皆川博子
光源氏殺人事件
T
1
鉄鋲を打った門扉は広々と開けはなされていたが、秋弘《あきひろ》は、一瞬、足を踏み入れるのをためらった。
玄関前の、御影石を敷きつめた車寄せは打ち水できよめられ、両脇の篠竹の植え込みも、まだ雫をこぼしていた。
その水が薄氷《うすらひ》をはるほどに、空気は冷たい。
ゆきとどいた心づかいなのだろうけれど、この邸にふさわしくない者の闖入《ちんにゆう》を拒んでいるというふうでもある。
三月に入ったというのに、今年は春が遅い。
背後で、小さいクラクションが鳴った。
彼が脇によけると、銀灰色のポルシェが通りぬけ、車寄せのはしに停まった。
運転席から下りたのは、三十そこそこにみえる女性で、ゆったりと着こなしたモーヴのセーターと黒い細身のスカートが長身によく似合っていた。
ドアフォーンのチャイムを鳴らしながら、彼の方をふりかえった。用があってたずねてきたのではないのか? と目で問いかけている。
「どちらさまでしょうか」
ドアフォーンを通した声が、彼の耳にもとどいた。
タマエ、と女は言った。
「はい。ただいま、すぐ」
中から応じているのは使用人らしい。
ドアが開き、女はもう彼には目をむけず、入っていった。
磨かれた御影石に靴の跡をつけて、彼は閉ざされたドアの前に立った。
腕時計を見る。約束の時刻、四時を二分過ぎている。チャイムを鳴らした。
「どちらさまでしょうか」
使用人では、名前を言っても通じまい。
「藤谷和正《ふじたにかずまさ》さんは、来ておられるでしょうか。秋弘が来たと取り次いでください」
「和正さまは、まだおみえになりませんが」
「そうですか」
困ったな、と、つぶやいた。
「ちょっとお待ちください。アキヒロさまですね」
和正がいないのでは、秋弘といっても、わからないだろう、ドアフォーンを相手に長々と、素性から用件まで説明しなくてはならないのかと、いささか気重くなったとき、ドアが開いた。
内側にドアを引き開けたのは、使用人ではなく、モーヴのセーターの女であった。
「秋弘さんね」
親しみのある声で言った。
近くでみると、女は、最初の印象よりは五つ六つ年がいっていた。
「和正さんの親戚の秋弘さんよね」
「ええ、そうです」
「和正さんは、まだなんですけど、何か急な御用? ここまでたずねて来られたのは」
「こちらの会長さんに紹介してくださるという話だったので」
「叔母に?」
「ええ。実は……」
「とにかく、おあがりなさいな」
「いいんですか」
「和正さん、じきに来るでしょ」
来客用らしい洋間に招じ入れられた。
古い建築とみえ、すべてが重厚な造りの部屋であった。厚い紋織りのカーテンが窓をおおい、壁ぎわに造りつけられたマホガニーの書棚を埋めた書物の背文字も、黒い革張りの椅子、アルコーヴにヒーターを据えた暖炉も、薄闇に沈みこんでいた。
はり出した窓のあたりだけが華やいでいた。棚におかれた青磁の大壺に、七分ほころんだ桃の枝が、無造作に投げこんであったのである。
女はものなれた手でカーテンをひき開けた。窓の外に、木立が深かった。
ソファにくつろぐようすすめ、女はむかいあった椅子に腰かけ脚を組んだ。
「自己紹介がまだだったわね。わたし、綾子《あやこ》叔母の姪の吉川珠江《よしかわたまえ》です」
「吉川……もしかしたら、渋谷の桜丘病院の……」
「ご存じ? 和正さんからきいたの?」
「いえ、尚子《ひさこ》さんから……」
言いかけて、秋弘は言葉を切った。
「ああ、尚子さんから。そうだ、あなたよね、一昨年の夏、北海道で尚子さんのガイドをしたんでしょ」
「よくご存じですね」
「尚子さんが話してくれたわ。和正さんの親戚のひとに、とても親切にガイドしてもらったって」
「そうですか」
調子よいあいづちを打ちそこね、秋弘は口ごもった。
「あなたの車で、三日間、ドライヴしてまわったんですって?」
「ええ」
「尚子さん、ずいぶんたのしかったようよ」
「そうですか」
さぐりをいれているわけではあるまい。
「あなたは、和正さんとはどういう関係になるの」
「父が、和正さんのいとこです。それから、父の姉が、和正さんの最初の奥さんでした。二人とも、もうなくなりましたが」
「ああ、晴子《はるこ》さんという方ね」
「ご存じですか。ぼくは顔も知らないんですが」
「わたしがまだ子供のころに晴子さんはなくなられたから、あまりおぼえてはいないけれど」
旅行代理店『ジャパン・ツーリスト』に勤務する秋弘は、昨年春の異動で東京に転勤になる前は、北海道札幌支店にいた。
父のいとこにあたる藤谷和正が、学会に出席するために札幌に来たのは、一昨年の夏であった。若い妻尚子を同伴していた。自分は学会があるから妻の相手をしてやれない、北海道観光の案内をしてやってくれないかと、和正が支店に顔を出し、秋弘にたのんだのであった。
和正とは面識があった。
秋弘は、宇治で生まれ育った。地元の高校を卒業すると、親もとを離れ、東京の大学に進んだ。上京したとき、和正のところに挨拶にいっている。そのとき、和正はひとり暮らしであった。
和正が秋弘の伯母晴子と結婚したのは、ごく若いころで、晴子は早世した。
札幌で紹介された和正の二度めの妻尚子は、Tシャツにジーンズ、女子短大生といった印象であった。
「吉川先生は、こちらにいっしょにお住みなんですか」
「いいえ。わたしは成城」
秋弘は腕時計をのぞいた。和正と約束した四時を十五分過ぎている。
この邸の主人、藤谷綾子にひきあわせてあげようと、和正の方から言い出したのであった。
藤谷綾子を会長とする藤谷建設は、綾子の亡夫藤谷|義隆《よしたか》が、一代で築きあげたものである。
綾子は後妻で、藤谷和正は、義隆の先妻の嫡男なのであった。父の事業は継がず、大学で国文学を専攻し、大学院に進み、学者の道を選んだ。現在、出身大学の教授の地位にある。
藤谷義隆は、もともとは建設業とは何の関係もなかった。宇治の旧家の出身である。敗戦で復員し、上京した。焼土復興のため、建設需要が大きいことに目をつけ、資材調達と人集めの才能を発揮し、進駐軍の工事を請け負った。その後につづく朝鮮動乱特需の波にのり、更に昭和三十年代の高度成長期に社業を飛躍的にのばした。
建設業はだいたい同族経営が多いが、藤谷建設も外部資本の導入は極力避け、株は公開せず、ごく少数の親族が占有し、資本と経営が一体となっている。
義隆は七年前、六十七歳で他界した。
後妻の綾子は、夫とは二十二歳、年のひらきがある。夫と死別したとき、四十四歳だった。夫の死後、社業をひきついだ。先妻の嫡子和正は、畠違いの学者であり、綾子が産んだ典雄《のりお》は社長の地位につくには年が若すぎるので、社長の椅子は現在、重役陣から選ばれた者が占めている。副社長の典雄が、いずれ社長につくまでの中継ぎである。
会長の綾子は、筆頭株主でもあり、名目だけのお飾りではなく、男まさりの辣腕《らつわん》と、秋弘はきいていた。
オイル・ショックで建設業界が手ひどい痛手を受け、赤字、無配転落するケースが多かったとき、藤谷建設は、早くから体質改善につとめ、堅実な経営をつづけているといわれている。
出窓の、青磁の大壺のかげに電話機があるのに気づき、秋弘は椅子を立った。
「和正さんのところに電話してみます。あまり遅いから」
「綾子叔母になら、わたしがひきあわせてあげるわよ」
吉川珠江が言ったとき、秋弘は、すでに送受器に手をかけていた。
「ええ、ありがとうございます」
と言いながら、送受器をとった。
送受器を耳にあてたとたん、
「殺してやる」
烈しい声が、耳をうった。
2
「え!」
思わず叫ぶと、あ、と驚きの声がして、切れた。
あ! と叫んだのは、男の声だった。
殺してやる、は、女だ。女の声に聞きおぼえがあった。
まさか、と秋弘は打ち消した。ミキであるはずはない。殺してやる、は、かっとなりやすいミキの口にしそうなせりふではあるけれど……。
「どうしたの」
吉川珠江が寄ってきた。
「混線らしいです」
秋弘は送話口を眺めた。
「混線?」
「驚いた。いきなり、『殺してやる』だって」
送受器を下ろした。
「殺してやる? おだやかじゃないわね」
吉川珠江は眉をひそめ、電話機をちょっと持ちあげ、もとに戻した。唇がひきしまり、考えこむ表情になった。
「この電話、ホーム・テレフォンですね」
秋弘は言った。
この型の電話機は、秋弘も知っている。
ダイヤルの横に、ボタンが五つ縦に並んでいる。一番上の『外線』ボタンを押すと、ふつうの電話機として外と交信でき、他のボタンを操作することで、内線電話としても使える。
『外線』の下の四つのボタンは、透明なプラスティックのケースをかぶせた下の紙に、L、A、N、一斉、と記してあった。
この家には、四箇所に電話機が設置してあり、一本の外線につながっているわけだ。
ホーム・テレフォンには、たしか、割込装置がついているはずだと、秋弘は思い出した。
それぞれの電話機に、左右に動く小さい把手《レバー》がついている。左に動かせば『割込』、右は『秘話』となる。
二台の電話機を『割込』にすると、外線は両方につながり、外とこちらの二台と、三人でいっしょに通話ができる。
つまり、電話機Tが外と話している内容は、電話機Uにも流れるのである。
それを防止する装置が『秘話』である。
秋弘は、吉川珠江がしたように、電話機をちょっと持ちあげ、レバーの位置をたしかめた。『秘話』になっていた。
吉川珠江が、彼の仕草に咎《とが》めるような目をむけているのに気づいた。
『割込』になっているのを見て、彼女が『秘話』にもどしたのかもしれない。
そうであれば、秋弘は、この邸の誰かと外の誰かとが話している内容を、盗み聴いてしまった結果になるのだ。
詮索するような質問を秋弘が口にするのを、珠江の目は禁じていた。
しかし、その高圧的な表情が、秋弘に反発心を起こさせた。
「これ、吉川先生がもどしたんですか。『割込』になっていたのとちがいますか」
珠江はうなずいた。
外線が通じているときは、ボタンの上の赤ランプが点灯する。送受器を持ち上げる前にランプがついていたかどうか、秋弘は確認していなかった。
軽いノックの音がして、藤鼠の小紋を品よく着こなした女が入ってきた。
「叔母さま、こちら、秋弘さん」
珠江は、ひきあわせた。
「綾子です」
相手に名乗られ、秋弘は目をみはった。
この邸の女主人、藤谷建設の会長、藤谷綾子であれば、五十を一つ過ぎているはずである。すらりとした中背、色白のきめ細やかな肌、秋弘の目には、どう見ても四十前としかうつらない。老いがまっ先に襲うはずの咽喉《のど》首にも、彼はただ嫋《たお》やかなやさしさだけを見た。意地悪い女の目なら、手の甲に浮き出た青い静脈を見のがすことはないのだろうが、若い秋弘は、そこまで観察がゆきとどかなかった。和正の継母にあたるわけだが、二人並んだら、兄と妹にみえるのではないかと、彼は思った。和正は、これも端正な紳士だが、髪は半ば以上白く、四十八という年より外貌は老けている。
「和正さんの親戚ですって? ということは、なくなった主人とも縁つづきなわけね。どういう関係なの?」
「まだ、和正さんからは何も?」
「ええ」
「ぼくの父が、和正さんといとこ同士なんです」
「ああ、そう。あなたは、主人の甥の子供ということね」
「それから、ぼくは顔も知らないんですが、父の姉が、和正さんの最初の奥さんだったそうです」
「ああ、晴子さん」
綾子は、うなずいた。
「そう、あなた、晴子さんの甥なの」
「和正さんが、会長さんにひきあわせてくださるというので、おたずねしたんですが、和正さんはまだ見えてなくて、ちょっと間《ま》の悪いことになっちゃいました」
「和正さん、おそいわね」
綾子は、珠江に話しかけた。
「四時少し前に来る約束なのに」
「尚子さんが、また具合悪くなったんじゃないかしら」
「彼女、病気ですか」
思わず言ってしまい、なれなれしすぎたかと、秋弘は、はっとした。
「つわりだから、病気というわけじゃないのよ」
答えたのは、吉川珠江であった。
秋弘は、自分が平静な表情を保っているかどうか、自信がなかった。
赤ちゃんができたのよ、と、尚子自身の口から告げられていた。三週間ほど前――先月の中ごろだった。だが、妊娠すればつわりが起きるということを、知識としては持っていても、秋弘は失念していた。具合が悪いときいても、とっさにつわりとは思いつかなかったのだ。
姑《はは》の姪の吉川というひとが、渋谷の桜丘病院で産科の先生をしているので、診てもらったの。妊娠三箇月と言われたわ。
尚子は秋弘に告げ、無邪気な声で、
秋ちゃんの子供なのよ。
と、言った。そのときの衝撃ばかりが、なまなましい。
父親ほども年のはなれた夫を、尚子は先生≠ニ呼ぶ。尚子はかつて、和正のゼミの学生だった。
二十三歳の尚子の、十七、八といってもとおるあどけない顔と、彼の掌にすっぽりおさまる丸い乳房、石竹色のかわいい乳首を、秋弘は瞼の裏から消そうとした。彼の眼裏に顕《た》ったものを、綾子と珠江、二人の経験をつんだ年上の女たちに見とおされそうな気がした。
「尚子さんと和正さんが来られなくても、若いお客がひとりふえたから、淋しくはないわね」
綾子が笑顔で言う。
「尚子さんもみえる予定だったんですか」
「そうよ。今日は、三月三日、雛《ひな》祭りでしょ」
三月三日という日付は頭にあっても、雛の節句であることなど、秋弘は気にとめていなかった。
「そして、わたしの誕生日なの。この年になって誕生祝いもないけれど、まあ、たまにはくつろいで、ごく内輪の身内だけで、ささやかな集まりをするのも悪くないでしょ。会社の関係などは招《よ》ばないの。身内といっても、本当に少くてね。わたしと息子の典雄」
「藤谷建設の副社長さんですね」
「そう。それから、和正さんと、このひと」
と、珠江をさし、
「このひとは、わたしのなくなった兄の娘。それから、尚子さん。もうひとり、典雄がつきあっているお嬢さんがみえる予定だったのだけれど、あいにく、お友だちの結婚式とかさなってしまって、来ていただけなくなったの。貝沼碧《かいぬまみどり》さんといって、お父さんは、東和銀行の頭取さん。まだ正式に結納はかわしていないけれど、いずれ、うちのお嫁さんになるお嬢さんなのよ。典雄が結婚して子供でもできれば、このうちもいっぺんに、うるさすぎるくらい賑やかになるでしょうね。和正さんから、今日のこと、何もきいてなかったの?」
雛祭りが誕生日とは、このひとにふさわしい、と秋弘は綾子のほっそり白い首すじに目をむける。
実子である典雄は呼び捨てにしながら、先妻の息子の和正は、綾子はさん≠テけで呼んでいた。
「ちょうど会長さんのお宅に行く予定があるから、来ればひきあわせてやると誘っていただいたんです。実は、仕事のことで……」
「仕事のことって、何?」
「ご挨拶がおくれました」
秋弘は名刺を出してテーブルにおいた。
ジャパン・ツーリストレユノ門支店と社名が入っている。
「海外旅行の団体のお顧客さんを開拓しなくてはならないんです。藤谷建設さんなら、慰安とか研修とか、海外旅行に社員を出されることも多いと思うので、ぜひ、うちに扱わせていただきたいと、お願いにあがったわけなんです」
「ちょっと興ざめね」
綾子は珠江に冗談めいた苦笑をみせた。
「誕生祝いに、若い男性が来てくれたと思ったら、セールスだったわ」
旅という商品を売る、そのノルマは厳しく各支店に割りあてられている。秋弘にしたところで、遠縁というコネを利用して藤谷建設にくいこむことを、当然考えた。しかし、尚子とひそかなつきあいをつづけながら、その夫を利用する図太さ、よくいえば度胸を、彼は持ちあわせていなかった。
ところが、きみは、販路を拡張しなくてはならないのだろう、きっと、社員の海外旅行の契約がとれると思うから、紹介してやろう≠ニ、藤谷和正に好意的に言われたのである。ことわるのは、いかにも不自然だった。三月三日は土曜日、会社は昼までだから、夕方、躯《からだ》もあいている。辞退する口実など思いつけず、内心のうしろめたさを押しかくし、感謝の笑顔をつくらねばならなかった。
「お誕生日とは知らなくて、プレゼント用意してきませんでした」
「それじゃ、来年は用意してきて」
綾子は、からかうように言った。
「ぼくのサラリーじゃ、せいぜい桃の一枝ぐらいです」
「けっこうよ。それに歌の短冊《たんざく》でも添えてくださったら」
「歌ですか。三十一文字並べるやつですか。ギターで歌うんじゃいけませんか」
「それでもいいわよ」
「このお宅に住んでおられるのは、会長さんと副社長さんのお二人だけなんですか」
さっき耳にした電話が気になり、秋弘は、それとなくたずねた。
「あと、使用人はいますけれどね。あなた、和正さんの身内なんだから、会長さんだの副社長さんだの、肩書で呼ぶのはおやめなさいな。典雄なんか、あなたとたいして年はちがわないと思うのよ。あなた、いくつ?」
「二十七です」
「典雄さんより四つ下ね」
珠江が口をはさんだ。
「お手伝いさんの部屋にも、電話はあるんですか」
「いいえ。ここと居間と、わたしの部屋、典雄の部屋と、四つだけよ。どうして」
「いえ、こういう切りかえ電話、便利だなと思って」
「家がだだっ広いから、ふつうの電話では、はなれた部屋にいるとベルがきこえないの」
住人が綾子と典雄の二人だけであるのなら、さっきの電話は、どちらかがかけていたものということになる。
殺してやる、と言った声を、秋弘は耳によみがえらそうとした。綾子の声とは、ちがう。あれは……ミキの声に似ていた。
秋弘が「え?」と聞きかえしたとき、「あ!」と叫んで切ったのは、まちがいなく男の声であった。つまり、典雄ということになる。
「うちは、旅行の手配に関しては、ワールド観光に一任しているのよ」
ワールド観光は、秋弘が勤務するジャパン・ツーリストとは比較にならない大手である。
「お宅に全部をふりかえるのは、ちょっとむずかしいわね。これまでの長いつきあいがあるから。ウィスタリアというフランチャイズ・システムのホテル、ご存じでしょう」
「知っています。ぼくの友人が」
言いかけて、秋弘は、言葉をとぎらせた。
――さっきの声は、剣持《けんもち》ミキに似ていた、と、また思い返す。
「お友だちが、どうしたの」
「大学のゼミでいっしょだった友人が、ウィスタリア東京に入ったんです。去年、新設のウィスタリア阿蘇にうつったとききましたが」
その、ゼミの友人、剣持|綱男《つなお》の、ミキは妹であった。
「ウィスタリアは、ワールド観光さんが筆頭株主で、ホテル建設のとき、うちが請《う》け負った仕事も多いの。去年新築したウィスタリア阿蘇も、うちの仕事なのよ」
「そうですか」
ホテル・ウィスタリアは、アメリカに多いフランチャイズ方式をとっている。たとえば、地方で土地を所有しているものが、ホテル業をはじめたいというとき、ウィスタリア本部と契約し、ウィスタリアの名を使用し、ノーハウの指導を本部から受ける。
秋弘の友人剣持綱男は、ウィスタリア東京に就職したが、去年、ウィスタリア阿蘇がオープンしたとき、経験者が入用なところから、引き抜かれ、現在、総務課長の地位にある。もっとも、肩書は課長だが、給料はたいしてあがったわけではないらしい。秋弘同様、独身だった。
「ウィスタリアには、うちも出資しているの」
綾子の声がつづく。
「そういう関係だから、急にお宅の方にと言われてもね。せっかくの和正さんの口ききだから、わたしにできるだけの便宜ははからうけれど」
「よろしくお願いします」
秋弘は深く頭をさげた。
女中が、和正の到着を告げた。
3
「おそくなって」
和正は、恐縮したふうでもなく、おっとり言った。
四十八と、男の盛りの年であるにもかかわらず、人生の闘争から一歩も二歩も退いているような印象を、秋弘はいつも和正から受ける。
父の遺産として、藤谷建設の多額の株を和正はひきついでいる。しかも経営にはいっさい参加しないのだから、気楽に事業の成果のみを享《う》けとっているわけだ。
髪だけ見たら、六十近い老人とみまちがえよう。ゆたかに盛りあがっているが、半ば以上白い。肌のはりは四十代のものであった。底に紅みを帯びた艶がある。中高の、目鼻の大ぶりな顔に、気品と、なまぐささの抜けた男の色気の奇妙な混淆《こんこう》を、秋弘は感じる。
鯉の洗いだな、と彼はいつも連想するのだ。高級な料理には縁のない秋弘だが、たまたま鯉の洗いを口にする機会があった。その淡白でしっこりした舌ざわりを、強く記憶している。品がよいくせに、おそろしくしたたかだ。
「先に秋弘さんと顔あわせはすんでしまったのよ。和さんが紹介してくれるはずだったんでしょう。晴子さんの甥にあたるんですってね」綾子は言った。
「どうも。出がけに尚子が気分が悪くなって」
「三箇月ですってね。大事にしなくては」
「ええ。そう思って、おいてきました」
「ひとりで、家で憩《やす》んでいるの? 大丈夫なの?」
「病気ではありませんから。珠江さんに診《み》てもらっていることだし」
「尚子さんと碧さんがみえないのは淋《さみ》しいけれど、今日は、若いお客がひとりとびこんできてくれたから」
「ぼくは、すぐ失礼します」
秋弘は腰をうかせた。
「旅行の件を、どなたか担当の方に口添えしていただければ……」
「せっかく来たのだから、ゆっくりしていらっしゃい。東京にいる数少ない身内のひとりなんだから。典雄にもひきあわせるわ」
座敷に席をうつした。
典雄は、先に坐卓の前にあぐらをかいていた。大柄で、身についた貫禄がある。目鼻がくっきりと大ぶりなのは和正も同様だが、ものしずかな異母兄より、はるかに精気にみちている。
典雄はシャンパンの栓をぬいた。仰々しい音がはじけた。
床の間に飾られた雛人形は、骨董《こつとう》にはうとい秋弘の目にも、いかにも由緒《ゆいしよ》ありげにうつる。
「尚ちゃん、おめでただって? 若い嫁さんをもらって、兄さんもハッスルしたんだな」
シャンパンを注《つ》ぎわけながら、典雄は年のはなれた異母兄をからかう。
あの電話が、典雄が通話していたものなら、殺してやる、と典雄は脅《おど》されていたのだ。
綾子も和正も吉川珠江も、口数はあまり多くはなく、秋弘もひかえめにしているので、典雄の笑い声がきわだつ。くったくないようにきこえるが、先入観のせいか、虚勢をはっているようにも感じられる。
ウィスタリア東京のコック長がメニューを作り、コックが厨房《ちゆうぼう》に出むいて来ているということで、お手伝いがはこぶ料理は、内輪の集まりのことで格式ばってはいないが、材料の吟味がゆきとどいている。
典雄は、気がるに秋弘にも話しかける。
そうだね。ぼくの一存では決められないけれど……副社長といっても、独裁権があるわけではないから。でも、担当者に話をつけておくから、会ってみるといい。
「ぼくも五十近くなってから、娘のような若い女房をもらおうかな。いいものだろうな」
典雄はひとりで喋《しやべ》る。
「碧さんはどうするつもりなの。彼女、二十三か四でしょ」
珠江が言った。
「珠江さんは、すぐ、マジになる」
典雄は笑った。
「おかしな趣味の人だよ、この人は」
典雄は和正をさし、秋弘にむかって、
「きみの伯母さん――晴子さんと結婚したのが二十二か三か、とんでもなく若いときだった。晴子さんの方が、七つだか八つだか、年上だったんだよね、兄さん。そして、今度は……。もっとも、二回結婚するのが人生の理想だという説をたてた人がいるときいたな。男は、若いときに年上の女と。そうして、年をとってから若い女の子と。林髞《はやしたかし》とかいう医学博士じゃなかったかな。自分もそのとおり実践したそうだ。兄さんも、その説にのっとったわけ?」
和正は、おだやかな微笑をかえしただけだった。
「でも、最初の姉さん女房が、ちょうどいいころに死んでくれるとはかぎらないでしょう」
と、珠江が、
「離婚するの? 離婚された年上の女は悲惨じゃないの。その林とかいう人はどうしたの?」
「最初の奥さんは病死したんじゃなかったかな。林博士の説ではね、男が若いとき結婚する相手は、年上といっても、二つ三つとか、七つ八つというようなのではなくて、二十以上もちがう、つまり、四十過ぎの女。だから、男の方が四十、五十となるころは、年上の女は当然死んでいるという計算なんだろう。男はごく若いとき、経済力があり経験もゆたかな年上の女にかわいがられ、それから二度めの結婚では若い女の子とたのしい後半生をすごす。女の側からいえば、若いときに父親のような年の男と結婚すれば、相手には財力があり包容力もあり、苦労いらずだ。夫が先に死んだら、今度は自分が若い男と結婚して、経済的にも面倒をみてやる、ということだったと思う」
「年をとってもうだつのあがらない男、四十過ぎて容色が衰え、若い男に目もむけてもらえない女は、その説からはじき出されているのね。ずいぶん楽天的な説ね」
座興のような話に、吉川珠江はきまじめに不快さをあらわした。
「珠江さんやぼくのような独身貴族が、現代では最高かもね」
典雄は、かるく受け流した。
「あなたは、独身貴族もまもなく終止符でしょ」
珠江は言いかえした。
「でも、お母さまなんか、これから若い人と再婚なさったらいいんだよ」と、典雄は、「二十も年のちがうお父さまの後添えになって、未亡人になったんだから、林説にぴったりだ。お母さま、この秋弘くんなんか、再婚相手にどうですか」
突然|矛先《ほこさき》をむけられ、綾子に惹《ひ》かれた心のうちをみすかされたようで、秋弘はうろたえた。尚子とのことを暗に皮肉られているような気までしてしまい、話題をそらそうというとっさの心の動きが、自分でも思いがけない言葉を口走らせた。
「典雄さん、剣持ミキという若い女の子をご存じではありませんか」
電話の声が、たえず気にかかっていたのだ。剣持ミキの声に似ていた……。
まさか、と思う気持の方が強かったのだが、
「剣持ミキ!」
典雄は、灼《や》けた鉄にさわったような声をだした。
「秋弘くんは、彼女と友だち?」
と訊《き》いた声が、しいて平静をつくろっているように、秋弘には感じられた。
「友人の妹です」
この席で口にすべき名ではなかったようだ。
「そう」
典雄の返事は短かかった。
剣持綱男の妹のミキと、秋弘は一時かなり親しくつきあっていた。綱男とミキの郷里は福島である。ミキは高校卒業後、兄を頼って上京し、カメラマンを志して写真専門学校に入った。各種学校である。写すより写される側にまわった方がいいだろう、と秋弘は冗談を言ったことがある。血のなかにブラックの遺伝子が微量混入しているのではないかと思わせるようなプロポーションだった。
気性のはげしさと思いこみの強さが、いささか手にあまる感じになって、秋弘は研修期間を終え札幌支店に配属になったのを機に、疎遠《そえん》になった。気まずさが少し残った。
転勤で東京に戻って来たとき、綱男に一応連絡した。ミキの消息は、たずねなかった。
どうして、突然、剣持ミキの名を持ち出したのか、と典雄は訊きかえさない。
そのことが、秋弘の疑いをほとんど確信に変えた。
電話の声を盗み聴いたのは、おまえだったのか。
殺してやる、とあなたに叩きつけたのは、剣持ミキだったのですか。
声に出さない言葉が、二人のあいだでゆきかった……と、秋弘は思った。
さっきの電話は、ミキですか。綾子や和正の前でその質問を口にするのは、典雄の気にいらないにちがいない。典雄には、この内輪の席に招くほど親しくつきあっている女性がいる。銀行頭取の令嬢というから、双方の家族が公認の、婚約者に近い関係なのだろう。
「剣持ミキさんて、典雄さんの親しくしているひとなの?」
綾子が言葉をはさんだ。かすかに眉根を寄せた。秋弘の質問は唐突すぎたし、それに対する典雄の反応は、不審を抱かせて当然であった。
「いや、べつに親しいわけでは。知っている子の名前を急に秋弘くんが口にしたから、びっくりしたんです」
「秋弘さんは、どうしてまた、そのひとのことを急に?」
詰問するようにたずねたのは、珠江であった。
「いえ……、以前、ミキから典雄さんの名前をきいたことがあるような気がして。実は、典雄さんの冗談に、ぎょっとしてしまって、つい、その、とっさに心にあったことを口にしてしまったんです。再婚相手になんて言われたら、いくら冗談だってうろたえますよ。ああ、冷汗をかいた」
口早に言いわけしながら、無意識に電話機の方に視線が動く。その眼の動きを珠江は敏感にとらえ、納得したようだ。了承というしるしのように、目でうなずいた。
話題はとりとめない雑談にうつり、デザートのフルーツがはこばれるころ、
「そういえば、秋弘さん、あなたの友だちがウィスタリア阿蘇にいるということだったわね」
綾子が言った。
「え、……ええ」
それが剣持ミキの兄であると、言いそびれていた。
「今月の二十一日、皆で阿蘇に行こうという計画があるのよ。もちろん宿泊はウィスタリア。あなたもいっしょにどう?」
「観光旅行ですか」
「あなた、添乗もやるんでしょ。阿蘇は?」
「ぼくはずっと北海道でしたから」
「ああ、そうね。それでは、阿蘇の野焼き、知らないわね」
「知りません」
旅行社の社員だからといって、日本全国の行事をことごとく知っているわけではない。
「三月の二十一日から四日間、山を焼くのよ」
綾子の簡単な説明を、典雄がひきとってつづけた。
「阿蘇は牛馬の放牧が盛んだろう。山肌をおおう枯草を、芽立ちの前に焼くんだそうだ。牛馬につくダニの卵を退治するのと、灰が肥料になってその後の草の生育に役立つという、二つの目的がある。ぼくも母も、九州は何度か行って、阿蘇の火口なんかは見ているんだが、野焼きは知らなかった。ウィスタリア阿蘇のオープニング・パーティーで、野焼きがなかなかみごとだという話をきいてね。ぼくは、写真が道楽の一つなんだ。忙しいなかをやりくりして、珍しい風物を撮るのがたのしみで、二度ほど個展もひらいている。ちょうど、鹿児島にウィスタリア系のホテルを新設する話があって、ぼくは何度か九州に足をはこぶことになる。そのあいだに、野焼き撮影のスケジュールも何とかはめこむつもりでいる。そのとき、母や、ぼくのフィアンセや、できれば兄夫婦も、みんないっしょに野焼き見物を……尚ちゃんは、むりかな」
最後の言葉は、和正に問いかけた。
「どうだろうね。珠江さん、主治医として、どう思う?」
「大丈夫でしょう」
珠江は言った。
「珠江さんはどう、病院は休めそうなの?」
典雄が訊いた。
「一応、休暇願いは出してあるわ。代診がいるから、休みとれると思うわ。ただし、わたしはせいぜい一泊ね。野焼きだけ見物して、次の日とんぼ帰りだわ」
「主治医付きなら、尚ちゃんも行けるよ。賑やかな方がいい」
「添乗員付きにしましょう」
綾子が秋弘に笑顔をむけた。
「航空券の手配なんか、全部あなたにお願いするわ」
「そりゃあいい。有給休暇をとっていっしょに来たまえ」と、典雄が、「旅費、滞在費はこっちで持つ。そのかわり、きみは私設添乗員としてこき使われることになるんだよ」
「秋弘くんがいっしょなら、尚子もたのしいだろう」
和正は言った。
帰りぎわ、珠江が秋弘をものかげに招いた。
「あのおかしな電話は、剣持ミキさんからだったの?」
「はっきりわかりません。声が似ていたんです」
「どのくらい似ていたの。九十九パーセント確実というくらい?」
「そう言われると困ってしまう。何しろ、一言きいただけですから。ただ、さっきミキの名を口にしたときの、典雄さんの様子からみて……」
「剣持ミキさんは、あなたと親しいの?」
「さっき言ったように、大学のゼミでいっしょだった友人の妹なんです。その友人というのが、剣持綱男といって、さっき話に出た、ウィスタリア東京に入って、去年ウィスタリア阿蘇に引き抜かれてうつったという男なんですが」
「剣持ミキさんは、いま、どこにいるの」
「ずっと会っていないので……。実家は福島なんですが、高校を出てから上京してきて、最初は兄貴といっしょのアパートにいたんです。しかし、兄貴の方が阿蘇にうつりましたから、今、どうしているのか……。剣持に訊けばわかると思いますが」
「確かめて、居所がわかったら、わたしに知らせてちょうだい。気になるわ」
「わかりました」
「長距離電話になるわね」
珠江は、秋弘に背をむけ、バッグを開けた。むきなおると、握手を求めるように右手をのばした。秋弘は、その手を握った。手のひらに、折りたたんだ紙の感触があった。
以前、中年の女客から、このようにしてラヴレターめいたものを握らされた経験があった。秋弘は、紙片をそのままポケットにいれた。
帰途、ひろげてみると、一万円札だった。長距離電話の代金にあてるようにという心づかいなのだろう。ありがたいと思うべきなのだろうが、ラヴレターと心ときめかした自分を、嗤《わら》われたような気もした。かねがないのをみすかされているな、と苦笑した。あちらはリッチマンの一族で、しかも女医という職業を持っているのだ。むこうの依頼で電話をかけるのだから……。もっとも、珠江にたのまれなくても、剣持綱男に長距離をかけずにはいられなかっただろう。
尚子は……と、彼は、思った。尚子もポケットマネーは潤沢なはずだが、デートの費用はいっさい秋弘にまかせている。こちらの懐具合など、考えたこともない。年下の尚子にデート代を払われたのでは、こっちがみじめになるから、尚子の気のまわらなさは、それはそれで好ましいのだけれど。
4
目白台の藤谷邸から笹塚にあるアパートに秋弘が帰り着いた時は、九時を少しまわっていた。
剣持綱男の阿蘇での住まいは、ホテルの裏に建てられた従業員用の社宅である。電話は自室に備えていた。
「しばらくだな」
「秋か? 珍しいじゃないか。どうしたんだ」
電話の声は、距離の遠さを感じさせない。
「ちょっと訊きたいことがあって」
「何だ?」
「ミキのことだ」
少し間があき、
「どうして、今ごろミキのことを」
綱男の声が、心もち硬くなった。
「ミキは、いま、どこにいる? もとのアパートは、ひきはらったんだろ」
「海の上だ」
綱男は言った。
「何だって? 海の上? 船旅か、本当に海の上か」
「いやに疑うな」
「船のなかから電話をかけることって、できるのかな」
「船なら、無線だろう」
「船で、どこへ」
「目的地はアメリカだ」
「アメリカまで船の旅か。優雅だな」
「仕事がらみだ」
「それじゃ、あれは別人か」
秋弘はつぶやいた。
「あれって、何だ」
「ちょっと訊くけど、藤谷建設を知っているだろう」
「知っている」
いったんやわらいだ剣持綱男の声が、再び硬くなった。
「そういえば、おまえの苗字も藤谷だな。何か関係があるのか」
「遠縁だ」
「たいしたところと縁つづきなんだな」
「藤谷建設の副社長の典雄というのと、ミキは何か関係があったか」
「どうして。むこうが何か言っているのか」
「いや……」
「はっきり話せよ」
「ミキが日本にいないのなら……」
国際電話ということもあるな、と気づいた。寄港地からかけてよこすことはできる。しかし、国外からなら、言い争った言葉のはずみで、ぶっそうなことを口走ったとしても、ただちに実行にうつせるわけではない。
「仕事がらみって、どういう仕事だ」
「先に、そっちの話をきかせてくれ。なぜ、急に、藤谷典雄とミキのことを気にしだしたんだ」
「今日、彼の家に行った」
和正の紹介で、と簡単に説明し、電話の送受器をとりあげたとたん、ぶっそうな声が耳に入ったこと、その声がミキに似ていたこと、通話の相手が典雄らしかったことなどを話した。
綱男の声がとぎれた。考えこんでいる様子だ。
「何か、思いあたることがあるのか」
「ある」
綱男は重い声で言った。
「典雄に捨てられたとか、そんなことか」
「捨てられたなんて言ったら、あいつ憤慨するだろうが、まあ、そういうことだ。……おれは、妹や他人のすることに口出しする気はなかったし、おまえにこんなことを言うつもりもなかったんだが、ミキのやつ、おまえにけっこう本気だったんだ」
秋弘は言葉につまった。
綱男はつづけた。
「好きや嫌いは理屈じゃないからな。おまえにその気がないのなら、どうすることもできないやな。おまえは北海道に転勤して、それきりだ」
「ミキは、いつごろ、どういうことで典雄と知りあったんだ」
「ミキは、アルバイトに、バンケット・コンパニオンをはじめたんだ。カメラは機材にかねがかかる。どこかのクラブに所属して、宴会があると召集されて、飲物のサービスなんかする、あれだ。どこかのパーティーで、典雄と知りあった。ミキは、むこうが積極的に声をかけてきたというんだが。典雄も道楽に写真をやっているそうで、話が合ったらしい。ミキは、典雄のヌードモデルもやっている」
「ミキが、そう話したのか」
「写真もおれに見せた。まあ、客観的に見れば、けっこうに撮れているというんだろうが、妹のゲイジュツ的ヌードをみるというのも、変な気分だった」
「……それで?」
