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アメリカ嫌い
灰谷健次郎
目 次
満 願
二つの結婚式
人間の輪
職業の今昔
もの書きの嘆き
なんだかわからない
含羞《がんしゆう》の文学
行動する老人
牧口さんのこと
遊美術
体について
疲れる
サンゴの嘆き
老人と海
神戸は今
イカとタコ
縁は異なもの
アメリカ嫌い
子どもの本が危ない
言葉と心
ある生き方
嗚呼《ああ》 武田イクさん
二年ぶりの韓国で
友愛という糸
先達の足跡
父の形見
再び、張さんのこと
景気について
小さな小さな話
島の冬
新聞好き
愚かさと哀しみ
便利さの裏側で
再び、死について
貘さんのこと
仕事嫌い
残された詩
仕事について
無知と無恥
ミン君という子
島の春
あとがき
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満 願
太宰治の小説に『満願』というのがある。なじみの医者の家で見聞きした話として描かれているのだが、薬をとりにくる若い女性は、病の夫との夫婦事を医者に禁じられている。
八月のおわりに、私は美しいものを見た、と太宰は書く。
――ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるまわした。
医者の奥さんがそっと囁《ささや》く。
「ああ、うれしそうね。けさ、おゆるしが出たのよ」
なかなか味な小説である。
じつは、わたしも今、満願を待ちわびている。もっとも、わたしの場合はそんな艶《つや》のある話ではない。
二十一日間の禁酒を自分に課した。もうすぐ満願なのだ。
それがどうした、といわれそうだが、少しおつき合い願いたい。
人間には誰にも泣きどころというものがある。
自分でいうのもなんだが、わたしは欲望を、かなり制御できるようになったと思っている。自ら律する心はあるつもりだ。
泣きどころは酒かなあと思う。
酒癖の悪い方ではないのだが、ついつい飲みすぎるとか、体調を考えて、今日はやめておこうと思っていたのに飲んでしまったとか、酒を飲んで、友だちにきついことをいってしまったとか、酒の上の後悔というものがどうしても残りがちなのが悔しい。
酒に負けているのが腹立たしいのだ。
それで一年に一回、三週間の禁酒を自分にいい渡す。肝脂肪が消える期間を一応の目安にしている。
酒を断ってみて、アルコールは薬物の一種だなと、つくづく思う。
禁断症状が出るのである。
症状は人によって違うのだろうが、わたしの場合、はじめの三日間、ほとんど眠れない。そこからの三日間ほどは逆になって、いつも眠気があり、一日中、頭がボーとしている。
一週間は相当つらい。
一定期間、酒をやめようとしても、たいてい、この間に挫折《ざせつ》する人が多いものと思われる。
ここをしんぼうすれば、後はラクだ。ラクというより心身きわめて爽快《そうかい》で、こんなに気持ちがいいのなら、いっそのこと、もうずっと酒をやめてしまおうかと思うくらいの「誘惑」を覚える。
朝、目覚めて、うーんと背伸びする、よかった、よかったと思う。
酒、飲むもよし、飲まぬもよし、オレは両方の快楽を勝ちとったぞ、と誇らしいのである。
酒のない人生もさびしいが、酒に追われる人生も、後ろめたい。
酒は、わたしにとって魅力もあるが、厄介な友だちでもあるというところが憎い。
今、満願の日に飲む酒と、酒の肴《さかな》をあれこれ考えている。これまた楽しい。
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二つの結婚式
結婚式というと、うんざりする。どうしても出席しなければならないときは、朝から機嫌が悪い。
式場が××殿なんていうと、そこで耐える時間を思って、もう死んでしまいたいような気になる。
そんなわたしが、続けて二つの結婚式に出席した。わたしの、そのような気持ちを完全に払拭《ふつしよく》してくれたのだった。
井筒陽子さん・宮寺高雄さんの結婚式は人前式。口の悪いのが道端式といっていた。
サンドイッチとワインで有名な店先を借り、式の後の軽食は、みんな、そこでとるので、場所代はタダ同然。
「神主さんも神父さんもおりませんから、この結婚を認めるかどうかはみなさま次第です。認めましょうという人は拍手をしてください。あかん、あかんという人は拍手はしない。よろしいですか」
ユーモラスな司会で式は進む。二人の名前を呼ぶときは、必ず女性が先なのである。
新郎新婦というけれど、なんで、いつも男が先やねん、なめとんかァ……という気構えが、参加者全員にあるというわけ。
じつは二人の出会いは、阪神・淡路大震災のボランティア活動だ。現在の二人は、戦争と平和を考える若者の運動体「ピースボート」のメンバーである。
結婚式にも、二つの活動から学んだことが、ばっちり活《い》かされていて、質素で、それでいて人々の真心がこもり、まことにさわやかだった。
作家の小島信夫氏がおられ、わたしは恐縮して、この先達にあいさつをする。『アメリカン・スクール』『抱擁家族』『私の作家評伝』、みな、わたしの愛読書である。
「孫娘がお世話になります。ありがとう」
大作家は静かな物腰であった。
いま一つは、沖縄・渡嘉敷島《とかしきじま》で農業をやって、がんばっている久野裕一さんと伴侶《はんりよ》になる加藤千晴さんだ。
二人は同じ東京の大学出身なので、その大学の学生食堂で、披露パーティーがもたれた。
学生食堂というのがいいじゃありませんか。
なんの儀式もなし。
出席者全員が、ただひたすら二人の人柄、出会い、エピソードを語るというユニークなもの。
当然ながら話は、感動、笑い、涙ありの大充足の時間、空間が現出した。
途中で、クノ君の渡嘉敷島での、ニワトリとの生活が、スライドで上映され、参加者はうらやましそうな顔で眺め入っていた。
チハルさんも、クノ君と共に島で働いた経験を持っている。
島で親代わりをしてもらっている當山清林《とうやませいりん》さんの妻、恵子さんが、思いこみだけじゃ島の生活は続かない、時間をかけて、よく考えてきなさい、といって、いったん島から彼女を出した。
パーティーの最後、チハルさんはしっかりわたしの手を握っていった。
「わたし、がんばります。がんばれます」
わたしはいった。
「ぼちぼちね」
やがて二人に、それぞれ新しいいのちが誕生することだろう。
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人間の輪
自分さえよければよいという考え方は、個人にあってはエゴイストを生み、企業やメディアにそれが生じると、あくどい商業主義と文化の退廃を招き、結果として、人命や自然を破壊する勢力となる。
国家は……?
これがいちばんこわい。戦争の原因は、すべて国家(一部、民族も)のエゴイズムによるものと断定してさしつかえない。いうまでもなく戦争はいのちの抹殺である。
沖縄の環境を守る運動、軍事基地反対運動の根底には、この分析と、思想があることを理解しなくてはならないだろう。
さる五月十七日、周囲十一・五キロの普天間《ふてんま》基地を一万六千人の人々が、互いに手をつなぎ合って囲み、見事に「人間の輪」を成功させた。
その目的は、直接的には普天間基地の無条件返還、米海兵隊の削減などであるが、その心は、みな(世界中の友よ)仲良くして楽しく暮らしましょうという、あらゆるものを包みこむ、いわゆる「沖縄の心」そのものの具現である。
はじめ「人間の鎖」としていたものを「人間の輪」に改めたのも(間に合わず「鎖」とした新聞記事もあった)その心だし、今、新たに海上軍事基地建設案が持ち上がっているもともと運動に無縁だった名護《なご》市|辺野古《へのこ》の女性やオジイ、オバアの参加もそうだし、この包囲そのものが多くの子ども、若者のお祭りの観を呈したのも、その表れである。沖縄の新聞に報道された写真を見ても、人々の笑顔が咲き乱れていた。
「人間の輪」は、三度結ばれ、その合間には歌と踊りがあり、有意義に終了した。
有意義にしようとしなかったのは日本政府である。翌々日の『琉球新報』によると、政府高官の分析として「予想より参加者が少なかった。沖縄県民は普天間の返還問題を冷静に見ている。現実的対応が必要だという意思の表れではないか」とあった。
そして次に、こうある。
(包囲行動について)那覇防衛施設局が現地情報を橋本龍太郎首相ら官邸サイド、防衛庁首脳まで報告。それによると警察情報として一回目の包囲行動に六千三百人、二回目に八千人、三回目に九千人が参加し、人の輪は「三回ともつながらなかった」と分析している。
もちろんこの報告は事実に反するが、一回目、人の輪にダブリがあり、三十五ポイントに配置された連絡員が本部と連絡をとり、二回目、三回目は成功させたという経緯がある。ミスともいえないミスをとり上げ、捏造《ねつぞう》の報告をしたわけである。
基地従業員が組織的に参加しなかったことを、鬼の首でもとったようにいうが、個人が二百人も参加した事実はどう考えるのだろうか。こんなひどい報告をする方もする方だが、これを受けて政治上の判断をする政府要人の存在を思うと、ぞっとするのはわたしだけではあるまい。
くり返すが、沖縄の基地の問題は、直接、いのちと、国の倫理の問題なのである。沖縄の人は沖縄のためにだけ行動しているのではない。
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職業の今昔
職業に貴賤《きせん》はないが、職業に人気、不人気はあると、どこかに書いてあった。なるほど本音と建前の違いかと妙に感心したことがある。
むかしのことになるが、わたしが教師をしていたころ、子どもたちに将来、なにになりたいかと問うと、たいていの子が、学校の先生、看護婦さんなどと答えたもので、その理由は人のためになり、喜んでもらえるから、と至極もっともな心がけだった。
それがいつのころからか野球の選手、歌手などとほざくようになり、近ごろにいたっては、デザイナー、イラストレーターなどと、こっちが、うへーというような職業をあげる。
これはあきらかに社会を反映している。
「人のためになり、喜んでもらえるから」が「カッコいいから」に変わっていく空虚な社会はいったいなんなのか。
わたしは定時制高校出身なので、四年間、さまざまな職業を転々とした。店員、外交見習い、港湾労働者、印刷工、電気溶接工、組合書記、なんでもやった。
もの書きになりたかったが、食って学校に通うためには、なんでもやらなくてはならなかった。
そういう時代だったんだ、と簡単にかたづけてもらいたくはない。
それが生きることであり、学ぶことであったのだ。
人と金という泥の海で、のたうちまわって、少しずつ人間と社会を知っていく。人のこわさも優しさも学んでいく。
人生はそうして成っていくものだろう。
カッコいい職業にあこがれる子どもや若者に、痛ましさを覚える。かりにそれが彼らの夢だとしても、夢をかなえるまでに、徹底的に自分を痛めつける勇気を持ってほしい。
若い人から手紙をよくもらう。
自分は何一つ不自由のない家庭に育ち、それに感謝しつつも自分がなにをしていいかわからず、どう生きてよいか悩む毎日です。そういう手紙がけっこう多い。
先方もそうだろうが、わたしも一つ、ため息を吐く。
親が子に接している態度を見ていると、ひたすら子どもをなだめ、子どもの言い分を吟味するでもなく、その場、その場を過ごしているようである。
学資を出すのも当たり前、結婚式も親持ちで、温室の花はそうして育っていく。
地味で苦しいことはやりたがらず、カッコいいことにのみあこがれる若者が現れても、これまでのつけがまわってきたと思うより仕方ないだろう。
子を責めるわけにはいくまい。
問われているのは、わたしたち大人である。
子に罪はない、という言葉が好きだ。これをしっかり受け止めれば、わたしたちはなにを為せばよいか、自ずと明らかになる。
今朝の新聞に載った雑誌の広告を見ていると、こんな活字が躍っていた。
壊れた教育、思考する力、育たぬ土壌、「読書」「遊び」「手伝い」を奪った罰。
子どもの亡霊は叫んでいる。
奪われた暮らしを返せ。
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もの書きの嘆き
知人が、どうにも納得いかない、といって、模擬テストの答案用紙を持ってきた。
冒頭、拙著『天の瞳《ひとみ》』が出題されていた。
蛇の傍らに落としてしまった老婆の財布を、主人公倫太郎が拾うことから起こる教師との確執を描いた部分が掲載されていて、いくつかの設問がある。
そのうちの一つに「問題文から読みとれる倫太郎の人物像を簡潔にまとめよ」というのがあり、解答者(知人の息子で高校生)は、「少林寺拳法《しようりんじけんぽう》を習っている物事の本質を見ぬく目をもった強くやさしい小学生」と書き、減点されていた。
朱が入っていて、「ここはおばあさんの巾着《きんちやく》を拾い上げた行動からわかる人物像」と添え書きされている。
わたしは、うーんと唸《うな》った。
解答者は出題そのものに疑問を抱き、減点されることを覚悟の上、先の解答をしたものと思われる。
彼は、答案感想欄に、次のような文章を書いている。
「小説を読むという問題を、受験で必要と理解していないから、僕のプライドが解かせまいとする。どうすればいいのか。それにしても下らない。僕の価値観に合わない問題が多い」
わたしには、こう書いた少年の気持ちがよくわかる。
彼は、この時点で『天の瞳』TとUを通読している。そんなわずかばかりの部分で、倫太郎像を想像させるのは矮小《わいしよう》に過ぎる、と彼は憤慨しているのだ。
作者としてありがたいのは、彼のような読者を持つことであり、はなはだ迷惑なのは、このような問題の作成者であり、添削者の存在である。
一度、公刊してしまった作品は、どう使われても仕方がないという認識はあるというものの釈然としない。
こういう「被害」は、しょっちゅうである。
