがどんなに完璧であったとしても、その裏にある役者の死という動かし難い事実、あるいは事実の欠落が、その映画の本来もっていた濃度を薄め、弾力を弱め、充実を損ねて、観客はそこから自分の現実の世界へ戻って来るのに必要な、しっかりした手ごたえを感じなくなるのではあるまいか。そう思うのは、私の身びいきであろうか。
映画のおかげで私たちは死んだ役者たちの藝を見ることが出来るのだが、芝居は、役者が死んでしまえば、お終いである。
死は、芝居の世界では禁句である。死んだ役者は忘れられる。と言うよりも、忘れられなければならないのである。舞台に死の痕跡を残してはならない。生きた役者たちが、たちまち賑やかに彼や彼女の明けていった穴を埋める。役者はすべて、溌溂と生きていなければならぬ。一晩の芝居は、血肉を具えた生きた存在である役者と共に始まり、役者と共に終る。芝居そのものが、一種の生の儀式なのである。
役者は自分自身の生きた肉体という頼りない、移ろい易い、始末に負えない材料を使って仕事をする。役者は、役をつかんだり、つかみ損ねたりする。日によって調子が良かったり悪かったりする。あがる日があるかと思うと、落ちつきすぎて気持が鈍くなり、弾まなくなる日がある。役者はその日その日の化粧の出来上りの些細な変化に気をとられたり、いつまでも文句を言う演出家に腹を立てたりして、せりふを忘れたり、椅子にぶつかったりするかと思うと、高まってくる感情に揺り動かされて本物の涙を流し、心から笑い、相手役と呼吸が合えばこの世ならぬ愛や友情の喜びが身内を走るのを感じる。疲れ、声を涸《か》らし、汗を流しながら、客席に反応が起ると有頂天になって羽目を外し、また忽ち危ない難かしい意識の細い流れを見失うまいとして、真暗闇の中を行くような孤独とたたかい、震え、不安になり、興奮し、動揺する。そしてふとしたきっかけで立直ると、自分を自由に動かし得るという自信が溢れてくるのを感じ、堂々と振舞い、小さな溜息をついてもそれが客席の一番奥まで届いていることが分って安心する。刃物を投げ合う曲藝師のように、自分と相手役の間をとびかう科《しぐさ》や白《せりふ》、感情や意識がはっきり見え、しっかりつかまえられる。自分に酔い、酔いながらますます冷静になり、大胆になり、恥も外聞もなく醜い自分をさらけ出して見せるかと思うと、美しい一行のせりふをまだうまく喋れぬことをひそかに歎き、すぐ気を取り直して微妙な場面を慎重に切り抜け、やがて、最後の幕の降りる時、今夜自分たちの演じた芝居が観客の共感を得たと感じると、全世界の祝福をうけているような気がして、無上の恍惚感にひたり、我を忘れ、すべての労苦を忘れ去るのである。役者はずいぶん危なっかしい、脆《もろ》い存在だが、劇とは、そんな存在を通してだけ出現する、確固とした、強い、美しい世界であるように思われる。
役者の仕事は残らない。役者の仕事は肉体と共に滅びてしまう。その代り、庇《ひさし》を借りて母屋をとる図々しい男のように、傑《すぐ》れた役者たちは役を作者から取り上げる。傑れた役者たちは役を、時には芝居をまるごと、墓場へ持って行ってしまう。ジュヴェは「クノック」を、デュランは「ヴォルポーヌ」を、二代目左団次は「室町御所」を、菊五郎と吉右衛門は「宇都谷峠」を。
もし彼等のそういう芝居を、映画で見たら、彼等は決して幽霊じみては見えないだろう。現に、「モスクワ藝術座の巨匠たち」という記録映画の中で、故カチャーロフはどんな現存の役者よりも溌溂と「どん底」の男爵を演じていた。並みの映画の中では役者の死は欠落として感じられるが、彼等の舞台の記録は、生に捧げられた讃歌であり、生きた記念碑なのである。
深夜の「犯罪河岸」は、こちらの思惑とは全く無関係にどんどん進行して、ラストシーンになった。黒人の少年の肩を抱いたジュヴェの後姿が、雪の凍《い》てついた町の石畳の上を、例のゆっくりした足取りで遠ざかってゆく、その全景に字幕が白く浮び上る、と同時に画面は消えはじめた。私は首を伸ばして、Fという字の縦の棒にかくれたジュヴェの後姿を、横からのぞこうとしたが、極めて当然なことに、ジュヴェの姿は字幕に隠れたまま、消えた。
――一九六四年七月 雲――
最初の実現
いま私たちは「ロミオとジュリエット」の稽古中である。マイケル・ベントール氏の演出は、当然のことながら、英語でおこなわれる。通訳団が、それを役者たちに伝える。はじめのうちは、ずいぶんじれったかったが、このごろはこちらの耳もだいぶ馴れてきた。ベントール氏は、役者として長い経験を積んでいるだけあって、演技のクロッキーが、じつにみごとだ。言葉の足りないところは、それで十分に補ってゆく。そして私たちは毎日、その水も洩らさぬ演出ぶりに、眼をみはるような思いをしている。
新劇団が西洋から演出家を招いていっしょに仕事をしたのは、こんどがはじめてである。しかしそういうことを考えた人は、これまでにも何人かいたはずで、たとえば岸田国士先生はフランスからルイ・ジュヴェを招いて演出をしてもらうことを、本気で考えられた。当時先生は、その考えを第一次「劇作」の座談会でのべられたが、実現不可能な妄想として、あまり注目されなかったようである。
私たちはべつに、先生の考えを実現しようと考えたわけではなく、また、日本の演劇文化の向上のためには西洋の演出家を招くことがいちばん大切だなどと考えたわけでもない。私たちはいい芝居がしたいだけである。すでに手ごたえはある。八週間の稽古も、ようやく半ばに達した。これからが、たいへんである。
――一九六五年四月 新劇――
犬と雷雨
北軽井沢の岸田先生の山荘をお借りして、夏を過しました。おかげで、すこし陽にやけ、体重もふえて、元気になりましたが、仕事は当分無理のようです。今年いっぱい、離れているつもりです。
一日の生活は単調をきわめています。大部分はベッドか肱掛椅子で過します。ときどき本を読んだり、トランプをしたり、水彩画を描いたり、ノートをとったりする、それでべつに退屈もしません。
きょうはナナが遊びにきました。「女優ナナ」とは何も関係がない、すこしやぶにらみの、雑種の犬です。昔ここには、山羊のジャコモとか、家鴨のドド、レレ、ミミ、ファファなどという連中がいて、なかなか賑やかだったようですが、いまはこの村のクラブに引き取られているナナが、たまに遊びにくるくらいのものです。おもしろい奴で、家の勝手を知っていることにかけては「ピーター・パン」にでてくる同名の犬にも劣らないほどです。
「……きょうはベランダから入ろう。網戸をあけて下さい。ありがとう。おひるはトウモロコシか。バターは塗らないの? じゃ、しようがない。へんなところに薪をならべてあるなあ。しいたけが生えてら。ええと、二階には……だれもいないらしい。ね、そうでしょ?」
足元へ来て、ひとしきりじゃれたりして、そのうちに、何だか気の抜けたような顔になり、向うの山を眺めていたかと思うと、いつの間にかいなくなってしまいました。やっぱり人違いだった、というわけかも知れません。こちらとしても残念ですが、こればかりは、どうしようもありません。
きょうは朝から晴れて、みごとな秋日和です。こういう日には、散歩の時間もつい長くなりがちです。
池沿いの道が林に入り、そのゆるい傾斜を上りつめると、急に視界がひらけ、近い浅間山、遠い万座山や白根山が一望のうちに見渡せます。道の傍に、落雷に焼かれた白樺の巨大な根から、ひこばえが密生して、灌木の茂みのようになったのが、濃い葉群の影を落していました。
この夏も、すさまじい雷雨の襲来がありました。白紫色の電光が、豪雨にわき立つ山林をくまなく照らし出す一瞬の奇妙な静寂には、この中を響いてゆくことのできるのは「悲劇」の声だけだと思わせるような、威厳がありました。
山ではもう紅葉がはじまっています。避暑客も目立って少なくなりました。これからは、さびしくなる一方ですが、もうしばらく、こちらで暮すつもりです。
――一九五六年八月 毎日新聞――
盛夏某日
九時半起床。暑い。体操をして一と汗かき、シャワーを浴びているところへ、撮影所から電話で、明日の予定だったロケーションが都合で二日ほど遅れる由。ほっとする。劇団の企画会議とロケーションとがかち合って、困っていたからだ。
S社の婦人記者来訪。写真を頂きに参りましたと言う。なるほど、昨日劇団の事務所からの伝言で、S社から写真を取りにくるということは承知していたが、取りにくるというのは「写しに来る」ので、「受け取りに来る」のだとは知らなかった。よく確かめなかったこちらがわるいので、恐縮して写真を探す。舞台写真ならともかく、素顔の写真というものはひどく照れくさいものである。気張っていたり、やに下っていたり、すましていたり、ぼんやりしていたり、ろくなのはない。比較的無難なやつを選んで、これにしますと言うと、記者のK嬢が、もっと新しいのはありませんかと言う。だってこれは先月のはじめに写したやつですよと答えると、眼を丸くして「うわあ、五、六年前の写真かと思いましたわ」と言う。冗談じゃない。そんなお世辞にはのらない。
十一時、宇野重吉さんの家へゆく。歩いて五分もかからないのに、すっかり汗になる。新劇俳優協会の発起人会について打ち合せをする。
映画や、歌舞伎や、新派の俳優とは違って、新劇俳優は雇傭関係をまったく持たない。劇団はすべて自主経営である。そういうわれわれの権益をまもり、われわれの社会的立場を確保しようというのが、こんどの協会設立の目的なのだが、問題は、この協会がどれだけ実行力をもち、実益をあげうるかという点にかかっている。発起人会では、いろいろな意見を腹蔵なく十分に出し合ってもらうことにする。
宇野さんといっしょにそれぞれの劇団の稽古場へ向う。家も近いが稽古場もすぐ近所だから、こういう時には具合がいい。
劇団の事務所へ労演のパンフレットのための原稿を渡し、研究生C組の講義一時間。その後で稽古をのぞく。ロルカの「ドン・ペルリンプリンとベリサの恋」の読み合せ。まだあまり調子が出ていないようだ。こういう詩的喜劇は、俳優が想像力を自由奔放にはたらかせて、子供がパステル画を描くときのようにのびのびとやらないと、理屈っぽい重い芝居になってしまうおそれがある。明るい陽気な雰囲気の中から、ロルカの悲劇的な主題が自然にうかび出てくる、というようにならないといけない。
稽古の見学を途中で失礼して、予定のフランス映画「抵抗」を見にゆく。前に試写会で見たのだが、どうしてももう一度見たかったのだ。ただ一人の人物、収容所脱出というただ一つの行為。しかもブレッソン監督の語り方はスタティックで、力強く、抑制が利いている。静かな単純な緊張の持続が、みごとだ。
映画館を出ると、雨が降っている。ちょうど時間なので、まっすぐ東横ホール「明智光秀」へ楽屋入り。食堂の前の体重計で目方をはかると五十九キロ。先週より五百グラム増えた勘定になる。
今日はどうしたことかトチリが多い。序幕で、秀吉の又五郎さんが「光秀殿には晴れの大役」というのを「晴れのタイヤキ」といったのがはじまりで、いろいろおかしなことがあった。本能寺の場では信長の槍が折れた。雑兵が切りつけてくる。仕方がないから、槍の柄で撲殺してやった。最後の幕では、杉村さんが退場しようとしてよろけかかった。幸四郎さんがうっかりして杉村さんの衣裳の裾を踏んでいたのである。こうトチリが多いのも、暑さのせいかも知れぬ。しかし、芝居全体の調子はわるくない。
NHKへ廻り、「希望音楽会」二回分、朗読「失われた地平線」三回分を録音し、十二時半帰宅。シャルル・デュランの「守銭奴」演出ノートを読む。「守銭奴」はかねてからやってみたいと思っている戯曲の一つ。
主人公アルパゴンの性格描写がすぐれているために、従来この喜劇が、「守銭奴」としてよりも「アルパゴン」として上演されがちであったことを指摘して、戯曲全体を上演しなければならぬことを強調し、この喜劇の本質を「恋愛」と規定しているのは卓見である。頬を紅潮させた若い男女達の恋愛を明るい背景として、その前面に金を恋する老人の滑稽で哀れな姿が、黒々と大きく起ち上るのだ。
それから、アルパゴンの裡に「俳優的気質」を認めているのもおもしろい。アルパゴンは守銭奴だが、どこか、われわれの同情をひくところをもっている。あんまりやっつけられると、かわいそうになる。アルパゴンはモリエールの描いた一つの典型的性格であり、普遍的情熱の代表者である。われわれもまたいくらかはアルパゴンなのであり、そこにわれわれのこの守銭奴に対する共感の基盤があるのだという説明は、確かに間違ってはいない。自分の娘に、しゃべり方やおじぎの仕方を真似してからかったり、隠した金の所在が誰にも悟られていないことがわかると「ああ、そんな大金がほんとにあったらいいんだがな」などと、楽しそうにそらとぼけてみせたりするアルパゴンは、たしかに「俳優的気質」の持主で、その気質が、彼をして単なる守銭奴たらしめず、観客の共感をひくに足る人物たらしめていることも、これまた間違いないようである。せりふや動きについての具体的な指示はことに貴重である。劇団の研究資料として、W君に翻訳してもらうことにする。二時半ごろ、眠る。
――一九五七年一〇月 文藝広場――
初冬某日
午前中、朝倉響子さんから電話あり、このつぎの日取りの打ち合せ。
朝倉さんは、来年、個展をひらかれる由で、目下、鋭意制作中である。私は、その作品の一つのモデルに選ばれて、先月来、暇を見ては、朝倉さんのアトリエへ出かけてゆき、五、六時間ずつ坐ってくることになっている。首の塑像だから、ただ黙って坐っているだけでよい。ときどきは、タバコをふかしたり、目を閉じてうつらうつらしても構わないのである。しかし朝倉さんが、豊かな髪をひるがえしながら、粘土の私の顔を熱心に箆《へら》で削ったり、鏝《こて》でたたいたりするのを見ていると、こちらもつい力が入り、気楽に坐っているつもりでも、結構、くたびれてしまう。
昼食後「塔」の台本を読みかえす。きょうは三日目だが、なにしろ、こんどは、稽古の日数が少なかったので、まだ油断はできない。
私の役の砂山三郎は、四幕のうち、一幕と三幕とが出づっぱりで、二幕と四幕とは、ほんのちょっと出るだけである。しかも三幕は、ごく短い幕だから、結局、一幕が、せりふの分量からいうと圧倒的に多いことになる。全幕を通じてのせりふの数は、マクベスのせりふとほぼ同数である。
台本を読みながら、せりふの不確かなところや、動きを変えてみたいところへ印をつける。しぐさや表情を、いくつか思いつく。
三時、文学座のアトリエヘゆく。訪中新劇団の船便の荷物が着いたのでごったがえしている。
一人考えてきた表情や、しぐさをたしかめながら、せりふをしゃべり、動いてみる。具合のよくなったところもあり、余計な思いつきだったことが分ったところもあり、動いているうちに、また新しいやり方を見つけたところもある。しかし、それがそのまま舞台に通じるとは限らない。とにかく、やってみることだ。
四時半、楽屋入り。すこし早いが、今夜から、ニク(肉襦袢)なしでやろうと思うので、一度その点検をしておく必要がある。グレーのダブルを濃紺にかえる。そして一幕二場と、三場との間で、縞のシングルに着かえていたのを、着かえないことにする。とにかく一幕の間に、砂山三郎という元軍人、宗教事業家、無神論者、ペテン師、耽美《たんび》的野心家の人間像を、しっかり造り上げてしまうこと、何よりも肝腎なことは、そのことである。
五時メーキャップ。髯の形をすこし変え、地塗りをすこし白くする。だれかが「ニクを着ないと、ニクニクしさが足りなくなりやしない?」と、つまらぬ駄洒落をとばす。このごろ楽屋は駄洒落が大流行である。
予定どおり六時開演。
ニクをカットしたおかげで、ほとんど汗をかかない。その分だけ、気持が役に集中するようで、調子はよい。幕間の転換も、ずいぶんスムーズになってきた。
終演十時。この分なら、もう二、三日すれば終演時間はずっと早くなるだろう。終演後、作者の飯沢さんに招かれて、矢代静一、文野朋子、加藤治子とともに中華料理を御馳走になる。芝居が好評なので、飯沢さんもずいぶん楽しそうだった。京阪公演にもいっしょに行って、また御馳走して下さるそうである。京都も大阪も、うまいものだらけの町だから、芝居をしに行くこととは別に、これは大いに楽しみである。
――一九六〇年一二月 毎日新聞――
けちんぼのお礼
朝、大映撮影所で、衣笠貞之助監督「春高楼の花の宴」の衣裳合せ。色彩映画だから、色の取り合せをよく考えなければならぬ。
ぼくの役は作曲家だが、ピアノを弾く場面や、オーケストラを指揮する場面があるのは、いささか気が重い。ことに、ラストシーンで、和洋混成、二百人の大オーケストラを指揮する場面は、一体どういうことになるのか、われながら見当がつかない。
十二時半、チェーホフ作・神西清訳「ワーニャ伯父さん」の稽古。ぼくの役は、初演の時と同じで、医師アーストロフ。
七年前の初演の時には、無我夢中で、明けても暮れてもアーストロフのせりふをつぶやいていたものだ。いま読みかえしてみると、ある箇所は、前には心の逸《はや》るままにしゃべり散らしていたのが、思いがけない深い陰影をたたえた、独白めいた調子のせりふであることに気づいたり、他の箇所では、思い入れたっぷりに、深刻にやっていたのが、実は明るく、快活な気分であるべきことを発見したりする。
しかし、初演の時に造りあげたアーストロフの像は、ぼくにとっては、かなり抜きさしのならないものだ。この理想家肌の中年の医師は、チェーホフ劇のすべての登場人物のなかで、いちばん、チェーホフその人の面影を伝えているように思われる。また、いくぶんは神西さんに似ているようにも思われる。初演のとき稽古の後で、わからないところを質問すると、神西さんは、片手にシガレット・ホルダーをもったまま、上目づかいに空間を凝視し、しばらくまばたきを繰りかえしながら、やがて、ぽつりと返事をされる。その一言で、何もかも分ってしまうような、明快な解釈が下される。
それまでぼくは、一人の人物を演じるために、一篇の戯曲をこれほど綿密に読んだことはなかった。戯曲というものが、これほど丹念に読み得るものだということさえ、知らなかったような気がする。「ワーニャ伯父さん」の再演を神西さんの霊に捧げることは、ぼくには、とりわけ感慨が深いのである。
四時半、一ツ橋講堂、「守銭奴」の楽屋入り。明日は金子信雄君と丹阿弥谷津子さんの結婚式。披露のパーティーは六時からなので、ぼくたち「守銭奴」に出ているメンバーは出席することができない。メーキャップをしながら、みんなで、そんなことを話し合っているうちに、誰かが、祝電を打とうと言いだす。
ふつうの慶祝電報ではおもしろくないから、というので、いろいろ、迷文句がとび出す。「オメデトウ、カイヒガオシイ、シュセンドイチドウ」など。最後に、電報代が惜しいから、打つのはやめようという守銭奴的結論に到達。実は、みな、二次会のあることを知っているからである。
アルパゴンは強欲な老人である。下男ラ・フレーシュの言葉によれば「さかさにしたってびた一文出ない」「他人が死のうが眉の毛一つ動かさない」「名誉なんてものも人情なんてものもいらない、ただもう、金、金、金」「だから『あげる』なんて言葉をきいただけで身ぶるいが出る」という老人である。そのアルパゴンが、息子クレアントとの喧嘩の仲裁をしてくれた料理番兼馭者のジャック親方に、お礼をしようと言い出す場面がある。
アルパゴン  ほんとうにごくろうだったね。お礼をしなきゃならんね。(ポケットからハンケチをとり出す)いつまでもわすれんつもりだよ。
ジャック親方 これはこれは痛み入ります。
ハンケチをとり出すのは、ボロボロのハンケチをお礼にやるのだろうか。そうではないだろう。ぼくは、昔見た、丸山定夫のアルパゴンと同じやり方をしている。何か貰えるものと期待して手を出すジャック親方をまったく無視して、とり出したハンケチで鼻をかむ。それをまたポケットへしまいながら、「いつまでも忘れんつもりだよ」とにっこりしてみせるのである。
丸山定夫のアルパゴンは、そこのところが実に自然で軽妙で、おもしろかったのだが、自分でやってみると、どうもうまくゆかない。初日以来、はなはだ歯がゆい思いをしてきたのだが、今日は、思いがけないことになった。
鼻をかみ、ハンケチをポケットにしまいながら、北村和夫のジャック親方をみると、何とも言えずうれしそうな顔をして、手を出している。こちらも自然に、「いつまでも忘れんつもりだよ」と言いながら、その心づけを期待している手に、握手したのだ。
はじめて、心が晴れた。これでいいのだ。どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろうと思う。
岩田豊雄作「朝日屋絹物店」をよみ、一時ごろ眠る。
――一九五八年 オール読物――
こわい先生たち
藝は、結局のところ、自得すべきものであって、教えたり、教えられたりすることのできないものである。
いわゆる近代的、科学的方法が、藝の習練にもとり入れられて、成果をあげていることは事実だが、藝のいちばん大事な部分は、依然として、自得する以外に、手はない。合理的、専門的訓練をうければ、だれでも名人上手になれるとは限らないのである。
筋のよしあしということも、むろんあるが、習練にたいする心構え、自得するための工夫が、大事である。この大事のために、藝の指導者である先生たちは、しばしば、古代スパルタ人の方式を採用する。合理的な「頭の野球」にも、猛訓練は欠かせないのと、同じ理屈である。
役者にとって、こわい先生は、芝居では演出家、映画では監督である。
「どうもきみの歩き方はへんだね。舞台の端から端まで百ぺん歩いてごらん。その間、他の人は休憩!」
「ほら、その顔が、嘘なんだ。もう一ぺん。まだ、嘘だ。もう一ぺん。なお、ひどい。もう一ぺん」
「なんだい、その腰のおろし方は! 一体何年役者をやってるんだ!」
「これ以上できません? 冗談じゃない、そんなことが言えるほど、出来あがった役者ですか、あんたは!」
まったく、書いていて溜息が出るほどだが、こういうすさまじいシート・ノックのおかげで、ファイン・プレーも生れるのである。
映画のX監督は、こわいことにかけては、定評がある。X氏の作品に出て、泣かなかった女優さんは、一人もいないという伝説があるくらいだから、そのきびしさは推して知るべしである。一と昔前、はじめて氏の作品に出た時、私も、氏の定評ある演技指導のきびしさを、骨身に沁みて味わった。
ある日、私は、猛烈に叱られた。役の感情が、ちっとも出ていないというのである。言われることは、一々もっともで、そのつもりでやっているのに、出来ないのだから、我ながら情けない。何べんやっても、出来ない。私は、じつに長々と叱られた。
その内に、X監督の顔が、だんだん青ざめてきた。これは、危険な前兆である。果して、止《とど》めの一言は、肺腑をつらぬくすさまじい罵声であった。
「要するにあんたは、へたなんだ!」
X監督はこわい眼でじっと私をにらんだ。そして、吐きだすように付け加えた。
「よく言えば!」
――その後、私は叱られなくなった。べつに、私がうまくなったからではなく、年と共にX氏も円熟の境地に達したのだろう、と思っていたら、先日、久しぶりにX氏の大爆発を見た(なんだか、浅間山みたいだが)
「どのせりふもみんな同じじゃないか、きみの言い方は! 一体きみは台本を読んできたのか! きみは書いてある字をただしゃべるだけの機械だよ! やさしく言えば、大根役者だ!」
叱られたのは私ではない。若い新人俳優である。しかし私は、唇をかんでX氏の言葉を聴いている青年に、私自身の(一と昔前の、ではなく、現在の)姿を感じ、身のすくむような思いがした。
X氏とは反対に、静かで、こわい先生に、芝居の演出家のZ氏がある。
口数のすくない演出、というよりも、ほとんど無口の演出である。よくあれで芝居がまとまるものだと感心するほど、無口である。ただ黙って、微笑しながら、稽古を見ている。
何も言われないと、役者は不安になる。いいのか、わるいのか、どこが気に入らないのか、気に入っているのか、さっぱり分らない。そこで、役者たちの方から、稽古の合間に、入れかわり立ちかわり、Z氏のところへ意見をもとめにゆく。
「先生、いまの幕、どうでしょうか?」
Z氏は、首を傾けたまま、黙っている。三十秒ぐらい経ったところで、微笑しながら、やっと答える。
「どうでしょうね?」
きいた役者は、呆然とする。別の役者が訊く。
「ぼく、せりふを少し、怒鳴りすぎていないでしょうか?」
Z氏は、ふたたび三十秒間沈黙し、微笑しながら答える。
「むずかしい」
まるで、禅問答である。三番目が質問する。
「先生、ぼくの役は大体今の線で行っていいですか?」
Z氏の眼が光る。三十秒の沈黙の後、氏は、やはり微笑しながら答える。
「ぜんぜん、違っています」
大体この線でいい、などという考え方は、Z氏には通用しないのである。藝の自得を役者に求めることにおいて、これほど徹底した、こわい演出はない。
X氏とZ氏は、こわい先生の双璧だが、むろん、こわい先生たちは、他にもたくさんいる。そして、こわい先生というものは、いくら大勢いても、多すぎるということはないのである。
――セミコータリー――
雪の節分
「雲」の出発に関する三つの日付がある。三つとも、私達には忘れ難い日付である。
まず、昭和三十八年一月十四日。
この日は、「雲」の結成された日である。
福田さん、向坂君、この日文学座に辞表を出した私達、合わせて二十七人が、東京会館で最初の記者会見を行い、「雲」結成の趣意書を発表した。
次が、同じく二月三日。
これは、創立総会の行われた日である。創立同人三十人が顔をそろえた。この日は、旧暦の節分であった。「雲」は翌日、立春の日に活動に入った。「雲」は新年とともに動き出したということになる。
三番目は、同じく三月二十八日。
第一回公演「夏の夜の夢」の砂防会館ホールにおける初日である。
記念すべきこれらの三つの日付の集まりに、ひとり私だけは、終始一貫して不在であった。前年の三月の末に慶応病院に入院、同じく十一月九日に第一回胸郭成形手術をうけて、私は寝たまま「雲」に参加した。「夏の夜の夢」は、こっそり消燈後のテレビで見ただけである。
結成の日に、すぐ創立総会をひらくことが出来なかったのは、何人かが、文学座公演のマルセル・エーメ作「クレランバール」に出演中だったからである。「クレランバール」は東京公演の直後に、京阪神公演を控えていた。そこで、創立総会はその何人かの帰京を待って行われることになったのである。結成後間もなくアメリカ留学に出発した荒川哲生と、私だけが欠席で、創立同人三十人はこの日、番町の福田家(フクダヤと訓《よ》む。旅館である。フクダケは大磯にある)に集まり、ささやかな祝宴をひらいた。
その模様をつたえることは、むろん私には出来ない。私は一月十八日に予定通り二回目の手術をして、番町とは目と鼻の間の慶応病院の五階の病室で唸っていた。
髪も髯ものび放題で、手術後の深い傷が痛むから、五分と起きていられない。
しかし寝たままでいると、身体が曲ったまま固まってしまうから、文字通り歯を喰いしばって床の上に起きあがり、手や肩の運動をしなければならない。
術後二週間になるから、食事も、もう自分で食べなければならぬ。だが上半身をまっすぐにして坐ることなど、思いもよらない。三条大橋の高山彦九郎のように、土下座をした恰好で、右手だけを動かして、下に置いた椀の粥《かゆ》をたべるのである。髪や髯がのびているから、橋の上の彦九郎よりも、橋の下の住人に似ていたかも知れぬ。
その日東京では、昼すぎから粉雪がちらつきはじめ、見る間に烈風を伴う大雪となった。
神宮外苑の暗い空に降りしきる雪は、ある時はほとんど真横になびいて、絶え間なく流れる華麗なカーテンのように見えた。
味気ない木綿のカーテンのぶら下っている病室の窓からそれを見ていると、気のせいかますます痛みが募ってくる。私は腹を立てて「畜生!」などと口走ったが、声を出すとすぐ傷にひびくので、しまいには諦めて、殉教のサン・セバスチァンの真似をした。いろいろなしかめ面をしながら、かすかな、いろいろな音色の唸り声をだして、気をそらすのである。
これは私の推測だが、この日、同じく「クレランバール」の旅から帰った文学座の幹部達は、赤坂福吉町の久保田万太郎先生の許に走ったのではないかと思われる。
べつに確かな根拠があって言うのではないが、先生没後に編まれた句集「流寓抄以後」の、昭和三十八年のはじめの方を見ると、次の二句が録されている。
枝々にまつはる雪のきざしかな
雪の傘たゝむ音してまた一人
この年、東京で雪らしい雪の降ったのは、僅か二日である。残る一日は春の彼岸過ぎの、いわば狂った雪であったが、句集の三十八年の分、「その六」には雪の句は他にない。そして句自体の趣から言っても、また、このすぐ後に、「二月某日、上野精養軒にて日本芸術院部会長会議」という前書のある句がつづくところから見ても、この二句の雪は、春の雪ではなく、二月三日の節分の雪のように私には思われるのである。
あるいはその日、先生のお宅には何か別の集まりがあったのかも知れないし、またことさらに集まりというのではなく、ただ次々に訪客があったのかも知れない。先生のよくつけられた前書がこの二句にはないから、私の推測に根拠はない。全くの臆測かも知れぬ。しかし前書がないために、かえってどんな情景をも想像することが出来るわけで、私はこの二句を見るごとに、福吉町のお宅の茶の間に独り口をつぐんで坐っておられる先生や、雪を冒して駆けつけてくる文学座の先輩達の誰彼の姿を、ごく自然に思い浮べてしまうのである。
同じ年の暮、「喜びの琴」をめぐる騒ぎがあって、また幾人かが文学座を退いた時にも私はたびたびこの二句を思い出した。「雪のきざし」は、はっきりと雪になったのである。しかしその時、久保田先生はもう居られなかった。
――一九六四年九月 現代演劇協会報――
雨の大安吉日
十月八日、私たちは、現代演劇協会および付属劇団「雲」の本拠となる建物の落成披露会を催した。麻布箪笥町十五番地、フィンランド大使館にちかい百八十坪の地所に建てられた鉄骨コンクリート延百四十六坪の建物は、一階が定員およそ百三十人の小劇場、二階が図書室、事務室、演技員室等にわかれている。着工は四月十日。最後は突貫工事で、披露会の前々日、ようやく屋外の階段のコンクリートを打ち終るという有様であった。
なぜそんなに急いだかというと、披露会が十月十日から始まるオリンピックの会期中に入ってしまうと、車の混雑やその他、いろいろ差障りがあると思われる節が多かったからである。後になってみれば、余計な取り越し苦労であったかも知れないが、予測される不都合は避けるべきであった。オリンピック明けには、すでに稽古に入っている中村光夫作「汽笛一声」の横浜公演の初日が迫っており、その仕上げの時期に稽古を一日休むのは、いかにも残念な気がする。いっそのこと、「汽笛一声」の地方公演後、十一月半ばにしてはどうか。それでは遅すぎるだろう。われわれの仕事を支持し、援助して下さった方々の御好意にこたえるための披露会なのだから、椅子やテーブルや書架など、内部の備品は整わなくとも、建物だけは、一日も早く見て頂こうではないか。
いろいろ相談をして、工事現場とも打ち合せた結果、八日と決ったのだが、決った後にある人から、その日は大安吉日で、しかも八が末広がりのめでたい数であるために、諸方の結婚式場はどこも予約がいっぱいであると聞いた。
ところが、生憎《あいにく》なことに、この日は、朝から雨であった。
しかも、時の経つにつれて雨脚が繁くなり、なるほど、これは末広がりだと感心しているうちに、どうしたわけか、せっかくの新築に、雨漏りがしてきた。それも、来賓の入口にあたる一階の軒下である。
すでに開会間際であり、この雨では来て下さる方も少ないのではないかと、内心はらはらしているところへ、思わぬ事態が生じたので、一同いささか気落ちがしたが、芝居の仲間というものは、こういう時にはへんに度胸がすわる。とちった時、動じるのは禁物である。たちまち、コンクリートの床に跳ねる雨の滴《したた》りを囲んで、円筒形の陽気な人垣ができあがった。むろん隠しおおせるつもりはない。不測の事故を、一種の笑劇的雰囲気で包み柔らげようというわけなのだ。
筵《むしろ》を敷いた中庭には、受付と模擬店のためのテントが張ってある。雨はいよいよ本降りになって、ゆるんだテントは、大きな氷嚢のように垂れ下ってきた。小池朝雄が、しきりにテントを突き上げては溜まった雨水を筵の外にこぼす。おでんと焼鳥の店を出してくれた銀座のはせ川のおかみさんが「こういうときの雨は縁起がいいんだそうですよ」と慰めてくれる。「ありがとう」と私は、笑顔で答えたつもりだが、笑顔になっていたかどうか、怪しいものだ。レインコートの襟を立て、傘を傾けながら、長い難儀な階段をおりて、受付に立たれる来賓の方々の肩や袖口が、雨に濡れている。
やがて会は、福田恆存理事長の挨拶で始まった。
来賓に謝意を述べた後、福田さんは、「どうも私たちは天候に恵まれておりません。『雲』を名のった以上、のがれられないところと観念しております」と、笑いながら言われ、私は、そうだ、まったくひどいものだったと、ひそかにうなずいた。
去年の二月三日、「雲」の創立総会の日の大雪。
おなじく三月二十八日、旗挙げ公演「夏の夜の夢」の初日の夜の大風。
病院の窓からそれを見つめ、屋上に立ってそれに圧倒されそうになりながら、私はほとほと身の置きどころのない思いをしたものだった。仕事をしている健康な友人たちと、病院の私との間に、降りしきっていたあの雪や、吹きつのっていたあの烈風にくらべると、今日の雨は、なんと静かなことだろう。今、私は曲りなりにも健康を取りもどして、この落ちついた暗緑色の壁をもつ未完成の小劇場で、こうして友人たちといっしょに福田さんの話を聴いている。雨は、私たちを距《へだ》ててはいない。予後の静養につとめている岸田今日子の欠けているのが惜しいが、私の場合とは違うから、間もなく元気な姿を見せてくれることだろう……。
福田さんにつづいて私たちも御礼を申し述べ、野村万蔵、万作父子の演じる狂言「蝸牛《かたつむり》」によって舞台開きのおこなわれる頃には、雨を冒して来て下さる方々は殖える一方で、会はいよいよ賑やかになった。会場が狭いため、昼夜二回にわたって披露会を催したが、雨は夜に入っても止まず、会は夜も昼のように賑やかにつづいた。
今後もいつ何時、雹《ひよう》や、雷や、竜巻に見舞われるかも知れない「雲」は、この大安吉日の夜、はじめて拠るべき城をもつことができたのである。
――一九六四年一二月 婦人公論――
榎本武揚 すると、ここも、牢屋なのかね?
現代B ホールです。劇場ですよ。
現代C 牢屋も劇場も似たようなもんさ!
現代A 芝居小屋です。
安部公房「榎本武揚」
ピーター・クインス さて、ここに、犬を連れ、提燈、茨の繁みを持てる御仁は、月の光を演じます。
シェイクスピア・福田恆存「夏の夜の夢」
サイモン・スティムスン さ、こつちをみて、皆さん。音樂は喜びをあたへるために此の世にあるのです。柔かく、柔かく!
ソーントン・ワイルダー・森本薫「わが町」
劇場について
ジャン・ジロドゥーの「オンディーヌ」に出てくる一人物は、劇場と戯曲との関係について、まことに卓抜な意見をのべている。
彼によれば、劇場もまた、われわれ人間とおなじように、セックスをもっているのである。たとえば、男性的な戯曲を上演したときに、幸福な反応をおこす劇場は、女性の劇場である。
のみならず、あらゆる劇場は、それぞれただ一つの戯曲のために建てられており、その戯曲の上演されるのを待っているのである。劇場支配人の職業の秘訣は、その相手をみつけてやることである……
いかにもジロドゥーらしい機智にあふれた意見だが、幸福な結婚が稀であるように、戯曲と劇場との幸福な結合もまた、実際にはなかなか行われ難いのである。
理想的な劇場が欲しい、とよく言うが、どんな戯曲の上演にもすばらしい効果を発揮する理想的な劇場というようなものがあるだろうか。そうは思われない。劇場にはかならず個性があらわれる。ジロドゥー流に言えば、美しく粧った貴婦人のような劇場もあれば、謹厳実直な老教授のような劇場もある。舞台機構や客席の設備が同じように完璧だったとしても、福田恆存氏や三島由紀夫氏の戯曲の上演にふさわしい劇場は、「ジュリアス・シーザー」や「シラノ・ド・ベルジュラック」の上演にふさわしい劇場とはおのずから異なる筈である。
元来劇場というものは、どんな形式でも構わないものだ。舞台が、俳優の行動するのに具合よく、客席が、観客の判断し、夢みるのに便利なように出来ていさえすれば、それでいいのである。
ところが、そういう劇場がなかなか見つからないから困るのである。客席の椅子がひどく窮屈だったり、せりふをしゃべるとその声が舞台へ反響してきたり、電車の音がきこえてきたり、二階から見ると谷底をのぞくようだったりする。理想的な劇場がないのではない、普通の劇場がないのである。
まあ、これでやってゆくほかはないが、せめて、一定のレパートリーとアンサンブルとをもった一つの劇団が、一つの劇場で、芝居を打ちつづけることが出来たら、新劇も「理想的な」演劇的交感を生むことが出来るだろう。
ひところ、アメリカの円形劇場というのが話題になったことがある。昔の円形劇場の形式を、現代風にうまく生かしたところが取柄で、日本でも、円形劇場運動とか、円形劇場用の脚本とかいう言葉が聞かれたようである。なるほど、それも一つの行き方に違いない。能の伝統のあるのにも拘らず、舞台を囲んで観劇するという習慣が、一般にはほとんどないから、円形劇場は愉快な新鮮な演劇空間となる可能性が、十分にあるだろう。しかし、円形劇場に限る、ということはないはずである。旧式の額縁舞台から、最も新鮮な劇的感動の生れる可能性も、また十分に保証されているのである。
――一九五四年九月 三田文学――
舞台の寸法
同じ芝居をもって違う劇場へ行くと、僕達はちょっと戸惑う。演技を舞台と客席との広さに応じて整えるのに手間どる。いちばん閉口するのは、舞台の「袖」からの登場である。東京の舞台では、雑木林から庭のベンチまで五歩で行けたのに、名古屋の舞台では、十五歩もかかる。思いに沈み、ゆるやかに歩を運ぶ大学教授は、厭でも大股になり、早足にならざるを得ない。いきおい東京の舞台が懐かしくなるという寸法だが、東京では又その雑木林から現われるのに、背景の空と地平線とを肩で擦りながら身体を斜めにして通り抜けていたのである。舞台はいつでも狭すぎるか広すぎるかだ。
舞台と客席の大きさに演技を適応させるのは、俳優として当り前のことだが、この場合、狭すぎるのも広すぎるのも、実は、舞台のプロポーションが著しく偏《かたよ》っている所から起っている同じ現象なのである。狭いのはいつも奥行であり、広いのはいつも間口なのだ。つまり、今日の日本の商業劇場の舞台は、奥行と高さとが足りず、間口だけがむやみに広いのだ。
これは「純日本風」の生活様式の上に成り立っている芝居、殊に、一定の寸法に縛られた日本家屋を「道具立て」とする芝居――歌舞伎と新派とを上演するための劇場が、近代日本の資本主義の中で、大量の観客を吸収するために、ひたすら、観客席を拡張しつづけて来たことの当然の結果である。しかも、困った事には、こういう畸型的なプロポーションが、商業劇場たると否とを問わず、本来歌舞伎や新派の上演を目的としない、ホールや公会堂にまで取り入れられてきているのだ。
こういう舞台にくらべると、十分な高さと奥行とをもった舞台は、少なくとも新しい芝居の上演にとっては、格段に有利である。舞台の空間が遥かに立体的になるから、環境の表現の可能性が広くなる。照明によるヴァリエーションがずっと幅をもってくるから、単純な装置で強い効果をあげることができる。
現代の演劇における劇場は、藝術鑑賞の場所であると同時に、というより同じことだが、人間の会合の場所だ。舞台は、俳優が夢み、行動し、生きる場所だ。間口ばかり広い舞台は、俳優が眺められ、並び、絵模様になるにふさわしい。それはドラマの舞台よりは、スペクタクルの舞台にふさわしいのである。勿論こういう舞台しかないことが作家や俳優の口実になるわけはない。舞台が変ればつまらぬ芝居も面白くなると思うのは、浅はかな進歩主義だ。しかし、高さも深さもなく間口ばかり広い舞台を生んだ力に対する抵抗を抛棄すれば、現代演劇は忽ち頓死するだろう。
――一九五二年二月 美術批評――
舞台の扉
よほど出来の良い大道具でも、長く使っていると、方々が傷《いた》んでくる。狂いが出てくる。ぎいぎい軋む二重や、階段の揺れる手摺は、役者を不安に陥れる、いちばん起りやすいのは、扉、戸障子、唐紙や窓の故障で、これは、道具が新しくても、建て方がわるければ、たちどころに生じる故障である。
ことに、重要な登場や退場の際の、扉や窓の故障は致命的で、役者は、泣くに泣けぬ思いをする。おずおずとためらいがちに引かれる障子、あらあらしく開く戸、静かにきびしく閉ざされる扉、思いがけなく開く窓、そういうものが、その通りに行かなかったら、劇は、瞬間、失神状態に陥るのである。
私の見た、いちばん悲劇的な例は、歎き悲しみながら自分の部屋へ引込もうとして、扉がどうしても開かず、あわてて隣の部屋へ入ってしまった、ある若い女優の場合であった。隣の部屋には、彼女の憎悪の的である男がいるはずだから、扉の故障に気づかなかった観客たちは、大いに混乱し、その内の何人かは、ついに、彼女が悲しみのあまり精神に異常を来たしたのだと判断した。
また、もっとも喜劇的な例は、おなじく退場しようとして、扉が開かず、押したり引いたりしているうちに、扉の把手をむしりとってしまったある男優の場合であった。むしりとった途端に、扉がゆっくりと開き、逆上した彼は、把手をポケットにしまいながら退場したので、観客席は爆笑した。
飯沢匡氏の「塔」を上演したとき、私は、窓の開閉に、ことのほか気を配らなければならなかった。
新興宗教の総務である私の部屋には、大きな、二重の、防音ガラス窓がある。窓をあけると、信徒たちの大合唱や、ジェット機の爆音や、工事場のリベットを打つ音が聞えてくる。私は窓を開けて工事場をながめ、窓を閉めて女秘書に、三百万の信徒たちのもつ、エネルギーの偉大さを説くのである。
ところがこの窓が、どういう加減か、ひどく開きたがる窓で、いくら念入りに閉めても、なんとなく、開いてしまう。女秘書との話なかばに、厳重に騒音を閉め出したはずの二重窓が、音もなくふらりと開き、音響効果のテープはもう廻っていないから、窓の向うはしんかんと静まり返っている。この突然の静寂は、信徒たちの突然のサボタージュを思わせ、その前で彼らのエネルギーの偉大さをたたえることは、どだい無理な話であった。
「欲望という名の電車」を上演した時には、おかしなことが起った。
舞台の上手と中央は家の内部であり、下手は街路になっている。室内と街路との境に、扉がある。そこにはまた、当然、壁もあるはずなのだが、壁を立てると、大部分の観客には街路の芝居が、下手寄りの観客には室内の芝居が、すっかり見えなくなってしまうので、省略した。装置の方でいう「かつま」――壁のごく下の部分だけを見せて、壁を暗示する方法をとったのである。
三人の仲間が、その室内から、立去ってゆく場面があった。Aが、床に落ちたアロハ・シャツを拾って肩にひっかけ、扉をあけて街路へ出ると、コカコーラの箱を担いだBがその後につづき、最後にCが扉を閉めて去るのである。
ある日、Aはアロハを拾いあげることが出来なかった。コカコーラの箱を担ごうとしているBが、アロハをしっかりと踏んでいたからである。止むを得ずAは、Bが歩き出すまで、アロハに手をかけたまま待っていた。
そんなこととは知らず、Bはコカコーラの箱を担ぎあげると、いつものように扉口に向って歩き出した。
いつもAの後から、開け放しの扉口を出てゆくBには、扉の把手に手をかける習慣がなかった。彼の退場の演技は、扉とは関係がなく、扉は、おそらく彼の意識の外にあったのである。そこで彼は、きわめて自然に、「かつま」をまたいで街路へ出てしまった。
壁を通りぬけて外へ出たBを見て、Aは一瞬、呆然とした。まさか、後をつけるわけにはゆかないから、いつもの通り、扉を開けて外に出た。途端に、観客席が爆笑した。事態が明瞭になったからである。
最後に扉を閉めて去るC――私は、必死の思いで笑いを噛みころした。
この場合、扉が無罪であることは、言うまでもない。
――一九六一年六月 日本――
インク壺の始末
マイケル・ベントール演出の「ロミオとジュリエット」で、私は序詞役と薬屋の二役を演じた。
序詞役は、ヴェローナの大学の歴史学者という設定である。黒い長いガウンをまとい、大きな皮表紙の本と、巻いた羊皮紙とを持っている。彼は、ロミオとジュリエットの痛ましい恋の経緯を目撃して、それを記録した男である。そこで、劇中、群衆の出る場面には、かならず顔を出す。いわば、無言の合唱隊長である。
幕明きの口上をのべおわると、教会の鐘がなり、舞台が明るくなって、ヴェローナの街の広場になる。序詞役は歴史学者として、つまり、群衆の一人として、皮表紙の本のうえに羊皮紙をひろげ、何か書きながら歩き出す。
ところが、これがなかなか厄介で、左手に重い皮表紙の本を支え、そのうえに巻いた羊皮紙を繰りのべて左手の指で押え、鵞ペンを持った右手で、左の指にひっかけてあるインク壺の蓋をとり、ペンをひたし、何やら書いたあとでまた蓋をしめ、羊皮紙を巻く、その手順が、ややこしいといったらない。舞台稽古のぎりぎりまで、いろいろやり方を変えてみても、どうも何かが余計な感じで、いくら歴史学者でも、こんな思いをしてまで、歩きながらノートをとることはないだろうという気がしてくる。
そこで、ふと思いだしたのは、ジャン・ルイ・バローの「ハムレット」である。
父の亡霊を見た後、独白をしゃべりながら、バローはじつに変なことをした。「忘れるなと? よし、本からおぼえた金言名句、幼い目に映つた物の形や心の印象一切合財、いままで記憶の石板に写しとつておいた愚にもつかぬ書きこみは、きれいさつぱり拭ひ去り、ただきさまの言ひつけだけを、この脳中の手帳に書きしるしておくぞ」(福田恆存訳)
この最後のくだりで、バローは胸のあたりから手帖を取りだし、踏みしめた右の股を台にして何やら書きこみ、またそれを胸にしまうしぐさをしてみせたのである。
むろん、実物の手帖をつかったのではない。すべてお得意のマイムで演じてみせたのだが、これは、どうにも腑に落ちかねるやり方であった。ハムレットの性格に内在する狂気、あるいはいたずら好きの精神の表現として見ても、いかにも中途半端で、ことによるとアンドレ・ジッド訳の台本のせいかなどと、当時考えたものだ。しかし、それはそれとして、序詞役のややこしい手順をはぶくために、あのやり方をとり入れるのも、わるくないという気がしたのは、つまるところ、溺れるものは藁をもつかむの心理であったかも知れない。
しかし、いくらマイムをとり入れるといっても、本と羊皮紙と鵞ペンとは、省くわけにはいかない。カットできるのは、インク壺だけである。幸い、衣裳はだぶだぶの黒いガウンだし、左手に支えた大きな本のかげで、架空のインク壺の蓋を取るしぐさをすれば、おそらく観客には気づかれずにすむだろう。日本の新劇のリアリズムから行けば、これは明らかに手を抜いたやり方で、手順がうまく行くようなインク壺なり、持ち方なりを、何としてでも発見すべきところなのだが……
最後の舞台稽古の日、暗い客席から舞台へ歩みよってきたベントール氏に、私は下手な英語で、おそるおそる(というのは、インク壺を用意するように小道具係に命じたのはベントール氏であったから)たずねた。
「インク壺を持っているふりをして、つまり、実物は持たないで、要するに、想像上のインク壺で、だから、マイムだけでやりたいのです。よろしいですか?」
すると、氏は笑いながら答えた。
「それそれ、それを言いに来たんだ。前から言おうと思って忘れていた。インク壺はやめよう。効果がない」
それから、人差指を立てて、うなずきながら、こう付け足した。
「イマジネイション」
私が藁だと思ったものは、強い樹木の根で、実物の鵞ペンを架空のインク壺にひたすというおもしろい、ずるい演技を、それから一と月あまり、私は存分にたのしむことができたのである。
――一九六五年八月 自由――
私の小道具帖から
デズデモーナの手巾《ハンケチ》や、福岡貢の刀や、トレープレフのかもめや、廬生の枕など、小道具が劇の展開の重要な契機となる例は昔からたくさんあって、この薬味がなかったら、劇の味はずいぶん損われるだろう。
災厄や幸福をもたらす小さな物体が、人々の恐怖や憧憬の的となり、情念をかきたて、運命を左右する様を見るたのしみは、おそらくアニミズムと表裏一体をなしており、昔は、なかなか人気のある趣向であったろうと思われる。
近代生活は、こういう物体に宿る魂をすっかり追い払ってしまったから、かれらはもっぱら、劇の環境や、劇中人物の職業や個性を説明する哀れなインデックスに成り下ってしまった。
今日、小道具が昔ながらの生命を保っているのは、童話劇の舞台で、恐ろしい魔法の杖や望みを叶えてくれる指輪は、物語の中のアラジンのランプと同様に、依然として子供たちの想像力を刺激しつづけている。
近代以後の劇で、小道具が物語の鍵となっている作品には、どことなく童話劇めいた趣がある。イタリア製の麦藁帽子がつぎつぎと事件をまきおこしてゆくラビッシュの喜劇が、そのいい例である。
今日では、小道具はまったく沈黙してしまったように見える。小道具が一種の劇的磁力を帯びていた時代は終ったかに見える。
しかし、沈黙した冷たい小物体は、劇の味に加えられた新しい香料ではないか。カミュのカリギュラが打ち砕く鏡の戦慄的な効果は、他の何物をもって代えることが出来るだろうか。小道具の命脈は、少なくとも大道具よりは、長くつづきそうである。
演出家や役者にとって、小道具は便利なものである。間《ま》がもてない時には殊に、救いの神となる。実人生においてすら、借金に来た客は掌の上で茶碗を廻し、迷惑な主人はこれ見よがしに腕時計の針をのぞきこむ。
小道具は不便なものである。心ないかれらは、しばしば、芝居をめちゃくちゃにする。物体は物体の方法に従う。三一致の法則などは眼中にない。かれらは柔順に見えるが実は意地悪く、誠実そうに見えるが気まぐれで、手に負えぬほど頑固かと思うと、時には呆れるほどへなへなの弱虫になってしまう。
ステッキ
グリーボフのフィルスがせりふを言い終る。
遠くから、弦の切れるような音。
それが長く尾をひいて、今まさに消えようとする瞬間、フィルスの手を離れたステッキが、ばたりと床に倒れる、と同時に幕が降りはじめる。
あのステッキの音は、一晩の「桜の園」に打たれた完璧な終止符だった。間《ま》を大事にすること、「小道具に芝居をさせる」ことを、歌舞伎や新派の流儀、日本独特の美風と思うのは誤りである。ただその間や「芝居のさせ方」の質が違うだけである。(モスクワ藝術座東京公演の折に)
鎧《よろい》
本物は重すぎて困る、というような時、名人の小道具師は思いがけない材料を使う。黄金の鋲を一面に打った私のマクベスの鎧は、布と、下駄の鼻緒どめの金具で出来ていた。
パイプ
戦後の混乱期には、なかなか思うような小道具をそろえられないことが多かった。
福田恆存作「キティ台風」を上演した時、もうとっくに中日《なかび》を過ぎているのに、私はパイプを追加注文せざるを得ない羽目に陥ってしまった。むろん小道具係はいやな顔をした。だが私としては、これでもずいぶん折れ合ったつもりなのであった。舞台へ抱いて出る本物の猫を、ずいぶん苦労して探して、ようやく見つけて譲りうけて、毎晩電車で家へ連れて帰るわけには行かないから、楽屋で飼ってもらっているうち、食料難に堪えかねたらしく、夜中に檻を破って行方不明になってしまったのである。仕方がないではないか! なんだ、パイプぐらい!
