海音寺潮五郎
江戸城大奥列伝
目 次
御側御用人と大奥
春日の局の威力
お万の方旋風
矢島の局の明暗
桂昌院の栄達
お伝の方と右衛門佐の局
桂昌院の信仰
悪法の背景
北の丸殿の登場
御台所の博識
左京の方の提言
堂上家の隆盛
絵島のとりなし
内政と外交に関する白書
大奥を巻き込む訴訟
大奥女中の影響力
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御側御用人と大奥
徳川幕府の政務は、大老、老中が統轄《とうかつ》し、それを将軍が主裁したことになっているが、内実は必ずしもそうでなかった時代が時々あった。
老中の次席、若年寄《わかどしより》の上座に御側御用人《おそばごようにん》というものがあった。ふだん将軍の左右に侍《はべ》り、下命や言上を取次ぐ役目であるが、これが中々の権勢を得て、大老や老中以上の力のあった時代がある。
将軍への言路《げんろ》であり、下命の取りつぎ役であるから、そのとりなし如何によっては、政治上のことばかりでなく、将軍の人物観まで変って、老中、若年寄はおろか、大老さえ、将軍の不興をこうむって、御役御免《おやくごめん》、減封《げんぽう》、転封《てんぽう》、隠居《いんきよ》、蟄居《ちつきよ》などの処分を、仰せつかるのだ。
しぜん幕閣の人々は、御側御用人のかくれた権力を怖れて、ひたすら、これに取入ることを努《つと》めるようになった。
貞享《じようきよう》・元禄《げんろく》の柳沢|保明《やすあき》。明和《めいわ》・安永《あんえい》の田沼|意次《おきつぐ》。文政《ぶんせい》・天保《てんぽう》の水野|忠成《ただあきら》。
これらはいずれも、御側御用人から出頭《しゆつとう》して、老中、大老と進み、しかもかつて御側御用人であった時代と同様、将軍に近侍《きんじ》して、権力を握りつづけた。
ところが、ここに、この御側御用人にして、なおかつ、心中ひそかに畏怖《いふ》したものがあった。大奥の女中等であった。
表《おもて》における将軍と同じように、大奥は将軍の正妻である御台所《みだいどころ》が万事を主宰している。
幕府は、成立のはじめから、制令《せいれい》によって、女子が政治に介入《かいにゆう》することを堅く禁じていた。御台所もこれを淑徳として、深く自戒《じかい》していたようで、各時代を通じて御台所が政治に介入した事実はない。
問題は御台所以外の女性なのであるが、これも本来は、たとえば、御台所|御附《おつき》の上臈《じようろう》、中臈《ちゆうろう》と呼ばれる女性等は、召使われる多勢の女中等に対する支配権はあっても、その勢力は、大奥だけに限られたものであった。彼女等は、自ら「御清《おきよ》」と称して、将軍の夜伽《よとぎ》に侍《はべ》らないことに誇りを持っていた。もっとも、これは、自らを慰めるはかない自負心と解釈してよいかも知れない。
将軍御附の中臈は、大奥内では、きわめて冷遇されていた。長局《ながつぼね》に部屋を構えることさえ許されていなかった。上臈や御年寄《おとしより》などの内に合部屋をさせられ、その監督を受けていたのであった。
もっとも、実際には同居していたのではなく、別に、ちゃんと居間や休息所を持っていたのだが、名義上は、どこまでもその部屋子の扱いであった。日陰者《ひかげもの》扱いであったわけだ。
ついでだから、上臈と御年寄のことを簡単に説明すると、上臈とは、御台所の介添役《かいぞえやく》で、多くは、堂上家《どうじようけ》の姫君たち、御年寄は、多くは旗本の娘、表の若年寄に相当し、大奥内の政務を統《す》べていた。
さて、将軍御附中臈は、上述の通り日陰者扱いを受けてはいたが、日夜親しく将軍の身辺に仕えているのだから、将軍の寵愛《ちようあい》が加わると、大奥に対してはもちろんのこと、表に対しても中々の力を持って来ることは自然の勢いであった。
御附中臈が、将軍の寵愛を得るのは、第一にはもちろん容色であるが、他にも、将軍の心を捉える条件がある。
一つは、その監督者である合部屋の主が、将軍の乳人《めのと》であるとか、将軍の幼少の頃から侍従《じじゆう》してきた人であるとかの場合だ。将軍の気質、食物、衣服などの嗜好を、すみずみまで知りつくしていて、その機嫌《きげん》のとり方まで御附中臈に教え込むため、諸事万端が御意《ぎよい》にかなって、将軍の心をとりこにし得るわけだ。
二つには、容色と共に才芸を兼ねた場合。
これにあてはまるのは、多くは堂上家出身の姫君たちで、宴席《えんせき》や枕席《ちんせき》ばかりでなく、文芸、囲碁《いご》、双六《すごろく》、能楽《のうがく》などの遊芸の御相手を巧みに勤めて、将軍の寵を増し得たのである。
御附中臈が、もし世子《せいし》でも生んだとすると、その子は御台所の御|養《やしな》いと表向きに披露《ひろう》されるが、生母も、御部屋様とあがめられ、御台所につぐ待遇を受け、御三家をはじめ諸大名から、なみなみならず崇敬《すうけい》された。
将軍の寵愛を鍾《あつ》めるようになった中臈が、次第に、あるいは自ら権勢欲をもつようになり、あるいは権勢|亡者《もうじや》どものそそのかすところとなるのは、きわめて普通のことであろう。そうなると寝物語にことよせて、役人の私行、政治の批判、市中の評判など、聞き込んだことを、やんわりと持ちかけるわけだ。
よほどの人物でないかぎり、愛する者にこんな時に話されて心を動かさないというわけに行かない。まして、徳川十五代の将軍中傑物というほどの人物はそういない。多くは世間知らずの褒《ほ》められ阿呆だ。かえって刺戟《しげき》され、気負って耳をかし、一国の政務を統べる将軍たるの立場を妙に自覚し、いちいちお取上げとなるという次第。
さすがの御側御用人も、これにはほとほと閉口して、この女性共と提携《ていけい》するのに苦心している。
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春日の局の威力
乳人志願
三代将軍家光の時代に、大奥に対してはもとより、表に対しても、強い勢力をふるっていた女性は春日《かすが》の局《つぼね》である。
春日の局は、美濃《みの》の土岐氏の一族で、明智光秀に仕えて、勇将の名の高かった斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》の娘だ。名はお福、小早川秀秋の家臣、稲葉|佐渡守《さどのかみ》正成《まさなり》の後妻となった。
夫との間に、正勝、正定、岩松、正利と、男子ばかり四人生んだ。このうち、岩松は幼くして死んだ。
関ケ原合戦がすむと間もなく、稲葉正成は主君秀秋と衝突して、備前国《びぜんのくに》岡山の城下を退散して、美濃の谷口で、昨日に変るわびしい浪人ぐらしとなった。小早川家に仕えていた時の正成は、五万石の大身であったが、浪人してみると、かえってもとの知行《ちぎよう》がわざわいして、主取りもはかばかしくない。その当時、五万石をポンと出せるような大名は、先ずなかった。そんな時、お福は、娘時代に奉公したことのある三条西右大臣|実条《さねえだ》の北の方から、耳よりな話を聞かされた。時の将軍二代秀忠に、世子竹千代が生れ、若君附の乳人《めのと》を探しているという。飛び立つ思いで、早速、北の方の夫君実条の添書《そえがき》を貰って、京都|所司代《しよしだい》板倉|伊賀守《いがのかみ》勝重《かつしげ》に面会した。
斎藤利三の娘、稲葉正成の妻という素姓《すじよう》は、将来の将軍の乳人として申分がなかった。所司代は大いに喜んだが、乳人に上れば、当然、夫と離婚しなければならない。はたして、夫の正成が、それを承知するだろうかと危ぶんだ。
お福は、子供たちの将来を理由にして、正成を説いて、正式に離婚して貰い、子供をつれて江戸へ下った。
一説によると、お福は正成が自分の家に召し使っていた婢女に手をつけたのを怒って、その婢女を斬って京都に飛び出して来ている間に、この乳人募集を聞きこんだというが、どうやら実説らしい。
秀忠には、つづいて次子国松が生れた。すると秀忠夫妻は、どういうものか国松を偏愛《へんあい》して、とかく竹千代を粗略《そりやく》に扱いはじめた。
お福は心配のあまり、伊勢参宮と称して江戸を出て、当時、まだ駿府に存命していた大御所家康の許へ行って、事情を訴えた。
この時、家康は中々味のある処置のつけ方をしている。
「女が何を言うか」
と叱ってお福を帰した後、何ということなく、ふらりと江戸に出て、
「久しぶりに孫共の顔を見たくなったから出て来た。一緒に飯を食おう」
と言った。役人共は家康の前に竹千代と国松の膳を並べて坐らせた。すると、家康は、
「竹千代殿はここでよろしいが、国松は下段へ退れ」
と、下段の間に退げて食事をおわり、そのあとで、
「竹千代殿はやがて将軍になるお人、国松は弟とは言いながら臣列に連る者である。幼い時から区別して育てねば、将来間違いのおこるもとになる」
と言ったのだ。
大御所家康の意志は、いかんともしがたい。以後は竹千代も大事にされ、やがて成長して、三代将軍家光となった。
弟の国松の方は、祖父家康の跡を貰って、駿河大納言《するがだいなごん》忠長《ただなが》となったが、素行おさまらず、のちに、城地を召上げられたあげく、詰腹《つめばら》を切らされて、みじめな最期をとげてしまった。
父母の愛を受くること薄かった家光にとって、お福の母性的愛情はこの上なくうれしいものであったろう。その上、こうして自分の地位をも確立してくれたのだ。家光がお福をその死に至るまで大事にしたことは非常なものであった。身分こそ君臣であったが、情は孝子の母に対するようであった。お福の権勢が大奥全体を蔽うようになったことは、当然の帰結であった。
しかし、お福は、生れつき賢明な女性であったから、私情にまどわされることはなかった。公平仁慈の日常を、ごくつつましやかに送った。
大奥内の規律の大半は、この当時、お福によって制定されたものである。彼女も、時には、かなり派手に政治の表面に動いたこともあったが、彼女の場合、それはあくまでも君家万世の一念から出た熱情のためであり、将軍の乳人としての純粋な母性愛の発露と見るべきであろう。
伸びる干渉
寛永六年、後水尾《ごみずのお》天皇は、ふだんから帰依しておられた大徳寺と妙心寺の僧侶に、紫衣《しえ》出世のことを勅許された。
五山僧録司であった金地院崇伝《こんちいんすうでん》は、このたびの勅許が、年齢や閲歴《えつれき》を無視した依怙《えこ》ヒイキによるものであるとして、不満を強く幕府に訴えた。
幕府は、諸家法度《しよけはつと》の制条に背くものとして、早速それらの僧侶から紫衣を剥奪《はくだつ》し、さらに遠流《おんる》の刑に処した。
数十通の綸旨《りんじ》が、一片の反古《ほご》紙と化してしまったわけだ。逆鱗《げきりん》された後水尾天皇は、俄然、皇弟|好仁親王《よしひとしんのう》に譲位の旨を仰せ出された。
京都所司代板倉|重宗《しげむね》の急報によって、このことを知った幕府は、お福に内意を含めて、伊勢参宮、清水寺参詣などの名目をつけて上洛させた。
後水尾天皇が幕府の専横を憤るあまり、このたびの挙《きよ》に出られたのは、なかなかの御遠謀があった。
帝《みかど》の中宮《ちゆうぐう》東福門院《とうふくもんいん》は、秀忠の娘和子だ。その腹に生憎《あいに》く皇女一人しかない。徳川氏の縁につながる皇男子がないのを幸いに、皇弟好仁親王へ譲位を思い立たれたわけである。つまり、徳川氏が和子を中宮に入れ、あわよくば、朝廷と幕府とを一族で独占しようとする計画の裏を、まんまとかいてみせられたわけであった。
売った喧嘩ながら、幕府もこう手際よくいなされると、黙って引っ込んではいられない。同じ譲位されるなら、少々の無理はあっても、東福門院の所生である一宮《いちのみや》に譲位していただきたい。だから、お福の上洛は、親しく参内《さんだい》し、帝の御憤懣《ごふんまん》の程度や、中宮との御交情の様子などをさぐって、幕府の意向に添った善後策を、板倉重宗と相談するようにとの内命が含まれていたわけであった。
お福は、幕府大奥の実権者ではあるが、朝廷から見れば、無位無官のものにすぎない。そんなものが、参内し、親しく竜顔《りゆうがん》を拝するなど、かつて例のないことである上に、幕府側のとった処置に対して、朝廷に反感が燃え上っている折でもある。とうてい許さるべきことではなかった。
しかし、お福はあくまでもねばって、参内を強請してやまず、どうしても許されないとならば、幕府の権力に訴えても参内しかねまじき態度を見せた。
朝廷では、関白、伝奏衆《でんそうしゆう》などが寄り合って、たびたび協議を重ねた結果、お福を武家伝奏衆三条西右大臣実条の妹分ということにして、緋《ひ》の袴御免の上、参内を許すことになった。春日の局の名は、この時賜ったのである。春日は、禁中の様子をくわしく視察して、板倉重宗ともこまかな打合せをした上で、ある結論を持って、江戸へ帰った。
やがて、後水尾天皇の譲位は、好仁親王へではなく、一宮に御変更になった。奈良朝の称徳《しようとく》天皇以来九百年を経て、ここにふたたび女帝が立たれたのである。幕府の大きな圧力がかかったためである。
やはり上洛の時のことである。
重要な行事もあらかたすんだある日、春日の局は所司代の板倉|周防守《すおうのかみ》重宗と町奉行|喜多見《きたみ》若狭守《わかさのかみ》重政《しげまさ》との案内で、東山見物へ出かけた。ゆるゆると諸所を見物して廻り、かねて設けの席で、休息した。料理は、山城代官と過書船《かしよぶね》支配とを兼ねていた角倉与一が、特別に吟味して作らせ、持参した。
すると、休息所の前をさらさらと流れている小川で、しゃかしゃかと足を洗っている出家がいた。
局はそれを見かけると、つと座を立って、出家のそばへ歩み寄り、
「さてさて、お久々にお目にかかります」
と、言って、いんぎんに挨拶をした。
すると、出家は、
「おお、まことに久しいのう。この頃、上洛したとのことは聞き及んでいたが、われ等ごとき世捨人は、会うにも及ばぬことと思って、たずねて行きもせざったわの」
と、ひどく横柄《おうへい》な態度だ。
局は、まずまず此方《こなた》へと手を取って座敷へ案内し、かたわらにひかえた板倉重宗に向って、
「周防どのよ、この婆《ばば》が、前かど(以前)御恩を受けた少将様でありますぞよ。ただいまはこの地においでなされば、そなた様など、無沙汰なきよう、よくよく心得ておかれるがようござるぞよ」
といいつけて、あとは水入らずで、つもる話に語りふけった。
その夕べは、東本願寺門主からの招待があって、何度もお迎えの使者がきたが、局は、やがて参る、やがて参る、と返事をさせて、飽きずに物語をつづけ、あたりが暗くなった頃、やっと本願寺へ出向いていったという。
この出家は、元の若狭の国主で、木下若狭少将勝俊、関ケ原役後、隠棲《いんせい》して、木下|長嘯子《ちようしようし》と号し、歌道|三昧《ざんまい》に余生を送った人である。
朝廷に対してさえ、強引に所志を主張し、幕府の重職京都所司代を家来あしらいにするほどの局であったが、旧恩人に対する態度はこうであった。相当ゆかしい性質であったことがわかる。
硬骨漢・青山忠俊の失脚
秀忠は、家光の補導の臣として、竹千代時代から、酒井|雅楽頭《うたのかみ》忠世《ただよ》、土井|大炊頭《おおいのかみ》利勝《としかつ》、青山|伯耆守《ほうきのかみ》忠俊《ただとし》の三人をえらんで附人とした。
なかでも青山伯耆守忠俊は、若年から戦功もあり、方正厳格な性格だったから、自他の行儀に不謹慎なところがあれば、黙って見すぐしなんぞできなかったので、秀忠は特に選んで、直諫《ちよつかん》の役につけたのであった。
育ち盛りの家光はいたずらもはげしく、忠俊にこわ意見されることも多かったので、少年の心には、しぜん、煙ったい存在になっていた。
当時のお気に入りのお小姓に、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、三浦正次、久世広之《くぜひろゆき》、稲葉正勝等がいた。彼等はふだん遊び友達であり、学問、武道もともに励んで、家光同様、春日の局の手塩にかかって教育された人たちばかりである。
堀田正盛は局の養子分であり、稲葉正勝は実子である。
家光が失態をやって、一徹《いつてつ》な忠俊からおキュウをすえられると、家光はよくそれを、この近侍の家臣たちのせいにして逃げを張った。
すると、忠俊の雷のような叱責《しつせき》は、遠慮会釈《えんりよえしやく》もなく近侍の上に落ちる。重々承知して叱られているものの、たび重なると、ついうとましくなって、ひそかに春日の局に訴える。
局もわが子同然の連中のことだから、折をみはからって、それとなく忠俊に、いま少し仮借《かしやく》されるよう、とりなしを頼んだ。それでも忠俊には、さっぱり効き目がなかったばかりか、度重なると、しまいには露骨に顔をしかめ、開きなおって、
「無用な差出口は御容赦下されい」
とケンもほろろに言い放ってしまった。
ついに、春日の局と青山忠俊との間には、感情の悪化がきざしはじめた。
これはすぐ、家光に反映した。一方はむかしから煙ったい存在であり、一方は親とも慕っている局だ。忠俊が御前に伺候しても、家光は、言葉もかけないことさえあるようになった。
老中たちも、かげに局のあるのを知ると、うっかり口をさし挟んではどんなわざわいをこうむるかもしれないと考え、ただはらはらしながら、忠俊の身上を危ぶむばかりであった。
そのころ、秀忠から酒井忠利を使として、酒井|讃岐守《さぬきのかみ》忠勝を青山忠俊の相役《あいやく》仰せつけられる旨を家光へ申入れがあった。
これは、忠俊に独断専横のきらいがあるとして、局あたりから秀忠へ申し送ったため、その計らいであったかもしれなかった。ところが、忠俊はその旨をしかと受けながら、これを家光へ披露《ひろう》しなかった。酒井忠利は気色《けしき》を損じて、
「忠勝めはわれらが子でござるが、大御所よりの仰せとして御使を勤めたるに、これが披露を延引されるは、その意を得ず。かくなる上はわれらが御直《おじき》に言上いたさん」
と、家光の御前へまかり出て、使者の趣きを言上した。
忠俊も、忠利のあとを追って御前へ進み、
「讃岐守こと私の下役に仰せつけられ、有難く存じ奉る」
と、礼を述べた。
かたわらにひかえていた酒井雅楽頭忠世は、これを聞き咎めた。
「それは伯耆守が承り違いでござる。讃岐守は、貴殿の相役仰せつけられたのでござるぞ」
と、語気を荒げて、たしなめた。
忠俊にとって、形勢は次第に好ましくない状態になりつつあった。
春日の局の養子堀田正盛の夫人は、酒井忠勝の娘だ。忠勝が忠俊の相役を仰せつけられたかげに、春日の局の策謀が動いていたろうことは、十分に推察出来るのである。忠俊の不快はますます深まるばかりであり、あえて調停に立とうとする者もなかったので、彼の運命は、今や時間の問題となった。
ある日、忠俊が御前に伺候すると、家光は、当時若い武士たちの間で流行《はや》っていたよしや風という髪かたちにし、両手に鏡を持って、合せ鏡をして見ていた。
忠俊は、カッとした。顔色を変えて側へ詰め寄るや、
「これは何事でござる? かようなことは、賤しい者がいたす由かねて承りいましたるに、何者が申上げてかかることをなさりますか」
と、どなって、いきなり鏡を引ったくると、さっと庭へ投出した。
家光はみるみる真蒼になって、そのまま奥へ入ってしまった。
すぐに、酒井忠勝が奥へ呼ばれた。
家光は怒りに震えながら、
「伯耆守には存ずるところあれば、直ちに下城させよ」
と、申渡した。
つづいて土井利勝、酒井忠世の二人の補導役が呼び寄せられた。
「伯耆守は大御所より仰せつけられたる者なれども、近来何事によらず、権高《けんだか》にふるまい、ついに今日のごとく、臣として君に恥辱《ちじよく》を与えるに立ち至った。これまでは大御所に対し奉り、さしひかえていたが、かく近臣の目前で恥辱を受けながらそれを見逃していては、すなわち将軍の職を汚《けが》し、また遠く国家大乱の基《もとい》ともなる惧《おそ》れがある。この儀を両名は如何に思うぞ」
両人は、思いつめたような主君の御気色《みけしき》に折れ、とりなす術《すべ》もなく、
「仰せ、まことにごもっともでございます」
と、答えるほかはなかった。
「さらば、かの者を厳しく申しつけよ」
ついに忠俊に対する最後の宣告が下ったのである。
土井、酒井の両人は、このことを一応大御所秀忠に伺いを立てた。
秀忠もこのことの次第を諒承《りようしよう》した。
「伯耆守の日頃のふるまいといい、また今日のことといい、将軍家の立腹はもっともと存ずる。早々所領を召上げ配所につかわすべし」
かくて、青山伯耆守忠俊は、武州岩槻五万石を召上げられ、遠州小林の地へ配せられた。そののち、東照宮年回|法会《ほうえ》、御台所、大御所|薨去《こうきよ》などに際して、非常の大赦《たいしや》がたびたび行われたが、忠俊には赦免帰参《しやめんきさん》の恩命はなく、配所に生涯を終えた。
忠俊の死んだ年の九月、春日の局死去の直後、忠俊の嫡子|因幡守《いなばのかみ》宗俊《むねとし》は、御赦《おゆる》しに預り、召出されて、新規三千石を賜り、後に追々登用され、ついに信州小諸に三万石を賜ることになった。春日の局の死の直後に召出されたという所、よく味おうべきである。
面白い話がある。このお召出しの時、宗俊が登城すると、堀田加賀守正盛が来て、側の人に聞いた。
「これは誰でござる」
「青山因幡守宗俊殿でござる。この度御赦免お召出しを蒙って参られたのでござる」
「おお、おお、さては伯耆がせがれか」
すると、宗俊はわきの人に聞いた。
「これは誰でござる」
「堀田加賀守正盛殿でござる」
宗俊は言った。
「さては勘左衛門がせがれか」
時の人は、さすがに硬骨伯耆守殿の子息であると痛快がったという。
家光と三人のおんな
家光には、当時の風尚で美少年趣味があって、女性に興味がなかった。
局は世継ぎの生れないことを心配して、機会あるごとに諫言《かんげん》したが、さっぱり用いられない。一策を案じ、広く美女を探し求めて、自分の部屋子とし、しぜん家光の目にとまるようにした。
ある日のこと、伊勢内宮の社僧|慶光院比丘尼《けいこういんびくに》が、住職|継目《つぎめ》の御礼言上のため江戸へ出府した。慶光院は、伊勢内宮附属の尼寺で、常紫衣《じようしえ》を許された寺格の高い寺である。この比丘尼は、六条|宰相《さいしよう》有純《ありずみ》の娘で、当年十六歳の少女であった。
局は、比丘尼を一目見て、|ろうたけた《ヽヽヽヽヽ》美貌に、すっかり魅《み》せられてしまった。そこで家光に申し出て、比丘尼を江戸に留置き、時期をみはからって還俗《げんぞく》させて、大奥に召出し、お万《まん》の方と名を改め、将軍の御附中臈とし、同時に、大奥総女中の行儀|躾方《しつけかた》を命じた。江戸の大奥もこの頃までは田舎育ちの武家娘ばかりで、行儀作法などなっていなかったのである。
お万の方が御附中臈になると、さしもの家光の美少年癖も、ようやく熄《や》んだ。局はほっと一息ついたが、またまた新しい心配の種にとりつかれた。
お万の方は公卿の娘だ。もしその腹に、世子が生れると、堂上家に外戚《がいせき》の縁を結ばなければならない。これは幕府にとって得策《とくさく》ではない。そこで御典医《ごてんい》と相談して、お万の方が絶対に懐妊《かいにん》しないよう、たえず避妊薬《ひにんやく》を服用させることにした。
お万の方があらわれてくるまでは、お振《ふり》の方が気まぐれな家光のお相手を仰せつかっていた。奥州蒲生家の浪人、岡吉右衛門の娘である。この女の家は武士としては仲々の家柄だ。父の吉右衛門は蒲生家で二千石、祖父の左内貞綱は、蒲生家の重臣として猪苗代城をあずかり、一万石を領した。当時有名な武将であり、外祖父の町野長門守幸長はやはり蒲生家の重臣として二本松城をあずかって四万五千石という大身だ。これほどの武士でも孫娘を妾奉公にさし出すのだから、この面における当時の武士の倫理観も知れたものである。
お振の方は、のちに尾張大納言光友の奥方となった千代姫を生んでいるが、お万の方の出現と同時に、折々の御沙汰もばったりととまったので、何とかしてもう一度|君寵《くんちよう》を取戻そうと日夜心を砕いたが、それには、春日の局の力を借りるより他に、術《て》はない。
局もまた、日増しにお万の方の権勢が高まるのを、いささか苦々しく感じて、遠目で睨《にら》んでいた折だったから、お振の方の申出を二つ返事できいた。別に美人を探し、将軍の心をその方へ惹きつけ、追々君寵を取戻す方法を考えたらよかろうと助言した。
ある時、この二人は、上野寛永寺へ参詣した帰り途、ふと目にとまった少女が、その容姿といい物腰といい、お万の方そっくりなのに驚いた。人をやって、早速少女を大奥に召し寄せ、局の部屋子として、諸事指南していたが、これがお楽の方で、やがて家光の寵を受け、寛永十八年に、男子を生み落した。のちの四代将軍家綱である。
こうして美女をさがして来て男の心をつなぎとめようとするところ、遊女屋そっくりだと、読者も思われるであろう。実際そうなのだ。江戸の大奥史を調べる時、この面が遊女屋に似ていることに驚くのだ。ただ男が将軍一人であるという点だけの相違である。
家光は、男子出生と聞くと、喜びのあまり産室までかけつけて叫んだ。
「その方、若を生みたりとな。でかしたぞ、でかしたぞ」
産婦は起き上って平伏しようとしたが、突然、眩暈《めまい》がして昏倒《こんとう》し、それ以来健康状態がはかばかしくなく、やっと愛欲の味わいを覚えたばかりの家光にとって、もの足りない存在となった。しぜん寵愛も衰えた。
お楽の方の本名はおらん。その実父は上州の百姓で、禁鳥である鶴を撃ったのがバレて死刑にされ、おらんはその母や兄とともに領主永井信濃守の邸に上《あが》りもの(一生奉公の奴隷)となった。その後、かれこれあって解放され良民となったが、おらんが年頃になった時、春日の局の目にふれ、局の許にお端下《はした》奉公に上っているうちに、家光の手がついたのである。色々異説もあるが、彼女が死罪人の子で、かつて奴隷であったことはどの書の説も同じである。
隠密の局
春日の局は、大奥を主裁する実権者である上に、将軍御附の中臈は、いずれもその部屋子であるか、でなければ局の推薦《すいせん》によるものだったから、誰一人その意に逆う者はなかった。大奥全体の賞罰は、全部彼女一人の手に握られ、家光に何か言上する場合でも、御附中臈の口を借りる必要はなく、彼女自身が直接に言上した。
この頃、表の大老は、堀田加賀守正盛が勤めていたが、正盛は局の養子だ。老中酒井讃岐守忠勝は正盛の姻戚《いんせき》、老中稲葉正勝は実子、その他にも、老中、若年寄・御側御用人等の顕職《けんしよく》にある者、たとえば松平信綱、阿部忠秋、阿部重次、太田|資宗《すけむね》、三浦正次、久世広之《くぜひろゆき》等、すべて幼少から彼女の教育を受けた人々であった。
これらの人々は、賢臣の名に背かぬ人たちだったが、それでも局は、いつも綿密に配下に偵察させて、政治上のことはもとより、役人の私行上のことにまで、監督の目を光らせた。彼女はこれをいちいち家光に報告したわけだが、決して私情にとらわれたわけではなく、すべて徳川家のためを思っての報告であった。だから、諸役人は、内外公私とも、万事|慎重謹厳《しんちようきんげん》にならざるを得なかった。寛永の治《ち》と称せられるほどの盛時を招来し得たのは、名君賢相の提携によることは言うまでもないが、春日の局のこの内助の功も大いに与《あずか》っているのだ。
家光が下情に通じていたことは、実に精細をきわめ、諸役人も口をつぐまざるを得ないようなことがしばしばあった。
寛永も半ばを過ぎた頃、旗本に山本権左衛門という者がいた。名代のあばれ者で、見境なしの喧嘩好きで、辻斬の達人で、この男に目ざされたら、助かりっこないといわれていた。
思い上った権左衛門は、ある時、白昼斬取りを働いたので、ついに奉行所に捕らえられてしまった。直参の旗本だから、仕置については、老中から将軍に伺いをたてた。
すると家光はきいた。
「その者はよき男ぶりで、向歯二枚欠けたのを、銀で入歯していると聞いたが、その通りか」
男ぶりはよろしゅうございますが、銀の入歯のことは存知ません、と老中が答えると、
「その者のことは、八年前から聞いていた。これまでその方共の言上するを待っていた。早々死罪に行え」
と命じた。
ある時、松平信綱が御前へ出ると、
「その方、今朝|音物《いんもつ》に何を貰ったか」
と家光にたずねられた。
かくすほどではない。何某より時候見舞として何々を贈られました、と答えると、
「それだけか」
と、追及された。
そこで、袂から書付を出して、何家よりは何、何家よりは何、と委細《いさい》に読上げると、
「それなればよし」
と、鉾《ほこ》をおさめた。これ以後、信綱は老中一同と申合せて、ふっつり音物を受けないことにしたという。
井上筑後守が腫物を患って、百日ばかり引籠って養生していたことがある。お小姓として、上っていた頃のことだ。
全快して、御前へまかり出ると、家光は筑後守の全快を喜んで、さて、
「その方久々在宅しておったうち、何ぞ変ったことを聞かなかったか」
とたずねた。
別段に変ったことも聞きません、と答えると、
「今、市中では、米一升の価は、何程か」
これも、存じません、と答えると、
「豆腐は?」
「存じません」
家光は大いに不機嫌になった。
「久しく宅に在って他に勤めもなければ、かようなことなどよく聞き届け、心得て置くべき筈である。われらさえもこの通りであるぞ」
と、手箱の中から書付を取出して、いちいち物の値段を読み聞かせ、
「その方など小身者の分として、そのような心得では、とても御用には立たぬぞ」
と叱った。
これが骨身にしみて、筑後守は、後年に至るまで、一生の間、毎朝米、豆腐、野菜等の値段を聞きだして、これを書きつけたものを懐中して登城することを怠らなかった。
家光がいかに聡明《そうめい》であっても、こんな瑣末《さまつ》なことを居ながらに知る筈がない。城外に出ることがあっても、鷹野ぐらいのものだ。これは、いずれも春日の局の内報によったものと見てよいであろう。
大手門の立往生
春日の局ほどの賢女でも、権勢に慣れると、つい失態をやらかすこともあった。
ある時、浜松河岸の稲葉|丹後守《たんごのかみ》の下邸《しもやしき》へ下《さが》って、一日中くつろぎ遊んで、夜になってから、帰城の途についたところ、早や大手門が閉されていた。
供廻りの者にいいつけて、
「春日の局、今日暇を賜《たまわ》り、稲葉丹後守方まで参り、唯今帰城いたしました。御開門願います」
と申し入れさせた。
その日の門番は、旗本中での硬骨漢近藤登之助であった。わざと声高に、
「春日の局であろうが、天照大神であろうが、夜中は伺いを立てた上でなければ開門まかりなり申さん。暫時《ざんじ》それにて待たっしゃい」
行列は門外で、数刻立往生させられた。やがて、のっそりと登之助は門外に出てくると、
「この門よりは通されぬぞ。平河口へ廻らっしゃい」
吐き捨てるように言って、くるりときびすを返して行ってしまった。
やむなく平河口へ廻って、やっとのことで帰りついた。
局は家光の前に出て、帰城の挨拶をすませると、内心不満がおさまらず、大手の門で難儀させられた次第を語った。
すると、家光は、
「それなればこそ、余は枕を高くして寝ることができるのだ」
と笑って、取りあおうとしなかった。
さすがは局だ。はっと感悟する所があった。
早速、使いの者を大手門の番所へつかわして、
「さきほどは夜中のところ御苦労でござった」
と、労を謝する挨拶と共に、菓子などを贈ったという。
臨済宗の盛行
晩年、局は父母と自分の菩提《ぼだい》のために、菩提寺を建立《こんりゆう》したいと思い立って、家光に願い出た。家光は神田湯島台に五千坪の土地と木材若干、白銀三千枚を下賜し、堀田、稲葉両家へ御手伝いを命じ、出来上ると、この菩提寺に、天沢寺《てんたくじ》という号を与え、臨済宗《りんざいしゆう》関東一本寺と定め、徳川家の菩提所に準じて、永代寺領《えいたいじりよう》三百石を寄進した。
それ以来江戸では、俄然臨済派禅宗がはやり出した。大名、旗本、町人、百姓の別なくこの宗派《しゆうは》に帰依する者が増し、ついには家光までが心を寄せるようになった。
ある日、家光は柳生|但馬守《たじまのかみ》宗矩《むねのり》に向って、臨済派の碩徳《せきとく》は誰か、とたずねた。
宗矩は家光の兵法《ひようほう》指南役だ。
「恐れながら、兵法の奥儀は、心胆の鍛錬にあります。心胆を鍛錬するには参禅して大悟するのが一番でございます。それがしも、さきに京都紫野大徳寺の沢庵《たくあん》に参禅して、大いに得るところがございました」
と説いた。
すでに禅に心を寄せている所に、今また但馬守から禅の功徳を聞いて、家光は、沢庵なる碩徳から禅を学びたいと思ったが、その沢庵は、先年の紫衣事件に連座して、出羽国《でわのくに》上山《かみのやま》に流罪《るざい》されている。そこで、急にその人々を赦免することにした。
間もなく沢庵と同時に、大徳寺の玉室和尚《ぎよくしつおしよう》は陸奥《むつ》棚倉《たなくら》から、妙心寺の単伝《たんでん》和尚は出羽|由利《ゆり》から、東源《とうげん》和尚は津軽《つがる》からと、それぞれ帰洛《きらく》を許された。
沢庵は、真っすぐに江戸へ招かれた。
沢庵は、江戸で臨済派が盛んに行われているのは、人々が春日の局の権勢に媚《こ》びるためであり、それは人々が局に依附《いふ》して利得を求めるためであると知ると、少しも心が楽しまなかったが、柳生但馬守の友情を考えれば、違背《いはい》するわけにはいかない。観念して江戸へ来たが、その心境をこう狂歌に詠んでいる。
お召しなら帰り沢庵思えども、むさし(武蔵)うるさし穢土(江戸)はきたなし
寛永六年の紫衣事件や、その時の春日の局の行動に対して、釈然《しやくぜん》たらざるものがあったのだ。
ともかくもこうして江戸へ来てみると、将軍家光の禅法の指南という大役を仰せつかった。皮肉なことに、さきに春日の局、このたびは沢庵を得て、臨済派禅宗は、江戸でますます隆盛となり、幕府は品川に一寺を建立して、寺領三百石をあたえ、東海寺と号し、沢庵を開基とする手厚い待遇をした。
肥後の太守細川|越中守《えつちゆうのかみ》忠利《ただとし》も、東海寺の境内に妙解院《みようげいん》を建立し、沢庵を開基とし、寺領若干を寄進した。
大老酒井讃岐守忠勝は、牛込の下屋敷《しもやしき》内に一寺を建立し、同じく沢庵を開基とした。
今や沢庵の名は、さながら生仏のごとく全国にひびき渡った。後水尾上皇も江戸へ沙汰して、沢庵を仙洞御所へ召して講義を聴聞された。
それまでは、仏法といえば天台《てんだい》、僧といえば天海上人《てんかいしようにん》ときまっていたが、今日では臨済派沢庵でなければ夜も日も明けない有様となった。これも、もとはといえば春日の局の権勢から出たものであることは、上述の通りだ。
春日の局の日常
局は暇のある時は、堀田家か稲葉家へ宿下りして休息したが、将軍家の乳人であるばかりでなく、当時第一の出頭人だ。そんな時には、諸大名、旗本衆などからとどく見舞や音物は、おびただしいものであった。縁を求めて、妻や娘が挨拶にくる者もあった。
局には、大へん世話ずきな面があって、挨拶にやってくる娘の年頃や容貌などを、いちいち記憶にとどめておいて、お小姓衆や御番衆、諸役人の子息などで、まだ縁談の定らない者があると、その人たちの親を呼んで、
「何々様ももはや年ごろでございます。縁談を取定められては如何でございます。幸い何某の娘は、相応の御縁と思います。おとりもちしましょうか」
と、まめにとりもちする。
言われた人々は、ほかならぬ春日の局からの話だから、文句はない。
「思召し、まことにかたじけなく存ずる」
とこれを受ける。
相手家でも、異議のあろう筈はない。ここに、縁談が成立する。局が橋渡しをして、取結んだ縁談や養子縁組は、かなりの数に上った。
この世話好きが度を越して、一旦縁談のきまっていたものを破談にさせて、他に良縁を見つけて縁づけようとしたため、あたら当時の老中井上|主計頭《かずえのかみ》正就《まさなり》が殿中で御目附豊島刑部に殺され、刑部もまたその場を去らず自殺したという事件まで起っている。
さて、これほどの権勢がありながら、局は戦国乱世のうちに成長し、つぶさに辛酸《しんさん》をなめてきたので、栄華に狎《な》れて、奢《おご》りがましい風はいささかもなく、その日常生活は、きわめて質素であった。
衣服は、たいてい紅殻染《べにがらぞめ》か茜染《あかねぞめ》の木綿。部屋で召使う女中共に縫わせたもので間にあわせた。改まった時でもない限り、箔《はく》、紗《しや》、綾《あや》の類は用いなかった。冬は、皮足袋、綿帽子をかぶって、どこへでも出向いた。
食事は、玄米に、糠味噌汁、のほかは、赤|鰯《いわし》ぐらいのもので、飯と汁はありあまるほど作らせ、残ったものを下男《しもおとこ》に下げていた。
下男等は、局の下されたもので三度々々の食事をすますことができ、くらしの助けになると喜んでいた。
