海音寺潮五郎
新太閤記(三)
目 次
泥沼合戦
花占い
餓鬼道城
雲巻き起る
名花の桜今盛り
秀吉と勝家
お市の再縁
賤が嶽
泥沼合戦
一
秀吉が上月《こうづき》城を攻囲している頃《ころ》に、信長は右大臣に拝せられた。そして、秀吉が播磨《はりま》と但馬《たじま》――つまり今日の兵庫県の大部分だが――を経略しおわって、軍状報告のために安土《あづち》にかえった時には、信長は三河《みかわ》の吉良《きら》へ鷹狩《たかがり》に行っていたが、その出発前にかかりの者に言いつけて、秘蔵する不動|国行《くにゆき》の刀と乙御前《おとごぜ》の茶釜《ちやがま》とをとり出させ、すっかり手入させた上、留守居《るすい》の菅屋九郎右衛門《すがやくろうえもん》を呼び出し、
「九郎右衛、汝《われ》を呼んだは余《よ》の儀でない。近々に筑前《ちくぜん》が播州《ばんしゆう》から帰って来る。筑前のこん度の働きはなかなかのこと、ここに取り出した刀と茶釜とをほうびとしてあたえることにした。筑前が来たらば、おれがそう言うたと言って、くれてやるよう」
と、申しふくめたのであった。
だから、秀吉が安土について、帰着の旨を届け出るとすぐ、菅屋は秀吉を呼んで、信長のことばを伝えて、刀と釜をあたえた。
武功ある者に武器・武具を賞賜《しようし》するのは常のことであるが、この来《らい》国行は信長の秘蔵している刀の中でも、別して秘蔵のものであった。佩《は》き表《おもて》の腰もとに不動尊の像が見事に浮彫《うきぼり》されているので、不動国行と名づけられているのだ。
乙御前《おとごぜ》の釜《かま》は、これまた天下の名器である。乙御前の乙は弟妹《ていまい》の意。つまり、妹御前の意味だ。年若い妻の意だ。年若き第二夫人といえばなおわかりやすかろう。この釜でわかした湯は、年若き第二夫人の唇《くちびる》のようにうまいというところからつけられた名前である。余談だが、この時代|姥口《うばぐち》の釜というのがあった。姥口は本当は上口《うわくち》だという。上口《うわくち》は下口《したくち》と相対することばで、――少々|猥褻《わいせつ》な造語法だが、つまり唇の意だ。この釜でわかした湯はキッスの味というこころで、こんな名をつけたのである。この時代の素朴直截《そぼくちよくせつ》な気風、茶人らが無学で、従って端的であったことを物語るものであろう。
もらったものがこのような名器であることは、もちろんうれしかったが、この場合の秀吉には別な意味のうれしさもあった。信長が茶器を賞賜したのは、「その方も今は一人前以上の者となったのだから、時には茶の湯などして慰むがよい」という意味になるのだ。信長は家来らが勝手に茶の湯遊びをすることをよろこばない。その資格なき者がすべきことではないと考えているのだ。秀吉はその資格を認められたわけであった。
秀吉は涙ぐむばかりによろこび、また感謝しながらも、信長の人使いの巧みさに感心せずにはいられなかった。自分が他所に行かなければならないとて、賞賜の品物を出して留守居の者にあずけておくなど、どんなに人を感激させるか知れないのである。
(これは術《て》であろうか)
と、考えてみた。そして、
(術では追いつくまい。心掛けであろう。どうせ賞するなら、その者を出来るだけ喜ばせてやろうという心掛けをいつも持っているなら、こんな工合《ぐあい》にならないわけに行かないのだ)
と、思った。武将の心掛けとして最も大事なことの一つをまた学んだ気持であった。
屋敷にかえって家族らと団欒《だんらん》したり、長浜《ながはま》へ行って不在中の政務の報告を受けたりした。その間に歳暮《さいぼ》がせまって来た。信長が安土へ帰る日も近づいて来たので、安土に帰って来た。
信長は十二月十九日に岐阜にかえりつき、一泊して二十日に出発、その夜は佐和山《さわやま》に泊まり、二十一日に安土に帰って来るとのことであった。秀吉は二十日早朝安土を出て、佐和山に行き、ここの城主の丹羽長秀《にわながひで》とともに城下のはずれまで出迎えた。
信長は夕方にはまだ間のある頃に到着したが、迎えに出ている二人を見ると、
「やあ、筑前! 出迎え大儀《たいぎ》」
と、先ず秀吉に声をかけ、それから丹羽に、
「五郎左、ずいぶんおもしろい狩であった。汝《われ》にも土産を持って来たぞ」
と言った。放胆で、わがまま一ぱいのように見えながら、こまやかに気をつかっている信長であった。
信長は城に入ると、おびただしい獲物《えもの》を丹羽にあたえ、三河での狩の話などをおもしろくして聞かせたが、一通りそれがすむと、秀吉を別に呼びよせた。
「中国路のこと、よくぞ早く片づいた。働きあっぱれであるぞ。語って聞かせよ」
と、経略の次第を飽かずに聞いた。秀吉はくわしく語ったが、とくに小寺官兵衛《こでらかんべえ》の人物と働きとを強調した。
「そうか、そうか。なかなかの者であることは、おれも見ていたが、やはりそうか。御着《ごちやく》の小寺ごときの家来に、あれほどのやつがよういたものだの」
「御意《ぎよい》。田舎の小大名の家老には出来すぎています。この上ともにお役に立つべき者と存じます」
「うむ、うむ、可愛がってやれ、可愛がってやれ」
信長は満足げであった。
一晩泊まっただけで、信長は安土に向い、その日、安土城に入った。
秀吉は安土で正月を迎えたが、年頭にはさらに光栄が待ちかまえていた。元旦に信長は家臣やら国内の被官《ひかん》らの年頭の賀礼を受けた後、嫡子《ちやくし》信忠をはじめ十二人の者をえらんで茶の湯の接待をしたが、その一人にえらばれたのである。
また四日には信忠が安土で茶の湯をして、九人の客を招待したが、その一人として招待された。
あれといい、これといい、今や織田家でおしもおされもしないものとなったという自信が腹の底から湧《わ》いて来るのであった。もっとも、一面、
(ずいぶんけわしい山を越えて来たが、この身分を持ちこたえるのは、またなかなかのことやぞ。右大臣様はそのままに腰をすえている者がおきらいじゃ。前へ前へ、上へ上へと進む者しか、お好きでない。それどころか、今のところでもう満足じゃと腰をすえてでもいようものなら、大ヌル山のなまけ虫めと、見はなし、今の身代どころか、いのちまで召《め》してしまいなされるは必定《ひつじよう》じゃ。右大臣様の家中たる者は、切立てたような崖《がけ》をよじのぼりかけていると同じじゃ。上へ上へとよじのぼって行くよりほかはないのじゃ。なまぬるい根性では、どうにもならせんぞや)
とも思った。
ひそかに述懐も湧きうごいたが、自信は満腔《まんこう》にみなぎっている、
(次は毛利《もうり》、その次は九州、その次は……)
と、末はるかまで青雲を望む気持であった。
秀吉は三月はじめまで、安土と長浜を往復していたが、この間に石田|左吉《さきち》という青年を召しかかえた。
石田は長浜から東四、五キロのところにある北郷里《きたごうり》村石田郷の地士《じざむらい》の二男である。遠く先祖をたずぬれば、相模《さがみ》国石田郷の住人で、木曾義仲を粟津《あわづ》で討取った石田為久であるという。為久は木曾を討取った勲功《くんこう》によって、当国に所領をもらったので、子供の一人を代官としてつかわしたところ、その者は故郷の名をうつして石田を郷名として、代々ここに住んだ。左吉はその子孫であるという。
左吉は長浜在の寺の住職の口ききで、奉公を願い出た。和尚《おしよう》さんは石田氏がたしかな氏素姓《うじすじよう》のある家であることを説明した後、なおつけ加えた。
「代々、京極《きようごく》家の被官《ひかん》でごわりました」
「なるほど、さもあろうこと」
このあたりは佐々木京極家が代々守護大名であったところだ。小豪族や地士がその被官になっていることは最も自然なことである。
「浅井家とは関係なかったのでござるか」
京極家の所領を押領《おうりよう》したのは浅井家で、被官らも大方は浅井に乗りかえたのである。
「されば、その時から牢人《ろうにん》、帰農したのでござる」
「なるほど、なるほど」
領地の大方を浅井家に押領されて、わずかに五、六町の田を保って、生をつないで来たのであろうと、うなずいた。
「年は十九になったばかり、身体は強壮とは申せませぬが、知恵才覚は抜群でござる。器量もなかなかよろしい」
器量がよいといったのは、この時代は男色が盛行していたからだ。君臣の間は言うまでもなく、父子・兄弟の間でも裏切りがあり、殺し合いがありするのが少なくなかったほど人の心が険悪であったので、信頼出来るのは寵愛《ちようあい》の小姓《こしよう》だけであったから、武将達の間に男色が行われたのだと、古い書物にある。そのためばかりでもなく、好奇心からの風尚が世の習慣となってはやっていたのであろうが、信長と蘭丸《らんまる》とのこと、徳川家康と井伊直政とのこと、武田信玄と高坂弾正《こうさかだんじよう》とのこと等の例によっても、十分にうなずけることである。
しかし、秀吉は笑った。
「わしは男色は好かん。器量がよかろうと、用事ござらぬ。しかし、その若衆《わかしゆう》、利口ならば会ってみましょう。連れてござれ」
坊さんはよろこんでかえって行った。
秀吉が男色ぎらいであったことについては、こんな話が伝わっている。
羽柴長吉《はしばちようきち》は秀吉の小姓で、比類なき美少年であった。ある時、秀吉が長吉を人なき閑室《かんしつ》に召した。人々はたがいに、
「上様《うえさま》は男色はおきらいじゃと思うていたに、さすがに長吉の美しさにはお心を動かされたらしゅうて、お召しになったぞよ」
と言い合っていると、間もなく長吉がかえって来た。そういうことがあったとは思われないのである。そこで、どういうご用であったかとたずねると、長吉は答えた。
「そちに姉か妹はないかと、おたずねであったよ」
落し話めいた話であるが、『老人雑話』に出ているのである。
翌日、坊さんは左吉を連れて来た。いかさま、色白で、痩《や》せぎすの、清らかな青年である。切れ長な目が冴《さ》えて、怜悧《れいり》げであった。立居ふるまいも法にかなって、恭敬《きようけい》でありながら、落ちついている。昨日坊さんも言っていたが、からだはあまり丈夫そうではない。しかし、病身というではなさそうだ。
「そなた、あまり強いからだではないな。戦場の奉公がなるかの」
と、試しに問うてみた。
「仰せの通り丈夫ではありませぬが、武士の戦場での働きは、体力だけではありますまい。心剛《こころごう》に才覚すぐれていれば、ずいぶんと万人にすぐれた働きも出来るはずと存じます。たとえば、殿様のように。たとえば、竹中半兵衛《たけなかはんべえ》様のように。なおまた、武士の働きの場は戦場だけではないはず。ずいぶんとお役に立つべき者となる自信《おぼえ》が、拙者《せつしや》にはございます」
不敵なことを、せかず、臆《おく》せず、しとしとと、至って平静な調子で言う。
「言うわ」
秀吉は呵々《かか》と笑った。
大いに気に入った。虎之助《とらのすけ》とはまた違って、大いに見込がある。
「召《め》し抱《かか》えよう。知行《ちぎよう》は二百石、土地は当国にするか、播州《ばんしゆう》にするか、あとで吟味してつかわす」
と、言いわたした。播州にはすでに帰服している豪族らが多数あり、ここから西にのびれば新しく帰服して来る者がさらに多数あるはずだ。その者共のとりつぎ役として、諸礼作法にも通じ、小気のきいた者を一人ほしいと思っていたのであった。
やはり、その頃、長浜《ながはま》地方から関東方面に行商に行く町人に託《たく》して、福島与左衛門《ふくしまよざえもん》に誘いの手紙を出した。江州《ごうしゆう》の行商人は後世明治頃まで有名であるが、それはずっと前、琵琶湖名物の湖賊のことを書いた時説明した通り、古い時代から、琵琶湖が北は蝦夷《えぞ》松前から南は山陰地方に至るまでの裏日本全部の生産物資を京都に運ぶ唯一《ゆいいつ》の交通路であったため、自然商業がさかんになったからだ。古い時代の商業は行商が主であったのだ。これは日本にかぎらず、どこの国でもそうだ。西洋でも、マーキュリーは商業の神であるとともに旅人の神である。両者が一体のものだったからのことだ。ついでに言えば、盗賊の神もマーキュリーだ。古い時代には三位一体だったのであろう。琵琶湖の湖賊も、盗品をさばかなければならないから、一面では商人であったはずである。
さて、秀吉は与左衛門にこんな意味の書面を認《したた》めた。
自分は織田右大臣家の家中で、一応の身分になり、江州長浜十二万石と播州《ばんしゆう》一国とを拝領し、中国の探題職《たんだいしよく》を仰せつけられ、身にあまることとなった。いささか一族|姻戚《いんせき》に報いることが出来ると思う。貴所も来られたらいかが。貴家は左衛門|大夫《だゆう》綱成殿とは一族の義理のあることなれば、あるいは貴所はそれが出来ぬかも知れぬが、子息の市松はかまうまい。つかわされよ。せいぜい面倒を見ましょう。すでに、加藤の虎之助は五年前から来て勤仕《ごんし》して、唯今《ただいま》では五百石の知行をつかわしている。
二
二月末、小寺官兵衛から急ぎの使いがあった。
秀吉は引見《いんけん》して、人を遠ざけて報告を聞いていたが、やがて大急ぎで登城して、信長の目通りで、何ごとかを言上《ごんじよう》しておいて、長浜に急使を立てた。
同時に、信長は秀吉に播州帰任を命じたことを発表した。
安土出発は、三月四日であった。軍勢は、長浜から来た勢、寄騎衆《よりきしゆう》の勢、合して八千余という大軍になっていた。しかも、おそろしく軍容を美々しくしていた。
『総見記』によると、こうある。
「今日|首途《かどで》の陣押しの行列は最も厳重であった。
先鋒隊《せんぽうたい》
一番 旗
二番 鉄砲
三番 弓
四番 長柄《ながえ》の槍《やり》
五番 切具足《きりぐそく》
各々《おのおの》二行にならび、前後に騎馬《うまのり》従う。
中 軍
兵《へい》 鼓《こ》
軍目付《いくさめつけ》
乗替えの馬
秀吉手まわりの兵具。これは先鋒隊と同じ配列。
螺《かい》
小符《こじるし》
手あきの歩卒
秀吉本陣
鉄砲
弓
槍将校と小旗
重臣
使番二十八人
物見三十六人
軍勢七千五百余
重臣一人、先鋒隊と同様の配列の武具」
このように軍容を華麗|豪奢《ごうしや》にしたのは、小寺官兵衛の報《しら》せに関係がある。
秀吉が三月近く播州《ばんしゆう》を不在にしている間に、播州の形勢は相当切迫して来た。秀吉に一まくりに追い散らされた備前《びぜん》の宇喜多直家《うきたなおいえ》は、急使を馳《は》せて、毛利《もうり》家に訴えた。
「上月《こうづき》城は城兵共の逆心によって、残念ながら、敵の手に帰してしまいました。お家にとってこれは由々《ゆゆ》しいことではないでしょうか。なぜなら、ここに入って守っているのは、尼子勝久《あまこかつひさ》を奉じている山中鹿介《やまなかしかのすけ》、立原源太兵衛ら尼子の遺臣らであるからであります。尼子はお家と数代の怨恨《えんこん》のわだかまっている家、今や彼らとしては大いに覚悟するところがあるはずであります。もし上月を小城なりとして捨ておかれるようなことがあっては、恐るべき災禍となるやもはかりがたくござる。千丈の堤《つつみ》が蟻《あり》の一穴より破れ、|一※《しゆ》の線香の火から大廈《たいか》が炎上することも、例のないことではござらぬ。ゆめ、なおざりにしておかるべきではありますまい」
というのがその報告であった。
宇喜多直家は狡猾《こうかつ》な男だ。裏切りと陰謀ばかりで、赤手《せきしゆ》から今の身になり上ったのだ。この報告は、実は毛利家のためなぞより、自分の膚《はだえ》にせまって来た織田勢力の侵攻を、毛利の力によって撃退することに目的があったのだ。
毛利家では、それを知っているが、新たに上月《こうづき》城に地歩を得た尼子氏が最も大きな危険をはらんでいることは否定できない。尼子の残党にはこれまでもずいぶん苦汁《くじゆう》を飲まされている。間近くは八、九年前だ。永禄十二年夏、彼らがいきなり雲州《うんしゆう》島根郡|中山《ちゆうざん》に上陸して来た時、わずかに六十三人であったが、忽《たちま》ちの間に人数をかき集め、出雲《いずも》を風靡《ふうび》し、伯耆《ほうき》を平げ、毛利家で虎の子のように大事にしている石見《いわみ》銀山にまで手をのばし、おそろしい勢いとなって、元亀《げんき》二年夏まで満二年|蟠居《ばんきよ》し、これに乗じて前の周防《すおう》の守護大名大内輝弘が、豊後《ぶんご》の大友氏の尻押しで山口に乗りこんで来て遺臣や旧民に呼びかけて、なかなかの勢いとなり、毛利氏は恐ろしく手こずらされたのである。
なんとしても、出来るだけ早急に、抜本《ばつぽん》的な手を打つ必要がある。
軍議が行われた。
吉川元春《きつかわもとはる》は猛将だ。
こう主張した。
「上月《こうづき》城には、隆景《たかかげ》(小早川《こばやかわ》)、おぬし、右馬頭《うまのかみ》(輝元《てるもと》)殿のお供して向われよ。わしは石州《せきしゆう》、伯州《はくしゆう》、雲州、因州《いんしゆう》の者共をひきいて、丹波《たんば》に入り、かねて心を寄せているあの国の者共と合して京を目ざそう。そうすれば、本願寺も動く、播州の者も応じよう。織田は江州から一歩も京へ出ることはかなうまいぞ。天下のことはなるべしじゃ」
慨然《がいぜん》たる主張に、心を打たれる者が多かったが、かつて小寺官兵衛が主家に説いたように、元就《もとなり》死後の毛利家は積極進取の気分はなくなっている。元就が一代で稼ぎためた十数か国を固く守ることが出来さえすればよいという量見になっている者が多い。
「まことに胸のすく勇ましさではござるが、万全の策とはいえぬ。安全をとって、上月城一筋にまいろう」
ということになった。
以上のことを、官兵衛はかねてから放って潜入させている諜者《ちようじや》共によって知ったので、秀吉に急使を馳《は》せて報告したのであった。
官兵衛のこの報告には、
「吉川の策は一応用いないことにはなったものの、その狙《ねら》いはとり上げるでありましょう。すなわち、但馬、丹波、および当国の地士《じざむらい》共に働きかけて、その心を引きつけることは、大いに致すに相違ないと存じます。ご用心あってしかるべし」
と、意見をつけ加えてあった。
秀吉も同感だ。元来風になびく萱草《かやぐさ》のような地士《じざむらい》共だ。強ければ東西南北いずれの風にもなびく。毛利はそれほどの覚悟で出て来るのだから、あらゆる手をつくして靡《なび》かせようとするはずである。だから、こちらも風を強くする必要がある。信長に願い出て、総勢で八千という大軍にしたのであり、ことさら軍容を美々しく飾り立て、厳重にしたという次第。
こういうやり方は、インチキといえばインチキ、コケおどしといえばコケおどしだが、その効果を彼くらい知っている武将は、権謀術数《けんぼうじゆつすう》が常のことであったこの時代にもない。彼は生涯を通じて、この種のインチキを千変万化して、いろいろな際に使って、大いに効果を上げている。後世、江戸時代になって学者らに、「秀吉は詐術《さじゆつ》をもって天下を得た」と論評される所以《ゆえん》だ。しかし、人間に、さかんなものに拝跪《はいき》する心理がある以上、これを利用しない法はない。卑賤《ひせん》の出身だけに、秀吉にはその心理がよくわかり、従って巧みに、またしばしばそれを利用したというだけのことである。心理作戦である。詐術云々など、人生は道義だけで成立つべきものと信じている世間知らずの道学者の解釈でしかない。三月七日、秀吉は播州|加古川《かこがわ》に入り、同国|三木《みき》の豪族|別所《べつしよ》氏の家来|糟屋《かすや》助右衛門武則の館に入った。
安土を出る前に、官兵衛に使いを馳せ、国士《くにざむらい》らをここに召集してくれるように頼んでおいたので、すでに多数集まっており、なお続々と集まりつつあった。
官兵衛にその後の毛利の形勢をたずねると、
「いろいろな情報をつづくり合わせて判断しますに、吉川は雲州富田《うんしゆうとだ》から作州《さくしゆう》に向い、小早川《こばやかわ》は備後《びんご》の三原《みはら》から備中路《びつちゆうじ》をおし通って備前で宇喜多勢を合わせ、作州に入り、高田というにて、両勢合して、上月《こうづき》に押寄せる手はずになったらしく思われるのであります。かんじんの輝元のことは一向に聞きませぬが、やがてやはり出てまいることと存じます。毛利としても精一ぱいに景気をさかんにして、地士どもの心を引きつけねばならぬところ、総大将が不精をかまえて居すわっているわけにはまいらんのですから」
と、いつもの通り、明快な返事であったが、この官兵衛のことばは、安土《あづち》から動かない信長にあてつけているところがあるようにも聞こえた。
(じゃとすれば、不敵なことを言うやつ。おれが前ではさしつかえないが、余人の前でそうでは、危ないことになる。たしなめておいた方がよかろう)
と思って、その機会を見ていると、早くもさとったらしい。くったくのない微笑を浮かべて言う。
「拙者《せつしや》の唯今《ただいま》申し上げたことばには他意はありません。申したことばだけの意《こころ》におとり下さい。右大臣家は毛利とお立場がちがいます。本願寺、武田、上杉。足許《あしもと》にも、背後にも、おそろしい敵がひかえています」
「国士はずいぶん集まっているようだの」
「はい。大方、明日の午前中には全部集まりましょうから、午後にはご軍議がひらかれましょう」
さとい男である。単に集めるようにしてくれと頼んだだけであるのに、ちゃんと軍議をひらくためということを見ぬいている。頼もしかった。
官兵衛の言った通り、翌日の午後には、国士《くにざむらい》一同を一堂に会して、軍議をひらくことが出来た。もっとも、軍議とは言っても、実際は播磨《はりま》国主兼中国|探題《たんだい》としての自分にたいする敬意と服従を見るためであり、大いに恩をほどこしてその心を攬《と》るためであった。従って、拝礼と形式的な軍議とがすむと、饗宴《きようえん》となった。
秀吉は人心の収攬《しゆうらん》にはとくべつ自信がある。彼の人心収攬術は、一つには威を示しながらも決して威張らないこと、二つには賞賜《しようし》をおしまず、相手がびっくりするほどに金品をくれること、三つには最も親しいなかでなければ使わない調子のことば――たとえばちょっと目下の朋友《ほうゆう》にたいするようなことばや、たとえば伯父《おじ》の甥《おい》にたいするようなことばやで、ごくざっくばらんにものを言いかけることであった。
この時も、秀吉はこの得意とする手を大いに活用した。威厳を示すためには最も大がかりで豪奢《ごうしや》な軍容を示して行軍して来たし、糟屋館《かすややかた》についてからも、奥の座敷に入ったまま見参《げんざん》を乞う者に会わず、側近の者に旨をふくめて応対させた。
この応対役には、石田左吉があたった。怜悧《れいり》な左吉は、秀吉から、
「おれは疲れている故、休息せねばならん。目通りを願い出る者があっても、会わんぞ」
と言われると、すぐ言外の気持がわかった。
「かしこまりました」
と、答えて退《さが》り、次ぎ次ぎに来る国士共に応対した。
身だしなみよくきちんと上下《かみしも》をつけた、色白で端正な顔と姿をもった左吉に、作法正しくかまえられ、水のような静かさで応対されると、皆すごすごと引きとったのである。
賞賜には、長浜や、安土や、京で仕入れて来たもの――めずらしい北国や山陰の産物、織物、器物等を、いよいよ会議がはじまった時、一人一人呼び出して、うんとあたえた。
三番目のことば使いは、前もって諸人の閲歴《えつれき》や武功を調べさせておいたのを記憶しておき、酒になった時、一人一人の前に行ってみずから銚子《ちようし》をとって酌をしてやり、
「やあ、なにがし、汝《われ》のことはまだ尾州《びしゆう》にいる頃《ころ》から、うわさに聞いていたぞ。何々の会戦で、誰々を討取ったことは、その頃尾州あたりまで聞こえていたので、したわしく思うていたぞ」
と、いった調子でほめたのである。
得意のこの収攬術《しゆうらんじゆつ》は、大いに効をあげたように見えた。国士らは秀吉の威風に打たれ、仁慈に感激し、下賜品《かしひん》の莫大さに驚嘆して、大いに歓をつくして退散したようであった。
が、何事にも例外はまぬかれない。秀吉のこうした態度に、逆に怒りを挑発された者がいたのである。
加古川《かこがわ》から加古川沿いの道をさかのぼること八キロ、国包《くにかね》という村がある。そこから東方六キロに三木《みき》がある。古くからひらけた邑《むら》だ。ここは当国の守護大名であった赤松氏の庶流|別所《べつしよ》氏の本城のある地であった。別所氏は播州の東部八郡を領有して、播州ではずばぬけた大族であった。
この頃の当主は小三郎長治であったが、まだ若かったので、叔父の山城守賀相《やましろのかみよしすけ》・孫右衛門重棟《まごえもんしげむね》の二人が後見役として、家老の三宅治忠らと合議して、家政をとりおこなっていた。
だから、こんどの加古川軍議にも、当主の長治にかわって、叔父の山城守|賀相《よしすけ》と家老の三宅治忠とが来た。彼らは秀吉の到着の前日に加古川に来ていたので、秀吉が到着すると、秀吉の旅館となっている糟屋館《かすややかた》の主人、糟屋助右衛門はわが家の家人なので、これを通じて秀吉に目通りを願い出た。秀吉は、
「奏者番《そうしやばん》を通じて申し出るよう」
と返事した。
糟屋はそう賀相と治忠に伝えた。
二人は不愉快になった。
(見識《けんしき》ぶるにもほどがあるぞ。おのれの旅館の主が、その主人の旨を受けて申し出でるを、筋違いとてことわるということがあるものか。こちらを誰《だれ》と思うているのか、三木の別所ぞ)
とは思ったが、おさえて、石田を通じて願い出た。
「筑前守《ちくぜんのかみ》は所労《しよろう》でござる。いずれ様にもお会いいたしませぬ」
石田は冷静にこう言って、すまし返っている。
(われらが家には、やつが主人の右府《うふ》とて、会釈《えしやく》があった。今でこそ右府が家中で人がましいものとなっているが、元来は土民の出生の分際で、この傲慢《ごうまん》はなにごと!)
と、二人はほとんど激怒した。
この時から十年前の永禄十一年、信長が足利義昭を奉じて上洛《じようらく》し、三好党を追って旗を京都に立てた時、別所氏は義昭の催促に応じて三百余人をひきいて上洛し、信長に従って河内《かわち》、摂津《せつつ》の方々で三好党を征討して、相当武功があったので、信長は鄭重《ていちよう》にあいさつした。二人はこのことを思い出して、秀吉のあしらいを、こちらを軽侮していると見て、腹を立てたのであった。
人間と人間の触れ合いは複雑な機構をもつ機械のように微妙なものがある。どこか一点に砂粒がまぎれこむと、全部が狂って来る。憤《いきどお》りと不平を抱いて軍議の席に列した二人には、莫大な下賜品《かしひん》も、酒間の気さくな応対も、逆効果にしかならなかった。下賜品にたいしては、
(蟹《かに》はおのれのからだに合わせて穴を掘り、人はわが心に合わせてことを行う。卑賤《ひせん》な生れの、卑賤な心に合わせて、ものをくれれば人はよろこぶと思うのであろう。無礼千万なるいたしよう!)
と、解釈したし、酒間のざっくばらんな応対には、
(あかの他人にこのようにおごったことばをかけられたことは、これまでに一度もあったことなし。われらは右府にこそ帰属を誓ったが、筑前づれに帰属したのではない。たかが代官の分際《ぶんざい》して、このおごったことば使いはなにごと!)
と解《と》ったのだ。
こうして、三木の二人は宴がはてると早々に加古川を立って三木にかえって、当主長治に秀吉の応対が不快しごくであったことを語った。
長治はこの時二十四の青年だ。元来、勇猛な性質である上に、家系と家の力とに誇りを持っている。その誇りを満足させるような待遇をしてくれなかったと聞いては、愉快であろうはずはない。おもしろからぬ気になった。
その数日後のことだ。毛利家から誘いの使者が来た。
「近々にわが毛利家は全力をあげて上月《こうづき》城を奪回し、播州《ばんしゆう》に乱入し、但馬《たじま》を犯し、丹波《たんば》に入り、本願寺と策応して、京をつき、織田右府と決戦する所存。すでに本願寺と約定《やくじよう》は成っている。功の成らんこと必定である。貴家は赤松の流れを汲《く》む名家で、播州の巨族である。かねてから遠く仰望《ぎようぼう》している。願わくはわれに力を仮《か》して、ともに織田と対決してもらいたい。功成った暁は、丹波半分を進上しよう」
という口上《こうじよう》である。
この使者は最もタイムリイであった。加古川事件の以前に到着しても、あと半月後に到着しても、これほどの効果はなかったろう。後見の一人と家老の一人が秀吉にむかむかした感情を持ち、当主長治またおもしろからぬ気持を抱《いだ》くようになっている時であったので、天気つづきで乾燥しきっている時に、積藁《つみわら》の上に火をこぼしたようであった。忽《たちま》ち燃え上って、この申し出に飛びついた。
承諾の返事をして、双方|起請文《きしようもん》をとりかわした。
早速《さつそく》に籠城《ろうじよう》準備にかかった。先ず城の補強だ。安土に書面を差出して、
「近日、毛利勢当国へ出張《でば》るとの風聞がしきりでござるが、当城は堅固でござらねば、精々《せいぜい》丈夫に普請して、いざやの際は最も堅固に防戦いたすべき所存。普請の議お許しをいただきたし」
と言い立てておいて、日夜に工事した。
この時、秀吉はもう姫路《ひめじ》に行っていたが、国内に放っている諜者《ちようじや》らからの報告を聞き、おどろいて確かめさせると、事実である。すぐ詰問の使者を出すと、
「これは毛利勢を防禦《ぼうぎよ》するための普請でござる。安土へお届けして、おゆるしを得てしていることでござる」
と答える。
この回答はもちろん秀吉には信ぜられない。当国をたまわり、中国探題に任ぜられている自分をさしおいて、信長がそんなことを許すはずがないと思うのだが、念のために安土に問合せの使者を出した。
信長は別所からの城普請におどろいているところに、秀吉からの問合せが来たので、一層おどろいた。怒りさえした。別所にたいしては、
「羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》をさしおいての願いは筋違《すじちが》いである。播州のことは筑前にまかせてある故、何事も筑前を通じて願い出すよう。またこのことについて筑前から詰問した時、余《よ》の許可を得ていると申した由だが、余は許可した覚えはない。偽りを申してはならん」
と叱責《しつせき》してやった。
秀吉にたいしては、
「別所から城普請の願いの出ていることは確かであるが、許可はしていない。その方をさしおいて、さようなことをする道理がない。別所を叱りつけておいた。しかしながら、別所の様子、不審である。くわしく探索してみるがよい。あるいは毛利から薬がまわっているかと思われる。油断すべからず」
と言ってやった。
この返事をもらうまでもなく、秀吉は大いに疑惑を抱いている。小寺官兵衛や竹中半兵衛らと相談して、探索を進める一方、三木城に、尋問の筋あるにつき長治あるいは後見の者出頭せよと申しおくったが、これには返答もせず、安土にまた書面を送る。
「先般のお叱りの儀、まことに恐れ入るが、実は事情やむを得ざるに由る。われら、筑前守の政道|横逆《おうぎやく》なるにより、恨みを含んでいる故、筑前守に備えるため、城の修築をする必要があるのである。全く右府公《うふこう》にたいしては疎意《そい》はないのであるから、ご理解いただきたい」
という文面だ。
もちろん、こうした文書の往復の間に時を稼ぐためである。
一方、一族や国内の豪族共に回章《かいしよう》をまわして、秀吉の政道の非違を鳴らし、同意|蹶起《けつき》をうながした。毛利家としめし合わせて、誘惑させたことはもちろんである。
元来、播州の平定はごく短時日で出来ただけに、脆弱《ぜいじやく》であったのであろう、別所氏の催促と毛利の誘いに、多数の豪族らが色めき立った。別所の一族である志方《しかた》の櫛橋《くしばし》治家、神吉《かんき》の神吉長則、高砂《たかさご》の梶原景行《かじわらかげゆき》、野口の長井四郎左衛門、淡河《おうご》の淡河|定範《さだのり》、櫨谷《はじだに》の衣笠《きぬがさ》範景等は皆応じて、それぞれの居城をかためて籠城体制をとった。
その他、上月、中村、高橋、服部、後藤、長谷川、神沢、大村、光枝、上原、魚住、加古、糟屋《かすや》、来野《くるの》、乗井、飯尾、藤田などという一族や他氏の者共は、別所氏とともに籠城するために三木に馳《は》せ集まった。つまり、東播磨の美嚢《みのう》郡、明石《あかし》郡、加古郡、印南《いんなみ》郡等が全部、叛旗《はんき》をひるがえして立ち上ったのである。
秀吉は疑惑をもって探索はしていたものの、こうまでとは予想しなかった。おどろいたが、ともかくも手を打った。別所家の後見人の一人である別所|重棟《しげむね》を召した。重棟は後見人ながら、この頃は兄の賀相《よしすけ》と不和で、居城豊地にいて、こんどの催促も受けていなかった。早速に出頭した。
「その方も聞いていぬはずはない。その方が本家の三木は、妙な企てをしている。どう思うぞ。その方も同意か、はっきり申せ」
いきなり、秀吉は言った。
重棟は恐れ入りながらも、
「いかにも仰せのごとく、うわさは聞いています。しかし、拙者はこの頃、兄と不快のことがあるためでござろう、相談を受けていませぬ。相談は受けずとも、高いうわさになっていることなれば、行ってよくよく問いただし、まことならば、後見人の一人として諫言《かんげん》するがあたり前ではござろうが、どうも聞き入れはせぬと見定めていますので、そういたしませなんだ。また、本来ならば、これはお届けすべきでありましょうが、本家の罪科をあばくに似て、快《こころよ》うござらぬので、これほどの高いうわさ、よもお耳に達せぬことはあるまじと、それもさしひかえていたのでござる。われらは固く信ずるところあって、いたしたのでござるが、お気に召さずば、いかようのご処分でも、お受けいたします」
と、すずしく言いひらいた。
秀吉は心を打たれたが、感心ばかりもしていられない。
「その方の申すこと、一応もっともではあるが、それでは後見人のつとめが立つまい。どうせ聞き入れられぬにきまっていると見切はつけても、一応二応の意見をするが、つとめであろう。どうだ」
重棟《しげむね》は沈吟《ちんぎん》した。
「……仰せの通りでござる」
「といって、今となって、その方が三木に乗りこむことは、危ない。書面をもって意見せよ」
「かしこまりました」
重棟は情理をつくした書面を書いて、三木城に送ったが、城方では返事がなく、十数日を経た後、やっと手紙が来たが、こうあった。
貴殿はご存知あるまいが、当家は多年毛利家と一味の密約がある。されば一旦《いつたん》織田家に帰服したのは、真の帰服ではなく、時機を待つための謀計であった。今やその時機が到来したのである。ことならば織田をたおして枕《まくら》高く眠り、ことならずば城を枕にして討死すること、元来の志である。このこと代官面《づら》の筑前へ告げらるべし。
説得だけで解決のつくこととは、もとより思っていなかったので、戦いの策も練っていた。相手はもちろん、竹中半兵衛と小寺官兵衛である。その結果、
「このさわぎは手早くは平定《へいてい》出来ない。持久の計を立てる必要があるが、播州東部一帯が反抗の色を見せているのであるから、姫路《ひめじ》城では危険である。姫路の西北方の書写山《しよしやざん》の要害に拠《よ》ることにしよう」
と、相談はまとまっていた。
ただ叛乱軍を刺激することを恐れて、姫路にとどまりつづけていたが、妥協の余地のないことがはっきりすると、即座に書写山に引き移った。
三
秀吉は書写山を本陣にしておいて、兵を出しては三木城に味方している一族の者共の城を次ぎ次ぎに攻めおとした。三木城の後援を絶って孤立させておいて、攻囲にかかるためであった。
別所《べつしよ》氏の反覆は、最も由々しいものに、信長には思われた。これが機になって至るところが蜂起《ほうき》の形勢になりはしないかと思ったのだ。本願寺は昔のままであるし、丹波も丹後も手をつけていないし、連鎖反応のおこる危険は多数伏在しているのだ。
その上、悪い時には悪いことが重なる。上杉謙信が三月十五日を期して春日山《かすがやま》城を出発して上洛《じようらく》の途につくと声言し、北陸から関東にまたがるその分国内の武士らに動員令を出し、着々と準備を進めつつあることがわかったのである。
謙信の上洛の目的はもちろん信長と雌雄《しゆう》を決するにある。かつて今川義元にも、武田勝頼にも、完勝した信長も、謙信に勝てる見込は立たない。もし、柴田勝家ら北国に出動している者共が必死の戦さをして、たとえ戦死してもよい、謙信に三、四分の打撃をあたえてくれれば、全力をつくして戦ったなら、どうにか勝つことが出来るかも知れないと思うだけのことだ。
ともあれ、出来るだけ多数の兵を身近におく必要がある。少しでも早く始末する方がよいことは十分わかっているが、どうにも出来ない。
信長は安土城で毎日、歯がみして西を望み、眉《まゆ》をひそめて北を望んでいた。
ところが、一向謙信が春日山を出発したという報せも来ず、三月も終りになりかけた頃《ころ》、柴田勝家から飛脚が来た。
去る三月九日、上杉謙信、春日山城にて卒中風《そつちゆうふう》を発し、人事を弁ぜずして昏睡《こんすい》をつづけていたが、十三日に至り、ついに卒去《そつきよ》。確かなることであります。
というのである。
神を信ぜず、仏を信じなかった信長も、この知らせには拝跪《はいき》したいほどのありがたさを感じた。信玄早亡く、謙信また逝《ゆ》いた今は、彼には天下に恐るべき者は一人もなくなったのである。
(よし!)
蜂起の危険を持っているものをたたきつぶしにかかった。長男の信忠に諸将をそえて本願寺|征伐《せいばつ》にかからせた。諸隊は本願寺付近の農作物を全部|薙《な》ぎすて、大いに威嚇《いかく》を加えて帰陣した。
そのほんの三、四日の後には、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益《たきがわかずます》らを丹波に攻め入らせた。丹羽と滝川とは一通り丹波を荒らすと帰陣させたが、明智はなおとどめて丹波を経略することにした。
謙信の生前は上杉氏に帰服していた越中も経略させることにした。これは柴田、佐久間盛政、佐々《さつさ》成政、前田|利家《としいえ》等をして加賀方面から攻めこませるとともに、もと越中国主で、謙信に戦い敗れて出奔していた神保《じんぼ》氏春を、飛騨《ひだ》から神通《じんづう》川沿いに下らせたのである。
織田方でこれらのことが調子よく運んでいる時、毛利の大軍は上月《こうづき》城におし寄せた。総勢五万余人、ひしひしと城を包囲して攻撃にかかった。吉川《きつかわ》元春と小早川|隆景《たかかげ》とがその大将であることはもちろんだが、当主|輝元《てるもと》も備中《びつちゆう》松山まで出て来たのだ。全力を挙げてかかったのだ。
秀吉は三木城に味方する城々を次ぎ次ぎに攻めおとし、のこるところは神吉《かんき》城と志方《しかた》城だけになったところに、こうなった。この方面は一時中止することにして、後《うし》ろ巻のために上月城へ向った。
信長は援軍として荒木摂津守|村重《むらしげ》をつかわした。しかし、二人の軍勢を合しても、やっと二万しかない。毛利軍と三万のひらきがある。
しかも、毛利軍は織田方の来べき道筋にいく筋も空濠《からぼり》を掘り、また包囲陣のうしろには土居や柵《さく》を設け、所々に砦《とりで》を設けて、最も堅固にかまえていたので、戦さ上手の秀吉勢も、勇猛な荒木勢も、毛利の陣々に近づくことさえ出来なかった。その上、毛利方は飾磨《しかま》あたりから明石あたりに至るまでの海上に、七百余の軍船を浮かべて、京方面から援軍の来るのを見たら、直ちに上陸、横撃《おうげき》する勢いを示していた。
秀吉もほどこす手がない。城の東方の三日月山に夜|毎《ごと》にさかんに篝火《かがりび》を焚《た》いて、城内の人々に気力をつけるだけであった。
秀吉は急使を馳《は》せて、事情を信長に訴えた。
信長は滝川、明智、丹羽、筒井順慶《つついじゆんけい》らに命じて、二万の兵をひきいて播州に向わせ、つづいて信忠に一万の兵をひきいて向わせた。
これで総計五万、兵数では毛利と同じになったので、おりおり戦闘がはじまったが、毛利方が堅陣《けんじん》に倚《よ》っている上に、織田方の諸将に諸事に運がよくて信長の覚えめでたい秀吉にたいする嫉《ねた》みがある。
「骨おって働き、首尾よく毛利勢を追いはらった場合、第一の手柄者は筑前ということになるは知れたことじゃ。犬骨おって鷹《たか》の餌食《えじき》という下世話《げせわ》があるが、とんとそれじゃわ」
という腹がある。
はかばかしい戦闘が行われようはずがなかった。
泥沼にふみこみ、ぬきさしならずなったようなものであった。早くなんとかしなければ、運命の行きどまりになるかも知れないと、秀吉はあせった。とうとう、ある日、
「この上は筑前殿自ら安土にまかり上り、くわしく事情を申し上げ、上様《うえさま》のお差図《さしず》を受けてまいられるよりほかはござらぬ」
と、竹中半兵衛が言い出した。
そうするよりほかはあるまいと思ったので、味方の諸将にも秘密にして、安土に急行した。暑いさかり、六月十六日であった。
信長はくわしく事情を聞いたが、その夜は何とも言わずに秀吉を帰宅させ、翌日呼び出し、人を遠ざけて言った。
「昨夜一晩考えてみたが、どうにもならんわ。あわれじゃが、尼子《あまこ》の者共は死んでもらうよりほかはあるまい」
「と申しますと?」
「深沼にふみこんでもみ合うような戦さをいつまでも続けていては、味方の弱りになる。また上月などで埒《らち》のあかぬ滞陣《たいじん》をつづけていては、諸方の敵共に力を添え、すでに帰属の者共の心もゆるがせる。かたがた、上月は捨ておいて、三木の支城《えだじろ》である神吉《かんき》と志方《しかた》の両城におしよせて、一息に踏みつぶし、三木城を攻めるがよい。上月に失うところを、こちらで取返せば同じじゃ」
せっかく頼って来た尼子の君臣をここでふり捨てるのは、あわれでもあり、天下の人の織田家を見る目も憚《はばか》られたし、将来必ず支障が生ずるに違いないと思われもした。しかし、当面がどうにもならないのだ。友情も、誇りも、将来のことも、目をつぶるよりほかはないのであった。
「かしこまりました。いたし方なき仕儀でございます」
と、熱鉄を飲む思いで答えて退出し、その日帰任の途についた。
播州につくと、信長の命を信忠以下の諸将に伝えた。
いずれも気の進まない出陣をしているのだ。異議なく諒承《りようしよう》して、くり引きにして引き上げることになった。
しかし、秀吉は尼子一党が気の毒でならない。何とかして助けてやりたいと思い、自分の陣中にやはり雲州《うんしゆう》武士で、山中鹿介《やまなかしかのすけ》の娘聟《むすめむこ》にあたる亀井新十郎がいるのを呼び出して、
「しかじかで、当城は見捨てなければならないことになったが、城中の衆はまことに気の毒千万である。何としてでも、助けて進ぜたい。ついては、そなた城中に忍び入り、鹿介殿に会うて、わしがこう言うていたと言ってくれまいか。何日の何時《なんどき》に、人数をまとめて城中を突出されよ、筑前が勢は外より働いて敵陣を突き破り、そなたらを助けて引取るであろう≠ニ」
亀井はなかなかの勇士だ。
「ありがたきおことばでござる。必ず城中に入って、鹿介へ申し伝えるでござろう。首尾よく城中に忍び入りましたなら、合図の火をあげるでござろう」
慨然《がいぜん》として答え、敵陣の間をくぐって城中に忍びこみ、合図の火をあげた後、秀吉のことばを鹿介に伝えた。
鹿介は涙をこぼして、秀吉の情を感謝したが、
「しかし、それは出来ぬことじゃ。拙者一人ならば、千軍万馬競いかかって参ろうとも、必ず切りぬけることが出来るが、士卒共々となると、出来ぬ。つまりは拙者一人だけ助かって、士卒のあらかたを死なせることになる。拙者は自らは死んで、士卒のいのちを助けたいと思うているのだが、それと反対のことになる。出来ぬわ」
と言って、どうしてもきかない。
亀井はいたし方なく、また城をくぐり出て、このことを秀吉に告げた。
「あっぱれ武士、見事なる人を殺すことよ」
秀吉は涙をこぼして感じ入ったが、ついに捨殺しにすることにして、諸将と申合わせた順によって、陣ばらいした。
上月《こうづき》城の尼子勢がどうなったかは、有名である。
織田勢の去った後、鹿介は主君尼子勝久の前に出て、
「今はもう城を守るべき手だても絶えはてました。せめては士卒のいのちを助けたいと存じます。申しにくいことではござるが、ご自害あって、士卒のいのちにかわっていただきとうござる。われらもお供すべきでござるが、思うことがござれば、しばらくいのちを貸しておいて下されとうござる」
と言った。
勝久はうなずいて、
「わしは一旦《いつたん》世捨人となっていた身が、そなたのおかげで、還俗《げんぞく》し、尼子《あまこ》の当主として、先年は数万の士卒をひきいて本国で戦うことまで出来た。武門に生れた者として、本望この上もない。今この身になっても、そなたに感謝こそすれ、少しも恨む心はない。士卒のいのちにかわることが出来るなら、この上のことはない。よろこんで死ぬぞ」
と言った。
鹿介《しかのすけ》は勝久の名で毛利勢に降伏を申しこんで、勝久が切腹するから、士卒のいのちは助けてもらいたいと申しおくった。毛利勢は承知した。
勝久は毛利勢から検視の出頭をもとめて、見事に切腹して、二十七歳の若いいのちを絶った。
士卒はゆるされて、城を出た。鹿介もまた助けられた。
鹿介が恥をしのんで惜しからぬいのちを助かったのは、せめては吉川《きつかわ》元春か、小早川隆景か、どちらでもよい、斬《き》って、うらみに報いるためであったが、毛利方では用心してすきを見せず、
「そなたは聞こえる勇士なれば、召しかかえて、周防《すおう》にて五千石の知行《ちぎよう》をあてがおう」
と言って、西行させ、備中|甲部《こうべ》川でだまし討ちにして討取ってしまったのである。
行年三十四、怨恨は消えることなく、そのむくろは甲部川のほとりに眠っている。
花占い
一
上月《こうづき》城の囲みを解《と》いて引き上げた織田方の諸勢は、先ず神吉《かんき》城を攻めてこれを陥れた。
この城の攻撃は、丹羽長秀と滝川一益とが受持った。丹羽は東口から向い、滝川は東南口から向ったが、その攻撃法はいずれも当時の最新式兵器を利用した、最も斬新《ざんしん》なものであった。
丹羽は大やぐらを二つ組み上げ、眼下に城を見下ろし、大鉄砲《おおでつぽう》(大砲)をもって打ちかけ打ちかけ、敵の反撃を封じておいて、濠《ほり》を埋めさせ、山を築いて塀《へい》の高さにしておいてなだれこんだ。滝川もまた大やぐらを組み上げて大砲を打ちかけて、城中の塀や矢倉《やぐら》を打ちくずす一方、金山《かなやま》人夫に地下道を掘らせて、突入口としたのである。以上の叙述は『信長公記《しんちようこうき》』によったが、信長の新兵器好みに、その将領らが感化されていたことがわかるのである。
さて、こんな攻め方をされても、神吉城はなかなかの要害であったので、二十日近くも持ちこたえて、落城した。城主の神吉長則は殺された。
次に志方《しかた》城を攻めて、二十日ばかりで、降伏させた。
これで、三木《みき》の羽翼《うよく》となるべきものは一城もなくなったので、いよいよ三木城攻めとなった。
三木城は加古川《かこがわ》沿いの国包《くにかね》の東方六キロの地点にある。南方に丘陵がつづき、北方に加古川の支流三木川が流れている。東方に繁った竹林がある。本丸、二の丸、新丸の三つからなり、塁壁《るいへき》がめぐり、その外側の南・西・北の三方には空濠《からぼり》がある。これを本城として、西南の丘に砦《とりで》が二つ設けられていた。籠城《ろうじよう》の人数は総勢七千五百であった。
織田方の総大将信忠は、諸将を集めて、軍議をひらいた。
秀吉は第一の責任者だ。二城を攻めおとした勢いに乗って、急攻してもらいたかったし、そう主張したが、諸将いずれも秀吉のこの頃の好運と勢いのよさを嫉《ねた》んでいる。
「当城は容易ならぬ要害、力攻めは禁物でござる。気長くかまえ、工夫を凝《こ》らして攻めるがようござる」
と、主張する者がいると、皆それに同《どう》じたので、信忠は、
「筑前、あとはそなたが工夫していたすよう」
と言って、諸将をひきいて、引き上げた。信忠もまた秀吉にそう好意的ではないのである。独裁者にとっては、自分の後継者もまた一種の家臣である。つまり、信忠と秀吉とは一種の同僚である。ライヴァル的感情がないわけではない。そうでなくても、独裁者の後継者は独裁者の寵臣《ちようしん》に好意を持たないものである。後継者は自分が独裁者となった場合のスタッフを用意しつつある。当代の独裁者の寵臣はそのスタッフらの気に入らないのである。
こうして、秀吉とその寄騎衆《よりきしゆう》とだけが、三木にのこされたが、秀吉は決してへこたれない。三木城の東方二キロ半ほどの平井山に本陣をかまえ、三木城のまわりに数珠《じゆず》をつらねたように砦をかまえ、砦と砦との間には二重に柵《さく》を結《ゆ》い、その間を番卒の通路とし、昼夜間断なく巡邏《じゆんら》させた。その柵道の長さは十五、六キロに及び、えんえんとしてうねりながらつづき、一大長塁となっていたのである。城と外との連絡を絶ちきって、兵糧攻《ひようろうぜ》めにする計画なのだ。
この後、秀吉は生涯の間にいく度も城攻めを行って、それはいずれも最も壮大なスケールをもち、戦わずして先ず敵の魂をうばったのであるが、その最初がこの城攻めである。
毛利家も傍観していては、味方する豪族らの心が離反する。能島《のじま》・来島《くるしま》・因島《いんのしま》等の海賊衆《かいぞくしゆう》をくり出して、加古川河口の東方十二、三キロの魚住《うおずみ》に荷上げして、十五、六キロの山路を通って食糧や弾薬を運びこもうとした。しかし、秀吉にぬかりはない。この方面はとくに厳重に警戒して、決して封鎖を破られなかった。
水も漏らさぬ包囲陣をしき、秀吉は巻狩《まきがり》をしている心で悠々《ゆうゆう》とかまえ、決してこちらからは手を出さなかった。城方も時々兵を出して挑戦して来はするが、さほどあせる風も見えない。
(いぶかしいぞ)
と、秀吉が首をひねったのは、もう秋もかなりに深くなった頃であった。竹中半兵衛を呼んで、どう思うかとたずねた。
「われらも不審に存じ、思案したり、探索したりしていたところでありました。今はまだ確かなことは何もわかり申さんが、変化を待っているげに見えます」
「毛利がまた大軍をおこして来ることになっているのであろうか」
上月《こうづき》城を奪還《だつかん》した後、毛利の大軍は城に守兵をおいて、本国にかえったのである。
「あるいは、そのほかに考えられることは、三木に応じて立つ約束のある者があって、それを待っているか、大坂本願寺が立ち上ることになっているか、この二つであります」
半兵衛は持ち前の低くおだやかな声で、指をおって数えながら言った。
いずれもうなずけることだ。これら以外には考えようがない。
「本願寺はいたし方ない。手がおよばぬ。何とかなるのは、当国の士《さむらい》どもだな」
「仰《おお》せの通りでござる。国士《くにざむらい》らではないかも知れませぬが、仰せのごとくわれらの力のおよぶところはそれでござる。その上、足もとから鳥が立っては、最も危険であります」
「官兵衛を呼んで、よくたずね、手を打ってもらおう」
小寺官兵衛を呼んだ。
「ごもっともなご不審ではありますが、唯今《ただいま》のところ、拙者《せつしや》の目にいぶかしく映る者はいません。もっとも、改めてよく探索いたした上で、不審に見える者があれば、早速《さつそく》にご報告もし、手も打ちます」
と、官兵衛は答えた。
しばらくたって、冬に入り、十月半ばとなった。その頃、最も意外な形で、秀吉の不審が発現した。摂津花隈《せつつはなくま》の城主荒木|村重《むらしげ》が信長に反旗をひるがえして立ち上ったのだ。
「荒木が?」
秀吉は仰天してさけび、しばらく口もきけなかった。
さすがにものにおどろかない半兵衛も同様であった。
荒木は元来は、門地も身代も微かなものであった。先祖も聞こえず、身代もわずかに六十貫を所有していたに過ぎない。摂津池田氏の被官《ひかん》となっているうちに、同国の茨木《いばらき》城を奪ってはじめて一城の主となり、池田氏を去って三好氏に帰属していたが、信長が足利義昭を奉じて上洛して将軍に立て、摂津《せつつ》・河内《かわち》に足をのばして三好党の征伐をした時、降伏して、新将軍の家人となった。
その後、義昭と信長の間が不和になり、合戦|沙汰《ざた》になった時、また逸早《いちはや》く義昭と縁を切って、信長に帰服した。荒木はこんな工合に、変り身の速さで生きつづけて来たわけだが、それはこの時代の小豪族の生きのびる知恵というべきで、非難さるべきではない。それは信長も知っている。その上、荒木は勇猛な武将だ。用いようでは、大いに役に立つ。信長は荒木を摂津守に任官し、摂津一国の統制をまかせた。
荒木は今の神戸市内の兵庫県庁近くの花隈《はなくま》に城をきずいて居城とし、国内の諸豪族を統制した。その結果、高槻《たかつき》の高山|右近長房《うこんながふさ》と茨木の中川瀬兵衛清秀は、いずれも武勇すぐれた者であったが、荒木を寄親《よりおや》と頼むこととなった。
このように、荒木が今の身分になれたのは、信長の取立てによるのだから、信長にたいして逆心を立てようとは、秀吉にも半兵衛にも、最も意外だったのである。
やがて、半兵衛は言った。
「これは容易ならぬことです。このへんの国士の裏切りなら、まあ知れていますが、荒木が思い立ったとすれば、よほど根が深うござろう。毛利と言い合わせているはもちろん、本願寺とも、丹波あたりの者共とも、当国の者共とも、心を通わして、四方八方、わっと立ち上るつもりではないかと、懸念《けねん》でござる」
「わしも、そう思う。厄介なことになったわ」
覚えず嘆息が出そうになったので、大急ぎでこらえた。男はどんな場合にも、嘆息すべきではないと、この頃思うようになっている。なげけば一層悲しくなり、落胆すれば一層悲観的になり、怒れば一層腹が立って来る。何の役にも立たないどころか、一層事態を悪くする。事情が悪くなったら、かえって昂然《こうぜん》として肩を張り、からからと哄笑《こうしよう》することにしている。勇気が湧《わ》き、知恵が湧いて来る。何よりも、周囲の者が明るくなって、気分がふるい立つ。
早速それをやる。先ずからからと笑って、それから言った。
「敵はいろいろとやることじゃろうが、なにほどのことがあろう。こちらにはかねて備えがある。先ず当国にはかく申す筑前がいる。毛利の手なみは言うまでもなく、国士《くにざむらい》らの手なみも、もはや十分に心得ている。丹波には明智がいる。のこるは本願寺と荒木じゃが、これは右府《うふ》様がこなしつけ遊ばされる。なにほどのこともないわ。ハハハ、ハハハ」
あくまでも大言して、笑っていると、むくむくと気力が湧いて来た。
半兵衛と相談して、所見を書面にして安土に送っておいて、官兵衛を呼んで、荒木逆心のことを語り、国士の様子を聞いて、動揺させないようにと言った。
「かしこまりました。ぬかりなく手を打っているつもりであります」
と、官兵衛は答えておいて、膝《ひざ》を進めた。
「話は別になりますが、宇喜多《うきた》を帰服させる手を打ってみたいと存じますが、いかがでございましょう」
慧敏《けいびん》そうな目が、きらきらと光っていた。
「見込があるのか」
「ございます。宇喜多は最初上月城の後ろ巻にまいった時は、自ら兵をひきいてまいりましたが、毛利の大軍が上月城にまいった時には、一族の者を名代としてつかわし、おのれは病気を言い立ててまいっていません。さぐらせてみますと、病気ではないのであります。虚病《けびよう》であります。どうやら、二心を抱《いだ》き、ぐらついて来ているらしゅう思われます。働きかけてみようと思うのであります」
つぼをおさえた推理だ。
「よかろう。やってみよ。うまくまいれば、大手柄じゃぞ」
「拙者《せつしや》のカンでは、うまくまいりそうであります」
官兵衛は満々たる自信を見せて帰って行った。
七、八日の間に、予見した通り、アンチ織田勢力は一斉|蜂起《ほうき》の形となった。本願寺が不穏の色を見せ、毛利は水軍をもって海路からこれを援助し、丹波では丹波第一の豪族である波多野氏が反織田を声明して立ち上った。
播磨《はりま》は秀吉が大兵力をもって三木を包囲している上に、官兵衛が手はしこく手を打っているからであろう、形としてはなにごともない。しかし、底になにやら妙なものが感ぜられる。油断はならなかった。
その頃、竹中半兵衛がとつぜん血を喀《は》いた。以前から強いからだではなく、どこかに病気をかかえているらしくは見えていたが、胸が悪かろうとは、本人にも自覚がなく、わきからもわからなかったのであった。肺病は不治《ふじ》の病《やまい》と思われている時代である。秀吉はおどろいた。せめては病気を軽快させたいと思って、京に行って名医に診《み》てもらうようにとすすめた。
「人には定命というものがあります。武士として、戦場に来ていながら、血を喀いたとて、ばたばたとさわぐは見苦しゅうござる。戦さに出ていて死ぬは本望、このままでいましょう」
と、半兵衛は聞こうとしなかったが、ことばをつくしてすすめた。ついには合掌《がつしよう》して頼みまでした。半兵衛は苦笑した。
「さほどまで仰せいただくは、身にあまります。さらば、まいってみましょう。方々の敵共のことも、いくらかは気がかりでもありますれば、上様《うえさま》に申し上げたいこともあります」
と言って、旅支度して京に向った。
その両三日後に、官兵衛が来た。
「残念なこと、竹中半兵衛は京へまいられましたとか、よろこんでいただくことがありましたに」
と、秀吉にあいさつするや、官兵衛は言った。
「宇喜多がことか」
「そうでござる。うまくまいりました。この前こちらにまいりまして、帰りますとすぐ、書面をもって宇喜多を説きましたところ、このほど、家老の花房助兵衛と申すが、使者としてまいりました。すなわち、本領を安堵《あんど》していただけるならば、ご家人とあいなり、長く忠勤をぬきんで、毛利ご征伐にはご案内とお先手《さきて》をつとめ申すでござろうと申すのであります」
「人質はさし出すであろうな」
「それはもちろんのことであります。直家の弟に忠家と申すがあり、また直家のひとり子に八郎と申す幼児があります。いずれなりとも、ご所望によってさし出すと申しております」
「さても、見事に出来たわ。あっぱれであったぞ。無双《ぶそう》の手ぎわじゃ。竹中がいたらば、いかばかりよろこんでくれたであろうに。早々に誓紙をとりかわすよう。――早速《さつそく》に上様にご報告申さねばならぬ。上様のご満悦、さこそと拝察されるぞ」
調子よく人をほめるのを、人使いの法の第一にしている秀吉である。口をきわめて、官兵衛をほめた。
誓紙のとりかわしをし、当時六つの幼児であった直家の一子八郎(後の秀家)を人質として引取って姫路におき、弟の小一郎秀長を報告の使者として安土につかわし、委細を言上して、速《すみや》かに本領安堵のご沙汰《さた》をいただきたいと願い出た。
秀吉も、官兵衛も、この働きには十分の自信を抱いていた。信長は大いに満足し、大手柄として激賞してくれるにちがいないと信じ切っていたのだが、意外にも、信長は激怒にひとしい不機嫌さを見せて、小一郎をどなりつけたのだ。
「本領安堵の約束など、おれに伺《うかが》いを立ててからすることじゃ。家人の分際で、勝手な約束、僭上《せんじよう》千万。おれは不興だぞ! まかりかえって、筑前にさよう申し伝えい。追っかけて、沙汰する!」
雷霆《らいてい》もものかは! 広間がびりびりとふるえるようであった。小一郎は死んだようになって平伏し、やがてきりきり舞いして退出し、三木に馳《は》せもどった。
小一郎の報告を聞いて、秀吉は、
(やれ! しまった!)
