海音寺潮五郎
赤穂義士
目 次
民族の大ロマン
元禄時代
元禄男
江戸の巻
赤穂の巻
山科の巻
また江戸の巻
赤穂義士関係書目解題
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民族の大ロマン
最近二十七八年の間に、日本では歴史上の人物を評価する標準が二度大変動した。最初は日華事変がはじまって以来大戦中を通じて敗戦までの時期。この期間には、皇道精神と全体主義精神とが標準となって、これに適《かな》わない人物の値段は大暴落した。源頼朝《みなもとのよりとも》だ、足利尊氏《あしかがたかうじ》だ、徳川家康だ、福沢諭吉《ふくざわゆきち》だ、というような人物は、国賊にひとしいものとされた。
二度目は、終戦後だ。自由主義と民主主義とが標準とされて、和気清麻呂《わけのきよまろ》だ、楠木正成《くすのきまさしげ》だ、戦国英雄だ、維新志士だ、明治年代の将軍や提督だというような人々は、三|文《もん》の値打もないものとされた。
一体、一切の条件の違う歴史上の人物を、現代の思潮《しちよう》を標準にして評価するのは、滑稽《こつけい》でもあり、間違いでもあるのだが、学者や評論家といわれる人々までそれをやって怪しまなかった。不思議千万な時代であった。戦時中が世を挙げて狂っていたことは言うまでもないが、戦後もある意味ではそれに近いとしか解釈のしようがない。
ここに、この両時代を通じて、値打を下げられっぱなしになっている人々がいる。赤穂義士は、その代表的なものだ。
以前、赤穂義士は日本人の最も美しい典型《てんけい》として、賞讃され、「忠臣蔵」は芝居道の独参湯《どくじんとう》とまで言われ、どんな不況の時にもこれを上演すれば大入り疑いないとされていたほどであったのに、戦争中にはまるで反対となった。
世間の人は、戦争中は「武士道」は大いに讃美され、従って、赤穂義士など大いに認められていたと思っているが、事実は反対であった。
当時の羽ぶりのよかった学者等、つまり国民精神文化研究所や、翼賛会《よくさんかい》などに巣くっていた学者等や、軍当局や、政府当局は、こう言っていたのだ。
「武士道は封建道徳だ。殿様に対するだけの忠義の道である。つまり小義である。日本人の本来《ほんらい》の道は、皇室に対する忠誠の道、即ち大義であるべきだ。それ故に、武士道美談など、好もしくないことだ」
と。
戦争中日本軍が国の内外でしたこと、あるいは住民への残虐行為、あるいは捕虜虐待等が、戦後外国で問題になって、日本の武士道まで非難されたが、実を言うと、日本軍部は武士道を否定していたのである。
さて、こんな指導理論が権力と結びついて盛行していたのだから、赤穂義士など顧《かえり》みられなかったのは当然のことであった。それどころか、抹殺《まつさつ》されようとまでしたのだ。戦争中の昭和十八年、ぼくは「サンデー毎日」に「赤穂浪士伝」を連載したが、途中、当局の命によって執筆を中止せざるを得なくなった。編集者が呼び出されて、「小義武士道の物語である赤穂浪士伝などをなぜ掲載するか」と、叱りつけられたのである。
戦後はまた、封建的|奴隷《どれい》道徳の讃美であり、復讐|鼓吹《こすい》の物語であるという理由で、占領軍の検閲はこれを書いた小説の発表を許さなかった。忠臣蔵の上演が長い間禁止されていたことは、世間でも知っているであろう。権力に弱いのは日本人の通性だ。観念論的であるのもまた日本人の通性だ。赤穂義士に対する一般の評価は、今日もなお回復していない。
しかし、僕は思うのだ。赤穂義士のことは、日本人が歴史上に持っている大ロマンだと。源平両氏の争覇《そうは》興亡《こうぼう》盛衰《せいすい》のあと、楠公父子を中心とする南北朝の物語、川中島の戦いを中心とする甲越両雄の争覇戦、織田《おだ》・豊臣《とよとみ》・徳川の覇者交代の歴史、明治維新史等と同じように、民族の大ロマンであると。だからこそ、これらの事実の中から数えきれないほど多数の小説や演劇が出来た。文化の大宝庫である。これらの小説や演劇をはずしては、日本の文化はどんなに貧しくなるかわからない。日本人の精神文化面における大遺産である。永遠なる歴史の流れにくらべれば、ほんの一瞬間に過ぎない一時代の特定な思潮などで抹殺してよいものではないのである。日本人は国民的教養の一つとして、これらを知っている必要があるとさえ思っている。
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元禄時代
元禄という時代はゆゆしい時代だ。二百七十年の徳川時代中、歴史的には、この時代ほど面白い時代はない。政治史、社会史、風俗史、経済史、思想史、あらゆる史的面において、この時代は明瞭《めいりよう》に分水嶺《ぶんすいれい》となっている。
順序として、政治面から見て行こう。
元禄元年は、戦争として最後のものであった島原の乱から五十一年目、徳川初期における危険分子であった浪人共を一網打尽《いちもうだじん》に殲《つく》した由井正雪《ゆいしようせつ》の事件から三十七年目、別木庄左衛門《べつきしようざえもん》事件から三十六年目である。これらの事件を最後にして、世は文字通りに完全な平和時代に入ったわけだが、この平和の、日本史における意義は大きい。一体、日本には国初以来、平和な時代はなかったといってよい。国初から平安初期までは、異民族との絶えざる交戦があったし、平安中期は京都の市内こそまず平和だったが、一歩市外に出れば強悍《きようかん》な盗賊が横行闊歩《おうこうかつぽ》していた。また、東北地方には叛服《はんぷく》常なき蝦夷《えぞ》がいた。平安末期から鎌倉時代にかけては地方武人の間に絶えず私闘《しとう》がくりかえされており、それ以後は南北朝対立の争乱から引続いての戦国時代にはいるのだ。
だから、日本人は、この時代において、はじめて、真の意味における太平《たいへい》、しかも、恒久性ある太平の時代を享受《きようじゆ》し得ることになったのだ。もちろん、これは、徳川氏だけの力でかち得られた平和ではない。豊臣氏の力もあれば、織田氏の力もあり、また、日本人全体の努力の積み重なりもあって、出来上ったものだが、その時代、政治の局にいた者の権力が最大限に強化されるのは必然の帰結《きけつ》だ。
徳川将軍の権力は、この時代に空前の伸長をとげた。この時代の征夷大将軍《せいいたいしようぐん》ほど権威ある征夷大将軍は、これまでの日本にはなかった。鎌倉時代にも、足利時代にも、徳川期に入ってからもなかった。外様《とざま》大名|取潰《とりつぶ》しは徳川氏の伝統的政策だが、綱吉《つなよし》将軍一代に取潰した大名の家数《いえかず》なり総|石数《こくすう》なりは、前四代におけるそれらの総和をはるかに凌駕《りようが》している。しかも、誰ひとりとして反抗の色を見せた者はない。彼はまた生類《しようるい》憐愍《あわれみ》令《れい》や愛犬令などの、古今東西を通じて類を見ないほどの暴悪な法令を出して人民を苦しめたが、わずかに水戸の光圀《みつくに》が諷諫《ふうかん》をこころみただけで、他はかげでぶつぶついっているばかりで、面とむかってはひれ伏していた。しかもそのたった一人の光圀すら、欲せざる隠居《いんきよ》をして雷霆《らいてい》の怒りを避けねばならなかった。これらのことは何を意味するか? 将軍の権威がいかに徹底的に行きわたっていたかを、物語るものにほかならない。
次に、経済面と風俗面を見よう。幕府は財政の困難に苦しんでいた。幕府の財政困難は四代将軍|家綱《いえつな》の時にすでにはじまって、綱吉が将軍になった時にはその金蔵《かねぐら》はもう空《から》になっていたため、綱吉は将軍|宣下《せんげ》の儀式の一つとして必ずしなければならないことになっている日光参拝が出来ず、一年延期したほどであった。その上、綱吉は無闇に神社や寺院を造営したり、贅沢《ぜいたく》をしたりしていたので、その財政困難は拍車《はくしや》をかけられた。そこで勘定奉行《かんじようぶぎよう》の荻原重秀《おぎわらしげひで》の意見によって、これまでの貨幣の品位を二分の一に切下げて改鋳《かいちゆう》するという方法をとり、やっとしのぎをつけた。つまり、旧貨幣を以て二倍の新貨幣を造ったわけだ。
このインフレ政策と、太平が続いて商工業が盛んになったことと、一般の生活程度が高くなったこととの三条件がそろって、大へんな好景気時代となり、紀伊《きの》国屋《くにや》文左衛門だとか、奈良屋茂左衛門だとか、今にその名ののこる豪商|大賈《たいこ》が輩出した。
こんな工合だったので、一般の風俗も華美に流れた。一体、風俗の華美贅沢はこの時にはじまったのではなく、遠くその源を豊太閤の桃山時代に求むべきだ。太平とならんとする気運と太閤の豪宕雄偉《ごうとうゆうい》な気象とが、絢爛《けんらん》豪華な桃山時代を生んで、それが統《とう》をひいて江戸時代に及んだのだ。江戸初期における大名屋敷などの豪華であったことは、加藤清正の屋敷の話でもわかる。清正の屋敷は三宅坂の、戦前参謀本部のあった位置にあって、門の上に黄金《おうごん》の小馬ほどもある犀《さい》の像を五匹掲げてあったが、それが日にきらめいて品川の海に反射して、魚が恐れて寄りつかなくなったので、漁師等がこまったという。名将清正にしてこうだ。他の大名等の豪奢は知るべきであろう。この豪奢が、江戸初期までは、武士階級、それもごくごく上級の武士階級に限られていたのが、元禄の時代になると、ずっと下まで浸潤《しんじゆん》してきた。ここに、この時代の特異性がある。
けれども、普通世間でいわれているように、この時代を華奢《きやしや》風流柔弱というのはあたらない。この以前の慶長《けいちよう》、元和《げんな》、寛永《かんえい》などの時代にくらべれば、一応そうも言えるが、元禄以後の時代にくらべては、決して柔弱ではない。華奢であり、風流ではあっても、後世のように線の細い女性的のそれではない。線の太い、寛闊《かんかつ》豪放な男性的なそれであった。つまり、華《か》に過ぎず、実《じつ》に過ぎず、「花も実もある」という形容が最も適当する風俗であった。
最後に思想史の面を見よう。徳川初代の将軍家康は学問が好きだった。それは彼の天性でもあったが、戦国|殺伐《さつばつ》の気風を変じて太平の気風を馴致する政策としても必要だったので、盛んに学問を奨励し、そのため、碩学鴻儒《せきがくこうじゆ》が輩出した。林羅山《はやしらざん》、山崎|闇斎《あんさい》、山鹿素行《やまがそこう》、中江藤樹《なかえとうじゆ》、熊沢蕃山《くまざわばんざん》等々。
さらにこの時代となると、綱吉将軍が好学というより学に淫《いん》するといってもよいくらい学問が好きだったので、日本儒学史における黄金時代を現出した。江戸においては、朱子学官学派の大本山として林|鳳岡《ほうこう》、その私学派の泰斗《たいと》として木下順庵《きのしたじゆんあん》、その門下生に室鳩巣《むろきゆうそう》、新井白石《あらいはくせき》があり、古文辞学を唱道する荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》、その門下生に太宰春台《だざいしゆんだい》、服部南郭《はつとりなんかく》等があり、京都には堀川塾に古学を唱える伊藤|仁斎《じんさい》があり、山崎闇斎の学統を受けて諸学派に畏《おそ》れ憚《はば》かられていた佐藤|直方《なおかた》、浅見|絅斎《けいさい》等があるという盛んな有様であった。
重要なことは、儒学のこの隆盛が、前代においては、その道の専門家や為政《いせい》者の間にだけ行われたのが、この時代になると、ずっと深くひろく、ほとんど全武士階級に浸潤した点だ。儒教的の考えかたが武士等の日常生活のなかにはいりこんできて、彼等の生活を律している規範にも重大な変化がおこった。つまり、「武士道」の内容が変化して来たのだ。
一体、「武士道」または「士道」「武道」などという言葉は、この時代に出来たのだ。もちろん、その以前に何にもなかったわけではなく、後に成長して武士道となるべきものがありはしたのだが、これは「道」という名を以て呼ぶほどのものではなく、一種の「武士《ぶし》気質《かたぎ》」にすぎなかった。
この「武士気質」の根本となっているものは、「武勇」と「廉恥《れんち》」とおよそこの二点をあげられるが、その「廉恥」も、正邪善悪における廉恥でなくて、男性的に堂々としているか、でないかだけの廉恥だから、つまりは「武勇」のなかに含まれてしまうものだ。
戦国から江戸初期にかけての書物を読むと、「武勇」が武士階級の至上道徳だったことが明瞭にわかる。主君にたいする忠義ということは、あまり重要視されていない。一見不思議なようであるが、この時代の大名は、そのほとんど全部が新しく勃興した家だから、その家来共も一種の渡り奉公人の気質があり、真に己れを空しくした忠義は甚だ珍しい。忠義を尽すにしても、多くは、武勇を尚《たつと》び、恥を知るという心から、つまり自分の名誉を重んずるために尽すのだ。
例証を示そう。
可児才蔵《かにさいぞう》は大剛の士である。戦場に出るたびに敵を斬ること無数だったので、一々首をあげているひまがない。そこで、いつも竹笹を指物《さしもの》にして戦場に出て、敵を斃《たお》すと、その葉を一枚ずつちぎって口におしこんでおいて、戦後、それを|しるし《ヽヽヽ》に拾いあつめて歩いたというほどの人で、人皆「笹の才蔵」と異名したというほどの剛の者であった。
この才蔵が、豊臣|秀次《ひでつぐ》に仕えている時、小牧《こまき》の戦さに出た。この戦いは、秀次の軍と池田|勝入斎《しようにゆうさい》の軍とが徳川方の奇襲をくらったところから開始されたのであるが、徳川方の攻撃猛烈で、秀次の軍は四分五裂、主将たる秀次が、馬を射斃され、乗換の馬もどこかへ行ってしまって歩立《かちだ》ちとなるという苦戦に陥った。進むに進まれず、退《ひ》くに退《ひ》かれず、侍臣数名と茫然《ぼうぜん》としてたたずんでいると、その前を才蔵が馬上で過ぎた。秀次は呼びとめて、
「そちの馬を貸せ。こういうわけで難渋《なんじゆう》している」
といったところ、才蔵は、
「雨夜《あまよ》の傘にて候」
と言って、そのまま行ってしまった。
後世の武士道からみると、甚だ怪しからんことだ。不忠至極のふるまいだ。しかし、当時の人は決してこれを非難していない。いたって当然のことと見ている。不思議なことのようだが、おそらく、この時才蔵は敵にむかって進みつつあったので、その行為は前にあげた二項目に牴触《ていしよく》しなかったのであろう。
やはり、この時のことだ。
秀次がすでに退却して、|しんがり《ヽヽヽヽ》をうけたまわって武士等が、数人で拒守しているところに才蔵がきた。名だたる勇士才蔵なので、人々は山に倚《よ》るごとき安心感を覚えた。
才蔵は問うた。
「殿はいずれに行かれしぞ」
「すでにあちらに退却された」
「そうか」
とだけいって、才蔵はそのままそちらへ行ってしまった。そこで、うるさい批判がはじまった。
「聞きしにも似ぬ才蔵かな」
という者もあれば、
「いやいや、才蔵ほどの勇士、心あってのことであろう」
と、弁護する者もある。
数年後、伏見の城中でこの時の話が出た。人々は、才蔵にきいた。
「御辺《ごへん》ほどの人なれば、定めし深き所存あってのことなるべし。聞かせ給え」
すると、才蔵は、
「いや、何の所存もなかった。ただ何となくああしたにすぎないが、そう言われてみると、わしの行動はおかしいな」
といって、そのまま五千石の大禄をすてて、秀次の許《もと》を去った。
これは、その心あってしたことではないが、卑怯|未練《みれん》のそしりを受けても申訳のない行為だったという点を恥じたからであろう。
三方ケ原の戦いの時だったと思う。徳川方の勇士渡辺半蔵守綱が追撃してくる武田勢を追いのけ追いのけ退却してくると、途に自分の朋輩が重傷を負うて倒れていて、一緒につれて退ってくれとたのむ。助けて、無事にかえってきた。家康は、
「自分ひとりの退却さえやっとのことだったろうのに、よくぞ助けてかえった」
とほめた。すると、渡辺は、
「いや、そうおほめにあずかっては恥かしい。実を申しますと、厄介なことと思いましたが、自分がここで助けないで行っても、後からくる味方の者が助けるかも知れない。そしたら、自分が助けなかったことが知れて、自分の名折《なお》れになると思いましたので、やむなく引きうけたわけです。途中でも、何べん刺し殺そうと考えたかわかりません。それをおさえおさえやっとかえってきたのです」
と答えた。家康はまたその正直をほめたという。この話など、廉恥――臆病といわれることを恥じる気持が、いかに強くその頃の武士の行動を律していたかを示すものである。
武士の風流として伝えられる話にも、この類が多い。やはり、三方ケ原の戦いの時である。徳川家の老臣、石川|数正《かずまさ》は、使者として織田家へ行っていたが、急報に接して帰国するにあたり、美濃の土岐《とき》家の臣で朝岡|某《なにがし》という者が弓矢の故実《こじつ》にくわしいと聞いて、わざわざ行って、
「今度、三河《みかわ》・遠江《とおとうみ》の境において、徳川・武田|有無《うむ》の決戦あるべきなり。それがし討死と心を決し候えども、田舎に生い立ちたるかなしさには、この年になるまで、軍陣に臨むにあたりての|※[#「弓+蝶のつくり」]《ゆがけ》の紐の結びようを知らず。討死の後、徳川家にて人がましく数えられておる石川は弓矢の骨法《こつぽう》を知らざる田舎武士なりよといわれたらんには、屍《しかばね》の上の恥辱なり。あわれ、乞うらくは教え給えかし」
と乞うて、伝授を受けて帰途についた。伝えて美談とするところであり、また、美談であるには相違ないが、これもやはり名誉を重んずるという観念が根本になっている。
宮本武蔵が佐々木小次郎と下ノ関の舟島において仕合した時、武蔵は約束の時刻からはるかに遅れて出て行って相手をいらだたせた上、悪口して逆上さして、その虚に乗じて、これを斃している。この武蔵のやり方を後世の完成した武士道観から見れば、ずいぶん問題になり得ることである。卑怯とはいえないまでも、フェアではない。しかも、当時の人は決して武蔵を卑怯といっていない。武勇を第一の徳目《とくもく》におく当時の武士の倫理観からすれば、これは武略にかけたのだから、これでいいわけなのだ。
ずっと古いところに例をさがしてみよう。
佐々木|高綱《たかつな》の宇治川の先陣と那須ノ与一の扇の的の話は、古来、武士道物語の花となっている。ところが、宇治川の先陣において、佐々木高綱は、競争者である梶原景季《かじわらかげすえ》に、
「馬の腹帯《はるび》がゆるんで見えるぞ。あぶみふみかえして敵前に不覚したもうな」
とあざむいて、景季がしめなおすひまに追いこして先陣している。まことにずるい話で、こんなことまでして一番乗りをしたからとて美談とは受けとれないことだ。
また、扇の的の際、与一がみごと扇を射切ったのを敵ながら感心した平家の侍のひとりが、舟の上で舞いはじめたのを、与一は射殺している。
「あわれ、坂東武者には敵を殺すよりほかに能はなかりけり」
と、高山樗牛が悪口をいっているが、実際、残酷無残な行為といわねばならない。
しかし、このふたつの話を、狡猾《こうかつ》だとか、残酷だとか、昔の人は見ていない。戦国時代の名将、佐野の天徳寺|了伯《りようはく》は琵琶法師にこの物語をかたらして、感激のあまり雨しずくと泣いたと伝えられている。武士の資格を武勇第一と考えているからである。
こんな工合に、「武勇」と「廉恥」を極度に尊ぶために、任侠《にんきよう》を尚《とうと》び気節を重んずる気風が出てくる一方、善悪によらず、自分の意気地を立てつらぬくことがもっとも武士らしい態度とされるようにもなった。「武士の意気地」という言葉を、よく講談などで聞くが、それだ。
その例を少しあげてみる。
塙団《ばんだん》右衛《え》門《もん》は、関ケ原の戦争で軍令にそむいて敵陣近く出すぎて、戦後、主人の加藤|嘉明《よしあきら》に、
「その方如き者は、一個の猪武者で、大将としてのうつわでない」
と罵《ののし》られたのを怒って加藤家を飛び出した。後年大坂に入城した時のことだ。冬の陣があって、講和の噂が立ちはじめた頃、塙は不意に蜂須賀家の陣所へ夜討をかけてめざましい働きをした。その時、彼は床几《しようぎ》に腰をすえて采配をふってりっぱに大将としての働きを示したばかりか、
「夜討の大将塙団右衛門|直之《なおゆき》」と書いた札を沢山まきちらして退陣した。
間もなく、東西和議になって、敵味方互いに知合いだった者は往来して旧交をあたためることがはやった。塙のところにも旧知の者が皆来たが、親しい友達で、今、池田家につかえている林半右衛門が来ない。塙はふしぎに思って、旧友等にそういうと、旧友等は林のところに行ってみた。すると、林は噛んではき出すようにいった。
「塙というやつはけしからんやつだ。わしは若い時、あいつと約束したことがある。男と生れた以上、戦場に出た際は、自ら槍をふるい刀をまわして縦横奮撃、手をくだいて闘うべきである。老成《ろうせい》ぶって床几に腰をかけ、采配をふっているようなことは、我々は一生すまいと。しかるに、この前の夜討において、塙は床几に腰かけて采配をふっていたとやら。彼いまだ四十五歳、老いくちたという年でもないのに、約束を無にしたが憎い故に会いたくない」
これを塙に報告すると、塙は浩嘆《こうたん》していった。
「いかにもそうだ。わしも、その約束を忘れたわけではない。あの夜も、みずから槍をふるいたくてうずうずしたほどだった。が、これでわしが大将としての器もあることを加藤|左典厩《さてんきゆう》にしめすことができたわけだから、以後はみずから槍をふるって思うがままの働きをしよう」
塙直之は意気地のために夜討を企て、意気地のために大将ぶりを見せたのだ。
堀|主水《もんど》も加藤家の老臣である。嘉明の子明成の代となって、明成と意見が合わず、会津を退去したが、その際、鉄砲|切火縄《きりびなわ》で隊伍を整えて城外に去り、そこから城に向けて鉄砲の一斉射撃をやって江戸に出、幕府にむかって明成の罪十一ヵ条を訴えて高野山に入った。明成は主水を憎んでこれを捕えようとしたが、高野山は俗界の権力のとどかない聖域なので、幕府に、
「封邑四十万石ととりかえにしてもよろしいから、主水をおわたしください」
と願い出た。幕府では高野山に交渉して、主水を追放させて、とらえた上、加藤家にひきわたした。明成は主水とその一族をなぶり殺しにして快哉をさけんだのだが、数年の後、これが理由になって加藤家はほろんだ。
「先年、封邑四十万石を返上してもよいから主水をたまわりたいといって無理なお願いをしたはずだが……」
と、幕府からいわれたので、今更いやとはいえなかったのである。
主水の行為、明成の行為に、極端なまでに意気地を立てる当時の士風を見るべきである。
黒田騒動における栗山大膳の態度、伊達騒動における伊達|安芸《あき》の態度、みなそれだ。栗山や伊達安芸は忠臣として伝えられているが、子細《しさい》に当時のことを調べてみると、そうとばかりは言いかねる節が色々あって、むしろ、おのれの意地を立てつらぬこうとしたあとの方が強い。
最後に伊賀越騒動を見てみよう。
あの騒動の発端は古い。上州高崎安藤家の江戸詰の武士|河合《かわい》半左衛門《はんざえもん》が同僚某を斬って池田家へかけこんだ。安藤家では引渡しを要求したが、池田家では応じないで、国許へ送ってかくまい通した。河合と池田家と縁故があったのではない。当家を見込んでかけこんできた者を武家として見殺しにはできぬと意地を張ったのだ。その河合半左衛門の子又五郎が、後年、池田家の臣渡辺某を、男色関係から斬って高崎安藤家の一族である旗本の安藤家へかけこんだ。安藤一族は池田家に対しては先年の遺恨があるから、きっとかくまってくれるに相違ないと計算を立てたのだ。皮肉といえば皮肉、ずるいといえばずるいやりかただが、はたして、旗本安藤家では全力をあげてかくまった。安藤家だけでなく、全旗本が一致してこれを庇護《ひご》して、何と池田家から交渉してもひきわたさない。ついには、わずかに、河合又五郎という今でいえば不良少年にすぎないたったひとりの男のために、幕府の老中が乗出すという騒ぎにまで発展した。このことが、あの敵討をあれほどまでに有名にした原因なのだが、歴史的に見れば、荒木又右衛門の武勇などより、池田家と旗本との意地のはりあい、つまり、当時の武士がいかに意地を立てることを重んじたかという点に興味がある。
以上述べてきた所によってもわかるように、当時の武士の行為を規律したものは、「道」という名を以て呼ぶにはあまりに素朴《そぼく》にすぎる一種の「気質《かたぎ》」にすぎなかったのである。
これが、徳川開府以来しだいに儒学が隆盛になって、その行きとどいた道徳規範に人々がふれてくると、従来の素朴な「気質」ではどうしても満足されなくなるのは当然のことだ。
また平和な時代においては、すでに出来上っている秩序を維持して行くことに社会の要求はむけられる。今や、時に多少の増減はあっても三百諸侯が確立して、主従の別が定まっていることによって世の秩序が保たれて行く時代となったのだ。武士を律する道徳はこれにふさわしく整備されなければならない。そこで、一般武士も、また、儒者と呼ばれる専門家も、あるいは無意識のうちに、あるいは意識的に、その整備につとめて、ほぼ元禄までに完成された。
山鹿素行など、最も力をつくした人で、「武教本論」「武教小学」「武教要録」「武教余録」等の著書は、皆その努力のあとである。彼は最も簡明|直截《ちよくせつ》なことばを以て「武士気質」を非難し、新しき武士道の樹立をさけんでいる。「おのれを潔《いさぎよ》くせんと欲して大倫《だいりん》を乱るものは異端なり」というのがそれである。
素行だけではない。ほかの学者もみなそれぞれに努力している。松平|伊豆守信綱《いずのかみのぶつな》が、ある時、熊沢蕃山に、
「主君の御使者として他におもむく途中、父の敵《かたき》に出会いたらばいかがすべきや」
と聞いたところ、蕃山は、
「おやの敵持つ者は仕官などせぬものでござる」
と答えたという。信綱の聞いたようなことを、その以前の誰が問題にしただろう。おそらく、そんなことは考えもしなかったろう。当時の人が、武士として完全無欠の行為をしようとの意図をもちはじめてきたことがわかるのである。
赤穂《あこう》浪士《ろうし》の討入のあった直後のこと、室鳩巣は、吉良家《きらけ》の隣家土屋|主税《ちから》が浪士等の討入に好意をもって見て見ないふりをしていたと聞いて、親友新井白石に、この土屋家の態度をどう思う、と聞いたところ、白石は、
「武士の情《なさけ》を知るという点においては、土屋家のとった態度はよろしい。しかし、それだけでは士道として完全でない。仇討のすむまでは黙っていて、浪士等のひきあげる時、両三人をひきとめておくべきであった」
と答えたという。
士道の吟味《ぎんみ》が精に入り微をうがたずんばやまざるおもむきを見せてきたことがわかろう。森鴎外《もりおうがい》作の「阿部一族」は正保頃の熊本における事件を書いてあるのだが、阿部一族が討手《うつて》を受けた時、阿部家の隣邸のなにがしという武士は、かねて阿部家と親しいなかであったが、かかる時手をつかねているのは武士の道でないとして、前夜から垣根を結んだ縄を切っておいて、攻撃がはじまるや、垣根をふみくずして一番にとびこんでいる。これと土屋家の態度とをくらべて見てもらいたい。正保から元禄十五年まで五十幾年たっているが、その間に武士の考え方はこれだけちがってきているのだ。
水戸光圀に、次のような逸話が伝わっている。
彼はかつて、曾我兄弟の敵討を論評して、曾我殿原《そがとのばら》が十有八年の艱苦《かんく》の末、父の敵を討ったのはまことに殊勝《しゆしよう》であるが、その後で、五郎が頼朝の陣屋に乱入したのは甚だ義理にくらい、勇のみあって学問がなければ、かようなあやまちを犯しがちなものであるから注意すべきである、といったという。
また義経の弓流しについても、一軍の総大将たる者のすべきことではない、といっている。
大体、倫理の根本観念は不変でも、実践道徳は時代により、場所によりちがうのだから、後世の実践道徳の規準を以て古人を批判するのは、苛酷《かこく》でもあるし、見当外《けんとうはず》れでもあるのだが、結果的には武士道の整備に非常に役に立ったのである。
以上は学者等の努力であるが、一般武士もまた努力した。当時、諸藩には「武道|詮義《せんぎ》」ということがさかんに行われた。前にのべた、熊沢蕃山と松平伊豆との対話、鳩巣と白石の対話、光圀の古人の論評、みな一種の武道詮義であるが、こういうことが武士等相互の間にも行われたのである。薩藩などは明治維新頃まで行われて、その問答をあつめたものが「詮議集」と呼ばれて今でものこっているが、その二三をあげてみる。
[#ここから2字下げ]
○父の敵を討たんとて諸国をめぐり歩くうち危難に瀕《ひん》して人に助けられた。しかるに、助けてくれたその人が当の敵であった。いかにすべきか。
○殿様もお大病、父もおなじ病で重態。ここにたった一粒の良薬がある。それをのめば平癒《へいゆ》うけあいなのだが、いずれにすすむべきか。
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つまり、咄嗟《とつさ》の際に、武士としての行動をあやまらないために、いろいろな場合を想定して、互いに工夫しあったり、古人の行為を批判したりしている平素の訓練なのだ。
こんな風で、すべての学者、すべての武士が、おのれの行為の規範として、完全の上にも完全な道を求めようと努力したので、あまりにも偏武的であった「武士気質」は、ここに変じて「武士道」となった。
新しく出来たこの「武士道」において、もっとも重んぜられたのは忠だが、武士道の忠はきわめて特殊なもので、直属の主人に対するだけのものだ。「坂東武士は主あるを知って、主に主あるを知らず」という古い言葉があるが、これが武士道の忠だ。有名な「葉隠《はがくれ》」を読んでも、一意、鍋島家にたいする忠誠のみを説いている。鍋島家の上には将軍があり、将軍の上には皇室があるわけだが、その忠誠は鍋島家で行きどまりになっている。武士が主の主にたいする忠義を心がけるようでは、封建君主の立場はなくなるからだ。社会の秩序が崩《くず》れてしまうからだ。
忠のつぎには孝が重んぜられた。「武士道」において、この忠と孝とは、車の両輪のごとく、最も重んぜられたのであるが、完全な武士たるにはそれだけでは不足だとせられた。夫婦の間の和、兄弟にたいする愛、朋友の間の信義、事にのぞんでの勇、敵にたいする憐愍、風雅の嗜《たしな》み等々、あらゆる徳目に心をくばって、一挙手一投足もゆるがせにしてはならないことが要求されたのである。行為規範の体系としては、このように理想的であることはきわめて望ましいことではあるが、実践する上においては、あまりにも完全に完全にと求めて行くと、どうしても気魄《きはく》のぬけたものとなりがちだ。
「葉隠」などは、こういう武士道の反動として古風の激しさを再興せんとしたものだ。
「行動の判断に迷う場合には、死ぬ方をえらべ。しからば、人にばかといわれても、臆病のそしりはまぬかれることができる。犬死になりはしないかなどと考えるのは、上方風《かみがたふう》の足の地についていない武士道である」
とはっきりと「葉隠」はいっている。
あまりにも完全を求めすぎた武士道が、実用に遠ざかってきたことがわかるのである。うべなるかな! 武士道が形式的に完成しきった元禄以後、武士道美談として胸うつ話は、赤穂浪士の義挙以外一つか二つしかないというさびしさだ。
赤穂浪士の義挙は気魄充満の「武士気質」時代と、形式美の絶頂に立つ「武士道」時代との中間に立って、両者の長所をかねているもので、花も実もあるということばはここにも適当している。
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元禄男
元禄時代を代表する人物として、善い代表として大石良雄をあげることができ、悪い代表として綱吉将軍をあげることができる。
元禄男は闊達|剛毅《ごうき》でなければならない。良雄も綱吉もそうだった。理論的でなければならない。ふたりともそうだった。ただ、これらの性質の使い方の相違がふたりを両極端の地に立たせたのだ。
この意味において、元禄快挙は、天下の大将軍たる綱吉がその性格と理論の運用をあやまったことにたいして、共通の性格と理論とを持つ田舎家老たる内蔵《くらの》助《すけ》が挑みかけて、ついに勝利を得た抗争史であるといえるから、簡単に綱吉の性格解剖をこころみておきたい。
綱吉は普通に考えられているような|ばか《ヽヽ》ではなかった。それどころか、相当以上に賢い君主だった。彼は学問が好きだった。一流の学者等と学問上のことについて議論をたたかわし得、諸大名や近臣等に経書《けいしよ》の講義をすることが出来るほどに深い学識があった。また親孝行だった。館林《たてばやし》侯であった時代には、身、将軍公子でありながら、みずから配膳をして母|桂昌院《けいしよういん》にすすめたと伝えられるほどに孝行であった。
賢くて、学問がすきで、親孝行ときては、理想的人物といわねばならない。事実、彼はその初政当時においては、大いにその名君ぶりを発揮した。
越後騒動の親裁ぶりのあざやかさなど、その一例である。
徳川家の一門である越後高田の松平家にお家騒動がおこった。当主光長が老年に及んで政に倦《う》んで、家老小栗|美作《みまさか》に万事をうちまかせていたので、美作はしだいに専横になった。同列の老臣|永見大蔵《ながみおおくら》、荻田主馬《おぎたしゆめ》などという者共はこれを憤って、光長に訴えて美作をおしこめた。美作は幕府の大老酒井|忠清《ただきよ》に厚く贈賄して運動したところ、忠清は美作をひいきして、永見や荻田を他家あずけの処分にしたので、美作はまた国政を専《もつぱ》らにすることになった。
このために高田の家中は両派にわかれて相争い、永見・荻田派にして浪人する者が二百人近くにも及んだ。
以上は綱吉が将軍となる以前のことであるが、綱吉が将軍となってからもこの争いがつづいていたので、両派を幕府に呼び出して裁判することになった。ところが、美作という男は、なかなかの才子で、弁舌さわやかで、一向にしっぽをつかまれない。幕府の大官もあぐねはてた。そこで、綱吉みずから裁判することになった。
この席でも、美作はなかなか巧弁であったが、最後に、綱吉は永見と荻田にむかって、こう詰問《きつもん》した。
「汝等の申すごとく美作が専横|奸曲《かんきよく》であるならば、何が故にかくならない前に美作に意見をせなんだか」
両人いう。
「美作は主人光長の言葉だに用いざるほどの者なれば、いかでわれらごときの意見を聞きましょう」
とたんに、綱吉は大喝《だいかつ》した。
「これにてあいわかった。いずれもまかり立て!」
声、殿中にひびきわたって、座中の人皆ふるえあがって平伏したという。
翌日、美作父子は奢侈不忠のふるまいがあったという理由で自殺を命ぜられ、永見、荻田その他の老臣等は未然に家中の騒動を防止することができなかったという罪を以て流罪に処せられ、間もなく越後家も家中不取締の理由でとりつぶされてしまった。
累年《るいねん》結んでとけなかった大疑獄を一言にしてさばいたのだ。原告・被告ともに罰したわけだが、明快なる理論を以て断獄《だんごく》したのである。綱吉がいかに猛決果断、名君の素質があったかを知ることができる。
が、彼のこの名君ぶりは長くつづかなかった。彼の長所である、賢いこと、好学であること、孝行であること、剛毅であること、これらは皆逆な作用をしはじめた。
賢いが故に、彼は老臣等のいうことを聞かなかった。好学であるゆえに、すべてを観念論だけで律しようとした。孝行であるが故に、しかも、儒教によって鍛えられた形式主義的孝行であるが故に、無智無学な一女性にすぎない老母桂昌院のいうことに何によらず従順であった。寺院堂塔の建立にふけったのも、生類憐愍令や愛犬令を出したのも、加持祈祷《かじきとう》に凝ったのも、皆母のすすめによるのである。綱吉には男の子がなかった。姦僧《かんそう》どもはそれを利用して桂昌院にとりいり、その祈祷をするといっては寺院の建立を願い出、いくら祈っても生れないとあっては、苦しまぎれに「将軍家は前生においてあまりに殺生をあそばされたから、御子様がないのです。罪ほろぼしに一切生類をおあわれみになったら御男子誕生ということになるかも知れない」といってみたり「将軍家の干支《えと》は戌《いぬ》だから、犬をおかわいがりにならなければ、とても御男子御誕生はむずかしい」といってみたりしたのだ。
最後に、あまりにも彼が剛毅であったが故に、恐れて諫言をする者がなかったし、また一旦決心したことはあくまで強行した。彼は死にあたって苦しい呼吸をつきながらも、次の将軍となるべき甥|家宣《いえのぶ》にむかって、
「殺生禁断令が悪令であることは重々知っているが、ここまでおれがつづけてきたのだから、おれが死んでもこれはつづけてくれ。それをおれはおまえのおれにたいする孝行と思う」(徳川実紀)
といったほどである。何が彼をかく言わせたか? ひとつには彼の剛戻《ごうれい》な気象であり、ひとつには、「三年父ノ道ヲ改メズ」という儒教の教えがあるからなのだ。
もし、彼が普通の階級に生れたなら、彼もずいぶんりっぱな人間になれただろうのに、将軍の子と生れ、天下人《てんかびと》となったために、東西古今に類の少ないほどの悪虐な君主となった。それは、彼が色々な美質を持ちながらも、たった一つ、天下人として最も大事なこと――天下人には天下人の道徳があって、それは平民の道徳とは違う面があるということを忘れていたからである。
彼は時代の風潮を受けて好学――溺愛《できあい》に近いほど好学であったが、その学問にあやまられたのだ。悪い意味での元禄男であると、僕のいうのはこのためだ。
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江戸の巻
叙述の順序として、松の廊下の事変を物語らなければならない。
この事変は、これまで色々な研究書や文学書によって書かれているが、実際はあまりはっきりしない。文字通りに汗牛充棟《かんぎゆうじゆうとう》の観ある多種多様の書物も、この事件については、丹念に整理してみると、ほぼ信用してよいというものまでいれて、わずかに三種類しかのこらなくなる。「徳川実紀」、室鳩巣の「義人録」、「梶川与惣兵衛筆記」の三種。
しかし、これすらも、「徳川実紀」は、幕府に伝わる記録を土台にして書かれたという強みはあるが、書かれたのははるかに後年であるという難点がある。「義人録」は当時の大学者によって、しかも義挙直後という早い時期に調査執筆された点は買えるが、要するに資料|蒐集《しゆうしゆう》に不利な立場にある民間人の手になったものだ。のこるところは「梶川筆記」だけだ。これはその場に居合わせて内匠《たくみの》頭《かみ》を抱きとめた人物の日記だから、最も確実ではあるが、遺漏《いろう》が多く、たとえば、喧嘩の原因については全然ふれていない。
けれども、まずこれを土台にして、争闘の情況を見ることにしよう。
この前日、大奥のお留守居番である梶川は、将軍夫人に、明日お使者として勅使の御旅館に行くべき命を受けたので、吉良にこれを通達したところ、吉良から明日は勅使は旅館に帰られるのが遅くなるから、そのつもりで遅くまいられるようにといってきた。そこでそのつもりで登城したところ、吉良から、昨日の予定とちがって勅使は早く御帰館になるといって来ていたので、くわしく様子を聞こうと思って、大奥から出て来て、松の廊下の角柱《すみばしら》のところまでやってきた。ここから見渡すと、右手の大広間の障子際には饗応役《きようおうやく》内匠《たくみの》頭《かみ》と伊達《だて》左京亮《さきようのすけ》とがすわっており、北の方|白書院《しろしよいん》(この日の式場)の方には杉戸二三間をおいて高家《こうけ》衆が多勢つめているのが見える。
梶川は、自分のうしろから来かかった坊主に、吉良を呼んでくるように命じたところ、吉良様は御老中からのお召しでその方へ行っていらっしゃるとの返事である。
「しからば、内匠頭殿をお呼びしてまいれ」
内匠頭はすぐ来た。梶川はいんぎんにあいさつした。
「拙者儀、今日|伝奏衆《てんそうしゆう》(勅使)へ御台所《みだいどころ》様よりのお使いを仰《おお》せつかりました故、諸事よろしくお願いつかまつる」
「心得ました」
と答えて、内匠頭はもとの席へかえった。
間もなく、梶川は白書院の方から吉良のくるのを見たので、また坊主を呼びにつかわしたところ、吉良が承知の模様でこちらにくるのが見えた。梶川もこちらから近づいて行って、角柱から六七間ほどのところで出会って、ひとことふたこと話しあっていると、吉良のうしろから、
「この間の遺恨覚えたるか!」
と叫びざま、いきなり切りつけたものがある。すさまじい太刀音ではあったが、小《ちい》さな刀のこと、伸びが足りなかった。本人の踏みこみも足りなかった。肩から背へかけてさっと薄手《うすで》を負わせたにすぎなかった。
梶川はおどろいて見ると、なんと、人もあろうに、饗応役たる内匠頭である。梶川よりなおおどろいたのは吉良である。仰天してふりかえると、血相かわった内匠頭の刀が真向からまたきた。吉良は逃げようとしたところをまた一太刀斬られて、そのままうつぶせに倒れた。同時に、梶川は内匠頭に抱きついた。もみ合っているうちに、近所にいた人々がかけあつまって、いっしょになってとりおさえる一方、倒れている吉良を介抱《かいほう》して、よそへつれて行った。
「徳川実紀」の記載はずっと簡潔だが、あらすじは全然同じである。
「義人録」には、吉良が梶川にむかって、内匠頭に聞えよがしに、
「浅野殿ごとき人に何がわかろう。御相談があるならすべて拙者に仰せ聞けられよ」
といい、また、列座の高家衆にむかって、
「田舎大名がよくしくじることじゃ。今日もまたお役目をはずかしめるのだ」
といったので、内匠頭がかっとなって狼藉《ろうぜき》におよんだと書いてある。これはおそらく真実であろう。そういう|きっかけ《ヽヽヽヽ》がなければ、内匠頭が激発するはずがないからである。
しかし、ある種の義士伝に、内匠頭が吉良にあることを聞いたのに、吉良が教えてくれないので、内匠頭が吉良の袖をひかえたところ、それをふりはらおうとした時、吉良のたずさえていた中啓《ちゆうけい》がしたたかに内匠頭の顔にふれたので、内匠頭が逆上して斬りつけた、とあるのは、全然の嘘と断定せざるを得ない。現存の資料からは飛躍しすぎて、この推定はなりたたないからである。
次に、喧嘩の原因について考えてみよう。
これに関しては、「梶川筆記」には全然記述がない。「義人録」と「徳川実紀」に記述がある。まず、徳川実紀の方をかかげよう。
「|世に伝うるところでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、吉良は高家として、長年儀式にあずかって、朝幕の礼節|典故《てんこ》を熟知しものなれていること当代に比類がなかった。そのため、名門大家といえども、みな礼儀をつくし、かれの御機嫌をとって、儀式あるごとに教えを受けた。それ故、彼は賄賂をむさぼって、豪富を積んだという。しかるに、内匠頭は少しも阿諛《あゆ》せず、このたび饗応役となっても、賄賂をつかわなかったので、吉良はにくんで、なにごとも内匠頭に告げ知らさず、ために、内匠頭は時刻をまちがえたり、礼節を失ったりすることが多かったので、こういう所為に及んだのである」
この記述は根本資料としては価値はない。第一、これが書かれたのは、事件の当座ではないからである。もし、事件の当座に書かれたものなら、吉良の悪口が書かれるはずがない。あの当座、吉良はちっとも手向いせず神妙だったと、将軍にほめられているのだから、すぐ書くなら、徳川家自身で編纂しているこの書物には、ほめて書くよりほかはないわけだ。この記事が書かれたのは、少なくとも、赤穂浪士の一挙が義挙として一般に認められるようになってからのことに違いない。第二に、漢文と和文のちがいこそあれ、「義人録」の記述とほとんど同じである。「義人録」は義士切腹の年の十月に出ている。僕は、「実紀」のこの記事は、「義人録」の説を和訳して出したのだと思っている。「義人録」の文章ではこうなる。
「義央《ヨシナカ》、官位ノ高キヲ以テ諸高家ノ上ニ居リ、京官至ル毎ニ未ダ嘗テ其ノ間ニ趨陪《スウバイ》セズンバアラズ。コレヲ以テ、自ラソノ能ニ矜《ホコ》リ、人ニ驕《オゴ》ル。前時、事ヲ共ニスル者、ソノ指授ヲ利トシ、則チ多ク賄賂ヲ行ヒテ、以テ之ヲ誘《イザナ》フ。長矩《ナガノリ》人トナリ強硬、与《トモ》ニ屈下《クツカ》セズ。オモヘラク、己《ワ》レ義央卜同ジク公事ヲ執《ト》ル。私ニ阿諛《アユ》スベカラズト。未ダ嘗テ謁《エツ》ヲ請《コ》ウテ問遣《モンケン》シテ、以テ其ノ歓《クワン》ヲ取ラズ。故ヲ以テ甚ダ相善《アヒヨ》カラズ」
「実紀」には、「賄賂をむさぼって豪富を積んだ」とあるが、「義人録」にはそんなことは書いていない。「ソノ能ニ矜リ、人ニ驕ル」とあるだけだ。
ここにおいて、われわれが信用出来る文献から知り得ることは、吉良が傲慢であったことと、内匠頭がそれに対してある遺恨をいだいていたというだけで、かんじんのことは何にもわからないのだ。一体、徳川時代には度々殿中で刃傷《にんじよう》が行われているが、その原因は、どれもこれもよくわからない。この事件以前に、若年寄の稲葉|正休《まさやす》が大老堀田正俊を斬ったことがあり、以後に、佐野|政言《まさのり》が田沼|意知《おきとも》を斬ったことがあって、ともに当時において権威ならびなき大官が殺されたのだから、大へんな聳動《しようどう》を世にあたえたのだが、これすらもやはりほんとのことはわからないのである。色々と取沙汰はしても、すべてが想像説の範囲を出ない解釈にすぎない。
古来伝わっている一説がある。男色事件が根になっているという説だ。貞享《じようきよう》の初年、浅野家に比々谷《ひびや》右近という児《ちご》小姓がいた。非常な美少年であったので、内匠頭の寵愛はひと方でなかった。一日、吉良はこの少年を見て、恋慕やまず、
「譲り受けたい」
と、内匠頭に所望した。内匠頭はこれをことわった。
その後、大老堀田正俊がまたこの少年を見て、所望した。堀田は当時ならびなき権勢家だ。綱吉が将軍になれたのも、前将軍の末期《まつご》の時における堀田の決死的働きのためだったので、綱吉すら恐れはばかったというほどの人物だ。内匠頭は心に惜みながらも、所望をいれないわけに行かなかった。腹を立てたのは吉良だ。
「誰にもやられんと言ったくせに、権勢家にならやるでないか。今に見ておれ。目にもの見せてくれるぞ」
と、歯ぎしりした。これが根本の原因だ云々。
男色は当時の風習だ。上は将軍から百姓町人に至るまで大流行だった。一応考察してみる必要はあるが、十七八年もの間、男色の恨みを持ちつづけていたというのは、奇抜《きばつ》にすぎるようだ。
更に一説がある。これは近頃一部の人々の間に言い出された最も新しい説である。
元禄の初年、吉良家はその三河の領地に塩田をひらき、製塩事業をはじめた。日本の製塩事業は、これを最初に大規模にやり出したのは赤穂の浅野家だ。長矩の祖父長直が着手し、長矩の代にこれを大拡張して、赤穂塩といえば、天下を圧する名声があった。
さて、吉良は製塩をはじめて、饗庭《あえば》塩と名づけて売り出したが、赤穂塩のように上手に出来ない。そこで、赤穂藩に秘法の伝授を乞うた。赤穂ではこれを教えなかった。製造業者が競争者に秘法を伝えるはずはない。現代だって、こんなことは普通だろうが、封建時代はもっときびしい。ある藩の経済を助けている諸工芸、たとえば製陶法、たとえば蒔絵の法、たとえば製紙法等の秘法は、厳重に秘密にして、他藩領の者に教えてはならないことになっているのが普通だった。民間に伝承《でんしよう》される物語や小説等に、この秘法盗みのことがあるのは、このためである。これが、吉良が浅野に恨みを含んでいじめた原因であるという説。
この説は、よく辻褄《つじつま》が合って、どこにも無理がない。賄賂説などよりはるかに重量があると思うが、何にしても新説だ。さらに精密な検討をする必要があろう。
さて――
ともあれ、何の理由でか吉良が内匠頭をいじめたため、内匠頭は吉良に対して遺恨《いこん》を抱いていたわけだが、それが直ぐに喧嘩の原因にはならない。周囲の情況だとか、健康状態だとか、当人同士の性質だとか、いろいろな事柄《ことがら》がからみあって、喧嘩という結果を生むのだから。ところで、これらのなかでは、当事者の性格が、最も大きな要素をしめる。気の長い人間、思慮の周密な人間なら、めったなことでは喧嘩しないからだ。そこで、両者の性格|解剖《かいぼう》をこころみてみる。
吉良の家系のりっぱなことは誰も知っている。足利時代には将軍家の一族として最も高い家格《かかく》があった。下馬衆《げばしゆう》といって、ほかの大名等は吉良家の当主と途《みち》であうと、下馬《げば》して式体《しきたい》(あいさつ)しなければならなかったのである。また、将軍に世嗣《よつぎ》がない時には、先ず吉良家から入ってつぎ、次に駿河《するが》の今川家から入ってつぐといわれていたほどの家柄であった。
徳川家とも関係がある。徳川家は新田《につた》氏の子孫であり(真偽のほど甚だあやしいのであるが、徳川家ではそう称しているだけでなく、信じているのだから、一応したがっておく)、吉良家は足利氏の子孫であるから先祖が兄弟(八幡《はちまん》太郎義家の子義国の子)である。その上、もっとも近いところにも血縁関係がある。彼の曾祖父《そうそふ》義定《よしさだ》は、家康の大叔母が吉良家に嫁いで生んだ子である。
門地家柄《もんちいえがら》を重んずるのは封建時代の特質である。吉良家がいかに当時重んぜられたか、容易に推察がつく。
つぎに、その親戚関係をみよう。
彼の母は、三代将軍から四代将軍の時の名大老であった酒井|忠勝《ただかつ》の弟|忠吉《ただよし》の女《むすめ》であり、彼の妻は米沢の上杉|綱勝《つなかつ》の妹であり、その長子は上杉家をついだ綱憲《つなのり》であり、長女鶴子は上杉家の養女分となって薩摩の太守《たいしゆ》(国守大名)島津|綱貴《つなたか》の夫人となり、次女|あぐり《ヽヽヽ》も同じく養女分として大名の津軽家の分家である旗本の津軽|政※[#「凹/儿」]《まさかた》にとつぎ、三女菊子もまた養女分となって酒井忠吉の弟|忠重《ただしげ》の曾孫《ひまご》である旗本の忠平夫人となった。みいとこ同士で結婚したわけである。そして綱勝の妻は会津《あいづ》の保科正之《ほしなまさゆき》のむすめ春子で、綱憲《つなのり》の夫人為姫は紀井大納言《きいだいなごん》光貞の女《むすめ》である。光貞の子|綱教《つなのり》は将軍のひとり娘鶴姫の婿で、綱吉が自分のあとつぎに立てたがってうずうずしていた人である。図にしてしめすと、次のようになる。