「そのうちに、ミキは本気でのめりこんだ。あいつが本気になると……とことん、のぼせあがるからな。結婚、という言葉が典雄の口から出た。……これも、ミキからきいただけだが、嘘ではないと思う。ただ、結婚しようと男が言うとき、そのときは本気かもしれないが、その本気が、続かなかったりしてな。最初は、むこうの方がボルテージが高かったらしいが、ミキが夢中になりはじめたら、むこうの温度が下がりだした。おれもな、実をいうと、ミキが藤谷典雄の女房におさまったら、おれも……などと、つい虫のいい期待をしたりしたんだが。こき使われるよりは、こき使う方が、な。ミキは、だいぶ、すったもんだやっていたようだ。むこうが逃げ腰なのがわかり決意して、別れるときっぱり宣言すると、むこうの方が未練をだして、何やらかんやら、うまいことを言う。ミキはもともと嫌いじゃないんだから、またのめりこむ。おれには言わないが、一度|堕《お》ろしているんじゃないかな。よくある話だが、てめえのこととなると、よくある話じゃすまねえやな」
「それで、ふんぎりをつけるために海外にとびだしたのか」
「何か、かねになる話の口があったようだ。おれにはくわしいことは言わなかった。何しろ、おれは阿蘇、ミキは東京で、長距離電話だろう」
「いつ出発したんだ」
「知らないんだ。日取りが決まったら教えると言っていたんだが、それきりだ。おれも何しろ、こっちへ来てからずっと、息もつけない忙しさで、ミキのことに心を配る余裕がなかった。海外へ行くとかいって電話で知らせてきたのが、いつだったかな……二月の中ごろだったかな。それきり音沙汰がないので、一度、ミキのアパートに電話した。持主がかわっていた。だから、電話も売って、もう出発したのか、おれに知らせもしないで、と、いささか腹がたった。もっとも、出発の日どりを教えられても、見送りにも行けはしなかったが。それから、郷里《くに》の親父のところに電話して、ミキがいつ出かけたのか、訊いたんだ。親父の方も、おれに訊こうと思っていたところだというんだ。やはり、仕事で近いうち海外に出ることになる、と電話があって、それきりなんだそうだ。出かける前に、一度郷里に帰ってこいと命じたんだそうだが。あいつ、親父の命令など、耳を素通りだからな」
「それじゃ、その仕事の話がキャンセルになって、ミキが国内にいるということが、まったく考えられないわけではないな」
「しかし、そうであれば、おれに連絡を……いや、あいつ、連絡はしないかな。何だか、その仕事で大きな成果をあげて、写真集を出版して、一躍有名になってやるのだとか、かなり大きなことを言っていたから、その手前、キャンセルになりました、と、みじめなことは言いたくないかもしれない。あの強情野郎……」
綱男の声は、次第に不安げに沈んだ。
受話器をおいたとたんに、ベルが鳴った。
5
「ずいぶん、長電話だったな」
和正の声であった。
「やっと、通じた」
「どうも……」
尚子のことを詰問されるのだろうか。
今日、招《よ》んだのは、おれをじっくり観察するためか。尚子と逢うなと言われるのだろうか。
「きみに頼みたいことがあるのだが」
和正は、切りだした。
「何でしょう」
「頼みというのは……きみは、なくなったきみのおばあさんのことを、どのくらい知っている?」
思いがけない話題を、和正はもちだした。
秋弘の祖母はつは、和正にとっては、伯父の妻――血のつながらぬ伯母――であるとともに、最初の妻晴子の母親という関係にもなる。
はつは、秋弘の父を産んで数年後、三十になるかならずで世を去っている。
「おばあさんのことを、少ししらべてもらいたいのだ。ことに異性関係を」
「男の関係ですか」
「山本シゲタロウという男とかかわりがあったことはないか、それを知りたい」
「山本シゲタロウ?」
「シゲは、繁茂《はんも》の茂《も》だ」
――山本茂太郎……。
「わたしがこのような依頼をしたことは、秘密にしてもらいたい。報酬は充分にするつもりだ」
「何のために、いまごろ、死んだばあさんの男関係なんか……」
「理由をきかないというのも、その報酬のなかに含まれる」
「どうやってしらべたらいいんですか」
「方法はきみにまかす」
「なぜ、ぼくにしらべさせるんですか。そういうことのプロがいるじゃありませんか」
「興信所か。どうも信頼できなくてね」
――ぼくのことは、よほど信頼しているんですか……。
藤谷綾子にひきあわせてくれたのは、あとで、いやおうなくこの頼みごとを引き受けさせるため、前もって恩を売っておいたということなのか。
「さっそく、とりかかってもらえるか」
「祖母のことをしらべるのなら、宇治の実家に帰らなくちゃなりませんが」
「明日は日曜だから」
「いえ、それが、月曜からぼくは添乗で、五日ほどハワイなんです。明日はその仕度もあっていそがしいので、次の日曜ではいけませんか。金曜日に帰国して、土曜は休みになりますから、土、日と二日、調査に使えます」
「それでは、そうしてもらおうか。くれぐれも秘密は保ってほしい」
念を押して、電話は切れた。
尚子とのことを責められるのかと覚悟していたので、ほっと気が抜けた。
別れろと言われたら、別れられるだろうか。
そうかといって、日常のすべての生活を尚子とともにする気にはなれない。尚子にしても同様だろう。
尚子とすごす時間は、たのしい。ことに、北海道の旅行はたのしかった。札幌から支笏洞爺《しこつとうや》国立公園をまわる観光コースだが、マイカーだから、時間に縛られない気ままな旅だった。
おれが若い男だということを、和正さんは意識していなかったのだろうか。何の不安も感じないように、尚子をあずけていった。
年のちがいすぎる和正が、尚子を十分に満足させてやれないので、おれに遊んでやってくれという含みだろうか。そんなふうにさえ思った。
ホテルに尚子を迎えに行った。フロントから部屋に連絡してもらい、ロビーで待った。初対面である。たがいに顔は知らない。エレベーターを下りロビーにむかって歩いてきた娘が、秋弘の前に立ち、以前から親しい仲であるように、人なつっこい笑顔で秋弘の腕に手をかけた。まったく無防備な笑顔だった。
地平線がはるかに遠い広大な牧草地のあいだを、車をとばした。スピードメーターの針はかるく一〇〇キロを越えた。頬を上気させ、尚子は歓声をあげた。支笏湖畔で食事をとり、更に洞爺湖にむかう。白樺の梢のやわらかい緑が、夏の光とたわむれながら窓外を流れ去る。洞爺湖のホテルにチェックインして夕食のあと、散歩にさそった。陽が落ちていた。ワインの酔いが快くまわっていた。林のなかにわけいった。かるく組みかわしていた腕は、たがいの腰にまわった。凄まじいほどに澄んだ無数の星が頭上にあり、足もとは闇に溶けこんでいた。樹々の葉のにおいは媚薬のように空気をみたした。
ホテルに戻ってから、秋弘は、尚子の部屋で朝まで過した。
罪悪感はどちらにもなかった。たのしいときを持ててよかったと、すなおに思えた。
帰京した尚子は、平気で長距離電話をかけてきた。深夜、先生は留守でわたし一人なの、とかかってくることもあった。
転勤で秋弘が東京の支店勤務になってからは、ラヴホテルで逢った。尚子は、こういうところ、はじめて、と、たのしくてたまらない様子をみせたのだった。
U
1
みぞれは宇治川の水面に溶けいる。流れに沿って走るタクシーのなかに、秋弘はいた。
天ケ瀬ダムの少し手前、志津川が本流宇治川に注ぎ入るあたりで車は左に折れ、山峡に入る。道はほぼ志津川に沿い、高度を上げる。川べりまで迫る山腹の樹々は、みぞれのなかで色彩を失なっている。
川をはなれ細い枝道に入り、土塀のつづく途中でタクシーを下りた。みぞれがたちまち肩を濡らした。
宇治市といっても、このあたりは、山間の地である。父親は五年前に死亡し、長兄の一家が母親と同居している。次兄の一家は車なら三十分とかからぬ伏見向島の団地に住んでいて、休日には子供連れで遊びに来る。親の家というより、長兄の家というふうになり、秋弘は足が遠のいていた。
格子の引戸を開けると、庭までつき抜ける土間にねそべっていた老犬が寄ってきて前肢を彼の肩にかけて立ち、顔を舐《な》めた。
古い建物だけあって、垂木《たるき》も梁《はり》も柱も三十センチから五十センチ角はある。これだけ頑丈でなくては時間の重みをささえきれない。都会の一日一日は、めくり捨てられる紙屑だと、ふだんは思ってもみないことが浮かぶ。
「秋かい」
台所から出てきた母親は、笑顔になった。
夕食に、母親と長兄一家、車でやってきた次兄一家、それに近所に住む母の弟夫婦、母の姉まで招《よ》ばれてきて、子供たちを混え、十四人が顔をあわせた。一つの卓には坐りきれず、座敷と次の間の境の襖をとり払い、二つの卓にわかれ、手間をはぶいて寄せ鍋をつつく。大皿に盛りあげられた白菜、春菊、豆腐、かしわが土鍋に次々に放りこまれ、湯気はただよいのぼって高い天井の羽目板沿いに這う。
「おばあちゃんのこと訊《き》きたいんやけどな」
秋弘がきりだしたのは、食事のかたづけがすみ、子供たちはテレビを見ながら半ば眠り、女たちもほっと息をついてからだった。
「おばあちゃんな、若いころ、山本茂太郎いう人と何か関係あらへんやった?」
東京では忘れている土地の言葉が、自然に口をつく。
「山本茂太郎て、だれね。姉さん、知ったはります?」
母親は、皮を剥いたみかんの筋をとり、秋弘の前においた。
「知らんわね」
「叔父さん、知らはらへん?」
「知らんな」
「秋、おまえな、ちいとも帰ってこんで、たまさか帰って来よったと思ったら、何やね、おかしなことを」
酒の弱い長兄は、猪口に二、三杯で目尻に白いやにをため、意見がましい口調になった。
それにひきかえ、次兄は酒豪で、濃い水割りをひとりであおっている。次兄は京都の大学に在学中、激しい闘争を経てきている。破壊しなければ何も生まれてこないのだ、おれたちがまず破壊する、あとをおまえたちがひきつげ、と、そのころ中学生だった秋弘に、激越さをむりにおし鎮《しず》めて妙に冷静になった声で言ったのをおぼえている。次兄の左の鎖骨《さこつ》は折れたところがくいちがったまま瘉着し、夏など、Tシャツの上からでもはっきりわかる。それを目にすると、秋弘はやりきれない気分に陥るので、なるべく見ないようにしている。自分が知らずに過ぎた時間が、兄には確実にあったのだと思う。
「おばあちゃんは、べっぴんさんやったな」
母が言うと、
「死んだ兄さんは、一番おふくろに似たったな。晴子姉さんは、親父似や」
叔父が言った。
和正と結婚してわずか三年で病死した晴子は、母親の美貌を受けつがなかったのか。
「嫂《ねえ》さんとこのお子は、みなハンサムでよろしわなあ」
叔父の妻が、いくぶんおもねるように言った。
「東京の和正さんが、おばあちゃんにちいと似たはるんちがいます?」長兄の妻がみかんの房を口にふくみながら、「中高で、鼻がこんもり高うて、眼が涼しうて」
「和正さんは、おばあちゃんとは血ィつなごうとらんのよ」と、母が、「おばあちゃんは、よそから来はった人やさかい。のうなったおじいちゃんと、和正さんのお父さんが兄弟いう間柄やから」
「ややこしいて、ようわからんわ」
次兄がめんどうくさそうに言うと、
「こうなるんや。な?」
長兄は、ありあわせの紙に、几帳面に図を書いてみせた。
「な、な、これでようわかるやろ。和正さんとおばあちゃんは、血ィつなごうとらへん。似とらせんよ」
長兄は、和正と晴子のあいだを更に二本線で結んだ。結婚したという印だ。
「和正さんて、いくつやったかいな」と、叔父が、
「四十……七か、八か、そのへんやろ。晴子姉さんが死なはってから、よう後添えももらわんといると思とったら、えろ若い嫁はんもらわはったな。よう躯《からだ》がもつな。中折れの時期やろにな」
叔父は調子にのって、鼻の形と性器の関係を露骨に口にしかけ、女房に膝をつねられた。
「中年のハンサムて、気色悪い」
次兄の妻が笑いながら言った。
「男はんは中年にならはったら、少しごついぐらいのんがよろしわ」
「おれ、中年になってもハンサムやで。どないする」次兄が言った。
「ハンサムでのうても、サラリーのもう少し多い方がええな」
「シビアなこと言うわ」
次兄のつとめる会社は、業績不振で賃金カット、ボーナスもほとんど出ない状態である。
「おばあちゃんの若いころの持ち物、もう、ほかしてしもた?」
秋弘が脱線しかけた話題をもとに戻そうとして訊くと、次兄の若い妻は、ふいに躯を打って笑いだした。
「何やね」
「啓さんたらね、課長さんに……」
「課長が、東京から転勤で来た人なんや」
次兄は苦笑して、妻の思い出し笑いを補足した。
「書類をね、課長さんが『保管しとけ』言わはったんやて。それを、この人、屑籠にほかしてしもてん。次の日、課長さんが、『藤谷くん、あの書類持ってきてくれ』『はあ、あれは、捨てました』て、この人、けろっとして。『捨てたァ!』て、課長さん、真っ青やわ。『ほかしとけと言われましたから、ほかしました』まるで、漫才やわ」
次兄の、セーターの下にかくれた、折れ曲がってかたまった鎖骨を、秋弘は思った。書類を、わざと捨てたのか、課長の言葉を故意に曲解してやったのか、まさか。妻と子供は、反抗の牙を丸くとぎ減らす。
「こないして系図に書くと、うちも、何やもっともらしいな」
次兄の啓二は、長兄が書いた図をあらためて見なおした。
「うちの系図は、百八十二代までさかのぼられるんやで」長兄は誇った。「先祖は京の公卿はんで、その前は皇族までいくんや」
「わし、その系図いうの、見たったけどな」と次兄が、
「いつの時代かに、かね出して作らせたもんやろな」
「由緒ある家柄なんは、ほんまやで」
「その子孫が、いっこう、たいしたことあらへんな」
「いや、死んだおじいちゃんの弟んとこは、東京でえらい出世や。土建業があたってからに」
「藤谷建設な。えらい出世やな」
「うちとこ、今年いっぱい持つかなあ」
次兄の妻が、そう言いながら笑っている余裕は、実家に経済力があるところからきているのだろう。
「うちが公卿の流れなら、なんで華族にならなんだ」
次兄が訊いた。
「華族やあらへんけど、士族やったんやで」
「公卿が、どこでさむらいになったんかな。そんなん、あるかな。公卿と武士は別階級やで」
「とにかく、由緒正しき家柄なんや」長兄は自慢げに断言した。
「ついこないだも、テレビが取材にきたんやで」
「ほんま? うちとこがテレビにうつったんか」
「いや、シナリオ書かはるのに資料探してはるて、シナリオライターがうちに来たんや。なあ、お母ちゃん」
「そうや。市役所の広報で、古いものを保存していそうな家を教えてくれと頼まはったら、うちとこと、あと二、三軒、名をあげはったんやて」
「たいしたもんやろが」
「東京の女子《おなご》はんも、たいしたもんやな」と、母が、
「まだ若い女の人やったな、それでもシナリオライターで、あないして一人で取材したはるんやもんな」
「べっぴんやったか」
長兄が訊いた。
「兄ちゃん、会わなんだの」
「おれ、役所に出とったもん」
「おばあちゃんて、この辺の人やったん?」
秋弘は話題をひき戻した。
「なんで秋、そないにおばあちゃん、おばあちゃんて。顔も知らんのやろ」
「昔の写真を一度見たことがある」
「おばあちゃんの持っとった物、手紙とか、まだ残っとるかな」
「納戸にあるよ」
「ほな、見せてもらおか」
「寒いよ、納戸は」
と言いながら、母は立ち上がった。
2
埃のにおい、黴《かび》のにおい、歳月の饐《す》えたにおいが、納戸をみたしていた。床板は氷を踏むように冷たい。
「秋、おばあちゃんのこと、何でしらべとるの」
母親は衿もとをかきあわせ、手先を袖口のなかにちぢめた。
「何で、て、おれもわからんのや。たのまれただけや」
「秋、縁談話おきとるのとちがうか」
「ないよ、そんなん。なんで」
「そうか? つい先ごろ、興信所の人が、おばあちゃんのことききに来やはってんけど」
「興信所が?」
「なんでそないなこと調べはりますのんて、お母ちゃんも訊いてんよ。ほたら、何や縁談のことでどうとか言うてはって、はっきりしたことは言わはらへんかったんやし。あんたに東京で縁談が起きて、先方さんがあんたの血筋をしらべたはるんかと思たんやけど」
「おれ、知らんよ」
「そんときは、お母ちゃん、ぐあいの悪いことは何も言うたらへんやったけど……」
「何かあるん? おばあちゃんのことで」
「たいそうなことでもないねんけど。知っとるもんは知っとる話やさかい。わざわざ口にせんだけのことで」
「何ね」
「おばあちゃんな、家柄がようないの。藤谷の家の奉公人やったんやし。おじいちゃんが惚れなあて、手えつけはって、ややこしことになってんよ。せやけど、二代前の嫁はんの家柄など気にせいでもええわなあ」
母親は床に膝をつき、黒い環のついた赤褐色の箪笥の抽出しを開けた。樟脳のにおいが流れた。祖母の着物は、一枚一枚、畳紙《たとう》に包まれていた。
「たいがい、形見わけで人にあげてしもて、あまり残ってへんけどね」
「着物は見んでもええねん。古い手紙とか写真とかないやろか」
「手紙ねえ。そない古いもん、残っとったかねえ」
隅に重ねられた数多い長持の、どれか一つにおばあちゃんのものはまとめて納めてあると、母親は言った。あとは一人で探すからと秋弘が言うと、
「お母ちゃんの若いころのものなんぞ見られたら恥ずかしねんわ」
「そんなん、見んとくよ」
「そんなら、去《い》のか。寒いさかい、早うもどってきいよ」
最初に開けた櫃《ひつ》には、秋弘と二人の兄の幼稚園から小学校のころの成績物や工作品などが整理しておさめてあり、秋弘はだれが見ているわけでもないのに、気恥ずかしさをおぼえた。過去に浸りこみたくなる誘惑をしりぞけ、櫃をひきずりおろし、下の櫃の蓋をあけた。
三つ四つの櫃をあさり、ようやく、祖母の遺品をおさめた櫃にゆきあたった。裁縫箱、木枕、手箱、文箱。思ったほど黴くさくはなかった。
奉公人だったというのだから、高等教育は受けてないと思われるのに、手ずれのした書物が何冊か入っていた。紺青色の表紙の、小型だが分厚い本は、江戸時代の草紙物を復刻したものらしい。南総里見八犬伝、近松浄瑠璃集、近世説美少年録、偐紫田舎源氏、秋弘にはとても読みこなせない。活字の部分はどうにかたどれるが、江戸期の版木の文字をそのままうつした部分は皆目わからない。
手のひらにのるような瀟洒《しようしや》な皮装の本は『砂金』と背表紙に箔押しされていた。ページをめくると、
下《お》りて来い、下りて来い、
昨日も今日も
木犀《もくせい》の林の中に
吊《つるさが》つてゐる
黄金《きん》の梯子
瑪瑙《めなう》の梯子。
下りて来い、待つてゐるのに――
嘴《くちばし》の紅く爛《ただ》れた小鳥よ
疫病《えや》んだ鸚哥《いんこ》よ
老いた眼《まみ》の白孔雀よ。
月は埋《うづ》み
青空は凍《いて》ついてゐる、
木犀の黄《きい》ろい花が朽ちて
瑪瑙の段に縋《すが》るときも。
下りて来い、倚《よ》つてゐるのに――
色
光
遠い響を残して
幻の獣どもは、何処《どこ》へ行くぞ。
待たるゝは
月にそむきて
木犀の花片《はなびら》幽《かす》か
埋《うづ》もれし女《ひと》の跫音《あしおと》。
午《ひる》は寂《さび》し
昨日も今日も
幻の獣ども
綺羅《きら》びやかに
黄金の梯子を下《お》りつ上《のぼ》りつ。
字面《じづら》からただよいのぼる古いワインのようなやわらかい感傷の香気に、秋弘は一瞬酔わされ、これが西条八十の第一詩集であると知って驚いた。彼の知識では、西条八十は、猥雑《わいざつ》な流行歌の作詞者であり、戦中は軍歌の作詞者。それ以上遡のぼった時期の、仏蘭西《フランス》サンボリスムの影響を受けた八十を、彼は知らなかった。
はつという女は、高い教養を持ちながら、家が急激に没落したために奉公に出なくてはならなくなったというような事情があったのだろうか。江戸の戯作《げさく》とサンボリスムの詩。その上、王朝古典の書も、その蔵書のなかにはあった。
はつを妻にした祖父藤谷利勝によって与えられた教養であったろうか。
注釈つきの源氏物語の一巻を手にしたとき、ページのあいだに何かはさまっているのに気づいた。巻紙に筆でしたためた手紙らしい。
秋弘には読めそうもなかったが、ポケットにしまった。
写真はなかったし、山本茂太郎という男の存在を思わすものも見あたらなかった。結婚前までたどらなくてはならないとしたら、はつの実家をたずねる必要があるな、と思いながら、躯《からだ》の芯まで冷えきって座敷にもどると、母がひとりで石油ストーヴに手をかざしていた。
「皆、もう寝やはったわ。叔父さんたちは帰らはった。あんたの床も二階にのべておいたさかい」
「おおきに。おばあちゃんて、えらい本好きな人やったんやな。昔の人で珍しな」
「昔はテレビも何もあらへんやったさかい、今の人よりは本も読んだかしらんな」
「それにしても、教養高いわ。驚いた。おれ、あんなんよう読まんわ。お母ちゃん、おばあちゃんの若いころのこと、どこで訊いたらわかるかな」
「お父さんなら知ってはったんやろけど、もういてはらへんしな。おばあちゃんの甥いう人が、おばあちゃんの実家のあととったはるさかい、そこで訊ねたらわかるかもしれんな」
「明日、会うてみよ」
「えらい熱心やね」
母親はふに落ちないように眉をひそめた。
「お母ちゃん、これ読めるか」
ポケットにしまった紙を、母にみせた。
「こない、のたらのたらくずした字、おれ、よう読まん」
「これ、何ね」
「おばあちゃんの本のあいだにはさんであった。手紙やろ」
「何流いうのか、書をまなびはった字やね。お母ちゃんにも読めんわ。変体仮名まじりやしね。きみは……何やろね、むつかしな」
「ほな、ええわ」
秋弘は、紙をまたポケットにしまった。
3
翌日、長兄のセリカを秋弘は借りた。
前日のみぞれは晴れあがり、風はまだ冷たいが薄日がさしている。はつの甥の家がある小浜《おばま》まで、片道ほぼ一二〇キロのドライヴは、日帰りに手ごろな距離だが、新幹線でこの日のうちに東京に帰るのだから、かなり気ぜわしくもあった。
市内を西に抜け、新丸太通の西のはずれから北にむかう。野宮《ののみや》から化野《あだしの》への嵯峨野《さがの》めぐりの道すじは、アンノン風観光客が多いだろうと敬遠し、いささか趣きに欠けるバス通りをとった。
嵐山高雄《あらしやまたかお》パークウェイに入る。嵐山と高雄を結ぶ一〇・七キロにわたるハイウェイである。
つづら折れがつづく。
保津川に注ぎ入る清滝川を眼下に、蛇行しながら登る。愛宕《あたご》、高雄、竜ケ岳、朝日山と連る山々の杉木立が整然と天を衝く。
ハイウェイの頂上にある錦雲渓展望台で、いっとき車を下りた。霧が流れ、遠い展望はきかない。渓谷の底から吹き上げる風は、氷を含んでいるようだった。濃く薄く流れる霧のあいまに、青い透明な流れがしぶきをあげるのが見下ろせた。
再び発進する。菖蒲谷池のヘアピンカーヴを過ぎ、やがて周山《しゆうざん》街道と合する一ノ瀬で嵐山高雄パークウェイは終わり、国道一六二号線が再び山中にのぼり入り丹波高地を縦断し、堀越峠を越え日本海にむかってのびる。尚子が助手席にいたら……と思った。
若狭湾は、枝わかれした珊瑚《さんご》樹のような海岸線を持ち、花崗岩《かこうがん》の柱状節理がみごとな断崖は風浪が大小の洞門を穿って観光名所の奇勝を作っている。小浜湾はそのほぼ中央にある支湾で、内外海《うちとみ》半島と大島半島に両側から抱きこまれた海面のやわらかいちりめん皺《じわ》に薄日がきらめく。
日本海にむかってひらく北側をのぞき、三方を、丸山、天ケ城山、後瀬山とつらなる山なみにかこまれた小浜の町は、かつて酒井氏十二万石の城下町であった。メインストリートである大手通りをそれて露地に入ると、細い路は蜘蛛手にいり組み、京都市内にも少くなった千本格子の古びた町家や、風雨に黒ずみひび割れの走る白壁の土蔵が並ぶ。かき集めた雪が軒下に山を作っていた。
大手通りを進み、大手橋、西津橋と、湾に注ぎ入る二つの川を渡ると、武家屋敷跡の残る旧城下町に出る。はつの甥の家は、この近くにあった。
中学の数学の教師というはつの甥|倉田圭吉《くらたけいきち》は、秋弘の長兄が前もって電話で通じておいたせいもあってか、初対面であるにもかかわらず、快く座敷に招じ入れてくれた。
「ぼくは祖母のことは何も知りませんので」と、秋弘はきりだした。
「若いころのことを少し知りたいのですが」
「そうですねえ。若いころといわれても、私もようは知らんのですよ。はつ伯母の父親というのが、つまり私の祖父になるわけですが、漢学者だったということですよ。それが、どう魔がさしたのか投機に手を出して大失敗し、それから没落したというふうにきいとります。はつ伯母はたしか、旧制女学校の三年までいって退学せんならんようになりまして、それから藤谷さんとこに行儀見習いいう名目で奉公さしてもろたんですわ。私の父親は苦学してどうにか師範を出ましてな、中学の教師になりました。息子の私も同じ道ですわ。いまの若い人は、苦学いうの知らはらしませんやろなあ」
「祖母は旧制女学校の三年までいったんですか。いまでいえば、中学卒ですね。それにしては、持物を見ると、ずいぶんむずかしいものを読んでいたようで」
「昔はテレビも何もあらへんさかい、本好きな子は、ようけむつかしいものを読みましたやろ。字ィ知らん者も多かった一方で、頭のええのんは小学生でも漢文、古典、何でもこなしよりましたんちがいますか」
「山本茂太郎という名をおききになったことはありませんか」
「さあ、私は何も知りません。私の父でも生きておれば、何かとおもしろい話もあったかもしれませんが」
「お父さんは、だいぶ以前になくなられたんですか」
「五年になりますかな。……はつ伯母がのうなったときは、私も両親といっしょに志津川の藤谷さんとこにお悔《くや》みに参じました。あれはもう、三十年の余も昔になりますかな。けっこうな野辺送りでしたな」
甥は、生前のはつについては、何も知らないようであった。
床の間に、秋弘には読めぬ書の掛軸がさがっているのを目にとめ、
「書にはおくわしいんですか」
秋弘はたずねた。
「いえ、いえ」
倉田は手をふり、秋弘の視線の先をたどり、
「あれがお目にとまりましたか。お恥ずかしい。あれは、家内の手すさびでして。私はねっから不調法ですが、家内は、県の書道展に出品せいとすすめられて、一、二度賞もいただきよりまして」
「あの軸も奥さまが?」
「はあ、賞をいただいたもんですさかい、まあ、そう悪いもんでもあらへんのやろ思いましてな」
「おみごとですね。といっても、ぼくは書のよし悪しなんて、まるでわからないんですけど。それでも、気持のいい字だなと感じます」
「そうですか」
倉田は顔をほころばせ、ちょうど茶をはこんできた妻に、
「おまえのあれ、ほめていただいたぞ」
と、つたえた。
「おみごとですね」
ほめる言葉に乏しい秋弘は、同じことをくりかえした。
「何をおっしゃいますやら」
倉田の妻は、つつましく会釈した。
「ちょうどいい。奥さん、お手数ですが、これ、読めますか」
「まあ、何でっしゃろ」
「ぼくの祖母、倉田さんには伯母さんにあたる、はつの手もとにあった、手紙らしいんです。ちょっと事情があって、祖母のことをしらべているものですから」
「ほな、失礼して」
と、巻紙をひろげた倉田の妻は、流暢《りゆうちよう》に読みくだした。
「きみは、ふつかみか――二、三日いう意味でっしゃろな――うちへもまゐりたまはで、この人をなつけ語らひ聞え給ふ。やがて本に、と思すにや、手習、絵など様々に書きつ見せ奉り給ふ。いみじうをかしげに書き集め給へり。……手紙とちがいまっしゃろ、これ。なんぼ昔の人いうたかて、こないな文章、手紙には書かはらしまへんやろ。――むさし野といへばかこたれぬ、と紫の紙に書い給へる墨つきのいと殊なるを取りて見居たまへり」
「まるで外国語だな」
と、秋弘は苦笑した。
「すこしちひさくて、
ねは見ねどあはれとぞおもふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを
とあり。いで君も書い給へとあれば、まだようは書かずとて、見上げ給へるが、何心なくうつくしげなれば、うちほほゑみて、よからねと、無下に書かぬこそわろけれ。教へきこえむかしと宣へば、うちそばみて書い給ふ手つき、筆とり給へる様の幼げなるも、らうたうのみ覚ゆれば、心ながらあやしと思す。書き損ひつとはぢて隠し給ふを、せめて見給へば、
かこつべきゆゑをしらねばおぼつかな いかなる草のゆかりなるらむ
と、いと若けれど、生ひさき見えて、ふくよかに書い給へり。故尼君のにぞ似たりける。今めかしき手本習はば、いとよう書い給ひてむ、と見給ふ。雛《ひひな》など、わざと屋ども作りつづけて、もろともに遊びつつ、こよなき物思のまぎらはしなり」
読み終えて、
「これ、源氏ですわ」
倉田の妻は、確信ありげに言った。
「源氏……源氏物語ですか」
「ええ」
「まちがいないか」
と、倉田がたしかめた。妻の言葉を信用しながら、秋弘の手前、確認しなおしているようだった。
「ちょっと待っとくれやす」
倉田の妻は、部屋を出て、戻ってきたときは薄い文庫本を手にしていた。
「たぶん、『若紫』ですわ。源氏物語が、藤壺やら帚木やら、いくつもの巻にわかれておりますの、ご存じでっしゃろ」
はあ、と秋弘はうなずいたが、彼の古典の知識は、きわめて乏しかった。
「ちょっと、ここを見とっておくれやす。うちが、手紙の方をもう一度読みますさかい」
倉田の妻がひろげた文庫本のページに、秋弘は目をむけた。
君は二三日《ふつかみか》内裏《うち》へも参り給はで、この人をなつけ語らひ聞え給ふ。やがて本に、と思すにや、……
活字の印刷であり、ルビがふってあるので、秋弘にも読める。倉田の妻が声に出して読む文章と、一字一句ちがわなかった。
「驚いたな。奥さん、ちょっと見ただけで、よく、すぐに源氏の一部分とわかりましたね」
「実は、わたし、子供も大きいなって手がかからんようになりましたし、去年、婦人文化サークルで、一年間、源氏の講義受けましたの。もちろん、全部は読めしめへんけど、桐壺ですとか、夕顔ですとか、有名な巻の御講義聴きましてん。若紫も、一応勉強さしてもらいました。この、源氏が幼い紫上に、字や絵を書いてみせて、あなたも書いてごらんとすすめておるところ、わたし、えろう好きでしたの。情景が目にみえるようで。源氏は、紫上に藤壺のおもかげをかさねて、どの女よりいつくしみますやろ。
ねは見ねどあはれとぞおもふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを
と、この歌に、源氏の気持があらわれとりますやろ。
ね≠ヘ根≠ニ寝≠かけとるのやそうですわ。まだ枕はかわしていないけれど、藤壺のゆかりのあなたをいとしく思う、と、幼いひとに、ずいぶんはっきり語りかけておいやすし、もろともに遊びつつ、こよなき物思のまぎらはしなり=Aいっしょに遊びながら、それが藤壺への恋慕のこの上ないなぐさめとなる、ということですわね。あら、わたし、えらそうにまあ……恥ずかしわ。お茶かえまひょか」
「おぼえたての知識やよって、人にひけらかしとうてならんのやろ」
倉田はからかいながら、まんざらでもない笑顔だった。倉田と妻も、十二、三、年がはなれているようにみえる。年下の妻の才気が、倉田には、いささか自慢なのだろう。あたたかく慈《いつく》しんでいる目であった。
「祖母も、この部分が好きで、書き抜いてみたのかもしれませんね」
秋弘は、受けとって、見なおした。
「これで、二三日《ふつかみか》と読むんですか。てんで読めないな。その後も……。ここからは、ぼくにもどうにか読めますね。この人をなつけ語らひ……」
「はじめの部分は、ほとんど変体仮名で書いてありますよって、読みにくおすのやろ」
倉田の妻は、横からのぞきこんだ。
「ふつう、変体仮名は、もっと案配よう散らして書きますんですけど。あら、おもしろおすなあ」
「何ですか」
「この、変体仮名の字、拾《ひら》いますとな、お誘いの文になりますの。あらァ、はつさんとおいいやしたなあ、お名前。ちょっと待っとくれやす」
あんた、何か書くもの持ったはらしまへん、と倉田からシャープペンシルを受けとり,文庫本の文字を、ところどころ丸くかこった。
「この、丸でかこったんが、こっちでは変体仮名で書かれとる字ィですの。最初の二三日《ふつかみか》内裏《うち》≠ニいうのと、参り給はで≠「うところは、こっちでは漢字をひらがなにして、変体仮名で書いてありますねんわ」
君は○ふ○つ○か みか、○う○ち○へ も○ま○ゐ○り○た○ま はで、この人をなつけ語らひ聞○え 給ふ。
その後、丸がこいのない部分がつづき、
いで君も書い給へとあれば、まだようは書かずとて見上げ給へるが、何心なく○う○つ○く○し げなれば、うちほほゑみて、よからねと、無下に書かぬこそわろけれ。教へ○き こえむかしと宣へば、うちそばみて書い給ふ手つき、筆とり給へる様の幼げなるも、らうたうのみ覚ゆれば、心ながらあやしと思す。書き損ひつと○は ぢて隠し給ふを、せめて見給へば、
かこ○つ べきゆゑを○し らねばおぼつかな いかなる草のゆかりなるらむ
と、いと若けれど、生ひさき見えて、ふくよかに書い給へり。故尼君のにぞ似たり○け る。今めかしき手本習はば、いとよう書い給ひてむ、と見給ふ。雛《ひひな》など、わざと屋ども作りつづけて、もろともに遊びつつ、こよなき物思のまぎらはしなり。
何か書きとめる紙はないかと、秋弘はポケットをさぐった。手にふれた紙片を出し、丸でかこまれた字を書きうつした。
『ふつかうちへまゐりたまえうつくしきはつしけ』
二日、うちへまゐりたまえ。美しきはつ。しけ。
「しけいうのがよけいどすけど、この手紙、まだもっと続いとったんやあらしまへん?」
倉田の妻が言うのに、
「いや、これでいいんです」
秋弘の声は、はずんだ。
しけは、しげにちがいない。山本茂太郎が、あらわれてきた。
はつが書いた手習いではなく、山本茂太郎が美しいはつにあてた隠し文であったのだ。
うちに来い、と日にちを指定するのに、こんなまわりくどい方法をとったのは、二人の関係が秘密のものだったからだ。はつは人妻だ。山本茂太郎は、その情人であったのだ。何日に、どこで逢おうと、密会の誘いだ。姦通罪が厳しく存在した時代である。おおっぴらに手紙を書くわけにはいかない。電話もかけられない。山本茂太郎とはつと、どちらかが書の先生だったのかも……。はつは奉公人あがりだというから、茂太郎の方だろうか。藤谷家の奥さまになったはつが、身分にふさわしい教養として山本茂太郎に書を習う。そのうちに、恋しあうようになる。人目がきびしい。恋文は、書の手本のなかに、隠し文としてしのばせた。これなら、だれに見られても安心だ。美しきはつ≠ゥ……。
恋の言葉をしのばせるのに、源氏物語はいかにもふさわしい。
不倫に対する世間の目の苛酷なほど厳しいなかで、二人は、源氏物語をなかだちに、逢いびきの日どりをきめたり、やさしい言葉をかわしあったりしていたのだろう。適当な文節を選んで言葉をかくすのも、一見源氏そのままの文章のなかから相手の恋の言葉を拾い出すのも、たのしい作業であったことだろう。しかし、秘める文章が多少ぎごちなくなるのは、やむを得まい。美しきはつどの、と、したいところを、どのは省略せざるを得なかった。
かわした手紙は、これ一通ということはあるまい。いつのときにか、はつはすべて処分してしまい、これ一つだけが、源氏物語のページのあいだにはさまれたまま、忘れられていた。あるいは、二日の逢いびきが、はつにとってはよほど心に残る大切なものであったため、これだけはかたみにとりおいたのだろうか。
山本茂太郎の手もとにも、はつからの隠し文がしまわれてあるのだろうかと、秋弘は思った。
4
「唯一の収穫が、これでした」
秋弘は、はつの遺品のなかから見出した巻紙を和正に渡した。昼休み、この前と同じ喫茶店である。
和正は、斜め読みのような早さで一通り目をとおし、すぐに折り畳んだ。
「あの……それ……」
「読んだのか?」
「ぼくは読めなかったんですが、読んでくれる人がいて。源氏物語の若紫だそうです」
「そうらしいな」
「そのなかに、驚いたことに、恋文がかくされているんです」
秋弘は言った。
そうか、と和正はうなずいただけであった。秋弘はいささか拍子抜けし、
「御存じだったんですか」
「いいや」
「どういうふうにして隠されているか、わかりますか」
「きみは、わかったのか」
「これも、教えてもらったんです。はつの甥にあたる人の奥さんに。ぼくには、とても」
「どんな恋文がかくされている?」
「わかりませんか?」
きみが読みといてみろ、というように和正は目でうながした。
「変体仮名だけ拾うんです。二日、うちへまゐりたまえ、うつくしきはつ、しげ≠ニ、こうなります」
「なるほど」