『ろくべえ まってろよ』という小学二年の国語教科書に載っている童話作品がある。
穴に落ちた犬を、子どもたちが知恵を出し合って助けるというストーリーだが、テストで、こんな問題が出た。
「ろくべえの落ちた穴は、どれくらいの深さですか」
ある子どもが「三メートル四十五センチ」と書き、バツをもらっていた。
四十五センチというところまで、いっしょうけんめいに考えてくれたのだ。
わたしは、そこまで考えてくれた子がいとしい。
なぜ、ペケなのか、きいてもらったところ、文中どこにも、三メートル四十五センチの記述はない、というのが、その回答だった。
わたしは学校とか教師の冷たさを感じた。
出題者は出題者の言い分があるだろうと思う。しかし、性質上、事前に許可を求めるわけにはいかないといわれ、いのちを削るようにして書いた作品を、本意でない使われ方をされ、傷つく子どもや若者を見なくてはならない、もの書きの嘆きを、いくらかは察してもらいたい。
誰も、他者の人生の添削はできない。
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なんだかわからない
放浪の俳人|山頭火《さんとうか》と放哉《ほうさい》は、一方は山の中を歩き、一方は海沿いを歩いたという話はよく知られている。
さしずめ、わたしは後者か。
好みとかライフスタイルは人さまざまで、そこが面白い。
そんなことを思ったのは、身内を病院に見舞ったときだ。
個室を逃れて四人部屋にきたという。
独りは寂しくて堪えられないらしい。
わたしは常々、死ぬときくらいは人に看取《みと》られずに(医療関係者は別)、できるならばさっぱり死にたいと口走っているから、病のときに人のそばというのが考えられないのである。
死ぬときひとりになるのがこわいとか、妻や子、友人に看取られて……というのが、よくわからない。
死ぬときくらい人のしがらみや煩わしさから解放されたい。
わたしは今から周りの人に頼んでいる。重い病気になったら、ベッドを上の部屋の窓側に置いてほしいと。
そこは慶良間《けらま》のうつくしい珊瑚《さんご》の海の他には何も見えない。どこまでも遠く、青い海原にひとり、ぽつんとある、というぐあいだ。
孤独不感症といわれたことがある。
わたしは得な性分で、友だちとわいわいやるのも好きだが、独りでいても、それが苦になるということはない。
なんだか自分がよくわからないのである。
樹木希林《きききりん》さんがロケの帰り、渡嘉敷島の家へ寄ってくれた。
この人はわたしと反対で
「どちらかというと穴蔵のような空間が好きだね」
という。
おおぜいの人の中も苦手の方だという。
すると、なんだか筋が通るのである。そう思っていたら
「ハイタニさんの家もいいね」
という。わたしの家は明る過ぎるのに。もっともこれはお世辞かもしれない。ところが人っ子一人いない白い砂浜で、南島の日を受けて
「ほう、ほう。いいねえ、いいねえ」
と感嘆していたから、樹木さんもやっぱり自分の中に、よくわからない部分を持っている人なのだ。
わたしは、この、人間の、なんだかよくわからないという部分がとても好きだ。
ふつうはそれを支離滅裂だとか、辻褄《つじつま》が合わないとか、もっと現実的になって、だからあいつは信用できないなどというのだが、ほんとうにそうだろうか。
よくわからないということと、あいまいさとは少し違うような気がする。
以前にも書いたことがあるが、どう生きてよいかわからない、と悩む人が若い人に多い。
それも一つの誠実さかしれないが、自分の中にある、なんだかよくわからない部分を、しっかり面白がることがあってもいいんじゃないか。
へえー、ハイタニさんがそんなことをいうのかと思われそうだが、わたしも、なんだかよくわからない文章も書いてみたいのである。きょうは、やっとそれを果たした。
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含羞《がんしゆう》の文学
船旅中、若い娘さんがわたしにいった。
「母を亡くしました。看病のために母に添おうとすると、母は、学校が大事だから……というので、母の言葉に従いました。さっき船酔いで苦しんでいるとき、誰か、そばに居てくれたら、この苦しみが少しでも軽くなるのではないかと思って、そこで母のことを思い、はっとしました」
娘さんの目に、少し涙がにじんでいた。
わたしは内心、ひどく狼狽《ろうばい》していた。
この前、死ぬときくらい人のしがらみを解いて、独りさっぱり逝《い》きたいという意味の文章を書いたばかりだったからである。
どう読んだとしても、あの文章は、この娘さんを傷つける。
ものを書くということのこわさを、またまたわたしは考えさせられた。
もの書きは、誰でも、そうだろうと思うけれど、もう書くことを、いっそ、やめてしまおうという誘惑にしばしばかられる。
ものを書く作業には、自分も他人も傷つける業のようなものがあって、どんなに吟味をしているつもりでも、おのれの甘えや甘さ、傲慢《ごうまん》や無神経さが、ぽろりとこぼれることがある。
それがたまらない。
もっとも、これは、もの書きだけのことではあるまい。人の言動のすべてにいえることではある。
よかれと思ってしたことが他人を傷つけ、浮かれて調子に乗っては他人を傷つけ、正直に自分をさらけ出したつもりが、やっぱり他人を傷つけ、それならばと一歩退いたら、それがまた他人を傷つける。
太宰治の言葉ではないが、「生まれてすみません」という気分になり、落ちこんだ経験は誰にもあるだろう。
ものを書いて、他人を傷つけると、これはもう地獄行きだと思って気が滅入《めい》る。
太宰治がふたたびブームだ。それに繋《つな》がってわたしごときのようなものにも仕事がくる。
受ける気にならない。
太宰の文学に溺《おぼ》れた時期がわたしにもある。あの眩《まぶ》しいような魅力を持つ文学は、おそらくこれからも多くの若者をひきつけるに違いない。
人の持つ羞《は》じらいや濃《こま》やかな感情、謙譲や偽善を憎む気持ちを、彼の文学から学ぶことはよいことだ。
他者が学び得る文学を完成させるまでに、太宰治という一人の人間は、自分も他者も、とことん傷つけたというまぎれもない事実が一方にある。
それを、どう考えるかである。
今のわたしは、それらを丸ごと肯定することができない。
そうは思いながら、自分もまた、文を書き、他人を傷つけていることを、これまた、わたし自身どう考えるのか。果てしもない道がただただ広がっている。途方にくれる思いがする。
しかし……と、わたしは気を取り直す。それを見つめ、悩むことでしか人間は人間に至らないのだと。
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行動する老人
ピースボートが、その運動の十五周年を記念して、沖縄へ船を出した。
これまで世界各地を回ってきたのだが、まず足もとをしっかり見ようという趣旨である。
船内の丸一日は、勉強会だった。
わたしは自分の沖縄体験から、頭の先で早く沖縄をわかろうとするのではなく、心と体で沖縄を感じてほしいというようなことを話した。
前田哲男さんは、いわゆる新ガイドラインのきわめて危険な性格が、ふたたび沖縄を戦争に巻きこむおそれのあることを説いた。
石川|文洋《ぶんよう》さんは、写真家としての自分の仕事はすべて沖縄から発していることを語り、真喜志好一《まきしよしかず》さんはあらゆる命の共存を目指す平和の空間づくりの運動は、建築家であるわたしの仕事だとして、沖縄の環境破壊の問題点を明らかにした。
ピースボートの若者に会いたいと、ふたたび乗船してくださった元「従軍慰安婦」のイ・ヨンスさんは、自分の体験から、人が、お互いわかり合うことの大切さを訴えられた。
わたしはこれまで、ピースボートを若者の運動だといってきた。
たしかに、その主動力は若者だが、だからといって若者の運動体というのは、実態にそぐわないとわたしは思いはじめている。
今回のツアーも壮年、とりわけお年寄りの参加が多かった。
戦争のあとを訪ねて歩き、その責任問題を考えるというのは、古い世代ほど痛苦を覚えるはずである。
きわめてつらい「行脚」といえはしまいか。
それでもあえて参加された。
どの講座にも出席し、耳を傾けておられる姿を見て、わたしは感動を覚えた。
船が沖縄に着き、人々は、ノグチゲラの住むヤンバルの森へ、海上ヘリ基地案のある名護の辺野古へ、読谷《よみたん》、金武《きん》の米軍基地へ、「集団自決」という悲しい歴史の島々へと散っていった。
知るために、学ぶために。
わたしはわたしの住む渡嘉敷島へ、八十名の方々といっしょに渡った。
一日は島を回り、島の人の話をきき、つぎの一日はサンゴの美《ちゆ》ら(美しい)海を堪能《たんのう》してもらった。
ここでも、わたしはお年寄りの振る舞いに感嘆した。
八十三歳の、少し足もとの危なっかしい人がいた。
気を使って、わたしは「わたしの家でお休みになっていただいても……」と申し出た。
「いや、いや」と老人は微笑まれた。
静かに海に入り、ゆっくりと、まことに見事なフォームで泳ぎ出されたのだった。
「この島のどこかで弟は眠っています」
そういったお年寄りは、青い海に目をやりながらビールを飲んでおられた。
わたしは胸が熱くなった。
この人は、今、弟さんと二人で、二人っきりで、ビールを飲んでおられるのだ。
わたしはそっと、その老人から離れた。
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牧口さんのこと
世の中に、自分とよく似た人間が三人いる、といわれる。だとすれば牧口一二《まきぐちいちじ》さんは、わたしに似た三人のうちの一人だ。(わたしが牧口さんに似ているというべきだろうが)
ときどき講演などで、ごいっしょするが、それをいって二人立つと聴衆は大きくうなずいて笑い転げているから、じっさいよく似ているのだろう。
人柄はちょっと違う。
無欲で、あんなエエ人、ちょっとおらんでェというのが牧口さんの方で、わたしは割とひとに冷たく欲深い。
牧口さんは大阪の「障害者」運動の顔みたいな人だ。人々から、マキさん、マキさんと慕われている。
本業(グラフィックデザイナー)を、うっちゃっておいて、松葉づえと帽子とウエストバッグの三点セットのかっこうよろしく、乞《こ》われると全国どこへでも出かけていって、子どもたちに「障害」の話をしている。これがメチャ面白く、型破りだ。
「オッチャン、足どないしたん?」「オッチャン、足あるん?」「お尻《しり》、なんで曲がってんの?」
子どもは遠慮がない。
牧口さんの文章によると、こうなる。
「オッチャン、どっちの足がわるいの?」と二年生の女の子が尋ねてきた。「さぁ、どっちかな?」「そのブラブラしてる右のほうがわるいんやろ」「そう、でもさ、この右足がなにかわるいことでもしたのかな?」アッ? という表情になったその子は、しばらく考えて……「動かへんかったら、わるいこともでけへんのになァ……?」と、つぶやいた。これもまた、ステキな表現である。すでに子どもたちにも「足がわるい、目がわるい、耳がわるい……」という言葉がすんなり入り込んでいて、ボクのいじわるな問いにハッと気づいてくれたのだった。子どもたちの感性は、なぜにこうも透き通っているのだろう。
牧口さんのような人が教師だったら、どんなにいいだろうと思ってしまう。
押しつけないで、引き出し、感じとらせ、気づかせる。そして自分も、ちゃんと子どもから学んでいる。
牧口さんの発想、行動はすべてこの調子である。
阪神・淡路大震災が起きた。いちばんつらい目に遭い、救援の手もあとまわしになるのは被災「障害者」である。
牧口さんらは「ゆめ・風・10億円基金」をスタートさせた。
――小さな、だけど確かな力をいっぱい集めてお金をつくるから使《つこ》うて! 人から人へと熱い想いをひろげて、どしどしお金を集めるから、どんどん使うてええんよ!
だいじょうぶやって、なんとかなる! なんとかせなアカンもんなぁ……
一人が十年間一万円、一年では千円、月なら百円足らず、という考えはすごい。十万人が賛成してくれれば夢は夢でなくなる。
こんど牧口さんは『ちがうことこそええこっちゃ』(NHK出版)という本を出した。そこにこんな話が山ほど詰まっている。お買い得です。(「ゆめ・風・10億円基金」=電話〇六−六三二四−七七〇二)
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遊美術
島(渡嘉敷島)で暮らしていると、夏、つぎつぎ人がやってきて、わたしはさながら民宿のおやじである。
子連れでやってくる客も多い。だいたい子どもは質問好きで、好奇心|旺盛《おうせい》だ。
「ハイタニさんの家は美術館みたいですね」
まず、よいしょする。
「ハイタニさんは服をどこへ隠しているのですか」
隠しているのですか、ときた。四十センチ幅の備えつけの洋服ダンスを教えると、中を開けて、おもむろにいったもんだ。
「あんがい貧乏やなァ……」
いい年こいて独り暮らしかと思うらしく、たいていの子がたずねる。
「独りで淋《さび》しくないですかあ」
わたしも負けじと逆襲する。
「あんた、およめにきてよ。少しくらいなら待つからさ」
すかさず返された。
「わたしにも選ぶ権利があるんですよう」
このごろの子どもの口にはとても敵《かな》わないが、子どもの客は楽しく、こちらまで浮き浮きする。
あそびじゅつ(遊美術)の子どもたちがやってきた。遊美術、いい命名だ。
たっぷり遊んで、ぼちぼち学べばいい、という考えの子ども集団である。
四日市市の子どもの本専門店「メリーゴーランド」の増田喜昭さん、仙台の「アトリエ自遊楽校」の新田新一郎さんらが中心になってつくった。
子どもが主人公という精神を尊重する。たとえば那覇でのワークショップ。平和通りの市場見学は、地図だけ持って、それぞれ自由に行動する。
沖縄の胃袋は? 自分の街で売っていないものは? 市場のおばちゃんたちは?
