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僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由
稲泉 連
目 次
プロローグ
第一章 納得のいく説教をされたいんだ……無気力な大学生の曖昧な未来
第二章 あんな人間になりたくない……「営業」職への苛立ち
第三章 すべてを音楽に捧げて……エリート・コースからミュージシャンへ
第四章 友達の輪を求めて……楽しきフリーター生活
第五章 引きこもりからの脱出……彼が苦悩の年月を受け入れるまで
第六章 働くことは続けること……ヘルパーとして生きる
第七章 俺はなんのために生きているんだろう……若き学習塾経営者の葛藤
第八章 石垣島で見つけた居場所……サーファー、海人《うみんちゆ》になる
エピローグ
あとがき
文庫版あとがき
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プロローグ
新宿駅南口に降り立ち、青空の下にズッシリと存在感をアピールしている高島屋のほうへ歩いていくと、たちまち人の渦の中に吸い込まれる。
改札口から人がわくように次から次へと出てきたかと思えば、目の前の甲州街道を横切るために、信号待ちの列がみるみる膨らんでいく。行き交う乗用車やトラック、タクシーも、ベルトコンベアの上を運ばれているみたいに、いつまでも列をなして流れていく。
信号が変わると車は止まり、人が吐き出される。それから一分も経てば今度は車が動き始め、人は横断歩道の前に次々と溜められていく。その様子は、まるで工場のラインのようだし、あるいは自然の法則に従って同じ場所をグルグルと円循環しているかのようだ。
そうした人の流れに逆らってみたらどうなるだろうか、とふと思った。
流れに沿って歩く人の洪水のなかで、もの思いに耽《ふけ》ろうと立ち止まる者がいると、後ろを歩いていたサラリーマンがウッとつんのめることになる。彼は舌打ちが聞こえてくるようなあからさまに迷惑そうな顔をして、すっと障害物をよけ、あとは何事もなかったかのようにスタスタと歩き続けるのだろう。
立ち止まった者は流れを乱す異物と化す。
人々が溶け合い、個性を持たない集団という単位で流れているように見える新宿の街で、ある日僕は思い悩み、一人立ち竦《すく》んだ。いったい社会とは何なのか。大人になるとはどういうことなのだろうか、と。
まだ社会に飛び立っていない者にとって、「社会」は壁の向こう側でグツグツと煮えたつ巨大な鍋みたいだ。まだ見ぬその大きな鍋は、立ちのぼらせる蒸気や凄まじい音から窺い知ることはできても、決してその全容を目の前に見せてはくれない。
壁の向こうからなだめるような誰かの声が聞こえる。
「そんなに思い悩むようなことではないんだよ。こっちに来ればたいしたことではないって気がつくから」
多分、その通りなのだろう。だけど……、と僕は心の底で思う。
別の誰かが壁の向こうで苛立ったように叫ぶ。
「なに甘いこと言ってんだ! みんなそうやって生きてきたんだ!」
そうした声を聞いて、すぐに向こう側に行くことができる者もいる。しかし、ふと後ろを振り返れば、行けない者たちの行列もまたできている。
いま、社会に溶け込めない若者たちや、あえて溶け込まない若者たちが確実に増加している。そうした若者たちは、フリーターや不登校、引きこもりなどと呼ばれ、「問題」とされている。ときにはその現象を「異常」だと言う者もいる。彼らは問題視されながら、社会の異物として不可解な視線を送られている。
都内のある高校では、卒業生の約半分がフリーターとなっていることに危機感を抱き、フリーター防止ガイダンスを開いたという。
「うちはフリーターを撲滅する学校として有名になりたい」
校長はそう宣言したそうだ。
二〇〇〇年三月二十九日の朝日新聞夕刊には、「日本労働研究機構《JIL》」がまとめた実態調査の中間報告が報じられている。そのなかで、フリーターは「モラトリアム型」「夢追求型」「やむをえず型」の三種に分類されていた。とくに「モラトリアム型」の若者は「やりたいことが見つからない」「焦っている」という声が多かったという。
「フリーター生活の『限界』や『脱出』については、『二十五歳を過ぎると社会人経験を求められる』といった答えが目立った」
記事はこう締めくくられる。
一九九七年の時点で、全国のフリーター人口はおよそ百五十一万人にも及んでいる。八二年にはその三分の一程度だったというから、凄まじい跳ね上がり方だ。
リクルートリサーチの調査によると、大学生の三一・五パーセントが「卒業後にすぐに就職をしなくてもよい」と考え、「就職するのが当然だ」という意見が五〇・九パーセント、「どちらとも言えない」が一七・六パーセント。二〇〇〇年三月の大卒者の就職率が五五・八パーセント(文部省調査)で過去最低値を記録したことは、決して不景気だけが原因ではないはずだ。
そして、不登校。
文部省(現・文部科学省)の調査では、一九九九年度に学校を三十日以上休んだ小中学生の数が過去最高値を更新したことが示されている。その数、十三万人以上(約八割が中学生)。これは九〇年代初頭と比べると二倍近い。さらに、高校中退者の数は年間約十万人をキープしており、そのうちの半分以上が一年生のときにやめている。
そういった状況の余波は無事に高校を卒業した者にも及んでいるらしく、最近では大学生になってから登校拒否に陥る者も増えている。さらに、一流大学から大手企業へ入社という、困難な就職戦線を乗り切ったと思われた者が、入社二年目あたりでパタッと退社してしまう事例も多いようだ。
「引きこもり」の総数は現在(二〇〇〇年)、五十万人とも百万人ともいわれている。
こうした調査の数字を見ていると、いまの若者たちにとって、社会に出ていくことが、下手をすれば乗り越えることができない、人生の大きな課題となっていることを痛感する。フリーターや不登校などと具体的に分類された総数は、母集団の数に比べれば少数だと言ってしまうこともできる。しかし、その予備軍も含めたらどうなるのか。一見普通のコースを歩み社会に出ているように見える者でも、その内面ではドロドロになった葛藤や不安を深く抱いているのではないだろうか。
当然だとされている世の流れの真ん中で、若者たちは人の渦に巻きこまれながらふと立ち止まり、ときに立ち竦んでしまっている。
この僕も、社会に踏み出すことを恐れ、怯《おび》えている二十一歳の若者だ。それも、高校を一年で中退し、一度は学校という枠組みの中から逃げ出した。僕らの親の世代の多くから「軟弱な若者」と言われるだろう一人。いまは大学生だが、あと一年も経てば社会の一員として、壁の向こう側にある鍋の中に溶け込まなければならない、と思っている一人。
自分以外の若者たちが、それまでどのような環境のなかで、どのようなことを思いながら生きてきたのかを僕は知らない。しかし、同世代を生きている者として、共感することはできる気がする。
たとえば、思春期を終えて大学生になった頃、いじめによる自殺報道や数々の少年事件のことを耳にするようになった。それらの事件を知ったとき、僕は驚きを感じただろうか、と思うと、単純に「驚いた」とは言えない心境がそこにはあった。それどころか、「そういうこともあるかもしれない」と達観した気持さえ心の底のほうで燻《くすぶ》っているのだ。そこには同世代の若者たちが生きてきた共通の世界のなかで僕自身も生きてきたという、一種の共感があるように思える。
僕は高校を一年で中退しているので、思春期を学校で過ごしたのは中学までだった。それでも、僕はその世界のことを知っている。
僕はいじめを受けているクラスメートをただ見ていたこともあれば、加わったことも、自分が標的にされていると感じたこともあった。誰かが悪いというわけではなかった。いじめる多数がいていじめられる少数がいた。ただそれだけのことのように思えた。
そのなかで、僕は自分をさらけ出すことを恐れ続けた。クラスのなかでなるべく目立たないようにしながら、同時に自分をさらけ出したい、自分の話を聞いてほしい、という溢《あふ》れるような欲求を感じていた。
しかし、その狭間で苦しみながらも、疑問を感じたことはなかった。きっとそれが普通なのだと思っていた。プールで溺れるように必死で手足をばたつかせていて、隣のレーンで泳いでいる者が、同じように思春期の渦にのみ込まれながら必死になっている姿は目に入ってこなかった。だから、心ないことを言うことも多かったと思うし、言われたことだって何度もある。それが相手にどういう結果をもたらすのかを考える余裕はなかった。そうした日常を過ごすために学校に行くのは苦痛だったが、中学までは行かないという選択肢を考えたことはなかった。
ところが、高校に入れば変わると思っていたそうした日常が、何も変わらないと感じたとき、僕は高校をやめた。これ以上続けることが無理だと思ったのだった。
その頃、僕には世の中が灰色に見えるようになっていた。道を行く人々や車、建物から現実感が抜け落ちているような感覚。視界の端っこが暗くなり、見ようと思わないモノは決して目の中に入ってこない。おそらく、それだけ僕は下を向いていることが多かったのだと思う。雲ひとつない真っ青に晴れ上がった空の日でも、目のなかがうす暗かった。
高校をやめるということ──それは、僕にとって皆が通って行くはずの世界からの離脱だった。
悲痛な事件に驚く気持が素直に湧いてこないのは、その世界に僕が一時とはいえ所属していたせいだと思うことがある。この四、五年で教育の現場がかなり変貌していたとしても、忌まわしいそれらの事件が、かつて自分のいた世界と繋《つな》がっているに違いないという気がしてしまうのだ。
僕は高校から脱落し、同年代のほとんどは残った。その違いがどれほど大きいのか、自分にはわからない。そして、わからないまま、僕は早稲田大学第二文学部に入学し、大学生になった。しかし、いじめ、不登校、フリーター、引きこもり、これらの調査の結果を見るまでもなく、他の若者たちだって僕とは違った形で懸命に思春期をサバイバルしていたことは確かだと思う。
そして、次は社会への離陸を果たさなければならない。
なぜこうまで自分が不安になるのかわからない。なぜ自分にとって社会がこうまで大きな壁となって立ちはだかっているのか。それは、社会に対して感じる圧倒的な違和感と言い換えることができるのだが、そうした違和感は僕だけが抱いているものなのだろうか。
就職の決まった先輩の一人に「社会に出ていくことへの不安」について聞いてみようと思ったのは、僕のなかでそんな疑問が少しずつ膨らんでいたからなのかもしれない。
その先輩は早稲田大学法学部から大手保険会社に内定を決めた人だった。高校も進学校だったという彼は、高校をやめてしまった僕には「高校→大学→就職」という直線的なコースを、何の迷いもなく進んできているように見えていた。ひょっとしたら社会に出て行くことに対して、彼なら何らかの答えをもっているかもしれないと思った。
ところが、就職活動はどうでしたか? と尋ねる僕に、彼はどこか諦《あきら》めのこもった口調で言ったのだった。
「結局、どんな仕事がしたいのかずっとわからずにそのまま終わったって感じだね。答えが出るとも思ってなかったしさ。もともとこんな仕事に就きたいっていうのもなかったよ。とりあえず就職はしないといけないわけだから、就職するってこと自体が一番の目的だった。まぁ、誰しもがそうだと思うけどね。やっぱり金を稼いでいかなきゃいけないしね」
彼が就職することをこんなふうに話すのが、僕には意外だった。自らの未来に対して、そして社会に出ていくことに対して、もっと前向きに明るい調子で喋ってもいいのではないかと思った。
「それなりに仕事は楽しいと思うよ。仕事も勉強も嫌いではないから。そう思わなくちゃやってられないよね。日本社会ってさ、前向きで素直なことがすごい美徳のようにいわれてるからさ。やっぱり、自分をそういう価値観に染めていかないといけないじゃん。染まっていくのはしょうがないんじゃないの。人間は社会的な動物なんだし、通り魔殺人するくらいならそっちのほうがましだよね。それが大人になるっていうことなのかな。ほんとは大人にはなりたくないけどね。だけど、子供じみた真似はしたくないんだ」
とりあえず・それなりに・嫌いではない・しょうがない、彼が連発するそうした言葉の一つ一つに、僕は胸が締め付けられる気分になった。なぜ彼はこうも諦念に満ちた言い方をするのだろうか、と。
彼は東京生まれの東京育ちだ。そして、いわゆる「エリートコース」を歩んできたことを、自分でも認めていた。
「小学校四年の頃から、もう中学受験のために塾に行っててね、小学校でみんな遊んでるのにさ、俺だけバスで塾行くからって言ってさ……」
そうした日々の中で、彼は「勉強すると将来が約束される」という思想を叩き込まれた。社会的ステータスを得るには、何よりもまず学歴が必要だと思っていたという。そして、いい就職をするにはいい大学に入らなければならない。実際にそう信じ、実行したのだ。
「なまじ勉強はできたからねぇ」と彼は昔を振り返るように言う。
「俺、小学校のとき理系のほうが好きだったから、結構、医者になりたいと思ってたんだよ。あるいは、技術者。エジソンなんかの伝記を読んで感動してたし、はっきり言って俺は理系が得意だったんだよね。それが文系になったのは、中二、三の頃から新聞とか論文とか読み始めて、だんだん文学への関心が高まっていったからなんだ。それで、文系のほうがいいな、と。やっぱり、理系バカっていうのがいるじゃん。そういうのを見て、実際、理系を見下してたっていうのがあって。新聞記者になろうって高校のときは思ってたりもしたな──。
中高は勉強が至上目的の、都内の有名私立校。五十人くらい東大入るようなところ。東大偉いっていうような学校。じつは俺も東大の文学部を目指してたんだ(笑)。中学の頃から、露文が好きだった。トルストイとかドストエフスキーなんかをよく読んでてさ。だけど、社会正義みたいなものへの関心も強かったし、別に法学部でも、まぁ、絶対嫌だってわけでもないから、いいかなって思って。結局、受けたのは東大の文IIIと早慶の法学部とかだった。そういえば、高校の終わり頃には学者になろうって思ってたな。でも、その頃はなりたいものがブレてた。表象文化とかにも興味があって、映像文化を学術的に研究したりもしたかったな。あと結構マジでアニメの演出家になりたかった。ただ、アニメが好きって言うのはこの社会のなかでは勇気のいることで、言ったってろくなことないから高校時代は隠してた。大学ではそういうのを捨て去って断固としてまわりに言うようになったけど、会社に入ったら言わないだろうな」
話をしていて、僕は彼のことをいままで誤解していたんだな、と気づいた。
普段、大学での彼は、僕にとって得体の知れない人という印象があった。それはいつしか、早稲田の法学部で就職も大手に決まっていて、いままで挫折なんて経験したこともない優等生、そんなイメージへと変わっていった。なぜなら、周りの学生たちが将来の不安や、観念的な話題を口にしているなか、彼だけは就職活動の話でも授業の話でも、何の真剣味も感じさせずに、さらりと笑い飛ばしてしまうようなところがあったからだ。他の友人や先輩などが、将来や就職活動について語るときは、「明日も面接でさぁ、めんどくせぇよ」と軽く言おうとしても、心の揺れ動きや一瞬の影がちらついた。しかし、彼からは全くと言っていいほど、本心が見えなかった。
ところが、彼にも多くの不安があり葛藤があるのだった。そんな当たり前のことに気がついていなかったのか、と僕は愕然《がくぜん》とした。かつて僕がそうしたように、彼もまた自分を消しては、新しい自分を作ろうとしていた。
「確かに俺はいい人生を歩んでいるように見えるのかもしれない。でもね、挫折は結構してるよ。むしろ、俺は望み叶わずばっかりで人生きたと思ってるからさ。できるだけ人生は冗談だと思うようにしている。根がまじめだからなかなか冗談にはできないんだけど、悪いことがあっても、まぁ、ギャグと思って済ますかって。ユーモアで誤魔化そうとか、笑い飛ばそうとかね。
いい会社に入ることが幸福だとは思わないよ。勉強してきて、大学に入って、一流企業に入れたってことをよかったとは全然思ってない。もっと楽しい人生もあったんじゃないのかな、って思うよ」
塾通いから進学校。進学校から「いい大学」。
特急「エリート号」の片道切符を手にした彼は大企業という駅にようやく辿《たど》り着こうとしている。車窓にはさまざまな風景が見え──ときに、それはとても魅力的だった──、そして通り過ぎていった。
それら「魅力的な風景」とは、言い換えれば禁断の果実のようなものだったに違いない。手を伸ばし、甘そうな果実の一つをもいで食《は》んだなら、二度と元の場所には戻れない。
……彼は耐えた。
そして、就職という一つのゴールだと信じた場所がようやく近づいてきたいま、ふと我に返りながら、「もっと楽しい人生もあったんじゃないかな」と思うことがあるのだろう。
そして、言った。
「だけどね、別の生き方をしてきた自分のことは想像できないから」
そこには、「後悔はしたくないんだ」と言いたい彼の気持が表れているように感じられた。
だけど……、と僕はもう一度思う。
彼が自らのことを語ったとき、僕が彼から感じたのは、ただただ社会に出ることへの諦念だった。「本当はAがいい、しかし、Bだってそんなにやりたくないわけじゃないのだ」と自分自身を納得させていった結果が社会に出るということなのか、大人になるということなのか。僕にはどうしてもそう思うことができない。
そして、社会に対する自分の圧倒的な違和感のことを思ったとき、とたんに身近にいる他の若者たちの存在が気になり始めた。自分と同じ時代や世界を肌で感じているはずの彼らが、これまでどんな子供時代や思春期を送ってきたのか、そして、どうやってこれから社会に飛び立とうとしているのかを知りたくなった。やはり彼らも諦念に満ちた言葉を僕に語るのだろうか、それとも……。
いま、僕は社会という大海原の水際に立っている。まだ、そこに飛び込む決心がつかないでいる。ならば、その前に他の人たちの人生を少しだけでも見てみようと思う。彼らが通ってきた道を眺め、そこにどんな障害があり、どんな思いがあったのかを確かめようと思う。
これを社会に飛び立つ前の、僕にとって最後の旅にしよう、と心に決めながら。
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第一章 納得のいく説教をされたいんだ……無気力な大学生の曖昧な未来
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夜九時を回ったぐらいの時間だっただろうか。
二月の寒空の下、一度は大学を留年し、この年の三月の卒業も怪しいという前島康史と僕は、新宿・歌舞伎町の猥雑とした通りを歩いていた。長くも短くもない彼の軽い髪が、乾いた空気のなかでサラサラと揺れている。
新宿駅東口の喫茶店で話を聞き終え、「それじゃあ、飯でも」とラーメンを食べた帰りだった。熱いラーメンをすすった後だと、肌寒い空気も心地よく、歌舞伎町の派手な色合いのネオンがチカチカと目に飛び込んできて、なぜだかノスタルジックな気持になっていた。
違法駐車の間をタクシーがのろのろと通り過ぎて行くのを避けながら二人並んで歩いていると、強引な客引きが次々とすり寄ってくる。なかにはどこまでも幽霊のようについてくるんじゃないか、と思うようなしつこいのもいて、僕と彼は手を横に振ったり無視したりしながら駅に向かってずんずんと歩き続けた。
「普段は道を歩いていても誰とも出会ったりしないのに、こんな場所だとやたらと人が喋りかけてきますね」
大学キャンパスを歩いていても、ほとんど知り合いに会うことがない僕は、少し冗談めかして言った。
「普段は誰も話しかけてくれないのにぃ、って?」
彼がとぼけたふうにそう返すと、僕は大笑いしてしまった。彼も笑った。
「そうですよね。普段は誰も話しかけてくれないのにぃ!」
少しよろめきながらもう一度僕は笑った。
彼は就職活動を全くしていない。かといって、フリーターになろうと決めているわけでもなく、大学卒業後の進路は曖昧なままだ。では、これからどうするのか、どうしたいのか。その日、僕はそのことを彼に尋ねた。しかし、彼は就職活動をしない理由を「面倒くさいから」と説明し、これからのことについて「浮浪者にでもなっちゃうかもしれないなあ」と言って笑ったのだった。
確かに、大学を卒業するからといって、必ずしも「何か」になろうとする必要はない。それでも、他人事のように話す彼の無気力な様子に、僕は何とも言い難い心もとなさを感じた。そんな彼が普段どんな気持でいるのか、僕は知りたいと思った。
話を聞いていた喫茶店で彼はこんなことを僕に言った。
「最近ね、ちょっと用事があって、今やってるバイトを途中で抜けて昼間の街を歩いてたんだけど、そのときになんだか悲しいような美しさを感じちゃってさ。歩いてたのは根津あたりの街並みで、まさになんでもないような住宅街の風景だったのに、何か自分との隔絶を感じたっていうのかな……。
小学校があって、中学校があって、老人が歩いてて、高校から帰る学生が歩きながらタバコ吸ってたりしてて、それで小学生がジャンケンをしながら歩いてたりね。全然わくわくするようなものはないの。でも、そこに哀れっぽい美しさを感じたんだよね。なんでそんなこと感じたのかってことについては、自分では何の評価もしてないけど……」
僕はその風景を思い浮かべてみた。
そのとき、空は夕日で赤く染まっていたのではないかと思う。
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一九九五年一月十七日午前五時四十六分、兵庫県南部に震度六、場所によっては震度七を記録した阪神淡路大震災が発生した。
ちょうどその頃、甲府の高校に通っていた前島康史は、実家の居間のコタツで部活の「文学部」の会誌に載せる文章をワープロで書いていた。しかし、もう夜が明けようとしている。いい加減眠たくなり、死者六千四百三十二人を記録し、住宅二十五万棟あまりが全半壊した凄まじい地震のことなど知ることなく、コタツに入ったまま眠りについた。
朝方から眠りについたせいで、その日の昼間はずっと眠り続けた。結局、そのまま学校をサボり、次に目を覚ましたのは日の落ちかけた夕方だった。弟がテレビを点けたらしく、画面ではしきりに大惨事の様子が伝えられている。しかし、そのとき寝起きの前島には何が起こったのかを理解することができなかった。空襲にでもあったかのように家々が燃え盛っていた。鉄筋のビルがジオラマで作った廃墟のように傾き、高速道路が無残にも倒れている。
次第に頭が晴れてくると、神戸で「地震」が発生して、その被害がとてつもなく大きいということがようやくわかってきた。そのとき、ふと神戸大学に通っている高校の先輩のことを思い出した。
前島の通う高校では、「英語科」と名付けられた特別進学コースが、彼の入学する一年前から新設されていた。文学部の何人かはその学科に所属していた。神戸に行った先輩もそのなかの一人で、学校で出くわせば言葉を交わす程度の仲だった。前島は彼の書く小説が「文学部」の発行している同人誌の中で最も好きだった。星新一のショートショートのような小説で話も面白く、毒も感じられたからだ。
先輩は陸上部にも入っていて、グラウンドを走る姿をときおり校舎から見ることができた。そんな彼に向かって、「走る姿がかっこいい!」と前島は冷やかしたこともある。
神戸での地震……、確か、彼は神戸にいる。
その日、前島はNHKが流す死亡者名簿を見続けた。先輩の名前がないことを確かめるためだった。死んだりはしていないだろうと思ってはいたが、「まさか」もありえる。しかし、とめどもなくスクロールされるカタカナの名前の中から、一人の人間の名前が「ない」ことを確かめるのは簡単なことではなかった。前島は先輩の年齢である「19」という数字が画面に映し出されるたびに、ビクッと体を震わせた。
そうして、何時間もテレビを見ているうちに、ブラウン管の光は彼をジワジワと包み込んでいった。いつの間にか、魔法にかかったかのようにテレビの前から動けなくなっていた。一度、夕食のために食卓に行った以外、居間のコタツに入ったまま、ずっとテレビを見続けた。家族が一緒に居間にいた時間帯もあったが、会話はほとんど交わさなかった。そして深夜になると、家族がいなくなり、一人になっていた。
日付が変わり朝になっても、居間にはコタツに入って画面を見つづける彼の姿があった。前日の夕方からずっと、半ば放心状態で、際限なくスクロールされる死亡者名簿を延々と見つづけていたのだった。
老人がたくさん死んでいたのが気にかかった。平日にもかかわらず、自分が学校に行かずに一日中寝ていたことを思い返した。高校三年生になってからというもの、学校をサボることに対してはなんの後ろめたさも感じなくなっていたはずなのに、なぜか漠然とした後悔が湧いた。
頭の中には理由のない腹立たしさが充満していた。地震があった早朝、その事実を知らないまま眠ったことに対してただ腹が立った。学校に行かなかったことにただ腹が立った。地震のことをリアルタイムで知っていたとしても、それに学校に行っていたとしても、自分に何もできないことはわかっていた。それなのに、もどかしい腹立たしさだけがフツフツと煮えたぎっていて、それを消し去る方法が見つからない。
「そんな合間合間に思ったんだよね。俺は何やってんだろう、って。いままでそんなこと思ったこともなかったんだけどね」
地震のあった日のことを、彼は僕にそう語った。
「ああ、俺って無気力だったんだ」
そのとき初めて、彼は自分について、そう感じたという。
静まり返った真夜中に、まるで深海にふわふわと漂っているような静寂感に襲われることがある。遠くから車の走行音や救急車のサイレンが、空気に溶け込みながら気だるい広がりを持って聞こえてくる。勢いよくシャッターが閉められたような音が、「カシャーン」と不意に夜の空気を震わせたりもする。そして、それらの音が消え入る瞬間、静寂がまとわりついてくる。そんなとき僕は、生きることを含めた「続けなければいけないこと」や「しなければいけないこと」から解放されたような安堵を感じる。常につきまとってくるストレスが、自分とは何の関係もない遠くの出来事であるような錯覚に陥る。
ひょっとすると、彼はそんな静寂を、青白く光るテレビの画面を見ながら感じていたのかもしれないな、と僕は思った。
一九七七年、前島は山梨県甲府市に生まれた。
彼は地図に心惹かれる少年だった。小学生の頃から地図が大好きで、教科書の地図帳が宝物だった。社会科の時間には、授業そっちのけで眺めていた。薄っぺらの紙に印刷された地図の上にはたくさんの国があり、無数の国境がある。砂漠や海、平原、そして都市にさまざまな名前がついていた。高度が色によって表され、山間部は茶色、平野部は緑色をしている。そんな絵を見ながら、地形や街並みを想像するのが好きだった。
家に帰っても地図帳は彼の手の中にあることが多かった。自宅にはそれとは別に甲府市の地図があって、やはり夢中になった。気になる場所が近所にあれば、必ず見に歩いた。徒歩では辿りつけないくらいの場所に興味を惹かれる何かがあると、「ここには温泉が湧いているんだって」「ここでは蕎麦が採れるらしいよ」と言い、「ここってどうなってるんだろう?」と父親に問うこともあった。すると父親は車でそこまで連れて行ってくれた。
高校生になってから本格的な地理の授業が始まると、彼は自然と地理が得意になっていた。その頃、彼は「ワールドアトラス」という一万円ほどする分厚い地図を自ら購入する。
前島が初めて一人で「旅」をしたのは小学生のときのことだ。
小学二年生だった前島には、四方を山で囲まれた甲府市の自宅に、西向きの部屋が与えられていた。窓の外を眺めると、高く長くそびえ立つ南アルプスがいつだって見えた。地図を広げると、山の向こう側には「長野県」という県名が記されている。大きな壁のようにそびえる南アルプスを見ながら彼はいつも思っていた。
「あの山の向こう側に行きたいなあ」
そしてある日、両親には黙って一人で電車に乗っていたのだった。
大学生になって上京してからも、前島の地図好きは変わらなかった。一つ変わったところがあるとすれば、それは地図に記されている場所に自由に行けるようになったことだ。印刷された数々の国境や県境、山や川を眺めながら空想にふけっていた少年は、大の旅行好きになったのだ。ときには大学の授業を放り出してまで旅に出た。日本中を歩き回った。
そんななか、彼にはどうしても一度行ってみたい場所があった。そのチャンスが大学二年生の夏に訪れると、パンフレットで見つけた決して安くはない船のチケットを旅行会社から購入する。行き先は、中学生時代、地図を見て、その名に惚《ほ》れ込んだ「サハリン」だった。
「サハリン」そして、州都「ユジノサハリンスク」。彼はその音に心奪われていた。家族に「樺太ってどういうところかなあ」と聞き、父親が「まあ、日本のモノもたくさん残っているのかもしれないね」と答えたことを、いまでも覚えている。
「どうせなら、とことん飛行機を使わずに陸路で行ってみよう」と思って、鉄道を乗り継いで稚内まで行き、船に乗った。船内には百人ほどが乗り込んでいた。日本人が多く、なかには札幌から稚内に向かう途中に見た顔がチラホラと見受けられた。
彼らと話しながら旧日本領の島に到着すると、風景の何もかもが日本と違うように感じられた。
船から降り立ったとき、すでに外は真っ暗になっていた。到着したときはまだ日が出ていたのだが、理由がわからないまま三時間も船内で待ちぼうけをくらったのだった。ロシアという国はこういう国なんだ……、と彼は思った。
港では何人かの軍人を見かけたりもしたが、とくに彼を驚かせたのは出入国管理室のみすぼらしさだった。国境を管理するにはあまりにも頼りない木造の建物を見て、「これならすぐに爆破できるな」などと考えてしまった。
サハリンでは、鉄道が移動の命だった。道路はデコボコでほとんど舗装されていないし、地図に記載されている橋も、河川の氾濫によって壊れたままになっていたりする。どうしても鉄道に頼らざるをえない。
サハリンのホテルに荷物を預けると、彼はリュックサック一つで鉄道にばかり乗っていた。ときには一日中乗っていることもあった。ヨーロッパ風の列車に揺られ、窓から首をぴょこんと出しながら、「世界の車窓から」の一シーンを思い浮かべた。
ユジノサハリンスクに向かう列車は、キハ58という気動車だった。後に日本に帰った彼が、JR、旧国鉄、第三セクターの全ての路線を完乗する鉄道マニアになったのも、この気動車に心奪われたことが大きい。
体の大きいロシア人が、窮屈そうに日本人用に作られたシートに腰掛けてウオッカを飲み、前島にはわからない言葉で会話をしていた。そんな雰囲気の中にいると、面白くてしかたがない。古びた気動車のボックスシートに揺られながら、ディーゼル車特有の廃油の香りを胸に吸い込んだ。ゴトゴトと揺れる列車の中で、異国の人々の話し声や、列車そのものがかもしだす音や香り。五感が心地良さに震えていた。
「日本に帰って来てからはひたすら列車に乗りまくった。列車の中でぼーっとして、何もしないでいるのが、安らかで楽しくてね。旅行してるときは楽しいし、生き生きしてる。朝かなり早く起きたりもできるしね。普段と違うモノを食べたりとか、普段と違う匂いを嗅いだりとか、普段と違う音を聞いたりするのが好きなんだ。サハリンにはサハリンの匂いがあったし、東京都と神奈川県でも大分違う。バルト三国にはバルト三国の匂いがあるんだろうな」
彼はその異国の香りを「嗅ぎたいなぁ」と言って笑う。
「もし、こんなくだらないことに、夢とか希望とかいう言葉を使ってもいいなら、世界中の全ての国で一ヶ月以上過ごしてみたい」
しかし、九州でも北海道でも、そして外国であっても、足取り軽くその土地を歩く気ままな旅から東京に帰ってくると、彼はすぐに無気力な大学生になってしまう。
夜行列車で東京の六畳ロフト付きの部屋に戻ってくると、敷きっぱなしの布団の中に倒れこみ、そのまま夜になるまで目覚めないことが多い。ドアを開け、本や大学で使う資料、脱ぎ捨てたままの服が散乱する部屋を目にするたびに、「またよどんだ場所に戻ってきてしまった」と感じる。
そうして部屋の中に倒れ込んだ後、ひどいときには一週間も何もせずにロフトの上で寝転んでいることもある。テレビを点けっ放しにして、それを一日中眺める。そんなとき彼が見ているのは番組の内容ではなく、「テレビ」そのものだった。
一度そうした生活リズムに浸ってしまうと風呂にもあまり入らないので、髪はボサボサになり無精髭も伸び放題だ。下着姿のままずっとぼんやりとしていて、食事さえ取らないこともあった。
高校時代にはこんなことはなかった、と彼は思う。あの頃は夜更かしをするにしても、ある程度明確な理由があった。たとえば、テレビを見るにしても、ちゃんとした理由があった。見たい番組があり、そのために夜更かしをしていた。中学生だったときは、書き物をするためによく夜更かしをした。きっかけは、ドストエフスキーの「賭博者」を読んで文学に興味を抱いたことだった。ルーレットにハマッた青年が身を滅ぼしていくその物語に「文字で人生いろいろっていうのが描き出せるんだな」と感動したのだ。そして、文学が好きになったことによって、大学に入るという目標ができた。それほど努力することはなかったが、勉強は好きだった。英語の文法をパズルのように組み合わせていくのが楽しかった。しかし、今ではそういった気持が全くといっていいほど湧いてこない。
「大学に入って東京に来てから、落ちるところまで落ちちゃったかな、って思った。何の意味もなく夜起きてたりするようになったんだ。何もせず寝転がって天井を見てるみたいにしてね。つまらないテレビを見ていたり、本を読んだりしていても、それに集中してるわけではなくて、ただぼーっとしてる。それで、随分落ちてきたなぁ、ってふと思ったりする。何も作り出せないような人間になりそうだなぁって」
しかし、旅行をしている元気な彼も、そして、東京にいるときの無気力な彼も、両方とも前島の本当の姿だった。
彼は通産省(現・経済産業省)の外郭団体でアルバイトをしていた。
実家からの仕送りと奨学金を合わせると、月に十四万円ほどになるのだが、頻繁に旅行に行くにはそれでは足りなくなることもあった。そんなとき、知人が「自分の行かない日は働けるかもしれない」と紹介してくれたのがその職場だった。彼はそこで郵便物を出したり伝票整理をしたりと、主に雑用仕事をしている。真面目に働いてはいるが、その真面目さは決してポジティブなものではなく、与えられた仕事はしっかりとやるが、自分からは絶対に仕事を探すことがない、というネガティブなものだ。
しかし、仕事に対するそうした姿勢を、彼が意図的にとっているわけではない。上司が、自分の指示以外の仕事をアルバイトが勝手に探すことを嫌っているのだ。よって、その上司がいないときなどは全く仕事がなくなり、働く側はとても困るのだという。とはいうものの、自発的に仕事をさせない上司のやり方が、前島の性格にピタリと合っていることもまた事実だった。次の仕事がないとき、彼は五分で終わる仕事をゆっくりと一時間かけて終わらせる。
「普段は、朝起きたらシャワーを浴びて、それから仕事に行って、仕事が終わったらパソコンをするなり、所用を片付けるとかかな。休みの日はね、寝てる。ゴロゴロしてたと思えば眠っての繰り返し。自分は無気力だな、って思うよ。でもね、このままでいられるんなら、そうしていたいな。望んでる生活があるとしたら、ゴロゴロしてても何の問題もなくて、たまに気が向いたら旅行に行くっていうような生活なんだ。普段のダラーンとした生活のリズムを維持できたらなって思う。うん、張りがそれほどない生活だね。いつも生活に張りがあってもキツイしさ。でも、僕は別に貴族でもなんでもないから、そういうわけにはいかないよね」
僕が普段の生活を尋ねると、彼は言った。旅行中は朝早く起き、かつ行動的だという彼が、張りのない生活を望んでいるということが僕には驚きだった。
前島は大学五年生である。卒業するのかはともかくとしても、そろそろ「就職」について考えるべき時期だ。しかし、卒業したとしても就職はしないつもりだと彼は言った。しばらくはフリーターをしていくつもりだ、と。
就職をしない理由をしつこく尋ねると、彼は「面倒くさいから」と何度も繰り返した。就職すること云々よりも、就職活動そのものが面倒だったのだという。
「それに就職してもいいことありそうになかったからね」
しかし、就職活動とは誰にとっても面倒なはずだと僕は思った。決してそれが自分のやりたい職業でなくても、「とりあえず」という感じで五十も百も資料を請求する者も多い。
しかし、彼はその一切をしなかった。大学で開催される就職セミナーにも参加することはなかった。そして、卒業することができたとしたなら、フリーターになろうと思っている。それは、就職をして安定した収入を得ることよりも、目先の面倒くささを優先させた結果だった。
そこには「就職はしない」と心に決めたわけでもないが、同時に就職をするつもりもないという掴みどころのない気持だけがあった。そして時間だけがただ流れた。
たまに山梨の実家に帰ると、彼の母親が必ず言う科白《せりふ》がある。
「○○君はシャトレーゼの工場で一生懸命働いてるそうよ」
彼の様子を見兼ねて、幾度となくアイスクリーム工場で働いている同級生の名前を出してそう言うのだ。
「それに比べてあなたは……」
同じ話に飽きている前島は、「うん、うん」とか「へえ、そうなんだ」と要領の得ない返事を上の空でする。母親の心配は彼の前ではいつも空回りとなった。そして、彼が結論として言う言葉はいつも決まっていた。
「でも、俺にはそんな仕事できないなぁ」
母親にしてみれば自分の説教が無駄に終わったこととなるのだから、さぞかしがっくりくるだろう。
しかし、それが本音なのだった。周りの知人たちが就職していくのを見ても、特に感じることは何もない。面倒くさいことをあえてやっているように見える彼らに、ただ「えらいなぁ」と感心するばかりだった。決められた会社に行き、決められた給料で、決められた仕事をこなす。そんな一つ一つが面倒なことこの上ない。そして、たとえ、給料と仕事が割に合っているとしても、そんなことでほっとするようなものではないように、彼には思えてならない。
「個人的に親しくなった就職してる人って、みんないまの仕事がいいとは言わない。きついとか、嫌だとか、大変だよ、とかそういうことを言ってる。充実した仕事っていうのもあるにはあるんだろうけど、大変は大変だっていう言い方するんだよね。そういうのを見てて、言葉の通り、大変だなぁって思ってしまう。それで大変なことはしたくないってことになる(笑)」
一度、どんな会社なら就職するだろうか、と彼は考えたことがあった。「一人でできる割合が多くて、主な責任が自分にあって、仕事さえ片付けてしまえば後は休めるような……」、そんな会社なら就職してもいいな、と思った。しかし、具体的にそういう企業を探してみるということはなかった。
「フリーターでも、それだけでやっていくとなると、仕事の量は就職するのとあんまり変わんないわけだけど、要はなるべく責任はないほうがいいんだよね。中高年の人には怒られちゃうかもしれないけどさ。
それにいまの状態で就職しても、怠けが過ぎるだろうね。同僚や上司がいる中ではやっていけないと思う。俺が上司だったらクビにする(笑)。クビにされるとまずいからって働くかっていうとそんなこともないだろうし、そもそも、最初からクビにされるようなところには行かないよ。だけど、フリーターでありたいわけでもないんだ。
じゃあ、どうなりたいのかっていうと、そういうものがないんだよね。もともとの性格なのかもしれないけど、なんとなく希望を持っていない、っていうのかな……。そういう自分は、フリーターになるのが最も適するんじゃないかな、って思う。フリーターをやっていると困ることも出てくるのかもしれないけど、困るっていうことは守りたい何かがあるからでしょ。だから、困るようなことがあれば、迷わず就職するかもしれないね。でもいまはそれほど困ってないから」
彼のなかにフリーターをやっていくことに対する不安がないといえば嘘である。しかし、その不安は、彼にとって、フリーターでいることへの漠然とした将来への不安定さに対してではなく、「もし、フリーターの仕事でさえ怠けるようになってしまったら、自分はどうなってしまうんだろう」という気持に対するものだった。
その先は浮浪者にでもなってしまうかもしれない、それとも酒や薬にでも溺れてしまうのかもしれない、と言って彼は笑ってみせる。ある日、新宿の街を歩いていたとき、若い浮浪者がたくさんいたことに彼は衝撃を受けたという。その衝撃は少なからずリアリティのあるものだった。
だけどね、と彼は言う。
「そうなってもいい、と思ってるわけではないんだけど、そうじゃない状態、浮浪者や廃人ではない状態を積極的にいいとも思ってないんだ。そうなっちゃうかもしれないなぁ、って思うことがあるってことなんだ」
彼の無気力な性格の核になっているのは、「面倒くさい」という気持、この一点につきるようだった。しかし、僕には彼が単なる「無気力」だとは思えなかった。たとえば、僕の目に映っているサークルの先輩としての前島は、行動的で責任感のある男だった。サークルの事務手続きのことで、僕が事務所に提出する書類について「やり方がわからない」とおろおろしていると、嫌な顔一つせず書類の書き方から事務所へ提出するまで、根気よく付き合ってくれたこともある。
だからこそ、彼が就職活動をしないのも、面倒くさいというより、その根はさらに深いところにあるように思えた。なぜなら、誰にとっても面倒なはずの就職活動を、「あえてしない」のではなく、「することのできない」彼の姿がそこにはちらついているからだ。
なにより、彼は知っているようだった。それを面倒なことだと思っている限り幸せはやって来そうにないということを。
新宿の喫茶店で話しているとき、突然彼が意表をつく科白を口にした。
「実はね、僕はね、説教をされたいんだ」
その科白が唐突に彼の口から発せられたとき、一瞬、僕は「説教」という言葉の意味を理解することができなかった。
「セッキョウ……ですか?」
言葉につまりながら僕は続きを促した。
「真面目にしなくちゃいけない、ってことをわかりやすく、論理的に、説得してもらいたい。納得させてほしい。待ってるんだよね、そういう人を。わかりやすく話をしてもらって、自分が考えて、うん、って言えるような説教をされたいんだ」
それはあまりに予想外の言葉だった。
はたして、「納得できるように説教をしてくれる人」なんて存在するのだろうか? その問いは、僕にいままでの人生を振り返らせた。僕の前にそんな人が現れたことがあっただろうか、と。
考えてみれば、僕のこれまでの二十一年間にたびたび訪れた転機には、必ずといってよいほど、きっかけがあった。僕がいままで歩んできた道は、結果的には自ら選んだものではあるが、どの分かれ道にも何かしらの道標があった。それは人との出会いであることもあれば、学校での出来事、テレビでの衝撃的な映像だったこともある。しかし、僕は自分の人生を変えてくれるような人間を「望んだ」ことはなかったように思う。そして、それはきっと、望まないからこそ、僕のいた場所には、納得させ、説得してくれる人が不意に現れたのだ。しかし、彼は説教をされることを望んでいる。
地図と旅行が好きだった少年が、その人生を生きていく過程で「説教されたい」と思うようになったことに、僕は溜息が出るような気持になった。彼は自分の無気力さを否定も肯定もしていない。しかし、そこから滲《にじ》み出てくる願望が「説教されたい」ということだとすれば、自らの無気力感から抜け出そうと──それがたとえ漠然とであったとしても──彼は必死になっているのかもしれなかった。
「スーツを着られるものなら着てみたいんだけど、どうしても着られないんだよね。普通のサラリーマンの競争的な部分とかは嫌だとは思わなくて、むしろそういうのを僕もできたら、それもいいな、って思うよ。だから、変わりたいって気持はあるんだ。六五パーセントくらいは変わりたい。でも残りの三五パーセントのほうが実力があるんだよね(笑)」
楽しく生きるためにはどうしたらいいのか、と考える。鉄道は大好きだし、列車に乗って旅をしていると、とても楽しい気分になれる。彼にとって必要なのは、夢や希望、つまり、それのために生きることができるような「何か」だった。しかし、いまのところ、鉄道は彼の「何か」には成り得ない。鉄道や旅は「癒し」にはなっても、なぜだか生き甲斐だとは思えないようだった。
彼は最近、他の人たちがいったい何をよりどころに生きているのか、ということが気になり、ごく親しい友人にその質問をぶつけてみることがあるという。それは、夢や希望を探すために、そして、楽しく生きるために、彼がとったささやかな行動だった。
「みんなは何を頼りに生きてるのかなって。これがすごく楽しいとか、あれがあるから生きてるとか、そういうのがすごい気になってて、いろんな人に聞きたいんだよね。あまり親しくない人には聞けないけど、〈そういえば俺もそういうのはないな、みんなはどうなんだろう〉っていう人もいれば、芸術家のような人もいた。でも、確かにわからないでもないんだけど、そのことが楽しいってだけで生きていけるのかな、っていうことに関して納得できたことはないな。でも聞いてるうちに答えが見つかるかなって思う。それがあったらもっと楽しく生きていけるんじゃないかな、って思うから。いまは楽しくないから、生きてることが」