と、唇を噛《か》んだ。
秀吉には、信長がなぜ不機嫌になったか、すぐわかった。君主の権力の中で最も大きいのは賞罰|任免《にんめん》の権だ。これをもっていればこそ、君主は臣下に恐れられ、君主であることが出来るとさえ言える。だから、この大権は決して人にゆるしてはならないのである。ゆるせば、君主権はその者に移る。本領の安堵《あんど》を認める権は、任免の大権の中に入る。
(わしはその大権を勝手につかったのだ。お腹立ちはもっともだ)
と、思ったのであった。
秀吉のこの君主権についての解釈は最も鋭いものである。現代に援用してみると一層よくそれがわかる。吉田茂がワンマンといわれるほどに権勢を確立し、すでに政界を隠居した後でも隠然たる力があったのは、あんなに多数の大臣を、まるで着せかえ人形の首をすげかえるように任免したからである。
(おれとしたことが、無思慮なことをしてしもうた。獲物《えもの》を追いかけている猟師と同じで、ついついお禁制山《とめやま》に踏みこんでしもうたのじゃわ)
とも思った。
(おわびして、ごきげんを取りなおさんければならん。何よりも、官兵衛に迷惑のおよばんようにせんければならん。こんな時には、責めを一身に引受けねば、向後《こうご》人はおれがために働いてはくれん)
とも思った。
信長の使いが来た。上意書をたずさえている。
「ご諚《じよう》をも伺い申し上げず、気儘《きまま》なる取りはからいをいたし候段、曲事《きよくじ》の旨に仰せ出され候」
と、上意書の文面にある。上使の口上もまたそうであった。小一郎が安土で直接に受けて来た信長のことばと同じであった。
その後、上使はくつろいだ態度になって、こう言った。
「お心得までに、心づいたことを申しておきます。上様は宇喜多を打ちつぶし、その所領である備前《びぜん》と作州《さくしゆう》とを召《め》し上げて、手柄ある人々に分けあてがいなされるお心づもりではなかったかと拝せられるのでござる。この頃はご家人の数がふえた割には、新しくご分国になるところが少ないので、そう考える次第であります」
「なるほど」
これも一理と思った。
ともあれ、早急に馳《は》せ上《のぼ》っておわびする必要がある。
蜂須賀彦右衛門《はちすかひこえもん》と官兵衛とに留守を頼んでおいて、安土に馳せ上った。
二
「向後《こうご》をつつしめ」
の一語で、信長の怒りはすんだ。
秀吉はついでに長浜に行って、不在中の領内のことを聴いたり、処理したり、その足で美濃《みの》に立ちこえて、菩提《ぼだい》山城に竹中半兵衛を見舞った。半兵衛は京都で当時の名医|曲《まな》ケ|瀬道三《せどうさん》に診察してもらってから、ここに帰って来て静養しているのであった。
半兵衛は寝てはいなかったが、三木にいる頃よりやつれて見えた。
「服薬がきくようにも思いませぬが、道三がこうせよと申す故、こうしています。もっとも、こののんびりした気持は悪うはござらぬ」
と、笑った。三木城のことや、荒木の謀反《むほん》のことや、反織田勢力の蜂起のことや、こんどの信長の怒りのことや、いろいろと話に出た。
半兵衛は一々適切な評語や、策について述べた。信長の怒りについては、
「上手《じようず》の手から水が漏れましたな。いかさま、勇《いさ》み足でござるよ。さりながら、ご機嫌がなおって結構。もっとも、上様は本当は貴殿をお怒りではない、分際をはっきりわきまえさせようとなされたのじゃと、拙者《せつしや》は見ます。やがて、宇喜多の本領安堵のご朱印状《しゆいんじよう》も出ましょう」
と、言った。
安土にかえって来て、播州《ばんしゆう》へ帰る支度をしていると、信長から呼出しがあった。
「汝《われ》、荒木を説得に行くよう」
と、言う。
「はっ?」
説明をうけたまわりたいという顔をすると、
「荒木の逆心がどうもわからぬ。やつはおれの取立てで、今の身分になれたのじゃ。それで、明智|日向《ひゆうが》、松井|法印《ほういん》、万見《まんみ》仙千代の三人を荒木がもとへ出向かせて存分のほどを聞かせた。明智は荒木とはほかならぬなかじゃ、心をつくして説いたげな」
明智の娘は荒木の嫡子《ちやくし》新五郎というに嫁いでいる。ほかならぬなかとは、このことを言うのである。
「明智の説諭を受け、荒木は納得した。悪うござった。早速に安土へ出仕いたすでござろう≠ニ言い、また人質として母を差出すことを誓いもした。が、そのあと、三人がもとへ、心をひるがえした。出仕はつかまつらぬ。謀反をつづけることにいたす≠ニ申して来て、何と申しやっても聞かぬという。にくいやつとは思うが、やつが改心すれば、至ってしやすうなる。汝行って、今一度説諭するよう。われは荒木とはかねてよいなかじゃ。ひょっとして、聞かんものでもなかろう」
いつもごく手短にしかものを言わず、それで万事を悟らぬ者は愚物《ぐぶつ》として、愚物のあつかいしかしないのであるが、懇々と説明した。形勢は重大なのである。
「かしこまりました。出来るか、出来ぬか、力をつくしてつかまつります」
と答えて、辞去した。
荒木は逆心を立てるとすぐ、花隈《はなくま》城には留守勢をこめて、おのれは伊丹《いたみ》の有岡《ありおか》城に入った。ここを本城とし、花隈城と尼《あま》ガ崎《さき》とを両翼とし、高槻《たかつき》城の高山右近と茨木《いばらき》城の中川清秀とを前衛としたのであった。
秀吉は、わざと加藤虎之助、福島市松ら側近の、わずかに十四、五人の供まわりで伊丹についた。城はさかんに補強工事が行われつつあった。うじゃうじゃと士《さむらい》や人夫共が働き、土煙が濛々《もうもう》と上っていた。濠《ほり》が深められ、塁壁《るいへき》が高められつつあるほかに、新しく方々に砦《とりで》が構築されつつあった。
(ここまで来ては、しょせん手おくれじゃな)
と見きわめがついたが、出来るだけのことはしてみようと、大手の門に自ら馬を乗りつけて、案内を申し入れた。
「羽柴筑前《はしばちくぜん》じゃ。見知っておろう。おれが来たと、かかりの者にとりつげよ」
笑いながら、自ら門番に言った。
門番はどぎもをぬかれた風だ。だまりこくって、凝視《ぎようし》していた。
「手を出せ。いいものをやる。皆でわけるがよい」
と、また笑って、腰の胴乱《どうらん》から銭を一つかみつかみ出して、にぎらせた。
「はっ、はっ、はっ」
からくり人形のねじがまわりはじめたようであった。急にしゃきしゃきと動き出して、一人が門内に駆けこんだ。
やや暇《ひま》どったが、迎えの共が走り出て来て案内し、客殿に通した。供の者は玄関までで、虎之助一人が、秀吉の刀を持って従った。
荒木はかたい顔をして出て来たが、口はきさくにきいた。
一通りあいさつが済むと、秀吉はいきなり中心に入った。
「妙な思い立ちをしたな」
「意見に来たのか。意見ならばきかぬぞ。何事も考えぬいた末のことじゃ」
「まあ、そうむきつけには言わんものじゃ。人は何ごとにも品《しな》(情趣)があるべきものじゃ。長いつき合いじゃ。一応は聞いてくれるものじゃ」
と、笑いながら言って、じゅんじゅんと説いた。上様《うえさま》の恩義を思えなどとは言わない。そんなことは考えぬいた末のこと、しかもなお心をゆすってやまないものがあってこそのこと、それは利得の思わくであるに相違ないと見ているから、今の思い立ちは決して成功しない、大損どころか、身をほろぼすことにしかならんぞと、説き立てた。
荒木はにやにや笑いながら聞いていたが、
「言うことはそれだけか」
と反問した。
やはり手ごわいと思いながら答えた。
「そうじゃ」
「おぬしの意見、おれの思い立ちがまだ形にあらわれぬ頃じゃったら、大いに聞くべきであった。礼を言うて聞き、このこと隠密《おんみつ》にとおがみ頼んだろう。こうはっきりとなっては、手おくれじゃわ。おぬし、おれより上様がどんなお人か知っているはず。決してうらみを忘れぬ、ねばいねばい、しつこい、腹黒いお人じゃぞ。一旦むほんの色を立てたおれを、忘れはされぬ。必ず、いつぞかは、ほろぼしなさる。きまったことじゃ。おぬしも、それはわかっとるじゃろうが」
荒木の信長を見る目はたしかに星を射ぬいている。その通りに違いない。そうした狂的なほどの執念深さのある人であることは間違いない。強い力で口をふたがれた気持であったが、黙っていては、認めたことになる。
「おぬしは間違っている。上様はそんなお方ではない。証拠がある。柴田勝家《しばたかついえ》、林通勝のことを思い出してくれい。二人は上様のまだお若い頃、上様の弟君の信行《のぶゆき》様をおし立て、上様にむほんを企てたことがあるが、二人が後悔し、おわびを申し上げると、快くお赦《ゆる》し下され、今日まで重くお用いだ。柴田など、第一の権臣《きりもの》として、北国探題《ほつこくたんだい》を仰せつかっているほどだ。おれが言うことを聞いてくれい。万々一の時は、おれが身にかえても、おぬしの安泰は保証する。誓う。おれが決して誓いにそむかぬ人間であることは、おぬしも知っているであろう」
つい、情が激して、涙さえこぼれて来た。
さすがに、荒木も心を打たれたようであったが、それでも言った。
「おぬしの心はありがたいが、おぬしの上様を見る目はやはりあまい。おぬしはなかなか働き者故、上様にとっては大事な士じゃ。しかし、上様が天下を平定《へいてい》された後はどうじゃろう。働かせるところのなくなった者に、大国をあたえて飼《こ》うておきなさるお人であろうか。その時になって、わしを除こうとなされたとして、おぬしがわしを庇《かば》って、身にかえてもと申し出たら、いい幸いと、二人ながら片づけてしまわれるであろう。いやいや、おぬしが何といおうと、わしにはそうとしか思えぬ。もう言うな。言うても無駄じゃ。わしが心はもはや大磐石《だいばんじやく》、決して動かぬ」
荒木の言うことには一理も二理もある。それに荒木は今や決して心を動かしはせんとはっきりとわかった。
「ぜひないのう。ついにわかってはくれぬのか」
と言って、もう言わぬことにした。
「せっかく来てくれたのじゃ。敵味方にわかれても、それは戦さがはじまってからのこと、ゆるゆるとしていってくれ。酒のんで、心行くまで楽しもう」
と、荒木は言って、酒を出して、もてなした。
数献《すうこん》の後、荒木は自ら肴《さかな》をとって来るとて、席を立って座敷を出て行ったが、しばらくすると、片手に三方《さんぼう》にのせた肴を持ってかえって来て、それをすすめ、盃《さかずき》に酒を満たして、笑いながら言った。
「阿呆《あほう》なことを言うやつがいるわ。これを取りに勝手へ行ったらば、家来の一人が、羽柴筑前は右府《うふ》の家中では指折りの名将、幸いなこと、刺し殺しなされよ、右府の弱りになりましょうと申した。さようがことが出来るか、筑前とおれは最も親しい友垣《ともがき》、寝鳥《ねとり》を取るようなことは出来ぬ、勇士の本分にもそむくと、叱《しか》りつけて来たわ」
おれがあまり平気そうにしているので、荒木め、おどかしをかけおると、秀吉は思った。微笑した。
「そいつ、なかなかよいことを言うやつじゃな。ほめられて、うれしいわ。何というやつじゃ」
「河原林治冬《かわらばやしはるふゆ》という者じゃ。度々覚えのある者ではある」
「呼び出してくれい。面《つら》を見たい。一興じゃ」
荒木は呼び出してくれた。筋骨たくましい、眼の鋭い、いかにも強そうな顔の中年の男であった。
「やあ、これはなかなかのものじゃ。勇士の相貌をしとるわ。話はそなたの主人に聞いた。人につかえる者としては、もっともな思案じゃ。気に入ったぞ。盃《さかずき》くれよう」
からからと笑って、盃をさした。
強そうな顔にこまったような表情があらわれ、伏目がちに近づいて来て、盃を受けた。酒をついでやって、また言った。
「肴《さかな》もくれよう。これで飲めよ」
ふり向いて、虎之助の捧げている刀に手をのばし、渡せ、と目くばせした。
虎之助は、強い目を見はり、荒木と河原林の方をにらんで、渡そうとしない。
(渡せ!)
目で強く言って、受取った。ふりかえって、河原林にさし出した。
「これを肴に、快く飲め」
荒木は薄笑いして、言った。
「敵の城中に来ながら、差しかえの用意もないに、やめるがよい」
秀吉は声高に笑った。
「じゃから、くれようというのじゃ。今この身になって、一口《ひとふり》の刀が何の役に立つものか。おぬしが寝鳥《ねとり》をとるようなむごいことはせぬ男と知ればこそ、こうして安心して酒をのんでおられるのじゃわ。ハハハ、ハハハ」
河原林はふるえながら受けた。
三
秀吉は安土にかえって、信長に復命した。
「さらばいたし方はない。攻めつぶすまでのことじゃ」
信長は諸将をひきいて摂津《せつつ》に向うことにしたが、いきなりのさのさとは行けない。大坂湾には毛利の兵船が六百|余艘《よそう》も入って来ているし、荒木の前衛隊の将となっている高山|右近《うこん》と中川瀬兵衛は武勇すぐれた戦さ上手だ。
先ず、京都|南蛮寺《なんばんじ》のバテレン、オルガンチノを呼び出して言った。
「高山右近と中川瀬兵衛は、わいらが宗門に帰依《きえ》しているげな。しかとそうか」
「サヨウデゴザル」
「高山は宗門ではことさら大事な者というが、しかとそうか」
「イカニモ、ソウデゴザル。ヨキ奉教人《ほうきようにん》デゴザル」
「その方らも定めて存じていることであろうが、両人|唯今《ただいま》は謀反人《むほんにん》の荒木摂津に味方して、おん敵となっている。聞けば、荒木もキリシタンじゃげな。おれはずいぶんとわいらが宗門には情をかけて来たつもりでいるが、こんどのことを見ると、いぶかしゅうてならぬ。キリシタンは謀反をすすめる宗旨《しゆうし》か」
爛《らん》と目を光らせ、鋭い調子で言う信長のことばに、バテレンはあわてた。
「決シテ、決シテ……」
くどくどと弁解する。
「言訳はいらぬ。口では白を黒と言いくるめることじゃて、出来る。おれが見たいは実地の証拠じゃ」
「……実地トハ?……」
「高山が荒木と縁を切って、おれに降参して忠節をするよう才覚せよ。中川もそうするようにいたさば一段のことじゃが、先ずは高山一人でこらえてやろう。それが実地の証拠よ。もし、この証拠を見せるなら、従前通りにわいらが宗門を立ておくが、証拠が見せられぬというなら、わいらが宗門はたたきつぶして、長く日本では禁断にしてしもうぞ。よく分別して返答せよ」
荒木はキリシタンであるとはいえ、そう熱心な信者ではない。その上、恩義を忘れて主君に謀反をしている者だ。こう言われては、オルガンチノとしては異議を言うはずがない。
「オ請《う》ケシマス。ウコンドノガ、オ味方ニナルコト、引受ケマシタ」
と、答えた。
十一月六日、オルガンチノは信長からつけられた秀吉、松井|法印《ほういん》、佐久間信盛《さくまのぶもり》等を同道して、高槻《たかつき》に行き、高山を説いた。高山は荒木を去って信長に帰服することを誓った。
これで、荒木の前衛の一角は潰《つぶ》れたわけだ。
同じ日に、大坂の木津《きづ》川口で、毛利の水軍と織田方の水軍との海戦が行われた。
毛利の水軍はいわゆる瀬戸内海の海賊衆だ。上古以来の海上武士である。織田家の水軍は志摩海賊の九鬼《くき》一党だ。これは熊野海賊の系統の水軍である。毛利水軍が強いので、信長は九鬼一党を召し抱えたのであるが、はじめは勝負にならなかった。
度々毛利水軍に手痛い目にあって、九鬼|右馬允嘉隆《うまのじようよしたか》は、瀬戸内海海賊の船がすべて形が小さいことに目をつけ、今日のことばで言えば大艦巨砲主義をもって対抗することを考えた。信長の財力がそれを可能にした。堅牢で、高い櫓《やぐら》をあげて、そのままに砦《とりで》か城のような船で、大砲を備えたものをこしらえた。七|艘《そう》も建造した。
これは今年の夏出来て、間もなく熊野から大坂湾に乗り出し、本願寺方の雑賀《さいが》、淡輪《たんのわ》の水軍と実戦して見て、大勝利を得た。敵の船がうじゃうじゃと集まって来て、乗りつけるべき手だてがなくさわいでいるところを、ドッと一斉に大砲を撃ちかけてたたきつぶしたのである。
さて、十一月六日の海戦だ。戦場ははじめは木津川口であった。時刻は午前八時頃からはじまった。六百余艘の毛利水軍は群鳥《むらどり》のように九鬼の船に集まって来た。さすがに瀬戸内海海賊はものなれている。巧みに戦って、九鬼の大船を働かせず、南へ南へと圧迫して、苦戦となった。ついに正午になったが、その頃、毛利方の総大将の船と思われる船が近づいて来たので、それを目がけて一斉に大砲を打ちかけ、木《こ》ッ端《ぱ》みじんに打ちくだいた。それから形勢が逆転して、毛利水軍は木津浦に追い上げられた。
当時ののんびりした気風を語る話がある。この海戦を見物するために多数の人々が出ていたらしい。
「見物の者共、九鬼右馬允《くきうまのじよう》手柄なりと感ぜぬはなかりけり」と『信長公記』にあるのだ。
この時代、戦争に関係のない一般庶民が戦さ見物に多数出たという記録は他にもある。伊達政宗《だてまさむね》が会津の芦名《あしな》義広を磐梯《ばんだい》山下の摺上《すりあげ》ケ原《はら》で撃破した時、勝機となったのは、芦名勢の後方で見物していた者共が、伊達勢がそちらにまわると見て、おどろきおびえさわいだため、芦名勢に動揺がおこり、そこを目がけて伊達勢が突撃に出たためであるとある。また、関ケ原役の時、西軍が京極《きようごく》高次の守る大津城を攻めた時、町人共は弁当や酒をたずさえて、近くの山にのぼり、飲食しながら、芝居でも見物するように楽しく観戦したという。
間もなく、中川瀬兵衛も帰服して来た。荒木の前衛隊は両方ともつぶれたのである。
信長は進発にかかり、総勢|怒濤《どとう》の勢いで伊丹へおし寄せ、ひしひしと城をとりかこんだ。
四
こうして、伊丹城(有岡《ありおか》城のこと)の攻囲戦がはじまったわけであるが、三木城は依然として堅固に守っていて、毛利家から吉川・小早川の両人が援軍をひきいて出張って来たし、丹波では波多野《はたの》氏をはじめとして国士《くにざむらい》が一斉|蜂起《ほうき》しているし、信長にとっては容易ならない形勢になっていた。
形勢がこうだから、それぞれ受持のある将領らも、自分の受持に専心することが出来ない。形勢が切迫すると、どこからでも呼びつけられる。北陸路を受持っている前田利家や佐々《さつさ》成政らさえ、時々伊丹攻めに参加するために、遠い北国《ほつこく》から駆けつけさせられるのだから、近くにいる者は言うまでもない。明智は受持の丹波からしげしげと伊丹に呼びつけて働かされたし、秀吉は三木から呼びつけられた。
こんな風では、どこも片づくはずがない。一番早く片づいた丹波さえ、翌年の七月までかかった。次ぎに片づいたのは荒木だが、これは翌年の十二月までかかった。三木に至っては、翌翌年の正月半ばまでかかった。いずれも、牛のよだれのように、長々とかかった戦さであった。
この間には、いろいろなことがあった。
その一つは、小寺官兵衛の大厄難だ。
荒木がむほんの色を立てた年のことだ。官兵衛の主家である御着《ごちやく》の小寺家も、荒木に一味していることがわかった。官兵衛は父宗円と相談して、二度も御着に行って主人|政職《まさもと》に会って諫言《かんげん》した。政職は官兵衛をきらっている家老らと計略を練って、官兵衛を生かしておいてはうるさくてならぬ、やつは骨髄からの織田びいきのやつゆえ、殺さねば害をする、しかしここで殺せばやつのおやじの宗円が腹を立てて敵対しよう、荒木のところへやって、荒木に殺させよう、と相談をまとめて、官兵衛に言った。
「そなたの言うことは道理じゃが、わしがこの企てに同意したのは、荒木への義理でいたし方がなかったからだ。もし荒木が心をひるがえすなら、わしも前に立ちかえって織田家に従おうぞ。そなた、荒木のところへ行って、説得してくれぬか」
「かしこまりました。誠意をもって利害得失を説き、必ず本心に立ちかえらせてまいるでございましょう」
官兵衛は一旦《いつたん》姫路にかえり、父に告げた、父も荒木とは交わりがある。
「わしもくれぐれも意見したいと言っていたと言うがよい」
と言う。
三木の陣所に秀吉を訪ねて、伊丹に行くことを告げた。
「荒木はわしの意見は聞き入れなんだが、そなたの主人と荒木とはまた格別ななかじゃ、あるいは聞くかも知れん。聞けばえらいご奉公になる」
と、秀吉も言う。
かくて、官兵衛は伊丹に向った。
一方、御着《ごちやく》では伊丹に密使を走らせて、しかじかで官兵衛が行くことになっている、ついたらば捕えて殺してほしいと、言ってやったのだから、火に飛びこんだ夏の虫のようなものだ。官兵衛が有岡城に入ると、屈強《くつきよう》な武士数人を伏せておき、うむを言わさず引っ捕えて、城内の牢獄《ろうごく》に投げこんだ。御着からの依頼は殺してくれであったが、荒木は官兵衛を捕えたことを利用して、播州|士《ざむらい》らの心をゆりうごかそうと考えたのだ。
「小寺官兵衛は、織田家を見かぎって、われらに一味するために、入城した」
と、宣伝しはじめたのである。
播州士らが織田に帰属したのは、すべて官兵衛の働きによると言ってよい。この宣伝にききめがないはずはないと、荒木は打算したのである。
官兵衛の家では、荒木のこの宣伝を信じはしなかったが、官兵衛が有岡城に行ったきり帰って来ないのは、眼前の事実だ。一同|仰天《ぎようてん》した。
官兵衛を助けるためには荒木に味方するよりほかはないが、そうすれば織田家にさし出してある松寿丸《しようじゆまる》は殺される。といって、織田家への帰属を強くすれば、官兵衛は忽《たちま》ち殺されてしまうであろう。いずれかを捨殺しにするよりほかのない場に立ったのだ。
宗円は官兵衛を捨てて、松寿丸を助けることに方針を決定した。家中には相当反対もあったが、宗円はおし切った。
「荒木のむほんは末とげはせん。荒木が頼みとしている毛利の力は織田にはるかにおとる。根性もなまぬるい。この見きわめがついていたればこそ、官兵衛は織田家帰属の心をかためて、その線にそって一心に働いて来たのじゃ。織田家にたいする忠誠をいよいよつくすことは、官兵衛の志であるはずじゃ」
と説得した。
ところが、荒木の宣伝は、信長にはそのまま受取られた。彼は時々最も病的に猜疑心《さいぎしん》が強くなるが、あたかもその時期であったのであろう、激怒した。松寿丸を殺そうと思った。松寿丸は秀吉にあずけられて、長浜城内にいる。三木陣中の秀吉に急指令が飛ぶ、
「小寺官兵衛が証人、松寿を至急さし出すよう、長浜留守の者に申しやれよ」
秀吉はもちろん荒木の言いふらしなどを信じはしない。菩提《ぼだい》山城に静養している竹中半兵衛に、官兵衛のしかじかのことで、しかじかと上様から申してまいったれば、貴殿何とか方法を講じていただきたいと頼んでやった。
半兵衛は安土に出て行き、信長に目通りして、諫言《かんげん》したが、信長は聞き入れない。殺せと言い張る。こうなると狂気としか思われない信長だ。しかたがない。半兵衛は、
「さらば、いたし方はござらぬ、ふびんながら殺しましょう」
と言って長浜に行き、松寿丸を連れ出したが、そのまま菩提山城に連れて行き、かくしてしまった。信長に、殺したと報告したことは言うまでもない。
有岡城の落城は、この翌年の十一月十九日であるから、官兵衛は満一年の間、入牢《じゆろう》していたわけだが、彼のその牢屋は有岡城の西北隅にあり、後ろには深い溜池《ためいけ》があり、三方が大|竹藪《たけやぶ》に包まれていたので、日の光もささず、いつも陰湿の気がじけじけと立てこめていた。こんなところに、そんなに長くいたので、官兵衛は肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われて、そのあとが瘡《かさ》となって満身を蔽《おお》うた。とりわけ、頭部と膝《ひざ》とがひどく、出獄後になおっても、頭はジャリ禿《は》げになり、膝は曲ったままついにのびなくなった。この瘡は唐瘡《とうがさ》であったというから、梅毒性のものである。かねて感染したものが軽快してなおったように見えていたのが、この不健康な場所での不健康な生活のために一ぺんに吹き出したのであろう。
この苦しい生活の合間合間に、荒木が官兵衛に会って、味方になることを口説いたことは言うまでもない。しかし、官兵衛は決して心を動かさなかった。
悲惨をきわめたこの幽囚《ゆうしゆう》生活の間に、わずかに官兵衛の心をなぐさめたのは、のちの栗山備後《くりやまびんご》、当時の栗山善助が商人姿に身をやつして伊丹に来て、ひそかに城内に忍びこんで、時々訪れたことと、大竹藪からのびてきた藤蔓《ふじづる》が獄の格子戸《こうしど》にからみつき、新芽を出し、やがて可憐な薄紫の花房がひらいたことであったと伝えられている。
わずかにさしこんで来る日ざしを慕って、ほんの少しずつ伸びて来て、青い芽を持ち、それが葉になり、その中の一つが花芽らしいことに気づいた時、蓬髪《ほうはつ》と瘡《かさ》と垢《あか》とにうずもれて、幽鬼《ゆうき》そのままの姿となっている官兵衛の胸には、かすかに希望の灯《ひ》がともったであろう。
(これが花芽であって、花がひらいたら、おれはいつかここを出ることが出来る)
と、花占《はなうらな》いして、毎日一心に凝視《ぎようし》していたに違いないのである。
この花占いは的中した。花が咲いてから八月目に、有岡城は陥り、火に包まれた。栗山善助は寄手の陣中の知人を頼って身を寄せていたが、火のおこるのを見ると、かねて知っていた忍び口から駆け入って、牢《ろう》を破って主人を助け出したのである。
官兵衛は満一年の牢舎生活のため、足がすくみ萎《な》えていて、立つことが出来ない。善助は背負って出た。
このことが信長に聞こえると、信長は、
「おれは官兵衛に合わせる顔がない」
となげいたが、竹中のはからいで松寿丸が助けられていると聞いて、大いによろこんだ。官兵衛を京に呼んで会って、手を取って慰めた。官兵衛は戸板《といた》にのせられて京に行ったという。
その二。
丹波の平定に際して、秀吉が大功を立てたことだ。
丹波の経略は明智光秀が主としてあたっていたのだが、うまくはかどらない。光秀は波多野《はたの》氏の居城である多紀《たき》郡の八上《やがみ》城のまわりに、三里の長さにわたって堀をうがち、柵《さく》をいく重も結《ゆ》ってとりまき、堀ぎわに軍兵共の宿舎を町屋づくりに建てさせ、番卒を立ててきびしく警戒し、城中と外部の連絡を絶ち、兵糧攻《ひようろうぜ》めにしたのだが、ともすれば封鎖が破られて、なかなか城中が弱りを見せない。
波多野家は古い家柄なのだ。元来、丹波は上古|秦《はた》氏のさかえた土地である。今日丹波に土地としては綾部《あやべ》、会社としては郡是《ぐんぜ》等、養蚕や製糸業がさかんであるのは、ここが秦氏の本拠であったことが根本の原因をなしているのだ。波多野氏はこの秦氏の本家的家筋として、長く丹波人を支配して来た。波多野氏と丹波人とは、単なる征服者と被征服者、あるいは単なる領主と領民との関係ではない。肉親的親近感があり、最も強い結びつきがある。だから、丹波人らはきびしい封鎖線をくぐっては、食糧や武器、弾薬を運びこんだばかりか、時には包囲軍の後方でゲリラ行為もしたのだ。本城である八上城がこうだから、他の城々にこもる丹波|士《ざむらい》らの意気はおとろえない。明智の丹波経略は膠着《こうちやく》状態におちいっていた。
この情勢を見て、秀吉は信長に意見具申した。
「丹波の経略を三方よりいたされてはいかが。すなわち、明智|日向《ひゆうが》が山城《やましろ》口よりする一方、摂津方面からも誰ぞに任ぜられ、但馬《たじま》口よりは拙者の弟小一郎うけたまわり、同時に進撃いたせば、埒《らち》があくと存じます」
三木城も、有岡城も、急にはどうにもなりそうになく、信長は八方ふさがりの感がしている時だ。
せめて丹波だけでも埒があけば、いくらか気が晴れるというものだ。
「よかろう」
ということになって、摂津口を丹羽《にわ》長秀に命じて、三面からの進撃を開始させた。
三人は競争の姿で丹波に入り、それぞれに功を奏したが、第一の功は小一郎秀長であった。わずかに二十日の間に、受持地区の西丹波を全部切り平げた。小一郎の功はすなわち秀吉の功だ。
一番成績の悪かったのは、明智であった。元来自分一人の受持であるところを三人に命ぜられたことが、不信任状をつきつけられたようなものだから、死物狂いにはげんで数城をおとしいれたのだが、最も肝心の八上城がぬけない。堅固な城なのだ。
前述のように、城中と城外の民との結びつきがかたいのだ。
明智の不運というよりほかはないのだが、抜けないのは不名誉である。
あせりのあまり、調略をもって降伏開城させることにして、自分の叔母《おば》で母としてつかえている老婆を人質としておくることによって、やっと話をまとめた。
波多野兄弟三人は城を出て、お礼言上のため安土へ来た。信長はこれを捕えて、安土の町はずれではりつけにかけて殺してしまった。波多野兄弟の頑強な抵抗に激怒していたのである。
明智の義母は、八上の城兵らがはりつけにかけて殺してしまった。
明智にとっては言いようのないほどの悲劇であったが、ともかくも、これで丹波一国は平定したのであった。
その三。
竹中半兵衛が病死したことだ。
半兵衛は、菩提《ぼだい》山城で病を養うことになった翌年の晩春、また大|喀血《かつけつ》した。自ら容態を案じてみると、やつれは徐々に加わり、とうてい再起は出来ないと思われた。慨然として、
「武士は戦場で死んでこそ本望じゃ。いずれは助からぬいのちとわかっているものを、思い切りわるくこんなところで静養しているのは、未練じゃわ」
と、言って、三木に行った。
秀吉はおどろいて、かえそうとしたが、
「ここで死ねば本望でござる」
と言い張って聞かない。
日々に軍務をとっている間に、衰弱は急速に加わり、ついに六月十三日、陣中で死んだ。波多野兄弟が安土ではりつけにかけられたのがこの月の四日であるから、それから九日目である。また、有岡城が陥って官兵衛が救出されたのは、この年の十一月であるから、その時はもう半兵衛はいなかったのだ。年三十六。
「秀吉かぎりなく悲しび、劉禅《りゆうぜん》(蜀漢の劉備の子、蜀の後主《こうしゆ》といわれた人)、孔明《こうめい》を失ひしにことならず」
と、半兵衛の子竹中|重門《しげかど》が自分の著書『豊鑑《とよかがみ》』に書いている。
餓鬼道城
一
荒木退治にまつわる話には、語るべきことがまだある。
荒木|村重《むらしげ》は伊丹《いたみ》の有岡城にこもって、織田軍のきびしい攻囲をこらえていたが、頼みにしていた毛利勢は来ず、攻囲は益々《ますます》きびしくなるばかりであったので、籠城《ろうじよう》翌年の天正七年九月二日の夜、近習《きんじゆ》五、六人だけを連れて、城を忍び出て、尼《あま》ガ崎《さき》城に移った。どんな風に家臣らに言ったか、
「しょせんこのままではどうにもならん。おれが城を忍び出て、毛利との連絡を取って、挽回《ばんかい》の策を講ずることにする」
と言って、諒解《りようかい》させて出たのか、黙って忍び出たのか、伝えるところはないが、最愛の妾《めかけ》一人は召《め》し連れたというのだから、皆に黙って出たと見た方がよさそうである。
よしんば打明けたにしても、ごく小範囲に、重立った者数人だけに話したに過ぎなかろう。もちろん、この人々にも、妾を連れて行くことは秘密にしたろう。
荒木は尼ガ崎城に入ったが、有岡城にのこる連中は、荒木が抜け出したことを知ると、腹を立てる者が多かった。
この動揺の様子をさぐり知ったのは、寄手《よせて》の大将の一人滝川一益だ。元来江州|甲賀《ごうしゆうこうが》の侍《さむらい》である滝川の旗本には甲賀の忍者が多数いる。滝川自身も忍者出身だ。自分が忍びこんでさぐり知ったか、部下の者がさぐり知って来たか、わからないが、ともあれ、城内の動揺を知った。
早速《さつそく》に利用して、謀略を用いる。佐治新助《さじしんすけ》という者を城中におくりこんで、侍大将の一人中西新八郎という者を、
「おぬしらが主人荒木は、士卒を捨てて城を逃げ出したでないか。しかも、最愛の妾だけは召し連れて行ったのだぞ。おぬしらは捨殺しにされたのだ。なんときたない主人ではないか。武士の風上にはおけぬしろものじゃ。かかる者に忠義立てして、一命を空《むな》しゅうするとは、阿呆《あほう》の骨頂とは思わぬか。ふびんなことよ。早く降参してお味方に参って、いのちの助かる工夫をするがよい」
と、説き立てた。
中西はその気になり、星野、山脇、隠岐《おき》、宮脇などという足軽大将(中隊長クラスの将校)四人を口説きおとし、滝川と裏切りの約束をかためた。
十月十五日の払暁《ふつぎよう》というから、荒木が出てから約一月半の後だ、滝川の人数を外郭《そとぐるわ》に引き入れた裏切衆らは、不意に起《た》って、斬《き》ってまわり、外ぐるわに櫛比《しつび》しているさむらい屋敷に火を放って、焼きはらった。
有岡城は裸か城になってしまったのである。
この時、侍大将(部将クラスの将校)や足軽大将級の武士二人が、あわてて降伏したが、これは命の瀬戸ぎわでの降伏、ゆるさぬと、殺した。また紀州の雑賀《さいが》(今の和歌山市)士《ざむらい》らが二百人ばかり一団となって抵抗したが、とりこめて殺した。雑賀士は鉄砲の技術にすぐれた、当時の特殊兵で、頼まれては鉄砲自弁の雇兵となって、近隣諸国に出張する生態があった。
有岡城では心細くもなお籠城《ろうじよう》をつづけていたが、困窮はさらにつのって来たので、荒木一族で家老である荒木久左衛門をはじめとして重役の者共は相談の上、滝川一益に、
「拙者《せつしや》共、当城を開け渡します。そして、妻子を人質として当城にとどめ申した上で、尼ガ崎にまかり越し、村重に意見し降伏させ、尼ガ崎と花隈《はなくま》の両城を進上させます。もし村重が聞き入れ申さぬ節は、拙者共先手をうけたまわり、即時に尼ガ崎城を乗り取りましょう。拙者共の降参をおいれいただきたくござる」
と、申しこんだ。
滝川は同僚らに相談する。聞きとどけることになって、信長の弟で、昔信長に殺された信行の遺子信澄が城を受取って守ることになった。この信澄は明智光秀の娘聟《むすめむこ》である。
荒木久左衛門らは妻子を人質として城にのこして、尼ガ崎に行き城門にさしかかり、目通りを願い出たが、村重はかたく門を閉じて、入れようとしない。
嘆願と拒絶の押問答がくりかえされたが、村重がどうしても入れないので、久左衛門らはあぐねた。しかし、伊丹に帰ろうにも、城は織田信澄に占領されている。
どういう量見であったのだろうか、人質になっている妻子を打ち捨てて、逐電《ちくてん》してしまった。
ことの次第が信長に報告された。
信長は激怒した。
「士のくせして、いのち惜しさに妻子を打ち捨てて逐電いたすの条、奇っ怪しごく、前代未聞の卑怯である!」
と言って、人質らをしらべて人に差図をするほどの身分の者以上の妻子は全部しおきして殺してしまえ、うち重立った者は京に上《のぼ》せて殺し、余《ほか》は尼ガ崎で殺せ、と、命じた。
妻子を打ち捨てて逃げた久左衛門らこそ罪科せらるべきで、妻子はあわれな犠牲者に過ぎない。気の毒がられ、あわれまるべきで、憎まるべきところはさらにないはずと、現代のわれわれには考えられるのであるが、信長としては世の見せしめにして、再びかかる不都合な者の出ないようにする必要があると思ったのか、時として彼を襲う激怒の嵐にひたすらに腹が立ったのか、ともかくも上述のような命令を出したのである。
こんな命令を信長が出した以上、もう何人もこれをやめさせることは出来ない。台風の襲来を阻止《そし》することが出来ないと同じだ。人々はきりきり舞いして、必要な措置をとりおこなった。
有岡城中の人質らは、覚悟をきめて、それぞれに最期《さいご》を迎える用意をした。これを、信長の右筆《ゆうひつ》太田|牛一《ぎゆういち》は『信長公記』で、こう書いている。
「世に生命にたいする執着ほど情ないものはない。昨日までは人の上に立って指揮をしたほどの歴々の者が、一身を助からんとて、妻子兄弟を打ち捨てて逃亡したのだ。人質らは、こうなった以上、われわれはとても逃れぬところ、せめては導師を頼んで、死後の冥福《めいふく》を得る工夫をしようと、思い思いに寺々の坊さん方を請《しよう》じて供養し、数珠《じゆず》、経帷子《きようかたびら》をいただき、戒名を授けてもらった。そのお布施《ふせ》には、金銀をさし上げた人もあり、着ていた着物をまいらせた人もある。いのちのせまった今の身になると、以前の綾羅錦繍《りようらきんしゆう》より、経帷子の方がずっとありがたい。昔栄えた頃は経帷子など不吉なものとばかり思っていたが、今これに戒名を書いていただいて、心強く思ったのである。千年も万年も変るまいと契った夫婦、親子、兄弟の間でありながら、こんな情ない別れをして、都に引き立てられて諸人に恥をさらすこと、まことに思いがけない運命となったものであるが、すべて前世からの因果とあきらめて、今はもう荒木も恨まず云々」
こうして、十二月十二日、三十余人をえらび出して、夜どおし京都に護送した。また翌十三日の朝のこる者を、尼ガ崎、伊丹、西ノ宮のほぼ中心にある七松ではりつけにかけて殺した。百二十二人の女子供、なかには幼児を抱いた者もある。
牛一はこれをこう描写している。
「運命定まってどうすることも出来ないと知った歴々の美しい女房方は衣裳美々《いしようびび》しく出でたたれた。それをあらけない武士共が情容赦《なさけようしや》もなく、引き立て、幼児あるは抱《いだ》かせ、はりつけ柱にかけて、あるいは鉄砲をもってひしひしと打殺し、あるいは槍薙刀《やりなぎなた》をもって刺し殺した。百二十二人の女房衆が一斉にあぐる悲鳴は、天にこだまするばかりで、見る者のまなこは眩《げん》じ、気を失い、感涙を禁ずることが出来なかった。実見した人は、その後二、三十日ほどの間は、おもかげが目から離れなかった由である」
信長はこれらの女房衆に付慕っていた召使共までしおきした。女三百八十八人、男百二十四人、合して五百十二人を四つの家に閉じこめ、乾草《ほしぐさ》を積んで、火を放って焼き殺させたのである。悲惨とも、残酷《ざんこく》とも、いいようのない有様であった。
さてまた、都へ護送された三十余人は十六日の朝から、車一台に二人ずつのせて、京中を引きまわした。車は全部で十一台。八台にはおとな二人ずつをのせる。
一番車は、村重の弟で吹田《すいた》家に養子に行っている某《なにがし》と村重の妹で野村丹後守《たんごのかみ》の妻十七歳。
二番車は、村重の娘で荒木隼人介《はやとのすけ》の妻十五歳と村重の若い後妻名はたし二十一歳。前者は妊娠中であった。
三番車は、村重の娘ただ(未婚)と村重の弟吹田某の妻、これは吹田家の家付娘で、年十六であった。
四番車は、荒木志摩守《しまのかみ》が子で渡辺家に養子に行っている四郎二十一歳と、その弟の荒木新之丞《しんのじよう》十九歳。
五番車は、伊丹安大夫の妻三十五歳とその子松千代八歳と、北川与作の妻十七歳。これは尾林《おばやし》越後の娘。
六番車は、村田因幡《いなば》の娘で荒木与兵衛の妻十七歳と池田和泉《いずみ》の妻二十八歳。
七番車は、荒木越中守の妻十三歳と牧左兵衛の妻十五歳。この二人は姉妹で、村重の妻たしの妹である。
八番車は、伯々下部《ははかべ》某と荒木久左衛門の嫡子自然《ちやくしじねん》十四歳。
あとの三台には子供らとその乳母《うば》らを七、八人ずつのせて、京都中を引きまわして、六条河原《ろくじようがわら》で処刑した。
太田牛一の記録を引く。
「女房達はいずれも肌に経帷子《きようかたびら》を着て、上に色よい小袖《こそで》を美しくまとっていた。いずれも歴々の士《さむらい》の女房衆であるので、覚悟すずしく定まって、少しも恐れる色なく神妙であった。村重の妻たしという人は、世に聞こえた美女である。世が世なれば、夫や肉親以外の者には顔を合わせることのあろうはずはないのに、今の身になっては致し方なく、荒けない下部《しもべ》どもの手で小肘《こひじ》をつかんで車に引きのせられたのだ。この人はいよいよ刑場につき、車からおりるとき、帯をしめなおし、髪を高々と結いなおして、小袖の襟《えり》もとをくつろげて、斬《き》りやすいようにして、心静かに首の座に直って、斬られた。これを見たため、人々の覚悟は一層定まったのであろう、あとの人々の最期はいずれも立派になった。また、荒木久左衛門の嫡子自然と伊丹安大夫のむすこ松千代は、前者は十四、後者はわずかに八つの幼さであったが、いずれもおちついたもので、ここが最期どころか≠ニ聞いて、敷皮にすわり、襟もとをぬき上げて、心すずしく斬られた。見る人々、貴きも賤《いや》しきも、せんだんは双葉《ふたば》よりかんばしと、ほめない者はなかった。これらの悲劇――一門、親類、上下、無数のこの血涙の悲劇は、すべて村重一人の所業のあやまりからおこったことだ。人々の恨み、やわか報いのないことがあろうかと、恐れない者はなかった」
情景、目に見えるようである。
秀吉はこれらのことを、三木の陣中で聞いた。知らず知らずに眉《まゆ》がひそめられて来るのを、どうすることも出来なかった。武将としてあるまじきことをした荒木の不覚は言うまでもないが、信長の内部になにか異様に気味わるいものがもやもやと立ちこめているような無気味さを感ぜずにいられなかった。
荒木のことを思い、信長のことを思うことが数日つづいた。
その荒木は、尼ガ崎城に居たたまらず、脱出して花隈《はなくま》城に移ったが、ここにも居たたまらず、また脱出して、備後《びんご》の尾道《おのみち》にのがれて、毛利家に身を寄せた。
かつて猛勇をもって鳴った荒木ほどの武将の、この卑怯未練は不審千万であるが、人間は一旦|臆病風《おくびようかぜ》に吹かれると際限もなく臆病になるもののようである。荒木もそれだったのであろう。あるいは、寵愛《ちようあい》の妾との享楽の執着が絶ちがたく、それが生への執着となったのかも知れない。荒木の生涯は作家の研究に値する好題目である。
ともあれ、この時から、荒木の武将としての生命は死んだ。毛利氏は荒木を保護したが、それは食客としたのであって、決して武将として働いてもらおうとはしなかった。彼は信長の死後、かねて秀吉となかがよかったので、呼び返されて、少し所領をもらい、堺に住むことになったが、これも武将としては待遇されない。茶の湯をして、生をおわったのである。その歿年《ぼつねん》は天正十四年であるから、この時からなお七年生きたわけである。彼が武人としての名誉にかえても愛した妾が、この時まで従っていたか、記録は全然のこっていない。
二
三木城の落城のことを少し語る必要があるようだ。
三木城は天正七年の晩秋頃から、秀吉の兵糧攻《ひようろうぜ》めの効果が大いにきいて来た。この頃、毛利方はれいによって吉川《きつかわ》元春、小早川隆景の兄弟が将となり、大軍をもって襲来し、魚住《うおずみ》港に兵糧を上げ、包囲陣を突破して兵糧を運びこもうとし、秀吉の寄騎《よりき》の一人谷|大膳衛好《だいぜんもりよし》が戦死したほどの激戦となり、城中また打って出て連絡しようとした。しかし、秀吉はよく戦って敵を追い散らし、兵糧を奪取して一粒も運びこまさなかった。
秀吉は包囲陣をせばめ、柵《さく》をうんと前進させ、一層《いつそう》きびしく封鎖したので、城内の困窮《こんきゆう》は一通りではなくなった。馬を殺して食い、紙を煮たり、粘土を食うほどとなった。おりおりある小ぜり合いで打ちとったり、城を脱出しようとする兵を打ちとったりしたのを、腹を裂いてしらべてみると、まるで空《から》であったり、草の葉や紙や粘土がつまっているので、秀吉は城内の飢餓《きが》が深刻化していることを知った。
しかし、それでもなおその年じゅうは持ちこたえて歳末に至った。城内の結束がいかに固いものであったか、別所《べつしよ》氏がいかに強かったか、わかるのである。
新しい年になって六日目、早くも秀吉は戦さはじめした。自ら兵をひきいて進み、一砦を陥れたのだ。
十一日には、小一郎とともに進んで、なお二砦をおとしいれて、その一つに本営を進めた。
これで、三木城はすべての出丸をうばわれて、本城だけとなった。
十五日、秀吉は、一族を離れてはじめから味方している別所孫右衛門|重棟《しげむね》を呼んで、言った。
「気の毒ながら、城内のそちの一族の運命はきわまった。せめて当主小三郎としては、最期をいさぎよくするとともに、無益な殺生《せつしよう》をせぬことを心がくべきであろう。そうは思わぬか」
愁然《しゆうぜん》として、孫右衛門は答える。
「仰せの通りでございます。なにごとにまれ、仰せつけいただきとうござる」
「城内から、誰ぞしかるべき者を呼び出して、連れてまいれ」
孫右衛門は使いを立て、小森与左衛門という者を連れて来た。
秀吉は浅野弥兵衛と孫右衛門の名で、勧告状をしたためさせ、小森に持たせて、城中にかえした。
勧告状の要旨はこうであった。
「城の運命はすでにきわまった。ついては、すでに丹波の波多野の最期の有様、荒木の落着の次第については、ご承知のことと存ずる。波多野は囚《とら》われの身となって磔柱《はりつけばしら》の上で命をおとし、一族、重臣皆殺しにされ、荒木はどぶ鼠《ねずみ》のごとく所々を逃げまわり、武士の魂をとりおとして卑怯の名をのこし、一族・重臣はもとよりのこと、足軽大将の末に至るまでの妻子眷属《さいしけんぞく》を非業《ひごう》に死なせるにいたった。当国随一の名族である別所氏としては、かかる不覚があってはならぬことと存ずる。ご勘考《かんこう》あるべきところでござろう」
返書はその日のうちにあった。
その内容。
去々年以来敵対申し上げたことについては、当方としては正当と信ずる理由があるのでござるが、今さらとなっては、詮《せん》なし。何も申し上ぐまじ。
仰せのごとく運命すでにきわまったのでござるが、別段後悔はしていません。
つきましては、当主長治、叔父|賀相《よしすけ》、弟友行の三人が、来る十七日午後四時に切腹いたして、城をお渡し申すべければ、城中の士卒、雑人《ぞうにん》らは助命していただきたく願い上げます。お聞きとどけいただけるなら、今生のよろこび、来世の抜苦《ばつく》の助けになることでござる。
右、ご披露いただきたい。
正月十五日
別所彦之進友行
別所山城守賀相
別所小三郎長治
浅野弥兵衛殿
別所孫右衛門殿
この返事はすぐ秀吉に披露された。
「あっぱれ、見事なること、さすがは名族別所ほどのことはある」
と感嘆して、浅野弥兵衛に命じて、酒を柳樽《やなぎだる》(角樽、柄樽の類)につめて十|荷《か》、種々の肴《さかな》をとりそろえてつけ、書状をおくった。
書礼をいただき、直ちに拝見いたしました。この度はご籠城《ろうじよう》のはじめから今に至るまで、毎度の合戦、すべてお見事でござった。ついに勝利は失われたとはいえ、決して怯弱《きようじやく》とは言えません。しかしながら、運命ついに窮《きわま》り、来る十七日|申《さる》ノ刻には長治、賀相、友行の三人、自尽《じじん》して、士卒・雑人以下を助命いたされたい由、申し越されましたが、まことに将の士を愛するの道にかない、前代未聞の美挙でござる。良将のふるまいと言うべきでござる。その心底を思えば、感涙とどめがたきものがござる。
ご三人ご生害《しようがい》あるにおいては、士卒のいのち赦免《しやめん》のことは、少しも相違ござらぬ。
なお、浅野弥兵衛方より、くわしく申し述べるでござろう。謹言
正月十五日
羽柴筑前守秀吉
別所小三郎殿御報
これで話はきまった。
三人は重立った者を集め、秀吉から贈られた酒を心しずかに酌《く》んで、長い陣中の労を慰めた。
ところが、翌日になって、少し異変がおこった。
この日早朝、賀相はつくづくと思案してみると、元来この謀反は自分が小三郎にすすめておこしたものだ。信長の自分にたいする怒りは深刻なものがあるに相違ないと思った。
(うっかりと腹は切れぬ。他の二人は知らず、おれが首は京へ持って行き、京中を渡した上で安土でさらしものにするか、京でさらしものにするであろう。そうなっては、人の口の端《は》にかかり、かれこれと悪口されるは必定《ひつじよう》。かかる恥をさらすこと、何ぼう無念のことかな。同じ死ぬならば、城に火をかけた上で腹切り、灰となるがましじゃ。それにきめた)
思案を定めて、小三郎のところへ行って、同意をもとめたが、小三郎は聞き入れず、翻意をもとめた。
論争がはじまったが、どうしても小三郎が聞き入れないので、不機嫌《ふきげん》で自分の住居にかえった。
(よしよし、この上はおれが一人でやるだけのこと。やれば小三郎もそうせずにはおれぬ)
賀相《よしすけ》は身支度し、住居にまさに火をかけようとした。
賀相のこうした態度に、城内の士らは不安であった。はじめ死を覚悟していても、それはいたし方がないからのことで、好きでその覚悟をきめたのではない。小三郎ら三人が死んで、自分らは助かることになったと聞いてからは、無闇《むやみ》にいのちが惜しくなっている。
「用心せずば、山城守殿が元も子もなくしてしまうぞ」
とささやき合って、多数賀相の住居の近くに来て、警戒していたので、
「それ!」
とばかりに八方から襲いかかって、賀相をおさえつけ、殺してしまった。
賀相の死は武士としてさわやかさを欠くが、その妻は見事であった。夫が殺された後、男の子二人、娘一人を、自分の左右にすわらせ、一人一人さし殺して、自分ものどをかき切り、母子四人、枕をならべて死んだ。「前代未聞の働き、あわれなる題目なり」と、牛一は書いている。この妻女は畠山|下総守《しもうさのかみ》の娘であるとある。
これらのことは、もちろん、小三郎に報告される。
小三郎はこの時二十六、食物もろくにない長い籠城《ろうじよう》生活にやつれ切ってはいるが、若々しい風貌を失ってはいない。
「ぜひもなきこと」
と、叔父の首を受取って、床の間におき、合掌《がつしよう》した後、首桶《くびおけ》をとり寄せて納めた。明日自分ら兄弟の首とともに、秀吉の許《もと》にとどけなければならないのである。
その夜はまた酒宴した。
翌日はいよいよ十七日だ。定めの申《さる》ノ刻《こく》、今の午後四時頃になると、小三郎兄弟は身支度して、広間に立ち出でた。その妻女達と小三郎の子の三つになるのも、いずれも死装束《しにしようぞく》で従った。
席になおると、小三郎は先ず幼児を抱いて膝《ひざ》にのせ、しばらく顔を凝視《ぎようし》してはらはらと涙をこぼしたが、すぐ短刀をぬき、胸を刺して刺し殺した。一声も上げさせない。冴《さ》えた手際であった。
子供の死体をつつんで、わきにおくと、妻女がすり寄って来た。この妻女は去年の夏明智に亡ぼされた丹波の八上《やがみ》城主波多野秀次の妹である。
小三郎が襟《えり》をつかんで引きよせると、妻女は両手で自分の白い胸を引きあけた。宝珠のように美しい胸である。
小三郎はむせるようにつき上げて来る嗚咽《おえつ》をこらえて、二刀《ふたかたな》刺した上、頸動脈《けいどうみやく》をはねてとどめをさした。
小三郎にならんで、弟の彦之進友行も自分の妻を殺した。これは因幡《いなば》の守護大名山名の一族山名|和泉守豊恒《いずみのかみとよつね》の娘である。
兄弟は妻の死骸《しがい》を正しく寝かせた後、広縁に出て、ならんですわって、士卒を集めた。士卒は庭に居ならんですわった。
小三郎は言った。
「この度は長の籠城に食もたえ、難儀この上もない日がずっとつづいたに、その方ども少しも心を変ぜず、持場持場をかためて、粉骨してくれたこと、前代未聞の忠節。芳恩《ほうおん》のほど謝すべきことばもないぞ。せめてものことに、われら死んで、その方共のいのちにかわるべき約束をとりつけた。それをわれらの祝着《しゆうちやく》としたい。唯今《ただいま》、お暇《いとま》するぞ」
しめやかな調子ながら、明晰《めいせき》に言って、脇差《わきざし》をぬいて、エイヤ、と掛声をかけて、腹を切った。
彦之進友行は、自分の近習《きんじゆ》らを呼びよせて前に居ならばせ、一人一人に太刀、刀、脇差、着物等を分けあたえた後、兄の腹を切った脇差をとって、また掛声をかけて腹を切った。小三郎と一つ違いの二十五という若さであった。牛一は「可[#レ]惜可[#レ]惜」と書いている。
兄弟の介錯《かいしやく》は家老の三宅入道治忠がした。
治忠は介錯の後、大肌ぬいで、
「この頃ご高恩にあずかる者が多数ござるに、一人もお供申す人がない。わしは当家の年寄の家に生れながら、殿の覚えにあずからず、不満は身にあまるが、お供申す。人々、入道が死にざまを見よや」
と、呼ばわって、腹十文字にかき切って、はらわたをくり出して死んだ、――と、牛一は書いている。はたしてそうか、小三郎を説いて叛旗《はんき》を立てさせたのは、賀相《よしすけ》と治忠のはずである。彼は死なねばならない責任があったはずだ。しかし、牛一がこう書いているところを見ると、籠城中に小三郎のきげんを損じたことがあって、不遇だったのを不平に思っていたのかも知れない。
小三郎らの死はその日のうちに秀吉に報ぜられた。
秀吉はその夜ひと夜は城中において供養することをゆるし、別所家《べつしよけ》の菩提寺《ぼだいじ》に知らせてやって僧をつかわした。翌日|下知《げち》して士卒を城中から出させたが、その以前、大釜《おおがま》をいくつもならべて、薄い粥《かゆ》をたかせ、士卒らにふるまった。心得ある者はごく少量でとどめたが、貪食《どんしよく》した者はしばらくすると苦しんで全部死んだという。
小三郎の小姓《こしよう》が、死んだ人々の辞世の歌を書いた短冊《たんざく》をもって来た。秀吉は受けとって一々に見た。
今はただ恨みもなしや皆人の いのちにかはるわが身と思へば
長治
もろともに果つる身こそはうれしけれ おくれ先き立つならひある世に
長治妻
命をも惜しまざりけり梓弓《あずさゆみ》 末の世までも名を思ふ身は
友行
頼めかし後の世までに翼をも ならぶるほどの契りなりけり
友行妻
後の世の道も迷はじ思ひ子を 連れて出でぬる行く末の空
賀相妻
君なくば浮身のいのち何かせむ 残りて甲斐のある世なりとも
三宅治忠
賀相の妻の分は別として、他はいずれも前の夜あたりに詠《よ》んで書いておいたものであろう。
秀吉は別所三人の首を安土におくって、信長の実検《じつけん》にそなえた。
信長は実検の後、城下でさらした。信長としてはこれは当然であろう。別所氏は満一年十か月にわたって信長を苦しめたのである。
別所氏の離反と抵抗は、秀吉の大厄難であったが、こうして平定してみると、秀吉は大はばな成長をしていることがわかった。信長の覚えは一層よくなった。今や彼の地位は、明智光秀を相当にしのぎ、丹羽長秀《にわながひで》すらいくらかしのぎ、もはや彼の上位には柴田勝家《しばたかついえ》がいるだけであった。
秀吉はそれをはっきりと感じた。
男の大難とは、常にこのようなものなのである。一難を越えるごとに、成長して行くのであり、その成長は難の程度に正比例するのである。
三
秀吉は姫路から三木城に城を移して、ここを中国経営の基地とした。もはやアンチ織田の者は播州《ばんしゆう》内には一人もいない。小寺官兵衛――有岡《ありおか》城を救出されてから、彼は御着《ごちやく》の小寺家ときっぱりと主従の縁を切って、本姓の黒田にかえったが、その御着の小寺はとうの昔にどこかに逃げ出してしまった。
