海音寺潮五郎
新太閤記(四)
目 次
美女炎上
お茶々
女大名
風呂《ふろ》思案
鎮西《ちんぜい》経略記
天下統一
形見の涙
夢のまた夢
美女炎上
一
前田|利家《としいえ》が越前府中《えちぜんふちゆう》(今の武生《たけふ》)の居城にかえったのは、賤《しず》が嶽《たけ》の合戦《かつせん》の翌日の早暁《そうぎよう》、まだ薄暗い頃であった。
江州《ごうしゆう》と越前の境は、やたら峠の多い、けわしい山路が二十数キロもつづく。負け戦《いく》さで逃げる身にはこたえた。そのうち夜になると、足もとが危《あぶ》なくてならない。といって、松明《たいまつ》などつけては、敵の追撃欲をそそり立てるようなものだ。あまりの暗さに、山中にわけ入って数時間休んで、おそい月の出るのを待って、夜どおし歩いて、やっと帰りついたのであった。
疲労しきって、食事もそこそこに横になり、泥のように熟睡していると、おこされた。村井|又兵衛《またべえ》がひかえていた。充血した目で見て、たずねた。
「なんだ」
「柴田|修理亮《しゆりのすけ》様がお出《い》ででございます」
「なに?」
がばとはね起きると、村井はそっと上体を近づけて、ささやいた。
「みじめな敗戦であったらしく、武具も大方は捨てて、槍《やり》の柄《え》を切りおったるを持ったみすぼらしい、お疲れの様子である上に、お手廻りも至って手薄でござる。ここでお討取《うちと》りなされば、筑前守《ちくぜんのかみ》様へのご忠節になることでござる」
利家はかっと腹を立てた。村井の胸をなぐりつけ、
「沙汰《さた》のかぎりなることを申す。おのれは武士の作法を知らんのか!」
と、どなりつけ、
「鄭重《ていちよう》にして書院へお通し申せ。くれぐれも鄭重にいたすのだぞ。無礼なふるまいがあってはおれは決してゆるさんぞ!」
きびしい調子で言いつけておいて、顔を洗い、服装を正して、書院に行った。
勝家は疲れきった様子で、書院の上の間におり、下の間には家来《けらい》らが八人、これも疲れきった様子でいる。皆|具足《ぐそく》をぬぎすてて、具足下の上に陣羽織《じんばおり》を着ただけの姿であった。おいしそうに煎茶《せんちや》をのんでいた。
利家の姿を見ると、家来らは茶碗《ちやわん》をおいてかしこまった。利家はその前を小腰《こごし》をかがめて会釈《えしやく》して通りすぎ、上の間に行った。迎える勝家の、まばらに白いもののまじるひげのある顔に笑いが上った。
「又左《またざ》殿、負けたわ。恥かしいわ」
利家は会釈し、すわってから、鄭重に言った。
「この度は申しようもなき仕儀《しぎ》。さりながら、勝敗は合戦《かつせん》の習い、ぜひもないことでござる。戦《いく》さはいく度負けても、最後に勝てばよいのでござる。われら当地をかためて防戦をいたすべきにより、貴殿はいそぎ北ノ荘《しよう》にお帰りあって、人数をお集めあって、再挙をおはかりあれ」
利家は勝家に従って出陣はしたものの、それは信長の命令で勝家の寄騎《よりき》にされ、勝家を寄親《よりおや》と仰いでいた義理による。彼は昔から勝家となかがよく、好意も持っているが、だからといって秀吉と戦いたくはない。彼は秀吉ともなかがよいのだ。むしろ秀吉との方がよいのである。娘を秀吉の養女にやっているくらいである。
安土《あづち》の城下での二人の屋敷は隣り合っていた。二人はいつも安土にはいない。以前は大ていの時は所領のある長浜や越前に行っており、後には秀吉は姫路《ひめじ》に、利家は能登《のと》に行っていることが多かった。したがって、二人がそろって安土にいることはごく稀《まれ》であったが、ごくたまにそんなことがあると、毎日行き来した。たまたまそういう時、利家の妻のお松が女の子を生んだ。秀吉はその以前から、
「わしには子供が一人もない。今まで出来なんだのだから、とうと出来んのじゃろう。おぬしはもう息子《むすこ》が一人、娘が三人もいる。これから先きもなんぼでも出来るじゃろう。じゃから、こんど生まれるやや子はわしにくれい。男であっても、おなごであっても、わしにくれい」
とねだって、利家夫婦を承諾させていたので、生まれて七日目には、自分のふところにいれて連れかえったのである。
だから、この娘は、今は姫路で、ねねの手で育てられている。
これほどのなかだから、利家の賤が嶽への出陣は、実に実にやむを得ない義理のためであった。だから、出陣はしても戦わなかった。戦わなければならないことになりそうになったので、退却した。その退却の際の混雑の間に、つい五、六人の死傷者が出てしまったが。
しかし、敗残の勝家の様子を見ると、覚えず上述のように言ってしまった。うまいことを言って勝家をだまそうと思ってのことではない。篤実《とくじつ》な彼には、勝家があまりにも気の毒で、つい本気でその気になって、そう言ってしまったのであった。
勝家は利家の友情の深さに礼を言って、
「湯漬《ゆづけ》をふるもうてくれまいか」
と所望した。
「お安いこと」
利家は勝家にはもとよりのこと、下の間の家来らにも、外に待たせてある雑兵《ぞうひよう》ら三十人にも、食事を出した。
勝家は心静かに食べおわった後、
「もう一つ所望がござる。馬が疲れ申したれば、かわりの馬を賜《たま》われ」
と言った。
「お安いこと。われらもそのつもりでいたことでござる」
利家は厩《うまや》から馬を引き出させて来、ここまで勝家らの乗って来た馬から鞍《くら》をうつしかえさせて、すすめた。
「返す返すも、芳情《ほうじよう》にあずかり申した」
勝家は薄く涙ぐんで礼を言った。
利家は城門まで見送った。勝家は馬に乗って数|間《けん》行ったが、ふと乗りとどめ、ふりかえって、
「又左殿、又左殿」
と呼んだ。
利家は走って行った。
勝家はしみじみと利家を見て、
「ごへんは以前から筑前となかがよかったのじゃ故、これからはわれらにたいする義理を捨てて、筑前と仲ようして、筑前とともに栄えるようなさるがようござるぞ。必ずさようなされよ」
と言ってから、立去った。
利家はやがて秀吉勢が柴田を追尾して押寄せて来るであろうと思った。秀吉にたいする友情のために賤が嶽ではわざと戦わなかったのであるが、柴田に味方して出陣している以上、秀吉は自分を敵方と見ているであろう。戦い勝って押寄せて来る以上、攻撃をかけられることは十分に覚悟しなければならない。その際になって、わしは友情を重んじて賤が嶽ではわざと戦わなかったのだと、男たるものが言えるものではない。いさぎよく戦うよりほかはないのである。
むすこの利長を呼んだ。この時、利長は二十二歳だ。父の前にかしこまった。
「やがて、羽柴勢が来る。防戦の用意をいたすよう」
利長はいぶかしげな顔で見上げた。
「筑前を敵とする軍《いくさ》に出陣したのじゃ。筑前に敵と見られてもよんどころないことじゃ。武士はかかる時、言訳がましいことは言わぬもの。かねての交わりはかねての交わり、最も勇ましく戦うこそ、いさぎよき武士である」
と、利家は言い聞かせた。
利長の若々しい顔はさっと緊張した。
「かしこまりました」
と、退《さが》って行き、老臣らと相談して、城のかためにかかった。城外の濠《ほり》の外に逆茂木《さかもぎ》をひいたり、城壁に鉄砲を配置したりした。
あら方、準備が出来たのは、その日の午後であったが、その頃、見張りに出しておいた兵が馳《は》せ帰って来て、敵軍が町の南郊、日野川の左岸地帯まで進んで来たと報告した。
持場持場の指揮者らに指図《さしず》を伝え、緊張して待ち受けているところに、秀吉勢の先鋒《せんぽう》が姿を見せたかと思う間もなく、戦勝に心が驕《おご》っていることとて、どっとおめいて、そのまま攻めかかって来る。
城中からは一斉に射撃した。
寄手《よりて》には、この反撃は少し意外であったのであろう、少し引き退いた。備えを立てなおして、また攻撃に出るためである。
秀吉は中軍《ちゆうぐん》にいたが、先陣にあたって聞こえたおびただしい鉄砲の音を聞くと、
(しまった!)
とばかりに、馬に飛びのって、飛んで行き、
「待て、待て。人数共、少し退れ、少し退れ!」
と、馬を乗りめぐらして、三町ばかり引きとらせ、
「皆々休め、腰をおろせ、腰をおろせ」
と命じて、戦闘隊形を解かせておいて、馬じるし一つ持たせて十間ほど先きに歩かせただけで、馬の口取りも従えず、ただ一騎、とことこと城に近づいて行った。
城内では兵士らは鉄砲をかまえたが、将校らは大てい秀吉の顔をよく知っており、主人と最も昵懇《じつこん》な人であることも知っている。
「撃つな、撃つな。事情ありげじゃ」
と、とめていた。
その間に、秀吉は城のきわまで来て、腰の采配《さいはい》をぬいて打ちふりながら、城内にむかって、持ち前の大音声《だいおんじよう》で呼ばわった。
「わいらも見知っていよう。おれは筑前守じゃ。鉄砲を撃つな、鉄砲を撃つな」
と呼ばわりながら大手の門まで馬を乗りつけると、そこにあった矢倉《やぐら》にいた番頭《ばんがしら》の高畠石見《たかばたけいわみ》と奥村助右衛門とが、矢倉から飛んでおり、門の扉を左右におしひらき、馬の口を取って中に引き入れた。二人とも、秀吉のよく知っている者共であったので、にこにこ笑いながらたずねた。
「又左衛門ご父子《ふし》、無事でご帰城なされたかえ」
二人は手を膝《ひざ》まで垂れて、うやうやしく答えた。
「父子共になにごともなく帰城いたしましてございます」
「そうか、そうか、それは珍重《ちんちよう》。案じていたぞよ」
二人に城内へ案内されて行きながら、またたずねる。
「柴田敗軍の際に、当家の者で巻きぞえを食って討たれた者はないか」
「はい。お見知りおきをいただいています小塚藤左衛門が討死《うちじに》いたしました」
「ほう、小塚が? それは気の毒なことをした。そのほかには?」
「そのほかの者はお見知りおきはございますまい。五、六人巻きぞえになって討たれましてございます」
「そうか、そうか。そういうことになったのではないかと、実は案じていた。あの乱れ合戦《がつせん》であったから、どうしようがなかったのだ。気の毒なことをしたぞ」
この以前に、二人は秀吉の来たことを連絡していたので、利家と利長とは途中まで迎えに出た。相手方より早く、秀吉は声をかけた。
「やあ、又左《またざ》殿」
持ち前の、大きく、闊達《かつたつ》な声である。
父子は小腰《こごし》をかがめた。利家は鄭重《ていちよう》に言う。
「これは筑前殿、わざわざお出でたまわり、めでたく、またかたじけなく存ずる」
いかにも篤実《とくじつ》で、謹直《きんちよく》な態度だ。
利家が篤実な性質であることは、秀吉はよく知っている。若い頃は本心は篤実でありながら武へん好みから来るかぶいたところがあったが、年とともにぎらついた威勢のよさは消えて、ひたすら篤実で、礼儀正しい人になった。それでも秀吉にたいしては、昔のへだてのない態度で接しつづけたのだ。この数年は若い頃とちがって、秀吉の方がずっと地位が上になっている。利家がやっと旅団長くらいの格になる間に、秀吉は信長|麾下《きか》の師団を二つばかりも率いる師団長格になったのだ。去年の山崎合戦《やまざきのがつせん》以後はなおさらのことだ。秀吉は織田家の旧将領《しようりよう》の中では第一人者になった。師団を五つほども持って、天下を望む地位に上ったのに、利家は依然たる旅団長格にすぎない。しかし、それでも、利家は昔のへだてのない態度を持《じ》しつづけた。去年の冬、柴田勝家の使者として山崎の宝寺《たからでら》城まで来た時も昔と少しもかわらない態度であった。
だのに、今日はそれがない。鄭重《ていちよう》で、いんぎんなのはよいとしても、よそよそしいのだ。
気に入らなかった。
これが、昨日の敗戦のためであることは、わかっている。思うに、利家は秀吉と自分の地位が天地ほどもひらき、昨日から秀吉が実は天下人《てんかびと》になっていることを身にしみて知り、恐怖しているのであろう。
こちらが天下人となったことを知り、尊敬してくれるのは大いにありがたいが、恐怖してもらってはこまる。尊敬のための恐怖なら、まだよいが、今の又左の恐怖には、柴田に荷担《かたん》して出陣したために、こちらが処罰的に出はしないかとの恐れもあるようである。それが気に入らない。
(おれと又左との友情はそんなものではないはず。おれは又左が義理にからまれていたし方なく出陣したことを知っている。戦わないようにつとめ、戦わなければならなくなりそうだったので、大急ぎで退却をはじめたことも知っている。少しも早く、おれがこの心を示して、又左が胸のしこりを解いてやらねばならん)と思った。
だから、からからと笑って、言った。
「あまりよそよそしいあしらいをせんでほしいのう。会いたかったぞ、会いたかったぞよ」
と、言った。すると、ほんとに胸が熱くなって、しまいの声は涙声になった。
利家も利長も、忽《たちま》ちあたたかい表情になって、目をうるませた。
「庭から真直《まつす》ぐに書院に通っていただこう。こちらへ来てもらおう」
利家はことば遣《づか》いをくずして、先きに立って導いた。
何かと話しながら、行くうちに、台所の前にさしかかった。暗い土間《どま》にかまどがあって、上にかかっている大きな釜《かま》が銀をいぶしたような艶《つや》をして、半分見えていた。秀吉は利家の導くままに、台所の入口を二、三歩行きすぎたが、ふと足をとめて、利家に、
「先ずご内儀《ないぎ》様にお目にかかって、播磨《はりま》の娘が息災《そくさい》でいることを申したい。おふくろというものは、どこのおふくろも同じじゃけのう」
と言うと、返事を待たず、足をかえして、台所に入って行きながら、大きな声で、
「お松殿、お松殿」
と呼ばわった。
二
利家の妻も、秀吉が軍勢をひきいて到着したことは知っている。おどろいて、走り出して来た。
「やあ、お松殿」
「これは筑前様」
お松は上りがまちを飛びおり、土間にひざまずこうとした。
「それはやめさせられよ。なぜにさように他人行儀なことをなさる。これは誰でもない。筑前でござるぞ」
「それでも、そなた様は昔とご身分が違いますものを」
「いやいや、親しい友垣《ともがき》には、身分などいうものはござらぬ。上らせられよ」
「それでも……」
「上らせられよ。わしはここのかまちに掛けさせてもらいます」
「上って下さりませ。そなた様がお上り下さらねば、わたくしは上れませぬ」
「わしをこまらせて下さるな。わしはいそがしい身、すぐに立たねばなりません故、草鞋《わらじ》をぬいでおられませんけ」
「そんなら、草鞋のまんまお上り下さりませ。そのままでよござります」
押問答しているのを、利家と利長とはわきでにこにこ笑いながら見ていたが、利家が言った。
「かかア殿がああいうのじゃ。そのまま上りなされよ」
「そうかの。そんなら、このまま上らせてもらうぞ」
とんとんと、土間で足ぶみして、砂をふるって、かまちに上った。
お松も走り上り、先きに立って、自分の居間に案内した。
居間に入ると、秀吉は武者あぐらをかいてすわり、笑いながらお松に、
「先ずおすわりなされて、われらにあいさつをさせて下され」
と言ってすわらせてから、
「こんどの合戦《かつせん》、ご亭主《ていしゆ》の又左殿、わざと手出しなさらず、そのためにわれら勝つことが出来ました。勝たせてもらったようなもの、さらさら、筑前一人の力ではござらぬ。又左殿には、まだお礼を申していませぬが、先ずはそもじ様にお礼を申します。この通り」
と、合掌《がつしよう》して、
「さて、次に申したいは、もらい申した娘のこと。このほども播州《ばんしゆう》から便《たよ》りがまいりましたが、一段と大きゅうなり、息災《そくさい》の由でござる。ご安心いただきとうござる」
と言った。
奥《おう》に媚《こ》びんよりは竈《そう》に媚びよという古い中国のことわざがある。君主のごきげんをとるより、実権を握《にぎ》っている臣下《しんか》のきげんを取った方がききめがあるという意味だが、転じて旦那がお気に入るより奥さんのお気に入るようにした方がご利益《りやく》があるという場合にも使われる。人に取り入るにはその家の主婦の気に入られるのが一番の近道であることは、誰も知っていることだが、大ていの男は、秀吉がこの時お松にむかって言ったような、ぬけぬけとしたお世辞《せじ》はいえない。てれるのである。しかし、こんな際てれるかてれないかが、快男児的英雄と、しからざる人間とのわかれるところである。図々《ずうずう》しく鉄面皮《てつめんぴ》であることも、快男児的英雄の一資格なのだ。疑わしくは、「三銃士」のダルタニヤンを見るがよい。坂本|竜馬《りようま》を見るがよい。勝海舟《かつかいしゆう》を見るがよい。彼らの持つあの図々しさこそ、東西|古今《ここん》の、ひとり快男児的英雄といわず、英雄なるものに共通する素質なのである。自らかえりみて、あの図々しさがないと思う人は、英雄たることをあきらめるがよいのである。もちろん、図々しさだけでは英雄にはなれない。必要欠くべからざるものではあっても、一資格にすぎないことは言うまでもない。
さて、お松はうなずきながら、秀吉のことばを聞いていたが、言う。
「さようでございますか、それはうれしいこと。それほどまでに可愛《かわい》がっていただき、あの子は果報者《かほうもの》でございます。それはさておき、申しおくれましたが、久しゅうお目《め》もじいたしませなんだところ、思いもかけず、このような片田舎《かたいなか》にまでお出《い》で下さり、お目もじ出来て、うれしく存じます。ことにこんどはご合戦《かつせん》、めでたくご利運のこと、およろこび申し上げます。あなた様ほどのご運めでたいお方は二人とはあられまじと、女ながらうらやましく存じ上げます。おねね様、お聞き遊ばしたら、いかばかりおうれしく思いなさいますことか……」
と、あいさつした。
秀吉はいともきまじめに応答する。
「およろこび、かたじけなくお受けいたします。今も申しました通り、こんどの合戦が心にまかせましたのは、ひとえに又左殿のお蔭《かげ》でござる。くれぐれもお礼申します。――さて、わしはこれより北ノ荘へ急がねばなりませねば、お盃《さかずき》を下されよ。いただいて、早々にまいりたくござる。いやいや、ここで結構。ここでよろしい。そうはしておられぬのでござる」
お松は自ら立って酒肴《しゆこう》の用意をして、持って来た。
秀吉は先ず利家と盃をかわし、次にお松とかわし、最後に利長とかわした後、
「冷飯《ひやめし》があるならふるもうて下され」
と頼んでおいて、
「ご無心ながら、又左殿を数日お貸したまわれ。ご亭主は功者《こうしや》(いくさ上手《じようず》)でござる故、助けてもらいたいのでござる。孫四郎(利長)殿はおふくろ様をお守りして、おとどまりあれ。――又左殿、手伝ってくれような」
と、利家をふりかえった。
利家はうれしげにうなずき、つと立って奥へ消えた。具足《ぐそく》をつけて来るためであることは明らかであった。
飯が来た。所望通り冷飯である。秀吉は湯をかけて、数|膳《ぜん》をさらさらと食べた。食べおわったところに、利家が来た。武装している。秀吉はお松に、
「さらば、いそがしゅうござる故、これにておいとまつかまつる。めでたく帰陣の節は、また立寄らせていただき、ゆるゆると四、五日も逗留《とうりゆう》させてもらいますぞ」
とあいさつして、立ち上った。
お松は台所口まで見送ったが、秀吉と父を送って行く利長をふと呼びとめると、言った。
「そなたもお供《とも》なされよ。このあたりには敵もいません。たとえいても、少しも案ずるにはおよばぬ、わたしが立派に留守《るす》します。急ぎ支度して、父《とと》様とご一緒に、筑前様のお手伝いいたされよ」
利長はうなずき、すぐ身支度して、あとを追った。
お松は女の身ながら、これから秀吉が天下人であり、これのきげんを取り結ぶことが前田家万代のためであることを、よく見ぬいたのである。利家は家庭ではかんしゃく持ちの暴君で、晩年に至るまで、よくお松はひっぱたかれたと伝えられているが、お松が賢夫人であったことは疑いないのである。
『川角《かわすみ》太閤記』はまたこう伝えている。この時利家は利長にむかって、
「おれは筑前が先鋒《せんぽう》より先きを行く、汝《われ》は筑前がすぐあとを乗れ。しかし、家来は馬|中間《ちゆうげん》二人だけ召し連れて、徒士《かち》、若党たりとも側におくな。家来共はみなずっと後陣におけ」
と言って、その通りにしたというのだ。自ら秀吉の先鋒よりも先立ったというのは、犬馬《けんば》の労《ろう》を取る意をあらわしたのであり、護衛の者もなく利長を秀吉のすぐ後ろに従わせたのは、人質《ひとじち》の意味なのである。篤実《とくじつ》にして重厚と言われるほどの人でも、戦国武将はこんな風に抜目《ぬけめ》がなかったのである。
利家の性格の複雑さにおどろくよりも、単純率直なだけでは、一かどの身分の者は生きぬいて行けない時代であったことを考えるべきであろう。しかし、これはいつの時代だってそうであろう。現代だって。ちがうのは、平和な時代にはこの時代ほど露骨な形でいじめ殺されないだけのことである。
三
北ノ荘(今の福井)に帰った勝家には、留守していた兵、逃げかえって来た兵、戦《たたか》いにたえないほどの老弱者まで合して、三千人しかなかった。しかし、勝家はこの兵をもって防戦の準備をすすめた。勝つためではない。最も花々しい戦《いく》さをして死ぬためである。
早速、兵の部署にかかったが、とうてい城外で防ぐほどの兵力はない。全部城内に入れたが、外郭《そとぐるわ》全部に配置するほどの人数もない。やむなく、外郭を捨てて全員内郭にこもることにした。
一方、秀吉の方――
府中から北ノ荘までは二十キロある。秀吉は途中で一泊し、翌二十三日に北ノ荘におしよせた。秀吉自身は北ノ荘の南郊|足羽《あすわ》川の南の足羽山に本陣をすえた。足羽山は現代ではその東面に新田義貞《につたよしさだ》を祀《まつ》る藤島神社があるが、これは明治になって福井市の北郊の中藤島から移したので、元来はこの山の最高所に愛宕《あたご》神社があって、北ノ荘の鎮護神《ちんごしん》となっていて、山の名も一に愛宕山と言うのである。それほど高い山ではないが、平野の中にもっくりと飛び出している丘であるから、高く見えもすれば、展望がききもする。南北に長い丘の北の端に立てば、眼下に足羽川があり、その向うに北ノ荘の城下町があり、その中ほどに北ノ荘城の天守が見えるのである。
この城は元来は朝倉氏の一族が営《いとな》んだのだが、朝倉氏がほろんで越前が織田氏のものとなり、その後この国に一向一揆《いつこういつき》がおこり、一時本願寺領となっていた頃には、守護代《しゆごだい》の下間法橋《しもずまほつきよう》が大坂から下って来て、ここにいた。さらにその後、信長が自ら兵をひきいてこの国に入り、一向宗|坊主《ぼうず》と狂信者らを征伐《せいばつ》し、徹底的に弾圧して、この国を柴田にくれた後、柴田はこの城を修築して、居城とした。天守を持ち、白堊《はくあ》の多聞塀《たもんべい》を持つ、信長流の城にしたのである。大村|由己《ゆうこ》の『柴田退治記』に、「造《つく》る所九層の台、天守の上九重」とあるところを見ると、九階建てであったようである。もっとも、外観は五階くらいで、内部が九階であったのであろう。ずいぶん壮麗なものだったのである。
秀吉の先鋒《せんぽう》は堀久太郎であった。堀隊をはじめ、諸隊は、城を包囲し、進んで外郭を乗りとって、内郭にせまった。城内では筒先《つつさき》をそろえて射撃し、強い抵抗の色を見せた。諸隊は一先ず引退き、城壁から十間ないし十五間をおいて陣を張って、応戦した。
数時間立って、秀吉の本陣に、昨夜府中近くの村の中で百姓らが生捕《いけど》ったという口上《こうじよう》で、佐久間|玄蕃丞盛政《げんばのじようもりまさ》と勝家の養子の権六勝久《ごんろくかつひさ》とが送られて来た。
二人は敗走の途中、一緒になったが、玄蕃が山中で足にふみぬきをこしらえたのがとがめて、歩行困難になったので、杖《つえ》にすがりながら府中近くの百姓家に入り、もぐさを乞《こ》うてきずに灸《きゆう》をすえた。百姓は二人が出て去った後、村の者共を集めて追いかけ、捕えたのだという。
秀吉は山口|甚兵衛《じんべえ》と副田甚左衛門という家臣を呼び出し、
「よくいたわるよう」
ということばをそえて、二人をあずけた。
二人は捕虜《ほりよ》らをそれぞれわが宿へ連れて行き、縄を解き、行水《ぎようずい》をつかわせ、帷子《かたびら》に着かえさせた。
夕方、秀吉は攻撃を中止させ、城中に大音《だいおん》に、
「ご子息《しそく》権六殿と玄蕃殿とを、昨日府中の山中で生捕りましたれば、お目にかけ申すべし。あないたわしきおんこと!」
と、呼ばわらせて、二人を引き出して見せた。
すると、それまでは小人数ながら活溌《かつぱつ》に応戦していた城中が、ひっそりと静まりかえり、はかばかしく鉄砲も撃たないようになった。やがて日が暮れると、天守の各層や、櫓々《やぐらやぐら》に明々と灯《あかり》がつき、酒宴がはじまった。笛や弦楽器や打楽器の音、歌う声、立って舞うらしい灯のかげりなどが、はっきりと寄手《よせて》の諸陣にわかった。最後の酒宴であることは言うまでもない。
天守の各層にあかあかと灯がつき、とりわけ最上層が明るくなっているのが、足羽山の本陣にいる秀吉にも見えた。秀吉はそこで、勝家が最後の酒宴を催《もよお》していることを察した。
(あそこにはお市様もまたお出でるであろうか)
せめて女性がまじっているかいないかだけでも見えないものかと、きびしく目を引きしめて凝視したが、城はここから十町以上もある上に、天守の窓は小さい。酒宴が行われているらしいことだけはよくわかるが、そこにいる人の性別のわかろう道理はない。
もどかしかった。秀吉はお市様のことを思うたびに、この年になっても胸が波立って来る。
(まさか柴田はお市様を道連れにしはすまい)
と思うのだ。
(お市様が柴田のところへ縁づかれたのは、去年の十月半ばであった。十一、十二、正、閏《うるう》正、二、三、四――やっと七か月にしかならぬ。浅い縁であったと言わねばならない。それに、三人も姫君方がお出でになることだ。道連れにするはずはない。男なら、城を出して、お市様の助かるようにするはずである。柴田は意地の悪い性質ではあるが、男らしくはある男だ。きっとそうする!)
胸がふるえ、顔がほてって来た。じっとしていられなくなって、足をふみしめて、数歩の間を行ったり来たりした。
(お市様が姫君らとともに城を出されて来られたら、もちろんお助けする。故|右府《うふ》様の妹君であり、浅井|備前守《びぜんのかみ》の忘れがたみである姫君方である。お助け申す名目は十分にある。世間の人も十分に納得《なつとく》する。いやいや、お助けせねば、かえって悪く言われよう。お助けせねばならんのだ……)
助けることがきまると、その先きのことが次ぎ次ぎと考えられて来る。
(岐阜《ぎふ》の三七《さんしち》(信孝)様は柴田の一味ゆえ、死んでもらわんければならんから、とりあえずは、三介《さんのすけ》(信雄《のぶかつ》)様のところへお送りすることになる。それから先きは……)
また胸がどきどきして来た。数歩の間を行き来して、それを静める。
(……それはまあ、いそいできめねばならんことではない。……縁あれば、しかるべくなるであろう……)
胸のときめきは一層はげしく、足がもつれて来た。立ちどまった。あたたかで、はなやかで、うるんでいる、靄《もや》のようなものが、あたり一面に立ちこめて来た気持であった。
(城を出されてお出でる際、不都合なことがないように、諸陣にふれをまわしておかねばならぬ)
と、思ったが、なにかてれに似たものが胸にあって、命令を出すことにふみきれない。信長公の遺臣という格で又左と連名で出そうと考えた。
本陣の留守居《るすい》を、黒田官兵衛と蜂須賀《はちすか》彦右衛門にたくして、近習《きんじゆ》の者を数名連れて、お山を下りた。
山をおりて少し行ったところに、足羽川に架した石の橋がある。長い、りっぱな橋である。ずいぶん昔からあって、「北ノ荘の石橋」といえば、北陸では名高いものであると、聞いた。この橋は前田家の軍勢が守備して、橋をわたったところに、利家は陣をかまえていた。
橋の番をしていた兵共からの連絡があって、利家は秀吉の来るのを知っていた。幕舎《ばくしや》の外まで出迎えた。
「実は、わしの方からも、お訪《たず》ねしたいと思っているところでござった」
と、すぐ利家は言った。
秀吉は利家のことば遣《づか》いが、微妙な変化を見せていることを感じた。利家だけでない。旧織田家の将領らは皆、賤《しず》が嶽《たけ》の合戦を境《さかい》に露骨なくらい鄭重《ていちよう》になっている。山崎合戦《やまざきのかつせん》の時にも相当変化が見られたが、こんどほどではなかった。利家は一通りならぬ親しいなかなので、そうあざとく変えるわけにも行かんだろうが、それだけにかえってこまかに心づかいしなければならないらしく、隅々《すみずみ》に微妙な変化を持ったことばづかいになっている。それが、秀吉に、
(おれはもう木下藤吉郎でも、羽柴筑前でもない。今はもう天下人《てんかびと》なのだ)
と、はっきり意識させた。
心がしゃんと立ち直った。笑った。
「それは都合のよい時に来たわけだの。わしは近いところからよく城の様子を見たいと思って来たのだ。城の様子、どうやら今宵をかぎりと覚悟をきめたらしく、名ごりの酒もりなどしている風じゃな」
と、城に向って、あごをしゃくった。ここまで来ると、城内のさんざめきが一層はっきりと聞こえるのである。
「その通りでござる」
と、利家もうなずきながら、城を見入った。深い思い入れにくれている表情だ。
「とまれ、おぬしの用を聞こう。中へ入ろう」
幕舎の中へ入った。
幕舎の中は、少しむし暑かった。
茶を立ててすすめた後、利家は思い切った風で口をひらいた。
「無理な願いであることは、千万承知いたしていますが、われらの立場としては、一応二応は、お願いせねばならぬことと存ずる故、願い申す。聞くだけでも、聞いていただきたく存ずる」
この前おきだけで、秀吉は利家が柴田のいのち乞《ご》いをするつもりであることをさとった。
この男らしい誠実さと言えよう。この男は柴田ともなかがよかった。だから、おれが不機嫌になるかも知れないのをはばからず、いのち乞いをしようとするのだ。見事であると思った。これだから、おれはこの男が好きなのだと思った。
しかし、だまって、先きをうながす目つきをした。
「出来るものなら、柴田を助命していただきたいのでござる」
秀吉はなおだまっていた。
「貴殿は柴田とは昔からよいなかではなかった。貴殿が見事右府様の弔合戦《とむらいがつせん》をなしとげられたあとは、貴殿をねたみにくみ、貴殿の不為《ふた》めを企てたこと一度や二度ではござらぬ。こんどなども、貴殿をほろぼすために出陣したのでござる。貴殿にとっては、にくいにくい男に相違ござらぬ。しかしながら、今では貴殿と柴田の身分と力は、天地の差となっています。もはや、柴田が再び貴殿のさまたげをすることがあろうとは考えられませぬ。助け給《たも》うた上、五千石か六千石の隠居扶持《いんきよぶち》をくれて、どこぞへおいやって下されても、少しもさしつかえないことと存じます。柴田には、故右府公の妹君が添《そ》うています。この君のためにも、また故浅井備前が遺《わす》れがたみの姫君方のためにも、柴田を助命して給われば、功徳《くどく》となることでござる」
いつもは決して雄弁でない利家が、力をこめて整然と説いた。
秀吉はうなずいた。
「おぬしの気持はよくわかる。おぬしなればこそ、柴田がためにそれほど言う。さすが又左じゃと、われら感じ入った。しかし、それは出来ぬことじゃわ。おぬしも知っての通り、われらはむごいことはきらいだ。出来るだけ人を殺さぬようにして、これまでやって来た。助けられるものなら、柴田も助けてやりたい。しかし、柴田にだけはそう出来ぬ。おぬしは、もう柴田はわれらがわざわいになることはせぬと言うが、おれはそうは思わんのだ。柴田は勇将だ。これくらいのことでそのままになりはせん。助けてやれば、必ずいつか立ち上って噛《か》みついて来るにきまっている。その力とその勇気のある男と思う故、どうしても死んでもらわんければならん。わかってくれよう。お市様と姫君方は、別に考えよう。柴田に出し申すように、城中に申し入れよう。柴田も男だ。巻き添えにする気はあるまい」
利家は嘆息《たんそく》しながら、うなずいていたが、また言う。
「念のため、もう一応お頼み申すが、聞き入れてもらえんじゃろうか」
「このことだけは、あきらめてくれい」
「そうか。さらばいたし方ない」
秀吉は、利家の右筆《ゆうひつ》を呼んでもらって、口授《くじゆ》して、柴田へつかわす手紙を書かせた。お市様は先君のおん妹君、先君への忠心を重んじて、城を出し奉《たてまつ》られたい、また、姫君方は故浅井備前のわすれがたみ、貴殿と運命を共にさるべきではない、これまた城をお出し願いたい、われらの手より、三介様方へ送りとどけ申すであろうという文面であった。
秀吉は読み上げさせた後、花押《かおう》を書いた。利家にはまわさなかった。これまでの利家との問答の間に、思案がかわって来ていた。
(おれは天下人だ。少なくともなりかかっている。これしきのことすら、又左と連名でなければ出来んようでは、又左と天下を分けもちにすることになる。そんなばかなことが出来るか。第一、そんなことにでもなったら、いつかは又左と争うことになろう。人間はそんなものなのだ。争えばおれが勝つにきまっているが、おれは又左を殺したくはない。おれは又左が好きなのだ。又左の安泰と幸福のためにも、又左はおれが家来にすべきなのだ)
と思案したのであった。
寄手《よせて》の各隊に触《ふ》れもまわした。
「やがて城中より、女君達を出し申すはずである故、皆々|疎略《そりやく》なきよう、鄭重《ていちよう》に守護《しゆご》し奉《たてまつ》って、本陣へお供申すべし」
というのである。これも自分の名だけでした。
秀吉は城を一周して諸陣を見てまわった後、本陣に帰り、知らせの来るのを今か今かと待った。
勝家は秀吉の勧告書を天守の酒宴の席上で受取った。無造作に封をおし切って読んだが、すぐ、かたわらのお市に、
「ちょっとまいられよ」
と、別室に連れて行って、その手紙を見せた。お市が読んでしまうのを待って、言った。
「いかさま、筑前の言うてよこした通り、お身は信長公のお妹|御《ご》じゃ、わしが道連れにすべきではない。城を出でさせられよ。このように言うてよこすほどなれば、筑前は決して悪うははからいますまい」
お市は涙ぐみながら首を振った。
「今さら、いのちを長らえて、どうなりましょう。君の妻として、お供をしとうございます。しかし、娘ら三人のことは、わたくしも前からこのように考えていたことでございます。筑前殿からこう申してまいったは幸いなこと。出してやって下さいますよう、お願い申し上げます」
「お身はわしと一緒に死んでくれると言われるのか」
「お供をいたします」
勝家は涙をこぼした。
「礼を言いますぞ。わしはお身を末長く楽しませて上げる自信があったればこそ、年の違いも忘れて、お身を迎えたのじゃが、こと志《こころざし》と違《ちご》うて、こういうことになった。うらまれてもいたし方はないと覚悟したに、思いもかけず、一緒に死んでくれようと言われる。うれしゅうござるぞ」
お市は涙をおさえたまま、だまっていた。
お市は嫁《か》して来て、まだ七か月くらいにしかならない。年も勝家六十二、お市三十六、二十六も違う。勝家を愛することが出来たであろうか。そうではあるまい。彼女が勝家とともに死のうという決心になったのは、生きるに疲れて来たのであろう。生きているかぎりは政略結婚の道具に使われるだけの自らの運命のつたなさがいやになったのであろう。
お市はひとりになって、娘達を呼んだ。茶々、初、小督《おごう》の三人。茶々は十七、初は十三、小督は十一であった。三人ともそろって美しい娘らだ。
お市は、寄手《よせて》の陣中から助命してくれると言って来たから、三人とも城を出よ、供の者をつける故、少しも大事はないとだけ言った。
三人とも、急には母のことばの意味がよくわからないようであった。美しい目を一様にみはって、母の顔を見ていたが、先ず茶々がはっとした顔になった。
「それでは、母様《かかさま》はどうなさるのでございます」
「母は城にのこります」
「いやでございます。生きるも死ぬるも、母様と一緒でありとうございます」
と言うと、茶々は泣き出した。妹らも泣き出した。
お市は涙をおさえていたが、子供らの泣きやむのを待って、しずかに言い聞かせた。
「母は修理亮《しゆりのすけ》殿の妻ですから、とどまって、共にいかようにもなるのが道でありますが、あなた方は浅井の血筋の人々です。とどまらなければならない義理はありません」
「いやでございます! いやでございます!」
茶々がさけぶような声でいうと、妹らも同じことばをくりかえした。
お市はきびしい顔になった。
「よくお聞きなされや。母はこの世に疲れたのです。あなた方と一緒に城を出たいと言えば、修理亮殿はゆるしてくれるでしょう。現にさっきもそう言ってくれました。しかし、わたしはことわりました。わたしがあなた方と一緒に城を出れば、羽柴はきっと織田の一族の許《もと》に、――三七殿は修理亮殿と同腹で、羽柴の敵でありますから、たぶん、三介殿の許へ送りとどけるでしょう。しかし、三介殿はわたしをそのままおきはしません。三七殿がしたように、また誰か、ご自分の利益になる人の許へ、縁づかせようとするにきまっています。わたしはもうそれがいやなのです。だから、城にとどまって、修理亮殿と一緒にいかようにもなろうと心をきめたのです。しかし、あなた方はちがいます。まだ若いのです。末長く生きなければなりません。昔わたしが小谷《おだに》のお城を出たのは、あなた方を末長く生きさせると、備前守様とお約束したためでありました。わたしはもう疲れました。茶々殿、あとはあなたに頼みます。あなたはもう十七、引受けられないことはないでしょう」
ここまでことをわけて言われては、娘らも聞きわけないではいられなかった。ついに、城を出ることになった。
勝家は三人のために心きいた家来を一人つけて、輿《こし》にのせて送り出した。茶々が後の淀君《よどぎみ》、初が京極高次夫人、小督《おごう》が徳川二代の将軍秀忠夫人となることは、人の知るところである。
寄手の諸陣は、宵に本陣からふれがまわっていたので、鄭重《ていちよう》にもてなして、足羽山の本陣へ送った。
深夜だったが、秀吉は寝ていなかった。今か今かと待っていたのだ。取次の者に、輿《こし》が三|挺《ちよう》であると聞くと、覚えず、
「なに、三挺?」
と、問いかえした。
「はい?」
「いや、よい、よい」
来たのは姫君方だけだ、お市様は城中にとどまりなされたのだと、すぐ推察がついた。長い年月の間、胸中に築き上げつつあったものが、がらがらと崩《くず》れてしまう気持であった。ない縁であった、ついにない縁であったと思った。それにしても、老年の柴田が、それほどまでにお市様の心をつかむことが出来たのかと、うらやましかった。ねたましいより、うらやましかった。天道《てんどう》は公平だ、天下争いには負けても、恋争いには勝たして、つり合いを取っているのかと、にがい笑いが浮かんで来た。
以上の心理の経過はほんの一瞬のことであった。秀吉は取次に聞いた。
「付添《つきそ》いの者、何とやらいう名であったな?」
「富永新六と申しています」
「その者を連れてまいれ。女君方もお連れ申せ。輿をお出し申せば、人にお顔を見せることになる。輿のままかき入れよ」
「かしこまりました」
取次は立去って、中年の武士を連れて来た。三|挺《ちよう》の輿もかき入れさせて来る。
富永と名のる武士は、輿をならべてかきすえさせただけで、乗っている人を出させず、秀吉にあいさつして言う。
「柴田修理が使い、富永新六と申すものでございます。先程はご懇切《こんせつ》なるご書状をたまわり、ありがたくお礼申し上げます。おことばにあまえまして、浅井備前守殿のおん遺《わす》れがたみの姫君方お三人をお連れいたしました。何とぞ、おいたわり給わりたいとの、修理が口上《こうじよう》でございます」
富永は一息入れて、つづける。
「なお、お市の方におかせられましては、筑前守殿のご親切はありがたきことでありますが、修理とともにいかようにもなりたいとの、おんみずからのご口上でございますれば、さようご承知下さいますよう」
脳天を、どしんとひっぱたかれた気持であった。しかし、秀吉は平静な声でこたえた。
「ご口上、たしかにうけたまわりました。姫君方は、筑前において誓って疎略《そりやく》なく生《おお》し立て申しますれば、心やすくご最期《さいご》をとげられますようにと、かように返答申したと、伝えてくれますよう」
富永は礼をのべて、輿《こし》に近づき、出てまいられるように言った。三人の姫君達はつぎつぎに輿から出て来た。一つ一つ花の咲いて行くような美しさであった。
一番大きい花――茶々を見た時、秀吉ははげしく胸がさわぎ立つのを覚えた。それはかつてのお市様そのままであった。
秀吉がお市とその姉のおひろとを見たのは、はるかにはるかに前のことだ。まだ信長の草履取《ぞうりと》りであった頃に、信長が遠乗りの帰りに、急に道をかえて摘草《つみくさ》に行っている妹らのところへ行ったことがある。その時が最初で、次は田楽狭間《でんがくはざま》の合戦のあった日、凱旋《がいせん》する信長を出迎えに奥の女中衆まで大手の門に出て来た時だ。そのあとはおひろが知多《ちた》の佐治八郎に縁づく時と、お市が小谷《おだに》に縁づく時と、お市が小谷落城の直前に城から出されて、信長の本陣から岐阜に送られる時だ。
しかし、そのいずれも、深く被衣《かつぎ》をかぶって、顔は全然見えなかった。だから、顔を見ることが出来たのは、摘草の時と田楽狭間の合戦の日だけである。
その後二十余年、いつも胸の底でむし返しむし返し思い出してはいるものの、その遠い記憶のおもかげと、茶々のおもかげとが、ぴったりと重なり合った。考えてみれば、今の茶々はその頃のおひろやお市と同じ年頃なのであった。
「これはこれは姫君方、われらが羽柴筑前であります。この上は少しもご心配にはおよびませぬ。心安らかにあられますよう。先ずお名前とお年とをうけたまわっておきましょう」
秀吉はにこにこ笑いながら、やさしく言った。茶々が代表して、一人一人の名と年とを答えた。
(十七か、十七か。いい年じゃわ。おれが四十八。三十一ちがう。柴田とお市様とは二十六ちごうたが、なに三十一と二十六とではたった五つのちがいだ。共に死んで悔《く》いないというほど柴田がお市様の心をつなぐことが出来たのじゃから、おれがこの姫君の心をつかむことも出来んことではない……)
あたたかい潮に胸がゆたかに揺れる思いであった。
とりあえず、愛宕《あたご》神社の神主の家をしつらって、三人を入れたが、そのあと、秀吉は利家を呼んで、夜明けとともに姫君を府中城に移す手筈をとらせた。夜明けとともに城の総攻撃にかかるつもりであるから、城の陥《おち》るのは夕方を待たないであろう。母の最期《さいご》の悲劇を娘らに見せたくなかったのである。
四
城内では娘らを送り出した後、勝家夫妻は酒席にかえり、家臣や女中らうちまじって、宴をつづけた。大村|由己《ゆうこ》は、これを、
「一族一家、次第に次第に酌《く》み流し(身分の順序に従って盃《さかずき》をあたえるの意であろう)たるも、乱れ会ひ、入れ違へ(次第に席が乱れてであろう)、中ごろは思ひ指し(かねて思いを寄せる人に盃をさすのだ)し、珍肴珍菓《ちんこうちんか》、山の如く前に置く。後には上臈《じようろう》の姫公《ひめぎみ》よりはじめて局々《つぼねつぼね》の女房達、老婆、尼公に至るまで、上中下を憚《はばか》らず、若き妓女《ぎじよ》に酌《しやく》を取らせ、一曲の歌、五段《ごだん》の舞、繰返し繰返し、酔を既《つく》す」
と、叙述《じよじゆつ》している。この世のなごりの今宵というので、宴が狂躁《きようそう》的になり、しかも相当みだりがわしくなったことがわかる。
深更になって、人々が退散したので、勝家夫婦は閨《ねや》に入ったが、まどろむ間もなく、ほととぎすの声が空をかすめて過ぎたので、お市は歌を詠《えい》じた。
さらぬだに打ち寝《ぬ》るほども夏の夜の 夢路を誘ふほととぎすかな
すると、勝家も詠じた。
夏の夜の夢路はかなき後《あと》の名を 雲井にあげよ山ほととぎす
総攻撃は払暁《ふつぎよう》からはじまった。城方はよく防いで、寄手《よせて》は二の丸を破り、本丸に入るまでに、正午までかかった。
のこるところは天守閣だけとなったが、これがまたなかなか頑強であった。天守閣の土台になっている石垣をよじのぼろうとすれば、弓・鉄砲をもってひしひしと射取ったり、長柄《ながえ》の槍《やり》で突きおとしたりして、どうしても攻めこむことが出来ない。いずれは亡びる身でありながら、こうまでなっての抵抗は、現代の人間には無意味なことと思われようが、この時代の武士の考えはちがう。最後の最後まで最も頑強に抵抗して、出来るだけ敵に損害をあたえるのが、最も勇者らしいふるまいとされたのである。ついに、秀吉は雑兵《ぞうひよう》共を退《ひ》かせ、武勇にたけた武士数百人を選抜し、手槍と刀だけを持たせて、損害をかえりみず天守閣に突入させた。
勝家はあらかじめ、天守の八階に乾草を積みおかせたので、それに火をかけ、はしごを引き上げて、九階に上り、お市をはじめ侍女《じじよ》十二人を一人一人引きよせて胸をさし通して殺し、腹を切り、侍臣中村|文荷斎《ぶんかさい》に介錯《かいしやく》させて死んだ。老臣らの殉《じゆん》ずる者八十余人あった。天正十一年四月二十四日、午後四時頃のことであった。
秀吉は利家とともに足羽山の本陣にいて、戦況を見ていたが、天守閣から煙が上り、やがてそれがどっと炎上するのを見た。(あの炎の中にお市様が焼け死につつある!)目まいに似た気持が襲って来た。目をつぶってこらえ、それから利家をふりかえり、微笑して、
「やあ、これでざっと済んだ。加賀《かが》へまいろう。おぬしは案内者じゃ、連れて行ってくりゃれ」
と言って、左右をかえりみて、出発を触《ふ》れ出した。
気の早い話に、利家はおどろいていた。
「柴田が死をたしかめてからにしてはいかが。さほど急ぐことはござりますまいに」
と言うと秀吉はまた笑って、
「なに確かめることがいろう。そんなことをしていては、焼跡をさがしたりなんぞ、三日、四日、五日、忽《たちま》ち立つ。一寸のびれば尺とはかようなことを言う。いらぬ馬鹿念《ばかねん》じゃ。それより加賀じゃ」
と言うと、馬をひいて来させた。
こうして、秀吉は夕焼の空を背景にしてすさまじい勢いで炎上しつつある城を左方に見ながら、利家の軍勢を先きに立て、北へ北へと北国《ほつこく》街道をたどった。
北ノ荘の北十一、二キロに丸岡城がある。勝家の養子で勝豊――長浜|城代《じようだい》に任ぜられ、秀吉に降ったあの勝豊だ、つい数日前京都で病死した――が、この付近を勝家にもらった時、築いて居城としたのである。勝豊が長浜城代となって江州に行ったあとは、勝豊の家来らが留守していたが、勝豊が秀吉に帰服すると、勝家に没収され、勝家の家来が守っていた。しかし、賤《しず》が嶽《たけ》の合戦があり、勝家が北ノ荘に逃げ帰ると、留守居《るすい》の武士らは逃げ散り、今では空城《あきじろ》になっていた。
秀吉は日暮方《ひぐれがた》ここにつき、城をおさめ、一泊して、翌日はさらに北に向った。
翌日は加賀に入った。加賀では小松が柴田方であった徳山五兵衛の居城だ。徳山は途中まで使者を出して、降伏を申しこんだ。
金沢は、当時尾山といわれていた地に城があり、佐久間|玄蕃《げんば》の居城になっていたのだ。
尾山は、本来は御山と書くのが正しい。一体、加賀は一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》が鎌倉時代初期以来の領主である富樫《とがし》氏を追い出して、加賀一国を本願寺領として、宗教王国であること八十余年におよんだ土地だが、その当時ここに本願寺の加賀別院があって、この国における信教の中心であると共に政治の中心でもあり、加賀門徒らは御山と呼んでいた。本願寺時代が去ると、後の領主は御山の名をきらって、尾山の字をあてたのである。大体、現在の金沢城のあるあたりである。
尾山城には佐久間の家来が留守していたが、これが秀吉に使いを立て、
「主人玄蕃は合戦場よりいずくへともなく落ち行きましたとのことでござれば、当城は子細《しさい》なく明け渡し申すでございましょう」
と言いよこした。
この城を受取るうちに、能登《のと》の長《ちよう》九郎左衛門が自ら尾山へ出頭して、降伏した。
「生死ともにお心にまかせ申す」
と、最も神妙なことばであった。
秀吉は助命し、本領安堵《ほんりようあんど》を言いわたし、利家に臣属《しんぞく》することを命じた。また利家には、能登一国と加賀|半国《はんごく》をあてがうことにした。
秀吉は能登に入り、越中境《えつちゆうざかい》の末森《すえもり》に城を取立てるよう利家に命じた後、七尾まで行き、そのまま引きかえしにかかった。
能登と加賀の隣国越中には、最も骨太い柴田方である佐々内蔵助成政《さつさくらのすけなりまさ》がいる。佐々は昔から秀吉がきらいだ。たとえ柴田という人物がいないでも、秀吉とは敵対の地に立たずにいられない人物だ。山崎合戦における秀吉の成功も、こんどの勝利も、歯ぎしりせずにはいられないことであった。
「おれがいたら、おれがいたら」
と、人々の不甲斐《ふがい》なさを痛憤していたのだ。それだけに、能登に秀吉が来ていると聞くと、ふるい立った。
「おれをこのままにしてはおけぬはず。きっと当国にも来る。来てみろ、来てみろ。来たら……」
地の利を利用して秀吉を痛破し、一挙にその名望をたたきおとし、勝家の仇《かたき》を討ってやると、手ぐすね引いて待ちかまえた。
しかし、秀吉は至るところにわなを張りまわされているようなところへのさのさと入って行くような冒険はしない。佐々《さつさ》ごときと戦って、大敗はせずとも、少しでも負けたら、天下に何と伝わるかわかったものではない。今の秀吉のように、ごく短い期間に急坂を駆け登るように異常な成功をした人間には、天下中の人が驚嘆の情とともに嫉《ねた》み心を抱いている。針ほどの失敗も、
「それ見たことか!」
と、棒ほどに取沙汰《とりざた》するものだ。
そんな引き合わん冒険などすることはない。第一、佐々は捨ておいても、細るばかりの男だ。東には彼にたいして不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゆうてき》の憎悪を抱いている上杉|景勝《かげかつ》がおり、西には利家がひかえている。動きのとれるものではない。ほっておけば、次第に弱って来るにきまっているのだ。
引きかえすことにした。利家はここまで来て、佐々をそのままにおくことはないと主張した。すると、秀吉は笑って、
「故|右府《うふ》様は長篠《ながしの》で武田四郎にたいしてあれほどに大勝ちなされたが、そのまま兵をかえしなされたの。わしはあの真似《まね》をしている。右府様が七年の間武田家を捨ておかれた間に、武田家はがたがたになってしまい、いよいよ甲州にお馬を進められた時は、ぼろ着物を引き裂くよりももろかったという。あとはよろしゅう頼むわ。境目《さかいめ》をかたく守り、佐々が出られぬようにされよ」
と言ったが、越後の上杉景勝にたいしては工作を忘れなかった。使者をつかわして、前の条約をさらにかためることを要求したところ、景勝は承諾して、答使をつかわして、秀吉の戦勝の祝いを言い、約束をかためた。
五月一日には、もう北ノ荘まで帰って来て、越前全体を丹羽《にわ》長秀にあたえることにし、加賀西部を溝口秀勝と村上義明にあたえ、二人とも丹羽の寄騎《よりき》とした。
三七信孝が自殺したのは、この翌日であった。秀吉が敗走する勝家を追って越前に入った直後、稲葉一鉄らが岐阜城におし寄せて来た。岐阜城内は、一筋に頼みにしていた勝家が惨敗して北走したと聞いて、諸人皆闘志を失った。降伏したり、逃亡したりする者が多く、とうとう、のこったのは、逃げるに逃げられない近臣だけ二十七人となった。これではどうすることも出来ない。うろうろしていると、清洲《きよす》から信雄《のぶかつ》が兵をひきいてやって来て、城をかこんだ。信雄は使いをつかわして、
「尾張《おわり》の内海《うつみ》に行っていなされよ。筑前にはわしがとりなして進ぜよう」
と言わせた。
信孝は二十七人を従えて舟で長良《ながら》川を下り、木曾川から海に出て、知多《ちた》半島の内海に行ったが、五月二日に信雄は家老の中川勘右衛門をつかわして、自害をすすめた。
信孝は腹を立てたが、どうしようもない。自ら刀のねた刃を合わせて、腹を切った。内海は平治の昔、源義朝が平治の乱に破れて東国へ走る途中、馬を乞《こ》うために累代《るいだい》の家人|長田忠致《おさだただむね》をたずねて、忠致父子にだまし討《う》ちにあった野間と近接したところなので、信孝は死にあたって、こう辞世した。
昔より主《しゆう》をうつみの浦なれば 報《むく》いを待てや羽柴筑前
滝川|一益《かずます》は、その支城《えだじろ》は信雄の兵や蒲生氏郷《がもううじさと》の兵に次ぎ次ぎに攻め落され、本城の長島もまた包囲されていたが、ついに開城降伏した。秀吉は一益に使者をつかわした。
「こんどのことは残念に思われるでござろうが、勝敗は武士の習い、ぜひもなきことでござる。されば、越前大野にて、茶の湯料として、知行《ちぎよう》五千石をあてがい申すにより、茶の湯して、生涯を心静かに暮し召されよ。金銀などご入用のことあらば、いかほどにてもうけたまわり申そう」
というのが、その口上《こうじよう》であった。
秀吉は、西は毛利《もうり》氏にも戦勝のことを通報し、東は徳川家康へも通告した。家康は老臣石川数正を使者としてつかわして祝辞をのべ、毛利氏は吉川《きつかわ》広家と毛利|秀包《ひでかね》とを人質として送った。
お茶々
一
秀吉が北陸から帰って来たのは、五月五日であった。先ず長浜城に入り、翌々七日に安土《あづち》に移り、三法師丸のご機嫌をうかがいつつ数日滞在し、十一日に湖水をわたって坂本に移った。
この翌日、佐久間|玄蕃《げんば》を処刑した。
佐久間の処刑には、かなりにおもしろい話がある。
秀吉は佐久間にたいして、大へん好意的であった。
彼は佐久間が越前府中の近郊で捕えられて、北ノ荘の彼の陣所にひいて来られた時、佐久間を捕えた百姓、手を貸したという百姓、全部で十二人を召取《めしと》って、
「合戦《かつせん》の習い、誰にも勝ち負けはある。明日が日にわしが負けにまわることがないともかぎらぬ。この者共は、百姓に似《に》げなきことをした。見せしめのため、褒美《ほうび》にははりつけにかけてくれよう。明智も百姓共の手にかかったが、あれは主殺《しゆごろ》しの大逆罪人であれば、これとは違う」
と言って、はりつけにかけて殺したと、『川角《かわすみ》太閤記』にある。
また、かかりの者をえらんで佐久間をあずけ、言いふくめて鄭重《ていちよう》にいたわらせた。さらに自分が北ノ荘から加賀に向って進発する際には、そのかかりの者を呼び出して、
「玄蕃《げんば》は京に連れて上れ。くれぐれも申しておくが、かりそめにも疎略《そりやく》にあつかってはならぬ。縄を解き、身をゆるゆるとさせ、ずいぶんいたわりながら上れよ。京では、宇治《うぢ》の槙島《まきのしま》におけよ」
と言いつけたのである。
秀吉は佐久間を家来にしたかったのだ。彼に譜代《ふだい》の臣のないのは言うまでもない。また、信長の猜疑《さいぎ》心を挑発することを恐れたので、これまでは人を召しかかえるにも、大物《おおもの》は避けた。だから、彼には信頼するに足る家来も、力になる勇士も少なかったのだ。
しかし、ここでもし玄蕃を口説《くど》きおとして、家臣とすることが出来れば、玄蕃としては殺さるべきいのちを助けられたばかりか、高禄をもって待遇されるのだから、必ずや恩義に感ずること深く、忠誠の臣になるはずだと計算したのだ。
だから、北陸から帰って来て、安土にいる時、蜂須賀彦右衛門を呼んで、旨《むね》をふくめて、槙島につかわした。
「修理亮《しゆりのすけ》殿はもう亡《な》い人でござる。いつまでも慕うていなされたとて、せん方はござらぬ。筑前守を修理亮殿と思うて、奉公なさる気はござらぬか。筑前申すには、やがて間もなく闕国《けつこく》(領主なき国)が出てまいろう故、大国をあてがい申すと」
と、彦右衛門は熱心に説いたが、玄蕃はきかない。
「筑前守殿の芳情《ほうじよう》、ありがたくは存ずれど、われらが主親《しゆおや》として仰ぎつかえるべきは、勝家のほかにはござらぬ。たとえ天下を下されようとも、余人につかえるはいやでござる」
と、最もはっきりしたことばで言い、さらに言った。
「かくまで思い切ったわれらが、腹を切らず、なぜおめおめと長らえているかと、お疑いでござろうが、それは今この身となって、腹など切っては、佐久間玄蕃ともある男も、この上の憂《う》き目に逢うことをかなしんで、自害したと言われるかも知れぬ、そうあっては屍《かばね》の上の恥と存じて、こうして生きているのでござる」
とうてい説得出来ないと見きわめがついたので、彦右衛門は辞去して、秀吉に報告した。
秀吉は感動した。益々惜しいと思ったが、あきらめた。
