大冒険はおべんと持って
火浦功
目次
大冒険はおべんと持って
正義と真実の使徒
地上最大の決戦 Part 1
地上最大の決戦 Part 2
あなたも私も不老不死
なんてたって仏滅
01 大冒険はおべんと持って
○月△日 はれ
今度の連休に、
山下さんとサトルさんと、あたしの三人で、
大冒険に行こうとゆーことになりました。
わーい、わーい。
おべんと作るんだい
(みのり日記よりー原文のまま)
タコさん。
カニさん。
タコさん。
カニさん。
みのりはせっせと包丁を動かした。
これ以上はないってくらい、真剣な顔つきである。
外科医がメスを扱う時のような、細心きわまりない手つきである。
額には、うっすらと汗さえにじんでいる。
朝もはよから、台所にこもりっきりで、ドアに鍵までかけて、みのりはウィンナーをタコにしているのであった。
あるいはカニにしているのであった。
時には、皮つきと皮なし(のウィンナー)で、赤ワニ白ワニを作ったりしているのであった。
――おべんとうはかくあるべし!
みのりの考える”究極のおべんとう”とは……。
まず、ごはんは、ほどよく冷えていること。
次に、梅干しと昆布の佃煮が添えられていること。
そして、おかずは、おべんとう世界の三種の神器とも呼ばれる、
唐揚げ!
タマゴヤキ!!
ウィンナー!!!
と、三拍子そろっていること(注)。
最後に(これが一番重要なポイントだが)、その場合のウィンナーは、必ずタコカニタコカニしていること!
みのりは夕日に向かって叫びたかった。
「タコのウィンナーの入っていないおべんとうなんて、本当のおべんとうじゃないわ!!」
ことほどさように、みのりにとって、タコのウィンナーは、重要な意味合いを持つのである。
まー、そんなわけで、みのりの前に置いてある、まな板の上には、これはタコこれはカニとゆー具合に、ウィンナーが可愛らしく並べられているのであった。
そして、みのりの背後には、およそ一トンはあろうかと思われる、出来損ないのウィンナーの山が、うず高く積みあげられているのであった。
「あ――っ、また失敗!」
みのりは、それまで手にしていたウィンナーを、肩ごしにポイとほうり投げて、新しいウィンナーを手にとった。
そして、これひとつに人類の命運がかかっているノダ! とゆーよーな表情で、再び包丁を構えた。
その時、台所のドアにノックの音がした。
『アノー、オ嬢サマ……?』
アレックスの、おずおずとした声が、ドアごしに聞こえてくる。
『ソロソロ、山下サマが、オミエニナル御時間デスケド……』
「気が散るから、声をかけないでっっ!」
みのりは、ふり返りもせずにわめいた。
ドアの向こうからため息のような音が聞こえてきた。
昨夜のことだ。
何を思ったか、突然、自分でお弁当を作ると言い出したみのりを、アレックスは、必死で説得した。
『オ弁当ナラ、イツモノヨーニ私ガ作リマスカラ……』
アレックスは、泣かんばかりにして、言ったものだ。
『デスカラ、ドーカ、ソノヨーナ無謀ナコトハ……』
「どこが、無謀だってのよー」
みのりはぶんむくれた声で、言った。
「そりゃー、あたしは、まだ仮免許中のマッドサイエンティストですけどねー、三人分のお弁当ぐらい、立派に作ってみせるわ! それとも、アレックス、あんた、あたしの料理の腕を疑ってるわけ?」
『アー、イエ、別ニ……』
アレックスは言葉を濁した。
二年ほど前にも、一度、みのりが台所に入ったことがある。
その時のことを、みのりは、すっかり忘れているらしいが、アレックスの記憶装置《メモリー》には、どうやっても消去できない苦い思い出として、くっきり刻まれているのだ。
たしか、あの時、みのりは、一時間と十七秒、台所にいた。
そして……。
アレックスが台所の残骸を片づけ、もう一度、新しい台所を作り直すのに、丸々十日間かかった。
Sigh。
アレックスは、ため息をついた。
そして、台所の将来についての宿命論的な予感を胸に、廊下を行ったり来たりし始めた。
その時。
起こるべくして、それは起こった。
どっくわぁ〜〜〜ん!!
注 ここだけの話、みのりのお料理のレパートリーってのは、あとにも先にも、この三種類っきゃないのであった。
「まーっ、ちょっとした手違いでねー」
あーはーは。
みのりはお気楽な調子で笑ってみせた。
(さすがにちょっぴり照れくさそうではあったが)
「ちょっとした、手違いねー」
山下は、なんとも言えぬ表情で、台所を見回した。
それは、もはや台所の形状をとどめていなかった。
山下とサトルが、豪田篤胤研究所に到着した時。
みのりは、きれいさっぱり吹き飛んだ台所の残骸のまん中で、茫然と立ちつくしていたものだ。
原因を聞いてみると、
『ウィンナーをタコにしていたの……』
山下は、つくづくと考えた。
――いったい、どーゆー風な手違いをすると、タコのウィンナーで、台所を丸ごと吹き飛ばせるんだろう?
やはり、みのりの才能には、常人では測り知れないものがあるようだった。
「まー、しかし、ケガがなくってなによりでしたねー」
サトルがにこにこしながら、言った。
「みのりさんのお手製弁当が食べられなくなったのは、残念な気がするけど。――天気もいいし、絶好の大冒険日和ですよ」
「あら、おべんとうなら無事よ」
「えっ?」
「ほら」
みのりはガレキの中から、少し焦げ目のついた籐製のバスケットを、引っ張り出した。その中には、お茶を入れた水筒と、かーいらしいおべんと箱が三つ。それに、デザートのバナナと、おやつに、マーブルチョコレートが三本入っていた。
「これ、山下さんの分。これ、サトルさんの分。これ、あたしの分」
みのりはそれぞれのおべんと箱を並べてみせた。
山下とサトルは、思わず顔を見合わせた。
それから台所の惨状に目を移した。
最後に、もう一度、おべんと箱に視線を戻す。
山下のおべんと箱はクマさん模様。
サトルのおべんと箱はワニさん模様。
みのりのおべんと箱はネコさん模様だった。
「うーん」
山下が、意味不明のうなり声をあげた。
「わあ。こりゃー、おいしそうだ」
サトルは、さっそく蓋を開けて、中身をのぞいている。
「タマゴヤキに、唐揚げに……あっ、すごい。ウィンナーが、ちゃんとタコになってる! へえ、すごいなー」
「へへー」
みのりが、うれしそーに笑った。
「ちょっとしたもんでしょ?」
「いやー、たいしたもんですよ、みのりさん」
サトルは力一杯うなずいた。
「これこそ、正しいおべんとうの姿ってもんです。――それに、おやつのマーブルチョコレートが、泣かせますねー」
「そ! あたし、これ好きなのォ」
「ぼくも、大好きなんです。――いや、幼稚園の遠足を思い出しますねー」
すりすりすり。
サトルは、マーブルチョコレートのケースに頬ずりしながら、うっとりしている。
みのりは、春の陽だまりみたいな微笑を浮かべている。
爆弾が落っこちた台所で、くりひろげられる光景としては、なかなか異常で、心あたたまるものであった。
――しかし、いったい、どうやったら、こんな大爆発の中で、おべんとうだけ、無事にすませることができるんだろう?
ひとり山下だけが、悩んでいた。
――やっぱり、マッドサイエンティストだけあって、爆発には馴れっこになってるのかな?
まるでその疑問が聞こえたように、みのりは山下の方を向いて、にっこり笑った。
そして片目をつむってみせながら、こう言った。
「コツがあるのよ」
「はあ……」
山下は、なんとなくうなずいた。
「さてと」
みのりは、ぱんと手を打って、言った。
「んじゃ、そろそろ、行きましょうか」
「そーですね」
おべんとうを入れたバスケットを、後生大事に抱えたサトルが、ニコニコとうなずいた。
水筒は、肩からななめにぶら下げている。
山下は、しきりと首をひねりながら、口の中で生返事をした。
「では」
みのりは、明るく元気に宣言した。
「大冒険に、しゅっぱあーつ!」
みのりたちの姿が見えなくなると、。半分こわれかけたドアが開いて、アレックスが顔を現わした。
台所の残骸には、ただ風が吹いていた。
アレックスは、もと台所だったものを、電子アイで見回し、ため息をついた。
そうして、ひとり黙々と片づけを始めた。
その背中に、哀愁がにじみ出ていた。
さて。
大冒険には、銀河地下鉄東西線で行くのが便利である。
猫ヶ丘駅から、星間ワープ。ステーションを二回乗り換えて、およそ一時間の行程だ。
さいわい、超空間のお天気も、上々の秋晴れで、東西線は順調に運行されている。
みのりたちは、自動販売機で、それぞれチケットを買って、地下鉄に乗り込んだ。
『四番ホーム。大冒険|惑星《ランド》経由、白鳥座行き特別快速、まもなく発車いたします』
車掌のアナウンスが、スピーカーから流れてきた。
『えー、社内たいへん混みあっております。入口付近に立ち止まらず、ご順に奥の方にお進み下さい。ドアが閉まります。無理な描け込み乗車は、おやめ下さい。ドアが閉まります。ドア付近にお立ちの方、閉まるドアにご注意下さい』
星間ワープ・ステーションのプラットホームに、発車のベルが鳴り渡った。
「けっこ、混んでるわねー」
「連休ですからねー」
「みんな、大冒険に行くのかしら?」
「まあ、そうとばかりは、言えんでしょうがねー」
吊り革につかまって話しているみのりたちのまわりには、たしかに、家族連れの客が多い。――たまの行楽に大冒険へってわけだろう。
「やっぱ、無理してでも、宇宙船《ふね》で行った方がよかったかしら?」
「駐船場が、大変ですからねー」
と、山下が言った。
みのりの言う宇宙船とは、もちろん豪田篤胤科学研究所の建物、それ自体のことである。山下たちは、以前、あの家《ふね》に乗って、ひどい目に会っている。
銀河地下鉄で行こうと、山下が強硬に主張したのも、無理からぬ話である。
発車のベルが鳴り終わった。
ゴトン。
地下鉄は、ゆっくりと動き出した。
徐々にスピードをあげ始める。
トンネルのランプが、すっ飛ぶように後ろに消えていく。
やがて、トンネルの前方に、灰色の壁が見えてくる。
レールも、その壁の中へと消えている。
亜平面シールド――これが、地下鉄を、一瞬の内に、何光年も離れた別星系のワープ・ステーションに運んでくれるのだ。
電車は、鋭く警笛を鳴らし、亜平面シールドに突入した。
大冒険惑星。
はっきりと言ってしまおう。
それは、太陽系から、七光年ばかし離れたところに、ごく最近、建設された、惑星規模の巨大遊園地なのである。
地上は、例によって、いくつかのセクション――おとぎの国だの、恐竜の国だの、なんとかの国だの――に分割され、入園者たちは、それぞれ自分の好きなコースを選び、そこで、実物大のアドベンチャー・ゲームが楽しめてしまうという、むちゃくちゃな惑星《ほし》なのだ。
ここでは、ミッドウェイ海戦を、自分で指揮することも出来るし、中世の騎士となって竜を退治に行くことも出来る。
もちろん、いわゆる遊園地遊園地した――ジェットコースターだの大観覧車だのの世界もあって、たいていの家族連れは、こっちへ行くようである。
銀河地下鉄が、大冒険惑星のグランド・コンコースにすべりこみ、ドアが開くと、人々は、先を争うように、おめあてのゲートに向けて走り出す。
まさに、ずどどどどって感じである。
あっというまに、ひとっこひとりいなくなってしまったコンコースに、みのりたち三人が、ボツーンと取り残された。
「ふう……」
みのりは、なんとなくため息をついた。
「なんか、大冒険する前に、疲れちゃったみたい…」
「うわさには聞いてましたけど、すごいもんですねー」
バスケットを抱えたサトルが、うなずいた。
「えーと、どのコースに行きますか?」
パンフレットをガサゴソと開げながら、山下が、訊ねた。
「七つの大陸と七つの海にわたって、全部で百九十二種類のアドベンチャー・ワールドが作られてるんですけど」
「うわー、これは迷っちゃうわねー」
横からパンフレットをのぞき込みながら、みのりが嘆息した。
「どれが、一番おもしろそうかしら?」
「あっ、これなんか、どーですか?」
サトルが、指さしたのは『お菓子の国』であった。
「あたし、ここがいい」
みのりは『SF・コンバット・シューティング』を主張した。
「あー、でも、そこ、なかなか入れませんよ。二時間ぐらい並ぶんじゃないかな」
山下が、言った。
「ぼくは、この『歴史の国』なんかが、穴場だと思うけどなー」
三者三様。
あれがいいこれがいい、いやこっちの方が……などとやってる内に、コンコースには、次々と電車が到着して、行楽客の大部隊が、ずどどどどっと、三人のかたわらを、かけ抜けて行く。
「ね。――とりあえず、どこか、お天気のいい場所で、おべんと食べない?」
お天気のいい場所というのは、要するに、大冒険惑星では、セクションごとにコンピュータが気象をコントロールしているからで、年中晴れている所もあれば、年中嵐のところもあるって意味だ。
「あ。それ、いーですね。食べましょう。すぐ食べましょう」
サトルは、諸手をあげて賛成した。
山下も、腕時計を見て、うなずいた。
「まあ、ちょっと早めの昼食ってかんじだけど、いーんじゃないですか」
「きまりね」
みのりが、パチンと指を鳴らした。
ちょうどそのころ。
大冒険惑星の全てを司る、コンピュータ・複合体《コンプレックス》の厖大な超伝導回路のどこかで、小さな火花《スパーク》がはじけた。
だれも気にとめないような、ごく小さな火花だったが、コンピュータにとっては、決して小さくなかったらしい。
とにかく、それが、全ての始まりだったのである。
ゲートの空間バイパスを通って、みのりたちは、『おとぎの国』へやってきた。
等身大のウサギだの、猫だの犬だのが、歩きまわっている。――もちろん、ぬいぐるみなんかではなく、全て精巧に作られたロボットである。
どこからか、『星に願いを』のメロディが流れてくる。
陽ざしが、肌に心地よい。
芝生は、ふかふかだし、こずえからは、小鳥のさえずり。
おべんとうを開くには、絶好の場所と言えよう。
「うーん、いい気持ち」
みのりが、思いきりのびをしながら、言った。
ふと、あたりを見回して、
「だけど、最近の子供たちって、こーゆーとこに興味ないのかしら?」
「たしかに、人気がありませんね」
と、山下も、うなずいた。
動いているものと言えば、ぬいぐるみロボットばかりだ。
「いいとこなのにね」
「ほんとにねー」
「世の中から情緒ってもんが、どんどん減っていく。――なげかわしいことです」
山下が、妙に年寄りくさいことを言った。
「ねー、どこで、おべんとう食べるんですかー」
と、サトルは情緒とは一切無縁の声を出した。
「あの猫さんに聞いてみましょ」
みのりは通りかかった猫に、声をかけた。
「猫さん猫さん、おべんと食べるのに、いい場所知らない?」
『おべんとう……?』
猫ロボットは、くるりとこちらをふり返った。
マンガチックな猫の顔は、にっこりと笑ったままの表情で固定されている。
猫が、言った。
『おべんとう』
「そ。おべんと」
『おべんとう』
「そうよ。知らない?」
猫は、大声で叫んだ。
『おべんとう!』
「?」
みのりは、山下をふり返った。
――なんか、様子がおかしいわね?
みのりの目は、そう言っていた。
山下の目も、それに賛成していた。
『おべんとう!』
猫が、またわめいた。
顔は、にっこり笑ったままだが、声の調子が、妙にカン高い。
『おべんとう……?』
犬が近寄ってきて言った。
これも、顔は笑っている。
笑った犬の顔は、山下の背より高い位置にあった。
『おべんとう』
クマがやってきた。
笑っていた。
『おべんとう!』
ウサギが来た。
笑っていた。
『おべんとう!!』
ネズミが来た。
もちろん、笑っていた。
『おべんとう』
『おべんとう』
『おべんとう』
ヤマアラシも、リスも、アルマジロも、来た。
みんな笑っていた。
等身大のぬいぐるみは、みのりたちをぐるりと囲んで、口々に叫んだ。
『おべんとう』
『おべんとう』
『おべんとう』
マンガチックにデフォルメされた動物の顔――それも、みんなにこやかな微笑を浮かべているやつが、まるでゾンビの集団のように、両手を差しのべて、みのりたちに迫ってくるのだ。
はっきり言って、これは不気味だった。
悪夢の世界だった。
「な、な、なんなのォ、これ」
みのりはあとずさりしながら、悲鳴をあげた。
「よ、余興にしては、ちょっと、たちが悪いですねー」
そう言うサトルの語尾も、震えていた。
「どんどん集まって来るぞ」
山下が、言った。
人工の森の中から、他のぬいぐるみロボットたちが、ぞろぞろやって来る。
七人の小人もいた。
まのぬけた顔をしたワニもいた。
まがぬけている分だけ、よけいに不気味だった。
三人は、お互いに、ぴったりとくっついて、じりじりとあとずさった。
ぬいぐるみたちも、じりじりと近づいてきた。
『おべんとう!』
ぬいぐるみたちの声は、おとぎの国全体を、ゆり動かして、響き渡った。
『おべんとう!!』
「おべんとうが食べたいのかしら?」
みのりは、山下に囁いた。
「ぼくたちのことを、おべんとうだと思ってるのかもしれませんよ」
山下は、ワニの口に、ずらりと並んだ鋭い牙を見つめながら、言った。
「だけど、これ、みんなロボットなんでしょ?」
「そう」
「だったら、人間に危害を加える心配は……」
みのりがそこまで言いかけたとき。
『おべんとう!』
ぬいぐるみロボットたちが、いっせいに襲いかかってきた。
「きゃ〜〜っっ!」
「に、逃げろっ!」
三人は脱兎の如くかけ出した。
後ろからは、ぬいぐるみの大集団が、にこにこしながら追いかけてくる。
「ひえ〜〜」
肩ごしにふり返ったサトルが、顔を引きつらせて、叫んだ。
「ど、どこが、おとぎの国なんだよォ」
「人気のないのも、わかる気がするわね」
みのりが、妙に落ち着いた声で、感想をのべた。
「ゲートだ!」
山下が、叫んだ。
「助かったぞ」
「だめよ」
みのりが、言った。
「あのゲート、死んでるわ」
「なんだって?」
たしかに、みのりの言う通りだった。
ゲートは死んでいた。
空間バイパスが閉じているのだ。
「どーなってんだ。こりゃあ!」
山下が、わめいた。
「これじゃあ、どこにも逃げられないぞ! おとぎの国に、閉じ込められちまう!!」
「とにかく走るのよ!」
みのりが叫び返した。
もっともな御意見だった。
三人は走った。
力の限り走った。
走って走って走って走って……
三人の行手に、美しい入江と、一隻の帆船が見えてきたのは、そんな時であった。
「帆船《ふね》ですよ!」
サトルが叫んだ。
「海賊船だ!」
山下も叫んだ。
「あの帆船《ふね》、乗っ取るわよ!」
みのりが叫んだ。
「あれで、おとぎの国を脱出するのっ!」
「乗っ取るたって、一体どうやって?」
「だいじょうぶ」
みのりは、きっぱりと言ってのけた。
「あたしたちには、マーブルチョコレートがあるわ!」
三人は海賊船の乗っ取りに、見事成功した。
「いやー、あざやかなお手並みでしたね、みのりさん」
と、サトルが感心しきった口調で、言った。
「マーブルチョコに、あんな利用法があったとは知りませんでしたよ」
「まーね」
みのりは、ちょっぴり得意そうに、うなずいた。
「だけど、危険だから、小さいお子さんには、絶対に真似しないでほしいものねー」
「ほんとですねー」
二人は、しみじみとうなずきあっている。
山下ひとりが、悩んでいた。
世の中には、自分自身で、その場に立ち会っていながら、絶対に理解できないことってのが、いくつか存在しているらしい。
――いったい、どうやったんだろう?
山下は、しきりと首をひねった。
――まあ、タコのウィンナーで、台所を吹っ飛ばしちゃう才能の持ち主だからなー。
山下は、チラチラとみのりの横顔を、うかがった。
「さっきから、なに考えこんでいるの、山下さん」
みのりが、明るく声をかけた。
「も、大丈夫よ。海賊《アンドロイド》たちは、みーんな海の中へ落っことしちゃったし、ぬいぐるみは海の中には入ってこれないし、とりあえず、この帆船《ふね》の中にいれば、ひと安心よ」
にっこり。
「いや。別に、そんなことは、心配してないんですけどね」
山下は、口ごもった。
「じゃあ、山下さんも、おべんと食べなさいよ。――走って、おなかすいちゃったでしょ?」
「はあ……」
山下は、差し出されたおべんと箱を受け取りながら、ぼんやりとうなずいた。
何か、心のすみに、ひっかかることがあったのだが、それが何だったか、どうしても思い出せなかった。
――このウィンナー、腹の中で爆発するってことは、ないだろうな……。
山下は、タコのウィンナーを、ハシでつまみあげて、つくづくと眺めた。
サトルとみのりは、例によって、旺盛な食欲を見せている。
「んー、うまい! 最高!」
「ほんとに、そう思う?」
「もっちろん!」
「えへへ!」
入江の中は、波もおだやかで、甲板の上で、潮風に吹かれながら食べるおべんとうってのも、これはこれで、なかなかオツなものである。
山下は、ふと目をあげて、おとぎの国の方を眺めた。
なんとなく、さっきより陸地が遠くなったような気がした。
頭上を見あげる。
三本のマストに、帆はきれいにくくりつけられたままである。
――引き潮に流されているんだな。
山下は、納得して、ひとつうなずいた。
その時、何かが、また、山下の脳ミソを引っかいた。
「?」
山下は、ハシを口にくわえて、ポケットから、大冒険惑星のパンフレットを取り出した。
そして、大変なことに気がついた。
「み、みのりさん……」
「なーに、山下さん」
「あの、つまんないことを聞くようですけど……」
「?」
「みのりさん、帆船の操縦は、できるんですよね?」
「操縦とは言わないんじゃないかしら?」
「なんて言うのか知りませんけど、とにかく、動かせるんでしょ?」
「一度だけ、ヨットに乗ったことがあるわ」
山下は、頭をかかえた。
大変な問題を忘れていたのだ。
おとぎの国から脱出するために帆船を乗っ取ったのはいい。
しかし、誰も、それの動かし方を知らないのだ。
「なに? どーしたの?」
「これ、見て下さい?」
山下は、パンフレットを甲板に広げてみせた。
「いいですか? ここが、今、ぼくたちのいるおとぎの国です」
山下は、ひとつの島を指さした。
「それから……」
と、指をずーっとたどって、別の島を指さしながら、言った。
「ここが、グランド・コンコースのある場所です」
「なるほど。それで?」
「間に何がありますか?」
「海」
「そう」
山下は、世にも厳粛な顔つきで、うなずいてみせた。
「それも、えらくだだっ広い海があるんですよ」
「そうね」
「今、この船は、潮の流れに乗って、外洋へ外洋へと運ばれてます」
「そうなの?」
「このままいくと、ぼくたちは、何日間も、いや、ひょっとしたら何ヶ月間も、大冒険惑星の海を漂流することになるんですよ。――わかりますかあ〜〜?」
山下の声は、どんどん陰気になっていく。
「おまけに、その海には、年中、日本海海戦をやっているところもあるし、ハリケーンが吹きまくってるところもあるし、でっかい恐竜がうようよ泳いでるところもあるし、船の墓場なんて呼ばれているセクションも、ここにはあるんですよ〜〜」
「あら。だけど、この船、コンピュータ・クルーズでしょ?ほっといても、そういう所は回避してくれる……」
「と思いますかァ〜〜?」
みのりは、おとぎの国のぬいぐるみたちの様子を思い出した。
山下の顔を見ると、まるでこの世の終わりみたいな表情で、おどろ線を発散している。
「うーと、まー、そーねー」
みのりは、なんとなく笑ってみせた。
「あれは、おとぎの国だけのことだったんじゃないかしら。ね? きっとそうよ」
「そーですかね〜〜。だといーんですけどね〜〜」
「そーよー。だから、山下さんも、そんなおどろ線なんか早くひっこめて。ほら、お天気だって、こんなにいいんだから、少しは楽しまなくっちゃ……」
その時。
ポツッ。
みのりのほっぺたに、冷たいものが落ちてきた。
「え?」
みのりは、ほっぺたを片手でおさえて、空を見上げた。
真っ黒い雲が、みるみるわき出してくるところだった。
あれほど晴れあがっていた空が、たちまち雷雲で覆いつくされた。
不気味な雷鳴も聞こえてくる。
風も強くなった。
波頭が、暗い海に白くくだけている。
ピカッ。
青白い閃光がきらめいた。
「きゃっ」
みのりが、頭をおさえた。
とたんに。
バケツの水をぶちまけるみたいにドシャ降りになった。
三人は、あわてて、船の中へ避難した。
「どーなってんのかしら」
みのりが、髪の毛についた雨のしずくをはらい落としながら、言った。
「おとぎの国って、年中晴れてる筈でしょ?」
「大冒険惑星の気象コントロールが狂っちまったんでしょうね」
山下は方をすくめてみせた。
「もっとも、狂ったのが、それだけとは、とても思えませんけど」
「どーゆー意味?」
「大冒険惑星の全てを管理してるのは、巨大なコンピュータ・複合体《コンプレックス》でしてね。――そいつが、ひとを遊ばせるのにイヤ気がさして、今度は、自分が遊ぼうと考えたら……ってことですよ」
「なるほど」
みのりは、ぽんと手を打った。
「おなじみの、コンピュータの叛乱ってテーマね」
おー、なっとく。
みのりは、うんうんとうなずいた。
「おさまり返ってる場合じゃないですよ、みのりさん」
山下は、泣きたくなった。
遅かれ早かれ、このままでは、船が難破するのは確実だ。なにしろ、誰一人、帆船の操作など知らないのだから。
たとえば、この船が、メカ満載の宇宙船なら、みのりにも、なんとかしようがあっただろう。
しかし、あいにく、こいつは、木と布で作られた、旧世界の遺物なのだ。
――どうすればいいんだろう?
山下は、まるで、そこに答えが書いてあるんじゃないかと期待するような目で、パンフレットを見つめた。
「あれれー」
サトルが、妙ちくりんな声を、はりあげた。
「なんだか、ずいぶん揺れてきましたよー。みのりさん。早くなんとかしないと、やばいんじゃないですかー」
「そうねー」
みのりは、眉をひそめた。
「このままじゃ、みんあ船酔いおこしちゃうもんねー」
「そーですよ。せっかく、おべんと食べたばっかりなのに」
「あーのーなー」
――生命が危ないって時に、のんびり船酔いの心配なんかしてる場合かっ!
