TITLE : 鼻眼鏡
鼻眼鏡  稲垣足穂
目 次
RちゃんとSの話
私とその家
鼻眼鏡
或る小路の話
セピア色の村
煌ける城
WC
鼻眼鏡
RちゃんとSの話
背 燭 共 憐 深 夜 月
踏 花 同 惜 少 年 春
――白  氏
藍いろの空には、小鳥の胸毛のような白い雲がフワ〓〓と流れていた。
北の方に、秀麗な曲線をえがいて、山が西から東へ長くつらなっている。そこからゆるやかなスロープが海の方へのびて、その左手に、どこか外国の風景画を想わせるようなK市の調和した景色が見える。ジャイヤントのように中空に突立った造船台をとおして、赤い腹をした汽船がならび、黒い煙の糸を空から引いて林立している煙突や、白い水蒸気につゝまれた起重機の腕のあたりからは、たえずに、猛虎のようなサイレンのうなりや、石油発動機のけたゝましい爆音や、威勢のいゝ鉄槌の響などが、オーケストラのようにまじり合ってかすかにひゞいてくる。四年生のSは、この清らかな自然と、目醒ましい近代文明とに包まれた自分たちの学校生活の事を考えて、今さらに幸福な感に充されていた。
暖かな小春の日が一ぱいさしたこの神学部のまえの芝生には、Sの馴染な下級生たちが集って、やかましくしゃべり合っていた。
「……すると先生が名をさしたの。Kはあわてゝリーダーのなかへかくしたが、立ち上るのと一しょに下へ落ちたので、ひろおうとしているうちに取られてしまったんだよ」
そのなかで主権を握っているらしいAという細長い少年が、こう話している。
「Kって誰、こゝにいるんかい?」
Sもつい話に引きこまれて、みんなの顔を見まわしながらたずねた。
「この人だよ!」
こう一同から指されて、大切な少女歌劇の写真を先生に取られたという生徒が、きまりわるそうに帽子に手をやって笑った。
「先生は返してくれないの?」
「あの先生が返したりするものか。家へ持って帰って飾ってるかも知れないよ」
「僕も買ったばかしのシースと万年ペンを取られてそのまゝだ。僕はあの先生とドリルマスターが一ばんきらいだ」
Sの一言で、あちらからもこちらからも先生の攻撃が初まり出した。
「Iさんってそんなに信用がないのか知ら、でもよくお話を聞かしてくれるだろう」
「あゝ英語の時間だかお話の時間だかわかりゃしない。今日も戦争の話でまる半時間つぶしちゃったよ。ねえ君」
「どんな話?」
「あのね、フランスのジャダンっていう少年の話……」
「あゝあの飛行隊のやつだろう。――敵の上で操縦していた中尉が撃たれたので、自分ひとりでハンドルを取って味方の飛行場まで帰ってくる――」
「うん、そうだ、よく知ってるね」
「それくらいの事は、ずっと前から知ってるよ……」
こう得意になって云いかけた時、ふと横にそらしたSの瞳に、その一ばん左のはしに腰をおろしていた少年が、ポケットからハンカチを出して、靴の塵をはらっているのが映じた。
それがハッとSの注意を惹いた。というのは、そのハンカチには、美しい桃色のレースで花模様の縁がとってあるではないか! こんな芝の上で、犬の子のようにふざけているやんちゃな連中のポケットには、鉛筆の折れさしや、クシャ〓〓になったフライビンスの包み紙がはいっているのが規則なのに、そのなかゝらきれいなハンカチ――しかも桃色のレースのついたハンカチが出たという事は、奇蹟と云ってもさしつかえがない。
何て気がきいてるのだろうと、Sは思って、その少年の横顔を見つめた。すると、それが、さっき友だちと遊びながらも、とき〓〓女の人のように帽子をかむりなおしたり、襟元のホックへ手をやったりしていた少年であることがわかった。それで、Sはちょっと笑い顔をしながら、こう云いかけた。
「君のハンカチはなか〓〓ハイカラですね」
すると、これを聞いていたNというコメデアンで通っている少年が、突然、大きな声を立てた。
「T君、いゝハンカチだな」
ハンカチの持主は当惑したようにちょっとSの方を見て、Nの胸をおしたが、Nはいよいよ図に乗って云い出した。
「やあT君、いゝハンカチだなあ。いゝなあ、いゝなあ、ハイカラなハンカチ! 桃色のハンカチ! 香水のついたハンカチ! そりゃね、T君はシャンだから――プリチイシャンだから。やあナイスボーイ! 美少年! いよう美少年……」
Sは自分の一言で、どうも気の毒な事になったと思ったが、今さらNに止せというのもおかしいし、それにNにからかわれて困っているTの様子が又すてきによかったので、只だまって笑いながら見ていた。
「いよう、あの顔、可愛らしいね、いようシャン……」
こう云われる度に、Tはハラ〓〓したようにSの方を見る。その顔はもう真赤になっている。おしまいに、とうとう居たたまらなくなって、立ち上ってNを追っかけ出したので、二人はもつれたり離れたりしながら、広い芝生をこえて、外国人の先生の家がならんでいる方まで駆けて行った。
おひる休みの神学部のまえで、下級生たちの仲間入りをしたことは、やがてSの頭から忘れかけられて行ったが、Sはそのとき見たひとりの少年の顔を、或る哀愁的な気分と一しょに心の奥にのこしていた。
「どこかで見たような顔だ」
Sは、学校の行きかえりや、廊下などで、顔を見合す度に、その少年の頬にうかぶうれしいような悲しいような片えくぼを見て、なぜかそう思わずにおられなかった。実際、偶然なことでSの眼にとまり出したその下級生の眼や口元には、そんなにふしぎななつかしさがかんぜられて、云わばいく日かのふかい眠りのなかで、どこかとおい国で見てきたものをその後忘れてしまってしきりに思い出そうとしているとき、ふと見せつけられたような気がするのであった。
それからSは、教室の机で講義を聞いているときでも、窓からとおい山の方を見ているときでも、どこか菫のような気がする少年Tの動作と姿とをうかべて、ぼんやりと考えていた。
「オイ、Tって誰だい?」
Sの教科書の余白やノートの隅々に、知らぬうちにかさねられた字を見て友だちがたずねた。
「いや、これか、これは何でもない」
と、Sはあわてゝ答えると、やっぱり心のなかでは「T」「T」とくり返していた。
わがたましいの慕いまつる
エスきみのうるわしさよ
峰のさくらか谷の百合か
何になぞらえてうたわん
礼拝の讃美歌の声が、ほがらかに晴れ渡った朝空のかなたへ、はろ〓〓と音波をひろげて行く。そんな時、Sは、半ばうっとりしたようになって、自分のすぐ手のとゞくような距離しかないところにいる少年のすべてを、そのうつくしい歌のなかにとけこましていた。
毎朝の礼拝は、さわやかな光と空気に満された戸外でなされることになっていた。それに整列の都合で、SのクラスはTのクラスのちょうどうしろに当っていたから、Sに取って朝目がさめたときから期待されたのはこの時間であった。Sは、バイブルがよまれたりお祈りがあげられたりするその二十分ばかしの間に、Tの帽子からズボンから靴先を観察することに並ならぬ楽しみをもっていた。
或るとき、TはTのよくやる癖で、たまらなくSの気に入っているあの小首をかしげて友だちと話しをしたり、又、何かさがしものでもあるように、ポケットから手帖やペンを出したり入れたりしていた。或るときは、うつむいて靴の先でコツコツ土をけったり、きゅうに顔をあげて、考え深そうに、とおい山の背のあたりをながめていた。帽子は、日光があたると心持青く見えるハイカラな慶応型で、それには革緒も徽章も正しくついていたし、制服なんかもきちんときて、カラはいつも真白で、ホックも、その下にならんだ五つの金ボタンもよくとゝのっていた。靴もよごれているような日はごくまれで、そのよく磨かれてある編上や、ポケットの上からのぞいている消ゴムのついた緑色のエンピツや、白い腕につけた時計など、みんなやるせないほどのふかい意味をSにつたえた。そして、Sは、自分の近くにこんなものがあったのに、どうして今まで気がつかなかったのだろうと思った。
秋の朝々、この少年の顔を見つめているSの胸には、また音楽のようにいろんな幻想がうかんで来た。或るとき、それは、グローブに受け取った白いボールの色にわけもなく充つる涙であった。花びらのように痛みやすい心であった。又、秋の日の如くにものさびしく、春の日の如くに暖かな情緒の節奏であった。或る朝は、フワ〓〓と摩耶をこえて行く白雲を見つめて果しもなくつゞく空想であった。革命の心を抱いて学校のうしろの櫟林を散歩するときの胸の高鳴りであった。そして又、ハイネ詩集の真紅な表紙……青谷公園にちりしいた落花であった。……
Tという名は、その友だちがよんでいるのを聞いてわかったのであるが、Sは、まだ知らない少年のセカンドネームは、どういうのであろうと気をもんでいた。
それは勿論その同級生なり――いやそれより直接の人にたずねるのが、一ばんいゝ事にはちがいなかったが、今のSには、もうそれがどうしてもできなかった。ところが、或る日、Sは、ふと、教員室のドアーをはいったところに、生徒の名札をかけたボールドがあったことに思い当った。
で、Sは教員室に何か用事ができないかと待っていたが、三時間目の授業が終ったとき、辛抱しきれなくなって、教員室のまえの廊下を行ったり来たりしていた。そして、時間がたってベルが鳴りそうになったとき、やっとドアーを出て行った受持先生の姿を見て、そのあとにとび込んだ。そして、ボールドのまえをとおる時、非常なすばしっこさで、一年生のカードのある場所をさがしておいた。受持先生の机のそばにきて「やッこれやお留守だった」とつぶやいたSは、引き返して再びボールドのまえに来ると、ポケットから靴ベラを床の上に落した。それをひろいながら一生懸命で、今見つけておいた範囲のなかゝら、Tという字のついた札をさがそうとした。なか〓〓見当らない。それでSは靴の緒をむすびなおした。が、それでもわからない。あせっているSの耳へ、ガラン〓〓とベルがひゞいた。教員室のなかゞ靴音でやかましくなってきて、Sは急ぎ足にドアーをはいってくる受持先生の姿を見た。それと同時に、さっきからピンポンのテーブルのむこうにいた生徒監の先生も、あまり自分のぐず〓〓していることにへんに思ったらしくも感じた。それで、そのまゝ出て行かねばならなかった。
それから後も、Sは教員室へ行く度に、見つけておいたところをしらべる機会をうかゞってはいたが、どういうものか、いつもピンポンのむこうに、八字ひげの生徒監の眼がキラ〓〓して、自分ばかりを見張っているような気がするので、つい手出しができかねるのであった。
しかし、そのうちにいゝ機会がやってきた。というのは、二学期の終りの日、礼拝のあとで、その学期の間に精勤した生徒に賞状がわたされることになった。学課という学課をほちらかしているSに取って、そんな事は勿論白眼にぞくしていたので、友だちと勝手なことをしゃべっていたが、ふと言葉をきったはずみに
しまった! とSは思った。
自分のまえの列をはなれて、部長先生のところへ駆けて行く少年のうしろ姿を見たからである。Tは精勤者として名をよばれた。Sはそれをきいてセカンドネームを知る筈であった。
賞状をもらったTがかえってくると、そのまわりの級友たちがガヤ〓〓ととりかこんだので、そこの整列が乱れかけた。Sのクラスの連中までが、賞状を見ようとしてその方へ出て行った。Sは両手でその二三人を一まとめにグッと押して、Tを中心にした一年生のグループに衝突させた。
「あ痛た!」
「危いよ」
「誰だい」
こわれかけた列は前へはみ出して、そこに又渦がまいた。一枚の紙のためにそんな目に合った少年は迷惑したが、Sはその混乱を利用して、友だちの肩にとびついて、首をのばして、そのむこうで誰かゞひろげている賞状に記されてある少年の名前「R」というのをよんでしまった。
「Rちゃん」「Rちゃん」「Rちゃん」
Sは冬休み中どこでもくり返していた。そのひとり言が誰かにきかれやしないかと心配なほどであった。――そう云えば、まだこの他に、Sがいくども口のなかで云ってみる言葉が二つあった。
「僕にもちょうだいね」
それから今一つは
「仲よくしましょう」って云うのである。
この二つには勿論少しわけがある。
半月ほどまえ、Sは運動会の写真をAやNの連中にやったことがあった。あまりAがつきまとってせがむので一枚やったのが元になって、それを見ていたみんなが『僕にも〓〓』と云い出した。
「こんなのはいやだ。そちらだ」
「取っかえてよ」
「俺が一ばんいゝなあ」
Sがこんな言葉にとりまかれていると、うしろの方から
「僕にもちょうだいね」
と、遠慮したような、しかしびっくりするほどきれいな声がした。
ふり返ると、そこにあった濡れたような瞳とぶっつかった。
すると、さっそく例のNが、その甘えたようなアクセントを誇張して
「僕にもちょうだいね」と真似をした。
しかし、ベルがなってみんなが走り出したとき、Sはそのおとなしい人をよびとめて、一枚だけのこしておいた秋空に星条旗と日の丸とユニオンジャックが飜っている一ばんいいのを、そのポケットにすべりこました。
その次の言葉もTが云ったのであるが、これはNの口から間接にきいたのである。
「僕たちのなかでかい。それやTが一ばんえらいんだ。平均八十五だもの。Oが一ばんいけなくって僕がその次だ」
話をそれとなくTのことへ運んで行ったとき、Nは特長のあるどんぐり眼で、Sの襟章を見ながら云った。
「毎日遊んでいるの」
「誰と?」
「Tなんかとさ」
「いゝや」
「どうして?」
「あまり遊ばないんだ」
「なぜ?」
「なぜって、TとCとが一しょになってMをいじめかけたんだもの。MはTやCにどうもしやしないのに、Mが何を話しかけてもTはだまって返事をしないんだとさ。で、僕はMの味方になってやったの。――学校でも顔を見合すだけで話なんかしないんだ」
「今でもにらみ合いかい?」
「いや、二月ほど喧嘩をしていたんだ。するとTが俺んとこへやってきて『仲よくしましょう』って云うのさ。おかしいね、男のくせに……」
「それで仲なおりしたの」
「やっぱりあまり口をきかないよ」
Nの話すのを聞いているうちに、Sの胸には、Tに対する歯がゆいような感情がぞくぞくとわき上ってきた。そして、今すぐにも、あのテニスコートのすみでゴム毬をなげているTのところへとんで行って、両腕をつかまえてひっころがしてその上に馬乗りになって
「毎日一しょにいる同級生に『仲よくしましょう』だなんて一たい君はどんなつもりでいるんだ。こら、Rちゃん! 一たいどんなつもりだ」
とゆすぶってみたい気がした。
体操の時間に運動場から、いつもそのあたりが花のように匂っているTの教室の窓をながめるのが楽しみであったと共に、Sは、二階にある自分の教室の窓ガラスから、Tのクラスの体操を見ることに、大へんな興味を抱いていた。
リーデングを聞いているとき、書取りをしているとき、ちょうどこの間こわれたまゝ磨《すり》ガラスのかわりに透明なガラスがはまっている机のそばの窓から、眼をそとにそらすと、一めんに日のてったグラウンドのまんなかを、たくさんな白いシャツがとおって行く。そのなかほどからいく人か後方にいるのがTで、それを認めるとSの胸はドキ〓〓し出した。小柄なふっくりした肩さきから両手、ゲートルをしめた両足の運動を見まもりながら、Sは、その上着をとってしまったデリケートな背中から腰の曲線を、力一パイ抱きしめたくてたまらぬ衝動に駆られた。
こんなふうで、Sは一週のうちでTのクラスの体操時間はすっかりおぼえていたし、その時間にあたった自分の級の授業が、ベルより早くすんだり、くり越しになって休みだったりすると、いち早くグラウンドにとび出して、樫の木の下や平行棒のかげから、息をのんで一年生の体操を見守った。
狂犬とニックネームされたくらい敏活なドリルマスターが、蝗のように木馬とびの模範を示すと、二列にならんでいる左のはしから、一人々々革をはった馬をたてにとび越し出した。Sもおどろくほどうまい者があると、とびかけたまゝ馬に抱きついたり、その上にのっかってしまう者もたくさんあった。その度に、狂犬のかけ声や、みんなの笑いや拍手がどっと起る。Sは、あのおとなしいRちゃんが、股をひろげて、こんな大きな木の馬を越えさせられるのかと思うと、なんだかいとしい気がした。が、又、一種の快感もおぼえられた。こうして、胸をどきつかせている少年におかまいもなく、順番はまわってきた。その白いシャツは駆けてきた。
「しっかりふみ切って!」
先生は気勢をつけたが、Rちゃんはそのまゝ馬にまたがってしまった。
「駄目々々もう一度」
Rちゃんはもとの位置へもどされた。
「それッ思い切って!」
Rちゃんが駆けてきた時、先生はさらに鋭くエンカレージしたが、Rちゃんは又馬の上にのっかってしまった。
「駄目々々もっとしっかりしなくちゃ」
先生はその顔をのぞきこみながら、困ったように笑った。Rちゃんも耳を赤くしてちょっと笑った。
「これだから好きだ。あゝ僕はあの木馬になりたいな」
とSは心のなかで思った。
冬休みがすんで、二週間ほどたった或る放課後、自分が幹事をつとめている或る会の親睦会の相談にのこったSが、階段を下りようとすると
「カムアップヒア」とよぶ声がした。
引き返して駆け上ると、同級のIが手すりにもたれている。
「まあ待ち給え、ちょっとおいでよ」
と云うのでついて行くと、Iはガランとした廊下をとおって右へ折れると、そのとっつきにある教室のまえに止った。
「かゝってるか知ら」とドアーの握り玉をまわしたが、すぐにガラッとひらくと
「しめた!」
とびこんだIは、教科書の包みをほり出すなり、六列にならんでいる机の下にはってある名前を見ながら、とび〓〓に机の蓋をあけ出した。Iは少年の机のなかをしらべているのである。
Sも勿論じっとしていなかった。こゝがいつも運動場からながめる花のようなかおりのする窓のところであることは、今さらにドアーにはめてある(IA)というカードを見るまでもない。Sは口笛をふきながら、何気ないふうをして一つの机をさがし初めた。それはうしろから二列目のなかほどにあった。今、自分がこうやるように、Rちゃんの靴は毎日この床の上にあり、その背はこの木にもたれて、あの腰がこの板の上にのせられるのだなあと思いながら、Sは、やわらかな少年のうつり香がしみこんでいるようなその椅子に腰を下した。
紫エンピツを削ったあとがある蓋をあけると、白いリボンのついた紙ハサミと、チャンピオンインキの瓶と、少しよごれた学用紙がはいっていた。学用紙を裏返しにすると、朝日館でやっているエジポロのフィルムのタイトルが、あまり上手でない手付でかいてある。やっぱりTもあそこへ行くんだ……と思った時
「うまい、これやすてきだ」
Iがびっくりしたような声をあげてSの方へ一枚の清書を示した。
「うん、うまい」
と見もしないSはいゝかげんな相槌を打った。
次の朝、Tの花びらのような脣の事を考えながら歩いていたSが、うしろからきた電車にとび乗ると、満員になった車掌台のとっゝきにそのTが立っていた。
が、その翌日、又同じようなことがくり返されたのでSはもっとびっくりした。
その朝は半時間も寝すごしたので、もうどうせ遅れると思ったSは、ゆっくりと電車にのった。時間がすぎているので学校の生徒はひとりも見えない。それにもかゝわらず、もしこの電車のなかへTがはいってきたらどうだろうと、Sは考えていた。ところが、事実、K二丁目に止ったとき、ガラッとドアーをあけてはいってきて、Sのまえに腰をかけたのが、まぎれもなくきのうの朝と同じ人ではないか。
二人の目が合うと、Tも意外なように「あッ」と云って帽子を取った。「やあ」とSも答えて挨拶した。