「あっぱれ玄蕃じゃ。勇士に似合うたことを申す。さらば、腹を切らせよ」
切腹を命ずる旨《むね》が玄蕃に伝えられると、玄蕃は拒否した。
「今ここで死んでは、世に明らかでござらぬ。われらが賤《しず》が嶽《たけ》に敗れ、越前にて囚《とら》われの身となったことは、世間の人の皆知っていることでござる。世間の人皆にわれらが死を知らせたくござる。願わくは縄をかけて車にのせ、一条の辻《つじ》から下京《しもぎよう》まで引いて下り、京中の者にのこらず見物させてから、仕置《しおき》下さらば、一段とかたじけなくござる」
恐らく、武士の意地だ。玄蕃の本心はこの通りではなく、徹底的に秀吉の好意をはねつけるにあったのではないかと、ぼくには思われるのだが、どうであろう。しかし、相手が秀吉だ、そうはさせない。
「よしよし。望みにまかせよう。されば晴れの衣裳《いしよう》をつかわそうわい」
と言って、小袖《こそで》を二重《ふたかさ》ね持って行かせた。
玄蕃は見て、
「かたじけなくござる。さりながら、この衣《きぬ》は紋も仕立てようも気に入り申さぬ。同じく賜《たま》わるなら、上着は紋を大紋にして、紅《べに》の物の広袖の、裏を紅絹《もみ》にしたるを、下着は紅梅の小袖を、賜わりたくござる。晴れの場でござる。物の具さわやかによろい、大差物《おおさしもの》さして戦場にのぞむがごとき姿にて、死にたくござる。今賜うたこの小袖共では、鉄砲|足軽《あしがる》などのいでたちのようで、人目に立たぬと存ずる」
これを報告されて、秀吉はいともきげんよく笑った。
「最期《さいご》のきわまで武へんの心掛を忘れぬところ、さすが佐久間玄蕃、あっぱれじゃ。よしよし、望みのものをつかわそう」
と、望んだような着物、しかも上着の大紋には金ぱくまでおいたのをつかわした。玄蕃は両手に受け、高々とおしいただいて、着用し、車に乗ったが、乗る時、
「縄をかけよ。われらが越前で在郷《ざいごう》の百姓ばらに捕えられて縄をかけられたのは、天下にかくれないことじゃ。今日縄をかけられいで人の前に出たなら、わび言して縄をゆるしてもろうたと思われよう。必ずかけよ」
と言い張って、縄をかけさせた後、望みのごとく京都の町を引きまわされ、夜に入って槙島にかえされた。
槙島につくと、かかりの役人は野に敷皮をしいてすわらせ、扇子をひろげて脇差《わきざし》をのせ、
「これにてお腹を召されよ」
とさし出した。玄蕃は笑って首をふった。
「腹を切るなどということは、普通の場合のこと。腹を切ってよいならば、今日のようなことはせぬ。縛《しば》り首にせよ」
と言って、縛られたまま首をさしのべて斬《き》られた。年三十。
二
秀吉はしばらく坂本城に滞在しながら、さまざまなことを片づけた。京の所司代《しよしだい》に前田|玄以《げんい》を任じたのもここでのことであった。豊後《ぶんご》の大友|宗麟《そうりん》がはるかに使者をはせて、戦勝を祝し、よしみを通じて来たのも、ここにいる間のことであった。
秀吉は大友氏が九州の昔からの名族で、なかなかの身代《しんだい》の家であることは知っていたが、くわしいことは知らなかった。使者が来てから、咄衆《はなししゆう》の大村|由己《ゆうこ》が、
「大友家は頼朝公のご命令で、豊後《ぶんご》・豊前《ぶぜん》の守護職《しゆごしよく》と鎮西奉行《ちんぜいぶぎよう》とに補せられたほどの家がらでございます。またその血統は頼朝公のご落胤《らくいん》から出たと申すことで、血統と申し、家格と申し、身代と申し、鎮西一の家でございます」
と、教えてくれた。
「なるほど、なるほど」
うなずきながらも、自分の武名が九州のような遠国《えんごく》にまで響き、それほどの名家がこうして懇親《こんしん》の使いを送ってよこすのかと思えば、今さらのように深い感慨があった。いつの間にか竜になっていながら自分では気がつかないでいた蛇が、他から「竜王様」と拝《おが》まれるのは、こんな気持かも知れないと思ったりした。
世に出て頭角をぬきんでて、その成功を長く保ち得るほどの人は、皆気合を見るに敏《びん》で、気合に乗ずることの巧みな人だ。つまりすぐれた勝負師だ。宗教や、芸術や、学問の世界はそう簡単には割り切れないが、それでもそれがないわけではない。まして、政治、軍事、経済等の世界にたける成功には、最も大きな比重がここにあると言っても過言でない。秀吉は気合を見るに最も鋭い勘があり、これに乗ずるに最も敏捷《びんしよう》な行動力があった。宗麟の使者を最も華麗豊富な環境で、鄭重《ていちよう》にもてなし、うんとものをくれて、度胆《どぎも》をぬいた上で、手紙を持たせてかえした。
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はやばやと慶祝のお使いをたまわり、ありがたく存ずる。筑前、天の助けを得て、敵対の者を瞬息《しゆんそく》の間に退治し、故信長の分国《ぶんこく》内ことごとく筑前が差図《さしず》を仰ぐことになったので、すでに関東の北条《ほうじよう》氏直、北陸の上杉景勝らは、筑前に帰服を申しこんで来た。東西|静謐《せいひつ》に属すべきは、ほどなきことと存ずる。貴家はすでに信長のおん時、帰服を申しこんで来ておられるが、あの時のまま、いよいよご昵懇《じつこん》をつづけられるべきである。恐惶謹言《きようこうきんげん》
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という文面であった。高飛車《たかびしや》に出るが効果ある場合には高飛車に、下手《したで》に出るが効果ある場合には下手に、その気合を見て誤《あやま》らないのは、秀吉の特技の一つであった。
この翌々日、五月二十一日、徳川家康から祝賀の使者が来た。家康の家老の一人石川|伯耆守《ほうきのかみ》数正であった。秀吉が現在最もはばかっているのは家康であった。柴田勝家も強敵であったけれども、家康にくらべてはものの数でない。第一、柴田は織田の家中だ。先輩ではあっても朋輩《ほうばい》にすぎないが、家康は信長の弟分にあたる同盟者だ。その力量もなかなかのものだ。何よりも家臣らが見事だ。
これまで秀吉は徳川武士らの合戦《かつせん》ぶりを四度見ている。最初は足利《あしかが》義昭を奉じての上洛《じようらく》の際だ。箕作《みつくり》城攻めに参加した徳川勢の強さは目をおどろかすものがあった。あの時、三河《みかわ》では一向一揆《いつこういつき》がおこっていて家康が手をはなせないので、一族の松平|信一《のぶかず》が大将になって来たのだが、兵らは絶倫《ぜつりん》の勇敢さであった。彼らが損害をかえりみず、搦手《からめて》から猛烈に攻撃し、執拗《しつよう》に食いついて、敵を狼狽《ろうばい》させたので、織田勢は乗り入ることが出来たのだ。
二度目は最初の越前|征伐《せいばつ》の時であった。この時は家康自ら手伝いに来た。この征伐は不幸にして浅井家の裏切りによってみじめな退却をしなければならなかったが、その時までに示した徳川勢の強さは前回以上であった。家康の軍配もまた見事であった。
三度目は姉川合戦《あねがわのかつせん》だ。この合戦の勝利は、徳川勢によって得られたようなものであった。織田勢は浅井勢に諸陣を撃破され、今や信長の本陣まで森|可成《よしなり》の隊一重がのこる有様であった。その危機を脱して、勝機をつかむことが出来たのは、徳川勢が朝倉勢を圧迫し、さらに進んで浅井勢の背後を取り切るしぐさを見せ、浅井勢を動揺させたところにあった。家康の軍配もたくみなものであったが、その兵の強くて、ねばりがあって、しかも忠誠心の旺盛《おうせい》なことは、目をみはらずにいられないものがあった。とうてい、尾州兵などのおよぶところではないと思われた。美濃《みの》の兵は尾州兵とくらべればずいぶん強いが、これとて三河兵とくらべればお月様とスッポンほど違った。
(こんな兵をひきいて戦いたい)
と、しみじみ思ったことであった。
四度目は、長篠合戦《ながしののかつせん》だ。この合戦の勝利は八、九分まで信長の戦術の卓抜《たくばつ》さによるので、諸隊の功績は言うに足りないが、それでも徳川勢の勇猛さは驚嘆すべきものがあった。諸隊大方は三重に結《ゆ》った柵《さく》の内側にいて、鉄砲で戦ったのに、徳川勢は、
「この合戦は、徳川は亭主、織田殿はお客人なり。亭主がお客人と同じほどなる戦さぶりすべきにあらず」
と言って、柵外に出て、あの猛烈果敢な武田勢を相手に一歩もひかずもみ合ったのだ。諸人いずれも見事であったが、中にも金の揚羽《あげは》の蝶《ちよう》の指物《さしもの》と浅黄の石餅《こくもち》の指物とをさした二人の武者の働きは人目をおどろかせた。今でも、ひしめく乱軍の中にこの二つの指物が、それぞれの人数をひきいておちつき払って進退する様子が目に見えるようである。
あとで聞けば、金の揚羽の蝶は大久保七郎右衛門、浅黄の石餅はその弟の大久保治右衛門であったという。また、信長が遠く本陣からこれを見て、
「あの二つ、敵かと見れば味方、味方かと見れば敵のようでもある。徳川が陣へ参ってたずねてまいれ」
と、使番を走らせると、家康は、
「いやいや、敵にはあらず、われらが家の譜代《ふだい》久しきもの、金の揚羽の蝶は大久保七郎右衛門と申して石餅が兄、浅黄の石餅は大久保治右衛門とて揚羽の蝶が弟でござる」
と答えた。使番からこの復命を聞いて、信長が、
「さてもさても、家康はよき者を持たれた。われはかれらほどの者をば持たぬぞ。この者共はよき膏薬《こうやく》のようなやつじゃ、敵にべったりとついて離れぬわ」
と言ったということを、戦《いく》さがすんでから聞いた。
大将たる家康も、重厚で、ねばり強くて、戦さ上手《じようず》で、知略もまたすぐれて、なかなかの人物だ。幼い時から大名の子としてはめずらしい難儀をして育っただけに、見かけによらないはしッこさがあって、田楽狭間の合戦直後は、わずかに岡崎一城の主であったのに、その後|遠江《とおとうみ》を取り、駿河《するが》を取り、本能寺のさわぎ以後は甲州をとり、信州もあらかた自分のものにしてしまったというのだ。
しかし、そんなことはそう恐ろしくはない。知恵はおれの方があると思う。度胸だってそうだ。家康にはおれほどの出足の速さや、快刀乱麻を断つような気働きはあるまい。恐ろしいのは、家康の譜代のあの家来共だ。ものすごく強い上に、主人のためにはいつでも死ねる忠義心を持っている。その上、この頃では旧武田の家来共をほとんど全部召し抱えたという。
(おそろしい男が、いよいよおそろしいものになったのだ)
と思っているのであった。
秀吉は石川数正の徳川家における位置、また家康がどんなに信頼しているかを知っている。田楽狭間の合戦の翌年、家康が信長と同盟を結んだことが今川家に知れると、今川家では腹を立てた。これはうまく言いくるめたが、その翌年今川家の近い一族である鵜殿長持《うどのながもち》の城を攻め、長持を討取ると、今川家では激怒して、岡崎には、当時まだ駿府《すんぷ》にとめられていた家康の長男竹千代(信康)と夫人関口氏を殺そうとしていると伝わって、家中皆どよめきさわいだ。
その時、石川は慨然《がいぜん》として、
「若君が駿府で殺され給うというに、追腹《おいばら》切る者が一人もいぬとあっては、お家の恥じゃ。よしよし、おれがお供しよう」
と決心して、書置をのこして駿府に行き、竹千代につき添った。いざといわば、竹千代と共に死ぬ決心をかたくしていたのだ。
幸いにして、その後、徳川家と今川家との間に、徳川家で捕えている鵜殿藤太郎・藤三郎を今川家に返すかわりに、竹千代と家康の夫人とを徳川家に返すという話がまとまって、石川は竹千代の供をして岡崎へ帰って来た。その時、石川は数え年三つの竹千代を自分の鞍《くら》の前輪にのせ、大ひげ食いそらして、悠々と馬を打たせて帰って来たというのだ。
人の気を攬《と》るに、秀吉には独特の法がある。石川が口上《こうじよう》をのべる前に、大きな明るい声で語りかけた。
「やあ、やあ、よくまいってくれたの。かたじけない、かたじけない。いずれ様からの祝いも皆うれしいが、徳川殿からの祝いは別してうれしいわ。信長公の弟君ともいうべきお人からじゃからの。まかり帰ったらば、心からありがたがり、うれしがっていたと、申し上げてくれよ。徳川殿には益々武勇めでたくおわす由、風のたよりに聞いて、よろこんでいるぞ」
石川はあっけにとられながらも、やっと立ち直って、使者としての口上をのべた。
秀吉はしきりにうなずいて、
「うむ、うむ、うむ、うむ。心から礼を申していたというてくれい」
と言って、ふと相手の顔を凝視して、にこりと笑って、言った。
「そのひげじゃな」
「え?」
「信康殿お三つの時、そなたが死を決して駿河《するが》に乗りこみ、信康殿を助けまいらせ、前に抱いて馬に乗り、岡崎へ帰って来た、大ひげ食いそらしての男ぶり、なかなかに見事であったと、その頃尾州あたりでも一つ物語にしたものじゃが、そのひげか。ああ、白いものがたんとまじったの」
太く長い半白の口ひげをぴんと左右にはね上げた石川の顔には、感動の色があらわれた。
秀吉は追い鉄砲を撃った。姉川合戦の時の石川の武者ぶり、長篠合戦の時の働きを覚えていたので、口をきわめてほめた。石川の感動はきわまり、泣かんばかりの表情となった。
三
官位が従四位下参議に昇進したのも、この頃のことであった。去年の清洲《きよす》会議の後、朝廷から従四位下|右近衛《うこんのえ》中将に叙任《じよにん》したいというご内沙汰《うちざた》があった時は、故|朋輩《ほうばい》の思わくを考えて辞退し、二階級下の正五位下左近衛少将に叙任してもらったのだが、今はもう誰にも遠慮することはいらない。むしろ官位の高い方が天下を統一するに都合がよい。よろこんで拝受したのであった。
とんとん拍子にことが成功する時、人間の希望は際限もなくひろがるものだ。ふみしめ昇って行く階段は雲をしのいで天につらなるように思われるのだ。二十五年前信長にはじめてつかえた頃は、どうにかして一人前の士《さむらい》になりたいと思い、士になってからは士《さむらい》大将にならなければ殿様に思う存分に意見を申し上げられぬと思った。おひろ様やお市様に胸を焦《こ》がして、どうにかして五、六万石の大名になって求婚の資格を得たいと思ったのもその頃のことであった。とうとう士大将にもなれないうちに、ご姉妹《きようだい》とも他へ縁づいてしまわれた。お市様が浅井家へ縁づかれて数年の後、士大将になり、また数年の後、大名にもなれた。そしてまた数年の後、織田家では指折りの大身《たいしん》となって、播州《ばんしゆう》一国と江州《ごうしゆう》長浜とを所領することになったが、
(大体このへんが限度であろう。上様《うえさま》はほんとは気前のよい方ではない。あとは加増《かぞう》をもらってもせいぜい二国くらいの大名になるだけのこと。それもよほど精出して奉公して手がらを立てる一方、身をつつしまねば、一ぺんに身の破滅になりかねない。上様は怠けものと働きのなくなった者が大のおきらいだ。お役に立たぬものは、容赦《ようしや》なく殺してしまいなさる恐ろしいお人だ)
と判断して、最後の領国は日本国内ではなく、大明国《だいみんこく》にしていただきたいと信長に言ったばかりかお次丸(秀勝)をもらって養子とし、あと嗣《つ》ぎにすると言いふらしまでした。あれもこれも保身のためを考えてのことであった。
こんな風に、出世の限度に達したばかりか、悪くすると、苦心さんたん、血のにじむ努力を二十数年つづけて、やっとよじのぼって来た位置から、真ッさかさまに顛落《てんらく》するかも知れんと、時々はぞっとするほど恐ろしくなることさえあったが、夢にも思わなかったなり行きとなり、以後はすべてトントン拍子の幸運つづきで、上様の志《こころざし》をついで天下の統一を目ざす身となったのだ。
こう思うと、人には言われないことだが、明智のお蔭《かげ》と、ありがたくさえなって来る。
この坂本城は明智が築いて、丹波《たんば》の亀山城とともに、彼の持城《もちじろ》であった。
(明智め、澄ましやで、気ぶせいやつではあったが、知恵もあり、戦《いく》さも上手であったな。やつほどの知恵者が、あないなことしようとはなあ。上様は、人を人とも思わんで、やたら人を嘲弄《ちようろう》したり、いじめたりせんではおられんお人やった。一々気にしていてはたまるものでない。心に積み重なっては、がまん出来はせん。ぽいぽい、ぽいぽいと、片ッぱしから忘れて行くにかぎるのやが、明智にはそれが出来なんだのやな。澄ましやの体裁屋《ていさいや》で、なんでもしかつめらしく、眉《まゆ》をひそめてじっくり考えこむやつやったさけな。……しかし、知恵者だけに、こんなことをつづけて行くうちに、いずれは殺されてしまう身となると、見きわめたのかも知れんな。こわいから噛《か》みついたというわけか……)
時々、こんな感慨にふけりながら、城内を歩きまわった。いただきを雲のかすめる比叡山《ひえいざん》を仰ぎ、湖水を行く船の帆をのぞんだ。もうすっかり盛夏であった。
佐々成政《さつさなりまさ》が、前田利家を頼んで降伏を申しこんで来たのも、この頃のことであった。
「ああ、よいとも、よいとも。故|朋輩《ほうばい》のことじゃ。ことに、佐々は賤《しず》が嶽《たけ》に出てもおらん。本領安堵《ほんりようあんど》する。安心するよう申してくれるよう」
と、秀吉は利家の使いとして来た村井又兵衛に言った。
ゆくりなくも、利家と佐々とが若い頃からあまりなかがよくなかったことを思い出した。田楽狭間《でんがくはざま》の戦争の前年、利家が彼の金竜の笄《こうがい》を盗んだ同朋《どうぼう》十阿弥《とあみ》を斬って信長に勘当《かんどう》されたのも、佐々が悪意あるうわさを流したのが原因であったことも思い出した。
(十阿弥め、自分で盗みながら、おれに罪を着せようとしたのであった……)
と、その時の自分のみじめな気持が思い出され、あの頃は自分はまだ小者《こもの》にすぎなかったと思うと、自分の身がいとおしかった。
それはそれとして、あれ以来、利家と佐々とはさらにうまが合わなくなって今日に至っているのだが、その利家にとりなしを頼まなければならなかったとは、よほどに窮《きゆう》したからだ、どんな気持であろうと思った。
(あれが気性だ。口惜《くちお》しくて口惜しくてならなんだに相違ない)
と思った時、これはこのままで済むべきことではないと悟った。
ちょっとさぐりを入れてみることにする。
「内蔵助《くらのすけ》(佐々《さつさ》)は又左《またざ》と若い時から、いつも張り合って、あまりよいなかではなかったが、よほどにこんどは参ったらしいの」
と言った。
又兵衛はにこにこと笑った。
「さればにございます。主人が聞きとどけてくれるかどうか、心配であったのでございましょう、もしお取りなし下されて、本領安堵《ほんりようあんど》いたした節は、われら女の子ばかりで、男の子を一人も持たねば、又左殿のご次男孫四郎(利政)殿を聟《むこ》にとりたし。やがては養子としてあと目をゆずりたく存ずる≠ニ、かように申してまいったのでございます」
「ほう、ほう」
「主人はよくご承知のような性質でございますので、さようなことを仰せられては、欲にからんで取りなすようで、われらもいたしかねる、その儀ならば、おことわり申す。その儀なくば、ずいぶん取りなしても進ぜようと、かように返答いたしたのでござります」
「ふむ、ふむ。又左らしいわ」
「それで、改めて、ただ一筋におとりなしたまわれと、こう頼んでまいりました。おしいこと、越中一国損してしまいました」
と言って、又兵衛は呵々《かか》と笑った。
秀吉もまた笑って、
「大丈夫、大丈夫。やがて内蔵助からまた話をむし返して来るぞ」
「そうでございましょうか」
「そうとも。わしの見る目だ、狂いはないぞ」
と言いながら、佐々が心から降伏したものでないことは、はっきりしたと思った。
「それはありがたいことでござります」
「わしとしては、又左と佐々がなかよく打ちとけてくれることは、最も望むところではあるが、いくら仲よくしても、境目《さかいめ》をきちんとしておいてもらいたい、あとでごたごたがおこってはこまるからの」
もっとはっきりと言いたかった、決して油断するなと。しかし、これだけにとどめた。篤実《とくじつ》で正直な性質ではあるが、用心深くもある又左だ。これだけ言っておけば、わかるはずと思ったからであった。
四
大坂城をわが居城として、修築にかかったのもこの頃であった。
大坂城が信長の手に帰したのは、三年前の天正八年のことであった。信長は永禄十一年に足利《あしかが》義昭を奉じて京都に上って来た時、摂津《せつつ》・河内《かわち》地方まで足をのばして、三好《みよし》党を駆逐《くちく》したが、その時はじめて、一向宗《いつこうしゆう》本山であり、堅固《けんご》な大城郭である、この城を見たのだ。
その時は単に堅固《けんご》な城とだけ見た。宗派の本山が武家大名の居城よりも堅固壮大な構えを持つはいらぬこと、こんな堅固な城を持っていればこそ、ややもすれば門徒《もんと》をあおりたて領主に反抗させるのだ、どうしてもたたきつぶして城を取上げる必要があるとは思ったが、自分の居城にしようとは思わなかった。持城《もちじろ》の一つにしたいくらいの気持にすぎなかったのだが、その後二、三年の間に、考えがかわって来た。
それは彼の天下人《てんかびと》の居城なるものの考えがかわって来たからである。彼は天下人の居城は天下の交通の要衝にあって、天下の財宝の集まるところでなければならないと考えるようになったのだ。そうなると、大坂以外に天下人の城をかまえるべき地はないのであった。大坂をほしいと思う心は痛切なものとなった。
だが、本願寺は頑強で、説得にも応ぜず、武力攻撃にも屈しない。三好、朝倉、武田、毛利等の反織田勢力と結托《けつたく》しては、執拗《しつよう》に抵抗をつづけた。
次第に天下人たるの実を備えて来つつある信長には、岐阜城では現実に不便になって来た。東山道《とうさんどう》にあたって、木曾川、長良《ながら》川等の舟行《しゆうこう》の便があるというくらいでは、城下の発展は知れたものである。やはり、せいぜい尾《び》・濃《のう》両国の中心にしかなれるところではない。
そこで、安土《あづち》に築城して、居城をうつした。安土は東海道、東山道の接点草津に近い上に、当時|近江《おうみ》商人らの淵叢《えんそう》をなしていた蒲生《がもう》郡日野を通じて伊勢に連絡する便宜《べんぎ》があり、何よりも上古《じようこ》以来の日本の大経済道路である琵琶湖《びわこ》に面している。これによって、東は東海道、南は伊勢、志摩、北は蝦夷《えぞ》松前から、羽後《うご》、羽前、北陸道、西は山陰道に至るまでの物資が集まって、一大経済都市となるべきはずと、計算したのであった。
このようにして、安土城は日本の築城史上最高度に達した当時の築城技術の粋《すい》をつくし、財宝を費やすこと山のごとくにして、築き出された。また、城下町の形成には一入《ひとしお》力がそそがれた。ここに住む者は免税、諸役一切免除、諸座(この時代には同業者の組合があり、それを座といい、これに加入しない者は営業を許されなかった)の制約なしとするとか、旅人は必ずここに泊まるべきこととかの特典をあたえて、繁栄をはかったのだ。
魔法のようであった。かくて、湖畔《こはん》の平凡な山と湿地であった安土は、忽《たちま》ちの間に最も壮麗堅固な城を中心とする最も殷盛《いんせい》な都市となったのだ。
けれども、信長は満足出来ない。西に瀬戸内海という太古以来の日本の経済大路線をひかえ、淀《よど》川によって京都と連絡している大坂の地理的優越にくらべれば、なんといっても安土はおとる。せいぜいのところ、安土は近畿《きんき》とその周辺数か国の主の城下町だ。日本全体をおさめる天下人の城下町としては、大坂以上のところはないと思われるのだ。
言うまでもなく、現在の大坂は、本願寺を中心にして少しばかりの門前町《もんぜんまち》があるだけだが、城下町などは安土をつくったようにしてつくれば、わけなく出来るのだ。
大坂をほしいと思う信長の心には火がついたが、本願寺の抵抗は益々頑強になる。信長は本願寺と気脈を通じてこれを声援、実援《じつえん》していたその周辺の勢力、たとえば丹波《たんば》の波多野、たとえば摂津の荒木、たとえば播磨《はりま》の別所等をつぎつぎにつぶし、はるかに水軍をもって援助していた毛利の水軍を木《こ》ッ端微塵《ぱみじん》に打ちくだいて、本願寺を孤立無力の感におとしいれておいて、朝廷に頼んで説諭してもらい、ついに自分のものにすることが出来た。はじめて石山城を見てから十二年目、本願寺との戦いをはじめてから十一年目、安土城が出来てから四年目である。
彼は中国戦線がもう少しはかどり、四国が手に入ったら、石山城を修築して安土以上の壮大な居城とし、安土以上に殷賑《いんしん》な城下町を営む計画でいたはずであるが、ここを手に入れた翌々年、中国親征、四国|征伐《せいばつ》にとりかかったところで、死んでしまった。
秀吉は政治にも、軍事にも、信長の方法の真髄《しんずい》をよく体得している。これからの居城と城下町とがどうあるべきものであるかは、よくのみこんでいる。のみこんでおればこそ、浅井氏滅亡の後、浅井氏の所領をもらった時、せっかく小谷《おだに》という近国に名のひびいた堅城《けんじよう》があるのに、これを廃城として、新しく湖畔《こはん》の長浜に築城して居城としたのだ。
こんな秀吉だから、信長が大坂に居城を営むつもりでいることは、もちろん推察している。信長はこれを心中の秘として誰にも語らないうちに死んだのだが、それでも秀吉は知っている。今や、信長の事業の後継者として、天下人として歩きはじめたのだ。大坂に居城をかまえる気になったのは、当然のことであった。
この頃、大坂は池田信輝の居城になっていた。池田信輝は尾州生まれ、その母が信長の乳母《うば》となったので、信長の乳《ち》兄弟として育った人であるが、元来池田氏は摂津|士《ざむらい》である。この国の豊能《とよの》郡に池田というところがあるが、ここが池田氏の本貫《ほんかん》だ。この池田氏の一族である恒利《つねとし》という者が、故あって尾張に移住したが、これが信輝の父であるというのが、寛政重修諸家|譜《ふ》の記述だ。
信長の威が摂津におよび、この地がその分国《ぶんこく》となった時、信長は、
「勝三郎(信輝)が家は代々の摂津ざむらいじゃげな。この国に所領をつけよう」
と言って、摂津の国内方々を知行地《ちぎようち》にあてがった。
信長が横死《おうし》して、秀吉によって弔合戦《とむらいがつせん》が行われた時、信輝は四千の兵をひきいて参加した。この兵数は丹羽《にわ》長秀勢より千人多く、三七信孝のひきいて来た兵数と同数である。大へんな力になった。武功もまた卓抜であった。明智軍の抵抗が頑強で、味方の諸軍が進みかね、勝敗の決が定まらなかった時、池田勢が淀川べりの蘆荻《ろてき》の中を潜行して、横撃したのが、勝機となったのだ。
秀吉としては大いに報《むく》いないわけに行かない。大坂城をその居城としてあたえたのは、そのためであった。もっとも、この時までは柴田をトップとする反秀吉派にたいする気がねもあって、秀吉としては、のどから手が出るほどほしくても、自分のものにすることは出来ない事情もあった。
(まあ、そのうちにはいい機《おり》もあろう)
と心中思ったことはもちろんである。
ところで、今、その機が来たのだ。柴田をたおして、旧織田家の将領《しようりよう》全部が自分に服属するようになった今日、はばかるべき者は一人もいない。信輝から取り返そうと思い立った。
そこで、六月になって間もなく、大坂にむかった。
途中、山崎の宝寺《たからでら》城に寄る。これは明智|征伐《せいばつ》の直後から、居城にしているのだ。もっとも、去年の暮以来、ほとんどここにいたことがない。今年の二月、滝川征伐のために姫路から出て来る時、ちょっと立寄ったきりで、あとは岐阜征伐、柴田征伐と、息をつく間もないほど事がつづいたので、行っている暇がなかった。しかし、それでも留守居《るすい》の者を置いてきちんとしているはずなので、お市様の忘れがたみの三人の姫君達をここに送ったのであった。
五
天王山《てんのうざん》の麓《ふもと》で馬をおりて、赤土のやや急峻《きゆうしゆん》な坂道を、てくてくと上りながら、秀吉はなにか心がはずんで、小唄《こうた》でも口ずさみたいような気分になっていることを知って、
(やれ、やれ)
と、思った。苦笑に似たものが浮かんだ。
(おれは先《さ》っきから、お市様の総領娘の――お茶々様のことばかり考えているようじゃな……)
と、思った。
人間が四十八年もこの世に生きてくれば、愛欲というものがどんなにはかないものであるか、よくわかる。どんな恋だって、冷めない恋はない。そのためには死んでもよいとまで思いつめた恋も、時を経る間には冷めて行く。そういう実例を、秀吉はいくつも見て来ている。自分自身の愛欲はそう経験はない。せいぜい、山名《やまな》の娘、宇喜多《うきた》の未亡人、蒲生《がもう》の娘くらいのものだ。これはいずれも近年のことであり、またこちらから望んだのではなく、いわばおしつけられたのである。おしつけられたものだからとて、自然の間には愛情も出て来て、大いに愛してはいるが、それでもある程度までその愛がたかまると、あとは下降線をたどる。こうなっては、もうあのやむにやまれぬ追い立てられるような強烈なものではない。憐愍《れんびん》である。無理に愛の字をつけるなら、愛憐である。
琵琶法師《びわほうし》のうたう『平家物語』に盛者必衰《しようじやひつすい》という文句がある。由己《ゆうこ》の講釈では、これはこの世は無常ということじゃげな。生ある者は必ず死し、形あるものは必ずくずれ、会う者は必ず離れるということじゃげな。人間の恋情もその通り、いつぞやは冷めることを、いくつも見て来た。
しかし、それは遂《と》げられた恋の場合だ。遂げられない恋は、何年立ってもおとろえない。それは埋《うず》み火に似ている。灰をかぶって、一見何でもないようであるが、灰をかきのけると、真赤なおきがある。胸の奥深いところに、ひっそりと埋まっていて、誰にも気づかれないが、少しもおとろえないのである。秀吉はお市にたいする念《おも》いで、それを知っている。
坂を上って行きながら、秀吉の心は揺れていた。
(恋は遂げてはならんもんかも知れへん。遂げた恋は必ず冷める。遂げることの出来なんだ恋のいつまでも味わい深いにおよばん。お茶々殿は母御のお市様のお若い時とそっくりや。そのままというてよい。おれが恋し初めた頃のお市様そっくり。おれはお茶々殿に恋しそうな気がする。いや、もう恋しているかも知れん。胸のこのときめきはただごとではない。しかし、この恋も遂げん方がよいかも知れん。遂げんで、いつまでも心の奥底で思っているのや。……第一、母に遂げられなんだ恋を、娘で遂げるいうのは、みじめなような。……罪の匂いもある……)
などと、さまざまな思いが胸を去来した。しかし、わざと遂げんでおくなどの出来ないことは、よくわかっていた。ただそう思ってみただけのことである。心の動揺をおさえるための自然のはたらきであったかも知れない。
宝寺城といっても、外まわりこそ相当|堅固《けんご》に改装したが、内部は元からあった寺の建物に二、三の建物を建て増しただけである。中へ入って、居間におちつき、留守居《るすい》の者に娘らのことを聞いた。
「おかわりもないか。亡《な》き母君のことなど慕って悲しまれる――悲しむなと言うても無理じゃが、度が過ぎては、身のさわりになるが、そのようなことはないか」
「おかわりはございません。人の知らぬところではどうかわかりませんが、さほどに悲しみに暮れてお出《い》でのようにも見受けられません。世の常の姫君方と少しも変らぬように、拙者《せつしや》には見受けられます」
「そうか」
と言いながら、何か落ちつかないものがあった。
留守居はまた言う。
「ご退屈なさらぬようにと、時々京から三味線《しやみせん》ひきの座頭《ざとう》をよんで、はやりの唄《うた》などお聞きに達していますが、大へんお気に召してお出でのようでございます」
「そうか、そうか、よくぞ気づいた。気のきいたいたしよう」
盲目の座頭がひき語《がた》りするのを、美しい三姉妹が、白い顔を澄ませて聞いている様子が思い浮かんだ。
三味線はこの頃から二十年くらい前に、琉球《りゆうきゆう》からわたって来た蛇皮線《じやびせん》の変形したものだが、日本人の好みに合ったかして、非常な勢いで社会の上下に行われている。平和な時代なら、上流社会が固定して、伝統の文化を墨守《ぼくしゆ》しているから、こんな新渡来の楽器などは下賤《げせん》なものとして受けつけられないのだが、おそろしい勢いで階級の転換が行われて、古い文化を知らない人々が社会の上層に浮かび上る時代だ。新奇なものほど歓迎される。南島の毒蛇ハブの皮を張った蛇皮線は、猫の皮を張った三味線となって、上層にも中層にも下層にも、大盛行をきわめているのであった。
時刻を見はからって、都合をうかがってから、顔出しした。
姉妹は、以前の寺の庫裏《くり》の書院を居間としている。秀吉が来ると聞いて、緊張のため、少し青ざめて待っていた。
秀吉が火灯口《かとうぐち》を入って行くと、娘らは、二間つづきの書院の下の間の縁の入側《いりがわ》に出て、ひざまずいて出迎えていた。
「やあ、これはご鄭重《ていちよう》に。恐れ入る。さあ、立ちなさい。奥へ、奥へ」
秀吉は、明るく、闊達《かつたつ》な調子で言って、追い立てるようにして姉妹を上の間の、上座にすわらせておいて、むかい合った位置に席をしめた。
「さて、お三人、うけたまわれば、お元気で毎日をお過ごしの由、めでたく存ずる。過ぎ去ったことを、かれこれ申してみたところで、詮《せん》ないこと故、わざと申しませぬ。大事なのはこれからのこと、われらを親と思うて、よろずに頼りになさるがようござる。不肖ながら、何ごとにまれ、お引受け申す。よろしいかな、おわかりかな」
と、一気に言った。
三人は、うつ向いていた。末の小督《おごう》だけが、まだ十一という幼さの活力が、礼儀のわくにおさまりきれないのであろうか、ちらと目を上げて秀吉を見て、あわててまたうつ向いた。ほほえましかった。
秀吉はまた言った。
「ご返事はないが、おわかりになったと思ってよろしかろうな」
三人は少しあわてた風で、一様に白いあぎとでうなずいた。
「重畳《ちようじよう》、重畳」
秀吉はわざと陽気にうなずいた。何とかして、娘らの気を引き立てることはないかと考えた。
ここは天王山を半分ほど登ったところにあって、眺望がよい。眼下に淀《よど》川が大きく銀色に光りながら洋々と流れており、その向うに橋本の町がごたごたと家並をならべており、その上に男山の翠巒《すいらん》がある。目を右に転ずれば摂津《せつつ》と北|河内《かわち》の平野が、淀川によって分けられながらはるかにはるかに続いている。いずれの平野も、いかにも豊かげな村々を散らばせている。眼を左に転ずれば、京に連なる南山城の平野がひらけている。山のつい下は去年明智との合戦の行われたところだ。淀の町、伏見の町も、指呼《しこ》の間《かん》だ。淀の向うに一面の広い銀盤をのべたように水が光っているのは、巨椋《おぐら》の湖《いけ》だ。このへん一帯、桂《かつら》川、宇治《うじ》川、木津川の三つが一つになって淀川となる地点にあたる上に、この巨椋の湖があるので、一種の水郷地帯となって、網のように細流《ほそ》があったり、小さな沼があったりする。
秀吉は立って縁側に出、娘らを呼んで、一々指点して、あれが淀、あれが伏見、あれが巨椋の湖と教えた。
「退屈なさった時には、留守居の者にそう言って、舟を出させて、方々に遊山《ゆさん》なさるがよい。男山八幡のことは申すまでもなくご存じのこと。淀もなかなかおもしろいところでありますぞ。ここはずっと昔、細川|管領家《かんれいけ》の持城があったのでござるが、後には三好党の岩成《いわなり》主税助《ちからのすけ》の居城となっていて、信長公に反抗しましたので、信長公の仰せを受けた細川藤孝に攻められ、城とともにほろびてしまいました。今はもう建物など一切なく、あるは石垣と樹木だけでありますが、水に臨《のぞ》んで、なかなかの風趣《ふうしゆ》ある眺めとなっています」
娘らは熱心に聞いている。時々、白くやわらかなあぎとがうなずく。とりわけ、お茶々の深くすんだ目の美しさや、お市に生き写しの顔立ちや、首筋のにおやかな美しさに、秀吉には目のくらむに似た悩乱と、胸のわくわくする幸福感とがあった。
やがて、秀吉は娘らのところを辞去して、自分の居間にかえった。ほかほかと胸が温《あたたか》い。すぐまた会いたくなった。
(まごう方なく、これは恋じゃわ)
と、気がついた。
今の自分の身なら、十中の九分まで、この恋は遂《と》げられると信ずることが出来る。たとえ相手がいやであっても、無理往生させることが出来ると思った。
そうする気はもちろんないが、うれしくないことはなかった。彼はこう思っていたのだ。
(こちらの愛情に、向うも愛情をもってこたえてくれるのでなければ、真に遂げられた恋とは言えへん。四十八の男と十七の娘との間に、こんな愛情が成り立つかどうかやが、もちろん、成り立たせてみせるとも! 柴田はお市様と二十六も違っとったのに、柴田と共に死んでも悔《く》いぬとまで、お市様の心を引きつけることが出来たのや。その柴田とおれとくらべる時、知恵からいうても、心がらからいうても、武功からいうても、現在の身分からいうても、おれの方が段ちがいに立ちまさっている。どうして、お茶々殿の心を引きつけられないことがあるものか)
ふと、生まれ素姓《すじよう》のことが考えられた。
(生まれ素姓だけや、おれが柴田におとっとるのは。しかし、天下人《てんかびと》になりかかっているおれには生まれ素姓などはいらへん、おれは天下一の男なのやから!)
と、昂然《こうぜん》として考えたが、それでも、女などというものは、素姓などという愚にもつかんものに重きをおいたりするものだと思って、少々心細くなった。
(茶の湯しようと言うて、呼んでみたろか)
と、考えた。茶室にむかい合ってすわって、しずかに茶事《さじ》をしていれば、相手の心がわかるかも知れないと思ったのだが、少し考えてやめた。今の茶々殿の自分にたいする感情に、愛情があろうはずはない。あるのは恐怖と、この人の力に頼らなければ生きて行けないというあきらめだけであろう。これから徐々にその心に愛情を生《おお》し立てて行かなければならないのだ。あせってはならないのである。わざと突っぱなして、いささか冷たくするのも、恋のかけひきである。
「追えば逃げ、逃げれば追うのが、男と女の恋のすがたや。人間ばかりやない。鳥や獣までそうやものな。雄と雌との天然自然《てんねんじねん》の愛欲のすがたであろう」
とつぶやいたが、すぐ、
(おれが浮かれ男《お》のように、恋のかけひきを考えているわ)
と、おかしくなって、にやにやと笑ってしまった。
「しかし、おれもこのかけひきは、兵法《ひようほう》をもととしている。……恋兵法か!」
と、これは低声《こごえ》ながら口に出して言い、からからと大きな声で、ひとり笑い出した。
六
翌日は、早朝、大坂に立たねばならない。未明に起き、朝食をおわったのが、ようやく日の出る頃であった。
秀吉は兵法に従って、お茶々殿らにはあいさつをしないで出発するつもりでいたのだが、どうにもがまん出来なくなって、旅装してから、庭伝いにその居間に向った。
宝寺は山の中腹にあるので、平地を広くひらくことが出来ない。階段状にひらいた平地に建物があって、段々になっているのである。従って、庭となるべき平地も広くは取れない。一つ一つの建物ごとに、せまい庭がついているのである。
秀吉はそのいくつかの階段状の平地を上って、娘らの居間になっている書院の庭に達したわけだが、建物をぐるりとまわって、ふと見ると、二間つづきの書院には、上の間の中ほどにお茶々が端坐して何やらしている姿が見えるだけで、二人の妹の姿はなかった。
(おやおや)
と、思いながら、よく見ると、お茶々は白磁《はくじ》の壺《つぼ》にむかって、何やら花を生《い》けているのであった。
やさしいたしなみじゃと、感心した。
「姫達、姫達」
と、わざと複数で、大きな声で呼ばわりながら、縁側に近づいて行った。途中で、はじめて気づいたもののように、
「やあ! お茶々様」
と、言った。
お茶々はおどろいて、こちらを見、秀吉であることを知ると、急いで出て来て、縁ばなに両手をついた。
「これは宰相《さいしよう》様」
と言った。従四位下参議に叙任《じよにん》されたことを知っていて、ちゃんと唐名《からな》で呼んでくれるのである。相手のかしこさとともに、愛情を読みとったような気がして、うれしかった。もやもやと胸が温《あたたか》くなった。
「お早うござる」
「お早うございます」
秀吉は座敷の生花《いけばな》に目をやって、
「やさしいたしなみでござるな。なるほどあやめか。ああ、今が季節の花じゃな。さわやかでよいわ。なかなか巧みなものじゃ」
と、ほめた。
むきつけにほめられて、お茶々は頬《ほお》を少し赤らめながら、
「ほんの手すさびでございます。しかし、宰相様のお居間に置かせていただきたいと思って、お留守居《るすい》の方に頼んで、取りよせてもらった花でございます」
と言った。
ぞくりとするようなよろこびが、下腹のあたりをつき抜けた。
「なんとまあ、ありがたいこと! そうでござったか! そうでござったか! 礼を言いますぞ! 礼を言いますぞ!」
秀吉は心から言って、
「残念なことに、わしはこれから大坂にまいらねばならぬ。天下のために、いそがしいご用がありますのでな。さればこそ、かような姿で、庭伝いに暇乞《いとまご》いにまいったのであります。しかし、ともあれ、あの花、ここへ持って来て下され。よくよく眺めて、ご芳情《ほうじよう》のほど十分に味わい申してから発《た》ちたくござる」
と、所望した。
「そうでございますか。つたなくございます上に、まだ生《い》けおわっていないのでございますけど」
と言いながらも、お茶々は悪びれずにかかえて来て、秀吉の前にすえた。
紫の色に七、八分咲いたのが一輪、わずかに尖端《せんたん》だけ紫の色を見せている蕾《つぼみ》が一輪、まだ堅《かた》い蕾が一輪、あざやかな緑の色をした剣のような葉が五、六枚、いともさわやかに白磁の壺に生けられている。
「これは淀川のへりの、あの細い流れに生えていたのだそうでございます。茶々はただ季節の花をと頼んだのでございますが、山崎の町の人々があやめが咲いていることを教えて、案内してくれたそうでございます」
と言って、お茶々は白い手をさしのばして、下界を指さした。淀川のへりには、青々と草の生えた堤防があり、よく見ると、そのこちらに、ところどころに小さい水溜《たま》りのように光っているところがある。あれが灌漑《かんがい》のための細流《ほそ》なのかも知れない。昨日とまるでちがって、いかにも打ちとけた風であるのが、こちらには大へんうれしい。
「ああ、そうでござるか。さわやかで、見事です。旅の門出にかかる餞《はなむ》けをたまわることはいかにもうれしゅうござる。大坂での仕事も、めでたく行くことと思います。それでは、発《た》ちます。お大事になされよ」
と言って、立ち上った時、妹らが入って来た。血色がよくて、はしゃいでいる感じであった。
「やあ、二の姫に三の姫、どこに行っておられたぞ。われら、大坂に行ってまいる。よろずに気をつけて、寝びえなどせぬようになされよ。やがて、みやげを持って、帰って来ますぞ」
にぎやかに言って、縁をはなれた。わらじを踏みしめ、片手をあげて合図《あいず》し、歩き出した。日がもう暑くなっていた。
山崎から大坂まで二十七、八キロ、午後の三時頃ついた。
池田信輝には、坂本を出る前に知らせてある。待っていた。
信輝は秀吉と同年の四十八であった。山崎合戦の直前、信長の死にたいする弔意《ちようい》をあらわし、明智必滅《ひつめつ》の意気を示すために、入道して、勝入斎《しようにゆうさい》と号しているのであった。
勝入斎は秀吉を客殿に請《しよう》ずると、先ず行水《ぎようずい》をすすめて、汗を流させた。上って来ると、帷子《かたびら》を用意してある。それを着て、主客相対した。
大坂城は、ずっと以前に書いたように、本願寺が開け渡して紀州|鷺《さぎ》ノ森《もり》(以前は和歌山市の郊外であったが、近年はやたら町村合併やら、都市|膨脹《ぼうちよう》やらがはやるから和歌山市内になっているかも知れない)に引き移った日に火災をおこして、壮麗豪華をきわめた堂塔伽藍《どうとうがらん》は一切焼失してしまった。だから、勝入斎はここをもらうと、とりあえず普請《ふしん》したのだが、それはほんの一時をしのぐ仮普請にすぎなかった。
彼は柴田|征伐《せいばつ》後、はじめて秀吉に会うのだ。祝辞をのべた後、
「さて、こんどお出《い》でになったのは、いかなるご用件でござる。気がかりでござれば、先ずそれをうけたまわりたく存ずる」
と言った。笑いながらであった。
秀吉も笑顔で応じた。
「われらもその方がようござる。――おり入って、相談があってまいった。おぬしには、美濃《みの》の大垣を居城として美濃において十万石をまいらせる故、この城と、当国における領地を、われらにいただきたいのでござる」
勝入斎は小首をかたむけたままに答えない。
勝入斎のこの摂津における領地はせいぜいのところ六万石くらいのものだ。城も城壁こそ堅固であるが、建物は当座しのぎの俄《にわ》か普請だ。美濃で十万石の領地と、城郭完備した大垣城とをもらうなら、決して損な取引ではないはずなのに、こうして黙っているのは、なぜ秀吉がこんな損な交換をしようというのか、理由がわからないからに相違なかった。
「この大坂の地は、中国の毛利と四国の長曾我部《ちようそかべ》とを伐《う》つに、最も便利な地だ。九州を伐つにもそうである。われらに譲ってほしいと申すは、このためでござる」
と、説明すると、勝入斎は即座にうなずいた。勝入斎はすぐれた武将でもあり、かなりに欲深い人物でもあるが、天下人《てんかびと》となろうとするほどの野心はない。せいぜい、一国か二国の主となることが出来れば足れりとするのである。
「わかり申した。結構でござる。すぐにも大垣に引き移り申そう」
と言った。
「早速のご承引《しよういん》、かたじけなし。わけを話せば、ほかならぬおぬしのこと、こころよく聞き入れてたもるであろうと思ってまいったが、その一言をうけたまわるまでは、不安でないこともなかった。ああ、これで安堵《あんど》いたした。決して忘れませぬぞ。さて、引き移りのことでござるが、出来るだけ早いがよござる。早く引き移って、本年の年貢《ねんぐ》は美濃の新領地にて、お取立てありたい」
その方が、勝入斎にとってはずいぶん利益になる。勝入斎はうれしげであった。
勝入斎は六月中に大垣に引き移ったが、その二、三日後には秀吉はここに移り、七月中にはもう城普請をはじめた。
同時に、大坂を中心にして、その周囲の国々に、最も親近する諸大名を封じた。大和に筒井順慶、和泉《いずみ》に中村孫平次、尼ケ崎と池田に三好秀次、茨木《いばらき》に中川秀政、山城|槙島《まきのしま》に一柳《ひとつやなぎ》直末という配置である。代々の武家の家筋なら、譜代《ふだい》の家来を封ずるところだが、そんなものは一人もいない。姉おともと当年の一若《いちわか》、今は三好一兵衛|吉房《よしふさ》との間に生まれた子三好秀次だけが血のつづいた甥《おい》で、あとは中村孫平次だけが播州《ばんしゆう》以来召し使っている鉄砲大将だ。筒井順慶に至っては、山崎合戦の時には、はじめは明智に味方していて、最後までずいぶん気をもませた男だ。
城は三年かかって、天正十四年になって完成した。本丸の中央に八層の天守閣をおき、二の丸、三の丸、西の丸とわかれて、周囲実に三里八町という、これまで日本の持ったことのない、けたはずれに大きい城郭であった。天守は今日われわれが再建大阪城で見ることの出来るものによって、形と大きさだけは知ることが出来るが、あれに幾多《いくた》の大建築がそなわっていたのであるから、その全貌《ぜんぼう》の壮大さは今日となっては想像することも出来ない。秀吉は生涯を通じて、金と朱が大好きであった人だから、この城もさぞ黄金と朱をべたべたとなすりつけて、恐ろしく華麗、豪奢《ごうしや》なものであったにちがいない。
この城を造るのに、三十余か国の大名に手伝わせ、毎日人夫三万人、多い時には六万人を使用したというのは、天正十四年の半ば頃日本に滞在していた耶蘇会《ゼスイツト》のバテレン、フロエーの本国への報告中にあることだが、それは十三年、十四年の頃になって、秀吉の勢力が益々ひろがり、その権勢《けんせい》が不動の重さを加えてからのことで、十一年、十二年頃は、大体において自分の家中と武士らと領内の民だけを動かしてやっていたのである。
女大名
一
柴田を討滅《とうめつ》した以後の秀吉にとって、家康は夢魔《むま》のような存在であった。その恐ろしさは柴田などとうていくらべものにならないほどである。
「出来るだけ、これと協調して行きたい」
と、秀吉は考えた。
「いずれは衝突はまぬがれないことかも知れないが、工夫次第では避けることが出来るかも知れない。根気よく辛抱して、協調をつづけて行きつつ、うんと力をたくわえるのだ。段ちがいにこちらが強大になれば、向うだって争う気にはなるまい。あるいはまた、邪魔になれば、たたきつぶすことだって出来るわけだ」
というのが、秀吉の魂胆《こんたん》であった。
だから、家康が柴田|退治《たいじ》の祝辞をのべるために、老臣の石川数正をつかわしたのは、実にうれしかった。彼はごく鄭重《ていちよう》に石川をもてなし、よろこばせ、家康にはとくに答礼使を浜松につかわして、不動国行の名刀を贈ったほどであった。
秀吉はまた朝廷にとりなして、家康の位官を従三位参議にすすめた。秀吉は従四位下参議であったから、自分より上の位階としたのだ。
またこの頃、秀吉は日向《ひゆうが》産の巣鷹《すだか》を家康に贈りもした。
こうして家康のきげんを取り結びながらも、天下人《てんかびと》となるに必要な仕事はやらなければならない。
必要な仕事はいろいろあるが、当面先ず必要なのは、織田|信雄《のぶかつ》を消してしまうか、自分を主人としてつかえさせるか、いずれかである。
信長の遺子らは、いずれも天下人の地位は力をもって獲得し、力をもって保つべきものであることがわからない。父信長が天下人であったから、当然自分らが受けつぐべきものと思っている。それで通る世の中なら、足利《あしかが》将軍が没落したはずはないのだが、それは考えないのである。要するに世間知らずで、身勝手なのである。
じゃまになるから、三七《さんしち》信孝の方は、うまく信雄をおだてて処分させたが、のこった信雄は信孝以上に阿呆《あほう》で、そのくせうぬぼれが強い。
身のほどを知って、出来るだけわきによって目立たないようにしていてくれれば、何といっても信長公のご次男なんだから、ある程度の待遇をし、子孫の世に至るまで疎略《そりやく》にしないつもりだが、昔ながらの主人面《づら》して、「もういいかげん天下を返してよこしそうなもの」といわんばかりの態度でおられては、手ひどいことも考えなければならない。そうしなければ、諸大名から民《たみ》百姓に至るまでの者共が、どちらが天下人なのかと心を迷わして、世に安定がない。
(はて、どういう策で……?)
と、一夜思案したが、すぐ工夫がついて、信雄の許《もと》へ使いを出した。
「最も大切なことで、申し談じたきことがござれば、ご老臣岡田|長門守《ながとのかみ》、浅井田宮丸、津川|玄蕃《げんば》、滝川三郎兵衛の四人を拙者《せつしや》の許までおつかわしいただきたい」
という口上《こうじよう》であった。
阿呆《あほう》でうぬぼれの強い信雄のことだから、こう言ってやれば、これはてっきり天下をおれに渡すために、おれが家老共と打合せをするつもりに相違ないと思って、よろこんで老臣らをつかわすに相違ないと、秀吉は計算したのであった。
計算は的中した。信雄は、自分の老臣全部をよこしてくれという以上、よほどに重大な用件があるに違いない、それは取りも直さず天下を自分に渡す相談であろう、それ以外に老臣全部と談合しなければならないほどのことは、今のところありそうにないと、判断したのだ。大よろこびで、老臣らの許に、
「しかじかと筑前から申して来た故、早速にまいるよう。余が思うに、悪いことではあるまい。定めて天下を余に返すことについての打合せをしたいのであろう」
と申し送った。
老臣らはそれぞれに城をあずかって信雄の領内の各地に散らばっている。岡田は尾州星崎、津川は伊勢松島、浅井田は尾張|刈安賀《かりやすか》(中島郡)、滝川は伊賀上野。
一同は大坂に行って、秀吉の許に出頭した。四人とも信雄のような虫のよいことは考えていない。何事であろうかと、ただ胸をさわがせていた。
秀吉は一人一人呼んで、れいの最も巧妙で、最も豪快な人気取りの術でよろこばせておいて、
「天下の落ちつく先きは、そなたの目にもよくわかるはずだ。わしに味方せい。必ず重く取立て、行く行くは四十万石五十万石の身代《しんだい》にして取らせるぞ。さりとて、三介様を疎略《そりやく》にはせぬ。これはこれで、故右大臣様のご次男として現在のままで立てて置き申す。わしがどんな人間であるか、そなたはよく知っているであろう。わしは約束したことは必ず果す男だ。そうであろう」
と、口説《くど》いた。
相手は承諾した。
「さらば起請文《きしようもん》を書けい」
と、起請文を書かせた。
四人の家老のうち、岡田、津川、浅井田の三人は、こうして秀吉と妥協するのが、信雄のためにも利、自分らのためにも利と判断して承諾したのであるが、滝川三郎兵衛(雄利《かつとし》)だけはそうでなかった。
とうてい、これは信雄のためにならないことと思ったのだが、ことわれば殺され、このことを信雄に知らせるすべがないと思ったので、仮に承諾して、起請文を書いたのであった。信雄に密告しようと、はじめから思っていたのである。
ところが、これがまた秀吉の最初からの計算のうちであった。
(四人の家老中、一人や二人は必ず信雄に密告する者があるに違いない。信雄はそれを聞いて、家老らを疑い、ひょっとすると、家老らを殺してしまうかも知れない。しからずとしても、主従の心は離れ離れになり、結束はぐさぐさにゆるむ。いずれにしても、信雄の力の弱りになる)
というのが、秀吉の狙《ねら》いであった。釈迦《しやか》の手のひらの上で※斗雲《きんとうん》を飛ばして得意になっている斉天大聖孫悟空《せいてんだいせいそんごくう》の話が思い合わせられる。知恵のある人間とない人間とはこれくらい違うのである。
四人は秀吉からうんと引出《ひきで》ものをもらって、同道して帰国の途《と》についた。四人の胸には共通する心配がある。信雄に何と報告しようかということである。信雄は、秀吉は天下を渡す打合せのために四人を呼んだと思いこんでいる。天下を受取る相談どころか、語《かた》らわれて味方すると誓い、起請文《きしようもん》まで取られてきたと報告したら、立腹《りつぷく》するにきまっている。それが結局はお為《ため》なのでありますと言ったところで、わかるはずがない。殿はとうてい天下を知り給うべきお器《うつわ》ではあられませんなぞは、たとえ万人皆が同感することであっても、言えるものではない。
「おたずねになるは必定《ひつじよう》だ。何とお答え申そう。口裏《くちうら》を合わせておかぬと、めんどうなことになろうぞ」
と、相談し、適当にそれをきめた。
やがて、長島城に帰着して、報告する。途中打合わせた通りに言う。
「なんだ。それでは、余に天下を渡す相談のためではなかったのか。まさか、その話を少しもせぬということはあるまい。なんと申したぞ」
と、信雄はたたみかけた。全然それに触《ふ》れないとは考えられなかったのである。
「少しもそのような話はございませんでした」
「ない? ふうむ。さては、ただそれだけのことで、筑前はその方共を呼びつけたのか。余《よ》が家老であるその方共をだ。余が家中を何と心得ているのか」
信雄は恐ろしく機嫌が悪くなって、奥へ入った。
家老らはそれぞれその居城に引き上げて行ったが、滝川三郎兵衛はあとにのこり、大坂での本当のことを信雄に報告した。
「しかじかのことで、承諾し、誓書を書かねば、生きてこうして立ちかえり、真実を君にご報告申すことがかないませんでしたので、筑前の要求を承諾し、起請文《きしようもん》も書きました。しかしながら、拙者《せつしや》心底は、君に対して二心《ふたごころ》なし。ご諒察を願い上げます」
信雄は涙をこぼして感心した。
「忠義無類、満足に思うぞ。この上とも、その心にて働いてくれよ」
と激賞し、引出《ひきで》ものをあたえて、伊賀にかえした。
ちょっと説明する。この滝川は滝川|一益《かずます》とは血縁の関係はない。元来は伊勢の北畠氏の一族|木造《きづくり》氏の一人である。滝川という名字は、伊賀の名賀《なが》郡に滝川という村が今日でもあるが、これから出たのであろうか。
信雄は滝川の忠誠に感激するとともに、他の三老臣を憎悪した。
(おのれ! 老臣の職にありながら、利をくらわされて、筑前に心を売り、おれにそむかんとする。言おうようなき畜生《ちくしよう》ざむらい!)