成果を、みんなで報告し合う。
話し好きのおばちゃんにつかまって、せっかくの市場なのに、じゅうぶん回りきれなかったと嘆く(?)子、マンゴージュースを特別大きなコップで飲ませてもらったと自慢する子、サトウキビやスターフルーツを見せる子、みな生き生きとして誇らしげだ。
わたしは海の話をせがまれた。
「タツノオトシゴは魚の仲間かな」
「マグロは、いつ、どこで眠ると思う?」
「イカは空を飛ぶか」
子どもたちの目がきらきら光っている。
天も浮かれたのか、島の二日間は快晴だった。
サンゴの海で、たらふく泳いだ子どもたち。水中メガネで見た熱帯魚。カヌーも、シュノーケリングも、はじめての経験だ。
夜は、グループに分かれ、それぞれ創作劇を披露する。みな名優、みな主人公。
ノボさんこと福尾野歩《ふくおのぼ》さんの「遊びうた」で最高に盛り上がり、楽しい夏の日は終わった。
私は思う。この子たちはしあわせだ。しかし……。子どもはみな、このしあわせを受ける権利がある。人の都合で自然に手をつけようとするとき、わたしたちは、それがほんとうに子どもたちの未来にとってどうなのか、じっくり考えてみる必要がありはしないのかと。
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体について
体というものは、面白いものだ。
人間の体は微妙、且つ繊細に変化する。この夏のはじめは殊の外、暑かった。
暑いさなかのランニングは、ひどく体力を消耗するので、ほかの運動に切り替える方がよいとされている。
それで、わたしは毎日のランニングを、暫時、休みとした。
それはよかったのだが……。
生活のバランスがほんの少しくずれた。
走らなくてよいと思うから、つい余分の仕事を入れる。人と会う。すると玄米食をとる回数がどうしても減る。
運動、食事がわたしの健康の源であったのに、そこが少々おろそかになった。
運の悪いことに、ウッチンが品切れになる。
ウッチンは沖縄で簡単に手に入るショウガ科の薬草で(薬草といっても根の部分を乾燥させ粉末にしたもの)体調を整えるのにもってこいのものだ。
ウッチンは和名ウコンで、カレーに入っている黄色の成分といえば、誰でもうなずく。暑いときにカレーを食うのは、理に適《かな》っているわけである。
沖縄の人は昔からたいした知恵を持っていて、これを常用すると体に良いことを知っていた。
わたしの健康は、このウッチンに負うところが多い。
ポパイにホウレンソウ、ハイタニケンジロウにウッチンである。それがなくなった。
体の変化がどこにくるのかというと、誰でもそうだろうが、その人間の弱い部分に、まず、くる。わたしの場合は胃。
膨張感で不快きわまりない。
酒を飲んでも気持ちよく酔えない。これくらいの量なのに、と思うのに宿酔《ふつかよい》する。
そして、とうとういちばん嫌なところへ、そいつがきた。不眠である。
不眠症ぎみの体質は、もう、ほぼ完全に克服したと思っていたのでがっかりした。
やれやれと思う。
ま、死にはしないだろうけれど、白い、長い時間をまんじりともせず過ごす夜は、けっこうつらい。
あしたから走ろうと思った。
ウッチンも取り寄せた。
わたしの体は、きわめて正直に反応する。根性はひねくれているが、体はいたって素直なのである。
体調は三日ほどで、もとへ戻った。
自分で、へえーと思う。
以前、健康法にふれて、そんなものはなんだっていい。要は、心身との対話が大事なのだと書いた。
わたしは早め早めにそれができるので、まことにありがたい。
体の、わずかな変化をとらえて(わたしの場合は、どーんとくるが)素早く対応する。それが、わたしには面白いのである。
自然と、自分の体にいちばん興味があり、あれこれやってみては楽しんでいるというところだが、これは、わたしの究極の遊びである。この遊びは、学ぶ事のきわめて多い胸のわくわくする道でもある。
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疲れる
航空券発売窓口で。
「すみません。席は禁煙席の窓側を取っていただけませんか」
「かしこまりました。お客様は、おたばこをお吸いになりますか」
わたしの独白――虚《むな》しい。
JRチケット売り場で。
「申し訳ありませんがレシートを発行してください」
無言。しばらくして
「名前は?」
「ハイタニといいます」
「どんな字?」
「灰色の灰に、谷川の谷です」
ごそごそしている。結局、書けない。
「ちょっとここに書いてみて」
紙とボールペンを突き出す。
わたしの独白――元小学校教師としてはきわめて複雑な心境。
読者から手紙。
――灰谷さんのファンです。灰谷さんの本は、まだ『ガラスのうさぎ』と、あと、ちょっとしか読んでいませんが(『ガラスのうさぎ』は高木敏子さんの著作。わたしの『兎《うさぎ》の眼《め》』と、よく間違われる)熱心な読者です。
こんど休暇がとれたので、灰谷さんの(住む)渡嘉敷島へいく計画を立てました。
あつかましいのですが、×月×日、お昼を少し過ぎると思いますが、お家の方へうかがわせてもらっていいでしょうか。おいそがしいと思いますのでお返事はけっこうです。
わたしの独白――あつかましいのはいいが、それを他人に押しつけない。
税務署と。
「この延滞料というのはなんですか」
「納めていただく税金が、三日遅れていますので、それにかかったものです」
「旅行中で、やむなく三日遅れたのです。一カ月も二カ月も遅れたのなら意図的といえるでしょうが、人の暮らしに、一日、二日の待ったなしというのは、あまりに非情じゃないですか」
「規則なもんですから……」
しばし、やりとりが続く。
「わかりました。払いましょう。そのかわりわたしは予定納税という税金の先払いをしていますから、その利息をいただきます。それで差し引きしましょう」
「そんなことはできないことになっています。困らせないでください」
わたしの独白――署員も一労働者だと思うと、この、困らせないでください、という一言は、かなり利く。
永田町で。
政府は宮平洋《みやひらひろし》沖縄県副知事からの会談申し込みを断った。その理由を、野中広務官房長官は、こういった。「橋本(龍太郎)前首相の沖縄にかける思いを思うなら、(大田昌秀)知事は真っ先に橋本さんのところにあいさつにくるべきだった。小渕内閣ができた後に副知事を派遣することは、人の道に反することだ」(一九九八年八月七日付「朝日新聞」)
わたしと、沖縄県民の素直な思い――なんたる傲慢《ごうまん》、なんたる差別。
歴史認識、事実認識のまったくできない政府要人の存在こそ人の道に反する。ただもう恥ずかしい。
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サンゴの嘆き
「東北地方のお天気がよくないので、それが心配だね」
沖縄の好天が続いている。そのせいもあって、渡嘉敷島にも連日、観光客がやってくる。
去年は運悪く土、日に台風がきて、島の民宿はさっぱりだった。
今年はよかったね、という気持ちをこめてものをいったら、前述のことばが返ってきた。沖縄の人らしいなと思う。
肝苦《ちむぐ》りさ(胸が痛む)ということばを持つ人はさすがだ。
多くの人々が島に関心を持ってくれるのはうれしいことだ。沖縄の自然を愛してくれる人が増えるのも心強い。そうは思いながら、一方で危惧《きぐ》も広がる。
観光客がくるのだからと海岸道路を新たに作って、その結果、貴重なサンゴを壊してしまったという例は、離島のあちこちにある。
この道路というのが、ひどく曲者《くせもの》なのだ。
いちばんひどいのは林業もない島に、林道を作ることである。ほとんど誰も通らない道だから、これはもう利権がらみの仕事としか思えない。赤土流出の源となって、美しいサンゴの海を壊滅的に、あるいはじょじょに汚していく。
道路のカーブを、ほんの少し緩めるために、大金をつかって(われわれの税金であることはいうまでもない)道路工事をする。
亜熱帯地方は雨が多い。毎年、道路の決壊があちこちで起こるが(その都度、赤土が海へ流れていく)、大半はこういう道路でのものである。その修復に、また税金がつかわれる。やりきれない。怒りを通りこして悲しくなる。
赤土流出の原因はもちろん道路工事だけではないが、道路一つをとってみても、島の環境破壊はきわめて大きいということを知ってほしいために、あえて提示した。
この現象は、人間以外の生物にとって、いのちの抹殺、生態系の分断を意味する。サンゴの悲鳴がきこえてくる。
信じられないことだが、道路を作るのに島民の意志は反映されない。知らぬまに道ができ、壊れ、修理され、また壊れ、ということをくり返しているわけである。そして、どんどん海が汚れていく。離島はみな、この難題を背負っているのだ。
沖縄には多くの米軍基地があるので、振興のために特別の配慮をしようと予算が下りてくる。たいていの日本国民は、それが沖縄のためにつかわれているのだと信じている。
実は、そのうちの多くの金が(くり返すようだが、すべて国民の税金)沖縄の自然を破壊するためにつかわれているのだという事実を、どうか知っておいてもらいたい。
離島の海はまだまだ美しい。だから観光客もくる。島の古老にいわせると、わたしたちには美しく見える海も年々汚れているという。
そうだとすれば沖縄の島々にきて、いい所だ、とばかりはいっておられないではないか。
沖縄のサンゴを守ることに、その生涯を捧《ささ》げ尽くして逝《い》った吉嶺全二《よしみねぜんじ》さんは、つぎのようにいっている。
――「開発」そのものが悪かったのではない。沖縄独特の自然環境を無視した「本土並み」の基準や標準、規格を適用した「開発」のあり方そのものにサンゴの海の壊滅の原因があったのだ。
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老人と海
ジローさんのことを書く。
島(渡嘉敷島)の人から、ジローさんジローさんと呼ばれ慕われていたその人は、島の海人《ウミンチユ》の中でも別格だった。
かたくなに昔ながらのサバニ(南西諸島で使われていた刳舟《くりぶね》)を駆って漁をした。サバニは年季が入って黒光りしていた。
「こいつにはサメの油がいちばんさ」
そうわたしに説明してくれた。
サメの油を、サバニに塗るジローさんの目は、かわいくて仕方ないというふうに我が子を見る親の目といっしょだった。
ジローさんの漁は独特だ。上げ潮どきをねらって、まず、陸の高い所へ登る。
サンゴ礁にのぼる魚群を探すのだが、われわれの目には海はどこも同じで、ただ縹渺《ひようびよう》としているだけである。
ジローさんの恐るべき目が、魚の群れをとらえる。ジローさんがサバニを走らせるのはそれからだ。
単身、海に入り魚の道に網を打つ。引き潮に乗って沖へ帰ろうとする魚を、文字通り一網打尽にするのである。見事なものだった。誰も真似ることはできない。
ジローさんは、ふだんあまりおしゃべりをしない人だ。一日の仕事を終え、夕日を前に泡盛をやるときのジローさんは、これはもう微笑仏そのものであった。
あんなにうまそうに、あんなにしあわせそうに泡盛を飲む人を、わたしはまだ見たことはない。
「センセ。いっぱいやっていきなさい」
わたしはジローさんと落日を眺めながら泡盛を飲むとき、この世の極楽だ、といつも思っていた。
ジローさんはあるとき、わたしにいった。
「わたしはネズミがこそっと動いても、じき、目を覚ましますよ」
はじめ、なんの話をしているのかわからなかった。
「これから死んでいく人の背を後ろから、しっかり支えて銃剣が刺さるようにしました。三人も、そうすると、わたしはダルマさんのように真っ赤になったさ」
わたしは、うつむいた。
ジローさんが、わたしに最初に話してくれた沖縄戦の話だった。世間でいう「集団自決」をくぐってきて、ジローさんの中で戦争は、まだ終わっていなかった。
ジローさんが、なぜ、あんなにいとしげに泡盛を飲むのか、少しわかったような気が、わたしはした。
わたしは夕日の落ちるころ、ひとりサンゴの砂を踏んで、ジローさんに会いにいく。
ジローさんのサバニは、今、白い骨のようになって浜に横たわっている。
もう、サバニにサメの油を塗る人はいない。ジローさんは自分の中に、たくさんの死者を生かして、一日一日をていねいに生きてきたのに、その死はあまりにあっけなかった。心臓発作なのだろう。
わたしが東京で仕事をしているあいだにジローさんは死んだ。
ジローさんの白い骨が、白い砂に朽ちるまで、わたしはジローさんに会いにいく。
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神戸は今
この夏、そう日を置かず連続して二度、神戸へ話をしに行った。
一つは兵庫県と兵庫県青少年本部の主催、今井鎮雄《いまいしずお》さんの司会で、アグネス・チャンさんとトークという形をとって、子ども、若者、そして、それをとりまく家庭や社会、環境の話をした。
もう一つの方は、神戸の海を埋め立て空港をつくろうとする計画に対し、住民投票で民意を問おうとする友人たちの運動の支援だった。わたしはすべての命が(もちろん人間以外の生命も)みんな仲良くして、楽しく暮らすために何をして、何をしてはならないのかということを沖縄の島の暮らしをもとに話した。
きわめて複雑な心境のわたしだった。
わたしは神戸に生まれ、神戸で育った。淡路島での十一年間を入れると優に半世紀を兵庫の地で暮らしたことになる。
わたしは神戸が好きだった。北の方を見ると六甲山脈が連なり、南の方へ少し歩くと、じき海に出る。
子どものころ、須磨《すま》、舞子《まいこ》の海で、日がな一日あきもせず潜ってはテンコチやタコを、ヤスで突いた。
同じ海でも港湾では荷役現場で、袋からこぼれる大豆やトウモロコシを拾って歩き、ちゃっかり「財形貯蓄」していた。
神戸っ子なら誰でも知っている高取山《たかとりさん》や会下山《えげやま》はカブトムシやクワガタ、ブイブイ(かなぶん)がいくらでもいて、それをとりにいくための早起きは少しも苦にならなかった。
わたしは兵庫駅の裏の長屋で生まれている。一つの井戸を四軒で使っていた。その井戸の上で、米や調味料の貸し借りがおこなわれ、人々は助け合って暮らしていたのだ。
焼きイモ屋、豆腐屋、うどん屋があり、もちろん魚屋も八百屋もある。
わざわざ出かけていかなくても、おおかたの用は足りた。
夜は涼み台に、子ども、老若男女が集ってきて、あれやこれや話に花を咲かせるのだが、これは子どもにとって、もう一つの学校であった。その共同体は、人々が肌を合わさんばかりに寄り添い暮らしていたぬくい町だったのである。
わたしが複雑な心境だと書いたのは、わたしの好きだった神戸の町は、どんどん下町が消えていき、もう町は街と書くしかない企業や商業の街の様相がつよくなってしまったことへの哀しみがあるからだ。
街が発展して豊かになることに異をさしはさむというのではない。自然を根こそぎにし、それをやれば、もう人間の傲慢《ごうまん》以外のなにものでもないということをいいたいのである。
開発や発展は、必ず自然の声に耳を傾け、自然と相談ずくで、そうして、ゆっくり進めなくてはならないものだと思う。
神戸空港計画は、どんなにひいきめにみても、そのような条件は満たされていない。
トークのはじまる前のあいさつで、貝原《かいはら》兵庫県知事は、自然と人の調和ということを口にされた。人が、もっとも大切に考えなくてはならないことである。
お立場というものがあろうことはよくわかるが、どうか、そのことばを吟味し尽くす知事さんでいてもらいたい。
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イカとタコ
ほろ苦く思い出した話がある。
熱心な教師がいる。何事も疑問を持つところから学ぶことは始まる。一つでも二つでもよいから、毎日、なにか疑問を考えてくるように……。そんな宿題を出された。
少年は考える。真剣に考えたが何も思い浮かばない。先生の熱心さを思うと、どうにもつらくて学校を休んでしまう。そして考えた。
ようやく一つの疑問が頭に浮かぶ。少年は意気揚々と学校に行って、それを告げた。
「イカとタコが結婚すると、その生まれた子の足は何本でしょう」
先生は子どもにばかにされたと思って腹を立てる。少年は首筋をつかまれ、うす暗い理科準備室に、標本の骸骨《がいこつ》といっしょに立たされる。
反省しろ、という教師のことばを、少年は懸命に考え、そして思った。