家光は、局の倹素ぶりを見て、
「年寄がいらぬこと。いま少しはよい料理を食べるがよい」
とすすめたが、
「有難いお言葉でございますが、私は、以前は軽い者でございましたのに、おそれ多くも上様の御乳人に召出されましてからは、毎日結構な御料理を下されました。その頃は、私は、それは私へ下さるのではなく、上様のお乳のために下さるのであると考えてちょうだいいたしました。しかし、ただいまはもはや、お乳の御用もなくなりましたので、以前の食事にかえりました。この方が胸につかえず、いただきようございます」
家光は黙ってうなずいて、その場はすましたが、その後は、自分の食膳の内から一品二品取上げて、
「これは婆に」
と下げた。
いつか、これが習慣になったので、料理方でも心得て、その補給分を用意しておくようになったという。
寛永二十年、局は病にかかり、日増しに重くなった。家光は、自身で薬湯を進めるほどの看護ぶりだったが、局は堅く辞退して受けない。
「往年上様が御|疱瘡《ほうそう》のみぎり、私は御|命《いのち》に替り奉るように、神仏に祈願を立てました。すでにその時一命を差上げたのであります故、如何ほどの病苦が迫りましても、薬など用いましては、神仏の罰をこうむらなければなりません」
と言い、言葉をついで、
「もはや、お名残りにも、間もあるまいと存じますれば、これより別殿に下ろうと存じます。死してののちも、御代万世の守護を仕る所存でございます」
と、涙を浮べて、家光の顔を仰いだ。
局が死亡するまで、家光は日に三度の見舞いを立て、逝去の際には御三家をはじめ諸大名が登城して、御弔詞を申上げ、江戸市中、鳴物停止を命じた。将軍家の乳人とはいえ、このような取扱いを受けた者は、前にもあとにも春日の局ただ一人である。
当時の聞書《ききがき》類に家光は春日の局の腹に出来た子であると書いたものがある。もちろんこれは誤りなのだが、そんな噂があり、それを信じている人もあったほどである。
二人の間の愛情は義理による愛情をこえて、肉親的の愛情までになっていたのだろう。
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お万の方旋風
行儀作法躾方
春日の局が亡くなってから、大奥の勢いは、若君の生母お楽の方へ移るかとみえた。
お楽の方の弟増山|弾正少弼《だんじようのしようひつ》正則は(これも少年時代は奴隷で、解放されてからは江戸に出て旗本屋敷を児《ちご》小姓として渡り奉公していたのだ)、一躍二万石を賜り、若君御附となり、表面は華々しいようであったが、当のお楽の方はたえず病気がちで、しぜん夜のお勤めも稀であったから、ひんぴんとして枕席《ちんせき》に侍るお万の方が重んじられるようになった。
お万の方は、前述の通り六条家の出で、いかにも堂上人らしい高雅でたおやかな風姿ある美女である上に、大奥総女中の行儀|躾方《しつけかた》を立派に勤められるほどの教養と才気ある女であったので、みるみる家光の寵を一身に集めた。
春日の局亡きあと、
「以後は春日同様、諸事念入りに申付けよ」
との有難い御沙汰を賜り、御手当として、別に百人扶持をあたえられた。
次いで、その弟六条右衛門を養子にするように命ぜられ、千石で新規召出して、生母の実家の姓戸田を名乗らせ、戸田|中務《なかつかさ》大輔とし、奥勤御小姓衆行儀躾方に任ぜられた。
幕府が堂上家の子弟を召出したのは、これがはじめである。お万の方の台頭《たいとう》につれて、大奥の風俗習慣は京都御所風に大|旋回《せんかい》をしていった。
春日の局時代の古参女中のうちには、行儀作法に拘《かかわ》らないものがかなりいた。三河の田舎《いなか》大名からごく短い間に天下の大将軍になり上ったのだ。むずかしい行儀作法など必要がなかったのである。お万の方には、そこがつけ目で、挙動が粗野であるという理由のもとに、実は自分の勢力拡張の邪魔になるそれらの人々を、片っ端から退けて、自分の息のかかった女中たちを、どんどん抜擢《ばつてき》した。
徳川幕府も三代になってその権威は確立した。権威には儀容が要求される。儀容は礼節によらねばならない。お万の方流の礼儀作法を大奥は必要としていたのだ。
行儀作法を重んずる気風は、大奥から表へも伝った。家光もまたたびたび、諸事無作法のないようと申渡したので、諸役人は争って、京風の行儀作法を習い覚えるようになった。
諸大名にも、供廻《ともまわ》りが|がさつ《ヽヽヽ》にならぬよう申しつけらるべしと指令が出された。武辺者《ぶへんもの》とか、勇士などともてはやされて、肩|肱《ひじ》張っていた武士の名誉も、ここに全く影をひそめ、特に行儀作法を第一の嗜《たしな》みとする気風に変って来たのである。この時代からだ。浪人が召しかかえられるにも武芸の嗜みなどより、容貌風采弁口を買われるようになったのは。
大名中には、堂上家と縁組をする者も出て来た。行儀作法の師範方を高禄を以て召抱え、その縁によって、ひそかに大奥に取入ろうとする家もあった。
剛毅で鳴らした旗本衆もこの時代の風尚に超然とはしておられない。彼等は、一人々々で、師範を召抱えることはできないので、小笠原流躾方という師範者を共同で雇入れて、武骨な手ぶりや武骨な足さばきを柔らげることに懸命であった。
正保二年、東照|大権現《だいごんげん》に、宮号の宣下《せんげ》があり、毎年の例祭には、はるばる朝廷から奉幣使《ほうへいし》が下ることになった。朝廷と幕府との往来は、年々に足しげくなる。幕府から朝廷に使者に立つ人々は諸礼に詳《くわ》しい者でなければ勤まらず、吉良、大沢、六角、横瀬、畠山、織田、京極、品川、大友、それにお万の方の養子戸田中務大輔を加えて十家、奥勤高家衆《おくづとめこうけしゆう》という特別な役職が生れた。高家はいわば幕府の式部官だから、勅使饗応役《ちよくしきようおうやく》などを命ぜられた大名は、高家衆に頭を下げて、京都風の行儀の指南を受けなければならないので、彼等に威張られ、その下役のごとく、鼻息をうかがうようになる。浅野、吉良の喧嘩などがそのもつれであることは、世の人の知る所である。
幕府でも、正保二年の家綱元服に際しては、室町家代々の古式を調べて、まことにぎょうぎょうしい儀式を行った。当時の一書に、時勢の滔々《とうとう》たる流れを嘆いて、
当今は、太平とは申せ、にわかに、行儀沙汰のみ流行し、御先代まで、武功の奉公仕り候者は、日陰者のように、片隅にうずくまり、何の武功もなき若者の、畳ざわりのよき者のみ、御|賞翫《しようがん》なされ候故、しぜんと出頭し、諸家もこれを見習い候と相見え、名も知れぬ者も、公儀を勤め、世間を推し廻り候は、その主人も、これを賞翫すると相見え云々
とある。
けれども、幕府がいかに行儀作法に力こぶを入れてみたところで、朝廷の礼式の厳正、整粛には及ぶべくもない。また、衣冠の進退と、武家の裃《かみしも》の進退とには、おのずから区別がある。そこで、後には新礼法ともいうべき江戸風の作法が自然に発生してゆきわたることになった。
智恵伊豆の機転
お万の方は、大奥取締として、着々と権勢を振うようになってくると、春日の局の先例にならって、自分の部屋子のなかから、将軍御附中臈を推薦した。お国の方がその第一号である。
お国の方は、家光の寵を受けて男子を生んで、亀松君と名づけたが、生れ落ちると間もなく、死んだ。
つづいて、お万の方が家光の夜伽《よとぎ》に送り込んだのは、後の桂昌院《けいしよういん》である。桂昌院の素性は後で説明するが、何しろ下賤の生れである。素朴で、野生の生気にみちている。家光には新鮮だったにちがいない。めでたく男子を出生した。後に五代将軍となった徳松君である。
お万の方は、自分の計画が図に当ったので、一層、勢いは盛んになった。お万の方の意志は、とりもなおさず家光の意志である。大奥の大改革を思い立って、まず、次々と若君が出生したので、奥局《おくつぼね》の不便を言い立てて、新規御殿の建増しの許可を得た。工事方へは、家光じきじきに、
「万事お万の方に相談すべし」
と内命が下された。
大奥内の衣服や、調度も、ぐんと派手にしたので、春日の局の在世当時とくらべると、夜と昼ほどの相違があった。女の虚栄につけ込んだこういうつまらないことが、かえって、大奥全体の女中たちに受けて、お万の方の権力をいや増す結果となった。
色々な筋から、忠勤ぶってもたらす諜報を、お万の方が、家光に内言するので、表の老中等も、ようやくお万の方を畏れうやまうようになった。
正保三年、若君家綱のために、二の丸御殿を増築し、工事が竣工した際のこと、老中から、工事にあずかった人々に、御|褒美《ほうび》を賜るべきや否やの伺いを立てた。
「作事奉行の大島某は、ただ見廻るのみにて、何の心添えもしなかったのはいかなる故か」
と家光が突っこんだので、老中一同、家光がどうしてこんな些末《さまつ》なことを知っているかと驚いた。智恵伊豆こと松平信綱が即座に、
「その者儀は、別して入念に相勤め、夜中に、手前宅にてよくよく申しつけおき、そのできばえを翌日検分にまかり越しましたので、ちょっと見ただけで念を入れ申さぬよう見えたのでございましょう」
と申しひらいて、ことなきを得た。
剃髪常光院の運命
お万の方は、第二の春日の局として、表、奥ともに畏怖されるようになったが、家光も、追々その弊害を悟るところがあったらしく、久世《くぜ》大和守《やまとのかみ》広之《ひろゆき》を御側御用人に命じ、それとなくお万の方の力を牽制《けんせい》させようと考えた。
ところが、久世広之はさきに春日の局と青山忠俊との先例もあるので、再三の上意にもかかわらず、固辞《こじ》して受けない。見かねた堀田正盛が、
「上様のたっての思召しでござる。さように御辞退なさらず、早々にお受けなさるがよろしかろうと存ずる」
と、いくらか非難するように忠告すると、広之はハッタと正盛を睨みつけて、
「御辺《ごへん》の知らぬことでござる」
と、ぷっつり一言、荒々しく席を立ってしまった。
堀田正盛は、春日の局の甥にあたり、養子分になっていたから、その面前では誰も大奥の表に対する容喙《ようかい》ぶりを難ずる者はいない。従って、広之の辞退する真意がわからなかったのである。
家光は懐紙に、
人多き人の中にも人はなし
人になせ人人になれ人
と一首の道歌を認めて、広之の邸へ持っていかせた。
主君からこんなねんごろな書付けまで賜っては、広之もついにお受けせざるを得なかった。
久世広之が御側御用人となって、始終、大奥へも出入りするようになると、お万の方も広之の存在を気にかけはじめた。春日の局気どりで、ことさらに広之を無視する態度に出てきた。
家光が大奥の御座の間へ入ってから、急に伺うことができて、広之はその旨をお万の方を通して言上したことがある。
すぐにお召しがあって、伺候すると、家光の両側に二、三人の女中がかしずいている。広之は、女中等に、しばらく次の間に退《さが》るようと言ったが、女中等は動こうとしない。広之は肚《はら》にすえかねた。女中等が退らないうちは一歩も家光に近寄るまいと、その場にきっと控えていた。
家光は、不穏《ふおん》な空気を感づいて、
「大和が申すぞ。退れ、退れ」
と言ってくれたので、やっと、女中等は退出した。
このことが、お万の方の耳に入ったのだろう。間もなく、お万の方が出て来て、御座の二の間へ入ろうとする。広之は見咎めて、
「御用の席でござる。シッ、シッ」
と制した。
お万の方は聞えぬふりで入って来ようとした。すると、今度は家光が振りかえりざまに、
「シッ、シッ」
と制した。お万の方は仕方なく退ってしまった。
広之は用がすんで、御座の間を退ると、御入側《おいりがわ》(縁側の内側・畳をしいてある)にお万の方を呼んで、
「さきほどは御用がござって、御直《おじき》に御沙汰を伺っており、それにこの儀はまだ御年寄衆(老中)も承り申さぬことでござれば、至極秘密の席故、お人払いいたしたのでござる。今後とも、お心得下されたい」
と、更に釘をさした。
その後も女中等は中々横着をやめなかったが、そのつど家光が広之に加担《かたん》するので、しまいには広之が伺候すると、女中等はしぜんと座を立つようになった。広之は、お万の方に向ってあいさつした。
「この頃では、御前にまかり出でますと、拙者の言葉を待たず、女中方がお次へ退られます。これは全く、御許《おもと》の申しつけ方が行届いたるためにて、一段のことでござる」
お万の方は口惜しかったに相違ない。その後こんなことがあった。
家光が、急に思いついたことがあって、堀田正盛と酒井忠勝とを、奥へ呼んだ。
二人が御用向を仰せつかって、御前を退出するのを、お万の方は御入側で待ちかまえていた。
「今日、御両所にお目にかかりましたを幸いに、ちと承りたいことがございます。大和守様が御前に出られますると、いつもしかじかのいたされ方でございますが、上様には、御表にいらせられまする時とは違い、御奥にては、誰か御側におりませいではいかがかと存ぜられます。以前春日殿は、いつとてもおかまいなく御前にまかり出でておられました。私も、春日同然と仰せつけられているのでございますから、そのようにいたしても苦しかるまじく存じますが――」
美しい顔を昂奮に心持蒼ざめさせて、広之の非を鳴らし、喰ってかかった。
二人は、しばらく顔を見あわせていたが、春日の局のような老婆と違い、まだうら若いお万の方がムキになってかかってくるので、閉口した。
「仰せらるること、いちいちごもっともと存ずるが、大和守がさように申し、また上様にもさように遊ばさるる上は、その通りいたされたがよろしかろうと存ずる。もともと春日殿は、大御所以来諸事御免の身分にて、これは格別のことでござる。御許へ春日同然と仰せつけられたるは、大奥総女中取締の儀でござれば、その分に心得られるよう」
やっと言いひらいて立去った。お万の方の不満思うべきである。
お万の方の表の政治局に対する暗躍は、こうして息の根をとめられたが、奥向きに対しては、いぜんとしてありし日の春日の局同様であった。
正保二年頃から、とかく家光は病気がちになり、表へ出ることも稀になった。老中等はこれは大奥にばかりいて、女色がすぎるためと考えて、大奥から引きはなすために、保養という名目で、鷹野、乗馬、武術、狩、犬追物などを催した。
すると、奥でもこれに敗けずに、お万の方が先きに立って、能楽、狂言などを賑やかにしてみせたり、のちには、市井の幸若《こうわか》、放下《ほうか》(手品軽業の類)などまで、二の丸別殿の広庭に召し寄せたりして、気鬱散《きうつさん》をすすめた。こんなものが大奥に入ったのはこの時がはじめてである。
けれども、これらの人々の心づかいも空しく、家光の不健康は日に増し進んで、奥の病間に老中を召して、御用を言いつけるようになってしまった。
お万の方は、上様の御病気介抱のため、附きっきりでつきそっていたので、またその権勢が凄じくなったが、それも束の間、慶安四年四月二十日、家光が薨去《こうきよ》したので髪を落して、常光院と号した。時に三十一歳であった。
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矢島の局の明暗
形見の三百石
家綱が四代将軍の跡目をつぐと、生母お楽の方も、本丸大奥に移った。それまでは家綱と共に西の丸にいたのである。
お楽の方は病身だったから、大奥総取締には家綱の乳人《めのと》、矢島の局が仰せつけられた。
話は寛永十八年にさかのぼる。
家綱誕生の時のことだ。当時まだ健在であった春日の局は筋目のよい者をと諸家に触《ふ》れて、若君の乳人を募集した。
その頃、牧野|内匠頭《たくみのかみ》信成の家中に、矢島治太夫という百石取りの武士があり、その妻が応募して出頭した。
乳人|詮衡《せんこう》の係は松平信綱であった。大体この女がよいようだと心に思って、
「その方の夫治太夫は、主人方にては禄高は何ほどを受けておるか」
とたずねた。
治太夫の妻は、はっきりと答えた。
「三百石にて、馬廻りを勤めております」
それならば、筋目も賤しい者ではないというわけで、これに決定した。
女は、帰宅すると、夫の治太夫に、一部始終を物語り、
「――明日にもお迎えの役人が参る筈でございますから、早々に、御家老衆にまでこの由を申上げおき下さいませ。とんでもない大ウソを申上げてしまいましたが、今更となってはどうしようもありません。特にこのことはハッキリと申上げおき下さいませ」
治太夫は、すっかりあわててしまった。
「何しにそのような|うつけ《ヽヽヽ》たことを申したぞ。士は百石ならば恥かしからぬものだ」
叱ってはみたものの、どうにもしようがない。しぶしぶ頭役のところへ出かけた。
頭役も呆れたが、家老に報告した。
その時は、すでに、老中から達しがあって、家老も知っていた。禄高のことも、申し違いであったともいいがたいので、その通り三百石に直すようと、内匠頭から沙汰を受けていた。
治太夫は思いがけなく、二百石の加増となったわけであるが、これは矢島の局が、御乳人として召抱えられれば、生み落したばかりの子を捨てて、一生奉公の御城勤めをしなければならないので、夫やわが子に対する贈物としてわざとこういう手を打ったのである。美談とすべきかどうか疑いがあるが、矢島の局の横着な性質のよくあらわれた話である。
丹頂の鶴騒動
家綱は、十一歳という年少の身で、将軍職をついだので、政務はすべて保科正之、井伊直孝、酒井忠勝、松平忠次等によって裁決され、大奥は謹直な久世広之が監督に当っていた。そして、これらの賢臣によって政務はとどこおりなく行われたし、大奥の女中等も表の政治に対して口をさし挟むこともなかった。
その代り、十一歳の少年将軍は、万事が女中次第に動かされ、能、狂言が面白いといっては、思いつくとすぐにも催させた。何でも突然に言い出しては、奥役の人々をまごつかせた。
それをいいことにして、女中等は、何かにつけて将軍を|だし《ヽヽ》に使った。先代家光は晩年の慰めとして折々の催し物をしたが、その楽しみが女中等には忘れられないのだ。将軍不時の御用に応ずるために大奥内に能役者の詰所を設けて、常時伺候させることになったが、これは女中等の策動の疑いが大いにある。当時の能役者は美男が多く、その年少の者は男色の用をうけたまわるのが常であったのだ。直接のことはなくても、美男の能役者を眺めることによって、大いに心を慰めたことであろう。
またある時、矢島の局が、家綱に席画を見せたことがあった。
それが、ひどく家綱を喜ばせ、毎日のように席画を所望されるので、また詰所を設けて、狩野派の者が二名ずつ伺候することになった。
家綱は、庭園内にさまざまな鳥を飼っていた。ある夏の日、お庭を散歩していると、手飼いの丹頂の鶴が二羽とも斃《たお》れているのをみつけた。
早速、代りの鶴を差出すようにと、御側御用人まで下命があった。
久世広之は、ただいまは夏のこととて、鶴の捕獲は困難であるから、冬までお待ち願いたいと申し出た。
しかし、家綱はどうしても待てないと言い張る。思案にくれた広之が矢島の局に会ってとりなしを頼むと、局は逆に広之をやっつけた。
「これはまた、異なことを仰せられます。世の中に鶴がないものならば、是非もございませんが、上様がさように御上意あるならば、何故に探し求めて差上げられないのでございます。ただいま上様は御幼少にあられます故、そこ許様はさように申されますが、もし上様が相応のお年でございましたら、それでも私におなだめするように申されますか」
年少とて侮《あなど》るのかとばかりに逆捻《さかね》じをくわせたのだ。
相応の年になっていて、そんな没義道《もぎどう》を言い出したら、それこそ御側御用人として、諫言申上げると、広之にも一応の理くつはあろう。しかし、そこまでは言い出しかね、致し方なく、その旨を老中まで申し達した。
夏に丹頂の鶴が棲《す》んでいるのは、北国だけに限られている。松前|志摩守《しまのかみ》公広《きみひろ》の許へ、使者がつかわされた。領内の丹頂鶴を探して、生捕りにし、特に尾羽を損《そこな》わないようにと、くれぐれも申し含めた。
松前家の江戸邸からは、国許へ急飛脚が立てられ、同時に、幕府からは、松前から江戸までの間、天領、私領ともに、鶴献上の通行については格別の便宜《べんぎ》を取計らうようにと通達した。
丹頂鶴はどうにか献上できたが、これに要した多数の人々の労苦は、なみたいていのものではなかった。松前家はもとより、街道、宿駅まで、二羽の鶴のおかげで、上を下への大騒ぎを演じたのである。ばかばかしい話である。
しめだされた矢島の局
将軍の威光をかさにきた矢島の局に専横の振舞いが目立ってくると、老中一同、相談の上、久世広之を通じて、
「将軍家には、すでに十二歳になられたのでござるから、もはや女中どもの手をはなれて、御表へお住いになられたがよろしかろうと存ずる」
と大奥に申出た。
ここへくるまでには、よりより協議を重ねた結果であって、将軍が表を住いにするようになった場合の宿直の老中順番、御小姓衆や御側衆が交替でする不寝番まで、ちゃんと取決めてあったのである。
しかし、これを聞いた局は、もってのほかとばかり反駁した。
「御虚弱の上様に、私どもこれまで十二年の間、いたらぬながら昼夜心をつくして御奉公申上げたのでありますが、そうしてもなお御|健《すこや》かとは申されぬ有様でございます。しかるに、いま急に御側衆の男手にて介抱申上げ、もし御発病にても遊ばされたら、何となされます。昼のうち御表にお出であるとならばともかく、いまは夜寒もはなはだしい時節に、御寝《ぎよし》も御表になさるとはいかなる思召でございます。たとえ上様がお聞済みあらせられても、私はお受けいたしかねます」
頑として譲らず、これは、結局表方の敗北に終って、以後、十五歳まで、家綱は大奥を住いとしていた。
局は家綱の慰みのために、能、狂言、席画などをすすめてきたが、成長するにつれて、家綱がそればかりでは満足しなくなったと称して、歌舞伎、放下、幸若太夫、琵琶法師などを、次ぎ次ぎと呼び寄せて、大奥は常に遊楽三昧であった。これが、下々に、影響しないわけはなかった。打ちつづく太平と共に享楽的気風が、一世を風靡《ふうび》した。
男子禁制の大奥内に、役者や芸人が自由に出入りするようになると、風紀は極端に乱れはじめた。後年のことであるが、明暦《めいれき》三年の大火の際、江戸城も類焼《るいしよう》したが、その焼跡を老中等が打ちそろって巡見すると、大奥の長局《ながつぼね》のあたりに見知らぬ男の焼死体が発見された。老中等は驚いたが、
「見苦しき犬の死骸、早々に取捨てよ」
とさしずして、犬の死骸にして片づけさせたという。
また、その時、新築成った本丸の大奥で、家綱夫人伏見の宮が、寝殿にいると、縁側の帳《とばり》を上げてのぞきこんでいる若い男があって、大さわぎになった。
これは縁の下にひそんでいるのが見つかって捕えられたが、
「葛西《かさい》から便所掃除に来た百姓が道に迷って縁下にうろついていた」
ということにして町奉行にわたして処刑してしまった。当時の大奥の有様が、これによっても想像がつく。
明暦元年、家綱は、十五歳になった。成年に達したのであるから、表に住居を定め、御側衆でがっちり周囲をかためて、矢島の局から家綱を取上げてしまった。
そうしておいて、人心の粛正、市中の風紀の刷新に、積極的な手をうちはじめた。
手はじめに大奥の風紀から改めることにしたが、この数年間、ほとんど矢島の局一人の手に任せられていた大奥が、そうたやすく改革出来はしない。そこで、家綱に御台所を迎えて、局を牽制《けんせい》する策をとることにした。
幕府は、京都所司代をへて、東福門院(二代秀忠の女、後水尾帝の中宮、明正帝の生母)にお願いして、伏見|兵部卿《ひようぶきよう》貞清親王《さだきよしんのう》の姫君|浅宮《あさのみや》と婚約の儀を取交した。ほどなく、京都から奥女中一統の指南役として、女院御所の上臈、右衛門佐《うえもんのすけ》の局《つぼね》が下向してきた。
右衛門佐の局は、大奥の女中等に行儀作法を指南するかたわら、衣服、調度などについて、こまごまとした注文をつけたので、大奥の様子は一層京都風となった。やがて、浅宮が下向され、明暦三年七月十日、婚礼の式を挙げた。
御台所は、賢徳と淑徳の誉が高く、すべてに慎重であった。ことに久世広之が先君より特命された御側御用人であることを重く視て、ねんごろな態度で応対されていた。
大奥内に広之の威令が行われるようになると、表と大奥の間はきわめて円滑《えんかつ》に処理されるようになった。矢島の局の権勢は日に日に凋落である。
大奥の腕くらべ
御台所の御輿入《おこしいれ》の際、お介添《かいぞ》えのため、多勢の女中を連れてきたが、その中に、飛鳥井《あすかい》、姉小路という二人の上臈がまじっていた。
飛鳥井と姉小路は、それまで大奥の実権を握っていた矢島の局が、いまは誰一人かえりみるものもなく、長局の一室に閉じこもったきりでいるのを知ると、御台所にとりなしてやった。
御台所も、家綱の乳人として、篤くもてなした。時折、御前での物語の際など、お相手に呼び出したりしたので、局も二人の上臈の扱いぶりに感謝していた。
局は、機会《おり》あるごとに、二人を家綱に推薦したので二人は御前に呼び出されて、京都の話など聞かれたりするようになった。
姉小路の部屋子にお国という女中がいた。上臈に従って御前にまかり出ているうちに、家綱の目にとまり、御附中臈に抜擢されたので、姉小路が大奥に権勢を張るようになった。
そこで、飛鳥井も一策をめぐらした。御台所の実姉|安宮《やすのみや》にまだ定まる縁がないところに目をつけて、矢島の局を通じて、家綱に言上し、紀伊大納言光貞の許に、入輿をすすめた。
この縁談は、障害もなく、無事に成立した。その時、飛鳥井は抜目なく、京都から何人かの美少女を下向させたが、そのうちの一人が、家綱の目にとまって、御附中臈になった。
このようにして、姉小路と飛鳥井は、内には将軍を、外には御三家の一たる紀伊家を掌中におさめて、互いに、しのぎを削りあう仲となった。それでも、広之在世中は、二人の勢力が表に及ぶことはなくてすんでいたが、後に広之が御側御用人の役目を退くと、二人の勢力が直接政局に大きく影響するようになった。
下馬将軍失脚
この二人が、家綱の側近にあって、政治上のことにくちばしを入れるようになると、当然、老中の威令は行われなくなった。政治の円滑をはかるためには妥協《だきよう》もしなければならず、それに慣れると事なかれ主義となり、安易主義となり、保身のための妥協主義と変っていった。
家綱が病身であったことが、これに一層拍車をかけた。大老酒井忠清に一切の権を委《ゆだ》ねて、一切政治をかえりみなくなると、忠清はたくみに二人と結んで、自らの権勢を培《つちか》うことに専念した。当時の人は、家綱のことを「そうせい公」とアダ名したという。忠清の言上に対して、いつも「そうせい」と言うだけであったからだという。
忠清は盛んに賄賂をとって、エコヒイキなふるまいが多かった。役人の任免賞罰にも多く賄賂で決したが、越後騒動や伊達騒動など、あんなにもつれたのは、忠清が賄賂によって正しい裁きをしなかったからである。
彼は賄賂をとることを何とも思っていない男であった。常にこう言っていたという。
「金銀財宝は人の大事にするものである。余程に相手を尊べばこそこれを持って来るのだ。わしの権威は上様のおかげで立っているのだから、わしに賄賂が多く集まるのは、上様の御威光のすぐれている証拠である」
理屈は正にその通りであろうが、だから賄賂を取ってよいという理由は立ちそうにないと思うが、現代の一部の役人諸君や一部の国会議員諸君には十分わかるかも知れない。
彼は「下馬将軍」と異名されるほど権勢があった。彼の屋敷は江戸城の大手門の下馬先きにあったので、「下馬先きにいる将軍」という意味だ。
延宝四年四月。御台所が亡くなってからは、二人の上臈はもう誰にもはばかることなく、大奥に君臨した。
同年八月。家綱が病に倒れると、いまだに、継嗣がなかったので、表、奥とも途方にくれた。
そういう騒ぎのさなかに、二人の上臈は、御附中臈の中に懐胎《かいたい》の様子があると、とんでもないデマを飛ばした。
ひとまず、京都からしかるべき親王の下向を願い、これを仮の将軍として、追って世子が出生したのちに改めて協議をすることにして、親王は、京都へ帰そう。真にうけた忠清はこう提議した。
家綱には館林|宰相《さいしよう》綱吉という弟があるが、これに将軍を相続させると、そのあとに世子が生れた場合、事態は紛糾《ふんきゆう》するおそれがあるからだ。
老中一同皆同意したが、ただ一人、老中堀田正俊は憤然として反対し、五代将軍には館林宰相様然るべし、宰相様将軍となられたのちに、男子が御出生あった場合には、これを六代将軍に推戴《すいたい》すればよいと論じた。
忠清等の主張は、自己の権勢を保持するための|からくり《ヽヽヽヽ》であり、正俊の理は、明白であったので、ついに酒井等は論破された。
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桂昌院の栄達
綱吉をとりまく女たち
五代将軍綱吉の時代は、前にも後にもなかったほど大奥の栄えた時代である。将軍の実母桂昌院などは、京都の八百屋某の娘から、女にして従一位まで上って、日本における女性の出世がしらといわれているほどである。この大奥の栄えは前代と違って、将軍が薄馬鹿であった所に原因はない。
綱吉という人はずいぶん賢い人で、学問が好きで、剛毅で、明君の素質は十分にある人であった。しかし一面一種のマニア(偏執狂)的なところがあり、学問に凝ったあまりに儒教的な孝行者となり、桂昌院のいうことは何によらず絶対服従をした。ここに大奥が空前絶後の栄えを見せた原因もあれば、彼の悪政の原因もある。また彼は極端な権威主義者であったから、老中や側用人なども|せんせんきょうきょう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》として、彼の意を迎えることに腐心し、彼の最も愛慕する母親の主宰する大奥に附和したので、表の権力が大奥に抑えつけられる結果になったのである。
さて、この桂昌院の素性《すじよう》だが、京都二条関白家の家司《けいし》北小路氏の養女、実は、本庄某の娘と表面はなっているが、『柳営婦女伝系』という書物によると、京都堀川通西藪屋町八百屋仁左衛門の女で、父の死後母にともなわれて二条家の家司本庄宗利の家に下女奉公に行っているうち、本庄の手が母について男子一人生んだので、後妻となり、彼女も娘ということになったという。また、『遠碧軒記』という、当時、芸州藩の儒医であった黒川|道祐《どうゆう》の著書中の記述によると、桂昌院の母親は、朝鮮人であったとある。
京都堀河に、酒屋太郎右衛門というものがあった。怠け者のグウタラだったので、妻は子供一人生むと、摂関家二条家へ乳人に上ってしまった。太郎右衛門は、女房におん出られて困ったが、間もなく、その家に永年召使っていた朝鮮人の女に手をつけ、これを女房にして、娘が二人生れた。二条家へ乳人に上った太郎右衛門の先妻はよく出来た女で、この二人の女を引取って自分の娘としたが、その妹の方が、のちの桂昌院であるという。
はじめ、家光の中臈お万の方の部屋子であったが、家光の目にとまり、御附中臈として寵愛《ちようあい》を受け、正保三年、徳松を生んだ。
慶安四年、徳松に賄料十五万石を賜り、さらに寛文元年、十五万石の加増となり、上州館林の城主となった。時に徳松は、十六歳となり、綱吉と改めた。
領内の政治は、その養育とともに、家老の牧野備後守成貞と実母桂昌院とが当っていた。
綱吉は利発な子だったので、父の家光は、ふだん桂昌院に向って、
「わしは幼少から武芸を好み、かつ、少壮にして将軍となったため、万事に多忙で、とうとう読書の暇もなく、学問に心を入れなかったので、今日後悔している。この子は賢い子で、将来を頼もしく思う。良き師をつけて学問をさせ、聖賢の道に入らせたならば、ゆくゆくはものの用にも立つ者となろうぞ」
と言いきかせていた。
桂昌院は徳松に学問をすすめ、徳松も素直に母の訓育《おしえ》を守り、ついにはその学問は、後に将軍になってから諸大名に経書の講義をして聞かせられるほどになった。彼は生来偏執狂的なところがあるところに孝道中心の儒教をやったものだから、おそろしく物堅い孝子となった。身将軍連枝でありながら、桂昌院が病気になった時など、自らの手で配膳までして食をすすめたという。孝行はいつの時代でも美徳ではあるから、このへんのところまでなら大へん結構なのだが、天下人のくせに母の言うことは何によらず従ったので、大へんなことになった。それは追々と説く。
次に挙げなければならないのは、お伝の方である。お伝の方の父小谷権兵衛は、城内の掃除方を勤めて、俗に黒鍬の者といわれていた、ごく卑賤な御家人であった。
十二歳で、館林家の奥へ奉公に上り、湯殿番《ゆどのばん》をしているうちに、綱吉の目にとまって、御附女中となった。
どうしてなかなかの利口者で、どこで習い覚えてきたのか、女一通りのことにも堪能であった。綱吉には若年の頃からずっと近侍していたので、綱吉の好みをすっかり見ぬいて、綱吉の大好きな学問はもとより、次に好きな能楽などまで、侍坐して拝見しているうちに、結構覚えてしまった。小鼓を器用に打ち、綱吉が謡い出すと、即座に応じて合せるという有様であった。これは綱吉が将軍となってからも、大奥にあってやはりそうしていた。
お伝の方の美貌については、有名な逸話がある。当時の画工多賀朝湖(のちの英一蝶)が、「当世百美人」と題して、その頃の有名な美人を画いた中に吹上御殿の舟遊びのさまを想像してお伝の方を画き、浅妻舟の賛詞をそえて売出したため、お咎めをこうむって流罪となった。絵に描いてみたくなるほどの美人であったのである。
お伝の方の姉は、牧野備後守成貞の養女になり、戸田淡路守氏成の奥方となった。
第三の女性|常盤井《ときわい》は、のち右衛門佐《うえもんのすけ》となったが、これは京都|水無瀬《みなせ》中納言《ちゆうなごん》宗信《むねのぶ》の姫君で、はじめ、時の帝《みかど》東山天皇の生母新上西門院の御所に仕えていた。
綱吉の御台所は、鷹司関白房輔《たかつかさかんぱくふさすけ》の姫君で、新上西門院とは叔母姪の仲である。御台所附上臈|万里《までの》小路《こうじ》の計らいで、大奥女中の行儀躾けのため、しかるべき者をおん下しありたいと願ったところ、常盤井が選ばれて下向したのである。行儀躾けもだが、内実はお伝の方の勢力をおさえ得る者との含みがあったのである。
常盤井は、しばらくの間、御台所御附上臈として仕えたが、綱吉の所望によって御附中臈となり、美貌な上に、才智、学問に長じている点が御意に叶って、総女中支配を仰せつかるようになった。その上上意によって、部屋子に京都浪人田中半蔵という者を取合《とりあわ》せて、これを養子分とし、五百石で新規御召抱え、桃井|内蔵助《くらのすけ》と改めさせた。
この桃井内蔵助の生涯は波瀾万丈、中々面白いが、ここでは書いているひまがない。ぼくは常盤井と桃井の間は養母子となっているが、実際は恋愛関係があったのではないかと疑っている。養子の桃井の方がはるかに年長なのだ。くわしくはぼくの小説『浅き夢見し』を読んでいただきたい。
第四の女性|大《おお》典侍《すけ》の局《つぼね》が、のちの北の丸殿である。これも堂上家の姫君で、父は、清閑寺大納言|煕房《ひろふさ》である。東山天皇の大典侍の局だったが、今度はお伝の方の計らいで、右衛門佐に対抗させるため、招《よ》んだものである。
容色、才芸ともに右衛門佐をしのいだ。綱吉は相当長い期間、大典侍の局でなければ夜も日も明けないような打込み方だった。綱吉はどうにかしてこの女に自分の子を生ませようとして、ずいぶん精出したが、ついに懐妊させることが出来ず、彼女の兄清閑寺煕定の女竹姫を召下して自らの養女とした。竹姫は八代将軍の時薩摩の島津継豊に大奥からとついだ。徳川家が堂上家の子女を養子に入れたのは、前後これ一件である。
転り込んだ運
五代将軍に館林綱吉が決った時、館林家へは「御用の儀これある間、早々御登城これあるべし」と、老中堀田正俊から達した。
館林家家老牧野備後守成貞は、折から他出中だったが、帰ってこのことを聞いて、
「夜中といい、急のお召しといい、かつて例のないことなれば心許なし」
とあわてて馬を飛ばし、やっと大手門の前で、綱吉の行列に追いついて、綱吉の傍にぴったりと附添ったまま、城内に入った。
待ちかまえていた堀田正俊は、綱吉を迎えると、すぐに大奥へ案内した。成貞は不安がって、なおも附添って側を離れない。大奥へは特別な者以外は入ってはならない規則だ。正俊が咎めると、
「夜中に急の御用とあり、しかもそこ許御一人の案内で奥へ入らせらるること、心得難うござる」
正俊はニコリと笑って言った。
「安心いたされよ。御慶事でござる」
成貞はまだ警戒の色をゆるめない。
「さようならば、御誓言が承りとうござる」
「神以って相違はござらぬ」
と、正俊が誓言したので、やっと成貞も安心して、次へ下った。