と、怒った。
しかし、こうなると、秀吉との衝突はまぬがれないことになったから、何をおいても、先ずその用意をしなければならない。
彼は徳川家康に、おり入ってご相談いたしたいことがある故、ご都合をうかがいたいと言いおくった。去年の正月、彼は家康と岡崎城で面会して、深夜まで密談している。
当時はまだ柴田勝家も越前に健在であり、岐阜に三七信孝あり、北伊勢に滝川一益ありして、反秀吉連盟を構成していた。信雄は兄弟の信孝を最も有力なライヴァルと見たので、秀吉支持派にまわった。秀吉もまた信雄に大いに敬意をはらい、優遇し、柴田らを打倒したら、天下はそっくり熨斗《のし》をつけて進上しますといわんばかりのことを言っていた。信雄はそれを真《ま》に受けはしたが、不安な気がしないでもなかったので、あたかも家康が浜松から岡崎に来たと聞くと、当時の居城|清洲《きよす》から岡崎に行き、家康に会ったのである。
密談の内容はこうであった。
「将来もしわれらが大事に出会いました節は、故|右府《うふ》にたいせられたように、われらを助けていただきたい」
と、信雄が頼んだのにたいして、家康は、
「承知いたしました。故右府公のお血筋たる貴殿、われら別してお大事に存じ上げています。心ずお力になりましょう」
と答えたのである。
信雄の不安が秀吉の心事《しんじ》にあることは、信雄は言わない。しかし、家康はきれいに洞察《どうさつ》していた。けれども、家康もそれを口にしない。二人は暗黙のうちにうなずき合ったのであった。
この約束があるので、信雄は家康に相談したいことがありと言ってやったのである。
家康は、さあ来た! と思った。そこで、家来の酒井重忠を長島につかわした。信雄はもう秀吉の名をかくさない、はっきりと秀吉の名を出し、その飽《あ》くなき野心を告げ、これを征伐《せいばつ》する決心をかためたにつき、昨年の約束により、ご援助を願いたいと説いた。
「主人も、こんどのご用は、大方そのことであろう、あらんかぎりの力を挙げて、お手伝い申す決心であると、さよう申し上げよと申して、拙者《せつしや》を送り出したのでございます」
と酒井は答えて、浜松にかえった。これは天正十二年二月上旬のことであった。
信雄は喜んだ。この上は三老臣を誅殺《ちゆうさつ》して、獅子身中《しししんちゆう》の虫を除き、家中の結束をかためる必要があると、その実行にかかった。
三月三日、上巳《じようし》の節句に、三人を長島城に呼んだ。三人が城内に入ると、一人ずつ別室に連れて行き、否応《いやおう》なしに切腹させるという計画であった。津川と浅井田とは、計略通りに腹を切らせることが出来たが、岡田は大力剛勇を以《もつ》て名のある男だ。「いやでござる!」とあばれ出した日には、少々の犠牲ではおさまらないと、急に工夫がしなおされた。
その結果、土方《ひじかた》勘兵衛|雄久《たけひさ》という勇士が、討手《うつて》に選ばれた。
信雄は土方に、秘蔵する藤四郎吉光作で「鯰《なまず》ノ尾吉光」と異名《いみよう》される短刀をあたえて、
「これでつかまつれ」
と言った。
岡田|長門守《ながとのかみ》が登城《とじよう》して来ると、信雄はその拝礼を受けた後、雑談にうつり、
「わしはこの頃、堺《さかい》の旅商人から鉄砲をもとめた。銃身ことごとくに唐草《からくさ》を金で象眼して、目もさめるばかりの見事さでもあるが、あたりもなかなかよい。昨日も的場に出てこころみたが、十発打って十発とも星をつらぬいた」
と、語った。
「ほう、それはそれは、拝見願えましょうか」
「見せるとも」
自ら立って、別室につれて行った。鉄砲はそこにすえられた金蒔絵《きんまきえ》の鉄砲|架《かけ》に、絹の帛紗《ふくさ》をかけ、その上にいとも大事そうに安置してある。まことに見事なものだ。
長門守が両手をついて拝見していると、信雄は、
「手にとって眺めてもかまわぬぞ」
と言った。
「しからば、そうさせていただきます」
長門守は両手にとり上げ、障子際にいざって行き、明りに照らして、子細《しさい》に見た。実に見事だ。目の高さにもち上げてかまえてみた。重さといい、頬のあたり工合といい、まことに快い。
「いかさま、これは立派なものでございますな」
と、言って、なお余念なく見入っていると、長門守の少しうしろにすわっていた土方勘兵衛が立ち上り、
「長門殿! 上意《じようい》でござる!」
と、絶叫するや、おどりかかった。手には早くも鯰《なまず》ノ尾吉光を抜きはなっている。背後から抱きつくや、脾腹《ひばら》につき刺していた。
「心得たり!」
長門守は突かれながらも、脇差《わきざし》を引きぬき、土方の腰を刺そうとしたが、逆手《さかて》に取っていないのでうまく行かない。そこで刀をあげて首を刺そうとしたが、これもうまく行かない。眉間《みけん》に二、三か所浅手《あさで》を負わせただけであった。斬られながらも、土方はダニのようにしがみついて離さず、つき刺した刀をえぐった。
剛勇な長門守は、急所のいたでにもかかわらず、土方を引きずりながら、座敷中をあれ狂う。血潮の中に、双方とも血に染んで、もみ合った。
信雄は格闘のはじまった時から隣室に消えていたが、たまりかねて、薙刀《なぎなた》の鞘《さや》をはらい、小わきにかかえて、走りもどった。
「勘兵衛、離せ! 余が成敗《せいばい》する。勘兵衛、離せ!」
とさけびながら、もみ合っている二人のまわりを走りまわった。勘兵衛は、
「お大切なる仕物《しもの》であります! とりにがしてはなりません! わたくし共々、お斬りすて下されい!」
と、返答して、いっかなはなさず、ついにしとめた。
二
三老臣の誅殺《ちゆうさつ》と同じ頃に、伊賀で滝川三郎兵衛が事件をおこした。滝川は東西の手切れが間もなく来ると見たので、かねて秀吉の許《もと》に人質《ひとじち》としてさし出している子息《しそく》をとり返しにかかった。その子息をあずかっていたのは、脇坂|安治《やすはる》であった。
滝川は脇坂のところに行き、
「拙者《せつしや》女房、この前より病気でありましたが、容態《ようだい》急変して、今はもう旦夕《たんせき》を待ちかねるほどとなりました。息のある間に、せがれとなごりをおしませたいと存じますれば、ほんのしばらく貸していただきとうござる」
と、わりなく頼みこんだ。
脇坂は本当と受取り、見舞まで言って、子息をわたした。滝川は子息を連れ、大急ぎで伊賀に走りかえった。
これが秀吉に報告されると、秀吉は激怒した。
「しゃ! 見事だまされたわ! 甚内《じんない》の阿呆《あほう》め! 雀の頭ほども知恵のないやつめ! 早や追いかけて行って、滝川を討取《うちと》れい!」
と、どなりつけた。
脇坂は仰天《ぎようてん》して、直ちに身支度、わずかに二十騎ばかりで追いかけ、伊賀の国に入ると、
「滝川を討取る者は、望みにまかせて褒美《ほうび》をくれるぞ! 滝川を討て!」
と、呼ばわり呼ばわり、馳《は》せ進んだ。
伊賀は天正七年に信長に攻め取られた時、国内の武士らは大|虐殺《ぎやくさつ》された。無気味な妖術《ようじゆつ》を心得て、一般とうんと違った生態を持つ、この国の地士《じざむらい》は、信長の気に入らなかった。
「出来るだけ殺すがよい」
との信長の意志によって、見当り次第に殺されたのだが、それでも他国に離散したり、山々谷々にひそんだりして、助かった者もまた多かった。戦争は狂気の支配する場だ。時間が立てば、狂気は正気になり、常識が支配するようになる。伊賀もそうなったので、他国から、山々から、谷々から、地士らはかえって来た。
この連中が、脇坂のふれを聞いた。滝川三郎兵衛は織田の部将だ。敵の片割れだ。ここかしこからおこり立ち、上野城へおし寄せ、なかなかの大軍となった。
滝川は思いもかけない大軍におどろいて、城を落ち、長島城に注進した。信雄は松島城をくれると言った。松島は松阪の近くだ。参宮電鉄に同名の駅がある。ここは津川|玄蕃《げんば》の城であったが、玄蕃は長島城内で信雄に誅殺《ちゆうさつ》された。しかし、玄蕃の一族と家臣らはここを守っていた。つまり、信雄は「攻め取って自分のものにせよ」と言ったわけだ。
滝川は軍勢をひきいておし寄せ、攻め取って城に入った。
これが東西の手切れを確定的にした。
双方共に戦備を修《おさ》めるとともに、縦横の外交戦がはじまる。信雄・家康の連合軍側では、越中《えつちゆう》の佐々成政《さつさなりまさ》と同盟すると共に、中国の毛利《もうり》に東に向って兵を動かすことをすすめ、四国の長曾我部《ちようそかべ》にもまた鳴門《なると》の渦潮《うずしお》を渡って大坂を衝くことを慫慂《しようよう》した。本願寺は大坂石山城を開けわたして以来、ずっと紀州の鷺《さぎ》ノ森《もり》にいたが、これとその僧兵ともいうべき雑賀《さいが》党とに使いをおくって味方するようにもとめ、
「もし味方勝利の暁《あかつき》には大坂城もかえすであろうし、加賀一国もかえすであろう」
と口説《くど》いた。
秀吉の方も負けてはいない。もっと大がかりであった。
佐々成政に対しては、その西方の前田利家と、その東方の上杉|景勝《かげかつ》とで、はさみつけるようにして牽制《けんせい》させた。景勝は当時川中島も領有していたので、そこから信州と甲州の徳川領を脅《おびや》かさせることにした。
中村一氏、蜂須賀《はちすか》家政(正勝の子)、黒田官兵衛らに命じて、紀州の本願寺や雑賀党にあたらせた。
淡路洲本《あわじすのもと》の仙石権兵衛に四国をおさえさせ、岡山の宇喜多《うきた》氏に毛利氏にたいするかためを厳重にさせた。
秀吉の外交触手は遠く関東北部の佐竹氏にのび、これと上杉景勝とを結ばせて、小田原北条《おだわらほうじよう》氏と家康とを牽制《けんせい》させた。昨年夏、家康は次女のおふうを北条の当主氏直に縁づけ、両家は姻戚《いんせき》になっていたのだ。
以上は外交戦であるが、実際に一緒になって戦う味方の争奪戦もはじまった。
秀吉は家康すら、味方にしようと努力したのだ。すなわち、使いを家康の許《もと》につかわして、こう説かせた。
「われら、故右府公のご恩をこうむり、今日の身分になれたのでござる。されば三介様にたいしていささかも含むところなく、せい一ぱいの心尽しをしているつもりでありますのに、三介様は愚昧《ぐまい》で目くらく、小人共のざん言を信じ、われらをうとんじなされ、今やわれらを征伐《せいばつ》せんとしておられます。三介様の愚昧は今は天下にかくれなきこと、もしわれらに味方し給わばこの上のことはござらぬが、せめて中立を守り給うなら、この上のことはござらぬ。こと果てた暁には、美濃・尾張両国を進上いたしましょうが、いかが」
家康はもちろんことわった。信雄《のぶかつ》にたいする義理もあったが、彼自身のためにもこれは戦わなければならないところである。信雄がほろぼされれば、家康と秀吉との均衡は破れる。秀吉の方がうんと重くなるのだ。必ずや、その鋒先《ほこさき》は家康に向って来るに相違ないのである。家康にはそれがわかっている。今日なら、信雄の勢《せい》を合すれば、ひょっとすると勝てるかも知れないが、信雄に勝って後の秀吉には、とうてい勝てない。また、今なら信長の次男信雄を助けて不忠の臣羽柴秀吉を征伐し、信長の遺業を回復するのだという堂々たる大義名分があるが、信雄が亡びたあとは見場《みば》のよい旗じるしはありそうにない。名分が立派でなければ、世の共感と同情を得ることは出来ない。世間の共感と同情とは、味方の勇気を鼓舞《こぶ》すると同時に、敵の勇気を萎縮《いしゆく》させるのである。
秀吉はまた水野忠重と信雄の臣丹羽氏次、沢井|雄重《たけしげ》をも口説《くど》いた。水野には三河、遠江《とおとうみ》の二国をあてがおうといい、丹羽と沢井には尾張を半国《はんごく》ずつあてがおうと約束した。しかし、三人とも拒絶した。
以上は秀吉の誘惑が失敗した例であるが、成功したのもある。大垣の城主池田勝入斎とその聟《むこ》森|長可《ながよし》だ。勝入斎は信長の乳《ち》兄弟で、織田家とは特別深い関係があって、次男輝政を信雄の許《もと》に人質《ひとじち》に出していたが、信雄と秀吉とのなかが険悪になると、聟の長可をさそって、信雄に味方することに約束が出来ていた。
一方、秀吉はその油断のない心くばりから、いつかは役に立つこともあろうと、かねてから大いに勝入斎と懇親《こんしん》を重ねていた。秀吉は甥《おい》の三好秀次のために勝入斎の娘を嫁《よめ》にもらってやったが、それもその一つ、大坂から大垣に移ってもらう時、うんと所領をつけたのも、その一つである。
この際、秀吉の、このかねてから蒔《ま》いておいた種子が役に立った。秀吉は大垣に使いをつかわして、
「こと成らば、美濃・尾張・三河の三国を進上しよう。またご三男の長吉《ながよし》殿を拙者《せつしや》の養子に迎えよう。お味方ありたい」
と、説かせた。
かねての懇親はあるし、条件は上々大吉だ。勝入斎の心は大いに動いたが、人質に行っている次男のことが気になって、踏み切れないでいた。
ところが、秀吉にとって幸運にも、長島で信雄は、
(勝入と織田家とは特別な関係がある。かような際、人質などを取っておくのは、水くさいというべきだ。輝政を返してやったなら、勝入はかえって感激し、親しみを深くするであろう)
と思案し、輝政を送りかえした。
勝入斎の心はこれできまった。秀吉に味方することにきめたのである。
滝川一益は去年の夏以来、越前大野郡で五千石の捨扶持《すてぶち》をもらってわび住《ずま》いしていたが、秀吉はこれを呼んで、
「勝利の上は、ごへんの旧領である北伊勢の五郡をあてがい申そう。お働きあれ」
と言った。一益は勇奮して、旧臣らを集めて北伊勢に向った。
以上はすべて三月中旬までのこと、戦機は徐々に熟しつつあった。
三
家康は「耳臆病《みみおくびよう》の大将」と、その頃言われていたという。敵を目の前にしない間はよろず慎重で、あたかも敵を恐れているかのごとくある大将という意味である。こんな人だけにいつもその出足は迅速《じんそく》とは言えない。用心を堅固にして、情報を綿密に検討してから動くのだ。しかし、この時はまことに迅速であった。信雄と秀吉の間が手切れたと聞くと、すぐ浜松を出発して、西に向った。三月七日に浜松を出て、翌八日に岡崎につき、翌九日には矢作《やはぎ》につき、しばらく滞陣して、諸勢の追いつくのを待った。
十三日に尾張に入り、清洲城につくと、信雄も長島からここに来ていた。会って、軍議した。
この家康の出足の迅速さにくらべると、秀吉はいかにもどてどてとしている。家康が三河と尾張との境の矢作川の線に達した九日には、まだ大坂にいたのである。めずらしいことだ。いつもにないことだが、実は動けなかったのである。四方の敵にたいする備えの工夫も、遠い国々への外交も、それどころか、大名らを説得して味方にすることからして、しごとは山とある。
諸大名も、彼によって大名になれた者は、とくに説得するまでもなく味方だが、それはいくらもない。多くは信長の家来で、彼の朋輩《ほうばい》だった連中である。無二のなかであるとお互い信じ合っている堀秀政や蒲生氏郷《がもううじさと》などにしてからが、本来はそうなのだから、一応の説得はしなければならない。
山積するこれらの仕事を、ほとんど彼一人でやらなければならない。ほかにやれる者がないのだ。普通ならこんなことは譜代《ふだい》の老臣か、一族の者がやるところだが、譜代の老臣などいるはずがない。妻の叔父《おじ》や甥《おい》を老臣がわりにしているが、皆|凡庸《ぼんよう》で、こんな大事な時の仕事の出来る連中ではない。
秀吉の方の肉親としては、小一郎秀長と三好孫七郎秀次とがいる。秀次は姉おともと一若《いちわか》との間に生まれた。阿波《あわ》の三好氏の一族三好康長入道笑岩の養子分にしてもらって三好姓を名のることになったので、父の一若も三好姓を冒《おか》して、一兵衛吉房と名のっている。秀次はまだ十七という若さだ。なんにも出来はしない。
小一郎秀長は相当頼りになるが、これは現在いる播州《ばんしゆう》と但馬《たじま》から動かすわけに行かない。この両国は中国路の裏表の入口にあたる上に、現在の秀吉の最も頼りになる領地だ。兵糧《ひようろう》でも軍資金でも、ほとんど大部分がここから生まれるのである。
せんずるところ、自分一人で働かなければならんのだ。
山崎合戦以来、時々感ずることだが、譜代の家来を持ち、多数の一門を持った武家に生まれた人が、しみじみと、またうらやましくなる。
こんな風であったので、持ち前の機敏な動きが出来なかったのである。
それでも、三月十日には、大体の処理がついたので、大坂を出て、京に向った。
はじめから、宝寺《たからでら》城に立寄ることを予定していた。
早朝に大坂を出たが、三十キロという道だ。やっと午後の二時頃になって、宝寺城の見えるあたりについた。すると、思いもかけず、胸がどきどきさわいで来るのを覚えた。
(はてさて、おれも若いことじゃわ)
と思った。四十九という年になって、まだ少年のような恋情があるのだと思うとうれしかったが、間もなく、これは若い頃のお市様への恋が遂《と》げられないでおわったためだと気がついた。すると、自分がいとおしくなった。
(辛抱したなあ、おれ。なにから何まで、ずいぶん辛抱したわ。おれの一生は辛抱のしづめやったわ)
と思うと、泣きたいほどに切ないものがこみ上げて来た。
見えるかぎり、陽春の午後の風景だ。右の方はるか向うに大淀の堤防が若草に蔽《おお》われてつづき、左手には所々桜の咲いている春の山がある。街道の左右には菜の花畠があり、麦畑があり、所々に村落が散らばり、ひばりが絶えず頭の上で鳴いている。馬上に身をゆられつつ、こんな景色を眺めているうちに、秀吉はこんどこそ茶々を手に入れようと決心した。
現在のところ、秀吉は主として大坂に住んでいるが、しょっちゅう京に出るし、時には安土《あづち》に行って三法師のごきげんをうかがうし、江州の坂本城に行ったりもする。その度に必ず宝寺城に立寄る。
実は去年の秋、織田信雄の世話で、末娘の小督《おごう》を尾張の知多《ちた》半島大野の佐治与九郎一成に縁づけた。これは信長の妹おひろが佐治八郎に縁づいて生んだ子だから、二人はいとこ同士にあたる。こんな因縁《いんねん》があるから、信雄が世話をしたのである。
実を言うと、秀吉はこの縁談には気が進まなかった。かつての恋敵《こいがたき》(向うは少しも知らないことだが)の子であるのを厭《いと》ったのではない。お市の一周忌もすんでいないし、まだ十一という幼さだ。それに、おれの保護のもとにしばらくいるうちには、おれは益々大きくなり、ついには天下人《てんかびと》になるから、その権威で、うんと大身《たいしん》の大大名に輿《こし》入れさせてやれる、佐治のような小大名のところに急いでやることはないと思ったのだが、織田家の事実上の当主である信雄が、昔からの織田家と佐治家の因縁を理由にして言い出したので、拒絶出来なかったのである。
さて、山崎に立寄れば、必ず茶々に会う。会うのが楽しみになっている。会うたびごとに恋情が募って行く。はじめのうちは若い頃のような切なさや苦しさはなく、四肢《しし》の末まで温《あたた》まって来るような、ほのぼのとしたものがなんともいえず快く、この秋の日の日ざしのような閑《しず》かな暖さのままでいつまでもいたいと思うこともあったが、間もなくそれは去り、ある面では少年の頃より強い情熱となった。若い頃の情熱を枯野を焼く炎にたとえるなら、これはしくしくと石をうがつ雨だれに似ているかも知れない。辛抱強く、そして計画にしたがって、徐々にしめつけるように、茶々の心を手に入れて来た。もうこのへんで、抱いてよいはずなのである。
城では、昨日のうちに知らせをしておいたので、迎える支度がととのっていた。風呂に入って旅塵《りよじん》をおとして、着がえして、さっぱりなったところで、留守居《るすい》の者の報告を受けていると、茶々のところから使いが来た。
「ご用相済《あいす》まれ、お手すきでおわすならば、粗茶を一服さし上げたく存じます。お出《い》で賜《たま》わるなら、ありがたく存じ上げます」
高倉《たかくら》というこの女中は、秀吉が京都|所司代《しよしだい》の前田|玄以《げんい》に命じてさがさせて、茶々らの付添《つきそ》いにした十人の女中のうちのひとりである。女中らはすべて武家|浪人《ろうにん》の娘か、下級|公家《くげ》の娘であるが、なかには後家《ごけ》や出もどりもいる。高倉も公家なかまに縁づいたのだが、娘ひとり生んだところで、主人に死なれ、こまっていたところを、所司代で女中をさがしていると聞いて、採用してもらったのである。
秀吉は、この女が世なれて利口でもあり、年も一番長じているので、女中がしらを命じていた。
「よしよし、ありがたくお受けするぞ」
と言って気軽に立ち上った。
「さあ、案内《あない》せ」
と言って、一緒に外に出た。石段を上りながら、高倉に言う。
「姫君達のごきげんは、この頃どうだな。陽気がよくて、野遊びや山遊びにはよい季節じゃが、時々はお出ましになるかや」
「二の姫様、よく摘草《つみくさ》やお花見にお出ましでありますが、大姫様は、また宰相《さいしよう》(参議の唐名《からな》、この場合は秀吉をさす)様はお戦《いく》さじゃそうな、ご苦労なさっておわすと思えば、遊山《ゆさん》に行っても気がおちつかぬと仰せられて、どこへもお出ましにならないのでございますよ」
秀吉はぞっとするほどうれしくなった。茶々はおれのことをそうまで思っていてくれるのか、柴田はお市様の心に年のへだたりを越える強い情熱を育て上げたが、おれもそうなったのであろうかと、胸がはずんで来た。立ちどまって、はるか下の淀川べりに目をはなった。夕陽《ゆうひ》が流れて、うららかな春の夕べの風景だ。それを眺めながら、言う。
「大姫のその心づかいはありがたいが、いらぬことだ。三介殿や三河ざむらいごときを相手のいくさに、おれが何の苦労をするものか。ひとひねりにもあたる者共ではない。おなごは、いくさなんどのことは男にまかせ切って、ひまな時には遊山などして、いつもすこやかで美しゅうあるようにつとめるがよいのよ。その方が、男にとってはなんぼかうれしいぞ」
秀吉はまた階段を上りはじめたが、上り切って平地に出、次の階段にかかった時、ふと疑念がきざした。
(このおなごは、世なれてかしこいおなごや。おれの気をとるため、おれの気に入るようなことを言うのかも知れん……)
じろりと目を高倉の方に走らせた。小さく息をはずませてついて来る女の白い顔は澄んで、心の底は知れない。
もどかしいような気がしたが、すぐに思いかえした。
(こだわることはないわ。こげいなことは、うそであっても、どうということはない。だまされてもさしつかえのないことはだまされておくがよいのや。素直によろこんでおこうわい。ほんとならなおさらのことや。右府様はこげいなことにはえらいきびしゅうて、どんなことにも、寸分《すんぷん》のいつわりもお見のがしにならなんだが、人の上に立つものは、そう重箱の隅を小|楊枝《ようじ》でそそくるようではいかん。右府様ほどのお人が、ついにあげいなことになったのも、ここにもとがある。人の上に立つ者は、人を恐れさせると共にくつろがせるところがなければならんのや……)
感慨は妙なところに逸《そ》れた。
しばらくの後、秀吉は茶室にいた。この茶室は去年の秋、彼が娘らのために建ててやったものだ。相客には二の姫のお初がなった。
春には若い女も美しくなるもののようだ。十四になるお初も初花の匂うような美しさがあったが、十八になる茶々の美しさはたとえようがない。
澄んだ皮膚の下に美しい血の色がにおい立って、かがやくばかりの美しさになっている。かがやき強く澄んだ目も、紅《あか》いくちびるも、世にこんな美しいものがあるかと、秀吉は陶然《とうぜん》として夢見ごこちになった。懐石《かいせき》でわずかにのんだ酒が一層それを助けた。元来、酒はそう強くはないのである。
夢見ごこちの興奮がいつもの快弁をさらに快弁にしていた。
こんどの戦争はそうひまをかけずに勝って帰って来るが、そうしたら、お茶々を大名にして進ぜようと言った。
「わしはうそは申さぬぞ。わしは約束したことは必ず果してこれまで来た。そうであったればこそ、この身分にもなれた。そうだ。お茶々、淀の城あとに城をきずいて、あなたに上げよう。女大名というわけだ。女の大名が、昔はいたそうな。今でも、奥州のはてや九州のような遠国《えんごく》にはあるかも知れん。しかし、あまり聞かん。その絶えている女大名に、そなたをして進ぜる。浅井家を立てなさるがよい。浅井の血筋は、あなた方姉妹にだけ伝わっているのじゃからな。絶やしてはならん」
茶々もお初も、目をかがやかせて、聞きほれている。秀吉は益々よい気持になった。急に、その淀を望見したくなった。
「淀を見よう、淀を見よう。さあござれ」
二人を引きつれて、外に出た。
暮色がこめている。靄《もや》か、霧か、薄くこめて、淀はおぼろであった。
秀吉は自分のご殿にかえると、高倉を呼びにやった。
「近うよってくれ。あまり大きな声では言えんことだ」
と言った。
「は」
高倉は側に寄って、白き両手の指先をつかえて、仰いだ。さかしげな目だ。その目を、微笑をふくんで見入って、言った。
「そなたはかしこい女じゃから、わしのお茶々にたいする気持がわからんことはないと思うが、どうじゃな」
高倉は少し笑った。
「そうではおわさぬかと時々思うくらいのものでございましたが、今のおことばをうかがいまして、はっきりとわかりました」
「ハハ、うまいことを言う。やはりそなたはかしこいおなごじゃ」
と、よろこばしておいて、
「さて、そこで正念場《しようねんば》にかかる。大ていこのへんで、本望を遂げたい。そうすれば、こんどの戦《いく》さも励みがつく。この旨、お茶々に申して、心得させてくれい。今夜だ。明朝は京に入り、明後日は坂本に行き、それから戦さに行かねばならんのじゃから」
「かしこまりました」
女は少しばかり緊張した表情でかえって行った。
夕食をすませてしばらくして、酒食を持たせて、茶々の住いに行った。
茶々は秀吉を見ると、染め上げたように赤くなったが、それがさめたかと思うと、蒼白になり、そのままであった。昼間のあのさかりの花のようなところはなかった。どうかしたはずみには、すぐ紅くなった。風に吹かれている雛芥子《ひなげし》の花のようなもろい感じであった。
秀吉は、茶々の心の中にあらしが吹いていると思った。自分に従うのはいやなのかも知れないと、あわれになった。ばかなことにとりかかったと、後悔に似た気もおこって来た。やめてもよいとさえ思った。しかし、
(いやいや、そうは行かん。今さらやめたりしては、おれは世間のもの笑いになる。おれの事業にもひびいて来る。――なあに、お茶々はおれを好いている。おれの苦労を思って、摘草《つみくさ》や遊山《ゆさん》にも行かないと、高倉が言うたぞ。くよくよと案ずることはないわな……)
と思いかえして、腰をすえた。
その夜、秀吉ははじめて茶々と臥床《ふしど》をともにした。
四
戦争は三月中旬、伊勢と伊勢に近い尾張の西南部の小城の争奪戦からはじまった。互いに勝敗があったが、伊勢では秀吉方が勝ち、尾張では連合軍方に利があった。
その頃、池田勝入斎が、夜蔭《やいん》ひそかに木曾川をわたって、信雄方の犬山城を奇襲してこれをぬき、翌日は兵を南に出して小牧山《こまきやま》の近くの楽田《がくでん》のあたりに焼働《やきばたら》きさせた。「焼働き」とはこの時代の兵術語で、村落を焼きはらって、あらしまわることを言うのだ。これも秀吉方の勝利だ。
ところがこの翌々日の早暁、勝入斎の聟《むこ》森|長可《ながよし》が犬山の南方三キロ強の八幡|林《ばやし》で、徳川勢の朝駆《あさが》けを食らって負けた。
秀吉はこの時まだ近江《おうみ》の坂本城にいて、さまざまなことの処理に追われていたが、以前から勝入斎や森の性格に不安を感じ、十三日付で、軍目付《いくさめつけ》として池田軍につかわしている家来の尾藤|甚右衛門《じんえもん》あてに、こんな手紙を出している。
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とくに通達する。定めて信雄や家康は自分が戦場に到着しないのに乗じて、いろいろと合戦を挑みかけるであろうが、決してさそいに乗ってはならない。かたく守って、余の到着を待て。ことに池田勝入と森|武蔵《むさし》は、以前から武勇にほこって敵を侮《あなど》る傾向のある人々であるから、引っかかる危険が大いにある。よく諫《いさ》めて、過《あやま》らせないことが肝心《かんじん》である。
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という文面だ。
皮肉なことに、この手紙は八幡林の敗戦の夕方到着した。
秀吉が到着し、連合軍と尾張の野に対陣することになったのは、三月二十九日であった。この年の三月は小の月であるから、三月の尽きる日であったのだ。連合軍は小牧山に陣《じん》し、秀吉はここから小牧山の東北方六キロの楽田に陣した。
元来、秀吉は小牧山の要害であることをよく知っている。かつてここに信長が居城をかまえたのは、秀吉のすすめたことがきっかけになっている。それほどここの要害であることをよく知っている秀吉が、敵の陣所にとられてしまったのは、その戦場への到着がおくれたためである。
さて、両軍は共に陣所の堀を深くし、柵《さく》を結《ゆ》い、にらみ合って動かないでいる間に、早くも数日過ぎた。
当時秀吉の分国《ぶんこく》(勢力範囲)は二十四州におよび、総石数六百二十八万石あったから、その動員力は十五万七千人もあった。家康の所領は百三十八万石、信雄の所領は百七万石、合して二百四十五万石、動員力は六万三千百五十人あったはずだ。
もっとも、両軍ともに動員力のかぎりをつくしはしない。いくらくらいずつ出したか。『改正三河|後風土記《ごふどき》』には秀吉方十二万五千、連合軍方一万八千余とあるが、これは信じられない。
勝っても負けても、敵の軍勢は大きく、味方は小さく書くのが戦記類のくせだ。全戦域に秀吉側が十万いるなら、連合軍側は地元でもあるから六万近くはいたろう。
四月四日の夜のことであった。池田勝入斎は秀吉に面会をもとめて、こう説いた。
「この間中から、敵の様子を子細《しさい》に見ているのでござるが、徳川勢のあるかぎりがこちらに来ているように見え申す。本国の三河は空《から》になっているに相違ござらん。されば、ひそかに三河に入り、諸所に焼働《やきばたら》きするなら、徳川勢としてはこちらにとどまってはおられぬはず。必ず本国に引き上げるでござろう。徳川勢さえおらねば、三介様の勢《せい》など、小指の先で始末が出来ましょう」
実を言うと、秀吉もこの計略を思いついていたのだが、あまりうまい計略であるところに不安があって決しかねていたのだ。
だから、わざと言った。
「そううまくまいるかな。敵もさるものだぞ」
勝入斎はおさえられて、躍起になった。
「必ずうまくまいる。そりゃア徳川も全部引き上げはせんであろう。三分の一くらいはのこすかも知れんが、たとえそうでも、のこった兵共はやはり不安に駆《か》られて、その力は半分もなくなるでござろう。いずれにしても、味方の大利となること、ぜひ取上げて、拙者《せつしや》と武蔵《むさし》(森|長可《ながよし》)とにやらせていただきたい。武蔵は八幡林での失敗の恥を早く雪《すす》ぎたがっているのでござる。ご同情ありたい」
勝入斎の説には、反対の余地はない。しかし、なにか不安が去らない。
「一晩考えさせてもらいたい」
と答えて、勝入斎をかえした。
ずっと検討した。この戦術の悪い点はなさそうであった。不安は、勝入斎と長可の勇敢にすぎる性格だけだと思われた。
しかし、それには堀久太郎を入れればよいと思った。年は若いが、思慮の周密《しゆうみつ》な堀は、勝入斎と長可とが暴勇な計画を立てても、そうはさせないと見たのだ。
(そうだ。秀次も加えてやろう)
と、思いついた。早く頼りになる肉親をつくらなければならないが、それには度々|場《ば》(戦場)に会わせて武功を立てさせる必要がある。武功のない者は世間が重く見ず、従って頼りになりはせんのである。
思案がついて眠りにつき、ぐっすりと寝こんだ。
夜が明けてすぐ、やっと洗面したばかりのところに、勝入斎が来た。
「昨夜の話、お考えいただいたろうか」
「考えた。やっていただこう。しかし、少し注文がござる」
「どんな注文でござる?」
「堀久太郎とわしが甥《おい》の秀次を加えてもらうことが一つ。必ずともに用心して進むこと。以上の二つでござる」
「のみこみ申した。やれ、ありがたや。おもしろい戦《いく》さが出来ますぞ」
と、勝入斎は勇み立った。
やがて部署がきめられた。
第一隊 池田勝入斎 六千
第二隊 森 長可 三千
第三隊 堀 秀政 三千
第四隊 三好 秀次 八千
総計二万の大軍であった。
勝入斎のこの時の計画を、当時の戦術語で「中入《なかい》り」というのだ。中入部隊は六日の夜半出発することになったが、これを敵の目からかくすために、この日秀吉方はしきりに小牧の陣所に攻撃をかけた。
やがて、予定の通り、中入部隊は羽黒を出発し、山間《やまあい》を潜行し、翌日の午前十時頃に小牧の東南方十キロほどの上条村について、ここに砦《とりで》を築き、翌日の夜まで、休息し、夜の十時頃にまた前進をはじめた。
この中入部隊の行動が家康に知れた。最初は七日の夜、つまり上条村に中入部隊の休息中だ。百姓が二人、小牧の陣所に来て、密告したのだ。
(なるほど、兵が出はらって本国三河は空だと見た敵は、三河を荒らしまわるつもりだな)
と、すぐ判断がついた。
「何とか早く手くばりいたしませんと」
と、皆せきこんだが、用心深い家康は、
「百姓をつかってそんなことを言って来させて、味方の力を分けさせておいて、ここに攻撃をかけようという計略かも知れぬ。その百姓共はとめおいて、しばらく様子を見よう。百姓共の言うことに偽《いつわ》りがないなら、かねて敵中に入れてある忍びの者共からも注進があるはず。あわてることはない」
と言った。しかし、いつでもくり出せるように、行くべき勢、とどまるべき勢を部署《ぶしよ》した。
翌日、羽柴方の森|長可《ながよし》の陣中に入れておいた伊賀の忍者|服部《はつとり》平六が息せき切って馳《は》せつけて来た。
百姓の密告はうそではなかった。池田、森、三好、堀の四人が、総勢二万で三河へ向う目的で、上条村まで来て、昨日から休息中だという。
「さてはほんとか」
家康は厚く百姓らにほうびをあたえてかえして、なお斥候《せつこう》をはなって敵の動静をたしかめた。その日の暮方《くれがた》、諸隊を出発させ、自分もその夜出発した。
出動の諸隊は、家康の兵六千三百、信雄《のぶかつ》の兵三千、水野忠重ら四千五百が支隊となった。合計一万三千八百だ。小牧にのこったのは、徳川勢五千余、信雄勢千五百であった。
小牧を出た家康は、小牧の東南方十一、二キロ、上条村の西南方五キロの小幡《おばた》城に入ったが夜半二時頃、寵臣井伊《ちようしんいい》万千代(直政)に三千人を授けて先鋒《せんぽう》とし、同じく三千人をひきいる信雄を後備えにして、自ら三千五百をひきいて、中軍となって城を出て東に向った。しかし、その以前に先発隊は東に向い、すでに敵を発見して、そのあとから静かに進みつつあった。
こういう恐ろしい敵が、軍声を殺してひそかに追尾して来るとは、中入部隊は少しも知らず進んだ。
彼らは長久手《ながくて》南方の岩崎城を攻め潰《つぶ》す計画をもっていたので、先鋒がその手前の生牛原《おうしはら》に達すると、中陣以後は皆休憩の態勢になった。先陣から後陣に至る距離が七キロ以上におよんだのだから、腰ののび切った、まことに不用意な陣形であった。
最後陣は三好秀次の部隊八千人であったが、これはまた特に不用意であった。三キロ以上も前の部隊と離れていたのである。秀次は十七の少年大将だからしかたがないが、ついていた部将らの不覚は言語道断《ごんごどうだん》である。
白山権現《はくさんごんげん》が祀《まつ》ってあるので、白山林といわれている、樹林に蔽《おお》われた小さな丘の西南の麓《ふもと》で、彼らが休息をとって朝の食事をしている時、やっといくらか明るさがさして来る頃であった。
突如《とつじよ》として徳川勢の先発隊が攻撃をかけたのだ。弓と鉄砲をはげしく射送ったかと思うと、朝霧の中から鉄のつぶてを打つように突出《つきだ》して来て、襲いかかった。
不意を打たれて、秀次隊は四分五裂、最も見苦しい姿で潰走《かいそう》した。主将である秀次が馬を失って途方《とほう》にくれたというから、混乱想うべきものがある。
徳川勢は勝ちに乗じて追撃し、堀秀政の隊に衝突した。堀は少しもさわがず、備えを立てて、撃退した。長久手合戦は秀吉方の大敗戦であるが、その中で堀隊だけは最も見事な戦いをした。
家康の本隊は、池田隊が勝入斎と嫡男《ちやくなん》の之助《ゆきすけ》の二隊となり、森の隊が加わり、三隊となって、岩作《やさこ》の南方の狭間《はざま》に布陣《ふじん》していることをさぐり知り、井伊万千代の三千人を隊の先鋒として向った。この三千人は一人のこらず具足《ぐそく》から旗・差物《さしもの》に至るまですべて朱色《しゆいろ》で、赤備えという名で知られた隊だ。
元来武田家の猛将|飯富兵部《いどみひようぶ》が信玄のゆるしを得てはじめたものであったのを、武田家の滅亡後、家康がとり入れて井伊にゆるし、いつの戦さにも先鋒をつとめさせたという因縁《いんねん》のものである。満目《まんもく》の新緑の中を、炎の流れるように、富士ケ根という山の腰をまわって進んだ。
はげしい戦いが行われた結果、先ず森が眉間《みけん》を銃丸で射ぬかれ、真《ま》ッさかさまに落馬して、即死した。
森隊は色めき立った。かわり合って、池田隊が突出《つきだ》して来た。
家康は采配《さいはい》を振ってさけんだ。
「聟《むこ》めが備えは乱れたぞ! 若者共、勝入《しようにゆう》が備えを乗りくずせ!」
声に応じて血気の若武者らはドッとおめいて突進した。
池田隊は、破れ、総敗軍の中に勝入斎は討取《うちと》られ、それを聞いて引きかえして来た嫡子《ちやくし》の之助もまた討取られた。
この敗報が楽田の本陣の秀吉にとどいたのは正午頃であった。
風呂《ふろ》思案
一
(しまった!)
と、秀吉は心中うめいたが、少しも顔には見せない。
「よい機《しお》! これで賤《しず》が嶽《たけ》の時と同じになったぞ! 敵を逃がしてはならぬ! 早や、打ち立てい!」
と、早貝《はやがい》を吹立《ふきた》てさせ、一時間の後、午後一時にはもう楽田《がくでん》の本営を出発した。ひきいる兵二万(八万と書いた書もあるが、二万が本当であろう)、長久手《ながくて》さして、急いだ。
秀吉の案じたのは、長久手の敗戦ではない。これはもうすんだことだ。くやんだとて、取返しのつくことではない。彼の案じたのは、家康が勝ちの食いにげをしはしないかということであった。
こんな場合には、即座に勝ち返しておかないと、第一には味方の気力をひるませる。第二には諸国に最も針小棒大《しんしようぼうだい》なうわさとなって伝わり、天下の輿望《よぼう》を失わせ、将来の大損失となる。何としてでも、勝ち返したいのだが、家康がうろうろと待っているかどうか。単に強いだけの武将なら、勝ちにおごること佐久間玄蕃《げんば》のように、のうのうとして待っているであろうが、家康は海山《うみやま》千年のくせものだ。
(とうてい、うろついていて、数倍の敵と戦うような危ないことはすまい。大方、さっさと引き上げて、勝ったという名誉を保持する手に出るに相違ない。おれがやつの立場にいても、そうするものな。何年か前のことだ。おれは鳥取《とつとり》城をおとした後、吉川《きつかわ》元春の挑戦に相手にならんで、さっさと姫路へ引き上げたものな……)
と思うのだが、ひょっとしてという気もする。
(戦《いく》さは勢《いきお》いだ。やつは相手にならんで、どこぞの城に引き上げるつもりでいても、やつの兵共は滅法《めつぽう》強い兵共だ。強い兵ほど、驕《おご》りやすい。おれが甥《おい》の秀次を一あてに蹴散《けち》らし、名将の名ある勝入斎|父子《ふし》と鬼|武蔵《むさし》の名ある森とを時の間に討ちとり、気勢があがり放題にあがっている。そいつらが飽《あ》くまで戦おうと言い張るなら、家康とておさえられないかも知れん。どうか、そうあってほしい)
と、いのるような心で考えながら、武者《むしや》おしをつづけた。
一方、小牧山の徳川家の本陣では、酒井忠次、石川数正、本多平八郎忠勝らが、留守《るす》していたが、楽田の敵の本陣の様子が異様なので、物見《ものみ》の者を出すと、秀吉みずから大軍をひきいて、長久手の方に向ったという。
評定《ひようじよう》がはじまった。
酒井忠次は発議する。
「必定《ひつじよう》、楽田の羽柴が本陣はからであろう。これよりおし寄せ、火を放って攻め立てたらば、時の間に攻め落さんこと疑いなし。さすれば、秀吉はよりどころを失い、狼狽《ろうばい》して逃ぐるよりほかはあるまい」
すると、誰よりも先きに、石川数正が言う。
「左衛門尉《さえもんのじよう》殿の申されること、一応道理には聞こえるが、羽柴が勢《せい》は十万に近いという。彼は二、三万の兵をひきいて出たというが、仮に多く見つもって三万をひきいて出たとしても、なお七万はのこっている勘定になる。粗忽《そこつ》な戦《いく》さをしかけたら、こちらこそ付入《つけい》りにされよう。先ずここは、大事に守っているが安全と存ずる」
数正は、秀吉が柴田|征伐《せいばつ》から帰って来て近江《おうみ》の坂本城に滞在している時、戦勝慶賀の使者として、浜松から坂本城に来て、秀吉に厚遇されたことがあり、この戦後に徳川家を退散して秀吉に帰服しているので、坂本城ではじめて秀吉に会った時、籠絡《ろうらく》されて、秀吉に内通していたから、こんな消極説をとなえたのであろうと言われている。
しかし、そうではあるまい。留守《るす》部隊の大幹部の一人としては、冒険の出来ないのは当然のことだ。戦後彼が秀吉の許《もと》に奔《はし》ったのは、徳川の家中で気をまわして、かれこれ言う者があって、居づらくなっているところに、秀吉からの誘いがあったので、徳川家を退散して秀吉に帰服する気になったのであろう。数正と同時に秀吉の許に走った武士が数人いる。小笠原貞慶《おがさわらさだよし》、水野忠重。以上は大名級といってよいほどの身分だが、武者としての勇士に平松金次郎がいる。五千石の身であったのを、一万石で招かれたのである。
度々言う通り、秀吉はにわかの成上《なりあが》りもので、信頼出来る優秀な家来を持たないので、しきりに他家の優秀な武士をスカウトした。これは今後もつづくから、その時はまた説明することになろうが、石川数正らもこの手に引っかかったのである。しかし、それはこの時ではなく、戦争がすんでかなり立ってからのことである。
さて、石川の説はいかにも道理に聞こえたので、人々は、
「いかさま、それも道理じゃ」
と、楽田《がくでん》襲撃はやめて、小牧山の塁《とりで》を堅く守っていることになった。
しかし、この時、末座の中から立ち上った者があった。本多平八郎忠勝だ。立ったまま、憤然たる調子で言う。
「老臣《としより》方の申されること故、さしひかえてい申したが、われら承服出来申さぬ。各々は心にまかせられよ。われらにおいては、あけらかんとすくみ返ってここにいること、真平《まつぴら》でござる。殿様が引き上げにかかられて、諸勢足なみを乱しているであろうところに、秀吉が新手《あらて》の大軍をもっておしかかってまいるならば、殿様はことのほかにお難儀になられましょうぞ。譜代《ふだい》の者として、手をつかねて見ておられる場か! 拙者《せつしや》はこれより駆けつけ申す。間に合わば幸い、もしお討死《うちじに》遊ばされた後ならば、おなきがらを枕《まくら》として討死いたすまでのこと!」
言いはなって、立去ろうとすると、石川康道という者も、
「平八郎殿の仰《おお》せの通りじゃ。われもまいる」
と、立ってあとを追った。
忠勝が勢五百人、康道が勢三百人、合して八百人、もみにもんで馳《は》せた。竜泉寺《りゆうせんじ》川につくと、秀吉軍が川の北岸に沿って行くのが見えた。二万という大軍は、五万にも六万にも、それ以上にも見える。整々と武者押《むしやお》して行く様は、胸のゆらいで来るような威力がある。
忠勝も、康道も、少しもおそれず、川の南岸に沿って、八百の勢にエイヤ、エイヤと武者声をあげさせながら押し進んだ。
敵味方はしばらく、川をはさんで平行して進んだ。
やがて、忠勝は康道に言う。
「殿様に奉《たてまつ》ったいのち、どこで奉るも同じこと。一番ここで秀吉に戦《いく》さしかけようではないか。われら両人が死に狂いして戦ったならば、しばらくは敵の進行を食いとめることが出来よう。その間には殿様も秀吉を迎え戦わるべき陣形を立て直されることがお出来になるであろう。いかが」
「しごくのこと」
相談一決して、川ばたにおし出し、八百の兵を三段にかまえて、はげしく鉄砲を撃ちかけた。
秀吉はさっきから、川向うの敵の小部隊の様子を、
(はて、おもしろいことをしおる。何の狙《ねら》いであろう)
と、大いに興味をもって眺めつつ来た。象の進行にならんで小猫がついて来ても、象は格別案じない。たとえその小猫が敵意を持っていて、隙を見せればおどりかかって来るであろうことがわかっていても、恐れはしない。しかし、どうするつもりかと、興味は持つであろう。秀吉の心理はこの象の心理であった。
ところが、その猫のような敵は、いきなり鉄砲を撃ちかけたのだ。さすがの秀吉もきもをつぶした。
「おどろいたわ。大胆不敵《だいたんふてき》の者共かな。あの小勢《こぜい》で、この大軍に戦《いく》さをしかけるぞ。誰ぞ敵の大将を見知っている者はないか」
と、左右をかえりみると、稲葉伊予入道一鉄が小手をかざして遥かに見て、言う。
「鹿の角の前立打《まえだてう》った唐《から》がしらの冑《かぶと》は、徳川の家来中、さるものありと知られた本多平八郎忠勝にまぎれござらぬ」
唐がしらの冑というのは、犁牛《りぎゆう》(からうしと訓ず)という動物の毛をつけた冑だ。当時徳川家の武士はこの冑を用うる者が多く、「徳川に過ぎたるものが二つあり、唐《から》のかぶとに本多平八」などと歌われたという。余談だが、徳川家はよほど多量にこの犁牛の毛を所蔵していたと見えて、維新《いしん》戦争の時、江戸が開城になったあと、その倉庫に多量のそれがあった。官軍はよろこんで、それを帽子にしてかぶることにした。だから、維新戦争の際、官軍側があの毛がしらの帽子を用いるようになったのは、江戸開城以後で、伏見鳥羽《ふしみとば》の戦争や、江戸に下って来る頃はまだ用いていない。もし、芝居や映画でそうなっていたら、考証的には間違いなのである。
稲葉一鉄のことばを聞いて、秀吉は感動した。わが身に引きくらべて、最も忠誠勇敢な家来を持っている家康がうらやましくもあった。覚えず、涙がこぼれて来た。
「音に聞く本多平八郎とはあれか。千にも足らぬ勢で、この大軍にいくさしかけるとは、何たる大胆。やつは死ぬ覚悟でいるのじゃ。ここで討死《うちじに》しておれがじゃまをし、主人に十分の戦さをさせようと心組んでいるのよ。あっぱれ勇士よ。あっぱれ忠臣よ。主人の身としてはいかばかり頼もしかろう」
うらやましや、家康、ということばが出そうになったが、それはのみこんだ。
部下の将士らは、一にぎりにも足らない敵勢が戦いをせりかけて来るのが、小癪《こしやく》にさわってならない。小うるさいから、撃ちはらいたいと、秀吉に乞《こ》うたが、秀吉は首をふった。
「かまうな、かまうな。あれほどの敵、一つぶしにもあたらぬが、見事なふるまい故、かまわずおこうよ。あれを討取《うちと》らずとも、勝つべき戦さに負けもすまい。かまわず行け、かまわず行け」
と、応戦を禁じて、行進をつづけた。
忠勝はなおも銃撃をつづけさせながら、対岸をおし行ったが、どうしても敵が相手にならないと見ると、あくまでも激発させようとして、ただ一騎馬を川ばたに乗りおろし、蜻蛉切《とんぼきり》の名槍《めいそう》を小わきにかいこみ、悠々と馬に水を飲ませる。
人もなげな平八郎のふるまいに、秀吉方の将士らは舌を巻きつつ腹を立てたが、秀吉の感動は一層高まった。
「やるわ、やるわ。あれ見よ。万夫不当《ばんぷふとう》の勇士とはあの者のことよ」
と、また激賞した。
秀吉はその後もなおつづく平八郎の妨害《ぼうがい》に少しも応じなかった。
かまわれないではしかたがない。平八郎も今は秀吉軍をうち捨てて先きを急ぎ、小幡《おばた》城に入って、家康が来るのを待った。
秀吉は午後五時頃、庄川を渡って竜泉寺のうしろの河戸坂から山に上り、一支隊を長久手方向に出した。
この支隊は小幡城の東方の野を通り、左折して長久手近くまで行ったところで、徳川軍の落伍《らくご》隊と遭遇して、二百余人を討取《うちと》ったが、ここで家康はもう一時間も前に長久手を撤退して小幡城に入ったことを知った。そこで、引きかえして、秀吉に報告した。
(さもあろうはず、さすがは徳川。佐久間とは大違いじゃ)
と、秀吉は感心した。
しかし、ここはそんな様子を見せてはならんところだ。
「こういうことになりはせんかと思うたので、急ぎに急いだのじゃが、残念である。さらばよし、これより小幡城に攻めかかり、勝入父子と森が弔合戦《とむらいがつせん》しよう。なんの手間ひまいるものか、一気にふみつぶしてくれよう」
と言った。もとより、本気ではない。日没までもう一時間くらいしかないのに、城攻めにかかるなど、あってしかるべきことではない。誰かがとめてくれるにきまっているから、それを待って発言したのだ。しかし、ここはこう言って力まなければならないところである。それによって強みを示すことになり、また、勝入斎や森の死を悼《いた》んでいることを示して、将士の心を攬《と》ることも出来るという次第だ。
果して、とめる者が続々と出た。稲葉一鉄、蜂須賀《はちすか》彦右衛門、蒲生氏郷《がもううじさと》の三人だ。
秀吉にしては、予定の通りだ。
「それもそうじゃ。しからば、明朝にのばそう」
その夜は勝川《かちかわ》の竜泉寺を本陣とし、諸隊はその付近に夜営することになった。
こうして、両軍は小幡城とその東北方竜泉寺と、二キロ半をへだてて夜を迎えたが、夜に入ると、小幡城内では、本多忠勝、水野忠重らが夜襲の策を立てて、家康に許可をもとめた。しかし、家康は、
「勝って冑《かぶと》の緒《お》をしむるとはここのことじゃ」
と言ってゆるさず、三百人の兵を留守居《るすい》にのこして、織田|信雄《のぶかつ》とともに遠く西方に迂回《うかい》して比良《ひら》を通って、小牧山にかえった。これは午後八時であった。家康の用心深いところだ。秀吉に勝ったという名誉をあくまでも保持しようとしたのである。
秀吉の方では、明朝の城攻めの準備のために、午後の九時頃、斥候《せつこう》を小幡方面に出しさぐってみると、徳川勢の大部分がすでに城を退去していることがわかった。
秀吉は呵々《かか》と笑った。
「あっぱれ、家康はいくさ上手《じようず》じゃ。小幡のような小城《こじろ》にこもっては、明日の合戦におれに踏みつぶされるは知れたこと故、早や逃げ去ったわ。おれと決戦をせぬかぎり、おれに勝ったという名誉は失せぬ。あっぱれ知恵者じゃて」
夜半に、細川|忠興《ただおき》、堀尾茂助らを殿軍《しんがり》として、竜泉寺を撤退した。敵の抜け去った城を前に布陣《ふじん》していては、その間抜けさかげんをおもしろおかしく喧伝される恐れがあるからである。実力の抗争とともに、世間の人気をも戦わしたのである。この場合、人気はすなわち他日の力になるものであるからだ。
二
以後、家康も、秀吉も、出来るだけ決戦を避けた。家康は秀吉の大軍と決戦しては勝利を得ることは困難であるとして、長久手の勝利を飽《あ》くまでも保持することを考えたのであり、秀吉は家康の技倆《ぎりよう》を改めて買いなおしたのだ。これまでもその器量のほどは十分に知っているつもりであったが、こんど敵味方としてむかい合ってみて、考えていた以上の人物であることを知った。うっかりかかっては、恥の上塗《うわぬり》をしかねまいと用心したのである。
四月十一日、秀吉は楽田《がくでん》の本営から南三キロの小松寺山に本陣を進めて、六万二千余人の軍勢を十七隊にわかって、西南方四キロの小牧山に向って進攻する気勢を示したが、家康方は塁《とりで》をかたく守って出て来なかった。
その十一日後の二十二日に、こんどは家康方が一万八千の軍勢を十六隊として、小牧の東方二重堀(地名)にひかえた蒲生氏郷、堀秀政らの陣を南に迂回《うかい》して、その背後に出たので、二人は秀吉の本営に使者を走らせ、攻撃の許可を乞《こ》うたが、秀吉は、
「敵からかからば戦え。さなくば、堅く守って相手になるな」
と、指令した。
相手にされないではしかたがないので、徳川方は引き上げた。
このように、両人とも、相手を用心して、隙をはかってばかりいた。
秀吉は決戦の機会のない戦場に、いつまでも縛《しば》りつけられているわけに行かない立場にある。紀州|鷺《さぎ》ノ森《もり》の本願寺や、根来《ねごろ》寺や、雑賀《さいが》党や、四国の長曾我部元親《ちようそかべもとちか》らが、はるかに声息《せいそく》を連合軍に通じて、大坂を襲う準備をすすめつつあるという報告が入った。その備えはして来たものの、ひょっとして大坂が占領されるようなことがあれば、本拠がくつがえるのだ。そうなれば、西の毛利の量見もどうなるかわかったものでない。旧織田家の諸将で秀吉に従っている者共も離反する者が多かろう。
(器用に引き上げるがよいわ。ぐずぐずしていると、泥沼に足をふみこんだようになる)
と考えた。
そこで、三十日、全軍に命令を出した。
「明《みよう》五月一日、味方総がかりをもって、敵と有無《うむ》の一戦を遂《と》げる。皆々その心して用意せよ」
全軍皆その支度をして、夜の明けるを待った。
ところが、翌日の払暁《ふつぎよう》、また命令が下った。
「引き上げ」
というのである。
前日から引き上げのことを知らせては、兵らが心をゆるませるから、敵がそれに乗じて夜襲したり、引き上げるあとから追撃したりする恐れがあるからである。
秀吉は帰りがけの駄賃《だちん》に木曾川のほとりにある加賀井《かがのい》城と竹ケ鼻城とを陥《おとしい》れ、伊勢に入って多芸《たげ》郡を巡視して、六月十三日大垣に帰り、さらに西に向った。
連合軍側では、信雄《のぶかつ》は小牧から居城の長島にかえったが、家康はなお小牧にとどまっていた。しかし、実際上は、これで戦争はすんだようなものであった。以後はもう戦いはないのである。
この戦争は、いずれが勝者であり、いずれが敗者であるか、判別がむずかしい。秀吉方は長久手で敗れた後、報復をねらったが、ついに果せなかった。要するに、家康に負けっぱなしであった。
しかし、戦争によって得た利益は、秀吉の方が大きかった。信雄の所領であった伊賀全国を取った。同じくその所領である伊勢もごく一部をのぞくほかは手中に帰した。尾張も信雄の領国だが、その北の方をかじり取った。
こんな風だから、家康は戦闘に勝ち、秀吉は戦争に勝ったと判定すべきであろう。
この戦争に、最もあわれをとどめたのは、滝川|一益《かずます》であった。滝川は柴田にくみした科《とが》によって、柴田の滅亡後、越前大野郡で五千石の隠居知行《いんきよちぎよう》をもらって暮していたのだが、こんどの騒ぎがおこった時、秀吉に呼び出されて、
「勝利の上は、ごへんの旧領である北伊勢五郡をあてがい申そう」
と言われて、勇み立って、旧臣らを召集し、北伊勢に向って、神戸《かんべ》城に入った。
当時|蟹江《かにえ》城は信雄の臣佐久間甚九郎正勝の居城であったが、この頃正勝は信雄の命《めい》で他に出張して、佐久間の母方の叔父《おじ》前田与十郎種利が留守《るす》していた。
一益は、この前田与十郎といとこ同士《どち》だ。一益は与十郎に書面を出し、
「こと成らばしかじかの重賞をあたえるであろう。われを城に引き入れよ」
と申し送った。
与十郎は承知したばかりでなく、わが子長種、わが弟治利も誘って、承諾を申し送った。長種は前田城主、治利は下市場城主、両城ともに蟹江の近くだ。
滝川は志摩の鳥羽《とば》城主|九鬼嘉隆《くきよしたか》と相談して、伊勢の白子《しらこ》ノ浦《うら》から出て、蟹江川口につき、川をさかのぼって蟹江城に入った。
滝川が蟹江城に目をつけたのは、ここは信雄の居城である長島と連合軍の作戦基地の一つである清洲《きよす》とのちょうど中間にあるので、この連絡を蟹江の線で断ち切るためであった。だから、蟹江に入城するとすぐ、蟹江の西方二キロの地点にある大野城の山口重政を味方に引き入れようと使いをつかわしたが、山口は拒絶した。
「その儀ならば」
と、舟をつらねて大野川をさかのぼって攻撃をかけたが、山口の防戦は巧妙をきわめ、火を投じて滝川方の舟を焼き立て、進むことが出来ない。
これがケチのつきはじめであった。家康の寵臣《ちようしん》井伊万千代は、蟹江の東方五キロの中島郷松葉にいたが、夜、西方の空が炎で焦《こ》げているのを見ると、
「すわや、敵が海べの村々に焼働《やきばたら》きしていると見えたり」
と、判断して、家康に報告をおくっておいて、援《たす》けに向った。信雄からも援兵が馳《は》せ向った。滝川方でも九鬼が加勢すべく船で来たが、連合軍側の海岸の防備が厳重で、船を川に乗り入れることが出来ない。いたし方なく、川口付近の海上にとどまった。
そのうち、家康も駆けつけ、信雄も出て来た。こんな小局部の争奪戦に、主将二人まで出て来たのは、長島と清洲との連絡路線を敵に取り切られることが最も痛いことであったからだ。
連合軍側は、下市場城を猛攻した。九鬼はこれを救おうとしたが、あたかも退潮時になったために、舟を川に乗り入れることが出来ない。しかたがないので、滝川に使いをつかわして、
「最早、蟹江城は敵中の孤城となりおえたれば、守るも詮《せん》なし、退去なされよ」
とすすめて、滝川が城を脱出して来るのを待っていると、織田方の兵船がおしよせて来たので、戦いながら退却した。
滝川は九鬼の勧告を道理と思ったので、城を脱出して舟で逃げかけたが、織田方の兵船が番をしていて通れそうにない。いたし方なく城に引きかえした。
その翌日、連合軍側は、家康と信雄が二人ながら出て、蟹江城の総攻撃にかかった。滝川は力をつくして防いだが、三の丸を奪われ、二の丸と本丸につぼんだ。
以後十日間、滝川は抵抗をつづけたが、寡勢《かぜい》である上に、兵糧《ひようろう》、弾薬も欠乏したので、ついに降伏を申しこんだ。
連合軍側では、
「前田与十郎は、佐久間甚九郎が叔父《おじ》として、留守《るす》をまかされながら、恩賞に心を迷わして、あずかっている城を開けわたし、敵を引き入れた大欲大悪の者、捨ておきがたし。首を討《う》って差出《さしだ》せ」
と、条件をつけた。
滝川はついに与十郎を殺し、その首を差出して、降伏した。
滝川は助命せられて城を出ると、神戸《かんべ》城に行ったが、守将の富田知信《とだとものぶ》は滝川が秀吉に無断で蟹江城を開けわたしたことをなじって、城に入れなかった。
滝川としては、もはやこの世に立つことの出来ない身となったことを知らなければならなかった。妙心寺に入って僧となり、その後は丹羽長秀の世話になって越前でおわったとも、諸国を流浪《るろう》して餓死《がし》同様になって死んだとも伝える。
老人雑話に、
「信長の時は天下の政道四人の手にあり。柴田、秀吉、滝川、丹羽なり。左近(滝川、左近将監《さこんのしようげん》に任ず)、武勇は無双《むそう》の名ありて、度々|関八州《かんはつしゆう》を引受けて合戦《かつせん》す。関八州の者は滝川の名を聞いても畏《おそ》れしほどなりし。末に至って散々の体《てい》なり」
とあるが、ぼくは運に見放されたのだと思う。蟹江城を手に入れて、長島城と清洲城の連絡を断ち切ろうとした戦略は、滝川のすぐれた謀略《ぼうりやく》を十分に証明している。ぼけてはいないのである。ただ、彼はそれまで浪人していたために、よい部下が少なくなっていて、大野城の攻略に失敗したり、潮時《しおどき》が悪かったりしたために、万事皆うまく行かず、ついに手も足も出なくなった。運命に見はなされていたといわざるを得ない。
わがいのちを助かるために、前田与十郎を斬ったのは、武将にあるまじき不信義のふるまいであり、その修養の不足は蔽《おお》うべくもないが、人間は貧すれば鈍するのである。不運が重なると、知恵の鏡も、心の鏡も曇るのである。滝川一益の生涯は、人間の心の働きが境遇によってどんなに変るものであるかの、好適例であろう。
三
秀吉は一旦《いつたん》大坂に引き上げたが、八月にはまた兵をひきいて美濃《みの》に入り、先鋒《せんぽう》を楽田まで出し、自分も木曾川を渡り、小牧山の東北方八キロの二宮山に上って敵情を偵察したが、翌日は山をおりて、小牧の西北四キロの小折に来て、付近の村々を焼きはらい、その西北方の木曾川のこちらに砦《とりで》を三か所こしらえた。
家康は清洲にいたが、信雄《のぶかつ》とともに兵をひきいて、小牧の西南方四、五キロの岩倉に出て、秀吉と相対した。
しかし、この時も両雄は対立したままで動かない。
秀吉は、こちらもこの長戦《ながいく》さに飽《あ》きたが、家康の方も飽いていると見たので、丹羽長秀を中に立てて和議を持ちかけさせた。
天下人《てんかびと》の業《ぎよう》をなしつつある秀吉としては、長久手の敗戦があるだけに、かえって面子《メンツ》の立つ講和を結ぶ必要があると思ったので、こんな条件をつけた。
「信雄からその女《むすめ》、家康の二男|於義《おぎ》丸(二男とはいえ、長男信康が死んでいるのだから、嫡子《ちやくし》といってよいのだ。後の越前秀康)、異父弟久松定勝、家康の老臣石川数正の子、信雄の老臣滝川三郎兵衛の子、以上を人質《ひとじち》として差出《さしだ》してもらいたい」
ずいぶん高飛車《たかびしや》な要求だ。連合軍側では負けたとは思っていないのだから、これはまとまる道理がなかった。丹羽の周旋は実を結ばなかった。
秀吉は築いた砦《とりで》に兵をおいて、大坂に帰った。
十月下旬、秀吉が伊勢に出たので、岡崎に帰っていた家康は清洲に出て来て、酒井忠次らを桑名《くわな》に出して、信雄の兵とともに、秀吉に対せしめた。
こんなことをくりかえしている間に、秀吉はいつまでもこんな戦いをつづけているのは損だと思う心が切になった。せっかくの機会に、信雄をたおすことが出来ないのは残念だが、こうなっては、それはまたの機会にして、こんどはこのへんで切り上げねば、大へんなことになると思った。
そして、全面講和をしようとするからむずかしいので、先ず信雄と単独講和してしまえば、それですむわけだと思った。元来この戦《いく》さには、家康は信雄に頼まれて、義によって助勢したという名目になっている。本当はそうではなく、信雄が亡《ほろ》ぼされれば、こんどは自分の番であると思ったからに相違ないが、表面は義によっての助勢ということになっている。従って、信雄が講和した以上、もう家康には戦いを継続すべき理由がなくなる。また、従って、家康とも自然和議が結ばれるわけである、――と思案したわけだ。
本来なら、信雄の立場として、どんなに甘い条件を示されても、家康に相談なしに和議を承諾してはならない道理だが、そこは薄馬鹿の信雄だ、何とかうまく行くはずと、心をきめて、縄生《なおう》(桑名の南二キロ、町屋川のほとりにある)の本営に、富田知信と津田信勝を呼んだ。二人とも以前信長の側近くつかえて、今秀吉の家来となっている者共だ。
秀吉は二人に言った。
「わしが信長公の手厚いご恩を受けて、今日の身になったことは、そなたらもよく知っていることじゃ。世に信長公というお人がおわさなんだら、わしのようなものがどうしてこうなることが出来よう。海山の恩ということばはあるが、わしの信長公に受けたご恩はまさにそれだ。この高大なご恩にくらべては、明智を討って弔合戦《とむらいがつせん》して、ご鬱憤《うつぷん》を慰め奉ったことも、とうてい及びはせぬ。されば、信雄様をはじめ、信長公のご一族にたいして、わしがどうしておろそかに思い奉ろう。しかるに、信雄君はわしのこの心をおわかりなく、わしを憎んで亡ぼそうとし給うたので、いたし方なく、立ち上って戦《いく》さした。決して決して、わしの本意ではないのじゃ。何とかして和議して、信雄様にお目にかかりたく思うぞ」
しみじみとした秀吉のことばに、富田も津田も涙をこぼした。
「殿がその思召しでおわすのであれば、われら信雄様の許《もと》にまいり、お心のほどを申しのべます。必ず和議はなることと存じます」
「そうしてくれるか。頼むぞ。しかしながら、このことはわしと信雄様の間だけのこととして、徳川殿には聞かせぬがよいと思う。徳川殿の耳に入れては、まとまる話がまとまらぬ」
て、秀吉は念をおした。
「かしこまりました」
ちょうどその時、信雄は兵をひきいて桑名に出ている。
二人は桑名に行き、信雄に会って、秀吉の心を述べた。
信雄は、戦争に飽《あ》きが来ている。調子よく勝っているならまだしものこと、伊賀・伊勢の領地はほとんど全部敵に占領され、尾張の北部もかじり取られている。つまらないことをはじめてしまったと、今では後悔している。そこへ、父の近臣であった二人が来て、秀吉の心のうちを、泣かんばかりにして説いた。
「そういう、羽柴が気持ならば、わしも羽柴を憎むことはやめよう。とすれば、和議ということになるようだな」
と、とぼけたことを大まじめで言う。
「それでは、和睦《わぼく》を遊ばすのでございますな」
「うむ」
二人は立帰って、秀吉に告げる。
秀吉はおり返し、二人をまた桑名につかわして、早速のお聞入れ、涙のこぼるるばかりにうれしくござる、善は急げと申せば、早速、明日お目通りを許されたいと、乞《こ》わせた。ぐずぐずしているうちに邪魔が入ってはならないと思ったのだ。
信雄はよい気持だ。さらば、明日町屋川のこちら岸の河原《かわら》で会おうと答えた。
翌日、秀吉は町屋川を渡って、向う河原で床几《しようぎ》に腰をすえて、信雄の来るのを待った。間もなく、信雄は騎馬で来た。秀吉の待っているのを見て、十間ばかり向うで、馬をとめておりた。秀吉は、小腰《こごし》をかがめ、小走りに信雄の側まで来て、河原の石に跪《ひざまず》き、両手をついて平伏して、
「今日まで、お手向《てむか》いして戦《いく》さいたしましたが、今日よりは全く主君と仰いでおつかえいたすでございましょう。うれしいことであります」
と言った。そして、献上の礼をとって、贈物をする。
一、黄金二十枚
一、不動国行の刀
一、米三万五千俵
信雄は益々いい気持だ。有頂天になった。
秀吉のこうした芸当を、不快に思う読者があるだろう。ぼくも不快だ。しかし、必要によっては、こんな芸当も出来たのは、秀吉の強みであった。それは、彼が最も微賤《びせん》な階層からの成上《なりあが》りものであったためだ。小|身代《しんだい》でも豪族と名のつく家の生まれでは、ぜったいに出来ることではない。
四
ばかを見たのは家康であった。信雄が単独講和したのは十一月十一日のことであったが、彼はその前々日、九日に岡崎から清洲まで兵を出していた。信雄に助勢のためであることは言うまでもない。
すると、その翌々日、ちょうど桑名の町屋川の河原で信雄と秀吉の対面のあった日だ。酒井忠次がこのうわさを聞きつけて、おどろいて、家康に報告した。
「ふうむ」
家康はうなった。普通なら信ぜられることではないが、相手が信雄だからまさかと思われるような阿呆《あほう》なことをするかも知れない。
「よく調べてみるよう」
と言っているところに、信雄から使いが来た。
「しかじかの次第で、羽柴の懇請《こんせい》によって、和睦《わぼく》をいたしました。徳川殿には色々とご助力下され、厚くお礼申し上げますが、右の次第でありますれば、この上はお引取り下されたし」
という口上だ。
ずいぶん勝手な言い草だ。日雇人夫《ひやといにんぷ》にひまをやると同じあしらいと言ってよい。ひょっとすると、信雄は、亡父信長と家康の関係を盟友の間とは思わず、主従の関係くらいに思っていたのかも知れない。大家《たいけ》の子供で少し足りない男にはよくあることだ。家康はかっと激し上って来るものがあったが、こらえた。腹を立ててかれこれ言ってみたところで、器量をさげるばかりだからだ。家康は眉毛《まゆげ》一本動かさずに、いとももの静かに言った。
「それは重畳《ちようじよう》のこと、天下万民のよろこびでござる。家康もよろこんでいたと申していただきたい」
と返答して、使者をかえし、その日のうちに出発して岡崎にかえった。そして、石川数正を使者として、信雄と秀吉のところへつかわして、和睦の賀詞《がし》を言わせた。
家康が祝いの使者まで送って、信雄との和平をよろこんでくれた以上、実質的には家康と和平も成ったようなものだが、秀吉としてはやはり正式の和睦をしたい。そこで、信雄を中に立てて、和睦《わぼく》を申しこんだ。
これらの和議の成立の結果、
一、信雄の領地は尾張、北伊勢の四郡(桑名《くわな》・員弁《いなべ》・朝明《あさけ》・三重)、伊賀の一郡(山田)とする。但《ただ》し、尾張北部の犬山城と河田|砦《とりで》は秀吉に譲る。
一、伊賀三郡(阿拝《あはい》・伊賀・名張)と南伊勢の七郡(鈴鹿《すずか》・河曲《かわわ》・一志《いつし》・飯高《いいたか》・飯野《いいの》・多気《たき》・度会《わたらい》)は羽柴の所領とする。
一、信雄の女《むすめ》を羽柴の養女とする。
一、織田長益(信雄の叔父《おじ》、後の有楽斎)、滝川三郎兵衛|雄利《かつとし》、佐久間甚九郎正勝、土方勘兵衛|雄久《たけひさ》、中川勘右衛門雄忠等の子供か母親を人質《ひとじち》として羽柴に差出《さしだ》すこと。
一、家康の次男|於義《おぎ》丸を羽柴の養子とする。
と、決定した。
十二月十二日、於義丸は浜松を出発して、大坂に向った。於義丸の近習《きんじゆ》という名目で、石川数正の子勝千代、本多作左衛門重次の子仙千代が随従し、石川数正が護衛した。
於義丸は間もなく秀吉の養子となって秀康と名乗ったが、秀吉の関東|征伐《せいばつ》後、秀吉の命によって関東|結城《ゆうき》氏のあとをついで結城|宰相《さいしよう》と呼ばれ、後松平姓にかえって、越前の領主となった人である。
これで、中央の地には一応平和がかえって、天正十二年は暮れた。しかし、北陸方面では、しんしんと降る根雪《ねゆき》の中に、あやしい雲が動いていた。
越中富山の佐々成政《さつさなりまさ》は、柴田の滅亡後、前田利家を頼んで秀吉に降伏し、本領を安堵《あんど》してもらったものの、衷心《ちゆうしん》の秀吉ぎらいはどうしようもない。尾《び》・勢《せい》の野に戦雲が動いて、秀吉を敵として信雄と家康の連合軍が起《た》ったと聞いて、佐々は、
(しめた!)