あまり感情をみせない声で、和正は短く言った。
「知っていたんですか」
「いや」
「ぼくは驚きました」
「ほかに、このたぐいのものはなかったのだね」
「これ一通でした。山本茂太郎という人については、これからしらべます。ただ、土日でないとぼくは時間がとれないので、日にちがかかりますが」
「いや、もう……いいだろう」
藤谷和正は、そう言った。
「これで、充分だ。そうか。美しきはつ、しげ……か」
自分の胸に打ちこむように言い、
「昔の姦通は、なかなか雅《みやび》やかだったのだな」
と、笑った。固い笑顔であった。秋弘は、尚子とのことを皮肉られているような気がした。
和正は、この隠し文の存在を知っていたのではないか。遠まわしに、尚子とのことを責める目的で、おれにこれを発見させたのではないか……と、秋弘は思った。
尚子から会社に電話がかかってきたのは、その翌日である。
「今夜、先生遅いの」
いつものところ。ね? と、くったくのない声で誘う。
和正さんは気がついているんじゃないのか、というようなこみいった話は、同僚の耳があるのでできない。
ためらってから、承知した。
ホテルY**は、山下公園に沿った海岸通りに面している。二階のティー・ルームからは、大桟橋と山下埠頭が海を抱きかかえる横浜港の眺望がひらける。
秋弘は、偽名でチェックインした。
宇治から帰京した翌々日の火曜日、退社後である。和正への報告は、昨日すませてある。
尚子と逢うのに、このホテルをすでに三度利用している。添乗明けの休日などに逢う。いつも、一泊はせずその日のうちにチェックアウトする。
フロントは、目の奥に皮肉な嗤《わら》いをかくして、前金をあずかった。ダブルの部屋をとるのだから利用目的はみえすいている。
わずか数時間の休憩に二万円近い宿泊料を払うのは、彼の懐には痛かった。はじめのうち三、四回は、型どおりラヴホテルを使った。尚子は、見るものすべて珍しがり、喜んだ。しかし、その刺激はすぐに薄れ、気分を変えようと、ふつうのホテルを利用したとき、尚子はたいそう気にいった様子をみせた。ラヴホテルの、二時間とかぎられた慌《あわただ》しさや、俗悪な仕掛けなどが、ほかの女とのときは、秋弘は気にならないが、尚子には少し痛々しい気がした。
部屋に行く前に、彼はティー・ルームに寄った。尚子はまだ来ていなかった。窓ぎわのシートに腰をおろし、キーをテーブルの上に置いた。732とルームナンバーを刻んだプラスティックのタッグを、数字を見やすいように置きなおした。
窓の外は暗く、氷川丸の灯が見えた。
尚子がほっそりした姿をみせたのは、十数分たってからであった。
彼のテーブルの脇を通りすぎるとき、すばやくルームナンバーを目におさめ、二つうしろのシートに腰をおろした。コーヒー、と注文する声を、彼は背後にきいた。
彼は、煙草を灰皿にねじりつけ、キーを握ってエレヴェーターにむかった。
明るいクリーム色の壁に、ヨットの浮かぶ海を描いたデュフィまがいの風景画。ダブルベッドをおおったカヴァーもクリーム色で、あまりにかろやかな舞台装置だ。
秋弘は服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。
バスタオルを躯に巻きつけバスルームを出たとき、時間をみはからったように、チャイムが鳴った。
細く開けたドアの隙間を、尚子は、するりとすりぬけて入ってきた。
コートをむしりとり、抱きすくめると、尚子は少し爪先立って彼の胸に顔を埋めた。
抱き上げて、ベッドの上に放り出した。手荒らなようだが、痛い思いをさせない気づかいはしている。上からおおいかぶさり、歯がぶつかりあうようなキスをした。待ちかねていた熱烈な恋人というふうにふるまうと、尚子はおもしろがり、喜ぶ。
行動が芝居がかっているからといって、気持をいつわっているわけではない。無邪気で他人に悪意があることを知らないような尚子を、いとおしくはあったのだ。
バスをつかってくるわ、と尚子は身もだえて彼の腕から逃げようとし、彼は強引に服を剥ぎとり、強姦ごっこのような時間がつづいた。
裸になると、尚子の躯は、あどけない顔だちが想像させるよりは成熟している。それでも年齢のわりに開花しきってはいない。年上の夫とどういう夜をすごしているのか、秋弘が教える性の遊びの一つ一つを、尚子は、驚いたりおもしろがったり、ときには恥ずかしがったりしながらおぼえた。
「あまり乱暴にしてはだめよ。赤ちゃんがいるんだから」
尚子は言った。
引き汐のように、欲望が薄れ去るのを秋弘は感じ、抱きすくめていた腕を解いて尚子の脇に寝そべった。
「乱暴にしないでって言っただけなのに。ねえ、どうしたの」
まるで子供だなと、秋弘は思う。妊娠を口にされてしらける男の気持がわからないのだ。そのくせ、情事は情事であるからこそ熱いのだとわきまえ、日常とアヴァンチュールを混同しない知恵は持っている。
「和正さんに気の毒だな」
「どうして」
尚子は、けげんそうに訊く。
「先生、喜んでいるのよ。子供ができたって」
「おれの子なんだろう」
「そうだけど、それは秘密なのよ」
「和正さんは、他人の子を育てさせられるわけだ」
「でも、半分はわたしの子供なんだもの。まるっきり他人てわけじゃないわ」
「めちゃめちゃだよ、尚ちゃんの論理は。尚ちゃんは、罪の意識ってないの」
「何が罪なの?」
尚子は、思いがけないことを言われたように、くるりとした目を彼にむけた。むずかしい問題をつきつけられた小学生のようだ。
「きっと、秋ちゃんに似たハンサムな男の子が生まれるわ」
「堕《お》ろしてほしいな」
「いやよ」
「おれは、子供はいやだ」
「秋ちゃんの子供と思ってくれなくていいのよ。わたしだけが、こっそりそう思っていればいいことなの」
「そうはいかないんだよ。おれは、おれの分身が世のなかにあらわれて、それがやがてまた子供を作って、というふうに、網の目みたいに血がつながってゆくのがいやなんだ」
「喜んでくれると思ったのに。かわいがって大事に育てるわ」
「やめてくれよ」
「秋ちゃんとはね、ときどきこうやって逢うけれど、一生ってわけにいかないと思うの。でも、子供はちがうわ」
「尚ちゃん、おれと逢いながら、いつもそんなふうに思っていたのか。逢わなくなる先のことまで考えていたの」
「はじめが、すばらしすぎたの。秋ちゃんとはじめてラヴホテルに行ったあと、わたし、いま死ねたらいいなと思ったわ。あんまり倖《しあわ》せだったから」
「いまは、おれと逢っても倖せじゃなくなった?」
「倖せよ。たのしいわ。でも、少しずつ二人とも変わるわ」
「尚ちゃんは妙な子だね。まるで子供みたいなくせに、男を知りつくした女みたいな口もきく」
「わたし、秋ちゃんに愛されるまで、躯の悦《よろこ》びって知らなかったの」
「どうして、和正さんのような年のはなれたひとと結婚したの」
「父に早く死に別れているから、わたし、ファーザーコンプレックスなのね」
「尚ちゃんはずるいよ。何もかも手にいれようとしている」
「それ、ずるいの? どうして? みんな、わたしには絶対必要なものなのに。父親みたいなあのひとも、暴《あら》いけものみたいな秋ちゃんも、そして秋ちゃんとわたしの赤ちゃんも、どれかひとつ欠けたら、わたし、倖せじゃなくなるわ。わたしが倖せでたのしい気分でいれば、先生も秋ちゃんも赤ちゃんも、みんなたのしいでしょ」
「めいっぱい、かってなこと言ってるよ。だが、尚ちゃんが言うと、こっちもそんな気分になるから不思議だ。……だけどさ、子供はやめようよ」
「やめようよって、そんな簡単にやめられない」
「尚ちゃんにとっては、和正さんもおれも必要であっても、もし、和正さんなりおれなりが、尚ちゃんを必要でなくなったらって、考えないの?」
「いや」と尚子は目を丸くした。
「そんな怖《こわ》いこと。わたしね、怖いことや考えてもしかたのないことは考えないことにしているの」
はつと山本茂太郎の情事を、秋弘は思い浮かべた。
純粋で、一途なものだったにちがいない。しかも、源氏物語の一節に恋文をしのばせる機智もある。美しきはつ、と男に呼ばせたはつは、若いころ、どれほど匂やかだったことか。
「何を考えているの?」
「昔の人の情事は、命がけだったんだろうな」
命がけ? と尚子はおかしがった。
「ねえ」
尚子は秋弘の脇の下に顔をもぐらせ、舌の先で小鳥のようにつつきながら、
「先生だって、わたしに内緒ごとしているのよ」
「女の人と?」
「そうじゃないの」
「何だい」
「何か秘密のものを持っているの。どうして秘密にしたがるのかわからないんだけれど」
「どんなもの」
「お習字のような紙」
「和紙」
「そう」
「墨で字が書いてあるの?」
「くねくねしたつづけ字で、全然読めないの。どうせ、わたし読めないんだから、隠すことないのにね」
昨日、和正にわたした山本茂太郎のかくし文のことだろう。尚子にも秘めなくてはならないものなのか、と思ったとき、
「最初の一行だけ、読めたわ」
冒頭は、ほとんど変体仮名で書かれている、あれが読みこなせるとは、たいしたものだ。秋弘は意外だった。
「くもかくれ、と書いてあったわ」
「え? 何だって」
「くもかくれ」
「くもかくれ? 何だい、それ」
きみは、ふつかみか≠ナはじまる、あの文書とはちがうものらしい。
「知らないわ。書斎に入っていったら、先生がその紙を読んでいたの。わたしがのぞきこもうとしたら、さっと折りたたんで、本のあいだにはさんで、かくしちゃったの。最初のくもかくれというところだけ、読めた。でもね、わたし、それは何ですかと先生を問いつめたりはしなかったわ。それぞれの内緒の部分は、そっとしておいた方がいいのよ。わたしと秋ちゃんのことだって、先生が気がつかないでそっとしておいてくれさえすれば、何もかもとてもうまくいくんだわ。わたし、先生のことだって大事にしているもの」
「子供はいやだ」
「どうして」
話はまたもとに戻る。
「それ、いつのことだい」
「それって?」
「くもかくれを見たのは」
「十日ぐらい前だったかな」
尚子は秋弘の耳をかるく噛んだ。
「秋ちゃん、阿蘇にわたしたちといっしょに行くんでしょ」
「ああ……」
気重く、吐息といっしょに秋弘はうなずいた。有給休暇をとってあった。
綾子や珠江の目の前で、しらをきりとおせる自信は乏しかった。秋弘は尚子を抱き寄せ、腕に力をこめた。
5
拝啓。
過日はお世話になりました。若紫の一節をうつし書いたものから、隠された恋文があらわれたことに驚きました。ついては、源氏物語に詳しい奥様に御教示いただきたいのですが、源氏の文のなかで、くもかくれ≠ナはじまる部分はないでしょうか。御多用中を恐縮ですが、御教示いただけるとありがたいです。
手紙を書くのは、秋弘には苦手である。たいがいのことは電話ですませている。
倉田の妻の名はきいてなかったので、宛名は倉田圭吉様とした。
尚子と逢った翌日、その簡単な文面の手紙を、彼は速達で投函した。
V
1
尚子は、秋弘の肩に頭をもたせかけた。
熊本行きANA645便の機内である。秋弘は、だめだ、と目で叱り、かるく押し戻した。十三時三〇分熊本空港着の予定である。
前の席に、珠江がひとり腰かけ、隣席は空いている。尚子の席は最初、珠江の隣りだったのだが、秋弘の隣りが空席と知り、尚子は途中でうつってきたのである。珠江のもう一つ前に、綾子と、典雄の婚約者貝沼碧が並んでいる。典雄は二日前から鹿児島に行っており、有明24号か22号で夕方までに着く。和正は、東京で所用をすませ、一便おそいTDA353便に乗る予定であった。
近々典雄と結納をかわす予定の貝沼碧は、苦労知らずに育ったことが長所になっている、くったくのない娘であった。綾子といっしょにいても、窮屈ではないようで、のびのびとふるまい、それでいて礼を失しない態度であった。たのしそうな会話が、二人のあいだではずんでいた。
仕事がいそがしくて有給休暇をとれないと、ことわることもできたのだ……と、秋弘は思う。しかし、ことわることが、そのまま、うしろめたさを告白することになるような気もした。試されている、と感じるのは、思いすごしだろうか。
定刻どおり、機は到着した。
綾子の手荷物をひきとって運ぶのは、秋弘にまかされた。尚子も番号札を秋弘に渡して手ぶらで外に出ようとし、
「尚ちゃん、秋弘さんに何もかも押しつけてはだめよ。碧さんを見習いなさいよ」
と珠江にたしなめられた。
「でも、わたし、いま重いものを持ってはいけないんでしょう」
「大丈夫よ、バッグの一つぐらい」
珠江はかるく言う。
「本当に大丈夫?」
「ぼくがはこびます。先に出ていてください」
秋弘は言った。
「酷使されるわね。団体の添乗より大変なんじゃないの」
動き出したコンベアーの前で荷物がはこばれてくるのを待ちながら、珠江はねぎらった。
到着ロビーに出ると、ホテルの従業員が二人、出迎えに出ていた。一人は綱男であった。
綱男が出迎え役だろうと予想していたし、綱男の方でも秋弘が同行することは予約の段階で承知しているから、互いに驚きはしなかった。
二台の車に分乗することになり、尚子は秋弘の手をとっていっしょに乗ろうとし、
「尚子さんは、こっちにいらっしゃい」
綾子に命じられた。
綱男の車に綾子と尚子、碧が乗り、もう一台に珠江と秋弘という組み合わせになった。
国道57号を東にむかう。行手に、阿蘇の大カルデラをとりまく外輪の連山が、山頂を霧に没していた。
「あいにく、霧が出ていまして」
若い従業員は恐縮したように言う。
「あなたのせいじゃないわ」
珠江の声が笑いを含む。
「これでは、山上に登っても、火口は見えないかもしれません」
「それは残念ね。綾子叔母と典雄さんはホテルのオープニングのとき見物しているけれど、わたしは阿蘇ははじめてだから」
「阿蘇山と一般にいいますが、実は、阿蘇という山はないんです。外輪山は周囲一二八キロメートル、南北約二四キロメートル、東西約一八キロメートルありまして、およそ二万五千の人々が生活をいとなんでいます。今通っているのが立野というところですが、ここが外輪の連山の切れめで、ここから内部の大カルデラ地帯に入ります。野焼きのあと、牛馬が放牧されるこの広大な草原が、太古は水をたたえた一大火口湖であったわけです」
サービスのつもりだろう、若い従業員は、運転しながら、たえまなく、ガイド口調で喋《しやべ》りつづける。
「カルデラの中央に、二度めの噴火によってできた五つの山は、こちらからですと重なりあって全部は見えませんが、東から、根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳、と呼ばれています。目下活動して噴煙をあげているのは、中岳です。春先はガスが多くて、今日も山容がよく見えませんが」
あいづちを打っていた珠江は、次第に黙りこみ、
「ちょっと、停めてくださる」
声をかけた。
車をはしに寄せて停めると、珠江は身をかがめて外に出、しばらくうずくまっていた。
口にあてていたハンカチを道のはしに捨て、席に戻った。
「吐いてしまったら楽になったわ。出発してちょうだい。車に弱い方ではないんだけど、ここのところ、手術や夜の出産が多くて、過労だったのね」
従業員は、自分の責任のように恐縮した。
山襞《やまひだ》から湧き出すようにみえる霧は、五岳の山頂をかくし、裾の方に団塊をつくって流れた。霧のあいまにのぞく山肌は、ほとんど一面、黄褐色の枯れ草におおわれていた。
国道に沿った裾野も、枯れ草の原であった。
「野焼きがすむと、青い新芽がのびてきます。そうすると牛馬を放すんですが」
道にほぼ平行して、豊肥《ほうひ》本線の線路がつづく。単線である。空港から約三十分、無人の小さい駅『赤水』のあたりから左に道をとると、稲の刈りあとが連なる田圃《たんぼ》がつづく。
山を背に、二軒のホテルが距離をおいて並んでいた。白亜の瀟洒《しようしや》な建物が、歴史の古い白雲山荘であり、赤い化粧煉瓦の四階建てが、新築のウィスタリア阿蘇であった。
玄関に、ホテルの社長が出迎えていた。
「後ほど、あらためてお部屋の方に御挨拶に出ます。まず、おくつろぎください。剣持くん、御案内を」
「お申し越しのとおり、スィートを三つとその隣りのツインを二つとってございます。スィートは各階東南の角に一つずつですので、一つの階に並んではおとりできませんのですが」
「ええ、知っています。オープニングのとき、建物の図面もいただいたから」
秋弘は、ポケットから手帳を出した。前もって、部屋割りは、相談して決めてあった。
「スィートの417号室に会長さんと貝沼碧さん、317号に和正さんと尚子さん御夫妻、217に副社長。ツインの216号に吉川先生、416号にぼく、こういう部屋割りになっています」
「わかりました。後ほど、副社長さまと和正さまがおみえになりましたら、そのように御案内いたします。では、どうぞ」
従業員が一人、荷物はこびを手伝い、エレヴェーターにむかう。ホテルといっても、観光地のことだから、日本風の旅館と混合したスタイルである。天候がおもわしくないので火口見物をあきらめたらしい客が、浴衣の上に丹前を羽織りスリッパをつっかけて、売店のあたりをぶらぶらしている。ジーンズにトレーナーの若い男女もみられた。
「あとでゆっくり」と、秋弘は部屋のキーを受けとりながら綱男にささやいた。
スィートは、十畳の和室とツインベッドをおいた十五畳の洋室の二間つづきである。典雄は二階なのに、碧を四階の綾子の部屋に同室させたのは、綾子の意向であった。婚約したも同然といっても、結婚前のお嬢さんなのだからと、綾子は、けじめをつけさせた。碧はべつに不服そうでもなかった。
添乗員の部屋は、ふつうは裏の方の粗末なシングルである。今回は、珠江と同じ待遇の、ツインのシングルユースだから、ずいぶん快適であった。もっとも、綾子の方で払ってくれるのは旅費と宿泊費だけで、その他に日当が支給されるわけではない。半ばは客として招待されたような、中途半端な扱いであった。招待にしては人づかいが荒すぎる。親類の青年というよりは、目下の若い平社員を随行させたような按配であった。
荷物を部屋におき、秋弘は隣室に電話をかけた。綾子にこのあとの予定をたずねるつもりであった。
「車を運転してくれた剣持という人が、あなたのゼミの友人なのね」
「そうです。剣持からおききになりましたか」
「ええ。何かききおぼえのある苗字なので、考えたら、あなたがこのあいだ典雄に言っていたわね、剣持ミキ……といったかしら、そのひとの兄さんなんですってね」
「はい、そうです」
綾子が黙ったので、秋弘はつづけた。
「夕食まで時間がありますが、外にお出になりますか」
「火口見物は一度でたくさんだし、この霧ではどうせ何も見えないでしょうから、わたしは部屋でゆっくり休むわ。夕食は、わたしの部屋で六時半。それまで自由にしていてちょうだい」
つづいて、珠江に電話すると、珠江も、疲れているから部屋で休むという。
受話器をおいて一息いれたとき、ベルが鳴った。尚子の部屋からであった。
「おかあさまも珠江さんも、どこへも出ないというのよ。退屈だわ。わたしの部屋に来てよ」
「だめだよ」
「つまらない」
「人目につくようなことをしてはいけないよ。退屈だったら、剣持にたのんで、碧さんといっしょに車で外に出たらいい」
「わたし、碧さん、あまり好きじゃない」
「どうして。感じのいいひとじゃないか」
「話しがあわないの。わたし、秋ちゃんと二人だけがいい」
「だめだよ。おれもくたびれたから、温泉に入って昼寝する」
躯《からだ》は疲れていないけれど、気疲れしている。綾子の意に沿うように気をくばるのは、たいした心労ではない。綾子は、ひどく気むずかしいわけではなかった。無邪気すぎる尚子の甘えを、綾子や珠江の目からかくすのに、くたびれたのだ。碧にしても、敏感に何か感づいたかもしれない。
「おじいさんみたい」
宿の浴衣に着かえ、タオルを持って秋弘は廊下に出た。風呂は部屋にもついているが、せっかく温泉に来たのだから、大浴場の方が気分がいい。
エレヴェーターで一階に下りる。宴会用の大広間の前を通って、長い廊下の突き当たりの階段を下りた。
昼間なので、ほかに浴客はいなかった。広々とした浴槽に、ゆったりと躯をのばした。
窓から見わたせる阿蘇五岳の半ばをかくす霧をながめながら、くもかくれ≠ニいう言葉を思い出していた。
出発までに、倉田の妻からの返事はとどいていなかった。
部屋に戻る前に、綱男が手がすいていたら、ビールでも……いや、むこうはまだ勤務時間中だから、珈琲か……。
フロントに行き、剣持さんが手すきだったら呼んでくれないかとたのんだ。フロント係は裏の事務室をのぞき、
「いま、ちょっとおりませんが、急な御用でしたら、館内放送で呼びますが」
「いや、けっこうです。暇なとき、ぼくに声をかけるよう伝えてくれませんか。416号室の藤谷秋弘です」
「藤谷さまですね。かしこまりました」
「藤谷は、今日は何人も泊まっているから、秋弘と名を言ってください」
ことづてて、部屋に戻った。
ベッドに寝ころがって漫然とテレビを見ていると、電話が鳴った。綱男からかなと思いながら、送受器をとった。
「秋ちゃん」
若い女の声であった。
「わたし、だれだかわかる?」
「ミキ……」
「声、忘れていなかったのね」
「どこからかけているんだ。海外に出たとか……」
「どこからだと思う?」
「国際電話か」
ミキの声は、笑った。
国際電話なら、交換手が何とかいうはずだ。
「秋ちゃんの、すぐ傍にいるわ」
「え!」
電話はすぐに切れたが、ミキの笑い声が耳に残った。快い笑い声ではなかった。
秋弘はフロントのダイヤルをまわした。
「剣持くんには、まだ連絡がつきませんか」
「事務所にはまだ戻っていないのですが」
「剣持くんの妹が、ここに泊まっていますか」
「剣持の妹ですか。さあ、きいておりませんが」
秋ちゃんのすぐ傍にいるわ、とミキは言った。しかし、ここに来ているのなら、高い宿泊費を払ってホテルに泊まったりはせず、兄のところに滞在するだろうと気がついた。それでも念のため、宿泊者名簿に剣持ミキの名はないか、たずねた。
「しらべますから、一度切ってお待ちください」
ほどなくフロントから、そういう方は泊まっていない、と返事があった。
「剣持くんを呼び出して、ぼくの部屋に至急来るよう、伝えてください」
「おいそぎですか」
「いそぎます」
剣持の名を呼ぶ館内放送が、少ししてきこえた。
ほどなく、綱男が部屋を訪れてきた。
「どうしたんだ。やけにせかせて。手がすいたら、来るつもりではいたんだぜ」
「ミキは、おまえのところに泊まっているのか」
わざと、ぶつけるように訊《き》いた。
「ミキが?」
何のことかわからないように、綱男は訊きかえした。
「ミキが、こっちに来ているのか」
「いま、ミキからおれの部屋に電話がかかってきた」
「ミキから? 何の用で」
「用件はべつに言わなかった。おれのすぐ傍にいると、それだけ言って、切れた」
「すぐ傍といっても、このホテルのなかという意味ではないだろう」
綱男は言った。
「ミキがこっちに来たのなら、おれに連絡しないはずがない」
「典雄が、今夜、ここに泊まる」
秋弘は言った。
「知っている。217号室だ。まだ見えてないだろう」
「ミキは典雄に敵意を持っている。――殺意といった方がいいかもしれない。ミキが、典雄に何か報復を企てたら、おまえは、協力するか。とめるか」
「とめるよ。ばかなまねは、よせ、と言う」
「おまえに話せばとめられる、と思って、おまえには内密で、偽名をつかってチェックインしたかもしれない」
綱男は黙りこんだ。やがて、
「しかし、ミキがどうして、おまえや副社長が今夜ここに泊まることを知ったのか……」
「おまえが教えたんじゃないのか」
綱男は、むっとした顔をみせた。
「ミキは、海の上にいるはずなんだ」
どちらも無言のまま、時がたった。
「名簿《カード》をしらべてみる」
ようやく、綱男は、秋弘が望んでいることを口にした。
「おれもいっしょに……」
「いや、カードは、他人に見せることを禁じられている。郵便局が信書の秘密を守るのと同じだ。例外は、警察から、犯罪捜査のため要請されたときだけだ」
秋弘も、職業柄、それは承知している。友人ということで、規則を曲げてくれるかと思ったのだ。
綱男は出ていった。
秋弘はキャスターをたてつづけに喫《す》い、からになった函をねじり捨てた。綱男がもどってきた。数字をしるしたメモを手にしていた。
「今夜は、野焼き見物の客が多いので、予約は満杯だ。五八二人入るはずだが、まだチェックインしてない客が多い。団体が三つ入ることになっているが、まだ到着していない。昨日からつづけて宿泊している客が六十七人、これは団体はなくて、全部個人客だ。今日チェックインした客は、おたくの五人をふくめて十三人。まだチェックイン・タイムには早い。昨日からの六十七人と、今日チェックインの十三人、あわせて八十人のうち、二十から二十五までの若い女性は、二十八人。そのうち、十八人が新婚さんだ。残り十人のうち、四人は一つのグループ。二人ずつが三組。つまり、若い女が単独でチェックインしたものはいない」
「本当か」
と、秋弘は念を押した。
「本当だ」
「二人ずつ三組というのは、どの部屋だ」
「どうして」
「ミキが、連れといっしょにチェックインしたかもしれない」
「偽名でか」
「そうだ」
「偽名を使い、おれにも内緒で泊まるということは、つまり……副社長に何か企んでいると……そう、おまえも心配しているわけだろう」
「そうだ」
「だったら、単独行動をとるだろう」
「それは何ともいえない。信頼できる友人に協力をたのむかもしれない。部屋はどこだ。名前は?」
「おまえがしらべまわるのは、やめてくれ」
「どうして」
「おまえだって、わかっているだろう。関係ないお客に不愉快な思いをさせたら、ホテルの落度になる」
「わかった。それじゃ、おまえにまかせる。今日の予約客がどっと入りこんで混み出さないうちに、しらべてくれ」
「おまえに言われなくても……。ミキは、おれの妹だ」
「ミキがぶっそうなことを企んでいたら、必ず、とめるか」
「ぶっそうなことというがな、おれは、副社長を……」
綱男は、あとの言葉をのみこんだ。
六時少し前に和正が、それより十数分おくれて典雄が、それぞれ到着し、予定どおり、綾子の部屋で六時半から、七人顔を揃えての夕食となった。
野焼きは昼間からはじまっている。広大な阿蘇の山肌を焼きつくすのだから、村民総出の大がかりな行事となる。昼は、立ちのぼる煙は霧にまぎれ、炎もほとんど目につかなかったが、陽が落ちると、霧もはれ巨大な火竜が山を這うさまが顕《あら》われた。
樹林に火がうつるのを防ぐために、焼くべき地域の周囲の草を幅広く刈りとり、トラクターで土を起こし、あらかじめ防火線をつくる。火入れは、まず、高所の風下にあたる場所から慎重にはじめられる。防火線沿いに、火をつけた萱束を引いてゆく。燃え進むためには、風の力にさからわねばならないので、最初、火の動きはゆるやかである。焼き場のひろがりぐあいを見ながら、少し離れた風上側に、二番火、三番火と火を引く。焼き場が五十メートル以上ひろがり、安全性がたしかめられたところで、いよいよ、遠く離れた風上に点火する。
火は奔流となる。枯れ野を舐《な》め、風下へと走る。
杉の青葉をたばねた火断棒《ひだちぼう》を手にした人々が、飛び火しそうな箇所を打ち叩いて消す。
そのような人々の動きは、ホテルの窓からは目に入らない。凄まじい燃焼音、芒《すすき》がはじける音も、とどかない。
しかし、秋弘は、奔《はし》る火の発する轟音を聴く思いがした。火の奔った跡に、闇はいっそう濃くなる。闇の幕を背後に曳きながら、火の隊列ははげしく進む。
しばらくのあいだ、尚子でさえ無言であった。
しかし、どれほど驚嘆に価する光景も、やがて狎《な》れ、力を失ないはじめる。
秋弘は、注意が炎からそれ、
――ミキは来ていないと剣持は言った……と、思いかえしていた。
若い女性二人のペア三組のうち、ホテルに残っていてすぐに確認できたのは一組だけだった。剣持綱男はフロントに立って、残りの二組がホテルに戻ってくるのを待ち、顔をたしかめた。ミキはいなかった、と綱男は秋弘に告げた……。
あぐらをかいた腿の上に、指がやわらかく動いていた。炎と酒が、もともと稀薄な尚子の自制心を溶かしつくしてしまったのだろう。ひそかな動きは坐卓のかげにかくれていたけれど、上半身さえ、ともすれば彼にもたれかかりそうになる。
用心して、並んだ席には坐らなかったのだ。いつのまにか、尚子は、彼の隣りに席をうつしていた。
綾子の視線を、秋弘は感じた。
その綾子には、和正が、ゆきとどいたやさしい眼をたえず注いでいるように、秋弘には思えた。
2
食事のあと、秋弘はひとりでバーに行った。カラオケがいささか騒々しかったが、ほっとくつろいだ。カウンターで水割りを飲んでいると、足音が近づき、
「ここにいたのか」
小さな声で呼びかけたのは、剣持綱男であった。
「探していた。部屋に電話したが、いなかったので」
「手があいたのか」
「ああ。おたくの部屋に行ってもかまわないか。ここでは……」
「よし。戻ろう」
秋弘の部屋に入るなり、綱男は、
「ミキから、そっちに何か連絡は?」
と、訊いた。声が切迫していた。
「どうした。ミキに会ったのか」
秋弘は、ききかえした。
「電話があったんだ」
「いつ。どこにいるんだ、ミキは」
「七時半ごろだった。居場所は言わなかった」
「それで、何を話した」
「それが……」
「言ってくれ」
「秋、ミキから、もしおまえに電話があったら、会ってやってくれ。ばかなまねはするなと言ってくれ。抱きとめてやってくれ。あいつは、デスペレートになっている。おまえを責めるつもりはない、あいつが自棄になった最初のつまずきが」
「おれだと」
「いや、そうは言わない。言うつもりはない。だが……」
「ミキは、何か本気でやるつもりなのか」
「典雄に徹底的にいやがらせをすると、おれに言ったんだ」
「しかし、ミキは、自分の気持に決着をつけようと、海外に出るつもりになったんだろう」
「そうだ。その寸前まで、典雄は、結婚は煮えきらないくせに、手を切るのは承知しないというふうで、甘いことを言いつづけていた。ミキはひきずられる自分がいやになり、逢おうにも逢えないところに行ってしまえば、気持にけりがつくと、海外に行けたらと思った。この辺のことは、前に話したな」
「ああ、それで、とび出したときいた」
「おれも、そう思っていた。その、仕事がらみの海外行きのことなんだが……さっきの電話で、ミキは、はじめておれに話した。
一週間やそこらの団体旅行ならともかく、単独で長期間となったら、かねがかかる。たまたま、うまい求人を知った。アシスタントを求めている。条件は、カメラが扱え、一年ぐらい海外に出られる人というのだ。まるで、自分を呼んでいるみたいだ、とミキはとびついた。求人主に事務所のようなところで面会した。相手は四十ぐらいの誠実そうなスポーツマンタイプの男で、小学生の息子とヨットで太平洋横断を計画している、成功したら、その体験記を写真入りで出版するというのだ」
「ヨットの太平洋横断なんて、今さら珍しくもないだろう」
「小学生の子供といっしょというのが、セールスポイントなんだな。男は、そんな功利的な言いかたはしなかったようだが。現代は、子供が無気力に、小粒になっている。父親も権威が失墜している。父と息子が力をあわせ、命の危険も共に乗り越え、一つの目的をやりとげる、つまり、太平洋横断は、そのための手段であって、眼目は、新しいスパルタ教育、父親の愛と力の発揮、その記録だというんだ」
「そのために、カメラマンを?」
「そうだ」
「ミキは、面接して、採用されたのか」
「すぐにOKはでなかった。むこうの条件というのがな、費用を分担しろというのだ」
「何だって?」
「出版すれば必ず大ベストセラーになる。カメラマンも一躍名が出る。出版による利益は折半する」
「だから、まず、出資しろ、か。詐欺だろう、それは。第一、そういう仕事に参加するカメラマンに、見ず知らずの女の子なんか、やとうわけがない。少くとも、力仕事の助けにもなる屈強《くつきよう》な若い男を選ぶだろう。男と若い女がヨットで……」
「おれたちなら、すぐ、怪しいと気がつくさ。ところが、ミキは……」
「ひっかかった?」
「かねを工面して、渡したんだそうだ」
「ばかな……」
「あいつ、頭が悪いわけではないんだが、馬車馬だ。一つのことを思いつめると、がむしゃらに、まっしぐらだ」
「かねをどうやって工面したんだ」
「知らない」
「親父さんが出したのか」
「いいや、親父にもおふくろにも、くわしいことはミキは何も話していないのだから。かねの話も、親父たちにはもちだしていない。友人知人から借り集めでもしたのか……。もちろん、かねを受けとって、男は消えた」
「警察には訴えたのか」
「いいや、ミキは、打ちひしがれてしまった。つっぱっているだけに、折れるとなると、がくっと折れる。気が弱って、典雄に連絡してしまったんだそうだ。もう一度会ってくれと」
「ミキにしてはずいぶん……」
「情けない話だ。だが、縋《すが》りつきたい気持になっていたんだろう。そのとき、典雄にずっと以前から結婚を前提につきあっている女性がいることを知らされた。今日、いっしょに来ている、貝沼碧さんだな。いかにも、いいところのお嬢さんだ。典雄は、一方で碧さんとの交際を深めながら、ミキにも結婚を約束して、つなぎとめていた。ミキは、碧さんのことは、知らされていなかった。
ミキが詐欺にあい、弱りこんで、もう一度力になってくれと、強情なあいつにしては不覚な弱みをみせたとき、典雄は、はねつけた上で――まあ、はねつけるのはいいとしても――かねがめあてなのだろう、というような、ミキにしてみれば何より心外な、侮辱的な言葉を吐いた。海外行きの費用も、典雄にだけは、たよらなかったのだ。ミキは、どうしようもないばかだが、プライドだけは高い」
やりきれなさとやさしさが、綱男の声音に滲んだ。
――殺してやる……。
声がよみがえった。
「ミキは、いやがらせをすると言ったのか。まさか、殺すとは……」
「そこまでぶっそうなことは言わなかったが……結婚をぶちこわすつもりじゃないか。ぶちこわしたところで、しかたないのに……。思いとどまらせようとしたが、話しの途中で、ぷつっと切れた」
「ミキは、おまえの住まいの鍵は持っているのか」
「社宅の鍵か。いいや。おれがこっちへ来てから一度も会っていない。それでも、念のために、おれも部屋をしらべてきた。ミキが来た形跡はなかった。おれの部屋から電話をかけたわけではないようだ」
「おれへの電話では、傍にいる、と言ったんだが」
「白雲山荘の方に泊まっているということも考えられるな。近いところといったら、あそこだけだ。まわりは田圃だ」
「宿泊者をしらべられるか」
「カードはみせてくれないだろうが、親しい従業員から、ある程度はきき出せる。偽名で泊まっているだろうが」
「ここに、偽名で泊まっていることは、ないんだな」
「おれがしらべたかぎりでは」
二人はしばらく黙りこんだ。
「ところで、話はちがうが」
と、綱男が、
「尚子という若い奥さんな、おまえにずいぶん、なれなれしいな」
「目についたか」
「目についたというより、目にあまるといいたいほどだった。ひとごとながら、気をもんだ」
「子供なんだ、年のわりに」
「まだ、厄介なことになってはいないんだろう。露骨に言えば、躯の関係まではいっていないんだろう」
「どうして」
「どうして、とききかえすところをみると、いっちまってるのか。ふつう、岡惚れのあいだはぺたぺたしても、関係を持つようになったら、人前ではかえって、そっけなくするものだがな。不倫の関係であれば」
よけいなことを訊いたかな、と綱男は言った。
3
一夜が過ぎた。ミキからは何の音沙汰もない。
電話のベルで起こされた。綱男からかと思ったが、
「ぼくだが」
声は和正であった。
窓をおおう厚いカーテンのむこうが明るんでいた。
「お早うございます」
「尚子は、そこにいるのか」
和正の声は、烈しくはなかった。むしろ、沈鬱にきこえた。
「いいえ」
「それならいいのだが……。もし、そこにいるのなら、騒ぎにならないうちに、そっと戻ってくるように」
まるで、二人の関係を知り、認めているような口ぶりであった。
「本当に、おられませんよ。どうぞ、来て、見てください」
「そこにいないとなると……」
「尚子さんが、どうかしたんですか」
「ゆうべ、そっちには行かなかったか」
「いいえ」
「そうか……。それなら、いい」
「待ってください。尚子さんが部屋にいないんですか。朝風呂に入りにいってるんじゃありませんか」
早朝の大浴場は、ことさらすがすがしい。湯の香りさえ、さわやかににおいたつ。相客もほとんどいないだろう。