つまり、吉良は上杉家の当主の実父であっただけでなく、大諸侯たる島津の岳父《しゆうと》であり、また、上杉家を通じて、親藩たる会津家ともひっぱりになり、紀州家や将軍家とも縁つづきになっていたわけだ。この事実は、彼が、当時いかに羽ぶりがよかったかということを示すとともに、いかにその手腕がすごかったかという証拠《しようこ》になる。
彼はなかなかの手腕家だった。それは、彼の民政ぶりを見てもわかる。彼の領地は、三州|幡豆《はず》郡に三千二百石、上州|緑野《みどりの》郡に千石あるが、三州の旧領地では、今でも吉良の遺徳をしたって「忠臣蔵」の上演をゆるさず、おしきって上演すればかならず凶事《きようじ》があると伝えている。僕は大正の末、ここに近い三州西尾に遊んだことがあるが、附近の百姓等が、
「師直《もろなお》様は忠臣蔵に伝えられるような悪人ではなかった」
といって、堤防の構築、用水路の開鑿《かいさく》等、諄々《じゆんじゆん》として、その治績をかたるのをきいた。
事実、伝えられるような悪人ではなかったらしい。彼の凶悪《きようあく》な証拠としてあげられるのは、上杉家の騒動である。彼は義兄である上杉綱勝に子のないのを奇貨《きか》としてこれを毒殺し、実子綱憲をして上杉家を継がせたという説がある。この説を最初立てたのは、故|三田村鳶魚《みたむらえんぎよ》氏で、氏がその著「元禄快挙別録」でこの説を発表してから、皆が信じはじめたのであるが、その後、氏は「大名生活の内秘《ないひ》」「江戸雑話」の両書によってこれを訂正して、その思いちがいであったことを明らかにしている。
彼が強欲であったという説も、自分には信ぜられない。彼の強欲を物語る話としていろいろ伝えられているものは、皆、ずっと後世になってからできたもので、ひとつとして確実なものはない。その時代に最も近接してできた「義人録」には、――前にかかげた文章を読み返していただけばわかる通り、傲慢《ごうまん》であったとは明言しているが、強欲《ごうよく》であったとはいっていない。室鳩巣という人は、「義人録」を見ても、「駿台雑話《すんだいざつわ》」を見ても、多分に小説家的素質のある人だ。もし、少しでも吉良に強欲な点があれば、効果を強める上からはっきりと書かないはずはない。ところがそうしなかったのは、吉良の人となりを知っている人の多い当時では、そう書いては信用されなかったからにちがいない。
吉良には、そんなに欲ばる必要はなかったともいえる。高家《こうけ》(幕府の儀式や接待を受けもつ家柄)第一の高禄《こうろく》の家ではあり、上杉家十五万石の当主は自分の実子だ。いくらでも金はひき出せるのである。事実、彼が鍛冶橋《かじばし》の屋敷を営んだ時には、何万両という金が上杉家から出ている。なにを苦しんで、端金《はしたがね》にすぎない賄賂《わいろ》をむさぼる必要があろう。
傲慢であったということは事実であろう。家格が高い。親戚に名族大家がたくさんにある。そして、二十歳の頃から六十一歳の今日にいたるまで、朝幕《ちようばく》の間に周旋《しゆうせん》して、一種の功臣でもある。よほどにできた人間でないかぎり、傲慢にならざるを得まい。
賄賂一件も、彼の貪欲《どんよく》というより、この傲慢が大いに因をなしていると思う。
一体、賄賂ということは、悪いことにはちがいないが、徳川時代には、殊にその初期においては、そんなに悪いこととは考えられていなかった。
幕府創業の功臣本多佐渡守正信は三万石の小大名でおわった人であるが、その功績にくらべてあまりに薄禄なので、けちん坊の家康も気の毒になったと見えて、ある時、
「封《ほう》(領土)を増してやろう」
といったことがあった。すると、正信は、
「御心配には及びませぬ。拙者は非常に割のよい地位にいます」
といって、金銀のいっぱいつまっているいろいろな壼《つぼ》をとりだして、
「これは黒田家から今朝《けさ》方《がた》持参いたしました。これは昨日池田家からもらいました。これは一昨日細川家から持ってまいりました」
などと披露《ひろう》したので、家康は笑い出して、
「さてさて、その方は果報《かほう》者だ。わしもそのような身分になりたい」
といったという。この頃の賄賂に対する考えかたを見るべきである。賄賂といってはわるいが、進物とか、贄《にえ》とか、束脩《そくしゆう》(師に贈呈する進物)とかいえばわかる。一種の儀礼的なものと見られていたと思われる。
しかし、この賄賂にたいする考えかたは、時代の進むにつれて、だんだんにかわって来ている。家康時代にはかくもほがらかにやりとりされたものが、三代将軍の時代になると罪悪視されている。家光という人は苛察《かさつ》(きびしい観察)を好んだ人だとつたえられているが、ある時、老中等に、
「その方の家に、昨日何家から何を持ってまいったであろう。また、今朝方その方の家には何家から何を持ってまいったであろう」
と、一々はっきりいったので、老中等は慄然《りつぜん》として恐れたと伝えられており、四代将軍の家綱の初政、松平伊豆守信綱の主唱で、
「上様《うえさま》御幼少におわす故、疑いを避けるため、以後、進物を受けぬことにいたそう」
と、老中等が申し合わせたという話もある。
なぜ、こんなに、賄賂が罪悪視されるようになったかについてはいろいろな理由が考えられるが、ここにも儒教の影響がもっとも大であったと思う。一体、支那くらい昔から賄賂、苞苴《ほうしよ》(進物・わいろ)のさかんなところはなく、それだけにその弊害を感ずることが切で、儒教においては、賄賂を非常に罪悪視する。それが、儒教の興隆とともに、日本人の賄賂観をしだいにかえてきたのだと思う。
しかし、取る方とやる方では、しぜん考えかたもちがう。やる方では非常な罪悪だと思っても、取る方ではさほどに悪いことと思わない。昔からの習慣になっているものをくれない者がいると、あるいはくれてもそれが軽少であると、さほど強欲な人間ならずとも、
「きゃつ、礼儀を知らぬ」
ということになるのは、まずありそうなことである。まして、礼儀と典故《てんこ》のばけものみたいな吉良においてはなおさらのことだ。傲慢なだけに、侮辱に似たものを感じたであろう。ことに、この時代は、一時下火になっていた賄賂が以前にもましてさかんに行われている。松平信綱などの死後、大老となって下馬将軍の威名をほしいままにした酒井忠清は、
「わしは上様の御名代《ごみようだい》をつとめるものであるから、わしに賄賂や進物があつまるのは、みなが上様を恐れうやまうからである。それ故、賄賂進物の多いのは、上様の御威光がいよいよ大であるしるしであるから慶賀すべきことだ」
といっていたというほどだ。綱吉は将軍になるとすぐ、この弊《へい》を矯《た》めようとして、ほとんど処罰同様な厳酷《げんこく》さで賄賂とりの総本家の観のあった忠清を罷免して、熱心に綱紀《こうき》の粛正《しゆくせい》に努めたのだが、間もなく彼の政治がじだらくになった上に、あまりにも施政ぶりが専制的だったので、未曾有《みぞう》の賄賂時代を現出した。極端に専制的な時代には、宮廷や後宮《こうきゆう》が強力な政治力を持つことになるので、合法的な途をとって陳情するより、直接宮廷や後宮の有力者にはたらきかける方が近道となるので、かならず賄賂がさかんになる。これは歴史の鉄則だ。後年の田沼時代然り、間近くは今次の大戦中然り、戦後の占領期間中然り。今日の盛行は政治献金という名で合法化しているからだ。
吉良はなかなかの美男子だったそうだ。彼の夫人富子は、彼が十八歳の時嫁いできたのであるが、それは彼の男ぶりにほれてのことだったと伝えられている。家柄が家柄であり、礼儀と典例の中にだけ生活していたのであるから、美男であり、立居振舞《たちいふるまい》が優雅《ゆうが》であったのはまちがいあるまい。三河の菩提寺《ぼだいじ》である華蔵寺《けぞうじ》にある彼の木像の写真を見たことがあるが、堂々たる風采《ふうさい》である。
赤穂の浅野家は、蔚山《うるさん》籠城で名高い幸長《よしなが》の末弟長重を祖とする。最初、下野の真岡《もうか》、つぎに常陸の真壁《まかべ》、つぎに同国|笠間《かさま》の領主となり、その子|長直《ながなお》の代に赤穂へ転封《てんぽう》になった。この人はなかなかの名君だった。赤穂城をきずいたのもこの人、山鹿素行《やまがそこう》を千石の大禄《たいろく》を以て招き、足かけ九年の間|召抱《めしかか》えたのもこの人、その後、素行が儒学上の学説から幕府の忌諱《きき》にふれて流謫《るたく》された時、幕府に乞うて赤穂に保護すること十年に及んだのもこの人である。前章の「元禄時代」で少し触れておいたが、素行は普通考えられているように単なる山鹿流の軍学者ではない。これまで支那直輸入のままであった儒学を日本的儒学に構成し直した当時における一流の儒者であり、また、武士道の整備と樹立に関しては比肩《ひけん》する者のないほどの功績者だ。
十年の幽囚《ゆうしゆう》の間に浅野家は実に彼をよく遇した。このことを素行は自ら記述している。それによると、良雄の大叔父大石頼母などは、十年の間一日もかかさず素行の御機嫌伺いにその居に伺候《しこう》し、必ず一日二回御馳走をこしらえて、使いの者に持たせてやったという。重臣がこうなのだ、全藩の者が素行を厚遇すること至れり尽せりであったことは、容易に推察される。かほどの厚遇に感激しない者があろうか。素行は機会ある毎に、藩中に道を説き教えを講じて、士風の砥礪《しれい》(みがきとぐ)につとめた。十年の後、罪を赦されて江戸にかえる時、彼は浅野家に対してこういったと伝えられる。
「十年の間の厚いおもてなしに対して、今日直ちにお報いすることはできませんが、いささか種をまいておきましたれば、後年、必ず万分の一の御報恩ができようかと存じます」
長直の子が長友、その子が長|矩《のり》である。
長矩は九歳の時、領主となった。
長矩は名君だったといわれているが、自分の調べたところでは、その結論は出ない。暗君とまでは行かないが、普通の君主である。名君であった祖父長直がもう十年も長生きするか、素行がもう七八年も赤穂にいたら、その感化や教育でりっぱな人になったであろうと思うが、祖父には六歳の時に死別しているし、素行は彼が九歳の初秋江戸に去っている。
義士のなかでも、長矩に対しては、そう心服《しんぷく》している人はない。小野寺十内が、妻に出した手紙の中に、
「今の内匠《たくみ》どのにかくべつの御なさけにはあづからず候へども、代々の御主人、くるめて百年の報恩……かやうなときにうろつきては家のきず、一門のつらよごしもめんぼくなく候ゆゑ、節にいたらば、こころよく死ぬべしとたしかに思ひきはめ申候」
とある。長矩の格別の御恩にあずかったわけではないが、武士の道として死ななければならないのだという意味である。
大高源五もこれと同じ意味を母にあてた手紙のなかに書いている。
千馬三郎兵衛のごときは、長矩の怒りにふれて、浅野家|退転《たいてん》の覚悟をきめて、江戸から赤穂へかえって、その荷づくりをしている時、凶報に接して、志をひるがえして盟約にはいったという。
大石を重く用いずに、大野等を重く用いたことを見ても、長矩がどれくらいの人物だったかわかる。彼の寵愛《ちようあい》した人物といえば、重臣では大野九郎兵衛のような算勘《さんかん》(そろばん勘定)貨殖《かしよく》(財産をふやす)の術にたけたやからであり、普通の士では、片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、中村清右衛門、田中貞四郎等である。この人達は、みな、男色関係で寵愛せられたのであって、義挙に参加したのは、片岡、磯貝の二人に過ぎなかった。決して名君の所業《しよぎよう》とはいえない。
癇癪《かんしやく》もちであったことは、弟の浅野大学が、後年旗本にとり立てられた後、朋輩《ほうばい》で、有職故実《ゆうそくこじつ》学者として名高い伊勢貞丈に、短気でおこりっぽい人であったといっているから明瞭である。つまり、普通の人で、癇癪持ちだったと断定してよいだろう。
乃木大将は山鹿流軍学者玉木文之進(吉田松陰の叔父)の門人なので、その立場から長矩を批評して、
「長矩武人の心がけなし。なぜ突かぬのだ。斬るというのは愚劣だ」
といったことがある。この批評にたいして、明大教授だった松崎実氏が、
「乃木大将の批評は酷だ。人情をわきまえない。長矩は吉良がにくかったのだ。憎いという感情の発する時、人間の感情はまず相手の面部に集中する。長矩が吉良の面部めがけて斬りつけたのは、無理はないではないか」
といった。しかし、そうした自然の感情を制御するのが武人の心がけなのだ。自然の感情にまかせるなら匹夫下郎《ひつぷげろう》とえらぶところはない。
前に少し書いた若年寄《わかどしより》稲葉石見守|正休《まさやす》が大老堀田正俊を殺したのは、この時から十七年ほど前、貞享《じようきよう》元年のことだが、この時、稲葉は、当時名刀鍛冶として名の高かった長曾根虎徹《ながそねこてつ》に依頼して、数本の刀をうたせ、鍬《くわ》をつらぬいてみて、みごとにつらぬいたなかから、さらに出来のよいのをえらんでさして登城し、御用部屋の入口まで堀田を呼び出して置いて、腹につきさしてえぐった。あまりに深く突っこんだために、刀の切先が壁までとおって折れたという。堀田が即死したことはいうまでもない。
こういう手本があるのに、寸伸びの刀をさして行くこともせず、おまけに切りつけるなど、不覚悟も甚だしいといわねばならない。
この点については、当時、すでに世評があって、
初手《しよて》は突き二度目はなどか切ら(吉良)ざらん
石見がえぐる穴を見ながら
という落首が行われたほどである。
事は不意におこったのであって、計画的のことではないという人がある。しかし、どんな不意の場合でも手落ちない挙措《きよそ》をとるというのが武人日常の修養であるはずだ。
長矩は山鹿素行の軍学上の弟子だ。それは「素行日記」に明記されている。貞享元年八月十三日、長矩十八歳の時、十五歳になる弟大学とともに入門している。もし、彼がよき弟子であったなら、最初からあんな刃傷などしなかったであろう。素行の著「武家事記」の武家式のなかに、こういう一節がある。
「およそ、喧嘩は一人の憤りを報ぜんことを欲し、家を失ひ忠をつとむることを忘る」
不肖《ふしよう》な弟子であったことを知るべきであろう。
浅野家ははなはだ倹約の家柄だった。いったい、幕府のさだめた軍役では、五万石の家中ならば、士分(将校)以上の者が七十騎あればいいことになっているのだが、浅野家では二百十余騎もあった。標準の三倍以上の兵力である。長直が死んだ時、山鹿素行の書いた「湖山常清公行実並哀辞」(長直公行状記及び哀悼の文)のなかにそう書いてある。
太平洋々《たいへいようよう》の気象《きしよう》が行きわたって、どこの大名でも人べらしに汲々《きゆうきゆう》としていた時代、実におどろくべきことで、浅野家がいかに武備厳重な家柄であったかを示すものであるが、同時に、よほどの倹約をしなければ追っつかなかったろうということも語るものである。浅野家は小藩ながら裕福であったという人がある。当時でもそういう噂があったらしく、太宰春台など、その著「赤穂四十六士論」に「吾之ヲ聞ク、赤穂ハ富国ナリ。民|欣《ヨロコ》ンデ其ノ君ヲ戴クコト一世ニ非ズト」と書いている。事実、塩田があり、私墾の田があり、五万石とはいっても、内高六万石から七万石の間ぐらいあった上に、時々芸州の本家からの扶助《ふじよ》もあったそうである。しかし、そうであっても、標準の三倍以上の軍備を持っていては、裕福どころのさたではない。倹約をしても、相当苦しい所帯《しよたい》だったのである。
「義人|纂書《さんしよ》」に「無名氏書簡」というのがおさめられている。宛名のところがかけているために、誰の書簡だかわからないことになっているが、中に出てくる人名等から考えあわせてみると、不破《ふわ》数右衛門の実父佐倉新助から数右衛門にあてたものだと思われる。事変以前に新助も数右衛門も浅野家を浪人しているのであるが、そのなかにこういう意味の文句がある。
「先年、自分がお留守居役として江戸におった時、お城坊主の清葛《せいかつ》が、毎年年末にお心づけとしてくだされる例になっている銀子《ぎんす》を秋頃くださることにしていただければ、私共は大いに助かります、というので、自分はその通りにはからってやった。清葛ばかりでなく坊主衆は大へんよろこんだ。このことはお前も覚えているであろう。すべてのことをこのようにすれば、公儀方面のことも円満にはこんで、お家のためになるのである。しかるに家中の役人共は、殿様の御機嫌を損ずることをおそれて、金をつかわなければならない場でも倹約ばかりしているので、お家の評判が悪くなるのである。去年の大変もつまりはそこに原因があるのだ云々……」
倹約ということは決して悪いことではない。まして倹約して、武家において最も重要なこととされている軍備を維持しているのだ。これを悪いといっては、当時の常識にそむく。当時の人が、山鹿素行をはじめ、皆口をそろえて賞讃しているのは、当然のことだ。
しかし、ばかばかしいまでに体面と儀礼を重んずることによって幕府の権威を立て、社会の秩序を維持している時代だ、美点とされている浅野家のこのことが、かえって家滅亡の因となったのは、皮肉きわまるなりゆきであった。
せんずるところ――浅野家が金銭に細かい家であり長矩が凡庸《ぼんよう》な人であり、しかも、殿様気質の短気であったということと、吉良の傲慢な性質とが、儀礼と体面がらめの時代という雷雲のなかで、相|搏《う》って散らした火花が、松の廊下の事件である。
僕は浅野家の悲劇の中に、江戸時代の大名に本質的に内在していた矛盾を見ざるを得ない。一体、江戸時代の大名の家は、その組織は軍事を建前として、軍隊組織になっていたが、その機能は軍事だけではなかった。同時に国家としての機能もあったのだ。だから、戦争が頻々《ひんぴん》とあった時代には、大きな軍備を持っていたことは、大いに利益になったが、太平打ちつづく時代となると、軍備は無用の長物《ちようぶつ》となった。大きすぎる軍備と来てはなおさらのことだ。国家としての機能に害悪しか与えなくなった。しかし、軍事が建前だから、軍備の充実完備は望ましいこととされた。浅野家の悲劇は、この矛盾のあらわれだったのだ。
松の廊下の事件がおこった時、綱吉将軍は、沐浴《もくよく》して勅諚《ちよくじよう》に奉答するために行水《ぎようずい》をしている時だった。あわてふためいた人々は直ちに入って言上《ごんじよう》しようとしたが、お次の間にひかえていた側用人兼老中格、柳沢|吉保《よしやす》はこれを制止して、行水がすみ、髪上げもおわり、これから装束《しようぞく》をつけるという時になって、言上した。こうした落ちつきは、柳沢得意の場であって、彼の出世のいとぐちもここにあったのである。この時から十七年前、綱吉の初政時代、前に度々述べた大老堀田正俊が稲葉|正休《まさやす》に刃傷された時、側用人牧野|成貞《なりさだ》があわてて帯刀《たいとう》のまま飛びこんできたのを、当時お小姓《こしよう》であった吉保はさえぎってこれをとめ、刀を脱がして、おちつきはらって御前《ごぜん》にみちびいたので、これを望見した綱吉に、その器量《きりよう》をみこまれて、抜擢《ばつてき》に抜擢を重ねて、十七年の間に一介《いつかい》のお小姓から大名となり、側用人となり、老中格となって、幕府第一の出頭人《しゆつとうにん》(権勢家)となったのである。
綱吉は嚇怒《かくど》したが、儀式の時刻がせまっているので、喧嘩に対する処分はあとまわしとして、下総佐倉の城主戸田能登守|忠真《ただざね》を浅野のかわりに饗応役《きようおうやく》に任命し、同時に白書院《しろしよいん》は血にけがれ天朝《てんちよう》に対して恐れ多いというので、黒書院《くろしよいん》を式場として、ともかくもとどこおりなく儀式をすました。
そこで、喧嘩の後始末となった。将軍はまず調査を命じた。老中は、時計の間において若年寄、大目付《おおめつけ》列座の上、梶川を呼び出して、顛末《てんまつ》を問いただした。梶川は逐一《ちくいち》言上した。
「上野介のてきずはどれほどか」
「たしか二三ヵ所と存じます。しかしながら、深手ではございますまい」
「その際、上野介は脇差《わきざし》に手をかけるか、ぬきあわせるかいたしたか」
「拙者の見ましたところでは、帯刀《たいとう》には手をかけなかったようでございます」
これと同時に、吉良が負傷の手当をして休息している高家詰所《こうけつめしよ》へも目付衆が出向いて審問《しんもん》が行われていた。
「その方、何の恨みあって内匠頭に刃傷《にんじよう》されたるや。覚えあろう。ありていに申し上げよ」
「拙者は御覧の通り老人、人から恨みを受けるような覚えは毛頭《もうとう》ござりませぬ。察するところ、内匠頭の乱心《らんしん》と存じます」
と、吉良は答えた。この吉良の答えを、狡猾《こうかつ》だからとか、姦佞《かんねい》だからとか、みな書いているが、狡猾であろうがなかろうが、吉良としてはこう答えるよりほかはない。まさか、浅野のやつ、進物《しんもつ》の持ってきようがはなはだ軽少で、拙者を侮辱していますとも言えまい。製塩法云々のことなど、なおさら言えることではない。これは訊問《じんもん》の方法がばかげているのだ。真正面からこんなききかたをしたところでどうなるものではない。ほんとに泥をはかせるつもりなら、わきの方からじわじわと責めて行かねばならないところだ。
この際、内匠頭の訊問があったかどうか、はっきりしない。お目付役で蘇鉄間《そてつのま》におしこめられている内匠頭のつきそいを命ぜられていた多門《おかど》伝八郎の筆記というのが伝わっている。偽書《ぎしよ》だということになっているが、それによると伝八郎等が訊問役を命ぜられている。
「その方儀《ほうぎ》、御場所がらをもわきまえず、上野《こうずけの》介《すけ》へ刃傷に及んだこと、いかなる心底《しんてい》なるや」
「一言も申しひらきのことばござりませぬ。上へたいしたてまつっては、いささかも御恨みはござりませぬが、私の遺恨あって、一己《いつこ》の宿意《しゆくい》を以て前後|忘却《ぼうきやく》いたして、討果《うちはた》さんとて刃傷に及びました。この上はいかようなる御|咎《とが》めに仰せつけられましょうとも、露うらみには存じませぬ。しかしながら、上野介を討ち損じましたこと、いかにも残念に存じます。浅手《あさで》であったように思いますが、彼はいかがしていましょうか」
「浅手ではあるが、老年のこと、ことに面体の傷所《きずしよ》なれば、養生も心もとないと思う」
と、答えてやると、内匠頭はにっこり笑って、
「この上はなにごとも申し上ぐべきことはござらぬ。御定法《ごじようほう》通りのお仕置《しおき》を仰せつけくださいますよう」
伝八郎ははじめっから番人頭としてつきそっていたと「徳川実紀」に書いてあるのだから、もし内匠頭が傷のことをきくなら、その時にきいたはずで、訊問の際になってきいたなど甚だあやしく、偽書たることを証しているが、ことばのやりとりは大体こんなものだったろう。
これらの報告をあつめて、綱吉は裁断にかかった。彼は激怒している。気に入りの柳沢にも老中にも相談せず、専断《せんだん》を以て言い渡した。
「内匠はひとまず他家へあずけい」
そこで、老中が相談して、奥州一の関の城主田村右京大夫を召して、これを命じた。
また、吉良へはかく言えといった。
「上野介儀、公儀を重んじ、急難の節なるにもかかわらず、時節をわきまえ、場所がらをつつしんだる段、甚だ神妙なれば、なんの構《かま》いなし。手傷《てきず》療養念入りにいたすよう」
老中はこの旨を大目付によって吉良に伝達させた。それだけでなく、その申しわたしの席に柳沢吉保がわざわざやってきて、
「唯今仰せ出された通りでござれば、本復《ほんぷく》(病気の回復)しだい前々にかわらず相勤められるように」
と、申しそえた。大へんな優諚《ゆうじよう》(ねんごろな言葉)である。
間もなく、老中等はまた将軍に呼ばれた。うちそろってまかり出ると、綱吉は待ちかねたように口をひらいた。
「内匠頭、今日の所業、場所柄と申し、その身の職責といい、私の宿意《しゆくい》を以て殿中をさわがせ、式場をけがしたる段、不届至極《ふとどきしごく》、切腹申しつけよ」
老中たちははっとしたまま、急にはお受けできなかった。すでに切腹という以上、家名断絶、領地没収が附随するのだ。吉良へあたえられた優諚と比較するとき、あまりな厳罰といわねばならない。喧嘩両成敗は家康以来の典則《てんそく》である。
そこで、末座の稲葉|正通《まさみち》がおそるおそる、
「御諚《ごじよう》ごもっともにはございますが、内匠頭は乱心のていに見受けられますれば、今しばらく御処分の儀は御猶予をねがいたてまつりたく存じます」
といった。将軍はさっと立って不興げに奥へはいったが、すぐまた月番《つきばん》老中土屋|政直《まさなお》を召して、
「先刻申しつけたるごとく、即刻内匠頭に切腹申しつけい」
と命じた。もうどうすることもできない。この上、推して将軍を諫止《かんし》し得る人物は、幕府にはない。殺生禁断令《せつしようきんだんれい》すら諫止し得る者がなかったことを思えば十分であろう。浅野|長矩《ながのり》の運命は決した。同時にまた、吉良が浅野の遺臣らに首を授けなければならない運命も決した。なぜなら、浅野の遺臣等の憤りは、この不公平な裁判に対する抗議だったのであるから。春秋の筆法を以てすれば、吉良を殺したのは綱吉将軍であるといえよう。
大ていな義士伝では、この時、この処分伝達を命ぜられた役人のひとり多門伝八郎が非常に憤慨して、ことにそれが柳沢吉保一存の命だと伝え聞いて、
「柳沢殿ご一存のお聞きとどけならば、わたくしたって申し上げたい。柳沢殿は吉良殿と縁辺のある方と承る云々……」
と、強硬に言いはったので、伝八郎は一時部屋にさしひかえを命ぜられたと書いてある。けれども、この事実は「多門伝八郎筆記」にすら出ていない。また、前に吉良家の親戚調べをした通り、吉良家と柳沢家との間には全然縁戚関係はない。
この裁判は、確実に、綱吉一人の考えによってなされたものだと僕は判断する。前にも書いた通り、綱吉という人は、おそろしく頭のよい、だが、おそろしく権勢欲の強い、おそろしく我儘な人だった。こんな人にむかって、無断でその権能をおかして、かりにも大名ひとりを処分するようなことをするほど、柳沢は果断な人物ではない。彼は才子ではあったが、綱吉の意志に違《たが》わんことを常に恐れている男だった。そういう一種の忠実さが、綱吉の寵愛を得る秘訣《ひけつ》であることを知っている男だった。「柳沢家秘蔵実記」という書物がある。吉保の言行を、その家臣が筆録したものであるが、そのなかに「大名の発明《はつめい》(かしこいこと)に過ぎたるは家治らず、勤《つとめ》は実《じつ》を専一たるべき事」という項があって、はじめ綱吉に重く用いられ、後に不首尾になった人々をいろいろあげて、これらの人々はいずれも|りはつ《ヽヽヽ》すぎてだめだった。自分が首尾をあやまたずに栄達できたのは、実を以てつかえたからである、と吉保が言ったと書いてある。ここでいう実《ヽ》とは、忠実・実直の実《ヽ》で、おのれの才覚を用いないで、ひたすらに上意に従順であることを意味するのである。こういう勤務哲学を信奉している彼だ。よしんば、御相談にあずかったにしても、綱吉が言い出して、彼はそれに同意したくらいのものであろう。主動はあくまでも綱吉である。
では、綱吉が、どうしてそんなに激怒したかということになるが、第一には、自分の権威を無《な》みされたと彼が感じた点にある。徹底的に自分の権威を張ることを考え、それを張りきっていると信じ、それ故に自分の城中ではすべての人が一人のこらず威勢に屈服して不謹慎な行為などする者がいるはずはないと信じ切っていたのだから、内匠頭の所業は腹にすえかねるものがあったろう。第二は、内匠頭の所業が大不敬の罪をおかしている点だ。勅使|饗応《きようおう》の席であり、その饗応使たる職分にある内匠頭である。日本の国柄として、内匠頭の所業はぜったいにゆるすことはできないのである。綱吉は暴君ではあったが、学問が好きであっただけに、朱子《しゆし》学流の大義名分論を信奉しており、また、ものの筋道は立てすぎるほどに立てる人だった。ただ我儘だから、自分にはだらしなく寛大で、他人にたいしては厳格だったのである。だから、内匠頭の所業に対して、おそろしく激怒して、あの処分に及んだのである。また、ものを理窟でばかり考える人の通弊として、吉良が少しも応戦の態度に出なかったのが、ひどく殊勝《しゆしよう》に思われて、あの優諚となってあらわれたのである。
一体、古武士道――僕のいわゆる武士|気質《かたぎ》からいうと、吉良が応戦の態度に出なかったということは、相当問題になり得ることである。武田信玄は、その家来が喧嘩をした時、双方が素手《すで》でなぐりあったと聞いて「武士にあるまじき臆病《おくびよう》なふるまい」といって、切腹を命じている。命に別条がないように喧嘩したというのが気に入らなかったのである。ところが、綱吉は刀を抜かなかったといって吉良をほめている。ここにも武士道の変遷《へんせん》のすがたが眺められるわけである。
裁判というものは、情理かねそなわらなければならないものであるから、綱吉の理窟一点ばりのこの裁判が当を得たものでないことはいうまでもないが、それは吉良にたいして寛であったことが非難さるべきで、内匠頭への処分が厳にすぎたとはいえない。何にしても、大不敬の罪をおかしているのだ。どんなきびしい処分を受けてもいたしかたのないことなのだ。
ところで、京都方面には、この事件はどう響いたか。
東園基量《ひがしぞのもとかず》卿の元禄十四年三月二十日の日記にこうある。
「伝ヘ聞ク。去ル十四日、武江城ニ於テ、浅野内匠頭、吉良上野介ヲ刃傷ス。然レドモ、吉良死門ニ赴カズ。内匠頭、乱気ノ由沙汰アリ。夜ニ入リテ切腹セシメ、一家滅亡云々。|存念ヲ達セズ《ヽヽヽヽヽ》、不便《フビン》々々《ヽヽ》……」
東園|基長《もとなが》卿の、二十六日の日記にもこうある。
「伝へ聞ク。去ル十四日、関東城中ニ於テ、武士刀戦ニ及ブ。上野介死去ニ及バズ。内匠頭乱心ノ由相極マリ、其夜切腹云々、之ニ依ツテ一家滅亡云々。不便《フビン》々々。|所存ヲ達セズ《ヽヽヽヽヽヽ》、|且ツ家中以下流浪《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|不便ノ至リナリ云々《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
ところが、この基長の日記をさかのぼって、三月十九日の条を見ると、こうある。
「伝へ聞ク。去ル十四日、関東城中ニ於テ、吉良上野介ト浅野内匠頭、刀戦ニ及ブ云々。伝奏御暇ノ日ト云々。意趣、委儀ヲ知ラズ、|奇怪ノ至リ《ヽヽヽヽヽ》、|驚クベク《ヽヽヽヽ》、|恐ルベキノ事ナリ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
武家が朝廷を軽んずるから、こういうことにもなるのだと、非常に憤慨しているのである。それが、一週間の後、吉良は存命しているのに、内匠頭は切腹、家断絶、家中離散《かちゆうりさん》の運命となったと聞いて、俄然同情的になって「|不便ノ至リ《ヽヽヽヽヽ》」となるところ、人間心理の微妙なところで、はなはだ興味がある。
それはさておき、吉良は若い時から朝幕の間に周旋して、たびたび上洛《じようらく》もして、公卿さん達とはずいぶんなかよくしていたにかかわらず、こんな工合に同情が浅野家にあつまったというのは、綱吉の不公平な裁判にたいする朝廷方面の一種無言の批判、不満のあらわれと見ることができる。とするならば、すでに江戸方面でも老中等はこの裁判にたいして不満だったのであるから、綱吉の裁判は天下の人すべてに不満を以て迎えられたわけである。赤穂浪士は実にこの天下の人のあきたらざる心を満足させんがために起ったのだといえるのである。
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赤穂の巻
大石家は鎮守府《ちんじゆふ》将軍藤原|秀郷《ひでさと》――俗にいう田原藤太秀郷の末である。秀郷の子孫で、野州の小山《おやま》に居住して、小山氏と名乗っているものがあったが、その一族が近江に来て、栗太《くりもと》(今はクリタ)郡大石庄の下司職《げししき》となったので、大石と氏をあらためたのである。下司職というのは、荘園《しようえん》の管理人の一種である。大石の一族で進藤というのが代々近衛家につかえて諸大夫となっているところを見ると、大石の荘は近衛家の荘園であったのではないかと思われる。
室町時代となって、足利将軍につかえていたが、応仁《おうにん》の大乱に一家滅亡したので、本家《ほんけ》の小山家から久朝《ひさとも》という人を迎えて、家を再興したが、足利義昭将軍の時に義昭が織田信長の排斥をくわだてた時、義昭に方人《かたうど》したので、家ついにほろぼされてしまった。しかしどうやら血統はつづいて、数伝して内蔵助良勝にいたった。良勝は、幼少の時から男山八幡の宮本坊《みやもとぼう》に弟子となっていたが、気概のある男で、僧となることを欲せず、十四歳の時、脱走して江戸に出て浪々《ろうろう》の生活を送ること数年、十八歳のとき、浅野|采女正《うねめのかみ》長重につかえてしだいに重用されて、禄三百石を食むようになった。二十八歳の時、大坂冬の陣がおこったので、長重にしたがって奮戦、冑首《かぶとくび》(将校の首)二級を上げた。後、一層重く用いられて家老となり、食禄千五百石を給せられた。これが内蔵助良雄の曾祖父である。
良勝の子は内蔵助|良欽《よしかね》、父の死後あとをついで、同じく家老として長直、長友、長矩につかえた。良欽の子は権内良昭《ごんないよしあき》であるが、家をつがないうちに死んだので、その子良雄が祖父のあとをついで大石家の当主となり家老となった。
江戸時代には、祖父から孫へすぐ|あとめ《ヽヽヽ》をゆずりわたすことのできない規則になっていたので、良雄は祖父の養子ということになっていた。これは、彼が本懐《ほんかい》後細川家にあずけられている間に、幕府からの命令でさし出した親類|書《がき》によって一点疑いをいれる余地のないほど明らかなことであるが、講談などでは、彼は元来備前池田家の家老池田|玄蕃《げんば》の子で幼名を久馬といったが、玄蕃が有馬温泉に湯治《とうじ》に行っていた時、相客の浅野家の家老大石|頼母《たのも》と賭碁《かけご》を打って負けたので、久馬を養子としてつかわしたとか、久馬幼にして慧敏《けいびん》、癇癪《かんしやく》もちで薬ぎらいの池田侯に機智を以て薬湯をすすめたとか、いろいろ弁じたてる。しかし、これは、彼が養子だということだけを聞きつたえて早合点してこしらえたはなしにすぎない。彼が備前池田家の家老家から来た養子だという説は、彼の母が備前池田家の家老池田出羽守|由成《よしなり》の女であるところから出来たものであろう。
ついでだからいっておくが、講談や浪花節でやる「山鹿《やまが》送り」のはなしも実説ではない。素行が赤穂に謫《たく》せられた寛文六年には、内蔵助はまだ八歳である。いくら慧敏でも、八歳の少年をして幕府からあずかりの罪人を護送させるような無責任なことを、浅野家がするはずがない。まして、前にのべたように長直と素行とは師弟の関係があり、浅野家に仕えていたこともあるのだし、素行を赤穂につれて行こうというのも、これをよく待遇してその憂悶をなぐさめてやりたいという長直の好意から出て、幕府のゆるしを得たのだ。素行の門人等は、みなありがたいことと感謝こそすれ、奪いかえそうなどとばかなことをするはずはないのである。
素行護送の任にあたった人物の名前は、素行の日記に記載があって明らかだ。赤穂の重役で、彼の門弟であった藤井又助だ。
良雄は、俗説に伝えられるようなこざかしい――といってわるければ、目から鼻へぬけるような才子ではなかった。つぎに、それを究明してみる。
良雄の少年時代のことについては、確かなものは何ものこっていない。伝説的に伝わっているものから、比較的真実らしいと思われるものをあげて考えるよりほかない。
山鹿素行が謫居《たつきよ》生活をおくったのは、良雄が八歳から十六歳までの間だった。前にも書いた通り、彼の大叔父頼母があつく素行を尊敬して、毎日御機嫌うかがいに行き、日に二回は必ず料理をおくったというほど傾倒《けいとう》していたのであるから、甥たる良雄もまた出入りして薫陶《くんとう》を受けたであろうとは推察せられるが、後年良雄が山鹿流の兵法に通じていたという以外には、証拠はなんにもない。
京都堀川塾の先生として天下に知られた伊藤仁斎の門人だったという説がある。仁斎は当時日本にさかえた朱子学、陽明学のほかに、自ら一派を発明して古学派と名乗っていたほど大儒で、特に徳行を以て名高かった。荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》という人は、学問にかけては日本儒学史上古今に独歩するほど博識でもあり、また犀利《さいり》な頭をもった人で、めったに人をほめない人だったが、その人がこういっている。
「蕃山《ばんざん》の事業(政治的手腕)、仁斎の徳行、我輩の学識、これを一身に兼ねる人物がいたら、日本にもひとりの聖人が出ることになるのだ」
徂徠の自己の学識にたいする自負とともに、仁斎の徳行がいかにすぐれていたかを知ることができよう。
この仁斎の講義の席に時々内蔵助は出席するのだがいつもあまり熱心そうでない。ぼんやりと聞いている。ところが、ある日のこと、講義の席で、内蔵助はこくりこくりといねむりをはじめた。仁斎の門下生等は、これに気づいて憤慨にたえない。講義はてて、内蔵助が立ちさると、口をそろえて、さんざんに罵倒《ばとう》した。これが仁斎の耳にはいった。すると、仁斎はかたちを正して、
「おぬしら、さように口から出放題《でほうだい》なことをいうてあの人を罵ってはならぬ。あの人はなかなかえらい人だぞよ。わしの目に狂いはないはずだ。あの人の学問のしぶりは、文句のせんさくなどどうでもよく、直下《じきげ》に道の真髄《しんずい》にふれることを念としておられるのだ。大名衆だとか家老衆だとかの学問のしぶりはそれでいいのだ」
といったという。
この話が事実かどうかわからないが、彼が堀川門に出入りしたということは事実であろう。赤穂浅野家と伊藤門とはかなりに関係が深く、義士のひとりである小野寺十内《おのでらじゆうない》夫妻はその門下生であり、仁斎の子|東涯《とうがい》は、義挙前に自殺した萱野《かやの》三平(芝居の早野《はやの》勘平)の伝記を作っているほどであるから。
讃岐《さぬき》の高松に奥村権左衛門|重旧《しげふる》、号を無我と称する東軍流の剣客があって、勇名天下に鳴って、附近諸州から従って学ぶ者が多かったが、赤穂の家中からも随分多数の人がその門に入った。内蔵助もそのひとりで元禄五年六月、三十四歳の時|免許皆伝《めんきよかいでん》を得て、その時、彼のいれた起請文《きしようもん》が、高松の見性院《けんしよういん》に今も所蔵されているという。いったい、高松と赤穂は瀬戸内海をへだててはいるが、昔はあれくらいの海は陸地つづきであるよりも交通は便利であった。
内蔵助の修養について伝えられるところは以上につきる。では、これらの修養によって、彼はどういう人間になったかというと、俗説によると「昼行燈《ひるあんどん》」といわれるほどぼんやりした人がらだったという。
この俗説はかなりに正鵠《せいこく》を射ている。当時、水戸の史館総裁として大日本史の編纂に従事していた栗山潜鋒《くりやませんぽう》は、
「良雄人ト為リ温厚ニシテ度アリ、齷齪《アクサク》(こせこせ)トシテ自ラ用ヰルコトヲ為サズ」
といっており、同じく水戸藩の史官で、後に幕府の儒官となった三宅|観瀾《かんらん》は、
「良雄人トナリ和易簡樸《ワイカンボク》、矜飾《キヨウシヨク》ヲ喜バズ。国老ニ任ズトイヘドモ事ニ預ルコト鮮《スクナ》シ。而モ、内実剛潔ニシテ忠慨ヲ存シ、最モ族人ニ厚シ」
といっており、室鳩巣《むろきゆうそう》は、
「良雄人トナリ簡静ニシテ威望アリ。甚ダ国人ニ倚重《イチヨウ》セラル」
といっている。これらはその時代の人で、しかも史筆になれた名家の観察であるから、十分信用してよかろうと思う。
実際に見た人のことばとしては、小野寺十内が籠城さわぎの時、京都の親類に出した手紙のなかに、こんな文句がある。
「内蔵助の働き、家中一統に感ぜしめ候。進退をまかせ申候と相見え申候。年若に候へば、少しもあぐみ申候様子もなく、毎日終日城にて万事を引きうけ、少しもたじろぎ申さず、滞りなくとりさばき申候云々」
内蔵助の活動ぶりに家中一同おどろき感心しているさまがよくわかる。この驚嘆は、内蔵助が意外な手腕を発揮しているところから出ている。もし平素から|やりて《ヽヽヽ》であるなら、こうまで人がおどろき感心するはずはない。
大体において、鋒鋩《ほうぼう》をつつんであらわさない「昼行燈」であったと見てよかろう。しかしながら、相当威厳のあった人であることは、前にかかげた三家の評でもわかるし、細川家にあずけられた後、副頭領の吉田忠左衛門をはじめ諸士が皆彼をはばかったということが「堀内覚書《ほりうちおぼえがき》」に見えるによっても明らかである。
「堀内覚書」というのは、細川家の士堀内伝右衛門の義士関係のメモだ。一挙の後、義士等の一部が細川家にあずけられた時、彼は接待役となって、日夜に義士等を世話したが、その間の義士等の言行を、聞くにしたがい、見るにしたがい、またその家族等に会った時のこと等書き集めた、義士伝研究には逸することの出来ない貴重な資料である。
君子は盛徳あって容貌愚なるが如し、ということばがあるが、大体、人間は場合によると、しごとをしない方がいいのである。老子は、智恵出でて大偽《たいぎ》あり、といっているが、むやみにしごとをしたがるのは、多くの場合、利得の念による。そうでなくとも、あるいは自らの器量をあらわしたいため、あるいは人をしのぎたいため、あるいは不安をまぎらしたいためであって、いたずらに静平なる大地に波瀾をおこして、世を益するより世の害を為すことが多いのである。この戦争中に必要もない仕事を次から次に考え出して国民を苦しめた役人共のことを思い出してもらいたい。時と場所と、自分の立場を考えて、その方がよいと見きわめをつけたら、なるべく動かないように心がけることも、またなかなかえらいのである。それは、私心《ししん》がなく、沈着|大度《たいど》であればこそできるのであって、そういう人でなければいざという時に大事に任ずることはできない。英雄|頭《こうべ》をめぐらせば即ち神仙《しんせん》というが、動くや雷霆《らいてい》(かみなり)の発するごとく、静かなるや白雲の岫《しゆう》(山のほらあな)に入るが如くおっとりと物静かであることが、もっとも理想的な英雄男児のすがたである。
内蔵助がそれだった。いったい、この悟入《ごにゆう》はなんによって得たものであろう。素行や仁斎の薫陶《くんとう》もあろうし、剣の道からの会得《えとく》もあろうし、また、彼の生れつきもあろうが、僕には禅の影響があるような気がしてならない。松の廊下事変から開城、討入、そして切腹にいたるまでの、彼の洒々落々《しやしやらくらく》として拘泥するところなく、しかも大事なものはいつもしっかりとつかまえているという行きかたは、禅の鉗鎚《けんつい》(かなづちとかなばさみ)によって鍛えぬかれた人のすがたを想像させるのである。彼の菩提《ぼだい》寺は華嶽《けがく》寺である。そしてその宗旨《しゆうし》は曹洞禅《そうとうぜん》である。そのへんに、冥々契合《めいめいけいごう》の途《みち》はついていないか。華嶽寺の僧で、後に新浜正福寺《しんはましようふくじ》の住職となった大游良雪《たいゆうりようせつ》は内蔵助と非常に親しいなかで、凶報に接して内蔵助が当惑して教えを受けたところ、ただ一語、
「君|辱《ハヅカ》シメラルル時ハ臣死ス」
といったので、内蔵助は洞然開悟《どうぜんかいご》して、決意をかためた、というはなしがある。
こんな話はほかにもあって、北条時宗が蒙古の威迫にあった時、懊悩煩悶《おうのうはんもん》して祖元《そげん》禅師にその心配をうったえて、祖元から「莫妄想《まくもうぞう》」と大喝されて、断乎撃攘《だんこげきじよう》の決心をかためたなどという話もあるが、どんなものだか。おそらく、禅家の方から出た伝説で、まるまる信用してはなるまい。いまさら、良雪や祖元に一喝されて、はじめて行くべき道のわかる内蔵助でも時宗でもあるまい。修養は平時にある。時宗が禅の高僧等についてかねてから修行していたように、内蔵助も良雪だか誰だかわからないが、しかるべき禅家についてたたかれていたと見るべきであろう。ただ、確証を得ないのが残念である。
からだは小柄で、口数はすくなかったと、東条|守拙《しゆせつ》(一挙の後、義士の一部があずけられた久松家の当時の典医)が「赤城《せきじよう》士話」(あずかった義士から聞いた話を筆記したもの)のなかに書いている。
ここにおいてか、内蔵助の|※[#sjis="#88AB"]神《ぼうしん》はわれわれの眼前に髣髴《ほうふつ》を現《げん》じてくる。かざりけがなくて、おだやかで、出しゃばらないで、口数《くちかず》がすくなくて、小ぶとりにふとった小男の姿が――。
祖父の死によって十九歳で家をついでから主家滅亡にいたるまで二十五年間、彼は家老職にあったわけであるが、その間の事蹟はほとんど世に伝わらない。非常に平和な時代だったから、強いて腕をふるう必要もないので韜晦《とうかい》(つつみくらます)していた点もあろうし、内匠頭に用いられなかったという点もあろう。しかし、不興を蒙って、しばしば逼塞《ひつそく》(門をとざして出入りを禁ぜられる刑)を命ぜられたという説を為す者があるが、それは嘘であろう。大名の家における家柄家老というものはずいぶん重いもので、殿様でもなかなか自由にはならなかった。かりに、内匠頭が内蔵助をいやなやつだと思ったとしても、目通りを遠ざけたりなどしたことが親類や本家の耳にはいると、きっと問題になって、忠告や訓戒を蒙ることになるのである。
二十五年間の家老職在職中たったひとつ世にあらわれた事蹟がある。元禄七年三月の松山城受取りである。この前年十二月に、備中松山城主水谷出羽守|勝資《かつすけ》が急死したが、あとつぎが立ててなかったので、幕府の法によって家断絶となった。内匠頭が受城使《じゆじようし》を命ぜられたので、内蔵助は主君に先発して松山にいたり、二月二十三日無事に城を受取り、翌年八月五日、安藤|対馬《つしま》守へひきわたすまで、満一年半|在番《ざいばん》(その土地にあって勤務すること)した。
これまでの義士伝はひとつのこらず、この時、内蔵助が手腕をあらわして、それが、後年の大変に際して、赤穂の総家中が彼ひとりを頼りにした因であり、また、上杉家が彼を恐れた所以だといっているが、さて、どんなことがあって、どんな工合に手腕を発揮したかという点になると、すべてこれ狂言|綺語《きご》(上手に作った言語)の類《たぐい》であって、ほんとのことはまるでわからないのである。太平無事な江戸時代において、小大名にしても、大名の家がつぶれるということはなかなかの大事件だ。なにか特別なことがあって、内蔵助があざやかな手腕を見せたとしたら、何かたしかなものが伝わらないはずはないのだが、それがまるでない。たびたびいう通り、義挙の翌年初冬にはもうできた「義人録」の列伝にさえ、城受取りのことすら書いてない。僕は、水谷家の断絶はきわめて合法的なものであるから、後年の浅野家の時のような藩中のごたごたは一切なく、ごく順調にはこんだので、内蔵助の手腕の発揮をまつまでのことはなかったものと見ている。
思うに、こんな伝説がつくられたのは、いやが上にも内蔵助をえらいものにしようという気持からなのであろうが、柄《え》のないところに柄をすげてまでえらくする必要は全然ない。内蔵助のえらさは、大変以後において十二分に発揮されるのである。平穏無事の世には玉を韜《つつ》んで茫乎《ぼうこ》として昼行燈《ひるあんどん》である方が、人間としてはずっとえらいのである。
三月十九日の早朝、寅(午前四時)の下刻《げこく》のことである。宙を飛んで赤穂の町にはいった二|梃《ちよう》の早駕籠《はやかご》は、まだ明けやらぬ町を疾駆《しつく》して、大手の門から城内に入り、内山下《うちさんげ》の大石内蔵助の屋敷にはいった。
内山下というのは、いわば三の丸(二の丸をかこむ外郭)で、ここには重臣や寵臣の屋敷があるのである。元禄十四年の三月十九日といえば、今の暦になおせば四月二十六日にあたるから、晩春初夏、ことに内海の赤穂あたりでは、もうすっかり青葉のさかりだ。
内蔵助はまだ寝ていたが、あわただしい家来のとりつぎに眼をさますと、江戸からの急使として、早水《はやみ》藤左衛門、萱野《かやの》三平の両人が到着したという。
さっそく起きて対面すると、両人とも、いきもたえだえな有様である。彼等は、凶変のあった日の夕方江戸を出て、百七十五里を宿つぎ早駕籠によって、四日半で走破してきているのである。早駕籠のことはよく世に知られているから説明をさけるが、両人とも、場合が場合だけに、からだの疲労すると反対に精神は狂気のように興奮していたであろうと思われる。それをはげましたり、おさえたりして、内蔵助は両人のさし出す手紙を受取って披見《ひけん》した。
内匠頭の弟大学からの手紙である。あて名は内蔵助と大野九郎兵衛とになっている。内容はこうだ。
「内匠頭様が吉良と喧嘩して一太刀斬りつけなされた。今のところ、内匠頭様は無事である。御老中からの仰せで、家中しずかにするようにとのことであるから、国許《くにもと》でもその旨を心得て静穏《せいおん》にしていてもらいたい。お前等両名のうち、誰か出府《しゆつぷ》して来たいと思うであろうが、絶対に来ること無用である」
そして、尚々書《なおなおがき》として、委細《いさい》のことは使者共にきけ、なによりもまず札座《さつざ》のことをよく処理してもらいたいと書きそえてあった。
このふたりが江戸を立つまでの間には、内匠頭は切腹していない。将軍からはすでに老中にたいしてその命令をくだし、検視の役人も任命されているのだが、それはまだどこにも通達されていないのである。それだけでなく、相手方の吉良への処置が非常に寛大なので、浅野家への処分もかなりに寛大であるだろうと予期されていたのではないかと思われる。しかし、「札座」の処置をいってきているところを見ると、どこからか将軍の方針が漏《も》れたのかも知れない。あるいは、最悪の場合を考えてのことかも知れない。いずれであるか、今のところ、判断がつかない。