山下は、そう言いかけた口を、途中で閉じた。
あきらめに似た表情が浮かぶ。
山下は、ゆっくりと首をふった。
「うん。そうだ」
みのりが、パッと顔を輝かせて、言った。
「サトルさん、マーブルチョコ、まだ持ってる?」
「もう、空っぽですよ」
「いいのよ。ケースだけあれば」
「なんに使うんです?」
サトルは、バスケットの中から、マーブルチョコの空箱――細長い円筒形の例のアレ――を取り出しながら、言った。
みのりは、ケースを受け取ると、うふふと笑った。
そして、言った。
「ないしょ」
「みのりさん、なにやってんですかねー」
「さーな」
山下とサトルは、キャビンのすみっこで、なにやらゴソゴソしているみのりの方を横目でうかがいながら、ひそひそと話し合った。
みのりがくるりとふり向いた。
「山下さん。ボールペンか何か持ってる?」
「え? ああ、たしか、ここに……」
「ちょっと、貸して」
「ええ。いいですけど……?」
「これ。こわしちゃっていい?」
「ええ、いいですけど……。何にするんです?」
「まーまー」
みのりは、再び謎めいた微笑を浮かべてみせた。
一分経過。
「さー、これで完成!」
みのりは、マーブルチョコの空箱を手に、山下たちの方に戻ってきた。
「なんですか、それ」
山下は、訊ねた。
当然だろう。みのりの持っている空箱は、外見上、どこも変わったところはないのだ。
「へへー」
みのりは、うれしくてたまんないって風に微笑んだ。
「うまくできちゃった」
「なんですか、なんですか」
サトルも、興味津々って顔で、言った。
「なんですか、それ」
「これはねー」
みのりは、山下とサトルの耳に、こっそり耳打ちした。
山下の顎が、だらりと垂れ下がった。
サトルは目をまん丸にした。
それから、二人は、同時に素頓狂な声を張りあげた。
「インスタント過去世現出装置!?」
「仕組みは、簡単なのよ」
みのりは、なんでもないことのように、言ってのけた。
「輪廻転生ってあるでしょ?あれを、ちょっとばかり応用するだけ」
「応用するって?」
「つまりね。誰でも生まれる前は、また別の人生を、どこか別の場所で送っていたわけでしょ?で、その人生の前にも、やっぱり、別の人生があるわけよ。――催眠術の実験で、人間だれでも、生前の記憶を持っていることは証明されてるわけ。――だから、その人の過去世を、ずーっとたどって調べてみれば、生れかわり死にかわりしている中で、一度くらいは、船乗りだったってこともありえるでしょ? そうじゃない?」
「つまり、御先祖さまがって意味ですか?」
「うーん、ちょっとちがうわね。この場合、本人が過去に何をやってたか調べて、その記憶を現在《いま》に復活させるわけだから……」
「だけど、そんな、過去世なんて……」
「あら。山下さん。信じないの?」
「いや。そーゆーわけじゃないですけど……」
山下は、言葉を濁した。
「今あるこの肉体なんてねー、単なる遺伝子の乗り物にすぎないのよ。――遺伝子は全てを記憶してるわ。本人には思い出す手段《すべ》がないだけ。その気になれば、原形質の海で泳いでたアメーバの時代の記憶だって、遺伝子から取り出すことは可能なのよ。――胎児が、お母さんのおなかの中で、順々に系統発生を再現するのが、その証拠よ。赤ん坊ってねー、最初は単細胞生物《卵子》でしょ? それが分裂して、魚の形になり、両生類になり、で、一番最後に、やっと人間の形になるわけ」
「えー、まー、それは何かで読んだことがありますがねー」
山下は、まだどこか釈然としない顔で、言った。
たしかに、みのりの言うことはもっともだ。
それに、人間の遺伝子ってのは、よく調べてみると、えらくたくさんの余分な情報をかかえているらしいってことも、山下は知っていた。単に、細胞を人間の形にするためだけなら、あれほど厖大な量の情報は必要ないのだそうだ。では、その不必要な遺伝子ってのは、一体なんのために、くっついているのだろう? そこには、一体、どういう情報が、眠っているのだろう? いつか、それが発現する日が来るのだろうか? そして、人類は、進化の階段を、また一段昇ることになるのだろうか?
山下には、見当もつかなかった。
それに、今は、のんびりと議論している時ではない。
「いいでしょう」
山下は、きっぱりとうなずいた。
「やってみましょう」
「そうそう。やってみるしかないですよ」
サトルが、うれしそうな顔で、言った。
山下は、サトルをチラリと見た。
「サトル」
「なんですか、先輩?」
「おまえ、たしか千葉かどこかの、漁師町の出身だったよな?」
「え?」
サトルの表情が、ぴしりという音と共に、凍りついた。
山下は、みのりをふり返って、重々しくうなずいてみせた。
「やって下さい」
「まー、過去世って、国籍とか人種って、あんまり関係ないんだけどねー」
みのりは、そう言いながらも、サトルに向けて、マーブルチョコの空箱を構えた。
サトルは、両方の掌を前にして、あとずさりしながら、言った。
「ちょ、ちょっと、待って下さい……」
もちろん、みのりが待つはずはなかった。
みのりの持つマーブルチョコの空箱――インスタント過去世現出装置の先端から、淡いグリーンの光が、サトルめがけてほとばしった。
「うわ〜〜っ」
サトルは、悲鳴をあげた。
「ぼ、ぼく、前世はカナダライだったんですよー」
むちゃくちゃなことを言って、サトルはグリーンの光から逃れようとした。
しかし、無駄だった。
グリーンの光は、サトルの体をすっぽりと包みこんだ。
「ぐえっ」
蛙がおしつぶされる時みたいな、妙な音をたてて、白目をむいた。
ぶったおれる。
山下が、みのりに聞いた。
「どんなぐあいです?」
「しっ」
みのりは、ひとさし指を、唇の前にあててみせた。
「もうすぐ、サトルさんの前世が現れるわ。――ほら出た」
サトルが、むっくりと起きあがった。
いつもの、どこかボーッとしたような表情が、黒板消しでぬぐったみたいに、消え去っていた。
目を半眼に見開いたまま、サトルは、ひどくモノトーンな声で言った。
「ひとーつ。ひとの世の生き血をすすり……」
山下とみのりは、思わず顔を見合わせた。
サトルは、妙なポーズをつけながら、言葉を続けた。
「ふたーつ。ふらちな悪行ざんまい……」
みのりは、山下の袖をちょいちょいと引っぱりながら、小声で囁いた。
(ねーねー、山下さん)
(なんです?)
(この人、一体なんなの?)
(さあ……)
山下は、軽く肩をすくめた。
(でも、あんまりまともそうじゃないですね)
(それに、役に立ちそうでもないし……)
「みいっつ!」
サトルが、わめいた。
「みにくい浮世の鬼を……」
(消しちゃおか?)
(消した方が、世の中のためでしょう)
(じゃ、消しちゃおっと)
みのりは、インスタント過去世現出装置のスイッチを、切った。
グリーンの光が消えた。
同時に、サトルの体は、糸を切られた操り人形みたいに、くたくたっと床に崩れ落ちた。
「さー、次は、どうかな?」
みのりは、再びスイッチを入れた。
インスタント過去世現出装置が作動して、サトルは、またもむっくりと起きあがった。――今度は、別の人格が現れたらしい。はじめっから、顔が笑っていた。
「♪すいすいすーだららった、すらすらすいすいすーい」
サトルは、いきなり踊り出した。
山下とみのりは、半口開けて、サトルを見つめた。
「ん?」
サトルは、踊りをやめて、山下を見た。
次にみのりに視線を移す。
「いやっはっは」
サトルは、笑った。
「およびでない?」
山下は答えなかった。
「およびでないね?」
みのりも答えなかった。
サトルは、言った。
「こりゃまた失礼いたしましたっ!」
(ガチョーン)
そして、サトルは再び気を失った。
「勝手にさわいで、勝手に消えちゃった」
みのりは、茫然とした口調で、言った。
「なんだったのかしら、今の……」
「さーねー」
山下も理解に苦しみながら、言った。
「たぶん、陽気な人だったんでしょう」
みのりたちは、気を取り直して、再度、サトルの前世に挑戦した。
インスタント過去世現出装置が、グリーンの光を発するたびに、サトルの体には過去の人格が、次々と現れた。
スイッチ・ON。
「えー、まいど馬鹿馬鹿しいお笑いを一席……」
スイッチ・OFF。
スイッチ・ON。
「ハイル・ヒットラー!――総統、私は歩けます!」
スイッチ・OFF。
スイッチ・ON。
「生きるべきか死すべきか……それが問題だ」
スイッチ・OFF。
スイッチ・ON。
「ひかえひかえひかえい! ここにおわすお方を、どなたと心得る! おそれおおくも先の副将軍……」
スイッチ・OFF!
ON。
「愛とは、決して後悔しないこと……」
OFF。
ON。
「翼よ、あれが北千住の灯だ」
OFF。
ON。
「この遠山桜が……」
OFF。
ON。
「今朝、人間になりました」
OFF。
ONとOFF。
これを何十回、くり返しただろう。
しまいには、サトルは、キャビンの中をナックル・ウォークではいまわり始めてしまった。
人間以前の記憶――すなわち、サルだったころの人格にまで、過去世をさかのぼってしまったのだ。
みのりは、ため息と共に、インスタント過去世現出装置のスイッチを切った。
「やれやれ」
と、山下は首をふった。
「こいつが、どうしてこうまで能天気なのか、やっとわかったよ。――前世からの積み重ねが物を言ってるんだ」
「困ったわねー」
みのりも、眉をひそめて、サトルの体を見おろした。
「せっかく装置はうまく働いているのに、肝腎のサトルさんの前世が、こんなんばっかりじゃ、どーしょーもないわ。何か別の物を作るにしたって、今からじゃ、材料も揃えらんないし……」
「弱りましたねー」
山下も、大きく、うなずいた。
そして、『この役立たずが』とゆーよーな目で、サトルを睨みつけた。
その時。
「ん?」
サトルが、目を醒ました。
そして、床の上に半身を起こして、きょろきょろしながら、
「あれ? ぼく、なんで寝てんだろう?」
「おまえなー」
山下が、うんざりしたような口調で、言った。
「少しは世の中の役に立つ前世のひとつくらい、用意できないのか?」
「役に立たなかったですか?」
「ぜんぜんだね」
「だけど、そりゃー、ぼくのせいじゃないですよー」
サトルは口をとがらせて抗議した。
「だって、前世にまで責任持てませんからねー。先輩だって、そうでしょ」
「馬鹿野郎。おれくらいの人間になるとだなあ……」
山下が、胸を張って、そう言いかけた時。
みのりが、突然、大きな声で叫んだ。
「あっ、そーか!!」
「?」
何事かふり返った山下を、みのりは、にこにこしながら見つめたものだ。
そして、こう言った。
「考えてみれば、山下さんでも、いいわけよね」
「え?」
「別に、サトルさんの前世にこだわる必要はないんだわ」
うんうん。
みのりは、自分自身で、うなずいている。
「ちょ、ちょっと……」
山下は、あわてた。
「ちょっと待って下さいよ、みのりさん。そいつは、いったい、どういう……」
当然のことながら――
みのりが待つはずはなかった。
次に山下が気づいた時――
山下は、まわりの様子が、ひどく変わっていることに、大きなとまどいを覚えた。
自分が、どこにいるのか、まるで見当がつかないのだ。
とにかく、例の帆船の中でないことは確かだった。
耳を聾するエンジンの音。
窓の外に見えるのは、荒れる大海原ではなく、白い雲と青い空。
目の前には、やたら旧式のメーター類がずらりと並んで、山下を取り巻いている。
そして、山下の手の中で、細かく振動している謎の物体。
――なんだこりゃ?
山下は、眉間にしわをよせ、それに目を近づけた。
自分の握ってるものが、飛行機の操縦桿だと気づくまで、三十秒かかった。
山下の顔から、音を立てて血の気が引いた。
「な、な、な……」
山下は、ありったけの声を張りあげた。
「なんじゃこりゃあ!!」
山下が驚くのも無理はなかった。
なにしろ、船の中で気を失い、しばらくたって目ざめてみると、飛行機のコクピットで操縦桿を握っている自分を発見したのである。
それも、ただの飛行機ではない。
おそろしく旧式の、双発プロペラ機なのである。
これで驚かない方が、どうかしている。
しかし、山下を一番驚かせたのは、自分がこんな飛行機を操縦できるはずがないという、厳粛な事実だった。
少なくとも、猫又ジャーナル編集長代理である山下に飛ばせる飛行機と言えば、唯一、紙飛行機くらいのもので、プロペラ機はおろか、完全自動操縦のイオノクラフトすらいじったことはないのだ。
それが、今、こうして、コクピットに座り、操縦桿を握っている。
あまりのことに、山下は、目まいすら感じた。
顔面そーはく。
気味の悪い汗が、全身にどっと吹き出してくる。
一ミリだって体を動かしたら最後、飛行機は真っ逆さまに墜落するんじゃないかという恐怖が、山下を操縦席に金しばりにしていた。
その時、後ろの通路から、みのりが顔をのぞかせた。
やけに他人行儀な口調で、みのりは、言った。
「どうかなさいました? 山下大佐?」
「みっ、みっ、みのりさんっ!」
もちろん大佐なんかでない山下は、上ずりまくった声――もう、はっきり悲鳴と言ってもよい声で、叫んだ。
「こっこれは、いったい、ど、ど、どーゆーことなんですか!」
「山下さん!」
今度は、みのりが驚く番だった。
「あなた、山下さんなの?」
「あ、あたり前じゃないですか。それより、どうして、ぼくが、こんな……」
「たいへん!」
みのりは、山下のかたわらにころがっている、マーブルチョコの空箱を、大あわてで拾いあげた。
調べてみるまでもない。
もう、あのグリーンの光は消えていた。
電池が切れたのだ。
「あちゃー」
みのりは、顔をしかめて、言った。
「まいったわねー、あともう少しってところで」
「あれっ」
サトルの声だった。
「先輩、元に戻っちゃったんですか?」
「そーなのよー」
「サトルッ!」
山下は、相変わらず体を硬直させたままで、叫んだ。
「説明しろっ。元に戻ったってなー、どーゆー意味だっ」
「やだなー、先輩。何も覚えてないんですかー」
サトルは、山下のとなりに腰かけて、へらへらと笑った。
「すごい活躍だったんですよー。いやー、こう言っちゃあなんですけど、先輩にも見せたかったなー。ビデオにでも撮っとけばよかったですねー」
山下は、お気楽に笑っているサトルを、ぶん殴ってやりたくなった。
しかし、操縦桿からちょっとでも手を離すと、何が起こるかわからない。そして、何かが起こってしまったら最後、山下には、それをどうすることもできないのだ。
山下にできることと言えば、ただサトルを睨みつけることだけだった。
サトルは、言葉を続けた。
「先輩は、たった一人で帆船をあやつって、あの嵐の大洋を乗り切ったんです。まあ、途中で白い鯨を見かけた時は、気が狂ったみたいに追いかけて、ずいぶん道草くっちゃいましたけど、なんとか無事に陸地に着きまして。その後も、また凄かったですよねー、みのりさん?」
「そうそう。あそこが、猛獣の国だとは思いもよらなかったもの」
と、みのりも思わず話に熱が入る。
「だけど山下さん、前世でサーカスの動物使いやってたなんて、あたし少しも知らなかったわー」
「いやー、ほんとに、目のさめるような鮮やかなムチさばきでしたからねー。先輩、あんな特技があるのに、それまで隠してるんだもんなー。もう少しで、ぼくたちライオンのおべんとうになるところだったんですよ」
「あん時は、もうダメだと思ったわ」
「危機一髪でしたからね」
と、サトルが、うなずき返した。
「危機一髪なことは、今だって、ちっとも変ってないんだがね」
山下は、思いきり苦々しい口調で、言った。
「なにしろ、おれは、飛行機なんて一度も操縦したことはないんだから」
「またまた、そんなこと言っちゃって」
サトルは、あくまで明るく、言った。山下を完全に信頼している口調だった。
「だって、猛獣の国を抜けて、歴史の国へ入って、博物館の一式陸攻を飛べるようにしたのは、先輩自身なんですよ」
「一式陸攻って言うのか、この飛行機は」
「そうですよ。それも覚えてないんですか?」
「ついでに、もうひとつ聞かせてくれ」
山下は、言った。
「この飛行機は……」
「一式陸攻」
「この一式陸攻は、いったいどこへ向かって飛んでいるんだ?」
「決まってるじゃないですか。グランド・コンコースですよ」
「グランド・コンコース……」
「先輩は知らないかもしれませんけどねー、ぼくたちが、大冒険惑星に遊びに来て、もう三日たってるんですよ」
「なんだって?」
「三日です。三日目。つまり、連休は今日で終わりなんですよ。だから、どうしたって、今日中に、猫ヶ丘に帰らなくちゃならないんです。わかりますか?」
「もう、三日もたってるのか?」
「そうですよ」
「だけど、食料は、どうしたんだ」
「やだなー、みんな先輩が、どっかから持ってきたじゃないですか」
「おれが?」
「そうですよ。サバイバルならまかしとけって、やたら張り切って」
「おれが?」
「そう!」
「…………」
山下は、黙り込んだ。
こんなことってあるだろうか。
管理コンピュータの故障だか叛乱だかで、思いもよらぬ大冒険をしてしまうことになり、その主役を務めたはずの本人が、何も記憶していないばかりか、せっかくの三連休も、フイにしちまうなんて。
――あんまりだ。
山下は、思った。
――それに、みのりさんのおべんとうだって、食べそこなったし。
人生に対する哲学的懐疑にとりつかれた山下は、ついうっかり、そこが空の上だということを忘れてしまった。
「山下さん!」
みのりの声に、はっと我に返る。
山下は、自分が操縦桿から手を離していることに気がついた。
とたんに、山下をパニックが襲った。
そのまま、握り直せばよいものを、思わず力いっぱい、はたいてしまったのだ。
一式陸攻は、ぐらりと姿勢を変えた。
そして、どんどん高度を落とし始めた。
「うわー、うわー、うわー!」
山下の頭の中は、真っ白だった。
やみくもに、操縦桿をひねりまわした。
そのたびに、一式陸攻の姿勢は絶望的になっていく。
「きゃー、きゃー、きゃー!」
みのりは、操縦席の背もたれにしがみついて、悲鳴をあげた。
サトルは、副操縦席で、とっくに気を失っていた。
地面が、みるみる近づいてくる。
山下は、顔を引きつらせながら、本能的に操縦桿を引っぱった。
一式陸攻は、地面に激突する直前、奇跡のように機首を持ちあげた。
「やったあ」
みのりが、叫んだ。
しかし。
所詮、飛行機はド素人に扱えるほど、生やさしいシロモノではないのである。
一式陸攻は、上昇するかわりに、あっけなく失速して、尾翼から先に地面に落っこち、大破した。
「大丈夫か、あんたら」
やっとの思いで、陸攻の残骸からはい出してきた三人に、ガードマンの格好をした男が、無愛想な声をかけた。
「あんた、人間だな」
山下は、男を見あげて、ニヤリと笑った。
「声が無愛想なんで、すぐわかるよ」
「無愛想で悪かったな」
男の声はいっそう無愛想になった。
「それより、こんなとこで、なにしてたんだ?」
「ちょっと道をまちがえちまってね」
山下は、肩をすくめた。
「それより、教えてくれないか。グランド・コンコースは、どっちだい?」
男は、妙な顔をした。
そして、何も言わずに、山下の後ろを指さした。
三人は、肩ごしに後ろをふり返った。
グランド・コンコースの建物が、目の前にそびえていた。
三人は、互いにススだらけの顔を見合わせた。
そして、同時に吹き出した。
男は、相変わらず妙な顔で、山下たちを見つめている。
「あ。そーだわ」
みのりが、ふと思いついたように、言った。
「コンピュータの故障は、直ったのかしら?」
「いやいや。とんでもない」
男は、首をふった。
「コンピュータ・複合体《コンプレックス》の中枢へも、まだたどりつけていないんじゃないかな。なにしろ、完璧な自己防御システムを備えている奴だからね。技術者たちもかなり苦労しているらしい」
「そんなコンピュータ、ぶっこわしちゃえばいいのよ」
と、みのりは、あくまで過激である。
「そう簡単にいくもんかね、お嬢ちゃん」
男は、苦笑いを浮かべながら、言った。
「なにしろ、奴の防御システムときたら、最新鋭の特殊部隊が一連隊でかかったって、破れるようなシロモノじゃねーんだ」
「ふーん」
みのりは、ちょいと気取って、こう言った。
「あたしなら、そんなもの、ウィンナーとマーブルチョコで、ふっとばしてみせるけど」
「ほーお」
男も、ちょいと気取って、それに応えた。
「そいつは、おもしろい。――マーブルチョコなら、コンコースの売店にあると思うがね。なんなら、買ってきてあげようか?――え? お嬢ちゃん?」
馬鹿なことを言ったものである。
みのりを本気にさせては、いけなかったのだ。
山下たちが猫ヶ丘に帰って、二週間がたった。
豪田篤胤科学研究所の台所は、元に戻ったが、大冒険惑星全体の修復は、まだまだ終わりそうにないという話である。
02 正義と真実の使徒
祝《いわい》雅子さん(二十六歳・独身)は、猫ヶ丘市内の小さな商事会社に勤める、ごくふつーのOLです。
朝は九時前に、必ず出社して、お茶の用意をします。
机に花を飾ったりもします。
お昼はほか弁ですませます。
コピーをとったり、書類を他の課に回している内に、五時になります。
年下の同僚たちと、飲みに行ったりすることもありますが、たいていは、まっすぐ六畳一間の市営アパートに帰ります。
お給料の半分を、年老いた田舎の両親に仕送りしているので、生活は決して楽ではありません。
今年から、新聞配達のアルバイトも始めました。
高校を卒業して、すぐに働き始めた雅子さんは、同じ職場の女性社員の中では、すっかり古株になってしまいましたが、これまで浮いた噂ひとつ立ったことがありません。
いつも地味な服装をし、髪をひっつめ、大きな黒ブチの眼鏡をかけている雅子さんです。
もちろん、度の強い眼鏡をとると、雅子さんが大変な美人であるとゆーパターンは、ぬかりなく踏襲しています。ついでに、プロポーションもバツグンです。
同僚たちは、
『あの人は、結婚に興味ないんじゃない?』
などと話していますが、決してそんなことはありません。
雅子さんも、一人の女性として、結婚には憧れを持っています。
早くいい旦那さんを見つけて、家庭を持ち、子供の世話をしたい。雅子さんは、もともと子供好きなのです。
ただ、雅子さんには、結婚《それ》までに、どうしても実現したい<夢>があるのです。
雅子さんの夢。
誰にも話したことのない、雅子さんの夢。
それは世界を征服することです。
決して洒落や冗談で言っているのではありません。
雅子さんは、真剣なのです。
本気なのです。
本気だからこそ、|≪悪≫《マルアク》印の世界征服通信講座も(月謝は決して安くありませんでしたが)、半年かけて卒業したのです。テキストは使いやすいバインダー式。なんと、世界征服を企む人たちの四十パーセントが≪悪≫の出身者なのです。
ラジオ・マッドサイエンティスト基礎講座も、毎週欠かさず、聴きました。世界征服には、ある程度の科学知識も必要だからです。
雅子さんは、コツコツ努力するタイプの人なのです。
昼間は会社、朝は新聞配達。
夜は遅くまで世界征服のための勉強です。
雅子さんは、本当に努力しました。
そして、いよいよ、その努力が報われる日がやってきたのです。
その日――
会社が引けて、雅子さんは同僚の誘いを断わり、息をはずませながら、アパートへ帰りました。
待ちわびていたものが、ついに、今日届くのです。
荷物は、お隣のおばさんが、あずかっていてくれました。
『ほんとにえらいわねえ、雅子ちゃんは。真面目だし、働き者だし』
おばさんは、ニコニコ笑いながら、宅急便のダンボール箱を、雅子さんの部屋まで運んでくれました。
『ずいぶん重いけど、これ、なんだい?』
『ええ。ちょっと……』
にっこり笑ってごまかす雅子さんでした。
少しおばさんと世間話をして、ドアを閉めます。
『いよいよなんだわ……』
雅子さんは、ダンボール箱を前にして、胸をときめかせました。
ガムテープをはがす指先が、ちょっぴり震えます。
長年の夢が、今、実現しようとしているのです。無理もありません。
全ての包装を解き終えた時。
雅子さんの前には、二光の世界征服キット全一式が、ずらりと並べられて、燦然と輝いていたのです。
『やっと、これで、世界を征服できるんだわ!』
三十六回払いのローンで手に入れた、世界征服キットの装備の数々を、ひとつひとつ手に取って確認しながら、雅子さんは、うっすらと涙ぐんでさえいるようでした。
手下用の人造人間。
毎度おなじみの光線銃。
世界征服マップ。
押し入れにすっぽりおさまる亜空間秘密基地。――ここでは、さまざまな秘密兵器が作れるようになっています。
そして、それっぽいコスチュームが一式。
雅子さんは、鏡の前で、コスチュームを肩にあててみました。
肌を、思いっきり大胆に露出したタイプで、マントなんかもひらひらしています。
ボッ……。
雅子さんは、思わず頬を赤らめてしまいました。
スクール水着しか知らない雅子さんにとって、そのコスチュームは、あまりにも気恥ずかしいカットだったのです。
『でも、雅子、くじけない!』
雅子さんは、負けません。
今さら、恥ずかしがっていては、何のための努力かわからなくなってしまいます。
この日のために用意したコンタクト・レンズも、無駄になってしまいます。
雅子さんは、思いきって、そのコスチュームを身に着けました。
色白で、グラマーな雅子さんに、それは、びっくりするくらい良く似合いました。
ひっつめていた髪をほどき、眼鏡を外してコンタクトを入れます。
ブーツをはき、ガンベルトを腰にすると、気分はもうすっかり世界征服です。
鏡の中に、もはや、あの地味で目立たない祝雅子さんは、存在しません。
そこにいるのは、史上最もセクシーな世界征服者<マイティ・マサコ>、その人なのです!