「珠江さんに行ってもらった。大浴場にはいなかった」
「外に散歩に出たとか……」
時計を見た。七時五〇分。朝食は、食堂でめいめいとることになっている。食堂の朝食時間は、七時から九時である。
「食堂には?」
「そっちは、ぼくがみてきた」
「いなかったんですか」
「いなかった」
「それじゃ、きっと散歩ですよ。何時ごろから、いないんですか」
「六時半ごろ目がさめて、いないのに気がついた。それから少しとろとろして、さっき起きたら、戻ってきていない。一時間以上たつ。ぼくは枕がかわると眠れないたちなので、旅行のときは軽い睡眠剤を服《の》む。そのため熟睡していて、いつ出ていったのか、まるでわからなかった」
ノックの音がした。
「だれか来たようなので、一度切ります」
「尚子だったら、すぐ、連絡してくれ」
「はい」
ドアを開けると、珠江が立っていた。唇に指をあてた。入りこんで、ドアをうしろ手に閉めた。薄手のウールのワンピースに着かえているが、顔は化粧を落としたままだ。白粉も紅もない顔が、秋弘の眼には、どきっとするほど新鮮にうつった。素肌はなめらかで、眉がいつもより淡く、顔立ちをやわらかくしていた。
起きぬけの秋弘は、髪も乱れ、浴衣の前はだらしなくはだけている。珠江は、いっこう気にとめないふうだった。
「尚子さん、来ていない?」
声はきびしい。
「いま、和正さんからも電話できかれた。いませんよ」
「失礼だけど、探させていただくわ」
ワードローブの扉を開き、浴室、トイレ、と覗《のぞ》けば、他にかくれるような場所はない。ベッドの下は、人のもぐりこめる余地はなかった。
「いないわね」
非礼を強く咎《とが》められない弱みがある。
「散歩に行ったんじゃありませんか」
「そうだといいんだけど……。あなた、尚ちゃんが朝の散歩をひとりでたのしむようなタイプだと思う?」
「ぼくにはわかりません」
「碧さんならね、そういうことも考えられるわ。もっとも、彼女はまだ、この隣りの部屋に綾子叔母といっしょにいるようだけれど。尚ちゃんは、散歩そのものより、だれかといっしょに歩く、ということの方が好きなのよ」
「尚子さんが……いなくなったんですか」
「大きな声を出さないでね。このホテルの壁、防音は大丈夫と思うけれど、碧さんには聴かれたくない話だから」
和正も、珠江も、尚子がおれのところにいるのが当然とみなしている……。
「尚ちゃんは、あまりにあけっぴろげですもの」
彼の心を見ぬいたように、珠江はつづけた。
「あまりに無邪気にあけっぴろげだから、かえって、やましいところはないのだろうと、わたしなんか思ってしまったくらいだけれど、ゆうべ、食事のとき、尚ちゃんはお酒がまわっていっそう無防備になっていたんでしょうね、あなたの食べている皿から、口をつけた食物をとったり、自分の嫌いなものをあなたの皿にうつしたり、中学生や高校生ならいざ知らず、大人の男と女がそういうことをするのは、かげの関係を疑われてもしかたがないわね」
秋弘は目を伏せ、無言でいるほかはない。
「ゆうべ、綾子叔母は、だいぶ厳しいことを尚ちゃんに言ったようなの。碧さんの耳にはいれたくないので、典雄さんがティー・ルームで碧さんの相手をし、叔母は和正さんと尚ちゃんの部屋にいったの。はしたないと叔母に叱られて、尚ちゃんは、すなおにあやまってしまえばいいものを、理屈にもならない口答えをしたので、おさまりがつかなくなってしまったらしいのよ」
自分がたのしければ、周囲の者もたのしいのだから、いいことなのだ、と、あの、他人には通用しない子供じみたことを言いはったのだろうか。
「秋弘さんとは、とても気のあう友だちだ、友だちと仲好くして、なぜいけないのですか、と言い返したんですって。実際のところ、あなたと尚ちゃん、どういうふうになっているの」
「話をしていると、たのしいです」
「それだけ?」
「ええ」
と秋弘は言いきった。尚子はしらをきりとおしたようだ。
ばかなまねをしたのでなければいいけれど……と、珠江は吐息といっしょに言い、その思いあまったような口調が、秋弘をぎくっとさせた。
反射的に、底にマグマをたたえ、噴煙を上げる火口が眼裏に浮かんだ。しかし、尚子がどれほど傷心しようと、ひとりで火口に身を投じることは、ありそうにない。まず、秋弘の部屋に泣きにくるのではないか。綾子や和正も、そう考えたからこそ、彼に詰問したのだろう。尚子が絶望するとしたら、和正に離婚を言いわたされ、秋弘からも冷たく追い払われ、ひとりになった、と感じたときだろう。それでもまだ、頼りすがる相手をどこかにみつけ出そうとするのではないか。
だが、現実に、尚子は彼のもとにあらわれていない。
もっとも、秋弘の部屋は、綾子の部屋の隣りである。来たくても来れなかった。あるいは、しのんできて、ドアを叩いたかもしれない。大きな音はたてられない。綾子が目をさます。二度、三度、かるくノックする。秋弘はめざめない。尚子は、身のおきどころのない気持になり……。
「時刻表あって?」
珠江は言った。
「ありますが……」
「熊本空港から東京へ行く便の時刻をしらべてちょうだい」
小型の時刻表は、商売柄、いつも携帯している。
「第一便が、全日空642、熊本発九時三〇分です。次は、TDA350、十二時二十五分」
「乗るとしたら、その九時三〇分のだわね」
「尚子さんが、ひとりで東京へ?」
「そんなことじゃないかしら。叱られたもので、ぷいととび出してしまって。空港に電話して、尚子ちゃんが搭乗券を買ったかどうか……。いえ、まだ空港には着いていないかしら」
「その前に、タクシーをしらべた方が」
足がなくては、ホテルから空港まで行けはしない。
「ああ、そうだった。でも……ホテルの人に、尚子ちゃんがいなくなったことを、和正さんも典雄さんも綾子叔母も、知られたくないだろうと思うわ。口の固い人を選ばなくては。おかねで口止めできるかしら」
「ぼくの友人がいます。彼なら」
「剣持という人ね。でも、その人は、剣持ミキの兄さんなんでしょう」
剣持ミキが一時典雄と関係があったこと、いまは海の上にいるはずだ、ということは珠江につたえてあった。だから、殺してやる、という電話は、声は似ていたけれどミキではあるまい、というふうに秋弘は話したのだった。ゆうべミキから、この近くにいると電話があったことや、綱男から知らされた、ミキが詐欺にあい、海外ゆきは実現しなかったこと、典雄に徹底的にいやがらせをすると宣言したことなどは、まだ珠江には告げてない。それでも珠江は、ミキが典雄に悪感情を持っていることは察しがついているようで、
「いくら秋弘さんの友人でも、典雄さんの味方になってくれるかしら。スキャンダルが公になるのは困る、ことに碧さんには知られたくないという弱みが、典雄さんにはあるのよ」
「大丈夫だと思います。実は……」
と、秋弘は、ゆうべのことを打ち明けた。
「ミキというひとは、そこまで典雄さんを……。それでは、剣持さんにたのむどころじゃないわ。ひょっとして、ミキという女が尚子さんを……」
珠江に言われて、秋弘も、その可能性に思いあたった。
「誘拐した、とでも?」
「まさか、と思うけれど」
「でも、尚子さんを誘拐したところで、典雄さんに直接打撃を与えることにはならない」
「尚子さんのスキャンダルが公になれば、典雄さんの、貝沼碧さんとのおはなしは、こわれるわ。碧さんは、そんなことは気にしなくても、御両親が承知しないわ。銀行マンはスキャンダルは敏感に嫌うもの。碧さんにしても、どんな障害を乗り越えてもというほど、典雄さんに夢中になっているわけでもなさそうよ」
「貝沼さんとの話をこわすためなら、ミキが自分のことを碧さんに告げればすむでしょう」
「そのくらいでは、信憑性《しんぴようせい》が薄いわ。ミキが一方的に典雄さんを想い、ふられたから、その怨みで、というふうに典雄さんは言いくるめることもできる。でも、誘拐事件を起こし十分に世間を騒がしておいて、それから、自分が典雄さんにだまされたからだと、犯行の動機を発表すれば、典雄さんの受けるダメージは、大きいわ。女性週刊誌なんかが、たっぷり書きたててくれるでしょう」
「それなら、いっそ、碧さんを誘拐した方が」
「むずかしい――というより、まず不可能じゃない、碧さんを誘拐するなんて。強力なパートナーでもいなければ。尚ちゃんなら……、ミキが、典雄さんの――つまり、こちら側全員の動静をみはっていたとするわ。深夜、綾子叔母に厳しく叱られて、泣きながら廊下をふらふら歩いている尚ちゃんをミキがみたとしたら、声をかけて誘い出すのは、少くとも、碧さんを誘い出すよりは、ずっとたやすいと思うわ。……もちろん、誘拐だなんて決めているわけではないのよ。そういう恐れもあるということだけれど」
「でしたら、剣持の協力は得やすいと思います」
秋弘は言った。
「剣持にしても、妹にそんな犯行はおかさせたくない、事を内密に解決させたいと思うにちがいありません」
「ミキの犯行に兄さんが陰で手を貸しているということは」
「それは、絶対ありません。共犯なら、ぼくにミキからの電話の内容を話すはずがない」
「それはそうね」
「剣持はまだ出勤していないかもしれませんが、一応、フロントに行ってみます。いなかったら、住まいの方に連絡します」
「わたしは、和正さんや典雄さんに、話しておくわ。当事者を抜きにして、わたしとあなたとで勝手に事をはこぶわけにはいかないから」
珠江は電話に手をのばした。
4
「剣持は、まだ出てきておりませんが」
フロントは言った。
「連絡はつきますか」
秋弘は活動的な服装に着かえていた。
「何か急な御用ですか」
「ええ、ちょっと」
「すぐ呼び出します。少々お待ちください」
フロントは送受器をとってダイヤルをまわした。二言三言喋ってから、送受器を秋弘にわたした。
「どうしたんだ」
眠そうな声がきこえた。
「すまないが、出てきてくれないか」
「何かあったのか」
声が緊張した。
「会って話す」
「わかった」
秋弘は、ロビーの長椅子に腰を下ろした。
五分とたたないうちに、フロント脇の通路から綱男があらわれた。
「ミキが何か?」
「いや……。今朝、尚子さんがタクシーを呼ばなかったか、しらべてくれ。なるべく、さりげなく。それから、彼女が航空券の予約をするようフロントにたのまなかったかどうか」
「どうしたんだ」
「内密にしておいてくれ。彼女がいなくなった」
「ミキが……からんでいるのか」
「まだわからない。昨夜、実は、おれとのことで、尚子さんはかなりしぼられたらしい」
「あたりまえだ。あれじゃ、目につく」
「今朝、六時半ごろ、和正さんが彼女がいないのに気づいた。一時間たっても戻ってこない。おれの部屋にいないかと、電話がかかってきた」
「和正さんという亭主も、おっとりしているというのか、鈍いというのか、電話でそんなことを訊かれて、はい、いますという馬鹿もいないじゃないか。いませんと答えて、こっそり部屋から出してやることになる。女房が男の部屋にしのんでいそうだと思ったら、踏みこんでくるのが当然だろうに」
「踏みこんできたのは、珠江さんだ。くわしく話している暇はない。とにかく、タクシーをしらべてくれ」
綱男は事務室に行き、ほどなく戻ってきた。
「タクシーは、今朝はまだ一台も呼んでいない。もちろん、夜中もだ。航空券の予約も、うちではとり扱っていない。尚子さんは、車のライセンスは持っているのか」
「持っている」
「すると、レンタ・カーという手もあるな」
「近くで借りられるのか」
「営業所は、歩いて十分ぐらいのところだ。……もっとも、営業時間が八時から十時までだから……」
「そこの電話番号を教えてくれ」
営業所は、まだ開いてないとみえ、だれも出なかった。秋弘は空港にも電話をいれてみた。こちらは係員が出たが、予約は受けていないという返事であった。
秋弘がロビー脇の公衆電話を使っているあいだに、綱男は従業員の一人に呼ばれて事務室に入った。電話を切ってまもなく、綱男がロビーに来て、
「気になることが一つ起きた」
と、ささやいた。
「ホテルの車が一台盗まれている」
「車が盗まれた?」
「ライトバン一台と乗用車が四台あるんだが、そのうちのカローラが紛失している。夜のうちに乗り逃げされたらしい」
「キーは、おまえが持っているんじゃないのか」
「いや、キーは全部、事務室の壁にかけてある」
「だれでも簡単に無断で使えるわけか」
「使用するときは、書類に記入することになっている」
「外部の人間が、かってにキーを持ち出すこともできるんだな」
「外の者は、キーのあり場所など知るまい」
「しかし、壁にむきだしでかけてあるんだろう」
「そうだ」
二つの場合が考えられる、と、秋弘は思った。尚子が無断で使用しているか、あるいは、考えたくないことだが、ミキが尚子を誘拐したという場合である。
綱男も、後者の可能性をすぐに思いついたとみえ、沈鬱に黙りこんだ。
「とにかく、このことを和正さんたちに話してくる」
「まさか、ミキが……」
「ミキがやったことなら、じきに、何か接触してくるさ」
秋弘は、いったん自室に戻った。だれもいないので、和正の部屋に電話をいれた。応答がないので送受器をおろし、珠江の部屋にかけようとしたとき、ベルが鳴った。隣室の綾子からで、すぐに綾子の部屋に来るようにと命令口調で言った。
「尚子さんのこと、おききですか」
「ええ、ききました。碧さんは、典雄が朝食に誘いました。いま、和正さんと珠江さんがわたしの部屋にいます。あなたも、すぐにおいでなさい」
「フロントで……」
と言いかけると、
「その話も、わたしの部屋でくわしくききます」
綾子の声は容赦なかった。
「尚子さんは、身のまわりのものを、何一つ持ち出していないことがわかったの」
珠江は秋弘に言った。
「ハンドバッグも化粧品も、部屋においてあったわ」
いたわるような目を、和正にむけた。和正は、無言であった。
「浴衣はおいてあったから、服だけは着かえたようだけれど」
秋弘の眼裏に、ふたたび、火を吹く火口がみえた。
ハンドバッグを置いて出たとなると……。
「ミキという女が連れ出したか、尚子さんが自発的に出ていったか、二つの場合が考えられるわね」
綾子が言う。
「ミキが連れ出したのなら、何か言ってくるでしょう。和正さんは、部屋で待機しておいでなさい。わたしは、典雄といっしょに、碧さんのお相手をしています。碧さんに何事も気づかれないようにしましょう。珠江さん、あなたは、そのひとと」と、秋弘を冷ややかな指でさし、「ホテルの車を借りて、二人で尚子さんを探していただくわ」
「車を貸してください」
フロントで、珠江が言うと、綱男は、少し困惑した様子をみせた。
「どちらにお出《い》でになるのでしょう」
他の従業員の耳をはばかるように、小声であった。
「行先を言わないと、貸していただけないの」
「いえ、ホテルの車をお使いいただくのはかまいませんのですが、その場合は、私なり他の者なり、ホテルの従業員が運転して御案内することになっておりまして」
「わかっているだろう」
横から、秋弘はささやいた。
「彼女を探すのに使うんだ。おれが運転する」
「規則なんだ」
綱男はささやきかえした。
「客がホテルの車を運転して事故を起こしたとき、責任がかかっては困るということね」
珠江が、明晰な口調で言った。
「大丈夫よ。万一何かあったら、こちらで全額責任を負うわ」
「しかし、お客さまにお貸ししたことが上の方に知れますと……」
「藤谷のうちの者でも?」
「大切なお客様ですから、なおのこと……。私が御案内するのでは、いけませんでしょうか」
「剣持に運転をたのみましょう」
秋弘はすすめた。
「彼なら、深い事情をすでに知っているのですから。土地カンもあるし」
「そうね」
珠江は納得した。
「では、車をこちらにまわしてまいります」
フロントの裏の事務室に行く綱男に、秋弘はついて入った。
書類を積み上げたスチールデスクが並んでいるところは、会社の事務室と同様である。
壁にとりつけられたフックにかけられたキーを、綱男はとった。
これなら、だれでも使えるなと、秋弘は思った。
従業員は、表玄関から出入りすることは禁じられているんだ、と綱男は言い、脇のドアを開けた。
殺風景な通路がのびていた。客の目にさらすことのない、ホテルのもう一つの顔が、その先にあった。
「事務室のドアは、夜は鍵をかけるのか」
「いいや」
「夜は、事務室にはだれもいなくなるんだな」
「そうだ。フロントには、必ずだれかいるが」
「しかし、フロントの脇を通って、このドアからしのびこめば、人目にはつかないだろう」
「うん」
裏口から外に出ると、リネン室、機械室の棟と、事務室につづく会議室、社長室、宿直室などの棟にはさまれた細長い裏庭で、工場の裏地のように荒涼としている。
開け放された窓からリネン室の中がのぞける。三十坪はありそうなだだっ広い部屋で、壁沿いの棚には洗濯ずみのシーツや浴衣が積まれ、これからクリーニングに出す使用したシーツ、浴衣が、くしゃくしゃなまま床に山積みになっていた。
機械室では、巨大なボイラーが凄まじい音をたて、地をゆるがすばかりだ。
中庭を通り抜け、停めてある車のドアを綱男は開けた。
「どこへ参りましょうか」
運転席についた綱男に言われ、助手席の秋弘は、ふりかえって、リアシートの珠江と目をあわせた。
珠江も、自分と同じことを考えている、と秋弘は思った。
「火口」と、秋弘は言った。
山肌は、黒く焼け焦げている。昨夜のうちに野焼きを終えた地域である。萩も芒《すすき》も一様に無惨な焦土であった。
中岳に登る有料道路は、西から入る赤水線、北から登る坊中線、南からの吉田線の三路線があり、赤水線と坊中線は草千里の手前で一つに合する。
剣持綱男は、運転しながら、そう説明した。車は赤水線を登る。
快晴になった。峰々は頂上までくっきり姿をあらわした。広大なカルデラ地帯に起伏する山々の稜線はなだらかで穏和である。まだ野焼きが行なわれていない地区は、枯草の色がいっそう暖みをそえている。しかし、小さなゴルフ場といったおもむきのある草千里を過ぎ、砂千里に入ると、様相が一変した。大地がそのはらわたを反転させ天空にさらしたような熔岩の連なり以外、何ものも目に入らなくなる。はらわたは黒灰色に冷え、うねったり、吼《ほ》えたり、盛りあがったり、抉《えぐ》れたりした形のまま凝固している。
頂上の平地に到着する。火口壁のかなり手前で、車は乗り入れ禁止になっている。
観光客の姿は一人もみえない。駐車場に、ただ一台とまっているカローラが、三人の目についた。
「あれは!」
秋弘と珠江は、ほとんど同時に声をあげた。
「うちのです。まちがいない」
綱男は、いったん落としかけた速度を乱暴にあげ、カローラに接近して急ブレーキをかけた。
暖房のきいた車を下りると、烈風が肌を刺した。珠江は毛皮のコートで躯をすっぽりくるんだ。
カローラのなかが空《から》なのは、外から見てとれたが、秋弘は、運転席のドアのノブをつかんだ。
ロックされておらず、簡単に開いた。
キーはさしこまれたままになっており、エンジンは切ってあった。
助手席側のドアを珠江が開けて、入りこみ、ダッシュボードのなかや足まわりをさぐった。遺留品か、あるいは遺書を、探しているのだと、秋弘は思い、息苦しくなった。
「キーをとってくれ」
綱男が秋弘に言った。客に対する口調を忘れていた。
「トランクを見てみる。ロックされている」
秋弘はキーを抜き、車のうしろにまわって、トランクの鍵穴にさしこんだ。
蓋を開けたが、中に異常はなかった。
珠江も寄って来た。
三人の足は、おのずと火口にむかった。
ところどころに築かれたコンクリートの掩蓋《えんがい》が、大爆発を起こしたときの岩弾の凄まじさを警告する。
白煙が空にたちのぼる。熱せられた水蒸気である。火口の周りの、通行を許されているのはごく一部分で、その箇所の火口壁は、摺鉢状の傾斜を持ち、白煙を噴きあげる裂口まで下りて行けそうにみえる。その両側は、鉄分の朱色と硫黄のねっとりした黄色に彩られた、黒灰色の切りたった断崖である。湧き出す白煙を、ときどき冷えた風が吹き払い、火口の深奥をちらりとのぞかせるが、火の色は見えない。見えないだけに、なおのこと無気味である。硫黄臭が、まともに吹きつける。
この斜面をすべり下り、噴煙のなかに身を投じることなど、尚子にできはすまい。そう、秋弘は自分に言う。高層ビルの屋上から、ひと思いに身を投じる方が、楽だろう。一瞬の決断、一瞬の行為が、すべてを終わらせてくれる。火口への投身は、たやすくはないのだ。
そう思うことは、気休めにすぎないのかもしれない。これまでに、数多い投身者がいる、という事実がある。夜の明けぬうちであれば、闇の奥に火口は赤い炎をのぞかせ、人を誘いこむのだろう。
「尚子さんが……投身したという確実な証拠はないのよね」
珠江は言った。自分の肉体の痛みを耐えているような声であった。
掩蓋の下を一つ一つ、秋弘はのぞきまわりはじめた。珠江と綱男も、すぐに、それにならった。徒労であった。
「どうしましょうね……」
気丈な仮面が一枚はがれ落ちたように、珠江は、瞼のふちに薄く涙を浮かべ、コートの衿をたてた。
「車にお入りなさい。風が冷たい」
秋弘は、ドアを開け、珠江の肩をかるく押した。
助手席に腰を下ろすと、珠江は窓に頭をもたせかけ、眼を閉じた。その瞼の裏に、やはり火口の火がゆらめいているのだろうと、秋弘は思った。乗った車は、カローラの方であった。秋弘はエンジンをかけ、ヒーターをいれた。
綱男が外から窓ガラスを叩いた。窓を少し開けると、
「どうします?」
「とにかく、帰ろう。この車は、おれがころがしていくよ。客に運転させないなんて規則は、この際、無視しよう。おまえ一人で、二台ころがせないだろ」
綱男はうなずいた。
綱男の車が先に発進し、秋弘はつづいた。
「ホテルに着いたら尚子さんも帰っていて、こんな騒ぎが笑い話になればいいわね」
珠江は眼を閉じたまま言った。
料金徴収所で綱男は車をとめ、窓から顔を出し、係員に何かたずねた。
秋弘も、同じことをした。
「若い女がカローラを運転して火口にのぼるのを見ませんでしたか」
「前の車の人にも、そう訊かれたがね」
係員は、実直そうな男だった。行きに料金を受け取ったのもこの男である。
「ここは、六時から開けるんでね。あんたの車と前の車が、今日はじめての観光客だよ」
「六時前は、料金はとらないんですか」
「ここに、だれもおらんから」
「閉めるのは何時です」
「八時だ」
「すると、夜の八時から翌朝の六時までは、通行は自由なんですか」
「そういうことだ」
「ほかの道も?」
「そうだ」
秋弘は対向車がないのを見さだめてスピードをあげ、綱男の車と並ぶと、短く警笛を鳴らした。
綱男は窓をあけた。秋弘は手をのばして助手席側の窓をあけ、
「おれは、ホテルに戻る。そっちは、坊中線と吉田線の料金徴収所を、念のため、一応あたってみてくれ」
「了解」
秋弘は、アクセルを踏みこみ、追い抜いた。
5
珠江をホテルの玄関の前で下ろし、車を駐車場にまわした。戻ってきてロビーに入ると、外出の服装をした典雄と碧が、珠江と話をかわしていた。
「お早うございます」
碧は快活な声をかけた。
「もう、朝のドライヴに行ってこられたんですって? 気持よかったでしょ。わたくしたち、これから」
「天気がいいから、火口もよく見えますよ」
秋弘は、できるだけなにげない声で応じた。
「会長さんは、ごいっしょじゃないんですか」
「小母さまは、お部屋でのんびりなさいますって」
「気をきかせたんだよ、母は」
典雄は、目の下に翳《かげ》ができていた。事件を碧に気づかせないようにするのも、かなりの心労なのだろう。
「ごいっしょの方がたのしいのに」
「そんなことをおっしゃっては、典雄さんが気の毒よ」
珠江も、心労をかくして、冗談口をきく。
タクシーが参りました、と従業員が告げた。
「じゃ、頼む」
典雄は秋弘と珠江に念を押すような言い方をし、碧の肩を抱いて出ていった。
秋弘と珠江は、和正の部屋に行った。
和正はスーツに着かえ、ネクタイだけははずしていた。
二人を招じ入れたあと、椅子に躯を投げ出した和正は、ひどく無気力にみえた。妻の身を案じていてもたってもいられぬ、というふうではなかった。
ホテルの車が火口の傍に乗り捨ててあったと秋弘が告げても、うん……と煮えきらなく答えただけで、あとは黙りこんだ。
「どうしましょう。警察に捜索を依頼しましょうか」
「そう……」
珠江も疲れたように黙っている。自分は和正に何も言える立場ではないと思いながら、秋弘は、
「放っておくわけにはいきませんが」
と、声を強めた。
和正は電話の送受器をとり、ダイヤルをまわした。
「ぼくです。珠江さんと秋弘くんが戻ってきました」
和正の声は弱々しく、何か綾子に甘えかかっているような印象を、秋弘は受けた。
ほどなく降りてきた綾子にむけた和正の眼も、とほうにくれた子供が姉にすがりつくというふうにみえた。
和正に告げたことを、秋弘はくりかえした。
綾子は和正をみつめ、それから目をそらせた。その表情の意味するものを秋弘は読みとれなかったが、あわれみとも、哀しみともつかぬ翳が一瞬綾子の顔をよぎったのはたしかだった。
綾子はすぐに、冷厳さをとりもどした。
「警察に連絡しましょう」
綾子は決断した。
「ホテルの水野社長には親しい県会議員がいるはずだから、そちらから手をまわしてもらって、事件が公にならないよう、まず手を打ちましょう。碧さんには知られたくありませんね。何と説明したらいいか……」
「ゆうべ、尚子さんに、どのようなことを言われたんですか。彼女が自殺を思いつめるようなことを何か……」
口ごもりながら、秋弘の口調は、なじるようになった。
綾子の額に癇走った筋がたった。
「あなたは、だいたい、私たちの前に平気な顔を出せる立場ではないんですよ。尚子が全部話しました。昔なら姦通罪です」
古風な言葉を、綾子は口にした。
秋弘は、二日、うちへまゐりたまへ美しきはつしげ≠ニいう、若紫にかくされた恋文を思い出した。
昔の姦通は、なかなか雅《みやび》やかだったのだな。
和正はそう言った。姦通という言葉が、連想のキーワードになった。
先生だって、わたしにかくしごとをしているのよ、と言った尚子の言葉が、つづいて、記憶のなかからひき出されてきた。
和正は何か紙を読んでいた。尚子がのぞきこんだら、いそいでかくしたという。最初の一行がくもかくれ≠セったと尚子は言った。小浜の倉田の妻に、源氏物語のなかに、くもかくれ≠ナはじまる一節はないかと問いあわせた手紙への返事は、出発前にはまだ届いていなかった。
くもかくれ……≠ヘ、何かよほど大切な秘密であって、それを知ってしまった尚子を、和正が消した……。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
ばかな、と、すぐに打ち消した。
秘密を知った人間を消すというのなら、尚子より、おれの方を消すべきだろう。
それとも、美しきはつしげ≠ヘ、くもかくれ……≠ルど重大な秘密ではないというのだろうか。
更に……、和正が尚子をどうやって消すことができるのか。カローラに乗せて火口にはこぶことが、たとえできたとしても、その後、ホテルまで帰る足がない。
和正が尚子を、と、とんでもない想像が浮かんだのは、和正が尚子を深くいつくしみ愛しているとは思えない冷淡さを、尚子の失踪に際し、みせたからだ。まるで鬱病患者のように、鈍重に、椅子に躯を埋めているだけだ。それとも、動転のあまり、思考が活発に働かなくなってしまっているのだろうか。
ミキが、典雄に徹底的にいやがらせをしてやると宣言した、それは、尚子の消失と関係あるのだろうか。
尚子を火口に落とし、ホテルのカローラを放置して自殺とみせかける。尚子の自殺は大事件だから、いやがらせの効果はたしかにある。しかし、この場合も、ミキは、自分の帰りの足はどうするのだ。
ミキが、いくら典雄に怨みを持っているからといっても、何の関係もない尚子をまきこんで殺すことまでやるとは、秋弘には思えなかった。しかし、誘拐ぐらいなら、やるかもしれない。ミキが典雄の不誠実を世間に訴えたところで、よくあることと黙殺されるだけだけれど、誘拐騒ぎを起こし、マスコミが騒ぎだしたところで、姿をあらわし、典雄のスキャンダルを暴露する、という手である。これなら、典雄の受けるダメージは大きい。その場合も、尚子に危害を与えることはすまい。尚子に事情を話し、協力させるということは、どうだろう。これなら、不可能ではない。ミキは、別の車で、火口で待っている。殺人ではないのだから、レンタ・カーを借りてもかまわない。尚子はホテルのカローラで火口に行き、ミキの車でいっしょに去る。
そういうことであれば、警察に届けたりして騒ぎを大きくするのは、ミキの思う壺だ。
尚子は、しばらくたってから、死ぬつもりだったが怕《こわ》くなり、山のなかをふらふらさまよい歩いていた、とでも言ってあらわれる。
……いや、本当に、尚子は自殺するつもりが怕くなり、どこかをさまよい歩いているのではないか。そうも思えてきた。捜索隊を出し、附近一帯を探すべきか。和正は、このくらいのことは考えつかないのか。だれもかれも、スキャンダルを公にしないことばかり考えている。尚子が哀れになった。
綾子たちの心配は、碧によって解決された。碧と典雄は、見物に出たにしては思いのほか早く、三十分ほどで帰ってきた。
綾子にむかって、碧は、典雄さんからお話はうかがいましたと言った。典雄があまりに憔悴した様子なので、碧は問いただした。典雄はしらをきりとおせず、尚子が行方不明になったことを話した。
「わたくしにまでいやな思いをさせないように、皆さんで気をつかってくださって、なるべくわたくしの耳にいれないようにしてくださったんですって。ありがとうございます。でも、典雄さんの心配事は、わたくしの心配事でもあるんですわ。早くみつかるとよろしいですわね」
育ちのいいこの娘は、典雄の言葉をそのまま受けとり、皆が善意から彼女に目かくししておこうとしたのだと考え、それ以上のかんぐりはしないようだった。典雄は、尚子が叱責されたことや、ミキの脅迫電話のことまでは話してなかった。ひとりで散歩に出て、道に迷っているのだろうという説明で、碧は納得しているようにみえた。
「そういうわけですから、碧さん、あなたは典雄と一足先に東京に帰ってくださる? お誘いしておいて本当に申しわけないんですけれど、このあと、警察に捜索を依頼したりして、ごたごたしますから」綾子は言った。
「わたくしは、ここにいるの、ちっともかまわないんですけれど、お邪魔になるようでしたらいけませんわね。お言葉どおりにしますわ」
「邪魔だなんて、そんなことはありませんのよ。ただ、ここにおいでになっても、おもしろくないでしょうから」
やわらかく婉曲《えんきよく》な言いかたで、綾子は意志を押しとおした。碧は、素直に、すすめに従った。
「それじゃ、荷物をまとめてまいります」
「ごめんなさいね。充分にたのしんでいただこうと思ったのに」
「ゆうべ、珍しい野焼きを見物しましたから」
「典雄といっしょに、やまなみハイウェイを通って別府に出るコースをおとりになるといいわ。秋弘さんに、バスや大分空港からの航空券の手配などしてもらいましょう」
綾子は部屋の鍵を碧にわたした。典雄はエスコートしていっしょに出ていった。
いれちがいに綱男が来て、料金所では、どちらも、六時に開けてから尚子らしい年かっこうの女性ドライバーが登ったのはみかけていないそうだと告げた。
食堂でパンとコーヒーの軽い朝食をとり、秋弘は自室に戻った。こんなときでも空腹は感じるのだなと思い、尚子は何か食べたのだろうか……と考えている自分に気づいた。
車を乗り捨て、山のなかをさまよい歩いているのだ、と思う方が、火口に投身したと思うより気が安まる。
それにしても、綾子は、どのような責め方をしたのだろう。尚子が自殺を思いつめるというのは……。
激昂《げつこう》して暴力沙汰に及び、たとえば、尚子を突きとばしたはずみに、打ち所が悪く絶息した。それをごまかすために、車ではこんで火口に捨てた……。
そんなことはあり得ない、と秋弘は打ち消す。綾子は、口でなら、たおやかな容姿に似合わぬ辛辣《しんらつ》なことも言うだろうが、直接手をあげるとは考えられない。和正なら、どうだろう。これも、かっとなって暴力をふるうタイプとは、どうしても思えなかった。
人はみかけによらないということもある。ことに、和正は、妻に裏切られた当人である。思わず暴力をふるい――男の力だ、死に至らしめ――綾子と共謀の上、投身自殺をよそおわせることにする。自殺もスキャンダルにはちがいないけれど、和正が殺人犯となることとは、くらべものにならない。
しかし、火口にはこび、車を乗り捨て、暗いなかをどうやって帰ってくるのか。
秋弘は、熊本のロードマップをひろげた。ホテルから阿蘇登山道路赤水線の登り口まで、ほぼ二キロ、そこから中岳山頂までは十七・五キロ。十九・五キロの道は、歩けば六時間はかかろう。綾子にはとても歩けまいし、和正にしても、六時間歩きとおせるような健脚家にはみえない。犯罪|隠蔽《いんぺい》のためなら、なれぬ山歩きもいとわないだろうか。舗装された下り坂だから、道に迷うことはない。不可能とはいえない。
綾子は、足弱なだけではなく、碧と同室なのだから、夜六時間も部屋をあけることはできない。
典雄ならどうだろう、と秋弘は思った。
尚子が責められているとき、典雄は碧といっしょにいた。尚子を殺さねばならぬ理由もない。しかし、後刻、死体遺棄を綾子に命じられたら、一族のスキャンダル隠蔽のため、従うかもしれない。異母兄が殺人犯となったら、典雄も大きな影響を受ける。
珠江はどうか。これも、尚子殺害の動機はないから、手を貸したとすれば死体運搬だが、その役なら、典雄の方が、はるかに適している。珠江は、綾子の姪といっても、和正とは血もつながっていない。和正が殺人犯であっても、珠江が社会的に困った立場になる度合は、典雄にくらべたらわずかなものだ。典雄には、碧との婚約という、さしせまった問題もある。
和正が殺し、典雄が運んで火口に棄てた。そうして、典雄は、歩いて山道を下った……。
彼らが共犯なら、と、秋弘は思いついた。
車を二台使えば、事は簡単なのではないか。
キーは、一箇所にある。一台盗むのも、二台無断使用するのも、同じことだ。
外部の者は、キーの置き場所など知らないだろうと、剣持綱男は言ったが、藤谷家の人々は、ホテルとまったく無関係の外部の者というわけではないのだ。藤谷建設が設計施工し、株主の一員でもあり、オープニングに、綾子と典雄は列席し、その際、内部を見てまわってもいる。
和正が殺したという前提のもとに、考えてみよう。
カローラに尚子の遺骸をのせ、和正は火口にはこぶ。もう一台の車を典雄が運転して同行する。遺体を遺棄した後、カローラはその場に残し、もう一台に二人で乗って帰ってくる。
これなら、できる。
そう思ったとき、秋弘の手は、電話にのびていた。フロントを呼び、綱男に部屋に来るよう伝言をたのんだ。
「カローラのほかに、もう一台、ホテルの車が使われた形跡はなかったか。使って、もとに戻しておいたというような」
「気がつかなかったが、しらべればわかる」
綱男は言った。
「車を使用するものは、走行メーターの数字を、使用前と使用後、記入することになっている。だが、どうして?」
秋弘は、自分の考えを話した。
「わかった」
事務所にもどり、記録をしらべてきた綱男は、
「サニーが無断使用されている」
と、告げた。
「そうか! じゃあ、おれの考えたとおり……」
「待ってくれ。使用されているといっても、九・八キロだ」
「九・八キロ……」
「サニーは、昨日は使ったが、今日はまだ、だれも使っていない。昨夜記入された数字と、いまおれが見てきたサニーの走行キロ数の表示とのあいだに、九・八のひらきがあった」
「たった、九・八キロか。昨日記入したやつが、書きまちがえたということはないのか」
「昨日最後に使ったのは、営業課長の安部《あべ》という男だ。客をゴルフ場まで迎えにいくのに使った。キロ数は、あっている。ホテルから火口まで往復したら、ざっと……」
「片道十九・五キロだ。地図でしらべた。往復すれば、三十九キロ……」
「九・八と三十九では、まちがいようもないな」
「だが、サニーを、だれが何のために、九・八キロ……」
「片道四・九キロなら、立野の少し手前あたりまで行けるかな。不心得な従業員が、私用に使って、記録するのをさぼったのだろう。注意はしているんだが、ごくたまに、そのくらいのことは起きる。ほんの近間だと、つい、ルーズに考えてしまうんだな」
「九・八か……。どうしようもないな。すると犯人が歩いて下りたのか。自殺か……。いや、どこかさまよい歩いているのか……」
夜のうちに、二十キロ近く歩いたら、今日は眠りこけずにはいられないだろう。典雄は、鍛練を積んだ山男ではないのだ。