舞台のうえで起る不測の出来事は、取りかえしがつかない。映画ならば、いくらでも撮りなおすことができるが、芝居は、そうは行かない。どんなに手順をととのえ、間違いのないように気をつけていても、とんでもない事が起って、進退きわまってしまうことがある。
「ハムレット」の大阪公演中に、決闘の場で、剣が折れた。
こんどの演出では、あそこは大切な場面である。あくまで美しく激しくエネルギッシュに演じなければならない場面である。フェンシングを指導してくれた三井山彦氏から、十分に使い込んでない新しい剣は折れやすいという注意があったので、稽古中ずっと使っていた剣を舞台でも使うことにした。審判役の廷臣オズリックが予備の剣を数本あずかっている。万一の場合はそれを使うことになっていた。
ある晩、レアティーズの打ち込んできたのを切り返した途端に、変な音がして、細い黒い翳が横へとんだ。私の剣が少し短くなったようである。かまわぬ、と決めた。攻撃に出る。激しい数合。
「一本!」「まだだ」「審判?」
「一本、は、たしかに」廷臣達の拍手。見ると、少し短いどころではない、剣尖から三分の一ほどの部分が無くなってしまっている。これでは後の試合に差支えると思い、オズリックに声をかけた。
「剣が折れた。代りをくれ」
言ってから、しまったと思った。ひどいことを言ったものだ。代りをくれとは、飯の催促でもしているようなせりふである。が、もう間に合わぬ。べつに誰も笑わず、新しい剣で試合は無事に続けられたが、ハムレットの気持は、しまったと思った時に折れ、そして幕切れまで折れたままだった。
ところがその翌晩、また剣が折れた。第二試合の最中だったが、こんどは真二つに折れてしまったので、いやでも試合を中止せざるを得なかった。昨夜でこりているから、余計なことは言わなかったが、こういう事故が二晩もつづくと、意気は甚だ揚らなくなる。第三試合はスピードもテンポもがったりと落ちて、中気病みのフェンシングのようになった。エネルギッシュどころのさわぎではない。幕がおりてからレアティーズの仲谷昇と二人で、二度あることは三度あるぞなどと、冗談をいって笑ったが、何とも憂鬱な気分だった。
翌晩、冗談は本当になった。剣はまたしても折れたのである。
切先に毒を塗ったレアティーズの剣を奪い、相手を仆す。そして「切先に毒まで! そうか、それなら、ついでにもう一度」――
くるりと向き直ってクローディアスを刺した、と思った瞬間、剣身がなくなった。クローディアスのマントに捲かれて、音もたてずに、ほとんど根元から折れてしまったのである。何をどうする暇もない。「不義、残虐、非道のデンマーク王!」やぶれかぶれとはこのことであろう。私は折れ残りの五寸ばかりの部分でクローディアスを無茶苦茶につつき、ネジ廻しでも使っているような恰好でギリギリと止めを刺した。どっちが残虐だか分ったものではない。そして私はクローディアスの止めを刺しながら、同時にいくらかは、この執拗な舞台的事故に止めを刺しているような気もしていた。――完全な喜劇である。
幸いなことに、剣はその後、東京の千秋楽まで、一度も折れなかった。私達のフェンシングの腕がいくらか上ったせいであろうか。それともあのネジ廻しの止めがきいたせいであろうか。
重箱 椀
福田恆存作「竜を撫でた男」の第一幕は、元日である。精神病医佐田家則の書斎兼応接間には、鏡餅の三方《さんぼう》が飾られている。
年賀の客が来る。屠蘇《とそ》が出る。朱塗りの三つ組の盃が客たちにわたる。蒔絵の重箱が出る。雑煮の椀が出る。外は雪である。ストーヴはあかあかと燃えている。小道具はそろっている。機智にとんだ会話が賑やかにつづく。この喜劇の初演は十一月だったが、舞台には新年の気があふれていたらしい。
らしい、と言うのは見た人の話を聞いたからで、佐田家則を演じていた私は正月気分どころではなかった。重箱と椀の中身が問題なのである。
毎日本物を仕入れるだけの予算がないから、おせちも雑煮も代用品である。伊達巻とかまぼこは、カステラと食パンでできている。沢庵と大根をつかうと、喰べるときに音がして具合がわるいことは、落語の「長屋の花見」の教える通りである。黒豆、芋、くわいの類は、チョコレートやらマシマロやら、すべて甘ったるい菓子類でこしらえてある。
そういうものをいくつか食べて、さて朱塗りの椀の蓋をとる。なまぬるい白湯に、麩が浮いている。温泉の鯉ではあるまいし、これで正月気分になれとは殺生な話である。
おまけにこの精神病医は、節煙の目的でやたらに仁丹をたべる。食パンとマシマロと湯づけの麩と仁丹をつづけて食べるとどんな味がするか、食べた人でなければわからない。
このとき私の妻の役を演じたのは田村秋子さんで、恋人の役を演じたのは杉村春子さんであった。杉村さんは私に芝居を教えてくれた人である。田村さんは杉村さんの先輩にあたる。かりに重箱や椀の中身が本物だったとしても、こういう妻と恋人を相手に芝居をするのは寒稽古にはげむようなものだったから、正月気分になれるはずはなかった。
かねがね私は、古本掘り出しの大穴場は、映画撮影所の小道具倉庫だと信じている。その日撮影するセットへ入って、本棚が出ていたら、何はともあれ目を通すに越したことはない。現代劇だと、大体見なれた本がならぶから大して驚かないが、明治大正物となると、とんでもない本が見つかることがある。
A撮影所では、森林太郎訳「マクベス」「続一幕物」。B撮影所では、徳田秋声「あらくれ」。C撮影所では、夏目漱石「道草」、木下杢太郎「えすぱにあ・ぽるつがる記」、雑誌「白樺」その他。
お断わりしておくがこれらはみな初版である。蔵書家の探し求めるこういう本が、ただセットを飾り、役者の持道具となるために、埃の中に眠っているのである。
さすがに開いた口がふさがらなかったのは、大島渚監督の「日本の夜と霧」という映画に出た時のことである。私の役は大学の仏文の講師であった。寄宿舎のセットで、私は原書を一冊持ちたいと申出た。間もなく小道具係が持って来てくれたのは――ヴァレリーの「ユーパリノス」の初版本だった!
弓 矢
松本幸四郎一座と文学座との合同公演で評判になった「明智光秀」の千秋楽の出来事である。
この公演で私は織田信長を演じていたが、不評でくさっていた。こういう時には、せめて最後の一日が最良の出来となるようにと祈る気持と、早く終ってしまえばいいという気持が同時にはたらく。
本能寺の欄干から、信長は重籐《しげとう》の弓をきりきりと引きしぼり、庭先に忍びよる明智方の武士に矢を放つ。矢は武士の咽喉をつらぬく。これには仕掛がある。放つと見せた矢は、実はうしろの障子のかげへ投げ捨てるのだ。弦が鳴り、弓を持つ手が返る、と同時に武士は隠し持った別の矢を首に刺さったように見せながらのけぞるのである。
その晩、弓に矢をつがえて庭先を見ると、肝腎の武士がいない。待っている。出てこない。おかしいぞ、と気がついた時には遅かった。横のほうから、いきなり鉄面《かなめん》をつけた雑兵が二人とび出し、雄叫《おたけ》びをあげながら突進してくる。私はあわてた。目の先一間に迫った色の白い大柄な雑兵の黒皮胴めがけて、ほんとうに矢を放ってしまった。色の黒い小柄なほうが激しく切りかかってくる。大柄なほうもむやみにあばれる。私は重籐の弓を子供の喧嘩のように振り廻しながら、ほうほうの態で退場した。
後でわかったことだが、二人の雑兵は幸四郎さんと又五郎さんであった。幸四郎さんに怪我をさせなくてよかった。歌舞伎流の千秋楽の祝い方も、馴れぬ身にはなかなか辛いものである。
――一九六五年一月 文藝春秋――
モーリス・ジャールの舞台音楽
数年前、朝吹登水子さんからモーリス・ジャールの「舞台音楽」というレコードをいただいた。
「国立民衆劇場のための」という添え書の示す通り、ジャールがそこの芝居――通称TNPの芝居のために書いた舞台音楽の抜萃集であって、表裏二面に「リチャード二世の序曲」だとか、「スガナレルの主題」だとか、「寺院の殺人の合唱曲」だとかいう短い音楽が、二十あまり入っている。
ジャールはルイ・オーベールの弟子らしい。これは朝吹さんからの又聞きだが、ジャールの才能を認めてTNPへ連れて来たのは、自分もそこの専属俳優だった故ジェラール・フィリップで、主宰者のジャン・ヴィラールにジャールの音楽を聞かせたところ、即座に音楽監督として迎えられることになったという。
このレコードには、音楽だけでなく、芝居の方も入っている。ただし、主は音楽で、芝居の方はあくまでも従だから、対話は一つもない。「ドン・ジュアン」とか「リュイ・ブラス」とかのごく短い、たまにいくらか長いさわりの独白を、TNPの役者たち――ヴィラールやフィリップたちがしゃべる。これが十あまり入っている。歌もいくつかある。
「ホムブルクの公子」のように五つの曲と三つの独白から成るかなり長い部分もあり、「にわか医者」のように前奏曲一つだけというのもある。劈頭《へきとう》、爽やかに鳴り響く「ロレンザッツィオのファンファーレ」は、最後にも使われている。
抜萃集でありながら、少しも平面的な羅列的な印象を受けないのは、ひとつにはむろんジャールの音楽が優れているからである。ジャールの音楽は、どの一つをとってみても、それぞれの戯曲の固有の質が溶解して音のなだらかな流れになって響いている、という感じがする。
その音楽とせりふとの続き具合、混り具合がまた実に巧妙で何度聴いても飽きない。女声の語り手が進行役をつとめるが、この語りの文句もよく考えてあって、解説の役を果しながら、劇中独白と同様に、「語られる言葉」として音楽と共鳴するようにつくられている。プログラム全体は、絶えず変化しながら均衡を保って徐々に高まってゆく波のように、緊密に、効果的に構成されている。
こういうレコードだから、どの音楽が良いとかどの独白が面白いとか言ってみても始まらない気がするが、圧倒的なのは最後の「マクベス」で、実をいうと私がこのレコードをかけるのは、いつでもこの「マクベス」を聴きたいからなのである。ことに、マリア・カザレス演ずるマクベス夫人の夢中遊行のくだりは、独白と音楽の渾然一体となった正に傑作としか呼びようのない場面である。
バッグ・パイプと太鼓が、スコットランドの荒野をわたって聞えてくる。三人の妖婆のけたたましい笑い声が、女声の風の悲鳴を突き裂いて夜風にひびいて消える。ピアノと太鼓。ヴィラールのマクベスの終幕の独白、「あすが来、あすが去り、さうして一日一日と小きざみに、時の階をずり落ちて行く、この世の終りに辿りつくまで……」(福田恆存訳)
そして、ピアノと弦の「夢遊病の主題」が緩慢な鼓動のように聞えはじめ、やがて途絶える――と思うと、また鳴りはじめ、しばらくつづいてまた止む。物憂い声が言う、「まだ、ここに、しみが」
この最初の一言で、もうカザレスは、聴く者をしっかり掴んでしまう。後は、黙ってついて行くだけである。
音楽は相変らず重病人の脈搏のように途切れてはまた現われ、ゆるやかに、単調に、最後までつづく。その中で、マクベス夫人はつぶやき、眠りながら語り、沈黙し、溜息をつき、叫び、身をもだえる。「消えてしまへ、呪はしいしみ! 早く消えろといふのに! 一つ、二つ、おや、もう時間だ。地獄つて、なんて陰気なのだらう!……」
ジャールの舞台音楽は、いつでも、それぞれの戯曲の含んでいる固有の空気や光の中で、固有の劇中人物の血や肉の中で鳴っているような感じがする。そういうところから「聞えてくる」音楽である。音楽自体を「聴かせよう」とはしないが、役者のせりふを「聴いている」人々に、いつの間にか、劇自体を「聴かせている」音楽である。
能や歌舞伎やオペラやミュージカルを持ち出すまでもなく、音楽と芝居とは、昔から仲の良い姉妹だが、せりふを主とした芝居でこれほどうまく折り合えれば文句はない。いつもせりふを「聞いてもらっている」私が、こんなことを言うと、音楽に文句がないのあるのと言える柄かと、文句を言う人がいるかも知れないけれど……。
――一九六四年八月 音楽の友――
芝居のなかの歌
芝居のなかに出てくる歌は、演出家にとっても、役者にとっても、たのしいものであり、また同時に、なかなか厄介なものでもあります。
ひとつの歌が、それを歌う人物の、年齢や性格や職業や気分によって、また、歌われる場面や状況の変化に応じて、千変万化するからです。抒情的な歌を、勇壮活溌に歌わなければならない場合もあり、陽気な歌を、つぶやくように無表情に歌わなければならないこともある。それどころか、ぜんぜん調子外れな歌い方が、いちばん正しい歌い方である場合すらあるのです。つまりせりふを主にした芝居のなかの歌は、それを歌う人物の劇的表現や、それが歌われる場面の劇的効果と、密接に関係していて、そのために、歌自体のもつ音楽性は、第二義的なものとして扱われることが少なくないのです。
私はついこの間、遠藤周作氏の「黄金の国」という劇を演出しましたが、そのなかに、長崎地方の古い歌が、二つ出てきます。
沖に見ゆるは パーパの船よ
丸にやの字が 書いてある
まいろうや まいろうや
はらいそ寺に まいろうや
はらいそ寺は 遠けれど
まいろうや まいろうや
舞台は、島原の乱後二年、切支丹《キリシタン》にたいする弾圧のもっとも烈しかったころの長崎です。当時の農民たちのキリスト教にたいする信仰が、こういう民謡ふうの歌詞にもうかがわれるわけで、「パーパ」というのはローマ法王、「丸にやの字」というのはマルヤ(マリア)、「はらいそ」とは天国のことです。
この二つの歌は、古い「長崎県歌謡集」という本に収められているのですが、あいにくなことに、歌詞だけがのこっていて、曲のほうはさっぱり分りません。徳川幕府の二百年にわたる切支丹弾圧で、跡形もなく消えてしまったものと見えます。
劇中、この歌をうたうのは、のろ作という、少し頭のにぶい、善良な百姓です。仲間たちが火責め水責めの刑にあうことを恐れて、顔色をかえて相談している時、かれだけは、はらいそへ参って、マリア様のお酌で酒をのみ、粟飯を腹いっぱい喰うことを空想して、にこにこしている。のろ作はそんな男です。いい役です。
私はこの役に、思いきって、若い研究生の石田太郎君を起用しました。大きな体の、すこしはにかみ屋の石田君は、配役の発表を見て、びっくりしたようでした。石田君は、歌があまり得意ではないらしいのです。
「あのう、作曲はいつ出来るんですか」
「稽古の初日まで、まだ八週間もあるんだから、大丈夫。まず、せりふの勉強をしたまえ。勝手な節でいいから、自分でいろいろ工夫をして、歌ってごらん。いずれにしても、君の歌いやすい曲にするから、あんまり今から心配しないほうがいい」
さて、作曲を誰に頼もうかと思案をしているうちに、稽古の初日が来ました。稽古は六週間やるので、こういう短い歌の作曲にはまだ十分時間があるのです。
おどろいたことに、その初日の稽古に、石田君は二つの歌を朗々と歌いました。素朴で、哀感があって、みごとでした。
「どうしたんだい、その曲」
「ともだちに作ってもらったんです」
「ともだち、って」
「中学生です。女の子」
石田君は、すこし照れながら、譜を書いた紙片を、私に示しました。
私は、即座に、この作曲を使うことに決めました。無垢《むく》な心をもったのろ作にふさわしい素直な歌だったからです。
石田君ののろ作は、大成功でした。――一九六六年七月 合唱サークル――
影山悠敏伯爵 実の息子が父親を殺す。これは私的な事件にすぎん。いはば家庭的な事件にすぎんじやないか。
三島由紀夫「鹿鳴館」
方外
田端の家の、暗い四畳半に、黒く焼けた銀泥の小さな額がかかっていた。少し黄ばんだ紙に書いてある筆太の文字が、子供の眼には絵のように見えた。僕は好んでその字を、大きな花と鳥と少年の姿とに、なぞらえていた。
それが、父の一高時代の恩師菅白雲先生の書で「方外」と読むのだと教えられたのは、ずっと後のことである。
人の道にそむくこと。隠遁者。外国。「方外」という言葉にはそんな意味があるらしい。この小さな額の文字は、父の生涯を思う時、象徴的な翳《かげ》りをおびて見える。
はじめは軽い明るい気持で、後年には切ないはりつめた心で、父はいくたび方外を望んだことであろうか。父の生きていた時代の方内の堪え難い暗さを思わないわけには行かない。
――一九五〇年五月 三高文藝――
父の映像
父は私が八つの時に亡くなった。その少し前から、私は、父の書いた童話などを、母や祖父の助けをかりて、おぼつかなげに読みはじめていた。それはしかし、まだ物語への興味からではなく、いわば、私の知らない世界にいる父を見いだそうとする、子供らしい好奇心からであったのだろう。父の所へ来る「赤い鳥」や「金の星」は、ハトロン紙で固く筒のように巻いてあり、その包紙を剥《む》く時には、いつも、中の雑誌まで一緒に破いてしまわないように、気をつけなければならなかった。巻き癖がついて、めくり悪《にく》くなっているページを、あちらこちら繰っているうちに、突然、芥川龍之介作という活字をみつける、その時の心のときめきにくらべれば、実際に物語そのものから受ける感銘は、水のように淡かった。私にはまだ、物語を享《う》けいれる力がなかったのである。
それとたいへんよく似た気持を味わうのは、むしろ、父の書斎へしのび込む時であった。父の書斎は、二階の八畳の間になっていたが、私はほとんど、そこへ行くことがなかった。暗い階段口から見あげると、障子を入れた丸窓が半分だけみえる。私に親しいのは、その半分の丸窓だけであった。ときどき、父の留守を見すまして、私は、誰にも気づかれないように、足音をたてないようにして階段をのぼり、こっそり書斎へしのび込んだ。書斎は、家中の他のどの部屋とも、ひどく違っていた。その部屋だけが、一種特別の秩序をもっていて、そこへはいると、自分までも、何だかふだんとは違ってくるような気がした。壁際に箪笥などが置いてあることはあっても、ほかの部屋はいつもあんなひろびろと片づいているのに、この部屋は、さまざまな物の集積が、部屋の中心を形づくっているのであった。青い絨毯《じゆうたん》を敷いた、明るい部屋の中央に、小さな紫檀の机と、長火鉢とが、鉤の手に置いてあり、後の二辺を、書き損いの原稿用紙や、炭取りや、つみ重ねた本や、来翰《らいかん》を入れた木の盆や籐の紙屑籠などが、雑然と描き出している。机の向うの、座蒲団のおいてある所が、自然にそこだけ窪んだようなかたちで残されていて、それは如何にも、父の出かけたあとという感じがした。壁際の本棚には、本がぎっしり並び、高い床の間の前のあたりには、壺や鉢が置いてある――。その部屋の、ごたごたした豊かな様子を、私はいつも目を瞠《みは》る思いで眺めた。煙草の匂いと本の匂いと、それからまだ何かの匂いの混り合った気持のいい匂いが、いつもしていた。そして、障子越しの陽をいっぱいに含んだ暖かくなっている絨毯の上を、その感触をたのしむために、わざと足を摺って歩いてみたりした。
父の死以来、自然私は、一層読書に親しむようになった。大きくなるにつれて、だんだん、書いてあることが分るようになってきた。例えば「白」という童話は、はじめは、白犬が黒犬になり、それがまた元の白犬にかえるというだけの、奇妙な話にすぎなかったのが、何時の間にか、臆病だったばかりに友達を見殺しにした一匹の犬が、つぎつぎに苦しい出来事に遇ってゆくという、悲しい勇ましい物語にかわりはじめた。(物語のほんとうの意味が分ったのは、勿論、ずっと後のことである)そのうちに、童話以外の作品も読むようになった。「子供の病気」や「蜃気楼」のような小説を、かなり早い頃に読んだ。その中に、母や弟や祖母などの身近な人達が描かれ、馴染の深い風景が写されていたからであろうか。私はやはり、私の知っている世界にいる父の声を、聴こうとしていたのかもしれない。
聖学院の付属幼稚園に通っていた時のことである。その年頃の子供にとっては、かなり遠い道のりで、私はいつも、祖父や女中に付き添われていった。付添いの人達は、お祈りや歌や遊戯や、一日の課業が終るまで待っている人もあるし、一旦帰ってからまた迎えにくる人もあるし、まちまちであったが、待っている人は大抵、庭で編物をしたり本を読んだりしていた。教場から玄関の廊下へ出る戸口の、硝子戸越しに、ずっと授業を参観している人もあった。授業が終りに近づく頃になると、だんだん廊下に立つ人が増えてくる。そういう時には、どうしても戸口の方へ傍見《わきみ》をしたくなる。私達はそれでよく先生に叱られた。
クリスマスの日に、私達は聖誕劇を演じることになっていた。私の役は羊飼だった。「あれ、あの光をごらんなさい。あの音楽をおききなさい。みんなひざまずいて、神様のおつげをききましょう」という、たった一つのせりふを、そらで大きな声で言えるように、私は一生懸命練習した。
ある日私達は、いつものように劇の練習をしていた。五人の羊飼とその羊達の簡単なマイム、天使達の踊り、三人の博士の登場、合唱団の讃美歌と、場面は次第に進み、最後に、一段と高く奏でられるオルガンにつれて、私達は大きな輪をつくりながら、歌いながら、行進をはじめる。見なれた教室も、そうやって一定の速度でぐるぐる廻ってみると、いつもその度毎に新しい感じがした。
その日も私は、このメリー・ゴー・ラウンドを秘かに愉しんでいた。――オルガンを弾く先生、貼出しの図画、廊下の人達、ストーヴ、滑り台、枯れた藤棚、蓄音器、白いカーテン、オルガン――。歌につれて、つぎつぎに視野に入り、過ぎてはまた現われてくる風景や人や物達のうちに、ふと私は、父を見た。私はびっくりした。けれども歌がつづいていた。戸口から庭の方へ、歩みつづけながら、私は振返ってみたが、もう光の加減で硝子戸の向うが見えない。やがてオルガンの所までくると、またよく見えるようになる。やはりそれは父だった。
父は、寒々と居並んだ三、四人の付添いの人達に混って、硝子戸ごしに、少し前こごみに私の方をみていた。ほかの女の人達の間で、父は、どうして今までそこにいるのに気がつかなかったかと思うほど、背が高く、飛抜けてみえた。黒い二重まわしで、帽子は冠っていなかった。そして私と目が合うと、ちょっと頷いて微笑した。私はまた庭の方へ遠ざかっていったが、今度は安心して、振返らなかった。かえって、元気よく手を振り、大きな声で讃美歌を歌って行った。オルガンの所へ来ると、父は相変らず微笑しながら、また軽く頷くようにしてみせた。……
あの時の父の姿が、妙にはっきりと印象に残っているのは、場所や情況が、例外的だったからであろうか。いつも見馴れた、大抵は女の人ばかりがいる硝子戸の向うの廊下に、父を見ようとは、私は夢にも思ってはいなかった。父が幼稚園へ来るということ自体が、私には到底あり得ないことに思われた。二階の書斎にいる父が、私にとって、知らぬ世界の父であるように、私の幼稚園は、父にとっての知らぬ世界である筈だったから。
しかし考えてみると、父の死後も、私はたびたび、それとよく似た経験をしているようである。中学校の教科書で習った「戯作三昧」には、(尤もそれは抜萃だった)ほんの通り一遍の興味しか覚えなかった。その後、始めから終りまで全部読んだ時にも、大して心を動かされなかった。が、何年か後、三度目に読んだ時、私はやっと、しかも突然に、父の姿をそこに認めた。それは何も「戯作三昧」に限ったことではないし、また学生時代に限ったことでもない。今でも私は、思いがけない父の心を読むことがある。殊にそれは晩年の作品に多い。
父はいたのである。見えないのは此方の故だけだ。
父と一緒に町へ散歩に出たことがあった。日暮れの町の通りを、綺麗な服を着た西洋人達が、ゆっくり歩いていた。父は私に青や黄の西洋蝋燭を買ってくれた。
しかし、家の者は外に誰もいないその軽井沢の生活でも、私は大体に於て父と別々の時間を過していた。そして私は、格別それを不満とは思わずにいた。毎朝、山襞《やまひだ》をつつんで流れる霧をみるのが、私には珍しかった……
「お父さんは今夜一寸御用があって出かけてくるからね」
「どこへゆくの?」
「よその小父さん達と一緒に御飯をたべるんだよ。おとなしくして待ってなきゃだめだよ」
ある夕方、父とそんな会話をした。――
私は階下の部屋の、厚地のカーテンを垂れた窓の傍に佇んでいた。少し離れた所に玉突台があって、三、四人の客が玉を突いていた。時々、玉のぶつかる快い音が聞えてきた。私はそろそろ心細くなりはじめていた。私は古めかしい大きなカーテンを、身体に纏うようにして、暗い窓の外を眺めていた。窓の外には蔦《つた》の葉が戦《そよ》いでいた。すると、うしろの玉突台の方で、急に笑い声がした。私はふと、どこかの家のどこかの部屋で、大勢の人達が口を動かしたり笑ったりしている有様を想像した。それは、外国の活動写真の宴会の場面に似ているようであった。父もその中にいて、笑っていた。私は急に悲しくなり、カーテンにくるまったまま、声をあげて泣きはじめた。父は、私には見当もつかない程遠い処にいるのであった。ちっとも知らない人達と一緒にいるのであった。
堀辰雄さんが来て「どうしたの? どうしたの?」と心配そうに訊いて下さったのを思い出す。
それからどの位経っただろうか。私は父が部屋へ入ってくるのをみた。父は私に近づいた。
「わるかったね。ごめんよ。さあ、もうお父さんは帰って来た。さあ、もう泣くのはお止め」
父は私の背中を軽く叩きながら、何度もそう繰返した。父は微笑していた。
裏門が烈しく開いたと思うと、近くに住んでいる叔父が、中庭へ飛込んできた。飛石に躓《つまず》いてよろけた拍子に松の木にぶつかり、雫《しずく》が雨のようにふる。下駄を蹴るように脱ぎ、その気配にいそいで茶の間から立ってきた祖父をみると、叔父は、障子に齧りついて堰《せき》の切れたように泣きだした。父の死の朝の最初の記憶である。
死の意味は私にはまだ分らなかった。私は大して悲しくなかった。
鵠沼から来た母方の祖母は、廊下でぱったり出遇った途端に、私を抱きすくめ、私の肩へ顔を押当てて、「比呂ちゃんのお父さんは、……死んでしまったんだよ」と言いながら、声を忍ぶようにして泣き出した。固いものが胸にこみあげ、私はわけもなく涙をうかべた。「苦しい。離して」と私は言ったような気がする。縋《すが》ろうとする祖母の手を振切り、私は納戸のかげの暗がりにかくれて、涙を堪えようとした。ほんとうに父の死が悲しいのではなかった。大人の悲しみが、私にも移ったまでのことである。「お父さんはまだおやすみだから、おとなしくしているんですよ」と誰かに言われると、私はまたすっかりその気になって、「こんどはいつ鵠沼へ連れてってくれるのかなあ」などと人に話しかけたりした。
父は私の目の前に寝ていた。(それは二階の書斎ではなく、その後に建増しされた階下の、やはり八畳の書斎だった。新しい書斎は、二階の書斎よりもずっと暗かった)静かに目を閉じ、きちんと真直ぐに上を向いているのに、口を開いているのがおかしかった。私はそれを、まるで子供のようだと思ったりした。
それにしても、私はその時ほど間近に父の顔を見たことはないような気がした。いくらでも、私は見られるのであった。そうしてどんなに私がみつめても、そのために父には何も起らないのであった。かけてある着物の、胸のあたりに、突上げたように高くなっている所があって、私はそれを不審に思った。傍にいた人が、それは掌を組んでいるためだと教えてくれた。誰か、和服を着た大きな人が、すぐ床の脇に坐り、さっきから下を向いて泣いていた。その人は何度も指で涙を拭いた。そうして、胸のあたりの突上げたような不自然な形はやはり依然として変らないでいた。そのために私は、かえって、父の何かが変ったことを、父に何かが起ったことを、感じないわけにはゆかなかった。
やがて十九年になる。七月二十四日、その日も近い。生きていれば今年五十五歳の、その父の姿を想像することは難かしいが、映像を求めることが何になろう。田端の家はなくなってしまったし、「庭の隅の金網の中には白いレグホン種の〓が何羽も静かに歩き」、「遠い垣の外の松林を眺め」ることの出来た鵠沼の家も、まわりに家がたてこみ、庭にはさまざまな野菜が育てられている。机の上には、渝《かわ》らない全集がある。
――一九四六年八月 文藝春秋――
父と戯曲
父は殆ど戯曲を書かなかった。まったく、と言ってもよいかも知れぬ。全集に収められている作品中、戯曲の体裁を備えているものは「青年と死」「三つの宝」「二人小町」の三篇にすぎない。それも、正確にいえば、戯曲の形式を借りた話、あるいは読む戯曲《ピエエス・ア・リイル》であって、真の戯曲ではないように思われる。
しかし、日記や感想などを読むと、父にも、もっと本格的な戯曲を書く意志が全然ないわけではなかったように思われる。全集に断片として収められている「織田信長と黒ん坊」や現代生活の数場面は、その試みの跡を、というより寧ろ、試みの失敗の跡を、示しているのであろう。「歯車」の中にも、松林の中に焼いた未完成の戯曲のあったことが語られている。
断片といえば、いろいろの理由から(殆どは余りに短かすぎるために)全集に入っていない断片原稿が少しあるが、そのなかに「SPHINX 喜劇」と題された戯曲がある。――エジプトの若い王が倦怠のあまり女のスフィンクスを造る事を思い立つ。彼はモデルを求めるために、変装して町へ赴く。そして葡萄畑で一人の美しい少女に会う。彼女は旅から帰る許婚者を待っているのだが、話しているうちに、若い王は彼女を愛しはじめる。日暮れ、あやしげな家で歌妓達と一緒に憩っている王の許に、少女の自殺の報が齎《もたら》される。――原稿はそこで断《き》れている。書かれた年代は分らない。
しかし、たとえばこのようにして、父の戯曲はいつも失敗に終ったのではないだろうか。喜劇を書いているうちにだんだんそれが悲劇になってゆくという風に、宿命が美を壊すという風に。
現実あるいは対象へ向う作家の精神は、戯曲にあっては、それの独自な法則によって支えられていなければならない。小説は、たとえばそれを書いている作家の苦しみをさえ生かすことが出来るが、戯曲は、その内的な法則、時間的空間的拘束の中に置かれた人間の心理的姿勢とその変化とが描き出す律動(それこそ劇なのだが)の一貫によってのみ存在する。人物の性格も行動も、寧ろそこから生れてくるといってもよい位である。真の戯曲と読む戯曲とがここで分れる。
また戯曲のこの厳格さは、あるいは不自由さは、当然、作家の心情のきまぐれな転換や思いがけぬ発展を許さない。書いているうちに作者にとってさえ意外な人物が前面に現われてきてその作品の主人公になってしまうというような事情は、小説にのみ起り得る。そういう時、戯曲は、壊れる。壊れなければ、それは悪い戯曲になるだろう。
そして劇は、詩と同様に、散文の中にも生きることが出来るが、散文的なものを容れる余地をもたない。優れて劇的な小説を幾つか書いている父が、戯曲に失敗したのは、不思議ではない。父には恐らく、戯曲の方法を手に入れる前に、しなければならないことがあったのである。
――一九四七年一二月 新思潮――
父と老人達
小さい時に、祖母からこんな話をきいた。
――「家の御先祖」は三河の百姓だった。ある朝、川で「大根の葉っぱ」を洗っていると、むこうの森からりっぱな鎧《よろい》装束のお侍が二人あらわれた。その時三河の国は戦《いくさ》をしていたのである。二人は戦に負け、手傷を負って逃げてきたのであった。若い方の武士(それは本多平八郎忠勝であった)が、この方は「権現様」だから、向う岸まで「おぶってお渡し申せ」と命じたので「御先祖」はその通りにした。そのおかげで権現様は命拾いをしたのである。――「権現様」はある日その百姓を思い出して、本多平八郎忠勝に城へ呼ぶように命じた。「御先祖」は「侍分」に取立てられた。そして「権現様」を背負って渡った川の名を、その苗字として授けられた。そういうわけで家の苗字は芥川というのである……
話し終ると祖母はおかしそうに笑いだした。傍には、晩酌に顔を赤らめた祖父がいて、やはり笑っていた。恐らく祖父自身も幼い頃に、そんな風に笑いながら話されたことがあったであろう「御先祖」の話である。
長い年月のあいだに書き溜められた由緒書や親類書が、一まとめになって、籐の手箱に入っている。僕なんかには唯でさえ苦手の達筆が、ところどころ虫に喰われて尚更読みにくくなっているのを、あちらこちらと拡げてみると、その「御先祖」は芥川春洲という人らしい。一 先祖芥川春洲 権現様御代慶長九辰年月日相知不申候御広間方江新召出御切米弐拾俵弐人扶持。つづいて、芥川長春、芥川春清、芥川長古などという名前が読まれる。容易に想像されるように、こういう古風な美しい名前は、本名ではなく、剃髪《ていはつ》をしてからの替名である。芥川家は代々「御奥坊主」であった。
大正三年の秋、芥川家は新宿から、その頃はまだ物寂しい郊外だった田端へ移った。
「引越して一月ばかりは何やかやで大分忙しかつた 此頃やつと壁もかわいたし植木屋も手を引いたので少し自分のうちらしいおちついた気になつたがまだしみじみした気になれないでこまる 学校へは少し近くなつた その上前より余程閑静だ 唯高い所なので風あてが少しひどい 其代り夕かたは二階へ上ると靄《もや》の中に駒込台の燈火が一つづつともるのが見える 地所が三角なので家をたてた周囲に少し明き地が出来たこれから其処に野菜をつくらうといふ計画があるがうまく行くかどうかわからない 庭には椎の木が多い 楓《かへで》や銀杏《いてふ》も少しはある」
親友だった恒藤恭氏に、当時大学生だった父はそんな手紙を書いている。
父の作家生活は殆ど、この田端の家で過された。僕達兄弟が生れたのも、父や祖父母達が亡くなったのも、みんなこの田端の家である。
田端の家の庭は、僕の物心ついた時分には、樹木ももう随分多くなり、しっかりと落着いていた。椎や楓や銀杏のほかに、八つ手が沢山あった。越して来たばかりの殺風景な庭をととのえるため、祖母や大伯母が、王子の方の親戚へ行く度に若木を少しずつ持って帰ったのが、成長したのだという。
柘榴《ざくろ》、椿、丁字、臘梅、萼《がく》、桜、百日紅《さるすべり》、木瓜《ぼけ》などが季節ごとに花をつけた。僕は母に糸をつけた針で桜の花びらを刺して、花紐をつくることを教わった。
裏門の近くに、四隅に竹を立て、棕梠縄をめぐらした「花壇」があって、そこにも桔梗《ききよう》や水引草やあかのまんまや草酸漿《くさほおずき》や月見草が、花や実をつけていた。
そのほかにも、芭蕉や松があった。ずっと後になって父の好みで、庭に箭竹《やだけ》と棕梠が沢山植え込まれた。
庭の掃除をするのは、老人達の日課だった。
朝起きると、食事の前に、祖父は柄の長い箒で、大伯母や祖母は草箒で、植込みの中の落葉を掃く。生い茂った竹や八つ手を透している光の縞の奥から、静かな規則正しい箒の音が聞えてくる。
僕はよく下枝や茂みを潜りぬけて行っては、その傍に跼《かが》んで、蟻を眺めたり、落葉の中から青木の実を拾ったりして遊んだ。そういう時に、いつも、わざわざ白い八つ手の花を落してくれたり、ぬれた幹を滑ってゆく蝸牛《かたつむり》を取ってくれたりするのは、祖父であった。
祖父はたいへん僕を可愛がった。僕もいちばん祖父になついていた。「おじいさんっ子」だと言われた。祖母も僕を可愛がらなかったわけではないが、その愛し方は騒々しく、僕は祖父に対する程自由な気持でいることが出来なかった。
祖父は立派な体格をしていた。大柄な顔立が、厳《いか》つく見えることもあったが、どちらかといえば優しく、笑うと子供のようにあどけなかった。盆栽が好きで、座敷の縁先に台をつくり、鉢を並べて、朝夕に如露で水を注いでいた。庭の八つ手の葉が煤煙を浴びて黒くなっているのを、一枚一枚雑巾で拭いていたことがある。
碁や一中節や俳句なども好きだったらしい。何によらず器用な性質で、大工道具なども一と通り揃えてあり、建具の繕いや一寸した指物などは大抵自分で片づけた。近くに老人の指物師の一家が移ってきて、その貧しい風采の上らない老人が思いの外に丹念なみごとな仕事をするので、祖父は面白くないらしかった。仕事があってその老人を頼もうとすると、「またあの爺を呼ぶのか」と苦い顔をしたりした。昔は篆刻《てんこく》などにも手を染めたらしく、「芥川文庫」という石印がのこっている。素人にしてはなかなかうまいように思われる。字にも厭味がない。
小学校への送り迎えをしてくれるのも祖父であった。ある朝、教室へ入ると、いきなり懐ろから金槌と紙に包んだ釘を取り出して僕の腰掛の脚を直しはじめた。すこしぐらついていたのを、前の日に発見して、用意してきたらしい。カンカンとあたりはばからず大変な音を立てるので、恥ずかしかった。生徒達がおおぜいたかってきた。誰かが「小父さん、何してるの?」と訊くと、祖父は少し煩さそうに「なに、比呂公の椅子が壊れているから直しているのさ」と答えた。
古い、百年近くなるという長火鉢の前が食事の時の祖父の席であった。毎晩二合位ずつ晩酌をやり、機嫌のよい時には「比呂公、手褄《てづま》(手品のこと)を使ってやろうか」などと言いながら、茶碗の蓋を呑込んで眼から出して見せたりした。顔をしかめたり胸を押えたり、いろいろ身振りをするのが面白かった。ふと気がつくと、隣に父がいてやはり面白そうににやにや笑いながら、祖父を眺めていることもあった……
祖父は、父の一周忌の三日後に亡くなった。毎朝のように庭の掃除を済ませ、茶の間の縁側へ腰を下ろした時、強い脳溢血を起して倒れた。八十三歳の高齢であった。
祖母は祖父とは反対に、小柄な老人だった。(僕達は祖母のことを「小さいおばあさん」大伯母のことを「大きいおばあさん」或いは「ばあちゃん」と呼んでいた)
祖母は幕末の大通人細木香以の姪だった。そのために、父が細木香以の血を享《う》けているように言われることがあるが、それは誤りである。父は、祖父(道章)の実妹芥川ふくが新原敏三に嫁いで挙げた第三子(長男)である。母方に子がなかったために、生れるとすぐ芥川家に引取られた。祖父はそれ故、父の養父であり、また実の伯父に当るのである。祖母(養母)とは血のつながりはない。
祖母は若い時には、同じ下町育ちとは言え、祖父や大伯母――芥川家に育った人達よりも、明るい派手な生活をしていたようである。何かおかしいことがあって笑う時にも祖父や大伯母にはおのずからな形があって、どんなに心の底から笑ってもその限界は決して踏越えない感じであったが、祖母は身体をまげ、ほとんど涙を流しながら甲高い声をたてて笑いこけたりした。出入りの商人や女中達にいちばん親しまれているのはこの祖母であった。万事に砕けた所があり、祖父や大伯母の武家風なのに比べると、商人風であった。煙草が好きで、いつも長火鉢の前に坐り、長い煙管《きせる》できざみを吸っていた。
