海音寺潮五郎
新太閤記(二)
目 次
蜂須賀《はちすか》党
墨俣《すのまた》築城
岐《わか》れ道
京都|警固《けいご》役
味方をつくる
死地の殿軍《でんぐん》
風月清白
凶運と幸運
血の南無阿弥陀仏
小寺《おでら》官兵衛
蜂須賀《はちすか》党
ねねはやさしい女であった。ねねのいとこである浅野|弥兵衛《やへえ》は、ねねは気が強うて、幼い時から口争いでは自分は勝ったことがないと言ったが、そんな面は少しも見せたことがない。ひたすらやさしい。まだ十六という年でありながら、十二も年上の自分に母親のような愛情をもっているようである。食べるものにも、着るものにも、よく気をつけていて、こちらがそうしてほしいと思ってまだ口に出さないことを、どうして知るのか、その通りにしてくれる。
一日の勤務をおわって帰って来ると、質素な着物ながらきちんと着て、きれいに櫛《くし》の目の立った髪と、清潔で健康そうな顔をして迎えて、小ざっぱりと洗濯した糊《のり》のきいた着物に着かえさせてくれる。
肉親のもの以外、女性にこんなにやさしくしてもらった経験は、藤吉郎にはない。夢を見ているような幸福な気持であった。
弟の小一郎やお浅にも、大へんやさしくて諸事行きとどいているという。小一郎にしても、お浅にしても、ねねより年上だが、兄嫁としての貫禄《かんろく》をもって、あたたかく世話し、いつくしんでいるようである。
(おなごちゅうものは、不思議なものやなあ)
と、感嘆しないではおられない。
世間を広く、深く見て来て、男というものも、女というものも、おれの年でおれほど知っているものはないじゃろという自信があったのだが、女についてはまるで知らなかったと思った。
(こんなにやさしく、こんなにあたたかいものか。そんなの、おれおふくろだけやと思うとったわ。女房となると、その可愛《かわゆ》うて可愛うてならんところまである。ええもんやわ)
と思った。
勤めをすまして、毎日家へ帰るのが楽しかった。
おひろ様や、お市様のことを忘れはしない。お二人のことを考えると、なんともいえずやるせなく、さびしくなることは今も変りはないが、それはもうどうにもならんことだ、ねねをもろうたことによって、十分慰めがつくと思うのであった。
年が明けて永禄《えいろく》七年になって間もなく、信長はしきりに小牧山《こまきやま》の東方の山間地帯に狩りに出かけていたが、一月ほどの後、その地方の二ノ宮山に城を築き、ここから移って居城とするというふれを出し、普請《ふしん》の割当から屋敷割《やしきわり》まで言いつけて、工事着手の日も布告した。
「これは難儀《なんぎ》なことになった。美濃《みの》お手入れのためになさるのであることはよくわかるが、あの山中への移転、まして普請、なかなかのことじゃぞ」
と、家中の者は皆不平であった。信長の怒りがこわいから、大きな声では誰も言わず、ぼそぼそとささやき合っているだけだが、上も下もそうだ。
(妙なことを遊ばす。先年おれがおすすめ申した小牧山なら話はようわかるが、あの不便な山の中では、美濃のお手入れにはかえって不便じゃろうにな。しかし殿様《とのさま》ほどのお方じゃ、何かおれのわからぬお考えがありそうな。それは何であろ)
考えてみたが、どうしてもわからない。
(これは殿様のご量見違いや)
と、断定した。
その上、家中の人々のぼやきは募《つの》るばかりだ。
「お諫《いさ》め申すべきだ」
と決心して、機会をうかがっていると、ある日、信長は重臣らを呼び出して、
「気がかわった。二ノ宮山への移転はやめて、小牧山に移る。ついては、縄張《なわばり》はしかじか、普請割当《ふしんわりあて》はこれこれ、屋敷割《やしきわり》はこうこう」
と、図面を示して発表した。
重臣らもよろこんだが、家中一般もよろこんだ。小牧山だって、築城であるかぎり、移転であるかぎり、苦労でないことはないが、二ノ宮山にくらべてはものの数でない。重荷のようにいつも胸を圧していたものがさっと除かれて、はるかに軽いものにかえられた気持であった。
人々はよろこんで城普請や屋敷普請にかかり、あらかた出来ると、軽々と引き移った。
小牧山移転は、先年藤吉郎がすすめたことだ。あの時はさんざ叱《しか》りつけられて、藤吉郎は人々のもの笑いになった。
(おれはあの時から、殿様がご本心では反対でなく、費用を考えて、お取上げにならんのであることが、ようわかっていた。見ろよ。おれが目に狂いはなかった。殿様はやはりお心のうちで、おれの申し上げたことに同意してお出《い》でじゃったのや)
と、大いにうれしかった。
もっとも、信長はその時のことは全然口にしない。こんどはじめて自分の方寸《ほうすん》から考え出したことのような顔で、毎日|普請場《ふしんば》に出ては、楽しげに指図《さしず》している。前に藤吉郎が進言したことなどまるで忘れてしまっているようである。
こちらにはべつだん不平はなかった。
(おれがような身分の者の意見でこれほどの大事をおきめ遊ばされたとあっては、世間ていも悪い。こうあろうはず。しかし、殿様のことや、忘れてお出でるはずはない。おれが器量のほどはちゃんと心にきざんでお出でるにきまっとる。やがてそれが何かの形でおれに報いられて来るはずや。ものほしげな顔などしてはいかん。知らんふりして、おれは一生懸命ご奉公にはげんでおればええのや)
と思った。しかし、それにしても、信長の智謀《ちぼう》にはまたしても感心させられた。
(うまいものや。新しく城を普請して引っこしするのは、めんどうでいやなものや。小牧山かていやや。それをもっといやな二ノ宮山に引っ越す言うて、さんざんいやがらせておいて、二ノ宮はやめた。小牧にすると、お言いなされたので、家中|一統《いつとう》どっとよろこんだ。人間の心いうものをよっぽど知っとらんと出来んことや。心を知りぬいていて、段取りをつけて、いやなことをよろこんでやらせるようにしなさる。活殺自在《かつさつじざい》とはこのことやわ)
と感嘆し、最もよい学問をした気がした。
小牧山城はその年の夏の末にはすっかり出来上り、士《さむらい》屋敷も大体ととのったが、その頃のある日、信長は藤吉郎を呼んだ。
信長は小姓《こしよう》らを集め、庭で角力《すもう》を取らせ、縁側に腰かけて見物していたが、藤吉郎が来て小腰《こごし》をかがめるのを見ると、
「おお、来たか。来い」
きげんよく言って、立ち上り、
「わいらはつづけて取っておれ。刀は藤吉郎にわたせ」
と、刀持ちの小姓から、藤吉郎に刀を渡させ、庭を横切って隅《すみ》やぐらに連れて行った。
武者窓《むしやまど》から秋の午後の日のさしこむ隅やぐらに、藤吉郎と二人だけでむかいあって、信長はいう。
「そちは子供の頃、ずいぶん方々を歩きまわったと、いつか申したな」
「はい。当国、美濃《みの》、三河《みかわ》、遠州《えんしゆう》、駿河《するが》の一部、伊勢《いせ》の一部は、よう歩きまわりました。大ていなところは知っているつもりでございます」
「そこで、そちに申しつけることがある。美濃侍《みのざむらい》どもを調略《ちようりやく》をもって、おれが被官《ひかん》にしたい。働くよう」
こんなことを申しつける場合は、出来るか出来ないか、少なくとも便宜があるかないかを一応ただしてからするのが普通なのであるのに、のっけから、そうせよというのである。無理なことを仰《おお》せつけられるとは思わないことにした。自分ならば出来るはずと思《おぼ》し召《め》されればこそのことと考えることにした。
「かしこまりました」
とすずしく答えて、
「お好みがございましょうか」
と、たずねた。
「そりゃある。稲葉|一鉄《いつてつ》じゃ、氏家卜全《うじいえぼくぜん》じゃ、安藤|伊賀守《いがのかみ》じゃというようなやつばらが第一望みじゃが、今のところはそうは行くまい。これは先きのことじゃ。おれが領分近いところにいるやつばらを片っぱしから口説《くど》いて引き入れよ」
「かしこまりました」
「話はそれだけじゃ。これは当座の入用」
ふところからつかみ出した金包みを、藤吉郎の両手をついている鼻先にずしりと投げると、
「さあ、行こう」
もう立ち上って、下り口の方に歩き出していた。
藤吉郎はあわてて、今まで信長のすわっていたあたりのわきに投げ出されたままになっている信長の佩刀《はいとう》を持ってつづいた。
稲葉一鉄、氏家卜全、安藤伊賀守の三人は三人衆といわれて、美濃侍の中では最も名高い人々である。斎藤家はこの三人によって安泰《あんたい》であるといわれている。
(殿様はこの三人を一番味方にしたいが、今は無理じゃと仰せられた。これを見事引きつけることが出来たら、あっとおどろきなされておよろこびになり、おれが手がらは大したものになる。なんとかならんかいな。びっくりさせ申したいわな……)
と、藤吉郎はその日一日考えつづけ、夜になって床に入っても工夫をつづけたが、今のところそれは無理だと思うよりほかはなかった。うっかりしたことをしては、殺されてしもう。殺されるのは覚悟だ、どんなことでもいのちがけでかからんければならんものとはかねて覚悟のあることだが、このことはいのちがけでも行くことではない。
(やはり、殿様の仰せられた通り、しばらく時機を待たないかんことやなあ。しかし、おれは決して人にはやらさん。いつか、おれが手で、見事やってお目にかけるわ)
と、決心した。
決心がつくと、くるりと寝返りを打って、ねねを抱いた。ねねはその腕の中に身をちぢめて入って来た。
「おれ、お前に頼みたいことがある」
ねねはびっくりして、藤吉郎の胸の中から見上げた。
「改まって、何ですかいな。何でも言うて」
「おれはしばらくご用で家を不在《るす》せなならんが、そのために入用やよって、六部《ろくぶ》の着る着物こしらえてんか」
「そらこしらえますけど、ほなら、旦那さん、旅に出なさるのですかえ」
「うん、ちょっこらな」
「旅はどっちゃへ?」
「それは言われん。ご用じゃけ」
「さいでした。お聞きしてはいかんのでした。かんにんしてつかわさいな。着物は明日中にこしらえます。でも、さびしい」
と、鼻を鳴らした。
藤吉郎には不思議でならない。ねねはまだ十分に成熟していない。一緒に寝てもまだよろこびはわからないようだが、それでいて毎晩要求して来る。何が楽しいのだろうと思う。
女というものは不思議なものだなあと思わないではいられない。こんな時、よくお市様もそうだろうかと思って、胸が波立ち、ぎりぎりと歯がみしたくなるが、今夜は思い出さなかった。
翌日は旅立ちの用意のために、終日家を出たり入ったりした。ねねも一日中縫いつづけていたが、夕方出先からかえってみると、着物は出来上って、きれいにたたんで、裁板《たちいた》の下におしをしてあり、ねねは台所でお浅と食事の支度に余念がなかった。
(ほう、出来とるわ、ええ技倆《うで》であることは知っていたが、早いものや)
感心した。引き出して着てみたいと思ったが、これはやはりねねが出して着せてくれるまで待った方がよろこぶやろと思って、がまんしていると、ねねが濡《ぬ》れた手を前掛で拭《ふ》き拭き出て来た。
「おかえりなさりませ。手のはなせん仕事してましたので、お出迎い出来まへんで、申訳ありまへん」
きちんと三つ指ついてあいさつする。
「出来たようやな。早いわ。おどろいた」
と、そちらの方を見ると、
「はい。召して見て下さいな」
と、裁板《たちいた》を上げてとり出した。
「よっしゃ!」
気軽に立ち上って、はかまをぬぎ、帯をといて、はだかになった。ひろげて待っていて、うしろからふわりと着せかけた。帯も同じく白いきれでくけてあれば、手甲《てこう》やはばきも出来ていた。
「ほう、ほう、これももう出来ていたのか。何とまあ、早い!」
と、おどろいて見せた。おどろいて見せるのがよろこばせることであるのを知っている。
女房というものは母親のような愛情があるとともに子供のようにほめられることが好きであると、藤吉郎は合点している。
帯を結び、手甲、はばきまでした。
「ちょうどよろしいようで」
ねねは前にまわり、うしろにまわり、立ち上り、ひざまずき、ひっぱったり、糸くずをとったりして、工合を見ている。
「全部したくしてみようかな」
今日一日かかって用意した菅笠《すげがさ》や、笈《おい》や、杖《つえ》まで持って来て、装具して見せた。
「似合うかえ。廻国《かいこく》の修行者《しゆぎようしや》に見えるかえ」
ひざまずいたまま見ていたねねは、
「見えますが、お前様、隠密《おんみつ》に行かはるのですかえ……」
といいかけて、声をのんだ。夫の危険な任務が今やっとわかったらしく、顔色がかわっていた。
「それは言わぬこと。しかし、隠密などではないわ。あぶないことはちっともないところに行くのやけ、心配することはない。ほんとや、うそは言わん」
と、なだめた。あぶなくないとは言えないが、先ずは大丈夫であろうと思っているのである。
翌日はまだ暗いうちに小牧を出て、北に向った。
十キロほどで犬山《いぬやま》につく。ここは織田家の一族津田氏の居城のあるところだ。木曾《きそ》川にのぞんだ山上に城が屹立《きつりつ》していて、日本の諸城郭中特殊な美観をもっていることは広く知れているが、この当時はああいう天守閣を備えた城はまだない頃である。堅固なよい城というにとどまったであろう。
木曾川を渡ればもう美濃である。黄熟《おうじゆく》した稲田が二キロほどもつづいてから山になっている。その山の麓《ふもと》に色づいた実のるいるいとなっている柿の多い集落があり、集落から少し山にかかったところに、城がある。この集落は鵜沼《うぬま》といって、城の主は大沢次郎左衛門というのである。このへんから西の各務《かかみ》ガ原にかけての一帯を領有して、身代《しんだい》も豊かだが、剛勇な人物である。
藤吉郎は先ずこの男から手をつけようと思って来たのであった。この男を味方に引きつけることが出来れば、斎藤氏の居城稲葉山までは、各務ガ原から十キロしかない。大いにご便利であるはずと計算したのである。
木曾川べりの堤防で、笈《おい》をおろして、腰をすえて、鵜沼の方をながめ、
(さて、どんな手で乗りこむか)
と、工夫した。
なかなか工夫はつかないが、昼近い秋の日がぽかぽかと背中にあたって、いい気持だ。ごろりと横になって、なお鵜沼の城をながめて考えていると、バッタが飛んで来て目の前におりた。手をのばして捕えた。朽葉色《くちばいろ》に変色しているが、まだ青い色が細い筋になってのこっている。光っている目玉が、「よしてくれよ」と言っているようだ。
(こいつを焼いて食って飢えをしのいだこともあったな。腹に充《み》てるほど捕るのはなかなかやったが、うまかったなあ)
と、思った。ぽいとはなしてやると、キチキチと羽を鳴らして飛び去った。
しばらく城の方を見たり、空を眺めたりしているうちに、うとうとと眠くなった。
一時間ほどの後、目をさました。
工夫は依然としてついていなかったが、あたってくだけようという気力が出ていた。
「よっしゃ!」
起きて、笈《おい》の中からむすびを出して食べた。たべおわると、川におりて行って水をのみ、ついでに顔と手を洗って、杖《つえ》をつきつつ、曲りくねった道を鵜沼に向った。
城と言っても、小領主のことだから、小さいし、粗末なものだ。それでも、山を背にして、土居《どい》をめぐらし、びっしりと菱《ひし》の浮いた二間ほどの濠《ほり》がめぐって、草|葺《ぶ》きの長屋門《ながやもん》の上には物見《ものみ》やぐらを上げて、いざという時には敵情を偵察したり、防ぎ矢を射られるようになっている。その門にかかって、
「これは諸国|巡礼《じゆんれい》の修行者《しゆぎようしや》でござるが、このほど尾州《びしゆう》織田殿の城下|小牧山《こまきやま》にまいったところ、当城の殿様のお身の上にかかわる一大事を、ふと聞きおよびましたので、ご注進のためにまかり出でました。おとりつぎ下さい」
と、言ったが、うさん臭がって、なかなか取次ごうとしない。
おし問答していると、士分《さむらいぶん》らしい男が出て来た。
「われは一体どこの者で、名は何と申すのや。そしてまた、ここの殿《との》の身の上にかかる一大事とはどないなことや」
「わたくしは遠州|浜名《はまな》の者でござる。名は申したとて、土民でござれば、せんないことでござる。お身の上にかかわる一大事と申せば、ご推量はつきますはず」
「土民にしては、われのことばの使いざまは見事にすぎるぞや。おれよりよっぽどあざやかな武家ことばやで」
と、その男はいよいよ怪しんだ。
「諸国|遍参《へんざん》の身でござれば、このことばで無うては、通ぜぬことが多いのでござる。お疑いなさるひまに、わたくしが身のまわりをしらべていただいたらようござる。おしらべになって、危ないものなど持っておらぬとわかったら、殿におとりつぎ下されて、お目通りさせて下さりませ。これは当城の殿様の一大事で、わたくしには何のかかわりもないことでありますれば、このまま立去っても少しもかまわぬことでござるが、あまりにお気の毒でありますまま、これを見過ごしにしては、仏法《ぶつぽう》信心も、諸国の霊場遍参も、なんの甲斐《かい》もないことと、功徳《くどく》心にてまいったのであります。とまれ、お取次ぎ下さるが、お忠義と申すものでございましょう」
理路整然たることばに、相手はそれもそうかと心を動かした。
「しばらく待っておれ。ともかくも、取次いでみるわ」
相手は門内に消えたが、間もなく出て来た。
身のまわりを検査した。わざと短刀一ふり持たんで来たのだ。なんにもない。それでも疑って、杖《つえ》が仕込杖《しこみづえ》になっているのではないかと、ぐいぐいと引っぱってしらべた。
「大胆なやつやなあ、何にも持ってへんのか。それで旅して、こわいことないか」
とあきれた。
「刃物など持っていたとて、この小っこい、ひよわいからだで、どうなりましょう。賊に逢うたら持っているものはなんでもやり、危ない山路など人を待ち合わせて多人数になって通り、夜歩きは一切いたさないことにしています」
「そら、まあそうするが一ッチええことやがな」
といいながら、城内に連れて入った。
大沢次郎左衛門は三十五、六の、赤ら顔のたくましい男であった。ずっと奥の座敷の縁に腰をおろして待っていた。太く長い刀を縁において、いつでもとれるようにしている。
藤吉郎はその前の雨落《あまおち》のきわにひざまずいた。
「諸国|遍参《へんざん》の修行者でございます。お目通りをおゆるし下されて、ありがたく存じます」
と言った。
大沢は穴のあくほど藤吉郎を見てから、口をひらいた。
「われはおれが身の上の一大事を聞き出したによって、告げ知らせるために来たというた由だが、どんなことか。織田がこちらに兵を向ける手だてでもめぐらしているというのか」
「唯今《ただいま》申し上げますが」
と言って、藤吉郎はあたりを見まわした。案内して来た侍だけでなく、なお四、五人の侍がまわりに来て、きつい目で監視している。その連中を、ぐるりとあごで指して、
「このお人々を、しばらく遠慮仰せつけて下さりませ。人の前で申してよいことなら、こうしてまでお目通りはいたしません。ご門前でご家来衆に申し上げて済ませます」
と言った。
大沢はうなずいて、家来共に目くばせし、ひざ近く縁においた大角《だいかく》つばの佩刀《はいとう》をちらりと見て、微笑した。
剛勇という評判ではあるが、人物はさしたるものではなさそうなと、こちらは思った。
家来共は皆立去った。
「さあ、言え」
藤吉郎はひざに手を上げ、微笑をふくんだ目で大沢を見上げた。
「拙者《せつしや》は諸国|遍参《へんざん》の修行者《しゆぎようしや》などではござらぬ。まことは織田|上総介《かずさのすけ》の家中、木下藤吉郎と申すものでござる」
大沢の顔に血が上った。
「なんじゃとォ!」
と、ひくいが、すごい声で言って、縁の佩刀をとり上げた。
「拙者は逃げもかくれもいたさぬ。先ず気をしずめて、拙者の申すことをお聞き願いとうござる。お気に染まずば、お斬りなされるがよろしい。おとなしく斬られ申すでありましょう」
大沢は刀をもとにもどした。
「言え。何をたくらんでここに来た?」
「貴殿に末長いお栄えを進上しようとて参ったのでござる」
と言っておいて、説きはじめた。
「唯今《ただいま》より四年前の永禄三年五月、上総介が今川|治部大輔《じぶのたいふ》の大軍を田楽狭間《でんがくはざま》に打ちやぶり、稀有《けう》の大勝利を得、治部大輔が首を上げ申したことは、ここに申し上げるまでもなくご承知のことでござる。その武名が天下に伝わり、尾州に織田上総介ありと取沙汰《とりざた》されていることも申し上げるにおよびませぬ。その後、三河《みかわ》の松平元康《まつだいらもとやす》と手を結んで、東方を安全にしたことも、お聞きおよびでござろう。唯今、上総介の心が一筋に当国に向っていることも、ご承知のはず。このほど上総介が居城を清洲《きよす》から小牧山に移したことも、よくご承知でありましょうが、これは上総介が当国に入るには、羽黒《はぐろ》・犬山を経て、当地からいたすがよいとの思案に達したためでござる」
ここで、一息入れて、大沢にあたえる反応を見た。
言われることは、一々事実である。織田が対岸の犬山から木曾川をおし渡って、先ずこの城を衝《つ》く計画を立てているというのも、十分にうなずけることであった。大沢の赤ら顔は少し色がさめて、きびしい緊張があらわれていた。
気合をはかって、藤吉郎はつづける。
「ところで、上総介はかねてより貴殿の武辺《ぶへん》を慕《した》い申して、あわれ、あれほどの武勇の士がおれが旗本にいたらば、なんぼうおもしろい戦さが出来ようものをと、いつも申していたのでありますが、数日前、ひそかに拙者《せつしや》を召して、あれほどの武士を空《むな》しく死なせること、まことに惜しければ、その方まいって、味方するよう説いてまいれと申しつけたのでございます」
大沢の形相がかわった。赤くなり、目がきらきらと光った。
「おのれは、おれに譜代《ふだい》の主に背《そむ》いて、裏切りせよというのか。ゆるさぬぞ。そのへらへらと動くほおげた、切り割ってやろうぞ」
と、言った。大きな声ではない。地を這《は》うような低い声に、恐ろしいすごさがあった。刀を引きよせ、つかに手をかけた。
藤吉郎はおどかされない。成算があった。
「これほどの使をうけたまわってまいった拙者、死を覚悟してまいっています。お気に召さずば斬られましょうと、先刻から申しています。しかしながら、もう少し聞いていただきたい。貴殿が拙者をここでお斬りになり、あくまでも上総介に楯《たて》つきなされようと、いずれは斎藤家は上総介にほろぼされるのでござるぞ。なんとなれば、今の竜興《たつおき》殿は年少とは申しながら、あまりおかしこくない生まれつきであるので、重臣衆はそれぞれにわが利欲にかまけていなさる。なかには、織田家に心を寄せて来ている人も二、三ある。中心がこのようにガタガタとなっていることとて、枝葉がしっかりしようはずがない。諸士《しよざむらい》も心を離しています。あと長くとも三年のうちには、必ず亡びます。貴殿はそれと運命を共にして、一緒に亡びようとなさるのでござるか。まことに美しい。ご武勇と申し、この見事なお志といい、あっぱれ、武士の鑑《かがみ》です。上総介が貴殿をゆかしく思うのも、当然のことであります。さりながら、同じことなら、忠義のしようをよくよく考えてごらんになってはいかが。今の竜興殿は先代の義竜《よしたつ》殿の子息でござるが、義竜殿はその父君|道三入道《どうさんにゆうどう》殿を殺して自立された方でござる。ところが、道三入道殿のご末子《ばつし》で新五郎と申すが、入道殿の死後織田家にまいられて、上総介が妻の手で成人していらせられることは、ご承知でござろう。拙者《せつしや》が貴殿の立場にあるなら、新五郎殿をして斎藤の家を立てさせるということを条件として、上総介に帰服して武功を励みます。すべて人の子としては家の名を絶って先祖の祀《まつ》りを絶つを第一の不孝とし、人の臣《しん》としては主家の名を絶って先祖を祀るに子孫なきようにするを第一の不忠とすると、拙者は学問ある人に聞いていますが、いかが思《おぼ》し召《め》されます」
大沢の顔は大いになごんで来た。考えなおす気になったのであることは明らかであった。
藤吉郎は先刻からずっと大沢を観察して、この男がとりとめた道義心もなければ、信念もなく、腹を立てたり、斬るつもりになったりしたのは、武士としての習慣と単なる一時の感情に発したものであることがわかっていた。こんな人間にたいしては、こちらが最も自信ありげに、大胆不敵にふるまって見せるのが、最も効果的であると計算を立てた。
「最もお大事な瀬戸際でござる。おちついてゆるゆるとお考え下さい。拙者は今夜は当城にお泊め下さい。なに、牢屋《ろうや》でもどこでもかまい申さぬ」
と言った。
大沢の顔にはおどろきの色があった。
その夜は最も鄭重《ていちよう》な待遇でとめてもらった。
翌日、大沢は織田家に服属するといった。
「それは祝着《しゆうちやく》、上総介のよろこびいかばかりでござろうか。拙者も面目《めんもく》が立ちます。これで貴殿のご忠節も立ち、ご身上《しんじよう》も立つことでござる。しからば、神文《しんもん》をおさし出し願いましょう。拙者からもさし上げます」
と、血判した神文をとりかわして、辞去した。
もう日が高く上り、道草の露がすっかり乾いている頃であった。
小牧山にかえって、信長に復命すると、
「大沢を服属させたか、あっぱれ、手がら」
と、信長のよろこびは一通りではなかった。
「小気味のよいほどはかが行く。そちなればこそのことじゃ」
ともほめた。
「決して忘れぬ。必ず報いるぞ」
と言った。
藤吉郎は一晩泊まって、また出て行って、こんどは大垣《おおがき》の東南方四、五キロ、牧村《まきむら》の牧村刑部少輔《ぎようぶしようゆう》を口説《くど》きおとして帰服させた。
こうして、一月足らずの間に、境目にいる斎藤方の豪族四人を口説きおとした。
「先ずそのへんでよかろう。あとしばらくは調略《ちようりやく》ではいかん。武力を用いんければならん」
と、信長は言って、打ち切らせたが、そのとき二百石を加増《かぞう》し、足軽《あしがる》大将とした。五百石十人|扶持《ぶち》である。もはや、藤吉郎の地位は織田家の家中では中流の上、上流の下であった。
藤吉郎の説得によって帰服した美濃《みの》武士らは、冬になるまでの間に、それぞれ小牧山に来て信長に目見《めみ》えして、正式に被官《ひかん》の礼をとって帰って行ったが、大沢次郎左衛門は、藤吉郎から度々来るようにうながしてやったのに、なかなか来なかった。病気であるの、稲葉山の監視がきびしいのと、その度にもっともらしい理由を申し立てて来たが、信長のきげんは次第に悪くなった。
「その方行って連れてまいれ。それでも来ぬというなら、勘当《かんどう》すると申して来い。敵味方が判然《はんぜん》とせぬものを味方の中に数えることは出来ぬ。きっぱりときまりをつけたい」
と言ったのである。
藤吉郎は、こんどは六部姿《ろくぶすがた》でなく、供まわりをととのえた武家姿で、鵜沼《うぬま》に出かけた。
「殿《との》は貴殿と会った上で、早く正式に話をきめたいと申しておられます。ご都合もござろうが、ぜひ拙者《せつしや》と同道してまいられとうござる」
とだけ言って、信長が腹を立てていることは言わなかったのだが、大沢は信長の怒りを察知しているらしく、何のかのと言って、なかなか行こうといわない。
「ご不安はないことと存ずるが、貴殿のお身がらについては、拙者が引受けます。ぜひお出で下され。貴殿がお出で下さらんので、殿は毎日拙者にまだかまだかと仰せられる。拙者はつらいのでござる。それほどまでに貴殿に会いたがっておられる殿の心を思いやり、また拙者《せつしや》のつらさをご推量あって、ぜひこれからお出で下され」
と口説《くど》き立て、この時も大沢を信用させるため、鵜沼城に一晩泊まった。
ついに、大沢は承諾して、翌日、供まわりをそなえ、木曾川を渡った。
藤吉郎は大沢と馬をならべて、小春《こはる》日和《びより》のおだやかな日の下を小牧山に向った。
途中から使を走らせて、大沢が伺候することを知らせたので、小牧山についてみると、この頃|清洲《きよす》から城下に移転して来た禅寺《ぜんでら》が、旅館として用意してあった。
古い建物をそっくりそのまま移したのであるが、由緒《ゆいしよ》のある寺だけに、建物も立派である。織田家から持ちこんである諸道具も高価で美しいものばかりであった。大沢は感激し、大いに安心したようであった。
その夜は、信長から酒肴《しゆこう》の贈りものがあり、藤吉郎がとりしきって接待した。
「こんなことなら、早うまいればようござった。ありようは、拙者ずいぶん不安でありました」
と、大沢は酒間《しゆかん》に、笑って白状した。
翌日、午後、信長は大沢に会った。
「決して悪いようにははからわぬ。安心して身をあずけ、忠勤を励みくれよ。斎藤家の末々のことにも、いろいろと案じている由、人の臣《しん》として、まことにあらまほしい心じゃ。感じ入っているぞ。新五郎に会わせて取らせよう」
と言って、道三入道の末子《ばつし》新五郎を呼び出して対面させ、盃《さかずき》までさせた。
道三が死ぬ時十であった新五郎は、この時十九になっていた。父の道三は少年の頃花のような美少年だったというが、新五郎もまた美しくにおやかな青年であった。
「おれとおれが女房、つまり新五郎が姉じゃがの、二人が手塩にかけて、ここまで育てたのじゃぞ」
と、信長は自慢げに言って、呵々《かか》と笑った。
これほど上きげんで、心おきなく見えていた信長が、対面が済んで、大沢と藤吉郎が退出して、夜に入って間もなく、藤吉郎を呼び出して、
「大沢と申すやつ、四の五の申してなかなかに出頭せぬによって、にくいやつと思うていたが、今日|面《つら》を見れば、なるほど気に入らぬ面がまえじゃ。あの面、早晩むほんをすべき面じゃ。聞こえる剛の者だけに、厄介《やつかい》しごくなことになる。腹を切らせい」
と言ったのである。
藤吉郎はおどろいた。
「はっ」
と言ったまま、しばらく返事が出来なかった。
「申しつけたぞ!」
と、信長は鋭く言う。
殿ほどの方がなんということを仰せられるのであろう、お心得ちがいだ、お諫《いさ》め申さねばならんと、思った。恐怖に胸がこおりふるえたが、勇気をふるいおこした。
「恐れながら、申し上げたいことがございます。しばらく、お人ばらいを仰せつけられとうございます」
と言った。
信長は不きげんきわまる顔になったが、小姓らに席を去らせた。
「唯今《ただいま》の仰せつけでございますが、志を決して降参してまいった者に、さようなことを申しつけられましては、以後降参する者はなくなるでございましょう。恐れながら、御将来のため、大ご損でございます。殿様のおめがねではございますが、今はまだ彼はむほんなどいたしておらぬのでございます。昨夜も、旅館で、おもてなしのお手厚いことに感泣《かんきゆう》して、なぜ早くまいらなんだろうと申したほどでございます。決して将来とも、心変りするようなことはないと存じます。もしまた心変りしました時には、その節ご誅罰《ちゆうばつ》あればよいことでございます。大沢いかに剛勇であればとて、小身者《しようしんもの》のこと、踏みつぶすに何の手間ひまかかりましょう。ただ、ご容赦あらんこと、おんためと存じます」
涙のこぼれるような気にさえなって、熱心に説いたが、信長は薄笑いを浮かべているだけであった。言いおわると、
「申すことはそれだけか」
と、言った。
「はっ!」
ひやりとするものが胸をかすめた。もう何といっても、聞いてもらえないのだと思った。
「しからば、また命ずる。大沢に腹を切らせよ」
藤吉郎ははじめて信長の狂気を感じた。世間でも、家中でも、殿様には狂気じみたところがあられるとささやいているが、藤吉郎は今までそれを感じたことはない。激烈で、果断で、異風好みでお癇癖《かんぺき》の強いところが、そう思わせているのだと思っていたのだが、思いこむともう理も非も耳に入らず、執拗《しつよう》をきわめる。これはたしかに狂気のものであると思わないではいられない。
返事をすることも忘れて、考えこんでいると、信長は言う。
「われは大沢を連れて来るに、拙者《せつしや》の身にかえても、必ず身がらの安全は引受けると誓言《せいごん》したであろう。われが言いそうなことじゃわ。じゃが、おれはそう言うて連れて来いとは言わなんだぞ。おれははじめから、大沢には腹切らせるつもりでいたのじゃ。一旦《いつたん》服属を申しおくりながら、疑い深く、来るをためらっていた心根がにくい。さあ、どうする? 引受けるか」
わざとこちらをいじめるために言っているとしか思えない態度だ。
「かしこまりました。さよう申しつけるでございましょう」
熱鉄《ねつてつ》を飲む思いであった。
下城したが、どう考えても、信長の言う通りにする気になれない。
信長の将来のために大損だという気が去らない。
工夫はすぐに立った。うまく行けば、信長の徳も傷《きず》つけず、大沢のいのちも助かり、自分もまた助かる、失敗しても、自分一人がご不興をこうむるだけで済もう、悪くするといのちを召されるかも知れないが、それは運にまかせようと思った。
「急ぎのご用をうけたまわったにより、大沢殿の旅館にまいる。そなたは先きに帰ってよい」
といって、供の勘十はかえし、自分で提灯《ちようちん》をもって、ただ一人大沢の泊まっている寺にむかった。
勘十はこの頃では、藤吉郎の中間《ちゆうげん》になって、女房ともども藤吉郎の家の中間べやに住んでいるのである。
今日のお目見《めみ》えが上々の首尾《しゆび》に行ったので、大沢はいいきげんで、酒をのみ、供の者共にも酒をふるまっているところであった。
藤吉郎の来たのを見ると、
「やあ、木下殿」
と、陽気に迎えて、
「先《ま》ずは一献《いつこん》」
と、早速に盃《さかずき》をさした。
胸がふたがる気持であったが、おさえて、快く受けて、返盃《へんぱい》し、かたちを改めて言った。
「この時刻になってまいりましたのは、容易ならぬことがおこったためでござる」
といって、脇差《わきざし》を脱し、大刀とともにはるかに座敷の隅に投げやった。
「容易《ようい》ならぬこととは、なんでござる」
と、大沢は言ったが、藤吉郎のしぐさで、およその見当はついたようで、きびしい顔になった。
「われらお世話申し、貴殿をこれまでお連れ申し、殿も大へんにおよろこびであったことは、貴殿のごらんになった通りでござるが、世の中にはいろいろな人がいます。貴殿が大剛のお人で、これまで斎藤家と当家との度々の合戦に、見事な働きをなされたことを、当家の家中の者共がよく覚えていまして、あれほどの剛の者が、また志を変じて寝返ったらば、厄介《やつかい》しごくなことになる、降参してまいったるこそ幸いなれ、禍《わざわい》の根を絶つがよいなどと申すものがござる。いやいや、皆ではない。そう申す者がいるというまでのこと。拙者《せつしや》もいろいろと考えたのでござるが、こんな風では、当所に久しくおられたらば、必定《ひつじよう》難儀におあいになるであろう、それでは申訳なきことになると、ご退去をおすすめ申しにまいりました。上総介はさようなことは露知らぬことでござるが、家中人多いことでござれば、主人の心が徹《とお》りかねるところがありましてな。早々退去あるがようござる。もし、途中追手がかかるかも知れぬとのお疑いあるならば、拙者を連れて行って下され。貴殿をここへお連れしたのは、すべて拙者のしたことでござれば、お刺し殺し下されてもかまいません」
怒りの形相すさまじく聞いていた大沢は、
「さようか。しからば貴殿を人質にとり申す!」
とどなるや、腕をのばして胸ぐらをつかみ、腰の脇差をぬきはなって、胸先につきつけておいて、
「家来共! 馬ひけ! 都合あって、急ぎまかりかえるぞ!」
とどなった。
別室で酒をのんでいた大沢の家来らは、にわかにあらあらしくどなり立てる主人の声を聞き、ことばはわからなかったが、馳《は》せ集まって、この場の様子に立ちすくんだ。
「馬引け! 上総介にあざむかれて、危ないところに来てしもうたが、人質をとったれば、立退くことが出来るぞ。馬を急げ!」
と、またどなった。
間もなく大沢は藤吉郎を鞍《くら》の前壺《まえつぼ》にのせ、うしろから抱き、短刀を脇腹にさしあてながら、三里の道を犬山まで飛ばし、そこでやっと藤吉郎を解放し、ものも言わず、暗い川原に駆け去った。
まだ夜は暗く、しみるように寒気のきびしい夜であった。
大沢を逃がしたことは、信長の怒りにふれた。
「おのれは主命《しゆめい》にそむいて、逃がしおった」
と、信長はどなりつけたが、藤吉郎は、
「逃がしたのではございません。とり逃がしたのでございます。道理を説き聞かせ、これから、切腹申しつけると申そうとした時、ぐいと腕をのばして拙者《せつしや》を捕えたので、どうにもいたしようがなかったのでございます」
と弁解した。
「そげいな甘口《あまくち》に、おれがだまされると思うか! 横着ものめ、出過ぎものめ!」
と、信長はどなりつけて、閉門《へいもん》七日を申しつけた。
「はっ」
と、恐縮しきった様子をつくりながらも、藤吉郎は、殿は本気で腹を立ててお出でではないのだと思った。
でなければ、七日の閉門くらいですむはずはないのだ。
(ご反省なさっているのだ。おれがはからいをよしと心にほめてお出でなのだ。出過ぎものめと仰せられたのが、それだ。ほんとはほめておられるのだ。七日の閉門は、一応の形をととのえられたまでのことだ)
と、うれしかった。
年が明けると、信長はまたせっせと美濃《みの》に兵を出して、墨俣《すのまた》川までは切取ることが出来たが、ここからが越えられない。墨俣川が天然の要害をなしているので、これを越えるに手間どっている間に、敵が馳《は》せ集まって来るし、どうにか越えることは出来ても、小荷駄《こにだ》も援軍もつづかず、孤立してしもうからのことであった。
これは、今日《こんにち》の墨俣川のつもりでいては、よくわからない。
今日の墨俣川は長良《ながら》川の別名になっているが、この頃の墨俣川は東方から木曾川がここまで流れて来ており、北西から揖斐《いび》川も流れこんで来ていたし、おびただしい水量で、流れもまた速かったのである。
盛夏の頃になって、信長は一策を案じ出し、老臣らを集めて、
「墨俣川の向うに出城《でじろ》を築き、それを足だまりにして、敵地に働くようにしたいと思うが、いかがであろうか」
といった。
「しごくの妙計でござる」
と、皆賛成したので、信長は、
「しからば誰に普請《ふしん》させ、誰に守らせたらよいか。望みの者あらば申し出よ。適任と思う者あらば推挙せよ」
というと、誰も答える者がない。
墨俣川のはげしくはばひろい流れを渡って材木を運ぶのが、先ず大へんなことだ。敵は兵を出してじゃまするにきまっているのだ。
どうにか渡したとしても、敵がはげしい攻撃を加えてくるに相違ない中で工事をすすめなければならないのだ。大難事であることはわかっている。
さて、それでも出来たとしても、味方と大河をへだてていることは同じだ。城は孤立しやすいであろう。こんなところの守将となっては、いのちがいくらあっても足りるものではない。いのちはおしまずとしても、こんな困難なことに手を出して失敗しては、永年かかってきずき上げた武名が地におちてしもう。
当時の武将には、武名の失墜《しつつい》は何よりもいやなことであった。
築こうという者がおらず、守ろうという者がいないでは、どんな妙計でも、鼠《ねずみ》の群が猫の首に鈴をつけようと相談するに似ている。信長はおもしろくなかった。
暑い暑い日のつづく毎日を、鬱々《うつうつ》としながらも、工夫をつづけていた。
この評定の様子を、藤吉郎はふと漏れ聞いた。
誰にも工夫のつかないことや誰もがいやがってしないことを、進んで引受けて見事に達成する以外には、自分のような素姓《すじよう》のものが認められ、引き立てられ、大きく出世する途《みち》はないことを、藤吉郎は肝《きも》に銘じている。
(やってやれぬことはないはず。この工夫が立ち、見事築き上げることが出来れば、しぜん、出来た城をあずかることも出来るぞ!)
と、興奮し、緊張し、日夜に考えつづけた。
ねねの愛撫《あいぶ》の要求などにはこたえておられない。
「しんぼうせい。しんぼうせい。大事なところや。おれがお城代《じようだい》になれるかなれんかの瀬戸ぎわや。しんぼうせい。やがて、お城代になったら、ゲップの出るほど可愛《かわい》がってやるで」
と、なだめつけておいて、工夫をつづけたが、ついに工夫に到達した。
信長のお目通りを願い出た。人ばらいをしてもらって言った。
「美濃攻めのことでございますが、美濃が攻めにくいのは、美濃侍共が強いためではございません。墨俣川のあるためでございます。されば、あの川の向う、墨俣のあたりに出城《でじろ》をお築きになるがよいと存じます」
信長はきびしい目で藤吉郎を凝視した。
「われ、それを誰に聞いた?」
戦国の英雄達は皆秘密主義であるが、信長はわけてそうであった人だ。藤吉郎はそれを知っている。だから、頭から自分が考え出したことのようにして言い出したのだ。
「誰に? 拙者《せつしや》が数日前に考え出したことでございます」
「フン。まあよかろう。――実はおれもそう考えているのじゃが、第一には築く方法が立たん。第二には出来たその城を守る方法がつかんので、思いなやんでいるのじゃ」
「それでは拙者の考えたことを申し上げます。築くのは、木曾川の上流で、用木に切りこみをした上で、筏《いかだ》に組んで流し、同時に軍勢を渡河させて、敵からのじゃまにそなえさせておいて、攻めかけて来たらば撃ちはらい追いはらい、その間にこちらでは多数の大工や人夫共を用意しておいて、かまわずひたひたと組み立ておし立てさせるのであります。必ず出来ると存じます」
信長の目が生き生きとかがやいて来た。
「なるほど、切込みして筏に組んで流すか。うむ。こりゃあいけそうじゃ。それで、あとを誰に守らせる。こしらえはしても、守る者がいずば、城を築いて敵にくれることになるぞ」
「当尾張の国と美濃の国に夜討強盗《ようちがんどう》を業としている野武士共の中には、武勇すぐれた者共が多数おります。かれこれ千二、三百はありましょう故、その者共を召し集めて、城の番衆となさるがようございます。この者共の番頭《ばんがしら》となるべき者共には、当国|蜂須賀《はちすか》郷の蜂須賀小六、稲田|大炊《おおい》をはじめ、当国と美濃にわたって、数十人もございます。その名を申せば」
といって、一々列挙した。
信長は笑った。
「それはわれが昔ほっつき歩いた頃、知り合いになった者共じゃろう」
人の口から出れば、腹が立ったり、気勢がそがれたりするところだが、信長の口から言われると、一向腹が立たない。何せ、正念場《しようねんば》だ。
「その通りでございます。されば、拙者《せつしや》よく存じております。必ず説きつけます。さてまた、総大将になり手がなくば、拙者がうけたまわりましょう」
と、言った。
信長は大きくうなずいた。
「よかろう。よろずまかせるぞ」
きっぱりとしたことばだ。
「はっ」
平伏した藤吉郎は、全身に汗が滝のように流れているのをはじめて感じたが、それより、
(とうとう、お城一つあずかることになった)
という気持の方が強かった。歓喜に全身が燃え立つようであった。
墨俣《すのまた》築城
「伊勢に出陣するために砦《とりで》をつくる」
というのが、信長の触れ出しであった。
山のような材木を小牧山城下の町はずれに集めて、切りこみにかかった。
長屋《ながや》十軒分、矢倉《やぐら》十棟分、塀二千間、柵木《さくぎ》五万本、ほかにスペアも用意するのだから、おびただしい数量だ。
日ぎりは十五日という申しつけ。
大工は尾張全国から駆り集められ、百数十人におよんだが、とうてい普通では間に合わない。焼けつくような日ざかりも、蚊や羽虫のわんわん襲いかかって来る夜間も、皆血まなこになって働いた。
「日限までに仕上ったら、ほうびはたんと下さるぞ。働いてくれや。働いてくれや」
作事奉行《さくじぶぎよう》を命ぜられた藤吉郎は、職人どもの間を、ちょこちょことたえず歩きまわりながら、からだに似合わない大きな声ではげます。
餅《もち》や茶を用意しておいて、腹がすいているな、疲れているなと見ると、下役《したやく》の者に言いつけて、すぐ持って来させて、
「これ食うて、元気出してくれや」
と、あてがう。
うんと疲れているなと見ると、
「ちょっこら休んで寝るがええ。その方がかえって早いぞ」
と、まどろませる。
ゆるみない目で働き工合を見ていて、よく働いていると見ると、小さな紙ぎれに判子《はんこ》をおした札《ふだ》を、
「そなた、よう出来《でけ》る。当座のほうびや。それよ」
と、くれる。
あとで持って行くと、銭《ぜに》を五文くれる。目立つ働きをしていれば、一日に二枚も三枚もくれる。信賞必罰《しんしようひつばつ》は政治の要諦《ようたい》であり、これが乱れると政治は沈滞し、腐ると昔から言われているが、つまりはこれは人に使われる者の心理の鋭い洞察の上に立った方法であるからだ。人間は人間のすることに顕然《けんぜん》たる応報のあることを常に望んでいる。悪いことをしたやつには悪い応報があり、よいことをした者にはよい報《むく》いがあってほしいと切望している。とかくこの世がそうは行かぬところから、来世を想定して、今生《こんじよう》に応報がなかったら来世に応報があるはずと信仰するのだ。いじらしい願望である。公正を望む心でもある。
上に立つ者は、この願望を満足させてやらなければならない。善は必ず賞せられ、悪は必ず罰せられることを常に眼前に見れば、人々は満足し、信頼し、大いに努力する気をかき立てられ、大いにつつしむ心をおこし、政治であれば大いに引きしまり、事業であれば大いに発展することになる。
このように、最も大事なことではあるが、間のびしなければさらによい。即座に賞し、即座に罰するのが、最も効果がある。こんな点、子供の教育や、動物の訓練に似ている。ともにその場ですぐ賞罰するのが、子供には効果的だ。動物に至っては間《ま》をおいては全然効果がないと言われている。人間のおとなはそれほどのことはないが、早ければ早いほどよいことは言うまでもない。ナポレオンはざくざく勲章を入れた箱を戦場にたずさえて、功ある将士にはその場で胸につけてやったという。この時代、信長も大きな箱に金・銀を入れて戦場に持って行き、手がらを立てた者には手ですくってやったと言われており、後に秀吉もそうしているが、別段信長の真似《まね》をしたわけではなく、この時代からこうであったのだ。ただ、この頃はまだ大将軍ではないから、金・銀でなく、身代《しんだい》にふさわしく銅銭五文というわけ。
こうして、切りこみがどんどんはかどり、どうやら日限までに出来る見通しがつくと、藤吉郎はいつぞやのように六部姿《ろくぶすがた》になって、蜂須賀《はちすか》村に行った。
蜂須賀村は信長の家である勝幡織田《しようばたおだ》家の出た勝幡村の東北方二キロほどにある。
日本には須賀《すか》という文字をつけた地名が方々にある。単に須賀というのも全国に七か所もあり、大須賀、横須賀、横渚《よこすか》、白《しら》須賀、須賀川、高須賀等の名称の地も所々にある。これらの土地の多くは砂丘地帯であったところ、あるいは現在砂丘のあるところである。恐らくスカとは砂丘の古語であろう。
蜂須賀という地名は自分の見聞のおよぶところでは、尾州以外にはないようだが、ここもまた砂丘の多かったところである。今日この地は木曾川の支流である佐屋《さや》川から五、六キロも東方にあるが、ずっと古い時代には木曾川があばれ放題にあばれて、このへんを流れたこともあって、その頃におし流されて来た土砂が堆積して出来た土地であろう。
蜂須賀はこの土地の小豪族であった。家系は足利《あしかが》氏の岐《わか》れと伝えられている。鎌倉時代以来ここに土着していたというから、ずいぶん古い。織田氏なぞより古い。
この家の当時の当主は小六正勝《ころくまさかつ》、この時四十一であった。小六は若い頃には、はじめ美濃の斎藤道三につかえ、道三の死後岩倉の織田家につかえ、次ぎに犬山の織田家につかえたが、犬山の織田家が信長にほろぼされると、在所《ざいしよ》にかえって、もう出て仕えようとしなかった。
藤吉郎が小六と面識が出来たのは、小六がまだ斎藤道三につかえる前であった。その頃の小六は譜代《ふだい》の家来《けらい》――といっても、蜂須賀家の所領そのものが知れたものだから、百姓同然のもので、数から言っても数人にすぎないが、その連中や、近在の腕っぷしの立つ百姓共を糾合《きゆうごう》して、武力団体をつくって、村を自衛もし、時によると近隣の大名衆に頼まれれば雇兵《こへい》となって戦場働きもしたし、また時には落武者《おちむしや》を追剥《おいは》ぎしたり、ちょいちょいは押込強盗もやっていた。これは自らの発意というより、雇主である大名らの依頼でやることが多かった。敵地の村落に放火したり、掠奪《りやくだつ》することが戦略上必要な場合には、それを頼まれるのである。つまり、当時のことばでは、こんなのをノブシといった。文字は野伏または野武士とあてる。
大名が広大な領地を所領して、その領内の司法権、警察権、行政権を持つようになったのは、長い戦国時代を経過する間に、弱肉強食という最も辛辣《しんらつ》な現象を通じて、地方地方に自然に一種の統一運動が行われ、それが江戸時代になって幕府《ばくふ》によって公認され法制化されて定まったので、戦国初期までは、日本中が小豪族で埋まっていた。小さいのはわずかに一郷村の所有者、大きいものもせいぜい二、三十の郷村くらいしか持っていない。しかも、その二、三十もかためて一つづきというのは稀で、大ていばらばらの飛地《とびち》になっている。比較的多くの所領を持っているのが大名、少ないのが小名。甲斐《かい》の武田氏や、越後《えちご》の長尾氏、九州の大友氏、島津《しまづ》氏などは、大名と呼んでさしつかえのないものであったが、その所領たるや知れたものであった。例を島津氏に引く。蒙古《もうこ》襲来の時に博多《はかた》湾沿岸に九州の地主らは、幕府から所領高に応じて割当てられて石塁を築いているが、その時島津氏の割当が五丈一尺四寸だ。所領|一反《たん》につき一寸の割合で命ぜられたのだから、当時の島津氏の所領は五百十四反、すなわち五十一町四反しかなかった計算になる。鎌倉時代の大名と称せられていた武士共の身代《しんだい》がどの程度のものであったか、大体わかるであろう。
全国にうじゃうじゃとこんな大小名がいたのだ。これらは土地を私有しているのだから財力もあり、また武力をもって幕府に奉仕するというたてまえのものだから武力も持っていたが、司法権はなかった。持っているのは家来にたいする処罰権だけだ。領内の司法権や軍事権は、彼らの中からとくに任命されている守護の権限である。守護だって、原則的には幕府の定める法則や幕府の命によってこれを行使するので、自由意志で行使してはならないのであった。つまり、法の定めるところによって罪人を追捕《ついぶ》し、幕府の命によって大小名を動員して戦争させるというたてまえであった。
もっとも、これは原則だ。世の中のことはすべて原則通りには行かない。政府の権力がおとろえてくればなおさらのことだ。
武士にとって、戦争はばくちだ。負けばくちに荷担《かたん》すれば大いに身代がへり、場合によっては一切合財《いつさいがつさい》なくなるが、勝ちばくちに張れば大いに肥《ふと》る。南北朝の争乱を経て、細るものは益々細ったりほろんだりしたが、肥るものは大いに肥った。
この傾向は戦国時代に入って益々進んだ。幕府自身がよたよたになったから、司法権も、軍事権もめちゃめちゃだ。守護《しゆご》大名だけの持つものではなくなった。守護大名そのものが倒れほろんで行くものが相次いだ。
しかし、それでも、まだまだこの時代までは地方地方に鎌倉以来の小豪族が残存するものが相当いた。これらの多くは、被官《ひかん》という名目で、大きな豪族に臣従《しんじゆう》したのであるが、中にはそれをせず、なお小さいながらに独立している者もいた。
蜂須賀の場合は、被官になったり、独立したりしていたわけだ。
こんな小独立武士が、濃尾《のうび》の平野には、実に多数いた。稲田|大炊助《おおいのすけ》、青山新七、同小助、蜂須賀小六、同又十郎、河口久助、長江|半之丞《はんのじよう》、加治田|隼人《はやと》兄弟、日比野|六大夫《ろくだゆう》、松原|内匠《たくみ》等だ。
この中の稲田大炊助は、後に蜂須賀家の家老となり、淡路|洲本《すのもと》の城主となった人物だが、犬山の織田家の老臣であったこともあるというから、小六と同じように被官になったり、独立の小領主になったりしていたのであろう。
これらの連中は、単独では力微弱であるから、事をなすには組み合ってやった。圧制侵犯してくる大勢力に抵抗しはねのける場合はもちろんのこと、傭兵《ようへい》となって行く場合も、夜討強盗の際も、場合場合に応じて数人ないし全部が組み合った。全部が人数を出し合うと、総勢では四、五千人になったというから、相当以上の力である。
藤吉郎は遠州に行く以前、与助時代、美濃、尾張、伊勢北部の平野を浮浪《ふろう》の少年としてほっつき歩いている頃に、蜂須賀屋敷でしばらく飯を食わしてもらっていたことがある。
その間には、傭兵の中に入って、戦場かせぎに行ったこともあれば、落武者《おちむしや》狩りに行ったこともある。放火、夜討、強盗働きにも行った。まだ子供だったから、もの見や山見《やまみ》くらいのことしかさせられなかったが。
小六はずいぶん目をかけてくれた。
「われはずいぶん機転がきくし、よう働きもする。おしいことに、根気がないのう。われに根気さえあれば、どこへ行ってもひとかどのものになれるのじゃ。そのつもりで、気をつけるがええぞ」
と、言ってくれたことがある。
ほんとにその頃は根気がなかった。幼い時からの放浪が身にしみついたものになって、尻《しり》がすわらない。どこへ行っても、二月か三月すると、腹の底にむずむずと動くものがあり、忽《たちま》ちそれがふくれ上って、矢も楯《たて》もたまらなくなって、あるいはひまをもらって、あるいは無断で飛び出してしもう。蜂須賀村には半年ほどもいたが、それは小六から言われたことがこたえて、懸命にがまんしたからであった。それでも、とうとうがまんが出来ず、飛び出してしまった。めんもくないから、黙って飛び出した。
それから二、三年立って、遠州に行って松下家にひろわれて奉公したのだが、その頃はそれまでの間にいつも小六に言われたことが気になって、大分気持も改まったし、乞食《こじき》やこそ泥とさして違わないみじめな生活も大いにいやになっていたので、大いに辛抱した。考えてみると、松下家で士分《さむらいぶん》になるまで奉公したのも、織田家で今の身分になれたのも、半分は小六の訓戒によると言える。
(しもうたな。こっちゃに帰って織田家に奉公するようになった頃、一ぺんあいさつに行っとけばよかったな。士分になれた時かて、よかったのや。人間いつ人の力借りなならんかわからん。一ぺんでも知り合うた人は、切らさんようにして、大事につき合うておくものやなあ。なんぞ手土産《てみやげ》買《こ》うて行くことにしようが、どんな高価なものより、かねてから懇意につき合うている方が、こげいな時にはずんとききめがある。ここに気がつかなんだは、おれもまだまだ考えが浅いわな)
と、思い思い、歩いた。
小牧から蜂須賀郷へは、清洲の旧城下を通って、ちょっと二十四、五キロある。早朝に立ったので、昼を少しまわる頃にはついた。清洲の町で買った干鮭《からざけ》をこも包みにしたのをぶら下げていた。
戦国の習いだ。蜂須賀屋敷は土塀をめぐらし、堀をめぐらし、矢倉門《やぐらもん》のほかにもう一つ矢倉をそなえて、小さいながらに城郭のようなかまえを持っている。
門を入ると、広い庭があり、左右に馬小屋や農具小屋や下人《げにん》小屋や倉がならんで、ずっと奥に母屋《おもや》がある。真昼の日がかんかんあたって陽炎《かげろう》をゆらめかしてる広い庭は、収穫時には穀《こく》ほし場になり、有事の際には兵を集結させることになるのである。
小六の妻女と、下男のうちで年寄ったのとは、藤吉郎をおぼえていた。おぼえていたどころではない。織田家につかえてひとり前の武士に出世し、信長の覚えがめでたいことも知っていた。
皆なつかしげで、鄭重《ていちよう》に応対する。
こちらもなつかしい。昔の礼をのべ、帰って来てから何年にもなるのに、顔出しもしなかったことをわびて、手土産を渡して、小六様にお目通りしたいと言った。すると、今日は朝から山に兎《うさぎ》狩りに行っているという。
「ほう、それはまたなつかしや。てまえも行ってみましょう」
といって、昔なじみの下男《げなん》に案内されてその山に向った。
山といっても、このへんは坦々《たんたん》たる平地つづきで、村をはずれた北方に一番高いところで十間あるやなしやの丘があるだけだ。昔よくそこに小六が兎狩りに行った。そこにちがいない。だから、ほんとは案内なぞいらないのだが、いろいろ小六のことを聞きたかったのだ。
村をぬけて、所々白い粉をばらまいたように稲が花をつけている青田の中の道をたどりながら、小六の近況を聞いた。
「小六様はお達者であろな。狩りにお出《い》でるほどやけ」
「からだはお達者ですわい。けんどなあ……」
「けんど、どやんやいうのや」
「せっかくご奉公なされた先きが、みんなほろんでしまいましたさけ、おれは運の悪い男じゃと、時々言うて、くったくしとられますわい。去年からは、おれが一生ももう見えた。四十になってこんなざまでは、蜂須賀村の土せせりして世をおわることは明らかじゃとよく言いなさいます」
男の心は男が知る。自分の力に覚えのある者が力をのばすべき場に会わない切なさはよくわかるのである。藤吉郎は胸にせまって燃えるものを感じた。
「なるほどのう。じゃろうのう。小六様ほどのお人でありながら、ご運がよかったとは言えんわいのう」
と、うなずいて、
「それで、今でも昔のお友達衆とつき合うてお出でかえ」
「おつき合いですら。一番お仲のよいのは、稲田|大炊《おおい》様で、これはいつも往来《ゆきき》してお出でですね。それから、青山小助様と加治田|隼人《はやと》様も時々お出ではります」
青山小助と加治田隼人は知っている。自分のいる頃からの野武士なかまだ。稲田大炊は知らない。これは犬山の織田家の重臣であったというから、小六が犬山につかえていた頃からの知り合いであろう。これらの人々と今でも小六がつき合いがあるのは、この際最も都合がよい。小六を説きつけることが出来れば、小六と共に説くことが出来る。
(うまく行くぞ)
と、心がはずんだ。
山にかかって、繁みに蔽《おお》われた細道を二、三間も行かないうちに、どこからか犬が飛び出してきて、下男に飛びついて、ちぎれるように尾を振った。萱毛《かやげ》の、ふさふさとした尾をきりりと巻き上げた犬だ。
「おおら、タロよ。びっくりするやないかん。ああ、よしよし。わかった、わかった。そげいに舐《な》めんかてええぞや」
下男はあやして、
「さあ、旦那のとこへ連れてけ」
と言った。
犬は先きに立って、径《みち》を行き、径をそれて草藪《やぶ》や笹《ささ》藪をくぐって行く。
小六は大きな松まじりの雑木林が尽きて、なだらかな斜面が草地になり、下に小笹藪がつづき、その下に広々とした青田の見晴らせるところに腰をすえていた。そばの木の枝に捕った兎《うさぎ》の足をしばってぶら下げていた。ちょうどむすびを食べおわって、吸筒《すいづつ》に口をつけて水をのんでいるところであった。
近づいて来る足音を聞きつけ、吸筒から口をはなして、ふりかえった。
一人が下男であることはすぐわかったようだが、そのあとから来る藤吉郎には見当がつかないらしい。鋭い目に不審げな表情をたたえて凝視していた。
しかし、だんだん近づいて、藤吉郎が笠《かさ》をぬぎ、笑顔して、ひょこひょことおじぎすると、はっとおどろきの色を見せて、破顔《はがん》した。
ぬっと立ち上った。大男である。昔も抜群の身長であったが、その頃は横がなかった。今はたて横ともに大きい。長い足で大股《おおまた》に歩いて来て、二間ほどに近づくと、ぴたりと立ちどまり、
「これは木下藤吉郎殿」
と言って、会釈した。
藤吉郎は小六の許《もと》を去って二、三年過ぎて遠州に行き松下家につかえてからの名だ。小六の家にいる頃は与助だったのだ。それをちゃんと今の名で、しかも殿つけで、今の身分にふさわしい礼儀をもって会釈してくれる。うれしかった。こちらも立ちどまって、腰をおった。
「これはこれはご鄭重《ていちよう》に。小六様、おなつかしゅうございます」
「ご鄭重にすぎます。今は織田|上総介《かずさのすけ》殿ご家中でお組頭《くみがしら》をつとめておられるほどにならしゃったのでござる。ふさわしい応対を願いたい」
「痛み入ります。つい、なつかしさに、昔通りのことをしてしまいました。それでは改めます」
と、姿勢を正した。
しばらくの後、二人は下男をかえして、草を藉《し》いて向いあってすわっていた。
小六は藤吉郎の立身の祝いを述べ、陰ながらよろこんでいると言った。昔貴殿が自分の家におられた頃、自分は見込のある少年と目星《めぼし》をつけていたが、その目があやまらなかったので、別してうれしいとも言った。
「ありがとうございます。実はおりおり、昔のことを思い出しては、われらが氏素姓《うじすじよう》もない身からともかくも今の身になれたのは、昔貴殿に訓戒されたおかげであると思い、一度おたずねしてお礼申したいとはよく考えたのでありますが、そのうちにはついまぎれてしまって、今日に至ったのでござる」
と、そのことを説明した。
「ほう、そんなことがありましたかな。とんと忘れました。拙者《せつしや》の覚えているのは、貴様が機転といい、きりきりとした働きぶりといい、まことに末たのもしい少年であったというだけでござる」
と、小六は笑った。
「それほどの恩義を受けながら、忘れはせねど、つい近くにいながら、今日までお伺いもせざったのは、まことに不届《ふとどき》、相すまぬことと、恥じ入ります。ことさら、本日まいったのは、お力にすがらねばならぬことが出来《しゆつたい》したためでござれば、用がなければ思い出しもせぬと、おさげすみもあろうかと、一層恥じ入る次第であります」
小六は笑った。
「ハハ、そうまで申されることはござらぬ。人はそれぞれに日々の営みがある。そう昔のことや、人のことにこだわってはおれぬ。それに、年上の者が年下の者にやたら訓戒する。その訓戒が身につくかつかぬかは、受ける人の心掛《こころがけ》による。ありがたしとするほどのものでないに、おりおりでも思い出し、ことさら感謝していて下されるとあっては、珍重《ちんちよう》なこと」
昔の小六ははげしい性質であった。激情的で、火のようなところがあったが、今は酸《す》いもあまいもかみわけた、円満な、含みの多い人がらになっているようだ。たのもしかった。
「ところで」
と、小六は調子をかえて、
「さっき、何かわしの力を借りたいことが出来たと申されたが、どげいなことですかな」
と、水を向けた。
「そのこと」
藤吉郎は万事を打ちあけて頼んだ。自分に城をあずけるという信長の約束をもらっていると言った。
「武家奉公して武士となったからには、一度は小城《こじろ》なりとも主となってみたいのでござる。貴殿をはじめ各々が拙者《せつしや》の願いをご承諾下さり、拙者を助けていただくなら、それがかなうのでござる。拙者を男にしていただけますまいか」
必死の思いであった。両手をついた。
「ふうむ」
小六はうなって、まじまじと藤吉郎の顔を見つめた。
「貴殿、織田家に奉公されてから、何年になります?」
「二十三の秋に小者奉公《こものほうこう》したのでござれば、ちょうど足かけ九年になります」
「九年の間に、小者から城代《じようだい》にな」
と、またしげしげと見て言った。
「よろしかろう。引受けた。われら、上総介《かずさのすけ》様に奉公し、貴殿の組下《くみした》になりましょうぞ」
といった。どんな思いがその胸に去来した末であったろうか、ずいぶん複雑なものではあったろうが、きっぱりとしたことばであった。
「お聞きとどけ下さりますか? さてもありがたや」
藤吉郎は覚えずまた両手をついて平伏しようとした。
小六はそれをとめた。
「そうまで鄭重《ていちよう》に礼申されることはない。頼まれて陣ばたらきするのは、われらがなりわいですわい。ついては、他の者共のところへもまいられずばなるまい。われら同道してまいって、口を添《そ》えて進ぜましょう。なに、全部にまいられることはいらぬ。目ぼしい者四、五人に話をつけておかるれば、あとはわれらとその者共だけで説きつけましょう」
と言ってくれた。
その夜は小六の屋敷に泊めてもらい、翌日から二日にわたって歩きまわった。稲田|大炊《おおい》をはじめとして四人を説きつけて味方とした後、あとをよく頼んで、小牧にかえった。
ひそかに信長に目通りして、委細を言上すると、信長はよろこんで、
「よく手がとどいた。あっぱれであるぞ」
と、ほめた後、
「明朝まいるよう。それまでに番掟《ばんおきて》をこしらえておく」
といった。
翌朝顔を出すと、紙数枚に書いたものをくれた。
おしいただいてみると、こうある。
一、こんどその方に美濃地の出城番《でじろばん》を仰せつけるにつき、同所において油断なく番をつとめよ。それにつき、第一に心掛くべきは、勇功をはげんだ者共の大小の功績は、必ずのこらず注進することである。余《よ》は功の軽重にしたがって、あるいは感状、あるいは恩賞の知行《ちぎよう》等をあてがうであろう。