そう、秋弘は思い返す。疑われないために必死に平常どおりふるまおうとしても、肉体が意志を裏切るのではないか。それとも、非常の場合だ、意志が肉体の疲労を克服しとおしたのか。
「ミキは……」
と、綱男は気がかりなように呟いた。
「尚子さんの行方不明は、ミキがいやがらせをしてやるといった、そのいやがらせと、関係あると思うか」
「わからん」
秋弘は放り出すように言った。
W
1
郵便受けに新聞がたまっている。
阿蘇に二泊し、秋弘はアパートに帰ってきた。
警察と地元の人々が捜索にあたったが、尚子は発見されなかった。警察官のあいだでは、投身したのだろうという意見が大勢を占め、捜査はそれほど大がかりなものにはならなかった。
カローラを運転して山を下りたことを、秋弘は、今になって悔む。触れずにおけば、指紋をしらべることによって、尚子が自分で運転したのかどうか、わかる。
警察のなかには、秋弘に疑いをかけていることを匂わせる者もいた。尚子とよほど深い関係にあったのではないか。尚子から、和正と離婚するからいっしょになってくれと迫られ、困って殺害したのではないか。
死体がないのだから、殺人事件の容疑者に対するような取調べはできない。遠まわしにカマをかけるような訊《き》きかたをしただけであった。
新聞のほかに、封書が一通、郵便受けに入っていた。
宛名は雅やかな毛筆書きで、差出人の名は、倉田ふみ、とあった。
だれだろう、と一瞬とまどい、小浜で会った、祖母はつの甥倉田の妻だと思いあたった。
封を切りかけた手を、電話のベルがさまたげた。
「秋ちゃん」
「ミキ!」
「声、すぐわかってくれるのね」
「どこにいるんだ」
と、秋弘はせきこんだ。
「死んでいるの。だけど、淋《さみ》しくて、つい、声を聞きたくなっちゃった」
「ばか、どこからかけているんだ」
電話は切れた。
秋弘は、しばらく茫然としていた。
死んでいるの……。
秋弘は、苦笑にまぎらせようとした。
冷蔵庫から買いおきの缶ビールを出し、あおった。それから、倉田ふみの手紙の封を切った。
和紙の書簡箋にしるされた文字も、毛筆である。秋弘は、ものしずかな世界へ、すいと移しかえられたような気がした。
ていねいな時候の挨拶につづいて、
……お申し越しのくもかくれでございますが……
とあるのを目にし、阿蘇に発《た》つ前に、くもかくれ≠ニいう言葉ではじまる一節が、源氏物語のなかにないだろうか、と手紙で問いあわせたのをあらためて思い出した。
……これは『雲隠《くもがくれ》』のことではあるまいかと存じます。源氏物語五十四帖の、巻名の一つでございます。
現在は、雲隠を立てず、若菜を上下二巻にかぞえ、五十四帖としておりますが、院政時代には、雲隠も数に入れて五十四としたようでございます。
後鳥羽天皇の正治元年ごろ書かれたとおぼしき『白造紙』の源氏目録にも、『二六クモカクレ』と巻名が明記されております。
しかし、源氏物語註釈書の最古のものといわれます藤原伊行の『源氏釈』にも、藤原定家のものした『源氏物語奥入』にも、雲隠はしるされておりませんし、紫雲寺の僧侶釈素寂が――これは鎌倉時代の人でございますが――将軍久明親王の命によって書いたという『紫明抄』、同時代の源親行、その子の義行、孫の行阿、三代にわたって集成した『原中最秘抄』にも、雲隠は名ばかり伝えられて実物はなく古い目録にもなし、としるされております。
『雲隠』は、『幻』と『匂宮』のあいだにおかれるべき巻でございます。『幻』は、紫上を失なった源氏が、ことごとに紫上をしのび、
たなばたの逢ふせは雲のよそに見て別れのにはに露ぞおきそふ
人恋ふるわが身も末になりゆけどのこり多かる涙なりけり
大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ
と、哀切な数々の歌を詠み、古い文殻《ふみがら》を、
かきつめて見るもかひなきもしほ草おなじ雲居の煙ともなれ
と詠じて焼き捨て、更に、
春までのいのちも知らず雪のうちにいろづく梅をけふかざしてむ
と詠み、遁世を決意いたします。
次の『雲隠』は巻名だけで、つづく『匂宮』は、光かくれ給ひにし後≠ニいう一文ではじまるのでございます。
つまり、雲隠は、存在するとすれば、源氏の死の場面が書かれているわけでございますが、おそらく、紫式部は、この場面を顕《あら》わに書きしるさず、巻名だけで暗示するにとどめたのでございましょう。これは、まことにすばらしい手法ではございますまいか。
『匂宮』の巻以降、源氏の物語は、薫大将と匂宮の葛藤にうつります。
薫は、源氏の妻である女三ノ宮と柏木のあいだにできた不義の子でございますが、ここに源氏物語のみごとな構成を見る思いがいたします。と申しますのは、光源氏は何一つ欠けるところのない輝かしい理想の人物でございますが、この光に、作者は、出発点において、重い罪を背負わせております。ご存じと思いますが、源氏は、生母と生き写しといわれる父帝の后を慕い、一子をもうけております。その不倫の子は、何の罰を蒙ることもなく、帝位を継ぎます。光もまた、位人臣をきわめますが、晩年において、同様のことが、柏木と女三ノ宮によって再現されます。これは単なる因果応報と申すようなものではなく、人間の底深い恐ろしい構図と申せましょう。源氏が読みつがれてゆくのは、紫式部の現代的とさえいえる空虚の認識が人の心をとらえるためではないかと、私には思えるのでございます。……
だが、雲隠は実在するのだ、と秋弘は思った。
藤谷和正の手もとに、それを写し書いたものがある。尚子が目にしている。
それは、はつと山本茂太郎の相聞《そうもん》を秘めているのにちがいないのだ。若紫と同じように茂太郎がはつに宛てたものか、あるいは、はつが茂太郎に送ったものか。
はつが受けとったものが、和正の手にわたったのであれば、晴子の遺品のなかにでもしまわれていたのを、最近整理する機会があり発見したということだろうか。
雲隠の存在を示す写し書き。国文学者の和正にとっては、大変な衝撃であったにちがいない。読みかえすうちに、変体仮名を拾うと、はつと茂太郎のあいだにかわされた恋文が秘められていることに気づいた。
……いや、そうではあるまい。
隠し文は、やまもとしげたろうと、姓名を全部つづったりはしない。しけ≠るいはしげ≠ナすませているはずだ。しげたろう≠ニしるすのさえ、めんどうな作業になる。
それにもかかわらず、和正は、「山本茂太郎」と姓名を言い、茂は繁茂の茂だ≠ニ、名前の文字まではっきり告げている。たとえ、かくし文からやまもとしげたろう≠ニ拾い出せたとしても、茂太郎か、繁太郎か、あるいは、重太郎か、わかりはしない。
和正は、山本茂太郎という人物を知っているのだろうか。
くもかくれ……≠ヘ、山本茂太郎から入手したものだろうか。
秋弘に依頼したとき、和正は、はつの異性関係をしらべてくれと言った。山本茂太郎という男性とかかわりがあったかどうかを知りたがっていた。
つまり、こういうことだろうか。
和正は、山本茂太郎の持っているくもかくれ……≠手にいれた。それを読むうちに、はつ≠ニいう女性から送られた恋文が秘められていることに気づいた。
和正の父の兄の妻の名が、奇しくもはつ≠ナある。父も伯父もその妻はつも、すべて故人である。
和正は、義理の伯母であるはつが、茂太郎の恋文の相手ではあるまいかと考えた。はつは、和正の前妻晴子の母親でもあるが、晴子の幼時にはつは死亡している。晴子の実家との音信は絶えて久しい。それで、はつの孫である秋弘に、調査を依頼した……。
はつは、山本茂太郎からの恋文若紫≠遺していた。
このことは、はつが、雲隠≠持っていたかもしれないことを意味する。
しかし、和正が宇治に行き、はつの遺品を更にしらべた様子はないが……。
くもかくれ≠、尚子の眼から、和正は慌《あわただ》しくかくしたという。
それを見たために、尚子は和正に殺されたのだろうか。
――おれと尚子の関係に気づいて、嫉妬に逆上するほどなら、そもそも、札幌で尚子をおれのガイドにまかせたりするだろうか。若い男と女が、密閉された車に二人きりで、泊まりがけの旅をするのだ。成りゆきは、子供ではあるまいし、和正に察しがつかぬはずはない。尚子が禁欲とはほど遠い性《さが》の持主であることも、夫なら承知していよう。
暗黙のうちに、認められているような気配さえあった――と思うのは、こちらの虫のよすぎる解釈だろうか。
和正は、尚子とおれの関係を大目にみていた。年の離れすぎた、稚《おさな》いといっていいほど未成熟な若い妻が退屈して、もっと危険な火遊びに手を出さないように、おれをあてがった……。
たまたま、秘密にしておくべきくもかくれ……≠、尚子が知った。
雲隠の原本をみつけ出して学会に発表するのは、学者である和正にとって、この上なく大きな野望であろう。他の者の耳に入れてはならなかった。尚子の口を封じなくてはならない。尚子は思慮が浅く、信頼がおけない。
尚子の生は、雲隠原本の価値にくらべれば、和正としては問題にならぬほど軽かった。
阿蘇で、尚子が不行跡を厳しく叱責されるという、自殺偽装にうってつけの状況が生じた。
尚子は父親を早くになくしている。実家は兄の代になり、離婚されても帰っていける状態ではない。綾子と和正から離婚を申しわたされ、絶望して自殺をはかった、と、周囲の者に思わせることができる。
そこまではいい。だが、カローラを乗り捨ててホテルに帰るのは不可能に近い困難なことだと、結論が出ている。もう一台の車を使うという手段があるのを思いつき、サニーが無断使用されているときいて、推察が適中した! と思ったが、片道四・九キロやそこらでは、問題にならない。
やはり、尚子は、自分から出ていったのだろうか。おれの部屋に、助けを求めて来るに来られず……。隣りがなにしろ、綾子の部屋なのだから……。
たのしい、愛らしい情事の相手であった。
何ものをも犠牲にしてまでと思いつめていたわけではなかった。しかし、思い返すと哀れさがつのった。いま、尚子が腕のなかにとびこんできたら、抱きしめて手放さないだろう、と思う。藤谷一族と義絶の状態になっても、いっこうかまいはしない。もっとも、尚子とそうやって結ばれたところで長つづきはすまい、と、心の底では承知していた。尚子は、今度は、贅沢《ぜいたく》をゆるしてくれる、存分に甘えさせてくれる、年上の男を情事の相手に持つことだろう。
それでも、いま、尚子を火口の底に忘れ去ることは、彼にはできなかった。
再び、電話が鳴った。ミキからか、と、秋弘は慌てて手をのばした。
「おれだ」
「剣持か」
「ミキから、電話があった」
「え! おれのところにも、ついさっき」
「何と言っていた」
「それが……」
「死んでいる、と、おれには」
「おれにも、そう言った。死んでいる、と」
「それから?」
「淋しくて、つい声をききたくなった、と」
「同じだ。それから?」
「それだけだ。すぐ切れた」
「こっちもだ。おれがもっと訊きただそうとすると、途中で切った」
しばらく、二人とも黙りこんだ。どちらからともなく、気のぬけた笑い声をあげた。
「死んでいるような状態だ、というつもりだよな」
秋弘は言った。
「だろうな」
「どこからかかってきたのか、全然わからないか」
「手がかりなしだ」
「バックに音楽がきこえたとか、騒々しかったとか」
「気がつかなかった。そっちは?」
「おれも……」
「しいて言えばな、おれが喋《しやべ》っている途中で、何か乱暴な感じで切れた。この前のときもだ。淋しくて声をききたくなった、といってかけてきたのが、なぜ、話の途中で……」
「死んでいるの……か。落ちこんで何もできなくなっているようなとき、若い女の子の使いそうな表現ではあるけれど……。自殺するつもりだろうか」
「別れの電話か……?」
ミキが、殺すつもりはなかったのに、はずみで尚子を殺してしまった。それで、自殺する気になった……というようなことなら、電話で告白するだろう。
いやがらせをしてやると言いながら、結局は何もせず、ただ絶望的になっているのだろうか。
「じれったいな。声ばかり……。テープじゃないよな、あの声」
「テープ? いいや、ちゃんと応答していた」
「……ところで、話はちがうんだが、山本茂太郎という名前をきいたことはないか」
「山本茂太郎? いいや、知らない。うちに泊まったことのある人か」
「いや、それはわからない」
そういう接点もあるか、と思いあたり、
「しらべてくれるか。オープン以来の宿泊者のなかに、山本茂太郎という名前があるかどうか。レジスターカードは、保存してあるんだろう」
「五年間、保存しておくことになっている」
「それなら、しらべられるな。頼む」
「何者なんだ、その山本茂太郎というのは」
「まだ、何者だかわからない。じいさんであることはたしかだ。茂は、長島茂雄の茂だ」
「わかった」
秋弘は、ともすれば瞼の裏にゆらめく炎を忘れようと、電話を切ったあと、手あたりしだいにジャケットからぬいたレコードを、ターンテーブルにのせた。ヘッドホーンをつけて音量を上げ、寝ころがった。
ジャニス・ジョプリンの、細い金属の弦をこするような声が、脳を刺した。アルコールと薬でずたずたになって死んだ娘である。秋弘は、ヘッドホーンをむしりとった。
確実に何かが起きているのに、その姿がみえず、手の出しようがない自分が苛《い》らだたしかった。
2
通勤電車の窓から、桜を見た。まだ霙《みぞれ》をふくんでいるような空の下で、色の薄い葩《はな》びらがほころびはじめていた。
遺体がみつからず、投身の目撃者もないところから、自殺と断定するわけにはいかず、尚子は失踪扱いになっている。しかし、おそらく自殺だろうとみる警察の方針はかわっていない。
綱男からは、山本姓の客は何人かいるが、茂太郎という名はみあたらない、という返事に添え、オープニング以来の、山本姓の客の名と住所を列記したリストが送られてきた。
山本茂太郎≠ニくもかくれ……≠ェ、尚子の失踪――あるいは死――に、関係があるのかどうか、確かなことは秋弘にはわからない。しかし、手をつかねている気にはなれなかった。徒労であろうと、できることに手をつけてみる以外に、瞼の裏の炎の色を弱めるすべがない。
あの夜、尚子は、おれの部屋のドアをノックしたのかもしれないのだ、と、幾度となく秋弘は思う。
綾子は、自殺に追いつめるほど強い言葉で責めたつもりはなかったと言ったが、事実はどうだったのか……。
尚子は、おれの腕のなかに、たすけと慰めを求めて、部屋の前に来た。おれは眠っていた。隣室の耳をはばかったひそやかなノックは、おれの眠りをさまさなかった。尚子は絶望し……。
炎がゆらめく。
雲隠の存在をつきとめ、自らの手で発表するまで秘密にしておくために、和正が状況を利用して尚子を殺し、自殺にみせかけたというのなら、いま、おれの瞼を灼《や》き眼球を灼く火勢は、和正にむかって噴出するだろう……。
綱男から送られてきたリストに、山本姓は三十五あった。
大部分が九州の住人であり、関西、中国が七人。東京が二人。東北、北海道は零《ゼロ》であった。
野焼き以前に、和正、あるいは他の藤谷家のものがウィスタリア阿蘇に泊まったことがあるかどうか、秋弘は電話で綱男に問いあわせた。割引料金になる、夜の九時過ぎを利用したので、すぐにはしらべがつかず、綱男から返事があったのは、翌日の夜であった。
典雄は、ウィスタリア阿蘇を、仕事で九州に来た際、二度利用している。綾子はオープニングのときだけ。和正、尚子、吉川珠江は、野焼きのときがはじめてだということであった。
典雄がウィスタリア阿蘇に泊まった九月二十一日、山本仙吉という七十五歳の老人が宿泊している。住所は小倉市、電話番号も書き添えてあった。
早速、小倉に電話をいれた。
応答に出たのは、女であった。
「山本仙吉さんは、おられますか」
「父は、入院中でございますが、どちらさまでしょうか」
「藤谷と申します。失礼ですが、そちらの御関係で、山本茂太郎さんという方はおられますか」
「はあ?」
けげんそうに相手は訊きかえした。
「そういう人は存じませんが」
「御親類とか、お身内に、おられませんか」
「あの、どういう御用件なんでしょう」
「事情があって、山本茂太郎という人を探しているんです」
「どうして、うちの父の名を?」
「その辺をお話しすると長くなりますので。山本茂太郎という人を、ご存じありませんね」
「いきなり電話をかけてきて、気味悪いじゃありませんか。どこか、よそのお宅とまちがえておられるんじゃないの。茂太郎なんて人、うちにはいませんよ」
「実は、私、東洋テレビの者なんですが」
「あら、テレビの方!」
うさんくさそうだった声が、急にはずんだ。
「あなたとお茶を≠ニいう、午後の奥さま向けヴァラエティ、ごらんいただいているでしょうか」
「ええ、ええ、よく見ていますわ」
「お久しぶりね≠ニいうコーナー、ご存じですね」
「ええ、タレントさんや、有名人の、昔、知っていた人を局で探し出して御対面させるという……」
「そのお久しぶりね≠ナ、山本茂太郎さんを探しているんです。お宅の山本仙吉さんと御関係があるようなことを、ちょっとききこんだものですから」
「うちの親戚には、茂太郎というのはいないはずですけれど……でも、わたしは嫁ですから、舅《ちち》のいとことか遠縁の者の名までは知らないわ。舅にたずねてみます。明日、病院に行きますから」
「御容態は、いかがなんですか」
「転んで腰を痛めたんですよ。年ですから、骨がもろくなっていて」
「どちらの病院ですか」
「古船場町の大瀬病院ですわ」
「それじゃ、明日、もう一度お電話しますから。場合によっては、うちのスタッフが直接病院にうかがうかもしれません」
テレビ局の者ときいただけで、むこうは、タレント扱いされたようないい気分になるのかな、と、秋弘は嘘の効果に呆《あき》れ、綱男に電話をかけ直した。
「……そういうわけだから、明日にでも、ちょっと小倉に行ってきてくれないか。テレビのスタッフのような顔で」
「おい、気安く言うなあ。おれだって、おまえ同様、宮仕えなんだぜ」
「わかってる。そこを、頼む」
「同じ九州といったって、小倉まで往復するとなったら、ほとんど一日がかりだ。簡単に休みはとれない」
「何しろ、でたらめなことを言ったから、電話に出た女は簡単にだまされたけれど、分別のある者がきいたら、おかしいと疑いはじめるかもしれない。ぼろが出ないうちに、早いところ……。こっちは下請けプロダクションから更に依頼を受けた者なので、局に直接問いあわせても話は通じないと、最後に釘をさしておいたが」
「とっさに、よくそんな嘘を」
「とっさだから、さ。正直に事情を説明することはできないし、見ず知らずの人間が入院先を教えてくれと頼んだって、警戒されるだけだ」
「おれがそのじいさんに会うわけにはいかないよ。フロントで顔をあわせているかもしれない。一々おぼえていないだろうが、何かのはずみにホテルの人間だと思い出すかもしれない」
「ああ、そうか……」
しかたなく、翌日の夜まで待って、小倉に電話した。
山本仙吉家の嫁は気落ちした声で、茂太郎という人は知らないそうです、と告げた。そうして、人気のある女性タレントの名をあげ、そのタレントはわたしの高校の後輩だから、彼女がお久しぶりね≠ノ出ることがあったら、わたしをよんでくださいと言った。
「親しかったんですか」
「いいえ、つきあったことはないんですけれど、わたしはバレー部で活躍していましたから、あちらもおぼえていると思いますわ」
「わかりました」
警察が組織力を投入して捜査するのであれば、無駄であろうと何だろうと、三十五人全部をしらべあげるのかもしれない。しかし、いくら山本姓であり、ウィスタリア阿蘇に宿泊しようと、そこに、藤谷和正、あるいは藤谷家のだれかが泊まりあわせたのでなければ、接点が生じる機会はない、と秋弘は考えた。無駄とわかっていることに費すかねも時間もなかった。長距離の電話代は馬鹿にならない。
和正が大学で教えている学生のなかに山本茂太郎の孫、あるいは親戚がいるということは、ないだろうか。
たとえば、山本茂太郎が死亡する。遺品を整理しているとき、くもかくれ……≠ェ発見された。雲隠は実在しないといわれている。家人は、和正の教え子である学生を通じて、和正に伺いをたてた……という経路が考えられる。
その学生が、山本姓であるとはかぎらない、と気がついた。和正のゼミの学生であるとも断定はできない。他の学部の学生が、国文学を専門とする藤谷教授のところに話をもちこむこともないとはいえない。
全学生の一人一人にあたることなど、秋弘の手には負えない。
いっそ、和正に直接ぶつかるか。訊かれて和正が真実を語るとも思えないが、何らかの反応は得られるだろう。
3
決心を実行にうつすのが遅れたのは、海外添乗の仕事が入ったためである。二週間という長期のヨーロッパ旅行であった。パリ、ローマ、ロンドンと、主要な都市をめまぐるしく移動する。尚子のことは心にかかりながら、客の世話にかまけた。団体のなかに新婚のカップルが三組いた。たのしそうな様子をみると、尚子を思い重ねずにはいられなかった。
帰国した日は、報告書の整理に時間をついやし、それでも、夜おそく綱男に電話したが、留守とみえ、出なかった。
和正にも電話して、尚子の消息をたずねた。
不明なままだ、と、和正は答えた。酔っているようなけだるい声だった。
翌日、出社した秋弘に、同僚が、「留守中に友人から電話があった」と告げた。メモを見ながら、
「ウィスタリア阿蘇の剣持という男性からだ。四月九日、午後三時に受けている」
「用件は?」
「添乗で海外に出ている、二十一日に帰国すると言ったら、あらためて電話するということだった」
秋弘は、会社の電話を使って、ウィスタリア阿蘇に連絡した。剣持くんを電話口に、というと、
「剣持は、今日は休んでおりますが」
「病気ですか」
「いえ、そういうわけでは……」
「社宅にいますか」
「いえ……」
「出張ですか」
「いいえ……」
相手は口ごもり、
「どういう御用件でしょうか」
と、聞きかえしてきた。
「剣持くんから、ぼくの留守中に電話があったということなので」
「その電話は、いつ?」
相手の声は、せきこんだ。
「四月九日にかかってきたそうです。ぼくが仕事で海外に出ていたので、連絡がおくれました」
「四月九日ですか。そうですか……。ちょっとお待ちください」
電話の声が、別の男にかわった。
「電話、かわりました。失礼ですが、どちらさまでしょうか」
「藤谷秋弘といいます」
「藤谷さま……。藤谷建設の御関係の方でしょうか」
「会長の遠縁の者です。先月、野焼きのときに、会長や副社長の一行といっしょに、そちらに泊まりました」
「ああ……失礼いたしました。私、副支配人の森と申します。あのとき、若奥さまが……」
副支配人は声をひそめた。
「その後、若奥さまは……?」
「まだ、何もわかりません。剣持くんは……」
「剣持が電話をさしあげたのが、四月九日ということですが、その後、剣持から何か連絡はございませんでしたでしょうか」
「さっきの方に言ったんですが、ぼくは仕事でここ二週間ほど国内にいなかったんです。昨日帰国して、今日出社したら、剣持くんから留守中に電話があったと知らされたんです。実は、そんなことは知らず、昨夜そちらの社宅に電話したんですが、剣持くんは留守でした」
「剣持はどういう用件でそちらに電話したのでしょうか」
「わかりませんよ。まだ、彼と何の話もしていないんだから。剣持は、いつごろ戻るんですか」
「はあ……。それが、ちょっとはっきりいたしませんで」
「どういうことなんですか。剣持に、何かあったんですか」
「いえ、そういうわけでは……ないと思いますが」
「どこへ行っているんですか」
「東京に行くと……」
「東京? 今日、こっちに来ているんですか」
「いえ……。上京したのは、十二日なんです」
「十二日。ずいぶん前ですね」
「翌日の夕方には帰るということだったのですが、いまだに……」
「え! 今日は二十二日、もう、十日もたっているじゃありませんか」
「それで心配しておるんですが」
「東京の、どこへ行くと?」
「それはきいておりません。急に、むりに休みをとったんです。こちらも新婚旅行のシーズンで、忙しい最中ですから、休まれては困る、オフのときにしてくれといったんですが、一泊だけで帰ってくるからと、むりやりに」
「上京の理由は問いたださなかったのですか」
「問いつめたんですが、プライヴェイトなことだからと……。そういうかってなことをされたのでは、他の従業員にしめしがつかないと、厳重に申したんですが、結局、無許可のまま欠勤してしまいました」
「東京での宿泊先は?」
「どこともきいてはいませんでしたが、おそらく、ウィスタリア東京だと見当をつけ、問いあわせましたら、四月十二日の夕方チェックインしています。その後、キーをフロントにあずけて外出し、そのまま帰ってこないということでした。むこうも心配していました」
「荷物は?」
「一泊ですから、荷物といって、べつになかったようです」
「部屋はどうなっています?」
「翌日から、他の客を泊まらせているそうです」
「何か遺留品は?」
「何もなかったようですが」
「剣持くんが消息不明になったことを、警察には?」
「いえ、まだ……。なるべく穏便にすませた方が、剣持のためにもよろしいかと……」
「わかりました。ぼくの方でもしらべてみます。そちらで何かわかったら、すぐ、ぼくに知らせてください」
アパートと勤務先と、両方の電話番号を告げた。
剣持は、何か手がかりをつかんだのだ。それを伝えようと、おれに連絡したが、海外出張中だった。帰国を待ってはいられないので、単身上京した。
手がかりは、尚子に関することか、それとも、ミキか。
退社後、秋弘は腹ごしらえしてから、先ず和正を訪ねた。免税で買った洋酒を手土産にした。
尚子との関係をみぬかれているのに、訪問するのは、鉄面皮とののしられてもしかたない。
小田急線代々木上原の駅から五、六分、丘陵地の中腹の邸宅である。
玄関の式台に立って秋弘を迎え入れた和正は、すでに酒のにおいをさせていた。和服の前をだらしなくはだけ、どんよりと赤い眼で秋弘を見下ろした。
秋弘は目をそらせた。洋風の客間に招じ入れられた。
なめらかな挨拶が口から出ず、ぎごちなく洋酒の函を差し出した。和正は席を立ち、グラスを二つ持って戻ってきた。無言で栓を開け、一つに注ぎ、びんを秋弘の方に少し押しやった。自分で注げと言っているようだった。
とりつく島がないというのは、こういうことだなと秋弘は思い、雑談をかわす雰囲気でもないので、
「尚子さんは……」
と、切り出した。
和正は、いきなりテーブルを手のひらで叩いた。
「言うな!」
どなりつけたあとは、また、麻酔がききはじめたような懶《ものう》さで、椅子の背に躯をもたせた。
「うかがいたいことがあるのです」
「めんどうな話はやめよう」
「ウィスタリア阿蘇の剣持が、こちらに来なかったでしょうか」
「剣持?」
訊きかえした和正の表情からは、何もよみとれなかった。
「剣持綱男です。ホテルで会っておられます」
「ああ、あの男か」
「十二日に上京して、それ以来消息を断っているんですが、こちらに来ませんでしたか」
「知らん」
と和正は言ったが、表情が少し動いた。眉をひそめ、考えをめぐらすふうにみえた。
「もうひとつ、うかがいます。山本茂太郎という人物」
と言いかけたとき、和正は、
「やめろ」
と、目の前のものを手で払いのけるような仕草をした。
「山本茂太郎という人は、源氏物語の雲隠=c…」
「やめろ」
声に力がこもった。
「雲隠≠フ原本は、手にいれられたのですか」
和正は秋弘に視線をあて、頬の肉がふるえだした。笑っていた。和正が声をたてて笑うのを、秋弘ははじめて見たと思った。これまで、おだやかな控えめな微笑しか知らなかった。
「雲隠≠ヘ現存しないという、源氏物語の初歩的な知識も持たないのか、きみは」
笑い声は、秋弘を鳥肌立たせた。和正は明らかに別の感情を笑いにすりかえていた。
「それが実在しているとなったら、凄いことですね」
「実在していればな」
「和正さんの手もとに、それの写しがあるのでしょう」
馬鹿な、と和正は言い捨てた。
「尚子さんが、その写しを見たので、あなたは隠したそうですね」
言葉を切ったが返事がないので、
「尚子さんから聞きました」
巧みな石工は、鑿《のみ》の一撃で、頑丈な石を二つに割るという。どんな石にも、そこを打てば必ず割れる急所があると、秋弘はきいたおぼえがある。彼は、いま、拙劣な石工であった。あちらこちら、むやみに叩いたり突いたりして、掠《かす》り傷さえつけられないでいる。
「見られてはならないものを尚子さんに見られたために、殺したのですか」
亀裂が入ったところで、とどめを刺すように打ちつけるべき、最後の言葉である。それを性急に口にしてしまった。
「きみは、尚子の居場所を知らないのか」
気抜けするほど長い間をおいてから、和正は言った。
「あなたは、知っているんですか」
「知っていれば、きみに訊いたりはしない。きみが殺したということもあり得るなと思っているが」
「ぼくが! 何のために」
「ぼくが説明するまでもないだろう」
「ぼくが彼女を……。理由がない」
「そうだろうか。第三者の目から見れば、充分にある。わずらわしい不倫の関係の清算という、きわめて俗な陳腐な理由が」
「あなたが、わざわざお膳立てしてくれた。ぼくと尚子さんが親密になるように。ぼくたちは、あなたが敷いたレールの上を走った。なぜなんです。老いぼれた夫が、若い妻の情事によって新鮮な刺激を得ようという、それこそ俗な陳腐な理由からですか」
「何とでも言うがいい。何と言われようと、今さら傷つきもしない。さあ、もういいだろう。帰りなさい」
「まだ、何も解決していません。二人の人間が行方不明になっているというのに」
「だからといって、きみとわたしが罵《ののし》りあっていても、解決など生まれてはこない。尚子はおそらく、火口に投身したのだろう。剣持何とかいう男については、わたしは何もあずかり知らん。意味のない不毛な話しあいをつづけるのは、わずらわしいばかりだ」
「あなたが、ぼくの質問に答えてくださらないから、不毛な、無意味な会話になるんです。少くとも、二つ、あなたは答えることができるのに、ぼくの質問を無視している。なぜ、ぼくと尚子さんを、わざわざ結びつけたんですか。日帰りのドライヴならともかく、ホテルで二人だけの泊まりを重ねることを、あなたは許した――というより、むしろ、積極的にすすめたんです。なぜですか。もう一つ、山本茂太郎というのは、だれなんです。どういう人なんです。あなたはぼくに、山本茂太郎とはつの過去の関係をしらべろと命じたじゃありませんか。山本茂太郎とはつは、不倫の関係にあった。茂太郎からはつに贈られた若紫≠フ写し書きは、恋文を秘めていた。そう、ぼくが報告したとき、あなたは別に意外そうではなかった。そういうものがみつかるだろうと、予想していたんですね。なぜなら、あなたの手もとには、雲隠≠フ写し書きがあり、そのなかにも、はつと山本茂太郎の恋文が秘められているのを読み解いていたからだ。あなたにとって重要なのは、二人が不倫の関係にあったという事実ではなく、雲隠≠フ原本を手にいれることでしょう。ぼくは、雲隠≠ェ実在しようと、だれがそれを手に入れ、発表しようと、関心はありません。ただ、それを見たために尚子が殺されたのではないかと、気にかかるだけだ。答えてください。尚子は、あなたにとって、いったい、何だったんです。形ばかりの妻ですか。そりゃあ、彼女は、欠点だらけだった。幼稚で、幼稚だから自分本位で……でも、それが彼女の愛らしさ、魅力の一つにもなっていたじゃありませんか。あなたが親娘《おやこ》ほども年のちがう彼女を妻に迎えいれたのも、その無邪気な愛らしさを好ましく思ったからじゃないんですか。若い男と――つまり、ぼくのことですが――二人だけで泊まりがけのドライヴに出したら、どういう結果になるか、推察できないわけはなかったと思う。――ぼくが、あつかましいことを言っているのは、わかっています。盗っ人猛々しいというやつです。でも……彼女といっしょにいると、自制心なんてものでこのたのしい時を圧《お》しつぶすのは罪悪だとさえ感じられてしまう。本当に、自然な成り行きでした。後悔はしていない。あなたに申しわけないという気も起きてこない。あれは、あれでよかったんでしょう。あなたも、それを望んだんでしょう」
「少し、違ったがな」
和正のくちもとの歪みは、自嘲のように秋弘にはみえた。
「違った? 何がですか」
思わず洩らしたような和正の言葉尻をとらえ、秋弘は追及した。
「きみが、もっと苦しむものと思った」
「ぼくを苦しめる……それが、あなたの目的だったんですか。自責の念にぼくが苛《さいな》まれる、それを期待して、あなたは、ぼくと彼女を結びつけたというんですか。なぜです。なぜ、ぼくを苦しめなくてはならなかったんです。ぼくに怨みでもあったんですか。……ひょっとして、晴子伯母に関係があることですか。あなたの最初の妻になった晴子伯母、ぼくは写真でしか顔を知らない、あのひとが、何かあなたに、とりかえしのつかぬほどひどいことをした。晴子伯母は、死亡している。死者に復讐はできない。それで、彼女の血縁であるぼくに……」
思いつくままに口にしながら、まさか、と心のなかで打ち消した。あまりに歳月がたちすぎている。今ごろになって……。
しかし、と、秋弘は一つの可能性に思いあたった。
とても口にすることはできないが、和正が不能であるとしたら……という考えが浮かんだのである。その原因が、晴子にあるとしたら。若い尚子を妻にすることに恢復の望みをかけたが、成功しなかった。情事を刺激剤とし、しかも晴子の甥である秋弘に心の苦しみを与え復讐の一端とする……。
和正が、そこまで陰湿な男だろうか。秋弘には、わからなかった。
「帰ってくれ」
そう言って、和正は黙りこんだ。
秋弘も、無言で、待った。
「尚子が、もしあらわれたら、きみはどうする」
和正はようやく問いかけた。秋弘が意外に思うほど真摯《しんし》な口調であった。いいかげんな返答はできないと、秋弘は一瞬言葉につまった。
「尚子さんは、生きているんですか」
「答えをすりかえるな」
「あなたは、どうするんですか、尚子さんがあらわれたら」
「先に質問したのは、ぼくだ」
ふたたび沈黙がつづき、
「そんな不誠実な男を、尚子は相手にしていたのだな」
と、和正は言った。咎《とが》めるふうではなく、自分に納得させている様子であった。
「不誠実ではあるが、きみは正直だな。それとも……狡《ずる》いのか」
「あなたが、どこかに尚子さんをかくしているんですか。ぼくの愛情を――誠意を、試すために」
弁解じみますが、と秋弘はつづけた。
「尚子にとっても、ぼくは遊びの相手だった。たがいに、遊びの相手としては最高だが、日常の生活のパートナーとすることは考えていなかった。だからといって、不誠実といえますか。なぜ、生活のパートナーであることを、遊びの相手の上におくのですか。遊びの相手として、ぼくたちはたがいに、――あなたの言葉でいえば――誠実でした」
「帰りたまえ」
和正は顎をしゃくるようにして命じた。
「誠実とは、きみが言うような、そんなものではない」
「結婚することが、誠実の証しですか」
「いいや」
和正は、強く首を振った。
「結婚などは……。一つの形にすぎない」
「驚きました。あなたの口から……」
「きみは、いずれ、尚子を忘れるだろう。この事件も、きみに何の傷も残しはしない。きみはもう、充分に大人だからな」
和正は、空になっていたグラスにブランデーを注いだ。
「あなたも、傷つかないという意味ですか。あなたはぼく以上に大人だ」
和正はもう一度、耳ざわりな笑い声をたてた。
「教えてください。あなたは、ぼくの知らないことを知っているようだ。たしかに、ぼくは……、尚子との結婚は……。しかし、あなたが放り出すのなら、ぼくが受けとめます。できるだけのことは、やってみます。必ず幸せにするとか、そんなことは言えませんが、いっとき羽をやすませるぐらいはする。かわいいと……思っています。尚子は、どこにいるんでしょう。それとも、本当に自殺……」
「いいかげんに、静かにしてくれ。尚子について、ぼくが何を知っているというのだ。あれはいなくなった。確実なことは、それだけだ」
「それに関して、何か新しい情報を、剣持がつかんだのだと思います。ぼくに連絡したがぼくは出張中だった。それで単身上京してきたのだが、消息を絶ってしまった。どういうことでしょう」
「わからん」
「何らかの悪意が働いているとは思いませんか。つまり……」
尚子を消した犯人に、剣持もまた殺された、と言おうとして言葉を切ったのは、その犯人が、ミキである可能性もある、と思いついたためである。