友人たちも皆同じような考え方をしていることが多いんだよね、と言って彼は笑う。しかし、それでも周りの友達は自分よりも現実を捉え、したいこととしなければならないこととに割り切りをつけているように見えたという。その折り合いをそのうちつけないといけない、と彼自身感じている。なぜなら、そうしなければ、生きていられないかもしれない、と思うことがあるからだ。
彼が大学に入ってからの、ある日のことだ。
「君はじゃあ、いったい何が一番大切なんだ!」
親友が悩みを相談してくると、前島は突然声を張り上げた。そして、しばらく話し込んだ後に親友が言った。
「結局、好きな人とは一緒にいたいな、ってことなんだ」
あるいは、こう言う人もいた。
「結局、好きなことをずっと続けていきたいんだ」
そのたびに前島は言い返した。「恋人がいるのならいいじゃないか!」と。そして、「ずっと続けられる好きなことがあるならいいじゃないか!」と。
旅行、地図、鉄道……彼にも「好きなもの」はあるはずだ。しかしそれでも、好きな人なり好きなものなりがない人間はどうしたらいいのだろうか、と彼は思う。それらの対話の中に答えは何一つ見つからない。
そんな彼を「中学生みたいだ」「それじゃ、子供と一緒だ」と非難する人もいる。その言葉に彼はいつも傷つく。しかし、傷ついた後、何かが変わることは一度もなかった。その代わり、彼は納得した。しかし、それは彼の望む「納得」ではない。「自分はダメなんだ」ということに対して納得するのであった。
彼と話しているうちに、僕はなんだか少し絶望的な気分になってしまった。何が彼をそうさせたんだろう、という疑問が大きく渦を巻くようにぐるぐると頭の中を回っていた。彼にもきっと何か転機となる出来事があったはずだ、ないわけがない、と勝手に思い込み、僕は何度も不器用な質問を彼にし続けた。
「そういった考え方になるきっかけって何かありますか?」
しかし、それに対する彼の答えは決まっていた。
「きっかけかぁ。そうだなぁ……」
「いつから、そう思うようになったんですか?」
「うーん、わからないな」
こんなやりとりが何度も続く。
そのたびに僕は彼の次の言葉を待った。
一瞬沈黙がおとずれる。
喫茶店の客の話し声、コーヒーカップが受け皿に当たる音が響く。
「昔から、ぽっと思いついたことが、ずっと頭を支配してしまう感じなんだよね。きっかけ、って別にこれっていうのはないような気がする。確かに、中学生の頃なんかは、無目的にただおもしろいからっていう理由だけで学年全員にインタビューをして、プロフィールみたいなものを作る子供だったりもした。どこの出身ですか? なんて聞いたりして。だけど、いつの間にかこうなってた。だんだんとそうなったのかな。
昔とは当然、自分は変わってきてるんだろうけど、根本では変わらないと思う。もっと気楽に考えればいいんだろうけど、気楽に考えないことが癖になってる。きっと、僕がおかしいんだと思う。ブッ飛んでるか、浮世離れしてるか。きっかけのない人生送ってるよね。
人間一人は別にナンボのもんでもない、って思うな。それもある日ぽっとそう思った。何もかもどっちつかずでさ。どっちつかずの人生(笑)。僕は生きるってことは死なないことだと思ってるんだ」
彼がこう言って少し面倒くさそうに笑ったとき、この人には本当にきっかけはないんだな、と僕はようやく思うようになった。彼は、自然といまの彼になったのだと納得した。
しかし、同時にその自然さにたじろいでしまったのも事実だった。彼のような若者が自然と「無気力」になることもあるということが、何か恐ろしいことのように思えた。彼の心に染み付いているモノの正体は、いったいどんな色をしているのだろうか。それは、今の僕にも少しは染み付いているのだろうか。僕には何一つわからなかったし、彼自身にもそれがわからない。
「前島さんは〈働く〉っていうことを、どういうことだと思っていますか?」
ふと、そんな大雑把《おおざつぱ》な質問をしてみると、彼は少し考えた後で言った。
「働くって、本来は生きる情熱によるものだと思うんだ。でも、実際は単に生きるためだけに働いてるな、僕は。どうせなら情熱のために働きたいよ」
彼と新宿で会ってからしばらくして、僕は彼と一緒に車で栃木県に行った。なんとなく車に乗りたいと思って僕のほうから誘ったのだった。目的地はなかった。ただ僕がどこかに行きたかったのだ。遠くに行って知らない道を走り回りたかった。
出発は深夜だった。夜十一時頃に「遊びに行きましょう」と電話をすると、彼は寝ていた。「もう」寝てしまったのではなく、「まだ」寝ていたのだった。
結局、彼は二度目の留年をして六年生となった。聞けば奨学金は貰えなくなって、さらに実家からの仕送りも止められてしまったという。アルバイトも辞め、収入が全くなくなったので、大学近くの風呂なし共同便所で四畳半のアパートに引っ越した。「収入がなくてもなんとか暮らしていけるもんだね」と彼は笑ったけれど、近いうちにアルバイトを見つけなければ、とも言った。
「どこに行きましょうか?」
そう問うと、とりあえず栃木県に行こうということになった。
僕は北へ北へと車を走らせた。次第に街並みが変わってくる。人工的な明るさが少なくなってくる。
そのとき、東京を離れるにつれて、僕は彼の様子が少しずつ変わっていくのを感じた。建物の数が減って高いビルがなくなってからというもの、緊張が解けた柔和な表情を浮かべるようになっている気がしたのだ。楽しそうにダッシュボードの中に入っていた地図をいつまでも眺めている。
利根川を渡って、やがて空が明るくなると、突然どこまでも続くかのような田園地帯が目の前に広がった。人の姿は見当たらず、建物もほとんどなかった。見渡す限りの水田が広がっていて、一瞬僕と彼は息を呑んだ。
「おお、いいね、いいね」
やはり、そう言って笑う彼は明らかに東京にいるときとは違った。「旅行をすると生き生きする」と言っていたのを思い出した。
完全に夜が明けても太陽は姿を見せず、その日の空はどんよりとした白い雲に覆われていた。
「渡良瀬川の上流に行かない?」
彼がそう提案したのは、運転を代わってその田園地帯を走っているときだった。
「あの辺にはいい駅があるんだ。気動車が走ってるよ」
渡良瀬川上流と聞いて川と山が織り成す風景を想像していた僕は、そのとき彼が鉄道を見たいのだということに初めて気がついた。栃木に行こうと言ったときから、彼はそのことを考えていたのだろう。
まず東武線の無人駅に寄ってから、国道の峠道を彼は車間距離を少し詰め気味にしながらしばらく走った。道路標識は「足尾」「日光」方面に向かっていることを示していた。そして、足尾の山村に着くと、わたらせ渓谷鐵道「足尾駅」に車を止めた。
車のエンジンを切ると、辺りは深い静けさに包まれた。人の声やときおり通る車の走行音が澄んでいる。東京に住む人間にとって、それはまさしく「静けさ」だった。普段決して感じることのできない静寂だった。
木造の無人駅の待合室を見回してから、駅のホームに僕らは入った。
わたらせ渓谷鐵道は電化されていない。架線がなく、空を見上げると障害物が何もない。
使われていない車線に、車番の取り外された旅客車両と気動車が放置されていた。廃線になったまま見捨てられたかのようにホームは静まり返っている。近くでウグイスが鳴き、小鳥が森に向かって二羽飛んでいくのが見えた。
僕はその風景を見たとき、自分がとても安心していることに気がついた。山の匂いにかすかな機械油の香りが混ざっているのが心地良かった。彼が東京を離れることで生き生きとするのと同じく、僕もまた心がとても軽やかになっていた。
彼は無人のホームを跳ね回るように歩いていた。そのとき、東京に住むことがいかに緊張を強いられるかを実感させられたような気がした。そして、僕がその緊張を普段自覚していないのに対して、彼は日々それを感じ続けているのかもしれないな、と思った。だからこそ、彼は東京で無気力になり、旅行で生き生きとするのではないだろうか。
「あの気動車はね、昔は八高線で使われてたんだよ。それをここに持ってきてトロッコに改造する予定だったらしいんだけど、いまだに放置されてるってことは、やめたんだろうな」
彼の目は光に満ちているように見えた。
「次の駅に行って、気動車が到着するのを見よう」
そう言って彼はまた車を走らせる。いつの間にか気動車と駅を見るドライブへと変わっていた。
「間藤《まとう》駅」もやはり無人だった。わたらせ渓谷鐵道の終着駅である。ホームにあった立て札に、かつては国鉄「足尾線」という名称だったこの第三セクターの単線の歴史が、簡単に説明されていた。
地元の二、三人の客たちが車両の到着を待っていた。四、五分ほど経つと、遠くから気動車特有の「ガー」という音が聞こえてきた。
山の匂いの向こうからこげ茶色の気動車が入線してくる。
彼の顔から自然と笑みがもれた。気づくと僕もニヤニヤしながらトコトコとやってくる可愛らしい気動車を眺めていた。気動車がエンジンをふかすと、車両の上から排煙がプシュッと舞い上がる。
東京に帰りたくないな、と思っている自分にふと気づいた。そして、そのとき、彼が旅行をすることで、鉄道に乗ることで、東京にいるときの鬱屈としたダルさから解放される理由が少しだけわかった。
新宿で話していたとき、彼が言ったこんな言葉を思い出す。
「僕は待っているタイプなんだ。向こうから楽しいことが来るのを。でも、フリーターやってたら、それは多分来ない。就職してても多分来ない。そういうのが来るのって、なんとも言えないけど、やっぱりちょっとおかしくなってるとき、旅に出てるときとか、そういうときに来るんじゃないかなって思ってる」
彼は待っている。いつかやってくる何かを待っている。
でも、その「いつか」はいつやってくるのだろう……。
しばらくすると、気動車がまたガーガー音を立てながら出発していった。
「戻ろうか。急げばもう一度足尾駅で同じのを見られるかもしれない」
彼が明るく言った。
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第二章 あんな人間になりたくない……「営業」職への苛立ち
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湘南の海岸沿いを走る国道134号線は、朝の通勤時間になると、これだけの車がどこから湧いて出たのかと訝《いぶか》しく思うくらい渋滞している。いろいろな車種が走っていて節操がないが、車内の人たちを観察するとネクタイ姿のサラリーマンが多い。
この134号から抜け出るために、JR東海道線の駅へと向かう県道に折れると、途端に渋滞はなくなり流れはスムーズになる。道路沿いには学校がいくつかあるらしく、バスを待つ高校生や、じゃれ遊びながら道を飛び歩く小学生などが登校している姿を毎日見ることができる。また、松下電器・精工・冷機のどでかい建物が並んでいるので、車が行き交う二車線道路の歩道では、通学、通勤の多種多様な人たちが乱れ歩いている。その風景には、テレビドラマの撮影かと思うような普遍的な朝の印象があって、少し立ち止まって考えると何か異様な感じさえする。自動的に仕分けされる郵便物みたいに、道行く人々がそれぞれの目的地へと吸い込まれていくようにも見える。
その通り沿いに、武田明弘がマークIIワゴンで通勤しているトヨタカローラの営業所がある。近隣には日産、マツダなどのディーラーもあるので、この道路を通っていると一瞬周りが売り物としての車だらけになる。
僕がここに来たのは「最近、あいつはどうしてるんだろう?」と思ったからだ。武田とは小学校の頃からの友達だった。
彼がトヨタカローラの営業マンになってから一年が経とうとしている。彼が専門学校生だったときは頻繁に車で一緒に遠出をしたりしていたのだが、就職してからは一度も会っていなかった。もう長いこと会っていないように感じられる。
電話をすると、「直接お店においでよ〜」と気軽な声が返ってきた。
東京から第三京浜、横浜新道、そして国道1号線を通り抜けて僕は彼の働く「お店」へと車を走らせた。
営業店に到着すると、僕は車を路駐して、ぴかぴかの新車が飾ってある店内の様子をショウウインドウ越しに窺った。おずおずと店内に入っていくと、かつて顎《あご》まで伸びた茶色の前髪を後ろに束ねていた武田が、さっぱりとした髪型となって、ワイシャツにネクタイ姿で働いていた。
僕は少し不安だった。就職したことで人が変わってしまったんじゃないかと思ったのだ。
「最近どう?」と話しかけようとすると、彼が言った。
「ちょっと待っててね、お客さんいるからさ。そこに座ってて」
そう言われて僕はこぎれいなイスに腰掛けたが、別に新車を買うわけでも修理を頼むわけでもない。そもそも、トヨタカローラ自体には何の用事もないので、周りの社員たちの視線が「なんだあいつは」と自分に注がれているような気がした。僕はなるべく自然体を心がけ、その辺にあるパンフレットを見ながら思慮深げな態度を演じた。
目を上げると、カウンターのようになっているブロックで、熱心にお客さんに向かって何かを説明している彼の姿があった。彼が「ええ、それでですね」と物腰低く言うのを聞いていると、一瞬、複雑な気分になった。
「ごめんね、待たせて」
接客が一段落してから、彼がそう言って僕に近づいてきた。
僕が「最近どう?」ともう一度言おうとすると、「ちょっと外に出ようよ」と促された。僕らは他の社員を気にしながら自動ドアをくぐりぬけた。外は晴れ渡っていた。
「で、最近どう?」
店の外で、新車のトヨタ車を横目にようやくその科白を言うと、彼は店内にいたときの社会人から一転して、僕のよく知っている友人へと変わった。
「もう仕事辞めてぇ。正直、殴りたいやつばっかだよ」
しかめ面をしながら彼は言った。
そのとき、店内で僕が感じていた彼との距離は、ピシンという音を立てて、引っ張っていたゴムから手を離したかのように一瞬にして縮まった。
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就職してから一年になろうとする三月の昼下がり、武田は神社の脇に車を止めるとシートを倒し、就職情報誌「B‐ing」を広げた。
〈この仕事をこの先二十年、三十年と続けていくことが、はたして俺にできるのだろうか〉
彼はそう思うと同時に「無理だろう」と結論づけざるを得なかった。
「この仕事」を続けるためには、どんなにうまくいかなくても動じないくらい、ひたすら前向きな人間になることが求められているように思えた。そうでなければ、極度に鈍感で何も感じないことが要求されるに違いないと感じる。
広げられた「B‐ing」の中で、彼が気になったのは不動産関係の仕事だった。初任給が二十六万円からの会社が多かったからだ。仕事を辞めるにしても、切実な問題として、十分な資金が彼にはなかった。
現在貰っている給料は二十二万円。そこから税金が引かれ、車の保険代が引かれ、生命保険が引かれると、手元に入ってくるのは月に十五万円弱。そして、車のローンが三万円、携帯電話の使用料が二万円、実家に支払う家賃が三万円、駐車場代で一万円、オーディオのローンが一万円、そして、月々のカード返済のことを考えると、残るのは二、三万。なにより、新車で買ったマークIIワゴンのローンを払い終わるのに、あと六年もの歳月が必要だった。
〈この会社に入ったことがそもそもの間違いだった〉
彼は「この仕事」に向いていなかったのかもしれない。
「会社辞めてぇ」
もうすでに何度もこの科白を心の中で呟《つぶや》いていた。
一九九七年に高校を卒業後、情報処理系の専門学校に入学した武田は、当時システムエンジニアになる将来をぼんやりと思い描いていた。しかし、DOSやVB、C言語などを一通り勉強するうちに、どうやら自分にはコンピュータ関係の仕事は無理だな、と思うようになる。それがたとえ一時間程度であっても、授業でパソコンの前に座っているということが耐えられなかった。じっとモニタを眺め続けていると、体がうずうずしてくるし、気が散ってたまらない。
〈システムエンジニアになったら、それこそ四六時中パソコンをいじくってなくちゃならないよな〉
そう思うと、とてもじゃないがシステムエンジニアになんてなれる気がしなかった。一箇所にじっとしてなくてもよい仕事とは何か。そこで思いついたのが、「営業」という仕事だった。
就職をすることは嫌ではなかった。フリーターをやるには将来に不安を感じた。フリーター生活に慣れて五十歳になってもそのままだったとしたら、それは怖いな、とも思う。「世間の雰囲気として、学校出てプーじゃさすがにまずいだろ」という意識もあった。
〈学校を卒業して、だらだらとバイトをするのもかったるい。どうせならちゃんと給料も休日も決まっているところに行こう〉
もともと、彼には就職することに重大な決心があるわけでも、この仕事がしたいという強い志があるわけでもなかった。ただ、誰かに言われたわけでもなく、肌で感じる世の中の流れが彼を就職へと向かわせただけだった。就職しなければならない、という漠然とした思いだけが胸の裡《うち》にあった。
まず、彼は就職活動を「日産」の関連会社の面接を受けることから始めた。緊張はしなかった。しかし、面接会場が近づくにつれ、「帰りてーなー」と思うようになった。目の前に迫った面接そのものがだんだん嫌になってきたのだ。
そんな気分のまま、訪問した日産プリンス東京のビルを見ると、パッとしない印象を受けた。ショウルームの二階を案内してくれた社員は真面目に会社説明をしていたが、なぜか彼には「なんとなく」面白味に欠ける会社のように思えた。説明の最後にアンケートが配られ、その中に「この会社の入社式に出たいですか?」という質問項目があったが、彼は迷うことなく「いいえ」の欄にマルをつけた。
次に見つけたのが「トヨタカローラ横浜」だった。
学校の就職活動課に行くと、募集情報が出ていた。「初任給二十一万円」とある。「給料も悪くなさそうだ」と彼は思った。
トヨタカローラの面接は、日産の事務的な対応とは打って変わり、とても打ち解けた雰囲気のなか、友達感覚のノリで進んでいった。日産では「真面目」でしかなかった人事の社員が、トヨタカローラでは面白い中年のおじさんだったのだ。
「それじゃあさ、来週テストやろっか?」
一対一の面接が三回ほど行われると、人事担当者が言った。
中学生レベルの算数、国語、英語のテストを受けると、後日、自宅に「おめでとうございます」という通知が届いた。彼の就職活動は、こうして驚くほどあっけなく終わった。「外回りができるような仕事がいいな」となんとなく思い、たまたまトヨタカローラを見つけ、運良く受かった。まさに、水が流れるかの如く就職先が決定したように感じた。就職することにも、トヨタカローラの営業マンになることにも、何の葛藤もなかった。
車のシートで「B‐ing」を読み終えると、彼は居眠りをして時間を潰《つぶ》した。そして、頃合いを見計らって、勤め先の「トヨタカローラ」の営業所に車を走らせた。
「ホット見つかった?」
営業所に戻ると、上司がお決まりの科白を口にした。
彼はその言葉を聞くと、いつもとても嫌な気分になる。「ホット」とは、すなわち「車を買いそうな人」のことだった。
本来、営業マンとして、彼は日中の外回りで片っ端から知らない人の家のインターホンを押し、「車を買いませんか?」と営業をしなければならなかった。にもかかわらず、三月に入ってから一度たりともインターホンを押していなかった。しかし、営業所に戻れば、その日の成果を報告しなければならない。仕方がないので、適当にその「報告」を、つまり何軒の家を訪問したかをでっち上げると、上司が必ず言うのが「ホット見つかった?」という科白だった。
昼間、何もしていないのだから、ホットが見つかることなどあるわけがない。全て自分のせいだということはわかっていた。自分のせいで嫌な気分になっているのだ。しかし、だからといって改善しようという気持も湧いてこない。
〈面接のとき葛藤しておくべきだった。そのお陰で、いま、もの凄く葛藤するはめになっている。この仕事で本当にいいのか、もっとよく考えて仕事を探しておけば……〉
「あら、よかったじゃない」
就職が決まると、母親は言った。
初出勤の日、スーツを着て、ネクタイを締めると、なんだか堅苦しいような気分になった。以前、ネクタイを締めると発作を起こしたみたいに息が苦しくなる人の話を聞いたことがあったが、その人の気持がわかる気がした。初めて経験する世界に踏み込んでいくことへの緊張もあって、会社に着くと彼は借りてきたネコのようにおとなしくしていた。
最初、新人は他の営業所で研修を受けることになっていた。行ってみると営業所の整備工場の一角にあるプレハブの建物が研修所として使われていた。注文書の書き方や見積もりの出し方など、業務のイロハをそこで教わるのだが、一日中座っていなければならないことが彼には辛かった。
〈早く外回りがしたいな〉
そうもどかしく感じながら、退屈な研修を我慢した。
だから、研修が終わり、外回りに出られるようになると、彼は嬉々として知らない人の家のインターホンを押した。新人にはノルマもなく、何のプレッシャーもなかったのも仕事を楽しいと感じた理由だった。
しかし、彼が車を初めて売ることができたのは、外回りの最中ではない。トヨタの顧客のデータベースから、近いうちに車検が切れる客のリストを作り、そのリストに載っている番号にひたすら電話をかける「テレコール」という作業によって、新車を購入する客を見つけたのだ。
「ちょうど買い換えようと思ってたところなんだ」
電話口でそう言われ、早速その客の家を訪問した。
持参したカタログを一つ一つ見せながら説明して、「買います」と言われたとき、彼は「やった!」と心の中で叫んだ。車が売れたことを素直に喜んだ。
また、営業所に来店した客の家に、営業マンはその日のうちにお礼の挨拶をすることになっていて、ときおり、その客の家に招待される機会があった。それも嬉しかった。初めて招待されたときのことを、彼ははっきりと覚えている。
「うん、考えておくよ」
その日、そう言って営業店から帰っていった中年男性の家に行くと、そこはオートロックのマンションだった。固く閉ざされた入口を見ながら、彼は「インターホン越しに話して終わりだな」と思った。しかし、インターホンを押すと、予想に反して、「おお、来たねえ、上がってよ」と明るい調子で呼びかける客の声が聞こえてきた。家に上がると、五、六歳の子供がいた。
「それで、どうでしょうか?」
「えっとねえ、ホンダのほうにも気に入ってるのがあるから、まだ決められないんだよね……」
十分か二十分ほどの時間であったが、そんな話をしている間、お茶やケーキを出されながら、「ああ、初めて客の家に上がった、もてなされてるなあ」と嬉しくてたまらなかった。
その頃は仕事が面白かった。何をしていても新鮮で、新しいことをしているという張り合いがあった。
外回りでホットが見つからなかった場合、夕方六時半から八時過ぎまでの間、営業所で前述の「テレコール」が課せられることになる。実際、外回りの最中に昼寝をしていたのだから、今日もその仕事が彼の義務となった。彼はそれが嫌でたまらなかった。食事時の家庭に突然電話をするのは苦痛だった。
また、彼にはどうしても慣れることのできないものが一つあった。それは、ホットを探す前に行う「査定」の仕事だった。車の状態や価値があらかじめわかっていれば、新車の見積もりをより具体的な数字で提示することが可能なので、これは営業マンにとって必須の仕事なのである。
しかし、いきなり家に来た男に「車の調子はどうですか? ちょっと査定させてください」と言われたところで、「うん」と答えてくれる人などそうそういるわけがないので、営業マンはインターホンを押した家の車のナンバーを控え、車検が近くなった頃に盗み見に行くことになる。ある日突然、断りもなく車の外装をぐるっと調べ、運転席を窓越しに窺い走行距離を見る。そして、営業所に戻りナンバーをコンピュータに入力して査定をし、新車を購入すると仮定したときの見積もりを郵便ポストに入れ、後日「この前お宅のお車を拝見させて頂いたのですが」と訪問する。この一連の作業をほかの人たちは平気でやっていたが、彼にはどうしてもできなかった。
〈人の家の玄関先で車のまわりをウロウロしたあげく、勝手に中まで覗くなんてまるっきり不審者じゃないか〉
しかし、それを平気でできることがサラリーマンとして必要なのだった。
「車なんか売れねーよ」
そう思い始めたのは、夏から秋に差しかかる頃のことだった。
外回りという仕事は、結局のところ、本人の意志の強さが全てである。外に行ったら自分一人で働くか、働かないかを決めることになる。何をしようと勝手だし、仕事を強制するものは何もない。まさに放し飼いの状態なのだ。そんな状況の中、彼は次第に仕事そのものにやる気を失っていった。
それまではただ教えられるだけで、何の目標もなかった仕事に、個人目標と称するノルマが課せられるようになったのもその原因の一つだった。決して「ノルマ」という言葉は使われなかったが、「これくらいは売れ!」という無言の圧力がそこにはあった。
そんななか、仕事そのものに慣れ、新鮮さが失われると、後に残ったのは辛さだけだった。成績は、七月に一台を売り、父親が「家の車もボロくなったから……」と買ってくれた以外、後は一台も売れていなかった。
いくら外回りをしたところで、よい返事は得られなかった。誰かの家のインターホンを押すと、玄関の横についている小窓から顔を出しただけで、無言のままビシャッとすごい勢いで窓を閉められるようなこともあった。八月、九月、十月、十一月、カレンダーは次々にめくられていく。
そんな最中、「ということは」と彼は思った。
〈いま、俺は朝八時から夜十時半頃まで会社に拘束されている。計算すると一日に十四時間は働いていることになる。一日十四時間ってことは、一日の半分以上だ。となると、これから二十年間働いたとすると、十年以上の時間を会社に捧げることになるのか〉
この頃、彼は初めて「B‐ing」を買った。社員用駐車場に車を駐めるので、他の社員に見つからないようにと車のシートの下に隠した。
職場の人間関係も辛かった。
最初、いい人ばかりだな、と思えた会社の人間たちは、結局のところ表面的な部分を自分が勝手に解釈していただけだった。今では全員を殴りたい気持さえある。
そして、とくに彼を狼狽させたのが、社員たちの「まわりくどさ」だった。
たとえば、翌日に納車予定の車は、前日に洗車、ワックスがけなどの準備が行われる。本来、それは担当者が一人ですることになっているのだが、実際はその場に居合わせた社員全員が手伝うことになる。しかし、ある日、彼は納車準備が行われていることに気がつかなかった。外で洗車などを総出でやっているなか、彼は営業所内で自分の作業をしていた。
納車準備が終わった頃、何も知らずに外にふらっと出て行くと、先輩の一人が彼の顔を見て言った。
「ああ、大変だった」
「疲れたよなぁ」
「室内《なか》はどう? くつろいだ?」
そこにはありったけの皮肉が込められているように感じられた。
手伝うべきだったのならそう言えばいい。どうして、奥歯にモノがはさまったような言い方をするのか。
この頃、新人の教育係が「ホット見つかった?」と聞いてくると、彼は毎日のように「見つかりませんでした」と答えていた。すると、次第に態度が冷たくなってくる。
確かに、車が売れなければ周りの態度が冷たくなるのは当たり前のことだった。セールスとはそういう仕事なのだ。しかし、彼にもこの仕事に対する姿勢として、理想となるものがあった。「毎週一台は確実に注文書をとってくる有能な営業マンになる」そんな思いがあった。その理想通りになるのは無理だと感じていたが、多少でもそれに近づこうとするからこそ働ける。そして売れさえすれば、現状は改善されるはずなのだ。とはいえ、この四ヶ月間、一台も車は売れていなかった。さすがにくさるのも仕方がなかった。
そんななか、十二月になって、ようやく彼のもとに客があらわれた。待望の「ホット」である。しかし、ようやく捕まえたこの客は、執拗に値引きを要求してきた。彼の一存では大幅な値引きに応じることは不可能だったので営業所長に相談すると、マネージャーが一緒に交渉をすることとなった。
「では、このくらいでいかがでしょうか?」
マネージャーが客に提示した金額は、彼の目から見ても驚くほど安く思えた。本来なら二百二十五万円ほどの商品を、百八十五万円ほどで提示していたのである。
〈おいおい大丈夫かよ。利益あんのかよ〉
彼のそんな心配をよそに、トントン拍子で話は進み、車は売れた。とにかく久しぶりに車が売れたことは確かだったが、何か腑《ふ》に落ちないものが残った。
一月の利益報告で、ふとその客の項目を見ると、そこには「マイナス八万円」とあった。つまるところ、そのとき営業所的には利益よりも台数が欲しかったのだ。
営業所では月々の販売台数の帳尻を合わせるために、赤字覚悟で破格の値段をつけることがある。そして、最終的にそのデータを本社に送るとき、マイナス利益で車を売った社員に、より多く利益をとってきた社員のプラス分を補填し、全員に利益が出ているようにするのである。
しかし一度、彼が所長に言われた通りにマイナスの注文書をとってくると、先輩が言った。
「何だよこれ。マイナスじゃんよ。こんなん誰だって書けんだよ」
じゃあ、どうすりゃいいんだよ! そのとき、彼は本気で嫌になった。
ある日、駅前を歩いていると、疲れ果てた顔が目に飛びこんできた。くたびれた背広を着ているその男は、鏡に映った彼自身の姿だった。
〈ああ、老けたなぁ。なんか俺、ヨレヨレしてるよ〉
思えば、高校の頃と比べて、いまは時間が恐ろしく早く進んでいた。あの時は「早く働きたい」と思っていたんだった、と彼はほんの数ヶ月前を振り返った。
〈学校がなくなれば、いまよりもずっと多くの時間働くことができる。学校の授業で無駄なことを聞いているより、その分朝からいっぱい働いて、いっぱい稼いで、いい暮らしをして……〉
しかし、朝から晩まで実際に働いていると、そんなことを考えていたことが馬鹿らしくなる。
そして夜には「もう寝とかなきゃ、明日がきつい」と考えながら、彼は全てを放り出して学生に戻りたくなるのだった。明日のことを考えずに遊んでいた頃が懐かしかった。学校の近くの友達の家に泊まった次の日、通学路の途中にあるパチンコ屋で三時くらいまで打ち、また友達の家に帰る。「明日は学校に行こう」と決心しながらも、また同じことを繰り返す。そんな生活を猛烈にしたくなってきた。
そんな心境のなかで、彼は「B‐ing」を買い始めた。就職雑誌で新しい仕事を見つけたところで、結局は似たり寄ったりであることは何となくわかっていたが、それでも、いまよりはマシな気がしたのだ。インターホンを押すのが嫌でたまらなかった。人の家の玄関が憎かった。それというのも、この会社に入ったことが原因なのだ。
車のシートに隠していたはずの「B‐ing」も、いまでは社員駐車場に車を駐めているときでさえ、助手席に放り出したままになっていた。
「おまえ辞めるの?」
それを見た同僚がそう聞いてくることもある。
「いや、まだそうは決めていないんですけど……」
そのたびに彼は言葉を濁していたが、最近になって、所長にはっきりと言った。
「辞めようかと思っているんですけど」
すると、所長は言った。
「えっ? トヨタの看板捨てるの?」
驚いたフリをしているかのように所長はそう返してきたのだった。
営業所の雰囲気は、まさにそのやりとりに集約されていた。
〈なんじゃそりゃ? 別に看板のために働いてるんじゃない!〉
彼は思った。
しかし、実際のところ、会社を辞めるという選択をすることは難しかった。もし辞めれば、入社時に買った新車のローンを払えなくなってしまう。
新人は車を買うと、社内で金利の低いローンを組むことになっていたのだが、もし会社を辞めたとすると、その金利分の一括清算、もしくは全代金一括清算、それができなければ一般金利に戻し、差額を百万円近く払うことになる。もともと、辞めることを前提に入社するわけはないので、給料がそれなりに高く、かつ続きそうな再就職先を見つけるまで、おいそれと辞めるわけにはいかない。彼はいくつかの金融機関の自動車ローンを手当たり次第に当たってみたが、一括清算に必要な三百万円を貸してくれそうなところはまだ見つかっていなかった。
意図してのことかはわからないが、それがディーラーの手法なのではないかと彼は疑った。新入社員は、少なくとも本人が新車を一台買い、親戚も義理で一台くらい買うことが多い。最初は新入社員もがんばるから、たとえすぐに辞めたとしても、最低四台くらいは車が売れる。それなら、新入社員も客のようなものだ。そう思えば、就職活動のとき、面接官の愛想が異様によかったのにも、去るものは追わずの会社の雰囲気にも、肯《うなず》けるものがあるではないか。
〈いま、俺は金のことを切実に考えている〉
そう思うと、自分が恐ろしいほど葛藤していることに気がつかされた。
学生の頃は金なんてなくても楽しかった。それがいまでは金がなくては生活がままならない。車を持ってしまった。駐車場代、カードの支払いが毎月やってくる。いつの間にか金に縛られている自分がいる。そして、何より恐ろしいのが、ローンに縛られているうちに二十代を終え、三十歳になってしまうことだった。このまま営業マンを続けていくことに自信はなかった。
〈このまま辞めなければ、自分が否定的に見ている会社の三十歳過ぎの社員たちと同じようになるのかもしれない……〉
そのとき、自分は車が売れない社員に対して冷たい態度をとったり、嫌味を言ったりしているのだろうか。そう考えるとぞっとした。とにかく変わりたくないと思った。
〈いまならまだ間に合う、いまならまだ間に合う〉
彼は毎日「辞めよう、辞めよう」と呟きながら会社に出勤していた。
仕事が面白くないのも、周りの社員たちが嫌な人間に見えるのも、彼が会社を辞めるきっかけを探していたからなのかもしれない。鏡に映る自分の姿がくたびれて見えるのも、きっとそのせいなのだ。
何より、セールスという仕事にも、必ずや面白さや奥の深さがあるはずだった。この仕事に向いている者が続けていけば、暗いトンネルを抜け出たように仕事に生き甲斐を感じるときがきっとくるのだろう。光が溢れる出口に到達した者だけが、辞めずに会社に残っていくという一面もあるのだ。
しかし、そこがトンネルの中だと気づく余裕などないほど、彼は仕事に嫌気がさしていた。もはや会社を辞めることは不可避に感じられた。
いまでは、車が売れても嬉しくもなんともなかった。客の家に招待されるのも嫌だった。「ああ、納車まで辞められねえ」「やべぇ、また話が長くなんよ」と思ってしまう。
「宝くじでも当たらねえかな」と妄想している自分がいる。
〈一生働いたって三億なんて稼げない。それが一発で入ってきたら、あれやってこれやって、仕事はクビにならない程度に頑張って、保険とかは全部それでまかなって、楽に暮らして……〉
もうすぐ、入社して一年が経とうとしている。その間、彼が好意をもっていた先輩の営業マンが、営業成績の不振ゆえ辞めていった。外回りに行っても昼寝は当たり前というような人だった。
「息子が高校生で、今度大学受験なんだよね」
その先輩がそう言っていたのを思い出した。
五月に結婚するという同僚がいる。家庭を背負っている人は、成績が芳しくないときなど、本当に自殺しかねないような表情をしている。
「結婚なんかして大丈夫かよ……」
彼の代に入社した新入社員は二十四人。この一年で、もうすでに八人が辞めてしまったらしい。三つ前の代に至っては、もう二人ほどしか残っていないという話だ。
それだけの人間が辞めていく仕事である。そう思えば、新人係や他の社員たちにも「辞めよう、辞めよう」と毎日のように呟き、そして、周りにいる同僚たちにただひたすらムカついていた頃があったのかもしれない。しかし、車のローンや月々のカード返済以上に辞められない理由が次々と現れてきただろうし、それが自分にとって正しいことなのかはわからなくとも、諦め、妥協したこともあったのだろう。
しかし、彼には「辞める」という最も大きな自由が、まだリアリティを保ったまま残っていた。
辞めちまえばいい、ただそれだけのことだ。
〈いまならまだ間に合う、いまならまだ間に合う〉
彼は今日も真っ白なマークIIワゴンに乗って会社へと向かう。自分が九人目となる予感を抱きながら。
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第三章 すべてを音楽に捧げて……エリート・コースからミュージシャンへ
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大久保駅からほど近いクラブ風のライブハウスでは、その日も七バンドほどが出演する予定となっていた。そのトリを務めるのが、成田健二(仮名)がドラムを担当するヘヴィメタルバンドだ。ヘヴィメタルはあまり流行の音楽ではないかもしれないが、彼はそれにずっとこだわり続けている。彼は僕の大学の後輩だ。
七時半過ぎに地下のライブハウスへの階段を降りると、BARスペースで数人の若者が笑いながら酒を飲んでいた。
ステージへ通じる防音のドアを開ける。その瞬間、ベースの音が体に響いた。まだ彼の出番はきておらず、関西から来たというハードロックバンドが演奏をしていた。歌はあまり上手くないが、見るからに高校生と思われるギタリストがなかなかセンスのいいギターソロを弾く。観客は多からず少なからずといったところだ。
受付で五百円を払って買ったドリンク券をビールと交換してから、彼のバンドの出番を僕はしばらく待った。
一バンドの間を空けて、場内が一瞬静まり返った後、知る人ぞ知る「ANGRA」というメタルバンドの曲がBGMで流れ始めたので、「次かな」と思った。
案の定、成田が出てきた。上半身裸で肩まで伸ばした真っ黒な髪が揺れている。もう何十回とライブをしているので、緊張はしていない。ただ本番に臨む気合のせいか、いつもより顔が引き締まって見える。
べつに歓声などは起こらない。ボーカルを除いた四人のメンバーが黙々と準備をしているだけだ。
そのとき、ホールにドラムの爆音が鳴り響いた。一瞬、誰しもが「始まったのかな?」と思ったことだろう。しかし、それがセッティングをするときの彼の癖だった。本番さながらにドラムフィルをドコドコと回すので、僕はいつも「始まる前にそんなに一生懸命叩いて肝心のときに疲れないのかなあ」と思うのだが、そのことを彼に尋ねると「俺はドラムが上手い。音も他の奴よりずっとでかい。だから、少し疲れてるくらいでちょうどいいんだ!」と言われそうなので、あえて聞かない。でも、たしかにそれくらい彼のドラムの音は大きい。マイクをほとんど通さなくてもいいかもしれない。
成田がドラムを始めたきっかけを、ここにいる二、三十人の観客のうち、どれだけの人が知っているのだろうか。きっと誰も知らないと思う。そして、彼がバンドにどれほど自分の生活をかけているのかも。
二十一歳の彼は大学三年生だ。普通ならもうすぐ就職活動を始める時期だが、彼にそのつもりはない。
「最近はすごい充実してる。毎日働いて学校行って曲作って……。ずっと音楽のことばかり考えてるね。今すぐデビューできなくたって別にいいんだ。ただ、食えなくても、ずっと同じ音楽をやっていたい。四十歳になって花開く、みたいなのでも全然構わない」
ある日、彼は僕にこんなことを熱く語った。
周りにいる人たちが思わず振り返るくらい彼は大きな声で喋る。
「続けていればチャンスはきっと来るよ」
僕はずっと小さい声で彼に言った。
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一九九二年二月一日、麻布中学の校庭にはうっすらと雪が降り積もっていた。
日比谷線広尾駅から麻布中学へ行くのに、子供の足では十五分はかかる。多くの受験生が母親と一緒に試験会場に向かって歩いていた。雪のせいで道は汚れ、歩くとグチャグチャと音がする。雪で電車が少し遅れたので、試験開始時間が予定より延びていた。
「こいつらは全員バカだ。この教室で俺の頭が一番いいはずだ」
緊張の面持ちで試験開始を待っている同い年の小学校六年生たちを見回してから、健二はまっさきにそう思った。それは五歳から習っているバイオリンの発表会で、客たちをジャガイモだと思って緊張を和《やわ》らげるのと同じ方法だった。ある程度の緊張はしていたが、会場で同じ塾に通う友達を見つけると途端に和《なご》み、休み時間に雪合戦をするほどの余裕をもっていた。試験会場で遊んでいるのを見て、周りの受験生が訝しげな目を自分たちに向けていた。
試験は難しいとも簡単とも感じなかった。一生懸命に問題を解いた、という手ごたえがあるだけだった。
健二は神奈川県の公立小学校に通っていた。
とくに勉強をしなくても、もともと、他の生徒と比べて圧倒的に成績はよかった。またクラスで一番早く走れたし、絵も上手い。音楽の授業では小学校に入る前から習っているピアノを華麗に弾いた。練習曲を奏でると、他の生徒たちが「すごい、成田君!!」とそのたびに褒め称える。彼自身はゲーム機をもっていなかったが、ドラゴンクエストの曲などを弾いてあげたときなど、「おお!! すげー!!」とクラスメートたちは目を輝かせた。
健二にとって、小学校は天国のようだった。児童会長を当然のように務め、自分のことを「帝王みたいだ」と思っていた。
唯一、嫌だったことは日々のバイオリンとピアノの練習だった。毎朝、登校前に三十分ずつ、週一回のレッスンに向けて課題を練習しなければならなかったのだ。母親に起こされて、眠い目をこすりながらのレッスンは苦痛だった。「どうして、こんなことができないの!!」と尻を叩かれながら、これさえなければ俺は世界一幸せなのに、と健二は思っていた。正月とお盆に祖母の家へ行くとき以外、練習は毎日行われた。
そんな彼が私立の中高一貫の進学校を目指すことになったのは当然の成り行きだったのかもしれない。そして、具体的に受験をイメージするようになったのは、兄が私立中学に通っていたことがきっかけだった。
「健二、公立中学に行くと高校受験しなくちゃいけないんだって。そして自分では受ける高校を決められないの」
母親が公立中学についてよくこんなことを言った。
兄が私立中学に通っているため、母親は公立中学の事情を深くは知らなかった。しかし、自らが経営する音楽教室には多くの公立中学生たちが通ってきていたので、彼らの親たちとの会話の中で情報を手に入れ、私立との比較をしているのだった。
当時、神奈川県の公立高校では、ア・テスト、内申点、入試得点を総合的に評価して合否が決定されていた。神奈川方式と呼ばれる評価方法だ。
「つまりね、学校の勉強だけじゃなくて、クラブ活動とか、委員会とか、先生から見た生徒の評価が点数になって、受けられる高校が左右されてしまうのよ」
健二が小学校四年生になる頃、母親は公立についての話を聞くたびに、随時彼に報告してきた。その口調はどうしても私立のほうをよく評価しているように聞こえた。
何度となく話を聞いているうちに、健二は自分も私立に行きたいと思うようになった。そして、母親に「あなたは別に私立に行かなくたって上手くやっていけそうね」と言われたとき、彼は意地でも私立に行ってやろうと決意した。「お前じゃ私立は受からないよ」と言われた気がしたのだ。児童会長で、成績もよく、自分には不可能なことなどないと思っていた彼のプライドは、その種の否定を決して許さなかった。
ひょっとすると、そんな心の動きを母親は手にとるように理解していたのかもしれない、と後に彼は思うようになる。私立のいいところを話しつづけ、最後に「あなたには無理ね」と言ったならプライドの高い健二はきっと私立進学校を目指すだろう、と母親なら予測ができるかもしれない。しかし、小学生の健二がそんな疑念を抱くはずもなかった。
さっそく兄が通っていた大手学習塾「日能研」に彼は通うことになった。入学選抜テストを受けると、一番レベルの高いクラスに入った。
健二はそこで大きなショックを受ける。成績順に指定された席を見ると、十列ほどある席の七列目が彼の座る場所だったのだ。配列された机を見れば、自分が誰に負けているのかが一目瞭然だった。その中に、同じ小学校であまり目立たない生徒の姿を見つけたときなど、健二は悔しくてしょうがなかった。次のテストではもっと前の席に行こうと思った。そして有言実行、前から四番目の席につくことになり、彼のプライドは満たされた。そのとき、前にいた三人は、のちに当たり前のように東大に合格していった。
バイオリンとピアノの練習は続けていたので、日能研に通うようになってからは、さらに早く起きなくてはならなくなった。
健二は朝の楽器の練習の前に計算ドリルを解き、朝日新聞の天声人語を要約した。文章を母親に見せると、「ここは書き直しなさい」「ここはおかしい」と言われた。朝であろうが夕方であろうが、勉強をしているときは必ず母親がサボらないようにと隣に座っていた。そこで、健二は一日の課題をコツコツと片付けていくのだが、ときおり母親が買い物などでいないときは、すぐさま鉛筆を放り出してテレビや漫画に向かった。