札座というのは、藩札《はんさつ》の役所のことである。藩札は藩の信用で領内に流通しているものであるから、藩がつぶれれば価値がなくなるのは当然だ。それでは領民が困窮するから、これを適当に処理しておくのは藩としての責任なのである。
茫乎《ぼうこ》たる昼行燈も、この変報には愕然としたろう。しかし、ともかくも、即刻、家中総登城を命じた。
この突然の総登城の命令に、なにごとならんと二百有余人の家中の者は続々と登城して来て、城中の大広間にあつまった。内蔵助は一座の者にむかって、大学からの手紙と急使等の口上書《こうじようがき》を披露した。あまりなる変報に、一座茫然自失のていで、しばしはものいう者もなく、ややあってから、いろいろな意見が出たことであろう。しかし、前にもいう通り、急使等のもたらした報告がきわめて不完全なので、これを土台にしては策の立てようもない。いずれつぎの報告があることではあろうが、とりあえずこちらからも急使を出そうということになって、萩原《はぎわら》文左衛門、荒井安右衛門のふたりを、正午頃、江戸にむかって出発させた。つまり、この時の会議は、かようかようなことがあったと家中に報告しただけで、ひとまず解散《かいさん》したのである。
これだけのことをしておいて、内蔵助は、金奉行《かねぶぎよう》、勘定方《かんじようがた》、札座奉行等をあつめて、藩札の発行高と現在藩庫にある金高とを調査することを命じたが、そのうちにも、領主家滅亡と漏れ聞いた領民共は、早くも両替《りようがえ》のためにつめかけてくるというさわぎである。
その日の夜、戌《いぬ》の下刻《げこく》(九時近く)、第二の使者原惣右衛門、大石瀬左衛門が到着した。
このふたりは、十四日の午後八九時頃に江戸を立っているので、やや詳細な模様を知っている。持参の書状も三通ある。
一通は分家で旗本である浅野美濃守長恒、大学、内匠頭の従兄弟《いとこ》戸田|采女正《うねめのかみ》三人連署で、大石以下重臣等にあてた、「内匠頭切腹仰せつけられたについては、家中の者共、静穏にしているように」という内容のもの。
一通は老中から御親戚にあてた「赤穂家中の者共の騒がぬよう努力せよ」という意味の書付の写し。
最後の一通は、内匠頭の切腹した田村邸からきた、「死骸を引きとるように」という書状の写し。
赤穂浅野家の運命は、これでもうはっきりときまった。主君切腹、したがって、領地没収・家断絶である。七年前の松山水谷家の運命は今日の赤穂の運命である。やがて、城受取りの上使を迎えねばならないのである。
内蔵助はまた総出仕《そうしゆつし》を命じて、右の書状を読みきかした上、使者等から聴取した江戸の模様をつげ知らせた。万一の空頼《そらだの》みも、今はもう水泡《すいほう》に帰してしまったのだ。座中は騒然たるものとなった。
「事すでにここにいたった以上、藩祖|常清《じようせい》公(長直)のきずきたまい、先祖以来日々に出仕しきたったこのお城を立退くこと思いもよらず、君|辱《はずかし》めらるれば臣死すという。ただ、城を枕に死せんのみ」
と、痛語《つうご》する者もあれば、
「喧嘩両成敗は儼《げん》たる幕典《ばくてん》、わが君にこのきびしきお咎めがある以上、上野介に対してもお咎めあるべきに彼には何のお咎めがないのみか、かえって優諚を賜わったとか。彼もし存命するとせば、われらは黙止《もだ》すべきでない」
と、慨言《がいげん》するもの、痛論激語、鼎《かなえ》の湧き立つありさまであった。
これは後の彼の行動を土台としての推察であるが、内蔵助の思案はこの時すでに定まったらしい。
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第一、上野介の生死をたしかめること。
第二、上野介が死去していたら、お家再興に努力すること。
第三、上野介生存の場合は、上野介にたいする処分を乞うと共にお家再興の努力をすること。
第四、そのいずれもきかれなかった時は、自分等の手で上野介を討取ること。
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つまり、上野介の処分とお家再興の二本建で行って、最後の手段として敵討《かたきうち》と、こう計画を立てたと思われる。こんなにはっきりと言い切っては大胆すぎる論断のようだが、以後の彼の動きと対照すると、決して間違っていないと信ずる。
しかし、内蔵助は、この時はなんにもいわずに散会を命じて、当面焦眉の急である藩札の処理に力をかたむけた。
内海定治郎氏の「真説赤穂義士録」によると、精密な数字をあげて調査してあるが、数字を羅列《られつ》することは読者諸賢にとっては興味のないことであろうから、本書ではそれを避けて、ともかく、藩庫に現在する金は、藩札の発行高にくらべてはるかに不足していたとだけいっておこう。
額面通りの支払いをすれば、もちろん足りない。こんな際には四|分替《ぶが》えに支払うのが普通で、五|分替《ぶが》えに払えれば上等だといわれているのであるが、内蔵助はなるべく率《りつ》をよくして払ってやりたいと苦心して、六|分替《ぶが》えと決定した。手一ぱいのところである。
これで、藩札の処理――つまり領民の生活の不安は除くことができたわけだが、藩士への手当金の問題がのこる。内蔵助はこれにかかった。
藩庫はもう空虚である。藩から町人共にかしつけた金や、年貢の未進《みしん》があるが、こんな際に徴収にかかっても集るかどうか疑問だ。そこで、広島の本家へ借用の使者を出した。金高は銀三百貫、金に換算して約四千五百両。
「御本家で貸してくださらないようだったら、三次《みよし》にまわれ」
使者出発の際、内蔵助はこうさしずしておいた。三次というのは、備後の三次で、やはり浅野家の一族で、内匠頭夫人あぐりの実家である。
使者は広島へ行ったが、広島では、主君が出府《しゆつぷ》中だから一存では計《はから》いかねる、一応、江戸表へうかがった上で返答するという。そこで、三次へむかったが、ここもすぐには貸してくれない。ただ、お願いしただけで、使者はむなしくかえってきた。貸すというのは名義ばかりで、とても返してもらえるあてのない金だとはいえ、赤穂の国難における一族諸藩の態度は、ひとりこのことにかぎらず、はなはだ面白くないものがある。使者に立った者も、大石もさぞ腹が立ったことであろう。
しかし、よくしたもので、――おそらく、内蔵助が六分替え即時払いという英断に出たことが領民らを感激させたためと思われるが、浜方《はまかた》の貸付や、未進《みしん》租税をとり立ててみると、意外に集りがよくて、大体足りることになったので、内蔵助は大野九郎兵衛と連署の手紙で、広島へ、大体足りることになったからと、借用ことわりを申しおくっている。そのなかにこうある。
「もはや、金子|借領《しやくりやう》つかまつるまじく候」
憤懣《ふんまん》の色見るべきである。
この財政問題処理における内蔵助の手腕のあざやかさは水際《みずぎわ》立ったもので、多年|韜晦《とうかい》の彼が今はすっかり覆面をぬいだことを示している。特に我々を打つのは領民の生活にたいする彼の温《あたたか》い思いやりである。札座のことは、大学からもさしずしてきているとはいえ、実際にあたってこれを処理したのは彼なのである。六分替えという空前の高率で支払うことにしただけでなく、変報到達の翌日には有金《ありがね》全部を投げ出して、もう支払いを開始して、その不安を除くことにつとめている。この温情、この英断、この手腕、これだけでも、彼は英雄男児の資格がある。
伴蒿蹊《ばんこうけい》の「閑田次筆《かんでんじひつ》」に次の文がある。
「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂《しうれん》(むごく取立てること)にたへず。しかる間、事おこりて城を除《ぢよ》せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひしに、大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面《おもて》を改めしとかや云々」
後世の聞書《ききがき》であるから、全面的には信用することはできないが、この時代は諸藩の財政困難がはじまった頃で、諸家で重く用いられる者は大てい財政の手腕のある――藩の収入をふやす働きのある人物だったから、この点において大野が重用されたであろうことは大体ほんとだと思われる。また、前にもいったように、赤穂藩が標準の三倍以上の軍備を持っていた点からしても、相当きびしいとり立てを領内に行っていたであろうことも考えられる。餅をついて祝ったというのは誇張であるにしても、あまり領民から慕われていなかったことは事実であろう。それだけに、内蔵助のこの藩札処理は、ひとり彼の評判を高からしめただけでなく、浅野家にたいする領民のこれまでの悪感情を改めさしたにちがいないと思われる。
さて、財政問題を処理しながらも、内蔵助は、上野介の報告のあるのを待ちに待っていた。彼の一切の計画は、上野介が生きているか死んだかが土台になっているので、これがはっきりしないかぎり、どうすることもできないのだ。しかし、それについてはなんの報告もない。江戸表からは度々|飛脚《ひきやく》がある。江戸家老からも来、御親戚からも来たが、そのいずれも、大学が閉門《へいもん》を命ぜられたとか、江戸屋敷の引渡しがあったとか、おとなしくしていよとか、そんなことばかり言って来て、かんじんの吉良の生死については、一言も知らせてよこさない。
これはわざと知らせてよこさなかったのだ。
本家の広島浅野家をはじめとして、親戚の大名旗本は「もし赤穂の家中が騒擾《そうじよう》におよぶようだったら、お前らの責任だぞ」とさんざんに幕府におどかされているし、江戸の家老共はまた無能な腰抜けばかりで、その御親戚衆におどかされて、すっかり腑ぬけになっている。爆薬に火を投ずるにひとしい「上野介はいたって軽傷でぴんぴんしている」などという報告の送れようはずはなかった。一門の諸侯等が家にかかる迷惑をおそれ、家老共がまた迷惑をかけまいとする心持はわからないことはないが、知らさないでおけば無事にすむと思ったのだろうか。べらぼうなはなしである。
「何たることぞ!」
内蔵助の焦慮《しようりよ》はついに憤激にかわった。
「波賀朝栄《はがともひで》聞書《ききがき》」(原名「四十六士物語」)という書物がある。一挙の後、久松家にあずけられた義士等からきいた話や、彼等があずけられてから処刑にいたるまでの次第を、彼等の接待役のひとりだった波賀清太夫朝栄が筆記したもので、資料としては最も信用すべきものだが、そのなかに、江戸の家老等が一向上野介の生死を知らせてよこさないので、在所の家老をはじめ皆立腹しながら待ちこがれていた、と書いてある。
堀部安兵衛の「武庸《たけつね》筆記」によると、「江戸両家老共方より終《つひ》に申しつかはさず、結局、赤穂近国の家中より、赤穂の縁者へ申し来り候は、未だ上野介殿|存生《ぞんじやう》にて、殊更|浅手《あさで》の由相聞え候」とあるから、最後まで知らせてよこさなかったのである。
当時江戸にいた家老は二人。安井彦右衛門は江戸家老、藤井又左衛門は国の方の家老で主君のお供をして出府していたのであるが、両人ともに呆れかえった大べらぼうな家老である。
二十五六日頃になると、上野介が生きていることが確実になった。「武庸筆記」にあるように、近国諸藩の家中の武士から、赤穂家中の親戚へ知らせて来たのである。そこで、重《おも》立った者共だけ集って、よりより会議をひらいた。
内蔵助の意見はこうである。
「この赤穂のお城は、藩祖の築き給うたものであるから、お公儀《こうぎ》のものではない。浅野家のものである。やみやみ明けわたすべきではない。まして、上野介存生だとすれば、お公儀の不公平な裁判に対する抗議のためにもおとなしく明けわたすべきではない。しかしながら、籠城《ろうじよう》ということはお公儀にたいしておそれ多いから、城受取りの御|上使《じようし》に検視《けんし》を請うて、大手《おおて》の門で切腹して、その節、われわれの意のあるところを申しあげよう。これほどのことをしたならば、お公儀でも御反省になって、上野介を御処分になるだろう。もし大手門での切腹が不可能なら、御|菩提《ぼだい》寺の華嶽《けがく》寺でやろう」
内蔵助の意見が最初は籠城拒戦であったということは多くの義士伝に書いてあり、根本的な資料にさえそう書いたものがあるが、この時のことについては最も根本的な資料である「武庸筆記」が殉死嘆願《じゆんしたんがん》だったと書いてあるから、これを信用すべきものと思う。もっとも、籠城説の出た理由は大体わかる。それは先に行って説明する。
この内蔵助の殉死嘆願説にたいする反対意見の提出者は、有名な大野九郎兵衛である。九郎兵衛はいう。
「そういうやりかたは、お公儀に対して恨みがましく見られて穏当《おんとう》でない。御本家や御親類に御迷惑を及ぼすだけでなく、大学様のおんためにもなるまい。それでは忠義のしそこないというものである。まずおだやかにお城を明け渡すこと。いろいろなことはそれからのこと」
両説ともにそれぞれ賛成者があって、なかなか決着しない。
「武庸筆記」によれば、二十七日の会議では、原惣右衛門がかんしゃくをおこして、九郎兵衛の前に進み出て、
「かように連日連夜相談しても一向に決着せぬとはなにごとでござる。内蔵助殿御意見に不同意の方々はこの座におられること無用。はや立去りめされ!」
と叫んで、ぐずぐずしていれば斬りすてもしかねまじき血相だったので、九郎兵衛一派の者はきりきり舞いして立去ったという。「堀内覚書」によると少しちがうが、大体において同じである。
注意すべきは、内蔵助と九郎兵衛の意見の相違だ。単に理という点からいえば、九郎兵衛の説は、いわゆる中正の論で、なかなか立派だ。しかし、この説は、精神のともなわない口先ばかり――つまり、命おしさの言いのがれからでもいえることだ。これに反して、内蔵助の説は最初から命を捨てる立場に立っている者でなければ吐けない説だ。内蔵助は実に死を決していたのだ。事において説を立てるにあたっては、単に理を考えるばかりでなく、自らあざむいてはいないか、自ら為にするところがあって言っているのではないか、ときびしく省察してみなければならない所以《ゆえん》だ。
二十八日には、戸田|采女正《うねめのかみ》からの使者が赤穂に到着した。赤穂の領地が没収されたについては、近々|受城使《じゆじようし》とお目付《めつけ》が江戸を出発されるが、家中一同心得ちがいをせぬようにという采女正からの諭告使《ゆこくし》である。
そこで、その日、内蔵助は、久しぶりに総登城をふれ出して、夕方から大会議を行った。内蔵助はこれまでの情報を報告して、自分の意見をのべた。
「今日、戸田采女正様よりの御使者が見えたが、その御口上によれば、近日、この城召上げのための受城使と御目付様方が江戸表を御出発とのことでござる。かくのごとき次第になりいたったのは、申すもかしこきことながら、故内匠頭様の御|無調法《ぶちようほう》(あやまち)によるのではござるが、そもそものもとをただせば、上野介殿が内匠頭様に恥辱を加え申したためでござる。しかるに、上野介殿には何のお咎めもないばかりか、御優諚すら給わり、しかも、至って薄手にて、近々には平癒《へいゆ》疑いなしとうけたまわる。古より、君辱めらるるときは臣死すと申す。これ、今日のわれらが身の上でござる。われら死すべきの秋《とき》でござる。が、死は易し、ただいかにして死すべきかを考えねばならぬ。死を決して亡君の遺志をつぎたてまつるか、藩祖御|取立《とりたて》のこの城をまもって官使をひきうけて戦って討死し、泉下の先君に御奉公申しあぐるか、あるいはまた、まさしき亡君の御|舎弟《しやてい》大学様もおわすことなれば、御家再興の儀を嘆願したてまつるべきか。愚案にては、上野介殿|存生《ぞんじよう》の上は、やみやみとこの城を離散すること思いもよらず、しかしながら、籠城というはお公儀にたいして恐れあれば、お目付方御来着を待ってその御検視を乞うて、義を存する同心の者共、大手門に相ならんで切腹し、その際、大学様御取立の儀と上野介へ何分の御処分をくだされんことのおとりなしを乞い奉らばいかがかと存ずる。各々方の御|所存《しよぞん》をうけたまわりたいと存ずる」
いつも口数のすくない内蔵助が、人がちがったように滔々《とうとう》たる雄弁である。悲愴《ひそう》の感慨は人々の胸にしみわたった。以前からこの説を知って同意していた者は勿論のこと、あたらしく聞いた者のなかにも賛成者が我も我もと出てくる。この有様ににが虫かみつぶしたような顔をしていた大野九郎兵衛が口をひらいた。
「内蔵助殿の申さるるところははなはだ理にくらい。家中の者共が大手において腹切ってお家再興と上野介の処分をねがいたてまつるなどということは、嘆願とは申せぬ。公儀へ対して鬱憤《うつぷん》を達し、ねだり申すのである。さようなことをしては、かえって将軍家の御意を損じ、上野介の処分はおろか、大学様へ御迷惑がかかり、ひいては御本家をはじめ御親戚方へも御迷惑のおよぶことは目前《もくぜん》でござる。かくては忠に似た不忠と申すもの。われら思案は、このところはおだやかにお城を明けわたして、その上で存じよりを申しあげることにすべきであると存ずる。かくいたさば、お公儀にても、やわか御|憐愍《れんびん》をたれ給わぬことがござろうか。内蔵助殿の案ではなにもかもぶちこわしでござる」
前にもいった通り、九郎兵衛のこの説は、たしかに筋道が立っている。穏健妥当《おんけんだとう》である。けれども、その精神と気魄《きはく》において、内蔵助の説に比すべくもない。内蔵助の説は乱暴だ。こんな乱暴なことをしたら、綱吉将軍の性格として、間違いなく激怒するであろうし、したがって、希望が達せられないだけでなく、間違いなく浅野大学は切腹を命ぜられ、間違いなく御本家や御親戚衆は御不興《ごふきよう》を蒙ることになるであろうと、一応考えられる。
しかし、また、こうも考えられる。綱吉という人は好学であるだけに、美事善行《びじぜんこう》にたいしては感激しやすい面を持っている人だ。一人や二人ではだめだが、数十人の武士がそろって切腹して君家のために乞うという大袈裟《おおげさ》なことをしたら、きっと、感動したにちがいない。それは、後年の内蔵助等の義挙に際しての綱吉の感激ぶりから見ても想像がつくのである。いろいろな事情にさまたげられて、この大芝居がうてなかったのは、内蔵助にとっては残念なことだったろうが、おかげで、後世の我々は元禄快挙というさらにさらに大きな芝居が見られることになったのである。
ともあれ、筋道が立っており、また、いのちに別条のない説であるだけに、九郎兵衛の説にもなかなかの賛成者があった。
けれども、内蔵助は頑《がん》として自己の主張をまげない。儼乎《げんこ》としていいはった。
「士の守るべきはただ義の一字。士に義なくんば士というべからず。今この大節《たいせつ》(重大な事件)にのぞんで大義を以て自ら任ぜず、いたずらにお公儀を恐れて城を明けわたすは、いのちおしさの臆病者の所業と申されても弁ずべき辞《ことば》がござるまい。赤穂士を養うこと数世、一旦変に際して一人の節に死する者なしと評されなば、それこそ先君の御名をはずかしめるものでござる」
ところが、折角《せつかく》のこの壮烈な殉死嘆願説を吐露《とろ》しながら、内蔵助は、この時の会議に、
「受城お目付の江戸出発以前に、お目付方にすがって嘆願しよう」
という策を提出して、可決されている。
嘆願使派遣、これはどういうわけであろう。この策は非常に失敗しやすい危険をともなっているばかりでなく、内蔵助の本来の意見に同意した人々の心をも動揺させやすい欠点さえある。ここは一筋に最初の意見だけで行くべきで、こういう寄り道をするなど、彼ほどの人にあるまじき拙劣さだと思う。おそらく、これは、大野一派が反対説をとなえてやまないので、その折衷案《せつちゆうあん》として提出して可決されたものではないかと思う。内蔵助としては出来得るかぎり、全家中一致で行きたかったのであろう。
ともあれ、次の意味の嘆願書が認められた。
[#ここから2字下げ]
恐れながら書付《かきつけ》を以て申しあげます。このたび、内匠頭不調法をつかまつりまして、御法式の通りに仰せつけられました段、家中の者共、皆恐れ入っております。私共は、上野介様も御死去の上で内匠頭は切腹を仰せつけられたものと存じておりましたところ、追々の噂によりますれば、上野介様は御死去ではなき由。わたくし共重立った者はお公儀の掟《おきて》も存じておりますが、家中の侍共の多くは無骨《ぶこつ》な田舎者でございますので、一筋に主人のことを思いつめまして、上野介様が御無事であるのに、城地を離散しては世間に顔向けができないと申しております。老臣や重立った者共がいろいろと教訓を加えてはいますが、何分にも田舎育ちの無骨者共のこと、得心《とくしん》いたす模様がございません。もはや、我々の手におえませんので、恐れ多いこととは存じますが、ここにお願い申しあげる次第でございます。|それは《ヽヽヽ》、|上野介様へ御仕置を願いたてまつるというのではございませんが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|御両所様の御尽力をもって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|家中の者共が納得するような筋を御立てくださらばありがたく存じあげます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|当地へ御到着の上で言上いたしましては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|お城お受取りのお邪魔になりますからそれもいかがと存じて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かくの如く唯今言上いたすわけでございます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。以上
[#ここで字下げ終わり]
嘆願使派遣という策は拙策だが、さすがにこの文章は巧妙なものである。この口語訳が、原文の妙を伝え得ないことを筆者は恥じている。それほど、この手紙の原文は巧妙な書きぶりをしている。およそこれくらい強い鋭い要求をしながら、これくらい婉曲《えんきよく》で礼を失せぬように書きまわされた文章を、僕は見たことがない。外交文書として、最上級に巧妙なものである。とくに傍点《ぼうてん》をほどこしたところを見ていただきたい。
「上野介様へお仕置《しおき》をねがいたてまつるというのではございませんが」
といっているが、決して願いたてまつっていないのではなく、大いに願いたてまつっているのだ。しかし露骨《ろこつ》にそう書いては礼を失するだけでなく、逆効果を生ずるので、こう書いたのである。それは、下文の、
「家中の者共が納得するような筋を御立てくださらばありがたく存じあげます」
とあるのに照応《しようおう》して明らかになる。
そして、この下文はさらにもう一つの含みをもって、主家再興のことを願っているのである。
更に末尾の、
「当地へ御到着の上で言上いたしましては、お城お受取りの御邪魔になりますから云々」
というところには、ゆゆしい威迫――願意を聞届けてくださらなければ、しごく面倒なことがおこりますぞ、という意を匂わせているのだ。その面倒なことは何であるか。籠城拒戦であるか。殉死嘆願であるか。「武庸《たけつね》筆記」の記載では、「餓死仕るべき覚悟に御座候」とあるから、明らかに籠城だが、ここに引用した「戸田家文書」にははっきり書いてない。おそらく「戸田家文書」を信用すべきであろう。ここははっきり書いては効果のないところである。あいまいに書いた方が、礼にもかなうし、一層相手に凄味を感じさせるのである。しかし、この嘆願書を読んで、まず考えられるのは、籠城であろう。殉死嘆願は奇策《きさく》であるだけにすぐには想像がつかないにちがいない。
この点が、当時の人々をして内蔵助の最初の意志は籠城であったと考えさせ、したがって世の義士伝の著者等をもあやまらせたのであろう。内蔵助としても、特に言いふらすようなことはしなかったろうが、起っている籠城説をうち消すようなことは、計略上しなかったに違いない。
ひたすらにおだやかにおだやかにといっている大野一派がこの爆弾のような文章を草し得るはずはないから、この嘆願書の案文《あんもん》は内蔵助の手によってなったものと見てよいだろう。少なくとも、彼の手がはいっていることは確実だ。
この時の会議は夜を徹して行われて、二十九日の朝におよんで、嘆願使にえらばれた多川九左衛門、月岡治右衛門が出発したのは、正午頃であった。
「武庸筆記」によると、ふたりの出発にあたって、内蔵助はとくにふたりを呼んでこう注意したとある。
「道中は急ぎの上にも急ぐこと。江戸表到着の上は、直ちにお目付の許にいたって、この書付をささげ、われら決心のあるところを述べてひたすらに嘆願されよ。いささか思うところあれば、その以前には、決して江戸の家老共と相談せぬよう。また、大学様のお耳にはゆめゆめいれてはならない。ただ、これを提出の後において、戸田采女正様に別紙写しをさし出して、願意|進達《しんたつ》をおねがいするよう」
これまでのやりかたからみて、江戸の家老共の無能であることを見ぬいている内蔵助は、仰天した彼等がきっと邪魔をするに相違ないと見たからである。また、事前に大学や采女正の耳に入れば、彼等の立場としてこれをとめないわけには行かないからである。
「委細承知つかまつりました」
たのもしくこたえて、全藩の輿望《よぼう》を一身に負って、ふたりは出発した。
多川は四百石、月岡は三百石|歩行《かち》小頭《こがしら》、五万石の小藩では共に上士中でも上の階級、事務に練達《れんたつ》、弁口《べんこう》爽《さわや》かであるというのでその任にえらばれたのである。
こうして嘆願使を出したものの、もちろん、これだけに希望をつないでいるわけではない。最悪の場合を予想して、内蔵助は依然として、大手門前切腹のことを言いつづけている。そこで、同志のうちには、赤心をしめすために、内蔵助に神文《しんもん》(誓文)をさし出す者が相当の数にのぼった。その数は書物によって一定しないが、だいたい六七十人であったろう。
いろいろな書物に、連判をしたということになっているが、この時の記録としては唯一の根本資料である「武庸筆記」に「前かど赤穂において神文さし出し候面々」とあってずっと名前をあげているくだりがあるから、この時は連判ではなく、それぞれ神文をさし出したというのがほんとである。しかし、この神文は各人の自由意志によってさし出したもので、内蔵助から要求したのではないから、堅い志を抱いている人物で、
「なに、いざというときに切腹さえすればよいのだ」
と考えて出さなかった者もあるわけである。
月がかわって四月になると、江戸から、京都から、続々と藩士等があつまってきた。大ていは国許の様子が心許《こころもと》なく、もし、籠城ということにでもなるなら、いさぎよく城を枕に討死しようとの覚悟を抱いてであった。
いかにも武士らしいと思われるのは、久しい以前に赤穂を浪人した岡野|治太夫《じだゆう》、井関徳兵衛、同紋左衛門、大岡清九朗、中村|弥太之丞《やたのじよう》などという人々である。変報を聞くや、各々|鎧櫃《よろいびつ》をかつぎ、槍をたずさえて赤穂にきて、内蔵助に面会した。
「われら久しく浪人とはなっておりますが、御家の御恩は一日として忘れたことがございません。愈々御籠城とのことを聞きおよび馳せ参じました。なにとぞ、われらをも御人数の端《はし》にお加えねがいたい」
内蔵助は感激はしたものの、厚く謝してこれをことわった。
「おのおの御志のほどは感じ入る。しかしながら、おのおのは当家を浪人されてからもう久しいことになっている。それ故、おのおのを加えて籠城いたしたならば、赤穂では浪人をあつめてお公儀に楯《たて》つくと噂せらるることは必定《ひつじよう》。かくては徒党を組んだということになり、御当家御代々、お公儀にたいして忠誠を存せられた御名をけがしたてまつることとあいなれば、その儀は御断念くだされよ」
五人は容易に承服しないで、城あけわたしのすむまで城下に滞在して、おりにふれて入城のことをねだりつづけたという。
内蔵助が入城をゆるさなかったのは当然である。彼には籠城する気はないのだ。ただ、計略上、籠城するかのごとき、せぬかのごときあいまいな態度をとっているのである。このへんの腹芸《はらげい》のたくみさは、彼の機略と性根のたくましさを語るのである。彼は単純な道学者ではなかった。また、政略だけの人でもなかった。うちに義をつつんで、縦横の機略を以てこれを活現《かつげん》せんとする人であったのだ。
大名の家が一軒つぶれたのである。普通でも、不穏《ふおん》な噂が立ちがちなものだ。ましてや、赤穂は不公平きわまる裁判によって取潰《とりつぶ》されたのである上に、意識的に内蔵助がそうした噂のたつようなはからいをしているのである。大へんな騒ぎとなって諸方《しよほう》で取沙汰《とりざた》せられて、近隣諸藩ではしきりに間者《かんじや》(スパイ)を潜入させて情勢をさぐろうとした。いろいろな書物にそれにからんだ小説的な物語が出ているが、間者が潜入したということは事実であろう。
諸藩でさえこんな風だから、親戚の大名等の気の揉みようは一通りでない。次から次へと使者を送ってくる。口上《こうじよう》は判《はん》でおしたようにきまっている。
「心得ちがいをするなよ。おとなしくあけわたすのだぞ」
である。内蔵助は籠城する気なんぞ、もとよりないのだが、のらりくらりとあしらって確答をのばしていた。嘆願使の報告を待っていたのだ。
その待ちに待った嘆願使は四月十一日に帰ってきたが、呆《あき》れかえった不首尾《ふしゆび》であった。
嘆願使両人は四月四日の夜半に江戸についた。彼等は三月二十九日のひる頃赤穂を出ている。元禄十四年の三月は大《だい》の月であるから、五日半で行っていることになる。凶変の急使等が二回とも四日半かかっているところを見ると、かなりな年輩である両人にしてみれば、そう長くかかっているとはいえない。ずいぶん急いだものとみてよい。書物によっては長くかかったといって非難しているが、それは酷評《こくひよう》である。非難すべきことはその以後にある。
両人が到着した二日前に、受城目付《じゆじようめつけ》等は江戸を出発していた。途方にくれたふたりは、大石のくれぐれの誡《いまし》めを忘れて、江戸の家老共に相談した。
「さようなことをしでかしてもらっては、大学様はもとよりのこと、御親戚中へかかる迷惑ははかりがたい。なんたる無茶《むちや》を!」
と、仰天した家老共は、ただちに戸田家の老臣中川甚五兵衛へ、急用|出来《しゆつたい》につき、未明に御光来ねがいたいと申しおくった。夜中の来書《らいしよ》で甚五兵衛はおどろいた。未明といっても、間もないことなので、早速に支度して、出かけて行くと、これこれの話である。甚五兵衛も仰天して、嘆願書の写しをたずさえて、ただちにかえって、主君采女正へ言上した。采女正だって驚かないはずはない。よしんば驚かなくても、知った以上は、制止しなければならない立場にある。甚五兵衛をまじえた老臣等と相談の上、一書を認めて、使者共に渡すようにと下げ渡した。
「多川、月岡両人のたずさえてきた嘆願書の趣きは以ての外に乱暴なことである。江戸のことを知らない田舎思案でそんなことをするのである。内匠頭が日頃から公儀にたいして従順であったことはお前達もよく知っているであろう。それ故、その内匠頭の家来たる者の今日における奉公の道は、速かにその地を退散して無事に城を明け渡すことである。かくしてこそ内匠頭日頃の意志にも叶うというものである。お公儀お指図《さしず》にしたがって、早速穏便に退散すること肝要《かんよう》云々」
大体こんな意味の書付である。
甚五兵衛は浅野家の家老と使者を自分の屋敷によんで、この書付をわたし、懇々と説諭を加えた。
おどろいたことに、江戸の家老共は、蟄居《ちつきよ》中の大学のところにも行って、このことを話している。
「それは以てのほかのこと。さような乱暴なことをしてはならぬ、と両人に申せ」
と、大学がいったのは当然のことだ。
「かしこまりました」
家老共は立帰って、得々《とくとく》と両人に云った。
「大学様は大へんな御立腹だぞ云々……」
この家老共のばかさかげんは話にならない。内蔵助があくまで目的を貫徹しようと非常の手段をとったら、大学の立場はどうなるか。情を知りつつ見過しにした、あるいは、指揮してやらせた、と見られることは必定《ひつじよう》である。累《るい》を大学に及ぼすことになるのだが、それがわからないのである。
さて、こうなっては、使者等は手も足も出ない。すごすごと江戸をひきあげた。
一方、戸田家の方では、あとの責任を恐れて、わたしの方では手落ちなくやっていますということを証明するためであろう。さっそく月番老中《つきばんろうじゆう》に届け出ている。老中の方では、戸田家にたいして、
「重ねて使者をつかわして、城地《じようち》(城と領地)滞りなくわたすようにとりはからえ」
と、さしずしたので、戸田家では、その日のうちに使者を急行させることにした。
嘆願使両人は、単に使命をはずかしめたばかりでなく、事情を一層悪化させたわけであった。
「せめて、なぜ大坂でなりとも嘆願書を目付衆にさし出して必死のはたらきをしてくれなんだのか」
ついぞ愚痴《ぐち》めいたことを漏らしたことのない内蔵助がこういっている。
いかばかり残念であったろう。このみじかい愚痴のなかに、内蔵助の胸をうごかしうねらしている啾々《しゆうしゆう》たる慟哭《どうこく》を感じとることが出来る。
彼の一切の計画は無になったのである。殉死嘆願だって、もうやれない。やったところで、いたずらに大学様をはじめ御親戚衆に迷惑を及ぼすだけで効果を期待することができないからだ。強いてやるとすれば籠城|拒戦《きよせん》だが、これはやるべきことではない。大野一派のような有力な反対者があるから、やってもはかばかしいことが出来ないばかりでなく、つまりは一身を潔《いさぎよ》くするだけで、少しも君家のためにならないからだ。
今はもう開城のほかなし――と心をきめた内蔵助はまた総登城を命じて、嘆願使のことを報告し、その持参した采女正の告諭書を読みきかせた後、おだやかに開城するのやむなきにいたったことをのべた。
「ことここに至った以上、もはや殉死もせんなし、強いて決行すれば、禍《わざわい》は大学様のお身の上にも及ぼう。それ故、ここはおだやかに城をあけわたして、その上でまた料簡《りようけん》をめぐらすよりほかはないと存ずる」
つまり、内蔵助の意見は、すっかり大野九郎兵衛の意見と同じになったわけである。大野一派はそれ見たことかとせせら笑ったろうが、忠義の士も重立った者は前もって内蔵助から内諭を受けていたろうが、大部分の者は内蔵助の内心を知らないでずいぶん激昂したことであろう。
この日はまたこんなこともあった。
この前日、江戸から一千両の金が赤穂についた。ずっと前、内蔵助は家中の者に手当金を配分したのであるが、新たに届いたこの金も配分することにして、係りの者に命じて計算させていたところ、札座《さつざ》の小役人のなかに、そのいくらかをつかんで逃走した者があった。これをきいた大野九郎兵衛は、
「札座の役人が御用金をさらって逃げた? ありそうなことじゃ。しかし、これはまあ小さい魚で、呑舟《どんしゆう》の魚《うお》もいそうだの」
と放言した。札座奉行は岡島|八十《やそ》右衛《え》門《もん》である。硬骨な男だけにかんかんになった。札座の役人全体、なかにも、自分にあてつけたものと解《と》ったのだ。事務が終了するや、九郎兵衛の屋敷へのりこんで行った。
「岡島八十右衛門でござる。お尋ね申したき儀があって参上いたした。ぜひ面会いたしたい」
大音声《だいおんじよう》の声がつつぬけに九郎兵衛の耳に入った。さてはと、九郎兵衛は感づいたので、
「不在だといえ、不在だと」
とりつぎが出て行ってそういうと、さらば後刻《ごこく》といって帰って行ったが、夜になってまたきた。
「不在だ、不在だ、不在だというのだ」
後刻参上、で帰って行ったと思うと、また、
「頼もう。岡島八十右衛門でござる。お尋ね申したきことあって参上」
もう居留守《いるす》も使えない。病気を言い立ててことわったが、岡島はかまわないから会わしてくれという。
「病気快気の上、かならず会うであろう。病苦さしせまって、とても今夜はあえぬ」
やっとのことで帰ってもらって、翌日は病気の旨を届けて欠勤したが、不安でたまらなくなって、伜《せがれ》の郡右衛門と相談して、急に、女乗物を用意させ、これに乗って、十二日の夜なかにいず方へとなく逃走した。郡右衛門も女房をつれて姿をかくしたが、よほどにあわてたと見えて、乳呑子《ちのみご》をわすれて立去っている。そのくせ、家財道具はちゃんと始末して、九郎兵衛の道具七十余|梱《こうり》、郡右衛門のが九十余梱、それぞれ出入りの町人等にあずけて逃げ出している。呆れかえった父子である。
「大野九郎兵衛、何事か恐しかりけん、夜なかにとるものとりあへず、ひとり逃げ出しける。伜郡右衛門儀も同じく逃げける。娘をも捨てのこしていづかたへ落ち行きけん。女乗物にて逃げたるよし、云々」
と「武庸筆記」にあるから、たしかなことである。
九郎兵衛は伝えられるような悪人ではなく、単に惰弱《だじやく》だっただけかも知れない。しかし、惰弱であるということは、武士にとっては勿論、普通の人間にとっても、一種の罪悪である。
凶変以来の彼の主張は、公平に見て決してまちがってはいない。穏健中正で、りっぱであるとさえいえる。けれども、彼には、あくまでもその説を守ってくじけない勇気を欠いていた。これではどうともならんのである。勇気の伴わない善意や、剛毅を欠いた正理の主張は実に他愛ないものだ。善意が善となり、正理が正義となるには、勇気と剛毅とが絶対に必要なのだ。大野九郎兵衛の一生は、我々にこれを教えるのである。
九郎兵衛父子が孫子《まごこ》にかえてもと執着していた荷物については後日談がある。開城後間もなく、内蔵助は、神崎《かんざき》与五郎、横川勘平等に命じて、新たに幕府から赴任した代官石原新左衛門に、九郎兵衛の駆落《かけおち》のことを訴え、荷物の始末について指揮を仰いだところ、代官は、
「九郎兵衛儀は家老役をつとめて、故内匠頭殿の口真似《くちまね》(主人の代理として主命を伝えるという意味の当時のことば)をもいたした身であるのに、城あけわたしもすまぬうちに駆落いたすなど、言語道断の不届者なれば、この荷物、内蔵助の許しなくば渡すことはまかりならぬ」
といって、神崎等に命じて一々帳面につけ、荷物には封印した上、町年寄と庄屋とに厳重に監視させることにした。
翌年の八月、九郎兵衛父子はそろそろほとぼりもさめた頃と、赤穂に出かけて荷物を引取ろうとしたが、預った町家では頑として渡そうとしない。
「代官様のきびしい仰せで、大石様のお許しがなければ渡してはならぬことになって、町年寄、庄屋立合の上で、町内預けとなっているのでございます。たってほしいと仰っしゃるのでしたら、代官所へまいりましょう」
と、甚だ強硬だ。押し問答していると、町内の者がぞろぞろと集ってきて、形勢|不穏《ふおん》である。そこで、一策を案じて、荷物のことはともかくも、今夜は一晩厄介になりたいと申しこんだ。昔のお出入り先だ。いやともいえず、泊めることにしたところ、その夜、家内の寝静まるのを待って、九郎兵衛父子は土蔵のなかに忍びこんで、見覚えのある箱をひらいて、金子三百両をつかみ出して逃げ出した。それと知ったその家では、
「ぬすっとう! ぬすっとう!」
と、さわぎ立てたからたまらない。隣近所皆集ってきた。これこれのわけで、ぬすっとうは大野父子だ、というと、皆面白がって追いかけた。ついにひっつかまえて、翌日、町中をひきまわして散々にはずかしめをあたえて追っぱらったという。
この荷物取返しの件は「義人録」に出ているが、原典は前原伊助と神崎与五郎合作の「赤城盟伝」だから確実なことなのである。こうなると、九郎兵衛は勇気を欠いていただけでなく、性格的にかなり病的だ。少なくとも、武士には不適当な性格である。
この後、九郎兵衛父子は荷物の引取り方に非常に苦心して、内蔵助が江戸に下る直前、内蔵助に頼んで許可証をもらって、やっと引取ることができた。
九郎兵衛の評判が古来あまり悪いので、気の毒になって、そうまで悪い人間がいるものではない、内蔵助を偉くするために不当に悪人にしているのではないかと思って、相当くわしく調べてみたが、どう調べても、弁護のしようがない。
彼の末路《まつろ》については、諸説あるが、たしかなものは一つもない。身を恥じ、世をせばめて、といって、腹を切ることもようせず、虫けらのような余生を送ったのであろうか。
九郎兵衛にも長所はあった。経済的手腕である。前に、赤穂の製塩事業は、元禄初年、長矩《ながのり》の時うんと拡張されたと書いたが、年代から見て、これは九郎兵衛の発案と才腕によって行われたと見るのが一番妥当だ。果してそうなら、彼は日本の製塩史上の大立物であるわけだ。天才にありがちな異常性格者であったのかも知れない。
少なくとも、彼の徹底した臆病さと徹底した物質欲とは、凄壮《せいそう》の感さえある。これは絶対に武士的なものではない。商人的な逞しさだ。生れつきのものであろうか、多年一藩の財政をとっているうちに身についたものであろうか、文学者にとっては好題目である。
僕は九郎兵衛の末路ははっきりしないと書いたが、ひょっとすると、相当な藩に相当な待遇で、名前をかえて召しかかえられたかも知れない。この時代は、武家の財政困難がはじまって、どこの藩でも財政手腕のある者を重んじているのだから、九郎兵衛ほどの財政の天才を、そのままにおくはずはないとも考えられるからだ。最も可能性に富む推理だ。
九郎兵衛の醜陋《しゆうろう》さに似ず、内蔵助の高朗《こうろう》さは特筆に値する。お金配分によって、藩士等は定められた比率によってそれぞれに応分の配当を受けたのであるが、内蔵助自身は、一文もこれを受けていないのである。
凶変以来の内蔵助の働きは三面六|臂《ぴ》の概があった。藩札のしまつ、金策、藩士への手当金問題、家中の意嚮《いこう》をまとめること、親戚諸藩からひっきりなしにくる使者への応対、そして城明け渡しについてお公儀に引渡すべき諸帳簿の整理、諸目録の調整等々のこまごまとしたことが、すべて彼の指揮によって行われたのである。
開城の後、家中離散した後、浅野家代々の墓の供養《くよう》をしてくれる者がないであろうと心配して、縁故のある寺々に、それぞれ田地を寄進《きしん》して、永代供養《えいたいくよう》の料にあてたのも、このいそがしい間に内蔵助のしたことであった。
華嶽《けがく》寺へ  田地三町五段一畝六歩
(この代銀十三貫八百一匁)
大蓮寺へ  田地四段六畝四歩
(この代銀二貫七百四十七匁三分)
高光寺へ  田地五段二畝九歩
(この代銀二貫七百四十一匁九分)
遠林《おんりん》寺へ  金五十両
華嶽寺は浅野家に最も由緒《ゆいしよ》のある寺で、藩祖長重以下代々の藩主の墓、大蓮寺には長友夫人の墓、高光寺には長直夫人の墓があり、遠林寺は代々の祈願所《きがんじよ》である。
感ずべきは、この時、内蔵助は、住持《じゆうじ》(住職)、名主《なぬし》、庄屋《しようや》連判の一|札《さつ》をとって、後世まで相監視して勝手に売却することのできない方法をとっていることである。あの繁劇のなかであるだけに、この行届きようは一層感心させられる。
さて、開城と決定した翌日の十二日には、家中ではそろそろ引払いがはじまった。赤穂近在の村々に所縁をたよって移転先をもとめる者、城下の町家に一時の厄介をたのむ者、他国へ行こうとする者、亡国の感傷に耽《ふけ》っている間もなく、冷酷な現実に追い立てられて、皆それぞれに家財家具をまとめて、大へんなさわぎだった。
十三日には、非常によくはかどって、武家屋敷は大半からになった。
その翌日、十四日のことである。堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人が江戸から到着した。この三人は、江戸|定府《じようふ》の士で、堀部と奥田は当時海内一と云われた剣客堀内源太左衛門門下の高弟で、ことに堀部は高田の馬場のはたし合いで天下に名をはせた勇者であり、高田郡兵衛は宝蔵院流の槍術《そうじゆつ》の名手であり、いずれも家中にかくれもない武へんものと呼ばれているところから、かねてからなかよしであったが、このたびの凶変に際して、吉良が生存していることをたしかめると、さっそくに仇討を計画して、江戸の重臣連中に説きまわったが、たれも相手にしない。しばしば行くと、しまいには居留守をつかったり、用事で手がはなせぬといって会ってもくれない。空《むな》しく焦慮の数日をおくった。遮二無二《しやにむに》斬りこもうとも思ったが吉良邸には上杉父子が代る代る詰めているという。少人数で斬りこんでも、所詮《しよせん》犬死におわることは明らかだ。そこで、赤穂へ行って同志を募ろう、もし籠城ということになっているなら、それもよかろう、と相談一決、馳せのぼってきたのであるが、着いてみると、豈《あに》はからんや、数日前に開城に決して、家中はひっこしさわぎの真最中《まつさいちゆう》だ。
「これはけしからん」
色をなした三人は、旅支度のまま、内蔵助の屋敷へのりこんだ。
内蔵助は書院へむかえて対面におよんだ。「早速一儀を談ず」と「武庸筆記」にあるから、挨拶もぬきにしてかかったのである。
三人は口々に、開城の儀をひるがえして籠城をすすめたが、内蔵助はきかない。
「おぬしらの志は感じ入るが」
という前置をして、嘆願使の派遣から、その失敗、戸田采女正から諭告書を下されたことや、大学からお諭《さと》しがあったことを物語り、このまま籠城すれば、大学様にお咎めが下って、浅野家の血統まで絶えてしまおう。それ故、涙をのんで公儀の命にしたがうことにした。大学様の御成行《おなりゆき》を見て、その上|料簡《りようけん》のいたしようもあろうと思うのだ、と語ったが、三人はなかなか承服しない。
「上野介存生しているに、おとなしく城を明けわたしては、御家中《ごかちゆう》に男なしと世間にいわれることは必定《ひつじよう》。かくしていずれにわれらの武士が立ちましょう。とかく、籠城の儀に立ちかえりくだされ」
内蔵助も強硬である。
「かくなっては、采女正様や大学様をだしぬき申すことになれば、絶対にできぬこと」
と、いいきった。
しかたがない。三人はすごすご退出したが、こう相談した。内蔵助は家老のことなれば、浅野家の再興のことや采女正様につがえた約束にそむくことを心配するのは無理はない。されば、内蔵助を除外して、しかるべき者に相談してみよう。番頭《ばんがしら》の奥野将監は志ある者と聞けば、これへ相談を持ちかけよう。かくして、家中の志ある者が一致して籠城するならば、内蔵助もぜひなく同意するに相違ない……。
そこで、その翌日、三人は遠林《おんりん》寺へ出かけて行った。この日の晩方には、城内の屋敷は全部引きはらって、開城に関する一切の事務は、浅野家の祈祷所《きとうじよ》であるこの寺ですることになっていたのである。三人は、遠林寺の客殿に将監を招いて切論《せつろん》したが、内蔵助との約束にそむくわけには行かないといって承知しない。
三人はまた相談しなおして、しからば、物頭《ものがしら》等に相談しようと、原|惣《そう》右衛《え》門《もん》等の物頭等にもちかけてみたが、これも相談に乗らない。
「お志のほどはよくわかるが、内蔵助殿にそむくわけにはまいらぬ」
というのである。衆望《しゆうぼう》内蔵助に帰して、その統制が行きわたっていたことがわかる。
三人も観念せざるを得なかった。人々の意見がこうまで一致している以上は、もはややむを得ぬ。しかも内蔵助をはじめ、皆が皆、大学様が面目を回復されて人前に出られるようなあつかいをお公儀がしてくれぬ以上、これぎりではおかぬといっているところを見ると、そこにたのもしい意味があると思わねばならない。この点をたしかめてみようと、当時、すでに城外の尾崎村に寓居《ぐうきよ》をさだめていた内蔵助をおとずれた。
「拙者共も唯今となっては開城の儀はやむを得ぬことと観念いたしましたが、やがては先君の御面目を立てんとの思召《おぼしめし》、今一応しかとうけたまわっておきとうござる」
内蔵助は大きくうなずいて、きっぱりと言う。
「各々が、内蔵助と事を共にせんとて遥々《はるばる》と馳せ上《のぼ》って来られたお志のほどはよくわかっている。先ずこのたびは拙者にまかせられよ。決してこれぎりにはせぬ。以後のふくみはあるのだ」
力強き、たしかなる証言だ。
「よくわかりました。されば、おまかせいたします」
かくして、三人は同志の人となったのである。
「武庸筆記」は、また次のような話をつたえている。
この翌日あたりのことだろう。
三人が尾崎村に寓居をさだめた同志の者を訪問してかえる途中だった。この日は、城受取りの目付衆が赤穂へ到着する日で、これを出迎えるために、中村の橋まで出かける内蔵助とばったりあった。三人は一礼して過ぎた。内蔵助も目礼して過ぎたが、目付衆を旅館に案内して会所へかえってから、物頭役の小山《おやま》源五右衛門を呼んで、こういった。
「今日堀部等三人と中村で行きおうた。あれらも今はわしの意見に従《したご》うとは申し出ているが、思いきったるけなげな者共だけに、心の底ではまだ不平に思っているらしいところも見える。ひょっとして、今日途中にお目付方を要して、直々《じきじき》に存じよりなど申し上げようと考えているのではないかと疑われる。もし、さようなことでもあったなら、ぜひにおよばぬ。料簡のいたしようがある。貴殿、ちょっと行ってきいてきてたもらぬか」
「さようなことはあるまいとは思いますが、思いきったる者共だけに、なんとも申せません。まいってきいてまいりましょう」
小山は三人の旅宿へきて、このことをただした。
「内蔵助殿仰せにしたがい申すべしと御約束いたしました以上は、決してさような自儘《じまま》なことはいたしません。今日は同志の衆中の宅へ御挨拶にまいったのでございます」
福本日南氏は「元禄快挙真相録」にこの話をのべて「自分はここにいたって何物かがわが五|内《だい》を震撼《しんかん》し来るものあるを覚える」と書いているが、まさしくそうである。内蔵助は実におそろしい人であった。彼がこの三人の壮士等をいかにたのもしく、いかに愛していたかは、「武庸筆記」にのっている、彼等が江戸にひきあげるに際して内蔵助からつかわした手紙を見てもわかる。