まさか、ミキが綱男を殺しはすまい……と、考えなおした。
「秋弘くん、きみの沈黙をかねで買おう」
和正はふいに言った。
「誤解しないでもらおう。ぼくは、犯罪はおかしていない。ただ、わずらわしいのだ。うるさいのだ。いま、まとまった現金は手もとにないが、明日にでも、わたそう。百万で、きみの沈黙――というより、ぼく自身の静寂を、買いたい。これ以上、話しかけないでくれ。とりあえず……」
和正はたよりなくふらつきながら立ち上がり、部屋を出ていった。戻ってくると、右手につかんだ十数枚の一万円札を、秋弘にむかって撤いた。
「これで、何日分の静寂を買えるかな。さあ、帰ってくれ。ぼくはもう疲れた。きみは溺れかかっている人間に、石を投げつけているのだ」
「あなたが溺れかかっているのなら、ぼくが救助します。どうすればいいんですか」
「きみには、何もできん。ただ一つできるのは、黙って立ち去ってくれることだけだ」
拾って持っていけ、と、和正はテーブルや床に散った札をさした。秋弘は首をふり、去った。
4
死んでいるの。だけど、淋しくて、つい……。
その電話のあと、ミキからの声も絶えている。
尚子が消えた。綱男が消えた。ミキが消えた……。
渋谷に本社を持つ化粧品会社に仕事で出向いた帰途、彼は桜丘病院に足をむけた。ちょうどいいついでだ、吉川珠江に会ってみようと思った。
「もうじき昼の休憩時間になりますから、喫茶室でしばらく待っていてくださいということです」
内線電話で吉川女医に連絡した受付係は、秋弘に言った。
「山本さん、山本サチコさん、どうぞ」
声が、秋弘の耳を打った。
玄関ロビーの長椅子に腰を下ろしている人々のなかから、中年の女が立ち上がり、受付と並んだ薬局の窓口に行く。秋弘は反射的にその方に歩み寄った。
薬の袋を受けとった女は、けげんそうに秋弘を見た。
二、三十人、人間が集まっていたら、山本姓が一人二人いるのは当然だ。そう気がついたけれど、
「何か……?」
と訊かれ、秋弘は、
「失礼ですが」
と話しかけた。
「山本茂太郎さんの身内の方ですか?」
「いいえ。人違いですよ」
「どうも」
喫茶室のシートは、見舞客や通院患者で八割がたふさがっていた。珠江があらわれるまで三十分近く待たされた。そのあいだに秋弘はコーヒーとサンドイッチで腹ごしらえをすませた。
白衣の珠江は、私服のときよりいっそう魅力を増して、秋弘の目にうつった。毅然としたきびしさと、患者がよりかかって甘えるのを包んでくれそうなやわらかさ。
「しばらく。あのとき以来ね。何か急な用事?」
「この近くまで社用で来たものですから」
「そう」
愛想のいい声ではなかった。
無理もない。おれと尚子のかかわりは、和正の身内のものには許しがたいことだ。
「最近、剣持と会われませんでしたか」
秋弘は切り出した。
「いいえ。あの後、阿蘇へは行ってないわ」
「東京に来たんです」
「そうなの?」
珠江は手をあげてウェイトレスを呼んだ。
「わたしにもコーヒーとサンドイッチ」
「十二日に上京してウィスタリア東京にチェックインし、外出したということまではわかっているんですが、その後消息を絶ちました」
「何のために上京してきたの?」
「わかりません。もしかしたら、尚子さんの死が他殺であり、剣持は犯人の手がかりをつかんだ。その確認のため上京したのではないかと思います。そうして、犯人に消された……」
「尚子さんが他殺? そうすると、犯人は、限定されてくるわね」
珠江は苦笑して、
「わたしもそのなかに入るの?」
「理論的には」
「動機は?」
「ないみたいですね」
「ちょっと、あまり人聞きの悪いことを、ここで言わないでよね。小耳にはさんだ人が、怯えてしまうわ。そういう話なら、わたしの部屋の方がよさそうね」
通りかかったウェイトレスに、
「このコーヒーとサンドイッチ、わたしの部屋にはこんでちょうだい」
と命じ、席を立った。
ビジネスホテルのシングルほどの広さの部屋であった。ベッドとデスク、医学書で埋まった書棚のほかに、よぶんな物は何一つ置いてない。化粧品のにおいもしなかった。
「あなたは本気で、尚子さんが殺されたなどと思っているの?」
「いえ、ぼくには何も断定できませんが……」
「犯人≠ニ遠まわしに言っているけれど、あの場合、赤の他人が尚子さんを殺すわけがないわね。和正さん、綾子叔母、典雄さん、わたし、碧さん。そうして、あなた。だれが、なぜ、尚子さんを?」
「ぼくと親しくしすぎたというので叱責され、そのとき何かのはずみで……。突きとばしたら打ちどころが悪かったとか……」
珠江は吹き出した。
「それじゃ、まるでどたばた喜劇だわ。叱ったのは綾子叔母よ。叔母が口で叱るだけでは足りなくて、尚子さんを突きとばすなんて考えられないわね。それに、いくらもののはずみでも、叔母の力で、致命傷を与えるのはむりね」
「あるいは、和正さんが」
「彼も、暴力とはおよそ縁がないわね。まあ、いいわ。一歩ゆずって……五歩も十歩もゆずってだけれど、叔母か和正さんが、はずみで尚子さんを死なせたとしましょう。それで?」
「はこび出してホテルの車に乗せ」
「ちょっと待って。簡単にいうけれど、人間の躯って重いのよ。一人でははこべないわ」
「あなたがたのだれか一人が協力した」
「事後従犯ね。ホテルの廊下を、二人で、死んだ人間の躯をかついではこぶのね。ずいぶん大胆ね。いくら深夜でも、ホテルの廊下は公道と同じよ」
珠江は苦笑しながら秋弘の考えの欠陥をつく。
「それもいいとしましょう。車に乗せ、火口まではこんで遺棄《いき》した。あなたは、そう言いたいのね。それから、二人はどうするの。どうやってホテルまで帰るの。車は、火口のそばに乗り捨ててあったわ。歩くよりほかはないわね。何キロぐらいかしら。火口からホテルまで」
「十九・五キロです」
「深夜、徒歩で十九・五キロを歩きとおすのね。帰りついたら、へとへとで寝こんでしまうでしょうね。翌朝、ふつうの時刻に起きたら、犯人はさぞ寝不足で、眼は充血し、疲れた様子だったでしょうね。そういう人物、わたしたちのなかにいた?」
「いえ……。実は、ぼくも、その辺は充分に考えたんです。そうして、この説はむりだという結論に達したのです」
「人騒がせなひとね。あまりいい気持ではないわよ、かりそめにもせよ殺人犯人や共犯に擬せられるのは」
「ただ一つ、実行可能な方法を思いつきはしたんです」
「どうやるの」
「車をA、B、二台使います。一人が死体をA車ではこび、B車が同行する。帰りは、A車を火口のそばに残し、B車に二人で乗って帰ってくる」
「車を、二台……」
思いがけない盲点をつかれたように、珠江の目が大きくなった。
「これだ! と思ったんですが……だめでした。レンタ・カーは使えないし、マイカーは持ってきていないから、B車もホテルの車ということになりますよね。火口のそばで発見されたカローラのほかに、もう一台、サニーが無断使用されていたことがわかったんですが」
「どうしてわかったの、無断使用された、って」
「走行メーターの数字を、使用者は記録することになっているんですが、前日の最後の記録と、当日の最初の数字が、くいちがっていた」
「そう……記録するの。ホテルって、思いがけない記録が残っている……」
「記録からわかったんですが、サニーの無断走行は、たった九・八キロなんです。火口まで往復したら、三十九キロ」
「サニーは、だれが何のために使ったの」
「たぶん、ずぼらな従業員が私用に使って、記録するのを忘れたんでしょうね。というわけで、あなたがたの共犯説は、捨てたんです」
「自殺とみなすのが、一番自然じゃないの、あの状況では」
「もう一つ、気になるのは、剣持ミキの存在です。彼女は典雄さんに徹底的にいやがらせをしてやると宣言している。その手段の一つとして尚子さんを誘拐したということも考えたんです」
「どうやって?」
いくらか投げやりに珠江は訊いた。自殺と思いこんでいるから、あれこれと秋弘が仮説をたてるのがわずらわしくなったのだろう。
「どうやったのか、そこまで考えてないんですが……。殺すつもりはなかったが、何かの手ちがいから死なせてしまった。車ではこんで自殺をよそおわせた。東京に逃げ帰った」
「それで?」
「ところが、ミキは、それっきり消息不明なんです。いや、ぼくと剣持は、ミキの声を電話で聞いてはいる。ミキに会うために剣持は上京したのかとも思えるんです。そうして、今度は、剣持も消息不明。どういうことなのか……」
「碧さんのことね」
と、珠江は話題をかえた。
「あちらから、ことわってきたわ」
「破談ですか」
「まだ正式に婚約もしてなかったのだけれど……。熱烈な恋愛というわけではないのだから、あちらの御両親としても、妙な騒ぎのあった家は敬遠なさりたいでしょう」
「ぼくにも責任の一端はあるということですね」
「一端どころか、あなたが、原因を作ったのよ。あなたと尚子さんが」
「もうひとつ、伺わせてください。先生の患者さんで、山本茂太郎……あ、男の患者はいませんよね、産婦人科では」
「だれからきいたの、山本さんのこと」
珠江は大きく身じろぎした。
思いがけない手ごたえであった。
「ご存じなんですか、山本茂太郎さん」
「知っているといえるかどうか……。生前の山本さんは、知らないわ。でも、どうして?」
「山本茂太郎さんは、なくなったんですか」
「ええ」
「吉川先生は、どうして山本茂太郎さんと……」
「あなたとは、どういう関係なの」
「関係はないんですが」
「ここの入院患者だったのよ。癌でね。本人には知らせなかったのだけれど、察したのね、自殺したの」
「そうですか……。いつごろ」
「大雪の夜だったわ。二月……十何日だったかな。ちょうどわたしが当直の夜だったの。眠っていたら、看護婦に呼び起こされて、山本さんの姿がみえないというのよ」
トイレじゃないの、と珠江は看護婦に言った。
山本茂太郎は二人部屋に入っていた。同室の患者が、深夜ふとめざめると、隣りのベッドがからだった。トイレに行っているのだろうと、この患者も思い、気にとめなかった。寝そびれてしまい、規則違反だがスタンドをつけて、本を読みはじめた。読みふけっているうちに一時間ほどたったが、山本茂太郎はまだ戻ってこない。心配になり、ナースステーションに連絡してきた。看護婦は、病院内を探しまわったがみつからないので、当直医の吉川珠江に知らせにきた。もう一人の当直医と、守衛を動員し、病院の内外を探しまわった。山本茂太郎は病棟の裏庭に倒れ、雪を薄くかぶっていた。屋上から投身したのであった。遺書を身につけていた。
「幾つぐらいの人だったんですか」
「正確にはおぼえていないけれど、七十ぐらいじゃなかったかしら」
「山本さんは、源氏物語の雲隠≠写し書いたものを持っていませんでしたか」
「よく知っているのね。和正さんからきいたの?」
「ええ」
事実は少し違うが、説明していると長くなるので、秋弘はうなずいた。
「雲隠≠ニいってもね、偽書だということだったけれど」
「偽物なんですか」
「ええ」
「たしかに?」
「雲隠≠チて、実在しないんですって」
「でも……、だれが偽物と鑑定したんですか」
「和正さんよ。国文学は専門だから」
「もう少しくわしく話してください。山本さんがそれを持っていたことは、どうしてわかったんですか。入院中に、山本さんが誰かに見せたんですか」
「なくなってから、わかったの。山本さんが病院に持ちこんでいた遺品は、遺族の方が持ち帰られたのだけれど、忘れ物が一つあったの。入院中のつれづれに眺めるつもりだったんでしょうね。『源氏物語絵巻集成』という、厚い立派な書物だったわ。サイドテーブルの下においてあったので、気がつかなかったのね。御遺族に連絡したら、お孫さんがとりにみえたの。短大生のお嬢さんだったわ」
孫娘は、おじいちゃん、この本を見るのが好きだったんです、と涙ぐみながら懐しそうにページをくった。そのとき、文字をしるした和紙がはさんであるのに気づいた。
「最初の一行が、タイトルのようにくもかくれ≠ニあったの。わたしは見すごすところだったのだけれど、そのお嬢さん――京子《きようこ》さんというの――京子さんが、あら、何でしょうと驚いて、雲隠≠ヘ巻名だけ残っていて内容は実在しないはずだというのね。短大といってもお嬢さん学校で、学問の場ではないようだけれど、国文科なので、その程度の知識は常識らしいわ。わたしも、そう言われると、何かそんな話はきいたことがあったなあと思い出して……。和紙に書かれたものは、もちろん古文書ではないけれど、もし古写本をうつし書いたのだとしたら、大変なことになるわ。親類に国文学の専門家がいるからしらべてもらってあげると、京子さんからあずかって、和正さんにわたしたの。でも、偽物だということで……」
「どうして偽物だとわかったんでしょう。そんなに簡単に鑑定がつくものなんですか」
「わたしにきかれても困るわ。わたしは紹介しただけですもの」
「関心ないんですか、雲隠の真偽に」
「わたしは国文学者じゃないわ」
「山本茂太郎さんの遺品という現物は、和正さんの手もとにあるんですか」
「山本さんの遺族に返したわ」
「そちらの住所を教えてください」
「なぜ?」
「雲隠を見せてもらいます」
「どうして、そんなに熱心なの」
「好奇心だとでも思ってください」
帰社がおくれると思いながら、その足で地下鉄に乗り、山本茂太郎の家にむかった。神田堀留町の問屋街にある服地問屋と、吉川珠江はカルテをしらべて教えてくれた。
間口の狭い三階建ての、一階が店舗と倉庫、二、三階を住まいにあててある。吉川女医が電話で紹介しておいてくれたので、秋弘はうさんくさがられもせず、店の奥の、事務室と接客室を兼ねた部屋に通された。店の棚に積み上げられたウールのにおいは、この小部屋にもしのびこんでいた。
「主人はあいにく外出していましてね」
と、当主の妻が応待にあたった。当主は故茂太郎の息子である。
「吉川先生の御親戚の方だそうですね。吉川先生には、舅《ちち》がなくなりましたとき、たいそうお世話になりました。あんな死に方をして、病院にはご迷惑をかけてしまいましてね」
「どうも……」
と、秋弘は口ごもった。茂太郎の顔も知らないのである。とおりいっぺんな悔みの言葉しか出てこない。
「癌だということを、当人にはかくしていたんですけどね、気づいてしまって。舅の身内でやはり癌でなくなったのがいて、その末期の苦しみようを舅も知っていたものですから」
「ご愁傷さまです」
「吉川先生のお話ですと、舅が残したあれをごらんになりたいって?」
「ええ。そうなんです」
「偽物だそうですよ。吉川先生が親戚の大学の先生にしらべてもらってくださったんですけど。本物だったら、大変なんですってね」
「どういう点から偽物と判断されたのですか」
「わたしは、むずかしい古典のことなどわからないので、偉い学者の先生から偽物だよといわれれば、ああ、そうですか、とひきさがるよりほかないんですけどね。娘が――短大の国文科にいってるのがいましてね」
「京子さんですね」
「ええ。それが、自分の学校の先生にも、念のため見てもらったんです。やはり、偽物だということでした。いろんな文句の寄せ集めだとかって。娘がいると、もっとくわしくお話しできるんですけれど、あいにく学校で」
「茂太郎さんが、文章を寄せ集めて、雲隠の偽物を作って書かれたというわけですか。何のために、そんなことを」
「さあ。おじいちゃん、源氏が好きで、よく読んでいましたから、おもしろ半分に作ったんでしょうかね」
「見せていただけますか」
「娘の部屋にあるはずなんですよ。ちょっと待ってくださいね」
席をはずした山本夫人は、ほどなく戻ってきた。
「これなんですよ」
ひろげた和紙の一行めには、たしかに、くもかくれ≠ニしたためられ、行をかえて、この世につけてはあかず……≠ニつづく。変体仮名まじりのつづけ文字のその先は、秋弘には読みくだせなかった。
「これ、お借りできないでしょうか」
「さあ」
と夫人はためらった。
「どうせ偽物とわかっているんですから、かまわないとは思いますけど、わたしの一存では……」
「この近くに、コピーをとれるようなところはありませんか」
「この通りの少し先に大きい文房具屋があって、そこでコピーサービスをしていますけれど」
「ちょっと、そこでコピーをとってきます。そうして、すぐお返しします。それなら、かまわないでしょう」
「ええ、まあ……」
秋弘の意気込みに押されて、夫人はうなずいた。
5
くもかくれ
この世につけてはあかず思ふべきこと、をさをさあるまじう、たかき身には生まれながら、また人よりことに、口惜しき契にもありけるかなと思さるること絶えず。世のはかなく憂きを知らすべく、仏の掟て給へる身なるべし。かくいまはの夕べ近き末に、宿世のほどもみづからの心のきはも、残りなく見はてつるを、いまはとて行き別れむほどこそ心乱れぬべけれ、いとはかなき心のほどかなと、思し嘆くことしげし。雪いたう降りてまめやかに積りたり。夜もすがら不断の読経たゆみなくせさせ給ふうち、いと弱きさまになり給ふ。夜一夜さまざまのことをしつくさせ給へど、かひもなく、明けはつるほどに消え果て給ひぬ。
小浜の倉田ふみは、秋弘が郵送したコピーを、読みやすい字に書きなおしたものを同封して、送り返してきてくれた。かなり長い手紙が添えてあった。
雅やかな時候の挨拶につづき、
…………
御《おん》容貌《かたち》どもあらまほしく、見るかひあるにつけても、かくて千年を過すわざもがな、と思さるれど、心にかなはぬ事なれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。いまは渡らせ給ひね。みだり心地いと苦しくなり侍りぬ。言ふかひなくなりにける程といひながら、いと無礼《なめ》げに侍りやとて、御几帳引き寄せて臥し給へるさまの、常よりもいとたのもしげなく見え給へば、いかに思さるるにか、とて、宮は御手をとらへ奉りて、泣く泣く見奉り給ふに、まことに消えゆく露の心地して、眼に見え給へば、御誦経《みずきやう》の使ども、数も知らず立ち騒ぎたり。前々《さきざき》もかくて生き出で給ふ折にならひ給ひて、御物怪とうたがひ給ひて、夜一夜さまざまの事をしつくさせ給へど、かひもなく、明けはつる程に消え果て給ひぬ。
長々と右に引用いたしましたのは、源氏物語『御法』の巻の、紫上臨終をしるした箇所でございます。
もうお気づきと思いますが、最後の、夜一夜さまざまの事をしつくさせ給へど、かひもなく、明けはつる程に消え果て給ひぬ≠ニいう一節は、くもかくれ≠ネる一文の最後とまったく同じ文章でございます。『御法』の紫上の死の場面は、わたくし好きでそらんじておりましたので、すぐに気がつきました。
紫上と源氏、二人の臨終場面に紫式部が同一の文章を用いるとは考えられません。大学の先生が偽物と断じられましたのも、この点に先ず目をとめられたからではございませんでしょうか。
ほかにも二、三、他から抜いたと思われる箇所がございました。
この世につけては、あかず思ふべきことをさをさあるまじう、たかき身には生まれながら、また人よりことに、口惜しき契にもありけるかな……=w幻』
雪いたう降りて、まめやかに積りにけり=w幻』
おそらく、その他の部分も、源氏の文章を貼り混ぜて、それらしく仕立てたものと存じます。
なお、くもかくれ≠フ傍点を打ちました文字は、原文コピーでは変体仮名で書かれているものでございます。ところが、変体仮名だけとり出しましても、若紫のときのような、意味のとおる文章にはならないのでございます。……
あさきはるかのとかしぬ
変体仮名をとり出してそのまま並べれば、こうなる。秋弘は、文字を並べかえてみた。
どのように並べかえても、意味のある文章にはなりませんでした、と、倉田ふみも手紙に書いている。
若紫の秘文は、偶然の産物だったのでございましょうか。
偶然なはずはない、と秋弘は思う。はつ、しげ、二人の実在の人物の名が織りこまれていたのだ。
和正は、山本茂太郎の遺品くもかくれ≠ノよって、茂太郎とはつのひそかな関わりに気づいたのだ……。
しかし、あさきはるかのとかしぬ≠ナは、はつもしげもあらわれてきはしない。
和正にとって重要なのは、はつと山本茂太郎が情人の関係にあったかどうかということより、雲隠′エ本の実在の有無であるはずだ。
倉田ふみからの手紙を読んだ翌日、秋弘は、昼休みに外出し、会社の近くの書店で、文庫版の源氏物語を求めた。昼飯どきというとサラリーマンで混みあう店を避け、すいている軽食と喫茶の店をえらび、サンドイッチを片手に、文庫本と倉田ふみの手紙、くもかくれ≠フコピーなどを読みくらべた。
和正なら、一目で、くもかくれ≠ェ源氏の文章のつぎはぎであることを見抜いたにちがいない。その時点で、くもかくれ≠ヘ和正にとってまったく価値のない反古同然のしろものになったはずだ。秋弘に命じて宇治まで、はつの過去をさぐりに行かせたのは、どういう理由によるのか。
くもかくれ≠ヘ、いったん和正の手にわたり、それから山本家に返還されている。その間に、和正によって、すりかえが行なわれたのではないか。
秋弘は、そう考えついた。
源氏の文章から適当な箇所を拾い集めて、つづりあわせ、光源氏薨去《こうきよ》にふさわしい一文を偽造するのも、和正にとっては、それほど困難な作業ではあるまい。山本茂太郎の遺したくもかくれ≠ヘ、たしかに雲隠原本の存在を思わせるものであった。それを手もとに残し、偽造したものを山本家に返した。
茂太郎の遺品は、古文書そのものではないから、多少黄ばんだ和紙を使うていどのことでごまかせるだろう。遺品を目にしたのは、山本京子、女子短大生である。草書体で書かれた古文は読みくだせなかった。偽物をわたされても気づくまい。
和正は、茂太郎とはつの恋物語を作りあげた。なぜ、そんなことをしたのか。茂太郎の遺品に関心を持つ真の理由をかくすためだ。雲隠原本の実在から、他人の目をそらさせるためだ。若紫を使って秘文を作り、はつの遺品のなかにしのばせ、それを秋弘に発見させた。
こう考えるとき、秋弘の心のなかには、宇治の母が口にした、資料探しに来た若い女のシナリオライター≠ェ浮かんでいた。
はつの過去をしらべてくれと和正にたのまれ、宇治に帰ったときだ。
うちは由緒正しい古い家柄なのだ、と長兄が自慢し、ついこのあいだもテレビが取材に来た、と言った。
ほんま? うちとこがテレビにうつったんか
いや、シナリオ書かはるのに資料探したはるて、シナリオライターがうちに来たんや。なあ、お母ちゃん
そうや。市役所の広報で、古いものを保存していそうな家を教えてくれと頼まはったら、うちとこと、あと二、三軒、名をあげはったんやて。まだ若い女の人やったな。それでもシナリオライターで、あないして一人で取材したはるんやもんな。東京の女子《おなご》はんも、たいしたもんやな
そんな会話がかわされたのだった。
その前に、興信所がしらべに来た、とも言っていた……。
納戸に入ったときの、足の裏から這いのぼる冷たい板の感触とともに、
秋、縁談話おきとるのとちがうか
母の声が思い出される。
縁談なんてないよ、と言うと、
つい先ごろ、興信所の人が、おばあちゃんのことききに来やはってんけど
興信所が?
なんでそないなこと調べはりますのんて、お母ちゃんも訊いてんよ。ほたら、何や縁談のことでどうとか言うてはって、はっきりしたことは言わはらへんかったんやし。あんたに東京で縁談が起きて、先方さんがあんたの血筋をしらべたはるんかと思たんやけど
おれ、知らんよ
縁談など、まったく知らない。
和正がしらべさせたのではないか、と、今になって思った。
はつが古典を情事に利用しても不自然ではないほどの教養のある女かどうかをしらべさせた。その上で……
秋弘は店を出て、黄色い電話機のあるボックスを探した。
百円玉を落としこみ、宇治の母を呼び出した。
「シナリオライターが資料探しに来たて、お母ちゃん言うたったやろ」
「何やね、藪から棒に」
「そのシナリオライター、納戸にいれたんか」
「古いもんは、みな、あこに収めたあるよってな」
「一人にしておいた?」
「ついとってもしょむないやろ。何で?」
「いや、何でもない。ほな、またな」
和正が偽造した恋文を秘めた若紫≠ヘ、そのとき、祖母の遺品の中にしのびこまされた。教え子の学生にでも、和正が頼み、一芝居うたせた……。
しかし、と秋弘は、自分の考えの欠陥に気づき、がっかりした。
目くらましのために、和正がはつと茂太郎の情事をでっちあげたというのなら、すりかえられたくもかくれ≠焉A変体仮名による恋文を秘めていなければ無意味なのだ。
あさきはるかのとかしぬ≠ナは、どうしようもない。
くもかくれ≠、秋弘はもう一度見なおした。幾度か読みかえしていると、この一文のなかから、しげ≠ニはつ≠ェ浮かびあがってきたのである。
いとはかなき心のほどかなと、思し嘆くことしげし。
夜一夜さまざまのことをしつくさせ給へど、かひもなく、明けはつるほどに消え果て給ひぬ。
やはり、これは、茂太郎とはつのあいだにかわされた恋文なのではあるまいか。差出人の名はあとに書くのが常だから、茂太郎に、はつが宛てたものであろう。
幻や御法の断片をつづりあわせて、雲隠と名づけたのは、なぜなのか。
このなかに、はつは、雲隠の実在に関する情報を秘め、茂太郎にひそかに知らせた。
それを読みといた和正は、山本家へは、変体仮名を拾っても意味をなさない偽物を作成して返した。
そう、秋弘は考えた。
だからこそ、それを目にした尚子を、消したのだ、たまたま、尚子が自殺してもおかしくない状況が発生したのを利用して……。
そうであれば、和正は、尚子を火口に捨てたあと、車はその場に置き、十九・五キロの道を深夜歩いてホテルまで帰ったことになるのだが……。
X
1
「連休は、むりだと思いますよ」
秋弘は言った。
吉川珠江が突然、熊本行きの飛行機の切符をとってくれと、電話でたのんできたのである。二十九日の祭日が日曜と重なるため、三十日の月曜がふりかえの休日となる。週末から月曜にかけて、行楽客の予約は殺到している。
「コネで何とかならないかしら」
「コンピューターですから」
「でも、航空会社の人にコネがあると、とれることがあるときいたけれど」
「ええ、まあ……。どの便でもいいんですか」
「ええ、かまわないわ」
「なぜ、急に阿蘇に」
「電話口ではちょっと……」
「何かあったんですか」
「いいえ。でも、わたしが阿蘇に行こうという気になったのは、あなたのせいなのよ」
「それは……どうして?」
「あなたは、綾子叔母さんか和正さんが尚子さんを殺したと疑っているのよね」
珠江の声は、ささやくようになった。
秋弘は答えられなかった。
「わたしは今、病院のわたしの部屋からかけているから、何でも喋《しやべ》れるのだけれど、そちらは話しにくいでしょ。いいわ。黙ってきいてちょうだい。殺人の疑いをかけられるということが、どんなに不愉快か、あなた、考えてみたこと、ある?」
「…………」
「わたしは、あのとき、笑い捨てたわね。でも……」
珠江の声が重くなった。
「あなたの友人、剣持綱男という人が上京したまま行方不明になったと、あなた、言ったわね。その人、まだ、みつからないんでしょう?」
「ええ」
「あなたからそのことをきいたとき、わたし、気にすまいと思ったわ。だって、もし、その人の失踪が尚子さんの事件に関係があるとしたら、どうしても、あなたが言ったとおり、つまり、剣持さんは何か殺人の証拠をつかんだ、そのために、犯人に殺された……、そういうことになる。認めたくなかったのよ、そんな恐ろしいことは。でもね……たまらなくなったの。ひょっとしたら……もしかしたら……和正さんが……。いいえ、あの人は、そんなことをする人じゃない。いくら何でも……」
「和正さんには、動機があるんです」
秋弘は口走ってしまい、はっとして周囲を見まわした。幸い、だれもが業務に没頭しているようだ。カウンターでの客の応待。オンラインのコンピューターのキーを叩く音。
「わかっているわ。あなたとのことでしょう、でも……」
「いいえ。あなたの知らないことが、もう一つある」
秋弘は、もう一度周囲をうかがった。
「電話では、たしかに、まずいです。そのことはお会いして」
「それじゃ、今日、仕事が終わってからお会いしましょう。わたしが車で迎えに行くわ。車のなかなら、どんな密談もできる。そのあと、夕食をご馳走するわ。航空券は、お願いね。二枚」
「二枚? どなたといっしょに?」
「あなたとよ」
「え、ぼくとですか」
「仮にわたしが自殺の証拠を発見したとしても、わたし一人では、何か小細工をしたと疑われるかもしれないでしょ。あなたに証人になっていただくわ」
つづく会話は、退社後、珠江が迎えにきた車のなかで行なわれた。幸い、航空券は午後の便を二枚予約できていた。
運転する珠江の体温が、助手席の彼の腕につたわる。
「和正さんの殺人の動機が、もう一つある。山本茂太郎さんが持っていたくもかくれ≠ナす」
「責任逃れをするの? あんな偽物が、どうして殺人の動機になるの」
「あれを尚子が見たとき、和正さんは隠したんです。それに、山本茂太郎とはどういう人なのか、とぼくが訊《き》いたとき、なぜか言葉をにごして教えてくれなかった。あなたにきいて、はじめてわかった。ぼくは、いろいろしらべたんですが」
秋弘は、祖母の遺品のなかから発見された若紫と、そのなかの秘文について、珠江に語った。
「まあ、そんなことって、あるのかしら」
「和正さんは、茂太郎さんのくもかくれ≠フ変体仮名を拾い、茂太郎さんとはつの関係に気づいたのだと思います」
「でも、くもかくれ≠ノはつという名があらわれたとしても、すぐに、それをあなたのおばあさんのはつさんに結びつけるのはおかしいんじゃなくて。はつという名は、いくらもあるでしょう」
「もちろん、そうです。だから、くもかくれ≠フ秘文には、ぼくの祖母であるあのはつ≠ナあることを決定する何か重要な証拠になることが書かれていたんです、きっと」
「たいへんな偶然ね」
「あり得ないことではないでしょう。それで、和正さんは、ぼくに、はつの過去をしらべさせた。はつも、ちゃんと茂太郎からの恋文を秘蔵していたんですから。すごいロマンスです」
「そうね」
「しかし、和正さんにとって重要なのは、はつと茂太郎の恋物語より、雲隠原本の実在なんです」
「くもかくれ≠ヘ、寄せ集めの偽物なんでしょう?」
「おそらく、雲隠原本の実在に関する情報が、そのなかにかくされていたんです。それを読みといた和正さんは、くもかくれ≠偽造して、山本さんに返した。情報をひとり占めにするためです。半紙に書かれたものですから、同じような古びた紙を使い、敷き写しにして、変体仮名の部分だけを適当にかえれば、両方をつきあわせないかぎり、違いはわからない。あなただって、一度見ているわけだけれど、どの字が変体仮名だったかなんて、おぼえていないでしょう」
「全然……」
「そのくもかくれ≠、尚子さんに見られた」
「だから、殺した、というの?」
「おあつらえむきに、自殺にふさわしい状況が起きた。それを利用せずにはいられなかった」
「まさか。いくら雲隠が重要だとしても、たかが、見られたぐらいのことで和正さんが尚子さんを殺したりはしないわ。口止めすればすむことじゃないの。それに、尚子さん、それを見たって、何のことかわからないでしょう」
「尚子にはわからなくても、尚子がだれかに喋ったら、その人はぴんときて……ということもあるでしょう。尚子は、秘密を守るのはあまり上手じゃない」
珠江は、ゆっくり大きく首を振った。
「阿蘇で、はっきり何かがわかるといいですね。ぼくも、和正さんを殺人犯と思いたいわけじゃない。尚子の自殺もつらいが、殺されたというのも……。生きていてくれるのが一番……」
ミキがどこかにかくしているということはないだろうか。ふと、そう思った。いやがらせというのは、このことかもしれない。尚子をどこかにかくし、自殺したと思わせる……。
死んでいるの、と、ミキは言った。尚子を監禁しているあいだ、ミキも、公に活動はできない。その状態を、死んでいる、と言ったのだろうか。しかし、相手が幼児とはちがう。屈強な男を共犯者にしないかぎり、ミキが尚子を監禁しつづけるなど、不可能だ。尚子も納得ずくでないかぎり……。
珠江は車を西銀座地下の駐車場にいれ、そこからほど近いビルの二階にあるレストランに秋弘を案内した。フルコースの食事のあと、「車だから、わたしは飲むわけにはいかないけれど」と言いながら、クラブにまわった。
なじみの店とみえ、ママやホステスが、「まあ、先生、しばらくおみえにならなかったのね」と、賑やかに迎えた。
「副社長さま、おみえになってますわよ」
「典雄さんが? お連れがあるんでしょ」
「ええ、何かお仕事の方のお客さまの、おもてなしのようですわ」
「それじゃ、同席は遠慮するわ」
「こちらでよろしいかしら」
秋弘の両脇にホステスが坐った。
「わたしは車だから、カンパリか何かにしておいて。ちょっと典雄さんに挨拶してくるわ」
珠江が席を立つ前に、ママに耳打ちされたらしく、典雄がグラスを手に二人の席に来た。
「どうしたの、珠江さん。こんなのといっしょに」
不愉快さをむき出しにした眼をちらりと秋弘にむけ、顎で秋弘をさした。秋弘は会釈した。
「この店に、こんなのを連れてきてほしくないな」
「阿蘇に行くのよ、いっしょに」
典雄は、秋弘の方にむきなおった。
「尚ちゃんを殺したあげくに、今度は珠江さんに手を出すのか。色魔か、おまえは」
「からまないで」
珠江がとめた。
「まずかったな。典雄さんとかちあうとは思わなかった」
「ここはぼくの大事な巣の一つだからね。来ていて当然だろ」
「そうよね」
酔っている相手をあやすように珠江は言い、
「阿蘇へ行くのはね、尚子さんのことをもっとはっきりさせるためなの」
ホステスたちの耳をはばかって、あいまいな言いかたをした。
「やめなさいよ、こんなやつと」
と言いながら典雄は、よろけたふりをして、手にしたグラスのなかみを秋弘の首すじに注いだ。ホステスたちは、典雄の意をむかえるように、立って騒ぎもしない。
「おしぼりちょうだい」
珠江がうながした。
ホステスの一人がわたしたおしぼりを、珠江は秋弘の手においた。拭こうとすると、典雄は、おしぼりをはねとばした。
「典雄さん、秋弘さんは、今夜はわたしが招待したお客さんなのよ。あなたがしていることは、わたしへの侮辱よ」
珠江は、凜《りん》と言いきった。
「でも、珠江さん、こいつのしたことを考えてみろ。あなたがしていることは、和正兄さんへの侮辱」
と言いかける典雄に、
「わたしが男だったら、決闘を申し込むようなことを、あなたは今、口にしたのよ」
珠江は、静かな声で言った。静かなだけに凄みがあり、ホステスが、惚れ惚れとしたように珠江を見た。
「典雄さん、その後、ミキから何の接触もありませんか」
秋弘がそう口にしたのは、真実、それを知りたいためであった。
典雄がおれに腹をたてるのは、むりはない、と秋弘は認めていた。秋弘と尚子のかかわりのとばっちりで、典雄は、碧との結婚がこわれたといえるのだから。
典雄にむかって刃で斬りつけるつもりはなく、ミキの消息をたずねたのである。
「知るか」
典雄は吐き捨てた。
「ぼくには、電話があったんですが」
典雄は、ぎくっと躯《からだ》をふるわせた。
「いつだ」
「阿蘇から帰ったその日ですが」
典雄の態度の激変が、秋弘を驚かした。
酔いに赤らんでいた頬が、貧血したように白くなったのである。
「嘘をつけ」
「本当ですよ」
死んでいるの、と言った、と秋弘はつけ加えた。
典雄は床にうずくまった。ホステスたちがかけ寄って助け起こそうとした。うわずった弱々しい声で典雄は笑いながら立ち上がり、こいつは嘘つきだ、とんでもない野郎だ、呟いているうちに次第に声が大きくなった。
「典雄さん、大事なお客さまの接待の最中なんでしょう」
平手打ちのような声で、珠江が、典雄を我にかえらせた。
「わたしたちは、失礼するわ。ママ、今夜は典雄さんにこれ以上飲ませないで」
「はい、すみません」
「吉川先生、またいらしって」
ホステスが、珠江の手を握りしめた。
2
ウィスタリア阿蘇で案内された部屋は、二階の201号と202号、秋弘がとおされた201号は建物の一番はしになる。反対側のはしが、野焼きのときに典雄が泊まったスィート、217号である。
201号室は、十畳の和室に広縁がついた造りで、ヴェランダは建物のむこうはしまで一つにつながり、鉄枠にキャンバス地を張った間仕切りが隣室との境界になっている。
「大浴場は一階にございます。お食事は何時ごろになさいますか」
茶を淹《い》れながらメイドが訊く。
「非常口は、廊下に出てすぐのところにございます」
「非常口なんて使わないですむことを願うよ」
「それはもう、大丈夫でございますよ。でも、お客さまには一応申し上げるきまりになっているんでございます」