(先生が怒ったのは、ぼくが小学生なのに、結婚ということばを使ったからだ。きっと、そうに違いない)
岩本敏男さんの『赤い風船』という作品に出てくる話だ。
航空券発売窓口で、禁煙席の窓側を取ってほしいと頼むと、たばこはお吸いになりますか、とたずねられたという話を書いたら、似たような体験があるという手紙がたくさん寄せられた。
マニュアルがあって、それをなぞっているだけだからそうなるので、自立的な判断の乏しい若者の増えたことを嘆く、という文面もあった。
あの文を書いてすぐ、またまた苦い場面にでくわした。飛行機に乗るために、搭乗待合室のいすに座っていたら、係員がいった。
「恐れ入りますが、そこはお子様ひとり旅(お子様パイロットといったのかもしれない。なにかそういう意味のことをいった)のお席に取ってございますので、お立ちくださいませんでしょうか」
呆気《あつけ》にとられた。
子ども優先か。子どもは立たせておけ。思わず怒鳴りつけたくなったが、かろうじて自制した。
老夫婦がいて、むっとした顔をした。立とうとしなかった。当然である。
それをいった係員はごく若い人だった。
ことばづかいからして、マニュアル通り仕事をしているのだろうが、情けない。
子どもを大事にするということは、そういうことでは断じてない。
マニュアル化した若者を嘆く気持ちが、わたしにないわけではないが、その若者を非難するよりは、彼や彼女らが、そんなふうに育てられ、仕向けられていく元のところのものに目を向け、吟味が加えられるべきではないかと思う。教育の問題もそうだし、企業のあり方も問われるはずだ。
先の目撃は、武士の情け? で航空会社名は出さないが、すべての航空会社は一考も二考もしてもらいたい。
儲《もう》け優先の心根が、人も社会もねじれたものにしてしまうのだから。
イカとタコの少年は、今、どんなふうに成長し、この社会を、どう見ているのだろう。
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縁は異なもの
同窓会というものがある。まず、出席しない。わたしは教員の経験が十七年間あるが、そっちの方の同窓会もいかない。
つき合うときには真剣につき合うけれど、なにかのしがらみで、表向きを繕うのは嫌なのである。
縁は異なもの味なものでいきたい。
講演先に教え子が訪ねてくることがある。
「先生。わたし誰だかわかる?」
○○さんやろ、うわっ覚えてくれていたァ、というふうなことになって、しばし話がはずむ。
ユリちゃんが訪ねてきてくれた。『マコチン』という童話に登場させた子だ。
もちろん、もう「子」じゃなくて、愛らしい我が子を抱いた輝くばかりのみずみずしいお母さんである。
その日、彼女の家に寄り、彼女のつれあいもいっしょになって一杯やった。彼女は突然いった。
「先生、わたしといっしょにお風呂《ふろ》に入ったこと、覚えてる?」
一瞬、ぎょっとする。クリントン大統領の心境? 覚えはないんだけど……。
彼女が小学二年生のとき、彼女の家へ遊びにいき親にすすめられるまま、いっしょに風呂に入ったというのだ。
図々《ずうずう》しい教師だったんだなあ、というと、つれあいはにやにや笑っていった。
「わたしより先に、男がいたとは……」
歌手のもんたよしのりさんには絵を教えた。
雑誌で対談したとき、彼はいった。
「作文を書かせにきて、作文書かせんと、絵を描かせたんや。オレがアウトサイダーになったんは、灰谷先生のせいやでェ」
よくいうよ、とわたしはいったが、どこかはみ出し気味の人生を選んだところは、根のところになにか共通のものがあったのかしら。
落合恵子さんとアメリカ講演旅行をした折も、つぎつぎ教え子が訪ねてきて、わたしは目を丸くしてしまった。
ニューヨーク、シカゴ、カナダのトロント、サンフランシスコと四カ所回ったのだが、四カ所とも教え子が顔を見せたのだ。
最後の日、落合さんが
「ハイタニさん、パーフェクトなるか」
と、いったが、ほんとにそうなった。
「先生、わたしわかる?」
「君、ナガイさんやろ」
わたしは彼女の顔をまじまじ眺めた。独立して旅行代理店を経営しているとのこと。
「なんとまあ、君がなあ……」
とわたしは差別発言をした。
「お母さんの後ろにかくれて、小さな声でしかものをいえん子やったんやで。あんたは」
「そう、先生に迷惑かけたでしょ」
迷惑をかけられた覚えはないけれど、人一倍恥ずかしがり屋さんで目でものをいう子だった。
一度結び合ったいのちは、どこかで、いつまでもつながっているのやなあ、とわたしはしみじみ思った。
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アメリカ嫌い
子どものころ、誰それが嫌いというと、そんなことをいうもんじゃない、誰とでも仲良く遊びなさいと、母親に、こっぴどく叱られた。それで、この文章も、親の目を気にしながら書いている。
はじめ、アメリカが嫌いになったのは、うんと幼いときで、当時、進駐軍と呼ばれていたアメリカ兵に、チューインガムやチョコレートを面白半分にばらまかれ、その屈辱が身にしみた。
欲しいくせに、それを口に運ぶことのできない哀しい子だった。
思想形成時代、韓国の民主化闘争やベトナム戦争をつぶさに見てきた。よくここまでやるな、というほどの陰謀と覇権主義に、アメリカにはほとほと愛想がつきるという気分にさせられる。
建国の歴史が先住民虐殺の歴史そのものであり、黒人に対する白人の差別と暴力主義は容易に克服されず、銃社会がしめすように、生命に対するこまやかさのきわめて乏しい国というのが、わたしのアメリカ認識だった。
アメリカスタイルの合理主義というのが、これまた曲者《くせもの》で、商業主義とつるんで、世界中を我がもの顔にのし歩く。
海外に出るようになって、この怪物の、他国への経済侵略、文化破壊のすさまじさに目を見張った。
日本も含めて、世界のおおかたの都市はアメリカナイズされてしまっている。
親の目がこわいのでアメリカ批判はこのへんに留《とど》めておくが、もしアメリカの文学、映画というものに出会っていなければ、わたしはアメリカを悪魔の住むとんでもない国だと思いこんでいただろう。
当たり前のことだが、アメリカにも思慮深い人、礼儀正しい人、心優しい人は数多くいる。
この国に、そのような政治の指導者が少ないのは我が国と同じで残念である。
(クリントンさんの行状が、あれこれ取り沙汰《ざた》されているが、確実にいえることは、女性に対して礼儀正しくふるまうことができなかったという点で、これは、かなりその人間の本質を表しているものと思われる)
ついでにいってしまうと、わたしのアメリカ嫌いは、日本の保守政治家嫌いとつながっている。
真の友は、時には相手にとって耳の痛いこともいうものだが、そんな事例を求めるのは、砂場でけし粒を探すほどむずかしい。
新しい政治の指導者になると判で押したように「アメリカ詣《もう》で」をくり返すが、一人の日本人として、そのたびに、ひどく恥ずかしい思いにさせられる。
もっともらしく「成果」を誇示すると、いっそう恥ずかしくて、ついついうつむいてしまいたくなるのだ。
政治家嫌いはいっこうに改まらない。
親がいっていた誰とも仲良くしなさいということばを実践するのは、けっこうむずかしい。
わたしはけんか早いし、好き嫌いも激しい。
親はその性格を見抜いて早々に釘《くぎ》をさしていたのだろう。さて、どうするか。
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子どもの本が危ない
子どもの本がきわめて不振だ。わたしが見ても危機的な状況だと思う。
書店の、児童書の売り場面積はこれ以上減らしようのないほど狭められ(児童書のまったく置かれていない本屋は山ほどある)、出版社は学校回りなどでかろうじて食いつないでいる有り様である。
倒産しないのが不思議なほどだ。
それにともなって、子どもの本の書き手も(文章を書く方と絵を描く方の両方の人々がいる)困窮をきわめることになる。
初版部数四、五千冊というのはざらで、子どもの本は、そうそう再版がきかないから、年に三、四冊出版しても、年収はせいぜい二百万円くらいということになる。画家にいたっては、そのまた二割、三割だ。
これではとても食べていけない。
ひどい時代になったものだ。
売れるものを売る、売れるものだけを売るという風潮は、野放図な商業主義に抵抗力を持たない子どもの文化を壊滅させようとしているわけである。どこが文化国家なのかと思う。銀行の倒産より、こちらの破滅状態の方がよほど深刻だとおもわれるが、税金をつかって銀行の救済はしても、未来を担う子どもたちの心の糧は枯渇寸前なのに、知らんぷりをする。
学校図書館に一定量の蔵書を義務づけ、予算化するだけでも、この危機は大幅に緩和されるのに。
ファントムか、なんか知らないが、そういうもの数機分の金で、このことが可能なのだ。
どうか政治家のみなさん、どの政党からでもよいから、早々に、これを提案してもらいたい。次の選挙で得するよ。
本はなくても子は育つが、育ち方はだいぶ違うというのが、わたしの見解である。
本を読むことによって与えられるものは、無限の自由であり、魂の飛翔《ひしよう》である。ひとたびその世界に入りこめば、あらゆる人生を生きることができるし、何に変身することも許される。想像力もまたそこできたえられ、深い人間に至る道がひらかれる。
そのような自由を獲得するために本は読まれるのだから、間違っても読書に性急な教育的価値を求めたり、いちいち読書感想文を子どもに強いたりしてはならないのは自明のことである。
少し乱暴にいって、子どもたちの読書環境をじゅうぶんに整えてやり、読ませっぱなしにさせればよろしい。
現実の世界は、不自由の世界ともいえる。
ものごとが思ったようにいかず、挫折《ざせつ》をくり返す。人生とはそういうものだ。
誰でも立ち向かわなくてはならない困難には、勇気とねばり腰がいる。そのエネルギーの源は、想像力だろう。
思いを巡らし、あれこれ考える人間は、短絡しないし、一直線に事を運ばない。
必然的に他者を思いやる。
読書が、子どもに与えるものは、きわめて大きいのだ。
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言葉と心
かっこいい、と若者たちが関西弁を日常会話に挟みこむのが流行《はやり》だという記事(一九九八年十月五日付「朝日新聞」家庭面)を興味深く読んだ。
ま、目くじらを立てるほどのことでもないか、と思わなくもないが、生粋《きつすい》(?)の関西人としては下手に関西弁をつかわれると、背筋がむずむずしてくる。
朝の連続ドラマにひどいのがあった。
「こら、やめんかい。ええかげんにさらせ」
と思わずいいたくなった。
言葉を弄《もてあそ》ぶのは、いい傾向とはいえない。
国語教師の札埜《ふだの》和男さんが
「言葉の交流は悪くないが、昔ながらの関西弁への理解も表面的になるのは寂しい」とおっしゃっていたが、同感である。
おとうさん
六歳 もとおかしんや
ぼくがあそんでいるとき
ちんちんけがしてんで
それでおとうさんに
はんだぷらすと はってもろうてんで
おとこどうしやで
微笑ましい詩だが、この詩のすばらしさは関西弁の魂をしっかり受け継いでいるところである。
関西弁の魂って、なんや、と問われると一言で答えにくいが、人と人が、すらっと仲良しになってしまうようなところとでもいえばよいだろうか。
人をおちょくったり、卑俗な笑いをとるための道具としての言葉からは、はるか遠いいのちの平等感(観)のようなものが、ほんとうの関西弁には流れているのである。
そこを伝えるのでなければ、真の言葉の交流にはならない。
たしかに現代の言葉づかいは乱れている。言葉は生きものだから、ある程度の変化はやむを得ないとしても、その精神を伝承せず、表層のもののみに終われば、ある主の文化破壊につながりかねない。
言葉の精神は理屈で伝えることはできない。
つまり言葉は、言葉そのものによってしか何も伝えることはできないのだ。
笑福亭鶴瓶《しようふくていつるべ》さんのおしゃべりの中に、わたしはその精神を見る。
関西弁と一言でいうが、京都、大阪、神戸と、それぞれ違いがあった。
テレビ、ラジオの功罪だが、今は、それが入り雑《ま》じり、均《なら》されてしまった。
亡くなられた大岡昇平さんの奥様が、わたしがテレビに出ると、ふるさとの懐かしい神戸弁がきけるといって、チャンネルを回された、と人づてにきいた。
わたしは言葉づかいに関しては頑固だ。
日常もそうだが、講演やテレビででも、地の言葉丸出しである。
そのせいでもあるまいが、昔の神戸弁が残ったものと思われる。
方言を大切にしない国は、その文化もやせ衰える。日本は今、危ないところにいるのではないか。
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ある生き方
東京の仕事が長引き、やっと島へ戻ることができた。ほっとする。
夕方、ランニングをしていると、クノ君と伴侶《はんりよ》の千晴さんが、稲刈りをしている(島は二期作)姿を見つけた。
「食べものを生産すること、料理することは、ぼくの表現なんです」といった、あの青年久野裕一さんだ。
もう、しっかり島の生活に溶けこんでいる。
おーいと手を振ったが、先方は気づかない。そうか、稲作までやっていたのか、と感心し、安心もする。
この八月、毎日のように野菜を運んでもらって、おかげで、わたしはみずみずしい葉菜《ようさい》類を堪能《たんのう》した。
夏の盛りに、葉菜をつくるのは大変なのである。その中にエンサイがあったので、クノ君、なかなかやるな、と思った。地の言葉でエンサイのことをウンチェバーという。
中国野菜の一種で、もともとは水草である。先年、ベトナムのフエで、お城の堀を利用して栽培しているのを見た。
渡嘉敷島の畑は、水はけの悪い所が多い。ふつうは悪条件になるのに、それを逆手にとってウンチェバーをつくっていたのだ。
わたしは前々から、島の、野菜の自給率の悪さを、なんとかできないものかと思っていた。外から運ぶと値段も高い。
クノ君も同じ思いだったのだろう。
夏に、小松菜、チンゲンサイ、モロヘイヤ、エンサイなどをつくって、島の家々へ配り、たいへん喜ばれた。
それはそうだろう。夏場に野菜といえば、せいぜいゴーヤー(にがうり)くらいしかなかったのだから。
「あの青年はたいしたものだ」
「あの二人は筋が入っている」
そんな声を、わたしは何度も耳にした。自分のことのようにうれしかった。
わたしはクノ君の家へ寄った。家は民家を借りたもので、よほどの信頼がないと、それはできない。
「どう? うまくいってるみたいだね」
駄目ですよ、と彼は言下にいった。
継続供給が果たされなければ……と、クノ君はいうのだ。
うーんと、わたしは唸《うな》る。
十月四日、渡嘉敷島に五百ミリという記録的な大雨が降った。
田畑は冠水し、農作物は壊滅状態になった。
「そうか」
わたしは呟《つぶや》いた。
わたしのノー天気な質問に、クノ君は怒りもしないで、あれこれ話してくれた。
ニワトリが卵を産む率も半分に落ち、ジャガイモは大半、土の中で腐るだろうという。
横で千晴さんが微笑みながら、その話をきいている。
話が一段落したところで、彼女はいった。
「でも、これ以上は悪くはならないでしょうから」
うーんと、わたしはまた唸った。すごいな、この根性。
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嗚呼《ああ》 武田イクさん
武田イクさんが亡くなった。しばらくお会いしていなかったが、お元気で講演などに走り回っておられるものとばかり思い込んでいたので、たいへんショックを受けた。
もう、お会いできないかと思うと涙がこぼれた。
わたしが武田イクさんと知り合ったのは武田鉄矢さんの引き合わせによるが、わたしは鉄矢さんの方は放りっぱなしで、イクさんと神戸におられた鉄矢さんのお姉さんらと親戚《しんせき》づきあいをさせてもらっていた。
毎年のように海外旅行に出かけた。
台北《タイペイ》の龍山寺前を、イクさんと手をつないで歩いていたら、後ろからアサコ姉さんが、まるで親子みたい、といった。
「なんばいうちょるか。恋人同士っていえちって。センセには悪かけど」
イクさんはそういってカラカラ笑った。
イクさんの話をきくのは楽しかった。勇気のようなものを、わたしはいつももらっていた。
「半年ぐらい給食費をもっていかんでちゃ、学校ちゅうとこは倒産しゃせんばい」