一、身分の上下によらず、敵の首を討取った者には褒美《ほうび》をあたえる。雑兵の首には料足百匹、士分の首には千匹。かく基準を示す上は、余が裁断を待つにおよばず、その方の裁量にて早速にあたえよ。
一、槍下《やりした》、太刀打《たちう》ち(共に一騎打ちの勝負)しての功名は、特に書付にして注進すべし。
一、敵城を占領した者は、その城主にする。これは調略《ちようりやく》を以《もつ》てしても、武力攻めを以てしても、同様である。
一、組頭《くみがしら》には、武勇・才略兼備して、度量ひろく、諸勢を指揮し得る器量ある者に申しつけよ。
一、その方の第一に心がくべきことは、依怙《えこ》ひいきなく、誠実をもって士卒にたいすべきことである。さすれば、皆誠実をもって忠義をつくすであろう。
一、もし正義の者の勢いふるわず、上手者《じようずもの》の勢いがふるうようなことになれば、その方に私欲心あって、監督があやまっていると考えるぞ。
一、常に油断なく見まわり、普請《ふしん》すべき個所などあったら、時をうつさずせよ。
一、敵が東より襲来せば、西の方の防備には別して気をつけよ。反対の場合もまたしかり。
一、敵中で、武名ある者で、主人に不平を抱いて他国へ立退きたいというようなものあることを聞いたら、味方に招くべき才覚をせよ。
一、弓・鉄砲・武具、その他のもので必要あらば、かかりの者まで申しつかわせ。
一、当座の褒美用に二千貫つかわす。なお用次第に申しよこせばつかわす。
一、火の用心等油断すべからず。
一、もろもろの勝負ごと(碁《ご》・将棋《しようぎ》・ばくち等であろう)は堅く停止《ちようじ》する。
一、敵方のことを告げ知らす者には重き恩賞をあたえよ。
一、小さいことに気を取られれば、武勇のたしなみに昧《くら》くなるものである。注意すべし。
一、敵が城に付入ろうとする時には、わざと弱を示すものである。注意せよ。
右の条々をよく守り、大度《たいど》をもって見事なる功を遂げよ。
すべてで十七条だ。掟《おきて》とはいいながら、かゆいところに手のとどくような愛情のこもった訓諭書である。はじめて城――敵地に斗出《としゆつ》している城をあずかる藤吉郎であると思って、昨夜一晩考えて、今朝|右筆《ゆうひつ》に口授《くじゆ》して書かせたものに相違なかった。
信長の愛情が胸を焼いた。
「はっ」
といって、おしいただき、平伏した。
藤吉郎は、帰るとすぐ写しを数枚こしらえて、小六をはじめ味方を約束してくれた人々のところへ送った。
この信長の定めた掟が、新しく味方することになった小六らの心を励まし、その忠誠心をかき立てるに大いに効果があると判断したからであった。
信長の狙《ねら》いも、一分はそこにあるに相違ないと思った。
さて、そうこうしている間に、切りこみはすっかり出来た。
信長は家中の者らを総動員して墨俣《すのまた》川をおし渡り、人数を三分して、一分は敵の来襲にそなえさせ、二分は砦《とりで》の築造にかからせることにして、九月一日をもって決行した。
この朝、総勢どっと墨俣川を渡ると同時に、上流の羽栗《はぐり》の宮田、笹野《ささの》のあたりから、木材を筏《いかだ》に組み、人夫《にんぷ》二人をのせてあとからあとからと流した。人夫共は棹《さお》をとって筏の前後に立ち、衝突を避け、停滞をおし進め、流れに乗って下って行き、墨俣につくや、ひたひたと岸によせた。
待ちかまえていた人数は、岸に引き上げると、縄を切ってほぐし、普請場《ふしんば》に運ぶ。そこにはもう大工らが手ぐすね引いて待っていて、片っぱしから組んでおし立てた。
井ノ口――後の岐阜《ぎふ》では、百姓共の知らせで知って、八千余の軍勢をくり出して来たが、こちらはもうその用意をしている。
普請場を大きくかこって、要所要所に柵《さく》を結い、その内側に兵が待ちかまえていて、弓鉄砲を射かけて寄せつけない。
斎藤側ではいら立ち、こちらをさそい出して接戦を挑もうとするが、信長は、
「出てはならんぞ。弓と鉄砲であしらえ。かような時は、普請を一時も早く出来《でか》すが第一のことじゃ。首の一つや二つ取ったとて、普請が出来ずばなんにもならんぞ」
と、堅く制止して出さないのである。
後年、長篠役《ながしののえき》で武田氏の精鋭を痛破した信長の戦術はすでにこの時にその萌芽《ほうが》を見せているのである。
普請場では、藤吉郎が奉行して、たくみな激励をもって働かせたので、八日にはあらまし出来上り、その夜のうちに壁の上塗《うわぬり》をすませてしまったから、九日の朝には真白な壁が朝日に照りはえて、斎藤勢をおどろかせた。さらにその日一日と翌日の半日かかって、外まわりの塀まで全部こしらえてしまった。
斎藤勢はいよいよ興《きよう》をさました。その日一日は滞陣していたが、夜になると、篝火《かがりび》を焚《た》きすてにして退陣してしまった。
信長は数日滞陣をつづけたが、藤吉郎が小六以下の野武士らとその輩下、総勢二千五百人を連れて来ると、番手《ばんて》の者五百人をのこして、小牧に引き上げた。
引上げに際して、信長は三千人の食糧として五千人分を扶持《ふち》することにし、とりあえず三千俵の米を渡した。
こうして藤吉郎は墨俣城の城代《じようだい》となったわけだが、堅固に守って、度々の敵の襲撃にも決して奪われなかったばかりか、野武士共を駆使して、敵の領内をあらしまわったり、敵の陣中を攪乱《こうらん》したりして、大いに敵をなやました。
信長は感動して、藤吉郎に自分の持槍《もちやり》と持筒《もちづつ》とをくれた。
持槍、持筒というのは、旗本にそなえておく槍と鉄砲である。戦時にはそれは親衛隊の武器となり、平時の正式の往来には飾り道具となる。川中島で上杉謙信が武田|信玄《しんげん》の本陣に切りこんだ時、中間頭《ちゆうげんがしら》の原|大隅《おおすみ》が信玄の持槍で謙信をなぐって信玄の危機を救ったというのは、この持槍のことである。これは格式の一つであるから、勝手にその数を増減することは出来ない。
主人からゆるされた数がきまっていて、高級武士でなければゆるされないものである。藤吉郎は織田家中の高級武士の一人となったのである。
これらのことはもちろん藤吉郎にとってはうれしいことであり、青雲《せいうん》の階段を一ぺんに数段上ったにひとしいことであったが、将来のためには、蜂須賀小六をすっかり自分の薬籠《やくろう》中のものとしたことの方が意義がある。
小六は四十一という年でもあり、思案が老熟して周到でもあり、合戦にも調略《ちようりやく》にも深い経験がある。
とりわけ、スパイ行使には最も老練していて、敵陣を攪乱《こうらん》したり、敵の秘密を嗅《か》ぎ出すことにかけては卓抜の手腕がある。
武家奉公人でも、平士《ひらざむらい》としてひとり武者の功名を心掛ける間は、腹心の者はいらない。一人の働きをもって戦場を馳駆《ちく》して、よい敵を討取ったり、一番|槍《やり》、一番|首《くび》の功を立てればよいのだが、少数でも人数をひきいる武将の身分になると、もうそれではいけない。腹の底から打ちわっていろいろな相談の出来る腹心が必要となる。
多くの場合、これは譜代《ふだい》の家来や一族の者をあてるのだが、藤吉郎にはそれがない。生まれ素姓《すじよう》が素姓だから、譜代の家来のいようはずもない。一族の者といえば弟の小一郎だけだが、これはまだ若い上に武士生活をはじめて間がないのだから、ほとんど相談相手にはならない。あとの親類共は百姓しごとしか出来ない者共だ。
そこで、ねねの父親の杉原|定利《さだとし》、伯父《おじ》の杉原七郎左衛門|家次《いえつぐ》、いとこの浅野|弥兵衛《やへえ》などを、殿様に頼んで組下《くみした》にしてもらおうと思っているが、そうしたところで、年をとって最も頼りになるべきはずの者共は、あの年になるまで足軽頭《あしがるがしら》くらいまでしかなれなかったような連中であり、弥兵衛はといえばまだ子供といってよい年頃だ、頼りにはならんのである。
この点、もし小六が相談相手になってくれるなら、言うことはない。
ある夜、藤吉郎は小六を居間に呼び、酒をくみかわしながら、ざっくばらんに一切を打ちあけて、頼みこんだ。
小六は一語の問いかえしもせず、深沈としたおももちで聞いていたが、藤吉郎のことばがおわると、大きくうなずいた。
「心の底をうち割ってのおことば、感じ入り申した。ようござる。大したことは出来ますまいが、なにごとにまれ、相談相手にして下され」
と言った。
誓いの盃《さかずき》がかわされた後、笑って言った。
「われらもこの年まで、あくせくと世をわたってまいったが、ついぞ運がひらき申さなんだ。男として心のこり千万のことでござったが、そなた様は稀代《きたい》の器量人である上に、運勢まことにめでたい人のようでもござる。あとについて働けば、あるいは拙者《せつしや》の運もひらけようかとも存ずる。のこる生涯をかけて、それをこころみて見たいと思いますわい」
以後、小六は藤吉郎の最も頼もしい相談相手となったことは、歴史が語っている。
墨俣《すのまた》城を完成し、藤吉郎がここに籠《こも》り、陰に陽に最も活溌《かつぱつ》な働きをしたことは、美濃《みの》の形勢を大変化させた。
斎藤家の被官《ひかん》らで、心を動揺させて、織田家に帰服を申しこむ者が相ついだ。
形勢がこうなっては、相当すぐれた人物でも、することなすこと逆効果を生ずるものだ。
年若である上にあまりかしこいとは言えない竜興《たつおき》では、どうとも出来ない。人心は離反するばかりであった。
藤吉郎はしくしくと調略《ちようりやく》の手をのばしたが、翌年の秋になると、美濃三人衆――稲葉|一鉄《いつてつ》、氏家卜全《うじいえぼくぜん》、安藤伊賀守の三人をも口説《くど》きおとして、味方にすることが出来た。
以前から信長が最も味方につけたがっていた三人だ。
藤吉郎はよろこび、使を出して小牧山に報告すると、信長は、
「あっぱれ、ようした。早速に証人(人質《ひとじち》)を差出させるように手配せよ。受取りには不日《ふじつ》に人をつかわす。わしは今|三河《みかわ》に出陣を思い立ち、支度中であるが、なるべくは証人共を見てから、出陣したい。その運びにいたすよう」
と、さしずしてよこした。何のために三河に出陣するのか、誰を討つためか、わからないが、その前に信長が証人らを見たいというなら、そうしなければならない。
藤吉郎は三人の許《もと》へ使を出し、証人の差出しを督促《とくそく》した。
その証人がそれぞれに到着し、ほとんど同じ頃に小牧山から受取りの人数も到着した。
藤吉郎は両者を引きあわせ、明日出発させることにして、その夜は酒宴などして寝た。それはあたかも七月|晦日《つごもり》の夜であった。
ところが、その夜中だ。
信長から急使が来た。
「明日、井ノ口城を攻める。すでに一手は犬山と鹿《か》ノ子《こ》島の間から木曾川をおし渡って、井ノ口に向った。つづいて宝江《たからえ》からも渡すことにしている。おれは間もなく墨俣に到着するであろう。こうして三方から、井ノ口におしよせるのである。その方、その心得で、勢《せい》をそろえて待て」
という知らせだ。
右を撃つと見せて左を撃ち、上を斬ると見せて下を払い、迅雷《じんらい》耳をおおういとまもなくするのが兵の要諦《ようたい》ではあるが、さすがに藤吉郎もおどろいた。
(殿は、おれまでだまし切っておられたわ。敵をあざむくには、先ず味方をあざむくというが、これじゃな。孫呉《そんご》の肺肝《はいかん》から生まれた人とは、殿のようなお人を言うのであろうぞ)
と、舌を巻きながら、小六を呼んで相談した。
「あっぱれな兵略でござる。こんどこそ、井ノ口城は落ちますぞ。貴殿は勢をととのえ、舟《ふね》をそろえて、殿のお出《い》でをお待ちあれ、われらは敵の様子をさぐり、殿のご軍勢の進みやすきように道をひらいておきましょう」
と、小六は言った。
敵に知らせて防ぐ準備をさせるような結果になってはならない。敵中に踏みこむ小六はわずかに百人ほどの兵をひきいて、ひそかに出て行った。
藤吉郎も貝や太鼓は鳴らさず、篝火《かがりび》も、いつでもうんと焚《た》けるように用意だけして、使番《つかいばん》の者を詰所《つめしよ》詰所、長屋《ながや》長屋に走らせて、口頭で知らせて起こし立て、ひしひしと、信長を迎える準備をととのえた。
払暁《ふつぎよう》、まだ夜は暗く、木曾川から湧《わ》く霧があたり一面をおぼろにこめていた。信長は対岸に達し、藤吉郎のさしまわしておいた舟でわたり、軍勢は浅瀬をおしわたって、城についた。
こんなことには別して機転のきく藤吉郎だ、大鍋《おおなべ》をいくつもかけならべて、粥《かゆ》を煮立てて用意しておいたので、一同それをすすって、気力を回復した。
信長は上機嫌だ。
迎える藤吉郎に、
「急に気がかわっての。三河よりこちらの方がよさそうじゃと思い立って、東に行くつもりがこちらに来ることになった。みなびっくりしとったわ。ハハハ、ハハハ」
と笑いながら言った。
美濃三人衆から差出している証人らにも会って、きげんよくことばをかけ、連れに来ている者共に、
「夜が明けたらば、小牧に行け。万事|留守居《るすい》の者に申しつけてある。如才《じよさい》なくすることになっとる」
と言った。
藤吉郎のすすめる酒を軽く二、三ばい傾け、湯漬飯《ゆづけめし》を三膳《ぜん》ほど食べおわった頃、夜が白《しら》んで来、その頃、小六が帰って来た。
「ここから、井ノ口城下まで、一敵も見えず、敵は油断しきっている」
というのである。
藤吉郎がそれを信長に言上すると、
「小六を召せ」
という。
小六は去年いく度か斎藤勢がこの城を攻め潰《つぶ》そうとして押し寄せた時、いく度も手勢をひきいて敵陣に忍び入り、その度に散々に打撃をあたえたばかりか、よき敵を討取ったので、信長はわざわざ小六を小牧に召して引見《いんけん》し、五十貫の知行《ちぎよう》をあたえたことがあるのである。
早速に小六に告げて、出頭させた。
小六が庭先に来て、雨落《あまおち》のところに両手をついてかしこまると、信長は席を立って縁ばなに出た。
「久しいの。まめで珍重《ちんちよう》じゃ。もの見して来たとの。井ノ口まで一兵も敵の姿を見ず、油断しきっている由じゃの」
と、一気に言った。
「仰せの通りでございます。一兵も見ませぬ。よほどに気をつけて見てまいりましたれば、よも見落しはないと存じます」
「珍重。おれもそう思うたればこそ出て来たのじゃが、それを聞いて一しお安心した」
と言って、ふと笑って、
「どうじゃな、小六、そなたはなかなかの戦《いく》さ上手《じようず》じゃと藤吉郎がいつも言うてよこすが、こんどのことをどう見る。城はおちるじゃろうか」
と聞いた。
小六も微笑した。
「落ちましょう。もはや、内実《ないじつ》は井ノ口城ははだか同然となっております。持つものではございません。ここから井ノ口までの間に敵の姿を一兵も見ぬというのは、はだかの者のからだにはノミもシラミもおらぬようなものと存じます」
信長は肩をゆすって哄笑《こうしよう》した。
「さすがにわれは聞く通りの古《ふる》つわものじゃ。はだかにはノミもシラミもいぬとは、うまいことを言うわ。よし、さらばほんとのはだかにしてくれよう」
小六に刀《かたな》一ふりくれて、退らせると、すぐ出発した。藤吉郎は城の留守居《るすい》として残留させられたが、野武士らの大部分は信長に引き連れられた。
「火つけ、強盗《がんどう》、いろいろとせねばならぬ。本職共の方があざやかに行こう」
と、れいの調子で言ったのである。出発の時は、まだ日は出ていなかった。
夜明けの霧をついて、三方面から井ノ口目がけて疾風のように進んだ。一手は城の背後の瑞竜寺《ずいりゆうじ》山にのぼって旗を立て、城を眼下に見下ろした。
諸勢が井ノ口城下に到着する前に、野武士勢は到着し、城下の町に火をかけた。
たしかに、斎藤氏はもう本質的にははだかになっていたに違いない。城下の町の各所から一時に火の手が上り、炎と煙が渦を巻いておこってから、城でも気づき、在所《ざいしよ》在所にいる家臣や被官《ひかん》らも気づいたのであるから。
火の手の上る頃から、風が出た。「その日は以《もつ》ての外に風吹き候《そうろう》」と信長公記《しんちようこうき》にあるから、ずいぶん強い風であったのだ。見る見る火の手はひろがり、忽《たちま》ちの間に城下は焦土となり、城ははだか城になってしまった。
しかし、こうなっても、なかなかの名城だ。城は城下町から稲葉山に相当上ったところにある。
その道が三つあるが、いずれも崎嶇羊腸《きくようちよう》という漢語のふさわしい嶮路《けんろ》だ。切所《せつしよ》切所にかまえられて、あえぎあえぎ登って行くところを要撃されては、損害が大きい。ここまで攻めつけた以上、そんな性急な攻め方は、信長はしない。
その日は兵共に休息させ、翌日は早朝から、城下の要所要所に鹿垣《ししがき》を結いまわして、一兵も城から出られないようにした。どうせ糧食の貯蔵も多くはないと見つもったから、干し殺してくれようと思ったのだ。そうなるまでに、心がくじけて降伏すれば、これまた幸いというものだ。
鹿垣は半日ほどで出来上って、皆のんびりと中食《ちゆうじき》しているところに、美濃三人衆が次ぎ次ぎにやって来た。陣中のことであるから、いずれも甲冑《かつちゆう》をつけ、兵をひきいて来た。
さすがに勇名を称せられた三人も、この迅速な作戦には肝をつぶした表情だ。
「これはこれは、お早いことであります。ご奉公はじめのご出陣にお間に合いませず、面目《めんもく》なく存じます」
と、あいさつした。
「知らせなんだのじゃから、それはしかたがない。しかし、おれがやり方はいつもこうじゃ。心得ておくよう」
と、信長は応答した。
信長は滞陣をつづけたが、その見通しにあやまりはなかった。
城内には兵糧《ひようろう》の貯蔵がほとんどない上に、背後の瑞竜寺山に織田勢がいて、いつも眼下に城を見下ろして威圧している。気力が萎《な》えすくんで、十四日には竜興《たつおき》は降伏を申しこんだ。
「城をあけわたして退散するから、ゆるしてもらいたい」
というのである。
信長はこれをゆるし、翌日、竜興は城を出、長良川で舟にのせられ、六キロほど下った中島で舟を上り、江州《ごうしゆう》の方に向って退去した。
竜興の祖父道三が京都から放浪して来た一介《いつかい》の旅人の身で、権謀術数《けんぼうじゆつすう》のかぎりをつくしてこの城を乗っとり、美濃一国を掌中にしたのが、天文十一年五月二日、その時から二十五年目、三代を経て、斎藤氏はほろんだのである。
[#ここから5字下げ]
(信長の稲葉山城略取は、信長公記をはじめ古い書物には皆永禄七年八月十五日とあり、諸年表もすべてそうなっており、ぼくも織田信長伝を書く時これに従ったが、当時のさまざまなことを考え合わせてみると、十年八月十五日でなければ辻褄《つじつま》が合わないことを、この小説を書きながら発見した。くわしくはもっと調べてみないとわからないが、小説のこと、一応こうしておきます)
[#ここで字下げ終わり]
井ノ口城を自分のものにすると、信長は小牧山を引きはらって、この城に移った。もともと、小牧山城には美濃経略のために移ったのであるから、井ノ口城が自分のものになればここに移るのは当然のことだ。
井ノ口城、一名稲葉山城がこの頃から岐阜《ぎふ》城と言うようになったのは、信長の命名である。
この命名を僧|沢彦《たくげん》の『岐阜山記』では、沢彦は信長に頼まれていろいろと工夫しているうち、中国上代の古公亶父《ここうたんぼ》という人物は、中国西方の岐山《きざん》というところの小|諸侯《しよこう》だったが、数代徳を積むことによって、子孫文王の代になって名が天下に聞こえ、その子武王の時、殷《いん》をほろぼして天下をとり、周王朝をはじめたという故事を思い出し、岐阜と命名したとある。阜《ふ》は岡の同義語だから、岐阜というも、岐山というも同じ意味だ。
しかし、沢彦さんは中国の故事だけ書いて、日本の方を書くのを省略している。岐阜という名は、沢彦さんの命名以前に古い地名としてこの地方にあったことが、古い書物でわかる。それは信長以後のように広い地域の名ではなく、小さい村名としてたしかにあった。そういう地名があったので、沢彦さんは中国の故事とも考え合わせ、
「こりゃ、いい名前がありますわい。唐土にかようかような故事がごわりましてな」
と、信長に言ったところ、もともと天下取りの抱負を持っている信長だ。
「気に入った。わしの気持にぴったりでおざる」
と、決定したのであろう。そう明記したものはないが、諸般の事情を綜合《そうごう》すれば、こうとしか判断のしようがない。
美濃を手に入れ、岐阜に居城を移した信長は、その天下とりの心は燃え立つ一方であったが、時機はまだ熟したとは言えない。信長の心は熟し切っているが、客観的情勢が未熟である。
しばらく野心には蔽《おお》いをかけて、周囲の情況を綴《つづ》くり合わせることにする。
美濃を手に入れると、武田家の勢力と膚《はだ》をすり合わせることになった。この頃信州は武田信玄のものになっている。美濃の東境に接しているのだ。
信玄は摩利支天《まりしてん》の再来といわれるほどに戦《いく》さ上手《じようず》な人物であり、その兵は精強|絶倫《ぜつりん》、勇士猛卒雲のようにいる。最もおそるべき勢力である。こちらが十分の力の出来るまで、決して衝突してはならない相手だ。
せっせとごきげんを取って、好《よし》みを結び、ついには、両家の親しみをさらに固めるためという名目で、妹が他家に嫁《か》して生んだ女《むすめ》を養女として、信玄の次男の勝頼に入輿《じゆよ》させて、姻戚《いんせき》となった。その上また、息子《むすこ》の奇妙丸(信忠)と信玄の末女の松姫というのとの間に婚約を結んだ。二重に保証をかけたのだ。
三河の松平元康との間も一層親しみをかためるために、元康の長男信康と自分の娘の五徳《ごとく》とを結婚させた。
こうして、背後をかためておいて、伊勢に出兵し、北伊勢地方を切り従えた。今はもう信長|麾下《きか》の屈指の将領となっている藤吉郎は、北伊勢にも出陣して功を立てているが、その功もこの次の功にくらべればものの数ではない。
人間の運命はゆるやかな坂をゆるやかに上るようなものではない。刻苦《こつく》し、刻苦しても、ずり下り勝ちである期間がつづき、次には一寸きざみ五分きざみにどうやら這《は》い上って行ける時期がつづくが、その次の期間には順風満帆《じゆんぷうまんぱん》、急カーブをえがいて運命が上昇し、することなすこと好結果となり、自らも驚くほどの期間が来る。この機運に最もたくみに乗れた者が英雄となり、大成功者となるのだ。
藤吉郎はまさにその期にさしかかりつつあるのであった。
岐《わか》れ道
墨俣《すのまた》城は信長の美濃経略のために築かれた城だ。すでに美濃が信長の手中に帰した以上、その意味では無用な存在になったわけだが、今や尾州に合わせて美濃全部、伊勢の北半分を領有している信長としては、やはりここに城があった方が便利だ。ことあって、伊勢方面に出陣でもしなければならない時の足だまりになる。だから存置されて、依然、藤吉郎にあずけられた。
藤吉郎は岐阜城下にも屋敷をもらったので、ここに半分、岐阜に半分という生活を送っていた。
この頃では彼の家来の数も大分ふえて、四、五十人はいる。皆前に火縄奉行であった時に主従の約束をしたあの百姓の次三男だ。これはいつも墨俣か岐阜の屋敷にいる者共で、いざ戦《いく》さがはじまるとなると、この数倍は動員出来る。以前からの契約の者共もいるが、その者共をなか立ちにして、今の身分になってから手なずけた。そのほか知行地《ちぎようち》の百姓共もいる。かれこれ合わして三百人はくり出せるはずである。
また蜂須賀小六らのように、織田家に臣属《しんぞく》したもので、寄騎《よりき》として藤吉郎に所属している者も相当いる。これらもそれぞれ手兵をもっていて、それが三百人はある。だから、総勢では六百人は出せるわけであった。
このほかに、ねねの父の杉原定利、伯父《おじ》の杉原家次、ねねのいとこの浅野弥兵衛、姉の婿《むこ》の一若《いちわか》等、みな信長に頼んで組下《くみした》にしてもらった。一若も今では木下弥助と名のって、士分《さむらいぶん》になっている。
これらの者の大部分は墨俣にいる。ただ、ねねと小一郎は岐阜の屋敷に来ている。信長から要求があったわけではないが、女房と弟とを岐阜におくことは、人質の意味になって、信長のよろこぶところであるはずと見当をつけたのである。
この時の藤吉郎の知行は三千石だ。墨俣築城の功、見事に番をし通した功、敵地をたえず恐怖させ動揺させた功、美濃三人衆を味方に引き入れた功、伊勢での戦功、それらによってもらうようになったのである。
十一年前に小者奉行《こものほうこう》に出た頃のことを考えれば、夢のような出世であり、夢のような収入であるが、実を言うとあまり生活は楽でない。身代《しんだい》不相応に扶持《ふち》しなければならない家来共が多い上に、なお扶持したいし、さらにまた人に大いにものをやりたいからだ。
「少しは暮しむきのことも考えて下され」
と、ねねの父兄弟《おやきようだい》や姉婿などは言う。
「そなたらがそういうのはもっともではあるが、武士はいつもいざ鎌倉ということを忘れてはならぬのじゃ。ことさら、殿様のご威勢は今や日の出、どれほど大きくのびひろがりなさるかわからんと、おれは見ている。出来るだけ仰山《ぎようさん》扶持人をおいとかんと、人にすぐれた手がらは立てられぬ。人にすぐれた手がらを立てさえすれば、殿様は必ずご加増《かぞう》下さる。今少々の楽を考えるより、末に大きく楽しむことを考えようではないか。決して損にはなりはせんぞよ」
と、藤吉郎は言い聞かせた。
このことばにうそを言っているつもりはないが、最も信ずべきこの連中にも、さらに底の本心は言っていない。これで武勇すぐれた肉親の者が多いか、相当数の忠義な譜代《ふだい》の家来共でもあれば、こうまで扶持人の数をふやすこともいらなければ、わずかな手柄にも必ず大いに報《むく》いてやるというほど気をつかわねばならんこともないのだが、肉親の者は小一郎一人、しかもその小一郎はまだ年が若く武辺《ぶへん》にふなれ、ねねの縁類や姉婿は武辺はぱっとせんし、譜代の者は皆無と来ては、数でおぎない、褒美《ほうび》で釣って精一ぱいの働きをさせるよりほかはないと思っているのである。
(殿様を天下とりに仕立て上げ、おれが大名にしてもらうには、これよりほかに手はない)
と、火のように強烈なものが、いつも胸をやいている。
彼の岐阜の屋敷は、稲葉山の上り口から少し離れたところにあった。以前斎藤家の頃には、平士《ひらざむらい》らの屋敷のあった地域だということだが、それらの屋敷は、去年の城攻めの時、全部焼けてしまった。今の織田家は斎藤家の三倍近い身代になっているから、家来の数も比例して多い。かつての平士の屋敷町も上士の屋敷町にしなければ、追っつかないのである。
藤吉郎は千坪近くの邸地をもらって、屋敷を営んだが、彼自身の居宅は至って狭い。邸地の真中に五間ほどの家を二軒建て、それを廊下でつないで、前の方を表として公務を処理したり、知行地《ちぎようち》の事務をとったり、来客に接したりする場所に使い、いつも小一郎と数人の若党、中間《ちゆうげん》がつめている。ねねの住《すま》いは裏の家だ。お浅もここにいる。いずれも草ぶき屋根の、ごく粗末な家づくりである。彼ほどの知行とりで、こんな粗末な家に住んでいる者はない。
この二棟を中心にして、邸内にはいく棟も家がある。家来や小者《こもの》共の長屋があり、墨俣から用事で泊りがけで来る連中の宿所があり、厩《うまや》もあれば、倉もあって、その数十ほどもある。それでも空地があって、それは菜園になっていた。
信長が岐阜城をうばって居城とした時から十か月、永禄十一年六月、濃尾《のうび》の平野に灼《や》けつくような日のつづく頃のある日のこと、ちょうど岐阜の屋敷に来ている藤吉郎のところへ、信長から使が来た。急ぎ登城《とじよう》せよというのである。
「かしこまりました。追っつけ登城」
大急ぎで支度して伺候した。
信長はすぐ前に召し出した。
信長の前には、他国者らしい、見なれない男がすわっていた。おり目正しい浅葱《あさぎ》のかたびらに同じ色の肩衣《かたぎぬ》に小ばかま、白扇をにぎって、端然としてすわっていた。年の頃四十、風采《ふうさい》のよい人物である。
「藤吉郎、これは明智十兵衛光秀《あけちじゆうべえみつひで》と申して、元来は当国の者で、土岐《とき》の一族で、わしが奥《おく》とゆかりのある者だ。久しく他国に行っていたが、この度、さる高貴な方のお使として来た。それがどんな方かは、あとで十兵衛に聞けい。その方に接待を仰せつける。よくもてなせ」
と、信長は藤吉郎に言って、相手に、
「木下藤吉郎という者じゃ。そなたのことは万事心得ている。一緒に退るよう」
と言って立ち上り、さっさと奥へ入ってしまった。
ふたりはあいさつをかわし合った。
その口のきき方と身ごなしを見ても、この男が実に上品で、ものなれて、いかにもゆったりとしていることを、藤吉郎は感じた。
「ともあれ、いろいろなことは、あとでうかがいましょう。とりあえず、こうお出《い》で下さいますよう」
連れて、下城した。
信長は接待役を言いつけはしたが、どこで、どんな風にしてとは言わない。万事自分の判断でやるよりほかはない。家へ連れて行こうと思ったのであった。
大手の門を出たところで、供の若党《わかとう》を呼びよせ、
「われは走り帰って、小一郎に、殿様の仰せつけによって、ご使者を家にお泊めすることになった故、その心得にて支度して、待っているようにと申せ。われのあとを追ってかえるのじゃ故、急げと言えい」
と、さしずした。
「かしこまりました」
城はまだ普請《ふしん》なかばだ。どこもかしこも、材木や巨石がごろごろと投げ出され、かかり役人や人夫らがいそがしく立働いている。その間を、若党は尻《しり》の見えるほど高々と裾《すそ》をまくり上げて、飛んで行く。
藤吉郎は明智の供の者の出て来るのを待つつもりで立ちどまっていた。明智も黙って立って、工事人夫らの働いているのを眺めていた。おちつきはらった様子だ。
しばらく待ったが、供の者は出て来ない。
「お供衆は遅うござるな。拙者《せつしや》見に行ってまいりましょう」
といって、気軽に行きかけると、
「しばらく」
と、明智はとめて、
「拙者の供の者をお待ち下さったのでありましたか。それはそれは、申訳ござらぬ。拙者には供の者はないのでござる」
微笑を浮かべ、おちつきはらっていう。荘重といいたいほどのおちつきようだ。
「ほう」
ちょっと毒気《どつき》をぬかれた。人品《じんぴん》といい、服装といい、態度といい、供まわりの二、三十人はあるにちがいないと思われたのだ。しかし、こんな際、あまり意外げな様子を見せては気の毒だ。すぐさらさらと言った。
「いや、そうでござるか。それではまいりましょう」
工事のために荒れきっている、ぐねぐねとした坂道だ。みいみい蝉《ぜみ》がさかんに鳴きしきっている。その坂道をおりて行きながら、明智は、
「恥かしながら、拙者《せつしや》は牢人《ろうにん》の身でござるので、供まわりをそろえる力がなく、単身まいったのでござる。まことに失礼いたしました」
と、鄭重《ていちよう》にわびた。
「おわびになることはござらぬ。拙者が勝手にかんちがいしたのでござる。人に運不運はまぬかれぬところ、運に逢わずば牢人もいたす。拙者も唯今《ただいま》では当家につかえ、小城《こじろ》ながらおあずかりしていますが、数年前までは小者《こもの》の身分でありました。その前はもちろん牢人。武士が牢人を恥じることはないと存ずる」
どうしたことから、自分の昔の身分がこの男の耳に入るかも知れぬ、人の口からそねみ半分、悪口半分に言われて知られるより、わが口からざっくばらんに打ちあけておいた方がよい、第一、なにかことのあった時、性根《しようね》がすわると思ったのであった。
相手はおどろいたにちがいないが、少しも様子には出さない。
「ああ、そうでござるか。数年の間にお小人《こびと》の身分からお城をあずかりなさるほどのご立身とは、おどろきました。ご器量のほどさこそと感じ入ります。それにしても、上総介様にお目がおわせばこそのことと思わないわけにまいりません。良禽《りようきん》は木をえらんで棲《す》み、良士は君を選ぶと申しますが、お年若にして名君にご奉公なされた貴殿が、拙者うらやましくござる。貴殿のお目ききのたしかであったことは申すまでもござらぬが、ご運もまためでたかったのであろうと、これまた羨《うらや》ましく存ずる。拙者は今年はや四十にまかりなりますが、才つたなく、運またつたないが故に、良主にめぐり逢わず、ろくろくとして牢人の身の上でござる」
荘重すぎて、単刀直入《たんとうちよくにゆう》にものを言わないところは、気取っているようで、いささか気に入らない。いつも万事ぱっぱっと要領を得るをよしとしている身には、もどかしくもある。しかし、ものしずかで、語尾明らかに、きれいな話しぶりであることは認めないではいられなかった。何やら悲愴《ひそう》なひびきのあるのにも、胸を打たれた。
「深いご事情がおありになる様子、まかりかえって、落ちついてうかがいとうござる」
と言って、話を打ちきった。仕官をもとめている牢人なら、殿様にお願いしてやってもよいと思ったし、なんなら、おれが召しかかえてもよいと思った。おれが知行を半分やったら、いやは言うまい。この風采《ふうさい》なら、それくらいの値打はあろうとも思った。
帰ると、門前に小一郎が出ていて、鄭重《ていちよう》に出迎える。
「おいよ。お迎えの支度出来とるか」
もともと気さくにしか口をきこうとは思わないが、この明智十兵衛という男の前では、とりわけざっかけない調子でものを言いたくなる。ものはこんな調子で言った方が通りが早いぞと教えてやりたい無意識な気持があるのかも知れない。
「万事ととのうております」
「おお、そりゃよかった。急なことじゃで、どうじゃろうかと、少々案じていた」
と言って、明智に、
「これは拙者《せつしや》の弟で小一郎と申すものでござる。お見知りおき下さい」
「ああ、これはこれは。拙者は明智十兵衛と申す牢人者《ろうにんもの》。さる方のお使をうけたまわって、上総介様のところへまいりましたところ、上総介様の仰せで、貴殿の兄上のお世話になることになりました。よろしくお願いいたします」
鄭重《ていちよう》に、ながながとあいさつする。
「はあ、さようで。はあ、はあ……」
小一郎は少々へこたれてへどもどしている。こんなしかつめらしいあいさつをする人間に出逢ったことは生まれてはじめてであろうから、無理はないが、せめておれの三分の一でも度胸があればこうあるまいと、少しおもしろくなかった。
小一郎は表の家の一番奥で、一番よい座敷を、明智のために用意していた。
小一郎とともについて来た藤吉郎は、
「ここをご滞在中のお居間にお使い下され。むさいところでござるが、これで拙者の住《すま》いでは第一等の座敷でござる。殿様がお出で下されたとて、ここにお通り願うよりないのでござる。そのおつもりで、がまん下され。ハハハ、ハハハ」
と、言った。大いに親しみを見せて、闊達《かつたつ》に言ったつもりなんだが、明智はほんの少し微笑しただけであった。
「まことに、ご鄭重なこと、恐れ入り申す」
どうにも心に裃《かみしも》を着ているようで、さっぱりしない。勝手にせいと言いたくなるようなところがある。親しみにくい人がらじゃな、これじゃけ、この年まで牢人でいなければならなかったのではないかと思った。
「ともあれ、おくつろぎ下され。ご用のことは、なんなりとも、小一郎に仰せつけ下され。拙者《せつしや》はあちらに退《さが》ります。しばらくしてまいります」
退って、ねねのいる棟に行った。
ねねは迎えて、出仕着《しゆつしぎ》を着かえさせたが、ふだん着ではなく、外出着であった。
「ほう。どないして、こげいなきれいなべべを着せるのや」
「お客様をお連れなされたのでございましょう」
「ああ。そうか」
すわって、ねねが茶を淹《い》れて来るのを待っている間、表の客のことを考えた。
(殿は元来は当国の者で、土岐《とき》の一族であると仰せられたな。当国に明智という土地があることはあるな。そうじゃ、殿は奥方に由縁《ゆかり》のある者じゃとも仰せられたわ。やあ! 思い出したわ! 奥方の父君道三殿の後妻《のちぞい》は可児《かに》郡明智城主の明智|光継《みつつぐ》殿のご息女で、その間で生まれられたのが奥方であったわ。とすると、あの客人はこの明智氏に関係《ゆかり》のある人に違いないわ。しかし、まさか奥方のご兄弟ではあるまい。それほどの人の接待を、おれなぞに仰せつけられるはずはなかろうでな。ま、その明智の末の一族というのであろうか……)
茶が来た。
のどがかわいている。うまかった。
「今一つ」
汲《く》んでもらって、こんどはゆっくりと味わいながら喫《きつ》していると、ねねが言う。
「お客様はなんと仰《おつ》しゃるお方でございます」
「明智十兵衛」
と答えて、信長から聞いたこと、今考えたことを全部語って聞かせた。
「奥方の阿母《おふくろ》様のお実家《さと》の明智家は、道三様がご長男の義竜《よしたつ》様と合戦なされた時、連《つら》なるご縁で道三様に味方遊ばしましたので、道三様がお討死なされたあと、義竜様に攻めほろぼされてしまったのでございましたね。たしか」
「そうかの、道三様がおのがむすこと合戦してついに討死された頃は、わしはまだ遠州にいた。道三殿がむすこに殺されなされたとだけ聞いて、その他のこまかなことはてんと聞かなんだわい」
「わたしも女のことではあり、まだ子供でありました故、しかとは知りませんが、たしかそうであったと覚えています。もしそうであったら、お客様はその時からのご牢人《ろうにん》でございましょうね。長いこと! もうかれこれ十二、三年になりますわな」
指おり数えて、ねねは言う。
「うむ。うむ」
とうなずきながら、考えていた。この戦国の世に、武士たる者が十二、三年も牢人をつづけていたとすれば、よほどのたわけか、よほどのえら物《ぶつ》じゃな。しかし、たわけではなさそうな、癖はあるようだが。とすれば、えら物か……。
「ともあれ、顔出して、いろいろと聞こう。もうよっぽど落ちつきなされた頃であろうでや」
と言って、腰を上げた。
客はかたびらに小ばかまをはいた姿になっていた。つまり、肩衣《かたぎぬ》をとっただけなのだ。
「もそっとくつろぎ召されよ。はかまもおぬぎになってはいかがでござる。今日はまたけしからぬ暑熱。拙者《せつしや》がはかまはいているのがお気づまりならば、ぬぎます。貴殿もおぬぎ下され」
と、大いに気をきかせて言ったのだが、
「ありがとうござる。しかし、拙者はこの方が勝手でござる。貴殿は拙者におかまいなく、お脱ぎ下さりますよう」
と、答えた。
なんともはや、つき合いにくい。勝手にしやがれと思った。
もっとも、暑さなどあまり苦にはならない風だ。むんむんするほど暑い日なのに、ゆったりと端坐している額には汗一つかかない風である。
「さて、お近づきには相なりましたが、いろいろとうかがいたくござる……」
といった調子で、語りかけ、問いかけた。
相手は一々答えた。しくしくとした語りぶりであるが、明晰《めいせき》をきわめている。いかにもあたまのよい感じであった。
先ず素姓《すじよう》については、こう答えた。
「いかにもご推察の通り、拙者《せつしや》は当国|可児《かに》郡明智の城主であった明智一族の者でござる。拙者の父光綱は、明智城主光継の長男に生まれ申したが、若くしてみまかりましたので、父の次弟光安が家を相続して、次の城主となりました。拙者はこの叔父《おじ》に幼時より養われていたのでござる。上総介《かずさのすけ》様の北の方の母君は、祖父光継の三女で、拙者の父の妹でござれば、つまり、拙者と北の方とはいとこ同士《どち》にあたります。先程、上総介様が貴殿に、拙者のことをおれが奥とゆかりある者≠ニ仰せられましたのは、このことであります。
ご承知でもござろうが、明智家は所縁《しよえん》によって道三入道に味方しましたために、道三殿滅亡の後、義竜殿から攻め立てられ、城おちいり、光安も、その弟光久も討取られ、家ついにほろんだのでござる。
拙者はその時、叔父二人に頼まれ、叔父らの遺子と家の再興をたくせられて、城を落ちたのでござる」
次に、こんど高貴な人の使者をうけたまわって来たことについて答えたが、その高貴な人とは、次の足利《あしかが》将軍家を嗣《つ》ぐべき人、足利|義昭《よしあき》公であると言った。
彼がどんなことの使命を託せられて来たかを述べる前に、この時代の京都政界と足利将軍家とがどんな状態になっていたか、簡単にご承知願わなければならない。
足利|幕府《ばくふ》はこの時まで十四代になっているが、その間三代|義満《よしみつ》と六代|義教《よしのり》の代がいくらか振っただけで、あとはすべて振わなかった。前代の鎌倉幕府にくらべると、微弱きわまる政権であった。とりわけ、八代の義政《よしまさ》の時におこった応仁《おうにん》の乱以後は、地方政権に堕《だ》してしまっていた。その支配のおよぶのは京都とその近郊だけの、ごく狭い範囲であった。それがもう百年になっている。
この百年の間に七人の将軍が出ているが、貧すれば鈍するで、血で血を洗う一族の争いがくりかえされ、殺された将軍が一人、京都から駆落《かけお》ちした将軍が四人も出ている有様だ。
しかも、乱世の下剋上《げこくじよう》の気風はここに最も強烈で、将軍の権勢は管領《かんれい》にうばわれ、管領の権勢は執事《しつじ》にうばわれ、執事の権勢はその家宰《かさい》にうばわれるという有様だ。将軍にはもう実際にはなんの力もない。
しかし、世間の人々には、まだ尊敬はされていた。この乱世を統一して秩序を回復するには、将軍を中心にした政府を再建するのが一番手近いと考えられていたからである。
この時から三年前の永禄八年、十三代の将軍|義輝《よしてる》が管領である阿波《あわ》の細川家の家来|三好《みよし》家の家宰松永久秀らに攻め殺されてしまった。陪々臣《ばいばいしん》に殺されたのだ。
松永らは後任の将軍として、義輝のいとこ義栄《よしひで》を阿波から連れて来て、朝廷から将軍|宣下《せんげ》を受けたが、京都には松永の敵党が充満しているので、京都に入ることが出来ず、義栄は摂津《せつつ》地方をあちらこちらと居をうつしている状態である。
殺された義輝には弟が二人いた。二人とも仏門に入り、兄は|周※《しゆうこう》と法名していたが、これは義輝の殺された時、松永らに捕えられて殺された。弟は覚慶《かくけい》といい、奈良にいたが、巧みに脱走して難をのがれ、家の再興を志して還俗《げんぞく》した。これが義昭である。
義昭は近江《おうみ》の佐々木六角氏と若狭《わかさ》の武田氏とを頼んで、逆賊討滅・家再興を依頼したが、武田は力微弱で好意は持っていても力にならない。そのうち、六角|承禎《じようてい》は姦悪《かんあく》な男で、かえって松永らに心を通じて、義昭を討取《うちと》ろうとした。
義昭は夜に乗じて湖上を舟《ふね》で北走し、越前《えちぜん》に入って一乗谷《いちじようがたに》城の朝倉氏に身を寄せた。
朝倉は力は十分にあり、義昭を尊敬して新しくご殿などこしらえてあてがい、大いに好遇はしたが、かんじんの逆賊討滅・家再興にはまるで熱意がない。
「まあまあ、ゆるゆるとお待ち下さい。かようなことはあせってはならないものでござる」
といっているばかりで、早くも一年半たってしまった。
明智十兵衛が義昭に知られたのは、義昭のこの期間であった。
明智は言う。
「拙者《せつしや》はこの数年前はじめて牢人《ろうにん》の身分を脱し、朝倉家につかえ、五百貫の知行《ちぎよう》をとっていたのでござるが、義昭公のおつき衆細川|藤孝《ふじたか》殿が歌道の達人であられますので、弟子入《でしい》りして教えていただいていました。
実はこの以前から、拙者は朝倉家で身を立てることに望みを失っていました。たとえ数年の間なればとて、主従の礼をとり、その恵みによって生をつないだ身として、故主の家のことを悪う申してはならぬのでござるが、事実を申さねば話が通じませぬ。お聞き苦しくはござろうが、聞きなおしてお聞き下さい。朝倉家は、いかに器量があればとて、いかにつとめようとて、他より来て奉公した者の立身《りつしん》の出来る家ではないのでござる。名家の位《くらい》だおれ、旧家の格式故例だおれで、身動き出来ぬほど窮屈《きゆうくつ》なところとなっています。その上、ご当主の義景《よしかげ》公が古い名家にはよくある習いでござるが、武道のことより、たとえば和歌・連歌《れんが》、たとえば音曲《おんぎよく》、たとえば蹴《け》まりなどの、公家《くげ》や長袖《ながそで》の好みなさるようなことばかりがお好きであります。拙者《せつしや》も風流文事《ふうりゆうぶんじ》はずいぶんきらいではござらぬが、武士としてそのようなわざだけで主人の気に入られて立身したくはござらぬ。武士である以上、やはり武功によって身を立てとうござる。
さて、どこへ行こうぞと思いめぐらして、ご当家に目をとめて、上総介様のなさりようを見ていました。上総介様が、過ぐる年今川義元殿を討取って快勝を得られたことは、拙者その頃から知っていましたので。しかし、その後は別段にかわったことも聞かず数年たっています。はてな、それではあの桶狭間《おけはざま》とやらの大勝利はまぐれあたりであったのかとずいぶん気をおとしていたのでござる。
ご家来衆として、お気を悪うされるでありましょうが、何せ拙者が明智にあって間近く見ている頃の上総介様のお行状はかぶき過ぎまして、あまり世間の評判がようござらなんだし、その後十年以上もの間、遠国にあって、わずかにうわさとして聞こえて来るほどのことしか耳にせなんだのでござる故、かように不安を抱いたのも、凡眼の者として無理ならぬことと、おゆるしいただきたくござる。
しかるにでござる。昨年の八月、斎藤氏を破り、追いおとし、濃州《のうしゆう》全部をお手におさめられ、ここの城にお移りになったということが、雷《かみなり》のごとく聞こえてまいったのでござる。
あー
と拙者《せつしや》は思いました。あたまのてへんを、ドシンとたたかれた気持でござった。
ああ、桶狭間の勝利はまぐれ勝ちではない、上総介様こそ、当代の英雄|豪傑《ごうけつ》であられる、きっと、益々大きゅうのび上られるお人に相違なし、と考えるようになったのであります。
拙者が越前を去って、上総介様にご奉公申したいと決心をかためたことは申すまでもござらんが、義昭公のこともまた考え申したのでござる。
朝倉家が義昭公のために奮発する時を待つは、百年|河清《かせい》――あ、いや、富士山頂の白雪の消えるのを待つようなもの、木曾川の水の涸《か》れるのを待つにも似ている、百年待ったとて、とうていはじまりはせぬ。こんな家、こんな人を頼みなさるより、織田上総介様をこそ頼まるべけれ、今の上総介様のお心のうちには、必ず京に出て旗を立て、天下の乱をしずめ、正しい世に返そうとのお心が渦を巻いているに相違なしと見たのです。それで、ある夜、細川|藤孝《ふじたか》殿に拙者の存念《ぞんねん》を申し上げました。
拙者も近々に当家から暇をもらい、織田家を頼る量見でござる。織田殿の室家は、拙者といとこにあたらせらるれば、頼ってまいったらば、よもすげなくは致されるまい。つきましては、義昭公のご存念でござるが、これも当家では到底達せられますまい。織田殿をこそお頼みになるべきではありますまいか
藤孝殿は、そうかも知れぬ、よいことを聞かせてくれた、よくよく義昭公ともご相談してみようと仰せられ、その日は拙者《せつしや》帰りました。
すると、その翌日、藤孝殿からお使があって、急ぎ来てくれよとのことでありましたので、早速にまかり出でますと、義昭公は拙者をご前に召され、
その方がしかじかと藤孝に申した由を聞いたが、その方、余《よ》がために織田家に余の志《こころざし》を通じてくれまいか
と、仰せられたのであります。
拙者はお引受けいたして帰り、ご当家の北の方に便りをいたし、しかじかにて越前の国にて奉公していますが、当家にては末々もおぼつかなければ、上総介《かずさのすけ》様にご奉公いたしたい存念でございます、お取りなしいただけまじきや、ひとえに願い申すと申し送りましたところ、ほど経てお便りをいただきました。その方《ほう》のみならず、その方のいとこであり、わたしにもいとこである光俊・光忠もめでたく存生《ぞんじよう》とのこと、明智の家は亡びつくしてしまったかと、まことにかなしく思っていたに、うれしいことである。早速に上総介様にお願い申し上げたところ、本人の器量を見た上で取り立て得させるであろうと仰せられた故、急ぎ頼ってまいるようというご文面でありました。
これで、美濃へ帰っても、先ず落ちつき先は出来たと、拙者は天にも昇る思いとなりましたが、こんどはどうして朝倉家を立ちのくべきか、その工夫がつきません。拙者は別段朝倉家で珍重《ちんちよう》されている身ではありませんが、奉公人が暇をほしいといえばくれしぶるのが世の習い、といって無断で退去いたせば討手《うつて》がかかるは必定。
心をなやましていますと、拙者の運のひらける時が来たのでありましょうか、おりもおり、拙者のことを義景公に讒言《ざんげん》した者があり、長《なが》のお暇をたまわったのでござる。
これ幸いと、ひそかに義昭公にお目通りし、上総介様へあてたおん直筆のご書状をいただき、一乗谷《いちじようがたに》を立退いて、真直《まつす》ぐに当地へまいりました。本日朝、到着して、その旨《むね》をお役人まで申し出でましたところ、上総介様は早速にご引見下され、拙者の身柄をお引受け下されました。義昭公のご書状も受取らせ給い、拙者の口上を子細《しさい》にお聞き下されました。ご返答はまだうけたまわりませぬが、終始ご機嫌のおよろしかったこと、お問い返し下されたおことばなどによって拝察いたすに、必ずお引受けたまわるでありましょう。このように大役をはたし、実は拙者、本日はまことに心うれしいのでござる」
と、ことばを結んだ。
うれしいならうれしいような顔がありそうなものであるに、なにかしかつめらしい顔だ。とうてい、うれしいという顔ではない。それに今や牢人《ろうにん》ではなく、ご当家に召しかかえられたのではないか、それを今まで黙って牢人のようなことを言って、妙な性分の男だと思った。
それはさておき、今聞いたことは重大だ。
次代の将軍となるべき資格を持つ義昭が殿様の力を頼んで、逆賊征伐、足利《あしかが》家再興をしたいというのだ。この場合の足利家再興とは、義昭が将軍になることを意味する。
足利家に義昭などという人物がいたことなんぞ、藤吉郎は知らなかった。藤吉郎が知らなかっただけでなく、天下の人大方は知るまい。しかし、そんなことはどうでもよいことだ。大事なのは、そんな人がいて、都に上《のぼ》って将軍になりたがっており、その人が殿様の力にすがりたいと切望していることだ。
(殿様はきっと大へんなお喜びやろ。棚からぼた餅《もち》いうか、鴨《かも》が葱背負《ねぎしよ》って来たいうか、そんなもんやからな)
一体、信長の力量・才幹・野心は、都に旗を樹てて天下に号令するに十分なものがあるかも知れないが、世の中というものは、それだけでは行かない微妙なものがある。
信長の家が、将軍家から見れば陪々臣《ばいばいしん》にすぎない勝幡織田《しようばたおだ》家の後《のち》であることは、近国の者は皆知っている、それが成り上って、大国二つ半を領有する身代《しんだい》となっても、力だけを頼みにして都へ攻め上ろうとしては、人々は承知しないだろう。百姓共は、
「ちょっぽり景気がええ思《おも》て、のぼせ上って、途方もないことをしなさるわ」
と、笑うであろうし、大名・小名は、
「僭上者《せんじようもの》の田舎者《いなかもの》めが! 目にもの見せてくれようぞ」
と、前に立ちふさがり、横から突つき、うしろから足を引っぱって、極力じゃまをするであろう、どんなに藤吉郎が信長びいきでも、これは認めないわけには行かない。
(もし人間に、こげいな身分|詮議《せんぎ》の根性がないものなら、おれがこげいまで心をなやまし、身を苦しめることはなかったはずや)
と、彼は思うのだ。
しかし、ここに正当な将軍職継承権のある人物があって、それを旗じるしとして推し立てて行くなれば、話はがらりとかわって来る。
(松永|弾正《だんじよう》かて陪々臣やが、今の将軍の義栄《よしひで》さんいうのを、阿波からかつぎ出して来て、将軍|宣下《せんげ》を受けさせたやないか。義栄さんが将軍いうのも名ばかりで、京都に一足も入れんで、摂津あたりをまごまごうろうろしてはるのは、かつぎ手の松永弾正の力不足と評判悪さからや。力不足は、それほどのことはない。前の将軍の義輝さんを殺したことですっかり評判を悪うしとることの方が大きい。そのため敵が仰山《ぎようさん》出来よって、相当あるはずの力も、間に合わんことになったのじゃけ。そこになると、うちの殿様はそげいな悪いことはしてはらん。そげいなことで悪口なんど立とうはずがない。力をくらべても、松永は大和《やまと》一国の主《ぬし》やが、うちの殿様は尾《び》・濃《のう》両国、伊勢半分の大々名や。その上、田楽狭間《でんがくはざま》で駿《すん》・遠《えん》・参《さん》の大々名、天下の名家、今川|治部大輔《じぶのたいふ》をけちょんけちょんにたたき破り、治部大輔の首まで上げなされたという手柄がある。この手柄の力は大きいわ。威風におびえさせるいう働きがあるさけな。――どう算用《さんによう》を立てまわしてみても、殿様が天下のことを切盛《きりもり》なさるご身分になりなさることは間違いないわ)
ぞくぞくするほどうれしくなった。殿様がそうなれたら、その家来共もまた大きくなれる。馬の尻《けつ》ッぺたにとまってさえいれば、青蠅《あおばえ》かて千里の遠くへ行ける道理である。
(まして、おれは青蠅なんどじゃない。殿様のにきびくらいの値打はある。一万石や二万石の身代にはすぐなれるやろ。おれは九年の間に、小者《こもの》から城をあずかるほどになった男や、一万石の身代から二十万石、三十万石の身代になるのに、十年かかるものか……)
酔っているような気分になった。
こんなめでたい話を持って来たこの福の神を、歓待せずにおられるか。
「小一郎、小一郎」
と呼び立てて、
「酒はまだか。お客人はお家にとってまことにまことにおめでたいお使いでお出でなのじゃ。ずいぶんおもてなし申さねば相済まぬ。出来とるなら、早う持って来い。あともどんどん持って来い、肴《さかな》もどんどんこしらえよ。ねねを呼べ。ごあいさつさせねばならぬ」
はやすようににぎやかな調子であった。
明智十兵衛光秀は、朝倉家で受けていた知行額《ちぎようがく》をたずねられて、それと等額の知行をあたえられた。朝倉家で彼は五百貫受けていたのだ。五百貫はこの年の京都における米の相場で計算すると六百五十石の米の値段にあたる。つまりそれだけの総収穫のある知行地をあてがわれたのである。しかし、美濃《みの》あたりでは米価は低いはずであるから、七、八百石というところであろうか。
義昭の美濃入りについては、多少のいきさつがあったが、万事に手早い信長だ。翌月の七月二十五日にはもう義昭を美濃に招きよせていた。
越前《えちぜん》領内は朝倉家から人数が出て護衛し、近江《おうみ》路に入ると浅井家の人数が供して送って来たのだ。信長は自ら人数をひきいて国境に出迎え、西之庄の立政《りゆうしよう》寺という浄土宗|西山《せいざん》派の寺を当分の義昭の住《すま》いにあてた。西之庄は岐阜《ぎふ》の東南一里ばかりの地点にある農村だ。立政寺で、正式の謁見の儀が行われた時、信長は義昭に言上《ごんじよう》した。
「こうして、当国にご動座を願いました以上、われら誓って近々《きんきん》に京都に馳《は》せ上《のぼ》り、おん敵共をふみつぶし、君を公方《くぼう》様になし奉り、お家再興の運びにいたします。されば、当国におけるお住いとして、新しく御所を建てて献上するはいとやすきことではござるが、長くお出《い》でを願うつもりはありませねば、先ず先ずご辛抱ありたく願います」
奈良の寺を脱出して以来三年余、つらい旅路であった。殺されようとしたこともある。厄介《やつかい》ものあつかいにされて、肩身せまく暮したこともある。朝倉家では単にいのちをつないでいる分には気楽な生活であったが、怨敵退治《おんてきたいじ》、京都入りのことについては、なまくらなごまかし返答ばかり聞かされて来た。こんなに小気味よいことばで、京都入りのことを言ってくれた者は誰もない。義昭は涙をこぼさんばかりに感激した。
「よう申してくれた。最もうれしいことばを聞くぞ。うらみ重なる逆賊共を退治し、家の再興が出来るものなら、住いなどどこでもかまわぬ。この寺など結構にすぎるくらいであるぞ。そのつもりで、京都入りのこと、くれぐれも頼むぞ」
と声をふるわせて言った。
「仰せまでもございません。われら元来まぬるきことはきらいでござれば、早ければ半月のうち、おそくも二月のうちには、出陣の運びといたします。万事、われらに打ちまかせ、高みのご見物してあられますよう」
と信長は答え、酒宴して、その日は帰った。
その時から一週間目の八月五日、信長は麾下《きか》の兵全部を岐阜城下に集め、義昭を請《しよう》じて馬揃《うまぞろ》い(閲兵式)をし、
「公方家ご再興のために不日《ふじつ》に出陣いたすべきにつき、皆々その覚悟にてまかりあるべし」
と、宣言した。
義昭のよろこびは言うまでもない。切望しながらも、あまりにひまどったために、果して実現出来ることかと絶望的にさえなっていたのだが、こうして精強な士馬まで揃えて見せられて、夢か現《うつつ》かと疑いたいほどであった。
翌々日、信長は義昭の臣《しん》和田伊賀守|惟政《これまさ》を同道し、二百五十騎の従者をひきいて、江州《ごうしゆう》に向った。佐和山に行くためであった。佐和山は今の彦根の東方の山で、浅井家の出城があって、浅井家の家老磯野|丹波守《たんばのかみ》が城主となっているのであった。
この信長の供をしている二百五十騎のなかに、藤吉郎もいた。藤吉郎は、この信長の佐和山行きが、浅井長政と会うためであることを知っている。信長から前もって知らせがあって、長政も佐和山に出向いて、ここで両者はじめての対面が行われ、義昭から長政へ協力を懇請することになっているのも知っている。
十中九|分《ぶ》九|厘《りん》まで、この相談はまとまるであろう。信長のこの相談には大義名分がある。長政は信長の妹婿《いもうとむこ》という関係もある。まとまらないはずはないと思われるのだ。
だから、信長の供をして来た藤吉郎の興味は、ほとんど全部、お市ご料人《りようにん》のご亭主となっている人の顔を見ることにあった。見てどうしようというつもりはない。ただ、見たかった。
おとどしの冬のもなか、墨俣《すのまた》城が出来上って間もなく、日夜に斎藤勢とはげしいせり合いがあって、血まなこになって立働いている頃であった。
ちょっと小牧山城に行った時、お市様が少し前、嬰児《やや》様をお生みであった、女のお子様で、お茶々様と名前をおつけであったという話を聞いた。頭から水をぶっかけられたような衝撃があったが、それにこだわっていることは出来なかった。生きるか死ぬか、食うか食われるかの、はげしい戦さが毎日くり返されていたのだから。
だからというのであろうか、どうしても、お市様のご亭主という人はどんな顔をして、どのような人なのか、この目で見てたしかめておきたいのであった。
それ故、こんどの佐和山行きも、
「てまえも、ぜひお供仰せつけていただきとうございます」
と、進んで願ったのであった。
岐阜から近江境の今洲《いまず》長久寺まで三十七キロ、そこから佐和山まで十八キロある。一日ではこの多人数ではとうてい行けない。早朝に出発して、関ケ原で泊まり、翌日はまた早朝に出発して国境をこえ、午後の二時頃、磨針峠《すりばりとうげ》にかかると、浅井方の武士らが数人待ち受けていて、茶菓《さか》をすすめ、峠の上まで長政が迎えに来ているという。長政は昨日佐和山に到着し、今日ご到着のご予定と聞いて、朝から迎えに出張《でば》っているのだという。
「やあ、それは重畳《ちようじよう》なこと」
信長は、従騎《じゆうき》に命じて、顔や手足を洗わせ、着ている狩衣《かりぎぬ》や直垂《ひたたれ》の衣紋《えもん》を正させ、自分もまたそうした。はじめての婿舅《むこしゆうと》の対面に、信長がずいぶん心づかいをしていることが、従騎一同にわかった。
(なるほどな。浅井|備前守《びぜんのかみ》殿は、殿様にはお妹婿というだけでなく、ずいぶんお大切な人や。万々そういうことはないとは思うが、万々が一にも、長政殿がへそを曲げさっしゃって、協力いややなどと言い出しなされては、こんどのご計画はぐゎらりとくずれるわな)
と、藤吉郎は心ひそかに考えた。殿様ほどの人にたいして、この最もお大事な時にあたって、これほどの力を持つ人をうらやましいと思い、またにくいとも思った。
あまり屈曲もなく、また急でもない坂道をぼつぼつと馬を歩かせて行き、最も高所にかかると、それまで右方を蔽《おお》うていた山が切れて、右方と前面とに、一面の湖水が、秋の午後の日の下に白く光ってひろがった。すずしい風が、さっと顔を吹き、馬のたてがみを乱した。しかし、その明るい眺望と涼しさを十分に味わうひまはなかった。少し向うの道のかたわらに、帷《とばり》を張り、床几《しようぎ》をすえている人をかこんで、一むれの人が見えたからである。
床几にすわった人は、そこをはなれて、つかつかと道に出て来た。遠くてもよくわかる、色の白い、大がらな男だ。狩衣を着て、太く長い刀を佩《は》いている。
それを見ると、信長は馬を小急ぎに急がせ、五、六間こちらで飛びおり、手綱《たづな》は馬丁《ばてい》に投げかけた。ちょっと狩衣の衣紋づくろいして、長身の長い足で大股《おおまた》に近づいて行った。相手も大股に近づいて来る。
ふたりは中ほどのところでむかい合って立ちどまり、あいさつをかわした。
「お初《はつ》の見参《げんざん》でござる。拙者《せつしや》浅井備前長政でござる」
おちついた、よく通る声である。十数間をはなれている信長の従騎《じゆうき》らにもはっきりと聞こえた。
「われらが織田上総介信長、さてもさても、会いたいことでござった」
信長の声は朗々として、響きが強い。
「お出迎えのためにこれまで参上」
と、長政が言えば、信長は、
「唯今《ただいま》麓《ふもと》にてご家来衆の迎えを受けてうけたまわれば、昨日佐和山にご到着というに、われらが本日到着とのことを聞かれ、今日は早朝よりこれへお出張《でば》りあってお迎え下されたとのこと、大慶《たいけい》でござる」
と答えた。
長政は信長を用意された帷《とばり》のそばの床几《しようぎ》に導いてかけさせ、むかい合って自分もかけた。信長が和田|惟政《これまさ》も呼んだので、三人|鼎立《ていりつ》の座位《ざい》となった。
酒肴《しゆこう》がもって来られ、うちとけた調子でしめやかに語り合い、数酌をくみかわした。
その間、浅井家の家来らは、こちらの従者らを数間離れたところに設けた席につれて行き、酒肴を供してくれた。
藤吉郎はもてなしにあずかりながら、長政をまたたきもせずに見ていた。色白で、血色のよい大男であることは、遠く離れていてもわかったが、今五、六間の距離から見る長政が男性的な風貌《ふうぼう》をもつ、なかなか好男子であることがよくわかった。美しく、たくましく、大きく、堂々たる顔と体格をもち、挙措は悠揚として迫らない。これで武勇絶倫、戦場に出ては猛将だというのだから、男として一点の非の打ちどころがないと言うべきだ。
(とても、おれはおよばんわ。もしおれがまさっているところがあるとすれば、知恵才覚と、どげいな難儀なこともいとわん辛抱強さと、まごころと、切ればなれのよさだけやろが、それを全部ありったけ働かしてみたところで、十年か十五年たって、やっと三十万石の身代《しんだい》になるくらいのものや。この人は今もう三十万石は軽いものや。江州は米どころやさけ、四十万石くらいあるかも知れへん。およばへん、およばへん……)
胸がふるえ、口惜しさに似たものが、一ぱいにつまって切なくして行く。
溜息《ためいき》が出そうであったので、懸命にこらえた。ここで溜息をついたら、へたへたとなってしまいそうであった。
(お市様はご満足やろな。ご満足でないはずがあろか。ややさまをお生みなされたのやもの。お茶々さまとお名前はつけなされたいうものな……)
こんな嫉妬《しつと》や羨望《せんぼう》が、損にこそなれ、何の益にもならないことは、よく知っている。知っていながら、どうにもおさえようがない。みじめであった。
(じゃけど、忘れなならん。ここで忘れられるかどうかが、おれの生涯の岐《わか》れ道や。今の身分で満足して、――満足してたらいかへん。うちの殿様に一ぺん目をかけられたら、その者は死ぬまで坂道を駆けのぼらんならん。駆けのぼる気力と器量を無うしたもんは、坂の下に蹴落《けおと》さはるのや。おそろしい方なのや。決してそのままのところへおいてくれはらん。じゃけ、今のおれが、このいやなみじめな気持から脱け出すことが出来るかどうかは、おれが昔のあのいやないやな境涯にころがり落ちるか、たとえ十年かかろうと、二十年かかろうと、三十年かかろうと、三十万石、四十万石の大名衆になれるかの岐れ道や。忘れないかん! 忘れないかん!)