実際、受験勉強は苦痛で、健二はよく塾をサボった。「日曜特訓講座」と銘打たれた進学校受験者を対象とした授業を受けるため電車に乗って他の校舎に行ったときは、テストだけを受けると塾を抜け出して近くのゲームセンターで遊んだ。夏期講座のときは、夏休み中ということもあって授業に出ないこともよくあった。
その間、健二は本屋でよく立ち読みをしていた。授業が終わるまでの二時間から三時間、ずっと漫画などを読む。あまりにも授業に出ないでいると、あとあと大変なことになるのではないか、という不安は感じていた。しかし、まあ一回くらいは、別に二回くらいは、と思っているうちに、次第にサボる回数が増えていった。するとクラスは落ちないまでも、テストの成績が下がる。
「そろそろテストが返ってきたでしょう」
そう聞いてくる母親に、
「あれ、本部の機械が故障しちゃったみたいで、まだ返ってこないんだよね」
と言い訳することもあった。しばらくはそうしてごまかしていたが、いずれ嘘がばれると母親は一週間ほど口をきいてくれなかった。
そんな調子で一進一退を繰り返しながら、やがて受験日がやってきた。健二は麻布、鎌倉の栄光学園、横浜の浅野中学の順番で試験をこなしていった。
合格発表は父親だけが見に行った。
小学校の授業があったということもあるが、このとき健二が発表を見に行かなかった一番の理由は、二月一、二、三日の試験が終了した途端に気が抜けてしまっていたからだった。六年生の五月、麻布に文化祭を見に行ったときには、合格したい、この学校に通いたいと確かに思っていた。しかし、受験勉強をしているうちに、合格よりも、受験自体がゴールとなってしまっていた。
受験直前に慶応大学の校舎を借り切って行われた模試の後、激励会のような集まりが開催された。健二は「麻布受験組」に分けられ、受験に向けての心構えを講師が発する。
「麻布の答案はこう書くんだ!!」
「あそこは文章を上手くまとめることができれば必ず受かる!!」
それに対して、生徒たちが「うおー!!」と歓声を上げた。
いつの間にか、受験そのものが一大決戦なのだ、と思うようになっていた。
なにより、もともと成績のよかった健二にとって、毎朝の勉強や学校が終わってからの塾は、大きな苦痛でしかなかった。一大決戦が終わり、そんな勉強ももうしなくてもよいのだと思うと、途端に解放感が胸に広がった。
父親からの電話は母親が取った。その日から、母親は緊張の糸がぷっつりと切れてしまったかのように、三日間ほど寝込んでしまった。
結果は合格だった。
麻布中学の入学式には、頭を坊ちゃん刈りにしたいかにもな面持ちの新入生たちが、標準服と呼ばれている学ランを着ているのに混じって、健二は一人だけジーパンにバンダナ姿で参加した。隣にいた真面目そうな生徒に「部活何にすんの?」といきなり話しかけると、相手は怯えたような顔をした。
小学校で常に人気者だった彼は、中学でも目立ちたかった。
授業中に先生が何かを言うと、とりあえず合いの手を入れてみるような子供がいるが、まさしく健二がそうだった。
そして、何よりも彼にぴったりきたのが、麻布の教育方針だった。制服もなく、学校が生徒を拘束することなどほとんどなかった。唯一、教師が禁止したのは麻雀だけで、それ以外は自由だった。
健二が見た麻布の授業は、騒ぐ生徒たちを野放しにしたまま行われていた。中学一年の最初のうちはある程度静かにしているのだが、やがて学校に慣れてくると、授業態度は凄まじく悪化する。二年生の教室ともなるともはや手のつけられないほどの荒れ具合だった。授業中であっても、生徒たちはいたって普通の声量で私語を繰り広げ、隙を見て教室を出て行く者もいる。漫画を読んでいる者、寝ている者もいた。教室の雰囲気は喫茶店を連想させた。そんななか、前のほうの席に座っている何人かが授業を真面目に聞いていて、教師も聞いている生徒に向かってのみ授業を行っていた。
「この文章がここに繋がって……」
と教師が言っているなか、後ろのほうでは皆が談笑している。
その騒がしさは、父親が学校を訪れたとき、「これはどこの教室が授業やってるんだ?」と健二に尋ねたほどだ。昼休みよりも授業中のほうがうるさいのが麻布という学校だった。昼休みは皆がコンビニやゲームセンターに行ってしまうので、教室には人がいないのだ。
ただ一つだけ「ちゃんと授業を聞いている生徒の邪魔はしない」という暗黙のルールさえ守っていれば、あとは好きにしていて問題はなかった。健二が見る限り、教師たちも半ば諦めているようだった。ときおり諦めきれない若手教師が、教卓に名簿を叩きつけて「うるさい! 静かにしろ!」と声を荒らげることはあったが、一分ほどの沈黙の後には、生徒たちはまた喋りはじめる。そして、ときには教室の後ろのほうで、「うるさい! 静かにしろお!」という教師の物真似をする生徒が現れて、教室に笑い声がこだまする。きっと教師たちもそんなことを繰り返しているうちに、諦めるというパターンなのだろう。
中学に入るのと同時に、健二は自宅の二階に一人部屋を与えられた。彼にとってはじめての個室だった。
それまでは、どこにいても親の目が光っていたのに、自分の部屋では完全な自由があった。それからというもの、健二は自分の部屋にいるあいだ、さぞかし勉強をしているだろう、と一階で思っているはずの母親を尻目に、いつまでも漫画を読むようになった。そして、机の上に教科書やノート、プリントの束などを広げ、母親がタンタンと階段を上がってくる足音を察知すると、すぐさま漫画を教科書の下に隠した。
中学受験のとき、彼が勉強を続けることができたのは、母親が近くで見張っていたからだった。健二にとって、それはただの拘束でしかなかった。母親の目から解き放たれた彼の頭の中から「勉強」という文字は消えた。
しかし、たとえ勉強をしなくなっても、麻布生であるという事実だけで、健二のなかには「俺は自他ともに認めるエリートなんだ」という意識が生まれた。いままでも自分は優秀だったし、これからも優秀なのだ。そんな自信を持つようになっていった。小学生のときから、少なからず人を見下しているような感もあって、「自分は周りのやつらとは違うんだ。選ばれた人間なのだ」と心の底で思っていたのだが、麻布に入ったことによってその気持がさらに強まった。しかし、そんな思い込みは次第に「麻布生なのだから、ある程度人の上に立つ人間にならなければならない」という強迫観念へと変わっていく。
「このままでどうするつもりなんだ? 真面目に自分の将来を考えてみろ。お前は将来何になりたいんだ?」
たとえば、中学二年生のとき、あまりに勉強をしない健二を見かねた両親にこう問われたとき、彼はいとも簡単に、素っ気なく、当たり前のようにこう答えた。
「将来? 弁護士とか?」
麻布という学校に来た以上、先生と呼ばれる職業につかなければならない、と健二は感じるようになっていた。弁護士や高級官僚、そして医者以外の選択肢は彼にとってないも同然だったし、あったとしても「麻布」というプライドと、自分に大きな期待をかけている両親の前では、とてもいい加減な職業は口に出せなかった。
しかし、それは健二だけに限ったことではなく、麻布にいる生徒たちは皆同じ意味で、自らを「エリート」だと認めているようだった。そして、エリートはお互いを認めることも知っていた。麻布では巷の公立中学や高校の如きいじめは一切なかったという。周りに溶け込めない生徒もいたが、それでも溶け込めないことに誇りを持っているのだった。そうした誇り高き集団は、自らの生き方に自信をもっていて、堂々と自己主張をしていた。そして、それは健二にしても同じだった。麻布とは出る杭でなければ忘れられる場所だ、と彼は思っていた。
自由な校風に野放しの授業。それは、目立ちたい健二には格好のステージだった。極端に頭がよいプライド高き中学生の集団の中に入っても、ピアノやバイオリンを弾くことができ、スポーツもこなす健二は、やはりクラスの人気者になった。部活でラグビー部に入っても、運動神経がいいので周りからチヤホヤされる。小学生のときと同じように、学校は健二にとって天国のように感じられたし、毎日が楽しかった。彼はそれを当たり前のことのように感じた。勉強をしないので成績は悪かったが、幸福な日々が続いた。
健二が体の様子が何かおかしいことに気づいたのは、そうした楽しい毎日が彼を包み込んでいた矢先のことだった。夏休みのラグビー部の合宿から帰ってきた頃から、急に体中が痒《かゆ》くなってきたのだ。
「アトピーだ」とすぐに思った。一時期、兄もまたひどいアトピーを患っていたことがあったからだ。兄が苦しむ様子を「大変そうだな」と健二は眺めていたものだった。その頃は、まさかそれが我が身にもやがて訪れる苦しみであるとは夢にも思っていなかった。しかし、合宿から帰ってきて以来、汗をかくと、顔や体がやたらに痒くなる。
両親もその症状で健二が悩んでいることを知っていたが、兄のアトピーが思春期の一時期のみに出たものだったので、健二のそれも同様だと判断したようだった。放っておけばそのうち治るだろう、くらいの認識だった。しかし、症状はひどくなるばかりで、毎日少しずつ顔の皮膚が変化して、いつの間にか象の皮膚のようにゴワゴワになり、乾燥していく。すると皮膚が割れるように崩れ落ちる。
医者に行ってステロイド剤をもらえば、皮膚のひび割れを抑えることは可能だった。しかし、健二の頭には人に頼るという選択肢がなかった。そして、なにより健二のプライドが弱さを隠すことを選んだのだった。もともとアトピーに決定的な治療法がないことは、兄を見て知っていた。ステロイド剤を投与したところで、症状は一時的に治まるものの、あとで余計ひどく皮膚は剥《は》がれてしまう。
「これは耐えるしかないんだ」
健二はそう思おうとした。
しかし、それは苦しい日々だった。夜中、体がたまらなく痒くなったとき、健二は部屋の壁を何度も蹴った。あまりに強く蹴ったせいで、ベキッと何かが折れる音がした。驚いた母親が様子を見に来たが、健二を叱ることはなかった。
症状が悪化し続け、顔の皮膚が崩れ落ちていくに従って、明るく目立ちたがりやだった彼も日に日に元気がなくなっていった。顔つきは暗くなり、自ら話すことも少なくなる。中学に入ってからも細々と続けていたバイオリン練習も中断せざるを得なかった。
そして、健二にとって何よりも辛かったのが、学校での授業中に症状が出てしまうことだった。
そんなとき、一時間五十分の授業の間、健二はひたすら耐え続けた。体温が上がると痒みがひどくなってくる。体中を掻き毟《むし》りたい衝動を必死に抑えながら授業が終わるのを待つと、彼は体を冷ますためにすぐさま教室の外に出た。ときにはそのままトイレの中に閉じこもり、二時間も三時間も「はあ、はあ」と唸《うな》りながら痒みが収まるまで座り続けていることもあった。その間、当然授業には出ないので、テストの点数も下がるという悪循環が繰り返される。八月に発病して以来、健二は部活もできず、勉強もできず、何もできなかった。
翌年の三月を過ぎると、症状はようやく快方へと向かった。そして、二年生に進級すると、いままでのことが嘘であったかと思えるくらいに回復していった。そのうちに健二自身も少しずつ元気を取り戻していくが、一度暗くなった性格が完全にもとに戻ることはなかった。喋ることが嫌いになり、自分の外見に対するコンプレックスが強く残った。多くの友達に注目され続け、自らもそれを望んでいた彼が、人に見られることにひどい嫌悪を感じるようになったのだった。
そして、発病してからちょうど一年目の八月(中二の夏休み)、「弁護士になる」と言い放った健二を、両親がどうにかして机に向かわせようとしたときから三ヶ月後のことである。一度は回復に向かったアトピーが急激に悪化した。
およそ一週間、四十度の高熱が彼を襲い続けた。熱は一向に下がる気配がなく、朝起きると傷もないにもかかわらず、頭皮から出た膿《うみ》で枕がベトベトに湿っていた。なぜ症状が急に悪くなったのか、健二にはさっぱりわからない。体中から体液が流れ出てくるということだけが、彼にとっての真実だった。朦朧《もうろう》とする意識の中で、「俺はこのまま死ぬのか?」と自問自答を繰り返した。
ようやく病院に行くと、「一週間も放っておいたなんて」、と医者は健二をすぐに入院させた。顔に細菌がついてしまったということだった。それからの一ヶ月間、白い病室の中で点滴をうたれながら健二は耐え続けた。痒みが途絶えることはなかった。口と鼻以外の全ての皮膚に包帯が巻かれて、まるでミイラのような姿になりながら、健二は夜な夜な「死」について考えた。悲観的になってはいけないことはわかっている。悲観的になればなるほど、辛さが増すことも知っていた。しかし、自らの肉体が崩れていくなか、自分はこの苦しみを乗り越えていくことができるのだろうか? と思うと、どうしても死の影を振り払うことができなかった。そして何を思おうとも、傷口にくっついたガーゼを剥がすときの痛みは変わらないのだった。
退院すると二学期の授業が始まり、三学期が過ぎ、そして、三年生に進級していく。その間、アトピーの症状がとくにひどくなることはなかったが、健二はぼんやりとした脱力感を抱きながら日々の生活を送るようになった。一年前の春先に症状が快方に向かったとき、「やっぱり一過性のものだったんだ。兄貴のときだってそうだったからな」と、健二はそれなりに安心したものだった。しかし、取り戻しかけた元気さえも、退院後は見る影もなくなってしまった。そして、アトピーに対する激しい嫌悪とともに、だらだらとした日常だけが続いていた。
唯一の楽しみは、漫画週刊誌を読むことだった。月曜日がジャンプとスピリッツ、水曜日がマガジンにサンデー、木曜日がヤングジャンプとヤングサンデー。それらの漫画雑誌は、学校に行けば誰かしらがもってくる。健二はそれだけを楽しみに学校へ行った。それは行きたくもない学校へ向かうために、彼がすがりついた一つの動機づけでもあった。「嫌だけど学校に行くのは、漫画があるからだ」と自分に言い聞かせる必要があった。でなければとても行く気にはなれず、好きな雑誌の発売がない火曜日、金曜日、土曜日は学校に行くのが嫌で仕方がなかった。
「あいつらがバンドを組んだんだって」
健二がバスケ部の友達からそんな話を聞いたのは、ぼんやりとした生活が続いていた中三の夏休み明けのことだ。どうやら、バスケ部の一部の連中が高校一年の文化祭に向けて、ロックバンドを始めたらしい。麻布は中高一貫なので自動的に高校へ進学する。受験の心配はいらない。
「そういえばさ、成田も何か楽器やってなかったっけ?」
そう続ける友達に向かって、健二は大嘘をついた。
「俺? 俺はドラムだよ」
習っている楽器はピアノとバイオリンだった。しかし、健二がここで嘘を言ったのは、彼が「X JAPAN」のファンだったからだ。小学生のときにNHKの紅白歌合戦を見て以来、健二にとって、エックスといえばYOSHIKIであり、ドラムだった。勉強をしていないとき、健二は自宅でエックスのCDを聴きながら、よくドラムの手真似をしていた。
もともと、健二には自分がバンドをやることになるという予感があった。小学校に入る前からバイオリンとピアノが常に近くにあった。母親に尻を叩かれながらの日々の練習は嫌いだったが、やはり自分が一番好きなことは、プライドの高い健二にとって、自分が一番得意なことだった。そうこうするうちに、兄がバンドを始めた。バイオリンにキーボード、ベースという少々変則的な編成のバンドだった。ときどき、家にメンバーを集めて曲を作っている兄の姿を、健二は羨望の眼差しで見つめていた。そして、中学に上がる頃にエックスに出会うと、自分がバンドをいつかはやるだろう、と思うようになった。しかし、アトピーを発症し、いつの間にか二年半が過ぎ去っていた。
きっかけは、ドラムをやっているという嘘をついてからしばらくの、ある日にやってきた。クラスで本当にドラムを始めた生徒がいたのだ。彼は教則本を見ながらリズムパターンを教室の机で練習していた。
「このリズムができねえんだよ。そういえば成田、お前ドラムできるんだよな。ちょっとやってみてよ」
こう言うと、健二はスティックを渡された。内心びくつきながら教則本を見ると、基本のリズムパターンの応用型だった。「あれ? これ難しいなあ」などと言いながらスティックを振り回すと、どういうわけかちゃんと叩くことができた。すると、今度みんなでスタジオに入ろう、と誰かが言った。その日、健二はあわてて楽器店に行って、教則本を立ち読みすると、自宅で基本パターンを何度も練習した。
しばらくして、楽器をやっている連中だけを集めてスタジオに入ると、誰からともなくバンドを組もうという提案があった。そのときに演奏したエックスの「WEEK END」は曲として認められるような代物では全くなかった。しかし、一緒にスタジオ入りした耳の肥えた一人に、ドラムの細かい間違いを指摘されたことが、プライドの高い健二のやる気を倍増させた。
漫画を読む以外に何の趣味もなかったことも手伝い、健二はバンドに熱中した。仲のよかった友達がベース、その友達のギター、またその友達のボーカルと、泥縄式にメンバーが集まった。
目標は高校一年の文化祭。健二はドラムの練習を始めた。高価なドラムセットは買えないので、ペダルだけを購入すると、少年マガジンなどの厚い雑誌を紐でグルグル巻きにして「バスドラム」を作った。机の引き出しをスネアやシンバルなどに見立てて、健二は毎日自室で「ドラム」を叩いた。
バンドの練習は順調に続けられた。文化祭ではルナシーとエックスのコピーをしようということになり、毎週、一時間一人七百円のスタジオでコツコツとバンドとしての体裁を作り上げていった。すると、最初は聴けたものではなかった演奏も、次第にまとまるようになった。
五月の文化祭当日、麻布には大勢の人が集まっていた。麻布生はもちろん、他校の生徒や保護者、中学受験を志す小学生とその親たちの姿も見受けられた。焼きそばやクレープ、たこ焼きなどの模擬店が並び、中庭に作られたステージ上で「ミス麻布」という名物の女装大会が催されていた。教室ではOBがフィーリングカップルを企画し、アーチェリー部が一般の人にアーチェリーを撃たせるコーナーなどもあった。
健二は教壇がステージに改造された教室で、五十人ほどの観客に向かってドラムを叩いた。演奏が始まると観客や隣の教室にいた生徒、廊下を歩いていた人たちが一様に驚いた。他のバンドと比べ、健二の叩くドラムの音が格段に大きかったのだ。
なし崩しに始まったバンド活動であったが、ルナシーやエックスの曲を演奏していると、健二はいままでのストレスが抜けていくのを感じた。
「ドラム上手いよね」
曲と曲の合間のざわめきの中で、観客が自分を褒めている声が聞こえた。
人の視線を感じたのはとても久しぶりだった。健二は嬉しさのあまり、予定にないドラムフィルを曲の中に盛り込んだ。一時間でバンドは十二曲ほどを披露した。そのあいだ、健二はアトピーの苦しみを忘れ、一心不乱に演奏を続けた。
「後に出たバンドより上手かったよ」
演奏が終わった後で、一人の観客が言った。
そのとき、健二は小学生の頃に戻ったような錯覚に陥った。自信を持って生きていた、もう二度と訪れない、あの頃のことを思い出した。そんな気分になったのは本当に久しぶりだった。
そのとき、健二は一生をバンドに捧げようと思った。それは、本当の意味で彼がバンドに出会った瞬間だった。
ドラムを力いっぱい叩いているとき、健二はアトピーの苦しみから解放される。それは彼にとって救いだった。アトピーは、決して振り払うことのできない悪霊のようなものだ。症状が軽くなり、それを忘れようとしていると、必ず皮膚の痒みが無理矢理にでも現実と向き合わせようとする。彼はアトピーという文字、アトピーという言葉を見るのも聞くのも嫌だった。自分がアトピーであるという事実そのものを認めたくなかったし、特別なものを背負っていると思われたくなかった。
「お前も大変だな」
あるとき、痒みに襲われて健二が辛そうにしていると、クラスメートが言ったことがあった。そのとき、健二は言いようもない怒りを感じた。
「何が大変なんだよ!! ええ!」
激しくまくし立てると、彼は教室を出て行った。
しかし、ドラムを叩いているときは、アトピーという言葉は、彼の頭の中から消え去るのだった。
これまでは何の生き甲斐もなかった、とドラムを始めてから健二は気がついた。高校に上がってからは一夜漬けで及第の点数を取る程度になり、勉強には何の興味もなくなっていた。だからこそバンドは彼の生き甲斐になり、そして、学校に行くことも苦ではなくなった。授業中は「どういう風に叩こうかな」と、ドラムのことだけを考える。休み時間になると漫画を読み、友達と下ネタを言い合ったりした後で、メンバーのもとに行って練習日などの打ち合わせをする。
「お前のドラムも日に日に上手くなっていくよな」
そうメンバーに言われると、健二は自分の個が確立されていくように感じた。
ドラムを叩いているとき、健二はとても幸福だった。本来、アトピー患者は汗をかくと体が痒くなるのでスポーツはできないことが多いのだが、ドラムを必死に叩いていると、ずぶ濡れになるほど汗をかく。そうなると、かえって痒みを感じない。
入院中に病室のベッドで「自分は何のために生まれてきたのか。俺はこのまま死んでしまうのだろうか」と考えていたとき、健二には生きているという実感がなかった。しかし、ドラムは理屈なしに「楽しい!!」と思わせた。生きていることを感じている自分がそこにいた。
──しかし、そんな幸せな時期は一年ほどで幕を閉じることとなる。
文化祭が終わり、他のバンドが全て解散するなか、健二のバンドだけは活動を続けていた。その間、コピーをやめてオリジナル曲を作り、都内のライブハウスに出演したり、HOT WAVEの大会でおよそ千バンド中五十位台に輝いたりもしたが、高校二年生になって間もなく、結局解散することとなった。
「高校に行ってると、打ち合わせとか練習とかが思うようにできないから、そろそろやめねえ?」
そのときメンバーの中で、プロミュージシャンになることを真剣に考えていたのは、健二とギタリストだけだった。二人が「学校をやめる」などと言い出したので、他のメンバーたちは、中退という考えてもいなかった選択肢から身を引くように、バンドをやめてしまったのだった。
その後、新しいメンバーを探して継続しようとするが、高二の十一月のライブを最後に、半ば自然消滅のようにバンドは消えた。
健二はドラムをやめようとは思わなかったが、大学受験も近づいているので、一度音楽から離れることにした。本来高校三年生は参加できない文化祭で、横でフォークダンスが繰り広げられるなか、ゲリラ的にその場限りのメンバーで演奏したくらいだった。
「じゃあ、俺は今日から勉強をしよう。いっそのこと東大にでも行こう」
バンドを解散してから、そんなことを決心してみたが、勉強にはなかなか手がつかなかった。
土日に細々と続けていたバイオリンのレッスンのとき以外、楽器を手にすることはなかった。「大学に入ってバンドをやるんだ」と決めてはいたが、心にぽっかりと穴が開いたようだった。そろそろ大学受験か……と溜息をつく毎日がやってきた。気がつくと、いつかのように漫画の発売日ばかりを思っていた。
そして、高校生活最後の文化祭が終わった頃、またもやひどいアトピーがやってきた。一度できた傷がいつまでもふさがらなくなるのだった。そして、日に日に傷は大きくなっていって、最後にはTシャツの二の腕が膿の色に染まった。ときおり包帯を体に巻きつけるようになり、健二は鬱屈した気分になった。どうやらアトピーは、心の拠り所になる「何か」を失ったときに、弱った内臓を食い破る寄生虫のごとく健二の体の中を這《は》い回るのだった。何か打ち込めることが欲しかった。しかし、高三という微妙な学年ではバンドを組むことは難しい。
その夏のことだ。宮崎駿のアニメ「もののけ姫」が公開された。
もともと健二は宮崎アニメが好きだった。「風の谷のナウシカから13年、久々のアクション!!」という、公開に向けてのキャンペーンやテレビCFなどを目にして、健二は絶対に観に行こうと思った。
公開と同時に、包帯を体のところどころに巻いたまま健二は映画館へ行った。「もののけ姫」は期待していたほど面白いとは感じなかった。しかし、物語の中で、体中を業病に蝕《むしば》まれたキャラクターが主人公アシタカに語りかけたとき、健二は不意に強い衝撃に突き動かされた。いつの間にか涙が溢れ、ボロボロと頬を流れていった。
「お若い方、私も呪《のろ》われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみがよおくわかる……」
顔すらも包帯に覆い尽くされているミイラのような男は、スクリーンの中で病床についたまま苦しげに言った。
「生きることはまことに苦しくつらい。世を呪い、人を呪い、それでも生き耐え……」
男は唸るような咳をしながら、今にも消え入りそうにアシタカに向かって必死にしゃべり続けた。
その瞬間、健二の中に溜まっていたものが、器に注がれた水が溢れてしまったかのように、こぼれ始めた。最初、映画が始まったとき頻繁に発せられる「呪い」という言葉に違和感をおぼえた。しかし、包帯で覆われたこの男の科白で健二はそれを理解した。
「この人はアシタカと同じように呪われ、そして呪われたまま人生が閉じていくんだ」と健二は思った。
「俺も同じじゃないか。俺も呪われてるんだ。人と同じように生活していただけなのに。俺は天才のはずじゃなかったのか?」
「これからどうすんの? 映画でも行かねえか?」
高校三年の三学期、始業式が終わった後で、健二は友人たちに言った。すると、皆は「これからセンター試験会場の下見だから……」と腰の引けた返事をした。
健二は大学に興味はほとんどなかった。受験はしようと思っていたが、大学に行くという実感はあまり湧かなかった。高校三年になって、周りのクラスメートたちは少なからずピリピリし始めていたが、自分には何の関係もないと思っていた。
授業中は相変わらず騒がしかった。しかし、友人同士の話題は受験勉強のことに変わっていた。以前は授業を聞いていた者も、受験のために内職をするようになっていた。授業中に図書館に行ってしまう生徒もいる。健二はそんな様子を遠くから眺めながら「まあ、東大にでも行ってくれや」と思った。
麻布で「大学」といえば、まずは東大、京大、一橋であり、続いてかろうじて早稲田と慶応が大学として認められているという雰囲気だった。センター試験のために多くの教科を勉強するのが嫌だったので、健二は私学に行くことに決めた。両親もアトピーで苦しむ健二を見て、さほど「勉強しろ」と口うるさくはなかった。健二は早稲田と慶応のどちらにしようかと考えた。
「早稲田は趣味をやるところ。慶応は女と遊ぶところ」
健二は単純にそう考えた。
大学に行くのであれば絶対にバンドをやろう、と決めていたので、早稲田を受けることにした。勉強はあまりしなかった。朝夕の電車の中で、英単語、英熟語、古典単語を暗記するだけで、それ以外は全くやらなかった。中学受験のときは「こいつらは全員バカだ」と思ったものだが、いまでは周りがみな天才に見えた。重箱の隅をつつくような世界史の難解な問題をスラスラと答えるクラスメートたちをみると、自分がいかに勉強をしていないのかが思い知らされた。
センター試験が終わってからの一ヶ月ほどは、さすがに健二も真面目に勉強をし始めた。そして、人間科学部を除いた早稲田の文系七学部を全て受験した。緊張はしなかった。
「これがダメだったらフリーターをしながらバンドをやろう」
健二は思った。
大学に合格したとしても、バンド中心の生活を送ることは決めていた。
翌年の十二月のことだ。健二はアルバイトをしている回転寿司のチェーン店に電話をかけた。
「あの、成田ですけど、バイト辞めます」
「え? 急にそんなこと言われても困るよ」
「すいません、ちょっと体の調子が悪いんで……」
結局、合格したのは第二文学部だけだった。それでも、ほとんど勉強をしていなかったのだから、健二は大いに喜んだ。
それから、アルバイトをしながらバンド活動をする生活を彼は続けた。大学の授業が夜なので、朝十時から四時まで週四日間、寿司屋で働いていた。しかし、職場での人間関係に嫌気がさして辞めることにしたのだった。次は深夜のコンビニでアルバイトすることにしていた。
バンドのほうも順調とは言い難かった。音楽の好みも性格的にも合わないメンバーが、バンドのなかにいた。健二が最初に加入したバンドは、スタジオや楽器屋でドラムを募集していたヘヴィメタルバンドだった。後から入った健二は曲を作ることもなく、ただひたすらドラムを叩いているだけだった。そして、何度かライブをした後、寿司屋を辞めるのとほぼ同時にバンドは解散することとなった。
アルバイトにしろバンドにしろ、一度仲良くなった人たちと別れるのは辛かった。たとえば、寿司屋の同僚はみないい人ばかりだった。ただ一人、健二を目の敵にしているような職人がいただけなのだ。その職人は健二にだけ寿司をツマミ食いすることを許さなかった。
「おめえ、なに食ってんだよ!! 仕事なめんな」
そう言って絡んでくる。そうした態度をとられ続けるうちに、「会社には入りたくないな」と健二は強く思うようになった。
バンドでもベーシストとはとても仲良くしていた。しかし、ボーカル、ギターとの人間関係がどうしてもうまくいかなかった。
「人間的に合わない奴とは長くバンドはできないな」
健二はそのバンドをやめた。
小さな挫折を何度も経験したが、健二は落ち込むことはなかった。むしろ、階段を一歩一歩確実によじ登っていこうと、前向きな気持を失わなかった。自分のやりたいことだけを続けていくことが、彼に大きな充実感を与えていた。
次のバンドのメンバーと知り合ったのは、大学のドイツ語の講義を受けているときだった。学生の一人と話をしていると、驚くほど自分と音楽の趣味が合致しているギタリストだったのだ。その日のうちに酒を一緒に呑みに行った。
「じゃあ、そのうちバンドをやりましょうよ」
健二が言うと、ギタリストは乗り気になった。
メンバーはまるで磁石に砂鉄が吸い寄せられるように集まってきた。ギタリストがボーカルを連れてきた。コンビニを辞め、健二が次に採用された飲食店でアルバイトをしているとき、たまたま出会った同僚がベーシストで、バンドに興味を示した。
それらの出会いはおそらく偶然ではない。真剣に音楽をやりたい人間のもとには、音楽をやりたい人間が集まってくる。それだけ情報に対して目を見開き、耳をすましているからだ。
バンドのためだけに生活をしている状態が健二には心地良かった。自分で作った曲をバンドで演奏し、それが少しずつ形になっていくとき、健二は幸せを感じることができた。それを思えば、毎朝九時に起き、アルバイトを夕方四時まで続け、その後に大学に行くことも全く平気だった。
アルバイト中、健二は頭のなかでドラムを叩いた。授業中も叩いた。全ての生活をバンドに捧げて、音楽のために働き、音楽のために飯を食い、音楽のために人と話す。健二はミュージシャンにこれからなるのではなく、もうすでにミュージシャンなのだ、と思うことにした。
ときおり、あの苦しかったアトピーのことが頭をよぎる。いまでも徹夜が続いたときなど、無理がすぎると症状が出ることもある。それゆえ、深夜のコンビニでのアルバイトは長続きしなかった。しかし、彼は思う。病院で「死」についてすら何度も考えたあの地獄のようなアトピーでさえ、時間が経てば治ったのだ、と。その事実はバンドがうまくいかなくても、そして、自らの人生がある日行き詰まったとしても、「なんとかなるんだ!」という前向きな気持を彼に与えていた。
「音楽のためなら親の脛《すね》だってかじりつくそう。このまま少しずつでも前に進んでいこう」
健二は全く焦ってはいない。大学を卒業したらフリーターになって、そして、バンドを続けていくつもりだ。
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第四章 友達の輪を求めて……楽しきフリーター生活
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携帯電話が振動した。
「いま着いたんだけど、どこ?」
その声には、まだ一度も会ったことがないにもかかわらず、打ち解けた雰囲気があった。
「交番の前にいます」
僕はそう言って電話を切った。
間もなくして、人々が擦れ合いながら入り乱れる新宿の雑踏の中から、ダッフルコートを着た大黒|絢一《けんいち》が浮かび上がるように現れた。百八十センチはありそうな背丈に、耳まで伸ばした髪が薄く茶色に染まっている。
電話での様子と変わらず、彼は取材中もきわめて明るく喋った。
「俺、取材なんかされたことないからさ。なに喋ろっかな」
聞くと彼は一九七九年生まれ。僕と同い年である。すると、
「なんだ、タメなんじゃん。じゃあタメ語でいいよ、いいよ」
そう言って気安げに笑った。
「高校のときは本当に暗かったんだよね。無駄な時間を過ごしたなって思う」
現在の大黒にそんな「暗い」印象は全く感じられない。明るく、快活に振る舞う彼の言葉の端々には、人を自然と引きつける魅力があった。彼の口から発せられる体験は、当人にとって深く心が傷ついたようなことであっても、おもしろおかしく響いた。
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大黒が生まれ育ったのは栃木県|茂木《もてぎ》町、サーキット「ツインリンクもてぎ」のある場所だ。「とにかく山ばっかり。山と川と田んぼだね」と彼が言うように、地元の子供たちが走り回って遊べる自然がたくさんあった。その地で、彼は弟とともに母親の手によって育てられたが、小学校に入ってからしばらくして母親が再婚し、それ以後は四人家族となる。
「家があったのは町の中心部に近かったけど、ちょっと離れるともう山しかなかったな。友達はみんな自然の中で遊んでた。裏山に行って探検ごっこをしたりしてね」
ここで、大黒が「友達は」と線を引くように言うのは、彼が野山を駆け回る子供の群れから一人離れた場所でそれを眺めていたからだ。
確かに、彼も「友達」と裏山に遊びに行くことはあった。しかし小学生の頃、大黒の主たる遊び場は「外」ではなく「うち」であった。皆が自然のなかを走り回っているとき、彼は「うち」でテレビゲームをしていた。
「弟なんかは運動神経もよかったし明るいし、俺とは正反対の性格だったからいいけどさ。友達も多かったみたいだし。勉強はできなかったけど、いわゆるいまどきの子って感じで。でも俺は暗かったし、あんまり外で遊ぶこともなかった。友達も少なかったしさ」
大黒が小学校低学年の時といえば、僕自身も彼と同い年だが、任天堂からファミコンが発売されて間もない頃だ。
大黒がファミコンを手に入れたのはただの偶然に過ぎなかった。両親にねだって買ってもらったわけでも、小遣いを貯めて買ったわけでもない。小学校二年生のとき、実家の近所に大手家電量販店が進出して来て、オープンセールを開催したのである。その催し物の一つとして「ファミコンが五円で買える」というくじ引きがあった。大黒はどんな顔をしてクジを引いたのだろうか。見事に当選し、小学生には恐ろしく高価に感じられたファミコンを五円玉一枚で手に入れた。もともと、外で遊ぶことが少なく、学校から帰ってくるといつも家で暇を持てあましていた大黒にとって、それが光り輝く宝物となるのは当然だった。ファミコンソフト「忍者じゃじゃ丸くん」と「頭脳戦艦ガル」を買うと、大黒は一日中ゲームに明け暮れるようになった。
大黒がゲームに費やした時間は途方もなく大きい。小学校二年生のときにファミコンに出会ってから専門学校を卒業する頃まで、彼は暇さえあればいつまでもゲームをしていた。
たとえば、翌日に学校がある平日にもゲームで夜更かしをする。そして、次の日の朝も、早起きをしてファミコンのスイッチを入れた。中学校や高校などで修学旅行に行くと、皆が浮かれて騒いでいるなか、大黒は早く家に帰ってゲームをやりたいと思っていたという。日曜日ともなると、それこそ一日中である。
「俺、家族と喋るのあんまり好きじゃなかったんだ」
彼は言う。
小学校に上がってからしばらくすると、母親が再婚した。そのときから、彼は「大黒」という苗字を持つこととなった。この苗字は「おおぐろ」とは読まず、「だいこく」と読む。
「最初のうちは新しいお父ちゃんだな、って仲良くしてたけど、だんだん他人なんだと思うようになったんだ。それで、中学くらいのときから全然口をきけなくなった。やっぱり、その頃ね、多感な時期っていうのもあったのかな。でも、うちの親父は酒は飲むわ煙草は吸うわで、一度アル中で入院したこともあったんだ。夫婦喧嘩もしょっちゅうだったし、暴力振るうし。そんなとき、本当はうちの親父じゃないのに、なんでうちのかあちゃん殴ってるんだよ、って思ってた」
大黒は中学生のとき、家族の中で最初に自宅に帰ってきた。誰もいない我が家に戻ると、すぐにファミコンのスイッチを入れる。そして、弟が帰宅し、夜七時を回った頃になると、同じ会社に勤める両親が帰ってくる。
大黒が自分の部屋でゲームをしていると、お茶の間から両親の声がよく聞こえてきた。そして、少しずつ話し声が大きくなってきたと思うと、最後には怒鳴りあいのような喧嘩が始まることもあった。
「またかよ。やめてくれよ」
そんなとき、大黒はゲームをしながらそう思っていた。
母親を守りたいという気持が強くあったのかもしれない。たった数年間ではあったが、子供の成長にとって大事な時期に母親一人の手で育てられた大黒は、新しい父親が次第に嫌いになっていった。父親の入った後の風呂には絶対に入りたくなかった。アルコールで入院したときは心底「なさけねーな」と思ったという。そして、洗濯をしたあとに、お茶の間に干したジャージが煙草臭くなるのが、嫌でしょうがなかった。
「大黒、臭えよ」
学校に行くと、大黒のジャージに染み付いた煙草の臭いに対して友達が言った。そのたびに彼は「俺じゃねーよ」と言わなければならなかった。
そんななか、大黒が一人だけの自由な時間を存分に楽しめるのは、朝、登校前の時間帯だった。両親は共働きで朝は彼より早く仕事に出かけてしまっていたし、弟がいたとしても、最後に家を出るのは決まって大黒だった。朝からゲームをやっていても文句を言う者はいない。
だから、中学校に上がる頃になると、大黒は遅刻をすることが多くなった。ある日、学校に行くと誰もいない。そういえば今日の一時間目は技術の授業でみんなは電算室にいるんだった、なんてことがしょっちゅうだった。成績もいいほうではなかったので、見兼ねた母親がファミコンのアダプターをどこかに隠してしまうことも何度かあった。
そんな大黒にも、やがて思春期と呼ばれる多感な年頃がやってくる。
それまではゲームで遊ぶこと、そして、何人かの友達とゲームの会話をすることで、それなりに安心した生活を送ることができていた。しかし、高校に上がってからしばらくすると、大黒はいいようもない孤独感に苛まれるようになる。
「高校時代? 一年の頃はすっごい普通の高校生だったよ。友達もいたし。でも、二年になって、みんなと仲が悪くなっちゃったんだ」
大黒は高校時代の思い出をこう語るが、「みんなと仲が悪くなった」というわけではなく、クラスメートと大黒のどちらからともなく、次第に会話がなくなっていったというのが本当のようだ。
「本当に暗かったね。友達いなかったし。高校は楽しくなかったな。つまんなかった。俺、人付き合いとかへたくそだからさ。高校のときは全然喋んなかった」
彼は苦い溜息を吐くようにそう言った。
「家が近いから」という理由で入ったその高校には、一年生の頃はゲームが好きな彼と話が合う友達もいたが、二年生になると一人も同じクラスにならなかったのである。同じクラスだった男子生徒が一人だけいたが、大黒はその男子生徒とはあまり喋ったことがなかった。他のクラスメートたちは一年のときの友達と最初から固まっていて、早くも集団のバリアを作り出している。内気な大黒はどうしてもその輪に加われずにいた。
学年が進むと、いつの間にか、クラスメートたちの興味は下ネタや女の子の話へと移っていく。当時、そういった会話が苦手で、気になる女の子がいてもちょっと喋りかけるだけで顔が真っ赤になってしまうような彼は、楽しそうに会話をするクラスメートたちの輪からどうしても遠ざかることになる。大黒には高校二年生から卒業するまで、仲のいい友達が一人もできなかった。
「さっさと終わってくんねーかな、うるせえな。こいつら、しょうもない話ばっかりしやがって、アホか」
大黒は学校にいる間、ずっとそんなことを思い続けていた。
授業にも全く興味がわかなかった。プリントが配られると、それをすぐさまひっくり返して裏に絵を描いていた。絵を描き終えると手持ち無沙汰になり、今度はぼんやりと窓の外を眺めた。
休み時間が嫌いだった。授業の合間にある短い休み時間なら椅子に座って動かないでいればよかったが、長い昼休みはそうもいかない。大黒は昼休みになると一人涼しい図書室に歩いていった。そこで本を読むこともなく、短い休み時間にそうしているように椅子に座ってじっとしていた。
「友達できねえかなあ」
座りながら大黒はよくそのことを考えていた。もうクラス替えはないのだから、何か仲良くなれるきっかけはないものか、と。だけど、いかにしてクラスメートたちのあの集団のバリアを打ち破ったらよいのだろうか……、大黒には何の答えも見つけ出せない。かといって、へりくだってしたくもない会話をするのは絶対に嫌だった。
一年生のときに唯一クラスが一緒だった男子生徒は、いつの間にか友達を作っていた。話し相手のいない大黒はそんな男子生徒を羨ましそうに見ていたかと思うと、「俺にはそんなことはできない。あんな奴らに対して、下手に出てへつらうなんて」と孤高であろうと腹をくくった。
「高校生らしくしろよ」と彼は自分に言ってみた。
周りの連中のことを「しょうもない奴ら」と馬鹿にしてはいたが、やはり羨ましかった。体を鍛えればよいのかと思い至って、修学旅行で買ったおもちゃの刀を学校の裏山でブンブン振り回してみたりもした。裏山に「やあ!」と気合を入れる声が鳴り響いた。その後にはむなしさだけが残った。結局、高校を卒業するまで、大黒には友達といえる友達が一人もいなかった。
高校時代の彼が、破れそうになる心をかろうじて繋ぎとめられたのは、やはりゲームをすることが大きな位置を占めていたからだ。つまらない高校から急いで家に帰ると、彼は毎日のようにゲームをやり続けた。特にロールプレイングゲームに彼は熱中した。
「人生の多くを教わったんだ」と大黒は僕に言った。
ゲームの中のキャラクターは、高校ではどうしても手に入れることができなかった「友達」であったのかもしれない。ゲームをすることで彼がどれほど慰められたのかは計り知れない。孤独の大海の真ん中で溺れそうになりながらも、彼はゲームという藁《わら》を必死に掴んで放さなかった。
また、大黒にはゲームの他にもう一つの趣味があった。それは漫画を描くことだった。
ファミコンがくじ引きで当たったのと時を同じくして彼は漫画を描くようになっていた。一時は漫画家になろうと思ったこともあったが、一向に絵が上手くならないので諦めた。しかし一方で、ゲームと同様に、漫画もまた彼の孤独を癒す手段になる。
高校時代、彼の描く漫画の主人公には必ず大黒自身が起用された。現実では暗くて人気のない自分を、作品の中では消し去ってしまうことができたからだ。そうすることで、彼は想い描く憧れの世界、願望している未来を漫画の中で生きようとした。「こうありたい」架空の自分と「こうである」現実の自分とのギャップを解消しようとしたのだった。彼は漫画の中で、主人公「大黒」をとても格好よく描いたし、スポーツ万能で明るい青年としてキャラクター設定をした。そして同級生が実名で登場し、人気者の大黒にひれ伏すのだ。
ある日、高校の行事でスポーツ大会があった。漫画の中のスポーツ大会では、大黒は当然のように大活躍するわけだが、現実のスポーツ大会ではそうはならない。サッカーをやってもディフェンダーをあてがわれて、点を取りにいくことはできないし、守備も下手だった。そんなとき、大黒は漫画の世界と現実の世界との区別がついていないことがままあった。大黒は焦った。
「こんなはずじゃないのに。俺はもっと上手いはずなのに」
しかし、現実の世界での大黒はスポーツ万能ではない。
「ああ、そうだ。これは違うんだ」
そう気がついたとき、いつも寂しさが心に食い込んだ。
上京を決意したのは、高校を卒業する直前だった。
小学生の頃からゲームが大好きだった大黒は、知識が増えてくるにつれ、ゲームシステムや画面のアングルを自分で考えるようになっていた。受け手側から作り手側へと視点が移っていったのだ。そして、高校生になり「自分でも作りたいな」と思うようになったのである。彼が高校の終わり頃、大手ゲーム会社が主催するオーディションに、企画書の何たるかを全く無視した企画をノートに書き殴って送ったのも、「自分だったらこうするのに」という提案を具体的な形にしてみるという試みだった。
そして、卒業が近づいてきた。大学には行きたかったが、勉強は嫌いだったので進路を決めかねているうちに、周りの同級生たちは次々と就職であれ進学であれ、思い思いの将来を選択していく。そんななか、焦りながらゲーム雑誌を読んでいると、ゲームクリエイター養成の専門学校の広告が目に入った。入学試験はなく、願書を出すだけでよかったので、彼は「ここに行こう」とすぐに決めた。
上京すると、渋谷の下宿に、入学した高田馬場にある専門学校の紹介で住むことになった。