昔、日本の母は貧乏だった。イクさんとて例外ではなかった。
子どもを育てるのに、大変な苦労をしたが、いつも明るく前向きに振る舞った。
給食費を子に持たせてやれない親の気持ちはつらい。けれど、イクさんは踏んばる。
そこで、へこたれて、ぐずぐずしよったら、人はどうにもならん、と。
学校は倒産せんばい、といいきることで、イクさんは自分自身と子どもたちに活を入れた。
武田鉄矢さんは、あれだけは人前でやってくれるなと嫌っていたが、タワシを前にぶら下げて踊る「タワシ踊り」というのを、イクさんは息子に隠れて、ちょこちょこやって見せてくれた。抱腹絶倒だった。
そうしておいて、イクさんはいった。
「貧乏に落ち込んだとき、思いよったってどうしょうもないから、楽しみをみんなで見つけよりましたよ」
強い。筋金入りの庶民は強い。
イクさんは貧乏はすればするで、いろいろな知恵がわいてくるもんだといっていた。
あしたが、どうしょうもないときでも笑顔でおれちって、わたしは、ばあさんに教えられたともいっていた。
人には頭を下げておれ、頭下げたって税金はかからんといって、子どもにあいさつや礼儀というものを教えた。
イクさんの話は深い哲学を含んでいるようにわたしは思えた。
――人間という仕事が一番むずかしい。
――信頼していないから親は子をごしゃごしゃかまいたくなる。
――何がなかろうと、なくなったら人というもんは強い。
今にして晩年ということになってしまったが、イクさんは、年とってからの畑づくりを、実がなって熟れてね、子育てのような気がする、といっておられたのに……。合掌。
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二年ぶりの韓国で
二年ぶりに韓国を訪れた。繁華街の明洞《ミヨンドン》は人々であふれ、伝えられる不況が嘘のようだった。少なくとも表層は――。
わたしが最初に、この国を訪れたのは今から二十七年前である。以後、激動と、そして経済成長を目の当たりにしてきた。
民主化闘争の折、連帯の文章を、雑誌『世界』に書いたため、七年間、ビザがおりなかったこともあった。今は、当時迫害された人が、この国の大統領(金大中《キムデジユン》氏)である。
今回、訪ねた目的の一つは、わたしの著作を翻訳、出版してくださっている張義均《チヤンウイギユン》さんに会うことだった。
張さんは、かつての政治犯である。転向を拒否したために八年間、獄につながれた。獄中で、わたしの『太陽の子』を訳してくださった。官憲の妨害に抗議し、ハンストまでして完成されたときく。
張さんとは初対面ではない。ほんとうに信じられないことだが、二年前の、前回訪韓のときに鐘路《チヨンノ》の街でばったり出会った。
ばったり出会ったといっても、わたしは張さんを知っているわけではない。張さんの奥さんが、わたしを見つけて声をかけてくださったのだ。(わたしの写真を見て、しっかりイメージしていたという)
なんということだろう。なんという縁だろう。手をとり合って、お互い震えるような気持ちで、いっとき熱く話し合った。
今回は、事前に約束をかわし、食事をとりながら、ゆっくり話した。
張さんは驚くほど柔和なお顔だったが、鐘路で出会ったときは、まだ保釈中の身で、そのせいか、いろいろな辛苦が全身から滲《にじ》み出ておられたように思う。
こんど、はじめて知ったことがある。張さんが、わたしの本を訳そうとしたのは、出版が目的ではなかったということだ。
わたしに『とんぼがえりで日がくれて』という童話集があるが、張さんは会うことのかなわない幼い我が子に、その童話を与えようとして、はじめられた仕事だという。
わたしは、深くうなずいた。
張さんは、自分の思想遍歴をあれこれ語ってくれた。
『橋のない川』住井すゑ、『荷車の歌』山代巴《やましろともえ》を読み、国を愛することと、肉親や身近な人を愛することの意味を、改めて考え直したというふうにもおっしゃっていた。
それは現在の張さんの仕事にも反映されているようだ。
張さんは、今、都心から遠く離れた茂朱《ムジユ》という所で「文化の村」の創設に関与されている。
自然農法的な農業と芸術活動をいっしょにさせたようなコミューンらしい。
チャンゴ(大鼓)打ちの名人の報酬が十万ウォン(日本円で約一万円)で、そのような芸術家の待遇改善にも力を注いでいるといっていた。
張さんは今日の時代に触れて何もおっしゃらなかったが、張さんの生き方そのものが、現代社会の批判のように、わたしには思えた。
すごい人はどこの国にもいるものである。
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友愛という糸
このエッセイの連載と、同じ日に載る吉沢久子さんの「老いじたく考」(「朝日新聞」家庭面)を、わたしは勝手に、きょうだい分と思っていて(吉沢さん、ごめんなさい)待ちかねるようにして愛読している。
「友情」(一九九八年十一月四日付)と題された文があり、「女の友情って、いいものね」という言葉に、うんうんとうなずいた。
この言葉は「男と男の友情」も「女と男の友情」もいいもんですよ、といっているように、わたしには思えた。
このごろ、若い人が、人づき合いの煩わしさを嫌って、孤立したり、そこそこのつき合いですます風潮があることを、なんだかもったいないな、と思っていたところだったので、吉沢さんの文章はうれしかった。
わたしは親子のつながりも、恋人の仲も、夫婦の間も、師弟関係も、友愛、友情を軸に据えるのがいいと思っている。
人と人の間を、無遠慮に土足で踏みこまないためにも、相手を尊重するためにも、そう考えた方がいいと思う。
親であれ子であれ、相手が誰であれ、つながった人は、すべてかけがえのない人生の伴侶《はんりよ》だと思えば、人に対するいとしさは、おのずと湧く。
妬《ねた》みや憎しみ、ときには殴ってやりたい、殺してやりたいと思うほどの感情を抱くのも人間であるが、一拍も二拍も置く修行をできるだけ積んで、人の関係を、ぬくいものにしておきたい。
わたしは定時制高校を出たことを以前に書いたが、そこから大学にいくとき、無一文のわたしに当時の金で、六万円をくれた友人がいる。二つ年上だったが
「オレは大学を断念した。オレのかわりに勉強してきてくれ」
と、ちょっとさびしい笑いを浮かべて、その友はいった。
わたしは六万円を今も返していない。勝手ないい分だが、一生返さないで、それをいつまでも忘れないで生きていくつもりだ。
「物や金は一時の宝、人の心は一生の宝」
誰がいい出した言葉か知らないが、わたしの母は、子どものわたしに、いつもそういっていた。
笑いながら、ため息を吐いて
「そうはいうても、いっぺん金のなる木を持ってみたいなあ」
ともいっていたから、親も、道理と欲との間で修行していたのであろう。
でたらめいうな、と親にいう気はない。子が親に対して、いとしいというのはおかしいが、わたしはそんな母が、涙の出るほど、いとおしい。
どんなに孤独を好む人でも、人は独りぼっちで生きていくことはできない。
多くの人が、その自明のことを忘れる。欲を抱えこんで、さびしい人間になるな、と母はわたしに諭したのだろう。
人とつながることは口でいうほど、たやすいことではない。汗も涙も、ときには血まで流さねばならない。それでも、そうしようとするのが人間で、生きるということは、たぶん、そのつながりをつくる営みなのであろう。
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わたしは、においと音にかなり神経質な反応をする体質のようだ。
香水がダメで、香水の九十何パーセントかは悪臭であるという学説に、我が意を得たりする。食べものの好き嫌いはないつもりだが、においの強いものは敬遠しがちである。
音にも弱い。騒音がひどく気になる質《たち》だ。パチンコ屋に二、三度入った経験があるが十五分ももたなかった。頭痛がしてしまう。
デパートのような低い雑音が充満している空間も、すぐ疲れる。機械類の音もダメ。ホテル嫌いなのは、たぶん冷蔵庫の音が神経を苛立《いらだ》たせるからだろう。
われながら、厄介だなと思う。
同じ音でも自然の音は心安らぐので、どんな音も、わたしにとっては騒音のうちに入らない。
温泉宿に友人と泊まって、その友人が、せせらぎの音が気になって、よく眠れなかったというのでびっくりした。
もの書きは思考するのが仕事なので、この音の環境は、たいへん大事なのである。
このエッセイの発想も、おおかたは夜明けに思いつくことが多い。
わたしの生活は、沖縄(渡嘉敷島)と東京にまたがっているから、落差が激しく、精神の均衡を保つのに、かなりのエネルギーを使うのである。
と、まあ、そんなことを常日頃、思っているのだが、ある日、とんでもない世界にでくわして、たまげたというか、わたしのような神経のほそい人間は、やがてもう生きていく場所がないのではないかと恐怖を覚えてしまったのである。
京都駅に完成した、おそらく東洋一か世界一と思われる巨大なコンコースは、多くの人がすでに知っているだろう。視覚的にも猥雑《わいざつ》としか、わたしには思えないのだが、あのドームのような空間で、なんと「音楽」を演奏していたのである。
ライブなのか再生なのか、そこまで足を運ばなかったので、その点はよくわからないのだが、ともかく、めちゃめちゃなボリュームで、耳を聾《ろう》せんばかりといういい方が、なまぬるく感じるほどのすごさで、わたしは文字通り肝をつぶした。
いっさいの思考と、情感を拒絶する世界だった。
そして、もう一つ驚いたことは、その場所のあちこちにたくさんの若者が、なにをするともなくたむろし(なにかやっていた者もいたが、全体としてはそう見えた)、だらしなく足を床に投げ出し、物臭さを身体で表現している。
わたしは異次元の世界でも見るような思いだった。
駅というものは、それ自体が文化なのである。これから旅立っていく希望と、帰ってきた安堵《あんど》が、しみじみとした感情の空間をつくり出し、人々の心を和ませた貴重な場所だったのだ。それが……、嗚呼《ああ》。
つばめのとまるところは
みんなつばめのえきです
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先達の足跡
安曇野《あずみの》を小宮山量平さんと歩いた。山田温泉で楽しい一夜を過ごし、次の日
「ちょっと寄って行きませんかねえ」
と、小宮山さんはいった。
「え? どこへ」
少し展示しているものがあるという。
それは、北斎と栗菓子で有名な小布施《おぶせ》町にあった。上信越自動車道の小布施パーキングエリアからも直接行ける「千曲川《ちくまがわ》ハイウェイミュージアム」がそれで、小宮山量平さんの全仕事の企画展だった。
ちょっと寄って行きませんかはひどいなァ、もっと早くいってくれればいいのに……。
この先達は八十二歳になっても、シャイなのである。
理論社を起こし、思想書の出版を経て、日本の創作児童文学を育てたことは世に広く知られているが、出版界にあって、いつも時代と真摯《しんし》に向き合い、その精神の指標でありつづけた功績は大きい。
八十歳になって書きはじめた自伝的長編小説『千曲川』は、第二十回路傍の石文学賞特別賞を受けた。
展示の冒頭に、――滔々《とうとう》と流れる千曲川の奔流に似た小宮山少年の豊かな精神形成の流れ……とあり、その『千曲川』の原稿が置かれてあった。
小宮山さんのいちばん新しい仕事を大事にしてくれているのがなによりうれしかった。
知友展というコーナーがあり、グルジアの画家ラド・グディアシビリの絵『友愛』、まだ無名に近かったころの手塚治虫の『おれは猿飛だ』の原画、長新太《ちようしんた》の『星の牧場』の表紙絵など、貴重で、めずらしい作品の数々を、わたしははじめて見た。
小宮山さんは出会いという言葉を大切にする。多くの作家を育てたといわれることをひどく嫌い、わたしはただ出会いを大事にしただけなのだと返す。
グディアシビリも手塚治虫も長新太も、小宮山さんにとって、かけがえのない友人なのである。
一九四七年に創刊した『理論』のバックナンバーも展示されてあり、わたしも若い頃、夢中になって読んだ上原専祿《うえはらせんろく》、大熊信行《おおくまのぶゆき》、都留重人《つるしげと》等の名を見てなつかしかった。
生家である古い土蔵の前に立つ小宮山さんの写真を眺めていると
「そこでね、岡田|嘉子《よしこ》も、田中絹代も、山田|五十鈴《いすず》もね、ロケをしたんだ」
と小宮山さんはうれしそうにいう。そんなときの小宮山さんの顔はまるで子どものようで、失礼ないい方だが、とても可愛いのである。
「創作児童文学のあゆみ」という部屋があり、数々の名作の初版本が並べられてあった。
『夜あけ朝あけ』住井すゑ、『キューポラのある街』早船ちよ、『ベロ出しチョンマ』斎藤|隆介《りゆうすけ》、『赤毛のポチ』山中|恒《ひさし》、『ぼんぼん』今江祥智《いまえよしとも》等々である。
『北の国から』倉本|聰《そう》も全巻置かれていて、その壁面の純、蛍《ほたる》役の吉岡秀隆、中嶋朋子の成長の見られるスチールがことのほか微笑ましかった。
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父の形見
わたしの母は五十九歳の若さで亡くなったが父は九十歳まで生き、ほぼ天寿を全うして逝った。四年前のことである。
七人の子を育てるために、いずれも苦労しているのだが、父は、飲む打つ何とかの極道もしっかりやっていたから、子の人気は断然、母の方に傾く。
父もそれなりに悩みや苦しみがあったんやなァ……と思えるようになったのは、つい最近のことだ。
父が亡くなり、遺品を整理していると、みんな仲良く暮らしなさい、という遺書のようなものと、誰々にいくら、誰々にいくらと、年金を細々蓄えて残したらしい金の配分をしるした書き置きが残されていた。
妹たちが声をあげて泣いた。
今の、わたしたち子どもにとって、その金額はわずかなものだが子を思う親の気持ちは大きいということが誰にもわかる。妹たちが泣いたのは、一時憎っくき親だと思っていたすまなさもあったのではないか。
わたしは四十万円を、父からもらった。
どう遣うと親の心が活《い》きるか考えてみた。
賭事《かけごと》が好きだった志を大事にして、この金はばくちに遣おうと競馬にいった。
「どこからそんな考えが出てくるんや」
と呆《あき》れ顔で友がいったが、のこのこついてきたから、そいつに、そんなことをいう資格はもちろんないのである。
めでたく(?)すってんてんになったが、わたしはひそかに一万円札を一枚だけ残しておいた。あの立派な旧紙幣である。
そして、いつもお守りのようにしてそれを持ち歩いていたのだが……。
年を重ねるごとに物忘れがひどくなる。そのために失敗も多くなるのだが、またもややらかした。
講演にいくので電車に乗った。小田急線に乗り換えるため切符を買おうとして、そこで金を持って出るのを忘れたことに気がついた。
不幸なことに地下鉄は、あのカードみたいなやつで改札口を通ったので、道中半ばで、そうなったわけである。
引っ返せば確実に遅れる。聴衆を待たすことになる。
どうしよう。頭が痛くなるほど考えた。そして思いついたのが、いつも持ち歩いていた父の形見である。
(とうちゃん、許せ)
わたしは駅の売店にいった。買いたくもない週刊誌を買うつもりで、そのお札を出したら、これはちょっとォ……といわれた。
押し問答の末、相手の吐いた言葉は
「他所《よそ》の店で」
だった。
わたしは入訳《いりわけ》(事情、いきさつ)をいって頼んだのに、ようやく父の形見が役に立ったのは、何軒目かの、年配の人のところだった。
わたしは、眠っている父を無理やり引っぱり出して、あちこちで父に恥をかかせたような気分になった。涙が、ちょっぴり出た。とうちゃんよ、親不孝者を許せ……。
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再び、張さんのこと
眠れぬ夜、一冊の本を読む。
このエッセイでも紹介した張義均さんの書かれた『わたしたちの子どもの国は』(行路社=電話〇七五−七二三−七二五一)という本だ。
張さんが獄につながれると、日本でも支援する会ができ、獄中からの手紙を中心に、この本が編まれた。
冒頭、彼の書いた童話が十数編載せられている。
赤とんぼを追う幼児の話などは、彼の子ども観、自然観がよく出ていて傑作である。
張さんが子どもや奥さんに宛てた手紙は、さすがに読んでいてつらい。
ヨリム!