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一両日の中、御発足|御下向《ごげかう》の由。このたびはるばる御登りの儀、御|深切《しんせつ》の御志感じ入り存じ候。諸事|繁多《はんた》の時節柄故、しみじみと御意を得ず、お残り多く存じ候。
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[#地付き]以上
四月二十日
[#地付き]大石内蔵助
この手紙を、内蔵助は、連名にしないで別々に一通ずつ書いてつかわしている。これほど頼もしがり、これほど愛している三人ではあるが、統制をみだし、大事をあやまるとすれば、|ぜひに及ばず《ヽヽヽヽヽ》、斬って捨てようと考えることもできる内蔵助だったのである。
温乎《おんこ》たる風貌《ふうぼう》の底につつんだ、秋霜烈日《しゆうそうれつじつ》の内蔵助の決断力のすさまじさを見るべきである。
「武庸筆記」には、また次の意味の文章がある。
片岡源五右衛門、田中貞四郎、磯貝十郎左衛門の三人は、亡君の寵臣《ちようしん》だったので、江戸で亡君を葬り申した際、各々髪を切って悲しみの意を表した。この三人が赤穂へのぼってきたので、内蔵助は呼び出して、
「貴殿等は格別に先君のお引立てを蒙った方々なれば、殉死嘆願の儀に御一儀ありたい」
といったところ、三人は、
「せっかくのおすすめながら、われわれは他に存じよりがござる故、一儀いたすことはできません」
と拒絶したので、内蔵助はそのままさしおいたが、家中の者共は、彼等が急いで赤穂へ来たのは、さだめて家中の人々の決心をかためさせるためだと思っていたのに、これは案外なことを聞くものだ、他の存じよりといえば、上野介を討つということよりないわけだが、それならば江戸へ留《とど》まっていなければならないのに、亡君の一七日のすぐるのを待ちかねるようにして、大切な御墓所の参詣も打捨ててこちらに来ている。一体、どういう料簡なのか、てんでわからない、と噂しあった云々。
片岡等が赤穂へ帰って来たのは、もちろん、仇討の同志を募るためである。けれども、これは僕の解釈だが、彼等が来たとき、赤穂ではもっぱら殉死論がさかんで、志ある者は皆それにかたまって、仇討のことなど口にする人はなくなっていた。三人は、こんな工合に殉死論が一藩の輿論になっている場合、一種の異論である仇討論をとなえにくい立場にある人々だった。というのは、この三人は児小姓《ちごこしよう》の出身で、内匠頭と男色関係があったため、異数の抜擢《ばつてき》を重ねて、上士階級となった人々で、内匠頭在世中から、硬骨《こうこつ》の人々にあまり好意を持たれていなかったのだ。今にのこる義士等の書簡や、覚書などに、悪意をもって彼等のことを書いたのが相当のこっていることを以ても、これはわかるのである。
もし、彼等がしげしげと内蔵助の許に行き、その同志等と往来したら、殉死説も彼等の説と根本的には背馳《はいち》するものでないことがわかって、堀部等のごとくその同志となっただろうが、家中の人々にたいする失望の情と、平素の感情のもつれが、淡泊《たんぱく》に行動することをさまたげたのであろう。
片岡は、凶変以前は、大野九郎兵衛と相当|懇意《こんい》にしていたのではないかと、思われるふしがある。九郎兵衛の駆落《かけおち》さわぎの時、九郎兵衛はかねて親しい田中某にたのんで、病気につき退散《たいさん》するという届を内蔵助の許《もと》に出している。もちろん、これは退散の後に届け出すよう手配してあったから、届の出たときには九郎兵衛はもういなかったのだが、内蔵助はこれを知らない。まだ居るものと思って、片岡を、九郎兵衛の実弟伊藤五右衛門の宅と、かねて九郎兵衛が懇意にしている八島惣左衛門の宅につかわして、引きとめるようにと申しわたさせている。両人とも一向に存ぜぬといって埒《らち》があかなかったが、この九郎兵衛と懇意であったという八島惣左衛門は、「義士親類書」によると、片岡の妻の父、舅《しゆうと》にあたる。とすれば、片岡も九郎兵衛と相当懇意であったのではないかと考えても、あながち不当ではなかろう。
ともあれ、こういういろいろな事情から、彼等は、
「だまって、われらだけでやろう」
と決心したに相違ないのである。
この彼等の志は、まことに悲壮であるが、この時彼等が加入しないで、後にいたって合流したことと、以前からの感情のもつれとが、一党中における彼等の位置をきわめて特殊なものにした。義士等の一部の人々は、ずっと後まで彼等に釈然《しやくぜん》としないものを持ちつづけている。
一例を上げると、討入の一月ほど前、十一月十六日に、小野寺十内が浅野家の御典医《ごてんい》であった寺井|玄渓《げんけい》に出した手紙にこんな記述がある。この手紙は、神崎与五郎と前原伊助とが合作した「赤城盟伝」という一挙の次第を述べた漢文体の文章を送るにそえたものだが、こうある。
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この書に片岡、磯貝、田中貞四郎を格別の志ありと掲《あ》げて書き候が、これらは十指の示す所の節をのがし、在所落居(赤穂引上げ)の日も、忠死の色かつて見えず、うろつきの物笑ひの第一におちいり、中頃に帰参して、人なみに連《つらな》りたると申すべきものと存じ候。これを褒美の段は、不相応と申すべきにて候。御料簡なさるべく候。ここもと原(惣右衛門)氏と密々に論じ候ところ、右の思はく(結論)にて候云々
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小野寺だけでなく、原惣右衛門まで好意を持っていないのである。
十一
四月十六日|受城目付《じゆじようめつけ》荒木十左衛門、榊原采女《さかきばらうねめ》が赤穂に到着、その翌日には、代官石原新左衛門、岡田庄太夫が赤穂についた。
十八日には、目付と代官がうちそろって城内の検分を行った。
「江赤見聞記」によると、方々を検分して、幕使達が本丸《ほんまる》にはいった時、内蔵助は金の間において一|服《ぷく》の茶をすすめて、はるかに平伏して言った。
「このたび、内匠頭|不調法《ぶちようほう》によって御仕置を仰せつけられ、つづいて、城地御召上げの御沙汰を蒙り、まことに恐縮のいたりに存じます。右城地の御召上げにつきましては、はじめよりつつしんで上命を奉ずべき旨を家中一統に申しきけ、なお、内匠頭一類中よりたびたび内諭《ないゆ》がございまして、その都度一同に申しふくめてまいりました。いったい、かくのごとく主人は歿し、国は滅亡しますのに、吉良殿には以前とかわらずひきつづき公儀に御勤仕《ごきんし》の由を承りながら、私共生きながらえて御上使方へ拝謁《はいえつ》仕《つかまつ》ることはまことに面目《めんもく》なきことでございます。しかるに、今日まで恥をしのんでまいりましたのは、ひとえに、故内匠頭|舎弟《しやてい》大学のあるがためでございます。この儀は、さきに哀願したてまつるべき所存《しよぞん》のところ、手はず相違いたしまして、今日、御上使方すでに御来臨あらせられました上は、今更せんなきことでございますれば、城地一切つつしんで御返上に及びます。ただ、この上は、大学儀が、御奉公をつとめられるだけの面目が相立ちますよう、ひとえに御取りなしのほど願いあげるしだいでございます。このお願いにして、万一、お聞きとげになり、御恩命の沙汰を蒙ることができましたなら、その節こそ、私共亡主の位牌《いはい》の前にて自殺つかまつりまして、一つには御威光をおかし奉った罪を謝し、一つには一身をいさぎよくせんとの覚悟でございます。この衷情《ちゆうじよう》なにとぞ御|憐察《れんさつ》くださいまして、御とりなしのほど幾重にもお願いたてまつります」
誠意面にあふれて、惻々《そくそく》たることばは、聞く人の心を動かさねばやまぬもののように見えた。けれども、四人は一言も答えなかった。
そのうちに、四人は大書院《おおじよいん》へ通った。内蔵助はふたたび願った。
「今日の御処分は、全く内匠頭の不調法のいたすところでございますれば、それをとやかく申しあげる考えは毛頭ございませんが、采女正長重儀は権現《ごんげん》様御一統以前より台徳院様(秀忠)へ御奉公申しあげ、ひきつづき代々御厚恩を蒙っておりましたるに、一朝の不調法のために家名断絶に及びますること、家中一統いかにも残念に存じまする。なにとぞ、御とりなしのほど願いたてまつります」
しかし、この時も四人はだまっていた。
諸所を検分して玄関に出て、しばらくそこでまた休憩した。内蔵助は茶などすすめながら、三たびこころみた。
「再三御耳をわずらわし奉って恐れ入りたてまつりますが、さきにも申しあげましたごとく、内匠頭不調法の故のお仕置《しおき》でございますれば、その点は露《つゆ》うらみとは存じませぬが、大学今後の成行きを見届けずして城を離散しまする我々の心底、幾重にも御賢察を願います!」
おそらく、内蔵助の眼には滂沱《ぼうだ》たる涙があったろう。
石のごとき緘黙《かんもく》をまもりつづけてきた幕使達も、ついにゆり動かされた。代官石原新左衛門は、目付荒木十左衛門にむかって、
「内蔵助の心底《しんてい》、家中の存念《ぞんねん》、いかにも余儀なく聞えます。これは、帰府の上、老中方に申しあげても苦しかるまじく存ずるが、いかが思召《おぼしめ》す」
十左衛門はうなずいた。
「内蔵助の申すこと、もっともしごく。拙者においても御同様に存じます」
機会を逸せず、内蔵助は念をおした。
「御ねんごろなる御意《ぎよい》につき、無礼をかえりみず、なお申しあげます。おとりなしを以て、大学|赦免《しやめん》を蒙りました上は、面目《めんもく》もあって人前をも相勤め(恥じずに人の前に出られる身になっての意)、こころよく御奉公のできますようになしくだされましたならば、家中一統のよろこび、この上はございませぬ。なにとぞ、おとりなしのほど、重ねてお願いつかまつります」
驚嘆すべき執拗《しつよう》さであり頑強《がんきよう》さであるが、これは心ある武士の心掛の一つである。ものにこだわらずにさらさらと行くのも日本武士の一面だが、急所にあたっては、あくまで頑強に、あくまで執拗に行って、完全に手応《てごた》えのある所まで攻撃の手をゆるめないというのも武士の大切な心掛であった。
宮本武蔵にこんな話が伝わっている。武蔵取立ての門人で青木|城《じよう》右衛門という者があった(吉川英治氏の「宮本武蔵」に城太郎という少年が出て来るが、そのモデルはこれだ)。後に鉄人《てつじん》流という一派を立てた人だが、この青木が、諸国修行中、小倉までくると、師の武蔵が熊本から、小倉の小笠原家につかえている養子の伊織《いおり》のところに遊びにきていると聞いて、訪ねてきた。その日、武蔵は他家へあそびに行っていたので、青木はその訪問先へおしかけて行った。
「よくまいった」
久しぶりの弟子との対面に武蔵はよろこんで会ったが、
「そちも諸国修行してずいぶん上達したろう。久方《ひさかた》ぶりに見てやろうか」
といった。青木はよろこんで、お願いしますという。そこで、その家の庭先をかりて、太刀打《たちうち》した。
「おお、おお、いかい上達《じようたつ》だ。それくらいになったら、もう弟子をとってもよいの」
と、武蔵は上機嫌である。青木は礼をいって、木剣を袋にしまいかけたが、その時、袋の口からチラリと赤い紐がのぞいたのに、武蔵の目がとまった。
「城《じよう》右衛《え》、その赤い紐はなんだ。見せろ」
青木は袋の口をひらいて、一本の頑丈《がんじよう》な木剣をとり出した。赤い紐は、それにつけた腕ぬきだった。
「これは何だ。何のためにつかう木剣だ」
「諸国をめぐり歩くうちには、他流仕合をのぞまれることもありますので、その時につかう木剣でございます」
「かたわらいたきことを申す。その方ごとき未熟な腕で他流仕合とはなにごとだ。さようなおりは人知れずその地を立去ればよいのだ。先刻ほめたは、久方ぶりの対面ゆえ、はげましのためにほめたのだ。また弟子をとってもよいというたは、子供の師匠ぐらいはできようとの意《こころ》でいったのだ。それをわからぬとは、おのれ慢心して阿呆になりおったな!」
と散々に叱りつけた末、そこにいたその家の小姓にむかって、申しかねるが飯粒《めしつぶ》を少しいただきたいといって持って来させ、少々の間、そなたのからだを貸してくれといって、その場に坐らせ、飯粒一粒を前髪にのせて、片膝《かたひざ》立てると見るや、ぬきうちの脇差で、その飯粒を斬った。しかも、切先《きつさき》は髪にふれさせないのである。
「城右衛、これを見ろ、これを見ろ。これほど腕がきまっていても、他流仕合などというものはめったにしてはならぬものなのだ。その方ごとき未熟な腕で他流仕合などとは、なんたる増上慢《ぞうじようまん》。今までいのちがあったのを冥加《みようが》と思え」
と罵《ののし》って、その飯粒を指先にのせて、青木の鼻先にぐいぐいとつきつけて、また飯粒をのせて斬って見せて、
「城右衛、これを見ろ、これを見ろ……」
と、鼻先につきつける。三度まで斬ってみせてさとしたという。
一度ですむところを三度までしてみせたのだ。
また、老年に及んだ頃のこと、熊本のある大番頭《おおばんがしら》の屋敷でなにかのことで祝宴がひらかれて、武蔵も列席したが、その席で雑談の末、なにがしという大番頭の武士が、
「武蔵殿、先年|舟島《ふなじま》の仕合において、貴殿見事に佐々木小次郎を斃《たお》しなされたが、人によると、あの節、小次郎の刀の切先がかすかながら貴殿の額《ひたい》をかすったという者もある。本当はどうなのでござる」
と、問いかけた。すると、武蔵はずいと席を立って、その男の前に来て坐り、
「拙者は幼少のみぎり|れんこん《ヽヽヽヽ》と申す腫物《しゆもつ》をわずらい、そのあとが見苦しいため、月代《さかやき》することができず、ずっとこうして総髪《そうはつ》でおりますが、刀疵《かたなきず》はないはず。よくごらんくだされ」
といって、燭台《しよくだい》をひきよせ、髪をかきわけて相手の鼻先に額をつきつけた。座興《ざきよう》にいったことに、こうむきになられて、相手は閉口《へいこう》した。
「わかりました。噂はまさに虚説でござる。刀疵など見あたりませぬ」
といったが、武蔵はきかない。
「とくとおあらためくだされ。とくとおあらためくだされ……」
といいながら、なおもおしつけてくるので、閉口しきったという。
この武蔵の執拗性《しつようせい》、徹底しなければやまない精神、これが、武蔵をして古今《ここん》に独歩するほどの剣客につくりあげたのだが、これはひとり武蔵に、また剣道にかぎったことではない。一切のことにおいて、急所急所にあたっては、少なくとも、徳川初期までの心がけある武士はみなそうだったのである。
さて、内蔵助のことばにたいして、十左衛門は、
「承知いたした」
と、うなずきはしたものの、同役の榊原采女が先刻から黙っているので、それにむかって、
「帰府の上は御老中方へこの段申しあげてよろしいと存ずるが、貴殿の思召《おぼしめし》は?」
「拙者も同様に存ずる」
と、采女もこたえた。
十左衛門はよほどに感動したと見えて、内蔵助にこういってくれた。
「帰府の上は、その方の申立ての趣きくわしく御老中方へ申し上げて、精々《せいぜい》、願意の達するよう力をつくしてつかわそう故、このことは、家中の者共へ申し聞かしてもよいぞよ」
「義人録」によると、この後、内蔵助は同志の者をあつめて、今日のことを話した後、こういったという。
「お役人方はこういってはくだされたが、それがあてになることでないことはわかっている。が、ああ申しあげておいたならば、われらが今日ここで殉死いたさなんだわけを、将来さとられることもあろう」
上使等は旅館にかえると、内蔵助を呼んでこういった。
「このたび、赤穂領内に入ってみると、途次《とじ》の道筋の掃除、町々在々の作法の正しきこと。また帳簿目録の精密、道具類の整理、皆、一般奉公人の手本ともすべきことじゃ。また、今朝ほど城内での願いの趣き、もっともしごくと存ずる。ついては、これらはいずれも飛脚《ひきやく》を以て申し上げておいたれば、公儀におかせられても、さだめて神妙に思《おぼ》しめされることと存ずる。これやがては大学殿のおしあわせである云々」
十八日の夜半、即ち十九日の午前一時から三時頃までの間に、受城使脇坂|淡路守《あわじのかみ》と木下肥後守の軍勢《ぐんぜい》は赤穂へ入った。脇坂家四千五百四十五人、木下家の人数はわからないが、禄高《ろくだか》からいって千五六百人もあったろうか。
開城の時刻は十九日の卯の中刻《ちゆうこく》(午前六時)であった。無事にすんで、内蔵助以下は先祖代々の城を永久に去って城下へ出た。
このところ「忠臣蔵」の見せ場で、もとよりあれほどの思い入れや動きをするはずはなく、彼の性格からして、いたって淡々たる態度で城を出たであろうが、心理はたしかにああであったろう。
十二
城の明けわたしがすむと、親戚諸藩から見届けのために来ていた使者等や、受城使等は、続々と赤穂から退散した。江戸から馳せのぼってきた藩士、堀部だとか、奥田だとか、高田だとか、片岡だとか、磯貝だとかいう連中も去り、家中の侍等もばらばらに離散しはじめて、赤穂は火の消えたようなさびしさになった。
しかし、内蔵助等数人の者は、残務整理を命ぜられて、それから四五十日の間、ずっと遠林寺の会所へ通ってしごとをつづけた。
この残務整理中に、内蔵助は、浜方への貸付金の回収のこりをとりたてたが、あつまりが悪くて、すっかりあつまると五千五百両ほどにもなるべきはずのものが、わずかに五百七十両しかあつまらなかった。しかし、この金が仇討の費用になったのである。
五月の十一日に、荒木、榊原の両目付は、赤穂を立って江戸に向った。内蔵助はこれを見送りに行って、またしても、主家再興のとりなしをたのんできたのであるが、その日から左の腕に疔《ちよう》ができて、それになやんだ。はじめのうちは軽くて、大した治療もしないで癒ったので、また遠林寺に通って残務整理につとめたのであるが、大体一段落をつげた五月の二十二日になると、猛烈に再発した。大へん悪性で、腕一ぱいに腫れて腐《くさ》り出し、六月にはいってからはどっと寝つくという重態になった。
この重態のさなか、江戸の堀部等三人から手紙がきた。
「いつ下向《げこう》するか。一日もはやく来い。宿の心配もする。借りておこうか。それとも心当りがあるか。家財道具類はどうだ。用意しておこうか。それとも下向されてからお求めになるか。もし急に下って来られないようなら、こちらから打合せのために一人のぼろうか」
と、火のつくような気ぜわしい文面だ。さすがの内蔵助も苦笑せざるを得なかったろう。
あとで重大な関係のあることだから、この機会に説明しておきたい。内蔵助の目的と安兵衛等の目的とは相当距離があるのである。
安兵衛等の目的は純然たる敵討である。最初から、無二無三に敵討に突進したいのである。吉良をそのままにしておいては自分等の武士としての面目が立たないというのである。
ところが、内蔵助のそれは、これまでおりにふれて説いてきたように、第一の目的は主家の再興にある。しかし、なんでもかんでも主家を再興しさえすればよいというのではない。大学様が|人前なるような面目を立てて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》再興したいのである。人前に出られるような面目を立てるとは、吉良を処分してもらうという意味にほかならない。吉良が洒唖々々《しやあしやあ》としているかぎり、大学の面目の立とうはずはないからである。しかし、それでは武士の意気地をどうするか、ということが問題になり得る。安兵衛等が最初のうちどうしても内蔵助の意見に従おうとしなかった理由もそこにある。つまり、幕府が、内蔵助の嘆願をききいれてくれて、吉良を処分した上で、浅野家を再興さしてくれたとしても、世間の人の口には戸は立てられぬ。仇討をしていのちを失うことのいやさに、内蔵助はあの運動をしたのだというかも知れない。いうかも知れないどころか、きっというだろう。その場合、でないといってみたところで、それは水かけ論に過ぎない。それを我慢し得るか、というのである。けれども、内蔵助にいわせれば、そういうことを考えるのは真に忠を存している者とはいえないのである。意気地というのは、要するところ己れの身をいさぎよくすることにすぎない。人の臣たる者は、己れの身の恥やほまれなどより、まず主家のことを考えるべきである。主君の恥がすすがれ、主家の再興ができたら、それで忠義は立ったのである。己れの身をいさぎよくすることは、それからでも十分出来る。腹を切って死ねば簡単にすむのである。この計画が、どうしても絶望だとなった時、内蔵助は敵討をしようというのである。
この点が、安兵衛等と違うのである。言うならば、安兵衛等は前期武士道――僕のいわゆる「武士|気質《かたぎ》」の体現者であり、内蔵助は後期武士道の模範的な体現者であるということができよう。
さて、内蔵助は、開城後の多忙をきわめ、また病苦になやんでいた時においても、その目的にむかって孜々《しし》として努力した。高野山《こうやさん》や京都大徳寺の瑞光《ずいこう》院に内匠頭の墓碑を立てて永代供養料《えいたいくようりよう》を寄進するとともに、諸所の寺院に金子を寄進して主家再興の祈願をする一方、原惣右衛門を、遠林寺の前住職で、当時は京都|普門《ふもん》院の住職となっている義山のところにつかわした。義山は、同宗の関係から、江戸の大奥に絶大な信仰をされている護持院の隆光《りゆうこう》や護国寺の快意《かいい》などと懇意だったので、その手を通じて大奥にはたらきかけようとしたのである。護持院の隆光、護国寺の快意といえば、親孝行な将軍にとってただひとりの母である桂昌院《けいしよういん》の大へんな信仰を得て、れいのばかげた愛犬令や生類憐愍令を出させた妖僧どもだ。こういう無茶な法令を出させることのできるほどの力があるくらいだから、もし、彼等をとりこにすることができれば、この願いはきっと達せられたであろう。内蔵助は、非常な力こぶのいれかたで、原惣右衛門に追っかけて、遠林寺の現住職|祐海《ゆうかい》を京都につかわした。しかし、あてにして行った義山が不在だったので、祐海は自ら江戸へくだって、鏡照院《きようしよういん》という相弟子《あいでし》の寺院にとまって、その斡旋《あつせん》で隆光や快意に運動した。策という策、術という術、すべてをつくしてみようという内蔵助の心のかなしさは、そぞろ同情せざるを得ない。
また、浅野家の一門の手からも運動しようとこころみたが、我々の憤慨にたえないのは、浅野本家の態度である。
この五月に本家の当主浅野|綱長《つななが》が帰国の御暇をいただいて広島へ下るときいて、内蔵助は原惣右衛門等に命じて大坂に待ちうけさせて哀願書をさし出させたが、本家では氷よりもまだひややかな態度であった。
「内蔵助の苦心はよくわかるが、事件以来、当家でもお公儀にたいしては諸事遠慮中なれば、御老中へのお手入れなどとてもとてもできぬ。ま、そのうち、おりを見て」
というへんじである。前の借金申込みの時といい、この時といい、浅野本家の態度は、その冷淡さ、その軽薄さにおいて、我々の心を飽かしめざるもの多大である。
十三
世間というものは勝手なものである。せっかく面白い芝居が見られることと、目をみはって赤穂のなりゆきを見ていたのに、他愛《たあい》もなく開城になったので、口をきわめて内蔵助の悪口を言いはじめた。
大石の蔵とはかねて聞きしかど
よくよく見ればきらず蔵かな
大石は鮨《すし》の重《おも》しになるやらん
赤穂の米を食ひつぶしけり
などという落首が行われたということが「浅吉《せんきち》一乱記」その他に見えている。
かと思うと、赤穂開城後における内蔵助のはたらきが心ある人々の間には評判になって、赤穂退去以前に、脇坂家から当分百人扶持で客分に召しかかえようとの内意があったとか、山科《やましな》に移るために赤穂をひきあげて大坂まで出ると、鍋島家、細川家、有馬家、山内家、浅野本家などが、それぞれの|つて《ヽヽ》をもとめて高禄をもって招いたとかいう噂もある。
要するに毀誉半《きよなか》ばしたと見てよいだろう。
内蔵助が尾崎村に一時の寓居《ぐうきよ》をさだめたことはすでにのべたが、六月中旬になって、ほぼ疔もなおったので、近々に赤穂を去って、この頃か、少し以前に定めた京都山科へひきうつろうということになって、先ず、妻子を大坂まで立ちのかせた。
その頃のこととして、伴蒿蹊《ばんこうけい》の「近世畸人伝《きんせいきじんでん》」や、河野通綸の「赤水郷談《せきすいきようだん》」に、こんなことを伝えている。
ある日のこと、昔の老僕の八助というものがたずねてきて、
「聞きますれば、旦那様は近々こちらをひきあげて京にいらっしゃるげな。わしももう少し若ければお供して、御恩報じをしましょうものを、こう老いぼれては、もうそれもかないませぬ。爺《じい》もこの年でございますので、今お別れしましたなら、もう二度とお目にかかることもできますまいゆえ、せめては何なりともおかたみのお品をひとついただいて、旦那様と思うて朝夕拝みたいと存じます」
と、涙ぐんでいう。内蔵助もそぞろあわれになって、
「思いもかけぬことで、わしも俄浪人《にわかろうにん》となって、頼るところもない。京の山科のあたりにひっこんで百姓となって一生を送るつもり。なんぞその方にもとらせたいが、心にまかせぬ。これは些少《さしよう》だが」
と、取出したなにほどかの金子《きんす》をつかわすと、八助はにわかに腹を立てて、
「爺はお金ほしさにまいったのではございませぬ。これが今生《こんじよう》のお別れかと存じますので、なんぞお筆蹟でも頂戴して、ながくおかたみと拝みたいと思うてお願いしましたのに、かようなことをされては口惜《くちお》しゅうございます。それにこのたびの御家《おいえ》の大変についても、片手落ちなお上《かみ》のおさばきが、爺のような者にさえ腹が立ってなりませぬに、唯今のおことばでは山科へひっこんで百姓して世を送りなさろうとのこと、爺は口惜しゅうございます」
「ゆるせ、ゆるせ。爺よ。気づかぬことをした」
内蔵助は、傍《かたわら》の硯《すずり》をひきよせて、紙をのべ、さらさらと一|幅《ぷく》の絵を描《か》いた。編笠《あみがさ》をまぶかにかぶった若い武士と、その供をする元気いっぱいのひげ奴《やつこ》の絵である。
「爺よ。そちも思い出したであろう。昔、江戸でそちを供につれて、わしが吉原《よしわら》へ通《かよ》った時の姿だぞよ」
当年の意気、おれはまだ失わぬぞ、一生を百姓をして送るといったのは一時の方便《ほうべん》だ、との寓意をさとった八助は、にっこりとわらって、
「有難うござります。これで爺も胸のつかえがおりました」
といって、つきぬ名残をおしんで立去ったというのだ。
この時、内蔵助の描いた絵は、今も赤穂の某旧家にあるということだが、その絵は少しあやしいと三田村鳶魚氏が考証している。当時の風俗と少しちがうそうである。絵はあるいは後人の偽筆《ぎひつ》かも知れぬ。しかしそれによって、この話まで否定することはできない。話があるので絵をこしらえたということは間々あることだ。
内蔵助は六月二十五日に赤穂を立って、海路大坂にむかった。
正保二年七月、浅野長直の入部《にゆうぶ》(入国)にしたがって、彼の曾祖父内蔵助良勝がはいってきてから四代五十七年間、彼の家をはぐくみそだててくれた土地を去るのだ。烟波《えんぱ》のなかに遠ざかり薄れ行く城のすがたや山河の景色を見ながら、内蔵助の胸は無量のおもいに濡《ぬ》れたであろう。
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山科の巻
内蔵助がいつ山科《やましな》へ居をさだめる決心をしたかははっきりわかっていない。彼が、妻の父である京極家の家老|石束《いしづか》源五兵衛に出した五月十日付の手紙に「私住居のこと、未だわかり申さず」と書いていることを見ると、この時まではきめていなかったのである。しかし、六月二十五日に赤穂を出て、彼にさきだって大坂まで出ていた妻子をひきつれて二十八日には山科についているという行動の迅速さから見ると、五月十日以後の一月半の間に、山科と心にきめたばかりでなく、すぐ住えるように準備をととのえたものと見てよい。
この山科の新居は、内蔵助の一族進藤源四郎が見つけてくれたものだった。源四郎の家は代々山科に田地と屋敷(小字|篠田《しのだ》にあった)を持っていたので、赤穂を退転《たいてん》するとすぐここへきたのである。内蔵助にしてみれば、別に山科でなければならないこともなかったろうが、京都地方には彼の親類縁故も多かったのだから、必ず京都附近をえらんだであろうとは想像がつく。しかし、彼のこの山科|卜居《ぼつきよ》を、山科は東海道の要地であり、また同志が多く住いしている江戸、京都、伏見、大津、大坂、赤穂等と連絡をとるに究竟《くつきよう》な土地だから、特にここをえらんだという一般の解釈は、少しうがちすぎている。京都附近の土地だったら、どこだって大してかわりはないのである。戦争でもするつもりなら知らず、特に東海道の要地をえらぶ必要もあるまい。
隠栖《いんせい》のあとは、山科の西野《にしの》山の山科神社の鳥居の前、北側の藪の中である。昭和の初年、京都に住んでいた頃、あとを弔《とぶら》ったことがあるが、東に山科盆地がひらけ、うしろに末は伏見の稲荷山《いなりやま》となる山を負うた、日あたりのよい小高い位置であった。
ここにうつると、内蔵助は屋敷を買いひろげたり、田地をもとめたり、京都から大工や左官を呼んで家を新築して離れ座敷までこしらえたり、前栽《せんざい》には好きな牡丹《ぼたん》など植えこんだりした。名も母方の姓をとって、池田久右衛門とあらためた。すっかり、ここへおちついてしまうもののように見えた。自分でも、
「二三年もしたら伜《せがれ》に家督《かとく》をゆずって、拙者は隠居となって、気楽に余生を送りますじゃ」
といっていた。
ここでちょっと彼の家の家族調べをしておこう。
彼の妻女は、但馬豊岡《たじまとよおか》三万五千石の藩主京極甲斐守高住の家老石束源五兵衛の女《むすめ》、この時三十三歳、名は陸《りく》、内蔵助の死後は香林院《こうりんいん》と名のった。長男は松之|丞《じよう》、後の主税《ちから》である。当年十四。次男は吉千代、十一。三男は大三郎、これは翌年七月に生れているから、この頃はまだ腹にはいってもいない。長女はくう、十二。二女は妾腹《しようふく》だったが、この年二月、四つで死んでいる。だから、内蔵助は二女の死を悲しんだ一月後には主家の変《へん》にあったわけである。三女はるり、三つ。ほかに養子で覚運という十五歳になるのがある、これは内蔵助にとっては伯父にあたる小山《おやま》源五右衛門の子であるのをもらって、大石家由緒の男山八幡の大西坊のあとつぎにしていた。
陰暦の七月――暦の上ではもう秋だが、残暑とはいえないくらいまだ暑い七月初旬、うれしい報告を内蔵助はうけとった。
赤穂浅野家の分家で、三千石の旗本である、浅野美濃守|長恒《ながつね》(前出)の家来から、内蔵助のもとへこんな意味の手紙がきた。
「六月七日、赤穂受城目付であった荒木十左衛門様が御自身美濃守の屋敷に来られて、かねて内蔵助から執達《しつたつ》を依頼されていた嘆願の趣きを御老中、若年寄方へしさいに申しあげたところ、どなたもしごくもっともと思うとの御挨拶があったゆえ、はやく内蔵助へ知らせてやりたいと思うが、赤穂退転後の彼の居所を知らぬ故、御当家より御申しつかわしくだされたいとのことであった」
内蔵助は十左衛門の厚情を感謝するとともに涙を浮べてよろこんだ。
その月の下旬には、前にもちょっとふれておいた大奥方面への運動のために東下していた遠林寺の祐海からも報告がきた。護持院の隆光僧正に見参してひたすらに懇願したところ、「ずいぶん骨折ってみましょう」というあいさつであった、また護国寺の快意僧正にも面謁《めんえつ》して同様にたのみこんだところ、同様なあいさつであった、というのである。これも悪いしらせではない。
うまく行きそうである。
内蔵助は、元気づいて、さらに新しい方面からの運動に着手した。
祐海にたいして、当時、幕府第一の権勢家である柳沢吉保(当時は保明)の家老平岡宇右衛門、用人豊原権右衛門へ、しかるべき手づるをもとめてとり入ることを指令して、その手づるとして、平岡の弟で幕府の勘定方《かんじようかた》にいる同姓市右衛門と、豊原の弟で同じく勘定方にいる道助とを指名してやった。
また、京都|智積院《ちしやくいん》の隠居である某僧正が江戸へくだるということを聞いて、幕府の重臣や大奥への運動をたのみこんだ。
さらにまた――
内蔵助の「金銀請払帳《きんぎんうけはらいちよう》」というのが残っている。仇討までの公金の出納簿《すいとうぼ》で、討入直前、内蔵助が内匠頭夫人|瑶泉院《ようせんいん》の家老落合与左衛門にさしだしたもので、原本《げんぽん》は箱根神社の所蔵で、その写しが「義人|纂《さん》書」のなかにおさめられているが、その中に、滝立仙《たきりゆうせん》という浪人をたのんで手遣《てづか》いのために江戸へつかわすについて遣わしたという金の支出が見える。滝立仙がいかなる人物であるか、また、どこへどう運動をしたか、はっきりわからないが、運動のために江戸へつかわしたことは事実である。この浪人の江戸下りには、千馬三郎兵衛が同行している。
こうした運動は、みな手づるをもとめて、奥向きや重臣などにとりいって、その力で願意を達成しようとするいわゆる裏口運動で、こういうことまでしたということから、内蔵助を非難する人もあるが、それはあまりに刻薄《こくはく》にすぎる論である。この時代には、きわめて普通に行われていたことであり、現に、それをやらなかったために松の廊下の悲劇もおこっているのだ。内蔵助は道学者ではないのだ。忠臣なのだ。そうしたことまでやらずにおられなかった彼のせっぱつまった忠志にこそ同情の涙をそそぐべきであろう。
この「金銀請払帳」には、また、内蔵助が、小野寺十内を同道して美濃の大垣《おおがき》へ行った時の旅費の支出が見える。大垣は戸田|采女正《うねめのかみ》の本国である。そして、采女正は七月一日に将軍に帰国の許しを受けて、九日に江戸を立っている。なんのために内蔵助が、大垣へ行ったかはおのずから明らかだ。主家再興のとりなしを依頼のためか、その相談のためであることはうたがいない。
内蔵助は実に万策《ばんさく》をつくした。しかし、こうまで熱望しても、決して、浅野家が再興しさえすればよいというのではなかった。同時に、吉良父子への処分をしてもらいたいという主張を儼《げん》として堅持しているのである。それは祐海にあてた彼の指令の手紙にはっきりそう書いてある。
「大学様御運命のことは、すでに、赤穂でも申しあげたように、単なる御赦免《ごしやめん》をお願い申しあげているのではない。御赦免とともに、りっぱに人前に出られるような面目を立ててとお願いしているのです。どう考えても、吉良氏が今のまま勤役《きんやく》していられるのに肩をならべての御勤役では、大学様の面目は立ちません。だからこそ、開城の際、目付衆へ嘆願した時にも、『人前まかりなるように』と申しあげたのです。ここはいささかむずかしいところだとは思いますが、このところをおふくみの上、御運動願いたい……」
とあるのである。
こうして内蔵助があらんかぎりの力をつくして御家再興の運動をしている時、江戸の堀部一派は、ひたすら復讐《ふくしゆう》の熱情にかられていた。
内蔵助がまだ赤穂尾崎村にいた頃、堀部等が手紙をよこして、早くもその東下をさいそくして、やれ、借家を用意しておこうか、やれ家財道具を整《ととの》えておこうかなどと、その気早さに内蔵助を苦笑させたことはすでに書いたが、当時、悪性の疔《ちよう》のために重態であった内蔵助は自ら筆をとることができないので、原惣右衛門に返事を書かせておくった。
交通機関の不便な当時のことである。急ぎの時は別として、普通の速度で順調に旅行をつづけても十七日というのが赤穂江戸間の標準の日数である。町飛脚へ依頼する私信ならば、もっと長くかかるのである。だが、そんなことを考えるほどの余裕は堀部等にはない。毎日毎日、首をながくして返事いかにと待ちこがれていたが、業《ごう》をにやして、六月十八日に小山《おやま》源五右衛門にあてて手紙を書き、さらにその翌日内蔵助にも手紙を書きおくった。最初の手紙を書いてから一月しか経っていないのだから、内蔵助がすぐ返事を出したにしても、届くまでにはまだ数日ある勘定なのに、こうなのだ。いかに彼等があせっていたかがわかるのである。「武庸筆記」に、
「五月十九日に、内蔵助まで連状(連名の手紙)を以て飛脚便つかはし候へども、今以て返報来らず候。これによつて、また差し越したる書面の書きとめ」
と前書《まえがき》してその手紙を書きとめているが、この前書だけでも、鶴首焦躁《かくしゆしようそう》の様子がよくわかる。
「先月十九日に町飛脚を以てあなた様にあてた手紙を大塚屋小右衛門まで頼んでやりましたところ、大塚屋から、たしかにうけとりましたが、内蔵助殿には赤穂の御用がかたづかないで、五月一ぱいは赤穂に御|逗留《とうりゆう》である、もっとも、近々には山科におうつりになることになっている故、その節おわたしする、と申してまいりました。けれども、今にいたるまで御返事がいただけません。はなはだ心もとないので、この手紙をさしあげます。先便でも申しあげた通り、江戸御下向の際の御宿は拙者共で心配いたしますから、どうぞおまかせ願います。当地御到着の御予定日をお知らせくだされば、品川までお迎えして、当地の様子をあらましお耳に達したいと存じます。我々はみな御下向を鶴首してお待ちしています。いろいろあれど、万事は拝眉《はいび》の上。亡君御百ヵ日の御法事もいよいよ来る二十三日二十四日の両日にとり行われますから、かたがた、御下向のほどお待ちいたします」
大たい、こんな意味のものである。堀部、奥田、高田の三人の連名である。
この手紙に出てくる大塚屋というのは、伏見の本陣宿《ほんじんやど》で、浅野家から代々五人|扶持《ぶち》を給せられていた恩義を忘れず、義士等の通信はこの家のとりつぎで行われていたのである。
小山《おやま》源五右衛門への手紙には、内蔵助にたいするほど遠慮がないと見えて、ずいぶん突っこんだことを書いている。
「去る十四日は亡君の御忌日《おきじつ》なので、われら三人泉岳寺へ参詣したところ、ちょうど、瑶泉院様から御つかわしの落合与左衛門殿と、江戸家老の安井彦右衛門とが参詣して帰られたあとで、坊さんがたが、我々に、
『たとえ、千部万部の読経《どきよう》して供養《くよう》なされても、内匠頭様は決してお受けはあそばされぬであろう。いいがいなき人々である』
と申された。その通りであると、われらは実に残念にも思い、また、恥しくも思った。現在、我々は方々|駆廻《かけまわ》って同志をつのっているが、四五人しか鉄石《てつせき》の志ある人を得ていない。大部分の者は、思慮《しりよ》深げに、お公儀の御沙汰によって大学様の御運命がきまるのを待とうといっている。弁口《べんこう》さわやかにいかにもしさいらしくいう者もあるが、こんな因循《いんじゆん》な連中とはまるで話があわない。強いて談合しようとすれば正面衝突するにきまっているから、二度とは相談しないことにしている。一両人同志の者が下ってきてさえ、江戸ではいろいろと噂をしている状態だから、御下向のおりは変名なさることが必要である。内蔵助殿にも、この旨申しあげていただきたい。同志はなるべく多いがよいから、内蔵助殿の御気に召さない者でも、その志ある者には御相談をかけられて、同志にひきいれていただきたい。御通知さえ前以てくだされば、二十人ぐらいずつの下向なら、引きうけて、目立たないように御宿を用意します云々」
この源五右衛門あての手紙を見ると、三人はてんで内蔵助の真意がわかっていないのである。大学の運命の決着を見て、それが意に満たなかった場合、最後の行動をとるというのが内蔵助の意志なのである。
だのに、三人は「大学様の御首尾《ごしゆび》を見て」という人々を腰抜けと罵倒《ばとう》している。
赤穂においての内蔵助の懇諭《こんゆ》(ていねいなさとし)を彼等はどこに聞いたのであろうか。その時から、最後の行動というところしか、わからなかったのだろうか。それとも、江戸へかえってきて、吉良家の昔にかわりなき有様を眼前に見たり、赤穂浪士の不甲斐なさを罵倒する世間の声を聞いたりして、いきり立ってこうなったのだろうか。
結果的には、勁烈果敢《けいれつかかん》な彼等の言動が、一党の士気をはげます力となっているが、当時においては、これが内蔵助をなやますことは大へんなものだった。それは追々《おいおい》にわかって行くはずである。
さて、百ヵ日法事が泉岳寺でいとなまれた日のことである。
堀部等は、それぞれ香奠《こうでん》をたずさえて泉岳寺に行ったが、法事がすんだ後、三人は、この時、新しく建てられた亡君の石碑《せきひ》の前にぬかずいて、熱心に祈念した。
「われら志を同じくするもの相はかって、復讐の計画をさだめました。この上は、一日も早く上野《こうずけ》を討ちとって、首をこの御墓前にささげたいと、折角《せつかく》努力中でござりますれば、なにとぞ、お心を安んぜられて、お待ちくださいますよう」
かくして、かえりかけた時になって、これから安井彦右衛門の家へおしかけて、あいつを引入れようではないか、という相談がもちあがった。
理窟のない連中である。よかろう、とただちに相談一決した。まず、使いを出して面会を申しこんだ。
「緊急な用談あって、これからお宅へ参上のつもりであるが、御在宅でござろうか。もし、御|他出《たしゆつ》中であるならば、おかえりになるまでいつまでもお待ちつかまつる所存なれば、おふくみおきくだされたい」
前にたびたび居留守をくったり、外《はず》せない用事があるなどといって玄関ばらいをくったりした経験があるので、否応《いやおう》いわさぬ策をとったのである。安井も観念したのだろう。御都合次第でいつなんどきなりとも来てくれといってきた。
これほどまで信用のおけない者を、なぜこうまでしてさそいこまねばならないのだ、というのは、局外者のつめたい批評である。堀部等のあせりにあせっている心事《しんじ》こそあわれむべきであろう。
三人はのりこんで行った。赤穂へ出かける前に会ったきり、その後会わないのであるから、まず、一通りのあいさつをして、おわるとすぐきり出した。
「かようの次第にて、赤穂の連中とも相談して、上野介討取のことがきまりました故、貴殿においても御一儀ねがいたい。貴殿にして御一儀くださらば、江戸|定府《じようふ》の者(江戸に詰めきりの者)共も多数参加すること必定なれば、ぜひとも、さようにねがいたく存ずる」
安井は狡猾《こうかつ》な男である。
「各々の思い立ちはまことに結構に存ずる。唯今まで各々方のような忠烈な御志を申された者は、日本の神以《しんもつ》て(日本の神々に誓って申すがの意)一人もござらぬ。いざという時には、拙者もはずれはいたさぬ。かならず同意申すでござろう」
と、さんざんおだてあげておいて、
「さりながら、世間の噂では、大学様の御首尾もよろしきようもっぱら取沙汰いたすのみならず、柳沢殿御家中より、大学殿の御運が悪くなるようなことはあるまい故、御閉門中はずいぶんとお慎みになるようにと申されたとも承る。かくのごとく、もし、大学様の御首尾がよくなって、浅野のお家が再びりっぱに立つということになれば、いろいろな書物に昔からあるごとく(このことばはよく味わうべきだ。安井もまた元禄男であった、しかし、これは学問の悪用だ)、いわゆる先祖の祀《まつり》を嗣《つ》ぐというもので、大孝の至りなれば、亡君もいかばかり御喜びあそばされるやら。その御喜びは、上野介の首を御覧《ごろう》ぜらるるよりなんぼうか御まさりか知れぬ。とかく、大学様の御首尾を見届けての上のことにしたいと存ずる」
大たいにおいて、内蔵助のいいぶんと同じである。しかし、三人は屈しなかった。
「お家のことを思案していては、亡君の御|鬱憤《うつぷん》をおなぐさめいたすことはぜったいにできぬことでござる。なぜなら、亡君は、上野介へお斬りつけなされた時、お家もお命も捨てていらせられるのでござる。無二無三、上野介が首さえ御覧ぜられますなら、御鬱憤の散ぜさせたまうことうたがいなし。我々はおたがいいずれも亡君を主君と仰ぎつかえた者でござれば、いつまでも亡君への御奉公を念とすべきであると存ずる。大学様がお家を立てられるからとて、主君の敵《かたき》を見逃すべき道はござらぬ。もし、亡君御生前において、大学様を討取るべしと御命令あったとしたならば、躊躇《ちゆうちよ》なく従わなければならない我々ではござらぬか。とくと御勘考《ごかんこう》くだされて、早速に御一儀ねがいたい」
辞気《じき》(言葉と意気ごみ)激切《げきせつ》、安井もあしらいかねて見えたが、さすがに老獪《ろうかい》、すらりといいぬけた。
「ごもっともなれど、上野介の用心は甚だきびしき由に聞けば、卒爾《そつじ》(軽率なさま)なことにてはおぼつかなく存ずる。ま、よりよりゆるりと御相談つかまつろう。まずは、同心《どうしん》の忠烈の士できて珍重至極《ちんちようしごく》」
この「珍重至極」にころりと三人はだまされてしまった。このことばは、しさいにせんさくすると、はなはだあいまいである。貴殿方も同志ができてよかったなという意味にも、拙者も忠烈な同志ができてうれしいという意味にも、いずれにもとれることばである。けれども、単純素朴な武士|気質《かたぎ》の遵奉者《じゆんぽうしや》である三人はそんなところまでかんぐるようなことはしない。大たいにおいて安井も賛成したと、大いによろこんで辞去した。
ところが、それから数日後のこと。磯貝十郎左衛門が三人のところにたずねてきた。前にのべた通り、磯貝、片岡源五右衛門、田中貞四郎の三人は、内匠頭生前にはいわゆる嬖人派《へいじんは》(殿様に寵愛されている連中)で、武勇派の三人とはそりが合わなかった上に、凶変に際しては、内蔵助の深意を察せずして三人だけで復讐の計画を立てて内蔵助に同意しなかったのである。磯貝等が独自の復讐計画を持っていることは、もちろん、堀部等にはわからない。なにしに来たと思いながら迎えると、磯貝は、自分も同志にしてくれとたのんだ。ひとりでも人数の多い方がよいと内蔵助へ書きおくったほどの三人だ。すぐゆるした。
「おぬしは、格別な御恩情をいただいた身なれば、追腹《おいばら》(殉死)をもせねばならぬ身の上、もっとも至極のねがい」
「かたじけなきことでござる。各々の御草履《おぞうり》をとるようなことにてもいたしますれば、なにとぞよろしくねがいまする」
と、磯貝は感謝したが、さていうよう、
「実は、拙者が、どうして各々方《おのおのがた》のお志を知ったかと申しますと、安井殿から聞いたのでござる」
「安井殿が、ここへ行って加えていただけと申されたのか」
「とんでもなきこと」
と、三人の人のよさにあきれながらも、磯貝は語った。
あるところで、磯貝と松本新五右衛門(百石七人扶持江戸定府士)とが安井にあったところ、安井は両人にむかってこういった。この前、堀部、奥田、高田の三人が自分のところへきて、敵討の計画を立てたから一味せよと強談《ごうだん》におよんだが、以てのほかの不料簡《ふりようけん》な者共だ、その志があるならば、自分等だけで斬りこめばよいはなしだ、人に強《し》いるのは不届《ふとどき》千|万《ばん》である云々……。
「けしからん安井め!」
かんかんになって、三人は腹を立てて、以後はふっつり交渉をやめてしまった。
この三人の、勇あまって思慮の乏しさに不安を感じたのだろうか、それとも、どうしてもそりがあいかねたのだろうか、磯貝も数回たずねてくるうちに、ふっつりとこなくなった。
「その以後何とかは思案いたしけん。心変りして音信《いんしん》不通になり、源助橋辺に酒店を出し、ふつうに(ふっつりとの意)人に出会はず、町人のていになりにけり。あまりのことに大笑ひいたしけり」
と「武庸筆記」に書いてある。
こんな工合に、江戸の連中がたよりにならないので、どうしても上方《かみがた》の連中と相談するほかはないと、再びはせ上るつもりで用意しているところに、内蔵助の手紙がきた。最初の手紙にたいする返事である。七月三日のことであるから、ちょうど一月半ぶりである。
内蔵助の返書を披露《ひろう》する前にいっておきたいことがある。それは、はっきりそう書いてあるわけではないが、「武庸筆記」から感ぜられる空気は、堀部等は、もし成功の見込みが立つなら、江戸の連中だけで事をあげたいと思っていたのではないかということだ。彼等はあるいはそれを意識してはいなかったかも知れない。けれども、成功の見込みが立っているのに内蔵助が間に合わないと見たら、きっと内蔵助を除外して決行したにちがいない。凶変以来その心術《しんじゆつ》(心だて)ははっきりわかっているはずの安井に相談したのもそのため、同志|糾合《きゆうごう》に奔走したのもそのため、だからこそ、江戸の連中に見こみなしとなって「かやうに御当地の者共、腰ぬけ候ては、本望《ほんまう》遂げがたく候。とかく、上方の者共へしめし合《あは》するよりほかあるべからず」となったのではないかと思う。
内蔵助の返事はこうである。
「拙者は疔《ちよう》をわずらって、いまだに赤穂にいる。それ故、いつくだるかはっきりしたことはわからない。くだるにしても、赤穂浪人の挙動《きよどう》にたいして世間の目がとがっている時であるから、大勢《おおぜい》では下れない。はじめの考えでは七八人同行しようと思っていたが、そうすると、ほかの同志が、すわこそとりのこされるなと、先を争ってくだることになろうから世間の視聴をそばだててよくない。|拙者の本心は最初からちっともかわっていないが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今度の東下の目的は前にお話ししたのと少しちがう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それは、いずれ下向拝眉《げこうはいび》の上申しあげるが、こういうわけ故、下るときは三人、家来共までいれてせいぜい七八人にもなろうか。貴殿方のうち誰か相談のため上って来ようかとの仰せであるが、必ずそれは無用である」
この内蔵助の手紙は、非常な衝撃を三人にあたえた。世間の注意をひかないようにしてくだりたいというのはわかる。お公儀《こうぎ》や吉良家に警戒させないためにはぜひ必要なことだ。だからこそ、こちらからも第二便には、変名してくだって来いといってよこしたほどだ。しかし、これは敵討のためにこそ必要なのだ。ところが、なんだ、大勢の同志がくだるとこまるとは! それに
「拙者の本心は最初からちっともかわっていないが、今度の東下の目的は前に話したのと少々ちがう」という文句まである!