呪文《じゆもん》のように、胸の中にくり返した。
間もなく、信長は、
「いかいもてなしにあずかり申した。お礼の申しようもござらぬが、先ずは貴所《きしよ》は早々に佐和山におかえりあれ、やがてわれらもまいるでござろう」
と言って、長政を先きにかえした後、なおしばらくとどまって眺望してから、行列を組みなおして、佐和山へ向った。
夕景になって佐和山城に到着した。城をあげて鄭重《ていちよう》な歓迎と接待と饗応《きようおう》があり、信長が浅井家の一門衆や老臣らに面謁をくれ、ことばをかければ、長政も織田家の従騎らに目見《めみ》えをくれ、ことばをかけた。藤吉郎も長政のことばをもらった。
そのあとで、信長と長政とは人を遠ざけて密談した後、こんどは和田惟政を加えてさらに密談した。この密談の結果は、翌日、藤吉郎にもわかった。
「浅井家は全力をあげて協力する。しかし、義昭公|御上洛《ごじようらく》の道筋にあたるのは、佐々木六角|承禎《じようてい》父子の所領地が主である。ことにその居城である観音寺城《かんのんじじよう》と、支城《えだじろ》である箕作山《みづくりやま》城は、行列の通るべき道筋をはさんでかまえられている。六角氏を説きつけて協力を誓わせなければ、御上洛の大支障となるであろうから、和田惟政に織田家の使をそえて、説得につかわすことになった」
というのであり、それについて、六角氏にこちらから提示する条件は、
「味方するなら、その領分の安堵《あんど》はもちろんのこと、子々孫々に至るまで、天下の所司代《しよしだい》を仰せつけるであろう」
というのであるという。
これを聞いて、藤吉郎は、
「この相談はまとまらぬわ」
と、見切りをつけた。
京都|警固《けいご》役
六角氏は協力しないであろうと、藤吉郎が判断したのは、彼のカンであったが、カンを導き出す理窟《りくつ》がないわけではない。
六角氏は三好《みよし》党だ。だからこそ、最初足利|義昭《よしあき》が頼って来た時、三好の家宰《かさい》である松永久秀と心を通じて義昭を討取《うちと》ろうとまでした。
六角氏が三好党であるといっても、所詮《しよせん》は利のためのものであるから、その連繋《れんけい》はそう固いものとは言えない。上越《うわこ》す利を食《くら》わせれば引きはなすことが出来るはずと、一応は考えられるが、そこにはまた最も頑強な支障がある。六角氏が近江《おうみ》源氏佐々木の正統であるという事実だ。
佐々木氏が名家であることは言うまでもない。宇多天皇の皇孫左大臣|源雅信《みなもとのまさのぶ》を祖としているというだけでもなかなかのものである上に、清和《せいわ》源氏の嫡流《ちやくりゆう》家との関係は最も密接なものがあり、あまりに忠誠であったために、平家盛りの頃には所領を没収され、一族四散したほどである。こんな一族だから、源頼朝が伊豆で旗揚げした時は、一族をあげて頼朝の許《もと》に馳《は》せ集まって挙兵を助け、平氏との戦いにしばしば大功を立て、その一族は近江をはじめ十数か国の守護に任ぜられた。鎌倉時代を通じて栄え、足利幕府《あしかがばくふ》の代となっても栄えて来た。六角氏は江北《ごうほく》の京極《きようごく》氏とともに、この佐々木の本家であるが、今では京極氏はおとろえ、この家だけが栄えている。名家中の名家といってよい。
世は強いもの勝ちの乱世となり、下剋上《げこくじよう》の気風が世を蔽《おお》うているが、それだけに高貴な家柄の者にしてみれば、この気風にたいする反撥《はんぱつ》があり、いきどおりがあり、自らの家柄を誇る気になっている。六角氏も、本領安堵《ほんりようあんど》、天下の所司代を世襲させるというくらいの餌《えさ》では、とうてい陪々臣《ばいばいしん》である織田家のしごとの片棒をかつぐ気になれないであろうと、判断したのであった。
この判断は、一応の家柄に生まれた者には出て来ない。なんの家柄もない身で、いつもそれが気になっている藤吉郎であればこそ、すらすらと出て来たと言えるであろう。
推断はあたった。信長は根気よく三度までおり返し交渉したが、六角氏は、
「それは出来ぬことでござる。当時将軍家は京にこそおわさね、義栄《よしひで》公がまさしく宣下《せんげ》を受けて摂津富田《せつつとんだ》におわすではござらんか。義昭公ご上洛《じようらく》あって、この義栄公をいかがなさるご所存でござる。これこそ天下大乱のもとでござる。さようなお手伝いはいたしかねる」
と、言いはるばかりであった。
ついに、信長も断念した。
「さらばよし。もう頼まぬ。この上は蹴破《けやぶ》って上洛するまでのこと。その時になって後悔してもおよばぬことよ」
と、腹を立て、さらに長政と上洛のことについて打合わせして、帰国した。
自領内に陣触れするとともに、近隣の諸国にも檄《げき》を飛ばす。
「新公方《しんくぼう》、おん敵退治、天下討平のために上洛《じようらく》遊ばさる。忠義を存する者は一人ものこらずお供あるべし」
というのだ。
信長一人の思立ちでなく、「新公方上洛」という名分《めいぶん》があるのだ。世は乱世でも、下剋上《げこくじよう》の世の中でも、足利将軍の力は衰え切っていても、人の精神の上では足利将軍はまだ権威がある。あるいは乱世だけに秩序ある世にたいするあこがれがあり、この新将軍によってその秩序ある世がもたらされると思ったのかも知れない。われもわれもと馳《は》せ参じた。信長の第一の同盟者である松平元康は、ちょうどその頃領内に一向宗《いつこうしゆう》門徒が一揆《いつき》をおこして手がはなせないところから、一族の松平|信一《のぶかず》に人数を授けて馳せ加わらせた。
こうして集まった者が、総勢五万。九月七日に岐阜を出発して、西に向った。藤吉郎はかねての用意のある兵、あるかぎり六百人をひきいて出陣した。
江州《ごうしゆう》では、浅井家はもちろん兵をくり出して、この上洛軍と合流したが、その他の小豪族もあらかたは合流した。敵として立ちふさがったのは、六角氏とその被官《ひかん》になっている豪族らだけである。その本城である観音寺城《かんのんじじよう》をかためるとともに和田山、箕作山《みづくりやま》等、すべて十八城の守備をかためた。
和田山は観音寺城の東北一里、愛知《えち》川の右岸の小丘であり、箕作山は観音寺城の東南一里にある。従って、街道は和田山の東方を過ぎて、観音寺山と箕作山との間を通ることになっている。上洛《じようらく》勢としては三面にかまえた六角勢の中に入ることとて、兵法でいう死地に入るものと言えるかも知れない。
六角氏は十分な自信をもっていた。ここで数日を食いとめている間には、三好方から援軍が駆けつける。そうなれば味方は益々気勢が上り、上洛軍の気は沮《はば》む。そこに乗じて、領内諸方の城々から夜討、朝駆けで絶えず敵陣を攪乱《こうらん》すれば、寄せ集めの上洛軍だ、気を屈して退陣するものが続出する。織田としてはどうすることも出来ず、退却にかかるであろうから、猛追撃してたたき破り、うまく行けば信長を討取ることも出来ようと、計算を立てていたのであった。
斥候《せつこう》の者からこの報告を受けたが、信長は眉《まゆ》一つ動かさない。美濃《みの》三人衆稲葉|一鉄《いつてつ》・安藤伊賀守・氏家卜全《うじいえぼくぜん》を呼び出して、
「その方共、和田山のおさえをいたせ。攻めるにはおよばぬ。ただおさえていればよいぞ。観音寺の本城さえ攻め落せば、この城にこもる者共は落ち去るにきまった者共だ」
と、命じて先発させ、つづいて自らも兵を進め、十一日には愛知川村について、その夜は泊まった。
翌日、未明から、信長は馬まわりの者と、森|可成《よしなり》と坂井|右近《うこん》とを引き連れ、敵城を偵察に出た。朝霧の立ちわたっている愛知川を越え、先ず観音寺城の様子を見た。さすがに佐々木氏十八代、四百年の居城と伝えられるだけあって、なかなかの堅固さだ。紅葉しかけている山々谷々には薄い霧がかかり、その霧の間に多数の旗がひっそりと垂れている。
「なるほど」
信長はうなずいて、馬首を東南の方にめぐらして、箕作山に向った。
この頃にはもう霧は晴れ、朝日が上っていた。
箕作山城は観音寺城ほどのことはないが、それでもなかなかの堅固さだ。
信長は近々と馬を山麓《さんろく》に寄せ、あちらに行き、こちらに行きして観察した。城中ではこれが信長であるとはまさか気はつかなかったろうが、相当な身分の者とは思ったのであろう、また、面《つら》にくいとも思ったのであろう、足軽二、三百人を出し、鉄砲を打ちかけながら、どっとおめいて突進して来た。
森と坂井とは、それぞれ手まわりの兵数十騎を指揮し、真先かけて突進し、はげしくもみ立てたので、敵は混乱して逃げ走った。この時、坂井の嫡子《ちやくし》久蔵はやっと十三、花のような美少年であったが、頭立《かしらだ》った者を目がけて城の塀際まで追いつめ、ついに突き伏せ、首を取って引き上げて来た。
小ぜり合いではあったが、この戦いで、信長方は敵の首七十余をあげた。大ていは足軽《あしがる》で、ふだんの時なら手柄になりはしないのだが、新公方上洛《しんくぼうじようらく》のことはじめという場合だ。縁起《えんぎ》ものでもある。諸方に伝わる宣伝効果も考えなければならない。信長は一々その手柄を書かせ、とりわけ久蔵少年の働きは最も詳細に書いて、飛脚をもって美濃の立政寺に待っている義昭に報告した。こんな際における当時の武将の心の用いようのわかる話である。義昭は久蔵に感状をあたえたという。
偵察がおわると、信長は諸将を集めて、こう言いわたした。
「先ず箕作山城を攻めることにいたそうぞ」
信長のこの判断は、観音寺城より箕作山城の方が攻略に容易《ようい》であるというところから出ている。戦争にはいろいろな方法がある。中心の最も堅固なところを撃破して、他は戦わずして屈する手もあれば、難を避けて易《やす》きからかかる手もある。いずれがよいかは一律には決せられないが、この場合は新公方上洛の道をひらく戦《たたか》いである。戦えば先ず容易に勝つことが必要である。いずれは勝つにしても、手間がかかっては、織田家の軍勢は別として、寄せ集めの他家の軍勢が離反するおそれがある。また眼前に箕作山城が陥《おち》るのを見ていれば、観音寺勢の士気が殺《そ》がれるという効果も期待出来るのである。信長のこの考えがわかっているので、諸将はいずれも同意した。
つづいて信長は言う。
「ついては、観音寺の城をおさえる勢を出さねばならぬ。六角ほどの者が目前に味方の城が攻め立てられるのを見て、手をこまねいていようとは思われぬ。されば、これを浅井殿に頼みたい。浅井殿の武勇は当国の者はよく存じていることなれば、浅井殿が両城の間に割っていり、きびしく備えを立ててかまえられるなら、観音寺城から後詰《ごづめ》の勢の出ることは、よもあるまいと思うぞ。いかが」
これも良策だ。皆同意した。
福富平左衛門と佐々《さつさ》成政とが使者を命ぜられて、浅井陣に向った。
当然浅井家では承諾するはずと思われたので、信長は攻城についての部署を言いわたしていると、福富と佐々とが浮かない顔をして帰って来た。浅井家ではしぶってはかばかしい返答をしないというのだ。
信長は稲妻《いなずま》のようなものを眉宇《びう》に走らせたが、すぐおだやかなおももちになった。
「なんじゃと? しぶるとはどうしぶるのじゃな」
「城のおさえか、城のおさえかとばかり、備前守(長政)様は仰せられているのでございます」
「家老共は?」
「これもまた、六角氏とは昔からいろいろと親しみのあるなかで、その義理がなどと申して、はかばかしい口を利きませぬ。かようなことは、快くうけあってもらわねば、後でとり返しのつかぬことになるものと存じましたので、一応まかりかえった次第でございます」
信長はうなずいた。
「わかった。さらば、当家の勢を分っておさえとし、浅井勢には当家の勢とともに箕作山を攻めてもらうことにしよう。浅井家がもし六角に義理があるとしても、箕作山にこもる勢は六角父子ではなく、その被官《ひかん》と家臣共だ、攻めるにさしつかえはあるまい。その方共、もう一度浅井の陣所へ行き、この旨《むね》申してまいるよう」
「はっ」
二人は領承して、席を立ちかけた。
藤吉郎は諸将の末座にすわっていたが、大音に呼ばわった。
「しばらく!」
人々の目が一斉に集まった。論議は上席の人々の間で行われている。発言も上席の人々だけである。末席の者は単に席につらなっているだけというのが習慣になっているのだ。藤吉郎を見る目には、いずれも驚きととがめるような色があった。
しかし、藤吉郎はなれている。
軍議の席に列するようになったのは近頃のことであるが、身分が中間《ちゆうげん》であった頃から、よいと信ずることははばからず信長に上申《じようしん》して来ているのだ。興奮したり、上ったりなぞはしない。草摺《くさずり》を鳴らして、小さいからだを人々の間からしゃしゃり出させた。両手をつき、おじぎして、よく透《とお》る声で、先ず使者二人に、
「お足をとめましたが、拙者のこれから申し上げることは、殿様の唯今《ただいま》の仰《おお》せ出《いだ》しに関係のあることでござれば、しばらくお待ちいただきとうござる」
と言っておいて、信長に言う。
「唯今の殿様の仰せ出されは、一応もっともなこととは存じますが、もしそれを申し通ぜられて、また備前守殿がご領承ない時には、こまったことになると存じます。重ね重ね殿様のお申し出が拒《こば》まれたとあっては、ご面目《めんもく》にかかわります。あるいは、殿様がご自身あの陣中にお運びになり、膝《ひざ》を交えてねんごろにご談合あれば、らちがあくかとも存じますが、敵城を前にし、さような手間ひまをかけては、他家の軍勢共は、あるいは味方の心不一致と思うかも知れませぬ。これしきの城を攻めおとすに、何のめんどうが要りましょう。観音寺のおさえも、箕作山城もご当家の兵だけをもってなさるべきであると存じます。戦《いく》さはすべてご当家の勢のみがいたし、他家の勢は景気づけの飾り武者と考えてしかるべし。他家の勢を見物人として、ご当家一手ぎりにて、敵を討ち破れば、勢いご当家の武勇のほども人々に知れわたる道理。そうなれば、これから先き他家の衆もご当家に心を傾け、飾り武者ではなくなり、大いにおさしずによって働くようになると存じます。拙者の所存かくの通り。ご勘考を願い奉ります」
朗々としてよく通る声である。滔々《とうとう》と述べ立てた。
この藤吉郎の意見はまことに道理に聞こえたが、人々は黙っていた。こんな席で、藤吉郎が言ったということにおどろき、そのおどろきから立直れないのかも知れない。
ちょっと白《しら》けた時間がつづいた。
にやりと信長が笑った。
「なるほど、言われてみれば、その通りじゃ。藤吉郎、よくぞ気づいた。それでは、当家の手勢だけですることにしようぞ。皆々さように心得い」
はっきりと言いわたして、部署をふれ出した。観音寺城のおさえは柴田勝家、森|可成《よしなり》、蜂屋頼隆ら、箕作山城の攻手としては、大手口の先陣は佐久間信盛、丹羽長秀、南方の搦手《からめて》からは藤吉郎、これらにつづいてのこる諸将ということになった。
藤吉郎は自分の意見が即座に入れられたこともうれしく、また一方の攻め口の先手に任ぜられたこともうれしかった。大いに張り切って陣所にかえり、ことの次第を蜂須賀彦右衛門(小六の改称)に語ると、彦右衛門もよろこんだ。
「余《よ》の手をまじえず、一手ぎりとはうれしいことでござる。高名《こうめい》も不覚もまぎれませぬ。それでは、拙者《せつしや》は攻め口のもの見をしてまいります。お前様は兵の手分けをしておいて下され」
といって、家来を数人連れて、トコトコと馬を乗り出して行った。
すると、その直後に信長から呼び出しがあった。行くと、信長は、
「少し思案がかわった。その方は右衛門尉《うえもんのじよう》(佐久間)や五郎左衛門(丹羽)とともに、大手口の先鋒《せんぽう》をつとめい。搦手口《からめてぐち》は三河から来た松平|信一《のぶかず》につとめてもらう」
と言いわたした。
一手ぎりの方が働きがいがあるのに、残念であった。急にこう変更されたのは三河《みかわ》勢からの所望があったからであろうと推察した。しかし、信長の意志がそう決定した以上、不服を言うべきではない。
「かしこまりました」
と答えて陣所にかえり、彦右衛門を呼びに走らせた。
兵を部署している間に考える。
(三河の松平はなかなかの男じゃわ。殿様とかたい約束して味方になっているとはいえ、こうは行かぬものじゃ。早い話が、浅井とくらべればようわかる。浅井はお市様をもらい、すでに姫君まで生《な》しているほどに深い縁を結びながら、四の五の言うて、働きをしぶっているに、松平は国許《くにもと》に宗門|一揆《いつき》がおこってなかなかのさわぎじゃというに、一族の者に人数を授けて馳《は》せ参じさせた。それのみか、その人数はこのように自ら進んで攻め口を所望する。必定、国を出る時、元康から働きに糸目をつけるな、加勢に行くからには、進んで難にあたれとよう言いつけられて来ているのであろう。年は若いが、なかなかの男じゃわ)
田楽狭間《でんがくはざま》の合戦の翌年の春、清洲《きよす》で見た元康の風貌《ふうぼう》をありありと思いえがいてみた。
合戦は申《さる》の刻《こく》(午後四時頃)から始まった。
元来、この箕作山城には、六角家で有名な吉田|出雲守《いずものかみ》、同新助、建部源八郎などという勇士ら六千余がこもっていて、なかなか強いのである。
信長の本陣で吹き鳴らす螺《かい》の音が、赤い夕日の流れている空にとどろきわたるとともに、大手、搦手《からめて》、一斉に攻撃を開始したが、城方の必死の防戦で、大手口は進みかねた。しかし、搦手の松平勢はおそろしく勇敢であった。鉄砲と矢を降るように射そそがれるなかを一歩も退かず、ひたひたと門際まで攻めつけた。
けれども、ここで三河勢は苦戦におちいった。城内では門をひらき、鉄砲の筒口《つつぐち》、矢先をそろえて射そそぎ、ひるむところを、建部源八郎が勇士をひきいて斬って出たのだ。三河勢は覚えず浮足立ち、ドドッと麓《ふもと》の方に退った。
三河勢は二十数人も戦死したが、また盛りかえして攻め上り、敵を門内に追いつめ、乗り入ろうとひしめいた。城内では狼狽《ろうばい》した。
大手口では、これに乗じた。
「この期《ご》をぬかすな。それ、おしつめよ! それ、乗り入れよ!」
と、采配《さいはい》ふって藤吉郎が絶叫する以前に、蜂須賀彦右衛門が真先かけて塀際《へいぎわ》に乗りつけ、旗さしものを投げ入れ、槍《やり》にすがって塀を乗り入ろうとした。
佐久間隊も、丹羽隊も、ためらわない。それぞれに乗りつけ、同じように旗さしものを塀内に投げこみ、塀にとりついてよじ登ろうとした。蟻《あり》が甘味にとりつくようであった。
最早《もはや》、城の落ちるのは目前と見えて、人々は一層勇み立ったが、その時、城内から槍の先きに笠《かさ》をかけてさし出した。
これは降伏のしるしである。
寄手《よせて》は塀にとりついたまま、
「降参か!」
とどなった。
「降参でござる。これまでずいぶん働き申したれば、武士の義理は立ち申した。いのちを助けていただけば、城をあけわたして立退きたく存ずる」
と、塀のうちからは答えた。
信長はこの報告を聞いて、降伏をゆるした。ようやく日が没して、茜《あかね》の夕焼の色が天地に行きわたっている頃であった。
降伏した城兵を思い思いに立ちのかせておいて、信長は城に入って勝鬨《かちどき》の儀を行った。軍議をひらいて、明日は早天から観音寺城の攻撃にかかると触れを出し、その夜は箕作山城に泊まったが、夜が明けると、六角父子は夜中に城を落ち失せて観音寺城は空城になっていた。観音寺城だけでなく、和田山城にこもる勢も逃げ失せて空城になっていた。
「これはまたもろいことであったわ」
人々はおどろきあきれながらも、よろこんだ。
信長は観音寺城に本陣を移した。
これでもう京都まで一敵もない。道はひらけたのである。早速に美濃《みの》に飛脚を飛ばし、義昭の出発をうながしてやる一方、六角方として蒲生《がもう》郡の日野城にこもって抵抗の意を見せている蒲生|賢秀《かたひで》を降伏させるために、説得の使者をつかわす。使者は伊勢の神戸《かんべ》友盛がうけたまわった。友盛は賢秀の妹婿《いもうとむこ》である。また信長とは信長の三男|信孝《のぶたか》を養子に迎える約束をしているほどのなかだ。使者としては最適任であった。
賢秀は説得されて、十三になる息子《むすこ》の鶴千代を同道して、観音寺城にやって来て、目見《めみ》えした。この鶴千代が後に氏郷《うじさと》となる。信長は、
「この少年の骨《こつ》がら、世の常でない。成長の後が楽しみじゃ。やがておれが娘《むすめ》の婿にしようぞ」
といって、側《そば》近くとどめることにした。
鶴千代はやがて大器となったのであり、この翌年には事実信長の娘と結婚させられるのであるが、この時の信長としては人質にとるということに重点があったのであろう。
義昭は九月二十一日に立政寺を出発、その日のうちに江州に入った。信長は二十三日に野洲《やす》郡の守山《もりやま》で義昭を迎え、同道して京に向い、二十八日に京に入って、本陣を東福寺においた。
桶狭間《おけはざま》合戦の章で、義元の本陣に近在の神社の神主や寺の坊さんや庄屋らが酒肴《しゆこう》を持参して献上したことを述べたが、これはきげんを取って掠奪《りやくだつ》等の被害を最小限度に食いとめる目的で行われるので、当時は戦争といえば必ずあったことである。この大戦中の中国戦線で、村々が日本軍が来れば日章旗をかかげて歓迎の意を表し、中国軍が来れば青天白日旗《せいてんはくじつき》をかかげ、中共軍が来れば紅旗《こうき》をかかげたのと同じである。戦禍を最小に食いとめようとする民衆の知恵なのだ。この時代、日本でも、戦争のたえ間がなかったので、民衆はその知恵を身につけていたのである。この時の信長の京都入りにもこれがあった。
京都の大町人や、職人や、医者や、連歌師《れんがし》や、さまざまな人が東福寺に出頭して、祝辞をのべ、進物《しんもつ》をささげたのである。
信長は一々対面して、きげんよくあいさつした。当時、信長の評判は田楽狭間の合戦の快勝により、またそれにつづく美濃攻略によって、あまねく京都人に高いものになっていたが、同時に狂気じみた恐ろしい人物であるというようにも伝わっていた。それだけに、人々の恐ろしがることは一通りではなかった。民衆にとって、義昭が京にかえって将軍になるなどということは、どうでもよいことなのだ。従ってそれを奉じて来る信長を歓迎する気持などあろうはずはないのである。
しかし、信長のこの気取りのない、快活さは、意外であり、また魅力であった。
「うわさとはまるでうらはらな、気さくで、やさしい、慈悲深いお人のような」
と思った。これまでの武将らにはつきものであった権威主義や、小めんどうな貴族趣味が全然なく、すべてがザックバランで、直線的で、明るいところも、なにか新鮮な興味であった。
当時の有名な連歌師紹巴《れんがしじようは》もまたこの時お目見えに参上して、礼物《れいもつ》として扇子二本を献上したところ、信長は口をついて、
日本(二本)手に入る今日のよろこび
と詠《よ》んだ。紹巴はさっそくに、
舞ひつづる千代よろづ代の扇にて
とつけた。
「あっぱれ。さすがは天下一の連歌師じゃわ。うまくつけたぞ」
信長は激賞して、うんとほうびをくれた。
また、こんなこともあった。
入洛《にゆうらく》の日、下人《げにん》の一人が町に出て商家に闖入《ちんにゆう》して物を持ち去ろうとした。下人としては、いつも勝戦《いく》さの時にやることをやっているまでのことで、あたり前のことと思っているのである。
そこへ、信長の家来で岩越某という者が通りかかった。商家では走り出て、訴えた。これは士《さむらい》だけに、こんどの上洛は普通の場合の戦さの時とは違うことを承知している。
「よし! 不届千万なるやっこじゃ! 心配するな!」
というや、下人《げにん》を追いかけ、引きずりたおすと同時に縄をかけ、東福寺に曳《ひ》いて行って、信長に報告した。信長は、
「あっぱれ! ようした。不都合なる下郎め! 諸人の見せしめ、諸人によく見えるところにからめつけい」
と、言った。
下郎は東福寺の門内の巨杉《おおすぎ》の幹にしばりつけられ、出入りする市民らの前にさらしものにされたのである。
「織田様いうお人は、これまでの三好はんや松永はんとは、まるでちごうで。この方が新公方《しんくぼう》様を助けておいなはるかぎり、よっぽどわいらの暮しはようなるで」
と、人々はささやき合った。
このような信長のやり方を見ていて、藤吉郎は心のうちに、
(こない風にやるべきものや、こない風にやるべきものや)
と、いく度もうなずいた。
信長はこうして乱暴な下人を見せしめにしただけでなく、すぐこういう布告を出して、全軍をいましめた。
一、乱暴|狼藉《ろうぜき》をしてはならない。
一、みだりに山林の竹木を伐《き》ってはならない。
一、押買い、押売り、無理に人を労役に駆り出す等のことをしてはならない。
右の条々に違背する輩《やから》は、厳罰に処する。
信長は気性のはげしい、きびしすぎるほどきびしい人で、悪をにくむこと蛇蝎《だかつ》のようで、悪いことをする者は容赦なく処罰した。だから、その本国である尾張では女がひとり歩きしても危険がなく、夜は戸じまりをしなくても心配がないといわれていたと、当時の書物にあるくらいだ。また、この時代のことばに「一銭切り」というのがある。これは信長が盗みを禁止するために、一銭ぬすんだ者でも首を斬る法律を立てたところから出たことばであるという説もある。
この信長の性質とやり方は、将士は皆知っている。軍規は粛然《しゆくぜん》として引きしまり、五万という大軍が入って来たのに、京都は至って平穏で、商店などかえって繁昌した。
「世にはこんな軍勢もあるのかいな。それでいて強いこと無類いうのやから、えらいもんや」
と、京都人らは言い合った。南北朝の争乱以来、別して応仁《おうにん》の大乱以来、京都はごくひんぱんに戦禍の巷《ちまた》になっているが、入れかわり立ちかわり入って来る軍勢は、いずれも放火、掠奪《りやくだつ》、暴行を普通のこととしていたのに、こんな厳正な軍規を持つ軍隊をはじめて、京都人らは見たのであった。
これも藤吉郎に強い感銘をあたえた。大軍をひきいる時の心がけを学んだ気がした。
花の都に入ったとて、信長は気をゆるめはしない。一週間の後には三好の残党|征伐《せいばつ》のために京を出て、さらに西に向った。
(勝負の気合というものやな、これが。調子の出た時には無理でも何でも、おしておして押しまくるのがええのや)
と、藤吉郎はまた感心した。
信長は摂津まで出て、ほぼ二週間ほどで、三好の残党を掃蕩《そうとう》した。三好一党は富田《とんだ》にいた義栄《よしひで》将軍を奉じて鳴門《なると》海峡をわたって阿波《あわ》に逃げかえった。
義栄は運の悪い将軍であった。この以前から疔《ちよう》を病《や》んでいたが、阿波へ帰ると間もなく重態におちいって死んでしまった。将軍|宣下《せんげ》を受けながら、一日も京都にいたことのない将軍であった。足利《あしかが》将軍十五人の中には運の悪い人が多数いるが、一番運が悪いのはこの人である。
残党征伐がすむと、信長は金集めにかかる。近畿地方で繁栄している土地と神社仏閣などにそれぞれに額をわりあてて、足利将軍家再興の費用と称してさし出すように命じた。この中での一番の大口は石山本願寺の五千貫と堺《さかい》の二万貫であった。本願寺は、
「足利将軍家ご再興のご費用でござると? よろこんで献上つかまつります」
と、すぐに出したが、堺はきかない。
「なに? 二万貫出せやと? そんな大金、なんでうちらが出さんならんのや。足利将軍なんちゅうやつは、いばりくさっとるだけで、うちらのためにはなんにもならへんのや。そんなもんないかて、うちら立派にやって来たで。ことわれ、ことわれ」
当時の堺の町が一種特別な町であったことは、皆知っている。外国貿易をやってうんと金があるので、足利|幕府《ばくふ》から町の自治権を買いとって、武家の支配を受けない。三十六人の長老《おとな》がいて、その合議で一切町の政治を行う組織になっていた。しかし、戦国の時代だから、軍備がなくては、堺のような富有な土地は、武家大名共の餌食《えじき》になるにきまっているというので、軍備を持っていた。武家|牢人《ろうにん》を召しかかえて雇兵《こへい》にし、町の周囲には濠《ほり》をめぐらし、城壁をきずき、物見櫓《ものみやぐら》を上げて、町全体が城郭となっていたのである。
こんな風だから、腰が強い。尾張あたりから這い出して来た田舎《いなか》大名が、なにぬかしおんのや、とばかりに、
「へえ、こっちゃもいろいろ都合がごわりましてな。せっかくだすけど、おことわりしますわ」
ぽんとことわっておいて、塹壕《ざんごう》を掘ったり、濠を深くしたり、新しく櫓を増設したり、雇兵を募集したりして、一戦あえて辞せないとの勢を見せた。信長は立腹した。
「しゃらくさい素町人どもめ! ふみつぶしてくれようか」
と思ったが、またの機会を待つことにして、そのまま京都にかえった。
こうした金の集め方、がまんのしよう、すべて藤吉郎には学問になることであった。
(殿様も、尾張や美濃にお出でる頃とは、舞台がひろいだけに、遊ばすことが大きくもあれば、水ぎわ立ってもいなさるわ。よう見ていて、身の足しにせなならん)
と、思うのであった。
京都にかえって来ると、信長は義昭のために御所をこしらえた。細川氏綱の旧宅があき屋敷になっていたのを修復して、ここに義昭を住まわせることにした。
十月二十一日に、義昭は禁裡《きんり》に参内《さんだい》して、将軍|宣下《せんげ》を受け、十五代の足利将軍となった。同時に左馬頭《さまのかみ》に任ぜられた。
義昭は信長に感謝すること一方でなかったので、奏請して、信長を従四位下|左兵衛督《さひようえのかみ》に任叙《にんじよ》されるはからいをしたが、信長はかたく辞退した。朝廷では無理に受けよという。数度の折衝があった後、信長は、
「さようまで仰せられるのを無下《むげ》に辞退するもいかがでございますが、仰せ下されるような高位高官はおそれ多くござれば、父信秀が生前に任叙されました従五位下|弾正忠《だんじようのじよう》(忠は他の役所の尉・丞に相当して、ジョウとよむのが故実の由)を拝受出来ますならありがたきしわわせ」
と言って、その官位にしてもらった。
この数日あと、義昭は新しい屋敷で、将軍宣下の祝宴をひらいたが、宴果てた後、信長に向って、
「このわずかな間に、逆賊共を退治して、五|畿内《きない》を平定し、わしが家の再興が出来たは、ひとえにそなたの大功による。恩賞として、こんど討取った近江・山城・摂津・河内《かわち》の国々のうち、いずれなりとも取らせる。望み申すよう」
と言った。いくら感謝しても感謝しきれない心がこう言わせたのであることは明らかであったが、信長は受けない。この時信長が官位も領地も受けなかったのは、最もこわい敵である甲斐《かい》の武田、越後《えちご》の上杉を刺戟《しげき》することを恐れたのであろう。義昭は強《し》いてやまない。ついに信長は言った。
「さほどまで仰せ下さるのでありますなら、申し上げます。唯今《ただいま》仰せられました国々は、公方家《くぼうけ》に忠勤の人々にご配当さるがよろしいかと存じます」
「それは心得たが、その方の所望は?」
「知行《ちぎよう》には望みはございませんが、二つお願い申したいことがございます。一つはこの度|切平《きりたい》らげました国々にある関所を全部廃止していただくこと、次は堺、大津、草津に拙者《せつしや》の代官をおくことを許していただきたきこと、以上二つでございます」
「やすいことだ」
義昭は信長の無欲におどろいて、承諾した。
この話を、この翌日、信長から聞いて、藤吉郎は感嘆の声をあげんばかりに感心した。
この時代の関所は治安のためだけにあるものではなかった。通行税をとるためのものであった。京都の周囲など一頃は七か所も関所があったほどなのだ。こういうことは、人間の往来をさまたげるだけでなく、物資の流通を阻害《そがい》して、経済の邪魔になる。また人間の気持を割拠《かつきよ》的にして、人の心を天下は一つの気分にすることをさまたげもする。統一的気分の生まれることを阻害するのだ。
以前から、信長は自分の分国内には関所をおかなかったが、このやり方を新しく平定した国々にもおよぼしたわけである。心ある者には、信長の天下統一の雄大な意志がわかるのである。人はわからずとも、おれにはわかるという自負が、藤吉郎にはある。
(やりなさる。やりなさる)
と、大いに愉快であった。
また、堺、大津、草津に自分の代官をおくようにしたことも、心ある者の目から見れば、大へんなことだ。
堺は日本の最も大きな海外貿易港だ。外国の文物、物資はここを経由して入って来るものが多い。なかにも、今では日本最大の鉄砲の生産地だ。鉄砲はここと九州の種子島《たねがしま》でしか出来ないのだが、堺は日本で最も豪富な資本家らがそろっているだけ、その生産量は種子島の比でない。ここを制することは天下を制するといってよいのである。
大津は琵琶湖《びわこ》をひかえている。あるいは東北、あるいは山陰、あるいは九州地方の物資は日本海を航海して若狭《わかさ》に運ばれ、狭い若狭地峡をこえて琵琶湖の北岸に持って来られ、そこから湖上を大津に運ばれるのだ。
草津は陸路を東海道方面から来る物資の集まるところだ。
いずれも、軍事上、経済上、最も重要な地点だ。これに着眼して、そこをおさえることにした信長の知恵の鋭さは鬼神《きしん》のようなものがある。
(公方《くぼう》様をはじめとして、そのご家来衆も、いやいや、ご家中の老臣《としより》方も、誰もここに気づかず、阿呆《あほう》のようなお欲のなさというているであろう。ハハハ、ハハハ)
これほどの主君につかえる身の幸福を、藤吉郎は最もうれしいものに思った。
信長は十一月二十五日に京都を出発、二十八日に岐阜城にかえりついた。およそ八十日ぶりの帰城であった。
この以前、信長は南江州の各地に、諸将をおいて、その地方を守備させた。柴田勝家、森|可成《よしなり》、坂井右近、蜂屋頼隆らがそれであった。六角父子は観音寺城を落去《らつきよ》したとはいえ、死んだのではない。どこかに潜んで回復を計画しているに相違ない。油断をすれば、江州に立ちかえるであろう。立ちかえれば四百年という長い関係があるのだ。その家臣や、被官《ひかん》や、なかには民《たみ》百姓まで付き従って大事になるおそれがあった。何よりも、南江州は岐阜と京都との通路だ、これは確保しなければならないのであった。
藤吉郎も久しぶりに帰宅してねねや弟妹らに会って、京のみやげものをくれたり、京の話をしてやったりして、しばらくのんびりとした日を送ったが、この頃、東海道筋では大へんなことがおこっていた。
駿河《するが》の今川家がついにほろんだのだ。ほろぼしたのは甲斐の武田信玄だ。一体、今川家と武田家とは姻戚《いんせき》の間柄だ。今川家の当主|氏真《うじざね》の母は武田家から来た人で、信玄の姉にあたる。つまり、氏真と信玄は叔父甥《おじおい》にあたるのだ。その叔父さんが兵をひきいて富士川沿いの道から攻め下って来て駿河に侵入し、甥の氏真を追い出して、駿府《すんぷ》を占領してしまったのだ。
強いもの勝ち、強弱の勢いが懸絶すれば、血の親しみなど何の役にも立ちはしない。風の前の塵《ちり》のようなものという、戦国のおそろしさであった。
氏真は父が田楽狭間で討取られた以後、父の弔《とむらい》合戦をする気概もなく、のらりくらりとした日を送っていた。当時氏真が最も熱情をかたむけていたのは蹴鞠《けまり》だったというから、戦国の武家大名としては失格である。譜代《ふだい》の家臣らも愛想《あいそ》をつかした。忠誠の観念は道義化されると、純粋犠牲的のものにまで昇華され、教えとしてはそうであるべきことを要請されるが、本来君臣の間柄というものは相互給付のものだ。家来が忠誠をつくしてくれることによって主人の家と身が守られ、また栄えるのであるが、家来の方から言えばそのかわりに自分の生命財産と栄えを主人は保証してくれるべきものなのだ。こんな主人についていては、ろくなことにはならないと、思うようになっては、家来共の心が離反するのは当然のことなのである。
この今川家の様子を見て、信玄は、
「氏真のようなばか者が主人では、今川家の領地は東は北条にうばわれてしまい、西は三河の松平にやられてしもうわ。あかの他人のものにすることはない。血のつづいた叔父《おじ》さんであるおれがもらった方が筋道が立つというものじゃ」
と考えて、さかんに今川家の家臣らを誘惑して、心を引きつけ、ついに駿河に侵入して来たのであった。氏真は仰天して、兵をくり出して防戦させようとしたが、出陣したその家臣らのあらかたが武田方に寝返りを打ったから、たまらない。氏真はついに一防ぎもしないで、駿府を逃げ出した。
こうなると、松平元康も黙って見てはいない。兵をひきいて遠江《とおとうみ》に出馬し、大井川の西岸に旗を立て、
「武田方がこの川を渡って西するのは許さぬ。一歩なりとも渡ってみよ。容赦はせぬ」
という気勢を示した。
その結果、両家の間に相談が行われ、大井川を境として東は武田領、西は松平領ということに、話がきまり、両軍とも本国に引きとった。
戦国の世に弱国にはなりたくないものである。ほしいままに他国にわけどりにされてしまったのである。
今川義元が戦死してからこの時まで八年、その前々年やっと岡崎城を今川家からかえしてもらった松平元康は、今や三河、遠江両国の太守となり、実際の天下人《てんかびと》である織田信長の唯一の盟友となったのに、その頃、駿・遠・参の三国の太守で、海道一の大々名といわれていた今川家は、今では一坪の地ももたない流浪《るろう》の旅人となり、氏真は小田原の北条氏に身を寄せて、露のいのちをつなぐ食客《しよつかく》となり下ったのである。
(おそろしい世や。油断もすきもならん今の世や。しかし、こないな世の中であればこそ、おれがようなものも、今の身分になれたのや。こないな世がつづくかぎり、おれはもっと大きくなれる。二十万石、三十万石、四十万石の大名にもなれる。世のおそろしさをなげいたり、いやがったりしとるのは、男のすることやない。男はどんな世であろうと、この世を出来るだけ見事に生ききることや。おれはみごとに生ききってみせるで)
強い感慨が、藤吉郎にはあった。
その年が暮れて、永禄十二年の正月六日。
その夜、信長は重立った家臣らを集めて軍議をひらき、この九日に伊勢地方に出兵することを決定し、夜ふけになって散会した。
藤吉郎もこの会議に列席して、刺すような寒気の中を屋敷にかえって来た。
ねねは酒をあたためて、夫のかえりを待っていた。
「お寒うございましたろう。ちょうどよう燗《かん》がついとります」
出仕着《しゆつしぎ》をぬがせ、真綿の厚く入った小掻巻《こかいまき》を着せかけ、炉ばたに導いて、酒をすすめた。熱い酒をのんで、生きかえった気持になって、床に入った。
「おいよ。そなたも早う寝よ。こげいな晩は、女房の膚《はだ》が恋しゅうてならんものや。ええかげんにして、早うこいよ」
あと始末に手間どっているねねに、ふざけ半分、本気半分に声をかけながら、いつかうとうとと夢路をたどっていると、不意にねねからおこされた。
「急ぎ登城《とじよう》せよとのお召しでございます」
という。ガバとはね起きた。
「ご出陣か!」
「何ともそれはお使いの方は言われませぬが、この時刻の急なお召しでございますから、ひょっとすると……」
「よし! 馬を用意させい」
用意させた馬にまたがり、下人《げにん》に具足びつを背負わせて、家を立ち出でた。寒気は先刻かえって来た時よりぐっとひどくなり、風が身を切るようだ。夜明けにはまだ遠く、真暗な空には星一つ見えない。雪になるかも知れないと思われた。
「ご出陣かも知れぬ。ご出陣ならば、おれは殿様のお供して乗り出す。そなたは小一郎と相談し、墨俣《すのまた》の彦右衛門にすぐ使いをやり、ご出陣であったら、追いついて来るようにさせよ」
馬上から言いすてて、城に向った。
城についてみると、出陣であることがわかった。藤吉郎は諸士の詰所《つめしよ》で、具足に着かえて、信長の前に出た。
信長は具足下《ぐそくした》の上に小掻巻《こかいまき》を着て、大火鉢に片手をかざし、前に十余人の右筆《ゆうひつ》らに机をならべさせていたが、藤吉郎を見ると、
「やあ、藤吉郎、早いことしたな。もうその支度で来たか」
と笑って、さらに言う。
「この五日の早朝に、三好の残党どもが蜂起して、公方《くぼう》の館《やかた》に攻めかけ、目下激戦中じゃという知らせが入ったのよ。ずいぶん前から、こそこそと支度をしていたげで、畿内《きない》にいる者共は申すまでもなく、遠く阿波の三好一家とも気脈を通じ、おれにここから追いおとされた斎藤|竜興《たつおき》も荷担しているというわ。阿波の三好らは海をわたって堺につき、そこで勢ぞろいして攻め上って来たげな。そのため、この前おれに攻めつけられて降伏したやつばらの中で、寝返り打ったが、ずいぶんといるげなよ。なに、少しも気にしとらんわ。いずれはこげいなことになると、見通していた。ただ、ちょっとつもりより早うなったわ。ハハ、ハハ」
またからからと笑って、筆をそろえてかまえている右筆らの方を見て、
「右筆ども、おれの言う通りに書けい。ひとりで二枚ずつ書け。よいか」
と言って、口授する。
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逆臣共蜂起して、公方家ご難の由、その方ども即刻京へ馳《は》せ上り、これを伐《う》つべし。われらも直ちに出発いたす。猶予するものはゆるさぬ。いそげ、いそげ。
[#ここで字下げ終わり]
話しことばそのままの平易《へいい》な文章である。
信長は一々それにあて名を書かせた。みな西美濃と近江の豪族らの名前であった。
「これを送り出せ」
言いすてると、立ち上って、さっと小掻巻《こかいまき》をぬぎすてた。侍臣がすぐ具足をすすめる。
手早く着てしもうと、
「飯《めし》!」
と呼んだ。立ちながら、湯をかけて、さらさらと掻きこんだ。
「藤吉郎、田楽狭間の時のことを思い出すぞ。あの時もこうして出たわ」
といって、
「われは飯を食うて来たか」
といった。
「片時も早くと存じ……」
「不覚な! あちらへ退って湯漬《ゆづけ》を食うてから供せ! 誰ぞ藤吉郎を連れて行って、飯を食わせい」
と、どなりつけた。
台所に退って、湯漬を三|膳《ぜん》ほど食べた時、もう殿様お立ちの声があがった。箸《はし》を投げすて走りもどって見ると、玄関先に馬をならべ、信長はじめ皆具足の上から蓑《みの》を着、竹ノ子|笠《かさ》をかぶっている。その頃から雪が降り出して、見る見る大地を降りうずめて行きつつあるのであった。
藤吉郎も、そこにあった蓑を羽織り、笠をかぶり、馬上の人となった。
真暗な空からひんぷんと降り散って来る雪をついて、信長は鞭《むち》をあげて駆け出した。一行、信長ともに十二騎。
進むにつれて、雪は益々降りしきり、寒気は益々きびしくなったが、信長は少しもひるまない。
「エイサ、エイサ、エイサ!」
と、みずから音頭をとり、従騎《じゆうき》とともにさけびながら馳《は》せつづけた。
このように疾駆《しつく》しつづけている間に、家臣らはしだいに追いついて来、ついに数千人となった。信長はこの数千人とともに雪の行軍をつづけ、三日目の九日の早朝に京都についた。しかし、もうこの時は、将軍は危機を脱していた。この時までに諸所方々から駆けつけて来た援軍によって、逆賊らは敗走していたのだ。
そうこうしている間に、信長の本軍が到着した。五万余という大軍であった。
これには皆おどろいた。この前も五万余であったが、あれは義昭将軍という旗じるしがあったから集まった大軍と皆見ていたのだ。ところがこんどは信長の命令一つで集まった五万余人だ。人々はいやでも信長の実力を感じないわけには行かなかった。
このおどろき、この感心は、すなわち信長にたいする恐れだ。人々はすくみ上った。逆賊共はちりぢりばらばらになって姿を消した。
信長はすばやくこの心理をつかんで、堺に上使《じようし》をおし立てた。
「その方共の町は、去年将軍家ご再興の費用をわりあてられた時、四の五の申して命を奉ぜず、こんどはまた自分の土地で逆賊共に勢ぞろいをさせ、その軍用などもつとめている。逆賊に一味したと同然である。一体いかなる考えでいるのか。返答の次第によっては、直ちに軍勢をさし向け、一もみに踏みつぶすぞ。性根をすえて返答せよ」
堺でも、信長の実力のすさまじさを感じている。ふるえ上って、散々にわびごとを言う。信長はもとより堺のような有用な地をつぶす考えはない。十分におどした後、
一、二万両の科怠金《かたいきん》(罰金)を出すこと
一、町に軍備を持たないこと
一、町人の本分を守って、武勇立てなどして、将軍に反抗しないこと
の三か条をかたく約束させて、ゆるした。
信長が将軍から堺に代官をおく許しをもらったからといっても、実際にはおけなかった。しかし、この時からおけるようになった。堺は実質的には自治権を失って信長の支配下に屈服することになったのである。
この京都滞在中に、信長は義昭のためにまた御所を営んでやった。場所は昔の二条御所のあとであった。二条御所というのは、三代将軍足利義満が造営したのだが、その後焼けたのを義昭の兄の義輝将軍が再興した。しかし、これも義輝が殺された時、焼けて、あとは茫々《ぼうぼう》たる焼野原になっていたのである。信長はここを東と北に一町ずつとりひろげ、堀をほりめぐらし、二丈五尺の石垣をきずき上げ、用心堅固に、また雄大に造営した。
信長は建築好きだ。すでに岐阜の城を築いており、後年には安土《あづち》城をきずいて、日本の築城法を一変させたと伝えられている。熱心に建築にかかった。うまくやれば大工事は民の心を浮き立たせ、世の景気をよくし、民心を引きつけるものであることも知っていた。だから、その工事ぶりはまるでお祭のようであった。
たとえば、細川邸に藤戸石《ふじといし》という名高い巨石があったが、これを庭石として持って来る時、信長はこの石を綾錦《あやにしき》で包ませ、さまざまな花でかざり、大きな曳綱《ひきづな》をいく筋もつけ、笛や太鼓ではやし立て、木やり唄《うた》をうたわせ、自らその音律をとって曳かせた。
またこの御所内の装飾を迅速に完成するために、京や奈良の寺院の装飾品を持って来させて、坊さん達がかわりに金銀を献上するからやめてほしいと嘆願したが、許さなかった。僧侶《そうりよ》はウソつきで、戒律をやかましく言うくせに内実は破戒|無慚《むざん》の徒《と》が多いというので、信長は最もきらっていたのである。信長のきらいなものは偽善者と体裁ぶりやであった。
この工事には二万人の人夫を使い、その費用は京の町人の富有な者共に割りあてて出させた。
ぐずぐずしたことのきらいな信長は、自ら工事の監督に出た。虎の皮のむかばきをつけ、氷のような刀をぬいて片手に持ち、工事場の中央に立ち、鋭い目を光らせて、諸人の働きを見はったのだ。ある時、いたずらな兵士が、見物に来ている女の被衣《かつぎ》をあげて顔をのぞこうとしたのを見ると、風のように走りよるや、
「不埒者《ふらちもの》!」
と大喝して、一刀のもとにその首を西瓜《すいか》のようにふっ飛ばせたこともあった。
彼はまた禁裡《きんり》の修築もした。
また、皇室の経済にも心をくばって、豪族らに奪われている皇室の御料地をとりかえして上げたばかりか、戦争や天災などによって租税の輸送が一時とだえてもご不自由のないように、京都の市民らに米を貸しつけ、その利息が毎月皇室に納まるようにはからった。京都の町数は当時百二十七あったが、一町毎に五石ずつの米を貸しつけ、一年に三割の利子をとることにしたから、一月には十五石八斗七升五合の米が皇室に納まるのだ。これだけあれば、生活の最低線は維持出来ると計算を立てたのである。
信長は五月十一日に京都を出発して、岐阜に帰ることにしたが、その時、義昭将軍は、
「こんどのようなことが再びあってはまことに難儀、誰ぞしかるべき警固《けいご》役をのこしておいてもらいたい」
と頼んだ。
「われらもそれは考えていたことでござる」
と信長は答えて、その手くばりをしたが、その役を仰せつけたのは藤吉郎であった。
人々はあっとおどろいた。
「あの猿めをか!」
「わしはまた、柴田、佐久間、森などというご家中の大身の方々の誰ぞがあてられると思うていたに」
「なんとも解《げ》しかぬる、殿様のお考え」
と、寄るとさわるとささやき合ったが、それだけに藤吉郎の感激はひとしおである。
(殿様のお目にお見落しはない。わしの奉公ぶりを細大もらさず見ていて下さるのじゃ。殿様のためには、いつでも死ねる)
と、人知れず泣いて感謝した。
総見記に、「藤吉郎が面目《めんもく》、身にあまりてぞ見えにける」とある。そうあろうはずである。
味方をつくる
警固《けいご》役は将軍の守護だけの役目ではない。京都全般の治安もその任務である。朝廷とも折衝があり、堂上衆《とうしようしゆう》はいうまでもなく、町人らともしげしげと接触しなければならない。単に武勇にたけているというだけの者ではつとまらない。藤吉郎のような人物を選任したのは、信長なればこそのことである。
世は実力の時代になっているのだが、凡人の心は常に現実の社会から遅れる。人々が藤吉郎のこの任命を意外に思ったというのがそれだ。凡庸な人間には自分の目も、自分の心も、自分の判断もない。その人が自分のそれだと思っているものは、錆《さ》びついている古い習慣であり、杓子《しやくし》定規であるにすぎない。つまりすでに苔《こけ》の下に白骨となっている人々の目であり、心であり、判断なのである。天才だけがそれを超脱して、自分の目で見、自分の心で認識し、自分で判断して、最も現実に適合したものを選ぶことが出来る。信長はその天才だったのだ。政治家として、軍人として、日本歴史上に前にも後ろにも類例のない大天才だったのである。
信長が京を出発して岐阜に向ったその翌日、藤吉郎は早速二条の御所に行って、将軍に拝謁を願い出た。
この年の五月十二日は、今の暦では六月六日にあたる。入梅前のむし暑い日のつづく頃である。風采《ふうさい》のあがらない小男が、ほんの五、六人の供人をつれて、ひょこひょこと来て、
「拙者《せつしや》はこのたび公方《くぼう》様|警固《けいご》役となりました木下藤吉郎でござる。公方様にお目見えのためにまかり出ました。お通し下され」
と言ったので、門番はあきれた。
「はあ、しかし、それはお役人方に申し通ぜられてあるのでござろうか」
「いやいや。しかし、お役目は大事でござるからな。それでは通りますぞ」
ほしかためたように小さくて、赤黒くて、醜悪な顔だが、へんに愛嬌《あいきよう》のある笑いとともに、ぴょこんぴょこんとあごをしゃくった。薄赤いまばらなひげが三寸ばかりのびた、とがった、小さいあごだ。すたすたと入ってしまった。供まわりの者もあとにつづく。
公方様警固役であるというものを、とめることは出来ない。
「フーン」
門番はうなって、小首をかたむけるよりほかなかった。
玄関でもちょいとしたもんちゃくがあった。ともかくも、一間に通しておいて、細川|兵部大輔《ひようぶだゆう》藤孝(幽斎《ゆうさい》)と上野|中務少輔《なかつかさしようゆう》清信の二人は相談にかかった。二人は義昭将軍が奈良の寺院を脱出した時からずっとつき従って諸国を流浪《るろう》し、艱難《かんなん》をともにしたので、義昭にとっては左右の腕ともいうべき重臣なのである。
二人は若い時から足利将軍につかえていただけに、古めかしい権威主義や古風な礼法が心の底までしみついている。いくら信長から警固役を命ぜられたにしても、いきなりおしかけて来て拝謁を願い出るという作法はないと思わずにいられない。そんなのを許しては、等持院殿《とうじいんでん》(尊氏《たかうじ》)以来十五代二百数十年つづいて来た幕府《ばくふ》の礼法の乱れとなり、ひいては公方《くぼう》様の権威に関すると思うのである。といって、木下藤吉郎という男を警固役に任命したということは、すでに信長が出立間際に届けて来ている。無下《むげ》に追い返すことは、信長にはばかりがあって出来ない。
「いかがいたしたものでござろうか」
「さればのう」
と、大問題のように――実際この人々にとっては大問題なのだ。何せ、公方様の権威にも関することと思われたのだから――思いわずらっているのであった。
「一体、その木下藤吉郎とは、織田家ではどれほどの人物でござるのか。ちょいちょい聞かん名前ではござらんが、さしたる身分ではないようにも聞いたことがありますが」
と、上野清信が言うと、細川が答える。
「元来の身分は至って低いのじゃそうにござる。尾州名古屋在の百姓のせがれとも、織田家の鉄砲|足軽《あしがる》の家に生まれたとも、申す。しかしながら、なかなかの働きもので、はじめは小者《こもの》として奉公したのが、十年少しの間に六百人の手勢を持つほどの身分になり、昨年のご上洛《じようらく》に際しての江州の合戦では箕作山城攻めに抜群の手柄があったと聞いています。織田|弾正忠《だんじようのじよう》殿がこんど警固役になされたところを見ますと、相当にお気に入りであるには相違ありますまいな」
「なるほど、土民の小せがれ、ないしは鉄砲足軽の小せがれでござるか。ならば、礼儀も作法も心得のないも道理。それに、高うは言われませぬが、主人の織田弾正忠というが、そうしたことにはまるでかまわないお人でござるから、これも道理というわけですわい」
「しかし、どうなさいます?」
「されば……」
思案投げ首でいるところに、取次ぎの者が人を案内して来た。
明智十兵衛《あけちじゆうべえ》であった。
敵党を追いはらい、義昭に将軍|宣下《せんげ》を受けさせると、信長は明智を義昭の付人《つけびと》とした。明智が前から因縁《いんねん》があるからであったが、一つには明智には文学の素養があり、幕府《ばくふ》の古めかしい礼法や式典に通じていたからである。信長の家中には、一人としてそんな古風な教養を持つ者はいないのだ。そんな嗜《たしな》みは今の世には最も無駄なことだと、信長が軽蔑《けいべつ》しきっていたからである。この時代、信長の家中ほど、無礼無作法なものはなかったのだ。
こんな話が『老人雑話』という書物に出ている。
若狭の武田家から織田家に使者が来た。威儀を正して広間にひかえているその使者の様子を、こちらのへやからのぞき見たのが、市橋|下総守《しもうさのかみ》という男である。
「礼儀知り顔な奴《やつ》じゃわ。見たくもない奴」
といって、つかつかと出て行き、ごろりと使者の前にあお向けに寝、足をその方に向け、前をまくってきんたまを出し、
「お使者、貴殿これくらいの餅をどれくらいお食べやる?」
と言った。
使者がどんな顔をし、なんと答えたか、書いてないが、後でこの話を信長が聞いて、「笑いてやまざりしとぞ」とある。
痛快なまでに礼儀作法を無視している織田家の家風がわかるのである。
しかし、ここが信長だ。昔ながらの礼儀作法など本来は不要なものだと思っていても、将軍家との交渉には、全然無視してはつまらん摩擦《まさつ》が生じて損であることを知っている。そこで、明智を付人《つけびと》として義昭につけ、自分と義昭との連絡がかりとしたのであった。
二人は明智を見ると、ほっとした。
「やあ、明智殿、よいところへ見えられた。実は、思案にあぐねていることがござる」
と、上野が言った。
「ほう。どういうことでございますか?」
ものしずかな男だ、ひざにぴったりと両手をおき、直垂《ひたたれ》の肩を張った端然たる坐容《ざよう》で、ゆっくりと、等分に二人の顔を見る。
「こんな次第なのじゃ」
上野は藤吉郎が来て、お目通りを願い出ていることを語って、
「もちろん、木下とやらが警固役を命ぜられて京《みやこ》にのこったことは、昨日|弾正忠《だんじようのじよう》殿からご出発間際に届けがあった故、わかっている。しかし、公方家《くぼうけ》へはじめてのお目通りするというのは、なみなみならぬことじゃ。いきなり来て、いきなり願い出て、それで許さるべきものではない。先例のないことじゃ。前もって伺いを立て、ご詮議《せんぎ》があって、しからば何月何日|何時《なんどき》に、どのような服装でまかり出よと、ご沙汰《さた》あって、はじめてなさるべきことじゃ。そんなことは、そなたはよくごぞんじのこと故、くだくだしく申すまでもないのじゃが、木下とやらはそれを知らんらしいのじゃな。一体、公方家をいかなるものと心得ているのかのう」