Tは初め何か本をよんでいたが、すぐ教科書の包みの下へ重ねてしまったので、真正面に向い合った眼と眼とがぶっつかり出した。その度に両方からちょっと笑い合う。が、Sはだん〓〓やり切れなくなって、この次の車が止ったのをきっかけに、席を向う側へうつそうと思った。しかし、その停留所で、ピクニックに行くらしい会社員の一団がのりこんできたので、二人の間には都合のいゝ垣ができた。つり革にさがっているカーキ色の人たちの間から、小さな恰好のいゝ靴が見えて、ピン〓〓と床から少し離れたところでうごいていると、すぐにやんで、こんどは上の方に、女の子のような瞳が天井の広告絵を見つめていた。すると、それは又窓の方をむいて、そとを走って行く景色をながめて何か考えているようであった。その頬のやわらかな曲線や、耳や、頸すじの生えぎわに、Sはつくづくと見とれながら、ほんとうにどうかできないものかなあ……と思っていた。そして、そのまゝ電車はガタン〓〓とポイントをこえて、終点にとまった。
そこから学校の正門まで、数町の間、SとTと二人だけしかいなかった。電車を下りてちょっと顔を合わせると、二人は歩き出した。
「きのうも君と一しょだった」
Sは口を切った。
「あゝそう……」
少年は情をふくんだ眼でSを見た。
「君はA組?」
Sが云うと
「えゝ、あなたもでしょう」とTが云った。
「この次は何?」
「授業ですか、英語です。あなたの方は」
Tがこう云いかけると
「僕とこは国語――」
Sが短かく答えた。
「君の主任はY先生?」
「えゝ」
少年はかるくうなずいた。
Sの心のなかには、いろんな云いたいことがもつれていたが、それが少しも口に出なかったし、又云ってもつまらないという気もした。両側にひろい植込のある家がならんだしずかな通りに、二人の靴音が気持よくひゞく。Sはとぎれ〓〓に話しかけながら、Tはいつものように、よろこんでいるような、又何かの心配事をごまかしているような微笑をうかべて、すこし遅れ気味に歩いて行った。
学校の門をぬけて、高等部のまえをとおって、グラウンドにそうて校舎にきたとき
「さよなら」
と少年は叮嚀に帽子をとった。
「さよなら」
とSも云い返して、互の教室の方へ別れて行った。
Sは、折角の機会を無駄にしたような気がしたが、同時に、ちょっと口では云われない淡い、満足した、いゝ気分がのこされたようにも思った。
昼休みになると、Sは、森の下にあるお菓子屋へよってから、友だちと一しょに、神学部の芝生に通じている坂を、ぶらぶら上ってきた。
こゝへくると、Sはいつも楽しさと共にいくらかの胸さわぎをおぼえた。というのは、こゝであのハンカチを見て以来、昼の時間にはきまったようにその時の少年たちが来ていて、白い路の一部をコートにしてゴム毬を打ち合っていた。そして、Tがよくそれに加わっていたからである。
今日もSは、その方にいつもの連中を見つけたのみでなく、そのなかゝらこちらを見ている白い顔にも気がついたので、どうしようかと思った。
が、AやNがよほど遊びに夢中になっているらしいので、急ぎ足に近づくなり、なるべく早く通りぬけようとした。そのとたん
「S君!」
Aの声が電光のようにふりかゝった。
――この二三週間以来、SにとってAほどこわいものはなくなっていた。
「Tは君のクラスだったね」
「Tかい、あゝそうだよ」
「Tは何がよくできるの」
Sは、その時、出来るだけ何気ないふうをよそおって聞いてみたのである。
「そんなこと知らない」
Aは首を横にふった。Sはちょっと困ったが
「君の同級じゃないか、学課のなかで何が上手だぐらいはわかってるだろう」
「僕は知らないよ」
やはりそっけなくAは云う。
「知らない筈はないじゃないか」
このまゝ引っこむのもおかしいので、Sは追及をつゞけた。
「でもほんとうなんだもの!」
「ほんとうかい」
「ほんとうだともさ。そんな事を聞いて君はどうするつもり?」
そこでSはグッとつまってしまい、Aはだまって地面を見つめていた。が、それから一週たった放課後、電車のなかでSはもっとひどい目に合わされた。
つり革にぶら下ったSは、たくさんな生徒がつまった電車のなかでAと話をしていた。ところが、布引を発車して坂を下りかゝった電車が、カーブで動揺したはずみに、Sの靴の踵が誰かの靴先をふみつけた。
「ヤッ失敬」と云ってふり返ると、それがTではないか。Tがさっきからすぐうしろにいて、いく度も自分のからだはそれとすれ合って、おしまいに爪先までふんづけてしまった――そう一度に頭にきた瞬間、今まですら〓〓とSの口から出ていた言葉がどうかなってしまった。
「どうしたの、夢でも見たんかい!」
Aの第一弾が、まずズシンとSの胸に命中した。あわてたSは、そのまえに腰かけている他の少年のひざにあずけてあった教科書の包みを取り上げた。
「もう降りるんかい。まだ早いよ!」
Sは顔中にもえるような熱をかんじた。逃げようと思ったが、ぎっしりつまったなかでは何のすべもない。まったく、Aをなぐり倒して窓からとび下りようとした。
これ以来、Sには、Aがまるで用途の知れぬ機械のように無気味な気がして、今もS君とよばれたので、ひや〓〓しながらかえりみたのである。――
「あのねS君、君の作文を今日先生がよんできかせたよ」
そのAは案外おだやかに云った。
「どう云って……」
そばにTがいるし、Aの一言で他の少年たちも一せいにテニスをやめて、自分の方へ視線を注いだので、Sは内心いくらかの愉快をおぼえて問い返した。
「大へん賞めていたよ。ねえ」
Aはみんなを見返った。
「天才的だって――」
Tが小さい声で云った。
「Tなんか大分感心してるんじゃないか」
まるで高等部の人のようにませた口調でAが云ったが、Tはかまわずに
「いゝよ。僕あれが大好き……」
「…………」
どう返事しようかと思っていると
「メタルおくれよ」
Aが大きな声を出した。
「メタル? そんなものはないよ」
「うそだ。リガッターのもマッチのも講演会のも、シャボンの箱に一ぱいもってるって啓明寮のFさんが云ってたよ」
「あいつは出たらめ屋だよ。君はだまされてるんだ」
「うそ、うそ、たくさんあるくせに。よう、僕におくれよ」
「くれってないものは仕方がないじゃないか」
「わかってるよ。Tにやったんだろう。TはS君のシャンだからもらってるんだ。いゝ子だから……」
「ちがうよ、T君に聞けばいゝじゃないか、ねえ」
Sはあわてゝさえぎった。
「やあT君だって。Tにだけ、君をつけてらあ……Tにみんなやったんだ。やあTは真赤になってる……もらってるんだ、もらってるんだ」
AはSの腕にすがりながら、胸に頭をあてゝグン〓〓おし出した。
「ほんとうにやる、明日の朝きっともってくる」
ふり離してSはやっと逃げてきた。
「少年にヤイ〓〓云ってもらって仕合せだね。えゝ、Tってほんとうかい! 赤くなったじゃないか?」
腕をつかまえて友だちが叫んだ。
「みんないゝかげんの事さ」
「だって、君は黙ってこっそりあの子をやってるんだな」
「黙ってこっそりやるって何を」
「稚児さんにしているのだろう」
「何云ってるんだ!」
Sははき出すように云ったが、その胸は、こみ上ってくるものに、ドキ〓〓と鳴っていた。
10
いつの間にか二月になった。
毎日、快晴がつゞいて、その青くすきとおった空を、ポッチリと、白い飛行船のような雲がとんで行く。
「Tと一しょにあの雲に抱かれて、どこかとおいところへ行きたいな」
運動場のスタンドの芝草の上にねころんだSは、こんな事を思ってみた。
山や河や森をこえて、フワ〓〓と飛んで行くと、ひろ〓〓した海の上に出る。海のむこうにはまだ誰も行ったことのない島がある。そこには香り高い花が咲きみだれた芝地と、濃い紫のかげをもった森がある。森の奥には真紅な色にぬられたお城があって、そこに僕とTと二人きりで住っている。――四方が鏡からできた部屋には、いろんな美しい少年の服装がどっさりはいっている。僕はTに毎日さま〓〓なよそおいをさせて、コダックでうつすのだ。――あの青いマントをきて銀の剣をさげたお伽噺の王子に。――大きなリボンで飾った靴をはいてマンドリンを抱いている少年に。――霧と雪につゝまれたノルウェーの谷から山のかなたの花の野を慕った羊守のアルネに。――それから、紫の指貫をはいた日本の昔のお寺の稚児に。――ピカ〓〓した袴をつけて殿さまのうしろに刀をもったお小姓に。僕は、若君や、乙鶴丸や、シャンや、ペットや、いろんな名でよびかけて、天井までとびあがるようなバネのついたベッドのなかで、くすぐったり、泣かせたりする……
突然、ガラン〓〓と鳴ったベルに、ハッと立ち上ったSは、なんてバカな事を考えていたのだろうと、かるい幻滅の笑をもらした。それから、教室へ行くまでに、もう一ぺんいつもくり返す言葉を云ってみた。
Rちゃん! Rちゃん!
僕にもちょうだいね
仲よくしましょう
桃色のレースのついたハンカチのRちゃん
でも君はほんとうにシャンですね
僕は君の顔が世界中で一番好きです
君の事を思えば学校なんてどうでもいゝ
11
学校の近郊で、発火演習が行われたのは、二月も終りに近いさむい日であった。
演習だなんて、十発や十五発ぐらいの弾丸を撃って何がうれしいんだと、Sは思って居たが、又、考えなおして、そのつまらない兵隊ごっこに出ることにした。一日でもTの顔を見ないのは、さびしかったからである。
その日はうらゝかに日が照っていた。コバルト色の空は、水のように清くながれて、その高いところを、いくつかの鳶が、たくみな空中滑走をやって舞っていた。
Sは東軍にぞくしていたので早くから出発した。
進軍ラッパを静かな田園にひゞかせて、朝露にぬれた畑の道をとおって行くと、山の手にある丘のうえに、点々と白と黒とが見え出した。白いのはゲートル、黒いのは制服で、そこにならんで演習を待っている一年生と二年生との見学団である。そのなかにRちゃんがいると思うと、Sの心はとび立ちたかったが、又、こんなに離れていては、到底逢える見込がないという失望にもうたれた。
小高い川堤のかげにある梅林にくると、休めの号令がかゝった。
いち早くSは友だちの双眼鏡をもって堤の上へあがるなり、丘の方へレンズを向けたが、ピントを合わそうとするうちに見つかった。
「もう戦闘は初まっている。みだりに身体を露出しないように」
指揮刀をぬいた中隊長が注意をあたえた。が、Sは横を見てあの白い花のついた枝を折って行って渡したいな……と考えていた。
半時間ばかりもたった頃、小石を松の幹に投げたり、ポケットからポケットへ手を入れてキャラメルのうばい合いをしていたSの部隊へ、やっと前進の命令が下った。
Sたちは川堤にかくれて、上流の方へ重い銃をさげて走り出した。
もうパチ〓〓と、とおくで銃声が聞える。
二番目の号令は、堤から川をこえて、そのむこうの林にかくれながら丘の方へ進むことをつたえた。Sの部隊は、敵の側面をおそおうと云うのである。
そして、今、息をきらして、うね〓〓した小径を、丘の上にのぼって行くSの眼には、早三々五々、馴染の少年たちの姿をみとめたではないか。
「戦争はまだ初まらないの?」
小径をのぼりつくした堤の上に立って、両手をポケットに入れて、首をかしげながら問いかけたのは、云うまでもなくRちゃんであった。
「もうすぐ、十分くらい……」
云いすてゝ駆けて行くSの心のなかには、薬莢のなかでゴト〓〓いうケースや、銃声や、靴音にまじって、少年の親しげな言葉が、クリスマスのベルのようにひゞいていた。
赤い椿が咲いている農家のまえに下りてくると、Sたちはやっと止った。
「誰か二人ほど斥候に出てくれないか」
級長がどなった。
が、ずるい連中の集りからは、誰もその役目を引きうける者はない。
「早くしないといけないんだ。誰か?」
級長がせいた時、僕が行こうとSが云い出した。
「ほう、これはおめずらしい!」
とんきょうな声を出して級長が、みんなを笑わせたが、Sはまえに出て、敵状をさぐる方法について傾聴をした。なぜなら、SはもうじきにTの連中がこちらへやってくるにちがいないと思ったからである。そして、そこにSは、いつか友だちから借りた本でよんだ愛する少年のまえで、敵の騎兵を撃ち破ったクレオマッカスのローマンスを気取るつもりでいたのだ。
しかし、Sと、Sが引っぱり出した友だちとが、低い畑の堤に身をかゞめて、半町あまりも進んだ時、もう百メートルばかり前面の丘に白布をまいた西軍の帽子が現われた。で、おどろいて引き返した二人が、まだ部隊につかないうちに、両軍はパッと散開して壮快な戦争が初まった。
ドンドン! ドン! バラバラ……パチパチパチ……ズドン! ズドン! パラッ……
白い煙があちらからもこちらからも撃ち出される。逃げまどった雀の群がキリ〓〓ともつれて、サッと山の方へ走る。
一年二年の少年たちは、もう躍り上るばかりになって、列も何もバラ〓〓にみだして、射撃している方へ駆け出してきた。
「退却!」
Sがやっと自分の隊についたかつかないかにこんな号令がかゝったので、又つゞけて駆けなければならなかった。そして、キャベツのうねの間をとおって、畑のはしから飛ぼうとすると、ふと、そのまえの堤にかじりついて敵の方を見ている少年を見つけた。
「T君!」
白い顔がハッとこちらを向いてほゝ笑んだ。
「撃たしてあげようか」
Sは大きな声で云った。
その新式な眼がうなずいた。
「ついていらっしゃい」
ドンと、一間ほどもある崖をSはとび下りた。
柳のある小川にそうた次の散兵線までくると、Tがニコ〓〓しながら近づいてきた。
Sは弾丸をつめて銃を渡した。
持ちにくそうに少年は銃をさしあげると、ちょっとためらってから引金を引いた――
ズドン〓
愛する人の手によって発砲されたSの第一弾は、褐色の野面にひゞき渡って、煙硝くさい白煙と、粉々になった紙片が二人の上にちりかゝった。
「もう一度撃つ?」
Sはその顔をのぞきながら云った。
「もういゝわ」
少年は、はにかんだようにSを見上げて、重そうに銃を返した。
そこへドヤ〓〓とNやAが押しかけてきた。Sは十箇あまりしかないケースを提供しなければならない羽目に陥った。
「Sさん、もうみんないないよ」
順番にしたがって弾丸をつめていたSの頭に、突然、こんな警告がひゞいた。
あたりを見まわすと、如何にも部隊はもうとおくへ退却してしまって、たゞ自分だけになっている。
「これや大へんだ」
「そら、早く鉄砲を撃たないとあそこへ敵がくるよ!」
「敵がくる? 敵がきたって、弾丸はみんな君たちが使ってしまったじゃないか。みんな逃げてしまうし、おいてきぼりにされるし、これやぐず〓〓していたら捕虜になる。どれ一つ逃げようかな」
と云って、Sはゼンマイ仕掛の人形のように銃をかついだ。
みんながどっと笑った。
Tも笑った。
――遠慮したように、ほんとうにおかしくてたまらぬように、そのあたりで白い蝶がヒラ〓〓しているようなあのえくぼを見せて。それはそばに誰かゞ、Eのおばさんでも居れば
「まあTの坊っちゃんが笑っていらっしゃるじゃありませんか? Sさん、ずいぶんのんきな兵隊さんね。今につかまえられるのがわからないんですって。ほんとうにおかしいですね」
と云ったようなおとなしい笑い方であった。
Sも一しょに笑った。
Rちゃん故に、Sは面白い兵隊人形であった。無邪気なその級友たち故に、Sは愉快な上級生であった。そして、その日一日、Sの心はうたっていた。やがて休戦のラッパが鳴った時も、岡本の梅林で弁当をひろげた時も、帰り途でも、学校でも、「まあTの坊っちゃんが笑っていらっしゃるじゃありませんか?」をくり返しながら。……
私とその家
A sentimental episode
私が中学校へ行っていた頃、毎日通学する路すじに右図のような辻があって、そのまんなかに、即ち黒くした部分に、三角形の小さな西洋館が立っていました。二階建でしたがオモチャのようなもので、私には何だかマシマローのように思われて仕方がなかった、と云うのは、その全体がうすい緑色に塗られていたからです。――何かの店かと云うにそうでなく、何の標札もないこの家に一つだけあるニス塗のドアーが、広い通りに面していつもピッタリ閉っている切りです。と云って、あまり小さいので普通の住宅とも思えぬし、さりとて事務所でも測量所でもなく、てんで見当がつかない代物でした。
一たいどんな人が住んでいるのだろう? と私は、その前を通りかゝる度には、首をめぐらしてこの家の様子に目をくばったものです。しかし白い石段の上にあるドアーは勿論その右にある低い窓も、二階の窓も、それから裏側の方の窓もみんな鎧戸が閉って、それらにはちょっと今日きのうに開かれたような模様も見えません。――これや空屋かな、そんな事に気付いたのは、この家に注意し出してから二三週間も経った後でしたろう。何故なら、それらの閉されているドアーや窓から、私はむしろ空屋よりは人が留守だという感じを受けていたからなのです。そして、そのいつも出かけているあるじと云うのは、きっと閑のある物好きな人で、毎日朝早くか、それともお昼前のあまり人に気付かれないような時刻を見はからって、ひょいと入口のドアーをあけて、多分、その奇妙な道楽によってその日一日を――時には二三日間を過すであろう或る場所へ出かけて、いつも夜遅く、蝙蝠のように帰って来るのにちがいない……そんな想像まで描いていました。が、さて、これや空屋だったのか知ら、と思い返してみると、どうやらそれに決りそうです。――きれいなりにも新らしいとは云えぬこの小さな建物を彩った緑は、少し色があせて、西洋菓子の聯想を起させるように、ところ〓〓はげたペンキには、白っぽい粉がふいています。埃のかゝった窓の鎧戸も、よく注意すると、蝶番のはずれかゝっているのさえ見つかるのです。が、そうかと云って、又こゝに不思議な事は、そこに格別荒れているような気がしないのです。それのみか、家と云ってもほんの小舎のような、しかも表現派の舞台にあるように異形なものが、辻のまんなかに放り出してあるに過ぎないのに、極めて物静かな調和を持っていて、そのどこかに一種の品のよさゝへ感ぜられるではありませんか! それで次の朝、うすい靄のかゝったこの街角を通った私は、やはりこゝには人が住んでいるのだと思いなおしました。
友だちと話しながら通る時には、そんな事を考えるのは、家を見たほんの瞬間にだけですが、自分ひとりの時は、あまり刷毛をかけない私の編上靴が、私のからだを、そこから二三丁も離れたところへ連れて行くまでつゞきました。そして、私は折々、自分でこしらえた探偵小説に酔っているようなこともありました。そう云えば又私は、お昼前の退屈な時間などにも、教室から晩春の日差をまぶしく照り返した窓外の若葉を見ながら、「ちょうど今ごろだなあ」と思って、その時刻にあのニス塗のドアーをあけて、どこかの露路に紛れ込んでしまう緑色の家の主人の姿を、あれこれと考えてみたのを覚えています。
いつか私はそれについて友だちに話した事がありました。それはOという日の当るところでは青い色に見える帽子をかむった混血児の同級生でしたが、私が、前から云おうとしてつい忘れていたその一件を持ち出すと
「あゝあの三角辻のgreen houseかい?」
とうなずきました。
(green houseが温室を意味することは、それからしばらく経ってリーダーで教わったのですが、こんな先入主のため、私には今でもgreen hauseと云えば紅や紫や白の花を映したガラス製の家ではなく、その貿易港の山手の一角にあるオモチャのような緑色の家の姿が浮ぶのです)
「あれやおかしな家じゃないか、誰が住んでいるのだろう?」と私は云いました。
「さあ……」Oは首をかしげて「ひょっとすると夢かも知れないぞ」
「何だって?」
「そうさ、あそこにはきっとこの都会の夢が住んでいるのだぜ!」