「一大事だぞ!」
三人は、六日の間、熟議《じゆくぎ》に熟議をこらした末、七月八日、つぎのような手紙をしたためた。
「御病気との由、まことに心配にたえません。しかし、もう御|快癒《かいゆ》の上、山科へおうつりのことと存じあげます。おうつりでしたら、早速、町飛脚《まちびきやく》を以て知らせていただきたいと思います。当方のこと、書面では意をつくしませんから、拝眉の上、御相談申しあげます。ですから、貴殿御下向の儀は、それまで延期くださいますようお願い致します」
どういう目的でくだってくるかわからないが、敵討以外の目的できてもらったってなんにもならない。ぜひとも敵討と心をきめて、同志の者もなるべく多数くだってもらわなければこまるのである。従って、こちらから行って、そう説きつけて、その上でくだってもらおう、という考えなのである。
この手紙を出してしばらくして、また、内蔵助から手紙がきた。五月十九日に出した第二信の返事である。日付は七月三日となっている。
「山科にひきうつった。疔は今はもう大たいよいが、未だに手の屈伸《くつしん》が自由にならないから医療を受けている。このようなわけで、急に東下することもできず、残念に思っている。それについて、原惣右衛門を近日下すことにした。原も唯今は赤穂をひきはらって大坂住いである。万事《ばんじ》、原の下向をまって相談してもらいたい」
十日ほど経って、また、内蔵助の手紙が来る。小山源五右衛門にあてたこちらの手紙を見て書いたものであった。
「貴殿方より小山源五右衛門へあてられた手紙を見て拙者《せつしや》は驚いている。拙者だけでなく、皆驚いている。赤穂において拙者が申しあげたことを、貴殿方は誤解しておられるようである。あの節、拙者は、大学様の御運命の定まりかたによって最後の行動をおこすと申しあげたはずである。従って、拙者は、大学様の御首尾よろしいようにと懸命の努力をつづけているが、それ以前に、我意《がい》を立てて敵討などはしないのである。ことに、現在では、お目付《めつけ》の荒木十左衛門殿が御老中に拙者の嘆願の趣《おもむ》きを取次いでくだされて、御老中方の御あいさつもよろしかったとの情報が入っているほどであるから、幕府の神経をとがらせるようなことはつつしまねばならないのである。先便《せんびん》でも申しあげたように、病気がまだ全快というのでもないから、下向は延ばして原を派遣する。しかし、これとても、敵討のためにくだるのではない。大学様御首尾の運動のためにつかわすのである。拙者をさしおいて、同志の面々に御相談なされても、上方の同志は、拙者の指令がないかぎり、私用で下向するなら格別のこと、それ以外には誰もくだりはしませぬぞ。ともかくも、大学様の御首尾次第である。大学様が御運がひらけて、人前なるような御身分になられたなら、まことに結構至極のことで、その上はわれわれは出家|沙門《しやもん》の身になってもよろしいと思っている。自分一個の男を立てんため主家を思わぬのは人の臣たるの道ではない。くれぐれも時節を待たれよ」
立腹の様子がはっきりとうかがわれる手紙である。さすがの三人もへこたれた。
「大夫は御立腹召されている」
「弱ったぞ」
「如何致そう」
いろいろと相談して、とりあえず、堀部ひとりの名前で返事を書いた。
「仰《おお》せ一々ごもっともと恐れいっています。この上は万事おさしずにしたがって行動いたします」
が、くやしくてならないので、こう書きそえずにはおられなかった。
「上野介は六十余の老年のことですから、露命《ろめい》のほど心許《こころもと》なく存じます。彼がもし事前に病死すればわれらの武士は立たないわけですが、その辺の御勘考はいかがですか。大学様の御首尾についての取沙汰は甚だよろしゅうございます。しかし、大学様が日本に天竺《てんじく》をそえて賜わられようと、大学様としては上野をそのまま御見|逃《のが》しになさるわけにはまいらぬのですから、お公儀としては、大学様をお取立てになることはちとむずかしいのではないでしょうか。これについて、こういうはなしがございます。さる直参《じきさん》の方が、お家(浅野家の意)御一門のお屋敷へまいられた時、大学殿が御閉門が赦《ゆる》されて御自由の身になられたら、さだめし吉良をそのままにはしておかれぬでありましょうな、と仰せられたところ、御一門の方は、大学はお公儀へのはばかりもあることだからどうすることもできますまいが、家来の者共がそのままにはしておかぬでありましょうと御返事なされたと、たしかな筋からききました。かくのごとく、御一門衆においてもわれわれの奮発を期待していらせられるのでございます。およそ、人の臣たる者の道として、君の敵は親の敵より重んずべきものと存じます。その証拠には、主君が仰せ出されたなら、たとえわが親でもこれを討たねばならないのが武士の道であるからでございます。たとえ幾年経っても、亡君のおうらみをついで敵を討つことは、つまり武道の吟味《ぎんみ》きびしいお家柄であったということになって、亡君末代までの御名誉となることで、この上の御奉公はないとも存じます」
この手紙を出して十日ほどたって、八月十九日、三人は御後室《ごこうしつ》瑶泉院《ようせんいん》様の御許《おんもと》へ御機嫌《ごきげん》うかがいに伺候した。瑶泉院は、三月の凶変のあった日、芳齢《ほうれい》二十八で髪をおろして、実家浅野土佐守にひきとられて、赤坂今井の屋敷に住んでいる。
御機嫌うかがいといっても、身分の高い人や、ことに女性にたいするそれは、直接にあうわけではない。とりつぎを以て、その意を表するだけだ。三人はお留守居の落合与左衛門にあって、御機嫌をうかがってから、こういった。
「瑶泉院様には、定めし先殿様《せんとのさま》の御事《おんこと》をさぞさぞ御無念に思《おぼ》しめしていらせられるであろうと御察し申しあげます。わたくしども唯今は浪々《ろうろう》の身でございます。かくして伺候申しあげるのも、身のためを存じてのへつらいではないかとおさげすみかも存じませねど、神以《しんもつ》てさようなきたなき心底ではございません。われら三人いずれも新参者ではございまするが、この節《せつ》のことは、譜《ふ》代新参の差別のあるべきことではございませんから、礼儀のためかくのごとく御機嫌うかがいにまいったわけでございます。しかしながら、今後は切々《せつせつ》とは参上いたしませねば、この旨、おついでのおりに仰せあげられたくおねがいいたします」
以上は「武庸筆記」の文章を直訳したのであるが、これを文字のままに解釈してはならない。眼目《がんもく》は「今後は切々とは参上いたしませねば云々」というところにあるのである。我々はある計画をめぐらしていますから、あとで御迷惑になるといけませんから、切々とは参上いたしませぬ、という含みなのである。
与左衛門もそれは心得ている。
「各々《おのおの》のお心入れは委細《いさい》うけたまわった。ごもっとも千万に存ずる。さよう申し上げるでござろう。各々方のけなげな心にひきかえ、安井彦右衛門じゃが、あれの不埒《ふらち》を段々と聞《きこ》しめされて、御女性《ごによしよう》ながら残念に思し召さるる旨を度々仰せ出される。のみならず、凶変以来、一度もおうかがいにもまいらぬので、いろいろと御不審に思召されていますじゃ」
この瑶泉院伺候は、三人の胸にまた炎《ほのお》をふきこんだ。御後室様も敵討を待っていらせられるのだ!
この時、三人は落合から内蔵助の手紙をわたされた。いったい、彼等の書信は、江戸から上方への手紙は伏見の大塚屋気付に、上方から江戸へのものはこの落合気付にしてとりかわすのが普通になっていたのである。
この時の内蔵助の手紙は、七月八日、当方から出したものの返事であった。前便と、大たいにおいて同じであるが、なかにこういう文句がある。
「誰かひとり相談のため上洛《じようらく》したいとのことであるがそれは無用である。大学様御首尾のためによき運動の手づるでも見つかって、その相談のためというならば格別、れいの敵討急ぎのためなら、必要のないことである」
瑶泉院のところに行ってかっかと胸の炎が燃え立っている当日のことである。猛然として三人は書札《しよさつ》(手紙)をしたためた。
「大学様の御安否《ごあんぴ》を御見|届《とどけ》なさりたいお心の程は、ごもっともと存じます。しかし、御安否をお見届になりました後は、亡君の御鬱憤《ごうつぷん》をはらしたてまつることに御専念なさるものと信じています。赤穂の遺臣たる者、所詮《しよせん》は死ななければ武士道立ちがたい場にあるのですから、この際、一身をかばうような根性《こんじよう》があっては、いかほど忠節をつくしても、真の忠節とは申せぬかと存じます。左に、世上の噂を申しのべます。
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一、貴殿は大学様の御運がひらけるなら、出家沙門となってもよいとのおことばですが、それは少し御料簡がちがいはしないでしょうか。大学様はすでに一度御分家なされたお身の上ですから、御連枝《ごれんし》(御兄弟)と申すまでのことで、我々の真の主君は故内匠頭様以外にはない道理で、その内匠頭様の御鬱憤を散じたてまつることをしないで、御分家の大学様のことにばかりかまけていましたなら、大学様にかこつけて一身の安全をはかっているといわれること必定でありましょう。当地の諸大名旗本方にいたるまで、『内匠頭殿は久しき家柄のことなれば、義を立つる侍のなきことはあるまじ。よも上野を見のがしはせじ』と仰せられているとの、江戸中の評判でございますぞ。
一、上野介の屋敷の隣は蜂須賀飛騨守《はちすかひだのかみ》殿の屋敷でありますが、蜂須賀家では『浅野の遺臣等が上野屋敷へきっと斬りこむであろう故、その心得をいたすように』とのことで、昼夜用心きびしくしていますので、家中ことのほか迷惑、屋敷がえしてもらいたい心組みで、運動中とのこと、お留守居なかまの噂でございます。
一、大学様が赤穂をそのまま拝領なされるはおろか、百万石賜わられようと、兄の敵をそのままにしておかれては、なかなか人前なるまじと、江戸中のとりさたでございます。
一、『赤穂の遺臣等が、上野を討ちさえすれば、大学殿の面目は立つのである。大学殿の閉門中に討てば責任は大学殿には及ばないが、閉門赦免後に討つと、大学殿の指図によるのではないかの疑いがかかってかえって、大学殿の御ためになるまい。もし、総家中の者が腰抜けではかばかしいことをしないようだったら、必定《ひつじよう》、大学殿自身で上野屋敷へふみこまれるであろう』と、大名方旗本方にかけての評判でございます。
一、上野介は本所筋の方へ屋敷がえを仰せつけられたとの評判でございます。それで、世間では『浅野の遺臣にとっては幸いである。存念《ぞんねん》達すべき時節到来』と、もっぱらとりさたしております。
一、水野|隼人《はやとの》正《かみ》殿は上野介にとっては従妹《いとこ》聟《むこ》でありますが、この間、隼人殿がお心安い方に、『上野儀は屋敷がえ仰せつけられましたわい』と仰せられましたところ、その場にいたお伽《とぎ》の座頭《ざとう》が『これは、お公儀から内匠頭家来に討てよと仰せられぬばかりのあそばされかたでござりまするな』と申しますと、隼人殿も苦笑して『なるほど、そういうことになるな』と御返事なされました由、たしかに承りました」
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露骨に憤懣《ふんまん》をぶちまけることを避けて、世評をならべて、内蔵助の心がしぜんに動くようにしくんだところ、血気の逸《はや》り男《お》のように見えながらも、三人もなかなかの戦術家である。
この手紙をさし出しておいて、三人は相談にかかった。
「大夫は上洛の儀は無用と仰せあるが、とても手紙では埒があかぬ。どうしても、誰かのぼってひと論判してこずばすまぬぞよ」
「われらもさように存ずる」
そこでその支度をしているところに、原惣右衛門がくだってきたという知らせがきた。早速、三人同道で行く。原は、潮田又之丞、中村勘助の両人を同道してきていた。
「われら、実は、貴殿方なだめ役としてまかりくだった」
と、原はまずいって、内蔵助の苦心を告げた。火のつくような三人の催促に、内蔵助は、このままにしておいては、勝手に事をあげるかも知れない。かくては、お家の再興はおろか、上野の首をあげることもできず、いたずらに世のものわらいとなるであろうと胸をいためて、内蔵助の意のあるところを十分に三人に納得させるようにと、自分に命じたのである、という。
「なるほど、拙者共はまた、貴殿等を説きつけて大夫の御心を動かさんためにまかりこした」
と、こちらはこちらで強硬《きようこう》だ。
原は、内蔵助の心事をしさいに説明して諒解をもとめた。しかし、こちらは手ぐすねひいて待ちかまえていたところである。ことに相手が内蔵助なら遠慮もあるが、原とあってはそれほど年もちがわない。堂々と所信を披瀝《ひれき》して、江戸の情勢を逐一はなしをすると、原等の気持はだいぶ動いてきた。
ひとまず、三人は帰宅に及んだが、この機をはずさず、ひとりひとりを自宅へ招待して、口説《くど》いた。
原にしても、潮田にしても、中村にしても、敵討《かたきうち》一本槍で行きたいのは山々なのである。ただ、内蔵助のいうことが理路整然としているし、またその苦心をまのあたりに見ているだけに、そむくにしのびないでしたがっているにすぎない。三人に説かれ、また、江戸の空気に直接にふれてみると、しだいしだいに三人のいうことが道理と感ぜられてきた。|みいらとり《ヽヽヽヽヽ》はついに|みいら《ヽヽヽ》になった。
堀部等はあくまでも行動派である。
「さらば一決。その祝いをかねて、鎌倉見物にまいり、かたがた、八幡宮神前において、所願達成の祈願と起請文《きしようもん》をとりかわそうでござらぬか」
といい出すと、いずれも賛成である。十月七日に江戸を発足と予定をくんだりなどしているところに、進藤源四郎から手紙がきて、大高源五同道で、来る七八日頃に江戸到着の予定といってきたので、鎌倉出発を見合せて待つことにした。
源四郎と源五は八日に到着した。このふたりにも説得に及んだところ、
「上方《かみがた》で考えていたのと当地の模様はまるでちがい申す。各々方の御所存のほどはもっとも至極、一儀つかまつろう」
と、さっそくに承知した。
この上は内蔵助を呼びくだすことが肝腎《かんじん》というので、その翌日「しかじかに一同の意見は一致に及んだから、ぜひ、御下向の上、一挙の御決定をねがいたい」と書いて、町飛脚を仕立てて、特に道中六日限りとの約束でさし立てた。この内蔵助呼びくだしは、上方から来た連中からいい出したものだろうと思う。おそらく、自分の身にひきくらべて、江戸に来て、直接その空気にふれてみたからこそ、われわれの気持もこうかわった、大夫も一ぺんこの空気にふれたら、きっと心持もかわるであろう、と思ったのであろう。
堀部等の意気は激揚《げきよう》したが、いささか不安であるのは、原惣右衛門と進藤源四郎の態度である。年輩でもあり、また鎮撫《ちんぶ》の正使《せいし》をうけたまわって来ているという反省もあるのだろう、潮田、中村、大高、そして当時単独で下向した武林唯七などの壮年血気の連中が、江戸派と全面的に意気|投合《とうごう》して過激な論を上下《じようげ》しているのにくらべては、相当に態度が慎重なのである。
「これはいけない。こういうところから破綻《はたん》が生ずるかも知れない。若い連中だけでもかためておこう」
と思案して、来年三月吉良邸討入の盟約書をつくって、過激派連中にしめして署名をもとめた。
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御亡君、御父祖代々の御家、天下にもかへさせられがたき御命まで捨てられ、御鬱憤を散ぜんとせられ候処、御本望《ごほんまう》遂げさせられず候段、御残念の至り、臣たる者、うちすてがたく存じたてまつり候。しかる上はたとへ同志のうちに、ほかに料簡これあり、延引いたされ候とも、来る三月、御一周忌の前後、同志の輩《やから》、義のためかの宅において討死つかまつるべきこと、忠道たるべしと存じきはめ候。右の月日すぎざるやうに、心につくし候ほど志をつくし、鬱憤を散ずべきものなり。かくのごとく申しかはし候上は相違あるべからず候。もし、違背これある者においては、御亡君の御罰のがれざるものなり。よつて一紙くだんのごとし。
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というのが、その盟約書である。
しかし、これはあまりにも内蔵助を無視したことになるので、
「大夫の御来着も最早間もないことと存ずれば、それを待って、一同にはかってこの議を決するがよろしかろう。万一、その際なお決せずして、また延々となるようなれば、われら猶予《ゆうよ》なく神文《しんもん》(神にちかう文章)申すでござろう」
と、みなこたえたのである。
内蔵助の下向をうながす手紙は、十月中旬に山科についた。
「行かずばなるまい」
即座に内蔵助は決心した。内蔵助としては、いずれは行かねばならないと思っていたのが、病気やら、世の思惑《おもわく》にたいする配慮やらでのびのびになっていたので、いい機会といってもよかったのである。彼の東下には、七つの目的がある。一つはいうまでもなく堀部一派の慰諭《いゆ》、二つは泉岳寺亡君の墓参、三つは嘆願の意を幕閣《ばつかく》へとりついでくれた目付衆へのお礼、四つは主家再興の運動、五つは瑶泉院への御機嫌うかがい、六つは浅野家の御親類の大名旗本方を訪問して再興の運動を依頼すること、七つは吉良家の様子視察である。
奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門の四人をしたがえて、二十日京都出発、十一月三日江戸へついた。
考えさせられるのは、この四人の随行者である。この者共は、後では皆|脱盟《だつめい》していわゆる不義士となっているのである。奥野は、大野九郎兵衛逃亡の後、家老代理として開城の際内蔵助を輔佐《ほさ》してお目付衆にも顔を知られているのだから、お目付衆のところにお礼に行くのだとすれば同行するのは当然だが、他の三人である。この者共を、内蔵助は信任していたのだろうか。思うに、信任不信任はこの際問題ではないのである。内蔵助としては、燃える火に油をそそぐような激越気鋭《げきえつきえい》の者をわざとさけて、いつも比較的温和な説をはくこの者共をつれて行くことを得策と考えたのだと解釈すべきであろう。
このへんの思慮の周密さは、江戸乗込みに公然と本名を名乗っていることにもうかがわれる。
「元赤穂の家老大石内蔵助、亡君の墓参のために出府《しゆつぷ》」
と称して江戸の町にはいったのである。堀部等にたいして、また世間にたいして、敵討のための下向でないことを宣伝したのであることはもちろんである。
宿は、浅野家盛んの頃のお出入りで、今でも好意をよせている三田松本町の日傭頭《ひようがしら》前川忠太夫の宅である。
到着の翌日、早くも三人は内蔵助をおとずれた。内蔵助はこころよくあって、そのいうところに耳をかたむけた。
内蔵助の堀部等にたいする気持は、かなりに複雑なものがある。彼は、うかうかすると、元も子もなくしてしまうおそれの十分にある堀部等の焦躁をこまったものと思っている。しかし、一面、彼等をたのもしく、またいとしく、一党の元気、正気の根元だと思っているのである。それは、赤穂以来、討入にいたるまでずっとかわらない彼の気持だった。だからこそ、時には秋霜《しゆうそう》のごとき威にみちた手紙を以て叱咤してやっても、大ていの場合、諄々《じゆんじゆん》として倦まずたゆまず、噛んでふくめるように丁寧懇切な態度を以て接しているのである。こういうことはたやすくできそうで、なかなかできないものである。赤穂浪士の挙が、ああもみごとに行き、そしてその義挙であることが公論になっていればこそ、今日の我々は、この内蔵助の態度をなんでもないことに思うが、自分がその時内蔵助の立場におかれたと仮定して考えてみると、勝手な行動をして統制をみだす人間を、さきざきのことまで考えて許容《きよよう》し、懇諭して行くということは容易なことではないのである。
この時の面会の結果は、「武庸筆記《たけつねひつき》」によると、
「いづれも列座にて相談のところ、大方もつともの方に大筋《おほすぢ》相聞え候につき、日頃の存念、この節通じ候と、三人の悦《よろこ》び斜めならず」
とあるが、内蔵助の本当の気持はどんなものだったか。
堀部等は武断派だけに単純率直で、人の好《よ》すぎるところがある。安井彦右衛門に他愛なくだまされたなどいい例だが、あれ以外にも、相手の答えを自分の都合のよいように解釈しては、あとでだまされたと腹をたてていることがしばしばあるようだ。
とにかく、よほどにうれしかったと見えて、三人は、内蔵助にたいして、見舞をかねて酒を一|樽《たる》贈っている。
十一月十日、朝食の終る頃から、内蔵助は、同志の集会を旅宿《りよしゆく》で催した。
上の間に、内蔵助、奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎、原惣右衛門、岡本次郎左衛門という長老連が着座し、下の間に潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七、勝田新左衛門、中村清右衛門の面々が居ならび、堀部以下三人の花形役者は両室の境目《さかいめ》近くひかえた。
三人はいう。
「先だってよりたびたび申しあげました通り、来年三月中には思《おぼ》しめし立たれるつもりにて、その手段を唯今より御相談あってしかるべきかと存じまする。大学様の御安否を見届けての上との仰せはこれまで度々承りましたが、さようなことは、大学様にかこつけて君臣の義を忘却しているかのごとく拙者共は考えまする。いかに大学様の御首尾がよろしかろうと、我々は上野介を見逃しにできない身の上でございます故、大学様御閉門中に一同そろって上野を討取りますれば、大学様が閉門|御赦免《ごしやめん》になっても、すぐ御人前《おひとまえ》なられることになります故、かたがた、その意味の君臣の義も立つことと存じまする」
内蔵助はこたえる。
「各々の御心底《ごしんてい》は感じ入るが、討つに三月と期を切ることはござるまい。時期さえ参らば、三月以前なればとてやるべきではござらぬか。その時期とは、大学様御安否の決着でござる。今日、大学様の御運命いまだきまらざるに、あせって一挙に出たならば、たとえそのことはなるとも、御迷惑を大学様に及ぼし、お家の名まで絶つにいたろう。かくては忠に似て不忠と申すもの、とかく、時節のくるまで待ちたいと存ずる」
こんなことでは安兵衛はへこたれない。せっかくここまで追いこんできた獲物《えもの》をのがしてなるものかときおいこんで、
「おことばではござれど、拙者共三月中と申しましたは、三月は御一周忌にあたれば、大方、大学様の御免《ごめん》を仰せ出されるでありましょうし、また、大学様の御閉門が赦《ゆ》りぬにしても、一年も見合せていたとあれば、お公儀を重んじたてまつった趣意も立つ道理でございます。故にまず三月と期限をきって、手づるをたぐって敵屋敷の様子をさぐり、三月中にそれがわかれば本望至極、早速に討入る。もし三月までにわからぬときは、一、二ヵ月は延引して懸命に探索、しかる上に討入ろうと申すのでございます。とかく、期限がなければ人間はおこたりがちなもの故、敵の模様をさぐるにも張合がありませぬ。それで、三月としていただきたいのでございます」
堀部等もかなりに譲歩しているのである。彼等が潮田や大高等にしめした神文の文句では必ず三月決行となっているのが、ここでは三月までを大学の落ちつきの形勢観望と吉良邸|探索《たんさく》の期間として、それを過ぎたら、一挙の準備にかかろうというのである。
「なるほどの」
内蔵助は考えこんでいたが、卒然《そつぜん》としていった。
「よかろう。三月期限といたそう」
三人のよろこびはいうもおろかである。
「さらば、来春は早々に上洛、お指図を仰ぐでございましょう」
というと、進藤源四郎がかたわらから、
「御当地にてかく多数あつまって相談いたすは世間の目をひきやすいことでござれば、こみいったる相談は京都がよろしかろうと存じます」
といえば、内蔵助も、もっとものこととうなずいた。
これらの相談決定をきいていた、潮田、中村、大高の三人は進み出て、堀部等にむかってきいた。
「三月中決行の儀、お聞きとどけなされたか」
「さよう。ことのなりゆきを三月まで相待ち、向う屋敷の様子知れしだいとりかかると思召し立たれた。それじゃによって、拙者共三人も来春まかりのぼるようにとの仰せでござる」
「本望《ほんもう》、本望」
若き者共は、どっとわいた。この会合があって後、内蔵助は予定の用事をすまして、二十三日に帰途についているが、その間、特記すべきことが二つある。一つは、会合のあった四日後の十四日は内匠頭の忌日《きじつ》なので、この日墓参をしているが、その際、不破《ふわ》数右衛門をともなって、墓前において亡君にかわって帰参をゆるし、同志のうちに入れている。不破は、数年前、故あって永のお暇《いとま》をたまわって浪々の身となっていたが、内蔵助等に一挙の企てあることを聞いて、加盟《かめい》をねがってやまなかったのである。不破に、この企てのことをはなしたのは、磯貝十郎左衛門であるという。もう一つは、江戸を去るにあたって、原惣右衛門と大高源五をとどめて、同志の会合や投宿用のために家屋を買入れることを命じたことである。ふたりは、七十両で三田《みた》に一|屋《おく》をもとめた。しかし、これは、内蔵助と関係なしに原が自分の金で買ったのではないかと思われるふしがあるが、確証を得ない。
ともあれ、このふたつのことは、内蔵助が、お家再興の努力をつづけながらも、吉良を刺さねばならぬ時の準備をおこたりなくつづけていた用意の周到さを物語るものである。
原と大高は家屋買入れの用事がすむと、すぐ江戸をひきあげるつもりでいたのであるが、思いもかけず大高が病気になったので、なかなか立つことができなかった。
十二月十二日のことである。その日意外なことが伝わってきた。上野介がかねて願い出ていた隠居願いがききとげられて、家督《かとく》は相違なく養子|義周《よしちか》に仰せつけられたというのである。義周《よしちか》は上杉|綱憲《つなのり》の子であるから、上野介からみれば、養子とはいいながら実際の孫にあたるのである。堀部等の興奮したことはもちろんである。さっそく、ふたりの宿におしかけてきた。
「こうなった以上、内蔵助殿の第一の計画はやぶれたのである。すでに、上野介の隠居を聴許《ちようきよ》した以上、もはや、お公儀が上野介へ処分を加えることのないのは明瞭《めいりよう》である。とすれば、将来、大学様がどのようなお取立《とりたて》をいただかれるにしても、武門の面目は立たないのである。今はもう、復讐一途に行くべきである」
原も大高もこの説に異存はない。
「内蔵助殿も、今はもう悠長《ゆうちよう》なことは仰せられまい。来春、貴殿等が京都におのぼりなされて、また帰ってまいらるる時、われらも同道してまかりくだり、共に専心にそのことにむかって進み申そうぞ」
と約束し、また、手紙を以て、吉良隠居のことを内蔵助に報告してやった。それは、十四日から十五日にかけてのことだった。彼等は一刻もはやく帰京したいとあせったが、大高の病気がなかなかよくならないので、それが少しおこたるのを待ってやっと出発したのは、押しつまった二十五日であった。
ここで、簡単に吉良家のことを語る必要があるように思う。
松の廊下《ろうか》の凶変において、上野介にたいする将軍のお覚《おぼ》えがいともめでたかったことはすでにかたった。彼の負傷は額と背中の二ヵ所だったが、ともにきわめて軽傷で、日ならず全快した。しかし、世間の評判はおそろしく悪かった。一種の権要《けんよう》の地におり、また、傲慢であっただけに、かねてから敵も多かったのであろうが、なによりも、あまりにも不公平な裁判にたいする世の不満と、凶変に際しての彼の怯懦《きようだ》な態度とが、この悪評のもととなった。不公平な裁判にたいする不満が、敗者にたいする同情となり、反動的に、勝者にたいする憎悪となるのは自然のことである。また、松の廊下における彼の態度は、理窟一点ばりの綱吉将軍にはお気に召したが、一般社会、ことに武士階級には懦弱《だじやく》きわまることと考えられた。いかに学問がさかんになろうと、風俗が驕奢《きようしや》に流れようと、この時代の武士にはまだ気節を尚《たつと》ぶ気風が濃厚である。斬りつけられて、一手《ひとて》の応戦もせず気絶してしまうなど、武士にあるまじき臆病至極《おくびようしごく》のふるまいなのである。この世評の悪さが、将軍の優諚《ゆうじよう》を利用することを上野介にはばからせた。彼は、負傷後、間もなく、役儀御免を願い出たところ、すぐに聴許になって、二十六日、依願免職《いがんめんしよく》となった。
老中や若年寄等は、はじめからこれが不公平な裁判であることを知っていたのであるが、願いを許可するかどうかの決定は将軍にまたねばならないのであるから、この依願免職は、将軍が最初の興奮からさめて、やや、自分の過誤《かご》をさとって、それを是正《ぜせい》しようとしたあらわれであると見てよいかと思う。
これから少したつと、やれ上野介は米沢へひきとられたとか、上杉家の屋敷にひきとられてかくまわれているとか、いろいろな噂《うわさ》がとんで、堀部等や内蔵助に気をもましているが、それは単なる風説で、事実は全然なかったのである。
八月十九日、前に堀部等から内蔵助にあてた手紙のなかでちょっと書いておいたが、吉良家は、本所に屋敷がえを申しわたされた。非役でありながらお城近い呉服橋|内《うち》の屋敷にいることは恐れ多いというので、かねて上地《じようち》を願い出ていたのが聞きとどけられたのである。
「赤穂浪士に討てといわぬばかりのお公儀のなさりかただ」
と、世人が噂しあったことは前にものべたが、実際そうとしか考えられないのである。呉服橋内は丸の内だから、用心がきびしくて討入ることが困難でもあり、よしんば討入ることができたとしても、附近の屋敷が城内を乱すものとして、傍観してはいないであろうし、また、公儀をはばからぬふるまいと見なされてもしかたがないが、本所は府下《ふか》とはいえ、上総《かずさ》の国であり、ことに辺鄙《へんぴ》なところで、そうしたおそれはないのである。これなども、綱吉が、おかした過誤をそれとなく訂正しようとしている意志のあらわれと見なされないことはない。
そして、年末になって、隠居願い聴許である。
僕の想像であり、解釈にすぎないが、将軍はすでに赤穂の遺臣に上野介を討たせる気になっていたのではないかと思う。彼はすでに自分の過誤をさとった。しかし、彼の剛愎《ごうふく》な性格と、天下人《てんかびと》たるの権威を重んずる心とは、朝令暮改《ちようれいぼかい》することをゆるさない。そこで、彼は一片の肉を投ずるがごとく、上野介を赤穂浪士の前に投じて、これを討たせることによって、その前過《ぜんか》をつぐなおうとしたのであるまいか。内蔵助の百|方《ぽう》のお家再興運動に、耳を傾けなかったのもそのためではなかろうか。内蔵助のあの運動が途中で消えて将軍の許までとどかなかったとは考えられない。それはたしかにとどいたであろう。しかし、それを聴許することは、朝令暮改することにほかならない。権威を重んずる綱吉の忍び得るところではなかった――と思うのである。
吉良家の用心は厳重をきわめたようである。堀部と奥田孫太夫とが正月|晦日《みそか》付で大高源五に出した手紙に、
「家内ことのほか用心きびしく、二三ヵ所落し穴のこしらえがあり、不寝番《ふしんばん》の番所が三ヵ所あり、なにか事あった時には、早速に桜田の上杉屋敷へ注進《ちゆうしん》にかけつける役目のものが定められていて、注進次第、桜田から早追《はやお》いにかけつける人数の支度もあるよし。上杉家では七百石どり物頭《ものがしら》の者がきめられていて、毎日、御機嫌伺いという名で吉良家へやってきて朝夕つめているほかに、役々《やくやく》のものが入れかわり立ちかわりお見舞にくるということである」
とある。
現代人の倫理観念からいうと、おのれの非を知り悪をさとったならば、討たれてやるのが武士道にかなったことのように思われるが、本来の武士道はそういうものではない。
甲州流の軍学の創始者で、幕府の大目付《おおめつけ》にまでなった小幡《おばた》勘兵衛|景憲《かげのり》の「甲陽軍鑑《こうようぐんかん》」には、
「狙はるる人は常に寝所《しんじよ》をかへ、昼夜用心して、その上、路次《ろじ》を行くに敵《かたき》待ちてをると聞かば、脇道を通り、後へ戻り、どのやうにしても討たれぬごとくに分別《ふんべつ》もつともなり。この儀を無案内《ぶあんない》なる人々、卑怯といふとも苦しからず」
とあり、山鹿素行の「武教全書」にも、
「狙はるる人は用心をきびしくいたし、行路《かうろ》に敵を見たりとも、道をかへ、出合ひたりとも、討たれずして退くを誉《ほまれ》とすべし。血気の勇者はこれをそしるともこれを用うべからず」
と、全然同じことをいっている。
死力をつくして討とうとし、死力をつくして討たれまいとするきびしい争い、これが当時の武士道にかなった敵討なのである。かわいそうだから討たれてやろうなどというのは、ずっと後世の人間の繊弱《せんじやく》な感情で、当時の武士の知らなかったところである。
吉良にはたして、こういう剛強な心魂《しんこん》があったかどうか、松の廊下の醜態から考えるとあやしいもので、単なる臆病からかも知れないが、少なくとも、上杉家では、謙信以来の武名にかけても、むざむざ討たしてなるものかという気持があったろうと思う。
内蔵助は十二月五日に山科にかえりついたが、間もなく、その十五日に、長男松之|丞《じよう》を元服《げんぷく》させて、主税《ちから》良金《よしかね》と名乗らせた。主税は年が年だし、その体格は、この翌年、討入前日に小野寺十内が江戸から京都の自分の妻にあてて出した手紙に「せい五尺七寸、よろずこれに相応《そうおう》のはたらき、さてさてめずらしきこと云々」と書いているくらいりっぱなのだから、この元服は決してはやすぎるとはいえないが、このたびの江戸くだりによって内蔵助がよほどに考えるところがあったためと見てよいだろう。
原と大高からの吉良隠居のことを知らせた手紙のとどいたのは、この元服から七八日経った二十三日のことだった。
江戸の同志等の感じたものと同じものが内蔵助にも感ぜられた。きびしいものが胸をしめつけた。最後の決意に向って、いやがおうでも近づいて行かねばならぬことを彼は感じた。けれども、彼はその心をおさえた。
「まだ一|縷《る》の希望はある。まだ、あきらめるにははやい」
彼は、なによりも、あのはやり気な堀部等が性急なことをしでかしはしないかをおそれた。ここで、めったなことをされては、わずかにのこる一縷の希望を無にしてしまうだけでなく、敵討をも不可能なことにしてしまう危険が十分にあるのである。
彼は早速に三人にあてて手紙を書いた。
「下手《へた》な大工《だいく》はとかく仕事をいそぐが、普請《ふしん》というものは、りっぱな材木をあつめ、地形《じぎよう》や下地《したじ》に十分に念をいれなければ、みごとにはいかないものである。急ぐことはない。もし、御隠居にお目にかけられなければ、若旦那のお目にかけるまでのことである。堀部弥兵衛老人は普請上手であるから、とくと相談されたい」
同時に、弥兵衛にも、同じ意味の手紙を書いて、若き人々の焦躁をおさえてくれるようにたのんでやった。この手紙のなかの、御隠居にお目にかけられなければ若旦那にお目にかけるまでというのは、上野介がもし老死でもしたなら、義周《よしちか》を討つまでのことという意味である。
多事であった元禄十四年は暮れて、十五年がきた。
この年末から年始にかけて、内蔵助の身辺は相当に多忙であった。それは、すべて、旧藩士との応接のためだった。前にもいった通り、普通伝えられているように、彼等のこの挙は、赤穂において連判状の作成があったのではない。志を同じくする者が内蔵助を中心にして申合わせをしたというだけであったので、各自の考えで誓書をさし出したものもあれば、かたい志は持っていても、それには及ぶまいという考えでさし出さない者もあったのである。しかし、これらの人々も、江戸下りによって三月から決行にかかることに決定されたと聞くと、続々とそれをさし出した。また、これまで党外にあった者で、あらたに加入を申しこんでくる者もあった。この新加入の希望者は玉石混淆《ぎよくせきこんこう》であった。真に忠誠の念にもえている者もあれば、吉良の隠居聴許とともに、これまでさしひかえを命ぜられていた浅野家の一族の旗本等がそれを赦されたので、この分ではお家再興も真近だぞと考えて加入した者もあった。
片岡源五右衛門と田中貞四郎もこの時新加入した忠誠派ではないかと思われるが、実際は少し後になるらしい。もっとも急進派の連中が急進的同志をつのるために彼等にはたらきかけようとした形跡はある。堀部が原と大高にあてて出した十二月二十七日付の手紙に、
「片岡源五右衛門・田中貞四郎事、追々仰せ聞けられ候趣き承知いたし候。年内余日無く候条、春へかけて料簡つかまつるべく候」
とあり、それにたいする原の返事に、
「源五右衛門・貞四郎事、いまだ御聞きなされず候由、これは奥田殿より十郎左衛門(磯貝)方へ御たづねなされ候はば大概相知れ申すべしと存じ候」
とある。
しかし「寺坂筆記」(寺坂吉右衛門の手記)に、片岡等は六七月頃に自分の主人吉田忠左衛門に泣きすがって加入させてもらったとあるのは、眉唾《まゆつば》ものである。四月二日、原惣右衛門から堀部等にあてた手紙に、信頼すべき同志の名をあげているが、そのなかに田中貞四郎もはいっているから、少なくとも田中は、四月二日以前に加入していたのである。しかし、寺坂が全然根も葉もないことを書いたとも思われないから、片岡だけが六七月頃に吉田忠左衛門によって加入したのかも知れない。あるいは、磯貝と田中とがその仲介の役にたったのを、寺坂が誤解したのかとも思う。
お家再興をあてこんでの者にいたっては無数である。しかし、内蔵助は、別にむずかしいこともいわず、願い出る者はみなこれを許したので、同志の数は総計百三十名の多きに達した。
こうしたいそがしさからやや解放されていくらか寛《くつろ》ぎのできた正月九日、原と大高とがやって来た。江戸からの帰途であった。来たな、と思いながら内蔵助は会った。安兵衛に出した手紙、弥兵衛に出した手紙、これらをふたりがまだ読んでいないことは内蔵助も知っている。しかし、読まないでも、ふたりが討入にいきりたっていることは容易に想像がつくのである。
想像の通りだった。江戸の連中の意気ごみをものがたり、今は躊躇《ちゆうちよ》なく決行すべき時だと説《と》くのである。内蔵助は、
「せくな。江戸の連中にも、下手な大工の真似をするなと書いてやったわ」
とこたえて、まだ、自分は再興運動に絶望しているわけではないといった。原も大高もこれにはおどろいたようだった。
「それでは、あなたさまは、お公儀がすでに隠居となった上野介を処罰することがあるとお考えなのでございましょうか」
皮肉のつもりだった。が、内蔵助は微笑をもってうけた。
「どうしてないといえるのだ。隠居となった者が処罰されることは稀だというだけにすぎぬではないか。稀だというのは絶対に無いというのとは違うぞ。わしはこんなことではあきらめぬ。それに、我々の軽挙妄動《けいきよもうどう》で大学様が切腹でもなさらねばならぬことになったら、どう申訳が立つのだ。我々の武士を立てるためにお家の血統をたやしてよいという理窟はあるまい」
「それでは、三月からかかると江戸でお約束なされたのは嘘でございますか!」
と、つめよると、
「誰が嘘を申した。吉良を討つことにわしは反対しているのではないぞ。ただ急ぐなと申しているのだ」
という。のれんに腕押しの張りあいのなさだったが、とにかく、明後日、十一日にこの近くにいる重立った連中をあつめて相談会をひらくということにこぎつけて、ふたりはひきあげた。
十一日に山科にあつまった者は、大高が江戸の三人にあてた手紙によると、小山源五右衛門、進藤源四郎、岡本次郎左衛門、小野寺十内、原、大高の六人に、ちょうどその日、他の用事でやって来た矢頭《やとう》右|衛門七《えもしち》であった。
しかし、この時の会議ではいずれともきまらない。原や大高の即行論《そつこうろん》を議題にして評議したというにとどまった。
その数日後、十四日のことである。この日は、内匠頭の忌日で、例月、山科、京都、伏見の諸同志は、去年内蔵助が大徳寺の瑞光院に建てたお墓に参詣《さんけい》することになっているのであるが、この日、その帰途、内蔵助は、もと浅野家の典医《てんい》で彼等に好意をもっている寺井玄渓《てらいげんけい》の宅に、人々をつれて行って、会議をひらいた。「即行論にたいしては賛否区々で、なんともなんとも生煮えにて残念千万だ」と大高の手紙にあるから、うまく行かなかったのである。せめてもの心やりは、大奮闘の結果、どうながびいても秋までには決行する、という言質《げんち》を内蔵助から得たことであった。
この会議で、小山源五右衛門が軟論をとなえたことは、やはり大高の手紙によってわかる。
「小山氏以ての外の不料簡《ふれうけん》、神《しん》以て惣右衛門も拙者も我《が》を折り申し候」とか「小山氏よりすこやかなる書申し参り候由、いよいよ以て心得がたく存じ候。この男|内股膏薬《うちまたかうやく》かと存じ候。十四日の会にも十一日の会にも岡本よりは不出来の料簡にて、かたがた以て不届の仁《じん》と存じ候」とかあるのである。小山はお家さかんな時代に、若い血気な連中を好遇していたので、昼行燈であった大石以上にある意味においては彼等に嘱望《しよくぼう》されていたのである。それだけに、彼等にとっては裏切られたような腹立たしさがあったろう。人間の心の変化は微妙なところにその萌芽《ほうが》が見えるものだ。小山の背盟《はいめい》はすでにこの頃にきざしていたのである。
上野介隠居という事件が党内によびおこした動揺は一応これでおさまったわけだが、このおさまりが表面だけのもので、決してほんとにおさまっているものでないことは、内蔵助はよく知っている。江戸の猛烈な連中がこんなことで泣寝入《なきねいり》するはずはないし、またこちらの方でも、原や大高がおとなしくしているはずはないのである。
なによりの急務は、江戸の猛士《もうし》連のしまつである。こちらの方は、自分がいることだし、いくらかゆっくり料理もできるが、江戸の方は急を要する。眼前に敵をひかえているのである。猛《たけ》り立った猛虎の前に美肉をつきつけているようなものだ。一刻もはやく効果ある鎮圧の手をうたないとなにをやり出すかわかったものでない。
昨年来、内蔵助は、岡島|八十《やそ》右|衛門《えもん》を江戸につかわすことにしていたが、若い岡島では貫禄も足らないだけでなく、原惣右衛門の実弟なのだから、悪くすると鎮圧どころか、向う側について気勢をあげるようなことにもなりかねないと思われたので、年齢、貫禄《かんろく》、手腕《しゆわん》、三|拍子《びようし》そろった人物として、吉田忠左衛門に白羽の矢を立て、近松勘六をそえてつかわすことにした。吉田は赤穂退転以来、それまで自分が代官として勤役していた播州|加東《かとう》郡に寓居《ぐうきよ》していたのである。
忠左衛門は、二十八日に上洛してきて、その日に内蔵助にあった。また、重立った者があつまってたびたびの会議が開かれたが、なかなか最後的決定に達しない。これは、そのはずである。普通、考えられているように、同志は精選《せいせん》して入れたものではない。希望してくる者は皆いれたのである。だから、必然の結果として、党内には大別して三様の分子が存在していたのだ。第一は、内蔵助の主張によって代表される主家再興と敵討の両方を望んでいる分子。第二は、堀部一派によって代表される敵討一本槍の分子。第三は、主家再興の場合に禄位《ろくい》を得ようという目的で、表面、内蔵助の主張に同意をよそおっている分子。
なぜ、内蔵助がそんなに無選択《むせんたく》に加入をゆるしたか、という疑問をいだく読者がありそうだ。また、だからこそ、こんな場合こまるのだ、内蔵助の無計画もまたはなはだしいではないかと責める人もありそうだ。
しかし、内蔵助にしてみれば、同じくこれ赤穂の遺臣である、たとえその内心が私利私欲のためであるとわかっていても、忠誠をよそおってくる者にたいして門戸を設けてこれを拒絶することは社稷《しやしよく》の臣《しん》として、してはならないと思ったのであろう。大野九郎兵衛のような人間でも、もし前非《ぜんぴ》を悔いて加盟を申しこんで来たら、内蔵助はこれをゆるしたろうと、僕は思う。
それはさておき、こういう工合だったから、なかなか議がまとまらない。
忠左衛門は、この有様を見て、内蔵助に進言した。
「拙者、江戸へまかりくだるをいとうわけではありませんが、かく重立った者だけの評定においてさえ意見がまちまちであるとすれば、同志の全部があつまったらなおさらでありましょう。かかる不一統な意見をもって行っても、江戸の連中は承服いたすまいと存じます。どうしても衆議一決して、上方の意見はかくの通りなれば、まげて従えと説くよりほかはないと存じます。されば、なるたけ多数の同志をあつめて、各自の意見を包むところなく申しのべさせ、いろいろとせんぎしてほぼ方針を決定して、しかる後に下向いたしとうございます」
「よかろう」
内蔵助も賛成して、檄《げき》を大坂京都伏見等の同志に飛ばして、二月十五日、山科において大会議をひらくことになった。
山科の大会議をかたる前に、堀部、奥田、原、大高等の即行派をして、いやが上にも焦躁《しようそう》と悲愴《ひそう》な気にかり立てた事件をかたっておかねばならない。
その第一は、江戸急進派三羽烏の一人であった高田郡兵衛の変節である。
高田郡兵衛がいつ変節したか、はっきりとはわからないが、十二月十一日に上野介の隠居が聞きとげられたという噂を聞いて、堀部等が原と大高の宿所《しゆくしよ》に報告に行った時には同道しているから、この時はまだ変節していない。しかし、二十七日に堀部と奥田が内蔵助に出した手紙には、高田郡兵衛の名もしるしてはあるが、その肩に「病気につき判形《はんぎやう》仕らず候」と書きいれてあるから、この時にはもう変節していたのである。つまり、彼は、十二月十一日から二十七日までの十七日間に変節しているのである。なお疑えば、二十五日、まだ熱もさがりきらない大高をいたわりながら、原が江戸を出発しているのに、三人が見送りもしていないところを見ると、すでにこの時に変節していたかとも思われる。一心同体だと人も思い、自分等もほこっていた仲間《なかま》から最初に不覚人《ふかくじん》を出したことを恥じ、また、郡兵衛殿は見えませぬな、と問われることを恐れる心理が、堀部等をしてつい見送りを失敬さしたということは、最も可能性ある推理であろう。
「武庸筆記」によると、こうである。
郡兵衛の父方の伯父で、内田三郎右衛門という者があって、一両年前お公儀の家来となったが、独身者で、したがって子もないので、郡兵衛を養子にしたいと申しこんできた。郡兵衛は、実兄の高田弥五兵衛という浪人にたのんで、ことわってもらおうとしたが、内田はなかなかの片意地者《かたいじもの》で、
「いかなるわけあって身共の養子となるのがいやか。禄が少ないのが気にいらぬか」
と、剣幕《けんまく》あらあらしい。
「そうではない」
というと、
「さらばなにが理由か。浅野家再興の際、お取立ての約束でもあるのか。しかし、それはかまわぬではないか。身共の養子になるのは、お公儀の御家来となることなれば、申しわけは立つはず、浅野家に指一本ささせはせぬ」
という。しかたがなくなって、弥五兵衛は、
「実は、かくかくのわけで、故朋輩《こほうばい》と申しあわせて、吉良殿を討たんと心をくだいているのでござる。武士の道、いたしかたなきこと」
と、打明けたところ、内田はかえってかんかんになった。
「けしからぬ企て。内匠頭はお公儀の法を以て処分仰せつけられたのであるのに、さる企てするとはお公儀のお仕置《しおき》に遺恨をさしふくむと同じことだ。一類一族に難儀の及ぶは必定だ。それを考えぬとは不届千万。五人以上申し合すればすでに御法度《ごはつと》の徒党であるということを存ぜぬか。お公儀御家来として、身共はさようなことをききずてにはできぬ。お公儀に訴える」
と、どなり立てる。
郡兵衛の立場は苦しいものになった。初志をつらぬこうとすれば、同志の計画をやぶるし、同志の計画をやぶるまいとすれば変節しなければならない。そこで堀部、奥田と相談した。こういう相談にたいしては、答えはひとつしかない。
「伯父御《おじご》の仰せられることにしたがいなさるよりほかはあるまい」
かくして、高田は、変節者となってしまった。
この高田のはなしを狡猾《こうかつ》ないいのがれにすぎないという人がある。しかし、僕は嘘だとは思わない。これまでの高田の行動からみて、たしかにあったことだと思うし、したがって、彼の心事の苦しさにも同情せざるを得ないし、また、変節せざるを得なかったことも認める。
いけないのは、彼のそれからの行動だ。武士の道から言えば、彼は、同志がめでたく本懐を達したことを見届けたら、腹を切らねばならなかったのである。彼自身も、堀部等と袂《たもと》をわかつ時、
「各々方《おのおのがた》が本望《ほんもう》を遂げられた後、生きながらえる心は毛頭《もうとう》ござらぬ」
といっているのである。だのに、彼は恬《てん》として余生をむさぼったばかりか、討入の翌朝、義士等が泉岳寺へひきあげるのに途中出逢って、恥ずる色なく、
「拙者もあれ以来、三田|八幡《はちまん》に日参つかまつり、御一統の御本望をとげさせられるよう祈願して、今もその帰りみちでござる。御念願とどいて、祝着至極《しゆうちやくしごく》に存ずる」