当然、不安はあった。料理も洗濯もしたことがなかったし、ましてや自分は田舎者なのだ、という意識が「はたして俺はがんばっていけるのだろうか?」という疑問を投げつけた。しかし、一方で一人暮らしは、大黒にとって夢にまで見た蜜のような生活を予感させた。
「東京に出てきたときはうれしかったね。一人暮らしだあ、って。一人だし自由だし。ましてやゲームの学校に行くわけじゃん。大好きなゲーム漬けの生活だよね。勉強も何もしなくていいしさ。お金は仕送り貰えるし。やりたい放題じゃん」
専門学校で、大黒はゲームクリエイターになるべく勉強を始めた。もともと、唯一の取り柄だと思っていたゲームについての勉強である。辛いわけがなかった。むしろ、大黒にとっては専門学校の授業でさえ、ゲームで遊んでいるのと同じだった。
そこで企画書の書き方などを習うと、高校のとき応募した企画書がいかに型に外れたものであったかを知った。講師には以前にゲーム業界で働いていた人などもいて、大黒はゲーム会社に就職するべく真剣に授業に臨んだ。遅刻もせずに学校に通い、家に帰ればゲームをする。好きなゲームのこと以外は何も考えずにいた。
この頃、大黒は都内のコンビニエンスストアで働き始めた。「なるべく忙しくなさそうなところがいいな……」と思いながら探した、初めてのアルバイトだった。
採用されてからというもの、彼は毎日のように働いた。
二週間ほどで、次第に仕事にも慣れていった。そして、接客や品出しに勤《いそ》しみながら、社会の一員として自分がしっかりとやっていけるという自信を少しずつ、着々と身に付けていった。
そんなある日のことだ。
四、五人の客が本棚の前で立ち読みをしているなか、レジをもう一人の店員に任せてジュースの品出しをしていると、子供を連れたお婆さんが店に入ってきた。
「いらっしゃいませー」
すかさず言うと、子供が「わー」と声を上げながら菓子売り場のあたりではしゃぎ始めた。普段は静かな店内が瞬く間に騒々しくなった。
大黒にしてみればこれも日常の一端に過ぎないので、「うるせえな」と思いながらもさして気にはならなかった。たった二週間ではあったが、ときおりうるさい客がやってくることはすでに経験済みだった。
しかし、あまりに騒ぐ子供を見ているうちに、他の客の迷惑にならないだろうかと思った。見ると本棚の前にいる客がみんな煩《わずら》わしそうにしている。ある者は「ちっ」と舌打ちまでしていた。最初のうちは放っておこうと思った大黒も、保護者であるお婆さんが「静かにしなさい」と言っているにもかかわらずおとなしくならない子供を見ていると、さすがに少し心配になってきた。
同時に、迷惑そうな他の客のことや店のことを考え、妙な使命感が湧いてくる。
「ここは俺が出ていかなくては。店員としてなんとかしないと!」
そう思った大黒は、うるさい子供を黙らせるべく、お婆さんのもとへスタスタと歩いていった。
「すいません。ほかのお客さんの迷惑になりますんで、ちょっと静かにさせてもらえますか」
やわらかに言ったつもりだった。
しかし、お婆さんは驚いて「信じられない」というような表情を浮かべ、大黒をきっと睨《にら》んだ。傍らで子供もおとなしくなった。お婆さんと子供は何も言わずに、帰っていった。
翌日、大黒はアルバイトをクビになった。
お婆さんが大黒のいない間に店にやってきたとのことだった。聞けば彼女は泣きながら昨日のことを店長に喋っていたという。
「大黒くーん。こういうの困るんだよ、店の評判が落ちるから。そんなこと言わないでくれるかなぁ。君、もう来なくていいよー」
「今日もバイトをがんばるぞ」と前向きな気持で店に入ってきた彼に、眼鏡を指で押し上げながら店長が言ったのだった。
最初のアルバイトはこのようにして呆気なく辞めることとなった。
社会に出ることが自分にもできると感じていた矢先だった。うれしくてたまらなかったのだ。受けたショックは二倍である。
アルバイトをしなくても、実家から十五万円の仕送りを貰っていたので十分に暮らしてはいけた。しかし、社会不適合の烙印を押されてしまったような気分が彼を覆い続けたのだろう、専門学校を卒業して渋谷にあった家賃六万円の下宿から引っ越すまで、彼はトラウマを負ったかのようにアルバイトをしなかった。できなかったというほうが正しいかもしれない。
大黒が入学した専門学校のカリキュラムは、「一年間コース」と「二年間コース」に分かれていて、彼が選んだのは「一年間コース」だった。彼は入学してからというもの、毎日真面目に一人で勉強を続けていた。しかし、カリキュラムの半分が終わった頃になると、大黒は少しずつ自分が「ゲームクリエイター」になれないと思うようになっていった。
たとえば、ゲームソフトの企画書を提出する課題などが出題されたとき、大黒の考えた企画書はちっともいい点数をもらえない。その反面、周りにいる学生たちの中には卓越したセンスを持っている者たちが幾人かいて、否が応にも才能のなさを痛感させられた。しかし、そんな有能そうに見える生徒たちでさえ、本当にゲームクリエイターになれるのは一握りなのだ。その事実を突きつけられたとき、大黒はショックを受けた。
「じゃあ、そいつらより下の俺はいったい何なんだ?」
そう思うと、彼はひどく傷ついた。
それは挫折だった。ゲームに関してだけは自分に才能があると信じていた。これまでゲームとともに生きてきたのだ。ときに救われ、ときに考えさせられ、ときに教わった。しかし、上京してゲームだけの世界に飛び込んでみると、井の中の蛙であったことに気づかされたのである。
また、ただ憧れていたゲームクリエイターという職業の本質を専門学校で知ったのも、諦めた理由の一つだった。「クリーンなオフィスで格好よくゲーム作りに励む」、そんな職業だと大黒は想像していた。しかし、講師から裏話などを聞いていると、ゲームを作っている会社も決していいことばかりではないようだった。ときに優秀な人材を引き抜いたりもするし、なにしろ徹夜続きである。「クリーンなオフィス」云々なんて上品なものではなく、様子はなんだかゴミゴミしているようだった。綺麗なイメージはガラガラと崩され、それは汗臭く、不潔そうなどろどろとしたイメージへと変わってしまった。
そんなとき、授業で「未来の高田馬場」というテーマでコラージュ作成をしていると、
「すごいね。上手だねー」
大黒は突然誰かに話しかけられた。
見ると同じ授業を取っているT君だった。最初は馴れ馴れしい態度が気になったが、それ以来、T君と大黒はよく喋るようになった。ただ孤独に勉強ばかりしていた大黒にとって、大きな出会いだった。
T君は自分の友達を大黒に紹介した。それからというもの、彼はいままでの孤独で染み付いた垢を落とすように、新しくできた友達と遊びまくった。
「いままで俺、友達と遊んだことなかったんだ。それで、遊んでるほうが楽しくなっちゃったんだよね。あの友達にはすごい感謝してる」
大黒は、「彼らがいなかったらいまの俺はなかった」という。高校時代、友達のいなかった彼に多くの友達ができたのだ。栃木から東京に一人出てきた寂しさも手伝い、救われたような幸福感が彼の胸に焼きついた。
専門学校に入ってからもずっと一人だった。それがどうだ、自分の世界がみるみるうちに変わっていく。授業をサボってカラオケに行く。滅多に降らない雪が積もろうものなら雪合戦。そしてナンパもした。やることなすこと全てが初めて感じる興奮だった。新しく出会った友達と遊ぶことで、彼はいままでに経験したことのない楽しさを感じていた。
何より嬉しかったことは、彼らが「カラオケ行かない?」と気軽に誘ってくれることだった。いままでそんな風に誘われることなんて一度もなかった。本当の友達として、一人の人間として自分自身が認められているように感じられた。地元の連中が絶対にやってくれないことだった。
高校時代は、たとえ友達ができたとしても、周りにいる連中が自分のことを何て言っているかわからない、という思いがあった。ひょっとしたら「あいつは暗い奴なんだぜ」なんて陰口を叩かれているかもしれない。しかし、東京では一切そんなことを考える必要はない。誰も昔の自分を知っている人間などいない。それが嬉しくてたまらなかった。
「これまで、端《はた》から見ているだけだった友達の輪の中に、自分がいる」
遠くからただ眺めているときは「あほらしい」と感じていたことでも、輪の中に入ってみると、風景そのものが一変してしまったかのようだった。「酒を飲み、みんなで飯を食いに行く」そんな普通のことを、普通の若者らしく自分でも楽しめるのだとわかると、いままでの自分は無駄な時間を費やしていただけだったように思えた。
「こんなに楽しいんだったら、もっとみんなと仲良くしていればよかった!」
その頃、授業にもろくすっぽ出席せずに遊びに行く予定を友達と立てていると、ゲームのことがどうでもよくなっているのに気づいた。ゲームを作るということよりも、友達のほうがはるかに大切だと思っている自分がそこにはいた。この時期、大黒は「解放」されたような気持でいっぱいだった。
「俺、人生ってもっと重苦しいものだと思ってたんだよね。だけど、友達には『楽しければそれでいいじゃん』みたいなのもいて、それもそっかって思ったんだ。一人でいる時間が多かったから、自分の中で社会っていうのはこういうものなんだって一人で考えて作っちゃってたのかもしれない」
大黒は一年間コースを修了すると、フリーターになることを決めた。
「俺は若いし、ゲームはまだいいかあ。それに、彼女もいないからなあ」
そう考え、そして、その心の動きはやがて「焦って就職しなくても、まだ若いし、時間もたくさんあるし」という思いへと変わっていった。
十年以上も浸り続けた世界を「世の中これだけじゃない」と捨てることができたのは、専門学校で出会った人々が彼を変えたからだった。大切だったゲームの世界からの離脱でさえ、友達を手に入れた彼にとって、大きな傷とはならなかったのだ。
彼は一人ではなくなっていた。
専門学校を卒業する直前、講師や友達らと高田馬場に焼肉を食べに行った帰り、駅の近くで大黒は英会話スクールに勧誘された。女の子から喋りかけられること自体が久々で嬉しかった大黒は、ついふらふらと勧誘の女性に促されるままついて行ってしまった。ついていった後に個室で説明をしてくれたほうの女性を気に入って、その後、二年間コースでおよそ百万円の学費を、「英会話の勉強がしたいんだ」と実家に電話をして、両親に出してもらった。
「だって、さすがにそんな理由で入るとは言えないじゃん。まぁ、最初の目標では専門学校を一年で出て、その後にゲーム会社に行こうっていうのがあったんだけど、いろんな紆余曲折があって、英会話のおねえちゃんのとこに行こうって思ったということ」
こう言って彼は無邪気に笑う。
それから一年間、当初の動機は必ずしも真っ当とは言えなかったが、大黒は真面目にそこへ通い続けた。スタッフの女性に会うための真面目さではあったが、なんだかんだ言いつつもしっかり英会話は勉強していた。
会話が少しずつ上達し、クラスのレベルが入学時よりも二段階ほど上がったときのことだった。朝日新聞の求人情報欄に「あなたの能力次第で給料が一週間で十万円以上」という見出しを見つけた。それは新宿にある「英語を生かしたビジネス」を売りにする企業の求人広告だった。ここなら、英会話が無駄にならない、と大黒は思い、面接に行くことにした。
「そのときはバイトもしてなかったんだ。でもそろそろ二十歳になるし、親に頼るのもどうかなって思ってた。それでこれはいい、と」
そう思いながら、勇んで面接を受けに行ったときは、会社のビルを下から眺めて「ここが俺の職場かあ」などとあっけらかんとしていた。しかし──。
「息苦しいな」
面接の日、彼は新宿西口のとあるビルの一室の様子を見て、まずそう感じた。学校の教室よりもやや狭いくらいの部屋には、ぱっと見て二、三十人ほどしか入りそうになかった。しかし、そこに四十人もの人間がひしめいている。
「俺、会社の面接受けるの初めてなんすよー」
とりあえず大黒は隣にいた若い男性に声をかけてみたが、反応は「ああ、そう」と素っ気なかった。
そのうち、面接の前の会社説明が始まると、いかにも「私はキャリアウーマンよ」といった感じで、高そうなネックレスをした女性が部屋に入ってきた。どうやらその女性が担当者らしい。そして、全員にプリントが配られた。「あなたの希望月収はいくらですか?」という項目があったので、「いくらでもいいのかな?」と、大黒は「百万円」と書き込んだ。
壇上で、担当の女性が冗談を交えつつ喋りはじめた。
「最初に配られたプリントの希望月収に、私は百万円って書いたんですけど……」
偶然にも大黒の書き込んだのと同じ数字を彼女は口にした。大黒は真面目に話を聞こうと構えた。
「実際仕事をしてみたら大変でぇ。百万円もらえるかなあって思ってたのに、無理でしたあ」
続けてそう言いつつ、彼女はナヨッと体をよじって見せたのだった。すると、会場からは笑い声がいっせいに起こった。
話を聞き逃さないようにと真剣だった大黒には、その状況が何がなんだかわからず、「こっちが真面目に説明を聞いているのに、なんだその態度は」とむしろ腹立たしかった。それに説明を聞いても、いまいち会社の全容が見えてこない。なんだかインチキ臭くもある。
そんななか、担当者は説明を続けていた。それに反応するように笑いが起こる。しかし、大黒には話の何が面白いのかがわからない。周りにいる就職希望者たちは、どうしてこんなつまらない話に声を上げて笑い、メモなんかを取っているのだろうか。そう思ってただ憮然としていた。
「お前ら取り繕ってないか? 本当はメモなんか取りたくもないくせに」
興ざめし、人が窮屈に詰め込まれた室内を狭苦しく感じながら隣をチラッと見ると、そこにいるのは中年の女性だった。女性はうんうんと肯きながら説明を熱心に聞いている。必死にメモを取る人たち、ときおり湧き上がる笑い声、それらを不愉快に感じている自分。ひょっとしたら笑っていないのは大黒だけだったのかもしれない。
「何だこの会社は……、空気が変だ」と彼は思った。
人がひしめく教室の空気も、さらに薄くなりはじめた。ただただ息苦しかった。
説明が繰り広げられている間、さまざまなことを心でぶつぶつと呟いていた大黒であったが、ここで初めて言葉を発した。
「あの、すいません、ちょっと空気薄いんで窓開けていいっすか?」
他のみんなも同じことを思っているはずだという自信が大黒にはあった。「この部屋には明らかに換気が必要だ」と思っていたので、当然、「ああ、そう? それじゃあ窓際の方、開けてくれます?」というような言葉を期待していた。確かに、大多数の意見が一致しているのであれば、常識的に考えればそういう展開になって然《しか》るべきである。
しかし、担当者は別に何も感じなかったのか、大黒の喋り方や仕草に問題があったのか、それとも、その部屋の窓は開かないのか、その返答は冷淡なものであった。
「それは我慢してください」
他の人が実際どう思っていたかは定かではない。だから、その部屋にいた就職希望者の意見が一致しているかどうかはわからない。しかし、大黒自身にとって、その部屋の息苦しさは、とても黙っていられるレベルではなかったのだ。それなのに、「我慢しろ」とは、いったいどういうことなのだろうか。
「窓開けるくらい、いいじゃないですか」
選ぶ側の言うことには素直に従うのが普通なのだとは思っても、大黒には納得がいかなかった。だからこそ、彼はもう一度同じことを言った。しかし、それに対する返答は、さらに納得のいかないものだった。
「我慢できないんだったら帰って結構です」
担当者は、面倒くさそうに言った。大黒は「あんた一人が抜けたくらいじゃ何も変わらないんだから」と言われたような気がした。
そして、ここで彼の頭の温度が一瞬にして沸点を越えたのだった。
「なんじゃそりゃ! じゃあいいよ!」
彼はそう言うと、そのまま息苦しい部屋を出た。そして、彼のいない部屋では何もなかったかのように担当の女性による説明が続いたはずだ。
「あの会社はアホだ。そりゃ会社としては辛抱強い人を求めているのかもしれない。それはわかる。だけど、もっとでかい部屋を使えよ。そのくらい気を利かせろよ。そういうのはなんにもないのかよ。そんなんだったら働きたくない」
極論ではあったが、腹に据えかねた彼がそう思ったのも仕方がないかもしれない。大黒にとっての「会社」のイメージとは組織に信頼をおけなくてはならないし、尊敬のできる上司がいなくてはならないというものだったからだ。
少なくとも、大黒には「英会話を生かしたビジネス」を営んでいるこの会社に、「信頼」は湧かなかった。上司にしたって同じだった。カリスマ性のある有能な上司がこの会社にいるのだろうか。きっといないはずだと思った。「偉い人」といっても年功序列に従った「ただ偉そうにしている人」であるに違いない。そんな奴の言うことを聞くなんて絶対に嫌だ。怒られても、ただむかつくだけで「スイマセン」という言葉は出てこないだろう。もし言えたとしても、自分のプライドだけがどんどん傷つくだけだ。
威勢のいいタンカを切って狭い部屋から出ると、そこには新宿の街並みが続いていた。大勢の人が行き交う街を歩きながら、大黒は一人もの思いにふけっていた。担当の女性が「それは我慢してください」と言ったとき、それに従わずに問い返した自分のことを考えていた。
部屋は確かに息苦しかった。窓を開けるのが普通だと思った。だから、素直になれなかった。だけど、そこで素直に従うことが、言い換えればルールに従順であることが、社会に適応するということであるのなら、はたして自分は何なのだろうか? それならば、それに逆らってしまう自分は頭がおかしいのだろうか? 思えば、いままで友達がいなかったし、彼女もいなかった。言われてみれば良識とか社会的モラルとか、そんなものは持っていないのかもしれない……。
「こんなんで、はたして俺は社会に出られんのかな。ちゃんと会社に入って、ちゃんと上司の言うことを聞けんのかな……」
西口のビル群の一角で、歩くのを止めて彼は座り込んだ。周りを歩いているサラリーマンや若者たちを見ていると、自分だけが取り残され、道を見失っているような気がした。
「みんな歩いてるな。自分の道を歩いてるな」
大黒にはもう行くところがなかった。目的がなかった。新宿を歩く人々にはみな目的があるように思えた。目的に向かって歩いているに違いなかった。
ようやく立ち上がると、サラリーマンや若者と幾度もすれ違いながら、大黒はとぼとぼと歩き続けた。歩きながら、考えた。
「……むかついて上司を殴ったり刺したりするかもしれないな」
このとき、「自分が就職することはない」と彼は思い切った。
「会社でゴマをスッて、やれセクハラだ、やれハゲデブだ。そんなの面白いか?」
彼はもちろん会社勤めをしたことがない。しかし、そのイメージは、彼にとって堪えることができない場所のように思えた。会社に入るということは、サラリーマンになるということである。サラリーマンになるということは、毎日朝早く起きて、満員電車に揺られることだろう。毎月の安定した給料、ボーナスを貰いながらも、会社に対する愚痴を言い、上司に頭をペコペコと下げる。同じ色に統一され、同じような服を着る。
もちろん、サラリーマンの全てがそうであるわけではない。働くことを生き甲斐とし、新しい刺激を感じながら毎日を送っている人も多いはずだ。しかし、大黒にとっての「サラリーマン」はそうではなかった。
現在、大黒は、中野区にある、一階がキッチン、地下一階が八畳部屋という一風変わったコンクリートでできた箱のようなアパートに、専門学校時代の友達の紹介で知り合った女性とともに暮らしている。家賃は九万二千円だが、大黒のセブン−イレブンでのアルバイト代と、彼女の雑貨屋での給料を合わせると、生活するには十分だという。
彼は毎日のように、品出しに接客、店内の掃除といった仕事に勤しんでいる。フリーターの強味で、不定期なシフトでも仕事に入ることができる。
「休みの日は、買い物に行ったりしてる。服買ったり、楽器屋に行ったり、ゲーセンや友達の家に遊びに行ったり。最近キックボードを買ったんだよね、俺。あれはいいよ、行動範囲が広がるから散歩にはぴったりなんだ」
いま一番やりたいことはライブをすることだと彼は言った。専門学校で出会った友達に音楽を聴くことを勧められ、そのうちに自分でも楽器を弾きたくなったようだ。ギターを購入して、暇さえあれば練習している。好きなバンドはミッシェル・ガン・エレファントやブランキー・ジェット・シティ。音楽について語るとき、彼の目は爛々《らんらん》と輝いていた。
「最初は趣味みたいな感じだったんだけど、なんか楽しくてさ、真剣になってきちゃった。それで、これに夢をかけてみようかな、なんて思ったりもしてるんだ」
ゲームや漫画のときと同様に、「いまやりたいこと」にこだわる性格は変わってはいない。
「どんな人でも思い描いていた夢とかってあるはずなのに、それをなぜやらないんだろうね。現実と理想は違う、なんてよく言うけど、お前はその現実とやらで本当に満足なのかって、本当はもっとやりたいことあんじゃねぇのかって思うよ。
確かに、サラリーマンはいいなって思うこともあるよ。ボーナスとか貰えるしさ。そんなの絶対いいなって思うよ。こっちはセブン−イレブンで夜でも必死こいて働いてさ、みんなが明日もがんばるぞってスヤスヤ寝てるときに、眠いのに働いて、それなのに給料安くてさ。でもね、それでも、ちゃんと生活していけるし、とりあえずはオッケーだから、夢を追っかけてたほうがいいんだよね。欲しいもんもとくにないしさ。まだ若いじゃん。若いうちはいろんなことをどんどん試したい。だんだん年取ってきて、さすがに三十歳とかなってきたら、そりゃ必死になってがんばると思うよ。なんかしなきゃ、なんかしなきゃ、って。でもいまは時間もあるしさ、何かを探してる状態かな。そのなかでバンドやりたいってのがある。
俺の人生の価値観って、結局、楽しいか楽しくないかなんだよね。だから、自分の考えてることはかっこいいと思ってて、常識とか社会とかはかっこ悪いと思ってる。集団に入って、同じ色に統一されるっていうのが嫌なんだ。一人の人間として認めてほしい。
たしかに会社には入ったら入ったで楽しい気はするよ、○○担当の××さん、とかいわれてさ。でも安定だけじゃ満足できないよ。それじゃ、何のために生まれてきたのかわからない。会社も潰れまくってるし、不景気だし、今の若い人でサラリーマンになりたいなんて本当に思ってる奴なんていないと思うよ。時代は変わるんでしょ? サラリーマンやってれば安定してる、なんて考えは古いと思う。いまは、やれ美容師だ、って感じでしょ? うちらが動かす時代だよ。俺、高校にいたとき、みんながみんな同じふうに見えた。会社にいる人もみんな同じに見えるな。だって、みんな同じ格好してるじゃん。
だから、就職したくないからフリーターやってるわけでは絶対ない。安定はしたいけど、どうせなら自分の好きなことで安定したいんだ。それに、一生フリーター続けるつもりはないしね。フリーターは生活費を稼ぐためだけにやってるんだし、その中でバンドやるなりして表現者になれるチャンスがあればそれに向かいたいんだよね。売れなかったら、他を探すと思うんだけど、まだ何も挑戦してないし、夢を描いてるだけだし。
でも絶対成功するんだって、ある種の勘違いかもしれないけど、そう思ってる。ネガティブに考えたってしょうがないじゃん。年金とか貰えなくても、年をとったときに蓄えがあればいいんでしょ? それができなかったら、俺はその辺でのたれ死ぬと思う、本当に(笑)。でもそれが怖いとは思わない。そういう、のたれ死ぬことが怖いような人間にならないために、夢があるんじゃないかな。なんとかなる、っていうより、なんとかしてやる、だね。なんとかなるって思えなくなったら、俺だって安定した生活を望むサラリーマンになってると思うよ」
整理されていない自らの思いをぶちまけるように、彼は語った。そこにはいくつかの真実といくつかの誤解があるように思えた。そして、一つだけ、最後に聞いておきたいことが僕にはあった。なぜなら、彼が「現在」を語るとき、かつてあれほどまでに入れ込んだはずのモノが完全に欠落しているからだ。
「いまでもゲームはするの?」
「あまりやってないね。バイトするようになってからはさ。ゲームしてるくらいならバイトしないとね。でもさ、実はゲームをやりたいっていう気持もないんだよね。ゲームが面白いとも思えなくなってる。やっぱり、もっと面白いものを見つけたからだろうね。うん、いまはすごい楽しいよ」
「もっと面白いもの」とは大黒にとって音楽やバンドを意味していた。しかし、僕にはそれだけではないように感じられた。
ゲームや漫画という世界が、彼にとってもはやただのファンタジーでしかないのだろうな、と思った。友達や恋人、会社の面接やアルバイト……、ゲームや漫画の世界から、彼は自分では気づかなくともほんとうの社会のほうへと足を踏み入れつつある。だからこそ、彼にとって癒しの手段だったゲームや漫画の世界は、少しずつ彼の中から抜け出ていっているのかもしれない。
彼と話し終えると、夜の九時を過ぎていた。僕が駅まで送ろうとすると、大黒は「俺、ちょっとここに寄っていくから」と言って、ゲームセンターへ消えた。「うち」でゲームをするだけだった少年は、いつの間にか「外」に向かってゆく若者となった。ゲームセンターは昔の名残のような存在なのかな、と思った。
僕らはそこで別れた。彼はネオンの輝く新宿に残り、僕は地下鉄に乗った。
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第五章 引きこもりからの脱出……彼が苦悩の年月を受け入れるまで
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午前十一時過ぎ、京都駅に着く。
約束の時間は午後二時だったので、それまでの三時間何をしていればよいのかわからず、少し途方に暮れていた。
その日、僕が会うことになっていたのは、奈良に住む長澤貴行という男性だった。彼は僕と同じく一年で高校を中退していた。しかし、その後の人生は僕とは大分違う経緯をたどっている。彼は大検を受けずに、何年もの間、家のなかにこもったままだった。
孤独のなかで高校を乗り切った大黒、耐え切れずに脱落して大検を受けた僕、そして、大検を受けようと思いながらも受けず、何年も家に閉じこもった長澤。僕らにはいったいどんな違いがあったのだろう。
京都の駅前をふらふらと歩いた後、僕は一時間も前から約束の改札口の前で待つことにした。振動したときに気がつくように自分の携帯電話を握り締めたまま、僕は地図を背に地べたに座り込んだ。改札に入っていく人、出てくる人、誰かを待っている人たちが次々と入れ替わっていく。何年か前に新しくなった京都駅は現代的な建築で、吹き抜けの屋根がはるか高みから僕を見下ろしていた。
「京都にしましょう。是非、新しい京都駅を見せたいんですよ」
東京から「どこかで会えませんか?」と電話をしたとき、長澤はそう提案した。だから、いま時間が余っているとはいえ京都駅を探検するのはやめておこうと思っていた。
二時五分前くらいに彼が現れた。三十歳になったと聞いていたが、その風貌は十代後半のようにも見えた。それは童顔のせいなのだろうか、それともたたずまいや雰囲気のせいなのだろうか。
じりじりしながら一時間もしゃがんでいたので、立ち上がると足が痛かった。
「あ、どうも」
彼が言った。
百六十センチほどの背丈と小柄だが、胸板が厚くてたくましい体つきをしている。聞けば、最近はジムに通っているとのことだった。今日も大阪のジムから直接来たらしい。
しかし、彼には体重が八十キロを超して、お腹が丸く出ていた時期がある。その頃は髪もボサボサで、とても外に出るような状態ではなかったという。
今日はその話を彼から聞こうと思っていた。
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一九八六年の十一月。
「もう友達なんていらん。これで終わりにするんや。一人で勉強をして大検で大学に行くんや」
当時、高校一年生だった長澤貴行はそう念じながら、いつもなら家を出る時間になっても、二階にある自室のベッドのなかでぐずぐずしていた。
「貴行君。まだ行かへんの?」
心配して階段を上がってきた母親が急《せ》かした。
「俺はあの高校には二度と行かへん」
そのとき、彼は学校に行かないとはっきり決めていたわけではなかったが、唐突に口が動いた。
「学校には行かん。もう行かん」と繰り返す彼に、「なんでなん? 行かなアカンでしょう!」と母親は言った。しかし、彼の決意が固いことを知ると、彼女は一階に降りていき、入れ替わりに銀行員の父親が部屋に入ってきた。
幼い頃から、長澤の目に映る父親はいわゆる「仕事人間」だった。日曜日を除く毎日、朝早く会社に出かけていくと、夜遅くなるまで帰宅しない。家にいるときは黙ったままテレビを見ているか、それとも寝ているかのどちらかだった。いつもぶすっと黙っている姿を見ていると、何を考えているのかまるでわからない。小柄な体格だったが、長澤はそんな父親を恐れていたし、また近寄りがたくも感じていた。
ただ、一度だけ学校で友達とうまくいっていないことを相談したことがあった。そのとき彼は「お前な、そんなんな、喫茶店でも行って飯でも奢《おご》れ。それで一発や」と言った。父親は父親なりに真剣に考えてくれたのかもしれないが、それは長澤の悩みに対しては何の答えにもなっていなかった。彼はひどくがっかりしたのを憶えている。
「なんで行かへんのや?」
出社前のスーツ姿で父親が言った。威圧的な表情をしていたので、長澤は恐怖を感じた。
黙っていると、彼は長澤の顔を平手で打とうとした。そう察して、自分に振り下ろされようとしているその手をとっさに押さえると、そのまま何秒か睨み合った。長澤は学校に行かないという決心を目の中に込めたつもりだった。父親の瞳には怒りが浮かんでいた。しかし、それを口に出すことはしなかった。そして、手を離すと無言のまま車で会社に向かって行った。助かった、と思った。その場をどうにか乗り切ったことに、長澤はほっと胸を撫《な》で下ろした。
長澤が高校に行かなくなったその頃、大検から東大に行くという主人公が登場するテレビドラマが放映されていた。それを見ていた彼は、高校をやめると決めた時点で大検を受けようと思っていた。しかし、中学の頃から心の裡に刻み込まれた傷は簡単に癒える代物ではなく、休息が必要だった。
奈良県の中学校を卒業するとき、クラスメート全員のメッセージがしたためられた色紙がそれぞれに配られた。いじめを受けていたわけではなかったが、口数が少なく教室にじっとしていることが多い彼の周囲から、クラスメートたちは遠ざかっていった。長澤には固定したグループの中に取り入っていく方法がわからなかった。すると、いつの間にか、登下校時もいつも一人になっていた。
彼が手にした色紙には「ネクラの長澤……」「いつも暗い長澤……」などと書いてあった。そうしたメッセージに対して、「俺はそんなんじゃない!」と彼は強く言いたかった。本当はもっと喋りたかった。もっと明るくしていたかった。ただ、どうしたらいいのかがわからなかっただけなのだ。
色紙のなかに、一つだけ違うニュアンスのメッセージがあった。小学校からの同級生の女の子だった。
「明るく元気な長澤君に早く戻ってください」
小学校のときの長澤を彼女は覚えていたのだ。しかし、下校途中、彼はその色紙を空地に投げ捨てた。
京都の高校に進学してからも、同じようにクラスメートは自分のまわりにはいなかった。それでも、彼を慕ってくる同級生が一人だけいた。彼とはたまたま席が近かったことで話すようになったのだが、一緒にいる時間が増えれば増えるほど、「いつか、こいつも去って行くんじゃないか」という新たな不安だけが膨れ上がっていった。学校に行くのは苦痛でしかなかった。
そして彼は高校をやめることを決めた。
学校に顔を出さなくなってからしばらくして、担任が家を訪ねて来た。
「クラスの友達とうまくいってないみたいやけど、二年になったら一緒にならへんようなクラス替えをしてやってもいいぞ」
担任は言った。
しかし、もうたくさんだった。
「大丈夫です。俺は大検でやるんです」
人間関係が嫌だという本当の気持を隠し、自信たっぷりの表情を作って長澤は言った。担任は納得したように帰って行き、二度と訪れることはなかった。
最初の頃、学校に行かない彼に母親も頻繁に声をかけた。しかし、彼女から「貴行君。あんたどうすんの?」と聞かれると、彼はすぐに「うるさい!」と癇癪《かんしやく》を起こしてドアをバタンと閉めた。すると、彼女はそれ以上何かを言うことはなかった。自分がどうして学校をやめたのか、いまどんな気持でいるのか、ということについては一度も聞かれなかった。父親とは睨みあったあの日以来、口をきいていない。高校との関わりも、クラスで長澤とよく一緒にいた友達が一度だけ電話をかけてきた後、完全に絶たれた。そのとき、電話をつなごうとした母親に、彼は「いないと言ってくれ」と頼んだ。
学校に行かないことで自由になった時間を、長澤はテレビやファミコンに費やした。部屋は六畳の洋間で、机とベッド、レコードプレイヤー、本棚だけが置かれていた。テレビはなかった。だから、朝になると、父親が車で会社に出かける音を必ず確認してから、二階から一階のテレビのある居間に降りていく。そして、朝食をとるとテレビに見入った。見たい番組がないときは、ファミコンで遊んだ。
お昼には「笑っていいとも!」を見ることが日課となり、その後の昼下がりにやっているメロドラマなどを続けて見ることも多かった。そして、テレビに飽きればまたファミコンのスイッチを入れる。彼が好きでよくやっていたのは野球のゲームだった。それ以外にもロールプレイングゲームやテニスゲームなど、テレビを見ていないときは常にコントローラーを握り締めていた。
たまにはギターを爪弾くこともあった。音楽雑誌の付録のギター譜を見ながら、自分の弾けそうなフレーズを選んで練習をする。ギターを持っているのは、高校で「友達を作りたい」と思って短い期間ながら軽音楽部に所属していたからだった。しかし、結局、軽音楽部でも彼は居場所を見つけることはできなかった。そして、ギターだけが残ったのだった。
夜になれば夕飯を食べる。食卓で父、母、姉の三人は一緒だったが、彼だけはテレビの前に食事を運んだ。鍋や焼肉などのときは、仕方なく同じ食卓につかなければならなかったが、そんなときはうつむきながら黙々と箸を動かした。
普段、会話をする相手は誰一人としていなかった。ときおり母親に買い物を頼む以外、口を開くことはなかった。
一方で、そうした生活は気楽だった。朝は何時に起きてもいいし、夜は何時に寝てもいい。何時間でもファミコンに熱中することができる。いままで学校に行っていることで見られなかった昼間のテレビ番組はとても新鮮だ。友達を作らなければならない、という重圧を感じる必要がなくなったことで、心は羽のように軽くなっていた。彼にとって、その生活は天国のようにも思えた。
しばらくは、母親が大検予備校に行けと言うのを「来月になったら」「もうそろそろやるから」とごまかしながらも、変わらない毎日を送った。予備校に行こうと思いつつ、なかなか足が向かない。宿題を引き延ばすように、もうちょっとしたら勉強を始めるから、春になったら始めるから、と思いながら、時は瞬く間に過ぎていった。時間の感覚が学校に行っている頃と大きく変わっていた。そして、心の重圧がない天国のような状況を手に入れた一方で、彼は外界に対する興味を失い、自分の殻の中にどんどんはまり込んでいった。
その間、家の外にはほとんど出ることがなかった。虫歯が痛んだときに数回だけ歯医者へ行った以外はずっと家の中にいた。月刊のギター雑誌が欲しいときは、母親に買い物のついでに頼めばよかった。外出するのが嫌なわけではなかったが、する必要を感じなかった。
何もしないまま一年近くが経ってしまったことに気がついたのは、夏の終わりを伝えるテレビニュースを目にしたからだった。その頃、ゴールデンタイムに放送されていたバラエティ番組で、長澤は「登校拒否」という言葉を初めて耳にした。お笑い芸人がその言葉を使ったとき、笑い声がテレビから聞こえてきた。その瞬間、いままで心の表側に決して現れてこなかった不安が胸の中で膨らむのを感じた。それは、学校に行っていないことや、家の外にほとんど出ない生活をしている自分が、普通からはほど遠い「変な」存在なのではないか、という疑問だった。疑問が確信に変わり、恐怖を感じるまでにそう時間はかからなかった。その瞬間、見ていたテレビの画面がすうっと背景に呑み込まれ、現実感がなくなっていくかのような錯覚を覚えた。
そのときから、彼は自分の部屋の雨戸を閉めた。近所の目が突然気になり始め、「登校拒否」である自分の存在を隠さなければならないと思った。
皮肉なことに、「外に出てはいけない」と思っていると、外を自由に歩き回りたいという欲求がふつふつと芽生え始めた。しかし、もはやそれは叶わないように思えた。一年の間、目や耳にかからないように鏡を見ながら自分で刈った髪の毛は奇妙な形をしていたし、身につけているのはいつも同じような寝間着だった。運動をせず、テレビを見ながら、またはファミコンをしながら食べていた菓子類によって、以前よりも随分と肥ってしまっていた。そんな自分を外の世界に連れて行くわけにはいかなかった。
もし、友達に会ったら……もし、近所の人に見られたら……。
「あれ? 長澤、何やってんねん?」
想像のなかで中学の同級生が自分に尋ねてきた。しかし、その問いに対する答えは何も持っていなかった。自分に対する目、家族に対する目、何もしないで家にいることに対して、何の答えも持っていない自分……。
「中学を出て、高校を出て、大学に行く『普通』の人生から俺は外れてる。俺は普通やない。世間は俺を異端児として見るかもしれへん。それはいやや、いやや」
雨戸を閉めた後も、テレビ、ファミコン、雑誌……生活スタイルは何も変わらなかった。しかし、その生活はもう単純に気楽なモノではなくなっていた。天国だと感じていた心境はきれいさっぱり消え去ってしまっていた。ある日、ギターが壊れたが、楽器屋へ行く勇気がわかない。新しいゲームを買いに行けないので同じロールプレイングゲームを何度も繰り返したが、少しも楽しくない。
部屋に閉じこもっていると、ときおり外から主婦たちが世間話をしているのが聞こえてきた。そんなとき、彼は自分のことを噂されているような気がしてたまらなかった。
「知ってます? 長澤さんとこの息子さん、何もしないで家にずっといるらしいですよ。どうしはったんかねえ?」
頭の中でそんな会話を想像してしまう。不安になり、両手で耳を塞いで耐えた。
そんな彼の不安感をあざ笑うかのように、時間はスライドが切り換わるように過ぎていった。庭で金木犀《きんもくせい》が香っているのに気がついたと思えば、いつの間にか夏の訪れを報じるテレビニュースを見る。共通一次試験が始まったことが報じられ、そうかと思うと大学の入学式の様子が放送されている。その間、ずっと同じような服を着て、同じような生活を繰り返していると、自分だけが取り残されているように思えた。
毎日、テレビを見てファミコンをやり続けることで、溢れ出してきそうになる不安を無理やりにでも押さえつける。不安が現れ、テレビとファミコンでそれを消し、また不安が現れ……、その繰り返しに一生懸命になっていると、月日はさらに流れるように過ぎていく。
そうして、いつの間にか十八歳になろうとしていた。
中学や高校のとき自分のまわりから去っていった連中は、おそらく大学を受験し、合格しているに違いない。それは、彼らが普通の人生を歩み、自分は大きく遅れをとっていることを意味していた。しかし、どうしたら前に進めるのかわからない。教えてくれる人は誰もいない。どうしたらいいのかわからない。自分がどうなっていくのか考えるのが恐ろしい。
「きっとドラえもんがいて、タイムマシンに乗って助けにきてくれる。それでもう一回人生をやり直せる」
辛いときに考えるのは、いつも決まってそんなことだった。
何度かドラえもんを真似て、部屋の学習机の引き出しを開け、片足を突っ込んでみた。くだらない妄想だと思いながらも、奇跡が起こることをどこかで期待していた。引き出しの中に自分が吸い込まれることを信じたかった。
普段は心の隅っこに置いてある不安を直視しないように気をつけていた。しかし、その不安は確実に大きくなってきていた。
母親との数少ない会話を除けば、長澤が人と喋ることはなかった。父親とは高校に行かないことを決めた日に睨み合って以来、口をきいていない。父親が話しかけてこないことに気づいてはいたが、それ以上に長澤自身が父親を避けていた。面と向かって話をすれば勘当されるかもしれない、とよく考えた。夜、空腹を覚えて台所に行こうと思っても、父親がいると一階に降りることができない。だから、いなくなるのを確認してから時間差で台所に行った。
人と会わないでいることは、家の外に出ない限り容易だった。しかし、家に客が訪れてくることもある。それは、変化のない日常を送る彼にとって、大きな出来事だった。
一階で話し声が聞こえると、彼は二階の自室で音が響かないようにソロリソロリと歩いた。トイレに行くと自分の存在が知られてしまうので、それも我慢する。どうしても我慢できないときは、スーパーの袋に用を足した。
そんなとき、いつも来客が早く帰ることを一心に念じた。そして、玄関での挨拶が聞こえ、帰ったとみると恐る恐る一階に降りていき、台所で食べ物をあさるのだった。
困るのは家族全員が出払ってしまい、一人で家にいるときだった。そんなときに限って、週に一度、必ずやってくる酒屋がインターホンをひっきりなしに押す。家に誰もいないと思わせるのは、とても苦痛だった。なかなか帰らない酒屋にイライラしながらじっとしていると、庭で飼っている犬がぎゃんぎゃんと吠える。自宅が注目されることを恐れ、彼は窓から犬に「アカン、アカン」と口だけを動かし、それでも鳴き止まないときは水をかけて黙らせた。
季節の変わり目や大晦日、正月、誕生日、そうした一年の節目を知るのは、大抵の場合テレビによってだった。ニュースキャスターが季節の行事を伝えているのを聞くと、忘れていた不安が心の端っこでむずむずと蠢《うごめ》いた。普段は見ないようにしている自分の姿を、どうしても直視しなければならなくなる。そして、そうした不安を感じる間隔は、節目である二十歳という年齢に近づくにつれて次第に短くなり、同時に不安そのものも大きくなっていった。
自分が何をすればいいのかが少しもわからなかった。しかし、何かをしなければならないという気持は、確実に心の裡にあった。
そんなある日のことだ。
彼はいつものように一人で家の中にいた。電話がかかってきても無視した。平日の昼下がり、住宅街は澱《よど》んだように静まり返っている。そんなとき、この世で自分以外の誰かが生きているのを実感するのは、テレビのブラウン管によるのみだ。そして、テレビを消せば長澤は自分ひとりの世界に呑み込まれる。しかし、確実にこの近所でも人々が生活をしていることを知らせるように、インターホンが何度も鳴った。
彼は緊張した。「早よ帰れ!」と思ったが、なかなかインターホンは鳴り止まない。だとすれば酒屋かもしれない。
しばらくするとインターホンが沈黙した。様子をうかがうために閉め切った雨戸の隙間から外を覗いたとき、彼は凍りついた。
「人や!!」
声を出さずに叫んだ。それは、作業服を着た年配の男が梯子《はしご》で庭に侵入しようとしている姿だった。
家には誰もいない。いや、いないことになっている。長澤は一階に降りると手にバットを握り締めた。泥棒が入ってきたら、撃退するのは自分しかいない。
男が庭に降りた瞬間、窓を勢いよく開け放つと叫んだ。
「なんや!!」
男が呆然と自分を見ていた。祖父だった。
「お、貴行君……。いや、実は植木を持ってきたんや。お父さんに渡したかったんだが、門が閉まってて開かんかったから、中に入らしてもろうて置いて行こうと思ったんや」
寝間着姿にボサボサの髪の毛をしている自分の目の前に祖父がいる。二人の間に気まずい空気が流れていた。バットを持って自分の祖父と向かいあうという奇妙さの前で、自分がいかに長い間、家の中に閉じこもっていたかを、あらためて思い知った。
母親が彼の部屋をノックしたのは、それからすぐのことだった。
「貴行君、山梨のほうに通信制の高校に通いながら不登校の子と共同生活を送る、っていう場所があるんやけど……」
それは彼女が不登校の子を持つ親たちの会合で聞いてきた情報だった。東京の通信制高校に入学し、そのカリキュラムを修了するまでのあいだ、山梨の宿舎で不登校の子供たちが共同生活を送るのだという。東京での週に一回のスクーリングには、そこから通えばよい。一種のサポート校のようなものだ。
いつもなら不機嫌になり、「うるさい」と言ってドアを閉めてしまうところだったが、彼は呆然としながら話を聞くと、言った。
「それでいい……」
この状況から抜け出せるのなら何でもいい、と素直に思った。
季節は春だった。高校に行くのをやめてから四度目の春。二年半ほど前に歯医者に行ったとき以来、一度も家から出ていなかった。
しばらくして、長澤はついに家の外に出た。テレビで春の甲子園が開催されていることを知り、球場に行ってみようと思ったのだった。聞けば外野席は無料だという。当然、何の予定もないのだが、彼はカレンダーを見てから行く日を決めた。