友だちがくり返して笑ったので、私も一緒に笑いました。――が、後になって考えてみると、どうやら、その奇妙な、しかし何気もない言葉が、当っているような気がして、私はその日の帰りに、待ちかまえるようにして、緑色の西洋館の埃のつんだ二階の窓の鎧戸を見上げたのです。
――こゝに夢が住んでいるのだとすると、それは二階だろう? そこには緑色のカーペットが敷いてあって、緑色のカーテンがさがって、緑色のビロードの椅子があって、いつも大変きれいに掃除がしてあって、塵一つも見つからぬのにちがいない……そんな想像を走らせた私には、今にもこの小さい空屋(?)のドアーをあけて、階段を上って行くと、その通りのものが、実際にあるような気がするのです。――じゃ、そこにいる夢は一たいどんな格好をしたものだろう? 家のまえをすぎて、広い坂路を下りながら私は考えつゞけました。――何だか長い白髯を生やしたシルクハットのおじいさんのようだ。それが窓の閉った三角形の部屋のまんなかにしゃがんで、その前でチラ〓〓ゆれている蝋燭の灯に自分の影を、天井と壁一ぱいにうつして、じいっと、夜も昼も身動きもしないでいるようだ。が、又、それとは全然反対な――ちょうどスミス先生の姪のゲギーさんのような、ピンク色の派手な着物を着た少女の形をしているようにも思われる。そして、そのバネ仕掛の人形のように快活な夢が、あの真白い聖ポーロの胸像のあるゲギーさんの部屋へ自分が遊びに行った夕べのように、緑色の敷物の上で、蓄音機に合わして、ピン〓〓踊ってるような気がする。いや、それよりもっとへんなもの――ピカビアの意匠にあるような、赤い三角や、白い球や、青い立方体から組上った何とも知れぬグロテスクなお化けのようにもある。それとも、人間の目には見えないすきとおった霧のようなかたまりで、それが場合によって何にでも変るのか知ら……私はさま〓〓に頭をひねってみましたが、そのいずれとも決まりません。――そんないろんな形をした夢が、それ以来、時々頭をもたげて、宝石の屑のような星が、満天にちらばっている狂わしい初夏の夜など、私には、真夜中頃にこっそりと、緑色の家のドアーをあけて首を出した夢が、あたりをはゞかりながら通りを横切り、黒いマントのすそを引きずって、左手にカンテラをさげ、右手に杖をついて、オモチャのような西洋館が、ゴチャ〓〓とつみ重った居留地の狭い段々を、よち〓〓とかゞみながら登って行く有様が、まるで目の前に見えているように考えられました。――そんな話をあくる朝Oに聞かせると、彼は又睫毛の長い眼を光らせて、自分は夜の一時頃にあの家の入口の左右に、クラブとスペードの形をした葉の密生した木が生えている気がするというような、その人らしいことを説くのでした。このように、green houseはもう屡々私たちの話題に上って、二人は、学校の行き帰りに見るその小さい三角形の西洋館に、或る奇妙な軽快な、それでいてどこかに悲しみをふくめた童話風な憧れ心持を托していました。けれども、それほどまで気に入っているものさえ、大勢の友だちとガヤ〓〓しゃべりながら通る時などには、まったく忘れてしまって、家へ帰ってから思い出すようなこともないではありませんでした。何故なら、そのパリー製の香水瓶のようにハイカラな夢心地を織り出してくれる緑色の家と共に、私たちには又、赤い血を湧かす野球会もあり、特別のレターペーパーで手紙を出したい明眸の友もあったのですから。……
そう云えばいつであったか、それはもう私が四年生になっていた頃でした。――その時になっても、なお三角辻のgreen houseは、三年前に初めて中学生になった私が、いそいそとした新学期の通学の途で見かけたとおりに立っていたのです――ちょうど、その春が去り、紺と茶の燕が来ると共に、私たちの制服も霜降に変った日の午後のことです。
私がれいの辻に来かゝると、緑色の家の前に人だかりがあるのです。それらの多くは、ちょうど退け時刻である附近の小学生でしたが、それが何か騒いでいます。私はgreen houseについて何事か起っている事を直感しました。それを知るなり私は――三年間好奇心の対象になっていた西洋館に、そんな異常を見かけた私は、すぐに駆け出したかと云うに、決してそうではなかったのです。私は只うるさいという気がしたのです。で、そのまま歩調も変えずに近づいてみると、いつも閉っていたニス塗のドアーが開いて、その奥に階段の一部分と帽子掛らしいものゝ円鏡が見えました。が、それにもかゝわらず私は、通りがゝりに、チラッと首をまげたゞけで行きすぎました。というのは、その時、私のすぐ前を私が日頃から注意をしていた或る下級の少年が歩いていたからなのです。――私はほとんど学校の門を出た時から、その跡をつけて来たのです。私は今までにも、こんな機会を度々取り逃していたので、一つ今日こそは、大体の見当をつけたその少年の家を突きとめてやろうと決心していたのでした。――と云って又、何も私は、その方にばかり気を取られて、緑色の家を閑却していたわけでもなかったのです。正直なところ、私は辻の人だかりを認めた時、その少年もきっと、そこで立ち止るに相違ないと思いました。そうすれば私は、自分もその傍に立って、そのきれいな首すじの生え際や、ふっくらとした頬のラインを、触れるばかりにしてながめることが出来ようし、それのみでなく、自分は緑色の家をきっかけに二言三言話しかけようし、延いてそれは、そのやさしい肩に手をかけてもかまわない幸福にまで、自分を導くかも知れない、その上に、又私は、green houseの方についても、三年越しの疑念をとく何等かのヒントを得られるにちがいない……と考えたのですが、そんな勝手な予想は、脆くも目のまえにぶち壊されて、その少年は、只、人が集っているのをちょっと見返したのみで、やはり先のとおり、蝶の形にインキのしみがついた白い教科書の包みをかゝえて、通りすぎて行ったのです。失望に打たれた私は、それでも、そんな物見高い事を好まないでいるその少年の態度を、貴族的だとまで床しく思い返して自分も又、その格好のいゝ靴の踵のところを見守りながら、ついて行ったのです。
それから、うつり変りの多いこの世の規則は、学校にも、私にも、私の友だちにも、その他の人たちの上にもめぐって、いろんな事がありました。しかし、山手通のgreen houseだけは、テニスコートのわきの櫟林が切り開かれて大講堂が出来ても、畑に囲まれていた学校のぐるりに、追々と家が建ちつんで来ても、Kの終点から学校の門までつゞいた路が、電車延長のために掘り返され初めても、やっぱり昔のとおりに、オートモービルがひっきりなしに通る辻のまんなかに、ひっそりした奇異なアトモスフェヤーを造って、ひとり取り残されたように、又、すべてから超越したように立っていました。――その四年生の夏に「あそこにはこの都会の夢が住んでいる」と云ったOがアメリカへ去って、「こちらには霧が多いので、夜になると水の底に住んでいるような気がする」そんな事を書いたサンフランシスコからの絵葉書が私の手に着いた時にも、それから、そのうちに早くも学校を卒業することになった私が、卒業の式場の瓶にさしてあった紅い桃の花の印象のなかに、すぎ去った五年間の生活をとぎれ〓〓に浮べながら、その辻に来かゝった時にも、やはり、この小さな緑色の西洋館は、昔のような紫ばんだ空の下に、さらに変りなく立っていたのです。……
*         *
*         *         *
それから三年経った去年の夏、久方ぶりで少年時代をすごした都会へ立ち帰った私が、その辻を通ってみると、もうgreen houseはなくなって、そこには新らしい自動車屋が出来ていました。しかし、その事は、もうさほど私の心をおどろかせもしなければ、それについて、特別の感想と云ったようなものも起させませんでした。それでも私は、人々が「ああ秋になったな」とつぶやいたくらいの気持では、しばらく立ち止って、このやはり三角形をした小さな車庫に注意をはらってみました。
TRIANGLE GARAGE頭の上には、そんな白いゴシック文字が読まれました。そして、その下のセメントの床の上にある自動車が、三台ともそろって、美しいピカ〓〓した小型のロードスターであることが、ちょっと不思議に思われて、それが何か前にあった緑色の西洋館と関係があるものゝような気がしました。が、さて、そうかと云って、私はその店に入り込んで「あの家はどうなったのか?」と訊ねるようなことは勿論しませんでした。何故なら、幸いそこには、何人の姿も見えなかったし、又、自分の方に取っても、そんな敢為な心持なんか、今にも昔にも、到底持ち合わせている道理がなかったのですから。しかし、それにもかゝわらず、私は、自分が今はもう無くなったあの小さな緑色の家に対して抱いている興味や思出は、もしこの場合の私が他の友だちでゞもあったら、そんなこと――自動車屋へ入って、家のその後のことを聞きたゞすぐらいの仕事は、まるで一本の巻煙草に火をつけるよりも雑作なくやってしまうであろう、それくらいになつかしいものだという事は、内心によく承知させたのです。それで、それから、私はひとりで煙草に火をつけて、夕方の歩道の煉瓦の上を歩きながら考えました。――あの家は一たいどうなったのだろう? そう云えば、自分はなぜあの時、あの家が窓も扉もしめ切ったまゝで立っていた五年の間で、たった一回きり入口のドアーが開いていたあの春の終りの午後に、どうして立ち止って見なかったのだろう! そうすれば、自分は今になって、こんなことにあれこれと心を使う必要もなく、もうとっくの昔に、おそらくあの日の瞬間に、不思議な緑色の西洋館に対するすべての疑問が解かれていたかも知れないのに……そう考えて、私は少しばかり残念な気がしました。「だが!」と、私は風にサラ〓〓と鳴るプラタナスの葉ずれを聞きながら、ひとり言のように口に出して云いました。
「あの少年の瞳と、あの緑色の家と、どちらが自分の夢を托すのに十分であったかは、誰にだってわかりゃしないんだ」
そこで私は、もううす暗くなって来た歩道の角をまがって、この港の街のキラ〓〓した賑やかな方へ坂を下りて行きました。
鼻眼鏡
その頃、私は舞子から汽車で神戸の東部にある中学校へ通っていました。T・Nという少年もやはり同じ汽車で、これは私の家よりステーションを二つおいて神戸に近い須磨から通学していたのです。
私が彼の顔を初めて知ったのは、三年生になった春の終りでした。帰りの汽車にひとり乗っていた時で、鷹取駅を発車するとすぐ、乗客が少ないからタバコを吸おうと思って、しかし一応左右に眼をくばるために立ち上ると、うしろの方から
I hear their
gentle voices
calling Old Black Joe
と英語の唱歌が聞えたのです。それは発音をたどりながらうたっているのですが、節まわしがなか〓〓上手で、その小さな声がそれこそgentle voiceなのです。で、そっとのぞいてみるとうしろの腰かけからすべり落ちそうな姿勢になって、私の学校の制服をつけた少年が、胸の上に紫いろのリボンのたれた唱歌帳をひろげているのです。窓縁の日光をうけたその首すじが、めずらしいほど品よく見えたので、それにこんな新入生がいたのを知らなかったので、どんな顔だろうと私は、もっとからだをのばすようにしました。このとたん急にうしろを向いた相手の眼と衝突して、二人は両方から笑いましたが、少年はあわてゝ唱歌帳を、教科書の包みの下にしいてしまいました。次のステーションで下りたこの少年のうしろ姿を、私は、窓からちょっと感心したように見送っていました。なぜなら、そのきれいにそってある耳の上から、真白いカラから、折目のついたズボンから、よく磨いてある靴から、それは実に一点の非のうちどころもないほどとゝのっていたからです。いくら家でやかましくても、一年生やそこいらでこんなにきちんとしているのは、きっと彼自身の趣味にもよるのだろうと、私は考えました。が、それよりもっと気を引かれたのは、そのおとがいすぼりの顔が、学校のうしろにあるポプラに包まれたカナデヤンスクールの生徒のように白くて、薔薇色の脣をもっていたことです。それに、睫毛の長い眼と眼との間が、なんだかやゝこしくクシャ〓〓となって、ちょうど鼻眼鏡をかけているような感じがしました。
次の朝、登校の汽車が学校の下のステーションについた時、その混血児のような少年を他の友だちがどう云って呼ぶかと私が注意していると、同級生らしいのっぽの少年が、改札を出ようとしている彼のうしろから「ハイカラ!」とどなりました。
その「ハイカラ」に、私はまた二三日たった帰りのステーションで出くわせました。彼はプラットホームの椅子にかけて、その家の書生らしい青年に小声で話しかけていましたが、それが書生に通じないらしくいくども「何?」「何?」って聞き返すと、その坊っちゃんはそばにいる学友をはゞかるように立ち上って、私の方へ歩いて来ながら、腰をかゞめている書生の耳元で、気まりわるそうに何かくり返していました。この情景がちょっとよかったので、私は汽車が来た時、この間の背高の少年をつかまえて、名前をきいてみました。T・Nという名を教えてくれたそのクラスメートはつけ加えて「あいつは家で大将なんで、何にしてもいゝんだって――」
で、帰るなり電話帳をくってみると、はたして西須磨××番とあって、その下には聞いたとおりの名前が出ていました。私は、汽車のなかでそれとなく考えた「ひとりの子供にあんななりをさせている若いお母さん」という事が、ほゞ的中したのを知って、我知らずにほゝ笑ましい気持になりました。そのお母さんというひとは、又そのうちにほんとうに見たのです。
夏休みになって二三日目の朝、神戸へ出かけた私が、帰りに須磨の上りのプラットホームに眼をやると、学校の制服をぬぎすてゝ、ヘルメット帽にクリーム色の半ズボンの服をきたT・Nが、この間の書生と一しょに立っていました。そばに、明らかにお母さんと思われる派手な藤色の着物をきた中年の女の人がいて、うしろにトランクをもった赤帽が見えたので、はゝん旅行だなと思っているうちに、シュッと上りの汽車がさえぎってしまいました。
が、こうした記憶はそれから途切れています。と云うのは、私の彼に対する注意は、ほんのちょっとした好奇心にすぎぬもので、二学期が初まった時には、友だちにでもなろうとしないかぎり、すてゝおいてもいゝものだったからです。しかしそのまんなかによった眼と眼との間に三色すみれのようなチャーミングがあった以上、私には単な面白味より他の気分が抱かれなかったかと云うに、それは断言できません。が、要するにそれも、プラットホームに見た半ズボンがおしまいでした。どういうのか、最初から私には、彼が弟のように見えて、その見得坊らしい気持も、態度もあまり自分に近く、それは恋人(?)としての条件にはならなかったのです。だが、勿論、そういう彼がいやではなかったのですから、私は汽車のなかや学校で顔を見る度に、鼻眼鏡をかけさせたらどうだろうとか、一しょにコンサートに行ったら似合うだろうとか、又、友だちが彼のことを話題にあげているのを見て、もしT・Nをつれて歩くのならほんとうにその資格のある者でなければならぬ――それはこの自分だとか……いうようなことぐらいはよく考えたのです。こうして二人の間には、いつしか二年に近い時がながれてしまいました。
その間に彼よりあとにはいってきた下級生たちと、帽子をかくしたり教科書をなげ合ったりして、ふざけるようになった私が、ひとりのT・Nにだけ疎遠であったと云うのは、初めに抱いたさっきのような気持のために、かえってフランクなふるまいの邪魔をされたという他に、彼自身の方にもあった一種の超然的な態度によるのも明らかです。実際、彼は学校ではどこにいるのかめったに姿を見せず、汽車のなかではいつもひとりか、でなかったら、一年生時代から一しょにいる兵庫駅から乗る病身みたいな友だちと二人きりで、みんながいるところからずっと離れて腰かけていました。それが私の気に入ったのですが……
で、私が五年にあがった時、もはや三年生であった彼の背丈はずっとのびて、Awaking of Springに近づいた証拠でしょうか、からだ中に一そうの水々しさが充ちてきたように思えました。気取っていると云っても、決して規定はずれでなかった服装が、二年生になった頃から目立って派手になって、私たちのように、たけの短かい特別の着地の上衣に、先のつぼまったズボンをはいて、教科書は細い革緒でぶらさげていました。そして、そういうふうに変ってくる他の少年たちと同じように、途中で私たちを見かけてもおじぎなんかしませんでした。私は、折々ステーションで、女学生が乗るようにきめられている二等車から後方の箱へはいって行く彼を見て、少年としては爛熟期にあるT・Nのこうした生意気で愛らしい姿も、こゝ一年ほどのうちには失われてしまうだろうと、軽いさびしさをまじえた気持で思ってみたりしました。そう云えば、学校の杜が匂わしい若葉につゝまれ出した頃でしたが、私は、一度、まぶしいほど日がてったテニスコートに立っていた彼の顔の、なんだかなまめかしいような白さに、今までになかった或る強い感情に胸を打たれて、急に目さきがまっくらになったようなことがあるのをおぼえています。
ところが、二学期になった或る日、そのT・Nが、突然私の顔を見てニッコリと笑ったのです。
控所のまえの石段を下りかけていた私は、下からきた彼にそんなことをされて、誰かうしろにいるのだろうと思ってふり返ってみました。が、それと同じ事が又帰りのステーションでもくり返されたのです。
「こいつ黙ってるとひどいぞ!」
と、そばにいて感ちがいをした友だちが、あとから私の背中をいやというほどたゝきましたが、私自身にもわからぬその奇妙な笑い顔は、次の日も又その日もつゞき出しました。
何のためかというよりもいさゝかあてられ気味の私は、それでも返事しないとわるいように思うので、自分も一しょに笑ってみるのでしたが、いつも何か云い出しそうな様子を見せるT・Nは、又決して何も云いません。そして、私がそこにじっとしておればおるだけ、そのコケッティシュな眼差をひるがえさないのです。で、私は、誰もいない時に、そっと手をあげてまねいてみました。すると、どうしてだか彼は急に真赤になって、逃げるように校舎のむこうへかくれてしまいました。
その秋が終りに近づいた或る帰りの車中のことです。私が友だちと話をしていると、ふいに腰のところをゴソ〓〓となでまわすものがあるのです。それがさっきから私のうしろにいたT・Nの手であることは云うまでもありません。背中を窓の方へよせて横向きに腰かけた彼が、右の手をシキリの上から私の方へさしこんで来ているのです。その頃の私は、彼の笑い顔やお嬢さんのようなしなにはもうよほどなれて、反ってそうした相手に対して、自分が無関心をよそおっていることに、一種の享楽味さえ抱いていたほどでしたが、これは又あまりにだしぬけなへんな事なので、少なからずびっくりしました。が、次の瞬間、彼が自分のポケットから何か盗もうとしているのだ(!)という考えが、直感的にうかんだのです。そして、これが、その貴公子的な少年と対象して、決して不調和ではなかったと云うのは、私は、やはり三年級の生徒で、この間退校になったというBという少年のことをよく知っていたからです。そのBがなか〓〓のシャンで、家もいゝのにかゝわらず盗癖があって、友だちのOが一しょに活動へ行く時は、いつもパースを内側のポケットに入れておかないと危いと話してくれたのを耳にしていました。ですから、この上品で同時に少しへんなところのあるT・Nこそ、考えようによっては最もそうした行為に対する可能性がある――ほんとうにそうだったら何とすてきな唯美派の小説ではないか!