よい本をたくさん読んでほしい。チュホと高飛びごっこや、大声を出し合う遊びも一緒にし、勉強も一緒にしてやっているかい? いつも友だちと仲良くして、母さんのお手伝いもするんだよ。チュホ、新年には一年生になるんだろ? うれしいなぁ。
体が丈夫になるためには、もっともっと跳ばなくちゃならないぞ。もう、お腹に力を入れて大きな声も出せると聞いて、父さんはすごくうれしい。今は父さんは毎晩、チュホの名前を大声で呼んでから眠るんだよ。チュソギ! 字の勉強をたくさんしたかい? 会いたい。
ぼくがきみに「これからぼくは大田《テジヨン》へ行くことになるから(受刑生活をおくる所と思われる)覚悟しなさい」と言ったとき、きみは目をうるませた。で、泣くなって言ったら、きみはぐっとこらえて、まるで幼子のようにぼくの前で気をつけの姿勢をしてみせながら、落ちつき払った表情をつくろってくれた。いまにも泣きくずれそうなのをやっとの思いでこらえているとでもいおうか。
ぼくは、わが子を叩《たた》きながら、泣くんじゃないと言ってやるときのように、やり切れない気持ちに襲われ、気をつけの姿勢でつっ立っているきみの姿を見つめながら、ぼくは、これまでずっと共に暮らしてきた、そしてこれからも共に生きる人生を思い浮かべ、心で泣いた。
張さん一家の絆《きずな》を思い、わたしたちもまた目をうるませるほかないのだが、この一家の不幸の源が我が国から発していることを考えると、まことにつらく身をきられるほど切ない。
張さんはいう。
わが民族が平和的な統一をなし遂げるためには、相手をなじったり非難したりするまえに、まず相手を尊重する相生《そうせい》の論理が必要であるということも、誰もがよく知っていることでしょう、と。
そういわれ恥じ入らなくてはならない政治家が、我が国にはなんと多いことか。民族学校の生徒に罵声《ばせい》を浴びせる日本人が一人でも存在するかぎり、わたしたちは恥を知る民族とはとうていいえないではないか。
――もし民主主義に対する本質的な基準があるとすれば、それは、人のからだ(現実、国民)とあたま(理念、政権)をひとつにならしめるわれわれのこころ(実践、民主主義)に求められるべきでしょう。
張さんのこの言葉を深くかみしめたい。
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景気について
景気が悪い、消費を刺激して経済を活性化させなければならない、そういう声一色だ。自民党と公明党は手を組んで、商品券を配るところまで「堕落」した。たしかに失業率は上がり、タクシー運転手の収入は減ったという事実はまぎれもなくある。
庶民の暮らしへの悪影響を防ぐことと、政治家や企業家がいう経済振興とはきちんと区別しなければ、いつの時代も庶民側が泣きを見る。
景気のよいとき、庶民は銀座のクラブや赤坂の料亭で飲み食いできたのかしら。
つくづく国というものは勝手なことをいうと思うが、かつては「欲しがりません勝つまでは」といい、今は「商品券をあげるから、なんでも買って」である。
拝金主義という言葉があるが、金や物に取り囲まれることは人間をしあわせにしないという知覚を、ぼんやりとではあるが誰も持っていると思われるから(例外はもちろんある)、その人々の善性を、さらに引き出し、その上で、国の成り立ちや経済の確立をはかるのが政治家の本来の役目であり倫理性だと思う。
遠慮なくいわせてもらえば保守政治家を中心に、日本の大部分の政治家は、その倫理性を持っていない。企業家も、それに準ずる。
景気がよくなればなんでもいいというものではないだろう。景気の中身が問題なのだ。
消費の中にも「よい消費」と「悪い消費」があると、わたしは思う。
東京の仕事場の近くに、高級アパレル店があり休日の特売日に、二度も三度も列の後ろに並んで、持ち切れないほどの紙包みを抱えて帰る女性がいるが(同じような愚行の男性も数多いことは承知している)、こういう人とは間違っても結婚したくないね、わたしは。「悪い消費」の見本だろう。
学校図書館にじゅうぶん本があり、「障害」者に手厚い設備が整っている。
これは「よい消費」であることは誰にもわかる。
日本の政治に倫理性がないというのは、その区別なしに税金をかけるという一事を見てもよくわかるのである。
わたしは神戸に保育園をつくるとき、建設費の三分の一を寄付させられたのに、その寄付は所得のうちから控除されなかった。成立前の社会福祉法人だからダメだという。政権党の政治家にいくらかの政治献金をして頼めば、なんとかなると入れ知恵してくれた人がいるが、わたしがそれに応じなかったことはいうまでもない。もし、そういうことが事実だとすれば、政治の腐敗ここにきわまれりということになる。
政治の世界は、それが常識ですよ、とその人はいった。
来年は、どういう年になるのだろう。
銀行再建成って、万骨枯る(庶民の犠牲)は御免こうむりたい。
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小さな小さな話
やんちゃ坊主が、こんな詩をつくった。
せんせいのちち
あおき かつじ 6歳
せんせいのちちいろた
せんせいがとばんに
じいかきよってんとき
いすのうえにあがって
うしろからつかんだ
しろいたいそうふくのうえから
てをいれた
まるこて
やろこて
ぬくかった
子どもは母親ともども呼び出され、セクハラ行為だと、きびしく叱責《しつせき》されたか。
そうならなかった。いや、このやんちゃ坊主を受け持った若い先生は、そうしなかった。
そのことを詩に書かせ、印刷して子に渡し、その文集を家庭にとどけさせた。
親は恐縮し、その若い先生の寛大さと、子どもへの愛情をしみじみ感じた。
やんちゃ坊主は、この先生を一生忘れないだろう。
そんなふうなことを思う。
こんどは保育園の若い保母さんの話だ。
菜っ葉がどうしても食べられない子がいた。
お菜っ葉は体によいから、がんばって食べましょうね、とその保母さんはいわなかった。子どもたちと話をした。
「お菜っ葉はどうして緑色なのか知ってる?」
「どうしてかな、どうしてなの」
「それはね、お菜っ葉はね、お日さまを食べるからなの」
「お日さまを食べるの」
「お日さまの光を、いっぱいいっぱい食べて、こんなきれいな色になるの」
利発な子がいった。
「じゃ、お菜っ葉を食べたら、わたしらもお日さまを食べたことになるゥ?」
「そうね。お日さまの光を食べたことになるんでしょうね、きっと」
「わたしらはお日さまの子?」
「そう。子どもはみんな、お日さまの子よ」
菜っ葉の食べられない子は、そのやりとりをじっときいていた。
まわりの者が、なにもいわなかったのに、その子は菜っ葉を少しずつ口に運ぶようになった。
この話をきいてから、わたしはサイン会などで色紙を頼まれると
いつも
太陽の子で
と書くようになった。
若い先生の、ほんの小さな小さな話ではある。ほんの小さな小さな話をわたしは書き、それをみなさんが読んでくださる。
平和というものはありがたいもので、ふと気がつくと、そのことに感謝する自分を発見する。
一方、同じ地球上でトルネードだのミサイルだの経済封鎖などという、おぞましいものの下で傷ついたり、死んでいった子がいる。
政治の指導者に、どうか、この小さな話がとどきますように――。
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島の冬
久しぶりに素もぐり漁に出る。
こちら(渡嘉敷島)の海は、一年を通してもぐれるが、さすが一月、二月、日中の気温は二十度をわることがしばしばあり、喜び勇んで海に入るというわけにはいかない。エイ、ヤーと気合を掛ける気分で、海に入る。
いっしょの、島の漁師ナカイさんは、ことのほか寒がり屋で
「冬の海は魚がおらんのよ」
と、あまり乗り気でない。
いったん海に入ってしまうと、気温より海水の温度の方が高いので、あんがい楽だ。
ナカイさんの言葉に反して、魚はたくさんいた。まずまずの仕事になった。
ナカイさんは、変だなあ……なんていっている。
サンゴの白化現象が気になるので、かなり気をつけて、その状態を見ている。テレビで報道されているほどひどくはない。島中の海をもぐったわけではないので、確かなことはいえないが、報道写真はどうしてもその部分に集中しがちなので、実際よりひどく映るのではないか。
しかし、海の異変は確かにあった。
とった魚ブダイをさばいていたら、ナカイさんが、あれえ、といった。
「今ごろ、卵を持っている」
この時期、キモに脂が乗っていても、卵は抱いていないそうだ。
「やっぱり海がおかしいのかな」
とナカイさんはいった。
その生態に乱れが生じているとしたら、やはり心配である。
その夜、もあい(頼母子講《たのもしこう》)があるので、親代わりをしてもらっている當山清林さんの家へいった。
娯楽の少ない島は、もあいがなによりの楽しみなのである。
日常のあれこれを語り、酒(泡盛)が出て、ジョークとちょっと助平な話が出て、三線《さんしん》となる。今夜の弾き手漁師のシゲルさんは酔っぱらって、ちゃんとおしまいまで弾けなかった。それもまた笑い話の種になる。
なにも知らない人が、そんな風景を見ると、底抜けに明るい人たちに映るだろう。
しかし、人間の暮らしに、いいことばかりはない。
もあいの仲間の一人長老のシンペイさんは、さっと吹いてきた風のように先月|逝《い》った。
数少ないもぐり漁師のもう一人の相方マコトさんはがんに冒された。歯痛が治らないといっていたら、がんだった。
顔の半分をとってしまうほどの大手術を受けた。
「オレよりもっとひどい人もいるからね。がんばろうと思うよ」
そういっているマコトさんに会ったら、涙が出た。今、病院で、片目で魚を突く練習をしている。
農業のクノ君には、野菜を全滅させた上、ニワトリまで卵を産まなくなるというピンチがきた。
でも、誰一人へこたれない。島の人を見ているとわずかばかりの原稿でひいひいいっている自分はまだまだだと思う。
島の冬の夜、どこかあたたかい風が吹く。
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新聞好き
今まで生きてきて、いちばん多く目を通してきた活字のジャンルは何かと考えてみると、もの書きのくせに書物ではなく、新聞だと確実にいえる。
隅々まで目を通すという人がいるが、わたしもそれに近い。
それほど新聞が好きだ。
新聞は具体的な社会であり学校である。
好きというのには落とし穴があって、ときには客観性をなくしたり、淫《いん》することが、間々《まま》あるが、新聞はいくら好きになっても、その心配はまずない。
宅配してもらっているのは二紙だが、旅するとき、スポーツ紙も入れて十紙あまりも買いこんで、にこにこしながら車中の人となる。
各紙を読み比べるのは、ひじょうに勉強になる。
沖縄のことに関してこの新聞は徹底して政府寄りだなと思ったり、この新聞はこのごろ皇室記事が増えてきたなと思ったり、そんな「特色」をさがすのも、けっこう面白い。沖縄の家にいるときは、いわゆる全国紙は読めない。
しかし、それはそれでメリットもある。
東京の仕事場にやってきて、たまっている新聞を、かため読みするのだが、どうしてこんなに広告のページが多いのだろうかと感じたり、農業や漁業の記事がきょくたんに少ないなと思わせてくれるのも、うっかりすると、やり過ごしてしまいがちなことを気づかせる役目を果たしてくれる。
残念ながら(?)週刊誌(主として個人のプライバシーを売りものにする週刊誌をさすつもりだが、おおかたがそうですね)の広告にも目を通している。
これが、いちばん感心もし、呆《あき》れ果てもする。よくまあ、ここまで、とことん読ませようとするコピーを考え出すものだというのが感心の方。
よくまあ人のことを節度もなければ品もなく作文するものだというのが呆れ果てる方。
わたしも被害にあったことがあるのだが、やられた方は不愉快このうえないし、当然の権利で訴えても、やたら時間と金がかかり、勝訴しても、まるで意味がないという法律に、やりたい放題の連中の方が守られているという不条理。
そこで、せめてわたしは、その作文の書き手に、「あんたの子どもに恥ずかしくないの」と、つぶやくことくらいか。
頭にきている女優さん、お相撲さん、メジャーだから書かれるのは仕方ないなどといわないで、どんどんいいたいことはいってください。
立場が逆になって、おまえさんが当事者だったら、どう思うの、どうするの、って。
じつはこのことを書きたくて、この文章を書いたわけではない。
わたしの大好きな新聞が、ときどき、この愚を犯していることを憂えているのだ。
新聞はあくまで、小さいけれど広い社会であり学校であることを、どうか、しっかり守ってもらいたい。
書かれた側も、それを読んだ側の方にも何一つ学ぶことはないというのは、ゴミより始末におえない。
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愚かさと哀しみ
いわゆる自自連立ができ、各党首の話をテレビできいていると、「……いのちを守る」という言葉が耳に飛びこんできて、それをいっている人が小沢一郎さんだったので
「あれ」
と思った。ご存知《ぞんじ》のように彼は積極的に多国籍軍などへの参加、協力を推し進めようとしている人で、こんどの連立も、まずは自民党の日米防衛協力のための指針《ガイドライン》関連法案を通すための手練手管のうちの一つだとわたしなどは解釈している。
新聞等では先行きのない自由党が、とか、数で足りない自民党が、などといっているが決してそんなものではない。
名前をあげてもいいのだが、戦後の日本保守政治の中に地下水のように流れているものを、いつか表に出したいと悲願のように考えつづけている人たちがいる。
「九条の改憲・自衛隊の海外派兵」だ。
武器をとって(あるいはそれに守られて)いのちを守るといわれても、とても素直に、はい、とはいえない。あれ、と思う方が正常な神経ではないか。
憲法が軍事力の保持を禁じていることは誰でも知っていることだが、この国の愚かさと哀しさはそういう憲法を持ちながら、軍艦も戦闘機もどかどか買いこむというでたらめさと、そういう、なしくずしのやり方に、なかなかノーといえない国民の気力のなさである。