と、言った。かなしげであり、腹立たしげだ。
つつましく、しずかな表情で聞いていた明智は、微笑した。
「一々ごもっともな仰せでございます。あの家中は京《みやこ》の手ぶりに不馴《ふな》れな者ばかりでございますから、悪い気はなくても、ついそのようなことをしてしまうのでありましょう。木下藤吉郎は、あの家ではまださしたる身分ではございませんが、なかなか働きのある者で、弾正忠のお気にかのう者でございます。拙者《せつしや》、よく存じている者でございますから、拙者が応対して、よく教えることにいたしましょう」
二人の顔には安心の色が浮かんだ。こんどは細川が言う。
「それはありがたい、これからのこともある。よくよく教えてくれますように。しかし、きげんを悪くするようなことはないであろうな」
「それは大丈夫でございます。そんな男ではございません」
明智は、藤吉郎の待っている座敷を聞いて、そちらへ向った。
藤吉郎はひろい座敷の真中に、つくねんとしてすわっていた。庭もなんにも見えない座敷である。むしむしと暑かった。ひざの前には、飲みほされた煎茶茶碗が一つ、黒塗りの茶托《ちやたく》にのっかっているだけであった。応対には、この茶を持って来た小侍《こざむらい》が出て来ただけで、あとはひとりとして出て来ない。
かんの鋭い彼には、自分が必ずしも歓迎される客でないことがわかっている。こういう古い権威筋では、氏素姓《うじすじよう》の詮議《せんぎ》がうるさいものであることも、十分に見当がついている。こういつまでも待たせるところを見ると、大方そのへんのことですったもんだしているのであろうと、推察をつけていた。
抵抗的な気持は、もちろん、大いに出て来る。
「ついこの前まで、方々を居候しながらうろつきまわり、やっとうちの殿様のおかげで公方《くぼう》にしてもろうたくせに、まだ世の中がかわってしもうたことがわからんとは、よっぽど鈍い話や。公方さんはわからいでも、家老衆はわからなならんはずや。今はええとしても、こんな人々、これから先きどないなるのやろな……」
と、心の底から軽蔑《けいべつ》したくなっていた。
しかし、おこってはならん、ここでおこるようでは、警固役いうしごとはつとまらへん。じっくりかまえて、何がなんでも、今日お目見えに漕《こ》ぎつけてやる、と、腹をすえていた。
のんきそうな顔をこしらえて、小さい腕を組んで、格天井《ごうてんじよう》を見上げ、一つ一つに木理《もくめ》のちがう凝った天井板を眺めていた。興味があるわけではないが、大いに興味ありげによそおっていた。
明智の入って来たのは、その時であった。
廊下に面した杉の遣戸《やりど》があいて、人が入って来たので、ゆっくりと腕組みを解き、その方に目を向けたが、それが明智であることを知ると、まるい目壺《めつぼ》の底に大きな目をぐるっと動かした。全体の相貌《そうぼう》の醜悪な中で、この眼だけは異様なくらい澄んで、かがやきが強く、時々ねねが一緒に寝ていながら、
「お前様のお目はほんにお立派、こげいに澄んで、こげいに美しい目を、わたしは見たことがない。お前様の心の美しさとかしこさが出ているのですわいな」
と、ほめてくれるので、大いに得意としている。子供の頃には、人間の目のようやない、犬や猿の目に似ているといわれて、えらい苦にしたものである。
「やあ、これは誰かと思えば、明智十兵衛殿」
と、大きな声で、笑いをふくんで呼びかけた。
明智はひざまずいて向うを向き、遣戸をしめつつあった。しめてしもうと、立ち上り、こちらを向いて、しとしと歩いて来る。小笠原流じゃか、伊勢流じゃか知らんが、いささかすり足気味で来る革足袋《かわたび》の足どりが流れるようであった。
遠くもなく、近くもない位置にひざまずき、直垂《ひたたれ》の両袖《りようそで》をさばいて左右に流し、扇子を前に横におき、両手の爪先《つまさき》をつかえ、あるかなきかの微笑を浮かべて言う。
「これは木下殿。この度は公方《くぼう》様|警固《けいご》の重いお役目をお受けなさいました由、一通りならずお骨のおれるお役目とは申しながら、それだけに武士としてなかなかのご名誉、うらやましきことでござる。およろこび申し上げます」
藤吉郎は笑った。最もうれしげな顔をこしらえて笑ったのだ。
「お祝いを申していただき、ありがとうござる。拙者《せつしや》もこの度のことは、思いもかけぬ仰せつけで、どうよろこんでもよろこび足りぬほどでござる。まこと涙のこぼれるほど、殿様のご恩をありがたく思っています」
と、むき出しに喜悦の情を吐露した。
男――とりわけ武士は、どんなにうれしくてもちょっぽりとしか笑わず、どんなに腹の立つ時にもわずかに眼を少し光らすくらいにとどめ、ごく渋く表情を保つべきであるというのが、この時代の人々の考え方であったが、藤吉郎はちがう。女々《めめ》しげに見えることはしてはならないが、うれしいとか、ありがたいとかいうような感情は、天真らんまん、大ッぴらにあらわしてよいと思い、それで通すことにつとめている。身分が上ってからはとくにそうしている。周囲の人の心を明るく、にぎやかにし、ひいては人の好意をかき立てる功用もあるではないかと思っているのだ。
「そうでござろうとも。ご心情よくわかります」
と、明智はうなずいたが、燃える性質ではない。わずかに微笑を見せただけである。
「おわかり下さるか。それでは拙者もお話がしやすうござる」
と、藤吉郎は上体を乗り出した。
何かつけこまれるような気がして、明智は覚えず警戒する気持になったが、もう藤吉郎は語り出していた。
「拙者《せつしや》、この大役を仰せつけられ、いかにすればお役目を全《まつと》うすることが出来るかと、心を砕いて、実は昨夜は一眠りも出来ぬほどでありました。幸い、貴殿はお付人《つけびと》として、公方《くぼう》家にお仕えでござる。同じ家中のよしみで、いろいろとお力になっていただきたい。お願いでござる」
「仰せまでもないことであります。拙者の身におえることは、何にまれお手伝いいたします。すべてこれ、殿様へのご奉公になることであります。貴殿もまた拙者に力を貸していただきとうござる」
と、明智は切り返しておいて、
「早速でござるが、にがい助言をさせていただきます。貴殿が本日こうして当御所にまいられましたのは、お役目拝命のごあいさつのためでありましょうが、それならそれで、その向きの役人に口上を述べられただけでお引取りあるべきで、お目見えは公方家のご都合を伺い、ご指定を待ってなさるのが、公方家のご慣例となっています。さようになさいますよう」
と、言った。
相手が公方家の重臣に頼まれて来たのであることは、藤吉郎は推察がついている。愛嬌《あいきよう》よく微笑して言った。
「お心付けの段、かたじけなくござる。なるほどご慣例はそうでござろうが、拙者《せつしや》はぜひお目通りいたしたいのです。なぜとならば、すでにかほどのご大任をこうむりました上は、一日もゆるがせにしてはならぬこと、一日も早くお目見えして、お直《じ》きじきにご用をたまわり、早速にご用命を奉じ、よろずはかの行くようにいたしたいと存ずるのです。そうすることが、公方様へのご奉公ともなり、また殿様のおためにもなることと、思いこんでいるのでござる。いかが。拙者のこの心をおわかり下され、もし当御所のご重役方が、慣例によってお渋りなされているのなら、よくよくおとりなし、拙者の存念の達しますよう、お願い申します」
明智のもの静かな表情に、狼狽《ろうばい》の色があらわれた。それはちらりとあらわれて、すぐ消えたのだが、藤吉郎は見のがさなかった。
「礼儀作法も、旧例故格《きゆうれいこかく》も、もとより大切なものでござるが、殿様はよろずにはかの行くことが、一番お好きでござる。貴殿は近いご新参《しんざん》ではござるが、明智のお人ゆえ、すでにお気づきでありましょう。もしお気づきでないなら、すでに十余年を奉公しています拙者の助言としてお聞きあれ。ご損にはならぬことでござる」
微笑につつんで、角立《かどだ》たぬように心して言ったのだが、ききめは十分であった。明智ははっとした顔になった。笑った。
「いかさま、仰せられる通りのご家風でありました。つい古風な心になってしまっていました。お心付けたまわり、ありがとうござる。お礼申し上げます。この上ともに、お心付きのことは、ご教示下され。さらば、重役方にご精神のほどを披露《ひろう》して、お骨おり申すでありましょう」
「頼みます」
ひざに手をおいて、おじぎした。
明智は席を立ち、美しい足どりでさらさらと出て行った。
(やれやれ、やっとお目通り出来るか。骨のおれることや)
ひとりになると、藤吉郎はまた腕ぐみして天井を仰ぐ。もちろん、天井板などには興味はない。
「明智いう男、ずいぶんと利口もので、ものわかりのよい男やが、生まれながらの性質やろか、それとも、なまじ学問したり、礼儀作法覚えたためやろか、もったいぶったことが好きなようやな。あれでは、よほどに気ィつけて矯《た》め直さんと、殿様のお気に召さんな。しかし、利口ものやから、上手にやるようになるやろ。さすがにものわかりはええわ。すんぐに聞きわけたわ」
と、明智のことを思いやっているのであった。
明智の説得がうまく行って、その日、藤吉郎は義昭将軍にお見見《めみ》えが許されることになった。義昭はきげんよく引見して、
「その方が木下藤吉郎と申すか。その方を警固役としてこちらにのこすことにしたことは、弾正忠《だんじようのじよう》からの届けで、昨日のうちに知った。いろいろと大儀ではあろうが、忠勤をはげみくれるよう」
と、ねんごろなことばをかけたのである。義昭がすでに実質的には空に帰している将軍の権威に強い誇りを持ち、やがて信長にたいして裏切りを企て、ついに京から放逐され、放逐後もなお執拗《しつよう》にその企画にしがみついたことは、やがて書くことになろう。そんな、一種の偏執狂《マニヤ》的変質者ではあったが、これまでずいぶん苦労して来ただけあって、こんな際の口のきき方などはたくみであった。
「身にあまるかたじけないおことばであります。ご奉公の真心を申し上げたく存じて、お目見え願い出たのでございます。いかでか、心を砕き、身をくだいて、忠勤をぬきんでぬことがございましょうか。上様にも、お心やすく思し召し、何にまれご用の儀がおわしますなら、本日も早速に仰せつけ下されたく、お願い申し上げます」
と、藤吉郎が奉答すると、義昭は一層きげんよげになった。
「さすが弾正忠ほどの者が、数ある者の中から選んだだけあって、小気味よきことを申す。余は満足である。しかし、さしあたっては申しつくべきことはない」
「おほめいただき、うれしくございます。重ねてお礼申し上げます。さしあたってはご用あられませぬとのことでありますが、向後、ご用の儀がおわします節は、てまえをお召し寄せ遊ばされ、おん直きじきに仰せつけたまわりますよう。必ず早々に埒《らち》をあけることをお誓い申し上げます」
上々の首尾で、時服《じふく》を拝領して退出した。
これを手はじめにして、藤吉郎はせっせと二条御所に顔を出し、何か命ぜられれば時をうつさず処置したので、御所の人々は義昭をはじめ皆藤吉郎を信用したし、京の町人らの間の藤吉郎の評判はすごいものになったと、『甫庵《ほあん》太閤記』は記述している。
この書にはまた、藤吉郎の評判が高くなったので、信長の家中の者に嫉妬《しつと》する者が多くなり、
「さし出たふるまいがよくあり、一通りならぬ威勢をふるっているということでございます」
と、信長に言上したところ、信長はその者をにらんだ。
「あやつがさし出ものであることは、おれは前から知っている。よいことにさし出るのが何が悪いぞ。抜目なく働くあやつの威勢がよくなることもあたり前のこと、あやつの威勢はおれの威勢じゃ。かねてからそのつもりでいたのじゃ。阿呆《あほう》な心配するな」
と叱りつけたと記載している。ありそうなことである。
この時期に、藤吉郎が処理したこととして、具体的にわかっているのは、一つしかない。
丹波《たんば》の山国庄《やまぐにのしよう》は代々|禁裡《きんり》のご領であったのを、宇津という豪族が横領していた。それをとり調べて、信長の命令として宇津に返還を命じたのだが、その際禁裡の経済係り的人物であった立入|左京亮宗継《さきようのすけむねつぐ》に、そのことを通報した文書がのこっているのである。この文書は、藤吉郎、丹羽長秀、中川重政(織田氏の疎族《そぞく》、子供の代からは加賀前田家につかえその重臣となっている)、明智光秀の四人連署のものであるが、藤吉郎がトップに署名しているところを見て、彼が主としてこの仕事にあたったことが推察出来るのである。
ともあれ、こんな風にして、藤吉郎は大いに手腕をふるったが、長くはこの役目にいなかった。この年の八月信長が伊勢南部に兵を出すことになり、藤吉郎もこれに出陣しなければならなくなったからである。
今年の正月六日、信長が南伊勢に出陣するための軍議をひらき、九日に出陣することに決議して夜ふけに散会したその夜、三好党が京で義昭将軍の御所となっていた本圀寺《ほんこくじ》を襲撃した急報が入り、信長が一騎がけに京に向って出陣したことは、前に書いたが、この伊勢出陣の計画を信長が立てたことがいつか伊勢に聞こえた。
当時、伊勢の北部はすでに信長に征服され、その分国《ぶんこく》となっていたが、南半分は南北朝時代以来伊勢国司となっている北畠《きたばたけ》家のものであった。この頃、北畠家は左少将|信意《のぶおき》が当主であったが、父の大納言|具教《とものり》が入道して不智斎《ふちさい》と号して、実権はその手にあった。
(北畠家が地方大名でありながら、具教は大納言《だいなごん》、信意は左少将というように官位が高いのは、特別なわけがあった。戦国時代、土佐の一条家、伊勢の北畠家、飛騨《ひだ》の姉小路《あねがこうじ》家の三つは三国司といわれ、地方に住んでいながらも、堂上であり、その官位の昇進は在京の堂上なみということになっていたのである)
具教入道は信長に侵攻の計画があると聞いて、大いにおどろいて、防戦の準備を進めていたが、間もなく信長が京の変事のために上洛《じようらく》して、当分来そうもないというので、警戒を解いた。
ところが、信長は京にとどまって悠々と二条御所の普請《ふしん》や禁裡《きんり》の造営に余念もなげに見せかけていながら、ひそかに伊勢経略の手を打っていたのだ。この頃、信長の北伊勢の代官は滝川|一益《かずます》であったが、ひそかにこれを京に呼びよせて、北畠家を内輪われさせる手を打てと命じた。
元来、滝川一益は江州甲賀の侍である。甲賀の素《す》ッ破《ぱ》(忍者)なのである。喧嘩《けんか》して人を殺したため、故郷に居られなくなって、尾州にさすらって来ているうちに、忍びの術にたけている上に、鉄砲も上手であったところから、信長に召しかかえられ、武功を積んで、次第に立身し、今では信長|麾下《きか》の指おりの侍大将となり、蟹江《かにえ》の城をあずけられ、伊勢の代官に任ぜられているのであった。
素姓《すじよう》が素姓であるから、敵情の偵察であるとか、内部|攪乱《こうらん》であるとか、いうようなことは大《だい》の得手《えて》である。
「かしこまりました」
と答えて、蟹江にかえった。
具教入道の弟で具正《ともまさ》というのがいる。木造《きづくり》氏を嗣《つ》いで、木造中将具正と名のっていた。具正の子は長政、父子ともに北畠一族でなかなか羽ぶりがよかった。
滝川が目をつけたのは、この父子であった。大名の家のこういう近い一族というものは、最も本家と親しかるべきものであるのに、往々にして本家に不平を持っているものだ。
(なにかありそうな)
と見当をつけてさぐってみると、あった。北畠本家の当主|信意《のぶおき》は大へんな肥満漢で、立居《たちい》も自由でなく、人々から「大腹《おおはら》御所」と陰口をきかれているほどだ。具正はそんな人物が本家の当主であるのが不平で、いつも、
「いかにわが子がいとしければとて、戦国の世の大名たる者が馬にも乗れず、具足も着られぬようなかたわものに家をつがせるということがあるものか、大納言《だいなごん》の所存心得がたし」
と、言っているというのだ。
滝川はほくそえんだ。
(おれの狙《ねら》いに狂いはなかったな。木造は本家横領の野心を抱いているわ)
と判断した。
そこで、つてをもとめて、木造家の家老|柘植《つげ》某という者と交りを結び、よりより説いて味方に引き入れ、木造父子にこう説かせた。
「今の北畠家の有様を見ますに、勢い年々におとろえ、まことに危ない有様でありますのに、御所があの通りのおからだ故、京の公方家《くぼうけ》へ出仕《しゆつし》も遊ばされません。これでどうしてお家の立つべき道理がありましょう。滅亡は遠からずと心痛にたえません。この際としては、公方家と一心同体の織田によって北畠家の安泰を心掛けるよりほかはないと思考いたします」
元来火の気のあるところに油をそそいだのだ。具正父子の心はぱっと燃え立ち、
「われらも本家のことはいつも案じていた。よろしくはからえ」
と命じて、ひそかに滝川に味方を申し送らせた。
ところが、これが北畠家にわかった。わかったのは、滝川がわざとわかるようにしたのだろう。三、四か月の短時日の間にこうなったのだから、こう考えるのが最も自然であろう。滝川にしてみれば、北畠家を分裂させることに目的がある。知られた方が都合がよいのである。
ともあれ、具教入道は激怒して、柘植《つげ》某からさし出されていた人質を、わざと木造《きづくり》城の近くの河原《かわら》に引き出して、はりつけにかけて殺してしまった。人質は柘植の娘《むすめ》で、わずかに九つであったというから、むごい話である。
これで本家と分家は完全に手切れとなり、木造方では本家にたいする反抗の色を公然と立てて、城にこもり、滝川に助勢を乞うた。
北畠家では兵をくり出し、木造父子のこもっている戸木《へき》、木造の両城を攻め立てた。戸木は今の津市の西南方、木造も西南方、ともに津市からほど遠からぬ位置にある。両城ともよく守って防いだ上に、滝川が北伊勢の人数を駆りもよおして助勢として来たので、北畠方はあぐねて両城のかこみを解いて引き上げ、かえって防禦《ぼうぎよ》の立場に立つよりほかなくなった。
この報告を受けたので、信長は出陣することにしたのであった。
藤吉郎は八月はじめに出陣の命を受け、夜を日についで岐阜に馳《は》せかえった。信長のいつものやり方にならって、一騎がけである。従兵らはそれぞれの用意の出来しだい、あとを慕って来るのである。岐阜につくと墨俣《すのまた》に使を立てるとともに、かねて飼いならしている百姓共にふれまわして、出来るだけ多くの兵をかき集めたので、京から帰って来た兵、墨俣に留守《るす》していた兵、新たにかき集めた兵、合して七百人ほどとなった。これに蜂須賀らの寄騎《よりき》の勢を合すれば、千人になる。
「千人あれば、思い切った働きが出来る」
はり切って、兵らにうんと食べさせ、うんと飲ませて、気力をたくわえさせた。数か月の京都在任中に、相当金・銀・銭をたくわえている。重要であり、従って権勢のある職務について、京都のような大都会に駐在していれば、富有な町人や寺社からの進献《しんけん》がずいぶんある。こういうものを受取ることは、目にあまる貪欲《どんよく》な行為のないかぎり、この時代は悪徳とはされなかった。大いにつかって、兵士らを養い立てた。
八月二十日、信長は岐阜を出陣し、その日のうちに桑名《くわな》につき、二日の間|鷹狩《たかが》りしながら、諸勢の到着を待って、二十三日また前進して、その日木造へついて、木造父子と対面した。
合戦は二十七日、阿坂《あさか》城の攻撃からはじまった。阿坂城は今の松阪の内、大阿坂《おおあさか》といっている地にあった。
この城に北畠家の勇将大宮入道|含忍斎《がんにんさい》、その子|大之丞《だいのじよう》、同じく九兵衛をはじめとして、付近の豪族らがこもり、寄手に身をかくすべき地物《ちぶつ》をあたえじと、前面の村を焼きはらって待ちかまえていた。
ところどころに黒い焼土を見せながら、一物《いちもつ》の目をさえぎるものもなく打ちひらいて城までつづいている広場を見て、寄手はたじろいだ。はるかに見る城は空濠《からぼり》をめぐらし、土居をきずき上げた中に、大小の旗を乱立させ、ひしとおし静まっている。よほどの勢がこもっているようだ。土居の上に植わっている樹木の陰や、内側にいくつもある矢倉の上に、時々ちらりと人影が見える。鉄砲の筒口《つつぐち》を擬し、弓の鏃《やじり》をとぎすまして、近づいて来るのを待っているに違いないのであった。近づいて行くのは、的になるようなものだ。寄手の先鋒《せんぽう》隊は、しぜんに足どりがゆるくなり、ついに停止してしまった。
先鋒諸隊の長らは、集まって、相談をはじめた。
城内ではしばらく沈黙していたが、おびき寄せて討取る計略なのであろう、数個の人影が土居の上に立ちあらわれ、声をかぎりに悪態《あくたい》をつきはじめた。北畠家がいかに尊貴な家がらであるかを自賛し、織田家の家がらをくさし、
「かかる卑しい家の軍勢ゆえ、剛敵と見てはよう近づきもせんのじゃろう。戦《いく》さする勇気がないなら、目ざわり故、早々に引取れやい!」
というのであった。
藤吉郎の隊は第二陣になっている。先陣が動かない以上、進むことは出来ない。
「しばらくこのままで待っているよう」
と、言いおいて、蜂須賀彦右衛門とともに、馬を駆って前線に出て、しばらく城の方を凝視して、言った。
「彦右衛門、そなたの目にも見えるじゃろう、具足を着ぬ者の姿がちらほらと。あれは野良着姿のようじゃな。つまり百姓じゃと思うが、どうであろ」
「そうでありましょう」
「敵は人数が足りぬため、百姓共を駆り集めて無理往生に籠《こも》らせているのじゃと思うが、どうであろ」
「よいお見立て。そうにちがいありません」
「もう一つ。ここからでは、せいぜい五、六人しか見えぬが、シラミや鼠《ねずみ》と同じじゃと思うが、どうであろ」
この奇抜《きばつ》なたとえは、こういう意味である。着物の表面に五、六匹もシラミが這い出しているようなら、その人にはウジャウジャと湧《わ》いているに相違なく、屋内の目に触れるところに五、六匹の鼠がちょろつくようであれば、その家には百匹もいるであろうという意味だ。蜂須賀はすぐわかって、笑った。
「まずさようでございましょう。よほどの数でありますな」
ふたりは馬首をかえし、ひそひそと語り合いながら部隊にかえって来たが、かえりつくと、藤吉郎は小荷駄がかりになっている浅野弥兵衛を呼び、金箱《かねばこ》を持って来させ、中からつかみ出した銀子を彦右衛門にわたした。
彦右衛門はそれをふところにし、手の者四、五人を連れて、どこやらに消えた。
藤吉郎は兵士らに腰兵糧《こしびようろう》をつかわせ、自分も使った後、床几《しようぎ》を持って来させて腰をおろし、城の右手に張り出している赤松山を眺めて、悠々とかまえていたが、およそ一刻《いつとき》ほど立つと、その山に白い煙が上った。よほど気をつけていなければわからないほどに細い煙である。午後三時すぎ頃の日のあたっている赤松の緑の中に、ほのぼのと上って、しばらくで消えた。藤吉郎の動きはにわかに活溌《かつぱつ》になった。立ち上って、馬に飛びのり、部隊に戦闘準備を言いわたし、自ら真先に立って前進にかかった。
先鋒の諸隊のわきに途《みち》をとり、ぐんぐん前線に出ながら、まだ評議が決しないで集まっている諸将に使を立てて、言わせた。
「ほどなく夕景《ゆうけい》となりますに、一向にお取りかけにならぬは、いかなる次第でござる。陣法にそむくに似ていますが、われら取りかけ申す。右おことわり申す」
使はあらかじめ藤吉郎に言われている。言いすてにして走りかえって来た。
その間に、藤吉郎はうんと城に近づいたが、もう少しで着弾距離に入るというところで、停止命令を出し、馬をおりて、手勢の前に立って、
「よく聞け! 間もなく、おれがひらけ≠ニ言うたら、大きく左右にひらくのだ。一人一人の間は五、六尺だ。五、六尺だぞ。見る通りの打ちひらいた場で、身をかくすべきものは何にもない。ひらかねば、鉄砲玉でうち殺されるぞ。必ずともに身をよせ合ってはならぬ。もっとも、向うに、そら、大手の門から十間ほどこちらに焼けて黒い杭《くい》のようになって立っている木があるの、あのへんまで行ったら、おれを目がけて集まり、よろずおれがする通りにせい。その頃には、もう鉄砲玉は飛んで来ぬはずである。よいか。しかと覚えるのだぞ」
とくりかえし訓令しておいて、采配《さいはい》を振って、展開させ、その陣形でじりじりと城にせまった。
着弾距離に入ると、敵は弾を射送りはじめた。矢も飛んで来る。こちらも応射しながら、距離をつめて行った。
味方の先鋒《せんぽう》隊はあきれて見ていたが、間もなく案外に木下隊の損害の少ないことに気がついた。遮蔽物《しやへいぶつ》はないといっても、地面にはいくらかの凹凸がある。木下隊はその凹みから凹みへとたどって行くのだ。まばらに展開しているから、敵の矢弾はあまりあたらないのだ。
「やあ! 先手《さきて》たるものが先を越されて、なに面目《めんもく》あって、殿様の前に出られようぞ! 進め!」
と、大将らが絶叫すると、一斉におめいて駆け出し、藤吉郎の隊にならって、まばらに展開しながら出て来た。
こうなると、藤吉郎もあせった。ここまで漕ぎつけて、先登の功をうばわれてなるかと思った。今までこの隊ばかりに集まっていた矢弾は全線にばらまかれるから、これから飛来する数は少なくなるはずとも考えた。まだ予定の地点には達しなかったが、供の者に持たせていた槍《やり》を受取るや、石突をついて、跳躍してはねおきた。
「つづけ! つづけ! つづけ!」
絶叫しながら、槍をしごいて走り出した。全員同じようにはねおき、すさまじい声を上げてつづいた。藤吉郎を先頭にして、隊形はしぜんに楔子《くさび》形となり、ついに最初の目あてにした焼けた木の近くに迫ったが、その頃から矢が飛んで来はじめた。数は多くない。一人が矢つぎばやに射るらしいのだが、恐ろしい弓勢《ゆんぜい》であり、おそろしい正確さだ。目にもとまらない速さで飛んで来て、はッしはッしと射たおす。忽《たちま》ち四人ほど射たおしたが、それはいずれも胸をつらぬき、腹を射ぬいて、どぎどぎするばかりに白い大鏃《おおやじり》が、白く背にぬけるのである。恐怖にとらえられて、皆ひるんだ。
「ここまで来て、何たることだ! 進め!」
藤吉郎が叱咤《しつた》しながら、なお進んで、焼けた木まで達した時、おそろしいうなりがせまったと思うと、左の股《もも》に強い衝撃を感じ、どうと尻《しり》もちをついた。まるでなぐりたおされたようであった。見ると、左の太股《ふともも》を鷹《たか》の羽の矢が箆中《のなか》すぎてつらぬいていた。
「掠傷《かすで》だ! なんでもないぞ!」
とりあえず、どなっておいて、手早く脇差をぬいて箆《の》を切りおり、鏃《やじり》の方をつかんで、ぐいと引きぬき、そのままおどり上った。
「それ行け! それ行け! つづけ! つづけ!」
槍《やり》を打ちふりながら、城門目がけて突進した。傷からは血が流れ、袴《はかま》のうちを濡《ぬ》らしているようであったが、骨をも、大事な筋肉の急所もよけて、よほど工合よくあたったらしく、苦痛はほとんどなかった。その上、その頃から、城内から発射される鉄砲はほとんどなくなった。
これは藤吉郎が蜂須賀彦右衛門に命じて行わせた謀略が成功したのだ。彦右衛門は忍びにたけた手下《てした》を城内にもぐりこませて、無理やりに城内に駆り集められて籠城《ろうじよう》の人数にされていたものたちのうち、頭分《かしらぶん》の二人を銀子《ぎんす》で誘惑して、煙硝《えんしよう》に水をかけさせたのだ。このものの名もわかっている、大宮というところの源五左衛門と条助というのであったという。
城に裏切の者がいるといううわさだけでも、心が乱れるものであるのに、現実に火薬が水びたしになったのだから、もう戦う気力のあろうはずはない。門は忽《たちま》ちおし破られ、木下隊千人はなだれを打って乱入した。
ついに、大宮入道父子、降伏する。
信長は木造城にいたが、阿坂城が落ちたと聞くと、馬に鞭うって駆けつけた。日はもう没し、夕焼の色の美しい頃であった。
大手の門外に迎える藤吉郎を見ると、馬をとめて、
「藤吉郎あっぱれ手がらであったぞ。しかし、傷《て》を負うたというが、痛みはないか」
と、大音に言った。
「掠傷《かすで》でございます。ご所望遊ばすならば、つたない踊りをごらんに入れてもようございます」
といって、藤吉郎はどしんどしんと足ぶみして見せた。
信長はからからと笑って、
「あっぱれ元気ものじゃ。そちが手を負いながらも、門を破って攻め入ったのは、昔の朝夷《あさいな》三郎の門破りにもおとるまじい働きと思うぞ。そちの知恵才覚は、家中誰知らぬ者はないが、墨俣《すのまた》の城番をつとめた時をはじめとし、去年は江州箕作山城攻めに手なみを見せ、今またこの城を落した。武辺《ぶへん》にも抜群《ばつぐん》であること、今は万人が疑うべきでない。あっぱれなやつめ!」
と、口をきわめて激賞した。
こうした大袈裟《おおげさ》なほめ方は信長の癖であり、藤吉郎もこれにならって大袈裟なほめ方をするようになるのである。刺戟《しげき》の強烈な時代であるから、普通のほめことばでは感じないからではないかと一応解釈してみたが、この時代でもこの二人のように大袈裟なほめ方をする英雄はないから、別な理由を考えないわけに行かない。思うに、人間にとって、ほめられることはうれしいことであり、最も励みのつくことである。例外な人はあるが、例外は例外だ、それは特殊な人だ。きわめて稀である。百人中の九十七、八人まではうれしいのである。二、三人の例外のために九十七、八人に効果のあることをしないのは計算を知らない阿呆《あほう》の所業だというのではなかったかと思うのである。要するに人使いが上手なのである。
また二十前後の頃から三十数年の間、戦場を馳駆《ちく》した秀吉が、負傷したのは、この時が最初の最後である。その大胆さと、知恵の明らかさによって、危険の伏在するところがよくわかりもし、危険に遭遇しても咄嗟《とつさ》にそれを脱することが出来もしたのであろうが、それにしても稀有《けう》と言わなければならない。よほどに天運に恵まれていたのであろう。
翌八月二十八日、信長は北畠父子のこもる大河内《おおかわち》城におしよせた。総勢七万余という大軍であった。
大河内村は今の松阪市から西南十キロ、坂内川をさかのぼった、深山谷《みやまだに》という谷間である。俗に七尾七谷と言われるほどに嶮岨《けんそ》な地勢だ。城は南北朝の合一《ごういつ》以後、北朝方が合一の時の条約を履行しないのを憤《いきどお》って、当時の北畠家の当主満雅が築いて、南朝方の皇族小倉宮|寛成親王《ひろなりしんのう》(熊沢天皇が始祖と称する人)を奉じてこもった時にはじまる。
信長は付近の地勢と城の様子とがいかにも要害きびしいのを見て、慎重に諸隊を部署した。
先ず城下の村を焼きはらった上、城の東西南北に諸勢の陣をひしとかためさせ、城のまわりには鹿垣《ししがき》を二重三重に結《ゆ》いめぐらして、一切城外との連絡を絶ち、本陣を城の東方の桂瀬《かつらせ》山においた。
準備成って、攻撃を開始したが、地勢が地勢である上に、南北朝時代以来の古い国司家《こくしけ》であるので、城中の武士らの忠誠の念がかたい。実に勇敢に戦う。百姓や山樵《きこり》もまた心を運んで、案内知った嶮岨を利用してゲリラ戦に出る。織田方は犠牲ばかり多くて、攻めあぐんだ。
九月半ばになると、信長はかんしゃくをおこした。諸将を集めて、軍議をひらき、こう言った。
「この城は見る通りの要害である上に、どこをどうくぐるのか、城外から兵糧《ひようろう》を運びこんでいるげに見える。尋常の攻めようでは埒《らち》があかぬような。じゃけ、ひと思案めぐらした。一手をわけて、多芸《たき》につかわし、国司館《やかた》を焼きはらって、敵の心をおびえさわがせると共に、ここら一帯の谷々の村々を全部焼きはらい、作物どもを薙《な》ぎすてにしよう。さすれば、城内に運びこもうにも、兵糧がないわけで、城中|干死《ひじに》するよりほかはない。この計、どう思うぞ。皆々存念のほどを申せ」
はげしい怒りが、そのままに出ていることばであった。誰一人異議する者はなかったが、さりとて、同意する者もなかった。あまりにも酷烈であると思うのであった。
「おれはそうする。多芸館の焼きはらいは、滝川に仰せつける心組みでいる」
といって、滝川一益のところへ召喚の急使を出した。滝川は、伊賀|士《ざむらい》らが北畠家と心を通じて岐阜との連絡を取り切らないように北伊勢に駐屯していたのである。
軍議が散会となって、本陣から自らの陣所にかえった後、藤吉郎は太股《ふともも》の傷を小一郎に手当させながらしきりに考えこんでいた。
信長のはげしい計略を聞いた時、藤吉郎には口の先きまで出て来かかった意見があったが、おさえた。阿坂城攻めにおける武功、それにたいする信長の激賞によって、自分が人々の強い嫉妬《しつと》の的になっていることを、彼はよく知っていた。その自分が意見を発表すれば、人々はかえって信長の意見に同意するに違いないと思ったのであった。だから、おさえた。
といって、ひそかに信長の本陣に伺候して、ひそかに言上するのも、よくないと思った。すぐ信長側近の者から諸将に漏《も》れ、一層その憎悪心を挑発するにちがいないのである。この思案は、いつかこうかわって来た。
(出る杭《くい》は打たれることにきまっている。だんだん目立つ身分になってくれば、嫉み憎む者が多くなるのは防ぎようがない。小者や中間《ちゆうげん》や平士《ひらざむらい》の身分でもそれはまぬかれない。しかし、それらの身分の間は上にひいきの人を多く持てばさわるところはないが、今の身分となっては、家中の重立った者は皆競争者だ。殿様お一人が上位者だと言ってよい。殿様お一人がどんなにひいきして下さっても、重臣という重臣が皆|鵜《う》の目|鷹《たか》の目で自分のアラをさがし、おりにふれては悪《あ》しざまに殿様に申し上げては、いくらおかしこい殿様でも、やがてはお心が動かずにはいまい。出来ることなら、敵が出来るとともに、味方する人をこしらえるべきだ。いやいや、出来ることならではない。どうしてもそういう人をこしらえねばならぬ)
こんどの戦《いく》さには、もう十分に手がらを立てた、つづけざまに手がらを立てては、敵を多くするだけじゃ。じゃから、この策を人の手がらにして、味方をつくることにしようわいと、心がきまった。その頃、傷の手当もすんだ。追い追いと日も暮れ方になった。
「小一郎、その方、供せ」
といって、陣所を立ち出でた。
誰の手がらにするかは、もうきめている。丹羽五郎左衛門長秀の手がらにしてやろうと思うのだ。丹羽は柴田勝家、佐久間信盛とならんで、織田家の柱石だ。格別ひいきにしてもらった覚えはないが、柴田や佐久間がひたすらに気があらい上に、嗜虐《しぎやく》的なくらい意地悪いところがあって、よりつきにくい人がらであるに反して、武勇にすぐれ、重々しく、威望ある人でありながら、おだやかな人がらであるので、昔から好もしく思っている。京で警固《けいご》役をつとめている頃、丹羽は京勤めの者の総奉行格として京にいたので、勤務上のことで度々談合したなかでもある。
丹羽の陣所は、城の南方、坂内川の河原にあった。大きな岩石がごろごろところがっている河原だ。
行きつく頃には、とっぷりと暮れた。
丹羽は幕舎《ばくしや》の中で、小姓に酌をさせて、晩酌していた。
「やあ、これは木下。めずらしいの」
ほろりと酔いの出た顔で、きげんよく迎えて、
「先ず一つ行こう」
と盃《さかずき》をさして、自ら瓶子《へいし》をとって酌をしてやりながら、小姓をかえりみて、
「も一つ盃を持ってまいれ。酒もだ」
と言いつけた。
「おかまい下さらぬよう。すぐにまかりかえります」
と、藤吉郎が言うと、
「どうしてだ。ゆるりとするがよい。――それとも、傷にわるいかな、酒は」
と、不安げな顔をした。
「いえ、傷はもうよろしゅうござる。あらかたふさがりました。しかし、今夕はちと大事な話があってまいったのです」
「ほう? そうか。それでは酒はやめにしようか」
「それにはおよびません。召し上りながら、聞いていただきましょう。拙者《せつしや》これをいただきます」
つがれている酒をぐっとのみほし、返盃《へんぱい》して、酒をついでやってから言った。
「少しばかり内談にわたります。ご無礼ながら、ご家来衆をおはらい下さりませぬか」
丹羽は小姓らを遠ざけた。
小姓らは幕舎《ばくしや》を出て行ったが、遠くへは行かない。幕舎の外あたりにいる。藤吉郎は上体をかがめ、低い声で語り出した。
「今日のご軍議の席上で殿様の仰せられましたことについてでございますが、いかが思われます?」
丹羽は藤吉郎より一歳の兄だ。ひげの薄い、ひたいのひろい、平たい顔をしている。そのひろいひたいの下の、眼裂の長い目がきらりと光った。
「どうとは? そなた、何を言うつもりなのじゃ」
きびしい顔であり、きびしい調子であった。
藤吉郎はかわらず低い声で、至って静かに言った。
「拙者《せつしや》は、殿様の仰せられたことはよろしくないと思うのです。拙者はかわるべき策を工夫してまいりました」
死地の殿軍《でんぐん》
藤吉郎が丹羽に説いたのは、城内に和議《わぎ》をすすめようというのであった。
「城内はさほどに弱っているようには見えませぬが、それはうわべだけのこと、内実《ないじつ》はずいぶん弱り、気力もくじけているに相違ござらぬ。こういう敵には工夫のあるべきものと存じます。真向《まつこう》からひたすらに力攻《ちからぜ》めすれば、貝が殻に閉じこもってかたくふたをしめたり、亀《かめ》が首や手足をちぢめて甲羅《こうら》にこもったりすると同じになると存じます。しかし、内実は弱っているに相違ござらぬ故、和議を申しかければ、話の持って行きようでは、行きましょう」
と、藤吉郎は説いた。
丹羽はうなずいた。
「わしもそれは考えた。先刻殿様がああ仰《おお》せられた時、ああまでむごいことをなさらずとも、何か方法があろうとは思った。しかし、どんな工合に持って行ったらよいじゃろう」
「多芸《たき》の館《やかた》を焼きはらい、このへん一帯の村々にきつい仕置《しおき》をするということは、大いに言いふらして、出来るだけおびえさせるがようござる。必ず城中の人心はぐらぐらとなります。そこで、使者をえらんで、交渉にかかるのです。諸人《しよにん》の心が一致を欠いてくれば、大納言《だいなごん》父子がいかに心猛《たけ》くとも、とうてい籠城《ろうじよう》の心を立て通すことは出来ますまい」
「それはそうだが、その和睦《わぼく》の条件はどうする。先方も満足し、殿様《とのさま》も承知なさることでなくばならんぞ」
「ごもっともなご意見です。神戸家《かんべけ》にたいしてなされた手でよろしいと思いますが、いかがでござろう」
一昨年、信長が二度目に北|伊勢《いせ》に攻め入った時、この地方の諸|豪族《ごうぞく》中最も強盛《きようせい》なのは神戸氏で、これが旗頭《はたがしら》となって、その地の豪族らを結集して、抵抗した。当時の神戸氏の当主は友盛《とももり》、北畠《きたばたけ》氏の生まれで、神戸氏をついだのであった。名家の出である上に、剛勇で豪族らの思いつきも厚く、なかなか強かった。ついに信長は調略《ちようりやく》を用うることにして、友盛に男の子がないのを奇貨《きか》として、三男の三七(後の信孝《のぶたか》)を友盛の養子につかわすという条件で和議を持ち出した。神戸方ではしょせんは敵しがたいが、迂闊《うかつ》に降伏しては危険であると思ってやむなく抵抗をつづけていたのだ。話がこうなると、織田方から人質《ひとじち》をとったと同じことになり、将来の安全は保証される。和議が成立して、降伏し、北伊勢は信長の指令に従うことになったのだ。
丹羽は首を傾けた。
「わしもそれは考えてみた。しかし、神戸とちがって北畠家は大家《たいけ》じゃ。日本でも指おりの名家《めいか》でもある。左少将はまだ若い。養子をせねばならん年ではない。うまく行かんじゃろうと思うが、どうであろ」
日本で屈指の名家であるということばは、カチンと藤吉郎の心につきささった。もやもやとからだが熱くなって来た。しかし、おさえて、微笑して言った。
「いかさま、北畠家は大家でござる。しかし、今の殿様《とのさま》のご身代《しんだい》とくらべてはどうでござろう。殿様は二国半お持ちでござる。北畠家は伊勢|半国《はんごく》、身代では殿様の方がはるかに大きゅうござる。次に家がらでござる。北畠家は大納言《だいなごん》までなれる家柄《いえがら》、現に具教卿《とものりきよう》は大納言でありました。しかし、殿様は官位こそ、ほしがりなさらぬため、まだお低くござるが、実際には天下の副将軍であられます。公方家《くぼうけ》は殿様あっての公方家。北畠家と釣合わぬお家がらとは申せますまい。いかが」
先祖の七光《ななひかり》で名門、高家といわれている家より、一身の力量と努力で成り上った人の方がずっと立派だし、尊重すべきだと思うのであった。
「そなたの申す通りだが、わしの案ずるのは、先方がその気になってくれるかどうかだ。高い家がらの者は、とかく家がら自慢が鼻先に出るものでな」
丹羽はおだやかな調子だ。
「それはまあそうでござる。しかし、この瀬戸ぎわとなっては、家がら自慢もしていられますまい。家臣や被官《ひかん》らが臆病風に吹かれているのでありますから。――つまり、北畠家の所領はこれまで通り、そのかわり当主左少将殿は公方家へのご出仕《しゆつし》もお出来にならぬほどにご病身であられると聞きますれば、茶筌丸《ちやせんまる》をご養子にしていただきたいとこう申しこむのでござる。きっと調《ととの》うことと存じます」
茶筌丸というのは、信長の次男、後の信雄《のぶかつ》、この時十二であった。
丹羽は薄いあごひげを撫でて考えこんでいたが、その心は次第に動いて来た風であった。
「わしにも、調《ととの》いそうな気がして来た。左少将|信意殿《のぶおきどの》がかたわものでは、北畠家の士《さむらい》どもも被官共《ひかんども》も、心細い気でいるであろうからの」
「そうでござるとも!」
藤吉郎は大きくうなずいて、
「そこで、拙者《せつしや》がここへまいった用件にかかります」
と、容《かたち》を改めた。
「ほう?」
まだ別に用事があるのかと、いぶかしげな顔になる。
「この調略《ちようりやく》の計を、丹羽殿から殿様に申し上げていただきたいのです」
「わしにとりつげというのか。なぜそなた、自ら申し上げんのだ」
「拙者の量見から出たものとしてでなく、丹羽殿の方寸《ほうすん》から出たものとして、申し上げていただきたいのです。今日あれほどまでに殿様がきびしく仰《おお》せ出《いだ》され、すでに決定遊ばされたことに批《ひ》を打つに似たことでござれば、これは拙者のような近頃の者が申し上ぐべきではありません。古くよりご信用厚いそなた様のような人から申し上げていただかねば、殿様はお聞入れになりますまい。また、他の人々の気持もどうかと案ぜられるのです。これはぜひ、あなた様から申し上げていただきたいのです」
丹羽は藤吉郎を凝視して、しばらく答えなかったが、やがて言った。
「わしの口から申し上げるとすれば、これはわしの功績になってしまう。わしはそれが心苦しい」
藤吉郎は手をふった。
「滅相《めつそう》もないこと。それでよろしいのでござる。この計は、拙者《せつしや》の口から申し上げたのでは、お取上げになりません。あなた様のお口から申し上げられて、はじめてお取上げになります。さすれば、あなた様のお手がらになるのは当然のこと、決して拙者に気がねなどなさることはござらぬ。大事なのは、誰の手がらになるかではなく、殿様のおためになるということであります」
丹羽は大きくうなずいた。
「その通りだ。わしの量見が狭かった。大事なことを忘れていた」
「それでは早速、これから申し上げていただきましょうか」
「申し上げよう」
藤吉郎は両手をついた。
「お聞きとどけ下されまして、ありがたく存じます。これで、きっとこの地方も殿様のご分国《ぶんこく》になるでありましょう」
やがて、藤吉郎は帰って行った。長い時間すわっていたため、足の傷が少し強く痛む。ちんばをひきひきかえった。
丹羽はもう夜おそかったが、信長の本陣に伺候して、藤吉郎から言われたことを言上《ごんじよう》した。正直な彼は、まるまるの自分の考えであることにしては話が出来ない。藤吉郎が来て頼んだことを正直に言った。
「フウーン」
と、信長はうなった。
実を言えば、これが信長の本当の計画だったのだ。多芸《たき》の館《やかた》を焼打ちにし、付近の谷々の郷村《ごうそん》を薙《な》ぎすてにするとはジェスチャーにすぎない。こう言いふらし、そのように準備をすすめれば、どこでどう取るのか城外と自由に連絡を取っている城内には筒抜《つつぬ》けに聞こえ、人心動揺し、ばらばらに分離するに相違ない、そこで調略《ちようりやく》の手をさしのべる。妥協の条件も今丹羽の言ったと同じことを考えていたのだ。さても、藤吉郎め、ぬけ目のないやつじゃと思った。
微笑が出そうであったが、おさえて、しぶい顔で、
「おれは北畠家がにくいのじゃ。どうでも踏みつぶして、おれが武威のほどを見せつけておかねば、世の見せしめにもならぬ。これから先き、歯向う者がたかをくくるようにもなると、思案をきめたのじゃ。しかし、ほかならぬその方がそう言うのであれば、一応そうしてみるもよかろう。そちにまかせる。やってみよ」
と、言った。
丹羽は礼を言って、その夜は退《さが》ったが、翌日、城内に矢文《やぶみ》を射て面談を申しこみ、ついに相談をまとめ上げた。北畠家は茶筌丸《ちやせんまる》を養子として、当主|信意《のぶおき》の妹にめあわせて家督《かとく》を譲ることになった。
これで、伊勢全国が信長の分国となった。
これは全部、丹羽の功績になったが、丹羽が藤吉郎を徳とすることは一方でなかった。
「ごへんのおかげじゃ。わしは決して忘れぬぞ」
と、くりかえし礼を言ったのだ。丹羽は味方になったと信じてよい。
信長は別段な様子は見せなかったが、藤吉郎は信長がことのいきさつを知っていることを、丹羽から聞いている。「わしはごへんの発案になるものであることを申さずにはおられなんだ」と、丹羽が言ったのである、これは計算外のことではあったが、うれしいことであった。
信長は伊勢から岐阜《ぎふ》には帰らず、伊賀《いが》を経て京に上り、将軍に伊勢|平定《へいてい》を言上《ごんじよう》した。飾《かざ》りものの将軍でも、名目《めいもく》は将軍の命による征伐《せいばつ》ということになっているからである。岐阜に帰ったのは、十一月中旬であった。
間もなく年が暮れて、永禄十三年になる。
正月になって間もなく、松平元康《まつだいらもとやす》が伊勢平定の祝儀かたがた、年賀のあいさつのために、岐阜に来た。これは内実《ないじつ》は信長が呼んだのである。彼はこの数年前に名を家康《いえやす》と改め、この前年十二月はじめに徳川《とくがわ》と改姓《かいせい》し、徳川家康となっている。またその居城も、この正月に浜松《はままつ》に移している。浜松に移転してすぐ岐阜に来たのであった。
家康が信長に会うのは九年ぶりだ。桶狭間合戦《おけはざまのかつせん》の翌年、両者が和議《わぎ》同盟して、当時信長の居城であった清洲《きよす》に家康が来て以来のことだ。以後、両者の同盟は益々かたく、信長が足利義昭《あしかがよしあき》を奉《ほう》じて上洛《じようらく》する時は家康は領内の一向宗《いつこうしゆう》門徒が一揆《いつき》をおこし、その征伐に手こずっていた時であったのに、一族の松平|信一《のぶかず》に兵を授けて来援させたほどであった。その頃からすると信長の身代は大膨脹《だいぼうちよう》したが、家康の身代《しんだい》もまた大きくなっている。当時、三河《みかわ》一国をやっと切り従えたばかりであったのに、今では遠州《えんしゆう》を手に入れているのである。二十八であった信長は三十七、二十のまだ少年期をやっと脱したばかりであった家康は二十九の壮年になっていた。
信長はさかんな儀式をそなえて迎えたが、その席で言った。
「わしは来月下旬、また京に上ります。こんどは京や堺の大町人共が年頃集めている名物の茶の湯道具を差出《さしだ》させて見物したいと心組んでいます故、貴殿もよい機会、上方《かみがた》見物をなさり、名物どもを一覧なさらぬか。茶の湯というものなかなかよいものでござるぞ」
家康には茶の湯の趣味なぞはない。しかし、信長がわざわざ自分を呼んで、こんなことを言うのは、しかるべき理由があってのことと思ったので、
「ありがたきお誘いでござる。拙者《せつしや》はまだ京上《のぼ》りしたことがござらねば、ぜひお供してまかりのぼり、茶の湯名物も見物させていただきましょう」
と、答えた。
礼式がおわった後、信長は別室に席をうつし、人を遠ざけて、
「先っきの話の京上りのことでござるが、ことのついでに越前《えちぜん》の朝倉を征伐《せいばつ》したいと心組んでいます。そのつもりで、用意して来ていただきたい」
と、ささやいた。
「かしこまり申した」
家康は答えた。
二、三日滞在して、家康は本国に帰った。
二月になって、その二十五日、信長は上洛《じようらく》の途《と》に上ったが、徳川殿を待ち合わせるためと称して、いつものはやてのような道中ぶりと反対に、遊山《ゆさん》しながら悠々|緩々《ゆうゆうかんかん》たるものであった。
二日目に江州安土《ごうしゆうあづち》近くについて、常楽寺に入った。常楽寺は佐々木の氏神である佐々貴《ささき》神社の神宮寺だ。なかなかの大寺であったので、地名にもなっている。ここへ入ると、徳川殿を待ち合わせるため数日滞在すると触れ出したばかりか、徳川殿へ馳走《ちそう》のため角力《すもう》興行をしたい、当国内に触れをまわし、角力|巧者《こうしや》の者共を集めよと命じた。
月末に、家康が到着した。上下三百人ばかりの人数であったが、なおあとから数千の人数が来るという。
信長は満足であった。
その頃には、角力取共も集まって来た。百済寺《ひやくさいじ》の鹿、同じく小鹿、宮居の眼《がん》左衛門、大唐正権《だいとうしようごん》、長光《ちようこう》、河原寺の大進《だいしん》、はし小僧、鯰江《なまずえ》の又一郎、深尾の又次郎、青地の与右衛門という連中であったと、『信長公記《しんちようこうき》』が書きのこしている。当時の角力取共の呼名を知るよすがにもなれと思って、書きうつした。妙に見える名前もあるが、ほとんど全部が居住地の名を冠《かん》しているのである。
興行は三月三日に行われ、信長は家康と桟敷にならんで見物した。一般にも参観をゆるしたので、なかなかの賑《にぎ》わいになった。
当時の角力《すもう》には土俵がない。従って押出しという勝負法はない。押したおすか、投げたおすか、ねじたおすしかない。また角力取という特別な職業はなく、普通の百姓や武家や武家|浪人《ろうにん》で、角力が好きで、今日《こんにち》の草角力のような場合にとっていたにすぎないから、風俗も後世のような特異なものはなく、髪もさかやきをした普通のものであった。しかし、何となく、普通とは違っていたという。角力をとるようなものは、本業に忠実でない上に、腕力が強いので柔順でない者が多く、ばくちなぞ好きで、遊民《ゆうみん》的で、領主側から見れば好もしくない者が多かったというのである。
この日の角力は勝ちぬき戦で、鯰江《なまずえ》の又一郎と青地の与右衛門とが最も成績がよかったので、信長は両人に銀の熨斗付《のしつけ》(丸鞘《まるざや》)の大小をあたえて、家人《けにん》に召しかかえた。また深尾の又次郎は両人ほど強くはなかったが、なかなかの角力巧者でおもしろい取口《とりくち》をしたので、これまた気に入って、時服《じふく》をあたえられた。
信長は角力がよほど好きで、この後も度々角力を興行して見物している。天正六年には二度も興行し、この二度目の際には、江州、京都をはじめとして諸国から千五百人も角力取を集めて、終日見物したばかりか、近臣や大名らにまで取らせている。
さて、こんな風で、最も悠々たる道中ぶりで、三月五日に常楽寺を出発、その日京都に入り、朝廷の典薬頭半井驢庵《てんやくのかみなからいろあん》の宅を宿舎とした。半井家に泊まったのは、信長とごく側近の者だけで、他は諸方の社寺や民家に分宿した。あくまでも平和な上京であると見せかけるためであることは言うまでもない。
着京と同時に、丹羽長秀をして、京や堺の大町人や数寄者《すきもの》らに、その所蔵の名物の茶器や書画類を見物したいから、さし出すようにと通達させた。気に入られればお召上げになることはわかっているが、名物になっているほどの名器であれば、誰が何を持っているということは、その道の者にはかくれがない。隠匿《いんとく》は出来ない。皆京に持参した。
信長は家康とともに一々鑑賞して、気に入ったものは召し上げた。代金は下賜《かし》するのであるが、いや応なしなのだから、所有者らはうれしくはなかったろう。
この時召し上げられた道具は、天王寺屋宗及《てんのうじやそうぎゆう》の菓子(果実)の絵、薬師院の小松島、油屋|常祐《じようゆう》の柑子口《こうじぐち》等であった。松永久秀は大名の数寄者として当時名高かったが、これは「鐘の絵」を献上した。
久秀はかつて三好《みよし》党の大立者《おおだてもの》として、将軍|義輝《よしてる》を殺した元兇で、義昭《よしあき》にとっては兄のかたきであり、義昭は肉を食らっても飽き足らないと憎悪していたのだが、かわり身の早い男で、義昭の上洛《じようらく》前から信長に内通を申し送り、いろいろときげんを取っていたので、信長がいろいろと義昭にとりなし、その身も身代《しんだい》も無事だったのである。
四月の中旬には、将軍に馳走《ちそう》のため、将軍の二条の新御所で能楽を興行した。堂上衆《とうしようしゆう》は摂家《せつけ》、清華《せいか》(摂家につぐ家がら。内大臣、右大臣、左大臣、太政《だじよう》大臣となり、大将を兼ね得る家がらである)は皆、武家では近国の大名らが多数集まった。飛騨《ひだ》の姉小路中納言《あねがこうじちゆうなごん》も、伊勢の北畠大納言も来た。家康はもちろん参列している。
義昭将軍はこんども信長の官位をすすめようとして、左兵衛督《さひようえのかみ》に推薦《すいせん》したが、信長はかたく辞して受けず、やっと正四位下の位階だけを受けた。
官位なぞなんの役にも立たない虚位虚官にすぎないばかりである上に、受ければ四方の敵、とりわけ最も恐ろしい甲州《こうしゆう》の武田や越後《えちご》の上杉を刺戟《しげき》するばかりである、と計算したのである。
さて、こうした平和ムードに満ちたことがすんだ直後、信長はいきなり、朝倉|征伐《せいばつ》のことをふれ出した。
名目は、
「およそ全国の大名は、たとえ僻遠《へきえん》の地に住む者であっても、分方家《くぼうけ》にたいして忠誠を存し、ご用の節は上洛《じようらく》して忠勤すべきが職分である。朝倉は最も近い地にいながら、度々のご召命にも応ぜず、不埒《ふらち》千万である。これをしも寛仮《かんか》するなら、公方家の武威空しきに似ている」
というのであった。
信長の真の理由がここにないことは言うまでもない。先祖以来反目しているなかであるというのでも、もちろんない。信長は朝倉が京都近くの大勢力である比叡山《ひえいざん》の大檀那《おおだんな》でその結びつきが尋常でないこと、さらにまた大坂本願寺とは姻戚《いんせき》の関係にあることとを、近い将来自分の最大の不利となるであろうと案じたのだ。この三者が手を結んで、敵対行動に出れば、容易ならないことであり、最も敵対行動に出やすいものを持っていると見たのだ。信長の立場からすれば、三者の連繋《れんけい》の出来ない先きに、先ずその一角を打破するのが利益であることは言うまでもない。
今も昔も同じだ。戦争しようとする者が名目に苦しむことはない。将軍家にたいする不忠誠をもって征伐の名目としたのである。
宣戦《せんせん》を布告《ふこく》すると同時、四月二十日であった、京都を出発して、その日のうちに西江州の坂本に出、ここで諸軍勢ぞろいして、堅田《かただ》に出、琵琶湖《びわこ》の西岸を北進して、二十五日の払暁《ふつぎよう》、越前の敦賀《つるが》に入った。
堂々たる軍容であった。先頭には朽葉色《くちばいろ》の大のぼり十本をひるがえし、次に弓隊、鉄砲隊、三間柄の槍隊三百人、次に同じ縅毛《おどしげ》の具足《ぐそく》の武者五百騎。次に信長。紺色の金襴《きんらん》の包み具足に白星の三枚かぶと、黄金《こがね》づくりの太刀《たち》といういで立ちで、総身|漆《うるし》のごとき黒毛の馬に乗っていた。総勢実に十万余人。