その日、近所の人に会わないようにするため、明け方四時に起きて帽子を深く被ると、玄関から外に出た。世界は無限に広がっているように感じられ、光が眩《まぶ》しかった。その瞬間、宙に浮いているかのような錯覚を覚えた。道を真っ直ぐに歩くことができなかった。歩き方を忘れてしまっていたのかもしれない。
「ここはいったいどこなんだろう?」
そう感じながら、ふらふらと駅へ向かった。最後に駅前の街を見たのはいつだっただろうか。水中を進むように歩いていると、街並みが随分と変わっていることに気づいた。あったはずの建物がなくなり、なかったはずの店ができている。レンタルレコード店がCD店に変わっている。自宅から甲子園球場までは二時間ほど電車に乗らなければならない。その間、なるべく人を見ないように気をつけた。
甲子園には子供の頃に一度だけ行ったことがあった。駅に着くと、そのときの記憶を懸命に辿ろうとした。
甲子園球場の観客席に足を踏み入れた瞬間、彼は言葉を失った。
「なんて広いんやろう……、なんて綺麗なんやろう……」
テレビの画像では想像できないくらい、球場は大きかった。青空が広がり、芝生の緑がまぶしい。
なるべく人のいない場所を選んで外野席に座ると、彼は野球に見入った。懸命にプレーする選手たちは、彼がずっと家の中にいる間に中学生から高校生になった者ばかりのはずだ。
球場で見る野球はテレビでは決して伝わってこない臨場感があった。ボールのスピードが速く、選手の動きも華麗に見える。何よりも大きな空間で展開されるゲームはダイナミックで感動をおぼえずにはいられない。誰かが近くに来るたびに人のいない場所に移動しながら、彼は野球に没頭した。
空腹をおぼえると、焼きそばを買って食べた。なかなか声をかけることができず、売り子が何度も目の前を通り過ぎていった。何度目かの挑戦で、ようやく買うことができた。
その日の試合がすべて終了してから彼は家に帰った。辺りはすでに暗くなっていた。近所の人に気づかれないように、わざと暗くなるまで帰らなかったのだった。
足が内側からひしひしと痛んだ。
その筋肉痛は一週間治まらなかった。
四月になると、父親に付き添われて山梨の施設に向かった。そこは廃校になった木造の小学校がそのまま宿舎になっていて、辺りは自然に囲まれた静かな田園地帯だった。山や水田、畑、廃校……、長澤はそんな風景を見たとき、自分が何かから置いていかれるような不安を感じた。その不安は彼が中学、高校と友達が去っていったときに感じたものと似ていた。周りだけが大人になっていくと感じたとき、彼の裡に存在していたものと同じだった。
宿舎には広めの教室にじかに蒲団が並べてあった。共同生活を送る子供たちは、思い思いにCDラジカセや本を枕もとに置いていた。それにならい、彼も蒲団を自分にあてがわれたスペースに敷いた。周りはみな自分よりも年下で、十六、十七歳くらいだった。共同生活は何人かのスタッフによって支えられていて、責任者はひげを顔中にたくわえた熊のような中年男性だった。彼らは長澤を優しく迎え入れた。
共同生活そのものには楽しいこともたくさんあった。食事を当番制で作ったり、近所の田んぼで自然に触れ合ったりすることは、家に閉じこもっていたときと比べてとても新鮮な面白さがあった。通信制高校へのスクーリングで東京を見ることもできた。ときには横浜まで足を延ばしたこともある。規則正しい生活のおかげで体重が減り、太鼓腹になってしまっていたお腹が元に戻った。穿《は》けなかったジーンズが入るようになったとき、彼は心底喜んだ。みな年下ではあったが、新しい友達も作れた。このとき、全てが順調だと思うこともできたはずだった。
しかし、時間が経つに従って彼が感じ出したのは、「逃げ出したい」という欲求だった。広い教室での共同生活には全くプライバシーがなかった。また、年下ばかりとの共同生活のなかで、そこが自分の居場所だとどうしても信じることができなかった。人間関係を維持することが面倒になり、一人でいたいと強く願うようになってしまう。このとき、長澤は一人で通信制高校を続けようと決心した。そして、夏になって施設が三週間の休みに入り、奈良の自宅に帰ると、その後山梨に戻ることはなかった。戻ってくる様子のない長澤に何人かの仲間が手紙を書いてよこしたが、彼は封を切らなかった。しかし捨てることもせず、そのまま引き出しに仕舞った。
通信制高校では多くのレポート提出が義務付けられている。それを一人でこなすことは、ただでさえ不登校の者にとって辛い場合が多く、相当の努力が必要だ。それでも、長澤は勉強を続けるつもりでいたが、結局、それを果たすことはできなかった。
最初、母親は「なんで山梨に戻らないの?」と何度も彼に聞いた。しかし、高校をやめたときと同じように、そのことを咎《とが》めたり叱ったりはしなかった。やはり以前と同じように、次第に何も言わなくなった。父親は何事もなかったかのように仕事を続けていた。
そうして、彼はテレビとファミコンの生活にまた戻っていった。それは彼にとって辛く苦しい生活だったが、同時に慣れ親しんだ生活でもあるのだった。少しでも気を抜くと、吸い込まれるように自分の部屋にこもってしまう。テレビを見続け、ファミコンを何時間もやってしまう。
しかし、山梨での三ヶ月の経験が彼にもたらしたのは、決して細くなったウエストだけではなかった。帰ってきてからというもの、彼はときおり外出をするようになった。やはり部屋の雨戸は閉められたままだったし、近所の人や同級生に自分を見られたくない、という思いは強く残っていたが、そうした不安は確実に弱まりつつあった。
家を出るのは、日が暮れてからか雨の日だった。辺りが暗ければ人に顔を見られることはない。そして、雨の日は人通りが少なく、傘を差せる。そんなとき、いつも彼は徒歩で一時間ほどかかる郊外の本屋に行った。知り合いが来るはずのない本屋でほっと息をついて、昔から好きだったプロレス雑誌を立ち読みし、ときには買う。
わざわざ郊外の本屋に行くのは、散歩という目的もあった。とりあえず家の外に出ることが、彼にとって何よりも大切で、楽しみだった。多くの人たちが嫌がる雨をいつも心待ちにし、空が灰色の雲で覆われると、彼は嬉々として外の世界に飛び出していった。
そうこうするうちに、高校をやめてから五度目の春がやってきた。毎年、自分が何もしていないことに対しての不安が、この時期になると必ずやってくる。何かをしなければ、と追い詰められた気分になる。心に溜め込んでいた不安が、ダムが決壊したかのように広がっていく。
「ここに行きたい!」
長澤が自分から強くそう思ったのは、二十一歳の秋のことだった。
いつものようにテレビを見ていると、関西テレビで中退者を集めた全日制高校のドキュメンタリー番組をやっていた。場所は北海道だった。
その高校のドキュメントを見たとき、彼は「ここでなら青春ができるかもしれない」という大きな期待を抱いた。ブラウン管には不登校という挫折を経験した学生たちが、長澤の想像する「普通の青春」をエンジョイしている姿が映し出されていた。年齢もまちまちな彼らが、「親友」と呼べる仲間を得て、語り合う。そんな様子を見ながら、彼は自分と同じ不登校の人たちが通う「学校」でなら、うまく仲間の輪に入ることができるのではないかと思った。そこで仲間だと信じられる友達を作り、決して自分のもとから去っていかないまだ見ぬ親友に、自分の経験した十六歳からの出来事を洗いざらい話してしまいたかった。
母親に資料を請求してもらってから数日後、分厚い封筒が届いた。書かれている内容はほとんど読まなかった。彼がその資料のなかで何度も見つめたのは、生徒たちが学生生活を楽しそうに送っている様子の写真だった。
入学は春なので、それまで五ヶ月ほどの間があった。長澤はその時間を無駄にしたくないと思った。自分の行き先が決まったいま、ようやく胸に広がったやる気をそのままにしておくことがもったいなかった。
ある雑誌の人生相談コーナーが目にとまったのは、まさにそんなときだった。読者の悩みへの回答者が北方謙三だったからだ。長澤は、彼の作品を好んで読んでいた。
「いま、僕は何もしていません。フリーターをやっています。人の目が気になって自信がありません……」
そんな投書が掲載されていた。長澤は「人の目が気になって自信がありません」という箇所を読んで、自分と同じだと思った。対して、「一人で生きてみなさい。親に頼らず一人暮らしをしてみて、自分の力で働いて生きてみなさい。そうすれば道は開ける……」という趣旨の回答が載っていた。
それを読んで、俺も東京に行ってアルバイトをしてみよう、と思った。
彼が家の外に出られないのは、近所の目や、同級生にばったり会うことへの恐怖があるからだった。外に出たいという気持はあるのに、「もし……」と考えると恐怖で足が竦《すく》んでしまう。もし、大学生になった同級生にこの地元で会ってしまったら、彼らは自分のことをどう思うのだろう、と不安でたまらなくなる。しかし、東京に行けばそんなことを気にする必要はない。奈良を離れてアルバイトをしていれば、人生のレールを踏み外した者として自分を蔑《さげす》む人間もいないだろう。そう思わなければ何もできなかった。そして、それは北海道の高校という「行き先」が決まったからこそ、「やってみよう」と決心できることでもあった。
「高校に行くまでの間、自分がしたことのないことを、ちょっとだけやってみるだけや」
そう思って、大胆になれた。そして、中学・高校のときの同級生を思った。彼らのなかには東京の大学に行った者も多いはずだった。
「一人でアパート借りて、友達作って彼女つくって……、僕も同じような体験がしたい。あいつらがやっているはずの一人暮らしの青春をやりたい。俺だって本当はそうなるはずだったんや」
東京に行きたいと母親に言うと、彼はすぐに代田橋の風呂・トイレなしの安アパートを借りて家を出た。
敷金・礼金は払ってもらったが、それ以外のことは全て自分でやりくりするつもりだった。そうと決めると一直線に東京に向かった。先を急ぐあまり、そのとき母親が何を言いどんな表情をしたのかを確かめることもなかった。
東京に行くと、彼はすぐにアルバイトを探し、同時に空手の道場に入門した。喧嘩に強くなって、他人になめられないようになりたかったからだった。
「とにかく何でも経験してみたい」と思い、目に入る興味深いことに全て挑戦してみたかった。そして、それは、失ってしまった日々を取り戻すために、彼が想像した「青春の状況設定」を自ら作り出そうとする試みでもあった。
トンカツ屋の皿洗いとホテルのベッドメイク、二つのアルバイトを同時にやることにした。彼は青春を貪《むさぼ》るように働いた。周りを見る余裕は全くなかった。毎朝、出社してタイムカードを押し、決まった時間に帰る。十七万円もの給料を初めて受け取ったとき、「俺でもできるんや」と嬉しかった。
「この後北海道の高校に行くことになってるんですよ」
トンカツ屋の主任にそう言ったとき、「いいなあ、お前は若くて」と羨ましがられた。
日々の生活は忙しくめまぐるしかったが、その生活に慣れてくると、次第に一人で暮らすことに、どうしようもない孤独感を抱くようになった。奈良の実家で、彼は自分が一人だと思っていたはずだった。家族と会話することはほとんどなかったし、家の外での人間関係は皆無だった。それなのに、東京での一人暮らしを孤独に感じていた。それは、奈良にいたときも決して一人ではなかったことを物語っていた。毎夜、アルバイトが終わりアパートに戻ると、彼は実家に電話をかけた。アパートには電話がなかったので、近所の環七沿いにある公衆電話に105度数のテレホンカードを突っ込み、度数がなくなるまで受話器を離さなかった。
「寂しいし辛い。もういやや」
そう繰り返す彼の言葉を、母親は「うん、うん」と言って聞いてくれた。その間、いつも彼は環七を走る車の流れをぼんやりと目で追った。夜の東京は侘《わび》しげな光に溢れている。
友達は一人もできなかった。飲食店に入れなかったので、コンビニ弁当かトンカツ屋の賄《まかな》いの食事しかとることができなかった。そして、時間はまたもあっという間に過ぎ去った。しかし、今度は「周りから遅れてしまう」という不安や、追い詰められていく焦りに埋もれながら過ぎ去る時間とは明らかに違った。彼のその思い切った行動は、十六歳から家に閉じこもった自分ができなかったこと、周りの同年代が経験しているのに自分が経験しなかったことを、一つずつ片付けていく作業だった。まだ組み立てられていないパズルのピースを見つけては拾い、拾ってはつなぎ合わせる。そして、次は北海道で仲間を得ることが、自らの青春というパズルを完成させるために必要な最後のピースになるはずだった。
四月。
余市町の高校には小樽からバスで四十分ほどかかった。まだ辺りには雪が残っている。
「いままで友達ができなかったけど、ここでは青春をするんや。ここでは挫折せずにワイワイ楽しくやって思い出を作るんや。そして、止まったままだった時間を進ませるんや」
そう固く心に決め、長澤は高校に入学した。ここで、自分に欠けている経験を積みさえすれば、社会に出ていくことができるような気がしていた。
授業の難度は低く、勉強には容易についていけた。不登校者を迎え入れる自由な校風を売りにしていたこともあり、制服は設定されていなかった。
しかし、長澤が望んでいた人間関係はやはりそこにも存在しなかった。暴走族をやっている者もいれば、煙草を吸う者もいた。みな自分よりも年の若いクラスメートたちだった。彼らも確かに不登校をしていたのかもしれないが、自分とは違うと思った。
ある日、体育館で生徒の集会があった。そのとき、ときおり話をしていた気の弱そうな同級生が、他の生徒にからかわれていた。
「やめろや!」
長澤が言うと、突然回し蹴りを背中に当てられた。
「なんで俺がこんな所にいるんやろか?」
そうした若い生徒たちのなかに自分がいることを考えると、どうしてもそう感じてしまう。自分より五つも六つも年下のクラスメートに囲まれて教室に座っていると、長澤はすぐにでも逃げ出したい気分になった。美しい言葉と写真で飾られたパンフレットのような学生生活はどこにも見当たらない。「もう俺は二十二歳や。就職して社会人か、大学四年生になっているはずやのに……」と思うと辛くてたまらない。何度もやめてしまおうかと思った。自分と同い年の教師がいる。スーパーのアルバイトをすれば自分より年下の「社員」がいる。そのたびに彼は打ちひしがれた。もういやだと思った。
友達は何人かできたが、結局、内面を語り合えるような仲にはならなかった。ここでも彼は心を閉ざすことを選んだ。しかし、それでも長澤は高校に踏みとどまった。今度ばかりは全てを放り出すことはできないと思っていた。彼には、そこがいままでの苦しかった状況や、不安、劣等感にケリをつけるための最後の場所だという覚悟があった。自分の年齢を考えると、あらゆる自信が消えかかり、継ぎはぎだらけのプライドがぽろぽろと剥がれ落ちそうになる。しかし、それでも、ここにいようと必死になった。そんなとき頭に浮かぶのは、高校をやめて家に閉じこもった自分の姿や、山梨から逃げ帰り、家でずっとテレビを見ていた自分の姿だった。もう二度とそういう生活には戻りたくなかった。
「もう、こういうのは終わりにするんや。卒業して就職して、そして終わりにするんや」
そして、三年間という時間を、歯を食いしばりながら、彼は乗り越えた。
卒業アルバムに載せる写真を彼は撮らなかった。年下の同級生と一緒に写真が載るのが嫌だった。卒業式の打ち上げへの参加も拒否すると、「やっと終わったんや」と一目散に奈良に帰った。身も心もヘトヘトに疲れきっていた。
北海道から戻ると、長澤はまた家に閉じこもる生活に戻った。
高校を卒業するまでは「終わりにしよう」と決心していたが、自分の部屋にいるとどうしても具体的な行動へと移れない。「安全地帯」である部屋から抜け出るには、北海道であまりに心が磨り減っていたのかもしれない。「過去」が溢れ返る部屋にいると、高校を卒業したという事実への嬉しさが消え、そこで自分の望んだ青春を送れなかったことへの失望だけが大きくなった。それを味わうまでは、まだ何かが足りないと思った。就職という次のステップに進みたくなかった。
次の行き先を見つけたのは、それから三ヶ月後のことだった。
「君もアメリカで自分を変えてみませんか」
東京で少しだけ習った空手の雑誌にそんな広告が載っていた。アメリカの道場で内弟子を募集していたのだ。
北海道の高校のテレビドキュメントを見たときのように、すぐさま彼の頭のなかで想像が広がった。それは、青空のアメリカで、外国人に混じって組み手をしている自分の姿だった。
何より場所がアメリカであることが魅力だった。
家でテレビばかり見ている生活から逃れるために行った山梨、失われた青春を取り戻すために行った東京と北海道、二十五歳という年齢……、日本にいる限り、もういままでのような生活を繰り返すわけにはいかないと彼は思っていた。いい加減、家の外へ出て働かなければならないというプレッシャーを感じる。しかし、最後の一歩に必要な決心を彼はまだできずにいた。まだ社会人になりたくなかった、まだ大人になりたくなかった。
「アメリカに行って空手をやるなんて、ちょっとすごいやないか。そうすれば、俺も胸を張って言えることが一つできる。そうすれば、社会に出て行ける」
こう自分に言い聞かせながら、彼は受話器を手に取ると雑誌に掲載されている番号に電話をかけた。半年のコースとはいえ寮費は高額だったが、恐る恐る母親に頼んだ。
こんなとき、いつも彼は逃げるように家を飛び出そうとする。家にこもったまま何もしていない事実を知る人間のいない場所に、一刻も早く逃げ出そうとする。急《せ》かされるように飛行機のチケットを購入し、すぐに準備をすると、瞬く間にアメリカに向かった。機内では隣の座席の外国人に「ちょっとすいません」の一言が言えず、到着までトイレを我慢した。
上空からアメリカ大陸を見たとき、「ここで自分を変えるんや!」という思いが込み上げてきた。不安もあったが、家にいるときに感じる恐怖に比べれば、それは大したものではなかった。
目的地のアラバマに到着すると、道場の日本人が彼を迎えに来た。無愛想な様子で待っていた男を見て、「空手家らしいなあ」と思った。
「おう、おまえか。乗れよ」
挨拶も早々にそう言われると、長澤は車で寮に連れて行かれた。そして、次の日から早速、アメリカ人に囲まれながらの稽古が始まった。言葉は全く通じなかったが、日本人の師範が現れると、みな一様に「オス!」と挨拶をしていた。
練習中、ちょっとでも気を抜こうものなら、師範はすぐに怒鳴り声を上げた。一度、組み手の説明を受けているとき、上目使いで一言も聞き逃すまいとしていると、「なんだ、その目つきは!!」と張り手をされたこともあった。しかし、そうした練習の厳しさは辛くはあったが、決して嫌だとは思わなかった。朝の内弟子稽古を耐え、昼稽古を懸命にこなし、夜のクラスにも参加した。腕立て伏せを五十回六セットなどの単調な筋力トレーニングにも決してめげなかった。
スーパーマーケットなどで、気軽に「ハーイ」と挨拶をするアメリカの雰囲気を、彼はすぐに気に入った。先輩の運転するトラックの荷台に乗って、どこまでも続く道を眺めていると、遠い異国の地にいることを実感した。牧場でライフルを撃たせてもらったり、乗馬をしてみたりもした。
言葉こそあまり通じないものの、道場仲間と楽しく過ごした時間もあった。ハロウィンパーティでゴミ袋を工作して女装したときは、みなが笑い転げた。子供のクラスもあって、長澤は彼らに正拳突きや組み手を教えた。誰かに何かを手取り足取り教えたのは初めてで、忘れられない思い出となった。
しかし一方で、アメリカでも周りの視線は常に気になっていた。ランニングをしていると、アメリカ人が自分ばかりをじろじろ見ているような気がしてたまらなかった。先輩に相談すると「気のせいだ」と一蹴されたが、打ち消そうとしてもどうしてもその思いは消えなかった。
無我夢中で六ヶ月の道場生活を終えると、道場仲間たちと固い握手を交わし、「がんばれよ」と見送られた。
シアトルで関西国際空港行きの飛行機に乗り換え、乗客の話す日本語が聞こえたとき、行きの飛行機ではほとんど感じなかった不安が、どうしようもないくらいに大きく膨れ上がってきた。アメリカにいれば、自分のことを二十五歳の普通の若者だと思うことができた。しかし、日本では家にこもったまま何もしていない、何も知らない二十五歳でしかない、と自分を見てしまう。十六歳から家に閉じこもり、二十一歳で高校に入り、一度も就職したことのない過去が厳然とある場所に戻るのだということを思い出し、大きな挫折感が蘇ってくる。
「半年っていうのは短いね」
関西国際空港に迎えに来た母親が言った。
アメリカに戻りたい、と思った。
奈良の実家に戻ると、長澤は二、三日の間ずっと眠り続けた。疲れもあったが、それ以上に夢から醒めたくないという気持が強かった。
それからしばらくして、彼はウェイターのアルバイトの面接を受けることにした。知人と出くわすことをいまだに恐れてはいたが、家のなかに閉じこもらなければならないほどではなくなっていた。アメリカで空手をやってきたという経験が、押し固めたような劣等感を溶かしていた。
面接を担当したのは五十代の眼鏡をかけた中年男性だった。緊張しながら履歴書を見せると、彼は訝しげに長澤を見つめた。
「えーと、どうしてこの間が空いてるの?」
その瞬間、頭が真っ白になった。
彼は十六歳で高校を中退してから、山梨に行くまでの三年間のことを指していた。そして、それを「空いている」と表現したのだ。
「じゃあ、ここの間は?」
「北海道? どうして?」
「アメリカ? 何してたの?」
「それで、いままでどんな仕事をやってきたの?」
答えを言い澱みながら、長澤は警察の尋問を受けているような気分になった。もはや、彼にとってそれは面接ではなく、何年間も抱き続け、そして忘れようとしてきた不安の中心を、乱暴に抉《えぐ》られるやり取りだった。
「こういう履歴書の人生では、無理なんや。俺なんて無理なんや。こういう過去では雇ってくれないんや」
山梨や東京、北海道、そして、アメリカに行くことで少しずつ形になろうとしていたパズルが、このとき、ばらばらと崩れた。
「採用についてですが、後日、店に電話をください」
男はそう言うと面接を終わらせた。
長澤は店を出ると急いで家に帰った。電話をかけるつもりはなかった。採用されないことを知らされるのが怖かった。
家に着くと、彼は以前にしたように自分の部屋の雨戸を閉めた。すると、前に家に閉じこもっていたときには気にならなかった雨戸の隙間が無性に気になり始めた。それは、祖父が梯子を使って植木を置いて行こうとしたとき、様子を窺ったあの隙間だった。
「こんな歳にもなって何もしていないなんて、絶対に知られてはいけないんや」
そう絶望的な気分になりながら隙間を目張りした。
打ちひしがれながら、自分の存在を以前にも増して消そうと思った。
その日から三年ほど、彼はときおり夜に本屋へ行く以外、全く家の外に出なくなった。部屋の明かりを気にして、蛍光灯のスイッチを一番暗い状態にした。家族が出払ったときなどは物音を聞きとがめられるのを用心してトイレも流さなかった。
不安は常に心を覆うようになった。過食になり、体重が少しずつ増えていった。風呂に入るとき、鏡を見るとちょっとした相撲取りのようになっていた。部屋のなかで腕立て伏せをしたり通販でバーベルを買ってみたりもしたが、なかなか体重は減らなかった。外に出られないので、玄関で縄跳びをしたこともあった。
もう一度同じ生活に戻ってしまったことで、家族への申し訳ない気持が湧いた。できることは少なかったが、それでも風呂に入るのを控え、食事もあまり食べないようにして、家族への負担を減らそうとした。お湯もできる限り使わないように心がけた。髪の毛を水で洗うと背筋が震えた。
その間、彼はゲームをしなくなり、テレビと本だけの生活をするようになった。とくに北方謙三やローレンス・ブロックの作品をよく読んだ。それ以外のものは、なるべくエッセイや紀行文を選んだ。自分に足りないと感じている「経験」を本のなかに探し、本の世界に没頭することで世の中を学ぼうとしたのだ。たとえば、喫茶店での水のおかわりの頼み方、レストランでの注文の仕方、切符の買い方、煙草の吸い方。エッセイや紀行文、小説の中にそうしたシーンがあると、彼は一つ一つ覚えようとした。
一年、二年とそんな生活を続けているうちに、目の中に小さな虫のような残像がちらついて消えなくなった。暗い部屋で目を酷使したことで硝子体《しようしたい》が汚れてしまったのだった。病院に行くと飛蚊症《ひぶんしよう》だと告げられた。日常生活には支障はないものの、「もう治らない」と医者に言われたとき、深い後悔の気持がわいた。
エネルギーが充填され、次に外へ出ることをようやく決心したとき、彼はすでに二十八歳になろうとしていた。行こうと思ったのは、大阪にあるフレンドスペースという団体だった。元代表者の富田富士也の著作を書店で見つけたことがそのきっかけだ。表紙には『仕切り直しの巡礼』とあった。フレンドスペースでは、何年も家の中に閉じこもっていた若者がカウンセリングを受けながら社会に出て行くための訓練をしていて、自分と同じ境遇の人たちが集まっているとのことだった。アルバイトの紹介もしてくれるらしい。
長澤はそれを読んだとき、ここでなら友達ができるかもしれない、この人なら自分を助けてくれるかもしれない、と思った。
「ここに行こう」
そう決心すると、今度こそはという願いを胸に、自宅の玄関を飛び出した。
「……それで、そのあとフレンドスペースで週一回カウンセリングを受けながら、パン屋さんでアルバイトをはじめたんです。張り紙で求人募集しているのを見てそこには行きました。フレンドスペースに行くのにもお金がいるし、それにやっぱり働きたいなとも思っていましたから。一年半くらい続きました」
京都駅内にあるホテルの喫茶室で、僕らは長いこと話し続けていた。いい加減、店員も水のおかわりを持ってきてくれない。しかし、それでも彼は「すいません」と手をあげて「コーヒーのおかわりはまだできるんですよね?」とウェイターに聞いて微笑んだ。それは、彼が「どうやればいいのかわからない」と思っていたことの一つのはずだった。
彼と京都で別れてからすぐのことだ。僕は一冊の本を読んだ。
それは、本の話題になったときに、「何度も読みました。絶対にお勧めですから是非とも読んでみてくださいよ!」と彼に念を押されたロバート・B・パーカーの『初秋』という作品だった。
「スペンサーという私立探偵を主人公としたシリーズものの一冊なんです。両親の取引材料として物のように扱われている少年に、スペンサーがいろんなことを教えていくっていうストーリーで、すごく面白いですよ」
彼がそう熱っぽく説明をしたので、僕はどんな小説なのか気になった。彼の心に深く食い込んだらしいその作品に、いったいどんなことが書かれているのか知りたいと思った。
『初秋』は少年の自立の物語だった。世の中に対しての興味を失い、自分自身への関心さえまるでない、テレビばかり見ている少年、ポール。そんな彼に探偵スペンサーは走ることやボクシング、料理などを教えながら、力を合わせて一軒の小屋を建てていく。
かつて長澤がこの作品をどんな気持で読んでいたのかを僕は想像した。そして、ストーリーと大して関係があるとも思えないスペンサーとポールの会話のシーンになったとき、一瞬、彼の胸に広がっていた焦りや不安の正体を垣間見た気がしたのだった。
それは、スペンサーの作った料理を食べたポールが、不思議そうに質問をする箇所だった。
「これ、あんたが作ったの?」ポールが言った。
「そうだ」
「どうして作り方を知ってるの?」
「自分で覚えたんだ」
「作り方をどこで手に入れたの?」
「自分で考え出したんだ」
──中略──
「これをレストランで食べたことあるの?」
「いいや。これは自分で考え出したんだ」
「どうしてそんなことができるのか、ぼくにはわからないよ」
[#地付き](菊池光・訳)
僕は、その後も「どうして? どうやって?」と作品の全編を通して口癖のように尋ねるポールに、いつしか長澤の姿を重ね合わせていった。おそらく、彼も一人で家の中に閉じこもりながら、「どうして? どうやって?」とただただ思い悩み、そして、その問いをぶつける相手を強く求めていたはずだった。
しかし、いまの彼は一人でただ悩んでいるだけではない。自ら社会と関わろうという努力をしている。
たしかに、パン屋でのアルバイトを一年半にわたって経験したあとも、すべてがうまくいくようになったかといえば、そうではなかった。一人で黙々と粉をこね、何十分後かには完成したパンを見ることのできるその仕事は性に合ってはいたが、職場の人間関係の中でやはり悩み、結局、一度、そして二度と勤め先を変わることとなった。続けていると、何かが、どこかが疲れてしまうのだ。しかし、そのたびに彼は別のパン屋に働き口を探した。自ら家の外に出ようとした。
「よく三年間もずっと家の外に出ないでいることができたなあ、って最近は思うんですよ。家でじっとしているのが三日と耐えられなくなりましたから」
父親との関係も変化してきている。
二〇〇〇年の十一月のことだ。三十歳になった長澤は自宅で父親の帰りを待っていた。その日で、父親は定年を迎えることになっていた。
「長い間おつかれさん。ご苦労さん」
そう伝えると、父親は少し驚いたような顔をしたという。
「ありがとう……。おまえも自分のために働け。金のことは心配するな」
それは、高校をやめるまえには何度か言われたことのある科白だった。そして、銀行員としてのサラリーマン人生を終えたもともと無口な父が、息子を励ますために言うことのできるただ一つの言葉だったのだろう。
高校に行かなくなってから、およそ十四年が過ぎていた。最近では、皆と一緒に夕食を食べている。あの頃、どうして自分に話しかけなかったんや、と姉に聞くと、彼女は「怖かったから」と答えた。
あの最初の三年間がなかったら……、とよく考える。もっと違う人生もあったはずだ、と思う。その間に染み付いてしまったモノは、そう簡単には取り除くことができない。もう二十二歳だ、もう二十六歳だ、という重圧を感じ続けているうちに、心の若さを失ってしまった気がする。
しかし、同時にこうも彼は思えるようになった。
「いまはこういう自分の過去をすべて受け入れられるような状態なんです。後悔はせずに、いろんなことがあったんやな、って」
彼は僕に向かってそう静かに言った。
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第六章 働くことは続けること……ヘルパーとして生きる
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祖母が亡くなったのは、もうすぐ春が終わろうとしている頃のことだった。僕にとって、近しい人が亡くなるのは初めてのことだった。
葬儀は自宅で行われた。葬式なんてものを体験するのも初めてだった。叔父、叔母、従兄弟たちが実家に集い、知らない人がたくさん訪ねて来た。僕は受付をやるように叔父から言われ、母が趣味で植えたガーデニングの花々が咲いている玄関で、黒いスーツを着て突っ立っていた。そのスーツは二十歳になった記念に買ったものだった。僕はその日、人前でそのスーツを初めて着て、ネクタイを締めた。
葬儀屋さんが手早く組み立てたテントの中で、僕は悲しみと驚きと不安と恐怖がごちゃ混ぜになったような気分でいた。何より、自分の気持を客観的に見ることができなかった。何をどう感じればよいのか自分でもよくわからない。何を思っても嘘のような気がした。
祖母の入居していたSという近所の老人ホームの人たちもやって来た。入居者たちや、ホームの社長、ヘルパーさんたちだ。
そのなかに、僕と同じように初めて身近な人の死というものを体験した若者がいた。彼はホームでヘルパーの仕事に就いてから、まだ何ヶ月も経っていなかったが、祖母の介護をしていたのだった。彼は僕と同じように混乱しながら受付を通っていったという。そのとき、僕は彼の姿を見ていない。見ていたとしてもあまりにたくさんの人が実家を訪れていたので、記憶のなかにはない。
そんな彼と初めて話をしたのは、それから半年後のことになる。老人ホームのヘルパーという仕事を選んだ経緯を知りたいと思ったからだ。
彼は学生時代にバスケットボールをやっていたということもあってか、背が高くがっちりとした体つきをしていた。僕よりも六つほど年上の一九七三年生まれ、頼りがいのある兄ちゃんといった感じだ。老人ホームのヘルパーというより、体育会系のサラリーマンといった雰囲気もある。
練馬のファミリーレストランで、僕は彼の話を聞いていた。
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荻川|喜和《よしかず》(仮名)にとって、父親は社会人の見本のような人物だった。なにしろ、十八歳のときから証券会社に勤め、そして、三十数年間のサラリーマン人生を無遅刻無欠勤で全うしたのだ。
幼い頃、まだ自分が寝ているうちに父親は仕度を整えて会社に向かった。玄関の鏡の前でスーツに袖《そで》を通し、さあ行くぞとばかりにビシッと肩を揃える動作を見ていると、格好良さに惚れ惚れしたものだ。背が高く、九十キロはあるその背中はとてつもなく大きく見えた。
父親は付き合いで朝の四時や五時まで酒を飲んで帰宅してくることもあったが、そんな翌日でも弱音を吐いて会社を休むなんてことは絶対になかった。朝の五時まで飲んでいれば当然ヘトヘトのはずなのに、子供の目にも狭いと思える当時住んでいたアパートにしっかりと帰ってきて、そしてすぐに会社に向かう。いつも無言のまま会社に行く父親の姿を、一人っ子の荻川はただ見ていた。
高校を卒業するまで、父親と面と向かって話をするようなことはほとんどなかった。いろいろな場所に連れて行ってもらったこともあったが、そのとき父親が何を言い、どんな表情をしていたのかは覚えていない。しかし、父親はその大きな背中で語りかけていた。実際に口に出して語られる言葉よりも、それは大きな説得力を持っていたかもしれない。
中学、高校の六年間、荻川はバスケットボール部に在籍し、毎日の練習を真面目にこなしていた。ちょうどその頃、少年ジャンプで連載されていた「スラムダンク」に影響を受けたのが、バスケットを本格的に始めたきっかけだった。ひょっとしたら女の子にモテるかもしれない、という期待もあった。要するに、当時、「格好いいスポーツ」としてまず頭に浮かんだのがバスケットボールだったのだ。しかし、中学校の部活は坊主頭が義務とされていて、そんな期待は大きく外れることとなる。五厘刈りにされた自分の頭を見て、「これじゃあ修行僧みたいだ」と彼は苦笑した。
中学のときは、他のどの部でも同じことが行われていたのだが、当然のように先輩からのシゴキを受けた。練習中に動きが少しでも鈍いと、先輩たちに体育倉庫などで殴られる。そのときにスネを執拗に蹴られるので、一年、二年のときはスネの皮膚が剥《む》けていることが多かった。
「そんなの運動部だったら当たり前だ」
試合中に彼が殴られているのを見た母親から話を聞いて、父親はそう言った。荻川は「冷てえな」と思っていた。
そうしたいじめを苦にして何人かの部員がやめていった。ようやく三年生になったときには、三学年合計で九人しか部員がいなくなっていた。彼の代のバスケット部員たちは、これ以上部員がやめてしまったら困る、と話し合い、自分たちの代ではシゴキをしないことに決めた。
そして、彼らは少ない部員で猛練習をして、県大会出場に漕ぎ着けた。それは、荻川にとって天にも昇るように嬉しい成果だった。仲のいい仲間と遠征試合をするために宿泊したときなど、本当に楽しくてたまらなかった。
父親の言葉の意味を理解したのはそんなときだった。どんなに辛くても、続けることで成し遂げた大会進出や、仲間の笑い声は何ものにも替えがたい宝だった。息子が殴られていることを「当たり前だ」と言い切った父親の意図にようやく気づかされた思いだった。そのときから、根性をもって続けなければ意味がない、ということを彼は心に強く焼き付けた。ただ体が大きいという印象しかなかった父親に尊敬の念が溢れるように湧きはじめた。父親はどんなシゴキがあろうとも、スポーツを続けることで得る充実感を知っていたのだと思った。そのことを自分に伝えてくれたのだ、と。
思えば、父親は無言のまま毎日働き、そのおかげで自分は中学校に通い、高校生になったのだった。感謝の気持と同時に、憧れと言ってもよい感情が溢れ出てきた。男はこうあるべきだ、という見本のように思えた。
親父のようになりたい、そのためにはどうしたらいいんだろう……、そう考えたとき、「とにかく働くことだ」と思った。親父のように一つの会社で何十年と働き続ければ、自分もあんな格好良さを身に付けることができるかもしれない……。
高校卒業後の進路を決めたのは三年の夏休み前だった。
学校では進路説明会などが催されていた。彼が通っていた埼玉県の高校は進学校ではなかったので、就職希望者のほうが多かった。一部の生徒はスポーツ推薦という形で進学するが、一般受験をして大学を目指す生徒の姿はあまり見かけなかった。
荻川も進学するつもりはなかった。大学や専門学校に行けば、両親に金銭的に頼ることになる。それは避けたいことだった。大学に通うとするならば、在学中に成人式を迎えることになる。成人してまで親に金を出してもらって平気でいられるなんて理解できない、と思っていた。父親が働き始めたのは十八歳からだと聞いていた。ならば、自分も高校を卒業したら、すぐにでも社会人になりたい、自分の稼いだ金で食べ、飲みたい。同時に一人っ子として両親を守るのは自分しかいないのだ、という責任感もある。そして、そういう生き方こそが格好いいと信じていた。
進路指導室には求人の冊子が常に置いてあった。メーカー、車関係、販売、美容院。さまざまな企業の初任給、休日、保険、社風といった情報が記載されている。
荻川はスポーツ関係の仕事に就こうと漠然と思っていた。六年間続けたバスケットボールに限らず、野球やサッカーなども好きだった。やはり、自分の好きなことを職業にしたい。しかし、職種にこだわりはなく、販売でも営業でもインストラクターでも、「スポーツ関係の仕事」なら何でもよかった。
最もオーソドックスなところでは、やはり「販売」だろうか。野球のグローブやバット、各種のボールや運動靴などが溢れ返っている店内で、お客さんに説明をし、商品を売りさばく。スポーツ用品店が一番よいのではないか、と彼は求人の冊子を手に取った。
しかし、冊子をパラパラとめくると、スポーツ用品店の欄に会社は一つしか載っていなかった。しかも、「求人は女性のみ」と書いてある。そのことを進路指導の教師に相談すると、教師は男性用の求人をすぐにとってきてくれた。本当にその会社でいいのか、とは露ほども考えなかった。彼は会社名も見ずにそこで働くことを決めた。他にいくつかの選択肢があれば会社案内も読んだだろうが、一つしかないのだからその必要も感じなかった。唯一確認したのは仕事内容の「販売」という箇所だけだった。
「よし!! これからは金を貯めてやろう。そしてすぐにでも結婚しよう」
就職が決定すると、彼は意気込んだ。なるべく早く両親に孫の顔でも見せてやろう、とやる気満々だった。
しかし、高校の卒業式も終わった頃、彼は手元に届いた新人研修の資料を見て絶句した。そこには「場所・岩鞍《いわくら》スキー場」とあった。自らが選んだ会社がスキー・スノーボードを主力商品としていることに、ここにきて初めて気がついたのだ。全国で約七十店舗ほどをチェーン展開している、かなり大きめの会社だった。
スキーも確かにスポーツであることには変わりないが、荻川の想像するスポーツのなかには、雪上で行う種類のものは入っていなかった。むしろ、冬の寒い最中にわざわざ山に行って雪の上を滑ることを、ばかばかしいと思っていたくらいだ。もちろん、一度もスキーなどしたことはない。
「スキーってなんだ?」
クエスチョンマークが頭を飛び交ったが、もはや後戻りはできなかった。
スキー合宿は大卒組と高卒組に分かれて行われ、全国から三十人ほどの新入社員がやってきていた。荻川以外の新入社員は、みなスキーの用品店であることを当然知っていて、スポーツ好きというよりもスキー好きが集まったという印象だった。彼らは真っ白なゲレンデを華麗に滑り降りていく。そんななか、荻川は恐る恐るへっぴり腰のボーゲンで下まで滑った。
あっという間に他の新入社員たちはお互いに仲良くなっていた。荻川が懸命に雪と格闘していると、彼らがスキー談義に花を咲かせているのが聞こえた。
宿泊先で荻川は一人ぼっちだった。宿の隅っこでじっとしていた。誰にも話しかけなかったし、誰にも話しかけられなかった。風呂の用意も一人、次の日の準備も一人。このとき、会社を辞めてしまおうという考えがチラリと頭をよぎった。
見ると、同じように部屋の片隅でじっと一人で黙っている青年がいた。彼は荻川のほうをチラチラと見た。あの人も俺と同じなのかな……、と思ったが、近寄って声をかける気にはなれなかった。そして、そのまま合宿は終了した。
配属されたのは東京の神田にある本店だった。地下一階、地上七階の大きな店だ。埼玉の自宅からは一時間ほどかかる。
運が良かったことに、合宿のとき同じように一人で寂しくしていた青年と配属先が一緒だった。荻川はこのとき初めて彼と口をきいた。
「スキー楽しかった?」
「全然。俺、滑れないからさぁ。こんな会社で本当にいいのかなぁ」
荻川も全く同じことを思っていたところだった。
この青年と一緒になったことは、すぐにでも辞めてしまいそうだった彼に、この会社でやっていく上での安堵感を与えた。しかし、それでも自分の全く興味のない世界で仕事を続けるのが、辛いことに変わりはなかった。
「お前、何で売れないんだよ!!」
入社してからというもの、彼は同じ売り場の先輩に耳にタコができるほどこう言われ続けた。仕事は朝の掃除、品出し、ポップ書きといろいろだが、メインは販売である。その販売がどうしてもうまくいかない。
販売成績が悪い理由は明らかだった。スキーに対する知識が足りないのだ。
高価なスキー板やスノーボードを買う客にしてみれば、少しでも多くの情報を店員から得たいと思うのは当然だ。だが、彼はスキーの勉強を全くしなかった。だから、お客に対して何かを薦めたり、説明したりすることができない。彼がお客に対して言えることは、初心者用、上級者用の違いくらいだった。しかし、やってくる客は具体的な質問や指示を容赦なくしてくる。
「これなんだけどさ、ビベルを一度垂らして、滑走面はフラットで……」
専門用語が出てくると、たちまち訳がわからなくなってしまう。そのたびに、荻川は「ちょっとお待ちください」とだけ言い残すと、他の社員を呼びに走った。
そんな調子のまま二年近くが過ぎた。ときには、アルバイトの売上を下回ることもあって、いつも恥ずかしくて辛い思いをしていた。
毎朝、荻川は「今日は忙しくなければいいな」と思いながら出勤していた。自分が最低の販売員であるような気がいつもしていた。いつまで経っても売上が思わしくない社員が荻川の他にも二人いた。一人はスキー合宿のあの青年だった。いつしか、三人は三バカトリオと呼ばれるようになった。あまりに自分が情けなかった。
入社して二年目の冬が訪れたとき、彼はついに会社を辞めようと思った。「まだ二十歳だ、全然やり直せるじゃねえか、もう疲れちまった」と叫びたかった。辞めた後は、工事現場やトラックの運転手のような職業に就こうと思っていた。
しかし、スッパリと会社を辞めることが辛くもあった。それは店長の存在だった。一度、先輩に叱られている自分を、父親ほどの年齢の彼がかばってくれたことがあった。
「しょうがないよ。まだ十八やそこらの、ろくにスキーをやったことのない人間なんだから」
そのときは、あまりそんなふうに言ってもらうと、またあとで先輩にうるさくされるな、と思ったが、それでも店長の心遣いにとても感謝したことは忘れていない。成績が悪くても、「おまえ、今週は先週より売れてるじゃないか」と励ましてくれるのも、いつだって店長だった。
その言葉に甘えるつもりはなかったが、売れないことを責めずに、逆に励まそうとしてくれる店長を荻川は好きだった。彼は荻川を一度も叱らなかった。ただ「がんばれ」とだけ言って、優しく見守ってくれたのだ。どれほどその優しさに力づけられたことか。
そんな辛い気持を抱えたまま辞表を提出すると、店長はやはり荻川を励まそうとした。彼はその心遣いに心をうたれた。
「お前がいなくなったら寂しくなるよ!!」
そう言って、店長は目に涙を溜めた。
「家に帰って、親御さんと話してから結論を出そう。俺は受理しないでおく。オギ、もうちょっとがんばれよ。せめて三年くらいはやれよ」
高校を出てすぐに働き始めたことは、荻川も胸を張れることだと思っていた。ほんの二年間ではあったが、たとえ商品が売れなかったとしても、それだけは誇りに感じていた。しかし、店長の言葉に後ろ髪を引かれながらも、彼は辞めたつもりで店を出た。そして、このことをまず父親に話さなければならない、と思った。
「……父親はきっと自分のことを殴るだろうな」
その日、彼はぐっと緊張しながら帰宅した。
会社を辞めると告げたとき、父親が彼に投げつけたのは、言葉ではなくハンガーとテレビのリモコンだった。
スーツから寝間着へ着替えている最中だった父親は、荻川の目には機嫌が良さそうに映った。もし、酒でも飲んでいたら、きっとモノも言わずに殴られていただろう。