とばかりに、心中こおどりして、信雄に味方を申しおくったが、隣国の前田利家が油断なくかまえているので、うちに爪《つめ》をとぎながらも、静まり返っていて、八月末になって突如《とつじよ》として立ち上った。能登《のと》と越中《えつちゆう》との国境近くに前田方が取立てている朝日山の砦《とりで》へおしかけたのだ。しかし、この時は大雨が降り出したので、格別なことも出来ず、退却しなければならなかった。
次は九月十一日、一万五千の兵をひきいて、やはり能・越の境に近くある末森《すえもり》城におしかけ、ときの声を上げながらひしひしと取巻き、猛攻を加えた。城将奥村助右衛門|永福《ながよし》は、寡少《かしよう》の兵を指揮してよく防ぎつつ、金沢へ急報した。
利家は、長男利長を引きつれて急行し、つくや、佐々勢を撃ち破って、包囲を切りほどいた。その時、末森城は二の丸はすでにおち、本丸にこもって拒守《きよしゆ》していたのであった。
佐々は、前田勢に新しく能登から長《ちよう》九郎左衛門の軍勢が馳《は》せつけたのを見て、整々と退却して、越中にかえった。
以後、佐々は身動き出来ないことになった。西の加賀、能登、これはもちろん敵地だ、東の越後の上杉も敵だ。
彼らはたがいにしめし合わせて、旅商人の通いも禁止したので、越中は厳重な封鎖の中にとじこめられたのだ。
やがて冬になり、北陸の野は厚い雪に降りこめられた。佐々《さつさ》には天下の形勢がまるでわからないが、どうやら戦局は膠着《こうちやく》状態におちいっているらしいと判断した。まさか信雄がおめおめと講和しようとは、佐々も思いもよらなかったのだ。
佐々は膠着状態をゆりうごかしたいと決心し、思い切った方法を取った。
北アルプスを横断して信州に出、そこから南下して浜松に達しようと計画したのである。越中の常願寺《じようがんじ》川をさかのぼって、立山《たてやま》連峰の鷲岳《わしだけ》と浄土山の間の鞍部《あんぶ》の、昔はさらさら越えといい、今はざら峠というを越え、針ノ木谷を通り、針ノ木岳と蓮華岳《れんげだけ》の間の針ノ木峠をこえ、雪渓《せつけい》を経て信州の仁科《にしな》(今の大町)に出る嶮路《けんろ》である。勇士百人をすぐって従え、十一月二十三日に富山を出発して、途中いく人の家来を死なせ、十二月四日、浜松についた。
形勢はまるで佐々の予想しない方向に進んでいた。和議が成立し、家康は数日後には次男の於義丸を大坂につかわすことにしているのだ。
佐々は、おどろき、いかり、あわて、秀吉との和睦《わぼく》が将来の大禍《たいか》となることを、懸命に説いて、和議の放棄をすすめたが、家康はもう動かない。
「元来、わしは秀吉とは少しも怨《うら》みのないものであるが、信雄殿に頼まれたので、命を捨てる覚悟で加勢したのだ。その信雄殿が和睦された以上、わしが戦いを継続すべきいわれはない。それで、わしは和睦することにした。しかし、そなたが思い立ってことを起されるなら、ずいぶん加勢はいたそう」
佐々はなお、
「徳川殿は三河・遠州・駿河《するが》・甲州・信州五か国を領していなさるのでござれば、かつての信玄に倍するご威勢でござる。拙者《せつしや》は越中を領していますれば上杉謙信に似ています。昔、信玄と謙信とが合体したなら、天下に敵する者はなかったはず、今貴殿と拙者とが結べば、勢いはそれに倍します。天下を横行して恐るるものはなきはず」
と、大言《たいげん》して口説《くど》いたが、家康は笑うばかりだ。
佐々は長島に行って信雄《のぶかつ》に言ったが、信雄はもう戦《いく》さには懲《こ》りている。何といっても承諾しない。
佐々は失望して浜松にかえり、またさらさら越えして越中にかえった。従士百人のうち、よくかえりつくことが出来たのは、わずかに十余人であった。
佐々は今は世の中の落ちつく先きがわかって、こう歌を詠んだ。
なにごとも変りはてたる世の中に
知らでや雪の白く降るらむ
佐々は秀吉に降伏したいと思ったが、とりなしてくれる人がない。
東隣の上杉景勝には以前煮え湯をのましており、西隣の前田利家にもこの前煮え湯をのました。もはや、取りなしてくれるはずはないのである。
五
年が明けて天正十三年になった。秀吉は信雄《のぶかつ》との懇親《こんしん》を一層かためておいて、三月下旬、紀州を征伐《せいばつ》した。紀州の根来寺《ねごろじ》の衆徒と雑賀《さいが》衆とが、去年信雄・家康と通謀《つうぼう》して大坂を襲撃しようと企てた罪を伐《た》つという名目であった。約一月で、すっかり平定して大坂に帰ったが、この期間に丹羽長秀が自殺した。
長秀は去年から積聚《せきしゆう》という病気をわずらっていた。腹内の一部にかたまりがあり、それがひどく痛むのである。苦痛はたえきれないほどであり、所詮《しよせん》死病であると思ったので、
「たとえ病気であっても、おれが命を取るとはまさしき敵である。男たるものが、敵を討《う》たで死んでなろうか」
と言って、刀をぬいて腹を切り、腸《はらわた》をたぐり出すと、異様なものが出て来た。とり上げて見ると、形は石亀《いしがめ》のようで、くちばしが鷹《たか》のくちばしのように尖《とが》って曲り、背中には今長秀の切ったあとがついていたという。
癌《がん》のたぐいであろうか、結石のたぐいであろうか。
長秀は武勇すぐれた人ではあったが、人がらは至っておだやかである。年も五十を越えている。それでありながら、こんなにはげしいことをするのだから、この時代の武士の猛烈さはおどろくべきものである。
秀吉の紀州征伐は、土佐の長曾我部元親《ちようそかべもとちか》をおびやかした。信雄・家康と通謀して大坂を襲おうとしたのは、紀州の連中だけではない。長曾我部も一枚|噛《か》んでいる。そこで、様子を窺いかたがた、老臣の谷忠兵衛をつかわして、
「世間の物騒《ものさわ》がしさのために、久しくあいさつも打ち絶えていましたが、他意あってのことではありません。貴方《きほう》のご武勇の余威をもって、元親儀も四国を平均することが出来ましたれば、日ならず幕下《ばつか》に属して、四か国の兵をひきいてご先鋒《せんぽう》をつとめさせていただくでありましょう。このこと言上のため、家臣谷忠兵衛をさしのぼせます」
と、あいさつさせた。
これにたいして、秀吉は、
「元親四国を横行して我意《がい》をふるうにより、近日十万の兵をさし向けようと思っていたが、その方をつかわしてあいさつしたにより、征伐《せいばつ》はさしゆるす。元親には土佐一国をあてがうにより、他の三国は公収《こうしゆう》する。この旨《むね》心得て、早々に上洛《じようらく》せよ。もし延引せば、征伐|不日《ふじつ》にあるものと覚悟せよ」
ずいぶん高飛車《たかびしや》な態度だ。信雄をだまして講和する時とくらべれば、お月様とスッポンほどの違いがある。場合場合に応じて、こんな違った態度がとれるところが、秀吉だ。これもまた卑賤《ひせん》からの成上《なりあが》りもの特有の有力な武器なのである。
谷忠兵衛はきりきり舞いして、土佐に帰った。
四国征伐は六月からはじまった。総大将は小一郎秀長、三手にわかれて四国におしわたった。一手は淡路《あわじ》を経由して阿波《あわ》に入り、一手は中国路から讃岐《さぬき》の高松にわたり、一手は伊予の新麻《にいま》に入った。総勢十二万三千という大軍であった。これではたまらない。元親はついに土佐一国を安堵《あんど》するという条件で降伏した。
四国のことがきまったのは八月上旬であったが、この月には秀吉はこんどは自ら馬を越中に向けた。
佐々《さつさ》は必死の防戦をするつもりで、国分五十八か所に砦《とりで》をとり立てて迎えたが、秀吉の大軍を見て心がくじけ、信雄を頼んで、髪を剃《そ》り、法衣を着て、あわれみを乞《こ》うた。秀吉はこれをゆるし、越中の新川《にいかわ》一郡を隠居《いんきよ》料としてあたえて、お伽衆《とぎしゆう》とした。
お伽衆とは話相手衆の意味だ。かつては武勇すぐれて武功を立てた人物もいれば、学者もおり、歌人もいる。大村|由己《ゆうこ》など学者兼歌人だ。曾呂利《そろり》新左衛門のような滑稽軽口《こつけいかるくち》の名人もいる。
要するに無聊《ぶりよう》を慰《なぐさ》むための話相手だが、当時は書籍が今日のように多くなく、読書の習慣のある武将は至って少なかったから、お伽衆との会話が、学問にも、娯楽《ごらく》にもなったのである。
佐々|征伐《せいばつ》の時におこった不測《ふそく》の出来ごととして、こんなことがあった。
丹羽長秀の子長重は、秀吉に従って出陣したが、たまたま長重の家臣が軍令に違反したのを咎《とが》められて、長重は越前、加賀の両国の領地を削られて、百万石の身代《しんだい》が二十万石ほどにされてしまった。
一体、秀吉にとって、長秀は大恩人だ。秀吉が柴田と対抗の立場にあった時、長秀が秀吉を庇護《ひご》してくれたことによって、秀吉は大いに助かったのである。織田家の遺臣らも、「五郎左殿が力を入れていなさるのじゃから」と言って、秀吉に味方する者が多かったはずである。
この恩義を思うなら、長秀の子にたとえどんな過失があったにしても、大目に見るべきで、こんな峻烈《しゆんれつ》な処罰をしたのは、秀吉の失徳と批評してよいかも知れない。
しかし、この批評は、次のようなことも承知した上で下すべきであろう。
一、戦《いく》さがいつはじまるかわからないこの時代の大名の知行《ちぎよう》は、一種の能力給になっている。あとつぎがいなかったり、不肖人《ふしようじん》であったりしては、任《にん》にたえないから、知行を減ずるのは当然の処置であった。
一、長重に父の功を誇って、秀吉を凌《しの》ぐような所為《しよい》はなかったか。もしそうであったら、秀吉は決して仮借しなかったであろう。秀吉には常に出身の卑賤《ひせん》についてのコンプレックスと共に、人の世話になったことにたいするコンプレックスがある。相手が謙虚であれば、秀吉は大いにこれに報《むく》いて、感謝の意を表するのであるが、相手が傲慢《ごうまん》で、こちらを見下げるような態度を示せば、容赦《ようしや》しないのである。長重にはそんな点はなかったであろうか。彼の家来が軍令に違反したのは、この時だけでない。九州|征伐《せいばつ》の時も違反して、また領地を削られている。こんなに度々違反するのは、長重自身にどこか心掛があやまっているからに違いなかろう。
以上のようにも考えてみたが、それでも、この一事に関しては、ぼくは秀吉のやり方を甘心《かんしん》しない。長秀の子なのだ。もっと温《あたたか》い処置であってほしいのである。
六
これらのことの間に、秀吉の官位はしきりに昇進した。紀州征伐をはじめる直前の三月十日に、彼は内大臣に任ぜられた。こうなれば、彼の母――尾張中村の貧しい百姓の家に生まれ、織田家の傷痍《しようい》兵卒の妻となり、死にわかれて織田家の失業|茶坊主《ちやぼうず》の妻となり、妻としては最も不幸であった、秀吉の母は大政所《おおまんどころ》と呼ばれることになり、ねねは北の政所と呼ばれることになる。
秀吉は征夷大将軍《せいいたいしようぐん》となって、幕府《ばくふ》をひらきたかったが、征夷大将軍には頼朝以来、清和《せいわ》源氏の者でなければつけないきまりになっていると、当時の人には考えられていた。実際はそんなことはない。鎌倉幕府は、三代|実朝《さねとも》のあとは、京都から藤原氏の少年を連れて来て将軍に立てること一人、親王《しんのう》を立てること四人である。しかし、当時は誰もそんなことは知らない。清和源氏の出身でなければなれないものと思いこんでいた。
秀吉は、前将軍の義昭に自分を養子にしてくれるよう頼んだ。義昭は当時毛利家の食客《しよつかく》となって、備後《びんご》の室津《むろのつ》にいたのだ。義昭はこれを拒否した。万事皆失敗、今は往年の野心も陰謀《いんぼう》もあきらめてしまっていた義昭も、さすがに自分の家柄は売りたくなかったのであろう。
このことを聞いて、当時の右大臣|菊亭晴季《きくていはるすえ》が秀吉にこう説いた。
「あんた、征夷将軍にえらい執心でおいやすようどすけど、征夷将軍いうのは、朝廷では微官《びかん》どっせ。本来は鎮守府《ちんじゆふ》将軍と同じ格のものどすよって、従五位上の位《くらい》どっせ。そんなもんに、なんでそうなろうとしやはるのどす。朝廷で一番えらいのは、関白《かんぱく》どす。太政《だいしよう》大臣が一番えらいことになってますけど、関白いう職が出来たら、関白が一番えらいことになりました。関白になりはったらどうどす」
「なるほど」
と、いうわけで、菊亭晴季は大車輪に朝廷の内外を駆けまわって、ついに秀吉を近衛前久《このえさきひさ》の猶子《ゆうし》として、関白にすることに漕《こ》ぎつけた。この時、晴季のふところにした金銀と、上は皇室から公家《くげ》さん達にまいた金銀とは莫大《ばくだい》なものであった。皇室も、公家さんらも、長い戦国の間の貧乏の苦しさが強迫観念になっていて、金銀にはまことに弱いのである。
とはいうものの、土民《どみん》の出生を近衛家の猶子にしたことは、やはり世間の評判が悪い。とりわけ、公家社会の評判が悪い。実力皆無、生活力皆無、人に威張れるのは家柄しかないという公家さんにとって、第一の尊貴な家柄を土民に乗り取られたとあっては、おもしろくなかったのも無理はないのである。
秀吉はこれをなだめるために、皇室の所領を増したり、公家さん達にも領地を加増したりしたが、それでも評判はよくならない。
ここで、菊亭晴季がまた知恵を出す。
「一体、日本人の名字は自然のうちに出来たのどすけど、そのもとになっとる姓、藤原とか、平とか源《みなもと》とか、橘《たちばな》とかいうのは、全部天皇さまが賜《たま》わったものどす。新しく姓をこしらえて、民に賜うのは、天皇さまの大権《たいけん》の一つどす。天皇さまもここのところ七、八百年もその大権使うてやはりまへんが、久しぶりに使うてもろて、新しく姓を下賜《かし》してもらわはりましては」
「よろしかろう。その手続きをとって下され」
この翌年のことになるが、ついに天皇は新たに「豊臣」という姓を立てて、秀吉に下賜された。
まあこんなわけで、秀吉は関白となり、その勢力のおよぶ地域は、西は下関海峡から以東の中国地方、南は四国・紀伊・志摩、中は五|畿内《きない》、北陸は越後以西、東は尾張以西という広大なものとなったが、徳川家康を何とかしないかぎりはこれ以上の動きが取れなくなった。
しかし、家康を薬籠中《やくろうちゆう》のものにすることは、なかなか出来そうになかった。家康は秀吉の所望に応じて次男の於義《おぎ》丸を秀吉の許《もと》に送りつけたあとは、一切知らんふりをしている。
秀吉はなんとかして膝許《ひざもと》に呼びつけて、臣事《しんじ》させたい、せめては信長と家康との関係に持って行きたいと思った。その打診のつもりで、佐々|征伐《せいばつ》の直前、
「近く北国《ほつこく》征伐に出陣すべきにつき、御家臣の重立った者二、三人の子供を証人(人質)として差出《さしだ》していただきたい」
と言ってやったが、家康は返事もよこさなかった。
佐々征伐から帰って来てから、催促《さいそく》してやったが、また返事がなかった。
秀吉は家康にあぐねた。
ちょうどこの時、信州上田の真田昌幸《さなだまさゆき》が帰属を申しこんで来た。昌幸は家康と不和になり、徳川勢に上田城を攻囲され、どうにか撃退はしたものの、後々のことを案じて、秀吉を後楯《うしろだて》にえらんだのであった。秀吉はこれを許して、上坂《じようはん》させて会った上で、上杉景勝に指示して、昌幸を助勢させるようにした。秀吉は昌幸を通じて、家康をいびり出してやろうと思ったのだ。穴にこもっている古狸《ふるだぬき》を松葉でくすべ出すようにして。
その昌幸と同じ頃、酒井忠次、大久保忠世とともに、徳川家の家老であった石川数正が出奔《しゆつぽん》して来て、秀吉に身を投じた。石川は岡崎|城代《じようだい》であったのを、その地位をすてて来たのであった。
前に石川のこの出奔に二つの解釈のあることを述べた。一つは利欲に迷って、はじめから秀吉に内通していたという説、一つは家中が石川の内通|云々《うんぬん》をあまり言い立てるので、居づらくなって出奔したという説。
ところが、ここにもう一説ある。石川の子供勝千代は、本多作左の子仙千代とともに、於義丸の遊び相手として、大坂に上っている。ところが、秀吉の度々の人質《ひとじち》請求にたいして、家康は返答すらしない。それで、秀吉は怒って、於義丸をはじめ供の者皆を殺すことにきめたといううわさが、家康の家中に聞こえて来た。石川はこのうわさによって、わが子|可愛《かわい》さに心を迷わせ、ついに出奔の決意をしたという説。
どれか一つにきめなければならないことはない。いずれもある程度ずつ加味していると見た方が、最も納得《なつとく》出来るかも知れない。
ぼくは以上の三つのほかに、秀吉のスカウトを考えたい。数正が秀吉と最初関係をもったのは、秀吉が柴田|退治《たいじ》から帰って坂本城にいる時、家康から戦勝祝賀使として派遣された時であった。秀吉は数正に面と向って、これまでの彼の徳川家にたいする忠誠や、武功を、口をきわめて褒《ほ》めて、数正を感激させた。
次は小牧の対陣の時だ。秀吉は石川の金の馬簾《ばれん》の馬《うま》じるしが日にかがやき、風に吹かれてひるがえるのが実に見事であるとて、使いを馳《は》せて、
「おことの馬じるし、まことに見事でござる。お譲り下さるまじくや」
と、乞《こ》わせた。石川は承諾してこれを贈った。これも、秀吉の巧妙な収攬術《しゆうらんじゆつ》だ。
三度目は於義丸を秀吉のもとに送りとどける護衛の役となって上坂した時だ。それは天正十二年の十二月中旬であったが、石川は翌年の三月まで大坂にとどまって、秀吉の紀州征伐には、於義丸の供をして出陣までした。石川としては、初陣《ういじん》の於義丸のためにも、また徳川武士の代表者的立場であるためにも、大いに働かざるを得ず、従ってずいぶん武功を立てたに相違ない。秀吉は例によって激賞し、
「あっぱれ日本一、徳川殿はよい家来をお持ちだ。羨《うらや》ましい。そちにだったら、わしは十万石はつかわすぞ。いつでもよいぞ、気が向いたらまいるがよいぞ」
というようなことを言って、びっくりするほど褒美《ほうび》をくれたに違いない。
もちろん、石川は秀吉の誘いに乗る気はなかったであろうが、秀吉に心酔し、世の中で最も自分を買ってくれる人であるとありがたく思ったに違いない。
こんな心で国に帰ってみると、これまでは何とも思わなかった家康の吝嗇《りんしよく》ぶりが大いに気になる。つらい、きつい奉公を多年つづけて、すぐれた手柄もずいぶん立てて来たのに、やっと一万石そこそこの知行《ちぎよう》しかもらっていない自分だと思うと、ばかばかしくもなった。
そこに、家中の者は石川は秀吉に心を通わしている二心者《ふたごころもの》などと言い立てる。そのうち、家康の頑固《がんこ》のために、於義丸とともに可愛《かわい》い勝千代が殺されるのだという。
「ええい! ままよ! どうして暮すも一生だ。士《さむらい》はおのれを知る者のために死すというわ。秀吉公こそ、おれを一番知ってくれる人だ。行ってやれ!」
と、飛び出したと、ぼくは解釈するのである。
秀吉は十万石をあたえた。
彼のあとから、信州|深志《ふかし》(今の松本)の城主|小笠原貞慶《おがさわらさだよし》、三河刈屋の城主水野忠重も出奔《しゆつぽん》して、秀吉に帰属した。平松金次郎も出奔したが、これは途中で討取《うちと》られた。徳川家はてんやわんやの騒ぎであった。
七
秀吉は石川が来たことを利用した。織田|信雄《のぶかつ》から、石川数正の出奔したことにたいする見舞という名目で、織田長益、滝川三郎兵衛、土方勘兵衛の三人を使者として家康のところへさし向けてもらって、こう言わせた。
「貴家《きか》の老臣《おとな》石川|伯耆《ほうき》が、脱走して関白《かんぱく》の許《もと》に奔《はし》ったとのこと。貴家人多き中にも、伯耆は心術《しんじゆつ》、智略、武勇、いずれも万人にすぐれて、別してお大切に思召してお出《い》での由、うけたまわっていましたのに、天魔に魅入《みい》られたのでありましょうか、思いもよらぬことをいたしてしまいました。お落胆《らくたん》さこそと存じますが、お家はすぐれたる人が別して多いのでありますれば、実際には事欠かれるようなことはありますまい。羨《うらや》ましく存じます。しかし、いかがでしょう、関白のところにお顔をお出しになりましては。伯耆が譜代《ふだい》のお家を捨てて関白に走ったのも、関白にたいする貴家のご方針があまりに強硬であるのをあき足らずとしてではないかと、拙者《せつしや》共には考えられるのでありますが」
家康は、見舞の礼だけを言って、秀吉の許に出頭云々のことには答えなかった。
こうして、天正十三年は暮れた。
翌十四年の正月十三日、秀吉はこんどは自分の使いとして織田長益、羽柴|勝雅《かつまさ》、滝川三郎兵衛の三人をつかわして、上洛《じようらく》をうながしたが、家康はまた答えなかった。
二十一日に、また織田長益、滝川三郎兵衛、羽柴勝雅、土方勘兵衛の四人をつかわした。ちょうど、家康は三河の吉良《きら》に鷹狩《たかがり》に行っていたので、使者らはそこへ行った。
家康は愛鷹を拳《こぶし》にすえ、床几《しようぎ》に腰をかけて、使者らを引見した。四人がこもごも使命をのべると、家康は鷹をあやして食べものをやりながら、こちらを見もしないで言った。
「わしがなんで秀吉殿の下につかねばならんのじゃ。わしも秀吉殿にかまわん故、秀吉殿もわしにかまわんでほしいの。わしの言うことはそれだけ。退《さが》るがよかろう」
取りつく島もない。いたし方なく、四人は退って旅館についたが、翌日また面会を請《こ》うた。家康は会ったが、いきなり叱《しか》りつけた。
「わいらは、まだぐずぐずしていたのか。わしには昨日言うたこと以外に言うべきことはない。早う帰れ!」
羽柴勝雅が恐る恐る、
「関白殿下がこれほどことをわけて、申し越されるものを、そう無下《むげ》におことわりになっては、殿下はお腹立ちになりましょう。そのあげく、戦《いく》さなどというようなことになっては、いかが遊ばします? 拙者《せつしや》度々殿下のお使いとなってまいりまして、当国《とうごく》の様子はいくらかわかっているつもりでございますが、城も、砦《とりで》も、さほど要害堅固とは拝しませぬ。お危ないことではございませんか」
と言うと、家康はむっとした様子で、
「阿呆《あほう》め! 秀吉殿が手並は、わしはよう知っている。わしは秀吉殿に勝っているが、秀吉殿はわしにまだ勝っておられぬのだぞ。わいら、もう来るなよ。来れば殺すぞ」
とどなりつけて、追いかえした。
使者らはすごすごと大坂に帰り、秀吉に報告した。
「ふうん、うむ、ふむふむ……」
と、秀吉はうなずきながら聞いていたが、聞きおわると、
「よしよし、よくわかった。強情無類じゃのう。が、やがてはわしの膝《ひざ》の上に抱き上げられるのじゃ。ハハハ、ハハハ、大儀であったな。退《さが》ってゆるりと休むがよい」
と言って退らせた。
その時、風呂《ふろ》の用意が出来たことを知らせて来た。
「よし来た」
秀吉は気軽に立って湯殿《ゆどの》に行き、風呂に入った。もちろんむし風呂である。暗いなかで十分に蒸《む》されてから洗い場に出て、小姓《こしよう》らに垢《あか》をかかしている時、忽然《こつぜん》として思い浮かんだことがあった。
「勘兵衛を呼べい! まだ城内にいるかも知れぬ。居ずば、追いかけて行け! 追いつかずば、家まで行って連れて来い!」
と、立てつづけにさけんだ。
小姓《こしよう》の一人が大急ぎで出て行った。
秀吉は小姓らに垢をかかせつづけながら、思い浮かんだ工夫を、さらにくわしく検討してみた。
(大丈夫、行ける!)
と思った。
明智|征伐《せいばつ》の間、備中《びつちゆう》から引き上げて来て姫路についた時、城中の風呂場で、出陣の段取《だんどり》の工夫がついて、湯殿にそれぞれのかかりの役人を呼び出して、差図《さしず》をしたが、この時もまた風呂場で工夫がついたのであった。
やがて、上り湯をかけてもらって、からだを拭《ふ》いてもらっている時、土方勘兵衛が小姓に連れられて帰って来た。
「ここへ来い、ここへ来い」
と、呼び入れて、なおからだを拭かせながら、言った。
「おれはたった今、家康を呼びつける工夫が出来た。これなら、必ず出来る」
勘兵衛は黙って、秀吉の顔を見ている。熱心な目だ。
「家康はずっと前に女房を亡《な》くして、久しくやもめでいるという故、そこに目をつけた。おれが妹を家康が嫁につかわそう。そうなれば、おれと家康とは兄弟になる。兄の家に来るのを厭《いや》とは言うまいではないか」
勘兵衛は秀吉の妹とは誰のことだろうと、しばらく考えた。秀吉には妹としてはおあさというのが一人いるだけであり、それは尾張の烏森《からすもり》(中村の近く、今の柳森村の中にあるという)城主|副田《そえだ》甚兵衛吉成に縁づいていて、そのほかに妹があるとは聞いたことがないのだ。
しかし、こう言われる以上、いなさるのだろうかと、なおも考えていると、おっかぶせるような秀吉のことばがつづいた。
「甚兵衛から離縁をとらせて、家康につかわす」
土方勘兵衛とは、信雄の命によって岡田|長門守《ながとのかみ》を上意討《じよういうち》したあの男だ。聞こえる勇士であったが、あっ! と声を出さんばかりに、おどろいた。
秀吉は平然たるものだ。
「このこと、三介様に今夜中に申しておくよう。そして、明日朝の間に、ここへ参られるよう申せ」
てきぱきと、言いつける。
副田甚兵衛は呼び出されて、浅野弥兵衛から、
「しかじかのわけ故、天下のためと思うて、離縁をとらせなさるよう。かんにん分として、五万石加増を賜《たま》わる」
と、申し渡された。
副田はしばらく考えた末、苦笑と共に、
「天下のためと仰せられる上は、辞退は出来ません。離縁をとらせましょう。しかしながら、かんにん分の禄《ろく》は辞退つかまつる。武士として、妻を売ると等しきことは出来申さぬ」
と言って、退出したが、帰宅すると、お城で殿下が召しておられると言って、妻を秀吉の許《もと》に出してやった後、髪をおろして、閉じこもった。この後|隠斎《いんさい》と号し、再び世に出《いで》ずしておわった。
おあさはもう四十四だ。甚兵衛にそってから二十五、六年にもなる。夫との間を引きはなすのは死以外にはないと思いこんでいたのに、こんなことになって、胸のつぶれる思いであった。しかし、当時の上流階級の女のあわれさだ。家長《かちよう》の言付《いいつけ》にそむくことは出来ない。あたえられた運命として、黙って従ったのである。
話は急速にきまって、おあさは朝日姫という名になり、四月の末大坂を出発し、五月十四日に浜松について、無事|入輿《じゆよ》した。
が、家康は上洛《じようらく》するとは言わない。言わないどころか、一層秀吉を警戒して、東方の北条氏との懇親《こんしん》を深めることにつとめた。北条氏の当主である氏直には先年娘のおふうを入輿させて、親密な関係になっているが、わざわざ伊豆の北条領まで出かけて、当主の氏直とその父氏政とに会って、楽しく酒宴して親しみを深めた。
ついに、秀吉は最後の手を打つ。
八月下旬に浅野弥兵衛を浜松につかわして、
「われら明年九州|征伐《せいばつ》にまいろうと心組んでいる故、ぜひ対面して戦《いく》さの相談したし。ご安心のためには、老母をその地に差し下しても苦しからず。まげて上洛あるよう」
と、言わせた。
ここまでされては、家康も強情は張れなかった。上洛を承諾《しようだく》した。
なおこまかな相談が行われて、大政所《おおまんどころ》の岡崎到着とともに、家康は岡崎を立つことに話がきまった。
大政所の三河行きについては、秀吉の家中にも異論があった。蜂須賀彦右衛門はきもをつぶして、
「これはまたなんとしたこと、昔から今まで、天下人《てんかびと》が下の者に人質《ひとじち》を出したということは聞いたことがござらぬ。殿下のご威勢にもかかわりますこと、おやめなさるように」
と諫言《かんげん》した。
秀吉は笑った。
「人がしたことのないこと故、おれがして、後の語り草にするのよ」
十月十日、大政所は大坂を出発して、東に向った。もちろん、家康上洛のための人質として下るとは言わない。嫁入った娘と面会のためという名目である。十八日、岡崎についた。
この以前家康は朝日ご前と同道して、十五日に浜松を出て岡崎に来て、大政所の到着を待っていた。
徳川家の家中には、秀吉は顔が猿に似ているだけに、知恵たくましい男と聞く、ひょっとして、母と称して贋物《にせもの》をつかわすかも知れんぞと、疑っている者もあったが、大政所の行列が到着し、岡崎城の城門を入り、輿《こし》が玄関前にかきおろされ、大政所が立ち出ずるとともに、朝日が走り寄った。
「おお、おお、おお……」
大政所はわななく声をあげて両手をひろげた。その腕の中に、朝日は走り入った。母娘はひしと抱き合い、涙にむせんだ。
母娘がもし上流武家の生まれであったら、こうは行かなかったろう。
社会の最下層に生まれ育った人々であるから、再会のよろこびの表現がこんなに純粋になったのである。
人々は感動し、涙をこぼして、この有様を眺めた。疑いを解いたことは言うまでもない。
二十日、家康は岡崎を出発して、大坂に向った。
鎮西《ちんぜい》経略記
一
家康は二十四日に京都に到着した。井伊《いい》直政、大久保忠世、本多重次らをはじめとして多数の供を引連れていた。京都では六万騎ほどの軍勢と取沙汰《とりざた》したことが多聞院《たもんいん》日記に見えるが、なにそんなにありはしない、数千のものであった。
秀吉は前もって浅野弥兵衛と富田将監《とだしようげん》とをつかわしておいて、最も鄭重《ていちよう》に迎えさせた。
翌日、両人の案内につれて京都を立ち、途中|枚方《ひらかた》で一泊して、二十六日に大坂についた。
大坂での旅館は、小一郎秀長の屋敷が用意されており、随従《ずいじゆう》の将士らのためには、秀長の屋敷に入り切れない分には近隣の大名屋敷が準備されていた。もちろん、家康にたいしても将士にたいしても、下へも置かない鄭重な取りあつかいがされる。
一体、徳川家の武士らは、今川・織田の両強隣の間にはさまれ、主家《しゆか》は亡国同様となり、今川家から最も酷烈な虐待《ぎやくたい》をされて、二十年近くを経過して来たのだ。これが彼らを鍛えて、最も強健《きようけん》にして、自分と主家とは運命共同体的な切っても切れないものという精神を持つ、忠義|一徹《いつてつ》な兵員に育て上げもしたが、同時に他国にたいしてはおそろしく猜疑《さいぎ》心の強い、頑固無類の性格にもした。彼らは秀吉のこんどの招待を虚心《きよしん》で受取ることが出来なかった。
「油断|召《め》さるな。どういう腹黒い手だてがあるかわかり申さぬぞ」
というのが、彼らの合言葉であった。
しかし、京都以来の鄭重《ていちよう》をきわめた待遇は、ようやく彼らの猜疑心をやわらげた。もちろん、捨て去りはしない。多分の疑いをのこしながらも、
「ほほう、案外な……」
という気になったのである。
疑心をいくらか解きはしても、信用するまでには至っていない彼らは、組を定めて交代して主人の宿所を警戒し、夜に入って益々厳重にしていると、初更《しよこう》を過ぎる頃、数人の従者を連れただけで来る者がある。
ばらばらと馳《は》せより、
「誰だ?」
と鋭くとがめると、その一団に付添《つきそ》っていた当家の家老|藤堂高虎《とうどうたかとら》が進み出て、
「殿下《でんか》でござる。殿下でござる」
と言った。殿下などといっても、徳川家の兵らにはわからない。
「デンカ? デンカ? デンカとは?」
すると、一団の中心になっていた小柄《こがら》な男がつかつかと出て来た。
「関白《かんぱく》殿下じゃよ。徳川殿にあいさつのために来た」
「えッ!」
松明《たいまつ》をかざして熟視した。なるほど、チビ男ではあるが、一番よい服装をしている。綸子《りんず》らしい白無地《しろむじ》の小袖《こそで》に金糸や銀糸のきらめく羽織を着、何やら美しい模様のついた小袴《こばかま》をはき、太刀《たち》は従者に持たせている。
兵らの知らせで、本多平八郎が出て来た。これも兵らに松明をかざさせて熟視した。話に聞いた通りの秀吉によく似ていた。疑いはなお解かなかったが、鄭重《ていちよう》に式体《しきたい》して言った。
「拙者《せつしや》は徳川の家来、本多平八郎でございます」
と言うと、秀吉はいきなり言う。
「おお、平八郎か、そなたが武勇のほどよく知っているぞ。とりわけ、小牧《こまき》の陣において、竜泉寺川をはさんで、わずかの勢《せい》をもっておれが数万の勢に戦《いく》さしかけた武者ぶりの見事さ、今も目の前に見えるぞ。日本一の武者ぶりであったぞ」
明るく、陽気に、闊達《かつたつ》なほめぶりだ。いかにもなつかしげに、ほれぼれとした目をそそいでいる。
「おほめにあずかり、面目《めんもく》に存じ上げます」
平八郎の疑いはとけた。しみじみとうれしくなっていた。
秀吉のこの思いがけない訪問は、家康とその重臣らをもおどろかした。あわてて迎えに出た。
「遠路を来ていただいたうれしさを申そうと存じて、急に思い立ってまいったのであります。お気を楽にして、お会い下されたい」
かたくなっている家康主従に、こう言って、秀吉は従者らを控えの間にのこし、太刀持ちもつれず、脇差《わきざし》ばかりで、客殿に通った。
秀吉がそう出る以上、家康としても、家臣を側にはおけない。家臣らに退《さが》るように言った。すると、秀吉は、
「そなたらは、退る前にわしが家来共のところに行き、持参させた酒肴《しゆこう》を受取ってここに運んでくれい」
と、言った。
持参の肴は重箱に詰《つ》められ、酒は銀の提子《ひさげ》に入れられていた。秀吉は自ら毒味《どくみ》をした後、家康にすすめ、数献を酌《く》んだ後、
「実は夜陰にまいったのは、先《さ》っき申したあいさつ以外に、折入ってお願い申したいことがあるのです。それは……」
と言って、家康の側にすり寄り、耳に口をよせて、ささやいた。
「われら、今官位|人臣《じんしん》の至極《しごく》をきわめ、天下兵馬の権をにぎり、天下の大名共の過半は旗本に従えていますが、ご承知の通り、卑しき土民《どみん》の出《で》でありますので、大名共の多くは昔の同僚や朋輩《ほうばい》であります。そのため、内心ではわれらを主と敬う心がありません。お願いと申すはここのこと。貴殿と正式の対面の場に、われら諸大名を列席させます。その節、われらはいかにも尊大にふるまいますが、貴殿はいんぎんに礼をしていただけますまいか。さすれば、大名共、徳川殿すらあのように殿下《でんか》を尊敬《そんきよう》なさる、われらこれまではあやまったりと、心を改めるであろうこと、疑いないと思うのです。せつに頼みまいらせたいのでござる」
家康が秀吉の招きに応ずる決心をしたのは、秀吉の妹をめとったからでもなければ、大政所《おおまんどころ》が娘に会うことを名として人質《ひとじち》に来たからでもない。それは動機にすぎない。小牧長久手合戦《こまきながくてのかつせん》では優位を持ちつづけたものの、所詮《しよせん》は今の力では秀吉の大勢力に敵することが出来ない、弱みが出て来ない前に妥協した方が有利な関係を結べると判断したからである。
(心をきめて出て来た以上、悪あがきはすまい。徹底的に屈服するのが最上の利をつかむ途《みち》だ)
と、覚悟をつけて来ている。最も慇懃《いんぎん》な様子で答えた。
「かしこまり申した。お妹|御《ご》に添《そ》い申して、かく参上いたしました上は、何事にもあれ、おんためよろしきようにいたすでございましょう」
秀吉は涙をこぼさんばかりによろこびの色を見せた。家康の手をとっておしいただき、
「ああ、早速に承諾《しようだく》下され、ありがたくござる。お礼の申しようもござらぬ。秀吉、恩に着ますぞ」
と、感動に声をふるわせた。
正式の会見は翌日大坂城で行われた。
家康が来たということを聞くと、秀吉は庭におり、かなりに出て来て迎えた。織田|信雄《のぶかつ》も来ていて、秀吉と一緒に庭におりて来た。三人はたがいに語りながら、ご殿の入口のところまで来た。
秀吉は先きに上ってふりかえり、
「さあ、お上り下され」
と、家康をうながしたが、家康は信雄《のぶかつ》に先きに入るように言った。信長の遺子であり、その官は内大臣であるが、家康はこんど本国を出る少し前に秀吉の執奏《しつそう》で権中納言《ごんちゆうなごん》になったに過ぎない。英雄という英雄、一本調子な性格の人物はない。皆複雑な性格の持主であるが、家康はとりわけそうだ。この上なく横着でずるいところがあるかと思うと、おそろしく律義《りちぎ》な面がある。桶狭間《おけはざま》合戦から岡崎に逃げ帰った時、今川家の守将は早く帰国したくてならないので、本丸に入ってくれと言ったのに、家康は、「駿府《すんぷ》よりお差図《さしず》のあるまではいかでか」と言ってことわり、菩提寺《ぼだいじ》の大樹寺に入った。そして、守将がやりきれなくなって、無断で駿河《するが》に逃げ帰ってから、「捨城《すてじろ》ならば拾おう」と言って、岡崎城に入っている。元来先祖代々の居城である岡崎城にたいしてすら、こうだったのだ。この時も、信雄の門地と官位とにたいして、遠慮をしたのであった。
信雄は阿呆《あほう》な男ではあるが、今日の主賓《しゆひん》が家康であることは知っている。
「いやいや、徳川殿こそお先きに」
と譲った。
たがいに譲り合って、果てしがないのを、秀吉は見ていたが、つかつかとおりて来て、家康の手を取り、
「いざ、いらせられよ」
と、請《しよう》じ入れた。
しかたはない。家康は信雄に会釈して、先きに立った。
しばらく大書院の間に家康は休憩することになる。
秀吉はみずから起って、家康に随従《ずいじゆう》して来た家臣らを隣り合った座敷に通らせた。家康の家臣らだけだ。自分の家臣は一人も上げなかった。彼は家康の家臣らがまだ疑いを捨て切っていないことを知っている。こんな者共を主人と離れたところにおいては、よくあることだ、妙なデマでも飛んだら、いきり立ってどんなさわぎになるか知れたものでないと思ったので、優遇の名目で主人の待合所の隣座敷に上げたのである。
やがて、大広間で謁見《えつけん》の儀式が行われた。諸大名が左右に居流《いなが》れ、家康の家来らも縁にひかえていたが、秀吉の家臣らはわざと入れなかった。
警蹕《けいひつ》の声とともに、荘重な衣冠《いかん》姿で秀吉は出て来て、上段の間の席につくと、下段の広間の畳五、六枚をへだてた位置に、肥《ふと》ったからだの背中をまるめて、うずくまるようにしてひかえている家康をじろりと見た。奏者番《そうしやばん》の新庄駿河守は、
「権中納言徳川家康|卿《きよう》」
と披露《ひろう》して、家康から献上の、太刀《たち》一ふり、馬十|匹《ぴき》、黄金百枚の目録《もくろく》を読み上げた。
秀吉はいきなり、大きな声で呼ばわった。
「やあ、徳川殿、ようこそ参られた。近《ちこ》う、近う」
大広間一ぱいにひびきわたり、こだまを呼ぶかと思われるばかりの大音声《だいおんじよう》であった。諸大名らは肝《きも》を冷やして、一層静かになった。
家康はまるい背を一層まるめて、いかにも恐れ入った風であったが、膝《ひざ》は進めなかった。秀吉はまた言う。
「そこは遠い。近う、近う」
「はっ」
家康はかしこまって、やっと一膝進んだ。
「もそっと、もそっと、もそっと。もう二膝進まれよ」
秀吉の高飛車《たかびしや》な態度に、諸大名はおどろいた。ひそかに顔を見合わせた。家康がどう出るか、恐怖に似たものを感じながらも、興味があった。ところが、家康がおずおずとした様子で、言われた通り二膝進んで一層かしこまった様子を見せたので、おどろいて、またたがいに顔を見合わせた。
秀吉は傲岸《ごうがん》な態度から、いかにも砕けた態度にかわって、
「お身はわしが妹聟《いもうとむこ》じゃ。なぜ世話をやかしなさる。お身がこの上強情を張るようであれば、好まぬことながら、また兵乱となるところであった。それでは天下の民《たみ》の迷惑。ようこそ心を改めて参られた。ほめてとらせますぞ」
と言った。
家康は平伏したまま、どもりどもり――元来、家康は少しどもるくせがあるのだ――言う。
「ありがたくお礼申し上げます。さ、さりながら、こ、こ、今日まで参りませなんだのは、わ、わ、われらの不心得の、た、ためではござりませなんだ。領、領内の仕置《しおき》、仕置が、片、片づきませず、国を、不在《るす》にすることが出来、なんだのでございます。お心をわずらわし奉り、申訳次第もございませんが、ご諒《りよう》、ご諒解《げ》を、願いたてまつります」
どもりどもりのことばが、いかにも誠実さと敬意とがあふれているようであった。諸大名はおどろきを深くした。
秀吉はうなずき、
「いかにも、それはわかった。ともあれ、参着《さんちやく》、満足であるぞ」
と言った。
それを合図《あいず》のように、富田|将監《しようげん》が秀吉から家康に下賜《かし》する品物の目録を読み上げた。白雲の茶入《ちやいれ》、正宗の短刀、三好郷《みよしごう》の太刀《たち》、巣大鷹等であった。
秀吉の計略は的中した。ごく短時間の間に天下人《てんかびと》となり、大名らに君臨《くんりん》するようになった秀吉にたいして、彼らは驚嘆し、また恐れてもいたが、一面には単なる幸運児にすぎないとして軽《かろ》んずる気持もないではなかったのだ。何よりも、秀吉が社会の最下層の出身であることに軽侮《けいぶ》心がないわけに行かなかったのである。しかし、故|右府《うふ》の盟友であり、駿《すん》・遠《えん》・参《さん》・甲《こう》・信《しん》五国の大領主であり、秀吉と兵を構えても六分の勝ちを占め、秀吉の妹と母との二重の人質をとって、やっと重い腰を上げて出て来たほどの家康が、こうも秀吉を恐れて敬意を表しているのを見ると、秀吉を見る目を拭《ぬぐ》わなければならないと思いはじめたのであった。
謁見《えつけん》の儀式がすむと、席を改めて祝儀の宴がひらかれた。秀吉は赤地に金糸で桐《きり》と唐草《からくさ》をぬいとりした陣羽織《じんばおり》を着て出た。酒間《しゆかん》、家康は進み出て、秀吉に、
「殿下の召《め》し給《たま》うお羽織を、今日の肴《さかな》にたまわりたくござる」
と言った。これは、前もって秀長や浅野弥兵衛がそう言うように家康に頼んでおいたのであり、その本は秀吉が秀長と弥兵衛にそう言って承諾させるように命じたのである。
秀吉はめいわくげな顔をつくり、
「せっかくの所望ながら、これはわれらの軍用のものである」
と言った。すると、家康は言った。
「われらこうしてある上は、これからは殿下に甲冑《かつちゆう》を着せ申しません。ぜひともわれらにいただきとうござる」
秀吉はうれしげな顔になり、
「そうでござるか、そうでござるか。さらばまいらせよう」
と立ち上って陣羽織をぬぎ、家康に着せ、その肩をほとほととたたいて言った。
「わしは果報《かほう》ものでござる。よき聟《むこ》をとったおかげで、これからはわしに戦《いく》さはさせぬと申さるるぞ」
これらの対話も、また仕組まれた演出だったのである。
あらゆる策略は、達人《たつじん》の目から見る時は、正視するにたえないほど危ない感じのものであるという古人の言がある。現代の我々は歴史時代のことは、敵のことも味方のことも、表も裏も、ある程度知っているという点において、達人に似ている。秀吉のこの演出を見て、滑稽《こつけい》と感ぜずにはいられない。しかし、この演出を、このようにごく陽気に、ごく闊達《かつたつ》に演じた人物は、歴史上類例がない。彼はやはり最も個性的な英雄であったと言えるであろう。
二
家康の帰服《きふく》によって、秀吉の地位は磐石《ばんじやく》となったといってよかった。家康の最も従順な態度は、織田信雄をすら秀吉が天下の主であることを否応なしに認めさせた。他の大名らに至ってはなおさらのことだ。
何よりのことは、これで東方が安全になり、鋒先《ほこさき》を九州に向けることが出来るようになったことだ。
織田信長が九州|征伐《せいばつ》の意図を抱いていたことは、前に書いた。彼は自分のかわりに部下の諸将の官位|叙任《じよにん》を朝廷に乞《こ》い、同時に朝廷から九州の名族らの名字《みようじ》を諸将に授けてもらった。たとえば丹羽長秀に惟住《これずみ》、明智光秀に惟任《これとう》のごときだ。これはやがて九州征伐をする時の用意だったのである。
それから数年立って、秀吉は軍状報告のために姫路から安土《あづち》にかえった時、
「中国地方は一、二年の間に処理をつけますが、つけましたら中国諸国の一年の年貢《ねんぐ》を拝領したく存じます。拙者《せつしや》はそれを兵粮《ひようろう》として九州を征伐しましょう。九州も一年ほどの間には埒《らち》をあけましょうから、九州諸国三年の年貢を拝領させて下さいまし。拙者はそれを兵粮として朝鮮に入り、さらに大明《だいみん》を征伐いたしましょう。拙者には大明で二百万石か三百万石いただきたく存じます」
と、信長に壮語した。
これは日本国内に領地を持つ望みはないと言うことによって、信長の猜疑《さいぎ》心を避《さ》けたのであるが、それでも全然その気がなかったわけではない。信長にとって九州征伐は必然のことであるから、それは自分が勤めさせてもらうつもりはもちろんあった。
ところが、その信長は日本統一の業《ぎよう》半ばにして横死《おうし》し、天下人《てんかびと》たる役割は自分にまわって来た。自分のこととして、九州を征伐しなければならないことになった。
当時、九州は薩摩《さつま》の島津《しまづ》氏が最も強勢《きようせい》であった。元来島津氏は鎌倉時代のはじめから薩摩・大隅《おおすみ》・日向《ひゆうが》三国の守護《しゆご》と薩摩の地頭職《じとうしき》とを兼ねた、なかなかの大族《たいぞく》であったが、その後勢いおとろえ、貴久《たかひさ》の代には鹿児島以南の薩摩半島南部をやっと保っているにすぎなくなっていた。貴久は鋭意回復につとめて、やっと薩摩のほとんど全部と大隅の一部を回復した。貴久に義久・義弘・歳久・家久の四子あったが、皆なかなか出来がよく、忽《たちま》ち薩・隅・日三州を切り平げた。
その頃、日向北部は大友氏の勢力範囲であったから、両者の衝突のおこるのも必然であった。
この頃の大友氏の当主はキリシタン大名|宗麟《そうりん》である。大友氏も鎌倉時代のはじめ以来の九州北方の守護大名で、全九州の豪族らに命令権を持つ鎮西奉行《ちんぜいぶぎよう》を兼ねる名家である上に、宗麟の父|義鑑《よしあき》の頃から中国船や南蛮船《なんばんせん》を領内に引きつけて貿易の利を得て、なかなかの富強となっていた。
宗麟の代になると、はじめはキリスト教にたいしては手厚く保護しているだけであったが、ついに洗礼を受けて最も熱烈な信者となったので、南蛮船は相ついで入港し、大友家は益々富み、軍備の点でも、その頃のヨーロッパの新鋭の武器、たとえば大砲のようなものも幾門《いくもん》か持っていた。
こんな風であったので、宗麟は島津を少しも恐れなかった。
「島津は古い家じゃが、途中でおとろえて、薩摩|半国《はんごく》すら保っていなかった家じゃ。近頃いささか景気がよいようであるが、なにほどのことがあろう。ひとあてに蹴散《けち》らしてくれる」
と、豪語して、豊後府内《ぶんごふない》を出て南に向った。若い妻を連れ、かねて尊敬するバテレンやイルマンらを先頭に立て、十字架をかざし、讃美歌を高唱させながら進軍したのだ。彼は島津を撃破したら、日向にキリスト教の理想市街を建設する計画だったのである。
両軍は日向中部の耳《みみ》川で会戦したが、大友方惨敗、死傷無数、「国崩《くにくず》し」と名づくる自慢の大砲まで奪われてしまった。宗麟夫妻は文字通りにいのちからがら、府内に逃げ帰った。
これで九州の形勢はがらりとかわった。島津の北進の勢いはずいぶん強力なものがあるが、なんといっても新興勢力だ、到底旧勢力たる大友氏の根強い力に敵《てき》しはしない、と考えられていたのが、評価が逆転した。大友氏自らも自信を失った。
島津氏は鉾《ほこ》を転じて肥後《ひご》に向った。この頃|肥前《ひぜん》佐賀に竜造寺隆信がおこって、しきりに諸豪《しよごう》を切り従えていた。新興ながら、当時の九州中部の大勢力であった。竜造寺氏の勢力が肥後にのびていたので、島津との衝突がおこったのも当然のことであった。
両者の決戦が行われたのは島原半島においてであった。竜造寺隆信が島原の有馬|義純《よしずみ》(この頃|鎮貴《しずたか》)を攻めたので、義純は島津氏に援《えん》を乞《こ》うた。島津氏がこれを諾《だく》して島原に出兵したので、竜造寺勢と決戦することになったのだ。この一戦に、竜造寺方惨敗、隆信は戦死した。
耳川の快勝があり、またこの快勝があって、島津の武名は朝日の昇る概《がい》があった。九州の諸豪は戦わずして帰服するものが多かった。勢い、島津は圧迫者となり、大友は被圧迫者となる。大友氏には立花|道雪《どうせつ》、その養子宗茂、宗茂の実父高橋|紹運《しよううん》などという、最も武勇すぐれ、最も心術《しんじゆつ》見事な武将らがいて、筑後、筑前の城々で、北進して来る島津勢に壮烈な抵抗をつづけたが、それは防いでいるというだけで、とうてい押返す力はなかった。
このような苦しさのために、宗麟は秀吉の許《もと》に使いを馳《は》せて、島津のことを訴え、出兵を乞うた。それは天正十三年の晩秋であった。しかし、この頃は秀吉にはそんな余裕はない。この年の夏紀州を征伐《せいばつ》し、四国を征伐し、つい少し前|佐々《さつさ》成政を征伐して降伏させたばかりだ。家康とのなかも一応不戦条約が出来たというだけで、情勢次第ではどうなるかわからない頃だ。とうてい九州くんだりまで兵を出す余裕はない。
そこで、島津氏にたいして、こういう書簡をつかわした。
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勅諚《ちよくじよう》によって書をつかわす。
すでに関東、奥州《おうしゆう》まで勅命に従って静謐《せいひつ》に帰したのに、九州だけがいまだに戦《いく》ささわぎしているのはよろしくない。領分境の争については事情を申立てれば、詮議《せんぎ》の上追って裁《さば》いてつかわすから、先ず合戦をやめよとの叡慮《えいりよ》であるぞ。さよう心得るように。もしこの叡慮に違背するにおいては、きびしく成敗するぞ。この返答大事に考え、熟慮していたせ。
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島津家では使者に返書を持たせてつかわしたが、その文面は大友氏との戦《たたか》いはすべて大友氏の挑発によるもので、自分の方はやむを得ないのであると述べ、全九州の守護職《しゆごしよく》に任ぜられたいと要求した。
それにたいして秀吉は、
「大隅《おおすみ》・薩摩両国の全部と、日向《ひゆうが》・筑後《ちくご》・肥後《ひご》の各半国をあたえよう。これで不満足なら、征伐するぞ」
と返答した。
秀吉の本心はこんな寛大な条件は欲せざるところであったろうが、情勢やむを得なかったのである。
薩摩人らは秀吉を少しも恐れなかった。
「土民《どみん》出身の男ごときに名をなさせたのは、上方武士共がへろへろな弱虫であるためじゃ。おいどんらはそうは行かんぞ」
と、上も下も思っていた。彼らの世間知らずのためももちろんあるが、大体薩摩人は昔も今も自信過剰なのである。つまり、軽剽《けいひよう》にして敵を軽《かろ》んずるという気風。
この翌年四月、宗麟は自ら大坂に行った。この前年の晩秋、立花道雪が久留米《くるめ》郊外の高良《こうら》山の陣中に病死したりしたので、居たたまらなくなったのであろう。
秀吉は宗麟に会って、縷々《るる》たるその訴えを聞いた。この頃は妹を家康に縁づける話がまとまったばかりで、家康との関係がどうなるかまだわからない時期ではあったが、秀吉は、
「島津征伐は以前からせねばならぬことと思っていることである。本年中に先鋒隊《せんぼうたい》をつかわし、来年はおれが自ら向うことにする。安心してまかり帰るがよい」
と言ってよろこばした後、天守閣上で、黄金造りの茶室――天井《てんじよう》・敷居・鴨居《かもい》から障子、柱に至るまで黄金製で組立式になっている茶室で、障子は紅《あか》い絹《きぬ》で張ってあったという――で、台子《だいす》・風呂《ふろ》・釜《かま》等、すべてまた黄金製の道具で、茶の湯接待をした。大坂に来て、大坂城の壮大を見てそぞろ畏敬《いけい》の念を生じていた宗麟は、この金ピカピカの茶の湯接待にあずかり、驚嘆、仰天《ぎようてん》して舌を巻き、すっかり秀吉に魅惑され、骨髄《こつずい》からの秀吉信者となって帰国したのであった。
秀吉の九州征伐先鋒隊は豊前《ぶぜん》口は毛利家がうけたまわり、毛利輝元、吉川《きつかわ》元春、小早川隆景の三人が九州にわたり、黒田官兵衛が軍目付《いくさめつけ》であった。
豊後口は四国勢がうけたまわり、長曾我部元親《ちようそかべもとちか》、十河存保《そごうまさやす》、仙石権兵衛が行きむかい、仙石が軍目付であった。両道とも、晩秋初冬のほぼ同じ頃に九州についた。
三
島津勢は秀吉の先鋒隊が九州に上陸する以前、先ず筑後、筑前方面に出動し、高橋|紹運《しよううん》のこもる岩屋城《いわやじよう》を陥《おとしい》れて紹運を自殺させ、紹運の次男の統増《むねます》のこもる宝満《ほうまん》城を陥れ、立花宗茂のこもる立花城にせまったが、陥れることが出来ず、この方面のことは帰属しているこの地方の豪族らにまかせて退陣した。しかし、秀吉の先鋒隊が両道の入口に上陸したとの報《ほう》を受取ると、また北上し、こんどは豊後口に向って、大友方の諸城をしきりに落して、臼杵《うすき》近くの利光《としみつ》城を包囲した。
この情報が府内城にとどいたので、仙石権兵衛、長曾我部元親、十河存保らは集まって軍議をひらいた。
長曾我部も十河も、
「間もなく本軍がまいる。それを待つがよろしい。軽挙してはならぬと、関白殿下《かんぱくでんか》もくれぐれも仰せられている。せめては豊前口の毛利勢と打合せの上いたすべきでござろう」
と、持重《じちよう》説を出したが、仙石は元気もので剽悍《ひようかん》な男だ。その上、長曾我部も十河も腹からの四国人だが、仙石は元来は美濃人《みのじん》で、はじめ信長につかえて秀吉の寄騎《よりき》となり、武功を積んで淡路洲本《あわじすのもと》城主となり、信長の死後は秀吉の臣となり、四国|征伐《せいばつ》に大いに働き、功によって讃岐《さぬき》を領するようになったのだ。今や軍目付《いくさめつけ》として四国勢を監督する役目になっている。四国人らに美濃武士のはげしい戦さぶりを見せてくれようという気持もあったのであろう、慨然《がいぜん》として激語《げきご》する。
「敵は利光城を攻め立て、城将利光|宗匡《むねただ》は悲愴《ひそう》なる血戦をつづけ、城の危《あや》ういこと累卵《るいらん》のごとしという。これを見すぐしにしていては、男と申せぬ。貴殿方同意なくば、われらが一手をもって後詰《ごづめ》いたす」
はやり切ったこの計画を、二人は危険とは思ったが、秀吉からつけられている軍目付にこう言われては、不本意でも従わないわけに行かない。
十二月十二日の払暁《ふつぎよう》、府内を出発して、戸次《へつぎ》川の左岸竹中山に向った。やがてついて、布陣《ふじん》すると、この時、薩摩勢は上方勢《かみがたぜい》が後詰として来たと聞いて、利光城の囲みを解いて退却したという情報が入った。
これは薩摩勢がわざと流した謀略《ぼうりやく》であったが、仙石は張り切った。
「さてこそ、薩摩人共は臆病風《おくびようかぜ》に吹かれたと見えたり。戦《いく》さは、気に乗ずるをよしとする。川をわたって追撃にかかり申そう」
と主張した。長曾我部も十河も、
「それはよくござらぬ。当地の地勢は守るによい地勢。われより進んで戦うは危《あぶ》のうござる。待ちかまえて弱を示し、敵を誘って掛らせて、撃破し、浮足《うきあし》立つところを追いくずすがようござる」
と説いたが、仙石は耳にも入れない。
「貴殿らが不同意なら、拙者《せつしや》の手だけで追いかけ申す」
と、いきり立って、二千人をひきいて川を渡ってしまった。二人ともしかたがない、つづいて渡った。
薩摩勢は三隊にわかれて密林中に埋伏《まいふく》して待ちかまえていたので、一斉に攻撃にかかり、猛烈をきわめた。
ついに四国勢は大惨敗、十河存保《そごうまさやす》は戦死、元親の長男長曾我部|信親《のぶちか》も戦死、老臣|桑名《くわな》太郎左衛門も戦死。元親は辛うじて伊予の日振《ひぶり》島にのがれた。権兵衛さんはどうかといえば、讃岐に逃げかえったのだ。
戸次川の戦いは薩摩勢の大快勝であった。秀吉の豊後口|先鋒《せんぽう》隊はこれで潰《つい》え去ったのであり、大友氏はその本拠府内城を捨てて逃亡せざるを得なくなり、豊後のほとんど全域が薩摩勢の手に帰したのである。しかし、これがこの戦争におけるただ一つの薩摩勢の白星であった。あとはまるでいけない。
戸次川の戦いのあった一月くらい前に、最も上首尾《じようしゆび》に秀吉との対面をすませた家康は岡崎にかえり、大政所《おおまんどころ》は岡崎から京にかえって来て、秀吉は安心して兵を西に向けることが出来るようになっていた。彼は仙石の失敗を怒って讃岐《さぬき》を取上げ、権兵衛を高野山《こうやさん》に追い上げておいて、軍勢のくり出しにかかった。