「その勢ひ天地を動かし、山川もひびくばかりに見ゆ」
と、『総見記』は記述している。
ゆたかな経済力を持つ信長の軍勢は、みな信長の奇抜好み、はで好みにならって、奇抜で豪華ないで立ちをしていたので、美しい絵巻物さながらであった。こんな武者押《むしやお》しは越前あたりのものは見たことがない。人々は皆驚嘆した。
この軍勢の中に、藤吉郎もいた。もう伊勢で負うた手傷もすっかり癒《い》えていた。もっともその手勢はわずかに三百人であった。当時の彼の財力では、こんどのようなはでな出陣にはこれだけがやっとだったのである。
織田勢の侵入を防ぐため、朝倉方では敦賀の東北に隣接している金崎《かねがさき》城に朝倉の一族|中務丞景恒《なかつかさのじようかげつね》が七、八千の兵をひきいてこもり、その東南方にある手筒山《てづつやま》城に千五百人の兵がこもり、さらにずっと東南方六、七キロの山岳地帯|疋壇《ひきだ》(今の敦賀市匹田)にも城をもうけ、この三城が最前線基地を形成していた。
信長は到着するとすぐ、手筒山を攻めることにした。こちらの方が要害も堅固でなく、守兵も少ないので、攻め落しやすいと見たのである。こんな場合はこうするのが、よいのである。一つを攻め落せば、他が手ごわくてなかなか攻め落すことが出来なくても、こちらも城を本拠として戦うことが出来るからである。
手筒山は平地に孤立している山である。三面が平地で、一面に大沼がある。城方は沼に面した側は要害を頼みにして、厳重に柵《さく》を立てほんの少しばかりの守兵をおいただけで、平地に向った三面に守備を集中した。信長は三面を攻撃させておいて、自ら一軍をひきいて、沼の方からおしよせ、馬をおどらせ、ざんぶと沼に飛び入り、真先《まつさき》かけて真一文字《まいちもんじ》に進んだ。大将がこうだ、兵共が何をためらおう、どっとつづいて、忽《たちま》ち柵にとりついた。
手筒山城|危《あや》うしと見て、朝倉景恒は五千の兵をひきいて金崎城を突出《つきだ》して駆けつけた。しかし、織田勢は十万という大軍だ。勢をわけてこれとわたり合った。衆寡《しゆうか》の勢いが懸絶《けんぜつ》しているとはいえ、朝倉勢がおそろしく強かったことは辰《たつ》ノ刻《こく》(午前八時)から申《さる》ノ刻の終り(午後五時頃)まで、追っつ返しつ戦ったことをもってもわかる。
信長は後陣《ごじん》のこの合戦にかまわず、新手《あらて》を入れかえ入れかえ攻めて、ついに柵を引きやぶってこみ入り、水ノ手小屋を焼きはらった。同時に、徳川勢が南口から攻めこんだので、城はついに落ちた。
織田と徳川が連合して戦ったのは、この以後なお三回あるが、いつの戦《たたか》いにも徳川勢の健闘が目立つ。大将の器量は別として、兵員の素質としては三河武士が段ちがいに強かったといえるであろう。家康の父広忠の代から二十余年にわたって、今川・織田の両強隣にはさまれ、いじめぬかれたのが自然の鍛錬になったのであろう。
手筒山攻撃で、織田方の上げた首数は千三百七十余であったと、『信長公記《しんちようこうき》』にあるから、城内の者は降伏をゆるさず全部|撫《な》で切りにしたのであろう。信長の戦さぶりの惨烈《さんれつ》さである。
翌日はまた早朝から、金崎城におしよせて、四方から猛攻撃をかけた。藤吉郎はからめ手口の一方をうけたまわって攻めた。しかし、城中よく防いでなかなか落ちず、ついに夜になったので、その日の戦《いく》さはものわかれとなった。
その夜、かねて越前国内に潜入させておいた忍びの者が馳《は》せかえって来て、こう報告した。
「一乗谷城では、当主の義景が救援のため二万二千余の兵をひきいて本城を出発したが、途中まで来ると、何を思ったか引返した。一族の景鏡《かげあきら》がかわって府中《ふちゆう》(今の武生《たけふ》)まで来たが、織田方が目にあまる大軍であると聞くと、臆病風《おくびようかぜ》に吹かれ、とどまったまま進もうとしない」
というのである。
信長はうなずいて聞きおわると、使を立てて藤吉郎を召した。人を遠ざけて言う。
「しかじかのことを忍びどもがさぐって来た。城をあけわたして立退くにおいては、城中の者全部助命する。話をかけてみるよう」
「かしこまりましたが、確かにご助命下さるのでござりましょうな」
こんなことを信長にいうのは危険千万なことではあるが、昨日の手筒山落城における惨烈を見ているので、安心はならないのである。時として利害の商量も道義も忘れてしまうような狂気じみた残忍酷烈なことをする信長であることを、藤吉郎はよく知っているのである。
「妙なことを言うぞ。助けると約束した以上、どうするものか」
信長は微笑しながら言ったが、ぴりりとするようなものが底にあった。
「いえ、金崎の守りは堅いとはいえ、あと一日か二日攻め立てれば、必ず落ちましょう。それをお力で攻め落し給わず、調略《ちようりやく》で開けわたさせながら、お気を変えられて、城中の者共に成敗《せいばい》を仰せつけ給うようなことがあっては、殿様のご武威にたいする世のうわさもいかがと存じますので、恐れながら念をおし申したのでございます」
恐怖はもとよりあったが、おだやかに理をつくして言った。
信長の表情はやわらいだ。
「案ずることはない。助けるというたら助ける。急ぎ埒《らち》をあけるよう。今夜のうちに出来んか」
急な命令ではあるが、なぜ信長がこんな急なことを言うか、藤吉郎にはすぐわかった。日に一城ずつ二日で二城を落したとの評判を取りたいのである。この評判が越前国内に、ひいては諸国に伝われば、信長の武威は大いに上り、従って将来のことも大いに利があるのである。
そうとなれば、必ずその所望に応じなければならないと、決心した。
「かしこまりました。必ず今夜中に埒をあけるでござりましょう」
きっぱりと答えて、退出した。
自分の陣所にかえると、蜂須賀彦右衛門を呼んだ。
「唯今《ただいま》、殿様からしかじかの仰せつけを受けた。これから城内に乗りこんで、話をまとめたい。そなた一緒に来てくれまいか」
「まいりましょう」
蜂須賀の返事は至ってさわやかであった。
「城内の者に疑心を抱かせてはならぬ故、二人だけで参ろうと思うが、いかが」
「そうあるべきでござろう」
二人は甲冑《かつちゆう》をぬぎ、具足下《ぐそくした》の上に陣羽織《じんばおり》だけ着て、松明《たいまつ》を持って、陣所を出た。
月はもう夜明け頃にほんのしばらく出るだけである。真暗であった。遠田《とおだ》の蛙《かわず》の音を聞きながら近づき、矢頃《やごろ》に達する少し前あたりから、藤吉郎は大音《だいおん》に呼ばわった。
「城内の衆よ。これは寄手《よせて》の者で、軍使をうけたまわった者。唯今それへまいるによって、矢を放さっしゃるなよ。鉄砲をうちなさるなよ」
くり返し呼ばわった。からだは小さいが、声が大きくてよく透《とお》ることでは、織田家の家中でもならぶ者がない。楽々と城中にとどいて、よくわかった。
それでも、はかりごとではないかと用心して、こちらの様子を凝視しているようであったが、松明《たいまつ》で全身がよくわかるように照らして来る二人が、具足下に陣羽織、太刀《たち》を帯びただけの姿であるのを見てとると、弓も鉄砲もはなたず、大手の門前まで近づけた。
門前に立って、藤吉郎はまたどなった。
「おり入って、城のおん大将朝倉|中務丞《なかつかさのじよう》殿に申したいことがござる。おとりつぎ下されい」
門内から、一人出て来た。松明の明りの中に進み出たところを見ると、かぶとはないが、具足姿だ。相当な身分の者に見えた。
藤吉郎は近づいて一礼した。
「拙者《せつしや》は織田の家中木下藤吉郎でござる。主人の使者としてまいりました。中務丞殿にお会わせいただきたい。おり入って相談の儀がござる」
相手もおじぎして名乗って問う。
「ご用件は?」
「それは中務丞殿にお目通りして申し上げます。中務丞殿にはもとよりのこと、ご城内の方々皆様にとっても、おためになることであります」
相手は大体のことの推察がついたらしい。
「しばらくお待ちあれ」
と、答えて中に入った。
ずいぶん待たされて、また出て来た。
「お通り下され」
と、先に立って案内した。
城内では大急ぎで見苦しいものを取りかたづけ、なお戦うべき余力のあることを示そうとして、壮強な武者らを道筋に配置したり、武器や武具をならべ立てていたが、最も鋭い頭脳を持つ藤吉郎や蜂須賀の目には、それが虚飾であることがよくわかる。ほんとに自信のあるものは、つくろったりはしないのである。恐らく信長の炯眼《けいがん》はこのことを見ぬいているのであろうし、しかもなお調略《ちようりやく》をもって開城させようとするのは、将来のため、二日つづけて一城ずつ陥《おと》したとの評判がほしいために相違ない。
(必ず夜の明けるまでに埒《らち》をあけねばならない)
と、また覚悟を新たにした。
朝倉|景恒《かげつね》は、まだ若く、三十前後の人物であった。この人は少年の頃から仏門に入って、鷹瑳《ようさ》と名のっていたのだが、兄が死んだので還俗《げんぞく》して家をついだということを、藤吉郎は聞いている。数年前まで僧であっただけに、ひたすらに剛強なだけではなく、物の道理はよくわかるはずとも考えている。
席が定まって、あいさつを終ると、藤吉郎は今日の夕方織田方にとどいた忍びの者の報告を語って、
「貴殿が失礼ながらこの小勢をもって、この小城にこもって、手痛く防戦しておられること、まことに見事なものと、寄手《よせて》一同はもとよりのこと、主人も感じ入っていますが、今も申し上げたように、後詰《ごづめ》の勢は決して来ぬのでござる。されば、この上ここに籠城《ろうじよう》なさっても、決してご前途はひらけぬのでござる。朝倉家のためにもなり申さぬ。すでに、寄手一同を感嘆させるほどのお働きをなされたのでござれば、武士としての一分《いちぶん》は十分に立ったのでござる。情に激して城を枕《まくら》に討死などということより、城を開けわたしなされば、城中の方々のお命は助け申します故、一乗谷へ立ちのかれ、重ねてお家のためにご粉骨あるべきではござるまいか」
と、説き立てた。真心をおもてにあらわし、熱心な説きぶりであった。
景恒は沈吟《ちんぎん》した後、言った。
「理をわけてのおことば、まことに肝《きも》に銘じましたが、城中の者はのこらず助命し給うというお約束に、間違いはござるまいな。拙者《せつしや》一人はどうともあれ、他の者共はぜひ助けたいのでござる。もし、はかりごとをもって仰せられるのであれば、はっきりとそう申していただきたい。拙者一人切腹して、人々のいのちにかわりたくござる」
見事なことばだ。藤吉郎は感動した。
「決していつわりではござらぬ。拙者の身にかえても、必ずご一同のお命を保証いたします。また貴殿とご家族は拙者が自ら木ノ芽峠まで守護してお送りいたします」
これで話がまとまった。
藤吉郎は自分は証人として城内にとどまり、蜂須賀をかえして信長に報告することにした。景恒は蜂須賀に一族の禅僧一人をつき添わせた。
夜明け少し前、景恒は一族とともに城を出た。藤吉郎は信長の許しを得て、二百余人の兵をひきいて、敦賀《つるが》から北方十キロの木ノ芽峠まで送った。
「信長公より木下藤吉に仰せつけられ、秀吉二百余騎にて景恒を守護《しゆご》し、路次《ろじ》を警固《けいご》して当地を異議なく退きければ、翌日景恒は府中にぞ落ちつきける。誠に情ありてぞ見えし」
と、『総見記』にあるのがそれである。
こうして両城を陥《おとしい》れると、疋壇《ひきだ》の城兵らは戦わずして城を捨ててのがれ去った。
朝倉氏の前線基地はすべて崩壊したのである。
信長は木ノ芽峠を越えて兵を進むべく、よりより軍勢を部署《ぶしよ》していると、驚くべき報告が入った。
江州|小谷《おだに》の浅井久政と長政とが謀反《むほん》の色を立て、朝倉と心を通じて、挟《はさ》み討《う》ちにしようとしているという報告である。
(しまった!)
信長は心中さけんだ。
浅井家の当主長政は、信長の妹お市の婿《むこ》だ。この縁談は信長の方から申し入れたものだ。その頃信長は足利義昭《あしかがよしあき》の存在さえ知らなかったし、美濃《みの》には斎藤氏が蟠居《ばんきよ》していた。しかし、信長の志《こころざし》は天下にあった。だから、将来の便宜を思って、浅井氏と縁を結んだ。
その時、浅井家ではこう言って、難色を示した。
「織田のお家は越前の朝倉家と共に、昔越前と尾張の守護《しゆご》大名であった斯波《しば》家の老臣のお家柄でござるが、その頃からご両家はご不和で、今日までそれがつづいているとうけたまわる。ところが、わが浅井家は、以前京極家と六角《ろつかく》とが合体して小谷の城を攻めつけ、危難におよびました時、朝倉に助勢を乞《こ》いましたところ、朝倉家は快く大軍をくり出してくれまして、内外合体して、京極・六角の勢を追い退けることが出来ました。わが家では、朝倉を徳として、今より以後、朝倉のお家に万々一のことがありましたらば、必ず一番に駆けつけ、粉骨の誠《まこと》を致すべし、子々孫々に至るまでこの誓いはかわり申さぬと、かたく誓言を立てているのでござる。もし、貴家と朝倉家との間に矛盾《むじゆん》などがおこりましたら、わが家はまことに切ないことになります。これはなかった縁とした方が、お互いのためでござろう」
朝倉家となかの悪かった織田家は、信長の家の主家《しゆか》にあたる織田家だ。信長の家のことではない。しかし、織田は織田で、血がつづいていないわけではない。こう言われると、どうにもしかたがない。だが、信長はどうしても、浅井家と縁を結びたかった。
「仰せられることは確かに昔はありましたそうな。しかし、それは遠い先祖、しかも本家のこと、拙者《せつしや》はいささかも朝倉家に介意《かいい》はありません。しかも、他国をへだてている両家でござる。どうして朝倉家と矛盾などおこることがござろう。誓い申す。ご安心いただきたい」
と、誓言して、説きつけ、縁談を成立させたのであった。
その時から今日まで、もう七年、長政とお市の間には娘《むすめ》の子が二人生まれている。これほど夫婦なかもよいことだ、もう大丈夫であろうと、浅井家に連絡をとることもしないで、この征伐《せいばつ》をおこしたのであった。
いやいや、連絡を取らなかったのは、浅井家にたいする気がねからであった。将軍の命令として出陣を命ずれば、浅井家としては違反するわけには行かない。それでは切なかろう、連絡をとらないでおけば、浅井家は矛を取って現実に朝倉家と戦うことはせんですむと思ったのであった。
しかし、なんという甘い考えであったろう。
よくよく考えてみると、浅井家には疑うべきふしがないわけではなかったのだ。現に一昨年義昭将軍を京都に入れるにあたっての、浅井家の態度だ、箕作山《みづくりやま》城攻めの時、観音寺城から敵の援軍が出るかも知れんから、そのおさえを受持ってくれと頼んだのに、
「六角氏とは年来親しいなかである」
と、理窟《りくつ》にもならない理窟を言って、引受けてくれなかったのだ。
つまり、これまでただ一度も浅井家は織田家の手伝いをしてくれたことはないのである。
(なんたる不覚、おれにあるまじき甘さであった!)
じだんだふみたいほどであった。
しかし、いつまでも口惜しがってはいない。まして絶望などはしない。どうしたらこの窮地を脱することが出来るかと、思念を凝らした。
悪いうわさほど伝わりやすい。いつか知ったと見えて、見えるかぎりの人々の顔が真青《まつさお》になっていた。
(なにをおびえる!)
いまいましがって、なおも考えているうちに、思案がまとまった。
不安げな顔をしてこちらを凝視している侍臣《じしん》らの方をむいて、さけんだ。
「松永|弾正《だんじよう》を呼べい!」
「はっ!」
侍臣の一人が弾き飛ばされたように立ち上り、馬を飛ばして駆け去った。
間もなく、まわりの軍勢の間にざわめきがおこった。
戦場に出ている軍隊はおそろしく神経質なものだ。浅井家裏切りのうわさを聞き知ったのにちがいなかった。
軍隊のこのような動揺はまことに危険だ。それは直ちに勇気の沮喪《そそう》となる。臆病《おくびよう》になるのだ。兵が臆病になっては、多人数なのも、武器が優秀であるのも、役には立たない。それこそ風声鶴唳《ふうせいかくれい》にもおびえ立って総崩れになる。
この動揺をふせぎとめるのは、主将の態度一つである。戦場における主将は一軍の旗じるしである。常に高く、常に堂々と、常に毅然《きぜん》としているべきものだ。戦略や戦術は参謀《さんぼう》がする。主将は泰然《たいぜん》として山のごとく不動でありさえすればよい。それだけで兵士らは安心して落ちつくのだ。したがって、動揺も静まり、勇気の沮喪も立ち直るのである。
信長は旗本勢に集合を命じ、整然たる陣形をつくらせ、あるかぎりの旗や、吹流《ふきなが》しや、馬じるしを立てならべさせた。将士には槍《やり》の鞘《さや》をはらわせ、鉄砲の火縄に火を点じさせ、陣営の前の正面に楯《たて》をしき、しき皮をおいて、ゆったりとすわった。わざと床几《しようぎ》をさけたのである。
さわやかな初夏の風は旗や吹流しをひらめかせ、明るい太陽は槍の穂や、具足《ぐそく》や、馬じるしに照りはえた。陣営はさんらんたるはなやかさとなり、威厳にみちた堂々たるものとなった。
使番を八方に走らせて、全軍にふれをまわした。
「江州小谷の浅井が謀反《むほん》したとのうわさがしきりであるが、決してさわいではならん。静粛《せいしゆく》にして、現在の位置にあって、差図《さしず》を待つよう。命にそむいて恐れさわぐ者は、軍列を乱すの罪にあてて、斬って捨てる」
このきびしいふれと、山のように堂々たる本陣の軍容とによって、全軍の動揺はしずまった。
松永久秀が馬を走らせて来た。
久秀はこの時六十一であった。髪もひげも真白であったが、顔色はおそろしくよく、目の光が強く、まだたくましい体格であった。さすがに一生謀反ばかりしたといわれるだけあって、不敵な面魂《つらだましい》であった。
馬をおりると、信長の前に近づいて来て、地面にひざまずいて、信長を見た。
「お召しによって。ご用は?」
余計なことは言わない。切迫した場であることをよく知っているのだ。
信長も前おきなしに本題に入った。
「おれは、明《みよう》一日人馬を休息させ、明後日から木ノ芽峠をこえ、一乗谷へおしよせ、一気に踏みつぶしてしまいたいと思うのじゃが、そちは老巧の勇者で、無双《むそう》の知恵者との評判の高い男だ。思案のほどを聞きたい」
浅井の裏切のことはわざと口にしない。気にするほどのことではないという気持を見せたのだ。
久秀はかしこまって言う。
「失礼ながら、その儀はいかがでございましょうか。当国《とうごく》の地理によく通じておわすなら、ただ今のご計略はまことによろしくござるが、この度はじめての当国入りに、それはご無理ではありますまいか。土地不案内の国での、はじめてのお戦《いく》さに、二日がうちに両城を落しなされた上に、疋壇《ひきだ》の城までお手に入りましたというは、ご威光の強さによるものであります。しかしながら、満つれば欠くるという諺《ことわざ》もござる。これより奥へ入りますれば、木ノ芽峠、追坂《おいのさか》、樫曲《かしまがり》峠などという切所《せつしよ》があまたござって、たやすくは攻め入ることが出来ますまい。されば、この度は三城を時の間にお手に入れられたをお手柄として、一先《ひとま》ずお引上げになるが上分別と拙者《せつしや》は存じますが、いかがでございましょうか」
さすがに久秀だ。信長の心中の秘を見ぬいて、言った。
信長の本心は退却にある。しかし、自分の口からそれを言い出しては、常勝将軍の名を落す恐れもあるし、さなきだに心を動揺させている将士の士気にも関係して来る。久秀ならば、この心の奥底がわかって、退却をすすめるに違いないと見て、わざわざ呼んで、わざと強いことを言って見せたのであった。
信長はうなずいた。
「なるほどの。さすがに老巧である。いいことを申す。では、老人の意見を聞いて、ここは一先ず引き上げるか」
「老いぼれのさし出口でありますのに、早速のお聞入れ、ありがたく存じます」
と、久秀もぬからぬ顔でこたえた。
信長は久秀をかえし、諸陣へ退却のふれをまわすように命じた。
そこに、浅井家の使者が二人来て、信長のこんどの朝倉|征伐《せいばつ》は先年の約束に違反する故、この上|和親《わしん》をつづけることは出来ないと言って、以前信長が長政につかわした誓紙《せいし》を返して立ち帰った。
これで浅井との手切《てぎれ》ははっきりと事実になった。
さて、いよいよ退却にかからなければならないが、どうして退却すべきか、それが問題だ。
思案にふけっていると、家康が来た。
席につくと、すぐ言う。
「妙なうわさが陣中に流れていますが」
「うわさではござらぬ。事実でござる」
と、信長は笑った。笑うよりほかはないのである。
「ほう」
とは言ったが、あまりおどろいたようでもない家康だ。
「退却するよりほかのないことは明白でござるが、その方法がつかんので、考えているところです」
「考えていなさるより、一時も早く実行なさるべきではありますまいか。若年者《じやくねんもの》のくせして、差出《さしいで》たことを申すようではござるが、拙者《せつしや》の見るところでは、浅井は勇将ではござるが、手早き人ではないようでござる。されば、まだ道筋には軍勢をくり出していますまい。一刻も早く引き上げられるが上分別《じようふんべつ》と存ずる。朝倉があとから追討ちをかけることも考えられますが、それは拙者|殿軍《しつぱらい》をうけたまわり、ずいぶん難なく引きとってごらんに入れましょう」
と、家康のことばはまことに頼もしいものであった。
しかし、これにあまえるわけには行かない。盟友《めいゆう》を死地にのこして自分だけ逃れるようなことをしては、信長の名誉は地におちてしまう。名誉が落ちては、世に立ってしごとは出来ない。営々として今日まで築き上げて来た天下取りの基礎も崩れ失せてしまう。
「ありがたいお志でござる。しかし、貴殿は拙者の客となって、わざわざ浜松から手伝いに来て下されたのでござる。|殿軍《しつぱらい》など引受けていただいては相済まぬこと。しっぱらいは拙者の家来共にやらせますれば、貴殿は一刻も早くお引き上げ下され。これとて、まことに危険、あるいは浅井の軍勢共が路をさえぎりとめるかも知れませぬが、その節は追いはらってお通りあるとも、ほどよくあしらって、拙者のまいるのを待ち給うとも、時宜《じぎ》にまかせられよ」
「さようでござるか。この度はこれはご先鋒《せんぽう》にもあたる役なれば、おことばにまかせます。拙者が難なく立ちのきましたなら、さては路次《ろじ》は安しと思し召してお引取りなされますよう」
といって、家康は立去った。
家康は若狭路《わかさじ》に出て今の三方《みかた》町あたりに入り、南行して若狭街道沿いの熊川《くまかわ》に出、江州に入って若狭街道を南走し、安曇《あど》川沿いに下って琵琶湖《びわこ》の舟木崎《ふなきざき》に出、そこから舟で対岸の薩摩《さつま》というに渡り、千草《ちぐさ》越えして美濃《みの》に出、それから本国に帰ったようである。これは『総見記』の記述を基礎にして考察したのだが、『改正|三河後風土記《みかわごふどき》』では京へ帰ったことになっている。『総見記』の方がたしかなようである。
浅井の謀反《むほん》と聞いた時、藤吉郎の胸に先ずひらめいたのは、
(お市様はどうなさるであろう)
ということであった。夫が実家《さと》の兄にそむいて、敵と心を合わせ、その背後を襲おうとするのだ。どんなにおつらいことであろう。いやいや、長政殿は果してお市様をそのまま家にとどめておくのであろうか、二人も姫君がおわすのにと思った。
そのまま浅井家にとどめおかれるにしても、不縁になって帰って来られるにしても、お市様のお心はおつらかろうと、思わずにはいられなかった。
(むごいこと、むごいこと、殿様のようにご威勢さかんなお方の妹君であり、あれほどお美しく生まれつかせられたお方じゃに、これはむごすぎる)
胸が熱くなり、涙がこぼれそうであった。
そのうち、使番が来て、軍議をひらくによって急ぎまいれという信長の命を伝えた。
軍議と聞いた時、藤吉郎の心は哀憐《あいれん》とかなしみから、最も生き生きとした武人《ぶじん》の心理に立ちかえった。
(お引上げについて殿軍《しつぱらい》を誰にするかを、おきめになるための軍議だ)
と、すぐ思った。同時に、その役はおれが引受けるのだと、かたく心にきめた。しんがりはいつの退却にも危険なものであり、最も巧妙な指揮を必要とするものであるが、こんどのしんがりは最も危険だ。十中九分まで全滅はまぬかれないと思われるほどのものだ。しかし、こんな仕事を引受けてこそ、最も忠誠の念に燃えているという証明になる。うまく成功して、見事果すことが出来れば、武将として最も卓越した手腕を持つ者であるとの証明にもなる。
(おれはいつでも人のせぬことを引受けて、見事しとげ、今日の身分に成り上った。こんどは最もえらいことをしてのけてこますのや。出来なんだら、死ぬだけのことや。死んでも、殿様におれの心意気だけはわかるわい)
というのが、その心中であった。
だから、皆が信長の前に集まり、信長がしっぱらいを誰が引受けるかと言うや、いざり出た。
「拙者《せつしや》うけたまわりたくござる。拙者に仰せつけて下さりましょうなら、ありがたき仕合せ」
と、大音《だいおん》に言った。まるい目をせい一ぱいに見はって、信長を見つめた。微笑を口もとにきざむことを忘れなかった。
信長も微笑した。
「藤吉、われが引受けるというのか」
「さようでございます。拙者に仰せつけられますなら、敵軍何万おあとを慕いましょうとも、必ず食いとめます。お心安くおひらき遊ばされますよう。拙者に仰せつけて下さりませ」
はっきりとしたことばで、自信に満ちているらしく言う。実際、藤吉郎には自信に似たものが出て来ていた。おれはこれまで人が出来ぬと思うことを引受けて、いつもりっぱにやってのけた、こんどだけ、どうして出来ないことがあろうという考え。これは論理としては無茶である。今日までおれは健康で生きて来たから、これからもそうだろうというのと同じである。これで通るものなら、世間に死人はないはずである。しかしながら、自信というものは、常にこういう非論理的な考え方の上に成り立つのである。
「十中九分九|厘《りん》まで、死ぬことになろうが、それを覚悟か」
情の強い信長の胸も熱くなったが、わざとからかうように言う。
藤吉郎は笑いながら言った。
「とんでもないことであります。拙者は決して死にませぬ。敵を防ぎきった上で、見事に生きてかえり、再びお目通りいたします」
「こいつめが、大きなことを言いおる」
「殿様のお口|真似《くちまね》でございます」
信長はからからと笑い、藤吉郎もまた声を立てて笑った。
この藤吉郎のけなげな覚悟に、この頃では成上《なりあが》りの出しゃばりものと面憎《つらにく》がる者が多くなっていた諸将も、心を打たれて、自分の手勢から五騎、十騎と兵を貸してくれたので、わずかに三百人しかひきいて来ていなかった藤吉郎も七百余人を持つことが出来た。
話がきまると、信長には一瞬の躊躇《ちゆうちよ》もない。ほんの手まわりの人数百余騎をひきいて、若狭路に入り、佐柿《さがき》というところまで行き、その土地の小領主|粟屋越中守《あわやえつちゆうのかみ》という者に迎えられ、一泊して、越中守を案内者として山路に入り、やがて朽木《くたき》越えして京に入ったと『総見記』にあるが、若狭街道に出て安曇《あど》川の岸につくところまでは家康のとった道をたどり、そこから家康が下流の方に下って行ったのと逆に上流の方に向い、朽木越えして、大原、八瀬を経て、京に帰ったと思われる。この道は江戸時代に若狭の小浜《おばま》から京都に鮮魚類が夜通し運ばれた道である。作者は三十数年前、京都の方から途中まで歩いてみたことがある。現代ではトラックかオート三輪くらいかよっているかも知れない。
他の諸将は思い思いに引取ったが、整々《せいせい》たる退陣ではなかった。「十万の士卒、ここかしこに散乱して、思ひ思ひに引取りければ、いづれを大将とも、いづれを士卒とも知りがたし」と、『総見記』にあるのである。
藤吉郎は七百余人の人数をひきいて、しばらく敦賀《つるが》にとどまった後、退却にかかった。
この時もし朝倉勢が大軍でおしかければ、藤吉郎がいかに智勇をふるおうとも、全滅はまぬかれなかったであろうが、彼は実に稀有《けう》の幸運児だ、朝倉家の大軍はこれを追おうとしなかった。
わずかに手筒山《てづつやま》、金崎、疋壇《ひきだ》の敗残兵らが毛屋七左衛門という者を大将として集団を編成して、追撃したのである。こんな連中では藤吉郎に敵するはずがない。
藤吉郎は踏みとどまり、グンと腰をおろして戦い、数度にわたって撃退し、ややもすれば反撃しそうな気勢まで見せたので、追手はかえって恐れた。
ついに和議して、
「追わじ、反撃せじ」
と約束をとりきめ、悠々と若狭路に入り、無事京にかえりついた。
これが秀吉一代記の中の「金崎のしんがり」と言われる、最も有名な話である。
風月清白
信長の第一次の朝倉|征伐《せいばつ》はこうして失敗した。うかうかすると、朝倉と浅井は逆に襲撃して来るかも知れない。知れないどころか、彼らに戦略眼があるなら、そう来べきはずである。
信長は防備の手を考えなければならなくなった。使をつかわして、美濃《みの》と江州《ごうしゆう》との国境線をきびしくかためさせると同時に、美濃三人衆の一人稲葉伊予入道一鉄斎に命じて、江州|野洲《やす》郡の守山《もりやま》城を守らせた。本国である美濃・尾張を確保すると共に、岐阜と京都との連絡路線をも確保するためであった。
こうして東方をかためておいて、若狭方面を調略《ちようりやく》にかかった。若狭は信長が逃げかえって来た道筋だが、こうなると敵の進入路にもなり得る。こちらから行く場合の道筋になり得ることももちろんだ。どの途《みち》、確保しておく必要がある。
丹羽長秀と明智光秀を召して、
「その方共、若州《じやくしゆう》のさむらい共を味方に引き入れてまいれ。おも立った者共からは証人(人質《ひとじち》)もとりおさめて来るよう」
と命じた。
二人はかしこまって、手勢をひきいて若狭にむかった。
元来若狭は足利《あしかが》将軍さかりの頃から、武田氏が守護《しゆご》大名として、小浜《おばま》にいて国内の諸豪をとりおさめていたのだ。若狭の武田氏は芸州《げいしゆう》の守護大名である武田氏と同族で、いずれも甲州の武田氏から分れたのである。さて、若狭の武田だが、この頃になるとひどくおとろえ、国内の豪族らはもちろんのこと譜代《ふだい》の家臣らまで離反し、ついに一味して反旗をひるがえしたので、国に居たたまらず、いずれへか逃げ出してしまった。そのため、当時の若狭は諸豪族|割拠《かつきよ》の姿で、統一勢力はなかったのである。丹羽と明智が来て、説得すると、はじめ一人が異議を言ったが、これをこなしつけると、あとはもう全然抵抗はなかった。争って人質《ひとじち》をさし出して、服属を誓った。
むずかしくなったのは、江州路であった。先年信長が義昭将軍を奉じて上洛《じようらく》した時、南江州の領主であった佐々木六角|承禎《じようてい》は、上洛に協力せず抵抗したため、観音寺《かんのんじ》城を追いおとされ、どこかに逃走、潜伏していたが、この形勢を見て舞いもどって来て、旧臣や百姓らを説いて、織田勢力に反抗する一揆《いつき》をおこさせた。
何せ古い家柄である。佐々木氏が江州に根をおろしたのは平安中期であり、守護大名となったのは鎌倉初期である。連綿数百年にわたって郷民《ごうみん》らとの結びつきがある。説得に応じて集まる者が数千人もあって、わっと蜂起し、稲葉一鉄のあずかっている守山城へおしよせた。
「なまいきなる百姓ばら!」
一鉄は智勇の将だ。少しも恐れず打って出て、一まくりに打破《うちやぶ》って、千余人を討取《うちと》り、一々首を切って、報告とともに京に送り、信長の実検《じつけん》にそなえた。
しかし、これで根切《ねぎ》れになったのではない。六角承禎父子は依然江州内にとどまって、旧臣や郷民らを煽動《せんどう》しつづけているし、浅井は浅井で朝倉を説いて、この形勢に乗じて、美濃に入って岐阜を襲おうとする動きを見せるし、容易ならない形勢になった。
こうなれば、信長としては帰国して足もとを固める必要がある。旅先である京にいて、足もとをすくわれては、どうにもならない。
しかし、帰るにしても、岐阜と京都の連絡路の確保は、稲葉一鉄一人では不安であると、侍大将《さむらいだいしよう》(部将)らを、沿道の要地に配置した。
志賀・宇佐山の両城(大津の北方だ)に森三左衛門|可成《よしなり》を、永原城(守山の東北方五キロ)に佐久間|右衛門尉信盛《うえもんのじようのぶもり》を、長光寺城(永原の東北方八キロ)に柴田|修理進《しゆりのしん》勝家を、安土《あづち》城に中川|左馬允《さまのじよう》を、という工合である。
『総見記』によると、この時藤吉郎に長浜城をあずけたというが、これは信じかねる。この当時はまだ長浜という地名はない。今浜である。それはどうでもよいとしても、今浜では一人とびはなれて敵地に入り過ぎている。今浜は小谷《おだに》からわずかに九キロで、周囲はすべて敵地だ。藤吉郎がいかに智勇でも、助かりようはない。またこの際としては、戦術的に見て、こうまで敵中に入りこむ必要はない。この当時、佐和山(彦根近く)城が浅井家の重臣磯野|丹波守《たんばのかみ》の居城で、浅井勢力の最前線基地になっているから、これと相対する位置、高宮《たかみや》か、尼子《あまこ》か、あるいはもっと退《さが》って愛知《えち》川あたりの城をあずけられたのではないか。しかし、それにしても、最前線の城をあずかったことは確かであろう。一応愛知川城としておく。
この配置をしておいて、信長は江州に入ったところ、またまた一揆《いつき》がおこった。それは今まで所在をくらましていた六角承禎父子が愛知郡の鯰江《なまずえ》城にあらわれて指令を出しはじめたからである。一揆勢は野洲《やす》川の川原に集まって、信長をさえぎった。信長は一戦して撃破し、首数八百ばかりを獲《え》た。
「取るにも足らぬ百姓兵ではありますが、のさばらせてはめんどうであります。この勢いに乗って、鯰江におしよせ、六角父子をふみつぶしてのけましょう」
と、皆言ったが、信長は向う見ずなようで、用心深いこと無類だ。
「いかにもその方共の申す通りである。この勢いに乗るなら、六角父子どころか、浅井父子を討取ることも難くはないが、一先ず国許《くにもと》へ帰って、改めてのことにしようぞ」
と言って、帰国することにしたが、本街道は危険なので、千草越えをとることになった。日野川沿いにさかのぼって、蒲生《がもう》郡の日野に行き、そこから左折して鳥居平《とりいだいら》、中之郷、杣《そま》、杉、原、甲津畑《こうづばた》などという村々を経て、雨乞嶽《あまごいだけ》の北側を通り、釈迦《しやか》ガ嶽《だけ》と御在所《ございしよ》山との間の鞍部《あんぶ》を越えて、伊勢の員弁《いんべ》郡千草に出る山路である。当国日野の領主蒲生賢秀や甲津畑の地侍《じざむらい》甲津畑勘六左衛門らが案内者をつとめた。
六角承禎は、信長が千草越えで帰国することをさぐり知ると、比叡山《ひえいざん》の僧兵で、空飛ぶ鳥をもはずしたことがないという評判の鉄砲の名人、杉谷の善住坊という者に、信長を撃ちとってくれよと頼んだ。手厚い礼物《れいもつ》を持参し、成功の後の重い報酬《ほうしゆう》を約束したことは言うまでもない。
「引受け申した」
善住坊は手なれた鉄砲をひっさげ、山々の霧をしのいで、千草越えに急行し、切所《せつしよ》を見定めて潜伏し、鉄砲に二つ玉《だま》をこめ、信長の来かかるのを待ちかまえた。
やがて、信長が来かかった。つづらおりな険路であるから、馬はおりて、はるかに先きにひかせ、徒歩で家臣らとともに来かかった。山路は善住坊の潜伏場所から十二、三間のところを走っていたというから、二十二、三メートルしかなかったわけだ。狙《ねら》いすました善住坊は、火ぶたを切った。
善住坊ほどの名手が、この近距離で、十分に狙いをつけて射撃したのだから、はずれるはずはないわけであるが、英雄といわれるほどの人の運は格別である。轟然《ごうぜん》たる銃声とともに飛んで来た二つ玉は、信長の着た帷子《かたびら》の袖《そで》をつらぬいただけで、身にはかすり傷一つ負わせず、力なく落ちたのである。
供侍らはおどろきあわてた。さっと信長のまわりに駆け集まって楯《たて》となるとともに、のこりは散って山中に駆け入り、くせ者をさがし捕えようとしたが、信長は、
「さわぐな、さわぐな。天命あるおれに、下郎《げろう》の撃つ鉄砲などあたるものか。おれはかすり傷だに負わず、無事であるぞ。さがすこと無用、急ぎ立退くこそ肝心《かんじん》じゃ」
と、大音声《だいおんじよう》に制止して、そのまま通り過ぎた。
信長は五月二十一日、岐阜に帰着した。
信長が岐阜に帰りついたちょうどその日、六角|承禎《じようてい》は兵をかき集めて、鯰江《なまずえ》城を出て、柴田勝家のこもる長光寺城へ向った。承禎はこの挙に出るまでに、小谷《おだに》に使者を出して、北方から木下勢や安土の中川勢を牽制《けんせい》してもろうことに話をつけている。
鯰江から長光寺までほぼ十キロしかない。早朝に出発して、正午前にはもうついた。六角方は四千余、城方は八百余しかなかったのだから、衆寡《しゆうか》の勢は懸絶《けんぜつ》していた。
忽《たちま》ち外ぐるわを攻め取られ、本丸ばかりとなったが、勝家は鬼柴田といわれているほどの猛将だ。
少しもひるまず、すきを見ては切って出て四角八面にあばれまわり、思う存分に引っかきまわしておいては、機会を見てすっと引きこもってかたく守って、櫓《やぐら》や銃眼から、弓、鉄砲を雨と射そそぐのだ。
「さすがは鬼柴田、まさしく鬼神《きしん》のふるまいじゃわ」
と、六角方も舌をまいて、あぐねた。
攻めあぐんでいると、六角方につき従っているこの近在の百姓兵が、ある日承禎の本陣に来て、
「この城のことについて申し上げたいことがあります」
と言った。
「呼び入れよ」
と、呼びよせると、百姓は土下座して、おそるおそる言う。
「この城には、井戸がないのでございます」
「井戸がない?」
「はい、それで、城のうしろのあの山から、筧《かけひ》をかけて、水を引いているのでございます。それで、筧を切りおとせば、城中には水はなくなります」
承禎は飛び立つ思いだ。
「ほんとか」
「ほんとうでございます」
承禎は、あらためて城の地勢を観察した。
この城のあった土地というのは、現在の近江八幡《おうみはちまん》市長光寺の南方の瓶割《かめわり》山であったというのだが、この山なら、平野の中にぽつんと隆起している大小二つの山から成る瓢箪《ひようたん》形の山である。恐らく城はその小さい方の山に築かれていたのであろう。山が小さいだけに保水力がなく、従って井戸を掘っても水が出ないので、後方の大きな山から筧で水を引いていたのであろう。
「よし! よく教えてくれた。それ、褒美だ」
承禎は百姓に銀子《ぎんす》をあたえ、心きいた武士に一隊の兵をあたえ、百姓を案内者にして、山に向わせて、水源地を探索させ、筧を破壊させた。
承禎はもう力攻めはしない。
「鬼柴田の干物《ひもの》を見てくれる」
と、豪語して、城からの逆襲を用心して、城と味方の陣所との間合をひろくとり、警戒を厳重にして、城の自滅を待った。
季節は五月から六月、この年の六月一日は今の暦に換算すると七月十三日である。暑いさかりである。城中の難儀は一通りではなかったが、少しも弱った様子を見せなかった。
「痩《や》せがまんしても、あざむかれはせんぞ」
と、六角承禎はあざわらって、様子を見るために、六月四日のことであったという、平井|甚助《じんすけ》という者を軍使として、城内につかわした。甚助は、勝家に会って、
「この小城に、この小人数で、籠城《ろうじよう》なされ、数日の間見事なるお働き、さすがに織田殿身内で鬼柴田の名を得られたほどのものはござる。あっぱれ武勇と、感佩《かんぱい》しています。この上望みなき籠城なされるのは無用なこと、城をあけわたして立退いて、次のご奉公を心掛けなされてこそ、織田殿の御意にもかなうことであります。お立退きと決定なさるなら、無事お送り申し上げるでありましょう」
と、述べた。
勝家には開城退散の気持などいささかもないが、思うところがあって、おとなしやかに答えた。
「ごねんごろなるおことば、ありがたく存ずる。城中の者共と相談の上、明日ご返答申し上げるでござろう。先ずはお引取り下され」
「さようか。しからば、まかりかえります」
甚助は答えたが、ふと工夫して、小姓を呼び、
「お願いがござる。この暑熱のところをまいって、汗になり申した。顔を洗わせていただきたいと存ずる」
と、所望した。
すると、勝家は言った。
「これは気づかぬことをいたした。すぐ用意させます。――それ、お使者に水をまいらせよ」
「かしこまりました」
小姓は退《さが》って行ったが、すぐ銅の大だらいになみなみと水をたたえたのを、二人がかりでかかえ出して縁側にすえ、なお大|手桶《ておけ》にも一ぱい持って来て、側においた。
「お使い下され」
甚助は手を洗い、顔を洗い、首筋を拭《ふ》いた。
「ありがとうござった。おかげでさっぱりとなりました」
「粗末でありました」
小姓はたらいの水はもちろんのこと、手桶の水までざぶりと庭に打ちすてて、道具を持ち去った。
これらのことを、勝家は見返りもしない。悠々として扇づかいしている。
甚助は心中舌を巻いて、疑惑する心が生じた。帰陣すると、委細を承禎に語って、
「かような工合でござれば、城中にはなおずいぶん多量に水があるとしか思われません。井戸がないというのがいつわりか、貯蔵が多量であるのか、いずれかに相違ありません。されば、急に落城などすることは思いもよらぬこと、気長に攻めるよりほかはございますまい」
と言った。
「なるほど、そうか」
承禎も気をおとし、気長に攻囲するよりほかはないと思った。
一方、勝家の方だ。平井甚助を送りかえした後、残る水量をしらべてみると、二|石《こく》入りの水瓶《みずがめ》三ばいしかのこっていない。八百人の人馬を養うには、これではどう節約しても、あと三日はむずかしい、せいぜい二日だ。大雨でもあれば別だが、この好天気つづきでは、とうてい望まれることではない。
すさまじい決意は瞬時に定まった。
その三つの水瓶を大広間の広縁にかつぎ出してすえさせ、あるかぎりの酒肴《しゆこう》もならべて、城内の兵を全部集めて、申し渡した。
「城内にのこる飲物はここにすえたものだけになった。どう簡略しても、あと三日はもたぬ。やがて干物《ひもの》となって死ぬに相違ない。鬼柴田と謳《うた》われた身が、干物となって死ぬるはまことに無念。されば、あす夜明け、斬って出て、思うがままの働きして、斬り死にしようと心を定めた。皆もおれにいのちをくれ。さすが鬼柴田が手の者、鬼の下に弱兵はいないんだ、最期《さいご》の雄々《おお》しさよと、後の世にうたわれてくれい。頼む。――今宵かぎりのいのちじゃ。皆々、ここにあるかぎりの水なり、酒なり、存分にのんで、日頃の渇きを医《いや》してくれい」
悲壮な感慨に、皆ふるい立った。
人々は思い思いに水を飲み、酒を飲んだ。馬にも十分に飲ませた。
「もういいか、十分に飲んだか」
勝家は念をおした後、自分も柄杓《ひしやく》で五、六ぱいのんだ後、薙刀《なぎなた》をとりなおし、石突《いしづき》をかえして、水瓶《みずがめ》を三つとも突き破り、水を全部流しすてた。
そうこうしているうちに、時刻は夜半をすぎた。四日の夜だ。月は宵の口だけあって、この時刻にもう沈んでいる。青黒い空には星の光ばかりがきらめいていた。
やがて、まだ闇《やみ》は深いが、夜明けの近いのを思わせる冷やかな風がそよぎ出した。
「それ行こう」
勝家は馬を引きよせて打ちのるや、粛々《しゆくしゆく》として城門を出、寄手《よせて》の陣所近くに忍びより、突如《とつじよ》としてときの声をあげて襲いかかった。
油断しきって、眠りをむさぼっていた六角勢はあわてふためき、忽《たちま》ち混乱におちいった。勝家は真先《まつさき》に立って、縦横無尽《じゆうおうむじん》に斬って斬って斬り散らしたので、六角勢はほうほうのていで八方へただ逃げ、承禎はやっとのことで、鯰江へ逃げかえった。
この時、勝家方の打ちとった首七百八十、その中には鯰江|相模守《さがみのかみ》、三雲《みくも》三郎左衛門父子というような六角家の重臣らの首もあった。
捷報《しようほう》が首とともに岐阜に達すると、信長は大いによろこんで、
「柴田が手柄は今にはじめぬことであるが、こんどは別してよく出来た。あっぱれであるぞ」
と、即座に感状を認《したた》め、三万貫の領地を加増《かぞう》する旨《むね》を書き添えて送りとどけたが、その感状のあて名は「かめ破り柴田へ」とした。
勝家は三万貫の知行《ちぎよう》加増よりも、この名誉ある異名《いみよう》をつけられたことをよろこび、人々もまた羨《うらや》ましがったというが、その頃の武士の気質《かたぎ》としてはそうあるべきことである。無類の乱暴者のように見えながら、信長がいかに人使いに巧みであったかを語るものであろう。
信長から江州守備の将の一人に任命されてすぐ、藤吉郎は蜂須賀彦右衛門を呼んで、
「わしは思う子細《しさい》があって、両日だけ城を不在《るす》する。鯰江に六角が舞いもどって、何やらごちゃごちゃしとる故、必定《ひつじよう》小谷としめし合わせて、いろいろとわざをするじゃろうとは思うが、小谷は猛将ながら手早い人ではない。その上、わしが敦賀《つるが》の退口《のきぐち》で示した働きを知っている。急にどうということはあるまいと思う。しかし、もしあったら、決して城を出ては戦わぬよう。必ず城にこもってあしらっているよう。そのうちには、わしが帰って来る」
と、言いおいて、早朝|未明《みめい》に城を出た。近習《きんじゆ》の者四、五人を供に召し連れたが、その中に近頃召しかかえた美濃士《みのざむらい》が一人いた。いずれもごく軽い旅装であった。
まだ暗いうちに出発したのだが、午後三時頃になって伊吹山の南麓《なんろく》地帯にたどりついた。本道を来ればわずか三十キロほどの道だが、途中はすべて浅井氏の勢力範囲だ。山から山の裏道伝いに来たので、意外に時間を食ったのであった。
「して、やっとまいりました。間もなくでございます」
伊吹山の麓の藤川――ここは美濃と江州の境目で、ほんの一、二町でもう美濃という土地だが、ここまで来ると、新参《しんざん》の美濃士《みのざむらい》はこう言って、藤川の里を避《さ》けて、さらに山路に入った。
伊吹山のいただきを北に見て、細い渓流に沿った山合《やまあい》の小径《こみち》を数町さかのぼって行くと、径から少し上ったところに、南を受けた台地があって、そこに一|宇《う》の草庵《そうあん》が夕陽の中に立っていた。
「あれでございます」
と、美濃士は指さした。
「そうか、あれか」
立ちどまって、ひたいに浮く汗を拭《ふ》きながら、藤吉郎は熟視した。
漢画《からえ》によくこんな図柄がある。磊塊《らいかい》たる岩石のたたみ上げる山の、危《あや》うい断崖の上に草庵があったり、どこからどう行くのかわからない山陰の渓流に沿って小さな家があったりして、それらの画面のどこかに上の曲った長い杖《つえ》をひいた仙人《せんにん》じみた姿の老翁《ろうおう》が、悠然としてうそぶいているという図がら。
しかし、今見る現実の景色の中には、人影はまるで見えず、淙々《そうそう》と鳴る渓流の音と、いたるところの樹間で鳴く鈴をふるようなひぐらしの声ばかりが耳に満ちて、果してその草庵に人がいるか疑わしいほどであった。が、間もなくその家から一筋のかすかな煙が立ちのぼるのが見えた。夕餉《ゆうげ》の支度でもしているのであろうと思われた。
藤吉郎は先きに立って、とことこと上って行った。
上りつめてみると、台地は相当なひろさを持っている。百坪ほどもあろうか、庵《いおり》は樹木の鬱蒼《うつそう》と繁った山を背にした北の隅に立ち、南をひらいて陽を受けるようになっている。
炊煙《すいえん》が一筋立っているだけで、依然として人影は見えなかったが、近づいて行くと、庵の横からひょっこりとあらわれた人影があった。おどろいたように立って見ている。近づいてみると、十二、三の少年であった。目をまるくして、しげしげと見ている。
藤吉郎は愛想《あいそ》よく微笑してたずねた。
「ここは美濃の岩手山《いわてやま》城の城主であった竹中|半兵衛殿《はんべえどの》のお住いじゃろうの」
「そうです」
「わしは岐阜の織田家の者で、木下藤吉郎という者じゃ、とりついでくれい」
少年はこっくりとうなずいた。
「ほなら、待っていておくれやっしゃ」
入って行った。
しばらく間があって、かえって来た。
「通っておくれやっしゃ。お供衆はいてもろうとこがないさけ、このへんでなんなとしていておくれやし」
「よしよし、皆待っているように」
藤吉郎は屋内《おくない》に入った。三|間《ま》ほどの、ごく小さい家ではあるが、いたって清楚《せいそ》な感じであった。少年の用意してくれるすすぎだらいで足を洗って、座敷に通った。
片隅に読みかけの書物をのせた小机や本箱などのある板じきの座敷には、もう主人が円座《えんざ》にすわっていた。黄麻の帷子《かたびら》に水色の小ばかまをはき、二十七、八の、色白のやさしい顔をしている。
「あれへおつき下さい」
自分の前の正面にすえた円座へ請《しよう》じてすわらせた。柔弱《にゆうじやく》と思われるほどの風貌《ふうぼう》であるが、おちつきはらった挙措《きよそ》は、堂々たる感じがあった。
藤吉郎がすすめられるままに席についた時、先っきの少年が茶を持って来た。それを喫《きつ》した後、名のって、前ぶれもなく突然来たのに、会ってくれた礼を言った。
「織田殿のご家中とあっては、お会いせぬわけにはまいりません。拙者《せつしや》は世を捨てている身でござるが、拙者の実家は織田殿の被官《ひかん》となっているのでござるから」
と、相手は言った。至ってものしずかな調子だが、それでも微笑はしていた。
藤吉郎も笑ったが、すぐ言う。
「本日は主人の用でまいったのではないのでござる。拙者一人の用事でまいったのでござる」
「そうでありますか」
とだけ言った。べつだん興味のありげな様子は見せない。
藤吉郎はかまわず、語りついで行った。弁舌は大いに立つのである。
「唯今《ただいま》の織田家がどんな立場にあるか、貴殿ほどの方なれば、すでにご承知のことと存ずる。かつて縁家《えんか》でありました小谷《おだに》の浅井家は、今や織田家にとっては最も恐るべき敵となったのでござる。これをたおさずば、岐阜と京都との通《かよ》い路《じ》は常におびやかされ、ひいては公方家《くぼうけ》もご安泰《あんたい》でなく、さらにせっかく久方ぶりに平安となりました京もどういうこととなるか、まことに不安なことになりました。唯今のところ、近江路《おうみじ》で比較的に安泰でありますのは、安土《あづち》と長光寺以南だけでありますので、このほど主人が岐阜にかえります時にも、長光寺から日野に行き、そこから山越えして勢州《せいしゆう》の千草に出る道を取ったほどでござる。されば、この道筋には、日野に蒲生《がもう》あり、長光寺に柴田|修理《しゆり》あり、安土に中川|左馬允《さまのじよう》あり、永原に佐久間右衛門あり、守山に稲葉一鉄入道あり、志賀に森三左衛門ありと、数珠《じゆず》をつらねたように守備して確保していますが、何と申してもこれは脇街道、出来るだけ早く浅井家をたおして、本街道を取りもどさねばなりません。拙者《せつしや》は今|愛知《えち》川の砦《とりで》を守っていますが、これは佐和山の磯野|丹波《たんば》にたいして備えているので、つまりは浅井勢にたいする先手《さきて》をうけたまわっているのであります。おわかりでござろうか」
相手は禅定《ぜんじよう》に入った人のように瞑目《めいもく》し、両手先を組んで端坐のひざにおいて聞いていたが、目を見ひらくと、つと立って、壁ぎわにすえた書物箱をあけて、何やら持って来た。
かさかさと、藤吉郎の前にひろげたのを見ると、紙をいく枚もつないでこしらえた上にえがいた図面であった。
「当江州とその近国との絵図面であります。これが琵琶湖、これが京、これがわれらの今いる伊吹山の麓《ふもと》」
と、これまた静かな声でいいながら、紙上を指点した。
なるほど、琵琶湖を中心にして、山川、村落、諸城のあり場所、街道等がくわしく描き出されていた。
あとは、相手は無言で織田家の諸将の守っている諸城を一々に指点し、最後に愛知川城と佐和山城とを指さして、
「なるほど、貴殿はお先手《さきて》であられます」
と言った。つぶやくような調子だ。
藤吉郎は、この男の様子が誰かに似ていると、先刻から考えていたが、この時思いあたった。明智十兵衛に似ているのである。しかし、違う点も大いにある。落ちつきはらって、声も低目に至ってしずかなもの言いをし、行儀正しいところは似ているが、十兵衛にはもったいぶったようなところと、かたくるしいようなところがある。この男にはそれがない。
(育ちのせいかも知れない。両人ともに美濃の豪族の家に生まれたのだが、十兵衛は早く父に死なれて一族の厄介《やつかい》になって育てられたばかりか、その一族の家もほろんで、多年諸国を牢人《ろうにん》して歩いた。しかし、半兵衛は岩手山城主の長男として、ずっと日当りよく育っている。もったいぶったり、肩を張ったりしなければならない境遇に立ったことがないはずである)
と、思ってみたりした。
考察は考察として、藤吉郎は本題に入った。
「そこで、拙者《せつしや》がなぜまいったか、すでに貴殿にはおわかりのことと存ずる。今|先手《さきて》と立てられたのであれば、やがて間もなくはじまるであろう小谷攻めにもまた、拙者が先手と立てられるのは申すまでもないこと。万一にも余人《よにん》に仰せつけられるようでは、拙者の意気地が立ち申さぬ故、いかにもして申し受ける所存でいます」
相手はうなずいた。
藤吉郎はなお言う。
「しかしながら、拙者は小身者《しようしんもの》でござる。貴殿は多分拙者がどんな素姓《すじよう》の者で、いかにして織田家に奉公し、いかにして今日の身分にまで取立てられたか、よくご存じのことと存ずる。拙者は氏素姓のない者でござるので、譜代《ふだい》の家来もござらん。また小身者でござるので、大禄《たいろく》をもって力量ある者を召《め》し抱《かか》えることも出来ません。果して先手としての大任《たいにん》にたえるかどうか、不安でならぬのでござる。拙者のために一肌ぬいではいただけませぬか」
と、熱心に説き立てた。
美濃の竹中氏は代々今の揖斐《いび》郡|鶯《うぐいす》村大字|公郷《くごう》、この時代は池田郡|大御堂《おおみどう》、揖斐川左岸の地であるが、ここを所領している豪族であった。重元の時、ここから西南方十二、三キロ、関ケ原盆地へ入って行く峡道《きようどう》の入口|垂井《たるい》に近い岩手の領主岩手氏と戦ってこれを追い、岩手山城に移り住んだ。この重元が、半兵衛|重治《しげはる》の父である。
半兵衛は少年の時、父に死別して、岩手山城主となった。彼はやさしい顔立《かおだち》であり、心ばえも至って物静かで、武勇だてを好まず、読書好きであったので、家臣らも、世間の人もよく言わなかった。
明けても暮れても戦《いく》さの絶え間のない時代で、強く勇ましいことを男の第一資格とした頃だ。やさしく色白な顔をして、物静かで、読書好きとあっては、人がよく思おうはずがない。
「武門に生まれたものが何たることじゃ。男の生まれそこないじゃわ。坊主《ぼうず》にでもなるがよいわ」
と、言われたが、半兵衛は少しもとんじゃくしなかった。
美濃の守護《しゆご》大名は土岐家《ときけ》であるから、竹中家も土岐家をお屋形《やかた》と仰いで被官《ひかん》となっていたが、土岐家がほろぶと斎藤家の被官となった。半兵衛が家をついでからの斎藤家の当主は竜興《たつおき》であった。
半兵衛は時々後に岐阜城となる稲葉山城に、ごきげん伺いに行ったが、竜興もまた半兵衛を軽蔑《けいべつ》して、人がましい待遇をしなかったので、その近習《きんじゆ》らも半兵衛を軽視していた。
半兵衛が十九の時、つまり、田楽狭間《でんがくはざま》合戦のあった翌々年だ、半兵衛は稲葉山城に出仕《しゆつし》して竜興に目通りしてから帰途につき、櫓《やぐら》の下の道を通りかかると、頭上から臭《くさ》い霧がしぶいて来た。
(はて?)