「会社、辞めてきた」
すると、その瞬間、父親の眉間に皺《しわ》が寄ったのがわかった。
「お前、男のクセに何やってんだ、根性なしが!!」
そう言って、ハンガーを手にとり投げつけてきたのだった。
「根性なし」は父親の口癖だった。
「次、なにやるか決まってるのか?」
「全然決まってない」
「もうすぐ二十歳にもなるくせに何様のつもりだ、この根性なし!」
荻川は黙った。たとえどんなに怒鳴られようとも、もうすでに辞表は出してきてしまった。店長はまだ受理はしないと言ったが、もう辞めたも同然だった。
「お前な、たった二年しか働いてねえのに社会の何がわかるんだ? 高校出るとき偉そうなことほざいてただろう、根性なし!!」
父親が激怒したのは、会社を辞めることに対してではなかった。
大学には行かない、金を貯める、荻川は高校を卒業するとき、そう胸を張って言ったのだった。だからこそ、ここで何の考えもなしに辞めることを、父親は許すわけにはいかなかったのだろう。
「せめて、三年くらいは続けてみろ!!」
そう言われた瞬間、荻川はハッとした。
父親に殴られることを予感しながら帰宅したとき、彼は一時間も我慢すれば後は「勝手にしろ」と言われるだろうと予測していた。もうじき二十歳になるのだから、自分のことは自分で決めればいいと思っていた。しかし、「続けてみろ」と父親は言った。それは店長の言葉と同じだった。同じ会社に何十年と勤めている二人が同じことを言っているということに、荻川はショックを受けた。
「俺は働いていることで、いっぱしの大人になったと思ってた。でも、そうじゃないのかもしれない。自分で決めていいってわけじゃないんだ。この人たちと俺は全然違うんだ。まだ俺はガキなんだ。格好つけてただけなんだ」
もう一年だけ……、そんな思いが頭を過《よ》ぎった。
次の日、出社すると「やっぱり辞めないことにしました」と荻川は店長に頭をさげた。
店長室に向かう途中、何人かの同僚が「お前、辞めるの?」と聞いてきた。入社二年目の社員が店長室に行く理由はそれくらいしかない。
緊張しながら「もう少しがんばってみたいと思います」と言うと店長は笑った。
「うれしいよ、ありがとな。じゃあ今日からまたがんばれ」
辞めると告げた社員に対して、普通「ありがとう」と言うだろうか。
店長は、他の社員にも自分が辞めると言ったことを一言も漏らしていなかった。そのことに感動し、感謝した。そのとき、荻川はスキーを勉強しよう、と心に決めた。いままでのように会社にいるわけにはいかない。もし、また先輩に販売成績が悪いことを責められたら、店長に申し訳が立たない。
その年の冬、いままで自発的に行ったことが一度もないスキー場に、一人で足を運んだ。それも一度だけではなく、会社の休日を全て利用して、シーズンが終わるまでずっとスキーに通った。休日の前夜にスキー場に向かい、駐車場で一眠りしてから一日中滑り通す。数えるとワンシーズンで二十五回も通っていた。全ては店長のためだった。恩を返すつもりで、勉強を必死に続けた。そんな彼を同僚たちは「いったい、どうしたの?」と戸惑いながら見つめていた。
そうして、その後の五年、トータルで七年を会社に捧げるように働くと、荻川はもう一度会社を辞める決心をしたのだった。結局、ここで販売員として働くのは、やはり彼にとって辛いことに変わりはなかった。店長のためにと、踏みとどまった会社で彼は懸命に働いた。しかし、スキーを覚え、専門用語が理解できるようになっても、売上は相変わらず低迷したままだった。自分に誇りをもてないことは、常に彼の心を傷つけていた。
また、店にやってくる客に対して、ときおり怒りを覚えることがある。そんなとき荻川はさらに辛くなるのだった。
彼がもっとも嫌ったのは、自分と同年代の客だった。彼は普段から年上の人や先輩に対して、礼儀をもってきちんと接しているつもりだった。そして、自分が客として買い物をしていても、決して店員に失礼な態度はとらなかった。それが人間として最低限のモラルだと思っていたし、彼にとっては当然の振る舞いだった。しかし、スキーを買いに来る若者は、ほとんどの場合、礼儀やモラルなどを持ち合わせていなかった。彼はいつもそのことに納得できないまま、無礼な態度の若者に対して接客をしなければならなかった。店員として彼らへの不満を必死に押さえ込んでいた。
そんななか、彼が唯一の救いを感じたのは、老人や子供たちと触れ合っているときだった。孫を連れてスキー用品店を訪れる老人たちは、みな心優しい人たちばかりだった。そんなときに、彼は仕事を楽しいと感じることができたのだった。
「荻川君、今度一緒にスキー行こうよ」
常連客の元気なお年寄りが、よく声をかけてきた。
「いえいえ、滅相もございません」
「いやいや、そんなこと言わずに……」
「こういう所で働いてるお兄ちゃんはスキーが上手なんだぞ。お兄ちゃんみたいに上手になんなきゃダメだぞ」
孫をそう諭しながら、スキー用品を買っていくお年寄りもいた。孫のために決して安くはないスキー板を買っていく彼らを見て、荻川はふっと顔をほころばせた。
荻川にとって彼らは唯一の安らぎといえた。彼はそんなお年寄りたちを、次第に愛するようになった。
「ひょっとすると、俺はお年寄りが好きなのかもしれない。こういう人たちのなかで働きたい」
ならば、老人福祉施設で働くのが、自分にとって最良の選択なのではないか、と思った。それは、ボランティアや「人の役に立ちたい」ということとは、まるで違う発想だった。自分のために、そして働いているという手ごたえを得るために、たどりつくべき居場所がそこにはあると感じた。
「俺、老人福祉の仕事をしたいんだ。だから、老人ホームで働きたい」
入社して七年目、荻川がそう伝えたとき、父親はこう言った。
「もうお前が自分で決めろ」
前に父親が激怒したのは、荻川がただなんとなく会社を辞めようとしたからだった。しかし、今度はしっかりとした目標がある。だからこそ、父親は何も言わなかった。店長にも何ヶ月も前に「老人ホームで働きたいので、辞めさせてもらいます」と告げてあった。
会社を辞めると、彼はすぐに職を探し始めた。飯田橋の職安で求人票を調べ、老人ホームの面接を受けに行った。しかし、簡単に就職できると思っていたのとは裏腹に、面接ではことごとく落とされることとなる。
各施設では筆記試験と面接を課していた。たいていの場合、「介護保険」や「老人」についての小論文を書いた後、面接が行われる。三回、四回と不合格にされるうちに、彼は落ちる理由が少しずつわかってきた。荻川は履歴書に記す資格を何一つもっていなかったのだ。資格も経験もない者を雇おうとする施設はなかった。
そもそも、どこの施設でも彼は面接官に褒められた。
「すごく元気があっていいですね、前向きに検討させていただきます」
販売員の経験からか、はきはきと喋る様子はじつに板についている。普段からマナーや礼儀を大切にしている生き方も、その印象を好意的に見せるだろう。
荻川にも採用されるという自信があった。老人福祉施設の現状を伝えるテレビニュースでは、いつも人手が足りないと報道されていた。なかには、女性中心の老人介護の世界で、いかに男の手が必要とされているかを説明する場面もあった。だから、面接を受けたとき、彼には、元気に喋ってさえいれば自分を認めてくれるのではないか、という甘い期待があった。
しかし、毎回、郵便受けに入っているのは「今後のご健闘を心からお祈りしております」などと書かれた、不合格通知書だった。
集団面接のとき、周囲にはひ弱そうでごにょごにょとしか喋れない者が多かった。しかし、履歴書を覗き見ると、みな一様に「介護福祉士」などの資格を持ち合わせ、資格の欄が真っ黒に埋まっていた。大卒よりも高卒で働いてきた自分のほうが根性がある! と胸を張ってはいたが、彼は老人福祉という職種で、いかに資格が重視されるのかをまざまざと思い知らされた。しかし、専門学校や大学などに行かなければ取得できない資格は、見方を変えればとても高価なものだ。学校に通う余裕は彼にはなかった。
老人福祉施設に就職するのもなかなか難しいと判明すると、すぐに彼はアルバイトを始めた。川口市の大手百貨店で箱詰やビラ配りに勤しみ、人材派遣会社に登録して、ときには工事現場や引っ越しのバイトなどで日銭を稼ぐ。一時的とはいえ、完全なフリーターとなった。もちろん、老人福祉施設で働くことを諦めたわけではない。むしろ、必ず就職しようと長期戦を見込んだのだった。何度も不合格となって、一度は音《ね》を上げそうになったこともあった。しかし、それではまた同じことを繰り返すことになってしまう。たとえ時間はかかっても、絶対に勤め先を探す覚悟だった。
とりあえず、彼はホームヘルパー二級の資格を取得するために、職安のパンフレットで見つけた養成講座に通うことにした。この資格に試験はなく、週に一回のスクーリングと実習を経験すれば、誰でも取得することが可能だ。そこでは、ご飯の食べさせ方や入浴のイロハ、オムツの交換の方法や車椅子の押し方など、必要最低限の技術を教わる。
それは老人ホームで働くということが、ただお年寄りと楽しくふれ合うだけではすまないことを意味していた。お尻を拭いたり、入浴のお世話をしたりすることは、現実として若者でなくても嫌う人が大半だろう。
しかし、荻川はそうしたことに対して何の嫌悪感も持っていなかった。トイレに行けば自分だって手に汚物がつくことはある、という程度の認識だった。なぜそう思えるのかは自分でもわからなかった。ただ、後にホームヘルパーとして働き始めたとき、友人たちが「オギだからできる仕事だよね」とこぞって口にしたことが、彼の性格を如実にあらわしている。
講習は埼玉県内のニチイ学館で行われ、半年間で修了するカリキュラムになっていた。六十人ほどの受講者のなかに、男は自分を含めて三人しかいなかった。
偶然にも受講しにきていた生徒の一人に、川口市の大手百貨店でパートをしていた中年女性がいた。荻川が百貨店のエスカレーターの横でビラ配りをしているときに知り合った女性だった。思わぬ出会いに驚いた様子で彼女が声をかけてきたとき、荻川は自分が老人ホームで働きたい旨を正直に語った。
「あんたはまだ若いんだから、すぐに就職できるわよ」
こっちはそんなにうまくいかないんですよ、と内心思っていると、不意に彼女は言った。
「デパートの受付をやっている女の子のお父さんがそういう施設で働いてるのよ。私、娘さんに話しておいてあげるわよ、荻川君のこと」
彼は二十六歳になっていた。
フリーターになってから、すでに一年が経とうとしていた。目標があるとはいえ、こうした生活に嫌気がさしていた。そこにきて突然やってきた贈り物のような話に、彼はすぐに飛びついた。
受付の女性が紹介してくれたのは、「S」という練馬区の豊島園遊園地の近くにあるホームだった。「ここに電話をすれば大丈夫ですから」と彼女は一枚のメモ用紙を差し出した。
そこに書かれた中林さんというベテランのヘルパーを頼ってホームに電話をすると、とりあえず一度来なさい、とのことだった。
面接をしたのはホームの社長の女性だった。
他の施設では「なぜ、ここを選んだのか」と必ず聞かれたのだが、彼女はその質問をしなかった。
面接中、ホームに入居している女性が近づいてきて、荻川を「先生」と呼んだ。痴呆のお年寄りがスーツ姿の彼を見てそう言ったのだった。少し驚きながらも、彼はパッと立ち上がって「どうもおはようございます!」と元気よく挨拶をした。すると、「あら、どうもおはよう」と言って彼女は去っていった。
それは、これから荻川が全く新しい体験をすることを物語っていた。彼は痴呆のお年寄りに一度も会ったことがなかった。しかし、ホームに入居しているのは健康な人たちばかりではない。寝たきりの入居者もいれば、痴呆の人も一緒に暮らしている。
面接が終わると、いままでの苦労が嘘であったかのように話は簡単にまとまった。
「じゃあ、すぐに明日から来てくれるかな?」
社長にそう告げられたとき、荻川は一瞬耳を疑った。こうも簡単に決まるとは彼自身思いもよらなかったのだ。
そうして、ついに彼は就職を果たした。自分がやりたいと思う職業に、自分の努力によってたどり着いたのだった。一年間のフリーター生活はとても長く感じた。無駄な時間を過ごしているようで、くさりそうになったこともあった。それがその瞬間、ようやく終わった。
「S」は一九八〇年からある老舗の老人ホームで、荻川はその古い建物を初めて見たとき、「汚いなあ」と思った。ホームヘルパー二級の実習で見た老人ホームはどこも開設されたばかりで、最新設備が整い、中も外もピカピカだったせいか、なおさらそう感じた。
痴呆の老人が勝手に外出することを防止するために、入口の自動ドアは三つのボタンを同時に押さないと開かないようになっていた。
初日、ホームの中で繰り広げられている老人たちの様子を見て、荻川は一瞬言葉を失った。中に入ったとたん、彼らは一斉に見知らぬ来訪者のほうを振り向き、ホームで飼っている犬が吠え出した。荻川の想像していた「老人ホーム」とはまるで違う印象だった。病院のようでもないし、拘束された感じでもない。とても自由な雰囲気だった。なにしろ犬までいる。
ロビーでくつろいでいたのはたかだか十人ほどだったが、その風景を見たとき彼はその十人のお年寄りが皆同じに見え、同時に「なんてたくさんいるんだ」と感じた。男の人なのか、それとも女の人なのかもわからない。自分と同じ年代の人なら、優しそうだったり、怖そうだったり、顔を見ただけで何となく予想がつくものだが、彼らはそうではなかった。どんな声なのかもわからないし、どうやって話しかけてくるのかもわからない。「ここで働くのか……」と思うと、やっていけるのだろうか、という不安を感じずにはいられなかった。
そして、彼がもう一つ気になったのは、ホームの匂いだった。たとえば学校の職員室や理科室に特有の匂いがあるように、ホームもまた同じように独特の匂いがある。それは他人の家を訪れたときに抱く違和感とも似ている。それが嗅いだことのない匂いだったことで、慣れるのに少し時間がかかった。
彼は朝礼で他のホームヘルパーたちに紹介されることとなった。ここでは合計で八十人ほどのヘルパーが働いていて、一日に平均して十五人くらいがシフトされている。
まず全体の指揮をとる社長が前日の報告をした。「○○様は熱が少しあります」「××様は昨日大きな声をお出しになりました」と、体調がすぐれない人の名をあげた。次にホームヘルパーの側からの報告がなされ、最後に「今日から新しい男性が入ってきました」と社長が皆に知らせた。
「はじめまして、荻川と申します。全く何もわかりませんので、ご指導、よろしくお願いします」
すると、ぱらぱらと疎《まば》らな拍手が起こった。
「中林さーん。今日見習いの男の子きたわよー」
社長が言うと、「わかりました」と無口そうな中年男性が、荻川のもとにやってきた。
初日は彼の案内で施設内を見学することとなった。
部屋は全て個室で、ホテルのシングル部屋といえば間取りが想像しやすい。窓も大きく、快適そうな造りになっている。
仕事を見学していると、荻川がホームの内部を見て「汚いなあ」と思っているのを察したのか、中林さんが部屋を掃除しながら、
「ここは古いからね」
と言った。
「技術は経験を積めば必ず身につく。だから、そんなことは何も心配しなくてもいい。とにかく、いろんな人と喋りなさい」
さらに彼は、やさしさを大切にしなさい、と荻川を諭した。
風呂や医務室を案内され、三号館まである施設内をぐるぐると回った。迷路のようで何が何やらさっぱりわからなかった。
そうこうするうちに、食事の時間がやってきた。荻川は黙ったまま中林さんの仕事を見つめていた。
「○○様、今日はすっごくいいお天気なんですよ。いっぱい食べて元気になったら散歩に行こうね」
彼はそう喋りかけながら、寝たきりの入居者の口にゆっくりとスプーンを運んでいた。姿勢を低くしながら入居者の名前を呼び、食べ物が少しでも口からこぼれると、すぐにタオルで口元を拭く。その入居者は今後外に出るのは難しいだろう、と思わざるを得ないように見えた。しかし、中林さんは励ましながら食事を食べさせている。その言葉は彼が言うからこそ、入居者に力を与えているように思えた。入居者とヘルパーの信頼関係がそこには確かにあった。
その様子を見て、荻川はこのホームで働き続けることを決めた。できるかどうかはわからない。しかし、そうした「やさしさ」が大切な場所である限り、続けられるとは思った。
夕方になり、見習いとしての初日が終了すると、中林さんは最後に言った。
「どうでした、荻川さん。やっぱりまだわからないよね。でも、一年間くらいは続けてみなさい」
父親、店長と同じ五十代くらいの中林さんが、ここでも「続ける」という言葉を使ったことが、彼にはとても印象的に響いた。
ホームでの仕事は、大まかに言ってしまえば、部屋の掃除、必要な場合はオムツの交換、シーツなどの洗濯、食事の介助、入浴の世話など。それに爪を切ったり、髭を剃ったりするのもヘルパーの仕事となる。後は、入居者たちと話をしたり散歩をしたり……。
ホームヘルパーとして働き始めて、彼が最初にしなければならなかったのは、この世界の常識を身につけることだった。たとえば、彼は寝たきりの人や痴呆のお年寄りを見たことがなかった。だから、寝たきりや痴呆がどういう状態なのかを知らない。彼のなかには誤解もあれば、思い込みもあった。まずはそれを知らなければならない。
あるとき、「助けてください」としきりに言う入居者がいた。荻川はすぐにその人の手を支えに走ったが、周りのヘルパーたちは知らん顔をして素通りしていく。どうして助けを求める入居者を前に彼らが素通りしていくのか、わからなかった。そして、それが痴呆の症状であることを彼は知る。また、寝たきりの人でも、想像していたよりもずっとしっかりと受け答えをした。そうやって一つ一つのプロセスを数多く経験することでしか、知らない世界に慣れることはできない。
初めてそうした高齢者と向かい合ったとき、荻川は恐怖にも似た感情をおぼえた。その人自身が怖かったのではなく、理解できない出来事に直面したときに感じる畏怖《いふ》の念のようなものだ。突然の叫び声や、病気の高齢者がときおり見せる虚ろな瞳は、彼が想像もしていなかったものだった。
にもかかわらず、三十八度近くの熱を出していても、食事をさせるとムシャムシャとあっという間にご飯を一膳たいらげてしまう人もいる。荻川は食事介助のときは手を握るように心がけていたのだが、その握った手の力は想像をはるかに超えた強さだった。
働き始めた当時、彼が最も苦手だったのは、入居者と会話をすることだった。中林さんが言った通り、技術的なことはこの仕事を続けるなかで身につくと思っていた。しかし、会話ができないことは、まっさきに解決しなければならない。彼は悩んだ。慣れていないことで感じる戸惑いや、腰が引けている様子が相手に伝わってしまっているのかもしれない、とも思った。
しかし、どうやらその原因は入居者全員の名前をまだ覚えきれていないことにあるようだった。
ホームでは入居者を「○○様」と呼ぶことになっている。お爺ちゃん、お婆ちゃん、と呼べばそれが親密な関係を表すと思うのは、おそらく間違った認識だ。高齢者しかいない老人ホームでそのような呼び方を認めてしまえば、ホームヘルパーにとってそれが望まぬことであっても、知らぬ間に入居者を「老人」という枠で括《くく》ってしまう危険性がある。だからこそ、○○様という呼び方をするのは、個人だという意識を常に持ち続けるためにも必要なことなのだ。
荻川は少しずつみんなの名前を覚えていった。最初は部屋で二人きりになると、何を喋っていいのかわからず嫌な沈黙が続いた。彼はその沈黙を恐れていた。しかし、じきに元気よく挨拶をする荻川に、入居者たちのほうから話しかけるようになっていった。名前をしっかり呼んで、はきはきと喋ればよかったのだと彼は気づいた。すると、どの人もみな違う個性を持っているのだ、と認識できるようになった。ホームには元気な人、痴呆の人、寝たきりの人、病気の人、いろいろな人がいて、みな性格も違えば考えていることも違う。よく見ると、部屋には彼らが作った手芸品が飾られていたり、テレビで野球を見ていたりと、いくらでも話の種はあるのだった。
「あら、元気がいいねえ」
ある入居者が彼に言った。
技術がなくても元気があればどうにかなるんだ、と彼は思った。そのときから、自分に合っているのかがまだわからなかったこの仕事を、彼は続けられるという自信を手に入れた。もうこれで大丈夫だ、と。
荻川がホームヘルパーになって九ヶ月がすぎた。その九ヶ月間がこれからの彼にとって、大切な九ヶ月間であったことはいうまでもない。
その間、何人かの入居者が亡くなった。一人は彼の腕の中で逝った。そんなとき、もっと丁寧に髭を剃ってあげたかった、もっと綺麗に体を洗ってあげればよかった、とそのたびに感じた。そう思ってしまう自分を、この仕事に向いてないと言う人もいるかもしれない、とも感じた。しかし、後悔するのは仕方がない、そう信じた。
悲しみを感じる一方で、亡くなった入居者たちは、彼に大きな力を残していった。どんなに苦しみ意識が途絶えながらでも、生き続けようとする姿を彼は見た。そして、そんなとき感じるのは、自分の中にも生きることに対する強靭なエネルギーが蠢《うごめ》いているということだった。生きたい、そして、生きなければならないんだ、という思いが胸に広がっていった。
そう思ううちに、いつの間にか、人生に対する焦りが消えていた。
バスケットボールをしていた頃、スキー用品店で働いていた頃、就職が決まらずにフリーターをしていた頃、いつも、心のなかには先を急ぐ気持があった。いましなくちゃ、いま決めなきゃいけない、いまが全てなんだ、と前に向かって突き進むことしか考えられなかった。しかし、ホームで老人たちのケアをしていると、そうした気持が薄らいでいくのが感じられた。たとえば、入居者の爪を切るとき、髭を剃るとき、伸びていればすぐに切ってあげたい気持に囚われる。だからといって、すぐに切ってしまうことが正しいとは限らない。相手が切ってほしいと思っているときに、切ってあげることが大切なのだ、と。
「いま、急いで全てを終わらせてしまわないからこそ、明日も彼らに会うことができるんじゃないか」
その瞬間、荻川は彼なりの成熟を迎えたのかもしれない。
いつもは杖を振り回しながら怒鳴る入居者が、妻が訪れたときに見せる笑顔は忘れられない。家族がやってきたときの彼らの嬉しそうな様子を見ると、自分まで嬉しくなる。
いろいろな失敗もしでかした。いまでもしょっちゅう名前を間違える。オムツを脱がせた後、そのままズボンを穿かせてしまったこともあった。布団をかけ忘れたときは、あわてて部屋に戻った。
外を一緒に散歩していたとき、「男とは戦うものだ……」と三十分も武士について語り続けた人がいた。その入居者は耳が遠かったので、彼は話に大きく肯きながら歩いた。何度も何度も肯いた。彼らが話す物語は、どれもみな刺激的だった。戦争体験の話などはとくにそうだ。
「○○様、こんどお風呂入ろうね」
あるとき、そう喋りかけながら、彼は寝たきりの入居者の口にゆっくりとスプーンを運んでいた。それは励ましの言葉として口から出たのではなかった。
外出は不可能だろうと思われる寝たきりの入居者と相対したとき、彼らを外に連れて行ってあげたいと心から望むようになっていた。明日になっても、明後日になっても、またご飯を食べさせてあげたかった。またお風呂に入れてあげたかった。思えば、ホームを見学したときに中林さんが喋りかけていたのも、ただの励ましではなかったのかもしれない。
自分がいまやっていることを、自分が老いたときにしてくれる人が果たしているのだろうか……老いの世界を間近で体験することで彼は初めてそう思うようになった。生きていれば、誰だって歳をとりケアされる側に回る。そして、自分にだって、そのときはいつかやってくるのだ。
「この仕事を一生続けたい」
いつからか、彼はそう心に決めている。
静かな住宅街の一角にある老人ホームには、そんな一人のホームヘルパーがいた。
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第七章 俺はなんのために生きているんだろう……若き学習塾経営者の葛藤
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その三階建ての建物は、神奈川県の藤沢駅から歩いて二十分ほどの距離の住宅街の一角に、ほかの家々に紛れるようにしてひっそりとある。そこは僕が通っていた学習塾だ。
建物のガレージには改造された車、バイクなどが工具や使い古されたタイヤとともに置かれて雑然としている。昼間の明るい時間帯に車やバイクをいじっている塾の経営者、有田|淳《じゆん》の姿を見かけることもある。玄関に「小中高、少人数制、ウィルアカデミー」の看板が掲げられているので、そこが学習塾だと知ることができる。
建物のなかに入ると、教室の一部が防音室に改装されている。部屋の一角に防音材で組み立てられた箱型のスペースが備え付けられていて、中にはドラムやギターがいつでも弾ける状態で置いてある。ときどき、ドラムの音が聞こえてくるのは、生徒や塾長自身が練習をしているからだ。
防音室の外にはピアノとパソコンがあって、それらは、塾長に言えば自由に使ってもよい。
授業時間が終わってからも、この塾の教室には明かりが灯《とも》り、生徒たちがいつまでも談笑しているので、真夜中でも人の気配はなかなか消えない。
その日、深夜二時をまわった頃、僕が塾長と話をしていると、それまで教室に残って話し込んでいた三人の生徒が帰っていった。「塾長、さようなら」と屈託ない調子で言う生徒たちに、彼は親密な調子で返事をした。
あれは僕が中学二年のときのことだ。
「今日、塾は休みなんだ。明日またおいでよ」
夕方、日も沈んだ時間に入塾の手続きをしに行くと、パーマのかかった金髪、しかも長髪の兄ちゃんが僕に言った。それが塾長、有田淳との出会いだった。
学習塾「ウィルアカデミー」に入るまで、僕はまともに塾という場所に行ったことがなかったが、「友達がたくさん通っているから」というただそれだけの理由で「ウィルアカデミー」に入ることにしたのだ。
そして塾長との出会いは僕にとって計り知れないほど大きなものとなった。
今日、僕は久しぶりに「ウィルアカデミー」のドアを開けたのだった。
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大学時代、有田はミュージシャンを目指す若者の一人だった。
その頃、にわかに盛り上がったバンドブームの波に乗って、周りにいたバンドの多くがデビューを果たしていた。彼がかけもちで参加していたいくつかのバンドも演奏力が認められていて、彼はドラマーとして活躍していた。
とにかく音楽漬けの毎日だった。一時はかけもちで十バンドほどに加入していて、週に三本のライブをこなしていた。タレントのバックバンドを一回約五万円で引き受けたこともある。授業に出ないので、二年生に進級したあと、彼は二度の留年を経験した。たまに講義に出席すると他の学生たちが驚いた。
しかし、いよいよプロデビューかというときになって、過熱していたバンドブームの火がいきなり消えたのだった。すると、日頃から尊敬していたミュージシャンたちの苦しい現状を耳にすることも多くなった。
「○○さんでも生活苦しいらしいよ。全然、バンドで食えてないんだって」
そうした話題を耳にしていると、有田はどうしても自分のこれからのことを考えずにはいられなかった。
「自分が尊敬している彼らでさえ全然食えていない。じゃあ俺なんか全然ダメかもしれない……」
だが、それでも音楽が嫌いになるわけがなかった。いつまでも続けていくことができるように思えた。
しかし、そうは思っても出鼻を挫《くじ》かれるように訪れた環境の変化のなかで、音楽をやって食べていけるという自信を有田は感じることができなかった。
友人から学習塾の仕事の話がきたのは、まさにバンド活動に見切りをつけようかと迷っていた、そんなときのことだった。
「東大に行きたくなって受験勉強をしなくちゃいけないから、おまえ代わりに塾で働かない? 急に辞めるのは無責任だし、きちっと人を紹介して辞めたいんだ」
と高校時代の友人が電話をかけてきたのだ。
どうして自分などにそんな電話をかけてきたのだろう、と疑問に思いながら有田は考えた。
バンドをやめたところで、いったい何をしたらよいのかわからない。しかし、だからといって、その誘いに応じることは躊躇《ためら》われた。いままで、「バンドは本気でやっている」と周りの友人たちに主張し、「自分の音楽をやるんだ」と強調してきた自分が、降って湧いたような塾の仕事にあっけなく入っていくなんて、と思った。それに何年もこだわってきた音楽やバンドとの決別は、有田にとってそう簡単なことではなかった。
彼は悩んだ。気持は塾で働くほうへと揺れている。しかし、その選択をするには何か納得できる理由が必要だった。夢を諦める言い訳が必要だった。
楽しいからやっているはずの音楽が仕事になったとしたら、おそらくその楽しい部分が失われてしまうに違いない、と彼は考えることにした。自分がアイディアを思いついたときに曲を書くことは楽しい。しかし、プロとして「いつまでに作れ」と言われたら、あるいは「売れる曲を作れ」と言われたら……。
「俺はそれを乗り越える根性がない、それほどには音楽を愛していない、あくまでも趣味の範囲なんだ」
こうやって、バンドや音楽から離れるための正当な理由づけや、辻褄《つじつま》合わせを何度も彼は頭の中で繰り返した。「もう音楽なんて二度とやるものか」と強がり、矛盾から逃れるために言い訳を考え、納得できそうな説明を一生懸命つけようとした。
そして、ようやく自分の中で気持の整理がつくと、彼は塾の仕事を引き受けることに決めた。
もうすぐ二十一歳になろうとしていた。
一九六七年、有田は鎌倉で生まれる。
父親は大手企業のサラリーマンで、母親は私立に通う比較的裕福な家庭の子供を対象にした学習塾を経営していた。
小学生の頃、有田は近所では有名なガキ大将だった。目立つことをするのが大好きで、学校の窓ガラスを割ったり、シーズンオフのプールに池から鯉を移して釣りをしたり、教室からアルコールランプを根こそぎ盗んだり、と何かと話題に欠くことのない少年は、いつの間にか小学校全体でも名前が知られるようになっていた。高学年になると中学生の不良少年たちに絡まれることもあった。しかし、「お前、中学に来たらシメるからな」と凄む中学生たちを、有田は商店街の真ん中で殴り倒した。
彼は中学での自分の活躍に思いをはせていた。
「中学に行ったら不良になろう。そして、女の子たちと学園ドラマみたいな青春ごっこをやるんだ」
そのまま公立中学校に行っていれば、有田は間違いなく不良少年としての青春を謳歌していたことだろう。
しかし、そんなヤンチャな行動の一方で、有田には勉強に関しても好奇心の強いところがあった。暴れまくっていた彼が中学受験で私立を目指すようになるのも、そうした好奇心の強さを見て、「ひょっとして」と両親が思ったからだった。彼の少年時代は思わぬ方向へ動き始める。
彼は昆虫や岩石などの図鑑を熱心に眺めては、疑問の湧いた事柄を母親にしょっちゅう質問した。
「なんで地震が起きるの?」
「なんで戦争するの?」
学習塾を経営する母親は、地震のメカニズムを説明し、共産主義と資本主義や、宗教について語った。彼は熱心に母親の話に耳を傾けた。
「羹《あつもの》に懲りてなますを吹く、ってどういう意味?」
彼がそう尋ねた日など、母親は夕食のおかずになますを出して言った。
「これがなますよ」
母親が国語や社会など、文系が得意だったのに対して、父親は数学など理系科目に強く、図に表して説明してくれた。丁寧に説明をする母親とは逆に、父親は「そんなものもお前は知らんのか。自分で調べろ」と突き放すタイプだったが、そのおかげで有田はじっくりと一人で考える方法を学んだ。
そんな彼の向学心は、小学校低学年のときにはまだ直接成績につながることはなかった。ところが、五年生になった頃、「教科書の勉強ぐらいはちゃんとやっときなさいよ」と言われて一人で教科書を読むようになると、有田は空気中の水蒸気が飽和したかのごとく、みるみる勉強が得意になっていった。特別な問題集を解いたりすることは全くなかったが、教科書で疑問に思った箇所を両親に質問し答えが返ってくる、といった作業が楽しく、それを繰り返しているうちにいつの間にか姉のおさがりである六年生の教科書まで全て読んでしまった。勉強をしているという実感はなく、教科書という未知の世界が単純に面白かっただけだった。彼にとって勉強とは知りたいことに対して首を突っ込んでいく、という自分の内なる好奇心を満たしていく作業だった。
期待した両親が有田に大手予備校の模擬試験を受けさせると、十番台の校内成績を残した。その後、大手の学習塾に彼は入校し、クラス分けのテストでも上位に入る。中学受験まであとおよそ二年となって、ようやく「受験」がリアルなものとなってきた。しかし、とくにプレッシャーは感じなかった。むしろ、模擬試験や塾での成績が発表されるたびに、有田は志望校に合格することでクリアとなるゲームをやって遊んでいるような気分になった。そして、ずいぶんと前から中学受験の準備をしていた同級生が不合格となっていくのを尻目に、名門・栄光学園の難関を突破してしまったのだった。
「次は東大だね」
合格の日、母親が涙を流しながら言った。
栄光学園に入学したことで、当の有田も「東大」に興味を持ち始めるようになった。何しろ、合格した時点で東大に行くことが目標になるような中高一貫の名門校に、公立中学に行って不良になろう、と思っていた少年が通うことになったのだ。
東大での学生運動の話などを知ったりすると、さらに興味深い世界として有田の目には映ってくる。
「そうか、東大生が爆弾作ってんのかぁ、それもかっこいいなぁ、東大で爆弾作るなんて大物だよなぁ」
有田は入学当初から学年で二十番以内の成績を収め、栄光から東大へ行くことは、いつしか彼の思い描く人生と重なるようになっていった。
しかし、有田には一つだけ心残りもあった。それは、暴れ放題だった小学校時代に思い描いていた、共学の公立中学で不良少年のリーダー格になって学園ドラマのような青春を送りたい、という望みだ。
栄光学園という男子校でその望みを叶えることは難しく思えた。自由な雰囲気のせいか、煙草を吸っても髪を染めても、「そういう生き方もあるんじゃない」と言われてしまいそうなムードが学校を覆っていた。「不良」としてではなく「そういう奴もいるよな」といった受け入れ方をされてしまう。それではつまらなかったが、そうやって悶々としながら、彼は二年生に進級していくしかなかった。
ロックバンド・横浜銀蠅の存在を知ったのは、まさにそんなときのことだった。それまで、彼は「友達の中からただ一人、みなの知らない『勉強』の世界に旅立っていった自分」という孤高を気取ることで、「不良」として学園ドラマ的な青春を送れない現実を自分に納得させようとしていた。ところが、そんな彼を導くかのように、横浜銀蠅の音楽は彼に代わりの自己主張の手段を与えたのだった。いままで聴いたことのないような攻撃的な音に触れて、かっこいいぞこれは、と有田は思った。
「これかな?」とひらめいた。
バンドを始めれば、自分の存在を強くアピールできる気がした。公立中学に行って満喫するはずだった青春を自らの手で作り出せるかもしれない。
そうして、有田は栄光学園に通うあいだ、ずっと、バンド一色の生活を送ることになる。
彼が音楽に熱中していくのにそう時間はかからなかった。始めてすぐに、実際に曲を演奏するには多大な努力や工夫が必要なのだ、と感じた。
作曲には時間がかかる。練習にも時間がかかる。そして、人を感動させるオリジナル曲を作ろうとすればするほど、音楽の奥の深さにはまり込んでいった。楽しくてたまらない。
生活はバンド活動のみが重視され、一年が経ち、二年が経ち、三年が経っても、音楽の世界にすっぽりとはまり込んだまま出てこられなくなった。すると、学校での成績は次第に下降していく。高校三年になってライブハウスに出演するようになると、最後には学年でもビリから七番という惨憺《さんたん》たる結果を出した。
しかし、成績が低迷するなかでも、有田は「東大に行く」という自分の人生を夢にも疑わなかった。このとき、彼は「バンド」と「東大」という二つの物語を自分のなかで交錯させていた。バンドに熱中し、小学校からの友人とバイクを盗んで暴走族の集会に参加したりしながら、東大ももう一つのストーリーを完成させる要素であることに変わりはなかった。
栄光学園では、単純に言ってしまえば、勉強していた者が東大に入り、少し冴えない者が早稲田や慶応に入学することになるようだった。だとすれば、ビリから七番の成績で東大に入るというストーリーは、むしろ最高のお膳立てともいえた。
そして、彼はそんな逆転のシナリオを想像し、一人演出しようとしていた。圧倒的なストーリーを作りたかった。週刊誌の東大合格者欄に自分の名前を載せたかった。
しかし、その物語は彼にとってバッドエンディングを迎える。東大合格者名簿に彼の名前はなかった。かわりに彼の知っている名前がちらほらとその中にあった。
有田にとって初めての挫折だった。悔しくてたまらなかった。東大に落ちたことが悔しいのではなく、自分の描いたストーリーの完成とはほど遠い結果になったことに挫折感をおぼえたのだった。
「いいさ、慶応に行ってバンドをやるんだ」
彼は開き直るように自分にまた言い聞かせた。
その数年後、たくさんの子供たちから塾長と呼ばれるようになるとは、夢にも思っていなかった。
二十歳だった有田が講師として働くようになったとき、学習塾「ウィルアカデミー」は大手予備校のフランチャイズだったが、当時ではまだ珍しい「少人数制」のシステムをいち早く導入していた。
大手予備校のフランチャイズであるがゆえに、いくつかの規則が大学生の講師たちに課せられていた。なるべくネクタイにスーツを着用、ジーンズでの授業の禁止、「大人として」ある程度きちんとした頭髪をすること、といった身だしなみについての項目から、体罰は不可、上手な叱り方、宿題の出し方、授業の進め方、塾外で生徒との個人的な接触を避ける、教室には十五分前にきて環境が整っているかどうか確認する、といった具体的な項目まで、多くの規則が設けられていた。
有田が任されたのは小六と中二のクラスだった。しかし、その手のマニュアルを彼は守ろうとしなかった。もともとバンドをやめて、どうしたらよいのかわからずに飛び込んだ世界だ、という多少ヤケクソ気味な思いもあった。
裏マニュアルとして「頭髪の茶色い子供がいる場合は、それを事務員に報告する」「茶髪の生徒は入塾を断る」といったものもあったが、彼自身、バンドをやっていたときのままの姿で、金色に染めた長い髪を黒くすることも切ることもなく、ジーンズ姿で働いていた。その授業風景は異様な雰囲気を醸し出した。
しばらくすると、彼は深夜に一部の生徒とバイクで遊びまわるようになる。授業も指定されたテキストは使用せずに、「俺が教科書だ」という姿勢で行った。本社の社員が査察に訪れたりしたら、間違いなくまずいことになっただろう。
そんな有田がクビになることもなく、自由に授業をコーディネートできたのは、当時の女性の塾経営者が、彼を許容したからだった。三階建ての住宅の一部をレンタルスペースとして活用できないか、という経営者の考えによって始まった塾だったとはいえ、どうせならリラックスした自由な雰囲気にしていきたい、と彼女は思っていたようだった。そして、塾経営の経験のない彼女が、フランチャイズとしてのこれからを模索しているところに登場したのが有田だった。まだ若い有田がド派手な金髪で授業をすることに、彼女は何の文句も言わなかった。
当の有田もただ派手で個性的なだけの授業をしようと思っていたわけではなかった。有田は塾や予備校に通っていた経験や、母親が学習塾を経営していたことから、塾がやっても許されることや羽目を外せる限界を知っているつもりだった。また、押さえなければいけない事柄など、ルールを自分なりに持っていた。
そうした哲学の多くは、彼が高校のときに通っていた塾の女性講師からの影響を強く受けたものだった。
当時、彼が通っていたその学習塾は数学を専門に教える、鎌倉周辺の成績優秀な者たちのみを集めたところだった。彼女は数学を受験テクニックだけに留まらない深い「学問」として教えていた。高校生だろうが中学生だろうが区別することなく、学問の延長線上には何があるのか、人間探究や哲学、宗教というレベルにまで達して伝えようとするその姿勢に、彼は感動せずにはいられなかった。
「人間の綺麗な部分も汚い部分もさらけ出して、お互いがまず人間であるってこと、先生も生徒も同じ人間だってことを認識しあわなければいけません」
これこそが学習塾のあり方だ、と思った。
塾に通ううちに、有田は自分自身のありのままを彼女に伝えるようになった。バンドをやっていること、いろんな悪さをしたこと、全てを彼女に語った。すると、彼女は「いいんじゃないの、そのエネルギーは大事だよ」とまず彼を肯定した。そして、「そのエネルギーは数学でもっと発散できるよ」と、当時の彼には信じられないようなことを言ったのだった。
しかし、彼女の話に耳を傾けているうちに、彼はその言葉が本当だと思うようになっていく。彼女の授業はエキサイティングで、スリリングなものだった。やればやるほど数学が面白く、奥深いものと感じられた。
そのことを伝えると、彼女は言った。
「数学だけがどうこう、っていうわけではないの。人間の活動っていうのは全て文化そのもの。たとえば、性欲や食欲などの欲望を学問や芸術に昇華するのも人間だし、ただお腹を満たすだけではなくて、そこに文化を求めるのは人間だからでしょ? だからこそ一流の料理は文化になる。そして、食欲や性欲が満たされても、何かを知りたい、どうしても解き明かしたい、っていう欲は残る。人間は最終的に知識欲を満たしたくなる動物ってことね。だから、まずはあらゆる欲を満たして、それからさらにその上にある知識欲を本当に追求していったら、君は学問に関して成功するよ」
栄光学園での成績は低迷していたが、有田はその言葉を噛み締めた。それはずっと彼の心に留まり続けた。
卒業のとき、彼女と生徒たちは「同じ文化人としてこれからも生きていきましょう」と誓い合った。彼女の言葉の一つ一つは、有田にとって生涯忘れられないものとなった。
ウィルアカデミーで有田は、その女性講師のやり方を真似しているわけではなかったが、考え方のなかの大きな柱は彼女の哲学を咀嚼《そしやく》したものだった。大手予備校のフランチャイズとして堅実に経営していた学習塾で自分の方針を大胆に貫けたのも、それが自信になっていたからだ。
そんな有田の授業に真っ先に興味を示したのが生徒たちだった。
彼の授業は他の講師たちと一線を画していて刺激的だった。そして、禁止されている塾外での付き合いを積極的にする彼に、生徒たちが心を開いた。生徒をバイクに乗せることなどは日常茶飯事だった。それに対して「バイクを運転してみたい」「後ろに乗せてほしい」といった生徒の要望も日に日に多くなっていく。
同時に彼の授業を受ける生徒たちの成績も着実に上がっていったことで、塾は目に見えて活気づき始める。
「基本を何度でもしっかりやっておくっていうのが一番大切。そのためには教科書をやるのが一番いいんだよね。応用問題はその後。基本ができてないのにいきなり難しい問題をやっても風呂を空焚きするようなもんだから、まずは水をしっかりためなきゃ」
僕がウィルアカデミーの生徒だった頃、彼にこんなことを言われたことがある。彼の授業はいたってオーソドックスで、英語などでは難しい英文を読むことよりも、まず基本の文法を何度も繰り返し説明するものだった。
教科書の最初に書いてあることを理解していれば、その後の発展が見込めることは有田が経験的に知っていることだった。有田は彼自身が高校時代に出会った塾講師に導かれたように、生徒たちを学問のなかに秘められた面白さを発見するためのとば口へと案内しようとしていた。
そして、何より生徒たちが有田の声に耳を傾けたということが、成績向上に結びついたのだった。同じようなオーソドックスで簡潔な授業でも、学校の教師の多くはなかなか生徒の心を惹きつけることができない。しかし、有田の授業には皆が真剣に聞き入った。ド派手な金髪のお兄さんが大真面目に講義をする姿は、見ようによっては滑稽なところもあったが、生徒を惹きつける力は強かったのだ。
半年もすると、有田は生徒たちの人気者となった。彼らは勉強以外にも面白そうなことをしてくれる有田の授業に惹かれ、「次は何をしてくれるんだろう」と期待するようになった。そして、その期待感が授業を真面目に受けさせる原動力になる。じきに彼を慕う生徒が友達を連れてくるようになり、その子供たちが同じように、「この授業を受けていると何か面白いことがありそうだ」「真面目にやっていればご褒美があるぞ」と期待し、また友達を連れてくる、というサイクルで塾の生徒数が徐々に増加していった。そして、有田が働き始めたときは三十人ほどだった生徒数が、半年で二倍、一年で三倍の百人あまりにも増えたのだった。
「きみ、塾の経営をやってみない?」
当時の塾経営者から唐突にそう言われたのは、そうして生徒数が百人規模に膨れ上がった頃のことだった。
話を聞くと、塾経営者の家庭事情が混乱していて、とても塾どころではないので、潰すのももったいないから引き継がないか、とのことだった。