ここまで運んだのが正俊の力であることは、前に述べた。正俊の正論に言いまくられて、京都から親王将軍を請下しようと主張した大老酒井忠清をはじめ諸老中等は面目を失って皆退出したので、正俊一人あとにのこって、一切の運びをつけたのである。
かくして将軍になった綱吉は、一先ず西の丸に居を定めて、本丸、大奥の模様替えを命じた。家綱に仕えていた女中等には、ことごとく暇を出し、上臈、中臈等は、北の丸の御殿へ移してしまった。
模様替えの普請ができ上り、安鎮の修法を知足院住職|恵賢《えけん》へ命じた。すると稲葉正則から異議が出た。
「御城内安鎮御修法の儀は、天海僧正以来上野で勤めてきたもので、他の寺へ仰せつけられた例がございませぬ」
「かようなことは、時の将軍が帰依している者にとり行わせてよいものであって、先例など踏襲《とうしゆう》するには及ばぬ」
と、綱吉は一蹴した。綱吉としては恵賢を重く用いる必要があったのであるが、柔弱でこちらの言いなり放題であった家綱とまるで違ったこのキッパリした態度を見て、稲葉老中はギョッとしたに違いない。
知足院恵賢は、館林領上州|碓氷《うすい》八幡宮別当、桂昌院が生仏ほどにあがめている大聖護国寺|亮賢《りようけん》の法弟であるので、桂昌院の帰依浅からず、館林家へは以前から伺候し、修法を勤めていた。だから、これを重用することは桂昌院を喜ばすことになるのだ。孝子綱吉としてはやらざるを得ないのだ。
亮賢がなぜ桂昌院の帰依を得たかについては面白い話があるが、それは後段で述べる。
本丸と大奥がすむと、三の丸の御殿に手入れをさせた。ここは桂昌院の住居となるのだから、特に堀田正俊を総奉行として、特別念入りにやらせた。これには、護国寺亮賢が安鎮修法を行った。
御台所以下館林家の表向きの者は、残らず本丸に移った。綱吉の世子徳松も本丸に移り若君とあがめられ、生母のお伝の方の実父小谷権兵衛は、堀田正俊の弟分にして、名前も堀田将監と改めさせ、三千石寄合衆とした。この男にも面白い話があるが、これも後段で述べる。
三の丸御殿の普請がすみ、桂昌院が移ってきた当日、綱吉は祝詞を述べるために母を訪れた。その席へは、堀田正俊を召出し、このたびの役目をねぎらって、御差料《おさしりよう》の片山一文字の御紋三ツ所物の佩刀を下げ渡した。
桂昌院はいかにも満足そうに、綱吉の態度を見守っていたが、
「上様には何故まだ雅楽頭《うたのかみ》をお退け遊ばされませぬ。あの者は先公方様《せんくぼうさま》御大切の折、御跡には京都より宮方をお下し申し、おのれがその御後見となって、世を思うままにいたすつもりでいましたのを、この備中守《びつちゆうのかみ》(正俊)が、殊勝《しゆしよう》にも一身を投げ出して御血統を言い立て、上様を立つべきことを主張しました由を、婆もたしかに承っております。しからば備中守をお引立て遊ばされて、雅楽頭などは早速にお退けあるべき筈でございましょう。備中守の手柄は、ただいまの御刀ぐらいでは、なかなか相済まぬことでありますぞ」
挨拶に困ったのは綱吉ばかりではない。正俊も冷汗を流して、御前を退出した。
酒井忠清には翌日附けを以って、以後登城に及ばず、との内旨が達せられ、追って御役御免、御目通り差控えを命ぜられ、大手前の邸も取上げた。
一方堀田正俊には、老中上座を命じ、嫡子《ちやくし》下総守《しもうさのかみ》正仲《まさなか》を溜間詰とした。
綱吉はさらに進んで、前代に召使われた御側衆、御小姓、小納戸役人を御役御免とし、館林以来の御附家老牧野成貞に一万石の加増をし、御側御用人として、奥向きの一切を切盛りさせることにした。
女将軍まかり通る
ある日、綱吉は堀田正俊を召出して、
「諸国代官の内に不正の者が多いと聞いているが、その方きっと取糺《とりただ》してみよ」
と命じ、重ねて、
「ただいま命じたことは、もっとも大切のことであるから、よくよく念を入れよ。その際、勘定頭《かんじようがしら》のものに、目附大岡五郎右衛門を加えよ」
と念を押した。
正俊は勘定頭杉浦|内蔵允《くらのじよう》正昭《まさてる》、徳山|五兵衛重政《ごへえしげまさ》に目附大岡五郎右衛門|清重《きよしげ》を加えて、上意を申渡した。
吟味《ぎんみ》に当ってみると、はたして下総《しもうさ》代官林長兵衛、伊豆|相模《さがみ》代官岡上次郎兵衛をはじめ、各所の代官に収納勘定未済のものがあった。なかにも林長兵衛、岡上次郎兵衛は、かなりな額の費いこみをしていることが明らかになって、長兵衛父子三人は死刑、次郎兵衛とその手代は三宅島へ流罪となった。
間もなく、綱吉は正俊に命じた。
「小川|松栄《しようえい》と申す者が、現在下総中山の法華寺《ほつけじ》に遁世《とんせい》しているから、早々召返せ」
「それは何者でございますか」
聞きなれない名前なので、正俊がたずねると、
「この者は元は小川松三郎といって、予の能楽の相手であったが、ふとしたことで暇を遣《つかわ》したところ、他へは奉公いたさじと、遁世者となり、このたび内々にて奉公だてをいたした者である」
松栄は召出されて、新規三百俵を賜り、剃髪の身であるから、奥医師|並《なみ》に仰せつけられ、ふたたび御前で能楽のお相手を勤めるようになった。
松栄は、綱吉の幼少の頃からお相手を勤めていた者であるが、一時不興をこうむって、遁世したが、桂昌院が内々|ふびん《ヽヽヽ》をかけ、時機をみて帰参の叶うようにとりなしてやろうといっていたので、その日のくるのを心待ちしていた矢先に、下総の代官林長兵衛の悪業を見聞し、帰参の|しお《ヽヽ》にもと、落ちなく書きつけて桂昌院に送った。それが端緒となり、諸国代官のお手入れにまで発展したのである。
そういう抜目のない男だから、お城勤めをするようになると、綱吉の美少年癖につけこんで、旗本中の子弟を漁《あさ》り、これと思う者を願い出て桐の間御番におき、能楽、小鼓、太鼓《たいこ》、笛などを仕込んで、美少年能を御覧に入れ、綱吉の鼻息をうかがった。
綱吉は女色もなかなかのものだったが、男色も大好きで、城内に大名旗本の子弟で容色美しい者を集めておく所さえこしらえ、その少年等は男だてらに薄化粧して容を凝らし、夜のお召しを待ったということが『三王外記』に出ている。『三王外記』は当時の儒者太宰春台の著と伝えられる漢文体の史書だ。
当時能役者から旗本に取り立てられる者が多く、本来の旗本等は心中大いに怒ったというが、取立てられた能役者はすべて綱吉の男色の相手だったのである。一端のことはぼくの小説『木に花咲く頃』に書いておいた。
なおこの代官共の会計検査がとんでもない事件を派生している。伊丹康勝は多年勘定頭をつとめて、中々の良吏であったが、脛に傷持つ一色内蔵助という代官に不意討ちに斬りつけられて殺されてしまったのである。
伊丹康勝がいかに良吏であったかについては、『明良洪範』にこんな記事がある。
この時代、スキ返し紙の製造業者が、幕府にチリ紙の専売を願い出、もし御許可をたまわったら、毎年金千両ずつ運上《うんじよう》として献金しようと申し出た。
当時の千両といえば、中々の大金だ。老中等の意向は大体許可することに傾いたが、念のために勘定頭の康勝に意見を聞いてみると、康勝は顔色をかえ、語気荒々しく言った。
「それは天下中の人が盗賊となる途であります」
老中等は笑った。
「これこれ、大袈裟なことを申すものではない。なるほど千両といえば大金ではあるが、天下の人のこらずが盗賊になる途などと、どうしてそんなことが言えるのか」
康勝は説明した。
「チリ紙というものは、世間の人が皆日用に使い、なくてはならないものです。安ければこそ、皆が助かっているのです。そのチリ紙屋は毎年千両ずつ献上するといっている由ですが、その者はその千両をどこから生み出そうと思っているのでしょうか。必ずや紙の値段を上げることによって生み出すつもりなのです。一日としてなくてはならぬチリ紙が高くなったら、米屋は米の値段を上げるでありましょうし、炭屋は炭を値上げするでありましょうし、職人は手間賃を上げるでありましょうし、すべての物価は騰貴し、世の人皆生活に苦しむようになり、苦しさのあまりには盗賊に変ぜざるを得ますまい。即ち天下を挙げて盗賊となるの途ではありませんか」
理の当然に、事はついに沙汰やみとなったという。
今の政治家や役人や鉄道の人々に聞かしたい話ではないか。
さて、護国寺亮賢は、三の丸御殿安鎮修法のため、上州碓氷から出府したが、引きつづいて在府を命ぜられた。
桂昌院は亮賢のために、府下に一寺を建立してやりたかった。母の意向には一も二もない綱吉は、老中土井|能登守《のとのかみ》利房《としふさ》に命じて、適当な地所を探させた。
しばらくたったが、利房からは何の返事もなかったので、綱吉が督促《とくそく》すると、
「相応の地所が存じ当りませぬ」
と、通りいっぺんの返事なので、綱吉は激怒して、
「明日より登城に及ばず」
と言い渡した。
地所見立ての役目は代って、牧野成貞が仰せつかった。
二、三日して、成貞は綱吉に呼ばれた。
「心当りの地所があるか」
「ただいま年寄中に申しつけてありますれば、早々にしかるべき地所を見立てさせます。しばらくの御猶予を――」
「急にないなら、高田御薬園の地をつかわせよ。――普請の大略は浅草寺ほどに」
なるほど、高田薬園は現在手入れも行届かないままに、荒地同然となって放置してある。老中等は、綱吉が城内にありながら、どうしてこんなことを知っているのかと、不審でならなかったが、これは亮賢から内々に桂昌院へ申上げてあったのを、桂昌院がその通り綱吉へ内言したからであった。
奏者番《そうじやばん》兼|御側御用取次《おそばごようとりつぎ》板倉|内膳正《ないぜんのかみ》重種《しげたね》が、普請見廻り方を命ぜられた。綱吉はその後も、さまざまに指図をし、護国寺は完成した。
桂昌院が、こうまで亮賢に力を入れるのは、因縁ばなしがある。
亮賢が京都|仁和寺《にんなじ》の伴僧であった頃、まだ幼年であった桂昌院は母親に連れられて、仁和寺へ参詣に行った。すると、亮賢が行合せて、桂昌院の顔を見ると恐しく驚いた顔をして言った。
「これは不思議なことじゃ。これは不思議なことじゃ」
だしぬけにこんなことをいい出されて、母親は呆気《あつけ》にとられた。
「どうなさったのでございます」
「この子の相をみるとな――」
と、亮賢は桂昌院のあごに手をかけて仰向かせ、しみじみと見ながら言った。
「この子供の顔は、のちのちは威勢天下にならぶものなく、いわば国母御所とも仰がるべき相をあらわしておられる。しかし、打ち見たところそれほどの身分でもないらしいので、いよいよ不思議でならぬ。あるいは出家にでもされたら、あっぱれ高徳の人ともなられるであろう。なんにしても長く親の手元におかれてはならぬ。このことはきっと他言なりませんぞ。万一にも他言なされると、幸いはかえって禍《わざわい》となって、或いは非業の死を遂げられることになろうかもしれぬ」
この母が、本庄家へ乳母に行った女であったか、朝鮮女であったかわからないが、とにかくも、あまりの不思議なことばに、どうしたものかと思い惑っていたが、後年、江戸城大奥に勤めるお万の方が部屋子を募った時、応じて江戸へ下らせた。
ところがはたして家光の目にとまり、御附中臈となり、やがて懐妊して綱吉を生んだ。お万の方は懐妊中、内々で諸寺社へ安産の祈祷を行わせたが、予見の見事な的中を思い出すにつけても、亮賢のことが偲ばれ、よりよりさがさせていたところ、お膝元の江戸で、知足院の住持をしていることがわかった。そこで特に召出して、安産の修法を行わせた。その時も亮賢は、
「このたびの御懐妊は、実に柳営《りゆうえい》の御慶事でございます。生れ給う若君は大将軍に備り給うでございましょう」
と申し上げた。桂昌院としてはますます信心を深くせざるを得ない。
それ以来すべての祈祷は、この知足院へ行わせることにしたが、やがて館林に三十万石を賜ることになると、碓氷八幡宮別当大聖護国寺に亮賢を招請して、ここを第一の祈願所とした。
亮賢の予言したごとく、綱吉はついに五代の将軍となり、桂昌院はその母公として三の丸御殿に入り、国母御所も同然の身分となった。桂昌院の亮賢に対する熱狂的帰依は、思えば、無理のないことであった。
落成した新寺は、桂昌院の持仏であった観世音を本尊とし、寺号を護国寺と賜わった。寺格は京都仁和寺の末寺であるが、関東|真言宗《しんごんしゆう》の大檀林《だいだんりん》であり、将軍家の御祈願所と定められ、寺領三百石が寄進された。
入仏供養を十七日間とり行うについては、幕府から白銀千枚白米三百俵が別に寄進された。また桂昌院、御台所、若君、お伝の方等からも、それぞれ寄進があって、その法会の豪華なことは、前代未聞といわれた。
桂昌院は供養期間中に一度護国寺に参詣したいと思い、堀田正俊まで内々その意向を洩らした。
「護国寺は格別の御祈願にて建立されたもの故、入仏結願の日には、結縁《けちえん》のため参詣いたしたく思うが如何なるものであろうか」
「まことにごもっともなことと存じまする。どうして御遠慮に及ばれましょう」
気軽にお請《う》けしたので、桂昌院方では、それではその用意をしようということになった。正俊はこれを老中方へ披露したところ、意外にも、板倉重種が異議をとなえた。
「入仏供養と申すは、寺法一通りの法会《ほうえ》で、たとえ公儀よりの御寄附を以ってとり行ったものであっても、公儀より仰せつけられたものではござらぬ。それを雑人輩《ぞうにんばら》と同様に、御結縁のために参詣遊ばさるるは、もったいないことでござる。入仏供養相済んでのち、お心静かに御参詣あらせられたがよろしかろうと存ずる」
この主張は、なかなか強硬なものだったから、他の老中からも、
「いかさま入仏供養と申せば、雑人輩の群集《ぐんじゆ》もあり、その中へ御母公御参詣とあっては、彼等が参詣を止めなければならず、それではせっかくの大法会に参詣して結縁を願う者どもに本意なく思わせ、或いはお怨《うら》みがましゅう思う心得違いの者もあるかも知れません。それではかえって御憐愍《ごれんびん》の政道に違い、法会の趣旨にもはずるることでござる。ここは内膳正の申さるる通り、このたびは御延引あらせられ、追って御参詣あらせらるるがよろしかろうと存ずる」
と、反対意見が出た。
老中等の意見が反対にかたまってみると、正俊も争いかねて、その由を綱吉に言上した。綱吉ももっともと思ったので、桂昌院を説いて、その時は思いとどまらせた。
ほどなく板倉重種は西の丸老中を免ぜられた。それについて、堀田正俊から、
「せんだって拝領された御加増一万石は、これを返上願われたがよい。右の御加増は、上様の思召を以って下されたものではあるが、内実は桂昌院殿より厚く御言葉を添えられたものでござる。しかるに御加増後間もなく、御役御免なされたからは、そのまま拝領いたされては、御不興に思召さるるでござろう。されば、これは上より御沙汰のないうちに、返上願いを差出されたがよい。これは拙者これまでの御交誼《ごこうぎ》として、内々申上げるのでござる」
重種は護国寺建立の際の普請見廻り役として精励で周到であるというので、この年の二月一万石の加増にあずかったのであるが、一年立たないうちにこう言われて、返上願いを出した。翌年一月、願いによって一万石を収公されたばかりか武州岩槻から、信州坂本の貧寒地へ移封されてしまった。
二月十一日、桂昌院護国寺参詣のことが触れ出された。
当日は、巳《み》の上刻《じようこく》に出門。先駆は御留守居番内藤|出雲守《いずものかみ》正方《まさかた》、その他御目附、御徒頭《おかちがしら》等数人。供には老中戸田忠昌、若年寄内藤|若狭守《わかさのかみ》重頼《しげより》、御側御用人牧野成貞が配下をひきつれて供奉し、辻固め、人ばらいなどすべて将軍家御成と同一の様式であった。
護国寺では、住持権僧正亮賢が衆徒を従えて、門外まで出迎え、先導して書院へ招じ、それから本堂に案内、簾中《れんちゆう》に着座した。
亮賢は礼盤《らいばん》に登り、衆僧とともに法会を修した。終ってふたたび書院に入り、改めて亮賢に対面があってから、衆僧に御目見得を仰せつけた。それがすむと、白銀五百枚、時服三十を住持亮賢へ、白銀千枚を衆僧に与え、亮賢の案内で寺中をくまなく見物した。
帰途は、小石川御薬園へ立寄り、そこで綱吉から御側衆|朽木《くつき》和泉守《いずみのかみ》則綱《のりつな》をして、御菓子、酒肴を進上せしめたので、ここで食事をし、夕刻になって帰城した。
翌々十三日には、お伝の方が参詣した。御広敷御用人曽根平左衛門、御目附、御徒頭を先頭に立て、御側衆大久保|佐渡守《さどのかみ》忠方《ただまさ》、御留守居杉浦|内蔵允《くらのじよう》正昭《まさてる》を従えて、桂昌院の場合と同様、住持亮賢へは白銀三百枚、時服二十を、衆僧へは白銀七百を贈って、参詣をすませた。帰路は同じく小石川薬園へ立寄って、夕刻帰城した。
その翌日、御小姓浅岡|伊予守《いよのかみ》直国《なおくに》は、突然御役御免となって、阿部|志摩守《しまのかみ》正方《まさかた》の許へ御預けとなった。
前日小石川薬園で、綱吉からお伝の方へ菓子、酒肴を賜った際、言語、進退に高慢の態度があったので、将来の将軍家母公たるべき方に不届至極である、とお伝の方が立腹し、そのしかえしであった。
綱吉には、鶴姫、徳松の二子があった。二人ともお伝の方が生んだものである。綱吉はもとより、桂昌院も掌中の玉のように可愛がっていた。
紀州家から、鶴姫と中納言|綱教《つなのり》との婚儀を願出した。これはさきに、先代家綱の御台所の実姉が紀州家の奥方となって、当時の大奥と密接な間柄があったが、綱吉の代となって家綱時代のことは全部改める方針をとっているので、不安を感じ、綱吉の意を迎えるため、こんな願いをしたのである。
御側御用人牧野成貞の許へ、紀州家から内々の使者がやってきて、
「中将儀《ちゆうじようぎ》もおいおい年頃になりましたにつけ、鶴姫君|御入輿《ごにゆうよ》相成るようにと願っておりますが、この由を将軍家に申上げ、御内慮を伺い下されたい」
と頼み、一方では、紀州家の奥方である安宮《やすのみや》から桂昌院へ頼み込んだ。
綱吉は喜んだ。
「黒鍬の者が生んだ子などと嘲る向きさえあるのに、このようにねんごろに申さるるは殊勝なこと」
と、紀伊大納言光貞父子を登城させ、城内黒書院で、鶴姫入輿のことを口ずから伝え、堀田正俊、大久保|加賀守《かがのかみ》忠朝《ただとも》へ入輿御用掛を命じた。天和元年七月十八日のことであった。
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お伝の方と右衛門佐の局
閨閥につながる人々
堀田正俊は、綱吉相続の一件以来、悪徳代官の粛清《しゆくせい》、鶴姫入輿、御祈願所建立と、とどこおりなく取計った功績により、少将に進み、大老職に任ぜられた。
これには、ふだんから桂昌院が正俊|重用《ちようよう》を綱吉に進言してきたことと、実父小谷権兵衛を弟分としてくれた恩顧に報いるお伝の方のとりなしが、与って大きかったと思われる。
正俊の弟|対馬守《つしまのかみ》正英《まさふさ》が西の丸若年寄を仰せつけられ、若君御守役となり、更にその弟の伊豆守正虎が御側衆となるなど、一門の者みな権職につらなった。
西の丸は、板倉重種が御附老中だったが、その地位を追われたので、正英が若年寄から老中に進んだ。
お伝の方の実父堀田将監こと小谷権兵衛は、黒鍬の者から三千石の寄合衆となったわけだが、元来が身持の悪い男である所へ俄か出世をしたので、手のつけられない道楽者になった。伜に権九郎という者があったが、これがまたおやじに輪をかけた道楽者であった。父子揃って大酒飲みで、酒癖が悪く、飲めば若君|外戚《がいせき》であるとどなり散らして暴れまわるばかりか、市中の無頼漢《ならずもの》を集めて、博奕《ばくち》は打つ、兇状持《きようじようも》ちはかくまうといった調子だったが、お伝の方の実父、若君の外祖父、外伯父というので、その筋の役人も見て見ないふりをするより外はない。父子は図にのって、のさばり放題であった。
父子は、三千石の俸禄のほかに、定期的にお伝の方や堀田大老から、金銀、衣服等を贈られていたが、濫費がはげしいから、家計はいつも苦しかった。それを知った大目附の坂本|右衛門佐《うえもんのすけ》重治《しげはる》は、内々心をかけて援助し、世間にその困窮のさまを知らさないように世話をしつづけた。若君の御代ともなれば、一躍大名に取立てられる身分、こうして諸事に世話をしておけば、他日きっと余慶があると、ぬけ目なくふんでいたわけだ。
余慶は若君の御代を待たずしてあらわれた。天和二年六月、
「常々諸事に念を入れて申しつけている段奇特である」
という理由で、七千八百石を加封されて一万石の大名となり、寺社奉行に任ぜられたのだ。あらたかなる|ききめ《ヽヽヽ》であった。
また、この頃こんなこともあった。お小姓で喜多見若狭守重政という人物があった。中々の才人で、綱吉にも気に入られていたが、この人の弟に茂兵衛重直《もへえしげなお》というのがいた。三百俵小普請組に属していたが、相当な無頼漢で、重政は顔さえ見れば訓戒していたが、これがいつか将監父子と懇意になり、始終出入りするようになった。行状はおさまらないが才気は兄に似てある男で、将監の屋敷へ出入りする遊び仲間が喧嘩などして表沙汰になると、茂兵衛がまかり出て、あっさり貰い下げて来るので、将監父子も大いに重宝がっていた。
重政は苦々しいことに思って、度々意見をしたが、坂本重治の出世を見て、オヤ、と思って、その後は黙過どころでなく、弟を通じて大いに父子を世話することにしたところ、忽ち|ききめ《ヽヽヽ》があらわれて、重治の時から半年後の天和三年の正月、重治の時と同様な上意で、六千八百石を加増され一万石となり、御側衆上座を仰せつけられた。
以上二つのことは大老の堀田正俊でさえも、発表があるまでは知らなかったというから、お伝の方のサシクリであることはまぎれなかろう。
こんなことがあった。
ある時将監父子が茂兵衛と連れ立って、飯田町に相撲興行を見物に行った。隣桟敷に八百五十石書院番曽根|平兵衛頼久《へいべえよりひさ》が見物にきていた。
取組みが進み、場内が熱狂の坩堝《るつぼ》と化してくると、両者はヒイキ力士のことから口論をはじめた。互いに刀に手をかけ、あわや血の雨を降らすかと危ぶまれたが、仲裁に入る者があって、その場はことなくすんだ。
茂兵衛は、これを遺恨に思っていて、その帰途、もちの木坂に待ち伏せしていて、通りかかる平兵衛のうしろから、いきなり棒でなぐりつけたところ、逆に平兵衛に取って押えられて、さんざんになぐりつけられてしまった。
茂兵衛はすごすごと将監の屋敷に行き、このことを訴えた。
「にくい平兵衛め! よしよし、きっと仇は討ってやるぞ」
将監は受合って、出入りのゴロツキ共に平兵衛の身辺をさぐらせてみると、平兵衛もふだんから身持ちの悪い男で、町人からおびただしい借財を背負っているばかりか、返済もせず、強《た》って督促《とくそく》する者があると、「お旗本に対して過言《かごん》、慮外《りよがい》なり」とどなって、抜刀《ぬきみ》を振廻すので、いずれも|ホウホウ《ヽヽヽヽ》のていで逃げ出す始末であることがわかった。
当時は、町人が旗本と金銭貸借のことで、訴え出ることは許されない規則であったので、踏み倒されても、押し借りされても、泣寝入りするより外はなかったのだ。
数日たったある日、綱吉は、老中戸田忠昌を召出して、
「これまで町人は武家に貸した金は返してもらえんでも、奉行所に訴え出て裁許《さばき》を受けることができぬ定めであった由、以ってのほかに不仁の定めである。今後は、さような際は、奉行所に申出て裁きを受けられるよう申しつけよ」
と命じた。
老中から奉行所、奉行所から、これを市中に触れ出したところ、その日のうちから訴え出る町人が、ぞくぞくと奉行所にあらわれてきた。
曽根平兵衛は、真っ先に評定所へ呼出され、詮議の結果、日頃の不身持ちが残らず発覚し、
「旗本にあるまじき所業、重々不届きにつき、斬罪申しつく。また子の内男子の分は父の科《とが》により切腹申しつく」と判決された。
綱吉が何のきっかけもなく、こんな法律のあることを知る道理がない。将監がお伝の方を通じての働きかけであったことは明白だ。放蕩無頼の将監でも、大奥にツテがあれば、これくらい政治を動かすことができたのである。
この将監父子は、のちに博奕のもつれから、御家人《ごけにん》小山田弥一郎、坊主|氏家宗朴《うじいえそうぼく》、僧|元什《げんじゆう》の三人の兇刃《きようじん》に斃《たお》れた。この父子らしい最期であった。下手人《げしゆにん》は人相書きを以って厳重に探索、召捕られて、磔刑《はりつけ》に処せられたが、将監一家にはあとつぎがなかったので、家はそれっきり断絶した。
堀田大老刺殺の謎
貞享元年といえば、綱吉が将軍職をついでから、ちょうど五年目にあたる。この年の八月二十八日のことだ。
月の二十八日は式日で、在府の諸大名が総登城する日であり、将軍も表座敷へ出て、親しく謁見することになっている。
大老堀田筑前守正俊をはじめ、老中戸田山城守忠昌、阿部豊後守正武、大久保加賀守忠朝などが、御用部屋に勢揃いした。
将軍出座の時間も間もない。諸大名はすでに表座敷に粛然と集合して待っている。
堀田大老が老中たちに目くばせして腰をあげた時、彼の従弟《いとこ》にあたる、若年寄稲葉|石見守《いわみのかみ》正休《まさやす》がやってきて、御入側から首を出して、
「御大老」
と声をかけた。
「おお、用事でありますか」
「卒爾《そつじ》ながら、いささかお耳に入れたいことがございます」
「申しなさい。うけたまわりましょう」
「ちと他聞をはばかります。失礼ながらここまでお運び願います」
「さようか」
何気なく立って、そばに行って坐ると、いきなり、
「御覚悟ッ!」
叫ぶや、右手に脇差を引きぬき、左手に正俊をうしろの杉戸におしつけておいて、右の脇腹から左の肩先までつきぬいた。
「石見ッ! 乱心!」
正俊はもがいたが、正休はおさえつけて動かさず、なおつき刺して、グイグイとえぐった。
これを見た老中等が馳せ集まって、寄ってたかってずたずたに正休を斬りさいなんでいる間に、弟の対馬守正英は、斃れた正俊のもとへかけてきて、
「浅傷《あさで》でござる。御気をたしかに!」
と、呼ばわったが、正俊は一向に反応がなかった。
何しろ、つきさしてえぐった刀の切ッ先が杉戸にとおり、切ッ先が五分ほども折れたというから、大へんな重傷だ。もう落命していたのかも知れない。
老中等は、綱吉に事件を報告するかたわら、諸大名には、今月の謁見は都合により御取止めになったことを告げた。大椿事だ。表、奥とも、一時は騒然となって、取鎮めようもないほどであった。
御側御用人牧野成貞は、御前の様子を気づかって、奥の休息所へかけつけようとすると、柳沢弥太郎という御小姓が走り寄ってきて、成貞の前に立塞った。
「いずれへ参らせられます?」
「御前心許なき故、まかり出るのだ。何故にとめ立てする!」
振り切ってかけ入ろうとすると、弥太郎は成貞の腰のあたりを指さして、
「それは何事でございます」
と、言った。成貞も自分が帯刀のまま御前に出ようとしているのに気づいた。
「あやまり申した」
と、言って、脇差をぬきとって後ろの方に投げた。
「さらば、御案内いたします」
おちつきはらって、弥太郎は先導した。
弥太郎の沈着なふるまいを、綱吉は眺めていたので、成貞を案内して来た弥太郎に向って、早速、
「いそがしき中にも落着きたるただいまの仕方、神妙であるぞ」
と、褒めた。
「まことに負うた子に浅瀬を教えられました。ゆく末御用に立つべき者でございます」
と、成貞は相槌を打った。
これが弥太郎立身の端緒と伝えられている。
堀田家の家督は、相違なく嫡子|下総守《しもうさのかみ》正仲《まさなか》に賜わった。一方、正休は、乱心とはいえ、殿中で大老を殺害したことは不届至極とあって領地没収、家断絶となった。時めく大老の家だから、堀田家の門前は連日見舞客でごった返したが、稲葉家へは訪れる人もなく、水戸光圀ただ一人が、自身弔問して、老母に会って、
「石見守一命を捨てての御奉公だて、余は感じ入っている。あまり御愁傷《ごしゆうしよう》めされぬがよい」
と、慰めたという。
この刃傷《にんじよう》の原因は、歴史上の謎になっている。当時の幕府は乱心ということで片づけているが、乱心でないことは、正休は前もって邸内の整理や家来どもの処置までして、幕府からのさしずがあり次第即座に邸を引払う準備をしていることを以ってもわかる。
その頃、長曽禰虎徹が神田に住いして、名刀鍛冶の名が高く、その鍛えた刀は鍬をつらぬくと言われていた。正休は虎徹に注文して数|口《ふり》鍛たせ、一本々々鍬をついて見て、見事につらぬいたのを帯びて、その日は登城したというのだ。十分に計画し、十分に覚悟しての刃傷だったことは明瞭である。
原因は色々に推察されている。
堀田大老が権勢に狎《な》れて驕慢なふるまいが多くなったのを、正休が憤って誅伐を加えたという説。その証拠として上げられるのは、四月十七日は家康の忌日で、将軍も深く謹慎して一切精進する日であるのに、この年のこの日に正俊は大川に舟を浮かべて網を打たせるような不謹慎なことをして、問題になったという。正休は一族の一人として、
「こんな風では将来どんなことをしでかすかわからない」
と、慷慨して、これを除く気になったという。
大坂安治川の治水問題について、河村瑞軒と正休との間に見込みの食いちがいがあった時、正俊が瑞軒にひいきしたのを憤ったという説。しかし、安治川問題はこの時から七年前のことだ。
その他、江戸時代の小説風の読み物に出ている説まで上げると、諸説紛々であるが、ぼくはこう考えている。
堀田正俊は、綱吉にとっては大恩人だ。正俊の力で将軍になることが出来たのだ。それで、正俊を大事にして、大老にもしたし、領地も増やしてやったし、権勢もあたえた。しかし、年月がたつうちに、綱吉は最初の感激が失せて来た。正俊から受けるものは恩を負うているという圧迫感だけとなった。気に入らないからといって、退けては人の道にそむく存在であるだけに、その圧迫感はたえがたいものであったに違いない。
この綱吉の気持ちが、正休にはわかった。これを除くことが忠義であると信じた。正俊が一族の一人であるだけに、そうせずにはおられないものがあったろうと思う。
一体、正休という人は、こんな時に特に忠勤をぬきんでなければならない因縁のある人であった。彼の父伊勢守は、数年前に家来共から殺されている。しかも、その原因が男色関係なのだ。伊勢守の家老安藤某というものが、伊勢守の寵愛《ちようあい》している小姓松永某という者と密通して、それがばれそうになったので、共謀して殺したのである。武士として家来に殺されるさえあるに、それがこんな原因であるとすれば、家断絶はまぬがれがたい所だ。しかるに、正休は、子細なく家督をつぐことが出来たばかりか、その後加増をもらい、若年寄という顕職にまでついた。
この厚恩にたいして、正休は報ずべき義務があった。堀田正俊という人は、公平に見て決して悪い人ではない。人間のことだから、家康の忌日を忘れるくらいの間違いはあったかも知れないが、心術の点からも、政治的手腕の点からも、一応立派といってよい人物だ。彼が生きている間は、綱吉のあのでたらめな悪政がはじまらなかった点を以って見ても、それはわかる。そんな人物を除くことが、果して真の忠誠であるかどうか疑問だが、当時の武士としては、主君が圧迫を感じているような者を除くことは忠誠の道だと信じたのは無理はないであろう。
現に、刃傷の時、彼の懐中にあった遺書には、父の事件を述べて君恩を謝し、こう結んでいる。
「生々世々有難き仕合せ、御高恩報じ難く存じ奉り候。それによって、筑前守を討ち果し申し候。以上」
光圀が唯一人弔問したという理由も、これならわかる。
ぼくの説は、最初に上げた正俊驕慢にやや近いが、正俊の驕慢の例として上げられる所は、家康の忌日に網を投《う》ったということだけだから、ぼくには首肯出来ないのだ。核心は綱吉の心理にあると見るのである。
とにかくも、綱吉は家来に大きな権力を持たせることにこりごりした。そこで、これからは誰にも大きな権力は持たせず、万事を独裁で行こうと決心した。
大老職を取止め、御側御用人として牧野成貞のほかに、松平伊賀守|忠周《ただちか》、喜多見若狭守重政の両人を取立てた。また諸大名、旗本中から、目がねにかなった者何人かを選抜して昵近衆《じつきんしゆう》とした。いわゆる御側御用人政治のはじまりで、御側御用人が、このように多勢になったのも、この時代限りで、あとにも先にも見られないのであるが、これらの御側御用人共は、要するに事務官で、政治の根本はすべて綱吉の独裁であった。少くとも当初においては、綱吉はこの御側御用人共にも権力を仮したくなかったにちがいないが、独裁制のもと、独裁者に側近する者に権力が付随するのはしぜんの勢いだ。やがて彼等は中々の勢いとなった。
こうして綱吉の独裁がはじまった上に、事務官として御側御用人などという者が出来てくると、老中という職は宙に浮いて来る。それは自然の勢いだが、綱吉自身が意識的にそれにつとめた点もある。たとえば、上野、増上寺の諸|霊屋《みたまや》代参は、従来老中が勤めていたのを、綱吉は御側御用人に老中格の待遇をあたえてこれに当らせることにした。老中の権力が次第に縮小して行ったのは、ほかにも原因がある。従来殿中の老中等の執務室、即ち御用部屋は将軍の御座所と接近していたが、堀田の刃傷事件以後危険であるとして、これを遠くに持って行き、代りに御側御用人の詰所を側においた。老中の権力は益々衰え、御側御用人の勢力は益々増大せざるを得なかった。
綱吉の施政上画期的な点は、諸大名に譜代《ふだい》、外様《とざま》の差別があったのを、一様に御朱印を賜ったからには、その差別なしとして、各自才能次第で役儀を仰せつける旨を定めたことであった。徳川家も五代たって、権力の礎《いしずえ》が確立していたからでもあるが、綱吉の満々たる自信のほどが見える。
改革は日を追って進められた。独裁制の長所は、スピードだ。信賞必罰、功ありと見れば直ちに賞し、罰すべしと見れば直ちに罰し、びしびしと実行して行ったので、時として目のさめるような治政となってあらわれたが、綱吉がどんなに賢明でも、神様でないかぎり、全部に目がとどくはずがない。その判断の材料は側用人共その他側近の者から聞くより外はない。この者共が忠誠無私ならまだよいが、何とかしてお気に入って利得したいと思ったり、自分に因縁のある者によかれとするのが普通の人情だから、申し上げる所が公平を欠くことは自然の勢いだ。その上、孝行者の彼は、桂昌院の言葉は何によらず従った。その政治は次第に妄断の弊害がきざし、政局ははじめの構想とは全く似もつかない、悪政百出という有様になってくるのである。
光圀の主張
天和三年、若君が薨去した。
綱吉の嘆きは、はたの目も傷《いた》ましく、老中等も側用人等も、わけもなくいらいらと怒りっぽくなった綱吉の顔色をうかがっては御前をおろおろするばかりであった。
綱吉には、紀州家の綱教へ嫁《よめい》っている鶴姫だけがわが子になった。何かにつけて、鶴姫を城内に呼び寄せた。鶴姫の相手をして遊んでいると、心の悩みが、しぜんに紛れるのである。
ひんぴんとして呼ぶから、ついには紀州家でも、
「こりゃ、ひょっとすると鶴姫様にお城内に移れと御沙汰があるかもしれない。そうなれば鶴姫様の旦那様である殿様もお城内におうつりになることになる。とりもなおさず、それは殿様が将軍御養子となられることである」
と、考えてホクホクし出した。
利にさといのは人の常だ。世の人々の動きにも、それが敏感にあらわれてきた。新しくツテをもとめて紀州家へ取入る人々が多くなったので、いつか綱教は将軍家若君のような勢力を得て来た。
六代将軍の跡目は、綱吉の実子がなければ、綱吉の兄甲府|宰相《さいしよう》左馬頭《さまのかみ》綱重《つなしげ》の子、中納言|綱豊《つなとよ》が、相続するのが順序であるが、甥より娘の聟が可愛いのは自然の人情だ。桂昌院やお伝の方に至っては一層それが切だ。綱豊という人がいなかったら何も問題もないのにと、露骨に綱豊を邪魔者扱いにしはじめた。
貞享三年の元旦、柳営年賀の儀式の日、諸大名の総登城の折、大廊下の間に、御三家の人々が集った。
一体、御三家の座位は官位年齢にかかわりなく、家をついだ順ということになっているので、まず尾張大納言光友、次に、水戸中納言光圀、次に甲府綱豊、末席が紀伊綱教という順であった。
この日水戸光圀は、一足おくれて登城したが、部屋へ入ると、まず尾張光友に向って挨拶した。
「久々でござる。いつも御健《おすこや》かで――」
それがすむと、綱豊の前に進んで、いんぎんに会釈して、
「いよいよ御安泰の段珍重に存じ奉る。これまでは失礼をいたしましたが、今日よりは思う所もござれば、あれへ御着座下されたい」
といって、辞退する綱豊を、強いて自分の坐るべき座につかせ、自分はこれまで綱豊の占めていた席に坐って、それから紀伊綱教に挨拶をした。