見ると、櫓に数人の若い武士がいる。竜興の近習の者共だ。一人が窓際に立って、にやにや笑っている。自分の通りかかるのを見て、小便を飛ばしかけてそしらぬふりをしているのであると思った。
おどろきもしたし、腹も立ったが、おさえて、おちつきはらって、ふところから懐紙《かいし》を出して、顔をおし拭《ぬぐ》い、退出し、その足で舅《しゆうと》の安藤伊賀守の家に行った。
安藤伊賀守は前にも出た。稲葉一鉄、氏家卜全《うじいえぼくぜん》とともに、美濃三人衆といわれているほどの、武勇すぐれ、また大身《たいしん》である豪族である。
半兵衛は安藤に会って言った。
「ただ今、しかじかのことがありました。これはすべて屋形が平生《へいぜい》拙者を侮《あなど》っていなさるために、近習らもかような言語に絶えた無礼を働くのであります。つまり屋形が悪いのでござる。仕返しをしたくござる。縁につらなり給うことでありますれば、ご加勢をいただきとうござる」
「しかえしと言うて、どうなさるのじゃ」
「屋形を襲って、城から追いおとそうと思うのでござる」
当時の武士の気質は、封建の体制が確立した江戸時代の武士気質とはずいぶん違っている。主君にたいする叛逆《はんぎやく》が悪いこととされていたことはいうまでもないが、それでも、江戸時代の観念で考えるほど悪いこととはされていない。まして、竹中家と斎藤家とは主従の間柄ではない。旗頭《はたがしら》と旗下との関係だ。
しかし、安藤はおどろいた。安藤にとって、半兵衛は娘婿《むすめむこ》ではあるが、やはり世間の人なみに少し足りない人がらであると思っている。――やれやれ、武辺《ぶへん》の道に暗いものは目の見えぬもの、いかに腹が立てばとて、一時の情に激して、おのれの力もはからず、途方もないことをいうわ、と思いながら、
「貴殿の腹立ちはようわかるが、それは所詮《しよせん》出来ぬことでござる。口惜《くちお》しゅうはござろうが、こらえなされよ。そのような大それたことを、よそで申されては、身の破滅でござるぞ」
と、ねんごろに教えさとした。
半兵衛は岩手山城にかえったが、あきらめはしない。
(しからば、独力でやるまでのこと)
と、決心した。
半兵衛の弟に久作重隆というのがいた。人質《ひとじち》となって稲葉山城に行っていた。久作はこの前年相当重い病気をして、この頃はなおってしばらく立っていたのだが、半兵衛はその病気が再発したと称して、看護《かんご》のためという名目で侍を久作につける許可をもらって、六人の屈強な武士を稲葉山城内の久作の住《すま》いに送りこんでおいて、その日の夕方、長持《ながもち》に具足《ぐそく》や武器を入れ、雑人《ぞうにん》にかつがせ、侍十人ほどを連れ、自ら宰領《さいりよう》して登城《とじよう》し、
「この長持には、弟の病気の看護人や見舞の人々をもてなすための酒食類が入っているのでござる」
と、門毎に言って通り、本丸の久作の住いに入った。
その夜ふけて、長持をひらき、具足を出し、ひしひしと着こんだ。半兵衛と家来十六人、都合十七人だ。
広間に行き、宿直《とのい》の者共を斬って捨て、かしこにあらわれ、ここに出てして、思うがままに斬ってまわったので、城内大さわぎだ。鐘楼《しようろう》の鐘《かね》をつき鳴らしたので、城外から駆けつけて来る者もいる。竜興はこれを味方の者であるとは思わない。
「すわこそ、近国の敵がしめし合わせて、城内の者に裏切りさせて、おしよせて来た」
と、おそれふためいて、水門をくぐって城外に逃げ出した。
こうして半兵衛はしばらく稲葉山城を占拠していた。
当時まだ尾張にいた織田信長は京への足がかりの第一段として美濃がほしくてならず、しばしば斎藤氏と交戦している時であったので、使者をつかわして、
「稲葉山城をわれらに渡されよ。さすれば、貴殿には美濃半国をあてがい申そう」
と申込んだが、半兵衛は、
「われらがこの城をうばったは、武士の意気地を見せたまでのことで、欲深な量見はさらにござらぬ。この城は当国の領主の居城でござれば、他国の人に渡し申しては、人の批評もいかがと存ずる」
と言って、相談に応ぜず、間もなく舅《しゆうと》の安藤伊賀守を仲介《ちゆうかい》にして竜興に交渉して、城をかえして、岩手山にかえったが、ほどなく、
「わしは武士の意気地やみがたく、謀反《むほん》にひとしいことをしたが、罪のほどは重々に心得ている。当国に居住することははばかりがある」
と言って、家を弟らにゆずって、江州に立ちこえ、伊吹山の麓《ふもと》に閑居して、すでに八年になるのであった。
藤吉郎は以前から竹中のことは知っていた。はたちにもならぬ身で、一身の機略をもって、稲葉山城を乗っ取るとは、智勇抜群の者にちがいないと思っていた。半兵衛が世に示した働きは、この一事しかないから、世間の人はめずらしい話とは思っても、そう半兵衛の人物や力量を買わない。たまたま運がよくて、そうなったのだと思っている。しかし、藤吉郎の見る目は違った。
「度々働きを見なければ人の器量がわからんとはにぶい話じゃ。一度で見ぬかんければ、目のきいた者とはいえん。自分のように氏素姓《うじすじよう》もなく、一身の働きで成り上った者には、この眼力《がんりき》がとりわけ大事じゃ。誰の目から見ても器量人《きりようじん》とわかる人物には、買手が大勢ついて、とうてい自分などの手にはおえはせん。人より早う見ぬいて、早う手に入れるよりほかないのじゃ」
と、いつも思っているだけに、最も鋭いものがあるという自信があったが、半兵衛はその眼力に最もかなう人物のような気がしてならないのであった。それで、このいそがしいなかをくり合わせて、こうして来たのであった。
半兵衛は藤吉郎の言うことを、一度の相槌《あいづち》も打たず、聞いていたが、言う。
「拙者《せつしや》がこの山にこもってから、すでに満七年になりますが、拙者はそのはじめから浮世を捨てたつもりはござらなんだ。やがて時節がめぐり来て、気が向いたらば、再び世に出て、武士一通りの働きはしてみるつもりでいたのでござる。織田殿のゆるしさえあるなら、一族の者をひきいて、貴殿の寄騎《よりき》として働きましょう」
ものしずかで、淡々とした態度だ。こんな冷静な相手にむかっては、まるで勝手がわからない。藤吉郎は大いにまごついたが、承諾してくれたことはたしかだ。うれしかったから、素直にうれしがった。
「礼を申す。この通りでござる」
と、言って、両手をついて伏しおがみ、なお言った。
「百万の味方を得た思い。日本一の気持でござる」
ほんとに涙のこぼれそうな気持になって来た。
半兵衛は微笑《わら》った。
「お手を上げて下され。そうまでなされては、拙者はこまります。お手を上げて下され。それでは寄親《よりおや》と寄騎のかための祝いに一献酌《いつこんく》むことにいたしましょう」
といって、手をたたいて少年を呼び、酒を持って来させて、盃《さかずき》をかわし、すむと言った。
「美濃士《みのざむらい》の中では、三人衆はごくごくの大身《たいしん》でござる故別として、牧村兵部《まきむらひようぶ》大輔《だゆう》と丸毛《まるも》三郎兵衛とがことにすぐれた者共であります。拙者とともにこの二人を寄騎にしたいと願われるがよいと存じます」
「そういたします。そういたします」
二つ返事で、藤吉郎は答えた。
その夜は草庵《そうあん》に泊めてもらい、翌日早朝に出発して愛知《えち》川にかえった。かえりつくと、すぐ岐阜に使を出し、竹中、牧村、丸毛の三人を寄騎にしていただきたいと願った。
信長は即座に聴許《ちようきよ》した。
信長は最も勾配《こうばい》の速い武将ではあるが、とりわけこの頃は徳川家康と諜《ちよう》じ合わせて、浅井|征伐《せいばつ》を実行に移すために、夜を日についで準備を進めつつあったのだ。即座にゆるしたはずである。
この信長の動きは、浅井方にもわかる。浅井家は朝倉家に事情の切迫したことを知らせて、助勢を乞《こ》うた。朝倉家は一族の式部大輔景鏡《しきぶだゆうかげあきら》に三千の兵を授《さず》けて派遣した。今の国鉄東海道本線の関ケ原駅と柏原駅との間に長久寺というところがあって、ちょうど美濃と近江《おうみ》との境目に位置しているが、浅井家はこことその近くの刈安《かりやす》に砦《とりで》をとり立てて、越前勢を入れた。
また、やはりこの近くに鎌羽城というのがあって、堀という鎌倉時代以来の豪族が居城としていたが、この堀氏は浅井家の被官《ひかん》になっていたので、これに長久寺から二、三キロ美濃に入った今須口《いますぐち》に砦をこしらえさせて、守備させた。つまり、美濃から江州へ入る幹線道路をきびしくふさいだのである。
当時、江州では鯰江《なまずえ》に六角|承禎《じようてい》父子がいて絶えず旧領の郷民《ごうみん》らに指令を出しており、佐和山《さわやま》に磯野|丹波守《たんばのかみ》がいて浅井勢の前線基地をつくっていたので、南江州に配置されていた織田家の諸将は愛知川から北へは動けない形勢になっていた。
「この形勢を破るには、江州と美濃の境目のかためを解きほぐすよりほかはない」
と、藤吉郎が思案をしぼっている時、半兵衛が伊吹山の庵《いおり》をひきはらって、愛知川の砦にやって来た。弟の久作重隆ほか四、五人の家来を召しつれていた。
「岐阜からさしずがあって、貴殿の寄騎《よりき》となるようにとありましたので、早速にまかり出ました。やがて合戦《かつせん》となれば、竹中家の手の者もまいります」
と、言った。
「早速のご着到、大慶《たいけい》でござる」
よろこんで迎えて、思案していることを語った。
「拙者《せつしや》もそれを考えていました。それもあって、こうして急いでまいったのです。工夫は一応つけてまいりました」
と言って、半兵衛の語ったことはこうであった。
当時の堀家の当主は次郎といって、わずかに八つの幼児である。だから、樋口《ひぐち》三郎兵衛、多良尾右近《たらおうこん》という二人の家老が補佐して、両人相談の上ですべてをとりはからっている。自分は両人ともに知り合いであるが、とりわけ樋口とはごく懇意《こんい》ななかである。樋口は大剛《たいごう》で節義のかたい人物であるが、主家《しゆか》にたいして最も忠誠な心を持っているから、堀家の将来のためになる話を持って行き、たしかな保証があれば、方法はあると思うというのであった。
藤吉郎はよろこんだ。
「堀家の安泰《あんたい》は引受け申す。拙者《せつしや》が身命《しんめい》にかえても、必ず安泰であるようにはからいます。話をつけて下され」
と言った。実際その覚悟をきめた。彼は信長が時によると不信義しごくなことをすることを見て来ている。こういう時の信長は正気ではないのではないかと思わずにいられないほど、辻褄《つじつま》の合わないところがある。だから、あまり踏みこんだ約束をすることの危険を思わないではなかったが、その時はその時のこと、ほんとにいのちにかえても守り通してみせると決心したのであった。
「かしこまりました」
半兵衛はすぐ出発して、今須口に向った。
半兵衛は別路を通って美濃に入り、関ケ原に宿をとって、今須口の堀家の陣所に、樋口にあてた手紙を持たせてやった。少々相談いたしたいことがござる故、参上いたす、お会いいただきたいという文面だ。
その使に樋口は返事を渡した。
「世のうわさにうけたまわれば、貴殿はこのほど数年来の閑居をやめて、織田家の木下藤吉郎殿の寄騎《よりき》となられた由。年来ご懇情をいただいている身ではござるが、すでに敵味方となったことでござれば、お会いしては世の聞こえもいかが。不本意ながらおことわり申すよりほかはござらぬ」
というのが文面であった。
自分のことが早くも知られていることに、半兵衛はおどろいたが、考えてみると、これは当然のことだ。戦《いく》さなのだ。こちらに油断がないように、敵にも油断はないはずである。
来るな、会わないぞという返事であったが、それでも、半兵衛は出かけて行って、面会を申し入れた。樋口はおどろいて出て来たが、砦《とりで》の入口の柵《さく》をあけず、それをへだてて対面した。半兵衛は言う。
「ご返事に書かれました通り、このほど敵味方となりましたために、年来の友垣《ともがき》でありながら、明日にも戦場で戦い合わねばならぬ身となってしまいましたので、名ごりをおしみたいと存じて、まいったのでござる」
この友情に満ちた悲壮な口上に、相手は心を打たれ、入口の柵をあけて、
「ともあれ、一応お通り下され」
と、中に請《しよう》じ入れ、自分の長屋《ながや》に通して、酒など出してもてなした。
数献《すうこん》の後、半兵衛は、
「今のような時節に、いとけなき主君を奉ぜられる貴殿のお立場は同情にたえぬところでござるが、眼目は堀家の末長く立つことにござろう。つきましては、織田殿は貴殿を味方にしたいと、いろいろと仰せであります」
と、切り出した。
樋口はなかなか承知しなかったが、半兵衛は懇々《こんこん》と利害を説いた。
「貴殿がそう仰せられるのは、堀家は浅井家の被官《ひかん》となっている故、それにそむいては武士の道にはずれるとお考えであるからでありましょう。しかし、よくお考えあれ。今日《こんにち》のように戦国|乱離《らんり》の世では、小身《しようしん》の大名は自立しがたい。自存《じそん》を保つためには、大身の大名の被官とならぬわけにまいらぬのです。拙者《せつしや》の家が斎藤家の被官になり、堀家が浅井家の被官になっておられるのも、そのためでござる。しかしながら、この関係は先祖代々の恩を受けている主従とはちがいます。わが身代はわが家のもの、斎藤家からも、浅井家からも、一|合《ごう》たりとももらったものではござらぬ。つまりは、家の存立《そんりつ》を保つために一時帰属したというだけのことです。これが根本でござる。自存のためには帰属先をかえてもさしつかえないことでござる。されば、拙者の家は斎藤家頼むに足りずと思いましたので、斎藤家と縁を切って自立し、その後織田家の被官となりました。堀家とて、よくよくご思案あってよい時と思います。織田に属するが安泰《あんたい》か、浅井に属するが安泰か、胸を平《たい》らかにしてはかりくらべありたい」
半兵衛の言うところは決して詭弁《きべん》ではない。小大名の大々名にたいする従属関係は、こうしたものだった。ただ、普通の人にはここまで明快に整理して考えることが出来ないだけである。樋口は説きつけられた。
「一々ごもっともなる仰せ。ともかくも、同僚《どうりよう》多良尾右近とも相談の上、なにぶんの返答をいたしましょう。今日のところは、一応お引取りいただきたい」
と、言った。
半兵衛は関ケ原に引きかえしたが、翌日、樋口と多良尾とが連名で書面をくれた。
「昨夜、家中のおも立った者共と相談したところ、貴殿の申されるところ重々もっともでござれば、おことばに従いたいということにきまりました。よろしく木下殿にも申し通じ、織田殿のご前体《ぜんてい》をとりなしていただきたい。なお、話がきまれば、樋口は娘《むすめ》を、多良尾は息子《むすこ》を、証人(人質《ひとじち》)としてさし出すでござろう」
というのであった。
半兵衛はこれを藤吉郎に知らせた。
藤吉郎は大いによろこび、弟の小一郎を引連《ひきつ》れて、関ケ原に急いだが、途中小一郎に半兵衛の交渉の次第を語って、
「岐阜から殿様のご誓書がまいるまで、わしの誓書とともに、その方証人(人質)となって堀家へ行ってくれるよう」
と頼んだ。
「かしこまりました」
小一郎はすずしく引受けた。
関ケ原について、半兵衛にこの話をすると、半兵衛は感動することが一方でなかった。
「樋口、さこそ安心でござろう。約束はすべてこのようにありたいことでござる」
と言って、藤吉郎に誓書を書いてもらってたずさえ、小一郎を連れて、今須口に行った。小一郎をのこし、人質二人をともなって帰って来たこともちろんである。
人質らはまだ十二、三にしかならない、少年少女である。花のように美しく可憐《かれん》であった。
「ようまいられた。少しも恐ろしいことはござらぬぞ。少しの間のしんぼうじゃ。間もなくかえして進ぜるぞ」
藤吉郎はやさしくいたわって、半兵衛とともに、岐阜に連れて行った。
信長のよろこびは一方でない。
「その方共の智略浅からず、これでいよいよ戦えるぞ」
と激賞して、とりわけ半兵衛には、はじめての奉公であるというので、とりあえずのほうびとして、具足《ぐそく》一|領《りよう》、太刀《たち》一ふり、黄金一包みをあたえた。
藤吉郎はあとを半兵衛にまかせて、愛知《えち》川にかえった。半兵衛は信長の誓書をもらって今須口に引きかえし、誓書を堀家の両家老にわたした。ふたりは小一郎をかえして、半兵衛に、
「木下藤吉郎殿がご舎弟《しやてい》を証人としてお出しなされたほどに心をつくして下されたのでござれば、われらとしてもおとらぬだけの心をつくさぬわけにまいりませぬ。われらを岐阜にお連れいただきたい。信長公にお目通りつかまつりたい」
と申し出た。
「ようこそご決心であります。貴殿方のため、また堀家のため、必ずよい結果となるでありましょう」
半兵衛はほめて、二人を連れて岐阜に行き、信長に目通りさせた。
信長は快く二人に会い、堀家の本領安堵《ほんりようあんど》状を出し、二人にそれぞれ黄金五十両と太刀《たち》一ふりとをあたえた。
これらのことを、つい間近の陣所にいた越前勢も知らず、まして遠くはなれている浅井方でも、全然知らなかったのだから、迂闊《うかつ》と言うべきである。堀家がそれほど信用されていたのでもあろうが、余程に隠密《おんみつ》にことを運んだのである。
こうして約束が出来ると、藤吉郎は半兵衛のすすめにまかせて、弓の者五十人、鉄砲の者五十人を今須口につかわして、堀の人数に加わらせ、同時に越前勢の陣所に通告させた。
「われら存ずる子細《しさい》あって、小谷殿と手を切って、岐阜殿の味方することになりましたれば、ご承知おき願いたい」
越前勢にとっては寝耳に水だ。大将朝倉|景鏡《かげあきら》はおどろきおびえ、その夜のうちに両所の陣を引きはらって、本国に引き上げた。これを浅井家には全然ことわりもしなかったのだから、よほどにあわてたか、引きとめられることを恐れるかしたのである。
こうして、ふさがっていた美濃から江州への進入路は、藤吉郎と半兵衛の働きでひらけた。こんな時の信長は神速疾風《しんそくしつぷう》のようである。即時に岐阜を打ち立って、怒濤《どとう》の勢いで国境を越えて、近江路に入った。
膠着《こうちやく》状態に陥《おちい》っていた南江州の諸隊も、呪縛《じゆばく》を解かれたように活溌《かつぱつ》に動き出して、周辺の六角勢力の制圧|掃蕩《そうとう》にかかった。疑いのある村々は皆焼きはらうという徹底した掃蕩であったので、六角勢力は春の淡雪のように急速に消えた。六角父子は今は鯰江に居たたまれない。また他国へ出奔《しゆつぽん》してしまった。
信長は南江州のそれらの諸勢を合して、総勢およそ三万、木下隊を先鋒《せんぽう》として、悠々と兵を進めて、北江州の野に出て、小谷城を指呼《しこ》の間《かん》に望んだ。六月十七日のことであったから、柴田勝家の長光寺城の快勝があってからわずかに十三日目である。万事が実に神速に運ばれたのである。
凶運と幸運
小谷《おだに》城は、今の滋賀県東浅井郡|湖北《こほく》町の小谷山(大嶽《おおずく》ともいう)にあった。浜ちりめんの産地で、現代では鴨《かも》料理を名物にしている長浜の北方八キロ、琵琶湖《びわこ》沿岸から東方六、七キロほどの地点にある。
信長は小谷城の西南方に位置する虎姫《とらごぜ》山に本陣をすえ、別軍に小谷城の南方の雲雀《ひばり》山を占領させた上、柴田勝家、佐久間信盛、木下藤吉郎、竹中半兵衛の機略によって新たに帰服《きふく》させた堀氏らに命じて、城下の村々に火をかけて、焼きはらった。浅井方を城からおびき出すためであったのが、浅井方は相手にならない。朝倉家から援軍の来るのを待って、一挙に雌雄《しゆう》を決するつもりだったのだ。
信長はその夜諸将を本陣に集めて、軍議をひらいた。城方では居すくんで出て来んが、いかがすべきであろうと、信長が言うと、佐久間信盛が言う。
「敵は越前から後ろ巻きの来るのを待っているのでござる。というて、それの来る前に片づけようとすれば、損害をかえりみず力攻《ちからぜ》めにするよりほかはござらんが、そうすれば、先ず味方三分が一は損《そこな》いましょう。ここのところは、引き上げて、またの機会を待たれた方がよいと存ずる」
これを聞くと、信長は大きくうなずいた。
「いかにも、右衛門が申すところ、道理である。さらば、明朝、引きとることにするであろう」
と言って、その夜の軍議はおわった。
藤吉郎もその席に連なっていたが、信長のこの態度は腑《ふ》におちなかった。信長がわざわざ三万に近い大軍を動かしてここまで来たのは、なまなかなことではないはずである。徳川勢もやがて馳《は》せ参ずる予定になっている。必ずや浅井、朝倉の連合軍と決戦する覚悟をきめて来ているはずである。それをこんなことくらいで、引き上げるというはずはない。殿様はなにを考えておいでなんじゃろうと、大いに思案した。
帰陣して、竹中半兵衛を呼び、その疑問を打ちあけた。
半兵衛は笑って、
「貴殿のお疑いはもっともでござる。たしかにお引き上げになりますまい。思うに、横山城に鋒先《ほこさき》を向け、これを攻めおとして、ご本陣となさり、朝倉勢の来るのを待たれるおつもりでありましょうか。あるいはまた城を落すことは出来ずとも、浅井が居たたまらずして、小谷城を出て来るのを待たれるためかとも思われます」
と、言った。
言われて、藤吉郎はうなずいた。
「なるほど」
横山城は小谷城の東南方九キロほどの地点にある。ここは南方から一塊《ひとかたまり》の山地《やまち》がのびて来て、姉川の渓谷によって断ち切られるまでつづいている。渓谷の向うは伊吹山のつづきである七尾山になる。城はこの山塊《さんかい》の北部、臥竜《がりよう》山の頂にある。浅井家はこの城をこの頃大急ぎで築いて、家中|屈指《くつし》の勇士である大野木土佐守、三田村|左衛門尉《さえもんのじよう》、野村|肥後守《ひごのかみ》、同|兵庫頭《ひようごのかみ》などという人々を籠《こ》めているのである。
その夜の未明、信長は陣払いにかかった。ごくひそやかにふるまったのだが、浅井方ではこれを知った。追撃に出ようという議がおこった。長政は賛成したが、長政の父久政や老臣らは、危険であると主張してとめた。発議者の一人、丁野若狭守《ちようのわかさのかみ》は、
「この戦《いく》さ、そのはじめから味方居すくんで、敵の思うがままにふるまうにまかせてござる。そのために、味方の勇気益々たわみ、見苦しゅうござる。今また敵の引くのを知りながら、手をつかねておめおめと見送るにおいては、どこまで味方の弱りとなるか知れ申さぬ。追いかけて一塩《ひとしお》つけねばかなわぬところでござる」
と、言い張り、ついに長政の許しを得て、城門をひらいて追撃に出た。
信長はもとよりこれを予期している。佐々《さつさ》内蔵助《くらのすけ》成政、中条|将監季長《しようげんすえなが》、簗田《やなだ》左衛門太郎|政辰《まさとき》の三人にしんがりを命じ、鉄砲|足軽《あしがる》五百人、弓足軽三十人をあたえていた。三人はくじ引きで、一番簗田、二番佐々、三番中条と定めて、くりびきに引き上げることにしていた。
簗田は鉄砲を撃ちかけ、弓を射かけ、ひるむを見て、自ら真先《まつさき》に立って突進して追い散らし、あとを佐々にわたした。
簗田の合戦《かつせん》の音を聞いて、信長の旗本の若者ら十数人が思い思いに引きかえし、佐々の隊に加わった。佐々はこの連中を一まとめにして、小高いところにあった辻堂《つじどう》に待ちかまえた。浅井勢は一旦《いつたん》は追い散らされたが、簗田が追撃して来ないので、忽《たちま》ちまた一つになり、あとを慕って来た。
「それ行け!」
佐々は高みから、真先かけて槍《やり》をふるって駆けおり、敵を突きたおした。助勢の人々も思い思いに突進して、浅井勢を突きくずし、
「それ退《ひ》け!」
と、一町ほど引取って、中条にわたした。
中条も見事な戦いぶりを見せたが、戦《いく》さは運だ。槍傷を二か所も受けたので、敵は勢いにのり、苦戦となった。
信長は弓隊をつかわして散々に射させて、敵をひるませた。そこに柴田勝家が千余人の兵を従えて引返して来、一斉にときを作らせた。
この頃には、もう夜が明けている。千余人の兵が真黒に密集し、あらんかぎりの声を上げてすさまじいときをつくり、すきあらば攻撃に出る気勢を示したので、浅井勢もひるんで引取った。
半兵衛の見通した通りであった。信長は横山城に向ったのである。
横山城は急ごしらえであるから、城というよりは砦《とりで》といった方が適当なような粗末な構造であったが、場所が天然の嶮岨《けんそ》なので、なかなか堅固であった。信長は本営を横山城の北方の山鼻である竜《たつ》ガ鼻《はな》にすえて、翌日から城の攻囲にかかった。城の四面から、それぞれ備えを立てて攻め立てさせたのだ。藤吉郎は池田信輝、坂井|右近《うこん》の二人とともに北方からの攻撃を受けもたされた。
「そうあせることはないが、ずいぶんさわぎ立てて攻めい」
と、信長は下知《げじ》した。出来るだけ犠牲の出ないように、しかし、大いに鬨《とき》の声をあげ、鉄砲をはなって、さわぎ立てて攻めよというのだ。
(なるほど、小谷の兵をおびき出すためにしておられるのだな)
と藤吉郎は合点《がてん》した。
数日、このようなことをつづけ、六月二十四日になった。
この日の夕方、徳川家康が横山城の東方四キロほどの春照《しゆんしよう》村に到着し、翌日姉川沿いに下って来て、竜ガ鼻の西方一キロ半ほどの上阪《かみさか》村に陣を取った。五千人の部隊であった。
陣とりがすむと、家康は信長の本陣に顔を出した。
暑い季節の真昼である。信長は甲冑《かつちゆう》をつけず、白かたびらに、黒地に銀箔《ぎんぱく》をもって桐蝶《きりちよう》の紋《もん》をおした陣羽織《じんばおり》を着、黒|塗《ぬ》りの笠《かさ》をかぶり、床几《しようぎ》に腰かけて、家康の来るのを待っていたが、床几を立ち、陣笠をぬいであいさつした。
床几をすすめて言う。
「この炎天《えんてん》の時節に、遠路の参陣、祝着《しゆうちやく》に存ずる」
「出来るだけ早くまいりたいと急いだのでありますが、遠国《えんごく》のこと、遅参《ちさん》してしまいました。申訳ござらぬ」
と家康はわびて、形を改めた。
「さて、戦《いく》さのことでありますが、小谷の敵はやがて誘い出されて出てまいりましょう故、その節|有無《うむ》の一戦あるべきでございましょうな」
「その覚悟にてわれらもおります。いずれ、その節は越前勢もまいって、小谷に力を合わせるでありましょうが、ご辺《へん》とわれらとが力を合わせて戦うにおいては、敵何万人ござろうと、難なく打勝ち追い散らすでござろう。快いことでござる」
と、信長は笑った。
家康も笑った。
間もなく、家康は自分の陣所にかえった。
その日が暮れて、とっぷりと暗くなる頃、竜ガ鼻と小谷城との中間の大依《おおより》山の山鼻に、おびただしく篝火《かがりび》が焚《た》かれはじめた。藤吉郎がそれを望見していると、竹中半兵衛が来た。
藤吉郎は三、四キロのかなたの闇《やみ》の中に赤々と燃えたっている火の列を指さして、半兵衛に言った。
「あれをどう見なさる? 敵は明朝を待って決戦するつもりでござろうか。この城の者を元気づけるためだけでござろうか」
「決戦のつもりではありますまい。敵は朝倉勢の到着を待ち、一緒になって決戦するつもりでいればこそ、ああまで挑《いど》みかけられてもかたく城にこもって戦おうとしなかったのですが、朝倉勢の到着したという報《しら》せはまだ入っていません。忍びの者共の知らせはすべて、五里北まで朝倉勢の姿は見えないと言っています。徳川勢が到着したので、この城の者共が気をおとしてはならぬと、元気づけのためでありましょう。さればこそ、ああ大袈裟《おおげさ》に火をたいているのでありましょう」
さらさらと、最も明快に解いた。掌心《たなぞこ》に指さすようであった。すぐまた言う。
「それにしても、急ぎご本陣にまいらるるがよろしい。いろいろとご用があるかも知れません」
藤吉郎は馬に乗って、本陣に行った。
信長は大楯《たて》をならべた上に敷皮をしき、あぐらをかいて、大依《おおより》山の篝火《かがりび》を見ながら、ゆったりと酒を酌《く》んでいた。
この年の六月二十五日は、今の暦では八月六日だ。夏の虫の最も出る季節だ。少し離れた位置に火を焚いて、虫共を誘致するようにしてあるが、それにひんぷんとして乱れ飛んで来ては、焼け死んでいた。
信長の前には、柴田勝家をはじめ数人の侍大将《さむらいだいしよう》らが侍坐《じざ》して、盃《さかずき》をあたえられていた。
「やあ、藤吉郎まいったか」
と、信長は言い、盃を持って来させてあたえて、大依山の方にあごをしゃくった。
「ああいう変異があるに、そちはずいぶん遅いぞ。どうしたのじゃ」
と、持ち前のどなるような声で言った。
藤吉郎ははっと平伏したが、さわがず答えた。
「あれはこの横山城の者共にたいする気力づけだけのことで、それ以上のものでないと見ましたので、急がずまいりました」
信長はフンと笑った。
「えらい心得たようなことを申すが、どういうわけでそう判《はん》じたのじゃ。われが横着《おうちやく》ではないのか」
「敵は朝倉の助勢なくしてお味方と決戦することを恐れています。朝倉の助勢が到着せぬ以上、決戦に踏み切ろう道理はございません。あれは今日徳川殿が着到《ちやくとう》され、お味方の勢いが益々盛んになったので、この横山城内の者共の勇気がたわんではならんと、気力づけのためにあれへ出張り、ことさらさかんに火を焚《た》いているだけのことと判断いたします」
信長はからからと笑って、言った。
「まあ、そうじゃろうな。わしもそう判断したから、こうして酒などのみながら、のんびりと見物しているのじゃ」
藤吉郎はうれしかった。大いに得意になりもしたが、ふと気がつくと、上席《じようせき》の柴田勝家がいかにも不機嫌な顔をしていた。
(ハハア、柴田は大いにあわて、大いに心配して、駆けつけたのじゃな、きっと。それで、こげいにきげんが悪いのか。それとも、おれが今夜はとくに殿様のお気に召したようなので、ねたんでこうなのであろうか。柴田のようにいつも第一等の出頭人《しゆつとうにん》である者は、どんな時にも人より目立たんければ承知出来んので、りんき深いものではあるよ……。ま、いずれにしても、気をつけんければならん……)
などと考えた。
大依《おおより》山の篝火《かがりび》は終夜燃えつづけた。
藤吉郎は、あるいは城内から夜討《よう》ちや朝駆《あさが》けに出るかも知れないと思ったので、陣中の警戒をきびしくふれておいて、小谷城の方に目を放った。
小谷城のある小谷山は、篝火のあるところからさらに西北方に三、四キロのばしたあたりにあるはずだが、全然見えない。星のきらめき散っている空には小谷山よりずっと高い己高山《こたかみやま》がおぼろに輪郭を見せているだけだ。まして、小谷山の山ふところに抱かれている城が見えようはずはない。だから、昼間つけておいた見当で、ここぞと思われるあたりに視線を凝《こ》らしたのである。
小谷城と思わしいあたりを凝視《ぎようし》しながら、お市様のことを思った。お市様は二十四になっていなさるはずであり、お子様のお茶々様は四つであるはずだ。藤吉郎が最後にお市様を見たのは、七年前、お市様十七の時の春であった。お輿入《こしい》れになるために、馬にのり、被衣《かつぎ》をかぶってお出《い》でる姿を見たきりだ。被衣の召《め》しようがうんと眉深《まぶか》であったので、お顔はわからなかった。白いきゃしゃな手と、おあご先がちらりと拝まれたばかりだ。
はっきりお顔を拝むことが出来たのは、それから三、四年前の田楽狭間《でんがくはざま》の戦いの日、殿様が清洲《きよす》のお城に引き上げて来られた時であった。あの頃は姉様のおひろ様もまだご縁づきではなく、お二人ながらはっきりとおがむことが出来た。しかし、あの時のお市様はまだ十四であったはずだ。とうてい、二十四の女ざかりとなっている現在のお顔は想像がつかない。まして、四つになる姫君を抱いているお姿などイメージを結ぼうはずがない。
やるせなかったが、間もなく、考えたことがあった。
(そうじゃわ、この頃、京に来て、殿様にえらい気に入られている南蛮《なんばん》のバテレンらが拝《おご》うどるおなごの神様があるわ。子供を抱いた美しいおなごの神様じゃ。あのていなものと思えばええかも知れぬ)
色どり美しく、しかもふくらみや、へこみや、蔭《かげ》や、顔や手のやわらかささえ、まざまざと感じさせるように描いたその絵を、出来るだけはっきりと思い浮かべようと、つとめた。
(こんなに思っているのに、こんな思い方をせなならんとは!)