が、その唯美主義が、そう考えた私自身にしかけられようとしているので、又、ちょっとまごつかないわけには行きません。私は、彼の手がふれている右のポケットには何がはいっていたかなと考えました。幸いハンカチだけだと思うと、一方、これは右の方にあって彼に盗ませてもよかった万年ペンの存在を、左のポケットの上からそっと手をあてゝたしかめたのです。それから、その手がハンカチだけのポケットへはいったらどうなるだろうと、そんな好奇心もおぼえて、何気ないふうにからだをまえにずらせると、自分のからだとシキリ板との間隔をひろくしてみました。ところが、オヤと思ったのは、そのさぐるようなしなやかな指先の感触は、私がそうするために容易な方法をとったポケットへはいらずに反ってその下へのびて、上衣のすそをまくって、何かズボンのバンドでもつかもうとする模様ではありませんか?
私は、こんどは少し気味わるくなって、立ち上るなり首を窓の方へ出したのです。その時、チラッと見ると、急にそこが開放されたので、拍子ぬけをしたT・Nの白い手は、たゞの手なぐさみのように、敷物のすみをいじっていましたが、すぐにシキリのむこうへ消えて、その正面にいるれいの青い顔をした級友と語っている小さな声が聞え出しました。
それで、泥棒だと思ったのは間ちがいであることがわかりましたが、そんなら、それは一たい何を意味したものであるか、私には見当がつきかねました。――ともかく、私は、あの笑い顔と合わして、その事をいよ〓〓直接に聞いてみなければならぬと思い出したのです。が、しかし、私はたゞそうしていたずらに毎日をあせったゞけで、たずねてみたらきっと与えられるにちがいないと考えていたその具体的な答えというのは、とう〓〓きく機会なしに、その時はもう余すところいくばくもなかった卒業までの日数をつぶしてしまいました。
今から考えて、私は惜しい事をしたと思います。いや、卒業してからも、私は、何かものを中途半端にして来たような心のこりを度々におぼえたのです。が、その五年生の二学期から三学期にかけての私の心は、T・Nより他の少年の事で、あのドイツの芝居にある「僕はわるいくじを引いた」と云ってピストルをこめかみに当てた中学生の真似をしたいくらいに曇っていたのです。
卒業試験の発表があった日、私がぼんやりと運動場のすみの木馬にもたれていると、そのまえを、授業を終えたT・Nがとおって行きました。彼は白い顔を私の方へ向けて笑いました。これで見られないな、格別何の気もなしにそう思ったゞけの私は、自分も又見返して笑いました。むこうもそれを知っているのか、いつもよりずっと長くこちらを見ていました。それがキラ〓〓と眼に痛いほど春の日にかゞやいたグラウンドを行きつくして、杜のなかにかくれてしまうまで、二人はとおくから同じような笑いをかわしていたのです。
*         *         *
*         *
それから足かけ五年の月日がたってしまいました。
この国へ来たイタリーのオペラの第一回公演にさそわれた私が、その何日目かの切符を買ったのはついこの二月の話です。
その晩、開幕前に、シガーのけむりや香水の匂いが、クル〓〓と魔宮のように渦巻いた廊下に立っていた私が、ふと、棕櫚のかげからきた三四人のつれに目をやると、まんなかにいたのがうたがいもなくT・Nではありませんか。
「やあ」と私が云うと、彼も又早足に近づいて、からだを引くようにして少し気障《き ざ》な、しかしそれがこの場合その人に取って決して不似合ではない鷹揚な礼をしました。この時、ドキンと私の胸を打ったのは、そんなサロン式の挨拶ではありません。又、その見ちがえるように大きくなった彼のきれいにわけた頭でも、青い光をうけてツヤ〓〓しく光っているタキシードの襟でもなく、それは実に、昔のまゝにクシャ〓〓となったあの鼻眼鏡をかけているような眼と眼とのまんなかに、ほんとうにかゝっている白い細い鼈甲の縁がついた鼻眼鏡だったのです。
私は「やられた!」という気がしました。
が、これは、彼とは生れて初めてゞある短かい会話をかわしているうちに、心の底からわき上って来た一種の安心と置きかえられて行きました。――というのは、私は、学校を出てから彼の事はほとんど忘れていましたが、それでも思い出した時には、そのローマンチックな少年が、だん〓〓大人になって行く日々の経過に、また一つのなげきをおぼえていたわけです。ところが、今夜、こゝでひょっくり逢ったのは、もうあの日のT・Nではありません。が、それは決してその時代から退歩したものではなく、むしろそれに一そうの洗煉と高踏とを加えたT・Nだったのです。あの女学生のいる客車へはいっていた彼が、四年もたゝぬうちに、その対象を、この都の社交界のレディたちにかえてしまったのであろうことに思い至ってみると、私には、過ぎ行くものに対する淡いかなしみと共に、又、口のあたりに浮んでくる微笑をとめることが出来ませんでした。
「T・Nがこんなになったからには、自分の何の気づかいも無用だ」そんな云わば、娘を嫁がしてしまった母親の気持に似たものにホッとした時、すでにベルがなって、椅子にかえった私のまえには、絢爛たるリゴレットの舞台が開いていました。
或る小路の話
キネマの月巷にのぼる春なれば……
この神戸などいう街は、五年や六年くらしていても、夜、山手あたりを散歩していて、近路をしようと露路にはいると、まるで見おぼえのない迷宮のような一廓に入りこんでしまい、そのグル〓〓とまがりくねった突きあたりにある緑いろの灯のともった洋館のあるじについて、探偵小説めいた想像を走らせたり、そうかと思うと、きゅうにパッとした通りに出て、さて方角はと見きわめる折柄、辻むこうの黒い大きな煉瓦建の皎々とかゞやいた窓からもれる電波のような音に、不可思議なその機械の正体について、いろ〓〓と考えさせられるようなことがよくあるものです。これがまた私の一方ならず神戸が好きだという理由の一つになっているのですが、そう云えば、私は、こゝに、やはりそんな夜の錯覚と、ちょっとたやすくは知りきられぬ港の市街の裏路に関したことで、思い出すたびに、なんだか薄荷入のタバコでもすったような気持にとらわれる一つの記憶をもっています。
***
それは、所謂、芝生の上にラケットを投げ出して、テニスコートが森かげにおおわれてしまう夕べの一ときを待った時代ですから、もう七八年になります。その春――たしか私が中学三年生になった春休みだったとおぼえています。私は、友だちの前田と二人、青い街燈のともった山手通りのアスファルトの上を、西の方へあるいていました。
「きょうはサスデーだね」と、ボーイスカウトの服に紅いネクタイをつけた前田は云って、山の上にたゞようている黄いろいツアイライトに目をあげました。
「そう」
私も答えて、あたりを見まわしました。すっかり春らしい晩で、その上、うすい靄のようなものまで下りているので、どこかに初夏のようなけはいがありました。で、私は、心持あせばんでいる背中におぼえられるこれからはいゝ時候だということに、今夜、前田が呼び出して紹介してくれるという人を加えて、その時代らしいかるいざわめきさえ胸のなかに打たしていました。
――私と中学校の一年にはいったときからの友だちである前田は、細おもての品のいゝ顔をして、誰にも愛想がよくていつもニコ〓〓していましたが、そうかと思うと、何か云いかけても返事をしないので見ると、とおい運動場の隅の方を見て何か考えているような生徒でした。が、野球ばかりやっていて二年にあがるとき落第したので、お父さんは思いきって前田をその家の近くにある西洋人の学校へ転校させてしまいました。その家というのは、いつか話した山手通りの三角形の家があるところから、坂をすこし下った街角にある三階建の洋館でしたが、そこは毎日私が通学する道すじにあたっていたし、彼の家にはまた自動車が好きでいつも自動車屋の表に立って遅刻ばかりしている弟もいたので、私はやっぱり月に三度は遊びに行っていました。で、それから一年たって私が三年生になりかかったとき、よくのびない頭をわけているのでみんなにからかわれていた前田も、すっかりちがって、半ズボンの服にハンチングをひっかけている姿が、一段と日本人ばなれをして来ました。それで、前田がリーダーを細い革緒でぶら下げて、樅の木につゝまれたグランマースクールの門から青い目の友だちと――それらの友だちとちっともかわらない発音で話しながら出てくるのを見たというようなことが、毎日のように級中につたえられ出しました。それが、前田の友だちとしての私に、彼をよろこんでやることになったと共には又、かるいしっとの元になったと、ことわるまでもありません。自動車のラジエーターについているマークをおぼえたり、西洋人と知り合いになったりすることは、数多い級中でもこの自分こそが一等の適任者だと思っていたのに、それが前田によってうばわれてしまったのは、何と云ってもくやしかったのです。そこに私のあるアンビションが起き、それはさらにしゃくな前田のうわさをきいた午後、彼の家で次のような言葉になって現われました。
「シャンはいるかい」
私は、それともなく西洋人の学校の模様をきいてから云いました。
「さあ……男かい、女かい」
わるい気なんかちっともない前田は、姉さんのピアノの椅子からクルッとむきなおりました。「男の子はやんちゃばかりだが、女ならひとりいゝのがいるよ。混血児でね――瓦斯の光で育ったような顔をしているんだ」
それを耳にしたとたん私はハッと思いました。それこそ自分が云わなければならないものではありませんか! というのは、今ものべたようなわけに、それが何より自分の領分のものだということはともかくとして、私は、現に、一週間ほどまえに、そんな少女を見かけて、しかも前田の云った言葉とそっくりの感じをうけたからです。
それはちょうど前田の家の上の坂のところで、学校がえりでした。山の端からさす桃いろの夕日が、プラタナスの梢を長くひいている煉瓦の上を、私が下りてくると、下からきた西洋の少女とぶっつかりかけました。私は、そばにある温室のなかをのぞきながら歩いていたので、むこうも又その方を見ながらやってきたのでしょう。正面衝突をしそうになって立ち止った二人は両方から顔を見合い、私は、びっくりしたようにひらいたそのまつげの長い二重まぶたの青い目に、心をとらわれました。で、そのとき私がしたように女の子も笑いかけて左へさけました。二三間行きすぎて私がふり返ったのは、申すまでもないその少女の菫のようなハイカラさが、一目であきらめられぬものにあったからです。年は私より二つ三つ下で、紺色の服をきて帽子もやはり同じ色でした。それがアーテフィシアルな顔の白さに調和して、大へん品よく見えたのです。が、ふりむいたとき、うしろ姿の靴下のところがもっと高踏的に私の心をそゝりました。で、私はすぐに瓦斯の光を聯想し、引きつゞいてその顔には、どこかゆうべ泣いたようなところがあると思い、それはまたカラをとったにぬき卵のデリケートな白さが、ちょっと指先でよごされているようなうれい――クラフトエービング式だと考えました。この奇妙な術語は、あまり女の子などには注意しないことにしていた私と、その物わかりのいゝ友だちとの間に使われていたもので、起りは上級の人からかりた青い本のなかにあった字から案出したのですが、一口に云うとそんなおとなしい下級生の目付だとか、半ズボンの間にのぞいた白いひざこぶしとかに対する或る微妙な感覚をさすのです。で、その物わかりのいゝ話相手と一しょに、紫のはかまやパラソルなどのなかには決してないと信じていたメタフィジック(?)を、今の外国の少女に発見した私は、ちょっとあわて気味でした。ところが、坂を下りて前田の家が見えるひろい通りに出たとき、このクラフトエービング式は、もっとアップツーデート式にかわりました。私のわきをかすめて一台のリムジンがとおりすぎ、あとにまきちらされたうす紫のガソリン瓦斯のなかに、その少女と共通する哀愁がかぎつけられたからです。そしてこの私にとってそれが、薔薇色の夕空をうつした暗い室のなかにまわっているコロンビヤレコードのなげきであり、又、華かなシャンデリヤの下にふられるかるやかなタクトが織り出す「バクダットの酋長」の高揚でもあったのは、別に云うまでもないことです。……
ふいな前田の言葉に打たれて、一も二もなく、それにちがいないときめた私は、次の瞬間、もうこのどこまでも味をやる友だちに心をくもらされかけましたが、気の早い彼は、そんなことに気づかず、その少女を私に紹介しようと云い出しました。そうなると、私はまた先をこされてなんだかプライドをそこなわれたようでもあり、又、何よりの好都合だとも考えなおし、しかし表面は、そんなことを別に重大視していない彼と同じような態度をよそおって、そのくせ、その友だちがそれから何を云ったかについては、まるで思い出せなかったのです。それどころか、前田の家を出て、赤い灯のついたチャイナタウンの敷石の上を、口笛の太湖船に合わしてあるいていた私の心は、やがて自分がその混血児の少女と共にある公園の夜や、ムービイホールのなかのシーンをうかべて、風船玉のようにとびかけていました。
が、それから二三日たった木曜日の夕方、約束どおり前田の家へ出かけ、待っていた彼と一しょに外へ出たとき、そんな心持はよほどうすらぎ、それよりも私は一種の気づかわしさにとらわれていました。というのは、何事にも、それが自分の気に入ったとなると、一ずにそのことばかり考えて有頂天になり、さてそれがすぎると、臆病なほど実際的の立場にかえって、あまりにも気まぐれな自分をつく〓〓かえりみるのが私の癖でした。で、そのときも私は、初めにも云ったように、自分に今夜から西洋人の友だちができ、それをきっかけにだん〓〓その方面へ交際をひろめることができるなどということを考えて、胸をときめかせていたのも勿論ですが、一方には、今自分が考えているような少女なんてほんとうにあるのではない、たとい前田のいう人と同じ人であったにしても、逢ってみれば、やっぱりどこかにつまらないのは、これまでの自分が経験したきれいな人や欲しい帽子などの場合と同じであろう――友だちになったところで一たい自分はどんなことをすればいいのだ。世間の事は何もそう坊っちゃんの前田が考えているように面白いものではない……と、そんなことも思い合わせて、そして、いつのまにかはみ出したこの考えがだんだんひろがって、その突きあたりに、照明燈にてらされたトアホテルのお伽噺のお城のような塔の見える坂へ出たとき、すっかりだまりこんだ私は、結局、逢いになんか行く必要はないと、そこまで沈みこんでいました。が、前田がその方へまがろうとしないので、私は云いました。
「学校はこちらじゃないのか」
「うん」前田はかまわずに横切りながら「裏から行くんだ」
私はそのまゝについて行きました。と、坂路のところから半丁ほどさきに行って、前田はきゅうに電車工事のためにつみ重っている材木や石や赤いカンテラをこえて、なゝめに右側へ進みました。
「こんなところから行けるのかい?」
ちょっと興味をひかれた私が、背中に瓦斯燈をうけた前田がはいって行く、くらい奥の方をかえりみたのは、ついぞこんなところにある露路などには気がつかなかったからです。
右は青ペンキ塗の高い板塀で、左側の鉄柵からは、木立ごしに大きな黒い邸宅が見え、玄関に皎々とともった電燈をうけた蘇鉄が、化物のような影を砂利路へ落していました。それはいつか見た活動写真の青い月夜の家のことを思い出させましたが、柵と板塀との間の弓形をとおって、屋敷のうしろまで出たとき
「こいつは面白い!」と私は叫びました。
私のまえには急な石段があって、登ったところに一本の瓦斯燈が立ち、何だか知れぬゴチャ〓〓したものがある闇をバックに、淡い虹いろの輪をかけているのです。今から云ってみれば、つまりカリガリ博士の舞台のようになっていたのです。しかも、そこら中に充ちおぼめいているうすい靄のために、これらの異様な物象は、あの夢遊病者があるき出すスクリーンの上とそっくりに現実を遊離して、おのずからうっとりとする夢心地を起させるのです。ほんとうにその瞬間私は立ちどまりかけました。シルクハットをかむって蝙蝠のようなマントをきたハイド氏でもが、ひょっくりと出てきそうな気がしたからです。が、そんなことは一こうに平気らしい前田が、ピョン〓〓と、これも気のせいか、奇妙にバネ仕掛の人形のようにのぼって行く影について、石段をあがり出すと私はまた別なものに気がつきました。――右側はやはり表からつゞいた板塀である段々の左に、テニスコートを三つ合わしたぐらいの空地があり、その谷のようなところに、白いシャツが五六枚、大きなユニオンジャックと一しょに竿からさがっているのです。そのむこうは、表の家となゝめにくっついた三階建があり、さきのが幽霊屋敷じみて陰気なのにくらべ、これはあけ放されたいずれの窓からも、明々とした光をなげています。それに何の目的でこしらえたのか、外側についた階段が四つもかぞえられるなら、階下にはまた学校のような廊下が鍵形にまがって、そのあたりが騒々しく、耳をすますと、皿を洗っているようでもあるが、どこにも人影なんかちっとも見えません。へんだなあ……と、石段の上で前田にたずねようとした私は、さらにちがったものをそのさきに見ました。洗濯物がほしてある空地からこの高いところまでの間が、斜面になった小さいキャベツ畑で、畑の次には堤があり、その上にあまり高くないポプラが五六本、すっかりツアイライトのうすれた――しかしそこに一ぱいにかゞやいた星によって、かすかに黒い線を劃している山を背景にならんでいます。こんなところが神戸にあったか知ら? 私はふとそう思ってみましたが、なんだかばかされたような気もするのです。