これを見ていた人々は肝をつぶし、中には水戸公は狂気されたのではないかとささやく者もあったが、心ある人々は、光圀の真意をさとり、水戸公ならではできぬことだと、感じ入った。綱豊を揚げ、綱教をおさえることによって、次の将軍たるべき人は綱教でなく綱豊であることを、柳営内の人々に、光圀は示したのである。
光圀という人は、家の継嗣については、特別厳格な意見を持った人であった。
彼は幼少の頃、二男でありながら、兄頼重をこえて水戸家のあとつぎと定められて、水戸家の当主となったのであるが、十八歳の時、史記列伝を読み、伯夷叔斉の故事に感発《かんぱつ》されること非常なものがあった。
「おれは二男でありながら、家をついで、今日まで何の疑いも悩みも感じないで来たが、伯夷と叔斉は家のあとつぎをゆずり合って、ついに両方共国を逃げ出したではないか。おれの道徳観念と彼等の道徳観念の高下は天地もただならない。恥ずべきである。これというのも、おれが学問しなかったからだ」
と、学問に精出し、そのあげくには、あの厖大《ぼうだい》な「大日本史」の編纂まではじめたのである。
彼は自分の継嗣を定めるにも、実子の頼常を兄の頼重(讃岐高松の松平家祖)の養子にやり、頼重の子綱方を迎えて自家の養子とし、綱方が病死すると、更に綱方の弟の綱条《つなえだ》を迎えて養子とし、ついにこれに水戸家を譲りわたしたのである。
こんな光圀だ。綱吉が兄の子綱豊をさしおいて、娘聟の紀州綱教を養子として将軍職を譲り渡そうとするのを黙視出来るはずはなかった。
つまり、彼はこう考えたのだ。
「前将軍のなくなられる時、もし甲府綱重殿が御存命であったなら、兄弟の順序上、将軍職には、綱重殿が即《つ》かれたはず、綱重殿が御存命でなかったから、現将軍が即かれたのだ。綱重殿には綱豊殿という御子息がおられる。さればこの方を次代の将軍家と立てられるのが本当である」
さて、大奥では、光圀の大廊下の間での仕打ちを伝え聞いて、水戸様は甲府様をひいきにして、紀伊様を抑えなさると、しきりに気をもんで、綱吉に訴えた。
綱吉も、内心、はなはだ面白くないのだが、さりとて、跡目を鶴姫にとはいい出せない。一層鬱々とした日を送るようになった。
御側御用人牧野成貞は、何とかして綱吉のふさいだ気持ちを慰めたいと考え、能楽をすすめた。普通では面白くないから、趣向を変えて、自分も相手役を勤め、桂昌院や大奥の女中たちにも見物させて、綱吉の心を引立てるようにした。
御側衆や御小姓連を相手に演じたことはあっても、成貞のような顕職にある者と共演したことは、はじめてだったから、綱吉はよろこんだ。ついには、御三家、甲府綱豊、加賀|綱紀《つなのり》などをかわるがわる呼んで相手役を勤めさせたりして、鬱気はすっかり晴れた。
こうすると、世間はあさましい。
「それ、上様は能楽がお好きだぞ」
とばかりに、諸大名、諸旗本、争って能楽の稽古をはじめて、四座の能楽師は空前絶後の繁昌ぶりを見せた。
「上の好む所、下これより甚だしきはなし」という金言があるが、極端に専制的な時代には、何事によらずこうだ。専制者に気に入られて利得したいという念が人にあるからだ。現代の賄賂盛行も、つまりは、専制的であった戦争中と戦後の占領期間に、政府や占領軍司令部に気に入られて自分だけうまいことをしようという人々のやり方がついに一般的気風となって今日に及んでいるのだ。
牧野成貞の献妻
さて、鬱懐が散じたにつけても、綱吉は、牧野成貞に感謝した。しかも、成貞は綱吉が館林侯であった頃からの家老で、多年の忠勤もある。なんとかして酬《むく》いてやりたいと思っていたがついに、
「よし! 備後の家に行ってやろう」
と、決心して、成貞を召出して、このことを申しわたした。
一体諸大名が自邸に将軍のお成りを仰ぐことは非常な名誉で、それだけにめったにないことで、これまでの例では、御三家か、連枝か、加賀だとか、仙台だとか、最高級の大大名である国持大名の家か、譜代大名なら井伊・酒井・堀田等の大老格の家にかぎられていた。
成貞は狂喜しつつも、「あまりなること、空恐しゅうございます」と、辞退したが、綱吉はきかない。
「余が行きたいというのだ。請《う》けい」
と言い張る。
成貞はついにお請けした。
かくて、貞享三年二月二十一日に綱吉は成貞の邸に行き、二万石の加増をはじめ様々の下賜をした後、終日楽しく遊んでかえったが、その後もしばしばあるいは綱吉だけ、あるいは桂昌院やお伝の方を伴って行った。
この間のことは、ぼくの小説『柳沢騒動』に詳記してあるが、この度々のお成りの間に、綱吉は不倫きわまることをしている。成貞の妻である|あぐり《ヽヽヽ》を犯し、さらにその娘である安子を犯し、そのために安子の夫で、成貞の養子である成時は自殺している。
これが、江戸時代史上有名な「牧野成貞の献妻」と言われている事実だ。もっとも成貞の妻は以前館林家の奥に仕えていて、その頃綱吉と関係があったのが、お成りを機に焼け木杭《ぼつくい》に火がついたのであるという説がある。
この最初の牧野邸お成りの日、牧野家のまわりを、編笠をかぶった騎馬の武士がくるりくるりとまわっているので、警固の者共が驚き怒ってとがめると、それは水戸光圀であったという話がある。格法を破って牧野ごとき成上り大名の家へお成りなどする綱吉に対する諷諫《ふうかん》であったのであろう。
右衛門佐の局の下向
表にも、奥にも、お伝の方の威勢が行きわたって、御台所などは、あってなきがごとき存在であったので、御附上臈万里小路は、以前から憤慨しきっていた。
一方、御側御用人の一人松平伊賀守|忠周《ただちか》も、綱吉が自分等を無視して勝手な抜擢をしたり、密告によって厳峻な裁きをし、政治ぶりに大らかさがないので、何とかして矯正したいと考えていた。
また老中戸田忠昌は、この頃の綱吉が趣味に惑溺して能役者にもひとしい振舞いをして喜んでいるのを見て、内々苦々しく感じていた。
この三人の思いが、いつとはなしに通じ合った。とりわけ戸田忠昌は、以前京都所司代であった時代、御台所の里方鷹司家へ時々出入りしていた関係上、万里小路とも親しく話しあう仲であったが、ある時、万里小路にこんな相談を受けた。
「御台所には、つねづね文学風流の遊びをこの上もなくお楽しみ遊ばされまするが、何分にも女中共のなかにしかるべきお相手を仕る者もありませんので、いつも御不満に思召しておられます。それ故、京都へ仰せつかわされて、しかるべき者を一人、お下しあらせられたらいかばかりお喜びでございましょう」
「おお、おお、それほどのこと何条仔細がありましょうや。早々に京都へ仰せつかわされるがよろしかろう」
と、忠昌は、気軽に承知した。
そこで、万里小路から御台所の仰せとして、御台所の叔母准后御所(新上西門院)に仕える権中納言の局の許へ、次のような手紙を送った。
――この地の者は無骨者《ぶこつもの》が多いので、御台所には御側に和歌、物語の講釈、香合わせ、生花等の遊びのお相手がなく、まことにつれづれの堪えさせ給わぬおん有様でありますから、才学|秀《すぐ》れ、かつ、容貌賤しからぬ者を一人下し給わりたい。旅中その他のことは、老中から所司代に申含めてあります故、武家伝奏まで御沙汰あらば、万事とどこおりなく取計らうことになっております――
里方の鷹司家へも、御台所から直接、同様の意味のことを書き送った。
権中納言の局と鷹司家とでは、色々と人選をした結果、准后御所に仕えて、常にお話相手を勤めている常盤井の局がよかろう、ということになった。
常盤井の局は、水無瀬中納言信定の姫君であった。信定卿は当時公卿なかまで中々の学者といわれている人であったが、局は幼少の頃からこの父君について、和歌や学問に励み、准后御所きっての才女とうたわれ、容貌もまた美しかったので、帝の御覚《おんおぼ》えもめでたい人であった。
この常盤井が下向してきたのだから、御台所の喜びは一方でなく、すぐに御附上臈とし、万里小路の相役を仰せつけ、毎日側において、和歌や物語の講釈から、香合わせ、挿花、双六《すごろく》、囲碁のお相手まで勤めさせた。
権中納言の局と鷹司家とで折紙をつけてよこした者だけに、何をやらせても秀れていた。源氏物語や古今集の講義など、一人できくには惜しいほどなので、御台所は大奥の総女中に聴聞《ちようもん》を許した。
日がたつにつれて、御台所の方の女中等の進退立居の様子が典雅になり、お伝の方御附と御台所御附とでは、女中等のたしなみのほどが、はっきりと見分けられるようになった。
綱吉は、お伝の方から、御台所の催しを聞くと、今まで和文の講義というものを聴いたことがないので、御台所の方へ行って、
「かかる催しはまことに珍しい。予も聴聞したい」
と、所望して、講義の席につらなったが、いっぺんで心を奪われ、帰るとすぐ、乳人岡山の局を御台所の許へよこして、常盤井の局所望の旨を申入れさせた。
御台所は、せっかく日常の相手にと京都から召下した局ではあるが、将軍家の所望とあれば、拒むわけにはいかない。
「さっそくさよう申しつけます」
とお請けして、局を呼び出して話をすると、局もお受けした。元来この頃の京都公卿の娘は、ほとんど全部がある意味での売物といってよい。将軍や大名の妾となってその仕送りで家計を助けるのが普通で、中には田舎の大百姓の妻となって下って行く者も少くなかったのだ。局が拒まなかったのは当然であった。
かくて、局は将軍家御附中臈となり、同時に大奥女中の総支配を命じられ、賄料として千石を賜り、名を右衛門佐の局と改めた。
「女中どもの行儀躾の儀は、遠慮なく申しつけよ」
綱吉は直々言葉をそえた。色で奉公する御附中臈が女中の総支配を命ぜられた先例は家光時代にお万の方があることはあるが、要するに特例だ。そのようなしごとは「お清」でなければならないという考え方が大奥中にあるので、こんなことばをそえなければ納まらなかったのであろう。
右衛門佐の局は、綱吉第一の寵妾となった。お伝の方は小谷《こや》の方と名を改め、三の丸に新居を建て、御側衆の弥太郎の後身である柳沢出羽守が、工事の総奉行を仰せつかった。これは三の丸別御殿と呼ばれた。
綱吉は、右衛門佐の局の感化で、ふたたび学問に心を傾けるようになった。老中はじめ諸役人を召出して、自ら論語を講義してきかせた。しまいには、御三家、甲府公、加賀侯等を召して講義して聞かせたのみか、それらの人々にも講義を所望したので、忽ち大名の間にも学問が大流行となった。
綱吉は、毎月八回講筵を開くことを定めて、はじめ論語、それがすむと、次ぎは周易の講義にかかった。年頭の勅使饗応にも、能楽のほかに、儒学の講筵を開き、日光御門主(上野)や増上寺大僧正やその他の神職や僧侶等に対顔の際にも、必ず講義して聞かせた。
いい気なものだ。古代ローマの暴君ネロは、群臣を集めては竪琴を弾きつつ自作の詩を朗吟して聞かせるのがくせで、天才詩人と呼ばれるのを何よりも喜んだと伝えられているが、綱吉もこれに似ている。いくらか学問や芸術の嗜みのある暴君は皆こうなるものらしい。漢の武帝だってそうだ。
ついに桂昌院から苦情が出た。
「御学問に心を入れさせられますことは、まことに有難うございますが、日頃御政道に心を労せ給う上に、さらに御学問に心を傾けられては、御養生のためにいかがかと存じます。やはり時々は、御慰みをも遊ばされるがよろしかろうと存じます」
綱吉を|とりこ《ヽヽヽ》にした、右衛門佐の局に対する嫉妬も、あったにちがいない。孝行者だし、きらいではなし、綱吉は、母の言うことをきいて、学問の余暇には、また能楽を楽しむようになった。
今や、大奥は小谷の方派と局派の二派に別れて、激烈な勢力争いがはじまり、それにつれて、御側御用人までが、軋轢《あつれき》し合うようになったが、その|すき《ヽヽ》に乗じて、巧みに双方に取入りながら自己の権勢を伸ばしてきた者がある。柳沢保明と知足院隆光であった。
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桂昌院の信仰
子孫繁栄の祈願
これより以前、貞享三年のこと、知足院の住持恵賢が病気にかかり、危篤状態となった。桂昌院から、護国寺亮賢の許へ使者を立て、恵賢にもしもの場合、知足院の後住を誰にしたらよいかと、問合せた。
これに対して亮賢は、
「私こと久しく関東にまかりあって、上方の様子が不案内でございますが、かねて承りますれば、和州|長谷《はせ》寺の慈心院住持隆光こそ、行法共にすぐれた者であります由。この者は拙僧と同国の出生で、幼年のころ同国|招提《しようだい》寺の朝意律師に従って得度《とくど》仕り、その後拙僧が長谷寺におります頃、拙僧に従って修業をいたしましたる者で、年齢はさほどにはございませんが、持戒、法徳ともに抜群と同宗中に沙汰されております。知足院は御祈願所の大切なる寺でございますれば、この者のほかはしかるべき者を存じません」
と返答した。
こうして江戸へ下った隆光は、護国寺亮賢とともに、三の丸御殿へ召出されて、桂昌院と対面したが、その席へ綱吉も出座して、般若心経《はんにやしんぎよう》の色即是空《しきそくぜくう》、空即是色《くうそくぜしき》の講義を命じた。隆光の講釈ぶりは見事であった。
隆光が退出したあとで、綱吉は桂昌院に、
「かの者は学僧でございますな」
と、折紙をつけた。生仏様ほどに信仰している亮賢の口をきわめての推薦である上に、可愛さが昂《こう》じて今では崇敬というほどの気持でいる綱吉のこの折紙つきだ。桂昌院の隆光に対する信仰はいや増した。翌日また呼び出して、桂昌院は、護国寺亮賢同様、常に護持祈祷相勤めるようとのねんごろな言葉を与え、権僧正に任ぜられた。
天和三年、若君が薨去した。綱吉の嘆きの深かったことはすでに書いた。
親として、子を亡くした悲しみもさりながら、のこる所は鶴姫しかないので、せっかくの将軍の座を一代限りで、ほかに渡さなければならないという煩悩ももちろんあった。
桂昌院は綱吉の毎日をじっと見守っているうちに、この上は神仏の力にすがって新に世子出生を祈願するほかはないと考えた。すぐに知足院へ使者を出した。不意のお召しにかけつけてきた隆光を、御側近く呼び寄せ、御子孫繁栄の祈祷に丹誠をこらしてくれるようにと耳打ちした。隆光は居ずまいを正し、
「仰せの趣き委細かしこまってございます。さりながら、これはなかなかの大法でございますから、先ず清浄の地をえらんで、よろずに清浄にいたさんでは、叶わぬことでございます」
と、答えた。
綱吉は、あとでこのことを聞かされると、
「もっともな申し条である。それならば先ず祈祷所として、寺を建ててやろう」
と、一ぺんで隆光の策に引っかかった。
昵近衆《じつきんしゆう》大久保佐渡守忠高が命を受けて、隆光を招んで、綱吉の仰せを伝え、相応の地を見立てるようにいった。
隆光は、心中ほくそえんで答えた。
「かかる法壇は御城の鎮護でございますから、鬼門と申して丑寅の方角に当る地に建立すべきものでございます。しかしながらすでに上野寛永寺が、鎮護の地を占めておりますから、それまでには及ぶまいと存じます。幸い神田橋御門外にある御用地は、御城に近く、しかも北方に当りますれば、かの地へ建立されるがしかるべしと存じます。もっとも土地の儀は如何なる場所でありましても、地鎮の修法を行いますから、少しも苦しくはございません」
心得たものだ。神田橋外を固執してはスラスラと事が運ばないかも知れないと、予防線を張ったわけだ。
祈祷所は神田橋門外に建立ときまった。綱吉自身が図面を指図するという気の入れ方で、
「護国寺より一倍大きく申しつけよ」
と、大久保忠高を若年寄上座、御側御用人格に昇進させ、普請の総奉行を命じた。
土木工事がはじまると、隆光は内々に言上した。
「このたび御祈願所として、新規に一寺を御建立あらせられることは、まことに有難きしあわせに存じますが、およそ一山の開山は古来より法徳卓絶の者がなすことは、諸宗皆然りでありますが、中にも真言宗に於ては別してこれを重んじまして、私ごとき凡僧ではその器にあたりません。知足院は年久しき御祈願所のことでございますから、このたび御建立の寺は、知足院を御引移しと遊ばされ、現在知足院内に御勧請申上げてある東照宮の御宮を新たに御造営遊ばされ、その御宝前で御子孫御繁栄の御祈願を、相勤め申したく存じます」
ここが隆光が姦僧でもあれば、ある意味での傑僧でもあるところだ。知足院内に新たに東照宮を造営して、その宝前で将軍家御子孫御繁栄の祈祷を勤めることは、上野の宮に替って城内の鎮護の祈祷の権を奪取することになるのだが、同時に先輩たる亮賢をも喜ばしているのだ。しかし、綱吉は隆光の言葉通りに受取った。
「隆光の謙譲な申し条まことに殊勝である。いかにも聞きしにたがわぬあっぱれ法徳の者である。ことに東照宮御宝前で、祈祷を修せんとの願いはまことに殊勝である」
と、知足院の近傍五万坪の邸宅を取り払い、東照宮を造営することになって、御供所《ごくうしよ》、御装束所《ごしようぞくじよ》など、ことごとく上野同様にするよう命じた。
普請をめぐる事件
元禄元年三月、知足院本堂、客殿、鐘楼が完成した。先ず桂昌院が参詣をし、普請の様子を検分した。
六月には、東照宮をはじめ護摩堂、常行堂以下七堂|伽藍《がらん》が完成した。
七月一日、綱吉が参詣した。寺内を見廻ると、知足院本坊の普請が、他の建築に比べて、材も粗末であり、すべてのできばえが見劣りしているように感じた。勃然として怒り、総奉行大久保忠高を呼びつけた。
「全く以って粗材を用いるよう申しつけたことはございません。元来私はかようなことは不案内にございますれば、万事は御普請奉行堀田甚右衛門並に大工|棟梁《とうりよう》小沢筑後の取計らいに委せておいたのでございます」
忠高は、真っ蒼になって弁解したが、綱吉は耳をかさない。
「追って沙汰いたす」
と、噛んで吐き出すように言って、足音荒く立去った。
忠高は御前を退ると、すぐ帰宅し、そのまま謹慎して命を待った。
老中月番阿部豊後守正重が、この事件の吟味方を仰せつかった。
普請奉行堀田甚右衛門と大工棟梁小沢筑後を吟味すると、知足院本坊に用いた柱のうち五本が、御材木方にしかるべき材がなかったので、市中から買上げたが、ただ少しばかり品が劣っていたと答えた。これは、重要な御祈願所の普請であるから、諸事に格別念を入れるべきところを、怠慢な仕方であると、綱吉は立腹した。
「憎きものかな、きっと申しつけよ」
厳命によって、大久保忠高は、「常々勤め方思召しに叶わず」とあって、御役御免。堀田甚右衛門は「大切の御普請を疎略に申しつけ、常々御奉公念入らざる仕方不埒」とあって、三宅島へ遠島《えんとう》。大工棟梁小沢筑後、材木方山角権兵衛の二人も、同様三宅島を申渡された。
堀田の子二人は西崎|隠岐守《おきのかみ》忠成《ただしげ》へ、山角の子三人は中川|佐渡守《さどのかみ》久恒《ひさつね》へ、それぞれお預けとなり、筑後の子一人は追放となった。
この顛末《てんまつ》を耳にされた上野の宮、天親法親王《てんしんほうしんのう》(一説によると執当凌雲院僧正、一説によると増上寺の祐天上人)は、
「さても嘆かわしいこと。そもそも仏というものは、衆生済度《しゆじようさいど》を以って根本とし、済度は慈悲を以って第一とする。このたびの普請にかかわった者どもが、たとえ将軍家の命に違背したとしても、隆光がいかようにもとりなし、御慈悲を願うてこそ僧たる者の本分である。まして仏如来《ぶつによらい》の樹下石上《じゆかせきじよう》の御事を思えば、普請の粗末など何ほどのことがあろう。かかる有様では、この寺のために後々もまた、罪をこうむる者が出なければよいがのう」
と、側近の人につぶやいたという。自分等の権威を奪おうとする新しい商売がたきに対する敵意もあったのであろう。
しかし、はたして、のちに隆光のすすめによって生類御憐《しようるいおんあわれ》みの法令が出され、世を挙げての痛苦に立ち至ったのである。
知足院本坊の改造には、御側衆柳沢出羽守保明が当った。小谷の方の住居別殿の普請総奉行を命ぜられた時、万事に手落ちなく、しかも急速に完成させた功績を買われたものである。
十一月十八日、普請改造工事はとどこおりなくすんで、綱吉の御成りとなった。参詣をすませ、本坊で住持隆光に御目見得を仰せつけ、小袖十、屏風二双、その他三種二荷の品物を引出物として与えた。この日特別の御沙汰によって、隆光は大僧正となり、知足院改め護持院となり、寺領五百石、関東新義真言宗の大本山と定められた。
柳沢保明は、さきに小谷の方の別殿造営の奉行を勤め、いままた、こじれた知足院改造奉行を無事に勤め上げて、桂昌院を満足させた。この二人を喜ばせたことは、すぐに効き目があらわれ、二千三百石の御側衆から、一躍一万石の御加増を賜わり、御用人を仰せつけられるという目ざましい出世をした。
綱吉は、このたびの保明登用が、もっぱら、桂昌院と小谷の方の推挙によるものだったから、昵近衆南部|遠江守《とおとうみのかみ》直政《なおまさ》を、保明同様御側御用人に取立てることで右衛門佐の局の手前をつくろった。御側御用人はこれで六名になった。
この柳沢保明は、もとをただせば三百五十俵小十人組の刑部左衛門安忠の伜であった。安忠が、綱吉の御櫛番となった縁故で、彼は九歳の頃から、奥向きに仕え、御小姓、御小納戸役、御側衆と、ずっと綱吉と桂昌院の膝下で成長し、それだけに、目もかけられ、よく両人の気質ものみ込んで、機嫌をそらさないように奉公してきたのである。彼は美少年だったので、美少年好きの綱吉に愛されたばかりか、学問好きの綱吉は、彼を弟子にして、素読を授け、「余が最初の弟子」と言っていた。抜目のない彼は、和歌の道にも志があるのを利用して、折りにふれて詠んだものを、右衛門佐の局の許に差上げ、その指導を受けることによってこれに取り入った。
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悪法の背景
狐狸変じて犬となる
江戸城内、吹上御苑から紅葉山にかけて、雉子《きじ》、兎、狐、狸などが多数棲息していたが、場所柄、捕えるものがないので、年々繁殖する一方で、ついには人を恐れる気色《けしき》もなく、食物を求めて奥の大料理の間や、大奥の長局の縁の下に棲み、時によると、白昼、座敷や廊下に姿をあらわすことさえあった。
これには女中たちも困りはてて、右衛門佐の局まで訴え出た。
局としても、これをどうするという策もなかったが、ふと、文選《もんぜん》の中に「猛虎山中に在れば、百獣|震懾《しんしよう》す」という文句のあるのを思いつき、虎の皮を出しておいたなら、狐狸のたぐいは恐れて近寄らないかも知れない、と、そんなことをいって帰した。
そこで御小納戸《おこなんど》に貯えてある虎の皮を、大奥の主な座敷に一、二枚ずつおくことにした。すると、不思議なことに、狐狸の姿は一時見えなくなったが、しばらくすると、今度は長局の方から苦情が出て来た。白昼群をなして横行し、食物を食い荒して、手がつけられないという。捨ててもおけず、老中から長崎奉行にあてて、「今年唐船が持って来る虎の皮は、ことごとく御公儀にてお買い上げになる」と申し送り、届いた分をそれぞれ一、二枚ずつおくことにした。
しかし、これとても全部の部屋に行渡るものではなかった。右衛門佐の局も、ほとほと手を焼いていると、局の養子の桃井内蔵助が、時候見舞にきた時、
「それには、犬を御飼いになるのが一番お手近で効果がございましょう」
と、智恵をつけた。
なるほど、と、試しに各部屋々々で一匹ずつ犬を飼うように計ったところ、テキメンに効き目があって、あれほど縁の下に群棲していた狐狸は、どこへ行ってしまったのか、ことりとも音をさせなくなった。
本丸はそれですんだが、二の丸、三の丸は、いままでそれほどのことはなかったのが、本丸を追われた狐狸が、ここへ逃げてきたので、ここでも犬を飼うようになった。つまり、狐狸のかわりに、城内にはおびただしい犬が住むこととなった。
その頃のある日、護持院隆光は、加持のため桂昌院の許へ伺候したが、このおびただしい犬に目をつけて、その事情を知ると、すぐこんなことを言った。
「これぞまったく仏の御計らいと存じます。おそれながら上様は、戌《いぬ》の年の御誕生であらせられます故、ことさら犬を御愛憐あらせらるべきでございます。ましてや、唯今は御子孫御繁栄を御祈願の折にございますれば、別して犬を御憐み遊ばさるべきでございました。唯今までは私もそこまでは心づきませず、そのことを言上いたしませなんだが、狐狸の害をはろうためにしましても、御城内にかくも多数の犬を召置かせられるようになったのは、仏神冥々の加護の御計らいとしか思われません。まことに凡慮の及ばぬところ、感涙に堪えません」
深く帰依する隆光が物々しい調子でいうこと、桂昌院は厚く信仰して、すぐ綱吉に報せた。
綱吉も周易の講義にすっかり取憑かれているところなので、大いに感心して老中を召出して、隆光のいったことを伝え、自分も学理上からみて、当然と思われるからと補足して、早速これを法令に定めるようにと命じた。
二、三日すると、江戸の市中至るところに、老中連署の高札が立てられた。
犬の事これまでのごとく、無慈悲なる取扱いいたすべからず、万一違背の者はきっと厳しく申しつくべし。
武家、町家とも、飼犬これあるものは、牝牡、毛色、年のほど、委細に書き記して届出づべし。
市中の人々は、めずらしいお触れが出たものだと、内心大いに驚いたが、こわいお上のこと、それに従った。
老中等は、飼犬のことばかり考えていたのであるが、隆光は桂昌院に、
「飼犬はともかく、主なき犬どもは何人も憐み申さず、人々依然として無慈悲に取扱いおりまする。あわれ主なき犬にまで、諸人が憐みをかけますよう、御沙汰あらせられますように――」
と、訴え出た。
「さては諸役人どもが、その趣旨を取違えたものか、または将軍家が主なき犬は御心にかけ給わぬのか。いずれにせよ、捨てて置くべきでありません」
と、桂昌院は、また綱吉に言う。
綱吉も、それはもっともなことと、ふたたび老中一同を召出し、
「飼犬の儀は申すまでもない。たとえ主なき犬なりとも、無慈悲の取扱いをいたさず、ずいぶん燐愍を加えねば趣意が立たんではないか。それしきのこと、特に申しそえねば気づかぬのか」
と、はげしく叱責した。
たちまち、次の日には、書付を以って、江戸市中の町々の世話役に触れられた。
犬の届出の儀、最前は飼犬と申し触れ候えども、右は年寄どもその御趣意を伺い誤り候にて、飼犬は申すに及ばず、たとえ主なき犬に候とも、その町その村に居つき候はもとより、他所より紛れきたり候犬にても、その町その村に於て大切に飼い立て置き、諸事飼犬同様に相心得申すべきこと。
このお触れによって、野犬は町村飼い付けのものとして届出をし、出生すれば早速届け出で、死亡すればまた即刻届け出で、検視を受けて疎略なく埋葬するなどと、まるで人間同様の扱いをしなければならないので、町村世話役の煩雑さ加減はなみたいていではなかった。失踪の場合も、そのつど届け出るのであるが、中には手数をはぶくために拾い犬をして来て数を合わせる者などあった。これを隆光が探り出してきて、いちいち桂昌院に言上したので、追いかけて、また老中から新しい通牒が出された。
犬見えざる時は、いずかたよりか他の犬を連れきたり、数を合わせ置き候由相聞え候、右にては生類御憐みの御旨意《ごしい》に相そむき、不埒の至りに候。今後犬見えざる時は早々に届け出で、なるべく尋ね求め候よういたすべく候。もし相知れざるに於ては、其の趣訴え出で申すべく、万一|等閑《なおざり》に相心得候ものこれあるに於ては、きっと曲事《きよくじ》に申しつくべきこと。
市中にて荷車、大八車、牛車等にて、犬をひき傷け候ものこれある由、かねて仰せ出され候御旨意に相そむき、不埒の至りに候、向後必ず宰領《さいりよう》一人相添え、右様の儀これなきよう、堅く相守り申すべきこと。
大名が、幕府から城地を賜わるとか、没収される際は、領知目録に添えて、城付道具目録というものを授受する規則であるが、この道具目録の中に、犬何匹、但し何毛、何歳、牡何匹牝何匹と、記入した。城付きの犬というのは、この時代に限ったものであった。元禄十四年の播州赤穂浅野家の城開渡しの時にも、五匹の城付き犬がいて、大石良雄はこれを目録にのせて、受城使に引き渡している。
大名の城地でさえ、この通りだったから、市中一般の人々の難儀はこの上もなく、犬といえば、武士も町人も恐れて、手を出すものもない有様であった。
その頃、江戸には、男達《おとこだて》と呼ばれる無頼の徒があった。彼等は、この生類御憐みの令に憤慨して、
「たとえお上より何とお触れが出たにしても、たかが犬ではないか。それがいま大切にされるため、増長して女子供に噛みつき、迷惑をかけることおびただしい。我らなど軽い者であるとはいえ、これでも天下の御百姓の一人だ。もし噛みつく犬があったら、即座に蹴殺してやる」
と、肩肱いからして、こういいふらしたので、いつか町奉行配下の耳に入り、ついに召捕えられるという事件が起きた。しかも、その徒党十一人の中、二人は犬殺しの事実がわかったので、斬罪となり、他の九人は新島《にいじま》へ遠島となった。元禄三年二月のことである。
訴訟を解決した犬の話
はじめ江戸城内にある紅葉山東照宮の別当は、浅草寺の別当の兼帯《けんたい》であった。これはこの寺が関東一の古刹《こさつ》である所からそうなったのである。その後、東叡山寛永寺が建立され、関東天台宗の貫首と定められて、関東の天台宗に属する諸寺は、新古の別なく、寛永寺の配下に属することになったが、浅草寺は、引続いて別当職を兼帯していた。浅草寺としては、関東第一の古刹という由緒の上からも、紅葉山東照宮の別当兼帯という職務の上からも、寛永寺の配下となることがどうも面白くない。そこで職を楯にとって、この一事こそ関東第一の古刹たる寺格の歴然たる証明であるから、たとえ日光門主といえども、その末寺に等しい支配は受けられないと抗議した。こうなると、寛永寺側でも、寺の体面上放っておくわけにいかない。紛争は解決がつかないままに、永い間つづいてきた。
浅草寺が大奥に取入って、特別の御祈願所になろうと企てると、嗅ぎつけた寛永寺では、大奥はもとより、老中、側用人等に、法親王の仰せとして拒絶してくれと頼みこんで、浅草寺の計画を、水泡にしてしまうのであった。
幾度かそんなことをくりかえして、浅草寺観音別当が知楽院|忠遷《ちゆうせん》の時のことである。
忠遷は、時の大老堀田正俊と親しかったので、彼に取入って、寛永寺配下を離れ、無本寺《むほんじ》の寺格を得たいと頼みこんだ。
「よろしい。承知いたした。しかし、手続き上、先ずこのことを寺社奉行へ願い出なさい。あとはわしが心得ているから」
と、堀田が内諾をあたえたので、浅草寺ではその通りにした。
願書を受理した寺社奉行月番の本多|淡路守《あわじのかみ》忠豊《ただとよ》は、何とかして両寺の争いを丸く納めたいと考え、願いの趣きを一応取下げるよう、いろいろと諭《さと》したが、浅草寺ではいっかな承服しない。仕方なく、これを老中方へ申達《しんたつ》した。
老中はこれを大老へ、大老はこれを綱吉に報告した。
浅草寺の方では、これに先立ってもう一つ手を打っていた。桂昌院がかねてから観世音菩薩を深く信仰していることを聞いていたので、これに運動した。桂昌院はこれを承諾して、綱吉に向って、
「浅草寺はわたしが常々信仰している寺でありますれば、よろしくおはからい願います」
と頼んであったのだ。
綱吉にとって、母の意志は絶対だ。大老からの報告を受けるや、
「早々に裁許に及ぶべし」
と言ったので、これは直ちに寺社奉行へ達せられた。
寛永寺では、情勢がすべて浅草寺に有利に展開しているのを知って、あわてたが、とりあえずさきの法親王が死去されたばかりで、現在の天真法親王はまだ年齢《とし》も若く、法要の他は寺務|不馴《ふな》れで、旧規取調べに遺漏《いろう》があってはならないから、他日門主が寺務に馴れるまで、しばらくの猶予をお願いしたいと願い出ておいて、右衛門佐の局が水無瀬家の姫君であり、法親王は水無瀬家に因《ちなみ》のあるところに目をつけ、ひそかに、局から綱吉に申入れてもらった。
このため、情勢は一変し、寛永寺の願い通り、訴訟は一時延期となった。
その年の八月、堀田正俊が横死したので、情勢は浅草寺に不利になったが、忠遷はなおも執拗に食い下って、護国寺亮賢に取入り、何とか事態を有利に導こうと、さまざまに思案をめぐらしていた。
この忠遷の努力が根こそぎ駄目になる事件がおこった。
浅草寺は境内が広いので、そこへ入りこむ犬の数もおびただしく、犬同士の吠え合い、咬み合いも、日に幾度かある。
ある日のこと、知楽院の門前で、何十匹という犬が群って咬み合いをはじめた。参詣の人々は怖れて近寄らない。あまりの騒々しさに知楽院の下男の一人が追っ払らおうとして、瓦の破片を投げつけたところ、中の一匹にあたって、死んでしまった。
知楽院ではすぐにこのことを、寺社奉行へ届け出た。老中からの報せを受取った綱吉は、側用人太田資直を召し出すと、
「知楽院忠遷とやらは、先年より日光御門主に対し、本末の申し分《ぶん》をいたしていることなれば、事件落着までは別して諸事に慎しんでいるべきであるのに、そのことないばかりか、このたび門前の犬を殺害いたしたことに至っては、出家の身にあるまじき所業である。紅葉山御宮別当並びに浅草寺別当を早々に免職にせよ」
と、申し渡した。
忠遷が、数年間にわたって奔走しつづけた訴訟も、ここに、犬一匹のために、呆気なく終止符を打たれたわけである。
この裁判は、いったんは忠遷一人に限られ、浅草寺の別当は、伝法院|宣孝《せんこう》が継ぎ、紅葉山東照宮別当をも兼帯したが、その後、寛永寺は右衛門佐の局に運動して、紅葉山別当の職を上野に奪い取ってしまったから、結局、両寺の紛争は、寛永寺側の勝訴に終ったのである。
のさばる野獣たち
桂昌院、小谷の方、右衛門佐の局の三人は、それぞれ三者三様に党派をたてて、反目し合っていたが、こと護持院隆光への信仰となると、行きがかりを捨て、三者一心となった。御子孫繁栄という共通の目的があったからである。だから、隆光の発議になる生類御憐みのことも、全面的に信じきっていて、犬に関することでは、この三人に頼んで、綱吉へとりなしてもらうわけにはいかなかった。
御側御用人南部遠江守直政は、犬に関する事件が起るごとに、
「犬のことでござる。さほどにまでいたさずともよろしかろう」
と、同役にとりなしていた。
直政は、元来右衛門佐の局方と目されていたから、御側衆の中でこれを小谷の方に密告した者があった。ちょうどそこへ、降って湧いたような事件が起きた。
桐の間御番永井|主殿《とのも》が、下城の途中、数匹の犬に吼えかかられ、しきりに、手で、
「シッ、シッ」
と制して、追い払おうとしたが、犬は逃げるどころか、ますます吠えさかり、その声にひかれて、さらに多数の犬が集って来る始末で、主殿は今は身動きも出来ないばかりか、咬みついてくる犬さえあったので、ついに供の者に、
「容赦はいらぬ。斬れ!」
と、命じた。
家来はたちどころに一、二匹斬った。犬はようやく退散した。
主殿はその足で、すぐに城中へ引っ返し、桐の間番頭内藤|主膳《しゆぜん》信幸《のぶゆき》に届け出て、帰宅して謹慎した。
番頭内藤主膳は取るものも取りあえず、側用人喜多見若狭守の許へかけつけて、ことの仔細を報告した。
「たとえいかなることがあろうとも、上様の御生年の故を以って、御子孫繁栄御祈願のため、大切にいたすようにと仰せつけられたるお犬を、御身辺近く奉公いたす身でありながら、斬り捨てるとは上《かみ》を恐れぬ振舞いである。早々に言上いたさねばならぬ」
と、若狭守が立上りかけると、かたわらにいた南部直政が袖をとらえてとめた。
「ただいまのことをそのまま言上なされば、ふびんにも主殿《とのも》は切腹を仰せつけられるでござろう。聞くところによればわざと殺したのではなく、その身すでに危く、やむを得ず斬り捨てたとのこと。されば、それらを委細に言上し、このたびの儀は御宥《おゆる》しを願い奉ったがよろしかろうと存ずる。さもなくばあたら御旗本一人を、犬の一匹か二匹に換えることになり、まことに口惜しく存ずる」
「天下の掟に、人間、畜類の差別はござらぬ。もしもこのたびのことをお宥しあっては、御政道が相成立ち申さぬ。遠州どのお控えなされ」
袖を振払って、若狭守はすっくと立上った。
「待たれよ。掟が御政道にとって大事であることは、いかにも仰せられる通りでござるが、犬と人、ことにお旗本と同列に考えることはいかがでござろうか。かえって御政道相立たぬことになりはせぬか」
と、直政は論じ立てた。若狭守は反駁する。議論は激し上って、いまにも、何ごとか持上ろうという時、通りかかった牧野成貞が、二人の間に割って入り、
「御両所の申されるところ、いずれも道理でござれば、所詮はその通りを拙者より言上仕りましょう。ここはお任せ願いたい」
と、制して、綱吉に言上したところ、綱吉は見る見る腹を立てた。
「いかなる事態になろうとも、たかが犬のことだ。ほかにいたすべき法もあったろう。斬り捨てるとは無慈悲の至りである。ことに予に昵近《じつきん》する者として、かねての禁制をもかえりみざるは不届である。さりながら、日頃身近く奉公せし者故、死罪を宥《ゆる》し遠島に申しつけよ」
と命じた。