涙がこぼれそうな気がした。
この翌日、越前勢ほぼ一万が来て、大依《おおより》山に布陣《ふじん》している浅井勢に合流した。忍びの者が大将は朝倉の一族|景健《かげたけ》であるとさぐり出して来た。近く当主の義景《よしかげ》が大軍をひきいてやって来ることになっていることもさぐり出して来た。
信長は諸将を召して軍議をひらいた。忍びの者のさぐってきた情報を発表して言った。
「あの大ヌル山の朝倉じゃ。自ら後ろ巻きに来るというのはただの景気づけの掛声にすぎんかも知れんが、本当かも知れん。いずれにせよ、味方としては、早く決戦するが得策じゃ。どうしたら、敵をその心にすることが出来るか、その方共の思案を聞きたい」
藤吉郎は陣所を出て来る時、竹中にこう言われた。
「このお召しは、どの陣所にも出ています。たぶん、どうすれば決戦の期を早めることが出来るか、それをお聞きになるのでござろうが、貴殿の工夫はいかが」
言われて、なるほど、そうであろうと思った。考えついたところを言った。
「この横山城をはげしく攻め立て、ぐずぐずしていれば城は落ちてしまうと、浅井父子に思わせることでござろうな」
半兵衛は微笑してうなずいた。
「でござろうな。浅井のおやじの方は柔弱《にゆうじやく》人でござる故、飽《あ》くまでも朝倉|左衛門督《さえもんのかみ》が大軍をひきいて来てくれるのを待つでござろうが、長政は猛将でござる。左衛門督の来るのを待って居すくみ、眼前わずかに二里のところにある味方の城をおとされたと世に沙汰《さた》されることにはたえられぬでござろう。つまりは、長政のこの心をかき立てることに帰着します」
「よろしい。わかり申した」
藤吉郎は大きくうなずいて、やって来たのであった。よくこそ、半兵衛を寄騎《よりき》にしたと、最も満足していた。もの静かで、うっそりとしているようでありながら、いつも人より数歩先のことを工夫している人がらが頼もしい至りであった。
信長の諮問《しもん》を聞いた時、今さらのように半兵衛の先見の鋭さに感心した。
「恐れながら」
と、発言した。
信長はきっと見た。人々の目も集まった。
「藤吉郎か。どう思うぞ」
藤吉郎は、今半兵衛から聞いて来た通りに言った。浅井父子の性格の差異から説きおこして、要は備前守《びぜんのかみ》殿の廉恥心《れんちしん》を刺戟《しげき》することにあるとのべ、つまりはこの横山城を最も猛烈に攻め立てて、城の危急を見せつけることに帰着すると結論した。
信長は大きくうなずいた。
「よう見た。おれもそう思う。それでは、皆々、明日は暁天《ぎようてん》から、ひとしおはげしく攻め立てるよう。小谷の方のおさえは徳川殿にしてもらう故、わいらは心おきなく、ただ攻め立てるのじゃ。よいか。わかったらば、皆々帰れ」
と、申し渡した。
翌日は早朝から、城を猛攻した。これまでのように見せかけばかり大袈裟《おおげさ》な攻撃ではなかった。城は落ちはしなかったが、ずいぶん弱った風であった。
日が暮れた。
大依《おおより》には今夜も赤々と篝火《かがりび》が焚《た》かれていた。昨晩にくらべると、火の色におちつきがないように見えた。強くなったり、弱くなったり、何かゆらめく感じであった。
『大日本戦史』によると、信長はこの篝火の様子を見て、あたかも陣中に来ていた柴田勝家と木下藤吉郎とに向って、
「うまく行ったわ。ありゃ敵が明朝おし寄せて来て戦おうと支度しとるのじゃ。裏をかいて、こちらからおしよせてやろうぞ」
と言い、戦いの部署を定めて、諸将に申しわたしたという。
その部署はこうであったとある。
第一隊 坂井政尚(兵およそ三千人)
第二隊 池田信輝(〃)
第三隊 木下秀吉(〃)
第四隊 柴田勝家(〃)
第五隊 森 可成《よしなり》(〃)
第六隊 佐久間信盛(〃)
本 隊 織田信長(およそ五千人)
総計 二万三千人
丹羽長秀(およそ三千人)
氏家直元(およそ千人)
安藤|範俊《のりとし》(およそ千人)
総計 五千人
徳川勢
第一隊 酒井忠次(およそ千人)
第二隊 小笠原長忠(〃)
第三隊 石川数正(〃)
本 隊 徳川家康(およそ二千人)
総計 五千人
遊 軍 稲葉一鉄(およそ千人)
午前三時頃から、行動をおこした。織田勢は横山城のおさえの隊だけをのこして、一旦竜ガ鼻に集まった後、姉川に沿って西北方に進み、川の方向なりに各隊斜めに段々に布陣《ふじん》した。本隊だけは列に加わらず、後方に正北に向って陣をとった。徳川勢は上阪村から正北に向って進み、川を前に三段に布陣し、その後方に本隊が陣取った。遊軍たる稲葉隊は織田本隊の左方、徳川本隊の後方に布陣した。
信長の見切りはたしかであった。横山城にたいする織田勢の猛攻ぶりを遠望した浅井長政は、
「左衛門督《さえもんのかみ》(義景)様のご来援は必ずあることではござろうが、それを待っている間にあの城が落ちては、浅井は左衛門督様のお出でばかりを待って何にもようせざった、ひっきょう臆病風《おくびようかぜ》に吹かれて、あったら家来共を見殺しにしたのじゃといわれることは必定でござる。ここはもう戦わねばならぬ時でござる」
と、朝倉|景健《かげたけ》に言って、出撃することにしたのであった。その編成はこうであった。
浅井勢
第一隊 磯野|員昌《かずまさ》(およそ千五百人)
第二隊 浅井|政澄《まさずみ》(およそ千人)
第三隊 阿閉《あべ》貞秀(〃)
第四隊 新庄直頼(〃)
本 隊 浅井長政(およそ三千五百人)
総計 およそ八千人
朝倉勢
第一隊 朝倉|景紀《かげのり》ら(およそ三千人)
第二隊 前波新八郎ら(〃)
本 隊 朝倉景健(およそ四千人)
総計 およそ一万人
北軍は南軍にややおくれて行動をおこしたので、途中まで行った時、斥候《せつこう》が馳《は》せかえって来て、南軍がすでに姉川の線まで出て布陣《ふじん》していることを報告した。そこで、相談の上、浅井勢は織田勢にむかい、朝倉勢は徳川勢にむこうことにして進み、姉川の線に出た。六月二十八日の払暁《ふつぎよう》、高い空の上では黎明《れいめい》の気を感じそめた星が性急にまたたきはじめていたが、下界はまだ暗かった。
戦闘は徳川勢からはじまった。徳川方の第一隊と第二隊とはさっと横にひらいて、全員が鬨《とき》をつくり、同時に弓銃手が、朝倉方に向って斉射《せいしや》した。姉川は江北《ごうほく》第一の大河ではあるが、川はばは五、六十メートル、深さは一メートル内外しかなく、川の北岸は高さ二メートルくらいの断崖になっていたという。当時の弓・鉄砲ではこれだけの距離があると、威力は大分減ずる。徳川方は挑戦の儀式としてこの攻撃をかけただけであった。
朝倉勢は前役《ぜんえき》のうらみもある。徳川勢をあなどってもいる。かっと激して、応戦に出たばかりか、岸の崖を飛びおり、川をおしわたって兵を進めて来た。勢い猛烈、しかも、五千と一万という兵力の懸絶《けんぜつ》がある。あたりかねて徳川勢は色めいた。ほのぼのと夜の白《しら》んで来る頃だ。
「それ! 敵はたじろぐぞ、この期《ご》をはずすな!」
朝倉勢は勇み立ち、益々進む。徳川勢は少し退いたが、第三隊の石川数正の隊が左翼に展開し、横槍《よこやり》気味に射撃して、やっとおし返した。
こうして、姉川を中にして、押しつ返しつ、いく度ももみあった。さすがは徳川勢だ。二倍の兵数の敵とわたり合って、苦戦はしながらも負け色は見せなかったのである。
一方、織田勢の方。
こちらは浅井勢の攻撃からはじまった。浅井の先陣磯野丹波|員昌《かずまさ》は、朝倉勢が合戦《かつせん》をはじめたのをはるかに望むと、
「朝倉勢ははるばると参られたお手伝い勢《ぜい》であるに、早はじめられたぞ。亭主がおくれてはすまぬこと。かかれ、かかれ!」
と、絶叫し、まっしぐらに川をわたって、攻めかけた。これがおそろしく強い上に、織田勢のこの日の斜陣《しやじん》式の布陣《ふじん》がよくなかった。うまく展開がきかない。忽《たちま》ち先陣の坂井|右近《うこん》の隊は乱れた。磯野方は右近の子久蔵をはじめとして百余人を討取《うちと》った。坂井隊は第二陣の池田隊になだれて、その陣を乱した。
「戦《いく》さは勝ったぞ! かかれ! かかれ!」
磯野の絶叫に、気力益々ふるって、池田隊に斬ってかかり、これまた切りくずした。次は木下隊だ。
「こらえよ、こらえよ! 大事な場ぞ!」
藤吉郎は馬を乗りめぐらし、必死なさけびを上げて、兵士らを励ました。
もし、この時、第四陣の柴田隊が側面に展開して、力を合わせてくれれば、防ぎ切れないことはなかったのであろうが、柴田はその策に出ない。斜《なな》めな陣形が展開に不便であったのかも知れない。あるいは他に思うところがあったのか。ぐずついているうちに、浅井勢がこの戦機に乗じた。本隊にあった浅井長政は、
「皆々かかれ! 総がかりだ!」
と、全軍を放って総攻撃に出た。懸命にこらえていた木下勢も、もういけない。あっという間もなくたたき破られた。
浅井勢は柴田勢を一蹴《いつしゆう》して破り、なお進んだ。信長の本陣まで、今や第五陣の森|可成《よしなり》隊がのこっているだけだ。
浅井方は益々気力が出た。森隊は最も苦しい戦いをしながら、やっとのことでささえた。今はもうこれも破られ、信長の運命もこれまでかと思われた。この危機がやっといくらかのびたのは、横山城おさえのためにのこされていた氏家卜全《うじいえぼくぜん》と安藤伊賀守とが馳《は》せつけて、敵の左翼に攻撃をかけたためであった。
この頃になると、日はもう高くなっている。炎暑のさなかである。おまけに足場は姉川と水田だ。このへんの水田は底は深泥土ではなく、浅い泥土の下は小石原になっているというから、比較的に跋渉《ばつしよう》しやすくはあろうが、それでも水田は水田だ。重い具足《ぐそく》をつけている両軍の兵は汗だらけ、泥だらけになってもみ合ったのだ。情景思うべきものがある。
織田勢が危機を脱した第二の転機は、徳川勢の奮闘であった。家康は織田勢の苦戦を遠望すると、部将らをはげしく叱咤激励《しつたげきれい》して戦わせると同時に、榊原康政《さかきばらやすまさ》を召《め》して、何ごとかを耳打ちした。
「かしこまりました」
榊原小平太康政、わずかに二十三の若武者だ。騎兵二百をひきいて、数町西方を迂回《うかい》して姉川を渡り、朝倉勢の横に出、どっとおめいて槍《やり》を入れた。
思わぬ横槍に、朝倉勢は色めいた。
家康はこの時わずかに二十九であったが、戦《いく》さには老熟している。
「今だぞ! この期《ご》をはずすな! 蹴散《けち》らせ! たたき破れ! 斬りこめ! 一歩も退くな!」
と、人々をはげました。
こういうところが、逆境に育って鍛錬されぬいた兵と、豊富な環境にぬくぬくと育った兵との違いであろう。倍する兵数を持ちながら、朝倉勢は次第に闘志を失って乱れ、徳川勢は気力益々ふるって来た。朝倉方の名ある勇士らが続々と討取《うちと》られた。真柄《まがら》十郎左衛門直隆とその子十蔵直基とは、北陸道《ほくりくどう》で先ず指を折られる勇士で、父は太郎|太刀《たち》とて五尺三寸、子は次郎太刀とて四尺三寸の、鉄棒を打ちひらめたような豪刀をふるって戦場に出、向うところ敵のなかった人々であるが、この時、父子ともに討取られてしまった。朝倉勢はついに敗れて、総くずれとなった。これを見て、浅井勢も色めいた。
浅井勢の色めくのを見て、信長は、この時まで自分の隊の左方に手つかずで待機させていた稲葉一鉄隊に使番を馳《は》せ、浅井勢に横槍を入れよと命じた。
一鉄は戦《いく》さ上手《じようず》だ。自分でも、横槍を入れるべき機会を待っていたのだ。猛然として起《た》ち上り、まっしぐらに浅井勢の側面に出て、火のような攻撃をかけた。同時に、信長は諸隊をはげまし、また旗本勢をはなって、総反撃に出た。浅井勢の動揺は蔽《おお》うべくもなかった。
ここで、家康がまた一手つかった。姉川の北岸を東進して、浅井勢の背後をとり切るしぐさを見せたのだ。
もういけない。浅井勢は益々動揺し、ついに潰走《かいそう》に移った。
竹中半兵衛の弟久作が奇功を立てたのは、この時であった。浅井方の勇士で遠藤喜左衛門尉|直経《なおつね》という者がいた。敗戦を無念とし、信長に近づいて討取ろうと心組み、冑《かぶと》をぬいで捨てて髪をふり乱し、ちぎれはぎれになった具足《ぐそく》をつけ、左手に首をひっさげ、右手に血刀《ちがたな》をつかんで、
「おん大将はいずくにおわすぞや。よき首とって候《そうろう》。見参《げんざん》に入ればや」
と、さけびながら、信長の陣中にまぎれ入り、信長の十間近くに迫った。この時、久作はまっしぐらに走りより、
「くせ者ぞ! わき目多く使うは、必定《ひつじよう》味方にはあるまじいぞ!」
と、呼びかけ、ひっくんでどうとたおれ、上へ下へと返してもみあった後、おさえつけて首をとった。
この久作は少年の頃なかなかの美少年で、女にもまごうばかりであったというが、成長するにつれて最も不敵な勇士となり、こんどの合戦《かつせん》にも、
「浅井方で第一の勇士は遠藤喜左衛門じゃ。おれは必ず遠藤が首をとる。余人《よじん》にはとらせぬ」
と公言していたが、果してこのように討取《うちと》ったので、人々が、
「剛《ごう》の者の志《こころざし》は恐ろしかりけることどもなり」
と言ったと、半兵衛の子竹中重門がその著『豊鑑《とよかがみ》』に記述している。
こうして、姉川合戦は大苦戦の末ではあったが、織田・徳川の勝利におわった。時に午後二時であったという。
南軍は北軍の逃げるのをそれぞれに追って、大依《おおより》山と虎姫《とらごぜ》山の近くまで行ったが、信長は深追いすることを危険がって、兵をおさめた。北軍の死者千七百余、南軍八百余というから、勝者にも犠牲の多かった合戦だったのである。
信長は竜ガ鼻に引きかえし、また横山城を攻めると、城内では助命してくれるなら、開城して小谷に引取るといった。信長は聞きとどけた。
信長は横山城を藤吉郎にあずけ、徳川家康をねぎらって帰国させた後、自分も小谷表《おだにおもて》を引取って佐和山城を攻めたが、よく守ってなかなか落ちない。そこで、城のまわりに鹿垣《ししがき》を結《ゆ》いめぐらし、番卒をつけ、城外との連絡を絶った上で、周囲の要地に向《むか》い城《じろ》をいくつもきずき、丹羽長秀をはじめとして数人をこめておいて、一旦《いつたん》京に上って将軍に戦状を報告した後、岐阜にかえった。
ここまでは、信長の事業も、途中浅井家の離反というような不祥事がありはしたものの、大体において順風に帆《ほ》を上げた勢いで進んで来たのだが、この以後しばらく厄難《やくなん》の期間に入る。
ことのはじまりはやはり江北《ごうほく》のこの合戦さわぎだ。浅井と朝倉とが手をくんでアンチ織田の挙《きよ》をおこし、信長が江北に兵を出すという情報が、四国の阿波《あわ》に聞こえると、三好《みよし》一党は、
「さてこそ、好機到来。浅井は猛将、朝倉は大家、あの尾張ものも今度こそは身のおわりであろうぞ」
と、ふるい立って、支度にかかった。
姉川の合戦は一日で片づき、朝倉勢は本国に逃げかえり、浅井勢は小谷城に蝸牛《かぎゆう》のようにこもってしまったのであるが、一旦取りかかったことは、情況がかわったからとて、急に中止には出来ないものだ、その上、新しい事態が最も隠密《おんみつ》のうちにはじまっていた。
人もあろうに、あんなに信長の世話になり、一時はあんなに信長に感謝していた将軍|義昭《よしあき》が、信長の存在をがまんならない圧迫として憎み立て、ひそかに糸を引いて、アンチ織田勢力の結集をはかりはじめたのである。
三好党は姉川合戦の結果にかまわず、準備を進め、鳴門《なると》の渦潮《うずしお》をおしわたって摂津《せつつ》に入った。姉川合戦からちょうど一月目、七月二十七日のことであった。
摂津に入ると、三手にわかれて陣取った。一軍は天満《てんま》の森、一軍は野田、一軍は福島、それぞれに砦《とりで》をきずいて、用心|堅固《けんご》にかまえた。総勢では一万余あった。
これに大坂本願寺が助勢を約束した。本願寺の当時の門主光佐《もんずみつすけ》の子|光寿《みつとし》と朝倉義景の女《むすめ》とは婚約のなかであったから、当然アンチ織田となるべきであったが、その上義昭の手が動いていたことは言うまでもない。
「なまいきなる三好の残党め! なまいきなるなまぐさ坊主《ぼうず》共め!」
信長は三万の兵をひきいて、早速に出陣した。信長は義昭の陰謀を知っている。はっきりとは知らんが、何やらキナ臭《くさ》いものをかぎつけている。義昭を京にのこしておいては、兵を募《つの》るなどということをするかも知れないと、不安でもあり、また、連れて行けば敵の心を動揺させる効果もあろうかと思って、義昭を奉じて、摂津に向った。
数日激戦がくり返されたが、四国勢も、本願寺勢も、おそろしく強い。織田勢は引くにも引けず、最も困難な状態におちいった。
横山城を守っていた藤吉郎と竹中半兵衛は、はるかにこのことを聞いて心をなやました。このような形勢がつづく以上、敵方がすくんでいるはずはない、必ず何か積極的な出ようをするはずと、警戒していると、果せるかな、両者の連絡がひんぱんになったかと思うと、九月半ばにわかに動き出した。朝倉勢二万が若狭《わかさ》に出、琵琶湖の北岸を通って西岸を南下しはじめたかと思うと、浅井勢八千が湖水を横断して西に向い、堅田《かただ》を中心として、北は八屋戸《はちやど》、和迩《わに》、南は比叡《ひえい》の辻《つじ》のあたりで両軍|合《がつ》して陣取って、信長の弟織田|信治《のぶはる》と森|可成《よしなり》の守っている宇佐山城を攻めて両人を討取《うちと》ったのを手はじめとして、しきりに周辺に兵を出し、大津の町を焼き、さらに兵を山科野《やましなの》に進めて、山科を焼き、ついには醍醐《だいご》のあたりまで焼きはらうに至った。
藤吉郎はもちろん、これらのことはその時々に急使を走らせて信長に報告したが、浅井勢の出て行くのをせきとめようとはしなかった。怒濤《どとう》の激する勢いで出て行くのを、わずかに三千くらいの兵で、どう出来るものではなかった。しかし、長政の出て行ったあとは、おりおり兵を出して、浅井領内をあらしたり、小谷城の周辺をおびやかしたりした。浅井・朝倉の不覚は、京と東山一重の山科野まで来てこれを全面占領しながら、京に攻めこまなかったことである。とかく、手ぬるいのである。もちろん、これは信長の幸運である。
信長は両家の勢《せい》が山科と醍醐とを焼いて、不日《ふじつ》に京に攻め入ると声言《せいげん》しているという報告を、九月二十二日の夜、受取った。もう一刻も猶予《ゆうよ》出来ない。翌日、柴田勝家と和田|惟政《これまさ》を殿軍《でんぐん》として、引き上げにかかり、昼夜兼行して京に引きかえし、二十四日には琵琶湖西岸の下《しも》坂本についた。
信長はしきりに戦《たたか》いを挑《いど》みかけたが、北国《ほつこく》勢は相手にならない。比叡山を本陣として、まわりの山々に砦《とりで》をこしらえかたく守って、出て戦おうとしない。長期戦に持ちこむつもりなのである。
比叡山の坊さんらも、朝倉家とは以前からなかがよいので、兵糧《ひようろう》、武器、兵員に至るまで援助する。また江州の一向宗《いつこうしゆう》門徒は本願寺の指示によって堅田《かただ》に結集して、北国勢の武器、兵糧、兵員の輸送等の任務に服しはじめた。この連中は湖岸の漁民が多かった。
ずっと古い時代から明治のはじめに至るまで、琵琶湖は北陸や北海道や山陰地方から京阪地方への最も重要な物資輸送ルートであった。これらの地方から来る船は若狭湾に入って、敦賀《つるが》に物資を上げる。上げられた物資はせまい地峡を琵琶湖に出、そこから船にのせられて、大津、坂本、近江八幡《おうみはちまん》等に運ばれるのであった。戦国の時代、こんな豊富な輸送ルートは、湖畔《こはん》の漁民らにとっては宝の山と同じだ。普通の農民が好餌《こうじ》を見ては直ちに盗賊と化して掠奪《りやくだつ》したように、湖畔の漁民らも警戒少ない運漕船《うんそうせん》を見ると、即座に襲撃した。これを湖賊《こぞく》といって、江州の名物になっていた。
本願寺の命令で堅田に集まっていた連中には、この湖賊が多かった。湖水を利用する織田方の輸送や連絡は、しばしばおびやかされた。
信長はあぐねて、比叡山に北国勢との約束を破棄して自分に味方してもらいたい、それが出来ないなら、中立を守っていただきたい、必ず大いに報《むく》いる、しからずんば、山を焼きはらうぞ、と申し入れて、おどしたり、すかしたりしたが、比叡山側では何の返答もせず、北国勢への援助をつづけた。
「クソ坊主《ぼうず》め! どうするか見ておれ!」
と、信長は歯がみしたが、どうにも出来ない。
そのうち、信長の領内で、本願寺門徒が一揆《いつき》をおこした。もちろん、本願寺の指令によるのだ。この一揆の中心になったのは伊勢の長島の門徒らであった。長島は木曾川と揖斐《いび》川のつくるデルタで、周囲七、八里もあり、全島本願寺門徒で、本願寺領の観のある島であった。ここの門徒らが近くの島々|在々《ざいざい》を襲撃しては、代官を殺し、租税を横領した。信長の弟の信興《のぶおき》を、木曾川の左岸で長島とむかい合っている小木江《おぎえ》(今の弥富《やとみ》の鯏浦《うぐいうら》)城に攻めて、攻め殺したのも、この時である。北伊勢地方の奉行である滝川一益はもちろん大いに一揆討平《いつきとうへい》に努力したが、あまり効果は上らない。
摂津《せつつ》方面も、またかたづかない。
この八方ふさがりの情勢を見て、六角|承禎《じようてい》はまた江州に舞いもどって来て、旧臣や農民らを煽動《せんどう》して一揆をおこさせた。これが江州内の本願寺門徒としめし合わせて至るところに蜂起し、なかなかの勢いとなって、手のつけようもない有様だ。
すると、若狭で旧領主武田氏の遺臣である武藤某という者が起ち上って、織田方に服属している城々を攻めおとし、なかなかの勢いとなり、はるかに大坂本願寺に呼応するようになった。
八方ふさがりどころか、九方も十方もふさがったのだ。さすがの信長も、色にこそ出さなかったが、くったくした。しかし、
「なんとしても、足もとの江州を掃き清めることが先決だ」
と、心にきめると、丹羽長秀、木下藤吉郎をはじめとして、江州の諸城を守らせていた諸将を督励《とくれい》して、それぞれの周辺の一揆共をしらみつぶしに退治《たいじ》させると同時に、徳川家康に頼んで、石川|伯耆《ほうき》、松平忠次らに三千の兵をひきいて来てもらい、六角承禎が本拠としている甲賀を攻めさせた。うまく行った。十一月に入ると、一揆はすっかり静まり、その二十四日には六角承禎は降伏し、宇佐山に来て信長にお目見《めみ》えした。
しかし、この直後、また凶事がおこった。坂井|右近《うこん》が一千の兵をひきいて、堅田《かただ》の敵営を襲い、占領したのであるが、その翌日には北軍の逆襲にあって、戦死したのである。これは二十六日のことである。坂井氏は姉川合戦で子の久蔵が十六歳で戦死し、半年立たずして父の右近も戦死したのである。
この年の十一月末日は、今の暦では一月五日だ。窮陰《きゆういん》の季節だ。近江は寒国だ。湖水をわたって来る風は身を切るようだ。士卒の元気は日に日におとろえた。
ついに信長は明智光秀に耳うちして、義昭将軍に口説《くど》かせ、仲裁に立たせた。義昭としては、自分が糸を引いてここまで信長を追いつめたのだから、気は進まなかったが、明智から説かれてみると、ことわるわけに行かない。朝廷を動かし、綸旨《りんじ》を下してもらって、和議をまとめあげた。
こうして一旦《いつたん》和議はなったが、浅井と朝倉と大坂本願寺とが、信長の大きな患《わずら》いである点にかわりはない。義昭将軍の陰謀《いんぼう》もまたしくしくとつづけられている。
しかし、江州内の形勢は大いにかわった。この前の戦《いく》さで、浅井・朝倉の両家とも、当主が大軍をひきいてわざわざ西江州まで出て京都のつい間近くまで迫りながら、信長が引返して来たのを見ると、決戦を避けてぐずぐずと数か月を空費した態度の怯懦《きようだ》さを見て、江州の豪族らの心ががらりとかわったのだ。
「とうてい頼みにならぬわ」
と言って、続々と信長に帰服した。佐和山の磯野丹波守までそうであった。
秀吉がまたこういう調略《ちようりやく》にはすぐれた手腕を持っている。小谷《おだに》城のつい目と鼻の宮部城の宮部善祥房さえ説きおとされて帰服したほどだ。宮部善祥房は、元来は比叡山の僧兵で、比叡山領の代官をつとめていたのを、その将略にほれこんだ浅井長政に招かれてその将となっていたのであった。
こんな調子で、南江州と西江州は完全に信長の勢力圏になったので、信長は改めて家臣らに土地を分与したが、明智光秀も坂本城主とされ、付近十万石を知行《ちぎよう》としてあたえられた。
北江州も、姉川の線までは確実に藤吉郎がおさえ、そこから北も、宮部村のように帰服したのもあるので、浅井家の領地は大いにちぢこまったわけであった。
この元亀二年の八月には、信長はまた大軍を発して小谷を攻め、散々に付近をあらした。
翌月は比叡山を焼討《やきう》ちして、堂塔《どうとう》・伽藍《がらん》すべて一炬《いつきよ》の煙とし、僧徒三千を屠殺《とさつ》した。昨年のうらみに報《むく》いたのである。
翌元亀三年の三月には、信長はまた小谷城におしよせ、村々を焼きはらい、小谷城周辺の虎姫《とらごぜ》山の砦《とりで》、それに隣《とな》る八相《はつそう》山の砦、宮部城等を堅固に修築して、兵をこめた上、さらに兵を出して、遠く琵琶湖北端の木之本《きのもと》、余呉《よご》、塩津《しおづ》、海津《かいづ》のへんまで焼きはらったので、小谷城は孤立の状態になった。虎姫山の砦は、藤吉郎にあずけられた。
浅井長政はたまりかねて、また朝倉家に助勢をもとめたが、れいによって朝倉氏は煮え切らない。
「承知した」
と言いながら、なかなか出兵しなかったが、しばらくすると、甲斐の武田信玄から、両家に連絡があった。
「自分は公方家《くぼうけ》のご依頼をつつしんで、信長退治のため、近く本国を立ち出で、遠州に出、信長|与力《よりき》の者共を討平《とうへい》しながら、東海道をとって上洛《じようらく》することに決定した。貴殿方は数年来信長を敵としてい給《たま》うことなれば、立って背後より信長を襲い、自分に力を添《そ》えていただきたい」
という口上《こうじよう》だ。
浅井も朝倉も大いによろこんだ。朝倉はようやく腰を上げて、二万の兵をひきいて江州に出て、小谷山(大嶽《おおずく》)を本陣としたが、戦闘にはあまり積極的ではなかった。時々は兵を出して宮部城を攻めたりしたが、要するに小ゼリ合いの程度で、小谷山の防塁を堅固にして、防守することに主力を注いだ。
この時の朝倉義景の態度を見ると、その量見のほどがさらにわからない。ひたすらに防守の策に出て、信長と決戦することを避《さ》けたのは、到底勝味がないから、やがて信玄が出て来て、信長が防守にあたふたとなったところを衝《つ》こうと考えたのかと思うと、十一月半ば信玄が甲府を出発して遠州に出たという知らせを受けて信長が大急ぎで岐阜に引きかえしたのを見ると、これから正念場《しようねんば》がはじまるはずであるのに、義景は十二月三日、越前に帰ってしまったのだ。寒中の山上の滞陣に疲れたとしか思いようがない。
遠州に出た武田信玄は、三方《みかた》ガ原の一戦で、徳川・織田の連合軍を撃破して西に向ったが、年が明けて正月半ばからかかった三州《さんしゆう》野田城の攻囲戦中、病気になり、夏四月十二日、五十三を一期《いちご》として死んだ。
信玄の死は秘密にされていたので、信長は安心出来ない。岐阜城にいたまま形勢を按《あん》じていると、七月、義昭将軍は信長|討伐《とうばつ》をはっきりと声言して、宇治の槙島《まきのしま》城に入り、四方に兵をつのった。
信長はれいによって、最もすばやく大軍をひきいて上洛《じようらく》、二条の御所を乗っ取り、そのまま宇治に向い、一、二時間のうちに槙島城を攻めおとしてしまった。
信長は義昭に切腹させるつもりでいたが、藤吉郎は信長の前に出て、
「そうしては、殿様は主殺《しゆうごろ》しの悪名を着給うて、世間の人が服しなくなりましょう。ご助命なさいますように」
と諫《いさ》めて、許しを得、自ら河内の若江《わかえ》の三好義継《みよしよしつぐ》の居城へ送りとどけてやったと伝えられている。
災難は一人づれでは来ないという諺《ことわざ》があるが、好運もまた一人づれでは来ないもののようである。不運な時は次から次へといくつも重なって不幸が来るが、ある日ひょっこりと好運がおとずれると、これまた次から次へとつづいて来る。運命の転機といわれるやつだ。腹心《ふくしん》の病《やまい》ともいうべき義昭将軍を追放することの出来たのは、信長の運命の転機になった。間もなく、武田信玄の死の確報が入ったのだ。
「よし!」
信長が浅井・朝倉の処理を考えている時、藤吉郎の許《もと》から使が来た。山本山の城主|阿閉淡路守《あべあわじのかみ》を説《と》きつけて降参を承知させたとて、阿閉の家老を伴っていた。山本山は余呉《よご》川の河口に近い山で、虎姫《とらごぜ》山西方五キロほどにある。
信長の運命の好転は、今は疑うべくもない。その夜、得意の一騎がけで岐阜を出発して、小谷《おだに》の北方山田山に本陣をかまえた。朝倉勢の来路を絶ち切ったのである。
朝倉義景は櫛《くし》の歯を引くような浅井家の報《し》らせを受け、重い腰を上げて、二万余の兵をひきいて木之本まで出て来て、先鋒《せんぽう》をその二キロほど南の田部まで出し、賤《しず》ガ岳《たけ》をはじめ付近の砦《とりで》の守備を増強した。ところが、その砦の守将らにして織田方に降伏したものがあり、引きつづいて二塁が陥落《かんらく》した。臆病風《おくびようかぜ》はさっと義景の下腹を吹いた。その夜、すなわち八月十三日、夜にまぎれて国許に引きとることにきめた。
信長にはこんな時の敵の心理は手にとるようにわかる。
「敵は大方今夜中に当表《とうおもて》を引取るであろう。先手《さきて》の者共、油断なく見張って、追撃せよ」
と、ふれ出した。
おりから、その夜は風雨となった。信長はその中を一心に目をこらして敵の方を見ていたが、子《ね》ノ刻《こく》頃になって、敵の陣所陣所に火の手が上った。この火の手は朝倉勢がその陣所に火をかけたのであった。
「それ! 敵は逃げるぞ!」
信長は貝を吹き立てさせ、太鼓を打たせ、真先《まつさき》かけて追撃に出た。
こうして、逃ぐるを追うて、越前に入り、義景を追いつめ、切腹させ、朝倉家をほろぼして、江州《ごうしゆう》に引きかえすや、小谷城を攻めつけて、浅井父子を切腹させた。
長政の妻お市にはこの時、三人の娘《むすめ》があった。長は言うまでもなくお茶々だ。この時七つであった。次はお初、これは一昨年生まれたから三つだ。次はお督《ごう》、これは今年生まれた。
長政は切腹に先立って、お市を呼んで、
「ごへんは上総介《かずさのすけ》殿のまさしき妹ご、また三人は女の子供なれば、上総介殿にも不安はあるまじ。城を出て助かり、子供を育てたまえ」
と言って、藤掛|三河守《みかわのかみ》という者と木村小四郎という者とをつけて、城を出した。それは九月二十八日の夜のことであった。
藤吉郎はこのことを聞くや、馬に飛びのって、信長の本陣に急いだ。
しかし、藤吉郎のついた時には、お市母子は本陣の奥深くに入っていて、姿を垣間《かいま》見ることも出来なかった。
心をのこして帰って、翌朝また行ったが、もう母子は馬にのせられて岐阜にむかって出発するところであった。先頭に七つのお茶々が、次に乳母《うば》に抱かれたお初が、その次にまた乳母に抱かれたお督《ごう》が、最後にお市が眉深《まぶか》く被衣《かつぎ》をかぶって、秋の朝風の吹く中を、馬に揺られて行った。
肩で切りそろえたお茶々の振分髪《ふりわけがみ》やふっくらとした童顔をもちろん可憐《かれん》と思いはしたが、十余年の後この童女を異性として寵愛《ちようあい》する運命になろうとは、もちろん考えない。お市の伏せたまつ毛や、瓜実《うりざね》なりの青白い顔の細いあぎとが、いつまでも心にからんで、胸がせつなかった。
間もなく、信長も小谷を去って岐阜にかえったが、その時、藤吉郎に浅井家の所領中十八万石を、小谷城とともに下賜《かし》した。
藤吉郎は感謝して受けた後、恐れながらお願い申したきことがございますと言った。
「何じゃ、言うて見よ」
「北江州六郡の領主は元来は佐々木京極家でございましたが、戦国|乱離《らんり》の世となって、家臣らにその所領を削り取られ、最後にのこる地も浅井家に奪われ、微禄《びろく》しきって、浅井家の客分として、わずかに家名だけをのこしていました。しかし、もともと当国の主なのでございます故、その家の血を伝える高次・高知兄弟をお召出《めしいだ》しあって、小知《しようち》なりとも賜《たま》わりましょうなら、国人《くにびと》らは本を正し給うご正心《せいしん》とご仁慈のほどを感じ、よく治まるようになるのではないかと存じます。二人に賜わる知行《ちぎよう》は拙者《せつしや》が唯今《ただいま》たまわりました知行中から六万石を割《さ》き、三万石ずつおあてがいたまわらば、ありがたき至りに存じ上げます」
信長は、諾否の返事はせず、問い返した。
「洒落《しやれ》たことを申すが、誰の知恵か」
「竹中半兵衛が言いだしたことでございます。しかしながら、拙者が同意し、こうしてお願い申し上げます以上、拙者の知恵となっているのでございます」
信長は声を立てて笑った。
「いかさま、その通りじゃわ。よし、聞きとどけて取らす」
秀吉は京極兄弟に三万石ずつを割《さ》きあたえた。兄弟は秀吉の家来になったわけではなく、信長の家来で、秀吉の寄騎《よりき》となったのであった。もっとも、兄弟ともにまだ子供である。高次十一歳、高知はやっと二つであった。後のことになるが、近江《おうみ》人らは信長と秀吉のこの情のある処置に感じ入って、江北《ごうほく》地方はよく治まったという。
信長は浅井家の滅亡以前に降伏した浅井の被官《ひかん》や旧臣らにもそれぞれに本領を安堵《あんど》したり、新知《しんち》をくれたりしたが、磯野|丹波守《たんばのかみ》もその一人であった。磯野の居城佐和山は要地であるからとり上げて、丹羽長秀にあたえ、磯野には西近江の高島郡内の新庄城を、付近六万石の土地とともにあたえた。
丹波守はかつて信長を千草越えで狙撃《そげき》した杉谷の善住坊が比叡山が信長に滅ぼされた後、高島郡内に来て潜伏していると聞くと、きびしく探索してからめとり、信長につき出した。信長は引き出して、自ら尋問した。
「われはおれを鉄砲で狙《ねら》い撃《う》ったが、いかなる子細《しさい》でじゃ」
「佐々木六角|承禎《じようてい》殿に頼まれ申しました。六角殿はそなた様に国をうばわれたうらみのあるお人でござる」
正当な理由あっての狙撃であると、善住坊は主張したわけである。
信長は声を立てて笑った。
「誰に頼まれようと、おれを殺そうとしたに相違はないわ。この坊主を首だけ出して地に埋め、竹鋸《たけのこぎり》で七日かかって首引いて殺せ」
と、判決を言いわたし、その通りにした。
以上、いろいろなことを処置して、信長は岐阜にかえった。
その後、秀吉は領内をくわしく検分して、城を今浜に移そうと思い立った。第一の理由は小谷《おだに》城が山中にあって冬の寒気がしのぎがたく、健康上にもよくないこと、第二の理由は城というものの機能が昔とかわって来たことだ。
昔は城は純粋に戦闘用のためのものであったから、守るに易《やす》く、攻めるに難《かた》く営《いとな》みさえすれば、どんなへんぴな山中でもよかったのだが、戦争の様相が複雑となった今日では、もっと広い目で考えなければならない。すなわち、城はその地方の経済の中心にもならなければ、領主は富を集めることが出来ず、従って巧みな戦争も出来ないのである。
秀吉はこれを織田信長の岐阜城の経営においてまざまざと見た、斎藤氏時代の岐阜城は単に堅固一方の戦闘城であったが、信長は稲葉山の麓《ふもと》に繁華《はんか》な城下町を営み、木曾川と長良《ながら》川をさらって大いに水運の途をひらき、最も繁華する商業都市に仕上げたのである。
「よっしゃ、おれも真似《まね》してこますぞ」
と、領内を調べて小谷の正西方にあたる湖畔《こはん》の漁村、今浜に白羽《しらは》の矢を立て、信長の許しを得た。今浜は漁村にすぎないが、北国街道に沿っていて陸路の交通も便利であり、湖水を利用して水運の便もある。経済的には申し分がない。その上、古城がある。これを利用し、湖水に面して築けば要害もすぐれている。
建物は小谷城のものを移したり、新築したりした。数か月の後、翌年の陽春の頃には、もう大体完成した。
完成すると、秀吉は土地の名を長浜と改め、城の名を長浜城とした。長久に栄えよとの縁起を祝ったのである。
ちょうどその頃のある日、四十五、六の女と十五、六の少年とが旅姿で、長浜城に、秀吉の母を訪ねて来た。
女は秀吉の母のいとこ、少年は女がもと美濃《みの》の斎藤家の浪人《ろうにん》加藤清忠に嫁して生んだ者で、名を虎之助と言った。
秀吉が大身の大名となったと聞いて、尾張の中村から頼って出て来たのだという。
「お虎は十五になったのじゃという。見ての通りおとなも恥かしいほどにりっぱな体格じゃ。召しつこうてやって下され。わしからも頼みます」
と、秀吉の母は言った。
「ようござるとも、引受けました。何もかもわしにまかせなされ」
秀吉は大いにうれしい。譜代《ふだい》の家臣などかけらほどもない彼には、肉親ほど頼りになる者はないのである。この体格、この凜々《りり》しい顔つき、りっぱなさむらいになるであろうと、頼もしいのである。
数日後、もう天正元年もおしつまっていたが、元服させて、「清正」と名のらせた。
血の南無阿弥陀仏
虎之助を元服《げんぷく》させて清正と名のらせると共に、秀吉は百七十石の知行をあたえた。
しばらくして、年が明けて間もなくのことであった。虎之助が手柄を立てた。足軽《あしがる》が正月酒に食らい酔って狂乱し、人を斬り、家《や》ごもりものとなって、長浜中のさわぎとなった時、ただ一人その家に踏みこみ、たたきおこして捕縛《ほばく》したのである。
秀吉はうれしくてならない。
「あっぱれ働き! 年若き身であるだけに、ひとしお殊勝に思うぞ。以後もおこたらず励んで、よいさむらいになるように心がけよ」
と激賞して、二百石の加増をくれた。
十六という若さで三百七十石だ。自分がその年の頃に、血の汗をしぼってつとめてもつとめても、毛筋ほども報いられなかったことも考えられて、無量の思いがあった。しかし、少しもおしいとは思わなかった。血のつづいたなかや、年が長《た》ければ大禄《たいろく》をくれて股肱《ここう》の重臣とせなならんお虎や、少しでも目立つ手がらがあれば、大いに取立て、貫禄つけといてやることが必要なんやと、思っているのであった。
その頃、秀吉は母の姉が尾州海東郡の二つ寺村に縁づいていたことを思い出して、ある日、母にむかって問うた。
「おふくろ様の姉様――つまり、わしがためには伯母《おば》ごでござるが、海東郡の二つ寺村に縁づいている人がありましたな」
「おお、おお、あったぞえ。あったぞえ。わしが一つ上の姉様のユキノというが、二つ寺村の与左衛門殿いうのに縁づかれた」
「その与左衛門というのは、今は関東に行って、武家奉公していると聞いたことがありますが、そうですかや」
「その通りや。姉様が嫁《ゆ》かれた頃は、百姓片手間に桶屋《おけや》をしてござったのやがのう。姉様との間に仰山《ぎようさん》子供が生まれての、大方六、七人も生まれたろうが、女の子ばかりやった。もっとも、皆抱き子のうちに死んでしもうた。弱い子ばかりやった。けど、そのはてに、男の子が生まれた。市松という名やったが、まことに丈夫な、よい子でのう。すくすくと育って行くのを見て、与左衛門殿は、この子を百姓や桶屋にするはふびんや。おれ武家奉公して士《さむらい》になろう、そしたら、この子も士になれる≠「うて、家をたたんで、姉さんと市松を連れて、関東の方に行かんした。その時はじめて聞いたことやったが、与左衛門殿の家はもともとは遠州の武家であったが、本家がほろんだので、牢人《ろうにん》して尾州《びしゆう》に来て、百姓になっていなさったのじゃそうな。関東に行きなさるについても、本家の当主が小田原の北条家につかえてなかなかの羽ぶりになっていなさるというので、それを頼ってということやったわの」
もともと、秀吉がこんなことを母に聞いたのは、その与左衛門なり、市松なりを、呼べるものなら呼びよせたいと思ったからであった。
「与左衛門の名字は何といいましたかの。その遠州にいた頃の名字ですねん」
「さアてのう、何ちゅうたかのう、――フク、フク――シマ。そや、フクシマいうたわの」
「福島? 福島ですかいな」
秀吉の声ははずみ上った。若い時、遠州浜名で数年間松下家に奉公していたことのある秀吉は、遠州の豪族らのことについて、かなりくわしい知識がある。
遠州の福島家といえば、小笠《おがさ》郡の土方郷《ひじかたごう》の領主だった家だ。土方郷は遠州で第一の堅城《けんじよう》で、武田信玄すら攻めあぐんだといわれる高天神城の東麓《とうろく》にある。行ったことはないから知らないが、いずれはそのへんに居城はあったのであろう。武勇すぐれた、なかなかの名家であった。この家がほろんだのは、百年も前のことだ。今川家のお家騒動《いえそうどう》の飛ばっちりでほろんだのである。
その福島家の今の当主が北条氏につかえて羽ぶりがよいとのことだが、北条の家中で福島というのは聞いたことがない。羽ぶりがよいというほどのことはないのであろうと思った。誘《さそ》いの便《たよ》りをやるにも、福島家家中では心もとない。もう少しはっきりするまで打ちすてておくよりほかはないと思った。
正月下旬になって間もなくのことであった。意外な報告が越前からとどいた。越前の国に兵乱がおこったというのである。
去年朝倉氏をほろぼした時、信長は朝倉の一族や遺臣や被官《ひかん》らで、降伏した者には最も寛大な処置をとり、大方はその本領を安堵《あんど》し、越前全体の取締りをすべき守護代《しゆごだい》にも朝倉の遺臣を任命し、監督役として明智十兵衛、木下助左衛門、津田九郎次郎の三人を奉行として北ノ庄に駐在させたのであった。
何ごとも徹底せずばやまない信長としては、これは最も異例なことであったが、この時は不徹底な撫《な》でつけでおかなければならない事情があったのだ。第一は急遽《きゆうきよ》兵をかえして小谷城を攻めて浅井氏を滅ぼさなければならなかった。第二は長島の一向一揆《いつこういつき》が心配であった。時間と手間をかけてはおられなかったのである。
だから、さわぎのおこることは予想されていたことであったが、おこってみると、やはりこれは大へんなことであった。
秀吉は探索方の者を多数越前に送りこむとともに、兵を国境地帯にくり出して、万一にそなえた。
美濃の岩手山城に連絡すると、半兵衛は両三日して出て来たが、数名の従者を連れただけの、至って身軽な出立《しゆつたつ》であった。少しおもしろくなく思っていると、半兵衛は言った。
「このさわぎは、織田家にたいする不平や叛逆《はんぎやく》心からおこったものではござらん。朝倉家の遺臣や被官らの勢力争いからおこり立ったものでござるから、大したことにはならぬはずでござる」
「それはまあそうも言えるが、とかく世の中のことは、火の手がひろがれば思わぬところに飛び火するものです。最初は国侍《くにざむらい》同士だけの喧嘩《けんか》でも、勢いが募《つの》ってくると、それだけではおさまらなくなるということも考えておかねばなりませんぞ」
「仰せまでもござらん。しかし、三奉行中には明智十兵衛という人がいます。拙者《せつしや》は明智殿の智謀《ちぼう》を買っていますよ」
「なるほど」
とはいったが、秀吉は安心しきれない。明智が智謀の士であることに異論はないが、秀吉の見るところでは、明智には応変《おうへん》の才《さい》が乏《とぼ》しい。まともすぎるのである。情勢がいきなり思わぬ変化をした時は、度を失いはしないかと不安なのである。
半兵衛は薄く笑った。
「いや、安心なさってよろしい。拙者はすでに岐阜に拙者の意見を申しおくってまいりました。すなわち、越前の三奉行はいずれも小身代《こしんだい》で、手勢も少ない人々でござる、はかばかしき戦いは出来はいたさぬ、無理をして気張《きば》ってみても小敵の剛《かた》きは大敵のとりこ、しょせんはたたき破られて、敵に気勢をそえるだけでござる、かくてはかえってあとをやりにくくするだけのことなれば、巧みに話をつけて無事に引き上げて来るよう、とくべつにお使をもって、仰せつけられるがよろしいと存ずる、その使には隣国のことなれば、木下藤吉郎殿こそ最もよろしかろうと」
いきなり自分の名が出て来たので、秀吉は、
「ほう、さようか」
と、目をまるくし、ついにからからと笑い出した。
「アハハ、アハハ、これはまたすばやいことじゃわ。さようか。それでは、お使者が一両日のうちにまいりますな」
「そうなりましょう」
それで、話は越前のことからそれて、よもやま話になったが、その話の間に、ふと思いついて、秀吉はたずねた。
「貴殿はもの知りでござるが、小田原北条氏の家中で福島という者のあることをお知りではないか、あの家中では相当羽ぶりのよい者ということでござる」
「福島?」
半兵衛は色白な顔をかたむけて、ちょっと考えていたが、
「もと遠州|土方《ひじかた》の城主で、今川家の家臣であった福島でござるか」
と、問い返した。
「その通り。ごぞんじか」
「その福島ならば、話に聞いています。唯今《ただいま》では福島とは名のっていません」
と言っておいて、半兵衛はまるで違うことを語り出した。
「昔、今川家にお家騒動があったことはご存じでござろうか。田楽狭間《でんがくはざま》で戦死した義元の祖父は義忠と申すが、この人は遠州の地士《じざむらい》らの一揆《いつき》を征伐《せいばつ》に行っての帰途、浜名郡|白須賀《しらすが》近くの塩見坂にさしかかった時、一揆勢に襲撃されて、討死しました。義忠には竜王丸という子供がいましたが、当時やっと八つという幼さでござったので、よくあることで、家督争いがおこりました。一派は多く重臣らで竜王丸を立てようとしました。一派は一門の人々が多く、この戦国の世に幼君では心もとなし、先君のいとこ範満《のりみつ》殿は、血も近し、年も相当なり、武勇にたけたれば、これを仰ごうと主張しました。すったもんだで、ずいぶんもみ合いました。
これがおさまりがついて、竜王丸派が勝ったのが、北条早雲《ほうじようそううん》――当時の名は伊勢新九郎長氏の働きであったことは、ご存じでありましょうな。長氏は竜王丸の生母、北川殿の実兄で、この頃伊勢から駿河《するが》に下って来たのでありました。竜王丸、これは成人の後|氏親《うじちか》となる。すなわち、治部大輔義元《じぶのたいふよしもと》の父親でござる。
このさわぎに、当時の福島家の当主正成というは、重臣の一人であるのに、同僚に引きわかれて範満《のりみつ》派でありましたので、こうなると工合の悪いことになりました。土方をとり上げられ、かわりに駿東《すんとう》郡にわずかばかりの土地をあたえられ、蟄居《ちつきよ》同然の身の上となってしまったのでござる。
駿東郡というは、富士山の東の斜面と箱根との間の地域で、いわば谷間のようなところであるとか。正成はこの谷間に数十年の間|蟄伏《ちつぷく》していましたが、鬱々《うつうつ》たる思いにたえられなかったのでござろう、あたかも甲斐の武田信虎が暴悪な政治《しおき》して、家来共の心も領民の心も離れているとさぐり知ると、甲州に攻めこみました。なかなかの勢いで、甲府の飯田|河原《かわら》まで攻めこんだところ、信虎は恐れて戦わず、城にこもったままであること六十余日であったと伝えます。しかし、その六十余日目に大合戦があって、福島方敗戦、正成は討死してしまいました。この戦争の直後に生まれたのが信玄で、それ故に勝千代と幼名をつけたということでござる。
正成が戦死した時、正成には七つになる男の子がいました。今川家としては、福島家には好意を持っていないのでござるから、正成が死んで、後継《あとつ》ぎがこんなに幼くては、あとを立ておくはずがござらぬ。家は断絶となりました。福島家の家臣らはやむなく、幼主を抱いて、小田原に来て、北条氏に泣きつきました。
その頃、北条氏は初代早雲が死んで二年目で、二代氏綱の時でありましたが、早雲の死ぬ前年に大敵であった三浦半島の三浦|道寸《どうすん》を滅ぼして、相模《さがみ》・伊豆《いず》両国を完全に自分のものとして、日の出の勢いでありました。
福島は今川家のお家騒動の際、早雲のひいきした竜王丸派ではなかったのでありますから、北条氏にとっては敵派であったわけでござるが、それは四十いく年前のこと、しかも、当主氏綱の生まれる十数年前のこと、恩怨《おんえん》ふたつながら空《むな》しい道理、氏綱は幼い遺孤《いこ》をあわれんで、小姓《こしよう》として召しつかうことにしました。
この小姓が、次第に生い立ちますとなかなかの器量もの、武勇|絶倫《ぜつりん》というあんばい。氏綱はついに女《むすめ》の婿《むこ》にし、北条の名字をあたえて、家門に列したのです。すなわち、北条|左衛門《さえもん》大夫《だゆう》綱成と申すがこれであります」
ここまで聞くと、秀吉にもわかった。
「やあ、小田原の一族で黄八幡《きはちまん》の左衛門大夫綱成のことでござるか」
と、覚えず大きな声になった。
「そうです。四半《しはん》の練絹《ねりぎぬ》を朽葉《くちば》色に染めたるに八幡と書いたるをさしものとして戦場に臨《のぞ》み、合戦《かつせん》におよんでは、勝ったぞ! 勝ったぞ! 勝ったぞ!≠ニたえずさけんで兵を励まし、向うところ敵がないというので、関東の人々は彼を呼んで黄八幡という由、貴殿《きでん》もよくご存じでありましょう」
「なるほど、なるほど、そうでしたか、北条家家中《ほうじようけかちゆう》の福島とは北条左衛門大夫綱成がことでござったか。なるほど、なるほど……」
と、秀吉はいくどもうなずいた。
半兵衛はいぶかしげな顔になった。
「何か北条綱成にご用があるのでござろうか」
「いやいや、綱成には用事はござらぬが、その家中に――つまりは一族でござるが、福島与左衛門というがいるはず。これは拙者《せつしや》の家と所縁のある者故、便《たよ》りをしてみたいと思っているのでござる」
秀吉はそれほど立派な武門の血筋の者が、おれが血筋の者とつながりがあるのかと、名状出来ないほどのよろこびに胸を満たされていた。ぜひとも引っ張って来て、おれが家中にしなければならないと思いこんだ。
翌日の夕方、岐阜から急使が到着した。半兵衛が昨日言った通りの信長の命令を持ってきたのであった。
寸時《すんじ》の遅《おく》れがあれば取返しのつかないことになる。秀吉はその夜のうちに長浜を立って、北国街道を北に向った。江州と越前との間にはいくつも峠があるが、それを越えると、越前の形勢が一方ならないものになっていることがわかった。はじめの勢力争いは守護代《しゆごだい》側が負けて攻めほろぼされ、被官《ひかん》側が勝ったのであるが、これがへんに自信をつけ、心をおごらせ、不敵な志《こころざし》を抱かせはじめたようである上に、この地方に多い一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》が蠢《うごめ》きはじめているという。一向宗門徒の動きの背後には、石山本願寺の秘密指令があると見て間違いはないのである。
(ようこそ急いだ)
秀吉は昼夜兼行で、北ノ庄に入り、明智十兵衛らに会って、信長の命を伝えた。
木下助左衛門と津田九郎次郎とは、いささかだらしないほどに喜悦の様子を見せたが、明智はおちついたものであった。
「拙者《せつしや》も、それが出来ればこの上のことはないと考えてはいましたが、ことが臆病《おくびよう》に似ていますので、岐阜表《ぎふおもて》へ申し出かねていたのでありました。しかし、さすがは殿様でござる。このお差図《さしず》をいただきました。ありがたいことでござる」
と、持ち前の沈痛荘重な態度であった。
癇《かん》にさわる。木下や津田のようなのは軽すぎて、武将としてふさわしくないが、こうまで気取らなくてもよかろう、うれしい時にはうれしそうな顔をした方が見よいものだと思った。
おもしろくない気持でいると、明智はなお言う。
「お願いがござる。貴殿は急ぎ江州におかえりあって、国境まで人数をくり出し、大いに気勢を上げていただきたい。そうすれば、拙者共が当地において一揆共と交渉するのがしようござる」
「そこにぬかりはござらぬ。すでに、余呉《よご》、中之郷、木之本のあたりには、人数をくり出しています」
と言って、秀吉は笑ったが、ふと気がまわった。
(どうやら、この男、引払《ひつぱら》いの功をおれに奪われはせんかと心配しているらしいぞ……)
やれやれ、一種情ないような、軽蔑《けいべつ》したいような気がした。しかし、すぐ考えなおした。
(うちの殿様のような主人を持っていれば、これくらいこまかに気を使うのはあたり前のことかも知れん。こんどの引上げは、飾るところなく言えば、旗を巻いて逃げるのじゃ。よっぽど手際《てぎわ》よくやらずば、殿様のお気に召さぬは必定じゃわ。この男、むっつりと考えこむのが癖だけあって、こまやかな心づかいしとるわ)
だから、
「よろしい! すでに人数はくり出していますが、早速に走りかえって、なおくり出し、念のために椽《とち》ノ木峠のあたりまで出張《でば》ることにいたそう。心おきなく掛け合って、無事にお引上げあるように」
と、答えて、大急ぎで帰国した。
秀吉が長浜に立帰り、待っていた半兵衛に委細のことを語って、人数を国境地帯へ増援したいと言うと、半兵衛は笑って、
「それにはおよびますまい。追っつけ、三人は引き上げて来るはずでござる」
と言ったが、その通りであった。秀吉が帰着して三日目に、三人は峠をこえて江州に下《お》りて来たのであった。峠の要所要所に立てておいた哨兵《しようへい》らの報告でそれを知ると、秀吉は馬に飛びのって、木之本まで馳《は》せつけ、三人を迎えた。いずれも手勢をひきいて、至って元気な風であった。
三人の話によると、秀吉が北ノ庄を立った日の翌日、一揆勢《いつきぜい》は北ノ庄におしかけて来た。もう国侍《くにざむらい》同士の喧嘩勢《けんかぜい》ではなく、明らかに叛乱《はんらん》軍の様相を呈していた。三人は相談して、朝倉氏の一門で、手際よく降伏したため助命されて本領を安堵《あんど》されていた朝倉|景健《かげたけ》、同|景胤《かげたね》の二人を説いて仲介者《ちゆうかいしや》として、一揆勢と交渉し、国外退去を認める約束をとりつけた。朝倉の二人は手勢をくり出し、三人とその勢《せい》を警固《けいご》して、椽《とち》の木峠まで送ってくれたというのであった。
三人の相談だというが、明智一人が策を立て、同僚二人これに同意したに過ぎないのであろうと思われた。
「それはようござった。お祝い申し上げる」
秀吉は三人を長浜に連れて行き、心から歓待した。その夜は泊まってもらうつもりでいたが、明智の発議で泊まらず、もう夕方だというのに、出発した。信長の気をかねてのことであることは明らかであった。
(人の上に立つ者は、他からも下々からも恐れはばかられることは必要や。それが威というものやけ。しかし、恐れられるばかりというのはどうであろう。その人のことを考える度に、いつも身の毛がさか立ち、魂がこごえるようであるというのは、最上とは言えんなあ。恐れと同時に、何ともいえん温かさとくつろぎを覚えるようであってこそ、最上の殿様といえる。昔から、恩威ならび行われるというが、うまいことを言うたものやて……)
いろいろと考えさせられることであった。
明智らが引き上げた後、越前は乱れた。一揆《いつき》をおこした国侍《くにざむらい》らの間に権力闘争がおこり、たがいに攻伐《こうばつ》し合って力をすりへらすと、それは本願寺の勢力に帰して行くのであった。
信長はこの形勢を見ながらも、別段な行動には出なかった。性急なことをしては、また四年前のあの釘づけと八方塞《はつぽうふさ》がりの立場に陥《おちい》ると計算したのである。実際そうであったろう。もし信長が越前などに入りこんだら、西は大坂本願寺が京都をおびやかし、南は長島の門徒があばれ出し、そのうちには毛利が動き出し、武田が動き出し、越後の上杉謙信も動き出して来るかも知れない。
現に、明智らが越前を退去したのは正月二十一日のことであったが、その二十七日には武田勝頼が信州から東美濃に侵入して、疾風《しつぷう》のような速さで織田方の十八城を抜き、さらに進んで明智城を囲み、二月五日にはこれも陥れてしまったのだ。これは信玄が死んで勝頼の世となってからの最初の出陣であったので、武田の家中では大いに気をよくし、
「ご代がわりの最初のご出陣にこれほどの勝利、勝頼公のおん勢《いきお》い、飛ぶ鳥も落つるばかり」
と言い合った。
信長はそれでも、動かない。東美濃のまだおとされない城々、砦々《とりでとりで》を堅固に修理させ、人数を増強しただけで、武田勢と戦おうとはしなかった。最も激烈な行動派のようでありながら、隠忍退守《いんにんたいしゆ》すべき時にはそれの出来る人だったのである。
武田勝頼が甲府に引き上げ、東美濃の形勢が一応定まると、信長は上洛《じようらく》の途《と》につき、途中佐和山で三泊した。佐和山は丹羽長秀にあたえられているのである。秀吉は長浜から佐和山に行って拝謁した。
信長は秀吉を身近に寄せ、人を遠ざけて言った。
「おれは間もなく長島の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》を征伐《せいばつ》する。おれが足もとにいて、何かと禍《わざ》をなすにくいやつばらじゃ。近々に踏みつぶしてのけることにするが、きっとその時には本願寺も動くであろうし、越前の門徒めらも動くに相違ない。その時は、われは長島には来るにおよばぬ故、境目《さかいめ》をしっかりとかためて、こちらに踏み出して来ぬようにいたせ。やつらのいつもの手じゃ、その時には江州内の門徒共と心を通じて、さわぎをおこし、われがあたふたするのにつけこんで出て来るぞ。必ず前もっての用心をおこたるなよ」
かんでふくめるような差図《さしず》であった。
「かしこまりました。必ずともに、当国《とうごく》のことはお心にかけられまじく」
頼もしく、秀吉は答えた。
信長は京都に上ると、従三位参議に叙任《じよにん》された。彼が足利義昭を奉じて上洛してから、満六年、これまで度々官位昇進のご沙汰《さた》があったが、辞退を重ね、ことわり切れずにやっと正四位上|弾正忠《だんじようのじよう》になっていたのだが、この時はじめて高位高官の叙任をお請《う》けしたのであった。
つづいて、聖武天皇の時以来東大寺に秘蔵されている名香蘭奢待《めいこうらんじやたい》を拝領する勅許《ちよつきよ》をもらい、奈良に下って、故例によって一寸八分切りとった。この香木は黄熟香《おうじゆくこう》で、これを蘭奢待と名づけたのは、この三字に「東大寺」の三字が含まれているからという。昔から時の摂政関白《せつしようかんぱく》や、武家時代になっては将軍らが、特に勅許を得て拝領し、これを切り取るには厳《おごそ》かな儀式があったのである。最も最近拝領したのは、足利《あしかが》八代の将軍義政であった。義政は政治家としては全然無能な人であったが、趣味人《しゆみじん》としては美術史の上で東山《ひがしやま》時代というエポックをつくり出したほどの人だから、その点で勅許をいただくことが出来たのであろう。
信長がこんなことをしたのも、一つには彼がこの時代|盛行《せいこう》をきわめた茶の湯に心酔するようになっていたからであろうが、信長は義政とは違う、風流人《ふうりゆうじん》であるとともにたくましい政治家である、こうすることによって、天子から天下の大将軍であると認可されていることを、天下の人々に示す計算もあったに相違ない。
信長が蘭奢待を切ったのは、三月二十八日のことであったが、その翌々日の四月一日には大坂に出て、いきなり石山本願寺に攻撃をかけた。
「この坊主《ぼうず》めは、朝倉が婿《むこ》じゃ、かたきの片割れ、そのままにおくべきやつではない」
というのが、その理由であった。
信長は本願寺付近の村落を焼きはらい、田畑の作物を薙《な》ぎ捨て、天王寺《てんのうじ》に付城《つけじろ》をこしらえ、佐久間信盛父子を城番《じようばん》として守らせて、京都に引き上げ、つづいて岐阜に帰った。
武田勝頼が遠州に出て、高天神城の攻撃にかかったのはこの頃であった。高天神には、徳川方の将|小笠原《おがさわら》与八郎がこもっている。家康にむかって急を訴えた。
家康は単身武田勢にあたるのは心細い。信長に来援をもとめた。信長は承知し、自ら大軍をひきいて東に向って、浜名湖口の今切《いまぎれ》まで来た時、小笠原与八郎が降伏したために城はすでに陥《おちい》ったという知らせを受取った。信長は家康とともに引返し、三州吉田(今の豊橋)の城で、家康と別れを告げて、岐阜に帰ったが、その別れ際に、黄金二袋を家康に贈った。
「近年貴殿は出陣しきりである上に、昨年はご領内の作柄もよろしくなかった由、気の毒に存ずれば、些少《さしよう》ながら合力《ごうりき》申す」
という口上《こうじよう》であった。
信長は、これくらいなことはしなければならない義理がある。最初の上洛《じようらく》の時にも、徳川家は加勢している。最初の越前入りには家康自身加勢に来ている。姉川合戦の時もそうであった。信長が所望してやりさえすれば、徳川家は必ず加勢に来るのだ。しかも、姉川合戦の勝機は徳川勢によってつくられたといってもよいのである。それでは、織田方はどうであるかといえば、三方ガ原合戦に援軍をおくりはしたものの、この援軍は戦闘というほどの戦闘をしないで敗走している。そして、このほかには援《たす》けてやったことはないのである。
織田・徳川の攻守同盟は、徳川家は大いに犠牲をはらっているが、織田家はほとんど犠牲をはらっていないのである。金ぐらい贈らなければ、信長も義理が悪いのである。
この間に、越前の形勢は急調子に変化した。国侍《くにざむらい》らの勢力争いがしばらく続いたかと思うと、その国侍らを一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》の百姓らが集まって攻撃しはじめたのだ。
これは本願寺の煽動《せんどう》ではじまったのだが、本願寺は直接には煽動せず、越前の隣国加賀の一向宗坊主らにその仕事をさせたのだ。
加賀はこの時から四十数年前、享禄四年から、一国全部が本願寺領になっていた。一向宗門徒が一揆《いつき》をおこして、加賀の昔からの国主である富樫《とがし》氏を追い出して、本願寺の支配を受けることにしたのである。本願寺の民政は武家大名の民政よりはるかにゆるやかであった。負担が軽いのである。だから、越前の百姓らは聞き伝えて、いつも羨《うらや》ましく思っていた。これを知っていたので、本願寺は加賀|御坊《ごぼう》に駐在している下間法橋《しもずまほつきよう》、杉浦法橋らに命じて、僧らを越前に潜入させて、
「今こそ優曇華《うどんげ》の花咲くという時よ、本願寺のご領になるならば、死んで極楽に往生するはご本願によって言うまでもないことじゃが、生きているうちも極楽にいるようなものよ」
と、門徒百姓らに説かせたので、それまでくすぶりつつあった一揆は火の手となってぱっと燃え上ったのであった。
燃え上ると、すかさず、加賀から人数がくりこんで来たので、火の手は一層さかんになる。わずかに十数日の間に、国侍共は、朝倉の一門といわず、家臣といわず、被官《ひかん》といわず、所在に討取《うちと》られたり、追い出されたりした。元来が宗門一揆であるから、他宗の寺の存在はゆるさない。平安朝以来、天台宗の名刹《めいさつ》として栄えていた平泉寺《へいせんじ》も焼きはらわれてしまった。一国全部、何から何まで、門徒のものとなったのである。
そこで本願寺では使者をつかわして、下間法橋を越前の守護代《しゆごだい》として、支配させることにした。
これらのことは、越前に潜入させてある忍びの者の報告で、秀吉にはくわしくわかった。秀吉はこれを信長に報告した。だから、信長もくわしく知っているはずであったが、まるでさわがなかった。
七月半ばになって、信長はいきなり陣触《じんぶ》れして、数万の人数をひきいて、長島に向い、四方から攻め立てた。
以前から言われていることだ。秀吉は従軍せず、越前|境《ざかい》をかためることと、江州内の門徒の動向を警戒することに力をそそいだが、弟の小一郎に五百人の兵をさずけて、長島に向わせた。
信長の長島攻撃は猛烈をきわめたが、門徒勢も必死になって防いだので、なかなか強く、思わしい戦果はなかった。
長島で合戦《かつせん》がはじまると、河内《かわち》では三好の残党が本願寺と力を合わせて兵をおこして、一時はなかなか強かったが、これはこの方面の総督《そうとく》的立場にあって天王寺に駐屯《ちゆうとん》している佐久間信盛と細川藤孝とがその根拠地を抜いて四散させた。
確かに本願寺方では連絡をとって、最もスケールの大きな作戦をしているに違いなかった。越前方面でも門徒兵らが国境の峠を踏みこえて、江州に南下して来る気色を見せたのだ。しかし、秀吉の厳重な固めのためにそれは出来なかった。