「じゃこゝで待っていてくれたまえ」
瓦斯燈の二三間さきから前田が云いました。そこは青い塀がきれて、牧場のような粗末な木柵があり、木立のかなたに窓の灯らしいものがもれていました。云うまでもない学校の裏門で、前田の話では、その灯のあるところでれいの少女がピンポンをやっているにちがいないと云うのでした。
「ちょっと」柵のなかへ走りかけた前田をよんだ私は、ふりむいたその顔が闇にういたとき「いやいゝんだ」と手をあげました。うっかりした私はきゅうに気がついて、もし少女が出てきたらどう挨拶すればいゝのか、それから私たちはどこへ行くのかということをきこうとしたのです。が、それはまた瞬間にどうでもいゝ了見にかわってしまいました。――云うまでもなくそれはうすい靄にみちた小路のせいなのです。そうです。お腹にはたまらないで口一ぱいにいゝ匂いがひろがるクリーム――ちょうどそれに似た軽快な夢となげきとが、この一廓にふくまれていました。しかも、この場合の私に対して、なんだか或る敵意をふくんだアイロニーも合わしてもっているとさえ考えられたのでした。で、前田の姿がきえるなり、踵をかえした私は、なるべく彼が閑どることをねがいながら、ポプラの梢を見上げました。その間に奇妙な場所の謎(?)をとこうと思ったのですが、具体的にはどんなことだかさっぱりとわからぬその糸口をつかまえようとて、私が腕をくんでいた間、円光をつくってボーボーともえている瓦斯燈のまわりを銀いろの小さい蛾がとびめぐり、眼の下の明るい家からは相かわらずざわ〓〓した音がきこえ、どこかでは又フォックストロットの蓄音機がなっているけはいでした。そして、ポプラの高いところにはキラ〓〓星がかゞやき、そのまばたきが見つめているうちに、考えられぬほど速くなってきたのをおぼえています。それらはふとおかしなお伽芝居を想わせ、私に、実際、自分がそんな意地わるい誰かの仕組んだしかしこんなに上品にできた舞台に立たされているのではないかとも考えさせました。しかし、云うまでもなくこうした種類は、そのときの私にあまり六つかしすぎるもので、「どうしてだろう」「どうしてだろう」をくり返したしずかでいらだゝしい数分がすぎると、一騎打はもう私の負けになりかゝっていたのです。――で、こゝへは又ゆっくりくることにしようと思い出した私は、こんどは前田が早く出てくればいゝとねがい出しました。が、なか〓〓に出てきません。――大方十五分もすぎたでしょうか、私がいよ〓〓どうかしたなと思い、そのまゝにかえろうかともしたとき、やっと黒い木の下に靴音がしました。
「いなかった」と前田は云いました。
……………………
「どうしよう――元町へでも行こうか」
「うん」私はうなずいて一しょにあるき出しましたが、このとき初めて、前田がさっきからきげんがわるかったらしいことに気がつきました。が、私はそれをちょうどよいことに思ったのです。――その前田が別に自分を気の毒がりもしないようには、自分もまた誰をも気の毒には思うまい……そんなことを思って、石段を下りかけたとき、ちょうど正面の黒い洋館の三角屋根の上に、そこをはなれたばかりの大きな月がかゝっているのを見ました。
「まあまあ!」と私は心のなかで云いました。
それがそんなにまん円く、赤く、靄のために磨ガラスをとおしたようにぼやけて、いつもRising moonというものが感じさせるあの、とおい郊外の野で誰か自分の名を呼んでいるような奇妙なハロ〓〓しさをおこさせたからです。が、このとたん、ドンと胸をつかれたように私は、このキネオラマのような月がのぼる春なればこそ、自分は瓦斯の光で育ったような少女と一しょにピカ〓〓したロードスターに乗って、アスファルトの上を走るのではなかったか! ――ということに思いあたりました。と、誰にともない口惜しさがかんぜられて、きゅうにまぶたが重くなってきましたが、しかし――と、それをこらえながら私は考えました。このへんにもの悲しい気持は、もしこの自分が少女の腕をとっていたとしたら、あるいはおぼえられなかったかも知れぬ。だが、その少女がいたら、この月はもっとちがった意味で見られたかもわからない――一たいどっちだろう?……
カラクリのような小路をぬけて、無言のまゝの前田とならんで、彼の――これもどうしてだか光っているらしいまぶたをぬすみ見しながら、キラ〓〓したショーウインドのつゞくひろい坂を下り出してからも、へんな満足と物足りなさの交叉点に立った私は、赤い月とその下の海にうかんだ碇泊船のケビンからもれる灯をくらべて迷っていました。
―――――――――――――――――――――
初めにも云ったように、それから六年あまりの月日がたちました。その間、やはり毎日のように山手通りをあるき、前田ともかわらない交際をつゞけていた私が、この次の問題ときめた小路の謎をとく機会をもたなかったというのは、いつか行って見ようと思いながらも、それがいつでも出来ることのために日一日とのびたのと、一つには、その裏に、そんな夢心地などいうものは、ほんのあるときのかんじで、再び自分がそこへ行ったとしても、何の不思議もおぼえぬばかりか、かえって前にうけたものをぶちこわすだろう、問題はあたえられたと同時にすでに解決されたものだ――と、いつからかかじり出した私のそんな気取った文学趣味が働いていたのにもよるのです。そして、これがまた「瓦斯の光の少女」の運命でもあったのは、別にことわるまでもないでしょう。たゞ、昨年の夏、私は、これはなか〓〓面白い紳士で、いつか話にかいてみようと思っているギルモアという人と知り合いになり、ある対話のはずみに、所謂「夢見心地の小路」にある一軒に住んでいたというその人から、こんなことをきゝました。――あの一角の家屋合わせて二十軒ばかりの持主がアイルランドの出身で、借地とそこに建てた家とを、こと〓〓く自分の村の一隅の風景に変更した。つまりあの小路は、それとそっくりで、しかもほんとうのものであるアイルランドのそれの模型だと云うのです。なるほど……と、私は数年まえの春のことに思いあたるところも多かったのですが、又、考えてみて、それはどうやらギルモア氏の即興のしゃれらしいふしもあるのです。しかし、たといその言葉がほんとうで、物好きな家主の計画がどれほど成功していても、何事もくだらぬこの現実では、よほど条件がうまくととのわないかぎり、あなたが今もおそらくあるであろうその小路にはいったとしても、あの夜の私ほどではとてもないにちがいありません。何もあなたが私ほどの気まぐれ屋でないというのではありません。まだ活動写真の夢がふかゝった十六の私を、あんな目に合わせたのは、前田でも、瓦斯の光の少女でも、小路でも、月でもなく、実に、この街によくやってきて、しかも知らぬ間に去っている気まぐれな魔術家であるあの靄のせいだということは、すでに、神戸の好きな私、ならびにそのよき理解者であるギルモア氏との間の定説ですから、ね。――
セピア色の村
……飛行機とか軍艦とかいうものは、どこかオモチャみたいなところがあって、なかなか高踏的な美をもっているものだ。それをよく感じるのは大人よりも子供の方だ――と、そんなことを考えながら、私はお嬢さんと一緒に、飛行場の横手の柵をぬけました。
赤土に石のまじったゆるい坂があって、そこを下りると、さっき来た正門につゞいている路です。まえには、ちょっと湖のような感じのする池の入江がのびて、向うに、はるかな山のきわまでヴァレイになった田舎の春景色が一目に見渡されます。
みじかくなった足元の影に、時計を出そうとすると、ブーンブーンという音がせまってきました。
目をあげると、白い翼に紅い日の丸をえがいたニユポールが、真珠のようにかがやいている太陽の方へ突きすゝんで行くところです。
「どれくらいでしょう?」とお嬢さんはすんだ瞳をかえしました。
「さあ」と私は、そのまぶしさにハンチングのひさしをひいて「八百メートル? もっとあるでしょう」
その時、プロペラーの刃がピカッと白金《プラチナ》のように光って、飛行機はひろい瑠璃色のまんなかでクルッと横転して下の方へ向きなおりました。五六歩うしろにいるお嬢さんはかけてきながら「インメルマンターンっていうんでしょう」
「お気の毒さま、ルツルマンですよ」
「どこがちがうの」
「それは」と私は、ちょうど取り出したタバコの箱を、飛行機のかわりにして説明しました「両方ともトンノーのように逆になって、頭をきた方へかえすのですが、インメルマンはそれをルーピング式にやるから高度がかわりません。今のはダイブをしたでしょう――だからはじめの位置よりずっと下になるのです……」
云いかけて、あるかないかの風を手のひらでかこいながら、ぬき出した一本に火をつけた時、私はふと、青や、黄や、緑や、灰や、紫やが、キュービズムの画面のように入りまじったなかにある一つの奇妙な村落に目をとめました。
「ちょっと」私はこう云ってお嬢さんをかえりみました「あしこに村があるでしょう」
「どれ?」
「そら、あの森のこちらに……」
「あゝあのかすみがかゝっている」お嬢さんはうなずきました。
「へんじゃありませんか、あしこだけよけいにぼやけていますよ」
「そうね」と云って、お嬢さんの長い睫毛のある眼がしばらくその方へそゝがれました「何か焚いているんじゃなくて……チョコレート色ね」
なるほど、そう云われて見ると、それは又全体くすんだような鳶色をしています。
「ひょっとしたらあのあたりの地質のせいかもわかりませんよ」
「行ってみようか?」
お嬢さんが無造作な言葉を出しました。
「それでもいゝ」
と私は答えて、しかしこの入江をどうしてわたろうかとながめおろしました。それは向う岸まで半丁ともありませんが、橋がかゝっていないのです。
「ボートがあってよ!」
お嬢さんが叫びました。指さゝれたところを見ると、いかにも、堤の下の二三十間さきにネズミ色のボートがほうり出されてあります。
崖下の砂にとび下りてかけつけると、少しばかりあかがはいっているだけで、オールもクラッチもついていました。
「こゝで何をしたって大丈夫ね」とお嬢さんが云ったのは、こんな一段と低くなったところだから、だまって他人のボートにのっても見つかりやしないという意味でしょう。そのお嬢さんはともに坐り、私はズーと押し出して、ひらりとのりうつりました。
ゆら〓〓と小さな船体がゆれて、ぬるんだ春の水の感触をからだにつたえると、舷側の藻の花がキラキラと光りました。がそれよりもっといゝのは、私の正面に腰かけたお嬢さんの短いスカートが上にひきつられて、ぴっちりした赤い沓下との間に、白いふっくらしたはぎをのぞかせていることです。そこへ、船の底にたまっている水の反射がチラ〓〓と縞にうつります。指先を水にひたして横向きに何か考えているらしいお嬢さんに、そんなことは気がつかず、オールをにぎった私が、だまってそれを楽しんでいるうちに、ボートの先はズシンと向う岸の砂に当りました。
「やっぱり春はいゝのね」
むせかえるような麦畑のあぜへ上がったとき、お嬢さんはとおい山の方を見ながら云いました。
「そら、ソッピース」と私は云って、二人は、こんどははるかに高く蜜蜂のようにうなって行くのを仰ぎました。
「さっきのS中尉ね、あの方上手なの――」
「そうでしょう、きっと」
「上手だったら一度のっけてもらいたいわ――だってインメルマンもおしまいには落っこったんでしょう」
「そりゃ戦争で撃たれたんだもの、仕方がない」と私は、麦の穂をぬきながら云いました。
お嬢さんはそれを見ながら「ギネメル中尉もそうね」
「なか〓〓飛行通でいらっしゃいますね」
「それくらいの事……失敬よ」お嬢さんはにらみました「この間活動で見たの。まだ子供みたいな人ね。勲章をもらっているところがうつゝたのよ」
「それからどうしました」
「おかしいのね、フランスは大将が勲章をやってからキッスをするのよ。ギネメル中尉もそうされたのよ。それが白いひげもじゃのおやじでしょう――わたしひとりでふき出しちゃったわ……」
「じゃ一つこゝでその真似をしましょうか?」
「…………」
「あなたがギネメル中尉ですよ」
「知らないわ」
そんなこと云って、青い麦畑の間を大分歩いた私たちが、気がつくと、肝心の村がどこであったかわかりませんでした。
「聞いてみようか?」と私は立ち止まって云いました。
「チョコレート色の村なんて知っている者はいないわ」
お嬢さんは笑って、すぐまえにある一かたまりの家を指さしながら「でもたしかにこゝよ。わたし道をまがるとき見当をつけていたんですもの」
私にもそう思われるのですが、そこには見たところ、格別、水蒸気が多いようにも、又、煙がたなびいているような模様もありません。
へんな気持で、二人は、紅い浮草のういた小さい池のそばから一足なかへはいってみました。が、そこにある白い土蔵も、藁ぶき家も、そのまえにいるヒヨコも、よだれをたらしている牛小舎の牛も、まるい石をつんだ低い垣も、みんなあたりまえの村に見かけるもので、ちっともチョコレート色なんかしていません。
「これやまちがったのかな」
「どうあってもこゝよ。さっきどうしてあんなに見えたんでしょう……」
とお嬢さんはあたりを見まわしながら「それに人が一人もいないのね」
「畑へでも出かけているんでしょう」
私は答えて、とおりがゝりの二三軒に目をやって見ましたが、ほんとうに誰もいません。ひとりぐらいは……と思って、こんどこそは人がいそうな次の家のなかをよくのぞいてみました。やっぱり、あけ放された障子をとおして裏の方までつきぬけですが、人のけはいもありません。
この時、ふいに白いものがうしろからかすめて行きました。
「まあ、びっくりしたわ!」
とふり向いて笑ったお嬢さんの頬の片えくぼから、それが出たように見えました。
まえには水車がひとりでコットン〓〓まわっています。むこうの菜の花のうえに、ヒラヒラと夢のようにとんでいるのは今の蝶でしょうか……
飛行機の音はちっともしなくなり、雲雀の声だけがひゞいてくるしずかな春の午さがりです。
煌ける城
水色の三日月こそは僕たちの真実です
朝、菊地とこへ行く。石野が来ていた。
「僕、こんどタルホ君と孔雀の卵とミルクを持って象牙の塔へはいるのです」
来合した森下君に云ったので、石野のことをよく知らない森下君は六つかしい顔をして考えた。
「そういうような気持なのです」
赤い靴下の少年詩人が真面目に云って、半分白眼で天井を見たので、菊地が目くばせしてクスリと笑った。(八月六日)
×
「平野の六ちゃんのとこのうしろの武っていう家へ交渉してもらっている。あしこは庭がひろいし噴水があるし、白孔雀がいるし、それに可愛いゝ少年もいるからちょうどいゝと思うのだ。部屋をきれいにして、高踏的にして、もうあんな連中なんかにやって来させないようにして否定(これは群盲にみちた一般世間に対して石野がいつも云う言葉)していたらいい。それに主人がとおいところへ行っているので、宅には老人と子供ばかりで淋しいと云っているくらいだから……」
石野はそんなことを云った。夜、元町の方へ散歩する。
「僕のさがしているのは七色の月光がたてとなゝめにさしている家だ。迷宮《ラビリンス》の真昼にある家だ――そんな夢をゆうべ見たのです」
くらい坂路で星空を見ながら云う。この男だからほんとうかも知れない、たぶんほんとうとうそとが一しょになっているのだろうと思い返す。(七日)
×
夜、石野がさそいに来て平野の森女学校へ出かける。そこの校長さんが武の主人の留守中の用事をやっているのだそうである。
二人で借りるという二階を私に見せようというのだったが、校長さんは「夜だしあすにでもした方がいゝだろう」と云う。でもたしかに大丈夫だろうという。
「どうも有難うございました」と云って表へ出たが、石野はあすにでもそこへ引越すように云う。その窓へワイルドの好んだ深緑色のカーテンをかけ、そこに於ける夢がいつも清らかであるため、姉さんの部屋にある真白いポーロの胸像もかりて行こう。ピアノをおいて僕は赤い作曲をする……それから六ちゃんがみんなでココアを飲むためにサモワルを寄附しようと云うんだよ……そう云い出したので私も、そこへ遊びにくることを許されるのは、最も親しい仲の友だち――わけても美しい少年と唯美主義の若いアルチストでなければならないと云うと、石野はそうだそうだと云った。(八日)
×
おひるまえ石野のとこへ出かける。
しょげている。武さんから病人があるからお気の毒だが……と云って使いが来たそうである。悲観して御飯がのどをとおらないと云った。石野は「でも武さん僕たちに好意は持っているのだ」と云って、その理由というのをクド〓〓のべたてた。が、それは表面上のことで、此頃石野の評判が親類間によくないからだろうと思った。
畳のまんなかにハサミと画用紙とノリと青や赤の布ぎれがちらばっているのは、それをこしらえているとき武さんの使いが来たので放ちらかしたのだろう。
それはトリッピリズム(三角派と云ってもいゝ)という石野が考え出した画で、只画用紙にムチャクチャに切った布ぎれを張りつけてあるだけである。五六枚あるが、その一つをもって石野はこの間芦屋のMさんという院展画家のところへ行って、M氏の芸術を罵倒して来たそうである。
「ほんとうにこんなものがどこがいゝのでしょう。まるで気ちがいですわね」あがって来た小さい方の姉さんが云う。
「馬山(Mのこと)やお前にわかるかい。馬山はペダンチック幇間だ」と石野が云う。(十日)
×
十一時石野が新らしい洋服を着てやって来た。