祖父の妹に当る大伯母は、三人の老人の中で、一ばん子供達には親しみにくい人だった。一ばん恐かった。顔が長くて、眇《すがめ》だった。子供の時に凧揚げを見に行き、凧の綱に足を取られて倒れたはずみに、竹か何かにさしたのだそうだ。然しその顔には気品があった。
一生涯、独身であった。若い時に、是非嫁にと言ってきた人があったそうである。英語の先生で、美しい口髭を生やし、太い縮緬《ちりめん》の兵児帯をしめた立派な人だったという。時々訪ねて来ては、話をする暇に、英語を教えてくれたそうである。僕達は時々面白半分に尋ねたものだ。
「犬は?」「ドッグ」「猫は?」「キャットだろう。そのくらいはまだ覚えていらあね」そう言って大伯母は笑う。
ところが、その英語の先生はよそからお嫁さんをもらってしまった。――勿論、それが大伯母の独身の原因の全部とは思えないけれど。
気に入らないことがあると誰でも叱る。祖母まで叱られるのであった。お盆のお使いものだとか、蒲団の綿の打ち返しだとか、他家とのつきあいや家の中の細かな眼の届き難いことの取締りをするのが大伯母であった。
「父母の外に伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通点の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません」と父は書いている。
大伯母の父への愛は深く、一生、それは渝《かわ》ることがなかったといってよい。人工栄養で育った虚弱な父は、幼い頃から病気をし勝ちだった。そういうときにいつも一ばん心を痛めるのは大伯母であった。ある夕方、父はひきつけの発作を起した。大伯母はちょうど髪をといて洗っている最中だったがその報せをきくと、すぐに父を抱え、濡れた髪をふり乱したまま、裸足で夕暮れの町を走り、医者の家へ駆込んだ。それを見た町の人達は、狂人だと思ったという。
大伯母と祖母とは、祖父が死んでから尚七年近く生きていた。そして同じ年、大伯母は八十二歳で、祖母は八十一歳で、死んだ。
彼は結婚した翌日に「来〓々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と言ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまゝ。……(或阿呆の一生・14)
彼はいつ死んでも悔ひないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相変養父母や伯母に遠慮勝な生活を続けてゐた。……(同・35)
或声 お前の家庭生活は不幸だつた。(闇中問答)
例えばこの様な章句から、父の悲しみや苦しみを感じるのはよい。しかしそれは誰が悪いのでもなかった。父自身書いた通り愛し合うことが苦しめあうことだったのである。とはいえ、それをおしひろめて、暗鬱な家庭を想像することも、また無用な事である。田端の家の日々は寧ろ静かにととのっていた。ただ父の心はもうどうしようもない程暗くなっていたのである。
父の書斎は二階の八畳だった。(後になって階下に建増しをして、そちらへ移った)廊下に籐の椅子と卓とが置いてあり、そこから、庭が見下ろせた。煙草の吸殻を庭に捨てる客があると、父はたいそう不機嫌になった。そういう鈍い神経は父にとっていちばん堪え難いものであっただろうと思う。
食事の時間になると、階段の下から二階で仕事をしている父に声をかける。「龍ちゃん、ごはんだよ」と老人達はいう。母は「お父さん、ごはんです」という。それに応じて二階から「はい」という返事が聞える。
幼い僕は、たぶん祖母にでも教えられたのであろう、「とうちゃん、まんま」と呼んでいたそうである。それがしまいには、父の返事を真似て「とうちゃん、まんま、はあ」と言うようになったそうである。ずいぶん後まで、祖母はこの事を一つ話にしていた。
「お槍でせ、よやまかせ」という妙な文句を教わったのも祖母からである。はたきの柄を掌に挾んで廻すとはたきの先が波を打ってよじれる、それが面白くて遊んでいると祖母がこの文句を教えてくれた。「供奴」か何かの文句なのであろう。はたきから毛槍を聯想したのは如何にも芝居好きの祖母らしい。――ある日、父と母に連れられて、牛込にある母の実家へ行くことになった。松住町かどこかで市電を乗換えた。僕は父と母との間にはさまり、座席に膝をついて窓から外を見ていた。人が通る、自転車が通る、いろいろな店が次から次へと現われる。するとふと一枚の余り大きくない看板が目に入った。字は読めないが、そのまん中に毛槍を持った奴さんが一人踊っている。僕は思わず「お槍でせ、よやまかせ」と叫んでしまった……母に背中を叩かれたような気がする。振返ると車中の客がみんなこっちを見て笑っている。余程大きな声だったらしい。
父も下を向いておかしそうに笑っていた。それから僕の方を向いて、「電車の中であんまり大きな声を出すものじゃないよ」と言った。
家へ帰ってから、この出来事はいい話の種になった。祖父も祖母も、みんな笑った。「いやあ、どうも実に閉口しましたよ。みんなが此方を見てしまってね」と父は、さも困ったように笑いながら、祖父に話しかけていた……
父の仕事が終って、階下の茶の間や縁側で家の者達と寛《くつろ》いでいる時に、せがんで話をして貰うことがあった。父のお得意は「西遊記」だった。僕の方でもそれが面白くて、いつも続きをせがんだ。孫悟空は僕の幼年時代の英雄だった。
怖い話をと頼むと、ラフカディオ・ハーンの「のっぺらぼう」の話をしてくれる。
もっと怖い話を、とねだったことがある。「もっと怖い話?」父が暫く考えていると、傍の祖父が「××(これは覚えていない)の話はどうだい」と言った。すると父は頭を振って「ああ、あれは恐い。だめですよ。話している方が恐くなる」と言い、祖父と声を揃えて笑った。その話は到頭きけなかった。
母に買って貰ったクレヨンを持って行って孫悟空の顔を書いてくれと頼んだ。父は早速猿の顔を描いてくれた。猪八戒、沙悟浄、三蔵法師と次々に注文するのを、「よし、こんどは樺色」「こんどは緑色」と一々色をかえながら描いてくれる。「じゃこんどは牛魔王」「牛魔王か?」父は紫のクレヨンを手にしてしばらくためらっていたが、「だめだ、牛は難かしくて描けないよ」と言った。「お祖父さんに描いて貰えよ、お祖父さんがいい」
「何、牛魔王かい?」と祖父はクレヨンを受取ると、それでもどうやら牛の頭らしいものを描き上げた。
「どら」とのぞき込んで父は首を傾ける。「なるほどね。――しかしどうも変だ」「おかしいかえ」「ええ、なんだかねえ」「どれ」と祖父ものぞき込む。「おかしかないやね。これ位描ければいい方だ」「そうですかね」――途端に、父は噴き出す。「ああ、そうだ! 耳がないじゃありませんか、この牛は! どうも何かが足りないと思った!」
隣の茶の間で、祖母や大伯母や母が笑い出す。
「もうろくしましたね、お祖父さん」と大伯母が冷やかす。
「なに、一寸忘れたんだあね。角に気を取られたからね」そんな言訳をしながら、笑いの止らなくなった父と僕といっしょに祖父も照れ臭そうに笑っていた……
――婦人画報――
父の出生の謎
昭和三十年十月六日の東京新聞は、その社会面のトップに、「芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表」「母親は横尾その、実家新原牧場の女中」という見出しで、次のような記事を掲げた。
芥川龍之介はだれの子供だったのか? 出生の秘密は芥川文学の研究にも大きな関係をもつものとして芥川没後三十年来追及されつづけてきたが、その秘密を知るただ一人の旧友が、近く永い沈黙を破って謎を明らかにするという。この新事実によって芥川研究は根本的に再検討されなければならなくなり、芥川研究家の間に波紋をまき起すことになろう。
話は昭和七年、芥川の旧友小穴隆一氏が「中央公論」に発表した「二つの絵」と題する文章にはじまる。
「彼の棺にクギを打つときに“これを忘れました”惶急《こうきゆう》――に彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之助。断じて龍之介とは書いてなかった臍《へそ》の緒の包みである。のみならず、新原、芥川そのいずれでもない苗字を読んだ」
小穴氏の書いたこの一節は当時センセーションをまきおこし、主治医の下島勲氏は文藝春秋誌上で激しく小穴氏に迫り、○○は松村ではないかとの質問をした。
芥川龍之介は従来明治二十五年三月一日新原敏三、ふくの長男として生れ、父母大厄の年月日に生れたので当時の慣習によって捨子の形式をとり新原家の使用人松村浅二郎が拾い親となり、間もなく母方の伯父芥川道章の養子となったとされている。
しかし小穴氏は松村ではないといったままかたく沈黙をまもった。
ここでいよいよ「謎」なるものが明らかにされる。
「芥川死後三十年」小穴氏は、「当時は周囲を傷つけてはとの配慮から伏せていた事柄も“時効”となり、真相を伝えることが故人に対する親しみを読者に与え、またゆがめられた研究を正す一助にもなればとの考えから」近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」というのである。ふたたび記事の引用をつづけると、
当時実父新原敏三が新宿区内藤町に営んでいた牧場に「横尾その」という女中がいた。芥川はその女中を母として生れた私生児だったわけで、小穴氏はこの出生の秘密を知った瞬間を次のように語っている。
「いよいよ出棺の間ぎわ、棺をあけて最後の別れをすることになったが、暑い盛りのこと、遺体がいたんではいないかと隣にいた谷口喜作民(俳人)がフタをあけたとき、茶の間の方から文子夫人が小走りにきて“忘れ物”といって一字が五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い紙包を棺のなかにすべりこませた。いろいろ自己を語っていた彼も、この事だけは一度も生前話したことがなかったので、全く驚いた」
「全く驚いた」のは小穴さんばかりではない。僕もまた、この記事を読んで「全く驚いた」というほかはない。(ことわっておくが、僕はこの「芥川龍之介の出生の謎判る」という記事を、ほとんど完全に引用したので、任意に抄出したのではない。この後には、この「新事実」なるものにたいする福田恆存氏と吉田精一氏との意見、および「読者はこのことによって、そのような宿命を負いながらそのような作品を書いた芥川に、より深い愛情を覚えるのではないかと思う」という小穴さんの談話が、記されているだけである)小穴さんはどうしてこんな辻褄の合わぬ話をしたのだろうか。東京新聞はどうしてこんな不備な記事を、しかも社会面のトップにのせたのだろうか。
「秘密を知るただ一人の旧友」たる小穴さんが「近く永い沈黙を破って謎を明らかにする」という。「真相を伝え」るために近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」という。そして「秘密を知った瞬間」を小穴さんは「文子夫人が……五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い(臍の緒の)紙包を棺のなかにすべりこませた」と語っている。
そうすると、近く「伏せられた苗字が『横尾』だったことを明らかにすることになった」も何もない。小穴さんはこの新聞記事ですべてを語ってしまったことになる。いきおい、芥川龍之介がその実家である新原家にいた女中「横尾その」を母として生れた私生児であることと、臍の緒の包みに「横尾」という苗字が書かれていたこと、その二つの事柄の間を結ぶ糸こそ、小穴氏の「近く公表」するという「真相」であるにちがいない――この記事はそうとしか受けとれぬように書かれている。この記事の第一の特徴は、読むものに、そういう暗示的効果を与えるように書かれているところにある。僕は一寸「次週公開」という映画の予告篇や、「近日発売」という書店の広告を聯想したほどである。
わかりきったことだが、父が仮に私生児だったとしても、べつにどうということもない、まして、父の文学をおとしめることには毫《ごう》もならないと、僕は思っている。しかしこの記事に関する限り、どう考えてみても、臍の緒の「苗字」と、「女中横尾そのを母として生れた私生児」という二つの事柄のあいだを結ぶ糸など、ありようがないのだ。
しかし小穴さんにはその二つの事柄を結ぶ糸だけが見えたらしい。小穴さんは臍の緒の包みに「横尾龍之助」と書かれているのを認めた。小穴さんは新原家に「横尾その」という女中のいたことを知った。それで小穴さんは「横尾その」女を訪れて、訊いてみるとよかったのである。――いや、何を訊くにも及ばなかったであろう。会うだけで、十分だったのだ。なぜなら「横尾その」女は、芥川龍之介より一つ年下のひとだったのだから。
しかも「おそのさん」は新原家の女中だったのではない。本所の芥川家にいた女中だった。明治四十三年五月、内藤新宿二丁目七番地に住んでいた龍之介の実姉ヒサは、芝の新原家へ移った。その後へ、留守番として、本所の芥川家から芥川フキ(龍之介の伯母)と一緒に来たのが「おそのさん」である。「おそのさん」は十八歳。芥川龍之介は十九歳、一高へ入った年である。龍之介の実姉、当時二十三歳であり、現在六十八歳である葛巻ヒサは、今でもその「小柄なおそのさん」をはっきりおぼえている。そうしてまたその「おそのさん」は、その後女中をやめ、横尾家へ嫁して、はじめて「横尾その」となったのである。「おそのさん」を知っているのは、この伯母葛巻ヒサひとりではないことも、つけ加えておこう。
そうすると、「母親は横尾その、実家新原家の女中」という大見出しは、どういうことになるのだろうか。自分より年下のひとから生れることは誰にも出来ないことであり、「母親は横尾その」だとすれば「芥川龍之介の出生」はまったく「謎」というよりほかはないことがよく「判る」のである。つまりこの記事の第二の特徴は、実証性が全然欠けているところにあるということになる。
「芥川死後三十年」かも知れぬが「横尾その」女はもし健在ならば六十三歳のはずである。結婚されたのだから、家族の方々もおられることだろうと思う。「当時は周囲を傷つけてはとの配慮から伏せていた事柄も“時効”となり」というが、どうして「時効」なのか。
小穴さんはおそらく、「横尾その」女については、何も御存知なかったのである。小穴さんは臍の緒の紙包を読み、新原家か芥川家かにかつて「横尾その」という女中(実はそれも女中をやめて嫁いでからの姓なのだが)がいたということを、小耳にはさんだというだけのことなのであろう。その二つのものが小穴さんの頭の中で、したがって記者の頭で、如何にも意味あり気に結びつけられたのであろう。実体は何もないのである。
そうすると結局、先に引用した記事の中で問題になるのは、小穴さんの談話の部分だけということになる。「横尾その」女が生母でないとしても、「横尾某女」が生母だったことは考えられる、ということになるだろう。ただし、小穴さんの語っていることに誤りがなければ、である。小穴さんは臍の緒の包みを「一字が五センチぐらいの大きなかい書で横尾龍之助と書かれた白い紙包」だったと語っている。ところが、母が父の伯母フキから渡されて持って行った臍の緒の包みは、この記事式にいうと「縦八センチ横五センチぐらいの小さな紙包」だったそうである。なかにはよほど大きいのもあるかも知れないが、臍の緒の包みというものは、まあ大抵は、その位の小さなものであろう。それに一字が五センチぐらいの大きな楷書で名前が書いてあったというのだから、話が難かしくなる。
母は、臍の緒の包みをいれる前に、「縦三〇センチ横一二、三センチの白い紙包」を父の書斎からもってきて棺の中に入れたそうである。それならば、大きな楷書で名前でも何でも書けるだろう。しかし、その紙包には何も書いてなかった。そして内容はむろん臍の緒であるわけはなかった。母は、結婚する前に父にあてて出した自分の手紙を、ひとまとめにして棺におさめたのである。
こういう風に、一ばん大事なところでさえ、小穴さんは記憶ちがいをしているのである。これで「『横尾』だったことを明らかにすること」が出来るのだろうか?
九月二十六日、大阪にいた僕は、東京新聞の記者から、長距離電話で、右の「新事実」なるものをきかされ、意見をもとめられた。僕はナンセンスだと答えた。そして旅先のことでくわしい事は分りかねるが、かりに横尾という姓が明記されていたとしても、そこから横尾その女が芥川龍之介の生母だったという結論だけが出てくるとは限らないだろう、拾い親だった松村氏が、実は横尾氏だったという考え方も、同様に成り立つ筈である、といった。十月六日に僕は帰京し、さきほどの記事を読んだ。翌々日、僕は小穴さんとある席上で会い、いままで書いてきたような事実を述べた。それに対して、小穴さんは「横尾」と書いてあったことを主張されただけで、他のことは一つも否定されなかった。
意見をもとめておきながら、それを抹殺して、一方的なセンセーショナルな記事に仕立てあげた東京新聞は、果して、記事の訂正を肯《がえ》んじなかった。
くりかえしていうが、芥川龍之介が私生児であったかなかったか、そんなことをいうために僕はこの文章を書いたのではない。まったく関係のない人が、根拠のない「時効」を理由に騒ぎたてられては、たまらないだろうと思うからである。
――一九五五年一二月 文藝春秋――
木垣悠介 ……一寸、死んだ母や友人達のことを思ひ出してたんです。……流れる水をみつめてゐると、遠い國や古い昔のことに心が誘はれるといふのは、本當ですね。
堀田善衞・加藤道夫「〓國喪失」
北軽井沢にて
北軽井沢へ来ています。
岸田先生の山荘をお借りして、一と夏、ゆっくり休養するつもりで出かけて来たのですが、ここの自然はあらあらしく、明暗ともに激しいので、こっちまで、もうすっかり健康を回復したような気分になって、いささか体をもてあましています。
昔ここには、美しい球形の藁屋根をもったオランダの農家風の山荘が建っていました。学生時代に、加藤道夫達と一緒に、はじめてここへ来た時には、なんだか、外国の高原へでも来たような気がしたものです。
冷たい乾燥した空気、楡《にれ》や白樺の林をのぼってくる渓流のひびき、近い山肌を渡ってゆく青い雲の影。放牧の牛や馬の群れ――が見えなかったのは残念でしたが、とにかく、奥さんの注いで下さったブルゴーニュのグラスを、おそるおそる舐めながら(笑わないでくれたまえ、ぼくはそれまで酒というものを、一滴も口にしたことがなかったので)、先生がアントワーヌや、コポーや、ピエトフなどの話をなさるのを、固くなって聴いているうちに、だんだん顔が火照ってきて困ったことを、おぼえています。葡萄酒の効き目だけではなかったようです。
その藁屋根の家は、惜しいことに、戦後間もなく焼失してしまいましたが、今、この山小屋の家のヴェランダに腰をおろしていると、渓流のひびきも山肌の雲の影も、あの頃とすこしも違っていないような気がします。
渝《かわ》らないのは自然ばかりではなく、新しく建てられたこの家も、いつの間にか、十年近い歳月を閲《けみ》しているわけですが、戸口の脇の壁には、その十年の昔のままに、先生の雨外套がかかっています。釣竿があります。早くに亡くなられた奥さんの縁のひろい麦藁帽子があります。本棚には、「ルナール日記」の幾冊かが、何気なく背をならべています。すべてが、昔のままです。こちらの方は、むろん、衿子さんや今日子さん達の心づくしに違いありません。
家の横手に、低い野茨の垣に沿ったささやかな空地があり、その向うの木立の陰に、これは文字通りの山小屋が、かなり古びた板庇をのぞかせています。
この建物は、先生が、医療の便のわるい土地柄を考えて、ゆくゆくは、小さな診療所にでもするつもりで、村はずれに捨てられたようになっていた古い小屋を、わざわざ引いてこられたものだそうです。
こういう辺鄙なところにも、自分から進んで赴いてくる医者が、ないとは限るまい。もしそれが、世を拗《す》ねた初老の医者ででもあれば、なおさら、冬籠りの相手にも恰好だろう。――そんな空想まで、先生はなさったようですが、これはとうとう実現されずに終ってしまいました。いかにも、先生らしい夢です。
そこには、今、別荘番のおばさんが住んでいます。おばさんは、毎朝、自分のつくった新鮮な野菜をとどけてくれます。別荘の人達は、このおばさんによって雑用の果される便宜をよろこびながら、相変らず、医療の便のわるいことを歎いています。
実生活のうえでも、仕事のうえでも、それが実現しなかったために、かえって、いつまでも人を誘いこむ力を失わずにいるような夢を、先生は生涯もちつづけられたように思われます。こういう夢は、理想と呼ぶ方が適切でしょう。
実際、演劇運動の指導者としての先生のお仕事は(作家としての、ではありません)、作品として見ると、尽きない蹉跌の連続、挫折の歴史であるように、ぼくには思われます。ことによると、先生には、何か、失意の趣味とでもいうようなものがあったのではないかと、そんな臆測までしてみたくなるくらいです。
演劇の教師として、劇団の首脳として、先生は、誰も真似手のない独創的な構想を立てられながら、それが実行に移されてゆくうちに、そこに託されたご自分の理想が、中途半端な、出来合いじみた現実と化してゆくことに我慢がならず、途中で投げ出してしまわれるようなことが、たびたびあったように思われます。近くは、文学立体化運動と呼ばれた「雲の会」の場合なども、その一例といえるでしょう。俳優の教育、劇団の経営、舞台の組織、万事がそうだったといっても、言い過ぎではないかも知れません。
毅然とした理想家であり、すぐれてストイックであった先生が、反面、ゆたかな寛容の精神の持主であったことは、むしろ当然ですが、その寛容さにはまた、ずいぶん思い切ったところがあり、先生の演劇そのものに対する厳しい態度と、その実行における、他者に対する寛容な態度とは、奇妙なコントラストを示していました。
若い俳優に大役をあたえたり、まったく未経験の美術家に装置を委嘱したりするのを、人は、先生の新しい演劇的野心のあらわれと受けとりがちでしたが、それは先生が、誰も注目したことのないところへ注目した結果にすぎず、先生の舞台的作品は、ほとんど常に、未知の夢のために、未知の演劇的可能性のために解放された客間のような観を呈していました。
しかし演劇とは夢ではなく、一種の夢の実現であり、稽古をつづけてゆくうちに、愉しみにしていた若い俳優の演技は、先生の眼の前で徐々に、実現しない夢の陰画からつくられた貧弱な陽画のような、たよりない姿勢にかわりはじめるのです……
すべてこういうことを、先生の実行者としてのエネルギーの不足の結果として捉えることは容易ですが、演劇に対する先生の潔癖な考え方と、そこに由来する果断な自己放棄とは、おそらく、非常に徹底したものだったので、先生はそれらの破綻のある実行を終始一貫つづけることによって、来るべき演劇のための未完の構図をより大きく、より魅力あるものに仕上げたともいえるのです。
「雲の会」の主張は、かえってその自然消滅した後に、いくらか実現されたようです。それまで劇場とあまり縁のなかった文学者、美術家、音楽家の演劇への参加と活動とは、戦後の新劇の一時期を、かなり特徴のあるものにしました。
しかしその動きもこの頃は、いくらか停滞気味のように思われます。先生ならば、またそろそろ、新しい企てをおこす時期にあたっているのかも知れません。
きみとはいつも別れ際に、お互いに、「そのうち、ゆっくり」と言い合うくせに、この頃は、一度も落ちついて話し合ったことがないようです。こちらは今、不本意ながら、大いにゆっくりしている所ですから、都合がついたら、一度、遊びに来ませんか。外国旅行後の話を、いろいろききたいものです。
――一九五六年一〇月 悲劇喜劇――
稽古場の神西さん
神西さんの「ワーニャ伯父さん」は、忘れられない芝居である。チェーホフの芝居を演じることも、アーストロフのような重要な役割を演じることも、私にとっては、それが初めての体験だったからだが、そればかりでなく、「ワーニャ伯父さん」の稽古と公演との期間を通して、チェーホフの芝居を読むこと、チェーホフの人物を演じることへのいちばん大切な心構えを、神西さんから学んだことが、ことに、この芝居を忘れ難いものにしているのである。そして、この、チェーホフの芝居を読むこと、演じることへの鍵は、そのまま、すべての近代劇を読むこと、演じることに、通じているようであった。
神西さんの、引き緊った、味わいの深い訳文は、一見、喋りよさそうに見えて、実は、なかなか難かしかった。それは、チェーホフの難かしさだ、と私には思われた。私は、その難かしさの正体を突きとめたいと思い、一日じゅう、台本を読み暮した。食事中や、往来を歩いている時にも、小声でせりふを呟きつづけた。のぼせていたのである。
神西さんは、ほとんど毎日のように稽古場へ来られた。
舞台で、私達が稽古をしていると、稽古場のうしろの扉がそっと開いて、外套の背中を丸くした神西さんが、鞄を両手でかかえ、嬉しそうな、いくらか照れ臭そうな、独特の微笑をうかべて、足音を忍ばせながら入って来られる。それを見ると、私達は、妙に安心したものだ。役の解釈や、演じ方のうえで、分らないことや、確かめたいことが、たくさんある。それが叶えられるという期待がある。が、それ以上に、私の場合には、はじめての大役をうまくやりこなせるだろうかという心配や、長い舞台経験をもつ先輩達の間に、ぽつんと一人だけ置かれていることの不安や、そんなことまでも含めて、こちらの力が足りないために苦しんでいることを、察してくれる人、相談相手になってくれる人が現われたという気がするからであった。
神西さんは、ストーヴの傍の肱掛椅子に腰をおろし、ブライヤーのシガレット・ホルダーを取り出す。せりふを聴きながら、台本をひろげる。眼鏡を額にあげ、ときどき、原書を見くらべる。煙草に火をつける。さて眼鏡をおろし、ホルダーをすこし上向き加減にくわえると、舞台へ眼をむける。唇を引き締め、ひげ剃り後の青い顎を引き、やや額越しに、私達の方へ視線を向ける。するとたちまち、私達は、自分達の役の感情の充実していないことや、せりふのしゃべり方の不自然なことや、身体のこなしのぎごちないことが、つまり、演技の嘘が、気になり出すのだった。自分達がいまつくり出そうとして足掻いている小世界について、自分達以上に、深く心労している人に現にそこに居り、その人の眼が、私達の借りものの感情の衣裳を、すっかり見通しにしていることが感じられて、急に裸にされたような、恥ずかしさと心許なさとを覚えるのだった。
アーストロフには、作者チェーホフ自身の面影がある。彼は教養のある理想家肌の人物であり、自然と人間とを愛し、医師としての務めを果す傍ら、亡びてゆく古いロシアの森を根絶やしにしないために、植林に精を出している。しかし、彼の周囲の現実は、絶望的なものである。彼は酒を飲む。昔、手術中に死んだ患者の記憶が、ときどき不意に彼を襲う。
なるほど、その通りである。しかし、稽古は、けっしてプラン通りには運ばないものだ。はじめにつけた見当が、外れていたことが分ってきたり、こちらの感じ方や考え方が変ってきたりする。チェーホフは、一体、どういうつもりでこの人物を書いたのだろう、というような根本的な疑問に、あらためてぶつかることもあり、そのために稽古がうまく行かなかった日などは、自分にはチェーホフはまるで分っていないのではないか、という索漠とした気分に陥ることもあった。
そういう時は、神西さんは、私の質問にたいして、いつも、実に適切な解答を与えられた。神西さんの一言で、あたりが急に明るくなってゆくような思いを、私は何度したか分らない。
神西さんの指導は、具体的で、徹底していた。その頃、私は、せりふの語尾をのみこんでしまう悪い癖があり、毎日のように、神西さんから注意をうけた。この悪癖はなかなか抜けず、私としては、せりふのもつ感情を正しく表現するために、語尾の力を抜き加減にして喋ったつもりでも、客席へは全然通らないのだった。これでは、一字一句に神経のゆきとどいている神西さんの台本を、ぶちこわしているのも同然だったから、神西さんは、さぞ我慢がならなかったことだろう。
――まだ消えますな、語尾が。はい、今日はここと、ここと……
語尾の消えたところに、全部印をつけた台本を、神西さんは根気よく、たびたび私に示された。
台本のせりふを、隅々までしっかり読み、しっかり言うという、役者にとっていちばん初歩的な、いちばん大事なことを、私は「ワーニャ伯父さん」によって学んだのだった。
最後の幕で,教授夫妻が去った後、舞台は嵐の後のように、ひっそりと静まる。アーストロフも帰り支度をはじめる。
――ここのアーストロフは、深刻になっちゃいけませんよ。チェーホフの言うように、口笛を吹いている気分なんですからね。
――いくらなんでもそんなに明るくはしゃべれないでしょうね。このせりふではね。
――これから仕事場へでかける労働者なんですからね、アーストロフは。大地をふみしめるように、腰をのばして、しっかり立って下さい。
神西さんの丹念な指摘は、限りなくつづいた。
せりふに気をとられると、心の在所が定まらず、感情をしっかり表現しようとすると、その、表現しようという気持だけ、芝居がよけいになるようであった。劇中人物のせりふをしゃべることと、彼の心のドラマを演じることとの間には、完全な一致と、完全な無関係との間の、無限のニュアンスがあり、それを捕捉することに、私は苦しみ通した。それは十年後の今日でも、私に残された問題である。チェーホフに対する理解と、愛とを、極端に押しすすめ、直接、作者の創作の生理にまでふみ込もうとした神西さんに導かれて、私は、役者の仕事を、はじめて知ったと言えるのである。
――中央公論社 チェーホフ全集月報――
加藤道夫のこと
加藤道夫は不意に死んでしまった。
全く、不意にというより他はない。大阪の宿屋で、最初の報せをきいた時、信じ兼ねた。大喀血かと思い、すぐ、事故にでも遭ったかと思い直した。最近は、体重も一貫目近くふえたと自慢していたし、伊豆での翻訳の仕事も、思いのほかはかどったらしく、元気だった。自殺とは、東京への電話で分ったが、その死の事情は、尚更に信じ兼ねた……
死の一と月ほど前に書いた未発表の短い文章のなかで、彼は生きることの苦しさを語っている。
――われわれは社会という不安定な限界状況に拘束されなければ生きてゆけない、そういう悲劇的な歯車とかみ合いながら、しかも本質的な仕事をしてゆくためには、作家たるものは、心身ともによほど健康でなければならない、という意味のことを書き、「書かなければならぬといふ強迫観念に取り憑《つ》かれてゐる」彼自身の、健康の十分でないことを歎じている。死後にこういう文章に接してみると、彼のその「一種のノイローゼの状態」について、思い当る節もなくはない。しかし、彼は生活の上でも文学の上でも、そういう苦しみを、決して安っぽく売り物にしたことはなかった。それだけ、彼の死は、ぼくらにとって、唐突であり、衝撃的であった。
この短い一文中に窺われる彼の心境から推すと、最近の彼は、作家として、一つの転回点にさしかかっていたのではないかという気がする。
実際、これまでに彼の書いた戯曲の主人公達は、皆、社会生活の「悲劇的な歯車」とかみ合いつつ生きることを、抛棄する人間達であった。「なよたけ」の文麻呂も、「挿話」の将軍も、「思ひ出を売る男」の男も、「襤褸《ぼろ》と宝石」の民夫とジュリアも、皆、現実生活の覊絆《きはん》を脱することによって、より高次の世界に――彼の言葉をかりれば「彼岸の秩序」に生きようとする人間達だった。
最近の彼は、それらの作品をつらぬく、歓喜の逃走ともいうべき主旋律の呪縛から、かなり意志的に、脱け出そうとしていたのではあるまいか。
それならそれで、一度思い切って、いやな奴や、みにくい争いや、滑稽な制度や――要するに彼自身のかみ合っている歯車の数々を、書き潰してしまったらよかったのではないか。――しかしまた、彼の胸裡の「劇場」は、そんなグロテスクな作品を、レパートリーとして採用することを拒んでいたのに違いない。
加藤ほど、劇場を、浄らかな場所として考えていたものを、僕は他に知らない。劇場は、彼にとって、すべて、善いもの、美しいもの、純粋なもので満たさるべき「小宇宙」だった。
戦後に書いたエッセイ「演劇の故郷」のなかで、彼は、現代の劇場の堕落を指摘し、それが本来の姿――祭壇にかえるべきことを強調した。演劇の本質的機能を活溌にし、高揚することによって、劇場を今日の喧騒と衰弱とから救い生かそうとする彼の態度は、戦争中、「なよたけ」を書いた頃から、死に至るまで一貫していたといってよい。
彼は、一面、学者肌でもあったが、しんからの芝居好きであった。この「小宇宙」の夢を現前させるためには、書くだけでは十分でなかったのである。
劇作家としての彼は、ジロドゥーに最も深く、次いでシェイクスピアとクローデルに、傾倒していた(サルトルやカミュの戯曲もいくつか訳しはしたが、そんなものを本気で学んだ形跡はない)。彼は――ふたたび彼の言葉に従えば、「息切れのしている」近代写実劇の文体に対して、独特の声調と色彩とをもつ詩的文体をつくり出した。しかし、彼に乗りかかっていたのは、ジロドゥーばかりではなかった。フランス現代劇の小宇宙を完成した指導者コポーや俳優ジュヴェが、彼の体内に同居していたのである。恐らく、死に至るまで。
病気は、彼の書くことを妨げる前に、彼の、芝居の実際の仕事にたずさわることを妨げたのだ。彼の戯曲のトガキの、演出や演技に対する指示の精密なこと、時には、演出者や俳優に対する倫理的要求さえも含んでいることは、決して偶然ではない。
戦争中、一緒に「新演劇研究会」という集まりをつくった。一年に一回、六カ月稽古をして、二日位、発表会をやった。学生劇団には有り勝ちのことで、戯曲の創作、翻訳から、演出、演技、装置、ポスター描きから切符の売り捌《さば》きまで、二人は大抵何でもやった。昭和十六・七年のことだ。
最初の発表会に、彼はポール・グリーンの「ろくでなし」を訳し、処女作「十一月の夜」を演出し出演した上、僕の演出したジュール・ロマンの芝居にも俳優として出演した。「ろくでなし」の女主人公を演じたのは、後の彼の夫人、加藤治子だった。
翌年は阪中正夫作「田舎道」を演出し、出演した。
まだ誰も、――恐らく彼自身すらも――彼が劇作家になろうとは思っていなかった。
その年の秋、やせた僕は軍隊に入り、がっちりして見える彼は残った。予想とは正反対だった。
やがて友人の誰彼も、徴用や何かで、少なくなって行った。ひとりになった彼は、「なよたけ」を書き、南方に発った。戦争が終り、彼はマラリアに冒されて帰ってきた。そして胸を病んだ……
近頃の彼の一ばん愉しそうだったのは、一昨年の夏、文学座アトリエの関西公演に、俳優として出演した時だった。出し物はサルトルの「恭しき娼婦」、女主人公の若い娼婦リッジーには夫人が扮し、彼は老黒人の役、演出はぼくだった。気のおけない稽古で、稽古中にも、「アメリカの南部の黒んぼってのはねえ」と講義を始めたり、芝居の途中でいきなり「一寸待った」と声をかけ、舞台から下りて来て、「どうも今日は感情が高揚しないねえ。少し、休もうや」などと、全然演出家を無視して、皆を笑わせたりした。演出に対しても、忌憚のない批評をした。如何にも愉快そうだった。その稽古場の彼は、演技をする作家であり、演出をする俳優だった。
芝居が始まると、大へんな興奮で、同じセリフを何遍も繰返しては、相手役の夫人やプロンプターを戸惑いさせた。しかしその黒人の演技は、絶品だった。
三日目位になると、「どうもあの垂幕のかげにかくれている間が、退屈だね。いきなりこう、ジャズか何か歌いながら、飛び出して行きたくなるねえ。ま、何だな、こんなこと考えるってのは、やっぱり、作品がつまらないんだね。やっぱり、ジロドゥーだな」と、幕間に作家論をはじめたりするのだった。そこには、彼の理想とする演劇運動の、小さな原型があった……
しかし、健康は、彼をいつもこういう状態におくことを許さなかった。書斎の中で、「小宇宙」の重みが、ペンにかかった。それにも拘らず、彼は、あるいは彼の夢は、演劇の実際行動へ誘われがちであった……
彼の潰稿の中には、堤中納言物語や、切支丹の物語に取材した未完の作品がある。作者の姿勢は苦しげであり、その夢は、美しいなりに、「なよたけ」を書いた頃よりずっと孤独な、頑《かたくな》な相貌をあらわしている。それは、本流への通路を断たれた小川の、おのずから形づくった湖のように見える……
すべてこんなことを、ぼくは怱忙の内に認《したた》めている。
十六年の長い交際のうちには、激しい衝突もし、尽きない議論をくりかえしたこともあった。お互いの生き方も変って来てはいたが、ぼくにとって、彼ほど、温かい慰め手であり、純粋な優しい励まし手であった友人はほかにない。かけがえのない友人だった。
僕の方はまた、意地のわるい、皮肉な友人として、彼の死の手伝いばかりして来たようなものだが、一緒にやろうと話し合っていたあたらしい劇場のこと、そこで上演する筈のたくさんの戯曲、その上演のために必要な稽古の方法や劇団生活など、いろいろなことが、一遍に、しかもこんな形でだめになってしまったことを思うと、どうにもたまらない気がする。
しかしまた、彼は、青年達を愛していた。文学座の研究生達や、大学の演劇部の学生たちに、彼の信念を、理想を説いて、倦《う》むことがなかった。彼ののぞんだきよらかな「小宇宙」は、きよらかな心の青年達によってしか実現されない筈であった。彼は、青年達の裡に、自分の夢を託し、それを育てようとしていたのである。その意味では、彼は、明日の演劇のもっともすぐれた鼓吹者であった。
あんなに芝居を愛し、友人達を愛しながら、誰に何も言わず、ひっそりと死んで行った加藤道夫の真剣な志は、彼を尊敬し、慕っていた青年達の内に、うけつがれているに違いない。彼の夢みた「小宇宙」は、青年達の数と同じ数だけの「小宇宙」になって、彼等の胸裡に目ざめつつあるに違いないのだ。
――一九五四年二月 藝術新潮――
千田さんの演出
――千田是也氏といっしょに仕事をしたことがありますか?