但馬《たじま》もまたよく服属させつづけた。備前《びぜん》の宇喜多《うきた》の帰服も、信長が許したので、その本国である備前はもとよりのこと、美作《みまさか》も帰服した。秀吉の威は中国に鳴りひびく勢いとなった。
この年は三月に閏《うるう》があったが、その閏三月に信長と本願寺の間に和睦がまとまった。
信長が最初本願寺と戦ったのは元亀《げんき》元年である。その時から今まで足かけ十一年になる。その頃は本願寺のエネルギーの絶頂期であったので、信長の自然暴力のような猛威で、この長い年月をもってしても、屈服させることが出来なかった。勝てないどころか、おされ気味であった。しかし、こんどは丹波の波多野を屠《ほふ》り、荒木を駆逐し、別所をほろぼし、毛利の水軍を徹底的にたたき破った。本願寺と気脈を通じ、これを声援・実援していたすべての勢力の根を絶ち、本願寺にたいしてかつてなかったほどの優位に立ち得たのだ。この機会を利用しない法はない。信長は朝廷の権威を借りて、天皇から本願寺を説得していただくことを考えた。
「今は力をもって踏みつぶすのも易いことでござるが、あわれでござる。みかどのご仁心をもって、本願寺に石山を開けわたして、紀州あたりに立退《たちの》くよう、お諭《さと》しのほど願いたくござる」
と、奏請《そうせい》した。
朝廷としては、一つには信長がこわい。二つには本願寺が劣位に立っていることは明らかだ。三つには本願寺にはこれまで大分経済的に厄介になっている。かれこれ、信長の奏請通りにことを運んだ方が、信長のためにはもちろんのこと、こちらのためにも、本願寺のためにもなると判断して、聴許《ちようきよ》した。
勅使が本願寺に下向《げこう》して、門跡《もんぜき》の光佐《こうさ》(顕如《けんによ》上人)に対面して、信長の意志を伝えて、説得につとめた。
本願寺側では、この上の抵抗は不利だと判断した。和睦が成立し、本願寺は石山城を開け渡して、一先ず紀州の鷺《さぎ》ノ森《もり》(今和歌山市内)に立ちのくことになった。
こうして、四月九日、光佐は石山を立ちのいた。
本願寺の立ちのきは一時にすっきりとは行かなかった。光佐のむすこの新門跡|光寿《こうじゆ》(教如《きようによ》)が立退くのを承知せず、数人の硬派の者共となお石山城にとどまったからだ。
しかし、彼らも長くはとどまれなかった。八月二日、一先ず和泉《いずみ》に立ちのいた。後にこの光寿が東本願寺をおこして、本願寺が東西にわかれるもとはここにはじまったのである。
また、光寿が石山寺を立ちのいた日に、石山寺は火を発し、昼夜三日間燃えつづけ、一宇ものこらず灰燼《かいじん》となってしまった。
「時刻到来し、たい松《まつ》の火に西風が吹きつけて、あまたの伽藍《がらん》が一宇のこらず、夜昼三日の間、黒煙となって焼けた」
と、牛一は書いている。「時刻到来して」とは、焼けほろぶべき運命の日にあったのであろうという意味であるが、あるいは放火であったのかも知れない。
この石山本願寺の焼けおちた日から十日目、信長は宇治橋見物に出かけたが、宇治から船にのって大坂に下って来たかと思うと、三人の使者を佐久間信盛父子の許《もと》につかわして、自筆の勘当状《かんどうじよう》をつきつけさせた。
佐久間父子は四年前から、本願寺の石山城にたいする向い城として天王寺に築かれた城をあずかって、ここに住んでいたが、三人の使者らはここに来て、勘当の条々を申し聞かせた上、勘当状を手交した。
この勘当状は十八か条から成っているが、要約すれば足かけ五年もの長い間、天王寺城にいて、武功も謀略の功もなかったこと、貪欲《どんよく》で、新しく所領をあたえても、必要な家来を召し抱えず、金銀を貯《た》めこんでばかりいること、昔しかじかの罪科があったこと、の三つを責め立て、父子ともに頭をまるめて高野山に上れ! と断案したものであった。
このうちの旧罪科とは、一つは朝倉攻めの時、信長が諸将が悠長にかまえていたため朝倉を取りにがしたことを叱咤《しつた》したことがあったが、その時、佐久間が、そうは仰せられても、拙者《せつしや》らほどの武士を家来に持った大将は他にありませんぞ≠ニ言って、座をつくろった。それを今になって、おれの顔を潰《つぶ》したと責め立てているのであった。これはついに朝倉家を亡ぼした戦さの時のことだから、天正元年のことだ。つまり、七年前のこと。
もう一つの罪科とは、三方《みかた》ガ原《はら》合戦の時、一緒に派遣した平手監物《ひらてけんもつ》隊は監物が戦死したほどに働いたのに、佐久間隊は一人の戦死者もなく逃げ走った。その卑怯を責め立てたのだ。これは元亀三年のことで、八年前のこと。
佐久間父子は一言の言訳も出来ず、剃髪《ていはつ》して高野山に上った。
少し後のことになるが、信長は使いをつかわし、高野にもいることまかりならん、どこぞ遠国へ行けと厳命したので、父子は高野を立ち出でて、紀州熊野の奥へ逐電した。落目になるとかねての報いが来る。かねて家来共にたいして温かさのなかった佐久間は、多数譜代の家来もあるのに、一人の従ってくれる者もなく、草履《ぞうり》とりさえなく、父子二人とぼとぼと心細い道行きをするよりほかはなかった。
「見る目もあはれなる有様なり」と、牛一は書いている。
信長は大坂から京都に引きかえすと、家老の林|佐渡守《さどのかみ》通勝、丹羽|右近《うこん》、美濃三人衆《みのさんにんしゆう》である安藤|伊賀守《いがのかみ》の罪状を数え立てて、身代を没収して、追放を申し渡した。佐久間を追放してから五日目、八月十七日のことであった。
林と丹羽の罪状は、信長の若い頃、彼らが柴田勝家らとともに信長の弟信行をもり立て、信長に謀反《むほん》をくわだてたことであった。これは弘治二年のことで、その当時にわびごとをして赦免され、すでに二十五年たっているのであるが、信長はそれを言い立てたのである。
安藤は永禄十年に、武田信玄としめし合わせて、武田の兵を美濃に引き入れようとしたとの疑いを受けたことがあるが、それをむし返したのだ。これも十四年前のことだ。
三人はあきれ返りながらも、あきらめて、それぞれに立ちのいた。
これらのことを、秀吉は播州《ばんしゆう》で聞いた。
この頃、秀吉は三木を居城とすることをやめて、また姫路にかえっていた。竹中半兵衛が亡くなったあと、秀吉にはしばらく参謀役の者がなかったが、黒田官兵衛が有岡城から救い出され、湯治《とうじ》に行ったりなどしてその健康が回復すると、これが唯一の参謀役となった。その官兵衛が、秀吉を諫《いさ》めて、
「三木城は要害はまことに堅固でござるが、地が東方にかたよっています。交通の便もよろしくござらぬ。やはり姫路がよろしいかと存じます」
と言ったので、それに従ったのであった。
秀吉は、佐久間信盛父子・林通勝・丹羽右近・安藤伊賀守らが追放されたことをつくづくと思いやって、最も深い思案にしずんだ。
去年の暮、信長が荒木一族とその家臣との妻子を大量虐殺したことと思い合わせずにいられなかった。
(あの時も、なにか得体の知れぬ無気味なものが、もやもやと上様《うえさま》の胸中に立ちこめているように感じたが、それはいよいよ濃《こ》くなったような)
と、思った。信長が狂気したのではないかと恐れたのであった。
(上様は今年四十七におなりだ。まだ衰えなさるお年ではないが、狂気は年をえらばぬ……)
用心しなければならないと思った。決して、ご機嫌《きげん》を損じてはならないと思った。
信長の言いつけで、荒木村重の謀反の思い立ちを意見するために伊丹城に行った時に、荒木の言ったことも、またまざまざと思い出された。
荒木は、
「おぬし、おれより上様がどんなお人か知っているはず。決してうらみを忘れぬ、ねばい、ねばい、しつこい、腹黒いお人じゃぞ。一旦むほんの色を立てたおれを、忘れはされぬ。必ず、いつぞかは、ほろぼしなさる」
と、言ったのだ。今にして思えば、佐久間らの今日の運命を見通していたと言ってもよい。
また、こうも言った。
「おぬしはなかなかの働きもの故、上様にとっては大事なさむらいじゃ。しかし、上様が天下を平定なされた後はどうじゃろう。働かせるところのなくなった者に、かわらず大国をあたえて飼《こ》うておきなさるお人であろうか」
悪寒《おかん》のようなものが、背骨のあたりにおこって全身を走りすぎた。
(おれが以前の藤吉郎の身分ならば、まだ安心していてよい。筑前守となり、こうまで大身となり、こうまで羽ぶりがよくなっては、なにごともうっかりとはしておれぬ。二工夫も三工夫もせねばならぬところじゃわ)
と、改めて思った。
四
話は少しさかのぼる。
三木の別所氏をほろぼして四月目の五月、秀吉は播州から因幡《いなば》に入った。
因幡は元来は山名氏が守護大名としておさめていた国だが、山名豊数《やまなとよかず》の時、家臣の武田高信という者に追い出されて窮死し、武田のものになっていた。
豊数には豊国《とよくに》という弟があった。兄の仇《かたき》を討って国を回復しようとの志はあったが、力足りず、隣国|但馬《たじま》に蟄伏《ちつぷく》していた。
これを聞いたのが、山中|鹿介《しかのすけ》だ。鹿介はこの前々年の永禄十二年の夏、尼子《あまこ》氏再興のために、わずかに名ある武士六十三人、雑兵《ぞうひよう》を合わせて二百余人という少数で出雲に入り、忽《たちま》ちの間に出雲を切り従え、伯耆《ほうき》に入り、石州《せきしゆう》にまで手をのばすほどの勢いとなったのだが、やがて毛利にじりじりとおし返され、今年の夏になるとどうにもならなくなった。そこで一旦《いつたん》毛利に降伏したが、巧みに脱走して、丹後に出て、軍資調達のために諸|牢人《ろうにん》を集めて海賊となり、近国の海辺の村々を荒らしつつ、因州に入り、岩美《いわみ》郡|浦富《うらどめ》の桐山という所にある古城を修理してこれを本拠としていたのであった。山名豊国が因幡を回復する志がありながら、力足りずして無念の日を送っているということを聞くと、
「あわれなことかな。それに、ここで情をかけて、おれが力で国を回復してやっておけば、後来われらが主家再興の助けにもなるであろう」
と思案して、但馬に行き、豊国に会った。
「しかじかの由。武士は相身《あいみ》たがい、武田を討って国を取りかえして進ぜましょう」
と言った。
鹿介の武勇は天下に鳴りひびいている。「当時のはやりものである」と、その頃の書物に出ているほどである。豊国は泣いてよろこんだ。
鹿介は因幡にかえって、鳥取近くの甑山《かめやま》というに、百数十人の人数をもってこもって、
「われらは義心によって、山名家回復のために逆臣《ぎやくしん》武田高信を討つために、ここに旗上げした」
と、揚言した。
武田は五百余人をひきいて攻め寄せたが、鹿介は一戦にたたき破り、逃ぐるを追って敵を斬《き》ること無数であった。甑山から鳥取の城下まで一里の間、死者がつづいたというから、徹底的な勝ち戦さだったのだ。
豊国も旧臣らを駆り集めてやって来た。
鳥取城はしばらく包囲された後、力屈して降伏し、武田は城をあけ渡して立ちのき、豊国が主となった。しかし、その所領はまだ一郡くらいしかなかった。
鹿介はしばらく豊国の賓客《ひんきやく》となって鳥取に滞在していたが、間もなく京都に上り、織田信長に謁見した。信長が足利義昭を奉じて上洛したのはこの三、四年前のことであるが、威勢日に上りつつあった。名義上の将軍は義昭だが、これはロボットで、真の実力者は信長であることは天下周知のことであったので、鹿介ら尼子の遺臣らは信長の力に頼って主家を再興するつもりになっていたのだ。
信長に最初の目見えをした翌年の天正元年十二月に、鹿介らは信長の後援を得て、尼子勝久を奉じて、丹波路から因幡に入った。
この頃山名豊国は、すでに毛利氏の山陰方面の経略を受持っている吉川《きつかわ》元春に人質をおくって帰服を誓っていたが、鹿介には大恩がある。早速に使いを立てて、
「拙者はしかじかで、すでに毛利家に帰服していますので、お味方いたすわけにはまいりませんが、おじゃまは決していたしません。むしろ、兵糧《ひようろう》などはお望みにまかせてご用立ていたす」
と、申し送った。
「貴殿の立場はよくわかります。ご芳情かたじけなくござる」
鹿介は答えた。鹿介の武勇はすさまじい。十日たたない間に、因州内の毛利方の城をおとしいれること、十三にもおよんだ。因幡は風靡《ふうび》して、馳《は》せ参ずる旧恩《きゆうおん》の徒がひきも切らず、忽《たちま》ち三千人にあまる人数となった。
この勢いよさに、山名豊国は毛利から離反して、尼子方の全面的の味方となった。
しかし、この翌年の天正三年の仲秋に、吉川元春と小早川隆景《こばやかわたかかげ》とが大軍をひきい来向うと、豊国は忽ちまた寝返りを打って毛利方となった。
鹿介の武勇も、両川《りようせん》を相手ではふるわない。大いにねばったが、次第に圧迫されて、翌四年の晩秋には、また京都に逃げかえるよりほかはなくなった。
秀吉が因州に入って来た天正八年六月には、鳥取城には豊国がこもり、十六、七キロ西方の鹿野城には毛利氏の兵がこもって、豊国の人質としてその娘を守っていた。
秀吉は因幡《いなば》街道から若桜《わかさ》街道に入ったのであるが、郡家《こおげ》から道を転じて鹿野城に向って、忽ちこれをぬいて、豊国の娘をとらえた。年十六の美しい姫君であった。
秀吉はむごいことをするのが、天性きらいだ。信長のやり方を見て戒《いまし》めとしているところでもある。
「戦国の習い、気の毒なことではござるが、悪うはいたさぬつもり、ともかくも、気を楽に持っていて下されや」
と、やさしく慰めて、かかりの者を定めてあずからせ、兵を鳥取城に進めた。
城下に到着すると、一戦も交えない前に、軍使を出して、
「降伏なされよ。因州一国をあてがい申そう。もともと当国は貴家が守護大名として総管《そうかん》なされていた国なれば、ご先祖の昔にかえしなさるわけ、ご孝道にもかなうことでござる。その上、もはやご承知のことと存ずるが、鹿野城はわれらが手に帰し、従ってご息女もわれらが格護《かくご》しています。よくよく、勘考《かんこう》あるよう」
と、説かせた。
豊国は心をうごかした様子であったが、やがてきっぱりと答えた。
「せっかくの仰せながら、それはかなわぬことでござる。再びさようなことを仰せ越さるまじく」
使者は辞去してかえって来て、秀吉に報告した。
秀吉は豊国がどんな人物であるか、人にも聞き、履歴《りれき》を調べて見て自分でも見当をつけている。豊国の娘に会い、その侍女《じじよ》や付人となっている士《さむらい》らの話を聞いて、豊国の最も愛している娘であることも知っている。こうしたきっぱりした返答は予想と合致《がつち》しないのである。
「ふうーん。その時の山名が模様をくわしく聞きたい」
と、いろいろと問いただして、豊国がともに応対に出た重臣らにはばかっているげな気色《けしき》のあったことを知った。
「よしよし、ようわかった」
直ちに全軍にさしずを下して、ひしひしと城をとり巻いて布陣《ふじん》し、いつでも攻めかかることが出来るようにしておき、また城中に使いを立てた。
「降伏あれよ。さなくば、ふびんながら姫君のお身の上の危難と思《おぼ》し召せよ」
それでも、降伏はならぬことでござる、存分に召されよ、と、豊国は返答した。
「よしよし」
楽しいことのように、秀吉は微笑しながらうなずいたが、翌日は磔柱《はりつけばしら》を城のある山の麓《ふもと》、城内の櫓《やぐら》からよく見える地点におし立て、姫君に白練《しろねり》の着物を着せて、柱に上げてくくりつけた。
季節は六月中旬、今の暦で言えば梅雨《つゆ》が上って、灼《や》けつくような烈日《れつじつ》のつづく頃だ。真《ま》っ蒼《さお》な万緑と目のくるめくような日の輝きの中に、磔柱《はりつけばしら》にかけられた真白な姫君の姿は、鮮明をきわめた。
また城中へ使いを出した。
「ごらんあって、よくよく分別なされよ。降伏あらば、即座に姫君のお命を助けまいらすばかりか、当国一円進上いたすこと子細はござらぬ。依然としておことわりならば、ごふびんながら、いたし方なき仕儀をつかまつらねばなり申さぬ」
と、使者は言い捨てて帰って来た。
豊国は櫓に立って望見し、白い鳥の飛び立つ姿のように見える娘の前に、きらめく抜身《ぬきみ》の槍《やり》がいく筋も立てられているのを認めて、惑乱した。家臣を使いに立て、
「ぜひにおよばぬ次第、お味方に参じ申すべし」
と、返答した。
「祝着《しゆうちやく》のいたり」
秀吉は、早速《さつそく》に姫君を柱から解《と》きおろしていたわり、豊国にはとりあえず、二郡をあてがい、余《ほか》は帰属を証明するような働きをしてからのことにしたいと申しわたして、姫君を連れて姫路に引き上げた。
ところが、六月二十一日であったというから、秀吉が引き上げた直後のことである、因州《いんしゆう》の形勢に大変化がおこった。
五
山名家の老臣森下|道与《どうよ》入道、中村|春次《はるつぐ》らが、豊国の前に出て、恐ろしい顔をして言ったのだ。
「殿が浪々の身となられて但州《たんしゆう》にわび住いしておられた境涯《きようがい》から、ともかくも一郡を領して当城の主となることが出来なされたは、山中鹿介殿の義心によることは、世にかくれなきことでござる。その山中殿が京に去られた後、殿は吉川元春殿を頼んで毛利家に帰属なされました。しかるにその翌年山中殿が尼子衆《あまこしゆう》をひきいて当国に入って来られると、はじめのうちこそすでに毛利家に帰属した身でござれば、お味方はいたされぬ、ただお邪魔をいたさず、兵糧《ひようろう》などのご用をつとめさせていただくだけでゆるしていただきたいと申されて、毛利家に義理を立てておられましたが、鹿介殿の勢いのふるうを見て、尼子に帰属されました。やがて鹿介殿が勢い否《ひ》となって当国を去られると、また毛利に帰属されました。その次はこの度でござる。羽柴筑前がまいると、利欲と恩愛に迷い、毛利を裏切って、羽柴に降参なされました。天下に武士は多けれど、殿ほどにクルクルと志を変じた者がいつの世に、どこにいましたろうか。情ないことに、それがわれらが譜代の主でござる。われらは愛想《あいそ》がつき申した。殿のような人を主と仰ぐこと、天下に恥かしくござる。主従の縁もかぎりと思《おぼ》し召《め》されよ。城におき申すこと、まかりなり申さぬ。きりきり立ちのき召されよ」
さんざんに罵倒《ばとう》して、追い出してしまったのである。
豊国は一言の言いかえしも出来ない。きりきり舞いして、播州街道を奔《はし》って、姫路に逃げて来て、秀吉に訴えた。
豊国の訴えを聞いて、秀吉はおどろきもしたが、滑稽《こつけい》でもあった。森下道与とやら言う者共の怒りは道理であると思った。
微力な豪族が家の安泰を保つためにはそうきびしく信義ばかりを守ってはいられないのが現実であるとは言え、豊国のようでは余りだと思ったのだ。
しかし、今の秀吉の立場としては、山名家の重臣らの処置を認容するわけには行かない。
「にくいやつぱら! 主を追い出すということがあろうか。前代未聞の不忠でござる。思い知らせてくれる!」
と、大いに怒ったふりをして言った。
秀吉はすぐにも軍をかえしたいと思ったが、黒田官兵衛を呼んで相談すると、官兵衛は、
「これはご念を入れられるべき時であると存じます。主を追い出すほどの者共でござれば、必ず今は念入りな手くばりをしているに相違ござらぬ。因州力の諸士《しよざむらい》とのしめし合わせはもとよりのこと、毛利との連絡もかたくしているは必定《ひつじよう》と存じます。迂闊《うかつ》にはかかれません。少なくとも、この前のように易々《やすやす》とはまいりますまい」
月代《さかやき》のジャリはげになった頭をゆっくりと動かしながら、さらさらと言うのであった。
いかさま、そうあろうと思われた。
「わしもそう思う。一応くわしくさぐらせて見よう」
しのびの者数人に言いふくめると、その者共は思い思いに身をやつして、市川に沿った生野《いくの》街道や揖保《いぼ》川に沿った因州街道から、因州に入って行った。
十日ばかりの後、最初の帰還者があった。
「鳥取では、但馬《たじま》から山名の一族の豊弘というを迎えて、主に仰ぐことにし、その豊弘殿はまいられる途中であります。国内の諸士共は、鳥取衆が豊国殿を追い出したこと、悪うは申していませぬ。皆々、もっともなることと申しております」
と、いうのが、その報告であった。
二、三日して、第二の帰還者があった。
「山名豊弘殿が迎えられて、鳥取城に入られてございます。また、鳥取衆は吉川《きつかわ》元春殿に、豊国は武士の魂を取りおとしたる腰抜けでござれば、出て行ってもらいました、われわれ共の志は、豊国とことかわりまして、昔ながらに毛利家にござる。お見捨てなく思《おぼ》し召《め》し、誰《だれ》ぞご一人、軍目付《いくさめつけ》をおつかわしいただきとうござると、申し請《こ》われた由であります」
と、いうのが報告であった。
さらに数日して、三人目の報告者があった。
「牛尾元春殿というが、軍目付《いくさめつけ》として、吉川元春殿からつかわされて、鳥取にまいられました」
という。
ひしひしと態勢がととのって行く様がはっきりと見えた。
「なるほど、これは不用意にはかかれぬ。よほどに支度をかためてかからねばならぬの」
と、秀吉は官兵衛に語った。
「御意《ぎよい》」
官兵衛はにこにこと笑った。
六
秀吉はなおたえず探索の者を因州にはなって、様子をうかがわせた。
秋になって、因幡《いなば》国内が近年にない大豊作であるという報告がもたらされた。
「そうか、そうか」
きげんよくうなずき、銀子《ぎんす》をあたえて、その者をさげ、黒田官兵衛を呼んだ。
「今しがたかえって来た者が言うた。因州は今年は近頃にない大豊作じゃげな」
「ああ、さようでありますか。ちとこまりましたな。相当かかりますな」
と、官兵衛はにこにこと笑いながら、秀吉を見た。
「その通り。しかし、かかっても、いたし方はない。やらざならんわ」
「御意」
カンのよい同士、智者同士の会話だ。飛躍に飛躍を重ねながら、落ちつくところに落ちつく。
因幡《いなば》国内の米の買占めをやろうというのである。江州《ごうしゆう》の所領内の商人はもちろんのこと、若狭《わかさ》商人らに手をまわして、若狭方面から船を出して、因州の港々に行って買い入れさせた。商人らは値段よく買ってあおったので、百姓も、町人も皆売った。値段はもちろん高くなる。ついには倍になったが、それでも買い入れるのをやめない。武士らも売りはじめた。最後には城々の兵糧米《ひようろうまい》まで売るようになった。鳥取城でも来年の初秋までのぎりぎりの飯米をのこして、あとは全部払い出した。
米のこの買いしめは、大体天正九年の正月半ば頃におわったが、その頃、鳥取城では主君と仰いでいる山名豊弘を但馬に送り返すという事件がおこった。
「ほう? こりゃおもしろいことになりましたな」
報告を受取ると、官兵衛は秀吉にそう言って笑った。
「おもしろいな」
と、秀吉も言った。
このことについてのふたりの解釈は、完全に一致した。こうだ。
豊弘はあのようないきさつで迎えられて主人になったのだから、力はさらになかったはずであり、これに反して、老臣らはずいぶん強かったはずである。譜代《ふだい》の主人である豊国を追い出したほどの気の強い連中であるから、一通りならぬ強さであったろう。
しかし、豊弘の方では、因州は元来わが家の管内であったという肚《はら》がある。おれは譜代の主家の一員であるという誇りもある。ことごとに自分にたいして圧迫的に出る老臣らによい気持を持とう道理がない。
ここにまた、豊弘について但馬から来た家来共がいる。この者共は側近の直参《じきさん》をもって自任している。老臣共のふるまいを見て、いつも、「主を主と思っておらぬ」と、腹を立て、憎み立ててさえいたろう。
かれこれ、うまく行こうはずがない。ついに、こんなことになったのであろう。
なお、秀吉はしみじみとした調子で、官兵衛に言った。
「はじめ家老共が豊国の武将らしからぬ常習の反覆《はんぷく》に腹立てて、これを追い出した心は一応わからぬでないが、人間はかなしいものに出来ている。すぐ癖がつくのじゃ。主殺しは主殺しの癖がつき、主人追い出しは主人追い出しを重ねることになるのじゃな。昔からためしの少なくないことじゃ。森下や中村らも、このためしに漏れざったのじゃな」
「仰せの通りでありましょう。恐ろしいものでありますな」
と、官兵衛も深くものを思うていであったが、やがて言う。
「さて、この先はどうなりましょう。主人なしでということになれば、おれがおれがで、老臣共の勢力争いになって、おさまりがつきますまい。といって、また山名から迎えたとて、同じこと。毛利に願い出て、一門の者を申し下して仰ぐことになりましょうか」
「よう見た。その通りであろうよ。老臣共は自ら合点しているかどうかは知らんが、自分らをおさえつけるに足る権威のある者でなくば、主として仰ぐに足りぬと感じてはいようからの。そうなれば、あの者共にとって、今のところは、毛利一族のほかにはないのじゃからの。先ず、次の知らせを待とうよ」
鳥取のこの事件は、豊国を刺激したらしい。秀吉を訪問して来た。豊国は姫路に逃げて来た後、秀吉の保護のもとにいる。
「また花咲く春もござろう。気長にゆるゆるとしていなされよ」
と、秀吉は言って、屋敷をあてがい、扶持《ふち》をあたえているのである。
豊国は秀吉に会うと、さんざんに老臣らの悪口を言った。秀吉は適当に相槌《あいづち》を打っていたが、だんだんやり切れなくなった。やめさせたいと思った。
「山名殿は、そのようなことを話しにまいられたのか」
と、少し強い調子で言った。
豊国ははっとした風であった。
「いやいや、そうではござらぬ、そうではござらぬ……」
重ねことばが狼狽《ろうばい》をまざまざと見せた。
「つい話にまぎれました。実は、姫のことでお願いにまいりました。ふつつか者ではござるが、お側に寝せていただけまいかと存じて。……お身様の日常のご様子を、わきからうかがいますに、お身のまわりをお世話されるのは、男|小姓衆《こしようしゆう》だけのようで、……おなごでなければ、細かなところには気のつかぬものでありましてな。……お聞きとどけ下さるなら、いかばかりうれしいかと……」
懸命に、追いかけられるような調子で、早口に弁じ立てる。
(なるほど、こうしておれに女縁の軛《くびき》をかけ、やがて因幡国主に返り咲くつもりか)
と、相手の胸のうちは即座に見通しがついた。豊国が国主の任にたえる人物とは、もう思っていない。名家の血筋に生れて来た人ゆえ、多少の扶持をくれて、儀式なぞのおりの飾りにすえておくには恰好《かつこう》、本人にとっても、結局それが幸せ、器《うつわ》ならぬ者に重い荷を負わせては、かえって気の毒なことになる、と、この頃は見きわめをつけている。
だが、相手のこのことばで、姫君のおもかげがにわかに生き生きとなり、まざまざと思い出されて来はじめたので、うろたえた。絶句したが、その下《した》で、
(この男は、大身にはされぬ。それは確《たし》かだ。せぬ方がこの男のためでもある。しかし、娘は、くれるというなら、もらってもよい。おれもこの身代となったのじゃ。側室のひとりくらいはおいても、奢《おご》ったことにはなるまい。ねねじゃて、やかましゅうは言うまい)
さらさらと思案が定まった。
にこりと笑った。
「それは願ってもないことでござる。仰せの通り、実はこちらは不自由をしている。そうなれば、拙者がこうしてあるかぎり、姫も安泰《あんたい》なら、貴殿も安泰、三方よしとなります。この上もない良縁でござる」
「いく久しく……」
豊国は喜悦の色をあらわに見せて、顔をくしゃくしゃにしたが、それは泣いている表情にも似ていた。
二日後が吉日であるというので、その夜、盃事《さかずきごと》をした。下げ髪で、雪のように白い着物に、白い腰巻をした姫君の姿は若木の柳のようにしなやかで初々しく、美しい顔には童女のあどけなさがあった。
秀吉は自分が四十六という年になっているのに、姫がやっと十六であることを改めて思いやった。
(おれが三十一の時、姫は生れたわけじゃが、三十一の時にはおれは墨俣《すのまた》の向い岸に城を築いて、はじめて城をあずかる身分になったのであった……)
あの頃は、こちらの気をはかっては、美濃勢がやたら無性に攻撃をかけて来て、片時も油断がならなかったが、その頃のいつの日か、この姫は因州か但馬で生れたのだと思った。深い感慨があった。
感慨はまた別にもあった。山名氏といえば、ずっと昔は細川家とならんで天下を両分する大身の大々名で、応仁の大乱はこの両家の勢力争いから起ったと聞いているが、それほどの名家の姫君に、おれは枕《まくら》の塵《ちり》をはらわせる身分となった、土民の出生であるおれがだ、という感慨。
この感慨は、小谷《おだに》落城の後、岐阜城で三人の姫君とともにひっそりと暮しているお市《いち》様のことに思いを馳《は》せさせずにはいなかった。
(お市様はおいくつになられたろう)
と、思いやりもし、
(遅かった、遅かった、こんなに遅かったのじゃものなあ……)
と、返らぬことを考えもした。
やがて、床入りとなる。
ほろ酔って、寝間に入ると、その以前に寝間入りして、床に入っているはずの姫は、へやの隅にすわって、深くうつ向《む》いていた。真白な小袖を着て、おぼろげな灯りの末にそうしている姿は、白い小兎《こうさぎ》かなんぞがうずくまっているに似ていた。
(厭がっているのであろうか、羞《はじ》らっているのであろうか)
と、思った。
年がこんなにも違うのだ、いやがるのも無理はないが、とすれば、厄介なことになった、と思いながら、陽気に声をかけた。
「これこれ、そんなところで、そうしていては、風邪を引くぞよ。床に入って待っているがよかったに」
言いながら、これでは老父が幼い娘に口小言を言うようじゃと、おかしくなった。
姫《ひめ》は一層うつ向いたようであった。
「はて、さて、厄介なこと。わしが寝せつけてやらねばならぬのかや」
と、笑いながら言ってみたが、これは祖父が孫娘に言う時の気味になった。
いたし方はない。からからと笑っておいて、
「しからば、ご案内にまいろう」
と言いながら近づいた。手をとって、引きおこした。力をこめたわけではない。やさしく引いたのであるが、引くにしたがって立ち上って来た。うつ向いた顔が紅《あか》く染まっている。小さく可愛い耳たぶまで紅い。きらっているのではなかった。羞らっているのであった。
可憐であった。
よろこびが、胸にあふれて来た。
これが、古い書物に、「姫路殿」という名で書かれている女性であろう。
七
二月下旬になって、鳥取城の老臣らが、吉川《きつかわ》元春に飛脚を立てて、
「いずれ様なりとも、ご同苗《どうみよう》のおん方、お越し下さらば、大将と仰ぎ申したく」
と、嘆願書を送ったことを、忍びの者共がさぐり知って来た。
「当ったの、見通しが」
と、官兵衛と笑い合って、なお様子を見ていると、吉川の一族|式部少輔経家《しきぶしようゆうつねいえ》が選ばれたことをさぐり知って来た。
「式部少輔経家? どんな人物かの」
「なかなかの武辺《ぶへん》もので、尼子の残党との戦いに、度々手がらを立てています。年頃《としごろ》は、三十半ばとのこと」
と、官兵衛は答えた。
「吉川の一族は、昔から武勇の名ある者が多いとは聞いているが、これもやはりそうか。さりながら、ふびんなものよ」
月がかわって、その経家が鳥取城に入ったという知らせを受けとった。
八百余人の人数を引きつれ、陣列の先頭に首桶《くびおけ》を持たせ、討死の覚悟を見せていたので、城内の者共は言うまでもなく、百姓らまで、粛然《しゆくぜん》として迎えて、感嘆したというのだ。
「あっぱれな! さりながら、ふびんなものよ!」
と秀吉は官兵衛に言った。こちらが勝つにきまった戦さであるとの自信があるのだ。必勝の算が立っている。
つづいて、また報告がある。
経家は入城して、兵糧《ひようろう》の貯蔵量をしらべてみて、かつがつ初秋までの量しかないことを知っておどろき、理由を問いただして腹を立て、吉川元春に急報して、補給を願い出たというのだ。
秀吉の探索したところでは、鳥取城内の人数は、吉川のひきいて来た八百余人を合して、約二千人の士卒がいるほか、ほぼ同数の老人、女、子供らがいる。都合四千人だ。
(一人あたり五合として、日に二十石はかかる。十日で二百石、一月で六百石。毛利の水軍はなかなかのものだが、舟が小さくて、積載量が小さい。ずいぶん難儀なことになるはずだ。仮にとどこおりなく補給が出来るとしても、こちらはこちらで、工夫が出来ている。あわてることはない)
悠々《ゆうゆう》とかまえて、戦さ支度にかかった。こんどの戦さは最も大規模でしかも周到なものにするつもりであるから、但馬や遠く丹後、若狭まで手をまわした。ずいぶん長陣になる予定であるから、不在中にことがおこらないように、管国の要所要所に手丈夫なクサビをひしひしと打ちこんでかためた。
六月半ば、毛利の水軍数隻が糧米を満載して、芸州《げいしゆう》の海を出て西に向ったが、これは赤間ガ関の海峡を迂回《うかい》して日本海に入り、因州《いんしゆう》に行くのであるとの情報が入った。糧米の量は大したことはなく、およそ六百石ほどのものであるという。
ほとんど同時に、因州方面の情報も入った。鳥取城から番卒《ばんそつ》が出て番所を立て、城下の西方を流れている賀露《かろ》川の両岸をきびしく警戒しているというのだ。兵糧船がこの川に入ることになっているに相違なかった。
「そろそろ、よかろう」
六月二十五日出陣との陣触れを下した。
秀吉は姫路から市川沿いに北上する但馬街道をとって但馬に入り、左折して山陰道にかわって、因州に入った。
因州に入ると、道筋にある村々には全部火を放って焼き立て、見当り次第に百姓らを殺した。諸方の道を進む各軍皆その通りにした。うわさは忽《たちま》ち八方にひろがり、百姓らは足をかぎりに逃げて、鳥取に集まった。
言うまでもなく、これは鳥取城内の糧食の消費量をふえさせるための、戦略であった。
秀吉軍は、諸方から潮のせまるように、駸々《しんしん》と鳥取城を目ざして、せまった。
これを迎える鳥取城の備えは、もちろん一応出来てはいた。本城の北方三キロほどの海に間近い地点の丘陵の山上を削り平めて丸山城というを築いてあった。高くはないが、丸山という名に似ず断崖《だんがい》だらけの、ずいぶんけわしい山で、なかなかの要害であった。これと本城との中ほどに雁尾《かりお》城というのがあった。丸山城は吉川経家が本国から連れて来た山県九郎右衛門|春往《はるゆき》と但馬|城崎《きのさき》郡|奈佐《なさ》郷の海賊大将軍奈佐|日本助《にほんのすけ》とが守備し、雁尾城は塩冶《えんや》高清が守備していた。
秀吉軍の先鋒《せんぽう》である小一郎秀長の隊は、七月五日に丸山城の東方についたが、その大物見《おおものみ》(将校斥候)隊が、丸山城から出ていた隊と衝突して、小ぜり合いがあった。
翌々日になると、諸隊全部が到着した。
秀吉は鳥取本城の東北三キロの地点にある帝釈《たいしやく》山を本陣として向い城を築くことにして、縄張をしつつ、諸隊の持場を定めて、本城、丸山城、雁尾城の連絡を全部絶ち切らせ、完全に包囲陣を布いた。
最も大がかりな工事がはじまった。帝釈山の頂《いただき》五十間四方を削り平め、土居を築き、陣屋を建て、櫓《やぐら》を上げ、壁には白紙を張った。これらの工事をするのに、周囲の樹林をのこして他から見えないようにしておいて、完成してから切りはらったので、遠く望見したときは一夜に大城郭が出現したかと鳥取城では肝《きも》をつぶした。後年、小田原城攻めでも用いた手である。
包囲陣の工事はさらに大がかりであった。諸陣の距離は五、六町ないし七、八町として、その間々は深い濠《ほり》を掘って柵《さく》を立て、その内側にはまた濠を掘って塀《へい》を築き、さらに築垣《ついがき》を高々ときずき上げた。五町|毎《ごと》に見張所をつくって足軽《あしがる》五十人ずつをつめさせ、十町毎に三階の櫓を上げ、士《さむらい》二十人、弓、鉄砲の足軽五十人ずつをおいた。軍法を厳重にして、勝手に戦闘することを固く禁じた。敵はやがて餓死するのだ。戦闘する必要はさらにないのである。
柵や、濠や、築垣は前方にあるだけでなく、後方にもあった。敵の援軍が襲来した時の用心であった。前方と後方との間は、最も狭い場所でも自由に馬を乗りまわすことの出来るほどの広さがあり、各陣所のある場所は家を市街のように建てならべさせ、市場をひらいて商人共に物を売らせた。このなかには白粉《おしろい》くさい遊女共もいて、兵らの無聊《ぶりよう》を慰めた。前後の築垣は、外からの弓鉄砲の射撃のきかないほどの高さを持っていたから、最も安全であった。
文字通りこの長城は、全長八キロ、えんえんとして平地といわず、山地といわず、うねりつづいた。夜は、一、二間毎に篝火《かがりび》を焚《た》き立てて、白昼のように明るかった。
まだある。賀露《かろ》川には船橋をかけて交通の便をはかり、海上には警護船をおいて見張らせ、海岸は敵のかくれ場を奪うために村々、森、林等をすべて焼きはらわせた。それ故、若狭、丹後、但馬等から来る味方の護送船は自由に、安全に往来、発着して、最も豊富に物資を運びこむことが出来た。
こんな封鎖を受けては、手も足も出ない。元来の籠城勢《ろうじようぜい》だけでも七月までしかもたない糧食だったのに、おびただしい百姓共が逃げこんで来たのだから、忽《たちま》ち底をついた。急を芸州に訴えるために城を忍び出た者は、一人のこらず捕えられて殺された。吉川元春は救援の兵糧《ひようろう》を持たせて兵をつかわしたが、この者共は城を去る三、四キロ近くの地点まで来ながら、どうすることも出来なかった。まことに、水も漏らさない包囲陣であった。
雁尾《かりお》城が先ず弱った。塩冶《えんや》高清は、城をすてて丸山城に合した。
八月下旬、毛利の輸送船五|艘《そう》が兵船十艘に護衛されて賀露川の川口に来たが、忽ち捕捉されて、焼き沈められた。
城兵の餓えは深刻になるばかりだ。はじめのうちは雑兵らが鐘の音を合図に集団をもってこちらの柵《さく》の近くまで来て、草の葉や根をとりとっていた。こちらはそれをじゃまはしない。挑《いど》みかけて来たり、柵《さく》をこえて逃げ出そうとしたりしない限り、捨ておくようにと言いつけている。興味をもって見物しているだけであるが、草木の中で稲の根株を一番よろこんで、争うようにして掘り取って行くところを見ると、一番うまいのであろうと思われた。
「さすがに五穀の王じゃわ。根株でもうまいらしいの」
と、皆で語り合った。
やがて掘りつくして根株はなくなり、他の草木もなくなった。鶏を多数入れて囲った庭が、いつか一本の青いものもなくなると同じであった。
こうなっても、城方の闘志はさかんであった。丸山城攻囲の将であった小一郎は、よほどに丸山城内の気力がおとろえたように観察したので、家臣の藤堂高虎《とうどうたかとら》に、城を開け渡して立退《たちの》くよう諭《さと》してみよと命じた。
「かしこまりました」
高虎はおのれの家来|阿字戒《あじかい》源太兵衛という者に旨をふくめた。
阿字戒は城門に行き、名のって、城内の方々に申し入れたいことがあると呼ばわった。すると、櫓《やぐら》の上に立ち現われた者があって、何ご用という。阿字戒は、仰ぎ見て、城中の人々の不屈な志を嘆称した後、
「すでにかくまで武士の道を立てられた以上、この上のご辛抱は無益と存ずる。子細なくあけわたしあるべし。さすれば、士衆《さむらいしゆう》はもとよりのこと、雑兵《ぞうひよう》に至るまで、伯州《はくしゆう》境までつつがなく送り申すでござろう。人質をとりかわしての上にいたすことでござれば、お気づかいのことはござらぬ」
と、演説した。
「しばらくお待ちあれ」
と答えて、櫓の上の人影は内に入ったが、間もなく城門をひらいて二人出て来た。
「拙者共は、吉川元春家来境与三右衛門と森脇次郎兵衛と申す者でござる。この城の主、山県九郎右衛門、直々《じきじき》にご口上をうけたまわった上にて、ご返答申すべければ、城内にお入り下されよ。ご案内つかまつる」
と言う。
阿字戒は危険と見て、辞退したが、ぜひ入っていただきたし、さなくばご返答申すわけにまいらぬという。いたし方なく、不安ながら門を入ると、いきなり、案内の二人が左右から襲いかかり、有無を言わさずからめとり、断崖《だんがい》の上に引き立て、かくしておいて、一人だけ姿をあらわし、
「唯今《ただいま》、藤堂殿より、使者をたまわり申したれば、ご返答いたしたし。寄手《よせて》の人々、耳を澄まして、お聞きあれ」
と、呼ばわった。
寄手の人々は陣所から出て、自陣の近くの柵ぎわに立って、はるかに望見して耳を立てた。
断崖の上では、悠々と言う。
「われらは吉川元春の郎党境与三右衛門と申す者、この城にて山県に力を添えています。さて、藤堂殿お使者の口上の趣、つぶさにうけたまわり申しました。返答はお使者阿字戒殿へくわしく申したが、一言にして申せば、かくの如し!」
言いおわって、阿字戒を引き出した。
あっと人々はおどろいたが、次の瞬間には、与三右衛門の手に刀がひらめき、阿字戒の首がはねられた。首がおちて来、胴体が蹴落《けおと》されて来た。
寄手はかっと激し上った。
「使者を殺すということがあるものか! 言おうようなき、田舎者どもめ! 軍陣の作法も知らぬやつぱら! 一人ものこさず、討ちはたせ!」
と、猛《たけ》り立った。
攻撃をかけるために、ひしひしと仕寄《しよせ》をよせたが、日が暮れかけて来たので、戦闘は明日のことにした。
ところが、その夜ふけ、藤堂高虎が陣中を巡視していると、突如、柵《さく》の向うに立ち上った影があって、
「境与三右衛門ぞ!」
と、名のりを上げたかと思うと、長い槍《やり》をひねって、柵ごしに突きかけて、したたかに太股《ふともも》を突き刺した。傷は深かったが、太股であったから、いのちには別条がなかった。
毛利方の闘志の旺盛《おうせい》、想察すべきものがある。
八
武士らの闘志は旺盛であったが、雑兵《ぞうひよう》や百姓共はそうは行かない。すでに牛馬も食いつくし、食うべきものが何一つとしてなくなると、柵のきわによろめき出、柵にしがみついて、息もたえだえな声で、
「お情でござります。引き出して、お助け下され!」
と、呼ばわる。
こんなのは、脱出しようとしているのだから、容赦なく討取れときびしい軍命が出ている。兵士らは鉄砲で狙《ねら》い撃《う》ちに討取った。霞網《かすみあみ》にかかったツグミを狙うようなものだ。まだ息はあっても悲鳴をあげる力ものこっていないのであろう、秋の末に枯れかじかんだ朝顔の蔓《つる》が垣根にからみついている姿で、ひくひくとうごめいている。
すると、おどろくべきことがおこる。城内から走り出して来た士《さむらい》や雑兵共が、刀をぬいてわれ先きにと襲いかかり、まだ息のあるその者を切取るのだ。腕を切取るもの、足を切取るもの、臀《しり》の肉を削《か》きとるもの、首を切って行くもの、忽《たちま》ちの間にばらばらに剖《と》ぎほぐされて、一物もなくなる。首の肉が一番うまいのであろうか、これはたがいにうばい合った。「とりわけ、頭よき味ありと相見えて、首をこなた、かなたへうばひとりて逃げ候ひき」と、牛一が書いている。ラグビーでボールをうばい合うように首をうばい合ったのである。
人々|相食《あいは》むのだ。惨鼻《さんび》とも何とも言いようのないことだが、毎日のようにくりかえされる。殺されるとわかっていても、飢餓の苦しさに駆り立てられては、よろぼい出ずにいられないのか、いっそ殺された方がましと思うのか、あとを絶たないのである。
いよいよどたん場になったと見えたので、秀吉は官兵衛を安土に急行させ、城中の模様を報告し、今は城中にすすめて降伏、開城させたいと思う、条件はしかじか、御意のほどを仰ぎたいと言わせた。賞罰の大権に触れることは、一昨年の宇喜多《うきた》家のことで、懲《こ》りているのである。信長は申し出の通りにはからってよしと申し渡した。
官兵衛は大急ぎで馳《は》せもどった。その翌日十月二十日、秀吉は家来の堀尾茂助吉晴と一柳《ひとつやなぎ》市助とに旨をふくめて、吉川|経家《つねいえ》に降伏・開城を勧告した。
秀吉から示した条件は、
「降伏あらば、貴殿をはじめ毛利衆は雑兵の末に至るまで、一人ものこらず、無事お国許《もと》に送りとどけ申そう。その他の城衆も、森下、中村、佐々木、塩冶、奈佐日本助の五人をのぞいては、皆助命すべし。右のうち森下、中村、佐々木、塩冶の四人は、主人を追い出した不忠者、奈佐は海賊の張本にて、往来の船舶を切取り、諸人を悩ます悪党なれば、世の見懲らしのために、切腹を申しつけたいのでござる」
と、言うのであった。
経家は慨然《がいぜん》として答えた。
「おことばではござるが、それはご量見が違い申そう。この城はわれら大将となって采配《さいはい》をとり、諸人のいのちをあずかって、籠《こも》ったのでござる。われらがいのちを助かって、国侍《くにざむらい》らを見殺しにするという法はござらぬ。われら一人切腹いたして、他の者は今仰せられた五人もこめて助命していただきたし。さようなれば、お勧めに従い申すでござろう」
堀尾らは感じ入ってかえり、秀吉に復命した。秀吉も感動したが、森下らを助命しては、この戦さの名が立たない。信長も承知すまい。
「仰せの趣《おもむき》、感じ入り申したが、森下ら助命のことは、なり申さぬ。曲げてお聞き入れあって、当方の申し入れにお従いありたい」
と、おし返させた。
数度のおし問答があったが、双方ともに譲らなかった。
しかし、この勝負ははじめからきまっていた。城方ではもうこらえる力はない。全員の餓死がせまっている。森下ら五人も進んで切腹すると申し出た。経家は、
「さらば死んでもらおう。しかし、そなたらだけを、やりはせぬ。われらも同じ道に参るぞ」
と五人に言って、堀尾らに言った。
「仰せに従って、五人の者共にも切腹させ申そうが、われらも切腹いたさずば、男が立ち申さぬ。検使を賜《たま》わりたく存ずる」
ついに、そうきまった。
秀吉は涙をこぼして感じ入り、堀尾に酒肴《しゆこう》を持たせて城中におくり、誓書を取りかわした。これは二十四日のことであった。
経家と、森下と中村との二人は、本城で秀吉の贈った酒で別盃をくんだ後、二人は各々その屋敷にかえって切腹した。奈佐、佐々木、塩冶の三人は丸山城にいるので、ここで三人で酒宴した後、切腹した。
経家の切腹の時刻は二十四日の寅《とら》ノ刻《こく》という約束だが、昔は夜半零時を一日の区切りにせず日出時を区切りとしたから、今日の時刻で言うなら、これは二十五日の午前四時である。終夜酒宴をつづけて、家臣らに盃《さかずき》をくれた。やがて時刻が迫って来たので、別室に去って衣服を改めて来た。
『陰徳太平記』の記述によると、その服装は越後の帷子《かたびら》に縮《しじら》の袷《あわせ》を重ね、萌黄《もえぎ》の裏をつけた黒羽織を着ていたという。具足櫃《ぐそくびつ》に腰をかけた。うしろに福光小三郎.若鶴甚右衛門、坂田孫次郎の三人の小姓らが居ならんだ。三人は殉死することにして、主人の許可も得ているので、白の帷子を着、手に念珠《ねんず》をかけていた。
経家は介錯役《かいしやくやく》を言いつけてある家来の静間《しずま》源兵衛に、
「おれが首は織田|右府《うふ》の実検《じつけん》に入るのじゃ故、よく討てよ」
と言って、小坂|某《ぼう》という家来に、羽柴殿よりの検使をお連れ申せと、言いつけた。小坂は堀尾と一柳のいる別室に行って請じたが、二人は辞退して出て来ようとしなかった。
経家は羽織をぬぎ捨て、肌ぬぎして、一尺五寸の脇差《わきざし》をぬき、懐紙《かいし》で中巻きして、笑いながら人々に、
「日頃稽古していることでも、かような場では仕損じがちなものじゃのに、これは稽古したことがない。うまく行かんかも知れんな」
とざれごとを言って、
「先ず、辞世の歌詠《よ》もう」
と言い、
もののふの取り伝へたる梓弓《あずさゆみ》
かへるやもとの栖《すみか》なるらん
朗々と吟じおわるや、左の腋《わき》の下につき立て、エイヤと掛声して右に引きまわし、ぬき上げて、鳩尾《みぞおち》につき立て、両手でつかんで臍《へそ》の下まで、ぐいとおしおろした。文字通りの十文字腹。右手に刀を握ったまま、左右の手を前につき、亀のように首を前にさしのばした。
「よく討て!」
この凄惨な、譜代《ふだい》の主の有様に、静間《しずま》は顔色|蒼白《そうはく》になっていたが、言われて、はっと気づいて、斬《き》りおろした。しかし、目がくらみ、気が上ずっていたので、斬りはずした。
経家はどなった。
「ばかめ! 斬れんぞ!」
「はっ! 恐れ入り奉る!」
肝《きも》をすえなおし、再び斬りおろした。こんどは見事に斬れた。
これを見て、三人の小姓らは次ぎ次ぎに切腹した。
経家の首は洗いすすいで入城の時国許から持参した首桶に入れ、帝釈《たいしやく》山の秀吉の本陣に持って行かれた。秀吉は実検の後、床の間に安置して、うやうやしく香を焚《た》いて合掌《がつしよう》し、検使らに経家の最期《さいご》の様子を聞いて、涙をこぼした。首はさらに安土に送られて信長の見参に入った。
夜の明ける頃から、城内の人々を城外に出したが、秀吉は大手の門の外に大釜《おおがま》をならべて粥《かゆ》を炊《た》き立ててふるまう用意をさせておいた。
三木城の経験があるので、決して多食はさせるなと番の者に言いつけ、城の者共にも注意させたのだが、餓えが極度に達していたのであろう、「食に酔ひ、過半|頓死《とんし》つかまつり候。まことに餓鬼のごとく痩《や》せておとろへて、なかなかあはれなる有様なり」と牛一は記載している。
毛利の本国では、この以前、鳥取城の急の迫ったことを知り、全力をあげて赴援《ふえん》することにして、十月上旬輝元が本城吉田を出て出雲の富田《とだ》につき、小早川隆景も備後《びんご》の三原からここに会した。例によって吉川《きつかわ》元春が先鋒となって、六千の兵をひきいて先発し、十月二十五日、あたかも鳥取開城の日に、因州境から七キロの馬山《うまのやま》城についた。ここに一泊して、明日は因州に入り、鳥取の西方十三キロの大崎城(今の気高《けたか》郡気高町にあったという)に入るつもりであったが、間もなく、鳥取が今朝開城したという知らせを受取った。
「しまった!」
元春は唇を噛《か》んだが、やがて、秀吉はきっとここに来るにちがいないと推察した。このへん十四、五キロの間に、秀吉方に服属している城が二つある。南条|元続《もとつぐ》の羽衣石《うえいし》城と、その実弟|小鴨《こがも》元清の岩倉城だ。自分がここまで来ていると知れば、両城の安否を気づかってきっと来ると踏んだのであった。
ところが、この馬山は寡《か》をもって衆《しゆう》を迎え撃つには最もよい地形をしている。ここは周囲十キロばかりの東郷《とうごう》池と日本海との間のはば二キロに足りない地峡にある。低いながら山や丘がうねって、大軍の展開には適しない複雑な地形だ。こんな地形のところで、寡をもって衆を痛破した経験が、元春にはある。すでに二十四年の昔になるが、厳島《いつくしま》で陶晴賢《すえはるかた》軍を殲滅《せんめつ》し、晴賢を討取ったのがそれだ。
(羽柴を陶のごとくにしてくれん)
と意気大いに上った。東郷池から日本海に水の排出される橋津川が背後にある。橋がかかっていたのだが、元春はこの橋を切り落した。東郷池の舟は全部対岸におくり返した。すべてこれは厳島《いつくしま》合戦における亡父|元就《もとなり》の故智にならったのである。城の前面に柵《さく》を立てつらね、柵外に二筋の道をひらかせた。この道によって突出して出て、猛戦奮撃するつもりであった。
陰暦十月下旬、今の暦では十一月末から十二月はじめ、年によっては歳末にもなる。日本海の風がまともに吹きつけて来る山上はさなきだに寒いのに、この日は薄雪まで降りつもったというから、寒気は相当なものであったはずだ。元春は終夜|焚火《たきび》して、背中をあぶりながら、近習《きんじゆ》の者共と、
「薄雪の降りつもったこの景色、面白いことであるが、寒気になれぬ筑前《ちくぜん》殿には迷惑なことであろうの」
などと、余念もなく雑談している様が自信に満ちて見えた。
秀吉は元春が馬山にかまえていると聞くと、諸軍に命じてここには向わせず、東郷池の南方に出て、羽衣石《うえいし》城と岩倉城とに兵糧《ひようろう》を運びこませ、武器、弾薬を補給し、弓鉄砲の足軽三百人を増加した。
「城を出て戦ってはならん。必ず城にこもって、戦え。決死の敵はひとり狂いさせるにかぎるものじゃ」
と、きびしく戒《いまし》めた。
元春は敵がこちらに出たと知ると、部隊を出して攻撃させた。その隊がはしなくも途中でこちらの隊と衝突した。おりから雪はかなりな大雪となってひんぷんと降りつのり、その雪中でのセリ合いであったが、小ゼリ合いにとどめることが出来た。
秀吉は自身馬山付近に出て偵察したが、こんな敵と戦うのは損だと計算した。相手が名うての猛将吉川元春であっても、六千の寡勢に三万の兵をもってあたっては、勝ったところで当然で、手柄になりはしない。負ければこの上の不名誉はない。しかも、地形といい、元春の器量といい、こちらの負けになる可能性が相当ある。負けでもした日には、鳥取城の大勝利は元も子もなくなる。
留守《りゆうしゆ》する諸隊の部署を定めて、守りかためて決して出て戦うなとかたく言いふくめて、姫路に引き上げた。
鳥取城は宮部|善祥房《ぜんしようぼう》に城代を命じた。善祥房は元来は比叡《ひえい》山の江州《ごうしゆう》内の寺領番の僧兵であったが、中ごろ小谷の浅井家に仕え、浅井家の滅亡する前、秀吉に帰服したのであった。
秀吉の信任は深く、秀吉の姉おともと一若《いちわか》との間に生れた長男秀次は、一頃《ひところ》善祥房の養子になっていたことさえある。
九
十二月半ば、秀吉は軍状報告と歳暮《さいぼ》のあいさつのため、安土にかえった。心に大いに期するところがあった。佐久間信盛父子や林通勝の運命を見て以来、思案を重ねていたが、その思案がついたので、この機会に、自分にたいする信長の猜疑心《さいぎしん》が将来も起らないように、徹底的に工作することにしたのであった。
先ず、最も大量な献上物《けんじようぶつ》を用意した。
二十日に彼はその献上ものをしたのであるが、それはこうであった。
おん太刀国久 一腰
銀 子 千枚
おん小袖 百枚
鞍置馬《くらおきうま》 十疋《ぴき》
播州土産|杉原紙《すいはらがみ》 三百束
なめし皮 三百枚
明石の干鯛《ほしだい》 千枚
海苔 三千帳
干蛸魚《ほしだこ》 三千連
以上右府様と男子方へ
銀 子 三百枚
おん小袖 数百枚
以上奥方とご連枝簾中方へ
秀吉はこれを大台にのせ、山上の城の玄関から、信長への進物は左側に、若君達や女君達への分は右側にならべ立てて、山下に下って行ったが、麓《ふもと》まで切れ目なくつづく、おびただしさであった。
人々は肝《きも》をつぶした。
信長は天守閣に上って見物したが、さすがに舌を巻いて、
「大気ものの筑前がすることを見よ。これほどの見物《みもの》は、おれさえ覚えないぞ。天下無双と言うてよいぞ」
と言った。
献上がすむと、信長は前に召して、酒をくれ、肩を撫《な》で、人々をかえりみて、
「さむらいならば、この筑前にあやかりたいと思うであろうぞ」
と言い、