「もともとがバンドをやめて目標もなく、何をしたらよいのかわからずに飛び込んだ世界なのに、なんだかいい話が舞い込んできたぞ」と、そのとき有田は素直に思った。そして、宝くじに当たったような気分に襲われながら、「本当にいいの?」と心で呟いていると、塾経営者は言った。
「潰しちゃってもいいからさ。ダメでもいい」
かつて思い描いた一発逆転で東大合格というストーリーは破綻し、ミュージシャンになるという物語も完結を待たずに立ち消えた。そこに突然現れた塾が、約一年間を講師として働き、これから二十二歳になろうとしていた彼に思わぬ矢印を示したのだった。
「選択ミスをしたわりにはいいものを与えてもらったのかもしれないな。俺みたいな人間のなかにはもう一度受験して東大に入りなおそうとする奴もいれば、バンドを続けるためにアルバイトをしてる奴もいる。そのなかでは自分はまだマシなのかもしれない」そんな気持だった。不安は全く湧いてこなかった。「大学にいても意味なんて何もないからな」と思い、時を同じくして彼は大学も中退する。
その若さにして塾長になると、有田はウィルアカデミーを大手フランチャイズから独立させた。そして、塾の三階に自分の部屋を作り、その他の部屋を全て教室として使った。
それまでは講師として生徒たちと関わっているだけでよかったのが、入れ替わりながらも常に七、八人はいる講師たちの指導や事務の管理、テキストの作成、親への対応、授業と、仕事は目の回るような激務と化した。
塾はあっという間に彼の色で染められ、ますます個性的になっていった。
バイクに乗りたいという生徒がいたなら、有田は「乗るならちゃんと乗らないとね、俺がお手本を見せてあげるよ」とバイクに乗ってみせ、釣りが好きな子が現れれば「ちょっと俺にも釣り教えてくれよ」と言って真剣にやり始める。生徒としょっちゅうCDの貸し借りをして、生徒が知らない音楽のジャンルやアーティストを教えたりもした。そして、生徒たちが勉強に行き詰まって辛い思いをしているとき、有田との関わりの中で新しい世界を発見することは、彼らに自分の居場所が塾にあることを感じさせ、新たなやる気を生ませるのだった。
僕自身も彼に多くのことを与えられた。高校を一年で中退して大検に合格した頃、大学に行く意味を僕は必死に探していた。母は「二十五歳くらいになってから行きたくなったら行けばいいじゃない」と言っていたが、僕は焦っていた。
「大学に入ることに何の意味があるんですか?」
すがりつくような気持で塾長に尋ねたものだ。そんな僕に彼はこう言った。
「大学に行くことに何の意味があるかなんて行ってみなければわからない。でも、大学に行きたいのに行けなかった奴と、行けたんだけど行かなかった奴のどっちが格好いいと思う? だから、とりあえず行ってみて、それで意味がないと思ったらやめてしまえばいい。大学では何でもできるんだから。四年間何もしないことだってできる。俺の友達には四年間ずっと人間観察ばっかりしてた奴もいるよ」
それは彼だからこそ言えることだった。彼自身が大学を中退している、「行けたんだけど行かなかった奴」なのだ。僕はこの言葉に背中を押されるようにして、受験勉強にとりあえずの意味を見つけた。いま思えば彼は僕のことを理解してくれていた。彼は僕が本当は大学に行きたいことを知っていた。ただはっきりとした理由が欲しかっただけ、ということもわかっていた。だから彼はそう言ってくれたのだ。他の多くの生徒たちと同じように、彼は勉強をするための目標を僕に持たせた。
ウィルアカデミーで有田は、「変わり者」と見られたり「オタク」と呼ばれたりするような生徒の趣味や行動、言動を美徳として扱った。
「よくオタクって言って人をバカにしたりするけど、オタクっていうのは世界を支えてるんだよ。たとえば、君らは電子レンジを使うよね、冷蔵庫がなくちゃ困るよね。ああいうのは全部オタクが作ったものでしょ?」
そのことに早く気づいた奴が勝ちなんだぜ、と言わんばかりに、生徒たちに向かって有田は喋る。
そうして、勇気をもって一つだけ自分の個性を出してみると、それが意外にも周りにウケがよいことに彼らは気づく。すると、それが快感に思え、自信をつけ、さらに個性を発揮するようになっていく。「変わり者」は「個性派」、「オタク」は「スペシャリスト」と思えるようになる。音楽であったり車であったり釣りのことだったり、彼らが学校で進んでは口にはしないようなオタクな会話、そうした話で盛り上がることのできる場所に塾がなるのだ。
次第に彼らは塾のなかでお互いに心を開いていった。
有田は子供たちが自分を開示していく様子をみて、おもしろいな、と思った。結局、彼らが求めているのは真のコミュニケーションだ。しかし、どこに行けばそれがあるのかがわからないのだ。
有田はそんな彼らと積極的に行動をともにした。彼らと授業後に延々と音楽について語り合ったり、車で遊びに行ったり、夜おそくから釣りに出かけたりしていると、どこまでが月謝の範囲なのかわからなくなることもあったが、そんな境目のない状態が自分には合っているように思えた。ウィルアカデミーは子供たちに、家や学校の外にある世界と触れる機会を確実に与えていた。
しかし、地元で有名になるにつれて、そんな有田のやり方をよく思わない保護者が、彼のもとにやってくるようにもなった。彼らは、子供が話に夢中になって塾からなかなか帰ってこないことや、塾の帰り道で道草をくっていることをよくは思っていなかった。
「塾なんだから勉強だけ教えていればいい。そのために金を払っているんだから」
「バイクや音楽の話なんかすると子供に悪影響が出る」
「勉強の邪魔になるようなことばかりをして……」
有田と生徒との関わり方に彼らは不満をもっていた。
彼はそういった保護者に対して、何の言い訳もしなかった。保護者たちは自分の子供の成績を上げたいからこそ「わざわざお金を払っているのに」と言っているのだ。そのことは当然理解できた。
「音楽と同じようなものだ」と有田は考える。彼はかつて、入念なリハーサルを繰り返し、とことんまで突き詰めて曲を作っていた。しかし、それを聴く聴かないの自由は、あくまでも聴き手にある。だからこそ、有田は批判があったとき、その成り行きに任せ、自分の意見を押し付けたり、相手の意見を否定したりはしないのだった。
しかし、それでも「ああいう子をこの塾では受け入れているから、うちの子が迷惑するんです」と他の生徒を攻撃して塾を非難する保護者に対してだけは、「それは違います。それなら他の塾に行ってください」とはっきり告げた。大手予備校のように薄利多売をしているわけではない少人数制学習塾において、八方美人でいることは不可能だった。
一方で、そんな有田のはっきりした主張に感銘を受けた保護者たちも多くいる。彼らは塾に来ると言った。
「目先の成績は気にしないで、この子を本当に賢くしてやってください」
「この子に勉強っていうものの意義を第三者の言葉で教えてほしい」
「この子が最終的に自分から学問の方向に進めるような土台としての学習体験をさせてやってほしい」
彼らはウィルアカデミーにとってのお得意様となった。
忙しい毎日をグルグルとこなすうちに、月日はめまぐるしく過ぎ去っていった。一年、二年、三年……、さまざまな批判を受けながらも、ウィルアカデミーは成功への階段を駆け上がっていくようだった。駅前に大手塾が出現して地域の中小規模の塾が消えていくなか、生徒数百人を超えた状態を常に保っていた。経営は順調だった。
しかし、塾の経営が上手くいっていることを、有田はどうしても成功だと思うことができなかった。何をしたらよいのかわからないままウィルアカデミーで働くようになり、いつの間にか周りが「塾長」と自分のことを呼んでいる。月収百万円を超え、三十代半ばの銀行員が手取りでもらうくらいの年収を二十三歳にして得ていた。それでも、自分が優秀だとは少しも思えなかった。
「俺はなにしろ大学中退しちゃってんだからな……」
塾を任されるようになった頃に、有田は大学をやめた。大学なんて行っていても意味なんか何もないな、と思ったからだ。中退することに、とくにこれといった理由なんてなかった。しかし、有田は同年代のかつての友人たちと全く会おうとしなかった。会うのが怖いような気分だった。大学を中退して塾の講師をやっている自分を彼らに見せたくなかった。「大学やめて何してるのかと思ったら塾の先生なんかやっちゃってるよ。しかも、お前は音楽やるって言ってたんじゃないのか?」と思われるのが嫌だった。
そんなとき、ある程度の金を稼いでいることだけが慰めだった。経済的に成功していることで納得するより仕方がなかった。公立中学で青春を送ろうと思っていた、東大に行こうと思っていた、プロのミュージシャンになろうと思っていた。しかしそれら「望んだこと」は何一つ実現されなかった。たしかに塾の経営は成功しているが、べつにベンチャービジネスを志すようにして起業したわけではない。偶然がもたらした結果にすぎない。東大もバンドも、自分のストーリーが何一つ完成していないのに、なぜかお金だけは稼げていることが不思議だった。
「いまはたまたまいいけど、要するに、こんな状態が続くはずないな。これは一時のまやかしだ」
自分にそう言い聞かせながら、有田は目の前にある現金に頼るようなことはしなかった。
偶然に巡りあったような経済的な成功にありがた味など感じなかった。塾の成功は、彼が自分自身で「思い描いた物語」ではなかったからだ。金なんてあるうちに使ってしまえと、趣味の車を何度も買い換え、そのつど改造費に何百万と費やした。バイクもたびたび改造した。おかげで塾のガレージは、車の座席、タイヤ、工具類、改造されてサーキット走行用のようになったバイク、訳のわからない部品類などで埋め尽くされた。競馬が面白いと思えば、毎週横浜へ馬券を買いに行き、ときには百万円単位の勝負をした。釣りに熱中すると釣具を意味のないほど買い込んだ。二十六歳のときにはウィルアカデミー兼自宅である三階建ての建物さえも買ってしまった。
この頃から、有田の心には何をやっても消えることのないストレスが染み付き始めていた。塾の経営は順調で経済的な意味での成功を果たした。彼にはこれから自分が何をすればいいのかわからなくなっていた。
「塾としてみれば、もっと大きくして駿台予備校のようなスケールにするということまであるけれど、さすがにそれは無理だろう。だからといって、どこへ行けばいいんだろう……。だいたい俺は何のために働いているんだ?」
たしかに毎日は忙しかった。しかし、そのことを辛いと感じたことは一度もない。辛いのは、「個性的な」というイメージで固まってしまった塾を、これからも維持していかなければならないことだ。前に向かってがむしゃらに進んでいるときには、新しいアイディアを考え、行動していればそれで楽しかった。そして、斬新な方法はウィルアカデミーを大きく伸ばした。しかし、その斬新さが世間に認められたことによって、やりたいことをやっているだけの時間は終わってしまい、今度は計算ずくで個性的な塾のイメージを守っていかなければならなくなった。もはや、ウィルアカデミーは「潰してもいいから」と言った前塾経営者の言葉を完全に離れた存在になっていた。
失敗が許されないというプレッシャーを感じた。手をこまねいているうちにも、新しい生徒が次々と入ってくる。生徒は毎年のように変化していく。しかし、ウィルアカデミーには歴史や伝統というものがない。有田の出現によって、ぱっと花開いた塾なのだ。そんな塾をどう維持すればよいのか、いったい自分がどうしたいのか、有田にはわからない。宙に浮いてしまったようなおぼつかない気分だった。しかし、塾の斬新さを守るためには止まることもできない。何のために働いているのかがわからないのに、それでも前に進まなければならない。そうした葛藤は大きなストレスとなって彼を覆ってくる。
授業が終わると、有田は改造車や改造バイクに乗って爆音をたてながら公道を走り回った。箱根の峠をバイクで攻め、車をドリフトさせた。生徒を連れてタイヤを唸らせながら箱根を攻めたこともあった。しかし、バイクに乗ってデカイ音を出しても、カラオケのレパートリーを増やすためにCDを買いあさって音楽を聴いても、毎晩のように釣りに出かけても、後には何も残らなかった。発散しようとしたストレスはすぐに何食わぬ顔をして現れ、薄まりはしても決して消えない。
塾を必死に守り、自分以外の多くのことに気を配り、ストレスを溜め込みながら、気がつくと有田は三十歳になっていた。その間、何百人もの生徒が入塾しては卒業していった。
その頃になって、彼はいったい自分に何が本当に必要なのかを真剣に考えるようになった。自分がほんとうに欲しいモノを見つけるために、誰もいなくなった塾の建物の一室で一人考え続けた。それは金ではなかった。若くて美人の奥さんでもなかった。金は一見無駄にも思えるような車の改造や、競馬などの趣味のために使いまくった。しかし、金は所詮は金でしかない。美人の奥さんだって、歳をとれば容色は衰える。
「いま、自分は何が欲しいんだろう?」
教科書に好奇心を覚えた小学校時代、どうしたら人を感動させることができるかをとことんまで問い詰めたバンド時代、ウィルアカデミーを成長させるために新しいアイディアを考えていた講師の頃。そうやって自問自答を繰り返すことこそ、幼い頃からずっと続けてきたはずの、自分自身がどうありたいか、という純粋な気持を大事にする彼本来の姿だった。東大に落ちたとき、バンドをやめたとき、塾を引き継いだとき、いつもそうやって一人で答えを見つけようとしてきた。
一人考え続けるなかで、高校時代に出会った女性講師がよく口にした言葉を思い出した。
素晴らしい音楽を作りたいと思って、どんなにいい楽器、いい機材を使っても、やはりアイディアが乏しければほんとうの文化には到達しない。それは、言葉にしてしまえば当然のように思えた。しかし、その言葉を体で理解することは決して簡単なことではない。
有田にとって、自分の人生を前に進めるために必要なもの、それは、これからどう生きていこうか、というプラスの矢印だった。今それをどれだけ持っているかが重要だった。
「欲するモノは、ひょっとすると、興味のあること全部を解き明かそうとする生き方かもしれないな」
学問の現場にいこうと有田は思うようになっていた。
「まずはあらゆる欲を満たして、それからさらにその上にある知識欲を本当に追求していったら、君は学問に関して成功するよ」
高校時代の女性講師は、そう言っていた。
「学問は日々進化し続け、新しい発見がなされているはずだ。その場に俺は行きたい」
欲求不満が爆発したように有田はそう思った。まるで自分が学問に呼び戻されたような感覚だった。
三十二歳になった有田は、塾の経営を縮小している。生徒の数を減らし、講師も塾長の彼ただ一人でまかなうことにしたのだ。
それでも、塾の風景に大きな変化はない。相変わらず生徒たちは夜遅くまで塾に残って談笑をしているし、有田も頻繁に車に生徒を乗せて、音楽や車、バイク、釣りなどの趣味を生徒たちと楽しんでいる。とくに音楽に関しては、バンドを再開して曲を作り、レコーディングもしながら地元のライブハウスに出演するなど、精力的な活動をしている。バンドのメンバーには一時ウィルアカデミーの生徒が参加したりもして、ライブではかなりの盛り上がりを見せる。塾内でも生徒どうしでバンドを組む者が増えた。
塾の様子は今も昔も同じように見える。塾は相変わらず斬新さを増し続け、個性的だ。しかし、一つ変わったとするならば、それは有田本人だった。彼は「学問の世界」に行く準備を着々と進めていた。
「医学部に行こうって考えてるんだ」
久しぶりにウィルアカデミーを訪れた僕に、彼はそう言った。
「一番好奇心をくすぐられるのはそれだね。医者になるっていうんじゃなくて、人の精神と肉体の境目を知りたくなった。それに、自分が受験をすることによって、生徒が直接味わう痛みなんかが手に取るようにわかるはずでしょ。一方的にただ教えるだけってすごく簡単なことだからさ。予備校の先生なんかに受験しろって言ったら、ストレスを感じて昨日自分が教えていた問題もできなくなるかもしれない。
小さい頃から、勉強は若いうちしかできないんだから、って言われてたけど、それは嘘だと思ってる。勉強は自分に火がつけばいつでもやれるよ。それに、自分を切り開く、なんて大それたことじゃないんだよね」
焼け野原に一粒の種を植えるようなゼロからの出発を、彼は喜んでいるように見えた。
ふと時計を見ると朝の五時を回り、空はもうすでに白み始めていた。話をしている間、つけっぱなしだったテレビから、オウム真理教の幹部だった男が刑期を終えて出所した、というニュースが聞こえてきた。ブイーンという蛍光灯の音が静かに響いている。そのとき、僕はこの時間になっても自分が塾にいることに再び懐かしさを感じた。
「ウィルアカデミー」は、大学に入学して東京に出ていくまでの間、僕の大切な居場所であり続けた。高校を一年で中退した僕を、勉強の面でも精神的な面でも支えてくれたのがこの塾と塾長の有田淳だった。彼の言う通りにすればどうにかなる、という安心感は何にも替えがたかった。
いま思えば、僕がそこまで彼を信じたのは、思春期真っ只中の十六、七歳だった僕にとって、二十代の若者だった彼が最も近しい「大人」だったからかもしれない。僕にとって彼は「尊敬する遠い存在」であると同時に、僕と同じ「こちら側」にいる唯一の「大人」でもあったのだ。
しかし、僕が二十一歳になり彼が三十二歳になったいま、自分が以前ほど彼のことを遠い存在としては見ていないことに気づいた。かつては確かにあったはずの「子供と大人」「生徒と先生」という境界線が、そこにはなかった。恩師と呼んでもおかしくはないような彼が伏し目がちに座っているのに直面していると、僕も少しだけ彼の近くに来ることができたように感じたのだ。それは不思議な体験だった。いままで、彼に理解されるだけだった僕が、彼の心の裡にある悲しみや葛藤を理解しようとしていた。あるいは、理解できるような気がしていた、というべきかもしれない。
「今日はありがとうございました。そろそろ帰ります」
そう言うと、彼は「うん、またいつでもおいでよ」と返した。一瞬、自分が十六歳の頃に戻った気がした。けれど、それは生徒としての僕に彼が言った言葉ではなかった。今後、彼が僕の「先生」になることはないだろう。
おそらく、彼はいままで人に語ることのなかった気持を、少しだけ僕に伝えてくれた。生徒としての僕ではなく、二十一歳の僕に。それは、「働く若者たちに話を聞いて、それを本にしたいんです」と言って久しぶりに塾を訪れた、かつての生徒へのプレゼントだったのかもしれない。彼は語ってくれたのだ。十六、七歳だった僕の目に完璧な大人として映っていた彼にも、悩める十代があり、人生を切り開こうともがく二十代があったのだ、と。そして、僕が二十一歳の若者であるのと同様に、自分も三十二歳のいまでも前に進もうとする若者なのだ、と。
それは、いままで僕が言葉としては理解していても、なかなか実感できないことだった。誰しもが悩める人間の一人であること、誰しもが大勢の中の一人であること、それを当たり前のことだと思いながらも、僕は実感することがなかった。けれど、自分にとってとても大きな存在である人が自分の半生を語るのを聞いたとき、僕はようやく当たり前のことを当たり前のこととして感じることができたような気がした。
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第八章 石垣島で見つけた居場所……サーファー、海人《うみんちゆ》になる
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夜の砂浜で、僕らは海を見ていた。
石垣島・白保《しらほ》。アオサンゴの大群生があり、世界でも貴重な珊瑚礁のスポットだ。丘の上からこの海を見下ろすと、青い海の中で珊瑚が、さらに青黒く群れをなして見える。そのときは台風が近づいていたせいで、波が強く海が少し濁っていたが、水の澄んでいる冬場になると本当に美しいという話だ。とくに夜中に潜って見るアオサンゴは格別らしい。
ここに新しい空港の建設が予定されていたのは有名な話だ。そのことが、社会的、経済的にどういう意味を持つのか僕にはよくわからない。だけど、丘の上から見ただけでも、白保の海は本当に綺麗で、もしこの場所が失われたらとても残念だと思った。
「ね、夜でもここは明るいでしょ?」
河村雄太が言った。
僕は以前に彼が口にしていたことを確かめるべく、ここへ車で連れてきてもらっていた。
「夜でも白保の海岸は昼みたいに明るいんだよ。月が出ていればとくにね。でも、月がなくても星明かりだけで十分に明るいんだ」
前に東京で会ったとき、彼はこんなことを言っていた。僕はその光景がうまく想像できず、石垣島に行ったら是非とも見てみようと思っていたのだ。
確かに、白保の海岸は明るかった。さすがに昼のように明るいわけはないが、空から降ってくるわずかな光を白い砂たちが一生懸命かき集めたみたいに、辺りは不思議な明るさに満ちている。砂浜に映る自分の影が、くっきりと濃く見えた。
どこかから三線《さんしん》の音が聞こえてくる。それ以外には波の音しか聞こえない。一キロほど先にあるリーフの辺りで、白い波が砕けているのが夜でもしっかりと見える。木で作られた小さな船着場で、サバニと呼ばれるくり舟がゆらゆらしている。とても静かで、小声で喋りたくなる。
高校を一年で中退してすぐ、僕は当時雄太の住んでいた那覇に遊びに行った。彼は僕の従兄にあたる。そのときは琉球大学の学生だった。僕と同じ高校中退組で、大検を経て大学に入った。
彼はまだ十六歳だった僕を引き連れて、昼間も夜中も車で走り回ってくれた。海にも一緒に潜った。はじめて見た珊瑚礁の美しさを、僕は今でも忘れていないし、きっとこれからもずっと忘れない。
自分ではっきりと意識していたわけではなかったが、あの頃、僕はなんだかんだ言って高校をやめてしまったことに、結構傷ついていたのだと思う。一週間ほど彼と遊んでいるうちに、みるみる頭のなかがスッキリして、帰る頃には「さぁ心機一転だ!」とかなり気合が入っていた。
それから五年が経った。
雄太の現在の生活を見るために、そして言葉を交わすために、僕はふたたび沖縄に来た。当時は彼がそこにいることに特に疑問を感じなかった。しかし、いまは違う。僕は彼のことを知りたかった。彼があの時、どうしてそこにいたのか、そして、どうしていまここにいるのかを知りたかった。彼が飛び立った場所をこの目で見てみたかった。
石垣島は、台湾までの距離二百六十キロ、東京まで千九百五十七キロ。彼はここで何を感じ、何を得たのだろう。
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雄太には忘れられない記憶がある。
小学校低学年のとき、雄太は当時住んでいた北九州の百貨店でプラモデルを万引きした。ほとんどの子供が一度は通過する儀礼のように、そんなイタズラが発見されてしまい、母親が店に呼び出されて説教を受けると、その帰りに彼は家から遠く離れた場所まで友達とウナギ釣りに出かけた。ウナギは全く釣れなかった。
夢中になって川で遊び、そしてどれほどの時間が経過したのだろうか、靴や服が泥だらけになってしまった頃、ようやく家路についた。靴は捨ててしまおうかと思うほどに汚れていたので、仕方なく裸足で遠い道のりを歩いた。
家に着くと、母親が血相を変えて待っていた。
「お父さんが話があるそうだから……」
なぜ父親が自分と話をしたいのかはすぐにわかった。
父親は無言のまま雄太を車に乗せた。
そして、ずっと黙ったまま車を走らせた。雄太も同じように黙っていた。
たどり着いたのは北九州市と福岡市の間にある遠賀川《おんががわ》の河口。真っ暗で、自殺の名所のような断崖絶壁の場所だった。
鳥肌が立つような風景のなか、さらに上に向かう階段を二人が登っていくと踊り場のようになっているポイントがあった。そこの手すりの前に雄太を立たせると、父親が口を開いた。
「お前は河村家に傷をつけた。こういう犯罪というのは許されない。責任を取って飛び降りて死ぬか? お前がそれでもいいと言うなら、俺も一緒に飛び降りて死んでやる」
忍耐や我慢を重ね、社会の枠組みの中で力強く生きていくことを良しとする堅実なサラリーマンの父親は、ときに雄太に対して厳しい教育方法をもって接した。
幼い頃、雄太は父親にヨットを習っている。彼は雄太が泣き出してしまうようなやり方でヨットの乗り方を叩き込んだ。自分の体よりもはるかに大きなヨットが転覆しても、「自分で起こせ!!」といつまでも放っておかれたこともある。
ヨットが転覆した場合、それを起こすには、ひっくり返ってしまっているヨットの底によじ登らなければならない。しかし、大人なら簡単によじ登れる高さでも、身長の低い子供にはどうしても登れない。雄太は泣きだしそうになるのを堪えながら、必死にヨットを起こそうとした。父親はモーターボートで近くまで来ると、「それはこうやって起こすんだ」と説明するのだが、どうしてもヨットは起き上がらない。じきに船は流されて完全にひっくり返ってしまう。そして、マストが水底に引っかかってどうしようもなくなると、ようやく父親はロープを使ってヨットを起こしてくれるのだった。雄太はそうしたやり方の練習を恐ろしく思い、毎週日曜日になるとお腹が痛くなったりしていた。
そんな父親が雄太を断崖絶壁に立たせたのは、子供に対して厳しいというよりも、人間として規律や義務を守らなければならないという一つの原則を、貫き通そうとした結果だったのだろう。
雄太にとって絶壁の向こうに見えた真っ暗な風景は、凄まじい恐怖だった。本当に突き落とされるかもしれない、という思いが一瞬のうちに脳裡を走る。崖や踊り場の手すり、そこへ通じる階段、真っ暗な世界……。
「いやだあ!! 二度とあんなことはしません」
雄太は必死になって言った。そして、その恐怖はその後も忘れられないものとなった。
父親の転勤によって、北九州から愛知県の清洲町(現・清洲市)に雄太が引っ越してきたのは一九八四年の三月、七一年生まれの彼が中学二年生になる直前のことだった。
引っ越し先の家の庭では、母親が買ってきたつつじがすでに花を咲かせていた。
それから間もなくして、転入手続きをするために、雄太は母親と一緒に転校先の中学校に行った。桜並木が連なる五条川沿いを二人で歩いていると、部活の帰りだったのだろうか、女子中学生が「あら、かわいい。転入生かしら?」と言っているのが聞こえた。
「かわいいですって。こっちの中学生はませてるわねえ」
それを聞いた母親は、そう言って雄太をからかった。
北九州での雄太は、学校で教師からの評価が真っ二つに割れてしまうような子供だった。それは彼が幼児の自発性を大切にするモンテッソーリ教育法を取り入れた幼稚園に通っていたことが少なからず影響している。そこは一斉保育をせずに、好きなことを好きなようにさせる自由な雰囲気の場所だった。そんな幼稚園で育った雄太は、子供にとって突然の環境変化でしかない学校の管理的な雰囲気に、簡単に溶け込んだり慣れたりすることができなかった。学校のなかで上手く生きていくために必要な、ある種のバランス感覚が雄太にはなかったのだ。
カール・ルイスや長嶋茂雄を知らないにもかかわらず、自分の好きなヨットやコンピュータのことは、それを教えた父親よりも詳しかったりする。喧嘩の仕方がわからずに、他の子供にイタズラされても我慢し続け、最後にはキレて机をひっくり返す。
教師たちはそんな雄太を「ユニークで面白い子」と評価することもあれば、「協調性がない、マイペース過ぎる」と言うこともあった。平均を逸脱した生徒の存在に教師たちは明らかに戸惑っていた。
それでも、北九州の学校は雄太にとってまだ自由があった。彼のユニークさに対してある程度は寛容だったのだ。
しかし、管理教育で有名な愛知県の中学校に来ると、転入手続きの日の朗らかさはどこにもなく、雄太は始業式の時点でそこに漂う禍々《まがまが》しい雰囲気に息苦しさを覚えることとなった。
授業開始と同時に、さまざまな決まり、「こうしなければいけないこと」が強要された。朝夕の部活、授業の受け方、そして日曜日の部活……、ひと月に一度の「家庭の日」と呼ばれる日だけが、部活の唯一の休みと決められていた。それを守れない生徒は「不良」という烙印を押される。
五月が過ぎた頃になると、雄太は訳のわからない不満やイライラを感じはじめるようになった。学校から帰ってくると、すぐにベッドに横たわって泥のように眠ってしまい、週明けの月曜日と火曜日には学校に行くことさえも辛くなってきた。毎週月曜日になると、どうしてもベッドから起き上がることができない。
「何で学校に行かない! そんな怠惰なことでどうする!」
頭が痛い、お腹が痛いと言う雄太を、父親はどうにかして学校に行かせようとした。そして最後には「そんなことで休むなんて許さん」とベッドから引きずり下ろした。
しかし、雄太が学校に行かないのは決して怠惰ゆえのことではなく、体が拒否してしまうことが原因だった。ひどいときは、父親が車で雄太を学校に連れて行ったのに、その車が戻ってくるよりも先に「お子さんが頭が割れるように痛いと泣いているので迎えに来てください」と学校から母親に連絡がある、なんてこともあった。
どうにかして学校に行かせようとする父親、何とかして学校を休むことを認めさせようとする母親の狭間で、二年間は過ぎ去っていった。
その頃、愛知県では高校を新設する事業の最終年度を迎えていた。雄太の通っていた中学と近くにある二つの中学では、生徒たちをその年に新設されたS高校に進ませる進路指導を行っていた。S高校を三つの中学校が全面的にサポートするという形で、各々の中学校で一番から百番までの成績の生徒を、半ば強制的に一つの高校に入学させるというのだ。そのせいで、名古屋大学などへの進学率の高いG高校へ行きたがっていた生徒にも、S高校を勧めるような進路指導が行われた。
月曜日と火曜日はほとんど学校に行かないながら、ある程度の成績を収めていた雄太もS高校に入学することとなった。
雄太は高校に期待していた。高校に入れば、さすがに何でも管理してしまおうという堅苦しい雰囲気は学校の中から消えるのではないか、と思っていたのだ。
しかし、その期待は入学式でいきなり打ち砕かれる。
「高校生活というものは大学に入るための、そして受験のための三年間である。そのためには根性と体力を養わなければならない。がんばるように」
新設校のため、一年生しかいない入学式で、校長はそんな挨拶をした。
「隣接する進学校に負けるな、そして追い越せ」、それだけがS高校の存在意義であるかのような、そんな印象だった。ついこの間まで中学生だった生徒たちはその言葉をどのように受け止めたのだろうか。
雄太は校長の挨拶を聞いた瞬間、自分の居場所はここにはない、と思った。
高校でも部活は強制だった。中学のとき、雄太はトランペットを吹くのが好きで、ブラスバンド部に入っていたのだが、「受験戦争というのは根性と体力の問題だ。よってそれを培うために文化部は不要」という学校側の考えによって、部活は運動部しかなかった。
雄太は競争することや、周りに合わせていくことが苦手だった。野球やバレーボール、サッカーなど、自分のペースでできないスポーツをするのは嫌だった。困った挙句、雄太は水泳部に入った。水泳なら自分のペースで動くことが可能だと思ったからだ。
S高校には一年生しか生徒がいないにもかかわらず、教師の数は二学年分、掃いて捨てるほどいた。よって、生徒指導ばかりに力の入った校風になってしまう。そんなにたくさん教師がいるなら、文化部を充実させてくれればいいのに、と雄太は思った。そうすればわざわざやりたくもない運動部などにいる必要はないのだ。
授業が終わった後、部活をサボって帰ろうとすると、教師が自転車置き場や校門の前で見張っている。
「なんで帰るんだ?」
「いや、ちょっと歯医者がありまして……」
「じゃあ、診察券を今度持ってこい」
驚いたのは、登校時や下校時にも一キロも離れた交差点で教師が見張りをしていることだった。事故や不祥事があってはいけないから……、それが理由だった。
登下校時にはヘルメットを被らなければならなかった。普段は格好悪いからと生徒たちはみんな外していたが、見張りの教師が見えると、すぐにヘルメットを被った。
ある日、試験の最中に一人の生徒が二階から飛び降りるという事件が起こった。幸い飛び降りた生徒の命に別状はなかったが、試験中の生徒たちに事件は隠された。
雄太が試験を受けていると、突然別の校舎から悲鳴が聞こえた。何が起こったのかな、と思っていると、救急車や報道関係らしき車がやって来て、校舎は騒然とした雰囲気になり始めた。
しかし、生徒たちには何も知らされないまま試験は続いた。「次は数学、答案を裏返して」と、教師は平然と告げて試験を開始する。
「実は二時間目の試験中に○○君が飛び降り自殺をしました。君たちは命を大事にするように。それと、両親にこの話をしないように」
生徒たちに事件が伝えられたのは、全ての試験が終了してからだった。そして、緘口令《かんこうれい》が出されたのだ。
試験勉強の仕方、宿題のこなし方、ノートの取り方、部活、登下校時の決まり、通知表は親が取りに来ること……、非行化する暇を与えないかのごとく管理はさまざまなことに及んでいた。生徒たちは大学進学への道を踏み外すことが許されていない。踏み外した者は異常者とみなされかねない。道の両脇は茨《いばら》で覆われ、外の世界をよそ見することは最初から認められていない。誰かが引いた道を誰かが決めたルールを守りながら、何のためにそれがあるのかもわからないまま、ただ黙々と進んでいかなければならない。
「考えるのは大学に入ってからでいいんだ。いまの君には勉強をすることが第一なんだぞ」
いろいろな悩みや疑問について尋ねると教師は言った。真綿で首を絞められていくように息苦しさが増していく。
雄太がとくに嫌いだったのは体育の授業だった。他の授業では椅子に座って考えごとをしたり、ただボケッとしていたり、パラパラマンガを描くなりしてでも過ごせるが、体育では自分一人がぼんやりしていたら、皆は自分をおいて走っていってしまう。他の授業なら心が授業に向かっていなくても黙っていれば時間は過ぎ去ってくれる。心を学校に預けなくてもどうにかなる。しかし、体育だけはそうはいかない。
雄太は一挙手一投足を教師の命令によって操られ、剣道や柔道ともなれば、それこそ軍隊のような指導をされることが我慢できないくらい嫌だった。一年生の後半になると、雄太は体育の授業を欠席するようになった。生徒手帳の欠課届け欄には、「体育休みます」という文字が溢れた。
入学した頃、成績は上位だったが、みるみるうちに下がっていった。高校では中学と違って、単位を一つでも落とすと進級が認められないので、雄太は自分をどうにか騙《だま》しながら学校という場所に踏ん張っていた。しかし、そこが自分の居場所だと感じられないところで生きていくためには、成績のことなど考えていられない。一年が過ぎ去ったとき、母親が通知表を受け取りに学校に行くと、ビリから何番目という順位がそこには記されていた。
春休みが明け、二年生になってしばらく経った頃、中学のときと同じように、雄太は学校に行くことができなくなった。
四月、五月は力を振り絞るようにして学校に通い続けた。その姿は傍から見ている限り元気な高校生そのものだった。しかし、六月になるとガソリンが切れてしまった車のように、ぱたりと体から精気が抜けてしまった。制服を着て玄関まで行っても、そこから足が一歩も前に進まない。何日も腹痛が続いて動けなくなることもあったし、激しい頭痛や吐き気を感じることもあった。
「そんなに大変だったら、学校に行くのをやめたら?」
その頃、父親は東京に単身赴任をしていて、雄太を無理やり学校に行かせようとする者はいなかった。雄太の様子を見兼ねた母親が言った。
その日から、緊張の糸がぷっつりと切れてしまったように、雄太はベッドから起き上がることすら困難になった。朝になって起き上がろうとすると、自分の体がどんどん地面の下に吸い込まれて、奈落の底に落ちていってしまうような気がした。
それ以来、雄太は高校に行くのをやめた。しばらくの間、朝と昼は眠り、夜になるとコンピュータでゲームをしたり、音楽を聴いたり、読書をしたりする生活を続けた。夜になるとコンピュータゲームの音が何時間も鳴り響いた。雄太はその機械的な音を聴いていると心が休まるのだった。
その頃、心配した母親が雄太に、県の教育センターに相談に行かないか、と持ちかけたことがあった。そのとき、雄太は母に向かってこう言った。
「僕は疲れたからしばらく休みたいだけ。だから僕はどこにも行かない。でもそれで安心するなら、お母さんが相談に行くのは構わないよ」
一度だけ教師が雄太に連絡してきたことがあった。「車で迎えに行くから学校に来ないか?」と提案する教師に、雄太は「僕が学校に行かないのは、行く方法のせいではないので、迎えに来ても学校には行きません」と答えた。
学校生活を続けたおよそ十年の間で、雄太は疲れきっていた。心のポケットにはなんだかわからない不満や、イライラが溢れ出さんばかりに詰め込まれていた。しかし、教師も親も社会そのものも、雄太の内に溢れ返っている不満やイライラを受け止める容器を持ち合わせていなかった。それなのに、逃げ場は用意されていない。
雄太はさまざまなことが頭にきていた。自分の中だけにある理想の世界と現実とのギャップは、修正不可能なほどに混乱して、トマトをぶちまけたようになっていた。学校も政治家も、世の中のさまざまなものが、雄太には不正義だらけのように感じられた。学校が勉強を教える場所なら勉強だけを教えていればいいじゃないか、と思う。校則は何のためにあるのかなんて教師は考えない。とりあえず校則だから、それを犯すととんでもないことになるんだ、と彼らは言いたそうだ。だけど、そんな理屈ではどうしても納得できない。どうして制服を着なくてはいけないのか、どうして坊主刈りにしなければいけないのか、どうして学校に行かなくてはいけないのか、そうした素朴すぎる疑問に誰も答えてくれない。雄太が「なぜ」と問うと、教師は「そういうことは大学に入ってから考えればいい」と言う。「いまは勉強さえしていればそれでいいのだ」と言う。なぜ、大学に入ってからならいいのか、雄太にはわからない。なぜ、勉強をしていればそれでいいのか、雄太には納得がいかない。たくさんの「なぜ」が宙に浮いたまま、いつしかイライラに変わっていく。
そんないまの雄太にできることといえば、大好きなブルーハーツの歌を聴いて、泣いたり笑ったりすることぐらいなのかもしれなかった。
雄太は思う。
「僕は疲れたからしばらく休みたいだけ。だから僕はどこにも行かない……」
一度どん底まで落ち込んだ雄太だったが、学校に行かない生活を続けるうちに、登校拒否をしていることを別の高校に通っている友達になら打ち明けられるくらいに、少しずつ元気を取り戻していった。
夏休みはいつの間にか過ぎ去り、高校を休み始めて三ヶ月ほどが経過していた。そして、九月が終わろうとする頃、学校から連絡があった。
連絡を受けたのは母親だった。高校は中学と違って単位取得の問題があるので、このまま高校を休み続けるのか、それともやめるのか、どうするか決めてほしいという話だった。
父親が学校をやめることを許すわけはなかったが、母親は雄太にその判断を任せることにした。それは、雄太が学校に行かなくなってすぐに起こった出来事が、母親の心に息子に対する一つの姿勢を植え付けたからだった。
一度、学校に行かなくなったことを知った雄太の友達が家を訪ねてきたことがあった。そのとき、雄太は「いないと言ってほしい」と母親に頼んだが、彼女はその友達に「いまは会えないけど、いつかまた誘ってね」と答えた。その日、雄太は荒れて部屋の壁をドンドンと叩いた。その出来事以来、彼女は親の思いを一方的に子供に押し付けることはできない、と気がついたという。子供との関係のなかで、世間的な考えなどいらない、ただ子供の気持をあるがままに受け止めよう、そう思い、彼女は学校をどうするのかを雄太自身に決めさせようとしたのだった。
「学校を休んでいることは僕にとって負い目にもなるから、とりあえず休学届を出してほしい。来年の三月までゆっくりと自分の将来について考えたい」
雄太は母親に言った。
それまでは人の目を気にするあまり電車に乗ることすらも嫌だったが、夏休みが明けて休学届を出すと、雄太は家のなかにこもる生活から、少しずつ外の世界に出て行くようになった。家のなかにいるうちに体力が落ちて階段から転げ落ちてしまったことも、外に出ようと思ったきっかけの一つだった。
朝になると、登校時間よりも早く自転車に乗って出かけ、夕方になると下校時間よりも遅く家に帰る。東山公園や木曾三川公園など、遠くまで自転車を走らせた。
ヨットが好きだったこともあって、そのうち雄太は好んで名古屋港に行くようになった。自宅から名古屋港まで二時間近くかかるが、天気のいい日には毎日のように自転車を漕ぎ、到着すると海を眺め、ぼんやりと考え事をする。そして、港の近くにある造船所で船が造られているのを見つめることが雄太の日課となった。
雄太は船が好きだった。自分でもプラモデルや木で船を作っていた。両手で抱えなければならないほど大きな模型を作ったこともある。目の前にあるできかけの本物の船を見ると、造ってみたいと思っている自分がそこにいた。
それからしばらくして、雄太は父親のヨットのなかで、一ヶ月間ほど一人暮らしをした。造船所で見たことを真似るように、ヨットを改造してみようと思ったからだ。
その間、一組だけ持ってきた着替えを洗濯しながら、捕った魚を自分で調理して暮らした。冬の寒い最中ではあったが、ヨットでの暮らしを雄太は快適だと感じた。ヨットを改造するのも楽しかったし、なによりシンプルな生活スタイルが性に合っていた。
朝になると、ヨットの中は水蒸気が窓に露をしたたらせていた。ハッチを開けると、朝靄《あさもや》のなかから冷たい外気がいっぺんに入ってきて気持がいい。雄太はそこで校則について書かれた本を何冊か読んだ。そして、やっぱり高校っていうのは何かがおかしい、と思った。
そんなある日、毎日のように造船所のそばに立っている雄太に気がつき、そこで働いている若者が声をかけてきた。
「僕は登校拒否をしているんです。どうしたらいいのかわからないから、毎日海を見て考えてる。それから、僕はモノを作るのが大好きなんです」
雄太が言うと、名も知らない若者は午後三時から十五分だけ話し相手をしてくれるようになった。雄太はそこで船の話をするうちに、造船所でアルバイトをしたい、と思った。そう伝えると若者は言った。
「君は船のことをとてもよく知っているね。でも、アルバイトを頼むのは簡単だけど、本当に君が自分の船を造りたいんだったら、ちゃんと勉強をしたほうがいい。いまここで働いたら、自分の船を造ることはできないよ」
それは雄太にとって大きな出会いだった。その出会いは誰かが作った道の上にあったわけではなく誰かがお膳立てしたものでもない。雄太自身が自分で決め、自分で行動することによって生まれた出会いだった。だからこそ、この言葉は雄太にとって計り知れない意味をもって胸に響くことになった。雄太は勉強をしたい、そして大学に行こう、とこのとき素直に思った。
自宅に帰って、母親に「僕はやっぱり勉強をしたい。高校には行かないけど大学には行きたいと思う」と告げると、大検の予備校を探して二月から通い始めた。
いくつかの予備校のなかで雄太が選んだのは、髪を真っ赤に染めた生徒や少々グレ気味の子供など、さまざまな年齢の生徒が来ている予備校だった。そこが自分に一番合っていると雄太は感じたのだった。
三月になると高校から、留年をするのか、それともやめるのかという問い合わせがあった。雄太は退学することを心に決めていた。その意思を伝えると、「退学届を出すときは絶対に制服で来なければならない。それと自主退学という形をとってもらわないと困る」と教師が言った。
最後の最後まで学校は本音と建前を使い分ける姿勢を崩さなかった。教師は自分のためにいろいろとよくしてくれているように見えた。しかし、こういった節目節目で学校側の考えを押し付けてくる。家にやってきて話をすると、自分のことをよく理解してくれるのに、それが学校に戻った途端、そんな個人的な関わりとは全く違う反応を示すのだった。雄太が教師に対して信用をなくしたのは当然だった。頭にきてTシャツとジーンズで退学届を出しに行くと、ようやく高校との縁が切れた。
その年の八月の大検に向けて、すぐに雄太が大検予備校で真面目に勉強を始めたかというとそうではなかった。予備校で出会った友達と、授業をサボったりバイクに乗ったりして遊んでいるうちに、瞬く間に月日は流れ、七月頃から慌てて一夜漬けを始めたのだ。
それまでの遅れを取り戻す勢いで机に向かい、頭に詰め込んだことを忘れないうちに試験を受けると、必要科目全てに合格していた。しかし、次には大学受験が控えている。様子をうかがうために共通一次試験の過去の問題を解いてみると、大検とのレベルの差に愕然とした。結局、翌年に共通一次から名称を変えたセンター試験を受けたあと、九州芸術工科大学を受験するが不合格で浪人生活に入った。
とはいえ、予備校に通って勉強を続けるうちに、雄太の成績はみるみる上がっていった。そして、模試を受けると大分大学クラスは合格圏内とするぐらいの成績を収める。
雄太には行きたい大学があった。それは沖縄の琉球大学だった。