マサコは鏡に向かってポーズをとると、さきほどまでとは、ガラリと変った口調で、こう言いました。
「さあ、野郎ども! いっちょ、派手におっぱじめるぜ!」
春とは名ばかりの、三月はじめの寒い夜のことでした。
「みのりさん、聞いてますか、あの噂」
いきなり、サトルのドUPから、話は核心に入った。
「う、うわさって……?」
みのりは、ソファの上で、いく分、体を引き気味にして、言った。
顔は笑っているが、声はひきつっている。
場所は豪田篤胤科学研究所。いつもの応接室である。
「やめんか、馬鹿者」
テーブルごしに、体を乗り出しているサトルの肩を、山下がつかんで、ぐいと引き戻した。
「うわっ……!」
勢いあまって、椅子ごと後ろに引っくり返ったサトルはほうっておいて、山下は、みのりに説明を始めた。
「いや、最近どうも、猫ヶ丘の商店がひんぴんと襲われましてねー」
「商店って?」
「金物屋とか乾物屋とか八百屋とか」
「ふんふん。――それで?」
「それが、妙なんですよ」
「妙……?」
「そう。襲われるのは、たいてい、日曜か土曜の真っ昼間。人通りの一番多い時なんですけどね、誰一人犯人を目撃していない上に、盗られたものってのが、これまた一風変ったものばかりで……」
「へーえ」
「たとえば、爪切り十四個」
「ははあ」
「コーモリ傘三本」
「ふーん」
「腕のとれたマネキン、一体」
「ほー」
「サバの水煮のカンヅメ、一ダース」
「なるほどー」
「カイワレダイコンのパックがひとつ」
「それってただの万引きとかじゃないの?」
「そんなんじゃないですよ、みのりさん」
サトルが横から口を出した。
「なんたって、真っ昼間がいきなり真夜中になっちゃうんですからー」
「なんですって?」
「つまりですねー」
と、山下が、補足する。
「昼間なのに、その商店のまわりだけが、闇夜みたいに、一寸先も見えなくなっちまうんですよ。で、みんなが右往左往している隙に、棚やらショーケースから……」
「ものがなくなってる」
「そう。――それも、妙なものばかりが」
「うーん」
みのりは、腕組みをして、小首をかしげた。
「それでですね、みのりさん」
と、またまたサトル。
「手口から見て、どうやら、これはマッドサイエンティストが、関わっているんじゃないかってことになって……」
ガタッ……!
みのりが、いきなり立ちあがった。
テーブルが大きく揺れて、ティ・カップが倒れた。
「うわちちち」
山下が飛びあがった。
膝にかかったのである。
「あ、あたしじゃないわっ!」
みのりは、陪審員に向かって最後の慈悲を求める死刑囚みたいな口調で、叫んだ。
「あたし、やってないわっ! あたしは無実よ。濡れ衣よ。カンヅメだってカイワレだって、あたしは、ちゃんとお金を払って買ってるのよお。どーして、あたしが疑われるの? あたしは、ただの善良で平凡なマッドサイエンンティストなのに。しかも、まだ仮免中なのよ!」
「わ、わかってますよ。別に、みのりさんがやったなんて思っちゃいませんてば」
山下が、まあまあという手つきをしながら、言った。
「今日、ぼくたちがここに来たのは、猫ヶ丘商店街から、みのりさんに犯人を捕まえてくれって頼まれたからですよ」
「あら」
みのりは、目をパチパチさせて、言った。
「そうなの?」
「そうです」
「あ〜〜、びっくりした」
と、胸をなでおろす、みのり。
「だけど、たしかに、それはマッドサイエンティストの仕業ね。しかも、もぐりのマッドサイエンティストよ。ちゃんと免許を受けたマッドサイエンティストは、そんなこと、決してしないもの」
「やっぱり」
山下とサトルは、顔を見合わせて、大きくうなずきあった。
「みのりさん。心あたりありませんかねー」
「ないわねー」
「うーん。困りましたね―、先輩。猫ヶ丘商店街って言えば、『猫又ジャーナル』の大口スポンサーでしょ?  ポイントをかせぐ、いい機会なんですけどねー」
「んなこたー、わかっとる」
山下は、仏頂面をして、言った。
「もともと、おまえが『まかせて下さい!』とか言って、胸を叩いたりするから、こーゆー破目になったんだぞ」
「あー、あれは、話の成り行きで、つい……」
サトルは、頭をかいた。
「ねえ、山下さん?」
「なんです?」
「胸を叩いちゃったもんは、しょーがないんじゃない?」
「そりゃまあ……」
「それにね、あたしも、マッドサイエンティストのはしくれとして、そーゆー悪質なマッドサイエンティストは、許せないわ。断固、闘うべきよ!」
「はあ。しかし、なにしろ相手は、暗闇を自由に操る謎の人物ですからね」
「それは、あたしにまかせといて」
と、今度はみのりが胸を叩いた。
「それより、問題なのは、盗まれてる品物の方よ」
「どういうことです?」
「ね? さっき言ってた他にも、何か盗られた物ってないの?」
「えーと、たしか、ここにリストが……」
山下は、胸ポケットから、折りたたんだ紙切れを取り出して、みのりに渡した。
みのりは、寄り目になって、リストに目を通した。
ミシン。
電気釜。
といった、比較的、まともなものから、
水洩れのする風呂桶。
ケンタッキー・フライド・チキンのおじさん人形。
一昨年のカレンダー。
ブレーキのこわれた自転車。
パチンコ屋の前に置いてある花輪。
といった、ほとんど非常識なものまで、賊の奪っていた品物は、多岐に渡っていた。とゆーより、それらの品物の間に、いかなる共通点も見受けられぬほど、支離滅裂に盗みまくっていた。
「ふーむ」
みのりは、意味深長なため息を吐き出して、言った。
「やっぱり、まちがいないわ」
「まちがいないって、何がです?」
「このリストよ」
「へ?」
「素人の目はごまかせても、あたしの目はごまかせないわ。このリストに並んでいるのは、全てあるものを作るための材料なのよ!」
「あるもの……って?」
「いったい、なんですか?」
山下とサトルは、今にも生唾を飲みこまんばかりの顔をつき出して、訊ねた。
みのりはふたりの顔を等分に見回して、言った。
「巨大ロボット」
「うー、しかし……」
脳ミソが腸閉塞を起こしたみたいな声で、サトルが、言った。
「ほんとに、こんなものを盗みに現れるんですかねー、敵さんは」
「みのりさんが、そう言ってんだ。おれたちに、どうしようがある?」
山下は、コートの襟でライターを隠すようにして、煙草に火をつけた。
風が強かった。
みのりが、リストを調べた結果、それらの品々は、巨大ロボット製造のために、欠くべからざる部品《パーツ》ばかりだった。どうして、そーゆーことになるのか、山下には、さっぱりわからなかったが、山下は、みのりを理解しようとする試みは、三年前から放棄していた。
だからこそ、みのりの言う通り、地下鉄で、わざわざこんなところまで、やって来たのだ。
山下は、半ば諦めの気持ちで、彼らの背後に、そびえ立っているものを見あげた。
『このリストによれば』
と、みのりは、言ったものだ。
『巨大ロボットを作るための部品《パーツ》は、ほぼそろっていると言っていいわね。ただ、まだこれだけじゃあ、完全じゃないわ。一番重要な部品《パーツ》がそろっていない。――それが最後の一個ってわけ。どういう目的で、そんなロボットを作ってんだか知らないけど、その部品《パーツ》だけは、相手に渡さない方が、いいって気がするわねー』
たしかに、その通りだ。
しかし……。
サトルの言い草ではないが、本当に、こんなものが盗めるんだろうか?
山下は、最後の部品《パーツ》――すなわち”後楽園球場”を、どっかの誰かが、唐草模様の風呂敷に包み、背中にしょって逃げていくという幻想に、思わず戦慄した。
「そっち、準備いーい?」
見回りから戻ってきたみのりが、にこにこしながら近づいてきた。
「まあ、なんとか。心の準備もできましたし……」
山下が、言いかけた時――
突然、あたりが真の闇に包まれた。
「来たわよ! 気をつけて!」
みのりの、緊張した声が、暗闇に響いた。
時を同じくして、
ずごごごご……!
地の底から沸きあがってくるような、すさまじい重低音が、大気を震わせて轟き渡る。
「サトルさん! コンセント!」
「は、はい……!」
妙に上ずった、サトルの声だ。
山下の背後で、サトルが、ごそごそと手さぐりで動き回っている気配がする。
目を近づけても、自分の掌さえ見ることができないのだ。
山下は、ただその場に立ちつくし、永遠の闇を見つめ続けた。
時間にして、どのくらいだろう?
十秒? いや、もっと短いかもしれない。
闇は、来たときと同じように、唐突に消え失せた。
やわらかな春の陽ざしが戻ってきた。
陽光の中に、二人の男と二人の女。そして一人の人造人間が、向かい合って立っていた。
山下は、もう少しで、目ン玉を両方とも落っことしてしまうところだった。
その女ってのは、こともあろうに、素裸に近い格好で、マントをひらひらさせているのだ。
そして、そのかたわらに立つ、間抜け面の人造人間。
――顔にぬい目なんかつけて、威張ってんじゃねえよ、この!
山下は、その人造人間に、なぜか、言い知れぬ腹立たしさを感じた。
――なぜだろう?
山下は、十秒考えて、結論を出した。
サトルに似ているのだ。
特に、下ぶくれのほっぺたなど、妙にサトルを連想させ、山下の神経をチクチク刺激するのである。
沈黙の数瞬がすぎ去り、まず、コスプレ女が口火を切った。
彼女は、本能的に、みのりこそが、自分の終生のライバルだと悟ったらしい。
みのりを、まっすぐに見つめながら、高らかにこう宣言した。
「みなさん、こんにちは。マイティ・マサコです」
ぺこり。
丁寧に、頭を下げる。
「あ。どーも。マッドサイエンティストの豪田みのりです」
「あ。これはご丁寧に、おそれいります」
「いえいえ、こちらこそ」
終生のライバルは、交互に頭を下げあった。
まことに心あたたまるシーンである。
「あの〜〜、姐御」
改造人間が、マサコのマントを、つんつんと引っぱった。
「なごやかに、挨拶かわしてる場合じゃないっすよ」
「はっ……!」
マサコは、思わず天をあおいだ。背景《バック》はベタ・フラッシュだ。
「い、いけない。世界征服を企むマイティ・マサコともあろうものが、つい、普段の習慣で、挨拶をしてしまった!」
拳を握りしめ、ぐもも〜〜っと盛りあがる。
マイティ・マサコは、なんといっても、世界征服の初心者だ。どうしても、雅子さんの礼儀正しさとか性格の良さとかここ一番の気の弱さとかが、足を引っぱってしまうのである。
――こんなことではいけない!
と、マサコは、強く反省するのであった。
――マサコでいる時は、雅子のことは忘れなくっちゃ。世界征服なんて、とうていできないわ! そうよ、マサコ。非情になるのよ! あんたに足りないものは、それよ!
マサコは、手帳をひろげ、鉛筆をなめて、
『非情』
と、書きつけた。
「あの〜〜」
みのりは、おずおずとマサコに声をかけた。
「反省日記をつけるのは、家に帰ってからにしてもらえません?」
「まあ、わたしとしたことが……」
思わず謝りかけて、マサコは、かろうじて踏みとどまった。
――非情、非情。
と、自分に言いきかせながら……。
マサコは、キッとみのりを睨みつけた。
「この小娘! よくも、わたしの邪魔をしてくれたねっ!」
「小娘で悪かったわねー」
みのりは、目を半眼にして、冷ややかに言った。
「オバサンのくせして」
「オ、オバサン……!」
マサコの背中に、『ガーン!!』と書かれた看板が出現して、心情表現に一役を買った。看板は人造人間が持った。
「いらんことすなっっ!」
マサコは、人造人間を、張り飛ばした。
みのりに、まっすぐ人差し指をつきつけながら、マサコは、言った。
「豪田みのり、とか言ったわね。この私をオバサン呼ばわりするとは、いい度胸だ」
「だって、オバサンじゃない」
「二十六は、オバサンなんかじゃないっっ!!」
マサコは騒音条例に抵触しかねない大声でわめいた。
肩で息をしている。
みのりが、言った。
「あんたの企みは、みんなお見通しよ。後楽園なんか盗んで何をしようとしているのか、親子三代チャキチャキのマッドサイエンティストの、このあたしにわからないとでも思ったの?――甘いわね」
「甘い?」
「そう。甘いわ」
「そうか。甘いのかー」
マサコは手帳を開いて、
『甘い』
と書いた。
「あんたが作ってるのは、ズバリ、巨大ロボット! 今時、巨大ロボットなんて時代錯誤《アナクロ》もいいところよ」
「う、うっさいわねー。いいじゃないの、私の趣味なんだから。――今に見ておいで、世界は、私の足元に跪《ひざまず》くのよっ!」
「完璧なアナクロだわ。世界なんか征服して、どこがおもしろいわけ?」
「ふ、ふん。あんたみたいな小娘に、私の気持ちなんか、わかりゃしないわよ。私は、私は……」
マサコは、彼女の祖父がたどった末路を思い出して、不覚にも涙を浮かべた。
祝十郎。
この名前を覚えている者は、今や一人もいないだろう。
その昔、彼女のおじいちゃんは月光仮面だったのである。
しかし、正義の味方も寄る年波には勝てず、引退した。
その後の十郎の生活は悲惨だった。
若い頃の無理が、一度にたたって、あっというまの寝たきり月光仮面。親兄弟はおろか、自分の子供たちにもうとまれ、ついには、老人ホームでひとりさびしく、息を引きとったのである。
十郎になついたのは、唯一、孫の雅子だけだった。
『昔、わしが月光仮面だったころ……』
そう言って、思い出話をしてくれる時の、祖父の目を、雅子は死ぬまで忘れることはできないだろう。
そして、かつての正義の味方に対して、世間がどんな仕打ちをしたかを。
十郎の死を、ひと月も遅れて知った雅子は、その時、天地神明に誓ったのだ。
『あたしが、おじいちゃんの仇をとってやる!』
と。
『正義の味方を、世界が必要としないのなら、あたしは、世界を征服する側に回ってやるわ! それまでは、恋もしない! 結婚もしない!!』
と。
そして、今、マサコは、世界征服に記念すべき第一歩を踏み出した。
――天国のおじいちゃん。あたしを見守っててね。
両手を握り合わせ、毎夜、星に祈るマサコなのであった。
あふれてくる涙を、拳でぐいとぬぐって、マサコは現実に立ち戻った。
そして、言った。
「今日のところは、引きあげるわ。――でも、近いうちに、必ずお目にかかるわよ。覚えておおきっ!」
マサコは、格好つけて、ぶわっとマントをひるがえした。
みのりたちの目の前で、マイティ・マサコは見事に姿を消した。
「どうやら、第一ラウンドは、こっちのポイントらしいですな」
山下が、ほうっとため息を吐き出しながら、言った。
「いいえ」
みのりは、首をふった。
「あたしたちの負けよ」
「えっ?」
「ほら……」
みのりは、山下の背後を指さした。
ふり返った山下は、言葉を失くした。
後楽園球場は、きれいさっぱり盗まれていた。
「マイティ・マサコ」
みのりは、虚空を見つめ、つぶやいた。
「思わぬ強敵になりそうね」
『五時のニュースです』
生真面目な顔をしたアナウンサーが、生真面目な口調で、言った。
『後楽園が盗まれました』
ケケケケ……。
アナウンサーは奇妙な笑いを声を洩らした。
メタルフレームの眼鏡の下で、瞳が異常な光り方をしている。
『これが、現場の映像です』
球場のあった広大な空地に、ロープがえんえんと張りめぐらされ、警官が立ち番をしている。
すごい野次馬の数だった。
『えー、ごらんのように、後楽園球場は、きれいさっぱりなくなっております』
アナウンサーは、表情を全く変えないまま、言った。
『しかし、私は信じません』
アナウンサーは、ニュースの原稿を、ぱあっと、まき散らした。
そして、ゲラゲラ笑いながら、踊り始めた。
数人のスタッフが、あわててかけ寄るところで、映像が切れた。
画面にテロップが現れる。
<このまま、しばらくお待ちください>
ブツッ。
山下が、ソファから立ちあがって、TVのスイッチを切った。
みのりを、ふり返って、
「えらい騒ぎですな」
「まー、無理もないわね」
と、みのりは、うなずいた。
「しかし、どうやって、あんなでかいもんを盗んだんですかねえ」
サトルが首をひねりながら、言った。
「あの服、ポケットだって、ついてそうには見えなかったけどなー」
「それより、盗んだ後楽園球場を、どこに隠しておくつもりなのか。そっちの方が、おれとしては、興味があるね」
と、山下。
「それも、そうですねー」
サトルは、いかにも何か考えているというふりをしながら、うなずいてみせた。
「みのりさんは、どう思います?」
「あれこそが、いわゆる、マッドサイエンティストの暗黒面の力ってやつよ」
みのりは、深刻な顔つきをして、言った。
「その気になったら、彼女には不可能はないわね」
「暗黒面の力?」
「そう」
「そっちの方が強いんですか?」
「強いってわけじゃなくて、たやすいのよ」
「ははあ」
どっかで聞いたことのあるような説明だなと、サトルは思った。
山下が、言った。
「マイティ・マサコとか言ってましたね、あの女。――本気で世界を征服するつもりなんでしょうか」
「あれは本気ね。力いっぱい本気よ」
みのりは、きっぱりとうなずいてみせた。
「たぶん、今ごろは、巨大ロボットを完成させている筈よ」
「困ったもんですな」
「ほんと、困ったもんよ。今時、巨大ロボットなんて、マッドサイエンティストのイメージダウンもいいところだわ」
「いや、そうゆー意味じゃなくてですね」
「とにかく」
と、みのりは、力強く宣言した。
「世界征服なんて、そんな恥ずかしいこと、このあたしが、絶対に許さないわ!」
「そう。その意気ですよ、みのりさん!」
お調子者のサトルが、無責任丸出しの声で言った。
「あんな、年増女に負けちゃいけませんよ。ぼく、応援します」
「ありがと、サトルさん」
みのりは、にっこりと笑った。
「そうと決まったら、こっちも、それなりの対策を立てなくちゃいけないわねー」
「対策?」
「そう。目には目を。歯には歯を。巨大ロボットには巨大ロボットよ」
「作るんですか?」
「もち」
「しかし、今から作ってて間に合いますかね?」
悲観論者の山下が、くらい声を出した。
「それに、巨大ロボットを作るには、後楽園球場が必要なんでしょ?」
「あっ、そーか」
みのりは、ぺろっと舌を出した。
「すっかり忘れてたわ」
「どーするんです?」
と、山下。
「どーしましょ?」
と、みのり。
「…………」
二人は、言葉もなく、顔を見合わせた。
ひとり気楽なサトルが、のんびりとした口調で、言った。
「どーにかなりますよ」
「これで完成だわ」
最後の回線をつなぎ終って、マサコは、ふうとため息を吐き出した。
ハンダゴテのスイッチを切って、額に浮かんだ汗をぬぐう。
横で見ていた人造人間(マサコは、タロと呼んでいた。あとで、もう一人、人造人間のキットを買い足して、ジロを作るつもりである)が、まのびした声で、言った。
「おめでとーございます、姐御。これで、世界は、姐御のもんですねー」
「その姐御っての、やめてくんない?」
「すみません。――もとから、こーゆー風にプログラムされてるもんで」
人造人間《タロ》は、頭をかいた。
「しかし、姐御。――今日、会った三人組、なんだったんでしょうかね?」
「豪田みのり、とか言ってたわね。きっと、あの丘の上にある研究所のマッドサイエンティストだわ」
「敵、ですか?」
「そう、敵よ。――それもおそらくは、最強の」
マサコは、ハンダゴテを握りしめ、遠くを見つめた。
後楽園球場での出来事が、ありありと思い出された。
昼を夜にするのに、マサコが使ったのは、暗黒電球というものである。
これは、外見は、ごく普通の電球だが、ひとたびスイッチを入れると、光のかわりに闇が輝き出して、あたりを夜に変えてしまうというシロモノだ。
初級マッドサイエンティスト教本の、二十一ページ目に作り方がのっている。
マサコは、自分の作った暗黒電球に、絶対の自信を持っていた。
それをみのりは、やすやすと打ち破ったのである。
――まさか、コンセントを引っこ抜かれるとは……。
「盲点だったわ」
マサコは、奥歯をかみしめて、つぶやいた。
「充電式にしておくんだった!」
実際、みのりの目をかすめて、後楽園を盗めたのは、単なる僥倖と言ってもよかった。
通販の亜空間風呂敷が、役に立った。
今ごろは、警察も血眼になって、後楽園球場を探しているだろうが、無駄なことだ。
球場は、この空間にはないのだから。
あの豪田みのりでも、市営アパートの押し入れに、後楽園が隠してあるとは、思いもよらないだろう。
マサコの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
マサコは、みのりに会った瞬間から、決意していた。
――まず、最初に叩きつぶすのは、豪田篤胤科学研究所だ。
と。
豪田みのりを倒さないかぎり、マイティ・マサコに世界征服のチャンスはない。
それは、確かだった。
マサコは、彼女の巨大ロボットが、研究所を踏みつぶす光景《ところ》を想像してみた。
実に気分がよかった。
「よーし」
マサコは、ガッツポーズを作りながら、言った。
「盛りあがってきたわよ〜〜」
かたわらの人造人間を、ふり返って、
「タロ!」
「へい、姐御!」
「行くわよ!」
「合点だっ!」
二人は巨大ロボットのコクピットに乗りこんだ。
自転車のハンドルを改造したコントロール・レバーを握りしめて、マサコの手作り巨大ロボット<ジャンボ・マックス・一号>は、出撃した。
背中に後楽園球場を背負い、胸にはパチンコ屋の花輪が輝いている。
<ジャンボ・マックス・一号>は、燃える夕陽を背に受けて、猫ヶ丘をパニックにおとし入れながら、豪田篤胤研究所に、一歩また一歩と近づいていった。
「何かが、近づいてくるみたいね」
次第に大きくなってくる地響きに、耳をすませながら、みのりが言った。
「そうですね」
と、サトルがうなずいた。
「でも、ぼく、何が近づいて来てるのか、わかるような気がするんですけど」
「あら。奇遇ねー。あたしもよ」
山下は、物も言わずに、応接室を飛び出した。
階段をかけ昇った。
二階の窓を開けた。
山下の顎が落っこちた。
「あ、あ、あ……」
山下の声は、言葉にならなかった。
世にも不細工な格好をした巨大ロボットが、ぎくしゃくと右足と左足を動かしながら、まっすぐ、こちらに向かって来る。
どうやら、マイティ・マサコは、図画工作の成績は、あまり良くなかったらしい。
時々、ロボットの体から、部品が抜け落ちて行くのが見えた。
しかし。
いくら動きがどんくさいからと言っても、あれだけの物に踏まれては、こんな家などひとたまりもあるまい。
山下は、しばらくの間、まるで魅入られたように、ロボットを見つめていたが、不意に我に返ると、またまた大あわてで、応接室に引き返した。
「たっ、たっ、たっ……」
落ち着いてソファに腰かけているみのりが、山下の言わんとするところを代弁した。
「たいへんだ」
「きょっ、きょっ、きょっ……」
「巨大ロボットが」
「ちっ、ちっ……」
「近づいてくる、と」
みのりは、ひとつうなずいて、言った。
「なるほど。思ってた通りね」
「みっ、みっ、みのりさんっっ!」
山下は、いても立ってもいられないって様子で、叫んだ。
「そんなところで、おさまり返ってる場合じゃありませんよ! どーするんです。あの調子だと、すぐに、ここへやって来ますよ。そしたら、こんな家、ひと踏みでぺちゃんこですよ!」
「ぺちゃんこ、ねえ」
「ぺっちゃんこですよ! ぺっちゃんこになってもいいんですか? 言っときますが、ぼくは、ぺっちゃんこになるのだけは御免ですからね」
「と言っても、こっちは、何の準備もしてないし……」
みのりは、眉をくもらせた。
地響きは、ますます大きくなってくる。
「この家が、巨大ロボットに変身するって仕掛けは、ないんですか、みのりさん?」
と、サトルが言った。
「ほら。前にブラックホールを見物に行く時は、宇宙船になったじゃないですか」
「ないわねー」
と、みのりは、そっけない。
「んじゃ、バリアはどうです? バリアを張って防ぐとか」
「バリアってのは、いい考えね」
「張って下さい!」
山下が叫んだ。
「今すぐ張って下さい」
「でも、どうやって?」
「ど……」
「バリアの発生装置があれば、それもいい考えだけど」
「ないんですか?」
「ないわ」
「〜〜〜〜」
山下の背中を、絶望という名の冷気が、じわ〜〜っとはいのぼってきた。
「ロボットにはロボット」
と、サトルが言った。
「アレックスは、どうなんです? 巨大化したりしないんですか?」
「んーでもアレックスは、家事ロボットだからー」
と、みのりは首をかしげた。
「巨大化したりとかは、しないんじゃないの?」
『オ呼ビニナリマシタカ?』
アレックスが、とーとつに現れた。
エプロンをつけ、手にしたお盆には、湯気を立てているスープ皿が、三つのっかっていた。――夕食の準備ができたらしい。
「ねえ、アレックス?」
と、みのりが言った。
「念のために聞いてみるんだけど、あんた、巨大化できる?」
『巨大化、デスカ?』
アレックスは、テーブルの上に、スープ皿を並べながら答えた。
『サアテ。――私ニ、ソノヨウナ回路ハ、ツイテナイヨウニ記憶シテオリマスガ……』
山下とサトルが、いっせいにため息を吐き出した。
『シカシ、巨大化ト言エバ、確カ、先々代サマガ……』
「篤胤おじいちゃんが?」
『ハイ。――カナリ御熱心ニ、研究サレテオラレマシタ』
「あっ、そーか。あれね」
みのりは、ぽんと手を打った。
「うーん、でも、あれはねえ……」
「なんですか、みのりさん?」
サトルが、身を乗り出した。
「なんですか、なんですか?」
「ひとつだけ、手があることはあるんだけどォ」
「それ行きましょう」
「いいのかしら……」
「かまいませんよ」
「でも、スープも冷めちゃうし……」
とたんに。
ズシーン!
おそろしく近くで、地響きがした。
豪田家は、土台ごと持ちあがって、どすんと落下した。
その拍子に、テーブルの上のスープ皿も床に落ちて、こなごなにくだけ散った。
アレックスが、悲鳴をあげた。
『六枚組ノ、ろいやる・こぺんはーげんガ……』
「しょーがないわねー」
みのりは、ソファから腰をあげて、言った。
「巨大ロボットなんて、あんまり相手にしたくないんだけど……」
「ふはははは」
マサコは、笑っていた。
コクピットから見おろす、豪田篤胤科学研究所、あまりにもちっぽけで、とるにたらぬ存在に思えた。
みのりを、過大評価しすぎたのではないか、とすら思ったほどだ。
世界征服など、いとも簡単にできそうな気もした。
マサコは、外部スピーカーのスイッチをONにして、マイクを手にした。
『豪田みのり!』
電気的に拡大されたマサコの声が、夕暮れの猫ヶ丘中にとどろき渡った。
『どーした。出てきて、あたしと勝負しな! それとも、私が恐いのかい?』
マサコは、右足のペダルを、ぐいと踏みこんだ。
コクピットが、ぐぐっと傾く。
<ジャンボ・マックス・一号>が、片足をあげたのだ。
そのまま、ペダルを戻せば、豪田篤胤科学研究所は、<ジャンボ・マックス・一号>の足の下で、ぺっちゃんこになる。
「ふははは。これで世界は、私のものだ!」
マサコは、右足をことさら、ゆっくりと、戻し始めた。
<ジャンボ・マックス・一号>の巨大な足の裏が、研究所の屋根に触れる。
まさに、その瞬間、
ピタッ。
ロボットの動きが停まった。
「どうしたのかしら?」
マサコは、うろたえた。
故障ではない。
その証拠に、ダメージ・ランプは、ひとつも点灯していない。
とすると、考えられることは、ただひとつ。
何かが、<ジャンボ・マックス・一号>の足を、押し戻そうとしているのだ。
いやな予感がした。
次の瞬間――
ぐもも〜〜!!