あります、二度。はじめは秋田雨雀氏のための祝賀会で、ブレヒトの「第三帝国の恐怖と貧困」を。次は合同公演の「かもめ」を。
――そのときの感想を。
芝居について、いろいろ教わりました。
――千田さんの演出について、何か。
千田さんの演出は、戯曲を截断し分析して、さまざまな舞台的心象や形象をつくりあげ、それらを配列して構成して、そこに生命の通ってくるのを待つという行き方らしく思われました。その結果、ドラマの重心の所在とその運動とが、非常に明瞭にあらわれます。たとえば、劇は、別荘管理人の妻と医者とのちぐはぐな会話の裡にある。それが、舞台の隅に佇んでいる田舎娘の無言の興奮裡に移る。作家と女優との陽気なおしゃべりが、それを併奏する。やがて娘が走り去り、恋人の青年が後を追うと、ドラマも舞台の外へ出てゆき、娘をよぶ青年の声の長い木魂とともに、月光を浴びた灌木の茂み、湖、尽きない小径、古い館、ロシアの荘園の夜の静寂をつつんでしまう……すべてそういうことが、説明されるわけではないが、よく分る。そんなことは、演出のABCで、あたりまえだと思われるかも知れませんが、その何でもないことが、徹底的に求められ行われているということは、あたりまえではないでしょう。ドラマの遠近法、対位法の駆使がみごとで、卓抜だと思いました。
ひとつの作品の演出が、同時に、つねに、演技の原理、演出の原理、演劇の原理の追究をふくんでいるということも、千田さんの演出の大きな魅力の一つです。おかげで役者はちょいと辛いこともあるが、実は、それでなければ演出とはいえまいと、ぼくは思う。
ただ、そういうことを露に示すことを好まない演出家もあり、千田さんは、根が役者だけに、職業の秘密を隣人に打ち明けるとでもいうような、親しいさりげない調子で、屈託なく、堂々と、それをやる。一旦、千田さんの演出で芝居をすると、他の演出が、妙に影がうすく見えてくる――少なくとも、ぼくらのような若い俳優(失礼)や演出家は、そういう気になる――その原因のひとつがここにあることは確かです。
――これまでのチェーホフと千田さんの結びつきについて、何か。
別に、ありません。
第一、あまり見ていないのです。評判だった「三人姉妹」も「イワノフ」も、文学座の公演と重なって、見られませんでした。それだけに、こんどの「三人姉妹」がたのしみです。
チェーホフに限らず、千田さんの近代劇の演出が、いつも独自の生色をたたえているのは、主題の設定や人物の解釈のおもしろさ――いわば、作品にたいする光線のあて方のおもしろさに由来していることは勿論ですが、もうひとつ、配役が巧妙であることも、与って大いに力があるように思われます。大胆な配役、時にはまったく意外な配役から、あたらしい調和が生れてくる。俳優から、その未開発のエネルギーをひきだすことにかけて、千田さんほどエネルギッシュな演出家はないので、こんどの「三人姉妹」にも、必ずその旺盛な意欲がうかがわれるにちがいありません。期待しています。
――一九五六年一〇月 俳優座パンフレット――
宮口精二氏
宮口さんは、釣りとか麻雀とかパチンコとかカメラとか、いろいろなものに次々に溺れる人で、その没頭ぶりのすさまじさは、付き合ってみたものでなければ分らない。道楽にしては真剣すぎ、その事物に徹底的に精通しないと気のすまない質だから、元手がかかる。野球に凝れば、あれこれのポジションを廻り歩いた揚句、ルールを諳《そら》んじて審判に納まるのである。プロテクターやマスクなどの七つ道具も、むろん人から借りたりはしない、ちゃんと自分で買ってくる。
こういう気質は、おのずから藝風にもあらわれるわけで、宮口さんの演技には借物がない。そしてあくまでも没頭的、自己滅却的である。宮口さんの演じる人物の誠実、信念、細心、執着、頑固、貪欲、職業的練達などが、つねにみごとな生彩を放つのも、決して偶然ではない。
この二、三年来、服装に凝り、適度に飲みかつ遊ぶことを覚えて、夫人ともども大いに若返った。まったく憎いひとである。
――一九五七年一月 毎日マンスリー――
文学座演出部
文学座演出部には甚だ特色のある演出家が揃っている。
戌井市郎は生粋の劇場人である。舞台の“寸法”を呑み込み、芝居の“間《ま》”を心得、俳優の持味や色を生かし、小道具に演技をさせる。さまざまな演劇の要素を万遍なく揉みほぐし、手順よく混ぜ合せて、なだらかに纏め上げる。ルイ・ジュヴェによれば、演出家とは、一種のマッサージ師なのである。稽古中、彼が会心の笑みを洩らし、目を細め顎《あご》を引いて、こまかく頷く時、俳優たる僕は実にのびのびした朗らかな気分になる。
長岡輝子は詩人でもあり女優でもある。演出に当っては、独自の感情のリズムに一切を託しつつ戯曲と俳優との混沌《カオス》に身を投じ、慎重極まる模索とおどろくべき果断とを重ねながら、詩的なニュアンスに満ちた雰囲気を創造する。稽古中、じれったくなると身振り手振りで説明した後、手巾を握りしめ、切なげに“分るでしょ?”と言う。こういう時、僕は何かに祈りたいような気分に襲われる。再びジュヴェによれば、演出家とは一種の霊媒なのである。
あとの三人はずっと後輩である。従って、アトリエの仕事に打ち込んでいる。
加藤道夫は戯曲の文体の尊重を説き、俳優の内的生命の充実を説き、演劇における魂の昂揚を説きつつ悠々たる演出を進める。「なよたけ」の作家の演出は何よりも先に倫理的演出である。僕もまた“永遠の今”が身内を流れるのを感じる。三たび、ジュヴェは言う、演出家は一種の求道者なのである。
矢代静一は反写実の旗を掲げて、単純明快な様式化の効果を狙う。笑劇を愛し、モリエールを愛し、心から愉しげに、感覚的なデフォルマシオンの世界に沈湎《ちんめん》する。見ているとちょいとからかってやりたくなる位である。四たびジュヴェによれば、演出家とは一種の恋人なのである。
自分の事は書き難いものだ。まあいい。ジュヴェによれば、演出家とはあらゆる定見・注釈にこだわらない人間のことだそうである。
――一九五二年三月 文学座パンフレット――
文学座時代の矢代静一
矢代静一氏は俳優座から生い立った劇作家である。
ジャン・アヌイがルイ・ジュヴェの秘書だったように、氏が青山杉作氏や千田是也氏の秘書だったかどうか、よくは知らないが、氏が戦争中から俳優座に籍をおき、青山・千田両氏の演出に傾倒し、そこから多くのものを学んだことは確かである。
昭和二十四年、氏は文学座に移り、翌年「アトリエの会」で、福田恆存作「堅塁奪取」の初演の演出をした。
心理の動きを肉体の動きに投影させ、置き換える、その着想や手法が変化に富んでおり、突拍子もない感情の飛躍や、思い切った身体の弛緩《しかん》の生むおかしみが、活気のある笑いを捲き起して、この卓抜な一幕喜劇は文字通り「演劇的瞬間」の充実した連続となった。
私は今でも憶えているが、初日の夜、内藤濯先生は、矢代氏の年齢を、四十歳位かと私に訊ねられた。二十三歳の矢代氏の演出は、それほど行き届いていたのである。
その後も氏は、中島敦の原作から脚色した「狐憑」や、自作の「城館」「雅歌」などの演出を手がけている。氏の抒情的な作品は初期の「アトリエの会」に欠くことの出来ぬレパートリーであった。
しかしある日突然、氏は、今後演出はやらぬと言いだした。「アトリエの会」の企画運営の責任者であった私は、びっくりしたが、演出は健康上よろしくない、劇作に専念したい、第一、作者が演出をするとその分だけ芝居の味が薄くなるような気がするからと氏に言われると、反対する理由がまったくないので、引き下らざるを得なかった。
その後、氏は健康を回復し、こんどは、「ブリタニキュス」「守銭奴」など、フランス古典劇の演出を手がけはじめた。
私が役者として氏の演出に接したのは、「ブリタニキュス」が最初であったが、この演出家はときどき、ふしぎに感覚的な表現で注文を出すので、おもしろかった。
「ネロンは、出てきた時から、もう、恐いほうがいいね」などと言う。
恐いと言っても、いろいろな恐さがあるはずだが、この演出家が、神経質に眉をしかめてそう言い、言い終って、その恐いネロンを一瞬眼前に思い描くような表情を見せたかと思うと、こんどは、いかにもそれに堪能したように、にこにこ笑いだすのを見ると、私には何となく、その恐さが分ったような気がするのだった。
氏は「お芝居」の愉しさをよく知っていて、新劇の舞台にそれが欠けていることを認め、私たちの演技にコクのないことを――つまり、藝になっていないことを、いつも指摘した。芝居を見る愉しみを、「醍醐味」と言った。氏と同様に東京で生れ、東京で育った私は、氏の説に共感することが多かったが、話がこみ入ってくると――例えば「醍醐味」の正体というようなことになると、どこか微妙なところで喰い違いがあるような気がした。氏は歌舞伎にはあまり興味を示さず、宝塚歌劇の話をする。これが、私にはチンプンカンプンなのである。同様に氏から見ると、私の歌舞伎談義などは、徒《いたず》らに古風に見えたに違いない。
「守銭奴」を一ツ橋講堂で上演した時、たまたま来日中のガブリエル・マルセル氏が、見に来て、帰りに楽屋へ寄り、観客の反応がコメディー・フランセーズの舞台とまったく同じ箇所で同じように起る、たいそうおもしろかった、と言ってくれた。自ら劇作もするこの老哲学者の言葉をきいて、氏はしばらく黙っていたが、やがてぽつんと、「モリエールは偉大です」と言った。
このごろ、氏の演出の虫は、おとなしくなったように見えるが、私などには、少々残念な気がしないでもない。
――一九六五年三月 NLT――
原田義人のこと
原田義人と知り合ったのは、加藤道夫の紹介による。原田と加藤とは、府立五中の同窓生だった。
加藤の自筆の年譜によると、昭和十五年――十六年の項に、「鳴海弘、原田義人、鬼頭哲人等を加えて、研究劇団『新演劇研究会』を結成」という記事があるが、原田とはじめて会ったのは、おそらく、昭和十五年であっただろう。そのころ、加藤と私とは、芝居をやる相談に熱中していた。そして、私たちの考えでは、外国文学の勉強をしている友人たちの力をかりることが、どうしても必要なのであった。
築地の国民新劇場(もとの築地小劇場)の廊下に、小山内薫の胸像が立っている。そのすこし奥の、廊下の曲り角で、原田に紹介された。三人とも金ボタンの制服だった。その角を曲ると、「きつね」という、へんな名前の食堂があるのだが、その時はあいにく満員だったので、止むを得ず、立ち話をした。止むを得ず、というのは、その日、原田は、風邪をひいて、咽喉《のど》に湿布をしていたからである。長くのびた髪を、私は、やはり風邪のせいかと思ったが、これは、そうではないことが、後になって分った。
みじかい幕間の立ち話だったせいもあって、次に会う日取りと場所とを打ち合せたほか、大した話もしなかったように思う。原田は、口はあまりきかなかったが、よく笑い、こちらが何か話しかけると、まだほとんど何も言わない内から、うん、うん、と頷《うなず》くようにして、先を促した。別れ際に「じゃ、また」と言い、会釈したままの形で、ちょっと武士のような眼つきになり、それから、丁寧なおじぎをしたのが、ひどく印象にのこった。
原田は、私たちの集まりに顔を出すようになった。神田の錦橋閣という貸席へ、隔日に集まって、戯曲の読み合せをしたり、議論をしたりするのである。
こういう集まりの常で、芝居の理論や、文学に関心をもつ理屈型と、とにかく自分たちで芝居をやらなければ何もはじまらないではないかという実行型とが、群居する中にあって、原田は、いつも、両者の平衡を保つ錘《おもり》のような存在になっていた。
議論に熱中してくると、気負いたった二、三人だけがしゃべり、後の者は、つい黙りがちになってしまう。そんな時、原田が、にこにこ笑いながら、黙っている一人に声をかける。「君、どう思う?」理屈っぽい話や、議論が苦手な者にも、楽に口を開かせる気分が、原田の話しかけの中にはあり、座の勢いに気押されない原田を見ることが、当面の議論とは違った意見をもちながら、口に出すことをためらっている人たちにも、安心して口をきかせる力になるのだった。「そういう考え方も、あるわけだ」と、あいかわらずにこにこしながら、原田がつけ加える。すると、そこから、新しい問題がひらけてくる。そういうことが、幾度か、あった。私たちは、その集まりで、ダルクローズ体操をしていたが、べつに舞台に立つつもりもなく、そんなことはしなくていいはずの原田が、いちばん出席率がよかった。
新演劇研究会は、昭和十六年十一月に、第一回発表会をやった。一幕物の三本立てで、原田は、その内、ポール・グリーン作の「ろくでなし」という、ひどく抒情的な芝居を演出した。これは原田の好みというよりも、訳者の加藤道夫の好みの方が、ずっと勝った芝居だった。この時は、私は他の一つの演出と、役者とを兼ねていたので、原田の演出については、ほとんど何も覚えていない。プログラムの、演出者の言葉の中に、「朱色の塔の(かなしい?)幻想」というような文句のあったことを、うろおぼえに、覚えているだけである。
翌年の第二回発表会に、原田は、役者として舞台に上った。後にも先にも、ただ一度の経験だったろう。モリエールの「亭主学校」の公証人の役で、最後の幕にちょっと出るだけだが、せりふが一つある。「私は正規の公証人です」というだけだが、そのたった一つのせりふを原田はひどく気に入って、後々まで、話の種にした。
「みんな早くせりふを覚えてくれよ。おれはもう覚えた」稽古中にそんなことを言って、皆を笑わせたりした。
発表会は、七月、暑いさかりだった。国民新劇場には、むろん、冷房装置はない。スガナレル役の私は、文字通り汗みどろになり、やがて、芝居は幕切れに近づいた。鬼頭哲人の警部と、原田の公証人とが出てきた。
公証人の前へとんでゆき、せりふを言いながら見ると、原田は、まったく、原田のままの顔で、こっちを向いていた。かつらと、桃色のメーキャップと、もったいぶった衣裳にもかかわらず、そこにいるのは、原田であった。
と、その青いメバリを入れた眼が、いつもの、武士のような眼になり、おそろしく大きな声で、せりふが鳴り響いた。「私は正規の公証人です」――私はびっくりして、彼の手から、鵞《が》ペンを取りそこねた。原田は依然として、武士のような眼で、こっちを見ていた。しかし、手は素早く動いて、私が鵞ペンを取り易いように、インク壺を傾けていた。その顔は、「私は原田義人です」といっているようだった。
その年の九月、私たちは繰上げ卒業で大学を出た。
――一九六〇年一一月 カオス――
二人の友
加藤道夫にはじめて会ったのは、大学の予科二年の時である。
加藤は法科、私は文科で、教室では一度も顔を合わせたことがなかった。加藤は「素描」という同人雑誌に加わっており、前衛映画風のシナリオや小説などを書いていたが、その雑誌の仲間が私のクラスにもいたので、なんとなく噂はきいていた。
会ったのは、当時、新劇の常打《じよううち》小屋のようになっていた田村町の飛行館の廊下で、芝居は、結成後間もない文学座の「蒼海亭(マリウス)」であった。
はじめて見る金ボタンの制服の加藤道夫は、人なつこい、精力的な仔熊のような顔をしていた。
終演後、新橋の喫茶店で話をしたが、何の話であったか覚えていない。ただ加藤が、ユージン・オニールの作品の名をあれこれとあげて、「君、読みましたか?」と、ちょっとはにかむような微笑をうかべながら、しきりにきくので、閉口したのを覚えている。私はオニールを読んではいたが、あまり好きではなかったのである。
それ以来、加藤と私とは意気投合して、いっしょに映画を見たり、後年そろってその劇団に入ることになるなどとは夢にも思わずに、文学座の芝居を見たり、文学や芝居について、はてしのない長い議論をくりかえしたりするようになった。
加藤の家は世田谷の若林にあった。その西洋風の建物は、北原白秋の旧居で、自分の部屋がたまたま白秋の書斎にあたっている偶然を、加藤はおもしろがっていた。彼の代表作とされている「なよたけ」は、白秋の世田谷時代の作品と同じ部屋で書かれたことになる。
ある夏の夜、加藤の部屋で遅くまで話しこんで、泊ることになり、床に入っても、まだ話が尽きず、明け方になって、ぼんやりしてきた頭で、とりとめのないことをしゃべっていると、突然、牛が啼き出した。近くの農家の牛だという。
「あいつも、腹がへってるんだろうな」とまじめに加藤がいい、私たちはとたんに噴き出して、笑いがとまらなくなった。実はこちらも二人とも、空腹に耐えかねていたからである。牛は三十分啼きつづけた。その間じゅう、私たちは、「白秋もあれを聞いたことがあるかも知れないな」とか、「牛は話相手がないからたいへんだ」とか、「自分で朝のミルクを飲むというわけにもいかないだろうしなあ」とか、たわいのないことを言っては、涙の出るほど笑い合った。
こういう時の加藤は、じつに明るく、陽気で、茶目で、文字通り、天真爛漫であった。「なよたけ」は、ほとんど天上的といってよい心情の持主であった加藤にして、はじめて書き得た作品であったが、そのおなじ無垢《むく》の心が、彼を死においやったと言えなくもない。
まもなく加藤と私とは、「新演劇研究会」という学生劇団をつくったが、加藤には人をあつめる独特の才能、というより、人徳があり、この劇団はほとんど加藤が一人でつくったようなものであった。
その、あつまって来た仲間の一人に、原田義人がいた。加藤とは五中の同期生で、当時東大の独文にいた原田は、文藝部員という格で、劇団に参加した。
築地の国民新劇場の廊下で加藤に紹介されたのだが、上体を深く曲げるおそろしく行儀のいいおじぎと、青白い顔と、ものすごく長い髪とに、びっくりした。長髪は、当時としても流行おくれの文学青年風俗で、私はちょっと気おくれしたが、話しているうちに、彼の敏感で快活な話しぶりや、誠実なものの考え方に、すっかり感心してしまった。
「新演劇研究会」の第一回公演は、昭和十六年十一月。国民新劇場を借りて一幕物の三本立てで上演したが、その内の一本は、ポール・グリーン作・加藤道夫訳・原田義人演出の「ろくでなし」であった。翌月、太平洋戦争がはじまり、アメリカの芝居は上演禁止になったので、この「ろくでなし」は東京における戦前最後のアメリカ劇上演であったろうと思っている。
翌十七年の夏の第二回公演には、坂中正夫作・加藤道夫演出・主演の「田舎道」と、モリエール作・鈴木力衞訳「亭主学校」とを上演した。
この「亭主学校」に、原田は、公証人の役で出ることになった。
「私は正規の公証人です」という、たった一つのせりふが、彼はすっかり気に入って、上機嫌だった。表面へ出たがらず、集団の中にいても、いつも縁の下の力持ち的な仕事をひきうけるのが、性に合っているらしかった。舵手《だしゆ》、検査役、そういう役どころになると、原田の緻密《ちみつ》な、誠実な考え方や冷静な行動が、ちょっと真似手のないみごとさで発揮された。
「亭主学校」の初日の晩、主役のスガナレルを演じていた私はすっかりアガってしまった。最後の幕でせりふを言いながら、公証人から鵞《が》ペンを受けとろうとはしたものの、手がふるえて、どうにもペンがつかまえられない。すると、この初舞台の公証人は、「落ちつけ!」と言わぬばかりの眼で私をじっとみつめ、ぺンを私の手ににぎらせ、インクをひたしやすいように、グッとインク壺を私の方へ傾けてくれた。
加藤の劇作家としての仕事、原田のドイツ文学者としての仕事、共に今はふれる余白はない。
ジングルベルの鳴りひびく十二月二十二日の夜、加藤が自ら命を絶った時、私はラジオの録音で大阪に行っていた。暑いひっそりとした八月二日の朝、原田が年にしては早い不治の病に倒れた時には、講演のため足利に行っていて死目に会えなかった。不幸な偶然というべきか。
――一九六五年九月 オール読物――
「ガヤガヤ」の世界
堀田善衞の近著「文学的断面」の中に、「中村君の回想について」という一文がある。
この文章が雑誌に発表された時、私は、文中で堀田が声をかけてくれた通り、入院中であった。中村真一郎の「戦後文学の回想」の読後感を芯にして、渦を巻くように、いわば螺旋《らせん》状に考えを押し進めてゆく、いかにも堀田らしい自由な調子のエッセイで、なかなか面白かったが、その時気がついたことが一つあるので、書いておこうと思う。
それは、昭和十五年、大学予科三年の時に、私達の上演したフランス語の芝居に関することである。
中村が、「ヴィルドラックの『商船テナシティ』をフランス語で上演した時、堀田善衞がイギリス人水夫になり、彼の福井弁を基礎として英語なまりのフランス語を喋るという、妙技を演じてくれたのが、記憶に残っている」と書いたのに対して、堀田が、事実と違うことを指摘し、彼の演じたのはイギリス人水夫ではなく、「終幕ぎりぎりの最後に空《から》の舞台に小生が登場して、たった一言"Adieu!"(あばよ)と言うと、幕がガラガラガラとおりて来るという、そういう役であった」と訂正しているところである。
文中堀田は、宇野浩二、広津和郎両氏や、中村の記憶のたしかな事に感心し、自分は記憶力には自信がないと書いているが、私は、堀田のこの文章によって、すっかり忘れていた事をいくつか思い出した。当時蚕糸会館(今のヴィデオ・ホール)の幕が、あげおろしするたびに、ガラガラとすさまじい音をたてたこと、芝居の後でフランス大使館から贈られた葡萄酒で乾杯したことなど、自慢にはならないが私はまるで忘れていたのである。
だから中村の、そう言ってよければ、思い違いには気のついていた私も、堀田の訂正には、その通りだと思い、べつに怪しみもしなかった。そして、三日ばかり経ってから、待てよ、と思い直した。病院暮しに退屈していなかったら、私はそのまま気付かずにいたかも知れない。堀田の訂正にも、事実と違う点が一つあるのであった。
堀田の演じた役は、せりふの全然ない、無言役であった。"Adieu"というのは、友と別れて独りカナダへ旅立つ青年セガールのせりふだった筈である。
そのせりふを残してセガールがひっこむと、しばらく間があって、旅行者1に扮した高沼寒介が、つまり無言役の堀田が、出てくるのであった。そして宿のおかみが「何を召上りますか?」と声をかけるのがきっかけで、ガラガラガラと幕が降りてくるのであった。
堀田は、「いかに仏語研究会上演の芝居とはいえ、フランス語でフランスの芝居を公演するなどという、甘やかで無邪気なことがいったいいつまでやっておられるものだろうかという、ある切迫したものが胸に迫っていたので」「本当に私は、“おさらばだ《アデイユ》”と思った」と書いている。
堀田は、彼の登場のきっかけであった他人のせりふを、自分のせりふとして覚えていたわけだが、この思い違いは、よく納得が行く。この思い違いには、堀田の「おさらばだ」という気持の濃さが感じられる。「このときの芝居の世界のガヤガヤ(といったら芥川は怒るかも知れないが)からの離別は、私自身の文学的出発にとってはかなりの意味をもったかもしれないので」と堀田は書いているが、たしかにその通りであったろうと私も思う。
ところで私自身は、相変らず「芝居の世界のガヤガヤ」の中にいて、相変らず幕の音を気にしたり、芝居の後で乾杯したりしているから、堀田の眼から見るといつまでも「甘やかで無邪気な」学芸会をやっているように見えるかも知れない。
実をいえば、あの時、私も英語なまりのフランス語をしゃべるイギリス人水夫の役を演じながら、堀田と同じように、フランス語で芝居をやるなどというばかげた事はもう金輪際ごめんだと思い、ただ堀田のように「ガヤガヤ」の世界に背を向けて立去るかわりに、やはり一種の「切迫したもの」に促されて、逆にその世界の奥へ向って進んだのだが(だから私は怒るどころではないのである)、今度本になった機会にこの一文を読み直し、考え直してみると、役者というものはみな本質的に「甘やかで無邪気な」ところがあるように思えてくる。現実と空想との間に、宙ぶらりんになって、他動的に生きている頼りない存在であるように思えてくる。役者は自分だけではほとんど何も生み出すことが出来ず、ただひたすら、作者と同化したい、観客と同化したい、一緒に演技をする他の役者達と同化したいという気持、自分から脱け出したいという気持につき動かされて「ガヤガヤ」しながら生きているのである。
役者は、贋《にせ》の顔をつくり、贋の衣裳を着て、借物の言葉をしゃべり、借物の生活をしてみせながら、まるでそれが本来自分の持物であるかのように意気揚々としている。まず自分がそれを信じなければ、眼の前でたちまち崩れてしまう一つの世界があることを、けっして自分の持物ではない一つの世界があることを、役者は知っているからである。作者が創り出し、観客が活気を吹きこむ、現実よりも濃く、確かに目に見え、耳に聞える想像の世界があることを、よく知っているからである。その世界が崩れてしまえば、役者はまったく無力な存在と化してしまうだろう。
余計なことを書きすぎたかも知れぬ。外国旅行中の堀田の健康を、イギリス人水夫のように「ア・ヴォートル・サンテエエ」などとは言わずに、祈る。
――一九六四年一〇月 三田評論――
演劇の鬼
俳優や、演出家や、演劇運動の指導者のしっかりした伝記は、案外にすくないものだが、最近、本庄桂輔氏の「演劇の鬼・ピトエフ夫妻の一生」を、実におもしろく読んだ。
伝記といっても、かたくるしい評伝ではなく、著者自身の見聞や回想をも織りこみながら、フランス現代劇の一方の開拓者の生涯と仕事とを、綿密に調査し、記録した労作である。ピトエフ夫妻とその藝術にたいする、著者のなみなみならぬ愛情が感じられる。
ピトエフという名前は、年少のころの私には、ひどく新鮮で近代的な感じのする名前であった。アポリネール、コポー、ピカソなどという名前とともに、ピトエフという、澄んだ、そして、すこしおどけた響きをもつ名前を、私は好んだ。
むろん、私はジョルジュ・ピトエフの仕事については、ほとんど何も知らなかったといってよい。彼の上演したというルノルマンやピランデルロの戯曲の翻訳をよみ、ショーやアンドレーエフの作品にたいして彼がこころみた、いくつかの舞台装置の写真をながめ、彼の妻リュドミラの扮したジャンヌ・ダルクの写真をながめては、わくわくしていただけであった。
大学生のころ、「外人部隊」という映画で、はじめてジョルジュ・ピトエフを見た。はじめて、というより、後にも先にも、この映画以外の俳優ピトエフを、私は知らない。なるほど、本庄氏によれば、ピトエフが映画に出たのは、これ一本きりだそうである。
しかし、この映画のピトエフは、何ともお話にならなかった。
これが、フランス現代劇の一方の旗頭とは、到底おもえない。グロテスクで、弱々しく、青年とも老人とも見えるでこぼこの顔には、まるっきり、表情がない。嗄れた声音は、徒らに低く、鈍く、一本調子で、歩き方は操り人形のようである。女主人公フランソワーズ・ロゼエの濶達な演技を引き合いに出すまでもなく、ほんのちょっと出る端役のなかだけでくらべても、この前衛劇の闘将の演じた外人部隊兵士の役は、はなはだ生彩を欠いていた。ピトエフとしても身を入れてやっていたわけではなかったのだろう。
本庄氏によれば、ピトエフは、この映画を見たギリシアの一女性からのファン・レターを、笑いながら子供たちに読んできかせたそうである。「あなたはまったく私の理想の男です。ぜひ結婚して下さい。私は若く、健康で、体重は百キロあります」
ピトエフとは反対に、ルイ・ジュヴェは、映画でも、多くのすぐれた演技をのこしている。ピトエフの藝が、映画向きに出来ていなかったのか。ジュヴェの藝が、映画向きだったのか。私は彼等の舞台の演技を見たことはないが、俳優としては、どうもジュヴェの方が上だったような気がする。しかしそのジュヴェが、どこかで、「われわれの中でいちばん天才《ジエニー》をもっているのはピトエフだ」と言っているのは、あながちお世辞や皮肉のつもりではなかったろうという気もする。
ピトエフ夫妻の劇団のプログラムをみたことがある。地味な、どちらかといえば愛想のないプログラムだが、表紙に、その芝居の作者の肖像(「かもめ」ならチェーホフの肖像)が、大きく掲げられている。そういう体裁をずっと続けたのか、それとも、ある期間だけのことだったのか、いずれにしても、私にはそれが、いかにもピトエフらしい気がした。
プログラムの終りの方に、劇団のレパートリーがのせてある。その作品の数の多いこと、作家の多種多様なことに、私は目をみはったものだ。
ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキー、イプセン、ストリンドベルイ、ショー、ワイルド、メーテルランク、モルナール、シュニッツラー、ピランデルロ、クローデル……すこし大げさな言い方をすれば、ピトエフのレパートリーは、西欧近代劇のインデックスの観がある。
近代劇ばかりではない。シェイクスピアがある。セネカがある。
祖国ロシアをはなれて、フランスで、フランス語で芝居をするという不利な条件が、レパートリーに外国作品を、より多く選ばせたという見方も、むろん出来なくはない。しかし、作家を国籍別にみれば、一ばん多いのはやはり、フランスなのである。若いジャン・アヌイの作品をもっとも早い時期にとりあげたのはピトエフであった。
若い作家といえば、イギリスのロナルド・マッケンジーや、イタリアのレオ・フェレロの作品を取りあげたのも、ピトエフである。日本の岸田国士の処女作「古い玩具」も「黄色い微笑」という題名で、そのレパートリーに加えられる筈であった。
本庄氏も指摘している通り、若い作家、無名の作家の発掘に努力したピトエフの功績は、どんなに高く評価しても、し過ぎるということはないだろう。
そういう、いわば未知数の作品は、概して入りもわるく、上演日数も少ないままに打ちあげになる。その穴を埋めるために、近代劇の名作を上演し、またしても新しい冒険におもむく。経済的負担や、健康上の不安になやまされながら、貪欲といってもいいほどの探求が、絶え間なしに続く。レパートリーはおびただしい数にのぼり、生活は安定せず、時には八方ふさがりの窮地に追いこまれる。本庄氏は、こういうピトエフ夫妻のすさまじい仕事ぶりを、ほとんど余すところなく伝えている。
ピトエフの著わした「われらの劇場」という本がある。薄い大判の、写真のたくさん入った美しい本である。
ピトエフは、演出家、舞台美術家、俳優を一身に兼ねた「舞台の詩人」だったが、この本に収められた文章を読み、舞台写真をながめていると、ピトエフは実に一貫してピトエフだった、という気がしてくる。シェイクスピアもショーも、チェーホフもルノルマンも、ピランデルロもオニールも、ちゃんとピトエフ風の額縁におさめられている。初期から晩年まで、二十年にわたる変化は、どこにも見られない。目まぐるしく趣向の変る日本では、到底考えられないことだが、フランスでも、ピトエフほど、自分の道をかたくなに歩んだ者はない。それこそ、「天才」というものであろう。ジュヴェもデュランもバティも、こういう一貫性を持つことは、ついにできなかったのである。
「われらの劇場」の中の重要とおもわれる文章、舞台写真は、本庄氏の本にもすべて収められている。
しかし、本庄氏の著書のもっとも魅力ある部分は、「ピトエフ夫妻の一生」という副題の示すとおり、ピトエフと、その妻であり、すぐれた女優であったリュドミラの家庭生活、劇場生活を描いたところにある。
リュドミラに、好物の菓子を買ってやり、自分は空腹をかかえているジョルジュ。
夫と、七人の子供達の食事をつくり、食卓では、知人の誰彼の癖を真似て見せ、みんなを笑わせるリュドミラ。
妊娠している妻を、演出上の必要から舞台の高いところに立たせるジョルジュ。
犯罪者の役を、自分にはつらい役だといって、演りたがらぬリュドミラ。
こういう風に書いてゆけば、きりがないことになるが、私には、この「演劇の鬼」の人間生活が、身に沁みておもしろかった。
――一九五八年三月 学鐙――
山崎正和氏の「世阿弥」
山崎正和氏の戯曲「世阿弥」は、昨年俳優座で上演され、「文藝」に発表された折に、すでに世評の高かった作品であり、岸田戯曲賞を受賞している。こんど前作「カルタの城」と合わせて単行本となった機会に読み返してみると、やはりこれは、ただ昨年度の秀作というだけにとどまらず、まれな才能をもった若い劇作家がその力量を十分に発揮した最初の作品であり、近来のみごとな収穫といえる作品であることを、あらためて感じる。
氏は、足利将軍義満の寵《ちよう》をうけて世に時めく壮年時代から、失意の老年に至る世阿弥を、権力者の「影法師」たることを自覚し、その自覚によって彼に拮抗《きつこう》しようとする藝術家として捉えている。「影」に徹しようとすればするほど、すでに消えたはずの「光」がますます輝いてくる。その皮肉が、将軍家の人々、世阿弥一族、乞食藝人たち、三つの群れのたくみな配置によって、繰返され、拡大され、深められてゆく。
緻密《ちみつ》な構成と、よくひきしまった文体と、何よりも、一つのせりふが次のせりふを呼びおこしてゆく正確な動き、そのおもしろさに、私は感心した。氏はまた、人物の登場や場面の継起を、主題の必要に応じて自由に行うという大胆な試みをしており、それに成功している。これらのどの点から見ても、一つ間違えば、この作品は、理屈の多い対話とにぎやかな見せ場との混合した、重厚だが不透明な作品になり兼ねないのである。
氏の世阿弥は、したたかな毒のある毅然《きぜん》とした人物で(それゆえ、白拍子に生ませた娘や、妻との対話にかえって哀切な響きがこもるのだが)、凡庸な甥《おい》に観世太夫の位はゆずっても、秘伝は他人にあずけてしまい、見たければ「頭を下げて見せてもらえよ」と言う。そして「この先何百年、あれ(花伝書)は無数のにせ物どもの躓《つまず》きの石となるのだ。長い長い時の歩みに、私はそうして立ちはだかってやるのだ」「義満が生きる限り、世阿弥も死なぬ」と言う。この第四幕とエピローグの垂死の老人の嘲笑には、ぞっとするような怨念《おんねん》と、するどい皮肉と、微妙なあかるい諧謔《かいぎやく》とが混り合っていて、このマスクは日本の芝居にも外国の芝居にも、ちょっと類がない。おそらく世阿弥を演じる役者にはこの場面は冥利《みようり》につきる場面である。
出来ばえは「世阿弥」に及ばないが、残酷な現代の童話劇「カルタの城」にも、山崎氏の若い才能のひらめきは明らかに示されている。今後の氏に期待し、注目したい。
――一九六四年一〇月 東京新聞――
マクベス どうともなれ、どんな大嵐の日にも、時間はたつ。
シェイクスピア・福田恆存「マクベス」
佐田家則 そりあ、患者にとつては經驗はつねに新しいです。が、醫者にとつては、どれもこれも陳腐きはまるものだ。
福田恆存「龍を撫でた男」
鳩のいる病室の窓で
「調子はよさそうじゃないか」と、見舞いにきてくれた友人たちが言う。「顔色もいいし、頬っぺたがふくらんでいるし、声も前と変らないし、全然元気じゃないか」
ありがとう。食欲も大いにあるし、今週の体重は六十・五キロで、手術前の体重をやや上廻ったし、血沈がまだ三十二もあるのは残念だが、これも徐々に良くなるから心配はいらないそうだしね。あと一と月の辛抱で、手術後の内部検査をうけるところまで、やっと漕ぎつけたわけだが、検査がはじまるころには、入浴も許可されるそうだし、やがて、ぽつぽつ散歩でもできるようになれば、もう退院も間近ということになるらしい。
「痛いかい、手術は?」
いや、痛くはないさ。麻酔がきいているもの。意識が全然ないんだから。
「さめた後が、痛いだろう」
いや、さめた後でも、痛いという感じはほとんどなかった。まったくなかったといってもいいくらいだな。ちょっと意外だった。
「ほう。じゃ、楽なものだな」
いや、楽じゃないよ。なんともやりきれない気分だったね。胸がずうっと痺れて、重いような、息苦しいような……
「虫の息?」
いやいや、そんなんじゃないんだ。元気なんだよ。なんだか、無我夢中で元気だったね。興奮していたんだろうね。
「ふうん。よく分らないが……まあ、とにかく、たいへんだったな」
歯痛の経験のない人に向って、歯痛の感覚をいくら説明しても、分らないのがあたりまえである。健康な人には、あの手術の話は、通じないのが道理であろう。そこで、私は答える。
――ありがとう。まったく、たいへんだったよ。
この「たいへん」とは、肺を切る手術――正式にいうと肺切除術――のことで、毎年、全国で、およそ二万人から二万五千人ぐらいの患者が、この手術をうけている。したがって、私の体験は、ちっともめずらしいものではないし、後に書くように、手術の経過がしごく順調だったから、辛い思いをしたといっても高は知れているのだが、当人(と家族)にとっては、まことに切実な体験であった。
肺切除術の歴史は、まだ日が浅いが、それでも、一般に行われるようになってから、もうおよそ七年ぐらいになるだろう。
肺結核にたいする外科的治療法としては、ほかに、胸郭成形術や、横隔膜神経捻除術や、充填《じゆうてん》術などがあるが、切除術は、いちばん新しい方法であり、今日までのところでは、もっとも進んだ方法であるといえよう。他の方法は、いずれも、いわば病巣を生き埋めにして、菌の活動を封じてしまうのだが、切除術は、肺の病巣のある部分を切りとってしまうのだから、もっとも抜本的であり、完璧な方法なのである。
(むろん、他の方法も、行われていないわけではない。ことに胸郭成形術は、切除術の追加補正手術として、併用されるのが常である)
なにしろ、肺や気管支に直接メスを入れるのだから、よほど高度の技術を要する手術にちがいない。それだけに、初期のころには、手術による死亡例も必ずしも少ないとは言えなかったようだが、七年後の今日では、もうそんな心配はほとんど要らなくなった。
とはいうものの、ほかならぬわが身に起ることとして考えると、「ほとんど」が「絶対に」でないことは、たとえようもない不安である。ごくわずかだが、死亡率はあるのだ。
死亡率などというものは、内科的治療をうけていた間は思いもよらなかった考えである。
昭和二十六年五月、左肺上葉に拇指頭大の空洞を発見、慶応病院に入院。これが、私の病気のはじまりである。このときは、当時さかんに行われていた気胸療法がみごとに効を奏して、三カ月で退院、以後八カ月ほど休養をとった。
昭和三十一年三月再発、また慶応へ入院。前年「ハムレット」を演じ、「なよたけ」を演出し、さらにこの年の一月「ハムレット」を再演したための疲労がこたえたのである。このときもストレプトマイシン、パス、ヒドラジッド三者併用の化学療法のおかげで、三カ月で退院、九カ月休養。
そして一昨年、昭和三十三年の十一月。私たちは東横ホールで「マクベス」を上演したが、その公演が終ったころから、妙な咳が出るようになった。痰も出る。熱はないが、一月公演は休むことにした。ハムレットといい、マクベスといい、西洋古典劇の主人公のヴォリュームのあるおびただしいせりふは、どうも、傷のある私の肺には負担が多すぎるらしいのである。ラジオやテレビの仕事も週一回に限って、つとめて休養をとったが、一向に効果が見えない。またか、と私は暗然とした。三月公演も休みと決め、ラジオ、テレビもすべて止めて、最初の発病以来お世話になっている慶応病院の五味博士の診察をうけた。果して、二度目の再発。手術をすすめるという診断であった。
さて手術となると、よくよく考えなければならない。
たとえ一パーセントの死亡率でも、ゆるがせにはできないし、肺や肋骨を切除して、肺活量が減じ、体の恰好が変りでもしたら、役者としてはたいへん具合のわるいことになる。そうかといって、それやこれやを思いつめて、睡眠不足にでも陥ったら、ますます痩せて、手術の条件をわるくするばかりだろう。何はともあれ、外科の先生と十分に相談しなければなるまい。しかる後に、大いに体力と気力とを充実させ、物心両面の備えを固めつつ、手術のときに最高の体調になるようにもってゆかなければならない。――こういう点では、肺の手術を受ける患者は、いくらか、危険な高峰を目ざすアルピニストに似ている。地図のかわりに体温表をながめ、ピッケルやザイルを点検するかわりに注射や薬を欠かさない。規則的な食事と十分な睡眠とは、必須の条件である。隊長の指揮に従い、氷河をこえ、アイスフォールを乗り切って、みごとに山頂に立つことができれば、冷たい鮮烈な空気が胸いっぱいに流れこむだろう。病気は根治するのだ。そして後は、下界への道、健康への道を一気に下るのである。
杉村春子さんの御主人、石山博士は慶応の心臓外科の先生である。こういう際には恰好の相談相手で、いろいろ参考になる意見を伺った上、念のため、心臓の検査をお願いした。疲れたり、激しい運動をしたりすると、脈がちょっと結滞らしいものになることがあるからだ。検査の結果、軽い期外収縮で、手術にはまったく差支えなしと分った。
同時に、おなじ慶応の肺外科の浅井末得博士にお会いして、手術についての具体的な話を伺った。手術に危険はないか、二度目の手術で肋骨は何本とるのか、体の形は変らないか、肺活量は減らないか、術後どのくらいで仕事ができるようになるか、その他、心配な点を、洗い浚《ざら》い質問した。浅井博士はレントゲン写真を見ながら、私の心配は術前の治療や検査によって、また従来の手術の結果が示す実例によって、ほとんど解消されるはずであることや、医学的に不安が認められる場合には手術は行わないことや、このままにしておけば、健全な左下葉や右肺もいずれは菌に犯される可能性があり、そうなってしまってからでは、手術は難かしくなるか、不可能になるであろうことを、諄々と説明された。
五味先生の診断で、すでに八分通り心を決めていた私は、浅井先生の話で、完全に手術(左肺上葉切除)に踏みきることができた。
つづいて、手術の際、執刀をお願いする加納保之博士にもお会いした。加納博士はレントゲン写真の所見を述べられたのち、「大丈夫ですよ、まだ若いのだから」と、笑いながら冗談のようにつけ加えられたが、私はまた、肺切除術の日本における開拓者のひとりとして、令名の高い博士が、思いがけず若いのに、冗談ではなくおどろかされた。
手術は十一月中旬ときまった。浅井先生の指示に従って、菌に耐性の生じているストレプトマイシンをカナマイシンに切り換え、術前の治療がはじまった。術前の治療がいい加減だと、後で、気管支瘻とか膿胸だとか、厄介なことが起りがちだから、油断はできない。
夏の三カ月、北軽井沢で寝たり起きたりで過した甲斐があって、体重も増し、血色も良くなった。素人目には、まったく健康に見えたかも知れぬ。
九月の末、入院と手術の日取りについての打ち合せのため、病院へ行き、ほ号病棟五階の研究室の浅井先生をたずねた。
先生は手帖のページを繰りながら、
「入院は、この間電話でお話したように、十一月のはじめがいいでしょう。手術は中旬がいいのですが――そうですね、十三日はいかがです」
「結構です」と答えて、私はひょっと思いつき、笑いながら言い足した。
「金曜日じゃないでしょうね?」
「ええ、金曜日です。加納先生の手術日は、毎週金曜なんです。いけませんか?」
十三日の金曜日。いけないかときかれれば、いけないと答える理由はなさそうだが、なんだか、気になる日取りである。
「かまいません。しかし家の者が気にするかも知れません。できればもう一週間先の方がいいかと思うんですが」
「ええ、それでも結構です」
打ち合せは一応、それで終った。後で分ったことだが、その十三日の金曜日は、ご丁寧にも、仏滅と三りんぼうにも当っており、たまたまその日が誕生日であった岸信介首相は、招待客の気分を考慮して、予定していたパーティーを、やはり一週間延期したという。
しかし私は、結局延期しないことにした。
わざわざ縁起のわるい日を選んで事を行ういやがらせの趣味は、私にはない。だが、手術をうけるのは私一人ではなく、手術場には手術場のスケジュールというものがあるはずである。手術の順番は患者の病状に基づいて医師が決定すべきものであって、患者がわがままを言いだしたら、きりがないだろう。それに、一週間遅らせてみたところで、どうなるものでもあるまい。退院が一週間遅れるぐらいが落ちであろう……
それから、これはちょっと不謹慎かも知れぬが、そんな縁起のわるい日には手術場も混まないだろう、ということを考えた。
むろん、混んでいようが空いていようが、先生方の手術の手順に変りがあるはずはない。しかし、自分の手術の日には、手術場は空いているだろうと想像することは、空いたバスに乗ったり、空いた理髪店に入ったりした時のように、なんとなく気持のよいことだった。
十一月五日、入院。主治医は湯浅鐐介先生。さっそく、検査がはじまる。
気管支鏡検査の苦しいことは、いろいろな人から、十分すぎるほど聞かされていた。あんな苦しいものはない、あれにくらべれば手術なんか楽なものだ、という類いの体験談をいやというほど聞かされていたから、内心穏やかではなかった。
ところが私の場合は、実に何でもないことであった。なるほど、咽喉にキシロカインを注入して、だんだん咽喉が太くなってくるような妙な感じがした時には、これは大変だ、と思ったが、仰臥して頭をのけぞらせ、口から気管支鏡を入れる段になると、操作する石原先生がお上手なのか、私の受け入れ方が素直なのか、おそらく両方だろうと思うが、すらすらと片づいた。
つづいて気管支造影検査。これは気管支の細かな状態を知るために、造影剤(ヨードを主剤とする白い油薬)を鼻腔から気管支へ注入してレントゲンで調べる検査である。これも大したことはなかった。ただ数日後まで、咳をするたびに、やわらかいチューインガムのようになった造影剤が、後から後からいくらでも出てくるのには閉口した。
病室へ帰ると、看護婦さんがベッドの頭の方を低くしてくれた。脳貧血に備えたわけだが、朝昼禁食で空腹に堪えかねていた私は、ベッドにあぐらをかいたまま、バナナを六、七本平らげて、やっと息をついた。
六日、心電図。七日、肺機能検査。九日、肝臓検査。十日、左右別肺機能検査。十一日、ふたたび心電図。これらの検査は、手術の安全を期し、術後の肺の状態や機能を予見するために、欠くべからざるもののようである。