「去々年、去年の三木城攻めの出精といい、さてまたこの度の鳥取城での働きといい、あっぱれ、天下の眉目《びもく》となったぞ。よう働いた、よう働いた」
と、ほめた。
計算を立ててしたことではあるが、それでも、秀吉は涙がこぼれて来た。
しばしふるえながら平伏した後、涙をはらって言った。
「ありがたきおことばを賜《たま》わり、胸のふるえるほどうれしくございます。あまえ申すようでございますが、おり入ってお願い申し上げたいことが二つございます。お聞きとどけ賜わらば、ありがたき仕合わせ」
「おお、言うてみよ、言うて見よ」
信長は微笑していたが、ほんの少し、目の光を引きしめた。
「その一つは、お次丸《つぎまる》様を拙者養子に賜わりたきこと、拙者は明けて四十七になりますが、子供というものがふつとありませぬ。これまで生れぬことなれば、この先きも生れようとは思われませぬ。かねてから、お次丸様いとしと思いつめております。お聞き届け下されて、賜わりますなら、何ぼう楽しいことか、平《ひら》にお願いつかまつります」
信長は強い目つきになって、秀吉を凝視《ぎようし》していた。しばらく返答しない。恐れず、秀吉は見返していた。
やがて、信長はうなずいた。笑った。
「よかろう。お次はくれてやるぞ」
お次丸は信長の四男、明くれば十五になるはずの少年である。
「その次の願いは何じゃ」
「これは少し先きのことになりますが、ついでにお願いしておゆるしをいただいておきたいのでございます。大方来年か、来々年中には、毛利は埒《らち》をあけるつもりでいますが、そうなりましたら、中国の年貢《ねんぐ》一年分をそっくり拙者《せつしや》にいただきたいのでございます」
「ほう?」
「それをもって、拙者は九州を攻伐いたしたいのでございます」
「うむ、うむ」
微笑して、信長はうなずいた。
「九州は、一年で埒をあけることが出来ようかと存じますが、埒があきましたら、三年間の年貢をのこらずいただきたいのでございます」
「うむ。それでどうする」
「朝鮮にまいりましょう。朝鮮がすんだら、やはり同じことをお願いして、大明《だいみん》にまいりたいのでございます。大明の埒があきましたら、――まあ、そのへんで、大明のどこやらで二百万石か三百万石の領地をいただいて、昼寝して暮させていただきたいのでございます。お許しいただきとうございます」
信長はぷっと吹き出し、身をゆすって、からからと笑い出し、笑いながら言った。
「よしよし、許すぞ、許すぞ」
「ありがたき仕合わせ」
こちらも笑いながらも、神妙に両手をついて、お礼を言上した。これでよし、これでよしと、胸のうちでくりかえしていた。
雲巻き起る
一
秀吉が鳥取城を陥れ、全|因州《いんしゆう》を信長の分国内にくりこみ、なおその勢力が隣国|伯耆《ほうき》の入口におよんだのは、天正九年の十月下旬のことだが、ひとりこの方面だけでなく、信長の四隣が安泰となり、彼の勢力が最も安定したものとなったのは、この頃からであった。
先ず東方だ。東方は徳川家康が終始かわらない攻守同盟国として、頑張っていてくれている上に、長篠《ながしの》合戦の勝利以後は、それまで信長にも、徳川氏にも脅威《きようい》となっていた武田氏は益々《ますます》おとろえて、もはや積極的にこちらに出て来る力はなくなった。高天神城は、遠州《えんしゆう》における武田氏の最も頼みとする前進基地で、堅牢無比《けんろうむひ》、最も要害の名城であったが、徳川家康はこれを天正八年八月から翌年三月下旬まで、足かけ八か月の間攻め、ついにこれを陥れた。しかも、武田勝頼はついにこれを救援しなかった。武田氏の積弱《せきじやく》ははっきりと見通せた。
北陸方面はどうかと言えば、九年八月には上杉謙信の分国になっていた能登がすっかり信長の手に帰し、前田利家が拝領した。越中はその以前に、半分ほどもう手中に帰し、佐々《さつさ》成政が前の富山城主|神保氏春《じんぼうじはる》の後見としておさえていた。
このほか、信長の分国内で、本願寺と伊賀《いが》と高野山とが独立した強力な勢力だったのだが、本願寺は前回に書いたように石山城を明けわたして紀州に退去した後は、もはや、牙《きば》をぬかれた虎《とら》で、猫のようにおとなしくなった。
伊賀の国は、四方山にかこまれた要害|嶮岨《けんそ》な国であり、中に住む国士《くにざむらい》は、魔性に似た不思議な妖術《ようじゆつ》を心得た者共であり、これを取ったところで貧寒な国で大した利もないので、目ざわりになりながらも、信長は打ちすてておいたのだが、ついに天正九年九月に、大軍を発し、甲賀《こうが》、信楽《しがらき》、加太《かぶと》、大和の諸道から一斉に乱入、およそ十日で、全部平定してしまった。いやしくも反対する者は一人ものこさず、殺した。最も残酷に、最も徹底的に、掃蕩《そうとう》した。
高野山は、平安時代の初期以来、比叡山とならんで、日本仏教界を両分して栄えている寺である。比叡山と違って、京都から離れているので、武力をもって京都朝廷をおびやかすようなことはなかったが、それでも行人《ぎようにん》と称する僧兵を多数養って、寺の権益を守っていた。そのような自衛手段が必要である世がつづきもしたのだ。ともあれ、財力、武力ともに具備している富有強大な教団である点は、比叡山や本願寺とかわりはなかった。信長には目ざわりでならなかった。
(毒蛇《どくじや》同然のものじゃ。たたき潰《つぶ》すにこしたことはない)
と、機会をねらっていると、荒木村重の家臣らがこの山に逃げこんで潜伏していることがわかった。信長は、
「しかじかの由、聞きおよぶ。右の者共のうち一両人を召し出したい故、速《すみや》かに差し出すよう」
との旨をしたためた朱印状を持たせて、使者をつかわすと、高野山では聞き入れず、悪口雑言《あつこうぞうごん》したばかりでなく、使者と一行を取りこめ、十人ばかりを討取ってしまった。
このような乱暴を働いたのは、高野山の聖方《ひじりかた》の連中である。高野山では僧をわけて、学侶方《がくりよかた》、行人方《ぎようにんかた》、聖方の三つにした。学侶方は、学問修業をおこなう高級僧の群、行人方は寺の経済や武力方面の担当者の群で、僧兵はこれに属する。聖方は弘法大師の功徳《くどく》を諸国に宣伝する者の群で、しぜん旅に出ている者が多い。泉鏡花の名作に『高野聖』というのがあって、あれによってわれわれの心中に組み上って来る高野聖の概念は、いかにも物やさしい旅僧であるが、戦国時代から江戸初期までの高野聖は、あんなものではなかった。僧形《そうぎよう》はしていても破戒無慙《はかいむざん》、殺人、強盗、慰《なぐさ》み斬《ぎ》りなどを常習にした無頼漢といってもよいもの共が多かった。実話はこの時代の書物にいくつも伝わっている。もちろん、必要な際には僧兵となってあばれまわりもしたのである。こんな生態の連中であるから、信長の使者を罵倒《ばとう》し、殺しもしたのである。
ほうほうのていで逃げかえった生きのこりの者共の報告を聞いて、信長は激怒した。
「諸国にふれを出し、高野聖と見ば、一人ものこさず引っ捕えい!」
と、分国内に厳命して、見あたり次第につかまえ、その数千三百八十三人におよんだ。それを、安土《あづち》の城はずれ、京の七条河原《しちじようがわら》、伊勢の松阪近くの雲津川《くもづがわ》(雲出川とも書いた)の三か所で、一人のこらず殺してしまったばかりか、
「よいついでじゃ。高野一山、焼きはらい、山中一人ものがさぬこと、比叡山のごとくにしてくれよう」
と、高野山への上り口七か所を厳重に封鎖して、不日《ふじつ》に総攻撃にかかることにした。このような風で、信長の分国の周辺には、攻撃や侵略に出て来そうな危険な敵は全然なくなり、安泰をきわめた。
こうなると、漲《みなぎ》り切った力は、最も抵抗の弱いところに向わざるを得ない。信長はかつて長年月にわたって彼を夢魔のように圧迫して、心の重荷になった武田氏をたたきつぶしてしまう気になった。
武田家の形勢の変化は、最も鋭敏周密な諜報網《ちようほうもう》によって、絶えず、またくわしく、信長のもとにとどく。
長篠《ながしの》合戦以後の武田氏のためをはかるなら、傷ついた猛獣が洞穴の奥深くこもり、気息をしずめて傷口をなめ、傷の癒着《ゆちやく》と体力の回復を待つべきであるのに、勝頼はあせって反対なことばかりする。駿河《するが》に出ては北条氏と戦い、徳川に戦いを挑みかけ、上州《じようしゆう》に出てはこの地方の豪族や北条と戦いつづけるので、勝っても、力は益々《ますます》消耗して行く。欠乏する軍資を補給するためには民からの取立てをきびしくするよりほかはなく、民心を離反させた。同じ目的のために新関《しんぜき》を多く設けて関税をしぼり取るので、これまた民心離反するばかりでなく、諸国からの商人が入らず、領国からの物資の輸出がなくなって、国の経済力がおとろえつつある。金銭を出せば罪科あるものを赦免するために賞罰が乱れて、人心が落ちつきを失って来た。絶えず戦さに駆り出されるために、将士は財力、気力共に衰えて、武田氏を恨めしく思うようになっている。つまり、武田家の組織は釘《くぎ》がゆるみ接着剤の切れて来た家具のように、ガタガタになってしまったのである。
天正十年の正月はじめ、信長は、美濃《みの》と信州の境にほど近い苗木《なえぎ》城主|遠山《とおやま》友政を呼び、
「武田の内部は支離滅裂になっているとおれは見た。ためしに、木曾を口説いてみるように」
と、さしずした。
木曾義昌は木曾義仲の子孫だ。義仲の三男旭三郎義基の子孫で、代々木曾一帯を領有し、福島に城をかまえていたが、武田信玄の代に武田氏の被官《ひかん》となった。信玄は木曾氏が名族であるので、女《むすめ》をめあわせて厚遇し、一門格のあつかいをした。信玄が生きている間は、武田氏の威武も四隣を圧してさかんであったし、政治も巧みでよく行きとどき、木曾氏にたいする態度も礼節を失うことはなかったので、義昌は心服して忠勤をはげんでいたが、勝頼の代になると、おもしろくないことが多くなった。やたらに戦争して駆り出される。頭ごなしに権柄《けんぺい》ずくな態度に出て、踏まなければならない礼節を踏まない。うらめしく思わないではいられないことが重なって来たところに、長篠役以来、武田氏の威勢はがたりと落ちて、次第にその弱りが募《つの》って来るのがまざまざとわかるようになった。
(何を威張っているのか。おれにも魂があるぞ!)
と、武田から離反する機を待つ心が、いつか芽ぐんで来た。
信長の諜報網は、義昌のこの心理の変化を鋭くキャッチして、信長に報告したのであった。
信長の密命を受けた苗木城の遠山友政がひそかに義昌を口説くと、義昌はきわめて容易に説得されて、正月下旬には交渉が成立し、二月一日には義昌の弟|上松蔵人《あげまつくらんど》義豊が人質として安土に到着した。
福島には、義昌夫人の付人となって、武田家の譜代《ふだい》の家来らが行っている。この者共が義昌の離反をさぐり知って、甲府に馳《は》せかえり、勝頼に報告した。
勝頼はおどろき、また激怒した。
「生意気千万なる、山猿《やまざる》共め!」
とばかりに、即時に一門、重臣らに命じて、木曾征伐に向わせた。武田勢は府中(松本)筋と上伊奈口《かみいなぐち》から向い、勝頼もまたその子信勝とともに甲州を出て、諏訪《すわ》に陣を張った。
武田勢は、なんの木曾の山猿勢、一もみにもみつぶしてくれんと、いうつもりであったが、その木曾勢が恐ろしく強かった。季節も悪かった。この天正十年の太陰暦二月は今の暦の三月五日からはじまるのだが、この年はよほどに寒気がきびしく、木曾路は残《のこ》んの雪がまだ消えず、馬の通い路もたえていたと『甲乱記』にある。地勢も嶮難《けんなん》であった。寒気と土地不案内になやんでいる武田勢にたいして、木曾の山士《やまざむらい》らは軽装して猿《ましら》のように出没自在、随所にゲリラ戦に出て悩ました。
この報告に接すると、信長は時をうつさず、甲州討入りの触れを出し、すぐ実行にうつし、伊奈口、木曾口、駿河《するが》口から、なだれを打って甲・信二州へ攻めこんだ。勝頼から心を離しているのは、木曾義昌だけではなかった。勝頼の弟|仁科《にしな》信盛だけが高遠《たかとお》城に拠《よ》って壮烈な抵抗をしただけで、あとは一門も、譜代の重臣も、被官となっている豪族らも、ほとんど無抵抗で守りを捨てて逃げ奔《はし》った。織田勢は忽《たちま》ち甲州に入り、勝頼父子を新府《しんぷ》城から追いおとし、天目山《てんもくさん》の麓《ふもと》に追いつめて、自殺させた。諸道の乱入からここに至るまで一月足らず、新羅《しんら》三郎以来の名家ももろいものであった。
あとは、残党狩りだ。数十年にわたって、陰に、陽に、圧迫者となって苦しめた武田氏にたいする信長のうらみは最も深刻なものがあった。徹底的な残党狩りにかかり、文字通りに草の根をわけて探索し、さがし出した者は必ず殺し、一人ものこすまじと励行した。武田に関係のあるもので、助命されたのは、合戦のはじまる以前に降伏帰属した木曾義昌と穴山梅雪《あなやまばいせつ》入道の二人だけであった。
信長は、武田氏の遺領を諸将に分配した。
木曾義昌 旧領|筑摩《ちくま》郡に安曇《あずみ》郡を加増
穴山梅雪 旧領|安堵《あんど》
滝川一益 上州と信州の二郡。関東管領とす
徳川家康 駿河
河尻秀隆 穴山領をのぞく甲州と信州諏訪郡
森 長可《ながよし》 信州四郡(川中島四郡)
毛利秀頼 信州伊奈郡
団 景春 岩村城
森 蘭丸 兼山城
この論功行賞をおわってから四月十日、甲府を出発して、凱旋《がいせん》の途についた。富士山を見物しながら東海道に出て、海道を安土に帰るという予定であった。
これについて、おもしろい話がある。
前関白、前太政大臣《さきのだいじようだいじん》の近衛前久《このえさきひさ》は、この戦争に従軍して、甲州に来ていたが、信長が富士山を見物するために山麓《さんろく》をめぐって東海道に出て、西上する予定であると聞くと、途中の柏坂《かしわざか》というに待ちかまえていて、信長の来かかるのを迎え、信長のとりつぎの者をもって、
「まろも同伴したい故、お連れありたい」
と、頼んだ。下馬して、いとも鄭重《ていちよう》に頼んだのである。
すると、信長は馬をおりてでも答えることか、馬上のままこれを聞いて、
「近衛、わごれなどは、木曾路をのぼりませ」
と言いすてて、そのまま馬を進めた。わごれは定御料《わごりよう》のなまった言い方だが、いかにも無造作、横柄《おうへい》な感じの言い方である。信長の官は右大臣《うだいじん》だが、前太政大臣も、前関白も、かまいないのだ。一切、実力主義、実力以外の権威は利用はしても、それ以上には認めないのである。
さて、信長は右左口《うばぐち》から入って、右左口峠、女坂、精進湖《しようじこ》、本栖《もとす》湖、井出野《いでの》、人穴《ひとあな》、白糸滝、大宮等の西方の裾野《すその》諸地を経て、浮島《うきじま》ガ原《はら》で東海道に出、思うままに富士山を眺めて、西に向い、四月二十一日安土に帰着した。
この戦争中、北国路《ほつこくじ》に少し形勢の変化があった。信長がまだ甲州にいる頃のことだ。越中の国士《くにざむらい》らの間に、信長が甲州で武田勢に討取られたというデマが飛び、国士らが一斉に蜂起《ほうき》して、富山城を包囲し、神保《じんぽ》氏春を本丸におしこめるというさわぎがおこった。神保の後見として守山《もりやま》城(高岡の北方)にいた佐々《さつさ》成政は、安土に問合せの急使を走らす一方、能登|七尾《ななお》の前田|利家《としいえ》、加賀金沢の佐久間玄蕃《さくまげんば》、越前|北《きた》ノ荘《しよう》の柴田勝家に連絡しておいて、富山に駆けつけ城を包囲した。間もなく佐久間も駆けつけたので、国士らを追いおとして、神保を救い出すことが出来た。
この事件で、神保は先祖代々の富山城主ではあっても、越中支配の中心である富山城をまかせるには不適任であることが判明したので、信長は佐々成政を富山城主とし、神保を守山城に移した。
新たに富山城主として、北陸方面軍の最前線司令官の地位についた佐々は、功名心に燃える猛将だけに、越中半国が上杉氏のものであるのが、目ざわりになってならない。上杉氏の前線基地である松倉城と魚津《うおづ》城とをいつも眈々《たんたん》として虎視《こし》していたが、ついに柴田勝家の応援をもとめて、松倉城におし寄せた。
急報を受けて、上杉景勝は自ら大軍をひきいて、春日山《かすがやま》城を出動、魚津近くの天神山に陣取った。
佐々は最も大規模な戦略を立て、信長に意見|具申《ぐしん》して、実行にうつした。すなわち、新たに関東管領《かんとうかんれい》となった滝川一益に上州から三国《みくに》峠を越えて越後に侵入する勢いを示させ、同時に新たに信州川中島四郡の主となった森|長可《ながよし》をして太田切口から関山《せきやま》を越えて越後に入り、真直に北上して春日山城を衝《つ》くけはいを示させたのだ。
上杉景勝にしてみれば、足もとに火のつくさわぎだ。大急ぎで春日山城にかえった。
せっかく来た援軍が引き上げてしまったので、松倉城中では意気|沮喪《そそう》した。佐々と柴田はこれに乗じた。一気に猛攻、攻めおとして、時をうつさず魚津城におしよせたが、佐々は力攻めより、だませるものならだましてみようと考え、自ら城の大手口《おおてぐち》に馬をすすめ、大音声《だいおんじよう》に城内に呼ばわった。
「城衆《しろしゆう》に申し入れ申す。本日、上杉景勝殿が本国にお引取りになったのは、森|武蔵守《むさしのかみ》が太田切口を破って関山に陣取り、春日山に攻めかかる勢いにあり、また上州より滝川|左近将監《さこんのしようげん》が三国峠の嶮岨《けんそ》を越えて、越後に乱入したためでござる。かくのごとく本国の本城の危うきとき、他国の支城にての籠城《ろうじよう》は詮《せん》なきことでござる。速《すみや》かに城をひらいて、春日山に駆けつけ、お旗本にてのお稼ぎこそ肝要でござろう。武士は相身《あいみ》たがい、お忠告申す次第でござる。各々のおいのちの儀は、われら受合い申すにより、速かにさよう、お心を決し候え」
城内でははじめは受けつけなかったが、度々申し入れると、ついに心を動かした。
「おすすめに従い申す。人質をたまわりたい」
そこで、佐々は甥《おい》の同姓新右衛門、柴田はいとこの同姓専斎を城内に送った。
城主吉江|織部《おりべ》をはじめ、籠城の武士らは、本丸をあけわたして、城外に退《ひ》くべく、三の丸に移った。
佐々はこの機会を待っていた。本丸を受取るや、サッと采配《さいはい》を振った。
すると、すでに入りかわりに本丸に入りこんでいた弓組と鉄砲組とは一斉に三の丸目がけて猛射し、同時に城外にたむろしていた軍勢はときの声をあげて、外から三の丸に攻撃を加えた。城衆は両面から挟撃《きようげき》されたのだ。
「無念や、あざむかれたか!」
激怒した吉江織部は、人質として受取ったばかりの佐々新右衛門、柴田専斎をさしころした後、城外に突出して奮戦した後、三の丸にとっ返して、腹を切った。
この佐々と柴田の不信義は、二月後には最も手ひどい報いとなってはねかえって来るのだが、さしあたっては即効があり、魚津《うおづ》城を手に入れ、越中全部を信長の分国にすることが出来たのであった。
このような次第で、信長の力は、今や東は関東の上州におよび、北は越中全国を手に入れて、越後境にせまることになったのであった。
天下統一を目的としている信長の触手は、なお四方にのびるべきであるが、このようにして、当面のところは、北と東は小休止の形となり、南と西とに向うべきであった。
その南には、一世の梟雄《きようゆう》長曾我部元親《ちようそかべもとちか》がいる。長曾我部氏は土佐のわずかに長岡一郡の主であったのだが、十八歳にして家を継いでから二十六年の間に、大体四国を席巻し、のこるところはわずかに讃岐《さぬき》の一部と阿波《あわ》の一部だけというほどの力となっている。この男は軍事にも、民治にも、非凡な手腕があったが、外交にも抜目がない。ずっと以前から織田信長に親近をもとめて、長男弥三郎の名づけ親になってもらって信親《のぶちか》と名乗らせているが、その後また明智光秀の重臣斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三の妹を自らの後妻に迎えて、その縁をたぐっていよいよ信長に親近している。
信長はまだ諸方面が多事で、とうてい四国には手がまわらないので、
「うむ、うむ、珍重《ちんちよう》珍重」
と、よろしくあしらっていたが、しだいに方々が片づいて来ると、珍重|面《づら》をぬいで、
「おぬしには土佐一国と阿波半国をゆるす故、他はおれに渡せ」
と、申し渡した。
長曾我部が承諾しないのは言うまでもない。信長に天下統一の野心があるなら、元親には四国統一の宿志がある。
「われらは今まで織田に一兵も借りたことはない。今日のおれが身代は、おれが独力でかせぎ出したものだ。四か国とも、おれがものよ」
数度の使者の往復があり、押問答がくり返されるうちに、今年天正十年になった。
武田氏討滅の後、信長は先ず元来の阿波の名家三好の一族である三好|笑岩《しようがん》を阿波に入れて、南からせまって来る長曾我部勢とせり合わせることにした。笑岩は阿波の勝瑞《しようずい》城に入って、国内の諸豪に呼びかけた。三好氏と阿波人との親しみは根深いものがある。馳《は》せ参ずる諸豪が多く、なかなかの勢いとなったので、さすがに元親も容易に土佐から腰を上げない。
信長は追打ちをかける。三男信孝を大将とし、丹羽長秀を介添《かいぞえ》にして、四国征伐に向うように命じたのである。それはまだ出発はしなかったが、兵は泉州《せんしゆう》や摂津《せつつ》の海へんに集結しつつあった。
西は――秀吉の受持である。
二
秀吉が最も大がかりで、最も辛辣《しんらつ》な攻囲戦で鳥取城を陥れ、因州の処置をつけて、姫路に引き上げた後、吉川《きつかわ》元春も芸州《げいしゆう》へ帰った。
元春は、馬山《うまのやま》で勝ちに乗った秀吉の大軍を邀撃《ようげき》痛破してくれんとのもくろみを、秀吉に器用にかわされ、姫路に引き上げられたので、無念やる方がない。せめては秀吉方の城を二つ三つ踏みつぶし、鳥取城で壮烈な義死を遂げた吉川経家の供養ともし、味方の勇気づけにもしたいと心組んで、なおしばらく滞陣していたが、寒気が益々加わり、連日の大雪になったので、無念の胸をさすりさすり、芸州に帰った。
こうして、しんしんと降る雪の中に、因州《いんしゆう》も伯耆《ほうき》も、冬の眠りに入った。
やがて冬が過ぎ、天正十年の正月となる。中旬になると、深い雪も解けはじめて、春めいて来る。
正月十七日、吉川元春は芸州を出て、二月上旬、伯耆の八橋《やばせ》に到着して、杉原氏の居城八橋城に入った。杉原氏は元来は備後神辺《びんごかんなべ》の領主の家柄であるが、杉原|播磨守《はりまのかみ》盛重に至って、毛利|元就《もとなり》に帰属した。元就は盛重の武略を最も高く買い、特に伯耆一国の押えの重任を嘱《しよく》して、この八橋城主としたのであった。盛重は昨年末病死して、その子重高、景盛の兄弟が元春を迎えた。
八橋は伯耆の海岸地帯のちょうど中ほど、大山《だいせん》から流れ出る加勢陀《かせだ》川の河口と勝田川の河口との中間にある、海沿いの村である。
杉原兄弟は元春を迎えて勇み立ち、先陣となって因州に向い、大崎城に攻めかけた。大崎城にこもったのは木下|備中守《びつちゆうのかみ》、同|民部大輔《みんぶだゆう》、それに因州の国士《くにざむらい》ら、合して八百余人であったが、杉原兄弟は、
「この城、われらが一手きりで切りくずそうず」
と、後陣の続くのも待たず、到着の日の曙《あかつき》に、手勢《てぜい》一千五百人で、エイエイ声で乗り入り、一気におとしいれ、城将木下民部以下四百六十余人を討取ってしまった。
間もなく、元春が到着した。兄弟は元春の本陣に伺候《しこう》して、
「今朝、お下知《げじ》もお受けいたさず、城乗りいたしましたこと、罪科のがるるところがございませんが、これはひとえに、愚父盛重が末期《まつご》に、われら兄弟に、われの今日あるはすべて元春公の厚恩によるのであるが、存生《ぞんせい》の間に報じ奉《たてまつ》るほどの忠戦をいたすことが出来ず、まことに無念である、とりわけ、お家と京都勢との存亡の合戦が一両年の間に必至と思わるる時にあたって、命魂尽きること、遺恨|殊《こと》に切である、汝ら兄弟、わが供養には供仏や施僧等、世の常のものはいらぬ、唯《ただ》敵城の二つ三つ、汝らだけの力をもって切り取れと、遺言いたしましたので、それを果さんためでございます。お憐情をお垂れたまわりますよう」
と言上した。
元春は感動した。
「その方共こんどの勇戦は、賞することばないほどであるぞ。播磨守盛重の再生したかと疑われるばかりである。軍法違反はさることながら、去年鳥取城と丸山城とが落城して以後は、諸人何となく気おくれした体《てい》に見受けられるところ、その方共のこんどの働きによって、人々大いに気をとり直したであろうと思う。感賞したい。しかしながら、今後はかかる聊爾《りようじ》な働きをしてはならんぞ」
と、言ったので、兄弟は感激して、退出した。
数日の後、元春は七千人をひきいて、付近の秀吉の城々に片ッぱしからおし寄せたが、いずれもおし寄せる前に退去して鳥取城に逃げこんだので、在々所々を焼きはらいつつ、鳥取城におし寄せた。
城代の宮部|善祥房《ぜんしようぼう》は老功な武将である上に、秀吉からくれぐれも言われている。固く守って、決して出て戦おうとはしない。せん方なく、元春は城下の村落を焼きはらっただけで、大崎城に引き返し、鳥取城攻略の計略をいろいろと練った。
宮部の注進は、不日《ふじつ》に姫路についた。
秀吉の対毛利策はもう出来ている。因州にのさのさと行って、吉川ともみ合うなど、大下策だと思っている。
思い切って、山陽路を備中《びつちゆう》に向えば、小早川一人では防戦おぼつかない故、元春も因州を捨てて備中方面へ出て来ざるを得なくなる。一挙にして鳥取を救うことと、山陽路に力を進めることの二つが出来ると、計謀はすでに定まっていた。
そこで、このことを鳥取に言ってやる。
「しかじかで、不日に備中へ発向し、つづいて備後を経て、毛利の本国芸州におし入ることにして、鋭意準備中である。鳥取城は、固く守って戦うかぎり、決して落ちはせぬ。糧食《りようしよく》は十分にあるはず。ずいぶん退屈せず、辛抱いたすよう。辛抱こそ、その方共のこの際における第一の軍功であるぞ。おそくも晩春には、しぜん吉川は退去するぞ」
宮部は心得て、城内の者によく言い聞かせ、いよいよ堅固に籠城《ろうじよう》した。
元春はあぐねながらも、大いに軍勢を増強して力攻めにするなら、城は落ちずとも、羽柴は自ら救援せざるを得なくなるのは必定《ひつじよう》と、計略を立てた。
そこで、人数催促のため、伯耆《ほうき》の八橋《やばせ》に引きかえし、八橋城に滞在して、出雲、伯耆、石州、芸州等の人数を動員にかかった。
三
秀吉は信長の十分な諒解《りようかい》をとりつけて、準備をすすめていたが、その手はじめとして、お次丸の具足はじめの祝儀《しゆうぎ》として、軽く一戦して勝利を得たいと思った。
彼はお次丸を、歳暮《さいぼ》お伺いのために安土に行った時、連れて姫路に帰って来たのである。
お次丸はこの正月で十五になった。
織田家の血統に特有な、いささか青みをおびた白皙《はくせき》な皮膚と、おも長な端正な顔立ちと、すらりとしたからだつきをした、美しい少年である。全体の感じが、おひろ様やお市《いち》様に似ているので、秀吉は日ましに愛情がましている。
二月末、お次丸を元服させ、羽柴秀勝と名のらせ、備前《びぜん》の児島郡に出陣した。児島半島のつけ根の真中あたり、岡山から出て妹尾《せのお》を経て下津井《しもつい》に至る四国街道と、倉敷街道の交叉するあたりに近く、林という村があるが、ここに熊野神社がある。この神社の別当であった尊滝院《そんろういん》は由緒ある山伏寺《やまぶしでら》で、平安時代末期から鎌倉時代にかけては親王が検校《けんぎよう》となられる格式があった。
余談ながら――、児島|高徳《たかのり》は明治時代史学と違って、今日では実在の人物であったことは明らかになったが、その出自《しゆつじ》や経歴は十分にわからない。一説には、ここの山伏であったのではないかと言われている。『太平記』に備前児島の住人とありながら、備後三郎高徳とあるのは不思議と言う人があるが、備後の生れで、ここに来て山伏になっていたから、こう言われていたのだと解釈すれば、別段不思議ではないというわけだ。
それはさておき、尊滝院はその後南北朝や戦国の争乱を経て、寺領を武士共に侵奪《しんだつ》され、衰微はしたが、なお、公卿《くごう》山伏と自称し、他からも呼ばれていた。寺のこの衰微は、山口の大内氏のまだ盛んな頃に寺領を寄進されて、ある程度救われ、大内氏のほろんだ後には毛利氏が保護をつづけた。そのため、寺は第一の毛利方となっていた。
この頃まで、大寺院には僧兵がいる。山伏寺とあってはなおさらだ。尊滝院も、それほどの武力ではないが、一応の武力を持っている。秀勝の具足はじめの戦さを挑みかけるには、ちょうど手頃というわけだ。
おしよせて、軽く打ち負かし、寺領のほとんど全部を没収し、信長に報告した。信長が武田|征伐《せいばつ》に出かける予定になっていることは、もちろんわかっていたから、
「すでにご出陣のあとならば、おあとを追い申して、お出先きまで行き、ご注進申すように」
と、使いの者に、とくに言いふくめた。信長がみずから出陣するほどに精を出している時、毛利征伐の準備中であるからといって、目に見える働きをしないでは、ご機嫌《きげん》にかなうまいと気をくばったのであった。
この使者は三月十七日に、信長の宿陣先きである信州飯島で追いつき、報告していることが、『信長公記』に記されている。
児島半島から姫路への帰途、岡山に立寄った。来る途中も岡山を経過したのだが、急いでいたので、一泊もしなかったのである。
当時、岡山では宇喜多《うきた》直家は昨年二月に病死して、その子秀家が十歳で当主となっていた。秀家は人質となって姫路に来ていたのだが、父の死によって、人質には亡父の弟七郎兵衛忠家(坂崎出羽守はこの忠家の子である)が代ってなって姫路に来、秀家はその頃八郎といっていたのを、秀吉が名付親となって一字をくれて秀家と名のらせて元服させ、岡山にかえしたのであった。
しばらくでも手塩にかけて育てたので、秀吉は秀家が可愛い。秀家にしても可愛がってくれる秀吉が慕わしい。宇喜多家の老臣らにすれば、今や織田家の重臣の中で一、二に指折られるほど羽ぶりがよく、また信長のお気に入りである秀吉が幼い当主に愛情を持ち、幼主もまた秀吉を慕っていることが、うれしからぬはずはない。当主が幼いだけに、宇喜多家の命脈はきわめてか細いのである。いつどう機嫌が変るかわからない信長の心次第では、
「子供にあの大身代は持ち切れぬ。軍役をつとめるにも、いろいろと不便なはず」
と言い立てて、身代を減らしたり、とり上げてしまったりする危険は大いにある。それだけに、秀吉と秀家とをつなぐ愛情は、唯一つの保障となっていると言ってよいのであった。
こんな事情であるし、戦さに勝っての帰り途だ、宇喜多の家中は全力をあげて、歓待した。
秀吉はにぎやかなことが好きだし、人の好意にたいしては大いに報《むく》いてやりたいし、またそうすることが結局はこちらの利益となることを知っている。用意して来た金銀を、大いに宇喜多の家中にふるまってやったので、人々は一層秀吉を慕った。
直家の未亡人は、近国に聞こえた美女で、年もまだ二十台の半ばを越えたばかりである。秀吉がわが子の秀家を自分の子のようにいとおしがるのを、身にしみてうれしく思った。
古往今来《こおうこんらい》、このような場合、女の考えることは最も直截《ちよくせつ》的である。それは動物的といってよいかも知れない。自らのからだを捧げて相手と結びつくことが、最も真実に感謝の情を示すことであり、将来を保障することにもなると考えるのだ。
けれども、女の身として、自分の口から言えることではない。案じわずらった。あせりが、恋情に似たものになったのは、ぜひもないことであった。未亡人は幼い秀家や重臣らとともに、秀吉と対座したが、色黒の、痩《や》せしなびた、小さいからだでありながら、朗々といいたいほどの大きな声で、にぎやかに、闊達《かつたつ》に、よく笑い、よく語る秀吉が、最も魅力的なものに見えた。
(なんと頼りになるお人がら)
と思うと、言い知れぬ力で、襟《えり》をつかまれ、ぐい、ぐい、と引きずり寄せられるようであった。知らず知らずにからだが火照《ほて》って来た。
饗応《きようおう》があって、秀吉は休息所に引っこみ、未亡人も居間に引っこんだ。まだ日暮には間があるのだが、少し飲んだ酒に目もとがうるみ、ほんの少し呼吸がはずんで胸苦しい。縁側の入側《いりかわ》に敷物をしかせ、心持ち居ずまいをくずして脇息《きようそく》にもたれてすわり、微風に吹かれた。庭の向うの端の築垣《ついがき》ぎわの桜がちょうど満開であった。
未亡人はまぶたから頬《ほお》にかけて、ぼうと酒気に紅《あか》らみ、汗ばみ、言いようもないほど艶冶《えんや》な姿であった。微風にゆれて、二ひら三ひらずつ散る花びらを見ながら、秀吉のことを考える。
(あの人をしっかりとつかまえることが出来れば、宇喜多の家は安泰《あんたい》、八郎殿の行く末もめでたいにきまっているのじゃに、どうにもせん方がない。老臣《としより》どもも気のきかぬこと! あの人々が千言万語をつくしてさまざまな誓言を立て、ごきげんを取るより、あたしが一夜|契《ちぎ》った方が、ずっとずっと力があるのじゃに、それに気づこうともせぬ。人々の心のこの奥底に気がつかいで、よくも今までこれほどの家の老臣《としより》で通《とお》って来たもの! 先殿《せんとの》がおそろしいほど慧《さか》しいお人でおわして、何もかもご自分でなされたので、あの人々はあんなに鈍《にぶ》うても、つとまったのでありましょう……)
などと、歯がゆがったり、亡夫のことなどを思い出したりしているうちに、うとうとと眠《ね》む気がさして来た。
数分間、眠っているか、目がさめているかわからない快さでいたが、人の近づいて来るけはいに、はっとわれにかえった。
とりつぎの女中が、侍女《じじよ》とむかい合っていた。
「どうおしやった? 誰ぞ来たのかえ?」
やれやれ、やっと来た、と思いながら、とりつぎの女中に、いとも平静なおももちでたずねた。
「はい、肥後守《ひごのかみ》様が、お目通りを願って、お出ででございます」
戸川肥後守秀安のことだ。宇喜多家第一の老臣であるが、この数か月、病気|引籠《ひきこも》り中なのである。
「あれ、まあ、肥後守が?」
と、おどろいた。病気をおしてのことに違いなかった。なんのために病気をおしてまで登城して来たのか。考えるまでもなく、わかっているつもりだ。誰の思うところも同じ、お家のため、ご幼君のために、からだを張っていただきたい、他の者ではお願い申せぬであろうから、病中ながら、拙者《せつしや》が登城して、嘆願申し上げるのでござると、言うつもりに相違ないのである。
いくらか心にあった浮ついたものはのこらず消えて、しんと引きしまって来た。
「お通ししや。鄭重《ていちよう》にしやれや」
と、心づけた。
かしこまってとりつぎの消えて行った後、席を室内にうつして待った。
やがて、女中らに案内されて、入って来た。先代直家がまだ小身代であった頃から、家老として働いた、聞こえた勇士であるが、久しい病気に痩《や》せおとろえ、蒼白《そうはく》な顔には、もう死相さえ見えるほどである。それでも、ちゃんと月代《さかやき》をし、白い髪を結って、乱れを見せず上下《かみしも》を着て、革足袋《かわたび》の足をふみしめるようにして、そろそろと入って来て、次の間の敷居ぎわまで来て、すわった。
両手をつき、平伏した。
「肥後でございます。病中見苦しい体をもかえりみず、お目通りを願い上げましたに、早速《さつそく》におゆるしいただき、ありがたく存じ上げます」
低い声ながら、はっきりと聞こえた。こちらは、主家を思う心がなくば、この病みさらばえた身で、どうして登城などして来ようと、胸が熱くなっている。それをおさえて、答えた。
「病中の出任、さぞ大儀なことと思います。定めし大事なことあってのことでありましょう。すぐ申しますように」
「かしこまりました」
と言って、人ばらいを願い出、さらに席を敷居ぎわまで進めてもらった上で、戸川の言ったのは、推察した通りのことであった。
(やれやれ、やはりそうであったのか)
と、安堵《あんど》しながらも、わざと急には答えないでいると、気が進まず、拒絶するのではないかと思ったらしく、悲痛な調子で言う。
「お気の進ませられぬのは、よくわかっております。拙者もおすすめするのはいやでございます。つろうござる。さりながら、お家万代のおためでござる。ご幼君のお行末のおためでござる。常磐《ときわ》ご前の古いためしも、定めて琵琶法師《びわほうし》の物語などにてごぞんじのことと存ずる。さりながら、お家に人多しといえども、かかることのおすすめ出来申すは、拙者のほかにはないと存じますので、病をおして登城いたしたのでござる。お願いでござる。ご承服を願い奉ります」
ついには、涙声になって、平伏した。
未亡人も、ほんとうに涙がこぼれて来た。
「申される通りであります。いたし方ない仕儀です。亡き殿様も、おゆるし下さいましょう。そのようにいたしましょう」
と、ふるえる声で、きれぎれに言って、涙をおさえ、うつ向いた。これでやっと! という思いが、胸の底にあった。
準備は、戸川と老女との間のひそかな相談の上、ごく秘密のうちに早急に進められ、夜に入って、秀吉の許《もと》に未亡人からという名目で、ひそかに使いが出された。その女中は、女|右筆《ゆうひつ》に書かせた消息《しようそこ》の入っている文筥《ふばこ》をたずさえていた。
消息の文面は、こうであった。
ごく内々で、お願い申し上げたいことがございます。それは別として、お酒《ささ》など進上いたしたくございますれば、お気楽なお気持で、お運びたまわりますなら、この上のよろこびはございません。
若い美しい女中が持って来たというし、文面にもなにやらなまめかしいものがそこはかとなく感ぜられはしたが、まるで経験のないことで、さすがの秀吉の知恵とカンをもってしても、見当がつかない。
「こげいな書状じゃ。なんと判断する?」
と言って、座にいた黒田官兵衛に見せた。
「ははん」
官兵衛はうなずいて、人ばらいをさせた後、にやにやと笑った。
「これは艶書《えんしよ》でございます」
「エンショ? エンショとは何じゃ」
「恋文《こいぶみ》。一名を艶書と申す」
「ははん。……やはりそうか。なにやら、そげいな塩梅《あんばい》な気はせいでもなかった」
と、秀吉も相好《そうごう》をくずした。
「そなた様と契りを結んで、身代をつなぎとめ、幼い子供の行末の後《うし》ろ楯《だて》になってもらいたいとの女ごころから、出たことでござる。据膳《すえぜん》の箸《はし》をとらぬは男の恥と申す下世話がござる。ことさら、当家の後家殿《ごけどの》は聞こえた美女であります。かもうことはござらぬ。行って、たらふく食うてまいられるがよろしい」
と、官兵衛はけしかけるような言い方だ。
「それはまあそうでもあるが、あまりきつい約束をかためられては、上様《うえさま》に聞こえた時、工合《ぐあい》が悪かろう」
「持ちかけられた舟でござる。かたい約束をせずば乗せぬとは申さぬはず。かような際の約束は、すべて出来る範囲内での約束でござる。かたくなに考えるはいらぬこと。お行きなさるがようござる。風呂に入ったように戦陣の苦労がぬけて、さっぱりとなることでござろう、何せ、拙者はまだ見たことはござらぬが、美女の聞こえの高い人でありますからな」
「おれは今日昼間見た。いかさま、美麗《びれい》じゃ、年は二十五、六、七にはまだなるまい……」
「そのへんで結構でござる。そなた様の口もとから涎《よだれ》が垂れそうで」
「阿呆《あほう》言え!」
二人は声を合わせ、からからと笑った。
秀吉は女中に導かれて奥へ行き、十分の馳走《ちそう》になって、大満足で、翌朝かえってきた。未亡人もまた満足した。秀吉が八郎を猶子《ゆうし》として、末長くめんどうを見ると約束したので。
猶子とは、引取って養いはしないが、父子の約束をしたものを言う。
四
一旦《いつたん》姫路にかえった秀吉は、三月十五日に姫路を出発し、途中十八日かかって、四月四日に岡山に入った。戦闘をして来たから、こんなに日数を費やしたのではない。大事な出陣であるから、一歩一歩足もとをかためて来たのである。とりわけ、岡山から十一、二キロしか離れていない備中高松城は、もう毛利方の最前線になっている。その攻城策について工夫もあったのである。
秀吉はいつもの通りすぐれた諜者《ちようじや》をつかわして、高松城の地勢や地理や、城将の人物等について、くわしく情報を得ていたので、十分に練った策を立てていたが、その策が行われるためには、梅雨期になる必要があった。行軍にこんなにも長い日数をかけたのは、主としてそのためであった。
岡山につくと、その夜は直家未亡人の許《もと》に寝たが、翌日はまだ暗いうちに起きて、自分の宿舎にかえり、黒田官兵衛と蜂須賀彦右衛門《はちすかひこえもん》とを呼びにやらせた後、昨夜から言いつけておいた風呂に入った。十分に垢《あか》をかかせ、いい顔色になって出て来た。夜はすっかり明けて、官兵衛と蜂須賀はもう来ていた。
「おぬしら二人、高松城へ、使者に行ってくれまいか」
いきなり、本題に入った。
「かしこまりました。それで、使者の趣《おもむき》は?」
ためらう色もなく、二人は答えた。
高松城へ使者をつかわすことは、信長の命令による。秀吉は十分な情報を集めて高松城主の清水宗治が骨の硬い人物であることを知っているから、清水に降伏をすすめても、しょせん無駄であると判断しているが、信長はうまく行ったらもうけもの、拒絶されたところでもともとだと言い張って聞かない。秀吉はいたし方なく同意した。
その用のために、信長は清水あての誓書を、秀吉に送りつけて来ている。これにその方の書状を添えて、使者に持たせてつかわし、口説きおとせと、言ってよこしたのである。
信長の誓書はこうだ。
清水長左衛門ことは、文武両道の達人の由、多年聞きおよんでいる。この度の中国発向に際して、その方に備中・備後の両国をあてがうべき間、味方にまいって、西国征伐のお先手をつとめ、忠勤をぬきんじてくれるなら、祝着《しゆうちやく》である。くわしくは、筑前守《ちくぜんのかみ》から申すであろう。
この誓書につけるために、秀吉はくわしく説明をした懇切な書面を、姫路を出る時にすでに用意していた。
秀吉は二人に信長の誓書と自分の手紙をわたした。
「一応、それを読んでくれるよう」
二人が読みおわるのを待って、
「わかったろう。しかるべくつとめてもらいたい」
この二人に、これ以上の説明はいらないことである。
「かしこまりました」
と、答えて、出発した。
備前と備中の国境――といっても、岡山から八キロしかないが、この国境線は西に片より過ぎているので、本来はもっと東方にあるべきなのだ。それはともあれ、ここに吉備《きび》の中山《なかやま》といわれている山がある。山頂に崇神《すじん》天皇の朝《ちよう》に四方につかわされたと伝えられる四道将軍の一人皇子吉備津彦命《きびつひこのみこと》の陵墓と伝えるのがあり、山麓に日本有数の古い神社吉備津彦神社があって、その付近一帯を宮内と呼んでいる。二人はここに、昼はるか前に到着した。宮内から西はもう毛利の勢力範囲で、哨兵《しようへい》が立って、きびしく警戒している。高松城はここから西北三十キロ余の地点にあるのだ。
二人は吉備津彦神社の社家屋敷に休息して、高松方の哨兵を通じて、使者にまかり越したことをとりついでもらい、一時間を少し過ぎるほど待たされてから、山の麓をめぐってついている溝沿いの道を、てくてくと連れて行かれた。
高松城は二百メートルから八、九十メートルほどの高さの、ごくゆるやかな傾斜をもつ丘陵が、奥行き一キロ二、三百メートル、入口の広さ一キロ五、六百メートルの、箕《み》の形にひらいた真中ほどにこっぽりと抱かれたような位置にあった。いくらかの高さを持つ台地の上に築かれているが、それはいうに足りない高さしかないから、純然たる平城《ひらじろ》と言ってよい。前面に足守《あしもり》川が西北から東南に向って斜めに流れ、城の背面は乾いているが、前面三方は青々とした芦荻《ろてき》の繁った沼地になり、通路としては、一道の細い小径《こみち》が曲りくねりながらついているだけで、沼地には縦横に深いクリークがうがたれていて、要害は堅固をきわめている。
二人は感慨深く眺めながら通った。
やがて、城につく。
鄭重《ていちよう》に迎えられて、城主清水宗治に会った。宗治はこの時四十六、口ひげのある立派な男ぶりである。
二人は信長の誓紙と秀吉の添状《そえじよう》をさし出して、宗治に閲読させた上で、くわしく説明した。
宗治は一言も口をはさまず、口ひげをかきなでながら、最も静かな表情で聞き入っていた。その表情を見て、二人は自分らの努力が無駄であることをさとった。心のゆれている者、あるいは説得される可能性のある者は、こんなに物静かな表情ではないはずである。これは一筋に思い定めた不動心を心中に抱《いだ》きながら、礼儀として聞いている人の顔だ。しかし、言うだけのことは言わなければならない。二人は心をはげまして、最後まで言った。
こちらの口上がおわると、宗治は鄭重におじぎし、礼儀正しく口をひらいた。
「右大臣家のご誓紙の趣、羽柴筑前守殿のご書面の文言《もんごん》、ご使者のご口上《こうじよう》、たしかにうけたまわりました。まことにありがたくは存じ奉りますが、拙者《せつしや》は多年毛利家に属し、当国所々の境目《さかいめ》の城をあずかり、浅からぬ主恩を負うている身でござる。今さら主恩を忘れて逆臣の身となり、右大臣家のお味方して、西国へのおん先手をいたすこと、屍《かばね》の上の恥辱でござる。備中・備後の両国を賜《たま》われば、大層な栄華でござるが、武士の義理を取落しての栄華が、何の楽しいことがござろうや。存じもよらざることでござる。――かくご返答申したと、仰せ上げ下されとうござる」
儀礼正しく、しかも、きっぱりとした口上だ。見事であった。
二人はもちろん重ねて説く気にはなれない。
「さようなれば」
と答えて、席を立った。
岡山に帰りついて秀吉に報告すると、秀吉はもう一度明日行ってほしいと言った。二人には、これが秀吉の信長にたいするジェスチャーであることがわかっている。秀吉にもまた所詮《しよせん》駄目であるとの見きわめはついているが、再度も使者を送って説得につとめた事実を作っておかないと、ひょっとして信長が不満に思うかも知れないと思うからのことだ。
「かしこまりました」
二人は翌日また出かけたが、もちろん、予期した通り同じ拒絶の返答しか聞くことは出来なかった。
宗治は最初からかたく死の決心をしているのであった。
『吉田物語』に、この年の正月、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が備前境の七か所の城主らを、自分の居城である備後の三原に集めて、織田方の本年度の出様を論じ、
「本年夏には羽柴筑前守に大兵をつけ、宇喜多を案内者として、こちらに寄せ来ること必定と覚える。さすれば、各々の守っている城々は交戦の巷《ちまた》となる。定めて信長から、毛利にそむいて味方にまいられよと、招くでござろうが、信長に通じたいと存ぜられるならば、心まかせにせられてようござる。このようなことは、古来ためしもあることでござれば、当方においては少しも憾《うら》みとは存じませんぞ」
と、言い渡したところ、城主らは、
「口惜《くちお》しきご諚《じよう》かな。さようにまで心許《こころもと》なき者共と拙者らを思《おぼ》し召《め》しありながら、お大事な境目の守護を仰せつけておられるのでありますか。われらにおいては、ゆめふた心はござらぬ。ただ一筋に一命を捨て、ご用に立ち申したいと思いつめていますものを!」
と、答えた。
隆景は感動して、
「各々の志、神妙の至りでござる。うれしく存ずる」
と言って、防戦の手段について相談した後、鄭重《ていちよう》に饗応《きようおう》して、それぞれに引出ものとして脇差《わきざし》をあたえると、人々は、
「さてもありがたいことでござる。見事勝利を得て敵を撃退した後、この賜《たま》わりました脇差をさして、めでたきお祝いに再会いたしたく存ずる」
と、あいさつした。
すると、宗治は不機嫌《ふきげん》な顔になり、人々に、
「各々の唯今《ただいま》のおことば、われら心得がたし。その故は、羽柴がひきいてまいる人数必定十万はござろう。境目の城はいずれも小城でござる。いかに心を猛《たけ》く持って防戦につとめても、ついには負くべきこと必定でござる。されば、城を枕《まくら》にして切腹するにきまったこと、唯今拝領のおん脇差はその時の切腹刀とわれらは存じ切ってござる。運をひらいて、めでたき祝いの席に差して出る刀とは、さらに考えませぬぞ」
と、言いはって、退出したとある。彼はすでに今年の正月から死を決して、秀吉軍の来るのを待っていたのである。
五
二度目も宗治が拒絶するであろうとの予想は、もちろん、秀吉はつけていた。翌日、直ちに出動に移る。
先ずくり出したのは、宇喜多勢である。病気中の戸川肥後守秀安の代理としてその子助七郎|達安《みちやす》、明石飛騨守景親《あかしひだのかみかげちか》、長船《おさふね》越中守等の老臣らが将となって、備前一国、備中半国、美作《みまさか》半国、播州《ばんしゆう》二郡の勢一万余をひきいて、岡山を出発、吉備《きび》の中山近くまで街道を押し、そこから道を右手に転じて山中に入り、高松の北北西五キロの宮地山《みやじやま》城近くの山上に出た。
この城は乃美《のみ》元信という者が守っていた。宇喜多勢は使者を立て、開け渡せと要求した。
一万余の軍勢が山々に陣取り、旗を林立させ、篝火《かがりび》を焚《た》き立てている景観は、宮地山城のような小城から見ると、胸のゆらいで来るようなすさまじさだ。乃美は心おびえて、開けわたして、この城から一キロほど南方の冠山《かんむりやま》城に引き移った。
冠山城は、足守《あしもり》川のひらく平野の片隅にある小高い台地上に築かれた、ごく小さい城だが、宗治の寄騎《よりき》林三郎左衛門、鳥越左兵衛、松田左衛門などという者共が堅固にこもっていたので、秀吉は宇喜多勢ではひょっとしてしくじっては、戦さの手はじめにゆゆしいことになると思い、
「われら到着するまで手出し無用。よく陣々を守って、われらの行くを待て」
と、申しふくめておいた。
秀吉は十二日に岡山を立ち、その日のうちに高松城近くまで来て、陣所をかまえ、清水方からの攻撃の相手になって、時々、先手勢《さきてぜい》をもって小ゼリ合いしながら、城の様子を観察しつづけた。
その間に、宇喜多勢は冠山城の攻撃を願い出てやまない。
「われらだけで、攻め落させていただきとうござる」
と、いうのだ。
宇喜多勢はここで一奉公せずばと張り切っているのだ。しくじっても、すぐ取返しがつくと、秀吉は踏んだ。
「よかろう。つかまつれ」
と許し、軍目付《いくさめつけ》としてねねの従弟《いとこ》である杉原長房に一隊の兵を授けてつかわした。
翌二十五日の早朝。日の出とともに宇喜多勢一万人は鬨《とき》の声を上げて総攻撃に出たが、冠山の小城にこもる備中勢は、小勢ながら意外に手ごわかった。少しもおびえ立つ色なく、弓・鉄砲を揃《そろ》えてすき間もなく射出したので、宇喜多勢は忽《たちま》ち多数の死傷者を出して、颯《さつ》と退却した。
城中では、大いに気をよくして、一息入れた。
秀吉は宇喜多勢の最初のこの攻撃がうまく行かなかったと見たので、杉原長房隊のことが気になった。加藤虎之助を呼んで、
「長房が攻口《せめぐち》を見てまいれ」
と命じた。
虎之助はこの時二十四歳、身長六尺にあまり、おも長な顔に両眼|炯々《けいけい》とかがやき、若々しいひげが短く、青く、口の下やあごに生えている。
「かしこまりました」
槍《やり》をかかえて、長い足を飛ばして、一息に四キロ余の道を駆けつけた。陰暦四月末の太陽は高く上って、よく晴れた暑い日だ。清正は長房に会って、攻撃の工合や敵の様子を聞いた後、ひそかに城の間近に忍びより、足音をひそめて塀《へい》の外側を歩きまわってみた。
梅雨《つゆ》前の初夏のよく晴れた日の午間近《ひるまぢか》だ。塀の向う側が日だまりになっているらしいところに来かかった時、塀の向うに数人の人声が聞こえた。城方の兵士らが休息して雑談しているらしく思われた。清正はそっと塀際に忍びより、耳をすました。
話は、こんな場合の普通の会話で、何でもないものであったが、なお耳を澄ましていると、突然、妙にきな臭いにおいがどこからか、おこって来た。おや? と、おどろいた時、向側でも、
「臭いぞ、臭いぞ。何ぞこげとるようじゃぞ? 何じゃな?」
と、さわぎ出したかと思うと、
「やあ! あこや! 煙立っとるぞ!」
「あないところに、火縄ついたまま、鉄砲立てかけるいうことがあるものか! 早うのけてもみ消せ!」
「燃え上ったら、ことやで!」
などと、がやがやと言っていたが、忽《たちま》ち炎の立つ音がし、それが大きくなった。
「やあ、燃えついた!」
「藁家《わらや》に移った!」
「早う消せ!」
内側の狼狽《ろうばい》ははげしくなった。
子細《しさい》に聞きすましていた清正は、得たりとおどり立った。槍《やり》のこじりをつきしめるや、一はねに塀にまたがった。目の下には、小柴垣《こしばがき》があり、そばに藁家があって、燃え上り、足軽らが四、五人、狼狽し切って消しにかかっている。塀の上に、恐ろしい敵が乗り入りかかっているとはまだ気がつかぬ風だ。
清正は、一気に飛びおり、飛びおりるや、大音声《だいおんじよう》に呼ばわった。
「羽柴筑前守が家来、加藤虎之助清正、一番乗り! 皆々、ここぞ! ここより乗り入れ!」
もうその時には、槍をふるって、三人を薙《な》ぎたおし、一人の胸板を田楽《でんがく》ざしにつき刺していた。
戦さはこれまでであった。杉原長房についていた甲賀者の美濃部《みのべ》某が二番目に乗り入って来、つづいて杉原の家来の山下某が三番目に乗り入って来、あとはもうおしよせる波濤《はとう》が岸をこえるようにこみ入って来た。つづいて大手の門が破られ、切死《きりじに》する者は切死し、逃げ散る者は逃げ散り、城は陥った。しかし、宗治の寄騎《よりき》である林三郎左衛門、鳥越左兵衛、松田左衛門は聞こえた勇士だけに、一かたまりになり、一方を斬り破って、高松城に入った。
宮地山《みやじやま》と冠山《かんむりやま》の両城をうばい、高松城を孤立させた秀吉は、本格的な攻城にかかることにして、冠山城を陥れた翌々日の四月二十七日、一万五千の兵をひきいて竜王山に陣を移した。竜王山は高松城の北北東三キロにある標高二百九十四メートルの山だ。この山の麓が次第になだれて高松城のある平地になって、傾斜する途中に村里や、神社や、用水池などがいくつも散在していて、その向うに高松城が見えるのである。また、新たに養子とした羽柴秀勝に五千の兵をさずけて、竜王山と高松城との中間の平山村に布陣させ、宇喜多軍一万は高松城の西北、大崎村の背後の標高約九十メートルの山上に陣を布かせた。都合、攻囲軍は三万である。