ロボットの足を、すごい力で持ちあげながら、サトルが巨大化した。
「なかなか、よくやってますな、サトルのやつ」
豪田家のベランダで、巨大ロボットvs巨大サトルの闘いを、のんびり観戦しながら、山下が言った。
「そうね。最初は、ちょっとびっくりしてたみたいだけど」
と、みのりが、うなずいた。
「まあ、誰だって、びっくりするわよね。自分がいきなり巨大化したら」
「どーゆー仕組みになってんですか?」
「仕組みも何も、単なる組織拡大剤よ」
みのりは、右手に持っている、無痛注射器を、軽くふってみせた。
「別名をビッグ・Xって言うらしいけど」
「おっ。ロケット・パンチですよ」
「うまく、かわしたわね」
「そこだ、いけっ」
「今よ、サトルさんっ」
二人は無責任に応援した。
<ジャンボ・マックス・一号>と、<ジャイアント・サトル>の闘いは日没まで続いた。
それは歴史上に残る名勝負だった。
<ジャンボ・マックス・一号>のドロップ・キックを外した<ジャイアント・サトル>が、ロープ最上段からの、フライング・ヘッド・バットで、とどめをさした。
<ジャンボ・マックス・一号>は、体のあちこちから白煙をあげ始め、やがて、爆発した。
悪は、ついえ去った。
猫ヶ丘の再建に、政府は、一千億クレジットの臨時予算を計上した。
≪反省日記≫
○月X日。日曜日。晴れ。
念願の巨大ロボットが完成。
<ジャンボ・マックス・一号>と名付ける。
素晴らしいネーミングだと思う。
だけど、負けてしまった。
何が悪かったのだろう?
やっぱり、西武球場にしとくべきだったのかも知れない。
豪田みのりは、おそるべき相手だ。
でも、この次こそは……。
雅子さんは、パタンと日記帳を閉じた。
電灯を消して、そそくさと、ふとんに入る。
明日も早いのだから。
――新聞配達だけじゃなくて、牛乳配達も始めようかしら。
ひそかに考える雅子さんであった。
世界征服には、お金がかかるものなのである。
雅子さんは、そっとつぶやいた。
「雅子、負けない!」
03 地上最大の決戦 Part1
The Mighty MASAKO Strikes Back
拝啓
桜花も匂いそめる春陽の候。
皆様には、いよいよ御清祥の御事と、心より、お慶び申し上げます。
さて、この度、過日よりの念願でございました、世界征服の準備がととのいましたので、御披露かたがた、粗餐を差し上げたいと存じます。
つきましては、御多用中、はなはだ恐縮ではございますが、来たる四月一日午後一時、富士山麓の青木ヶ原まで、御光来の栄を賜りますよう、ひとえにお願い申し上げます。
まずは略儀ながら、書中をもって、右御案内申し上げます。
三月吉日                             まいてぃ・まさこ拝
豪田みのり様
「挑戦状……、なんですかね?」
と、山下が言った。
ひどく自信のなさそうな口調だった。
「そのつもり……、だと思うんだけどォ」
みのりも、あいまいな顔つきで、うなずき返した。
「それにしても、ずいぶん礼儀正しい女《ひと》ですねえ」
と、これはサトルである。
例によって、まのびした声だった。
「まずは略儀ながら――なんて、普通じゃちょっと出てこないセリフですよ。これは」
「おまえは黙ってろ」
山下が、すかさず決めつけた。
「話がややこしくなる」
「いや。ぼくは、ただ単に……」
「喋るな」
「でも、先輩……」
「うるさい」
「しかし……」
「何も言うな。口を利くな。息をするな」
山下は、ひとさし指を、サトルの丸顔につきつけながら、たたみかけるように、言った。
サトルは、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔つきで、目をパチパチさせた。
そして、開きかけていた口を、しぶしぶ閉じた。
それでよし。
ひとつうなずいて、山下は、みのりの方向に向き直った。
首をひねりながら、
「やっぱり、一種の果し状……なんでしょうねえ。――それにしては、文章が少し変ってますけどね」
「そうよねー。これじゃ、結婚式の招待状だもの」
「しかし、こうやって、わざわざ知らせてくるってことは、相当、自信持ってんでしょうな。今度のは」
「あたしたちのことは、ほっといてくれればいいのに」
みのりは、ため息まじりの声で、言った。
「できれば、あーゆー女《ひと》とは、あんまり関り合いになりたくないのよねー。今時、富士の裾野で決闘だなんて、ついていけない感覚だわ」
「ほんとですねー」
山下も、しみじみと、うなずいた。
「このままいくと、そのうち、埼玉の石切場でバクハツしたり、井之頭公園で撃ち合いしたり、いつもの吊り橋から飛び降りたりする破目に、なりかねませんからねー」
「けっこお詳しいのね、山下さん」
みのりは、何やら含むところのありそうな視線を、山下に向けて、言った。
「ひょっとしたら、マサコさんとも、話が合うんじゃない?」
「じょ、冗談」
あわてて首をふる山下の脳裏を、マイティ・マサコの(例の)するどいコスチュームが、チラリとよぎったりするのだった。
山下は、わざとらしいセキばらいをしながら、さりげなく話題を変えた。
「と、ところで、みのりさん。――これ、どうするつもりなんです?」
「どうって?」
「挑戦ですよ。受けるんですか?」
「うーん。どーしたものかしらねえ」
「エープリール・フールってことは、考えられませんかねえ」
「それは、ないわね」
みのりは、きっぱりと言った。
「だって、洒落の通じるようなタイプじゃないもの。――山下さんも、わかるでしょ? これは、本気よ。力いっぱい本気で、挑戦してるんだわ」
「困ったもんですねー」
「ほんとにねー」
二人は、お互いに、困ったもんだという顔を見合わせて、うなずきあった。
仲良きことは、美しき哉。
「世界を征服するんなら征服するでいいから、どこかよそでやってくれないものかしら」
小声で、ぶつくさとつぶやく、みのりであった。
と、その時。
「あれ?」
サトルが、急に、あたりをきょろきょろと見回し始めた。
「ねえ。先輩……」
「おまえは、喋るな」
「いや、そうじゃなくて……、ねえ、みのりさん。なんか、揺れてませんか?」
「え?」
みのりは、そう言われてみればという顔つきで、天井を見あげた。
応接室のシャンデリアが、ほんのわずかだが、たしかに揺れている。
「あら。揺れてる」
テーブルの上でも、ティ・カップが、カチカチと小さな音をたて始めた。
みのりは、片手を、ほっぺたにあてながら、言った。
「やーね。地震かしら?」
「やーん。地震よォ」
誰かが、悲鳴をあげた。
「たいしたことないわ。すぐおさまるわよ」
別の声が、冷静に指摘した。
事実、揺れは、すぐに収まった。
「ほら、ね?」
「でもさァ、最近、やけに地震が多いと思わない?」
「そーねー」
「ひどい時には、一日に三回か四回は、あるわよ」
「このビルが、ボロだから、よけいに感じちゃうんじゃないの」
「そうかしら」
「そーよー。ねえ、雅子さん」
「えっ」
考え事をしていた雅子さんは、隣の同僚から、いきなり肩を叩かれて、体をびくっと振るわせました。
「なに? どうしたの?」
「やだ。気がつかなかった? 地震があったのよ」
「地震?」
雅子さんは、無意識に壁の時計を見あげて、うなずきました。
「ああ。――そうでしょうね」
「?」
「?」
思わず妙な顔をする同僚二人。
無理もない話です。
雅子さんの態度は、まるで、地震が起こる時間を、あらかじめ知っていて、それを確認しただけ、としか思えないのですから。
そんな馬鹿な……?
いやいや。
雅子さんは、たしかに、地震の起こる時間を、知っていたのです。
さらに言うならば、この地震の規模が、日を追うにしたがって、どんどん大きくなっていく、ということも雅子さんは知っています。
なぜならば、一連の地震を起こしているのは、雅子さん自身だからです。
雅子さんが、会社で事務員やっている間も、手下のタロが、言いつけをきちんと守って、ある装置(もちろん雅子さんのお手製です)を、定期的に動かしているのです。
今はまだ、実験の段階にすぎませんが、その装置が完成した時、世界は雅子さんの足元に。ひれ伏すことでしょう。
念願の、世界征服です。
しかし……。
心ここにあらず。
どうやら、今の雅子さんにとっては。地震も世界征服も、まるで眼中にない様子です。
いったい、どうしたのでしょうか?
実は――
雅子さんは、今、全く別の種類の試練に、直面しているのでした。
――勇気を出すのよ、雅子。
自分自身に、何度も何度も、くり返し言いきかせる雅子さんです。
――たったひと言じゃないの。それが、どうして、言えないの?係長のところへ行って、たったひと言――
『有給休暇、下さい!』
それだけですむことじゃないの。
何も悪いことをしようってわけじゃないし。有給休暇は、労働者に認められた、当然の権利だわ。さあ、勇気を出して。
今日こそ、きっぱり言うのよ。
『有休とりたいんですけどォ』
簡単じゃない。
明るく、ニッコリ笑って、
『四月一日、休みたいんですゥ』
ほら。
雅子。どうして、言わないの?
挑戦状だって、出しちゃったんだから、もう後へはひけないのよ?
さあ、立って!
ガタン。
「あら。雅子さん。どうしたの? 急に立ちあがって……」
同僚の声を背中に聞きながら、雅子さんは係長のデスクに向かって、ぎくしゃくと歩き始めました。
表情がこわばっています。
きっと、ひどく緊張しているせいでしょう。
「あ、あのォ……」
雅子さんは、書類にかがみこんでいる係長に、おずおずと声をかけました。
「か、係長さん……?」
係長は、気づきません。
気づいてくれません。せっかく、雅子さんが、決死の勇をふるって、声をかけたと言うのに。
どうやら、声が小さすぎたようです。
――ここで、あきらめちゃ、ダメ。
けなげに、再挑戦する雅子さんです。
「あのー、係長?」
「んー?」
係長は、書類の山から顔をあげて、いぶかしげな目で、雅子さんを見つめ、
「なんだ。祝くんか。――どうしたんだ?」
「いえ、あ、あの……」
思わず口ごもってしまう雅子さんは、本当に奥ゆかしい女性です。
しかし、えてして、こーゆー性格は、実生活においては、損をすることの方が多いらしく、
「ちょうどいい。君、これを十五部づつコピーしてきてくれないか」
係長は、ぶ厚い書類の束を、どんと雅子さんに手渡して、
「じゃ、頼んだよ」
と、また、机にかがみこんで、せっせとボールペンを動かし始めてしまうのでした。
「あ、あのォ……」
口を開きかけた雅子さんに、係長は面もあげずに、こう言ったのでした。
「急いでくれよ。午後の会議に必要なんだ」
「…………はい」
嗚呼。
誰が、雅子さんを責めることができるでしょう。
彼女の唯一のまちがいは、四月一日が平日だということを、すっかり忘れていたことだけです。
雅子さんは、書類をかかえて、コピー室に向かいました。
足取り重く。
とぼとぼと。
コピー機に、一枚ずつ書類をはさみこみながら、
「私って、ほんとにダメねえ……」
ため息まじりにつぶやく雅子さんでした。
がんばれ、雅子さん。
四月一日までには、まだ一週間の余裕があります。
「明日こそは……」
雅子さんは、小さなこぶしを握りしめて、お天道さまに誓います。
「明日こそ、きっと、有休をとろう! とって、富士の裾野で決闘するのよ!
苦しくたって、悲しくたって、
コートの中では平気なの。
思わずアタック・ナンバーワンしてしまう雅子さんです。
ちょうど、そのころ。
海底プラントの建設に従事していた、大林組のエンジニア、武田治輝さんと萱嶋良治さんの二人は、日本海溝の底に、なめくじのはったようなあとを見つけていました。
深海作業艇の、狭いコクピットの中で交わされた二人の会話。
「見て下さい、艇長」
「んー?」
「あそこの海底。ちょっと、おかしくないですか?」
「おー、うねっとるなー」
「あれは、ひょっとしたら、乱泥流ってやつじゃないですか? だとしたら、こいつは、えらいことですよ」
「乱泥流? なんだ、そりゃ」
「あれ。知りませんか?」
「知らねーよ、んなもん。それになー、あれは、らんでいりゅうとかじゃねえ」
「じゃあ、なんなんです?」
「あれはなー、巨大なめくじが通ったあとだ」
「巨大な、なめくじ……?」
「そうだよ。いるんだよ、このへんには」
「ほんとですかァ」
「おまい、艇長の言うことが、信用できないのか?」
「いえ。そーゆーわけじゃないんですけど……」
「けど……なんだ?」
「ただ、どうして、なめくじが溶けちゃわないのかなーと思って。――だって、海水って塩からいでしょ?」
「つまんねーこと考えてないで、仕事しろよ、おまい。そーでなくても、ここんとこの地震で、作業が遅れてんだから。また、主任にどやされても、知らんぞ」
「はあ……」
と、その時である。
二人の目の前を、巨大なかたつむりが、つの出しやり出ししながら、通りすぎていったのは。
三十秒間の沈黙の後、武田治輝さんは、こう言った。
「やだなァ、先輩。なめくじじゃなくて、かたつむりじゃないですかァ」
萱嶋良治さんは、何も答えなかった。
とっくに気を失っていたのである。
さて。
そうこうするうちに、あっという間に一週間。
四月一日の朝が来ちまったぜ、おいおいおい。
豪田篤胤科学研究所を訪れた山下は開口一番、素頓狂な声で、
「なんですか、みのりさん。その格好は」
と、叫んだことだね。
「どこか、へん?」
みのりは、山下の目の前で、くるりと一回転してみせた。
かすりのモンペに防空頭巾。
額には、ご丁寧にも、必勝のはち巻きなんぞも、しめている。
これで、竹やり持たせたら、太平洋戦争の頃の、女子艇身隊員そのものだったりする。
「いや。別に、へんってこたーないですけどね……」
山下は、口ごもった。
「ただ、まあ、なんてゆーか……」
「あら。だってねー、山下さん。ここんとこ、毎日のように地震地震でしょ?昨日なんか、寝てたら頭の上にぬいぐるみが落っこちてきたのよー、河馬のぬいぐるみ、棚の上に飾ってたやつ」
「ぬいぐるみでよかったですね。もし、本物の河馬だったら、今ごろ、ぺちゃんこですよ」
「でしょお?」
みのりは、大きくうなずいた。
「あたし、河馬の下じきになって死ぬのだけは、絶対にいや。みっともないもの」
「棚の上で河馬飼ってる人ってのは、まあ、めったにいないでしょうけどね」
「それとこれとは別よ」
「なるほど」
「とにかく、地震の時には、防空頭巾が一番! なんたって、ケブラー繊維だから、ピストルの弾ぐらいなら、へっちゃらなの。――山下さんも、かぶった方がいいんじゃない? 予備があるから、貸しましょうか?」
え? いや、ぼくは……」
山下は、奇妙なうす笑いを浮かべながら、じりじりと後ずさった。
「あら。遠慮しなくていいのよ」
みのりは、研究所の方をふり返って、叫んだ。
「アレックス。山下さんの防空頭巾、持ってきてあげて」
ほどなく現れたアレックスは、(十分に予想されたことだが)防空頭巾をかぶっていた。さすがに、モンペははいてなかったが。
「はい、これ」
にっこり笑ってみのりに手渡された防空頭巾を、山下がなさけなさそうな顔つきで、見下ろしていると、
「せんぱーい。みのりさ〜〜ん」
坂の下から、サトルの声が聞こえてきた。
ふり返った山下の目にうつったのは、まるでアフリカに猛獣狩りにでも出かけるみたいな重装備に身を固め、元気よく手をふっているサトルの姿であった。
サトルならば、これくらいのことはやるだろうと、山下にも、ある程度の心構えはできていた。
しかし……。
「おまえ、いったい、何を引っぱってるんだ?」
山下は、あきれた口調で、訊ねた。
「あ、これですか?」
サトルは家財道具一式を積んだリヤカーをふり返って、照れ笑いのようなものを口元に浮かべてみせた。
「いやー、まいりましたよ」
頭をかきかき、サトルは、言った。
「実は昨日の地震で、アパートの天井が抜けましてねー」
「抜けたァ?」
「はあ。――それは見事に。ズドーンと」
「たいへんねー」
と、みのりが、同情的な声を出した。
「たいへんでしたよおー」
と、サトルは、力いっぱいうなずいた。
「それで、おまえ、まさか、それを引っぱって、富士山まで行こうってんじゃないだろうな?」
と、山下は、冷たく言った。
「まさかー」
サトルは、にこにこ笑いながら、首をふった。
「いくらぼくだって、そんなこと考えてませんよ。――ただ、アパートの修理がすむまで、先輩ンとこに、ごやっかいになろーかと思いましてね」
「おまえ、よくそんあこわいこと、平然とした顔で口に出せるな?」
「あれっ。いけませんか?」
「やだよ。おれ。社員旅行のとき、おまえと同じ部屋になったおかげで、一晩中眠れなかったんだぞ」
「ぼく、知りませんよ」
サトルはキョトンとしている。
山下は、背景におどろ線をのたくらせながら、恨みのこもった目つきで、サトルを見つめた。
そして、陰々滅々とした声で、
「そりゃー、おまえは知らないだろーよ。気持ちよさそうに寝てたもんなー。くそでっかい音でイビキかきながら」
「イビキかきますか、ぼく」
「イビキだけなら、まだゆるせる」
と、山下は、言った。
「歯ぎしりはするわ、大声で叫ぶわ、眠ったまま部屋中走りまわるわ……」
「はあ。そりゃあ、どうも、気がつきませんで……」
「とにかく、おまえと同じ部屋で寝るのは、金輪際いやだからな。どこか、よそをあたれ」
「そんなァ、先輩〜〜。お願いしますよォ」
サトルは、あわれっぽい声で、言った。
その時。
「あら。大丈夫よ、山下さん」
みのりが言った。
「なにが、大丈夫なんです?」
「いいものがあるの。ちょっと待ってて」
みのりは、研究所に入って、すぐに駆け戻ってきた。
手にしているのは、大きな枕だった。
「これこれ」
「なんですか、それ」
「永眠枕」
山下は、一瞬、わが耳を疑った。
安眠枕なら、聞いたことがある。しかし……。
「すみません。みのりさん。もう一度言ってくれませんか」
「だから、永眠枕よ。永眠枕」
「永眠……って、あの永眠ですか?」
「そ、あの永眠。――この枕して寝るとねー、どんなに周りが騒がしかろうと、それこそ死んだように、よく眠れるってゆースグレモノなの。内部に、脳の覚醒中枢を直接刺激する装置が入っててね、どんな重症の不眠症でも、一発よ」
「はあ。でも、まさか、そのまま目が醒めないなんてことは……」
山下が、不安げな面持ちで、訊ねた。――まあ、訊ねたくなる気持ちも、わからないでもないが。
みのりは、けらけら笑いながら、言った。
「だーいじょおぶよ。山下さんも、心配性ねえ。ほら、枕の横んとこに、ダイヤルがついているでしょ? これがタイマーになってるの。たとえば、八時間後に起きたいときは、こうやって、8の目盛りに合わせて、頭の下に敷けば……」
説明しながら、みのりは、枕を、自分の後ろ頭に、両手であてがってみせた。
そして……。
山下とサトルは、無言で、みのりを見つめた。
二人は、説明の続きを待っていた。
その場に立ちつくしたまま、みのりが口を開くのを、じっと待ち続けた。
時計の秒針が、空しくひと回りした。
山下とサトルは、お互いに、顔を見合わせた。
サトルが、言った。
「みのりさん、寝ちゃったみたいですね」
午後一時。
約束の刻限である。
真っ白い富士が、陽光の下、雄大な姿を見せている。
さすがに、まだ風は冷たい。
「しかし、おせーなー」
大きな岩の陰で、寒そうに背中を丸めながら、ぶつくさつぶやいているのは、マイティ・マサコの手下、改造人間のタロである。
「なーにやってんだろーなー。もう一時すぎちまってるって言うのに」
足踏みしながら、時々、首を伸ばして、あたりをきょろきょろと見回す。
人気のない原野が、どこまでも広がっているだけだ。
タロは、ため息をついて、言った。
「帰ろうかなー」
寒いし。
誰も来ないし。
「あと、三十分待って来なかったら、帰ろう」
きっぱりと決意するタロであった。
一方、そのころ。
「先輩〜〜。待って下さいよお」
「えーい、さっさと来んか。もう、一時すぎてんだぞー」
息を切らせながら走っている、二人の姿が、富士の裾野に見受けられた。
アフリカ探検スタイルのサトルと、防空頭巾が妙に似合っている山下の二人である。
何を考えているのか、サトルは、背中に日本一よ書いた旗竿を背負っている。
「ブクブク節操なしに太るから、いざという時、走れないんだよ、おまえは。少し、シェイプアップしたら、どうなんだ」
山下は、遅れてヨタヨタとついてくるサトルをふり返って、怒鳴った。
「そ、そんなこと言ったって〜〜」
と、サトルは、半泣きで悲鳴をあげた。
「もう、体がもちましぇ〜〜ん」
「だらしのないやつだ。先に行くぞ」
「そんな〜〜、先輩〜〜。見捨てないで下さいよォ」
「えーい。しっかりしろ」
山下は、サトルが追いつくのを待って、その背中を、どーんとどやしつけた。
サトルは、へたへたと、その場に座りこんだ。
もう、膝が笑って、言うことをきかないらしい。
「だらしがないぞ。これくらいで」
「だけど、先輩……」
肩で息をしながら、サトルは、言った。
「みのりさん抜きで、どうやって闘うんですかァ。――こーゆーことは、やっぱり、自衛隊にまかせましょうよお」
「自衛隊にゃ無理だ」
山下は、断固たる口調で言った。
「昔、ゴジラとキングコングが、ここで決闘した時も、そうだった」
「だからって、ぼくたち二人きりじゃ、どうにもなりませんよー」
「仕方ないだろ? みのりさん、寝ちゃったんだから」
「そりゃ、まあ、そーですけどねー……」
サトルもしぶしぶうなずいた。
うなずくしかなかった。
みのりが豪田篤胤科学研究所前の道端で、立ったまま熟睡してしまったのは、どうにも動かしがたい事実なのだから。
永眠枕の効果は、みのりの言う通り、たいしたものだった。
いったん眠りこんでしまったみのりは、山下たちが何をやっても起きなかった。
耳元で大声を出しても、バケツを頭にかぶせて、金柄杓でガンガン叩いても、みのりは枕を離そうとしなかった。
すやすやと可愛い寝息をたて、ひたすら眠り続けるのみであった。
実に平和な寝顔だった。
世の中に、心配すべきことは、何ひとつない。
みのりの寝顔を見てると、そんな風にさえ思えてくるほどだった。
マイティ・マサコが、世界征服をしようがどうしようが、みのりの、安らかな眠りを妨げることだけは、決してできないだろう。
しかし……。
残された山下とサトルにとっては……?
『どーするんです、先輩〜〜。みのりさん、起きませんよォ』
『永眠枕だからなー』
山下は、ため息まじりに、言ったものだ。
『八時間たたないと、起きないだろうなー。やっぱり』
『どーするんです』
『どーもこーも。とにかく、こんなとこへ寝かしておくわけにゃいかんだろ? 誰かに踏まれるかもしれんし。中に運びこむんだ』
『問題はそのあとですよ。――マイティ・マサコ! どうするんです?』
『挑戦を受けると決めたんだ』
山下は、みのりがくれたケプラー製の防空頭巾をかぶって、顎ひもを、ぎゅっと締めた。
そして、遠く富士山の方を睨みながら、言った。
『行くしかないだろう』
とゆーわけで――
二人は、えっちら、ここまでやって来たのである。
御苦労様な話である。
「しかし……」
あたりを見回しながら、サトルが、言った。
「マイティ・マサコは、いったい、どこにいるんですかねー」
「さーな」
と、山下は肩をすくめた。
「どこか、そのへんに隠れているんじゃないか?――ひょっとしたら、あの岩陰あたりにひそんで、今ごろ、おれたちを狙ってるかもしれんぞ」
「お、おどかさないで下さいよォ。先輩」
「わはは。冗談だよ、冗談」
山下は、大声で笑った。
その声は、風に乗って、岩陰(山下が、たわむれに指さした岩陰だった)のタロの耳にも届いた。
――やれやれ。やっと来た。
タロは、肩の荷がおりたように感じた。
そして、かねて用意してあった、舞台装置のスイッチを入れた。
次の瞬間。
どど〜〜ん!