十二日、麻酔科の山崎先生来診。麻酔は戦後急速に発達した分野で、今日では、内科外科などと並んで、麻酔科が出来ていることは、周知の通りである。肺や心臓などの難かしい手術が可能になったのは、麻酔の発達という裏づけがあったおかげらしい。ことに肺切除は、術中の患者の呼吸を自由にコントロールできる閉鎖循環式の麻酔のおかげを大いに蒙っているそうである。
酒や催眠薬をのんでいたかどうかを訊ねられる。こういうことは麻酔のきき方(従ってその調節)と大いに関係があるらしい。薬は数年来用いず、酒は、まあ、普通よりちょっと多く飲んだが、この一年間はまったく飲んでいない由を答える。夜、手術をする左上半身の剃毛。予期したことだが、背中の毛なんて、剃るのははじめてで、実にへんな気がした。
さて、いよいよ十三日。
朝六時ごろ、まだうとうとしている内に、基礎麻酔の注射、つづいて催眠剤をのむ。八時ごろ、また注射。ねぼけ眼のところへ次々と麻酔の注射をうつのだから、まことに陶然とした気分になってくる。
九時ごろ、輸送車《ストレツチヤー》にのせられて手術室へ入ったが、もうかなり薬が効いていると見えて、眠っているとも覚めているともつかぬうとうとした状態で、手術台に移された。――ゆかたの寝巻が手術着に着せかえられるのと、足首に輸血の針がさされたのと、何か訊こうとして口を動かしたが舌がもつれて言葉にならなかったのと、無影燈の光が妙に赤っぽく見えたのと、そのどれが先でどれが後だったか――そのままで、後の記憶はない。
眼をあけると、ベッドの裾の方に、にこにこ笑っている家の連中の顔が見える。おや、みんないるな、と思いながら、ちょっと頷《うなず》いたような気がするが、そのまま、また眠ってしまった。
実はこの時は、もう手術が終って、自分の病室のベッドに寝かされていたのである。
手術は四時間ほどかかったそうで、厄介でもなく簡単でもなく、手術の難易という点では、まず中位であったらしい。看護婦さんの話によると、眠ったまま、時々鼻唄をうたっていたという。のんきなものである。
ふたたび眼をさまし、湯浅先生や石山先生や家の連中とちょっと話をして、また眠ってしまう。こうして、十三日の金曜日は文字通り夢魔のように――と言いたいところだが、はなはだあっけなく終った。
翌日。熱がある。枕元に大きな酸素ボンベが立っている。重苦しい気分だが、声を出してみると、嗄れてはいない。しっかりしている。嬉しかった。切除した左肺上葉はほとんど肺の機能を失いかけていたそうである。
掛蒲団の下から、ゴム管が出ている。管の先はガラスの容器につながれ、傍で小型のモーターが静かな音を立てている。術後の肺の中に溜まる血液や滲出液を排出するドレーンである。左の胸には、全然感覚がない。したがって痛みもない。ただ、胸の中に湯たんぽか何かが入っているような、重い感じがある。私は興奮して、大きな声で快活に話し、たしなめられた。
四日目にドレーンが外された。看護婦さんの手を借りて、起き上ってみると、気が遠くなりそうだった。湯浅先生の許可があったので、ひとりで便所へ行ったが、ふらふらしてうまく歩けない。壁づたいに、一歩一歩ふみしめるようにして帰ってくると、精も根も尽きはてたような感じがした。寝たままの洗面、食事がつづいた。咳をすると、胸の中が痛む。
憔悴していたが、私は元気だった。ほんとうに元気だったのである。私はつとめて食べた。流動食を粥食に、さらに常食に、できるだけ早く切りかえた。深呼吸につとめ、左腕の運動に精を出した。
ただ、夜眠れないのには、閉口した。いくら鎮静剤の注射を打ってもらっても、四時ごろには眼がさめてしまう。術後、あまり強い薬は使えないのである。こういうときに寝がえりを打てないのは、実に辛いもので、仕方がないから、気の遠くなるような思いでベッドに起き上る。起きてみても、なにもすることはない。また仰向きに寝る。しばらくすると苦しくなって、また起き上る。朝の四時ごろからこんなことを繰返していては、堪ったものではない。
ベッドに寝ていると、五階の病室の窓からは、空が見えるだけである。夜が明けると、神宮外苑の森から、鳩が群れをなして飛立ち、あたりをひとめぐりすると、病院の屋根へ舞い降りてくる。
眠れないままに、私は毎朝、ベッドの中でカメラを構えた。刻々に明るくなる空の光に絞りを合わせ、ファインダーの中へ鳩が入るたびにシャッターを切っている、といつの間にか時間が経った。うまく撮れたのもあり、窓枠だけしかうつっていないのもあったが、後から考えると、べつにフィルムを入れる必要はなかったのである。
二週間で平熱に復した。経過ははなはだ良い。湯浅先生の指示通り、深呼吸を励行したことや、熱に鈍感なせいか、食欲の落ちなかったことが幸いしたと見えて、残った左肺下葉が目立って伸びてきたらしい。肋骨を切除する二度目の手術は、しばらく見合せることになった。
三週間。下葉は依然として伸び、ふくらみつづけている。上葉をとった後の空隙は、まもなく下葉によって満たされるだろう。十二月三日、ついに補正手術を行わないことが確定した。肋骨をとらずに済んだのだ。一回の手術ですべてが終ったのである。私がどんなに喜んだか、お分りいただけるだろう。しかも、それに劣らず嬉しかったのは、左胸の重苦しい感じが、いつの間にかすっかり薄らいでしまったことであった。
四週間目から、体重がふえはじめた。以来およそ一週間に一キロの割でふえつづけてきたが、六十・五キロでどうやらひと休みらしい……
はじめに書いたように、私の手術の体験は、決してめずらしいものではないし、どこといって、めざましいところがあったわけでもない。経過もしごく平穏無事であった。しかし、その平穏無事ということの中にこそ、医学の理想があるように、私には思われるのである。もしそうとすれば、私は、理想的に治療され、看護された患者だったといえるだろう。先生方と看護婦のみなさんとに、ほんとうにありがとうございましたと篤《あつ》くお礼を申しあげて、この走り書きの筆を擱《お》くこととする。
――一九六〇年三月 婦人公論――
私の黒板
病気の役者は、やがて生き返る一種の死人のようなものだ。私の灰色の黒板をお目にかけよう。
――六時半、検温。七時、起床。八時、朝食。十一時まで安静。十二時、昼食。二時半の検温まで安静。五時、夕食。九時、消燈就寝……
ある一日は、ほとんど他の一日と変らない。私は、病院の日課と規則との中に横たわって復活を待っているミイラのようだ。
しかし、そのおかげで、手術後の経過ははなはだ良い。骨をとらずにすんだのは大助かりだが、今度こそ、この病気ともすっかり縁切りになれたということが、何よりもうれしい。
先週、入浴と散歩との許可が出た。今週から、退院のための検査がはじまる。術前の気管支鏡検査や、造影検査や、左右別肺機能検査は、避けることのできない憂鬱な試煉だったが、その同じ検査が、こんどは喜ばしい苦痛としてやってくる。
身長一メートル七十一、胸囲八十五センチ、体重六十一キロ、血沈十一ミリ。肺活量は二千七百に減じたが、これも、術後三カ月の状態としては、悲観すべきものではなさそうである。一年後には、ほとんど旧に復するという。三月上旬退院。六カ月静養。術後一年の十一月ごろから、そろそろ仕事をはじめてよろしい。――これが、医師の保証してくれた私の予定表、私の緑色の黒板である。
だが、医師の保証だけで、仕事をはじめることは、出来なくはないが難かしいだろう。ことさらに迂遠な道をとる気はないが、病気はなおった、さあ芝居だと、そう簡単に、まっすぐには行きかねるものが、今、私にある。前の二度の病気の時には、二度とも、一日もはやく仕事をはじめたいと思い、事実そうしたのだが、今度はすこしちがう。どうちがうか、それをくわしく書く余裕はない。一口に言うと、しっかりとした芝居がしたいのだ。
前には、芝居の夢をよく見た。このごろは、何の夢も見ない。ぐっすり眠って六時半に眼をさますと、みごとに腹がへっている。
――一九六〇年四月 悲劇喜劇――
手術ののち
私は、昨年十一月、慶応病院で肺の手術をうけた。経過はたいへん良く、三月のはじめに退院した。長年にわたる病気が文字通り、全快したのだが、これから先、やってゆかねばならぬ仕事のことを思うと、手放しで喜んでもいられない。以下は、退院前後の私の日記からの抜萃である。日記といっても、ベッドの中で手帖に記したほんの心覚え、箇条書きのメモにすぎない。そこで、註をつけることにした。註の方が長くなりそうだがおゆるしねがいたい。
二月二十五日(木)晴
血沈十一ミリ。
朝、禁食。両肺機能検査。
昼、延食、左右別肺機能検査。
報知新聞に原稿(一枚半)渡す。
村松英子嬢見ゆ
――退院検査の日である。検査は四つあって、その二つ(気管支鏡、造影)は前週に済んだ。この日は、最後の検査で、これにパスすれば、もういつ退院してもよろしいという許可をうけたことになる。
検査はどれも、あまり楽なものではない。咽喉を麻酔して、気管にいろいろな管を挿したり、薬を流しこんだりするから、検査前には、食事をとることができない。
「禁食」は食事抜き、「延食」は検査がすむまで食事を延期することだが、検査が終ってもまだ麻酔が残っているから、なかなかすぐ喰べる気にはならない。罐詰の果物ぐらいが関の山である。気分が悪くなったり、熱を出したりする人もあるが、私は検査には強い方で、この日も、無事に早く済んだ。気管が太いので得をしているらしい。
手術前の検査で覚えたことだが、検査をうけるこつがある。緊張感を解いて、楽な気分になって、身体中の筋肉の力を抜いてしまうのだ。手術台へ寝かされ、頭を台の外へ垂らした窮屈な姿勢で、眼の前へ器械をつき出されると、どうしても、緊張して、肩や胸のあたりに無用な力を入れてしまう。それで、ますます管が入れにくくなるのだ。筋肉を弛緩《しかん》させること。これはスタニスラフスキー・システムの応用である。
報知の原稿はテレビについての感想であった。
お見舞いの村松英子さんは文学座の研究生。評論家村松剛氏の妹さんである。近く結婚される由、いきいきと幸福そうに見えた。
三月二日(水)晴
朝、虎の門病院に三島由紀夫氏を見舞う。
退院準備。会計。前夜祭。
――前日の夕刊に、映画出演中の三島氏が西銀座デパートにロケ中、足を滑らして頭部を強打し、入院した旨の記事が出ていたので、朝の散歩の時間にお見舞いに行った。
虎の門病院は一昨年建ったばかりだから、設計、設備その他、すべて最新式で、気持のよい病院であった。
ちょうど、回診中だったので、廊下のソファで、奥さんからいろいろ様子を伺った。まず安心すべき状態だが、当分は絶対安静の由。エスカレーターの昇り口で、倒れる場面を撮影中の事故だそうだが、倒れる演技は難かしい。段取りは易しそうに見えても、なかなかそうは行かない場合が多いものだ。深夜のロケで、疲労も重なっていたらしい。
三島氏は、持前の真面目さと熱心さで、難かしい演技に直進し、災難を蒙ったが、これは、氏が演技に不馴れなために起ったこととばかりは言えないだろう。こういう種類の災難は、まったく誰にも防ぎようのないものだ。現に歌舞伎座では、梅幸丈が、扱い馴れた王朝風の衣裳を着て階段を降りるはずみに、足を滑らし、捻挫、休演中である。
弟さんが見えたので、一緒に病室に入ると、三島氏はセーターを着、頭に繃帯を巻いて寝ていた。元気だった。映画のために、もみあげを長くのばしているので、ふだんよりも精悍な感じがした。ちょっと話して、早々に辞去したが、帰ればたちまち自分も入院患者と化するのは、情けない仕儀であった。
しかしそれも、この一日で、翌日はいよいよ退院である。入院は十一月五日だったから、ほぼ四カ月入っていたことになる。ずいぶん長いような気もしていたが、いよいよ退院となると、案外短かったような気がするから妙である。
私のいたのは二人部屋で、同室のT氏は慶応の後輩なので、いろいろ共通の話題があった。T氏はいま母校の法律の先生である。どちらが先に退院するか、大いにせり合ったが、むろん病気はレースではないから、思うようには運ばない。結局、仲よく同じ日に退院ということに決った。
「前夜祭」とはおおげさだが、この日の夜食は、中華料理や鰻をおごって、ともどもに明日の退院を祝った。
病院は、完全看護の建前になっており、食事にもいろいろ工夫を凝らしている形跡はあるが、病院のメニューが、常に患者の食欲をそそるとは限らない。格別、ぜいたくを言うのではなく、ふだん喰べつけた味のものを喰べたいと思うことが、病人にはずいぶんある。喰べもの一つにしてもそうだから、入院患者の家族の苦労は、他人事のようだが、大変なものだろうと思う。
T氏は、退院早々、療養をかねて、御夫妻で温泉へ行く計画を立てられた。先日頂いた手紙によると、予定通り、たのしい旅の幾日かを過された由で、まことにめでたい。私の方はいまだにうろうろしているが。
「会計」もこの日が最後である。結核予防法その他の社会保障制度は、どんなに進んでも、進み過ぎるということはないだろう。
三月三日(木)晴
加納先生回診。
屋上でT氏夫妻、看護婦さん一同と記念撮影。
十二時退院。
夜、赤飯。ビール。
――この日に退院と決めたのは、べつに桃の節句だからではない。毎週木曜日は、主任の加納先生の回診日である。お世話になった先生方にお礼をのべて退院するには、先生方の顔のそろう回診日が、いちばんいいだろうと、T氏も私も考えた結果であった。月曜は手術日、火曜は検査日で、先生方は手術場を離れないし、廊下も何となく慌しくなる日である。水曜は、加納先生が病院へ来られない。金曜は手術日、土曜は検査日。次の日は日曜で閑散だが、とてもそんなには待てない。
十時半、家内と上の娘が迎えにきた。荷物は昨日の内にあらかた運んでしまったから、何もすることはない。ただなんとなく三人で、にこにこしていた。
十一時すぎ回診。加納先生、浅井先生、主治医の湯浅先生に厚くお礼を申しのべる。
T氏の主治医の石山先生が、屋上で記念撮影をして下さった。
十二時、湯浅先生、主任看護婦の楊さんをはじめ大勢の方々のお見送りをいただいて、無事退院。家へ帰ると、母が門のところまで出迎えてくれた。
家の中は何も変ったところがない。
しばらく床に入って安静。間もなく、下の娘が学校から帰ってきた。この日は、彼女の誕生日でもあった。
同じ日に、雛祭と誕生日と、パパの退院祝いと、三つ重なるのは、何だか損だ、というのが彼女の意見であったが、食卓に赤飯が出ると、まんざらでもないらしく、にこにこ笑い出した。ほんとうは、大分嬉しいのだ。ビールでちょっと乾杯の真似をした。
三月十一日(金)曇
胸の中の音、背中の感じ(湯浅先生)
――手術によって、病気が根治したのだから、もうすこしさっぱりした気分になってもよさそうなものだが、どうも、息をするたびに「胸の中の音」が気になったり、背中の感じが変だったりして、落ちつかなかったのだ。この翌日、病院へ行くことになっていたので、先生に訊ねるつもりで書きとめた。
これは両方とも、まったくの杞憂《きゆう》だったが、体の状態がひどく気になることは、今でも変らない。大きな手術をした後だから、当然だともいえるがそればかりではない。
臆病になったような気がする。
年をとったせいもあるかもしれぬ。
充実した仕事をしなければならぬ。病気ときっぱり縁が切れたことは、何よりだった。しかし、左の胸はまだ痺れたままだ。胸の中には、何だか、大きな異物がわだかまっているような感じがする。こういう感じは、先生方の保証する通り、徐々に消えてゆくものだろうか。もしかすると、このままの状態で仕事をはじめることになるのではあるまいか。
秋から仕事をはじめてよろしいという先生方の意見に従うとすると、ちょうど、丸二年ぶりの仕事ということになる。二年休んでも、演技することを、忘れてはいないだろう。習い覚えた泳ぎは、身についている筈である。しかし、仕事を始めることは、気儘に泳ぐことではない。もし泳ぎにたとえるなら、正式の競技に出場することだ。それまでに、コンディションを調えておかねばならぬ。準備運動も必要だろう。このままの状態が長くつづけば、そういうことは出来難いだろう。そんなことを考える。
しかし、そればかりでもない。
手術後の、苦痛が薄らぐにつれて、私は自分の体が健康をとりもどしつつあることを、はっきり感じることが出来た。毎週の体重測定や、隔週の血沈検査の結果がたのしみだった。健康が、私の唯一の関心事だったのである。
ところが、退院して、自分の部屋に坐り、自分のこれからしなければならぬ仕事のことを考えると、辛い思いをして手に入れた健康が、なんだか頼りないものに思えてくる。入院中は、しっかりと手ごたえのあった筈のものが、ひどく弱い、脆《もろ》いもののように感じられる。
退院後しばらくは、自分の健康になかなか自信がもてないものだと、誰もがいう。そういうことも、あるだろう。
病気をかかえて仕事をしていたときには自分の弱さ、脆さに気がつかず、病気と縁が切れた途端に、それに気がついたというのは、愚かな話だが、気がついただけましということになるかもしれない。
これを書いている今、私は、退院当時より体重が一キロふえ、血色もよくなっている。火曜と土曜には、病院へゆき、注射と診察をして貰っている。体は気になるが、この日記の日付の頃にくらべると、大分、さっぱりした、落ちついた気分になっている。
三月十九日(土)快晴
也寸志結婚式。
一時半、鳥居坂教会へ行く。
二時挙式。式後、菊田一夫氏邸に寄り、一旦帰宅。
五時、東京会館へ行き、記念撮影。
六時より披露パーティー。盛会。
八時半、帰宅。
――弟の結婚式の日である。
弟と草笛光子嬢との結婚については、私としては、何も言うことはない。幸福を祈る。
この日は快晴で、前日には吹き荒れていた風もおさまり、美しい日和であった。
鳥居坂教会で、花嫁を待つ時間、媒酌をして下さる菊田一夫氏と「がめつい奴」の話をする。ロングラン興行では、どうしても途中で配役が変るので、作者、プロデューサーとしての氏の御苦労は、大変なものであるらしい。脇で話をきいている母は、痩せて、何だか顔が小さく見えた。草笛さんは、白いウエディング・ドレスがよく似合い、美しかった。式は予定通り、無事終了した。
この日の夜のパーティーは、大盛会であった。病後、はじめてこういう場所へ出た私は、久しぶりに、次から次へと、友人知己に会い、話し、のぼせたような気分だった。
ウエディング・ケーキにナイフを入れる花嫁花婿に祝福をおくりながら、私は、自分の健康と仕事のためにも、そっと杯をあげたのであった。
――一九六〇年五月 若い女性――
煙霧の夜の妄想
根治したはずの病気が、三年後に再発した。テレビドラマの格闘で、肋骨にひびの入ったのが原因らしい。二年あまりの暗澹とした病院生活中には、いろいろなことが起った。同じ病院に入っていた遠藤周作氏が、ある時は真面目に、ある時はふざけながら、私を励ましてくれた。救急車で同じ病院に入った久保田万太郎先生が亡くなられ、同じ病院から他の病院へ移った十返肇氏が亡くなられた。そして、私は友人たちと共に文学座に辞表を出し、あたらしい劇団「雲」をつくった。それは二回目の手術の直前で、私はあたらしい劇団の成否と、私自身の生死とについて、賭をするような気持で、踏み切ったのである。
いろいろとつらい二年あまりの病院暮しであったが、この四月の半ばに、そろそろ退院してよろしいという事になった。私は、二十三日に退院したいと申し出た。シェイクスピアの四百回目の誕生日に退院というのは、覚え易くもあり、縁起直しのようで何となく面白い。
同じ頃退院許可の出たS氏とは、入院中いろいろと共通の話題が多く、いわゆるうまの合う間柄だったので、一緒に退院しようという事になったが、S氏は私より大分慎重で几帳面な質だから、主任教授の回診のある三十日にしようと言う。第一、切りがいいではないかと言う。それも一理ある。
しかし病院暮しに飽き飽きしている事は、S氏も私と同様だから、話し合っている内に向うが折れて、では二十三日にしよう、という事になった。現金なもので、決った途端にS氏は晴れ晴れとした顔になり、床屋へ出かけて行った。
さて退院と決ると、しなければならぬ事が沢山ある。まだ日があるから急ぐには及ばない、と思うのは間違いで、病み上りは何事によらず根が続かないから、早手廻しにその日から少しずつ片付け始める事にした。いつもならば夕食後、S氏を誘って散歩に出るのだが、その日は雨模様だったのをいいことにして、長い間溜まった雑誌や本やノート類を整理した。なかなかの重労働なので、途中で何度も休み、漸く一区切りついたところでちょうど消燈時刻になった。九時である。灯を消し、カーテンを引こうとして、見ると、外には大変な煙霧が立ち籠めている。
私の部屋は四階にあって、昼間は上智大学の塔がよく見える。九時はまだ宵の口だから、神宮外苑から四谷塩町へかけての車の往来や、町のネオンや、ナイターのある日には遠い後楽園野球場の照明が夜空に映えているのまでが、はっきり見える。それが、その晩は、何も見えぬ。すぐ目の前の病理学教室の建物さえ見えない。長い入院生活の内には、ひどい煙霧の夜が幾度かあったが、これほど猛烈なのは初めてである。
眠れない夜、私はよくこの窓に凭《もた》れて、病院の構内や灯の消えた町の荒涼とした眺めに見入ったものだ。
病理学教室の建物の向うには、別の病院がある。そのまた向うには、別の病院に遮られて見えないが、私が長い間そこで学び、去年の一月、この部屋のベッドの上で辞表を書いて脱退した文学座のアトリエがある。私の想像はついそこへ向いがちであった。
深夜一時、あのチュードル風の建物の、がらんどうの闇の中には、稽古に使った薄縁《うすべり》や、支木《しぎ》や、座の紋章の入った肱掛椅子や、机が、ひっそりと明日を待っていることだろう。しかし私は、もうあそこへ帰ることはない。あそこで、戯《ざ》れ歌をうたいながら押した「ワーニャ伯父さん」の軋む扉。あそこで、短剣の幻を追って踏んだ「マクベス」の危ない階段。燭台を持ち呼吸を整えて狂乱の出《で》を待った「守銭奴」の、舞台の袖の傷だらけの柱。叩き落した相手の剣が乾いた音を立てて転がった「ハムレット」のあの舞台の床。あのアトリエ。あそこで、一緒に稽古をした、かつて仲間であった人達……
そんな事を取り止めもなく考えている内に、私は何だかますます眼が冴えてくるような気がして、急いでベッドに引き返すのが常だった。
この窓からの眺めとも、そろそろお別れだ、今は何も見えないが、最後の晩には眺めも利くだろう、二十三日退院の前夜には。
シェイクスピアの誕生日という考えがまた私を捉え、同時にふと、かつて演じた「ジュリアス・シーザー」のキャシアスの終幕のせりふが心に浮んだ。キャシアスは誕生日が命日になった男である。
独居は独語の癖がつく。私は窓硝子越しに濃い煙霧を見つめながら、口の中でぶつぶつとせりふを呟いた。
「今日だつた、おれがこの世の大気を始めて吸つたのは! 時はやうやくその輪を一巡りしをへたらしい。さうだ、おれはここから始めて、それ、かうして同じところで終るのだ……」
せりふを口ずさんでいると、ちょっとしぐさが欲しくなる。あの時、私は「さうだ、おれはここから始めて」と言いながら、痛手を負って丘の中腹に横たえた身体を右肱で支え、上半身を僅かに起す動きで左腕を挙げた。暗い虚空へ、「虚無」へ、もう定かには見えぬ眼を向けたまま、差し伸べた腕をゆっくりと輪を描くように動かして。……だが今はそんな真似は出来ぬ。私はせりふを呟きながら、煙霧に向って軽く左手をあげてみた。心外なことに、招き猫の形になった。その途端に、巡視の看護婦の懐中電燈が、背後から私を照らした。私はあわててベッドに飛込んだ。
眼を閉じる。今度は、最後のせりふが浮んでくる。
「シーザー、貴様、みごとに復讐を遂げたぞ、しかも、おのれを斃《たふ》したその同じ剣で」
大好きなせりふである。キャシアスは、シーザーの羅馬《ローマ》に生きるという屈辱から、「奴隷の境涯」から脱け出すために、謀叛を企て、シーザーを暗殺する。激越な革命家であり、友誼に篤《あつ》い武人だが、情に脆く、癇癪持ちで、いろいろ欠点も少なくない男だ。その最後の戦いで、彼は、親友が敵の捕虜となったという誤報を受ける。彼は痛手を負ったまま救援に赴くことの出来なかった自分を恥じる。それは彼にとって、耐え難い屈辱なのだ。彼は奴隷に剣を与え、己れの胸を刺し貫けと命じる。
だから、「同じ剣」は、必ずしも同一の物体を示しているだけではない。キャシアスは、言わば、生きるに値しない二人の男を同じ理由で刺したのだ。初めはシーザーを、次に自分を。そして奴隷の手を借りることによって、かつて自分があれほど熱烈に望んだ自由を、彼にも与えてやるのである。
この最後のせりふは、いかにもキャシアスに相応《ふさわ》しい。
「お前もか、ブルータス? それなら死ね、シーザー!」という、有名なシーザーの最後のせりふも、帝王の最後を飾るに足る、いいせりふだが、キャシアスのせりふもそれに劣らずいい。
残る二人、ブルータスとアントニーの最後のせりふは……
どうも思い出せない。気にしているとますます眠れなくなるから。これはなかなか良い理由だ。枕元の灯をつけ、先刻片付けた福田恆存訳のシェイクスピア全集の中から、「ジュリアス・シーザー」を抜いて来て、ページを繰った。
シーザーへの愛よりも羅馬への忠誠を選んだ「正義」の人、理想家、「高潔」なブルータスは、戦いに破れ、自決しようとして、言う、「シーザー。今こそ心を安んずるがいい。おれは、その胸を刺しはしなかつたぞ、今ほど明るい心をもつて」
現実主義の政治家、煽動と雄弁術の名手、観劇の好きな「快活」なアントニーは、勝利者として、敵将ブルータスの屍を全軍に示しながら言う、「その一生は和して従ひ、円満具足、中庸の人柄は、大自然もそのために立つて、今も憚ることなく全世界に誇示しうるものであらう、『これこそは人間だつた!』と」
二人とも、それぞれに、随分いい気なものだと思う。ブルータスは、彼自身の「明るい心」を、良心を、露ほども疑っていない。その裏に潜んでいる自分の権勢欲には、まるで気付いていないのだ。アントニーはまたいつもの手口で、「大自然」を引合いに出してブルータスに頌《しよう》を捧げている。ブルータスを高めているように見えて、実は自分を高めて見せようとしているのである。自分の演じた役への欲目からばかりでなく、私はこの二人よりもキャシアスの方がずっと好きだ。しかし、二つとも、実にうまいせりふである。それぞれ二人の人物の本質を捉えている上に、喋る役者にも、聴く観客(は変だが)にも、ちゃんとその人物の劇的行動の最後を締め括《くく》るせりふを、言い終えた、聴き終えたという満足感を与えるように出来ているところが、見事である。
「ジュリアス・シーザー」ばかりではない、シェイクスピアは最後のせりふ、最後の一句の名人だったように思われる。
返り血を浴びた幽鬼のようなマクベスは――「途中で『待て』と弱音を吐いたら地獄落ちだぞ」
饒舌な王子、ハムレットは――「もう何も言はぬ」
高貴な恋人、武将のオセローは――「今、おれに出来ることは、かうしてみづからを刺して、死にながら口づけすることだ」
高利貸、シャイロックは――「証書のはうは送つて下されば、いつでも署名いたします」
じゃじゃ馬、カタリーナは――「もし主人が望むなら、あたしは踏みつけられてもかまはない」
登場と退場――出と引込《ひつこ》みの演技は、役者にとって、もっとも難かしい、面白いものの一つだが、最初のせりふと最後のせりふの難かしさ、面白さも、なかなかそれに劣らない。そういう役者の「欲」を満たしてくれる点でも、シェイクスピアはずば抜けている……
私は全集の他の一冊を取りに行こうとして、思い直し、枕元の灯を消した。もう眠らなければならぬ。横になって眼を上げると、カーテンの間から、相変らず立ち籠めている白い煙霧が見える。気のせいか、部屋の中の空気までが、少しいがらっぽくなってきたようである。
シェイクスピアという人は余程丈夫な人だったろう。何となくそんな気がする。
モリエールは肺病やみで、医者や偽善者や才女に悪態をついた優れた芝居を沢山書き、座頭役者として劇団の経営にも当り、長い間悪戦苦闘した揚句、自作の上演中に舞台で倒れた。近頃の研究によると、経済的には大層恵まれていたそうだが、どうも悪戦苦闘の趣は免れ難い。
シェイクスピアも、同様に多くの優れた作品を書き、劇団の仕事にも携わったが、初老に達すると引退して、傍目には平和な晩年を送ったようである。
戦争中、学生時代に、モリエールの最後の作品「気で病む男」とシェイクスピアの同じく最後の作「あらし」とを読み較べたことがある。その時の印象は忘れ難い。「気で病む男」で、モリエールは随所に、「タルチェフ」などのかつて成功した作品の笑劇的対話を再び採用していた。しかもその対話は、常に前作の方が引き締っていて、優れた効果を挙げているように私には思われた。要するにモリエールは疲労困憊《こんぱい》していたのだ。疲れ切った役者が、色艶の失せた顔を隠そうとして、厚化粧をし、頬や眼の下や唇に明るい色を塗るように、モリエールは、創造力の衰えを保証つきの笑いで補おうとしている。そうに違いない、と私は決めてしまった。
モリエールの痛々しい白鳥の歌に較べると、シェイクスピアの「あらし」は――私は坪内逍遙訳で読んだので、「颶風《テムペスト》」と書くべきかも知れないが――格段に澄みわたって明るく、晴朗な気分が満ち溢れていた。創造力の衰えどころではなかった。醜悪な化物キャリバンの発散する幻怪な雰囲気は、殊に私を魅了した。
しかし同時にまた、いかにも引退芝居然とした「あらし」を書いたシェイクスピアに、いくらか反撥を感じ、自分の健康を信じない男と、健康な人間を喰いものにする医者とを、いつもの通り徹底的に笑いのめそうとした肺病やみのモリエールに親愛を感じたのも事実だった。
モリエールは常に人間を、というより人間だけを書いた。シェイクスピアの扱う世界は遥かに広大で彼の筆は人間の世界から、自然界、超自然界にまで及ぶ。
シェイクスピアは人の世の愛を、喜びを、滑稽を、愚劣を、美しさを、悲惨を、絶望を書いた。天上的な生活や、そのまま地獄である人生を書いた。犬や馬を、暁や微風を、ヒースの茂みや川の面に枝を垂れた柳を、黒つぐみや尺取虫や牡蠣《かき》を書いた。そしてあの迸《ほとばし》り出る洒落、地口、語呂合せ、機智問答や歌や悪態の数々……
確かに、シェイクスピアは丈夫な人だったに違いない……看護婦の二度目の巡視の来る前に、私は眠りに落ちた。
おどろいたことに、私は四月二十三日に退院できなかった。主治医が退院用のレントゲン写真をとるのを忘れていたのである。
S氏は予定通り二十三日に退院した。私は玄関まで見送った。縁起直しはできなかったが、S氏が丈夫なシェイクスピアにあやかってくれれば、それでよい。
私は一週間遅れて、はじめS氏が予定していた三十日に退院した。今度はS氏が出迎えに来てくれた。万事、逆になった。「間違いつづき」である。しかし、とにかく二人とも退院できたのだから、「末よければ総てよし」ということにしておこう。
――一九六四年七月 学鐙――
砂山三郎 そりゃ君だって、きっと美しいと思うにちがいない。僕は何べんも何べんも飛行機に乗っている時に雲海の上を飛んだけど、あの朝焼けの空の美しさは……
飯沢匡「塔」
ブルーネ神父 なあに。禅のお坊さんを見なさい。笠一つ、杖一つじゃないか。カトリックの坊主も少しは見習わなくちゃ。
遠藤周作「薔薇の館」
二つの碑
何年か前、鹿児島へ行ったことがある。
案内してくださる方があって、桜島へ渡った。
島の周囲は、四十キロあるという。まだ道路が完成していないので、一周はちょっと無理です、途中まで行って引き返しましょうと、案内のK氏が言われる。
途中、古里温泉を通るはずである。そこには、林芙美子の文学碑が建っているはずである。車は、島の西岸へ向って進んだ。説明されるまでもなく、古里温泉の所在は知れた。流行歌のレコードがすさまじい響きを立てている。
道路に面した二軒の宿屋の二階の窓から、女たちが首を出して、往来を通る人に何やら話しかけている。
碑はそのすこし先の、左手の高みに立っていた。私たちが車を降りて歩きだすと、後ろの宿屋の方から、女が二人、しきりに声をかけた。
「昼日中から、まったく困ったものです」と、K氏が言葉を濁したところをみると、よほど露骨なことを言っているらしいが、あいにく私には、何のことやらさっぱり聞きとれない。名にしおう薩摩言葉である。
碑は、ひどく汚れていた。
「花のいのちはみぢかくて、苦しきことのみ多かりき」という有名な句を刻んだ石の肌は、拓本をとる墨で真黒になっており、文字の一部は欠け落ちていた。あたりには、キャラメルの空箱や、煙草の吸殻が散乱し、碑の前には、ひからびた花束がひとつ置かれていた。いたましい感じがした。
K氏が写真をとろうといわれたが、どうも、この碑の前に立って記念写真を、という気持になれず、碑を見ているところをそのまま写してもらった。
文明、安永年間の古い噴火の跡を見ての帰り道、大正の大噴火の話になった。
烏島という島は、その大噴火の吐き出したおびただしい溶岩にのみこまれ、人や馬や牛もろともに埋めつくされて、今では桜島の一部になってしまっているという。
もう少し行くと、烏島の跡があり、追悼の碑があるという。私はそこで車を止めてもらった。
勾配の急な、ごつごつした岩の道を、足を滑らせぬように気をつけながら、ほとんどよじのぼるようにして辿ってゆくと、不意に視界がひらけて、そこに碑があった。方二尺ほどの磨かれた花崗岩《かこうがん》の角材が、溶岩にしっかりと嵌《は》め込まれて、その表面に、日本語とラテン語で、句が刻まれている。
「烏島この下に」
ただ、それだけである。私は身の引き締る思いがした。
直截《ちよくせつ》で、簡潔で、あり余る想いを唯一句に凝縮したこの碑銘は、それ自体が巨大な墓石である溶岩の大傾斜に抗して、比類なくみごとに、美しかった。
鹿児島からの帰途、京都で、私は偶然、戸板康二氏に遇った。旅先での奇遇は、たのしいものである。賀茂川のほとりで酒をくみ交わすうち、話は自然に、桜島の二つの碑に及んだ。
「そんなみごとな銘を考えだしたのは、誰だろう?」と、戸板さん。
「林芙美子かもしれない」と、私。
「もとは外国じゃないのかな。そのラテン語さ」
「とすると、ポンペイあたりかな」
「なるほど、そうすると、それを烏島へもって来たのが智慧者ということになるな」
「案外、鹿児島の役人か何かが、外国の例にならって、機械的に処理したのかもしれない。とすると、智慧がなかったのが、かえって良かったことになりますね」
そんな話をしているうちに、ふと戸板さんは微笑をうかべて、「しかしその林芙美子の碑は……」と言った。それからちょっと溜息をつくようにして、「浮雲だね」とつけ加えた。
「そうですね」と反射的に私は答えたが、それまで胸にわだかまっていた一種の暗い思いは、いくらか、薄らいだようであった。「浮雲」の伊香保や鹿児島の町の描写を想いだした。
ああいう碑は、かえって林芙美子には、ふさわしいかもしれぬ。碑の前にあったひからびた花束は、どこかの文学少女がはるばる持って来たものかもしれないし、ことによると、古里の宿の女のひとりが手向けたのかもしれぬ。藝術家にとっては、碑もまた、浮雲のようなものかもしれない……
あの二つの碑は、今でもあのままであろうか。ちょっと行ってみたい気がする。
――一九四六年二月 潮――
旅中短信
――日
昨日、大阪へ着きました。すぐに舞台稽古、今日はもう初日――スケジュールの忙しいことはいつもの通りです。
東京から持ってきた舞台でつかうネクタイが、どうも気に入らないので、今日は朝から町へ買物にでかけました。今度の芝居は大阪が初演なので、こういう所がはなはだ不便です。一体、衣裳やかつらや持道具は、いろいろ工夫をして準備しておいても、装置や照明のととのった舞台稽古にのぞんでみると、どうしても変更しなければならない場合が起ってくるものです。東京でならば、衣裳屋かつら屋との連絡もあり、知合いの誰彼の持物をあらかじめ予備として借りておくという手もあり、急ぎの変更にも事は欠かないのですが、旅先の悲しさには、その無理がきき兼ねるというわけです。初日前のこまごました買物は、むろん東京でもしないわけではありません。しかし、十分勝手を知らない町では、忙しい時間の中で是非とも必要なものを探しださなければならぬという心の緊張は、たちまち焦りと疲れとに追い抜かれてしまいます。僕はとうとうネクタイを買うことを諦め、K君のふだんのネクタイを借りて間に合わせることにしました。
旅とはいっても、大阪や名古屋での公演は、興行日数が少なくなるだけで、東京とあまり変りはありません。自宅が宿屋にかわるだけです。一日ごとに町から町へと移ってゆく中小都市公演にくらべれば、身体はずっと楽ですが、それだけに生活の変化の乏しいことも事実です。重い行李をトラックに積みこんだり、未明に起きて始発の列車に乗込む苦労のない代りには、自然を愉しむ機会もなく、劇場の楽屋で化猫芝居の一行と同居するという愉快な体験もできません。東京でのように、毎日、休息所と仕事場との間を往復するだけです。劇場人の生活も、その中へ入ってしまえば、あらゆる生活のように、単調な、不気味な法則に支配されているようです。
――日
芝居はうまく行っています。
ソーントン・ワイルダーの一幕物の幕がおりると、観客席からの長い拍手が、この地下室の楽屋へも聞えてきます。何十年か前にアメリカで書かれた芝居が、今夜、大阪の観客の共感を喚んでいるのです。
もう一つの芝居――僕はそちらの方へ出ているのですが――七年前に夭折した日本の劇作家森本薫の作品も、同様に観客に支持されています。どちらかといえば初期に属する作品ですから、書かれたのは、これも十何年の昔になるはずです。
芝居にかぎらず、こういう種類の現象に僕等は馴れっこになっていて、滅多なことでは驚かなくなっていますが、考えてみれば、これはやはり驚くべきことではないでしょうか。
「二十の扉」で、交通に関係がありますかという質問が成り立つのは、それが動物・植物・鉱物の三つの「界」に分類することの可能な現象に限るからで、またそうでなかったら、このゲーム自体がそもそも成り立たなくなってしまいます。
ところが、精神の「界」にも交通があり、一つの精神が他の精神に次々に触れつつ、さまざまな抵抗や屈折を受けながら、しかも遠い距離と長い時間とを超えて現に生きているということは、驚くべきことではありませんか。
シェイクスピアやモリエールの芝居が、今夜、世界中の何処かで、何万人かの観客の共感のうちに、あらためてというより寧ろ、依然として生きているという事実は、不安な世界に生きている僕達に勇気を与えてくれる事実ではありませんか。
こうして見れば、僕達俳優は日々を旅に過しているようなものです。作家の魂を求める旅は俳優にとって、地上のどんな旅にもまして、不断の、冒険に満ちた旅に他ならないのですから。
――日
やっと芝居が終りました。皆は昨日の夜行で帰り、僕は三人の友人と一緒にラジオ・ドラマの為に残りました。夕方、その放送が終り、夜行へ乗る迄の三時間が、自由な時間になりました。旅の終りになって、はじめて、それこそ旅行者らしい気分になれたわけです。
ひとりでぶらぶら歩いていると、グレアム・グリーン原作の「第三の男」をやっている映画館があり、この映画の評判はかねてから聞いていましたし、戦後のウィーンを訪れた一外国作家の冒険談は、旅先で見るのにふさわしいとも思ったので、早速見ることにしました。
なるほど、噂にたがわず、面白い映画でした。演出や演技のうまいことは論外といってもいい位です。いつもはこけおどかしめいた演技をするので大きらいなオーソン・ウエルズまでがこの映画では淡々とした表現で役の人物をみごとに浮彫りにしていました。一番感心したのは憲兵少佐になるトレヴア・ハワードです。「逢びき」の主人公の時にも感心しましたが、今度はもっと立派です。割に演り所のない役を、あそこまで深く表現することは、容易なことではありますまい。
主人公が秋の並木道に佇んで、遠くから歩いてくる女を待っている、女はだんだん近づいてくる、そして遂に彼の前を通る、が彼には一瞥も与えず去ってゆく、その長い間カメラを据え放しにしたラスト・シーンの美しさは、いまでも眼底に灼きついているようです。
――一九五二年一二月 旅――
劇団の旅
私たちの劇団は、東京で、年に五回、芝居をする。それを、そのまま、京阪公演にもってゆく。
神戸や名古屋へまわることもある。そこで、多い人は年に五回少ない人でも年に一回は、京都・大阪へ出かけてゆくことになる。
ひとりでゆっくり旅行をする暇が、私たちにはなかなかないので、この定期的の京阪公演は、大いにたのしみである。朝、東京駅のプラットフォームで落ちあうと、みんな、何となくめかし込んでいるから、おもしろい。
若い連中は、もとよりだが、杉村春子や三津田健や宮口精二までが、新調のヴェールのついた帽子をかぶったり、派手なマフラーをしたり、おろしたてのスポーツ・シャツを着たりしている。むろん私も、ネクタイぐらいは、ちょっと凝る。
ところが、長期にわたる地方公演だとこうはゆかない。東北・北海道公演、中国・九州公演などというのが、おおよそ一年おきに行われるが、これは、一カ月以上におよぶことが多く、しかも、大体においてノリショである。ノリショ、略さずに言えば、乗りこみ初日であって、こういう地方公演では、福岡や札幌のような例外はあるが、一都市一日公演というのが、圧倒的に多い。A市で、夜芝居をする、翌朝の汽車でB市につき、すぐまた芝居をして、次の朝C市へ向う、という具合だから、その忙しいことは一と通りではない。汽車も「こだま」のようなわけにはゆかない。乗りかえがある、煤煙が飛びこむ、とても、おしゃれをしている暇なんかないのである。一カ月以上の旅となると、いきおい、旅行鞄もふくれあがる。照明や音響効果の器材をもって歩くから汽車の乗り降りにもひどく骨が折れる。そこで、長期地方公演に出発する日の東京駅あるいは上野駅では、わが座員たちは、女優さんはあくまでシムプルにスポーティーにと考える結果、見るからに、何でもない恰好をしており、われわれ男優は、弱そうな登山ガイド、あるいは上品な担ぎ屋のごとき恰好をしている。
こういう長い公演旅行には、いろいろおかしな出来事がつきもので、話しだせばきりがない。
飛騨《ひだ》の高山で公演を終えて、プラットフォームで汽車を待っていると、反対側のフォームについた汽車から、地方の団体旅行のお客さんがぞろぞろ降りてきた。とたんに、演出部の研究生のA君が叫んだ、「お母さん!」
思いがけないところで、何年ぶりかで東京へ行っている息子の顔を見たお母さんは、一瞬きょとんとし、やがて、A君そっくりの丸いかわいい目をしばたたいた。これには、たちまち「飛騨高山涙の再会」という外題がついた。
若い女優のB嬢は、はじめての九州地方の長旅なのに、どこへ行っても、楽屋へ訪ねてくる知人や友人がいて、みんなに不思議がられた。どんな小さな町でも着くとすぐ電話をかける。すると、必ず誰かがB嬢をたずねてくるのだ。
つまり彼女は、ふだんからじつに丹念に人とつき合っているので、遠い親類や小学校の級友や先生はもとより、昔の会社の友達や、近所の人達や、仕事で一緒になった放送局やテレビ局の人達とも小まめに(あるときは筆まめに)消息をかわし合っていたのである。長旅は苦労が多いものだが、B嬢はふだんの心掛けのおかげで、その苦労をだいぶまぬがれているようであった。
一昨年の東北・北海道の旅にも、B嬢は加わった。北海道ははじめてだという。
今度はまさか、とみんな思っていた。ところが、おどろくべきことに、今度もまた、どこの町でも、誰かが必ず彼女を訪ねてくる。一日、バスで阿寒湖へ遊びに行った。マリモを見た後、湖畔の食堂で、コーヒーをのみながら、私たちはバスの出発を待った。やがて、車掌が知らせに来た。ぞろぞろ乗りこんで、気がつくと、B嬢がいない。
「まさか阿寒湖にまで知合いはいないだろう」と誰かが言ったので、大笑いになった。そこへB嬢があらわれた。
「すみません。お墓まいりに行ってたんです」
「えっ?」
「父方の伯母の家にずっと昔からいた女中さんのお墓があるんです」
一同は、マリモのように沈黙した。
――一九六一年六月 旅と宿――
雨夜の旅
地方公演に出かける朝の駅はおもしろい。
初旅の若い女優さんはいかにも楽しそうにおしゃべりをしているし、旅馴れた奴は早手廻しに新聞と週刊誌を買って、発車前から居眠りをはじめる。かねてから準備していたらしい新しい服をさりげなく着て来るのもあれば、見るからに昨夜のままの奴もいる。
長い旅には覚悟が要る。一人一人の荷物も嵩《かさ》むし、照明器具など、手荷物扱いに出来ぬ道具類もふえてくる。支線やバスへの乗り換えが多くなるから、荷物のあげおろしが並大抵ではない。一カ所一回の公演、その夜遅くか翌朝早く、汽車で次の町へ向う、いわゆる「乗り込み初日」が、毎日のようにつづくのである。
六年前の夏、釜石を振り出しに北海道へ渡り、帰りに秋田・盛岡を廻って仙台で打ち上げる、一カ月の大巡回公演に加わったことがある。
青森から秋田へかけての日本海の美しさも忘れ難いが、釜石湾の景色も強く印象に残っている。釜石の初日が、戦後最高とかいう記録的な暑さだっただけに、翌日、主催の富士製鉄の方々の御好意で、遊覧船二艘に分乗して釜石湾にのり出した時には、蘇《よみがえ》るような思いをした。リアス式海岸の岩壁を目近に眺め、かもめの群がる小島を遠望し、昨日とは打って変った涼風を満喫しながら、青緑色にうねる波の上を行く内に、雨が降り出した。おかしな陽気の夏であった。
上陸して、釜石駅へ。出発する。雨は止まない。花巻で本線に乗り換える。例のごとく荷物のあげおろしに一と苦労する。
すると、駅のアナウンスを聞いた奴が顔色をかえて飛んで来た。どことかの駅の先で、豪雨のために鉄橋がどうとかして本線が不通になっているという。やがて発車する。すでに夜である。
客車掛りの車掌が廻って来た。詳しい事は分らぬが鋭意復旧作業中であると言う。
どことか駅まで二時間程かかる。それまでに直らなければどうなるか。直らなければ折返し運転になる。駅から駅への連絡はバスがある筈だが、山中のバス道路に崖崩れなどの事故が起っているかも知れぬ。万一の場合は、徒歩連絡になりますと言う。