まだ北九州に住んでいたとき、リクリエーション協会の活動で沖縄へキャンプに行ったことがあった。雄太は協会の文集に「沖縄には僕の宝物があった」と記している。そのときから、雄太のなかには沖縄という地に対する憧れのようなものがあったのだろう。
また、受験前に沖縄へ行ったときに見た琉球大学の姿が、とても印象的に映ったことも大きな理由の一つだった。琉球大学は山一つが全て敷地であると思えるほど広大で、校舎から海も見えるし、木や芝生が多く、緑がたくさんある。そして、そんな風景のなかにポツンポツンと大きな校舎がいくつか建てられていた。それぞれは、講義によっては自転車や原付バイクでもなければ、移動中に休み時間が終わってしまうほどの距離にあった。
なにより、名古屋から、自分を管理したり監視したりしようとする全てのものから、一メートルでも遠くに離れたかった。何の拘束もない場所に行きたかった。そのためには、厳格な父親からも少しでも離れなければ、と雄太は思っていた。
学校をやめると言ったとき、父親は会社を三、四日休んで雄太をドライブに連れて行った。万引きをした小学生のときと同じように、父親は終始無言だった。長いドライブだった。鳥取、北九州、四国とずっと無言のまま父親は運転し続けた。お前は学校を本当にやめるのか? と静かに聞く父親に、雄太は「うん、そう」と答えた。そして、また沈黙が続く。
父親が雄太と話すときに車に乗るのは、運転していると冷静になって、頭に血がのぼることがないからだったのかもしれない。興奮してしまったら事故を起こすような状況の中でなら、どうしても冷静でいなければならない。父親にとって、学校に行かないということは、それほどまでに容認しがたいことだったのだろう。
世間的に認められるような生き方を、父親は雄太に望んでいた。そして、確かに雄太も競争社会のなかで自分自身を成長させながら生きる父親に対して敬意に似た感情を抱いていた。しかし、雄太は父親の望むような生き方をするつもりはなかった。社会的な地位や信用なんてどうでもいいことだった。もっと単純な生き方、たとえば物を自分で作り上げたときの感動や、美しい自然との共生、そういったことを雄太は大切にしたいと思っていた。だからこそ、自分を受け入れ理解してくれるまで、そして、こういう生き方をしてほしい、という父親の期待から逃れるために、大きな距離を置こうとしたのだ。
結局、前期日程で合格していた大分大学を蹴って、雄太は琉球大学の理学部物理学科に入学した。そして、在学可能のリミットいっぱいである八年間を過ごすことになる。物理学の世界があまりに難解だったために、なかなか単位を取ることができなかったのだ。
大学で習う高度な物理学を理解するには、数学の基本をマスターしていなければならなかった。しかし、高校教育をまともに受けていない雄太は、そうした数学の基礎が全く身についていない。公式を暗記する一夜漬けで大検を切り抜けたこともあり、常日頃から数学に親しんでいなかったことが、ここにきて問題となった。
「夕日が沈むとき太陽が赤くなるのはなぜだろう」「海はどうして青いのか」、雄太は物理学をそうした学問だと誤解していた。一方で、だからこそ、高校で物理を学んでいない雄太が、その不思議そうな学問に興味を抱いたのだった。しかし、想像していた物理学の分野は全て一年生の履修課程で終わり、その後の高度な物理学はニュートン力学を否定することから始まった。そうなると、もうすぐに訳がわからなくなった。
多重積分や確率理論、宇宙人の書いたような記号が乱立する数式。
「電子が一つ入った箱を二つに割ると、二分の一の確率でどちらかに存在する」
講義で教授がこのような言い方をすると、余計にわからなくなってくる。
目に見えない素粒子や電子の世界は数式で理解していかなければならないが、その数式こそが雄太を悩ませ、次第に勉強に対する興味を失わせていった。
しかし、その一方で雄太は大学生という身分を存分に利用して、沖縄でさまざまなことを体験していった。
沖縄に渡ってから、雄太は古城の写真を撮りはじめた。沖縄の城は内地のそれと違いヨーロッパ風の雰囲気が感じられて、それが珍しく面白かったからだ。
あるとき、大学の授業に城についての講義があったので受けてみると、教授に沖縄の城跡の調査をアルバイトでやらないか、と持ちかけられた。聞けば、沖縄では城の遺跡が戦前にはたくさんあったのだが、日本軍によって遺跡の石材などが高射砲台を作るために持ち去られ、なおかつ戦争によって破壊されたこともあって原型をとどめているものが少ないとのことだった。
雄太はアメリカの大学を卒業したばかりだというパートナーとともにナタを持って、ハブやソテツの葉ほどもある大きさのムカデがいる山のなかを調査した。すると、ときおり現れる塹壕《ざんごう》に、戦時中の人骨や高射砲の弾がゴロゴロと転がっていた。地元の人に話を聞くと、「小学生の頃はよく不発弾で遊んだものだ」と言う。外して火をつけるとネズミ花火のようで面白いのだ、と。それによって、指がなくなったり、幼稚園で不発弾が爆発したりという事件があったことも知った。ショックだった。
ときおり大学の講義前に学生運動をしている者が配るアジビラや、演説などにもよくそんな話が出てきていた。
興味を持った雄太は、短い期間ではあったが、二年生のときに学生運動に参加した。PKO法案の抗議デモのために防衛庁に行ったこともある。愛知県の自宅にデモのチラシが送られてきたのを母親が発見したとき、雄太は慌てる彼女に「僕はブルーカラーの労働者になって社会を変える」と言った。
しかし翌年、雄太は学生運動をやめ、今度は映画を作り始める。実家には大学から休学の通知が届いていた。驚いた母親が電話をかけると今度は、
「社会を変えるために映画を作るんだ。一年間映画を作って、学校に戻る」
とこともなげに言うのだった。
都会や父親の価値観でいえば、何かに熱中しては醒める雄太の行動は、逃げているとか無責任という言葉で非難されることかもしれない。しかし、雄太にとって、沖縄に来たことも何かに熱中してはやめることも、決して逃げではなかった。どんな時でも、覚悟を持って挑んでいるつもりだった。できるかどうかはわからないけれど、諦めるのはやってみてからでも遅くはない。むしろ、楽しいとも思わない場所にい続け、したくもないことを我慢して続けることこそ、逃げることになるのではないだろうか、と感じていた。
雄太は次々にいろいろなことに手を出していった。それは雄太が本当にやりたいことを模索している期間だった。経験した一つ一つのこと全てが血となり肉となり、自分自身の基盤となっていく。都会での学校生活のなかに自分の居場所をついに見つけられなかった雄太にとって、それは自立したり大人になったりするために、どうしても必要なことだった。階段を少しずつ登っていくようなものだ。
そんななか、雄太が何よりも自分に合っていると感じたのが、サーフィンをすることだった。
サーフィンと出会う前、雄太はスキューバダイビングをよくしていた。沖縄の美しい珊瑚礁の中を泳ぐことは楽しかった。しかし、ウエットスーツにゴーグル、シュノーケルやウエイトベルト、タンクのレンタル代と、ダイビングには思いのほか金がかかる。にもかかわらず、海に潜る時間が一回につき三十分くらいなのが不満だった。
また、ダイビングをするためには、講習を受けライセンスを取得しなければならない。そのライセンスが曲者で、ときおり面白くない思いをすることがあった。雄太が自然と戯れることが楽しくて、毎日のように海に行って泳いでいると、一緒に潜ろうとしている人たちから「あなた○○のカードも持ってないわけ?」と言われる。聞いていると、潜った回数とデータを記録するログブックがもう三冊目になったとか、「私は千本潜ったけど、あなたは何本目?」といった会話をしていて、海に潜ることそのものが純粋に好きだった雄太は居心地が悪かった。彼らはときおり沖縄に潜りに来る都会の社会人やOLだった。夏になると、海の表面がタンクからの泡で真っ白になるほど多くのダイバーが集まってきていた。
皆が皆同じではなかったが、都会から来たダイバーの多くが、雄太の目には見栄のために潜っているように映った。
彼らの多くは講習料の高い団体のライセンスを持ち、なおかつ高価な道具を揃えている。ブランド品がどうしたというような彼らの会話を聞いていると、雄太は「もっとほかにやることがあるだろう」と思った。そしてそのうち、単純に海を楽しみたいだけの雄太は次第に嫌気がさしてきた。どこに行ってもそうした都会の臭いを撒《ま》き散らしている人間がいる。都会から離れたい雄太にとって、その臭いを嗅ぐことは何よりも嫌なことだった。
スキューバに嫌気がさした雄太は、素潜りをするようになった。彼は眼鏡とシュノーケルだけを着けるシンプルな姿で、自由に海と遊ぶことを選んだ。
沖縄の海は珊瑚の岩瀬がしばらく続き、突然絶壁のようなリーフのポイントから水深がぐっと深くなる。珊瑚の周りやリーフの縁をカラフルな魚たちがヒラヒラと泳いでいる。青い海の中は太陽の光が届く限り、どこまでも澄んでいた。スキューバの世界ではタブーとされているが、ときおり魚を突いてみたりもした。
海は深くなるほどに青さを増していく。
サーファーという人たちの存在が気になりだしたのは、そんなふうに体一つで自由に海と関わり始めた頃のことだった。
海の時化《しけ》具合など気にせずに、当てずっぽうで海に行ってみると、波が荒れているときは決まって彼らがいた。なぜ彼らが的確に海の状態を把握しているのか、とても不思議に思っていると、地元の仲間からサーフィンの情報が次々と耳に入ってきた。興味のある話はアンテナを立てたかのように聞こえてくる。
聞けばサーフィンはボードぐらいしかいらないのでお金はかからないというし、何よりとても面白そうだった。
スポーツ店でゴーグルとボードを買って、早速やってみることにした。最初は何もわからないので、周りにいるサーファーを観察して真似をした。
波は水深の深くなるリーフの近くで起こるので、そこまでは泳いでいかなければならない。雄太はおぼつかない手つきでヘエコラと泳いだ。波に阻まれてなかなか沖に出ることができないので周りを見てみると、他のサーファーたちはどういうわけか波の立たない場所を知っているようで、スウッと沖に出ている。そんな様子をじっと見つめながら、雄太は一つ一つやり方を学んでいった。
とりあえずボードに乗れるようになるまではやめない、とりあえず横に滑れるようになるまではやめない、そうするうちに生活そのものがサーフィン一色になっていった。一日でも海に行くのを休むと感覚を忘れてしまうので、大学に通っている時間は全くなくなった。
少しずつ波に乗れるようになってきた頃、他のサーファーたちも雄太にやり方を教えてくれるようになった。彼らとの出会いは、雄太にとって衝撃的で刺激的なことだった。
沖縄のサーファーたちは身なりも行動もかなりのアウトローで、見た目はガラが悪く怖そうだった。砂浜でマリファナを吸うし、長髪で冬でもボロボロになった半ズボンをはいていて、コンビニエンスストアにたむろしている。
雄太はそんな彼らに話しかけ徐々に仲良くなっていった。話をしていると実際に悪事を働いている人もいれば、浮浪者同然の生活をしている者もいる。雄太よりもずっと年上の人が「いま四十円しか持ってないんだよ」と言えば、十七、八の子が「去年はフィリピンの波がすごかった」と言う。千葉から来たと言う人は車のなかで生活をしていて、以前、スリランカで頭の上をロケット弾が飛んでいるなかサーフィンをしていたという話を聞いた。
皆、夜にアルバイトをして昼はサーフィンをしていた。波しか見えない誰もいない海で自由に滑ることが、彼らの至福の瞬間だった。
硬い珊瑚礁の海でのサーフィンは水底が砂の内地の海とは違って、常に緊張感を伴った。雄太も珊瑚に叩きつけられていくつもの傷跡を体に刻んだ。水深が浅い場所に投げ出されでもすれば、たちまち珊瑚によって体は傷だらけになってしまう。チューブ型の巻き込むような波がほとんどの沖縄では、波の先端に搦《から》めとられてしまうと、それこそサーフボードがバラバラに砕ける。
雄太がこれほどまでに惹かれていったのは、サーフィンがスポーツというよりも、むしろライフスタイルとしての側面を強く持っていたからだった。毎日海に行って海を見る、天気図を確認して空を見上げる、波や潮の流れを予測する、そして、一日が朝の決まった時間に会社や学校へ行くことで始まり終わるのではなく、満潮や干潮などの自然のサイクルで流れる。
沖縄で出会ったサーファーたちは、そこに海があれば満足そうだった。高度なテクニックを競い合うことなど最初から考えていないし、波を見ているだけでも楽しいのだ。彼らはただ波に乗ることだけが生きる目的で、それ以外のことは何もいらないと考えているようだった。その徹底した生き方はもはや哲学的にさえ思えた。そして、そのなかで雄太も同じ考えを持つようになった。防具を何もつけずに珊瑚礁の海を滑ることは、自然との一体感がダイビングよりもはるかに強かった。他人が波に乗っているときはその前を通らない、という最低限の掟さえ守っていれば、あとは完全に自分一人の世界だった。それが雄太には心地良く、同時に都会生活のなかで求め続けてきたことだった。見栄や社会的な信用や教育や校則や都会的な枠組みや経済の安定や規則や義務や誰かが作った納得のできないルールや……そんなことは波の上ではなんの意味もなさない。瞬間的に時速五十キロにもなるスピードのなかで風に溶け、ただ自分だけが気持よくなれればそれが全てだった。
これまで自信の持てることが何一つなかったな、と雄太は思った。大学に入ってから、自分が好きだと思っていたヨットもコンピュータも、結局は父親の好きなことだったのだと気づいた。しかし、サーフィンだけは違う。サーフィンは自分に自信を与えてくれる。このとき、雄太は誰かの作った道を歩むことをやめた。そして、茨を掻き分けながら自分だけの道を少しずつ作り始めた。
どのサーファーもいい波がくると奇声を上げながら滑っていく。なかには珊瑚でパックリと裂けた傷を瞬間接着剤でくっつけて滑っている者もいる。
大きな波に乗ったとき、雄太は頭の中が真っ白になった。時間にすればたった十秒ほどの瞬間は言葉では言い表せなくとも、自らの胸のなかに焼きついたように離れない。そして、それ以上にサーファーというライフスタイルこそが、雄太にとって何よりも得がたい魅力だった。それは、金のために自然を壊したり、人を競争によって蹴落としたりする必要のない生き方だといえた。自然と共生していく感覚のなかで雄太は心が安らいでいった。そして、何より、学校というシステムのなかに入って以来、必死に探し続けてきた自分の居場所、雄太が雄太でいられる場所がそこにはあった。
雄太はサーフショップでアルバイトをしながらサーフィンを続けた。大学にはほとんど行かずにバイトと海とアパートを往復していた。
卒業の見込みがようやく立ったのは琉球大へ入学してから八年目のことだった。しかし、基礎科目の単位を取得して卒業研究を選ぶ段階になると、面白そうな研究は全て定員オーバーになっていて、残っていたのはフラクタル理論についての授業だけだった。卒業しないことや、国民年金保険料を払わないことに腹を立てた父親にときおり仕送りを止められながら、どうにかたどり着いた最終学年で、なぜフラクタルなんて訳のわからない授業を取るはめになってしまったのだろうか。父親から「ここに行け」とばかりに大学院の資料が送られてくるなか、雄太は卒業しないことを想定して、仕送りはなるべく貯金し、アルバイトの給料で生活費をまかなった。そして、いつかは海で働きたい、という希望のために、「体育の授業でダイビングをするためにお金がいる」と母親に言って、船舶の免許を取った。そうして、着々と学校をやめる準備を整えていった。
「石垣島に支店を作るから、そこの店長になってくれないか」
アルバイト先の社長からそう提案されたのは、いよいよフラクタル理論を投げ出そうとしていた矢先のことだった。雄太に白羽の矢が立ったのは、他のバイトに比べて一見まともそうな身なりをしていたからだった。サーファーがいくらアウトローでもサーフショップだって商売だ。八重山諸島に支店を出すとなると、経営状態を簡単にはチェックできなくなるので、真面目そうな雄太を選んだのだった。それは大学をやめるちょうどよいきっかけだった。社長の人柄に敬意を抱いていたこともあって、雄太は石垣島へ行くことにした。
人口四万人ほどの島での生活を、雄太はすぐに気に入った。
石垣島は島の中心部は観光化されていて土産物屋などがたくさんあるが、そこから少し離れると山と海と畑だらけで、あとはちらほらと村落が見受けられるだけだ。
車で一周しても三時間ほどの島の小さな街を雄太は自分にぴったりだと感じた。思えば、都会の大きすぎる街のなかでは、全体を把握することができなかった。どこに何があるのかを全て知ることは不可能だ。それに対して石垣島は車で移動していても、そこがどこなのか、こっちに行くと何があるのか、よくわかる。名古屋にいたときに感じていたイライラやなぜだかわからない不安は、街の大きさが自分の許容量を超えていたのかもしれない、と雄太は思った。石垣島にいると安心できる。ここにいれば安心だと思える。そこは、ようやく見つけた「安住の地」だった。
しかし、一方でサーフショップの店長としての仕事は過酷だった。雄太にとって初めての仕事らしい仕事なのだから仕方ないことだともいえるが、新たな疑問や不満が雄太に芽生えた。
もともと義務や枠組みを嫌っていた雄太が、すんなりとサーフショップの仕事を生き甲斐だと感じられるわけがなかった。仕事そのものは楽しいと感じたが、一方で明らかに自分に向いていないと雄太は思った。アルバイトのときは店にたまるサーファーたちと談笑して、社長が来たときだけテキパキと働けばよかった。しかし、店長ともなると重みや責任が違う。何より、仕事に追われていると海に行く時間がなくなっていく。それが最も辛いことだった。
雄太は店長として働くうちに、次第にサラリーマンとして自分がちゃんとやっていくのは無理だと思うようになった。
そして、次第にサーフィンに行く暇がさらになくなってくると、もう限界だった。沖縄本島にいたときは、毎日海のことを考え、眺めて過ごしていたのだ。しかし、店長として働いていると、考えようと努力をしなければ海のことが頭に浮かんでこない。少しでも時間を空けるためにアルバイトのシフトを懸命に操作していると、これなら夜にアルバイトをして昼にサーフィンをしたほうがマシだと思った。
サーフィンがいつの間にかただの趣味になってしまったような気分だった。海とともに生きていくという理想が現実と遊離し始める。余暇のために働くなんてごめんだと思った。
友人の働いている飲み屋で一人の海人と出会ったのは、サーフショップの店長として働いて一年が経った頃のことだった。沖縄では漁師のことを海人《うみんちゆ》と呼ぶ。季節は冬、石垣島といえども肌寒い一月だった。
ある日、酒を呑みながら「もうサーフショップ辞めて海人でもやりたいよ」と愚痴をこぼしていると、ちょうど酔っ払った海人が同席していたのだった。
「いいよいいよ、連れてく連れてく、弁当持ってこいよ、あした朝七時な」
雄太が興味を示すと、海人が酔いにまかせていい加減に言い放った。
次の日、雄太は本当に漁を手伝った。
籠網と呼ばれる漁法だった。直径五十センチ、縦幅二十センチほどの魚籠《びく》を珊瑚礁に置き、後日、フーカーと呼ばれる空気を送る管をくわえて海に潜り、なかに入っている魚を銛《もり》で突くという方法だ。この際、魚籠は珊瑚の欠片《かけら》や岩などでカモフラージュし、魚が入りやすいように工夫する。この漁法の面白いところは、魚籠に入った魚を人間が突くので、小さな魚を捕らずに済むことだ。魚籠は決まった場所に設置してあるから、この方法で漁をする海人は毎日、なかに入った魚を回収していく。
雄太はこの仕事を手伝ったとき、「ああ、ひょっとしてこれかなあ」と感じた。自然のなかでする仕事であることが、雄太にはぴったりだった。そして、なにより毎日海を見て、海のことを考えるというライフスタイルを実践できる。
もう一度自然のリズムで生活していけるのはたまらなく魅力的だった。それに、海が時化て漁に出られない日はサーフィンをやってもいい。
すぐさまサーフショップを辞めることを社長に告げ、雄太は「給料はいらないから、漁に行かせて下さい」とその海人に頼んだ。しばらくは失業保険で食いつないで、どうにかして漁師になろうと決心した。
それから雄太は毎日漁を手伝いに海に出た。仕事は予想通り重労働で過酷だった。その頃は河口や湾の入口で満潮時に網を張り、干潮時にかかった魚を歩いて回収する糸満《いとまん》(漁業の盛んな沖縄本島南西端の市)の伝統漁法のシーズンだったので、新入りの雄太は何トンもある網を引き上げることなど、皆のやりたがらない仕事にこき使われた。
次に手伝ったのは追い込み漁と呼ばれる漁法だった。糸満の海人はこれで有名になったといわれる伝統漁法だ。この漁法が行われた後は、その周辺に魚が全くいなくなってしまうほど一網打尽に捕れる。このとき雄太が手伝っていたのは水族館用の熱帯魚を捕るための規模の小さいものだった。それでも、雄太はこの漁法を実際に見ることで、海人たちの豪快さに舌を巻いた。なにしろ、魚がいそうな場所まで船を走らせると、海の真ん中の何箇所かに経験豊かな爺さんを放り投げるのだ。「見失ったらどうするんだ?」と思っていると、少しして、爺さんたちから「おーい」と合図がある。それを確認した後、皆で網を持って海に潜り、ハタキのような棒を使って魚を脅かして片端から網のなかに追い込んでいく。
この漁法でもやはり網上げの作業が恐ろしいほどきつかった。しかし、雄太は意地になって仕事を休まなかった。一度休むとそれが癖になるということ以上に、海人たちにやる気がないと思われるのが嫌だった。
そうして失業保険がきくあいだに経験を積むと、雄太は最初に飲み屋で出会った海人と同じ方法の籠網漁をやることにした。そのために彼は渋る父親から借金をして中古の船を買った。かなりの金額が必要とされたこのときばかりは父親を頼るしかなかった。
しかし、船がなければ漁ができない、ということは雄太の思い込みでしかなかった。そのことに気がついたのは、籠網漁を始めてからすぐのことだった。そもそも、籠網漁は漁協の正組合員でなければやってはならない決まりがあった。つまり、準組合員の雄太が籠網をやることは違法なのだった。海人の爺さんたちは「あんなの関係ないサー」と簡単に言うのだが、やはり漁協や役所の人からダメだと言われると、もともと地元の人間ではない雄太は「関係ない」と言い切ることができなかった。間が悪いことに船も故障してしまって、修理をしなければならなくなった。
「雄太君、電灯潜りやってみたら? 俺の友達で海人やってるのがいるからさ」
そんなとき、かつてのサーファー仲間からそう言われて、雄太は一人の若い海人を紹介された。それは、ときおり漁協で会う内地から来た青年だった。雄太が籠網で捕った魚を見た彼に「初めてでこれだけ捕れたら、十分食っていけるよ」と声をかけられて以来、話をするようになっていた。早速、電灯潜りに連れて行ってくれと頼んだ。
電灯潜り漁は、夜中にライトを持って素潜りで魚を突く、という原始的な漁法だ。地元の方言でイーグンと呼ばれる銛や海中を照らすライトは、どの海人も工夫して自作のものを使っていた。工事現場から引っこ抜いてきたパイルを加工してイーグンを作り、原付バイクのライトにバッテリーを取り付け、防水加工したそれを背中に背負うスタイルの者が多い。どの道具も市販のものがあるのだが、自分で作ったほうが壊れないし、自分に合った仕様にできるのだという。漁船は使わずに、手漕ぎの船や、小さな船外機を取り付けた船で砂浜から沖に出る。雄太はポリエチレン製の黄色いカヌーを使っていた。漁場は珊瑚の浅瀬かリーフの近辺で、陸地からあまり離れた場所には行かない。
真っ暗な海の中に入っていくことは恐ろしかった。まず夜の海にいると陸地がどこにあるのかがわからない。ライトで照らしている範囲が見えるだけで、あとは全て暗闇なのだ。雄太はイーグンを杖のようにして泳ぐのが精一杯で、とても魚を突くことなどできなかった。漁場は潮の流れも強く、サメがたくさんいることも恐怖を倍増させた。そんななか、四苦八苦する雄太の目に、若い海人が籠網漁では信じられないような量の魚を捕っているのが見えた。その日、雄太はイセエビを一匹ようやく捕まえただけだった。
最初は全く魚が捕れなかった。一日の水揚げが二千円ほどしかなく、ひどい時は九百八十円なんてこともあった。
しかし、何度か先輩の海人について行って、次第に夜の海にも慣れてくると、雄太はこの漁法が楽しくてたまらなくなった。
体一つで自然と向きあう感覚は、サーフィンと全く同じだった。自然のことを毎日考え、空を見て波を見る。朝の決まった時間に決まった場所に魚を集めに行く籠網漁とは違い、電灯潜り漁では一晩中「明日はどこに行こうかな」と考えていられる。それが雄太には嬉しかった。
そして、何より電灯潜り漁の奥深さに雄太はとりつかれたのだった。ゲンナーやアカジン、タコ、クブシミ。どの魚も個性があり、性格が違う。色だって違う。
人間が来ると逃げるのがいれば、じっとこちらを窺うのもいる。タコは背伸びをして人間を見ようとする。クブシミはライトを当てると動かなくなる。つがいでいるとき雄を先に突くと雌は一目散に逃げるのだが、雌を先に突くと雄は様子をうかがって近づいてくる。海人の間では「クブシミは雌を先に突け」と言われているが、それを知らなかった雄太はよく取り逃がした。魚たちとのそうした格闘や知恵比べの奥深さに、次第に雄太は引き込まれていった。
潮の流れを考えて泳ぎ、月の周期で狙う魚を変える。人間に苛《いじ》められた魚は近寄って来ないので、前日にほかの海人がどこで漁をしたのかも、砂浜に残っている痕跡を見て判断しなければならない。漁の道具は全て自作なので、手先の器用さも必要だ。経済や政治のことを知っている必要は全くないが、経験的な知識が要求される。
雄太には自然が相手だということが面白かった。そして泳ぐことも楽しければ、ものを作ることも好きだった。求めていたことの全てが電灯潜り漁には凝縮されていた。そして、何よりイーグンを持って海の中で魚を探すという行為そのものに、雄太は納得のいく思いがした。シンプルな方法であるがゆえに、狩猟本能が目覚めていくような感覚がそこにはあった。
そして、周りを把握できない不安が、いつの間にかなくなっていた。
雄太は機械船や自動車のエンジンのことを考えた。
「大きな工場でエンジンはたくさんの人たちによって組み立てられていく。いくつかのセクションに分かれ、その工程の一つ一つをそれぞれの人たちが完成させると、最後に一個のエンジンができ上がる。だけど、誰もそのエンジンが完璧なものかどうかはわからない。設計図に間違いがなくても、ネジ一個、ワッシャー一個の不備で、エンジンは動かなくなることだってある。それが海の真ん中で起こったら自分は帰ることができなくなって、下手をすれば死んでしまうかもしれない……」
もちろん、そうした不安を感じない人も多い。しかし、雄太にはそれが恐ろしかった。
世の中が不正義に溢れていると感じ、訳のわからない不安を胸に溜め込んでいたあの頃、誰も雄太の「なぜ」に答えてはくれなかった。丸坊主にすること、制服を着ること、登下校時のヘルメット着用、部活への参加……、それら学校が押し付けてくる「正義」や、教師たちがもっともらしく語った言葉が、果たして本当に正しいことなのか雄太にはわからなかった。秩序に則った高校生活、大学への進学、「ちゃんとした会社」で働くこと、社会的な規律や義務……、それは確かに一つの大きな「設計図」であるかもしれない。しかし、たとえ設計図通りだからといって、その部品の一つ一つが絶対に壊れていない保証などどこにもないはずなのだ。
それなのに都会でそうした不安を叫べば、たちまち全体のまとまりを乱す「異物」とされてしまう。現に、高校での雄太は学校側からみれば「普通ではない生徒=異物」だった。
しかし、彼が「異物」であったのは高校という組織の価値観のなかにいたからに過ぎなかった。学校に行かないという選択をしたときから、彼は異物ではなくなった。
そして、それからの約十年間、どこに行けば自分にピッタリのネジ穴があるかを彼は必死に探したのだった。その果てにたどり着いたのが石垣島だった。ようやく見つけ出した答えが海人だった。
「ここで決定!!」
ある日、雄太は思った。
名古屋の高校をやめ、沖縄の大学へ、そして、さらに遠くへ遠くへと向かって、雄太はいまここにいるのだった。それは自分の居場所を見つけ出すために、無意識のうちに探し求め、ようやく手に入れた安住の地だった。
夕方、エメラルドグリーンの海が赤く染まるのを眺めながら、雄太は港で三、四人の海人仲間と船の上や地べたに座って談笑をしていた。漁や魚についての話題がやはり多い。海人同士の会話はお互いの大切な情報交換でもある。
陸に揚げられていない漁船が、プカプカと浮いている。凪《なぎ》で波がないものだから、本当にプカプカといった感じで揺れている。
海人たちはみな真っ黒に日焼けし、たくましい体躯をしている。
そのなかに、雄太がいる。見劣りはしない。海人になってからおよそ一年が経過して、すっかり漁師の風格が身についた。
雄太は地元の方言を交えながら喋るようになっていた。語尾に「〜サァ」と付けるのが特徴のその言葉は、どこか優しげな感じがする。
海人たちは笑みを浮かべながら、「下手をしたら死んでいたんじゃないかなあ」と思えるような海での強烈な経験談を語っていた。みなリアクションが大きい。「うへ〜」とか「は〜」と声を発しながら、おどけた顔をする。爺さんの海人は、潜水によって耳をやられているせいか、それこそ手話をしているかのようになる。いずれ雄太もそうなるのだろうか。
雄太が笑う、皆も笑う。小さな子供みたいに笑う。声が風に乗ってどこまでも遠くに運ばれていく気がするのは、そこが海に囲まれているからかもしれない。
そうこうするうちに、空にはチラホラと星が輝きはじめた。一番星がこんなに見つけやすい場所も珍しい。それだけ空がたくさんあるのだ。
雄太の一日の水揚げは一万五千円ほどになった。腕も着実に上達している。それでも上手な電灯潜り漁の海人は五万円から十万円を一日で水揚げすることもあるというから、まだまだこれからだ。
青く透き通った海の上に太陽がさんさんと輝き、白い砂浜がその光を照り返す。そんな夏になると島には大勢の観光客が内地から押し寄せてくる。
冬になるとうって変わって、街は閑散として肌寒い空気が島を覆う。
しかし、夏であろうが冬であろうが、雄太は海とともに生きている。内地の人々の行動や考え、そして常識や建前とは関係なく、いつだって海のことを考え、空を見上げている。
自らが望み、自らが探し出した、その場所で……。
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エピローグ
いったい社会とは何なのか、大人になるとはどういうことなのか。僕はこの疑問に後押しされながら、何人かの若者の人生を少しだけ覗いてきた。彼らの葛藤や不安、希望や喜びに共感したり、驚いたりしながら「うん、うん」と何度も肯いた。
深夜、静まり返った自分の部屋の電気を消し、横になって天井を眺めながら、彼らが語ったことや実際に僕が見たシーンを思い出してみる。
散らかった部屋でぼんやりとテレビを眺める前島康史の姿が頭に浮かぶ。路肩に止めた車のシートで、仕事をさぼって寝ている武田明弘の姿、麻布高校の文化祭で汗だくになってドラムを叩く成田健二の姿が浮かぶ。そして、コンビニエンスストアでレジを打つ大黒絢一もいる。
京都駅の改札を通り抜けたとき、後ろを振り返ると長澤貴行がいつまでも手を振っていたのを思い出す。
「じゃあ、がんばってくださいね、それじゃ!」
僕らは互いにこう言って別れた。
ある日、荻川喜和の勤める老人ホームに行くと、彼は入居者をホームのライトバンに乗せて帰ってきたところだった。
「おお! どうしたの? ちょっと待ってて」
車から降りるとそう言って、入居者に付き添いながら彼はゆっくりとホームに入っていった。
僕の恩師ともいえる有田淳は、今日も授業の終わった誰もいない教室で、一人もの思いに耽っているのだろうか。
今は夜だから、雄太はバイクのバッテリーを背負って海の中にいるのかもしれない。砂浜では、陸地の方向を把握するための点滅灯が、ぴか、ぴか、と光りながら水中の彼を見守っているのだろう。
河村雄太に会いに石垣島に行ってからしばらくして、僕は新宿の街を歩いていた。
人々の流れはいつもと変わらない。しかし、僕の中では何かが変わっていた。道すがらたくさんの人たちとすれ違った。スーツを着たサラリーマンやOL、カップルや一人で紙袋を持って歩く人。そうした多くの人々のなかに、やはり多くの若者たちの姿がある。楽しそうに笑っている者、無表情に歩く者、所在なさげに誰かを待っている者。
そんな人の渦のなかにいながら、ふと胸が熱くなるのを感じた。おそらく、彼らと僕とが深くかかわりあうことはない。しかし、みな自らの人生のなかに多くの葛藤を抱え、多くの不安を抱え、そして、多くの喜びを感じながら生きているに違いないのだ。
ただの塊に見えていた集団のなかには、驚くほど多くの個があった。そして、彼らはみな、今日も明日も明後日も、自分の人生を切り開こうとしているはずだった。僕が出会った八人の若者たちもそのなかにいる。僕もそのなかにいる。一人として。個人として。
僕はいままで、社会というものを壁の向こう側にある大きな鍋だと思っていた。そして、社会に出ることに対しての戸惑いを胸に抱いている悩める若者たちが壁の前で立ち止まり、列をなしているのだと感じていた。
しかし、ふと気がつくと、前に立ちはだかっていたはずの壁は消えてなくなっていた。湯気を立ち上らせていたはずの煮え立つ鍋もなかった。後ろを振り返れば、列をなしていたはずの若者たちの姿もどこにも見えない。ただ広大な大地に一本の道だけがあり、僕はたった一人で立ち尽くしていた。そこは、他の誰のものでもない、僕のためだけにある、僕だけが歩いている道だった。
一人一人が一人一人の道を歩いている。それは、僕が何人かの若者たちと出会って、気づかされたことだった。そして、彼らが一人で歩いてきた道と僕の道とが一瞬交差したとき、彼らの人生に起こったことを僕は少しだけ尋ねてみたに過ぎない。彼らは僕と少しの時間を共有した後、各々の道を今も歩き続けている。
前島は東京のアパートを引き払って甲府の実家に帰った。まだこれからのことは決めていないという。
武田はトヨタカローラを辞め、いまは派遣社員として電気機器店で働いている。
健二は大学四年生になった。バンド活動は一進一退を繰り返しているようだ。
大黒は今もフリーターを続けている。
長澤はファーストフード店で働き始めた。
荻川は勤め先のホームが新しく建設する特別養護老人ホームに、オープニングスタッフとして推薦された。しばらくすると、おそらくホームにとって欠かせぬ存在となっているはずだ。
有田は学習塾にバンド活動、勉強と、忙しそうだ。
雄太は先に述べた通り……。
彼らはみな、自らの人生を切り開こうとする途上の若者たちだ。
しかし、たとえ若者ではなくなってからでも、彼らが「途上」であることに変わりはない。どこまでも続く自分だけの道をこれからも一人で歩き続けていかなければならない。誰も代わりに歩いてはくれないし、背負っている荷物を塵ほどの重さでさえ肩代わりしてもらうこともできない。そして、誰かの荷物を背負ってあげることだってできない。僕は彼らの言葉の端々から、そんな思いにならぬ思いを知らず知らずのうちに感じ取っていたのかもしれない。だけど───
だけど、僕らは理解することはできる。一人で歩かなければならないことも、背負っている荷物を肩代わりしてはもらえないことも、そして、肩代わりすることだってできないことも。そう思うと、胸の中で凝り固まっていた何かが、少しずつほぐされていくような気分に僕はなる。胸を張らずとも、自信はなくとも、それでも人は社会への最初の一歩を踏み出すことになる。そして、いつまでも「途上」のまま、足を前へ前へと進めるのだ。
道は続く。そして道に立っている以上、歩き続けなければならない。当然、僕も含めて。
足の踏み出し方は違っていたとしても、その歩みに遅いも早いもない。
道の形は違っていたとしても、その道のりに優劣はない。
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あとがき
一九九九年末。
本書の取材を始めることを決心した当時、僕は大学三年生だった。
それと同じ頃のことだっただろうか、同級生の友人のアパートに暇をつぶしに行ったとき、彼が就職活動用に持っていたリクルートかなにかの分厚い企業案内を、手にとってぱらぱらとめくってみたことがある。
ページを開くと、なかは企業情報の洪水だった。
一つ一つの企業の月給や待遇、会社概要がことこまかに記されている。元来その手のものを見るのが好きだった僕は、「この会社は初任給二十二万だって」「岩波書店が載ってないな」「この会社は資本金がこんなにあるのか」などと勝手に熱中してしまった。
その気持には、以前にどこかで感じたことのある種類の昂揚が含まれていた。間違いなく自分に関わりのあることなのに、他人事のようであり、ゲームで遊んでいるようでもあり、買わない商品を見比べているようでもあり……。
僕はその気持をどこで感じたのかをすぐに思い出すことができる。
それは、大学受験の前にガイドブックをひたすらめくっていたときの気持に似ていたのだった。ガイドブックには様々な大学の偏差値や学部の特色、生徒数や就職状況などがひしめき合っていた。僕は一つ一つの大学を見比べ、「この大学は偏差値が五十六だって」「ここにはこんな学部があるのか」「ここは難しそうだけど倍率が低いからひょっとすると……」と内容に現実味や差し迫ったものを感じないままに、思わず熱中して読んだものだった。
ということは……、就職するのかしないのかは別としても、結局のところそのとき友人のアパートで僕は、大学受験期にしていたのと全く同じことを繰り返していたことになる。
そう気づいたとき、これからの行き先が前もって誰かに決められているような、抗っても意味のない何かに背中を押されているような、そんな気分になった。そして、ふと我に返りながら──そういえば自分も就職をするのか? というより、もうすぐ自分は社会に出なくちゃいけないのか? ──目前に広がっている真っ暗な空間に、誰かに押されて飛び込むみたいな不安が生じてきて、掴みどころのない妙な焦りを感じた。
社会に出るための心の準備ができていないから不安なのか? それとも「働く」ことが嫌なのか? だいたい、その「社会」って場所に行くために人は心の準備などをするものなのか? ……そもそも社会ってなんだ? 働くってなんだ?
本書はそんな気持で取材を続けた結果生まれた。
僕は、周りにいた友人や親戚や、偶然出会うことになった二十代〜三十代前半の人たちに、「あなたはどうしてそこにいるのか? どうして働いているのか? あるいは、なぜ働いていないのか?」といった問いを投げかけた。その答えを聞けば、「社会」に出るということがどういうことなのか、という曖昧な疑問を解くヒントが見つかるかもしれないと思ったからだ。
しかし、取材を終え、そしてすべてを書き終えて思うのは、……どうやら「社会」というのは、はじめに感じていた「飛び込む」ような場所ではないらしい、ということだ。必死に足を前へと進めているうちに、いつの間にか辿り着いている場所のように今では感じられる。
この本のタイトルには「僕ら」という言葉を用いた。
取材に応じてくれた彼らと同じく、僕もまた自分の「これから」を模索している一人だったからだ。
僕は彼らと会って話を聞くたびに、胸の中でわだかまっていた不安や違和感が少しずつ砕かれていった。次第に「社会」がどういう場所であれ構わないと思うようになってきた、とも言える気がする。
まずは彼らに心からお礼を言いたい。彼らの協力がなかったら本書が完成しなかったばかりか、いまでも僕は曖昧な不安感の中で、かつてより深刻に焦り続けていたかもしれない。それらの出会いによって、僕は一かけらの勇気に似たものが自分の胸の中に生まれたと思う。それは、実に脆《もろ》くて心もとないかもしれないが、あの分厚くて強圧的な企業案内などよりもずっと、これから生きていくうえで役に立つ、小さくとも確かな宝物だと信じている。
そして、この原稿を忙しいなかすぐに読んで下さった文藝春秋の飯沼康司さん、ならびに出版局の関根徹さん、担当編集者の今泉博史さんに深く感謝します。本当にありがとうございました。
二〇〇一年初夏
[#地付き]稲泉 連
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文庫版あとがき
本書の取材を進めていたとき、僕は二十一歳の大学生だった。
同世代の人たちから「働くこと」をテーマに話を聞き取り、一人一人の個人の物語≠ニしてそれを描く。彼らの中にはフリーターの人もいれば、「引きこもり」だった人、着実に社会人として働いている人もいる。もがきながらも人生を模索し、少しずつでも前へ進んでいく彼らの姿に、僕は強く惹かれながらこの本を書き進めた。
二〇〇一年の春に初稿を書き終えたとき、とてもほっとした気持ちになったことを覚えている。それは原稿を書き上げたことに対しての安堵ではなかった。僕は十五歳で高校を不登校になって中退した後、大学入学資格検定を受けて大学生になった。学校という社会≠ェ過酷な場所に感じられ、自分を懸命に取り繕い、友人関係を保とうと必死になった日々。過剰な自意識を手なずけることができず、結局は逃げ出すように学校へ行けなくなった自分──本書の最終頁を書きながら、その頃のことを何度も考えていた。
そこにあった混乱した気持ちと向き合えるようになったのは、大学に入って『僕の高校中退マニュアル』(一九九八年 文藝春秋刊)という手記を書いてからのことだった。
その手記を書きながら、高校に通っていた頃の自分の心の裡《うち》をあらためて覗き込み、当時はうまく言葉にできなかった心境を言葉に変え、思い出せる限りのシーンを思い出そうとした。そのように自身の体験をどうにか客観的に捉えなおすことによって、大学に入ってもどこか心にわだかまり、ときどき表に現れては胸の裡側をざらつかせる「高校」での自分から、ようやく脱却できたように感じたものだった。それは「自分について書くこと」の効用に、初めて気付いた瞬間でもあった。
ところが手記を書き終えると、数年後に大学を卒業して社会人になるという現実が、今度は降りかかってくる──。考えてみれば当たり前なのだけれど、ついさっきまで「十五歳の自分」と格闘していた僕にとって、それは少しばかり唐突なことでもあった。
その頃の僕はようやく高校での体験を受け入れたばかりで、まだ見ぬもう一つの「社会」に違和感や不安を抱き、そこでちゃんとやっていけるかどうかの自信を全く持ち合わせていなかった。そのなかで生じた「同世代の話を聞いてみたい」という思いが、この本の取材を始めた最大の動機だった。あの「社会」に対する違和感や不安は、自分だけが感じているものなのか、それとも他の人々も感じている種類のものなのか。それを知り書くことで、「社会」に対するあやふやな不安に形を与え、自分をもう一度別の眼差しで見つめなおすことができるのではないか。そうすれば胸の中にある違和感や不安を、少しは薄めることができるのではないか。数人の同年代の人たちに、「あなたは働くことについてどう思うか? 社会に出ることについてどう思うか?」と問い続けたことは、一方で自分自身がいかに「社会」というものを捉えるべきかを考えることでもあった。
この本を書いた後、僕は大学を卒業する少し前からある雑誌編集部を中心に、フリーランスのライターとして本格的に働き始めた。以来、〈グツグツと煮えたつ巨大な鍋〉のようにかつて感じていた「社会」のイメージは、全く違うものへと変化した。「社会」で働くことの中には辛さや不安も確かにたくさんあるけれど、その場所にいるからこそ得られる強さ≠烽るのだということ。そして「働く理由」の答えとは、社会で生きていくというその行為自体の中にこそあり、自らの力で見つけていかなければならないのだということ……。
そんななか、当時、本書に登場する彼らと出会い、そしてお互いの気持ちを語り合った時間が、今でも自分の中に大きな体験として残り続けていることに気付く。彼らの悩みや喜び、その紆余曲折を聞き取りながら、僕は常に小さな(ときには大きな)「共感」を抱いてきた。彼らの言葉のいくつかは僕自身の言葉であり、彼らの悩みや不安のいくつかは僕自身の悩みや不安でもあるのだと、取材・執筆を続けながらずっと感じていた。
彼らとの対話が強く胸に残されているのは、そうした「共感」が今の自分にとっての原点になっているからに違いない。そして同時に本書は僕にとって、社会へ飛び立つための助走を試みる自分自身の姿を、彼らの姿を通して描いた作品であったのかもしれない──この本を書いてから五年以上の歳月が流れたいま、そんな思いを強くしている。
二〇〇七年一月
[#地付き]稲泉 連
単行本 二〇〇一年八月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十九年三月十日刊