どうぞごゆっくり、とメイドが出ていったあと、秋弘は隣室に行った。珠江は広縁の椅子に腰をおろし、窓の外を眺めていた。暮色の濃い空を背に山肌は青い芽ぶきで彩られていた。
「何から手をつけましょう」
「そうね……」
深夜、尚子がホテルを出ていくところを見なかったか、というような聞きこみは、すでに警察が行なっている。
「まず剣持の部屋を調べてみるのは、どうでしょう」
二人は一階に下り、秋弘はフロントの若い娘に、
「副支配人の森さんにお目にかかりたいのですが」
とたのんだ。
秋弘が電話をしたときに、剣持の消息不明を告げたのが、森副支配人であったから、話が通じやすいと思ったのだ。
沢井というネームプレートをつけたフロントの女の子は、
「ちょっとお待ちください」
と奥にひっこんだ。じきに戻ってきて、森はただいま外出中です、と告げた。
「それでは、支配人さんに」
横から珠江が言った。
「藤谷の関係の者です。野焼きのときの事件のことで、とお伝えください」
沢井は再び奥に入り、戻ってくると、
「どうぞ、こちらへ」
と、少し固くなって先に立った。
支配人室に二人が入ると、
「河野でございます。その節はどうも」
河野支配人は、珠江に頭をさげた。
「あのときは、ご迷惑をかけました」
「いえ、とんでもございません。御愁傷さまなことでございました」
「実はそのことに関してなんですが」と、秋弘が、
「剣持くんの部屋をみせてもらえませんか」
「剣持のことは、私どもも案じておるのですが、彼の失踪が若奥さまのことに何か?」
「いや、それはわからないんですが、剣持くんは、上京する前、ぼくに電話をかけてきているんです。あいにく、ぼくは海外出張中でした。何の用事だったのか、気にかかっているんです。何か手がかりが残ってはいないかと……。徒労かもしれませんが」
「わかりました。少々お待ちください」
室内電話で、
「加瀬くんをここへ」
と命じた。
入ってきた従業員を、
「総務課の加瀬です」
と紹介した。
「加瀬くん、従業員宿舎のマスターキーを事務室からとってきてくれ」
裏手に二棟並んだ三階建てのアパート形式の建物が、従業員用の社宅である。
「右が単身者用、左の棟が家族持ち用です。単身者用はワンルーム、家族用は二DKです。剣持は独身ですが、東京からわざわざ引き抜いたということもあり、優遇して、二DKの方、あの部屋です」
二階の暗い窓を、支配人はさした。
階段下の郵便受けの、剣持のボックスはからだった。
「新聞や郵便物は?」
秋弘が訊くと、支配人は、
「どうなっているんだね?」
と、加瀬に目をむけた。
「新聞は、四日前から、一応ストップさせたはずです。それまでに溜まった分は、事務室にまとめてあずかってあります」
社宅の階段部分は、床も壁も天井も、灰色のコンクリートをむき出しにした殺風景なものだ。
鉄のドアを開けると、閉めきってあった室内は、饐《す》えたようなにおいが鼻をついた。
入口の土間につづくダイニングキチンのテーブルにのった食パンは、かびが生えていた。
六畳と四畳半、二つ並んだ和室は、こざっぱりとかたづいていた。
無断でいじりまわすことに多少のためらいを感じながら、秋弘は、机の抽斗や押入れのなかなどをしらべてまわった。
何の収穫もなく、部屋を出た。
珠江と支配人が並んで話しながら先に行くので、秋弘は加瀬と並ぶようになった。
加瀬は、二十そこそこにみえた。それまで、必要なこと以外は喋らず控えていたのだが、ひそめた声で話しかけてきた。
「剣持さんの友人でいらっしゃるんですね」
上司であっても、外部の人間には、剣持を呼び捨てにすべきなのだが、加瀬はそれを忘れているようだった。
「剣持さんには、ぼく、たいそうお世話になっているんです。だから、気がかりで……」
酔った客にからまれ、客あしらいに馴れない彼が応待に困りはてていたとき、剣持が上手におさめてくれたというようなことが、何度かあったと、加瀬は言い、歩みをおそめ、支配人との距離をあけた。いっそう声を低くして、
「上の人たちは、悪い噂がひろまるとホテルの評判を落とすと、そればかり気にして、積極的に手をうたないんです。警察に捜索願いを出したのも、やっと二、三日前です。ぼくにできることがありましたら、何でもいいつけてください」
「剣持にはミキという妹がいるんだが、その妹のことで、何かきいていないかい」
「いいえ」
「野焼きのとき、藤谷尚子という若い女の人が行方不明になった事件があったろう」
「ええ。投身なさったらしいとか……。それでさっき、カローラをしらべておられたんですね」
「そのことについて、剣持は何か言ってなかった?」
「ぼくには何も。仕事の上ではいろいろかばってもらいましたが、プライヴェイトなことは……。剣持さんから見たら、ぼくは下っぱのひよこですから」
何か気がついたことがあったら、いつでも知らせてくれと頼んで、秋弘は加瀬とわかれ、珠江といっしょにエレヴェーターに乗った。
夕食は珠江の部屋でいっしょにとった。
その前に風呂に入ったので、秋弘は浴衣に丹前だが、珠江はジョーゼットのゆったりしたワンピースだった。湯上がりの肌が、皮膚の内側からぼうっと仄紅くなっていた。浴衣を着ないのは、秋弘に隙をみせない身がまえなのかもしれなかった。秋弘は、辛うじて自制していた。
「剣持の失踪ということがなければ、ぼくも、尚子の自殺説を、もう少しすんなり受けいれるんですけれどね」
「そうね……」
「珠江さん、……きれいですね」
珠江は苦笑しただけだった。軽薄な言葉にきこえただろうなと、秋弘は舌を噛みたくなった。
「明日、火口に行きましょう」
珠江は言った。今夜はもう、お休み、と言っているようだった。秋弘は自室に戻った。
3
火葬場に行ったことはない。それなのに、秋弘は、焼き場の夢をみていた。石の竃《かまど》の鉄扉のすきまから炎がちらちらのぞき、空気はいがらっぽく、のどや眼が痛んだ。
その痛みがはげしくて、目がさめた。
異臭を感じた。何か燃えているにおいだと直感した。
煙草を消し忘れ、何かに燃えうつったか。ぞっとしてはね起き、電灯をつけた。
部屋のなかに火の気はなかったが、煙草の煙がこもったように、空気が白っぽかった。
秋弘はドアを開けた。廊下は煙がたちこめ、咽喉《のど》を刺すにおいはいっそう濃かった。
咳こみながら廊下に出て、隣室のドアを叩いた。
「珠江さん、珠江さん、火事らしい。起きてください」
他の部屋でも異変に気づいたとみえ、あちらこちらのドアが開き、とび出してくる人影が、みるみる濃くなる煙のあいだを走りぬける。
そのころ、ようやくホテルの従業員も気づいたのか、火災発生を知らせるアナウンスがひびいた。
「珠江さん!」
秋弘はドアを叩きつづけた。
「火事です。起きてください」
ドアが開いた。濃霧のような煙は、すかさず流れこみ、浴衣姿の珠江を包んだ。
「火事です。すぐそこに非常口がある」
「待って」
「荷物なんかどうでもいい。逃げるんだ」
珠江はす早くハンドバッグだけとってきた。
非常口に群らがる人々と押しあいながら、珠江を抱えるようにして階段を下りる。
地面に足がついた。素足のままであることに気づいた。
一階の窓が真赤にゆらぎ、突然凄まじい音がして、ガラスが砕けた。秋弘は、とっさに浴衣の前をはだけて、珠江を頭からくるみこんだ。そのまま、走った。
サイレンが遠くからきこえ、急速に大きくなった。
稲田のつづく広々した場所まで来て、一息ついた。素肌の胸に、珠江の体温があたたかかった。珠江は少しもがいて、顔を出した。抱いた腕に秋弘は力をこめた。珠江は夜の空に舞い散る火の粉を呆けたように眺めている。腕のなかに、珠江の躯が重くなった。失神していた。
避難してきた客たちは、そこにひとかたまりになっている。やがて、ホテルの関係者だろうか、数人の男が走ってきて、客を誘導しはじめた。
珠江は、短い失神からはさめていたが、秋弘に躯をあずけきって、あやつられる人形のように足だけを動かしていた。
案内されたのは、ウィスタリア阿蘇から一番近いホテル、白雲山荘であった。ロビーの長椅子や床に、人々は坐りこんだ。ここの窓からも、ウィスタリア阿蘇の火ははっきり見てとれる。いまにも飛び火するのではないかと思えるほど間近に見えるのだが、すでに消防車が撒水をはじめており、類焼の危険はなかった。ヒステリーをおこした女客が泣き騒いでいた。
白雲山荘の従業員によって、熱いコーヒーや紅茶、日本茶が、好みに応じて配られた。
更に、三つの大広間に分散して招じ入れられ、ようやくくつろげた。
頬がひりひりするので触れると指先に血がついた。とんできたガラスの破片で、気づかぬうちに切ったらしい。珠江の顔には傷はなかったが、秋弘は、珠江の髪を注意深く指でさぐった。こまかい破片でも、からまっていたら危ない。
人心地がつくと、皆は窓ぎわにかさなりあって、炎を眺めた。
建物に集中する水柱は、炎の色をうつしてきらめいていた。
じきに火勢は弱まった。
メイドたちが蒲団をかかえて入ってきて、はしから敷きのべた。客のなかには、手を貸すものもいた。
背広の男が三人入ってきた。一人は、秋弘も見おぼえている河野支配人であった。もう一人、白髪の紳士は、ウィスタリア阿蘇の社長福原と名乗り、畳に手をついた。
「お客さまにお怪我はございませんでしたでしょうか。とんでもない御迷惑をおかけいたしましたことを、重々お詫び申し上げます」
河野支配人も、共々、頭をさげた。
もう一人が、これは余裕のある声で、
「私は当白雲山荘の副支配人でございます。あいにく私どもも満室の状態でございますので、このようなおもてなししかできないのでございますが、できるだけのお手伝いはさせていただくつもりでおります。どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」
「幸い、火はもうほどなく鎮火する模様でございます」と、河野支配人が、「二階、三階のお客さまがたの部屋には、火は及ばなかったようでございます」
「それじゃ、荷物は大丈夫なんだね」
客の一人が声をあげた。
「とっさのことで、重要書類をおいてきたままなんだ。大変なことになったと、首でもくくらなくちゃならないかと思っていた」
「何号室でいらっしゃいますか」
「316だ」
「大丈夫でございます。出火箇所は一階の入口に近い側ですので、316でしたら、おそらく、消火の水浸しにもなっていないと存じます」
「いやあ、ぞっとした。あの非常階段は、怕《こわ》いな。切羽つまっていたから、夢中で下りたが」
「わたしは214なんだけど」
と、女客が、
「大丈夫かしら。洋服だのアクセサリーだの、みんなおいてきてしまったのよ。洋服がだめになったら、それだけでも大損害だわ」
「おそらく、大丈夫と存じます。入口に近い側のお部屋は、かなり水をかぶったことと、申しわけなく存じているのでございますが」
「スーツケースを持って逃げればよかったのよ」
他の女客が、連れの男を責めている。
「二階まで火はこなかったんじゃありませんか。あなたがいそがせるから、みんなおきっ放しにしてきてしまったわ。きっとびしょ濡れよ」
「損害の保証は、ホテルの方で充分にしてくれるんでしょうな」
客の一人が念を押す。
「出火の原因が、私どもの方にあるということになりましたら、それはもう」
社長が言い、
「いずれ、警察の調査がすみました上で」
と、支配人が、
「私どもは、他の部屋でおやすみのお客さまがたにも御挨拶にでませんとなりませんので、これで」
と、話を打ち切って、揃って出ていった。
「我れ我れ被害者は、団結してホテルから賠償金をとらないと、下手をすると責任逃がれをされますよ」
316号室に泊まっていたという客は、皆の顔を見わたした。
4
翌日、荷物をとりにウィスタリア阿蘇に戻った。外壁は火の這った跡が黒いだけで崩れてはいないので、遠目には、あまり被害はなかったようにみえるが、フロントロビーのあたりは、内壁が焼けただれ、窓はみじんに割れ、ひどいありさまになっていた。階段もエレヴェーターも使えず、反対側のはずれにある非常口の階段を利用せねばならなかった。
階段をのぼりながら、秋弘は、ふと思い出した。316号の客が、ぞっとした。あの非常階段は怕い。切羽つまっていたから夢中で下りたが=Aたしか、そんな意味のことを言っていた。
なぜ、これが怕いのだろう。外壁にとりつけられた急な梯子などではない。非常口の表示は出ているが、建物の内部にしつらえられたふつうの階段なのだ。秋弘はあたりを見まわしたが、ぞっとするような階段は、べつに見あたらなかった。
長い廊下を通りぬける。一番はしの201号は、ドアが開けはなされ、洪水のあとのような惨状だった。割れた窓ガラスのかけらが重く水を吸った畳に散っていた。隣りの202号も、同様の状態になっている。部屋の前の非常口の階段は、216号のそばの階段より狭くて急だ。怕いとは、この階段のことを言ったのだろうか。ぞっとする、というほどのことはないが。
被害の少なかった二階の大広間を事務室がわりにして、従業員が客との応待にあたっている。ひきあげる客を空港や列車の駅に送るため、ホテルの車のほかに、バスもチャーターしてあった。
二人が大広間に行くと、河野支配人が寄ってきて、珠江にあらためて詫びを言い、
「これから、どうなさいますか」
「ひとまず東京に帰るわ」
珠江は言った。まだ顔色が悪かった。
「お疲れになったでしょう。空港まで、うちの車でお送りいたします」
支配人が見送りを命じたのは、昨日顔見知りになった加瀬であった。
「車は、被害を受けなかったんだね」
「ええ。駐車場まで火がまわらなくてよかったです」
珠江はリアシートに、秋弘は助手席で加瀬と並んだ。
「ゆうべは大変な思いをなさったでしょう」
加瀬は発進した。
「頬に怪我をなさいましたね」
「かすり傷だよ。従業員の社宅の方は、大丈夫だったの」
「ええ。少し水はかぶりましたけれど。夜なかに、火事だと起こされて、見たら窓の外がまっ赤でしょ。あせっちゃいました。すぐに全員、ホテルにかけつけて、お客さまの誘導や消火にあたったんですが」
「火事の原因はわかったの」
加瀬は、ちょっと口ごもった。
「警察から正式な発表があるまで、憶測めいたことは何も言っちゃいけないことになっているんですが……」
「一階から火が出たんだろ」
「ええ」
「一階には客室はないよね。すると、客の寝煙草ではないね」
「ええ。……煙草は煙草なんでしょうけどね。ほかに考えられないから。ここだけの話ですが、どうも、火元は事務室らしいということなんです」
「事務室? それじゃ、客の責任ではないな」
「ええ。社長、青くなっています。全面的にホテル側の責任ということになったら、賠償が大変で、下手したらホテルつぶれますものね」
「だが、どうして真夜中に事務室から?」
「煙草の吸殻が、紙屑籠に落ちたんじゃないかという話です。はっきりしたことはまだわからないけど。そのくらいしか考えられませんから。紙屑籠の底でくすぶっていて、そのうちに一気に燃えあがって、あの部屋は書類やら何やら、紙が多いですから」
「でも、事務室はたしか、フロントの裏側だろう。境は薄い壁一枚だ。フロントマンは、深夜も勤務しているんだろう。手がつけられなくなるまで、気がつかなかったのかい」
「それが、運の悪いことって重なるんですね。ゆうべ、ほかに、ちょっと大変なことがありましてね」
「どうしたの」
「長崎からみえた団体のお客様が、三階に泊まっておられたんですが、十数人、腹痛と下痢を起こして、フロントはそちらに呼びつけられ、集団中毒かもしれないから、責任をとれと叱りつけられたんです。フロントもあわててしまって、三階の団体さんの部屋で救急車の手配なんかしていて、持場を離れてしまっていたんです。他に宿直も一人いるんですけれど、それは宿直室で眠っていて」
「その団体さんも災難だったね。集団中毒と火事と重なったのでは」
「集団中毒というほどのことでは、なかったみたいです。ゆうべ救急車も来て、腹痛のお客さんをはこんだんですが、今日、うちのものが様子を見舞いに行きましたら、みなさん、ほとんど元気になっていました。それに、腹痛を起こしたのはその団体さんだけで、他のお客さんたちは何ともないんですから、うちで出した食事のせいではないはずです。うちに来る前に召しあがったものか、持ちこまれたものにあたったんだと思います」
放牧された牛の群れが、のどかに青草を喰《は》んでいる。
「この車は、サニーだね」
「ええ」
秋弘がふいに言ったので、加瀬はけげんそうな目をむけた。
「この車だね、無断使用されたのは」
「無断使用? さあ、時たま、記録をさぼるのがいないわけじゃないですけど、この車とはかぎりませんが」
「野焼きの日、夕方だれか使ったんだろ?」
「さあ、知りませんでした」
事務室が焼けたということは、その記録も焼けたということだな。秋弘は、心にひっかかるものを感じた。
空港に着くと、加瀬は二人を喫茶室に休ませておき、てきぱきと搭乗券の手配をした。
別れぎわに、剣持さんのことで、私にできることがあったら、何でも言いつけてください、と言った。
Y
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出火の場所が事務室であり、すべての記録が焼けた、サニーを無断使用した証拠になる記録も焼けた、ということが、東京に帰ってきてからも、秋弘にはどうも気にかかる。
出火のとき、集団腹痛があってフロントが呼びつけられたというのも、作為があるような気がする。
警察の見解は、放火の疑いがないわけではないとしていると、新聞やTVは報じていた。
しかし、警察は、長崎の団体が集団で腹痛下痢を起こしたという方に重点をおいていた。
火事でめちゃめちゃになったのは、事務室ばかりではなく、事務室に近い厨房も同様である。
この団体は、少しおそい時間に到着した。夕食をとったのは、この団体が一番おそかった。彼らの食事、たとえば汁鍋などに、毒物を混入しても、ほかの客の口に入るおそれはなかった。
この団体にか、あるいはそのなかの特定の人物にか、恨みを持つものが、汁に毒物をいれる。そうして、その証跡を消すために放火した。そんな線を、警察は考えているようだった。もっとも、致死量の毒が混入されたわけではないので、失火の疑いの方が強いようだ。
サニーが無断使用されたことなど警察は知らないのだし、たとえ知っていても、その記録を消すために放火したなどとは考えないだろう。
だれが、記録を消す必要があったのか。
珠江でないことはたしかだ。
珠江は、放火できる立場にはあった。また、腹痛下痢の症状を起こさせる薬を汁に混ぜることも、彼女ならできる。
しかし、珠江は、そんなに手間をかけて記録を消しても何もならないことを承知している。
サニーの無断走行、九・八キロと、秋弘は珠江に言ったのだ。記録を消したところで、秋弘という証人がいることを珠江は知っているのだから。
珠江でないとすれば……。
ミキの名を口にしたときの、典雄の異様な反応を、このとき秋弘は思い出していた。
ミキは、死んでいるの≠ニ、電話で秋弘に言った。
それを告げたとき、典雄は、まっ青になってうずくまってしまった。
徹底的に典雄にいやがらせをしてやる、と言っていたミキ。
九・八キロ、記録されぬ距離を走ったサニー。
ミキが秋弘に死んでいるの≠ニ電話で言ったと告げられて、失神しかけた典雄。
こう並べると、それらのあいだをつなぐ筋道が、次第に、秋弘にはみえてくる気がする。
ミキは、典雄の部屋に入りこみ、典雄を責めたてた。碧にすべてを話すと脅したかもしれない。
どのような争いになったか。典雄は暴力をふるい、殺意はなかったかもしれないが、ミキを殺した。――いや、実際は、仮死状態だったのだろう。
典雄はうろたえる。ミキの死体を何とか始末せねばならぬ。典雄は、車のキーが事務室にあることを知っていた。しのび入り、キーをとる。ミキの躯を車にはこびこむ。――ホテルのなかを死体をかついで歩くのは、危険きわまりないではないか……。いや、この点は、あとでもう一度考えよう。とにかく、車のトランクにかくし、発進する。どこかに、死体をかくす。そのかくした地点が、ホテルから四・九キロの場所なのだ。
自動車の走行距離が記録に残ることを、そのときは知らなかったか、または、忘れていた。
後で、そのことに気づき、気がかりでならなかった。
おれから、ミキの電話のことをきき、非常なショックを受けた。幽霊! と、一瞬思ったことだろう。ついで、おれが何かカマをかけている、というふうに疑った。
危険な記録を消してしまわなくては、不安でたまらない。
おれが泊まっているときに放火したのは、あわよくば、おれを焼死させられると思ったのか。
二十九日の典雄の動静をしらべることを、秋弘は興信所に依頼した。彼自身がききまわるのはよくない。彼が疑いを深めていることを典雄に悟られてはならないのだ。
尚子の死についてしらべるはずが、ミキと典雄の事件の調査の方に、変化してきている。だが、これも、放ってはおけない。
ミキは蘇生し、どこに身をかくしているのか。
剣持が上京したのは、ミキから連絡を受けたからか。
なぜ、剣持まで姿をかくしているのか。
それとも、ミキは一人で典雄に復讐するつもりで兄には何も告げず、剣持は、サニーの無断走行の件から、おれのように、典雄がミキを殺してはこんだ可能性に思いあたり、典雄に会って詰問するために上京し、典雄に……殺された……?
ミキの足どりをたどることが、解決への第一歩だろうか。
蘇生したミキは、列車に乗るなり、飛行機に乗るなりしたわけだが、それを見かけ、記憶しているものはいないだろうか。かなり、人目をひく状態であったはずだ。かねは持っていたのだろうか。
興信所の返事を待たず、五月三日、彼は再び阿蘇へむかった。三日は木曜日である。四日の金曜を有給休暇にあてると、五日は祭日、六日が日曜だから、四日間自由に行動できる。航空券はキャンセル待ちをして、ようやく一枚とれた。
加瀬に連絡しておいたので、熊本空港まで迎えに来てくれた。ライトバンだった。
「乗用車は、全部、偉いさんが使っているんです。ぼくら下っぱは仕事がなくて暇ですけど、上の方の人たちは大変ですよ。社長も支配人も、部長、課長、みんな、あちらこちら走りまわっています」
「車のキーは無事だったのかい。焼けた事務室においてあったんだろう」
「金属だから、焼けないで残っていました。どうぞ乗ってください」
「いや、先に空港で用がある。ちょっと待っていてくれないか」
カウンターで、秋弘は、三十日以降、剣持ミキという若い女性が搭乗していないか、しらべてくれるようたのんだ。
係員は迷惑そうだったが、一応記録をしらべ、そういう名前は記録にないと言った。
偽名を使ったことも考えられると思い、二十から二十五ぐらいの女性の名前と住所をしらべてくれと言うと、そんな手間のかかることはできない、とことわられた。
「消息不明なので、行方を探しているんです」
「警察に捜索願いは出されたんですか。警察からの依頼であれば、調査します」
秋弘は、ひとまずひきさがった。いずれ警察の手を借りることになるかもしれない。しかし、もう少し強力な犯罪の証拠がなくては、警察は動いてくれないのではあるまいか。
ライトバンに乗りこんでから、加瀬に、ミキからの電話や、典雄への疑惑を語った。
「死者からの通信かもしれませんよ。藤谷さんがきいたのは」
冗談口調ではなく、加瀬は言った。
「副社長は、ミキさんの死体をどこかに埋めたんです。ホテルから四・九キロの地点です。探し出してくれ、そうして殺人者を告発してくれと、ミキさんは頼んだつもりなんですよ」
「本気で、そんなオカルトじみたことを考えているのかい、若いくせに」
「ぼくは、UFOでも超能力でも、本当にあると思っていますよ。若くて思考がやわらかいから、そういうものを受けいれられるんです。年をとった人の方が頭が固くて、非科学的だとか何とか、すぐ言うんですよ」
「おれは年寄りか。かわいそうに」
「サニーのトランクを今すぐしらべられないのが残念だな。髪の毛ぐらい残っているかもしれないのに、髪の毛一本でもみつかったら、すぐ警察に持ちこんで、殺人事件としてしらべてもらえるのにな。明日は、早くに、偉いさんが使う前に、まずサニーのトランクをしらべましょう。今日は、四・九キロの地点を、できるだけしらべてまわりましょう」
死体が埋められていると、加瀬は思いこんでいる様子だ。
「いや、ぼくは、ミキを見かけた目撃者を探すつもりできたんだよ。何しろ、ぼくはミキの声をきいているんだからね」
「でも、その声は、死んでいるの≠ニ言ったんでしょう」
「それは、何かのたとえのつもりで言ったんだと思う」
「ぼくがミキさんが死んでいると思うのは、オカルト趣味で言ってるだけじゃないんです。死体をね、副社長がそこらに放り出しておくはずはない、埋めたにきまっている。だって、死骸がみつかって身もとがわかったら、副社長は動機があるから、簡単につかまってしまうでしょう。埋めたら、ちょっとやそっとじゃ生きかえりませんよ。仮に蘇生して、土をかきわけて出てきたとしたら、人目についたとき、騒ぎになりますよ。ぼくらの耳に入らないはずはない。死んでいます。そうして、どこかに埋められているんです。剣持さんも、おそらく、死者の通信をきいたんです。それで、典雄と対決して、殺されてしまったんです。これが真相です」
加瀬は、車を道のはしに寄せて止め、地図をひろげた。縮尺で四・九キロの地図上の長さをはかり、ホテルを中心に円を描いた。
「この線上を探せば……。もっとも、これは直線距離だから、実際は、道が曲ったり折れたりしているから、少しちがうか」
「車で四・九キロ行って、あとは、かついで山のなかを歩いただろう。車道のすぐ傍ということはない。二人で探すのは無理だよ」
「でも、秋弘さん、四日使えるんでしょう。虱《しらみ》つぶしにやりましょうよ。死体がみつかったら、死者の霊は実在するというぼくの考えも実証されることになる」
加瀬は、すっかり乗り気になっていた。
「きみに、一つ訊《き》こうと思っていることがあった。火事の夜、避難した客の一人が、非常階段が急で怕《こわ》かったと言っていた。しかし、非常口の階段は別に急傾斜ではなかった。ほかに急な非常階段があるんだろうか」
「何号室のお客さんですか」
「316号だ。なぜおぼえているかというと、野焼きのとき、ぼくが泊まったのは416号だったから、一つ階下だなと思ったんだ」
「316号ですか」
加瀬はちょっと考え、
「ああ、それなら」
と、うなずいた。
「316号には、特別な非常階段がついているのかい」
「いえ、316号じゃないんですが。たぶん、あれを使ったんだと思う。実際に、ごらんになるといいですよ」
ホテルに着くと、加瀬は車を建物の裏にまわしてとめた。
「エレヴェーターはだめなんです。電気系統をやられちゃっていますから」
東のはずれに近い非常口の階段を、三階までのぼる。316号室の前に出た。
「316号のお客さまも、この階段を使えば、怕い思いをしないですんだんですが」
ドアはロックされていない。二人は316号室に入った。このあたりは出火箇所から遠いので、室内は荒れていない。
加瀬は窓を開け、ヴェランダに出た。隣室との境の枠のキャンバス地は破られていた。
「おそらく、部屋付きのメイドが、こういう逃げ路もあると、教えていたんでしょう」
枠をくぐって隣室の前のヴェランダに出る。
「ここはスィートの317号室だね」
「そうです」
和正と尚子が使った部屋だ。
ヴェランダの隅に、四角い穴があり、垂直な鉄の非常梯子がとりつけてある。上下に、それは通じていた。
「これ、小さい子供さんなんか落ちる危険があると、指摘されたことがあるんですが」
「こんな通路があったのか」
典雄の部屋は、217だった。部屋に押しかけてきたミキを、かっとして殺した典雄は、事務室からサニーのキーを盗み、サニーを非常口の下にとめておく。部屋にもどり、この非常梯子を使って下りる。これなら、死体をかついで――秋弘の考えでは、仮死状態の躯だが――ホテルの中を歩かないですむ。
急な梯子だが、男なら、ミキをかついで下りることはそう困難ではあるまい。
「217号の下は、ゲームコーナーで、深夜は閉めてあります」
「非常階段を使っても、人に気づかれることはないというわけだね」
「ええ」
「車のエンジンの音はどうだろう」
「だれか、きいた人はいるかもしれませんね。警察なら、あの夜の泊まり客にききこんでしらべるんでしょうけれどね。……ぼくたちだって、できないことは……。かたっぱしから電話をかけて……ああ、レジスターカードが焼けちゃったから、だめだ」
自分が殺人者典雄の立場であれば、と、秋弘は考える。死体は、やはり、埋めてしまわなくては不安だろうな。加瀬のいうとおりだ。
「シャベルやスコップは、簡単に手に入るんだろうか」
「機械室の並びに収納庫があります。鍵なんかかかっていません。副社長は、オープニングのときに来て、ホテル内をくまなく視察しているから、何がどこにあるか、承知していたと思います」
「とにかく、出発しよう」
「どこからしらべます?」
「レンタ・カーをミキが借りた形跡はないか。赤水駅から列車に乗りこんでいないか。一番近い駅は赤水だろう?」
「ええ、でも、赤水は無人駅なんです」
急な非常階段を下りながら、加瀬は言った。
ライトバンに乗りこみ、レンタ・カーの会社にむかう。
受付でたずね、記録をしらべてもらったが、ここでの収穫はゼロだった。
「通りがかりの車をとめて乗せてもらったとしたら、しらべようがありませんね」
「テレビなどで一般に呼びかけるのでなくてはな」
加瀬は再び車を走らせ、赤水駅の前でとめた。単線の線路のわきに、低いプラットフォームと形ばかりの木造の駅舎がある。加瀬が言ったとおり、駅員はいない。線路のまわりは草が生い茂っている。
道路沿いにぽつりぽつりとある雑貨屋、食料品店、草地のつづくなかに突然あらわれる観光客相手のレストランなどを、ききこんでまわった。一箇月以上前のことを、はっきりおぼえているものはだれもいなかった。ミキがもし地中にいったん埋められ、蘇生して、助けを求めてきたのであれば、異様な印象は人の記憶に残るはずだから、そんな事実はなかったと思わねばなるまい。
車のなかで、秋弘は地図をながめた。加瀬が描いた四・九キロの赤い円を、目でたどった。
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車が通行できる道は限られている。ホテルから四・九キロというと、国道57号を東に行けば、市ノ川と内牧《うちのまき》の中間地点。逆に行けば、立野のあたりである。
阿蘇登山道路赤水線をのぼると、湯ノ谷温泉附近。
黒川沿いの道を内牧にむかうコース、ホテルから菊池温泉に通じる道を行くコース。この道は途中で別れ、大津方面に細い道がのびる。
国道57号と阿蘇登山道路にはさまれる三角の地帯はゴルフ場もあったりする眺望のひらけた場所だから、死体をかくすには適さない。土地カンのある加瀬の提案で、まず、黒川沿いの道からはじめた。四・九キロの地点で車をとめ、徒歩で樹林におおわれた山中にわけいった。海底に沈んだ石ころ、砂漠に埋もれた一本の針を探すようなものだ。警察の機動力を借りなくては無理な話だ。だが、車が無断使用されていたというだけでは、警察は殺人の証拠と認めるどころか、歯牙にもかけないだろう。ミキから電話があったときいて、典雄が青くなった、というのも、秋弘の言葉だけでは、何の証拠にもなりはしない。その上、電話があったということは、ミキが生きているということなのだから、埋められた場所の捜索など無意味になる。死者の声と思うのは、オカルト好みの加瀬ぐらいなものだ。
そう思いながら、秋弘は、さしかわした梢が空をかくす、道のない山道を歩きまわる。ミキか典雄の、ひょっとして何か遺留品がみつかりはしないか。ハンカチ、ライター……。
空腹に気づいたときは、四時近くなっていた。
「疲れましたね」
さすがに加瀬も音をあげ、食事に下りようと言った。
国道に出て、ステーキがおいしいという店に、加瀬は秋弘を案内した。
乗馬クラブを兼ねた店だ。壁に鞍や拍車など馬具を飾り、ウェイターは革のズボンをはいたカウボーイスタイルである。若い客でにぎわっていた。
窓の外にひろがる草原を、観光の若者たちが馬を駆るのがみえた。
「泊まるところ、決めてあるんですか」
「ウィスタリア阿蘇は使えないから、あのライトバンのなかで寝るよ」
「ぼくの部屋使ってください」加瀬は言った。
「狭くて汚ないけど」
社宅の部屋のドアを開け、加瀬はちょっとはにかんだ。畳一畳分ほどの板敷きに、六畳の和室がつづいている。
「明日は、早く起きて、サニーが使われないうちにトランクをしらべなくちゃね」
加瀬はめざましを六時にセットした。それから、
「もうちょっと遅くてもいいか」
と、六時半になおした。
「きみには、ずいぶん迷惑かけるな」
「ぼくが気にしているのは、剣持さんのことなんです。ミキさんという人のことがわかれば、剣持さんのこともわかるでしょ。ホテルの上の人たちは、皆、剣持さんのことを本気で探してくれないんだから。ことに、火事のおかげで、当分は、剣持さんのことなんか忘れちゃうでしょ。だれか、探してあげなくちゃ」
久しぶりに歩きまわったので、使いなれない筋肉が痛んだ。
朝、めざましの音で起こされると、ふくらはぎの痛みはいっそう強くなった。
痛て、て、と秋弘は顔をしかめた。
「どうかしました?」
「きみは、足が痛くないの」
「草野球できたえていますから。朝めし、パンしかないけど。社員食堂が、火事以来しまっているから」
加瀬は、甲斐甲斐しくトーストを焼き、コーヒーを淹《い》れた。
「まめなんだな」
「結婚したら、いい亭主になると思います。車のキーとってきます。警備の国島ってのが保管しているんです。この社宅にいますから」
加瀬は部屋を出たが、戻ってきたときは、パジャマ姿の太った男といっしょだった。男は眠そうに眼をしょぼつかせている。
「おれがかってに乗りまわすといけないと、監視についてきたんです」
「車の管理は、目下、おれの責任だからな」
国島は言った。
パジャマのまま、国島は駐車場についてきた。ホテルが営業中なら、こんなだらしないことはすまい。気がゆるんでいるのだろう。
トランクを、加瀬は開けた。ポケットからルーペを出した。
「何をするんだ」
国島が訊いた。
「殺人の痕跡をしらべるんだ」
「ばか。朝っぱらから探偵ごっこにつきあわすのか。いくら暇だからって」
「いいじゃないか、何ごっこだって」
加瀬ははぐらかした。
「おい、何をやってんだよ」
「だから、探偵ごっこ」
「何を探しているんだ」
「このなかで、セックスが行なわれなかったか」
「ばか。いいかげんにしろ。早くキーをかえせよ」
「この車、今日も使うのか」
「ああ、支配人が」
「昨日のライトバンは、あいてるだろ。一日借りるぜ」
「あとで怒られるぞ、私物みたいに使いまわしたら」
「どうせ、あいてるんじゃないか」
「加瀬くん、今日はレンタ・カーを使おう」
秋弘は言った。加瀬があとで叱責を受けるのでは気の毒だ。
埋められてあったら、みつからないはずはない、と、加瀬は言うのだった。ホテルから四・九キロという、車をとめた地点が、まず限定される。そこから、人間をかついで歩ける範囲というのも、ある程度きまってくる。必ず、みつかりますよ。
二日めも徒労に終わった。加瀬は、国道を半周して、赤水とは反対側にある上色見という集落に秋弘を案内した。藁葺きの旧家をそのまま食事処にした、炉端焼きの店であった。
魚や野菜、肉を刺した串を炉の火のまわりに立て、酒は竹筒にいれて、これも炉の火で燗をする。
秋弘は、殺人の調査をしていることをふと忘れ、のどかな気分になった。
尚子を連れてきたら、子供のように嬉しがるだろうなと思い、とたんに、炉の火に火口の火が重なった。
「どうしたんですか」
「いや、何でもない」
3
三日めになると、さすがに、加瀬は倦きてきたようだった。秋弘ほど切実なかかわりのある問題ではないのだから、むりもない。
逆に、秋弘の方が熱がこもりはじめた。
典雄としては死体が発見されては困るだろう。となれば、埋めるほかはないのだ。
蘇生したミキの姿を、だれ一人目撃していない。――警察のような緻密な捜査をしたわけではないから、目撃者がまったくないとは言いきれないし、地元の車以外の車に便乗して現場を離れたという可能性も残されてはいるけれど……、地下に埋められて蘇生し、土を掻きわけてあらわれたなどという凄惨な場面より、電話の声は彼の錯覚であった、死体は土の下にあると考える方が、現実味が強い。
時間がたつにつれ、あの電話が、実際に聴いたのかどうか、あやふやになってくる。