男たちは思わず顔を見合せ、それから網棚の荷物を見上げた。万一の際には劇団と自分の荷物の他に女優さんたちの荷物を持ってやらねばならぬ。彼女らの鞄は、例外なく大きく、重いのである。
「デカイなあ、Pさんのボストンは」
「Q子とRのはおれが持とう。その代り、おいS君、おれのバッグを頼むよ」
芝居の仲間というものは、こんな時には話が早い。事は、明日の芝居に関わっているからである。一応手筈が決ると、たちまち陽気な馬鹿話になる。女優さんたちが不安げなのは無理からぬ次第で、さればこその馬鹿話でもあるのだ。
気の揉める二時間が過ぎた。車掌が来て、満面に喜色を浮べて言った。
「御心配をおかけ致しましたが、不通箇所の復旧作業は完了致しました。当列車、下り青森行急行××号列車から運転を再開致します」
思わず、車内から歓声が起った。岩手の深い山中で、夜の雨を冒して、この復旧作業はあざやかであった。
列車は駅で一旦停った後、最徐行で、現場の鉄橋にかかった。皆、窓から恐る恐る顔を出して、遠い谷底の闇へ眼を凝らした。そこには露天ランプが輝き、黒い防水の雨衣を着た人たちが三、四人、後片付けをしているらしい姿が、小さく見えた。「ありがとう!」「御苦労さん!」明るい汽車の窓から、そんな言葉が谷底へ向ってとんだ。
「よかったわね!」と女優さんたちは心《しん》から安堵して言った。「でも大変ね、あの人たちも」
私たちも全く同感であった。が私たちは顔を見合せ、網棚を見上げ、わざとつまらなそうな声で呟き合った。「男はみんな大変だよ、な」
――一九六四年九月 TR――
関ヶ原
東海道新幹線にはまだのったことがないから、時速二百キロというと、どのくらいの速さになるか、ちょっと見当がつきかねるが、汽車があまり速くなると、旅のおもむきも大分変ってくるだろうと思う。旅行というよりは、移動といった方がふさわしくなるだろう。
東海道線にのると、関ヶ原を通るのがたのしみだったが、こんどの新幹線を地図でたどると、関ヶ原のあたりでは、旧東海道線の南方、海寄りを進み、関ヶ原を過ぎたあたりで旧線と交叉する。関ヶ原は見られなくなるかも知れない。ちょっと残念な気がする。
汽車の窓から見る関ヶ原の景色は、どちらかといえば平凡な景色である。べつに雄大な展望があるわけでもなく、奇岩怪石の類いがあるわけでもない。杉や檜のおいしげった昔ながらの日本の丘や狭《はざ》間《ま》が、ある時はゆるやかに、ある時ははげしく起伏しながらつづいているだけなのだが、関ヶ原合戦という史実を裏打ちにしてながめるせいか、風景に一種の気魄のこもっているのを感じる。丘の起伏はまさにその通りの起伏でなければならず、その裾《すそ》をめぐる小道はこれ以外の曲りようはないという感じで曲っている。
ある冬の暮方、下り列車で関ヶ原にさしかかると、急にみぞれまじりの雪が降りだした。あの辺は寒いところで、よそではくもっていても、関ヶ原は雨というようなことがよくある。しかしその時の雪の降りだし方は、いかにも唐突《とうとつ》で、そのうえ見る見る間に本式の雪になり、風さえ加わって、吹雪になってしまったのだから、いくらか天変地異に似ていた。汽車は徐行しはじめた。
窓から、すでに暗くなりかけた野面に降りしきる雪や、身もだえをするように風に揉《も》まれている杉や檜の黒い影をながめている内に、私はふと、何とも言いようのない気分におそわれた。戦国時代と現代とが、昨日と今日のように密接しているような、眼前の光景がそのまま戦国の世であるような、じつに妙な気分で、私は自分が興奮しているのがわかった。筋もなく、人物もなく、観客もなく、作者さえない劇――始まりも終りもない劇の中に身をおいているような気持であった。昔、グレコの「嵐のトレド」という風景画を見たとき、同じような興奮をおぼえたことがある。
雪の関ヶ原は目の前をすぎてゆく現実の風景であるだけに、その感じがいっそう濃く、直接的だった。
関ヶ原をすぎると、たちまち雪は止んで、汽車はまた速度をあげたが、私はまだぼんやりして、紫野の大徳寺にある小早川隆景の苔《こけ》むした小さな墓のことなどを想いうかべたりしていた。
いちどあの辺をゆっくり歩いてみたいと思いながら、まだ果せずにいる。
――一九六四年五月 小説現代――
津和野
今年の六月、ロバート・ボルト作の「わが命つくるとも」という芝居をもって関西、山陽、九州の地方公演に出かけた。
幸い東京公演が好評だったため、関西各地の入りも上々で、山陽道にさしかかる頃には、みな何となくうきうきした気分になっていた。上戸はもとより、下戸にも、瀬戸内の魚の味がたまらないからである。
徳山公演の後、次の博多公演まで二日ばかり暇がある。東京を発つ前から、この二日の休みを利用して、秋芳洞や津和野や萩へ廻ろうと計画していた何人かがあった。私も同行を申し出ようかと思ってはみたものの、何分、出づっぱりの主人公トーマス・モアを勤めていることゆえ、旅先で疲れが出るかも知れない、その時の調子次第にしようと、態度未決定のまま出かけて来たのだが、毎晩の芝居が気持よく出来るせいか、瀬戸内の酒と魚に養われたせいか、心身ともにはなはだ快調である。私は二日の休みを津和野と萩に過すことにした。
東京から計画を立てて来た連中は、案内する人があって、自動車で秋芳洞から津和野へ入るという。席の余分はない。私は単独行と決めた。秋芳洞には、余り興味がないから、かえって好都合である。
自動車で、津和野に入る。
谷間を見おろすようにしながら、運転手が「あれが津和野です」と言う。私はびっくりした。
細い道路の両側に、ぴかぴか光る赤瓦の屋並がしばらく続いている。それだけである。
森鴎外は自分の故郷は山に挾まれた狭い町だと書いているが、こんなに狭い所とは思わなかった。津和野という地名には、小盆地とまでは行かなくとも、少なくとも、ある程度の広がりを持つ野のイメージがあるが、これではまるで津和路、あるいは津和筋ではないか。
ぴかぴか光る赤瓦も気に入らない。くすんだ濃いねずみ色の屋根瓦の屋並に、杉や松や桜の木立のまじる風景を予想していた私は、びっくりしたついでにがっかりして、意気はなはだ揚らないままに車を降りた。
何はともあれ、森林太郎墓にもうでなければならぬ。駅で道をたずねると、あの踏切を渡った所ですという。見ると、そこはもう山である。
山門を入ろうとすると、右手の別院か何かの門前に案内書きがある。この中に西家代々の墓、桃井若狭助の墓がある、というようなことが書いてある。西周の墓にはおどろかないが、若狭助の墓にはおどろいた。こんな所で忠臣蔵にお目にかかろうとは思わなかった。こちらを先にする。
西周の墓は、気味のわるい天狗のような石像である。羽団扇のようなものが、正坐した膝の脇に刻まれている。
若狭助の墓は、杉の大木の生い茂った高みにある。藩主の墓だから、むやみに大きい。歌舞伎の若狭助の紋所の四ツ目が、ちゃんと彫ってある。似たような巨大な墓が十あまり建っている。代々の藩主と夫人の墓である。大汗をかいて登って来たのだが、杉木立につつまれた冷たい空気が、たちまち肌を冷やす。
山を降り、隣の鴎外の墓にもうでる。
これは、三鷹の禅林寺と同様、中村不折書の、質素な墓石で、ただ東京と違うのは、その墓の向うに、丸い青野山が、文字通り青々と、美しい背景となっていることである。
さて山門を出ると、あとは鴎外の生家を見るくらいで、これといった当てはない。ぶらぶら町を歩き、津和野大橋のたもとへ来ると、ばかに大きな自然石の句碑が目に入る。
「山茶花の雨となりたる別れかな 夢声」おや、徳川さんは津和野だったのか。
橋の上から川を見下ろすと、おびただしい真鯉緋鯉の群れが、水草の間にたわむれているのが見える。中には一メートルもあろうかと思われるのもいる。津和野は鯉の町だと聞かされていたが、なるほど見事なものだ。
郷土館へ入って鴎外や西周の遺品を見、出てくると、後から追いかけてくる人がある。電話がかかっていますから出て下さいという。引返して電話に出る。
声の主は九州のテレビ局のプロデューサーであった。今あなたが町を歩いていたという知らせがあったので、急に電話をした。山陰の町々を訪ねる番組があり、その津和野の巻を明日撮影するために来ている。それにゲストとして出演してもらえないか。司会は草壁久四郎氏で、今夕津和野に到着する。われわれは今旅館にいるが、とりあえずこちらへお越し頂けないだろうか。
私は今日中に萩へ行き、そこで一泊するつもりであった。しかし、旧知の草壁氏と一人旅の津和野で久々にめぐり会えるとは、望外のたのしみである。
K旅館で、プロデューサー氏に会い、話している内に、この望外のたのしみへの期待がどんどん大きくなり、ついに私は、津和野泊りと決めた。さあそれからが大変であった。
郷土史家のM氏の案内で津和野を見て廻る。出てくるわ、出てくるわ。鴎外や西周の生家はもとより、鴎外の学んだ旧藩校養老館。加古川本蔵の屋敷の門と墓。中村吉蔵の墓。切支丹四番くずれの殉教の地、乙女峠。校正の神様とうたわれた神代種亮の生家。坂崎出羽守の墓。そして新劇女優伊沢蘭奢の墓。
ぴかぴか光る赤瓦は雪に耐えるように釉《うわぐすり》を施したもので、三百年近く経ったものもあること、西周の墓の石像は天狗ではなく神農像で、膝の脇に置かれたのは鎌と稲穂であることなど、M氏の話は止まる所を知らず、私は津和野を隅から隅まで知り尽したような気分になった。
その夜は、遅くまで、草壁氏と鮎を肴に飲んだ。こういうことがあるから、旅はおもしろい。
――一九六九年一〇月 酒――
中田五郎 これからの歌手は視覚的要素が大切だ、テレビが発達すると。
橋口信夫 でも何といったって本物がいいな、テレビなんかにこの着物の感じは出ません。
中村光夫「パリ繁昌記」
無意識録音
ラジオの小失敗はたくさんあるが、大失敗は一度だけ。その一度がすさまじい。大分前の話だが、連続ラジオドラマ「アルセーヌ・ルパン」の録音で大阪へ行った。その三日目。スタジオの都合で、夜中の十二時からはじめるという。どうにも間がもてないから映画を見にでかけた。
オリヴィエ、リイ夫妻の「美女ありき」を見て、大いに感心し、いささか興奮気味で外へ出たのが五時。とたんに、劇団の支持会のI氏にあった。話相手のほしい矢先だからたまらない。仕事までまだ六時間以上あるという気のゆるみもあったのだろう。ジュースがいつの間にかビールになる。おや十一時半だ、と気がついた時にはウイスキーをコップで飲んでいた。その後が、まるで分らない。とにかく一人でちゃんと局へ行って、上機嫌で録音をすませたそうである。
暇さえあれば、オリヴィエのネルソン戦死の場面の真似をして、床に倒れて見せていたという。プロデューサーは、あなたが今やっているのはルパンであって、ネルソンではないということを分らせるために、大分骨を折ったらしい。後にも先にもただ一度の無意識録音で、思い出してもぞっとする。
――一九五九年四月 朝日新聞――
テレビを見ながら
テレビを備えつけたのは、去年の春だが、それ以来、ラジオを聞くことが、ほとんどなくなってしまった。
ラジオよりも、テレビの方がおもしろいわけではない。ずいぶんつまらない番組もあるのに、ついつい、終りまで見てしまう。病後の静養中で暇だったせいもあるが、そればかりではなさそうである。たまにラジオを聞いても、声だけしか聞えないことが、たいへん物足りなく思われる。視覚と聴覚と、両方に同時に働きかけるテレビの方が、ずっと強い力で、私達を捉えるのである。こういうテレビの力のおかげで、今までラジオではあまり聞いたことのない番組を、いろいろ見たり聞いたりした。
その一つに、料理の時間がある。昼の番組で、局によって番組名は異なるが、内容はまったく同じである。一つの料理を仕上げる過程を、料理学校の先生(料理研究家というのであろうか)や、コックさんや板前さんが、適当に説明を加えながら、実演してみせるのである。そこまでは同じだが、それから先が一寸違う。それから先というのは、その実演者の説明の仕方、話し方のことである。
料理学校の先生方(大抵は中年の女性である)の話しぶりをきいていると、話の進め方や声の調子や色合など、いろいろの違いがあるにもかかわらず、誰にも共通したひとつの型――とまではゆかないが、特色があるように思われた。それは、話の段取りが整然としており、克明で、話の速度も速すぎず、遅すぎず、見ている(聞いている)者の頭へちゃんと入るような話し方である。ノートをとるのにもっとも都合のよい話し方になっている。料理の方は、画像になってあらわれているわけだから、なるほどそれでもいいわけだが、実はそのはっきりした話し方というのが曲者《くせもの》で、書いたものを読んでいるような、書くかわりに話をしているような話の仕方は、ほんとうは話とはいえないかも知れない。すくなくとも、「スズメガイマス。カラスガイマス」(中・高・低)の調子で、「最後に胡椒を入れます」とか、「パセリをあしらいます」などと言われると、料理の作り方を見ているというよりは、手のこんだ動植物の標本をつくっているのを見ているような、豚や大根の手術を見ているような気がしてくる。
一方、コックさんや板前さんの方は、これもまた人によって調子はさまざまだが、概して説明はうまくない。話上手とか話下手とかいうことはむろんあるのだが、それよりも、料理に夢中になって、ひとりで愉しんでいるという所がある。話の段取りなどはめちゃくちゃで、料理が出来上ってゆくから、それにつれて話すだけである。その料理も、学校の先生方のように、まかすところはしかるべく助手にまかせ、手際よく運んでゆくという風にはゆかず、ほんのあしらいの炒り卵を作るのにも手を抜かないで、いつまでもやっている。
「ほら、こうなったら火からおろすんです。これ、ちょいと狂うと、焦げついちまいますからね。こんどはこう。突つくように、箸を」
助手が時間を気にして交替を申し出ると、
「へえ、じゃ、お願いします。こんどは、この牡蠣《かき》を……こりゃ小粒ですがね……ああよくそろいましたね、粒が……これ、大粒でもいいんです……ああ、そうじゃない、突つくように。こういうあんばいに」とまた炒り卵へかえってくる。メモなど、とても取れるものではない。
しかしその話しぶりが上手でも下手でも、長年手がけてきた、自分の作るものの味を信じているところからくる自然な話の調子は、実に生き生きとしていて、愉しい気がする。そうなればもうテレビという媒体は、あれども無きが如きもので、一度、ある板前さんが、和《あ》え物の仕上げに、紫蘇の葉を添えた後、独り言のように、「ああ、これで、しゃっきりしました」といった時などは、その和え物の画像が実物でないことを残念に思ったほどである。
つまり、お料理番組の解説としては、料理学校の先生方の話し方のほうが適しているのかも知れないが、料理に即したはっきりした話という点では、理路整然としないコックさんや板前さんの方が、本物なのである。
これは、実は料理の時間に限ったことではなく、娯楽番組は別として、ニュース解説にも、座談会にも、およそ「話」のでてくる番組には、非常にしばしばあらわれる二つの傾向なのである。前者を定着型、他発型とすれば、後者は流動型、自発型と、いえるだろう。
ぼくらは、小学校で、「スズメガイマス。カラスガイマス」(中・高・低)と読んで平気でいたし、書き方、読み方、綴り方の時間はあったが、話し方の時間はなかった。この頃は、そういう教育にもいろいろ工夫がめぐらされているらしいが、テレビの子供向き、学生向きの時間を見ると(聞くと)、非常に妙な気がすることがある。
一と口に言うと、子供の話し方が、みんな「いい子」の話し方なのだ。「いい子」というのは、母親が幼児に「いいお顔してごらんなさい」という場合の「いい顔をした子」というほどの意味である。どの子も、どの生徒も、「いい顔」をして、「いい声」で「いい話し方」をしている。大人にとって、都合のいい子供には違いないが、見ていると(聞いていると)何だか背中がむずむずしてくる。そして標準規格型の「いい子」の「いい話し方」には、ほとんど例外なく、ラジオ・ドラマに出てくる子供の物の言い方の影がつきまとっている。
先生が「今日はカメラについて勉強しようね。A君はカメラは好き?」と訊く。A君は答える。「ええ(中)ぼく(低)大好き(高)です(低)!」
これは、この間たまたま見た(聞いた)一例だが、こういう場合、B君もC君もD君も十人が十人、この通りの高低で話すといっても言い過ぎではない。あたらしい定着型、他発型が、生れつつあるらしい。
いや、現に、若いアナウンサー諸氏諸嬢が、微笑をたたえながらぼくらに話しかける時、そういう、大人になった「いい子」の口調が、あるいはそのままに、あるいは古い定着型、他発型と合成されて、ぼくらの耳をくすぐりつつある。
「いかがです(中)か(高)? 五十円で出来たランプ・スタンドとは、とても(高)見えません(中)ね(高)。ほんとうに(高)きれい(中)です(低)ね(高)」
――一九五七年四月 言語生活――
テレビあれこれ
テレビというものは、おかしなものだ。
家へ備えつけた当座は、とにかく、何から何まで、見てしまう。なんだ、まるで初期の活動写真じゃないか、と思ったり、なんてあくどい宣伝だろう、と思ったりしながらも、ついつい、おわりまで見てしまう。ラジオでは音だけだったのが、目にも見えるようになると、こうもたあいなく引きずり廻されるものかと、われながら呆れるほどで、お料理メモだとか、アイスホッケーの中継だとか、今年の男のファッションだとか、ラジオではあんまり縁のなかった番組まで、見てしまうのである。そんなのはまだいい方で、いちばんおしまいの、明日の番組御案内がおわり、エンドマークの、日の丸がひるがえったり、切りぬきの鳩がはばたいてバラバラになったりするのまで見てしまうこともある。
テレビぐらい、今、どこで、何をやっているかということを、手っとりばやく見せ、そして聞かせてくれるものはないだろう。なにしろ、テレビの前に坐っていさえすれば、ド・ゴール将軍が、アルジェリアの無名戦士の墓に詣でた後、市民達の前でどんなにこわばった表情で演説をしたか、大関琴ヶ浜が、安念山のするどい寄りをこらえて、どんなにアクロバティックな粘りを見せたか、ボリショイ・サーカスの、スピッツを抱いた熊が、どんなに、赤ちゃんを抱いたおかみさんそっくりに、踊るように内輪に歩いたか、そういうことが、すべて一目瞭然とでもいいたいように、見られるのである。
テレビには、まだそのほかに、劇場中継がある。クイズがある。のど自慢がある。政府の時間まであって、首相はじめ各大臣が、政府や「わが党」の現状についてうれしそうな顔をしたり、しぶい顔をしたり、あいまいな顔をしたり、用心ぶかい顔をしたりしながら、政治評論家と対談する。なんでも一応、見たり聞いたりしたような気持になるという点にかけては、新聞もラジオも映画も、テレビにかなわない。
劇場中継なんかは、よく分りすぎるくらいで、物語の進行と、主だった俳優の演技と、情景描写と、観客席の雰囲気とを、適当に、万遍なく、見せたり聞かせたりしてくれるから、肝腎の舞台、劇、劇場の、本来、寸断されたり、限定されたりするべきでない実質、演劇の魅惑は、どこかへ消えてしまうのである。
解説者とアナウンサーが、幕間をつなぐ対談をする。アナウンサーが「この衣裳の色を、視聴者のみなさんに見ていただけないのは、残念ですね」などといったりするが、実は、見ていただけないのは、色彩だけではないのである。その舞台に起りつつあること、その劇場に起りつつあることは、解説者諸氏にはよく分っているはずで、しかしそういってしまっては実も蓋もなくなるから、「そうですね」と相槌をうつ。この場合、色彩をつたえることのできないモノクロームのテレビ・カメラやブラウン管は、他人の罪までひきうけさせられているわけで、いわば、贖罪《しよくざい》の山羊なのである。
テレビは、実に大勢の人の顔をみせてくれるもので、人の表情や、しゃべり方や、その相互の関係について、ずいぶん思いがけない発見をすることがある。
知人や友人や家族の誰彼とよく似た顔を、ひょいと見つけたりするのも、テレビのたのしみである。ぼくも、テレビのおかげで、自分に実によく似た奴を発見した。阪神タイガースの小山正明投手である。まったく、他人の空似ということは、あるもので、われながら、見れば見るほどよく似ている。横顔が似ているとか、口元が似ているなどという生易しいものではなく、どこから見ても似ていて、後ろ向きになるといよいよ似ている。自分で見ても、腹が立つくらい似ているのだから、他人が見れば尚更らしい。
中村伸郎さんに言わせると、一死、ランナー二、三塁、ボール・カウント2―3と追いこまれたときの、眼の据わった緊張ぶりなんか、ことにそっくりだそうだから、顔形ばかりでなく、気分まで似ているのかもしれない。最後の一球は外角いっぱいのスピード球。ショート後方のフライを、吉田がとって、みごとな併殺! テレビの画面には、ベンチへ引上げる吉田がうつる。そしてぼくは、小山のために、テレビにうつっていない小山とそっくりの顔で、にっこり笑う。テレビはまことに、無情なものである。
――放送朝日――
淀君火傷
TBSの日立劇場で「淀君開花」をみた。文学座のユニット出演である。
若き淀君を演じるのは、岸田今日子で、この配役は成功であった。冷たいような、熱いような、知的とも官能的ともみえる彼女の持ち前の表情は、クローズアップになると一段と魅力をました。
見ているうちに、ハッとする場面があらわれた。
といっても、格別、めざましいことが起ったわけではない。
意中の人、木村常陸介を呼びにやった後、淀君が香をたく。香炉がクローズアップになる。淀君の手があらわれ、しずかに蓋をとって、傍らにおく。その蓋をおいた後の手先が、異様にふるえたのである。
熱いッと、思わず私は声を出しそうになり、ふと、演技だったのかなと思い、すぐまた、いやそんなはずはない、と思い返した。
画面では淀君が、あいかわらず、冷たいような熱いような顔をして(洒落ではない)静かに常陸介と相対している。えらいぞ、今日子、と私はひそかに声援をおくった。
ドラマが終ると、私はさっそくテレビ局へ電話をかけ、演出の松浦竹夫に様子をきいた。
「今日子ちゃん、大丈夫かい?」
「わかりましたか。あれはね……」
やっぱり、火傷であった。
リハーサルの時からずっと、香炉によくおこった炭火が入っていたために、金属製の蓋がすっかり焼けて、熱くなっていたのである。
意中の人を待つために、ひとり静かにたく香では、まさか蓋を放り出すわけにはゆかず、淀君は、さぞ熱かったことだろう。
小道具おそるべし。あなどるべからず。
――一九六〇年三月 東京新聞――
テレビ・ドラマへの注文
どうすればテレビ・ドラマが、もっと面白くなるか、良くなるか、さしあたって、妙案があるわけではない。出来ない相談だと言われれば、それまでだが、ふだんから気になっていること、それも、いくらかは相談になりそうなことを、自戒かたがた、書いておこう。
まず、準備に十分時間をかけること。台本は、遅くとも、本番の四週間前には出来上っていてほしい。そして同時に、作者なり、演出家なりを中心として、主要なキャスト、スタッフに集まってもらい、打ち合せをする習慣をつくってほしい。
いま、三十分から四十五分のドラマの稽古日数は、本番の当日をいれて、三日ないし四日というのが、いちばん多い。台本は、早い時には、四週間前にもらえることも、たまにはあるが、大抵は、もっと遅い。稽古のはじまる二日前に出来上ったりすることもある。
これらの日数は、せりふをおぼえるためには、必ずしも不十分ではないが、せりふを忘れるためには、不十分である。冗談を言っているのではない。おぼえたせりふをもう一度すっかり忘れてから舞台へ出ろ、と昔の歌舞伎の名人は教えたそうだが、そういうふうに、役の人物をよく消化すること、したがって、演技が自発的になることが、大切なことは、昔も今も、洋の東西を問わず、芝居でも映画でもテレビでも、変りはないだろう。
それには、それだけの手間、暇をかけなければならない。芝居や映画は、それぞれに、固有の流儀で、その手間、暇を私たちに与えてくれている。テレビは藝術祭の時だけ与えてくれる。
私はべつに勉強家ぶるつもりはない。しかし一と月先のテレビ・ドラマの台本をただなんとなく読んでいるだけでも、何もしないで待っているよりは、はるかにましなのである。
テレビ・ドラマは舞台中継やテレビ映画といっしょに、ダイレクト・メールのように、どっさり家庭にとどけられる。ダイレクト・メールは、遅配になっても、あまりさしつかえはないが、テレビに遅配はゆるされない。製作スタッフは、いわば、この広告印刷物の立案者と、工場と、郵便局とを兼ねているようなものだから、その忙しさは、一と通りではない。それはよくわかっているが、そのてんてこ舞いが、当り前だということになっては困る。
このごろは、ダイレクト・メールもテレビ・ドラマも、送る方ではずいぶん工夫をこらしたつもりでも、受けとる方では、ああまたか、と思うようになった。どのドラマの中でも、喫茶店の恋人たちはレモン・ティーをのみながら同じような話をする。同じようなガード下で、同じような愚連隊が待ち伏せをする。どのドラマの中でも、浪人は橋のたもとの柳の下で呼びとめられ、茶の間の一家の夕食時にお父さんがおみやげをもって帰ってくる。
工夫が紋切り型に堕さず、創意が台本、演出、演技のすべてにあふれて、かけがえのない四十五分をつくり出さなければ、テレビ・ドラマは、スイッチの一とひねりで頓死するだろう。かけがえのない瞬間は、ニュースやスポーツ実況放送の中にいっぱいあるのだから。
プロ野球の放送がはじまる。台本の遅配を、この好機会に取り戻していただきたい。
――一九六一年二月 東京新聞――
チャンピオン三態
ラジオ、テレビの演出家、プロデューサーの方々は、私たちの年来の知友であり、語り草には事欠かないが、その気質や型について分類を試みよという課題を与えられると、私は困惑せざるを得ない。なぜなら、共に悪戦苦闘の一夜を過し、共に順風満帆の一日を送ったそれらの信頼すべき友、愛すべき友、あるいは恐るべき友たちを、標本のように分類することは、はなはだ礼を失したやり方だし、第一、あの多種多様の個性や気質や才能を、要約し概括することは、到底不可能と思われるからである。
そこで、止むを得ず、フィクションに頼ることにした。といっても、まったくの作り話ではない。これは、いわば一種の合成的肖像画である。
A 氏。
見るからに精悍である。眉濃く、眼元涼しく、凝ったネクタイ、意外なことに、甘党である。
読み合せ。ミスプリントの訂正、役柄、年齢の指定、欠席の役者の代読者の指定。カチリとストップ・ウォッチ――やがて途中で、カチリ。
「はい、ここまでで十分。ここから波音。ト書を五行繰りあげるわけです、いいね? じゃ次を。はい」カチリ。てきぱきと進む。
一回終ったところへ欠席の役者が、汗をふきながらあらわれる。
「どうもすみません」
「やあ、お疲れさま。一寸休みましょう」
煙草に火をつける。調整、効果と打ち合せ。
「おいおい、お茶はもうないのかい? 頼むよ。はい、それでは頭からもう一度、お願いします」
今度は途中でダメを出す。
「そこ、もっと強く相手にぶつけて見ませんか」
喜劇的な場面になると、役者と一緒に大笑い。やがて、最後のウォッチがカチリと鳴る。
「結構です。明日は、午前一時までとなっていますが、十二時前に終ります。じゃ、お疲れさま」
立上って部屋を出ながら、
「え、大洋が勝った? いいぞ! 打点王は桑田、絶対! 賭けてるんだ!」
むろん、翌日の録音は、十一時半に終る。作品は、民放祭で受賞する。ラジオ、テレビ界の荒波を突きぬけてゆく、水泳ならば自由型のチャンピオン。
B 君。
痩せている。酒豪。言語動作、すべて慎重丁寧。案外、はにかみ屋である。
「ラジオ・ドラマをお願いしたいのですが。ご都合がよろしければ、十月十日前後に」
なんと、三カ月先の話である。せっかちな、慌しきマスコミ人というような月並な形容は、B君には当てはまらない。
長い準備と稽古の後、録音がはじまる。あまり広くないスタジオの中に、マイクが四本立つ。凝るのである。
「では、本番まいります」
電子音楽。BGとなり、語り手「彼だけが知っている!」音楽とクロス・フェイドして、街のノイズ……NG!
「すみません。もう一度お願いします」
電子音楽。BGとなり、語り手「彼だけが知っている!」……NG!
「すみません、もう一度」
電子音楽……NG!
妥協しないのである。ガラス越しに見る副調整室の中の彼の頬は青ざめ、髪は乱れ、眼は血走り、しかし毅然《きぜん》としている。このドラマの成否は、正に、彼だけが知っているのである。
「一寸。そこの靴音、もう一度テストからお願いします。早足になりたいのをがまんしてゆっくり歩いている感じ。――はい、結構です。では本番!――ほらまた! ダメだなあ! どうして立止っちゃうの?」
朝の五時に録音が終る。B君は宇宙旅行から帰った眠狂四郎のような顔をしている。
「お疲れさま。え? ぼくはこれから編集をしなくてはならないので」
月間のベスト・ワン。藝術祭には必ず参加するB君は、水泳ならば潜水泳法の達人である。
Cさん。
小柄で肥っている。テレビと共に育った人。おもしろい柄のシャツを着ている。すぐ笑う。
「このせりふ、へんですね。カットしましょうか? でも、そうすると、つながらなくなるかな、次のせりふと。ハハハ、困ったな。じゃ、次のせりふもついでにカットしちゃいましょう。いいでしょう、すぐ後で同じようなこと言ってるから。ハハハ。でもくどくど同じこと言うのが、この役の性格なのかも知れませんね。だから残ったせりふを二倍くどくど言って下さい。無理かな? ハハハ。でも仕方がありません、時間が足りないんだから」
立稽古が終る。
「時間はどう? 五分長い? ハハハ、大丈夫、せりふがちゃんと入ればちょうどよくなる。じゃお疲れさま」
楽天的なのである。翌日。ドライ・リハーサル。
「はい、ここから1カメ。だめ? どうして? 間に合わない? 間に合わないはずは――あ、ごめん、3カメです、ハハハ」
ドライが終る。
「やっぱり長かった。カットします。十分長いんです。おどろいたな、ハハハ」
本番が無事終る。
「すみませんでした。でも、うまく行きました、おかげさまで。ハハハ」
このドラマが、批評、聴視者の反響、すべて最高。再放送となる。Cさんは局中もっとも担当本数の多いプロデューサーの一人、水泳ならば、まず、浮身の名人であろうか。
――一九六一年一〇月 放送朝日――
「有間皇子」をめぐって
テレビ・ドラマ「蘇我馬子」「大化改新」「有間皇子」の三編は、いわば福田恆存氏の古代史劇三部作であるが、書かれた順序としては、この「有間」がいちばん早い。原作となった戯曲は、数年前、松本幸四郎さんらによって上演され、好評を博している。
もともと、この三部作の構想は、福田さんがずいぶん昔から胸中にあたためていたものだ。「有間」を書いて、その意欲はますます深まったようで、予定どおりにいけば、いまごろは「蘇我」も「大化」も戯曲になっている筈だが、シェイクスピアが邪魔をした。
この十年来、劇作家としての福田さんはシェイクスピアの訳業に専念している。すべてをそちらのほうに打ち込んだために三部作のほうは、いきおいおあずけになっていたのである。こんどの「怒濤日本史」で、やっと、その全体像が浮び出たわけだから、福田さんとしても重荷を一つおろしたような気分だろうと思われる。ついでに言うと、十年来のシェイクスピアのほうも、まもなく最後の一冊が出るようで、これも完成、来年あたりは久しぶりに福田さんの書きおろしの芝居が見られそうである。
有間皇子を演じるのは、新・吉右衛門。舞台でもおなじ役を演じて好評だった、ついこの間までの万之助君である。
このごろの若い人たちは、いったいに発育がいいが、二代目吉右衛門さん(万之助君が吉右衛門さんになるのは、初代のおもかげが私に忘れられぬためである)も、背が高い方では人後におちない。これは一つには、おじいさんたちの血のせいであろう。初代吉右衛門も、先代幸四郎も背の高い名優であった。
初代には、私はたった一度だが、お目にかかったことがある。岩波書店の一室で、小林勇氏に紹介されたのだが、私はその思いがけぬ、はなやかといってもいいほどの洋服姿にびっくりした。厚手の茶のオーバーコートに、葡萄酒色のはいったあらい毛織のマフラーをのぞかせた血色のいい老紳士は、たしかに大播磨《おおはりま》で、私が初対面の挨拶をすると、これもまた、さびのある独特の、たしかに大播磨の声が返ってきた。
「だいぶ調子をやられておいでのようですな」
私は「どん底」のサーチンを演じている最中で、すっかり声を潰していたのである。
「何かいい薬はございませんか」
黒豆の汁とか、みょうばんとか、そういう答えを期待した。歌舞伎の世界にはそういうものがたくさんあって、名人は人の知らない妙法を用いているかもしれぬと思ったからだ。すると、大播磨はにっこり笑い、ていねいに、こう教えてくれた。
「あたくしゃ、そういう時ア、お医者に見てもらいます」
二代目が近代的な好青年であるのは偶然ではない。
有間皇子は悲劇の王子であり、敵から身を守るため狂気をよそおうが、その狂気が本物とも贋物とも見えるあたり、ちょっとハムレットを思わせる。初代が見たら目を細めることだろう。
黒、というのが「有間皇子」の私の役の名である。おかしな名前だが、犬でも牛でもなく、れっきとした人間である。
もとは役人か何かだったのが、世の有様にあいそをつかして、というよりも、いとしく思う若君有間皇子が、逆境におかれていることに腹を立てて、敵に一と泡吹かせてくれんものと、野に伏し山を行く一匹狼となった――いわば山窩《さんか》の先祖の一人、それが黒である。
こんな人物が、どんな恰好をしていたか、どんな髪形をして、どんなものを着ていたか、到底わかる筈はない。あれこれと想像したり、デッサンを描いてみたりしながら、見当をつけてゆく。これは役者のたのしみの一つで、こういう外の形がつかめないと中の気持もなかなか定まらないのだ。
中学時代に、考古学者になろうかと思ったことがある。これは、実物から架空の生活を描きだすたのしみで、埴輪《はにわ》や、土器や、曲玉《まがたま》、管玉《くだたま》などを見ていると、どんな人たちが、どういう方法でこういうものを造ったのだろうか。こういうものを身につけたり、使ったりしながらどんな生活をしていたのだろうか。いったいその人たちはどんな顔をして、どんなことを考えて暮していたのだろうか、というような疑問、あるいは興味がつぎつぎに湧いてきて、分りもせぬ歴史の本をいろいろ読みあさったものだ。
じつはそこへ行くまえに、小学生のころから、歴史の時間は好きだった。先生の話は、ちっともおもしろくなかったが、当時「小学生全集」と「児童文庫」という二つの子供向きの全集――文字通り、あらゆる分野にわたる数十巻の全集が二つ出ていて、私はその愛読者であった。ことに「日本武勇伝」とか「古事記」とかいうような歴史物語がおもしろくてたまらず、読みながら、どきどきしたり、はらはらしたり、夢中になって読みふけったたのしさは、いまに忘れられない。歴史の時間が好きだったのは、そういう読物によっていくらか予備知識を与えられていたからであろう。おれはオノコロジマもウマヤドノミコも知ってるぞ、という生意気ざかりの子供の自負心である。
余談だが、いま思うと「小学生全集」も「児童文庫」もずいぶん高級な内容をもっていたようで、たとえば折口信夫博士の執筆になる「万葉集」という巻などは、大人が読んでもおもしろかっただろうと思う。「柿本人麻呂は一般には風景などよりも人の心を歌うことにすぐれた歌人だと言われておりますが、私は必ずしもそうは思いません」という一節を、私はいまでもおぼえている。
歴史物語に興味をもち、その登場人物たちの運命や行動にはらはらしたり、どきどきしたりしていた子供の空想力が、大人になっても残っていて、古代の山窩を演じるたしになっているのであろうか。ジャン・ルイ・バローは、役者の藝の根源にある二つの基本的要素として、物真似と万有霊魂の思想をあげているが、昔の物語をきいて興奮する子供の心が、それを身をもって再現することに喜びをおぼえる役者の心につながるとすれば、役者子供とはその意味でも、言い得て妙、ということになるであろう。
――一九六六年一〇月 毎日新聞――
「夢のセレナード」
四年前から、毎週、テレビの夜の音楽番組「夢のセレナード」に出演している。
いや、出演などと言ってはおこがましい。いくつかの歌や演奏の前後に挨拶をし、間にみじかい話を二つか三つするだけの、埋め草のような役である。
司会者というほどのこともなく、ディスク・ジョッキーというのでもない、いわゆる音楽番組の「語り」の型に捉われず、しゃべりたいことを気ままにしゃべって欲しい、ただし、政治的発言や商業的宣伝は困る、というのが最初のプロデューサーの注文であった。
NHKとしては、もっともな注文である。
これは音楽番組であるから、料理でいえば、歌や演奏が御馳走で、カバー・ガールの山本リンダ嬢が食卓の美しい花で、私の話はさしずめ水か葡萄酒にあたるべきである。
水のような淡々たる風格や、葡萄酒のような香り高い風情は、到底私に具わってはいないから、出がらしの番茶や濁酒のような話になってしまうかも知れないが、とにかく理想としては、水、葡萄酒でゆくべきである。
この理想にいくらかでも近づくために、毎回、はじめの挨拶に先立って、詩の朗読をすることを、私は提案した。このごろ、詩は人気があるようで、詩の全集ふうの本がたくさん出ているが、四年前には、そんな気配はまるで見えなかった。
詩と音楽とは双生の姉妹のようなものであるし、古今東西の詩人の作品の雅によって、私の話の俗をいくらかでも蔽《おお》うことが出来たら、願ってもない幸いと言うべきである。この提案は、幸いに受入れられた。
さて始めてみると、これはなかなかの難物であることが分って来た。
第一に、時間の制約がある。うっかり話していると、五秒や十秒はすぐに延びてしまう。テレビではこれが禁物である。五分の話を十秒縮めるのはさして難事ではないが、二分の話を十秒縮めるのはまことに難かしい。
しかし、そもそも、時間のコントロールをするのが、埋め草的話し手の最重要任務なのだから、リハーサルで十秒延びたら、本番では確実に十秒縮めなくてはならない。
私は話し手というよりも、踏切り警手のような心境を、何度も味わったが、習うより慣れよで、いつの間にか、時間をぴしゃりと決める、こつのようなものを体得した。
第二に、何でもしゃべりたいことをしゃべれと言われても、そうは行かないことが分ってきた。興味のあることは二分ぐらいでしゃべり切れるものではない上に、自分に興味のあることばかりしゃべっていると、話が単調になってしまう。
毎週、芝居や犬やたべものの話ばかりしているわけには行かない。数学や火山や指輪の話もしなければならない。衣食住から森羅万象、あらゆる話題に及ぶとなると、しゃべりたいどころか、げんなりするような話も出てくる。
「西暦一五一九年にマゼランが世界一周の旅に……」とか「中国の数学者祖沖之は円周率三・一四一五九二と計算して……」とか、数字を暗記しなければならぬ時には、最もげんなりとした。
政治的発言はしない約束だったが、例の町名番地の変更なぞ、腹に据えかねる事が起ると、これを押えかねた。
東京は、私が現に住んでいる私の故郷である。いくら日々新しい道路が造られ、日々新しい団地が開かれようと、黒門町とか箪笥町とかいう美しい、歴史のある町の名を、何々一丁目式の、便利のように見えてちっとも便利でない、目先だけの考えで改悪するやり方には、我慢がならなかった。
そういう思いをしたことは何度もあって、まことに物言わぬは腹ふくるるわざであることを、改めて知ったが、押えかねて思わず洩らした言葉には、それなりの反応もあり、プロデューサー諸氏も、寛大に容認してくれた。
三カ月の約束で始めたこの番組も、思わぬ長命に恵まれて、この四月半ばに終了する。ごく内輪に見ても、五百あまりのみじかい話をひねり出したわけで、これは偏えに、構成担当の泉久次氏のおかげである。
始まったのが、ちょうど四月で、最初の話は、桜の話だった。
桜の美しいと思う所以《ゆえん》を、私は語った。最終回の最後の話を、やはり桜で結ぼうと、私は思っている。
――一九六九年五月 自由――
ジェフ ね、リリー、一つお話をしてあげよう。
マルスリン 今それどころじゃないわ。
ジェフ いや今だからこそ話すんだよ。昔ある所に坊さんがいたんだとさ……
マルスリン そのお話知っているわ。
ジェフ いや知らないよ。ほくが作った話だもの。
マルセル・アシャール・長岡輝子「お月様のジャン」
エネミー・フレンド
「やあ。元気かい?」と彼。
「モチロン。キミハドウ?」と私。
「ありがとう」にっこり笑う。「大阪の仕事はもう終った?」
「イヤ、マダダ。来週、私ハマタ行カネバナラヌ」
「忙しいんだな」
「キミト同ジサ」
私のビールが来る。乾杯。しかし私たちのグラスは触れ合わない。私たちの椅子の間には、いつも三つぐらいの空席があるからだ。
そのホテルのバーで、週に一日か二日、彼はいつも独りでビールを飲んでいる。
何となく顔見知りになり、そのうち、目顔で会釈し合うようになった。
いい顔だ。マーロン・ブランドとロバート・ボーンを足して、青年時代のチャーチルで割ったような顔をしている。四十歳ぐらいに見える。
初めて彼が英語で話しかけてきたのは大《おお》相撲《ずもう》の千秋楽の晩であった。
「大鵬が優勝しましたね」
「ソウデスネ」私の返事は、すこし素気なかったかもしれない。
「あなたは柏戸の方が好きですか?」
「両方トモ嫌イデハナイガ、元気ナ時ノ栃ノ海ガ私ハ好キデス。スポーツハ好キデスカ?」
「ええ」
口数は多くない。柔和な眼をしている。通りすがりのアメリカ人が話しかける。微笑しながら一言二言返事をする。静かに、非常に静かに話す。ある晩。
「暑くなりましたね」と彼。
「湿気ガアル。コレガ困リマス」と私。
「南の方もひどいけれど。しかし南は、海がきれいでね、夏は。沖縄、タヒチ」終りの方は、独り言にちかくなる。
「この人パイロットなんです、P航空の」
と、英語の話せるきびきびした若いバーテンが口をはさむ。アメリカの週刊誌を持ってくる。航空事故の写真が出ている。離陸直後に翼から発火し、あわやという寸前に、機長の沈着な処置で無事着陸したのだ。
「ああ、この機長はぼくの先輩です。ほら、去年一緒にここへ来ただろう、この席へ?」あいにく、バーテン君は覚えていない。
「原因ハ何デスカ? コノ発火ノ場所ハ変ダナ。油送管ハ通ッテイナイ」
「まだ原因不明なんです」
「潤滑油洩レカナ?」
「飛行機のこと、精しいですね」
「整備ヲヤッタコトガアルンデス、昔」
すると優しい彼の眼が急にいきいきとして、
「ほんとうに? ぼくも昔は整備です。あなた、今は? デスクのほうですか?」
「イヤ。今ノ職業ハゼンゼン別デス。私ハ航空兵デシタ」
「ああ、じゃぼくと同じだ。二十年前、ぼくは沖縄で整備をしていたんです」
「ホントウニ? 二十年前、私ハ沖縄へ行ク戦闘機ノ整備ヲシテイタノダガ」
「おお、それじゃ、ぼくたちはエネミー・フレンドだ」乾杯。しばらく沈黙。
後ろの卓では、したたかにアルコールの入ったバイヤーが二人、喚《わめ》き合っている。その向うには、ヴェトナム帰りのまだ少年といってもいい黒人の若者が三人、ビールのコップを前にして、さっきから石のように動かずにいる。どこかのクラブの舞台を終えたらしく、ブロンドとブリュネットの美女たちが賑やかに入ってくる。不意に彼が話しかける。
「空はいいですよ。海の上、砂漠の上。夜明け、夕方。ほんとにぼくは好きだ。世界中にぼく独りしかいないような気がすることがあります」
「ナルホド。私モ空ハ好キダ。シカシ、地面ノ上モ好キダナ」
「うん。だれもいないゴルフ場でプレイをするのは気持がいいな」
「劇場ハ? 劇場ニハ孤独ガアルト言ッタ詩人ガイル」
「劇場も悪くはないけど」ちょっと黙って、
「でもぼくは詩人じゃないから」またちょっと間をおいて、今度はにっこり笑う。「どうして、あなたはパイロットになろうと思わなかったのかなあ。いいよ、ほんとうに」
――ふとしたことで話をするようになって、いつもその同じ調子で、どこからでも話に入って行ける話し相手がいるというのは、いいものだ。
今日はいるかな、と思いながらバーのドアを押す。私のエネミー・フレンドは、そこにいる。柔和な眼が微笑している。私はいつものように三つほど中を置いた椅子に腰をおろす。
「ヤア。涼シクナッタネ」
「やあ。巨人軍、勝ってるね」
「ドウダッタ、今日ノ南ノ海ハ?」
「すごい色だった。見せたかったよ」
――一九六六年一〇月 婦人公論――
タクシー噺
タクシーでは、いろいろな目にあう。
こちらが歩いている時のタクシーは、バスやトラックと同様、いわば外部の存在であるから、ぶつけられたり引っかけられたりしないように気を配りさえすればよい。が、タクシーに乗るとなると、それだけではすまない。タクシーはこちらの内部まで侵入してくる。床に煙草の吸殻の散らばっているやつ。窓がなかなか閉らないやつ。ラジオをものすごい音で鳴らしているやつ。それから、主人がいる。主人の良し悪しはたちまちこちらの、客人の気分に響くのである。
どういうわけだか、絶対に、口をきかない運転手が、ときどきいる。概して若い人に多い。
「有楽町A劇場」
「青山通りを行って下さい」
「その交差点を右へ曲って下さい」
「ここで結構」
「三百八十円?」
何を言っても、ぜんぜん返事をしない。バタンと扉をしめて、それっきりである。怒っているのかも知れない。何かを我慢している、ということもあるかも知れない。しかし、こういう人に会うと、こちらまで何となく気が滅入ってくる。
このごろの東京では、地理を知らない運転手が珍しくない。が、物には程度があるべきで、あまりひどいのにぶつかると、腹が立つよりも先に呆気《あつけ》にとられてしまう。
「東京駅」
「教えてよね、分んねえから」
お断わりしておくが、私がこのタクシーを停めたのは日比谷である。
「先週東京へ来たばっかでさ、困っちゃうんだ。道が多くて、人が混んでてさ。やりにくいやあ、アハハ」
野原で話しているような大声を出す。