その軍勢らは年の明ける頃から続々と九州に到着した。こうなると、これまで薩摩勢の威になびいていた豪族らは心を動揺させ、旗色《はたいろ》がおぼつかなくなる。薩摩勢は他国で戦うことを不利として、蛇の穴に入るように薩《さつ》・隅《ぐう》と日向《ひゆうが》の南半分とに引き上げにかかった。
三月二十五日には、秀吉も赤間関《あかまがぜき》に到着して、豊前路と豊後路の両面から、薩摩軍を追尾《ついび》にかかった。豊前路は秀吉自ら向い、豊後路は小一郎秀長が向った。
薩摩勢は全然これと接触しないで、しんしんとただ退却して行ったが、日向南部の根白坂《ねじろざか》で一度だけ猛烈な反撃戦に出て、終夜激戦したが、ついに上方勢の砦《とりで》を破ることが出来ず、敗退した。
秀吉はついに薩摩に入り、川内《せんだい》川の河口に近い川内に至り、太平寺を本陣として、さかんな軍容を示した。
鳥取城の攻囲や高松城の攻囲等によってもわかるように、秀吉の戦《いく》さぶりは、敵に数倍する大軍を出し、武器・糧食《りようしよく》の補給を豊富にし、壮大な規模の仕掛をし、敵を驚胆駭目《きようたんがいもく》させて戦意を奪うという方法だ。現代にたとえればアメリカ軍の戦術に似ている。アメリカ軍は戦争はへただ。何度も負けて最後に物量によって勝つのである。秀吉はアメリカ軍のように下手《へた》ではない。小部局の戦争にも負けることは少ないのであるが、巨大な物量をおしげもなく投入する点は同じである。川内における軍容誇示にも、この手を使った。
「川内川には兵船数千|艘《そう》浮かび、河口の京泊《きようどまり》という港まで三里の間、すき間もなく碇泊《ていはく》していた。この間には京や堺《さかい》の商船が何千艘となくはさまっていたが、これらの船も兵船と同じく、幟《のぼり》、指物《さしもの》を立て、幕《まく》を打って飾《かざ》り立ててあり、川風にひるがえり、岸の松風や波の動きに揺れている。陸《おか》には京勢数万騎に九州の大名・小名らが打ちまじり、十三里四方には天地もなく見えた」
と、高橋|紹運記《しよううんき》にある。昔の文章にありがちな誇張はもちろんあろうが、これは秀吉の手なれた戦術だ。薩摩の田舎士《いなかざむらい》共の度胆《どぎも》をぬいてくれようと、大いに手をつくしたことは疑いない。
こうして威容を示しながら、当時|備後《びんご》の鞆《とも》の津《つ》にわび住《ずま》いしていた前将軍足利義昭に手をまわして、義昭から和議をすすめる使者を島津家につかわさせた。
島津家としては、これ以上の抗戦は無駄だ。抗戦を継続すれば、もちろん上方勢に相当以上の損害をあたえることが出来るだろうが、その間には離反する者が出て、最も見苦しい滅亡をしなければならない可能性は最も多い。
「一方、関白《かんぱく》の方じゃて、いつまでもこげん日本の隅《すみ》につなぎとめられていることは不利益じゃから、早くけりをつけたがっていることは必定じゃ。うまく交渉すれば、本領―薩摩・大隅と日向半国くらいは取止めることが出来るはず」
と計算を立てた。
そこで、降伏を、日向路の小一郎秀長に申し入れた。秀長は即時に聞入れ、日向南部の那珂《なか》郡は伊東氏の故領《こりよう》であるとて伊東氏にあたえ、大隅のうち一郡を島津家の家老|伊集院《いじゆういん》氏にあたえたほか、薩摩・大隅・日向の南半分を島津氏に安堵《あんど》することを許した後、太平寺の秀吉に報告した。
これらの処置は、実際は秀長の独断ではなく、ひそかに秀吉が秀長に旨を含めておいたことであったが、秀吉は表面は怒って、
「無断でこのような処置をして不都合である。この度はゆるすが、重ねてかようなことをすれば、成敗《せいばい》申しつけるぞ」
と叱《しか》りつけた。弱みを見せまいとしての芝居なのである。
島津義久は秀吉が真に降伏をゆるし、領地の条件も履行の誠意のあることを確かめると、五月六日鹿児島を出、途中寺院に入って剃髪《ていはつ》して墨染《すみぞめ》の衣《ころも》をまとい、竜伯《りようはく》と法名《ほうみよう》して、八日|川内《せんだい》についた。
この時、竜伯入道の供まわりはわずかに十五、六人であった。川内の町に入ると、道の両側に上方武士らが透間《すきま》もなく居ならんでいる。この時の恥かしさは今に忘れられないと、供の一人であった山田|昌巌《しようがん》が、後年|述懐《じゆつかい》している。強いことを男の第一資格とする薩摩人だ、死にたいほどの気持であったろう。ようように通って、太平寺に入り、案内につれて庭前の白洲《しらす》に通り、竜伯が白洲にすわって、拝伏すると、かかりの者が披露《ひろう》した。
すると、秀吉は最も闊達《かつたつ》な調子で声をかけた。
「やあ、竜伯か。近《ちこ》う寄《よ》れ、近う寄れ」
竜伯は立ち上り、小腰《こごし》をかがめて、縁ぎわまで近づいた。
秀吉はまた言う。
「竜伯よ、なかなか礼儀正しいの。しかし、腰のまわりがさびしいようじゃの。これをつかわそう」
と、自らの佩刀《はいとう》備前包平《びぜんかねひら》と三条|宗近《むねちか》とを取ってどうと縁側に投げ出した。
竜伯はつつしんで拝領した。
そのあと、秀吉は竜伯を座敷にあげ、主従《しゆじゆう》かための盃《さかずき》をした。この時、庭には竜伯の従者が三人だけ許されて通り、土下座《どげざ》していたが、これを見て、ふと、
(こげん時には、よう毒飼《どくがい》なんどということがあるものじゃが……)
と不安になった。すると、それとほとんど同時に、秀吉は酌《しやく》とりの家来に向って、大きな声で言った。
「儀式だけのことじゃ。盃には酒はつがんでもよいぞ」
この秀吉の闊達《かつたつ》さと、思いやりの深さに、薩摩の君臣はハッと平伏し、涙のにじんで来るのを覚えた。
以上は薩摩に伝える文書によって書いたが、ともあれ、竜伯入道義久の秀吉へのお目見《めみ》えは最も上首尾《じようしゆび》におわったのである。竜伯は人質《ひとじち》として第三女|亀寿《きじゆ》を差出した。
四
降伏に不得心《ふとくしん》の者が、薩摩に二人いた。竜伯の三弟歳久と重臣の新納《にいろ》武蔵《むさし》忠元である。元来この二人は開戦前には非戦論者であった。
「関白が日本の中央地帯の兵をこぞって押寄せるとあっては、はじめの間こそ相当な防戦も出来ようが、ついには力衰えて、どうにもならぬことになろう。力尽きて降伏するくらいなら、はじめより朝命《ちようめい》に従うという名目で和議した方がよい」
と主張したのだが、衆議はこれを容れない。
「金吾《きんご》(歳久)様も武蔵殿も腰が抜けたそうな」
と悪口した。
「われらが腰ぬけか、おはん方が腰ぬけか、今にわかろう」
と二人は憤激していた。だから、こうなると、承知しない。
「腰ぬけの骨を見せてくれる」
と、互いに連絡を取って、秀吉を撃つことを計画した。新納《にいろ》の居城は肥後境《ひござかい》から四里の大口《おおくち》で、作者の故郷だ。新納がここに籠《こも》って反抗の色を見せれば、秀吉はこれを伐《う》たざるを得ない。歳久の居城は川内《せんだい》と大口の中間|宮之城《みやのじよう》だ。大口に向う秀吉の通過をはかって横ざまに撃てば、地勢は嶮岨《けんそ》、季節は梅雨時《つゆどき》、必ず秀吉を困らしめ、あわよくば討取《うちと》ることが出来ると計算したのであった。
ところが、ここが秀吉だ。ここは薩摩人共を胆気《たんき》をもって圧伏すべき切所であると考えて、引き上げにはわざとその危険な道筋を取ることにしたのだ。
一方、竜伯入道の方では、この際めったなことをしてもらっては、一切が瓦解《がかい》する。せっせと両人に使者を出してなだめ、秀吉の許《もと》に出頭してお目見《めみ》えするようにと説《と》いた。お目見えに出なかったのは、義久の次弟の義弘もそうであった。義弘は二人とは違って降伏に反対ではなかったが、口惜《くや》しくてならないので、病気と称して居城の日向の真幸《まさき》にこもっていたのだ。義久はこれにも使いを出して説諭した。
秀吉は二週間、川内にいて、五月十八日、太平寺を出発、川内川に沿ってさかのぼり、宮之城の側を通ったが、歳久は病気を言い立ててついに出て来なかった。歳久がリューマチ様《よう》の病気であったことは事実だが、謁見《えつけん》が出来ないほどのことはなかったのだ。いかにしても意地を折る気になれなかったのである。
歳久がこうまで意地を張る気になった事情を知らない秀吉は、
(しようのない田舎《いなか》ざむらいじゃわ)
と、大いに不愉快にはなったが、どうにもならないことだ。腹を立てては器量をおとす。
「病気とあらばいたし方はない。養生につとめて早くよくなり、京へ出てまいるように申せ」
と、やさしく言って通過した。
鶴田というところまで来ると、ついに兄に説得された義弘が拝謁を願い出、十五になる長男の又一郎|久保《ひさやす》を人質《ひとじち》にさし出した。秀吉はきげんよく応対した。
秀吉はさらに進んで曾木《そぎ》村の天堂《てんどう》ケ尾《お》という丘に陣を張った。
新納《にいろ》武蔵《むさし》の居城大口はここから二里強だ。彼は防戦に覚悟をきめ、今の日向の都城《みやこのじよう》あたりまで手をのばして同志をつのり、計画をめぐらしていたが、義久からも、義弘からもいく度も使いが来て、
「お家はすでに亀寿姫《きじゆひめ》様と又一郎様のお二人を人質にお差出《さしだ》しでござる。めったなことをなされては、とんだことになり申そう。関白《かんぱく》殿へお目見《めみ》えにまかり出でられるようとの、おことばでござる」
と説《と》き立てる。
ついに我《が》を折った。城の近くの成就《じようじゆ》寺というに入って剃髪《ていはつ》し、拙斎《せつさい》と法名《ほうみよう》して、天堂ケ尾の秀吉の本陣に出頭した。
秀吉は引見《いんけん》して、薙刀《なぎなた》と道服《どうふく》をあたえたが、その時、武蔵《むさし》の気をくじくために、自ら薙刀《なぎなた》の身の方をつかみ、柄《え》を武蔵に向けて授けた。中央の記録はさすがの武蔵が胆《きも》をうばわれ、戦慄《せんりつ》しながら受けたとあるが、薩摩側の記録にはそうはない。平然として礼儀正しく受けたとある。
武蔵は武名に似ず小男《こおとこ》であったが、年六十余、早く白くなる体質であったらしく、真白なひげがさんさんと生《は》えている。秀吉に侍《じ》していた細川|幽斎《ゆうさい》は、武蔵が若年の時から歌道に心を傾けていると聞いていたが、武蔵が酒を賜《たま》わり、大盃《たいはい》をあげて飲もうとした時、
口のあたりに鈴虫ぞなく
と、口ずさんだ。武蔵はにこりと笑って、
上ひげをちんちろりんとひねり上げ
と、つけたので、一座興に入ること一方でなかった。
秀吉は人の心を取ることには自信がある。今や十分に武蔵の心を取り得たと信じたので、言った。
「武蔵、そちはまだわしと戦う気があるか」
武蔵はうやうやしく答えた。
「何ごとも竜伯《りようはく》の心次第であります。もし竜伯が思い立ちますなら、譜代《ふだい》の臣として、戦わぬわけにまいりませぬ」
秀吉は大きくうなずいた。
「よい返事じゃ。武士たるものはそうなければならぬ」
秀吉としてはここはこう言わなければならないところである。
翌日、秀吉は天堂ケ尾を立って、大口城の西方一里ほどの道を取って肥後に向った。武蔵は秀吉を送るために、その道に待ちかまえていた。
秀吉は馬をおり、床几《しようぎ》をすえて武蔵を召《め》して、ねぎらってから、声をひそめて言った。
「武蔵、その方ほどの者が陪臣《ばいしん》でいるはまことに気の毒に思う。わしにつかえぬか。十五万石をつかわそう」
前に秀吉は徳川家康の家老石川数正をスカウトしているが、この時もまたスカウトしようとしたのだ。
武蔵は小声で答えた。
「同じくはその知行《ちぎよう》、主人竜伯に賜《たま》わりましょうならこの上のうれしさはございません。拙者儀《せつしやぎ》は当国を去ること思いもよらず」
「そうか、竜伯はよい家来を持った。益々奉公にはげむがよいぞ。そちの忠義がうれしい故、これをつかわそう」
といって、軍扇《ぐんせん》をあたえ、なごりを惜《お》しんで馬にのり、ふりかえりながら立去った。
五
薩摩・大隅・日向の地は日本の最南端だ。その海岸線に点在する京泊《きようどまり》、市来《いちき》、坊《ぼう》の津《つ》、山川、志布志《しぶし》、福島、油津《あぶらつ》等の港は、この時代の中国貿易の港であり、倭寇《わこう》の発進地であった。秀吉の入ったのは、薩摩の半分であり、実見した港も川内《せんだい》川|河口《かこう》の京泊だけであったが、調子よく仕事の運ぶ時、人間の希望は際限《さいげん》もなくふくれる、彼の雄心《ゆうしん》は脈々と昂《たか》まって、思いは海をこえて異国に馳《は》せた。薩摩を出て肥後に入るとすぐ、大坂の政所《まんどころ》(ねね)からの手紙を受取ったので、こう返事を書いた。
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昨日薩摩の国を出て肥後に入った。安心あれよ。六月五日頃に筑前博多《ちくぜんはかた》に到着のはずである。ここまで来れば大坂までの半分道帰ったわけである。博多には自分の滞在のための屋敷の普請《ふしん》を命じてある。七月十日頃には大坂に帰省する予定である故、そのつもりで待たれよ。
壱岐《いき》、対馬《つしま》の国々も人質《ひとじち》を差出《さしだ》して帰服せよと申しつけた。また朝鮮へも日本の朝廷に帰服せよ、もし従わずば、来年成敗するぞと、早船を仕立てて言ってやった。生涯の中に中国まで征服し、三国を一つにして支配するつもりでいる。もし彼らが自分の命を等閑《とうかん》にするようであれば、また一骨《ひとほね》おらずばなるまい。
こんどの出陣に自分は年を取って白髪《しらが》が沢山出来て来て、今はもう抜いても追っつかなくなった。連添《つれそ》うそなたにだけはかまわないとは思うものの、やはりちょっと恥かしいぞ云々《うんぬん》。
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秀吉が外征のことを口にしたのは、そのはじめは信長の猜疑《さいぎ》を避けるためにわざと途方《とほう》もない壮語をしたのであり、本心からのことではなかったのだが、人間の心理は微妙に出来ている。一旦《いつたん》口から出したことは、心理の襞《ひだ》の中にひそんで消えない。九州の隅々《すみずみ》まで征服して、
「おれはなんでもやれる。おれの手におえないことはこの世にない」
と、溢《あふ》れる力を感じてくると、むくむくと頭をもち上げて来たのであった。今や本気になって、対馬《つしま》の宗《そう》氏にたいして、朝鮮へ自分の命を伝えるように命じた。もっとも、宗氏はその言いつけをまじめには受取らなかった。日本より朝鮮に経済的に依存することの多かった当時の対馬としては、たとえ秀吉の命令をまじめに受取ったとしても、そのまま伝えることは出来ない。うんと調子をゆるめて、
「新しく日本を統一した豊臣秀吉が貴国と修好したいと言っているから、使節を派《は》していただきたい」
という意味のことを告げるくらいが関《せき》の山《やま》であった。
隈本《くまもと》(後の熊本)につくと、肥後一国の土地配分をした。人吉《ひとよし》の相良《さがら》氏をはじめとして五十五人の地士《じざむらい》らの本領を安堵《あんど》し、その上位に佐々成政《さつさなりまさ》を起用して肥後全体の領主とした。つまり、五十五人の地士らは佐々の寄騎《よりき》というわけだ。
佐々は若年《じやくねん》から秀吉ぎらいだ。二度も秀吉の敵となっている。最初は柴田勝家の与党として抵抗し、二度目は信雄・家康と策応して抵抗した。どうにもならなくなったから、無念をおさえて降伏した。殺されても文句の言えないところだが、それを助命されたばかりか、旧領の一部である越中の新川《にいかわ》郡を安堵され、お伽衆《とぎしゆう》の一人とされた。信長|麾下《きか》の屈指の猛将と謳《うた》われた身としては、本意ないことであったろうが、
(もはや再び世に立って人がましくふるまうことは出来まい。こうなるのも、持って生まれた福運《ふくうん》のなさであろう)
とあきらめきっていたところに、思いもかけず五十万石の大国の領主にされたのだから、泣いて感激した。
肥後は天下の美国だ。菊池平野、八代《やつしろ》平野と穣々《じようじよう》たる沃野《よくや》がつらなって、この大戦中にさえ自給自足の出来た国である。米経済のこの小説の時代ではなおさらのことだ。最も豊かな国であった。しかし、よいことばかりではない。地士《じざむらい》の勢力の強い国であった。地士らは古くは鎌倉時代から、近くは南北朝の頃からの豪族共で、根強い潜勢力をもっている。秀吉はこれを案じたので、特にこう佐々に注意をあたえた。
定《さだめ》
一、五十五人の国士《くにざむらい》らには、従前の通りの知行地《ちぎようち》の所有を許せ。
一、三年間は検地《けんち》してはならない。
一、百姓いたわること肝要《かんよう》。
一、一揆《いつき》の起らないように心を用いよ。
一、公儀の上方《かみがた》の普請手伝《ふしんてつだい》は三年間は免除する。
こうして、佐々を返り咲かせておいて、熊本を出発し、途中その他の九州諸国の領地わけをしたり、こんどの戦争の論功|行賞《こうしよう》をしたりしながら、六月七日、博多についた。
薩摩を出てすぐねねへの手紙に書いた通り、ここには彼の滞在にあてるためのご殿がほぼ出来上っていた。ご殿は箱崎八幡の近くの青松白砂つづきの、最も風景のよいところに、ぜいたくに、かつ瀟洒《しようしや》に建てられていた。それを中心に、随従《ずいじゆう》の人々の宿舎も出来ており、それは整然たる町の体裁《ていさい》をなしていた。
彼はここにその月中いて、あたかも下って来た千宗易《せんそうえき》(利休《りきゆう》)や、博多の大町人|神屋宗湛《かみやそうたん》や島井宗室を相手にして、茶の湯をしたり、細川|幽斎《ゆうさい》を点者《てんじや》にして歌会をひらいたりして、悠々と遊楽《ゆうらく》しながら、二つの大仕事をした。
その一つは博多の町の復興だ。博多は上古以来の貿易港だ。各時代を通じて栄え、この時代の少し前までは十万の戸数があるほどの殷盛《いんせい》な町であったが、大友宗麟と竜造寺隆信とが十余年の間この地で合戦《かつせん》したので、すっかり荒れはてていた。秀吉は町の地域を十町四方に定め、縦横に小路を通し、南方の陸に向った方に二十間余の堀をうがつことにして、奉行を定めて経営させた。総奉行は黒田官兵衛であった。後年官兵衛の子長政が、関ケ原|役《のえき》の功を賞せられて、家康によってここの領主として来ることになったのは、因縁《いんねん》といえよう。一体、信長もそうだったが、秀吉も万事が実に能率的だ。思い立って図面を引かせたのが六月十一日、十二日にはもう工事に着手したのだ。おどろくべき迅速さだが、これだから二人によって天下が統一されたとも言えよう。
その二つは、キリスト教禁断の命《めい》を下したことだ。彼は日本在留のバテレンの総帥《そうすい》であるコエルホを陣中に従えて、時々呼び出して最も親しげに談話したり、時にはその取りなしで敵の捕虜《ほりよ》を助命したりなどしながら、九州の征伐《せいばつ》をおわったのだが、ある日、箱崎でコエルホの許《もと》に使者をつかわして、五条について詰問した。
一、バテレンらはなぜ日本人を無理強《むりじ》いにヤソ教に改宗させるのか。
一、なぜバテレンらは信徒を説《と》いて神社仏閣を破壊させるのか。
一、なぜ僧侶《そうりよ》を迫害するのか。
一、なぜバテレンやポルトガル人らは、農事に大切な牛を食うのか。
一、なぜ、バテレンの大和尚《だいおしよう》であるコエルホはポルトガル人らが日本人を買って奴隷《どれい》として印度に輸出するのを許しているのか。
コエルホは答弁書をしたためて提出した。
秀吉はこれを読ませて聞きはしたが、すげなく言った。
「バテレン共に、六か月以内に日本を立去るように言えい。日本人はバテレンやその手下《てした》共に話しすることはならぬ、背《そむ》く者は処罰すると触《ふ》れよ。宗法に関係なく、交易のためだけに来る南蛮船《なんばんせん》はかまわんが、もし宗法に関係ある者を連れてまいったりなどしたら、船も荷物も全部|没収《もつしゆ》すると告げよ」
当時キリスト教は日本において最もヴァイタリティのある宗教であった。この以前には一向宗《いつこうしゆう》がそれであったが、大坂本願寺を信長に奪われたのが契機となって、宗内に分裂さわぎがおこったりなどして、その活力は激減した。かわって活力ある宗教となったのは、この外来の宗教であった。日本の仏教諸派が信者から搾取《さくしゆ》するだけであったのに、キリスト教は病者に施療《せりよう》し、貧窮者《ひんきゆうしや》に恵むのだ。下層の民《たみ》は争って帰依《きえ》した。
またこの宗派は新しい科学知識を豊富に持っていた。須弥山《しゆみせん》を中心にして四大世界があるとか、日光|菩薩《ぼさつ》や月光《げつこう》菩薩がどうとかこうとかだとか、というような仏教の神話的地理学説や天文学説ではどうも納得《なつとく》が行かないのに、バテレンらは世界の地理、天体の運行等を、最も明快に説《と》き聞かせてくれた。仏教の僧侶らには破戒無慚《はかいむざん》な者が多いのに、バテレンやイルマンは皆清潔で徳行が高い。上流の人々も帰依する者が多かった。高山右近《たかやまうこん》、小西行長等は言うまでもないが、秀吉の侍医《じい》の曲直瀬《まなせ》道三もそれであった。黒田官兵衛まで帰依して、キリシタン名をシモンといったほどであった。
秀吉がにわかに禁教令を出した主眼は、彼がコエルホに出した詰問五条目の中で最も比重の少なく見える第一条にあると見てよかろう。つまり、九州のキリシタン大名や武士らの信仰の熱烈さと信仰による団結の強固さを見て驚嘆し、自分をとりまいている大名や近臣らが滔々《とうとう》としてこの信仰に入りつつあるのと思い合わせ、がくぜんとして危険を感じたという解釈だ。
この禁教令によって、最も痛い目をこうむったのは、高山右近であった。右近はこの頃|播州明石《ばんしゆうあかし》の領主であったが、秀吉は所領を奪って追放に処した。しかし、秀吉は右近にたいしては、賤《しず》が嶽《たけ》合戦の時、彼が中川瀬兵衛の壮烈な戦死をよそに見て、戦わずして砦《とりで》を捨てて退却して以来、好い感情を持っていなかったのである。
六
秀吉の大坂に帰着したのは七月十四日であったが、その半月後の八月はじめ、肥後で一揆《いつき》がおこった。
秀吉から特にあたえられた注意の第二条に、三年間は検地《けんち》をするなとあるが、佐々《さつさ》としてはそれを守ってはいられない事情があった。注意第一条に五十五人の地士らの本領はそのまま安堵《あんど》せよとあるが、これを正直に遵奉《じゆんぼう》すれば、五十万石の肥後の国も佐々の領地分はいくらものこらない。これでは身代にふさわしい家臣数を養うことが出来ない。大名の本務は軍役にあるのだが、戦《いく》さの際最もたよりになるのは寄騎《よりき》共より直属の家来であることは言うまでもない。有能な家臣を相当数持つ必要があるが、禄《ろく》が少なくてはよい武士は召《め》し抱《かか》えられない。どうしても収入をふやす必要がある。それには検地して、縄延《なわの》びを見つけ出して没収《もつしゆ》するより方法はない。
だから、佐々《さつさ》は地士《じざむらい》らの領地に間棹《けんざお》を入れることをはじめた。
これが地士らを刺戟《しげき》した。数百年もつづいている領主の土地は、表向きの高は千石ということになっていても、例外なく二百石、三百石の縄のびがあり、時によると内高《うちだか》が二倍以上にものぼることがある。佐々の検地は、それを表高《おもてだか》に切りちぢめ、あまる分は没収しようというのだから、地士らが色めき立ったのは当然のことであった。
最初に起ち上ったのは、菊池郡|隈府《わいふ》の城主|隈部《くまべ》親永であった。隈部の子で山鹿《やまが》城主の某も父のさしずで起ち上った。
佐々は武勇|絶倫《ぜつりん》をもって自任している男だ。
「生意気なる田舎士《いなかざむらい》め……」
と、三千の兵をひきいてみずから山鹿に馳《は》せ向った。
かねて地士らの間に連絡があったのか、隈本《くまもと》の本城が手薄になったのを見て挑発されたのか、八代《やつしろ》以北の地はことごとく蜂起して、隈本城におしよせた。その勢二万余。城内には千にも足りない数がのこっているだけであったので、忽《たちま》ち三の丸も二の丸も攻めとられ、本丸につぼまって必死になって防いだ。
急報を受取って、佐々は山鹿城をすてて取って返した。さすがに猛将だ。十倍に近い一揆勢《いつきぜい》を追い散らして、千余を討取《うちと》ったが、一揆勢はそれぞれの在所《ざいしよ》に散って、執拗《しつよう》な抵抗をつづけた。
近国の大名らが駆けつけて、佐々に力を添《そ》えたが、地理に明るく、百姓らとの結びつきのかたい地士らの抵抗だから、その戦法は多くゲリラ戦法だ。正規の軍隊にとって、これくらい始末におえない戦術はない。さすがの佐々もあぐねた。
この一揆が肥後でおこる寸前、秀吉は北野の松原で、大名も、町人も、百姓も、打ちまじって大茶の湯を興行《こうぎよう》することを計画し、制札を立てて布告《ふこく》した。制札は京の内外はもちろんのこと、堺や奈良にまで立てられた。
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来る十月一日から十日間、北野の松原で茶の湯興行をする。貴賤《きせん》、貧富の別なく、希望の者は来会させる。来って一興《いつきよう》を催《もよお》すがよい。もっとも、ぜいたくは禁ずる。倹約を旨《むね》としてやれ。秀吉が数十年の間に集めた諸道具を展示する故、望み次第に見物せよ。
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というのが、その制札であった。
また、別な制札も立てたが、その中にはこんな条目もあった。
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茶の湯の好きな者は、若党《わかとう》、町人、百姓でも来会してよろしい。釜《かま》一つ、自在《じざい》かぎ一つ、茶碗《ちやわん》一つ、茶もこがしでよいぞ。さげてまいれ。
こんどの催しは、貧しい風流人をふびんに思って行うのであるから、この催しに参会しない者は、これからはこがし茶を立てることも禁ずるぞ。不参者のところに行った者も今後茶の湯遊びすることを禁ずる。
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ずいぶん高圧的な布告だが、秀吉自身は善意にあふれているのである。
肥後の一揆がまだつづいている九月十三日、秀吉はかねて造営中であった京の聚楽第《じゆらくだい》に移転した。
秀吉は武家の棟梁《とうりよう》であるとともに、公家《くげ》の棟梁でもある。大坂城は武家の棟梁として天下に臨《のぞ》む居城であるが、公家の棟梁として公家衆をひきいて天皇に奉仕する邸宅も必要であると秀吉は考えた。
織田信長は最初|足利《あしかが》将軍をかつぎ上げ、これに忠誠をつくさせるという名目で天下の統一をはかり、義昭を流浪《るろう》の身《み》からひろい上げて将軍に立てたが、義昭は信長の手品の種になるのをきらった。信長自身も足利将軍ではもう時代おくれで、とうてい天下の武士らの心をつなぐことの出来ないことを悟った。信長は義昭を放逐《ほうちく》し、皇室を中心にする天下統一の策に乗りかえ、それまで任官を拒否しつづけて来た公卿《くぎよう》となり、しきりに進んで右大臣兼|右近衛大将《うこんえのだいしよう》になったが、横死《おうし》して統一の業を遂げることが出来なかった。
秀吉ははじめ信長のこの方策がわからなかった。わからなかったから、足利義昭の養子になって征夷大将軍《せいいたいしようぐん》となり、幕府《ばくふ》をひらこうとした。これは義昭の拒否で破れた。そこに菊亭晴季《きくていはるすえ》が関白《かんぱく》になることをすすめた。
「なるほど故上様の策はこうであったのか」
と、はじめて合点《がてん》した。
わかった以上、大いに踏襲《とうしゆう》し、大いににぎやかに、大いに大|仕掛《じかけ》にやる心をきめた。
そこで、天正十四年の初夏の頃から、京都に邸宅の造営にかかった。現在京都で聚楽《じゆらく》まわりといっている地域は王朝初期に大|内裏《だいり》があって、この頃は内野《うちの》といっているところであったが、ここを場所に選定して縄張りし、工事にかからせたのであった。
北は一条から南は二条におよび、東は堀川から西は内野までを邸地として、四方に三千|間《けん》の石垣をきずき、深い堀をめぐらして壮麗《そうれい》な建物をたてならべた。殿閣《でんかく》には七宝《しちほう》をちりばめ、金箔《きんぱく》を塗《ぬ》った瓦《かわら》で葺《ふ》き、いらかには金の鯱《しやち》を上げ、門は鉄でよろい、鳥獣草木を彫刻して、その精巧さは終日眺めていても飽《あ》かなかったと伝えられている。邸宅は聚楽第《じゆらくだい》と名づけられた。
秀吉は元来|普請《ふしん》好きであるが、この普請には特に熱心で、九州|征伐《せいばつ》の際も、甥《おい》の秀次を京にのこして、休まず普請を進めさせた。この頃になると、まだ未完成ながら、どうやら住めるような程度になったので、大坂から移ったのである。彼がこんなにも急いで聚楽第に移転して来たのは、目前にせまった北野の大茶の湯の準備のためもあったが、もう一つは来年の初夏、風|薫《かお》る頃に、ここに主上《しゆじよう》の行幸《ぎようこう》を仰ぐつもりがあったので、自ら監督して工事を急がせるためでもあった。
茶の湯は予定通り、十月一日から十日にわたって最も盛大に行われた。千宗易、天王寺屋|宗及《そうぎゆう》、納屋宗久《なやそうきゆう》というようなその頃の一流の茶の湯|宗匠《そうしよう》らは言うまでもなく、公家《くげ》、大名、高級武士らは、松原のここかしこに、身代《しんだい》と好みによってそれぞれの趣向《しゆこう》をこらした数寄屋《すきや》をかまえて、来客を待った。貧しい百姓や町人らは、松の枝に自在《じざい》かぎをかけ、手取釜《てどりがま》をかけて、同じほどの客を相手にしずかな楽しみを味わった。
最も奇抜《きばつ》であったのは、山科《やましな》の|ノ観《へちかん》という当時変りもので有名であった茶人のかまえであった。真赤な大傘《からかさ》を立て、その下に竹を三本組んで立てたのに手取釜をかけていた。松原の至るところにそれぞれの趣向をもってかまえている中に、赤い大傘はぱっと目を引いた。秀吉は興《きよう》に入って、宗易を供にして立寄り、一服《いつぷく》所望した。
ノ観は茶のかわりに、白湯《さゆ》に竹筒《たけづつ》からはらはらと香煎《こうせん》をふり出して進めた。方々の数寄屋でいく杯《はい》も茶を喫《きつ》して、すでに茶はほしくないはずと見ての機転であった。秀吉は気に入ること一方でなかった。
この茶会に、約束通り秀吉が長年の間|蒐集《しゆうしゆう》した名器類が展示されて、人々の鑑賞にまかせたことは言うまでもない。
この頃、秀吉はもう一つ続行中の工事があった。大仏の造営である。これも去年からかかっていた。京の東山の三十三間堂の近くに、十六丈の大仏をつくり、これを高さ二十丈の大仏殿に安置するという計画だ。奈良の大仏は五丈三尺五寸、その三倍あるというのが、秀吉の味噌《みそ》であった。もっとも、奈良の大仏は銅像だが、これは木像であった。
大仏殿に使用する木材は土佐と木曾から伐り出し、海路大坂に運んだが、棟木《むなぎ》になるほどの巨材がない。やっと富士山で発見して、家康に命じて海路運搬させた。のべ五万の人夫と、金千両の費用がかかったと伝えられている。倹約家の家康にはさぞかしにがにがしいことであったに相違ない。
この大仏殿の周囲や土台の石垣を築くために、石狩《いしかり》が行われた。普通の石ではなく、秀吉の特命で巨石を集めることになり、諸大名は方々に人を派《は》して巨石をさがして運搬した。蒲生氏郷《がもううじさと》が三井寺《みいでら》の上の山上で発見して運んだ石は、二間に四間という巨大なもので、氏郷自身指揮して、木やりを唱《うた》いながら、在京の家中総出で引かせたと伝えられている。
秀吉はなぜこのようなことをしたのであろうか。彼は信長のように自覚した無神論者ではなかったが、信仰心はほとんどない。だから、古来の解釈では、この大仏殿に用いた釘は、彼の分国《ぶんこく》内の百姓町人らから刀や槍《やり》、薙刀《なぎなた》等を徴発してそれをもってつくっているところから、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が天下の武器を集めて銅像や鐘※《しようきよ》(よくわからないが、鐘とそれをかける台だろうといわれている。当時の武器は青銅だったのである)とを各々十二ずつつくり、兵乱のおこるもとを塞《ふさ》いだという故智にならったものであろうという。
それはもちろんあるにちがいないが、それだけではあるまい。これまでの誰も出来なかったことをして、自分の偉大さを宣伝しようとしたのであろう。この頃からの秀吉は好んで壮大なことをし、前人《ぜんじん》の誰も出来なかったことを、次から次へとしているが、それらはいずれもこう解釈すればほぼ納得《なつとく》がいく。一身の器局《ききよく》以外に頼るべきものが無にひとしい彼としては、自己の偉大さを天下に印象づけ、その印象を深めることに不断につとめるよりほかに、自らの権威を保つ方法はなかったはずである。
こうして天正十五年は暮れ、十六年になった。その四月十四日、時のみかど後陽成《ごようぜい》天皇は聚楽第《じゆらくだい》に行幸《ぎようこう》された。皇族方から公卿《くぎよう》、殿上人《てんじようびと》、皆供奉《ぐぶ》した。武家時代になって天皇が臣下の邸に行幸される先例は、後小松天皇が足利義満《あしかがよしみつ》の北山殿(金閣寺)にお出で遊ばされた時と、後花園天皇が足利義教の室町第に行幸遊ばされた時との二度しかない。いずれも将軍は邸の総門の外までお迎えに出る先例になっていたが、秀吉は早朝に御所に参入し、自ら天皇のお裾《すそ》を取って階段《きざはし》までご案内して、お車に乗せ申し、行列の中に自分の輿《こし》を入れて供奉した。
聚楽第にご到着になると酒宴があり、夜に入って管絃の遊びがあり、天皇はいともご満足で、夜ふけてから寝殿にお入りになった。
秀吉は諸大名に命じて、朝廷にたいして忠誠を誓う誓書《せいしよ》を、それぞれに書かせた。朝廷にたいする忠誠は、すなわち朝廷の主裁者である関白秀吉にたいする忠誠である。
天皇はよほどにご満足であったのであろう、三日のご予定であったのが、のびて五日もおとどまりになった。
めでたい行幸があってちょうど二月目、閏五月十四日、秀吉は佐々《さつさ》が訓戒をおろそかにして国内の乱れをおこした罪を責めて、切腹を命じた。新しい年とともに佐々はどうにか一揆《いつき》をとり鎮めたが、秀吉に召喚《しようかん》されて上って来て、尼ケ崎まで来た時、その旅館の法華寺《ほつけじ》に上使《じようし》が行きむかい、
「やがて関東へ馬を進めんとする時、ふつつかなる仕置《しおき》をいたし、西国の乱れを引きおこした。東国への影響もあること、奇怪《きつかい》である。諸大名への見せしめのため、切腹仰せつける」
という口上《こうじよう》をのべた。
佐々も肥後を出る時から、大よその覚悟はきめている。
「かしこまり申した」
と答えて、つと立って庭に出、泉水のほとりに出、庭石に腰をおろした。しばらく水をながめていたが、家来を呼んで金子《きんす》三十枚と時服とを持って来させた。上使を呼び出し、それを引出《ひきで》ものとしてあたえた後、
「この石は佐々|内蔵助《くらのすけ》腰掛の石と名づけられよ。さらば、とくとご検分あれ」
と言って、腹をくつろげたかと思うと、脇差《わきざし》をぬいて、十文字にかき切り、はらわたを掻《か》き出した後、首をさしのべてさけんだ。
「介錯《かいしやく》!」
検使の藤堂高虎が介錯した。
切腹の儀式が整ったのは、江戸時代になってからだ。この時代は従容として心静かに切るのを武士の面目《めんもく》にはしない。最も壮烈な形で切るのを男らしいこととした。佐々は秀吉のこの裁きにたいして言いたいことが山ほどあった。満々たる不平と怨恨《えんこん》が、この惨烈な切腹となったのである。
佐々の死とともに、肥後は両分されて北部を加藤清正に、南部を小西行長にあたえられた。この両人が後に朝鮮入りの両|先鋒《せんぽう》に任ぜられたことを考え合わせると、佐々を肥後に封《ほう》じた秀吉の意志は、佐々の猛勇を朝鮮役の先鋒に用いるにあったのかとも思われる。
加藤清正は秀吉の従妹《いとこ》の子、小西行長は出身は堺の町人であるが、年少の頃から取立てた者だ。ともに数少ない股肱《ここう》の家来だ。これまでとて、早く大身《たいしん》にして有力な助けとしたいと思っていたのだが、年も若いし、他との振合《ふりあい》もあって、そうも行かなかったのだ。秀吉としては、二人が大功を立て、人物を修練し、誰の目から見ても大身にふさわしい人物となって、早く五十万石、六十万石の大|身代《しんだい》になってほしいと、いのる思いであったろう。
天下統一
一
驚嘆は刺戟《しげき》によって引きおこされる心理の激動である。だから、人を驚嘆させることをたえず意図する者は、次々に新しい刺戟を案出しなければならない。
北野の大茶の湯を興行《こうぎよう》し、奈良の大仏をしのぐ大仏を建造し、聚楽第《じゆらくだい》に天皇の行幸《ぎようこう》を仰いで、天下の人々を驚かし、次々に自己の偉大さを宣伝した秀吉は、さらに新しい工夫をして、天下の耳目を聳動《しようどう》させなければならないと思った。
そこで案出されたのが、金銀くばりであった。
これは天正十七年五月二十日に、聚楽第で行われた。金子《きんす》四千七百枚、銀子二万千百枚、額にして三十六万五千両、今日の金値段にして三億六、七千万円、使用価値から言えば、米の値段から見て、少なく見つもっても五倍か六倍にはあたろう。大へんな金額である。これを皇族から公家《くげ》、諸大名、諸大名の母や夫人にくれたのである。
「わしは今日本を心のままに仕置《しおき》しているので、何一つとして不自由がない。金銀も山のように集まっている。しかし、これをただ金蔵《かねぐら》に積んでおいても、使わんければ石や瓦《かわら》と同じだ。多年|随従《ずいじゆう》している者共に配りあたえて、その者共を富ませてやる」
というのが、秀吉のその時の心意気であったと、竹中半兵衛の息子《むすこ》は『豊鑑《とよかがみ》』に書いているが、ただくれるだけでは、刺戟《しげき》として十分でない。れいによって、大がかりで、にぎやかで、豪華な演出が行われる。
「おりから鬱陶《うつとう》しい雨ばかりの時じゃ。陽気に、花々しく興行《こうぎよう》して、この天気を吹ッ飛ばしてやれい」
と、秀吉は石田|三成《みつなり》に言った。
そこで、奉行《ぶぎよう》として、前田|玄以《げんい》、浅野長政、前野長康、増田長盛、石田三成の五人が任ぜられた。
場所は聚楽第《じゆらくだい》の南の三の門内だ。白砂を敷いて美しく清掃した二町余(約二百二十メートル)の道に金銀各々百枚ずつをのせた台を透間《すきま》もなくならべ、真紅《しんく》の装束《しようぞく》をつけた諸大夫《しよだいぶ》三百人がその間に立っていろいろと立働く。なかなか絵画的だ。金色と朱色の大好きな秀吉の趣味に合わせた配色である。
正面の建物の門前に桟敷《さじき》があって、ここに秀吉と皇弟六の宮(智仁《としひと》親王)との席がもうけられ、その東方に秀吉の弟秀長、次に菊亭晴季をはじめとする公家《くげ》衆がそれぞれに衣冠《いかん》を正して列席し、西方に織田|信雄《のぶかつ》、徳川家康以下の大名らの席が居流《いなが》れている。これも衣冠姿だ。
奉行らが受領者の名と金額を呼び上げると、受領者は席を立って秀吉の前に進み出て拝礼する。すると、かかりの人夫《にんぷ》が四人がかりで金銀をのせた台をかつぎ出して来るのだ。
金額は、智仁親王が黄金二百枚、銀千枚。信雄と家康も同額。
秀長は黄金三千枚、銀一万両。
秀次と宇喜多秀家は同額で、黄金千枚、銀一万両。
以下、位階と親疎《しんそ》に応じて、それぞれに配分される。いやしくも秀吉の息のかかる者は一人も漏《も》れない。
ものをもらってよろこばない人間もごく稀《まれ》にはあるが、そんなものは変りもので、大ていはよろこぶ。人々のよろこび、天下の驚嘆は一方でなかった。
「前代未聞《ぜんだいみもん》のお大気《たいき》、微《かす》かなご身分に生《お》い立たれながら、天下第一の高位高官に昇り、天下を知ろし召すようになったのは、決して不思議ではない。唐土《もろこし》には微賤《びせん》からおこり立ってみかどとなった人のためしもないではないが、この国では曾《か》つて聞かぬことだ。天授の英雄というのは、殿下《でんか》のことであろう」
と、大村|由己《ゆうこ》などという当時の学者らはベタぼめであった。
秀吉の意図は最も見事な成功をしたわけであるが、疑問はこれほどの金銀を、秀吉がどうして掻《か》き集めたかだ。
江戸時代の学者らは、徳川家のために出来るだけ秀吉をこきおろさなければならないためもあって、民《たみ》に重税を課して苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》したのがその富のもとと解釈した。秀吉は自分の分国《ぶんこく》になった国は、皆縄を入れて徹底的に検地《けんち》しているが、それを少しでも多く徴税しようとの目的からであったと説《と》いている。
しかし、秀吉の歳入は二百万石余であったと、小瀬甫庵《おせほあん》は『太閤記』で言っている。収入が二百万石余なら、四公六民の計算なら、直轄《ちよつかつ》領は五百万石余となる。五公五民なら、四百万石余だ。徳川|幕府《ばくふ》と大体同じだ。とうてい秀吉のやったような大束《おおたば》なことが出来ようはずがない。秀吉の直轄領の民がそう重税に苦しんだという話もない。あれば江戸時代の学者らが引いて言い立てないはずがない。
秀吉は鉱山を直轄地にくり入れて、その生産を自家《じか》のものにしようとの意図は持っていたが、実現したのは但馬《たじま》の生野《いくの》銀山その他二、三である。佐渡金山すら、いずれ直轄に移すと申し渡しはしたが、実際には上杉家から取上げることが出来ず、当分のうちまかせるという名目で、上杉氏が経営して秀吉の死に至っている。上杉氏は会津《あいづ》転封後も佐渡金山を離さず、関ケ原役で、手放さざるを得なくなって、徳川家のものとなったのだ。威勢天下を圧しているがごとくに見えていながら、秀吉自身は自らの権力にそう自信がなかったのだ。抵抗が大きくなりそうに思われることには、手びかえたのだ。
重税を課した形跡もなく、鉱山からの利益もさしたることがなくても、彼に金銀財宝がうなっていたことはまぎれもない。どこにその富源をもとむべきか?
たった一つ、のこっている途《みち》がある。貿易だ。堺《さかい》の町人らの貿易に投資――当時のことばで、これを「投げ金」「投げ銀」という――して、利を収めていたのではないかと思われるのだ。彼が堺町人らとごく親しくしていたのは、茶の湯のためばかりではあるまい。出資者として、親しく引見《いんけん》したり、遊んだりする必要もあったのであろう。
こう考えてくると、彼が博多の復興につとめたのも、神屋宗湛《かみやそうたん》、島井宗室等の博多町人に目をかけ、親しくしたのも、わかるのである。
秀吉は堺や博多の貿易商人らの大出資者であり、その富の主なる源はここにあったと、作者は考えるのである。
秀吉はこのようにして金もうけにもなかなか巧みであり、使うにも独特の巧みさがあったが、天下人《てんかびと》として天下の経済のことも大いに考えて実行した。
その最も大きなのは、通貨の鋳造だ。日本の通貨の鋳造は、平安朝時代の相当古い時代に停止され、あとは中国の銭を輸入して、それを使っていた。地方政権である武田信玄などの地方の大豪族が、金銀貨を造った例もないことはないが、量も至って少なかったし、流通範囲がごく狭いものであった。第一、社会の経済状態が貨幣経済になり切らず、物々交換《ぶつぶつこうかん》が主だったから、通貨としては中国の銅貨で十分だったのだ。だから、信玄のような人がせっかく金銀貨をこしらえても、砂金や銀塊などと同じように、単なる貴金属として物々交換の気持で使用されたのだ。
しかし、中央では経済が進んで、貨幣経済が主流となって来たので、織田信長は貨幣の必要を感じ、板金《はんきん》、板銀《はんぎん》をこしらえた。板状《はんじよう》の金銀だ。しかし、重量も大体そろっているだけで正確ではなく、従って価格表記もないから、正確には通貨とはいえない。通貨と貴金属物資との中間的なものであった。信長が将士らに褒美《ほうび》としてあたえたのは、この板金銀《はんきんぎん》であった。銅貨は中国銭である永楽通宝《えいらくつうほう》が行われた。日本の大名らの作った銭もいくらかはあったが、質が粗悪で、「鐚《ぴた》」と言われて、人々にきらわれた。だから、当時の商取引には、「永楽で何貫文」と契約するのが普通であった。
秀吉は銅銭をはじめ、金銀貨をこしらえた。九州|征伐《せいばつ》をし、聚楽第《じゆらくだい》に移り、北野の大茶の湯をし、大仏を造った天正十五年に、銅銭と銀貨を鋳造して、天正《てんしよう》通宝と名づけた。銅銭は重さ八|分《ぶ》五|厘《りん》、銀銭は一分八厘強。いずれも円形で中に孔《あな》が四角にあいている。
その翌年には大判金《おおばんきん》をつくった。天正大判と称せられるものだ。重さ四十四|匁《もんめ》三分あった。この時小判もこしらえたという学者もあるが、信じない学者もある。大判は今日|遺《のこ》っているが、小判の方はのこっていないからである。もしこしらえたとすれば、一枚の重さは大判の十分の一前後であったはずである。
また、大体この時代に重量一匁強の分判金《ぶはんきん》と称する金貨をこしらえたことは、遺物があるから確かである。これは形は円形と長方形の両種である。大判と小判が楕円《だえん》形であるのは、後世と同じ。後世の規模をなしたわけである。
大判は江戸時代に入っても、普通の商取引などには使われず、もっぱら賞賜用《しようしよう》や進物用に使われたから、通貨ではないと言っている学者もある。三田村鳶魚翁《みたむらえんぎよおう》などその説であった。しかし、刀剣の価格づけなどに、金何枚とあるのは、大判何枚の意味であるから、やはり通貨と見た方がよいであろう。
何せ、一枚の重量が四十四匁以上もあるのだ。見事なものであったろう。やわらかい紙に包み、桐の箱に入れて、ごく大事にしたものであるという。
金銀くばりは、金貨鋳造をはじめた翌年に行われたのだから、吹きたての光輝さんらんたるやつをくれたのであろう。
二
金銀|配《くば》りから七日目の五月二十七日、秀吉は早朝から淀《よど》に向った。供まわりわずかに五十人、至って身軽に打ち立って、しきりに馬を急がせた。今は淀の女城主となって淀殿と呼ばれている茶々から、明け方急使があった。
「産気《さんけ》づいた」
というのである。
「よし。すぐまいる。しっかり気張《きば》って、よい子を産めと申せ!」
と、使いの者にうんと褒美《ほうび》をとらせて返すとすぐ、大急ぎで供まわりを用意させ、飛び出して来たのであった。
淀の古城を修復して、茶々にあたえて女大名にすることは、茶々を引取って宝寺《たからでら》城で保護した頃からの約束であったが、大事な仕事が次から次に出来て、なかなか果せなかった。催促されたわけではなかったが、気になるので、おりに触《ふ》れては、
「しばらく待ってくれよ。決して忘れてはいないのだ。やがてする。小ぢんまりと、美しく、可愛《かわい》らしく、ちょうどそなたのような城にするぞ」
と言っていたのだが、去年の秋、茶々が妊娠していることが確実になったので、もう一刻も猶予《ゆうよ》は出来なくなった。大急ぎで修築をさせ、今年の春出来上ったので、移居させることにしたのであった。もちろん、茶々が城主だ。浅井家の当主というわけ。以来、人々は茶々を「淀殿」と言い、秀吉自身は第三者に語るときは、「淀のもの」と呼んでいる。
秀吉は天性の子供好きだ。子供でさえあれば、どんな子供でも可愛《かわい》い。信長の四男のお次丸(秀勝)をもらって養子にしたのは、信長の猜疑《さいぎ》心を避《さ》けるための政略もあったが、それを外にして可愛ゆくもあったのだ。子供が好きであったから、宇喜多八郎(秀家)も猶子《ゆうし》にした。前田利家の娘《むすめ》をもらって養女にもした。今ではこの二人をめあわしている。家康から秀康をもらったのは純粋に政略のためだが、その秀康にも政略をはなれて強い愛情を持つようになっている。姉のおともと往年の一若《いちわか》、今は三好|武蔵守《みよしむさしのかみ》吉房との間に生まれた秀次も養子としている。その弟小吉も四年前に秀勝が病死したので、養子として、同じ名秀勝を名のらせている。これらは自らの強固な藩屏《はんぺい》をつくろうとの政略上のためももちろんあるが、何よりも子供が好きだからだ。
これほど子供の好きな自分に、五十四という年になるまで、実子が生まれないとは、皮肉なことであった。
(おれは万人にすぐれて運のよい男であるのに、子供だけ恵まれない。天はそれによって、釣合《つりあい》をとっているのじゃろう)
と、心ひそかにあきらめていたのであった。
それだけに、茶々が妊娠したことは、言いようないほどのよろこびであった。曲直瀬《まなせ》道三をはじめ、名医の名ある者を三日にあげず淀城に伺候させて診察させ、手当をさせるのはもちろんのこと、にわかに信心家になって諸社諸寺に命じて祈祷《きとう》や加持《かじ》を行わせた。
「男子であってくれ」
との願望はもちろんあるが、授かりものだから、無理な望みをしてもしかたがない。男でも、女でもよい、無事に健《すこ》やかに生まれてほしいだけだ。
その産気が今朝から催《もよお》したという。
降り出しはしないが、どんよりとした薄曇りの梅雨《つゆ》空の下を、知らず知らずに馬足を速めて、伏見《ふしみ》の村はずれにかかった頃、前方から馬を飛ばして来る者が見えた。秀吉はふりかえって、供の者共にさけんだ。
「やあ! あれは淀からの知らせにちがいない。誰ぞ行って、問え! そして、安産ならば、右手に扇をひろげて上げい! 若《わか》ならば、さらに一度あげい。姫《ひめ》ならば、二度あげい。さあ、行けい!」
一人が、馬をおどらせて、さっと駆け出した。小さく砂塵《さじん》を巻き上げ、見る見る小さくなって行く。それと見て、向うも一層馬を速めて近づいて来た。
秀吉も凝視しながら、馬を急がせて行く。その視野の中で、両騎はついに会って、馬上のまま語り合っている様子であったが、こちらから行った騎士はくるりとこちらに馬首を向けると、さっと右手を上げた。真白な扇子が巨《おお》きな蝶《ちよう》が舞うようにひらひらとひらめく。
安産である。
秀吉はどっと顔が熱くなった。
つづいて、一度おろされた扇子がまた打ちふられた。
秀吉は知らず知らずに馬に角《かく》を入れて急ぎながら、扇子がおろされてまた上るかと、目も痛むばかりに凝視をつづけた。
扇子はついにおりない。かざされたままいつまでもひらひらと打ちふられている。
男子誕生だ!
秀吉は目が熱くなり、涙があふれて、ぽろぽろとこぼれて来た。
「ああ!」
と、覚えずうめいた。うめきながら、無我夢中に馬を走らせていた。男子誕生、男子誕生、男子誕生と血がさけびながら、からだ中を駆けめぐっていた。
「でかしたぞ! でかしたぞ! でかしたぞ!」
両騎は馬をおりて、路傍《みちばた》に寄って、式体《しきたい》して、迎えた。その前に乗りとどめるや、
「それ、ほうびだ!」
と、一人に脇差《わきざし》を脱《ぬ》いで投げあたえ、一人に腰の胴乱《どうらん》をぬきとって投げあたえ、そのまま、風のように疾駆して過ぎた。
淀城は、筆者が三十数年前、このへんを釣魚《つり》のために歩きまわっていた頃までは、石垣や濠《ほり》などの遺構がのこっていた。つたのからんだ石垣や、薄《すすき》の中に風に鳴っている老松や、蓮《はす》や菱《ひし》の浮いている濠や、なかなか風情《ふぜい》があった。昔は城の北方を流れていた宇治川がはるかに迂回《うかい》して淀の町の南方に移されたり、城の東方までのびていた巨椋《おぐら》の湖が干拓《かんたく》されたりして、周囲の地形は大変化していたが、なお周囲に沼沢や水をたたえた川床のあとが多数散在して、この城が四面を豊富な水にかこまれた要害の地であったことはよくわかった。四、五町四方しかない遺構のあとも、いかにも小さくて可愛《かわい》らしい感じの城であったことが想像された。
恐らく、秀吉は宝石を磨《みが》き上げるような、あるいは箱庭をつくるような愛情をもって、この城を築いたのであろう。小っちゃな天守、小っちゃな角櫓《すみやぐら》、小っちゃな多聞塀《たもんべい》をもった、みがき上げたように美しく白い城をわれわれは想像してよいであろう。そうだ、この城の北の城壁は宇治川に洗われていたが、そこには水車が設置されて、くるくるとまわっていたという。宇治川の水は茶の湯に最も適しているというので、その水車で汲み上げていたのだが、そういう実用的な目的を別にしても、これはこの城に風情《ふぜい》をそえる一点景となっていたろう。
この城は納所《のうそ》村から宇治川を渡る長い橋によって連絡しているので、納所村側に砦《とりで》が一つ築かれて、人の出入と橋の警備をしている。秀吉はその砦の番所の前を、
「殿下じゃ!」
と、大声で呼ばわって馳《は》せすぎ、長い橋を一気に走り渡り、城内に入った。
士《さむらい》共が大あわてにあわてて迎える中を、
「安産じゃとなア。若君じゃとなア。めでたいな、めでたいな。皆々よう働いた。にぎやかに祝うて、汝《わい》らにも褒美《ほうび》をくれんければならんな」
と言いながら、この城での自分の居間に通った。
三
茶々につけておいた医者が来、老女の高倉が来る。産が軽くて、茶々の容態《ようだい》も先ず心配することはあるまいという。若君が大へん大きく、すこやかで、器量がよいという。
「そうか、そうか、めでたい、めでたい」
と、秀吉は何を聞いても、心楽しい。
「若を見たい。見に行ってよいか」
「よろしゅうございます。しかし、よく寝《やす》んでお出ででございます。静かにお見舞い遊ばしますよう」
と、医者は言った。
「心得ている、心得ている」
重ね返事しながら、立ち上った。
薄暗い廊下を行って、一室の前まで行くと、高倉はひざまずいて、そこの杉戸をひらいた。ごくごく静かに、そおっとひらいたのだ。内から、女中が白い顔をのぞかせた。高倉のうしろに微笑を浮かべて立っている秀吉を見て、はっと固くなって、おじぎした。
高倉が言う。
「よく御寝遊《ぎよしあそ》ばしてかえ」
ささやくような小声だ。
「はい。今し方、カニババを遊ばしましたが、そのあとは一層おこころよげに、すやすやとまことによくおやすみでございます」
これも同じように小声だ。
高倉は秀吉を仰いで、入れという目くばせをした。
さまざまなことが、こんなにひそやかに行われると、秀吉もわれしらずすべてがひそやかになる。ぬき足さし足といった足どりで、通った。
嬰児《あかんぼ》は小暗い室内に、屏風《びようぶ》をひきまわした陰に、華麗な夜具にくるまれて寝せられていた。真赤な顔をして、薄い髪をべったりと額にへばりつかせ、今湯から取上げたように、湯気が立って、濡《ぬ》れて見えた。しわだらけで、目も、鼻も、口も、閉じられて、まるでぐにゃぐにゃだ。人間というより、あたたかい肉のかたまりのようだ。けれども、よく見ると、口もとも、鼻も、閉じられた目も、ゆがめたり、むずつかせたり、時々なまいきに小さくあくびしたりして、たえず動いている。
(ああ、これはおれの子だ。おれの血を受けて生まれたのだ。おれの精気が茶々に入り、茶々の胎内で芽ぐんで、生まれたのだ)
と、思った時、歓喜がまたどっと湧《わ》いた。
(おれにも、自分の子が生まれた。おれのあとを譲るべき子が……)
飽《あ》かずながめた。
ながめていると、小さい耳が目についた。小さくて、まるくて、端正で、びくのふっくらとした、形のよい耳だ。それは自分の耳だ。茶々も、またねねも、いつも自分の澄んだ目の美しさと耳の形のよさをほめてくれる。その耳とそっくりだ。
(まごう方《かた》ない、おれの子だ!)
実を言うと、秀吉の深い心の底には疑惑がないではなかった。五十を半ば近く越える年まで子のなかった自分には子種がないのではないか、茶々のみごもっている子は、よその男の種ではなかろうか、という疑念があって、時々ひそかに頭をもち上げた。三十以上も年のちがうことについての心のひけ目もそれを助けた。
(若く美しい男には、茶々も気がそぞろになることもあろうからな)
と、思うのだ。
だから、決心はつけていた。
(たとえ、余人の子であろうと、おれが子として押通す。おれが子でなくても、可愛《かわい》い茶々が子であることはまぎれもない。おれが子として少しもさしつかえのないことだ。忠義面しておれが子でないなどと言う者がいたら、そいつは首を斬ってやる)
と、きびしく思い定めていた。
(しかし、この子に、この耳がある以上、まぎれもなくおれが子じゃ! ああ、おれが子じゃ!)