永井主殿は評定所に呼出され、八丈島へ流罪を申し渡された。これと同時に、小谷の方の告口も手伝い、南部直政は犬のことについて常に冷淡であることが綱吉に知れ、目に見えて、御前の首尾が悪くなって、御側へ出ても言葉もかけてもらえなくなったので、病気と披露し、御役御免を願い出ると、一言の慰留の言葉もなく、即日聞き届けられた。
永井主殿の一件が片付くと、重ねてこのようなことがあってはならぬというので、武家、町人一般に対し、次の御触れが示された。
犬ども往来の者に吠えつき候を見受け候わば、飼主まかり出で早々に取鎮め申すべし、もし飼主これなく、他所よりきおり候犬に候わば、その近辺の者ども、または辻番人ども早々まかり出で、水を注ぎ追い払い申すべく、決して無慈悲なる儀いたすべからざること。
犬ども互に咬み合い候節は、早々互いの飼主どもまかり出で、引分け連れ帰り候よういたすべく、もし飼主これなく、他所よりきたり候犬どもに候わば、その近辺の者ども、または辻番人ども早々にまかり出で、水を注ぎ追い払い申すべく、なるだけ犬ども怪我《けが》これなきよう取り扱い、決して無慈悲なる儀いたすべからざること。
もともと生類御憐みの令は、綱吉の子孫繁栄の祈願を命じられた、護持院隆光が修法の効き目があらわれず、世子出生のきざしがないので、それをごまかすために、一時逃れに述べたてたものだ。だから、なおも修法の効がないとなると、隆光としては更にごまかしの手を案出せざるを得ない。ついにこう言い出した。
「上様が現世において御子孫に御縁の薄いのは、過去に殺生《せつしよう》をなされた応報でございます。恐れながら今後とも堅く殺生を御慎しみあらせられまするよう」
すると、綱吉は直ちに鷹を放し、鷹匠以下の役々を廃し、例年、朝廷へ自ら鷹狩して獲った所謂|御拳《おこぶし》の鶴や雁を献上していたのを、鯛に改めた。猟師はその業を禁ぜられ、鰻《うなぎ》、鰌《どじよう》及び鳥獣の肉は販売、食用ともに厳禁、玉子さえも口に入れてはいけないことになった。
このような殺生禁止に伴って、江戸市中に鳶《とび》や烏の類が多くなり、人間にまで害を及ぼすようになると、旧鷹匠や餌差《えさし》の者に捕獲させ、これを以前の御鷹部屋に飼っておき、年に四度ずつ、わざわざ船に積みこんで、八丈島、三宅島、新島などへ放ってくるのであった。
地方では狩猟が禁じられたので、狼や猪が年々増殖して、ひんぴんとして、人命や田畠に害を及ぼした。けれども、これを殺すことは許されなかった。
猪、狼の類、たとい人を害し候とも、鳴物にて追い払い申すべし。もしそれにてもなお防ぎかね候由申すに於ては、堅く打殺すまじき由|誓紙《せいし》いたさせ候上にて、空砲にて追い払うよう申しつくべし。万一右にても害止み申さざる由申すに於ては、とくと実地見分の上、御勘定所へ申し達し、差図を受くべきこと。免許の上打殺し候獣類これあるに於ては、そのまま埋め置き候べし。決して肉は申すに及ばず、皮にても手をつけ候に於ては、厳重に申しつくべきこと。
こういうバカバカしい次第だったから、庶民の迷惑は言語に絶するものがあった。
これらの悪法の励行のために起った悲劇は数えきれないほどであるが、誰一人としてこれを諫言《かんげん》したものはない。不思議なことのようだが、それは一つには将軍の権威が張り切っていたからだ。家康以来積み重ねて来た徳川将軍の権威はこの時代に絶頂に達したのである。二つには綱吉の厳峻な性格だ。彼は自分自身には寛大であったが、他に対してはおそろしく厳格だった。諸大名も、旗本も、諸役人も、恐れざるを得なかったのである。
ただ一人、水戸光圀だけが痛烈な諷諫《ふうかん》をしている。光圀は元禄三年以来、隠居して国許に引っこんでいたが、悪令が励行せられて、人々の難儀が一方でないのを知ると、領内の野獣狩、野犬狩を行ったばかりか、そうして得た犬の中の大きいやつ二十頭の皮をはいでなめし、柳沢出羽守の許におくりつけた。
「拙者、追々老年に及び、何かと養生に留意しているが、寒気の節にはこの品が最もよいと思う。ついては上様も追々お年を召されますから、唯今から御養生につとめられるがよいと存じ、特別念入りに調製いたさせたもの、ここに些少ながら献上いたす。御披露願いたい」
という口上をそえてだ。元禄六年十二月のことであった。柳沢の仰天したことはもちろんである。綱吉の赫怒したことももちろんである。水戸家はこまった。
そこで、水戸家では、当主綱条の御気に入りでお側頭格の藤井紋太夫が、柳沢と相談して、御隠居様は発狂されたということにして、つくろった。
これが水戸藩史上有名な藤井紋太夫事件の発端で、後に紋太夫は光圀の手討になるのである。古来紋太夫は悪人で、光圀父子の間を離間し、柳沢に媚びることによって、おのれの出世を計画したということになっているが、この見方は浅い。この問題といい、将軍継嗣問題についてといい、光圀の綱吉に対する楯つきがあまりにも痛烈強硬で、当主綱条が困窮することしばしばなので、やむなく、「光圀発狂」ということにしたのだと思う。光圀の痛烈果敢なレジスタンスは、もちろん珍重すべきであるが、藤井もまた一種可憐な忠臣であると、ぼくは見ている。くわしくは、拙著『柳沢騒動』によられたい。
一体、動物愛護ということは決して悪いことではない。ただこれを法律化して、権力を以て強行する所に害悪のもとがある。法律には強制力はあるが、自制力がない。ひたすらに強制するのが法律の本性である上に、これを励行することが功績となるという役人共の利得心が手伝うと、その害悪は測るべからざるものとなる。この時代の愛犬令、動物愛護令が東西古今に比類なき悪法となったのはこのためである。たとえ善意によるにしても新たに法を制定することを古来の名政治家が慎しんだのは、この法律の本質的恐ろしさと人間性の秘密をよく知っていたからである。第一次大戦後、アメリカに禁酒令が出来たために予期せざる恐ろしい害悪が社会に弥漫《びまん》し、アメリカ名物のギャングがあれほど大仕掛になり、禁酒令撤廃後もその害悪を払い去ることが出来ないのもこのためである。
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北の丸殿の登場
女で出世した柳沢
三人三様のいがみあいも、右衛門佐の局一人がめきめきと勢力を伸ばしてくると、桂昌院と小谷の方との間に、暗黙のうちに諒解が成立った。二人は、打倒右衛門佐の局の方法として、容貌才幹の秀れた女性を大奥に迎え入れ、綱吉の関心をその方へ惹き寄せるよりほかに方法はないと考えた。桂昌院は、腹心の側用人の柳沢保明にそのことを頼み込んだ。
保明は、とうてい江戸ではそんな女性は見つからないと思って、自分の妾が京都の正親町《おおぎまち》大納言|実久《さねひさ》の娘だったので、彼女の実家へくわしく申し送って、周旋を頼んでやった。
実久は、才色ともに右衛門佐の局の上を越す女性が、いまさら見つかろうとは思わなかったが、容貌や年頃の点だけなら禁裡長橋に勤める大《おお》典侍《すけ》の局こそこれにあてはまるのではないかと考えた。
大典侍の局は、清閑寺《せいかんじ》大納言|煕房《ひろふさ》の姫君であるから、素性の点では右衛門佐の局に劣らない。都合のよいことに清閑寺大納言は実久とは無二の親しい間柄であったので、内々に関東下向の申し入れもできる。
保明は、学問才芸はそれほどでなくとも、容貌こそ第一の条件だったので、実久の人選に満足した。ただひとつの懸念は、現在禁裡に勤めているものをすぐに関東へ下すことは朝廷の反対に会うのではないかということであった。そこで、この点、極力運動して、是が非でも大典侍の局を下向させるように取り計らってもらいたいと、ねんごろに申し送った。
桂昌院からも、旧主筋にあたる二条家へ、このとりなし方を願い出た。
「将軍家にはいまだ世嗣《よつ》ぎなく候て、これのみ尼が日夜歎きぬることに候。されど将軍家にはよろずに物堅く候て、なみなみの者をば近づけ候わず。承り候えば禁中の大典侍の局こそ、しかるべしと存じ候。何とか御計らい賜わりたし――」
二条家は、代々将軍家の猶子《ゆうし》であるという因縁もあり、御母公として時めく桂昌院からの依頼でもあるので、前関白綱平《さきのかんぱくつなひら》は、正親町実久と協力して、清閑寺煕房を説得した。かくて、大典侍の局は表向きは病気として下り、京都所司代小笠原|佐渡守《さどのかみ》長重《ながしげ》の許へ送り込むことになった。
下向して、桂昌院の三の丸に落ち着くや否や、大典侍の局の美貌はたちまち綱吉の心をとらえた。綱吉は御附中臈に所望したが、禁中で大典侍の局を勤めたほどの女性と知ると、並々の女中と同じ取扱いはできない。新しく別殿を建築させることになった。
柳沢保明が普請の総奉行となり、護持院隆光が安鎮祭を修した。落成した別殿に局を移すと、北の丸殿と呼ばせるようにした。保明はこのたびの功績によって二万石の加増を与えられた。
北の丸殿は、容貌はともかく、学問才芸ではとうてい右衛門佐の局には及ばなかったので、右衛門佐の局に対する綱吉の寵愛《ちようあい》は急に衰えることなく、北の丸殿と並んでいぜんとして権勢を張っていた。せっかくの桂昌院の計画も、予期した結果は上げ得ず、ただ柳沢保明の栄達を助けたような結果に終ってしまった。
綱吉は、学問の相手には右衛門佐の局、能楽など遊びの相手は北の丸殿と、二通りに分けて寵愛した。この局たちは綱吉にすすめて、その道の大家をさかんに推挙したので、京都から学者や狂言師などが続々と江戸へ招聘《しようへい》されるようになった。
右衛門佐の局の推挙によって、京都の和学者北村|季吟《きぎん》、湖春《こしゆん》父子が召出された。季吟には二百俵、湖春には月俸二十人扶持を与え、和学所を開かせた。これが幕府の和学所の創始である。元禄三年には、画工住吉|具慶広澄《ぐけいひろすみ》が招ばれて二百俵を賜り、土佐派絵所を命ぜられた。これまた、土佐派絵所のはじまりであった。
北の丸殿の推挙によるものは、京都の能役者中山喜兵衛、川村金右衛門、狂言師脇本作右衛門である。それ等の人々は、御廊下番として百五十俵を下され、御小姓衆の指南を命じられた。
大奥内に京都出身の人々が時めき出すと、しぜん、朝廷に対する尊崇の念が高まり、幕府は禁中に対して鄭重になっていった。
東山天皇即位の元禄元年には、それまで長い間、中絶されていた大嘗会《だいじようえ》を復活させた。三年には、上皇御料七千石を一万石に、女院御料四千石を七千石と改めた。七年には、禁裡御料二万二千石を三万石に引上げ、女御《にようご》御料三千石を五千石と改めた。その他賀茂祭、競馬《くらべうま》などの行事まで復活させ、その賄料として七百石を寄進した。八年には柳沢保明の建議をいれて、歴代の天皇の御陵を修理した。
これに伴い、朝廷の幕府に対する御覚えもめでたく、将軍家四十|初度《しよど》の祝賀には、上皇の御製を賜り、五十、六十の祝賀には、禁裡、仙洞の両御所で、特に祝賀の歌会を開いて、当日の御製をはじめ詠進の懐紙を賜った。
いままでは、堂上家と京都所司代とは、たえず反目しあっていたものだが、この時代になると、堂上家の感情がそのまますぐに大奥に影響し、所司代の一身上にもかかわることになった。そこで、所司代が関東がたの目代として、堂上家を睨《にら》みつけているという風習も、跡を断ってしまった。
隆光の密法
その頃、京都実相院の御門主|儀延《ぎえん》法親王は、不行跡のことがあって退隠し、北の丸殿の里方、清閑寺大納言方へ御預けの身となっていた。
法親王はいま江戸で護持院隆光が、将軍家御子孫繁栄の祈祷を勤めているにもかかわらず、一向に大奥の女中に懐妊のきざしが見えないという噂を聞いて、
「かの隆光のごときを、当代真言第一の験者《げんざ》などともてはやすのはかたわらいたい。第一の験者とは、内外大小の密法をことごとくわがものにしている醍醐報恩院寛順《だいごほうおんいんかんじゆん》のような高僧をいうのじゃ。隆光づれの修法がなんの験《しるし》があるものか」
と、せせら笑っていた。
煕房は、これを北の丸殿に申送った。綱吉の耳に入ると、
「宮はもとその道の人でおわす故、おくわしいはずである。報恩院寛順とやらを江戸へ召し下せ」
と、柳沢保明に命じた。
老中連署で、三宝院御門主の許へそのことを申し入れ、寺社奉行からは、報恩院僧正寛順へ通達があった。寛順は、それによって出府した。
寛順が出府してくると、御使番をつかわし、白銀五百枚を滞留中の手当としてあたえ、明日登城せよと上意を伝えた。
翌日、寛順は登城した。綱吉は、白《しろ》書院で面接し、それがすむと、波の間で老中列座の上、当分滞府し修法を行うようにと申渡した。
つづいて寛順は、柳沢保明の許に呼ばれた。
「――上意でござる。護持院隆光ことは御祈願所住職を仰せつけられているが、密法をことごとく相伝していない由である。滞府中は日々護持院へまかり出で、御修法を相勤め、かたがた住職隆光へ密法を相伝いたされたい」
寛順は御請して、これからは、毎日厳密の修法のために、護持院へ出向くことになった。
この修法は、柳沢保明が総監督を勤め、寺社奉行加藤|越中守《えつちゆうのかみ》明英《あきひで》が直接奉行に当った。その間、護持院の四方は将軍家御成りの時と同様に御徒頭《おかちがしら》が組下を従えて警固し、人々が近寄ってくるのを制止した。一つには秘密の大法相伝であり、また一つには不浄のものの近づくのを禁ずるためであった。
こうして隆光はことごとく密法を相伝し終ったので、綱吉は、報恩院へ百石の寺領を寄附し、白銀千枚、時服五十を下賜した。御台所や桂昌院からも、白銀や紗綾《さや》などの賜物があって、寛順に帰京が許された。隆光は名実ともに、真言宗第一の験者となったわけだが、懸命の修法にもかかわらず、世子出生はありそうにない。
あまりのことに疑いを抱いたのは右衛門佐の局だ。
「これは隆光僧正の法力が至らないためではないか」
と、思って、京都に申し送って、有験《うげん》の僧をたずねたところ、仁和寺《にんなじ》に覚彦《かくげん》という僧がおり、学力法徳共に俊秀であるが、天性俗欲がなく、若年の頃から名利を超脱して深く韜晦《とうかい》しているという返事に接した。
早速、綱吉に言上すると、
「早々に召し出せ。今の世には珍らしい者だ。そのような者の修法こそ効験があるであろう」
と、柳沢に命令が下った。
覚彦としては気が進まなかったに違いないが、拒めば仁和寺に迷惑のかかることが歴然なので、江戸に下って来た。
綱吉は面接して、在府して祈祷をつとめよと命じ、本郷湯島台において三千五百坪の地を与え、宝林山霊雲寺という寺を建立させ、寺領百石をあたえた。
片や隆光、片や覚彦の競演となった次第であった。もちろん、隆光に肩入れするのはお伝の方であり、桂昌院であり、覚彦に肩入れをするのは右衛門佐の局ということになる。
偶然にはちがいないが、この競争は覚彦の方が勝ったように見えた。覚彦が江戸へ来たのは元禄四年の初秋であったが、その年の冬には早くも右衛門佐の局に妊娠の兆が見えたのである。
右衛門佐の局はもとよりのこと、綱吉の喜びは言うまでもない。出産の時のこと、出産後のことまで、落ちなく準備をととのえて待っていたが、翌年春、吹上御苑で綱吉が観梅の宴を催した時、右衛門佐の局の詠歌、
御園生にしげれる木々のその中に
ひとり春しる梅のひともと
というのが、ひどく綱吉の気に入り、短冊にしたためて、梅の枝に結びつけよと命じた。
局は仰せをかしこんで、女中共のすえてくれた足つぎにのって結びつけたが、ふと目がくらんで前へたおれ、これが原因になって流産してしまった。
お伝の方が隆光に命じて呪咀したためであると、言い伝えられている。呪咀などということに効果のあるものであるかどうかは疑わしい。偶然の結果にすぎないとは思うが、両派の間に嫉妬、反目、暗闘があり、隆光がお伝の方に頼まれて呪咀の修法をしたであろうことは考えられる。彼にとっても覚彦は法敵なのだ。
悪法の恩恵
生類御憐みの令には、庶民ことごとく難儀をしたが、このなかで思いがけない恩典に浴した一群の人々がある。牢内の囚人共である。
彼等は、ふだん板敷に置かれ、莚《むしろ》一枚を寝具として与えられているにすぎなかった。入浴は、正月と七月に一度ずつ。冬の間だけ綿衣を一枚支給されていた。
ある日、桂昌院が護持院に参詣した時、隆光の説教のなかで、このような囚人の状態を地獄の様相《すがた》にたとえて話したところ、桂昌院は思わず涙をさそわれた。あまりのふびんさに、帰城すると、綱吉に、
「極悪人といえども、なおお助け給うを仏の御誓願と承ります。ことにただいまは生類御憐みの所で、鳥獣にさえ御恵みをかけさせ給うています。これは悪人どもとは申せ、いかにもふびんに存じまするので、御仏に代りこの尼が慈悲を下しとうございます」
と、嘆いた。
それからは、月に五度の入浴、冬は綿衣二枚、板敷は畳に改まった。
この話でもわかるように、桂昌院という人は、その天に受けた性質は決して悪くない。慈悲深い人であったようだ。
こういう話も伝わっている。
彼女は自分の着ものには、襟と袖口に必ずもう一枚布を縫いつけて着ていた。ある時、綱吉が不思議がって聞くと、
「女中等に下賜する時のことを思ってこうしているのです。袖口や襟のよごれたのは、貰う人にとっていい気持のものではありませんからね」
まことに行きとどいた親切な心掛だ。
だのに、彼女が綱吉にすすめてやらせたことの多くが非常な害悪を流す結果となったのは、彼女が本質において無学な一老婆にすぎなかったからである。善意をもってすることであるが、深く広く考えてするのではなく、あるいは感傷的にすぎるために、あるいは単なる思いつきであるために極端にアンバランスな結果となったのである。この囚人優遇などもアンバランスな点が、決して当時の人々を納得させなかったにちがいない。良民が生活に苦しみ、悪法に苦しめられている時、囚人が優遇されるなど、決して善い政治とは言えないのである。
綱吉のあやまりは、この母の言うことを、何によらず遵奉して、これが儒教の至上道徳である孝道にかのうことであると思っていた点にある。天下|人《びと》には天下人の孝行のしようがある。庶民的善行は必ずしも天下人の善行にはならないのだ。綱吉のような人を学問のしそこないと言うのである。
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御台所の博識
捨て児から世に出る
六代将軍|家宣《いえのぶ》の父は、三代将軍家光の次男、甲府宰相《こうふさいしよう》左馬頭《さまのかみ》綱重《つなしげ》である。母は、家臣田中|次兵衛持通《じへえもちみち》の娘で、お保良《ほら》の方という。
綱重は、家光四十二歳の子である。俗信で四十二の二つ子といって忌《い》み嫌う迷信があるので、綱重をいったん姉の天樹院の養子分にして、それをもらい直して育てた。天樹院というのは、豊臣秀頼の御台所だった千姫で、本多|忠刻《ただとき》に再嫁したが、忠刻の死後江戸へかえって剃髪して天樹院と号して、中々勢力のあった人である。
綱重の養育に当ったのは、天樹院御附の松坂の局という老女であった。天樹院が大坂城を脱出した時にも附従って、猛火の中を潜った老女で、その後もずっと御側に仕えていたのだ。
松坂の局は、綱重が甲府二十五万石を賜わるようになってからは、奥向き一切のことを取締った。その部屋子で、お目にとまったのが、お保良の方である。懐妊して男子を出生した。幼名虎松。これがのちに家宣となった。
お保良の方は、翌年もまた懐妊した。ちょうどその頃、綱重は二条関白|光平《みつひら》の姫君と婚約が成立したので、妾腹の子があることをはばかって、虎松を家老の新見《にいみ》備中守《びつちゆうのかみ》正信《まさのぶ》にあたえ、お保良の方は臨月近くで、用人|越智与《おちよ》右衛門《えもん》嘉清《よしきよ》に下賜した。
やがて、お保良の方は越智家で男子を出生した。家宣の代になって、この弟は取立てられ、六万石を賜わり、松平《まつだいら》右近将監《うこんしようげん》清武《きよたけ》となった。
新見正信は、虎松を下された時、家来の身として、まさしく主君の長男であるものを自分の子とすることは恐れ多いから、しばらくの間お預りして、お育て申したいと遠慮したが、綱重は、
「それには及ばぬ」
と、無理に正信に押しつけた。
二条家への手前と、あとで、姫君に男子が出生した場合、家督をめぐって、紛争が起ることを懸念《けねん》したのである。しかし、正信は思う仔細があって、大老|酒井《さかい》雅楽頭《うたのかみ》忠清《ただきよ》を訪ねて、一部始終を物語り、将来心得違いの者が出て虎松君を綱重の子供でないという者があるかもしれない、その時は、御大老が証人になっていただけるか、それでなくては、このたびのことはお請けいたしかねる、といった。
忠清は、その言うことを、いちいちもっともとして、後日の証人のことも引受けたので、正信は安心して、虎松を小川町の邸へ引取った。寛文三年八月二十五日のことで、虎松はこれ以来新見左近と名乗った。
同じ年の九月、二条家の姫君が綱重の許へ入輿《にゆうよ》した。やがて、姫君は女子を出生したが、その子は早世し、寛文九年には姫君も他界した。
そこで、綱重は山科《やましな》宰相中将|持言《もちこと》の姫君を後妻に迎えた。めでたく男子を出生したが、同様に早世し、前後して綱重自身が病床に臥す始末となった。
一時は危篤状態となり、家中一同の心痛は甚しかった。新見正信は、この時こそ虎松君をお返しして、世子の披露をすべきであると考え、綱重に言上した。
綱重も、病気のため、めっきり気弱くなっている。
「もっともなことだ。これまでは遠慮していたが、頼み少い今となっては、もう遠慮はせぬ。そうしてくれ」
と、いった。
正信は、このことをすぐに家老たちに伝えたところ、島田|時之《ときゆき》、太田|吉成《よしなり》の二人は、後日正信に権勢が加わるのを妬《ねた》んで、
「左近殿については、我らもかねて聞き及んだこともござれば、この儀は当分差控えられたがよろしいと存ずる」
と、不承知を唱え、老中土屋|但馬守《たじまのかみ》数直《かずなお》の許にかけつけて、
「このほど甲府殿御不例ではございますが、病状とてもさしたることもないのに、同役新見備中守は御大切の様子などと申し、もし万一のこともあらば御世継ぎもなくてはと、先年自分に下された左近殿を御世継ぎに立てる所存のように見受けられます。我らは一時これを遮《さえぎ》りましたが、この左近殿は、実は先年下された若君は早世いたされたのを、備中守はこれを内密にいたし、おのれの実子を左近殿として養育しているのでございます。御主君にはここ一両年|御癇癖《ごかんぺき》が募られ、折々常ならぬ御振舞いもございます。備中守はそこにつけこみ、おのが子を御世継ぎに立てんと、大それたる陰謀を企んでいるもののように思われます」
と、訴え出た。
土屋数直は仰天せんばかりに驚いた。
「それは容易ならぬこと。新見左近殿のことは、上様にも御存知のことでござるが、さようの次第ならば、きっと吟味をいたすであろう」
と、両人を帰すと、早速登城して、老中一同に披露した。
「島田、太田の申し条には不審がござる。ことに甲府殿の御癇癖が、一両年来募っていると申しているというが、それが事実なら、その噂がわれらに聞こえぬはずがござらん。しかるに、まだ一度も聞いたことがないではござらぬか。折々の御登城の際にも、それらしい御様子は見えません。ともかく誰か参って、御様子やら、左近殿の顔容《かおかたち》やらを篤と見届けた上、御沙汰あるべきでござろう」
硬骨を以って鳴った板倉|内膳正《ないぜんのかみ》重知《しげとも》の提案で、日頃甲府侯とは懇意の仲の側用人久世大和守広之をつかわすことになった。
広之は甲府邸を訪ねると、ねんごろに病気見舞いを申し上げ、終日、それとなくお話相手をしながら、かたわらに坐って、綱重の様子を見守った。癇癖のことについては、もともとデタラメであるから、それらしいそぶりもない。新見左近にも対面したが、父綱重に瓜二つという似かたで、疑う余地はさらにない。
翌日、広之は委細を報告したので、新見正信に関する嫌疑《けんぎ》は晴れた。島田、太田の両人は、虚偽を訴え、殿中を騒がした科《とが》により、家綱から切腹申しつけよとの沙汰が下ったが、かねて親しい大老酒井忠清のとりなしで、死一等を減ぜられて、島田|淡路守《あわじのかみ》は毛利|長門守《ながとのかみ》綱広《つなひろ》へ、太田|壱岐守《いきのかみ》は立花|飛騨守《ひだのかみ》鑑虎《あきとら》の許へ、それぞれ永の御預けとなり、この事件は解決した。寛文十一年十一月も末のことであった。
新見左近は、大手を振って甲府|館《やかた》に入ると、徳川左近と名を改めた。家綱からも、内々の御目見得を仰せつけられて、延寿《えんじゆ》の刀に、雲次《くもつぐ》の脇差を賜わった。この時、甲府家御世継ぎと披露された。
新見正信は、左近養育の功績を賞せられて、二千石の御加増を賜わり、隠居を仰せつかった。一時にもせよ、父子の間柄にあったものを、そのまま臣下としておくのは、道義上よろしくないという家綱の考慮からであった。
越智|嘉清《よしきよ》に嫁いだお保良の方は、男子を出生すると間もなく死んだ。綱重は生れた子供の身の上を心配して、お保良の方の姉を嘉清に嫁がせ、嘉清には左近の傅役《もりやく》を命じた。
延宝《えんぽう》四年十二月十一日、左近は家綱の前で元服し、諱字《いみなじ》を賜って綱豊と名乗り、従三位左近衛権中将に叙せられた。
こんな工合に、綱豊は甲府家をつぐにも順調には行かなかったが、将軍世子となるにもその困難は一通りでなかった。
綱吉が綱豊を世子にしたがらなかったのである。最初は実子徳松がいたからこれに譲ろうとした。徳松が死ぬと娘聟である紀州綱教に譲ろうとした。綱教夫婦が相ついで死ぬと、なんとかして実子をもうけてこれに譲りたいと、加持祈祷、愛犬令、動物愛護令などと狂的な努力をつづけた。
こうまで綱吉が綱豊をあとに立てたがらなかったのは、綱豊が憎かったからに違いない。
なぜそんなに綱豊が憎かったか? 恐らく綱豊の父綱重が憎かったからに違いない。大家の異母兄弟にはよくあることだが、幼時の競争心が互いに相憎悪するまで激化したのではなかろうか。綱重の生母お藤も、その前身は桂昌院とおッつかッつだが、綱重は、この章の冒頭に述べたように父家光の姉天樹院(千姫)の養子となっているので、世間の見る目も綱吉よりはるかに重かった。これも、桂昌院や綱吉をいい気持にはさせなかったに違いない。
ともあれ、綱吉は綱重がきらいであり、その故にその子の綱豊をもきらっていたと、ぼくは断定したい。
綱吉の意向が綱豊にないばかりか、憎んでさえいると知ると、幕府の重臣等はもとよりのこと、親藩の人々も、綱豊に心を寄せる者はなかった。わずかに、水戸光圀だけが、心を寄せた。
貞享三年の正月、年賀の日に大廊下の間において、光圀がわざと紀州綱教をおとしめ、綱豊に特別の敬意をはらったことは、前に書いたが、その以前にもこんなことがあった。
紀州綱教と鶴姫との婚約の出来た時、綱吉は側用人の牧野成貞を尾州家と水戸家につかわしてこう相談させた。
「この度、婚約がととのいましたにつきましては、姫君御幼少のことでありますから(この時鶴姫四歳、綱教五歳)、綱教卿を二の丸にお入れ申して御婚儀遊ばすことにしたいとの御上意でありますが、この儀はいかがでございましょうか」
こうして入聟のような形で綱教を迎えて二の丸に置き、あまり目立たなくなったところで、改めて世子に直そうという綱吉の計略であった。
光圀は一儀にも及ばず反対した。
「それはよろしくあるまい。姫君は御幼少にもせよ、立派な附人《つけびと》もあることだ。紀州邸で御婚儀なされてもお気づかいなことはあるまい。お城で御婚礼なさると同じように安心なすってよろしい。どうしても御心配なら、心配のないお年頃まで成人なさるのを待って御婚礼なさっても遅いことはない。その上、紀伊殿がお城へ入って御婚礼なさるのはさしつかえないとしても、姫君御成人の後にはお城を出て屋敷へお帰りにならねばならぬわけだが、考えてみると異《い》なるものに見えはせんかな」
正理におされて、話はそれきりになった。
それから数年たって、鶴姫が紀州家へ迎えられて間もなく、貞享二年の二月、城内の大廊下の間に御三家と甲府家が同席している時、牧野成貞がまかり出て、こう言った。
「御承知のごとく、上様も今年で四十におなり遊ばされましたが、徳松様以後、若君の御出生がなく、上様も常にさびしく思し召しておられるよう拝します。つきましては、御養君をなされたならばと存じますが、いかがなものでございましょうか」
光圀は誰よりも先きに口を出した。先ずたずねた。
「それは御上意か、それともその方の考えか」
将軍の密意を含んでのことではあったが、またこの前のように反対されて引っこめるようなことがあっては、将軍の威光にも関する。牧野は答えた。
「御上意ではありません。てまえ一人の料見で申し上げているのでございます」
すると、光圀は言った。
「御養君の心配なぞまだいるまい。四十と申せば、まだ御老年というほどのお年ではない。もう若君がお出来にならないと思い切ってしまうのは早計だ。万一お出来にならんとしても、御養君になるべき人に事欠かれるようなことは決してない。先ず甲府殿がおられる。この方をお立てになるのが、最も順にかなったことと存ずる。甲府殿をお立てになるのがどうしても厭だと仰せられるなら、次には尾張殿がおられる。尾張殿もお厭なら、三番目に紀伊殿がおられる。紀伊殿もお厭なら、不肖ながらわしの子の綱条がいる。御養君のことなど、そうあわてんでもよろしい」
光圀の痛烈なる皮肉であった。綱吉に対して養子を選ぶ順序を教え、第一に継承権のあるのは甲府綱豊であり、紀州綱教の継承順位は三番目であると諷したのであった。
この時も光圀が押し切った。養君問題は立消えになった。
光圀は隠居して国許に引っこむにあたって、夜千住からひそかに引きかえして、甲府邸に行って、人を遠ざけて綱豊と密談している。綱吉をはじめ大奥の女共が綱豊を邪魔ものにして、ひょっとすると危害を加える恐れがあるかも知れないと言って、保身の法を教えた。
曰く、病気と言い立てて、なるべく登城するな。曰く、城内において飲食するな、曰く何、曰く何と、詳細をきわめた。世間でも、綱吉や、大奥が隆光に命じて綱豊を呪咀しているという噂があって、色々な書物にそのことが出ている。ぼくはあったことだと信じている。
綱豊は光圀の訓えをよく守って、少しの油断もしなかった。
その綱豊が世子になったのは、光圀が死に、鶴姫が死に、綱教が死に、そうして綱吉がもう子供の出来るあてのない五十九歳の暮れになってからであった。綱豊、時に四十四。宝永元年十二月五日であった。この時、名を家宣と改めた。
家宣の初政
宝永六年正月、綱吉は死んだ。死因は疱瘡であった。
綱吉の死については諸説ふんぷんとあって、「護国女太平記」などという俗書には、綱吉がしばしば柳沢保明の邸に行ったのは保明の妻おさめ(実は通子)と醜関係があったためで、ついにこれに子まで生ました。これが吉里である。保明はおさめと謀って、吉里を綱吉の後嗣ぎにしようとして、綱吉に迫り、綱吉もこれを承諾して、徳川家の社稷《しやしよく》が危くなったので、綱吉の夫人鷹司氏が閨中に綱吉を刺殺したと書いてあるが、妻を献上したのは、前に書いた通り牧野成貞で、保明ではない。
もっとも、幕末の大儒安井息軒や、三田村鳶魚氏は、保明の妻通子は、本当は綱吉の妾で、保明は妻という名目でこれをあずかっていたので、吉里も実は綱吉の胤であると言っている。しかし、ぼくはこれを信じない。
ともあれ、綱吉が疱瘡で死んだことは事実である。
病中、綱吉は苦しい呼吸をつきながら、家宣を枕べに招いて、こう言った。
「生類憐み令や愛犬令に世の不平が多いことはわしも知っているが、たとえ悪法にしても、わしがこれほどまで厳重に励行させて来たのだから、万一わしが死んだ後もそのままにしておいてもらいたい。わしはそれをわしに対する第一の孝道と思うぞ」
綱吉が偏執狂的|剛戻《ごうれい》な性格であったこと、孝道中心の儒教道徳の小児病的信者であったことが、よくわかるのである。
家宣は、かしこまりました。必ずそういたすでございましょう、と、答えたが、綱吉が死ぬや、即日これを撤廃した。世が歓呼して彼を迎えたことはもちろんである。
柳沢保明は利口者で、家宣に世子の口がまわって来るらしいと見た頃から、何かと甲府家へ出入りして、御機嫌を取り結び、家宣の時代になっても権勢を維持しようと、抜目なく立ち廻っていたが、あっさりと隠居を命ぜられた。
その時の家宣のやり方が実に巧妙である。
保明は、家宣に向ってこう言った。
「わたくしは御先代様(綱吉)に特別な御恩顧をこうむっている者であります。本来なら、堀田加賀守(正盛)殿が三代将軍様に殉死をされたように、殉死をしなければならない者でありますが、殉死はきびしい御制禁になっていますから出来ません。せめては髻《もとどり》なりと払って御葬送のお供に立ちたいと存じます」
保明としてはこう言えば、手は十分に打ってある、きっととめてくれるだろうと思ったのであろうが、家宣は答えた。
「お役中の者が髻を払った先例はない。先ずお役御免を願い出、御葬送がすんだ後隠居してから、剃髪をするがよかろう」
上手《じようず》の手から水が漏ったのだ。保明はいたし方なく、お役御免を願い出たところ、直ちに聞き届けられたので、隠居して剃髪せざるを得なくなった。法名保山。
上屋敷を召上げられて、替邸《かえやしき》も下賜されなかったので、巣鴨の下邸に住んだ。今の六義園がその下邸である。
権勢飛ぶ鳥も落すほどの昨日までと打ってかわった凋落ぶりであったが、さすがに利口ものだ。十五万石の封地だけは一合も減らさず持ちつづけて子孫に伝えた。彼の権勢に匹敵するのは前には酒井忠清があり、後には田沼|意次《おきつぐ》があるが、一旦権勢の地位をすべりおちるや、酒井も田沼も見るかげもなく落ちぶれ、大名の一員に数えられるのがやっとのことという有様になったが、彼だけはそうならなかった。よほどの利口ものであったのであろう。
綱吉の治世を語る時、柳沢保明を逸することは出来ないが、決して政治的|経綸《けいりん》のあった人物ではない。綱吉のきげんを取ることが上手で、老練忠実な事務屋であったにすぎない。
「柳沢家秘蔵実記」という書物がある。柳沢家の家臣が保明の言行を筆録したものであるが、その中に、「大名の発明に過ぎたるは家治らず、勤めは実《ヽ》を専一たるべき事」という条がある。はじめ綱吉に重く用いられ、後に不首尾になった人を色々とあげて、これらの人はいずれも利発すぎて駄目であった、自分が首尾をあやまたずに栄達出来たのは、実《ヽ》を以て仕えたからであると、保明が言ったと書いてある。この場合の実《ヽ》とは実直、忠実の意味で、自分の才覚を用いずひたすらに上意に柔順であることを言う。
綱吉は独裁者だ。独裁者は自己の下にある者が政治的|経綸《けいりん》を持つことを好まない。独裁者の好むのは忠実老練な事務屋だけだ。保明はこれにぴったりとあてはまっていた。栄達したはずである。
学問がとりもつ夫婦仲
家宣の御台所は、前関白|准三后《じゆさんごう》近衛《このえ》基煕《もとひろ》の姫君で、煕《ひろ》子といった。近衛家は五摂家の中でも、藤原氏の正嫡流を誇り、基煕には、後水尾天皇の内親王|級宮《しなのみや》が御降嫁されていて、臣下とはいえ、内実は皇族の由緒《ゆいしよ》があった。
後水尾天皇は、かねがね武家の専横を不快に思召され、堂上家の人々が武家と縁組することを極端に嫌われた。特に近衛家へは、その家は皇族同様であるから、武家の輩との縁組など堅くあるべからず、と御内勅があった。だから皇室尊崇の水戸光圀から、縁組申入れがあった際にも、近衛家では応じなかった。
それなのに、どうして甲府家と縁組したかというと、家光の御台所が伏見兵部卿貞清親王の姫君であり、その因縁で、朝廷と東福門院へ働きかけたので、近衛家も承諾せざるを得なかったのである。
けれども、基煕には、依然、釈然としないものが、胸中に残っていて、武家の輩は官位に叙任しながらそれにふさわしい礼儀作法も修めず、がさつな無教養ぶりはまるで猿が冠をかぶったようなものだと本気で考えていた。そこで、いくら仲人が将軍家であろうとも、近衛家の姫君たる者が武家輩に嫁ぐのは、家の名誉を傷つけることだとして、煕子の生母が西洞院《にしのとういん》家の出身だったので、姫をいったん西洞院中納言|時庸《ときつね》の養女とし、万事をこれにまかせて、入輿させたのであった。
時庸は、半ば投げた形でまかされたものの、血を分けた|めい《ヽヽ》を、はるばる関東へ下すのであるから、一方ならぬ心づかいをした。姫が朝晩何かと心憂く思うであろうと考え、そんなときこそ、御附の女中が従者とも友とも頼りになって心を慰めてくれるよう、容貌にばかりとらわれず、何かしら一芸に秀れた者を選んだ。この御附女中のなかでも、白川家の姫君|斎《いつき》の局、平松家の姫君|錦小路《にしきこうじ》の二人はわけて国学の教養が深かった。
御台所の父基煕は、堂上家きっての学匠、有職《ゆうそく》の達人といわれた人だったので、しぜん御台所の才学も、なみのものではなかった。