富士をバックに、岩のまわりで、何かが爆発した。
爆発は五発同時に起こり、それぞれ、赤、黄、青、黒、ピンクの煙を、大量に吹きあげた。
絵に書いたような、『バクハツッ!』のシーンであった。
山下とサトルは、反射的に地べたに身を伏せた。
細かい砂が、バラバラと二人の体の上に、降ってきた。
「な、な、なんだなんだ。なにが起こったんだっ!」
山下は、ずり落ちてくる頭巾を、左手で押しあげながら、わめいた。
その耳に、聞き覚えのある声が、聞こえてきた。
「よく来たな。豪田みのり!」
マイティ・マサコの声だった。
山下は、声のする方を、見あげた。
雄大な富士と、たなびく五色の煙をバックに、マイティ・マサコが岩の上に仁王立ちになって、ポーズをつけていた。
風にマントがたなびいている。
山下は、思わずつぶやいた。
「頭が痛くなってきた」
「先輩、先輩……」
サトルが、山下の肘をつっついた。
「なに考えてんですか、あのひと」
「おまえに言われるようじゃ、おしまいだよな」
しみじみとした口調で山下は言った。
「聞け!」
マイティ・マサコは、世間の評判など一切おかまいなしに、言葉を続けた。
「世界は私のものだ! 今日の良き日、私はあらためて、それを宣言する。今こそ、世界は、我が力の強大さを認識するであろう。――豪田みのりっ!」
マサコは、びしっと正面の空間を指さした。
「おまえもだ。おまえも、私の前に、膝を屈するのだ。おまえには、手も足も出ないだろう。私がこれからやることを、指をくわえているしかないのだからな。――ははははは。ざまをごらん」
ははははははは。
マサコは、胸をそらして、高笑いした。
口パクが合っていなかった。
「先輩。あれ、ちょっと変ですよ」
「ああ。おれも気がついた」
マサコの口の動きと、セリフが、微妙にズレ初めているのだ。
おまけに、誰もいない方向を、指さしてみたり……。
マサコの演説は続いていたが、山下とサトルは、かまわずに立ちあがった。
慎重な足どりで、問題の岩に近づく。
岩陰では、タロが退屈そうな顔をして、座っていた。
太りすぎのフランケンシュタインみたいな顔が、よけいに間のびして見える。
タロの足元に置いてあるのは……。
「ありゃー、ホログラフ・ビデオのプロジェクターだ」」
山下が、サトルの耳に囁いた。
「えっ。じゃあ……」
「そーだよ。決戦が聞いてあきれる。マイティ・マサコも、来てねーんだ」
「ははあ。しかし、主役不在の決戦ってのは、しまんない話ですねー」
「どっちもどっちだけどなー」
二人は渋い顔をして、うなずき合った。
その時。
マサコの映像が、おかしくなった。
「世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に……」
「あれっ。あれっ」
タロが、あわてて、プロジェクターのコントロールをいじり回す。
しかし、マサコは、相変わらず『世界に、世界に』をリピートしている。
ホロ・ディスクが針とびを起こしているのだ。
「世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に、世界に……」
「えーい。いらいらするっ!」
山下が、思わず岩陰から進み出た。
「どけっ。こうするんだよっ!」
タロを、プロジェクターの前からおしのけて、山下は、コントロールを手早く操った。
「世界に、世界に、界に、界に、に、に……」
ほどなく、マサコの映像は安定した。
「どうも、ありがとうございます」
ぺこり。
タロは、山下に頭を下げた。
「どうも、メカって苦手なんですよね」
「いやー。困ったときは、お互いさまですよ」
戦場に咲いた一輪の花。
敵同士の心あたたまる交流の図であった。
しかし、それもつかの間。
マサコの声が、爆弾のように、三人のまん中に落ちてきて、なごやかな雰囲気を吹っとばした。
「世界に、我が力を知らしめるために」
と、マサコは、高らかに宣言したのである。
「私は、この日本列島を、太平洋に沈めることにした!」
「なんだって」
山下は、愕然として、マサコをふりあおいだ。
「日本を……沈没させる?」
岩の上のマサコは、相変わらず、あさっての方を向いて、ひとりで喋っている。
「豪田みのり。おまえならば、私の言う意味がわかるはずだ。――私は、プレート駆動装置を、ついに完成したのだ! ここ十日ばかりの地震で、すでに我が企みは見抜いておるであろうが、もはや手遅れだ。私の、この右手のひと振りで」
と、マサコは、右手を高々とふりあげた。
「日本列島は、波間に沈む!!――それも、今から七十二時間以内に!!」
「おい、貴様〜〜っ。こりゃー、いったい、どういうことだっ!」
山下は、タロの胸ぐらをつかんで、思いきり締めあげた。
「わっ、私は、何も知らないんですゥ」
タロは、手足をジタバタさせながら、蚊の鳴くような声で言った。
「私は、ただ姐御に言われた通りのことを、してるだけなんですよォ。私を責めないで下さいよォ。お願いしますゥ。私は、下っぱの走り使いにすぎないんですゥ」
「嘘をつけ。おまえだって、一味だろーが。プレートなんとかって装置が、どこにあるかくらい知ってる筈だ! さあ吐け。この野郎!」
「うげっ。うげげっ。くっ、苦しい……!」
その間も、マサコの勝ち誇ったような声は、BGMみたいに続いていた。
「我がプレート駆動装置が、本格的な稼動状態に入ると同時に、日本中の火山帯が活動を始めるだろう。まず、この富士山が噴火する。津波が押し寄せ、地上を未曾有の災害が襲うのだ! 日本は全滅する! 誰一人、この異変から逃れることはかなわぬ。もちろん、豪田みのり。おまえもだ。私に刃向かう者がどうなるか、その身で、十分に味わうがよい。――あは、あは、あははははははは」
マサコは笑った。
それは、あきらかに勝者の笑いだった。
笑いながら、マサコは、右手をさっと振りおろした。
「プレート駆動装置、作動!!」
どど〜〜ん!
再び、五色の煙が吹きあがり、マサコの映像も、消えた。
残響のように、笑い声だけが、あたりに漂っていた。
「ど、どうしましょう、先輩! に、日本が沈没するんですよ。そ、そうだ、外国に逃げましょう。銀行へ行って預金を降ろして、それから……」
「あわてるな、サトル。今すぐ、どうこうなるってもんじゃない。それに、おまえ、銀行に預金なんかあんのか?」
「あ。なかった。――先輩、お金貸して下さい」
「阿呆! だいたい、おまえってやつは……」
山下が、こっぴどくサトルをこきおろそうとした時である。
ぐらっ!
地面が大きく揺れた。
足元をすくわれて、山下も、サトルも、思わず、その場に尻もちをついたほどだった。
その一瞬のスキをついて、タロが脱兎の如く逃げ出した。
「あっ。待て、この野郎!」
待つはずがない。
タロの姿は、あっと言うまに、豆粒のように小さくなり、地平線の彼方に消え失せた。
さすが、改造人間である。
F1マシンなみの、逃げ足であった。
地面の下からは、何やら剣呑な地鳴りが、連続して聞こえてくる。
唯一の手がかりは逃げた。
「どーします、先輩」
「とにかく、いったん猫ヶ丘に戻ろう。こーゆーことにかけては、みのりさんはプロだ」
きっぱりと断言する山下であった。
山下たちも、あたふたと姿を消した、富士の山裾。
風だけが、空しく吹き抜けていく。
そこに、今。
今ごろになって。
今さら!
現れた一人の人物がいる。
そう。
祝雅子さん、その人である。
とうとう、今日まで有休を言い出せずに、一週間をすごしてしまった、あの雅子さんである。
会社を早退けして、その足であわててかけつけてきたので、姿形は、いたって地味。
ひっつめ髪に黒ブチ眼鏡の雅子さんである。
今日、早退けできたのも、雅子さんが、あんまり思いつめたような、青い顔をしているのを見かねて、係長が、
『顔色が良くないね、祝くん。どこか具合でも悪いんじゃないのか?』
と、水を向けてくれたからこそである。
相変わらず、気弱な雅子さんであった。
これが、日本を沈没させようとしている、あのマサコと同一人物とは、とても思えないのであった。
女はわからない、とゆー立派な証拠であった。
雅子さんは、誰もいない富士の裾野を、よろめくように歩いてきて、がっくりと膝をついた。
「間に合わなかった……」
思わず涙ぐむ、雅子さんであった。
「あんなに一生懸命走ったのに……。結局、間に合わなかった……!」
ひょおおお……。
冷たい風が、雅子さんの心に、吹きこみます。
「みんな、先に帰っちゃうなんて……。誰も、待っててくれないなんて……」
富士の裾野に、雅子さんの悲痛な泣き声が、こだまします。
「あんまりだわ〜〜っっ!」
一方。
こちらは、すやすやと眠りこけるみのりである。
ピーッ。
永眠枕――お望みなら、一生眠ってすごせます――のタイマーが、小さな電子音を響かせた。八時間たったのである。
「ん?」
みのりは、むっくりと上半身をおこして、あたりをきょろきょろと見回した。
「あたし、どうしたのかしら……?」
夕方ちかいのだろうか。
カーテンの向こうが、やけに赤い。
みのりは、ふら〜〜っとした足取りで、寝室の窓に歩み寄った。
カーテンを開ける。
西の空が異様に赤く染まっている。
『オ目醒メデスカ。オ嬢サマ』
「あ。アレックス……」
みのりは、ぼんやりとアレックスを振り返って、言った。
「ねえ、あれ、どうしたの?」
『エエ。ナンデモ……』
と、アレックスは、言った。
『富士山ガ、噴火シタト言ウ話デシテ……』
「ふーん」
何も知らないみのりは、ひと事みたいな顔をして、言った。
「たいへんねー」
04 地上最大の決戦 Part2
The Mighty MASAKO Strikes Back
<前回までのあらすじ>
三月某日。豪田篤胤科学研究所に届けられた一通の手紙。それは『正義と真実の使徒』事件において、泣いて帰ったはずの、マイティ・マサコからの挑戦状だった!
富士の裾野で、四月馬鹿決戦!!
マサコの挑戦を、敢然と受けたみのり、山下、サトルの三人組であったが、思わぬアクシデントによって、みのりは出場不可能。
みのりを欠いたまま、決闘の場におもむく山下とサトル。その二人を待ち受けていたのは、マサコの無謀な宣戦布告であった。
マサコは叫んだ。
『日本を沈没させてやるっ!』
富士が爆発し、日本列島を不気味な律動が包みこむ。
プレート駆動装置とは何か?
日本海溝で目撃された、巨大なかたつむりの正体は?
みのりは、マサコの企みを阻止できるのか?
今、全ての謎があきらかにされる!
衝撃の『地上最大の決戦』Part2!!
近日公開!!
山下とサトルが、豪田篤胤科学研究所に戻ってきたのは、その夜も、遅くなってからのことだった。
二人とも、服にカギ裂きを作り、顔はススで汚れていた。
富士の裾野から猫ヶ丘まで。
いかにきびしい道のりだったかを、二人の姿は、雄弁に物語っていた。
「おかえんなさーい」
玄関口に出迎えたみのりは、明るく笑ったものだ。
「ちょうどよかったわ。夕御飯の準備が出来たところなの。東坡肉《トンポウロウ》よ、東坡肉。ちゃんと皮つきの豚バラ買ってきて、三時間も蒸した本格派よォ」
「東坡肉ですか? いいですねえ」
サトルがさっそく目を輝やかした。
「あれ、モヤシと一緒に、饅頭の皮に包んで食べると、おいしいんですよねー」
「そーそ――。すっごく、おいしいーのー」
と、みのりも、目を細めて、うれしそうにうなずいた。
ひとり、山下だけが苦い顔をしていた。
「東披肉なんかで盛りあがってる場合じゃないですよ、みのりさん」
山下は、陰気な声で言った。
「知ってるでしょ?富士山が爆発したんですよ!」
「あら。派手でいいじゃない」
みのりは、軽く言ってのけた。
「それに、あたし、活火山って大好きなの。溶岩が噴き出すところを見てると、なんだか、胸がわくわくしてきちゃう。――山下さん、わくわくしない? あたしするわ」
「あのねえ、みのりさん」
山下は、ため息をついた。
「そーゆ-、のんきなことは、あらすじを読んでから言って下さいよ」
「あらすじ・・・・・・?」
「そうですよ。とにかく、大変だったんですから。途中で、地下特急は停まるし、火山弾は降ってくるし、家はつぶえるし、地面は割れるし・・・・・・」
山下は、身ぶり手ぶりを交えて、あれこれ説明した。
「そうか、なるほど!」
みのりは、ぽんと手を打った。
「するとォ、今度の事件は、全てマイティ・マサコの仕業だってわけね?」
「そうなんですよ」
やっと、わかってもらえましたぁ?
山下は、ほっとしたような顔で、うなずいた:
「ふーん。日本沈没とはねー。あの人も、なかなか、がんぼってるわねー」
うんうん。
みのりは、腕担みなんぞして、しきりに感心している。
「そんな風に落ち着いてないで、なんとかして下さいよ、みのりさん!」
思わず、じだんだを踏む、山下であった。
「このまま、ほっといたら、七十二時間で――と言うことは、たった三日で、日本は海に沈んじゃうんですよ! 三日しか! のんびり、お喋りなんかしてる場合じゃないですよ。現に、こうやってる今も、一分一秒ごとに、日本は沈んでるんです!日本が沈んじゃったら、どうするんです!」
みのりが、意外そーな顔をした。
「あら。山下さん、泳げないの?」
山下は、憤然として応えた。
「もちろん、泳げますとも!」
「なら、平気じゃない」
「そう、平気……。なわけないでしょう! ぼくが言ってるのはですねえ……!」
わな、わな、わな。
全身を震わせている山下に、みのりは、右手をひらひらさせながら、言った。
「だーいじょーぶよ」
「え?」
「だいじょおぶっ」
あまりにも自身たっぷりな、みのりの言い切りであった。
山下もサトルも、口を半開きにして、みのりを見つめている。
みのりは、にこにこしながら、二人の顔を交互に見比べて、言った。
「マイテ・マサコさんには気の毒だけど、日本は、絶対に沈没しないようになってんの」
「?」
山下とサトルは、お互いに『不可解』と書いてある顔を、見合わせた。
みのりが言った。
「そんなことより、東披肉よ、東披肉」
口笛なんか吹き次がら、浮き浮きと食堂へ向かうみのりの後ろ姿。
それを、荘然と立ちつくして見送っ'ていた山下は、首をひねりながら、言った。
「いーのかなあ」
「いーんじゃないですか?」
と、サトルが無責任にうけあった。
「みのりさんも、あー言ってるんだし。東披肉食べましょうよ。冷めると、大変ですからね」
サトルも、スキップしながら、食堂へ入っていく。
その時、また、かなりの揺れが感じられた。
震度四ってところか。
山下は、小声で、くり返した。
「ほんとに、いーのかなあ」
同時刻。
日本海溝。:
「どーして、動かないのっ!」
丸井のクレジットで買った、巨大かたつむりメカの中で、マサコはヒステリックにわめいておったそうな。
「火山帯の活性化は、うまくいってるのに、どーしてプレート駆動装置が作動しないのよっ!」
「いやー、姐御。装置は、ちゃんと作動してますぜ」
ディスプレイを見つめていたタロが、マサコをふり返って言った。
「出力九十八バーセント。全て順調だそうです」
「どこが順調か! 日本は、全然沈まんじゃないかっ!」
「そう言われても、なんせ、コンピュータの言うことですから」
「うーむ。やっぱり、値切って買ったのがまずったかな一」
反省日記を取り出したマサコに、タロが言った。
「どーします、姐御っ?」
「日本を沈没させると大見栄を切った以上、沈没させないと、マイティ・マサコの名前が泣くわ。
ブレート駆動装置の出力は、どこまで上げられるの?」
「えーと、マニュアルによると……」
タロは、大急ぎで解説書をめくりながら、言った。
「最大百二十バーセントまでですね。ただ、無理な使い方をしてこわれた時は、保証書がきかないんですよ。修理は有料になっちゃいますけど、それでもいいんですか?」
「一年間は、無料のはずでしょ?」
「いや、それが、出力百バーセントを越えて、使用した時は、ダメなんですよ」
「しょうがないわねー」
マサコは、顔をしかめた。
しかし、この際、背に腹はかえられない。
「いいわ。やってちょうだい」
「ほんとーに、いいんですか? 爆発しても知りませんぜ?」
「何度も言わせないで! やるって言ったら断固やるのよ!」
世界征服に燃え、思わず叫ぶマサコであった。
「タロ!」
「へい!」
「プレート駆動装置――出力百二十バーセント!」
「ラジャ…、出力百二十パーセント!」
タロは、コントロールの安全装置を外して、レバーを目盛り一杯まで、おしこんだ。
「あら。山下さん、知らない?」
「さあ……」
「サトルさんは?」
「知りません」
「そーかー。そんな昔の話じゃないんだげどなー」
みのりは、首をかしげた。
食後のウーロン茶を、おかわりしたがら、サトルが言った。「だけど、本当ですか、その話」
「ほんともほんと。かけ値なしの真実よ」
みのりは、力いっぱいうなずいてみせた。
そして、テープルの上に、身を乗り出すようにして、こう言った。
「とにかく、日本は前にも一度、沈没しかげたことがあるの」
「そー言えぱ、何かの本で、読んだことがあるような気がしますね」
と、山下が言った。
「だけど、あの話は、ただの伝説じゃなかったんですか?」
「とーんでもない」
みのりは、ぶんぶんぶんと首を振った、一
「はっきりした歴史上の事実よ。だって、その時、沈没しかけた日本列島を救ったのは、うちの御先祖様だもの」
大いぱりっ。
みのりは、胸を張った。
山下とサトルは、顔を見合わせた。
「おどろいたね」
「おどろきましたね」
「だから、言ってみれば、豪田家ってのは、沈没に関してはプロなわげよ」
「じゃあ、もう安心していいんですね? 日本は沈没したりしないんですね?」
「まかせといて」
みのりは、どんと胸を叩いてみせた。
「あー、よかったあ。ほんと、よかったですね、先輩?」
サトルは一単純に安心しているが、山下の方は、そこまでお気楽にはできていないらしい。
「みのりさん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なーに、山下さん」
「どうやって、日本列島が沈没するのをくい止めたんです?――つまり、みのりさんの御先祖様ってのは」
「簡単よ」
みのりは、実にあっさりと答えた。
「クイを打ったの」
「…………」
山下は、絶句した。
山下でなくても、絶句しただろう。
「なーに。なんたの、この沈黙は」
と、みのりは、言った。
「あー、わかった。山下さん、信じてないんんでしょお」
「い、いや……。そんたことはないですが、ただ、ちょっと不意をつかれたもので……」
山下は、碩の汗をぬぐいたがら、言った。
「し、しかし、クイってのは、いったい……?」
「だから、クイよ」
あ-、じれったいって口調で、みのりは、説明した。
「いーいー? 日本列島ってのは、大陸プレートの上にのっかってるわけ。その大陸プレートの下に、こっちから来た太平洋プレートってのが、もぐりこんでるの。――図にすると、こう」
「それ知ってますよ。プレート・テクトニクスって言うんでしょ?」
「そう」
みのりは、サトルにうなずいてみせた。
「でね。今回、マイティ・マサコが使ってるプレート駆動装置ってのは、この太平洋ブレートの下の端を持って、ぐいっと引っぽる仕掛けなのね。結局ね。わかりやすく言うと」
「ぐいっと引っぽるって……」
山下は、荘然とした口調で、言った。
「プレートって、そんな簡単に引っぱったりできるもんたんですか?」
「ひとが思うぽど、むずかしいもんじゃないのよ」
「はあ……」
「やってみれぽ、意外と簡単なの」
「はあ……」
「山下さん。あたしの言うこと、聞いてる?」
「はあ……」
山下の目は、完全に空ろだった。
みのりは、山下の顔の前で、片手をひらひらさせてみせた。
反応がない。
みのりは、小さく肩をすくめて、言った。
「とにかく、この太平洋ブレートの下の端を引っぽると、それに巻きこまれるみたいな形で、日本も海の中にズッこけるわけ。この前、沈みかけた時は、それが自然現象で起こったわけだけど、今度のは、マサコが人工的に同じことをやってるの」
「じゃあ、やっぱり沈むんですか?」
と、サトルが丸顔を青くして、言った。
「大丈夫よ。クイが打ってあるもの」
みのりは、泰然自若としたものである。
「でも、クイって……?」
げげんな顔つきのサトルに、みのりが言った。
「そうだわ。見せてあげましょうか?」
「何をです?」
「クイよ、クイ。――山下さんだって、見れば、納得するわ。――アレックス。お庭のライト点げてちょうだい。さあ、二人とも、こっちよ」
みのりは、さっさと席を立つと、テラスの窓を開げ、サンダルをつっかけて、庭に降りていった。
サトル。そして、跨瞑とした足取りの山下が、後に続く。
さして広くもない庭の一尾に、小さな、お社のようなものが建っていた。
おそろしく古い。
サトルが、言った。
「お稲荷さまですか?」
「ああ、これは、クイを打ったあとに建てたものよ」
みのりは、肩ごしに答えながら、杜の扉に手をかげた。
ギッ……。
扉が開く。
内部は、三畳ほどの広さだった。
床板は張ってなくて、地面がむき出しのままだ。
裸電球が天井からぶら下がっている。
カビくさい匂いが鼻をついた。
「クモの巣が、すごいですね」
「長いこと、入ってなかったもの。しょうがないわよ。――、ほとんど物置がわりね」
みのりは、そこいら中に散らぱったガラクタを、かきわけながら応えた、、
「おかしいなあ。たしか、このへんに……」
大きなダソボール箱を持ちあげて、みのりが叫んだ。
「あったあった。ほら、これよ」
山下とサトルが身を乗り出す。
たしかに、それはクイだった。
クイが地面に打ちこんであった。
直径十センチ。
地上に出ている部分の高さは、せいぜい三十センチ、ほどだろう。
何の変哲もない、古ぼげた、木のクイだ。
しめ縄が張ってある以外、どう見ても、これが、日本沈没をくい止めているクイだとは思えなかった(別にシャレではありません。念のため》。
山下が言った。
「そんな、特別なクイには、見えませんけどねえ」
「ところがぎっちょん」
みのりは、年に似合わぬ古くさい言い回しを使って、言った。
「特別なクイなのよねー。日本列島を、この空間、この座標に固定してるのは、このクイなんだもの。いくら、マサコがブレートを引っぱっても、無駄なわけ。このクィがあるかぎり、日本は、びくともしないわ」
「へー。これがねー」
サトルは、クイをしげしげと見つめながら、言った。
「たいしたもんですねー。これ一本で、日本列島を支えてるわけですね?」
「そ。釘で打ちっけたのと同じよ。旧式だけど、空問固定ボルトの一種なの。それに、肝腎なのは、ここの場所ね」
「場所……?」
「うん。ここはね、日本列島のツポにあたってるの。つまり、中国医学で言うところの、経絡秘孔ってわけ」
「肩こった時に、針なんかを打ってもらう、あのツポですか?」
「そう」
「ふーん。そーかー。中国医学とプレート・テクトニクスが、このクイ一本でつながってくるのかー。世の中って、油断できないんだなー」
サトルは、やけに感心している。
「あ。サトルさん。それ、あんまりさわらない方がいいわよ。抜げると大変だから」
「え? ああ、そうですね」
サトルは、あわてて、クイから離れた。
山下が、言った。
「ところで、みのりさん。ここにクイが打ってあるのを、マサコは知らないでしょ?」
「そりゃー、そーよ」
「じゃ、どうなるんです?」
「どうって?」
「プレート駆動装置ですよ。――今ごろ、必死んなって動かしてる筈ですからね」
「そーねー。日本は固定してあるし……」
みのりは、首をかしげた。
同時刻。
日本海溝。
マイティ・マサコは、太平洋プレートを必死で引っぽっていた。
「どーしてだっ。どーして、日本は沈まんのだっ」
「なんかで、固定してあるんじゃないですかァ……」
タロが、気のぬけたみたいな声で言った。
ねむたそうな目をしているが、なかなか鋭いタロであった。
「ばっ、馬鹿者っ! 常識で物事考えろっ! ――日本列島を、どうやったら固定できると言うのだっ!」
「はあ……」
「きっと、バワーが足りないのだ」
と、マサコは、思いこんだ。
不幸にも。
「タロ! もっとバワーを上げろっ!!」
「無理ですよ、姐御。――これ以上あげたら、爆発しかねませんぜ?」
「えーい。ぐだぐだ言ってないで、さっさと上げろ! 上げろったら上げろっっ!!」
マサコは、ヒステリックに、わめきちらした。
當軌というものを、完全に逸していた。
「どうなっても知りませんからね」
と言いながら、タロは、ジェネレータ:のパワーを、さらにUPした。
ぐももも〜〜っ。
プレート駆動装置の不気味な振動が、かたつむりメカのコクピットを、おし包んだ。
同時刻。
ハワイ諸島が、じりじりと日本に近づきつつあった。
(おいおいおい)
同時刻。
猫ケ丘。
「よくわかんたいげど、なるようになるわよ」
みのりは、のほほ〜〜んとした顔で、言った。
「ま、とにかく、日本が沈没することだけはたいから、山下さんも、安心してて」
「なるほど」
「そーですよ、先輩。これで日本も安心ですよ。あっはっは」
サトルが脳天気に笑いながら、山下の背中を、ばんと叩いた。
「いてーな」
と、ふり返った山下の目が、突然、大きく見開かれた。
サトルの肩ごしに、クイを見つめる。
クイが細かく震動しているのだ。
「み、みのりさん……」
山下は、クイに視線をはりつけたまま、この世のものじゃないみたいな声で、言った。
「つ、つかぬことをうかがいますが、も、もしも、ですよ? もしも、そのクイが抜けたら……ど、どうなるんです?」
「ほんとに山下さんって、心配性ねえ」
みのりは、くすくす笑った。
「だーいじょおぶよ。ちょっとやそっとで抜けっこないもの」
「だ、だけど、ま、万一ってことも……」
山下のこめかみに、冷たいものが流れ落ちた。
クイの震動は、目に見えて激しくなってきている。
山下は、生きた心地がしたかった。
みのりが、言った。
「どうしたの、山下さん。顔が青いわよ」
「あっ、あっ、あれ……」
山下は、震える指先で、クイを指さした。
「?」
けげんな表情でふり返るみのり。
サトルもふり返る。
三人の目の前でクイは、漬しく震動しながら、一センチ、また一センチと地面からせり上がってくる。
「あら。たいへん」
みのりが、右手をほっぺたにあてて、言った。
そのとたんである。
ずぼっ!
盛大次音と共に、クイは空中高く舞いあがり、みのりの足元に落っこちた。
くわらんくわらんというような音がした。
日本列島の終末を告げる音だった。
「ぬ、ぬけた……」
山下は、その場にへたりこんで、うわ言のように、くり返した。
「ク、クイがぬけた。――おれの腰も抜げた。どっちもぬけた。もうだめだ。もう沈む……」
「へんねえ。どうして抜けたのかしら?」
みのりは、クイをしげしげと見つめて、首をかしげた。
「誰がさわったってわげでもないのに……」
指先で、つついてみる。
と。
クィの根元あたりに、小さな生き物がうごめいているのが見えた。
白アリだった。
「しまった!」
みのりは、両の二ぶしを握りしめて、叫んだ。
「木製の空問固定ボルトが、白アリに弱いってことを、すっかり忘れてたわ!!」
思わぬ盲点であった。
この前、クイに白アリ退治の薬を塗ったのは、いつだったかしら?
二年前? 三年前?
みのりは、頭をかかえた。
「ああ。思い出せないっ!」
そう言えぱ、昔、おじい様が言ってらしたわ。
『あのクイは、そろそろ、セラミツクか何かに替えた方が、よいじゃろうなあ』
その時。
地面が波をうった。
ごごごごご……。
耳を聾するような地鳴りが、大地の底から聞こえてくる。
極限までひっぱられたゴムひもの端っこを、急にはなしたようなもので、クイが抜けたとたん、それまでプレート駆動装置が加え統けていたエネルギーが、一気に噴出したのである。
地面が、ゆっくりと傾き始める。
「み、みのりさ〜〜ん」
サトルが、泣きそうた声で、言った。
「どうにかしてくださいよォ。――日本が、沈んじゃいますよォ」
「どうにかって、言われても、これぱっかりはねえ……」
「いつもみたいに、何かいい手はないんですか?」
「沈みはじめちゃったものは、しょうがないわねえ」
「そ、そんな〜〜」
サトルは、本当に泣き出した。
山下は、空ろな目をして、
「ぬけた、沈む」
をくり返している。
「どうしたものかしらねえ」
みのりは、腕組みをして、小首をかたむげた。
さすが由竃正しいマッドサイエソティストの血筋である。
何事にも、決して動じないみのりであった。
同時刻。
またまた、目本海溝。
「やった〜〜っ!」
マサコが叫んだ。
「やりましたね、姪御!」
タロも、興奮を隠しきれたい口ぶりである、、
モニターの中で、日本列島は、ずるずる沈み始あている。
「あはははは」
マサコは、モニターを指さして、高らかに笑った。
「沈んでる沈んでる。私の勝ちだ。これで世界も、わらしのものぢゃああ〜〜〜〜っっ!!」
一万メートルの海底で、げてげてに盛りあがるマサコとタロ。
しかし、二人は、気づいていなかった。
コントロール・バネルの右瑞で、赤いランプが、ひとつ、点滅をくり返していることに。
それは、あきらかに、オーバーロードを表すシグナルだった。
パワーをかけすぎたプレート駆動装置は、二人の知らぬところで、コントーロールを失い、暴走を始めていたのである。
ジェネレーターはフル回転し、エネルギー・ゲージは一気に頂点まで昇りつめた。
「じゃあ、ここらで一発キメましょうか?」
と、タロが言った。
「そうね」
と、マサコは、うなずいた。
「せーの」
二人は、声を合わ合わせて、叫んだ。
「ぱんざーい。ばんざーい。ばん……!」
次の瞬間――
巨大かたつむりメカは、爆発した。
どつかあん!!