と、祝辞をのべ、さらに酒一樽を泉岳寺に持参して祝儀《しゆうぎ》とて贈って、突きかえされて赤恥をかいているのである。
彼にしてみれば、祝辞をのべたり酒樽を贈ったりしたのもまごころからであったかもしれないし、八幡宮日参というのも嘘ではなかったかも知れない。しかし武士の道を重んずるならば、そういうことをしてはならないのである。寸刻の猶予《ゆうよ》もなく、彼は腹を切って、おのれの武士を立てなければならないところであった。そうしたら、彼もあるいは、義士外の義士として芳名《ほうめい》を後世にのこすことができたであろうにと、彼のためにおしまざるを得ない。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」のことばは、こういう場合のことなのだ。
この高田の変節が堀部と奥田にあたえた感銘《かんめい》は痛烈なものだった。彼等三人は、最も猛烈な意見を抱いていただけに、党内の正義派を以て自ら任じ、勢い他の同志を眼下《がんか》に見くだす風があった。それだけに、仲間からこの背盟者を出したことの屈辱感はたまらないものであった。この屈辱感は、彼等をして、一層激烈な意見にかり立てずにはいなかった。
また、彼等はこうも考えた。こういうことになるのも、内蔵助のやりかたが悠長すぎるからのことである。もし、内蔵助がはっきりした態度でいたなら、今時分はもう本懐《ほんかい》を達しているはずである。よしんば、そこまでは行かなくても、皆の心が緊張しているから、外部の誘惑などにかかる者はいなかったであろうと。あれといい、これといい、彼等の心事を凄壮《せいそう》ならしめるばかりであった。
それは、ふたりが、内蔵助の「下手な大工ほど仕事にあせる云々」という手紙にたいする返事が、いかに凄壮なものであるかを見ても十分わかるのである。この手紙において、ふたりははじめて、正面きって内蔵助を非難しているのである。
「もはや、公儀の手をかりて吉良を処分することができないことが明らかになった以上、急ぐなとはいったいどういう料簡で仰せられるのだ。御心底のほどに拙者共は疑惑を持たざるを得ない。上野が病死したら義周を討つばかりだという仰せも心得がたい。上野を第一にと心がくべきではないか。江戸の同志のなかでも、悠長な考えの者は別として、熱烈な志の者は生活のことなどさしおいて、一途にこのことを心掛けているから、早晩、生活にも窮《きゆう》してくるであろう。あまり見苦しくなりさがらないうちにやりたいのです。貴殿おひとりの覚悟次第ですぐにもできることなのに、おひとりで、大勢の者の志をむなしくなさっているのは心外の至りに存ずる。貴殿がはきとした志をお立てになれば、たとえ柔弱な者でも勇気が立ってくるにちがいないのに、長詮議《ながせんぎ》ばかりしておられるのは残念しごくである。われわれが、こうまであせるのは、自分一個の名誉心や利欲のためではありません。亡君の御鬱憤をうけつぐことは家来としてなさねばならぬことだと信じつめているからのことです。それ故、もし、貴殿以外に、それを計画する人があれば、われわれは貴殿をはなれてその方につくつもりであります。右の趣きは日本中の神々に誓って偽りではないのであります」
という文面。
居ても立ってもおられず、激揚《げきよう》しきっている彼等の志のほどがよくわかる。
一方、上方の方でも、高田と同じような境遇におちた者が出た。芝居の忠臣蔵の早野勘平《はやのかんぺい》、実の名は萱野《かやの》三平である。
三平の家は、摂州《せつしゆう》萱野|郷《ごう》の郷士の家柄であったので、三平は赤穂退散後、故郷にかえっていると、萱野郷の領主大島伊予守から、自分に奉公しないかと口がかかってきた。三平の父はよろこんで、三平に承知せよと口説《くど》いてやまない。
進退窮《しんたいきゆう》した三平は、正月十三日の夕べ、一通の遺書をしたためて、下男にもたして山科にとどけさせた後、十四日の明方《あけがた》、即ち亡君の忌日に腹を切ってはてた。
みごとに武士の道を立てつらぬいて死んだだけに、この三平の死が、上方の即行派である原や大高を刺戟したこと非常なものだったろう。あわれなことをした、これも、内蔵助のしかたがてぬるいためだと思って、即行の志に一層の拍車《はくしや》をかけたにちがいないのである。それは、ふたりが堀部等にあてたその頃の手紙を見るとよくわかる。彼等は内蔵助に秘密に即行の同志をしきりにつのっている。しかも、山科会議の後までそうだったのである。
山科会議は、以上のごとき空気のうちにひらかれた。波瀾《はらん》ははじめから予想されていた。
この年の二月十五日は太陽暦《たいようれき》では三月十三日にあたる。この季節は、京都地方ではまだ寒い。やっと梅が満開か散りかけたという頃であるが、あらしをはらんだ座中の空気は、そのとげとげしい春寒《しゆんかん》にもまして人々の気持を緊張させていたろう。
内蔵助は簡単に開会のあいさつをのべたが、あとは昔の昼行燈式の茫乎《ぼうこ》とした風貌《ふうぼう》でだまっている。たまりかねて、原惣右衛門が口をきった。
「昨年冬、内蔵助殿は江戸において三月より吉良討取りの手はずにかかるとお約束され申した。その御約束の手前から申しても、今はもうおとりかかりなさらねばならぬ時期でございます。ましてや、今日、吉良はすでに隠居をききとどけられ、家督は相違なく左兵衛に仰せつけられました。もはや、お公儀より吉良にたいして御処分のないことは明らかであります。内蔵助殿の第一の目的である、大学様お取立てと同時に吉良へ処分を賜わるようにするということは不可能となったのです。この上は、断然たる御処置に出でられ、速かに最後の目的にむかって御突進なさるべきかと存ずる。かつ、江戸よりの知らせによりますれば、上野介はいつ米沢へひきとられるかわからない情勢にあるとか、米沢へひきとられてしまえば、事ははなはだ面倒となります。それ以前、あるいはその途中を要して討取ること肝腎なれば、かたがた、いそぎ一決、至急一統下向の手はずとなされるようねがいたく存ずる」
礼儀の衣《きぬ》につつんではいるが、内蔵助の食言を責めて思いきった言い方だ。内蔵助は黙々と聞いていたが、やがて、口をひらいた。
「仰せのごとく、江戸において、拙者は三月よりとりかかるとの議に同意いたしたが、それは、江戸衆の切なる希望を無下《むげ》にしりぞけることができなんだのと、一党の士気を沮喪《そそう》させまいために、やむなくしたがったのだ。早く申せば方便《ほうべん》でござった。申されるごとく、吉良家の隠居、家督相続のことをそのままにお公儀が聞き届けなさった以上、今後のことも大ていの推察はつく。しかしながら、昨年開城の節お目付方に御執達《ごしつたつ》をお願い申しあげたのは、主家再興と上野介の処分とでござった。今、上野介が隠居したればとて、早速に一儀にかかったならば、大学様はいかがならせられるでござろうか。大学様にこの上のお咎めが及べば、お家の御血統はたえるのでござる。内匠頭の御鬱憤は晴らさねばならぬ。また、われらの武士も立てとうござる。しかし、はやまって、お家の御血統までたやしてよいものか、どうか。拙者は時機を待ちたい。待てばかならずその時機はくるのでござる」
内蔵助の答弁も悲壮だったが、原は屈しない。
「仰せにしたがって大学様の御安否決定まで待つとして、もし、お公儀よりお家お取立ての御恩命があった場合、内蔵助殿はいかがあそばされる御所存でございましょうか。事は一層困難となって、吉良家へ手を出すことはついにできないようになると、拙者は考えます。やむを得ぬと泣寝入りして、出家沙門《しゆつけしやもん》の身となってすまされるおつもりでございましょうか。われらは、さような生ぬるいことはできませぬ。さような際には、いさぎよく腹切って志の存するところを明らかにせねばならぬと思います。が、死は一でござる。それよりも、この際、事を一挙に決し、上野介の首を申しうけ亡君の御鬱憤を散じた方が、なんぼうか武士らしきことかと思うのでござる。われら既に赤穂城中において死すべき身であったはず。つまりは死損《しにぞこな》いでござる。人はいかにもあれ、拙者においては、亡君のあだを報いずして犬死《いぬじに》する料簡は|ふつ《ヽヽ》とござらぬ。各々、いかが思《おぼ》される」
もろ刃の剣のごとく冴える舌鋒《ぜつぽう》はあたるを幸い薙《な》ぎまわって、いやしくも姑息《こそく》の考えをいだく者は両断せずんばやまない概《がい》があった。
大高、潮田、中村勘助等の志を同じくする者が賛成の意を表すと、ほかの若い連中もまた口々に「御同意、御同意」とさけぶ。彼等は今は歴然とした敵意を以て座中に対立しはじめたのである。分裂は今はさけられない運命かと見えた。
この時、仲裁にはいったのが、吉田忠左衛門と小野寺十内だった。
「なかま同士でそういきり立ってはならぬ。先ず気を鎮めなされ」
と、おさえておいて、
「各々が大夫のお考えを手ぬるしとなさるお気持はわからぬではないが、内蔵助殿のお考えは、各々方の忠節の志を空しゅうせぬと同時に、お家の再興もなし、また、先君の御面目をも回復せんとの大きな御分別《ごふんべつ》から出ているのでござれば、これを胸せまく悪意をもって考えなされてはならぬ」
と、壮士等をたしなめて、さらに内蔵助にむかって、こういった。
「さりながら、惣右衛門殿等の一筋なる志もまた見上げたものとは思《おぼ》しめされぬか。実を申しますと、年|甲斐《がい》もないとお叱りかも知りませぬが、われらのごとき老人は、行く先も短いことでござれば、行きがけの駄賃、死出《しで》の山《やま》の一番乗《いちばんのり》をしたいものと、ははははは……」
笑い衣《きぬ》につつんで、意のあるところをほのめかし、内蔵助の再考をうながした。
内蔵助はしばし思案《しあん》した後、口をひらいた。
「各々の御忠誠のほどは、いつものことながら、内蔵助感じ入る。先君|御尊霊《ごそんれい》もいかばかりたのもしく思《おぼ》しめされていることでござろう。ここに、今一応、各々の御考慮をわずらわしたきは、先君の御一周忌ももはや来月、万一、それがすぎるとも、閉門沙汰というものは大がい三年を越えることはなきものでござれば、明年三月の御三回忌までには、大学様の御運命もかならず決定いたすであろうと存ずる。されば、それまでお待ちくださらぬか。それ以前に決定いたせば、その時を以てとりかかることもちろんでござる。惣右衛門殿は、お家お取立ての恩命があらば、先方へ手の出しようがないではないかと仰せらるるが、さようなことはござらぬ。この儀については日頃より申してある通り、たとえなにほどの高知高禄《こうちこうろく》にお取立てに相成るとも、先方に相当のお仕置《しおき》なき以上、なんの面目《めんもく》あって大学殿が人前が成られましょう。さようなことになれば、名誉の浅野家もその日かぎり、なまじいにそれをのこしおいて、恥辱の上の恥辱をかさねんよりは、うちつぶした方が本望でござれば、決して決して先方へ手の出されぬ心配はござらぬ。ともかくも、明年三月の御三回忌まで辛抱したい。もしその時になっても、今のごとく御運命が決定せぬ時は、もう、お待ちくだされとは申さぬ。いかなる故障あればとて、内蔵助|真先《まつさき》に江戸へ馳せくだり、事を一挙に決し申そう。されば、ここのところは、まげて拙者の意にしたがって、全党一致の進退をおまかせねがいたい。頼み申す」
声涙《せいるい》ともにくだる態度であった。赤心《せきしん》を披瀝《ひれき》しての悃願《こんがん》であった。猛り立っていた原や大高も、内心の不平はあっても、そむくことができなかった。
「結局の一挙をおうけあいくださるのみならず、さほどまで仰せられる以上、おことばにしたがい申そう」
ということになった。
つまり、これで、上方の意見は一決の形をとったわけである。それで、吉田忠左衛門、近松勘六は、寺坂吉右衛門を従えて、二十一日京都を出発して江戸にむかって、三月五日江戸着、八日に堀部や奥田と会って、説得にかかった。堀部も奥田も不平ではあるが、上方衆全体の意志だとあっては承知するほかはなかった。
しかし、江戸のふたりも、上方のふたりも、本心からの納得《なつとく》でなかったことは、その後の彼等の往復の文書を見ればわかる。彼等はさかんにめぼしい同志を物色して、即行を説いているのである。けれども、大ていの者が、
「内蔵助殿に背《そむ》くにしのびない」
といってことわったので、ものにならなかったのである。内蔵助の徳望がそうさせなかったわけである。
読者のなかには、江戸会議から山科会議にいたるまでの内蔵助の行動言説を見て、内蔵助の行動は確乎《かつこ》としたところを欠いている、あるいは、あまりにも手腕がなさすぎるではないか、と非難する人があろう。
いかにも、内蔵助の行動は確乎としたところを欠いていたかも知れない。しかし、それは不動の心をまもるための、彼の余儀ない手段だったのだ。彼の本心は、あくまでお家再興と吉良家への処罰を同時に実現することにあったのだが、党内の紛糾《ふんきゆう》は、内蔵助にたいして、それを譲歩《じようほ》せよとのぞんでやまなかった。もし、内蔵助がその要求を拒絶したら、一党はすでに江戸会議において分裂したに相違ないのである。そこで、内蔵助は譲歩したことにしておいて、その本心をまもりつづけたのである。方便であった、と彼のいう所以《ゆえん》である。この間における、この一見、ふらふらに見える内蔵助の行動言説の間に、彼の意志の鞏固《きようこ》さと政治的手腕とを見るべきであると思う。
また、かくまで党内を紛糾させたことを表面からだけ見れば、いかにも彼には手腕がなかったように見える。しかし、あの紛糾は、内蔵助の本心が敵討一本槍でないかぎり、どうしてもおこらずにはすまない紛糾なのである。内蔵助の手腕と徳望とがあったればこそ、あの程度ですんだのである。
十一
三月中旬、内蔵助は赤穂におもむいて、赤穂近在に散居している遺臣等をあつめて、華嶽《けがく》寺において、一周忌の法会《ほうえ》をいとなんだ。昔にかわらぬお城の威容《いよう》を見、また町のにぎやかさを見て、内蔵助の心には断腸《だんちよう》の念《おも》いがあったろう。
赤穂からかえってくると間もなく、内蔵助は妻を離縁し、その子供等とも義絶《ぎぜつ》して、これを妻の実家の但馬豊岡《たじまとよおか》の石束《いしづか》氏へおくった。妻の陸《りく》は当時三十四、妊娠中であった。芝居や浪花節で演ずるように、難題をふっかけて無理やりに離縁したのではなくて、石束源五兵衛と相談の上、後の難儀がおよばない用心のためにしたのである。離別後も石束家と文通したり物品の贈与を受けたりしているから、表面だけのことだったのである。しかし、何といっても一家の離散である。夫妻はもとよりのこと、子供等の悲しみもおしはかられてあわれである。
こういうことまでしたところを見ると、てぬるいと急進派の連中が非難する内蔵助の方が、はるかにつきつめたところまで考えていたことがわかるのである。
家族と離別するとき、内蔵助は長男の主税《ちから》だけ手許《てもと》にとどめて、一挙《いつきよ》に加盟させることにした。
「良雄、良金《ヨシカネ》(主税)ヲ前ニ召シテ語リテ曰ク、『人生レテ十五ヲ成童トイヒ、始メテ学ブ。今、汝年コレニ及ブ。吾願ハクハ汝ノ意ヲ汝ノ父ノ言ニ留《トド》メンコトヲ。人道ハ義ヨリ大ナルハナク、義ハ君臣ヨリ重キハナシ。汝ノ父国恩ヲ受クルコト至厚ナレバ、義トシテマサニ先君ノタメニ死スベシ。汝未ダ国ニ仕ヘテ親シク君ノ禄ヲ受ケズトイヘドモ、然レドモソレ家ニ生長シテ、衣食ノ裕《イウ》アリ、僕隷《ボクレイ》ノ従《ジウ》アリテ、自ラ奉養ノ安キヲ享《ウ》ケテ歳月ノ間ニ優游《イウイウ》ス。汝ノ国恩ヲ私シスルヤ、マタスデニ大ナリ。汝ヒトリコノ時ヲ以テ生ヲ捐《ス》テ、以テ先君ニ地下ニ報ズルコトアルヲ念《オモ》ハザルカ。吾、汝ニ死ヲススム。父子ノ情トシテ自ラ傷《カナシ》マザルニアラザレドモ、オモフニ人タレカ死セザラン。苟《イヤシ》クモ不義ヲ以テ生キ臭《シウ》ヲ千|載《ザイ》ニ遺《ノコ》サンハ、義ヲ以テ死シ芳《ハウ》ヲ百世ニ流ストイヅレゾ。コレ、吾ノ汝ヲ愛スルコト深キ所以ナリ。汝モシ吾ガ言ヲ聴《キ》カズンバ、マサニ汝ガ母ニ従ヒテ豊岡ニカヘルベシ。徒《イタヅ》ラニ以テココニ相従フハ為《ナ》ス無《ナ》キナリ』ト。良金曰ク、『大人《タイジン》ナンゾコノ言ヲ出《イダ》スヤ。某《ソレガシ》トイヘドモマタ大義ノ分《ブン》ヲ知ル。イヅクンゾ主ヲ忘レ親ヲ棄《ス》テ、自ラ禽獣《キンジウ》ノ行ヒヲナシテ、コレヲ恥ヅルナキニ忍ビンヤ。願ハクハ大人ト死ヲ共ニシ、天下後世ヲシテ以テ父子国ニ殉《ジユン》ズルノ義ヲ称スルコトアラシメン』ト。良雄、ソノ言ヲ聞キ、ソノ幼ニシテ志ノ壮ナルヲ哀《カナシ》ミ、泣下《ナミダクダ》リテ曰《イハ》ク『汝ヨクカクノ如シ。マコトニ吾ガ子ナリ』ト」
以上は「義人録」に記載してあるところ。いかにも儒者らしい正面きったいいかたである。実際は、こんなに四角ばったものではなく、内蔵助らしく、もっとくだけた、もっとしみじみとしたものであったろうとは思うが、大筋は先ずこんなことであったろう。
こうして家族の整理をして後顧《こうこ》の憂《うれ》いを絶つ一方、内蔵助は、吉良家|偵察《ていさつ》の任にあたらせるために神崎与五郎を江戸につかわすことにした。神崎は赤穂退散後妻の郷里である赤穂近在の那波《なわ》村に寓居して帰農《きのう》していたが、内蔵助の召しに応じてただちに上洛、使命をうけて江戸にむかい、四月二日に江戸に到着、麻布飯倉《あざぶいいくら》の上杉家の中屋敷《なかやしき》に近い谷町に借宅《しやくたく》して、美作《みまさか》屋《や》善兵衛《ぜんべえ》と偽名して扇子《せんす》の地紙売《じがみう》りになって敵状探索にあたった。扇《おうぎ》の地紙売りというのはその頃はやった商売で、いろいろな地紙をたずさえて町を流し売りして歩いて、客のもとめに応じて古い扇の骨に地紙をはって代金をもらう商売である。
敵状偵察の任にあたったのは、神崎のほかに前原伊助がある。彼は本所の吉良家の裏門前に借店《しやくだな》して米屋五兵衛と称して穀類をあきないながら、たえず吉良家の様子をうかがっていた。後には神崎もこの店に同居して共同して事にあたった。
十二
この頃から、内蔵助の放蕩《ほうとう》がはじまった。祇園《ぎおん》、島原《しまばら》、伏見《ふしみ》の撞木《しゆもく》町と京は遊里の多いところであるが、最も内蔵助が足しげく通ったのは、撞木町の笹屋の浮橋《うきはし》という遊女のもとであったという。その頃、彼がつくった唄で「里げしき」というのがのこっている。
ふけて廓《くるわ》のよそほひ見れば
宵のともしびうちそむき寝の
夢の花さへ
散らす嵐のさそひきて
閨《ねや》をつれ出すつれ人男《びとをとこ》
よそのさらばもなほあはれにて
裏《うち》も中戸をあくるしののめ
送るすがたのひとへ帯
とけてほどけてねみだれ髪の
つげの、つげの小櫛《をぐし》も
さすが涙のばらばら袖に
こぼれて袖に
露のよすがのうきつとめ
こぼれて袖に
つらきよすがのうきつとめ
この小唄から「うきさま」という廓名《くるわな》がついたという。
また、ある時、酔に乗じて笹屋の天井に、
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今日亦タ遊君ニ逢ヒテ空シク光陰ヲ過ス。明日ハ如何。憐ムベシ、恐ラクハ君急ニ袖ヲハラヒテ帰ラン。浮世《フセイ》、人ノ久シク逗留《トウリウ》スルヲ許サズ。二夜ヲ過ギザルモノナリ。(原漢文)
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と、書いたと伝えられる。
もちろん、これは上杉や吉良からの間者《かんじや》の目をくらますための放蕩であった。吉良方としても、幕府の裁判が公平をかいていることは知っている。浅野の遺臣が不穏な挙に出てくるであろうとは覚悟している。「江赤見聞記《こうせきけんぶんき》」によると、|かくし《ヽヽヽ》目付共《めつけども》が入りこんできたとか、当時の伏見奉行の建部《たてべ》内匠《たくみの》頭《かみ》は吉良と血はつづいていないが、遠いひっぱりになっているので、内蔵助の動静を内通したとあるから、内蔵助としても警戒しなければならなかったのである。しかし、この放蕩を、すべて間者をあざむくためであったと解釈することは、内蔵助にとっては迷惑であろう。遊里《ゆうり》に出入りすることは、あの時代には今日のように悪いこととは思われていなかったのだ。おそらく、その遊興にあたっては、彼は十二分の余裕を以て豪興《ごうきよう》をのべたであろうと思う。彼は大事なものをつかんで寸時もこれを忘れる男ではない。しかし、それにとらわれて身のこなしがつかないほど|かんかち《ヽヽヽヽ》にこりかたまるような修養の足りない人物ではない。毅然《きぜん》たるものを持ちながら、自由自在に身をこなして行ける人である。こういうところはへたに真似すると鼻持《はなもち》のならないものになるが、この境地に達した人物でなければ大事を負荷《ふか》することはできないのである。
彼のこの身持放埒《みもちほうらつ》に憤慨してこれに強意見《こわいけん》をした人として、村上|喜剣《きけん》とか宇都宮成高とかいう人々の物語が伝わっているが、これは両方とも嘘である。喜剣というのは、寺坂吉右衛門(一説によると萱野《かやの》三平、しかし寺坂の方が正しい)の戒名《かいみよう》で、その招魂碑《しようこんひ》を泉岳寺に建てたのが、薩摩生れで宇都宮の成高《じようこう》寺の住職であった岱潤《たいじゆん》という人なので、そこから誤り生れた伝説である。このふたり以外にそういうことをやった人があるかも知れないが、あったという証拠はのこっていない。
内蔵助のこの不行跡《ふぎようせき》は、相当猛烈なものであったらしい。彼の親類である小山《おやま》源五右衛門や進藤源四郎はたびたび意見をしたが、内蔵助がこれを用いないのでなかが悪くなり、最後には脱盟するようになったと「江赤見聞記」に書いてある。彼等の心事があいまいになったのはこれ以前からのことで、原惣右衛門や大高源五などはそれを痛憤しているくらいであるから、これが脱盟の原因になったなどというのは事後における彼等の遁辞であるが、そういう遁辞が一応道理として通るほど、その遊蕩は人目をひいたものだったのである。
けれども、彼のこの放蕩は、予期した効果を十分にあげることができた。あんな|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》では敵討などなかなか考えてもいまいと、間者共はしだいに江戸へひきとったと「江赤見聞記」に書いてある。
ついでに書いておきたいのは、忠臣蔵で有名な「おかる」のことである。こういう女性はたしかに内蔵助の身辺にいた。小山源五右衛門、進藤源四郎等が、内蔵助の身持放埒を見て、彼等は彼等らしく、
「あれア定まる者のないさびしさがさせることだ」
と推察して、二条寺町の二文字屋次郎兵衛の娘を|そばめ《ヽヽヽ》としてすすめた。
「よかろう」
気軽に内蔵助はこれを家にいれた。もちろん、内蔵助としてはますます世をあざむくための方便としてであったろうが、一緒に生活するとなるとおのずからなる情愛も湧いたろう。内蔵助が江戸へくだる頃、女は妊娠していたらしく、十一月二十五日づけで、江戸から内蔵助が、宛名がかけているが、多分、大徳寺の海首座《かいしゆそ》あてに出したらしい手紙に、つぎのようにある。
「玄渓《げんけい》(前出、寺井玄渓、浅野家典医で一党の同志的後援者)へ頼み候二条出産のことも、出生申し候はば、少々金銀つかはし、いづ方へなりとも、玄渓つかはし申すべく、人となりて見苦しくあさましきていになり候はば、その節よきやうに御心をつけられ頼み申し候。大西(男山八幡の大西坊覚運、内蔵助の養子)へもその段申しつかはし候。もし、いかなる様子にて、野郎(男娼)白人《はくじん》(私娼)等になり行き候てはぜひなき事にて候。この節、いらざる心づかひには候へども、少しは心にかかり、志の邪魔になり候故、申しいれ候事に候」
生れる子の行末を案じての哀々《あいあい》の情見るべきものがある。
いらざることのようだが、一言いいそえておきたい。こうした素行《そこう》は、現代ではたしかに倫理的の批判をしなければならないことだが、この時代にあっては、側室をおくことは世間普通のことで、これを以て、内蔵助の素行をあれこれと非難するのは、実践道徳の変化推移を勘定《かんじよう》にいれないへんちき論にすぎない。
十三
家族との離別。
敵状偵察者としての神崎の江戸派遣。
敵の隠密《おんみつ》をあざむくための放蕩。
こう書きならべてくると、内蔵助の心は復讐一点ばりに転じてきたかのごとく見えるが、こうした布石《ふせき》をしながらも、内蔵助はお家再興の運動をおこたってはいなかった。
五月にはいってから、内蔵助はまたも遠林《おんりん》寺の祐海《ゆうかい》を江戸につかわして、護持院《ごじいん》の隆光や護国寺の快意にすがって、前年からの運動をつづけさせた。
この内蔵助のお家再興運動が、急進派の連中を激発したのであろう。五月の末から六月にかけて、俄然、彼等の活動は活※[#「さんずい+發」]になった。
江戸においては、堀部弥兵衛、安兵衛の父子、奥田孫太夫、貞右衛門父子の四人、上方においては、原惣右衛門、大高源五、潮田《うしおだ》又之丞、中村勘助、武林唯七の五人がその急進派で、彼等の往復文書によると、岡野九十郎(後に父の名をついで金右衛門)、小野寺幸右衛門(十内の養子で、大高の実弟)、倉橋伝助、田中貞四郎なども応じたかどうかは不明だが、相談をかけられている。このなかでも、武林唯七が最も猛烈で、この春江戸から上洛した時、内蔵助が江戸で約束したことが変転しているので、大高にくってかかって、
「いくら内蔵助殿だとて、この食言《しよくげん》をなぜだまっているのだ。おのれは腰がぬけたな!」
と、散々に罵倒《ばとう》して、「ことのほかに立腹、なみだをこぼし、なかなかとかくの聞きいれござなく候」と源五が堀部に報告したくらいである。武林は支那人の子孫である。豊太閤《ほうたいこう》の朝鮮役で捕虜になった支那人|孟一寛《もういつかん》というものが彼の祖父である。わずかに三代の間に、最も日本武士らしい日本武士になっているのだから、性格の形成は遺伝よりも環境が大事だといえるかもしれない。
さて、こういう工合で、彼等は心から即行をあきらめたのではなく、大勢やみがたく、内蔵助の懇諭にしたがったのであるから、おりさえあれば立とうとの気持で、ずっと潜行的策動をつづけていた。原惣右衛門など四月二日づけで、堀部と奥田にあててこんな手紙を出している。
「公儀において多少なりともお家の面目が立つような取りあつかいでお家再興を仰せ出された場合にも、内蔵助殿は敵討は敵討でおこなってさしつかえないと仰せられるが、実際問題として、そんなことができるわけのものではない。それこそ、お家はその日かぎりにまたとりつぶされるであろう。とすれば、頭立《かしらだ》った者が切腹して遺臣としての面目を立てるほかないわけだが、これとても、公儀にたいする面当《つらあて》がましく、お家の禍《わざわい》となることは必定《ひつじよう》である。つまり、結局実行されないことになってしまうわけだ。そこで、拙者に一策がある。この際、内蔵助殿に秘密に同志をつのって決行するという策である。内蔵助殿はじめ多数の者はあずかり知らぬことであるから、もし公儀のお咎めがあってもなんとでも言訳は立つことで、大学様にも御迷惑は及ぶまいと存ずる」
このような手紙に接して、堀部や奥田がどうして遅疑《ちぎ》しよう。いさい承知、人数も多くはいらない、真実決死の者が十四五人もそろえば本望相違なかるべし、と申しおくっている。
さらに、六月十二日の手紙にはもっとはげしいことを書いている。
「かねては二十人は人数がいると申しあげたこともあったが、よくよく考えてみると、そんなにはいらない。決死の者が十人もあれば心安く本望を達することができるであろう。近頃、当地の同志とのいろいろのはなしのうちに、大学様の御安否のきまり次第二度の主取りをするつもりと申した者がある。かくのごとく、近来、江戸の同志には料簡違いの者が多い。つまりは腰がぬけたのである。言語道断《ごんごどうだん》に存ずる。せめて、当地に十人義勇の者があれば、再三こんな御相談はかけまいものをと残念しごくに存ずる」
この手紙は、遠林寺祐海《おんりんじゆうかい》が江戸における運動が不成功におわって帰国するのに託して送ったのであるが、その日、吉田忠左衛門のもとから内蔵助の手紙をとどけてよこした。五月二十一日付のものである。
「一挙の長びくにつけ、さだめてはがゆく、かつ待遠しく思われるであろうが、約束の来年三月まではかならず待っていてもらいたい。その間にどんな機会がひらけても、自分にことわりなしに卒爾《そつじ》なことをして、大学様の御迷惑になるようなことをせぬように。自分を嘘つきだと江戸ではいっている人もあると聞いたが、自分の本心は赤穂開城の時から微動だにしないのである」
これには、堀部父子も奥田父子もよわった。こう釘《くぎ》をさされては、秘密に決行するということはできない。そこで、十五日、四人連署で、
「卒爾なことは誰もいたすまいとは存ずるが、万一、さような相談をかけられた節は、一応お知らせいたします」
と、へんじを出しておいて相談だ。
「このままでは、上方の連中も内蔵助にしばられて動けませぬぞ」
「さよう。とすれば、またぐずぐずと来年まで待たねばならぬ」
「来年になってもどうかな。また、お家再興、大学様しかじかとくるおそれ十分でござるぞ」
この相談の結果、堀部安兵衛が上洛することにきまった。上方の急進派と膝つき合せて談合したら、なんとか局面打開の策もあろうというのである。
安兵衛は十六日に吉田忠左衛門をおとずれて上洛の旨《むね》をつげて、十八日出発、二十九日に京都についた。
事情が事情だから、内蔵助のところへは寄らない。ただちに大高をたずね、相|携《たずさ》えて大坂にくだって原惣右衛門の宅において、三人|鼎坐《ていざ》して密議をこらした。
相談はすぐにまとまった。
「内蔵助殿にはすまぬことだが、お家の血統をのこし、亡君の御鬱憤を散じ、また、われらの武士道を立つるという三条件を共に満足させるためには、内蔵助殿にひきわかれて無断決行する以外に道はない」
ということになったのである。ただちに、ほかの同志にも連絡して、大たい七月二十五六日頃まで、ぬけぬけに江戸へくだる手はずがきまった。
赤穂の義士等が本懐をとげるまでには、数々の危機があったが、この危機こそ最大の危機だった。もし、急進派の筋書通りにことがはこんだとしたならば、吉良を討つことはできたかも知れないが、それは単なる復讐にとどまって、日本の武士道美談中最上のものとして世界に誇り、かつ後世の人心をかくのごとく感奮せしめる「元禄快挙」は存在し得なかったはずである。しかも、内蔵助は、かくのごとき陰謀がめぐらされていることを、露知らないのである。
十四
内蔵助は、全然、この陰謀を知らなかった。堀部は上洛する時、吉田忠左衛門にことわっているのだから、吉田から内蔵助の方へ、安兵衛が上洛したということを知らせそうなものであり、その知らせがあれば、内蔵助も一応疑惑を持ったろうと思うが、知らせていないらしいのである。こういうところから考えると、忠左衛門自身も相当しびれをきらしていて、安兵衛等のなすところに、内心「わが意を得たり」の気持でいたのではないかと思われる。
六月末、遠林寺の祐海は江戸からかえってきて、運動の結果を内蔵助に報告した。うまく行きそうにないという報告だ。けれども、内蔵助は絶望はしない。まだまだと望みをつないでいた。
ところがである。七月二十四日、おどろくべきことをもたらした吉田忠左衛門の手紙が山科にとどいた。去る十八日、大学様へたいして御処置の決定があった。閉門御赦免、しかし知行三千石はお召上げになった上、本家浅野家の本国広島にまかり越すべしという申しわたしであるという。
左遷《させん》である!
党内の異論をおさえ、恥をしのび、あれほど内蔵助が苦心したことが、みんな水の泡になったのである。
煮えかえるような心の底に、猛然として湧きおこってきたものがあったに相違ない。
「やるぞ!」
一方、堀部の許にも、このことを知らせた奥田の手紙が二十五日にとどいた。安兵衛の胸にも
戛然《かつぜん》と鳴るものがあった。
「ことここにいたった以上、内蔵助殿とて思いのこされるところはあるまじ」
と思案して、はじめて内蔵助の許に顔を出して、同志の会合を要求した。
一党の危機と、大学左遷の報告との関係を考えると、世に神はあるものであり、至誠はかならず神明に通ずるものであるとのおごそかな感なきを得ない。大学の左遷が今一月、いや二十日か十日おそくても、一党は決裂している。したがって彼等の快挙は存在し得なかったはずである。
会合は、七月二十八日|辰《たつ》の刻《こく》(朝八時頃)から、円山《まるやま》の重阿弥《じゆうあみ》で行われた。重阿弥というのは安養寺塔頭《あんようじたつちゆう》の六|坊《ぼう》(僧侶の住い)の一つである。この六坊は、半僧半俗《はんそうはんぞく》の者が住持《じゆうじ》となっている上に、名にし負う名所にあるので、遊山客《ゆさんきやく》のもとめに応じて席を貸しているうちに、いつの間にか料亭のようなかたちになってしまったのである。現在でもたった一つ左阿弥《さあみ》というのがのこっているが、純然たる料理屋である。
重阿弥は六坊のなかでもっとも東山によった位置にあるが、会合のあったのはその端寮《はしりよう》だったというから、人目をひかない重阿弥でもさらに奥まった山のなかだったのである。
その日集ったのは、大石父子、間瀬《ませ》父子、小野寺父子、原惣右衛門、堀部安兵衛、潮田又之丞、大高源五、中村勘助、武林唯七、貝賀弥左衛門、不破数右衛門、矢頭《やとう》右衛《え》門七《もしち》、大石瀬左衛門、三村次郎左衛門、大石孫四郎(瀬左衛門の兄、後脱盟)、岡本次郎左衛門(後脱盟)の十九人であった。中村勘助は、この頃、家族を親類にあずけるため奥州の白河《しらかわ》に行っていて留守のはずだから、いなかったはずだという説もあるが、「金銀|請払帳《うけはらいちよう》」に十九人分とあるから、この時にはすでにかえって来ていたのであろう。かつて一党の最高幹部だった進藤源四郎や小山源五右衛門は出席しなかった。最初から人の前をごまかしていたわけではあるまいが、意志の弱い彼等は、もう義挙《ぎきよ》にたいする熱情がさめたのであろう。
席は定まったが、いつもの通り、内蔵助は容易に口をひらかない。たまりかねて、六十二歳の老人間瀬久太夫が口をきった。
「このほど、堀部弥兵衛老から身共によこされた手紙に、上方の長分別《ながふんべつ》(長い考え)にもあきあきし申した。自分は齢《よわい》八十になんなんとして余命のほどもはかりがたいのに、もしこのままに朽《く》ちはてたらば、泉下《せんか》の亡君にたいして面目がないゆえ、無|分別《ふんべつ》かは存ぜぬが、老後の思い出に、ただ一人でなりとも、吉良殿|館《やかた》に推参《すいさん》して、かばねをその庭にさらそうと思うとしるされています。身共とてはや六十二、所詮《しよせん》は若き衆と立並んでかいがいしいはたらきもできそうになければ、この席の御評定《ごひようじよう》次第では、弥兵衛老と生死をともにしたいと存じております」
すると、小野寺十内がさっそくに応じた。これも当年六十の老武者《おいむしや》である。
「久太夫殿の仰せごもっともに存ずる。拙者とて同じ老人、さきの短い身でござれば、さようなこととあいならば、よき道づれ、死出の山路《やまじ》のお供いたしたく存ずる」
老人連までがこの意気である。猛士安兵衛がいかで躊躇《ちゆうちよ》しよう。
「しごくの御決断《ごけつだん》。われら最初よりそれのみ心がけていましたものを、内蔵助殿のお家再興の厚き思召《おぼしめ》し黙止《もだ》しがたく、忍びに忍んで今日にいたりました次第。されど、大学様の御処分決定した今日、これ以上の躊躇はいらぬこと。この上は、一同申し合せて早く一挙にとりかかられたきものと存じまする」
これらの人々のいうことをじっと聞いていた内蔵助は、やっとその重い口をひらいた。
「さてさて、各々の御忠誠、感じ入るのほかはござらぬ。今日まで内蔵助がとってまいった手段については、各々もさぞかし手ぬるしと思《おぼ》したでござろうが、これひとえに臣としてつくすべき道をつくさんためでござった。が、今回のお公儀の御沙汰といい、大学様の御なりゆきといい、浅野のお家はすたったのでござる。この上は、ただ最後の一挙、先君の御|鬱憤《うつぷん》をつぎたてまつるばかりでござる。が、事をなすにはおのずから道がござる。討入はしたれど、敵の首《しるし》はあげ得なんだなどということがあっては、お家の武名のけがれ、先君の御恥辱にさらに御恥辱を重ぬる道理。不肖《ふしよう》ながら内蔵助に多少の駆引《かけひき》の心得もござる。十月までには一切を処置してかならず関東に下向《げこう》つかまつれば、各々もそれ以前にかならず御出府《ごしゆつぷ》あるよう。しかして、その間は、めいめいつとめて敵の様子をさぐられること肝要ではござるが、誰にもあれ、ぬけがけのお手出しは無用でござるぞ。この儀かたくお約束申す。各々さように心得られるよう」
凜乎《りんこ》とした態度であり、ことばである。あの凶変の間際に見せただけでまたかくれていた触《ふ》れれば切れそうな勁烈《けいれつ》な面《めん》が出てきたのである。一座は感にうたれて粛然《しゆくぜん》となったがそれもしばらくのことだった。春の潮《うしお》のごとき歓喜が、徐々に座中をゆりうごかして、よろこびの声はいたるところから湧いた。
祝宴がはじまると、もう、みな手のまい足のふむところを知らない。小野寺老人が、
つはものの交《まじは》り
たのみあるなかの
酒宴かな
と、小謡《こうた》をうたい出ると、原惣右衛門はさっと扇子《せんす》をひらいて立ちあがり、
富士のみ狩《かり》のをりを得て、
年来の敵《かたき》
本望《ほんまう》を達せん
と「小袖曾我《こそでそが》」の一曲をみずからうたい、みずから舞いおさめた。
人々の感慨《かんがい》もだが、この時の内蔵助の感慨はいかばかりであったろう。百|策《さく》功なかったことにたいする無念、公儀への憤懣《ふんまん》、主家の悲運にたいする深い深いかなしみが、胸中|渦《うず》をまいて入り乱れていたに違いないが、そのあらゆるものの底に、一脈のすがすがしい安堵感《あんどかん》があったのではなかろうか。
「金銀請払帳」によると、この時の費用が一両だったとある。当時の小判は二匁二分強の金分を含有《がんゆう》しているから、今日の金に換算《かんさん》すると一匁二千二百五十円として大たい四千九百六十二円だ。十九人の宴会費としては、ひとりあたり二百六十一円強、それでこんなさかんなことができたのだから、元禄の時代はインフレといっても知れたものだったのである。
紆余曲折《うよきよくせつ》して、やっとのことでここに達した内蔵助のやりかたを見て、人によってはあまりにも見通しがないではないかと非難する人もありそうだ。その通りである。公正に見て、彼の第一の希望ははじめからとげられそうもないことである。お家再興と吉良への処分を同時にしてくれよというのは、裁判を訂正してくれというにひとしい。権威を重んずる幕府が、たとえおのれの非をさとったにしても、絶対に容《い》れるはずのないことである。けれども、僕が内蔵助を真に偉いと思うのは、その無理を知りながらも、主家のためにやらねばならないと決心すると、やりとげようとして惨澹たる苦心をしたところにある。そのためには、彼は武士として最も大切な名誉すら忘れきっている。どんなに世間の人にそしられようとかまわぬという大盤石《だいばんじやく》の覚悟をきめているのである。単に吉良の首をとるだけのことに専心であったとするなら、内蔵助にたいする後世のほめ言葉はほめ過ぎである。彼こそ実に元禄儒学の真骨頂《しんこつちよう》を得た者であった。真に新武士道の真髄《しんずい》に徹した人物であった。伊藤仁斎の講席でいねむりをしていても、つかむべきものはしっかりとつかんでいたのである。
十五
七月二十九日、即ち、円山会議のあった翌日、堀部は京都を出発して帰府の途についた。いかに、彼が喜び、かつ、勇んでいたかがわかるのである。内蔵助は潮田又之丞をこれと同行させた。吉田忠左衛門や江戸派の連中と打合せして、それを報告のためにまた京都にかえるのが潮田の任務であった。
ふたりは、遠州浜松で、幕命をかしこんで広島におもむく浅野大学の一行にあったが、わざと知らぬふりですれちがった。大学は、ふたりが京都を立った日に江戸を出たのである。
八月十日、堀部と潮田は江戸について、ただちに吉田忠左衛門をおとずれた。吉田はこの春江戸に来て以来、ずっと、去年、内蔵助が出府の際に泊った、芝の松本町の前川忠太夫の家に厄介になっていたが、大学の処分決定を聞くと、一挙の近いのをさとって、
「京都にかえりますじゃ」
と、いいふらしておいて、七月二十七日に、旅支度《たびじたく》して同家を立ち出で、かねて借りておいた新麹町《しんこうじまち》五丁目にひきうつって、自分は軍学|指南《しなん》の作州浪人田口|一真《いつしん》、近松は甥《おい》の同苗三助と偽名していた。この手まわしのよさから見ても、内心、彼が内蔵助のやりかたにあきたらないで、堀部等の行動に好意をもっていたことがわかろう。
ここでちょっといっておかねばならないのは、去年、内蔵助が出府した時、同志の集会所や宿泊用にあてるため、原と大高に命じて買わした屋敷のことである。あの屋敷ははじめから相当|破損《はそん》していて、江戸の連中にその修理のことを依頼しておいたのだが、そのひまもなく、白銀御殿《しろがねごてん》が大火事に類焼《るいしよう》してその普請《ふしん》のために附近一帯の土地が御用地となったので、そのままになってしまったのである。
安兵衛の報告を聞くと、忠左衛門はただちに回状をしたためて同志を呼びあつめた。舟を隅田川にうかべて、一日の清遊をこころみたい、という文面である。人目を避けて重大な用件についての相談であることは誰もすぐ合点《がてん》が行く。「寺坂筆記」によると、心底のたしかそうに見える者だけをあつめたというから、われさきにとあつまってきたのであろう。
遊山舟《ゆさんぶね》二|艘《そう》に分乗《ぶんじよう》し、流れをくだったり、また漕ぎのぼったり、円山会議の報告をしたり、人々の意見をきいたりした。これまでとちがって、敵討一本槍《かたきうちいつぽんやり》で行こうというのだ。誰か異存があろう。
「万事、内蔵助殿の御指揮にしたがい申そう」
と、衆議はたちまち一決した。
八月十二日である。中秋《ちゆうしゆう》の名月はあと三日にせまっている。宵から月がある。朗然《ろうぜん》とした月色《げつしよく》を見て、神崎《かんざき》与五郎は吟懐禁《ぎんかいきん》ずることが出来ず、筆をとって歌を詠《えい》じた。
おなじ心なる人々いざなひ八月十二日
隅田川の逍遥《せうよう》にまかりしころ
鳥の名の都の空もわすれけり
隅田川原にすむ月を見て
月前友《げつぜんのとも》
照る月のまどかなるまにまどゐする
人の心の奥もくもらじ
こんな工合で、江戸の同志の意見も一致したので、十七日、潮田は近松とともに帰洛《きらく》の途についた。
十六
配所《はいしよ》におもむく浅野大学は、供廻りもすくなくさびしい旅をつづけて、八月十三日に伏見について一泊した。附近在住の旧藩士等は多数お出迎えして、旅館にも伺候《しこう》したが、内蔵助は、後日の迷惑が大学に及ぶことをおそれて、病気と称して出なかった。他の同志もまた申しあわせて出なかった。
この数日前から、大学を出迎えのために、進藤八郎右衛門という者が臨時の船奉行《ふなぶぎよう》として、広島本家から伏見に来ていた。八郎右衛門は進藤源四郎の伯父《おじ》であり、内蔵助にとっても縁者《えんじや》になる。広島本家が、こういう人間をよこしたのは、内蔵助等に不穏《ふおん》な企てがあるかどうかをさぐらせようという魂胆《こんたん》があったからである。八郎右衛門はたびたび内蔵助のところにきては鎌《かま》をかけた。
「どうだな、れいのことは? いつにきまったのだ」
「れいのことと申しますと……」
「いいではないか。伯父《おじ》甥《おい》のなかだ。拙者はいつも心配しているのだ」
「なんのことでござるやら」
「世間でもっぱら噂になっていることを、おぬしわしにかくすのか」
「はははは、なんのおはなしかと思えば、敵討《かたきうち》のことでござるか。いや、敵討つならもっと前のこと。こう長びいて人の心がはなればなれになってはいたしようがござらぬ」
と、こんな工合に内蔵助ははぐらかして手にのらない。そこで、源四郎の方にむかった。源四郎もはじめのうちはかくしていたが、ある日のこと、みごとにひっかかって、きれいにどろをはいてしまった。
「実はかくかくしかじかで、近々に下向《げこう》の予定」
それを聞くと、八郎右衛門はむずかしい顔になった。
「臣子の分としてその気持は道理至極なことだが、よくよく分別《ふんべつ》せねばならぬぞよ。安芸守《あきのかみ》様も御心痛じゃ。討たせてはやりたいが、悪くすると天下の騒動になろうもしれぬ。できるものなら思いとまらしたいものと仰せあるやにうけたまわる。それに、近頃では吉良家でえらいきびしい用心とか。卒爾《そつじ》なことでは仕損《しそん》じて世のものわらいとなるは必定《ひつじよう》。ともかくも今は時期でない。待てば海路《かいろ》の日和《ひより》という。気長に待つが得策とわしは思う。内蔵助にもさよう申してくれまいか」
こういわれなくとも、源四郎は軟化《なんか》しているのである。
「ごもっともなる仰せ。内蔵助にさよう申しましょう」
といって、奥野将監や小山源五右衛門、河村伝兵衛などと相談して、内蔵助のもとに出かけて話したが、内蔵助は相手にしない。
「拙者の心はきまっている」
といいはるのである。
一応、四人はひきさがったが、相談し直して、またやってきた。
「承れば、われらの企てがすでにお公儀に聞え、海道筋《かいどうすじ》の御関所《おせきしよ》では警戒きびしく、先へまいった一味《いちみ》のうちにはすでにからめとられた者もあるとの風説《ふうせつ》しきりです。多数同志の下向はむずかしかろうと存ずる。よし、また、下向し得たにしても、吉良屋敷の警戒のきびしさは言語に絶するとのこと。とてもとても本望達すること思いもよらず、かたがた時節を待つこと肝腎《かんじん》と存ずる」
この腰抜け共が! とは思っても、用心はしなければならない。
「さらば、江戸へ問い合せてみよう」
と、吉田忠左衛門と堀部弥兵衛に手紙を出した。この返事よりさきに、潮田と近松とが帰ってきて大体の様子はわかった。そこに、返事も来た。
「そういう噂のないことはないが、今日まで同志はなんの故障もなく到着している。今日にいたっては、当地の者はだれも延期説など承服しませぬ。それに、われわれは余命いくばくもなき老人のことなれば、このたび下向あらずば、当方にて勝手に討入り申す」
というのである。内蔵助は四人をよんで、手紙を見せた。
「こう申してまいった。用心はせねばならぬが、あまり用心しすぎてはしごとはできぬ。各々方も拙者と一緒にくだってくだされ」
逆襲の気味である。四人は泡食《あわく》ったが、どんな臆病者でも理窟には不自由しないものである。
「なるほど、今日までのところは道中も安全でござろうが、大学様の御処分あってまだ間もないに、多数下ったならば、そのために噂も立って、せっかく江戸についても、お公儀のとりしまり、吉良・上杉家の用心となり、大事をあやまるは必定。じたい、江戸の者共は死ぬことばかり考えています。死ぬだけではおのれの一身をいさぎよくするのみで、忠義とは申せますまい」
といって、そこそこにかえって行ってしまった。そこまで考えたら下向の時期なんぞ百年待ったってありっこない。また、おのれをいさぎよくするばかりでは真の忠義とはいえぬとは内蔵助自身がいい出したことだが、こんな場合につかわれようとは思いもかけなかった。内蔵助は苦笑せざるを得なかった。
なぜ、この四人は、こうまで内蔵助の東下《とうげ》をひきとめようとしたのであろうか。内蔵助を同類とすることによって、おのれらの非を蔽いかくそうとしたのであることは明らかだが、もうひとつは、浅野本家の旨を受けていたのだと思う。進藤八郎右衛門の態度から見ても、さらに、この後おこった事件から見ても、そうとしか考えられないのである。
十七
藩の重臣であり、しかもそのうちには自分の一族の者が二人もいるのに、この醜態を見せたことに、今更ながら人の心の頼みがたなさを内蔵助が感じている時脱盟を申しこんできた者があった。お家さかんな時代、使番《つかいばん》で三百五十石どりであった長沢六郎右衛門、舟奉行《ふなぶぎよう》、馬廻《うままわり》物頭百五十石の里村|津《つ》右衛《え》門《もん》、武具奉行百五十石の灰方《はいかた》藤兵衛の三人である。
「余儀なき事情で」
という口上《こうじよう》であるが、理由はわかっている。大学様の処分が決定して、お家再興が絶望となったからか、義を守り続けることに疲れてきたか、いずれかにきまっている。これらの者共は赤穂のような小藩では、階級からいえば上士中の上士である。大藩ならば七八百石から千石とりにも相当するであろう。しかも、長沢は不破《ふわ》数《かず》右衛《え》門《もん》の叔父であり、里村は、父子三人盟約中にある間喜兵衛《はざまきへえ》のいとこであり、灰方は内蔵助が現在腹心の参謀《さんぼう》ともたのんでいる小野寺十内の義兄なのである。
まだある。太田三郎右衛門という者と生瀬《いくせ》十右衛門という者とは、赤穂近在に浪居《ろうきよ》していたらしいが、内蔵助が不日《ふじつ》江戸へ下るということをきいて、どう勘ちがいしたか、早速に京都まで出てきて内蔵助にあって委細を聞いて仰天《ぎようてん》した。