東京駅へ着いた時、このみごとに日焼けした若い運転手君は、にっこり笑って、こう言った。
「近いね。こんなら、歩けばいいのに」
中にはまた止めどもなく話しかけて来る人もあって、そういう時にはこちらが無言の行で抵抗する羽目になる。が、たまには、おもしろい話をする人がいるものだ。だいたい、そういう話好きは、中年過ぎの人に多いようである。
「お客さんの前だが、このごろの子供の話は分らなくなりましたね。さっき乗せた女の子なんか、ひどいもんだ。連れの男が、戦争の話をはじめたら、『あ、私知ってるわ! 第二次大戦って、日本も参加したんでしょ』とこうなんですからね。『先週学校で習ったわ』だって。冗談じゃない、オリンピックじゃあるまいし、参加したなんてもんじゃないでしょう? だいたい、学校で習うまで、戦争に気がつかなかったてのが、おかしいねえ。親の責任ですかね。ま、歳勘定からいくと、もう戦争なんてまるで分らなくなっちまってる子供がいたって、おかしかないけれども、こっちは何だか急に年寄りになっちまったような気がしてね」
「なるほど」
「だけど、またよくしたもんでね。ずいぶん古風な人もいますよ。お客さんの話をほかのお客さんにするってえのは、どうも、何だけれども、きのう乗せたお婆さんなんか、珍しい人だったねえ。大学生といっしょに乗って来たんですがね。いろんな話をするんですよ。私のことは『あなた』ってんですがね、隣の大学生には『こなた』って言うんだね。何だか義太夫聞いてるみたいで、おかしかったけれども、遠くにいるのが『あなた』で、近くにいるのが『こなた』ってのは、悪かないでしょう。まぎれないからね。話の様子じゃ、その大学生は親類らしいんだが、どうもお婆さんの話がよく通じないんですね。『こなたの煙草はのべつ幕なしだね』『いいえ、これはハイライトです』なんてんだから、通じるわけがない。途中で大学生が降りましてね。そうしたら、こんどは私が『こなた』にされちまった。どうも嫁がうるさくて、かなわない。お婆ちゃん遊びに行っといで、てんで毎日追ん出されちまう。毎日、朝から紅さしている。あんなへんてこれんな嫁は見たことがない、てんですっかり愚痴を聞かされちまいましてね。新宿の寄席《よせ》へ行くって言うから、表通りで停めたら、通い馴れてるらしくて『ああ、ここで結構です』って。『ここであがります』だって。降りるんじゃないんだね。陸蒸気《おかじようき》だね、まるで。笑っちまったね。あ、ここでおあが、じゃないお降りですか。つり込まれちまったい、こっちまで。はっはっは」
――一九六六年一一月 婦人公論――
冬の声
冬になると、何となく声の出方がちがってくるもので、ひどく寒い朝などは、みな、溜息をつくような声で話をする。
なるべく口をひらかないようにして、低い声で話すから、うめくような、内へこもった声になる。体内の熱をできるだけ外へ逃がすまいとする結果、そうなるのだろう。
その反対に、脳天から突きぬけるような、かん高い声になる傾向もある。冬は空気が乾燥しているから、そういう声はよく通って、ますますかん高くなる。
「おはようッ!」
「寒いねッ!」
「辛子《からし》のきいた寒さだなッ!」
べつにやけを起しているわけではなく、足ぶみをしたり走ったりして体温を高めようとするように、景気のいい声で話をして、寒さに抵抗しようとするのだ。声の体操である。
話し手によっては、この二種類の声が、かわるがわるに出てくることもあって、Sさんの話などは、その代表的なものであった。Sさんという役者を知っている人は、もうあまり多くはないだろう。いかにも東京の下町の人らしい肌合と、いぶしのかかった藝風とを持った老優で、晩年は新劇の役者として過されたが、歌舞伎の演技も身につけておられたから、その舞台にはいつも独特の雰囲気が漂っていた。
私の記憶にあるSさんは、瀬戸の火鉢に手をかざして、みじかい紙巻煙草をきせるで吸いながら、内にこもった低い声と、かん高い声とを使いわけながら話をされる方であった。
くそおもしろくもない、という顔をしておもしろい話をする人があるが、Sさんもその一人――名人であった。
「昔、『河内山』をやりましてね。歌舞伎ったって、私たちのは、素人の好きが嵩《こう》じただけですから、自分じゃあ顔がこさえられない。本職の顔師をたのんできて、こさえてもらいました。例の見あらわしのとこで、ハッとして左頬のほくろを隠すと、前のお客が『なんだいッ! おうッ! 見えてるじゃねえかッ!』って言う。『ほくろ、右の頬っぺたについてるぞッ!』てんでね、一幕台なしです。顔師に『だめじゃないかッ!』って言ったら、その顔師が、じいっと私の顔を見て、『ちゃんと左に入ってるじゃありませんか』って言うんですね。何のこたあない、向い合って、自分から見ての左へほくろを入れたから、ほら、私の右の頬へ来ちまった。のんきな本職があったもんです。もっとも、私のほうもちょいとまずかった。出の前に、鏡を見たんですがね、ほくろが右の頬についてる。ああ、こりゃあ鏡だから、左の頬のほくろが、逆にうつってるんだな、と思って、安心して出ちまったんで。馬鹿な話でさね」
「新劇は何てったって、脚本と役者ですね。この二つがそろわないと、どうもいけませんね。演出家は張り切るのはいいけど、あんまり出しゃばっちゃいけません。若い人ほど、むずかしいこと言いますね。あれ、悪かないんだけども、役者が自分の思う通りにならないと、やたらに怒る人がいる。これが、どうもね。『そうじゃないッ! 何べん言やぁ分るんだッ!』なんてね。こっちも、何べんもやりたかあないから、なるべく一ぺんですむようにやっちゃあいるんだが、むずかしすぎるんですね、向うの要求が。一升の酒を二合の徳利へいっぺんに詰めろ、てなことを言う。またやる。またできない。しまいには演出家、青くなって、台本で机をたたきながら怒りはじめる。目が据わって、額に筋が立ってきて、怒鳴るたんびに、何だか、しぶきみたいなものがこっちの顔へかかる。いやだから、ちょいとこう顔をそむけると、それがまた反抗的に見えるらしいんですね。とてつもなく大っきな声で『君たちは馬鹿かねエ!』なんて言われちまう。逆らうだけ損だから、おじぎをして、ずーっと遠くへはなれてから、役者同士で『馬鹿じゃあないよ。な』なんて、小声で確かめ合ったりしてる。あれ、むだですねえ、時間が」
そんな話を、Sさんは身振りを交えながら立てつづけにいくつもした。にこりともせずに話して、一とくぎりがついたところで、大きく顔中の筋肉をゆるめて笑うと、今しがたまでの寒い気難かしい表情が急に溶けて、湯上りのあとの晩酌をたのしんでいるような、見るからに春風駘蕩《たいとう》たる好々爺《こうこうや》の顔になった。
戦後二年目の冬で、食料も乏しく、ひどく寒い冬だったことを覚えている。
Sさんの話し声が、低く内にこもり、ときに、かん高く冴えたのは、役者の仕方話だったためか、それとも、寒かったせいか、よく分らない。寒さのほうは、もう実感がないが、Sさんの声音は、今でも耳の底にのこっている。
――一九六六年一二月 婦人公論――
整然雑然
このごろ、あたらしく出来た駅やホテルや銀行の、廊下やロビーや食堂や待合室などで、椅子のあたらしい配置法というか、配色法というか、今までとはちょっと変ったやり方をしているのが、目につくようになった。その一つに、こんなのがある。
同じ椅子が二十並んでいる、とする。みな同じ色をしているのが、普通である。ところが、このあたらしいやりかたでは、ところどころに、違う色の椅子が挾まれる。黒ではじまり、やがて朱が二つ。また黒三つ。ぽつんと白。また黒。と思うと、朱白朱白朱とハデになり、ふたたび黒。
非連続、不規則というのが原理のようである。形はみな同じだから、その方からくる整然とした感じが、非連続、不規則から生ずる雑然とした感じとうまく混ざり合う。
腰をおろす時、つづいた黒の中へおろそうか、ぽつんと鮮やかな白にしようかと、一瞬、眼がとまどったりするのも、おもしろい気分で、私はこの椅子の並べかたは、わるくないと思っている。むろん、椅子の設計や配色、配置にちゃんとデザイナーの神経が通っているものとして、の話である。
大勢があつまって、ゆっくりと、屈託のない話に花を咲かせる時などは、こういう連続の整然の気分と非連続の雑然の気分とが、うまい具合に混じり合うのが、理想的だが、いくら気の合った仲間同士でも、人数が多くなるにつれて、なかなかそうは行かなくなるのが、普通である。
新年のあつまりなどで、「おめでとうございます」からしばらくの間は、なんとなく同じ色の椅子を皆で並べているが、その内に、持ち出す色が一人ずつ違ってくる。うまく相槌を打って話をひき出す役や、思いがけない連想で話題を転じる役や、微に入り細を穿《うが》つ記憶力で話の肉付けをする役や、控え目な口数や微笑で話にブレーキをかける役や、笑いが止らなくなって話に活気を与える役や、あれこれの役が入り乱れて、次から次へと色とりどりの話の椅子を並べはじめる。その噛み合せが、ひょっとして狂うと、またもとの一つの色の話に返ってきて、
「こんどのきみの役、あれ、気違いなんだろう?」
「そうなんだ」
「だけど、お客にはっきり分るかしら、それが」
「いや、そんなにはっきり分らないものなんだよ、精神異常ってやつは。この間のアメリカの高校生みたいなものでね」
「でも、それが分らないと、困るんだなあ。お客は混乱しますよ」
「はっきり人目には分らない気違いだってことを、はっきり見せればいいわけだ、演技で」
「そこね、むずかしいのは」
「地でいけばいいってんでしょう、地でいけば」
「まあそうひがむな」
「この間、会ったよ、そういうのに」
「へえ、いつ?」
「暮の公演の千秋楽さ。楽屋口で待ってるんだ。きちんと背広をきた背の高いハンサムな青年でね『ちょっとお話したいことがありますのでお待ちしていました』って」
「ああ、あの人! ぼくも会った。『Kさん、まだでしょうか』って言うから『すぐ来ますよ』、って言ったら『そうですか、どうも』って。ちゃんとした人だったがなあ」
「それがね、名刺をくれてね、並んで歩きながら、魔法瓶の作りかたを話すのさ」
「ふうん」
「ものすごく、くわしいんだな、それが。外側と内側と、二つのポットの中間を、真空にする方法なんかを、とても丁寧に話すんだ。はじめのうちは、黙って聞いてたんだが、ハッと気がついた。こりゃいかん、と思ってね『失礼します』って言ったら『でも、もう少しですから。これをA市の議会にかけるご相談をしたいと思って』って言う」
「どうしました?」
「つい、つり込まれて『投書するんですか』ってきいた」
「ヨワイなあ!」
「そうしたらね、ジロリと横目でにらんでね」
「また! すぐやって見せる!」
「『ぼく、議長です』って」
「ふうん。それから?」
「逃げたさ。あわててタクシー止めたら、いっしょに乗ろうとするんだ。大汗かいたよ」
「ふうん……。おい、何だか変な気分になってきたぞォ」
「暖かすぎるのよ。窓明けましょうか。魔法瓶の中にいるみたい」
ガヤガヤ、ワイワイ、ガヤガヤ。
――一九六七年一月 婦人公論――
笑いたい
何人か寄って、話をしていて、笑えないのは、つらい。まじめな話合いでも、一と区切りつけば、笑いたい。まるで笑わないのは、くそまじめというものだ。むろん、悲劇的な出来事の後とか、せっぱつまった相談事とかは、抜きにしての話である。
笑いは、話にちょっと添える薬味《やくみ》ではない。お上品な食卓に飾るしゃれた生花ではない。笑いは、話の味をよくする酒である。いや、笑いは話そのものであり、私たちは、笑いたいために話すことさえあるのだ。
昔、日本の軍隊では、初年兵は、笑うとなぐられた。私は、笑ったためになぐられたことはなかったが、Oという同年兵は、年中、笑ったという理由でなぐられていた。まじめになればなるほど、笑っているように見える顔なのだ。
ある日、中隊で慰安会があった。慰安会とは、演藝会のことである。藝自慢の初年兵たちが次次に仮設の舞台へ上って、民謡を歌ったり声帯模写をやったりした。何番目かに、Oがあらわれた。
Oは落語をやった。「狸賽」であった。例の、狸が恩返しにサイコロに化ける話である。
うまい。板についている。何よりも、むちゃくちゃにおかしい。私たちは引っくり返って笑い、ある古参の鬼兵長などは、笑いすぎて呼吸困難に陥ったほどであった。
アンコールに応えて、Oはもう一席「時そば」を伺った。これも大笑い、大拍手で、彼はすっかり面目をほどこした。
しかし、それでOの不幸が消えたわけではなかった。その夜、消燈後に、彼は鬼兵長から猛烈な往復ビンタをくらったのだ。
翌朝、私は彼にきいた。
「どうしたんだ、昨夜は?」
Oは腫れぼったい顔をまぶしそうに伏せて「バクチやサギの話をするのはけしからん、て言うんだ」
「ばかな。ゲラゲラ笑ってたぞ、あいつ」
「サービスしたのになあ」と、Oは、憮然として、したがって笑ったような顔になって、つぶやいた。そして小声でこうつけ加えた。
「笑う門には、鬼来たる」
この格言、あるいは警告には、一片の真実がある。笑うこと、笑わせることは、現代の日本では、威厳を欠くこと、慎みのないこと、軽薄なことと思われやすい。
しかし、鬼も福もなく、談笑するたのしさは誰でも知っているはずで、笑いを含んだ話は、霜降り肉のようにおいしい。
みなが談笑しているのに、一人だけ黙っている人があると、気づまりなものだ。そこで、みなサービスの限りをつくして、話の中へ引き入れようとする。
黙っている方にも、事情はある。ちょっとした引け目とか、気おくれとかで、つい、黙りがちだったのを、まわりが気を遣いすぎるものだから、かえって気持が屈折して、ますます無口になる。機嫌がわるくて黙っているわけではない。しかし黙りつづけている内に、不機嫌になってくる。
そうなると、みな興醒《きようざ》めて、何となく静かになるが、やがて面倒くさくなり、口をきかぬ奴を無視してあれこれ話合うにつれ、また油がのってきて、ついに笑いの飽和状態に達してしまうことがある。誰かが一言いうとみながどっと笑う、次の一言で哄笑、また一言、また爆笑、というあの状態である。まわりがそうなった時は、黙り屋はじつになさけない思いをする。
二十年の昔、私はそういう経験をしたことがある。
夜の座敷の客は、私のほかに数名、主人をかこんで話がはずみ、笑い声は間断なく、私一人が無言であった。まだ酒の味を知らず、無理にやっと飲んだ数杯のビールが、かえって憂鬱《ゆううつ》をつのらせた。私は頑《かたく》なに黙っていた。
ふと、卓の向うから、微笑して、主人が、私に声をかけた。
「きみ、靴下をぬいでごらん。楽になる」
虚をつかれた。半信半疑で、言われた通りにした。なるほど効果はてきめんであった。私は憑《つ》きものが落ちたようにしゃべり始めた。
隣から酒をすすめられる。断わろうとする私を制して、主人は卓ごしに自分の盃を差出し、おどけた調子で言う。
「弱きを助けよ」
私は、はじめて、みなといっしょに哄笑した。
青森県金木町のその家の主人の名は、太宰治。
――一九六七年二月 婦人公論――
雪の日の昔話
子どもに昔話をして聞かせるのは、昔から、老女の役割ときまっているようで、私も祖母や大伯母から、たくさん昔話をきかせてもらった。かちかち山や浦島太郎からはじまって、あんどんの油をなめる化猫や、大江山の酒呑《しゆてん》童子、「安寿《あんじゆ》恋しや、ほうやれほ」の山椒太夫の話、源三位頼政の〓《ぬえ》退治など、レパートリーはなかなか多彩であったが、長い話になると、一つの話をていねいに全部話すことはめったになく、さわりだけを聞かせて、前後はざっと筋を通すという具合であった。
中には、ひどく短い話もあった。尻切れとんぼの話もあった。
いちばん短くてひどかったのは、今でもおぼえているが、祖母の自雷也の話で、「自雷也っていう忍術使いがいたとさ。蟇《がま》の忍術を使いましたとさ。そうすると、蛇となめくじの忍術使いが出てきてね。かえると蛇となめくじで、はい、三すくみ」
何のことだか、まるで分らない。
うるさく話をせがまれて、たぶん針仕事か何かしながらの受け答えだったのだろう。昔話ではなく、先月見た歌舞伎の舞台のながめだったかも知れぬ。
そんな話をされると、おもしろくないから、だだをこねる。また、おもしろい話をされると、もっと聞きたいから、せがむことになる。だだをこねたり、せがんだりが重なると、祖母も大伯母も、かならず、ある文句を唱えて、話を止めた。それはじつに変な文句で、
「下谷ナントカ町のナントカのお婆さんがブウとおならをしたら、壁が真黄色になりましたとさ、はい、おしまい」
というのである。
話の中身とは、まるで関係がない。どんな話でも、この文句が出てくると、それでおしまいなのである。それは、一つの物語の終了よりも、話すという行為の終了を告げていたようである。今日のお話はこれでおしまい、というわけだろう。とにかく、「下谷ナントカ町の」が始まると、私はおかしくなって笑い出し、笑う私を見て老人たちも笑い、話は終るのだった。
――という話を、私は娘たちに話す。
「あはは。くだらないッ。うふふ」
「くだらない割には、よく笑うな」
「でも、ずいぶん難かしい話きいたのね、パパは。頼光の四天王なんて、きいたことないわ」
「そうだろう。まあ、仕方がないさ」
「そのおばあさんたち、今生きてると、いくつになるの?」
「あててごらん」
「百ぐらい?」
「ヒントをあげよう。大伯母さんからきいた話だ。そのおばあさんが、五つか六つか、とにかく、ほんの小娘だったころの話だ」
「ノン・フィクションね」
「その時分、家は本所にあった。ちょうどお雛様《ひなさま》の日でね、近所の仲のいい女の子が遊びに来ていたんだって。とても寒い日で、雪が降っていたけれど、二人とも振袖を着て、ごきげんだったらしい。雛あられをたべたり、白酒をのんだりしている内に、三味線をひきたくなった」
「へえ、ませてたのね」
「どうせいたずらさ。今の子供なら、ギターというところだろう。それともおもちゃの三味線だったか、その辺は聞き洩らしたが、とにかく、二人で三味線を抱えて雛段の下へもぐり込んだ」
「ああ、あそこ!」
「覚えがあるだろう。その日は外が雪明りだ。毛氈《もうせん》の赤い色が、内側から見ると、とてもきれいだったって」
「…………」
「おばあさんとその仲よしの娘とは、浮かれて、三味線をひきながら歌をうたいはじめた。白酒に酔ったのかも知れないな」
「かわいい!」
「そうするとね、台所のほうで大きな音がした。大変な音なんだ。それから大きな声がした、『大変だっ、旦那』って」
「ふうん。銭形平次みたい」
「びっくりして二人とも雛段の下から出た。台所へ来たのは、出入りのナントカさんでね、『大変だ。今しがた、井伊様が桜田門で斬られた』って」
「あ、ホント?」
「『さあそれからは上を下への大騒ぎ』というのが、大伯母さんの結びの文句だった。大体、見当はついただろう。おばあさんたちは安政生れだ」
「そういうノン・フィクションの昔話、子供にはおもしろくないでしょ?」
「だろうね。パパが聞いたのは中学生の時だ。雪は止んでいたけれど、やはりとても寒い日でね。二月二十六日だった。その日が、また、大変さ。二・二六事件といってね……」
――一九六七年三月 婦人公論――
同窓会
同窓会というと、小学校の、中学校の、高校や大学のと、いろいろあるが、いちばん同窓会という言葉にぴったりする気分をもっているのは、小学校の同窓会だろう。中学生以上になると、同じ窓、同じ教室という具合にはなかなか行かなくなる。かりに一級四十人とすると、一つ校舎、一つ運動場が、四十の校舎、四十の運動場になってしまう。
小学校でも上級になると、そろそろその兆があらわれてくるが、何といっても小学生は子供で、小鳥のように群がって、みんなで一つの魂を呼吸しながら、さえずったり、はばたいたりしているようなところがあるから、声をそろえて「ハナ、ハト、マメ、マス」を唱え、「春の小川はさらさら流る」を歌い、六年間いっしょに暮した仲間というものは、なつかしいような、照れくさいような、めずらしいような、馬鹿らしいような、気ごころの知れたような、まるで見当がつかなくなったような、一種独特の気分を抱きあっているもので、それこそ同窓会というものなのである。
私の小学校の同窓会も、いまだにつづいている。今年は卒業三十五周年にあたる。
毎年、一回か二回集まっている内に、顔を見せなくなる人がある。学校や勤めの関係で地方へ行ったり、結婚して田舎へ引込んでしまったりするからだ。二、三年して、またひょっこり顔を見せると、その変りようにびっくりすることがある。中学生の時には、ちびで、低い方から何番目、というような男が、地方の高等学校へ行って、帰って来たら、雲つくような大男になり、「やあ、しばらく」と上から見おろしたりする。
その反対もある。女学校を出ると、すぐ結婚して大阪へ行ったきり、絶えて姿を見せなかった女性が、二十何年ぶりに出席した。
「あら、めずらしい、沼田さん」
「うそよ、この前も来たわよ、ね、沼田さん」
全然、変っていないのである。昨日別れて、そのままというような感じなのだ。
幼な顔の残っている者もあれば、歳月の波に洗われて面変りした者もあり、卒業三十五年ともなると、毎年一回、顔を合わせているから見当のつくようなものの、さもなければ往来ですれちがってもそれとは気のつきかねる同士もある。
「ちょっと、珍しい人連れて来たわよ」
「こんにちは、照れるわね、卒業以来はじめてなんだから」
「(小声)おい、誰だい、あいつ?」
「(小声)分らねえ」
「まあ、桂さん! でしょう」
「(大声)ああ桂さんか! どこかで見たような人だと思ったよ」
「どこかで見たような、はないでしょう。ちょっと肥ったけどね。あんた、誰さ、いったい?」
「藤田。おぼえてないか」
「まるでおぼえがない」
「ひでえな」
「(小声)ありゃあ粋筋《いきすじ》かな、あの着物は?」
「何してらっしゃるの、桂さん?」
「私? 相変らずよ。絵の先生よ、名古屋で。ちょっと、失礼だけど、あんた、誰?」
「あらいやだ、戸田よ」
「ああ、戸田さんね。眼が似てる、そう言えば」
「当り前じゃないの、当人だもの」
「やあ、遅くなっちゃって。おや、桂さん」
「こんにちは。ちょっとこの人、誰?」
「ぼけたな。小畑だよ」
「ああ、小畑さん。生前のおもかげがあるわ」
「やなこと言うなよ」
「桂さんでしょ、小畑さんの名前、さかさに読んだの」
「アハハ。そうそう、チキン・ゲタバコ」
「つまらねえことに気がついたもんだよ。源吉なんて、渋味のあるいい名前なのに」
「大体、へんなとこに気がつくのは、みんな女の子だ」
「ませてたかも知れないわね、女の方が」
「三年生のとき、先生の奥さんが、奥さんになる前に、教員室へ何か届けに来たのを見つけて、あれは怪しい、と言いだしたのも女の子だろう」
「あれは私。えヘヘ」
「どうして分った?」
「そりゃ何となく分るわよ。ねえ?」
「お昼休みだったわね」
「そうそう、雨が降っててね」
「とにかく美人でしょう。臙脂《えんじ》色のコートを着て、教員室で先生と話してるんですもの。たいていピンと来るわよ」
「あんた、報告に来たわね、教室へ」
「うん。篠田照子っていう人、先生のお嫁さんになる人かも知れないってね」
「よく名前が分ったね、その時」
「傘立の傘に書いてあったもの、紅い漆で」
「それ。見に行ったよ、おれ」
「おれも見に行った」
そこへ、もう白髪の先生と、まだ若々しい奥様とがおいでになる。一と通りの挨拶の後、
「先生、じつは、今ね……」
――一九六七年四月 婦人公論――
ともだち
「Aさんじゃありませんか?」
突然声をかけられて、振向くと、T氏の顔が笑っている。
香港。九竜市の目抜き通り、ネーザン・ロードに近いあるホテルのロビー。午後のテレビはアメリカ製の喜劇をやっている。ブロンドの美人が"I don't know! Get out!"と叫ぶと、「我悟知道、出春!」とスーパーが出る。
こんなものを眺めているのは、所在のない証拠である。撮影の仕事で香港へ来ているが、今日はあいにく夕方まで出番がない。しかも、天候が定まらないので、いつ何時、出番が繰上らないとも限らぬ。散歩に出かけるわけにもゆかない。英国茶を飲み、中国茶を飲み、珈琲《コーヒー》を飲み、茫然と濾咀長煙「吉士」をふかしながら、テレビを眺めている。
こういうときに知人から声をかけられると、地獄で仏に遇った思いがする。
「撮影ですか。大変ですね」
「Tさんは?」
「昨日着きました、台北から。まだ振り出しなんです。アジア、中近東、アフリカ、東欧圏、ヨーロッパ、中南米、カナダと八十カ国ほど廻って、日本へ帰ります」
「何日くらい?」
「一年半の予定です、記事を書きながらなので」
「大変ですね、特派員の仕事も」
「好きですから。――こんどは、どんな役なんです?」
「新聞記者ですよ」
「おや、また?」と笑いながらT氏が言う。
痩せぎすで、小柄で、この人のどこにそんなエネルギーが潜んでいるのかと思われるようなタイプの活動家が、世間には少なくない。
T氏も、その一人である。敗戦後間もないころ、T氏は対日感情の極度に悪かったフィリピンへ、当時まだ珍しかったテープ・レコーダーを持って乗り込み、日本人捕虜収容所の実情を記事にした。その記事は評判になり、映画化された。そのとき、T氏にあたる狂言廻しの新聞記者の役をやったのが私で、これが私にとっては、T氏と知合うきっかけとなり、また映画というものに出るきっかけともなったのである。
「ええ、また」と、こちらも笑いながら、「香港には幾日くらいいらっしゃるんです?」
「一週間の予定です。香港というところはね、いろいろあるんですよ、思い出が。私はここの海軍飛行隊にいたんです」
「と言うと」
「ええ、今の飛行場、あそこです。かわいい女の子と知合いになりましてね。ポーッとなりました。むろん、独身ですよ、当時は。戦争がすんでからも、手紙のやりとりがありましてね、まあ、向うもこっちも、それぞれ結婚したわけですが、そのうち、双子が生れたという便りが来ました」
「ほう」
「女の双子でね。それがもうすっかり大きくなって、今年は大学へ入るんです。一人はカナダ、一人は日本へ留学させたいが、どうだろうかという相談を受けたんで、去年、一人、私の家へ呼びました。もうすっかり家族の一員です。じつは、今しがた、こっちの両親を訪問してきたところなんですがね、昨日東京で、『サヨナラ』って笑いながら手を振っていた娘とそっくり同じ娘が、『コンニチワ』って笑いながら出てきたときには、何だか、おかしくってね」
「なるほどね」
「香港には、ずいぶん辛い思い出もあるんだけれど――十年ほど前に、やはりこんどのように世界一周旅行をしたことがあって……」
「ああ、あれ。国産自動車で……」
「ええ、あのとき。バグダッドまで辿りつきましてね、領事館で一と息入れながら、そこの人たちと雑談をしているうちに、私がふと、当時国連総会に出席していたある若い女性――外務省の一等書記官でした。優秀な人でね、将来、日本に女性の大使が出来るとすれば、その第一号になること間違いなしと言われていた人なんですが、その名前をふと口に出したんです。すると、領事館の連中が顔色を変えましてね。さっき入ったニュースによると、その人の乗ったカナダ航空の飛行機が墜落して、生死不明、しかし十中八九まで絶望だというわけです。いても立ってもいられない気持でしたが、後のニュースが入るまで待つわけにはゆかない、出発しました。結局、だめだったんですけれどね。……じつは、その女性とはじめて会ったのが、香港島のリパルス湾。両方とも大学生でね……」
話が佳境に入ろうとしたとき、出番繰上げの知らせが来る。濾咀長煙「吉士」――つまり、フィルターつきキングサイズ「チェスターフィールド」の火をもみ消しながら、私も、残念無念の思いで、立上る。
――一九六七年五月 婦人公論――
西洋のタクシー
ニューヨークのタクシーの運転手に、笑われたことがあった。
「行かないわけがないじゃないか。乗んなさいよ、早く」
つまり、こちらは、東京のタクシーの乗車拒否で鍛えられているので、つい念の押し方がくどくなるのである。
「ワタシハりんかあん・せんたあへ行キタイノデスガ、連レテ行ッテモラエルデショウネ、アナタ?」というようなことを、探るような目つきをして、妙にゆっくりと言うから、向うは目をぱちくりさせる。
去年の春から夏へかけて、五カ月ほどの西洋旅行中、乗車拒否をくらったのは、パリで二度か三度だけである。
アメリカのタクシーの運転手が、向うから話しかけてくる時には、大抵、日本の話で、たとえば、黒いスキー帽に黒い皮のジャンパーを着込んだ肥った赤ら顔の運転手が、バックミラーの中でちょいとウインクしてみせたりしながら、陽気にしゃべり出す。
「私も日本にいたことがあるんだぜ。たった一週間だが、兵隊でね、朝鮮のときさ。何て言ったっけな、あの町? コカフウか? 知らないかい?」
「甲府カナ?」
「コウフ……違うね。ほら、島があるだろう、大きな。キヨトウか?」
「京都ハ町デスヨ」
「はてね。じゃあ、キヨショウか?」
「九州デショウ」
「それそれ、キューシューだ。その島にあるんだ、コカフウは」
「九州ノこかふう? 福岡ダロウ」
「あ、フクオーカだ! やっと思い出した。ほら、知ってるじゃないか、あんた!」
こんな目にたびたび遇ったのは、むろんアメリカだけである。ヨーロッパのタクシーの運転手とは、とてもこうは行かない。日本のありかさえ定かではないのだから、とてもキヨショウのコカフウまでは手が廻らないのである。
ローマのタクシーは、緑と黒のツー・トーン・カラーの小型車で、この噴水の多い、樹木の少ない、曲りくねった道のつづく古い大理石の町に、よく似合っており、料金も安いので、気が張らないのが何よりである。
ベルリンでは、どういう廻り合せか、タクシーを止めると、運転手はかならず、体格のいい老人であった。しかもその殆どが、白髪である。ダブルの背広に中折帽を冠り、真白な口髭をたくわえた運転手の車に乗った時には、自家用車に乗せてもらっているような、妙な気分がした。
行先を、注意ぶかく聴く。聴き終ると、はっきり頷《うなず》いて、慎重にスタートする。がっしりした両手が、ハンドルに柔らかく置かれている。やや大げさな言い方をすると、この走る機械の主人はまさしく彼であるという感じがする。彼らの風貌には、老工場長や老船長に共通するおだやかな威厳があった。
パリのタクシーは、ひどく楽しいのがあるかと思うと、がっかりすることもあって、はなはだ変化に富んでいた。
どういうのが楽しいかというと、たとえば、客席にしゃれた色の毛布が敷いてあったりする。レモン色のカーディガンを着た若い運転手に、声をかけて、振向くのを見ると、女だったりする。昔のフランス映画の俳優、レイモン・コルディによく似た、鳥打帽の運転手が話しかけて来たりする。
「ごらんよ、旦那。デモだよ。学生は威勢がいいね。若い者はいつだって威勢がいいや。それっていうのも、つまりは仕事を持たないからさ。仕事を覚えるってのは、大変なもんだ。早い話が、旦那、どんな小さな、短い横町の名前でもいいから、言ってごらん。パリの町だったら、自慢じゃないが、隅から隅まで知ってるよ」
しかし、何といっても、最高のタクシーは、ロンドンである。
オースチンの無骨な大型で、乗り心地は、やや硬く、かならずしも上乗とは言えない。それが、しばらくする内に、かえって頼もしい感じになってくる。
それというのも、運転手がいいからである。老いも若きもおしなべて、親切で礼儀正しく、地理に精通し、正確丁寧な運転をするからである。「自慢じゃないが」と前置きをするまでもなく、文字通り、ロンドンの町ならば、隅から隅まで知っていないと、免許が取れない仕掛けになっているようである。東京や大阪のように、日々これ新たなる都会では、通用しかねる仕掛けである。
ワシントンのタクシーの、若い黒人運転手のおしゃべりを思い出す。
「あんた、東京から来たの? すごいね、あそこのタクシー。蛇行運転、割り込み、スピード。アクロバットだね。ヴェトナムからの帰りがけだったけど、ヴェトナムより恐かった。あんた、いつから東京? 生れてからずっと? タクシーの事故は? 一度も? 運がいいんだねえ! でも、でも、日本人、器用なんだな。ハンドルさばきがうまいんだ。だけど」
と、ちょっと考えて、
「運転手は、責任があるよ。タクシーも、飛行機も、ね」
――一九六九年五月 小説新潮――
ベージュの祝い
母が、今年、六十歳になる。還暦である。
息子たちと、嫁たちと、孫たちとが、一日、ささやかながら宴をもうける相談をする。
孫の一人が(彼女は中学生だが)「カンレキって、なんのこと? どうして赤いちゃんちゃんこを着るの?」と質問をする。私が説明する、十干、十二支……
「だから赤いちゃんちゃんこを着るのさ」
「ふーん。もっと年とると、どうなる?」
「七十七歳が喜の字祝い」
「ふーん。それから?」
「八十八歳が米寿の祝い」
すると、彼女はたちまち吹きだして「うふふ、うそ!」といった。
六十歳の赤はともかく、八十八歳のお祝いにベージュ色なんて! そんな最新流行のことばが、昔からあったはずはないわ、と当世の女子中学生の目は言っているようであった。私は米寿の説明をした後、つけ加えた。
「米寿は還暦からかぞえると、まだ二十八歳だからね。ベージュの服もよく似合うのさ」
――一九六一年一月 東京新聞――
道音痴
道音痴とか、方角音痴とかいうのがある。
どういうわけか、男よりも女に多いようで、そういう人といっしょに歩いていると、面喰うことがある。三角形の二辺を歩くぐらいならば、まだしも、ひどい時には、四角形の三辺を歩かせられたりする。
L夫人とP嬢は、国電有楽町駅から、新宿駅へ行かなければならなかった。
「いちばん早いのは、山手線ね」
「ああ、品川を通って?」
「いいえ、上野を通るのよ」
となりの東京駅で、中央線にのりかえれば、まっすぐに新宿駅へ出られる、ということはまるで考えなかったらしい。
しかし、ともかくも山手環状線にのれば、どっち廻りでも、いずれは新宿駅に着いたはずである。それを、間違えて、京浜東北線大宮行の電車にのってしまった。
おしゃべりをしているうちに、何だか、窓の外の景色の様子がへんになってきた。
「ちょっと。おかしいわよ」
「そうね。少し、遠すぎるわね」
「間違えたのかしら?」
「この次の駅で、降りてみましょうか?」
「よさそうよ、その方が」
後日、P嬢の語ったところによると、その次の駅は、すでに、埼玉県に近かったそうである。プラットフォームに降り立って、暮方の町のたたずまいを眺めたL夫人は、びっくりして、P嬢に言った。
「あら、ここ、鎌倉じゃない?」
――もう一つ。
銀座を歩いていたQ君が、四丁目の交差点にさしかかると、地下鉄の出口のところに、R嬢が立っている。紙片をもって、考えている。声をかけると、
「ああ、よかった! Xっていう洋品店、あなた、知ってるでしょう。教えてよ」
見ると、R嬢の持っている紙片は、誰かに描いてもらったらしい略図である。鉛筆書きだが、図も文字も、きちんとしていて、よく分る。むろん、Xという店もそこに書きこんである。
「書いてあるじゃありませんか、この地図に」
「だって」と、R嬢は不機嫌な顔をして言った。「私は、地下鉄をおりて、その進む方向に、まっすぐ階段を上ってきたんだわ。だから、地下鉄は縦に通ってるはずでしょう。それが、この地図だと横に通ってるんですもの」
Q君は、呆れて、言った。
「地下鉄の線を、合わせればいいでしょう。地図を横にすれば」
するとR嬢は、ふてくされて、つぶやいたそうである。「字が、読みにくくなる」
嘘のような話だが、いずれも実話である――と、私はZ嬢に念をおした。Z嬢は、私同様、L夫人ともP嬢ともQ君ともR嬢とも、仕事の上で長年のつき合いのある人だから、この話に大いに打ち興じた。私たちは、テレビ・ドラマの録画のために、あるテレビ局へ行く途中であった。私には、はじめての局だが、Z嬢は、二、三度行ったことがあるという。
Z嬢は、さんざん笑った後で、言った。「私は、これでも道は確かなほうよ」
「お客さん」と、私たちの目的地であるTNG局を知らない運転手が、Z嬢に声をかけた。「これ、どっちへ行くんです」
車は、細いT字路にさしかかっていた。ポストが見えた。
「ええと、ね」と、Z嬢は、ポストを見つめながら、ちょっと考え、突然、ごはんをたべる真似をした。私はぎょっとしたが、次の瞬間、Z嬢は、架空の茶碗をもった手をさっと振って、自信満々に命じた。「ひだり!」
車は、確かにTNGに着いたから、Z嬢は道音痴ではないかも知れぬ。しかし、どうも、これもちょっとへんである。
こういう話はまだたくさんあって、きりがない。おもうに、女性は、われわれ男性にはおよびもつかない感覚的記憶力の持主なのであろう。その反面、たとえば現実の町なり村なりを、面と線と点とによって再構成するというような抽象的な作業には、意外に弱いのであろう。いや、意外に、ということはない。哲学や数学のような学問が、女性にとって苦手であることは、よく知られた事実である。
道音痴、方角音痴が、はたして男よりも女に多いものかどうか、統計をとってみたわけでもないのに、こんな、おおげさな結論めいた言い方をしたからといって、どうか、誤解しないでいただきたい。その時、その人が、どんな服を着ていたか、その日、その町並に、どんなあかるい日射しが流れていたかを、はっきり心の裡に再現することのできる女性特有の記憶力を、感覚の力を、私は尊敬しているのだから。
――一九六一年四月 婦人公論――
チネ子のはなし
チネ子の話をしよう。
東北岩手の生れである。もし彼女がほかの地方の生れだったら、ツネ子と呼ばれたであろう。東北なまりをそのままに、チネ子と戸籍に記入された名前を、彼女ははずかしがった。
チネ子が私の家へ来たのは、十年ほど前の雛祭の日であった。
上野駅の改札口へ迎えにいった家内は、初対面のチネ子を発見するのに、何の苦労もいらなかったという。あらかじめ写真同封の手紙で書いて寄こした通り、身長一メートル六十五、体重五十四キロ、ボストン・バッグとスーツ・ケースを持って、目印の黄色い毛糸の帽子をかぶった彼女は、着ぶくれているから、ますます大きく見えた。小型のタクシーの座席に、着ぶくれたチネ子と並んですわると、はなはだ窮屈であった。
チネ子は鼻の頭に汗を浮べて、しばらく呆然と窓の外をながめていたが、やがて感に堪えたように「大きいわね」と言った。東京の町の大きいことを、彼女は言ったのだが、内心、チネ子のことを「大きいわね」と思っていた家内は、ギョッとしたという。
つきそって上京するはずの伯父が、急に仕事の都合で来られなくなったという事情があったにせよ、岩手県から一人で出て来るのはたいへんだったろうと思い、きいてみると、「子供じゃないから。ワッハハハ」と豪快に笑った。二十二歳である。
両親と弟と妹と五人暮しの山奥の村から、歩いて一時間あまりの小学校へかよい、その小学校のある村からさらに汽車で一時間四十分かかる大きな町の中学と高校へかよった。
高校を卒業すると、同じ町にある幼稚園の先生になった。子供たちといっしょに、相撲《すもう》や、綱引きや、駈けっこをした。歌をうたった。チネ子は子供が大好きであった。
東京から偉い先生方が授業の参観に来たことがある。体操がすんで、歌をうたおうとしたら、先生の一人が、絵を描かせてごらんなさいと言った。チネ子は心臓が止りそうな気がした。絵は、彼女の苦手中の苦手で、小学校でも中学校でも、ほかの課目はいい点がとれるのに、絵だけはだめであった。子供たちに教えるのも、あまり気乗りがしないのだ。今日は絵を教えよう、と思っていても、つい、歌をうたってしまう。彼女は生徒たちに絵を描かせたことが、ほとんどなかったのである。
仕方がないから、画用紙とクレヨンをくばって、「先生の顔を描いてごらん」と言った。子供たちの描く絵をみて、偉い先生方はにこにこ笑った。どれもこれも、顔からいきなり手と足がはえていた。チネ子は穴があれば入りたいと思った。
二十歳の春、お見合をして、お嫁に行った。ひどく、乱暴な男であった。ついにたまりかねて、ある日、ぶたれた時、赤インクの瓶を投げ返した。夫は文字通り、真赤になった。離婚。
そんな身の上話をした後で、チネ子はかならず、「ワッハハハ」と豪快に笑った。悩みがなかったはずはない。しかし元来が、明るい、物事にこだわらぬ気質なのである。
大柄で、色白で、まず十人並の器量である。声には力があって、「はいッ!」と返事をすると家中に鳴りひびく。二人の娘はチネ子によくなつき、チネ子のほうでも、子供は好きだから、よく面倒をみてくれた。
渋谷のデパートへ買物に行かせたことがある。午後の一時に家を出たまま、夕方になっても帰らない。
駅まで十分、電車で十分、乗り降りや電車を待つ時間を勘定にいれても、四十分あれば、十分目的のデパートへ着くはずである。迷子になったか。それとも、電車に事故でもあったか。やきもきしていると、五時半ごろ、帰ってきた。真赤な顔をして、にこにこしながら、
「ただいま! ああ、くたびれた」
と言う。
「ずいぶん、遅かったわね」
「歩いて行ってきました」
遅いわけである。
「どうして電車で行かなかったの?」
「駅まで行ったんですけど、きいたら渋谷って、三つ目の駅だっていうから。三つぐらい歩いても平気だから。お金も、もったいないし」
なるほど、彼女の身になってみれば、無理のない話である。家内は、時間と労力の節約の大切なことをチネ子に呑みこませるのに、だいぶ手間どったようだ。
そんな風だから、チネ子はまったく骨惜しみなく、よく働いてくれた。
どういうわけだか、靴にひどく興味をもつ。靴磨きは、彼女のもっとも好む作業で、磨く前に、靴を手にとって、しげしげとながめる。私の黒の一文字や、家内の灰色のハイ・ヒールは、なかんずく彼女のお気に入りで、裏を返したり中をのぞきこんだり、まるで美術品でもながめるように、飽きることなくながめている。
ある日、客があった。客が二階へあがるや否や、チネ子は玄関へとんで行き、客の穿《は》いてきたコードヴァンのスリップ・オンを持って、茶の間にいた娘たちに見せに来たという。
「ちょっと! ほれ、この靴! ワッハハハ、おもしろい」
あとでチネ子は家内に叱られて、しょげた。
しかし、それ以来、彼女はその客に、ひどく好意をもったようである。その客が来るたびに、飛んで出て、「いらっしゃいまし」と丁寧に挨拶し、にこにこして靴を見る。帰り際にも、丁寧におじぎをして、靴を見て、にこにこする。客に好意をもったのが先か、靴に好意をもったのが先か、そのへんは不明だが、度重なれば、チネ子の気分は客にも伝わると見えて、ある日彼は、「君のとこの女中さん、おもしろいね。いつでもにこにこしている」と言った。
この客は「なよたけ」の作者、加藤道夫で、加藤が死んだ時、チネ子はぼろぼろ涙をこぼして泣いた。
歩くことがちっとも苦にならないから、お使いは大好きである。娘たちを誘って、嬉々として出て行く。
往来に蓙《ござ》を敷いて、接着剤を売っているのを見たことがある。小さな火鉢で、割れた茶碗の割れ口をあぶり、あやしげな接着剤を塗ってくっつけたのを、蓙の上にたたきつけながら、「ほうれ、一度ついたら、この通りだ。たたきつけてもびくともしない」と言うのを聞いて、チネ子が娘にささやいた。
「手加減してぶつけているんだ。蓙の下にふとんが敷いてあるよ。割れないのはあたりまえよね、フフフ」
娘は青くなって、チネ子の手を引っぱって人垣をはなれた。当人はささやいているつもりでも、声に力があるから、ちっとも、内証話にならないのである。聞えたら、ただではすまない。
チネ子にそれを言うと、ちょっとひるんだが、すぐに「こわくないわよ、あんなやせっぽち。インチキは大嫌いよ」と言った。
テレビでは、相撲が大好きである。文字通り、熱中する。赤くなり、拳をにぎりしめて、「栃錦!」などと声援をおくる。
彼女のひいきは、例外なく、均斉のとれた体格の力士で、中でも、鶴ヶ嶺が、第一等のごひいきであった。立合いがきれいであること、彼女の表現にしたがえば、「ごまかさない」ことが、気に入った第一の理由である。「へんなことをしない」のも、いい。つねに正々堂々と二本差しになって、正面から寄り切る。あれがほんとうの相撲だ、と彼女は言うのである。なかなか、目が高い。
チネ子は私の家に三年ほどいた。
三年目の夏に、家から手紙で、一週間ほど暇をくれと言ってきた。縁談であろうと、私たちは察した。
帰ってきたチネ子は、おみやげに、十姉妹のつがいをくれた。弟が小鳥を飼うのが好きで、この十姉妹も家で生れたのだという。
きいてみると、やはり、縁談であった。
さすがにまじめな顔をして、「お嫁に行くことにしました」と言った。相手は会社員であるという。
「もう、こりているから、断わろうと思ったんですけれど、会ってみたら、いい人なので」と言って、赤くなった。
チネ子が帰る時、娘たちは別れるのを辛がって、泣いた。チネ子も泣いた。そして、ふと思い出して「けさ、十姉妹に水をやるの忘れてました。おねがいします」と言った。
結婚して、男の子が生れた。送ってきた写真を見ると、チネ子に似て、よく肥った、丈夫そうな子であった。
勤めの関係で、しばらく九州へ行っていた。九州場所の大相撲を見て、「ほんものの鶴ヶ嶺をはじめて見ました。おすもうさんはみなテレビで見るよりもずっと色が黒いのでおどろきました」と、絵はがきの便りをくれた。
その後、長らく、チネ子の顔を見ない。便りだけは、ときどき、思い出したようにくれる。
十姉妹はその後、どんどんふえた。飼いきれないので、人にわけた。現在何代目かの鳥が四羽いる。世話は娘たちがする。しかしこのごろは家の裏を通る道路がひろくなり、自動車の通行が繁くなったので、騒音におびえたのか、卵を生まなくなった。働きものの気丈なチネ子が見たら、ふがいない鳥だと歎くことだろう。
――一九六五年一月 PL婦人――
セバスチャン 朝ここを雲雀《ひばり》のごとく楽しげに出て行かれ、夕方はくたくたになって、げっそりやつれてお帰りになりました。
ノエル・カワード・林克己・松原正
「ヴァイオリンを持つ裸婦」
アルパゴン こんなみごとな格言は、これまで聞いたことがない。「人は食べんがために生きるものにして、生きんがために食べる……」いや、そうじゃない。何と云うんだっけな?