と二ろで。
日本は、どうなったんでしょうね?
「うーん。見事に沈んだわねえ」
波間に浮かぶゴムポートの上で、みのりは、かつて日本列島が浮かんでいたあたりの海を眺めまわしながら、言った。
「敵ながら、あっぱれだわ」
「感心してる場合じゃないですよ。どーするんですか?」
と、これは、山下である。
「あっ。映った」
ポケットTVのチューナーをいじくっていたサトルが、大声をあげた。
「ほら、ニュースが始まりますよ」
「へーえ。日本が沈没したのに、放送やってるんだ。立派ねえ。ジャーナリストの鑑だわ」
「日本のマスコミをなめちゃいけませんよ」
サトルが、妙なところで、自慢している。
「三人は、液晶モニターに映る、小さな画面を、のぞきこんだ。
『え-、番担の途中ですが、臨時ニュースを申しあげます』
と、いつものアナウソサーが、くそ真面目な声で、言った。
アナウンサーも、ゴムボートに乗っていた。
波があるので、カメラが安定しない。
画面の中で、ゆっくりと上下に揺れながら、アナウンサーは、言った。
『えー。皆様も、よく御存知だとは思いますが、日本が沈没しました』
けけけけ。
アナウンサーは、白眼をむいて、笑った。
『しかし、私は信じません』
アナウンサーは、ゴムポートの上に立ちあがって、ぱあっとニュース原稿をまき散らした。
『誰が信じるもんか、こんたこと!おれは絶対に信じないぞお〜〜っっ!』
アナウンサーは、わめき始めた。
ウェットスーツ姿の、ADやFDが、あわてて泳ぎ寄るところで、映像が切れ、テロップが流れた。
<このまま、しぽらくお待ち下さい>
「やれやれ」
みのりが、ため息をついて、言った、
「このアナウンーも、気の毒よねー。毎回毎回」
「そーですねー」
と、サトルも、うなずいた。
「きっと根が真面目なんでしょうねー」
「早く環境に適応するように、陰ながら応援してあげたいものねー」
「局付けで、励ましのお便りでも出しましょうかねー」
「そうねー」
「励ましのお便りなら、おれがもらいたいくらいだ」
山下が、ぶつくさとつぶやいた。
「おれだって、根が真面目た常識人なんだぞ。それなのに、毎度毎度、こんな馬鹿騒ぎに、つき合わされて……。あー、胃が痛い」
「元気出しなさいよ、山下さん」
みのりが、山下の肩をぼんと叩いて言った。
にこにこ笑っている。
天真燗漫な笑顔である。
山下は、ため息をついた。あたりの水面をぐるっと指さしながら、
「こーゆー状況で、どうやったら、元気が出せるんですか?」
「だ-いじょおぶよ」
「みのりさん、わかってるんですか? 日本は沈没しちゃったんですよ?」
「だから、大丈夫だって言ってるでしょ? もうすぐアレックスが戻ってくるわ。それまでの辛抱よ」
「アレックス……?」
山下は、周りをきょろきょろと見回した。
「どこへ行ってんです?」
「忘れ物を、とりに行ってくれてるの。――下に、ね」
「忘れ物……?」
「そう。――あ、戻ってきた!」
水面が、ぶくぶくと泡立ち、GEエンジンをふかしながら、アレックスが浮上した。
『アリマシタヨ、オ嬢サマ。冷蔵庫ノ奥ノ方二、コロガッテマシタ』
「よかったあ」
みのりが、歓声をあげた。
「冷蔵庫……?」
山下が、けげんな顔をして、言った。
「冷蔵庫なんかに、いったい何を……?」
「食べ物ですか?」
サトルが勢いこんで訊ねた。
「ちょっと、ちがうわねー」
みのりは、アレックスから受け取った、小さたカプセルを、愛しそうになでなでしながら、言った。
「でも、これで、もう本当に大丈夫よ」
みのりは、にっこりと笑ってみせた。
手にしたカプセルが、陽光に、きらりと光った。
「いやー、桜もすっかり散っちゃいましたねー」
春の陽ざしをいっぱいに受け、ぽかぽかと暖かい、豪田篤胤科学研究所のいつもの応接室である。
サトルが、あくびまじりの声で、言った。
大きくのびをしながら、
「でも、今年は、あんな騒ぎがあったせいで、お花見にいけなかったのが、心残りですねー」
「そーよねー」
と、うなずく、みのり。
山下は、無言で、紅茶をすすっている。
「しかし、驚きましたよ」
と、サトルは、言った。
「まさか、みのりさんが、日本列島のスベアを持ってたなんて」
「いやー、いつか、こーゆーこともあるんじゃないがなーと思って、ずっと前に一個用意しておいたのよ。だけど、よかったわ。珍らしく、あたしの作品が、役に立って」
「いやいや、ご謙遜でしょう。――ねっ、先輩?」
山下は、無言である。
「どうしたの、山下さん?」
「いえね。先輩、あれから、もう一週間もたつってのに、今だに、開いた口がふさがってないんですよ」
「たいへんねー」
お上品にうなずく、みのりであった。
サトルは、おかしくて、たまんないって声で言った。
「だけど、マィティ・マサコも、日本列島の予備があるとは、思ってもいたかったでしょうね?」
「それが、彼女の敗因ね」
と、みのりは、きっぱりと断言した。
「日本を沈没させたところまでは、よかったんですけどねー」
「んーでも、彼女も、たったひとつだけ、いいことしてくれたわ。――だってハワイが八十四キロも近くたったんですもの」
「アメリカが抗議してるって話ですけどね」
と、サトルが言った。
「だけど、マィティ・マサコのやつ、あれから、どこへ行ったんでしょうね?」
「うーん。なにしろ、ブレート駆動装置が爆発したんだから、まあ、ただじゃすまないわね。――プレートを引っぱるのに、亜空問を使ってるし、ひょっとしたら、どこか別の次元に吹き飛ぼされたってことも……」
ありえるわね。
と、言いかけたみのりが、ぽかんと口を開けて、虚空を見つめた。
「?」
サトルと出下が、視線の方向を振り返った。
応接室の壁が、水面のようにゆらゆらと揺れ動き、その中心から、何かが現われようとしていた。
「さっさと、漕ぐのよ!」
宙に浮かんだ次元漂流ポートの上で、マイティ・マサコが、叫んでいた。
オールは、タロが握っていた。
「もう、くたびれましたよ〜〜」
「えーい。泣き言を言うんじゃないっ!」
マサコは、わめいた。
パラレル・ワールド
「とにかく、どこか別の平行世界にたどり着くまでは、漕いで漕いで、清ぎまくるのよっ!!」
「体が、もちましえ〜〜ん」
タロは、泣きながら、オールを漕いだ。
次元漂流ボートは、点目になってる三人の目の前を、ゆっくりと横切り、応接室の反対側の壁に、消えていった。
みのりたちの開いた口は、その翌日まで、ふさがらなかった。
05 あなたも私も不老不死
皆様、お忘れかも知れませんが、みのりは、まだ仮免許中のマッドサイエンティストだったのであります。
(実は、作者も、すっかり忘れていた)
と言うわけで。
「なるほど」
WMA(世界マッドサイエンティスト協会》の特別試験官――J・D・マクドナルド博土は、
(例によって)にこりともせずに、うなずいた。
年に一度の昇級試験。
今回のテーマは、不老不死であった。
「お話が、よく見えない人は、「とっても素敵な電送人問」(ハヤカワ文庫JA190『日曜日には宇宙人とお茶を』収録)を、もう一度、読み返して下さいね」
にっこり笑って、みのりが言った。
「これこれ、みのり君」
と、マクドナルド博士。
あたりをきょろきょろ見回しながら、
「いったい、誰と喋っておるのかね?」
「あ。いえ。別に……」
「試験中は、よそ見をしないように」
「はい。マクドナルド博士」
――三尺さがって、師の影をふまず。
素直にうなずく、良い子であった。
豪田篤胤科学研究所の実験室。
白衣姿のみのりのと、マクドナルド博士は、中央の大きなテーブルをはさんで、向かい合っている。
テーブルの上には、ガラスのシャーレが一箇。
マクザナルド博士は、その中をのそきこみながら、
「なるほど」
と、くり返した。
「すると、これが、君の創りあげた、不老不死のアリってわけだね?」
「はい。マクドナルド博士」
みのりは、胸を張って応えた。
「すっごく、苦労したんですよ」
「マッドサイエンティストヘの道は遠い」
マクドナルド博士は、厳粛な面持ちで、うなずいた。
「みんな、そういう苦労を重ねて、一人前のマッドサイエンティストになっていくのだ」
「あたし、がんぱります」
「うむうむ」
目を細めて、愛弟子を見つめる、マクドナルド博士であった。
シャーレの中では、一匹の黒アリが、ガラスの壁をよじのぼろうとして、じたばたしている。
「ふーむ、しかし」
と、博士は、片手で顎をたでたがら、言った。
「どこと言って、変ったところも見えんな」
「でも、不老不死なんですよ、このアリさん」
「どれどれ」
マクドナルド博士は、右手の人さし指を伸ぽして、不老不死のアリを上から圧えた。
ぷちっ。
かすかた音がして、アリがつぶれた。
(なまんだぶ、なまんだぶ)
マクドナルド博士は、けげんな顔つきで、人さし指を持ちあげてみた。
不老不死のアリは、立派に死んでいた。
博士は、みのりを見た。
みのりも、博士を見た。
時計の秒針が、ひと回りした。
みのりは、言った。
「死んだみたい……ですね?」
博士は、ため息をついた。
重っ苦しい沈黙が、一、致死レベルの放射能みたいに、実験室に充満していた。
「すごいっ」
みのりが唐突に叫んだ。
「不老不死のアリさんを殺しちゃうなんて……。マクドナルド博士、サイボーグか何かの手術受けてらっしゃるんですか?」
「あいにくと、私は生身の人間だよ、みのり君」
マクドナルド博士は、苦々しげた声で、言った。
「その上、今年で七十の老人だ」
「あっ。じゃあ、空手か何かやってらしてるとか……?」
「みのり君……?」
博士は、やけに静かな口調で、しみじみと言ったものだ。
「いいかげんに、理実を認めたらどうかね?」
「はあ……」
さすがに、しょんぼりとうなずく、みのりであった。
「君の作ったという、不老不死の薬には、どうやら、重大な欠陥があるるみたいだな」
「計算では、不老不死になる筈だったんですけどオ」
「実際に試してみなかったのかね?」
「試すって……?」
「薬の効き目だよ」
「あら。だって……」
みのりは、抗弁した。
「不老不死の薬が、本当に効くかどうか試すためには、殺してみるしかないじゃないですか」
「そーだよ」
と、マクドナルド博士。
「実際に殺してみるしかない」
「そんなこと……!」
みのりは、ショックを受けたみたいに、両手の拳を口元にあてて、言った。
「アリさんが、かわいそうじゃないですか!」
「君ねえ……」
マクドナルド博士は、ため息まじりの声で、言った。
「科学の進歩に、ある程度の犠牲はつきものなんだよ!−−それに、君つ薬が、ちゃんと効けぱ、そのアリも死ぬことはないんだし……」
「アリさんが、かわいそう!」
みのりは、どこかあさっての方向を見つめて、ひとりで盛りあがっている。
「あたしには、出来ないわっ。いくら、科学の進歩のためだからって、真面目にコツコツ生きて
るアリさんを殺すなんて……」
「みのり君……?」
「アリさんに罪はないわっ!!」
みのりは、目に涙さえ浮かべて、叫んだ。
なんとかして、失敗をごまかそうとする、けなげなみのりであった。
マクドナルド博士は、言った。
「アリじゃなくても、ゾウリムシだっていいんだよ?」
「ゾウリムシさんが、かわいそうっっ!!」
みのりは、すかさず叫んだ。
「ゾウリムシさんに罪はないわっ!!」
「わかったよ……」
マクドナルド博士は、弱々しく、うなずいてみせた。
――泣く子とみのりには勝てない。
「君の優しい心には負けた」
「えっ。じゃあ、合格ですか?」
王のりは、バッと顔を揮やかせた。
にこにこにこ。
見事な変わり身の早さである。
しかし。
「そうは、いかん」
マクドナルド博土も、この道ン十年のベテランだ。
決して甘くはない。
「私は、次の便で、ロソドンヘ帰らなくちゃならん」
「はい、マクドナルド博士」
にこにこにこ。
「それで、だ」
「はい。マクドナルド博士」
にこにこにこ。
「私が帰るのが、そんなにうれしいのかね?」
「いえ、そんな……。お名残り惜しいですわ」
「ふむ」
マクドナルド博士は、疑わしそうに、みのりをちらりと見て、
「まあ、いい。――とにかく、君には、特別に追試を認めよう」
「追試……ですか?」
「そう。――一週間以内に、ロソドンのWMA本部まで、レポートを提出すること。わかったね?」
「はーい」
「そりゃあ、大変でしたねえ」
と、サトルが言った。
アレックス御手製のナポレオン・バイを、口いっぽいにほおばりながら、
「れも、れほーとなんて、まふれ、らいはふひらいを……」
「えーい。うとましい!」
山下が、わめいた。
「食うか喋るか、どっちかにしろっっ!!」
「ろーも」
サトルは、べこりと頭を下げ、ティ・カップに手を伸ぱした。
ナポレオン・パイを、江茶で流しこむ。
いつもの応接室。
いつもの二人であった。
「でも、みのりさん」
と、山下が、言った。
「期限は一週問なんでしょ? こんなのんびりしてて、問に合うんですか?」
「なんとかなるわよ」
のほほ〜〜ん。
みのりは、ナポレオン・バイの中のイチゴを、口にほうりこみながら、言った。
「不老不死の薬は、もう作り直しちゃったし」
「どこがいけなかったんです?」
「お塩を入れ忘れてたの」
「お塩……?」
「そう。かくし味ってわけ」
「はあ……」
山下は、うすぽんやりとうたずいた。
不老不死の薬に、かくし味なんてものが関係してくるとは、油断も隙もあったものじゃない..
「しかし、マッドサイエンティストになるのも、楽じゃないですねー、みのりさん」
と、サトルが、横から口を出す。
「試験だの、レポートだの」
「そーなのよ」
と、みのりも、大きくうなずいて、
「水久機関の試験には、一回で合格したんだけど、不老不死って苦手なの」
「永久機関……?」
山下が、目を丸くして、言った。
「みのりさん、永久機関なんか作ったんですか?」
「うん。――わりと簡単だったわよ」
みのりは、あっさり、うなずいた。
「マッドサイエンティストにたるための、三大関門ってのがあってね、――タイムマシンでしょ? 不老不死でしょ? それから、永久機関」
「見せてもらえますか、それ」
山下が、さっそく商売気を出して言った。
永久機関となれぱ特ダネだ。
――これで、猫又ジャーナルの売り上げも……。
「できたら、記事に、したいんですけど」
「いいわよ」
みのりは、マントルピースの上を、指しながら、言った。
「ほら。あれよ」
山下は、みのりの指さす方向を勢いこんでふり返った。
大理石の立派なマントルピース。
トロフィーだの、根性と書いてある東京タワーのおみやげだの、故篤胤博士の写真だのが、ごちゃごちゃと置いてある。
その中に、永久機関も並べられていた。
永久機関は、ガラス製で、鳥の恰好をしていた。
頭にシルクハヅトなんか、かぶっている。
細い首。
下のふくらんだ部分に、きれいな緑色の液体が入っていた。
永久機関は、しばらくの間、ゆっくりと体を揺らしていたが、やがて、前に、こつんと倒れた。
水の入ったコッブに、くちぱしが触れる。
とたんに、永久機関は、元に戻って、またゆらゆらと揺れ始めた。
透明な、ガラスの管の中を、緑色の液体が、ゆっくりと昇っていく。
それに従って、永久機関の振幅は大きくなっていき……。
こつん。
前に倒れる。
元に戻る。
また、揺れ始める。
たしかに、永久機関だった。
「なつかしいですね−、平和鳥じゃないですか」
と、サトルが、言った。
「昔、流行ったんですよねi、これ。うちにも、ひとつありましたもん」
「あら、まだ売ってんのよお。――王様のアイデア行くと」
「へ−、買ってこよ−かなー」
「あと、アメリカン・クラッカーとか」
「あったあった。あの、玉が二つくっついてカチカチ鳴らす」
「そう!」
「あれ、得意だったんですよォ」
「あたしもー」
と、思わず、古い話題で盛りあがっている二人をよそに、山下はひとり点目であった。
「あのー……。みのりさん?」
「なーに、山下さん」
「本当に、あれで合格したんですか?」
「そうよ」
みのりは、大きくうなずいた。
「あたしは、<首振り鳥型永久機関一号>と名付けたわ」
いぱりっ。
みのりは、胸を張ってみせた。
山下は、心なしか疲れたような顔で、言った。
「なるほど」
「写真とって、いいわよ。――インタヴューもする?」
と、明るく訊ねるみのりであった。
「え?」
山下は、いきなり窮地に陥った。
「いや、あの、その……」
冷や汗かきながら、うまい口実を探す山下に、サトルが、
「先輩〜〜。みのりさんは、今、レポートで忙しいんですから。――あんまり、邪魔しちゃ悪いですよ」
「サトルッ!」
山下は、大声を出した。
びくっ。
サトルが、体を硬直させた。
山下は、サトルの手をとらんばかりにして、
「よくぞ言った!――おまえも、七十六年に一度くらいは、いいことを言うじゃないか」
「ぼくは、ハレー彗星ですか?」
「まあ、気にするな」
山下は、はっはっはと笑った。
「とにかく、みのりさんはレポートで忙しいんだから、我々も、そろそろ引きあげるか……」
「あら。あたしなら、平気よ」
と、みのりは、言った。
「それに、今日来てもらったのは、山下さんたちに、ちょっと手伝ってもらおうと思って」
「手侯うって……」
「不老不死の実験を……?」
「そう」
山下とサトルは、思わず顔を見合わせた。
かつて、電送実験に付き合わされた時のことが、克明に思い出された。
「あ、あの……」
「みのりさん……?」
「なーに?」
「まさか……、この紅茶……?」
「え?」
みのりは、きょとんとしている。
「それ、ダージリソだけど。――アッサムの方がよかった?」
「いや。そうじゃなくてI」
山下は、いやな予感というやつに、全身をさいなまれながら、言った。
「まさか、この紅茶に、不老不死の薬が入ってる……、なんてことは、ないですよね?」
「山下さん!」
「はい」
「サトルさん!」
「は、はいっ」
「あたしが、そんな人間に見えるの?」
「いや、別に……」
「そう言うわけじゃ……」
しどろもどろになってる二人を、きっぱり睨みつけて、みのりは、言った。
「紅茶に薬だなんて、あたしが、そんなことする訳ないでしょ。――入れたのは、ナポレオン・パイの方よ」
「ええ!?」
二人は、同時に口をおさえた。
山下たちにしたって、不老不死が嫌なわけではない。
問題は、実験の方だ。
例えば、薬のセールスマンに、
『さあ、これで、あなたは不老不死になりました。――このビルの屋上から飛び降りて、効果のほどを、お試し下さい』
と、言われて、素直に飛び降りる人間が、いったい何人いるだろう?
思わず、青ざめている二人に、みのりが笑いながら、言った。
「やーね。本気にしたの?――冗談よ。じょおだん」
「え?」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
山下たちは、安堵のため息を吐き出した。
みのりが、笑いを含んだ声で、言った。
「だって、山下さんたら、あんた失礼たこと言うんですもん。ちよっと、驚かしてみただけ」
「いや、面日ない」
山下は頭をかいた。
サトルが、言った。
「でも、みのりさん。――それじゃ、ぼくたち、何を手伝うんですか?」
「試してもらいたいのよ」
「試すって、何を……?」
「本当に、不老不死になったかどうか」
「はあ……」
「お願いできる?」
みのりは、それは可愛らしく、にっこりしてみせた。
当然のことながら。
二人に、断わりきれる筈がなかった。
「こっちよ」
みのりが、二人を実験室の方へ、案内している時――
『オ嬢サマ』
「あら、アレックス。――なに?」
『しゃけノ切リ身ガ、ドコカヘ行ツテシマツタソデスガ、知リマセンカ?』
エブロン姿のアレックスが、魚焼き網片手に、台所から出てきた。
「シャケの切り身? 知らないわよ」
『オカシイナー。めんたいこモ、ナインデスヨ』
「そーお? もっと、よく捜してみたら?――うちの冷蔵庫、広いから。どっか、すみの方に落ちてんのよ」
『ハア……』
アレックスは、首をかしげながら、台所に戻って行った。
『タシカ、てーぶるノ上二、出シテオイタ筈ナソダガ…』
ぶつぶつ言ってる声が、聞こえた。
「さ。急いで急いで」
みのりは、妙にあわてて、実験室に山下たちを追い立てた。
「ど、どーしたんです、みのりさん」
「い−から、いーから」
「アレックスの言ってた、シャケの切り身って……?」
「いーから、いーから」
実験室に入ると、みのりは、しっかり鍵をかげた。
「?」
「?」
思わず、顔なんか見合わせてる、山下とサトル。
「さあ。見てちょうだい」
みのりは、二人を、中央の机に導いた。
二つ並んだ皿の上に、シャケの切り身とメソタイコが、仲良く置いてあった。
みのりは、言った。
「これが、不老不死のシャケの切り身。――でもって、こっちが、不老不死のメンタイコ」
「どうしたの? 二人とも、ぼんやりしちゃって?」
と、みのりは、言った。
「あ。――もちろん、このことは、アレツクスに内緒よ?」
「あ、あのお……、みのりさん?」
「なーに? 山下さん」
「ひとつ聞いていいですか?」
「どーぞ?」
「シャケの切り身って、あれ、生きてんですか?」
「なかなか、鋭い質問だわ」
みのりは、腕組みなんかして、重々しくうなずいてみせた。
「普通・あんな風にバラバラにされたら、生きてるのは、ちよつと難しいかも知れないわね」
「ぼくも、そう思います」
「あら。意見が合うじゃない」
「ええ。――ただ、もともと生きてないものが、どうやつたら不老不死になれるのかなって、ふと疑問に思ったもんですから」
「そこがポイントよ」
みのりは、指の先で空中の一点を、つっつく真似をしながら、言った。
「あたしの不老不死剤は、それが、生きてるものだろうと、死んだものだろうと、おかまいなしに、不老不死にしちゃうって言う、画期的な新薬なの」
「死んでるものでも、不老不死になるんですか?」
「生物だろうと無生物だろうと、委細かまわず不老不死にしちゃうの」
「たしかに、それは画期的ですね」
「でしょう?」
と、みのりは、さすがに嬉しそうに、うなずき返した。
「それに、シャケの切り身なら、もともと死んでたものだし、万一、実験に失敗して殺しちゃっても、あまり心が痛まないって利点もあるわけ」
「まあ。いっも焼いて食ってるもんですからねー」
と、山下。
「ねえ、みのりさん?」
興味深そうに、しげしげとシャケの切り身を見つめていたサトル、が、顔をあげて、言った。
「この、不老不死のシャケの切り身、焼いて食べたら、どうなるんですか? やっぱり、消化するんですか?」
「さあ……?」
みのりは、小首をかしげた。
「なにしろ、不老不死のシャケの切り身を焼いて食べた人って、今までに一人もいなかったから、ちょっとわかんないわね−」
「そーか一」
サトルは、やけに残念そうな声を出した。
「どーしたの、サトルさん?」
「いや。その場合、薬の効果って、どこまで続くのかなって、ちょっと気になったもんで」
「どういうこと?」
「あ。つまり、翌朝の問題ですね」
「?」
みのりは、けげんた表晴で、サトルを見つめた。
山下が、言った。
「サトル。おまえ、それ以上喋ってみろ。ロン中に、ワイヤーブラシ突っこむぞ」
「え?――だって、先輩。不思議に思いませんか?次の朝、トイレで、黄色い奴が、うねうね動いてるんじゃたいか……とか」
「うるさい」
「なんか、考えると、夜も寝られなくなりそうですよ」
「おまえは、黙ってろ」
「はあ……」
サトル、はしぶしぶ口をつぐんだ。
――不老不死のシャケの切り身なら、ウ○コになったって、やっぱちり不老不死だと思うけどなあ……。
小声で、ぶつぶつ眩くサトルであった。
山下は、サトルを完全に無視して、言った。
「じゃあ、みのりさん。――その、実験ってやつを始めましょうか?」
「いいわよ」
みのりは、机の上にあった、クリップポードとボールベソを手にして、うなずいてみせた。
「まずは、落下テストね」
「落下テスト?」
「そう」
みのりは、別の棚から、お皿を、もう一組持ってきて、テーブルに並べて置いた。
「こっちは、不老不死剤をかけてないシャケの切り身と、メンタイコ」
「つまり、死んでる方ですね?」
「そう。――この二つを、それぞれ一メートルの高さから落としてみて、その差を比較するの」
「なるほど。これは科学的だ」
山下は、大いに感心した。
そして、実験が開始された。
落下テストでは、差異は認められなかった。
不老不死のメンタイコも、死んだメンタイコも、どちらも、べちゃっと床に落ちただけだ。
「ふ−む」
みのりは、真面目な顔つぎで、クリップボードに何やら書きこんだ。
「じゃあ、次は、反射神経のテスト」
シャケの切り身に、反射神経があるとは、思えなかったが、そーゆーことには一切こだわらないみのりであった。
反射神経のテストは、光の点がある位置に来た時、ボタンを押す速さで、得点がでるようにたっている、簡単な装置によって行なわれた。
その結果。
不老不死のシャケの切り身0点。
死んだシャケの切り身0点。
不老不死のメンタイコO点。
死んたメンタイコ0点。
「かわりばえしない成績ねー」
「ボタンを押すって所が、まずかったんじゃないですかねえ」
「でも、今度は、大丈夫よ」
「なんです?」
「耐久力テスト」
「なんとなく、メンタイコって、耐久力ありそうですねー」
「シャケの切り身は、ちょっと不利ね」
耐久カテストは、屋外で行なわれた。
まず、それぞれのシャケの切り身とメンタイコに、一分間、反復横飛びをしてもらう。
その後、脈はくと血圧を測定して、回復力、消耗度などを、総合的に判定するのである。
データ解析には、最新式のコソピュータが使用された。
その結果。
「どうですか、みのりさん。――何か、わかりましたか?」
真剣な目つきで、コンピュータのブリソトアウトを見つめているみのりに、山下が声をかげた。
「今度こそ、ちがいが出たでしょう?」
「わかったことが、二つあるわ」
と、みのりは、言った。
「ひとつは、シャケの切り身は、夏復横飛びが、あまり得意じゃないってこと」
「なるほど。――もうひとつは?」
「メンタイコには、脈がないってこと」
「そいつは盲点でしたね」
「うかつだったわ」
次いで、百メートル競走が行たわれた。
そして、風洞実験。
空気低抗が測定され、食べ物の好き嫌いがアソケートされた。
知能テストでは、両考とも、|惨鱈≪さんたん≫たる結果に終った。
深層心理を探るために、ロールシャヅハ・テストも行たわれた。
「これが、何に見えますか?」
みのりが、訊ねた。
シャケの切り身は、何も言わなかった。
メソタイコも、何も一言口わなかった。
みのりは、クリップボードに、
『無口な性格』
と、書いた。
弾力テスト。
硬度テスト。
ペーハー測定。
放射能測定。
同位元素による年代測定。
衝撃テスト。
耐水テスト。
常軌を逸した各種の実験が、次々とくりひろげられた。
不老不死のシャケの切り身とメンタイコは、それらのテストに、実によく耐えた。
ひとたび不老不死になってしまえぱ、たいていのことは、雑作もたく耐えられるものだ。
数十種にもおよぶテストの結果、不老不死剤を使ったものの方が、全体に『いきがいい』というデータがまとめられた。
もちろん、それは、みのりたちの先入観念(不老不死なんだから、いきがいいはずだ。だって、現に生きてるんだもん)が、大いに作用していたことも、いなめない。
そのような、客観データに乏しいレポートを、マクドナルド博士が、認めるとは思えなかった。
そこで。
最後の実験が行われることになった。
試食テストである。
「どーして、こーゆー役は、ぼくぱっかりなんですかァ?」
サトルが、世にも情ない顔つきで、ぼやいた。
首に、ナブキソはさみこみ、テーブルの前に座っているところは、とんだお子様ランチである。
サトルの前には、不老不死のシャケの切り身と、不老不死のメソタイコが、並んで置いてあった。
「なに言ってんだ、サトル」
と、山下が、言った。
「その役を志願したのは、おまえじゃないか」
「ぼく、そんなこと言いませんでしたよォ」
サトルは、泣き声を出した。
「言うわけないじゃないですかァ」
「嘘をつくと、エンマ様に舌を抜かれるんだぞ」
山下が、ハードボイルドに、決めつけた。
「不老不死のシャケの切り身を焼いて食べたら、次の朝、どんなシロモノが出てくるのか、一番知りたがっていたのは、おまえじゃないか」
「うっ……」
サトルは、言葉につまった。
そして、さんざ考えた末に、こう言った。
「あの、じゃあ、せめて、焼くとか煮るとかしてもらえませんか?」
「ごめんなさい」
みのりは、本当に申し訳なさそうに、言った。
「今、台所、アレックスが使ってるの。――食べ物を、こんな実験に使ったなんて知ったら、カンカンになって怒るわ。ロボットのくせに、グルメだから」
「大丈夫だよ」
山下は、なぐさめ顔で言った。
「生で食ったって、食中毒こなることだげはない。おれが保証してやる」
「シャケの方は、あとで、あたしが焼いて来るから。とリあえず、メンタイコの方から、いってみてくれる?」
「はあ……」
サトルは、ナイフとフォークを手に、ため息をついた。
不老不死のメンタイコは、なんとなく不気味だった。
もちろん、いっも食べてるメンタィコと、外見上は何ら変りはないのである。
メンタイコを、たきたて御飯の上にのつけて食べると、こんなうまいものはない。酒の肴にするも良しスパゲティと混ぜるのもよし。
サトルも、大好物の筈だ。
しかし、不老不死のメンタイコとなると、さすがに悪食のサトルも、二の足を踏むようであった。
「あのオ、みのりさん……?」
サトルは、おそるおそる訊ねた。
「これ食べて、一ぼくまで、不老不死になつちやうってことは、ないでしょうね?」
「あたしも、それが知りたくって」
と、みのりは、言った。
「不老不死のメンタイコを食べた人問も不老不死になるか?――うん。なかなか、いいテーマだわ」
「でも、ぼく、ためしに、ビルから飛びおりるなんて、あまり気がすすまないなあ……」
と、サトルも、色々と不平の多いやつである。
山下が言った。
「心配するな。――首を吊ってみるという手もある」
「でも、本当に死んだら、どうすんですか」
「立派に葬式を出してやるよ」
「先輩。前にも、それと同じこと言いませんでしたか?」
「いいから、早く食え。――客をなんだと思ってるんだ」
と、すっかり見物人気取りの山下。
クリッブボード抱えて、けなげに科学者してる、みのり。
この二人に見つめられ、いよいよサトルは窮地に陥った。
「わかりました」
サトルは、きっぱり、うなずいた。
「ぼくも、男です」
「よっ、すごいっ」
山下が、軽薄なかけ声をかけた。
割れんばかりの拍手である。
サトルは緊張した顔で、メンタイコを見つめた。
ごくり。
ひとつ唾なんぞも呑みこんでみる。
ナイフとフォークを構えた。
心なしか、その先端は、震えているようだ。
サトルは、やけくそになって言った。
「いただきまーす」
そして、フォークを、思いっきり、メンタイコに突き刺した。
たまったものではない。
メンタイコは、ぎゃっと叫んで飛びあがると、目にもととまらぬ速さで、テープルから逃げ出した。
山下は、音見た〈エイリアン〉という映画の一場面を、ふと思い出したものだ。
メソンタイコは、あっという間に、どこかの物陰に姿を消した。
みのりは、クリップポードに、ポールペンを走らせた。
『不老不死のメンタイコには、食べられるという事に対するアレルギーがある』
目も口も、まん丸にして、空っぽの皿を荘然と見つめているサトルに、
「じゃ、次、シャケの切り身、いってみて」
サトルは、機械的にうなずいて、フォークをシャケの切り身に伸ばした。
シャケの切り身は、思いの他、過激な性格らしかった。
皿の上から、三十センチぱかり飛びあがると、その平べったい体をフルに活用Lて、サトルの横っ面を、思いっきり張り倒したのである。
ぱしっ!