矢護山と呼ばれるあたりの杉木立のあいだの急斜面を歩いているとき、土中からのぞいている布片が目についた。先に発見したのは、加瀬であった。上に盛り固めた土が雨で洗い流され、露出したものらしい。泥とみわけのつかない色になっていた。ハンカチか手拭いのようで、見落とすところだった。
まさかね、と言いながら、加瀬は枝きれで布のまわりの土を掘りかえした。布の下に、土とはちがう手ごたえを感じ、加瀬は悲鳴をあげ、枝を放り出した。
「まさか! おれ、いやだ。いやだ」
秋弘がかわって土を掻いた。布の包みらしいものが少しずつあらわれた。同時に、胸の悪くなる臭いが濃くなった。
「これ以上いじるのはよそう。警察に連絡しよう」
坐りこんでいる加瀬を、秋弘はひき起こした。
加瀬が駐在所に連絡に車を走らせた。秋弘は、一部露出した布包みの傍で、待った。
混乱していた。
あの電話は……何だったのだ。
これは、人間の死体ではないのかもしれない。早まって警察に連絡したけれど、犬か何かを埋めたのかも……。
臭いがひどいので、風上に少しはなれて立った。下草のあいだの小さい野花が目についた。梢の若葉の照り返しが、白い微細な蝶の翅《はね》のような花をきわだたせていた。腐肉の汁を吸って咲いた花だろうか。その連想に、秋弘は、花から目をそむけた。
時が流れをとめたようだった。梢のあいだにのぞくわずかな空の青い色に、意識を吸いこませようとした。
ミキを抱いた躯の記憶がよみがえった。
ふいに、騒がしくなった。加瀬を先頭に、制服や私服の警察官たちが、のぼってきた。
慎重に、しかし手早く、土が掘り除《の》けられ、泥のしみこんだ大きな布包みが全貌をあらわした。滲み出た腐汁のしみの上を、突然日光にさらされた蛆がざわざわとうごめいた。
布包みの一端は、赤黒い色に染まっていた。
包みがとかれるあいだ、秋弘も加瀬も目をそむけていたが、ちらりと横目でのぞいた加瀬は、感電したような悲鳴をあげて、嘔吐した。秋弘は思わず死体に目をむけ、その顔面が叩きつぶされているのを知った。着衣ははがされ、裸体であった。
遺体は警察の車ではこび去られた。
秋弘と加瀬は、警察署に同行させられ、別々に事情聴取をされた。
ミキと典雄のかかわりを、秋弘は、重い口で語った。
――ミキだろうか。あれは、ミキなのか。顔が……。
警察の話では、念入りに、指先もたたきつぶし、指紋を不明にしてあったということだ。
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死体を包んであった布は、ウィスタリア阿蘇の備品であるシーツと判明した。
――あれは、ミキだったのだろうか……。
秋弘は思う。
顔と指紋をつぶしても、年のころや性別まで消すことはできない。
若い女であった。
ミキのほかに、もう一人、姿を消した若い女がいる。秋弘が、死体に尚子を重ねたのは当然だった。
しかし、典雄の自供が、それがミキであることを明らかにした。
重要参考人として召喚された藤谷典雄は、最初否認したが、現地に連れて行かれ、それから死体を見せられると、貧血を起こし、その後、自供した。
秋弘は、そのとき、捜査本部の別室に待機させられていた。場合によっては、典雄と対決させられるかもしれないと言われていたのである。
典雄の自供の内容を、新谷《しんがい》という刑事からきかされた。
殺人はおかしていない、と、典雄は言ったという。
三月二十一日の夜、野焼き見物の後、ホテルのバーで飲んだ典雄が部屋に戻ると、ベッドの上にミキがうつ伏せになっていた。
かたわらに水をたたえた洗面器があり、そのなかに左手を浸していた。洗面器の水は、真紅だった。手首を切ったのである。すでに息は絶えていた。
――徹底的ないやがらせというのは、それだったのか……。秋弘は胸苦しくなった。
典雄は動顛した。碧に知られてはならない。何とか死体をかくさなくては、と、画策した。
洗面器を、紅い水をこぼさぬよう、注意深くどけたが、少しこぼれ、シーツにしみができた。
服をぬがせ裸にし、そのシーツでくるんだ。
事務室にしのびこみ、車のキーを盗み、ついでにリネン室から洗濯ずみのシーツを一枚盗った。スコップもそのとき手に入れた。クリーニングは年間の代金をとり決めてあるので、一々枚数をかぞえたりはしないことを、彼は知っていた。
駐車場に行き、キーに合う車を探し、非常階段の下にまわした。ヴェランダの非常階段からはこび下ろし、車にのせた。
埋める前に、スコップで顔や手とおぼしいあたりを叩きつぶした。埋めてしまえばみつかることはあるまいと思ったが、万一発見されても身もとがわからないようにと用心したのである。
それだけ周到に心を配ったのだけれど、死体をみせられたとたん、自分で自分を裏切ってしまった。とても、しらをきりとおせなかったのである。
死体遺棄と死体損傷は認める。こんな大スキャンダルが公になっただけでも、自分は充分に社会的な制裁を受ける。ただ、殺人罪だけはおかしていない。
藤谷典雄は、剣持ミキの遺書を提出した。それは、典雄への怨みと自殺の決意を明らかにしていた。遺書は、筆蹟鑑定にまわされた。結果は、まだ出ていない。
ミキの自筆と証明されれば、典雄の自供の信憑性《しんぴようせい》は裏づけられる。
ホテル火災の件については、車の使用距離の記録が残っていることなど知らなかった、火災当夜はアリバイがある、四月二十九日、三十日の連休、接待ゴルフで山中湖畔の富士国際ホテルに一泊していた、と言い、このアリバイは簡単に立証された。二十九日も三十日も、ゴルフ場でプレイしていたと、証言者の数は多かった。買収しきれる数ではない。また、いっしょにプレイした人々は、社会的な地位もあり、典雄のために、危険な偽証をするわけはなかった。
放火の疑いは晴れた。
もう一つ、ミキの兄、剣持綱男が上京してそのまま消失した事件がある。
ミキの死と切り離しては考えられない。
剣持は、ある程度、ミキの死の真相を推察した。それを確認するため、上京して典雄に会った。典雄は、彼の口をふさぐため、殺害し、ミキ同様、どこか人目につかぬところに車ではこんで埋めた。
捜査官はそう典雄を責めたが、典雄は、上京した剣持には会っていない、上京したことも知らなかった、と否認した。
認めたのは、自殺死体を損傷し埋めたということだけであった。
秋弘が帰京してから、ミキの遺書が、本人の筆蹟と鑑定されたと、新谷刑事は電話で知らせてきた。殺人と死体損傷遺棄とでは、罪状の重さがまるで違ってくる。
「しかし、自分は、自己の安全のために、死体の顔と指を叩きつぶしたというのは、殺人以上に無情残忍に思えて腹がたつのですよ。こうなったら、剣持綱男殺害の証拠だけは、ぜひともつきとめて、殺人罪で起訴にもちこみます」
新谷刑事は、電話口でいきごんだ。
同じようなことを、加瀬も電話してきた。
「剣持さんを典雄が殺した証拠は、東京でなくてはしらべられないでしょう。頼みますよ。ぼくは、東京までは行けないので」
死者が電話してくる……。
少し冷静になると、秋弘には、どうしてもそれが信じられない。
死んでいるの、とは言ったけれど、それを口にした本人は、生きているべきだ。
声を、たしかに、おれはこの耳で聴いたのだ。
ミキが生きているのなら、あの死体は、尚子だ。
だが、典雄は、ミキが手首を切って、ベッドの上で死んでいたと言った……。
見まちがえるはずはない。遺書もあった。
ミキは、たしかに死んだ。
それでは、あの電話は……? 尚子か。尚子の声ではなかった。ミキの声だ。死者からの電話か。
尚子を殺したい人間がいた。和正だ。
典雄とミキと和正が、共謀して尚子を殺し、ミキが死んだようにみせかけた……ということは、どうだろう。
典雄とミキは、実は裏で手を結んでいる……。
だが、それでは、典雄の受ける損失が大きすぎる。
雲隠の実在を発表して利益を受けるのは、和正一人だ。たとえ、それが金銭的に莫大な利益を生むもので、典雄もその恩恵にあずかるということがあったとしても、ひきかえに社会的な地位を失なうのでは、何もならない。社会的地位の失墜は、典雄のような立場にあるものには、金銭にはかえられないはずだ。死体遺棄だの損傷だのといった残虐な行為は、恢復の余地のないダメージを与える。
あの電話を、死者からの声と認めてしまえば、事はすむのだが……。
Z
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「祖父の遺品を、藤谷先生がすりかえたのではないかとおっしゃるんですか」
山本京子は、人|怖《お》じない丸っこい眼を、秋弘にまっすぐ向け、問いかえした。山本茂太郎の孫の短大生である。
この前と同じ、事務室兼用の接客室にとおされた。母親も同席している。
「偽物だとわかったので、見くらべもしなかったので、気がつきませんでしたけれど」
「見くらべるというと? 何と見くらべるのですか」
「吉川先生におあずけする前に、わたし、コピーをとっておいたんです。そのコピーと見くらべてみたら……」
「ちょっと待ってください。茂太郎さんののこされた本のあいだに、くもかくれ≠ェはさまれてあったのを、病院にとりにいったとき発見したのでしょう。その場で吉川先生にあずけたんじゃなかったのですか」
「いいえ。いったん家に持ち帰ったんです。コピーをとって、それから、吉川先生におあずけしました」
吉川珠江は、こまかい経緯は省略して、秋弘に語ったのだった。
「吉川先生が、親類の大学の先生――藤谷教授に鑑定してもらってあげると言ってくださったのですけど、わたしも短大の知っている先生がいるので――でも、吉川先生のせっかくのおすすめだし、複数の方に鑑定していただいた方がいいと思ったんです」
「それで、コピーをとったんですね」
「ええ」
「短大の先生も、偽物だと言われたんですね」
「ええ。藤谷先生の鑑定と同じでした。源氏物語のなかの文章の寄せ集めだということで。短大の先生は、わたしに読める字に書きなおしてくださり、こことここ、と、源氏の文を指摘してくださったんです。幻だの御法だのから文章を適当につぎはぎしたのだと、わたしも納得しました」
「それじゃ、京子さんの手もとには、藤谷和正さんから返還されたもの――茂太郎さんの本のあいだにはさんであったやつですね――それと、コピーと、二つあるわけですね」
「ええ」
「見せてもらえますか」
「ええ。ちょっと待っててください」
山本京子は事務室を出ていった。
「何か、問題が?」
母親は、いくぶん不安そうに訊《き》いた。
「いえ。たいしたことじゃないんです」
京子はすぐに戻ってきた。走ったとみえて、少し息を切らしていた。
「これなんですけど」
二葉の紙を、テーブルの上に並べた。
「同じにみえますわね」
母親ものぞきこんだ。
変体仮名の部分がちがっている。秋弘は、すぐに気づいた。
「この、短大の先生にみせたコピーの方、お借りできますか」
京子は返事をためらった。
コピーの、更にコピーをとり、それを持ちかえるということで、京子を納得させた。
京子は、しばらく二葉の紙を見くらべていた。
京子から秋弘に電話がかかってきたのは、次の日の夕方である。
「おかしなことに気がついたんです」
京子の声は、いくらかせきこんでいた。
「秋弘さんが言われたとおり、藤谷先生がかえしてくださったのは、原文とちがっていました。文字をつきあわせると、文章は同じなんですけれど、変体仮名を使ってある部分がちがうんです。藤谷先生か、短大の先生か、どちらかが、偽造して返してこられたんですわ。もともとが値打ちのない偽物なのに、なぜ……」
秋弘が答える前に、京子は言葉をついだ。
「変体仮名がちがっている、ということは、変体仮名に何か意味があるんでしょうか。わたし、抜き出してみたんですけれど……」
秋弘も、昨日、帰宅するとさっそく、その作業を行なったのである。
短大の教師から返ってきたものは、変体仮名に傍点を打てば、次のようである。
くもかくれ
この世につけてはあかず思ふべきこと、をさをさあるまじう、たかき身には生まれながら、また人よりことに、口惜しき契にもありけるかなと思さるること絶えず。世のはかなく憂きを知らすべく、仏の掟て給へる身なるべし。かくいまはの夕べ近き末に、宿世のほどもみづからの心のきはも、残りなく見はてつるを、いまはとて行き別れむほどこそ心乱れぬべけれ、いとはかなき心のほどかなと、思し嘆くことしげし。雪いたう降りてまめやかに積りたり。夜もすがら不断の読経たゆみなくせさせ給ふうち、いと弱きさまになり給ふ。夜一夜さまざまのことをしつくさせ給へど、かひもなく、明けはつるほどに消え果て給ひぬ。
京子の声がつづく。
「短大の先生から戻ってきた方は、変体仮名を抜き出すと、
あこたきさまのもとしげはつ
藤谷先生から戻ってきた方は、
あさきはるかのとかしぬ
となりました。どちらも、意味がありそうで、通じない、おかしな文章なんです。
はじめのは、きさまのもと≠ヘ意味があるけれど、あこた≠ニしげはつ≠ェわかりません。
もう一つは、浅き春≠ニ溶かしぬ≠ヘわかるけれど、意味がつながらないし……。
短大の先生と藤谷先生に、たしかめてみようかしら」
「おやめなさい」
秋弘の声の烈しさに、京子は驚いたようで、
「どうして……」
と、少しとがった声で問いかえした。
「京子さんに、何か危険が起きるといけないから。ぼくにまかせておいてください」
「だって、短大の先生の名前も、あなたは知らないでしょ。野田先生というんですけど」
「野田先生ですね。ぼくがしらべて、わかったことは京子さんに知らせます。だから、あなたは、当分このことは忘れていてください」
「そんな大変なことなの? 危険が起きるなんて」
「しらべてみなくてはわかりませんけれどね。くれぐれも、好奇心なんかおこしてはだめですよ」
「そう言われたら、好奇心持ってしまう」
「いけません。忘れていてください」
秋弘は、くどいほど念を押した。
あこたきさまのもとしげはつ≠ヘ、藤谷和正が尚子を殺してまで秘密にしようとしたことかもしれないのだ。
京子には意味不明かもしれないが、秋弘にとって、しげはつ≠ヘ問題ない。
茂太郎さま、はつより≠フ略である。
あこたきさまのもと
この短い一句が、雲隠の古写本の存在を示しているというのだろうか。
はつが、きさま≠ネどという乱暴な言葉を使うはずはないから、これはあこたき様≠ナはないだろうか。雲隠≠ヘ、あこたき様の許《もと》≠ノある、と告げているのだろうか。
若紫は、原文をそのまま用いている。わざわざ、文章をつぎはぎにしてくもかくれ≠でっちあげたのは、やはり、古写本の存在をつたえるためと思うほかはない。
あこたき≠ニは、人名としてはずいぶん奇妙だ。もっとも、珍姓奇名は世に数多い。阿古滝などという苗字が存在しないものでもない。
秋弘は、宇治に電話をかけ、母にたしかめた。
「あこたき≠「う人、知らん? おばあちゃんの知りあいに、いてへんやろか」
「知らんわなあ、そないな人。何でやね」
「親類の年寄りに訊いたってんか。あこたきいう人知らへんかて」
茂太郎は、あこたき様≠フもとに雲隠があることを、はつから知らされた。すると、彼はその後、それを入手したのだろうか。雲隠は、山本家のどこかにかくされ、茂太郎はその秘密を持ったまま、死んだのか。
彼は自殺したという。死ぬ前に、それほど重大なことを、だれにも明かさなかったのか。
くもかくれ≠、『源氏物語絵巻集成』のあいだにしのばせたのは、あこたき様≠フもとに、雲隠があると、遺族にひそかにしらせるためか。
そんな手のこんだことをしなくても、口頭で告げればすむのではないか。
秋弘は、思い迷った。
2
一枚の小さい紙片が、突然、全くちがった道を秋弘にさし示すことになった。
汚れたズボンを、そろそろクリーニングに出さなくてはと、ポケットをふくらませている小物をとり出した。日曜日だった。
尻ポケットに、くしゃくしゃになった紙があった。
捨てようとして、ふと、書いてある文字に目をとめた。
彼は、紙片の皺をのばした。
簡単な系図である。彼の名も書かれてある。
何でこんなもの? といぶかしみ、思い出した。
和正に命じられ、はつの過去をしらべに宇治に行ったときだ。長兄が、ありあわせの紙に書いてみせたのだ。
たき≠ェ、この系図の中にいた。
和正の父、義隆の、最初の妻である。後妻が綾子、その息子が典雄だが、長兄は、そこまでは書かなかった。
はつは、雲隠古写本が多喜のもとにあることを知り、茂太郎にそれを知らせたのだろうか。
すると、あこたき≠フあこ≠ヘ、何を意味するのか。
多喜の旧姓が、阿古とでもいうのだろうか。
それを、だれにたしかめたらいいか。和正に訊くわけにはいかない。
藤谷綾子も吉川珠江も、彼に好感は持っていないはずであった。彼の行動の結果、典雄の罪状が発覚したのである。
彼は、もう一度、宇治の母に電話をかけた。
「何やの、たびたび呼び出して」
「藤谷義隆いうたら、お父ちゃんの叔父さんやろ。もうなくならはったけど」
「そうやし」
「その嫁はんの実家の苗字、知っとる?」
「お多喜叔母さんの実家か。安田《やすだ》いうたはったよ」
「安田? 阿古とちがう?」
「あこ? そないな苗字、あるかいな。あこいうたら、我が子いう意味やないか」
「え? ああ、我が子いうの、あこ≠「うな。古い言葉やな」
「そうや。昔の言葉は、優雅やな」
吾子《あこ》、多喜さまのもと。しげ、はつ
わたしの子供は、多喜さまのもとへ。茂太郎さま、はつより
はつは、茂太郎に、そう告げたのではなかったか。
秋弘は、眼から鱗が落ちるという感覚を、まざまざと味わった。
はつの子供は、晴子と武久である。
晴子を多喜の息子和正に嫁がせたことを言っているのか。
なぜ、そんなことをわざわざ茂太郎に告げる必要があるのか。それも秘し文で。
晴子は、茂太郎とのあいだの不倫の子であったのだろうか。
いや、ちがう。晴子が和正と結婚したとき、はつはすでに他界していたはずだ。
茂太郎に秘し文で知らせなくてはならない吾子=B
和正なのだ! と、秋弘は身の震えを感じた。
遠い過去のことである。推測で埋めなくてはならない部分は多いが、秋弘は、次のように想像した。
はつは、茂太郎の子をみごもった。夫利勝とのあいだにできるはずがないときに、みごもったとしよう。利勝が旅行中であったとか、そのころ躯の交わりがなかったとか。
長期旅行中だったかもしれない。はつは、懐妊と出産を秘密にしとおさなくてはならなかった。病気と称して実家に帰っていたかもしれない。
一方、多喜は、子供に恵まれなかった。
多喜とはつは、親しく心をゆるす間柄だった。多喜は、はつの生んだ子をひきとった。はつの子とは誰にも告げずに。戸籍も、自分の子として届けた。それが、和正だ。
すると……と、秋弘は、系図を見ながら、愕然とした。
和正の先妻晴子と、和正は、戸籍の上ではいとこだが、異父姉弟ということになるではないか。
晴子と和正が結婚したとき、はつは死亡しており、多喜も死んで綾子が後妻にきていた。血の秘密を、だれ一人知らなかった。
山本茂太郎の遺品くもかくれ≠ゥら、和正は、自分の出生を悟った……。
3
淡い藤色の、鳥ノ子紙の封書が郵便受けに入っていた。名前を見るまでもなく、差出人は察しがついた。秋弘の身辺に、倉田ふみ以外に、筆書きの便りをよこすような人物はいない。
五月の季節にふさわしい時候の挨拶やら、ご無沙汰にのみ打ち過ぎ、といった文言のあとに、
……差し出がましいようでございますが、いつぞや拝見させていただきました、はつさまの御遺品のなかにあったという若紫≠フ写し書きにつき、いささか気にかかることがございますので、一筆したためさせていただきます。
あのとき、わたくしは、手もとにある文庫本に、写し書きでは変体仮名で書かれている文字に丸印をつけたのでございました。今日、たまたまその本を読みかえしておりまして、はっと気がついたのでございます。
わずらわしくお思いになりましょうが、若紫の一節を左に書き写します。丸でかこった文字は、変体仮名で書かれてあったものでございます。
きみは○ふ○つ○か みか、○う○ち○へ も○ま○ゐ○り○た○ま はで、この人をなつけ語らひ聞○え 給ふ。やがて本に、と思すにや、手習、絵など様々に書きつつ見せ奉り給ふ。いみじうをかしげに書き集め給へり。(後略)
ふつかうちへまゐりたまえ。
これが、かくされた文でございました。
もう、お気づきと思いますが、この短い一文のなかに、旧仮名づかいと新仮名づかいが混用されております。
はつさまがお若いころ受けとられた恋文であるのなら、旧仮名のみが用いられるはずでございます。即ち、
ふつかうちへまゐりたま○へ
○へ という文字が文中になければ、しかたなく○え をあてるということも考えられますが、つづく文章に、書き集め給○へ り≠ニございます。
せっかくの美しい恋物語に水をさすようでございますが、若紫のかくし文は、どなたかのいたずらではないのかと……思ってしまうのでございます。
よけいな差し出口をして、と、倉田ふみはひどく恐縮しながら、いたずらだという自説に自信があるようで、はつの若いころは、まだ新仮名づかいはなかった、古典に恋文をしのばせるほど教養のある人物なら、まちがった仮名づかいをするはずはない、このかくし文を作ったのは、戦後の新仮名の教育を受けた人間にちがいない、と言いきっていた。
秋弘は、足をすくわれたような気がした。
それと同時に、いや、自分も、何かおかしいと、漠然と感じてはいたのだ……と思った。
何かおかしい、という感じが何に由来するのか、わかっているようで、もう一つはっきりしない。
もどかしく、彼は源氏物語をひろげた。長大な物語を読みとおすことなど彼の力ではとうてい無理で、解説文だの注釈だのを、漫然と眺めていた。
そのうちに、一つの仮説が、ゆるやかに姿をみせはじめた。
彼が阿蘇の加瀬に電話をかけたのは、一週間後である。
「何か、はっきりした証拠がみつかったんですか、副社長が剣持さんを殺した」
加瀬は、いきごんでたずねた。
「いや、そうじゃないんだ。ききたいことがある。焼けた事務室には、車の使用記録のほかに、いろんな記録が保管されていたわけだろう」
「もちろんですよ。まず第一に、レジスターカード、つまり宿泊者の名簿でしょ、それから金銭の出納、従業員の身上書、細かいことでいえば、マスターキーを使えば使用者の名前や理由がその都度記録されるし」
「電話は?」
「外部からかかってきた電話は、記録されません。ホテルの中から外へは、かけたときは、相手の番号や通話時間、通話料が自動的に記録されます」
「部屋からフロントにかけると、室番号をいわなくても、どこの部屋からか、フロントはわかるだろう。あれは、どういう仕組なんだい」
「内線の受話器をフロントがとって、線がつながりますね。そうすると、フロントの電話機の、ダイヤルのまん中の丸いところに、室番号が出るんです」
「それは記録に残るの?」
「いいえ、そこまで細かくは記録しませんよ」
「その、電話の記録も、全部焼けたんだろうな」
「ええ。何か、必要なんですか」
「それを焼いたということが、一つの裏づけになるんだよな」
「じゃ、すぐ警察に」
「いや、目にみえる証拠じゃないから……」
4
「そりゃあ、人生に、一つや二つの偶然はあると思います」
秋弘は言った。
火口の上の空は、暮れかけていた。
しかし、相手の表情が読みとれぬほど暗くはない。
「でも、一つの事件に、あまりに幾つもの偶然が重なると、そこに何かの作為を感じたくなります」
火口から噴き上げる白煙は、硫黄のにおいをただよわせる。
「最初、ぼくが出会った偶然は、藤谷綾子会長の家で電話の受話器をとったとたんに、ミキの声をきいたことです。まあ、このくらいの偶然は、あり得ることかもしれない。しかし、あなたが宿直の夜に、一人の自殺者があった。その自殺者が、はつの昔の恋人であった、ということになると、どうでしょう。しかも、その恋人の遺品のなかに、はつから昔おくられた、二人のあいだの不倫の子が和正さんであることを暗示するものがあった」
吉川珠江は、無言であった。
秋弘は、二枚の紙片をひろげた。
「見てください。一つは、藤谷家の家系図です。不必要な名前は、わずらわしいから〇で示してあります。もう一枚は、光源氏の系図です。見くらべて、ぼくもようやく気づいたんです。実によく似ている。
今さら、ぼくが言うこともないけれど、話の順序だから、きいてください。すべては、藤谷和正と、美しい若い継母綾子との不倫の恋にはじまっています。
綾子にとって、その恋がどのようなものだったか、ぼくにはわからない。しかし、当時十五歳の少年だった和正には、決定的な体験だった。わずか四つしか年のちがわないあえかに美しい人を、どうして母と思えるでしょう。綾子をみごもらせたと知ったとき、和正は罪のおそれにおののいた。ほとんど自殺もしかねない少年に、綾子はこの上なく美しい物語を与えた。二人の関係を、光源氏と藤壺の愛になぞらえたのです。その物語で、和正の心は救われた。光源氏と藤壺の恋は、不倫でありながら、至高のものとたたえられてもいるではありませんか。その後、和正は、光源氏の軌跡を生きる以外に、生きるすべはなくなった。光源氏であるからこそ、綾子との愛は許される。たたえられる。
紫上は、理想の女性として描かれています。しかし、彼女の心に修羅はなかったろうか。源氏は、自分の女たちに贈る着物を、紫上に選ばせている。和正は、あなたに、尚子の妊娠の検査をさせている。あなたは、和正の行為のすべてを許す存在でなくてはならなかった」
珠江の顔の上に、地底の炎がゆらいだ。
「この数週間、暇をみては、ぼくはいろいろしらべてまわりました。桜丘病院の看護婦が何人か、あなたが妊娠しているらしいと言いました。つわりの時期は、どうにか過ぎたようですね。
和正は、あなたとのあいだに子を持とうとは、決して、しなかった。紫上は、あれほど源氏の愛を享《う》けながら、子供には恵まれなかったからです。和正はあなたにも、紫上であれという強迫観念を幼いときから植えつけたんですか」
珠江の瞼が一瞬薄く濡れたように、秋弘にはみえた。
「あなたと綾子だけなのでしょうね、和正の源氏|オブセッション《とりつかれること》を知っているのは。でも、あなたは王朝の女じゃない。和正の命にそむき、――あまり露骨な言葉は使いたくないけれど――避妊の手段を用いず、自分の意志で妊《みごも》った。それとほとんど同時に、尚子の懐妊を、あなたは自分の手で検査し、その結果を知らなくてはならなくなった。……ぼくの子だと、尚子は言いました。柏木と女三ノ宮です。和正は、自分の子として育てるつもりだ。源氏がそうしたように。
あなたは、心に願った。切望した。和正の正式の妻となること、そうしてあなたの妊った子供を和正の嫡出子として認めさせることを。あなたの年齢は、子供を生めるぎりぎりの限界にきている。
そのためには、なすべき重要なことが、二つあった。一つは、尚子を妻の座から追うこと、もう一つは、和正の源氏妄想を打ち砕くことだ。和正が自分を源氏に、あなたを紫上になぞらえているかぎり、あなたの望みは認められない。
ふつうなら、妻の不倫は離婚の理由になる。しかし、和正は、柏木になぞらえたぼくを、わざわざ女三ノ宮――尚子に与えたのだ。とっくに承知のことだ。離婚はのぞめない。尚子を妻の座から追う手段は、一つしかなかった」
あなたは、その前に、典雄にたのまれて剣持ミキの中絶手術もおこなっている、と、秋弘はつづけた。珠江は無言なので、彼は、火口にむかって喋りつづけているような錯覚を持つ。
「ミキはあなたに信頼感を持った。あなたには、若い女の子が憧憬し信頼をおきたくなるようなところがある。
ミキは、あなたに話していた。気持にけりをつけるため、海外に出たい。ちょうど、カメラマンとしてヨットに乗りこむ話があるのだけれど、そのためにはかねがいる、ということを。
たまたま、あなたが当直の夜、一人の老人が自殺した。老人の所持品であった『源氏物語絵巻集成』がおき忘れられていた。それを手にしたとき、綿密な計画が芽生えはじめた。
和正の源氏オブセッションを砕くことができる。和正が、義隆の子であればこそ、美しい継母との恋は、光源氏と藤壺にかさなるのだ。
あなたは、変体仮名による秘文入りの若紫≠ニ雲隠≠つくりあげた。
山本茂太郎の遺品から発見されるべきものに、ありもしない雲隠≠用いたのは、和正の手にわたす、もっとも自然な口実になるからだ。
一方、まず興信所員を使って、はつが、源氏を恋文に利用してもおかしくない教養があることをたしかめた上で、ミキに命じ、若紫≠はつの遺品のなかにしのばさせた。このとき、ミキはシナリオライターと称している。この奇妙な行為を、理由をきかないでする代償に、海外行きに必要なかねを、あなたはミキに与えた。
ミキは、一年間、国外にいる。帰国するころはすべて終わっている。一年という時がたった後なら、尚子が死に、あなたが和正と再婚しているのを知っても、ミキが疑いを持つことはない、という計算であった。
ところが、ミキは詐欺にあい、かねをだましとられ、国外に出るどころではなくなった。
ミキは、あなたに訴えた。
ミキの目の前で尚子を殺し和正と再婚するのは、不安だった。あなたに命じられた奇妙な行動を、ミキがどうかんぐらないものでもない。ぼくの母などがミキを見れば、あのときのシナリオライター、と思い出すかもしれない。
あなたは……ミキを尚子殺害に利用し、同時にミキをも抹殺するよう、計画を変更した……」
暮色が濃さを増した。むかいあって立った珠江の姿は、薄闇のなかに黒い岩のようだ。
「あなたは、ミキに、典雄に意趣返しをする方法を教えた。典雄に恨み言をつらねた後に、典雄の目の前で自殺する。もちろん、本当に死んでしまうのではない。自殺したとみせかけて姿をかくし、その後、姿や声をちらつかせて、おどしてやりなさい。典雄はノイローゼ状態になるだろう。そう吹きこんだ。
効果的なのは、野焼きの夜、碧もいるところで、それをやることだ、と教えた。
野焼きの日、ミキは、あなたの車で、東京から阿蘇に来た。車は、火口のそばの駐車場におき、バスで赤水に下り、あなたの部屋にかくれた。
夜、典雄とあなたはホテルのバーで飲み、部屋に戻ってきた。典雄の部屋に、二人で入る。ベッドの上に、ミキが手首を切ってうつ伏せになっているのを発見する。
ミキは手首を水をみたした洗面器につっこんでいる。血が止まらないためだけれど、実は、手首を切ってはいないのをごまかすためだ。
典雄は逆上する。あなたは、典雄に、シーツをとってくることと、ホテルの車を非常口の下にまわすことを命じる。
典雄が出ていったすきに、ミキは起き上がり、非常口を下りて、先にそこにとめておいたカローラで走り去る。行く先は、火口である。火口のそばにカローラを乗り捨て、駐めておいた珠江の車で東京にむかう。
典雄がリネン室に行っているあいだに、あなたは、眠らせて手首の動脈を切り殺害した尚子の躯――裸体だ――を典雄の部屋にはこび入れ、ベッドに横たえ、シーツでくるむ。あなたと典雄の部屋は隣りだから、ヴェランダを通れば人目にはつかない。キャンバスの間仕切りは、壁とのあいだに隙間があるから通りぬけられる。
典雄が下にとめたサニーに、シーツでくるんだ尚子の骸《むくろ》をはこび入れる。典雄は、ミキの骸と思っている。
山中に、はこんで埋めた。埋める前に、万一発見されたとき、身もとが割れると、動機のある典雄が厄介なことになるからと言って、シーツでくるんだ上から、顔と手を……」
秋弘は言葉をのんだ。残酷な言葉を口にできなかった。黒い岩のような珠江の躯が、そのとき大きくふるえるのを、秋弘は見た。
「翌日、尚子の行方不明がわかり騒ぎになったけれど、典雄は、自分が埋めたのはミキの自殺死体だと思っているから、尚子は、自分とは関係なく、火口に投身したものと思う。他の者たちは、ミキのことは知らない、尚子が自殺したらしいと、それだけを問題にしている。
東京に帰ったミキは、あなたの部屋に隠れて、あなたの帰りを待っていた。この後、しばらく典雄を脅してやるつもりだ。あなたは、ミキには、何か適当なものをシーツに包んで死体にみせかけると説明してある。尚子の失踪騒ぎが耳に入る前に、ミキは命を絶たれた。あなたによって。今度は、どこに埋めたんですか。それとも、水中に投じたんですか」
沈黙は夜のように重く肩にのしかかる。
「それで、けりはつくはずだった。あなたは二つの目的を果たした。尚子をのぞくことと、和正の強迫観念を砕くこと。ところが、あなたの予想しない手ちがいが生じていた。ウィスタリア阿蘇で、あなたの部屋にひそんでいたミキが、ぼくと、兄の剣持に電話をかけたことだ。ぼくへの電話は、問題なかった。部屋から部屋への電話は、記録に残らない。ところが、剣持への電話は……。ホテル内にいる剣持を呼び出すには、フロントを通じなくてはならない。部屋から直接フロントにかけたら、室番号がわかってしまうという知識は、ミキは持っていた。だから、0をまわして外線につながるようにし、ホテルの大代表の番号をまわした。これで、外部からかかったことになる、とミキは思った。ところが、外線を使った場合、自動的に記録が残ってしまうのだ。
この記録に目をとめたのが、ミキの兄の剣持綱男だ。ふつうなら、記録に記された数字の一つ一つなど、だれも気にかけはしない。しかし、剣持は、ミキの消失の手がかりをつかもうと、いろいろしらべていた。
あなたの部屋から、外線でホテルに電話がかけられている、という奇妙な事実に、剣持は気づいた。フロントに直接かければすむことを、どうして、こんなやり方をしたのか、と考えたとき、ミキからの電話に思いあたったのだ。
ミキが、あなたの部屋から電話をかけてきた!
剣持は、即刻、あなたにたしかめずにはいられなかった。そうして……」
珠江は、はじめて声をたてた。吐息とも呻きともつかぬ、短い嘔吐に似た声であった。
「ホテルの事務室に残る記録が、あなたは気がかりだった。ぼくが何かとさぐりまわっているし。あなたは、記録を焼いた。ホテルの一部といっしょに。ぼくを、その騒ぎのあいだに、事故にみせかけて抹殺することも、あなたは考えていたのだろうか……」
返事はなかった。かすかに首をふっているようにもみえたが、それは秋弘の内心の願望が与えた錯覚かもしれなかった。
「典雄は、自分の窮状を、あなたが手助けして糊塗してくれたと恩に着ているから、死体の埋葬にあなたが手を貸したことは警察には話さない、自分一人でしたことだと申し立てている。しかし、自殺死体の埋葬であることを警察が認めず、他殺の嫌疑で起訴されたら、証人としてあなたの名を出すでしょう。……もっとも、その場合、あなたの罪は軽い……。死体遺棄も損傷も、典雄がやったことで、あなたはやむを得ず幇助《ほうじよ》しただけということになるのだから」
「どうするの」
ほとんど闇に没したなかで、珠江が、はじめて口をひらいた。
「わたしがすべてを認めたら、待ちかまえている警察官が、わたしを逮捕する、というわけ」
「いいえ、そんなことはしない。ぼくはまだ、だれにもぼくの推察は話していない。あなたは、一つ、大きなミスをした。若紫の隠し文に、新仮名使いを混用してしまった」
「いいえ、わたしは……そんな小さなことじゃない、もっと……どうしようもないミスをした」
珠江は言った。
「和正さんはくずれてしまった。まるで廃人のようになってしまった。いいえ、出生を疑わせるわたしのからくりにひっかかったためじゃない。若紫と雲隠を、わたしが細工したということを、まず、彼は疑ったわ。考えてみれば当然だわね。あまりに偶然性が強すぎることだった。細工できるのは、わたししかいない。そうして、尚子さんの死。和正さんは、あなたほど精密に細部まで考えぬいたわけじゃない。でも、あなたよりもっと適確に、わたしのしたことを感じとった。だから、あの人は、くずれてしまった。あの人が育て上げたのは、理想の女、紫上ではなかった。嫉妬と利己心と……そして……愛のためにと言わせてちょうだい……殺人をいとわない夜叉だった。それがみえたとき、あの人は……。わたしは、何のために……」
火口の底の地鳴りが、秋弘の足から腹につたわる。
「あなたに、阿蘇にいっしょに行ってくれと言われたとき、わたしは、ことわらなかった。あなたが何を言うつもりか、察しがついたわ。……警察が本腰をいれてしらべれば、証拠はみつかるかもしれないわね。あなた一人の力ではみつけられなかったことが。阿蘇から車で帰るミキをフェリーで目撃した人もいるでしょうし」
「ぼくを、どうしますか」
「あなたは、わたしをどうするの」
秋弘は、近寄った。腰に手をまわして抱き寄せ、くちびるを重ねた。地鳴りが二人を包んだ。
本書は、一九八五年六月、講談社ノベルスとして刊行されたものです。