これにたいして、城方は宗治の兵二千五百人、小早川隆景の命を受けて応援に来た末近《すえちか》左衛門|信賀《のぶよし》の兵二千人、宗治の平素の恩に報ぜんとて願い出て入城した農民兵五百人、総計五千人であった。
秀吉は姫路を出る時から、攻城の策は定まっている。高松城の地勢と季節とを利用して、水攻めにするつもりなのである。だから、城方があせってしきりに戦いを挑《いど》みかけるのを、全軍に命令して、ただ攻撃をはらいのけるだけで、深入りさせず、じりじりと包囲陣をちぢめていたが、月がかわって五月となり、いよいよ梅雨が近くなると、築堤にかかった。
五月七日、自分の本陣を城の東南方にあたる山端《やまは》、蛙が鼻《はな》というに移して、翌日から工事にかかった。蛙が鼻から少し南方の原古才《はらこさい》を通り、城の南方から西南方を迂回《うかい》して、城の西北方小山村を経、門前村に至る間に、長さ二キロ三百メートル、高さ七・三メートル、厚さは底で二十一・八メートル強、頂上でその半分という堤をうねうねと築き、門前村で足守《あしもり》川をせきとめて、水を堤内に注《そそ》ぎ入れることにしたのだ。
また、城の東北の山の谷間には長野川という谷川が流れているが、これを鳴岩という地点でせきとめると、一大ダムが出来、たまった水は逆流して、大窪《おおくぼ》越えという道から、城のほぼ北方の大谷という村落に流出して来る。これもそうした。
これらの大工事の間、城方は黙って見ていたわけではない。しきりに攻撃をかけて工事を妨害しようとしたが、はかりすましている秀吉には寸分の油断もない。工事現場をかこって柵《さく》を結わせ、芝土手《しばどて》を築き、透間《すきま》もなく兵をおき、夜は夜で本篝火《ほんかがりび》、捨篝火を一、二間おきに、空を焦げるばかり焚《た》かせて警戒しながら、工事を進めるのだ。どんなに忍んで近づいても、必ず発見されて、弓、鉄砲でひしひしと討取られた。まるで手出しが出来なかったのであった。
工事は昼夜兼行で進められたが、『高松城攻之物語』という書は、この時秀吉の馬廻《うままわ》りの一人として従軍した佐柿《さかき》入道常円という者の老後の思出話を書いたものであるが、堤が完成すると、「秀吉公の御運にやよりけん、三日の間篠《しの》つくほどの大雨」で、ふだんは脚絆《きやはん》の濡《ぬ》るるほどの足守川が滝つ瀬をなして流れ、滔々《とうとう》と堤の内に流れこんだという。
こうして、面積二百町歩近くの堤の内側は、忽《たちま》ち一面の湖水となってしまった。季節が季節だ、水かさは刻々に増すばかりだ。
秀吉は堤の警戒にもぬかりはない。堤の外側には小屋が作りならべてあり、堤上には堅牢な柵《さく》を結い、数町毎に見張所をおき、数間毎に番所をおき、昼は旗を建てつらね、夜は篝火《かがりび》を焚き上げ、絶えず番兵が経《へ》めぐり、寸分も油断しない。
この大仕掛で奇抜な攻囲には、宗治もおどろいたが、さすがは猛将だ、少しも心を屈せず、直ちに出来るだけの対抗策を講じた。高松の城下の紺屋から染板数百枚を徴発して小舟三|艘《そう》をつくり、それで味方の陣屋間の連絡もすれば、出撃して戦いもした。
すると、これに対抗して、秀吉の方でも、海辺から大船三艘を運んで来て、上に櫓《やぐら》を設け、大砲をすえ、浅野弥兵衛と小西弥九郎|行長《ゆきなが》とを大将として、湖上をわたって城に漕《こ》ぎつけ、大砲をつるべ打ちに打ちかけたり、鉄熊手を城壁にひっかけ、エイヤエイヤと引いて引き崩そうとしたりした。この間に水かさは益々増し、高松の城中もまた水に浸されたので、籠城《ろうじよう》勢は櫓の上や樹上に簀子《すのこ》を組んで生活するよりほかはなくなった。
高松城が水底に没し、城中五千の兵が鱗類《うろくず》の餌食《えじき》となることは、今はもう避けられないことに見えた。
「高松城危うし」
の飛報によって、毛利家では例によって、小早川隆景と吉川元春とが出て来た。隆景は松山城南方四キロの日差《ひざし》山に、元春は松山城西南方一・八キロの庚申《こうしん》山に陣をすえ、それぞれに部下の諸将を付近の山々に陣取らせた。秀吉が見通した通り、吉川元春は山陽道方面に秀吉が出たとの報に接すると、山陰方面から引き上げてこちらに来ざるを得なかったのである。
それはさておき、隆景・元春の兵三万余、山々に旗を立てならべ、城中に気勢を添えた。それは五月二十一日のことであった。つづいて、毛利の当主|輝元《てるもと》も出て来て、高松から二十四、五キロの地点にある猿掛山に本陣をすえた。
秀吉は前もって一万人の兵をさいて、この毛利の援軍にそなえていた。両軍の前線部隊は、足守川にそそぐ、城の西方の長良川(砂川ともいうらしい)を挟《はさ》んでむかい合い、その距離はわずかに数町であった。
両軍とも戦いはしかけない。毛利勢は秀吉勢を恐れ、秀吉勢は思うところがあってまた戦わず、前線の前には厳重に柵を結い、土手を築いて、堅塁《けんるい》にこもるがごとく備えたので、たがいににらみ合っているだけで、なかなか戦闘にはならなかった。
六
高松城中では、援軍が到着して、南方から西南の山々に旗じるしが林立し、西方では敵味方の先手隊が至近の距離をもって対峙《たいじ》している様子も見えるので、鬱屈《うつくつ》の気ものび、生き返った思いをしたが、山々の旗は動かず、前線は戦闘をはじめない。城中の人々は気をいら立て、力をおとすことが一通りでなかった。
宗治はこれを憂えた。
「このような時こそ、逆意の者が出て、敵を引き入れるなどということも出来《しゆつたい》するものじゃ」
と、一しお警戒を厳重にして、夜間の見まわりも、足軽四、五人を連れて自分ですることにしたが、ある夜、東北の山の麓《ふもと》、すなわち水の取入口のあたりに、人影のようなものがおぼろに見えたので、凝視《ぎようし》していると、それはやがて泳ぎわたって来て、城に這《は》い上った。頭に結びつけた着物を着、脇差《わきざし》をさして、身なりを整えている。
宗治は、足軽《あしがる》らに、
「あれ召し連れてまいれ」
と、命じた。
その者は悪びれる色もなく、同道して来た。自ら、ご本陣からのお使いでござると名のって、たずさえた竹筒の中から書面を取出して、差出した。ひらいてみると、輝元の署名があり、元春と隆景の連署がある。
永々の籠城《ろうじよう》の辛苦、まことにご苦労である。後詰《ごづめ》のために出馬したが、上方勢が大軍にて厳しく取りかこむによって、思うように加勢も出来ぬ。まことに残念である。こうなった以上、その方せっかくの抵抗も無益故、早く上方に降参し、城中の士卒らのいのちを助けるようにしてもらいたい。
という文面であった。
宗治は一読すると、
「上方へ降参のこと、思いもよらぬことでござる。その心底《しんてい》ならば、最初より上方へ一味いたしたでござろう。拙者《せつしや》ははじめから、この城を守って死ぬ覚悟をきめているのでござる。――さように申したと、ご披露いただきたい」
と言い、さらに筆紙をとり寄せ、書面にして渡した。
使者は涙をのんで受取り、また水をくぐってかえって行った。
宗治の決心がこうである以上、毛利方としてはどうしても戦闘に持ちこんで、救うべき転機をつかみたい。手をつくして戦いを挑みかけたが、秀吉が相手にならないので、あぐねた。
秀吉が相手にならないのは、うっかり手に乗って、ここまで漕ぎつけた有利な形勢を逆転させることを恐れたためもあろうが、何よりも大きな理由は、信長の来援を待っているためであった。
秀吉はここまでの膳立《ぜんだ》てをすると、使いを馳《は》せ上らせて、信長の親征《しんせい》を請願したのだ。秀吉がこのようにした心理は、去年の暮お次丸を養子にし、日本内地には領地はいらぬと信長の前で言ったのと同じ用心からであった。
(ここまでおしつめて膳立てしただけで、おれが手柄は十分じゃ。この上は上様に箸《はし》を取っていただくことが、かえってごきげんを取り結ぶことになる。なおまた、現在では毛利方三万、当方三万、同じ軍勢じゃが、彼は本国に近いだけ、後続部隊のくり出しにも便利じゃ。戦っては負けるかも知れん。負けては元も子もなくなる。勝てたにしても、毛利ほどの大大名を独力で破っては、上様の嫉《ねた》み心を挑発する恐れがある。今のおれは昔と違う。手柄を立てさえすればよい身分ではない。用心しながら立てんければならん身分になっている。どの点から考えても、最後の仕上げは、上様にしてもらった方が得じゃわ)
と、計算を立てたのであった。
秀吉のこの請願は、信長をよろこばせた。
「よし、出陣するぞ。毛利とそれほどまでに間近く対陣していること、天のあたえるところじゃ。行きむかい、討ち果し、勢いに乗って、九州まで一ぺんに討ち平げることにしようぞ。ただし、甲州征伐の帰り途にえらい世話になった徳川が京・堺の見物に上って来ることになっている故、それを馳走《ちそう》してやらねばならぬ。それがすんだら、すぐさま出陣する故、しばらく待つよう。くれぐれも敵をとり逃がさぬようにせよ」
と、答えて、堀久太郎秀政を使者として、つかわした。
堀は到着して、委細のことを秀吉に語った。
秀吉は信長が自分の請願に満悦したことを聞いて、計算が星を射《い》つらぬいたことを知った。よろこびもしたが、一面、「よくぞ気づいた。気づかなんだら、恐ろしいことであった」と背筋が寒くなる思いがしないではいられなかった。
信長親征のことは、毛利側に聞こえた。毛利側では、秀吉一人が相手でも必勝の算《さん》は立たないのに、信長みずからが来るとあっては、全然勝目はないと思った。負ければ、毛利家は全滅させられるにきまっていた。親征する以上、必ずそこまでやりつける信長だ。朝倉氏がそうであったし、浅井氏がそうであったし、最も間近くは武田氏がそうであった。
毛利氏では安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を呼び出した。足利尊氏《あしかがたかうじ》・直義《ただよし》兄弟が夢窓国師《むそうこくし》のすすめによって、国土安穏の祈願と元弘年度以来の戦死者の供養のために、諸国に建立した安国寺という禅寺がある。安芸《あき》国の安国寺は広島城下の北郊にあったが、恵瓊はこの寺の住職である。安芸の豪族武田の一族で、幼時から出家していたが、天性の才智弁口があり、以前から毛利家の外交上の使者となって度々上京して、織田家と折衝した経歴をもち、信長に知られ、秀吉とも面識があった。
毛利家では、恵瓊に秀吉に和睦《わぼく》を申しこむ使者になってくれるよう頼んだ。
「かしこまりました。して、ご条件は?」
「われら分国のうち、備中《びつちゆう》・備後《びんご》・伯耆《ほうき》の三国を渡すということにして」
「その分ならば、先ずととのい申すでございましょう」
恵瓊は諒承して、秀吉の本陣に来た。
秀吉はみずから会って、申入れを聞いた。
聞いたところで、自分には諾否を答える権限はないと、秀吉は思っている。宇喜多家の降伏申入れを信長に無断でゆるして、信長の怒りに触れた記憶は昨日のことのように鮮やかだ。
しかし、信長の来るまでに条件をセリ上げておくことは不得策ではない。毛利軍をとりにがさぬようにせよと言いつけられているから、そのためにも引きつけておく必要がある。
「備中・備後・伯耆《ほうき》の三国を進上とのことじゃが、なお二国くらい進上され、清水に腹切らせられるなら、われからずいぶん右大臣家へとりなし申そう。さらずば、むずかしいの」
と、秀吉は答えた。ずいぶん高飛車な要求だが、秀吉としては、ぜひともまとめなければならない交渉ではない。信長の来るまで相手をつなぎとめさえすればよいのである。
恵瓊《えけい》は両陣の間を数回往復したが、条件が懸絶しているので、交渉は行きなやみの姿となって、数日|経《た》った。
七
六月三日の夜、亥《い》ノ刻《こく》(午後十時)頃であった。外では暗い中にじけじけとした雨が降っていた。秀吉はまだ起きていたが、そろそろ寝《しん》につこうと、大あくびをしている時、黒田官兵衛がふらりとやって来た。
「ほう、これはありがたや、まだお休みではなかったわ」
と、いつもの気軽な調子で言って、
「少し内々で申し上げたいことがある。そなた方、ちょと遠慮してくれまいか」
と、近習《きんじゆ》の者共に言った。これも軽い調子だ。
人々は別室に去った。
官兵衛は人々の姿が消えてしまうまで、いつものおだやかな表情を保っていたが、二人だけになると、にわかにきびしく引きしまった顔になって、きっと秀吉を仰いだ。低い、緊張した声で言う。
「思いもかけぬ一大事が出来《しゆつたい》いたしました」
「何? どうしたのじゃ?」
「上様《うえさま》が京都でご最期《さいご》でございます」
「何じゃと?」
官兵衛は、つい今し方信長の家臣長谷川法印|宗仁《そうじん》からの急使が、宗仁の密書をもって駆けつけたことを語った。
「これがその密書でござる」
秀吉は受取った。
六月二日の払暁《ふつぎよう》、明智|日向《ひゆうが》が逆謀《ぎやくぼう》して、信長の旅館本能寺を襲って信長を討取り、つづいて信忠の宿所二条御所を襲って信忠を討取ったことが書いてある。
(まことか、これは……)
急にはほんととは思われないから、なげきもなければ、悲しみもなく、怒りもない。ただぼうぜんとして自失する思いであった。
やがて、少しずつ、われにかえって来た。
(そうか。亡くなられたのか! 日向が討取り申したのか……)
と、つぶやくように言ったが、とつぜん、悲しみと憤《いきどお》りが、噴《ふ》き出すように、どっと胸にあふれた。その心のずっと底の方で、明智がここまで思い切ったことをする気になったのはわかるような気もしていた。非業《ひごう》な横死《おうし》を遂げなければならないお人であったようにも思った。
ふと気がついて、言った。
「宗仁が使いの者はどうした? 当分のところ、かたく秘すべきことじゃ。余人に知られては悪かろうぞ」
せかせかとしたことばづかいになった。
「ぬかりはござらぬ。人知れず、かくもうてあります」
「それならばよいが……」
ほっとするとともに、なんとも名状出来ないような解放感が、胸にひろがって来た。――おれはもう、上様を恐ろしがることはいらないのだ、自らの欲するままに生きることが出来るのだ、伸びることが出来るのだ……。
その時、官兵衛がするするといざり寄って来た。秀吉のひざをほとほととたたき、何やらささやいた。
「ご運のひらけさせ給う時が来たのでござる。よくせさせ給え」
と、そのささやきは聞かれた。
「うむ、うむ、うむ……」
こちらは覚えずうなずいたが、うなずきながら、はっとして、官兵衛の顔を見返した。官兵衛はにこりにこりと微笑をふくんでいた。
秀吉の大芝居がはじまる。
秀吉は極力本能寺の事変を秘密にした。毛利側にも、味方にも秘密にして、わざと船で城を攻撃させたり、これまで諸陣の巡見には美々しい装いをさせた従騎を百騎も召し連れたのに、傘《からかさ》の馬じるしと馬の口取りだけを召し連れたごくごくの軽装で巡見したり、
両川《りようせん》(吉川、小早川)が一つになって流るれば
毛利高松 藻屑《もくず》にぞなる
などというへたな狂歌をつくって毛利軍に送ったりして余裕を示しつつ、講和交渉のむしかえしにかかった。
「織田家の面目上、清水には腹切ってもらわずばならんが、その他の国のことなどは、そちらの申し出で通りでようござるわ。いつまでもこうして滞陣していても、おたがい損でござるわ。しかし、右大臣家は一両日中には姫路に到着でござる。早うきめなさらんと、間に合わんことになりますぞ」
毛利側では宗治に腹を切らせることを渋ったが、これが当人の宗治に聞こえると、慨然《がいぜん》として自ら進んで、切腹したい、と申し出た。
和議はついにまとまった。
六月五日|巳《み》ノ刻《こく》(朝十時)、宗治とその兄の僧|月清《げつせい》、毛利家から援軍の将として入城していた末近左衛門信賀の三人が切腹することになった。
月清も、末近も、別段秀吉から切腹を要求したのではなかったが、月清は、
「わしは兄に生れた故、家督すべきであったが、天性人に頭下げることがきらいである故、とても世に立ち交わるべきでないと思い、そなたに家を嗣《つ》いでもらったのじゃ。もしわしが嗣いでいれば、死なねばならぬところじゃ。そなた一人を死なせて、おめおめと生きながらえることは、男として出来ぬわ」
と言い張って聞かず、末近は、
「われらは、籠城《ろうじよう》のはじめから、もし貴殿が敵に一味などなされたなら、刺し殺してくれんと思いつめて、今日までまいったのでござれば、貴殿が志を変ぜずして義を守り、かくも堅固に籠城をつづけてまいられたばかりか、お家のために腹切られるからには、ご一緒に死なずば、武士の一分が立ち申さぬ」
と、言い張ってやまず、ついに三人一緒に死ぬことになったのであった。
話がきまったのは四日の夕方であったが、秀吉は三人の話を聞くと、涙をこぼして感動した。
「あっぱれ武士の鑑《かがみ》、おしい人々を死なせることじゃが、せん方ない」
と言って、清らかに飾った小舟|一艘《いつそう》に酒樽《さかだる》十|荷《か》、極上茶三袋をのせて、城中に送りとどけた。
宗治らはその夜、この酒肴《しゆこう》で酒宴をひらいて楽しんだ。
夜が明けて、定めの時刻が来ると、宗治らは舟に乗り、秀吉の本営の前まで来て、漕ぎとめた。長堤の上には、寄手《よせて》の軍勢が総出で立ちならんで見物する。
検視は堀尾茂助だ。舟を漕ぎよせ、用意の酒肴をさし出した。宗治はよろこんで受け、
「筑前守殿にくれぐれもお礼を申し上げて下されよ」
と言って、皆と訣別《けつべつ》の盃《さかずき》をかわしてから、立ち上って一礼し、今年の正月小早川隆景にもらった刀をぬいてかざしながら、朗々たる声で、
川舟をとめて逢ふ瀬の浪枕
浮世の夢を見習はしの
おどろかぬ身ぞはかなき
と、謡《うた》いおわるや、十文字に腹を切った。
郎党《ろうどう》の高市之允《たかいちのじよう》が介錯《かいしやく》した。
次は月清だ。
道の辺《べ》の
清水流るる柳陰《やなぎかげ》
しばしがほどの世の中に
心とむるぞ愚かなる
とうたって、腹を切った。それも市之允が介錯した。
次は末近だ。立ち上ると、
「わしは乱舞というものの稽古をしたことがないが、皆が謡うたのに謡わんでは、臆《おく》したように思われるので、一ふし謡おうわい」
と言って、太刀をぬいて舟底を踏みならしながら、
敵と見えしは群《むれ》居る鴎《かもめ》
鬨《とき》の声と聞こえしは浦風なりけり
高松の朝《あした》の露とぞ消えにける
実にへたな節まわしであるが、堂々と謡いおわって、腹を切った。
当時の武士のおもしろさだ。これも市之允《いちのじよう》が介錯《かいしやく》した。
末近の謡った曲は謡曲|八島《やしま》の末尾のくだりだ。原曲には、「高松の浦風なりけり、高松の朝嵐《あさあらし》とぞなりにける」とあるのを、こう謡いかえたのである。
三人の供として従っていた難波《なにわ》伝兵衛、白井与三左衛門、草履取《ぞうりとり》の七郎次郎に至るまで、いずれもいさぎよく自殺した。市之允はこれらも介錯し、死骸を全部かたづけ、それぞれの首に前もって用意しておいた名札をつけて、堀尾にわたした後、自らも切腹し、のどをおし切って果てた。
この時の宗治の辞世の歌は、
浮世をば今こそわたれもののふの
名を高松の苔《こけ》にのこして
切腹が済むと、秀吉は陣中僧に誓書を持たせて毛利陣にとどけさせておいて、直ちに堤を切りおとし、洪水の勢いで滔々《とうとう》と逆巻《さかま》き流れ出るのをあとにして、退去し、東へ東へと向った。
「急がねばならぬ。急がねばならぬ。急がねばならぬ……」
と、ひっきりなしに胸にくり返していた。毛利方にことの真相を知られて追撃されないためにも、急がなければならなかった。誰よりも早く弔合戦《とむらいがつせん》をするためにも急がなければならなかった。
蛟竜《こうりよう》は今や風雲に際会したのである。目もくらむばかりの高さまで、雲の通《かよ》い路《じ》はつづいている。
火炎のようなものが、たえず胸を灼きつづけていた。
[#ここから5字下げ]
(追記)
秀吉が毛利氏に委細《いさい》を打ち明けて和議したという説が昔からあるが、今日の史学者は誰もそれを信用しない。かくし切って退去し、途中から知らせたというのが真相である。
[#ここで字下げ終わり]
名花の桜今盛り
一
毛利家との和議は、その実を追究するならば、秀吉は毛利家をあざむいて結んだのである。本能寺のことをかくし切って、信長が健在であり、両三日のうちには親《みずか》ら毛利勢と戦うべくこの地に到着するであろうから、和睦なさるなら急ぎなさらんと間に合いませんぞ、と言って取結んだのだから、あざむいて取結んだのであるに相違ない。
秀吉は、これがさして遠からぬうちに暴露するであろうことを覚悟していた。嘘《うそ》がいつまでもわからないでいるものではない。まして、毛利ほどの家なら、上方方面に相当数の諜者《ちようじや》を入れ、相当優秀な諜報網を持っているはずである。三日の間|漏《も》れずにすんだのは稀有《けう》の幸運であったと言ってよい。
あざむかれたと知れば、腹を立てるであろうし、ひょっとすると――ひょっとするとどころではない、十中七、八までは追撃作戦に出るであろうとも覚悟していた。追撃して来られて追いつかれれば戦うまでのことであり、そうなれば将士の気力が懸絶しているから、必定|惨敗《ざんぱい》するに相違ないとも思っている。しかし、追って来ず、追っても途中であきらめてくれて、無事に姫路に帰着出来る可能性も、二、三分はある。この二、三分の可能性が実現すれば、京に攻め上ることが出来る。そうしさえすれば、主君の弔合戦《とむらいがつせん》という大義名分はあり、明智の手並はかねてから知っている。明智は智略はあるが、気の小さい男だ。小事を念入りにこつこつとやるのはたくみだが、大きい仕事をぱっぱっとこなして行く図太さはない。今頃は荷の大きさに途方にくれていようから、十中七、八まではおれが勝てる。
「ともあれ、このところの二、三分の可能性を生かして、何としても無事に姫路まで帰りたい。そのためにも、急ぐことが肝要だ!」
と考えて、急ぎに急いだ。国境を越え、吉備津彦《きびつひこ》神社の前を過ぎ、笹《ささ》ガ瀬《せ》川にさしかかる頃には、とっぷりと日が暮れた。
川には橋はない。秀吉は馬を川に乗り入れて渡ったが、渡り切って、身ぶるいしてしずくをふるっている馬上から、ふとふりかえって、軍勢の様子を見て、これはいかんと思った。東の空|一竿《ひとさお》ばかりの高さに上っている五日の月のとぼしい明りの中を、黒々と見えて渡って来る軍勢には、追われる者のおじ気とあせりが見えた。
とっさに、馬首をかえし、ざぶざぶと引きかえしながら、さけんだ。
「者共! よくおれが申すことを聞け。これしきの川であるだけに、かかる時、たったひとりでも溺《おぼ》れては、あわて恐れて、三百人も五百人も溺れたように、世間は申すぞ。荷駄《にだ》もまたそうじゃ。一|荷《か》流しても、百荷も二百荷も流したように言われるものぞ。おちついて、たがいに手を組み合い、足もとをふみしめて越せよ! おれは汝《わい》らがのこらず越してしまうまで、あともどりして、岸に待って、それから改めてわたるぞ!」
もち前の、朗々とよくひびき、語便《ごんびん》(ことば遣い)明晰な大音声《だいおんじよう》で、くりかえし呼ばわりながら、馬を乗りかえし、岸に馬を立て、時々激励の声をかけながら、心のどかげな風姿をつくっていた。
将兵のあせりは、これで鎮まり、凜《りん》と引きしまった軍容となり、粛々《しゆくしゆく》として渡渉しおえた。
笹ガ瀬川をわたると間もなく岡山城下である。次第に城が近くなる頃、前方に馬を立てている一団の人々が見えた。
それは、秀吉が自分より先きに高松を引き上げさせた宇喜多家の重臣らが、幼主の八郎を先きに立てて、迎えに出ているのであった。
八郎は秀吉の近づくのを見ると、老臣らを離れて、馬を寄せて来た。
母親によく似て、色白で、ふっくらとして、美しい少年だ。直家の一粒種で、直家のような油断もすきもならないほどの悪知恵にたけた男が、目に入れても痛くないというほどに鍾愛《しようあい》し、従って誰からも可愛がられ、大事にされて育ったので、この少年は、人は皆自分を可愛がるものと信じ切っている。ひと頃姫路に人質となって来ていたので、秀吉はそれをよく知っている。子供好きであるのに自分の子がないために、秀吉は一層子供好きになっている。このような八郎には抵抗出来ない愛情をそそられる。
(子供は皆可愛いものじゃが、ひとり子はまたとくべつ人の愛情をそそるものがある。妙なものじゃ)
と、思っている。前からそうだったのだが、八郎の母と特別な関係が出来てからは、一層その感が深い。
八郎は、馬上に式体《しきたい》して言った。
「お迎えに上りました」
にこにこ笑っている。あまえている顔だ。
秀吉は笑顔になった。
「大儀、大儀。よろこんで受けて、立寄りたくはあるが、こんどはそうはしておられぬのじゃ」
「やあ、なぜでございます! せっかく支度も申しつけましたに!」
次第に高く上って、明るくなった五日月《いつかづき》の下に、八郎の顔にはありありと失望の色があらわれた。
秀吉はそれには答えず、宇喜多の老臣らに、近く寄るように言って、馬をおりた。
老臣らも、八郎も、馬をおりて、秀吉の前に集まった。岡|豊前《ぶぜん》、明石|飛騨守《ひだのかみ》、石川平右衛門、花房助兵衛、長船《おさふね》又左衛門の五人であったと、『川角太閤記《かわすみたいこうき》』は伝える。
秀吉は、八郎の肩から背を撫《な》でさすりながら、老臣らに言った。
「そなたらも、定めし今は右大臣家がどうなられたか、知っているであろう。わしは一刻も早く京へ馳《は》せ上り、逆臣明智を討取り、右大臣様のご無念を晴らさせ申さねばならぬ。八郎の初陣《ういじん》にはよい機《おり》なれば、連れて行きたくてならぬのであるが、ここに一つ八郎に大役を引受けてもらいたいので、それが出来ぬ。そのわけは、ひょっとすると、毛利勢がわしのあとを慕《しと》うておし寄せて参るかと思われるので、それを食いとめてもらいたいのじゃ。そのためには、その方共がうんと働いてくれねばならんことは申すまでもない。それについて、どう戦うべきか、わしの存《ぞん》じ寄《よ》りを、語りおく。よく聞いてくれるよう」
と言って、月明りの中に見える山や川や森を指さして、敵は必定《ひつじよう》あれからあらわれ、しかじかの道を経《へ》て、こう来るよりほかはないのである故、しかじかまでその先手《さきて》が来たら、五人一斉に出て、有無《うむ》の合戦をするがよい、勝ち負けはともかくも、城近くの合戦はむずかしいものである故、城に引取る時は出来るだけ落ち着いて物静かであるべく、敵が付け入ろうとしたら、手強《てごわ》く二、三度たたきかえせばよい、そうして敵が遠のいたら、二手にわかれ、くり引きにして城にかえるがよい、この岡山の城はなかなかの要害ゆえ、敵がいかに気力をはげましても、一気に陥れられることはない、心を丈夫に持って守るがよい、敵は定めて向い城をこしらえて気長に攻めようとするであろう。そうさな、二つこしらえるじゃろう、一つはあのへん、一つはこちらのあのへんであろ、こちらはその普請中にせっせと夜討ち朝駆けして邪魔せよ、人数五百の組、三百の組、二百の組と、三組の夜討ちの組をこしらえておいて、かわるがわるに、油断を見すましては夜討ち朝駆けして、うるさがらせるがよい、皆々|功者《こうしや》じゃから、くわしくは申さんと、防戦の手だてを教えて、
「わしは姫路に帰りついても、三日とは逗留《とうりゆう》せん。直ちに打って出て、京へ馳《は》せ上り、光秀を討ちはたす覚悟じゃ。吉左右《きつそう》はいずれ告げ知らすであろう。さらばさらば」
と、そのままに東に向ったと、『川角太閤記』は伝える。
深夜に岡山から東方十一、二キロの沼という土地について、二、三時間休憩したが、その休息の間に大雨となった。
黎明《れいめい》とともに、雨をおかして出発して、六、七キロ行くと、吉井川という大河がある。大雨に増水した河面は漲《みなぎ》り切っている。付近の村々の庄屋や大百姓を人質にとった上で、川|馴《な》れた人夫らを費用をおしまず集めさせて、無事にこした。
川を越ゆれば、備前|鍛冶《かじ》の本場である福岡、長船などという土地だ。秀吉はここで、右筆《ゆうひつ》を召して、口授《くじゆ》して、毛利家へおくる手紙を書かせた。
この度、高松表で、陣和談《じんわだん》と申しかわし、誓紙を交換してまかり上りましたことにつき、真実を打明け申さなかったことを、お怒《いか》りかとも存ずるが、弓馬《きゆうば》の道ではかかることはお互いのことと、ご諒解いただきたい。拙者は急ぎ上洛、弔合戦をとげ、主君のかたきを討ちはたすべき覚悟でいます故、この前の誓紙の趣の通りにしていただくなら、幸いこの上もござらぬ。もしまた違変のご意志なら、それも致し方なきこと、お相手いたすでござろう。
手紙は早飛脚《はやびきやく》をし立てて届けさせることにして、先きを急いだ。
この頃、毛利勢はすでに高松表を退陣していたが、その退陣に至るまでに、一さわぎあった。
秀吉軍が退陣して行って間もなく、毛利家が上方に持っている諜報機関から、本能寺の事変についての報告が入った。
「羽柴、われをあざむいたり!」
と、血気な連中がさわぎ立ったことは言うまでもない。
吉川《きつかわ》元春、小早川《こばやかわ》隆景、宍戸《ししど》備前等の人々が集まって、軍議がひらかれた。
気早な吉川元春はひざを乗り出し、
「誓紙をとりかわし、和議をしたが、だまされて書いた誓紙じゃ。破ってもちっともさしつかえないぞ。かような時こそ、馬は乗殺すべきものじゃ。すんぐに打ち立って、羽柴めを追いかけよう!」
と主張した。
宍戸も同意した。
小早川隆景だけが反対した。
「どんないきさつがあったにしても、仏神を保証に立てて書いた誓紙を破ってよいとは、わしは思わぬ。理窟《りくつ》はつけようと思えば、どんな理窟でもつく。誓紙に書いたことは決して違背してはならんということにしておかずば、あらゆる誓紙がとりとめもないことになってしまう。それでは、世の中は立たぬ。大事なことは、羽柴がこれからどう出るかということじゃ。誓紙に書きのせた通りにして、当家にたいして敵意を持たぬなら、それでいいではないか。敵意を見せたら、非は彼にある。罪を鳴らして、堂々とこれを伐《う》つ。ちっともおそくはないぞ」
堂々たる議論だ。言いふせられて、元春も宍戸も黙った。
これで一先ず散会となったが、吉川陣と宍戸陣とが殺気立って、今にも打って出そうであったので、隆景は陣中召し連れた能役者らを召して、高砂《たかさご》その外数番の、めでたく、平和な曲ばかりをえらんで演奏させたところ、人々の心が鎮まり、殺気が消散したと、『川角太閤記』にある。
同書はまた、後に秀吉が天下統一の後、小早川隆景に五十二万石の大封をあたえたのは、この時の功を買ってのことであると言っている。
二
洪水の吉井川渡しや、毛利陣への飛脚差し立てやなんぞで、意外に時間をとったので、一層道をはやめ、終日、終夜歩いて、翌七日の早暁、姫路についた。
本能寺の変報は、もちろん姫路城にもとどいている。秀吉の家族らは、去年の冬から、母も、ねねも、安土を引き上げて姫路に来ている。変報を受取って以来、高松で毛利の大軍と対陣している秀吉の身の上を案じくらしていたが、昨夜早飛脚が入って、毛利との和睦が出来て、近く帰陣すると言って来たので、皆々泣いて安堵《あんど》した。つづいて、夜明け前に、また先き知らせがあって、ほどなく帰城するであろうから、風呂を仕立てておくようと、言って来た。
姫路城の留守役は、姉聟《あねむこ》である往年の一若《いちわか》がうけたまわっていた。一若も、今では三好一兵衛吉房といういかめしい名前になっているのであった。知らせを受けとった時、一兵衛はまだ寝間着姿でいたが、すぐ着がえて奥へ行き、秀吉の母とねねとに、そのことを告げた。
「やれ、もどってまいられるかや。うれしや。風呂を仕立てておけとは、よう気づきやった。おとといの夜なかからきんの一日、雨やったさけ、さぞな難儀な道中をつづけて来やるであろうぞ。熱いめに仕立てるよう、言うておくれや。風呂に入って、さっぱりなったらば、わしが会いたがっているというて、連れて来てくれますよう」
「かしこまりました。そうしますべ」
一兵衛は引きさがった。かかりの者に、間もなく殿様がもどってまいられて、熱い風呂に入りたいと、途中から仰せ越されたにより、早々に仕立てるよう、いくらか熱目にするがよかろうと命じ、なお酒食の支度も言いつけておいて、大手の門外に迎えに出た。
しめった暁の風に吹かれながら、しばらくそのへんを歩きまわった。雨雲の低く垂れている梅雨《つゆ》空はまだ暗い。
(これから先き、どやん世の中になるか、わしにはさっぱりわからん。殿さんには見当がついとるやろか。殿さんは、今までは上様についていて、一生けんめい上様にご奉公をはげみさえすれば、しぜんに運がひらけると思いこんで、そうして来なさったのや。たしかにその通りで、えらいものになりはった。おかげで縁に連れ添うわしまで、今の身分になることが出来た。それだけに、にわかにこやんことになっては、途方にくれなさるやろ。殿様かて、見当つかへんかも知れへん。――それとも、図ぬけた知恵者《ちえしや》やさけ、もうちゃんと見当ついとるのやろか……)
とつ、おいつ、思案にくれながら、歩きまわっている間に、東の空の雲のすき間にほの白い明りがさし、いくらか世間が明るくなったかと思うと、見る見る夜が明けて来た。
その頃、秀吉の一行が帰着した。
一兵衛が駆けよって迎えた。思いもかけず、涙がこぼれて来た。
「やあ、一兵衛。心配であったろうな。しかし、おれの運のよさはかくべつじゃ。和睦の相談をまとめて、無事にもどって来たわい」
と、笑いながら言って、一兵衛の肩をたたいた。
秀吉には連れがあった。堀久太郎秀政だ。秀吉が信長親征の願いを持たせた使いを安土に上《のぼ》せた時、信長はこれを快諾し、それについてのくわしいさしずを堀に持たせ、秀吉の使いと同道させて、高松につかわした。その時、信長から、
「その方は軍目付《いくさめつけ》として、筑前が陣中にとどまり、余《よ》が行くを待っているよう」
と言われたので、そのままに高松にとどまっているうちに、本能寺の変報に接したのであった。
年こそやっと三十だが、これから四、五年後になると、名人久太郎といわれるほどの戦さ上手になる人物だ。平素は至ってものしずかで、この人の激した気色は見た人がないと言われている。
秀吉は秀政を一兵衛に引合わせてから、一緒に城に入った。その間に、一兵衛は風呂の支度の出来ていることと、秀吉の母のことばとを、秀吉に伝えた。
「よしよし」
秀吉は、堀を客間に案内し、くつろぐように言ってから、
「途中から使いを出して申しつけておいた風呂の支度が出来ているとのことでござれば、貴殿に先きにお入り下さるよう申すべきが礼儀でござるが、拙者おふくろが早々に対面したいと、申しつかわしています故、失礼ながら拙者が先きに入ります。貴殿はそのあとで秀勝と一緒に、ゆるゆるとお入り下され」
と、あいさつして、風呂場に向った。
この時代、単に「風呂」といえばむし風呂である。今日普通になっている風呂は、とくに「水風呂《すいふろ》」といった。すえ風呂のなまりだという。むし風呂の方が、この時代には普通だったのである。
この時代のむし風呂場の構造をのこしているものが、今でも片田舎にはあるだろうと思うが、ぼくの中学生の頃まで、鹿児島県下にはあった。鹿児島市や加治木《かじき》町の銭湯のあるものは、水風呂とむし風呂の両方を持っていた。むし風呂場は、洗い場の一隅に切石をたたんで出来ていた。高さ一メートルほどの切石をたたんだ台があり、中ほどに階段が一つついて、上ることが出来るようになっている。上れば上は板じきになっていて、板と板との間から湯気が立ちのぼって来る。その台を大きな帽子のように天井から石をたたんだ四角なワクが箱のように垂れ下って来て蔽《おお》うている。石の帽子の底辺から床までの間は六、七十センチもあったろうか。その間をざくろ口というのだが、入浴者はこれをくぐって台に上るのである。
台に上れば、濃《こ》い湯気がこもっているし、まるで外光がささないので、真っ暗である。湯気は熱い。忽《たちま》ちにして全身の毛穴がひらき、ぽろぽろと汗が出て来る。入浴者はあらかじめつめたい水をくみこんで来た手桶《ておけ》と笹《ささ》の小枝をたずさえて来ている。いき苦しくなると、小枝を水にひたし、鼻先きで小さくふれば、いくらか楽になる。こうしてこらえこらえ、十分にむし上げ、毛穴を全開させ、小枝を水にひたしひたし、ぴしゃぴしゃとからだ中をたたいて、垢《あか》をたたき出した上で、手拭《てぬぐい》なり、竹べらなりで垢をかき取るのである。もちろん、人にかき取らせてもよい。それが女性であってもかまわない。江戸時代初期に江戸にあった丹前風呂《たんぜんぶろ》というのは、この垢かき女が遊女化した風呂屋である。
秀吉は垢かきのために小姓《こしよう》らを連れて入り、十分にあたたまり、十分に垢をかかせたが、その間にこれからの予定がすっかり立った。その予定は、一か八か、一切の運命を弔合戦《とむらいがつせん》に賭《か》けてしまったすさまじい決意の上に立てられたものであった。
「それでよし。もうよいぞ。さっぱりとなった」
小姓らをいたわり、ざくろ口を出て、洗い場で洗い台に腰をかけ、湯を全身にかけてもらい、拭《ふ》きとらせたが、そのままの姿で、
「小姓ら、わいら、皆おれが前に来い」
と言った。
少年らは、皆はだかのまま床板の上にかしこまって、ひざをそろえた。
秀吉は、中の数人を指さし、
「われと、われと、われとに申しつける」
と指名して、
「われらは、これから手わけして、老臣《としより》共と物頭《ものがしら》どもの宅に行き、こう触れい。出陣は明後日の九日とする。されば、天守で一番貝の鳴るを聞かば、飯を炊《た》かせよ。二番貝の鳴るを聞かば、人夫以下をくり出せ。三番貝立ったらば、大手門外の印南野《いなみの》で人数立てしておれに見せよと、こうだ。わかったか」
復唱させた後、出してやる。
他の小姓らに、金奉行《かねぶぎよう》、各蔵《くら》の奉行らと蜂須賀彦右衛門《はちすかひこえもん》とを急ぎ呼べと命じた。
第一番に金奉行が来た。洗い場に入らせた。
「天守に金銀がいかほどたしなみあるか」
「さようでございますな。――金子《きんす》は千枚はございますまい。八百枚を少し越したほどのものでございます」
「その金銀、少しものこさず、蜂須賀彦右衛門にわたせ。一分一厘のこさずじゃぞ」
「かしこまりました」
その間に各蔵奉行らが来た。同じように全部前に召した。
「その方どものあずかっている蔵に、米がいかほどあるか」
と、一人一人に答えさせ、一人に計算をさせた。全部で八万五千余石あった。
「よし。その米を、その方共受持の扶持《ふち》をつかわしている者共に、今日から大晦日までの日数を勘定し、五層倍ずつの扶持を算用して、わけてつかわせ。この度の弔合戦《とむらいがつせん》に、わしは運つたなくして負けても、逃げかえって籠城《ろうじよう》する量見はふつとない。されば、兵糧米《ひようろうまい》としてたしなみおくことはいらぬ。足軽共や弓・鉄砲の者共の妻子どもは、わずかな扶持を頼りにして、いつも足らぬがちの日を送っている者共なれば、せめて今年はゆるゆると煎《せん》じ茶なりと飲ませて暮らさせてやろうと思うのじゃ。急ぎさようとりはからえい」
そこへ蜂須賀彦右衛門が、大急ぎで出て来た。彦右衛門はこの時五十七だ。この頃としては老人と言ってよいが、まだなかなか健康そうであった。
「彦右衛門、そなたにわしがたしなみおいた金銀、のこらずわたす。銀子《ぎんす》七百五十貫、金子《きんす》八百余枚あるげな。金奉行より受取るよう。受取ったらば、その金銀は番頭《ばんがしら》、弓あずかりの物頭《ものがしら》、鉄砲あずかりの物頭らに、知行《ちぎよう》に応じてくれてつかわせ。一分一厘ものこすな」
秀吉の覚悟のほどがわかって、彦右衛門は「はっ」と答えたきり、ものも言い得ず、引きさがった。
秀吉はさらに、こんど高松陣に連れて行った金奉行を召し出して、たずねた。
「こんどの出陣に持ってまいった金銀のうち、使いのこしたは何ほどあるか」
「銀子は十貫目ほどしかのこっておりませぬが、金子は四百六十枚のこっております」
「それはあさっての出陣に持って行け。一日できまる戦さである故、いらぬようなものじゃが、よそから来た使者、こちらから出す飛脚などにつかわす用もあろう。そうじゃ、手がらある者の褒美《ほうび》にもいろうでな」
さしずをおわると、
「これでざっと済んだ。われながら、速いことじゃ」
からからと笑って、湯殿を出て、奥殿に入って、母と妻とに会った。
母は熱い粥《かゆ》を用意して待っていた。
それをふうふう吹きながら食べおわって、しばらく閑談してから、表にかえった。
堀がもう風呂から出ていたので、酒肴《しゆこう》をとり寄せて、饗応《きようおう》した。黒田官兵衛も同席し、咄衆《はなししゆう》の幽古という者も末座にひかえた。咄衆はお伽衆《とぎしゆう》ともいう。主人の談話相手だ。機知に富んだ風流人、たとえば後年秀吉に仕えた曾呂利新左衛門《そろりしんざえもん》のような人物もいれば、昔は武功抜群といわれた人もいた。大名らは異色の人をいろいろと集めて、無聊《ぶりよう》な際の慰めにしたり、相談相手にしたりしたのである。太平の時代になって、大名らに読書力がついて来ると、読書がこれに取ってかわるのだから、この時代の大名にとっては、これは読書がわりの楽しみであり、効用もまたほぼ読書に匹敵《ひつてき》するものがあったと見てよい。ここに出て来る幽古は、当時天下第一といわれたほどの歌人であったと、『川角太閤記』にある。幽古は多分由己の誤写《ごしや》だろう。由己は「ユウコ」と読むのだというから。由己ならば大村由己のことで、咄衆として秀吉につかえ、『播州征伐記』『惟任《これとう》退治記』『柴田退治記』等々、秀吉の功業を語る著述が多数ある。ともあれ、由己ということにしておく。
酒数献して、秀吉は堀に言った。
「われらはこんどの弔合戦《とむらいがつせん》には、たとえ打ち負けても、逃げかえって籠城《ろうじよう》などはせぬ決心をいたした故、先刻、金奉行《かねぶぎよう》や蔵《くら》奉行どもを召して、家中の者共に総散財してつかわすよう、かたく申しつけました。貴殿もよく承知のごとく、拙者はばくちのような戦さはせぬ男でござるが、こんどは大ばくちを打ってお目にかけましょう」
堀は微笑して受けた。
「唯今《ただいま》の世間の様子、ばくち打つべき時節となったげに見え申す。また風も順風と見え申す。帆を上げるべきでござる。貴殿ほどのご身代あらば、かような時には大ばくち打つべき心がけあるべきでござる」
すると、末座から由己が言う。
「唯今の堀様のおことばのごとく、今の世間の様子をものにたとえて申しますなら、名花の名ある桜の唯今《ただいま》花盛りであるようなもの、かような時、花見遊ばすはごもっとものことと存じます」
官兵衛も言った。
「筑前守様のご様子を拝しますれば、上様《うえさま》のご最期《さいご》を悼《いた》み遊ばされ、ご愁嘆《しゆうたん》の様《さま》に見えます。それも道理ではありますが、拙者の考えではあながちにご愁嘆なさるべき時ではなく、めでたき時節到来とも存じます。この時、ばくち打とうと仰せ出されましたこと、まことにうれしく存じます。由己は今の時節を吉野の花の盛りにたとえましたが、桜は時節到来せねば咲きませぬ、なんぼう見たいと思うたとて、寒《かん》のうちには咲き申さぬ。時節到来して、春の雨、春の風の陽気を受けて自然に咲き出すまで待たねばなりません。唯今は、その自然にめぐりまいった時節でござる。天下分け目のご合戦を遊ばすこと、めでたきかぎり、お花見はじめ、われら楽しいかぎりであります」
この前は二人きりであったから、最も露骨なことばで、最も簡潔に言ったが、今日は人がいるので、大いにつくろって言っている。よく気のまわる男じゃと、秀吉は思った。
(あるいは、この前は言いすぎた、あれではおのが心の底も疑われると思い、今日は言いなおしのつもりかも知れん)
とも思った。
いずれにしてもよく気のまわることじゃと、覚えず微笑が浮かんだ。
その微笑を、人々はどう解《と》ったのであろう、どっと席がにぎやかになった。
三
出陣は九日の早暁《そうぎよう》だが、一番貝の鳴ったのは、八日の夜十時頃であった。二番貝は夜半の十二時に鳴った。三番貝は自ら大手の門前のらんかん橋まで出て、その真中に立ち、自ら吹き立てた。午前二時頃であった。
まだ真っ暗な夜空に、思うがままに壮烈《そうれつ》な貝の音を鳴りひびかせた後、秀吉は武者ぞろいすべき街道沿いの印南野《いなみの》に出て、床几《しようぎ》をすえ、左右に高張提灯《たかはりぢようちん》を立てた。まだ兵らは一人も来ていない。秀吉とその近習《きんじゆ》の者だけが、粛《しゆく》とかまえたのである。これは信長のやり方で、秀吉はその骨法を忠実に伝承しているのである。
やがて次ぎ次ぎに着到し、夜も明けて来た。秀吉は蜂須賀正勝、黒田官兵衛、森勘八その他二、三人に命じて、備えを五段に立てさせた。先陣は鉄砲大将中村孫平次、次は堀尾茂助、次は秀勝、次は秀吉の本陣、堀久太郎も咄衆《はなししゆう》らもこの本陣にいる。後陣は小一郎秀長。
おりから、暁の風がそよぎはじめた。ふと見ると、西風で、旗・のぼり・さしもの等、いずれも東方になびいていた。秀吉は吉兆《きつちよう》としてよろこんだ。「しきりに京のかたへ吹きなびき申し候を、ごらんなされ、おん心地よげに見えさせ給ふこと」と『川角太閤記』にある。
出発直前、秀吉は、留守役としてとどめおく三好吉房、小出甚左衛門吉政の二人をそばに呼び、小声でささやいた。
「もし、こんどの合戦負けになったならば、おれはその場を去らず討死する故、その知らせがとどいたら、そなたらは、おふくろ様とご前(ねね)とを、しっしっと片づけ(『川角太閤記』原文のママ)、城に火をかけ、一棟ものこらぬよう焼きはらえよ。よいか、申しふくめたぞ」
「はっ、はっ、はっ」
二人は声をつまらせて、答えた。
秀吉軍は十一日の朝の八時頃、摂津《せつつ》の尼ガ崎についたが、ここまで来るまでに、背後から毛利家の使者が急追して来て、信長の不幸の悔みを言い、誓約違変の意は少しもないばかりでなく、ご希望ならば弔合戦にたいして人数をご用立てしてもよいとまで言った。秀吉は心から、礼を言い、厚意だけを受けて、使者をかえした。
前方からは、摂津地方の大名らの使いがしきりに来た。中にも茨木《いばらき》の中川瀬兵衛、高槻《たかつき》の高山|右近《うこん》、塩川党は、この以前姫路にも使者をよこして、明智の勢いの増大しない前に弔合戦《とむらいがつせん》をなさるべきである、その節は自分ら摂津の者共が先鋒《せんぽう》をうけたまわるであろうと申しこしていたのだが、その中川は八つになる娘を、高山は同じくらいの年頃の息子を人質として送ってよこした。塩川党も、人質はよこさなかったが、また使いをよこした。
秀吉は、使者らに会って、その主人らの志を感謝して、鄭重《ていちよう》にあいさつし、
「各々の助力によって、めでたく弔合戦を遂げたい。しかし、証人はいらぬことだ」
と言って、人質の少年少女に手厚くものをくれて、連れかえらせた。
さて尼ガ崎に到着すると、秀吉はこのへんに禅寺はないかとさがさせ、寺というより庵《あん》といった方が適当なくらい小さな寺を一つ見つけ出させて、秀勝や堀などと一緒にそこへ行き、縁に腰をかけてしばらく休憩していたが、やがて、久太郎殿も聞いて下されと、堀に言ってから、秀勝にむかって、
「わしは、上様ご最期のことを高松で聞いてからずっと精進《しようじん》をつづけて来たが、はや敵合間近になったれば、やがて合戦すべきじゃ。年寄のこと故、精進つづきで、腹に力がなくなったような気がする。されば今精進おとしする。上様へのご供養には、槍《やり》をとり、太刀《たち》をふるってする。さりながら、秀勝や久太郎殿は、まだ若いことなれば、精進をつづけられよ」
と言って、
「家来共、台所|方《かた》の者へ、魚鳥の料理こしらえさせるよう申しつけい」
と、さけび、また住職を呼び出し、行水《ぎようずい》をして、自分の髪をおろさせた。
これを見て、堀も秀勝もならおうとしたが、秀吉は、
「若い者が無用のことじゃ。茶筅髪《ちやせんがみ》の毛先きを少し切るだけでよろしかろ」
と言って、そうさせた。
秀吉は、三人の髪を紙につつんで、仏前におさめた後、住職に、
「わしはこれから亡き右大臣織田信長公のために弔合戦するのじゃが、合戦が利運となり、見事明智を討取ることが出来たらば、この寺に五十石の領地永代に寄進する。これは取りあえずの寄進までに進ぜる」
と言って、金子《きんす》三枚を進ぜた。
このあと食事になった。秀吉は盃《さかずき》を秀勝にさして言った。
「明智はわしがためには主君のかたきであるだけだが、そなたのためには主君のかたきであり、親のかたきである。されば、そなたはわしより先きに討死せよ。わしはそれを見とどけた上で、討死するぞ」
十五の少年秀勝は、さっと顔を紅潮させ、悲壮な感慨に涙ぐんだ。
秀吉は、中川、高山等の摂津ざむらいをはじめとして、少し前摂津に来て四国征伐の出発直前に異変にあって滞在をつづけている信長の三男信孝、その輔佐役丹羽長秀らにも通告して、着々として戦闘準備を進めた。
この秀吉のてきぱきとして淀《よど》みのない行動にたいして、明智の動きはおそろしく鈍かった。明智は渾身《こんしん》の知恵をふりしぼって、出来るだけのことはした。
信長と信忠をたおしたその日、彼は安土城を受取るために江州《ごうしゆう》に向った。すると途中の瀬田の城主山岡景隆《やまおかかげたか》兄弟は、光秀の使者を斬《き》りすて、居城を焼き、瀬田の唐橋《からはし》を破壊して甲賀山中に逃げこんだ。
これがつまずきのはじまりであった。橋の修理が出来る五日まで、自分の本城である坂本城で待たなければならなかった。
この間に、安土城では留守役の蒲生賢秀《がもうかたひで》は息子の氏郷《うじさと》に連絡して、信長夫人その他の人々を守護して、自らの居城日野に逃れ去った。
賢秀は固いこと無類の人物で、信長夫人が、
「金銀財宝など、敵に乱捕《らんどり》にされることまことに無念、そなたに進ぜる故、持ち去るように」
と言ったのにたいして、
「敵に乱捕されることは無念ながら、この期《ご》に私《わたくし》を営んだと批判されては口惜しゅうござる。いただくまじ。乱捕せばせよ。冥加《みようが》忽《たちま》ちに尽《つ》き、自滅を招かんこと必定《ひつじよう》でござる」
と答えて、一物も持ち去らなかったので、信長が集めた金銀、刀剣、茶器の財宝はそのままにのこっていた。
光秀はそれを取りおさめ、部下の将士らにある者には七千両、ある者には四千両、三千両、三百両、二百両と分ちあたえた。勇気をはげますためであったことは言うまでもない。また、京都の五山にも信長の供養をしてくれるようにと、七千両ずつを寄進した。京都市中の地税の免除を布告した。参内《さんだい》して献金し、将軍|宣下《せんげ》を奏請《そうせい》した。
ここのところ、歴史があいまいになっているが、朝廷は光秀を征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任命したようである。不見識なことではあるが、全然武力を持たない朝廷としては、いたし方のないことであったろう。
光秀は秀吉の江州における領地の中心である長浜城と丹羽長秀の本城である佐和山城とを収め、浅井郡山本山城の阿閉《あべ》貞秀、犬山郡山崎城の山崎堅家らを降伏させた。京極高次もこの機会に旧領をかえしてもらう約束で降伏した。
ここまでのところは、曲りなりにも見こみ通りにことを運ぶことが出来たが、ここから機械の油が切れたように、ガクンと進行がとまった。
細川藤孝(幽斎)は、足利義昭の流浪時代以来の親しい友垣《ともがき》で、この頃では光秀の寄騎《よりき》大名となっており、その子|忠興《ただおき》は光秀の女《むすめ》お玉の聟《むこ》となっているという重々の親しいなかであったので、光秀は最も頼みにして、細川氏の当時の領国丹後に使者をつかわし、
「荒木|村重《むらしげ》の没落後、無主の国となっている摂津を進上いたす。お味方していただきたし」
と申しおくったところ、父子ははかばかしい返答はせず、使者を送りかえした。たしかに味方するということばはないが、望みをつないでいると、間もなく父子ともに信長のために髪を切って弔意《ちようい》を表したばかりか、忠興の妻をその生んだ子とともに、与謝《よさ》半島の山奥|三戸野《みとの》というにおしこめたということが聞こえて来た。こうなれば、味方してくれる心はないと判断するよりほかはなかった。
大和の郡山《こおりやま》の城主|筒井順慶《つついじゆんけい》も、かねてから親しいなかで、次男十次郎を養子につかわす約束をしているほどであったので、これまた大いに頼みとして、重賞を約束して誘うと、承諾して、旧臣の井戸政弘という者に若干の兵を授けて上京させ、
「やがてわれらも参上いたすでござろう」
と、返答したので、大いによろこんでいると、それっきりで、あとが煮え切らない。あせって紀伊と和泉を進ぜよう、証人として十次郎をつかわそうと申しおくってみたが、生返事をくりかえすばかりか、いつか井戸政弘さえ京都から消えてしまった。
有力な大名中ただ一人応じたのは尼ガ崎城主の織田信澄だけであった。信澄は光秀の娘聟であり、その父信行は信長の実弟だが、信長に殺されたといううらみがある。だから、心から光秀に味方を誓ったのだが、六月五日に、織田信孝と丹羽長秀とに大坂城に招かれ、そこで討取られてしまった。
八方ふさがりの感が、ひしひしと光秀にせまって来た。こうなると、本来が謹直な性質だけに、
(ご主君を弑《しい》したてまつった天罰ではないか。この運命とうていひらけようはないぞ……)
という思いがせずにはいられない。ふだんなら働くべき機略も機転も、錆《さ》びついたようにきかないのである。
四
合戦は十三日の午後からはじまったが、両軍の対陣は、十二日の夜半にすでに構成された。
日本戦史によって、両軍の兵数を書き出してみる。
秀吉軍
第一隊 高山右近 二千人
第二隊 中川清秀 二千五百人
第三隊 池田信輝 四千人
予備隊 羽柴秀吉 一万人
十三日の午後になって、次の三隊が加わった。
蜂屋頼隆 一千人
丹羽長秀 三千人
織田信孝 四千人
以上前後総計 二万六千五百人
明智軍
第一隊 斎藤|利三《としみつ》 二千人
第二隊 阿閉《あべ》貞秀
明智茂朝 三千人
予備隊 右翼 藤田行政
伊勢|貞興《さだおき》 二千人
中央 明智光秀 五千人
左翼 津田信春
村上清国 二千人
山之手支隊 竝河易家《なびかやすいえ》
松田政近 二千人
合計 一万六千人