涙がにじんで来た。じっとしていられない。
「わしは抱きたいのじゃが、抱いてよかろうか」
と、高倉をかえりみた。
高倉はこまった顔になり、医者をふりかえった。
医者はすぐ答えた。
「さしつかえございますまい。しかし、ほんのしばらくにしていただきます。七日もご辛抱になれば、いくらでもお好きなだけ、お抱きになれるのでございますから」
「そうか、よしよし、ではちょいとだけ抱こう」
「少し離れて、おすわりになっていただきとうございます。両方のおみ足をそろえて前にお出しになっていただきますと、一番よいのでございますけど」
と高倉が言った。
「ふうん?……」
「五つ六つの子供|衆《し》が、弟や妹が生まれて、うれしがって、抱かせてくれと申しますと、そうして抱かせてやりますね。あれでございますよ」
「ああ、そうか、そうか。では、そうしよう」
秀吉は左右の足をそろえて前に出した。
「こうだな」
「結構でございます。それでは、そうっとでございますよ。きつくお抱きしめになったり、ゆすぶったりなどなさいませんように」
高倉は、最も貴重でこわれやすい宝物をあつかうように慎重に、赤んぼをふとんぐるみ抱き上げて、両手をさし出して待っている秀吉の胸に移した。
秀吉は注意深く抱きとった。ふとんがもごもごしているだけで、赤んぼの重さはほとんど感じられないが、秀吉は満足であった。赤んぼの真赤な顔をのぞきこんだ。赤んぼは顔をしかめたり、口をむずつかせたり、しゃっくりをしたり、あくびをしたりした。あくびをすると、唇《くちびる》の形がはっきりとわかった。やわらかくて、りんかくのくっきりした、形のよい、この唇は、まさしく茶々のものであった。
(おれと茶々の子だ)
またうれしくなった。飽《あ》かず見ていた。関白殿下《かんぱくでんか》であり、天下の大将軍《たいしようぐん》である秀吉の、この他愛ないすがたは、ずいぶん滑稽《こつけい》と言わるべきものであったが、高倉も、医者も、女中らも、笑ったりなぞする者はない。感動して見ていた。女中らの中には袖《そで》で感涙をおさえている者さえあった。
四
次には茶々に会った。これも医者と高倉の許しを得てだ。
「殿下のお声はいつも大きくございますし、別して本日は若君ご誕生でおよろこびでございますから、お気をつけ下さいますよう。決して大きな声をお出しになったり、大きな声でお笑いになったりなさいませんよう。産あげくというものは、とかく血のさわぎ勝ちのもので、わずかなことにも逆上して、それが大へんなさわりになるものでございますから」
と、高倉はこんこんといましめて、産室に連れて行った。
茶々は真白な寝着《しんぎ》をまとって、厚い緞子《どんす》の夜具に横になっていた。髪は結ばず、枕もとに黒々と流してあった。秀吉の入って来るのを、けはいで知ったのであろう、ぱっちりと目をみひらいていた。秀吉を見て、起きようとするように、微かに身動きした。
「そのまま、そのまま」
両手をつき出して、おさえつけるようなしぐさをしながら、小声で言って、秀吉は枕《まくら》べに近くすわった。女中らがあわてて敷物を持って来ようとしたが、手をふってとめた。
茶々は微笑して、迎えた。あまえるようなその微笑の中には、大役を果した安堵《あんど》の色と、男の子を生んだ誇りの色とが見えた。こちらも微笑して、
「でかしたぞ。でかしたぞ。若《わか》でも姫《ひめ》でも、授かりもの故、わしはかまわんと思っていたのじゃが、若であったとは、うれしいぞ。天下一の大てがらだぞ」
と、言った。知らず知らずに大きくなりかける声を、はっと気づいてはおさえ、気づいてはおさえした。
「わたくしもうれしゅうございます」
茶々はほろほろと涙をこぼした。
「じゃろうとも、じゃろうとも」
秀吉も胸がつまった。
すきとおるように青白くなっている茶々は弱々しげで、はかなげで、胸が痛くなるようないとしさが胸にせまった。
「苦しかったろうの、苦しかったろうの。よう辛抱しやった。しかし、そのために、若が生まれた。玉のような若が……」
茶々の手をとった。小さくて、白くて、つめたい、美しい手だ。それをいつまでも撫《な》でさすっていた。
産室を出て、居間にかえってしばらくすると、諸大名の祝賀の使者が続々とつめかけて来た。早くも聞き伝えて来たのだ。中には、使者でなく、自分で来た者もある。
秀吉は一々会って、きげんよく祝辞を受け、大名自ら来たのは引きとめて、宴をひらいた。すると、夕方頃になると、一旦《いつたん》使者をつかわした大名まで来て、改めてまた祝辞をのべるのだ。
つかわした使者から、大名みずから来た者は殿下に引きとめられて、とりわけ懇親《こんしん》を賜《たま》わっていると聞いて、あわてて来たものに相違なかった。秀吉にはそれが、自分の機嫌をとり結ぶため――つまりはおのれの利のためにしていることはわかっているが、かれこれせせくるようなことはしない。
(だまされてさしつかえのないことにはだまされておくのがよいのだ)
というのが、多年の経験で到達した知恵である。
それに、今日はまた特別だ。うれしくてうれしくてならないのである。心からよろこんで、祝辞を受け、酒をくんだ。
子供は鶴松、呼び名を捨君《すてぎみ》と名づけられた。捨君の呼び名が、悪神《あくじん》の災厄《さいやく》を避けるために、わざとつけられた悪名であることは言うまでもない。
五
この年九月には、琉球王尚寧《りゆうきゆうおうしようねい》の使僧竜雲というものが、島津竜伯入道に連れられて上洛《じようらく》している。これは島津氏が秀吉の命を受けて、秀吉に臣服《しんぷく》するために上洛するようにすすめたからである。この頃は琉球はまだ薩摩の附庸国《ふようこく》ではない。
はじめて日本外の独立国が帰服《きふく》したこととて、秀吉は上きげんで帰服の礼を受け、手厚く待遇し、うんとものをあたえて、帰した。
秀吉の意気は大いに上った。対馬《つしま》の宗|義智《よしとも》を上洛させ、また朝鮮に帰服をうながすようにと命じた。一昨年、九州|征伐《せいばつ》の帰途、同じことを宗氏に命じたのだが、朝鮮からはなんの音沙汰《おとさた》もなかったのである。朝鮮はもちろんのこと、宗氏も、まじめには受取っていなかったのである。
権力者は、権威を保持するために、言い出したことは通さなければならない必要がある。だから、かしこい権力者は、前もって計算して、通せる見込のないことは言い出さない。秀吉には常にその心掛があったのに、この一事に関しては、それを欠いた。九州のはてまで征服して、心が昂揚しすぎたのが、朝鮮にたいする臣服の要求となったのであろう。
一度要求すれば、あくまでもそれを通さなければ、権力者の命令の絶対性はなくなる。通さなければならない。これがこの二度目の要求となった。琉球の帰服がその心に拍車をかけた。「再三要求すれば出来ることだ。琉球も降参して来たではないか」と。
朝鮮のことは、この頃から本気に秀吉の心の底に根をおろした。
北条《ほうじよう》征伐のあったのは、この翌年である。
九州を征伐したらすぐにも東に馬を向けそうな秀吉が、二年半も猶予《ゆうよ》したのは、いろいろな理由はあろうが、最大の理由は、途中家康の分国《ぶんこく》を越えて行かなければならないからであったろう。今は家康は妹聟《いもうとむこ》になったことだし、心から服属したと言っており、そのことばに嘘《うそ》はなさそうではあるが、何分気味の悪い男だ。篤実《とくじつ》無類の人がらに見えるかと思うと、おそろしく横着《おうちやく》で、煮ても焼いても食えないようなところもあるようだ。何よりも自信に満ちている。また家来共は話にならない田舎者《いなかもの》ばかりだが、いずれも最も剛勇で、最も忠誠で、主人のためにはいつでも死ぬ気概にあふれて見える。
この家康が、北条氏の分国まで、三河《みかわ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》、信濃《しなの》の大部分、甲州と、五か国を占有しているのだ。うっかり踏みこえて出かけて、あとをとり切られては、どうしようもない。
だから、九州|征伐《せいばつ》以後の二年半は、いろいろとにぎやかなことをしながらも、家康の心事《しんじ》を確かめ、家康の信服を得るための努力の期間であったと言ってよい。
しかし、北条氏にたいして、手は大いに打った。
最初は、聚楽第《じゆらくだい》に天皇の行幸《ぎようこう》を仰いだ直後に富田左近将監《とださこんしようげん》らを使者として派遣した。富田らは小田原《おだわら》に行き、秀吉が聚楽第に天皇の行幸を仰いだ時、大名らは皆、織田|信雄《のぶかつ》殿も徳川家康殿も、天皇の前で、
「天下の国は皆王土、天下の人は皆王臣、関白殿下《かんぱくでんか》は天皇のご名代《みようだい》として、天下にお差図《さしず》なさるべきお人である。関白殿下のご命令にたいしてはいかなることも決して違背《いはい》しないでござろう」
と、かたく誓約された、しかるに、北条殿は、ほしいままに数国を占有して、一度も上洛《じようらく》なさらない、日本の大名の道ではあるまい、速《すみや》かに上洛し、朝廷に罪を謝せられよ、と口上《こうじよう》を述べた。
当時、北条氏は氏政の時代であったが、子の氏直に世を譲る準備のために、氏直を立て、氏政は後見していたが、こんな問題には自ら出ざるを得ない。使者らに応対して言った。
「われら、病気のために、世を氏直に譲りわたしているのでござるが、この頃は何やかやと事が繁《しげ》くて、隠居《いんきよ》じゃというておられぬ暇のない身になっています。上洛せよとの仰せを受けるまでもなく、われらもその思い立ちはしていたのでござるが、このいそがしさではとうてい出来ません。しかし、約束いたそう、二年立ったら、万事を片付けて上洛しましょう」
氏政は若い時、刈取《かりと》った麦をすぐ麦飯《むぎめし》に炊《た》けると思って家来に命じ、武田信玄にその世間知らずを笑われたという逸話《いつわ》のある人だが、この時五十一、年ほどには老獪《ろうかい》になっている。
彼は上洛なんぞしたくないのだ。織田信雄がどうあろうと、徳川家康がどうあろうと、人は人、北条家は北条家だ、こう言ってのらりくらりとのばしていれば、二年先きには世の中はまた変ると思っている。
しかし、富田らは、
「多忙といえば、天下の大名で多忙でない者はいません。そこを押切っていただきとうござる」
と言いはって、なかなか強硬であった。
北条氏は徳川家康に急使を走らせて、調停を頼んだ。家康の娘|督姫《ごうひめ》(本名おふう)は氏直に縁づいているのである。この結果、氏政は、十二月上旬に出発して上洛することを約束した。
これは六月下旬のことであったが、翌々月の八月下旬、氏政の弟の氏規《うじのり》が、徳川家の榊原《さかきばら》康政につきそわれて上京して来た。
氏規は秀吉に拝謁《はいえつ》して、これまでの北条氏の疎遠《そえん》のわびを言った後、こう言った。
「先般ご約束申しましたように、兄氏政は本年末に上京いたしますが、その以前に上州沼田の所属に関しての真田昌幸《さなだまさゆき》との紛争の決裁を仰ぎたく存じます」
上州沼田、現在の群馬県沼田市とその付近のことで、ここに大ダムをつくって、東京都の水道の水を確保するとともに電力事業をおこすべきだと最近やかましく言われているところだ。ここを中心にして、北条、徳川、真田の三氏が三つ巴《どもえ》になって紛擾《ふんじよう》をつづけていること、もう八、九年にもなるのであった。
沼田は元来その土地の豪族沼田氏のものであったが、お家騒動が起っているまぎれに付近の豪族に攻め取られた。この豪族は北条氏の被官《ひかん》となったので、北条氏の属城となった。間もなく上杉謙信が関東|管領《かんれい》の上杉憲政から家の名跡《みようせき》と関東管領の職をゆずられ、「関東はわが家の支配を受けるべき土地である」と宣言して、三国峠《みくにとうげ》を越えて出て来た。沼田はその出口にあたる。忽《たちま》ち攻め取られてしまい、上杉氏のものとなった。謙信はここに藤田|信吉《のぶよし》という人物を城代《じようだい》としておいた。
謙信と北条氏とは、たがいに関東でもみ合い、ある時は謙信が小田原城を包囲したほどであるが、その後、お互い既成事実を承認して和議《わぎ》が成立した。この時、謙信は北条氏康の七男氏秀を養子にした。謙信はこの氏秀に自分の初名をあたえて景虎《かげとら》と名のらせるほどに愛し、両家の間には平安がつづいた。沼田はもちろん上杉氏のものだ。
数年立って、上杉謙信が突然に死んだ。謙信は生涯女を近づけなかった人だから、実子はない。いとこで姉聟《あねむこ》である長尾政景の子景勝と、前記の景虎との二人が養子になっている。突然の死であったので、謙信はなんの遺言もしていない。二人の養子の間に家督《かとく》相続をめぐって争いがおこり、景勝が勝ち、景虎は殺された。
これで景虎が勝っていれば、わが家から出た者が上杉氏の当主になったのだから、北条氏も文句はなく、両家の平安はつづいていたはずだが、こんな結果になったので、北条氏はこれまで謙信に奪われていた関東北部の失地回復に乗り出した。沼田が攻められたことは言うまでもない。
守将藤田は相当勇敢に防いだが、本国の越後がお家騒動のあと始末に追われていて、援軍は全然来ない。ついに降伏した。北条氏は藤田を依然|城代《じようだい》として城を守らせることにした。
沼田は赤城山の広い裾野《すその》のひろがった西北|麓《ろく》にあって、利根《とね》川、片品川、薄根《うすね》川等の合流点で、要害堅固、土地|膏腴《こうゆ》、なかなかの美地だ。
この土地に目をつけたのが、真田昌幸だ。真田氏は信州|小県《ちいさがた》郡真田郷の小豪族で、武田氏の被官《ひかん》になっている。この少し前から、鳥居峠をこえて、上州に進出し、吾妻《あがつま》川沿いの岩櫃《いわびつ》をとり、吾妻川の峡谷地帯を自分のものにしていたが、沼田に目をつけ、付近の城や砦《とりで》を蚕《かいこ》の桑《くわ》を食うように次々におとしいれにかかった。
沼田城の藤田信吉は危険をひしひしと感じて、北条氏に援軍を乞《こ》うた。北条氏は先ず武州|鉢形《はちがた》城主の北条|氏邦《うじくに》をつかわし、つづいて氏直が大軍をひきいてやって来た。
真田方では、甲州に急使を走らせると、勝頼自身が兵をひきいて来た。勝頼は五年前に長篠《ながしの》で織田、徳川の連合軍と戦って殲滅《せんめつ》的な敗戦を喫《きつ》し、以後|鵜《う》の目|鷹《たか》の目で名誉回復の機会を狙《ねら》っている。この山奥の盆地で北条氏を痛破しようと、凄《すさ》まじい意気込みであった。
これが北条氏に聞こえると、氏直はこんな敵と戦うことは損と計算して、氏邦だけをのこして、引き上げてしまった。
振りあげた拳《こぶし》を器用にかわされて、勝頼は鬱憤《うつぷん》のやり場がない。沼田城に猛烈な攻撃をかけたが、城兵は固く守ってよく防いだ。
これを落したのは、真田昌幸の智略であった。昌幸は北条氏邦とその兵とが威《い》をかさに着て、ことごとに藤田信吉とその兵とを圧迫し、両者の間がしっくりと行っていないことを探り知り、藤田に密書をおくって味方に引き入れ、しめし合わせて、氏邦を攻撃した。氏邦は狼狽《ろうばい》し、城を出て、逃げかえった。武田勝頼は、沼田城を真田のものと承認した。
六
武田氏はこの翌年、信長にほろぼされ、武田の所領であった甲信《こうしん》の地は信長のものになり、信長はこれを諸将に分配した。信長は武田氏の一族や有力な家来や被官《ひかん》らは一人ものこさぬつもりで、文字通りに草の根を分けて捜し出して殺したが、真田昌幸は最も巧みに立ちまわって、信長が関東|探題《たんだい》として厩橋《うまやばし》(いまの前橋)に駐在させた滝川|一益《かずます》を通じて織田家に帰服し、安全であることが出来た。
大魔王のように天下の人々を戦慄《せんりつ》させていた信長が、本能寺で横死《おうし》したのは、武田氏が滅《ほろ》んで百日立たない頃であった。信長が甲信の地に配置した諸将は、皆いのちからがら逃げ出した。殺された者もいる。
中央の地が天下争いのために渾沌《こんとん》たるものとなると共に、甲信の地も渾沌となった。ここへ先ず入って来たのは、越後の上杉景勝だ。北方から川中島に入って来て、
「われらは故勝頼殿の妹聟《いもうとむこ》である故、武田家の遺領を相続する権利がある。武田家の旧臣や被官らは服属せよ」
と、宣言した。
信州の豪族ら――信長のきびしい探索の間は息をころしてどこかに潜伏していて、信長の死によって生気を回復し、春先の虫のようにひょこひょこと出て来た連中だが、多く上杉氏に服属した。真田もそのなかまであった。
すると、間もなく北条氏直が大軍をひきいて、碓氷峠《うすいとうげ》をこえて乗りこんで来た。
「われらが母は武田信玄の女《むすめ》である。われらは信玄の孫である。武田家の遺領相続の権利がある。皆々|服属《ふくぞく》せよ」
と、宣言した。
信州豪族らは、上杉、北条の力をはかりくらべ、北条氏の方を強いと見て、寝返り打って、北条氏に服属を申しこんだ。真田昌幸もそうであった。
ところが、その次に徳川家康が甲州に入って来て、武田家の遺臣らに本領《ほんりよう》の安堵状《あんどじよう》をあたえて、せっせと手なずけはじめた。やり方がいかにも巧みだ。軍勢も強そうだ。三度寝返りを打って、昌幸は徳川家に帰服した。この時代のこういう場合における小豪族はかなしいものであったのだ。責められるべきではない。
その頃、甲州路で北条勢と徳川勢とが対陣して、小ぜり合いがくり返された。
昌幸は、家康から、
「奉公の手みやげに一働き所望」
と言われて、北条勢の糧道《りようどう》である碓氷峠を占領して、通行を遮断した。北条方は困厄《こんやく》して、家康に和議を申しこみ、和睦《わぼく》が成立した。
その和睦の条件は三か条あった。
一、上州は北条家の分国とし、甲・信は徳川家の領分とする。
一、従って、上州沼田は北条家に属し、沼田のかわりには、北条家で切取っている甲州|都留《つる》郡と信州|佐久《さく》郡とが徳川氏のものとなる。
一、家康の女|督姫《ごうひめ》(おふう)を氏直に嫁《か》せしめる。
この条件に従って、北条家では都留郡と佐久郡を徳川家に引渡した。そして、上州沼田を引渡してもらいたいと要求した。
家康は、昌幸に事情を説明し、
「沼田を北条家に引渡すように」
と、命じた。
昌幸は腹を立てた。
「沼田はわれらが武略をもって切取った土地でござる。徳川家より拝領《はいりよう》したものではござらぬ。一体、われらがお味方に属した時、過分な恩賞せんとのお約束でありました。われらまた北条方の糧道《りようどう》を切りふさぎ、そのために北条方は困《こう》じて、この有利な和議も出来たのでござる。その手柄にたいしてお報《むく》いもなく、かえってわれらが領地を北条に渡せとは何事でござる。ぜひにと仰せらるるなら、代地を賜《たま》わるが当然と存ずる」
と、抗議した。
これは昌幸の言い分が道理だ。家康は新たに甲信両国を手に入れたのだから、そのどこかで代りの土地をやるべきだ。
「代地はやがてつかわすが、今は分国内に余分な土地がない。追ってつかわす故、先ず沼田を引渡せ」
と、家康は答えた。
昌幸はこれを信じなかった。智者だけに、家康をよく研究している。家康は相手が今川義元や信長のように強力である時には、まことに信義に厚いが、相手が弱いと見ると、途方《とほう》もなく高圧的になり、約束を破ることなど平気な人物だ。昔その領内に一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》の連中が一揆《いつき》をおこし、これを平定するのに家康は大へんな苦労をしたのだが、ついに和議が成立した。その条件の一つに、「寺々はもとのごとくに建ておかるべきこと」というのがあったのに、家康は容赦《ようしや》もなく寺々を破壊した。それは約束がちがいますと、門徒らが抗議すると、
「何が違うものか、寺々のあったところはもとは野であった故、もとにかえして野にしたのじゃ。文句はなかろう」
と、空《そら》うそぶいた。すでに一揆|勢《ぜい》が結束を解いた以上、何が出来るものかと計算したのである。
つまり、家康は、信義を重んじたり、篤実《とくじつ》にしていたりした方が利益の場合にそうしたままで、利にさといのが本性だ。
昌幸は小身代《しんだい》をもって、大勢力の間に介在《かいざい》して、一身の智略をもって家を保つばかりか、すきを見ては身代をのばした男だ。周辺の武将らについての研究は行きとどいている。
「どこを代地としてたまわるか、確かにうかがわぬかぎり、いやでござる」
と、ことわった。
このもつれが、北条、真田、徳川の三家の巴合戦《ともえがつせん》となった。北条氏は沼田を武力で回復しようとして、北条氏邦をつかわしたが、散々にたたき破られて、逃げ帰った。
北条は約束がちがうと徳川家を責め立てた。徳川家では、八千の大軍をくり出して、真田氏の本城上田におしよせた。昌幸は上杉景勝に使者を立て、
「ご救援給うなら、愚息《ぐそく》源次郎(幸村)に兵百騎をそえて人質《ひとじち》としてお城下にさしつかわします。ご家来の端に加えていただき、ことある際にはおん先手を仰せつけ下さい」
と嘆願した。
昌幸は先年、一旦《いつたん》景勝に服属しながら、ほどなく離反しているので、景勝は昌幸に好意を持たなかったのだが、助けをもとめる小身代を見殺しにしたと言われては、不識庵《ふしきあん》以来の武名に傷がつくと、侠心《きようしん》をふるいおこし、六千五百の援兵をおくってくれた。
上田城下で合戦が行われたが、昌幸の用兵は巧妙をきわめ、徳川方は常に散々に負けた。徳川勢はついに引取った。
昌幸は約束の通り幸村に百騎の兵をつけて春日山《かすがやま》城におくったが、つらつら考えてみると、家康相手のせり合いに景勝を親分では心細い。当時は小牧|長久手《ながくて》合戦のあとで、家康と秀吉との間は一応和議が成立してはいたが、家康はまだ上洛《じようらく》せず、何となく奥歯にもののはさまったような状態がつづいている。
昌幸は、秀吉に頼ることを考えて、秀吉の許《もと》に服属を申しこんだ。秀吉は昌幸が小身者ながら智略縦横で、しかもこの頃、さしもの徳川勢に一泡吹かしたことを聞いていたので、すぐ服属を聞入れ、上杉景勝に尻押《しりお》すよう差図《さしず》もした。昌幸は上京して、大坂城で秀吉に拝謁《はいえつ》して、正式に臣従《しんじゆう》した。
この時、秀吉はよほどに巧みに昌幸の心を攬《と》ったらしい。昌幸は終生秀吉に心酔している。彼は後年関ケ原役で石田方に味方して、上田の城をかため、中山道《なかせんどう》を通って行く秀忠の軍勢を食いとどめたので、その罪によって、戦後わずかに助命されて、高野山に上って、そこで生涯の終りを迎えるのだが、彼が居間の床の間にかかげて、朝夕に礼拝したのは、秀吉の画像であり、その画像は今も高野山の蓮華定院《れんげじよういん》に伝来されている。
七
秀吉を背景《バツク》にすることが出来て、昌幸は大いに気力づいた。じりじりと佐久郡を切取りはじめた。
自分をなめ切っている昌幸の態度を、家康は怒って、また上田|征伐《せいばつ》をすることにしたが、この頃には秀吉は懸命になって家康を籠絡《ろうらく》する方針になっている。すでに妹の朝日を家康に縁づけてもいる。
秀吉は調停して、和睦《わぼく》させた。
この和睦のしるしに、昌幸は長男|信幸《のぶゆき》(信之となるは後年)を人質《ひとじち》として家康の許《もと》におくった。家康はよろこび、本多平八郎忠勝の女《むすめ》小松を自分の養女として、信幸と婚約させた。
これで真田と徳川との仲直りは出来たわけだが、沼田のことは全然片づいていない。天正十六年八月に北条氏規が上京して、秀吉に訴えたのは、この沼田を真田から取り返してくれということであった。
沼田事件のいきさつは、秀吉はよく知っている。真田の帰属する時にもくわしく聞いたし、真田と家康との間を調停する時にも、復習している。阿呆《あほう》なやつだと北条氏を思った。真田しきの小大名に手を焼いて、どうにもならず、おれに解決をもとめることがあるものか、北条の弓矢もいいかげんなものじゃわと思った。空《そら》とぼけて、
「それは北条家と徳川家との境目《さかいめ》争いで、わしはくわしいことは一向《いつこう》知らん。しかし、まあ事情のよくわかっている者を上京させるがよい。それによって審議の上、沙汰《さた》するであろう」
と言って、氏規を鄭重《ていちよう》にもてなして帰国させた。
十一月、秀吉は小田原に使者を出した。
「十二月上旬に国許《くにもと》出発して、氏政が上洛《じようらく》するという約束であるが、来月はその十二月である。必ず参るように。待っているぞ」
という口上だ。徳川家康にも指示して、約束の通り上洛するようにと伝えさせた。
しかし、ついに氏政も、氏直も、上洛しなかった。
年が明けて、天正十七年になった。その春、北条氏は岡江雪斎《おかのごうせつさい》という家臣を上洛させて、また沼田のことを訴えた。
秀吉は条件をつけた。
「この紛擾《でいり》の始末がついたら、氏政か氏直が、必ず上洛《じようらく》するか」
「申すまでもございません。必ず上洛いたします」
と、江雪斎は答えた。
秀吉は昌幸に書面で命令してやった。
「沼田は北条家に渡せ。その代地は徳川家の領分である信州伊奈郡から出させる」
昌幸としては従わないわけに行かないが、沼田は執念のからんだ土地だ。そっくりそのまま北条氏に渡すのは惜《お》しくてならない。そこで、
「ご諚《じよう》かしこまりましたが、沼田のうち名《な》胡桃《ぐるみ》城は、拙者《せつしや》の家の代々の墓所のあるところでござる。これだけはごめんいただきとうござる。他はすべて子細《しさい》なく渡すでござろう」
と返答した。
うそなんだ。沼田は昌幸が天正八年に切取ったところだ。その所有になってから十年は立っていない。先祖の墓なんぞあろうはずはないのである。
しかし、秀吉はこの条件を聴き入れた。
名胡桃をのぞく沼田を北条氏にわたさせ、昌幸には徳川家から信州伊奈郡で一万二千石をあたえさせた。
この時、秀吉はまた北条氏に沙汰《さた》して、
「氏政が、本年十二月上旬には必ず上洛いたすでありましょう」
との誓書を出させた。
このような次第で、沼田では、沼田城に北条家の家来|猪股則直《いのまたのりなお》が城代《じようだい》となって守り、名胡桃城には真田の家来鈴木|主水《もんど》が城代となった。
変事はこの猪股から起った。
猪股は、せっかく北条氏が多年望みをかけながら、武田氏や上杉氏に阻《さまた》げられて領有することの出来なかった上州全体が、こんど北条氏のものになったのに、名胡桃だけは真田の所領になっているのが、癪《しやく》にさわってならない。
「わが寝床に他人の毛脛《けずね》がのびて来ているようじゃわ。何とかせんことには寝られんわい。あれもこちらのものにしたら、さぞ胸がすくことであろう。第一、お家に忠義になる」
と、思案して、名胡桃城詰めの武士の一人を利をもってさそって味方にし、用事にかこつけて鈴木主水を上田の本城に出してやった後、急に襲って、城を乗りとってしまった。
昌幸はこれを秀吉に急報した。
これまで秀吉が北条氏ののらりくらりの返答にも辛抱強く応対をつづけて来たのは、征伐《せいばつ》の名義が出来るのを待っていたのだ。「天下の大名全部が天皇に忠誠を誓って、皆|闕下《けつか》に参候《さんこう》しているのに、ひとり来んとは怪《け》しからん」というだけでは、名義として十分でない。これまで大名らはそんな風にはしつけられていない。鎌倉時代にも、室町時代にも、武家大名は幕府《ばくふ》の家人《けにん》ではあるが、天皇には崇敬《すうけい》はしていても、参候して奉仕する習慣はない。だから、そうしないからこれを征伐すると言っても、それは天下の人々を納得《なつとく》させるものではない。
しかし、ここまで辛抱して、北条氏の要求をいれてやったのに、こんな態度に出たとあっては、名義は十分である。
「沼田のことを、所望にまかせてはからってつかわしたにもかかわらず、約束の上洛《じようらく》の期が来ているのに、未だに出発したという報告もない。不快に思っているところに、かかることがあるとは、沙汰《さた》のかぎりじゃ。今はもう容赦《ようしや》はせぬ。直ちに征伐を加える」
と、北条家に申しおくった。
北条家は、急使を上洛させ、すぐ上洛するでありましょう、名胡桃のことは出先きの者が勝手にしたことでありますから、直ちに真田家に返還しますと、弁解したが、秀吉はもうきかない。手切《てぎれ》文書を作成して、徳川家に渡し、北条家に伝達させた。
こうして、北条征伐がおこった。
八
九州をのぞく、秀吉の勢力範囲の全部に動員令が下された。
総勢では十八万人近くもあった。これほどの大軍が動員されたことは、日本歴史はじまって以来のことである。
糧食《りようしよく》は先ず米二十万石が、新春早々に駿河《するが》の江尻《えじり》と清水《しみず》に運漕《うんそう》され、さらに黄金十万両をもって東海道筋の国々から買い集めて、海路小田原に輸送する手筈にした。
諸軍の出発は二月一日から三月一日までの間とし、東海道筋の大名らは東海道から、北陸路の大名らは東山道《とうさんどう》を進むことに定められた。
この時まで、鴨川《かもがわ》の三条にはしっかりした橋はなく、洪水《こうずい》毎におし流される、ごく粗末な橋が架《かか》っていたのだが、秀吉は堅固で美しい、永久的な橋を架けさせた。軍勢の出陣のためである。
大名らの軍勢は、定められた期日の間に、それぞれの本国から、関東をさして出陣した。京以西の軍勢はもちろん京都を通過して出陣する。秀吉は路傍に桟敷《さじき》をかけ、そこに出張《でば》って、これらの軍勢に威勢のよいことばをかけて送った。
送られた武将の一人に、仙石|権兵衛《ごんべえ》秀久がいる。権兵衛は三年前の九州役に豊後口《ぶんごぐち》先発隊の軍目付《いくさめつけ》として出陣し、勇に誇って戦術をあやまり、先発隊全軍を全滅させながら、領地|讃岐《さぬき》に逃げ帰ったのが、秀吉の怒りに触《ふ》れ、領地を没収され、勘当されたので、高野山《こうやさん》に上って謹慎していたが、小田原征伐がおこると聞くと、旧臣らを召集し、無断で従軍することにした。
これが、桟敷の上から見ている秀吉の目に触れた。
権兵衛は朱《しゆ》の大きな丸を紋に打った白練《しろねり》の陣羽織《じんばおり》を着、紺地に「無」の字を白く抜いた馬《うま》じるしを真先《まつさき》におし立て、馬上|傲然《ごうぜん》とそりくり返って行く。まことに勇壮で、まことに闊達《かつたつ》で、九州陣の時の失敗など屁《へ》とも思っていない風情《ふぜい》だ。
男のこういう態度は、最も秀吉の気に入るところだ。
「やあ、やあ、仙石権兵衛、見事であるぞ。勘当《かんどう》はゆるすぞ。その元気で、しっかりと働けい!」
と、呼ばわって、送ったのであった。
秀吉の出発は三月一日であった。
秀吉はうんとにぎやかに、うんと華麗に出陣することを触《ふ》れ出し、供まわりの者共にも、そうせよと命じておいたので、祭礼の飾《かざ》りものよりまだ華麗なものになった。
見物人もうんと出た。摂関《せつかん》家、清華《せいが》、その他の公家《くげ》衆、洛《らく》中洛外の貴賤《きせん》男女、大坂、伏見、奈良、堺等からまで集まって、三条|河原《がわら》から、粟田口《あわたぐち》、日岡峠《ひのおかとうげ》、山科《やましな》、大津あたりまで、桟敷をかけて見物した。
その日の秀吉は、あごに長い真黒な造りひげをかけ、鉄漿《おはぐろ》をつけ、唐冠《とうかむり》の冑《かぶと》をつけ、金小札緋縅《きんこざねひおどし》の鎧《よろい》に、金の丸鞘《まるざや》の太刀《たち》を佩《は》き、金粉《きんぷん》と金箔《きんぱく》を塗《ぬ》った靫《うつぼ》に丹塗《にぬり》の征矢《そや》一|筋《すじ》さして、丹塗の重籐《しげどう》の弓を持ち、燃え立つばかりな真紅《しんく》の厚い胸《むな》がい、尻《しり》がいをかけた駿馬《しゆんめ》に、金の瓔珞《ようらく》の馬鎧《うまよろい》をかけて、またがっていたのである。
秀吉があの容貌《ようぼう》で、あの年で、鉄漿《おはぐろ》をつけたとは、ずいぶん滑稽《こつけい》な姿であったと思われるが、関白《かんぱく》は公家の棟梁《とうりよう》だから、公家の風習にならわなければならないと思ったのであろう。記録には漏《も》れているが、白粉《おしろい》をつけていた可能性も大いにある。
秀吉はこの服装を途中でかえて、ある時は冑のかわりに南蛮笠《なんばんがさ》(ハット)をかぶり、四尺ばかりの刀に大縄をもって腕《うで》ぬきをつけたのを帯び、ある時は網代笠《あじろがさ》をかぶった。彼においては北条征伐は、成算あまりあって、物見遊山《ものみゆさん》と変りはなかったのである。浮島ケ原に来た時は、網代笠をかぶっていた。
家康は、織田|信雄《のぶかつ》とここで秀吉を迎えたのだが、秀吉が異装していると聞いて、もと甲州|名代《なだい》の豪傑《ごうけつ》で、今は自分の家来になっている曲淵《まがぶち》庄左衛門の佩刀《はいとう》、朱鞘《しゆざや》にして三尺余、大角鍔《だいかくつば》をかけたのを、自分の佩刀ととりかえて差して、迎えた。調子を合わせたのである。もそっとして、小さな気などさらに利きそうでないように見えながら、抜目はないのである。
秀吉は馬をおり、大|太刀《たち》の柄《え》に手をかけて、大音《だいおん》に呼ばわった。
「いかに、信雄、いかに家康、その方共、逆心ありと聞く。立ち上られよ。一太刀まいらせん!」
もちろん、ふざけてのことだが、信雄は狼狽《ろうばい》してまごつくばかりであった。しかし、家康はおちつきはらって、秀吉の供廻《ともまわ》りの者に、高声《たかごえ》に、
「殿下《でんか》のお軍《いくさ》はじめに、おん太刀にお手をかけさせ給うこと、めでたく存ずる。皆々、お噺《はや》し申せ!」
とさけんだ。
人々はどっと湧《わ》き、声をそろえて、
「めでた、めでたや、お戦《いく》さはじめ!」
と、はやし立てた。
秀吉はよろこんで、
「やあ、めでたい、めでたい」
と大笑しながら、また馬に乗って通り過ぎた。
九
秀吉の東征軍を邀《むか》えるのに、北条氏は、韮山《にらやま》城と、三島《みしま》と今の箱根町との中間にある山中城とに兵をこめた。
攻撃は三月二十九日、両城同時に開始された。山中城に向ったのは、右翼隊が池田輝政、木村|重茲《しげます》、長谷川秀一、堀久太郎、丹羽長重の計一万八千三百人、中央隊が羽柴秀次とその弟秀勝の計一万九千五百人、左翼隊が徳川家康の三万人、総計六万七千八百人であった。
これにたいして、山中城にこもる兵は四千余人であった。
戦闘は午前十時頃、秀次の先鋒《せんぽう》中村一氏の隊からはじまった。一氏の家来渡辺勘兵衛は、聞こえる勇士である。黒革《くろかわ》おどしの鎧《よろい》に、大鳥毛《おおとりげ》に大|半月《はんげつ》の差物《さしもの》をさし、大黒《おおくろ》と名づけるたくましい黒馬に黒鞍《くろくら》おいてまたがり、五十人の兵をひきいて、城の出丸《でまる》を目がけ、真《ま》一文字に、黒山のゆるぎ出したように乗り出したが、濠際《ほりぎわ》に乗りつけるや、馬を飛びおりて濠におどりこんだ。兵らもつづく。と思う間もなく、勘兵衛は早くも塀《へい》にとりついてよじのぼる。大鳥毛大半月の差物がゆらゆらと揺れながら次第に高くなる。塀の上から、城兵らが槍《やり》の穂先をそろえて突きおとそうとしたが、ものともしない。その槍にとりつき、一はねはねておどりこえた。
秀吉は数人の従者を連れて、秀次の本陣の上の山に来て、観戦していた。彼はそれが勘兵衛であることは知らなかったが、武者ぶりの見事さに、自分の尻《しり》をまくって打ちたたきながら、
「鳥毛の大半月の武者ぶりを見よや! 見事! 見事! 戦《いく》さは勝ったぞ! はや大貝《おおがい》を吹け!」
と絶叫した。
これに応じて、秀次の本陣から、貝をそろえて吹き出し、あらしの時の怒濤《どとう》が堤防を乗りこえるように味方が一斉に塀《へい》を乗りこえたので、出丸《でまる》は忽《たちま》ちおちて、敵は三の丸に追いこまれた。
つづいて、三の丸がおち、二の丸がおち、正午頃には本丸もおちた。
韮山《にらやま》城には、北条|氏規《うじのり》が三千六百余でこもっていた。これには織田|信雄《のぶかつ》が主将として、四万四千余人をひきいて、おし寄せた。しかし、山中城のようには行かなかった。抵抗が強く、死傷が多かった。
秀吉は急攻をやめて、気長く包囲するよう命じて、一万八千九百余の兵をとどめて、むかい城を築かせ、城と外部との連絡を絶つために城をとりまいて長い柵《さく》を結《ゆ》わせた。
秀吉は六月五日には箱根をこえて湯本に移り、早雲寺を本営とした。この以前、諸将はすでに箱根をこえていた。
諸将の攻《せ》め口《くち》が発表される。
城東 徳川家康 三万人
城北 羽柴秀次 一万七千人
羽柴秀勝 二千五百人
城西 宇喜多秀家 八千人
池田輝政 七百人
丹羽長重 七百人
城南 堀 秀政 八千七百人
長谷川秀一 三千六百人
木村|重茲《しげます》 二千八百人
本営 秀吉 三万二千人
総計 十万六千人
この他に、長曾我部元親《ちようそかべもとちか》、加藤|嘉明《よしあきら》、九鬼嘉隆《くきよしたか》、脇坂|安治《やすはる》、来島通総《くるしまみちふさ》らの水軍六千六百人が、相模湾《さがみわん》を警備する。
陸も、海も、目をおどろかす、壮大な軍容であった。こんな大がかりな戦《いく》さは、北条家の武士らは経験したことがない。
「関白《かんぱく》といっても、土民上《どみんあが》りの男がたまたま福運にめぐまれて成り上ったに過ぎぬ。何ほどのことがあろう。早雲公以来、鍛えに鍛えた弓矢の冴《さ》えを見せてくれよう」
と、甘く見ていた北条勢は気をうばわれるばかりであった。
やがて秀吉は早川をへだてて小田原城を指呼《しこ》の間にのぞむ笠懸山《かさかけやま》(今は石垣山と呼ぶ)を見立てて、ここに本営を移し、城を築く。有名な一夜城だ。建物が出来上るまで、小田原城に向った側の樹林を切らず、すっかり出来上ったところで、壁には杉原《すいばら》紙をはらせた上で、樹林をはらわせたので、小田原城内では一夜にして大城郭が出現したばかりか、壁にはしっくいまで塗《ぬ》ってあると見て、魔法か神術かと、おどろき、あきれ、恐れたといわれている。得意の心理作戦だ。彼はこの手を鳥取《とつとり》城攻めの時にも用いている。
この一夜城の有様は、こうであったと、榊原《さかきばら》康政が加藤清正に書き送っている。清正はこの戦さには軍役を免除されて、肥後《ひご》にいたのである。
「お城は西の高山の頂上に、十余丈を石つみ重ねて築き上げ、箱根山につづいて雲を抜く高さで、敵城を真下にごらんになれる。おん屋形《やかた》の造《つく》りようの広大なことは、聚楽第《じゆらくだい》や大坂城におとるまいと思わるるほどである」
心理作戦はこのほかにもあった。小田原城が急には落ちないと見ると、味方の将士を飽《あ》かせず、敵をくたびれさせるために、大名らにもそれぞれに館《やかた》を営《いとな》ませ、兵らのためにはあらゆる商品を提供する町をこしらえた。
これも、康政の手紙中に、こうある。
「大名らはそれぞれに陣城を営んでいる。天守や櫓《やぐら》の白壁は天にかがやき、陣屋は全部塗りごめである。町は小路《こうじ》を縦横に通じている。その場の状態に応じて、竹木を植えたり、草花を植えたりして庭づくりした家もあり、菜園をこしらえて、茄子《なす》、なた豆、その他の野菜を好みによって作ってある家もあり、いとも風雅《ふうが》に植木を植えこんだ庭を持つ書院や数寄屋のある家もある。大道には人馬の往来にぎやかに、終日音のやむ時がない。日本中の商人が集まって店を出していると見えて、国々の名物、津々浦々《つづうらうら》の食べもの、唐土《もろこし》・高麗《こうらい》の珍物《ちんぶつ》、京・堺の織物等、一つとしてなきはない。京・田舎《いなか》の遊女らが棟《むね》をつらねて小屋《こや》をかけて客をいざなっている。さてまた兵糧《ひようろう》は、千石《ごく》、二千石の大船が一万余|艘《そう》、小舟三万余艘もあって、絶えず運漕《うんそう》して来るので、陣中一日も不自由なことはない。以上の次第なれば、この陣中で生涯を送っても、退屈はしないだろうと思う云々《うんぬん》」
信長の一部将であった頃でさえ、三木城攻めや鳥取城攻めでは、あれほどのことをした秀吉だ。天下人《てんかびと》としての城攻めでは、こうあるはずである。
秀吉は笠懸《かさかけ》山の城で、京や大坂にいる時とほとんどかわらない生活をのんびりと営み、ねねに、
大名共にも女房を呼ばせ、小田原《おだわら》に落ちつかせて、ゆるゆると攻めようと思う。わしも淀《よど》のものを呼びたいと思う。そもじから申しつけて、つかわしてほしい。そもじの次には、淀のものがわしの気に入りだ。
と手紙を書いて、茶々を呼びよせて、いよいよ悠々たる様子を示した。
「そもじの次には淀のものが気に入っている」
とは、秀吉もなかなかやる。女の嫉妬《しつと》は独占欲からよりも、劣性《れつせい》コンプレックスによる場合が多い。夫の愛する女が自分より若い。自分より美しい、自分より学問がある、などというコンプレックス。秀吉はそれを十分に知っているのだ。知っていても、臆面《おくめん》もなくこうは言えないのが普通だ。それを堂々と手紙に書くのだから、まさにこの面でも達人である。
小田原包囲中に、関東・奥羽《おうう》の大名らが多数|参候《さんこう》して、帰属を願い出た。秀吉は全部これを許して、本領安堵《ほんりようあんど》の朱印状《しゆいんじよう》をあたえたが、その中に伊達《だて》政宗がいる。
政宗にたいしてはこれまで度々参候をうながしたのだが、言を左右にして、応じなかったのである。しかし、ついに六月上旬、参候した。秀吉は数日の間|底倉《そこくら》に謹慎を命じておいて、六月九日、笠懸山城の庭で引見した。
秀吉も演出家だが、政宗も演出家だ。髪をかぶろに切りまわし、黒具足《くろぐそく》に無紋の真白な陣羽織《じんばおり》を着て到着した。死装束《しにしようぞく》というわけだ。なに、死ぬつもりなぞはない。秀吉の豪快ごのみの性格を研究して、その好みに合わせて気を攬《と》るためである。
この日、政宗はその短い髪を白い水引《みずひき》で茶筅《ちやせん》に結《ゆ》っていた。
秀吉は白のかたびらに青紗《せいしや》の袴《はかま》をはき、青紗の陣羽織を着、細い竹杖《たけづえ》をつき、床几《しようぎ》に腰かけ、左右に徳川家康と前田利家をはじめとして、大名や侍臣《じしん》らを居流《いなが》れさせていた。
政宗が両手を大地について拝伏《はいふく》し、名前の披露《ひろう》がすむと、秀吉は朗々とひびく声で言った。
「われはにくいやつじゃが、おもしろいやつじゃによって、いのちは助けてやる。われが切取った会津《あいづ》、磐瀬《いわせ》、安積《あさか》の三郡は召上《めしあ》げるが、先祖伝来の米沢まわり十二郡のほか、奥州《おうしゆう》五十四郡は安堵してやる」
政宗にとっては、これは望外《ぼうがい》であった。先祖伝来の所領である米沢まわり十二郡と伊達郡だけしか安堵されまいと思っていたのに、自分の代になって切取った土地も大部分が安堵されたのだ。心から拝謝して、退出しようとすると、秀吉は、
「政宗よ、これへ、これへ」
と、竹杖で自分の前の地面をつついた。
「はっ!」
腰の脇差《わきざし》を、秀吉の近習《きんじゆ》らに投げあずけて近づいて、示された場所に平伏した。秀吉はその首筋を杖でおさえ、
「われは運のよいやつよ。城の落ちる前に来たわ、今少しおそうなって、城が落ちてから来たらば、これはなかったぞよ」
と言った。
横着者《おうちやくもの》の政宗も、この時そこに熱湯がそそぎかけられるように感じたと、後年言っている。
秀吉は、
「そちは田舎《いなか》もの故、かような大軍の手くばりは見たことがあるまい。後学のためだ。よく見ておけい」
と言って、数歩あるいて、小田原城の方に向い、政宗を側に呼びよせ、城を取りまいて布陣《ふじん》している諸家の陣所陣所を、杖で指点しながら、戦術の説明をした。
小田原城は七月六日に開城した。この前後に、関東諸方の北条方の城も落城したり、開城したりした。氏政は切腹させられ、氏直は助命されて、高野山に入れられた。家康の聟《むこ》であるという理由であった。
七月十三日、秀吉は家康の武功を賞するという名目で、関八州《かんはつしゆう》に移封すると発表した。八州といっても、房州《ぼうしゆう》には里見氏、上州には佐野氏、野州《やしゆう》には宇都宮《うつのみや》、那須《なす》の両氏、常州《じようしゆう》には佐竹氏が、昔ながらにいる。正味《しようみ》のところは五州くらいしかない。これまでの駿《すん》・遠《えん》・参《さん》・甲《こう》・信《しん》の五州におとるかも知れない。多少石高は越えるかも知れないが、先祖代々の土地やなれた領民との結びつきの強い旧領と、新付《しんぷ》の土地では、損なことは明白だ。
(これはおれを関東に封じこめるためじゃ)
と、家康は秀吉の心の奥がわかったが、おくびにも出さない。
「ありがたき仕合せ」
と、いかにもうれしげに礼謝《れいしや》して、受けた。
この時、秀吉は家康にこうすすめた。
「城は江戸につくりなされよ。小田原か、鎌倉と思いなさるかも知れんが、いずれも狭《せも》うて、大きな城下町は営めぬ。これからの城下町は天下の町人共が集まって来て、にぎやかに商《あきな》いするところでなくば、どうにもなりませんぞ。それには江戸がよい。今は見るかげもないさびしい村じゃが、あそこならどんな大きな町でも出来る」
家康はこれにも礼を言って、必ずそうすると言った。
家康の国替《くにが》えを触《ふ》れ出した日、秀吉は他の大名らの国割りもした。秀次に尾張と北伊勢をあたえて清洲に居させ、池田輝政を三河の吉田(豊橋)に、田中吉政を岡崎に、堀尾吉晴を浜松に、山内一豊を掛川に、中村一氏を駿府《すんぷ》に、羽柴秀勝を甲州にという工合だ。家康の中央への出口を、恩顧《おんこ》の大名によってふさいだのだ。このほか沼田は真田昌幸にあたえられた。この後、秀吉は会津に向ったが、その途中、宇都宮でのことだ。奥州から秀吉に、源義経《みなもとのよしつね》の臣《しん》であった佐藤忠信の用いたという冑《かぶと》を献上する者があった。秀吉は諸大名の集まった席にその冑を出して示し、
「この冑の主佐藤忠信の武勇と忠節とは、数百年後の今日まで知らぬ者がない。わしはこの冑を、武勇といい、忠節といい、忠信におとらぬ者にとらせたいと思うが、誰が適当か、皆々存じよりを言えい」
と言ったが、誰も発言する者がない。秀吉は、
「しからば、わしが申そう。この冑を着用して恥かしからぬ者は、徳川殿の家中本多平八郎忠勝である。その子細《しさい》はしかじか」
と、小牧陣の時の忠勝のふるまいをくわしく語り、家康に頼んで忠勝を呼び出してもらい、
「日本一の剛《ごう》の者にして、日本一の忠義者」
と激賞してから、冑を授けた。人々は皆、
「あっぱれ、武士の面目《めんもく》」
と、羨望《せんぼう》した。
秀吉は忠勝をその少年の頃から見ている。家康が信長と同盟を結んではじめて清洲に来た時からだ。当時秀吉はやっと士分《さむらいぶん》に取立てられたばかりであったが、頼もしい少年と思った。その後|姉川合戦《あねがわのかつせん》の時も、長篠《ながしの》合戦の時も、その武者ぶりを見て感心していた。それが、先年の小牧《こまき》合戦の際の、壮烈とも凄烈《せいれつ》とも言語に絶する武勇と忠義ぶりを見て、爆発的な感激になって来た。ほしくてたまらなくなった。
だから、おりにふれては、それとなく工作をして来たが、もうよかろうと思ったので、最後の手を打ったのであった。
その夜、忠勝を召し、自ら茶を点《た》ててあたえて、言った。
「その方の武勇の名は高いが、わしはそれをさらに高くしてやった。天下の諸大名列座の席で、日本一の剛の者、日本一の忠義者と披露《ひろう》した。なみなみならぬ恩とは思わぬか。徳川殿とわしと、いずれをありがたいと思うぞ」
忠勝は両手をつき、ひたいを床にすりつけたまま、答えない。
「どうじゃ、どうじゃ」
と返答をうながすと、やっと答えた。
「殿下のご恩の深さには、ありがたいと存じていますが、家康は譜代《ふだい》の主でございます。くらべることは出来申さぬ」
はねられたのである。
また、この時のことであるとも、小田原陣中でのことであるともいう。
伊達家の片倉小十郎景綱に、
「そちの主人はなかなかの男ではあるが、そちの器量とくらべては、主人として十分とはわしには見えぬ。そちは奥州のような片田舎《かたいなか》の大名の家来でおわるべき人物ではないと、わしは思う。まことにおしいと思う。どうじゃ、わしに随身《ずいしん》せんか。その気があるなら、上方で六万石あてがおう。奥州を離れるがいやなら、それでもかまわぬ。三春《みはる》はちょうど六万石あるげな。それをやろう。あとは武功次第で、十万石にも、二十万石にも、三十万石にも、してやろう」
と口説いたが、小十郎は自分は政宗の幼時からの傅役《もりやく》で、切っても切れないなかであると言ってことわった。
こうして、譜代《ふだい》の臣《しん》というもののありがたさを痛烈に感じさせられただけで、スカウトは二度とも失敗におわったのであった。
秀吉の会津行きは、格別用事があったわけではない。すでに奥羽《おうう》の大名らは皆帰服を申しこんでいるのだから、天下人の兵勢を奥羽の武士らに見せるデモンストレーションのためであった。
しかし、この会津で、蒲生氏郷《がもううじさと》をここに国替《くにが》えすることを発表した。家康を背後から控制《こうせい》するためであることは明らかであった。家康は関八州《かんはつしゆう》に封じこめられ、その周囲は秀吉|恩顧《おんこ》の大名らによって、がんじがらめにとり巻かれたのであった。
ともあれ、これで日本は、応仁《おうにん》の大乱《たいらん》以後、はじめて統一されたのだ。北は奥州の端から、南は琉球《りゆうきゆう》に至るまで、秀吉の威風になびくことになったのだ。
(おれはついに天下を平均《へいきん》した。土民《どみん》の出生で、草履《ぞうり》とりから武家奉公したおれが。頼朝《よりとも》以外誰も出来なかったことを)
会津の黒川城の大広間から、もはや中秋のあくまでも青い空に浮く白い雲を眺めて、胸をしぼってせまって来る感慨に、ひそかな涙をこぼした。誰にもそれを見せはしなかったが。
八月十二日に会津を出発、九月一日に京都に凱旋《がいせん》したが、帰りにつく時から、秀吉の心は鶴松のことだけになった。
その頃、茶々に出した手紙。
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(前略)
若君いよいよ大きくなり候《そうろう》や。そこ許《もと》(そちらの住宅、ここでは淀城のこと)の火の用心、また下々まで猥《みだ》れ(不行儀なこと)なきようにかたく申しつけられ候はんこと、専(一)に候。二十日頃には必ず参り候て、若君抱き申すべく、その夜さにそもじをもそばに寝させ申すべく候。せつかくお待ち候べく候。かしこ。
かへすがへす、若君冷やし候はん(ぬ)ように申しつけまいらせ候。何事につけ候ても、油断あるまじく候。
てんか
おちや/\
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形見の涙
一
京へ凱旋《がいせん》したのは、九月一日であった。
応仁の大乱以来百二十余年、乱麻《らんま》となった天下がはじめて統一され、静平《せいへい》に帰したのである。上は天皇、公卿《くぎよう》、殿上人《てんじようびと》、下は民《たみ》百姓に至るまで、沿道に出て、歓呼してこの凱旋を迎えた。
本来の礼法|故実《こじつ》では、勅命を受けて不臣《ふしん》の者を征伐《せいばつ》におもむいた者は、入京と同時に参内《さんだい》して軍状を奏上すべきであるが、何ごともにぎやかに花やかにやって、天下の耳目を聳動《しようどう》したい秀吉は、
「従軍の大名らの帰着を待って、そういたすでありましょう」
とお届けして、そのままに聚楽第《じゆらくだい》に入った。
聚楽第には、連日、公家《くげ》さん方や、大名や、大神社の神職、大寺院の座主《ざす》、門跡《もんぜき》、住職ら、京、堺《さかい》、博多《はかた》等の大町人らが、祝辞|言上《ごんじよう》のためにつめかける。秀吉は一々会って、あいそよく受けた。淀《よど》に行って、鶴松を抱いたり、茶々に会ったりしたくてならなかったが、そのひまがなかった。
十数日も立って、明日こそ淀へ行きたいと思って、その用意を言いつけていると、官房長官的な仕事をさせている富田知信《とだとものぶ》が言う。
「恐れながら、対馬《つしま》の宗《そう》の同道してまいった朝鮮の使者も、ご引見《いんけん》遊ばさねばなりませんが……。かの者共はかの国の都|京城《けいじよう》とやらを出ましたのが三月、はるばると海路をこえまいって、すでに半年の長きにわたって旅路にいるわけで、この京へまいりましてからさえ、二月近くもお待ち申しているのでございます」
秀吉はいささかきげん悪げな顔になった。
「心得ている。忘れてはおらん。しかし、もう少しそのままにおけい」
「はっ」
富田は平伏した。朝鮮使節の連中には大いに気の毒とは思うが、押しては何にも言えない。なぜ秀吉のきげんが悪いか、よくわかっているのである。
秀吉の東征している間に、新しく兄|義調《よしのり》のあとを嗣《つ》いで対馬の島主となった宗|義智《よしとも》とその重臣柳川|調信《のりのぶ》とが、朝鮮の正使|黄允吉《こういんきつ》、副使金誠一、書状官|許筬《きよせい》の三人を連れて京都についた。三人は三月に京城を出発し、四月二十九日に釜山《ふざん》を出帆し、七月二十三日に京都に到着したのである。
留守居《るすい》の小一郎秀長は、朝鮮使節らは大徳寺に止宿《ししゆく》させ、宗主従は本法寺に止宿させて、急使を馳《は》せて秀吉に報告した。
この報告を、秀吉は凱旋《がいせん》の途中、宇都宮《うつのみや》で聞いた。
「やあ、とうとう来たか」
秀吉は大満足であった。琉球《りゆうきゆう》のように、帰服の礼を捧《ささ》げるために来たのだと思いこんだのである。
ところが、報告書をよく読ませて聞いてみると、帰服のためではなく、秀吉が日本を統一したことを慶賀するあいさつのために来たのらしいことがわかった。
そもそも、秀吉が宗|義調《よしのり》、義智《よしとも》の父子(義調は兄にして養父)を博多に呼んで命じたのは、朝鮮国王を説《と》いて帰服させ、王みずからを京都に伺候させようというのであり、宗父子はこれをかしこんだのである。宗父子としては、それが出来ない相談であることはわかっていた。経済的には、日本より朝鮮に依存することの多い当時の対馬が、こんな高飛車《たかびしや》なことを朝鮮に言える道理はないのである。何とかして、通信使(時節のあいさつの使者)くらいを出してもらって、それで秀吉をごまかしてしまおうと、その程度のことを朝鮮政府に要求――要求というより嘆願して、すったもんだの末、やっと漕《こ》ぎつけたのである。しかし、そんなことは、秀吉にはわからない。
(おれは王を連れて来いというたのじゃ。使者というがどれほどの身分のやつか知らんが、せめて王子とか、王の兄弟とか言うならじゃが、家来では話にならん)
と、少なからずきげんを悪くしたのである。
しかし、その時は別段なことは指示せず、ただ、
「おれが帰るまで、とどめておけい。何分の差図《さしず》は帰りついてからする」
との旨《むね》を命令してやったのであった。
帰京後も、不満は消えない。朝から晩まで連日、祝辞言上の人々にきげんよく応対していながらも、このことを考えると、不快が胸をかすめる。ただ、これをどうさばき、これからどう手を打つべきか、その工夫がつかないのである。
翌日、秀吉は淀《よど》に行った。京へ着いた日に、鶴松とお茶々とへのみやげものはうんと淀へ持って行かせたが、最も二人が喜ぶであろうと思われるものだけは、自分が持って行って直接わたして喜ぶ顔が見たいと思って、のこしておいた。それを長持《ながもち》二つに入れて、行列の後尾にかつがせていた。
快く晴れた秋の日であった。天正十八年の九月は太陽暦の九月二十九日からはじまるから、九月半ばは今日の十月半ばになる。この季節は京都では紅葉にまだ少し早い。田は収穫《とりいれ》の最中であるが、水辺の蘆荻《ろてき》もまだ枯れてはいない。わずかに黄ばんで、風の吹くたびに乾いたすがれた音を立てるくらいのものだ。しかし、空気はすんで、京都盆地を取りまく山々は、小さなひださえはっきりと見えて、輪郭がくっきりとしている。そんな景色を眺めながら、馬を進めた。
前もって知らせておいたので、途中まで迎えの者共が出ていた。
「やあ、出迎え珍重《ちんちよう》じゃ。若君も、御前《ごぜん》も、達者《まめ》な由で結構じゃ。待ちかねていようの」
と、きげんよく声をかけた。
「はい、はい、それは、それは、お待ちかねでございまして、若君は今朝《けさ》からいく度も、お蒙様《もうさま》まだ、お蒙様まだ≠ニ仰せられて、お抱き申してご門前まで行けと、おむずかりなさりまして……」
出迎えの重臣は、愛嬌《あいきよう》よく笑いながら答える。いかにも若君が可愛《かわ》ゆくてならないといった表情だ。
「ハハ、ハハ、そうか、そうか。もう口がきけるのじゃな。足はどうじゃ。ついたか」
「なかなかよくお話しでございます。お足もお達者で、ご殿中をよちよちと歩きまわりなさいますので、少しも油断がならないと、女中衆が申しております」
「そうか、そうか」
腹の底からうれしさと熱い愛情が湧《わ》き上って来て、頬《ほお》がゆるんで来る。
最後に見たのは、この二月の末だ。その頃はまだ口はきけなかった。足はもちろんだ。やっと這いまわって、不明瞭《ふめいりよう》な音声で意志を通ずるだけであった。
しかし、あれからもう半年余にもなるのだ。口もきけるようになって、達者にしゃべり、足もついて、よちよちと歩きまわっているのか!
いつも鶴松を見るたびに、自分の年がかえりみられて、成長の遅さがもどかしくて、手をもって引きのばしたいほどの焦慮《しようりよ》を覚えたものだが、今は、
(子供の成長は早いものじゃ!)
という、最も平凡な感慨があった。
相手はまた言う。
「お知恵の鋭いこと、お大気《たいき》なこと、お側のもの皆おどろき感じ入っています」
「ほう」
語られたことは、濠《ほり》の魚より宇治《うじ》川の魚の方がよく、それよりよいのは鳥だ、どこへでも好きなところへ行けるからと言ったとか、この夏、瓜《うり》をはじめて召上《めしあが》ったが、大へんおいしく思われたのであろう、女中ら全部にもたくさんずつあたえよと言ったとか、そんな他愛《たあい》ないことばかりであるが、秀吉はほくほくと感じ入って聞いた。
「さすがに、殿下の若君と、皆申している次第でございます」
「そうじゃとも、おれが子じゃ。それくらいのことはあるはず。ハハハ、ハハハ」
飽《あ》かず子供のことを聞きながら、馬を進めた。
淀城につくと、城門の橋際に、鶴松が女中に抱かれて、迎えに出ていた。
ずっと聞いて来たことから、秀吉は鶴松を血色のよい、まるまるとふとった、いかにも明るい感じの子供になっていると思いこんでいたのだが、今目の前に見る鶴松は、青白く痩《や》せて、頭ばかり大きい、いかにもひよわそうな感じであった。
元来、弱い子だったのだ。老いてからの子であるので、こうなのだと一入《ひとしお》気をつけて育てたのだが、それでもよく病気をして、その度に医者らが大さわぎした。神社、仏閣への修法《しゆほう》・祈祷《きとう》は言うまでもない。それが心配だったので、出陣中もおりにつけては、そのことを言ってやったのだが、その間は別段なことはなく、日にまし丈夫になりつつあるということであり、今またその発育ぶりを聞きながら来たので、つい最もあらまほしい子供を想像していたのであった。
しかし、それも瞬間のことであった。激情的な愛情が全身をおしつつんだ。
「やあ、若《わか》、お迎えに出てくれたか、おお、おお……」
というと、若者のような身軽さで馬を飛びおり、両手をさし出した。
鶴松はにこりともせず、青白くやせた顔に大きな黒い目をみはって、まじまじと父を見ていたが、父が両手をさし出して近づいて来るのを見ると、おびえたような顔になり、くるりと向きなおって、抱いている女中の胸に顔を伏せた。
女中らは狼狽《ろうばい》した。
「あれまあ、どう遊《あそ》ばしたのでございます。あんなに、お蒙《もう》さまはまだか、お蒙さまはまだか≠ニ、おっしゃって、お待ちでございましたのに、それ、お蒙さまでございますよ、お蒙さまで……」
と、口々に言って、のぞきこみ、秀吉の方を向かせようとしたが、言われれば言われるほど、女中の胸にしがみつく。細い青白いうなじがけいれんするようにふるえている。
「ハハハ、お蒙様を忘れてしもうたらしいの」
しかたがないから、笑った。
「恥かしがってお出《いで》なのでございますよ。ほんに、あんなにまでお待ちになっていましたのに! あまりお待ちになって、待ちくたびれなさって、お眠うおなりなのでございましょう。ほんに、本意《ほい》ないことで」
鶴松を抱いている女中は、恐れ入ってわびた。
「子供にはよくあることじゃ。気にすることはない」
秀吉はかえってなぐさめた。
二
茶々は玄関の前まで迎えに出ていた。
これは小田原に呼び寄せて、陣中ずっと一緒にいたので、二月ぶりの対面である。美しく、たおやかで、高雅《こうが》な姿で、すらりと立っていた。
「やあ、やあ、やあ、来たぞよ、来たぞよ」
陽気に呼びかける秀吉に、美しく微笑しておじぎをした。近づくのを待って、持ち前の、やさしく、しめやかな声で言う。
「天下|平均《へいきん》してのお凱旋《がいせん》、ひとしおめでたく存じ上げます」
うっとりするほど美しい声だ。忽《たちま》ち心の底から楽しくなった。
「ありがとう。ありがとう。しかし、そのわしに、若《わか》は抱かれようとせぬ。抱こうと手を出したら、あの通りじゃ」
女中に抱かれている鶴松の方をふりかえった。鶴松は抱かれたまま眠っていた。
「おや、おや」
「待ちくたびれて、眠うなられて、ごきげんが悪うなりなさったのでございましょう」
茶々はおちついている。母親のおちつきであった。
笑った。
「他愛《たあい》のないものじゃのう」
大いにいい気持になった。
正殿で、正式に祝辞を受けた後、居間に落ちついて、何くれとなく打ちとけた物語をした。みやげも、そこでくれる。
「何というても、関東や奥州《おうしゆう》は片|田舎《いなか》じゃ、おなごのよろこぶようなものはない。それでも、なにがなとさがさせた。その苦労は買うてもらいたいぞ」
と言って、一つの長持《ながもち》をひらかせた。
狐《きつね》や狸《たぬき》の毛皮や、模様をすり出した信夫絹《しのぶきぬ》や、ぴかぴかと光ってなめらかな甲斐《かい》絹や、陸奥檀紙《みちのくだんし》や、そんなものが、あらわれた。いつものことだが、山のような量だ。
「あれまあ、こんなにたんと! お帰りになってすぐ、あんなに沢山いただきましたのに」
「これは特別よいものばかりなのじゃ。自分で持って来て、手渡しに渡してよろこぶ顔を見たいと思うて、わざとのこしておいたのじゃ。なかにも、これはよいじゃろう。あちらでもめずらしいものじゃそうな」
毛皮の中から、真白なのを二枚えらび出して、茶々に手わたした。雪のように純白な毛皮であった。
「やわらかくて、細かに生《は》えて、なでているとなんともいえず快い。袖無《そでなし》にこしらえさせて、寒い夜には羽織《はお》るがよい」
「まあ! 美しい! 何の皮でございますか。ほんにやわらこうございますこと!」
茶々はひざにのせて、撫《な》でている。ぽっと薄桃色をした爪《つめ》を持つ、白く、小さく、形のよい手が、その真白な毛皮を撫でているのが、何ともいえず美しい眺めであった。
「狐じゃよ、めったには捕れないのじゃそうな」
血がさわいで来た。その手を取って引きよせたかったが、女中らがいて、出来ない。しかし、幸福であった。うっとりと目を細めていた。
鶴松が連れられて来た。
「おお、おお、目がさめたか、目がさめたか」
と、声をかけはしたが、またむずかるかも知れないと思ったので、抱こうとは言わないでいた。
しかし、女中が下へおろして、
「さあ、お蒙《もう》様に抱っこしておもらい遊《あそ》ばせ」
と言うと、よちよちと歩きよって来た。青白い顔に眼ばかり大きく、首筋などいたいたしいくらい細いからだでありながら、両手を前に出し、にこにこと笑いながら、精《せい》一ぱいに足を踏んばって近づいて来、差出《さしだ》している父の両腕の間にたおれかかるようにして抱かれて来た。
「おお、おお、おお、よう歩けるのう、よう歩けるのう。よい子じゃ、よい子じゃ。上手《じようず》に歩けるのう、上手に歩けるのう」
胸に抱きしめると、子供はきゃっきゃとうれしげに笑った。胸が熱くなって、涙がにじんで来た。
秀吉は茶々への土産物《みやげもの》を大急ぎでしまわせ、もう一つの長持《ながもち》を持って来させて、ひらかせた。
それには、奥州で買い集めさせた木彫りの人形や、馬や、犬や、熊が無数に入っている以外に、奥州名産の矢羽《やばね》が紙の袋に入れて、いくつも入っていた。
「早う大きくなりなされや、これで矢を作《は》いで、お蒙様と一緒に弓を引こうな」
と言って、一つの袋から鷹《たか》の羽を出して見せた。しかし、鶴松はそれには興味を示さず、人形や動物のおもちゃが大いに気に入った風で、そればかりいじっていた。
「矢羽はまだ早うございますよ」
と、茶々が笑った。
「そのようじゃな」
秀吉は他愛《たあい》なく笑った。
その夜は泊まった。凱旋《がいせん》の途中から出した手紙の文句通り、親子三人、枕をならべて。
三
大徳寺で、朝鮮使節らは退屈で、不安な日を送っていた。待遇はそれほどよくはないが、悪くはなかった。日々の食事は、支給される材料をこちらで、連れて来た厨人《ちゆうじん》(料理人)に調理させるのだが、その材料は悪くない。鶏《にわとり》や魚類などはなかなかよいものをくれる。ただこの国にある材料に限られるのはやむを得ない。あっても、牛などは望んでも拒否される。しかし、自由に外出して歩きまわることは許されない。もっとも、前もって望めば、望みの場所に連れて行ってくれる。その場合は人々を遠くはらうから、日本人と話し合うなどは出来ない。
「拘禁《こうきん》されていると、同じではないか」
と、たがいに話し合った。
それでも、はじめのうちは、国に入って来た時から、関白《かんぱく》は今遠く国の東辺に巡狩《じゆんしゆ》していて不在であると、言われて来た。
不安になり、不安のあまりに、皆機嫌が悪くなった。
元来、彼らを派遣するにあたって、朝鮮の朝廷の意見は、全廷一致ではなかった。朝鮮は対馬《つしま》とは、ごく近くにあることだし、交際している。民《たみ》がたがいに往来して物資を交流し合っていることは言うまでもなく、対馬島主である宗家も朝鮮王廷にたいしてまことにおだやかで、釜山《ふざん》に倭館《わかん》とて、今の公使館と商館をかねたものを置いて、平和な交際をつづけている。このために、朝鮮人の一部では、宗氏は朝鮮王家に臣従《しんじゆう》しているとすら思っているほどだ。朝鮮の朝廷そのものが、その気味合をもって、宗氏にたいしていた。
こんな両国の関係だから、宗氏としては、
「王自ら日本の京都に来て服属をせよ」
などという高飛車《たかびしや》な秀吉の要求をとりつげるはずがない。
「かようかようで、百数十年にわたって大小の豪族相争奪して乱麻《らんま》の姿であった日本も、関白秀吉という大|豪傑《ごうけつ》が出て、一統に帰し、平和を謳歌《おうか》する世となりました。近年、貴国でも倭寇《わこう》の難がなくなったことにお気づきでありますはず。これは関白の統制が行きとどいて、日本国内に姦兇《かんきよう》の徒《と》がいなくなった故であります。せっかく関白から、昔のように交際をしたいと申して来ているのです。久しく絶えていた国交を再開し、日本政府と厚誼《こうぎ》を結ばれることは、必ず貴国の大利益でありましょう」
くらいのことしか言えない。
しかし、これにすら朝鮮の朝廷は群議百出で、容易《ようい》にうんと言わない。日本のように貧寒でろくに産物もない上に、強悍《きようかん》暴悪な民の多い国と交際してはろくなことはない、交際しないに越したことはないと説《と》く者があり、わが国は大明《だいみん》を宗主国と仰いでいる、明に奏問してことを決すべきであるという説があり、通信使の交換くらいなら、昔はやっていたことだからかまわないではないかと主張するものがあり、すったもんだと揉んだが、大勢は拒絶であった。
それを、義智《よしとも》が一年も朝鮮に逗留《とうりゆう》して、百方手をつくして、山ほど金を使って、ともかくも通信使派遣に漕《こ》ぎつけたのであった。
この間、秀吉の方から宗氏へいく度もさいそくが来た。えらい強《きつ》い口上《こうじよう》だ。はじめ九州|役《のえき》の帰途、博多に呼びつけられた時は、
「高麗王《こうらいおう》を京都に連れて来い。もし高麗がこの仰せつけに従わんなら、大軍をくり出して踏みつぶしてしまうぞと言え」
であったが、しだいにそれがせり上って来て、
「おれは別段高麗なぞには欲はない。おれの目あては大明だ。高麗王に道案内をさせるために、帰服せよというているのだ。これをよく言い聞かせて、一日も早く伺候《しこう》させるようにせい」
となった。
途方《とほう》もない言い草だ。とうてい取次げるものではない。
朝鮮に接近して常に交通している宗氏は、明国の強大もよく知っている。日本六十余州を平定一統した秀吉をよほど偉《えら》い人だとは思うものの、日本六十六州といっても、大明の二、三省にしかあたるまい。それを討《う》ち平《たいら》げたからとて、大明国に歯が立とうとは思われない。大方、関白殿下《かんぱくでんか》は、バハン船の連中が六、七十人、せいぜい二、三百人で、何十日も大明国内をあらしまわったのに、官兵共が手を束《つか》ねていたという話を聞いて、腰ぬけ男ばかりの国と思うていなさるのであろうが、それは対手が高の知れたバハン共じゃと思うて、蚤《のみ》か虱《しらみ》に食われているくらいのつもりで、いかほど血を吸っても大したことでなし、そのうちには腹一ぱいになって離れて行くであろうと大様《おおよう》にかまえていたからで、国と国との戦《いく》さということになると、そうは行くまい。大明の方でも、全力をつくして戦うであろうからだ。
(トントン拍子のあまりなる運のよさに、少々気がおかしくなってござるのではないか)
と思わないではいられない。
しかし、殿下のごきげんを損ねることは、何よりこわい。九州大名らに仰せつけて、征伐《せいばつ》の軍勢でも向けられたら、大ごとだ。モグリ(蒙古《もうこ》)の襲来は、三百年以上たった今日でも、「モグリが来た!」といえば、泣く子も声をひそめておびえるほど、この島を痛めつけたが、こんどは日本内地の兵からそんな目にあわされよう。
「何とかして、朝鮮も、関白《かんぱく》も、ごまかしてしまわんければならん。それがこの島国のたった一つの生きる道だ」
と、益々決心をかためた。
そのうち、殿下の御信任の厚い、肥後《ひご》半国の領主である小西|摂津守《せつつのかみ》行長が、殿下の仰せを受けて、博多町人の島井宗室を自分の代理としてつかわした。さすがに手広く海外交易を行って、天下に名のひびいている大町人だけに、万国の事情にも精通していて、秀吉の朝鮮への要求についても、おもしろい解釈を持っている。
「殿下のこんどのおことばは、表向きだけから解《と》るべきではありませんばい。日本一の知恵者であらっしゃる殿下が、本気であげん途方《とほう》もなかことを考えとりなさるとは、拙者《せつしや》には思われまっせん。殿下は大明と交易の途をひらこうと思うていなさるのじゃと、拙者は見とります。バハン半分の交易船はついこの間までずいぶん向うに行っとりましたが、国と国との公けの交際と交易は、だんだん末細りになって、ここんとこ六十年ばかはすっかり絶えてしもうとります。殿下はそればまたはじめたいと思うてござらっしゃるのじゃと、拙者は睨《ねろ》うどります。そんなら、なぜこげん荒々しかことば言うてよこしなさったかちゅうことになりますが、これには事情がありますとたい。織田|右府《うふ》さんがまだ生きてお出でる時分、実は何度も朝鮮に使者ば遣《つか》わして、朝鮮とも仲よう付合《つきお》うて交易したい、そうしてくれ、また、大明ともやはり付合うて交易したいから、あんたの国が仲に立って、よろしゅうとりなしてくれと、頼みなさったのですたい。それを朝鮮はいいかげんな返事して、うて合わんじゃったのですばい。前にそげんことがあるので、関白さんは一筋縄では行かん朝鮮じゃと思うて、こんどの如《ごつ》、えらい強《きつ》かことば言うてよこしなさったのじゃと、拙者は考えとります。関白さんは、異国交易がえらい金になることを、よう知っとりなさっとです。関白さんが、堺や、博多の交易商人に投銀《なげぎん》しとらすのは、莫大《ばくだい》なもんですばい。大明《だいみん》との交易をまたはじめようと思うとらすけん、大明の朝廷の気に適《かな》うようにバハン船もあげんまできびしゅう取締っていなさるのじゃと思えば、辻褄《つじつま》が合《お》うて、納得《なつとく》が行くでしょうが。一方ではきげんば取り、一方ではきびしゅう出ておどかす。関白さんのいつもの手口ですたい。これは拙者《せつしや》だけの考えではありまっせん。小西摂津さんに、拙者のこの考えば語って、どげんでしょうと言いましたとこ、摂津さんも、わしもまあそれに似た風に思うとると言われました。あの人は今はお大名ですばって、根は堺の薬屋ですけん、そのへんのことはよくわかりなさるとですたい」
と、こんなように、島井宗室は説明した。
いかにも理窟《りくつ》だ。そう聞けば、実によく納得が行く。宗家では大いに信じた。
こうなれば、はじめからの見込通り、何とかして通信使を出させれば、よいのだ。それで立派にすむ、殿下《でんか》の側近の人々の中に、かれこれ言う人間があるいはいるかも知れないが、殿下の側近の中では、石田|治部《じぶ》が一番の権勢者《きりもの》だ、小西は石田と大の仲良しと聞く、多分小西と石田は同腹《どうふく》であろうから、誰がなんとほじくり立てても、無事に済《す》むだろうと、大いに力を得た。そして、島井宗室と一緒になって、朝鮮朝廷のうるさい有力者らに懸命に運動して、前述の通り、通信使派遣にこぎつけたのであった。
こんな風であるから、通信使らは、宗|義智《よしとも》や柳川|調信《のりのぶ》にたいして、おそろしく傲慢《ごうまん》であった。宗家からの懇願《こんがん》によって、いやいやながら来てやったという腹があるので、こう窮屈《きゆうくつ》で、退屈で、不安な日を送らされていると、事毎《ことごと》にあたり散らしたくなる。その度に、義智や調信を呼びつけては、口ぎたなく文句を言った。謁見《えつけん》をさいそくもした。
二人は文句にはひたすらに平身低頭して恐れ入り、謁見のさいそくには、
「ごもっともであります。私共も同じ思いでございますから、さいそくはしているのでございますが、関白の都合がつきかねるというので、致し方はないのでございます。私共に免じて、なにとぞご辛抱下さいますように。さりながら、もうそう延びることはございますまい。間もなく謁見のことと相成って、めでたくご帰国の運びになりましょうから、何分にも今しばらくのご忍耐を」
と、文字通りに拝《おが》み奉《たてまつ》った。
十一月三日、秀吉はかねて奏上《そうじよう》の通り、北条|征伐《せいばつ》に従軍した諸将をひきいて参内《さんだい》、軍状を奏上報告した。それぞれ軍装して、なかなかの壮観であった。京都中の人々が群集《ぐんじゆ》して道の両側に居ならんで見物したことは言うまでもない。
秀吉はこれを朝鮮使節接待役の者に言いつけて、使節らにも見物させた。武威のほどを見せつけたのである。
その四日後の十一月七日、使節らを聚楽第《じゆらくだい》に引見《いんけん》した。
この日、引見の儀は、聚楽第の大広間で行われた。聖護院門跡《しようごいんもんぜき》、菊亭晴季《きくていはるすえ》、勧修寺《かんじゆじ》晴豊、中山親綱、日野|右衛門督《うえもんのかみ》、飛鳥井雅継《あすかいまさつぐ》らの公家《くげ》と、長谷川|秀一《ひでかず》、宇喜多《うきた》秀家らの大名とが相伴《しようばん》を命ぜられて、左右に居流《いなが》れた。この人々は容貌《ようぼう》が堂々としているか、秀麗であるかによって選ばれたのである。あまり男ぶりが悪くては、この際利でないとの、秀吉らしい配慮によることは言うまでもない。秀吉をはじめ、皆|衣冠《いかん》姿であった。
使節らは朝鮮から召し連れて来た楽人らに音楽を奏《かな》でさせながら、輿《こし》に乗って、静々《しずしず》と聚楽第にくりこんで来、奏楽につれて入場し、着席し、自国の礼法をもって拝謁《はいえつ》の礼をした。彼らは彼らでまた、中国|直伝《じきでん》の文化をもって、東夷《とうい》共を圧倒してくれんと心組んで、出来るだけ威儀堂々とふるまった。たとえば輿に乗って聚楽第に参入したのも、多少の論争があってかち得たのであった。
次には、彼らの持って来た国書《こくしよ》が台にのせて奉呈《ほうてい》され、同時に贈物の目録《もくろく》と実物とがならべられた。
一 虎の皮百枚
一 朝鮮式の馬の鞍《くら》
一 蜂蜜五|樽《たる》
一 人蔘《にんじん》百|斤《きん》入一箱
一 白米五十石
虎の皮はなかなか見事で、人々の目をひいた。
美しい袈裟《けさ》をかけた、五山《ござん》の学僧がわきから進み出て、国書《こくしよ》を取上げ、席を斜《なな》めに少し退《ひ》いて、うやうやしくひらいて読みはじめた。読経できたえた、よく透《とお》る、朗々たる声であった。
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朝鮮国王|李《り》※《えん》、書を日本国王|殿下《でんか》に奉《たてまつ》る。
時あたかも春にして気|和※《わく》、殿下御健勝のことと存じます。遥かに大王が六十余州を一統《いつとう》されたことを聞きまして、使節を派《は》して修好し、隣国の交誼《こうぎ》を厚くしようとは、夙《はや》くから意図していたところでありましたが、道筋が塞がり、通行出来ないではないかと案じましたので、心ならずも、数年を経過してしまいました。しかし、やっと念願がかなって、貴使とともに黄允吉《こういんきつ》、金誠一、許筬《きよせい》の三使をつかわして、賀辞《がじ》を申し上げさせることになりました。外ならぬ隣国のことなれば、今日以後は、いかなる国よりも親しく交際いたしたいものです。お聞届《ききとど》け賜《たま》わらば、幸い甚《はなはだ》し。よって、粗品《そしな》ながら国の産物を、別紙目録のごとく奉ります。
御|笑納《しようのう》いただきたい。お大切に。不宣《ふせん》。(漢文口語訳)
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つづいて、目録が読み上げられた。
国書は純粋な漢文で書かれたものであるから、たとえ訓読したところで、耳|馴《な》れない漢語が多く、ここに訳述したようにはわからないのであるが、秀吉は前もってさし出された写しを、五山《ござん》の学僧に読ませ、とっくりと意味を説《と》き聞かされている。
そこにあるものは、自分が日本を統一したことにたいする賀辞と、これから交際を結ぼうというだけのことを、純然たる対等のことば遣《づか》いで書かれているのである。
秀吉の目的は、朝鮮や明との修好と貿易だけではない。貿易の利はもちろんよく知っているが、それは足利《あしかが》将軍もやったことだ。人の踏んだあとを踏んで満足していようとは思わない。これまで誰もやったことのないことをやって、自分がどんなにすぐれた男であるかを世に見せたいのだ。大明《だいみん》四百余州を征服するため、朝鮮を服属させたいのだ。彼は大いに不満であった。
この点、町人出身である小西行長や町人である島井宗室は、秀吉の心事《しんじ》を測りそこなっているのだ。人は自らをもって他を測るよりほかないものであるが、小西の誤解は終始訂正されず、秀吉の真意と平行線を歩いた。ここに朝鮮役が悲劇となるべき第一の原因があったと言えよう。
ともあれ、この時も、秀吉は大いに不満であった。しかし、なお交渉の余地をのこすために、使節らにたいしては、別段不機嫌な様子は見せなかった。もっとも、持ち前の豪放《ごうほう》な愛嬌《あいきよう》も見せない。だから、日本側の者は彼があまり機嫌がよくないことを知ったのである。
次に饗応《きようおう》がはじまった。純然たる日本式のもので、五の膳《ぜん》まで出た。
この時のことを、帰国後使節から聞いて、朝鮮王朝の重臣柳成竜の書いたものがある。こうだ。
「秀吉という男は風采《ふうさい》は至って悪い。からだは小さく、色は黒く、平々凡々である。ただ眼光に異彩《いさい》あって、閃々《せんせん》として人を射るような感がした。饗応がすんでしばらくすると、秀吉は急に立って奥へ入った。左右に居流《いなが》れたその臣らはすわったままでいる。やがて、不意に出て来たものがある。平服を着て、子供を抱いている。左右の者は皆平伏した。何者であろうかと、よくよく見れば、秀吉であった。悠々として堂内を子供をあやしながら歩きまわって、自分らの方を見せ、それから縁に出て、われわれの召《め》し連《つ》れた楽人らを招いて、さかんに奏楽させて、子供に聞かせた。間もなく、子供が小便を走らせ、秀吉の着物を濡《ぬ》らした。秀吉は笑って、近習《きんじゆ》の者を呼んだ。すると、一人の女が走り出て来た。秀吉はそれに子供をわたし、着物をとりよせ、その場で着かえた。すべて思うがままにふるまって、傍若無人《ぼうじやくぶじん》である」
この子供が鶴松であることは言うまでもない。めずらしい朝鮮使節を見せてよろこばせるために、淀《よど》から呼びよせていたのであることも言うまでもない。
秀吉がなぜ外征を思い立ったか、歴史上の大疑問になっている。昔の歴史家は、軍事的英雄によくある、飽《あ》くことを知らない征服欲に駆られたのだと言い、近頃の歴史家中には、秀吉の真意は貿易の利をもとめたのであろうと、この小説中の宗|義智《よしとも》や小西行長や島井宗室と同じ解釈をしている。作者は、これらのことももちろん副次的にはあったろうが、最も根本的な原因は、彼が北野に大茶の湯を興行《こうぎよう》したり、奈良の大仏の三倍以上の大仏を造って大仏殿を建立したり、金銀くばりをしたりしたことと同じ心理にあると解釈している。信頼出来る強力な一族や忠誠勇敢な譜代《ふだい》の臣を持たない彼は、たえず自分の偉大さを見せつける以外には自らの権勢を保ち、自家《じか》の万世《ばんせい》を保つ途《みち》がないと思っていたのだ。とすれば、すでに日本を征服して様々なことをやりつくした彼には、もはや外征以外にはないと思われるはずだ。この彼の心と、壮年の頃からの大言壮語と、一片の辞令によって琉球王《りゆうきゆうおう》が使者をつかわして帰服したこと等とが結びついて、いよいよその熱を上げさせたのだと思うのである。
ともあれ、こうして朝鮮使節の引見《いんけん》の儀はおわったのであるが、不思議はこの後の秀吉の心事《しんじ》の変化である。秀吉はこの使節らが単に賀辞奉呈《がじほうてい》と修好のために来たのであるとの認識を改めて、降伏帰属の使者として来たのだと思いはじめたのである。
なぜそんなことになったか、歴史は不明になっているが、恐らく小西行長や、宗主従や、島井宗室や、そして多分石田三成らが、懸命に秀吉を説《と》いてごまかしたのであろう。
彼らのこの措置を悪いとばかりは言えない。石田や小西はこうして一時ごまかしておいて、潮合《しおあい》を見て、外征は豊臣家のためにも、日本のためにもならないと説いて、思いとどまらせるつもりであったと思われるのだ。
それなら、こんなごまかしなどせず、堂々と切諫《せつかん》すべきだという論もあろうが、それは当時の事情をわきまえない意見だ。することなすこと最も好調に行って日本を統一し、意気最も昂《たかぶ》っている秀吉だ、聞入れるものではない。時をえらんで、よほど巧みに事を運ばなければならないと思ったのであろう。
ともあれ、秀吉はごまかされた。ごまかされたから、宗主従の功を賞して、朝廷に奏請して、官位を授けた。義智には従四位下|侍従《じじゆう》、柳川|調信《のりのぶ》には五位の諸大夫《しよだいぶ》。
こんな風であったから、世間もまた、朝鮮王は降参して来たと受取り、秀吉の武威が異国にまでおよんだことを驚嘆した。
使節らは謁見《えつけん》後四日、十一月十一日に京都を出発して堺《さかい》に出、ここで秀吉の答書《とうしよ》の来るのを待った。
数日の後、答書は来た。
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日本国|関白《かんぱく》秀吉、書を朝鮮国王閣下に奉《ほう》ず。
芳書《ほうしよ》再読、三読いたした。そもそも、わが国六十余州は、近年|乱麻《らんま》の形勢となり、国規《こつき》乱れ、代々の礼法すたれ、朝政行われない状態であったので、余《よ》は憤《いきどお》りを発し、三、四年の間に叛臣《はんしん》を伐《う》ち、賊徒を征《せい》し、異域遠島に及ぶまで、ことごとく一統《いつとう》、掌握《しようあく》した。余は微賤《びせん》の出身ではあるが、母が日輪懐《にちりんふとこ》ろに入るを夢みて、余を受胎した。相者《そうしや》これを判《はん》じて、日光はくまなく世界を照すもの故、この子は壮年にして必ず世界の主となり、仁風八表《じんぷうはつぴよう》をそよがせ、威名《いめい》世界を恐れしむるに相違なしと言った。この奇瑞《きずい》の故であろう、余が敵となるものは自然に破れ亡《ほろ》び、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取った。かくて既に天下大いに治《おさ》まり、万民《ばんみん》を撫育《ぶいく》し、孤独者をあわれんだので、民《たみ》富み財|足《た》り、貢《みつ》ぎものの集まること古《いにしえ》に万倍している。わが国はじまって以来、朝廷の盛んなること、帝都の壮観なること、今日《こんにち》のごときはない。一体、人間は長生しても古来百歳なるはない。いかでか、鬱屈《うつくつ》してあるべき。万里《ばんり》の道、山海の阻《はば》みをこえ、一超《いつちよう》直ちに大明国《だいみんこく》に入り、その国の風俗を日本風にかえ、日本の政化を永久に施さんことは、余が方寸《ほうすん》のうちにある。貴国これが先駆をなし入朝《にゆうちよう》するならば、遠き慮《おもんぱか》りあるものは近き憂《うれい》なしというに相当しよう。遠邦《えんぽう》の小島でも、後《おく》れて降伏して来る者は許さないつもりでいるのだ。貴下は、余が大明に入るの日、士卒をひきいて、余が軍営に来れ。いよいよ隣盟《りんめい》を重ねよう。余が望みは他なし、高名を三国にかがやかすことである。土産《みやげ》の品物をつかわすから、目録《もくろく》のごとく受納せよ。からだを大事にせよ。不宣《ふせん》。
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この高飛車《たかびしや》な返書を受取って、朝鮮使節らは仰天《ぎようてん》せんばかりに驚き、また怒《いか》った。第一、こちらは帰服《きふく》を申込みに来たのではないのに、帰服したことにしている。使ってある文句も無礼《ぶれい》千万なものだ。こちらの国書には日本国王|殿下《でんか》と敬称したのに、これには朝鮮国王|閣下《かつか》としている。礼儀上の贈物であるべきを、「方物如二目録一領納(方物《ほうぶつ》目録の如《ごと》く領納《りようのう》せよ)」とはなにごとであるか。最もけしからんのは、「一超直入二大明国一。易二吾朝之風俗於四百余州一。施二帝都政化於億万斯年一者。在二方寸中一。貴国先駆而入朝。(一超|直《ただ》ちに大明国に入り、吾朝《ごちよう》の風俗を四百余州に易《うつ》し、帝都の政化を億万|斯年《しねん》に施さんこと、方寸の中に在り。貴国先駆して入朝せば……)」とあることだ。これでは関白は大明《だいみん》に兵を向けようと考えているのではないか、帝都の政を億万年にわたって施すとはなにごと! そもそも、帝とは中国全土の主権者の称号で、群小諸国の王の称すべきものではない。だからこそ、わが朝鮮も王と称しているのだ、わが国と同格の国である日本の国主などが帝とは僭越《せんえつ》千万、のみならず、わが国に大明侵入の先駆《さきがけ》をせよ、しからずば滅ぼすぞとある。実にけしからん! 大明はわが国の宗主国《そうしゆこく》と仰ぐところである。あれといい、これといい、かかる暴悪無慙《ぼうあくむざん》なる答書《とうしよ》は持って帰ることは出来んと、恐ろしい勢いで抗議した。
かかりの役人らは、玄蘇《げんそ》という禅僧に説得を依頼した。玄蘇は博多|聖徳寺《しようとくじ》の僧で、宗氏が朝鮮と交渉する時、ちょうど対馬《つしま》に来ていたので、頼まれて一緒に朝鮮に行き、日本の正使ということになって、かれこれと交渉してくれた人物だ。この時も義智らと同道して終始一緒にいたのだ。
玄蘇は、「朝鮮王閣下」を「朝鮮王殿下」と改め、「方物」を「土宜《どぎ》」と改めたが、他の苦情は弁をふるって言いくるめた。
「一超直入二大明国一は、大明国に入朝するの意味、易二吾朝之風俗於四百余州一は、日本の風俗を中国礼儀の風に改めるの意、施二帝都政化於億万斯年一は、大明帝都の政化をわが国に永久に施すの意味、貴国先駆而入朝は、関白が大明に入朝する際、先駆けて入朝してもらいたいの意味でござる。すべて、貴下らは反対の意に誤解していなさる」
おどろくべきこじつけであるが、ある意味では漢文は実に不完全な文体なのだ。読めなければ意味がわからないが、意味がわからなければ読めないのである。従って、こじつけやすい文体なのだ。大いに不安で疑問はのこったが、朝鮮使節らはともかくも納得《なつとく》して、この答書を受取って、堺を出帆《しゆつぱん》した。
かくて、秀吉も誤解し、朝鮮も誤解して、やがてついに悲劇に突入するのである。
四
朝鮮使節がまだ堺にいて、玄蘇と論争している頃に、思いもかけない飛報《ひほう》が、会津の蒲生氏郷《がもううじさと》から来た。
出羽《でわ》(今の秋田、山形地方)に一揆《いつき》がおこり、忽《たちま》ちそれが今の岩手県と宮城県の境界地方に波及したというのだ。出羽地方は幸いすぐ平《たいら》いだが、後者は、前のこの地方の領主であった。葛西《かさい》氏と大崎氏の旧臣共なので、勢いなかなか強いというのである。
葛西氏と大崎氏とは、陸奥《むつ》地方のほとんど全部の豪族がそうであるように、源頼朝の平泉《ひらいずみ》藤原氏|征伐《せいばつ》の時の功によって領地をもらって関東地方から移住した豪族の後《あと》である。以来、四百年の長い間、この地方に領主となって土地の民《たみ》と深い因縁《いんねん》をもって栄えていたのだが、両氏の服属が遅かったというので、秀吉はこれを取潰《とりつぶ》して、両氏の領地三十万石は木村吉清という者にあたえた。木村はもと明智光秀の家臣であった。明智の滅亡後、秀吉につかえた。どういうわけだか、大政所《おおまんどころ》のお気に入りで、五千石もらっていたのだが、一足飛《いつそくと》びに三十万石という大大名になったのであった。
一揆の原因は、突然六十倍の大|身代《しんだい》になった木村としては、軍役《ぐんやく》の上から大急ぎで多数の家来《けらい》を召《め》し抱《かか》える必要があって、精選するひまなく手当り次第に召し抱えたり、これまで小者《こもの》の五人か六人しか召し抱えていなかった家来を家老や重役や、城代《じようだい》に取立てたり、中間《ちゆうげん》の小者を何百石取りの武士にしたりした。権力を持ちなれないこんな連中がにわかに権力を持つことになったので、百姓を苛《しいた》げたり、暴悪を働いたりすることが多かった。その百姓らの中には、こんど帰農した葛西家や大崎家の旧臣らがいる。武士としての名誉心や勇気をまだなくしてはいない。おりしも、出羽地方に一揆がおこったと聞いて、一斉蜂起のすがたで立ち上り、木村領の諸城を忽《たちま》ち攻略して、木村吉清とその子清久とを佐沼《さぬま》という城に厳重に包囲して、全然出て働くことが出来ないようにしてしまった。
「されば、拙者《せつしや》は唯今《ただいま》より出陣、一揆《いつき》を退治《たいじ》して、木村父子を救い出すでありましょう」
というのが、蒲生氏郷からの報告であった。
「おれがやがて大明《だいみん》に兵を出そうとしている時、何たることをしでかしおったのじゃ。弥一右衛門(木村吉清の通称)め! 阿呆《あほう》じゃわ。とうてい、大名はつとまらぬやつ!」
と、秀吉は腹を立てた。
一刻も早く踏みつぶして鎮圧することが肝心《かんじん》だ。手間取って火の手をひろげさせては、どう波及して、また天下が土崩瓦解《どほうがかい》するかもしれない。もちろん、大明征伐どころのことではない。
早速に、急使を徳川家康に出した。至急鎮圧を頼むという口上《こうじよう》。蒲生にはもちろん、伊達《だて》政宗にも出した。出来るだけ早く踏みつぶせという命令であることは言うまでもない。
年の暮近くなって、一揆はともかくも鎮圧し、木村父子も無事救い出すことが出来たという報告が来た。
こうして、その年は暮れて天正十九年になったが、その正月半ば、また氏郷から報告がある。
「この度の一揆は、裏面に伊達政宗がいて、煽動《せんどう》しておこしたのである。その証人と証拠となるべき書類とを、自分はおさえている。証人はやがて自分が召し連れて上洛《じようらく》するが、書類はここに差上《さしあ》げる」
というのである。
証拠の書類は数通あった。皆、政宗が葛西・大崎の旧臣らに出した催促《さいそく》状(動員令状)であった。こと成《な》らば何百石、何千石をあてがおうと恩賞を約束したものであり、なかには武器弾薬を支給しようと記したものもある。いずれも政宗の署名があり、花押《かおう》がある。
(あの目《め》っかちめ! 横着《おうちやく》でしぶといやつとは思うてはいたが、なんたることをいたしたのじゃ!)