「さような空おそろしきこととは露《つゆ》存じませなんだ。拙者どもは、お家再興の御計画ときいた故に御一味申したのでござる。まかりかえりまして女房どもと相談いたしました上で、何分の返事いたします」
と、ふるいふるい逃げかえったという。こしらえたようなはなしだが、横川勘平の手紙に書いてあるから、しんじつあったことである。
「これほどまでに人の心はうつろいやすいものか」
一|抹《まつ》のおかしさとともに、吹く秋風のごとく落莫《らくばく》としたものが内蔵助の胸には感ぜられたであろう。
「淘汰《とうた》の必要がある」
と考えて、貝賀弥左衛門と大高源五をよんで、一策をさずけた。連判状や神文を一々当人にかえしてこう言えというのである。
「内蔵助殿の申しつけによってまいったが、お家再興のことも今は水泡《すいほう》に帰したれば、今はもう力のつくしようもござらぬ。かねての約束もござるが、御本家はじめ御一門方に御迷惑を及ぼすも、かえって先君の御心にそむくことと存ずれば、ひとまずこれはお手許にかえし申す」
その場合、もし、
「せんかたもなきこと」
と、受取る者は瓦礫《がれき》として、すててかえりみない。
「奇怪《きつかい》なる仰せかな!」
と、怒る者は黄金《おうごん》として、真実をあかして、これこれしかじかで一挙も真近《まぢか》にせまった、内蔵助殿も十月までには関東下向のはずなれば、貴殿もその以前に下向しかるべし、とつげる……。
いさいかしこんで、両人は、京都、奈良、伏見、大坂、赤穂と経《へ》めぐって、ひとりひとりふるいにかけて歩いた。かくして、一時百二十余人もあった同志は五十余人にへった。
このようにして、同志の淘汰はすまされたわけだが、ふるいのこされた鉄石の同志は、家具を売りはらい、住所をかたづけて、続々として江戸へむかいはじめた。ところが、こまったことに、そのために、見なれないものなどがぼつぼつ市中にあらわれるので、たちまち世間の噂が高くなった。
「すわこそ、赤穂浪士の敵討だぞ!」
それだけでも内蔵助は胸をなやましているのに、降って湧いたように大問題が起った。前にものべた通り、当時の伏見奉行|建部《たてべ》内匠《たくみの》頭《かみ》は吉良家と引っぱりになっていたが、その本国は播州林田《ばんしゆうはやしだ》で、地理的に赤穂と近接しているせいで、日頃から両家の家臣等の間には縁者が多かったが、同志のひとりである糟谷勘左衛門の娘が林田の家中《かちゆう》某にとついで、その聟が伏見に在番していた。糟谷も赤穂退散後、伏見に居をさだめている。たがいに往来しているうちに、糟谷が内々聟に大事をうちあけたからたまらない。つつぬけに建部内匠頭の耳にはいった。内匠頭から吉良家へ通知が行く。吉良家では屋敷の警戒を厳重にするとともに、また隠密《おんみつ》どもがいなごの如く京へはせのぼってきた。
放胆なように見えて、神経質なくらい内蔵助は用心ぶかい。高田郡兵衛が背盟した時も、大へん気にして、「飼犬《かいいぬ》に手を咬まれるという諺《ことわざ》があるが、大丈夫か、大丈夫か」といくども江戸にきいてやっているほどだ。糟谷が建部家の聟に秘密を漏らしたというだけでも、気になってたまらないのに、打てばひびくように吉良邸の警戒が厳重になり、隠密共がのぼって来たのだから、その心配は一通りでない。
内蔵助の放蕩《ほうとう》には拍車がかかった。彼が大小もささずに墨染《すみぞめ》の衣をつけて色里に浮かれこんだり、芸者|末社《まつしや》や|かげま《ヽヽヽ》などをひきつれて、ことさら人の出さかる祇園《ぎおん》あたりの路傍《ろぼう》で酒宴をひらいたり、酔いつぶれて路傍に寝こんだりしたのはこの頃のことである。この頃、彼が実家にかえしている妻にあてた手紙がのこっている。
[#ここから2字下げ]
いまほどは八坂祇園をどりゆゑ、われら、主税《ちから》もまゐり見候。なかなか慰《なぐさ》みごとにて候。伏見のかのをどりも見申し云々。
[#ここで字下げ終わり]
とある。妻にあてた手紙だから放蕩のことなどあらわには書いていないが、こういう場所に出かけて人目に立つように放蕩してみせたのであろう。
閏《うるう》八月一日、内蔵助は世間へは、
「長々|浪々《ろうろう》のところ、このほど母方《ははかた》の親戚《しんせき》、備前池田家の家老池田|玄蕃《げんば》のまねきに応じて近々《ちかぢか》にかの地におもむくことになった」
といいふらして、家屋敷を男山《おとこやま》の大西坊証讃《おおにしぼうしようさん》にゆずりわたして、京都四条の道場|金蓮寺《きんれんじ》内の梅林庵《ばいりんあん》にひきうつった。山科からすぐ立つと目立つので、こうして江戸下向の機をうかがっていたわけだが、間者や伏見奉行の眼がしげくて、なかなかそのすきがない。あせりながらもその月も過ぎて九月となった。
その頃、江戸の堀部等から手紙が来た。れいによって、上野介の近況を報告し、一日も早く東下してくれとの文面だが、なかにこういうことが書いてある。
内蔵助の遠い親戚で、大石|無人《ぶじん》という老人がある。年八十余で、もと赤穂浅野家につかえていたが数十年前に致仕《ちし》して江戸に出て浪人ぐらしをしていた。子供がふたりあって、長男の郷《ごう》右衛《え》門《もん》は津軽信政につかえ、次男の三平は父と同じく浪人していた。三人ともに義を好む人々で、日頃から一党の人々と親交があったが、なかにも無人は堀部弥兵衛と昔からの懇意で、浅野家の大変があって、一党に一挙の企てがあるということを聞くと、弥兵衛に、
「拙者ももと赤穂の家来で、御恩のほどは今に忘れてはいぬ。かかる義挙を見過しにしたとあっては、無人の男がすたる。ぜひ、拙者も加えてくだされ」
と申しこんだ。立場をかえれば、弥兵衛だってこれくらいなことは言いかねない老人だが、人のことだからさすがにあきれた。
「さてさて無分別なことを仰せられる。貴殿がお家を退去なされてから幾年になると思われる。三十五六年にもなるではござらぬか。その上、今は他家へ御奉公の御子息にかかっていなさる身ではござらぬか。内蔵助が同意するはずはござらぬ。せつにおとめ申す」
「なるほど、そう仰せられるとそうだな」
と、あきらめたが、手伝いだけはさしてくれと、いろいろ吉良家の様子をさぐっては好意をみせていたが、こういう老人だけに、一挙がのびのびになるのが腹にすえかねる。一日、片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門を招いて、
「もはや二ヵ年にもなるに、いまだに趣意《しゆい》がはたされぬとはどういう次第じゃ。近頃、いいがいなきことではないか。敵の所在が知れぬというならだが、眼前にのめのめと生きているを、なんのかんのと見すぐしていること、武士の恥と申すものだ。討入することができぬのなら腹かき切って、生命《いのち》を惜しんでいるのではないとの、せめてもの|あかし《ヽヽヽ》を立てられるがよろしかろう」
と、痛烈に罵倒《ばとう》した。とくに磯貝と片岡を呼んでこういったところに、この老人の古強者《ふるつわもの》らしいかけひきがある。たびたびいう通り、同志のうちでも、このふたりはもっとも内匠頭の恩義を受けているものどもである。ふたりが奮激して腹切ったならばそれもよし、でなくとも、筒抜《つつぬ》けに内蔵助に自分の意志は通ずる。いずれにしても一党を奮起させるであろうと考えたのである。
はたして、ふたりは堀部や奥田にむかって、火のつくように一挙即行をせまった。
安兵衛の手紙にはこのことが、記されてあったのである。
あせっていた内蔵助である。この手紙に接して、一層あせっていろいろと工夫したが、どうにも下向のすきがない。
父の憂色《ゆうしよく》を見て、主税《ちから》は父にむかってこういった。
「江戸の人々が何かにつけて疑心《ぎしん》を抱きますのは、遠くはなれているからのことと存じます。わたくし年少ではございますが、せめてわたくしでも下向いたしましたなら、江戸の人々も父上の御出府も間近いことと安堵《あんど》なされようかと存じます。まずわたくしをおつかわしください」
負うた子に教えられるというが、つまり一種の人質をつかわすことになるのだから、どれくらい江戸の連中が安心するかわからないわけだ。内蔵助は大いによろこんでその意にまかせることにした。
九月十九日、主税は、間瀬久太夫、大石瀬左衛門、茅野《かやの》和助、小野寺《おのでら》幸右衛門、矢野伊助(寺坂吉右衛門とともに足軽出身で義盟に加わった者であるが、後に背盟した)を同行して、世間には、明年三月は先君の三回忌だから、その法会《ほうえ》準備のために江戸に行くといいふらして京都を出発、十月四日に江戸についた。
出発の前、主税が豊岡の母のところに訣別《けつべつ》に行ったという説が昔からある。さだめて行ったろうとは思うが、証拠はなにものこっていない。
主税を江戸へ立たした後、内蔵助は世間の様子を見はからって、十月七日に出発と心をきめたところ、意外な障碍《しようがい》が出てきた。
その頃、広島藩の家臣で津田某という者が病気療養のためと称して京都に来ていて、おりおり内蔵助のところにも出入りしていたが、ある日、ひょっこりと梅林庵にやってきた。
「うけたまわれば、いよいよ近日に関東御下向とのことでござるが、このほど本国からの便りによると、本月十六日までに、藩の役人の某が君命によって上洛いたすとのこと。必定これは大学様の御吉事《おんきちじ》の御内意を告げにまいるのでござろう故、それまで御出立を御延期になってはいかがでござる」
もちろん、これも広島本家の内意をうけてのことである。本家としては、内蔵助等が乱暴なことをして、自分に迷惑をかけはしないかと心配でならないのである。おそらく、こうして内蔵助の出発を延期させておいて、大学を説きつけて、「さようなことをしてはならぬ」という手紙でも書かしてそれを持たせてやるつもりだろう。そんなことは、百も承知の内蔵助だ。
「せっかくのおことばなれども、大学様|御成行《おんなりゆ》きはもはや明白。なんの吉左右《きつそう》(吉報)がござろうや。拙者存念は決定《けつじよう》いたしてござる」
と、はねつけた。
すると、また、進藤源四郎と小山《おやま》源五右衛門がやってきて、津田のはなしをして、考え直してみないかといい、もう一度、大学様お取立《とりたて》の嘆願をしてはどうだ、とすすめる。もちろん断乎《だんこ》としてしりぞけた。
そのあとで、内蔵助は、両人を正路《せいろ》にひきもどそうとして、潮田又之丞は源五右衛門の娘聟《むすめむこ》でもあるので、これに命じて勧告させたが、両人は承知しなかった。
「内蔵助のこのたびの企ては、つまりは、のたれ死にをまぬかれんとする江戸の乱暴者共の無謀な企てにひきずられてのことじゃ。さような浅はかなことで、どうして大事がとげられよう。われらはあとにのこり、十分の謀《はかりごと》をめぐらしてしかる後に目的を遂げる所存」
というのである。
この小山等のことばは、この時ばかりでない。一挙の後、内匠頭の未亡人の瑶泉院《ようせんいん》が、義徒《ぎと》のなかに小山や進藤がはいっていないのはいぶかしいといって、人をしてたずねさせた時にも、二番手のつもりであった、とこたえているのである。これが彼等の逃げ口上であることは明白だが、万が一、本心であったとしても、彼等は武士として、もっとも大事な心がけにかけている。いかなることにも用心は必要だが、それにはほどがある。過度の用心は怯懦《きようだ》の別名である。用心ばかりしている者には機会は絶対にこないのである。
さらにまた、一旦、内蔵助等が失敗したら、二番手などということは絶対にできっこないのである。内蔵助が惨澹《さんたん》たる苦心をして堀部等の暴発《ぼうはつ》をおさえつづけてきたのは、ひとつにはそのためだったのだ。それのわからないような人間に、どうして大事をなしとげられよう。
「武士には見切《みきり》ということが肝腎だ」
と、栗山大膳《くりやまだいぜん》がいったというが、ここのことだ。小山等が臆病風に吹かれていたのなら、いまさら議論の必要はないが、まじめに二番手などということを考えていたとすれば、彼等はこの見切り――「断」の一字を知らなかったために、つまり、愚昧のために、武士たるの道をとりおとして、百世|汚名《おめい》を甘受《かんじゆ》しなければならなくなったのだ。
この時、潮田は舅《しゆうと》の不義を怒って妻を離別したという説があるが、それはわからない。離別していることは、内蔵助と彼の親類書《しんるいがき》によって明らかだが、内蔵助のごとく、あとで難儀を及ぼさないために、話し合いの上で表面だけの離別をしたのかも知れない。
この小山等のだらしなさにくらべると、寺井玄渓《てらいげんけい》というお医者さんは武士はずかしいくらいりっぱだ。自分もつれて行ってくれといってきかないのである。
「お志のほど神以《しんもつ》て感じ入りまするが、新参の医者まで加えねば敵《かたき》が討てなんだのかといわれては、お家の恥となることであり、また、貴殿にしても御新参、かつは、長袖《ながそで》の御身分のことでありますれば、人数にもれたればとて恥にはなりますまい故、思いとまりくだされ」
と、ことわっても、
「拙者、武職《ぶしよく》ではなけれど、君恩を受けたにはまぎれなし。君恩に新古《しんこ》の別がござろうや」
と、強硬だ。それでもことわっていると、こう言い出した。
「では、せめて下向の供だけなりとさしていただきたい。多くの人数のことではあり、出府の後、病気にかかる人がないともかぎらねば、拙者は決して無用ではござらぬ。ぜひにおつれくだされ」
あまりに切な願いで、内蔵助もことわりかねたが、玄渓は浅野家のような小藩ですら三百石十六人扶持という高禄をあたえていたくらいの名医で、その名は洛中《らくちゆう》にかくれもない。にわかに雲がくれしては噂が立って、そこから秘密が暴露《ばくろ》するおそれがあるので、子息の玄達《げんたつ》を父のかわりにつれて行くことにしてやっと折合をつけた。
後のことになるが、江戸にくだった玄達は一挙のすんだ後、二十六日まで江戸にとどまって、いさいのことを父に報告している。内蔵助がいかに玄渓をたのみに思ったかは、前にものべたように妾腹《しようふく》の子の行末《ゆくすえ》をたのんだことによっても、また、細川家にあずけられた後、最初に一挙の詳細な報告を送った先が玄渓であることを以てもわかるのである。
玄渓は内蔵助の死後もその寄托にそむかなかった。宝永七年に、義士の遺子等が恩赦《おんしや》されると、すぐ手紙を熊本の堀内伝右衛門(細川家の家臣、義士等がおあずけ中、その附人《つけびと》を命ぜられて、最も親切をつくした人物)へ出して、内蔵助の三男大三郎を細川家へ推挙《すいきよ》してくれと依頼におよんでいる。義士外の義士といってしかるべき人物である。
さて、予定の通り、十月七日、内蔵助は潮田又之丞、近松勘六、菅谷《すがや》半之丞、早水《はやみ》藤左衛門、三村次郎左衛門、若党|室井左《むろいさ》六をひきつれて京都を出発した。玄達は大津で一緒になっている。人目をさけるためにこうしたのである。講談や浪花節などでは、公卿《くげ》の日野家用人|垣見《かきみ》五郎兵衛と偽名して、堂々たる行装《たびよそおい》で関所々々をあざむいてくだったと演ずるが、それはないことである。江戸についてからも偽名しているのだから道中でも偽名はしたであろうが、ごくこっそりとくだったのである。
京都出発|間際《まぎわ》、内蔵助が親戚の近衛家の諸太夫進藤筑後守に百両の借金を申しこんだところ、内蔵助の深い志を知らない進藤家では、
「また、だだらあそびでつかってしまうのだ」
と考えて、ていよくことわったところ、内蔵助は、さらば江戸に下り候間、おあずけしておくとて、長持一棹《ながもちひとさお》をあずけて江戸にくだった。討入の後、遺書がきて長持をあけてくれとあったので、ひらいてみると、それぞれ名札《なふだ》をつけてかたみわけをしてあった。進藤家では大へん残念がった、というはなしがある。講談や古い小説によくある段取《だんどり》があって、まことしからず思われるが、有名なはなしだから、一応書いておく。
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また江戸の巻
内蔵助は十月二十三日に鎌倉の雪の下についた。これは最初からの計画だった。真直《まつすぐ》に江戸にはいっては世間の耳目《じもく》をひく恐れがあると用心したのである。滞在二日の後、吉田忠左衛門の迎えをうけて、鎌倉を出て川崎|在《ざい》の平間《ひらま》村の称名《しようみよう》寺の門前の小屋《しようおく》にはいった。江戸の連中が、内蔵助の指揮によって用意しておいた宿所《しゆくしよ》である。八月二十七日の富森助右衛門にあてた内蔵助の手紙によると、潮田又之丞が堀部と共に下向した時に、すでにここときめたらしいのである。
この村に、お家盛んな頃、馬糧《ばりよう》のことで出入りしていた軽部《かるべ》五兵衛という百姓がいた。実直な性質なので家中の者も親しく交っていたが、富森助右衛門はわけて懇意で、瓦解《がかい》の後、たよって来て、五兵衛の宅の東側の空地をかりて一戸を建ててしばらく住んでいたことがある。この家をそれにあてたわけである。内蔵助に先発して江戸についた内蔵助の家の用人|瀬尾《せお》孫左衛門を借主《かりぬし》とし、内蔵助は客分《きやくぶん》として滞在させるという名目にしてあった。もちろん軽部五兵衛には事情をうちあけてあったろう。平間村へは、二十六日についた。
平間村へ到着するとすぐ、内蔵助は一党へ訓令を発した。彼自身が直接に、そして、最初に発した訓令である。
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一、本部を平間村へおく。自分はここにあって、自身、同志の衆中へ諸事を申し談ずる。
一、討入の時の服装は黒小袖を用いること。帯の結び目は右側がよいと思う。褌《ふんどし》のたれが外れないように注意のこと。ももひき、きゃはん、わらじを用いること。
一、相じるし、相ことばはあとで通告する。
一、武器は随意。ただし、槍、半弓《はんきゆう》を用いる者は一応届出られたし。
一、同志一同無事に下着《げちやく》したのであるから、諸事油断なく、機会のありしだい討入のできるように心がけて、必要な道具をあつめておくことは勿論、無用の他言をつつしみ、一家親類の間のつけとどけも無用のこと。
一、機会があっても抜駆《ぬけが》けで本意をとげることはゆるさぬ。
一、確実に本意を達し得べき見込みの立たないうちは討入はできないのであるから、場合によっては数日見合せなければならないこともある。それ故、無用な衣食や遊興《ゆうきよう》にふけって、生活費に窮するようなことがあってはならない。飢渇にせまられると、勢い無理なことをして、敵屋敷《かたきやしき》に斬りこんで死をいたすことばかりを本望と考えるようになるから、くれぐれも注意のこと。
一、同志|寄合《よりあい》の時、日常の言行、十分につつしんで敵に様子をけどられないこと肝腎。
一、討入った節の目的はもちろん上野父子にあるが、この両人にばかり目をつけていては討ちもらすうれえがあるから、男女の差別なく鏖殺《みなごろ》しの覚悟でいること。表門、裏門、新門の三ヵ所をかたくかためることはもちろんであるが、それ以外に内からぬけ出せる場があるかも知れないから、よく調査の上、人員の配置を行う。
一、相手には雑兵《ぞうひよう》百人余もあろうが、味方には決死の士五十余人あるのである。一人対二、三人のつもりでやれば、全勝疑いないことである。
一、近日あらためて神文《しんもん》して誓約をかためようと思っている。
右、さしあたって考えついたことを書きつけた。意見があるなら申し出でられたい。相談の上、だんだん練《ね》って行きたい。
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謙虚《けんきよ》でありながら、堂々たる威にみち、しかも行きとどいた訓令である。この訓令を忠実に遵奉《じゆんぽう》していたなら義士の数はもっと多数であったはずである。この以後に脱盟して不義士となった者のなかには、この訓令に不忠実だった者が多いのである。たとえば、小山田庄左衛門と田中貞四郎は酒色にふけって金に窮したあげく逃亡している。小山田は片岡源五右衛門の小袖《こそで》と金子を盗んで逃亡しているし、田中は梅毒で面相まで変じていたという。普通に生活して窮迫したのなら、同志にすがることもできたであろうが、酒色にふけったあげくなので、はずかしくてできなかったのであろう。毛利小平太はもっとも勇敢な同志で、吉良邸内部の偵察などには一方《ひとかた》ならぬ功労のあった男だが、兄の家に暇乞いに行って、不注意にも兄の人柄を考えないで事情をうちあけたために、訴え出るぞと脅迫《きようはく》されて動きがとれなくなり、あわれにも不義士に|※[#「眞+頁」]落《てんらく》したのである。
この訓令を出すと間もなく、堀部弥兵衛老人がさっそく意見を申し出てきた。
「人目をそうはばからんでもよい。江戸のことを人まかせではいかがと思う」
つまり、江戸へ出てこいというのである。内蔵助自身も考えていたことなので、いろいろ様子をさぐってみると、大たい別条ないと見きわめがついたので、十一月五日、江戸にのりこんで、前月以来、主税の滞在している日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛の裏手の控え屋にうつった。小山屋は当時|繁昌《はんじよう》した宿屋で、長崎|出島《でじま》の和蘭《オランダ》甲比丹《カピタン》の参府した際など、その旅館となるくらいだった。主税は、江州《ごうしゆう》の豪家《ごうか》の垣見左内《かきみさない》という者で、お公儀に訴訟《そしよう》の筋《すじ》があって下向したと称して滞在していたのである。内蔵助は、左内の伯父、同苗《どうみよう》五郎兵衛で、左内の後見のためにまかりくだったという名目だった。したがって、ふたりと一緒にくだった人々も、あるいは親族、あるいは手代《てだい》、あるいは小者《こもの》ということにしてあった。
内蔵助父子は、討入当日まで、この小山屋にいて、当日、江州へ帰るといって、諸勘定《しよかんじよう》を支払って引きはらったのだが、彼等が討入をし、江戸中、ひいては日本中の噂になり、翌年二月四日に切腹して間もなく、長崎出島のオランダ屋敷のカピタンが、将軍お目見えのために江戸へ来て、この小山屋へ泊った。彼等は前々年の春にも参府して来て、この小山屋へ泊っている間に、松の廊下の事件を聞いて帰ったのだが、今度、日本中が義士のことで沸き立っている最中、道中をつづけて来て、また小山屋に投宿したところ、義士の頭領である大石父子の一挙のその日までの宿所がこの家であったと聞いて驚嘆した。
「あの離れた小屋《しようおく》に、アコー・ローニンのカシラはいたのか。あの小屋に」
と、興味深げに眺め、涙ぐみまでしたという。
赤穂義士のこと、「忠義」ということば、「浪人」ということば、「ハラキリ」ということば、「サムライ」ということば等は、早くから欧州に伝わって、ヨーロッパ人が日本という国を考える場合、これらのことが切って離せないものとなっていたのは、多分このカピタンによって伝えられたのであろう。
カピタンは、「徳川実紀」によると、二月二十八日に将軍に拝謁《はいえつ》している。
江戸へ乗りこんだ内蔵助は、一党の領袖株である吉田忠左衛門、小野寺十内、原惣右衛門、間瀬久太夫などと会議をひらき、若手の連中を四組にわけて、毎夜、吉良、上杉両家の防備、上野《こうずけ》の所在等を偵察させることにした。だんだん寒気のきびしくなる頃だったが、皆、はりきって、いろいろに変装、日暮から夜明けまで両家の近ぺんを巡回して、さぐり知ったことを逐一報告した。「寺坂筆記」によると、忠左衛門自身、毎夜のように出動して探索《たんさく》にあたり、とくに、兵学上の見地から地理をきわめて、上杉家から助勢を送った場合、どこでどう防ぐかという方法を吟味《ぎんみ》したという。こうした用心を現代の人は滑稽《こつけい》だと思うかも知れない。しかし、当時の武家の一族の結びつきの鞏固《きようこ》さは現代人の想像を絶する。伊賀越《いがごえ》の仇討、浄瑠璃坂《じようるりざか》の仇討、その他いろいろな仇討が、双方《そうほう》にその一族の者が加担《かたん》することによって、いかに大がかりなものになったかを考えていただきたい。まして、吉良と上杉とは実の父子である。吉田忠左衛門のこの用心は決して行きすぎではないのである。
会議はたびたび催されたが、場所は内蔵助の住いか新麹町の吉田忠左衛門の宅にかぎられていた。「寺坂筆記」によると、人員も、領袖株《りようしゆうかぶ》の連中だけで、若き衆は平生《へいぜい》出席これなく候とある。あれほどやかましかった堀部父子や奥田父子も、今はもう全く安心しきって、指揮を受けるだけで満足していたわけである。内蔵助のところへ出入りする人々は、目立たないように編笠《あみがさ》で面体《めんてい》をつつみ、服装も時々かえて、裏口から出入りしていた。
江戸入りの後、すぐ吉田忠左衛門等は、かねて内蔵助に起草を命ぜられていた起請文《きしようもん》の文案《ぶんあん》を、内蔵助にしめした。
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起請文|前書《まえがき》の事
一、冷光院様|御鬱憤《ごうつぷん》を散ぜんため、怨敵《おんてき》上野介殿を討取らんとの志のある侍共が申し合せたのであるが、この節に及んで大臆病の者共は変心して退散してしまって、必死の覚悟の者だけがのこったのである。この面々が、冷光院様の御霊魂にかけて誓約するのである。
一、討入っての上《うえ》の働きについては功の深浅《しんせん》をつけない。上野介殿の首級《しゆきゆう》をあげた者も、ただ持場をかためていただけの者も、同様と見なす。それ故、部署について不平をいってはならない。先後の争いをしてはならない。協同一致して、いかなる役にあたっても不満あってはならない。
一、意見を申し出る者にたいして、自己の意趣をふくんで反対してはならない。誰の意見にたいしても、理の上に立って是を是とし、非を非とすべきこと。また、平生《へいぜい》不和の者であっても、互いに助けあい全勝を得べく努力すべきこと。
一、上野介を討取っても、生命を助かろうという所存なきことは申し合せているのだから、ちりぢりになってはならない。負傷者はこれを助けて、所定の場所にあつまること。
右の四ヵ条に背けば、この大事は成就しないのである。故に、もし背く者は、このたび退散の大臆病者共と同然である。
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一貫して、和衷協同の精神の必要なことを力説しているのである。事をなすにあたって、これが必要であることはいうまでもないが、一党の間に、内蔵助をなやました内訌《ないこう》や不和があったことが推察せられるのである。
「遺憾なきできばえである。拙者所存のほどもこの上に出ぬ」
と内蔵助は満足して、十一月七日、八日の両日の間に、人々を少しずつ小山屋によんで、連署血判、つづいて、討入についての細則《さいそく》を草して、人々にわかった。
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人々心得の覚《おぼえ》
一、日がきまったら、かねてさだめの通り、前日の夜中、内々きめてある三ヵ所へ静粛に集合すること。
一、当日は、あらかじめ決定し申しわたす刻限をまもって出発すべきこと。
一、敵《かたき》の首をあげたなら、ひきあげの場所へ持参するつもりで、その場の都合で、敵の死骸の上着をはいでつつんで持って行くこと。検分《けんぶん》の役人に出会った時は「これは亡君の墓へ持って行きたいのであるが、おゆるしがなければいたしかたない。しかし、御歴々《ごれきれき》の首であるからすてて行くわけにも行かない。先方へお返しくださるか、いかようともお指図しだいにいたします」とあいさつして役人に反抗してはならない。都合さえよければ、泉岳寺へ持参、お墓へそなえること。
一、子息左兵衛の首はとっても持参には及ばず、討捨てのこと。
一、味方の怪我人はできるだけ力をつくして扶《たす》けてひきあげること肝要であるが、肩にかけても運び出せないような重傷者は、介錯《かいしやく》してひきあげること。
一、敵《かたき》父子を討取ったなら、相図《あいず》の小笛をふき、だんだんふきついで、みなに知らせること。
一、ひきあげの合図は銅鑼《どら》を鳴らすことときめておく。
一、ひきあげ場は無縁寺(回向院《えこういん》)にする。寺内に入ることをゆるさない時は、両国橋の東詰《ひがしづめ》の広場に集ること。
一、ひきあげの途中、近所の屋敷方から人数を出して押しとどめた場合は、まず実をつげ、「自分等は逃げかくれするのではない。無縁寺へひきあげて、お公儀の御検分使を迎えて委細《いさい》を申しあげるつもりでいるのである。しかしながら、御疑念《ごぎねん》があるなら、寺までついてきていただきたい、一人たりとも逃げる者はありません」とあいさつすること。
一、吉良家から追手《おつて》がかかった時は、総勢しずまってふみとどまって勝負すること。
一、本懐をとげる前に御検使が見えたら、門をしめ、ひとりだけ脇門《くぐり》から出てあいさつする。その時は、もう敵は討ったと言い、生きのこった人数をまとめて御下知《おげじ》にしたがう旨を申し出ること。また、開門しろという仰せがあっても、やはり門はあけないで「同志の者が邸内にちらばっているので、混雑の際いかなる無礼がないともかぎらない。しかし、追々にみな集りつつありますから、追っつけ開門します」といって断じて門をひらいてはならない。
一、ひきあげのおりの出口は裏門である。
一、以上は主としてひきあげの際についての心得をいったのであるが、討入の際の覚悟はもちろん必死でなければならない。それ故、ひきあげの時の工夫ばかり考えていて進む時これにわずらわされるようなことがあってはならない。ひきあげたところで、生命はおぼつかない我々である。討入の覚悟は必死を分として十分なる働きをすることが肝腎である。
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別に附則一条があって、討入の際は、用意の書付を文箱《ふばこ》にいれ竹にはさんでその場に立てるほか、おもだった者六七人に懐中させておく、とある。これは一党の趣意書のことである。
起請文前書とこの心得書を読んでまず気づくのは、ひきあげのことに非常に力をいれていることである。これを見ると、内蔵助が、それをいかに見事にしあげるかという点に苦心していることがわかるのである。ただ、討ちさえすればいいというのではなく、きれいに、みごとにしあげたいと工夫しているのである。こういう点にも、前代の武者気質の単純素朴なゆきかたとちがう、派手好みの、しかも理につんだ、いかにも元禄武士らしい内蔵助が認められるのである。
一党の趣意書というのは次のごときものである。
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浅野内匠頭家来口上
去年三月、内匠儀、伝奏御馳走の儀について、吉良上野介殿へ意趣《いしゆ》をふくみまかりあり候ところ、御殿中において当座のがれがたき儀ござ候か、刃傷《にんじやう》に及び候。時節、場所をわきまへざるふるまひ、無調法《ぶてうはふ》至極につき、切腹仰せつけられ、領地、赤穂城召しあげられ候儀、家来共までおそれいり存じたてまつり、上使の御下知《おんげぢ》をうけ、城地さし上げ、家中早速に離散《りさん》つかまつり候。右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これあり、上野介殿討ちとめ申さず、内匠《たくみ》末期の残念の心底、家来共忍びがたき仕|合《あは》せにござ候。高家御歴々《かうけごれきれき》にたいし、家来共|鬱憤《うつぷん》をさしはさみ候段、憚《はばか》りには存じたてまつり候へども、君父の讐《あだ》はともに天をいたゞかざるの義、黙止《もだ》しがたく、今日上野介殿宅へ推参仕候。ひとへに亡主の意趣をつぐ志までにござ候。私共死後、もし御検分の御方ござ候はば、御披見を願ひたてまつらんとて、かくの如くにござ候。以上。
元禄十五年十二月  日
[#地付き]浅野内匠頭長矩家来
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この下に、討入同志の姓名を列挙したのである。この中にある「君父の讐はともに天をいたゞかず」という文句は「礼記《らいき》」にある文句であるが、礼記には、「君父」となく、ただ「父」とある。堀部父子は気にして、親友で義挙の熱心な後援者であった細井広沢《ほそいこうたく》を訪れて「経書」の文句をこう改竄《かいざん》してよいものであろうか、後世の笑いをまねくようなことはないか、と質問したところ、広沢《こうたく》は、
「くるしからず、大事をなすには文章によるべからず、君の仇と書いてずいぶんしかるべし」
と、こたえたということが「二老略伝」にある。醇乎《じゆんこ》たる武者気質を元禄の時代にまでもちこして来ているらしく見える堀部父子も、また時代の子だったのである。
細井広沢は、柳沢|吉保《よしやす》に仕えた儒者で、当時|海内《かいだい》一の書家と称せられた人物である。堀内源太左衛門門下で同じく剣を学んでいた縁故から堀部父子と親しい交りを結び、彼等の義挙にたいしてはずいぶん後援しているのである。この書物にもずいぶんひいた「武庸《たけつね》筆記」は、義挙にあたって、安兵衛が彼に贈ったものである。広沢の家は吉良邸から程遠からぬ深川八幡にあったので、義挙の夜は、その時刻から屋根にのぼって吉良家の方を望んでいたが、夜明けまで火の手があがらないので安心してはじめて寝《しん》についたという。数日大雪がつづいた後のこごえるような寒夜のことである。友情の厚さと義を好む心の強さを見るべきである。この広沢の所行《しよぎよう》から見て、幕府をはばかって起請文にも討入心得書にも書いてないけれども、浪士らは、もし、失敗したら、屋敷に火をかけて自殺するつもりであったことが推察されるのである。
内蔵助はまた十一月二十九日に、落合与左衛門を通じて、瑶泉院《ようせんいん》にたいして、これまでたびたび引用した「金銀請払帳」を提出している。内蔵助の豪遊を考えるとき、その費用がどこから出たのであろうかという疑問がまずおこる。当時でも疑心をいだいた者があったと見えて「主家滅亡にさいして、大金を横領《おうりよう》して、それを湯水の如くつかっている」という者があったらしいが、ぜったいにそれはないことである。彼が金銭にきれいであったことは、大野九郎兵衛の貪欲《どんよく》さと比較してすでにのべたが、瓦解後も、この点は実にきれいである。彼が自分のためにつかった金は、彼自身の金だったのである。そのために、京都出発の際には、余財どころか、借財が出来ていたので、母方の親戚、池田出羽守(玄蕃のこと)から若党を飛脚に出して千両借用したということが「寺坂私記」(「寺坂筆記」とは別)にある。また、江戸において主税が親類の大石三平から金子封入の書状をいただいた礼状というのものこっている。相当、金にはつまっていたらしいのである。
もちろん、内蔵助が、赤穂から公金を持ち去ったことは前にのべた通りであるが、これは全部公用につかったので、その出入りを一々しるしたのが、この「金銀請払帳」である。「請払帳」を見ると、七両一分不足だったので、自分が支払っておいたと書いてある。この「金銀請払帳」にそえて落合《おちあい》にあてた手紙に、大野九郎兵衛が貧乏してこまっているから、赤穂におさえてある荷物をわたしてやるようにとりはからったということが書いてある。
講談や浪花節などで、赤穂におけるお金配分において、大野九郎兵衛の強欲《ごうよく》をおさえつけて、内蔵助が、やれお家再興の費用だ、やれ主家代々の供養費だ、やれ瑶泉院様のお化粧料だなどと何万両かをひき去ったといって、後の内蔵助の流連荒亡《りゆうれんこうぼう》の費用があたかもそれであるかのごとく思わせるような演じかたをするのは、内蔵助のこの清廉《せいれん》をけがすものである。
吉良の邸の用心が堅固をきわめているという噂は高いもので、浪士等はみな胸をいためていた。やれ、屋敷内に新築の蔵があって、この蔵のなかからとなり屋敷へ抜け穴がこしらえてあるとか、おとし穴が数ヵ所にあるとか、屋敷長屋の惣内廻《そううちまわ》りを大竹《おおだけ》で垣を結いめぐらして早速には破りがたいとか、こんな場合にありがちなさまざまな噂があったのである。
浪士等は、これが事実かどうかをさぐることに苦心したが、吉良家では、渡り奉公の者にはのこらず暇を出して、奉公人は三州の領地から呼びよせたものばかりでかため、出入《でいり》商人も吟味を重ねた者だけとしていたので、まるでさぐるべきてだてがつかなかった。
屋敷の絵図は、ずっと前堀部安兵衛が手にいれた。しかし、これは、前住者の松平|登之助《のぼりのすけ》時代のものであるから、いくらか参考になるという程度のものにすぎない。それを、吉良邸の裏門近くに商店を出している前原伊助と神崎与五郎とが惨澹《さんたん》たる苦心を以て、火事だといえば屋根にかけあがり、風雨だといえば物ほしにあがって吉良邸を見渡しては、少しずつ補正して行って、大たい髣髴《ほうふつ》がうかがわれる程度のものにしあげた。竹垣については、ある人から吉良の家老某にあてた手紙を手に入れたので、毛利小平太が下人《げにん》に変装して持参して見届けてきた。風説とちがってそんなものはなかった。
邸内の模様が明らかになると、今度は上野介の在否《ざいひ》が問題であるが、これについても、夏以来、彼の実子で上杉家の当主である綱憲《つなのり》が病気のために、上野介は隠居《いんきよ》の暇《ひま》な身ではあり、自邸にいるより安全なので、看病《かんびよう》という名目で上杉家につめっきりであるとか、茶の湯を好んで諸家へ出入りしたり、自邸にも始終客があるとかの噂がしきりである。事実だとすれば、手の出しようもない。一挙はのびるばかりである。したがって、意志の弱い者は士気|阻喪《そそう》して、脱盟して行衛《ゆくえ》不明になる者がぼつぼつ出て来る。横川勘平が、十二月十一日付で知人にあてた手紙のなかに
「拙者儀、存じよりござ候間、先きだつて切腹つかまつることござあるべく候」と書いて、脱盟者を列挙して「卑怯評するに及ばず。もつとも、内蔵助のしかた、かやうにのびのびにいたし、方々へもれ候儀、よきとは申し難しと存じ候」と書いている。少壮の連中がいかにあせったかがわかるのである。内蔵助がこの頃知人にあてて出した数通の手紙があるが、そのすべてに、この節にいたって脱盟者が出て、不届至極《ふとどきしごく》の者共だと書いている。苦心のほど同情に値する。
「寺坂筆記」によると、上野介の方でも大へんな用心ぶりで、たまに出入りする時にも、上野介は名をかえたり、道具や供廻りまでかえたりして、気づかれないようにしていたとある。やはり、同書にあることだが、若い同志の者が、ある日、途上で上野介の乗物に相違ないと思われる行列に出会った。
「よいおりだ。顔を見知っておこう」
というので、土下座《どげざ》をした。その頃の習慣で、ある家中の者が主家の親類の主人に路上であった時、こうした礼をとれば、相手は乗物の戸をあけて答礼することになっていたので、それを利用したのである。みごとに相手はひっかかって、戸をあけて、
「いずれの衆で、名はなんと申される」
と、声をかけた。見ればまさしく上野介である。
「松平肥後守(保科家)家中、軽きものでございます」
とこたえてすましたというのであるが、「今やればやれるのに」とはやる心を「機会ありとも、ぬけがけの功名をゆるさぬ」という誓約を思い出して、必死でおさえたことであろう。
当時の江戸の富豪で中島五郎作という者がいた。本宅は霊巌島《れいがんじま》にあり、店は京橋三十|間堀《けんぼり》にあって、有名な町人だったが、内蔵助はお家繁昌の頃、この者と知合いになっていた。「堀部弥兵衛私記」によると学友だったとあるから京都堀川塾で同門ででもあったのだろうか。ある日のこと、内蔵助は五郎作をおとずれたところ、五郎作はおどろき、かつ、なつかしがってむかえた。
「これはこれは、御出府とのことは噂にきいておりました。おかわりもなく結構でございます。なかなか御苦労なことでございましょう」
五郎作は、ちゃんと内蔵助の出府の目的を見ぬいている様子だった。信頼しても大丈夫な男だとは思ったが、内蔵助は話をそらした。五郎作も相手のこの気持をさとって、深くはふれてこなかったが、ふと、
「あなた様は、伏見の羽倉《はぐら》先生と御旧知だそうにございますな」
といった。
「伏見の羽倉? おお、稲荷様の神主をしていられた、たしか、斎《いつき》殿と申されましたな」
「さようでございます。あの方が、ずっとわたくし共の持家においでになりまして、よくお噂が出ます。おあいなされませぬか」
「それはおなつかしい。あわせていただきましょう」
羽倉斎《はぐらいつき》といっただけでは知らない人もあろうが、国学史上の巨人、荷田春満《かだのあずままろ》という名を知らない人はあるまい。それがこの人なのである。羽倉家は代々伏見の稲荷神社の神職であったが、彼は早くから家職を退いて、その抱懐する古学――日本学の宣揚《せんよう》につとめていたのである。当時、彼は三十五歳の壮年であった。彼は、前々年、勅使として下向した大炊御門経光《おおいみかどつねみつ》に随従《ずいじゆう》して出府したのであるが、日本学宣揚の運動をするには政治の中心である江戸が適当だと思ったのであろう、しばらくこのまま江戸にとどまりたいといったので、大炊御門卿は、かねて懇意な五郎作にその世話をたのんで帰洛《きらく》した。五郎作は、自分の持家の一つを無家賃で斎《いつき》に提供して、いろいろと後援しているのだった。
どういうことで、内蔵助がこの人と知合いになっていたかは、はっきりわからないが、とにかく旧知のなかだったのである。
斎《いつき》もよろこんで内蔵助と会ったが、これも内蔵助出府の目的を知っているらしく、こういった。
「上野介殿がひところ拙者の弟子だったことをごぞんじではござるまいな」
「ほう」
「神道歌道などの指南《しなん》をするために、おりおりあの屋敷へも行っていましたが、あの人の世間の評判があまり悪うござる故、近頃ではさしひかえてまいらぬ。しかし、家老の松原|多仲《たちゆう》という者は、これも弟子でござるが、この者は今でも折々まいります」
「さようでござるか」
くっきょうな手づるだとは思ったが、内蔵助は用心深く、深入りしなかった。
それから、時々あそびに行くと、斎《いつき》も五郎作もいつもよろこんで迎えて、いろいろな情報をくれる。ある日のこと、五郎作がこういうことをいった。
「手前の茶の師匠は御老中の小笠原佐渡守長重様お抱えの|四方庵宗[#「彳+扁」]《しほうあんそうへん》でございますが、よく吉良様のお茶席へ招かれてまいります。それで、手前も両三度お供したこともございます」
その日も内蔵助はさりげない風で辞去したが、帰途、堀部弥兵衛を訪れて、このことをかたった。老人は大いによろこんだ。
「内蔵助殿が自重なされたのは、はなはだ結構でござる。しかし、これほどの手づるを利用せぬという|て《ヽ》はござらん。安兵衛をつかわして、なおよくさぐって見ましょう」
「拙者もそのつもりでまいったのだ」
かくして、安兵衛は斎《いつき》に接近することになった。
一方、内蔵助は、大高源五が茶道の心得があるので、これに命じて、四方庵|宗匠《そうしよう》に弟子入りさせた。源五は町人姿に変装して、大坂の呉服商で、諸大名御用達をうけたまわっている脇屋《わきや》新兵衛と名乗って深川四方庵の門をたたいた。
一党第一の風流人で、言語、動作、風采、堂々たる大高源五である。簡単に入門をゆるされて、おりおり出かけて行って茶の湯指南を受けながら、それとなく吉良の動静をさぐっていた。
十二月二日に、内蔵助は、深川八幡前の茶屋で、その頃はやった頼母子講《たのもしこう》を組織する初会をひらくという名目で、同志の総会を行った。
おそらく、前にのべた討入心得書や、口上書などが、この時|披露《ひろう》されたものであろうが、ほかに、この時、こんなことを内蔵助はいっている。
「我々がくだってきたについて、世上では、いよいよ敵討がはじまるのであろうと噂している模様である。ついては、いつ、同志の者で役人に捕えられる者があるかも知れないが、万一、さようなことがおこった場合には、悪《わる》あがきせず、一同名乗って出て、赤穂退去以来の|※[#「眞+頁」]末《てんまつ》を逐一《ちくいち》申しのべて、我々の素意を明らかにし、公儀の処分を受けたい」
反対者もあったろうことは想像がつくが、とにかく、これを決議していることが「寺坂筆記」に見える。
こういう内蔵助の態度は、一たい、討つ気があるのかと、誤解をまねきやすい。けれども、これは、彼の理につんだ行きかたを理解すれば容易にわかることである。彼は、彼等の挙を、理の上で間然《かんぜん》するところなきものとしたかったのである。彼が、最初、公儀に嘆願して、その意趣をとげようとしたのが第一にそれである。国家に法律があり政府がある以上、まずそれに遵《したが》うのが順序だと思ったのである。しかし、政府が正義の味方でなく、法律が正義のために発動しないとわかったので、自分等の力を以てその正義を樹《た》てようとしたのである。しかし、同志が一人でも捕えられれば彼等の企図《きと》は幕府の知るところとなり、知るところとなれば、弾圧《だんあつ》手段に出てくることは必然である。そこを反抗すれば、乱臣賊子となってしまう。乱臣賊子によって樹《た》てらるべき正義というものがあろうはずはないのである。ずっと前にのべた水戸|光圀《みつくに》が曾我《そが》兄弟の行為を批評したことばを思い出していただきたい。こういう理づめな考えかたをするのが、新しい武士道なのである。好意的に考えると脱盟した小山源五右衛門や進藤源四郎などもこうした考えかたから決裂したのかも知れない。しかし、彼等は理にとらわれて変通《へんつう》の理を知らなかったのである。この危《あやう》い機微《きび》、そこを見わけるのが、義と不義との分岐点《ぶんきてん》になるのだ。
これはもちろん僕の解釈にすぎないが、妄断《ぼうだん》ではないつもりである。一挙後、内蔵助等の行動に対して、是非《ぜひ》の論が沸騰《ふつとう》して、学者連中が入りみだれてのはなばなしい論戦が展開されたが、その際、ほめる側も、けなす側も、いずれにも単純な感情論はない。皆それぞれに理論的なのである。精密な理論を以て義理を究明して実践するということが、当時の識者の風潮だったのである。
さて、用心深い内蔵助は、こうして、万一のことを心配はしているが、一面、安心もしていたと思われるふしもある。内蔵助が赤穂の華嶽《けがく》寺の住職|恵光《えこう》、親友の良雪、神護寺の三名にあてた十二月十三日付の手紙というのがある。そのなかに、次の文句がある。
「浪人共追々|下着《げちやく》、拙者儀まかり下り候沙汰いろいろこれあり、御老中にも御存知の旨候へどもなんの御《おん》|いろひ《ヽヽヽ》もこれなく候。その通りになしおかれ候ことと察し候。亡君のため忠死を感心の道理か。なんの滞りもこれなく、安堵《あんど》いたしまかり在り候」
この手紙は偽作《ぎさく》ということになっている。しかし、偽作でも、なかなかよくできた偽作で、いろいろな人にあてた内蔵助のほんとの手紙の文句を適当につづりあわせてこしらえているのだから、全然すててしまうのもおしいのである。
実際、この文句のように、彼等のことが幕閣《ばつかく》にわからないはずはないのである。江戸時代の警察制度は現代の人の考えるほど放漫なものでなかった。とくに江戸市中などでは、ある意味において、現代より行きとどいていたとさえいえるのである。第一五人組というものがある。これが連帯の責任を負わされているのであるから、いいかげんにはできない。組中に変ったことがあると、なんによらず町年寄《まちどしより》にとどけ出る。町年寄の報告は奉行所にあつまる。奉行所の報告は幕閣にもたらされるというしくみになっている。変装したり、偽名したりしているにしても、五十余人の者が江戸へはいってきて、わずかに十軒ぐらいにわかれて滞在していて、知れないですむ道理はないのである。
おそらく、ここにあげた部分もほかにあてたほんとの手紙からとってきたものであろうと思う。
前にも述べたが、たしかに、幕閣では彼等に一挙のあるを予期し、かつ、討たせるつもりでいたと思われる。
深川八幡での寄合《よりあい》があった翌日のことである。大高源五がとんできた。
「今日、四方庵宗匠のところにまいりましたところ、宗匠は、この六日、早朝から吉良屋敷の茶会に行くと申しておりました故、五日の夜は在邸うたがいありません」
石町《こくちよう》の本部はたちまち緊張して、同志にふれまわすと同時に、この際、吉良邸の見はりは一層厳重にしなければならないので、若い人々は出かけて行って油断なく見はっていたが、四日のことである。小豆《あずき》屋《や》善兵衛と名乗っている神崎与五郎が店にすわっていると、吉良家の裏門があいて、あたりをはばかるように、一|梃《ちよう》の乗物がかつぎ出されて来た。
「あやしいぞ!」
ぴんときたので、与五郎はみじたくもそこそこに尾行した。すると、追々供廻りの者がはせついて、途中で行列をととのえて、上杉家の裏門にはいった。たしかに、上野介に相違ないのである。さっそく、内蔵助へ報告した。さあ、大へんだ。すぐかえるのか、もし泊りこむのだとすれば、明後日早朝の茶の湯はどうするつもりか!