合戦は京都盆地から摂津・河内への出口で行われた。くわしく言えば、京都盆地はここに北方丹波からうねって来て斗出《としゆつ》している天王山《てんのうざん》と、南方大和からはじまって山城《やましろ》と河内《かわち》の国境をうねり走って来る山なみが男山で尽き、その間に一道の淀川《よどがわ》をはさんでせばまり、摂津・河内との境をなしている。戦闘は、この天王山を西のかぎりとする、淀川の右岸地帯、方二キロ半足らずのごく狭い範囲で行われた。この地域はずっと昔、ぼくの京都在住中、いつも釣魚《ちようぎよ》に行っていたところだから、ぼくは隅々に至るまでよく知っているが、山は天王山があるだけで、あとは池や沼やクリークの多い平坦《へいたん》な湿地帯が、ところどころに竹藪《たけやぶ》のある村落を散らばせながらひろがっている地勢である。
秀吉方は、第一軍の高山隊と第二軍の中川隊とは、東北から来て天王山の麓《ふもと》をめぐって西に去る西国街道に沿った山崎の町にたて長に布陣し、池田信輝隊はその右方の淀川の堤上に、これまたたて長に布陣し、天王山の南の中腹に羽柴小一郎がかまえ、秀吉の本隊はずっと後陣にあった。が、秀吉自身はさらに後方の高槻《たかつき》と茨木《いばらき》の中間の富田《とんだ》にいた。織田信孝の来着を待っていたのだ。信孝をいただいて戦うつもりであった。
この秀吉方の布陣にたいして、光秀方は天王山の東北方一キロ半の地点に、円明寺《えんみようじ》川という細い川を前にして、斎藤利三の第一隊、阿閉《あべ》貞秀・明智茂朝の第二隊が縄手《なわて》道沿いに順を追うて縦長に布陣し、その北方七、八百メートルのお坊塚に光秀の本陣があり、その左右五百メートルくらいをへだてて、右翼隊二千人、左翼隊二千人が布陣し、天王山の北方の山麓《さんろく》に山之手支隊二千人がかまえていた。
この年の六月十三日は、今の暦では七月十二日にあたる。暑いさかりだ。両軍汗だくになってにらみ合ったまま夜を明かし、正午となった。いずれからも仕かけないのである。
正午になる頃、信孝が丹羽長秀を帯同して、船で淀川をさかのぼって来て、到着した。直ちに騎乗させて西国街道を北進し、午後四時頃、山崎に着いて、諸隊に進撃の命を下した。その際、秀吉は、本隊所属の加藤光泰隊を池田隊に加わらせ、堀久太郎隊を中川瀬兵衛と高山右近の中央隊に加わらせておいて、のこりの本隊全部をひきいて、信孝と丹羽の隊に合して進んだ。
戦闘は彼我の中央隊の衝突からはじまった。明智勢の抵抗は猛烈をきわめ、善戦したが、淀川べりを進んで来た池田隊が横撃したので、こらえず退却した。
これに少しおくれて、天王山の南中腹にかまえた羽柴秀長隊と、明智方の山之手支隊との間に、天王山の争奪戦が行われた。日本戦史によると、ずいぶん激戦が行われた後、秀長隊が占領確保したとあるが、『川角太閤記』では、前夜、秀吉が鉄砲大将の中村孫平次に急使を馳《は》せ、呼び寄せ、「明日の合戦は天王山《てんのうざん》を取るか取らぬかで勝負が決する。されば明朝のほのぼの明けに、あの山を取って確保せよ」
と命じたところ、中村は、
「明朝とれとはずいぶんゆるりとした仰せでござる。あの山は、拙者当地へ到着するとすぐ取っています。敵に油断させるため、旗やさしものはわざと明らかには立てず、しぼって、八合目に立てておいてござる。方々のしげみに人をかくし、鉄砲の距離をはかって目じるししておきましたれば、少しもご心配にはおよばぬことでござる。明日、天王山の方で戦さがはじまりましても、ご案じなく、田圃《たんぼ》の方からお馬をお出し遊ばしますよう。ほかにご用なくば、拙者はまかりかえります」
と言って、さっさとわが陣へ帰ったが、果して翌日の戦いには、おし寄せて来た敵の鉄砲大将を自身撃ちとり、撃退したとある。案外これが本当かも知れない。中村孫平次とは後の式部大輔《しきぶだゆう》一氏のこと、駿府《すんぷ》十四万石の大名となり、秀吉の晩年には中老の一人に任ぜられ、五大老と五奉行の間にあって、天下の政務に参画した一人である。これくらいの機略はあったろう。
このように両面とも明智方はおされ気味ではあったが、なおよくこらえてくずれ立たなかったが、何といっても秀吉の方が一万人以上も多い。明智方は力を出し切っているのに、秀吉方はなお次ぎ次ぎに兵力を投入して圧迫したので、ついに総くずれとなった。
光秀もお坊塚《ぼうづか》の本陣から、本隊直属の兵を次ぎ次ぎに投入しつつあったが、どうしても劣勢をめぐらすことが出来ないのを見て、のこる兵全部に喊声《かんせい》を上げさせ、みずからこれをひきいて進んだが、途中まで行った時、右翼隊の将|御牧兼顕《みまきかねあき》のつかわした使者に行き逢《あ》った。
使者は、全軍総くずれとなったれば、もうどうすることも出来ない、一先ずその場をおひらきあって、後の計をめぐらし給うよう、と言うのであった。
従士らもまた諫《いさ》めた。
そこで、一先ずお坊塚の北北東方五百メートルの地点にある勝竜寺《しようりようじ》城に入った。従うものわずかに七百余人であった。時刻はそろそろ暗くなる頃であった。その後、ぼつぼつと勝竜寺城に逃げこんで来る兵があったが、夜半になっても、全部でやっと千人を少し越すほどしかなかった。
敗軍の兵ほど弱いものはない。かねては勇士よ、猛卒よ、つわものよといわれている人々も、心|臆《おく》し、勇気たわんで、弱兵になり下る。明智方の兵のほとんど全部が、明智の本国である近江や丹波を志して逃げる途中、久我縄手《こがなわて》や老ノ坂付近で討取られてしまったのである。
さて、光秀の逃げこんだ勝竜寺城だが、これは平地に築かれた純然たる平城《ひらじろ》だ。戦国のはじめ築かれて、いくたの姓のちがった城主のものになったが、この少し以前までは細川|幽斎《ゆうさい》のものであった。この付近は上古の長岡京のあったところで、幽斎の先祖はこの地にゆかりがあったが、後戦功があったので、信長が長岡を領地としてくれた。幽斎はこの城を居城としたのであった。幽斎のことを一に長岡幽斎と呼び、肥後《ひご》細川家の一門で重臣になった家の名字に長岡というのがあるのは、このためである。
それはさておき、勝竜寺城だが、前述の通り三十余年前、ぼくが京都に在住している頃には、この城の遺跡ははっきりとのこっていた。深い竹藪《たけやぶ》に蔽《おお》われた、かなりに広い、見るからに陰気な一区域が、蓮《はす》と菱《ひし》の一ぱい生えた堀をめぐらして、田圃《たんぼ》の中にあった。現実に城のあった頃は、もちろん相当な要害の地であったろうが、この地勢ではどう工夫しても、それほど要害堅固とは行くまいと思われた。ぼくは、夜半になり、秀吉軍がこれを包囲し、城兵の逃亡者が次ぎ次ぎに出るのを見て、光秀が心細くなって、城をぬけ出して江州《ごうしゆう》をさして落ちようとした心理を思いやり、そうなるのも無理からぬことだと、当時思ったことであった。
ともあれ、光秀はその夜、ほんの数騎の従者とともに城を脱出し、桂川《かつらがわ》をわたり、伏見《ふしみ》の北から大亀谷を通り、山科野《やましなの》へ出ようとして、その出口の小栗栖《おぐるす》村を過ぎる時、落武者狩りのために藪の中にひそんでいた農民の錆槍《さびやり》に刺されて死んだのである。しかし、それが秀吉にわかったのは、この翌々日であった。
五
明智軍は四分五裂、潰散《かいさん》したが、光秀がどうなったかはわからない。光秀が最も頼みとしていた斎藤|利三《としみつ》の行くえもわからない。光秀の女聟《むすめむこ》で、斎藤におとりなく光秀の信任している左馬介《さまのすけ》光春は安土城にいるという。
戦さは勝ったのであるが、弔合戦《とむらいがつせん》である以上、光秀とその謀臣《ぼうしん》らの首を得て、信長の霊に手向《たむ》けなければ、形がつかない。
秀吉は翌日京都に入って、信長と信忠の遺骨をもとめて殯葬《ひんそう》する一方、厳重な残党狩りにかかった。丹波と江州に兵を出したことはもちろんだ。京近くの山々村々にもくまなく探索の兵を入れた。
光秀の死は、秀吉が知らなかっただけでなく、明智光春にもわからなかった。光春には山崎での合戦に光秀が打ち敗れたことしかわからなかった。
(必定《ひつじよう》、当国を志してまいられるか、丹波に落ち行かれるかに相違あるまじいぞ。いずれにせよ、わしが京に打って出ることは、お力を添えるはず)
と、思案して、十四日、千余人の兵をひきいて安土を出発、西に向ったが、途中、大津で堀久太郎の隊とばったり遭遇して戦い、三百余人を失い、余兵は逃げ散り、わずかに八十余騎をのこすだけとなった。
ここで、所伝は二つにわかれる。『豊鑑《とよかがみ》』の所伝では、水際《みぎわ》を駆けぬけて坂本城に入ったとあり、『川角太閤記《かわすみたいこうき》』は有名な湖水渡りの話を伝えている。いずれも、この時代に生きていた人の所伝だ。歴史学者ははなやかなことがきらいで、おもしろい話はうそだとする傾向があるが、地味に地味にと解《と》るのもどんなものか。『川角太閤記』の所伝がうそであるという積極的な証拠は何もないのである。
光春は坂本城にこもり、寄手《よせて》はひしひしと取りかこんだ。この翌日、秀吉は江州に入り、三井まで来た時、方々の土民らが明智方の落人《おちゆうど》の首を持って来た中に、光秀の首があったという知らせがあったので、その首とともに土民を召しよせるように命じて、実検《じつけん》した。
まさしく、光秀の首であった。
秀吉は無量の思いに閉ざされて、しばし凝視《ぎようし》した後、土民に問うた。
「われはどうして、この首を手に入れたのじゃ」
土民は恐れおののく様子で、きれぎれに答える。今朝、落人が近くにひそんでいるかも知れないと思うて、村の方々を見て歩いていると、藪《やぶ》くろにこの首が、この立派な鎧下《よろいした》のきれにつつんで、かくしてあった、これほどのきれに包んであるからには、普通の人の首ではあるまいと思って、いろいろな人に見せたところ、見知っている人がいて、ほかならぬ惟任日向《これとうひゆうが》殿のみしるしじゃというので、急いで持って来てお届けしたわけでありますと言うのであった。
「よし、よし、よくわかった」
褒美《ほうび》の金子《きんす》を大枚にあたえて立去らせた後、秀吉はなお凝視した後、ついていた細い杖《つえ》をあげ、
「日向よ、あろうことか、逆心おこして、まさしい主君を討ち奉った報いぞ! 今ぞ思い知れい……」
とさけび、ふりおろし、丁々《ちようちよう》と打ちたたいた。これは儀式なのである。しなければならないのである。
この日、光春は坂本城に火をかけ、光秀の妻子をさし殺し、炎の中に自殺したが、その以前、光秀が安土城から持って来た重宝類を、
「天下の宝器は天下のものでござる。われらと共に灰にすべきではござらぬ」
と言って、寄手にわたしたので、当時も、また後世でも、美談としている。
安土には、光春の退去後、織田|信雄《のぶかつ》が来て、明智の残党が町に潜伏しているのを追い出すためと称して、町に放火したが、その火がひろがって城におよび、さしもの壮麗《そうれい》な名城が灰燼《かいじん》になってしまった。織田信雄という男が、どんなつまらない人物であったか、この一事でもわかる。敵がいなくなってからのこのこ出て来て、残党狩りだなどと言って、阿呆《あほう》なことをし、亡父が精魂こめて築いた城を焚《や》いてしまったのだ。これほどの阿呆も、ちょいとめずらしい。
数日の間に、明智の残党は根だやしになり、江州も、丹波も、すっかり平らいだ。斎藤利三も捕えられた。利三は戦場を離脱して、堅田《かただ》に来て、地ざむらい猪飼伊左衛門《いがいいざえもん》という者を頼んで、東国へ向おうとしているところを、猪飼が変心してからめ取って差出したのだ。秀吉は光秀の遺骸《いがい》をさがし出し、首とついで、京の粟田口《あわたぐち》ではりつけにかけたが、利三もそれにならべてはりつけにかけた。
山崎合戦は、まさしく天下分目の合戦だ。歴史的意義はまことに大きいが、戦いそのものは、大したことはない。午後四時から、日の暮れるまでに片づいたのだ。激戦といっても知れている。それは、兵数に大へんな違いがあったからだ。寡《か》をもって衆《しゆう》を破るということばはあるが、古来の戦史はそんな例はごくごく稀《まれ》で、兵数の多い方が勝つのが普通であることを語っている。大戦争になればなるほどそうなのである。秀吉はこの理をよく知っている人であった。彼は勝つべき兵数、勝つべき形勢をこしらえないかぎり、戦わなかった人である。
秀吉と勝家
一
本能寺の変があってから、山崎合戦があって明智が首を上げられるまでの足かけ十三日の間、信長と親しい関係にあった他の将星――たとえば徳川家康、たとえば柴田勝家、たとえば滝川|一益《かずます》、たとえば森|長可《ながよし》、たとえば河尻秀隆《かわじりひでたか》などはどうしていたか。一応、簡単にそれを語っておかなければ、話が進められない。
徳川家康が、もし変のおこった当時、本国にいたら、あるいは信長の弔合戦《とむらいがつせん》は家康の手によって為《な》されたかも知れない。家康は信長の家臣ではない。むしろ弟分とも言うべき立場である。その上、兵力は信長の家来筋の諸将の誰よりも多く持っている。問題は秀吉のように迅速な機動が出来たかどうかだが、家康の機動は鈍重ではなく慎重なのだ。今川|氏真《うじざね》や、朝倉|義景《よしかげ》のように居すくんで好機を逸《いつ》したり、人の餌食《えじき》になったりはしない。本能寺の変報が秀吉におくれることまる一日後の四日の夜に家康に到着したとしても、秀吉が姫路を出発した九日までには五日ある。五日の間には尾張を越えて美濃《みの》に出、織田|信雄《のぶかつ》と合流して安土まで進出することが出来たろう。そうなれば山崎合戦など行われはしない。徳川・明智の決戦が勢田川をはさんで行われたろうし、勝利者は家康であったにちがいない。家康自身もなかなかの軍《いく》さ上手だが、何よりも三河武士が最も素質優秀な兵士だからだ。数十年の間を織田・今川の両強国の間にはさまれ、あらゆる困苦欠乏に痛めつけられた三河武士は、最も精強な兵士に錬成《れんせい》されていた。彼らはもし同数ならば、武田信玄在世当時の甲州兵にも、上杉謙信の指揮する越後兵にも、優にあたることが出来たろう。この時代のこの両国の兵と強さを同じくしているということは、日本で最精鋭の兵士であるということだ。今や武田氏はほろび、上杉氏に謙信はいない。三河兵は日本一の強い兵であった。明智がいかにすぐれた戦術家であっても、ひきいている兵は美濃や、江州《ごうしゆう》や、大和や、丹波《たんば》や、日本の文化地帯で日あたりよく育った鍛《きた》えの足りない者が大部分だ、とうてい、勝負になるものではないのである。
家康が弔合戦を遂げれば、秀吉を待たずして、天下は家康のものになったろうか。それとも秀吉、柴田、丹羽、滝川、森等の織田氏の旧臣らが、信雄なり、信孝なり、信長の遺子らを奉じて結束して家康に対抗し、家康をたおし、そのあとで勢力争いをして、最後の勝利者がきまるという段取りになったろうか。あれこれと思いを馳《は》せて行けば、興趣かぎりないものがあるが、いいかげんにしておこう。
家康は本能寺の変のおこった時、堺の町で目をさました頃であった。あるいは女好きの家康だから、宿もとでよんでくれた女と寝ていたかも知れない。あるいはまた近所の鉄砲鍛冶場《てつぽうかじば》で早くもトンテンカン、トンテンカンとやり出した鎚音《つちおと》を寝床で聞いていたかも知れない。いずれであったにしても、家康はこの日堺を立って、その日のうちに京に入るつもりであったから、ゆっくりはしていなかったはずである。
家康は先月十一日に国もとを立って、上洛《じようらく》の途についた。これは四月半ば武田征伐から凱旋《がいせん》する時信長とした約束をふむためであった。
「武田のかたがついた以上、お互い今は東は安心となった。ついては、とりあえずのあと始末がすんだら、上方見物にござれ。こんどはえらいご馳走《ちそう》になったれば、そのお返しがしたい」
と信長が言うので、ありがたく受けることにしたのであった。
信長は、武田の一族としてただ一人助命され、本領を安堵《あんど》されて、家康の寄騎《よりき》大名とされた穴山梅雪《あなやまばいせつ》入道も連れてまいられるようにと言った。そこで、穴山と同道して浜松を出発、十五日に安土に到着、五日にわたって信長の鄭重《ていちよう》な饗応《きようおう》を受け、二十一日に京へ上って二、三日見物して堺に下り、数日の見物をおわって、今日また京にかえるのである。
京では、信長に会って礼をのべ、京の見のこしたところや、奈良に足をのばしてその地の名所などを見物かたがた、数日滞京し、その間に信長が毛利征伐に向うのを見送り、それから本国に帰る予定であった。
その日のうちに京につくつもりだから、堺を立ったのはまだ未明であったはずである。その少し前に、本多《ほんだ》平八郎忠勝を先発させた。帰京することを信長に知らせるためである。
忠勝は、馬を速めて河内街道に出、真直ぐに北上して、淀川べりの枚方《ひらかた》に出たが、その時、前方から荷鞍《にぐら》をおいた駄馬《だば》に乗り、口とりの馬子《まご》に馬を追わせ追わせ、急ぎに急ぐていで来る者がいる。
「はて?」
その男が見覚えのある人物のようなので、忠勝は馬上ひとみを凝《こ》らした。それはたしかに京の町人|茶屋《ちやや》四郎次郎|清延《きよのぶ》であった。茶屋は本姓を小笠原《おがさわら》といって、元来徳川家|譜代《ふだい》の武士で、剛勇をもって称せられた男であったが、家康の密命を受けて京に上って町人となり、家康のために情報がかりをしているのだ。だから、家康もこんどの京上りには茶屋の家を旅館にし、堺見物にも連れて来たのだが、これも、一昨日、二日帰京のつもりにしていることを信長に届けるために先発させたのである。
(はて? 何があったのであろう。よほどのことが起ったのだぞ!)
勘の鋭い忠勝は、手を振って合図をしながら、馬をはやめた。茶屋もこちらがわかったらしく、一層《いつそう》馬を速めさせて来る。近づくや、茶屋は言う。
「大へんなことが出来《しゆつたい》しました。今朝の未明に、明智|日向《ひゆうが》が逆心をおこし、信長公のご旅館本能寺におしよせ、火をはなって焼き立て、炎とともに攻め入り、信長公はお腹を召《め》し、炎の中に果てられました。信忠様のご旅館も攻め立てられ、これまたご生害《しようがい》といううわさ。うわさではござるが、ほぼ確かなうわさです。このことをお告げ申そうために、京を走り出て来たのであります」
よほどのことがあったのであろうとは思ったものの、これはまた思いもかけない大変事《だいへんじ》だ。最も剛胆《ごうたん》な男だが、忠勝もぼうぜんとした。
ともあれ、急ぎ引き返して、一刻も早く殿様にお知らせ申さねばならないと、馬首をかえし、茶屋とともに楠木正行《くすのきまさつら》の古戦場|四条畷《しじようなわて》に近い飯盛《いいもり》山の麓《ふもと》まで来ると、家康の一行に逢《あ》った。
家康は遠く見て、すぐ容易ならんことがおこったのを悟ったのであろう、人々を遠ざけ、酒井|忠次《ただつぐ》、石川|数正《かずまさ》、井伊《いい》直政、榊原《さかきばら》康政、大久保|忠隣《ただちか》等の重臣や最も信頼している者だけを引き連れて、二人の来るのを待っていた。
二人はかわるがわる報告した。さすがに、家康も当惑した。人々はもとよりのことだ。もともと織田と徳川のなかは利害関係だけの結びつきである上に、こちらは世話になるより利用される場合の方が多かったのだ。とりわけ君臣ともに忘れられないうらめしさは、長男信康を信長の要求によって切腹させなければならなかったことだ。たえず強い圧迫を感じないではいられなかったのも、鬱陶《うつとう》しいことであった。そんな信長だから、その死を聞いたって、正直なところは、少しも悲しみなどおこりはしない。かえって一種の解放感さえある。
しかし、今こんなことになってしまったのは、実にこまる。信長と最も親しくて、信長に次ぐ力を持っていた自分が木から落ちた猿《さる》同然の無力な姿でこうしているのを、明智がみすみす見のがすはずはない。こうしている間も、討手《うちて》がおしよせて来るかも知れない。
それは何とかして避《さ》けることが出来たとしても、どうして帰国するかが問題だ。すでに明智の分国になっているであろう京都や江州南部に足をふみこむことは避けなければならないが、大和路、伊賀路《いがじ》、伊勢路、いずれも今はどうなっているか、わかったものではない。
大和の筒井順慶《つついじゆんけい》はかねてから明智と仲のよい人物で、縁者となるらしいといううわさも聞いているから、今ではもう明智方になっているかも知れない。
伊賀は織田|信雄《のぶかつ》の分国であり、北伊勢は織田家の諸将が分領しているところだが、嶮《けわ》しい山岳地帯である上に、がらり天下の形勢がかわった今日では、織田の血統の者の領国だからとて、織田の旧臣らの守る地域だからとて、決して安心は出来ない。どういうからくりで明智と手を結んでいるのかも知れない。
ことに伊賀は最もむごたらしい討伐を受けて織田家に征服されたのだ。以前から徳川家では伊賀士を召《め》し抱《かか》えているが、その者共や、去年伊賀が討伐をこうむった時、新しく伊賀から逃げて来てつかえた者共が、最もくやしげな顔で、その時の織田勢の残虐ぶりを物語って聞かせたものだ。生きのこって、山々谷々に呼吸をこらしてひそんでいた伊賀ざむらいらが蜂起《ほうき》して、明智と気脈《きみやく》を通じ、織田信雄を追いはらおうとしないものでもない。いや、きっとする、男ごころのあるものならば。つまり、帰国の道は全部ふさがってしまったのだ。
(しかし、何とかして国に帰らなければならない。工夫しだいでは途《みち》があるはずだ。ないはずはない!)
家康はむっつりとした顔つきで、しきりに手の指を噛《か》んで思案した。こまった時に指を噛むのは家康の少年の頃からのくせであった。やがて、長谷川藤五郎をつれて来いと命じた。以前はお竹《たけ》と呼ばれて、信長の寵童《ちようどう》だった青年だ。信長に命ぜられて案内役となってついて来たのであった。何となくただならない空気を感じたらしく、緊張した顔で連れて来られた。
家康は信長の奇禍《きか》について語った。
藤五郎は見る見る青ざめた。惑乱している様子であった。その顔を見つめながら、家康は言う。
「右府公《うふこう》のことは、いくらなげいてもなげき足りるということはないが、今はなげいている時ではない。わしは何としてでも、国に帰りたい。帰って、軍勢を引き連れてまた上り、弔合戦《とむらいがつせん》をしたい。国に帰れる工夫をしてもらいたい。帰らんことには、どうにもいたしかたがない」
藤五郎はしきりにうなずいてはいるが、返答はしない。思案にあぐねている様子であった。
そこに、後陣から穴山梅雪入道が来た。これまた何とやら尋常でない空気を感じて、尋常ならぬ顔つきで来る。家康は手短に語った。
「ヤ!」
梅雪は短いおどろきの声をあげ、大きな目をむいて、長谷川藤五郎をふりかえった。どなるように言う。
「どうしてかようなことになったのでござる。明智はとりわけ右府様のお気に召したもので、一介の旅浪人の身から、十四、五年の間に一国半を所領する大身に取立てられたと申すではござらんか!……」
藤五郎の責任と考えているのではないかと思われるばかりのけんまくだ。
家康は手を上げて制して、藤五郎に言った。
「伊賀路はどうであろ。あいているとすれば、伊賀路しかないであろ。伊賀路を行く工夫をしてもらおう」
ゆっくりした調子ながら、たたみかけた。
「工夫いたしましょう。さりながら、いつまでもここにこうしているはよろしからず、街道をまいりながら考えることにいたしましょう」
高野《こうや》街道をとり、先頭に本多《ほんだ》忠勝と藤五郎と茶屋《ちやや》とが立ち、ゆるゆると北に向った。もはや日もさかりを過ぎていた。
日の暮れる頃、交野《かたの》についた。その頃になると、京で異変があって織田右府が討取られたといううわさを百姓らまで知っていて、落武者狩りする気か、不穏なものが村に入って来て平和を乱すのを防ぐためか、錆槍《さびやり》などかつぎ出して、うろちょろする百姓らの姿も見えはじめた。
一行はまた一団となり、きびしく哨兵《しようへい》を立てておいて、見通しのきく野外で夕餉《ゆうげ》をしたためたが、その席で、長谷川藤五郎は、家康に、
「どうやら、工夫がつきました」
と言った。
「おお、どうついたぞ」
「このあたりは山城《やましろ》、河内《かわち》、大和の三国が境を接しているところで、豪族というほどの大身代の者はいませぬ。士《さむらい》といわれている者は、みな小体《こてい》な者であります。しかしそれだけに金銀がよく効きましょう。幸いなこと、茶屋がたんと金銀をたずさえて来ている由でありますれば、それをほどよくばらまき手なずけて、道案内をさせましょう。次ぎ次ぎに先きの者に連絡させれば、行ける道理であります。すでに、拙者《せつしや》の家来共をつかわして、二、三人を呼びにやりましたれば、やがて参りましょう」
と言っているうちに、藤五郎の家来が、武士とも百姓ともつかぬ風体《ふうてい》の者を二人連れて来たので、暮色がせまって心細くなっていた人々の心はぱっと明るくなった。
その者共を案内者にして、山路にわけ入って一里ほど行ったところで、穴山梅雪が自分は思うところがあるから、引きわかれたいと言い出した。
家康は、
「わしのえらんだこの道が安全であるとは、わしも言い切れぬ。しかし、このような時節には出来るだけ多人数でいた方が安全であるとは言える。物騒なすがたした百姓共を途々《みちみち》見て来たではないか。こちらが人数少なくなると、あの者共はすぐ狼《おおかみ》になって襲いかかって来るのだ。それぞれの勝手であれば、強《た》ってとめることは出来ぬが、わしは今申したように思うぞ」
と言ったが、穴山は耳をかたむけない。
「われらはわれらだけの思案にまかせとうござる」
と、言いはる。この男は武田氏の近い一族でありながらわしに説得されて、武田氏を裏切って、早く降参したので、ただ一人身がらも身上も無事であることが出来たのだが、そのために自分も人も信用出来んようになったのであろうか、どたん場になったらわしが裏切りはせんかと、疑っているらしいと、思った。このように自信がなくなったものを連れていては、統制が乱れ、とうてい難場《なんば》を乗り切ることは出来ないとも思った。
「そうか、そうまで言われるものを、引きとめは出来ぬ。心にまかせられよ」
と言って、袂《たもと》をわかった。
ずっと後になって聞いたことだが、別れた場所から峠を下って二里ほど行って、木津《きづ》川の草内《くさち》の渡しというところで、一揆勢《いつきぜい》の襲撃にあって、梅雪主従一人ものこらず討取られたという。
家康主従は今の木津町のあたりで木津川を渡って山城国|相楽《そうらく》郡の山中に入り、江州甲賀の信楽《しがらき》を経て、伊賀の丸柱《まるばしら》に出、柘植《つげ》、加太《かぶと》、関、亀山と東海道の一部を通って、白子《しらこ》の港に出た。それは六月六日の早朝であった。難儀《なんぎ》な旅ではあったが、案内に立った地士《じざむらい》らが次ぎ次ぎに連絡してリレーしてくれたので、道に迷うことはなく、一揆共に遮《さえぎ》られたのも、一度だけであったし、その一揆の大将はあとで地士共が討取り、首をもって関の近所まで追いかけて来て、見参にそなえてくれまでした。家康は平生の吝嗇心《りんしよくしん》を捨てて、大いに気前を見せた。地士中の比較的に大身なもので、目立って忠実であった者には、差しかえとして用意している来国次《らいくにつぐ》の脇差や、三池ノ典太光世の短刀や、光忠の刀等を、おしみなくあたえた。茶屋が荷鞍《にぐら》につけて携えていた金銀は言うまでもない。ばらりばらりと撒《ま》くようにして皆にくれた。もっとも、家来共をいましめて警戒を厳重にし、地ざむらい共の貪欲心《どんよくしん》が強盗心に変らないようにとの心くばりは忘れなかった。
秀吉とちがった意味で幼年の時から手ひどい苦労の中で人心の刻薄《こくはく》さを満喫して育って来た家康は、好運などは自分には縁の遠いものだと思っている。頼むべきは自力だけであるとの覚悟を忘れたことはないが、こんどだけは、
「おれにも運のよいことがあるのじゃわ」
と、思った。茶屋の金・銀はあったにしても、家来共が大いに強いところを見せたにしても、運がよくなければ、こうは行かなかったろうと思わずにいられないものがある。自信とちがったあるものが、ほのぼのと胸をあたためてくる感じであった。
白子《しらこ》には、角屋《すみや》七郎次郎という大町人がいる。遠く、高麗《こうらい》、唐土、安南、シャムロのへんまで船を出して交易を営んでいるほどの町人だ。
長谷川藤五郎も、茶屋四郎次郎も、面識がある。二人は一行に先んじて白子の町に入り、角屋に行き、七郎次郎に会って、事情を打明け、船を貸してくれるように交渉した。七郎次郎は快諾《かいだく》した。雇人共を連れて迎えに出て、家に迎え、座敷に請《しよう》じてもてなしつつ、一方では船の用意にかからせた。好運はさらに重なった。船の用意がちょうど出来る頃、ずっと鬱陶《うつとう》しい空模様つづきで、雨の降らない時もどんよりとむし暑い天気だったのに、長い梅雨もようやくあがったのであろう、からりとした快晴になり、おだやかな西風がそよりそよりと吹く天気になったのだ。潮時もよくなった。すぐに船出となった。
家康は、長谷川と茶屋とにろくろくあいさつをするひまもなく、わずかに、
「それでは、数日のうちに馳《は》せ上る。待っていてくれい」
とだけ言って、乗船した。
順風に帆《ほ》をあげた船は、伊勢湾を横切って知多《ちた》半島の突端|羽豆《はず》ノ岬《みさき》をまわって知多湾に入り、三河|碧海《へきかい》郡の大浜に、その日のうちにつき、翌七日には岡崎城に入ることが出来た。
こんな工合に、意外なくらいすべてが好調子に運んだので、冷静で、かつて調子に乗ったことのない家康も、胸に燃え立って、血をさわがせて来るものがあった。
(右府《うふ》が弔合戦《とむらいがつせん》はおれの手でおこなわれ、明智はおれが討取り、織田の天下取りのしごとはおれがつぐのではないか。そのように天によって定められているのではなかろうか……)
という思いが、ひっきりなしに胸でささやいている。
すぐ領内全部に陣触れの使いを出しておいて、一応浜松に帰城したが、すぐまた岡崎に引きかえし、十四日には兵をくり出して、自らも宮《みや》(熱田《あつた》)まで出た。ところがだ、その日の夕方、石川数正が、宮の舟つき場で、昨日京の近くで羽柴筑前《はしばちくぜん》が亡き右大臣家のために弔合戦して、見事|日向《ひゆうが》を打ち負かしたげな、といううわさが立っているのを聞きこんで来たのだ。
「羽柴筑前は毛利の大軍と備中でにらみ合っているはず、そう速いことが出来ようはずはない。何ぞの間違いではないか」
「拙者《せつしや》もそうは思いますが、うわさの立っていることは事実でありますので、とりあえずお耳に達してだけおこうと存じて、まいったのであります」と石川も言う。
ともかくも、念のために多数の諜者《ちようじや》をはなって、情報を集めさせてみると、日が立つにつれて、確実であるという線が強くなった。
(やはり間に合わなかったか)
と、失望しながらも、こういう時にはかえって慎重にふるまいたい性質だ。なお熱田に滞陣をつづけていると、十九日になって、秀吉の使いが到着して、委細のことを知らせて来た。
(やれやれ、トントン拍子に運のよさに見えたのは、いのちの無事だけの運のよさで、天下取りには用事のない運であったのか)
ひとりひそかに苦笑して、帰陣の途についた。
二
次は柴田勝家だ。
柴田は越中《えつちゆう》で、佐々《さつさ》、前田、佐久間等の寄騎《よりき》大名らと、越後へ侵入する機会を狙《ねら》っていた。西で秀吉の中国経略が駸々《しんしん》として進んで、上様《うえさま》の覚えがますますめでたいと聞いて、柴田は頭のてっぺんから炎《ほのお》が立つような気がする。
(負けてなるものか)
と、日夜に苦心しているのだが、越中から越後に入る道は一通りの嶮《けわ》しさではない。海手は親不知《おやしらず》子不知《こしらず》の嶮《けん》があり、山手は北アルプスの連峰が屏風《びようぶ》を立てたようにそばだっている。越後勢はその山々谷々の間に猟犬のようにひそんでいて、こちらが足をふみ入れたら、ガブリと噛《か》みついて食いとめ、場合によっては八方からおどり出して襲いかかるつもりのように見える。
大いに気をいら立てている時、本能寺の変報がとどいた。人々、皆|驚愕《きようがく》した。
この少し前、柴田と佐々は、開城すれば助命して越後に帰すという約束で魚津《うおづ》城を明け渡させていて、一人ものこらず城衆を討取ってしまった。この不信義に、越後人らは歯がみしていきどおっている。和睦《わぼく》してあとを追わないという約束をして京へ馳《は》せ上ることなど、とうてい出来ることではない。
しかし、柴田としては、弔合戦《とむらいがつせん》はぜひ自分でしたかった。織田家の元老、首位将軍の面目にかけても、余人にはやらせたくない。
佐々成政も、佐久間盛政も、同じ気持だ。寄親《よりおや》と仰いで何年かその下で働いて来たのだから、自然友情も深いものになっている。
佐久間にとっては、その上、柴田は叔父《おじ》でもある。何としてでも、柴田に弔合戦してもらいたい。
「この弔合戦は志《こころざし》のけなげさだけではやれぬ。身代がともなわんければならん。とすれば、一番身代の大きいのは徳川殿じゃが、これは上方見物に上って来ているはず。ひょっとすると、上様と一緒に討取られてはおらんじゃろうか。ではないにしても、まだ帰国はしとらんじゃろう。とすれば、帰国の途がふさがって、明智が手の者に討取られるか、でないにしても、一揆《いつき》や野伏《のぶし》共の手にかかること、十中八、九じゃな。はぶいてよかろう」
と、佐々が言うと、こんどは佐久間が言う。
「次は三介信雄《さんすけのぶかつ》様じゃ。伊賀におじゃるのじゃ故、江州《ごうしゆう》へ出なさるにも、京へ出なさるにも、最も便がよいぞ」
と言うと、柴田は笑った。
「三介様は望みなし。悪うすると、日向《ひゆうが》にまかれて、日向側につきなさるかも知れんぞ」
「いかさま、いかさま、そうなりかねんお人でござる」
と、佐々と佐久間とはからからと笑った。
笑いすませて、佐々は言う。
「それでは、三介様ははぶいて、こんどは丹羽五郎左《にわごろうざ》殿じゃ。五郎左殿は三七《さんしち》信孝様のお供をして長曾我部《ちようそかべ》征伐に行こうとて、大坂の石山城で、軍勢の揃《そろ》うを待っていたと聞いている。五郎左殿はもの慣れたなかなかのお人じゃし、三七様は三介様とは違って、しゃんとしている。もしまだ四国に渡っておらねば、このお二人がやりなさるじゃろうな」
「ただし、軍勢が揃っておればすぐ、揃っておらねば……」
と、佐久間が受けると、すかさず、佐々は言った。
「五郎左殿の所領は佐和山じゃ。間に京があって、明智が立ちふさがっている。勢が不足じゃからとて、呼ぶことは出来んぞよ」
「さようならば、五郎左殿もはぶくことになるな……ハハハ、幸いなことである」
と、佐久間は真黒な頬《ほお》ひげを両手でさするように撫《な》で上げた。佐々も笑った。
ずっと黙っていた前田又左衛門がはじめて口を出した。
「羽柴筑前がいる」
このことばが又左衛門の口から離れるか離れないかに、佐々は言った。
「筑前がどうして備中から引きかえすことが出来よう。あれは毛利の大軍とにらみ合っている。釘《くぎ》づけになっている。毛利は去年、因州《いんしゆう》鳥取城を筑前にうばわれ、一族の吉川式部少輔《きつかわしきぶしようゆう》を死なせて、骨髄に徹する恨みをふくんでいるはずじゃ。筑前の肉を食らいたいと思っているであろう。筑前はとうてい生きて備中《びつちゆう》から引き上げることは出来ぬ」
火のついたように早口で、ムキな調子であった。
又左衛門はむっとした顔になり、何か言いたげにしたが、思いかえした風情で、口をつぐんだ。元来、至って口数は少ない男なのである。
「どうでも、こりゃ叔父ごの役目じゃ。叔父ごが討つが、織田家第一の老臣《おとな》として、一番順当なことでもある。くじはやはり落ちるところに落ちるものと見える」
と、佐久間はまた頬ひげをさすって、上きげんに笑った。
どういう方法で引き返すかを、一同で考えて、結局きまったところは、上杉勢の追撃が心もとないから、勝家だけが馳せ上る、佐々も、前田も、佐久間も、しばらく越中にとどまって上杉勢の出ようを見、大丈夫と見きわめがついたら、前田は能登へ、佐久間は加賀へと、それぞれの本国へ引きとってかためるというのであった。
この申合わせに従って、柴田は越前の北《きた》ノ荘《しよう》(今の福井市)に帰り、全家中を動員して、京に向い、六月十六日、越前と江州の境である柳《やな》ガ瀬《せ》まで出た時、秀吉の使者に会った。
山崎合戦の顛末《てんまつ》を報告する書面をたずさえていて、
「定めし上様も地下でおよろこびのことと存ずる。ご同慶の至りである」
と、結んであった。
またしても、筑前めに功をさらわれてしまった! 何が同慶であろうぞ。しばらくは使者に声をかけることも出来なかった。心の底で、
(三日おくれた! 三日おくれた! ああ、三日……)
と、つぶやきつづけていた。
知らず、勝家はこの三日が、魚津《うおづ》の城衆をあざむき殺した不信義の代価であることがわかっていたであろうか。
三
勝家は柳ガ瀬から真直ぐに清洲《きよす》に向った。
「すでに弔合戦《とむらいがつせん》がすんだ以上、一切のあと始末をしなければならない。すなわち、右府公《うふこう》のあと目を決定し、遺領の分配もしなおさなければならないのである。弔合戦は猿《さる》めにちょろりとしてやられたが、正念場《しようねんば》はこのあと始末だ。これをこちらのもくろんだ通りにすることが出来れば、それでよいのじゃ」
と、思案したのである。
勝家は清洲《きよす》に向う途中、岐阜城下に一泊した。聞けば、岐阜城には明智が退治された後、秀吉のさしずで堀久太郎秀政が番をしているそうだが、つい昨日のこと、三七信孝が来て泊まっているという。
堀が明智退治に際して、終始一貫筑前の側にいて、そのさしずのままに働いたということを聞いて、勝家は、以前はいまどきの若い者にしては小気のきいた男と相当気に入っている部類であった堀が、
「やれやれ、これもちょいとばかりはやる神様にはすぐお参りせんではおられん、神詣《かみもう》で好きのおなご同然の根性じゃわ」
と、にわかにうとましくなった。
だから、堀には会いたくなかったが、信孝に会いたかった。清洲で催す予定の大《おお》あと始末について、思わくがある。
山崎合戦は秀吉が万事をとりしきってやったものではあるが、秀吉は信孝を奉じてやっている。信孝が主将で、秀吉はその下の奉行にすぎなかったという理窟《りくつ》も、立てようと思えば立たんものではない。勝家はその理窟でおし通して、「だから、お跡目《あとめ》は三七《さんしち》様であるべきである」と主張するつもりである。
幸い、信孝は信雄《のぶかつ》にくらべて、評判のよい人物だ。信雄が常人以下の人物で、どうして上様のようなお人の若者に三介《さんすけ》様のようなお方が生れなさったろうと、いつも皆に首をひねらせているが、信孝にはそんな点はない。三七様は上様に一番似ておいでじゃ、三位中将様(信忠)より似ておいでじゃとまで言われている。提議すれば、子細《しさい》なく通るはずである。
このような信孝であるから、信孝には多数の推薦者が出ることが予想される。ことに猿めだ、ぬけ目のないやつだから、誰よりも先きに推挙を発言して、信孝の気を攬《と》ろうとするであろう。しかし、前もって自分の意向を信孝に打明けておけば、信孝の心をすでにこちらに攬っていることになる。以上のように、勝家は考えたのであった。
夕方かけて、城に上って行った。全然堀に会わんというわけにも行かんので、一応会って、あいさつをかわした。堀は信長の上使として高松陣へ行っている時に本能寺の変報に接し、ずっと秀吉と行動を共にしたのだから、毛利との和議のまとめようから、明智討滅までのことを全部見て来ている。だから、もちろん柴田の問いに応じて一応のことは物語った。しかし、堀は柴田と秀吉のそりの合わないことも知っている。柴田が秀吉に先を越されて無念がり、大いに内心では恥じているであろうことも推察がついている。だから、秀吉をほめて柴田を刺戟することは避けた。心をひきしめて、ごく冷静に、ごく淡々と、要領だけを語った。
「そうか、そうか、うむ、うむ」
勝家もつとめて冷静に聞いた。
勝家はこの時六十一だ。昔ながらに大きくたくましいからだをしている。ひげやびん髪《ぱつ》に白いものがまじり、顔にいく筋かのしわが深く刻まれてはいるが、岩をぶッ欠《か》いたように荒く男性的な顔の血色は至ってよく、精気にあふれているようであった。
(筑前もこれからが大へんじゃな。この男が岩山のように筑前の前に立ちふさがっているわ)
と、堀は心ひそかに思った。
「三七様がお出でなされていると聞く。お目通りしたい。ご都合を伺ってもらいたい」
と、勝家は言って、堀から信孝に知らせてもらって、信孝のいる座敷に向った。
信孝はこの時二十五だ。色白の、鋭い顔立ちの青年貴族であった。
勝家は先ず信長のくやみを言ったが、自分でも思いもかけず、涙がこみ上げて来て、声が濡《ぬ》れ、絶句した。
信孝も泣いた。
笑いも伝染しやすいものであるが、涙は一層伝染しやすい。この時の涙も、この伝染性が大いに関係があったろうと思われるが、昔の人はこんな考え方はしない。二人の心が大いに打ちとけたのは最も自然なことであった。
その打ちとけたところで、勝家は言った。
「明智征伐のことについて、筑前の働きはもとより言うを待ちませんが、三七様がおわしたればこそ、人々の心が一致して、あれだけの人数が集まり、あれだけの働きが出来たのでございます。三七様という旗じるしがおわさなんだら、筑前がいかに駆けまわったとて、馳《は》せ参ずる者はいなかったでございましょう。ご思案あれ。丹羽五郎左、池田|勝入《しようにゆう》の二人はもとよりのこと、高山|右近《うこん》や中川瀬兵衛のような小身の者共でも、筑前が采配《さいはい》の下で働くことはせぬでありましょう。三七様があられたればこそ、筑前の働きも実《み》を結んだのでござる。されば、この弔合戦第一の功は、三七様にあるのでござる。拙者は、君にこの大自信をしっかと胸に持っていただきたいのでござる」
この勝家のことばは、論議の土台になっている材料の不足や正否を問題にしないかぎり、論理的には誤りはない。また、信孝自身にもこのような気持はすでにあったのだ。勝家ほどの者に最も荘重な調子で堂々と説かれては、いくらかしこくても、忽《たちま》ちその気になるはずである。
「そなたがそのように申してくれて、われらは面目この上もない。ありがたく思うぞ」
と、言った。
勝家はこれから本題に入ろうと思ったが、他聞を恐れた。
「われらにお礼申されることはいりませぬ。誇りをもっていただきたしと思うだけのことであります」
と笑って、うちとけた世間話を少しした後、
「上様が安土にお移りになって以後は、われらこのお城にはとんと無沙汰《ぶさた》しています。かれこれもう六、七年にもなりましょうか。昔なつかしゅうござる。お庭のあたりを少し歩きたくござる。君はいかがでありますか」
と、目くばせしながらさそった。
「よかろう。今夜は少し蒸して来たような」
と、信孝も心得て立ち上った。
十八日の月が少しさし上った頃であった。二人は夏の月の光に濡《ぬ》れながら奥殿の庭に、月を賞しているような姿でならんで立って、ささやき合った。
「拙者はこれから清洲にまいり、ふれをまわして人々を集め、これからのことを色々ときめるつもりでいます。お家の長老《おとな》として、拙者のつとめでありますゆえ」
「うむ、うむ」
「先ず、ご家督《かとく》をきめねばなりません」
「うむ」
「右府《うふ》様の若君方としては、先ず三介様、次ぎに君、次にお次《つぎ》様がお出でであります。お次様の下にもなお四人もお出ででありますが、いずれもご幼少でありますから、これもはぶきましょう。お次様も羽柴の養子となってお出ででありますから、これもはぶかねばなりません。つまりは、三介様と君と、いずれをお立てするかということになります」
信孝はうちにあふれて来るものがあるのであろうか、もそもそと動いたが、かすれる声で言う。
「三法師《さんぼうし》殿がいるぞ」
「これは右府様のお孫様であります。われらは右府様のおあと目を立てたいのであります。お孫様では遠くございます。その上、右府様のおあと目は単に織田家のご当主になられるのではなく、天下|人《びと》とおなりになるのであります。わずかに二つの三法師様がどうしてつとまりましょう」
信孝はまた身動きした。呼吸が荒くなったようであった。勝家はしばらくことばを切り、気合をはかって言った。
「もはや申さずともおわかりでありましょうな。ご自重ありますように。そのために、前もってこうしてお目通りしたのでございます」
信孝はよろめきかけたようであったが、すぐ立ち直った。
「うむ、うむ、心得た。よろず、頼むぞ」
最も低い声で言った。
二人はなおしばらくそこにいて相談をかためてから、さっきのご殿にかえったが、途中、ある建物を木立の間に見る場所にさしかかると、一人の女人が侍女《じじよ》二人を連れて、その建物の縁を来るのを見た。侍女の一人は燭《しよく》をとって前導し、一人は衣服でも入っているらしい筥《はこ》をささげてあとから行く。風呂から出て居間にかえるところででもあろうか。女人は雪のように真白なかたびらを、帯はしめず、腰紐《こしひも》だけで着て、ややしどけなく乱れた胸もとをかかえるようにして前褄《まえづま》をとっている。身をななめにした侍女のつき出す燭は、女人の顔をはっきりと照らし出していた。
その顔を見た時、勝家はおのれの厚くはばひろい胸に力強く脈打っている心臓の動きがとまったかと思った。やや長めな女人の顔はぬけるように白く、頬《ほお》のあたりはほのぼのと上気して、そこににじんでいるこまやかな汗やそこに立ちのぼっている湯気が感ぜられるようであった。勝家はどうして自分の足がとまったかも意識せず、ぼうぜんとして見とれていた。
やがて、その人は縁をまがって見えなくなった。
勝家は自分の胸がはげしく鼓動《こどう》しはじめているのを感じた。
「あれは小谷《おだに》に嫁《い》っていた叔母《おば》ごだ。小谷が落城してから、備前守《びぜんのかみ》との間に生れた三人の娘とともに、ずっとここに住んで、中将様の介抱を受けておられたのだが、これから誰が介抱することになるのかのう」
と、信孝は説明した。
信孝の説明を待つまでもなく、勝家は知っていた。彼はこの城にお市《いち》ご料人《りようにん》がいなさることを忘れたことがない。六年前に妻を先立たせてからいくつもあった再婚の話に、一切耳を傾けなかったのも、白状すれば、この人のことが念頭にあったからだ。信長に願い出ようといく度も思ったが、ひやかされるのがこわくて、思い切れなかった。いやいや、ひやかされるのはかまわないとしても、はやてのように急変する信長のきげんは、いつ激怒にかわるかわからないので、言い出しかねた。
(しかし、今はもう恐れなければならない上様はお出ででない。大いに望みをもってよいわけじゃわ)
と、思うと、勝家の胸はまたふるえたが、アハハ、と豪快に笑って言った。
「すっかり忘れていましたわい。そうでありましたな。ああ、思い出しました。……お市ご料人と申し上げましたな。今の世にはさしてめずらしゅうはないこととは申せ、おいたわしいことでありますな」
そう言いながら、考えていた。――おれは自分でも気づかなんだが、案外、三七様のことよりお市様のことが胸の奥底にあって、ここのお城にあがって来る気になったのかも知れんなあ……
やがて、勝家は山を下って旅館に向った。中天に上った月の下を、一歩一歩足をふみしめて下って行きながら、勝家はお市が小谷落城の頃と同じように、いや、年につれた落ちつきがあらわれて、六十一という年の自分から見ると一層魅力的になっていることが満足であった。
指をおって計算して、
(ご料人は今年三十五のはず。二十六ちがいか。若いうちにはこう違ってはおかしいが、共にこの年になっては、あまりおかしゅうないわ。似合いの年とは言えまいが……)
と、考えつづけた。
楽しかった。
四
勝家は翌日岐阜を立ち、その日のうちに清洲についた。清洲には前田|玄以《げんい》入道が三法師丸《さんぼうしまる》を奉じて住んでいた。
玄以は美濃の生れで、若い頃に叡山《えいざん》に上って僧となり、その後尾張に来て一寺の住職になっていたが、中年にして武家奉公する気になり、僧体《そうてい》のまま織田信忠につかえた。学問がある上に機略もあるので、信忠は大へん気に入り、七千石をあたえて、左右去らぬ謀臣《ぼうしん》とした。本能寺の変のあった時も、玄以は信忠の供をして妙覚寺に泊まっていた。信忠が二条のご所へ移った時もついて移った。
玄以の言うところによると、ここで、玄以は信忠に、
「今すぐならば、無事に落ちおおせ給うことが出来ましょう。お供申します。早やお立ちありますように」
とすすめたが、信忠はきかず、
「明智ほどの者が、何のぬかりがあろう。なまじいなことをして、捕えられては恥じゃ。わしが恥ばかりでなく、右大臣様のお恥になる。わしはここで腹切るが、心にかかるは岐阜にいる三法師がことじゃ。やがて明智が岐阜にもおし寄せよう。しからずとするも、城中に明智に心を通わす者が出来《しゆつたい》せぬとも限らぬ。そちは一時も早くここを逃れ出、岐阜に行き、三法師を安泰に守ってくれるよう」
と、頼んだ。
そこで、ご所を脱出し、岐阜に馳《は》せかえった。岐阜が別段危険であるとは思わなかったが、安全の上にも安全をもとめて、三法師様を抱き申して、この清洲に移ったのだという。
玄以のこの説明は、少しばかり臭いと考える者もある。
(岐阜は織田家の本拠じゃ。譜代の家臣らが仰山いるわ。三法師丸様に、何の不安があるものか。玄以の言うようなことを、中将様が仰せ出されるはずはなかろ。入道め、臆病風《おくびようかぜ》に吹かれて狭間《はざま》くぐり「籠城からの脱走」して来たのやないやろか)
と疑惑するわけだ。しかし、この疑いには証拠がない。その場に居合わせた者は皆死んで、一人ものこっていないのである。玄以がそうであったと言う以上、信ずるほかはないのであった。
勝家は玄以に会い、三法師丸にも拝謁《はいえつ》した後、城内に落ちついて、予定通りに織田家の諸将に召集状を出した。
秀吉はこの召集状を安土で受取った。
坂本城を落した後、彼は京の治安回復の処置を講ずるとともに、諸方にまだ残っている明智の残党狩りにかかった。
たとえば、長浜城を占拠していた阿閉淡路守貞大《あべあわじのかみさだひろ》(長之ともあり)だ。長浜城は依然として秀吉の持城《もちじろ》の一つであり、小谷《おだに》落城の際彼のもらった領地もまた彼の領地であったので、彼は留守居の者を長浜城において管理させていた。阿閉は元来浅井家に所属していた地ざむらいであるが、早く降伏して浅井攻めにも功があったので、本領を安堵《あんど》されたばかりでなく、加増まで受けて、長浜の北方十キロほどの、湖岸にぽっこりと盛り上っている山本山にある浅井方の城をあてがわれて、ここに住んでいた。ところが、明智の乱がおこると、つい鼻先にある秀吉の所領がたまらない誘惑となったのであろう、いきなり長浜におし寄せて留守居のものを追いはらって占領し、明智に帰服を申しこんだのである。
もちろん、明智滅亡とともに長浜を捨てて、山本山城に逃げかえったのである。躾《しつけ》の悪い猫が、主人がちょいと隣室へ立った間に、食卓の上の蒲鉾《かまぼこ》についちょっかいをかけてしまったようなもので、それほどにくむべきやつではないが、見せしめのために厳重に処置する必要があった。
これに類した者がちょこちょことあるので、それらの始末をつけた後、安土に来たのであった。安土は信雄がくだらんことをしたため、さしもにぎやかであった城下の町も、武家屋敷も、お城も真黒な焦土となっていた。再びここに城を築き、城下町をこしらえることは、所詮《しよせん》不可能であると思わないではないが、ざわめき立っている天下の人心をおちつかせるためには、再びここに昔とかわらない壮大な城が築かれるという身がまえを見せることが必要だと思った。故右大臣の天下統一の大仕事はその後継者によって続行されるとの意思表示になるわけだからだ。
秀吉は近在の百姓らを駆り出して、焼けあとの取りかたづけを命じて、こうふれた。
「やがてここに昔通りのお城が築かれ、諸屋敷も建てられる故、きれいにしておきたいのじゃ。ついては、焼けあとは、お城のあったところはもちろんのこと、屋敷屋敷のあとにも、ずいぶんと金、銀が溶けかたまっているであろうが、それはひろったものにつかわす故、ずいぶん精出して働くよう」
百姓らはうわさを聞いて先きを争って集まって来、毎日営々として働いた。
秀吉は自邸のあった場所に小屋を建てて当分の住いにすることにしたが、ここに落ちついてはいない。たえず京や岐阜に往来して、必要と思われる手を打っていた。
そのあくる日、京から帰って来ると、新しく長浜の留守居に命ぜられて長浜に行っている浅野弥兵衛が来ていて、柴田の出した召集状を手渡した。文面は、こんどの大変を悼《いた》み、明智の滅亡を賀し、ついては来る六月二十七日清洲城内に集まって、今後のことについていろいろとご相談したいと思うから、各位ご参会を願いたい、というのであった。
(なるほど)
柴田が何を考えているか、はっきり見える気がした。自分に先を越して弔合戦《とむらいがつせん》されて失墜した、織田家随一の長臣としての面目を、この会議で回復するつもりに違いないと思った。
(とすれば、どんな手で来るつもりか。これまで通りなら、頭ごなしにガミつけてのしかかり、圧倒しようとするに相違ない。これまではおれも、負けてもさしつかえのないことは負けておいた故、その手もいくらかはきいたが、これからはきかんわ。弔合戦をしたことによって、おれは柴田と同格――いや、上様の家来の中では一番に口を利《き》いてもよい者になったのじゃから。柴田は昔人間じゃが、阿呆《あほう》ではない。そこのところはよく心得ているはずじゃから、威張ってくるにしても、なんぞ手を使うであろう。はて、どんな手であろう……)
思案していると、安土の留守役を命じている杉原|家次《いえつぐ》が作業場の見まわりから帰って来て、一昨日岐阜の堀久太郎殿からつかわされたといって、書類箱から一封の書面を出して渡した。
披見《ひけん》すると、柴田が清洲に行く途中、当お城に立寄った。夕景に来て、自分に会って備中陣で変報に接してから明智|伏誅《ふくちゆう》に至るまでのことを聴き取った後、ちょうど来て城中に滞在している三七《さんしち》様にお目通りして、深夜におよんで下城した、という文面であった。
(ははん、なるほど、そうか!)