「武さんの奥さんが気の毒がって再度山のお寺へ手紙をかいてくれた」と大きな封筒にきれいな墨の字をかいたのをポケットから出した。
「そこはしずかで広いし、好きな本はいくらでもよめるし、親切なおばさんが万事の世話をしてくれるし」そう云ってこれから和尚さんのところへ出かけようと云う。
「この暑いのにかい!」と私はびっくりした。
庭の樫はカッと日にかゞやいている。二里も山道がのぼれるものか。それに、お寺なんか古いじゃないか――活動写真は行けないし第一淋しくてしようがない。木にはたくさん毛虫がいるしと云うと、石野は早その気になって止すことにしてしまった。(十一日)
×
朝、出かけようとするところへ石野から電話がかゝって来た。舞子へ行くんだと云うと家をさがしてみてくれと云う。
舞子のおばさんに石野への申しわけだけにたずねてみた。
「もっと早かったらいくらでもあいてましたのに……」うちわを片手にしたおばさんはふいに思いついて
「そうや、えゝところがある。あそこはよろしおまっせ。可愛らしい坊っちゃんが二人いやはる――あんた方にはもってこいや」
「ど、どこです」ときくと
「そら、大きな松の木のある内村さんやがな――あんた知っとってだっしゃろ」
なあんだと思った。なぜあんな凸坊が可愛らしい坊っちゃんだ。それにあそこの主人も奥さんも昔から虫が好かない。家がひろくて男の子供がいたらいゝと思ってるのだ――こんな女に石野や僕の美学がわかるものかと軽蔑をかんじた。
海へはいってかえると待ちかまえたように石野がきて「いゝ家があったか」と云う。
「あることはあったが幇間の家だ。暑いのにそう簡単にさがせるものか」
「そりゃそうだ、あのへんはいゝが幇間の家が多いな。塩谷の西洋人の家でも君と僕とならよろこんでおいてくれるのだが、そこへは親類の娘が五六人行ってるのでお母さんが心配してやらしてくれないんだよ」
そりゃいゝ、何とかお母さんを安心させて行こうじゃないかと僕は云って、黒と黄いろとの派手な海水服と、半分とじた睫毛と半分ひらいた脣とを聯想した。(十二日)
×
午前、菊地とこへ行く。
石野が作曲したピアノの譜があった。モルという妖女が星と月のある晩、となり国の森のなかの城へ、豆の花や、けしの実や、パックや、コボルトをつれて白い馬にのって三角のオモチャをとりに行くというのを主題にしたそうである。
「ひいてみたか?」とたずねると「ムチャクチャ――こんなものひきよったら気ちがいになりまっせ」と云う。
「六甲村の牧場のそばにある西洋館はどうでした」と云うので「勿論、要領を得ない」と云うと、まるでこれやなと、菊地は器用にまいたネビーカットのけむを吐いて
「そんな家を借りて一たい何をする気だろうな。象牙の塔なんか止しちゃった方がいゝんだ。そんなところへはいって風邪でもひいてもらったら大へんだ」と云ったので、平岩と僕と菊地とでわらってわらってわらいぬいた。(十五日)
×
先生さすがに弱ったかなと思ってるとやって来た。しかも大へんな勢で玄関から
「すてきな家が見つかったよ! 三角形の家が……」と云うので、どこなんだと云うと
「緑ケ丘だ、そりゃいゝとこだ。海は一尺に船があり空気には音《オン》がない、家は三角のオモチャだ!」
靴をとばして上ってきて石野は「その家は或る画家がアトリエにするつもりでたてたのだそうだ、二三年前にね。ところがその画家が家が出来るとすぐにアイルランドへ行ってしまったので、そのまゝ放ちらかしてある。今は、それをたてるときに助力をした附近の富豪と、僕の大きい方の姉さんの友だちの坂田さんが管理しているが、いつでもかしてやろうと云うんだ。むろん家代なんか何も入らない。で、都合がよかったら僕はずっと住んでみてもいゝと思うのだがどうだろう……」といろんな相談を持ちかけて来た。一しょになってしゃべってしまったが、あとから情けなくなって、こんな水の表面へ絵をかくようなことを考えている人間は、結局自滅に近い種属かも知れないと思ったりした。
しかし表へ出て夕方のむこうでキラ〓〓する灯を見ると元気になった。今まで石野の熱心にくらべてにえきらなかった自分の態度がすまない気がして、これから一生懸命に象牙の塔のために骨を折らなければならぬと思った。
六ちゃんとこの裏門から二階へ行くと、六ちゃんは寝ころんで蓄音器のゼンマイをかけていた。
「石野が今かえったところだよ、又家が見つかったってね」六ちゃんはニヤリと笑った。「――それにこんどの家は三角だそうじゃないか、行くつもりかい」
「さあ……もっとしっかりしたことがわからないとね」
そう云ったときレコードがまわり出した。(廿日)
×
三時頃、石野がきたのでついて行くと家はほんとうにあった。あのへんのことはわりにくわしいつもりでいたが、あんなものは又初めてだ。
坂田さんの犬が猫と心中したという池のそばから右へ折れて、櫟林のなかを少し行くと「あれなのだ」と石野が指さした。いかにも、林がまばらになったところに赤い屋根のオモチャのような西洋館があって、それは二間と四間ぐらいの細長い箱のような形で、高さの三分の二は急傾斜の屋根の二面におおわれ、その下の白い壁に、ドアーとその左右の四角い窓が見えている。
家のまえを半円形にかこんで小さなポプラの木が五六本立ち、そばに直径二間ほどのちいさな池がある。
まるでお伽芝居の舞台なので立ちどまって見ていたが、ほんとうにソーと近づいて窓をうかゞうと、赤いマントを着た白髯のおじいさんが二三世紀もまえの金貨をかぞえていそうだ。そして、こゝから見わたすと、櫟の幹をとおしてはるか斜面の果にある海が、幅一尺ほどの青い帯になって見え、そこには船があり、ひっそりしたあたりの空気には全く何の音《オン》も見つからない。
雑草にからまれた径を入口まで行くと、石野はあゝ鍵を忘れた、坂田さんは近いから取って来ようと云ったが、まあいいだろうと家に注意した。
窓にはピッシリと磨ガラスの戸がおりていてあかない。二三年もすてゝあったと云うのにどこにも損じた個所がなくまだ新らしいように見える。――南側の窓のすみにガラスが三角形にこわれたところがあったので、草のなかにころがっていた塵箱らしいものを踏台にのぞいてみると、思ったより広い。ちょっと二十畳はしけると思う家のなかは二つのパートに別れて、目のまえの入口に通じたリノリューム張がアトリエだろう。籐椅子や、テーブルや、ソファーや、黄いろい布をかけたピアノみたいなものがゴチャ〓〓とおいてある。その正面がピンク色の壁紙をはった壁で、ドアーが二つある。面白いのはその上が二階になって、つまり三角形の屋根の下半分を利用したもので、こちらの側に手すりがあり、そこからアトリエのまんなかへ梯子がかゝっている。どうしてこんなことをしたのだろうと、そのむこうを見るとオヤと思って箱から下りた。
三角の箱を立てたような二階の正面に四角い窓があいて、そこから不思議な景色が見えたのである。――が、家のそとから見ると、そこは格別に変ったところもない六甲と摩耶山とのさかい目である。
「あの窓知ってるのか」と云うと、うん別世界みたいだろうと云う。
それで、もう一ぺんガラスのカケ目からのぞいてみたが、どうしても日本でない、遠眼鏡で見たどこかの見知らぬ国だ。
左側に芝の生えた円い山腹があり、なかほどのところから右の方へ堤形にのびた石灰岩の山、そしてこの二つの山の谷になった間から赤っちゃけた岩山のとがったさきがのぞいている。只それだけの簡単な構図なのに、カルドサの画のような奇妙な軽快と憂愁が一しょになってキネオラマの遊離をもっている。
じいっと見ていると、なゝめになった日を受けた円い芝地の上の黒い杉林のなかから、緋色や青や金のよそおいをした王様の一隊がくり出されて来そうだ……今にも――
大方五分ほど見ていたが、石野が鍵を取って来てなかへはいろうと云うので一しょに行った。が、池のそばまで来て顔をあげると、もう雲片が桃いろにそまって海の方から涼しい風がふいてくるので、家はあすにしようと云って青谷の方へのぼって行った。
あの窓へんだねと云うと、石野は、只壁が切りぬいてイサベラ色の縁がとってあるだけなのにね、坂田さんもおかしいと云ってると云う。
「アイルランドへ行ったという人と関係があるんだろうか?」
「さあ……あしたでもよく聞いてみよう。僕は二年まえに来たことがあるんだ。坂田さんが夜になるときれいな蛾がきて気分がまるでちがってしまうから一度泊ってごらんと云ったことがある――」
「ふうん、――で何かい、あそこは誰か掃除にくる人がある?」
「そんなことはない」と云う。――誰か住んでいそうだね。夜になると、小人がたくさんどこからか出て来て、いろんな光を放つローソクをともして、トン〓〓パタ〓〓と掃除してまたどこかへ消えるのじゃないか知ら……と云ったが、実際にそんな気がした。
ランプをもって行かなければならないことや、自炊にするか他の方法にするか、いろんな実際問題があったが、住んでみてもいゝと思った。そして、これこそほんとうにのぞんでいたもので、これを借りるために今までのどの家もダメになったのだろう、だからその特権を遺憾なく行使するためには、家のまわりに春がきたら少年の脣のようにも紅いの花をひらく薔薇の垣根をめぐらせたい、池が噴水になって青い月夜にあたりの木々の葉にくっきりした明暗が出来るとき、月に向ってのぼりながらさん〓〓とくだける水玉を見るのはいゝだろう、テーブルの上にピッコロ〓〓と時刻を知らせる木の鳥のついた時計をのせたらよく似合うだろう、又、ツインクルの星と三日月の晩、三角屋根の下でポロンコロンとピアノがなるのは格別だろう……などいうことを話しながら公園の堤へ上った。
ふり返ると、街に灯がついて、港の軍艦や汽船からもキラ〓〓している。それが神戸のような気がしない。昔、夢にどこかの高い岩の上から見下した都会のようだ。
「きょうは頭がおかしいぞ。ねえ、これもあの窓から見た景色みたいだ――」と石野をかえりみる。テーブルの上にセルロイドとブリキ製の街があって、豆電気がともっている。そこをオモチャの電車が走っている。――それはどうだろうと云うと、石野は「でも神戸に大へんよく似ているな。おかしいと思ってよく考えてみたらやっぱり神戸だったことがわかった」と云う。
「でもそういうより仕方がないやないか。タルホ君によく似たタルホ君で、星は星型で、タバコの煙はタバコの煙色をしていて、けさ電車に乗れる者はあたかも電車にのれるが如く乗っていた。倉田百三をひろげている女学生はちょうどそれ自身のような気がする……」
それは面白いと私は云った。布引まで来てかえろうと思ったが、気分が何となくいゝし、もう少しあるこうと水源池まで行った。
瀑布のような水が落ちている水門の上にあがると、赤と金と青と、水と、外国エハガキにある夕景だ。いろ〓〓にそめわけられた山々のところ〓〓に出ている石灰岩が雪のように見える。
スリーキャスルスに火をつけて、大理石色をした歩道の上をあるき出すと、思わずもこんなことがうかんで来た。
――いつの時代いずこの国とも知らぬ深い山のなかに、こゝと同じような池があって、まわりは全部雪花大理石と女神の像である。それは今もその山のなかに残っているが、誰も知らない。そして、その池とこの池とが底の方でつながっているのだ。この池の底が鏡になって、むこう側をうつしているので、それでこんなにあたりの山々がきれいに見えるのだ。自分が今何でもない水源池の夕ぐれに来てこんな考えをするのは、自分がその忘れられた水郷をよく承知しているからだ。多分自分の心が以前にはそこに住んでいて、今、それによく似たこの水辺の風景にふと昔をしのんだのでないと誰が言い得よう……
と、オヤと云って石野が立ち止った。耳をすますとどこからか音楽が聞えてくる。
オリエンタルダンスだと云うが、どこかアイセンマン(?)の「エジプチャンミッドナイトパレイド」にも似ている。
どこだろうとあたりを見まわしたが、只、ゴーゴーという水門と、とおいキラ〓〓する事務所の灯と、菫いろにくれ迫ってくる池の面ばかりである。そして、音楽はと云うとフラジオレットや、ハーモニカや、バイオリンや、マンドリンをめちゃくちゃにしているようなもので、まるでオモチャ箱をぶちあけたようなにぎやかさをもっている。――が、それが又、しずかな山の夕暮の空気をふるわせて、とおくからつたわってくるので、云い知れぬ悲しみをこめ、きいている快よさとさびしさったらない。
「これは人々が忘れている古里にのこしたかず〓〓の夢である」と石野が云ったが、ふと、僕の頭はうつり香のようにのこっていた記憶がよみがえった――
……ポン〓〓と花火がはじける瑠璃色の空と、大ぜいがのった箱が高い塔をのぼったり下ったりしているところに、私は立っていた。金モールに白い毛のついた帽子をかむった少年音楽隊が、虹のような糸でからんだ太鼓や、笛や、奇妙なラッパをもってきいたこともない音楽を奏している。思わずも足拍子を取っていた私の目は、金いろの一つのラッパに注がれていた。それは他のものより一そうかゞやかな色をして、まるで鳥のように微妙な音色を出していた。
が、今きこえてくるなかにも、その音色がまじっているように思われたのである。――ひょっとしたらあの音楽隊かも知れぬと思いかけたとき石野が走り出した。行く手に池をヒョータン型にしめくゝって突き出している濃い緑色をした山のむこうからきこえてくるのがわかった。
その方へ走って、向う側に出るなりひょいと首を向けると、濃い緑色の山とその右にあるもう一つの山との間に、岩山がそびえて、その上に面白い格好をした城がそびえているのである。
もう黒く見える岩山は、ボーと中空の緑にとけこんだうすい紅いろにわずかに輪廓を見せているが、城は、赤、緑、青、紫、さま〓〓な云いようのない色を放ってかゞやき――それはあわびの貝の内側である。
しかも、その左上の方に大きな宵の明星が出ていて、それは赤と紫との間を往きゝしながらとき〓〓ギラッ! とまっくらな晩の電車のスパーク色の青緑に光る。それがこの「アラビヤンナイトから来た壮絶」に一しおの優しい童話風のおもむきをそえて、涙をもよおさせる。が、二人は、岩山の方へつゞいている小径を、お伽噺の主人公がフェアリーランドへいざなわれる気持に於てすゝんでいた。
両側にある山の斜面に杉の苗が縞のように移植されているのが、たゞようている黄いろいツアイライトにすかされ、ダイナマイトでこわれた岩の片がゴロ〓〓しているところをぬけると、岩山の下である。
頭の上の城は、サラセン風と思われる奇妙なかたちの尖塔を三つそびえさせ、正面に凸凹のある弓やぐらを左右にひかえた金色の城門がひらき、そのあたりが一そうにまばゆい虹色にてりはえている。
千匹の馬をもったバッファロービルのサーカスの前に近づいた元気で登り出したが、突き出た岩角のために明りがさえぎられて、足場と云ったら鋸の上だ。刺のあるものや岩の先でひっかいた手で額の汗をふいたとき、やっと城門についた。
日はとっぷり暮れて、お城のなかゝら洩れる灯が外壁に映じて互に競うようにピカピカキラッキラッとかゞやいている。下からいろんな色に見えたのは、この壁なのである。
小さな丘みたいな山にあるので中庭になどはない。城門からすぐに蛇紋石の階段がついている。
「大丈夫か」と石野が云う。「大丈夫だ、挨拶の言葉はダンセニイの――王さま、私たちは金の沙漠から参りました。そのつかに海より青いエメラルドのついた剣を献上にまいりましたを使おう」と私は答えてトン〓〓と石段をあがり出した。と、すぐにスフィンクスのような彫刻がならんだ廻廊がある。
「やあ!」と云ったのでうしろを見ると、そこにはまるで見も知らぬパノラマが拡っている。
神戸の灯も池の面もさらになく、鋸の歯のような山の背が次から次へかさなって、はてはベールに包まれたようにぼやけている。その上はあさぎ色の月夜の空で、ふしぎな位置を取った星がまばらに、花をこぼしたようにキラめいている。でも月はどこにも見えない。
「大へん高いところだ、そら目の下の山の頂きに石灰岩が白く光っている」と石野が云ったが、この青い幻燈でうつされているような景色のなかにも、どこか自分のよく知っているものがふくまれているような気がする。――夢で見たのかしら、これは昔、お母さんの背できいた子守歌のメロデーをとぎれ〓〓に思い出すうれいがあると云ったらいゝか……
ところでうしろの馬蹄形の段の一方から城のなかにはいると、目を奪うばかりのけんらんである――
こんなところがあったのかと審かしまれる大広間には、一面緋色の絨氈が敷きつめられ、白熱瓦斯のようなきれいな光を放ったローソクが銀の燭台の上に、何千本とも数知れずにともっている。そして天井や壁や、大理石の円柱や、柱飾りや、窓飾りに映って気がとおくなりそうである。
音楽はそこ一ぱいやかましいほどひゞいているのに、誰ひとりの姿もない。
どうしたんだろうと見渡していると、ずっと奥の方からパチ〓〓という拍手の音がきこえてきた。と一しょに笑う声……チャラチャラ鈴のすれ合うのもきこえる……で、ドンドンとその方へすゝんで行った。
大広間のつきあたりに、奇妙な兎のような耳をしたブロンズのスフィンクスが両側に坐っている、巾のひろい階段が出て来た。その上には黒い夜のような色をしたドアーがしまっている。
音楽はもうすぐむこうで、何だかわからない声高な話声や足ぶみの音がする。が、ドアーは手をかける金具はおろか、最も簡単な唐草模様もついていない黒檀の一まい板だ。
「どうしよう?」と石野をかえりみると
「えゝやないか――ドンとあたったら!」