気をもんでいると、来る五日、将軍が柳沢吉保の屋敷へお成《な》りということがふれ出された。これでは、たとえ吉良が在宅でもやるわけに行かない。
「お公儀にたいしてはばかりあれば、延期」
と申しわたしたが、血気の連中はきかない。どうせ公儀をはばからない所行《しよぎよう》に及ばなければならぬのだ、そんな理由で延期などとは承服できない、というのである。「波賀朝栄《はがともひで》聞書《ききがき》」にこうある。
「去る五日は上野殿へ茶の湯の客これあり、在宿の由、源五うけたまはり候につき、同夜はしかけ候はずに申し合はせ候。然るところに、お城の御沙汰これあるにつき、内蔵助、上をはばかり相止め申し候。若き者共、堪忍《かんにん》仕らず候につき、内蔵助、(貝賀)弥左衛門、源五、そのほか年寄り候者共申し合はせ、五日のかねての茶の湯は相とどめ候由、源五に申させて鎮め申し候。その後七八日過ぎ、若き者共、右は偽りにて候由承り候につき、内蔵助二心これあり候やなど申し、ことのほか立腹仕り候を、ことわりを申し鎮め申し候」
つまり、策略にかけて、やっと延期のはこびにしたのである。はやりにはやっている若者共を統御《とうぎよ》する内蔵助の苦心、察するにあまりがある。
一両日後のことである。横川勘平が耳よりの報告をもってきた。
「十四日に吉良邸で年忘れの茶の湯が行われる」
というのである。
やはり上野介の茶道の友でなにがしという桑門《そうもん》(僧侶)が本所にいた。横川は|つて《ヽヽ》をもとめてこれと懇意になっているが、ある日、たずねて行くと、よいところにまいられた、この手紙を読んでくだされ、はずかしながら、拙者かいもくの文盲でござる、という。
ひろげて見ると、なんと吉良家から来た手紙で、十四日、年忘れの茶の湯をいたすにつき、参会を願いたい、という文面である。しめた! 返書を代筆してくれというので、代筆してやった上、
「吉良様なら、間近《まぢか》。拙者あの近所についでもござれば、届けてさしあげましょう」
ついでに、吉良邸の内部を見てくるつもりなのである。
「恐れ入る。ではたのみましょうか」
この坊主は、義人録によると「家貧ニシテ人ノ遣《ツカ》ハスベキナシ」とあるから、使いにやるような召使いもなかったのである。横川は吉良邸に入りこんで、十分に偵察までとげて、本部に報告した。
用心深い内蔵助は、中島五郎作、荷田春満《かだのあずままろ》、この頃、春満と交際をむすんだ大石|無《ぶ》人の子の三平などにまで手をまわして、これをつきとめようとした。十二月七日付で内蔵助は三平へこのことを確めてくれとたのんでいる。
「十日過ぎに彼の会もこれあり候由、ほかよりちらと承り候儀にござ候。この儀、たしかに承りたく存じ候。お聞き合はせくださるべく候」
三平は、春満にきいてやったと見えて、十三日付で春満が三平に書いた手紙の尚々書《なおなおがき》に、
「尚々、彼方の儀は十四日のやうにちらと承り候。以上」
とある。三平はすぐにこのことを内蔵助に報告したにちがいないが、この以前、十日に、内蔵助は大高源五にもこの探索を命じて報告を受けている。
この日、源五は四方庵宗匠をおとずれて、こういった。
「てまえ、御当地にて越年するつもりでいましたところ、用事さしおこりまして、近く上方へかえらねばならぬことになりました。来春早々にまた下向いたしまするが、出立以前、今一度、なにかとこの道の心得をうかがいたいと存じまするが、御都合はいかがでございましょうか」
「それはまことにおなごりおしいこと。ここ数日は諸方へ先約がござるが、それも、十四日の吉良殿の御会まででござれば、それがすめば、ゆるゆると御教授つかまつりましょう」
しめた! とおどりあがりたいほどの気持であったろう。
これまでの義士伝では、源五が偶然に四方庵へ行って、十四日の茶会を聞き出したようになっているが、以上、のべた事実を並べて考えあわせると、十四日の茶会をたしかめるために、内蔵助が命令して源五をつかわしたと考えるべきであると思う。したがって、十四日の茶会をつきとめた第一の殊勲者《しゆくんしや》は横川勘平でなくてはならないわけだが、源五が義士伝中の人気役者であり、相手の四方庵宗匠もまた茶道史上の巨人であるのにたいして、横川の方は、相手役が名も知れない貧乏坊主であって、甚だはなばなしくない。ために勘平には気の毒だが、いつか人気が源五の方にひかれて、源五の殊勲と考えられるようになったのであろう。
今はもう間違いないと思われたが、内蔵助はなおも念をいれて、十四日の早朝、源五を宗※[#「彳+扁」]の宅につかわした。源五は自在かぎにする竹をたずさえて出かけてみると、玄関にははや供廻りの用意までできている。けれども、押強く上って、
「今日は吉良様へ御参会とは承知いたしておりまするが、いずれそれは夕景からの御事と存じますれば、おさしずを受けて、自在をひとつこしらえたいと存じまして竹を持ってまいりました」
というと、宗※[#「彳+扁」]は、
「御執心のほど感じ入りますが、吉良家にて、少し早目にまいるようにとの仰せで、御覧の通り、すでに供の用意もいたさせているような次第でござれば、明日のことにしてくだされ」
という。
「されば、明日重ねて参上」
源五ははせかえって内蔵助に報告した。
一方、吉良家の門前にはりこませていた同志からも、続々と来客があって、四方庵宗匠もまぎれもなくはいったと知らせてきた。
「今度こそ、大丈夫!」
内蔵助は、同志の者に、今宵討入と通知した。
月こそかわれ、十四日は亡君の忌日である。また、この数日来つづいていた大雪が今日はやんで、江戸の町は一点雲ない日本晴である。
「亡君御尊霊のみちびきたもうところ」
と、人々は勇気百倍した。
討入集合所は、本所林町の堀部安兵衛宅、本所徳右衛門町一丁目の杉野十平次宅、本所相生町二丁目、すなわち、吉良家裏門通りの前原伊助宅の三ヵ所であった。大たい、この三ヵ所にあつまって、最後に堀部安兵衛の宅で総揃いして、それから吉良邸に向うという手はずになっていた。したがって、当夜持参の武器や諸道具の大部分は、はやくから堀部の宅にもちこまれて保管されていたのである。
内蔵助は、昼のうちに、にわかに帰国することになったといって、諸払いをすませたが、夕方頃、小野寺十内とともに駕籠《かご》にのって、矢之倉米沢《やのくらよねざわ》町の堀部弥兵衛老人の宅にむかった。古風な武者|気質《かたぎ》の最後の人である七十六歳のこの老人は、自分の老衰を自覚して、もう間に合わんかも知れんと思って、じれにじれきっていただけに、今夜の討入がうれしくてたまらない。それで、同志一同にもれなく招待を発して、出陣の祝酒を献じたいから、ひまを見てきてくれといってやったのである。こういう老人は昔はずいぶんいたものだが、今ではもうきわめて稀になって国宝ぐらいの価値がある。いそがしいさなかだったが、みなよろこんで出かけた。料理も敵に勝栗、敵の首をとってよろ昆布《こんぶ》、名をとれとて菜鳥《なとり》の吸物という工合に、ちゃんと出陣の儀式によったものをこしらえてあった。老人は下戸であるが、接待役には、音にきこえた酒豪である養子の安兵衛、甥の佐藤丈右衛門、堀部九十郎などがひかえている。
内蔵助等が到着して間もなく、主税もきたし、吉田忠左衛門も来たし、原惣右衛門も顔を出した。宴がはじまると、老人は小首をかたむけて、
「発句《ほつく》というものを拙者がつくりましてな」
といい出した。文弱《ぶんじやく》に類したことはなんによらずうけつけないで、「文盲《もんもう》しごく」というのを、むしろ、武士の誇りのごとく考えて長い生涯を生きつづけてきた老人なのであるから、皆、ほうといいたげな顔をしていると、老人はにこにこしながらつづける。
「実は、連日のこの大雪、今日もまた降るようであればこまったことと案じながら昨夜|寝《やす》みましたところ、夢のうちにかような句ができました。御承知のごとく文盲しごくの拙者でござれば、句になっているかどうかわかりませぬが、こういうのでござる。
雪はれて心にかなふ朝《あした》かな
ところで、今朝起き出でて見ますと、さても不思議、まったくの日本晴。つまり、夢想《むそう》の句と申すのでござりましょうな」
一座はもうやんやの喝采で、勝利疑いなしとの信念が、人々の胸に一ように感ぜられた。
そこに、堀部父子の剣術の師匠である堀内源太左衛門と細井|広沢《こうたく》もやってきた。広沢は一折の卵をみやげとして持参した。安兵衛はそれを宴席に持って出て、
「ごらんなされよ。やがて、敵はかくのごとく」
といいながら、ひとつずつとってかちりかちりと鉢のなかにわりいれたので、一座はどっと哄笑《こうしよう》して、一層のにぎわいとなった。広沢は安兵衛のために、五言絶句《ごごんぜつく》を賦《ふ》した。
結髪《ケツバツ》 奇子《キシ》タリ
千金ナンゾ言フニ足ラン
離別 情ツクルナシ
胆心 一剣存ス
高田の馬場の安兵衛のはたらきを讃し、自分等の友情をのべ、転じて離別を愴《いた》み、さらに、今宵の壮挙を祝ったものである。悲壮な吟声がしみいるように人々の魂にひびいた。内蔵助もよほど愉快になったのだろう、手拍子をとりながら、羅生門の一曲をうたい出した。
諸人《もろびと》に
御酒《みき》をすすめて
盃を
とりどりなれや梓弓《あづさゆみ》
やたけ心のひとつなる
武士《つはもの》の交り
たのみあるなかの
酒宴かな
興はいつつくるともなかったが、かれこれ子《ね》の刻《こく》(今の夜の零時)近くなったので、内蔵助は十内とともに、集合本部である安兵衛の宅にむかった。
安兵衛の宅には、陸続《りくぞく》として人々があつまって、しばらく雑談していたが、出発と定めた寅《とら》の刻(午前四時)近くなると、皆服装をあらためた。一同の服装は大たいの感じは芝居でやるのに似ているが、あんな工合に制服のようにそろいのものを着たのではなかった。命令によってそろえたのは、上着が黒小袖で、白木綿の袖じるしをつけたことと、帯に鎖を巻きこんだぐらいのことで、あとはそれぞれの思い思いにまかせたのだが、たがいにいい工夫と思うとまねるので、ついには大たい似たものになったのである。
帯にくさりを巻きこんだのは、堀部安兵衛の意見によった。高田の馬場の喧嘩で、安兵衛は帯を切られて、着物の裾が足にからみついてこまった経験から、この献言《けんげん》をして容《い》れられたのである。
芝居で、袖じるしを山道《やまみち》にしたり、襟に名前を書いたりしているのは正しい彼等の姿ではない。名前や生国は右の袖の外にかいた。しかし、これも皆が皆ではなかった。一党のなかで、わけてさわやかだったのは、大高源五のいでたちであったと、小野寺十内が妻女への手紙に書いている。大高は特に|つか《ヽヽ》を長くこしらえた大太刀をたずさえ、両面紅《りようめんくれない》の広袖《ひろそで》の下着に、両面《りようめん》黒の広袖の上着《うわぎ》を重ねていたというから、奮戦する時の姿は狂風に狂う緋牡丹《ひぼたん》のような華麗《かれい》な武者ぶりであったろう。元禄という時代のはなやかさであるが、こうした文化人的なたしなみはこれだけにとどまらない。大坂夏の陣で、木村|重成《しげなり》は冑《かぶと》に香《こう》をたきこめていたというので、その優《ゆう》なる心がけに家康を感涙《かんるい》にむせばせたと伝えるが、この人達は一人のこらず、着物やその他に香をたきしめていたのである。たしなみが形式的になったのだと言えばそれまでのことだが、元和《げんな》の時代にはたった一人しかいなかったのが、八十余年後のこの時になると、徒士《かち》(下士)足軽《あしがる》(兵卒)にいたるまでこうしたことを心がけるようになった時代の変化がおもしろいのである。
内蔵助の服装は、こうだ。瑠璃紺色《るりこんいろ》の緞子《どんす》の衷甲《きこみ》、同じ色、同じ地《じ》のももひきと籠手《こて》、黒小袖の紋付《もんつき》、黒|羅紗《らしや》の羽織、黒革包《くろかわづつ》みの白革縁《しろかわべり》をつけた冑頭巾《かぶとずきん》に紅革《べにがわ》の忍《しの》びの緒《お》をつけ、黄金《こがね》づくりの黒塗《くろぬり》の鞘《さや》の両刀《りようとう》を帯《お》び采配《さいはい》をたずさえた。小刀《しようとう》は伝来《でんらい》もので、黒檀《こくたん》|づか《ヽヽ》で「万山《ばんざん》|不[#レ]重《おもからず》君恩《くんおん》重《おもし》一|髪《ぱつ》|不[#レ]軽《かるからず》臣命《しんめい》軽《かるし》」という対句をきざみつけてあった。泉岳寺資料では「我命軽」とある由である。
時刻にもなったので、一同は雪と十四日の月で真昼のように明るい通りを粛《しゆく》々と押して、吉良邸の屋敷辻《やしきつじ》で東西|二手《ふたて》にわかれて、表門口は内蔵助みずからひきいてむかい、裏門口には主税が大将となり、吉田忠左衛門が後見《こうけん》となってむかった。時刻は、予定の通り、寅《とら》の一|点《てん》、今の午前四時頃である。
いよいよ討入を書くことになったが、それに入る前に、吉良家のごく大体の図面を左に提示しておきたい。
すなわち、南面の相生町に向った側はずっと長屋がつづき、東西の側にも長屋があり、長屋の間に表門、新門、裏門があいており、北は武家屋敷と塀一重だったのである。
当時の吉良家の警戒はそう厳重であったとは思えない。松の廊下事変があってしばらくの間は、上杉家から多数の付人が来て詰め、吉良家自身でも多数の剣士を召抱えて、警戒していたが、その後何事もなく、また内蔵助の遊蕩を見て、しだいにそれはゆるみ、この頃では大したことはなくなっていたようである。しかし、討入後の幕府の取調べによると、戦死者が十四人、負傷者が十五人、逃亡者が五人、最後まで居すくんで出て来ず、従って傷を受けない者が二十三人いる。これらの中には足軽、中間、小者は入っていないのだから、四千二百石の家にしては、ずいぶんな人数である。全然警戒を撤去していたのではないのである。
士分以上の者に上杉武士が何人加わっていたかはわからないが、小林平八、山吉新八郎、新貝弥七はたしかに上杉家からの付人であろう。これらの名字は上杉家中に多いのである。
内蔵助にひきいられて表門にむかった隊は、ドッと鬨《とき》の声を上げるや、用意して来た二梃の竹ばしごを塀に打ちかけ、さらさらと駆け上った。真先に大高源五と間十次郎、つづいて吉田沢右衛門、次が岡島八十右衛門、真白に雪の積った塀の上に烏《からす》のとまったように立つ間もなく、ひらりひらりと邸内におり立った。他の人々もつづいた。七十六という堀部弥兵衛老人まで塀によじのぼった。これは飛びおりる時、大高源五が下から抱きおろした。原惣右衛門と神崎与五郎とは、いずれも雪に足をすべらせて転落し、前者は足をくじき、後者は右の腕をくじいたが、いずれもことともしない(「波賀朝栄《はがともひで》覚書《おぼえがき》」)。こうして、表門二十三人は全部乗り入った。
二十三人の部署はこうなっている。
司令部――大石内蔵助、原惣右衛門、間瀬久太夫、以上三人。表門内に位置す。
屋内――片岡源五右衛門、富森助右衛門、武林唯七、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、勝田新左衛門、吉田沢右衛門、岡島八十右衛門、小野寺幸右衛門、以上九人。
屋外にいて長屋や本邸から出て来る敵にあたる――早水藤左衛門、神崎与五郎、矢頭右衛門七、大高源五、近松勘六、間十次郎、以上六人。
表門と新門、長屋を見張る役――堀部弥兵衛、村松喜兵衛、岡野金右衛門、横川勘平、貝賀弥左衛門、以上五人。
人々がそれぞれ部署に向った時、今彼らが越えて来た塀を越えて、三個の人影が近づいて来た。月明りに見ると、内蔵助の一族である大石三平、堀部弥兵衛の甥堀部九十郎、佐藤丈右衛門である。いずれも浪士らの同情者で、一同について来て、邸外にいたのだが、邸内に湧きおこる響きを聞くと、凜々たる義気禁ぜず、助勢したくなって、来たのであった。
内蔵助は迎えて、三人の言うことを聞いたが、それはとうてい許せることではない。許しては、今日までの内蔵助のさんたんたる苦心は詮《せん》なきものになる。
「ご芳志はまことにかたじけなくござるが、家中以外の人を加えましては、徒党を組むにあたって、ご大法を乱すことになります。ご納得下さって、お引取り願いとうござる。ご芳志は返す返すも奉謝いたします」
言われてみれば、その通りだ。
「ごもっともでござる。さらば後刻、またお目にかかるでござろう。ご本懐を心から祈ります」
と、塀をこえて、邸外に去った。
この間に、表門内の番所から足軽数人が飛び出して来た。浪士らは競いかかった。足軽らは仰天して番小屋に逃げこんだが、逃げおくれた一人が捕えられた。縛り上げて、堀部老人ら五人に引渡した。
前述した「内匠頭家来口上」を結びつけた竹竿も、玄関の前に立てられた。
一同は同音にときの声をあげ、一斉に呼ばわった。
「浅野内匠頭の旧臣共、吉良殿のみしるしを申受け、亡君の鬱憤を散ぜんために推参、早はやお出合い召されよ」
屋内にいた者も、長屋にいた者も、この以前に目をさましていたろうが、あっとおどろいたろう。つづいて、所々に指揮の声がひびきわたる。
「なにがしの三十人組は玄関を破れ、くれがしの三十人組は長屋の前を固め、出て来る者を討取れ、これがしの三十人組は庭にまわれ……」
浪士らは三人一組になって、たがいに助け合いながら働く軍令になっていた。彼らに死者が一人も出ず、負傷者もまた少なかったのは、このためであるが、この場合は敵を脅《おびやか》し、勇気をたわますために、一組を十倍の人数として呼ばわったのだ。
屋内組は玄関の戸を蹴破り、ふすまをおし破り、先を争ってこみ入り、広間に駆けこんだ。広間に宿直していたのは、中小姓左右田源八、料理番小堀源五郎、近習新貝弥七であった。すわやと立ちふさがった。はげしい戦いがはじまり、吉良方の一人は傷《きずつ》けられて逃げこみ、二人は斬り伏せられた。その一人は小野寺幸右衛門が高股を斬りおとしてたおした。あとの調査で、これは上杉家からの付人新貝弥七であることがわかっている。
幸右衛門は新貝を斬り伏せてふと見ると、床の間にいく挺かの弓が弦《ゆんづる》を張ってならべてある。うなずいて、一薙ぎに弦を切りはらった。味方を奥へやりすごして、背後から射手らが出て来て、射すくめる用意かも知れないと思ったというのだ。この機転は後々まで人々にほめられたと、幸右衛門の父十内が、京の妻お丹《たん》に出した手紙にある。
矢田五郎右衛門ら三人は、広間を駆けぬけ、まっしぐらに書院を目ざしたが、一番あとから行く矢田のうしろから、物陰にかくれていた敵が出て、無言で斬りつけた。切先は背中にあたり、着物を切裂いたが、衷甲《きこみ》を着ているので、身には達しない。
「卑怯!」
ふりかえりざま、横にはらった。敵はどこを斬られたか、あっと叫んでよろめき、かたわらの火鉢の上にうつ伏せにたおれた。矢田はまた斬り、胴を両断したが、切先あまって、したたかに下の火鉢に斬りつけたので、刀は物打《ものうち》のあたりからぽっきと折れた。
「しまった!」
舌打ちして、相手の刀をとって、書院に馳せ入った。この時斬られたのは、清水団右衛門か、堀江勘右衛門か、笠原長右衛門のうちの一人であろうと言われている。
矢田は後に細川家にあずけられたのだが、細川家の人々にこのことを問われて、
「新刀の上に、きずでもあったのでありましょう、折れましたので、敵の刀をもらって駆けこみました」
と言っている。
武林唯七は逸《はや》り雄《お》である。真先かけて、玄関、広間、書院を駆けぬけ、それとは知らずして、当主|義周《よしちか》の居間近くまで進んだ。義周は当時十九歳、物音を聞いて、薙刀《なぎなた》をとっておどり出した。唯七はこれが義周であるとは思いもよらないが、
「ござんなれ!」
とばかりに、斬りかかり、ひたいに一太刀浴びせると、義周の勇気は一時にたわみ、薙刀を捨てて身をひるがえした。
「卑怯者!」
唯七は追いかけて、また一刀を浴びせて背を傷け、なお追いかけた。すると、かたわらから飛び出して来て挑みかかる者があった。
「小癪な!」
ふりかえって一二合したが、これも逃げた。
あとで夜が明けて邸内を点検し直した時、義周の捨てて行った薙刀がそこにあったので拾い上げてよくよく見ると、吉良家の定紋を散らした、いかにも見事なこしらえのものであったので、
「さては、あれは左兵衛殿であったか。知っていたら、逃《の》がすのではなかったに」
と、唯七は歯がみしたという。
片岡、富森、奥田、勝田、吉田沢右衛門、岡島らも、それぞれに各所で戦ったが、その中でも奥田孫太夫の戦いぶりが目ざましかった。奥田は、当時江戸で最も高名な剣客であった堀内源太左衛門正春の門下で、堀部安兵衛とともにその高弟として、同志中の屈指の剣客だ。今夜は長さ二尺七八寸の刀身に一尺七寸の樫《かし》の柄《つか》と鉄鍔《てつつば》をはめた、長巻《ながまき》とまごうばかりの剛刀をふるって、あたるを幸いに薙ぎ立て薙ぎ立て戦った。しかし、格別どこで何人斬ったと伝わっていないところを見ると、同志中の遊軍的人として、戦いの困難なところところと駆けつけては助勢したのであろう。
屋外の人の中では、大高源五の武者ぶりが最もはなやかであった。源五は前の章で書いたように、最もはなやかな出で立ちをしている。表門を一番乗りしたばかりでなく、一人に出合うや、大太刀をふりかざして挑みかけた。一合、二合、三合、紅の広袖が黒の広袖とからんでひるがえり、牡丹花の舞うようなはなやかさだ。忽ち斬り伏せた。
早水藤左衛門と神崎与五郎とは、弓術の達者である。弓をたずさえ、敵と見るや、射取った。弦の音、弦ばなれの音、矢音とが邸内にひびきわたって、長屋に居すくむ者が多かった。
近松勘六は一人と行合ったので、一太刀あびせると、敵《かな》わじと逃げた。勘六は追いかけたが、雪にこおった飛石にすべって、薄氷の張った泉水におちこんだ。敵はこれがわかったはずだが、そのまま逃げ去った。後に勘六は細川邸で、
「この時敵に引きかえされたら、危いことでありました」
と笑って語っている。この時勘六は軽い傷を数ヵ所負うた。擦過傷《さつかしよう》や打身であろう。
表門、新門、長屋の警戒にあたった五人の前に、邸内の戦いがさかんになった頃、屋内から出て来て、新門を破って脱出しようとする敵が二人あらわれた。岡野金右衛門は十文字槍の名手だ。すぐ一人を突きとめた。横川勘平は刀をふるって一人とわたりあい、追い散らしたが、数ヵ所の傷を負うた。五人はたえず長屋の前を歩きまわって、
「出合え、出合え」
と呼ばわったが、一人も出て来ない。皆居すくんでいたのである。
裏門隊は、かねてからこの門があまり堅固でないことを探り知っていたので、押破って打入るつもりで、鉞《まさかり》や掛矢《かけや》を用意して来ている。表門に合せて鬨《とき》をあげるや、杉野十平次と三村次郎左衛門とが、掛矢をふるって、扉をたたき破った。
ここの門番らは勇敢で、二三人が棒をふるって立向って来たが、忽ち討取って、門をなだれこんだ。
この隊の部署はこうなっていた。
屋内――磯貝十郎左衛門、堀部安兵衛、倉橋伝助、杉野十平次、赤埴《あかはに》源蔵、菅谷半之丞、大石瀬左衛門、村松三太夫、三村次郎左衛門、寺坂吉右衛門、以上十人。
屋外――大石主税、潮田又之丞、中村勘助、奥田貞右衛門、間瀬孫九郎、千馬三郎兵衛、茅野和助、間新六、木村岡右衛門、不破数右衛門、前原伊助、以上十一人。
裏門と附近の長屋の警戒――吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衛の三人、六十以上の老人ばかりである。
屋内組は玄関を蹴破って突入したが、磯貝十郎左衛門は、屋内が真暗で、行動まことに不便なので、勝手の間に入り、そこにいた者を捕え、
「そなた蝋燭のありかを知っているであろう。出せ。出せばゆるしてやる」
と言った。相手はふるえながら、取出して差出した。
「よし、ゆるしてやるぞ」
と、放免して、手早く蝋燭に点火し、各室をまわって立てて歩いたので、皆まことに働きやすくなった。
この機転は、本懐後、吉田忠左衛門と富森助右衛門の二人が、大目付仙石|伯耆《ほうきの》守《かみ》の役宅に出頭して自訴した時、伯耆守から討入の様子を聞かれて陳述して、このことにおよんだところ、伯耆守は、磯貝の年を聞き、
「若き者に似げなき沈着のいたし方、あっぱれである」
と、称賛している。
血戦最もすさまじかったのは、不破数右衛門であった。不破は他の同志らと事情が違う。内匠頭のきげんを損ずることがあって、数年前に浅野家を浪人していたのを、内蔵助に嘆願をくりかえして、特別にゆるされて加入を許されたのだ。最も勇猛な性質で、剣術も屈指の名手だ。まっしぐらに進んで、一歩も退かない。出合う敵は必ず斬り伏せ、すでに三四人もたおした時、敵方から出て来て、数右衛門にあたった者があった。これが中々の手ききで、数右衛門の衣類は忽ち切裂かれ、秋風にそよぐ芭蕉《ばしよう》の葉のようになった。小手にも斬りこまれたが、衷甲《きこみ》を着ており、鉄の籠手《こて》をはめているので、身は傷つかない。ついに、相手を斬り伏せた。
後に、小野寺十内、原惣右衛門、内蔵助の三人が連名で、京都の寺井玄渓へ寄せた、討入実情覚書の中に、吉良を発見して槍をつけ刀をつけた間十次郎と武林唯七の働きを書き、そのあとに、
「二人よりも働いたのは不破数右衛門です。敵はなかなかの手ききで、数右衛門へ数ヵ所斬りつけましたが、衷甲をつけていましたので、負傷はしませんでした。不破の着物はみな切裂かれ、小手にも斑々と刀痕があり、刀もささらのようになって、刃は全部なくなりました。彼は四五人は斬り伏せたでしょう」
と、書いている。
堀部安兵衛の働きは伝わるところがないが、これは表門組の奥田孫太夫と同じように、遊軍として、味方の苦戦するところに駆けつけては助勢したのであろう。
彼らの最後の目的は吉良である。戦いながらも、吉良の所在はどこぞと心をくばったが、なかなかわからない。そのうち、一人が穴ぐらを発見した。
「やあ、ここに穴ぐらがあるぞ!」
とさけぶと、数人が走り寄って来た。
「当屋敷には、地下に抜穴があるといううわさもあったが、これがその入口ではないか」
と言いながら、のぞきこんだが、中は真暗だ。何が待ちかまえているか、どんな仕掛があるかわからない。皆ためらっていると、大石主税が駆けつけて来たが、見るや、
「こんな所の探索は、われらのような若い者の役目でござる」
と言いざま、飛びこんだ。人々もあとにつづいたが、何ものもいない。行きどまりの穴にすぎなかった。
このことを、後に久松松平家にあずけられている間に、木村岡右衛門が同家の侍らに語って、
「わたくし共は皆死を決していたのですから、事にあたっていのちをおしむことはないはずでありますのに、あの時のことを思い出しますと、恥かしゅうござる。人には勇怯があり、同じ勇者にもまた優劣のあることがわかりました。主税殿は天性の大勇者であります」
と言ったという。
裏門と長屋の警戒にあたった吉田、小野寺、間《はざま》の三人は、皆老人だ。小野寺が一番若くて六十、吉田がこれについで六十二、間に至っては六十八である。老人だけに思慮は周密である。一人が門の警戒にあたり、二人が長屋の前を巡邏《じゆんら》することにして、交代であたっていると、ちょうど吉田が門の番をしている時、一人と侮《あなど》ったのであろう、二人の敵があらわれ、斬ってかかったが、吉田は槍をひねって、忽ち二人ながら突伏せた。
この時、小野寺と間は、門から左方の長屋の前を行きつつあると、ここにも二人の敵があらわれた。老人らは一人ずつ引受け、これまた忽ち突伏せた。
三人が一緒になると、吉田が言う。
「一体、隠居というものは、家の奥に住むものでござる。上野介殿の居間も定めしそうでござろう。とすれば、それはこのあたりにあり、従ってここから逃げ出そうとすることは、最も考えられることでござる。この建物のまわりは、別して用心すべきでござるぞ。ご油断召さるな」
「仰せの通りでござる」
そこで、こんどは間を門の警戒役として、吉田と小野寺とが左右にわかれて、建物の周囲をまわった。
小野寺は左手から北方の勝手口の方にまわった。そこでまた敵に出会ったので、突伏せた。その時、表門隊の片岡源五右衛門が来かかり、
「十内殿、遊ばしたり」
と、ほめた。
さらに進むと、また敵が出た。十内はこれも突伏せた。この時は裏門隊屋内組の大石瀬左衛門が来合わせ、敵がたおれながら、「南無阿弥陀仏」と念仏するのを聞いた。
小野寺は細川家にあずけられた後、京都の妻に一族の者のはたらきの次第を報告し、自分のことも述べて、
「三人ながら証拠のあるにて候」
と書いている。老妻に自慢する老人の心がほほえましい。
戸障子の破壊される音、駆けまわる荒々しい足音、剣戟のひびきに、暁の夢を破られて、附近の家々は皆目ざめたが、中にも北隣りの土屋主税の屋敷では、万一の変に備えるためであろう、高提燈《たかぢようちん》を立てつらねたのが、塀ごしに見えた。
原惣右衛門、小野寺十内、片岡源五右衛門の三人は、塀ぎわに走りより、
「これは播州赤穂浅野内匠頭の旧臣共でござる。亡主の鬱憤を散ぜんため、当邸へ推参したのでござる。決してお屋敷へはご迷惑はかけませぬ。さむらいの身は相見互いのものでござれば、何とぞおかまいなく、討たせて下さるよう、願い上げます」
と、呼ばわった。
土屋家では答えはしなかったが、しんと静まっていた。傍観してくれるつもりになったのである。
浪士らは反抗する敵をほぼたおしつくして、最初捕えておいた足軽を案内者として、吉良の居間へ入ったが、主のいない夜具がしかれているだけだ。室内にも人気《ひとけ》はない。こころみに夜具の中に手をさし入れてみると、まだ温みがのこっている。
「遠くへは逃れていないぞ。くまなくさがせ」
と散って、さがした。納戸《なんど》、台所、便所、湯殿、天井、地袋、気のつくところは全部さがしたが、どこにもいない。
夜ははや白んで来た。一同の落胆は一通りでない。
「必定、とりにがしたに相違ない。今はもう弓矢神に見はなされたわれらと思うよりほかはない。かねての申合せの通り、腹切ってはてよう」
と言う者がある。
内蔵助と吉田忠左衛門とは相談して、それぞれの部隊に説諭した。
「そう気短かなことを申されるものではない。夜は明けかけてはいるが、まだ明け切ってはおらぬ。たとえ明けはなれたとて、望みを失うべきではござらぬ。あれほど厳重に屋敷まわりを見張っていたのだ。とすれば、敵はたしかにこの邸内にいるはず。切腹など、万策つきてからのことでござる。最後の際まで絶望せぬこそ、男でござるぞ」
一同は気をとりなおし、また探索にかかった。こんどは足音をひそめ、声をひそめて、ひそひそとさがしたが、吉田忠左衛門と間十次郎とが勝手口のあたりまで来ると、炭べやと思《おぼ》しい中から、ひそひそとささやく人声が聞える気がした。立寄って、壁に耳をおしつけると、たしかに人のささやきだ。
「人々、お出合い召されよ。この内に人声がいたす!」
と、呼ばわった。近くにいた者が、どっと馳せ集り、戸を蹴破った。
中は真暗だ。その中に人影が三つ四つ動く。
「それ!」
踏みこむと、中から、皿、茶碗、炭など、手あたり次第に投げ出す。皆ためらっていると、一人が刀をふりかざして飛出してきた。討ちすてると、また一人飛出して来て、斬ってかかる。これも討ちとめた。さらにもう一人飛出して来たが、これも討取った。あとでわかったが、大須賀次郎右衛門、清水一学、榊原平右衛門の三人である。討ったのは、堀部安兵衛、矢田五郎右衛門、三村次郎左衛門であったという。
隅《すみ》になお一人のこっている。間十次郎が槍をそばめて突いた。敵は突かれながら、脇差をふりまわして寄せつけまいとする。武林唯七がおどりかかり、斬りつけると、そのままたおれた。
一同は駆けより、台所前の広場まで引出してみると、年頃六十前後、身に白無垢の小袖をまとっている。吉田忠左衛門が言う。
「白無垢の小袖は普通の人が下着とするものではござらぬ。年輩と申し、様体と申し、上野介殿に相違ござるまい」
一同同感だ。そこで、用意の小笛を吹く。聞きつけた者が次々に吹きついで、一同集った。内蔵助も来た。
内蔵助は、念のために、亡君の切りつけたひたいの傷あとをしらべたが、浅手であったためであろう、もはやすっかり消えて見えない。小袖を脱がせて肩先をしらべてみると、ここには歴々たる刀痕があった。一同のよろこびは言うまでもない。うれしさのあまり、号哭《ごうこく》する声が土屋家に聞えたという。これは「義人録」の著者室鳩巣が「鳩巣小説」に書きのこしていることである。彼は土屋主税に会って、このことを聞いたのである。
内蔵助は佩刀《はいとう》をぬいて、吉良のとどめを刺し、間十次郎を呼んで、
「初槍をつけたのは貴殿である。貴殿みしるしを上げられよ」
と命じた。間ははっと答えて、首を打落し、上野介の懐中から守袋二つを取りそえて、内蔵助に呈した。これは故実である。戦場においても、身分高い敵を討取った場合は、佩刀なり、何なり、取りそえて証拠とすることになっているのである。
内蔵助は首を白小袖に包み、捕えておいた足軽に見せると、
「ご隠居様のお首に相違ございません」
という。
内蔵助は、
「武法でござれば、勝鬨《かちどき》しかるべし」
といって、小声で一声だけ勝鬨を上げさせた。
勝鬨を上げるにしても、公儀の掟を破っていることなので、小声で上げさせたというところにも、内蔵助の人がらが偲《しの》ばれるが、上野介の首のない遺骸を始末するにも、その寝間に運んで、夜具の中に鄭重に寝せ、邸内を見まわって十分に火の用心をし、原、小野寺、片岡の三人をして土屋家に塀ごしにあいさつさせ、それから引取っているところにも、それはうかがわれる。この時代に完成した武士道とはこういうものだったのだ。つまりは、当時の紳士道なのである。
十一
めざす上野介を討取って、いよいよひきあげにかかったのは、今の六時を少しまわった頃であるから、正味二時間しかかからなかったわけである。
人員の点呼をおこなってみると、四人ほどちょいとした負傷者があるだけで、死者はひとりもない。ただ寺坂吉右衛門がいない。これは逃亡したのであるか、ほかに使命をもって派遣されたのであるか、古来の義士研究家が今もって論議しているところであるが、僕自身の考えをいうと、非逃亡説である。なぜなら、もし、内蔵助が前もって寺坂と諒解《りようかい》していることがないとすれば、ひきあげについてあんなにも注意をはらい、討入心得の中に、負傷者はできるだけ手をかして連れ去ろう、やむを得なければ介錯《かいしやく》してからひきあげようと定めているほどの内蔵助が、ああやすやすと、たった一度の点呼をしただけで引上げるはずはない。必ずや戦死したのではないか、重傷を負うて動けないでいるのではないかとの疑いをもって、周密に邸内をさがさせたに違いないと思う。
逃亡説をとる人は、寺坂は討入の時、すでにいなかったのだ、その証拠は、内蔵助が細川家にあずけられた後、寺坂が主人のように慕い仕えていた吉田忠左衛門、原惣右衛門と、三人連名で寺井玄渓に出した手紙の追って書《がき》に、
「寺坂吉右衛門儀、十四日暁までこれありしところ、かの屋敷へは見え来らず候。かろきものの儀、是非に及ばず候」
とあるのがそれだという。
これは、「かの屋敷」というのを、「吉良邸」と解釈しているからだが、仙石邸と解釈したらどうだろう。この手紙は寺坂が吉良家に討入して応分の働きをして後、どこかへ行った証拠になりはすまいか。
僕は、寺坂は本懐をとげた後、内蔵助と吉田の命を受けて立去ったものと解釈する。
どんな命であったかは、寺坂のそれからの行動が語っている。彼は瑶泉院の許に行って報告し、播州亀山に行って一党の家族に報告し、姫路に行って吉田忠左衛門の遺族に報告し、さらに広島に行って浅野大学に報告している。これを信ずべきであると思う。逃亡者がこんなにまで忠実にやるはずはない。
彼はまた義士処刑のことを聞くと、江戸にはせかえって内蔵助からの命令によって、やむなく立退いたものだが、元来一味のものであるから、同じように切腹をたまわりたいと自首して出ている。
彼はついに処刑されなかったが、その後の彼の行動は更に誠実である。吉田家の娘聟である伊藤家に仕えて、次第に零落《れいらく》して行く伊藤家に十二年の長い間忠実に仕えている。
歴史上のこういうことの決定は、論理の構成では決定しない。提出される文献《ぶんけん》は、どうにでも解釈されるからである。詮じつめたところは、信ずるか信じないかに帰着する。
僕は寺坂の逃亡説を信じない。ある任務を帯びて派遣されたと信ずる。寺坂の後半生の行状によって、その人物の誠実さを信ずるが故に。
では、なぜ、細川家の堀内伝右衛門が、寺坂のことを吉田忠左衛門に聞いた時、吉田が、
「この者は不届者にござ候。重ねては名も仰せ出され下されまじく候」
と答えたかという疑問がのこるが、ぼくは、これは吉田が寺坂の生命を助けてやるために、わざとこんなことを言ったのだと解釈する。
さて、点呼がすむと、予定の通り、一党は回向院《えこういん》へむかったが、回向院はまだ寝ている。たたきおこして事情をはなして、休息のため暫時《ざんじ》寺内をかしてくれとたのんだが、住職はふるえあがって、
「せっかくのお頼みながら、おかし申すわけにまいりませぬ」
と、ことわった。仏《ほとけ》は慈悲《じひ》を本願とするのだ。よし、仇敵なればとて、情《なさけ》を乞うてきたらこれを救うのが僧たる者の道であって、そうした行為はいつの時代でも認容《にんよう》されることであるのに、この坊主はよほどの腰ぬけだったと見えて、いっかな承知しない。しかたがない。門外にたたずんだまま、吉良家の追手《おつて》、上杉家の討手がかかるのを待つことにしたが、いずれからもそれがくる様子はなかった。
「さらば泉岳寺へ」
ということになった。「波賀朝栄《はがともひで》覚書《おぼえがき》」によると、両国橋の袂《たもと》でも討手を待ったが、やはり来ないので、船で泉岳寺へ行こうとしたが、船をかす者がない。それで、やむなく陸路をとることになったという。これはそうあるべきである。好んで上杉勢やお公儀の討手と戦うことはないのである。「できるなら上野介の首を泉岳寺にもって行って亡君の墓前にそなえるのだ」と討入心得書にも書いているほどだから、危険の少ない海路をとることができれば、その方がよいのである。
この日は十五日の式日である。諸大名、旗本等の登城が多い。それで、本通りをさけて行くことにした。ちゃんと、行列をこしらえてである。赤穂浪人討入の噂は早くも江戸中にひろがっていて、彼等の通路の両側はもう大へんな人出である。このはれがましい舞台で、内蔵助が苦心に苦心を重ねた|しあげ《ヽヽヽ》は堂々と行われたのである。
汐留《しおどめ》橋へんにかかった頃、内蔵助は、吉田忠左衛門と富森助右衛門とを、自首するために、大目付《おおめつけ》仙石|伯耆《ほうき》守の屋敷につかわした。
道筋にあたる武家屋敷で数ヵ所とがめられたが、なにごともなく泉岳寺についた。高田郡兵衛と出会ったことは前にのべた通りである。
泉岳寺は、浅野家の菩提《ぼだい》寺でもあり、住職の長恩《ちようおん》和尚というのがなかなかの傑僧で、墓前に焼香の用意もしてくれたし、それがすんでからの接待などもいたれりつくせりであった。寺僧等のもとめに応じて、浪士等は詩や歌を書いてやったが、内蔵助も自作の歌を書いた。
あら楽し思ひははるる身はすつる
憂世《うきよ》の月にかかる雲なし
まことにそうであろうと思われる。
十二
吉田忠左衛門と富森助右衛門が仙石邸へ訴え出た時|伯耆《ほうきの》守《かみ》は登城前であったが、快くふたりを引見して、しさいに訴えを聞き、
「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬《ゆづけ》をまいれ」
と、家来に命じて、屋敷を出て、月番老中《つきばんろうじゆう》稲葉丹後守の屋敷に行って相談の上、登城して、他の老中衆、若年寄衆にことのあらましをつげた。間もなく、寺社奉行から泉岳寺からの報告もくる。
幕閣の浪士等にたいする感情はまことに好意にみちたものだった。一人として逃げかくれしないで、おとなしく泉岳寺にひかえて公命を待っているという彼等の神妙な態度も好感をいだかせたにちがいないし、また昨年の不公平な裁判がこれで訂正されたという安堵《あんど》感もあったにちがいないが、なによりも、浪士等の忠烈がその心を動かしたのである。
「御当代にいたり、かかる忠節の士を出したること、昌代《しようだい》のしるしと存ずる」
と、老中筆頭の阿部豊後守政武《あべぶんごのかみまさたけ》がほめると、皆、これに同意するありさまだった。うちそろって、将軍の前に出て、報告すると、綱吉も感激ひとかたでなく、
「あっぱれなる者共よな」
と、感嘆した。豊後守はここぞとばかり、
「この一挙は前代|未聞《みもん》のことでござりますれば、一時大名あずけとして十分の御詮議《ごせんぎ》をとげさせられた上、御処分あってしかるべしと存じまする」
といった。昨年の松の廊下の裁判の軽率さを皮肉られたような気がしたろうが、感激にゆすぶられている綱吉は、きげんよくこれをゆるした。
いったいこうして人を殺害したものを大名あずけにするというのは、陪臣《ばいしん》のあつかいをしていないのである。大名、旗本のあつかいをしているわけなのだ。閣老や将軍が、いかに感動していたかがわかるのである。
ここで、綱吉が感激するのはおかしいような気がする。事件の種はほかならない彼がまいたのである。綱吉のやりかたは、自分で火をつけてあおり立てておいて、それをみごとに消したからといってほめているようなもので、まるで無茶苦茶である。松の廊下事件をさばいたような理づめな考えかたで行けば浪士等の行為ははなはだ不埒《ふらち》なものとしなければならない。内匠頭を殺したのは公儀の裁判なのだから、彼等の行為は、公儀の裁判にたいして異議を申し立て、暴力を以てこれをおのれの欲するかたちにねじまげたのである。不届者共が! と嚇怒《かくど》しなければならないところである。だのに、他愛もなくまいっている。
これは、いったいどういうわけか?
ほかでもない。浪士等のやりかたがあまりにもみごとだったからだ。情《じよう》をつくし、理《り》をつくして、一点の非のうちどころもない内蔵助のやりかたが、綱吉の執拗《しつよう》な理窟を圧倒しきって、ただ感嘆のほかはなからしめたのだ。思えば、忍苦《にんく》にみちた戦いではあったが、内蔵助はついに勝ったのである。小藩五万石の田舎家老が天下の大将軍に勝ったのである。
浪士らは、その夜、仙石家へ連れて行かれ、そこから四家の大名に預けられた。十七人を熊本の細川家、十人を伊予松山の松平家、十人を長州|長府《ちようふ》の毛利家、九人を三州岡崎の水野家へというふりあてであった。
十三
一般民衆は、一人のこらずといっていいくらい浪士等をほめた。そして、その寛典《かんてん》(ゆるやかなおきて)に処せられんことをいのった。が、学者の間では、民衆ほど感情的でないだけに、そう簡単には行かない。ほめるものあり、けなすものあり、それぞれに理論を展開して、はなばなしい論戦が展開された。学者のこうした理窟の多さを、僕はけなすつもりはない。学者に理窟の多いのは、真理追求の意欲がさかんであるためで、そうあってこそ、一世の木鐸《ぼくたく》として民衆を教化《きようか》して行くことができるので、民衆に附和雷同《ふわらいどう》することを以て足れりとするような学者は、曲学阿世《きよくがくあせい》の徒で、学者たるの資格のないものだと思う。しかし、理窟が単なる理窟――一種の屁理窟《へりくつ》におわるようでは、感情一本槍の行きかたと同じである。真理――義はいずれの手をもするりとぬけるのである。真理――義は、情と理との黄金律《おうごんりつ》の切所《せつしよ》にある。
赤穂浪士の挙についてなされた学者らの批評のうちこれをけなす側に立つ者は、ひとりのこらず偏理論者《へんりろんしや》である。
まず、荻生《おぎゆう》徂徠《そらい》がこういっている。
「夫《そ》れ長矩、義央《よしなか》を殺さんと欲せしなり。義央、長矩を殺さんとせしに非ず。君の仇といふべからざるなり。赤穂侯、義央を殺さんと欲するによつて国亡ぶ。義央赤穂を滅ぼせしにあらざるなり。君の仇と謂ふべけんや」
内匠頭は自業自得《じごうじとく》で身死し国ほろんだのであるから吉良を仇とするなど見当ちがいだという議論である。この論理は現代人には容易に受けいれられそうである。しかし、武士道というものはそういうものでない。理非を問わず、君父の敵はこれを討つのが武士道なのである。そういう道徳によって、当時の社会はささえられていたのである。それだけでなく、内匠頭の怨念《おんねん》は吉良にとどまっているのである。吉良が仇でないとどうしていえよう。現実を忘れ、感情を忘れ、ひたすらに理論にはせる弊である。
もっとも、この説を、後に徂徠はあらためている。それは後にのべる。
太宰春台《だざいしゆんだい》にいたってはもっとおかしい。
「赤穂侯、小忿《せうふん》にたへず、廷《てい》に吉良子《きらし》を傷く。赤穂侯是れ大不敬なり。身死し、国除かるといへども、それ自ら取る所なり。吉良子、豈《あ》に赤穂侯の仇ならんや。良雄等すなはち吉良子を仇《あだ》とす。何ぞそれ謬《あやま》れるや。夫れ赤穂侯の死は吉良子これを殺すにあらず。即ち吉良子は赤穂侯の仇にあらざるや審《あきら》かなり。赤穂侯、廷に吉良子を傷く。而して、上《じやう》、之に死を賜りて、後を立つることを為《な》さず。則ち刑たる過当《くわたう》なり。嚮《さき》に良雄等をして赤穂城に拠り、以て固くその君のために後の立つことを請はしめ、報《はう》を得れば則ち已《や》み、然らずんば、城を背《せ》にして使者と一戦し、兵|尽《つ》き窮《きはま》り、然る後に火を縦《はな》ち、身、城とともに焚《や》かしめば、何の不可かこれあらん。良雄等、ここに出づるを知らず、手を拱《きよう》して使者に城を授く。惑《まど》へるかな。後に吉良子を攻殺《こうさつ》すといへども、則ちその仇にあらざるを仇とす。妬婦《とふ》の情に類せずや」
徂徠の説から出発して、幕府の浅野家にたいする処分が行きすぎであったことはたしかだから、うらむなら幕府をうらんで籠城《ろうじよう》して官軍と戦うべきであった。ところが、ここに出ないで、見当ちがいの吉良を斬るなど、女のやきもちみたいなものだ、というのである。
春台ともあろう学者が、静平《せいへい》の地に戦乱を起すことを道にかなったことと思っていたのであろうか。また内匠頭の鬱憤《うつぷん》がどこにあったと思っているのであろうか。理論の組み立てばかりに夢中になって、広く深く考えない僻論《へきろん》である。
山崎闇斎門下の三傑である佐藤|直方《なおかた》が、ほぼ徂徠と同じ僻論を吐いているのは意外である。
「それ、四十六人の者、上野介を君の讐《あだ》として、君父の讐はともに天をいただかずの語を引く。これ大いに非なり。上野介は彼等が讐にあらず。上野介が内匠頭を害したらば、讐といふべし。内匠頭、私の怨恨によつて上野介を討ち、大法に背くによつて、内匠頭は上より死刑に行はる。何の讐といふべけんや」
伊藤仁斎の門人で長沢純平という者が、
「予、赤穂に仕へざりしは大幸なり。仕へたりとも、大石如き不義の振舞をば必ずなすべからず」
といったということが「閑散余筆《かんさんよひつ》」という随筆集に出ている。なぜ大石が不義なのか、簡単でわからないが、おそらく徂徠等のような考えかたからなのであろう。
これらの貶論《へんろん》(けなす論)にたいして、ほめている側はもっと盛んである。大学頭《だいがくのかみ》林|鳳岡《ほうこう》、室鳩巣《むろきゆうそう》、伊藤|東涯《とうがい》、藤井|懶斎《らんさい》、三宅|観瀾《かんらん》、栗山|潜鋒《せんぽう》、安積澹泊《あさかたんぱく》、浅見|絅斎《けいさい》などという人はみなこれを讃美した。
浅見絅斎はこういっている。
「吾が君父、人を打ち損じ、そのために命を害せられ、相手はすけすけと生きてゐるを、臣子たる者、こなたの君父の不調法ゆゑとて、脇よりながめゐるを忠臣義士とて禄を与へ召し使ふこと、なんの用に立つべきやらん。平生君臣の吟味に存じよらざることなり」
簡にして最も明快、一言にして金的《きんてき》を射ぬいている。さすがに、後世維新志士に熟読せられて、気節を尚ぶの精神を涵養《かんよう》させた「靖献遺言《せいけんいげん》」の著者である。
伊藤東涯は別に議論は立てていないが「義士行」という長詩一篇をつくってこれを讃美している。
林鳳岡にも讃美の詩がある。
室鳩巣は「義人録」を作ったほど傾倒した。
三宅観瀾は、その著「烈士報讐録《れつしほうしゆうろく》」でこういっている。
「蓋《けだ》し良雄の心を為す所以《ゆゑん》、之を遺言《ゆゐごん》に観るも、|※[#「析/日」]然《せきぜん》として見るべし。而《しかう》して城を致すの道欠くるなく、而して法を奉ずるの敬、未だ嘗て存せずんばあらず。命を公儀に委《ゆだ》ねて、而して安きを心理にとる。終始曲尽《しゆうしきよくじん》(はじめから終りまでよく行きとどいて)従容《しようよう》として余りある者、固より夫の|※[#「石+磨v]|※[#「石+磨v]《かうかう》として気を好み、これを一旦に決激《けつげき》し、而して之を為すものの比にあらざるなり。ああ、武人の風を成す。今に五百年。涵濡淬礪《かんじゆさいれい》の余《よ》、つひに四十有六人を待つて発す。沛乎《はいこ》として江河率《かうかひき》ゐ去り、赫乎《かくこ》として日星《じつせい》ならびかかる云々」
さすがに、水戸史学の大家の説である。観念論にはしらず、しっかりとした事実を土台にして論を立てている。
以上、これらの褒貶《ほうへん》の論は、大部分は浪士等の死後になされたものであるが、死後においてさえこれほど盛んだったのだから、その処分がまだ確定しない以前においては一層盛んであったろうことは容易に想像される。事実、林|鳳岡《ほうこう》などは、大学頭《だいがくのかみ》という地位を利用して、助命運動をしたほどである。
それだけに、将軍も裁断にこまっていると、柳沢吉保の手を通じて、荻生徂徠が意見書をたてまつった。
「義は己《おのれ》を潔《いさぎよ》くするの道にして、法は天下の規矩《きく》なり。それ、四十六士の徒《と》、その主のために仇を報ずるは、これ臣たる者の恥を知る所なり。己を潔くするの道は、その事は義なりといへども、その党にかぎることなれば、畢竟《ひつきやう》私《わたくし》の論なり。しかる所以《ゆゑん》のものは、もとこれ長矩殿中をも憚《はばか》らず刃傷に及びし故にて、すでにその罪に処せられしを、又候《またぞろ》吉良氏を以て仇とし、公儀の免許もなきに、みだりに騒動を企つること、これ法において許さざる所なり。よつて、今四十六士の罪を決せしめ、士の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願ひもむなしからずして、かれらが忠義をも軽《かろ》んぜざるの道理。もつとも公論といふべし。もし私論を以て公論を害せば、この以後天下の法は立つべからず」
つまり、情においては嘉《よみ》すべきも、法理の上では免《ゆる》すことはできない。情にからまれて法律を曲げると、世の乱れのもととなる。つまり、道徳的には立派な連中だが、法律的には罪人である。だから、優遇して切腹の処分にすれば、情理ともに立つ、という議論である。
さすがに江戸時代を通じて第一の大学者といわれるほどの徂徠である。情に偏せず、理に偏せず、堂々たる論である。しかも、徂徠は学問ずきの綱吉が、最も尊敬していた学者である。徂徠が柳沢家へつかえた時、綱吉は、吉保にむかって、徂徠はお前の家の眉目《びもく》(かざり)となるほどの学者だから、大事にしろよと、とくに口添えしたほどだったのである。将軍の意はついにこれに決した。
それでも、綱吉は助けられるものならば助けたいと思ったらしく、こんなはなしが伝わっている。
当時、日光の御門主《ごもんしゆ》(住職)でいらせられた公弁《こうべん》法親王が、綱吉の許においでになった時、綱吉は法親王にむかって、こう申しあげた。
「天下の政治をとる身ほど苦しいことはございません。赤穂の浪人共、その忠誠、義烈、世にたぐいなき者共であります故、なんとかして助けてやりたいとは思いますが、助くれば政道が立たず、心苦しいことでございます」
法親王は、
「いかにも御苦心のほど察します」
とだけ仰せられて退出されたが、上野におかえりになってから、近侍の者に、
「まろは今日ほど苦しい思いをしたことはない。将軍はまろにたいして、いのち乞いしてくれと謎をかけなされたのだ。それは重々わかっていたが、四十余人の者のなかにはまだ血気定まらぬ壮年の者も少なくないと聞く。今救って、後年、万が一にも間違いをしでかすようなことがあっては、かえって慈悲でないと思ったので、謎がとけぬふりでかえってまいった」
と云われたという。誰よりも、最も浪士等を愛したもうた大慈悲と申しあぐべきであろう。
こうした場合、我々が問題にしなければならないのは、このようにして一旦|輿論《よろん》が定まると、それが暴力的になってくることだ。義士等をほめるために、吉良家側を一から十まで悪意を以て見ることだ。こういうことは、いつの時代、何事に対してもあることで、その弊害は実におそろしい。吉良は不運だったにすぎないのである。極悪人のように言うのは間違っている。
十四
二月四日、公命下って、内蔵助はじめ四十六人、それぞれのおあずけ先において死を賜わった。この上命を伝えた後で、上使は、吉良家が領地召上げとなって左兵衛は信州|諏訪《すわ》家《け》におあずけと決定したということを知らせてくれた。
いかばかり、内蔵助がうれしかったことか! 勝利は今は完全となったのである。
細川家の付人《つけびと》のなかで、もっとも浪士等を崇拝し、かつこれに親炙《しんしや》していた堀内源右衛門が、内蔵助にたいして遺言を乞うた時、内蔵助は、
「この夏には定めてお供をして御帰国なさるでござろうが、途中、もし八幡をお通りの時には、大西坊に今日の仰せわたしと、天気もよく死についたことをおはなしくだされよ。そうすれば豊岡の次男の方へも通ずるでござろう」
とだけいった。まことに、はればれと、その日の天気のごとく、彼は死んだのである。
他の浪士等もまた同じ心で死んだろう。
義士等のこの挙が就職運動のためであったと解釈する人は当時からあり、その後もあり、現代ではさらに多い。
当時の人としては、太宰春台がそうだ。春台は「四十六士論」の中で、こう言っている。
「仇を討ってしまったなら、すぐ切腹してしまえばよいのだ。お上《かみ》に自首して出たりなどしたのは、切腹を命ぜられても|もともと《ヽヽヽヽ》だし、万一にも助命でもされたら、名誉ある士として仕官《しかん》の口にありつけると思ったのだ」
春台にはついに内蔵助の目的が単なる仇討にあるのではなく、将軍によって蹂躙《じゆうりん》せられた正義を打ち立てるにあったということがわからなかったのである。
現在まで発見された義士に関する信用すべき史料の上からは、どう考えまわして見ても、彼等が就職運動のために一挙を企てたという結論は出て来ない。内蔵助には内蔵助の目的があり、堀部等には堀部等の目的があり、片岡等には片岡等の目的があったには相違ないが、それはそれなりにそれぞれ純粋なものであったと、ぼくは断言する。柄《え》のない所に柄をすげて、人の行為に悪を見ようとするのは、根性がいやしいのである。
もっとも、一挙後、四家に預けられてからは、心を動揺させた者があったかも知れない。彼等の評判はおそろしくよかった。ほとんど半神的忠臣と思われた。四家の待遇も鄭重をきわめた。助命運動がしきりに行われた。細川侯などは、もし赦免《しやめん》になったら、自分の屋敷にあずかった十七人を全部召しかかえたいと言い、その時十七人にくれる大小の刀を準備したほどである。
こんな空気の中にいれば、年若い連中の中には、
「あるいは……」
という気が動くことがあったかも知れない。「堀内覚書」の中にある、切腹前夜の若い義士等のはしゃぎようは、彼等の心が動揺したことを物語っている。細川侯の謎によって、ついに死が宣告され、明日が切腹の日であると悟った若い人々は、堀内を呼びこんで、
「我々もやがて埒《らち》が明きましょうから、今夜はお暇乞いに面々の芸づくしをごらんに入れましょう」
といって、ほかの番人衆に見えないように枕屏風を立てまわして、そのかげで堺町《さかいまち》の踊り狂言の真似をしてさわいだという。
このはしゃぎは、彼等の意識下の期待が裏切られたことがショックとなり、そのショックから立直った時一つの反動として出たものと解釈してよいかと思う。
しかし、これをしも責めるのは、刻薄無残《こくはくむざん》であろう。二十台や三十台で、人間はそう出来た人格になれるものではない。内蔵助等老年の人々は別だが、若い人々はその志こそ純粋であったが、煩悩具足《ぼんのうぐそく》の凡人にすぎなかったのである。
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赤穂義士関係書目解題
赤穂義士に関する資料は実に多い。文字通りに汗牛充棟だ。しかし、子細にふるいわけてみると、大体左記につきる。
◇義人纂書
国書刊行会本で三部。これは磐城平の藩士鍋田晶山が生涯かかって集めたもので、幕末頃までに発見されたものは、根本資料といわず、研究書といわず、皆入っている。しかし、真偽を問わず入れこんであるから、ふるいわける必要がある。
◇赤穂義士資料
中央義士会編纂で二部。根本資料だけを集めたもので、義人纂書以後現在までに発見されたものは全部収められている。信用すべきものだけである。
明治以後、まとまった義士伝として出たものも、また実に多数あるが、一番まとまってもいれば、信用してもよいのは、
◇元禄快挙真相録
福本日南氏の著である。義士研究は、この書の出現によって一時期が劃されたといってよいほどの名著だ。しかし、間々資料の読みちがいもあれば、解釈ちがいもある。日南氏には別に「元禄快挙録」があり、この方が有名だが、実質は遠く真相録に及ばない。
◇真説赤穂義士録
赤穂の人内海定治郎氏の著。日南氏の時代にはまだ発見されていなかった資料も使い、今日までの義士伝では、これが最も完備している。特に経済面の研究は従来ない所である。叙述の文章もまた客観的精厳さがあって、日南氏の文章が主観的であるのとよき対照をなしている。
以上の二著に、小著ながらぼくのこの「赤穂義士伝」を加えれば、赤穂義士の真相の大体を髣髴することが出来ようか。
原題「大石良雄」で昭和一九年三月潮文閣刊。戦後、改題。
底本 一九七四年一一月刊行の講談社文庫版。なお、講談社文庫版巻末所載の「義士の身分と一挙の時の年齢」「浅野内匠頭分限牒」は割愛いたしました。
外字置き換え
※[#二の字点]→々