モリエール・鈴木力衞「守銭奴」
クリストファ・スライ どのお召物になさいますなんて、恥をかかしちゃいけねえ。あつしの上着は、この背中だ。靴下は、それ、この脛《すね》。
シェイクスピア・福田恆存「じやじや馬ならし」
わが家の庭
移り住んで十二年、わが家の庭も、だいぶ古びて来た。
庭と言えるほどの庭ではないが、一年中、何かしら花が咲いている。もと芋畠だったせいか、草も木もよく育つ。ばらの差木をすると、どんどんふえる。鉢植えの木瓜《ぼけ》をおろすと、みごとについて、前より大きな花が咲く。大した手入れをするわけではない、日照りがつづけば水をやり、台風が来れば後始末をしてやる程度である。
手間賃がばかにならないので、めったに植木屋は頼まない。しかし、あまり葉が混んで来て、風通しが悪くなると、止むを得ずおいでを乞う。
植木屋の親方はわが庭をながめ、しばらく呆然としているが、やがて目を伏せて呟く。
「大体、草や木が多すぎるんだね、お宅は」
無理もない。梅、杉、もみじ、椿、百日紅、木蓮、白樺、馬酔木《あしび》、藤、くちなし、月桂樹、小米桜、柊《ひいらぎ》、泰山木、山茶花《さざんか》、沈丁花《じんちようげ》、あじさい、八ツ手、槇《まき》、つつじ、山吹、石楠花《しやくなげ》、芙蓉、雪柳などが無暗やたらに生い茂った様は、彼の職業的良心あるいは意欲を失わせるのに十分な光景であるに違いない。そこで私も、何となく伏目になって呟く。
「まあ、よろしく願います」
こんなに木や草がふえたのは、実をいうと、風流心のためばかりではない。一つには目隠しのため、二つには健康のため、出来るだけ良い空気を吸いたいためである。
塀や垣根までは予算が廻らず、仕方がないから蔓薔薇で垣をこしらえ、往来から見通しになる所へ、少しずつ木や草を植え込んだのだ。
空気の方は、都内としては、まずまずである。すぐ裏を環状七号道路が通るようになってからも、排気ガスの災いは、わが家の庭まで届かない。小綬鶏《こじゆけい》や尾長が遊びに来る。
しかしこの頃、家の前の狭い道を通る大型小型のトラックやオートバイが、激増してきたようである。環状七号のせいか、第三京浜国道が出来たためか。何事によらず、豪勢繁昌の大道が出来ると、そこへ通じる細道までも騒然として来るものらしい。
植木屋の親方には申しわけないが、また少し草を植えようかと思っている。
――一九六六年五月 暮しの手帖――
雑煮十六代
年のはじめを祝う雑煮には、それぞれの地方や家に、それぞれの流儀があって、たのしい。
私の家の雑煮は、餅は大ぶりの長四角に切ったのを、湯煮にし、具は、人参、大根、里芋、小松菜の茄でたのを入れる。だしは鰹節で取る。
江戸前、あるいは東京風の雑煮は、こんがりと焼いた餅に、三つ葉、銀杏などをあしらい、熱いだしを注ぐのがほんとうだ、などと言われている。いかにもさっぱりとして、江戸前の雑煮らしい気持がするし、食べてみても、おいしい。
しかし、それだけが江戸前で東京風だ、ほんとうだと言われると、待ってくれと言いたくなる。
私の家は三河の出で、この湯煮の雑煮も、元は三河に発しているのかも知れないが、江戸の下町に移り住んでから、既に十六代を経ている。家康といっしょに、三河から出て来たようなものだ。そういう下級武土は、大勢いただろう。
私の先祖は百姓で、私の家は代々御奥坊主だった。湯煮の雑煮は、あまり上等の雑煮ではなかったかも知れぬ。
しかし、私の家では、今でも毎年、祖母から母、母から家内と受けつがれたこの雑煮を祝って、飽きることを知らない。
一時、栄養を考慮に入れる流行に従って、鶏肉などを入れたこともあったが、たちまち止《や》めてしまった。具は野菜だけのほうが、正月の朝が、静かに落ち着くのであった。
焼いた餅の雑煮も結構だが、湯煮にした餅の雑煮が、三百年前から東京の下町にあったこともたしかなことで、つまり、下町にも野暮はあったのである。
年ごとの質素で淡白な味のわが家の雑煮を、私は楽しんでいる。そして、毎年、娘たちに言ってきかせる。
「おいしい、おいしい。こんなにおいしいお雑煮は、関東にも関西にも、九州にも家の他にはありゃしない」
――一九六九年一月 魚菜――
山盛りの蚕豆《そらまめ》
蚕豆が小皿にのって、澄まして出てくると、がっかりする。
子供のころ私の家では、おやつに、蚕豆をよくたべた。大きなどんぶりに、山盛りにした塩ゆでの蚕豆を、お茶をのみながら、みんなでたべる。脇に盆をおいて、皮はその中へ入れる。たべ終ると、盆の方が山盛りになる。
そういう風に、惜しみなく、という感じでたべないと、蚕豆はうまくない。錦手の小鉢かなんかに、ちょいと八、九粒、いかにもはしりめいた小柄なのがおさまっていると、へんな気がする。そんな、御大層な豆ではない。
枝豆も、おやつになることがあった。しかし枝豆は、ときどき、いやなにおいのするやつがあり、うっかりそれを噛むと、とんでもないことになるので、あまり好きではなかった。蚕豆には、そういうことがないのはなぜだろう。
一体に、大正末年、昭和初年の東京のおやつは、ずいぶん質素なものだったという気がする。
――一九六〇年六月 週刊文春――
ぶっかけ飯
宵っぱりの朝寝坊で、朝食はたいてい十時ごろである。
起きぬけに、生の果汁を一杯。味噌汁、納豆、玉子、がんもどき、干物の類いで、米飯を二杯。新聞や手紙に目を通しながら、ゆっくりたべる。一時間ぐらいかかる。
これは私の一日のはじまりの儀式で、朝食をゆっくりとたべられない日は、一日中、どうも気分がすぐれない。撮影やなにかで、早起き早出になる時は、だから、ほんとうにがっかりする。止むを得ず、パンに牛乳、紅茶というようなことになるが、三日も続くと、もうだめである。無理をしても一時間早く起きて、ゆっくりといつもの食事をする。
しかしこれも三日も続くと、そうそう早くは起きられない、ということになり、勢いのおもむくところ、飯碗に味噌汁をかけてたべる結果となる。
亭主がぶっかけ飯ばかりたべるので、そんな下品な男と暮すわけには参りませんと、離婚訴訟をおこし、勝った奥さんがいるそうだが、私はその御亭主に同情を禁じ得ない。鯛茶なら、お上品で結構、というわけか。
ぶっかけ飯といえば、私の祖父は、東京の牛乳屋の草分けであったが、朝、米飯に牛乳をかけてたべたそうである。牛乳というものが、いかにおいしいものであるかを、宣伝する目的がいくらかあったかも知れないが、こればかりは、気色《きしよく》がわるくて、試みる気になれない。
芝居の初日の晩は、皆といっしょに、新宿角筈の「志ほや」へ行く。大好物のあんこうの肝で一杯。後はめいめい好きなものを頼んで、わあわあ言いながら食べる。横浜なら中華料理「海員閣」、京都なら川端のおでん「芳子」、大阪なら梅田新道の串かつ「知留久」。初日の晩のおそい夜食の味は格別である。興奮の味がする。
――一九六七年二月 週刊文春――
古い味新しい味
子供のころにたべたもので、うまいと思うものは、いつまでも覚えていて、今でも家人に言いつけて作らせる。湯どうふ、冷やっこはその最たるものだが、このごろのとうふは、製法が違ってしまって、昔の味は望むべくもない。夏の信州の冷やっこが、いくらか、昔の東京のとうふに似ているような気がする。
とうふにくらべると、まだしもがんもどきの方がいい。がんもどきの煮付は、わたしの食膳のメンバーの中ではいちばんの古顔である。
何かの拍子に忘れてしまって、そのままになっていたのを、ふと、あ、あれをずいぶん長いこと食べないな、とひょっこり思い出すことがある。
目下の私にとって、それは、きぬかつぎであって、茄でたてのきぬかつぎに塩をつけてたべることを考えると、唾液がわいて口中いっぱいになるような気がする。
似たようなことが前にもあった。病院生活をしていた時のことである。病室の窓から、灰色の空に降りしきる灰色の粉雪をみている内に、はっと思い出した。あんこう鍋である。
あんこう鍋は、子供のころ、よくたべた。老人たちの好物だったのだと思う。老人たちがいなくなってから、私の家では、さっぱりあんこう鍋をしなくなった。そして、私はべつにそれを不満にも思わず、三十年以上も、あんこう鍋をたべなかった。それほど、おいしかったという記憶もなかったからであろう。
それが、突然、たべたくなった。たべたくなると、矢も楯もたまらない。あんこう鍋ほどおいしいものはこの世にないような気がしてくる。早速、家へ電話をかけて、あんこうを取り寄せ、鍋仕立にした。それはじつにおいしくて、こんなにうまいものを、どうして三十年もたべ忘れていたのだろうと、心底から後悔したほどであった。
しかもこの時、迂濶にも、私はまだ、あんこうの肝の味を知らなかったのである。退院してから、あんこうを追いかける内に、塩茹での肝をぽん酢でたべた。以来、病みつきである。この間、小川軒へ行ったら、おつまみのグラスに、あんこうの肝にレモン汁を滴《したた》らせたのが出た。御機嫌であった。フォア・グラなんかより、よほどうまいと思う。これは、私の食膳のもっとも新しいメンバーになりそうである。
――一九六七年五月 マイクック――
酢の味
子供の時分、握り鮨《ずし》が、大好物であった。法事の帰りに寄った鰻屋で、鮨がたべたいとだだをこねて大人たちを困らせた。
その時分の東京の握り鮨は、飯が多く、具が小さく、一体に大ぶりで、酢の味が今よりは強《きつ》かったように思う。
古漬だとか、しめさばだとか、酸っぱい味のものが好物で、この子はお酒飲みになるよと、祖母に言われた。
長じて、たしかに酒飲みにはなったが、格別、酸っぱいものに対する好みが深まった形跡はない。
ただ、どういうものか、しばらく酸っぱいものをたべずにいて、酢の和え物などをたべると、これを無限にたべたいと、思うことがある。体が要求しているのだろう。
味というものはおかしなもので、いくら体が要求しても、酸っぱければ何でもよいというわけには行かない。夏みかんはまっぴらごめんだが、梅干は大歓迎である。
さば、こはだ、鯛などを酢でしめたのは、ほんとうにうまい。とれたての生きのいい奴を生《なま》でたべるよりもうまい。
――一九六七年九月 魚菜――
食欲招来
食欲のない時は、まったく閉口する。
元来、食い意地は張っている方で、おいしいものなら、日本料理でも、西洋料理でも、来るものは拒まずの精神でのぞむから、フルコース恐るるに足らず、よほど品数の多い中華料理の卓でも、杏仁豆腐、果物、場合によってはアイスクリームのフィナーレまで、悠然と平らげるのが常である。
それだけに、体に違和を生じて、食欲を失った時には、我ながら、何とも情けない思いをする。
多少、体の具合はおかしくても、場合によっては飛んだり跳ねたりする激しい肉体労働を、休むわけにはゆかぬ因果な商売だから、食欲の減退は、てきめんにこたえるのである。
劇場やスタジオに入る前に仲間と一緒に腹ごしらえをする時も、食欲のない時には、憂鬱なこと、一と通りではない。見ろ、この鰻。見ろ、このヒレカツ、エスカロップ、八宝菜。誰もそんなことを言うわけではないが、こちらはひがんでいるから、そんな声が聞えるような気がするのである。
いくらかでも、力をつけようと、プリンなんかを、舐めるようにたべる。
しかし、長年そんなことを繰返している内に、よくしたもので、この頃は、食欲のない時にはない時なりに、これに対処する道のあることを、自得した。
一と口に言うと、あくまでも、うまいものを食ってやろうという気概を、堅持することである。絶対に、憂鬱になったり、ゲンナリしてはいけない。おれは今、食欲不振である。まったく食欲がない。こういう時にこそうまい食物は何であろうか、という風に考えるべきなのである。
この間も、風邪を引いて、三十八度台の熱が数日間続いたが、私は、待っていましたとばかり、お粥《かゆ》と梅干、白桃のカンヅメ、青いアスパラガスの塩茄で、仙台の笹蒲鉾《ささかまぼこ》、冷たいレモン紅茶、かれいの塩焼きの冷えたのなどを、飽食した。
かれいは、身をむしって貰うのである。身をむしるという簡単な手間が、食欲を増してくれることは、おどろくばかりである。日本でこそ、子供、老人、病人向きのやり方だが、フランスなんかでは舌平目の葡萄酒蒸しやバタ焼きの身をむしったのを、ちゃんとレストランで出す。「舌平目の良妻風《ポンヌ・フアム》」とか「舌平目の美しき女主人風《ベル・オテス》」とか、しかるべき名前がついている。しかし現代の日本の家庭では、病気の時でもないと、うっかり注文出来ない。だから風邪をひいた時に、これを飽食する。「かれいの悪妻風」である。
地方公演に出る。大抵が、一都市一公演である。毎日、汽車に乗るから、これは移動だけでも重労働である。さすがに食欲旺盛なわが仲間たちも、何となく、ぐったりしてくる。
一月のある午後、佐賀の宿屋へ着く。
全員食欲不振である。しかし夜の芝居があるから、何か腹に入れておかなくてはならない。女中さんが出前の注文を取りにくる。すし、中華、親子丼、カツ丼。全員無言である。
今、一番うまいものは、何か。今、食欲不振の東京の男が、この宿で、喜んで食べられるものは何か。一心に考える。これが大事である。果して、名案があった。
「お雑煮、出来ませんか」
「はあ、家で私らのたべるようなのは出来ますけれど、お口に合わんでしょうに」
「冗談じゃない。それ下さい、それに限る」
出前にこだわるから、うまいものが出てこないのである。佐賀の宿の小さな丸餅の雑煮は、珍しいだけでなく、まさに味覚の傑作であった。おかげで私の雑煮熱は九州公演中ずっと持続して、長崎でも、博多でも、小倉でも、鹿児島でも、それぞれの町の伝統的雑煮の妙味を満喫することが出来た。
食欲不振の時には、まさにその時にこそうまいものをたべるに限る。それが、健康な、本来の食欲を招来する唯一の道だろう、と私は考えている。
――一九六九年二月 栄養と料理――
服装閑語
着るものについて、僕はあんまりうるさくない方である。
シャツやネクタイを買ったり、服をつくったりする時には、二つの原則に従うことになっている。無理をしないこと、いちばん良い品物を選ぶことである。
無理をしないということは、言いかえるとむやみに冒険をしないこと、流行を追わないということだ。その時その時の自分にぴったりするものだけを買う。いちばん良い品物を買うということは、大体において、いちばん高いものを買うということになるが、品質のいいものは、高いようでも長持ちがするから結局は徳である。
この二つの原則は、服飾品にかぎらず、あらゆる買物の場合にあてはまると、僕は思っている。
服装というものは、どうも、それを着る当人次第のものらしく思われる。早い話が、中肉中背、八頭身で、眉目秀麗なら、誰でもベスト・ドレッサーになれるというわけのものではないだろう。どんなに小粋《こいき》ななりをしてみても、着ている当人にそれだけの「粋」がなければ、おかしなものになってしまう。紺のスーツは、落ちついて、上品だから、是非一着もっていた方がよろしい、とはいっても、紺には無数の色合があり、出来上った服は、その生地とデザインとを選んだ当人の質に応じて、品をあらわすのである。
僕の知っているある若い奥さん――女優さんだが――は、服でもセーターでも着物でも、大抵は辛子色か緑のを着ている。それが彼女の好きな色なのだ。それぞれに黒や臙脂《えんじ》やグレーを効果的に組み合せているせいもあるが、その辛子色なり緑なりが、ひとつひとつ生地も色合も違っているので、決して単純な気分をおこさせない。これほど、一つの色に打ちこむことは、なかなか出来ないだろうし、そうなれば、流行などというものはどこかへ行ってしまうだろう。自分に似合った色を選べ、自分の基本色を選べという忠告も、こういう、一つの色のヴァリエーションに対する感覚のゆたかなひとが採用した時にはじめて生かされるので、そうでなければ、たいへん退屈な効果を生むことになってしまうに違いない。
それにしても、流行というものはおかしなものだ。みんなとは違った恰好をしたいという欲望と、みんなと同じ恰好をしたいという欲望――流行という現象はまるで正反対な二つの欲望に支えられているように思われる。
僕は、自分の色彩に対する感覚などあまりあてにしていないから、基本色など到底決められないと思っている。そのかわり、いろいろな恰好をしてみたいと思っている。紺のダブルもよし、シャツスタイルもよし、結城《ゆうき》もよし。その時その時の気分に応じて、どんな恰好でも自由に出来たら、ずいぶん愉しいだろう。儀式もよし、カクテル・パーティーもよし、放浪もよし。端坐もよし。役者的性向のあらわれかも知れない。しかしまた一方では普段はなるべく、見るからに、何でもないような恰好をして――これからの季節でいえば、背広にタートル・ネックのセーターぐらいにしておいて、いろいろな服を、衣裳を着るたのしみは、舞台のために、そっと取っておきたいような気持もしないわけではない。
――一九五六年一月 京服飾新聞――
ミンク
先日、友人のJ氏に誘われて、散歩ついでに、ミンクの飼育場へ行きました。J氏、夫人、高校へ行っているお嬢さんのN子さん、いずれも改めて氏だの夫人だのというのもおかしいくらい、昔からのつき合いです。
生きているミンクにお目にかかったのは、はじめてですが、なかなかかわいいものです。いたちとりすの合の子のような顔をしている。せっせと餌をたべているのもあれば、元気に走りまわっているのもあり、長々と仰向けに寝そべって、うっとりと目をつぶっている奴もある。飼育場というだけあって、ブラック・ダイヤモンド、ダーク、ブルー・アイレス、パロミノ、パステル、サファイアなどという、色とりどりのミンクが何百匹とも知れず、ずらりと並んだ金網かごの中で生活しているありさまは、なかなかの壮観でした。
「ここは、客から直接注文を受けるらしいんだ」と、J氏が私に言いました。「つまり、こうして生きているうちから、気に入った毛色なり、毛並なりの奴を指定しておくと、一年後に、生れた子と合わせて九匹分の毛皮を渡してくれる。親のミンクの代金をはじめに払っておけば、後は毎月の飼育料を払い込むだけで、自然にミンクのストールが手にはいるという仕掛けさ。まあ、一種の月賦というわけだ」
「かわいそうだわ、そんなの」と、N子さんが眉をひそめました。現に目の前で、金網につかまって小さな桃色の舌を動かして水を飲んでいる小柄なロイヤル・サファイアや、きょとんとした顔つきで、首を傾けてこちらを見ている白い胸毛のスチュワード・サファイアを、あれこれと品定めするのは、なるほど、いかにも残酷な気がします。
ところが、J夫人は、極めて自然に、あっさりと、J氏にこうたずねました。
「いくらぐらいなの、大体?」
ミスとミセスは、これだけちがう。おもしろいものだ、と私は感心しましたが、きかれたJ氏は、いささかあわてた。あわてたあまり、夫人のあっさりに負けないくらいあっさりと、その九匹分の毛皮の値段を答えてしまいました。幸か不幸か、それは商店のショーウインドーの中に納まっているミンクのストールよりも、かなり安い値段だったのです。J夫人の魅力的な目が輝きました。J氏の顔を見ながら、微笑して「そう?……」
みごとな沈黙でした。雄弁な沈黙、といってもいいかもしれません。気のせいか、J氏の顔つきが、なんとなく虚無的になりました。
「……臭いね、ミンクって奴は。すごいや。ねえ、君」と、私に救いを求めるかのように、話頭を転じてきた。同性のよしみとして、見殺しにするわけには行きません。
「新鮮な生肉しか食わないそうだね、こいつは。それに、見かけによらず獰猛《どうもう》らしい。餌をやろうとして、指を喰いちぎられたという話をきいたことがあるから、N子さん、あんまりそばへ寄らないほうがいい」
「ほんと?」とN子さん。
「へえ、強いのね」とJ夫人。
「もともと、カナダの原始林に棲息していた野獣ですからね」
「生活力は旺盛だろうな。闘争心もね」とJ氏。
「でも、ミンクって貞淑なんでしょ」とJ夫人。
ここでJ氏は、また余計なことを言ってしまった。
「いや、一夫一婦は狐でね。ここで売る親のミンクは、トリオが単位なんだ。つまり、ワン・トリオは、雄一匹に雌二匹……」
さすがに今度は、気がついて、途中で口をつぐみました。虚無的を通りこして、流れたような顔になった。
N子さんは、金網の中でひくひく鼻を動かしている乱暴なわるい獣をじーっと見つめ、J夫人は、金網の中で走りまわっている逞しい生活力をもった美しい毛並の獣をじーっと見つめ、母と娘の顔は、おどろくほどよく似ていました。
N子さんは、こんな獣は殺されて肩掛けや外套にされてしまうのが当然だと思いはじめているかもしれない。J夫人は――何を考えているのかわかりません。
狩猟時代、遊牧時代のたくましい男の姿が、ちらと私の脳裡をかすめました。こういっても、けっしてJ氏に失礼には当らないはずです。たまに奥さんやお嬢さんの前で失言をすることはあっても、氏は強健で、誠実で、生活力に富み、壮年の男性美にあふれているうえに、学問風流を解する卓抜な実業家です。私の脳裡をかすめたのは、こういう奇妙な狩猟的遊牧的ショッピングに立ち会わざるを得なくなった現代男性のあわれさ、であったようです。J氏も同じ思いだったのでしょう、暗然とした面持で、煙草に火をつけました。
と、その時です。金網のかごの中を縦横に走りまわり、柔軟なすばやい運動をしているパステル・ミンクにみとれていたJ夫人が、軽い溜め息とともに、こうつぶやきました。「かわいいわね」それから、笑いながら、こう付け加えました。「ねえ、ミンクの毛皮って、やっぱりミンクにいちばんよく似合うわね」
帰りに、J氏は手打蕎麦をおごりました。ミンクと蕎麦とでは、たいへんな違いです。J氏は御機嫌でした。
しかし私は、この勝負はまだついていないような気がします。いずれにしても、聡明な夫人は、きょうもせっせと家事に精を出しているはずです。
――一九五五年 ミセス――
組み合せ服
組み合せ方しだいで、幾通りにも変化する服、というのを、新聞や雑誌でみることがある。主に女性用で、一着の服を、着る当人の気分の上でも、見た眼にも四着分、五着分にはたらかせようというねらいである。持ちもその方がいいという。
なるほど、わるくない思いつきだろう。
しかし実際には、なかなかそうは行かないだろうと、私は思う。
一足の靴を穿きつぶすよりは、二足の靴を一日おきに穿いた方がそれぞれ長持ちして、いいに決っている。
だが、靴が二足あれば、どちらかが穿きよい靴、好きな靴になり、そちらばかり穿くことに、かならずなるのだ。
五通りもの組み合せ方が、万遍なくできる人は、よほど合理的な人だろうと思われる。
こういう種類の合理的設計は、どうも私は苦手である。
――一九六〇年六月 週刊文春――
男のきもの
きものはずいぶん長持ちのするもので、洋服にくらべると得である。むろん損得だけで着るものを選ぶわけではないが、私は父のきものを今でも着ている。
父は昭和二年に亡くなったから、かれこれ四十年も前のきもので、それが、今着てもちっともおかしくないのは、洋服では考えられないことである。人前へ出るのはさすがにはばかられるけれども、家で着ているぶんには少しも差支えない。
だいたい、きものを着て外出することは、めったにない。せいぜい、近所を散歩する時ぐらいのものである。誰も言うことだが、町なかでは、どうにもあがきが悪くて不便だからである。
家の中では、夏を除けば、たいていきもので通している。汗っかきの暑がりで、夏はショートパンツにシャツがなによりである。しかしその他の季節では、きものがいい。
からだの楽なこと、気分のくつろぐことが第一。洋服姿で外出して、家へ帰ってきものに着かえるという変化の楽しみが第二。つまり、私のきものは舞台裏専門で、若いお嬢さんがたのきものを着る理由とは正反対の関係になる。
藍《あい》や、鉄無地のつむぎ、藍大島、紺のウール地のきものなどを、よく着る。柔らかいもの、粋なものは、さける。麻も、しわが出るので、あまり歓迎しない。新しいゆかたは、実に気分のいいものだが、前述の理由で、あまり着ない。着ても、すぐ肌ぬぎになってしまうから、なんにもならない。芝居の稽古着や楽屋着として、たまに使うぐらいである。
若いお嬢さんがたが、正月や結婚式や同窓会に着るのを除けば、このごろ、若い人たちは、いったいにきものを着なくなっている。ことに、男がそうである。職業上の必要か、特殊な環境あるいは状態にいるか、ことさらな工夫の結果か、いずれにしても若い男がきものを着ているのはよほど例外的な感じのするもので、男のきもの姿というものは、生活の舞台裏においてさえ、これからますます少なくなって行くことだろう。
一国の伝統的衣生活が、だんだん崩れて、欧米風の装いに近づいて行くのは、世界的な傾向のようで、止むを得ぬ大勢なのかもしれない。
私は子供のころから、家にいるときはきものを着せられていたから、それがそのままなんとなくつづいているだけで、ことさらに人にすすめようとも思わないし、きものについて、やかましい注文をもっているわけでもない。
しかし、男のきものがだんだん無用の長物化していく傾向が動かしがたいとすれば、なまじ有用化することを考えずに、つまり、なまじ女のきものにおこなわれているような新工夫や、新様式を取り入れずに、伝統的な技術と形とを守って、ますます無用の長物化していくことが、望ましいと考える。こんなことを言うと、呉服屋さんや、きものデザイナー諸氏に怒られるかもしれないけれど、男のきものは、男の近代的社会的生活には適合しない。適合しないところを守っていくのが、男のきものを長生きさせる最良の道だと、私は考えているのである。変る部分は、年月の経過にしたがって、自然に変っていけばよいのである。
もっとも、こんなことは、すべて取り越し苦労であるかもしれない。女のきものは、紐だの帯だののやっかいさが、一と通りでなく、そこに、新工夫の生れる余地もあるのだろうが、男のきものは、その点、実にみごとに、簡単にできている。着て、ぐるっと帯を巻けば、出来上りである。帯をといて、パッと脱げば、それでおしまいである。この着脱の手っ取り早さは、はなはだ現代的で、新工夫もなにもあったものではない。
男のきものは、すたれて行くかもしれない。しかし、亡びることはないだろうと、私は思っている。
――一九六四年一一月 暮しの知恵――
シゲ 本を讀め、そして、思索しろ。
ユラ 思索……?
シゲ 頭の中で物を考へるこつた。
ユラ それが仕事といへるかい?
岸田國士「道遠からん」
戯曲を読む
戯曲を読む
今日でこそ、上演する戯曲(台本)を読むことが役者の最初の仕事であることを、誰も疑うものはありませんが、それがごくあたりまえのこととして、一般に通用するようになったのは、近代劇運動以後、二十世紀に入ってからのことで、それまでは、日本でも西洋でも、役者は戯曲を読まずに稽古をはじめていました。自分のせりふだけを抜萃した「書き抜き」をもらって稽古をはじめていたのです。日本ではこの「書き抜き」の習慣が、今日でもまだ、一部に残っているようです。
役者は作家の精神と心情の所産である戯曲の世界を眼のあたりに実現させるために、戯曲を読みます。
戯曲の中には人物達がいます。彼等の行動や生活や、運命や、その周囲にある架空の世界は、あらかじめ定められております。そういうものを、役者は、やがてかけがえのない自分の現実として生きるために、戯曲を読むのです。
役者は繰返して戯曲を読み、戯曲の中へ入ってゆかなければなりません、そして、本来自分のものではない行動や、生命や、運命や、世界を、完全に自分のものにして、戯曲から出てゆかなければなりません。それらのすべてを、自分の内部へ吸収して、自分の肉体と心情との内に滲み通らせて、戯曲の向う側へ、現実の対岸へ、演劇的現実の方へ出てゆかなければなりません。そして、あたかも元の書かれた戯曲が存在しなかったかのように、自由に感じ、行動し、生きて見せなければならないのです。
いわば役者は、そこに書かれてある言葉を、もっとも生き生きと、正しく語り得る身体と心の状態をつくりあげるために戯曲を読むのです。
登場人物の表
はじめて台本を読む役者は、期待して、最初の頁をあけます。そこには、登場人物の名前がならんでいます。
三十以上もならんでいることもあり、三つしかない場合もあります。名前ばかりでなく、職業や、年齢や、人物の関係が書いてあることもあります。いずれにしても、こういう登場人物の表は、戯曲を読むうえの便宜、手がかりのためにあるので、大して意味のあるものではないと思われがちです。
しかし、これから戯曲を読もうとしている役者はこのあたらしい名簿から、まさに自分の前にひらかれようとしている戯曲の世界を、すでに漠然と感じとることができるはずです。
――影山悠敏伯爵、同夫人朝子、大徳寺侯爵夫人季子、その娘顕子、清原永之輔、その息久雄、飛田天骨、女中頭草乃、……舞踏会の紳士淑女。三島由紀夫の「鹿鳴館」
――閣下、その娘、飼育係、秘書、探検家、女中、運転手、ウェーの男、ウェーの女、……巨大な祖父の像。安倍公房の「どれい狩り」
――アマノ、ステラ、エリザ。岸田国士の「チロルの秋」
――河野松子(六十歳近く・健の未亡人)、同杉子(五十二、三歳・その妹・独身)、同瑞枝(三十七、八歳・松子の長女)、同祥枝(三十四、五歳・松子の次女)、同康夫(四十二、三歳・瑞枝の夫)。福田恆存の「明暗」
際立った例ばかりあげたようですが、どんなに目だたぬ、平凡な名前ばかりがならんでいたとしても、それはそれなりに、作者の気質や意図を示しているものと考えた方がよいのです。
登場人物の表を、時や所の指定とともに、これから読む戯曲についての大ざっぱな予備知識をあたえてくれるだけのものとして見すごしてしまうのは、勿体ないと思います。そこには、作者がその戯曲にあたえた固有の性格や、雰囲気や、風味の微妙な先触れが感じられるからです。
最初の感銘
役者は台本を読みはじめます。
若い役者、ことに、せりふの多い役をもらった若い役者は、台本をうけとると、もうじっとしていられず、僅かな暇をみつけて、貪《むさぼ》るように読みはじめます。
自分の役ではない人物達の会話が、長すぎるように思われる。が、やっと彼の役が登場します。最初のせりふは、なかなか気が利いている。こいつは面白そうだ。彼の眼が、輝きを増します。身じろぎをしなくなったり、逆に、爪を噛みはじめたりするのは、そろそろ夢中になりだした証拠です。自分の役の人物が怒ったような口をきくと、彼も眉間に皺をよせ、唇をとがらせる。思わずふきだしたり、涙ぐんだり、呼吸をとめたりする。気に入ったせりふがあると、ちょっと、口に出して言ってみたりする。まわりの人はびっくりするが、ちょうどそこへ待っていたバスが来て、彼の読書はやむなく一時中止されるのです。
こういうせっかちな読み方も、全部が全部、まちがっているとはいいきれません。
少なくとも、出来合いの方式や他人の意見を始終気にしながら、作品の主題や、場面の構成や、人物の性格などをあれこれと思い惑いながら読むのにくらべれば、自分の生理や感情を手放しにしたこういう読み方のほうが、はるかにましです。また事実、若い役者にとっては、こういうせっかちな最初の読書から生れたとんでもない効果が、一種のスプリング・ボードのような作用をして、その後の彼の役の形成を偶然助けることが、ないとはいえません。
しかし、こういう手放しなやり方は、いくら何でも乱暴すぎます。海を見た途端に、興奮して、いきなり真逆様《まつさかさま》に飛び込むようなものです。岩に頭をぶつけなければ、不幸中の幸いで、せめて着ているものや穿きものぐらいは脱いだ方がいいでしょう。
自分の役のことばかり考えているから、とても、戯曲全体を読むことはできません。それならば「書き抜き」の方がいっそ具合がよいことになる。そこで自分の役名に赤鉛筆でカギをつけて、台本を「書き抜き」としても読めるように工夫する。工夫は認めますが、はじめのうちはそんなことはしない方がよいのです。
私の知っている老練な役者達は、はじめて台本を読むときには、けっしてそういう読み方はしません。落ちついた気分で、一と通り目を通すというほどの、傍目《はため》には、見るからに、何でもないような読み方をします。むろん、ただ読み流してしまうのではありませんが、一々の人物を深追いせずに、戯曲全体の出来上り方をずっと見わたすというやり方です。思わず笑ったり、息をひそめたりすることもあるかも知れませんが、そういう自分の生理や感情にも、あまりいちいちこだわらずに、その戯曲のもっている固有の質を感受しようとします。彼等は長い経験から、戯曲というもの、書かれたせりふというものが、一種の仮の結晶であること、いったんその結晶を解いてしまえば、その内部には、人生そのもののように不定形な、おそろしい、たえず揺れ動く渦巻のようなものが口をあけていること、その中へ身を投じてしまったらもうなかなか後へは引き返せないこと、対岸にたどりつくために払わなければならぬ努力や、その喜びや苦しみを、よく知り抜いているので、いきなりその結晶を突つくような性急な真似は、けっしてしないのです。
はじめて台本を読んだときに受けた感銘は、大切です。
はじめて読んだときには、面白いと思い、感心した台本が、稽古がすすむにつれて、だんだんつまらなくなってきたり、あるいはその反対だったりすることも、全然ないとはいえませんが、それ以上に、最初の感銘が、役を演じるうえに決定的な働きをすることの方が多いように思われます。
稽古をしているうちに、演技に生動感がなくなり、毎日、ひとつ所を堂々めぐりしているような状態に陥るのは、出発点であった最初の感銘をいつの間にか忘れてしまっている結果であることが、少なくないのです。しかし最初の感銘を日ごとに新たにするということは、口でいうほど易しいことではありません。
はじめて台本を読むときには、いろいろな気構えや先入観を捨てて、できるだけ素直に読むのが、いちばんいい読み方だと思います。生理的にも心理的にも、あまり力むのはよくありません。とんでもない思い違いをしたり、作者の意のあるところが十分に汲みとれなかったり、感じ方が弱かったとしても、それが、自分自身に嘘のない、無理のない読み方をした結果であれば、それでよいのだと思います。ほんとうの出発点は、そこにしかないのです。足りないところは、やがて補うこともできるでしょうが、出発点を誤ると、いつまで経っても、自分で戯曲を読む眼、自分で戯曲をつかむ力を、養うことが出来なくなります。
私は、はじめて台本を読むときには、一定の速度で最後までずっと読んでしまいます。分らない所や、ひっかかる所が出てきても、立止ったり、後戻りしたりせずに、とにかく終りまで読んでしまうのです。幕の区切れでも、あまり休みません。途中邪魔が入ることは、むろん禁物です。長い習慣からそうしているのですが、理由は単純で、そうしないと面白くないからです。戯曲を読んだというしっかりした手ごたえが感じられないのです。芝居は、時間の流れから切り離しては本来成り立たないものです。芝居は、容赦のない時の流れの中に、あるときは速く、あるときは遅く、その作品に固有の速度と調子で展開され、一定の時間内に終了すべきものです。戯曲もまったく同様で、どんなにすぐれた戯曲でも、その作品の固有の速度を壊すほど速くあるいは遅く読んだり、たびたび中断しながら読んだりしては、その本質にふれることができず、一向に感銘が湧かないからです。
全体を読む
二度目からは、もっと念入りに、すみずみにまで気を配って読まなければなりません。念入りに読む、というのは、最初は思わず口走ったせりふを今度はよく思案して言ってみる、などという意味ではありません。そんなことは、まだずっと先のことです。
せりふが口へ出てくるのは、戯曲の上演された結果が、観客のまえで舞台に立った状態が、幻のようにどこかでちらちらしているからで、読みはじめたばかりの戯曲に対する態度としては、具合のわるいものです。今必要なことは、自分に課せられている仕事の全体を推し量ることで、自分のせりふを喋った結果を空想することではありません。
役者が、自分の役にいちばん関心をもつのは、無理のないことですが、そもそものはじめから、自分の役のことだけを考えていては、うまく行くはずのものも行かなくなってしまいます。関心をもつからには、もっと強く、深く、すべての役に、すべてのせりふに関心をもつべきでしょう。つまり、作者に関心をもつべきでしょう。
いや、自分はそんな読み方はしない、という人もあるでしょう。自分の役に深い関心をもって読めば、自然、相手の役のせりふも注意して読むことになる。その相手役に関心が強まれば、自分の役とは直接関係のない他の役のせりふも気をつけて読むことになり、そういう風にして、結局、戯曲全体に注意がゆきわたるようになる。なるほど、それならそれでもよいのです。
また、作品の主題や構成を研究したり、人物の性格と行動との矛盾や一致を検討したり、作品の歴史的事実との関連を探ったりする、いわゆる客観的で科学的な、いくらか生体解剖的な読み方から入ってゆくという人もあるかも知れません。こういうことになると、めいめい手馴れた流儀があるので、なかなか厄介なのです。
私は全体から入ってゆく読み方をします。ひとつひとつのせりふについて、すべての役について、作者がそれをどういうつもりで書いたか、どういう気持で書いたかを、つかもうとします。
自分の役から入って全体に到達しようとするやり方は、理屈はたしかにそうかも知れませんが、実際には、とかく自分の役だけに興味が集中してしまいがちなものです。そして一旦そうなってしまうと、作品全体を見ることは、なかなか出来難くなってしまいます。稽古の途中で、工夫をすればするほど、変なところへ落ち込んでいって、動きがとれなくなってしまうのは、自分の役が芝居全体のなかでどういう役割をもっているかが、ちゃんとつかめていない結果であることが多いのです。
すべての劇中人物は、はじめから、それぞれの生活と運命と役割とを担っています。彼等は書かれたように生れついているのです。
人物達が持って生れたものをつかむこと、私は何より先にそれを考えます。
それをつかむためには、役者の気分を捨てたほうがよいのです。演技者としての工夫だとか興味だとか、声や身体についての関心だとか、舞台や稽古場での仕事につながる一切の意識を沈黙させた方がよいのです。おかしな言い方ですが、我を忘れるようにして読んだほうがよいのです。
それには、想像力を絶えず働かせながら読むことが必要です。戯曲を前にして、ただ沈黙し、己れを虚《むな》しゅうしてみても、何も出てくるはずはありません。
一と口に想像力を働かせるといっても、いろいろな読み方があります。人物の心理や感情を想像して、探りながら読んでゆく、いわゆる「気持から入る」読み方はその一例ですが、これは自分の役にとりかかってからやるべきことでしょう。いきなりこういう読み方をすると、探っているつもりで、いつの間にか、自分の生《なま》の感情をそこへ持ち込むという誤りを犯しがちです。人物はちゃんと自分の感情をもっているのですから、なんとも妙な具合になるのです。
私は戯曲の状況のなかへ、自分を置いて、ひとつひとつのせりふごとに、そういうせりふを口にする生身の人間、あるいは生きものの形を、想像しながら、自分の体で感じるようにしながら何べんも繰返して読みます。
ト書に場所や状況の指定があれば、そういう現実の中に自分がいるものと想像します。郊外の住宅のテラスの籐椅子のたわみや、夕陽をうけて輝く眩しい川を、雷鳴のとどろく嵐の荒野や、頬をうつはげしい雨や風を、自分の記憶や経験をたよりにしながら、想像し、感じようとします。せりふを読みながら、青年達の火照った肌や冴えた眼を、激怒した老王の蒼ざめた額やくぼんだ蟀谷《こめかみ》やふくれ上った血管を、想像し、感じようとします。繰返して読んでゆくうちに、青年達の会話が、言葉をボールにして、テニスのつづきをやっているように思われて、台本には出ていない彼等のテニスの試合を想像したり、老王のすさまじい怒りの声が、嵐や雷鳴をつらぬいて遠い天空の涯《はて》まで響いてゆくように感じられて、これまで一言で他人の運命を思うままに左右しつづけてきた王者の気品のある相貌や、威厳にみちた態度を、あらためて想像したりします。そして私は考えます。この人物達は何をしに来たのだろう、作者はどういうつもりなのだろう、これは一体どういうことなのだろう、と。
せりふと役
そういう風に繰返して読んでいるうちに、人物達のイメージが浮んできます。戯曲全体がどう出来上っているか、人物達がどうかかわり合っているか、どういう役割を担っているかが、だんだんはっきりしてきます。何度も言うようですが、このはじめのうちの読み方が、演技の成否、芝居の成否に大きく作用するのです。戯曲全体につよい共感を覚え、そのイメージをつかむことができなければ、その後の役の造型のための計算や配慮は、誰よりも役者自身にとって、あてのない、空虚な感じのするものになるでしょう。
役の造型は、さらにせりふを検討して、人間のイメージを明確にすることからはじまります。
せりふといってもさまざまで、たとえば西洋の古典劇のせりふと現代劇のせりふとでは、ずいぶん趣が変っています。
古典劇では、致命傷を負った人間が、長々と自分の悲運について語ったり、人に聞かれてはならぬはずの企みごとを、堂々としゃべったりします。
グロスター……ああ、おれといふ男は、造化のいたづら、できそこなひ。しなを作つてそぞろ歩く浮気なニンフのまへを、様子ぶつてうろつきまはるにふさはしい粋な押しだしが、てんから無いのだ、このおれには。……(中略)歪んでゐる、びつこだ、そばを通れば犬も吠える。さうさ、さういふおれに、戦も終り、笛や太鼓に踊る懦弱《だじやく》な御時世が、いつたいどんな楽しみを見つけてくださるといふのだ。日なたで自分の影法師にそつと眺め入り、そのぶざまな形を肴《さかな》に、即興の小唄でも口づさむしかあるまい。口さきばかりのこの虚飾の世界、いまさら色男めかして楽しむこともできはせぬ。さうときまれば、道はひとつ、おもひきり悪党になつてみせるぞ。
――シェイクスピア・福田恆存訳「リチャード三世」
近代の写実的な劇には、こんなせりふは出て来ません。もっとも戦後になってからは、日本でも西洋でも、こういう日常会話の次元から強く離れた格調のあるせりふで書かれた戯曲がふえてきました。心理劇や写実劇のせりふは、もっとわれわれの日常生活の言葉に似ています。
未 納 泳ぐつもり? 須貝さん。
須 貝 風致保存区域だつて、泳ぐぶんには差支へないだらうな。
未 納 連れてかれてよ。構はない。
須 貝 風致を害するか。
未 納 洗濯どころじやない。
須 貝 近代的な景色でいゝと思ふがな。
未 納 グロテスク……
須 貝 なに? はつきり聞えなかつた。
未 納 暑いなあ、今日は。
須 貝 今のをもう一度云つてほしいな。
未 納 暑い……
須 貝 その前の奴さ。
未 納 如何、もう、ワン・ゲエム。
須 貝 まあ、止めとかう。うまく、胡魔化しやがつた。
――森本薫「華々しき一族」
しかし、一見日常会話と見える、こういうせりふでも、実は、戯曲の言葉としての意味や、密度や、味わいをちゃんと持っているのです。われわれの日常会話が、どんなに脈絡のない、あいまいな符諜《ふちよう》のやりとりにすぎないものであるかは、ちょっと気をつけてみればすぐわかることです。せりふは一種の結晶体であって、日常会話をそのまま凝固させたものではありません。
しかし、せりふの結晶性を大切にしすぎるあまり、せりふを書かれた言葉として眺める癖がついてしまうと、どうしても人物の生理へのふみこみが中途半端になり、人物のイメージが薄手なものになりがちです。書かれた言葉を語られる言葉として想像すること、せりふの結晶を解いて、せりふになる以前の混沌《こんとん》とした生命の状態に還元すること、生きた人間のイメージをつくることが必要です。そうしなければ、せりふのもっている感情や、速度や、調子や、表情・身振り・意識などとの関係を十分にとらえることは出来ないでしょう。
「ありがとう」というせりふが、その人間の心底から出た感謝の気持をあらわしている場合もあるし、冷淡な拒絶の気持を含んでいることもあります。相手の過分な好意に、むしろ迷惑な気持から言う場合もあるでしょうし、一方の相手に心から感謝してみせることによって、他の第三者に、あなたには感謝していないという意志表示をする場合もありましょう。毎日の習慣で言う「ありがとう」と、仲違いしている相手にしぶしぶながら言う「ありがとう」とは、ずいぶん違うでしょうし、口では快活に礼をいいながら、しぐさや態度ではまったく関心が他へ向けられていることもあるはずです。
そして厄介なことに、この図書館では、索引カードによって目当ての一冊を選びだすことはできません。蔵書を全部読まなければ、カードをみつけることができないのです。
せりふは、よくひかれる例ですが、氷山の頭のようなものです。せりふは、その人物の口には出さぬ言葉に、人には言えぬ思いに、その人物の存在自体にささえられています。
ある人物の「ありがとう」というせりふに、相手のせりふがつづき、さらに元の人物のせりふがつづきます。せりふは行を追って書かれ、行と行との間は空白です。しかし、生きた人間の対話には、行間というようなものはありません。あなたはしゃべっているときも黙っているときもあなたであり、私も同様です。あなたという存在も、私という存在も、それぞれ同時に持続しているわけで、下手なネオンサインのように交互に現われたり消えたりしているわけではありません。せりふの行間を読め、といわれるのは、語られる言葉にともなう感情や意識や身振りや表情をつかめということであり、そういうものを支えている、あなたなり私なりの、存在の独自性をつかめということなのです。
役のイメージは、せりふを深く読むことによって存在を探り、存在をつかむことによってせりふを正しくつかむという往復運動のうちに、次第に明確になってゆくのです。
あとがき
長い間にあちらこちらに書き散らした半端な文章を集めて、一冊の本の体裁に仕立て上げるのは、まことに面はゆい、やり難い仕事でした。これに較べれば、止め度もなく汗の流れた初舞台のあの死にそうな興奮の方が、まだしもましだったような気がします。
こうして出来上った一種のスクラップ・ブックに添えるあとがきは、出来の悪い芝居のカーテン・コールに似て、押しつけがましい余分に他ならず、書いていて我ながら気が滅入ります。
本の題名は、ハムレットが演技について旅の役者たちに注意を与えるせりふの一節から採りました。「道化役も、決められたせりふ以外に喋ってはいけない」というのが元の文章ですが、こんなに自分勝手なお喋りをするようでは道化役者としても落第ではないか、という自戒の意味をこめたつもりです。
捨てぜりふ、あるいはアド・リブと言っても同じことですが、それをわざと生硬な言い廻しのままに残したのは、今日の日本に新劇というやや生硬な演劇のジャンルがあり、それに携わっている者の一人として、こういう題名もまた自分にふさわしいだろうと思ったからです。
最後の章は、演劇講座のために書いたもので、他とは少し調子が違っていますが、敢えて付録しました。
各章ごとに題名をつける代りに、その章の内容と見合う芝居のせりふを、頁裏に入れました。これらはみな、かつて私が舞台で喋ったせりふで、つまり、私の「決められたせりふ」から採ったものです。
こういう呑気な本が出せるのも、私が曲りなりにも芝居をしているからだとすると、私がこれを先ず捧げるべきは、「決められたせりふ」の作者と翻訳者の方々、そして舞台や映画やテレビの先輩、友人たちと、観客の方々という事になるでしょう。私が芝居をしていられるのは、それらの方々のお蔭だからです。
また、新潮社の谷田昌平氏の十年来のおだやかな慫慂と、おなじく梅沢英樹氏と吉田久仁子さんの粘り強い、創意のある編集力が無かったら、この本は到底陽の目を見ることが出来なかっただろうと思います。厚く御礼を申上げる所以です。
一九七〇年二月
芥川比呂志
本作品中、今日の観点からみると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。
(編集部)
この作品は昭和四十五年二月新潮社より刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
決められた以外のせりふ
発行  2001年3月2日
著者  芥川 比呂志
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861061-X C0893
(C)Ruriko Akutagawa 1970, Corded in Japan