にやにやと笑いたくなった。
(手品の種は三七様か、おれは三七様を全軍の旗じるしに仰ぎ、三七様の到着されるのを待って、戦いをはじめた。でなければ、人数が足らなんだ。ほんの二、三千明智より多いくらいであった。これでは必勝の自信がなかった。その上、高山や中川らは別として、池田信輝がおれの指揮では戦わんかも知れんという不安があった。池田勢が戦わんければ、明智方より劣勢で戦うことになるのだ。しかし三七様が来れば、三七様、丹羽、蜂屋《はちや》の三隊合して八千が加わって、明智より一万以上も大軍になる上に、諸隊皆懸命な戦いをするにきまっていると見た故、その到着をずいぶん待った。戦さのはじまったのは、とうとうもう夕景に近かった。柴田はこのことを誰ぞに聞いて、弔合戦したのは三七様で、筑前ではない、筑前は三七様の下について働いたにすぎんと言い立てて、おれの手がらを出来るだけ踏み消すつもりである。そのために、三七様に会って、おだてたのじゃろう。しかし、せっかくのことながら、鬼柴田殿、そうはまいらんわ。いかさま、三七様という旗じるしがなければ、山崎合戦は出来もせず、はじめられもしなかったであろが、わしという人間がいなければ、あの合戦ははじまらなんだこともまぎれない事じゃ。その上、見事勝った今となっては、天下の人、誰がわしの力であることを疑おう。世の中というものは、そうしたものよ。ごぞんじないか、鬼柴田殿。それに、本来ならば誰よりも先きに弔合戦すべきはずの柴田殿が、それをようせなんだくせに、人がしたとてかれこれ文句をつけては、見苦しいものであることを、ごぞんじないか、修理《しゆり》殿……)
などと、いろいろと考えた。しかし、自分の功をねたんでいる者も多数いることであろうから、油断はならないと、心を引きしめた。
秀吉はその日のうちに、佐和山の居城に帰っている丹羽長秀に使いを出し、明朝お訪ねしたい故、お会い願いたいと言いおくった。安土・佐和山間は十六、七キロしかない。使いは夜更けに帰って来て、丹羽が明朝待っているという返事を伝えた。
翌日、まだ暗い間に、秀吉は安土を出た。佐和山で丹羽に会ったら、そのまま岐阜を経て清洲に行くつもりであった。千人ばかりの兵をひきいていたが、なお、長浜へ帰るために途中まで同行する弥兵衛に、昨夜のうちに言いふくめておいた。ひょっとすると、もっと人数がいるかも知れない、その時は知らせる故、知らせのあり次第、指定の場所まで、出来るだけ多数送るようにと。どうなるか知れない形勢だ。十分な用心をする必要があった。
朝まだ早い間に、佐和山についた。ひきいている軍勢には、このまま行軍をつづけて関ケ原で野陣《のじん》するようにさしずしておいて、ほんの十人ほどの騎馬《きば》の者を従えただけで、佐和山城に向った。
丹羽は待っていて、すぐに客殿に通した。
秀吉は人を遠ざけて一時間ほど丹羽と密談した後、丹羽に城門まで送られて出て来て、東に向って馬足をはやめた。
その夜は関ケ原で野陣して明かし、翌日の夕方近く岐阜についた。兵士らは長良《ながら》川の河原に野陣させ、秀吉はその近所の寺に泊まることにした。その寺に入って、住職のあいさつを受けていると、堀久太郎が訪ねて来た。
「もうお出でになる頃と、昨日も今日も、河渡《ごうど》まで人を出しておいたので、わかったのです」
と、堀は説明した。
「これはまたご鄭重《ていちよう》、恐れ入る。もう少ししたら、三七様へのごきげん伺いかたがた参ろうと思っていたのでござる。――時に、ご書面はかたじけのうござった。きつい助かりでござるわ」
と、秀吉が笑いながら礼を言うと、堀も笑った。
「いやいや、その三七様は、拙者があの書面を書いて持たせて出した翌日、柴田殿からの書面を受取りなさるとすぐ、清洲に行かれました」
「ほう。それはまたお早いことであったな。よほどにお心を引くものがあると見える」
と、秀吉が笑いをこらえてまじめな顔をつくって言うと、堀もきまじめな顔で、
「そのこと」
とだけ言った。
ふと気になって、念のためきいてみた。
「おことにももちろん、柴田は集まるようにと申してよこしたであろうな」
「いや、拙者には何にも申してまいりません」
まさかと思いながらもかけた疑いが、ぴったりと的中していたので、秀吉はおどろき、
「それはけしからぬこと。おことは山崎の戦さに出て戦功があり、坂本城を攻め落した手柄もあるのだ。呼ばぬということがあるものか」
と腹を立てたが、堀は手をふって、至っておだやかに言った。
「あの人は山崎の合戦にも出ず、坂本城攻めも見ていないのです。拙者を昔通りの若輩ものに過ぎんと見ていなさるのはあたり前のことでありましょう」
こんどのことには柴田は全然功がないということを、最も巧みに言っているのだ。にこりともせず、澄まし返ってのことばだけに、一層その味が辛辣《しんらつ》であった。
大いに愉快になって、秀吉はからからと笑った。少し酒など飲んで、夜がふけてから、堀は帰って行った。
そのあと、秀吉は縁に出て、すずしい風に吹かれながら、いつまでも城の方を仰いでいた。よほど遅く、夜明けに近くならなければ月は出ないはずの空には、降るように星があり、銀河が白く煙っていた。稲葉山《いなばやま》はその空を背景にして黒々とひそまり、月のある夜だったらよく見えるはずのお天守も、山と同じ色になって見わけがつかなかった。
はじめのうち、秀吉の念頭にあったのは、二、三日前までそこにいたという信孝《のぶたか》のことであったが、いつかそれはお市《いち》のことに変っていた。指をおって数えてみて、つぶやいた。
「三十五におなりじゃ」
五
清洲城内の大評定は、柴田の通達通り、六月二十七日、大広間で行われた。集まったメンバーは、三介|信雄《のぶかつ》、三七信孝、柴田、丹羽、秀吉、池田信輝、細川藤孝、筒井順慶、蒲生氏郷《がもううじさと》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》の十人であった。柴田の説明によれば、このほかに滝川|一益《かずます》にも召集状を出し、その居城長島にとどけたが、まだ関東から帰って来ないと留守居の者が返事をよこしたので、間に合う間に帰って来たなら、必ず来るようにと、重ねて通達しておいたというのであった。
秀吉は、このメンバーの顔ぶれが気に食わなかった。池田まではよろしい。池田は信長の乳兄弟《ちきようだい》でずいぶん信任されていた上に、山崎合戦には四千という軍勢をひきいて参加して、大分働いた。身代も大きい。文句はない。蒲生は身代は小さいが、信長の聟《むこ》だ。父|賢秀《かたひで》とともに信長の北の方や女中衆を守護して安土から居城の日野に無事に避難させた功も大きい。立派に列席の資格がある。蜂屋頼隆も山崎合戦に出て大いに働いているから列席の資格がある。
しかし、蜂屋に資格があるなら、堀久太郎や、高山右近や、中川瀬兵衛も資格があるべきはずだ。なぜこの三人をはぶいたかだ。言うまでもなく、三人はおれびいきの者と柴田が見ているからだ。
柴田はまた滝川も呼んだという。滝川は大身ではあるし、この頃では柴田やおれたちについで上様のお気に入りになっていたから、十分の資格はあるが、柴田がああまで滝川を呼びたがる本心は、滝川がおれをきらいで柴田を好いているからにほかならない。ほかにわけなぞありはしない。
滝川はよいとしても、細川や筒井はどういうわけで列席させるのか。細川は明智と縁者であり、筒井は明智としごくの懇志があり、近く縁者となる約束もあった。つまりはそれほど明智に親しかったのに、誘いに応じなかったところを買っているだけのことだ。しかし、それをもってこの大事な席に列し得る資格とするのは、決して人を納得させはしない。しかもなお柴田がこれを強行したのは、つまりはこの者共はかねてから柴田のきげんを取っているので、味方してくれるに違いないと柴田には判断されたためであろう。
このように、いろいろ不服はあったが、何にも言わなかった。はじめから喧嘩《けんか》することはないのである。
人々の席が定まると、柴田は口をひらいた。先ず信長父子の災厄をなげき悼《いた》んだ後、
「さりながら、悪逆人《あくぎやくにん》すでにほろんだ上は、一日も早く天下|人《びと》を定め、上様と仰ぎ奉《たてまつ》らずば、世の中が落ちついてまいらん。この席で、その人をきめたいと存ずる。皆々、いかが。ご異議あらばうけたまわろう。申し出でられよ」
と、言った。
黒地に三《みつ》ツ遠雁《とおかり》の紋を白くぬいた大紋に風折烏帽子《かざおりえぼし》を着用した柴田は、平生より一層大きくいかめしく、満座を圧する威容があった。かがやきの強い、らんとした目で見まわしている。人々は気をのまれて、一人も発言する者はなかった。
「ご異議はあられぬ模様、重畳《ちようじよう》でござる。しからば、本題に進みたい。われらはわれらで意見もござるが、先ず各々のご意見をうかがってから、披露《ひろう》いたしたい」
よほどに工夫した言いまわしだと、秀吉は思った。柴田ほどの者に、こんな言い方をされては、大ていの者が自分の考えなど出せるものではないのである。しかし、こちらには必要な手を打ってある。なお黙って、その上の出ようを見ていた。
あんのじょうだ、誰も発言しない。
柴田が発言しようとする気合を見せた時、丹羽《にわ》が至っておだやかな調子で口をひらいた。
「ちと各々に相談がある。次の天下人と申せば、申すまでもなく故右大臣様のおん血筋の方々の外にはない。さすれば、ここにこうしてござる三介様も、三七様も、えらばれなさるお人ということになる。その方々を前においては、こりゃ話がしにくいわ。皆が黙っているはそのせいであろうではないか。どうであろ、話のきまるまでご遠慮願うた方がよくはあるまいかのう」
最も当然な提議であった。人々は依然黙ってはいたが、ざわめきや、表情に、同感の色が見えた。
柴田はしまったと思ったに相違ないが、顔にはまるであらわさない。明るく笑った。
「これはわれらとしたことが、気がつかなんだ。いかにも五郎左の言われる通りじゃ」
と言って、信雄と信孝の方を向いて、両手をついた。
「聞かせられる通りでござる。しばらくこの席をおひらきたまわりたくござる」
二人はうなずいて立去った。
そのあとで、柴田はすぐ言った。
「今はもうはばかるところはない。皆思われるところを包むところなく仰せられよ。先ず、われら申そう。――われらは、三七様しかるべしと存ずる。その子細《しさい》は、第一は、この度の弔合戦《とむらいがつせん》におん大将であったこと。第二にご利発であること。第三にお年頃がふさわしいこと」
予想した通りに出て来るのだから、もちろんこちらには用意がある。秀吉はしずかに発言した。
「修理《しゆり》殿のお見立て、まことに行きとどいたものでござる。しかしながら、今日のことは天下|人《びと》えらびであるとはいえ、織田家の筋目《すじめ》を定めることでもござれば、何よりも大切な事は、ご血統と存ずる。故右大臣様のご長男は城介《じようのすけ》(信忠)様、城介様のご長男は三法師《さんぼうし》様であります。嫡々《ちやくちやく》相承けるを、最も正当なこととし、いたし方なきさしつかえのある時だけ他の方法をとる、というのが、世間の法であります。三法師様をお立てすべきが、最も正しいと存ずる」
秀吉が幼い三法師丸をかつぎ出そうとは、柴田はまるで予想してなかった。
筑前は無類の利口者だ。三介様のような阿呆《あほう》殿や、三法師様のような幼い人は、いずれも反対者が多い故、持ち出すはずはない、これに反して三七様は誰も反対の仕様のないお人である上に、筑前にしても明智征伐の時には総大将と仰いだのだから、同意せざるを得まい、ひょっとしてお次様をかつぎ出す気になるかも知れんが、これはすでに彼の養子となっている人だ、反対が多いことにすぐ気がつくであろう故、心の底で考えるだけのことで、とうてい口にはすまい、つづまるところは、筑前が思案も三七様におちつくことになると、十分な計算の末に見きわめをつけたつもりであったのに、常識はずれの三法師説をもって正面から立ちむかって来られたので、おどろいた。
しかし、常識ははずれていても、嫡々相承けるのが相続の原則であることは間違いない。原則論だけに、錦のみ旗的なところがあって、頭からの反対は出来ないのである。ずるいと思った。腹も立った。
しかし、おさえて、にこやかな表情をつくって言った。
「いかにも筑前の申される通りだ。筋目は大切であるが、三法師様はやっとお二歳でござる。お二歳でも、おだやかな世なら、もとより子細はない。しかし、今の世にはどうであろ。そこを考えてもらいたい」
こびるような勝家の調子だ。
おとらず愛嬌《あいきよう》のよい調子で、秀吉はまた言う。
「そこも考えての上で、拙者《せつしや》は申しています。三法師様はご幼年ではござるが、ご一門|衆《しゆう》も多数あられ、ご家中も修理殿をはじめとして人多きことでござる。皆が心を一つにしてお輔《たす》け申せば、少しもさしつかえないことではないかと、拙者は信じます」
修理殿をはじめとしてと言われると、柴田はなまぬるい風に顔をさかさまに撫《な》でられる気持で、気合がくじける。しばらく口をつぐんだ。
丹羽が発言する。
「修理も、各々もお聞きあれ。筑前が筋目の論、われらにはすずしく聞こえる。その子細は、城介様に若君があらせられぬのであれば、いたし方ないことでござるが、たとえご息女でもあられる場合はご一門中の男君とめあわせ奉ってお跡目と仰ぐべきであるに、お年こそ幼くともまさしき若君のあられるからには、これを立て申すが道と存ずる故だ」
すかさず、秀吉がつづけた。
「五郎左殿が、拙者の申し足らぬところをよく申して下されました。仰せられる通りであります。若君も姫君もあらせられずとしても、もし城介様ご寵愛《ちようあい》のご前《ぜん》方にご懐妊《かいにん》の方があるなら、月満ちて子達の生れ給うを待ち、男君ならばこれを跡目と仰ぎ申すこそ、最もしかるべき道と存じますに、これはまさしき若君がおわすのであります。かれこれのせんさくは無用と存ずる」
秀吉が佐和山で丹羽と談合したところは、こうして筋目論を強く主張した後、秀吉は腹痛がさしおこったといって席をはずす、そのあと丹羽が秀吉の明智退治の功績を大いに説き、柴田の鼻をおるというのであった。
秀吉はその打合わせの通り、いつもの虫気が少しかぶってまいったれば、しばらく中座をゆるされよ、とあいさつして、台子《だいす》の間《ま》に行き、印籠《いんろう》の薬を少し服用して、横になった。
丹羽も打合わせに従って動く。柴田の方を向いて言った。
「修理よ。ちと言いにくいことを申すが、腹を立てんで聞いてもらいたい。上様《うえさま》が京都でご切腹遊ばされた時、筑前は備中路で毛利の大軍と対陣していた。悪うすれば、人数四散し、その身の破滅になるべきところであったが、筑前は見事な機略で和睦《わぼく》を遂げ、播州《ばんしゆう》に馳《は》せ帰り、ほんの二日足らず休息しただけで打ってのぼり、悪逆の明智を討ちはたした。まことに天命にかのうた筑前と、われらは思う。その筑前とおぬしとをくらべる時、筑前が身代はおぬしが半分にも及ばぬのだ。もし上様がご切腹の知らせを受けるとすぐ、おぬしが一騎がけででも馳せ上ったならば、人数は雲のように忽《たちま》ち集まり、明智しきのやつぱら二人や三人、ふみつぶすに何の造作があったろう。それをそうしなんだというは、怠《おこた》りとしか思われぬぞ」
丹羽のことばは辛辣《しんらつ》をきわめた。お家第一の長臣なれば、第一に立ち上って中心となって弔合戦《とむらいがつせん》をしなければならない責任があり、その力もあるのに、それをしなかった以上、発言権はないことを知れと言ったのである。
柴田は腹が立ったが、無念でも、残念でも、ここは素直に認めてわびるのが一番見苦しくない。
「いかさま、五郎左の申す通りじゃ。面目ないわ。ハハ、ハハ。さらば、筑前の申すに従って、筋目をもって、三法師様をお跡目とし、天下人と仰ぐことにいたそう。筑前の虫気がおさまっているなら、すぐに来てもらって、相談をまとめてしまおう」
と、表面はいとも淡泊な調子であった。
丹羽は自ら立って秀吉を呼んで来た。信雄《のぶかつ》と信孝《のぶたか》も呼ばれた。二人は家来らのこの決定には不快であったが、信雄が当主に選ばれることは信孝が好まず、信孝が選ばれることは信雄が喜ばず、一致して反対することが出来ないのだ。不服でも承認するほかはなかった。
こうして三法師丸が織田家の跡目に立つことが決定したが、相談すべきことはまだうんとあった。会議は数日にわたって行われ、月を越した。
いろいろなことが決定された。
その一
やがて安土に仮館《かりやかた》を建て、これを三法師丸の住いにするが、仮館の出来るまでは岐阜城にいてもらう。食邑《しよくゆう》は江州内で三十万石。守役《もりやく》は前田|玄以《げんい》、信雄と信孝とが後見となる。
その二
柴田、羽柴、丹羽、池田の四家から役人を出して京都に駐在させ、京都の庶政を処理する。
その三
信長の直轄領と明智とその一味の遺領とを分配した。
信雄 尾張
信孝 美濃
秀吉 丹波
柴田 江州長浜六万石
池田 大坂、尼ガ崎、兵庫十二万石
丹羽 若狭、江州の高島・志賀二郡
滝川 五万石加増の外北伊勢
蜂屋 三万石加増
江州長浜は秀吉の所領だ。これが柴田のものになったのは、柴田の所望による。柴田はいずれは越前から打って出て、秀吉と決戦する覚悟をきめている。それでその出口を扼《やく》している形である長浜を自分のものにしたかったのだ。柴田のその心は、秀吉には見通しだったが、秀吉はむしろよろこんで所望に応じた。家《や》ごもり者は引き出して斬《き》るにかぎる、柴田も引き出して討とうと思ったのである。
滝川は七月一日に、関東から持城である伊勢の長島に帰って来た。彼はこんどの変事には寸功もないのだが、織田家中の屈指の大身であり、信長の晩年の気に入りの者であったのに、こんど関東の領地を全部失って、こちらにある長島だけの所領となったのが気の毒であるというので、関東に行く前の領地であった北伊勢をかえしてやった上に、五万石を加増したのであった。滝川の関東引き上げについては、爽快な美談があるのだが、それは後にまた語る機会があろう。
ついでに書いておきたいのは、武田氏の遺領である甲・信地方に信長が領主として配置した人々の運命である。武田征伐に際して、信長のとった処置はあまりにも刻薄残酷《こくはくざんこく》であった。武田氏にいやしくも関係のある武家は一人のこらずさがし出して殺しつくそうとつとめた。
そのたたりが、この時来た。甲・信の地は至るところに一揆《いつき》が蜂起《ほうき》し、領主を襲撃したのである。甲府の領主となっていた河尻秀隆《かわじりひでたか》はついに殺され、信州川中島四郡の主であった森|長可《ながよし》、伊奈郡の毛利秀頼、岩村の団景春の三人は、いのちからがら、やっとのことで逃げかえった。
甲・信二州、こうして乱麻の形勢になったので、北から上杉、東から北条、南から徳川が入り、三つ巴《どもえ》の争奪戦がはじまった。やがてこれは徳川家康の勝利に帰するのだが、この頃まではまだ混沌たる形勢であった。
その四
秀吉は皆の承認を得て、三法師の輔佐役になった。
『川角太閤記』は、このことについて、興味ある話を伝えている。秀吉は清洲の町の細工人《さいくにん》をあるかぎり十数人集めて、徹夜で、檜《ひのき》で人形や馬や鳥のおもちゃを刻《きざ》ませ、一方さまざまな美しいきれで人形のきものや馬衣《ばい》をこしらえさせ、翌日はそれを長持《ながもち》につめて持たせて登城し、それを一つずつ出して三法師の心をとらえてならした。翌日はまた家中《かちゆう》をたずねて小馬を二、三頭手に入れ、美しいあおりと小さい鞍《くら》をおいて引かせて登城し、それに手をそえて三法師をまたがらせ、庭先をくるりくるりと歩きまわらせて、一層三法師の心を自分に引きつけた。
やがて皆が三法師に拝謁《はいえつ》する儀式の日が来ると、秀吉は上段の間の左右に屏風《びようぶ》を立てつらね、その陰に三法師の乳母《うば》や女中らを坐らせておいた上で、三法師を膝《ひざ》に抱いて正面にすわった。人々の位置からは屏風にかくれているが、三法師には乳母や女中が見えているので、三法師は少しも心細がらないで機嫌《きげん》がよい。
人々が前に来て、かしこまっておじぎをする度に、秀吉はちょいとうなずいたが、これが主人の家来共にたいする答礼のように見えたので、気のきいた人々は、「あれ見給え、筑前守を上様のようにしてあがめているわな、そっくりそのまま筑前こそ上様じゃわ」と、そっと笑われたとある。
柴田は何から何まで秀吉にしてやられて、口惜しくてならない。『豊鑑《とよかがみ》』にこうある。
一切のうち合わせがすんで、皆その国々に帰ることになった時、柴田はれいの陰険なくせを出して(例のくせなれば)、途中に兵を伏せておいて、秀吉を討ちとるべきてだてをめぐらした。それをそっと教えてくれた者がいたので、秀吉は道をかえて津島の方に行き、諸川をわたって美濃の長松(大垣と垂井《たるい》の中間にある村)に行き、ここで一夜を明かし、翌日は夜どおしに長浜に帰ったというのである。
同書にはまたこう出ている。
柴田は越前に帰るべく途中まで来たが、長浜を通らなければならないのを不安がって美濃の垂井に滞在をつづけた。秀吉は聞いて、
「何のためにわれらが貴殿を討ちましょうぞ。安心してお通りあれ。ご不安ならば、せがれに送らせましょう」
と言って、養子の秀勝を人質に出してやった。柴田はやっと安心し、賤《しず》が嶽《たけ》の近くの木之本《きのもと》のあたりまで秀勝を同行し、ここで別れて越前に向った。
柴田も凡庸な人間ではないが、上には上があって、器局の違いはいたし方のないものである。
お市の再縁
一
(柴田との決戦をあせってはならない。むしろ、どんな無理をしても、来年の春までは避けんければならん)
というのが、清洲《きよす》会議中に秀吉の考えたことであった。
まだ自分の力が十分でないと思ったからであった。明智征伐によって、秀吉の人気は大いに上り、勢力もまた大いに増しはしたが、その勢力の点においては十分に勝家に立ちまさっているとは言えなかった。決戦して必勝出来る自信はなかった。しかし、向うが盛りを過ぎてまさに下り坂にかかっている駿馬《しゆんめ》であるなら、こちらは発育途上にある駿馬だ。時が立つほど向うはおとろえ、こちらはさかんになる道理だ。何としてでも半年か一年は向うにおしやる必要がある。少なくとも、来年の春までは衝突してはならん。冬から春の二月末くらいまでは、北陸は深い雪に閉ざされて、兵を出すことが出来なくなる。だから、今年の雪が降り出す頃、まあ十月末あたりだろうが、その頃まで何とかきげんを取って勝家の怒りをなだめつけることが出来れば、あとは来年の三月はじめ、雪の消える頃までは、柴田は身動き出来んことになるのだ。こちらは、柴田との衝突を避けながら、せっせと力を養うことにつとめればいいのだ。
大体、以上のようなことが、秀吉の立てた計算であった。
だから、彼はこの計算に沿って、一切をきめた。勝家の所望によって、自分にとっては由緒ある長浜を譲ったのが、第一にそれであった。長浜付近一帯の北江州《ごうしゆう》は北陸からの出口だから、ここに自分が立ちふさがっていては、勝家は出て来ることが出来ない。従って穴にこもっている穴熊のようで、討取るに不便だという計算もあったが、さしあたっては勝家の猜疑心《さいぎしん》を消滅させ、衝突を回避することに目的があった。
「ようござるとも、ご所望ならば、お譲りいたす」
と、最も快く承諾したのだ。
江州における明智の旧領である琵琶湖西方の高島郡と志賀郡は、秀吉の所領とするのが最も当然であるとの意見が諸将から出たが、秀吉はこれも柴田の猜疑心を挑発することを警戒し、辞退して、丹羽長秀に譲った。
次には、出来るだけ京都にいることにつとめた。京都は何といっても、日本人の心のふるさとだ。一世紀以上も乱世がつづき、日本の各地に中央政権の支配を全然受けつけない政権が出来、京都は天下の政治の中心でなくなり、皇室も幕府も衰えきって、天皇は衣食にもこと欠かれるほどとなり、朝廷などあるのか、ないのか、その機能は実質のない単なる官職名と宮中席次に過ぎない位階を授けるだけのものになってしまったのだが、それでも日本人は天皇を尊いものとかしこみ、朝廷をありがたいものと思い、従って京都を日本の中心として慕う心を持ちつづけた。信長は日本人のこの心を鋭く洞察していた。だから、義昭将軍と喧嘩《けんか》別れすると、皇室に密着し、それによって天下の諸豪に臨み、天下の人心を引きつけようとした。秀吉はこの骨法をよくのみこんでいる。
(がっちり上様の真似をするのじゃて。それには出来るだけ京の近くにいて、ちょくちょく出て来ないかん。出て来て、みかどや公家衆《くげしゆう》の心をつかんで、たのもしいものじゃと思われるようにする一方、京とその近くの政治《しおき》を上手にやってのけるのじゃ。そうすれば、上様のあとをついで天下取りになるのは、羽柴筑前じゃと、上も下も慕いよって来るようになる)
京の政治は、柴田、丹羽、池田、秀吉の四人の受持になっている。しかし、柴田はその本拠地がかけはなれているので、京に出て来るのに不便である。そこで、柴田は、
「われら四人はいずれも京に出て腰をすえることはすまい。それぞれに家来共を出して、その者共の会議によって、京の政治《しおき》はとり行うようにしようではないか」
と提議した。
柴田との争いは当分絶対に避けなければならないと決心している秀吉は、
「よろしかろう」
と、一も二もなく賛成したが、皆がそれぞれにその本国に退去しても、秀吉は姫路に帰らず、山崎の宝寺《たからでら》を陣所としてとどまり、まわりに空濠《からぼり》を掘ったり、山を急峻《きゆうしゆん》に削ったりして、宝寺城と名づけた。
一体、ここから東北五、六キロの間は細川|幽斎《ゆうさい》の領地になっていた。幽斎はここを信長からもらって、明智光秀が最後の夜にこもった勝竜寺《しようりようじ》を居城としていた時期がある。その後、細川家は丹後を分国にもらったので、幽斎はむすこの忠興《ただおき》とともに丹後に移ったが、ここはここでやはり細川家の領地としてつづいていた。秀吉はここを新しく自分の領地となった丹波の一部分と交換したのだ。細川家にとっても、丹波の一部分と交換するのなら、大いに得なわけであった。
秀吉が特にここを手に入れて、宝寺を城砦《じようさい》化し、旅館というより当分の居城にしたのは、ここが京都盆地への入口の要地である上に、ここをおさえていれば、彼の三つの分国、播磨《はりま》、丹波、但馬《たじま》から、最も迅速に京都に兵を出すことが出来るからであった。播磨からは西国《さいごく》街道が真直ぐに通じているし、但馬、丹波からは山陰道が真直ぐに老《おい》ノ坂《さか》を入口として京都に連絡するが、その老ノ坂は長岡からわずかに七キロしかないのである。
しかし、さしあたっては、ここに腰をすえていれば、ちょくちょく京へ出て行けるのを便利とした。山崎・京都の間はわずかに十二、三キロだ。せっせと出かけては、京の政治《しおき》の差図《さしず》をする一方、禁裡《きんり》に出入りし、公家さん方とも交際した。金品の贈与はもちろん大いにした。一世紀以上にわたる貧乏暮しで、公家さん達は金銀財宝、何にでも飢《う》えている。贈与はすさまじいばかりの効果をあげた。公家さん達は、羽柴筑前でなければ夜も日も明けないほどとなった。京の町民らもまた、秀吉のきびきびとした施政ぶりをありがたがった。ついに公家さんがわざわざ宝寺まで来て、従四位下|右近衛《うこんえの》中将に叙任《じよにん》するというご内|沙汰《ざた》を告げた。
秀吉が従五位下筑前守に叙任されたのは、長篠《ながしの》合戦のあった年だから、天正三年――今から七年前だ。これでは位階は七年間に六階級進んだことになり、官職もまた大へんな栄転となる。一体、地方官は外官《げかん》とて、京都御所内の官職、これを内官というのだが、内官よりはるかにおとったものと考えられていた。今日の公務員が官等は同じでも、府県庁勤めの者より本省勤務の者の方がはばをきかしているようなものだろう。この時代の官職は実務はなくて官職名だけになっているのだから、職権もあろうはずはないのだが、やはり内官を重しとし、外官は軽しとしていた。だから、筑前守から右近衛中将にするというのは、大へんな優待なわけだ。秀吉がいかに公家《くげ》さん達に人気があったか、わかるのである。
氏素姓《うじすじよう》のない生れであることが、いつも根強いコンプレックスになっている秀吉は、飛び立つばかりにうれしかった。信長の後《あと》つぎであった信忠が左近衛中将だったのだから、その半格下の官に任ぜられるのだ。禁裡《きんり》では自分を上様のあとつぎと見なしておいでるらしいと、それもうれしかった。
しかし、うれしさのあまりに、節度を見失ってはならんと思いかえした。
(世の人々、とりわけ朋輩《ほうぱい》であった人々の思わくもよう考えてみんければならん。朋輩らは、柴田びいきの者をのぞいては、皆おれに好い情《こころ》を持っている。おれの身代がふえたことや官位の昇進なども、明智退治をした果報じゃと思うてくれると信じてよかろうが、それにしてもほどがあろう、一時にあまり高のぼりしては、せっかくのひいき心がねたみにかわるかも知れん。知れんどころか、十人のうち七、八人まではかわろう。人の心はそういうものよ。待ったり、ここは思案どころじゃぞ)
と、瞬時の間に気がまわったので、かたちを正し、両手をついて、うやうやしく言った。
「ありがたきご沙汰《さた》ながら、それはあまりなこと、空恐ろしくございます。すべて人は身に合わぬ官位をいただけば、鬼神これをにくんで、わざわいをこうむるものと伺っています。同じくは、拙者《せつしや》に似合いのものをいただけますなら、この上のよろこびはございません」
公家さんは、主上《しゆじよう》の思召《おぼしめ》しやから、遠慮することいらへん、いただいときなはれ、まろもせっかく京から来たのやさけと言ったが、秀吉はかたく言いはった。
「そうか、ほならもどるわ。欲のない男やな。感心したわ。そやったら、左近衛少将ならどやな、位は正五位下が官位相当や。そなた、従五位下筑前守やったさけ、これやったら、二階級飛ぶことになる。それくらいなら、ええやろ」
「恐れ入ります。それでも果報が過ぎると存じますが、重ね重ね辞退するのもいかがと存じますれば、ありがたく拝受申し上げる所存でございます」
「さよか、珍重《ちんちよう》珍重。ほなら、その手続きしてもらいますさけ、位記をいただきに来い言うて使い出したら、来とくなはれや」
使いの公家さんは、しこたまおみやげをもらって、帰って行った。
二、三日後、禁裡から呼出しがあったので、出頭すると、正五位下左近衛少将に叙任され、左近衛中将藤原|慶視《よしみ》の執達《しつたつ》でご沙汰書が下賜《かし》された。
去る六月二日、信長父子上洛のところ、明智日向逆意を企て、討ち果し、殊に二条御所へ乱入のこと、前代未聞の狼藉《ろうぜき》、是非もなき次第に候。然《しか》るところ、秀吉西国成敗として備中城を取巻き、城守をはじめ、対陣候といへども、時日を移さず馳《は》せ上り、明智の一類ことごとく追伐して、天下泰平に申しつけ候段、全く古今|稀有《けう》の武勇、これにしくものあらんや。よつてここに官位の儀、度々仰せ出さるといへども、辞退いたし候。後代のために候条、昇殿ならびに少将に叙爵の儀、仰せ下さる所なり。よつて執達くだんのごとし。
年 月 日
左中将
羽柴筑前守殿
二
次ぎには、大いに諸将領の心を攬《と》ることにつとめた。すでに誰よりも先きに弔合戦《とむらいがつせん》を計画し、見事にこれを成功させたことによって、人々の心は大いに秀吉に向っている。上げ潮に乗っているのである。こんな時には世間は催眠術にかかっているようなものだ。その上、秀吉の明るくて、にぎやかで、誠実な性質には、以前から好意を抱いている人が多かったのだ。こちらが好意をもって接すれば、大体なびいて来るものだ。人間のこのような心理については、秀吉はよく知っている。秀吉は巧みに人々の心を攬った。秀吉に好意を抱く将領らが急速にふえて来た。丹羽長秀、池田信輝、蒲生|賢秀《かたひで》、中川瀬兵衛、高山|右近《うこん》、宮部善祥房、堀秀政、仙石久秀らは以前から秀吉に好意を持ったり、寄騎衆《よりきしゆう》だったりした人々だが、その交りが一層深くなった。蒲生賢秀に至っては、娘を宝寺に、
「お側におなご手がなくては、何かとご不自由でござろう。お側に寝かせて下され」
という口上をつけて送りつけた。妾《めかけ》にしてくれというのだが、つまりは人質として送ってよこしたのだ。
「やあ、やあ、これは何よりのものを。大事にしますぞ」
年は十七、色の白い、ふっくらとした、美しい姫君だ。秀吉はありがたくいただいた。
こうして一方的に人質を送るのは、臣属を意味する。それだけでもうれしかったが、大身ではないながらも、田原《たわら》ノ藤太秀郷《とうたひでさと》の子孫として、武家では屈指の名門である蒲生家の姫君に、枕《まくら》の塵《ちり》をはらわせる身となった果報はさらにうれしかった。
これまで中立を持していた連中で、なかまとなった者も少なくない。細川幽斎、筒井順慶、森|長可《ながよし》、蜂屋頼隆らだ。
このうち森長可は柴田党だとばかり思っていたところ、うんとこちらに接近して来た。
細川幽斎と息子の忠興《ただおき》は、明智の乱のおこった時、昔からの深い友情にも、姻威《いんせき》のよしみにも動かされなかったのはさすがだったが、すんだあとになってみると、こちらにも柴田にも使いを出して両天秤《りようてんびん》をかけていたことが明らかになった。あの際としては、細川くらいの身代のものはいたし方はなかったろうと思いはするものの、それでも心をゆるしてつき合うわけには行かんと思った。ところが、清洲会議の半ば頃から、うんと先方から接近して来た。そうなると、拒みはせん。
(世の中に楽しみは歌詠むことしかありはせんと言いたげな顔していながら、食えぬおやじ故、おれの方に分《ぶ》のあることがわかったからであろうて。あっぱれ目利《めきき》よ)
重箱の隅を小楊枝《こようじ》の先きでほじくるような量見で人の心の底をせんぎし、毛筋ほどの私心のあることもゆるさず、全面的な忠誠心や友情をもとめては、結果的には逆になる。疑えば疑われ、信ずれば信ぜられ、憎めば憎まれ、好けば好かれる。人の心は相照らし合う鏡のようなものがあるとは、昔から知っていたことであったと、改めて思い出して、つとめて親しみをもってつき合うことにした。山崎から長岡に至る幽斎の領地をとりかえっこしてもらったのは、その一環であった。細川家にとっても相当以上に有利な交換になったはずである。
そのほか、昔からの美濃衆で、勝家方の奉じている三七信孝に所属させられている連中のなかにも、数人こちらに好意を持っているものがある。稲葉一鉄じゃ、氏家卜全《うじいえぼくぜん》の子行広じゃというのがそれだ。
この連中は、まだはっきりと帰服を申し込んで来たわけではないが、そもそも斎藤家を離れて織田家に所属したのが、秀吉の説得によるのだ。前から好意を持っているのである。
これにたいして、柴田方はどうかと言えば、佐々《さつさ》、前田又左衛門、佐久間|玄蕃《げんば》、金森長近《かなもりながちか》、徳山則秀等の北国の寄騎衆だから、一つにかたまっている。これに長島の滝川|一益《かずます》と三七信孝がその党与だ。相当かたい結束だが、最初から全然ふえていない。
(おれが見通した通りじゃ、どんどんふえて行きつつあるのと、少しもふえんのとでは、大へんなちがいじゃ。この模様では、来年の春になったら、おもしろい戦さが出来るわ)
と、大いにうれしかった。
ここで、もう一つ人気の出ることをしようと思った。そこでとり行ったのが、信長の葬儀であった。
三
秀吉は、自分の養子の秀勝が信長の四男であるので、兄である信雄《のぶかつ》と信孝とに、父君の御葬儀をとり行うべきであろうと口説かせる一方、自分の名で柴田、丹羽、滝川の三人に手紙を出して、先君の御葬儀はいかがなさるかと問い合わせたが、信長の遺子らも、かつての老臣らも、その気はさらにないようである。新しく得た領地の経営で当分のところ手がはなせない。明年のご一周忌頃には手すきとなるから、その頃とりおこなったら、いかがであろうかと、返答したのはまだよい方で、返事もよこさないものもいた。柴田は、新領地の経営とも言えなかったらしく、
「少々とりこみごとがある故、明年にしたらばと思っている」
と、返事して来た。
(とりこみごとか。いずれは来年の戦さ支度がそれであろうよ。おれをほろぼし、そのあとで自分が施主《せしゆ》となって執行《しゆぎよう》しようという量見であろうが、そうはいかんぞ)
と、秀吉は心ひそかに笑った。
(みながこう煮え切らんなら、かえって都合がよい。おれが施主となって、一人でとりおこなってやる。何ぞ一つ目をおどろかすことをやりたいと思うていたところであった)
と心をきめ、信長の葬儀を行うことを広く宣伝して、十月十一日から五日間にわたって、紫野の大徳寺でとりおこなった。
秀吉が姫路城中で明智征伐の意志を表明した時、吉野の花ざかりの花見にたとえた大村|由己《ゆうこ》は、この葬儀のありさまを、こう書いている。
「なかんづく、十五日のご葬礼の作法、目をおどろかす所なり。先づ棺槨《かんかく》は金紗金襴《きんさきんらん》をもつてこれをつつみ、軒の瓔珞《ようらく》、欄干《らんかん》の擬宝珠《ぎぼしゆ》、みな金銀をちりばめ、八角の柱は丹青《たんせい》を画き、八間の間は彩飾を致す。おん骨は沈香《じんこう》をもつて仏像を彫刻して、共に棺槨の中に奉納す。かの蓮台野《れんだいの》には路中につづきて方百二間の火屋《ほや》(火葬場)あり、方形造りの堂にして、総廻りに埒《らち》(竹垣)を結ふ。羽柴小一郎秀長警固の大将となつて、大徳寺より千五百間の間、警固の士《さむらい》三万ばかり、路の左右を守護し、弓箙《きゆうふく》・槍・鉄砲を立てつづけ、葬礼の場は秀吉分国の徒党は言ふにおよばず、諸士ことごとく皆|馳《は》せ集まり、そのほか見物の輩、貴賤雲霞のごとし。おん輿《こし》の前の轅《ながえ》は池田|古新《こしん》輝政これを舁《か》き、後の轅は羽柴お次丸秀勝これを舁く。おん位牌、おん太刀は秀吉これを持つ。かの不動国行なり。西行(西嚮の誤字であろう。西に向いてなり)して相|聯《つら》なる者三千余人、皆|烏帽子《えぼし》、藤衣《ふじごろも》(喪服)を着す。五岳(五山)をはじめ、洛中洛外の禅律《ぜんりつ》、八宗九宗の僧侶、幾千人なるを知らず。その宗々威儀をととのへ、叉手《さしゆ》問訊し、集会《え》行道す。五色の天蓋《てんがい》は日に輝き、一様の幢旛《どうばん》は風にひるがへり、枕木の煙は雲のごとく、灯明の光は星に似たり。供具の盛物、竜足の造花、七宝の荘厳《しようごん》をなす。まことに九品《くほん》の浄土、五百の阿羅漢《あらかん》、三千の仏弟子、目前に在るがごとし」(原漢文)
その偈《げ》はこうであった。
四十九年は夢一場、威名説けば、いかにか存亡せし
請《こ》ふ看《み》よ、火裏の優曇鉢《うどんはつ》
吹いて梅花となつて遍界にかんばし
優曇鉢は優曇鉢華《うどんはつげ》の略で優曇華と同じ。仏説で三千年に一度花咲くという想像上の植物で、この花が咲けば金輪《こんりん》王が世にあらわれると説く。また金輪王が出るとこの花が咲くとも説く。仏説では須弥山《しゆみせん》を中心にして四つの大洲があり、われわれ人間の住む世界はその南方の大洲であるが、金輪王が出現すると、四大洲全部を統合すると説くのだ。天下統一を目ざした信長を金輪王に見立て、おしいかな火裡のうどんげのごとく覇業《はぎよう》なかばにして横死《おうし》したが、その勲業の余熏《よくん》は梅花のごとくかんばしく満天下にひろがっているという意味であろう。
朝廷では信長に従一位|太政大臣《だいじようだいじん》を追贈し、おくり名を「総見院殿贈大相国|一品《いつぽん》泰巌大居士」と賜わった。
秀吉は費用として銀千百枚をおくって大徳寺の子院として総見院(今はなし)を建立させ、五十石の寺領を寄進し、別に、銭一千貫文を太刀代として寄せた。
なにごとも、壮大に、豪華に、にぎやかに、かざりつけなども金と朱をふんだんにつかって、ごてごてとやっつけるのが、秀吉の好みだ。この葬儀なども、それであった。
こういう趣味は、太平がつづいて、人心がおちついて来ると、田舎者の好みとして、歓迎されないが、このころは時代が時代だ。まだ戦国だ。天下をあげて田舎者となっていたといってよい。秀吉のやり方、秀吉の好みは、大いに歓迎された。
(豪儀じゃ。えらいものじゃ。やあ、見事、見事、ぎらぎらしとるわ。まばゆいわ。なんと、ごつう金つかわはったなァ。肝先《きもさき》のきれるお人や)
と、感嘆したのであった。
ともあれ、大成功であった。
(見ろよ、これでまたおれには味方がふえるのじゃ)
と、秀吉は内心得意でいたが、間もなく、おどろくべきことを聞いた。
お市《いち》様が柴田の後妻として迎えられて、北《きた》ノ荘《しよう》に入輿《じゆよ》されたというのである。
秀吉は色を失った。その知らせを持って来たのは、石田左吉の父藤右衛門であった。藤右衛門は息子が秀吉につかえてからも、長男とともに長浜近くの石田郷にいて、郷士《ごうし》として暮している。秀吉はこんど長浜を柴田にゆずって、長浜を引きはらった時、旧領内の郷民共のうち心|利《き》いた者数人をえらんで、江州《ごうしゆう》における物聞き役をつとめてくれるように委嘱《いしよく》したのだが、藤右衛門もその一人であった。
「せがれがお世話になっているのでございます。出来るだけのことはいたします」
と、引受けた。
左吉もなかなかの利口者で、大いに役に立っているが、その父だけあって藤右衛門もなかなか鋭い男だ。五、六人こしらえた物聞き役の中で、一番よい情報を送ってよこす。
つい一月くらい前に持って来た情報は、なかなかのものであった。
勝家によって長浜城代に任ぜられている柴田勝豊は実際は勝家をうらんでいるというのだ。勝豊は勝家の分家の生れで、勝家に子がないので、その養子になったのだ。勝家は親類の子を数人もらって養子にしているが、勝豊はその最初の養子なので、勝家も特別大事にしているように聞いていたが、藤右衛門の報告によると、大いにうなずけるものがある。
(なるほどな。これはいざという時に使えることじゃ。よく覚えておこう)
と、深く心にきざみこんでおいたのであった。
さて、お市様のことだ。
藤右衛門の報告の手紙にはこうある。
お市様は十月十六日に岐阜をご出発、越前に向われた。姫君方お三人もご一緒であった。長浜には十八日にご到着で、一夜をお城でご休息になった。長浜には越前からお迎えの人数が多数来ていて、翌日お供して椽木《とちのき》峠を越えて越前に入った。自分は長浜まで出て、お城をご出発になる行列を拝んだ。お市様も、姫君方も、深く被衣《かつぎ》を召してお出でであったので、お顔を拝むよすがはもちろんなかったが、屈強な武士共のつくる行列の中に、そのお姿は思いなしか胡国《ここく》にとつぎ行く王昭君《おうしようくん》もかくやと思われて、何とやら涙をもよおしたことである。この君はかつて拙者共が領主と仰いた備前守《びぜんのかみ》(浅井長政)殿の奥方であったお方であり、姫君方はその備前守殿のお子方であると思えば、感慨ひとしおなものがあった。在郷の百姓共も、長浜の町の町人共も、同じ思いであると見えて、しきりにかれこれのうわさをしている。
そのうわさ話の一つであるから、正否のほどはわからないが、このお輿入《こしい》れは、岐阜においでる三七信孝様が、故右大臣様のあとをついで天下取りになろうと思い立ち、柴田殿の助力をもろうため、いやがるご料人《りようにん》さまを無理に口説きおとして、つかわされることになったのだという。思えば、このご料人ほど気の毒なお人はそうたんとはあるまい。はじめは兄様のご野心のために備前守殿へ縁づかせられ、その備前守殿は兄様のために殺され、こんどは甥《おい》ご様のご野心のために柴田殿へ再縁させられなさるのだ。大名高家に、みめ美しゅう生れるのは、よほどに幸運なおなごの身の上と思うていたが、どうやらえらい不運なことのような、などと、皆言っている。
(そうだったのか……)
胸のうちはあらしに吹きまくられる樹木のように波立っていたが、むしろぼうぜんとした心でつぶやいた。
十六日といえば、紫野での葬儀がやっと済んだ翌日だ。あの葬儀には、もちろん、信孝からも、柴田からも、家来を代理としておくって会葬させた。しかし、片方では着々とこの準備を進めていたのだ。葬儀のすんだ翌日の十六日に岐阜を出発させたというのも、
(汝《われ》は葬儀などで血道を上げていい気持になっているが、こちらはこんなことをしていたのじゃよ。どうして、どうして、三七様と柴田との結びつきはかたいものよ)
と、誇示するために、わざとしたことにちがいないと思った。
そう思ったとたん、葬儀のことを柴田に言ってやった時、柴田が、少々取りこみごとがある故、明年にしたらばと思うと、返事をくれたことが思い出された。とりこみごととは、お市様を迎える支度のことであったのか、と思った時、「あっ!」とさけびそうになった。
涙がこぼれて来た。
(人もあろうに、柴田に!)