鋭い音がした。
ベベベベベベペっっ!!
強烈な往復ビンタであった。
サトルは、思わずフォークを取り落とした。
犬福みたいな頬っぺたを、両手でしっかりとおさえる。
その隙に、シャケの切り身は、悠々と逃げ去った。
みのりは、クリップボードに、
『暴力癖あり』
と書いた。
そして、今までのデータを、改めて、見直してみた。
その結果。
「なにもわからない・・・・・・」
みのりは、頭をかかえた。
「ああ〜〜っ。なにがなんだか、わからないのよお〜〜」
「昔、クレイジー・キャッツというパンドがありまして」
と、山下が、言った。
「彼らの『何が何だかわからないのよ』という曲が、ぼくは好きでした」
空ろな口調だった。
空ろな目をしていた。
空ろな表情で、山下は続けた。
「その曲の中に、〈ゴリガン一発、生きぬこう〉という歌詞がありまして、ぼくは、幼な心に――ゴリガンって一体なんだろうと、不思議に思ったものでした」
「山下さん…・・・?」
みのりは、直立不動で告白している山下の目の前で、片手をひらひら動かした。
反応がなかった。
サトルはと見ると、両手で頬っぺたをおさえたまま、これまた空ろな視線を宙に放って、
「殴られた…・・・。シャケの切り身に、殴られてしまった・・・…」
と、ぶつぶつ言っている。
二人とも、当分の問、使い物になりそうになかった。
「しょ-がないわねー」
みのりは、ため息をついた。
それから、手元のクリップボードに、ちらりと目を落として、もう一度、ため息。
「とにかく、これじゃ、どーしよーもないわ。――早いとこ、あの二匹を見つけて、実験をやり直さなきゃ……」
みのりは、実験室の中を、あちこち探し回った。
「もう、いじめたりしたいから、出てらっしゃい」
しかし。
シャケの切り身も、メンタイコも、どこにもいなかった。
みのりに見つけることが出来たのは、ぶ厚いマホガニーの扉を、メンタイコが喰い破った穴と、一通の書き置きだけだった。
書き置きには、下手くそな字で、こう書いてあった。
『もう、いやだ』
さすがに忍耐強いメンタイコとは言え、たび重なる実験に、すっかり嫌気がさしたらしい。
シャケの切り身と、手に手をとって、豪田篤胤科学研究所を、脱走したのであった。
みのりは、書き置きを手に、茫然とつぶやいた。
「ガチョーン」
十日後。
レポートが不可になって、落ちこんでいると言うみのりを励ますために、山下とサトルは、フレーバーティ・セットをおみやげに、豪田篤胤科学研究所を訪ねた。
世の中は、すっかり初夏の雰囲気だった。
「元気を出して下さいよ、みのりさん」
山下が言った。
「また、この次、がんぱれぽいいじゃないですか」
「そーですよ、みのりさん」
と、サトルも、大きくうなずいた。
「あれは、みのりさんの責任じゃありませんよ。――素材の性格が良くなかったんです」
「そうそう。――北海道と九州だもんな。生まれも育ちも違いすぎる。この次は、もっとおとなしい物で、実験すれぼ、いいんですよ。――たとえぼ、羊肉のカソヅメとか」
「ウィンナー・ソーセージとか」
「ソーメンとか」
「ガンモドキとか」
「コンニャクとか」
「大根とか」
「厚揚げとか」
「不老不死のカマボコなんて、いいんじゃないですか? 板にくっついているから、逃げたりしないでしょうし」
「いやー。ペットにするたら、やっぱりチクワだぜ」
「粋ですねー」
「江戸っ子だい」
山下は、思わず胸を張ってみせた。
「ありがとう、二人とも」
みのりは、ぎこちなく徴笑んだ。
「なんだか、また、ファイトが湧いてきたわ」
「そうそう。その意気ですよ、みのりさん」
サトルは、にこにこしながら、言った。
「一度や二度の失敗。どってことありませんよ。――ぼくだって、大学三回も落ちたんですから」
「馬鹿。――そんなことが自慢になるか」
「なるほど」
「ところで、みのりさん。――その後、あの二匹は見つかったんですか?」
「ううん」
みのりは、首を振って、言った。
「家の中は、もちろん、御近所まで探してみたんだけど、どこにもいないのよL
「どこ行ったんですかね」
「さあ…・・・」
みのりは、ちょっぴり心配そうな表情にたった。
山下が、あわてて、言った。
「でも、ほら、なんたって不老不死でしょ。――少なくとも、どこかで生きてることだけは、まちがいありませんよ」
「でも、不老不死だって、やっぱり、お腹はすくと思うのよ」
「はあ……」
「ちゃんと、食べてればいいんだけど・・・・・・」
「そーだ」
サトルが、ぽんと手を打って、言った。
「ぼくに、いい考えがありますよ」
「え? なに?」
「猫又ジャーナルに、訊ね人の広告を出すんです」
「訊ね人ってことは、ないだろう」
「いや、だから、<私の可愛がっていたシャケの切り身とメンタイコが、どこかへ行ってしまいました。お心あたりの方は、○○まで・・・・・・>っていう、例のノリですよ。――横に顔写真なんかも載っけて」
「ああ。――そりゃあ、いいかも知れんな」
と、山下は、うなずいた。
「だけど、シャケもメンタイコも、どっちも海のもんだろ? 今ごろ、海に行ってるんじゃないかと、おれは、思うんだ」
「はあ……」
「昔、『泳げ!たいやきくん』って歌があってな。――やっぽり、海へ戻って行くってストーリーだった」
「なるほど。これは説得力がありますね」
「あっ。そーだ!」
みのりが、ふと思い出したように、叫んだ。
「ねえ、山下さん。――あたし、ひとつだけ訊きたいことがあったんだけど?」
「なんです?」
「ゴリガンって、なに?」
一方、そのころ――
新宿歌舞伎町に住む、主婦A子さん(36)は、野良犬に混じってゴミ箱をあさっている、異様な生物を目撃して、思わず悲鳴をあげていた。
栄養豊富な残飯のおかげで、すっかり大きくなった、シャケの切り身とメンタイコの姿であった。
みのりたぢの心配など、どこ吹く風。
二匹は、立派に野性化していたのである。
めでたし、めでたし。
06 なんてったって仏滅
「納豆・・・・・・?」
と山下は言った。
思わず、『けげん〜?』って顔つきだ。
「納豆って、あの納豆ですか?」
と、これはサトル。
「そう。あの納豆」
とみのり。
例によって、豪田篤胤科学研究所の応接室である。
サトルは、言った。
「じゃあ、ひょっとして、刻みネギとおかかと芥子とお醤油かけて、かきまわすと糸をひいて、人によっては生卵なんかも入れたりするけど、関西の人には、あまりなじみのない、伝統的な大豆の加工食品の一種であるところの……、あの納豆?」
「そう。ずいぶん説明的なセリフだけど――あの納豆」
「うーむ」
サトルは、柄にもなく、何事か考え込む表情になった。
そして、顔をあげると、しつこく念を押した。
「すると、つまり、植物性蛋白質が豊富で、ひき割ってあるのとないのがあって、水戸が名産で、最近じゃ、納豆オムレツとか納豆スパゲティとか納豆ハンバーグとか納豆グラタンとか納豆サラダとか納豆のキャベツ包みトリュフ・ソースがけとかもあったりする・・・・・・、あの、納豆ですね?」
「そう。ちょっとくどいような気もするけど――あの、納豆。サトルさん、納豆きらい?」
「いえ。好きですけどね…・・・。そーかー、やっぱり、あの、納豆なのかー」
サトルは、半口開けて、しきりとうなずいている。
みのりが言った。
「ナットウ(ク)した?」
「納得しました」
三十秒後。
サトルは叫んだ。
「あっ。今のシャレだったんですか?!」
「・・・・・・・・・」 みのり。
「・・・・・・・・・」 山下。
「そーかーっ。気がつかなかったなあ。納豆と納得。うーん、こいつは盲点だった。――いや、ぼくもね、こうやって合図してもらえれば、すぐに『あ、これはシャレなんだから・笑わなきゃいけないな」って判ったんですけどねー」
サトルは、右の拳を額のあたりに当てる仕草をしてみせた。(ほんっとに、体だけは大事にして下さい)
山下とみのりは、ひとりで騒いでいるサトルを無視して、話を進めることにした。
山下は言った。
「とゆーわけで、つまり、問題は納豆である・・・…と」
「そう、納豆。――ちなみに、その実物ってのが、これなんだけどォ」
みのりは、テーブルの上に、赤絵の小鉢をひとつ置いた。
「どれどれ」
山下が、興味深げにのぞきこむ。
小鉢の底に、ちんまり盛られている淡褐色の物体――まごうことなき、それは納豆!!
表面に散らした分葱の緑が美しい。
「普通の納豆ですね。見たところ」
「味も香りも変らない筈よ」
「でも、実はこれが・・・・・・?」
「そう」
みのりは、厳粛な面持ちで、うなずいた。
そして、言った。
「仏減菌」
○簡単た納豆の作り方。
水をよく吸わせた白大豆を煮ます。
それを、ワラにくるんで、約40℃の環境(電気釜の中とか)に置いて発酵を待ちます。
ねぱねばしてきたら、ハイ出来あがり!
「どーしても、納豆が食べたかったのと〜〜っ」
と、みのりは必死で言い訳した。
「だけど、ご近所のマーケットで、その日にかぎって納豆が品切れだったの〜〜」
「だから、瞬間納豆製造機を作った、と」
ふむふむ。
山下は、メモなんか取りながら、しかつめらしくうなずいている。
「しかし、一日ぐらい待てなかったんですか?――あるいは、別の店を探してみるとか、他に方法があったでしょう」
「だって、そんなことしてたら、ご飯がさめちゃうじゃない。納豆は、炊きたてのあったかいご飯と食べるのが、一番おいしいのよ」
「いや。そりゃ、わかりますがね」
と、山下は、言った。
――しかし、他の店探すより、瞬問納豆製造機なるものを、いきなり作ってしまう方が、時間の節約になるってのは、ほとんど凄いよなー。さすが、ちゃきちゃきのマッドサイエンティストだけのことはある。
山下は、手帳をパタンと閉じて、結論を出した。
「つまり納豆が急に食べたくたったので、瞬間納豆製造機を作ったら、納豆じゃなくて、仏減菌か出来てしまった、と」
「そーなの。――どうも、発酵のプロセスを加速するのに使った、特殊放射線がまずかったみたい。ワラに付いてた納豆菌が、突然変異を起こしちゃったらしいのよー」
「それで仏減菌」
「そう」
「しかし、なんですねー、先輩」
サトルが、気楽な声で、言った。
「特殊放射線ってのは、なんか懐しさを感じさせる言葉ですねー」
「勝手に懐しがってろ」
「はあ」
「念のために、調べてみてよかったわー」
と、みのりが、しみじみとした口調で、言った。
「さもなきゃ、うっかり仏滅菌つきの納豆を、食べちゃうところだったもの」
「食べると、どうなるんですか?」
と、サトルが身を乗り出した。
「なんなら、試食させてやろうか〜〜?」
山下が、サトルを横目でみながら、陰気な声で言った。
「試食は、こないだの一件で、こりました」
「そーかー? 遠慮するこたーねーんだぞ?」
「いえいえ」
「じゃ、少し黙ってろ」
「はあ」
「とにかくねー」
みのりが、言った。
「仏減菌を食べると、よーするに毎日が仏減になっちゃうのよ」
「名前を聞いた時から、おおよその見当はついてました」
「でしょ?」
「だげど、みのりさん。仏減になるって、具体的には、どういう・・・・・・?」
「あっ。わかった!」
サトルが、大声を出した。
「体が、納豆みたくネパネパになるんでしょう?――怪奇納豆人間!」
とたんに、山下が剣突≪けんつく≫を食わした。
「おまえは、あっちの隅で、林家三平の物真似でもやってろっ!!」
「はあ」
サトルは、素直にあっちの隅へ行った。
そして、小声で物真似を始めた。
『おモチも入ってベタベタと、安くてどうもスミマセン』
その後ろ姿を、みのりが不思議そうに見つめている。
「気にしなくていいですよ」
と、山下が、言った。
「あいつは、時々、わけのわからんことを口走る病気があるんです」
「そう言えぽ、さっきも、納豆のキャベツ包みなんたらかんたらとか叫んでたけど…・・・?」
「ああ。――あれは、こないだ取材で行った、猫麻布の料亭のメイン・ディッシュ」
「えーっ。最近の料亭って、そんなもの出すの? エグそー」
「ヌーベル・キュイジーヌ・ジャポネーズってやつでしてね、フランス料理と懐石料理の悪いところだけを寄せ集めたみたいな、まあ、そーゆーシロモノです」
山下は、その時の味を思い出したのだろう。なんとなく顔をしかめながら、言った。
「そんなことより、この仏滅菌ですけどねー」
「うん。だから、仏滅菌ってのは、マイナスの不確定要素だけを選択的に体内に取り込んじゃう性質があるわけよ」
「マイナスの不確定要素?」
「わかりやすく言えば、幸運って呼ばれているものの逆の要素ね」
「つまり・・・・・・、運が悪いとか?」
「ツキがないとか」
「はあ。なるほど・・・…」
山下は、あいまいな表情で、うなずいた。
ふと首をかしげて、
「しかし、そんなもの、体内に取り込んだりできるんですか?」
「物質とは違うから、普通はできない筈なんだけど、仏滅菌は委細かまわず取り込んじゃうみたいね」
「無暴な細菌ですね」
「ほんとよねー」
二人は、互いの顔を見合わせて、しみじみとうなずきあった。
そこへ、サトルがやって来て、ひと言。
「不運の糸ひく仏減納豆」
それだけ言うと、サトルは、またあっちの隅へ行つて、今度は藤山寛実の物真似を始めた。
『あのね、お父さん』
「なに、あれ〕・」
「はっときゃいーんです。――それより、みのりさん、この仏減菌どうするつもりです?」
「それが問題なのよねー」
みのりは、ため息をついた。
「下手に捨てるわげにもいかないし」
「そりゃそーですよ。万一、誰かに感染したら、えらい騒ぎですよ。――だって、ツキがないという要素が、どんどん体の中にたまってっちゃうわけでしょ?」
「だから、毎日が仏減」
「仏減どころの話じゃないですよ」
「でしょーねえ」
山下は、頭の中で、<無限大のツキのなさ>というものを想像してみた。全ての確率が裏目に出る人問。――これ以上、悲惨な状況が他にあるだろうか? 山下は、自間した。
答えはすぐに出た。
ある。
人類という種は一切のツキから見放されて、死滅することだろう。――あるいは、恐竜が絶滅した原因も、案外、こーゆーことだったのかも知れない。超新星爆発説だの、氷河期説だの、不妊説だの色々言われているが、恐竜は、単にツイてなかったのだ。いつの時代でも、どんな種族でも、ツイてないやつというのは、必ずいる。それが種全体に広がった時、地上から一つの生命形態が消え去るのだ。
山下は、事の重大さに、改めて気づいた。
そして、愕然とした。
「ど、ど、どーするんですか、みのりさん」
「どーするって言われてもねえ」
「ひょっとしたら、今、この瞬間が、人類にとって最大の危機かも知れないんですよ!」
「そーなの?」
みのりは、目を丸くした。
だめだ。わかってない。
山下は、絶望的な気分になった。
「焼くのが一番だと思うけど、納豆菌って、たしか熱にも強いのよねー」
みのりは、小首をかしげながら、相変らずのほほ〜〜んとした顔で、小鉢の中の仏減菌を眺めている。
人穎が減ぴた後で、次に文明を築くのが犬なのかゴキブリなのかは知らないが、とにかく、そいつらの考古学者も、どうして人類が減びたか、やっぱり疑間に思うだろう。
山下は、陰気に考えた。
――だけど、まさか、ひとりの女の子が、納豆がどーしても食べたかったから減びたとは、思いもよらないだろーなー。
「あははは」
山下は、うつろに笑った。
あっちの隅では、サトルが、花菱アチャコの物真似を始めていた。
サトルは、言った。
『ムチャクチャでござりましゅるがな』
「大丈夫よ。 まっかせといて」
みのりの明るい声に送られて、山下たちは豪田篤胤科学研究所を後にした。
暮れかかる猫ヶ丘。
――ほんとーに大丈夫なんだろうか?
山下は、不安におののいていた。
『柳亭痴楽は、いい男』
サトルは物真倒していた。
仏減菌の始末を、一体どうするのか?
結局、これといった結論は出なかった。
もちろん、みのりのことだ。その気になりさえすれぼ、仏減菌なんぞ、あっという問に片づけてしまうだろう。
しかし、山下は、湧きあがって来る不安感を、どうしても抑えることができなかった。
みのりは、まだ納豆を食べていない。
それが、山下の悲観論的な人生観を、チクチクと刺激した。
別れ際――
『大丈夫よ。まっかせといて」
の後で、たしかに、みのりは、こう言ったのだ。
『今度こそ、ちゃんとした納豆を作って見せるわ!』
(どど〜〜ん)
納豆作りに燃えるみのりの瞳の中には、仏減菌の存在など、かけらも見つけ出せなかった。
不安だった。
実にもう、不安だった。
山下は、坂の上を一度ふり返り、豪田篤胤科学研究所を見つめた。
そして、祈るような気持ちで、小さく眩いた。
「みのりさん。仏減菌のこと、忘れてなきゃいーんだけど」
もちろん、みのりは、きっぱり忘れていた。
今のみのりにとって、仏滅菌など、どーでもよかった。
それよりも、納豆だ。
今日こそ、納豆を食べるのだ。
山下たちを送り出した後で、みのりは、ただちに実験室にとって返した。
白衣を着こむと`、気分がひきしまった。
発酵のプロセスを加速する方法には、仏滅菌という副作用がある。
何か別の方法を考える必要があった。
「さー、どーしたもんかしらねー」
みのりは、寄り目になって、小首をかしげた。
近所の店で買って来るなどという、常叢的な艀決法は、思いつきもしなかった、
新方式による、瞬問納豆製造機MARK・U。
みのりの頭の中には、それしかなかったのである。
さて。
みのりが実験室に閉じこもって、うんうん捻っている頃――
物陰から、ひそかに豪田邸をうかがう、一人の男がいたと、お考え下さい。
世の中には、生れつき何をやっても、うまく行かない、やることなすこと、ことごとく裏目に出てしまうという、ツキのない人間ってのがいるものだが……。
この男が、実は、そうなのです。
オギャアと生れたその時に、産婆さんの手がすべって、タライの縁で頭を打ったのがケチのつき始めで、それ以来、すっかりツキというものから見放された人生。
道を歩けば、ビルから自殺者が降って来るわ、乗ろうとした電車のドアは、目の前で閉まるわ、試験のヤマは外れるわ、就職したらしたで、まさかという大会杜が倒産するわ、脱サラを志して始めた商売も上手く行かず、夜逃げした先のアパートが、その日の内に火事で丸焼けになるわ、やけくそになって、いっそ銀行強盗でもと思ったが、生来、気の小さい性格なので、デバ包丁を用意して出向いた銀行では、窓口の女の子のすすめを断わりきれずに、うっかり口座を開いてしまうという、ていたらく。
『このままじゃ、おれはダメになる!』
と、男は、考えた。
もう十分ダメになっていると思うが、とにかく男は考えた。
『いきなり、銀行強盗たんて、むつかしい仕事に手を出したのが、まちがいだった』
と。
『物事には順序というものがある。――やっぽり、ここは、一番簡単で楽そうな空巣狙いあたりから始めるべきだ』
と。
『人生は、一歩一歩の積み重ねが大切なんだ』
それが、男の口ぐせだった。
男は、九十九里浜の雄大な落日に向かって、かたく誓った。
『最初は空巣狙いだが、次は、釣り銭詐欺だ!!』
立派な向上心と言えよう。
そして、今日が、男の記念すべき初仕事なのであった。
男は、それなりに研究熱心だったし、自分が他人≪ひと≫より少しばかりツイてない人間だという事も、おぼろげながら理解していた。
初仕事で、警察の独身寮に入ったりしたら、それこそ目もあてられない。
だから、下調べだけは入念にやった。
その結果、男は豪田篤肩科学研究所を選んだ。(よりによって)
十八くらいの女の子の一人暮らし。
これは狙い目だった。
家も大きいし、お金もありそうだ。
万一、見つかったとしても、相手は小娘ひとり。なんとかたる。
男は、あたりをきょろきょろと見回した。
人通りのないことを確かめて、道路を渡る。
何気ないふりをよそおいながら、男は鉄製の門扉に手をかけた。
鍵は、かかっていない。
それは、玄関の方も同様だった。
ノブをひねると、ドアは、あっけなく開いた。
――なんてツイてるんだ。
男は、思わず感動した。
こんな経験は、生れて初めてのことだった。
――ひょっとしたら、空巣狙いこそが、おれの天職だったのかもしれない。
立派に勘違いしながら、男は、建物の奥に向かって声をかけた。
「ごめん下さーい」
誰か出てくるようたら、道を訊ねるふりをして、ごまかすつもりだった。
しかし、建物は、しんと静まり返ったままだ。
――ますますツイてる。
男は、にんまりとほくそ笑んだ。
「誰かいませんかー? 玄関が開きっぽなしで、ぶっそうですよ? 泥棒が入ったって知りませんからね。いいんですか? 入りますよ?」
返事はない。
つまり、入ってもいいってことだ。
「誰も、入っちゃいけないとは言わなかったもんな」
男は、自分自身に言い訳しながら、靴を脱いだ。
爪先を外に向けて、きちんと揃える。
抜き足、差し足。
廊下のとっつきにある扉を、細目に開けた。
どうやら、応接室のようだ。
無人、である。
動くものと言えば、マントルピースの上に置かれた平和鳥だけ。
天井近くには、額に入った爺さまの写真が飾ってあった。天本英世に良く似ていた。
革張りのソファにテーブルのセット。
洋酒の並んだキャビネット。
ごく普通の、どこにでもあるようた応接室だった。ただひとつ、ある場違いな物体を除けば…・・・。
「なんだい、こりゃ」
男は、テーブルの上で自己主張している小鉢を、首をのばして、のぞきこんだ。.