と、右筆《ゆうひつ》らに見せて、鑑定させた。
右筆らは、政宗のこれまでよこした文書とくらべ合して調べたところ、筆蹟《ひつせき》といい、花押といい、まことによく似ているという。
米沢に急使が馳《は》せられた。
「ご不審の筋あり、急ぎ上洛せよ」
というのである。徳川家康にも、政宗を上京させるようにしてもらいたいと言ってやった。昨年の晩秋、政宗の妻愛子は京に上って来て、聚楽廻《じゆらくまわ》りに屋敷をもらって京|住《ずま》いをするようになっている。人質《ひとじち》のためであることは言うまでもない。政宗が嫌疑されていると聞いて、愛子も付添《つきそ》いの家来らも、心配は一方でなく、大政所《おおまんどころ》に、とりなしを頼んだ。
母も、ねねも、動かされて、
「伊達殿は嫁御をこちらに上《のぼ》せて間がないのです。あの嫁ごはまだ年が若《わこ》うて、美しくて、まことに可愛《かわい》いお人です。伊達殿はきっといとしゅう思うていなさるに違いありません。恐ろしい謀反《むほん》などされよう道理はないと、わたくし共には思われます。きっと何ぞの間違いでありましょう。そのつもりで、お調べ下さるように」
と、秀吉に言った。
男が大事を思い立ったら、妻子でも、兄弟でも、捨殺《すてごろ》しにするものであり、またせねばならない場合もあるものだと、秀吉は思っている。政宗に父を殺し、弟を殺した前歴のあることも聞いている。今度だってやりかねない男だと思いもした。しかし、母や妻の言うことを聞いているうちに、思案がかたまった。
(これが無実であれば、もちろん、助ける。実があっても、当人が自白せぬかぎりは、申開《もうしひら》き立ったことにして、助けてやろう。あの目っかちめも、頼朝以来の奥州大名じゃ。しかも大身《たいしん》じゃ。悪くせせくり立てると、家来共がさわぎ立てる。そうなれば、とうていこんどくらいのさわぎではおさまらぬ。天下が危《あや》うくなる。大明|征伐《せいばつ》などいつのことだかわからんことになる。さすがの伊達も、こんどは懲《こ》りたろうで、再び阿呆《あほう》なさわぎは持ち上げるまい)
母と妻とには、ほどよく答えておいた。
五
それから間もなくの正月二十三日、秀吉の弟小一郎秀長が病死した。秀長は当時、大和《やまと》、和泉《いずみ》、紀州三国を領して、大和の郡山《こおりやま》を居城として、大和|大納言《だいなごん》と言われていた。去年の正月頃から病気になり、北条征伐にも留守役《るすやく》として京都にとどまらなければならなかった。その後|平癒《へいゆ》して、秀吉が東北から凱旋《がいせん》した頃にはすっかり丈夫になっていたのだが、十月頃から病気が再発した。その頃、秀吉はわざわざ郡山まで見舞に行ったりした。
病気は一進一退しながらも、次第に重くなり、ついにこの日、五十一歳を一期《いちご》として、亡くなったのである。
くりかえして言うように、秀吉には一族はほとんどない。頼りになるような伯叔父《はくしゆくふ》は一人もない。母方のいとことしてもまだ三十の福島正則が一人、母方の二いとこにしてもやっと三十二の加藤清正が一人いるきりだ。兄弟としては弟のこの秀長が一人であった。甥《おい》は姉のおともの子が二人いるが、上の秀次はあまり出来のよい方ではなく、弟の秀勝(信長の四男であったお次丸信勝が死んだので、姉の子小吉に襲名させたのである)はまだ少年だ。
秀長は万人にすぐれた器量人《きりようじん》ではなかったが、一応器量人と言ってもよいすぐれたものを持っていた。その上、性質が誠実であった。秀吉としては、たった一人の頼りになる肉親であった。秀吉はもはや心の底から自分の身を案じてくれるものはなくなったのだ。
あるいは、秀吉が外征などという暴挙を思い立ちまじめに計画したのは、秀長が病気がちで諫《いさ》めることが出来なかったからかも知れない。秀長が健康であれば、石田三成らと相談して、潮合《しおあい》を見て諫止《かんし》しただろうと思われるのである。諸大名いずれも、わが身|可愛《かわ》ゆくて、秀吉の不機嫌を恐れ、一身一家を賭《と》してまで諫めるほどの愛情のある者はいなかったのである。
葬儀は正月二十九日に郡山で行われた、二十万人も見物人が出て、野も山も人で埋まったというほどの盛儀であった。
この年は正月が二度あった。太陰暦《たいいんれき》では一月を二十九日と三十日にし、一年の日数を三百五十四、五日にするから、大体三年立つと季節と月とが合わなくなる。そこで、閏月《じゆんげつ》というのをこしらえて、一致させるのである。天正十九年は正月にその閏月が来たのであった。
その閏《うるう》正月になる少し前、秀吉は急に、来月十一日に京を出て、尾張地方に鷹狩《たかがり》に行くと触《ふ》れ出した。来月十一日というと、肉親の弟が死んで十八日にしかならない。
「大和大納言様の三七日《みなぬか》も済《す》んでいません」
と、諫める者もあったが、秀吉は、
「尾州ではおれは清洲城を旅館にする。十一日に京を出れば、清洲につくのは十三日か十四日になろう。一日か二日休息して、それからはじめれば、三七日の済んだ翌日になる。はばかることはない」
と言って、退《しりぞ》けた。
それはまあそうではあるが、いつもあれほど肉親の情がお厚く、大納言様には別してお愛情のお深かった殿下にしては、いぶかしいと思わずにはいられなかった。
秀吉のこの鷹狩|遊行《ゆぎよう》は、伊達政宗裁判のことに関係があるのであった。むじつであろうがなかろうが、一揆煽動《いつきせんどう》の実《じつ》なしとして、事をおさめるのが、この際としては最上であると心をきめはしたが、そのためには裁判の席で政宗がよほど上手《じようず》に立ちまわってくれんと、工合が悪い。
(やつは芝居上手な横着者《おうちやくもの》じゃから、おれがその気でいることを悟《さと》れば、うまくやる。前もってそれとなく読み取らせておくことにしようわい。じゃが、京では人目が多うて、工合が悪い。よしよし、余事《よじ》にかこつけて、途中まで出て行って、そこでその手を打とう)
と考えたのが、この鷹狩遊行になったのであった。
やるとなれば、諸事最も大がかりに、最も華《はな》やかにやって、天下の耳目《じもく》をおどろかせ、圧倒するのが、彼の手口だ。彼は正親町《おおぎまち》上皇と後陽成《ごようぜい》天皇に、
「わたくし、尾州に鷹狩にまいります。山のように獲物《えもの》を持って帰って来て、献上いたします故、お楽しみにしてお待ち下さいますよう」
と奏上《そうじよう》し、公卿《くぎよう》、殿上人《てんじようびと》、大名から召し使う女中らにまでそう大言《たいげん》した。
その出発の三日前の閏正月八日、秀吉はスペインの東|印度《いんど》総督の使者ワリニヤーニに謁見《えつけん》をゆるした。
ワリニヤーニは元来は印度のゴアにあるローマ教会の東洋伝道本部のバテレンである。大友、大村、有馬の三九州大名が一族や親戚の少年四人をえらんで、ローマ法王庁に使節に出したことは日本史上最も有名な事実の一つであるが、これを計画実行したのは、このワリニヤーニである。彼は以前日本にいたのである。
少年らは天正十年正月末――すなわち、まだ甲州武田氏も衰えながらも存在し、織田信長も健在である頃に、長崎を出帆《しゆつぱん》し、印度を経由し、喜望峰《きぼうほう》をまわって、二年半の歳月を費やしてスペインに到着、マドリードの王宮でフィリップ二世の大歓迎を受けて謁見し、翌年ローマに到着、全市民の熱狂的歓迎を受け、ローマ法王グレゴリー十三世に謁見した。少年らは二か月半最も手厚く待遇されてローマに滞在したが、その間にグレゴリー十三世の死に遭《あ》い、新法王シキタス五世にも謁見を許された。
彼らは日本暦の天正十四年二月十六日、ポルトガルのリスボンを出帆して帰国の途《と》につき、翌年の四月十二日にゴアについた。
少年らはゴアに満一年とどまり、翌年いよいよ日本に帰ることになったが、その時、ワリニヤーニは少年らと日本に同行することにした。
この同行は、単に少年らを日本に護送するためではない。秀吉が九州|征伐《せいばつ》の直後に出したキリスト教禁断令がどの程度のものであるかを、秀吉に会って打診《だしん》し、あわよくば、説得して撤廃させるか、せめてやわらげさせたいとの目的があった。だから、東印度総督のマスカレナアーと相談して、総督からの親善使節という名義になり、秀吉にあてた総督の書翰《しよかん》と贈物とをたずさえることにしたのだ。
こうして天正十六年の晩春、ワリニヤーニは、少年らとともに東に向ったが、途中|阿媽《マカオ》港に立寄り、二年間滞在して、日本の事情をよくたしかめた後、日本に向い、陽暦一五九〇年七月二十一日(天正十八年六月二十日)に長崎に着いた。
少年らが国を出てから足かけ九年、満《まん》では実に八年五か月の歳月が流れていた。彼らはいずれも十六歳以下で、信仰強固、行状よく、頭脳|俊秀《しゆんしゆう》、容貌《ようぼう》秀麗であるというところから選ばれたので、皆花のように美しい少年であったが、今や二十四、五歳の青年となって、祖国の土を踏んだのであった。
ワリニヤーニは長崎に着いた後、大名の信徒である小西行長と黒田官兵衛とに連絡して、秀吉の謁見《えつけん》の許しをもらってくれるように頼んだが、この頃秀吉はまだ東征中であったので、その帰京を待つようにと返事された。秋になって秀吉が凱旋《がいせん》して来、謁見の許可がおりたという知らせが来たが、その時はワリニヤーニが重病にかかっていた。動くに動けなかった。
この時、小西と黒田は、知らせの中で、朝鮮使節らが初秋に入京した時のことをのべて、
「朝鮮使節らの行列はまことに華麗で、人々の目を驚かせた。師父もおとらない支度をもって入京された方が、いろいろと効果があろう」
と注意づけた。
十一月末、どうやら病気もよくなったので、長崎を出発、上京の途《と》についた。四人の遣欧《けんおう》使節、その従者、西洋人のバテレン二人、イルマン二人、日本人のイルマン一人、長崎とその附近に居住しているポルトガル商人二十数人等、それぞれ美服を着けて、堂々たる旅行ぶりであった。
彼らは途中播州|室津《むろのつ》に滞在して、京都から入京の許可の来るのを待ったが、あたかも正月|間近《まぢか》のことで、新年の祝いのために京都に行く西国大名らが室津を通過する者が多い。この大名らはいずれも、この港に滞在している異国人らに好奇心をおこし、宿舎を訪問して、欧州のことや、ローマ法王のことや、カソリック教の大本山|聖《セント》ペテロ寺院の壮麗や、その他地球上のことや、科学上のことなどを貪《むさぼ》るように聞いた。毛利輝元も、黒田官兵衛の子で、今では黒田家の当主である長政も、訪問者であった。
年が明けてしばらくして、入京許可のことを知らせて来たが、それについて、秀吉はきびしい釘《くぎ》をさした。
「バテレン・ワリニヤーニは、わしに敬意を表するために謁見《えつけん》したいと言うのじゃから、許すのじゃ。しかし、もし東|印度《いんど》総督の使者としての使命が、わしにバテレンらの追放の取消しをしてもらいたいなどと頼むことにあるのなら、わしは会わんぞ。ヤソ教禁断のことについては、一言も申してはならん。それを納得《なつとく》の上でまいれ」
という釘。
日本暦の正月末、ワリニヤーニ一行は室津《むろのつ》を出て、京に向い、閏《うるう》正月になって京についた。彼らの係りには黒田官兵衛と小西行長とが仰《おお》せつかっており、彼らの宿舎としては聚楽第《じゆらくだい》の外の秀吉の家と小西行長の屋敷とがあてられており、ポルトガル商人らには市中の大町人の家があてがわれた。
こうして、閏正月八日、謁見の儀が行われた。この日は好晴であった。その日の早朝、彼らの旅館に、三つの輿《こし》と、美しいあおりと鞍《くら》をおき、鮮やかな胸《むな》がいと尻《しり》がいをかけた二十六頭の乗馬が届けられた。輿はワリニヤーニと西洋人のバテレンのためであり、馬はその他の人々のためである。
いずれもそれぞれの盛装をして、それらのものに乗って、粛々《しゆくしゆく》と行列して進んだので、なかなかの見事さであった。なかにも人々の目を引いたのは、印度総督から秀吉に献上するアラビヤの駿馬《しゆんめ》一頭であった。緋《ひ》のビロードの馬衣《ばい》をかけ、白銀《しろがね》の鞍《くら》をおき、黄金でメッキした鐙《あぶみ》をつけてある。それをモール国風に髪を結った印度人の馬丁《ばてい》二人が、長い絹の外套《がいとう》を着て、左右から口綱をとっていた。はじめて見るアラビヤ馬だ。馬に対する当時の人々の関心は、今日の人の自動車にたいするよりまだ強いものがある。今日の人がロールスロイスを見る以上に人々は感嘆して見とれた。
次に目を引いたのは、遣欧《けんおう》使節四人であった。いずれも凜々《りり》しい美青年だ。ローマで法王から拝受した金の縁《へり》を取った漆黒《しつこく》のビロードの衣服を着て、さしまわされた駿馬《しゆんめ》に乗っていた。
その他の者も、今日を晴れと美装していたので、人々はただ感嘆して眺めていた。今日でも京都人はこのような見物が好きで、祇園祭《ぎおんまつり》といい、葵祭《あおいまつり》といい、大へんな人出でにぎわうが、この頃の京都人はふだん見るものが少ないだけに、もっともっと物見《ものみ》高かったのである。
秀吉は大広間で、京に居合わせた大名、小名をのこらず陪席《ばいせき》させて、会った。
ワリニヤーニの奉呈した印度総督の書簡は、なかなか美麗《びれい》なものであった。まわりに細かな絵模様をえがき、金糸銀糸で二重にふちを取った羊皮紙《ようひし》に書き、それを美しい刺繍《ししゆう》のある錦《にしき》の袋で包み、さらに外を緑のビロードで蔽《おお》い、内側を延金《のべきん》で張り、金の房《ふさ》をつけた箱に入れてあった。豪奢華麗《ごうしやかれい》であったから、秀吉は大いに気に入ったようであった。
秀吉は翻訳して、高らかに読み上げさせた。
土地|遼遠《りようえん》のために、今日まで交際はすることが出来なかったが、殿下《でんか》の功業の偉大と芳名《ほうめい》とは、貴国の各地にあるバテレンらの便りで、自分はよく知っている。まことに前代未聞《ぜんだいみもん》の大功業で、殿下が天の恩寵《おんちよう》最も厚い人であることは疑いなきことである。
自分はまた、貴国にあるバテレンらが、殿下の洪恩《こうおん》をこうむって、教えをのべることが出来たことを承知している。彼らは信仰厚き修道者《しゆうどうしや》で、国々の法律によく従って、真の救いの道を伝えんために世界の各地を遍歴する、立派な者共であるから、殿下が彼らを優遇して下さった由を聞いて、自分はまことにうれしい。
彼らは殿下のご恩を深く感ずるが故に、殿下に書を呈し、また使節を派して、感謝の意を表してくれと、自分に頼んだ。そこで、今こうして実行するのである。
使節に選んだ巡察バテレン、ワリニヤーニは、以前貴国の諸方に数年いて、よく貴国のことを知っているので、選んだのである。
願わくは、殿下、今日以後、益々彼らに目をかけていただきたい。もし、当地の自分が殿下のためにいたすことがありますなら、どうぞお命じ下さい。喜んでお役に立ちたいと思います。
ここに殿下に、次の品物を献上します。
広刃の剣 二ふり
鎧《よろい》 二領
馬 一頭
ピストル 二|挺《ちよう》
広刃の短剣 一ふり
黄金飾りの幕《まく》 二対
テント 一張
印度の地において
一五八八(天正十六)年四月認む
印度副王
朝鮮使節|謁見《えつけん》の時とは打ってかわって、秀吉は終始上機嫌であった。それは饗応《きようおう》の席でもかわらず、蒔絵《まきえ》をした朱塗《しゆぬり》の盃《さかずき》を手ずからワリニヤーニにあたえたほどであった。そして、皆に銀や衣服を下賜《かし》した。
また、四人の遣欧使節らに命じて三度もヨーロッパの音楽を奏《かな》でさせ、自分もその楽器を奏でてみるほど興《きよう》に入った。
ついには、彼らが今献上した天幕《てんまく》を庭に張らせて、その中に席をうつし、献上のアラビヤ馬にポルトガル人を乗せて駆けまわらせて、見物した。
それがすむと、席をまた屋内に移して、ワリニヤーニと色々ときげんよく語り、ついに夜十時になった。
謁見は上々首尾《しゆび》であったのである。
六
狩や漁《すなど》りは技倆《ぎりよう》だけではどうにもなるものではなく、運が大いに関係するものであるのに、彼が至尊《しそん》にたいしてまで大言《たいげん》したのは、成算があったからである。近江《おうみ》、美濃《みの》、尾張《おわり》、三河《みかわ》等の国々の領主や代官らに命じて、出来るだけ多量に鳥を獲《と》らせるのだ。すでにこれは鷹狩出遊《たかがりしゆつゆう》のことを触《ふ》れ出した時、申しつけた。これをインチキと陰口をきくものがあるであろうが、なにがインチキなものか、天下の関白《かんぱく》、天下の大将軍の鷹狩だ、天下の人を動かして獲物《えもの》を集めたとて、皆おれが獲物よ、と思っているのであった。
こんな風であったので、閏正月十一日出発する時には、もう諸国で獲らせた鳥類が続々と集まって来て、その数三万五千に達し、江州《ごうしゆう》大津に集積されていた。
途中、伊達問題について呼ばれて上京して来る家康に逢ったので、これも同道して、十四日に清洲《きよす》についた。当時、清洲城は甥《おい》の秀次の居城であった。
秀次は城外まで出迎えていた。先導させて、城に入った。家康の宿舎としては、秀次の重臣の屋敷があてられた。
翌日の十五日は、秀長の三七日の翌日だ。早速に家康と同道して、狩をはじめる。折から早春の好晴の日がつづいて、連日、尾張の野をあちこちと狩りくらした。
一方、伊達政宗は、世間のうわさからも、四方にはなっている諜者《ちようじや》の報告によっても、秀吉の命を受けて徳川家康から召還命令を持って来た使者の話からも、自分が秀吉から容易《ようい》ならない疑いを受けていることを知った。こんどこそ生き死にの場であると、きびしく思い定めた。
一揆《いつき》は彼の煽動《せんどう》によって起ったものではないが、一揆がおこってからは、ずいぶん煽動した。成功報酬を餌《えば》にして、葛西、大崎の遺臣らに墨付《すみつき》をばらまいた。糧食《りようしよく》や弾薬類をひそかに支給したこともある。
全|奥州《おうしゆう》を切従《きりしたが》えて、あわよくば中原《ちゆうげん》の地に切って上り、天下を争うつもりで、すでに関東に切って出るばかりに姿勢をととのえ、那須《なす》地方の豪族らを籠絡《ろうらく》し、「いつでもお先手をつかまつります」と申しこして来させるほどになっている矢先に、秀吉という剽軽《ひようきん》ものが小田原征伐《おだわらせいばつ》に出かけて来て、一切ご破算となった。千秋《せんしゆう》の恨事《こんじ》だ。
しかも、その秀吉は、こちらがはるばると小田原まで出かけて、おとなしく帰服したのに、会津を召上げた。多大の犠牲をはらって、苦心さんたん、やっと切取った会津をだ。力が懸絶《けんぜつ》しているから、いたし方はないが、何とも無念千万だ。
そこに一揆がおこった。この一揆が強盛《ごうせい》になって、木村|父子《ふし》が手こずれば、肥後《ひご》の佐々成政《さつさなりまさ》の先例もある、木村父子は切腹させられるであろうと思ったから、ひそかに火の手をあおった。木村のあとには新しい領主が来るだろうが、また一揆をおこさせて苦しめてやる、こうして数度くりかえすうちには、奥州は難治《なんじ》の土地、生《は》えぬきの奥州大名でなくばつとまらぬということになって、おれにあたえられることになろうと心組んだのであった。
しかし、そううまくは行かなかった。この羽目になった。が、いくじなくあきらめる気はない。最後のドタン場まで、助かる工夫をする心をかためた。
その工夫の末、厚い良質の金箔《きんぱく》をもって包んだはりつけ柱をこしらえ、行列の先頭におし立てて、東海道を上って来た。この放胆《ほうたん》・豪快なふるまいで、秀吉の気を攬《と》って、一挙に危地をはね出ようというこんたんであった。
人々の目を引くこと一方でない。街道筋の所々の城下では、おどろきあきれて、役人らが駆けつけて、あまりにも異様なものは遠慮されたいととがめた。政宗自ら答える。
「拙者《せつしや》は殿下のご不審をこうむって京上《のぼ》りする途中でござる。もし陳《ちん》じ損《そん》ぜば、必定《ひつじよう》はりつけにかけられるでござろうが、政宗ほどの者が普通のはりつけ柱にかけられて最期《さいご》をとげんこと、無念の至りなれば、この柱にかけられたいとて持参いたすのでござる」
政宗が去年冬の奥州の一揆《いつき》を煽動《せんどう》したらしいということは、もはや高いうわさになっている。どこの大名の役人らもあきれかえって口をつぐんだ。
閏《うるう》正月中旬から下旬にかけてのこと、今の暦では三月中旬から下旬だ。駿河路《するがじ》から遠州《えんしゆう》にかけての海道は、日は明るく、風はあたたかい。その駘蕩《たいとう》たる春色の中を、さんらんとかがやく金のはりつけ柱をおし立てて行く行列を、沿道は人垣をつくって見た。
当時、岡崎は田中|兵部少輔《ひようぶしようゆう》吉政の城下であったが、ここにつくと、家康の重臣|榊原《さかきばら》小平太康政が待っていて、政宗を迎えた。康政は秀吉が家康と同道して清洲に来て、連日|鷹狩《たかがり》をしていると告げた上、こう言った。
「耳よりなことをお聞かせ申そう。拙者の主人は、貴殿のこんどのことをきつう案じまして、拙者に富田左近将監《とださこんしようげん》殿の許《もと》へまいり、ご前よろしくとりなすよう頼みおけと申しましたので、拙者は富田殿の旅館にまいって頼みました。すると、富田殿は、安心あれ、殿下は伊達殿をそう疑うてはおられぬ。昨夜のこと、殿下は伊達殿が東海道を上ってまいられつつあることをお聞きになり、伊達が召しに応じて早速に上って来るところを見ると、謀反《むほん》というのはうそのようじゃな、と仰せられました。殿下がかように仰せられた以上、もはやお疑いは晴れていると考えてよろしい≠ニ申されたのであります。拙者は主人の許へかえってこの旨《むね》を申しましたところ、主人も大いによろこび、それはうれしいこと、早く伊達殿にお知らせ申せと、こう申しますので、このようにここへ来て、お知らせ申すのであります」
きりきりと張りつめていた政宗の気が、はっとゆるんだことは言うまでもない。
政宗も知らず、榊原も知らず、富田左近将監も気がつかないが、これは秀吉が家康と相談して打った芝居であった。
政宗は一応安心はしたものの、まだまだ油断はならないと、なお金のはりつけ柱をおし立てて道中をつづけ、清洲に入った。
秀吉は夕方鷹狩から帰って、政宗が清洲に着いたと聞くと、翌朝引見した。
いきなり笑って言った。
「われは金のはりつけ柱をおし立てて道中して来たげなとのう」
政宗は平伏しながらも、大きな声で答えた。
「大名たるものの死出《しで》の見栄《みえ》であります。この度は容易《ようい》ならぬお疑いをこうむっていると聞きましたので、その覚悟してまいったのでございます。奥州の荒夷《あらえびす》は、いつも強く生き、強く死ぬことしか考えておらぬのでございます」
こやつが! と思ったが、おもしろげに笑った。
「おもしろいやつじゃわ、おれはまだ飯前《めしまえ》じゃ。われはもう済《す》ませて来たかも知れぬが、おれと一緒に、もう一度食え」
と言って、昨日の獲物《えもの》を調理させて、一緒に食事した。
それがすんでから、言った。
「われは明日当地を立って京へ上れ。おれはなお数日|狩《かり》して帰る。京で待て。道中の伝馬《てんま》その他は、ここの中納言《ちゆうなごん》が世話してくれる」
と言って、秀次を呼んで言いつけた。
そして、また言った。
「京での旅館その他のことは、弾正《だんじよう》(浅野長政)が心得ている。わしからも申してやるが、われも京入り前日までに弾正に使いを走らせて知らせよ。さすれば、弾正から迎えの者が出て、よろず支障なくはからってくれる」
祖父が孫の初旅にあたえるような行きとどいたこのことばに、横着者《おうちやくもの》の政宗も、涙ぐんでいるようであった。秀吉は胸の中でつぶやいた。
(これでよかろ。ここまでしておけば、白状などせんじゃろ。やれやれ、天下人《てんかびと》というものは苦労なものじゃ。謀反人《むほんにん》が白状せんように手をつくさねばならんこともあるのじゃからのう……)
少々にがにがしかった。
七
秀吉は二月七日に帰京した。
三万七千の獲物《えもの》を持って帰るということを、秀吉は前もって京中に宣伝したので、例によって見物人が日の岡峠のあたりまで出て、道の両側に垣をつくった。桟敷《さじき》をかまえている者すら少なくなかった。
その間を、長い竹竿に鷹《たか》、鴨《かも》、鷺《さぎ》、雉《きじ》、鳩《はと》、みみずく、うずら、兎《うさぎ》(これも鷹狩では鳥のうちに入れる。鵜《う》・鷺の洒落《しやれ》である)等をかけならべたのを二人の小者《こもの》が持ち、二列にならんでつづいた。三万七千という数だ。えんえんとして無限につづくようであった。人々はどよめいた。もちろん、これが秀吉ひとりが獲《と》ったものだとは、誰も思わないが、こうまで多数であると、皮肉な考えなどふっ飛んでしまう。ひたすらに驚嘆するだけであった。
やっとこれが尽きると、紅《あか》い水干《すいかん》を着た下人《げにん》五十人が、それぞれに皆朱《かいしゆ》二間半の飾《かざ》り槍《やり》を立ててつづき、次は青い直垂《ひたたれ》を着た武士三人が、朱に金のひるまきをし、金のノシツケの鞘《さや》(金の丸鞘)の薙刀《なぎなた》を持ってつづき、次に鷹匠《たかじよう》がつづく。紺《こん》の鷹匠ぎものに鷹匠|頭巾《ずきん》をかぶり、緋《ひ》の紐《ひも》を脚《あし》につけた鷹を拳《こぶし》にすえている人、粛々《しゆくしゆく》と過ぎた。次に錦のあおりをかけ、朱塗《しゆぬり》に金で蒔絵《まきえ》した鞍《くら》をおいた馬が十頭、それぞれに緋の水干を着、はだしの足を太股《ふともも》までからげ上げた馬丁《ばてい》が口をとって過ぎた。
そのあとが秀吉だ。鹿毛《かげ》の馬にまたがり、葦毛《あしげ》馬に乗った家康とならんで、いかにも明るい調子で談笑しながら来る。大名らや警護《けいご》の武士らはそのあとにつづく。千人以上もあろうか、いくらでもつづいた。秀吉は獲物《えもの》を上皇《じようこう》、天皇、皇族、公卿《くぎよう》、殿上人《てんじようびと》、大名、その他およそ知っているかぎりの人々にもれなく配給した。
この鷹狩《たかがり》も、北野大茶の湯や、大仏建立や、金銀|配《くば》りなどと、一連のものと言えよう。
政宗の裁判は、翌々日の二月九日に、秀吉の直裁《じきさい》で行われた。原告である蒲生氏郷《がもううじさと》は、もと伊達家の家来であった者三人を証人として連れて出頭した。
政宗は、この三人は自分をうらんでいる者共であるから、自分を陥《おとしい》れようとして虚偽《いつわり》を申立《もうした》てているのである、いかなる理由があるにせよ、主人を讒訴《ざんそ》するような者を殿下はご信用遊ばしますやと言い、
「昔、頼朝公が平泉の藤原氏をご征伐《せいばつ》遊ばされました時、藤原氏の譜代《ふだい》の郎党に河田次郎と申す者がありました、この者忽《たちま》ちにして譜代の恩を忘れ、泰衡《やすひら》をだまし討《う》ちにして、その首を持って降参にまかり出ましたところ、頼朝公は、八虐《はちぎやく》の大罪人、とお怒《いか》りあって、後の見懲《みごり》のために、しばり首に仰せつけられました。まことに天下を知《し》ろし召《め》す大将軍のなされようと、奥州では申し伝えております」
と論じた。
秀吉は笑った。
「頼朝は頼朝、おれはおれじゃ。誰の真似《まね》もせんぞ。しかし、それは一先ずおこう。これはどうじゃ。申開きを聞こう」
と、政宗が一揆《いつき》の者共に出した墨付《すみつき》を見せた。
政宗は、一応見せていただきたいと言って、受取って、片目をこらしてつくづくと眺めた後、筆紙を乞《こ》うて、同文をうつしてさし出した。
「恐れながら、おくらべを願います」
同じ人間の筆蹟である。似ているはずだ。
「まるで同じだぞ。寸分《すんぷん》ちがわぬぞ」
と秀吉は言った。こいつ、何をするつもりかと、少し不安であった。
政宗はおちつきはらって言う。
「それは拙者《せつしや》の右筆《ゆうひつ》をつとめていた者の偽筆《ぎひつ》でござる。似ているは当然でござる。しかしながら、拙者の用いる花押《かおう》はごらんの通り鶺鴒《せきれい》をかたどったものでござるが、拙者が自らしるしたものには、必ずその目にあたるところを針でついて、目につかぬほど穴をあけています。これは右筆共も知らぬことで、拙者が自らいたすのであります。この花押にはそれがござらぬ。偽作であることの何よりの証拠でござる」
席にある者は皆おどろいた。
一旦《いつたん》休憩して、その間に調べてみると、政宗が秀吉のところに送った文書は言うまでもなく、諸大名に出した文書は、皆その花押の目にあたるところに針でついた穴がある。
政宗の勝訴となった。
もともと、秀吉は政宗を無罪放免にするつもりではいたのだが、政宗のこの用心深さにはどきりとしないではいられなかった。
(油断のならぬ目っかちめじゃわ。気をゆるしては使えぬやつ)
というのが、感慨であった。
その月の二十八日、秀吉は千利休《せんのりきゆう》に自殺を命じた。利休は政宗の裁判が行われた日から四日目の二月十三日に、秀吉の命《めい》によって堺《さかい》に下り、ずっと堺の自宅に蟄居《ちつきよ》していたのである。
利休は新しい茶の湯の創始者だ。利休以前の茶の湯はきわめてはでやかなものであったが、利休は最も侘《わ》びた風情《ふぜい》のものに改め、これが一世を風靡《ふうび》するものとなった。信長もこれを学んで心酔し、利休を重用した。秀吉も利休を愛して、一時は秀吉に気に入られるには、利休から取りなしてもらうのが最もききめがあるというので、大名|高家《こうけ》その家に出入りして、大へんな羽ぶりであったほどだ。
これほどの利休が、なぜ死を命ぜられるほどに、秀吉の怒りに触《ふ》れたか。
原因はいろいろある。茶の湯道具の鑑定《めきき》に不正があった、新しい道具を細工して古いものだと言って高々と売りつけた、大徳寺の山門の楼上におのれの寿像《じゆぞう》を安置したのを、山門はみかどをはじめ公卿《くぎよう》、大名等の貴人も通行するところだ、ここにおのれの木像をおくなど、その人々の頭を足をもって踏むにひとしい、僭上《せんじよう》しごくと、秀吉の怒りに触れた、秀吉の思いをかけた自分の娘を差出《さしだ》さなかった、等々々、さまざまなことが言われている。いずれもある程度まで事実であると、作者は思う。
が、根本は、利休が一個独立の権威者として、秀吉に盲従しなかった点にある。
秀吉の使者として、娘を差出すよう言って来た東条紀伊守が、貴殿のためにも、娘御のためにも、これは決してお為《た》めにならないことではないはずと説くと、利休はニベもなく答えた。
「おことなどには似合いたること、われらには似合い申さぬ」
紀伊守がかっとなって、
「さようなご返事をなされて、ことを殿下に申し上げたら、どうなると思われますぞ」
と言うと、自分の首筋をおさえて、
「ただこれを召されるまでのこと」
と、あざ笑った。茶の湯という芸道の王者《おうじや》として、人間の尊厳を立てつらぬこうとしたのだ。無上の権力者として、あらゆるものを支配しつくそうとする秀吉にとって、これはゆるしがたい叛逆《はんぎやく》と思われた。かつては、権力の限界を知って、無益な衝突や征服は避けることを心掛けていた秀吉であるが、今はそれがわからなくなったのだ。老化が急速に進みつつあったのである。
この頃から、鶴松が病気になった。
秀吉の不安は一通りではない。医療は言うまでもなく、諸社・諸寺に加持《かじ》や祈祷《きとう》を依頼し、ずいぶん社領や寺領を寄進し、奈良の春日《かすが》神社には三百|石《こく》も寄進した。
こうした懸命な努力の甲斐《かい》があって、一時はよくなったが、八月三日に突然ひきつけ、忽《たちま》ち重態になった。秀吉は死物狂いにあせって、いろいろと手をつくしたが、いくら手をつくすといっても、秀吉に出来ることは金と権力にあかして、医者共に手当させるか、寺社領の寄進や金銀の奉納をして、神仏に祈らせるよりないのだ。人のいのちは、そんなものでどうともなりはしない。無上の権力者のそうしたあせりと努力をあざけるように、わずかに二日の後、八月五日、鶴松の魂はうつし身《み》を去った。数え年三つという幼さであった。
秀吉は幼児のむくろを抱いて、声を上げて泣いた。
なきがらは、翌日東福寺に移して安置し、さかんな供養《くよう》が営まれた。秀吉は終始|棺《ひつぎ》の前を離れなかったが、せき上げて来るかなしみにたえず、小刀をぬいてもとどりを切り、仏前にささげた。すると、供奉《ぐぶ》の大名から馬廻りの武士らに至るまで、一人のこらず、われもわれもと、これにならったので、もとどりは塚をきずいたようにうずたかくなった。
父である秀吉とごく親しく鶴松に近侍した者以外、誰がもとどりを払うほどのかなしみがあろう。秀吉に媚《こ》びるためなのである。
秀吉にはそれがわかっていたが、それでも、それがいくらかの慰めになった。
数十日立って、しだいに夜寒《よさ》むのまさる頃、秀吉は炬燵《こたつ》に入って、ついうとうととして、鶴松の死んだ時の夢を見て、目をさますと、炬燵に涙がたまっていたので、こう口ずさんだ。
なき人の形見に涙のこしおきて
行くへ知らずも消え落つるかな
夢のまた夢
一
人間の性格は、小説家がその作品中に書くように単純ではない。よそ目には快活明朗に見える人でも、憂鬱《ゆううつ》な物思いに沈む心理がないわけではなく、純情といわれる人でも、猜疑心《さいぎしん》や利得心《りとくしん》が皆無ではない。
人間はさまざまな性質の入りまじっている複合体である。勇者というも、怯者《きようしや》というも、廉潔《れんけつ》な人というも、貪欲漢《どんよくかん》というも、姦悪人《かんあくにん》というも、つまりは大体をとっての見《けん》にすぎない。
小説ではその具有《ぐゆう》する性質の全部を書いては、その人がきわ立って来ず、従って生き生きと訴える力がなくなるから、際立つ面だけをデフォルメする技法を使うのである。現実世界では、こんな人間は、とうてい生きては行けないのである。小説が所詮《しよせん》は作りものであり、作るものにも、読むものにも、遊びであるのは、ここにある。小説の悪口を言っているのではない、本質論をしているのである。誤解しないでいただきたい。
このように、人間という人間は、皆複雑なものであるが、英雄といわれるほどの人間は一層複雑だ。しかも、英雄はその具有する各種の性情が、凡人にくらべるとケタちがいに大きい。欲望の面も、情熱の面も、策謀《さくぼう》的な面も、愛情面も、好悪《こうお》面も、プラス面も、マイナス面も、常人よりうんと大ぶりに出来ている。従って、その複雑さもケタちがいである。
古来、英雄を論ずる人の評価が、往々にして天地の差があるのは、多くはこのためである。プラス面を主として見る人は最高の評点をあたえ、マイナス面を主として見る人は最低の評点をあたえることになるのだ。英雄といえども神ではない。プラス面もあればマイナス面もあるのは当然であるが、ケタはずれに大きいプラス面であり、ケタはずれに大きいマイナス面である。常人のマイナス面に数倍するからといって、常人に数倍するプラス面を見落すべきではない。深い谷があるからとて、高山は高山だ。
秀吉は陽気な英雄であった。天空海闊《てんくうかいかつ》、天真率直《てんしんそつちよく》、赤心《せきしん》を人の腹中《ふくちゆう》に推《お》して少しも疑わない底《てい》の豪放さが、天下の群雄らの心を引きつけ、ごく短時日に天下を統一することが出来たと言われているが、その心術《しんじゆつ》は決して無為自然ではなかった。これまでずっと書いて来たように、ケタはずれに策謀的でもあれば、ケタはずれに演出的でもあった。
どんな場合にも策謀を忘れたことがなく、演出的でなかった時はないと言ってよいほどである。いやらしいと言えば、これくらいいやらしい男はない。
当時でも、貴族的な気むずかしい性質の、たとえば近衛信尹《このえのぶただ》や蒲生氏郷《がもううじさと》、心の底からのリアリストで決してハメをはずさず、決して人にだまされたことのない、たとえば徳川家康のような人は、表面はともあれ、心の底ではにがい目で見ていた。しかし、一般の人々は、そのケタはずれの豪放闊達さと、壮大さと、巧妙さに魅惑《みわく》され切って、いやみどころのことではなく、ひたすらに讃美|渇仰《かつごう》した。
しかし、大明征伐《だいみんせいばつ》のことは、壮大にすぎた。百数十年にもわたる戦国乱世にくたびれてもいた。やっと天下が統一され、秩序ある世界が返って来たのだから、ゆるゆるとこの太平を楽しみたかった。太平の世を来たし、太平を楽しませてくれるお人だと思えばこそ、ひとしおありがたくも思っていたのだが、こんどはどうやら、高麗《こうらい》を通って大明征伐をなさりそうな雲行きが見える、まだはっきりと仰せ出されたわけではないが、雲行きがそのように見える、この前高麗が帰服して――当時一般にはこう考えられていた。秀吉自身がそう信じこまされていたのだから、これは当然のことである――使者が来た時に、持たせてお帰しになったご書面には、大明を征伐する故、先駆けをつかまつれという文句があったという話もある、いよいよそうなったら、これは難儀なことぞ、戦《いく》さは馴《な》れた日本国内でも難儀しごくなものであるに、こんどは気候も風土もまるで違う異国での戦さじゃ、難儀のほど見当もつかぬ、大明の兵はバハン共五、六十人にも手出しの出来ぬほどの弱兵じゃとは聞くが、こんどはバハンと違うて国を奪《と》ろうというのじゃから、やはり戦うであろう、何というても途方《とほう》もない大国じゃ、軍勢の数も多かろう、戦いとなれば、何というても数がものを言うは知れたこと、所詮《しよせん》は知らぬ異国の空で病《やま》いになって死ぬか、討死《うちじに》するか、そのほかはなかろう、難儀なことかなと、皆くったくしていた。信用の出来る親しい者の間では、大名も、武士らも、ひそひそとかこち合ってもいた。
秀吉にも、大体の見当はついていた。何とかしなければ、触《ふ》れ出しも出来ないと考えていた。
鶴松丸の葬儀の時、秀吉がもとどりを切って仏前にささげた時の心には、一点の策謀《さくぼう》的心理もなかった。年|老《お》いてから授けられた、たった一人の愛児を悼《いた》む、一筋の純粋|無雑《むざつ》な悲しみがさせたことであるが、居合わせた諸大名や諸臣が、われもわれもとならって、仏前にもとどりの山の出来たのを見た瞬間、にわかに策謀的になった。
(鶴松丸が死んだのは、おれには言いようもないほど悲しいことだが、この者共がなに悲しかろう。髪を切ったのは、皆おれの意を迎えるためだ。せめてもの、おれの心やりになるであろうと思ってのことだ。この者共の、この心を、何か役に立てる必要がある……)
と考えたが、もうその時には、工夫がついていた。大明征伐のことに利用しようと思ったのだ。
(どうやら、諸大名共は気が進まぬげに見える。ひばりの肝ほどの肝玉《きもつたま》のやつばらじゃけ、遠い異国、しかも大国に乗り出しての戦《いく》さ、どうなることかと不安でならんでいるのじゃ。何とかして、やつらの心をかえさせんければならんが、今彼らは、鶴松丸を死なせて悲嘆に沈んでいるおれを、何とかして慰めたいと心をくだき、そのためには何でもしようと思いこんでいるようじゃから、これに使ってやろう。さすれば、鶴松丸の死は、三国|一統《いつとう》の人柱《ひとばしら》になると同じじゃ。あの子も浮かばれるというもの)
と、考えたのであった。
東福寺で葬儀のあった翌日――八月七日の朝、秀吉は急に、観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》に鶴松丸の冥福《めいふく》を祈るため、清水寺《きよみずでら》に参詣《さんけい》すると、触《ふ》れ出した。
突然のことではあったが、京に居合わせる大名らは、いずれも大急ぎで支度して、おくれじと聚楽第《じゆらくだい》に駆けつけたので、おびただしい供廻《ともまわ》りとなった。
清水寺に三日滞在したが、三日目の午後、日が半ばかたむいた頃、舞台に出た。舞台は前面が谷になり、季節のことでそこには楓《かえで》が薄《うす》紅葉《もみじ》している。楓の谷から目を右に転ずると、谷間を見通してその向うに京の町が見え、さらにそのずっと向うに西山連峰が見える。あたかも夕陽《ゆうひ》に空は映え、空も、櫛比《しつぴ》する京の町の家々も、西山の山脈《やまなみ》も、黄金の色にかがやきわたっていた。
それをしばらく凝視していたかと思うと、秀吉の双眼には涙があふれ、頬《ほお》に伝って流れた。うしろに従っていた前田利家をはじめ諸大名諸臣らは、愁然《しゆうぜん》となった。すすり泣く声も聞こえて来た。
やがて、秀吉は涙を拭《ふ》き、前田利家と毛利輝元とを呼んだ。徳川家康はこの頃は江戸在国でいなかった。
「又左《またざ》、少輔太郎《しようゆうたろう》、ちょっとござれ」
「はっ」
二人は立ち上って出て来た。
「ならびなされよ」
と、左右に立たせて、西の空を指さした。
「あれを見られよ。極楽は西方にあるという。鶴松はまだ幼くてこの世の塵《ちり》にまみれなんだ故、定めて極楽に行っているであろ。ああして夕日に映えている空を見れば、紫の雲がたなびき、紫磨黄金《しまおうごん》の光に満たされているという極楽の景色が目に浮かんで来る。そなたらはたんと子達もいること故、わしの今の様を見て、あまりにも女々しい、天下人《てんかびと》の所行でないと思うも知れんが、わしにはたった一人の子であったのじゃ。この年になってはじめて授けられたたった一人の子。とうてい、あとはもう授けられる望みのない、たった一人の子であった。わしを笑わんでくれい……」
季吉はまたはらはらと涙をこぼした。
二人はもとよりのこと、うしろにひかえる大名らや諸臣も、もらい泣きした。
「泣いてくれるのう、皆、礼を言うぞ。わしは哀《かな》しみ晴れやらぬままに、この上は鶴松の菩提《ぼだい》をとむらうために、この世を捨て、二人か三人の供を連れて、巡礼|行脚《あんぎや》の旅に出ようという気になり、実はここへ参詣《さんけい》にまいったのも、その心を確かめるためであった。しかし、今ここに立って、あの西の空を眺めているうちに、からりと思案がかわった。男たるものが、これしきのことに、いつまでもくよくよとしていてなろうか、気ばらしに、これまで誰もしたことのない、太《でか》いことをしてのけるべいじゃと思い立った」
反響を見るためにことばを切った。皆うれしげな顔になっている。若君ご供養《くよう》のためであるから、方広寺《ほうこうじ》の大仏様の倍もあるのを、こんどは青銅づくりであそばそうとでも考えてお出でなのであろうかと、耳をすました。
秀吉はつづける。
「思いついたのは、高麗《こうらい》のことじゃ。高麗王は、去年降参の使をよこしおったが、あの時、わしは大明《たいみん》への道案内をつかまつるようにとの書面を持たせて帰したのに、その返事もまだよこさん。いや、今年の夏、対馬《つしま》の宗《そう》を通じて、書面を一通よこしたが、何やらわけのわからんことばかり書きつらねてあるだけで、返答にはなっておらん。元来、わしが最初宗を通じて高麗王に降参を命じた時、わしは王自ら来るようにと言うてやったのじゃ。せめては王の弟か、王子か、血のつづいた一族の者が来んければならんところじゃに、木《こ》っぱ家来《けらい》をよこしたのじゃから、無礼千万と、あの時も面白《おもしろ》うなかった。しかし、せっかく遠いところを、海山《うみやま》越えて来たのじゃからと思うて、とがめ立てはせず、降参を聞きとどけてやり、しかるべきもてなしをして帰してやった。その恩も思わんで、このようであること、沙汰《さた》のかぎりの礼儀知らずじゃ。この罪は捨ておくわけに行かん。先ず高麗に兵を進めて無礼を責め、前過《ぜんか》を悔《く》いてわびるならば、ゆるして道案内をさせて大明に攻め入ろう、四の五の言い張るならば、一もみにもみ潰して、大明に攻め入ろうと思い立った。なんと、わしにふさわしい憂《う》さ忘れであろうがな。どうじゃ、どうじゃ」
人々は急には返答も出来ない。さあはじまった、さあはじまった、雲行きはとうとう本降りとなったとばかり思っていた。
やがて、前田利家が言った。
「さすがは日本はじまってこの方、ためしなきご功業をなしとげ給うた殿下《でんか》でございます。よくぞお悲しみの底から立ち上らせ給うたばかりでなく、ためしなき大仕事を思い立ち遊ばされました。恐れながら、めでたく存じ上げます。大明は世界にならびない大国とはうけたまわっていますが、殿下のご采配《さいはい》をもって兵を進め給うものなら、なにほどのことがございましょう。四百余州、忽《たちま》ちにおん旗風になびかんこと、疑いございません。天下一、めでたく存じ上げます」
九年前までは朋輩《ほうばい》であり、さらにその二十数年前にははるかな目下《めした》として呼捨てにしていたのであるが、今ではこんな鄭重《ていちよう》なことばづかいで、機嫌をとりとり言わなければならなくなっているのであった。
「われらもおよろこび申し上げます。遠い遠い大昔に、われらの所領である長州|豊浦《とよら》の一ノ宮に住吉大神とともに祀《まつ》られてお出での神功皇后《じんぐうこうごう》という女帝が、高麗|征伐《せいばつ》を遊ばされ、しばらくあの国は年々に日本に貢《みつ》ぎものなど捧《ささ》げていたとのことを、長州では言い伝えています。しかし、その女帝も高麗だけでございました。殿下はそれを越えて、大明国を討《う》ち平《たいら》げ遊《あそ》ばすのでございます。前代未聞《ぜんだいみもん》のおんこと、殿下のほかに、誰がかほどの大仕事を思い立ちましょう。われらしきの者も、世界に肩身ひろく覚えます」
と、輝元も言った。
なぜ心ないお世辞などを言って、諫言《かんげん》をしなかった、というのは、この外征が失敗したことを知っている後世の人間の知恵だ。この時点において、秀吉にそんなことを言い得る者があろうはずはなかった。こんどの大戦だって、後でこそ、自分は本心では反対だったと言う人が多いが、必要な時に強く反対説を主張した人はないのである。まして、当時の大名だ、自分一身のいのちだけでなく、家来共とその家族を加えれば何万人という人間の生活のかかっている家の存亡《そんぼう》を賭《か》けてまで、反対出来ようはずはないのである。
「祝着《しゆうちやく》である。その方共のそのことばを聞いて、わしは一倍の気力が湧《わ》いて来たぞ。これで、日頃の鬱気《うつき》は霧のように吹っ飛んだわ。めでたいな、めでたいな。アハハ、アハハ、アハハ」
益々傾き、益々黄金色のかがやきを濃《こ》くして来る夕日の空に、秀吉の高笑いの声は、からからとひびきわたった。
大明入りのことは、こうして、本ぎまりとなった。天正十九年八月九日のことであった。
二
清水《きよみず》から帰ると、秀吉は摂津《せつつ》の有馬温泉に出かけた。明智退治の時の工夫も、家康を幕下《ばつか》に招き寄せる際の工夫も、風呂に入っている間に立った。こんどの大明入りも、温泉につかりながら、ゆっくりと工夫しようと思ったのであった。
彼は対馬《つしま》の宗|義智《よしとも》がこの夏朝鮮の国書とともに献上した朝鮮の地図をたずさえていた。その地図を見ながら工夫するつもりであったが、それにしるされた山川の名や地名は、すべてむずかしい漢字で、彼には読みかねるものが多かった。
「ほうほう、さすがに異国じゃわ、小《こ》むずかしい名のところばかりじゃ」
供をして来ている右筆《ゆうひつ》の山中|橘内《きちない》に言いつけて、一々よみがなをふらしたが、それでも舌のもつれるような名前ばかりであった。
「やれやれ、小面倒な」
憶《おぼ》えかねる。しかたがないから、各道《かくどう》を、赤だ、青だ、黄だと、塗りわけにして、赤国《ぐに》、青国、黄国と心覚えした。
このようにして地図の処理がすんだので、いよいよ戦略の工夫にかかったが、朝鮮にたいする知識が皆無であることに気づいた。なんにも知らないのである。徹底的に知らないのである。さすがにおどろいた。
こんな戦争は、これまでしたことがない。これまでははじめる前までに、十分に相手方を研究して、山川の地理から、人情風俗、人心の動向、富強の程度、城郭の険易《けんい》、守将の賢愚《けんぐ》、兵の剛臆《ごうおく》、すべて掌上《しようじよう》を指すようによく知っていたのに、こんどは何にも知らないのであった。
はじめて、不安が、この頃の夜のすき間風のように、ぞくりと心をかすめた。しかし、すぐはらいのけた。
「何ほどのことがあろう。おれがやるのじゃ、うまく行かぬことがあるものか。ましてや、女子供にもひとしい弱敵じゃ」
一《ひと》のしに全九州を平《たいら》げた時の勝利の記憶、全関東、全奥羽を平げた時の勝利の快さが、まざまざと思い出された。
「おれはただ人《びと》ではない。おれが手を下して、やれないことはないのじゃ」
自信は立ち直った。もうゆるぐことではない。
しかし、朝鮮の事情、大明国の事情のわからないことは同じだ。濃霧の立てこめた向うを見るような、いやいや、それであれば模糊《もこ》とでもけはいぐらいは察せられるが、これは仏説でいう一切空にひとしい。工夫の立てようがない。
しかたがないから、諸大名動員の要領だけきめて、十八日、大坂へ帰った。
二十三日、大明入りのことが発表された。
一、来年三月一日、唐《から》へご出陣あるべきにつき、諸大名も出陣の用意せよ。
一、肥前の名護屋《なごや》に、ご渡海までしばらくご滞在あるべきにつき、九州の諸大名にご座所の普請《ふしん》を仰せつけらる。
一、聚楽第《じゆらくだい》を、京都附近の御領地を添《そ》えて、中納言《ちゆうなごん》(秀次)様におん譲りあそばされる。
最後の条項は、甥《おい》の秀次を自分の後つぎに定めて、やがて関白《かんぱく》も譲り、自分は征明《せいみん》のことに専念する決心であることを天下に告知したわけである。
にわかに日本中がざわめき立った。不安と不平は、大名や武士らの間だけでなく、百姓にも町人にもある。武士は功名手柄を立てて、身分が上り、身上《しんしよう》をおこす機会の到来でもあるのでまだしものこと、町人もまた一時的にでも景気が出て商売が繁昌《はんじよう》して利得《りとく》することが出来る。しかし、あわれなのは百姓だ。戦争で百姓が利得することは一つもない。取立てがきびしくなり、夫役《ぶやく》が無闇《むやみ》に増すだけである。
しかし、不安でも、不平でも、不服でも、どうしようもない。反対すればどうにかなるのならだが、どうにもならないばかりか、相手えらばずうっかりしたことを言ったら、身の破滅になるは必定《ひつじよう》だ。
大名らは船の支度をし、戦費をととのえ、武士らは武器、武具を点検し、軍馬の用意をしながら、次の命令の出るのを待ち、町人はここを先途《せんど》とせっせともうけ、百姓は領主の夫役に駆り立てられて、青い息をしながら働かされた。
肥前名護屋の大本営構築は、十月十日からはじまった。加藤清正が普請奉行になって、小西行長、黒田長政、島津|竜伯《りようはく》入道、大友|義統《よしむね》(宗麟の子)、その他大名に至るまで、九州の大名は全部|出役《しゆつやく》して、海をわたってまともに吹きつけて来る凍《こご》えるような季節の寒風に身をさらして、営々として働いたのである。
歳末に、秀吉は関白職を秀次にゆずり、自らは太閤《たいこう》と称することにした。明日で天正十九年が終るという、おしつまった十二月二十八日であった。秀次はこの時二十四であった。
「運のええお人や。日本一の叔父《おじ》はんを持たはったお蔭《かげ》で、お小人頭《こびとがしら》を父《とと》はんに、百姓娘を母《かか》はんにして生まれはって、さほどかしこいお人とも、手がらがあったとも聞かへんが、あの若さで関白殿下にならはった。日本一、ご運のええお人や」
と、京わらんべらは、秀次の幸運をうらやんだが、幸運であるか、不運であるか、誰が知ろう。人間は一寸先きは闇《やみ》だ。上りつめた階段の絶頂は、しばしば奈落《ならく》に通ずる。易《えき》に曰《いわ》く、「亢竜悔《こうりようくい》あり」。
三
動員令は、天正二十年(後に文禄と改元)正月五日に発せられた。
一番手から九番手まであり、総人数十五万八千七百人、これに舟手《ふなで》を加えれば二十三、四万にのぼった。これは外地に渡った兵だけで、名護屋に滞陣した兵数もずいぶん多数だから、それを合わせれば三十万以上もあった。小田原|征伐《せいばつ》の時以上である。あの時も日本はじまって以来の大軍であったが、こんどはあれの二倍に近い大軍である。世間はもう驚嘆のあまり、口もきけない。
編成も発表された。
一番手は宗|義智《よしとも》、小西行長、肥前平戸《ひぜんひらど》の松浦鎮信《まつらしげのぶ》、同国有馬の有馬晴信、同国大村の大村|喜前《よしさき》、同国五島の五島|純玄《すみはる》。二番手は加藤清正、佐賀の鍋島《なべしま》直茂、肥後|人吉《ひとよし》の相良長毎《さがらながつね》。
軍令書《ぐんれいしよ》はこうだ。
一、それぞれ命令した通りの数の兵をひきい、早々に渡海せよ。但《ただ》し、風のたより悪《あ》しくば、天候を見合わせて島伝いに渡海せよ。天候の悪いのに無理をし、その結果|難船《なんせん》などして、たとえ馬一|匹《ぴき》、人間一人の損害でも出したら、落度と見なすぞ。天候がよいのに機を失して渡海しなかったら、これまた落度とするぞ。
一、高麗《こうらい》へ渡ってすぐは城普請《じようふしん》をしなければならないから、その間は馬は不要である。全軍の渡海がすんでから輸送せよ。
一、命令を受けた者以外は渡海してはならない。皆名護屋に在陣せよ。抜駈《ぬけが》けして渡る者は処分するぞ。
一、この度の戦《いく》さでは船が最も重要である。多数用意するほど手柄であるぞ。これらの船は数を書いて、一旦《いつたん》船奉行共に全部渡し、奉行から割当ててもらって使え。かくて向うに渡ったら、その船には奉行を一人ずつつけて、対馬《つしま》へもどし、他家の人数の渡海用にさせよ。
一、高麗王が素直に降伏したら、指令書の順序に従って渡海せよ。万一降伏しなかったなら、高麗に近い島々に全軍進み行いて待ちかまえ、揃《そろ》ったら、それぞれに高麗のどこの浜でもよい、一斉に上陸し、陣取りし、普請丈夫《ふしんじようぶ》に城砦《じようさい》をかまえよ。
ざっと以上である。十八日には、小西と宗《そう》を先発させて、朝鮮に行かせ、朝鮮の情況と出様《でよう》をさぐらせ、同時に毛利輝元、黒田長政、加藤清正らは対馬に待機し、小西らの報告を待って行動せよと、命じた。
これは小西と宗の懇願による。二人は秀吉と朝鮮朝廷との間にはじめから立って、交渉の任にあたっているのだが、秀吉の真の意志を朝鮮側に伝えず、朝鮮の言い分を偽《いつわ》らず秀吉に言上《げんじよう》していない。たとえば最初来た朝鮮王の使者を帰服お礼の使者であると秀吉に説明したのがそれだ。またたとえば大明征伐が秀吉の決意であるとは思われない。曖昧模糊《あいまいもこ》の間《かん》に妥協点を見つけて、両国の平和を保とうとしたには違いなかろうが、偽りは偽りである。こうなっては、それが暴露《ばくろ》する恐れがある。他の将領らの朝鮮に入る前に、暴露防止の手を打つ必要があったのである。そのためには、遮二無二、戦争をしかけて、戦雲によって一切ご破算になったことにするより、今は方法がなかった。
「今一応、骨折ってみたくございます。高麗王《こうらいおう》が以前の帰服の心に立帰るなら、一兵も損ぜずして、八道《はちどう》の地を通過して大明に入れますわけでございますから、これは何としてもやってみるべきであると存じます」
と、秀吉を説《と》いて、承諾させたのであった。
秀吉の出陣は三月一日と触《ふ》れ出された。彼が名実ともに具《そな》わった天下人《てんかぴと》――関白《かんぱく》となってからおこなった両度の大戦争は、九州|征伐《せいばつ》も、関東征伐も、いずれも出陣は三月一日であった。
「吉祥《きつしよう》の日である」
という観念が秀吉にはある。だから、この日を大明征伐|首途《かどで》の日と定めて、触れ出したのであった。
この以前から、東国や北陸の諸大名らは、それぞれに兵をひきいて、京に来、また続々と西に向った。
京を出る日には、皆|武者押《むしやお》しをして、秀吉の上覧に供し、秀吉の激励を受けた。押道《おしみち》は聚楽第《じゆらくだい》の前から一条|戻橋《もどりばし》に出、少し引返して大宮通から左折して下って行くのである。