国際間のことは、防衛のことは、個人がどうこういっても……というようなあきらめに似た気持ちが人々の中にあるように思われる。
このことがこわい。そして危険である。
なしくずし派は、そういう人たちが増えることでにんまりし、いっそうなしくずしに励む。
アメリカと武器に依存することが、ほんとうに国民のいのちを守ることになるのか。
青くさいといわれようがなんといわれようがその他の方法、非武装、永世中立の宣言、非暴力、無抵抗の道、軍事同盟ではなく文化交流、軍事力にたよらないあらゆる安全保障の道をさぐり議論を重ねていくという機運を一刻も早くつくる必要がある。
そのために、とりあえずわたしたちがやらなくてはならないことは、選挙のとき、武器派、武闘派と目される連中には、一票たりとも入れないということだ。
以前、この欄でも書いたが、沖縄・慶良間《けらま》諸島で、たった一島、戦禍を被らず「集団自決」もなかった前島《まえじま》の、兵がいなければ、武器を持たなければ、攻撃されることはないという一校長の信念が生んだ事例は、貴重で、わたしたちが学ばなくてはならない平和教育の一つである。
日米安保条約がわたしたちの安全に寄与していると思いこんでいる人は、沖縄の基地汚染の現状をまず知ってもらいたい。「朝日新聞」(一月十四日付)が社説でくわしく報告した。基地にはダイオキシンやトリクロロエチレンなど、さまざまな有害物質が残留し、それを取り除くのに莫大《ばくだい》な費用とたいへんな時間がかかると。
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便利さの裏側で
きつい問いをするようだが、もし、あなたの子どもが交通事故を起こし、あるいは起こされ、死亡したり、意識不明の重体におちいったりしたら、あなたはそれに対して、車に乗る限りは、それも覚悟の上のこと、運命として受け入れよう、と思いますか。
わたしは親になったことがないので推し量るしかないが、親の身として、とてもそう潔くは考えられないというのが、ふつうではないか。
車さえ乗らなければ、車さえ持っていなければ……とあれこれ思い、こんにちの車社会を呪ったとしても、それを非難することは誰にもできないだろう。
わたしは甥《おい》を交通事故で亡くしている。結婚式があと数日というとき、ものいわぬ人間に変わり果てた。
そんな悲しい確率は、ほんのまれなことだと思っていたのに、別の甥が、またもや交通事故を起こし、現在、意識はいまだ戻っていない。
甥のいのち、親の憔悴《しようすい》を目の当たりにするのは、ほんとうにつらく、気も、うつろだ。
人はそんなときにも仕事をしなくてはならず、もの書く人間のせつなさを今、じゅうぶんに味わっている。
わたしは一九三四年の生まれだが、おそらくこれほど急速な文明の発達に遭遇している世代はない。
わたしの子どものとき、そう数は多くなかったが、まだ馬車が荷を運んでいた。今は他の天体に、人や人工物が到達する。
機械文明の発達は、わたしたちの生活を著しく変えた。人は便利さというものにきわめて貪欲《どんよく》になっていく。
携帯電話などというものは、その最たるものであろう。
わたしは、車も、その手の電話も持っていないが、タクシーにも乗るし、家に電話もある。便利さを享受しながら、それを批判する資格はないだろうといわれれば一言もないが、これ以上の便利さの追求は、さらに人のいのちを食っていくだろうという警告は、どうしても発しておきたい。
車を作ること、売ること、買うことに狂奔するのではなく、どうすれば車を減らせるのかということに、人間のエネルギーを使う時代を迎えているのだと認識してほしい。
政治、企業の倫理もそこに向けて再構築してほしい。政治家と企業家が結託して、ひたすら物を作りつづけることは、おそらく近い将来、わたしたちの社会を滅ぼすであろう。
わたしは権力が、なにかを規制することに反対の立場をとる者だが、例えばシートベルトの着用を義務づけているように、携帯電話の使用も車中のような、それによって人命が損なわれる可能性があるような(可能性ではなく実際に携帯電話による交通事故は増加し続けている)場所では禁ずるべきだと思うし、教育の場においても子ども、若者が携帯電話を持つことの是非を、もっと真剣に議論すべきだと思う。物にかけがえはあっても、いのちに換えはないのだから。
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再び、死について
交通事故を起こし、意識不明の重体で入院している甥を見舞うのに同行してくれた友人が、その帰り道、ぽつんといった。
「親不孝ばかりしてきて、せめてオレのできることは、決して自殺はしないと自分に言いきかせることだった」
(よく、わかるよ)
と、わたしは心のうちでつぶやいた。
いのちも定かでない子と親の、ほんとうにせつない時間を、いっとき共有してくれたその友に、さまざまな思いが一時に押し寄せたのであろう。
わたしも、きょう死んでやろう、明日死んでやろうと思ったときがある。
青春と呼ばれる、その時代に、自分につながるいのちの存在を、ほとんど何も考えず、そういうことを思い詰めた。
そう思っても死を選んだわけではないから、今こうして生きているのだけれど、そう思ったことが、どんなに罪なのかということが、こんにち、よくわかるのである。
生きているとは思っても、そのとき、生かされているとは毫《ごう》も思わなかった。
いのちが生きるということは、お互いのいのちが支え合って生きているのであって、いのちは独りぼっちで生きていけるはずは絶対ないのである。
ということは、自分のいのちは、自分で始末していいはずはなく(他者のいのちを何人といえども始末することはできないという絶対条件があるとわたしは考えるもので、犯罪による殺人、制度による殺人いずれも認めるわけにはいかない)、あなたのいのちの存在が、どんな状態であろうとも、あなたを生かすと同時に、あなたにつながるいのちも生かしているのである。
いのちは、いのちのようすが、そのありようがどうであれ、存在すること自体に価値がある。
その真理に逆らうことは何人も許されない。
国を守るためだとか、正義のためだとか、どんな大義名分があろうとも、いのちを捨てるという行為は絶対悪として否定されるべきである。
自殺という言葉に向き合うものに、自死という言葉がある。
わたしの兄は神経症を病み、最悪の結果つまり死を選ぶしかなかった。
兄は、いのちを殺すのに優し過ぎる人間だった。だから、わたしは兄の死を、「自殺」と呼ぶことはできない。
「自死」
兄は、自らの死を、自ら迎え入れたというしかないのである。
そう考えると、おおかたの自殺は、自死ではないかという思いもある。
どう考えればいいのか。むずかしい問題である。
わたしのところに、自分はなんの値打ちもない人間で、せめて死を選ぶしかないという思いで一日一日を生きているという手紙が、ときに舞いこむ。
わたしは返事を書かない。
一日一日を生きている……その一日がどれほど価値のあることかを他人に頼らず自ら悟ってほしいと願うからだ。
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貘さんのこと
貘《ばく》さんとは、山之口貘《やまのぐちばく》のことである。この沖縄出身の詩人には格別な親近感があり、ついついそう呼んでしまう。
今、必要があって、さらに貘さんのことを調べている。
貘さんは、あの、土の上には床がある/床の上には畳がある/畳の上にあるのが座蒲団《ざぶとん》でその上にあるのが楽という/楽の上にはなんにもないのであろうか/どうぞおしきなさいとすすめられて/楽に坐《すわ》ったさびしさよ、という「座蒲団」の詩が有名で、ほとんどの生涯を貧乏で暮らし、苦しい生活をうたった詩人という印象が一般的だ。
よく知ると、そんな単純なものでは決してない。
わたしは彼の中学時代がとても面白い。ひどく早熟だったようだ。
小学六年で、四年の少女(少女といえるのかしら)に恋をし、思いつめたあまり、中学の試験に落ちてしまうという輝かしい経歴(?)の持ち主なのだ。
もっとも、そこだけが早熟だったわけではなく、その思想も、早くからすごいものを持っていた。
中学生といえば、十三、四歳だ。もう、その頃、反権力、民衆の視点で真の自由を追究した大杉栄の影響を受けていた。当然、学校当局からにらまれる。
詩を投稿して、その詩の中でかぶれた思想だという教師に反抗している。
方言札(ウチナーグチを使うと、渡された罰札)に抵抗し、それを便所に捨てたりして、皇民化教育に反対したそうだから、早くから逸材の資質を持っていたのだろう。
岡部|伊都子《いつこ》さんから送っていただいた山之口貘の世界『僕は文明をかなしんだ』(高良勉著 彌生書房刊)に貴重な指摘があった。
――貘は浮浪生活も貧乏もユーモアを込めて対象化し表現していますが、それをしばしば自殺したいというほどの絶望感をのりこえて詩に昇華させていきました。
その根拠として高良勉《たからべん》さんは、山之口貘の娘泉さんの言葉を引いている。
――山之口貘は本当に人間を愛した詩人だったと、みんな云います。そうでしょうか、私にはわかりません。私はもっと他の言葉をさがそうとしています。山之口貘は人間に絶望し、その絶望を自分のみっともない体の一部のようにたずさえて生きていた詩人である。
そういえば、貘さんの詩に、こんな詩があった。
ねずみ/生死の生をほっぽり出して/ねずみが一匹浮彫みたいに/往来のまんなかにもりあがっていた/まもなくねずみはひらたくなった/いろんな/車輪が/すべって来ては/あいろんみたいにねずみをのした/ねずみはだんだんひらたくなった/ひらたくなるにしたがって/ねずみは/ねずみ一匹の/ねずみでもなければ一匹でもなくなって/その死の影すら消え果てた/ある日往来に出て見ると/ひらたい物が一枚/陽《ひ》にたたかれて反っていた。
わたしは絶望をくぐらないところに、本当の優しさはない、といった老哲学者の言葉を思い出した。
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仕事嫌い
もの書きは、誰もその経験を持つと思われるが、見知らぬ人とか、講演や、なにかの会で話しかけられた人などから、自分の作品を読んでもらいたいと分厚い原稿の束を送りつけられることがある。
もちろん、その時間はないから、事情を書いた手紙を添えて、送り返すのだが、ふうと、ため息を吐く。
今、やっている仕事が、この原稿くらいの厚さだったらなァ、と情けないことを思うのである。
よくよくの仕事嫌いだなあ、と我ながら呆《あき》れる。好きで文章を書いていた時代もあった。ずっと以前のことである。
中学一年のときに、『少年クラブ』に詩を投稿して載せてもらった。数年前、友人が、それを見つけ出して、持ってきてくれた。
感激したなあ。ほぼ半世紀前のものですからね。
戦災孤児ものといわれた菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』に入れこんで、自分も、そんなストーリーを、せっせと書いたことを覚えている。
ああいう時代に戻れないかしら。
好きなものほど、それが仕事となると苦痛になるのだろうと思っていたら、それは人さまざまであることを知った。
子どもの本の学校かなにかで、神沢利子《かんざわとしこ》さん、角野栄子《かどのえいこ》さんといっしょになった。
三人が、それぞれで面白かった。
書くのが楽しくて仕方ないというのが『魔女の宅急便』の角野さん、わたしはその逆で、『くまの子ウーフ』の神沢さんは、楽しいときもあるけれど、つらいときもあるわよ、とおっしゃった。
ものを書くのはしんどいだけや、とわたしがいったら、じゃ、なぜ書いてんのよ、と角野さんにいわれた。
なぜ書いてんのかなあ。
松本清張のように、金の為と答えられるとかっこいいのだが、そうもいい切れない。
楽しいのか苦しいのかと問われれば、ものを書くのは、つらくて苦しいというしかないのだが、ものを書くことは勉強になるなァとは思う。
ぼんやり考えているのは、ただ、それだけのことだが、ぼんやり考えてることを文章にしはじめると、その、ぼんやりがだんだん明らかになってきて、ああそうか、そういうことだったのかと納得したり、さらに、まるで新しい考えが湧いてきて、組み立てた思考の上に、それが、でんと座り、ありゃ一つの世界ができちゃった、というようなことになったりもする。
小説の場合でいうと、登場人物が一人歩きしだすと、よしよし、これでなんとかなるぞとようやくペンがすべり出す。
小説を書いた者でないと、たぶん、その実態はつかめないと思うが、作中人物の一人歩きというのは、ほんとに不思議で、自分が考え、書いているのに、自分でない何かが、それをしているような気分になるのだ。
小説は、いのちの「生き様」を書くのだから、小説家はその作品の数だけ人生を生きているということになる。
そうか。それが面白いということなのか。これから、そう考えることにしよう。
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残された詩
見知らぬ人から、本が送られてきた。
はさみこんであった紙片に、つぎのような文が書かれてあった。
――50年後、地方の図書館で「こんな本が出ていたのか」と、手にしてもらえることを願って作りました。
お心に届きますように念じつつ……。
発行者 西村郁
その本には、鶴見俊輔《つるみしゆんすけ》さんが序文を書いておられ、タイトルに、死刑囚いのちの三行詩『異空間の俳句たち』(海曜社=電話〇七四〇−二二−四一七六)とあった。
読んで、粛然とした。
処刑 明日
爪《つめ》切り揃《そろ》う
春の夜     卯一(二十七歳)
返り花
われを死囚と
子は知らず   初久(三十六歳)
秋天に
母を殺せし
手を透かす   祥月(三十一歳)
以前にも書いたが、わたしは個の暴力による死、集団の暴力による死、制度としての死、いずれも容認できない立場をとる者だ。