御台所が甲府家へ入輿になった頃は、万事は家老|稲生《いなお》安房守《あわのかみ》英正《ひでまさ》と用人|越智《おち》与右衛門嘉清の二人が仕切っていて、綱豊は弓馬の道に専念していたので、御台所は綱豊には目もくれず、御附の女中等を相手に、今日は歌書、明日は物語と、関東武士の無骨な気風を嫌い、すべて京都風の日常を送っていた。つまり、趣味が合わないという所であった。
その上、御台所は朝廷と東福門院との特別のお声がかりで仕方なく入輿したという頭があって、なかなか気位《きぐらい》が高かった。
稲生、越智の両人は、このままでは、夫婦の仲も思わしくないと心配して、綱豊はじめ家中の者に学問をすすめ、表と奥の融和をはかろうとした。
博学の聞え高い新井|君美《きみよし》(白石)が、新規お召抱えとなり、綱豊の侍読になった。
君美は、学者雲のごとく出た江戸時代を通じて屈指の大学者である上に、弁舌実にさわやかな人であった。完全に綱豊を魅了した。それに、綱吉が将軍となってからは、広く学問を奨励したので、綱豊も一層影響されて、学問に打込むようになった。
君美の噂は、すぐに奥向きにも伝わった。これまでまるで学問に関心のなかった綱豊や、家中の面々が、学問に励むようになったと聞くと、御台所は、その講義を聞きたいと所望してきた。
綱豊も喜んで承諾し、その後は、君美の講義の席へは、御台所も御簾屏風《みすびようぶ》の内に坐って、親しく聴聞《ちようもん》するようになった。御附の女中等も交代で陪聴することを許された。
御台所は向学心が強く、君美の講義の中によくのみ込めない個所があれば、その席からどしどし質問した。君美の方でも、画家に図を描かせて、御手許に差上げて講義の参考に供するなど、心をつくした。こういうところから、表と奥の親密が増し、綱豊と御台所の仲も、ようやく世間なみの夫婦らしい感情が通い合うようになった。
こんな話が伝わっている。君美の博識に驚嘆した綱豊が、どうしたらそちのような物識りになれるかと聞いたところ、君美は答えた。
「全身に恥《はじ》|いぼ《ヽヽ》をかけばこうなれます」
人に問われて知らないことを恥かしく思って勉強することだという意味である。君美の強い性格のうかがわれる逸話である。
綱豊には、二人の御附中臈があった。
おすめの方は、堂上家|園池《そのいけ》家の出身だったので、和歌、管絃《かんげん》の道に長じていた。御台所の御意にもかない、はたの目には、まるで姉妹のように親しんでいた。大五郎を生むと、新《しん》典侍《すけ》の局と改名したが、大五郎は夭折してしまい、めっきり寵愛も衰えた。
左京の方は、はじめお喜世《きよ》の方といい、町医師太田|寿迪宗円《じゆてきそうえん》の娘であった。老女玉江の部屋子から、旗本勝田|帯刀《たてわき》の養妹として御側に上り、左京の方となった。この女は、甲府家へ奉公に上る前は、播州赤穂浅野家の夫人あぐりに仕えていた。小藩五万石の家の奥向きへお端下奉公していた女が、後に七代将軍家継の御母堂様となるのだから、女の運命ほどわからないものはない。
綱豊が綱吉にきらわれている頃には、勝田帯刀は、桐の間御番から小普請組に下げられた。将軍家の嫌っておられる甲府家へ妹を上げたということが、柳沢保明の反感を買ったのである。しかし、綱豊が六代将軍を継ぐと、帯刀は取立てられ、勝田|備後守《びんごのかみ》典愛《つねなり》となった。
実家の太田家も、この時千石を賜わり、寄合衆に列し、左京の方の実弟九之助は、太田|内記《ないき》政資《まさすけ》といういかめしい名になった。
贈収賄の禁止
綱豊は、六代将軍家宣となると、前代の悪弊の最大なものであった大奥の政治干与を断乎として排除することとし、これと結托していた表の役人を一掃した。
権臣柳沢保明を器用に免職にしたことはすでに書いたが、これにつづいて松平輝貞、黒田直邦、松平|忠周《ただちか》等柳沢一派の者を残らず処分し、これまで柳沢派から白眼視されていた人々や、甲府侯当時に志を寄せていた人々を起用した。本多|中務《なかつかさ》大輔《だゆう》忠良《ただよし》はこうして側用人格に取り立てられた一人であった。
前代に時めいた人々に取入って、権勢風を吹かせ、威張りかえっていた連中は、この代替りに、どんな返報があるかと、不安におびえていた。当代登用の人々に何とかして取入ろうとしても、前将軍の喪中《もちゆう》の折から、派手に音物《いんもつ》や贈物をするわけにもいかず、その手段には、大へんな苦労があった。
将軍家の喪中には、諸大名から、花と野菜を献上するのが例になり、その献上の残りと称して、老中、側用人、若年寄、御側衆等に、同じ品を贈るのも、また慣習であった。
本多家は、むかしから厳格な家風で、不時の音物《いんもつ》は一切受け取らなかったが、この花と野菜だけは慣習として受納していた。このたびの改変で、忠良が側用人に抜擢されると、取入ろうとする連中は、我先きに、花桶や、野菜|籠《かご》を捧げて、本多家の門前に押寄せた。いずれも花桶の底や、野菜籠の底に、黄金白銀をひそめて、氏名を記した目録を添えてある。忠良はいちいちそれを書き留め、翌日御前へ伺候すると、その書付を家宣に提出した。
家宣は、忠良の律気《りちぎ》さをほめて、
「よくぞいたした。これまでにもそのまま受納した者もあったろうが、それをいまさら吟味するも無益なことである。今後さようなことのないよう、かたく年寄どもへ申しつけよ」
と、老中一同へ達しがあった。
従来諸家より草花の類を差贈り候儀これあり候えども、向後右の類は一切受納いたさざる儀に一同申し合せ候間、万一差贈り候|族《やから》これあり候わば、きっと断り申し、品物差し返し申すべきにつき、心得違いこれなきよう、向々《むきむき》へ相達すべく候
と、大名旗本の別なく、いちように音物《いんもつ》禁止の通達が出された。
本多家では、黄金や白銀の贈り先の大名の御留守居役を一人々々呼んで、
「せんだって御贈与の花桶、野菜籠に黄金何枚、白銀何枚お差し入れあったが、これは御家来中において何かの間違いをされたものと存じ、主人へは申聞かせず預り置きました故、お持ち帰り下されたい。しかしながら、以来かようの儀がありましたら、きっと主人へ申し聞かせ御挨拶に及び、ことによっては表沙汰にいたすかも知れません。御心得おき下されたい」
といって、持ち帰らせた。
前代の綱紀紊乱《こうきびんらん》の直後だったから、この処置は非常な効果を上げ、しばらくの間ではあったが、さしもの贈収賄《ぞうしゆうわい》の弊習も、ぷっつり跡を絶った。
本多忠良はこのように厳格な人だったから、政道腐敗の張本人である柳沢家に対しても仮借《かしやく》しなかった。保明は、綱吉の晩年に御諱字を賜って、吉保と名を改めていたが、この吉保が隠居を聞き届けられた当日、次男|刑部少輔《ぎようぶしようゆう》経隆《つねたか》、三男|式部少輔《しきぶしようゆう》時睦《ときしげ》の二人に、甲州の内の新田一万石ずつを配分して、大名列とすることの願いが聞き届けられると、早速経隆には日比谷、時睦には神田橋の御門番を命じた。嗣子《しし》甲斐守《かいのかみ》吉里《よしさと》には火消番を命じた。こうして、およそ五年間は、柳沢家は本末三家ともたえず課役を仰せつけられた。
井伊|掃部頭《かもんのかみ》直治《なおはる》は、甲府侯に心を寄せていたという理由で、綱吉時代、先祖代々の家職だった御宮、御霊屋などに将軍が参詣する場合の御先き立ちを柳沢父子に奪われ、外様《とざま》同様のあつかいになったので、不満のあまり隠居したほどであったが、代替りとなると、嫡子の直通《なおみち》が、昔にかえって御先き立ちを勤めるようになり、将軍宣下の大儀式の際にも、家格通り着座を仰せつけられ、すっかり恥辱をすすいだことになった。
直通は、二十二歳の若年ではあったが、その家柄を考慮して、将軍宣下御礼の目代上使として、京都に派遣された。首尾よく役目をはたし、禁裡から左近衛権少将に任ぜられた。井伊家でも三十歳未満で少将に任ぜられたことは、前例がなかった。
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左京の方の提言
いなされた御老中
表のことに関する大奥の口出しは少くなったが、そのかわり、表と大奥との論争という、変った現象が生じた。
幕府は、将軍代替りとなっても、将軍宣下のないうちは、将軍夫人はなお御簾中《ごれんじゆう》様と呼ばれるのが、いままでの慣習である。
ところが、家宣が将軍跡目を相続すると、大奥ではその日から家宣夫人を御台所《みだいどころ》様と呼び、先代の御台所を大御台所《おおみだいどころ》様と呼ぶようになった。
老中等は、これを心得ぬことと咎めて、側用人|間部詮房《まなべあきふさ》を呼びつけ、
「大奥では早くも御台所様と申されているが、これは先例を御不案内のためであろう。やはり将軍宣下のあるまでは、御簾中様と呼ぶように」
と注意した。
詮房は、老中からいいつかったものの、しばらくは思案にくれた。大奥には斎《いつき》の局、錦小路などという、錚々《そうそう》たる上臈が控えている。ことに、有職故実《ゆうそくこじつ》にはくわしい。その人たちがいい出したことであるから、そこには必ず典拠《てんきよ》があるに違いない。うかつに取次いでは、あとで老中と大奥の間の板ばさみにならねばならぬと、一日延ばしに延ばしていると、老中につかまって、
「表と奥とで二通りの呼び方をしては不都合である。早々に申し入れてもらいたい」
と、催促をくった。
詮房も観念して、取次いだ。
たちまち錦小路から、逆ねじをくわされた。
「将軍家ではよろず室町御所の例を御用いなされます由につき、ただいままではひとえに室町御所の格式にならうように心がけてまいりました。しかし、このたびの御心添えを受けましたについては、承っておきますが、今後は室町御所の例を一段と引下げてよろしいのでございますね」
詮房は覚悟の上だったが、こんなふうにむずかしく問いかけられると、返答にこまった。ともかく、くわしくは老中へ相談しての上で、改めて返答しようと、その場を逃げた。
老中等にも、室町幕府の例など、くわしく知っている者はいない。林《はやし》大学頭《だいがくのかみ》信篤《のぶあつ》に尋ねてみたが、ラチがあかない。新井君美にも当ったが、これも知らない。こちらからいい出した手前もあり、やきもきしていると、御台所の父近衛基煕から前《さきの》将軍綱吉薨去に対する悔み状が届いた。
大樹公(綱吉のこと)薨去の趣き承知いたし、驚歎の至りに候。亜相公(家宣のこと)御台所愁傷のほど、はばかりながら恐察せしめ候。この旨宜しく洩達《えいたつ》に預るべく候。あなかしこ。
御台所の文字がはっきりと書かれてある。
堂上家きっての物識りである太閤(関白の隠居した称号)の書いたものだけに、間違いのあろう筈はないと思われた。とすれば、従来、将軍宣下以前に御台所と呼ぶのをはばかっていたのは間違いということになる。一同評議の結果、間部詮房を通じて、念のため、直接太閤に伺ってみることになった。
詮房は、早速、近衛家|諸《しよ》大夫《だゆう》筆頭佐竹|主税頭《ちからのかみ》にあてて、伺い状をしたためた。
将軍宣下以前に御台所と申し上げた例が、室町幕府時代にあるとのことを承りましたが、それは何様の代でございましょうか。御手数ながら、くわしく御書面でお教え願いとう存じます。これは私が心得までにお伺い申上げる次第でございます。
待つほどもなく、太閤基煕直筆の返事がきた。御台所でよろしい、と書いてある。足利義満以来の例を、朝廷と近衛家の記録のなかから抜き書きし、証拠として当時の往復文書の写しまで入れてあった。
さすがの老中等も、顔を見合せたまま呆然としてしまった。老中の面目丸つぶれというところだったが、そこはまことに都合よく、折から将軍宣下の儀式が行われたので、どさくさまぎれにどうやら外見上の体面だけは保てた。
宝永六年四月三日、老中連署で、
今日より上様と称し奉り、御簾中様御こと、今日より御台様と称し奉るべきこと云々。
と、一般に達した。
この物語によって、我々の感ずることは、当時の幕府が愚にもつかないことを大問題として大童《おおわらわ》になっている点だ。太平がつづいて、権威が固定すると、政治の実質は忘れられて、このような形式的なことが大へんな重大事となるいい実例である。
役に立たぬ学問
家宣は、林大学頭信篤と一族の七三郎、百助等を召出して、休息の間や御座の間で、論語の講義をさせ、新井君美には、相変らず御側近く召して、通鑑綱目《つがんこうもく》を講義させていた。
ある日、講義が終って、二人を相手によもやま話をしていたが、ふと思いついたように、
「学者というものは、和漢の故実典例に精通していなければ、ものの役に立たないな」
と、言った。
いつかの御台所論争で、信頼している二人がさっぱり役に立たなかったことを不満に思っていたことが、つい出たのである。
林信篤は、経学《けいがく》の方であるから、ただ恐れ入って頭を下げているだけであったが、君美の方は歴史書である通鑑《つがん》の講義をしている立場もあり、人に聞かれて知らないということが恥イボの出るほど負けず嫌いの性格なので、家宣のこの一言にたえられないほどの責任を感じて、以後、もっぱら本朝の典故の学問に志し、律令《りつりよう》、格式を研究するかたわら、幕府の典例をも知ろうとして、東照公以来の故実を調べはじめた。
しかし、どんなに君美が気負って立向っても、これは容易ならない事業であった。器物などは、直接にそれを見なければ、どんな形をしたものであるかもわからないものもあり、苦心してやっと手に入れても、名所《などころ》や使用法がわからなかったりする。どうしても、その道の専門家について、教えを受けなければ、会得しがたい。田舎学者が書物だけを頼っている限り、とうてい、完全には行けそうにないと、つくづく知らされた。
一体、新井君美(白石)という人は、儒者ではあったが、大へんな野心家であった。純然たる学者として、学問を学問として研究して行くことより、学問を実際政治の上に応用して、自らの理想とする世界をつくり出したいと思っている人であった。その彼にとって、彼の主人である家宣が将軍となったことは、理想実現の機会到来と思わせた。
では、彼の理想は何であるかといえば、新しい文化国家の建設であった。儒教の方では、「百年にして礼楽《れいがく》興る」と昔から言っている。新しい王朝が出来て百年経つと、その王朝独自の燦爛《さんらん》たる文化が花咲かねばならぬものだという意味だ。徳川幕府がはじまってから家宣が将軍になった年まで、すでに百七年になっている。新しき独自の文化が出来上らねばならぬ年が来ている、と、君美は考えたわけであった。
この君美の考えは、家宣も十分に吹きこまれている。それ故に、家宣も礼法典故にあんなことを言い、君美も熱心に研究を進めたわけであったが、あまりにも研究が困難であるので、ある日君美は家宣にむかって言った。
「漢土の周礼《しゆうらい》などは、おぼろげながら書物の上で会得しておりますが、我国のことは何とも不分明なふしが多く、現に京都で堂上方がふだん用いておられる衣冠の類さえ、江戸ではたやすく見ることもできない有様でありますから」
家宣はうなずき、
「もっともなこと。予が申したことを、心にかけてくれているのは奇特である。――ところで、どうであろうな、近衛太閤に下向していただこうでないか」
と、言った。
「おお、それは願ってもないことでございます」
と、君美はもとより大喜びだ。
かくて、半年ばかりたって、近衛太閤の江戸下りは実現した。ここまで漕ぎつけるまでには、もちろん、朝廷へ伺いを立てたり、奥向きから働きかけたり、なみなみならぬ努力はあったのだが、つまりは、将軍と新井君美の熱情が、六十二歳の太閤を動かしたのであった。
幕府は、上使として老中秋元|但馬守《たじまのかみ》喬知《たかとも》と高家《こうけ》衆畠山|義寧《よしやす》を、太閤の旅館である竜《たつ》の口《くち》の御用邸に遣わし、無事着府の賀儀を申上げた。
翌日は、老中、若年寄一同が参上して、賀儀を申上げ、退出すると、入れ替りに側用人|間部詮房《まなべあきふさ》が上使として、鮮鯛一折、黄金三百枚、夜の物を持参した。
御台所からは、御用人堀|山城守《やましろのかみ》正勝《まさかつ》を御使いとして、鯉一桶に御服三重ねを贈った。
なか一日おいて、次ぎの日には、老中秋元|喬知《たかとも》が参上して、
「明日御対顔あるべきところ、東照公御忌日でございますので、明後日御対顔あるべく、また太閤殿下には御老体であらせられますれば、御登城の際は申すに及ばず、御座敷でも御遠慮なく杖を御用い下さるよう――」
と、家宣の意向を伝えた。
当日は、早朝から高家衆畠山義寧、堀川|広益《ひろます》の両人が、竜の口の旅館にまかり出て、時間をはかって登城することになった。太閤の旅館には火事等の場合の避難先まで用意してあって、南から火が出たら湯島の麟祥《りんしよう》院、北から火が出たら芝の青松寺ときめてあった。至れり尽せりであったのだ。
義寧の案内で、太閤は座敷杖にすがって、白《しろ》書院に迎え入れられ、そこで、家宣と対顔した。それがすむと、今度は間部詮房の案内で、大奥休息の間で御台所と対顔し、その席へは、家宣も出座して、手ずから心をつくして饗応した。太閤は夜になって帰館した。
それからは、一日おきか二日おきに登城し、日本紀、源氏物語などを講ずることになった。毎度の登城であるから、平河口からすぐ大奥へお入りになられるようと、家宣が直々言ったので、以後はそうすることになった。太閤の大奥における座席は休息の間と定められ、いつも五人の女中がつきそって世話した。一体徳川幕府は朝廷抑圧の政策をずっと取って来ていたので、堂上家に対するこのような鄭重なもてなしは、かつてなかったことなのである。
太閤株上昇
太閤が、日本紀を講義するのは、我国の礼式や典例が、いつ頃から、どういうふうにして起ったかをつきとめるためであり、源氏物語を講義するのは、有職をのみこませる方法としたのであった。
こういう学問は、もともと古い時代の法令に関係のある所から、しぜん講義は今日の政治にも触れてきて、問うところあれば言うところありで、どうしても政務に立入るようになる。そこでめきめきと太閤の勢力が高まり、やがて竜の口の大御所と、ひそかに綽名《あだな》されるようになった。
時の勢いになびくのは人情である。大御所の旅館に当てられた竜の口の邸へ、縁故をたよって伺候する人々が、日増しにふえていった。また、太閤の紋章が、杏葉牡丹《きようようぼたん》だったので、大名や旗本の間では、衣服にその紋をつけることが流行った。杏葉牡丹をつけていると、さも太閤の縁者らしく見られ、人々に羨しがられたり怖れられたりするだろうとの、他愛ない思惑がさせたわけだ。馬鹿々々しいことのようだが、これに類したことは現代でもあろう。
君美は、太閤の下向以来、しげしげと伺候して、教えを受けた。もちろん、家宣から太閤に話もしてある。太閤は親切にその持っている智識を教えこんだ。
「武家だからといって、むかしはこれほど礼儀をわきまえないものではなかった。長らく戦《いくさ》がつづいたために、しぜん礼儀を失ったまでである。先ず第一申すべきことは、武家とてもそれぞれその格に応じて、朝廷からしかるべき官位に叙任されている。官位にはそれぞれ服制がある。これによって上下貴賤の品《しな》(階級)が、整然と差別されるのじゃ。これは国家の大典ともいうべきで、服制を正すことによって礼節もしぜんと正しく、進退にも度が出て来、従って風俗も乱れないようになる。故に、礼を修めようとするならば、先ず身分の差別を明らかにすべきである。それにはどうしたらよいかと申せば、服制を立てることである。たとえば将軍家はいま内大臣、右近衛大将におわすが、下々の着する裃というものを用いておられるのは、まろの目にはまことに異様なものにうつる。あれは下々のふだん着である。大臣、大将たる御身がふだん着を召されるにしても、下々の服をお召しになることはあるまい。万事がそういう有様だから、おのずと上下の身分も混雑して、やがて進退の度もなくなるのだ」
君美が、早速これを言上すると、家宣は太閤の登城を待ちかまえていて、こまかに教えを受け、これまでの羽織袴をやめて、道服《どうふく》に改め、直垂《ひたたれ》、小《こ》直衣《のうし》などを作らせて、裃の代りとし、すべて京都堂上家の風俗にならった。
いままでの幕府の制度によると、狩衣《かりぎぬ》は四位以上の者でなければ、着用を許さなかったが、これも、
「狩衣とは由来鷹野などの狩場の装束であって、五位以上も以下も用いる品で、さして重んずべきものではない」
と、太閤が笑ったので、
狩衣の儀は、これまで四位以上にこれなくては着用相成らざる御定めに候えども、以来諸太夫以上の輩は、着用苦しからず候。もっとも相用い申すべき節は、前以って相達するにてこれあるべく候
と、触れ出した。
林信篤は、代々幕府の儒官として仕えてきた家柄だったが、大奥から突っ込まれた室町幕府の先例について、老中から尋ねられたとき、満足な回答ができなかったし、近頃、家宣はしきりに諸制度を改正しているが、本来ならば儒官である林家に相談あるべきを、浪人儒者上りの新井君美ばかりを重んじて相談しているので、面目はまるつぶれだ。
信篤は、どうかして面目を立て直したいとあせって、何か新規に制定されたことでもあると、やっきになって和漢の故実を調べて、間違いを探し、いちいち家宣に言上した。すると家宣はこれを君美にいう。そのつど君美は太閤の許へかけつける。
「大学頭がかように申します」
「それは大学の覚え違いであろう」
「不案内の申し条である」
「その儀なら何々の書を調べてみよ」
そこで君美は、太閤から教わった通りのことを、夜の目も眠らずに調べて、得たりと信篤を反駁《はんばく》する。この道に関する限り、信篤|風情《ふぜい》がどんなにあがいてみても、太閤の博識にかなうはずがない。かえって自分の不見識をさらすような結果に終り、いよいよ面目はつぶれるばかりであった。
宝永七年六月、信篤は病気を理由に隠居を願い出た。家宣は信篤の肚《はら》を見透しているので、隠居を許さなかった。仕方なく役にとどまったが、これからは一層|軋轢《あつれき》が烈しくなり、君美とは犬と猿のようにお互いに誹謗《ひぼう》しあった。
君美を妬む人々から、信篤に同情する声が起った。新規の政令が出されると、これは君美が家宣の心を蕩《たら》して、おのれの名利をはかるものであると非難した。
この場合、君美を非難するからには、当然、これを重用する家宣にも批判がましい声がともなうべきであるが、それはなかった。ないはずである。暴悪綱吉に対してすら非難し得なかった大名や旗本共だ。綱吉の圧政にくらべれば、家宣の政治は仏の政治といってよいくらい慈悲深かったのだから。
家宣が将軍となって、生類御憐みの禁令を即時に解いたこと、大赦を行ったことなどは、慈悲の政策として、急速に、広く浸透したのであるが、これ以外にも、特筆すべきことがある。将軍宣下のないうちだったが、旗本の嫡子で、十五歳以上の者を召出し、御番入りを仰せつけらるということがあった。前代では、柳沢吉保に取入った者の嫡子でなければ、召出されることはなく、たとえ文武の道に秀れた者であっても、むなしく部屋住みをかこち、旗本の貧困も甚しかった。しかるに、御番入りをした者は、その家の禄高に応じて、部屋住料として廩米《くらまい》を賜ることになっていて、最高五百俵以下数等あった。小額の分は小十人組士で、百五十俵以下百俵までと定められていた。
家宣は、それらの人々を全部召出して、部屋住料の恩恵に浴させたのである。人数は七百三十人に達し、中には十三、四歳の者まで、年をいつわって御番入りした者もあった。
老中にこの事情がわかると、御仁慈に狎《な》れる不届者として、家宣に言上されたが、家宣は機嫌よく、
「このたびのごとき召出しは絶えてないことであるから、親の身となれば、わが子が僅か一、二歳のちがいでその数に洩れるのを残念に思うのは無理からぬことだ。それを辛《から》く吟味してこの恩恵から漏れさせるのはふびんである。いずれも予の手足となる者、そのままに捨ておけ」
と、見すごすことにしたのである。
張紙相場のからくり
つづいて、旗本に賜る廩米石代《くらまいこくだい》のことが改められた。
旗本でも、知行所のある者は、そこから上る知行の収納で賄うので、石代の高低には、それほど痛痒《つうよう》を感じなかったが、御番入りの人々や、知行所のない旗本は、それが、直接に影響する。廩米は、春秋二度に分けて(のちには三度になった)くれるのが、例になっていた。その際は、勘定所が前もって上中下三等の米の相場を調べ、これを平均して、百俵(一俵三斗五升)に金何十両と定め、書付けにして旗本の登城、退出の出入口である中の口に、張り出して知らせる。これを御|張紙《はりがみ》といい、この相場を御張紙相場と呼んだ。
勘定奉行|荻原《おぎわら》近江守《おうみのかみ》重秀《しげひで》は、前代柳沢吉保の目がねにかなって抜擢《ばつてき》された者であった。私慾のたくましい男で、勘定奉行になると、早速、米商人(蔵前の札差《ふださし》)と通謀して、この張紙の相場を、時の相場よりおよそ十両ほど安く書出し、それに基づいて、廩米代金を旗本に支給し、差額の莫大な利潤を三分して、吉保、重秀、米商人の三者で着服していた。この悪事は秘密な上にも秘密にしてきたから、誰一人として気づく者がなかった。
もともと武士は算盤《そろばん》勘定にうとい。そんなことをかれこれとセンサクすることは武士の品位に関係すると思っている者が多い。仮にこの不正を勘定所へ申し出たとしても、権力によって、「申し条不届」と罰することもできるし、数人が共同で訴え出れば、「徒党強訴の罪」にあてることもできる。だから、この不正がつづいていた。
御代替りとなって、柳沢は退けられたが、重秀は勘定奉行にとどまっていた。だから、不正はいぜんとして改められなかった。
左京の方の実弟太田内記政資は、家宣の代になって急に取立てられた者であるから、はじめは何事にも不案内であったが、元来町医者の出であるから、算勘もわかれば、物価にも鋭敏だ。ある時、この張紙石代のひどく安いのに不審を感じた。寄合衆の仲間に聞きただすと、いよいよその不当なのに驚いた。そこで、江戸、大坂、仙台の米価を問い合せて、念のため平均してみたところ、張紙相場をはるかに上廻る数字が算出された。
「これはけしからん! 御家人一統大へんな損をしている」
政資は、調べ上げたことを細かに書きつけ、万人のために何とぞ上覧に入れてくれと、左京の方の許に差し出した。これが、家宣に届いた。
家宣は、呆然たる面持《おももち》だったが、慎重を期して、新井君美にいい含めて、時の米価を調べさせた。念入屋の君美だ。精密に調べ上げた。家宣はこれを握っている。
宝永七年の春、荻原重秀は、例年の通りに算出して、張紙相場を老中まで差出した。家宣は、老中が提出した書付を見て、
「これは書き損じであろう。百俵二十七両とはおかしい。それともこれは下米の相場であるか」
と言った。
老中は、びっくりして御前を退ると、重秀を召出して、上意の趣きを伝えた。
重秀も内心大いにあわてたが、さりげなく、
「いかにも書き損じでございます。恐れ入りました。実は三十七両でございます」
と、ごまかした。
老中はふたたびこれを家宣に報告すると、家宣はそれをも不当と思ったので、
「一両増して、三十八両の割に申しつけよ」
と、命じた。
重秀は、三十七両でさえ私慾の分が僅少なのに、この上一両増されては、時の相場より少々割高につく。ビタ一文、ふところには入らない。思案のあげく、大胆にも二十八両と書いて張り出した。
太田内記は、期待して張紙相場の発表を待っていると、|あにはからんや《ヽヽヽヽヽヽヽ》、少しも改まっていない。妻女を時候見舞いとして左京の方の許へやり、不平を洩らさせた。
家宣は、左京の方から、二十八両の張紙相場を聞かされると、以っての外とばかり、老中一同を召出した。
老中等は恐れ入って、御目附に命じて、中の口から張紙を取り寄せてみると、たしかに二十八両とある。
「これは何たる間違いであろう」
老中等は驚きあきれて、重秀を呼んだ。
重秀は、たしかに三十八両と書いて張り出したと、強硬につっぱねる。それではこれはどうだと、証拠の張紙を目の前に突きつけてやると、アッと驚いた顔になり、
「ああ、これは何としたことでござろう! 全く下役どもの書き損じでございます。いまさら申訳次第もありません。不念《ぶねん》の至りでございました」
と言った。
家宣も、処分を決意し、
「重ね重ね、書き損じたことを心づかぬとは、役儀に念を入れぬ段不届である。きっと逼塞《ひつそく》申しつけよ」
大久保|加賀守《かがのかみ》忠増《ただます》を遣わして、重秀の役目を召上げた。
張紙は、書き改めて三十八両と張り出されたので、下級の旗本等は、額に手をあてて喜びあった。
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堂上家の隆盛
当世風出世のかたち
家宣が、礼制改革に力を入れ、有職故実の研究に専念した結果は、幕府内に京都風が流行り出したので、老中の中にもあまりに公卿めいた近頃の風潮を憂える者もでてきた。
小笠原佐渡守|長重《ながしげ》は、古武士気質の人物だったから、特に、この気風を苦々しく思っていた。また、間部越前守詮房が君寵《くんちよう》の厚いのも気に入らなかった。
詮房の父は、喜多六平太門下の能役者であった。家宣の甲府侯時代に、詮房もまた最初は能楽の相手役として召し出されたが、美少年であったから、その男色でもあった。そんな男をどれほどの忠勤があったか知らないが、側用人として取立て、四位の侍従にまで昇進させているとは何事! またその詮房が、忠勤第一と励むならばともかく、ひたすら大奥に取り入り、公家《くげ》文弱の弊風をまねる家宣に少しも諫言もせず、権勢を誇り顔とは不快千万! といったわけである。
「貴殿は甲府以来御覚えがめでたく、常々御側に伺候されておられるが、ただ御意にかなうよう腐心されるばかりでは、御役向きは勤まらぬはず。折にふれて少しは御諫め申されてはいかがでござる。先ず武士は武士らしくこそあるべきに、当上様にはよろず公家《くげ》風をお好み遊ばされるので、上に習う下の習いにて、御旗本衆が、武芸よりも行儀作法を重んずるの風、今より甚だしきはない。このまま過ぎるときは、行儀作法は整っても、武士らしき者は一人もなくなり申すぞ。越前殿、さようにはお考えなさらぬか」
と、ツケツケとやっつけた。
詮房は、厄介な男につかまったと思ったから、その場は素直に頭を下げ、心得ました、と、挨拶をして別れた。
その後、詮房がいっこうに家宣に諫言した様子もないので、長重は内心憤りを感じていた。そういう矢先、月番老中に当っていると、
「越前に加増をつかわし、高崎の城をやりたいと思うが、それにつけても現在高崎にある松平|右京《うきよう》太夫《だゆう》輝貞《てるさだ》を、どこへ移したらよいか、年寄一同で評議の上申し出でよ」
と、家宣から内命があった。
上意であるからお受けはしたが、長重は肚《はら》の中が煮えかえる思いで、御前を退ると、詮房を呼びよせて、
「せんだって貴殿に申し入れおいたことは、しかと上様に達していただいたでござろうな、越前殿」
と、切口上で問いかけた。
「いまだにしかるべき折もないまま、御耳には入れておりませぬが」
長重は皮肉な調子で言い放った。
「なるほどな、貴殿のようなお人には、なかなか申し上げかねることでござろうな。さりながら、武士というものは、まことお上のためを思うならば、命を捨てても御諫め申すのが習いでござるて」
「これは御老中、御言葉とも思われませぬ。それがしとてもお取立てをもって大名列に加わり、少なからぬ家来共をも扶持している身でござれば、死して御為になるとならば、何条各々方に劣りましょうや。ついでさえあれば、ただ一言ですむべきことでござる。さして急ぐべきことでもないと存じおりました」
と、にがにがしげに答えたが、それ以来、両人の仲はおそろしく悪くなった。
この間部にしても、前代の柳沢にしても、決してムカッ腹を立てて人と争うようなことはしない。主君に対しても直諫などしない。これが当時の出世型なのだ。
京の仇を江戸で討つ
長重は、以前に京都所司代を勤めたが、その当時、近衛太閤はまだ左大臣であった。五代綱吉の在世中で、甲府侯は邪魔者扱いをされており、しぜん姻戚《いんせき》である近衛基煕も、関東の気うけがよくない。
公事について、長重はよく近衛家へ参上したが、無意識のうちに綱吉の影響を受けていたのかもしれない、応対に傲慢《ごうまん》な態度があり、基煕はきげんを悪くして、
「田舎《いなか》武士《ざむらい》の礼儀知らず!」
と長重のことをその日記に書きのこしているほどであるが、その基煕が太閤となり、家宣から最上の懇遇《こんぐう》を受け、竜の口の大御所様とまでいわれる境遇になった時、長重は老中としてふたたび相|見《まみ》ゆることになったのであった。
その頃、南都一乗院と大乗院の間に、興福寺寺務職をめぐって、争いが起きていた。双方譲らず、ともに使僧を江戸へ下し寺社奉行へ訴え出た。
一乗院門主は、もともと近衛家とは親類の仲であった上に、その院家|成身院《じようしんいん》の妹は太閤の侍妾で、正夫人の歿後は、もっぱら近衛家の奥向きを取りしきって中々の勢いだったので、成身院は太閤に取り入ってその助けによって、このたびの訴訟が一乗院の勝訴になるよう、猛運動をつづけた。
太閤は、登城の日に、成身院の言い分を直々に家宣に話し、それとなく裁許を促した。けれども、日頃の家宣に似合わず、容易に裁決しない。そこで、太閤は推察した。
「大乗院の門主は鷹司家の出で、前代綱吉将軍の御台所の弟である。だから、その当時の好誼《よしみ》によって、老中小笠原長重が邪魔立てしているのであろう」
太閤は、長重の存在が、一層うとましくてならなかった。
ある日、家宣との雑談にことよせて、長重の所司代在職中のことを取上げ、嘲笑して聞かせた。家宣は、おだやかな性質だから、過ぎ去ったことにはなるべく触れたがらず、相槌を打つ程度で聞き流した。
すると、このことがいつか大奥に洩れて、口さがない女中等の話題に上った。ふだん面憎く思っている頑固爺長重のことだ。尾鰭をつけて、おりにふれては家宣にたきつけた。
家宣は、それさえ相手にならなかったが、間部詮房に対する暴言を知らされると、幕府の統制上、もう寛仮しておくわけに行かないと考えた。
本多忠良を召出して、
佐渡守こと、明日より登城に及ばず
と、沙汰をした。
長重も、覚悟をきめていたので、少しもうろたえず、謹んで上意をお受けした。翌日、御役御免を願出て、それが聞届けられると、追いかけて、隠居願いを出した。
これで、家宣の京都風を、とやかくいう者はなくなったが、馬鹿でない家宣は悟るところがあったらしく、これを境に、武道にも心を向けるようになった。
虎鞘の張替え
家宣は、急に思い立って、武具の取調べを、老中等に命じた。
前代では、一切が柳沢吉保の采配《さいはい》にまかせられ、天下泰平、生類御憐みに終始して、武具に心を傾ける者はなかった。御番頭《おばんがしら》に預けっぱなしにしてある武具は、鉄砲は錆びつき、合薬《ごうやく》(火薬)は湿り、弓はそりがもどり、弦《つる》は上り、矢は羽根がない、というむざんな状態であった。
老中等も、いまさらのように呆れて、ありのままを報告した。
家宣はその日から、手入れを命じ、組下の与力、同心等が、修理につとめることになった。
将軍家の槍は、虎の皮の投鞘《なげざや》だったが、生類御憐みで、毛はことごとく脱け落ちたまま、見るかげもない状態で放っておかれたので、この修理は大変であった。前代の時、大奥で狐おどしのために、長崎から虎の皮を取寄せたことを思出して、納戸を探させたが、これとても、二十年にわたる生類御憐みの時代を経ているので、ものの役に立ちそうにない。黒羅紗と黄羅紗をはぎ合せて作り物をしようかという案もでたが、それではみるからにまがいものじみて、かえって権威にかかわる。結局、ある限りの虎の皮の、使用に堪える部分々々を継ぎ合せ、なお足りないところは、脱落した毛を植えつけて、一時を取繕ろうことになった。
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絵島のとりなし
絵島と交竹院の危険な関係
宝永六年は、丑の年であるが、この年の七月三日、左京の方に男子が生れた。俗説では、丑年生れの者は、いったん他姓を名乗らなければ、満足に成長しないといわれている。
家宣は、君美と相談して、徳川家の遠い先祖が世良田《せらだ》という苗字《みようじ》を用いたことがあるので、とりあえず生れた子を、世良田鍋松と名づけた。
家宣には、家千代、大五郎の二子があったが、いずれも早世させている。鍋松は、家宣にとって、かけがえのない一粒種である。目に入れても痛くないほどの可愛がりようで、風にもあてず、大事に大事に育ててきたが、四歳の春、原因不明の熱を出した。