で、ワンツースリもろ共にぶっつかると、二人のからだはフワッと宙に浮いた、――果して(!)つまりそこは黒い夜だったのだ、がまあ何とした理窟によるのかあの緑ケ丘のアトリエの二階の窓から落ちたのである――
ドシンという地ひゞきと同時に私は「やられた!」と叫んだ。
起き上ると、ポプラの梢にかたむいてやゝ赤くなった月がかゝっていた。
きゅうに腹立たしくなって石野をなぐりつけようとしたが、そのとたんに奇妙なおかしさがこみ上げてきた。
ハハハ…………、ハハハハ…………
二人は月とポプラを見て笑いつゞけた。(二十一日)
WC
(極美の一つについての考察)
私がこれからかこうとするのは、あの茶いろがついたセメントの囲いのなかにある、左まきにグル〓〓まいたセピア色のソーセージと、ビチ〓〓の卵の黄味と、そのあたりへ落ちている桃いろのしみのついた綿に関する話なのです。――というと、あなたは顔をおしかめになるにちがいありません。それも尤もです。青鼻をかんだ紙をひろげて、それを又ベトベトとなめてしまうことに、世の常ならぬ快感をおぼえる話をかいた潤一郎だって、遂には立ち至らなかった境地ですもの。と云って、私もこうして正面からもち出す以上には、決してわるふざけなんかではなく、そこにはそれ相当の理論も責任ももち合わせているのです。――で、まあ考えてごらんなさい。一口に便所というと……そう口に出すことさえ上品な人たちにはいやがられているようですが、そのきらわれ者が、吾々にとってどんなにファミリアルな位置を占めているかということを。云うまでもありません。便所をするということは、ものをたべるということゝ合わして人間にはなくてならぬ二つの一つです。ですから、昔からどんな立派な御殿にも、又、見るかげもないような小舎にでも、そこが人間の住いであったら、きっとこの便所というものはそなわっていたのです。そして貴いまずしいさま〓〓の食卓からさま〓〓の美が織り出されたのがほんとうなら、又、貴いいやしいかず〓〓の便所からは、またかず〓〓の美が発生していないなんてどうして云えるのです。それはあえて近頃やかましい精神分析学とやらをもち出さなくとも明らかなことですし、いや美とはつまり性慾の変形に他ならぬということを力説するその学説によったら、便所をするということがはずかしくかくされなければならぬことであるだけよけいに、そこにはより皮相的ならぬ美がふくまれているわけではありませんか? ことに、どこもかしこもお行儀づくめの今日で、吾々が昔かわらぬ自由なふるまいができるのは、たった一ところそこがあるだけです。したがっては、その許された唯一所における自由精神の発露として――短的直截な美の表現として、民衆的なそこに必然的に見つかる楽書をごらんになったら、又、あなた自身が、あのせまいしかしながら楽園であるべき長方形の箱のなかにしゃがんでいる少時が、どんなに生々としてどんな真理を体得しているかをおふりかえりになったら、そのへんの消息は一そうたやすくうなずけるはずだと思うのです。さらに注意をそのときの情景に向け、あの香料の壺があって青畳がしいてあり下へ落ちたのがそこにあるぬかのピラミッドの斜面をすべってお月見団子にかえられてしまう御座敷のやつから、ぬかのかわりに香ばしい針葉樹の枝がおいてあるお寺のやつから、シャーとひもをひいて出た水がまだ完全に洗ってしまわないシュークリームを瀬戸物の下の方にくっつけている汽車のなかにあるのから、チラ〓〓ゆれるローソクにうつったお化のような自分の影法師のうしろからふいに大きな蜘蛛が走り出してギョッとさせられる田舎の家にあるものから、ホースの先でうごかすナフタリンの玉が皎々とした電燈の下にかぞえられるカフェにあるものから、その他さま〓〓、それが落ちる音や、そなえてある紙などにお考え合せになったら、興味は深々としてつきないとまでは行かなくとも、なるほど面白くないことはないなとはお思いかえしになるでしょう。
が、それは便所のアトモスフェヤーにすぎないじゃないか、それはあるいは君の云うように趣味もあろうかしれぬが、行為そのものが、――吾々のからだから出たものが何で美なのだ?
と、もしそんな非難がでるとしたら、失礼ながらあなたは、美ということを甚だ概念的に考えていらっしゃると云うより他はありません。世の中は、――最もきれいなことをするからこそ最もきたないこともするのだし、すべてが道徳的でないからこそ道徳の必要があり、地上に於ける愛慾の他には何物もないからこそ永遠のおしえがあるのです。そしてすでに便所に美があるとした以上、その直接の要点をなすところのものについても美は当然に厳として存在しているのです。こういう云い切り方がわるいなら、私は次のようなところから考察をすすめたく思います。大便や小便は、事実吾々に一つの美感を抱かせるものではないでしょうか? と。たとえばあの色の上から見てもです、それらは、キュービズムの画論その他によって定説となった世界中の色のなかで一ばん高いクラスにあるとせられているココア色の系統ではありませんか。あれらが他の紫や、緑や、白だったら、それはあるいはもっときれいかもしれませんが、そのかわりにうすっぺらで、あゝした過激なものであるにかゝわらずにそなえているしぶみや落ちつきを出さないのにきまっています。――といっても、この重要な一点に私はついこの間気づいたばかりなのです。が、しかしそのときはこれはやはり常道をはずれたことかもしれないといううたがいもあったので、友だちのひとりにたずねてみたのです。ことわっておきますが、この友だちは決して詩人でも芸術家でもないあたりまえの人です。そして、神経質でもないばかりか、むしろそれとは正反対の男です。ところがその返事が私のあたらしい発見に確信をあたえてくれたのです。
「そうですね。――僕も大便のにおいや小便は好きです」と、こう云うじゃありませんか!
「――と云って、あの出たばかりの生々しいやつはちょっと困るようだが、ついているやつは……少し時間がたったのはなかなかいいものではありませんか?」
そう云って彼は、自分の経験による女に対することその他のY談めいた二三をもち出してその生々しくない大便のにおいと、そこはかとなくたゞようアンモニヤガスの美意識について、適切なたとえをあげました。なるほど……と、私も、合わしてかくのをはばかりますが、中学時代のある唯美主義の情景の一つを思い出して同感をしたものです。そして、それをのべないでこんなことを云うのもどうかと思いますが、そのくっついてしばらくたったものが或る香水の匂いにさえ共通し、しかも人それ〓〓によってかぎわけることができるという事実にも思い合わせられたのです。
「殊に」と彼は、それからこれは何人のまえにも云えることをあげました「畑などのにおいはいゝじゃないですか。何か土のめぐみというものを思わせられて……」
実際そうではないでしょうか? 私はこの言葉によって、昔よく散歩していたこの街の郊外の或る部分をふとうかべたのです。それは畑と云ったら何人にも思いつかれる、藁をつみ上げたところや、土でおおわれた壺や、凹んだ道があるところで、そして私は、あの野菜がつくってあるうねと、その向うにうごいている百姓の小さな姿と、さらにそのかなたに見わたされる一面ヴァレイになったはるかの山ぎわまでの晴れやかな田舎景色を聯想するのです。春の光がポカ〓〓さして、ヒバリの声がチヨ〓〓として、何もかもとろ〓〓とむせている。虫の羽音がする。そして、そこへプーンとにおってくるれいのやつは、いやでないどころか何よりこゝにはなくてならぬもので、ほんとうに「すべての生むものと、はぐくむものと、地の上に幸福あれ」と手をあげてみたいようなのんびりとした、しかもしっかりと地についた感激を催おさせるではありませんか?――だから、それは別にさしつかえのない平凡なことで、美はあってもとり立てゝ主張するに及ばないとあなたが云うなら、私は、いや或る見方によってその美を高潮したら、フランスの散文詩にあるようなハイカラなところまでもひきあげることができると云いたいのです。私たちはそのときそういうことも話しあい、そして、その原理というのは、つまりすべての美を発生させるになくてはならぬ条件である遊離のせいだとつけ加えました。大便というものもそうした春の野辺で遊離されたら、優に一つの力強い美になるということをです。
そんなら遊離しないのはやっぱり文字どおり鼻もちならないのじゃないか……と云うに、そうとはきめたくありません。春のカンツリーのにおいは云わば大便の詩です。しかしながら広津さんもおっしゃるように、近代的意義において散文化の必要があるとしたら、そして、近代人である吾々にその要求があるとしたら、散文的な大小便にも大いにモダーンビュウティとスピリットとは認められるのです。で、ごらんなさい――いやまばゆい灯が化粧レンガにてりはえた文化式というやつなんかじゃありません。みじかく切れた赤い棒や、細長くまいた褐色の蛇や、ドロ〓〓にとけた橙色が、えたいの知れぬ紙や血ににじんだ綿にまじってざつぜんとしているあの辻便所のなか(!)をです。これは実際にたまりません。が、そのたまらなさに正比例してそこには、すべての古くさいセンチメンタリズムをぬきにした新らしい美が、沸然として醗酵され、ヒューチュリストがたゝえた大工場の歯車と急行機関車にも似た不遜さをもって、吾々の心を打とうとしているではありませんか?――そう云えば、私は一度次のようなことがあったのをおぼえています。
これは所謂辻便所ではありませんが、その豪胆不敵さはどんなにものすごいそれにも及ばなかったので、今だに辻便所へはいった私の頭にうかぶものです。二三年まえ、東京の本郷のある下宿屋でした。それは旅館のように立派な家で、便所なども他の洗面所や風呂場と同じく、板はスケーチングができる程きれいで、凡ての設備がとゝのえられていました。そして、そこに五つ六つならんだ大便所のなかもやはりきれいとして、さて問題は下方です。いやすべてのドアがそういうわけでなく、私のはいったのが不幸にしてそれに当ったのでしょう。でなければ、どんな物事に無頓着な人でもあれですませている道理がないし、そう云えばあのときふしぎにそこだけがあいていました。いさゝかも大げさな云い方でなく私はそのなかで目をまわしかけたのですからね。少し前から話しましょう。その下宿には私がいたのではなく友だちがいたのです。朝おそくでしたが、その友だちと一しょに出かけることになっていた私がそこを訪れて、彼がネクタイやカラをつけている間に便所へ行ったのです。と、日曜であったせいか、今も云った六つばかりあるドアがどれもこれも人でつまって、私は右からたしか二番目であったそのドアーへはいったのですが、はいったというよりも足を入れかけたとき私はとび出しました。とてもそのにおいがたえられるものじゃなかったからです。まあ何というひどさだ!……おどろいたとは云え最初はまずそれくらいのところでした。で、私は他のところがあくまでしばらく待っていましたが、こんどはこちらの方がたまらなくなってきたので、もう一ぺんそこへはいることにしました。高が便所だ、そう思った私は、或る英雄のことさえ思いうかべて、云わば敵陣にものりこむつもりではいったのです。そんなつもりで私を迎えた便所は生れてそれが初めでしたが、私には又かえって面白がるところもあって、で、まあ覚悟をきめて用達しにかゝったのはいゝが、さあそうなったら逃げるにも逃げられないその場の始末です。といって、只の便所のにおいだけならまあ我慢もしましょう。が、防臭剤もある、ヨードホルムもある、フォルマリンもある、イヒチオールもある、それから×××もある、△△△△もある……それが一しょくたになっていやはや何ともかとも名状すべからざるものになって、下を見ると、いっぱい、もうすぐそばまでとゞきそうになっている黒や褐や黄の固体や半流動体に、ホータイや、ガーゼや、紙や、さるまたのようなものが又一そう多くもり上って、それが便所の裏側からそこの板にあたっているおひる近い初夏の日光にむせかえって、ムーッ! とするどい螺旋形にきりこんでくるのです。こうなれば息をつまえたって、強烈なシガーを吸ったって、鼻と口とを力いっぱいにおさえたって、それが何かの効果をあげると考えるのこそ笑止です。吐気をもよおすなどはまだ〓〓生やさしい下のクラスで、私は頭がクラ〓〓として全く気を失いかけたのです。今から考えてみると、あのときはいったのが、そんなふうなことに多少なりとも道楽気をもっている私でなかったら、きっと気絶をしたにちがいありません。前後を忘じかけた私は、それでも最善をつくして十秒あまりでとび出しましたが、いやものすごいの、おそろしいの、さっきも云ったように、以前にもなかったし今後とて絶対に出くわさないような代物で、それはつく〓〓あきれていた私に、何か人間の力を絶した或る威力のことさえ考え及ばせたほどです。そして、世俗的な種類をはるかに超えていたそれは、もう完全な芸術の世界にぞくしたものだ! と、私は今も考えるなら、そのときも何か快心に近い笑をうかべながら思ってみたのです。
で、あえてダダイズムやエキスプレショニズムの理論をひっぱり出さなくとも、こうした見方によっても、私は辻便所というものにはなか〓〓アップツーデートな美がふくまれていると思うのです。そして、これが別につけやきばの言葉でないことは、あなただってきょうにもあすにもその一つへはいってお考え――いや理窟じゃないんですから正直な心でおかんじになったらわかるだろうと考えます。きたないと云っても、それがみんな人間のからだから出たものと思えば、ときにそれくらいの同情をもっても決して損はしないはずです。まして、きたないなどはごく表面的のことだけで、こまかに観察すると、その黄金のプールに往々にして高貴な、また高踏的なものさえ発見されるのですし、さらにそこがみだれていればみだれているだけ、わかりきった一軒の家にあるものより、一そうに空想の範囲がひろ〓〓として、それにともなう面白味もつきません。なぜかと云うのは、むろん、一つの字によってもそれをかいた人の性質がわかるとするなら、何よりも直接にその人自身から出たものであるそれらの固形や、液体や、半流動体や、合わしてはそれに加えられた紙片などに注意をはらうと、それ〓〓の人のそのときの様子が一そう親しくわかりもするし、おしては、その前後の事情から日常生活のこま〓〓に至るまでが察しられるはずで、――それはすでにお医者さまによって試みられつゝあることだからです。こうした意味でことに興味がふかいのは、辻便所も盛り場とか公園にあるやつです。というのは、そうでなくても、辻便所は盛り場に附随するかたむきをもっているのに、それがかくじつにそんな何物よりも人間性のほんとうを表明している享楽の場所にかゝわっていたら、そこにはいろんな人が出入をしているからです。なかにどんな場合にも共同便所などへはいらぬ人がいても、その貴族主義を裏切る生理的の急場によっては、致し方なくそこへとびこまないとはかぎりません。してみると、そのしっくい塗りの小さい建物は、入りかわりさしかわり毎日迎えるきれいな人や、そうでない人や、おとなや、子供や、女や、男や、あらゆる色合を網羅することになって、そして、それらのいずれも享楽方面に関係をもっている人たちに統計をとって「美しいきものをきている」ということに代表されるような様子や心持のものが多いとしたら、その活動写真街の一角にある便所は、現代の重要な方面を最もよく表現し、合わせては、今云ったその特有な美と空想の面白味という条件にも何よりかなっているではありませんか。もっと研究をすゝめて、初めにもかいたとおり現今で吾々に許されたところと云えば、只一つそこだけで泣こうがつぶやこうが何の遠慮もない態度がとれるということから考えてみたらどうなりましょう?――平常のすましこみが、ちょっとふしぎなほど簡単に早変りをするそのときとところとで、何人も一ように出さなければならないのは、これは人間のからだのなかで最もデリケートであるとされているところです。――それは云うまでもなく、昔からあらゆる彫刻や絵画によって現わされんとした美の主眼点ともなり、又、或る権威ある美学者には、茶碗類の底の曲線、瓶、籠、壺、テーブルの脚、その他人間のつかうすべての用器に現われた原始人にも文明人にも共通したあのカーブというのも、つまりはそこを意味していると云われているところの部分です。すでにこれだけでも十分にノーブルな美の発生する意義がなり立つものを、さらにむき出しになったその部分が、あの青ペンキ塗のドア一枚をへだてたばかりであるいといみじき場所において、どういうふうにほしいまゝにつかわれているかを想像してみたら、ヴィナスの像に向って切ない胸のうちをのべた「春の目ざめ」のモーリッツのように、おおいをとられたそのヨシャパテの谷のやわらかな円味のあるところの極美に、あわれな僕の頭はとかされ日なたのバタのようになっちまう……というまでのことはないにしても、いく分ときめいた胸に、ついすきまからのぞきたくなるというのは当然のことだし、ひいては、女が出たあとへはいって背中からぬき出したみじかい釣竿のさきで今の紙をひっかけあげる男、この間の新聞に出ていた便所の下にひそんでいて上から女の人のなまあたゝかい小便をひっかぶせてもらうことをよろこぶ人、又、ドイツ語で何というのか忘れたが訳語では屎尿嗜好症という、女や少年のヨシャパテの谷へ口をあてて出てくるホットスプリングと硫黄のかたまりをたべたくて仕方がないという病気、それから大便に似せた餌によって釣るちぬ鯛、河童というへんにシンボリックな動物……そんな人々や生物の気持まで、もちろんそれがわかると云ったら気ちがいですが、ある程度まではどうかしたはずみにうなずけないこともないと云えるではないでしょうか? そして、こう云う私は、決していたずらに奇矯な言葉を弄しているのではなく、只人々が見のがしている最も人間的な一事にあえて注意をうながそうという物好きをもっているだけにすぎないと、くり返してことわりたいのです。