死刑制度の是非が問われている。目に入る限り、熟読するようにしている。
前々から気がついていたことだが、死刑を非とする人は、思考の末、そこに、たどり着いた結果に過ぎず、もっとも大事にしていることはいのちの尊厳がこの社会で守られているのかどうかということの吟味である。
子ども、「障害者・児」、老人等の人権が守られているのかどうか、安全保障の名を借りて、他国を武力で威嚇したり、特定の地域、人々に犠牲を強いていないかどうか、などということと深く結びついているのである。
この本の末尾にも、鑑賞と解説として、合評風の座談が載せられているが(この本への、わたしのたった一つの疑念は、ぎりぎりの死刑囚のことばを、このような形で評していいのかという思いが残るところだ)、その冒頭で、こまやかな心配りと公正さを示そうと努力している跡がうかがえる。
「死刑囚は死を目の前にして深く悟ることがあるでしょうが、その死刑囚に殺された人は突然にやってきた死ゆえに、考えるいとまもなくこの世を去ったわけで、おそらく恨みが深く残るでしょう」
というある人の忠告に対して、「この問いかけを胸の奥におきながら、座談を進行します」
と述べている。
人を殺したことも、そして、その人もまた殺されていくことも、かなしいことである。わたしたちは、そのかなしみに対して、ただただ祈るほかないのだが、それを踏まえて、いのちの有り様を深く考えていく人間でありたいと思う。
帰りゆく
母に冬日が
ついて行く   峯千(二十八歳)
つばくろよ
鳩《はと》よ雀《すずめ》よ
さようなら   菊生(四十三歳)
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仕事について
わたしは遅筆、寡作の、もの書きで、あちこちに迷惑ばかりかけているが、ここ数カ月は、ほんとうによく仕事をした。自発的にそうなら立派なものだが、追い詰められてのことだから、少しも自慢にならない。
安定期の太宰治がそうだったらしいが、一日、四、五枚の原稿をみっちり書き、あとは晩酌というのが理想的なもの書きの生活で、いつもそれを目指すのだが、それさえ覚束無《おぼつかな》いありさまで(もっともわたしは炊事、洗濯、掃除は一人でこなさねばならず、天気の良い日は漁に出てしまうから、もの書き専業というわけにはいかないのである)、最後は追い詰められ、やむなく没頭するというありさまだ。
一日十五枚から二十枚近い原稿を毎日書かねばならないというここ一カ月ほどの生活は、わたしのもの書き生活の中でかつてなかったことで、心底くたびれ果てた。
もう、もの書き業ごめんという感じである。
いちばんこたえたことは、そんなハードな仕事をしていると、あちこちに義理を欠くことである。友人の大事な仕事に文をかくことも、ダイオキシン問題でがんばっている友人の応援依頼も、ごめんな、といって断らなくてはならないのがつらかった。
永六輔さんの父君の言だったか、義理を欠くほど仕事をとるなと戒められたという話は身にしみるのである。
仕事をしたくても、その仕事のない人が、こんにちたくさんいる。
先般、助手さんを募集したら、たった一名の採用に対して六百通に近い応募があった。
太平に見える世の中だが、内実はきわめてきびしいのだ。
応募された方の文章を読んでいて、つくづく感じたことがある。たいていの人は、自分を生かせられる仕事に就きたいと願っている。
食べていかねばならないから、ぜいたくはいっていられないけれど、ただ、たんに歯車の一部になるのは嫌だという気持ちが言外ににじみ出ている。
しごく当然のことだと思う。
自分が生かせられるということは、自分の仕事が社会のために役立っているという実感でもある。こんにちの企業の形態は、人を、ねじ釘《くぎ》一本にこそすれ、全人格的参加という側面がきわめて乏しい。
今、金融をはじめ企業はボロボロだが、その原因をバブル崩壊のせいだけにしてはならないと思う。
人を、そんなふうに使い、使い捨ててきたことを、根本的な欠陥だったと考えるべきではないか。
そこで、それを自分のことにしてみると、少々の仕事をして、くたびれ果てたと書く人間のよわさを思わざるを得ないのである。
わたしの身近の人々は、仕事につながる愚痴をいっさいこぼさない。
仕事がきついとき、いつも思う永六輔さん、ニュースキャスターの仕事をしながら、文を書き、人前で話をしている筑紫哲也さん、いつもカン詰め状態で仕事をしている本多勝一さん、鎌田慧《かまたさとし》さん、ベトナム・カンボジアを飛び歩いている石川文洋さん。見倣う人が多い。
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無知と無恥
国が前面に出て、何か指図するときは危ない。
日の丸・君が代の法制化を検討するという。ちょっと待ってくれ、それは……と思わず声が出た。
露骨といおうか、無神経というかガイドライン関連法案を上程しようとし、そして、こういうことを言い出すのだから、わたしは自分の国のことより、かつて日本軍に侵略されたアジアの国々の人のことを思って、暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
一つの事実をお伝えしたい。
ピースボートで、香港の高校生と話し合いを持った。
事前に、アンケートを寄せてもらっていた。そこに、「日本は平和の道を歩んでいると思いますか。それとも軍国主義の道を、ふたたび歩もうとしていると思いますか」という設問があった。
十一人の高校生のうち、一人を除いて他の全員が、「軍国主義の道を歩もうとしている」のところに、丸をつけていたのだった。
わたしは絶句するような気分になったことを覚えている。
戦争というものの記憶は、起こされた側から見ると、これほどつよく末代まで残るものなのだ。
一つの国が、国旗、国歌を定めるのは当然のことだという考えがある。
かつて起こした侵略戦争があるばっかりに、日本にはこれが当てはまらない条件があり、まずそれを克服しなければならないことを自覚すべきだ。
国は、日の丸・君が代を通して、人々が、これらの問題をしっかり考え、議論するよう、先導的な役割を果たすことを求められているのに、やることは権力をかさにきた決めつけでしかないというのは、あまりにも貧しく哀しい。
それぞれの県の教育委員会もよく考えてほしい。
日の丸・君が代を考えようという教師には、ただたんに、それは反対だというのではなく、歴史認識、歴史教育、平和教育の側面から、もっと議論を深めたいという願いがつよい。
それは教育そのものを充実させることになるのだから、共に考え、実践しましょうという態度を示すべきではないのか。
職務命令などという、これまた、愚かしくも哀しい、本質的には蟷螂《とうろう》の斧《おの》でしかないものを振りかざして、教師を追い詰めるというのは下の下というしかない。
「従軍慰安婦」の問題すら解決できない現政府に、日の丸・君が代を法制化する資格はまったくない。
今、日本人が、さしあたってやらなくてはならないことは、遅きに失してしまっているとはいうものの、戦争責任という問題を、とことん考え議論し、それを世界の人々に、具体的行動でもって示すことである。
さいわい、この国には「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」を決意した憲法があるのだから。
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ミン君という子
ミン君は学校にいっていない。やはり学校にいっていないドー君とドゥック君と橋の下に住んでいる。日中、三人はセメント袋を持って、商店のゴミ捨て場をまわる。
ゴミはすぐ腐る。耐え難いほど臭い。そんなことはいっていられない。ゴミの中からペットボトルや空きカンを拾う。
ある日の収入、ボトル十四個、空きカン十個、ボロ布三枚で五十八円。
それで一杯十円のうどんを食べる。朝から何も食べていないから、とても足りない。心やさしい屋台のおばさんに二円まけてもらって、やっと二杯目のうどんにありついた。
ゴミ拾いも競争が激しい。どうにもならないとき、ミン君はできるならばやりたくない物乞《ものご》いに、しかたなくいく。
後払いで百円の赤ちゃんを借りていく。物乞いには、コップ一つとボロシャツ、そして赤ちゃんが必需品≠ネのだ。
ミン君は赤ちゃんをあやすのがうまい。むずからないで赤ちゃんは「協力」してくれる。
雨降りがつづくと、それもできない。
市場で半分腐った野菜クズをかじって、飢えを満たそうとしたのはいいのだが、猛烈な下痢に見舞われ、三人は危うく命を落としそうになる。
そんなミン君だが正義心はつよい。
仲良しのかき氷屋のおばさんが、道路上の商売は違法だということで追われようとする。抵抗したおばさんは、天秤棒《てんびんぼう》に担いだカゴ二つの屋台を警官に壊された。
ミン君は警官の足に噛《か》みつく。口をはなそうとしないミン君は殴られ気を失ってしまう。
食中毒のとき助けてくれたゴミ拾いの仲間ターオ姉妹が、ナワ張りを理由に殴られていたときも、ミン君は六人の男の子を相手に奮闘するのだが、多勢に無勢またもや半殺しのめにあわされるのだ。
ある日、ミン君は一人の日本人に出会う。
「寒くないかい」
「そりゃー、寒いよ。でもほかに寝るところもないしさ。おじさん、何してるの?」
「あー、おじさんか。散歩だよ。それに君みたいな子どもたちを見つけて、子どもの家にきてもらっているんだ」
日本から、たった五時間でいけるベトナムの古都フエに、ミン君たちはいる。
ミン君の出会った日本人は、フエで「ハイバーチュン子どもの家」(日本での連絡先、ベトナムの「子どもの家」を支える会=電話〇二九四−七〇−一五〇〇)を運営している小山道夫さんである。
わたしは二年前に、ここを訪れ、子どもたちに会い、小山さんにいろいろ話をうかがった。
社会主義国にストリートチルドレンが多数いるというのは信じ難い話だが、これは現実なのである。
小山さんは中傷、不正、官僚主義(社会主義国にもそれがある)、そして金策にと、口にいえない辛酸をなめながら、くじけることなく「子どもの家」を守り続けている。
ミン君らの話は、小学館から出版された『火焔樹《かえんじゆ》の花』にくわしい。
小山さんの人生を知り、人間の生き方というものをつくづく考えさせられた。
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島の春
東京での仕事を終え、渡嘉敷島へ戻った。
東京は気温三・三度というのに、こちらは十九度もある。日が差すとさらに気温は上がって、暑いくらいだ。
渡嘉敷港に降り立つと、自然に顔がほころんでくる。
わたしは確かに南島から活力をもらっているなと思う。
自転車をひいて、マコトさんが迎えてくれた。がんの為、顔の半分をとってしまう大手術を受けたのだが、今はもう、マグロ漁に出るまでに回復している。
隻眼の漁師である。
「くれぐれ無理はせんといてよ」
とわたしはいった。
性格のおだやかな、そして気のいいマコトさんのどこに、その不屈の精神がひそんでいたのだろう。
海に戻ったマコトさんは晴々とした顔をしていた。
クノ君夫妻の畑はどうなっているのかしら。
わたしは足を運んだ。
裕一さん、千晴さんの姿が畑にある。
「ずいぶん畑、きれいになったね」
「うん。まあまあだよ」
この前、島を出るとき畑は冠水して、無残な姿をさらしていたのである。
今は、カボチャ、インゲン、ホウレンソウ、ネギ、ニンジン、トウモロコシ等々、たくさんの野菜が元気よく日を浴びていた。
「水はけが悪いのと、風の強さで、どうしてもいくらか被害は出るんだね」
クノ君は、キュウリの葉の黄色い部分を指さしていった。
「有機農法もたいへんなんだ」
とわたしはいった。
もう刈り取るばかりの小麦が、しっかりした実をつけていた。
クノ君夫妻の農業も、はや二年にもなろうとしている。
二十代の若者が東京からやってきて島に住み、押し寄せる苦労にくじけることなく、こうして野良で働いている姿を見ると、感動するのである。
こういう若者もいるということが、このくにの希望のように感じられるのだ。
さて、半年の約束ではじめたこの連載エッセイも、ようやく最終回を迎えた。
半年が、もう半年、そして、もう半年と続けることができたのは、すべて読者の方々の後押しのおかげである。
たくさんのお手紙をいただいた。もちろん、お叱りもあったけれど、大部分は励ましの文面でたいへん、うれしかった。
甥《おい》の交通事故という私事を書いたのに、お見舞いのお便りまでいただいた。さいわい、甥は命をとりとめ、今、順調に回復の途にある。ありがとうございました。
この連載をはじめたとき、神戸の少年事件がおこり、版権引き揚げ問題で、わたしはつらい時間をおくっていた。
この欄から、みなさんに話しかけられることが、わたしにとって、どれほどの励みになったことか。深くお礼を申します。
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あとがき
死に場所をどこにするかをぼちぼち考えなくてはならない年頃なのに、明日からどう生きようか、と本気で考えていたりする。
職業一つとってみても、今こそ、もの書き業といえなくもないが、あれこれやって、いったい自分の職業はなになのか判然としない。
住む場所も転々とした。家庭を持つこともしない。
他人の目から見て、はなはだ落ち着きのない人間に見えることだろう。
わたしは生きることに、いやらしいくらい欲が深いのだと思う。
なにやかやに目が向くし、やってみなければ気がすまない。
このエッセイ集は、そんな自分の性格がよく出ているようで、いのちの有り様を探るという筋は通しているつもりだが、よくまあ、あっちこっちにお出掛けなさる、と本人が呆《あき》れている次第だ。おつき合いくだされば幸いである。
一九九九年六月
[#地付き]灰 谷 健 次 郎
本書は一九九九年八月、朝日新聞社より刊行された単行本を文庫化したものです。
角川文庫『アメリカ嫌い』平成14年3月25日初版発行