典医に命じて、あれこれと治療させたが、さっぱり効能があらわれない。これらの典医らは、家千代、大五郎の時にも、治療が行きとどかず二人とも殺してしまったので、鍋松がはかばかしくないとなると、大奥は騒ぎ出した。
「先代上様の御覚えめでたき人々でございました故、当上様のためにはしかるべしとは存ぜられませぬ」
と、あらぬことまで、吹聴《ふいちよう》する者さえある。
左京の方は、出が町医者の娘であるから、かねがね噂に聞いていた村上養順という町医者を、家宣に頼んで、新しく鍋松の侍医にして貰った。表医師奥山交竹院も、奥医師となった。
両人寝食を忘れて治療に当ったところ、その効き目があったものか、鍋松の病気は日増しに好転して来た。
家宣はじめ大奥の人々の喜びはひとかたでなく、御褒美として、交竹院には廩米《くらまい》四百俵、養順には時服五ツ重ね、白銀五十枚を下賜した。
荻原重秀は、張紙相場の不正から、逼塞《ひつそく》を仰せつけられていたが、以前から交竹院と懇意であったので、その交竹院が御典医中御覚え第一になったと聞くと、このたびの出世のお祝いという名目で、莫大な金銀を贈った。
交竹院は喜んで、答礼のために、荻原方に出向いたが、席上、重秀から、
「拙者は御当代となってから、何となく御覚えもめでたくなく、そのためいつ御役を召離されるかと、薄氷を踏む思いでいたところ、はたせるかな、さき頃張紙のことで逼塞の身となってござる。しかしこれとても、下役共の書きあやまりで、拙者にそれほどの重い罪があるとは思いません。自ら申すはいかがながら、拙者は御役向きにはこれまでずいぶん手柄をたてたつもりでいます。と申すは、御先代の時、すでに御勝手元必至と逼迫《ひつぱく》し、どうにも手の打ちようがなかった上に、たびたびの天災地変があって、御領所収納も莫大な御減少であり、それにつづいて、御先代様、御台所様とつづいて薨去あらせられ、当上様御本丸移転のための御手入れ、御模様替えなど、いずれもおびただしい費用がかかりましたが、拙者一人の計らいで、万事とどこおりなくすまして参ったのは、方々も御存知の通りでござる。さればかかる数年の功は、たとえ御褒美はなくとも、少しは思召しあってしかるべしと存ずるに、世上の噂を取上げ、御憎しみあらせられるのは、何人かのざん言によるものと存ずる。貴殿には御前へも折々出でられると聞けば、万一のおついでもござらば、よしなに御とりなし下されまいか」
と、かき口説《くど》かれた。
交竹院は、承知して帰った。
交竹院づれが、お直《じき》に家宣に言上するなど、思いも及ばないことである。途々、考えながらくると、ふと、妙案が浮んだ。――そうだ、自分はいま、鍋松君の生母左京の方の信用がある。左京の方の気に入りの女中に、絵島という女があって、その生家は自分と親しい。
「よし! 絵島をツテにして、働きかけてみよう」
交竹院は、二、三日たって、また重秀の邸へ相談に出かけた。
重秀は、早速の肝煎《きもい》りを感謝して、改めて多額の金銀を贈り、別に大奥へ取り入る運動費としてこれまたかなりの額を、交竹院に托した。
交竹院は、毎日、鍋松の診察のために、左京の方の許へ行く。いつも、応対に出るのが絵島だ。何かと理由をつけて、金銀を贈ったので、絵島としては交竹院に悪い感情を持とうはずはない。おりにふれては、交竹院を左京の方にとりなすので、左京の方も、交竹院には一層目をかけるようになった。
絵島が、母の命日の仏参りのために、暇を願い、宿下りした時である。
嗅ぎつけた交竹院は、さまざまの音物《いんもつ》を持参して、見舞いに行った。絵島も大喜びでもてなすと、よもやま話の末に、交竹院は重秀のことを持ち出した。
「――かほどに功あるお方が、いまや御前の首尾|悪《あ》しく、御役を召離されておりまするが、恐れながらこれは上様の御不仁のようにも聞こえ、まことに残念でございます。何卒よきついでもございましたならば、左京さままで、お噂を申し上げて下さい。いつかは上様の御耳に入ることもございましょう。重秀殿のためならず、上様の御ためと思し召されて頼み入ります」
情にもろくて、単純なのは女の常だ。絵島は一も二もなく承知した。
「これは私が心覚えの分だけ書き付けたものでございます。御参考までにお手許へとどめおき下さい」
懐中から、重秀と相談して作った功績表を取り出して、絵島に渡した。
大奥へ帰った絵島は、左京の方の許へ、帰着の挨拶に伺うと、
「久々の宿下りに何ぞ珍しい話でもなかったか」
と、たずねられた。
絵島は、市中で見聞したことを面白おかしく語った上で、交竹院の話を持ち出し、書付を差し出した。
左京の方は、兄の勝田帯刀や実弟の太田内記等の報告で、荻原重秀は奸悪な者と聞いていたので、不審に思い、取り上げた書付を読んでみると、二十年来の功績が詳細にしたためてあり、一応、読む者をして納得させるようにできている。半信半疑のまま、書付はしばらく手許に預ることにして、絵島を退らせた。
貨幣改悪の陰謀
これで、大奥に|わたり《ヽヽヽ》がついた。重秀はぬかりなく第二の手段を考えた。
左京の方の実父太田宗円が重病と聞くと、見舞いを出して、人参十斤、鮮鯛一折、黄金百枚を届けた。左京の方の養家勝田家で住宅の修理工事が落成したと聞くと、祝儀として、鯉一桶に、時価三百両もする牧谿《もつけい》の山水の掛軸、黄金五十枚を贈った。
自分に利益なことは都合よく考えたいのが人情の常だ。両家では、左京の方や若君の縁故による重秀の敬意のあらわれであろうと解釈していた。他からも、見舞いや祝儀の音物はたくさん届いている。重秀の分が群を抜いて過分だったというだけだ。不審には思わない。重秀の敬意が特別厚いのだと思うだけだ。こういうことが、左京の方に伝わると、左京の方としても、ようやく重秀をとりなす気持が動いてきた。
左京の方は、時期を見はからって、書付を御覧に入れた。
「かくまでに御奉公に心を入れました者を、むげに悪しざまになされましては――」
家宣も一読して、心を動かした。
「これほどのことをいままで誰一人申さぬのは、察するに彼の能を妬《ねた》んでのことであるか。手柄があればこそ、先代の頃にもたびたびの加増があったのであろう」
と、深く考え込んだ。
年頃御勝手向きのこと、一人にて取りはからい、諸事とどこおりなく御用弁あいなり、御機嫌に思召さる
という上意で、ここに五百石の加増、三千七百石となって、ふたたび勘定奉行に復帰した。
おのれの計画が図に当ったわけだが、重秀は少しも心をゆるめなかった。この際、大奥に深く食い込もうと考えて、太田、勝田両家はもとより、交竹院を通して絵島にも、たびたび金銀を贈った。こんなことが重なって、利益になれ、権勢になれて、後に絵島が身を滅ぼす結果となるのだ。
重秀は、あらかじめ絵島から大奥の内意を聞いておき、それに添うように心を配ったので、彼に対する奥向きの人気はめきめき上っていった。
大奥では、最近京都から招《よ》んだ童女の舞楽《ぶがく》が流行っていた。しかし、御座の間も、御台所の方も、本来が住居であるから、舞楽の場にはふさわしくなく、太閤はかねがねそれを不満に思っていた。
「舞楽を御奨励遊ばされますからには、やはりそれにふさわしい殿造《とのづく》りでなくては、どうもしっくりいたしません」
と、洩らしたことがあったので、家宣も心にかけていた。
女中等は、殿造りとはどんなものかも知らないのに、ただふさわしくないと聞いただけで、もう舞楽の御殿がほしいと騒ぎたてた。
交竹院は、絵島から聞いて、荻原重秀に連絡した。
たまたまこの年は、朝鮮の使節が来朝するので、御座敷の手入れをするため、老中以下御勝手向御普請係、御作事係などの役人が検分して廻った時、ついでに奥向きも手入れをしたがよいということになった。重秀はその時、奥向きはたびたび手入ればかりして随分古くなっているから、今回はいっそのこと、改造されたがよかろうと提案した。老中から言上すると、御許しが出た。
将軍代替りには、御座の間をはじめ、先代がふだん使っていた間《ま》は、すべて改造するのが例であるが、家宣の時は、財政困難のため、修理の程度でとどめたから、この際これを許可したのである。
工事の模様は、家宣が太閤と相談して、いちいち指図した。懸案の舞楽御覧所は、大奥の広庭に造営ときまった。重秀は、大奥に取り入るのはここぞとばかりに、日夜精を出して、職人共を励ました。
その道の達人太閤の設計で、重秀苦心の工事であるから、落成した舞楽御覧所の結構さは、見る目をそばだてた。いたるところに、銘木奇材を撰んで使用し、床柱などは沈香木《じんこうぼく》を用いてあった。これは三代家光の時に、自分の肖像を作らせるため、特に長崎奉行牛込忠左衛門に命じて清国《しんこく》商人から二本取り寄せたうち一本残って、糒蔵《ほしいぐら》の中に貯えてあったものを、取り出して使用したのであったが、重秀はこれを自分の才覚で新しく買いもとめたもののごとく吹聴《ふいちよう》していた。
こうした善美をつくした普請だったから、総費用七十五万両といわれた。そのなかから重秀が着服した分も少くなかったろう。
重秀の御覚えは、これで一段とめでたくなった。彼はしすましたりと、内心にあふれ出る笑みを、うわべには少しもあらわさず、御前にまかり出ると、このたびの普請にも多額の金がいったし、近々来朝する朝鮮の使節饗応その他様々のことにはまたまた多額の出費が必要であるということを理由に、貨幣の改鋳をしたいと言上した。
荻原重秀の勘定奉行としての経済政策は一手しかない。つまり、インフレ政策だが、彼のインフレ政策は甚だ|たち《ヽヽ》が悪かった。従来の通貨を品位をおとして改鋳することによって幕府手持の金をふやすという方法であったのだから。
一体、徳川幕府は最初なかなかの金持であった。家康秀忠の時代に甲州、伊豆、佐渡等の金山が驚異的に産金量が多かった上に、大坂落城によって豊臣家の貯蔵金が加わったので、徳川家の貯蔵金は莫大なものであったのだ。
ところが、三代将軍家光の頃から金山からの産出量が激減したばかりか、打ちつづく太平による奢侈によって幕府はおそろしく費用がかかるようになり、貯蔵金も大分減った。
しかし、まだまだ相当巨額を所有していたが、四代将軍の家綱の時の明暦の大火災で、江戸城も焼けたし、大名屋敷や、旗本屋敷の罹災するものかぎりがなかった。幕府は江戸城の復興費用にも多額の金を要したが、大名旗本屋敷の復興費用にも多額の金を分与したため、あらかたその貯蔵金は尽きてしまった。
常識的には、五代将軍綱吉がやたらに寺院を建てたり、ぜいたくをしたりしたのが、幕府の財政困難のもとをなしたと考えられているが、実をいうと、綱吉が将軍になった時、幕府の金蔵はもう空になっていたのだ。その証拠には、将軍宣下があると、日光廟に参拝するのが代々の将軍のしきたりになっているのだが、その費用がなくて綱吉は延期しているのである。
この財政困難を切り抜け、その上綱吉にその大好きな寺院建築やゼイタクをさせるためには、荻原式インフレ政策が一番手っ取り早い。そこで、荻原重秀が任用されることになったのだ。
この貨幣改鋳というやつは、金銀座の役人や勘定奉行にとっては、大へん利益の多いことであった。第一には、金座銀座の長官後藤家は分一《ぶいち》と称して鋳造した貨幣の百分の一を手数料として取る権利をあたえられていた。これは正当な権利だが、これだけでも大へんなものであるのに、これを一時に多量に改鋳するとなると、その間にいろいろとごまかす機会は無数にある。各時代を通じて、金座銀座がややもすれば通貨改鋳を主張し、様々の術策をもってその運びにしたのはこのためだ。
金銀座の直接の監督者は勘定奉行だ。勘定奉行を抱きこまないかぎりは、ごまかしもうまく行かない。彼等はぬけめなくこれを抱きこんだ。綱吉将軍の治世の間に、重秀がこのことによって貪り得た利益だけでも、はかるべからざるものがあったのである。
新井君美は、国家の財政について関心があり、かねてから色々と研究も積んでおり、鋭い人だけに、重秀のこの姦謀を見ぬいている。
「やつまたしても不正の利を貪ろうとして、お定まりを言い出したぞ」
と、思っているところに、家宣からこのことについて意見を徴せられた。
重秀の言い分はこうだ。さしあたり幕府の必要とする金額は百七、八十万両であるが、現在幕府にある金は三十七万両しかない。必要の五分の一しかない。どうしても、貨幣改鋳によって打ち出すよりほかはない。
君美はくわしく調査して、この三十七万両は一昨年の租入の残額であり、去年の租入七十六、七万両は手つかずでのこっていることをたしかめたので、
「総計百十万余の金が現在公儀にあるのだ。不足分は六、七十万両にすぎない。これを一ぺんに支払おうとするからむずかしいのだが、事情によってあるいは二年賦、あるいは三年賦で支払うということにすれば、十分に足りるはずである」と、建議した。
つまり、下々の社会では普通に行われてるヤリクリ算段であったが、家宣は言うまでもなく老中まで誰一人として思いつかなかったのだから、当時の上流政治家の頭の程度がわかる。荻原重秀のような悪智恵のあるソロバン屋に鼻面をとって引きまわされたのも無理はないのである。
とにかく、君美の立てたヤリクリ策によって切りぬけることに決し、重秀の貨幣改鋳案は葬り去られた。
この間のいきさつは、君美の著『折たく柴の記』に詳述してあるが、彼は重秀をこうきめつけている。
去年の御物成《おんものなり》(租入)を以て、今年の費用にあてることをどうして近江守(重秀)が知らないことがあろう。だのに、これをひたかくしにかくして、今年使える金はわずかに三十七万両しかないと言ったのは、上様のお心をおどかして、自分の意見(貨幣改鋳の意見)を遂げようとしたのである。
さきの張紙相場のことといい、今度といい、荻原重秀の姦悪はわかり切っているはずなのに、家宣は勘定奉行にはこれ以上の者はないと思い込んでいるので、そのまま職にとどめておいた。新井君美が諫めたが、さっぱり取上げない。やっきになって、申し上げると、
「人にして才徳両全な者は、いまの世になかなか得られるものではない。近江は徳はなくとも、その才は国家有用のものであるから、しりぞけられぬ」
という始末だ。
あげくのはてには、君美がそれほどまでに重秀を誹謗《ひぼう》するのは、何か不和の事情でもあるのかと、側用人に尋ねたと聞いて、君美はついに沈黙することにした。
翌年、重秀はまた通貨改革案を出した。昨年の案とこれは少し違っていた。昨年の案では金銀の品位を下げて一枚々々の重量は従来のものと等しくするというのであったが、今度のは質は慶長の金銀に復し、そのかわりに一枚の量を半分にしようというのであった。質をよくしても全体の重さを半分にすれば実質的には半分の価値しかないのだから、インチキであることは明瞭なのだが、やがて慶長の古制にかえす過程として、君美もこれには反対しなかった。ただ、
「貨幣鋳造のことは国家の大事でございます故、近江守一人にお委せにならず、御目附方へも仰せつけられまして、金銀の品位を定めさせ、その上で鋳造あるべきよう仰せつけられとうございます」
と、注意するにとどめた。
間もなく、大目附横田|備中守《びつちゆうのかみ》由松《よしまつ》、御目附長崎半左衛門、永井三郎右衛門の三人が、金銀品位改めの役目を仰せつけられた。しかし、彼等はいずれも役目不案内の上、重秀の権威に圧倒されて、なすところなく終り、重秀はまたまた不正な利をばく大もなくむさぼった。
新貨幣が流通しはじめると、当然、物価は暴騰し、庶民の生活は困窮し、新貨幣に対してゴウゴウたる非難がまき起ったことは言うまでもない。この|いきさつ《ヽヽヽヽ》は後に詳述する。
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内政と外交に関する白書
出る杭《くい》は打たれる
新井君美は、幕府の礼式改正の手はじめに、朝鮮信使取扱いの方式を改正することを考え、大綱をしたためては、近衛太閤の許へ伺候して教えを受けた。そして、すべてが前代、前々代と異ったので、あらかじめこれを朝鮮側へ通じておいた方がよかろうと、宗《そう》対馬守《つしまのかみ》義方《よしかた》へ通達した。
宗家《そうけ》では、儒臣雨森東五郎を君美の許へ遣わして指示を受けさせた。東五郎は芳洲と号して、君美と同じく木下順庵門下の学者である。
君美は、朝鮮信使|聘礼《へいれい》の改正に全力を傾けたので、君美反対の林家やその一派からは、朝廷を模擬《もぎ》する僭越の罪人などとののしられた。しかしこれは決して君美自身の発案ではなく、太閤の教示を受けてまとめたことである。
家宣が、宝永七年四月から正徳二年四月までの二年間、万難を排して、太閤を江戸に滞在させたのは、幕府の典礼を正さんがためである。太閤は、家宣の意図に添って、機会あるごとに助言してきた。このたびの朝鮮聘礼にまで意見を出したのは、朝廷を模擬させたのではなく、幕府が礼儀作法にうとく、粗野な態度で外国使臣に接することは、日本の恥辱であると考えたからにほかならない。
「武士といえども、朝廷の官位に任叙するからには、おのずから官位に相当する服装、進退があってしかるべきだ。そうでなければ、官位を無視するに等しく、ひいては敬上の礼を失することにもなる。こういうことが、やがて、公武の融和を欠く重大な原因ともなりかねない」
太閤は自信を持ってそう考えていた。たまたま朝鮮国王への返礼として遣わす屏風の下絵に、源平|船軍《ふないくさ》の図があり、解説を林信篤に命ぜられたと聞くと、
「源平の戦について解説を作るとなれば、必ず安徳帝のことにも及ぶであろう。これは国の恥辱ではないか」
と、さんざん君美を叱りつけた。
「礼節の儀は私が定めるのでございますが、幣物の儀には与《あず》かってはおりませぬ」
と、君美が弁解したので、これを家宣に申し入れて、他の図に改めさせた。
太閤は、今回朝鮮の使節を迎えるに当って、大いに我国の礼節の整ったことや、文物の燦然《さんぜん》たるところを見せて、相手に敬重の念を起させようと、いちずに思い立っていた。同様に、前代までは和蘭《おらんだ》甲比丹《かぴたん》が参府登城して、蘭人御覧を賜わる際、将軍は羽織袴で上段に着座したが、それも太閤は反対であった。
「日本国の大権を司る御身が、外国の一商人に御尊顔を見せる必要はありません。ただし、珍らしいものを御覧になりたいのでありますなら、簾の内で御覧あるがしかるべしと存じます」
家宣も見識ある言葉に感じて、この年からその通りに改めた。
幕府の制度には、大老職があるが、柳沢吉保を退けて以来、大老というものをおかなかったので、家宣は朝鮮信使来朝を機会に、これを復活したいと思った。
その頃、井伊家では、掃部頭直通が亡くなり、嫡子直恒の代であったが、直恒は幼少なので、これを隠居させ、祖父の直該《なおもり》に再相続を仰せつけ、大老職に起用することにした。
礼節を正す一方、盛んな武備をも示すべきであるとして、家宣は、軍船の手入れを命じた。そして、手入れがすむと、御浜御殿で、御船揃い御覧を催した。いまでいう観艦式である。この日は、家宣ばかりではなく、御台所や左京の方、奥女中など、大奥からも沢山の人々が出かけ、老中、側用人、若年寄以下諸役人列座という、大がかりなものであった。
老中本多|伯耆守《ほうきのかみ》正永《まさなが》は、この日に先立って、
「上意にはござるが、御船揃いの儀は、御武備のほどをお試しなさる重き御事でござる。承われば当日は御台所をはじめ女房衆までも御出ましの由、これはいかがなものでござろう。元和以来たびたび御船揃いの儀はござったれども、女人を召連れられた例はござらぬ。これは御遠慮あらせられたがしかるべしと存ずる」
と、側用人にまで申し出た。
家宣は、林信篤に命じて先例を調べさせたところ、先代の時、吹上馬場で御番衆の弓馬御覧の際には、桂昌院以下大奥の女房たちが列座したこと、また聖堂|釈奠《せきてん》(孔子及び一緒に祀ってある賢人等を祭る礼)の際にも、桂昌院を同伴していることがわかったので、弓馬御覧は奨武のためであり、聖堂釈奠は文学奨励のためであるが、ともに女子が臨席している、これは女子といえども文武の嗜みはあるべきであるからだ、となって、正永の発言は一蹴された。
正永は、このため御前不首尾となり、御船揃い御覧の当日も、御供には加えられなかった。間もなく、病気と披露し、御役御免を願い出た。
正永は、宝永元年家宣が綱吉の養君となるとすぐに、御附老中を仰せつけられ、この年まで八年間も仕えてきたのであるが、大奥の女中等一日の行楽(女中共にとっては奨武も何もない。行楽でしかないのだ)をさしとめようとした言辞が、その失脚を招いてしまったのだ。
「国王」の是非論
新井君美は、朝鮮信使聘礼のことについては、格別の仰せをうけているので、それに関する限り、進言は用いられるが、それ以外のことになると、一切取上げられなくなった。これは、荻原重秀の一件と、もう一つは林信篤が大奥へ取入るようになって、婉曲《えんきよく》に家宣を動かしはじめたからである。のちには、朝鮮聘礼のことさえも、先ず信篤に尋ねてから、君美に言葉がかかるという有様になった。
君美も気がついて、事情を調べてみると、大奥で童女の舞楽を取立てたことが批判された際に、信篤が積極的に支持したため御前の首尾がよくなったことがわかった。君美は、曲学阿世《きよくがくあせい》の徒にすぎない信篤輩の意見などは、あくまで挫《くじ》くべきであると決意し、家宣に願って、自分の相談相手に加賀藩の儒臣|室《むろ》新助直清を二百俵で召抱えてもらった。直清は号を鳩巣《きゆうそう》といい、木下順庵門下で、君美と同窓の者である。
新たに同志を得た君美は、信篤を粉砕すべく、和漢の事例をひいて、家宣の舞楽趣味を諷諫《ふうかん》したが、勢いあまって、言葉がすぎた点があったので、家宣は不興に感じ、以来君美に御用の節は御座の間で会い、大奥へは信篤がたびたび召し出されるようになった。
こういう中にも、君美は太閤の教示によって制定した朝鮮信使聘礼の式を完成させた。あとは朝鮮に遣わす返翰の書式だけである。朝鮮は文墨礼儀の国と自称する国柄だけに、それにふさわしい能書家を撰択するよう、家宣に言上した。
佐々木万次郎|文山《ぶんざん》は、京都青蓮院門主の御内《みうち》にあったが、浪人して江戸へ移り、書や和歌を教えて暮していた。この文山が京都にいた頃、地下人ではあったが、御門主の御内の者であるところから、ふだん堂上家へ出入をし、近衛家へも伺候していた。その縁で、太閤が江戸へ下向してくると、時々御見舞いに伺候する。太閤も文山の来訪を喜んで、和歌の相手に召し出したりしていた。この文山はなかなかの能書家である。太閤は思いついて、このたびの祐筆《ゆうひつ》に、文山を推薦することにした。
老中から町奉行を経て、文山の書いたものを差し出させたところ、家宣の意にかない、召し出されて二百俵を賜わることになった。
やがて君美は、文山と協力して、聘礼儀式の稿本、聘礼儀註、いずれも和漢文各々二通ずつ作成し、家宣に献上した。
家宣は、君美の功をねぎらい、布衣《ほい》を仰せつけた。
近衛太閤には、領地千石、黄金千両、緞子《どんす》二十巻、紗綾《さや》五十巻、伽羅《きやら》一本、書棚一を進上した。
朝鮮信使聘礼の改定は、それぞれ関係の向きへ通達されたが、その中に将軍を日本国王としたことが大物議となった。
漢土では、宋以来日本の幕府をさして、日本国王と称し、「朝廷を天皇、或いは大君という」と自国の書物にも書いている。
慶長十二年に、はじめて朝鮮と国交回復し、信使が来朝した時は、わが国書で「日本国源家康」と署名したのを、宗対馬守の家老柳川|豊前守《ぶぜんのかみ》調興《しげおき》は、これでは先例と違うからとて、勝手に王の字を書き加え、「日本国王源家康」とした。その後、元和三年、寛永元年と両度の来朝の際にも、柳川調興は、王の字を加えておいた。朝鮮からの国書には、やはり日本国王と書いてあったが、幕府は不問に附していたし、調興の行為を知る老中もあったが、事の面倒になるのを避けてやはり黙認していた。
ところが、寛永九年の冬、宗対馬守|義成《よしなり》と家老柳川調興の間に争いが起り、十二年、両者を江戸に召し寄せ、家光直々に訴訟を聞いた。
義成は、調興が主君を主君と思わぬ横暴な振舞いありと数え立て、その中に、朝鮮への幕府の返翰を勝手に日本国王と書き直した一件を暴露した。
そのひとことで、調興は一切の言い分を封じられ、所領没収、津軽に配流ときまった。その時、調興は、
「御返翰に、単に日本国と認めたのでは、将軍家か、諸大名か、その分別がつかず、従って朝鮮国の猜疑《さいぎ》心をそそることにもなりかねない。すでに室町将軍の時代には国王と称して書簡を往復した先例もあり、この先例と違う署名をされたのでは、紛議の起る基となるは必定でありますので、両国の和平のため、やむなく王の字を書き加えたのでございます」
と、申し開きした。家光はじめ居並んだ老中、大目附等は、内心いずれももっともとうなずきながらも、事が事だけに、このように表沙汰となってしまっては、朝廷に対するはばかり上、断乎たる処置をとらざるを得なかったのである。
林大学頭道春、大徳寺沢庵和尚の建議で、これ以来「日本大君」と認めることに定まり、翌寛永十三年の朝鮮使節来朝からは、日本大君と改めて、これを以って相互に贈答することになっていた。
家宣は、このたびの儀式改正に当って、この「大君」か「国王」かを太閤に相談した。
「そもそも大君とは、上古より至尊をとなえ奉る言葉で、将軍を大君ととなえることは、朝廷に対してはばかりがありましょう。朝鮮国の猜疑《さいぎ》などは、はじめのうちだけのことで、そのうちには、おのずと認めるようになります。これはやはり東照公のむかしにかえって『日本国源某』と書くがよかろうと存じます」
しかし、「日本国源某」だけでは、どうも落ちつきがない。家宣は、新井君美に、これを考えてみるようにいった。
君美の意見によると、「大君」では、朝廷に対してはばかりがある、それに、朝鮮では「大君」は国王の下に位する者の呼び名であるから、両方から考えて「大君」は用いないがよい、むしろ「日本国王」とした方がよかろう、と献言した。家宣は、それならば一応太閤に伺ってみよと命じた。
そこで、君美が太閤の許へ伺候して、意見をただすと、
「王の文字は、彼からの国書にあるのはともかく、こちらから書いて遣わすべきではない。我国で、王というのは、親王家がいまだ親王宣下のない間の呼び名で、他の者が勝手にとなえるべきものではない」
太閤は、自分がさきに「日本国源某」とするがよいと進言したことが、取上げられないので、不愉快そうであった。
「お言葉を返すようで恐入りますが、『日本国源家宣』とのみ書きましては、自ら品位を下すものではございますまいか。さりとて『征夷大将軍』もしくは『内大臣』などとも認め難うございます。禁中|法度《はつと》には親王を以って三公、すなわち左大臣、右大臣、内大臣の次座たるべしと定めてあります。当上様は内大臣でおわしますから、親王はその次座でございます。次座の者の子の、しかもいまだ宣下のない間の呼び名たる王号を仮に用いたとて、朝廷に対し奉り僭越なこともあるまいと存じます。ただ皇室でない者が、勝手に『王』と称することは恐れ多いことでございますが、これは異国の朝と対等の礼を以って交りを修むる必要から、余儀ないことと存じます。またこのことを奏聞《そうもん》して勅裁を仰ぐといたしますれば、我国には封王の例がないため、これに御裁許が下るとも思われませぬ。かれこれ思い合せて愚考仕りますに、国家の威厳を保つため、|まげて《ヽヽヽ》王号をとなえることに御許しをこうむりとうございます」
君美は、大熱弁をふるって、論じ立てた。
太閤も、いささかたじろいだかたちで、「そうまでいうのであればともかく」と黙認することになった。
委細は、君美から言上されたので、「日本国王」と書くことに定め、宗対馬守の許へ、朝鮮国王からの書簡には、「日本国王」と認めるように申し入るべし、と通達した。
すると、折返し、宗家の儒臣雨森芳洲と松浦儀の連名で、反駁《はんばく》文がきた。林信篤も、朝鮮信使聘礼御用掛老中土屋相模守政直に、
「両国の修交は国家の重要なことでござるから、大猷院《だいゆういん》様(家光)もことのほか御心を用いさせられ、拙者の祖道春へ、色々と仰せ含められた旨もありまして、代々拙者の家の勤めとなっているのでござる。それをこのたびは別に新井君美に仰せつけになり、諸事改正あらせられてござるが、朝鮮国は総じて古を貴ぶ国風にござれば、いまかく御改正ありては、かの信使は承服いたし難《がた》かろうと存ずる。もしさような事態に立至り、或いは両国の修交が破れるようなことがあっては、ゆゆしき御大事でござる。その上、大猷院様が朝廷をはばかって用い給わなかった『国王』の号を御用いあるは、朝廷に対し、祖宗に対し、恐れ多いことでござる」
と、談じ込んだ。
土屋相模守は、林家に伝わる家光以来の例を書き出させて、これを家宣に上書したが、家宣は堅く思い定めているので、頓着しなかった。
「大学がこう申しているぞ」
こともなげに、その上書を君美に下げ渡した。
御目附師匠番
家宣は、常に善政を心にかけてきたが、前代の悪政の余弊は、一朝にして掃蕩《そうとう》できるものではなく、表面はともかくとして、裏面では、賄賂が横行し、汚職が行なわれ、士風の頽廃《たいはい》は底をついた感があった。
「前代の時も諸役人どもは、役目に精を出したには相違あるまいが、中には不心得なものもあったのはよくその方共の知っての通りである。故に、予は代替り早々このことについて申し渡したのである。さればいまはさような心得違いの者など、あるべき筈はないのに、いまだに時折かようなことを耳にする。これはその方共のいたし方が不吟味であるからのことだ。今後は別して、諸事に念をいれ、もし以前よりの習わしになっていることでも、しかるべからずと心づいたことは遠慮なく申し出でよ」
家宣のこの上意が伝達されると、新井君美は、早速、諸役々の弊習をあげて、その匡正《きようせい》を企図した上申書を差出した。それによると――
第一、評定所一座聴訟の弊。
評定所一座とは、寺社奉行、町奉行、勘定奉行をいい、重大事件の場合は、これに月番老中が加わり、御目附衆も立会う。
評定所へ呼び出される者へは、身分の上下を問わず、辰《たつ》の刻(午前八時)出頭を申し渡しながら、評定所一座が出揃うのは巳《み》の刻(十時)となり、それから各々打合せなどがあって、いざ吟味という頃は、巳の中刻(十一時)となってしまう。
それから、ひと通り「相尋ねる儀」があって、正午にはいったん休憩。やがて午《うま》の下刻、いまの午後一時に再吟味となるが、未《ひつじ》の刻(午後二時)には、もうお終いにしなければならない。むかしは、未の刻が、役所の退庁時間であった。
こうして、僅か一、二刻の吟味のために、一日を費して、次の評定所立会までは、その間数日をおくというやり方であるから、一事件の吟味に、数ヵ月を要して、なお事件が片附かないということも珍しくなかった。仕事に念を入れるための遅延ならばいたしかたはないが、たいていのことは、評定所|留役《とめやく》(書記)与力のような下役に委せて、奉行所の重だった連中は、ただ彼等のいうところを取上げ、先例がどうのこうのと、空談に近いことをいい合うばかりであった。自身、子細に吟味することなど、先ずなかった。そのため、刑罰に当を失することもしばしばである。
前代に生類御憐みのため、刑は峻厳にした方がいいという考え方が、安易に踏襲されていて、たとえば一人の罪人を吟味する場合、その犯罪の前後の事情など少しも斟酌《しんしやく》されないで、表面にあらわれた犯罪事実だけを基にして裁決をする。そして、その裁決を先例の似寄りのところに照らし合せてみて、妥当か妥当でないかを検討するのだ。
そこで、今後評定所立会は、刻限遅延なく吟味にかかり、事情によっては、たとえ夕刻になってもなお吟味をつづけるようにありたいというのが、君美の意見であった。
家宣は、君美によって、はじめて評定所の内情を知ったので、この年の十二月には、評定所一座の人々を召し出し、
「今後評定所に於ては、かたく刻限を守って、早々吟味に取りかかり、場合によっては晩景《ばんけい》になるとも精を出し、吟味はかどるよういたせ」
と、厳命した。
これで、評定所一座の人々の出勤時間は、どうやらきちんとしたが、中味の吟味の仕方は、以前と何等変らず、僅か一、二刻ですませ、あとは各々円くなって、空談するばかりであった。そのうち、申《さる》の刻(四時)ともなれば、
「先ず今日もただいままで御役席に詰め切りましたれば、もはや退出つかまつる」
「これと申すもひとえに新井殿のおかげでござるて」
三々五々に冷笑しあって、さっさと退出してしまう。
第二、御目附の勤め方について。
御目附衆は、上様御目代(代理)として、上は執権から下は走り使いの小者に至るまで、法令に則り、過誤がないよう、検察をするのが本来の役目で、古の朝廷の弾正台《だんじようだい》と同じ役柄であるが、近年になると、本来の趣意を没却して、単に城内の人々の進退を指図したり、礼席の差し引きばかりに心を取られている。諸大名、旗本、諸役人に不行跡があるかどうかなどは、さらに眼中にない。かえって、綱紀紊乱に一役買っているようなものである。しかも、それにはいっこうに心づかぬ様子である。これは、保身のために、万事を控え目にしていることもあろうが、それでは甚だ怠慢といわねばならない。
たとえば、貸金出入りのことなどから、これを評定所へ訴え出ることによって、はじめて不行跡があらわれるが、もし訴え出てこなければ、その不行跡は上へも聞えず、御咎めもなくてすごしてしまう。これでは、御目附衆などあってないと同じだ。何も|目くじら《ヽヽヽヽ》を立てて、|人の《ヽヽ》あら探しをせよというのではなく、御目附衆本来の役柄を、この際、とくと心得させることが肝要である。
ついでに、貸金出入りのことであるが、町人どもが、やたらに大名、旗本を相手取って訴訟を起し、そのため勝手向きのことがあばかれる。これは、嘆かわしいことであって、第一、御威光にもかかわる。貸借は、もともと相対《あいたい》でなされたことであるから、いちいちお上の手数をかけるべきではない。今後は、一切御取上げにならないように、改めらるべきである。
家宣にはこれも初耳だったから、すぐに老中に命じて、御目附衆全員を召し寄せ、直々に訓戒した。いずれも謹んで承ったが、それ以来、誰いうともなく、君美を「目附師匠番」と綽名《あだな》し、
「我等は天下の御目附を仰せつけられたが、新井殿の御目附は勤め申さぬ」
などと、ひそかにいう者もあった。
貸金訴訟については、老中へ、
「このこと差し止めについて、とくと協議せよ」
と、重ねての上意であった。
しかし、その後は何とも仰せ出されがなく、ついにそのまま、お流れになってしまった。
貸金訴え出で停止の案があると漏れ聞いた御金御用達等は、これは一大事とばかりに、腰を抜かした。これまで評定所へ訴え出てさえ、返済がとどこおりがちだったのに、訴え出で停止になったのでは、これまでの貸金など返済する者はあるまい。それでは一家の浮沈にかかわる。表向きの役人に取入っても、効果はあるまいからと、手づるを求めて、大奥に取入り、しかるべきとりなしを頼み込んだ。
錦小路、斎《いつき》の局、絵島、滝野、浜路などという、欲の皮の突っ張った女中等が、それぞれ女主人に壁訴訟《かべそしよう》をし、それが家宣への告口となり、町人どもの難儀もまたあわれである、となったのであろう。
近衛太閤は、家宣が政道改革の意見上申を仰せ出したことを、深く感心して、
「はばかりながら御美徳とでも申すべきでありましょうか。天下の御為、別してめでたく存じます」
と、礼讃した。
家宣も、満更ではなかったらしく、
「そのようには申しつけましたが、君美一人のほかは、誰も申し出る者がないのは残念です」
と、答えた。
太閤は慰めて、
「ごもっとものことながら、新井君美は当世の標識(手本)の者で、御家人は多くありましても、誰か彼と比肩し得る者がありましょう。さもなき者の数十言よりも、君美の一言こそ、御為にはしかるべきのものでございます。およそ政事は人によってあがるとは、かようなことを申すのでございましょう」
いったん失いかけた君寵を、君美はふたたび取り戻すことに成功した。
大岡忠相抜擢される
太閤が、政事は人によってあがるといったことが、家宣の胸に深く響いた。人事《じんじ》については、特に慎重にすべきであると銘記したのである。
ちょうどその頃、伊勢山田の奉行の交替期にあたり、後任の者を詮衡《せんこう》するのに、家宣は苦心していた。ある時、これを太閤にもらしたところ、
「伊勢山田の奉行なれば、重厚でかつ律義な者でなければなりませんが、まろが久しく滞府して、多くの御家人にも面会し、その中には親しく出入りするようになった者も少くありませんが、御目附大岡忠右衛門は、一段と勝れた人物と見ています。彼は顕貴の者に対してもいささかも、|おもねる《ヽヽヽヽ》風なく、進退礼容まことによろしい。一面下役に傲《おご》る態も聞かず、度量の広さ面に溢れるものがあります。彼のごとき者こそあっぱれ御用に立つべき者と存じます」