男の顔に、けげんな表情が浮かぶ。
「納豆だ…・・・」
と、男は呟いた。
なんだか、自信なげな口調だった。
男は、小鉢を手に取って、匂いをかいでみた。
まちがいなく、納豆だった。
「なんで、こんなところに納豆が置いてあるんだ?」
男は、自問した。
もちろん、答えが見つかる筈はなかった。
――ここん家≪ち≫じゃ、応接室で飯を食うのかな?
それにしても、納豆だけというのも、妙な話だ。ご飯やみそしるやおしんこは、どうしたんだろう?
男は、もう一度、手の中の納豆に視線を落とした。
うまそうな納豆だった。
そう思ったとたん、男は自分が、ひどく空腹であることに気がついた。
なけなしの金をはたいて、銀行に口座を作ってしまったせいで、昨日から何も食べていないのだ。
男は、納豆の小鉢を大事そうに抱えたまま、あたりを見回した。
――台所はどこだろう?
この瞬間――
男の運命は決まった。
「あー。おなかすいちゃったー」
みのりは、両手を上にあげて、うんと伸びをしながら、言った。
台所に顔を出すと、アレックスが、おむすびを作っているところだった。
「あ。おむすびだー。食べてもいい?」
『ソロソロ、出テラッシャル頃ダト、思ッテマシタヨ』
と、アレックスが、首だけ百八十度回して、言った。
『研究二熱心ナノハ結構デスガ、チャント御食事ヲ摂ラレマセント、体ヲコワシマスヨ。オ嬢サマ』
「う−ん。つい夢中になっちゃうのよねー」
みのりは、ダイニング・テーブルの椅子をひいて、そこに腰をかけた。
頬杖をついて、アレックスの後ろ姿を、ぼんやり眺める。
テーブルの上には、お茶碗だの小鉢だの箸だの汁碗だのが、まだ片づけられないまま残っていた。
みのりは、お新香をつまんで、口の中にほうりこみながら、言った。
「ねえ。誰か来てたの?」
『エエ。オ客サマガ』
「ふーん」
みのりは、興味のなさそうな顔で、言った。
「誰?」
『鈴木サン、トカ、オッシャヲテマシタ。――私ガ台所デ洗イモノシテルトキニ、オ見エニナリマシテ・・・・・・』
「へ−。鈴木さんねえ・・・…」
みのりは、小首をかしげて、呟いた。
「四丁目の鈴木さんかしら?」
『サア・・・・・・』
と、アレックスも首をひねった。
『ナンカ、道ヲ訊キタイトカ・・・…」
「道を訊きに来て、ご飯食べてくってのも珍らしいわね」
『ズイブン、遠慮ナサッテマシタヨ』
「ふーん。――鈴木さんねえ。誰かしら? あたし、人の名前とか覚えるのって苦手なのよね。顔見ればわかるんだげど…・・・。知らしてくれれぱよかったのにー、アレックス。――豪田の娘は、ひとが訪ねても挨拶もしないなんて言われたくないもの」
『イエ。私モ、何度カ勧メタンデスケド、邪魔シチャ悪イ、トカデ…・・・」
「へー。慎み深い人なんだ」
『ソノヨウデシタ』
「鈴木さん、ねえ……」
みのりは、も一度、首をひねった。
その時、アレソクスが、おむすびの皿を、みのりの前に置いたので、謎の来訪者の一件は、それっきりになった。
なんてったって食欲である。
『左カラ、オカカ、梅ボシ、しゃけ、たらこトナッテオリマス』
「わ−い」
みのりは、両手を合わせて、元気よく言った。
「いっただっきまーす」
一方、その頃。
鈴木某は、豪田邸から三十キロ離れた場所で、ゼエゼエ肩で息をしていた。
全速力で逃げて来たのだ。
「あー。びっくりした」
と、鈴木某は、言った。
「なんだったんだ、あの家は・・・・・・」
台所へ行くと、スヌーピーのエプロンをつけた、妙なロボットが皿を洗ってて・・・・・・。
鈴木某は、ぶるんと頭を振った。
あまり、思い出したくない経験だった。
「だけど、まあ、タダで飯が食えたんだから・・・・・・」
鈴木某は、そう言って、自分をなぐさめた。
金にはならなかったが、空巣狙いの初仕事としては、まずまず評価できる成果ではないだろう
か?
下手すれば、いきなり捕まってたかも知れたいのだ。
それを思えぱ、『ツイていた』と言ってもいいくらいだ。
「それに、あの納豆、けっこう美味かったもんなー」
(し)知らぬが仏
「さーて、これから、どうするかな」
鈴木某は、なんとなく、あたりを見回しながら、呟いた。
その瞬間――
ブレーキ故障を起こした十八輸の大型トレーラーが、鈴木某めがけて、まっすぐに突っこんできた。
鈴木は叫んだ。
「どええ〜〜っっ!!」
(い)犬も歩けぱ棒にあたる
気がつくと救急車の中だった。
「あんた大丈夫か?」
真上に、救急隊員の顔があった。
鈴木は、なんとか、うたずいた。
「いや−。あんた運がいいよ。あれだけの大事故に巻きこまれて、カスリ傷程度ですむなんて、奇跡みたいなもんだ」
「はあ・・・・・・」
ま、ひょっとして頭打ってるかもしれんから、念のために、病院で脳波の検査受けてもらうけどね。――しかし、本当に運がいい」
「そうですかねえ」
「そうだよお」
救急隊員は、きっぱり断言した。
次の瞬間――
運転手が、いきなりハンドルを切りそこなった。
つき上げるような衝撃が来た。
鈴木は叫んだ。
「どええ〜〜っっ!!」
(な)泣きっつらに蜂
気がつくと病院のベッドにいた。
「あら、目が醒めた?」
看護婦が、にっこり笑った。
片足を吊られ、体中、包帯でぐるぐる巻きにされた鈴木は、かすれ声で訊ねた。
「どうたったんだ?」
「救急車が事故ったのよ」
「事故った?」
「そう。コーナリソグの最中に、タイヤがバーストしたらしいわね」
「なんてこった・・・・・・」
「ま、たいしたことないから、安心して。――二、三ケ月も寝てれば、すぐ治るって、先生もおっしゃってらしたわ」
「二、三ケ月・・・…」
「じゃ、お大事にね。何かあったら枕元のボタンを押してちょうだい」
看護婦は、カルテを胸に抱いて出て行った。
――救急車も保険に入ってるのかな?
ひとりにたった鈴木は、天井を見上げながら、ぼんやりと考えた。
――まあ、とにかく、これで、しばらくの問は、食い物と寝る所の心配はしなくてすむわけだ。
ひょっとしたら、慰謝料だって取れるかもしれない・・・…。
出来そこないのミイラ男は、喉の奥でぐふぐふと笑った。
もちろん、鈴木は気づきさえしなかっただろう。
世の中には、死より悪いことが、いくらでもあり、あまりにも運の悪い人間には、その<死>という平安すら、簡単には手に入らないという真実に。
こうして寝ている間にも、鈴木の体内では仏滅菌が、どんどん繁殖を続け、マイナスの不確定要素をどんどんどんどん貯め込み続けている。
言い替えるならば、世界中の不運、悪運、ツキのなさという、もろもろの概念が、鈴木ひとりの体に集約されつつあるのだ。
鈴木が、世界一ツイていない人間と化すのは、もはや時間の間題であった。
翌朝――
人工衛星が病院に落っこちた。
「いやー。ひでー事故だよなー」
取材から帰って来た山下が、しみじみと言った。
「あれで、死者が出てないってのが、信じらんねーよ」
「ほんとですねー」
と、サトルが、うなずいた。
猫又ジャーナル編集部には、パイトの女の子が一人残っているだげだった。
「あ。編集長代理」
「おれ、いつまで代理なんだろう?」
山下は、ぶつくさと呟いた。
「まあ、いいや。――なんだい、絵美ちゃん?」
「あの。さっき、みのりさんて方から、お電話がありまして−−」
「へえ。なんだろう?」
「急用だって、おっしゃってましたよ」
山下とサトルは、互いに顔を見合わせた。
「急用?」
「ひょっとして、仏滅菌のことじゃ……」
山下は、壁にかかったホワイト・ボードに目をやった。
今日の予定は……?
「火村了の原稿取りか」
山下は、露骨に顔をしかめた。
――どーせ、まだ一枚も書いてないに決まっている。
「そー言えば、火村さんの奥さん、入院したそうですね」
と、サトルが、言った。
「なんでも、肝臓が悪くなったとかで・・・・・・」
「ほんとか、それ?」
「ええ」
「逃げるための口実じゃねーだろうーな?」
「いや。本当らしいです。こないだ、スーパーで買い物してる火村さん、見かけましたもん。大変みたいでしたよ。メシは作らにゃいかんわ、洗濯物はたまるわ、部屋は汚れるわ、しめ切りは迫るわで」
「今まで、さんざ原稿遅らして来たバチがあたったんだよ」
山下は、冷たく言い捨てた。
「まあ。たしかに火村さんは、自業自得ですけどね。――奥さんがかわいそうですよ」
「ひどく悪いのか?」
「いえ。ビールス性の軽い急性肝炎らしいです」
「じゃあ、あとでお見舞いに行かなきゃいかんな」
「そうですね。レカンでケーキでも買って」
「ああ」
山下は、そばでボーッとしている絵美に向き直って、言った。
「じゃ、絵美ちゃん。そーゆーわけだから。おれたち、ちょっと出てくるわ」
「は?」
「このフィルム、現像に回しといて」
と、これはサトル。
絵美は、押しつけられたフィルム・パックを茫然と見おろした。
「あのお?」
絵美は、顔をあげて、言った。
「そーゆーわけって、ど−ゆーわけなんでしょう?」
言うまでもないことだが、山下もサトルも、とっくに姿を消していた。
絵美は、ため息をついた。
「見て見て、ほら」
豪田篤胤科学研究所では、
「なんですか、これ」
と、サトル。
山下は、すでに、いやな予感というやつにさいなまれていた。
「瞬間納豆製造機MARK・U」
みのりは、威張って答えた。
「今度のは新方式なの。だから、納豆菌が突然変異を起こすこともないし、いつでもどこでも好きなだけ、出来たてのおいしい納豆が食べられるのよ。素晴らしいでしょ?」
「ひょっとして、みのりさん。――昨日から、ずっとこれ作ってたんですか?」
「徹夜よ、徹夜」
みのりは、ガッツポーズをしてみせた。
山下は、頭をかかえた。
「みのりさん?」
「はーい?」
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんでも聞いてちょうだい」
「仏滅菌はどうなったんです?」
「………」
みのりは、一瞬、沈黙した。
それから、急にケラケラ笑い出した。
「やーね、山下さん。大丈夫よ。――言ったでしょ? 新方式だって。もう仏滅菌の心配なんかしなくっても、安心して納豆が食ぺられるのよ」
「いや。そーゆー意味じゃなくて、つまりですね…・・・」
「わかったわ」
みのりは、きっぱりうなずいた。
「そこまで言うんなら、今、この場で実験してみましょ」
「あの、ちょっと、みのりさん……?」
「はい。ここに取りいだしたります、ひと握りの白大豆。タネも仕掛けもございません。よーくお確かめ下さい」
サトルが、山下の耳に、小声で囁いた。
(みのりさん。すっかり忘れてるみたいですね、先輩)
(ああ……)
(どうします?)
(とにかく最後までつき合うしかないだろ? 話は、その後だ)
と、山下は、口の端っこから、囁き返した。
(こうなったろ、もう止めようがない)
確かに、山下の言う通りだった。
「ほら、ちゃんと見てよー」
みのりが、口をとがらせた。
「あ。はいはい。――うん、こりゃあ、たしかに正真正銘の白大豆だ。それも、国内物のいいところだげを使ってある」
「粒がそろってるでしょ?」
「見事なもんです」
「この大豆を、こっちの口から入れて……と」
みのりは、瞬間納豆製造機MARK・Uのふたを開けて、そこに大豆をザラザラと落とし込んだ。
ふたを、きちんと閉める。
「これで、あとはスイッチを入れるだけ。――こっちの出口から、すっかり出来あがった納豆が出てくるから、ここんとこにお皿を置いて、セット完了!」
みのりは、ぱんと手を叩いた。
サトルが訊ねた。
「どーゆー仕組みになってんですか?」
「ひと言で言えぼ、この中に、閉じられた時間の輪が一個入ってるのね」
「閉じられた時間の輪?」
「そう。大豆の吸水が始まって、煮熟、納豆菌の接種、発酵までのプロセスを全て含む時間線を、こう、ぐるっと輪っかにしてあるわけよ」
「時間線って、そんた簡単に輪っかにできるもんなんですか?」
「コツがあるのよ」
「はあ…・・・」
サトルは、あいまいな顔つきで、うなずいた。
山下が先をうたがした。
「で?」
「んーだから、大豆を入れると、その閉じた時間線の中をぐるっと一周して、ほっかほかの納豆になって出てくるって仕掛けね。外から見てたら、それこそ瞬間的に納豆に変っちゃうみたいだけど、実は機械の中では、大豆は、それに見合う時間をすごしてるの。――わかる?」
「まあ、だいたいのとこは」
「この方式の画期的な点も、そこにあるのよ。――たっぷり時間をかけた納豆が、瞬間的に出来てくるんですもの。ね? 画期的でしょ?」
「たしかに画期的ですね」
「これが旧型≪タイプ≫だと、発酵の過程を加速してやるだけだから、どうしても、自然の風味という点で、今一歩なのね」
「仏滅菌という副作用もあるし?」
「そう。それも重要なポイント」
みのりは、真面目な顔をして.うなずいた、
「まあ、とにかく実際に食べてみてもらうのが一番ね」
「えっ」
思わず、サトルが、妙な声を出した。
「た、食べるんですか?」
「そう。記念すべき第一号の納豆よ。食べてみたいでしょ? 食ぺてみたくないの?」
「い、いや。それはぜひ食べてみたいですけどね…・・・」
と、サトルは口ごもる。
みのりは、瞬問納豆製造機MARK・Uのスイッチに手をかけて、重々しく宣言した。
「作動開始!!」
ウィーン。
瞬問納豆製造機MARK・Uが、低く捻り始めた。
三つ並んだLEDが、順次、点灯していき…・・・。
最後の一つが赤く輝やくのと同時に、全行程が完了した。
べっ。
瞬間納豆製造機MARK・Uは、皿の上に、ひとかたまりの納豆を吐き出した。
「おお〜〜っ」
「これは、スゴイ」
「色といい、艶といい、まさに完全な納豆だ!」
「究極のメニューに載せるべきですね」
と、サトルが、言った。
「ああ。そうだな」
と、山下もうなずいた。
それから、サトルに真っすぐ向き直って、言った。
「じゃあ、サトル。おまえ、ちょっと味見してみろ」
「えっ」
「えっじゃないよ。食べてみなけりゃ、納豆の本当の価値は判らんだろうが」
「いや、しかし、先輩・・・・・・」
「あたし、お醤油と芥子をとってくるわ」
みのりが、ぱたぱたと駆け出して行った。
その背中に、サトルが思わず声をかけた。
「あのー、ついでに、分葱と、それから、ご飯があったらお願いしますぅ」
「はーい」
台所の方から、みのりの声が聞こえてきた。
山下が言った。
「いやしい奴だな」
「どーせ食べるんなら、おいしく食べたいですからね」
と、すっかり開き直るサトルであった。
その時――
誰がスイッチを入れたわけでもないのに、瞬間納豆製造機MARK・Uが、再び低く稔り始めた。
ウィーン。
べっ。
山下とサトルは、テーブルの上に吐き出された納豆を、無言で見つめた。
ややあって、サトルが、言った。
「大豆が、まだ残ってたんですかね?」
山下は、答えなかった。
見てる内に、瞬間納豆製造機MARK・UのLEDが勝手に点灯した。
ウィーン。
べっ。
サトルが、言った。
「なんか、まずいことになりそうですね?」
事実、そうなった。
芥子を溶いて、分葱を刻んで、ご飯をよそって、ついでにお新香も切って、みのりは応接室に戻った。
中で、山下たちが何事かわめいていた。
「なに、騒いでるのかしら?」
みのりは、小首をかしげた。
そして、無造作に、ドアを開けた。
どどどどどっっ!!
大量の大豆が、山津波のように、溢れ出してきた。
応接室の中は納豆の海だった。
山下たちが、口のあたりまで納豆につかって、もがいていた。
「なんなのォ、これ」
「あっ、みのりさん!」
「どーにかして下さいよ、あのMARK・Uってやつ」
納豆まみれになった山下が、悲鳴に近い声で叫んだ。
「さっきから狂ったみたいに、納豆を作り続けてるんですよ!」
そう言えぼ、納豆の底の方から『ウィーン、ぺっ』という音が連続して聞こえてくる。しかも、その間隔は、心なしか次第に短くなって行くようだ。
「おかしいわねえ。――どうして、こんな風になっちゃったのかしら?」
「原因の追求は、あとでやって下さいよ、みのりさん。それより…・・・、うわっ!」
山下は、足をすべらして、納豆の海に沈んだ。
「先輩!」
「山下さん1・」
みのりたちが見守る中で、納豆の表面が、ごばがばと泡立った。
「ぶは〜〜っっ!!」
山下が、浮上した。
口から大量の納豆を吹き出す。
山下は、全身これ納豆にまみれていた。
頭の先からは、納豆のしずくが、ねばねば糸をひきながら、したたり落ちている。
見てるだけで、うんざりするような光景だった。
山下は、泣きそうな声で、言った。
「このままじゃ、納豆で溺れ死んじゃいますよォ」
「スイッチ切ったら?」
「それが、納豆の下に埋もれて、どこへ行ったかわかんないんです」
「おやおや」
「落ち着いてる場合じゃないですよ、みのりさん!」
「うーん。――あっ、そーか!!」
みのりは、ぽんと手を打った。
「閉じられた時間の輪の中で、納豆がぐるぐる回り続けてるんだわ。そーよ。そーにちがいたいわ。MARK・Uは、同じ作業をくり返してるのよ。――納豆を吐き出すのと同時に、プロセスが再スタートしちゃってるの。考えてみれば当然よねー。時間線の始まりと終りがくっついてるんだもん。――ちょっとした見落としってとこね。あはは。失敗、失敗」
「笑ってないで、なんとかして下さいよ」
「なんとかって言われてもねえ」
「何か方法があるでしよう。コンセント引っこ抜くとか」
「核電池なのよ。――家庭用の電源じゃ出力が足りなかったもんだから」
「じゃあ、どうなるんです?」
「さあ、ねえ」
みのりもまた、腰のあたりまで納豆につかりながら、首をひねった。
「言ってみれば、最初に作った納豆の複製を、無限に作り出してるみたいなもんだし・・・・・・。どうなるのかしらねえ」
「そんな、無責任な〜〜」
「大丈夫。そのうち停まるわ」
「そのうちって、いつですか?」
「んー、電池、が切れる時」
「核電池でしょ?」
「三十年は交換不要なの」
山下は、気が遠くなった。
サトルが、言った。
「ねえ。みのりさん。――なんだか、納豆の増え方が速くなってると思いませんか・」
「そうねえ」
みのりは.あたりを見回して、うなずいた。
すでに納豆は、みのりの胸のあたりまで来ている。
「どうやら、加速がついてきたみたいね」
と、みのりは、言った,
「でも、そのうちなんとかなるわよ」
みのりの言葉は、たしかに当たっていた。
ある日を境にして、世の中のたいていの物事は、自然とうまく運ぶようになってしまったのだ。
そう。
もちろん、鈴木某のおかげである。
世界中の、ありとあらゆる不運は、全て鈴木某ひとりに集中した。
その結果、地上には、幸運しか残らなくなり、人類は、大いに発展した、
一千万トンの納豆によって、一度は壊滅した猫ヶ丘も、無事に復興した。
つまり、何もかも、うまくいったのだ。
そして・・・・・・。
死すらも避けて通るほど、徹底的にツイていない男――鈴木某は、今日世界のどこかで、誰かの不運を引き受けている。
めでたし、めでたし。
鍋の夜
サイエンス・ライター/鹿野司
一九八六年一一月三十日。この日、一はくは取材と称して、火浦家を訪れた。もちろん、これは単なる口実で、その実体は奥様《カナちゃん》の作る手料理をいただくことにある。
「どーも、どーも」
「まいど」
カナちゃんは、糸のように細い目をさらに細くして、いつものように、にっこりと僕をむかえてくれる。
火浦夫妻は、同じような部分(上顎左のCとP1)にミソッ歯がある。歯磨きに気を付げないと、歯槽膿漏になるリスクが高そうである。笑うと、ミソッ歯が見える。デンタル・フロスの使用をお勧めしたい。
「今日は、ナベモノにしたの。もう支度できてるから」
「ふうん。何のナベ?」
「え−と、豚と白菜と鱈と豆腐と蟹と蠣とシラタキと……」
果たして、何鍋というのだろうか。これをミリンとぽん酢と醤油を混ぜたタレでいただくのである。ワタシは鍋物の専門家ではないので、詳しいところは分からないのだが、美味しいからい一か。
「後から、舛田のおね−さんが来るって」
舛田のおねーさんというのは、ご近所に住む、カナちゃんの入院友達である。かの映画、『首都消失』の舛田監督の娘さんなのである。入院しただけで、こういう友達を作ってしまう。カナコさんの人柄がしのばれますね。
火浦先生は、綿入れにGパン、頭にはヘアバンドという出で立ち。<大戦略>をプレイ中である。BGMにCD版の小林旭全曲集がかかっている。
「お、かっこいい、火浦さん、いっつもこんなカッコしてるの?」
「仕事中はね」
「仕事してたの?」
「いんや・・・・・・」
ゲームは、かなり不利な状況にあるようだ。駒込したことァ抜きにして、グッと巣鴨がイカあすなァ、とアキラ。
「そういえば、毎月一本は原稿を落とすことに決めたそうですね」
「あははははは」
火浦さんは、88のリセット・ボタンを押した。もういちど、ゲームを初めからやり直すつもりらしい。
「奥さん、奥さん。出羽桜を出しなさい」
火浦さんは、日本酒が好きである。それからお茶も好き。すごく薄いコーヒーも、気に入っている。
出羽桜は、例年いい造りをしている酒だげど、今年はとくに出来がいいようだ。中でも、大吟醸出羽桜は、吟香が豊かですぼらしい。今日の、僕の目的の半分は、これである。
「そういえば、みのりちゃんの永遠のライバルの祝雅子さんて、もう出てこないの? すごいファンなんだけど」
「あ〜あの人は、そのうち独立で長篇にしようと思ってます」
「番外篇ね」
「そう」
「得意技だなあ」
「ファンの皆さん、ご期待下さい」
こうやって、火浦さんとお酒を飲んでいるといつも思うのだけど、火浦さんて、すごく、ぼ〜っとした人だ。ぼくが、今まで見た人の中で、最もぼ〜っとしているのではたいかな。つまり小賢しいところが、全くないのだ。この世で、これほどカッコいいことはない。ぼ〜っとしていれば、この世のすべてを、ありのままに捉えることができるのだから。
普段から、ぼ〜っとしているせいか、火浦さんはすぐに眠る。おおぜいでワイワイさわいでいるときでも、黒いサングラスの後ろで、いつのまにか、密かに眠っているのだ。まるで、ナルコレプシーである。
でも、まあ、この眠りも、二分の一の確率で、タヌキ寝入りといって過言ではない。
「火浦さん、寝てるの?」
「うん」
カナちゃんは、とても楽しそうにいう。幸せだよんという、コロコロした波動がこちらにも伝わってくる。
波動を受けて、火浦さんの口元が、ほんの少しだけ緊張する。もう少しで、徴笑みになるかなっていう、微かな緊張。
「だんな、だんな! もう帰るよ」
「ふんがっ」
といって目を覚ます(ふりをする)。
目が嘘だ。
優しいなあ、愛があるねえ。
火浦さんには、アナドレナイ部分が多分にある。アドレナリンではない。たとえぼ、サイン本をもらうときは、注意しなければたらない。
なにしろ、ちょっと油断すると、サインとともに必ず、あの地図帳の工場の記号に似たマークが、犬きく記されているのだ。これでは、古本屋に売ることができないではないか!
そういえば、火浦さんのとこに初めてファックスが入った時、そこからパラクリに最初に送信されたのは、B4判の紙に大きく書かれた、「大○唇」の文字だったなあ。
さて、鍋も終わりに近づいた。しかし、ここからが、本番である。ナベの醍醐味は、最後のダシのたっぷり出たスープで、雑炊を食べることにあるからだ。
「おおお、これは旨い!」思わず、言葉が漏れてしまう。
「ダンナも食べる?」
「おう、くれ」
一瞬の静寂の中で、カナちゃんが、かいがいしく雑炊をお茶碗にもりつける。
ダイナマイトがョほほほ〜
どひゃ〜。このセリフ聞いた? この間というかなんというか、絶妙なのだ。並の夫婦じゃこのタイミングを会得するまでに、100年はかかるだろう。これはすごい。これはいい取材をさせてもらったなあ。
近々、火浦夫妻は、下北沢付近に引っ越してくる予定である。そうすれば、我々、下北沢の住人が、いつでもすぐに、火浦邸でご飯をいただけるでしょ、というのがその理由である。
なんとキトクな夫婦なのであろうか。もう死にそうである。
引っ越したら、すき焼きパーティをやることになっている。こんどは「窓の梅」の香梅を持って、遊びに行こうっと。
一九八七年一月十五日発行