九月の末、信長はおびただしい舟《ふね》を用意して、四方から長島を強襲し、ついにこれを占領し、一揆勢二万余人を殺戮《さつりく》した。城に追いこめておいて、いく重にも柵《さく》をつけて逃げ出せぬようにして放火し、焼き殺したのだ。
天正二年はこんなことで過ぎて、天正三年になった。
この頃になると、越前国内は最も微妙な変化を見せて来た。人間がものに慣れるとは、刺戟《しげき》にたいして感覚が鈍麻《どんま》することだが、これは人間を困苦や欠乏の環境にも生きつづけさせてくれもするが、豊富な環境の中では堕落《だらく》させもする。豊富はより以上の豊富を求め、快楽はより以上の快楽を追求させるからだ。越前の百姓らもそうであった。本願寺のゆるやかな政法はさらにゆるやかな政法をもとめさせた。最もゆるやかなのは支配者のなくなることだ。百姓らは本願寺の政法を桎桔《しつこく》と感じはじめた。賦課《ふか》の軽少であるのも、慣れれば軽少とは感じなくなる。収穫の三分でも、四分でも、とり上げられるのがいやでないはずはない。かせぎ出したものは全部自分のものであった方がうれしいにきまっている。百姓らは、本願寺を搾取者《さくしゆしや》であると感じはじめた。
もっとも熱心な念仏信者である百姓らは、本願寺に敵意は持たない。村々にあって直接自分らを取締る寺々の坊主《ぼうず》らを憎み立てた。
「ご本山《ほんざん》は少しもお知りでねえのや。あの坊主どもがおのが欲心にかまけて、胴欲《どうよく》なことばかすんのや。みんな坊主どもが悪いのやで。にくい生臭《なまぐさ》ども……」
とばかりに罵《ののし》り立て、早くも越前本願寺王国にはひびが入って来た。このことを『総見記』には、「土民《どみん》百姓等、あまり過分の有徳《うとく》となつて、奢《おご》りをきはめ、後々は地頭《じとう》坊主の下知《げじ》をも聞かず、我意《がい》にまかせてふるまふほどに、つひには内輪《うちわ》くづれとなり、上下の不快やむ時なし」と書いている。ともあれ、到底他国に踏み出して来られる状態ではなくなった。
武田勝頼が三州|長篠《ながしの》に出て、長篠城をかこんだのは、ちょうどこの頃、四月下旬のことであった。
この時、長篠城にこもっていたのは、奥平貞昌であった。貞昌は使《し》を馳《は》せて、徳川家康に急を告げた。家康は独力では武田軍にあたれないと思ったので、信長に来援を乞《こ》うたが、織田家の老臣らは出馬無用と主張した。これも武田勢の精強を恐れたのだ。信長の返事も煮え切らなかった。これも恐れているからだと思われた。
実際はそうではなかった。いや、信長は武田勢を恐れてはいたが、それにたいしてはすでに対策が立っていた。彼は計略として、煮え切らない返事をしたのである。しかし、これが計略であるとは、誰にもわからなかった。それは信長の巧みな演出のためではない。当時の武田勢の強さのためであった。武田勢は越後の上杉とならんで、しんじつ、無敵の精鋭部隊であった。両者が川中島で度々せり合って、ついに勝負がつかなかったのは、日本戦史上の偉観《いかん》であるが、他家の軍勢ならとうてい歯の立つものではなかった。この時代、両家の軍勢につぐ強さを持っているのは、徳川勢であったろうが、これとて三方ガ原では惨敗しているのである。
「さすがの織田殿も、恐ろしがっておられるわ」
と世間で見たのは、こういうわけからであった。
徳川家でも、もちろんそう考えた。度々の使者にたいして、一向はきとした返事をしないところ一層そう思われた。
ついに最後の使者をうけたまわって岐阜に来た小栗《おぐり》大六は、使命をのべた後、信長の近臣矢部善七郎に、
「われらが主人は、信長公との約束を重んじ、ご所望あれば常に自ら出陣、身命《しんめい》をなげうって信長公のおんために働いていますのに、こんどかねての約束に違《ちご》うてご加勢下さらぬのであれば、両家の親しみもこれまで、以後は武田に一味して共に尾州を攻め取り申すことになりましょう」
と語った。矢部はおどろいて、信長に告げ、信長またおどろいて、出陣すると返答し、同時に家中に出陣のふれを出した。
出陣にあたって、信長は兵の一人一人に柵《さく》にする木と縄をいく束《たば》かたずさえるようにふれたので、人々は不思議なお言いつけと思いながらも、その通りにした。兵は総数で三万余人あった。
秀吉もこんどは出陣した。この前とは反対に小一郎を長浜にのこし、自ら千五百余人をひきいて岐阜に集まったが、柵木と縄とを一人一人用意せよとのふれを聞くと、はてなと首をひねった。そして、やがてハハンと思いあたった。一つを思いあたると、次ぎ次ぎにすらすらとわかる。
彼には妙なくせがある。性質が陽気であるせいもあろうし、才気をひけらかしたがる性質であるせいもあろうし、人がまるで気がつかないようなことを思いついたりすると、黙っておられない。この時も、早速竹中半兵衛をつかまえて言った。
「貴殿、柵木と縄がなぜいるか、おわかりか」
半兵衛は色白な顔に薄い笑いを浮かべた。
「今のところは、それを申されぬがよろしいと存ずる」
ちゃんとわかっているのだ。一言もない。
「いかさま、その通りでござる」
と、こちらも微笑《わら》うよりほかはなかった。
「梅雨《つゆ》が例年の通りに上ってくれればようござるが、梅雨の入りはあっても上りはないと申す。だらだらといつまでも降るようなことがあっては、大事でござる」
信長がきっぱりとした返事をせず、ぐずぐずと出陣を長引かした理由も、わかっているのだ。
(恐るべき才気)
と、秀吉は舌を巻いたが、すぐ、
(なに、いかほどの知恵者であろうと、おれが寄騎《よりき》である以上、その知恵はおれが知恵になるのや)
と思って、大いに愉快になった。
信長は最も迅速な行軍をする人だ。疾風《はやて》のようだ。六年前、三好党が義昭将軍を本圀寺《ほんこくじ》に襲撃した時には、岐阜から京都まで二日で駆けつけた。しかし、こんどは出陣もゆっくりであったが、行軍も至ってゆっくりであった。岐阜出発が五月十三日、十四日に岡崎、十五日は滞在、十六日に牛窪、十七日に野田、十八日に長篠西方の設楽野《しだらの》に到着した。
この悠々たる行軍ぶりも、人々の気を沈ませた。武田勢を恐れているためと思われたのである。
(少しでも知恵というものがあるなら、わかりそうなものや、殿様は梅雨《つゆ》があがってから戦場に着こうと、せい一ぱいゆるゆると進んでおられるのやに。阿呆《あほう》ばかり揃《そろ》うているわ。しかし、そやからこそ、知恵のある者が勝てる。皆が皆知恵者では、殿様かて勝てへんわ)
と、苦笑した。
長篠合戦における敵味方の軍勢は、
武田勢 一万五千
織田勢 三万余
徳川勢 八千余
と、大体こんなものであった。
戦闘は五月二十日の深夜、織田・徳川の連合軍の一支隊が長篠城の東南の鳶《とび》ガ巣山を襲撃したことからはじまったが、この夜は大豪雨であった。連合軍の支隊はその雨をおかして、断崖を攀《よ》じ、山をのぼって、鳶ガ巣山を奇襲し、武田方の守兵を追いはらい、これを占領したのである。
信長がこの翌日の大会戦に使おうとする戦術は、雨が降っては成功おぼつかないのである。だからこそ、彼は徳川方に腹を立てられながらも返答にためらい、世間に罵《ののし》られながらも行軍にひまどって、梅雨《つゆ》の完全にあがるのを待ったのである。
この夜襲の日は太陽暦では七月六日であったのだから、例年なら梅雨があがっているはずであるのに、篠《しの》つくばかりの豪雨が半夜降りつづいたというのだ。計算しつくしたようでも、なおこの誤算がある。いやいや、これは誤算というべきでなく、天運というべきものであろう。
この篠つく豪雨が、この翌日の大決戦の際には、ぴたりとやんで、信長はその秘策を完全に行使することが出来たのだ。これまた天運であろう。天は信長に幸いし、家康に幸いし、勝頼に情《つれ》なかったのである。
翌日の設楽野《しだらの》の大合戦における信長の戦術は、古今《ここん》を通じての第一の名戦術といわれ、日本の戦術を一変したといわれているが、その要領は敵の長技《ちようぎ》を封じて、味方の得意な組手《くみて》に持ちこむというに過ぎない。
武田勢の得手《えて》は騎馬戦であった。駿馬《しゆんめ》にまたがった鉄騎の集団が密集して馳突《ちとつ》して来るところ、いかなる堅陣といえども破られないことはなかった。信長は味方の陣所の前に、兵らにそれぞれに持参させた柵木《さくぎ》と縄をもって、三段に柵を結《ゆ》って、この恐るべき鉄騎の集団をせきとめることにした。すなわち、敵の長技を封じたのである。
一万人の銃手から三千人の銃手をすぐり、千人ずつ三段にかまえさせ、交代して間断なく千発の銃丸を、柵にせきとめられている武田兵に送り、霞網《かすみあみ》にかかったつぐみをもぎとるように狙《ねら》い撃《う》ちにさせた。当時一万人という銃手を持ち、その中から三千人をすぐりぬけるというほどに多数の銃と銃手を持っていたのは、織田家以外にはなかった。おのれの得意な組手に持ちこんだのである。
しかし、もしこの日が雨だったら、信長のこの戦術は、まるで働きのないものになり、名戦術どころか、最も愚劣《ぐれつ》な戦術となったろう。当時の鉄砲では、雨が降っては火縄が濡《ぬ》れ、火皿の火薬が濡れて、発射出来なかったのだ。殺到する甲州武士らは手ン手に柵を引き破ってなだれこみ、連合軍を蹂躪《じゆうりん》したに違いないのである。天運が働いていると、ぼくの言う所以《ゆえん》である。
当時の新鋭兵器である鉄砲の力を最大限に利用した、最も奇抜な戦術は、天運にも恵まれて、連合軍を大勝利に導いた。武田勢は単に負けたというだけでなく、信玄以来の優秀な武将、勇士、猛卒を大量に討死させ、その武力を大はばにちぢめた。この合戦《かつせん》までは、武田家の武力は一流中の一流であったが、以後二流ないし三流の上くらいに転落したのであるが、その功績のほとんど全部は信長の負うべきものだ。他の参加者らはたとえ最も功ある者でも、信長にくらべれば言うに足りない。
秀吉の隊は、この日の戦いには、遊軍の任務を帯びて、戦線の北端に近いところにいたが、殺到した武田勢が撃てども射れども屈せず、柵《さく》にとりついて引き破ろうとするのを見て、柴田勝家の隊とともに迂回《うかい》して、北方から横槍《よこやり》を入れた。さすがの武田勢もたじろいで退却したが、その退却に際してこちらは真田《さなだ》信綱、同昌輝の兄弟と土屋昌次とを討取《うちと》った。一応の功績ではあるが、信長の戦術によって勝つにきまっている戦争なのだから、大したことはない。
しかし、この日、秀吉は最も大きな学問をした。戦争というものは、戦って勝敗のきまるものではなく、すでに勝っているのを、勝ちを確認するために行うものであるということを知ったことであった。
(戦《いく》さはばくちではあるが、その八、九分は前もって勝負の目途《めど》がつく。やるなら、勝形《しようけい》をそなえてからやるべきや)
胸に深く刻みこむ思いで、胸の奥深いところでつぶやいた。
信長が岐阜に引き上げたのは五月二十五日であったが、その頃、秀吉は丹羽長秀と柴田勝家に、名字の文字を一字ずついただかしてほしいと頼んだ。
「ご武勇、ご運のめでたさ、ともにあやかりたいのでござる」
本当はそれだけではなかった。このようにして媚《こ》びることによって、二人に取り入ろうというのでもあった。織田家中で屈指《くつし》の大身《たいしん》となった今では、人のねたみやそねみも一通りでない。大身でもあれば、信長の覚えもめでたい二人に気に入られておくことは、最も必要なことであった。
頼まれて、二人は悪い気持はしない。
「よいとも、上の字なりと、下の字なりと、いずれなりとも、所望にまかせよう」
と答えた。
秀吉は丹羽から羽の字をもらい、柴田から柴の字をもらい、羽柴という名字をこしらえ、信長の前に出た。
「拙者《せつしや》は土民《どみん》の出生であります。木下は父がお家にご奉公していた頃に名のっていた名字でございますから、これまでそう名のっていましたが、別段に由緒とてはないのでございます。こんど柴田|修理《しゆり》殿と丹羽|五郎左《ごろうさ》殿との武勇とご運とにあやかりたく存じて、各々一字をいただきたくお願いしましたところ、快く許していただきましたので、羽柴という名字をこしらえました。わたくしの名字としておゆるしいただきとうございます」
「許すぞ。羽柴か。いい名字だ」
と、信長は笑って、快くゆるしてくれた。
それから間もなく、六月二十六日に信長は岐阜を出発して京都に上った。七月三日、宮中ではまた信長に官位昇進をご内意あったが、信長はかたく辞して、家臣らに叙爵《じよしやく》を願った。
当時の朝廷は下々に下賜《かし》するものとしては、官位(栄爵)くらいしかない。だから、しきりに信長に叙任《じよにん》したがったのだが、信長は自分のためにはことわって家臣らのために乞うた。朝廷は聞きとどけてやらなければならない。でなければ、信長が皇室や堂上《とうしよう》の経済や住宅などにいろいろと骨をおってくれている奉公に報《むく》いる術《すべ》がない。
「それは朝廷《おおやけ》においても、ご思案のあったことである」
と言って、信長の奏聞状《そうもんじよう》によって吟味して、それぞれに叙任した。
右筆《ゆうひつ》 武井|夕庵《せきあん》     三位法印
松井|友閑《ゆうかん》     宮内卿《くないきよう》法印
羽柴藤吉郎    筑前守《ちくぜんのかみ》
明智十兵衛    姓を惟任《これとう》、日向《ひゆうが》守
丹羽五郎左衛門  姓を惟住《これずみ》
簗田《やなだ》左衛門太郎  戸次右近《べつきうこん》と改姓改名
塙《ばん》九郎左衛門   姓を原田、備中《びつちゆう》守
筑前守と日向守とは任官だが、惟任、惟住、戸次、原田などと姓を改めることを朝廷が許したのは、新しく姓を立てるのは、天皇の大権《たいけん》に属することであるからである。ここに出て来る官は九州地方の国主《こくしゆ》、姓や名字は皆九州の昔からの豪族らの名字だ。信長がこの頃すでに九州|征伐《せいばつ》の志《こころざし》を抱いていたことを語るものである。とりわけ姓や名字を天皇に請《こ》うて授けてもらったのは、天皇の命によってそれぞれ九州豪族の本家たることを許すということになるからだ。天皇の権威を大いに利用する算段なのである。
それはさておき、秀吉はこれで羽柴筑前守となったのだ。朝廷で定められている官は、朝廷が政治の実権を失うにつれて、大方は名前だけのものとなってしまった。治部大輔《じぶのたいふ》といっても、治部省という役所はもう存在していない。弾正忠《だんじようのじよう》といっても、弾正台《だい》はないのである。
国守号にしてもそうだ。本来なら、筑前守といえば筑前の国の長官であったのだが、今ではそれは筑前の国とは何の関係もない名称だけのことだ。こんな風だから、勝手に国守号を称する者もいる。地方の豪族などにはそれが多い。朝廷からもらったものにしても、現実の国とは何の関係もないから、同時に何人もいるのだ。
現代でも勲章をありがたがる人がいるのだから、この時代の人の大方が空《むな》しい官名をありがたがったことは当然であろう。ありがたいと思ったからこそ、勝手に武蔵守《むさしのかみ》だの、越中《えつちゆう》守だのと名のる者がいたのだ。
秀吉はその国守号を朝廷からいただいたのだ。ありがたいと思うことが一方でなかった。氏素姓《うじすじよう》もない生まれの身から、ともかくも上国《じようこく》である筑前の国の長官ということになったのだ。
「今では、もうおれは氏素姓の、ない者ではない」
という思いが切《せつ》なくこみ上げて来るのであった。
八月、信長は明智日向守を案内者にして、三万六千余の兵をひきいて、越前に向った。明智が案内者にえらばれたのは、以前朝倉の家中であったことがあり、この前は三奉行の一人として北ノ庄にいたからである。秀吉も出陣した。信長は敦賀《つるが》に到着して、集まって来る軍勢を待ち受けたところ、われもわれもと馳《は》せ集まる勢が十万八千余もあって、敦賀だけでは足りず、江州《ごうしゆう》の北部にあふれて陣を取ったと、『総見記』にある。盛んなものに靡《なび》くのは人間の通性だ。長篠合戦《ながしののかつせん》に大勝利を得たからである。
信長はこの雲霞《うんか》のような軍をもって越前中をおしまわり、一向宗《いつこうしゆう》の僧とその狂信者とをきびしく探索し、捕えたものはのこらず殺した。八月十五日から十九日までの五日間に、寺の住職の首七百余、一揆《いつき》の郷民《ごうみん》の首一万二千二百五十余をはねたというから、すさまじい。
長島|征伐《せいばつ》の時といい、この時といい、信長の一向宗にたいする憎悪がいかに激烈深刻であったか、わかるのである。
この厳重な探索にかかって、本願寺から越前|守護代《しゆごだい》に任命されていた下間法橋《しもずまほつきよう》もさがし出されて、殺された。
越前の本願寺王国は出来て二、三か月で木っぱみじんにたたきつぶされたのである。
信長は越前を柴田勝家にあたえ、府中十万石を前田又左衛門、佐々|内蔵助《くらのすけ》、不破《ふわ》彦三の三人にあたえ、これを府中三人衆ととなえ、勝家の寄騎《よりき》兼|目付《めつけ》とした。寄騎と目付とを兼務とはおかしいようだが、この時代の寄騎は皆一面では目付を兼ねていたのである。絶対専制君主である信長の家中ではなおさらのことである。専制君主の政治は必然的にスパイ政治となり、厳しい意味では家来という家来皆スパイである。
越前のことが片づくと、信長は京都にかえり、正三位右大将兼|権大納言《ごんだいなごん》に叙任《じよにん》せられた。
こんなことで、天正三年は暮れて、四年となると、その正月信長は近江の安土《あづち》に城を築くことをふれ出し、佐和山城主の丹羽長秀を普請奉行《ふしんぶぎよう》として昼夜兼行で工事を急がせ、二月下旬自分の居場所が出来ると、早速に引きうつり、家臣らの屋敷割《やしきわり》もした。
城の壁は、昔は土居《どい》あるいは掻上《かきあげ》とて、土をもり上げ、芝などを植えこんだのが普通であったが、松永久秀が大和《やまと》の信貴山《しぎさん》に築いた城は、壁は石垣を土台にして、その上に白壁をもって塗《ぬ》った塀を立て、数層の櫓《やぐら》をおいた。それがまことに華麗荘重であったので、信長は安土城を築くにあたって、これにならい、さらに壮大|豪奢《ごうしや》にしたというのが、日本城郭史の説くところである。
信長は単に信貴山城を拡大して安土城としたのではなかった。信貴山城では石垣を形成している一つ一つの石はそう大きいものではなかったが、信長は好んで巨岩大石を使った。蚫石《あわびいし》という石は最も大きくて、安土山の麓《ふもと》までは曳《ひ》いて来ることが出来たが、そこから上げることが出来ない。信長は丹羽長秀、滝川一益、羽柴筑前の三人に特に命じて人数を出させ、一万余人をもって、昼夜三日かかって山上に引き上げたという。
この時代、この巨石文化ともいうべき建築時代がしばらくつづく。安土城、大坂城、伏見城。あとは大きい石が根切《ねぎ》れになったので、ない。安土築城はその走りである。
こうしている間も、信長は本願寺にたいする攻勢はゆるめない。四月から五月にかけて、大坂に馬を出し、本願寺と、それに味方する者共を手痛く攻め立てて、六月はじめ安土に帰った。
本願寺にたいするこの痛烈なやり方が、追いやったと言える。本願寺は加賀の門徒らに指令して、上杉謙信に援助を乞《こ》わせたのである。
謙信はこれを承知して、天正五年|閏《うるう》七月、先ず能登《のと》に打って出た。この報告を得て、信長は戦慄《せんりつ》した。
一体、信長が恐れた武将が二人ある。信玄と謙信だ。信長はこの二人との衝突を最も恐れて、最も注意深く交際し、見苦しいほどきげんを取っていた。信玄はすでに死んだので、武田軍を長篠に痛破することが出来たが、謙信はまだ壮強だ。その用兵は天才的神気があり、その軍勢は最も精鋭、信玄なき今日では天下|無双《むそう》といってよい。
信長は謙信との衝突を一大事として、柴田勝家を総大将として、丹羽、羽柴、滝川、佐々、前田、美濃《みの》衆、若狭《わかさ》衆らをつけて、加賀に入らせた。織田勢は加賀の在々村々を放火して、一向宗《いつこうしゆう》勢力を徹底的に虐《しいた》げたが、この出陣中、秀吉は主将柴田と意見が衝突した。どんな意見の衝突であったか、諸書に記したものはないが、ともかくも衝突した。大激論の末、
「そういうことなら、拙者《せつしや》は貴殿の下では働きかね申す。まかり帰る」
と言いすてて、兵をひきいてさっさと加賀を引き上げてしまった。こういう際には、一応信長にうかがいを立てるべきであるが、それもしなかった。
秀吉ほど練《ね》れた人間がこうだったのだから、よほどのことだったのであろう。
小寺《おでら》官兵衛
戦地を引き上げたといっても、すぐ長浜に落ちつくわけには行かない。信長の許《もと》に出頭して報告しなければならない。長浜を素通《すどお》りして、安土《あづち》に行った。文字通りの素通りだ。兵らはのこしたが、自分は城に一歩も入らないで通り過ぎた。信長にたいする遠慮であった。
信長は秀吉に会って、帰って来た理由を聞いたが、おそろしく腹を立てた。
「どのようなわけがあろうとも、おれに一応のうかがいも立てず、勝手に引き上げて来るとは、この上もない曲事《くせごと》であるぞ。不届《ふとど》きなるやつめ! 目通りかなわぬ。屋敷に引取って慎《つつし》みおれい! 追って沙汰《さた》する! きりきり退《さが》れい!」
雷霆《らいてい》のはためきのようだ。
秀吉には言いたいことが大いにあった。言いたいだけ言わせてくれるなら、必ず信長の怒りを解くことが出来るという自信があった。しかし、今の際《きわ》は一言でも言いかえしたら、必ずさらに怒りをつのらせ、必ず手討ちになるにちがいないと思われた。嵐は蟄伏《ちつぷく》して過ぎるのを待つがよいと思った。
こわくないことはなかった。大いに恐かったが、こわがってもしかたのないことだと思うと、落ちついて来た。ともかくも、ここを引取って、それからのことだと思い、せいぜい恐れ入った様子をこしらえて、退出した。
安土の屋敷には、母とねねがいる。安土に信長が移り、家臣らに邸地《やしきち》をくれた時、秀吉ももらって、屋敷を営み、出来上ると、母とねねをここにおいた。人質《ひとじち》の含みがあることは言うまでもない。小一郎と浅野弥兵衛とをつけておいた。
小一郎は今年三十六、長島|征伐《せいばつ》には秀吉にかわって兵をひきいて出陣し、相当な武功を立て、りっぱな武将であることに世を示した。
弥兵衛は三十の壮年になっている。数年前、ねねの妹おこいを妻にした。いとこ同士《どち》で結婚して、秀吉の相婿《あいむこ》になったわけである。武功は立てたことがないが、事務の才幹があって、民政や財政方面にはなかなか役に立つのである。
秀吉はこの屋敷に入った。信長の不興《ふきよう》をこうむったことは誰にも言わず、その夜は母と妻を相手に酒宴をして寝た。
ぐっすりと一寝入りして目をさますと、細めた灯明《あかり》のうちに、隣の床に寝ているねねの顔が見えた。こちらをむいて、目をつぶり、呼吸をしていないのではないかと思われるほど、ひっそりとした姿である。
ねねは今年二十九になるが、近年になって一層美しくなった。年増《としま》ざかりというのかも知れない。昔は細《ほ》っそりとした痩《や》せ肉《じし》で、色も少し浅黒く、なんとなく硬い感じであったのが、近年はやや太り肉《じし》となり、色がぬけるほど白くなった。その白い皮膚に血色が匂い、しっとりと艶《つや》がある。なにか、らんまんと花咲きそろう陽春の感じがあった。
残念なことに、今は照明が暗くて、よく見えないが、凝視していると、思い出されて来る。
そのうち、ねねが眠っていないらしいことに気づいた。
「ねねよ」
と、呼びかけた。
あんのじょう、ことばの下に、ぱっちりと目があいて、にこりと笑った。
「あい」
と、ひくく、しかしはっきりと答えた。
「ここへ来いよ」
こちらも笑って、さそった。
ねねはするりと自らの床を脱《ぬ》け出して、夫の腕の中に入って来た。抱きしめると、身をすくめるようにして胸に入って来る。あまえて、鼻を鳴らさんばかりであるが、手にあまるようなたっぷりとした感じは、成熟を思わせた。
「ねねよ」
と、秀吉は呼びかけた。
ねねはうとうととしかけていたらしい。はっとしたように身をふるわせ、こちらに顔を向けた。
「あい、なんですかや」
こちらは、話の内容のおそろしさをなだめるために、先ずククとふくみ笑いしてみせてから言った。
「おれは今日、右大将《うだいしよう》様にえらい叱《しか》られたぞい」
わざと、楽しいことのような言い方、あるいは母親にいたずらを見つかった腕白小僧《わんぱくこぞう》のような言い方をした。
「おや、まあ、どやんしてですの」
「叱られるのも無理はない。おりゃ柴田と言い争いして、おもしろうないから、勝手に引き上げて来たのじゃでの。おらが右大将様じゃからとて、そんな気ままなことをする家来は、叱らんでおけんわな。ハハ、ハハ」
また笑って見せた。
ねねのおどろきは益々大きくなる。しかし、胸をおししずめて言った。
「おや、お前様は殿様のお召しがあっておかえりになったのではないのですかや」
声がふるえた。
彼女はそう思いこんでいたのだ。きびしい殿様の性質を誰よりものみこんでいる、夫のようにぬけ目のない人が、そんな阿呆《あほう》なことをしようとは、露ばかりも思わなかったのだ。
秀吉は呵々《かか》と笑い出した。
「お召しを受けて帰って来た者がお叱《しか》りをこうむろうかいな」
「ほなら、ほんとにお叱りを受けなされたのですかいな」
「ほんととも。えらいこと叱られた。目の玉が飛び出すほどとは今日のことじゃ。おれも子供の時からずいぶん人に叱られたが、今日ほどこわいことはなかったぞよ。こわい時には妙やな。汗が出るわ。なんぼでも出る。たらたら出る。ハハ、ハハ、ハハ」
「叱られて、そんなに笑うているということがありますかいな。殿様はおそろしいお人やというに。ほんとですかいな。叱られたいうは」
「ほんとやとも、なんでうそ言うものか」
「それで、殿様のごきげんはもうなおったのですかいな」
おろおろと言う。
「うんにゃア、ご処分はこれからじゃ。家へ帰って慎《つつし》んでおれと申された。大方、明日あたり、ご処分のお申渡しが来るであろぞ」
ねねが心配すればするほど、こちらは明るくふざけた調子になった。子供をからかっているような不思議なよろこびがあった。それとともに、だんだん、大丈夫という気がして来つつあった。確かに右大将様はお腹立ちではあったが、厳罰はなさらへん、ほかのものへのしめしがつかんさけ、あやんきびしゅうお叱りであったのや、ひょっとすると、おれが申し上げるまでもなく、目付衆《めつけしゆう》からの注進で、争論の次第をご承知あって、おれのしたことが無理ないとわかってお出でじゃったのかも知れん、とまで考えたのであった。
「それで、お前様……」
ねねは夫の胸にしがみつき、とうとう泣き出した。
「心配することはないわな、わしは右大将様のお気に入りじゃけ、何ほどのこともなく、赦《ゆる》して下さる。心配することはないわな」
ねねのまるい肩を抱き、まるい背中をたたいて、子供をいとおしむようにしてやった。
ねねはなお不安げに時々身ぶるいしたり、すすり泣きしたりしていたが、やがてしずかな寝息を立てはじめた。
(大方、大丈夫じゃろとは思うけど、で無《の》うても、これは切抜《きりぬ》けねばならんことや)
妻にたいするしみじみとした愛情のうちに、強く決心した。
翌日、上使《じようし》が立って、処分が仰せつけられた。
「長浜にかえり、慎《つつし》みいるよう」
というのである。
「ほら、見いや。これくらいなことですんだやろが」
と、ねねに言った。
「それでも、これからが心配でなりませぬ。ひょっとして、追打ちに、きついこと仰せつけられるのではないですやろか」
「そんなことは、先ずないやろ、あっても、遠い先きのことや。わしは右大将様のお心をよう知っとる。ずっと先きのことなら、それまでになんぼでもごきげんを取結ぶことが出来るわい。心配することはないわい。ほなら、母《かか》さんを頼むで。仰せつけを受けた以上、ゆるりとはしとられん。わしは行くで」
そのまま立ち上って、旅装し、長浜へ向った。
長浜へはその日夜に入って到着した。早速家老の杉原七郎左衛門家次を呼んだ。
杉原家次は、ねねの父助左衛門の兄である。杉原一族は、秀吉が墨俣《すのまた》城をあずかった頃から、信長に乞《こ》うて全部引取った。もっとも、ねねの父はその少し前に病死していた。ついでに言えば、姉の夫の一若、今は木下弥助も引取り、妹の夫の佐治与一郎も引取って家中の者にした。大名にとって最も頼りになるのは、譜代《ふだい》の重臣だ。これは主家《しゆか》と存亡をともにして悔《く》いない忠誠心を持っているのだ。しかし、土民《どみん》の出生である秀吉にそんな者があろうはずはない。自分の弟、姉妹のつれ合い、妻の一族などをかき集めて、やっと重臣群をつくっているのであった。
蜂須賀小六や竹中半兵衛は武勇にも智略にもたけた立派な武将ではあるが、これは織田家の家来だ。つまり朋輩《ほうばい》だ。秀吉にとっては寄騎《よりき》であるにすぎない。寄騎であるが故に、遠慮もある。実際彼らは秀吉が信長のために戦争する際には秀吉の指揮下に立って協力する義務があるが、もし秀吉が信長にたいして不奉公の行為があったら、信長に報告しなければならない義務もあるのだ。決して全面的に気をゆるせる人々ではないのである。
といって、新しく家臣を召し抱えるにしても、渡り奉公して歩くような者は、武勇智略にはすぐれていても、心術的に信頼出来るのは至って少なかろう。よしんば、ひょっとしてそんな人物がいたにしても、あまり大物を召《め》し抱《かか》えることは、信長の猜疑心《さいぎしん》を刺戟《しげき》するおそれがある。秀吉の慧敏《けいびん》さは、信長の時として狂的なまでになる猜疑心の深さを見ぬいていた。
こうなると、目下のところ、いやが応でも、弟や姉や妹のつれ合いや、ねねの縁者らを最も信頼しないわけには行かないのである。どれもこれも力量才幹は決してすぐれてはいない。普通である。だから、その点では頼りにするわけに行かないが、心根は皆誠実だ。この際としては、その誠実を信頼するよりほかはなかった。
杉原七郎左衛門は五十七、八の色の黒い老人であった。すぐ来て、かしこまった。
秀吉は言う。
「おれは、しかじかで、右大将様のご勘気《かんき》をこうむって、当分の間当城に引っこんでおらんければならんことになった。そのつもりでいるよう」
相手はおどろいた。「はっ」と言ったまま、口もきけない。
秀吉はさらさらと言いついだ。
「ついては、これまでは合戦合戦で、一日としてのんびりとくつろげる日はなかったが、今こそ当分のところひまじゃ。こげいな時に楽しまんでは、楽しむ時がない。されば、毎日、家中の者共を呼んで酒宴をひらく。区わけして、七日に一度くらいずつ皆が出られるようにせい。時々は余興も無うてはかなわん故、しかるべき先《さ》きざきに使を立て、能や幸若《こうわか》の大夫《たゆう》共を聘《よ》ぶようにせい」
七郎左衛門のおどろきと恐れは一通りではない。
「右大将様のご不興《ふきよう》をこうむっておられるのでありますれば、ご謹慎《きんしん》の上にもご謹慎あるべきに、それではご不興をかえってよろこんでいることになります。お怒りははかりがたくござる。切にお考え直しありますように」
と、諫《いさ》めた。
秀吉は笑った。
「阿呆《あほう》なことを言うな。おれにはおれの考えがある。こんな時に楽しまんでいつ楽しむ時があろう。やがてまたいそがしい身となるはきまっているのじゃ。言う通りにせい。しかと申しつけたぞ」
しかたがない。七郎左衛門は酒宴の準備をすすめたり、諸芸の大夫らを呼びにやったりする一方、息子《むすこ》の長房《ながふさ》を美濃の岩手山城につかわして、竹中半兵衛に訴えた。
「しかじかで、狂気の沙汰《さた》でございます。手前共がいかほど諫めましても、まるで聞入れる模様がありません。困《こう》じ入《い》りました。この上は世人の信仰厚くまた懇情《こんじよう》を頂いています貴殿のお力にすがるよりほかはござらぬ。何とぞご意見下さいますよう」
というのが、その口上《こうじよう》であった。
半兵衛はいつもの至ってもの静かな表情で聞きおわると、にこりと笑って口をひらいた。
「聞けば、いかさまご心配なことではあろうが、それは筑前《ちくぜん》殿に深い考えがあってなされていることのように、わしには思われる。筑前殿を信用して、なさるにまかせて、心配せぬがよかろう」
長房にはわけがわからない。
「深い考えとはどんなお考えでございましょうか。それがわからねば、家中安心いたさぬと存じます」
半兵衛は笑って、うなずいた。
「今の筑前殿は織田のご家中では指おりの大身《たいしん》、高い木は風当りが強い道理で、筑前殿には敵が多い。とりわけ、こんどのことはご家中第一の権勢《けんせい》ある柴田殿と言い争いしてのことじゃ。柴田殿にはひいきの者が多い。
もし、筑前殿が長浜に居すくんで陰気くさい様子なんどでいられたら、柴田殿への忠義立てに、右大将様にむかって、筑前は殿様をうらんで謀反《むほん》をくわだてているようでござる、あの領内には以前殿様のきびしい攻撃をあんなに長い間もちこたえた小谷《おだに》の旧城もござるなどと、讒言《ざんげん》をする者がないとも限らぬ。右大将様はなみなみはずれて賢いお人ゆえ、一人や二人がそんなことを申し上げたとて、信用なさる気づかいはないが、度重なれば、どうかのう。
昔、もろこしに孔子《こうし》という聖人《ひじり》がいた。その弟子に曾参《そうしん》という者がいた。かしこくて、心掛けよく、行《おこない》正しい若者であった。ある日曾参の母が機《はた》を織っているところに、村の者が走って来て、
おまんとこの参が市《いち》で人を殺したで。早う逃げんと、役人がおまんを縛《しば》りに来よるで
と言うた。母は参を信じきっている。
うちの参は人を殺すような者ではありませんわい
というて、平気で機を織りつづけていた。
すると、また一人が走って来て、
おまんとこの参が人を殺しよった。早う逃げなはれ
という。その時も母は、
何言いなさるぞい。かつごうとしたかて、無駄ですぞい。うちの参は人を殺すような者ではありませんわい
と答えて、機を織りつづけていた。
しばらくして、また一人が来て、
おまんとこの参が人を殺したで
と言うた。
三度もこうであったので、さすがに息子《むすこ》を信用しきっていた母親の心もぐらりとゆらいで、杼《ひ》を投げすて、垣根をこえて逃げ出したという話がある。
曾参のようにかしこくて、行の正しい人とそれを信用し切っている母親との間でも、三人も中傷《なかごと》する者がいると、心がゆらぐのじゃ。人の人にたいする信用は、このようにはかないものじゃ。ましてや、右大将様は人なみはずれて用心深いご性質じゃ。どういうことになるか、大方察しがつこう。筑前殿はそこを考えておられるのじゃろう。わしが筑前殿であっても、今のところはそうするよりほかはないのう」
じゅんじゅんとして、半兵衛は説き聞かせた。
長房は感嘆して、長浜にかえって行った。
二、三か月こうしたことがつづいた。その間に、柴田勝家は加賀の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》を圧服して、織田家の分国《ぶんごく》としてしまった。どういうものか上杉謙信は能登《のと》から加賀に入って来なかったので、こんなことが出来たのであった。
(運のよいやつめ!)
秀吉はおもしろくなかったが、それほど不愉快ではなかった。
湖畔《こはん》の葦《あし》がすがれて来て、湖水のいたるところに水鳥の群がうかび、対岸の比良《ひら》山のいただきに雪が来る頃、一人の人物が訪ねて来た。播州御着《ばんしゆうごちやく》の城主|小寺政職《おでらまさもと》の家老で、同国|姫路《ひめじ》の城主小寺官兵衛である。
官兵衛が長浜に来たのは、これで二度目だ。最初は去年の七月だ。
官兵衛は御着の小寺家の家老として、天下の形勢を観望していた。毛利に属すべきか、織田に属すべきか、阿波《あわ》の三好《みよし》に属すべきかと、思案をつづけていた。播州のように中央に近い土地の小豪族は、しょせん独立は通せない。立寄《たちよ》る大樹を見定めて生きのびる工夫をしなければならないのであった。官兵衛は最初から織田がよいと心にきめていたが、主君の政職や他の家老らは織田をきらっていた。
信長が朝廷を擁《よう》して天下に号令していることはもちろん知っているが、元来が成上《なりあが》りものである上に、義昭将軍を京から追い出すなどという悪行《あくぎよう》がある、いつまでその勢いがつづくかという疑問がある。三好は旧勢力ではあるが、これまで何人かの足利《あしかが》将軍を擁立した閲歴《えつれき》があり、現在でも阿波公方《あわくぼう》とて、将軍継承権を持つ別派の足利氏を擁《よう》しており、本願寺との連絡もよくとれているから、決して無視さるべきではない。それでは毛利氏はどうかと言えば、芸州吉田の小豪族からの成上りものであるとはいえ、今日では山陰、山陽、九州にわたって十四州を勢力圏としているばかりでなく、信長の追い出した義昭将軍を保護し、本願寺と気脈を通じ、はるかに越後の上杉や甲斐の武田とも策応している。何よりも、その鋒先《ほこさき》が播州や但馬《たじま》にチカチカとせまって来つつある。
「三好は今はもうしかたがあるまいが、織田も感心せぬ。そりゃア力はある。しかし、手荒くてむごい。はるかなはるかな昔から王城鎮護《おうじようちんご》の霊山として定めおかれた比叡山を焼きはらって僧三千を殺してのけたこと、伊勢の長島を征伐《せいばつ》して門徒二万余人を焼き殺したこと、この二つが証拠じゃ。また信義に厚い人がらとも見えぬ、主と仰いだ公方様が自分のままにならぬとて、追いはらったがその証拠じゃ。とかく身をゆだぬべき家ではない。毛利がよい。これはどの点から見ても、一番難が少ない。さしあたっては、最も当家に近くせまっている家でもある」
というのが、政職《まさもと》や家老らの言い分であった。
官兵衛は家中における自分の立場をよく知っている。彼は二十二の時父の譲《ゆず》りを受けて家老の一人となった。元来が縦横の才気があるので、やりすぎる気味があって、他の家老らによく思われていない。官兵衛があまり強く主張すると、家老らはかえって反対するおそれがあった。また主人の小寺政職はあまりかしこくない上に強情な人がらだ。こんな人は自分と違った意見にたいしてはむきになって反対するだけで、虚心《きよしん》に検討して見る気なんぞおこさない。
官兵衛はかしこい男だから、通る見込みのない意見をやみ雲に主張するような阿呆《あほう》なことはしない。やがて機会が到来しようと、静かに待っていた。
やがて、その機会が来た。去年の五月二十一日、三州長篠で織田・徳川の連合軍が甲州武田の精鋭を痛破したことだ。しかも、最も奇抜斬新《きばつざんしん》な戦術をもってだ。このうわさは電光よりも迅速に天下に伝わり、播州には同月の二十五、六日頃には最もくわしく聞こえて来た。
官兵衛は大急ぎで御着《ごちやく》に出仕《しゆつし》し、政職に言って家老らを召集して、評定をひらかせ、
「織田家こそ天下人となるに相違ござらぬ。甲州の武田さえ、ほとんど全滅にひとしき敗れようをして、勝頼がいのちからがら本国に逃げ帰ったことは、すでにお耳に達していることと存ずる」
と言って長篠合戦のことを一くさり述べ、さらに毛利の兵勢を論じ、毛利は元就《もとなり》の死んだ後は保守の方針に転じている故、到底天下の主となることはないと断じ、
「このように両家の勢いが明らかになった以上、織田家にこそ当家も帰服《きふく》すべきであると存じます」
と、結論した。
いくら官兵衛をきらっていても、長篠のことはあまりにも近く、あまりにも明らかだ。家老らは官兵衛の主張に反対することが出来なかった。こうなれば元来|愚物《ぐぶつ》の政職だ。織田家帰服がよいような気がして、そうすることに断《だん》を下した。
官兵衛は早速政職に説いて、使を岐阜につかわし、帰服を申送ることにした。使者は六月下旬帰って来て、織田殿は長篠合戦のことを奏上するため、近々に京に出、しばらく滞京の予定のようであると報告した。
(いい機会だ。直接信長に会って、帰服のことをかためておこう)
と思い立った。信長という稀世《きせい》の英雄男児に会ってみたい気も大いにあった。
政職を説いて、許しを得、手厚い礼物《れいぶつ》を用意させ、たずさえて東に向った。
信長のこの上京はたしかに軍状奏上のためであったが、結果的にはこのほかに数人の家臣らのために官位を下賜《かし》してもらったりすることになった。それは前に書いた。
彼はこれらのことがすむと、越前|征伐《せいばつ》の準備のために、すぐ岐阜に帰った。官兵衛が京都についたのは、そのあとであった。
(せっかくここまで来たことじゃ。岐阜まで行こうわい。岐阜の城は堅固《けんご》で美しいこと、この世のものとは思われぬという話じゃ。また城下の町も大へんな繁昌《はんじよう》じゃという。ついでのことじゃ、見て来ようわい)
と、官兵衛は考え、さらに東した。
岐阜について、申し入れると、信長は早速に引見した。
官兵衛は才気|煥発《かんぱつ》という人物だ。しかも、老年に至るまでいくらかその才気をひけらかす気味のあった人だ。この時はちょうど三十という若さであり、かねて想望《そうぼう》していた信長の前にはじめて出たのだ。十二分にその才気を見せた。黒田|家譜《かふ》によると、滔々《とうとう》たる快弁をもって、播州《ばんしゆう》の諸豪族らの形勢をのべ、経略の方法を説いた。
信長の長所の一つに「人物好き」がある。彼は病的に猜疑心《さいぎしん》が強かったし、時として狂的なくらいに残忍だったし、大わがままものであったが、才能ある人物、手腕ある人物は大好きであり、その人々の手柄にたいしては常に重く報《むく》いた。信長にこの美質があったればこそ、秀吉は土民《どみん》生まれの小者《こもの》から、明智光秀や滝川一益は一介《いつかい》の旅浪人《ろうにん》から、それぞれ大身《たいしん》の大名に取立てられたのだ。
信長は播州の小大名の若い家老が大いに気に入り、長時間にわたって飽《あ》きずに耳を傾けたばかりか、官兵衛が退出にかかると、座側の大刀をとって、
「これはおれが大事にして圧切《へしきり》≠ニ名づけている刀じゃが、今日の引出ものとして、そなたにあたえる」
といって、授《さず》けた。
二尺四寸一分、長谷部|国重《くにしげ》の作で、こんな話が付随している。ある時、信長の同朋《どうぼう》(坊主《ぼうず》、給仕《きゆうじ》)が信長の怒りに触《ふ》れた。信長がこの刀で斬ろうとしたところ、同朋は台所に逃げこみ、膳棚《ぜんだな》の下にもぐり、奥にへばりついて出て来ない。信長は益々怒って、刀を棚の下にさしこみ、刃を相手の胴中にあてがい、力をこめておしつけるにしたがって、羊羹《ようかん》を切るように斬れ、ついに斬りはなしてしまったので、こんな名をつけて愛蔵していたのであった。それをくれたのだ。いかに官兵衛が信長の気に入られたか、よくわかるのである。
信長はまたこう言った。
「播州へは羽柴筑前をつかわす。その方案内役となって、万事筑前と談合して、働いてくれい。播州が手に入った後には、毛利の征伐《せいばつ》にかかる故、その時は必ずその方を先鋒《せんぽう》とするぞ」
「仰せ下されました趣《おもむき》、一々かしこまりました。必ず懸命のご奉公いたすでございましょう」
と、答えて退出し、帰国の途についたが、その途中、途《みち》を曲げて長浜に立寄り、秀吉に会った。
秀吉もまた官兵衛の人物が気に入った。とりわけよろこんだのは、信長が「播州へは羽柴筑前をつかわす」と言ったということであった。ついこの前、信長の奏請《そうせい》で朝廷から官位を叙任《じよにん》されたり、姓や名字を下賜《かし》された時、右筆《ゆうひつ》二人は別として、武役《ぶやく》の者はすべて官は九州の国守号であり、姓や名字は九州豪族のものであったので、「いずれは殿様は九州にお馬を向けなさるつもりでお出でじゃ」と見当はつけていたが、その先鋒として先ず中国経略の仕事を自分に仰せつけるつもりで信長がいたとは、思いもかけないことであった。
(なるほど、北国路は柴田、中国路はおれというわけか。つまり、殿様は今ではおれを柴田とならぶものと見ておられるのじゃわ)
と、判断したのであった。
秀吉は夜を徹して官兵衛と語って、少しも飽《あ》かなかった。数日引きとめておきたかったが、越前の門徒征伐がせまっているので、そんなわけにも行かなかった。心をのこして別れた。
こんなわけであったから、あるいは、この前加賀で柴田と喧嘩《けんか》して勝手に引き上げて来たのも、心の底の底に中国征伐のことがあったからかも知れない。「そんなことを意識はしなかったが、おれの本当のしごとは中国にある。こんなところで、柴田のような気の合わぬ男の下について働くのはおれの本当のしごとではないという気持が、意識の底にあったのかも知れない」と考えてもいるのであった。
その官兵衛が、湖畔《こはん》を走る北国《ほつこく》街道を、湖上をわたって吹きつけるつめたい風に吹かれながら、訪ねて来てくれたのである。
官兵衛が来たと聞くと、秀吉は大急ぎで迎えに出た。鬱屈《うつくつ》しないように工夫して楽しんでいるのだが、それでも主人のきげんを損じて出仕《しゆつし》もかなわず、仕事もあたえられず、遊んでいなければならないことは、どうにも面白くないことであった。官兵衛の来たということは、梅雨《つゆ》の明ける際の雷鳴を聞くに似た気持があった。
本丸の門の方に行くと、官兵衛の来るのが見えた。一人ではない。男の子を連れている。そのあとに供侍《ともざむらい》が四人従って、案内の者に連れられて、薄い夕陽のさしている中を来つつあった。
「やあ、官兵衛」
数か月の鬱屈がいっぺんに吹きとぶ気持だ。満面に笑いを浮かべて、秀吉は近づいた。
官兵衛も微笑を浮かべて近づいて来る。
次第に近づいて、立ちどまった。
「これは筑前殿」
「めずらしいの、もうやがて一年半になるぞ。よう見えた、よう見えた」
「安土《あづち》のお城が大へん立派であるといううわさでありますので、拝観かたがた上《のぼ》ってまいりました」
「おお、そうか、そうか。ずいぶん立派になったであろうな、たぶん知ってござろうが、わしは八月からこちら行っておらんのだ。ハハ、ハハ」
「でありますそうで」
官兵衛も笑った。
子供は九つか十であろう。色の白い、かっきりとした顔立《かおだち》の、丈夫そうな子であった。官兵衛の側に立って、真黒なよく光る目で、またたきもせず、秀吉を仰いでいた。
「これは?」
と秀吉は官兵衛にたずねた。
「われらが長男――長男と申そうより一人子《ひとりご》とはっきり申しましょう。名は松寿《しようじゆ》、当年九つであります」
と官兵衛が言うと、子供は行儀よくおじぎして、はっきりと言う。
「松寿丸でございます。お見知りおき下さりますよう」
おとなびた口上《こうじよう》に似ず、子供らしい明るい声であった。愛らしかった。子供は好きなのである。四十という年になっても一人も子供がないだけに、一層子供は好きなのである。
「おお、おお、松寿丸じゃの。おぼえたぞよ。わしが名は羽柴筑前守秀吉。そなたも覚えてたもれや」
すると、松寿丸は言ったのだ。
「お名前は前から知っています。父が教えてくれました」
こまちゃくれているなどとは思わない。かえって一層|可愛《かわ》ゆくなった。
「おお、そうか、そうか。かしこい子じゃ、かしこい子じゃ」
手をひいてやって、
「官兵衛、さ、まいろう。立話で、少し寒うなった」
と、言いながら歩き出した。客間に入り、大|火鉢《ひばち》に山のように炭火をおこさせ、両手をかざしてあたりながら、二人は語った。松寿は従者らとともに別室にやった。
官兵衛は言う。
「去年|拙者《せつしや》が岐阜にまいった時の右大将様のご様子では、ごく近々に貴殿を中国路におつかわしになるような風でありましたのに、一向《いつこう》に音沙汰《おとさた》がござらん。はてどうしたことぞと思いながら、近頃まで待ちましたが、このほど、貴殿が右大将様のご不興《ふきよう》を買われて、ご前を遠ざかってお出での由、聞き及びましたので、おどろきました。そこで、ちと工夫して、様子を見に安土にまいりました」
にやにやと笑う。これが間《ま》になって、大いに興味をそそられた。
「工夫して?」
「ああ、工夫しましてな、せがれを連れて出てまいったのが、その工夫でござる。拙者、右大将様にお目通りして、こう申したのでござる。播州ご平定をお願い申しながら、証人を奉りませんだのは、拙者《せつしや》の手落でありました。近頃、心づきまして、せがれ松寿と申すを召し連れてまいりましたれば、お手許《てもと》にとどめ給い、一日も早く播州入りあられますようお願い奉ります≠キると、右大将様は拙者の心づくしをおほめ下されて、こう仰せられました。その方の心入れ珍重《ちんちよう》である。播州へは必ず馬を向ける。いろいろと都合があって急には行かんかも知れんが、必ず向ける。松寿はせっかく召し連れて来たのであれば、長浜へ連れて行き、筑前に世話させるよう≠ニ。いかがでござる。右大将様はご本心では貴殿を少しもお腹立ちではないのでござる。やはり中国入りは貴殿の仕事と考えておられるのでござる。これがわかりましたので、拙者大いに安心、二、三日遊ばしていただくつもりで、まいったのであります」
秀吉は相手をおがみたいほどにうれしかった。信長が本気で自分に腹を立てているとは思っていなかったが、こんなに長い間お咎《とが》めがゆるされないと、時々おそろしく意地悪くなり、残忍になり、執念深くなる信長の性質を考えて、不安と恐怖にかられることもあったのである。しかし、今官兵衛の言う通りであるとすれば、殿様の自分に中国を経略させようというお考えは変ってはいないのだ。やはり、自分の考えた通り、世の見せしめのため、ご前を遠ざけて慎《つつし》みを仰せつけられたのだと、全身の血が一際|温《あたたか》くなって、どきどきと音を立てて、調子よくめぐりはじめる気持であった。
「ほう、そうでござったか、そうでござったか。お礼申す。よくわかり申した。お礼申す。よくわかり申した……」
くりかえすうちに、秀吉は涙がこぼれそうになった。
秀吉は湖水の魚、水鳥の数々、珍味をつくして官兵衛をもてなした。しかし、官兵衛はそう酒はいけない。食も細い方だ。この点では、秀吉も同じだ。話ばかりがはずんだ。
秀吉は官兵衛が純粋にこちらのことを思って、こんな工夫をしてくれたのだとは、もちろん、思わない。こちらのため三分、自分のため七分くらいのかね合いでやってみたのだろうと思っている。しかし、だからといって、官兵衛の心入れをありがたくないとは思わない。他人に全面的の友情を期待するのは子供の心だと思っている。たがいに仕事をかかえ、係累《けいるい》をかかえる大人《おとな》となってからは、われ人ともに最大限三分の友情しか出せないものと性根をすえるべきである。でなければ計算が全部甘くなってしまうと考えている。だから、官兵衛の友情は大いに感謝しないではいられないのであった。
話すほどに、語るほどに、両者の友情は益々深くなった。秀吉は、官兵衛を竹中半兵衛に引き合わせたいと思って、夜の明けるのを待って、岩手山城に使を出した。
翌々日の夕方、半兵衛は来た。
秀吉は早速二人を引き合わせて、酒宴をひらいた。二人とも尋常の人々ではない。たがいに相手の器量に感心して、相許すなかになった。
この二人が秀吉の左右にあって働き、秀吉陣中の張良《ちようりよう》・陳平《ちんぺい》と人々に称せられるようになるのは、この次の年からである。二人はいずれも智謀《ちぼう》最もすぐれた人々であるが、その長ずるところは少しちがう。半兵衛は戦術においてとくにすぐれ、官兵衛は外交と調略《ちようりやく》にとりわけ秀でていた。
五日滞在して、官兵衛はかえって行き、松寿丸は四人の家来とともにのこされた。この松寿丸が成人の後黒田長政となるのだ。
また、松寿丸に従ってのこった、家来の中の一人に母里《もり》太兵衛がいる。後に日本号の名槍《めいそう》を福島正則から飲み取ったというので、今日もなお黒田節でうたわれているあの豪傑《ごうけつ》である。太兵衛はこの時二十一であった。
官兵衛が帰って行って間もなく、信長は内大臣に任ぜられ、以後|内府《ないふ》様と言われることになる。
官兵衛と秀吉とは、播州と江州にわかれていても、たえず文書をかわして、心肝を吐露し合って、その交情は深くなるばかりであった。
この頃、秀吉から官兵衛に出した手紙がのこっている。こうだ。
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その方の儀は、われら弟の小一郎どうぜん(同然)に、心やすく存じ候。なにごとをみなみな(皆々)申すとも、その方ぢきだん(直談)の(を)もて、ぜし(是非)は御《おん》さばきあるべく候。われらにく(憎)み申す物(者)は、その方までにくみ申すことあるべく候。その心へ(得)候て、やうじん(用心)をあるべく候。
(わしはそなたを弟の小一郎同様に、打ちとけて思っている。誰がどんなことを言って中傷《ちゆうしよう》しても、そなたはわしに直談して確かめた上で真偽《しんぎ》を決定してほしい。わしに悪意を抱いている者は、そなたにたいしても悪意を抱くこともあろうから、そのつもりで用心すべきである)
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この手紙はまことにうまい。卑俗《ひぞく》なことば使いと誤字《ごじ》がやたらありながら、そのためにかえって真情流露の感があって、不思議な名文になっているが、いくら名文家でも、技巧だけでこう書けるわけがない。官兵衛にたいする秀吉の深い信頼と愛情があったればこそ、書けたのである。
間もなく天正四年が暮れ、新しい年になって間もなく、秀吉にたいする信長のきげんがなおった。安土まで呼び出して、笑いながら、
「いいかげん懲《こ》りたろうで、ゆるす」
と言いわたしたのであった。だから、それからはおりおり安土城に伺候《しこう》した。
官兵衛から来る手紙は、いつも一日も早く播州に兵を出されるのが利であると言って来るので、秀吉もおりに触れてはそう言上したが、信長は、
「待て待て、まだ時機が熟せんわい」
と言うばかりであった。
この場合の時機とは、信長自身の都合であった。最も恐るべき上杉謙信はいつ上洛《じようらく》の途《と》に上るか知れず、石山本願寺はまだ頑張《がんば》っているし、武田勝頼だって息の根をとめられたわけではない。遠く兵を動かすことは危険なのであった。それがわかっているから、秀吉もあまり強くは言えない。反対に、官兵衛をなだめすかすことになる。しかし、それもこちらの事情を説明しながらも、官兵衛をあまり失望させてはならない。かねあいが実にむずかしかった。
桜の過ぎる頃、官兵衛の手紙はついにこう書いて来た。
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当国《とうごく》の形勢、まことにおもしろくなくなって来ました。それはこちらが掛声《かけごえ》ばかりで一向《いつこう》ご出陣がないのに、毛利方では着々と歩を進め、すでに山陽方面では備前の宇喜多《うきた》を帰服させました。また山陰方面では因州《いんしゆう》の山名《やまな》を帰服させました。毛利家では、この両家を足場として、ここから播州と但馬《たじま》の豪族らに働きかけているのです。そのために、この両国の豪族らはもとよりのこと、丹後《たんご》、丹波あたりの者まで、心を毛利に向けて動揺しはじめました。まことにゆゆしいことになったものです。
しかしながら、これはこちらの出馬が遅延しているためのことでありますから、出馬さえしていただくなら、人々の動揺は忽《たちま》ちしずまり、織田家に心をむけるに違いありません。
千言も、万語も、今は不要。一刻も早くご出陣あることであります。拙者《せつしや》からも内府様に事情を報告、お願い申し上げますが、貴殿からも申し上げていただきたく願い上げます。
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官兵衛の言うことは重々道理だ。事情やむを得なかったとは言え、西征の掛声だけでいること、間もなく二年になろうとする。大勢力に所属しなければ自存を保つことの出来ない小豪族らが動揺し、早く近づいた勢力になびくのは当然である。しかし、一旦《いつたん》なびいてしまったら、これを回復するのは大へんなしごとだ。
秀吉は信長の事情がよくわかっているのだが、やはり説かずにはいられなかった。官兵衛の手紙を見せて、何とか方法を講ずべきであると主張した。
「おれのところにもそう言うて来ている。何とかせんければなるまい。しかし、どうすればいいと思うか」
と、信長は反問した。
「拙者《せつしや》をおつかわし下さりませ。いかさま、これは小寺《おでら》の申すように、ご先鋒《せんぽう》勢が播州に行っているというだけでよいのでありますれば、拙者と寄騎《よりき》衆だけの勢《せい》でよいと存じます。行きさえすれば、国侍《くにざむらい》共の気を取って味方に引き入れることも出来ますれば、先ず一応の人数にはなろうかと存じます」
「なるほどな。しかし、そううまく行くかな。小身《しようしん》な国侍ほど勢いに弱いものはない。夥《おびただ》しい軍勢で行ってこそ、勢いになびいて、味方となりもしようが、千や二千の小勢で行ってはどうであろう。といって、割《さ》いてあたえる余分な勢はない」
さすがの信長もなかなか決断することが出来なかった。
そうこうしているうちに夏も半ばになった。官兵衛は安土に出て来て、秀吉に会ったり、信長に目通りしたりして、早急に出兵されよと説き立てた。秀吉もまた説いた。
信長はやっとそうすることにしたが、それでも官兵衛にこう命じた。
「播州の国侍共から証人を差出させるよういたせ。出来るか」
播州の諸豪族から人質を差出させるのは、つまりはその者共を服属させ味方にするということであるから、それが出来れば、播州派遣軍は先ず安全なわけである。
官兵衛は昂然《こうぜん》として答えた。
「出来ます。しかし、そのためには先ずご軍勢をつかわされることでございます。そうして下さるなら、数日のうちに証人共をとり集めて差出すことを受合い申します。拙者《せつしや》が自信なきことを申しているのでないことは、拙者がすでにひとり子を証人として差出し申していることをもっておわかりいただきたく存じます」
官兵衛の熱意はついに貫徹《かんてつ》した。
「よかろう。それでは、筑前とその寄騎《よりき》の者共をつかわすことにいたす」
と、信長は言ったのである。
陣触《じんぶ》れが行われ、羽柴家の人数や竹中半兵衛をはじめとするその寄騎衆の人数らが、それぞれに出陣の準備をしている時も時、八月半ばのことであった。大坂の石山城のおさえとして天王寺の砦《とりで》につめていた松永弾正父子が、不意に守りを捨てて大和にかえり、居城信貴山城に立て籠《こも》って、謀反《むほん》の色を立てたのだ。
松永のこの謀反は、この当時はまるでその理由がわからなかったが、後になってわかった。遠く越後の上杉謙信と謀《ぼう》を通じて、謀反して籠城《ろうじよう》戦に持ちこんで時をかせいでいるうちには、謙信が上洛《じようらく》して来るという計算だったのである。
信長は狼狽《ろうばい》した。当時、織田家の軍勢の大部分は加賀方面に出動していたのだ。攻め潰《つぶ》そうにも兵がない。といって、加賀方面から兵を召還《しようかん》するにも、うっかりとは出来ない。この頃まではまだ松永と上杉との間に連絡があることはわかっていなかったが、隙あれば攻撃をかけるのは兵の常道だ、加賀方面が手薄となったと知れば、必ず攻めこんで来るものと思わなければならない。
越後の様子を見きわめるために、一月半もかかり、謙信が関東方面に出馬していることがわかった。
そこで、相当数の兵を引き上げさせ、同時にむすこの信忠を岐阜から出陣させて、大和に向わせた。秀吉もこの征伐《せいばつ》に加わった。
十月一日から信貴山城の攻撃にかかり、十日に攻めおとし、弾正は天守閣上で炎とともに死んだ。
松永久秀がこの最期《さいご》にのぞんで、秘蔵していた平蜘蛛《ひらぐも》の釜《かま》を微塵《みじん》に打ちくだいたのは有名な話になっている。この釜は天下の名器で、信長はかねてから心をかけていたので、佐久間信盛に言いつけて、
「天下の名器をむざむざとほろぼすこと、果報のほども恐ろしいこと。その釜は上様もかねてよりご執心なれば、差出さるべし」
と申し入れさせたところ、久秀は、
「この釜とわれらの首とは、信長殿の目には再びかけぬ所存でござる」
と答えて、釜は微塵にたたきわり、自分の首は切腹した後火薬で焼かせ、これまた微塵にくだき、しかもその上天守に火を放ったので、死骸《しがい》もまた灰燼《かいじん》になったというのである。久秀は徹底した悪人だ。戦国|乱離《らんり》の世においてすら、彼と美濃の斎藤道三とは悪人の双璧《そうへき》だ。悪人といわれている人でも、大ていは反省心や後悔があるものだが、この二人にはそれが全然ない。この剛愎《ごうふく》さは、一種の男性的爽快さがある。
信貴山城が陥《おちい》って九日の後、十月十九日、秀吉は安土城下を出発して播州に向った。総勢三千余であった。この中には寄騎《よりき》衆の兵があり、また雲州|尼子《あまこ》の浪人|山中鹿介《やまなかしかのすけ》が同志とともに尼子勝久を奉じて加わっていた。尼子家の再興のために、これまでいく度も毛利氏と戦ったが、その度に失敗し、こんどは信長に頼んで、秀吉の軍勢に加えてもらったのである。
二十三日、播州に入り、阿弥陀宿《あみだのしゆく》につくと、官兵衛が迎えに来ていた。ここは官兵衛の居城姫路から二里東方である。
「お住《すま》いには拙者《せつしや》の居城を献上いたしますが、本丸は住みあらしていますので、唯今《ただいま》掃除いたさせています。掃除の出来上りますまで、むさい所ではありますが、二の丸の拙者の宅へお入りいただきます。ご案内つかまつる」
と言って、馬に乗って先きに立って姫路に向った。そして姫路につくと、軍勢は城下にとどめた。すでに民家に分宿させるように手くばりしてある。秀吉は二の丸のわが家に請《しよう》じ入れて休息させ、掃除のすんだところで、本丸に移らせた。何から何まで行き届いたものであった。
彼はまた城下の武家屋敷を全部目録にして、杉原七郎左衛門に渡した。すべて提供いたしますから、存分にお使い下さいとの意思表示だ。官兵衛のこのきびきびしたとりまわし、行きとどいた配慮、徹底的な従順さは、秀吉を感動させた。
(到底これは田舎《いなか》の小大名の家老の器量ではない。あっぱれ男!)
と、信頼は一層深くなり、二の丸の旧宅をかえして、以前のようにここに住むように言った。
官兵衛は秀吉にこうしてつかえる一方、最も精力的に播州内を走りまわり、かねて織田家に帰服を申しおくっている豪族らの人質《ひとじち》を取りまとめて、五日目には全部を完了した。
ただ一つ、官兵衛の思うにまかせなかったのは、彼の主人である小寺政職であった。政職の居城のある御着《ごちやく》と姫路の間は一里少ししかない。官兵衛は政職に説いて、秀吉のところへ挨拶《あいさつ》にお出《い》であるべきでござると言った。政職は一たんは承知して、官兵衛を姫路にかえしたのだが、そのあとで老臣らが、
「官兵衛はせがれを人質にさし出しているのでござれば、今では筑前と一つ穴のむじなになっています。軽々しくお出かけあるべきではござるまい」
と言ったので、忽《たちま》ちその気になり、出かけなかった。官兵衛はまた御着に行って諫《いさ》めて、出かけることを承知させたが、官兵衛が去ると行く気がなくなった。こんなことが度重なり、その度に秀吉は心待ちして裏切られた。
(けしからぬ政職め! けしからぬ家老共め! 官兵衛とは天地の違いじゃわ。今に見よ、その分には捨ておかぬぞ)
と、政職とその老臣らにたいして、最も不快な感情を抱くようになった。
官兵衛がわずかに五日の間に、国内の諸豪族の人質をとりまとめたことは、秀吉の手柄になった。秀吉はこれを信長に報告して、十一月十日までには国中全部|平定《へいてい》するであろうと上申した。危《あや》ぶんで、なかなか許さなかったほどであっただけに、信長のよろこびは一通りでなかった。
「出来《でか》したぞ、出来したぞ」
とほめて、播州一国その領地としてあたえるという朱印状《しゆいんじよう》をしたためて送って来た。
秀吉は人のふんどしで角力《すもう》をとってすましているような男ではない。兵を但馬《たじま》に出して城を陥《おとしい》れること三つ、その一つの竹田城に小一郎をおき、さらに兵をひきいて播州、備前、作州三国の境目に近い地点にある上月《こうづき》城を攻めた。備前の宇喜多家から援軍が来たが、ひとまくりにまくり散らしてきびしく城を攻め立てたところ、七日目に城兵らは城主の上月十郎を殺し、その首をもって降伏した。
秀吉は上月十郎の首を安土に送り、城には山中鹿介らを籠《こ》めた。
こうして、播州と但馬とが時の間に平定したので、その年の暮、秀吉は軍状報告のため、安土へかえった。
角川文庫『新太閤記(二)』昭和62年7月25日初版刊行