そこで辻便所といったら、ことにそこにある茶いろの切れぱしや紅い紙にまじってよく落ちている白い――いやなことですが、真実をのべるのに何のためらいが入りましょう――蛔虫を見たら、何かそれが出るときにおどろいて泣きそうにゆがんだ白い顔のことも思い合わされて、女より奇妙に美少年のことを聯想するというのは、私がその次にもって行きたいところなのです。
と云ったら、それや尤もじゃないかと、あなたはお笑いになるかも知れません。なるほど考えてみると、たしかにそういう関係もあるでしょう。月光のにおいのするこの国の耽美主義の一形式として、昔は優にある位置を占めていたこの特異な愛慾については、その便所という意味をとり入れたみやびやかな熟語さえも僧房の間につかわれていたと云いますから。そして、こう云う私だって、いわゆる秘密にさく青いムンデルブルーメの花をしのばす暗い放恣なアカデミカルライフの後半期には、次のような詩をかこうとしたことがあるのです。
あるいている少年のうしろを見ると
ズボンの上のところに
Tの字のしわができて
足をはこぶたびにになりになる
そこにはエピキュラスの園と
プラトン的の恍惚がある――
観察がするどいとおっしゃるのですか? こんな大それた(?)述懐も、私にとっては何よりもピューアであったあのときのローマンチシズムのかたみの一つなのですよ。――がさて、そんな方面はそうとして、もっとあたりまえの意味からでも、便所ことに辻便所は、私にとって少年のことを想わせるのに必然的な理由があるのです。というのは、或る歌調をきくと、それをうたっていた頃のくさ〓〓がなつかしく思い出されるというのと同じ意味で、それによって私にはきっと、今のようなたわいもないものをかいた中学四五年生であった頃がうかべられるのです。どういうわけかと云うと、同じ年頃でもないものを友だちにしていることには、きっとある意味の無理がはたらいています。だから、その時分の私が、目星をつけた下級生と話をしたり遊んだりするところと云えば、私が彼と同級生でないかぎり、そして自分がおとなに近く彼が子供であるなら、条件はきっとそれにふさわしいようなかたむきを取るのはごく自然のことです。ですから私たちが話をしたり遊んだりするところは、学校よりむしろ他の場所、――恋が遊戯と云ってもいゝものなら恋人たちはまた遊戯的な場所をえらぶと同じわけに、それは主として公園とか活動写真とか夜店とかです。そういう歓楽の場所において共同便所というものが、どんな印象的な意義をもっているかはさっきからのべました。そして、愛する者などといういたいけな存在と一しょに、その便所などの最も、――しかし否定することのできない人間の一面を示したきたならしいものを見たり、又、見せたりすることは、何となくふしぎな快感をおぼえるものです。たしか瀧井さんの小説でしたが、夜妻君と二人で、自分がよく小便をする小路までかえってきた若い夫が、妻君に無理にもそこで立(?)小便をするようにすゝめて、それを楽しみながら自分は見張りをしているというようなことがかいてありましたが、つまりあれです。あの気持で私は実際、その昔の幼ない享楽生活のおり〓〓に、自分のとなりでまあこれでも小便をするのだろうかとふだん思っているようなおとなしい子供に小便をさせて、そのデリケートな音をたのしんだのは、あえて明るいシャンデリヤの下にうごかす銀いろのホークがはこばれて行く、その紅い口さきにほほ笑んだこととくらべて、いずれがいずれともあきらめられないほど法悦的なものだったのは、何のはゞかるところもなく云い切れることなのです。
そういうもうかえらないかず〓〓を、淡いかなしみをまじえた心持で、でも辻便所にはいるとほうふつとして思い出される私には、次のような一つがあります。
――それは、私がやはりキネマや楽器店に入りびたりになっていた五六年まえのことで、私はMというよその学校の生徒ですが、ちょっと混血児のような顔をした指のきれいな少年と友だちになりかゝっていました。が、二人はまだ二三回より話をかわしたことはなく、そのほんの小さい坊っちゃんである――しかしどこかにアブノーマルな所もある彼が、それでも私から特別の感情を与えられていることを、気付くか気付かないかの頃でした。私にあうのには家よりもそこへ行った方が早道だと友だちに云われていたほど、私がお百度をふんでいたこの港の都会のムービイスツリートの横町に、石造りの今も云った辻便所があったのです。別にすさまじいというほどのものではありませんが、それでもずいぶんだらしなく放ちらかされた相当にひどい代物でした。――ちょっと気がついたから云いますが、その附近がにぎやかで美しいところであるのに反比例をして、そこの辻便所はきたないときまっているように思われるが、どうでしょう? が、しかし私は、それは決して不調和でないのみか、むしろいよ〓〓そうでなければならない対象であるということが、ある哲学上から云えるように考えるのです。ところで話はもとへかえって或る日です。ふいにその便所へはいった私が、いつもの場所にきめているセメントの区切りの一ばん左のはしで、ぶるゝとふるえながら(これもさきにかくはずでしたが、あの小便をするときの身ぶるいは、そこへあわてゝとびこむ真剣味の次にくる忘我と合わして、只一つ便所においてのみ体験される快感の最高形式ではないでしょうか)用を達しながらふとまえを見ると、目あたらしい一つの楽書が目に止ったのです。この辻便所のどこにどんなものがかいてあるかは自分の家のことのようにそらんじていた私は、むろんオヤと思ってよみ下したのです。片仮名で――
×××××××
これやめずらしいと私が、その七字から、それをかいた人物と時とを判断しようという好奇心を起したのは他でもありません。おきまりの女のことでなく、美少年に対することが現わされていたからです。が、よく見るとそれは一たいうまいのかまずいのかわからぬような折クギ式で、こんなことゝ云えば立どころに、たとえば「モルグ街の事件」をといたデュパン氏にも似た分析的技能によって云いあてゝしまう私にも、ちょっと見当がつきかねました。しかしそんなことはどうでもいゝとした私は、次にそれをこの上ないゴシップとして、あわせてそれを見つけた功績者は自分だとして、まあよろこび勇んだと云うような気持で、その晩、肩でおしたあかるい楽器店のガラス戸をはいるなり、コロンビヤのビラ画の下にもう〓〓とタバコをふかせていたグループにつげようとしたのです。――こういうと何てバカだと云われるかしれませんが、その頃の私たちは、そんなことでないことこそほんとうにまどろっこしくバカげて、話にも出さなかったのです。――が、そのとたん
「あれをかいたのは君だろう!」
そういうするどいひと声が、「やあ」とも「おう」ともかわさぬうちに待っていたとばかり私にかぶせられたのです。あれが私の云おうとしたことだとはむろん直感的にわかったのです。
「知っていらっしゃるんですか?」
私が面くらってとい返したのは、先生と云ってる人です。といって学校の先生ではありません。何もしないで遊んでいる三十すぎのフランクな人で、女の話やムービイへ行く上からは友だちとちっともかわりなかったのです。それでいてやはり先生のようなところのある立派な紳士でしたから、私たちは半分は諢名、半分は尊敬の意味でそうよんでいました。
「知ってるともさ」ダンディなネクタイに大きな宝石ピンを光らせた先生は、そばに立てかけてあるセロの糸をはじきながら
「あれはきのうまでなかったぜ。あゝいうことをかく男というのはそういるものじゃない。これはどうしても君より他にないとにらんだがどうだ! 白状したまえ。それにあの場所は君のいつもやるところじゃないか?」
これこそデュパン氏そのものである先生は、その次に、スリッパがおいてあるところで、上ろうかどうかをためらっていた少年の方をふり返りました。
「オイ君、……何とかくん、そうYちゃんか――」
少年というのは初めに云ったMで、私についてきていたのです。
「?」とふり向いた白い顔の方へ先生は問いかけて
「A館の横手のワシントンクラブに面白い楽書があるんだ、君は知ってるかね」
「いゝえ」とMの首がよこにふられると
「こんど行ったら見たまえ。こちらからはいって左のはしだ。それはこの男が君によませるためにかいたのだからね……」
「困るな」と私は云いました。
「困ったもあるものか! ××××××もらいたいなら正面からそうと男らしくたのめばいゝじゃないか? それに何ぞや、表面はプラトーンソクラテスの高潔をよそおいながらかげにまわってあんな愚劣きわまる方法をとるなんて、君も衆道のたしなみある人士にも似あわぬ……」
先生はどし〓〓こしらえるというよりも、口をついで出てくる言葉にのって、演説のような朗々さでのべ出しました。が、さらに輪をかけたのは、一たい何だ〓〓と云いかけたみんなに、この荒唐無稽癖のある先生は、大きな声であたりかまいなく原文までハッキリ広告して、しかもそれは私がかいたのにちがいないとくどいほどくり返したのです。しかし、どっとあがった歓声に合わして私も笑ったのは、先生を総司令においたこういう連中にむきになって対抗するだけ損だからです。こういう仲間は、それを自分で云いながら信じてもいなければ、といってあり得べからざることゝも思っていない、つまりエルフのように手のつけられぬ存在だからです。と云いながらそういう私も、厳密な意味ではその一脈をくんでいないでもなく、したがって一方に、もしそういうことに気をうごかしたMがあれを見に行ったとしたら、案外話はうまくはこぶかもしれぬというような不了見を起さないではなかったので、みんなが笑うまゝに、やはり自分もつきそいらしく笑ったMの横顔をチラッとぬすみ見したものです。
と云ってことわっておきたいのは、その楽書は私にとって全く無関係のもので、かえってそう云う先生自身がかいたのじゃないかというふしがあったくらいです。半分西洋人のようなその物好きな紳士は実際そんなことをときどきやるので、私は一応そういうこともあの「物事の真相はかえって単純なところにひそんでいる」というオーギュスト・デュパン氏の見方によって考えてみたのです。――私がポオの三部作の探偵小説をよんで感心をしたのが、やはりそのころでしたから。
楽書は大へん目立って、そして、あられもないことがかゝれているのに、次の日もその次の日も消されませんでした。同時には、先生も、会う人ごとにそれを告げて、私がかいたのだとつけ加えているということが耳にはいってきましたが、それは何とも致し方のない災難で、きく人だって先生のいつもの冗談との他まさかほんとうにしないだろうし、又実際それに相違ないじゃないかと、私も会う人ごとに弁解をつゞけていたのです。一方便所の方は、あとから考えると、あれが修繕のために縄ばりをめぐらされるまで、およそ一年近い間もその楽書をとゞめていたはずです。だからこう云えば、あのころのあの共同便所をしっている人はすぐに思い出してくれるかも知れません。それほど堂々と鮮明なものだったからです。そして、相かわらずほとんど毎日そこへはいっていた私は、又、毎日同じ角度のところにそれを見ていたのですが、そのたびに私はこのへんなことをかいた七字が、こゝへはいる人たちにどんなことを思わせるかなと或る楽しみの気持で考えたものです。――なかにはさっぱり意味のとれぬ人もあるだろうな。×××××何だろう? お勝手元にあるあれをどうしたいというのかな。灰をさらうことかな……などゝ知らない小学生や、おとなでも考えるだろうな。――そして、もしこゝへ、十三四の、自分に対する年上の者や友だちの態度や話によって、それともなくそんな世界を知りかけているおとなしいきれいな男の子がきて、小便をしたら……
そんなことで二週間あまりすぎたでしょうか、ある夕方、れいのMと一しょに、やかましい足音のするアスファルトの上をあるいてきた私は、横路のむこうに見えた美しい色にそまった空とその下の山の姿に、ふいに思いついてこう云いかけました。
「君、あれを見たかい?」
「?…………」
「あの便所の楽書さ」私は、青い電燈がともっているセメントの家を指さしました。
少年は首をよこにふりました。
「じゃ見てきたまえ。こちらからはいって左のはし、その前だよ――」
云いかけて、何か面白いことでも見るように気軽にとんで行った少年のうしろ姿を、私は或るあまりに健全だとは云われない(しかしなかなかいいものである)期待に、かるく胸をうたせながらながめていました。うしろの路には、灯をうけた人のながれが織るように大分かわりましたが、どうしてだか、五六秒で出てくるはずのMがでてきません。ついでに小便をしているのかなと思いました。が、あまりに長いので見に行こうとしたとき、出てきました。
「小便?」と云うとうなずいたので、つづけて
「どう見た――」
と、顔をのぞきこみながらといかけると、Mはちょっと笑って顔をそらす様にしました。
で、私は、うん、この工合なら……とさきに立ってあるき出したのですが、さて次の日、その楽書のとなりに、即ちさきのが正面ならこんどはその左がわのあまり目立たないところに、私は思いがけぬ一つを発見したのです。それはやはり片仮名でしかし一字多く
××××××××
とあるのです。
しかも、上の三字からなった名詞と下の××という助動詞が同じで、只違っているまんなかの三字によると、云うまでもないそれは、さきにかゝれたものの要求にあえて応じようという意味になるではありませんか?――物好きなやつもいるんだなあと、そのいたずらの心理に笑いかけた私は、木炭で何のかまうところもなく大きくかきなぐった前者にくらべて、すみっこの方へ遠慮したようにエンピツでおぼつかなくかいた第二の句のかき主を考えようとして、ふいに、きのうのあの、自分が見ていたかぎりでは誰も他にはいっていなかったはずのここにおける、小便にしては時間が長すぎるようだったMの一点に気がついたのです。が、次の瞬間、ときめき出した胸のなかで「まさか!」と私はその勝手な幻想をはねのけました。いや〓〓あれには、たしかにそういうところもないとは云えぬ……と私は又その勝手な考えをとりもどそうともしました。そして、いろいろと考えたあげく、その晩Mに「僕は探偵をしようか? 君きのうエンピツをもっていなかった、四Bの――」と云いかけた――いやそう云いかけようとしたかどうかはもう別の話で、これだけでも大分云いすぎています。只、辻便所と少年との聯絡の一例として私の云いたい点は、楽書をよませにやって出てきた少年の笑い顔です。村山カイタの詩に、小さい女の子を呼んで△△△の画をかいてみせたら、バカと云って女の子はぶちに手をあげながら、ふだんより一そうあでやかに笑ったというのがあったようですが、私は同じ種類の感動にそのとき打たれたのです。しかも、それはそのころの私の理論をもってして決して女の美ではない、もっと清らかで永遠的な、しかし「人間ってどこまでわるくできているのだとそのたびに私に思わせて、坊さんにでもなろうかとさせる」あのクラフトエービング的のチャーミングを加味したものだったのです。そしてそれが又、その粉のふいたような頬をうずめた緑色のマントの襟と、秋の夕べにともったこのムービイ街の云おうようもなくかなしい華やかなイルミネーションにアレンジされて、十八の私の心をこよなくあげたのです――と、くどいようですがつまり私はそれを云いたかったのです。
――――――――――――――――――――――
以上は私がこんどかこうとした『WC』という短篇の前がきにすぎません。私は最初に題材が余りかわっているため、それをよんだ人たちから自分に対してきっと云われるにちがいない見当ちがいを用心するために、ほんの五六行のことわりをしようとしたのが、こんなにゴタ〓〓したエッセイとも小説ともつかぬものにまで長びいてしまったのです。しかしこゝに至って考えてみると、私がその短篇において表わそうとしたことは説明の形式ながら、すでにあらまし云われてしまったようであるし、又、その小説の主点がどうしても明らさまに発表が許される種類でないとも考え合わされる以上、その中学校の上級生のとき、通学の汽車(私は半年ばかりこの街を五六マイルへだてたところから通ったことがあるのです)のなかの、WCと白い字の出た、しかし一本の真鍮のせんによって明らかに外界と区切られるところのせまい箱のなかで起った唯美主義は一たいどうしたものであったか? のべなくとも大方想像して下さることゝ思うのです。いや無理にそうきめて、私は、この発表はできぬしかし表現慾は打ちけされぬかゝれない短篇『WC』をごまかすことにしたいのです。
――『鼻眼鏡』了――
この作品は大正十四年九月新潮社より刊行された。
表記は新字新かな遣いに改めた。
Shincho Online Books for T-Time
鼻眼鏡
発行  2001年7月6日
著者  稲垣足穂
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.shinchosha.co.jp
ISBN4-10-861102-0 C0893
(C)Miyako Inagaki 1925, Coded in Japan