秀吉は聚楽第の正門の前に桟敷《さじき》をかけて見物した。諸大名、公家《くげ》達、有福な町人らも、道筋に桟敷をかけて見物に出た。こういうところは、江戸時代の将軍とはまるで違う。衆とともに楽しんだわけだが、別段ここに秀吉の仁心《じんしん》や平民《へいみん》主義的心を読みとるにはおよぶまい。秀吉はにぎやかなことが好きで、人に見られて評判を立てられることが大好きだったのだ。
秀吉の豪奢好《ごうしやごの》み、奇抜好みに合わせて、出陣の大名らはそれぞれに趣向を凝《こ》らしたが、なかにも人目をおどろかせたのは、伊達政宗の軍勢であった。
政宗は一昨年の一揆煽動《いつきせんどう》が無実として不問にされたものの、それは秀吉の政治的処置で、実際には看破《かんぱ》されていることを知っている。大いにご奉公ぶりを見せる必要があると思ったので、秀吉からの指令では千五百人の人数でよいのであったが、二倍三千人の兵をひきいて出る許可をもらい、それをひきいて、はるばると奥州から出て来た。
そればかりでない、兵士らの武装や武具をとくに好んで、豪華にかつ奇抜にしつらえた。
先ずおし立てた幟《のぼり》三十本は紺地に金糸《きんし》で日の丸を繍《ぬ》い、その幟を持つ者のいで立ちは最も華麗《かれい》な具足下《ぐそくした》に、黒の具足の胸にも背にも金の星をつけたのを着せた。鉄砲隊、弓隊、槍《やり》隊も、同じ服装で、しかもこの者共には銀の熨斗《のし》つけ(丸鞘《まるざや》)の脇差《わきざし》を佩《は》かせた。この脇差はこじりの方が次第にひろくなり、末は烏帽子《えぼし》のいただきの形に三角に切ってあった。大刀は朱鞘《しゆざや》、太刀《たち》を佩くようにさげづりにさせた。陣笠《じんがさ》は金ぱくをおき、径《けい》一尺八寸、長さ三尺で先がとがっていた。メガホンの形である。
騎士《うまのり》の者三十八騎、皆|黒母衣《くろぼろ》をかけ、金の半月のさしものをさし、大小はいずれも金の熨斗《のし》つけ、馬には燃え立つばかりの緋《ひ》のむながいとしりがいをかけ、豹《ひよう》の皮、虎の皮、熊の皮、孔雀《くじやく》の尾などの馬よろいを着せた。
とりわけ目立ったのは、原田|左馬助《さまのすけ》宗時と遠藤文七郎宗信の二人であった。二人は伊達家で双璧《そうへき》といわれる勇士であるが、ともに九尺の大太刀《おおだち》を佩《は》いていた。長すぎて地に引きずりそうなので、鞘の途中に金具《かなぐ》を打ち、それに黄金のくさりをかけて肩にかけた。
豪華と奇抜は秀吉の好みであるだけでなく、この時代の風尚《ふうしよう》だ。日本人が最も進取の気に富み、最も大胆に異種の文化をとり入れたのはこの時代だ。伊達勢のこの軍装には、見送る人々が一斉にわっと喝采《かつさい》しどよめいて、しばしは側の人のことばも聞きとれないほどであったと、伊達|成実《しげざね》が『成実日記』に書いている。
秀吉の桟敷《さじき》には、濃い紫に染めた厚織《あつおり》の絹の幔幕《まんまく》に五三の桐の紋章を染め出したのを張りめぐらし、緋《ひ》の毛氈《もうせん》をしき、秀吉はその中央に、群臣や侍女を左右に従え、床几《しようぎ》に腰をおろしていた。そのいでたちは、さしのぼる旭日《きよくじつ》をかたどった金の唐冠《とうかむり》のかぶと、赤地|錦《にしき》の鎧直垂《よろいひただれ》、金小札緋縅《きんこざねひおどし》の鎧、金の熨斗《のし》つけの太刀《たち》、背には総金《そうきん》のうつぼに朱塗《しゆぬり》の征矢《そや》を一筋さしたのを背負い、左手《ゆんで》に朱塗|重籐《しげどう》の弓をにぎっていた。好きな色ではあるが、遍身《へんしん》、金にあらずんば朱、朱にあらずんば金、茹《ゆ》で上げた海老《えび》を金粉《きんぷん》の中で二、三度ころがしたような姿であった。
伊達勢の奇抜な軍装を見ると、大喜びで、床几を立ち上り、左手《ゆんで》に弓杖《ゆみづえ》つき、右手《めて》に朱に金銀で日月《にちげつ》を出した軍扇《ぐんせん》をひらいて、
「やあ、やあ、伊達|侍従《じじゆう》ーッ!」
と、呼ばわった。おそろしく芝居がかったしぐさであり、調子である。こうした場合のおくめんのないこんなふるまいの効果をよく知ってもいるが、やらずにいられない性質でもある。
政宗は軍列をはなれて、馬をのり出し、片あぶみはずして、式体《しきたい》する。
秀吉は須磨《すま》の浦《うら》で敦盛《あつもり》を呼び返す熊谷《くまがい》次郎もどきに、軍扇をふりうごかしながら、四町四方に響きわたるという大音声《だいおんじよう》で、
「あっぱれ、武者《むしや》ぶりぞ! よういたした。気に入ったぞ。その勢いならば、大明国《だいみんこく》の都|北京《ペキン》とやらへも、一気に乗りつけること疑いない。ほめてとらせる。いよいよ、よくはげめい!」
とはやし立てた。
演出家である点では、政宗は秀吉におとりはしない。おとらぬ大音声で、
「大明はおろか、天竺《てんじく》へもまたたく間でござる。ごらん下されいッ!」
と、呼ばわり返した。
こうして、連日のように諸大名の軍勢は、京を通過して西に向った。伊達勢ほどの豪華奇抜さはないが、いずれも祭り装束のようにはなやかだ。異国相手の戦《いく》さがはじまると聞いて、不安と恐怖に沈んでいた世間は、どっと浮き立った。
「唐《から》も高麗《こうらい》も日本になる。不思議な天運のある殿下のなさることじゃけ、万に一つも狂いのあろうはずはない」
と、皆思うようになった。
しかし、秀吉は三月一日の出陣をのばした。あたかも眼病をわずらった上に、大軍が次々に西に向ったので、西国《さいごく》街道がつまって、自由な行進が出来かねたからであった。
後から思うと、これが第一のつまずきであったわけだが、いく度も延期があって、出発はついに三月二十六日になった。
この日早朝、秀吉は衣冠姿《いかんすがた》で参内《さんだい》して、出征のことを奏上し、天盃《てんぱい》をいただいて退出して、武装した。伊達政宗らを送った時とはまた違う鎧《よろい》であるが、これも金と朱の色調だ、金小札《きんこざね》を緋糸《ひいと》でおどした、黄金の滝を流しかけたような馬鎧《うまよろい》をかけた馬にまたがった。
この時の秀吉の従騎《じゆうき》は三万、いずれも新しくおどし立てた金銀のかがやきさんらんたる鎧を着、新装の武器をたずさえた。真先には金のときんをかぶり、はなやかな衣装をつけた山伏《やまぶし》姿の一隊が、緋《ひ》の房《ふさ》をつけた法螺貝《ほらがい》を吹き鳴らしながら進んだ。秀吉は中陣に馬を打たせたが、そのまわりには馬廻りの騎士らが、それぞれに黄金づくりの太刀《たち》三十ふり、金で泥《だ》みた楯《たて》五十を捧持《ほうじ》して従い、乗りかえの馬七十、いずれも錦襴《きんらん》のあおりをかけ、金小札緋おどしの馬鎧を着せていた。日本六十六州にかたどって、五三の桐の紋章を打ち、金の垂布《たれぎぬ》をした大旗六十六|旒《りゆう》を立てて進んだ。
後陽成《ごようぜい》天皇と正親町上皇《おおぎまちじようこう》とは、四足門《しそくもん》と唐《から》門との間に、それぞれ桟敷《さじき》をかけて、金・銀・朱が錯雑しつつ流れて行く行列をご見物になった。
秀吉は天皇のお桟敷の前にさしかかると、馬からおり、階《きざはし》を上って拝謁《はいえつ》し、三献《こん》の酒をたまわり、さらに上皇のお桟敷に行って同じように酒をたまわって、行列の中にかえった。
元来京都の住人で、皇室の衰微をなげいて、まだ尾州の一大名であった頃の信長を訪問して献金させたりして、色々と皇室のためにつくしたので、信長が天下取《てんかとり》となると皇室方面の事務担当を命ぜられ、秀吉の時代になってもそれのつづいている立入左京亮宗継《たちいりさきようのすけむねつぐ》も、この日、天皇のお桟敷の末座にいて、見物したのであるが、
「思い思いのいでたち、金銀をちりばめ、一日見くたびれ申し候《そうろう》」
と、書きのこしている。よろずお祭りがかりだったのである。
秀吉は四月二十日、博多についたが、つくとすぐ、侍臣《じしん》に向って、
「唐人《とうじん》どもは、ことのほかにヒゲの生えた男を珍重《ちんちよう》するげなが、おれはヒゲが少ないによって、作りヒゲをかけて行こうと思う。この博多は一時は衰えていたが、先年おれが町づくりしてつかわしてから、ことのほかに賑《にぎや》かになって、今ではもう昔に少しもかわらぬほどとなったという。作りヒゲを上手につくる職人もきっといるはずじゃ。急ぎさがして、急ぎ連れてまいれ」
と命じた。
現代なら、かつら職人というところであろうが、当時もそんな職人がいたと見えて、連れて来た。
「うんとヒゲの多いつくりヒゲをこしらえい」
「ヘッ」
職人はおどおどしている。
「あごの寸法をとらねば、うまく行くまい。苦《くる》しゅうない。近《ちこ》うよって、しっかりと取れい」
と言って、あごをつき出して寸法をとらせた後、
「急ぎつかまつれ、明後日の朝はおれはここを立たねばならぬ。それまでにこしらえ立てて、持ってまいれ」
と言った。
それは出発までに出来て来た。秀吉は黒々ふさふさとしたそれをあごにかけ、博多を立って名護屋に向った。
京都出陣の時以来の、こうした秀吉のふるまいを、古来の読史家《どくしか》らは、秀吉の愛すべき稚気《ちき》、あるいは豪快な気宇《きう》の表れであると批評しているが、無邪気にそう見てよいものであろうか。そこにはもう彼のかつての長所であった緻密《ちみつ》な計算は失われて、形骸《けいがい》だけの豪快が空《から》まわりしているように、ぼくには思われる。秀吉の精神の老化であるが、この老化は、日を追い、月を追って、急速に傾斜の度を強めていくのである。
四
二十二日に博多を出発、翌々日の午頃、松浦潟《まつらがた》に臨《のぞ》む深江宿《ふかえのしゆく》まで来た時、最初の捷報《しようほう》を受取った。小西行長からの捷報である。
「拙者《せつしや》は宗義智《そうよしとも》とともに十二日午前八時、対馬《つしま》の大浦を出発し、午後四時に釜山浦《ふざんうら》に近づきました。船共を島陰にかくし、義智の船一|隻《せき》だけ港に入り、上陸して、釜山の鎮将《ちんしよう》に面会して、われらは日本の太閤殿下《たいこうでんか》の命を奉じて大明征伐《だいみんせいばつ》に向う先鋒隊《せんぽうたい》からつかわされた者である。貴国の王はすでに一昨年わが国に帰服を申し入れ、使節をもつかわされたのであるから、道案内をつとめらるべきである、先鋒隊は直ちに京城へ向い、さらに北へ向うべきにつき、道を清めて迎えらるべし≠ニ申し入れましたところ、かれこれ言いつくろって命を奉じようとしません。義智は大いに難詰《なんきつ》しましたが、さらに応ずる気色がありませんので、やむなく、午後八時頃帰船しました。義智の報告を聞き、拙者は熟思《じゆくし》いたしましたが、高麗の誠意はさらに認められませんので、義智と相談の上、この上は武力に訴える以外はなしと、翌十三日、暁霧《ぎようむ》の中を釜山浦におし寄せて上陸、直ちに釜山城にとりかけまして、午前八時にはこれを乗取りました。その間わずかに二時間、もろいことでありました。首を取ること八千余、捕虜二百余の大戦果であります。釜山附近の敵は、皆わが軍の猛威を恐れ、守りを捨てて逃走しましたので、われわれはこれから東莱《とうらい》城に向います。引きつづきご報告いたします」
というのであった。
小西のこの報告にはウソがある。勝ったことにはウソはない。ウソは宗義智の釜山の役人との談判の内容にある。義智は報告書に言うような談判はしなかったのだ。ただ、大明征伐に向いつつあるのだから、貴国の通過を許せとだけ言ったのだ。これを拒絶されることは、最初から承知の上であった。しかし、これで、「高麗の一昨年の帰服申込みは一時の詐術《さじゆつ》であったことが分明《ふんみよう》となりましたので、戦争|沙汰《ざた》にするより外はありませんでした」と言って、だましつづけて来た秀吉の手前をつくろうことは出来るのである。もちろん、小西と二人で相談の上できめたことだ。
深江で、この報告を受取って、秀吉は、
「思った通りじゃわ。高麗人《こうらいじん》共、濡紙《ぬれがみ》にひとしいやつばらじゃ。さりとは、高麗王も目の見えぬやつ、こうなることの察しがつかなかったのか」
と、ころりとだまされ、朝鮮王の不明をあわれみながらも、おそろしく上機嫌になった。
翌二十五日、名護屋に到着した。
捷報《しようほう》は毎日のように来る。小西らは進撃また進撃、無人《むじん》の野《の》を行くがごとく京城《けいじよう》さして驀進《ばくしん》する。小西らは、出来るだけ敵を遠く追って、第二軍以下の味方の兵と接触させまいとしたのだ。一応秀吉をだましおおせたとは思うが、敵を味方の兵と接触させては、どんなことから以前のウソがばれるかも知れないと、不安なのであった。だから、対馬で連絡を待つ第二軍に何の音沙汰《おとさた》もせず、ひたすらに奥へ奥へと敵を追って進んだのであった。
しかし、第二軍の加藤清正、鍋島直茂、相良長毎らも、十七日には釜山に到着した。そして、第一軍が中路を取って行ったと聞くと、梁山《りようざん》から東路を取って進んだ。
第三軍の黒田長政らは、四月十九日に安骨浦《あんこつほ》で敵前上陸すると、金海城をおとしいれ、西路を取って進んだ。
三道ならび進んで、破竹《はちく》の勢《いきお》いだ。捷報は櫛《くし》の歯を引くように、海をわたって名護屋城に到着する。五月半ばには、小西が五月二日に京城に入り、国王は京城を捨てて逃げ出したという知らせが到着した。
釜山に上陸してから、わずかに二十日である。
五
秀吉が大本営と定めた肥前の名護屋は、今の佐賀県の東松浦半島の北端に近い地点である。奥は二つに分れている名護屋浦という、狭長《きようちよう》な入江が切れこみ、前面に加部《かべ》島という島があって、湾口を蔽《おお》うている。つい間近に呼子《よぶこ》という町があるが、これは松浦海賊の根拠地の一つで、倭寇《わこう》の発進地の一つであった。ここを秀吉が大本営にしたのは、朝鮮に最も近いからで、他に理由はない。海をにが手とする心理がうかがわれるのである。
城は外洋からも入江からも、一キロ半ほど奥の山地《やまち》に建っている。昨年十月から九州大名らが総がかりで工事にかかったことは前に述べたが、それが今年の二月半ば完成したのである。わずかに四か月の工事ではあるが、決して一時しのぎの粗末なものではなく、最も壮大華麗なものであった。なにごとにも、壮麗が秀吉の好みであったから、御意《ぎよい》にかないたいと、大名らは努力し、いやが上にも立派につくり立てたのである。
秀吉がここに到着するまでに、出征の諸大名やここに滞陣の諸大名らは、それぞれに軍勢をひきいて到着し、前もって家来を派《は》して営《いとな》ませておいたそれぞれの陣屋におちついていたので、この地はおそろしくにぎやかなところになっていた。
この軍勢を目あてに、方々から商人が集まって来て町をつくり、日用品を売る棚《たな》(店)をならべたのはもちろんのこと、遊女《ゆうじよ》も多数いる。一稼《ひとかせ》ぎをもくろんで、個々で来たもの、博多や方々の舟つき場の遊女屋が多数を引きつれて来たもの、それぞれに浜べや山の手の谷間に小屋がけして、商売していた。白く塗《ぬ》った顔が、新緑の木立のかげなどにちらちらしたり、色模様の裾《すそ》や袂《たもと》を浜風にひらひらとひるがえしてそぞろ歩きしたりしている姿を見ると、兵士らの心はときめき、夜になるのを待ちかねて、出かけて行ってしまうのであった。
つい半年前までは、貧しい漁師部落が散らばっているだけのさびしい片|田舎《いなか》であったのに、忽然《こつぜん》としてこの繁華《はんか》な大都会があらわれたのだ。魔法のようであった。しかも、毎日のように、景気のよい勝ち戦《いく》さの報《し》らせを持った早船《はやふね》がつく。季節は快い初夏。のぼせあがるような景気にわき立った。
京城が陥落《かんらく》したという知らせは、秀吉を有頂天《うちようてん》にさせた。
「もう高麗はすんだ。あとは大明だけだ」
と思った。
敵の本城を陥《おと》せば、それでその国が全部わが所有に帰するのは国内の領主同士の戦《いくさ》のことだ。民《たみ》にとってはどちらを領主と仰ぐも日本人であるにかわりはない。とり立てがゆるやかなら、新しい主人の方がありがたいのである。秀吉は国内戦を見ると同じ目で外戦を見ていたのだ。異国との戦さは民族戦であるということに気がつかなかったのだ。人間心理の読解に最も鋭いカンを持っていた秀吉がここに気づかなかったのは、まことに不思議だが、異民族との戦いの経験が全然なかったがための失策としか、思いようがない。
そして、現代の我々でも、秀吉を笑う資格はない。日支事変で日本の軍部は線と点だけしか確保することは出来なかった。秀吉から少しも進歩していないのである。
京城|陥落《かんらく》、朝鮮王|都落《みやこお》ちの大勝報を受取った二日後の五月十八日、秀吉は昂揚し切った心で、京の新関白秀次に、朝鮮と明とのこれからの処置について、書面を書いた。二十五条にわたる長文のものであるが、秀吉の当時の心理――老化して正常を失っているその精神を最も雄弁に語るものであるから、大部分を現代語訳にしてみる。
一、来年二月頃には関白殿下も出陣なさることになるから、油断なく出陣用意あれ。
一、京城はこの二日に落ちた。わたしはすぐ渡海して、こんどは大明国まですっかり征服して、殿下を大唐国の関白職に任ずることにする。
一、殿下は出陣される際は、軍勢三万をひきいられるがよい。兵庫から舟《ふね》にされよ。馬は陸地を行かせることにされよ。
一、日・韓・支の三国の間には、もう敵対するものはあるまいが、軍装が立派でなければ威光にもかかわるから、精々武具等は吟味して美々しくされよ。下々にもそうするように申聞《もうしき》かされよ。
一、随従《ずいじゆう》の者共のうち、人数持ちの者には三万石、馬廻《うままわ》りの者へは二万石、貸してやられよ。金子《きんす》もそれぞれにふさわしいだけ貸してやられよ。
一、熨斗《のし》つけ(金の丸鞘《ざや》)と刀と脇差《わきざし》とを千腰用意されよ。あまり金を多くつかうと、重くて遠路こまるから、刀には二十八|匁《もんめ》くらい、脇差は十二匁くらいにするように誂《あつら》えられよ。
一、長柄《ながえ》の道具としては、熨斗つけの薙刀《なぎなた》三十|枝《えだ》、熨斗つけの槍《やり》二十筋だけでよい。それ以上は不要である。
一、槍は柄を金にするのだから、飾りはこれで十分で、毛の投鞘《なげざや》は不要である。大坂城によくからした樫材《かしざい》の柄を所蔵してある故、いるなら取寄せて使われよ。
一、聚楽《じゆらく》にある金子がなくなって不自由なら、大坂から金子を千枚取寄せられよ。その際は聚楽の銀子を一万枚大坂へやっておかれよ。五百枚で足りるなら、銀五千枚やっておかれよ。すべて金銀の比率は一と十と心得、必ずこの割合で交換しておかれよ。
一、緞子《どんす》や金襴《きんらん》等の唐織《からおり》がほしいなら、言ってよこされよ。大明国手に入る上は、いかほどでも送りますぞ。
一、具足《ぐそく》は五、六|櫃《ひつ》持たされよ。それ以上はいらない。
一、兵糧《ひようろう》は名護屋にも高麗の各所にもうんとある故、用意には及ばない。道中必要なだけで沢山である。
一、小者《こもの》も若党《わかとう》も、それ以下の下々の者も、すべて長く召し使っている者を召し連れられよ。急に召し抱えた者ではいけない。前々からその心して用意あれよ。
一、丹波中納言《たんばちゆうなごん》(羽紫秀秋、後の小早川秀秋)をこちらに呼びたい。用意させてほしい。わしは大明に行くから、中納言にこの名護屋か高麗の留守《るす》をさせたいのである。
一、高麗の留守居には宮部善祥房を任《にん》じたいと思うから、用意させて、やがてわしが呼ぶのを待たせてほしい。
一、大明の都へみかどをお遷《うつ》し申したいと思うから、その用意をしてほしい。多分|再来年《さらいねん》あたり行幸ということになろう。天皇の御領としては、大明の都の周囲十か国を献上しよう。この十か国の中から公家《くげ》の知行所《ちぎようしよ》もきめることにする。下々の公家衆は一律に現在の十倍、上の衆はそれぞれに吟味の上定める。
一、大唐国の関白職は殿下にゆずり、都の周囲百か国を所領として進上しよう。日本国の関白は大和中納言 (羽柴秀俊、秀長の子) か、 備前宰相《びぜんさいしよう》 (宇喜多秀家) か、 どちらかを任じたいと思う
一、日本の皇位は、皇子か皇弟|智仁《としひと》親王か、どちらかにしよう。
一、高麗には岐阜《ぎふ》宰相(羽柴秀勝)か、宇喜多秀家をおくことにしよう。そうなれば、丹波中納言(秀秋)は九州におくことになる。
一、天皇が大明へお遷《うつ》りになる路次の行列は、いつもの行幸の儀式でよかろう。途中のご宿所は、こんどの出陣にわしが泊まったところが、日・韓・支いずれにもあるから、それで間に合おう。人足や伝馬のことは、それぞれの国で申しつけることにいたそう。
一、高麗、大明まで一息にやりつけて、長期戦にはならないから、日本の民《たみ》らは少しも苦しまず、従って逃散《ちようさん》などもすまい。諸国のわしの領地につかわしている奉行・代官らを召還《しようかん》して、出陣の用意をされよ。
一、京都と聚楽第《じゆらくだい》の留守居《るすい》のことは追って沙汰《さた》しましょう。
というのだ。
この原本は加賀の前田家に伝わっていて、前田五代の綱紀《つなのり》はこれを「豊太閤三国措置太早計《ほうたいこうさんごくそちたいそうけい》」と名づけた。
早計とははやまってことをするという意味だが、これは単なるはやまりではない。
出陣の行列に持たせるべき飾り道具のことや金銀の出入《だしい》れなどのような末の末のことについては、おそろしく綿密《めんみつ》に、くどくどと教示するかと思うと、最も根本的なことである朝鮮や中国のことについては、すでに平定《へいてい》して手中におさめたものを語る語気で、各国を統御《とうぎよ》すべき関白(朝鮮にも明にも関白をおくというのも滑稽だが)の人選をしたり、天皇を北京へうつすことにして、その御領をきめたり、公家《くげ》らの知行高《ちぎようだか》をきめたり、アンバランスをきわめている。とうてい正常な人間の心理ではない。精神分裂症的であるとさえ言えよう。
ぼくはこの大戦中、時々現在の日本の戦争指導者らは一人のこらず狂人ではなかろうか、やがてそれがわかった時には、日本はもうどうしようもないほど破壊されているのではないかと考えて、なんとも言えないほど無気味な気持になったが、朝鮮|役《のえき》における日本人と秀吉との関係は、まさしくそれだったと、ぼくには思われるのである。
秀吉がこの手紙を書いてから一月ほどの後、名護屋も炎暑の時に入っていた。思いもかけないことがおこって、名護屋滞陣の将士らをおどろかせた。
南肥後に兵乱がおこったのである。おこしたのは、島津家の家来共であった。島津家には先年秀吉に降伏したことを無念に思っている侍《さむらい》どもが少なからずいた。
「おいどんらは多年の辛苦で、九州のほとんど全部を切取り、のこるところほんのわずかじゃったのに、とッけもなか猿面関白《さるめんかんぱく》めが来て、大方を取上げ、三州の本領だけしか安堵《あんど》せんじゃった。にくい関白じゃ」
というわけだ。当主義久の三弟蔵久が、武士の意気地のためであったが、最後まで秀吉に拝謁することを拒《こば》んだことは、ずっと前に述べた。
梅北《うめきた》宮内左衛門は剛勇をもって鳴った男で、最も秀吉の処置を無念がっていた。当時島津家は当主義久は老齢のため戦地には行かず、名護屋に詰め、弟の義弘が行くことになり、兵をひきいて名護屋に来た。梅北はその義弘にひきいられて来たのであるが、来てみると、日本の大方の大名が外地におもむき、秀吉の周囲はひどく手薄になっている。
「よか機会じゃぞ」
と、むくむくと不穏《ふおん》な心が湧《わ》いて来た。
人数からすり抜けて平戸《ひらど》に行き、義弘のあとを追って薩摩《さつま》から上って来る武士らを口説《くど》いて引き入れ、相当な数になった。二千人余もあったという。
そのうちに、義弘は朝鮮にわたった。
梅北は平戸で集めた同志は名護屋附近にのこし、数人の者と国許《くにもと》にかえった。国許でまた同志を募《つの》り、肥後に出てことをおこせば、秀吉が狼狽《ろうばい》して度を失うは必定《ひつじよう》であるから、その時名護屋附近にのこしておいた同志が一斉に立って、秀吉を殺す、という計画であった。
梅北は国に帰って同志を募った。皆、
「太守《たいしゆ》様が名護屋におじゃる。お身の上の一大事でおじゃろう」
という。
「不意を襲って忽《たちま》ちたおすのじゃ。やつらが太守様に手をかけるひまなんどあるものか。それでも万一のことがあったら、金吾(歳久)様がおじゃるじゃごわはんか。お家をついでいただけばよか。お家には何のさわるところはごわはんぞ」
納得《なつとく》して一味する者もあり、一味しない者もあったが、それでも相当な数が集まった。この中に歳久の家臣らが多かったのは自然である。
梅北はこれをひきいて肥後に出、不意に佐敷《さしき》城におしよせて乗りとり、次に八代《やつしろ》城を目ざし、一手は八代平野の半ばまで進んで、村々に放火して気勢をあげた。
所詮《しよせん》は成功することではなかったであろうが、これが敗《やぶ》れた直接の原因は、梅北の酒好きと女好きからであった。佐敷城代の境《さかい》善左衛門は、いつわって梅北に媚《こ》びを呈する一方、そっと兵を集めてから、梅北とそのなかまを招待して酒宴を催《もよお》し、美女らを提供した。
田舎豪傑《いなかごうけつ》の梅北は酒色ともに大いにたしなむところだ、十分に頂戴し、乱酔して、美女を擁《よう》して寝た。そこを見すまして、境は急に襲って、皆殺《みなごろ》しにして、城を回復した。八代に向った一手も敗れて、兵は四散して国に逃げかえった。
潰滅《かいめつ》のあまりな速さに、名護屋附近に待機していた連中は起ち上る間がなかったので、何食わぬ顔で、朝鮮に渡って行った。
この事件が名護屋にいる義久の立場を危険にしたことは言うまでもないが、申しひらきが立って、秀吉の疑いはとけた。秀吉としても、大きな事件にすることは、この際よくないのである。ごく手軽にすませる方が人心にあたえる影響が少なくて得策なのである。しかし、歳久の往年の態度が改めて問題になり、また賊徒にその家臣が多数加わっていることも問題になり、歳久は死を賜《たま》わることになった。歳久は兄のつかわした討手《うつて》に壮烈な抵抗をした後、従士らと全員|討死《うちじに》した。
以上のように、秀吉は政略上、この事件をごく軽くあつかったが、本当はその心の底に最も強い打撃を受けた。全日本人が自分に心から服従し、悦服《えつぷく》しているとまで思っていた自信がゆらいだのである。
(世間にはどんな恐ろしいことを考えているやつがいるかわからない)
という思いが痛切であった。
(うっかり高麗なんどには行けんぞ)
とも思った。
これ以後、秀吉は、
「おれが渡海するぞ」
とおりにふれては声言したが、実行にはうつさないのである。渡海を中止するに適当な言訳になる事件が次々におこった。
母|大政所《おおまんどころ》の死もそれであった。
大政所急病で重態の知らせが名護屋についたのは、七月二十二日のことであった。秀吉は子供の間こそ母に心配をかけたが、本来は孝行者だ。栄達するにつれて、至孝《しこう》というほどの人となった。数年前に母が重病になった時などは、皇室まで動かして平癒《へいゆ》を神に祈ってもらい、諸社に一万石ずつの神領寄進まで約束して祈願し、ついにそれを果したほどであった。
大政所はもう八十の頽齢《たいれい》だ。心配は一通りでない。大急ぎで船を仕立てて、帰坂の途《と》につき、二十九日に大坂に着いてみると、大政所はもう死んでいた。秀吉が名護屋を出発した二十二日にだ。秀吉は驚きと悲しみのために卒倒した。
八月五日、京に入り、大徳寺で母の葬儀を行った。
もし出来たら、秀吉は家康か、利家か、身分といい、身代《しんだい》といい、年といい、閲歴といい、在韓の諸将を心から信頼服従さすべき人物を総司令官として派遣すべきであった。そうすれば事情はうんとよくなったであろうし、あるいは外征は成功したかも知れない。しかし、秀吉にはそれが出来ないのだ。命令を出しても拒否されるかも知れんと、不安なのである。秀吉政権は見かけによらず弱いのである。
この少し前から、小西行長から、高麗側から和議《わぎ》を申し出て来ているが、いかがはからうべきであろうか、よいということであれば、折衝の時間として五十日の休戦期間をおくことを許していただきたいと言って来た。秀吉は、
「許す故、そちは、高麗王には京城附近の四道《しどう》をあたえる故、のこり四道は日本へわたすこと、王子一人と家老数人を人質《ひとじち》として日本へ送ること、高麗の家老らは永代日本に違背《いはい》せぬとの誓紙を差出すこと、以上の三条を主張して、承認させよ」
と差図《さしず》してやった。
秀吉は容《い》れられるべき条件であると信じ切っていた。
ここで、彼の思案は妙な方向に動く。
「高麗はきくじゃろう。とすれば、和議の使者が日本に来ることになる。この前は聚楽第《じゆらくだい》じゃったが、聚楽はもう秀次にやった故、おれは京近くにまた住《すま》いをこしらえんければならんから、新しく城をこしらえて、そこでその使者共と会おう。うんと大きく、うんと立派に、うんと美しくこしらえて、使者共の肝《きも》をぬいてやらんければならん」
思案はすぐ実行にうつされる。伏見桃山の地を見立てて、ここに新しく城を築くように命じた。彼はもう朝鮮に渡る気はなくなったのである。
秀吉は形の壮大豪華の人心にあたえる影響をよく知っており、よくそれを利用して来た人だ。彼の後半生の成功の少なからぬ部分がこのやり方によるものと言ってもよい。しかし、この時の伏見築城は見当が狂っている。
来る使者は数人にすぎない。供の者を加えても四、五人に過ぎまい。しかも和議はすでに出来上ってから来るのだ。これを驚嘆|瞠目《どうもく》させる必要がどこにあろう。さらにしかも、二十余万の兵は異国の野に暴露《ばくろ》している上に、その軍資の大方は大名らの自弁であるから、湯水《ゆみず》のように消えて行くそのために、皆おそろしい苦しみをしつつあるのだ。さらにさらにしかも、この築城は諸大名の手伝普請《てつだいふしん》でなされるのだ。主として外地に行っていない大名らがその役を課せられるのであるが、そうなっては、日本の大名という大名は、皆|窮乏《きゆうぼう》する。つまりはそれは民《たみ》百姓からのきびしい取立てとなるほかはない。わずかに数人の朝鮮使節一行をおどろかすためにしては、犠牲は大きすぎるのである。
だのに、この時の秀吉には、この計算がわからなくなっている。どんな目的によってやるかという考慮がなく、昔からやりつづけて来たことを習慣的にやるにすぎないのである。これは老耄《ろうもう》の顕著な症状である。
けれども、誰も諫言《かんげん》する者はいなかった。出来る者がいないのだ。命令は即座に実行にうつされ、役人らは大名を人選して、通達した。大名らは不平であったはずであるが、それは全然外へは漏《も》れない。
「かしこまりました」
とお請《う》けして、家老らに命じて手配させた。名護屋滞陣の大名らにも割当てられる。この大名らはそれぞれに本国に、伏見に上ってご用をつとめるようにと言ってやった。
この頃、加藤清正が、この七月末、朝鮮東北部の咸鏡道《かんきようどう》に深く入り、ここに逃げこんだ朝鮮の王子二人を捕えたという知らせがとどいた。
「心得ていようが、くれぐれも鄭重《ていちよう》にとりあつかい、決して疎略《そりやく》無礼なふるまいがあってはならんぞ」
と、秀吉はさしずしてやった。
つづいてすぐ、わが軍が平壌《へいじよう》ではじめて明軍と接触して、これを痛破したことを知らせて来た。明の将軍の名は祖承訓《そしようくん》、朝鮮から明に助けを乞うたので、派遣されたので、明ではなかなかの猛将ということになっているのだという。数万の兵をひきい、俄《にわ》かに寄せて来たのだが、こちらは大いに奮戦して撃破したというのであった。
勝ち知らせではあるが、秀吉は前ほどもう心を動かさなかった。心の底の深いところで、講和を待ちのぞむ気があった。しかし、これほど大がかりに、そして大言壮語してはじめたことを、自分の口からは言えない。
昔の彼は母を人質にまでして、家康を幕下《ばつか》に招きよせた。必要ならば、工夫してどんなことでもしたのに、あまりにもえらくなり過ぎている今の彼は、それが出来ないのである。
先方の出ようを待って、その上に立って面目《めんもく》を保てるところで処理するほかはないのだ。それは主導権を敵ににぎられていることなのだが、今の彼はそうであることすら気がついていなかった。
十一月はじめ、名護屋に帰った。四月、薫風《くんぷう》とともに乗りこんだ時とちがって、気が重かった。こうして、天正二十年は暮れかけ、十二月八日、文禄と年号が改まった。
六
領地半分は安堵《あんど》してやろう、息子《むすこ》と重臣とを人質《ひとじち》によこせ、家老らの誓書を所望する、などは、全然日本国内の大名を征伐《せいばつ》し、打負かした時の要求だ。秀吉が朝鮮王を日本の大名と同じ目で見ていたことがわかる。小西はもちろん、そんな要求を出しはしない。その他のことで秀吉を一応満足させる条件を見つけようと、朝鮮側の使者に会って折衝につとめた。
しかし、朝鮮は自分の方から言い出した和議《わぎ》であるくせに、あまり熱心ではなかった。なにやかやと日をのばそうとばかりする。これは最初からの計算であった。こうして時間を稼《かせ》いでいるうちに、明からの援軍が来ることになっていたのである。
それが来た。前述した祖承訓のひきいる大軍だ。休戦中であると安心しきっていたところを、不意に押寄せられたのだから、一時は危なかったが、ついにおしもどし、しかも痛破した。祖承訓は一息に二百余里(百三十余キロ)を奔《はし》ったほどの大敗であった。これで、朝鮮側もまじめに講和を考える気になった。明もまた出来るかぎり和議で片付けたいと思うようになった。
有名な明の説客《せつかく》沈惟敬《しんいけい》がここに登場して来る。この男は元来はゴロツキだったという。明の朝廷が、朝鮮を席巻《せつけん》していつ鴨緑江《おうりよつこう》をこえて中国に侵入して来るかわからない日本軍の処置に困じていることを知ると、
「日本通である」
と言い立てて、巧みに明朝の大官に取入り、遊撃将軍の肩書をあたえられ、講和交渉使となって、小西行長と折衝することになったのである。
小西は才人だ。世界にたいする知識も、生えぬきの武家大名など比較にならないほど豊かだ。しかし、堺の大町人の出身である彼は、ゴロツキ出身の沈惟敬にくらべては、なんとしてもずるさがおとった。ややもすれば、惟敬に手玉にとられた。
それでも、行長は和議さえ出来るならばと念じて、辛抱強く談判をつづけたが、この間に明の朝廷では、武力派の勢力が強くなり、日本など甘やかしては将来の大患《たいかん》になる、力を以《もつ》て半島から追払えという意見が支配的になった。
また、日本軍はだまされることになる。
明の大将軍|李如松《りじよしよう》は、兵数四万三千余、十万と誇称する大軍をひきいて、鴨緑江をわたって、粛々《しゆくしゆく》と南し、正月八日、小西行長のいる平壌を攻めた。
休戦期間はとうの昔に過ぎていたが、和議交渉はずっと続いている。小西は安心しきって、まるで備えていなかった。最初李如松軍の先鋒《せんぽう》が城外にあらわれた時も、近く来ることになっていた和議関係の役人が来たのだと思っていたというから、その安心ぶり、油断ぶりがわかる。
それでも、小西は三日の間防戦したが、ついにささえきれず、退却した。
平壌からこちら六十キロに鳳山《ほうざん》というところがあり、ここを大友義統が守っていたが、平壌の敗報を聞くより早く、取るものも取りあえず、退却した。
日本軍最初の敗戦であった。
李如松軍は、しんしんと南下して来た。
敗報が京城に達すると、京城にいた諸将は驚愕《きようがく》した。附近の諸所の都邑《とゆう》を守っている諸将を至急集めて、軍議をひらいた。多数意見は京城に籠城《ろうじよう》しようというのであったが、小早川隆景は出撃を主張し、皆この意見に同意した。戦場として選ばれたのは、京城の北方二十キロにある碧蹄館《へきていかん》。ここに明使を迎える旅館があり、駅名を冠して碧蹄館といっていたのが、いつか地名となったのである。
正月二十六日、南下して来る明軍をここで迎撃して、痛烈に打ちやぶり、李如松はいのちからがら、平壌に奔《はし》った。
平壌の敗報と、碧蹄館の捷報とは、正月下旬から二月上旬にかけて、相ついで名護屋にとどいた。
はじめ日本軍が朝鮮に入った頃は、沿道到るところに豊富に食糧があり、その頃|戦《いく》さ見物かたがたちょっと朝鮮に来た安国寺恵瓊《あんこくじえけい》が内地へ書いた手紙がのこっているが、それには米の豊富なこと驚くべきで、糧食《りようしよく》は日本から送る必要がないくらいであると書いてあるほどである。
しかし、忽《たちま》ちこれは食いつくしてしまった。その上、朝鮮の水軍の働きがしだいに活溌《かつぱつ》になり、日本の輸送路はおびやかされ通しになった。
陸上ではまるで日本軍に歯の立たなかった朝鮮軍であるが、水軍は実に強かった。それは李舜臣《りしゆんしん》という天才的な提督がいたためである。李舜臣こそは、神算鬼謀《しんさんきぼう》、奇手百出ということばがそのままにあてはまる名将であった。水軍の兵は弱かったのであるが、彼は自らの卓抜な戦術によってこれをカバーしながら、戦えば必ず勝った。日本の水軍は手も足も出ず、軍需《ぐんじゆ》輸送の途《みち》は杜絶《とぜつ》して、在鮮の日本軍は食糧の欠乏に苦しんだ。こんどの大戦もこうであった。日本の海外派兵の宿命といってよい。
在鮮日本軍にとって、さらに悪条件が重なった。はじめの間は恐れおびえてばかりいた朝鮮国民も、時が立つにつれて敵愾《てきがい》心と愛国心が目ざめて来た。彼らはゲリラ部隊を組織して、小部隊の日本軍を見れば、襲撃した。もううっかりと糧食さがしにも出られなくなった。
季節が移って冬に入ると、日本人のかつて経験したことのない酷寒《こつかん》になやまされることになった。飢えと寒さに苦しむ、最も難儀な滞陣になった。
兵士らの間には厭戦《えんせん》気分がみなぎり、逃亡するものが相ついだが、逃亡しても、船がない。海べでまごまごしているうちに、ゲリラ部隊によってたかって殺される。逃亡者の逃げて行く先は明軍しかなかった。明軍に降伏して、その兵員にしてもらうのである。それが数もおびただしかったが、相当な身分、侍大将《さむらいだいしよう》級の者まであるという有様になった。
こんな次第で、碧蹄館の快勝はあったものの、最早京城を守ることの出来る状態ではなかった。諸将は相談の上、事情を秀吉に訴え、釜山《ふざん》まで退りたいと、うかがいを立てた。
秀吉は迷った。
軍勢というものは、撤退するとなると、勇者も心におくれが出、臆病者《おくびようもの》は益々臆病になるものだ。そこを敵につけこまれれば、全軍の覆滅《ふくめつ》ともなりかねない。
(何としたものか)
決しかねている時、小西から明が和議を申しこんで来たと言って来た。
(なるほど、碧蹄館とやらで、大勝ちをして、きつう手並を見せてやったので、こんな敵と長くもみ合っているのは、つまりは損じゃと思ったのじゃな)
と、秀吉は見た。
思案は忽《たちま》ち定まった。小西に命じて和議の相談をさせる一方、諸将には、
「晋州《しんしゆう》城をおとしいれ、城壁を堅固《けんご》に修理して、これを根拠地にしてこもれ。糧食その他は、何としてでも送る」
と差図《さしず》してやった。
和戦両様の策に出たのは、和議を信じて二度も手痛い目にあっているので、うっかり信用出来ないからであった。また、堅固な根拠地をかためて手強《てごわ》くかまえていれば、和議にも有利な地歩をしめて折衝出来ると思ったからであった。晋州は半島の南端に近い地点であるが、堅固な城と聞くから、この条件に最も合うと考えたのであった。
きわどい手であるから、和議が破れる心配があるので、秀吉は色々な手をつかった。加藤清正に差図して、捕虜にしている二王子を朝鮮に返還させたのも、手の一つであった。
五月半ば、明の使者はついに名護屋に来た。秀吉は家康と利家とを接待役とした。二人は天下の大名中の両元老である。これを接待役にえらんだというだけでも、秀吉が使者らをどんなに大事に思ったかわかるのである。その上また、茶の湯を催《もよお》したり、舟遊《ふなあそ》びを催したりして、出来るだけの歓待をした。おびただしい品物や金銀を贈ったことは言うまでもない。
なんとしてでも、うまく和議をまとめないと、大へんなことになると、はじめて秀吉も気がついたのである。
使者らが帰る時、講和条件を書きつけたものを渡した。
一、大明の皇帝の姫君を日本天皇の后妃《こうひ》にもらいたい。
一、久しく絶えていた公貿易《こうぼうえき》を回復したい。
一、両国の交際が永久に違変《いへん》しないことを約束する誓紙《せいし》を両国の大臣らがたがいに取りかわしたい。
一、朝鮮の四道《しどう》を大明に割譲し、京城と他の四道とを朝鮮王のものとしたい。
一、朝鮮王子と大臣一両人とを、人質として受取りたい。
一、わが軍に捕えられていた朝鮮王子二人は、これまでも格別|鄭重《ていちよう》に待遇していたが、これはすでに朝鮮王に返還した。
一、朝鮮の大臣らに末長く日本に違背しない旨《むね》の誓書を差出させてもらいたい。
以上である。
この明の使者らを送りかえした翌日から八月であったが、その中旬、大坂から大吉報が舞いこんだ。
「この三日、茶々が男の子を生んだ」
という報《しら》せ。
茶々が妊娠していることは、秀吉も知っていた。去年の七月末、母の重病のことを聞いて大坂に帰り、十月はじめまで大坂にいたが、その間に身ごもったものだ。
妊娠していることは、こちらに来てから受取った手紙で知った。安産を祈っていたが、もう男の子を恵まれようとは思っていなかった。女の子で十分である、ありがたくお受けする、願わくは母も子も安泰《あんたい》であるようにと、祈っていたのであるから、男子誕生とは望外のことであった。早速、
「拾丸《ひろいまる》と名をつけよ。一旦《いつたん》捨てて、誰ぞに拾わせよ」
と差図《さしず》してやった。拾い子は育つという民間信仰があるので、その通りにしようというのである。前の鶴松丸の呼び名は「捨君《すてぎみ》」であった。わざと悪名をつけたのは、鬼神《きしん》の目をくらまし、無事に成長をさせようとの心であった。しかし、その配慮のかいもなく、死んでしまった。だから、こんどはわざと捨てて、すぐ拾わせ、反対の名をつけようというのであった。
飛んで行きたい思いをおさえて、山積している事務をてきぱきと片づけおわり、二十五日に船出して、大坂に向った。
鶴松丸の時と違って、もう茶々は産褥《さんじよく》をはなれていた。白く、ゆたかで、おちつきの出て来たところは、たわわな白牡丹《しろぼたん》花のおもむきがある。かつては梨《なし》の花のように可憐《かれん》であったのが。
拾丸も、色の白い、ふっくらとして、大柄《おおがら》な感じの子供だ。何よりもすこやかそうであった。もう目が見えて笑うのである。秀吉はわれを忘れた。
秀吉はもう名護屋には帰らなかった。一日もお拾丸を見ないではいられなかったから。
秀吉の心もまたかわった。大明を征服して三国を渾一《こんいつ》しようと途方もない野心をおこしたのは、最初はこれまでの誰もしたことのないどえらいことをして、人々の心に驚嘆讃美の念をかきおこし、自らの権威を保とうというのであったが、鶴松が死んでからは、それには一種のニヒリスチックな気持が副《そ》って来た。
(生涯を営々と働きつづけてしとげた仕事も、富も、権勢も、譲るべき子はもういないのだ。どうせそうなら、もう長くもないいのちだ。思い立ったことをしてのけよう。うまく行かんで、元も子もなくしても、かまったことではない)
というニヒルな心。
この心が変って来た。
「せっせと養生して、この子がせめて十七、八になるまで、生きていたい。それまでにしっかりと日本をかためて、この子に譲りたい」
と思うようになったのだ。
大明のことも、高麗のことも、もうどうでもよい。一応の面目《めんもく》が立ちさえすれば、和議《わぎ》を取結《とりむす》び、朝鮮にいる者共が無事に帰還出来るようにしたいと思うのだ。
七
ここから以後のことを叙述《じよじゆつ》するのは、忍びないものがある。秀吉が古今をむなしくする大英雄であるだけに、一層そうだ。略述することを、ゆるしていただきたい。
秀吉は自分が名護屋を引き上げただけでなく、そこにはほんの事務官僚だけをおいて、諸大名もまた引き上げさせた。講和を熱望していた証拠である。
それならば、大いに講和を促進すべきであり、朝鮮にはなお軍勢がとどまっているのだから、それを偲《しの》んで、ぜいたくやはでな遊興はすべきではないのに、そのつつしみはまるでなかった。
名護屋を引き上げて来た翌年は文禄三年であるが、その二月二十七日に、彼は諸|公家《くげ》や諸大名をひきいて、吉野山に観桜会を行っている。それも仮装観桜会である。人々に仮装して参加することを命じ、自らもそうした。
彼は猩々緋《しようじようひ》の筒袖《つつそで》の、南蛮《なんばん》風の衣服に黒い唐人笠《とうじんがさ》をかぶり、金の熨斗《のし》つけの大脇差《おおわきざし》をさし、唐うちわをたずさえた。
山には一町|毎《ごと》に茶亭《ちやてい》が設《もう》けられ、秀吉の小姓《こしよう》や茶道|坊主《ぼうず》や侍女が亭主となっていた。彼は供の者に床几《しようぎ》を持たせて悠々と上って来、一軒一軒に立寄って茶をのみ、腰にぶら下げた金襴《きんらん》の大|巾着《きんちやく》から名香をとり出しては、紙に包んで渡して茶代とした。
諸公家、諸大名、それぞれの趣向をこらした扮装《ふんそう》の中で、大峯《おおみね》帰りの山伏《やまぶし》に扮した伊達政宗の仮装ぶりが、最も秀吉の心にかなって、
「今日、最もすぐれた趣向は、わしとその方の二人だな」
と、ほめたというのだ。
恐らく、秀吉のこの観桜計画は、全日本の国力を傾けてはじめた外征が竜頭蛇尾《りゆうとうだび》におわりそうであることについて、世間で秀吉にたいする批判があることを耳にしたか、批判している者があるであろうとカンをつけたかで、
「おれは少しも壮《さか》んな意気を失ってはいないぞ」
と、世間に示したものと思われるが、時が時だけに適当でないことは言うまでもない。時の差違《さい》を見分ける、かつての鋭い知恵がにぶっていると言えよう。
この翌年の文禄四年の七月八日には、秀次の関白職をはいで高野山に追い上げ、十五日には切腹を命じた。
秀次は出来のよい男ではない。しかし、はじめはそう悪行《あくぎよう》があったわけではない。叔父《おじ》の名をはずかしめないように、よき関白となろうと、好きでもない学問に身を入れて、めずらしい書物を集めたり、禁裡《きんり》に高価な書物を献上したり、大いに努めているのだ。
世に伝えられるような悪行の人になったのは、拾丸が生まれ、秀吉がこれを愛するあまりに、自分を邪魔もの視するようなけはいが見えて来たので、自らの運命に不安を感じはじめたからだ。秀吉の持って行きようでは、その行状は決して乱れはしなかったのである。
太閤と関白との間が、何となく水臭くなったということになれば、世間はあらゆることをカンぐって見る。秀次は十七の時|長久手《ながくて》合戦に出て、徳川方の奇襲にあい、大敗戦したことがある。それを生涯の恥辱《ちじよく》として、どこへ行くにも具足櫃《ぐそくびつ》をたずさえ、従者らにもそうさせていたが、これをことごとしく言い立てる者があり、秀吉に使いをもって尋問されるというようなことになったりもした。
秀次は不安なので、世間の支持を固くするために、諸大名に金を貸したり、朝廷に献金したりしたが、これも謀反《むほん》の下心《したごころ》と疑われた。
かくて、最も悲惨な結末が来たのである。秀次を殺したばかりでなく、八月二日には、秀次の妻妾《さいしよう》三十八人を全部三条|河原《がわら》に引き出して斬り、その死骸は犬や猫でも葬《ほうむ》るように、一つの穴に投げこんで埋めた。
たとえ秀次に罪ありとしても、その妻妾に何の罪があろう。
なぜ秀吉はこんな残酷なことをしたのであろう。他なし、妻妾の中に秀次の子を身ごもっている者がいるかも知れないと思ったからである。いかに拾丸がいとしければとて、こうまでする必要はない。限度を見分ける目がなくなっているのである。
拾丸のために最も恐れなければならない敵は他にある。その敵の恐ろしさにくらべれば、秀次など、ましてその子など、ものの数ではない。秀吉はいかにして、この恐ろしい敵にたいする防ぎをつけるつもりであったのだろう。強弱・大小の鑑別がつかないのである。昧《くら》いと言うべきであろう。この昧さも、この残酷さも、かつての彼にはなかったものである。
秀次の妻妾を斬った翌月の半ば、茶々の妹|小督《おごう》を、家康のあとつぎ秀忠に縁づけている。小督は柴田勝家が亡《ほろ》んで、姉妹三人が秀吉に引取られた時十一であったが、その年いとこである尾張知多郡の大野城主佐治与九郎一成に嫁《とつ》いだが、小牧合戦のあと、秀吉によって無理に夫婦別れさせられ、羽柴秀勝にとついだ。この秀勝は信長の四男で秀吉の養子になったお次丸ではない。お次丸は早く死んだ。秀吉はお次丸を悼《いた》んで、姉おともの子小吉(秀次の弟)を秀勝と名のらせて、あとを立てさせたのだ。小督をもらったのは、この秀勝だ。ところが、秀勝は朝鮮に出征中、向うで病死し、小督は未亡人になった。それで、こんど秀忠に縁づけたのだ。
この縁組は、茶々と、従って拾丸と徳川家とを強く結びつけようとの秀吉の意図によるものであることは言うまでもない、こうすることによって、最も恐るべき拾丸の敵を懐柔《かいじゆう》するつもりであったが、このようなことが何の頼みにもならないものであることは、はげしい戦国の世を生きて来た彼には、十分にわかっていなければならないはずだ。千万人中の一人の頭脳の明晰《めいせき》さも曇《くも》って来ていることは疑うべくもない。
この翌年は慶長元年である。
この年閏《うるう》七月十二日に、大地震があり、伏見はとくにひどく、伏見城が大破壊した。城下の大名屋敷や町家の被害は言うまでもない。地震加藤の一齣《しゆく》のあったのはこの時だ。
十八日にはまた大地震があり、こんどは京都が最も被害を受け、方広寺《ほうこうじ》の大仏殿も、大仏も倒壊した。秀吉は方広寺に行き、
「おのれの身さえ守れぬくせに、三界《さんがい》の衆生《しゆじよう》を救おうとは、大ウソつきの大仏め!」
と、大音声《だいおんじよう》に呼ばわり、弓に矢つがえして、頭だけ原形のまま地上にちょんとすわっている大仏の顔を目がけて放った。矢は大仏の眉間《みけん》にあたった。木像であるから、ハッシと立った。秀吉は呵々《かか》と笑って帰った。
なぜこんなことをしたのか。おのれの豪毅《ごうき》を示そうと思ってのことか、それとも大仏の功力《くりき》を信じていたのか。いやいや恐らく、
「太閤《たいこう》様の造《つく》らはった大仏さんやが、まるであきまへなんだな。ぐさぐさになって倒れはりました」
と、人々が噂《うわさ》するであろうと見越して、逆手《ぎやくて》をつかったのであろう。
しかし、それにしても、物狂わしいふるまいだ。こんなことは、触《ふ》れずにそっとしておくものだ。一時は世間でもいろいろ取沙汰《とりざた》しようが、間もなく忘れてしまうのだ。
翌月の八月半ば、明の使者が来た。和議《わぎ》が成立したので、正式の使節であった。しかし、この使者は本質的には和議の確認に来たのだが、名義の上では日本の降伏を許すという明帝の許可状の持参者ということになっていた。秀吉はもちろん知らない。大名らも知らない。知っているのは、小西行長、宗義智だけだ。あるいは石田三成は知っていたかも知れない。情況的にそう見られるのである。
伏見城は地震で破損しているので、秀吉は大坂城で使者に会った。最初の日は饗応《きようおう》だ。秀吉は身に赤い朝衣《ちようい》を着、頭には明帝から贈られた中国の冠《かんむり》をつけて、上機嫌に出席した。その饗応は高さ三尺、五尺四方の大テーブルで、しかも牛・羊・鶏《にわとり》・ 魚等の食品をもって大いに中国式を気どって行われたのである。
翌日は文書をもらう日だ。秀吉は明帝から贈られた冠服《かんぷく》をつけて出た。そして、
「なんじ秀吉、中国の尊むべきを知り、使者を派して、万里の関をたたき、ねんごろに服属を願う。感心である。ここに特になんじを封じて日本国王となす」
という、明帝の封冊文《ほうさくぶん》の読み上げられるのを聞いた。
耳なれない、むずかしい漢語ばかりだから聞いたってわかりはしない。対等の立場に立っての和議であると、小西らに聞かされているので、そうであるとばかり思いこんでいる。
彼の要求したことは、何一つとして容《い》れられていない。わずかに貿易だけは、臣服《しんぷく》したことになっているから、自然ゆるされることになるが、こんな形の貿易回復は、彼は望みはしない。第一|面目《めんもく》なくて、天下に発表出来はしない。しかし、全然わからないのだから、終始上機嫌であった。明の冊書《さくしよ》を引き裂いたなどと昔から言い伝えられているのはウソだ。手軽に引き裂いたりなんぞ出来るような粗末な絹ではない。冊書は今日も完全な形でのこっている。
ところが、その翌日、秀吉は勃然《ぼつぜん》として激怒し、明使を追いかえし、小西をさんざんに叱《しか》りつけた。
上機嫌から一足とびに激怒に変るのは、老人によくあるくせである。老衰すると頭脳が鈍って来るが、元来あたまのよい人は、雲が風に吹きはらわれるように、時々昔の冴《さ》えが返って来る。
鈍っている間は、ものごとの核心が見えず、言い廻しの巧妙さや、媚《こ》びへつらいにだまされて、上機嫌でいるが、とつぜん昔の冴えが返って来ると、忽《たちま》ちことの真相がわかり、おどろき、激怒するということになるのだ。これは歴然たる耄碌《もうろく》症状の一つだ。
しかし、それにしても、秀吉は講和を熱望していたはずだ。怒ったとしても、講和の糸はつないでおくべきであった。それを切ってしまったのだ。最も拙劣《せつれつ》なことであった。ついに、翌慶長二年正月、朝鮮|再役《さいえき》となり、秀吉は益々泥沼にふみこんで行くのである。
次の年の三月十五日、秀吉は醍醐《だいご》で最も大仕掛な花見をした。天下中から桜の名木をさがして来てこれを醍醐にうつし、寺内の建物の大方を建築しなおしての花見だ。兵を海のかなたの泥沼に追いやりながらのことだ。狂気の沙汰《さた》である。
これも恐らく再征の不人気にたいする逆手であろうが、時の弁別をあやまっていることは言うまでもない。
この花見から二月目、秀吉は病気となり、次第に重態となった。
病気の進行中、秀吉の心配はただただ拾丸(当時はもう秀頼となっている)のことだけであった。彼は五奉行に、五大老に、誓紙を書かせた。いく度もだ。いく枚もだ。いくど書かせても、いく枚書かせても、不安であった。
家康には特に不安を感じた。だから、とくにいく度も呼び、家康の手をにぎって、
「秀頼こと、頼みまいらせる、頼みまいらせる、ひとえに頼みまいらせる」
と、涙をこぼし、ほとんど哀願した。
「お心安くおわせ。必ずりっぱにお守《も》り立て申しますぞ。引受けましたぞ」
と、その度に、家康は重い口で、最も篤実《とくじつ》な調子で答えた。
なぜ秀吉は家康に、
「天下はおことに渡す。秀頼にはしかるべきところで百万石もやって、末長く面倒を見て下され」
と言い、諸大名や家族らにも、そのことを発表しなかったのであろう。どんな哀訴嘆願よりも、誓紙《せいし》よりも、ずっとずっと確かであったろうものを。彼は一身の力以外には頼りになるものを何にも持たない自分であることをよく知っていた人であった。だから、人のなし得ない色々なことを花々しく演じてみせたのだ。だのに、自分の没後の幼い秀頼に何の頼りになるものがあると思ったのであろう。彼の自慢の知恵の鏡はすっかり曇っていたのだ。いたましいかな!
かくて八月十八日、伏見城で死んだ。最も不安な心を抱きながら。六十三であった。
辞世は前からつくってあった。
露とおち露と消えぬるわが身かな
なにはのことは夢のまた夢
角川文庫『新太閤記(四)』昭和62年8月25日初版刊行