家宣も、大岡忠右衛門のことは、内々心にとどめていたので、改まって太閤からこういわれてみると、いよいよ忠右衛門の人物を信頼する気持になった。そこで、正徳二年五月、これを山田奉行に任じた。のちに八代吉宗の時、町奉行から寺社奉行へ進み、大名列にまで昇進した大岡越前守|忠相《ただすけ》はこれである。
この時、太閤は、町人が大名旗本と貸金訴訟をして、身分ある者が金のために辱められることは、君美のいう通りだと思うと進言したが、家宣は言葉では賛成しながら、これだけはなかなか実行しなかった。
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大奥を巻き込む訴訟
もつれた学問料
太閤の滞在も、三年になった。さすがに都恋しくなり、京都へ帰ることになった。
家宣も、いまは引留めかねて、大久保加賀守を上使として、銀五百枚、綿五百把、御台所からは銀三百枚、その他|家司《けいし》に至るまで白銀や時服を下賜した。
つづいて、間部詮房を遣わして、蒔絵の書棚、銀の釣花生《つりはないけ》、紗綾《さや》百反を贈った。御台所からも、やはり御用人本多|豊前守《ぶぜんのかみ》季高《すえたか》が参上して、冠棚《かむりだな》、書架、画帖一函、銀の花瓶一対、緞子《どんす》二十巻。左京の方からは銀の香炉《こうろ》、大紋《おおもん》羽二重三十巻、大紋|縮緬《ちりめん》三十巻。おすめの方からは銀の丁字風炉《ちようじぶろ》、大紋|紗綾《さや》三十巻を贈った。
いよいよ帰洛の日取りが迫ると、特に太閤を大奥に招待し、家宣、御台所、御部屋方ともに同席で饗応があった。家宣は能楽を二番、半蔀《はじとみ》と小鍛冶とを演じ、太閤は和琴《わごん》一曲と簫還城楽《しようげんじようらく》を吹奏《すいそう》した。終って家宣から、その日の引出物として、伽羅《きやら》一本、牧谿《もつけい》の三幅対の掛物、絵巻五巻、佩物《おびもの》二十、緞子五十巻を差し上げた。
三日後、太閤は江戸を発った。道中は、御台所御用人堀山城守正勝が附添って、京都まで送った。
家宣が、太閤在府中、鄭重な取扱いをした上、帰洛に当っては、御台所の姉である安宮《やすのみや》のために、五百石の領地を寄進した。これらは、有職故実道の師範料と、御台所の父君であるため贈られたものではあったが、他に一つの事情があった。
南都大乗院と一乗院の、興福寺寺務をめぐる、訴訟の一件である。
大乗、一乗両院が交替で、興福寺寺務別当を勤めるのが、いままでの例になっていた。興福寺には、学問料というのがあって、別当職に任ぜられると、この学問料も、寺領もその他一切を、勝手に処分できる。これは幕府ができたばかりの頃、家康から、
興福寺寺領及び学問料のことは、すべて寺務別当の計らいたるべし
と、御朱印を遺《のこ》され、別に当時の寺務別当であった一乗院御門主へも同文の御朱印を下されてあった。
一乗院御門主は、この御朱印を別御朱印と称していた。寛文のはじめ頃、一乗院の門主|真敬《しんけい》法親王は、後水尾上皇の皇子で、ことに御愛子であったところから、そのように大切な品は、寺においては心許ないとあって、別御朱印を、仙洞御所の御文庫に蔵《おさ》めておいた。
ところがその直後、仙洞御所が火事にあって、この御朱印も灰になってしまった。御門主は、その次第を幕府に申し送って、再下附を願い出た。
幕府では、一乗院から差出してきた御朱印の写しによって、二度目の御朱印を下附したのが、家綱の寛文五年のことであった。
この頃、大乗院門主は、鷹司関白房輔の子で、同じ門主とはいいながら、一方は親王であり、一方は摂家の子であっては、禁裡、仙洞はもとより、幕府でもその取扱いに格別の相違があった。しぜん、勢いに傲った一乗院門主は、大乗院門主を見下して、興福寺寺務専任のごとく振舞っていた。
これには、大乗院側としては、黙って承服するわけにはいかない。門主に親王と摂家の段階はあっても、寺格に高下はない。両寺はあくまでも交替で興福寺寺務別当を勤むべきで、大乗院が興福寺寺務別当の時には、たとえ法親王が門主であろうとも、興福寺のことについては一乗院も大乗院の計らいに服従すべきであると主張して、先例を上げて、申し入れた。
一乗院では、これを黙殺したので、大乗院では、御所に訴え出た。そこで、諸公卿が詮議することになったが、大乗院側の言い分に、正当の理があるので、以後は先規に従って、交替で寺務別当を勤めるようと判定を下した。
それによって、一乗院門主は寺務別当を大乗院と交替したが、事務引継ぎに当って、寺領、寺務などは御渡しするが、学僧の支配と学問料のことは、別に一乗院門主から沙汰をするからといって、引き継がなかった。一乗院側ではこう言う。
「この学問料は、先の一乗院門主近衛関白|前久《さきひさ》の子|尊敬《そんけい》大僧正が、家康と親しかったために、家康の個人的好誼から尊敬へ贈られたものであるのを、尊敬が寺務別当拝任の時、自分の好意によって、学僧等の費用に宛てたものである。かかる由緒あるものであるから、名目は学問料だが、内実は一乗院門主のものである。この故に、将軍家としても一乗院門主へ別御朱印を賜ったのである。だから、学問料のことは、この際寺務とは別に、一乗院が取扱うことにする云々」
これに対して、大乗院側では、
「興福寺学問料は、興福寺をして維摩会《ゆいまえ》などの大法を長く継続させるために、東照公が厚き思召しあって、学僧の学問のために寄進あったもので、決して一乗院門主に贈られたものではない。たまたま、その時の寺務別当が一乗院門主であったから、一乗院門主にあてて別御朱印を下されたまでのことである。これまでは大乗院門主は若年だったから、一乗院門主が長らく寺務別当をしてこられたのだが、このたび交替されたからには、旧例により一切を引継ぐべきである」
と主張し、両院の間では、とうとう話合いがつかず、江戸へ訴え出たのであった。
その時は、家綱が病気であったため、この吟味は一時延期となった。やがて家綱が死去し、綱吉が継統すると、御台所が鷹司家の出身で、大乗院門主とは姉弟であるところから、大乗院側に勢いがついた。
坊官松井兵部卿|法眼《ほうげん》は、世故に長《た》けた者なので、時を逸せず江戸へ下向し、側用人牧野備後守成貞を頼って、しかるべき力ぞえを頼み込んだ。
成貞としても、当上様の御台所に縁のあることなので、これを承諾して、老中や寺社奉行へ申し入れておいた。
やがて、大乗院門主御使が下向して、正式に寺社奉行宛に訴状を差し出したのである。
寺社奉行から、一乗院に対して、至急、代表者を差し立てるよう通達した。一乗院では、生憎門主の真教法親王が病中で、かなりの重態であったから、快気までの猶予を願い出た。それから、間もなく、法親王は死去し、霊元上皇の皇子|多喜宮《たきのみや》が法嗣となった。多喜宮は幼年であったので一乗院から改めて、
御門主が御幼年であらせられますので、何事にも御分別がございません。もちろん御後見の院家どもが、御法要の儀などはいかようにも御介添《おかいぞ》え申し上げてとどこおりなくいたしておりますが、興福寺の寺務にかかわる問題ばかりは、御門主をさておいて、院家どもがかれこれ申し上げるわけにまいりません。御用繁多の折から、この上御裁きを長びかせますことは、まことに恐縮でございますが、今、院家どもの一存で計らいました場合、他日御門主が御成長の上御残念に思し召されるようなことがありましては、公私に対して相すまざることでございます。よろしく事情を御憐察下さいまして、いましばらくの御猶予を願いとう存じます。
と、願い出た。
この願いが江戸に届いた頃、松井兵部卿も病気にかかり、旅宿で死亡したので、訴訟はおのずと預りのかたちとなった。
興福寺寺務別当は、大乗院門主が代って務めることになり、
一乗院御門主は御幼年のこととて、何ごとも御分別これなきにつき、学問料の儀も同様、大乗院御門主にて受け取り、学僧の沙汰もあるべし。
と、幕府の指令が出された。
大乗院方では、多年見下げられていた恨みもあり、いまこそとばかりの勢いになったが、一乗院方では無念をこらえて、ただ門主の成長を待つばかりであった。
大乗院側では、この勢に乗じて、末々の紛議の根を絶ってしまおうと、御台所の縁にすがって、大奥に取り入り、桂昌院、小谷の方までを動かして、綱吉や柳沢吉保にも色々と訴えた。
宝永四年三月、大乗院門主|信寛《しんかん》大僧正が、江戸へ下向した際、綱吉から、
「興福寺寺務別当在職中は、寺務及び学僧のことなど、一切沙汰されるがよい。ただし法務、寺務職を拝任の儀は、くれぐれも先例の通りを守って、一乗院、大乗院両院がかわるがわる勤め、寺格の上下など争論されるではないぞ。追って右の趣きを朱印を以って申し遣わすであろう」
と、申し渡した。
大乗院側は、これで、日頃の望みがすべてかなえられたのである。
出し抜かれた一乗院は、大いにあわてふためいたが、なまじ院家や坊官などが騒ぎたてて、かえって御咎めでもあってはと危《あやぶ》み、ただ歎息するばかりであった。ところが、運命は皮肉なもので、かんじんの御朱印が大乗院に下げられないうちに、ひょっこり、綱吉が死去してしまい、訴訟は振り出しにもどされた。
味のある幕切れ
一乗院の院家に、成身院《じようしんいん》僧正|敬観《けいかん》という老僧がいた。先の門主の時から、寺務を奉行《ぶぎよう》し、なかなかの利《き》け者だったが、敬観の妹が近衛太閤の妾になり、名を侍従といい、末の姫君の生母であった。近衛家の北政所《きたのまんどころ》級宮《しなのみや》が死去されてからは、名も、按察使《あぜち》と改名し、近衛家の奥向を取りしきって、中々の権勢であった。
成身院は、近衛家へ参上して、先年来の両院の紛争のあらましを述べて、
「学問料のことは、門主が近衛家の出身であるという由緒によって、家康公が一乗院に寄進されたものを、門主の思召しで学僧たちへ分け与えていたので、もともと御自身の御料でありますのを、大乗院側が、前将軍の縁故によって、強《た》って申しかすめたのであります。この事情をお汲み取り下さって、一乗院との由縁《ゆいしよ》をも思召されて、当将軍家へ一言御口添えを願います」
と、太閤に歎願した。
太閤は、それを請け合って、近く将軍家の招きで江戸へ下向するから、折をみて将軍家へ申し入れようと、安心させて帰した。
成身院は、今度こそ勝訴に疑いなしと喜んで、華蔵院《けぞういん》、発心院《ほつしんいん》の両院家を一乗院御門主御使者として、江戸へ向わせた。これに先き立って、大乗院が御朱印申し受けのために、松林院、普門院《ふもんいん》の両僧正を江戸へ下向させていたので、それに対抗させるためであった。
大乗院側では、前代御台所の縁故で、十中八九までは勝訴訟になるところであったのだが、いまとなっては、それがあだとなった形だ。気が気でない。血眼になって手ヅルを探し、根津別当|根性院《こんじよういん》をはじめ、いささかでも家宣に由緒あるところを見つけては手のとどく限りに猛運動をはじめた。
すでに先代の頃から、贈賄にはなれているので、今度は格別、その方面に腕をふるい、命がけになって大奥に食い込んでいった。
一方一乗院側は、当御台所の縁故と、近衛太閤という二本の大黒柱があるので、どこへ取り入るという苦労もせず、堂々と正面切っての訴訟であった。
太閤は、登城の折に、たびたび家宣に歎願した。家宣はくわしいいきさつを知らなかったので、老中を呼んで問いただしたところ、どうやら大乗院側の申し条に分《ぶ》があるように思われた。一乗院側の最大の武器とする別御朱印も、その文言には、一乗院へ下さると特別書いてあるわけではない。
老中等は、ただいま吟味中で正確なことは言上いたしかねますが、と、家宣の顔色をうかがいながらも、それとなく、大乗院側を支持した。
家宣は、御側衆の噂を取り上げてみたが、これまた、大乗院の方に理があるようにいう。最後に、新井君美を召して、
「その方このことについて、寺社奉行、年寄どもと相談の上、とくと是非を考えてくれないか」
と命じた。
君美は、双方の訴状、おたずねに対する答書、その他の書類について、念入りに調べた。君美の史学の才能、考証の才能は現代でも高く買われている。炬《ひ》のごとき炯眼の前にはかくれる所がない。調べれば調べるほど、いかにも一乗院側の申し条に不審の点が出て来た。ありのままを、家宣に言上して、
「一乗院の申しますところでは、東照公より学問料下さるとの御朱印ありと、認状には認めておりますが、答書には御|華押《かおう》の御書と書いてございます。それを召し寄せられて御吟味あるべしと存じます」
と言った。
寺社奉行から、このことが一乗院へ通達された。けれども一乗院には、そんなものはない。
「先年、仙洞御所の御文庫へ納めておいたが、火事で灰にしてしまい、いまはその写しだけが残っている。それを御覧願いたい。また、寛文五年に改めて賜わったものがあるから、両方合せて御覧を願いたい」
といって、奈良から取り寄せて、寺社奉行松平|対馬守《つしまのかみ》近禎《ちかよし》の許へ差し出した。
評定所で、これを調べてみると、寛文五年に家綱から賜わった御朱印には、一乗院へ遣わすという文言ではなく、ただ興福寺寺務別当へ遣わす文言である。東照公御書の写しなるものも、その文言は、幕府で用いる公用文のものではなく、堂上家で用いる文言の、鄙《ひな》びた程度のものであった。どう考えても、偽書たること明らかだ。
太閤がどんなに力こぶを入れている問題であっても、これでは取り上げようがない、一乗院の申し条は奇怪である、と、衆議はかんたんに一決したが、そのままにも言上しかねて、ただ、
「証拠の品も疑わしきかど多く、証《あかし》とはなし難うございます」
とだけ、吟味の結果を報告した。
家宣は、それらの一切の書類を君美に下げ渡して、もう一度、意見を求めた。
君美は、慎重に書類を検討し、熟考の末、
「いかにも何者かが偽作いたしましたに相違ございません。かかるものを以って証拠となし、公儀を欺かんとした段、不届至極でございます。きっと仰せつけられてしかるべきではございますが、もしさようにありましては、太閤の思召しもいかがと考えます。あからさまにこれを披露すれば、太閤の面目にもかかわります故、これはただ何となく、御前代に定められたることを、いまさら改むるにも及ばず、といたされたがよろしかろうと存じます。その故は、第一の証拠として差し出したる、東照公御書の写しというものは、すでに本書は焼失したる上は、はたしてこのような御書を遣わされたものかどうかも不分明でございます。第二の証拠として差し出したる、寛文五年の別御朱印の文言は、興福寺寺務別当に当てられてあり、一乗院へ学問料として遣わされたものとも考えられません。されば、このたびの訴訟は御沙汰には及ばざる間、先規の通り両院交替に拝任あって、違乱の儀あるまじく、と仰せ出さるるが至当と存じます」
と、申し上げた。
家宣もうなずいて、その通りを君美に草案させ、やがて裁断を下した。ここに、さしも長年にわたって決しなかった訴訟も決着した。
さすがに、太閤は不興気であった。家宣は太閤の胸中を察して、気の毒に思い、ことさらに、不時の進上物をしたり、登城の折の饗応に心を尽したりした。太閤帰洛に際しての家宣の心づくしには、この意味もあったのだ。明敏な太閤は、おいおいにことの真相を知ったらしく、心を和らげ、帰洛の前日には、わざわざ登城して、改まって礼を述べ、そのついでに、
「あの節は、御明々なる御裁き、まことに有難うございました。もし一乗院の申し条を御取上げになり、大乗院より学問料を引き離しましたならば、のちのちには必ず大乗院方より、近衛家は将軍家との御縁を利用して、一乗院にひいきして、かように申しかすめたなどと誹謗いたすでございましょう。そうなりましたならば、将軍家にとっても、近衛家にとっても、この上もなき恥辱であるのみならず、長く両院の紛議となり、ついには藤原氏第一の氏寺《うじでら》たる興福寺も寺務|停廃《ちようはい》することになったでありましょう」
と、自らの不明を詫びる挨拶があった。
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大奥女中の影響力
御用商人はびこる
すべてが、こういう取りさばき方であるから、世間の人々は、家宣を東照公の再来とまで謳歌《おうか》した。家宣の性格は慎重であり、ことに当って些細なことをゆるがせにせず、しかも、いったんこうと決めたならば、あらゆる障害を乗り越えて実行した。ことに、仁慈の精神を治政上の根本としたからであった。現代の人の所見からすれば、家康が仁慈の人であったというのはおかしな見方のようであるが、豊臣家やその恩顧の大名等に対する刻薄な所業を別にすれば、そう言えないこともないのである。まして、儒教全盛の江戸時代のこと。儒教の最高の徳目である仁愛を家康の徳として、これを謳歌讃美するにつとめたのは当然である。
このような家宣でありながら、なお大奥の女中等の告口に左右されたのは、甚だ奇怪に思われるが、これは、一面、家宣が何事もゆるがせにできない性分から、表の老中の報告ばかりでは安心できず、裏面の事情をも併せ知ろうとしたからであったと思われる。
この間の事情は、新井君美の著《あらわ》した『折たく柴の記』『文会雑記』『麗沢秘策』『雨窓清話』などに詳《くわ》しく書かれてある。そのために、はしたない女中の一言から、政局に大なり小なりの波動が避けられなかったことも、当然のなりゆきだ。
徳川幕府の制度は根本が独裁制なのだから、将軍が老中を信じてまかせ切らないかぎり、こうなることは避けられない。ところがまかせ切れば家綱時代のようなことになり、それに懲りて純粋独裁とすれば綱吉時代のようなことになる。所詮、人間のすることは完全には行かないのである。
家宣は、綱吉時代の悪政を、及ぶ限り改革しようと考え、事実、改革は政道の末端にまで行渡り、その余波は大奥出入りの商人等の上にも及び、そのため、女中等がとんだ難儀をさせられたこともあった。
大奥には、日々の御召服や布地を調達する呉服所という出入りの商人がある。はじめは、後藤|縫殿允《ぬいのじよう》、茶屋|宗意《そうい》、同四郎次郎の三人に限られていた。
綱吉の時代になって、呉服所とは別に、御用商人の数がやたらにふえた。市中の呉服商人らがさかんに賄賂を使って、大奥に取り入って、御用をうけたまわるようになったのである。
彼等は、女中らの宿下りをねらって、生家へ酒肴を届けたり、芝居見物に誘ったり、御機嫌伺いと称して季節の反物をおいて行ったり、甚しい例になると、御代参の帰途を待ちかまえて,料理屋へ引張り込む者もあった。
女中等も、それをよいことにして、御台所や御部屋方に取り入り、御用達を仰せつけられるようにとりもった。こうして、曰く二の丸様御用達、曰く三の丸様御用達と称する者共が出来上った。商人共の飽くなき手は本丸にものび、呉服所の後藤、茶屋などは、きまりきった御召物のほかは、下賜品の時服を調進するぐらいなことになって、すっかりかすんでしまった。
当時、呉服所のほかに、御用達を勤める商人の数は、十数人にも上ったといわれる。
代替りになると、大奥も入れ替えとなったので、挽回の機会をねらっていた後藤、茶屋等は、この際、むかし通りに御用は一手に承わろうと、それぞれ手をつくして運動した。しかし、意外な伏兵に出会って、なかなか彼等の目論見《もくろみ》通りには運ばなかった。
前々から甲府家奥向きに出入りしていた商人等が、この絶好の機会を逃すなとばかりに、将軍家大奥に入り込もうと手をつくしていたからである。
贈賄、饗応はもちろんのこと、織地の精巧を誇る者、染色の工夫に新奇をこらす者、家宣が有職故実の研究に取憑《とりつ》かれていると知ると、古代模様を工夫して京都から進出して来る者、まんじ巴《ともえ》と入り乱れて、女中等をめぐって、はげしい火花を散らした。
こういう情勢に刺戟されて、呉服商人ばかりでなく、他の商人共もこれにならった。小買物御用達といって、大奥の女中等が日常に用いる装飾品や化粧品、雑貨、小間物の類を納入する商人は以前からあったが、女中等が、指定された者はあきたらないとして、下男を使って、各自の生家から取り寄せたりしたので、それらの商人共は暗躍を促されている所に、情勢がこうなったので、盛んにとり入り、御用達となる者が多かった。
この風潮は、ついには大奥御膳所の御用達にまで波及した。従来、醤油、酢の類は溜屋《たまりや》御用達、桶類は桶大工頭、箱類は指物《さしもの》御用達と、それぞれにきまっていたのであるが、この商人共は単にこれらを御用達するだけでは飽き足らず思って、女中等を手先に使って、御細工所、御普請方の御用を兼ね勤めるようになり、「表向御用《おもてむきごよう》」の文字をしるした提灯《ちようちん》や看板を出して得意がる有様となった。
手先に使われた女中等が、御細工頭、御普請奉行などに、
「蒔絵《まきえ》職某は、久しく御用を申しつけましたが、手際も形もよく、せんだって彼の者が蒔絵しました香合《こうごう》を、御台様に御覧に入れましたところ、ことのほかの御機嫌で御手許にとどめおかれました。今後何ぞ蒔絵の御用もありましたならば、彼の者に御計らい下さりとうございます」
などと一声かけると、彼等はいずれも、女中等の告口を恐れている役人であり、また、折あらば内言によってとりなしに預ろうという下心から、委細承知仕りましたと答え、その者に用命する。しかも用命を受けると、入用の漆は漆奉行から、金銀箔は箔座方から、要求するだけ渡されるのであるから、そのへんの利潤も少くはない。
その他、小細工類から楽器、玩具の類まで、大奥からの口添えとなると、さして用もないのに、女中等の顔を立てて、多少なりとも用命がある。同様に御普請奉行などにも、
「大工職某は、年久しく御部屋様御里方へ出入りの者で、手際も相応の者でございます。せんだって御部屋様方で御普請がございましたところ、御意に召さぬ故、さらに御模様替えを御願い中でございますが、このたびは某に仰せつけられたしとのことでございます。あなた様なども御心得下され、御計らいにあずかりとうございます」
これですむのである。
これもやはり、材木は要求したほどは、奉行所から渡される。
市中の石工《いしく》、大鋸《おが》職、瓦職、建具職、経師《きようじ》職、壁塗等も、口入れ次第で、どんどん御用を命ぜられるようになった。
大工職は、はじめ棟梁中井大和以下七人で勤めていたが、新に、御作事方四人、小普請方四人がふえて、御代替り後一年足らずの間に、たちまち倍になってしまった。
こう新規の人々が仰せつけられては、これらのものにばかり御用を取られてしまう。これは、結局、彼等が賄賂を使って、その筋へ取り入るためであろうと考え、古い連中が共同で、御目附や御勘定方に取締方を願い出た。
御目附や、御勘定方は、いちいちもっともとうなずいて聞きはするが、取締るとなると、しぜん大奥にも波及するので、誰も恐れて、手を出す者はなかった。
折から、月番老中に当っていた大久保加賀守忠増の耳にこのことが入った。忠増はかねがね、大奥の女中等が御用向きのことにまで口を出してくるのを苦々しく感じていたから、大目附、御目附へ、厳重に注意した。
「しかじかのことがあると聞いている。先年来新規御用達仰せつけられた者もありはあったが、近年はやたらに増加いたした由。甚だ以ってけしからん。ほかのことはともかくとして、御普請向きなどは、古くから御用を仰せつけられ、真面目に勤めてきている者があるのに、近頃のように新規の者どもがもっぱら御用を勤めるようでは、以ってのほかのことである。腹蔵のない各々方の所存を聞かせてもらいたい」
御目附等は、最近の目にあまる御用達の増加が何に原因しているか、忠増以上に知っているが、あからさまに大奥を誹謗することははばかられるので、
「近年御用達、諸職人が増加いたしましたのは、御代替りによる諸事御改革によって、いつとなくかようになったのであります。その上一度でも御用を仰せつけられますと、それをよいことにして、翌日からは御用達の名目を称する風習があります。といって、右の御用を勤めました際に、別段手落ちや不調法がない以上、今後は御用を仰せつけぬとも申し渡しにくく、ついにかように増加いたしたものと思われます。今後はそういうことのないよう、きびしく取締り、ふだんに気をつけるよう、それぞれの役向きに申し達します」
このことは、忠増から、一応家宣に申し上げておいた。家宣は、単純に、その筋の役人どもが賄賂に迷わされたのだろうと思い込み、正徳二年七月、寺社、勘定、町の三奉行、作事奉行、普請奉行、小普請奉行、納戸《なんど》頭、腰物奉行、賄《まかない》頭、細工頭等へ、触れを出した。
「御用達職人、諸商人どもが、御用を仰せつけられると、その筋々の役向きへ、世話になったからという名目で、贈物をいたすそうである。これは予がたびたび制禁してきたところの賄賂がましい行為と見なさねばならぬ。今後一切そのようなことがないよう、堅く申しておく。なお、万一心得違いの者があった場合は、厳重に処置する方針である。御用達に関係のある諸役向きなどは、格別この趣意を守り、心得違いをおこさぬよう、あらかじめ支配向きの面々へも厳重に申し渡しておいて貰いたい」
身に覚えのある者は、内心恐れ入っていたが、ふだん謹直一点張りで役目に精出していた者には、自分までも色眼鏡で見られているかと、大いにむくれた。なかでも寺社奉行は大名のことなので、血相変えて忠増の許へねじ込んだ。
「このたびの御触れは、御役向き一般に対して仰せ出されたことと推察いたすが、当御役では、いままで諸職人、諸商人づれから音物《いんもつ》など申し受けたことはござらぬ。しからばいまさら支配向きの面々へ、このたびの御触れなど申し渡しようもござらぬ。思うにこのような仰せ出しがあるのも、大奥向きより諸職人、諸商人のことについて、その筋々の役々へ口を出されるからでござる。先ずこのことから何とか仰せ出されてしかるべきでござろう。御老中は何とお考えなさるか」
大奥に触れることは、忠増にとっては迷惑であった。ここのことに口出しして身の不運とならなかったためしは、かつてないのである。しかし、こうして寺社奉行からの抗議があってみると、捨ておくわけには行かない。家宣に言上した。家宣は聞き入れて、大奥に対しても、同様の触れを出す。
「大奥勤めの者は、何ごとによらずみだりに表向き御役人と応対してはいけないと申渡しておいた筈であるが、なかには縁故を口実にして、ちょいちょい表向きへ出張る者もあるように聞いている。ことに諸職人、諸商人どもが上の御用を仰せつけられるかげには、奥勤めの者がかれこれと取りもちがましいことをするとか聞く。これは以ってのほか慎しまねばならぬことである。今後はそのようなことのないよう、堅く申し渡しておく。なお、万一心得違いの者があった場合は、たとえどんな理由があろうと、厳重に処置する方針であるから、めいめいが深く心に刻み込んでおくように」
しかし、その後も、さっぱり自粛した様子が見えない。家宣は重ねての沙汰を触れ出した。
大奥ならびに御部屋女中より表向き御役人へ、親類、縁者等の御役替の儀、または町人職人御用達の儀を、直に頼みこむことがあるように聞いている。今後一切こんなことをしてはいけない。もし表向き御役人へ申し届けねばならないような用事がある時は、御留守居を通じて話してもらうようにせよ。女中が直々頼むのはもちろんのこと、御留守居を通さないで他の人を通じて頼むこともまたいけない。今後違背する者があったら、きっと吟味する。堅く相守り申すべし。
このことは、三の丸、二の丸女中も、同様に堅く守るべきこと。
大奥に対して、これほど手きびしい御沙汰が下されたことは、いままでない。女中等の不満は勃然《ぼつぜん》と高まり、表が大奥のことをこのように告口するなら、大奥の方でも覚悟がある、何か政道に手落ちはないかと、大奥全体一致して、それぞれにスパイを動員し、鵜の目鷹の目で、表の行動に目を光らせはじめた。
中でも怨みの集まったのは、老中大久保忠増であった。いらぬことを申上げたお人と、女中等は紅瞼《こうけん》を裂《さ》いて、忠増の一挙一動を見まもった。
敵討見当はずれ
左京の方と絵島のとりなしで、再び陽の目を見ることの出来た勘定奉行荻原重秀は、通貨改鋳の議さえ容れられて、改鋳にかかったが、姦悪な人間はどんな場所からでも、私利を貪ることを知っている。
金貨は質を慶長の古制にかえし、そのかわりに量目を半分にするというのだから、ここからは金分はごまかせないが、従来の金貨が含有していた銀分をごまかした。
また、銀貨の方は別段の指示がなかったから、これは大いにまぜものをして品質を下げ、のこった銀分は全部これを銀座役人どもと分けどりにした。
新井君美の『折たく柴の記』によると、重秀が金貨の改鋳によって貪り得た額はわからないが、
「銀改めて造りしがために、重秀わかち得し所は、金およそ二十六万両に余り、その家従長井半六というものすら、金六万両をわかつ云々」
とあるのである。
こうして出来た貨幣が評判がよかろうはずはなかった。金貨は形がひどく小形になったのが不評判であった上に、出来るだけ大形《おおがた》に見せようとして、縁《ふち》だけ厚くして中を薄くしたために、出来の悪いのは指でおさえても凹んだし、よく裂けた。これはまだよかった。形は小さくとも品質はよくなったのだ。
銀貨に至っては言語道断であった。色艶の悪さは鉛や錫を見るように黒ずみ、よく裂けたり折れたりした。何しろ、銀三分二厘、銅六分八厘という従来の混合率であったのを、重秀が勝手に銀二分、銅八分としたのだ。そのはずであった。
抜け目のない重秀は、奥向きに差し上げる金銀と女中等の給金は、金座、銀座の者にいいつけて、精々念を入れて出来のよいのを渡していたから、女中等も最初の間は気がつかないでいたが、ふとこれを聞きこむと、当時大久保忠増が御勝手掛りの老中であったので、この悪貨幣もてっきり忠増の指金《さしがね》によるものだろうと思い込んだ。
「出しゃばりの加賀殿を葬るによい機会」
とばかりに、証拠集めにかかった。
大奥には、下男《しもおとこ》と呼ばれる庭番、雑用の者がいる。先ずこの連中を呼び寄せて、破損した貨幣を見たいといった。男等は、その場で、各自所持している貨幣を差し出した。二つに折れたもの、三つに折れたもの、|ひび《ヽヽ》が入っているもの、ふちが欠け落ちたもの、さまざまである。
女中等は、これは珍しいと取り上げて、しきりともてはやすので、我も我もと差し出し、しまいには陸尺《ろくしやく》の連中までがあちこちからことさら変った形をしたものばかり集めてきて、差し出した。
御台所の耳に入れると、
「小給の者などにかような金銀を下されては、さぞかし難儀をいたすでありましょう。これは引き換えてとらすがよい」
と、奥向きの出来のよいやつと交換してやった。
女中等は家宣に申し上げた。家宣は重秀を深く信じきっているから、不審でならない。
「金銀のことは、代替り早々に申しつけたことがあるが、追々に品質を改めることを根本方針としている筈だ。そのような粗悪な貨幣をこしらえているとは奇怪千万である。先ずそれを見よう」
女中等は、あらかじめ貯めておいた破損貨を山に積んで御覧に入れた。これには、家宣も仰天した。
「これはまた何たることだ。早々に吟味いたせ」
早速に老中一同を召し出した。
「その方共も、通貨に対する余の根本方針は知っているはず。いかなるわけでかような未だかつて見ないほどの粗末な金銀が出回っているか、早々に吟味いたせ」
と、命じた。
同時に、新井君美も、召し出されて、吟味を仰せつかった。
君美は、以前から、重秀再登用に反対しつづけてきた唯一人の者である。その破損した金銀をのこらずあずかって、老中等に、
「早速、荻原近江守を召し寄せられ、きびしく御吟味あらせらるべきでございます」
と主張した。
こうして吟味は行われたが、重秀は図々しく申し開きをした。
「通貨についての上様の根本方針はよく存じております。しかし、将軍宣下より引き続いての大奥御殿の御模様替え、朝鮮信使の来朝などと、いずれも巨額の御入用を要しました上、その後もひんぴんと諸事御改正があるため、これまた御費用多端となり、御勝手元差し詰まりまして、いかんともなし難くございましたので、致し方なくかような金銀をつくりました」
財政困難でやむを得ないと言われると、どうしようもない。老中等はいいくるめられてしまったが、新井君美はこんなことでは参らない。くるりと向きを変え、老中の方へ向って、
「ただいまのいい分は一応もっともに聞こえますが、この損じた貨幣をとくと改めて見ますと、かねて御検分に入れた雛型と相違しているものが数々ございます。金の方では、小判の縁《へり》廻りだけを厚くし、中のところはことのほか薄く、そのためこのように裂けやすいのでございます。また銀はかつて近江守より申し上げた品質とは、まるで似もつかず格外に粗悪なものが少くございません。これは上様より御許しを受けず、勝手に鋳造いたしたものと推察いたします。この儀をなお一層念入りに御吟味あらせられますよう」
老中等は、それもそうだと、きびしく重秀を取り調べていったので、さすがの重秀も包みきれず、
「金の方は数の中にはそのようなものも多少ございましたが、その時は改鋳するまでもあるまいと存じ、通用に差し出しました。銀の方は昨年来御勝手向き差し詰り、よんどころなく勘定組頭保木弥右衛門、小宮山友右衛門の両人に申しつけ、銀座御用達深井庄左衛門等に改鋳いたさせました」
と、泥をはいた。
そこで「荻原近江守重秀儀金銀改鋳御用につき、不正の取計らいこれある段、不埒に思召さる」とあって、知行三千石を召上げられ、御役御免|逼塞《ひつそく》仰せつけられた。
重秀は、もとは四百俵の小身者だったが、柳沢吉保に取り入って、廩米《くらまい》・金銀改鋳などに奸智を働かせ、次第に加増されて、三千七百石にまで栄進したが、このたびの問題で、七百石に減じられ、間もなく、悶々のうちに病死した。一説には、絶食して自殺したともいわれている。
翌正徳二年には、重秀と共謀した深井庄左衛門以下四名も、私慾を計ったことがバレて、処分された。家宅|捜索《そうさく》によって、彼等がかくしておいた帳簿が発見されたが、この帳簿の中に前述の『折たく柴の記』の中にある金額等がしたためてあったのだ。当局ではこれによって取り調べようとしたが、すでに重秀は死亡し、半六は行方不明となっていた。
大久保忠増は「御勝手掛として、右の儀に心づかざる段、不念《ぶねん》」とされて、御目通り差し控えを仰せつけられた。
しかし、大奥の女中等にとっては、このことは意外であったろう。彼女等が憎いと思っていた当の忠増はこの程度の御咎めですんだのに、好意をもっていた荻原重秀の大罪状が暴露《ばくろ》して、その人を殺してしまったのだから。
家宣は、重秀の処分をすませると、すぐに、悪貨の改鋳を命じたが、その頃から健康を害し、はかばかしくないままに年を越し、正徳二年十月十四日、ついに死去した。深井庄左衛門一味の吟味が終った直後で、時に五十一歳であった。
病気が重態となって、自分でも再起不能と悟ると、家宣は、ふだん心にかけ、はたせなかったことを、くわしく書き遺しておいた。諸役人や諸大名に対して、後事を托した遺言もあった。
次に立ったのは鍋松改めて家継であるが、わずかに四歳の幼年だ。生母左京の方改めて月光院を中心とする大奥が大勢力を得て、大奥専制の時代となる。月光院と間部詮房とが醜関係があったという噂は当時から高い。
『三王外記』には、こうある。
「高崎侯間部詮房は、家宣の在世中から、日夜大奥内に泊りこんでいて、特に家宣から暇を賜わらないかぎりは邸へも帰らなかった。家宣の死後は、若君の護衛を名として大奥にとどまり、家宣の居間にいた。新将軍家継はまだ幼年であったので、母月光院の所にいたが、詮房は昼も夜もただ一人幼君に従っていた。そこで、月光院と密通することになった。はじめは人目をはばかっていたが、一旦人目にふれるとすっかり公然《おおつぴら》になった。ある冬の日、詮房が礼服を脱してふだん着姿で、綿帽子をかぶり、月光院と炬燵《こたつ》にあたって私語しているのを見て、幼将軍はお附きの女中に言った。
『間部は上様のようだな』
こんな風であったので、大奥の風儀は頽廃しきって、近習や侍医の宿直部屋を朝方小役人等が掃除すると、よく大奥の女中等の髪飾がおちていた云々。」(原漢文)
間部と月光院とにこんな関係があったかどうかは、にわかに断定出来ない。間部は気慨はなくても謹直な人柄ではあったようだから。しかし、世の疑惑を招くようなことはあったのであろう。
ともあれ、大奥の風儀が非常に乱れ、絵島・生島の事件がおこったのは、この時代のことである。
この時代のことは、ぼくも小説『本朝女風俗』にくわしく書き、舟橋聖一氏も小説『絵島生島』で書いているから、ここには詳述をさける。
本書は、一九八四年十二月に、小社より単行本として刊行され、一九八八年十一月、講談社文庫に収録されました。