出しぬかれたと思うと、胸がにえくりかえりそうになった。
四
(来年の春は必ず柴田と決戦して、徹底的に撃滅してやる)
と、秀吉はきびしく決心した。
ちょうどその頃、美濃地方に出している忍びの者がかえって来て、数日前に滝川|左近将監《さこんのしようげん》が長島からごく少ない供まわりで岐阜に来て、岐阜城に入って信孝と終夜談合し、翌日帰って行ったと報告した。
「何とかして、密談のなかみを知りたいと存じましたが、左近将監殿の用心はぴしぴしとつぼにあたっていまして、まるですきがございませんので、そのへやに近づくことも出来ませなんだ。まことに残念でございます」
「滝川は出が甲賀士《こうがざむらい》じゃ。忍びは得手《えて》じゃ。用心にぬかりのないは当然のことじゃ。よいよい、それだけ聞けば、大体察しはつく。どうだな、岐阜城では鉄砲や玉薬《たまぐすり》を多く仕入れた話は聞かんか。あるいは仕入れるという話でもよいが……」
滝川、信孝、柴田は一つ穴のむじなだ、滝川が鋭意兵力をたくわえつつあることは、やはり忍びの者の報告でわかっている、もし信孝も兵力をたくわえることに精出しているなら、二人が合同して事をあげ、自分がそれを討伐に行っているすきをねらって、柴田が越前から切って出て来る計画にちがいなく、今やそれにとりかかったと見てよいと思ったが、忍びの者は、
「いいえ、それはいずれも聞きません」
と言った。
「そうか、聞かんか。なおよく気をつけていて、今申したことや、その他平常と少しでもかわったことがあったら、知らせるよう。大儀《たいぎ》であった」
ほめて、過分に銀子《ぎんす》をとらせて退《さが》らせた。
(三七殿があけらかんとしているくらいなら、今年は別に危ないことはなさそうじゃわ。もっとも、油断は出来んが)
と、思っていると、信孝から使いが来た。信孝の手紙をたずさえていた。
「この頃世間のうわさを聞くに、そなたと柴田と、融和しないため、なんとやら世間が落ちつかないとのこと。これでは、天下の人心が定まらない。互いにおれ合い、譲り合って、仲よくしてくれるよう。なお、柴田にもそう申してやったから、いずれ柴田の方から、何分の話があろう。ぜひおれ合ってくれるよう。天下のためである」
という文面だ。
これで、手のひらにものを指すように、滝川と信孝の計画がわかった。越前からこちらに兵をくり出すことは、今の季節ならまだ不可能ではないが、出来るだけ避けた方がよいというので、明春雪の融《と》ける頃まで、おれをだましておさえつけておこうというのだわ。ハハ、それくらいのことが読みとれぬおれと思いなさるのか。おかしや。
この手紙にたいして、秀吉は、ご教諭は謹《つつし》んで拝承、せいぜいなかよくすることにつとめます故、ご安心願いたいと書きはしたが、そのあとにわざとごてごてと不満を書きならべた。
清洲会議の決定が蹂躙《じゆうりん》されて、三法師《さんぼうし》様がいまだに安土《あづち》にお移りにならんのは、あなた様がおさえてお出《い》でるからだといううわさだが、本当か。
明智を征伐して、故|右府《うふ》様のご分国を回復したのは、全部自分の力によるものであるのに、自分は謙退無欲、元来自分の知行地《ちぎようち》である江州の伊香・浅井・坂田の三郡と長浜城とを柴田に譲った。志賀・高島の二郡と坂本城も、これは明智の知行地であり城であったのだから、当然自分のものとなるべきであるのを、丹羽に譲った。尾州と清洲城は信雄様にわたし、美濃と岐阜城はあなた様にお渡しした。これほど無欲にふるまった拙者に、あなた様や一部の宿老衆《しゆくろうしゆう》は悪意を抱《いだ》いてお出でだ。そんなことがあってよいものであろうか。
故右府様の葬儀を拙者が執行したのは、あなた方ご兄弟も、宿老衆も、一向とんじゃくがなかったから、天下に外聞も悪いので、とり行ったのだ。右府様が天下統一の大事業をご達成あそばされた上で天命尽きてご最期あそばしたのであったら、拙者はご葬礼の後、追腹十文字に切っても、八幡大|菩薩《ぼさつ》、憾《うら》みはなかったのだ。僭越《せんえつ》であると仰せある向きがある由、心外千万である。
というのが.そのごてごてであった。
このごてごては、やがて打つ手の置き石なのであった。
十一月一日、前田又左衛門の家老村井又兵衛が旅姿で訪ねて来た。
ほう、又左が柴田の使いを頼まれて来るのかと、秀吉はすぐに合点《がてん》が行ったが、
「やあ、又兵衛、めずらしいの。よう来てくれたの。京に買物でも言いつかって来たのかや」
と、何にもわからないふりで、明るく声をかけた。
「お久しゅうございます。いつもまめで、益々ごさかんなこと、およろこび申し上げます。わたくし、主人の供をしてまかり上ったのでございます。主人と、不破(金忠)様と、金森(長近)様とが修理亮《しゆりのすけ》(勝家)様のお使者に頼まれまして、ここへまいることになりましたので、わたくしがお供したのでございますが、大津から山科《やましな》道をとって、先触《さきぶ》れのため、こうして参りました。主人らは京へ入って、明日まいることになっております」
と、村井は鄭重《ていちよう》に答えた。不破も、金森も、信長が勝家につけた寄騎《よりき》大名である。
「おお、おお、そうか、そうか。この寒空《さむぞら》に、それはご苦労なことじゃのう。今日は風がないせいで、大分暖かじゃが、昨日まではこちらもずいぶん寒かった。ちらちらと雪花《ゆきばな》が飛んだほどであった」
越前の気候を問い出すために言ったのであるが、果して村井は乗って来た。
「雪花くらいなら、まだようございます。越前はもう二度も雪が降りました。例年三度目あたりから根雪《ねゆき》になりますが、今日あたりは降っているかも知れません。根雪になると、もう何にも出来ません。毎日毎日、大|囲炉裏《いろり》にぼんぼん薪《まき》を燃やして、そのへりで茶をくらいながらばか話して長い冬を暮すのでございます。わたくし共は元来暖国に生い立った者でございますから、なんとも辛気《しんき》くさいことでございます」
「なるほどのう、そういうところか。さらば、せめてこちらにいる間だけでも、明るい日の光を浴びておくがよい。さて、又左は大の仲好しなり、金森は茶の湯気違いなり、なんとしてもてなそうかの。これは工夫の要《い》るところじゃの」
といいながら、秀吉は、心の底で、あと数日何事もなければ、来年の雪どけまでは柴田を北ノ荘に釘づけにしておけるわけだとよろこんでいた。
翌日、午前中に三人は到着した。秀吉は前もって家臣の富田左近将監《とださこんのしようげん》を途中まで迎えに出して、長岡領に接する寺戸《てらど》に待たせておいたのである。
秀吉は宝寺の客殿で対面した。
又左衛門が一番身分が高くもあれば、秀吉と親しくもあるので、口上をのべた。要するに、
「右大臣様ご逝去《せいきよ》あって間もないのに、遺臣らが早くもいがみ合っては、世間の物笑いになる。この度、三七様からお諭《さと》しをいただいて、まことに恐縮に思った。自今和睦《じこんわぼく》して、若君を取立て、右大臣様のご厚恩に報い奉りたいと思う。貴殿においても、その心になっていただきたい」
というのであった。
「これはごねんごろなる仰せ、その上遠路わざわざまいられてのこと、かたじけなく存ずる。われらの許《もと》へも、三七様からお諭しがあったのでござる。修理亮《しゆりのすけ》殿はお家の長老《おとな》でござれば、われら何しに否《いな》み申そう、いかようにも修理亮殿おさしず次第にいたすでありましょう」
秀吉はうやうやしい行儀で鄭重《ていちよう》に答えた。これで、用談はごく短時間に済んで、あとは打ちとけての懇親ばなしになった。
三人は、その夜と翌晩の二夜泊まり、秀吉の最も鄭重な饗応《きようおう》にあずかって、十一月四日、山崎を立って帰国の途についたが、半刻《とき》(一時間)ばかりの後、引きかえして来た。
「やあ、やあ、忘れものじゃろう」
と、秀吉は迎えて、愛想よく言った。
又左衛門は笑いながら言う。
「おぬしとおれとのことだけなら、口約束ばかりでよいのじゃが、この約束は修理亮殿とおぬしとの間のことで、おれ共は修理亮殿の使いを頼まれて来たのじゃ。なにか証拠になるものをもろうて行きたい。証文がもらえれば、一番よいのじゃがな」
いずれ引き返して来て、こう要求するだろうとは、見当がついていた。だから、用意した答えをすらすらと述べた。
「よくぞ帰って来てくれた。そなたらが立って行って間もなく、わしもそれに気づいたのじゃが、とてものことに、この証文はわしが一人で書くより、丹羽五郎左殿や池田|勝入《しようにゆう》殿などにも話をして、皆の連判《れんぱん》にした方がよかろうと思って、ちょうど今、皆にその手紙を書きかけていたところであった。この旨、修理亮殿へ申してくれまいか」
近習《きんじゆ》の者に言って、自分の居間から、丹羽長秀あてに書きかけた手紙を持って来させて見せた。
秀吉が嘘《うそ》を言わない人間であることは、皆知っている。こうまでされては、信じないわけに行かない。三人は互いに顔を見合わせてうなずき合い、
「それでは、そういうことにしていただこう」
と言って、再び宝寺を立って行こうとした。秀吉は呼びとめた。
「とてものことに、そなたら越前へ手紙をもってことわって、両三日京へ滞在して、右大臣様のおん墓所やご廟所《びようしよ》へお参りしたり、京の酒を飲んだり、国許《くにもと》のおんな共に土産ものなど買ったりして、それから下ったらいかがじゃ。案内の者は、ここからつける」
そうすることになって、秀吉は富田《とだ》左近将監をつけてやった。富田は元来信長につかえた者であったが、この頃から秀吉につかえて、事務官僚としてなかなか手腕のあった人物である。
五
柴田からの使者を送って二十日ばかりの後、秀吉は黒田官兵衛と蜂須賀彦右衛門《はちすかひこえもん》とを尾州清洲につかわした。
二人は信雄《のぶかつ》に会って、
「三七様のこの頃のなされ方は、まことに怪しむべき節々があります。第一には、この夏の当城での申合わせでは、安土に仮普請《かりぶしん》が出来次第に、三法師様を安土にお移し申し上げるというのでありましたが、その仮館はとうに成就《じようじゆ》しましたのに、そのことがありませんのは、三七様がおさえてお出でるからでございます。第二、三七様はご一族の誰にもご相談なく、お市《いち》ご料人様を柴田殿へ再縁させられました。柴田殿の心を攬《と》るためであることは明らかでありますが、何のためにそれほど柴田殿の心をとらねばならぬのでござろう。疑うべきでございます。第三に、三七様はひそかに戦さ支度をなさっています。堺商人から鉄砲や玉薬などをおびただしく買い入れつつあられることは、岐阜城下では誰知らぬ者のないことであります。以上の三つを考え合わせますれば、来年の雪どけを待って柴田と力を合わせて筑前を撃ちほろぼし、三法師《さんぼうし》様を織田のお家のご当主の位からおろし申し、ご自身代らんと心組んでお出《い》でることは、明らかであります。されば、柴田が雪に閉じこめられている間に、撃ちくじき申さずば、ゆゆしい大事になるでありましょう。三七様を討ち申すべきおさしずをいただきたく、こうしてまいりました」
と、説いた。
信孝は鉄砲弾薬を買い入れつつなんぞしてはいないが、ここはこう言う必要があるのだ。それが機略である。元来、信雄と信孝は兄弟とは言いながら、なかが悪いのである。二人は同年同月に生れ、実を言えば信孝の方が早く生れたのだが、信長に届けるのに、信孝の方が遅れたために、信雄が二男となり、信孝が三男となったのが、その不和の第一の原因であると伝えられている。
もっとも、そんなことなぞなくったって、ほぼ同年輩の兄弟が、生母がちがって別々に育てられ、父と長兄とが同時に死んで、大身代が目の前にあるとすれば、いがみ合いがおこるのは自然である。
信雄は最も凡庸《ぼんよう》な人物だが、凡庸だからといって、欲がないわけでもなく、嫉妬《しつと》心がないわけでもなく、猜疑心《さいぎしん》がないわけでもない。信孝が叔母《おば》を柴田に再縁させたことを知って以来、信孝を疑いの目で見ていた。だから、二人が秀吉の使者として来て、こう言うのを聞いても、一も二もなくその気になった。
「筑前もそう疑っているか。わしもけしからんと思うている。よいとも、討ってよいぞ」
と、言った。
「早速にお聞きとどけ下され、ありがたく存じ上げます。筑前も、さぞ力づくことでございましょう。三法師様ご後見としては、お屋形《やかた》おひとりおわせば、結構なのでございます。ふたりの後見というは、なかなかうまくまいらぬものでございますね」
官兵衛は信雄の欲と名誉心とをちょびりと刺戟して、その心をかためることを忘れなかった。
こうして、信雄の許可を得た以上、信孝を討っても、不臣のことにはならないわけだが、秀吉は大事を取った。
「柴田の出城《でじろ》である長浜を討つ」
という名目で、なかまの諸将にふれまわして出兵を要請した。丹羽、筒井順慶、池田勝入斎の子勝九郎|之助《ゆきすけ》、細川幽斎父子、蜂屋等の人々は皆|快諾《かいだく》して、来てくれた。
秀吉は十二月七日に京都を出発、十三日に丹羽長秀の本城である佐和山城に入り、ここで勢ぞろいしてから長浜に向った。
長浜城ではおどろきおびえた。その上、城将の柴田勝豊は当時病気であった。さほど重態というではなかったが、四か月後にはこの病気で死ぬのであるから、つまり死病にとりつかれていたのだ。容態に不相応に気力がおとろえていた。人々はとうてい戦う勇気は出なかった。といって籠城《ろうじよう》戦に出て、援軍の到着を待つことも出来ない。越前は深い雪に閉ざされて、勝家の出て来るのは望めないのである。
さればとて、岐阜の三七信孝がそれほど頼もしい味方とは思われない。
木曾川河口の長島にいる滝川|一益《かずます》もまた、この支城《えだじろ》を一つ救うために遠い路を来てくれる親切はあるまい。
途方にくれている間に、秀吉は城のまわりにひしひしと諸軍を陣取らせたが、いましめて、一発の銃も放たせなかった。
調略で降伏させる成算があった。今の城中が頼りない身の上であることも好材料だが、それがなくても、説きようでは降伏させることが出来るはずと計算を立てていた。
前述したように柴田勝家は実子がなかったので、一族の子供を多数養子にしているが、その中で最も早く養子になり、年かさでもあるのは、勝豊である。ところが、その後、勝家は姉の子である佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》盛政の武勇を愛して、ことごとに盛政を立て、勝豊をおさえた。勝豊は安からぬことに思っている――というのだ。これは石田左吉の父藤右衛門が、勝豊の家中の者から聞き出して、知らせてくれたことだ。
(このような心がある以上、必ず説得出来る)
と、信じていたのであった。
秀吉は城中に使者を立てた。
「伊賀守《いがのかみ》(勝豊)にお目にかかりたいのであるが、ご病中の由をうけたまわれば、老臣《おとな》らに会いたい。決しておため悪《あ》しきようにはしない故、ぜひ会ってもらいたい」
城中では相当せんぎがあったのであろう、少し暇《ひま》取ってから、家老の木下半右衛門尉、大金藤八郎、徳永|石見守《いわみのかみ》三人が、城を出て会いに来た。秀吉はおだやかな調子で説いた。
「この城はわしが築いて、長く住みなれたのである故、どこをどうすればよいか、ようわかっている。攻め落す気になれば、片時の間に出来る。さりながら、無益に人を殺すことは、本意でない。降参してもらいたい。いやいや、降参ではないな。味方になってもらうのじゃ。なぜなら、城を開け渡してもらうのではないから。伊賀守が証人をさし出すだけで、そのまま城にいてもらうのじゃから。この城には伊香・浅井・坂田の三郡がついている。それもそっくり伊賀守にまいらせる。わしは修理亮《しゆりのすけ》が伊賀守にどんな仕打をしているか、聞いている。損はさせぬと思っているが、どうかの」
三人の家老は大いに心を動かした風であったが、
「われらだけでは返答が出来ません。一旦《いつたん》かえりまして、主人に申し聞けました上で、なにぶんの返答をいたします」
という。
「よし、よし。それではそうしてくれい」
と、三人をかえしたが、三人はおり返しといってよいほどの早さで帰って来て、万事|御意《ぎよい》に従いたいと返答した。
話がきまると、勝豊は人質をさし出した。秀吉はこれを連れて、長浜を引き上げた。
そのあと、長浜では、勝豊は自分が勝家を恨めしく思う理由十七条を書き立て、組頭《くみがしら》以上の者共を集めて、これを見せ、
「この中でわしの方が悪いと思われることがあったら、はばからず申してもらいたい」
と言った。しかし、いずれも、よく読んでから、
「一々ごもっともなことでござる」
と言った。勝豊は重ねて、
「この上とも、わしに奉公したいと思うものはとどまってくれい。また、なお修理亮を思いはなちがたいと思うもの、あるいは越前に父母妻子ある者は、立去っても、少しも恨みとは思わぬぞ」
と申しわたした。
それで、とどまる者あり、立去るものありで、「騒動もっての外なり」と、『甫庵太閤記《ほあんたいこうき》』にある。去就《きよしゆう》を人々の心にまかせて、無理強いしないところが、いかにも戦争が常住であったこの時代の武士らしいのである。観念的な武士道徳が喋々《ちようちよう》と言い立てられるのは、めったに非業《ひごう》にして死ぬことのなくなった太平の時代のことである。
六
十八日は、おそろしく寒い日で、風が吹きすさび、雪が舞う日であったが、秀吉は総勢三万余の軍勢で、美濃に入り、その日は赤坂に陣を張った。
すると、かねてから好意を見せていた大垣《おおがき》城主の氏家《うじいえ》行広と曾根城主の稲葉《いなば》一鉄とが来て帰服した。
この人々は元来美濃でそれぞれ独立の小豪族である。昔|土岐《とき》氏や斎藤氏に属していたといっても、家来ではない。自存の必要上、土岐氏や斎藤氏を旗頭《はたがしら》と仰いでいたというに過ぎないのだ。織田氏との関係もまたその通りであった。この時代はこういう武士相互の関係の過渡期で、小豪族と旗頭との関係、大名と被官《ひかん》との関係なども、一律に主従君臣の関係となって行きつつある時代であるから、信長の方では二人を家来と見ていたかも知れないが、二人の方では昔ながらの旗頭としか思っていなかったろう。しかし、信長は最もすぐれた武将であったし、最も恐ろしい人でもあったから、大いに尊敬もし、恐れもし、忠誠を尽さなければならないと思ってもいたが、単に織田家の三男というにすぎない信孝などにたいして忠誠心のあろうはずはないのである。
秀吉に帰服するのに良心の痛みなどさらになかったのである。
二人につづいて、美濃士《みのざむらい》の帰服して来る者が引きもきらず、二十一日まで赤坂に滞陣している間に、国内の地士のほとんど全部が集まった。秀吉はこの人々にのこらず安堵状《あんどじよう》を出した。
この日、秀吉は氏家の居城大垣に移ってここを本営とし、兵を分けて諸方の支城《えだじろ》に向わせた。いずれも防戦するものは一城としてない。兵が向いさえすれば降伏するのだ。
信孝は世間の辛《つら》さを身にしみて味わった。彼は信雄とちがって、多少の力量があり、多少の勇気があったが、信長の子という身分がなければ、普通の人間にすぎない。山崎合戦の時までは、まだ信長の光がのこっていたので、従う人もあり、働いてくれる人もあったが、今となってはもう信長の光はない。赤裸で秀吉に立向わなければならないことになったのであった。
ついに、丹羽長秀の陣に、家老の岡本重政を使者として出し、秀吉にとりなしてくれるように頼んだ。
「証人はお出しになるのじゃろうな」
と、長秀はたずねた。
岡本はおどろいた顔になった。主筋の者から、家来筋の者に人質を出すというのが、よほど奇妙に考えられたらしかった。
長秀はきびしい顔になった。
「戦さじゃ。それに、筑前守は三介(信雄)様のおさしずを受けて行きむかったのじゃ。証人は当然のことじゃろう」
「道理でございます。それでは、誰々《だれだれ》の証人を出せばよろしゅうございましょうか」
「三七様の母御前《ははごぜん》と姫君、おぬしの母者とおぬしの同役の幸田彦右衛門の母者と、まあ、こんなことで話はつこう」
長秀は使者を待たせておいて、大垣城に行き、秀吉に会った。秀吉にしてみれば、この際徹底的にたたきつけ、出来るなら腹を切らせた方が、後患《こうかん》がなくてよいのだが、丹羽がとりなしてこう言う以上、聞かないわけには行かない。無理をすれば主殺しの名を取るとも思った。
この結果、信孝の生母坂氏、信孝のまだ幼い娘、二人の家老らの母が、人質としてさし出された。
秀吉は三法師丸と傅役《もりやく》前田|玄以《げんい》とを岐阜城から安土城の仮館に移したが、信孝とその家老らから送られた人質らもここにおくことにした。
三万の軍勢は美濃から引き上げて、それぞれに帰って行った。秀吉はしばらく自分の軍勢を佐和山にとどめておいて、二百騎ばかりを精《すぐ》って湖岸を北に向い、北国街道を深く柳《やな》ガ瀬《せ》のあたりまで入って、二日にわたって付近一帯の山々谷々をくわしく踏査して引きかえし、それから軍勢をひきいて宝寺に引き上げた。
宝寺に帰ったのは天正十年もぎりぎりにおしつまった十二月二十八日のことであったが、ほんの一刻ほど休息したかと思うと、姫路に向った。
六月九日、明智退治のために姫路を出陣してから、一度も帰らなかったのだ。まる半年ぶりの帰城なのであった。
賤が嶽
一
秀吉の姫路に帰りついたのは、元日の夜なかであった。二十八日のもう夕方近く宝寺を立ったのだから、天正十年から十一年へうつる時刻には、兵庫あたりを歩いていたのではなかったか。
姫路城につくと、母やねねや留守居の者に会って、何くれとなくいたわったり、いたわられたりしながらも、かかりの役人どもを呼び出して、上方へ引き連れて行った家来共にも、留守居の家来共にも、全部に明朝あたえるべき銀子《ぎんす》、米、酒、肴《さかな》等の用意をさせた。
夜が明けると、家来共はあいさつのために、続々と登城して来る。秀吉はこれに用意のものをくれて、
「持って帰って、家の者共と一緒に祝え」
と言いわたした。
城中、城下、忽《たちま》ち大へんな陽気さになった。『甫庵《ほあん》太閤記』はこれを「朝より夜半におよびて、ここもかしこも謡《うた》ふ声々、融々《ゆうゆう》として万歳を呼ばふ。めでたかりける年のはじめなり」と叙《じよ》している。
しかし、秀吉自身は遊んではいない。右筆《ゆうひつ》らを呼び出して、恩賞すべき家中の武士共の名を書き立てさせ、あたうべき品物をさしずして書き入れさせた。知行《ちぎよう》や扶持《ふち》の加増からはじまって、馬、太刀、小袖《こそで》、米、馬の飼料《かいば》(この名目で米をくれるのだ。当時の米は玄米だから、少し精《しら》げて糠《ぬか》をとる。それが馬の飼料《かいば》となるところから、馬の飼料《かいば》と言うのである)におよんだ。総計八百六十余人になった。
秀吉は十人の役人を呼び出し、その書付をわたして、
「わいらにこの奉行を仰せつける。五日のうちに一人のこらず皆にくれるようにせよ。おくれたらば曲事《ひがごと》じゃぞ」
と、申し渡した。
それが、ちょうど正月二日の正午頃であった。
「やあ、腹が空いたわ」
と言って、朝飯をとりよせて、さらさらと食べてしまい、寝室に入ったが、忽ち高いいびきをかいて、深い眠りにおちた。甫庵は、
「百合若《ゆりわか》大臣、いくさにし疲れ、熟睡せられしにも越えたり」
と、表現している。
百合若大臣の伝説は、ホーマーの『ユリセス(オデッセー)』に叙せられた話がいつの頃かに日本に来て、定着したという学者の研究がある。謡曲などにもなっているから、相当古い渡来のようである。甫庵の太閤記が書き上げられたのは、秀吉の死後二十八年の寛永三年だというが、その頃にはもうずいぶん深く日本人の心理に定着していたのだ。おもしろいものである。
秀吉は二十四時間、昏々《こんこん》として眠りつづけ、三日の午《ひる》すぎに眼をさまし、よろよろと居間に出て来て、
「よう寝たわ。きつう元気が出たぞ。鬼とも組討ちが出来そうな」
と言って、家来共の年頭の礼をうけることにした。
「姫路住いの者共の礼を、今日中に受けてしまう。皆々そのつもりで、いるよう」
と、触れを出し、大広間に出ると、武士共は続々としてつめかけて来て拝礼した。広間から城下の町まで行列がつづいて、数時間切れなかった。四日と五日は、城下を離れた在所住いの武士や、支城《えだじろ》の城主や城代、寺々社々の坊さんや神主殿の礼日としたので、この人々がおしかけて来た。
三日の城下衆にも、四日・五日の衆にも、秀吉は一々適当なことばをかけてやって、相手をよろこばせることを忘れなかった。
秀吉は正月一月姫路にとどまり、なお、その翌月の閏《うるう》正月はじめまでいた。久方ぶりの帰国と、身辺の平安と、日ましに暖かくなる中国路の春光とを、悠々と楽しみながらも、注意はきびしく東に向けつづけた。
(柴田は雪に閉ざされて動けんが、滝川が何かやるかも知れん。やるじゃろう。越前境の山路の雪が溶けるまでの間に何かして、おれをこまらせ、何ならおれが力を三分の一でも半分でも引きつけたかろう。柴田の利になることじゃからな)
と思っているからであったが、別段それを恐れてはいない。むしろ、早くその手に出てほしかった。柴田が雪に閉ざされている間に、滝川を退治することが出来れば、背後から襲いかかられる心配なく、柴田に対することが出来るのだ。
実は、その気持があったから、姫路にかえり、悠々と遊んでいるのだ。わざと見せているさそいの隙《すき》であった。しかし、正月いっぱいなにごともない。心ひそかにあせっていると、ここにも秀吉の幸運があった。
伊勢|亀山《かめやま》の城主関盛信の家は早くからの伊勢|士《ざむらい》であったが、同族|神戸《かんべ》家を伊勢国司北畠氏の次男|具盛《とももり》がついだので、以後神戸氏を主と仰ぐことになった。ずっと前、信長は伊勢征伐をした時、三七《さんしち》信孝を神戸家に無理養子に入れたから、その後、関盛信は三七信孝の家来ということになっていた。無理に家来にされたようなものだから、もちろん信孝に心服してはいない。天下|人《びと》織田家の三男だから、しかたがないと思っていたのだ。
しかし、信長が死んで、今や事情が変って来た。必ず動くはずと見込をつけた秀吉は、関盛信の嗣子《しし》一盛が蒲生《がもう》賢かた秀《ひで》の女聟《むすめむこ》であることに目をつけ、賢秀から、味方するようにと、関父子を口説かせると、関は峰《みね》の城代である岡本重政を誘って、帰服を申しおくった。
これは秀吉がまだ宝寺にいる頃のことであったが、その関父子が正月の末、年賀のためにわざわざ姫路まで来た。するとその不在中、関城では大へんなことがおこった。
関家の老臣の一人|岩間三太夫《いわまさんだゆう》という者が、主人父子の不在に乗じて兵をひきいていきなり亀山城に攻めこんで、奪ってしまい、長島城に急使を走らせ、滝川|一益《かずます》に事情を報告して、指揮を仰いだのだ。
滝川は関父子や岡本重政が秀吉に気脈を通じていたことはまるで知らなかった。
「やれ、そういうことになっていたのか。知らざったら、大へんなことになるところであったわ。柴田やわれらの運のめでたいところじゃ」
と、よろこんで、兵をひきいて長島を出た。
このことが峰の城にわかると、岡本重政は峰の居城を捨てて逃げ去った。滝川はこの城に入った。亀山の北方五キロほどの地点にある城である。
滝川は伊勢路における旧|神戸《かんべ》氏の諸城が皆不安になって、全部自分の腹心のものと入れかえた。峰に滝川|詮益《あきます》、亀山に佐治《さじ》益氏、関に滝川|法忠《のりただ》という調子である。国府、加太《かぶと》の両城も守備を厳重にした。つまり、鈴鹿《すずか》峠を経る幹線道路(東海道)を通って伊勢路に入って来る口をきびしく封鎖《ふうさ》したのである。
この知らせは、閏正月になってから、姫路についた。秀吉は、竿《さお》の先きに大きな手ごたえを感じた釣師の気持であった。
(しめた!)
と、思った。滝川がよろこんだ以上によろこんだ。
早速、姫路を出発して、七日には京都に入り、八日の夜安土につき、翌日三法師丸にお目通りして、自分の領国の武将らや、味方の諸将に触れを飛ばした。
滝川が不忠の臣の尻《しり》おしするのみならず、ほしいままに諸城を奪ったことを述べて、何をたくらんでいるか、心術まことに怪しむべきであると痛罵《つうば》し、早くこれを伐《う》たずんば、ゆゆしいことになろう、願《ねがわ》しくは各々とともに滝川を征伐しようとのべたのであった。
兵は続々と安土をさして集まって来た。
秀吉の運のよさはほかにもあった。彼は柴田を牽制《けんせい》するために、織田|信雄《のぶかつ》と連名で、越後の上杉景勝に、同盟を結びたいと申し送っていたのだが、この頃、景勝は家臣須田|相模守《さがみのかみ》満親に言いふくめて、西雲寺という寺の住職と蔵田左京助《くらたのさきようのすけ》という家来とに返事を持たせて上京させたのであった。「お申しこしの儀、承諾した。いく久しく懇親を願おう。ついては羽柴殿の誓詞を多賀の牛王《ごおう》に書きのせて賜わりたい」
という文面であった。
景勝は柴田と佐々に、魚津《うおづ》城のことで煮湯をのまされ、その不信義を心からにくんでいる。この二人を苦しめるためなら、どんなことでもしようと思っていたのだから、秀吉の申しこみは最もうれしいことだったのだ。
返事を見て、秀吉のよろこびは一通りではなかった。
(滝川征伐をするにあたって、何という運のよさだ。どうでもこれは万事うまく行くとの瑞兆《ずいちよう》であろうわい)
と、返書をしたため、注文の誓書を書いて、西雲寺の和尚さんと蔵田なにがしとにわたした。
御状|披見《ひけん》しました。景勝よりの芳札ならびにご誓詞も披見しました。すぐ信雄へ披露しましたところ、ご入魂《じつこん》の儀はとりわけ満足したようです。われらの誓紙をおくるよう仰せ越されましたから、認めて、血判をすえてお送りします。以後、少しも約束に違背するようなことはいたしませんから、お心安くあられますように。委細のことは、西雲寺と蔵田左京助へ申し渡しました。恐々謹言《きようきようきんげん》。
二月七日
秀吉
須田相模守殿へ
御返報
秀吉は、これにそえて覚え書を送った。
覚
一 景勝と家康の間にもし問題があるなら、ぜひ筑前に尽力させていただきたい。
一 このように誓紙を取りかわしてはいますが、もし将来筑前を表裏者と思われるようなことがおこりましたら、この契約はすぐご破算になっても結構です。
一 景勝において、北条氏にたいして不服があるなら、当方も北条氏と一切の交際を絶って、手紙の取りかわしもしますまい。
一 多賀神社の牛王に誓詞を書いてくれよとのご注文でしたが、多賀神社には牛王がありませんから、熊野の牛王にしたためて差し上げます。(牛王とは神社から出す神印を捺した紙で、その裏面に誓詞を書いて誓紙とする。熊野神社の牛王が一番名高い)
一 先ず越中へ人数を出して佐々《さつさ》に攻めかかっていただきたい。
一 景勝から信雄殿へ出される手紙の文体や表書《うわがき》などのことは、ご両使へよく説明しておきました。
西雲寺の和尚さんらを鄭重《ていちよう》にもてなし、数々の土産ものを持たせて、送り出したことは言うまでもない。それは二月七日のことであった。
この翌々日、九日、秀吉は伊勢路に進発した。
二
秀吉のひきいた兵は七万五千、三手にわかれて、三道から進んだ。
いく筋かある江州から伊勢に入る道のうち、最も大きい東海道は厳重に封鎖されているが、秀吉の先ずえらんだ道は、やはりこれであった。しかし、鈴鹿峠にかかる少し手前から左にそれて、鈴鹿から四、五キロ北方の峠をこえて峰《みね》城の近くに出る道だ。途中|安楽《あんらく》という村を経るので、安楽越えといわれている。秀吉は自らこの道を取り、三万人をひきいて、えいやえいやと越えた。
そのはるか北方に大君《おじ》が畑《はた》越えという道がある。彦根(佐和山)から東方に向って山にわけ入り、大君が畑という村を経て、鞍掛《くらかけ》峠を越えて員弁《いなべ》郡の阿下喜村に出る道だ。そのまま真直ぐに東南に向えば、滝川の本城長島を揖斐《いび》川の対岸に見る桑名に至るのである。秀吉はこれに姉おともの子秀次に二万人の兵を授けて向わせた。
もう一つは弟の秀長に二万五千人を授けて、多良《たら》谷越えに向わせた。それは江州と美濃の境の今須《います》から国境に沿って南下する道だ。一山こえると、美濃の養老郡の多良《たら》谷という峡谷《きようこく》に出る。峡谷の南端は時《とき》という村だが、そこでまた一山こえれば伊勢の員弁郡になり、大君が畑越えから出て来る道と一つになるのである。この道を小一郎に取らせたのは、稲葉一鉄、氏家行広等の美濃ざむらいらを参加させる便宜のためであった。
滝川は、羽柴勢は峰城、亀山城等の城々に先ず攻めかかるであろうから、その間にこちらは身づくろいし、相手が相当疲れたところを見すまして、長島から打って出、夜討ち、朝駆けでなやまし、その間に勝機をつかんで痛撃しようと計算したのだが、秀吉はそんな手には引っかからない。峰城や亀山城にはおさえの兵をおいて、三道の軍全部を桑名を目ざして進ませた。途々《みちみち》の村々に火をかけて焼き立てながら進むのだ。百姓には迷惑千万な話だが、敵の気を奪うためもある、相手がゲリラ戦に長《た》けている滝川だから、その用心のためもある。秀吉は桑名の西郊ともいうべき矢田村に本陣をおき、桑名の町を焼き立てさせた。
滝川は激怒して、揖斐《いび》川をおしわたっておし寄せた。秀吉は先手《さきて》を出して迎え戦ったが、間もなく日が暮れたので、両軍戦いをやめた。
秀吉の諸軍は桑名の西方の山々に布陣していたが、秀吉はこれに、
「目の前に桑名の町をはじめとして領内の村々を焼きはらわれ、滝川は大腹立てているに相違ない。定めし、今夜は夜討ちに来るであろう。用心せよ」
と、ふれをまわして、陣所陣所に大かがり火を焚《た》かせ、忍びの者を遠く出して警戒させた。
あとでわかったことだが、実際滝川は夜討ちの支度をしながらも、秀吉方の警戒が厳重であったので、無念の歯がみをしながら思いとどまるよりほかはなかったという。
滝川はよほど強い精神的打撃を受けたのであろう、『賤《しず》が嶽合戦記《たけかつせんき》』によると、秀吉方にいかなる恐ろしい手だてがあるかと疑い、支城《えだじろ》の諸将らに、
「用心油断すべからず、めずらしき敵の手だてがあったら、告げ知らせよ」
と言いやって、自分の用心に資《し》し、ひたすら消極的になったという。
滝川は元来は江州の甲賀ものだ。若年の時、国許《くにもと》に居がたいことがあって、国を出、放浪して尾州《びしゆう》に来て、信長に召し抱えられた。鉄砲の技術にすぐれているというので召し抱えられたというのだが、滝川の本貫《ほんかん》とそれ以後の経歴から考えると、情報|蒐集《しゆうしゆう》の技術もずいぶん買われたのではないかと思われる。
せい一ぱいの奉公をし、度々すぐれた武功を立て、ついに信長の麾下《きか》では、柴田、羽柴、丹羽、滝川と四本の指に折られるほどの者となったのだが、信長を失って以後の彼は人が違うように器量が落ちてくる。
それでも、彼が関東|探題《たんだい》として上州前橋にいて、本能寺の悲報に接した際の態度は、なかなかの見事さである。
自分に従っている関東の諸将を集めて、本能寺の事変を告げた上でその人々をひきい、おし寄せて来た北条氏の大軍と、上州と武州の境の神流《かんな》川で一戦した。戦いには負けた。しかし、少しもさわぐ色なく、倉賀野《くらがの》城に入って、諸将にむかって、
「各々の今日の奮戦、大悦に存ずる。われらはこれより上方へ帰国いたすが、各々は武門の礼儀はこれまでのこと、以後は北条氏に属して本領を安堵《あんど》なさるよう」
とあいさつして、それぞれ人質を返し、戦死者の供養をし、金百両を寺に寄せた後、終夜能を興行して、自ら鼓を打ち、ゆるゆると楽しんでから、かねてたしなむ宝器を諸将に分与して、夜明けとともに出発したという。
これは最も見事なる武者ぶりとして、当時から名高い話になっているが、これが最後の光芒《こうぼう》であった。以後はまるでふるわないのである。この対秀吉戦においてもそうだが、後の小牧長久手《こまきながくて》戦でもそうで、ついに妙心寺に入って僧となり、どこで死んだかもはっきりとはわからないのである。信長の死とともに、勇気も運も彼を去ったとしか思われない。滝川にとって、信長は太陽だったのであろう。
居すくんで、滝川が動かないので、秀吉はこれにはおさえの兵をのこしておいて、兵をかえして亀山城の攻撃にかかった。
亀山城の主将|佐治《さじ》益氏は、新助という通称で有名な男だ。防戦大いにつとめた。寄手《よせて》でも、火矢をはなって敵陣を焼きはらったり、金山人夫に東南方の矢倉の下を掘りくずさせたりした。こうしてほぼ半月、息をもつがず攻め立てたので、さすがの佐治もついに、自分を長島の一益《かずます》のところへ送りかえしてもらうという条件で、開城した。三月三日のことであった。秀吉は約束通り佐治を長島におくりかえし、城は信雄にわたした。
この形勢を見て、国府城も開城した。
秀吉は峰城と関城の攻撃にかかり、部署を定めてぼつぼつとはじめたが、その時、柴田が江北《こうほく》へ出て来たとの急報がとどいた。
「三月五日、越前勢の先手《さきて》が柳《やな》ガ瀬《せ》にあらわれた」
つづいて、第二報が入る。
「越前勢の先鋒は佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》盛政ら七人で、兵数は八千から九千の間」
さらに第三報が入る。
「江州と越前との境の山々はまだ雪に閉ざされているが、昨年末秀吉が三七信孝を攻め、今また滝川を征伐していると聞くと、柴田はじっとしていられず、数百千の人夫をくり出して、山路の雪をはらい、どうにか歩行が出来るようになると、佐久間を出陣させたのだという」
第四報が入る。
「三月九日に、勝家が来て、柳ガ瀬の北方の中尾山に本陣をおいた。その勢二万余である」
第五報が入る。
「越前勢はこちら側の諸塁《しよるい》の近くに迫ってしきりに威嚇《いかく》をこころみている。また、その付近の村落を焼きはらって、気勢を上げているが、十日には小谷《おだに》近くの高月《こうづき》まで出て来て、放火、乱暴をきわめている」
これらの報告を受けながらも、秀吉は少しもさわがず、峰城と関城とのまわりにいく重も柵《さく》を結《ゆ》わせ、逆茂木《さかもぎ》をひかせて、外部との連絡をすっかり遮断してから、これを信雄と蒲生氏郷《がもううじさと》と伊勢武士らとにまかせて、引き上げた。
十五日佐和山につき、十六日に長浜に入った。
十七日には、兵二万五千をひきいて自ら柳ガ瀬近くまで出動した。敵は味方の塁《るい》をはるかにはなれた北方の山々に陣取っている。こちらの大軍が来ると聞いて、引きこもったものと思われた。秀吉はその山々の東に沿って走っている北国《ほつこく》街道を進み、鉄砲を打ちかけて挑戦したが、敵は相手にならなかった。敵がこちらを相当おそれていることがわかった。
翌日は、敵の陣取っているその山々のよく見える文室《ふむろ》山に上って、敵情を観察した。
(なるほど。こりゃ、急にははじまらんわ)
と、思った。敵から進んで来るも不利、味方から進むも不利、持久戦になるべき地勢であると見たのであった。血気にはやる経験未熟な武将なら、誘いの隙《すき》を見せてやれば、餓《う》えた魚のように食いついて来るだろうが、相手が柴田ではその手はきかない。
(ねばりくらべだ。そのうちにはまた妙策も浮かんで来よう)
思案をきめて、それぞれの隊に砦《とりで》をきずかせる。その位置、主将、兵数は次の通りだ。
東野山 堀秀政 五千人
北国街道 小川祐忠 千 人
(中之郷の北)
堂木山 山路正国
木下半右衛門 五百人
神明山 木村重茲
大金藤八郎 五百人
以上 第一線
岩崎山 高山右近 千 人
大岩山 中川清秀 千 人
賤《しず》が嶽《たけ》 桑山重晴 千 人
田上山 羽柴小一郎 一万五千人
以上 第二線
このほかに丹羽長秀に頼んで、湖北を警備してもらった。長秀は海津《かいづ》に本陣をおいて、時々舟で湖上を巡視して警戒した。長秀には敦賀《つるが》方面の見張も頼んだ。これには長秀の子の鍋丸《なべまる》(後の長重)が十三の少年ながら、重臣らに輔《たす》けられてその任にあたった。
また細川|忠興《ただおき》に、急ぎ丹後に帰国し、船を出して、越前の海岸地帯を放火して荒らしてくれるようにと頼んだ。
秀吉は一切の配置がおわると、長浜城に退《ひ》いて、北方の戦線、南方の伊勢の戦況、東北の岐阜の信孝の動静等を、悠々と観察しつづけた。
北も、南も、変化は見えなかったが、東に変化があった。信孝が反抗の色を見せはじめたのである。滝川のそそのかしであった。滝川は自分が長島に居すくんでいるくせに、いや居すくんでいるからであろう、信孝を煽動《せんどう》したのである。信孝はそそのかしに乗って、兵を出して稲葉一鉄や氏家行広の領地の村々に放火した。
秀吉は佐和山まで出て様子を見ていたが、四月十七日の早暁、二万の兵をひきいて美濃に向った。その日の夜半、大垣城に入り、翌日は早朝から氏家と稲葉に命じて岐阜地方に焼きばたらきした。信孝軍は手も足も出ない。岐阜城にこもって居すくんだ。
秀吉は夜明けを待ってひたおしにおし寄せ、一気に城を乗り取るつもりにしていたが、十八日の夜なかから豪雨が降り出し、呂久《ろく》川や合度《ごうど》川が大水になって渡ることが出来ない。やむなく進発を延期することにしたが、その間に柳ガ瀬陣では大へんなことがおこった。
三
ことは三月末か四月のはじめ頃あたりからはじまった。
勝家方にとって、口惜しいのは、勝家の養子である勝豊が秀吉に誘惑されて、味方を裏切って秀吉方になったことである。あの際雪に閉ざされて援軍を送ることは出来なかったとは言え、飽くまでも守って屈しない心があれば、三か月や四か月こらえられないはずはない、そのうちには雪が消えるから、後《うし》ろ巻《まき》に出て来られるのだ、そうすればこんどだってどんなに戦いやすいかわかりはしないと、思わずにいられないのである。
このような心が、一策を案じ出させた。
勝豊の家来共は皆昔は勝家の家中だったのだから、どんな性質の連中であるか、全部わかっている。適当なやつを口説きおとして裏切りさせてやろうと思って人選し、堂木山の砦《とりで》を守っている山路将監《やまじしようげん》正国に白羽の矢を立てた。
勝家は佐久間|玄蕃《げんば》をして、山路にこう申しおくらせた。
「旧情を思って、心を変じて当方に味方してくれるなら、以前勝豊の居城であった越前丸岡城と付近十二万石をあてがうが、いかが」
勝家が目星をつけただけに、山路は元来|貪欲《どんよく》な性質だ。十二万石の領地を持って一城の主となるというのは、強烈な誘惑であった。
同僚数人にあたりをつけて、よりより語らって気を引いてみると、皆乗って来た。
こんなことがこうも順調に運んだのは、昨年から持ちこしの彼らの主人柴田勝豊の容態が次第に悪化して、死病の様相を呈し、四月五日には良医をもとめて京都に転地したので、家中皆心細くなっていたためである。彼はついにこの月中に死ぬのである。
山路がこの人々のことを勝家方に申しおくると、一人でも味方は多い方が結構である、もちろん皆優待するといって来た。
そこで、山路は、
「どうすれば、ご奉公になるのでござろうか、おさしずをいただきたい。何事にまれ、お申しつけの通りにいたすでござろう」
と、たずねてやった。
柴田方では返事する。
「そなたの守る堂木山の砦に隣る神明山の砦を守る木村|小隼人佐《こはやとのすけ》を討取って、わが勢を引入れよ」
山路は承諾し、誓紙をもとめた。勝家は送った。
山路は計略をめぐらし、この十三日の早暁、茶の湯をいたしたいと存ずるが、お出で下さらばありがたき至りと、木村を招待した。説明するまでもない。その席で殺すつもりなのである。
木村は――後に常陸介《ひたちのすけ》となる人物だ――そんなこととは知らない。この年の四月十三日は、現行の太陽暦では六月四日にあたる。山々は新緑から濃緑にかわり、そろそろむし暑くなる季節である。早暁の茶の湯はさぞ快いことであろうと、よろこんで受けると返答して、指おり数える気持で待った。
その前日の夜半|子《ね》ノ刻《こく》(零時)過ぎの頃であった。茶の湯では朝の会とは、夜半《よなか》を少し過ぎた頃にはじまり、日の出る頃には終るべきことになっている。夜の短い頃であるから、今の時刻で二時半か三時頃には先方に行っていなければならない。そろそろ出かける支度をせねばなるまいと、木村が起きかけた時、柴田勝豊の家来野村勝次郎という者が来た。至急にお目にかかりたい、ぜひお耳に入れたいことがあってまいったという。通させて、会うと、言う。
「ご辺《へん》は山路が招きを受けて、これより彼が砦《とりで》に朝茶の湯にお出でになるつもりでござろうが、それはおやめになるがよろしい。そのわけは、彼は柴田に語らわれて変心し、山路が砦とこの砦に柴田勢を招き入るべきために、ご辺を数寄屋《すきや》にて討取る企《くわだ》てをしているからでござる」
「真実かな? ご辺どうしてそれをお知りだ?」
半信半疑で木村は問いかけた。
「われらもその一味であったからでござる」
木村はおどろいたが、すぐうそでないことを信じた。
「よくこそ教えてたもった。さらば、唯今《ただいま》よりさか寄せして、討ちはたしてくれよう」
と、支度にかかろうとすると、野村はとめた。
「それはようござるまい。夜陰《やいん》のこと、討ちもらす恐れがござる。病気と申しおくって時をのばし、夜の明けるを待ってしかけなされたらば、一類のこらず討ちはたすことが出来ましょう」
「いかさま、それもそうでござる」
早速、堂木山の砦に使いを立て、にわかに腹痛がさしおこって、参会いたしかねる、せっかくのご用意を無にしてしまうこと、心苦しい至りであるが、楽しみにしていたことがふいになったわれらが心のこりも酌《く》んでいただきたいと、ことばを巧みにして申しおくった。
山路は、それは残念なこと、さりながらご病気とあっては詮方《せんかた》なし、お大事になさるよう申して下されと、答えて帰したが、脛《すね》に傷持つ身だ、漏《も》れたのではないかと、念のために一味の連中を呼びにやると、皆集まったが、野村が来ない。
「さては、野村の返り忠ぞ。こうはしてはおられぬ」
と、一同逃げ出すことにしたが、皆長浜に妻子をおいているので、それぞれに迎えの者を走らせることにした。山路は甥《おい》に家臣二人をつけてつかわした。
「陸《おか》は危ない。舟で湖上に出て、寸時も早く立退《たちの》かせよ。女のことであれば、衣類や財宝に心をのこすことと思うが、すべて打ちすてて、急ぐが上にも急いで立ちのかせよ」
と、言いふくめて出してやった後、一味の者三人を同道して、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》の陣所をさして駆けこんだ。
神明山の陣所で、木村|小隼人佐《こはやとのすけ》は夜の明けるのを待ちつつ堂木山の陣所を見まもっていると、夜明けが近づく頃、その陣所がなんとなくざわめくような気がする。人を出してうかがわせると、すぐ馳《は》せかえって来て、山路はすでに立退《たちの》いたらしいという。
「すわこそ!」
木村は飛んで行ったが、影も形も見えない。山路と同腹の三人も消えている。
「憎ッくいもの共である。山路は母と妻子とが長浜城内にいる。三人もまた妻子がいる。急ぎ行って取りおさえよ」
と、騎士《うまのり》(将校)五、六騎を長浜に走らせてみると、三人の家族らはもう逃げていなかったが、山路の母と妻子とは取りおさえられていた。
山路の家族らの不運というべきか、天罰というべきか、裏切者共の家族らは、それぞれの主人のつかわした使いにともなわれて、舟にうち乗り、薄い夜霧の中を逃げ失せたのだが、山路の家族は大人数であるのと、年老いた母がいるため、かなりにおくれて忍び出た。舟は櫓《ろ》の音をしのばせて、番船のならんでいる間をそっと漕《こ》ぎぬけようとしたのだが、ふと舟のへさきが番船の碇綱《いかりづな》に触れた。はっとおびえると、手もとが狂って、また、しかも、相当強く触れた。番船は十|艘《そう》いたが、こんな場合の用心のために、一本の綱で連ねてあったので、次々に全部が揺れて、番人共は皆目をさました。
「今頃、案内もなくどこの船が通るのじゃい!」
と、目をこすりこすり起きて見ると、薄い霧の中を小半町《こはんちよう》も行っている舟が見える。
「追え! あやしい舟じゃ!」
と、追いかけてみると、山路の家族らが乗っている。山路の裏切りの報告はまだ長浜にはとどいていなかったが、ともかくも怪しむべきであるので、長浜に連れもどって、尋問をしていると、木村小隼人佐からつかわした騎士《うまのり》らが駆けつけたという次第であった。
この事件があった時、秀吉は信孝征伐を計画して、佐和山に出かけ、兵の集まるのを待っている時であったので、報告は長浜城からも来、神明山砦の木村小隼人佐からも来た。
秀吉は別段おどろきはしなかった。元来柴田家の家来共だった者を最前線の堂木山に籠《こ》めているのだ、最もあり得ることだと思った。大事に至らずして食いとめることが出来たのはありがたいことであった。将来再びこんなことをあらせてはならないと思ったので、その目的に沿って処理した。のこっている堂木山の砦の者共、とりわけ返り忠した野村勝次郎に手厚く褒美《ほうび》をとらせるように指示するとともに、将来の見せしめのため木村小隼人佐に、山路の家族らをはりつけにかけよと命じた。
木村は柴田方の先手《さきて》の陣所からよく見るところにはりつけ柱を立て、山路の老母をはじめ七人の家族をさかばりつけにかけて、
「山路、これを見よ、これを見よ」
と、兵共に呼ばわらせて、さし殺した。四月十六日のことであった。
この翌日、秀吉が佐和山を出発して、美濃に向ったことは前述した通りである。
四
山路は柴田方の先手の本陣佐久間盛政の陣に逃げこんでいたが、目の前に母と妻を惨殺《ざんさつ》されて、無念やる方がない。歯ぎしりしながら物思いに沈んだが、十九日の夜更け、夜どおしの不眠の心にふと思い浮かぶことがあったので、むくりと起きて、佐久間に引見を乞《こ》うて、
「玄蕃允《げんばのじよう》殿には、拙者がご陣所にまいった時、筑前《ちくぜん》が岐阜の三七《さんしち》様を討ち奉るために、数日前から佐和山へ行っており、大方十七、八日に美濃に行く予定《あらまし》になっていると申し上げたことを、覚えてお出《い》ででありましょうか」
と、たずねた。
「覚えているどころではない。わしは忍びの者を出して、さぐらせた。筑前は一昨日《おととい》の早朝佐和山を立って美濃に向った。しかし、それがどうしたのじゃ」
盛政はやや無愛想であった。計画|齟齬《そご》した裏切者なぞ、愉快なしろものではない。そうあざといことも出来ないから、陣所においてもいるし、乞われれば会ってもやるが、決して好きではないのである。
山路にもそれはよくわかるから気がひるむが、おさえた。
「飼犬に手を噛《か》まれ、ことが食いちがいましたために、折角のご計略を無にしてしまって、申訳なく存じますので、うめ合わせに手柄をお立て申させたいと思うのであります」
「ふうん。言うて見よ」
あまり乗気な様子は見せなかった。
「玄蕃允様もごらんの通り、敵の備えは一番の前面に堂木山と神明山の砦《とりで》があり、街道筋の中之郷《なかのごう》の北に一備え、その東方に東野山の砦があり、堂木山と神明山のうしろに岩崎山、大岩山の砦があり、さらにその西南の余呉《よご》の湖《うみ》の南に賤《しず》が嶽《たけ》の砦があり、街道に沿うた木之本《きのもと》の少し北の田上山にも砦がありますが、大岩山の砦と岩崎山の砦とは、要害もさして堅固《けんご》でなく、諸砦に取りかこまれた形になっていますので、安心しているせいでありましょう、よろずに緩怠《かんたい》であります。もし、間道《かんどう》から忍びより、いきなり立って攻めつけますなら、必ず抜きとることが出来ましょう」
山路は扇子、巾着《きんちやく》、懐紙、手拭《てぬぐい》等、持っているかぎりの小道具をならべて、それを砦になぞらえ、熱心に説明した。気のない様子であった盛政も、いつか引入れられ、身をのり出して聞いた。
「大岩山は中川瀬兵衛、岩崎山は高山|右近《うこん》だの」
「さようでござります。いずれも摂州《せつしゆう》ざむらいにて、荒木村重の寄騎《よりき》であった者共、なかなかの勇士でござるが、その陣中が安心し切って将士いずれも緩怠であることは、拙者はこの目で見て来ています」
盛政は勇猛をもって鳴った男だ。この時やっと三十という若さだ。獲物の臭気を間近に嗅《か》いだ猟犬のように気が立って来た。
「よく教えてくれた。礼を言うぞ。よし、そなたわれらと同道してくれい。叔父御《おじご》の本陣にまいろう。先ず、飯を食おう」
夜はすでにとうに明けている。朝食をともにして、中尾山の本陣に行って、勝家に会って、事情を説明し、夜襲の許しを願った。
勝家も若い頃から猛将の名の高い人であるが、年が年だけにもう勇にはやるようなことはない。両軍相対してたがいに相手の力をはかっている時は、気息《きそく》をひそめて出来るだけ静かにして力を充実させているべきで、卒爾《そつじ》な動きをしては敗れのもとであることをよく知っている。
「いらぬことだ。そりゃ一応うまくは行くじゃろう。しかし、攻め落してみたところで、四方敵の砦《とりで》のただ中じゃ。持ちこたえは出来ぬ。すぐ引取って来なければならん。せいぜいのところ、気勢をあげるだけのこと。いらぬことじゃ」
と、なかなか同意しなかったが、玄蕃は引きさがらない。
「その気勢を上げるというのが、今の場合最も必要でござる。味方の兵共、筑前のこの頃の運のよさに、おじけている色がござる。ここにいる山路の裏切りの策が失敗いたしてから、一層その色が濃《こ》くなったように見受けられます。ここらで一景気をつけることがなにより肝要でござる」
と、言い張ってやまない。
ついに、柴田は条件をつけた。攻めおとしたらば、必ずすぐ引取ること、途中の敵の砦には必ずおさえの兵をおいて進むことという条件。
もちろん、玄蕃は守ることを誓った。
そこで、許可したが、柴田は大岩山と岩崎山の砦をはかりくらべて、大岩山の砦を襲うがよいと指示した。この砦が一見最も安全な位置にあるようであるだけに、最も油断しているであろうという理由からであった。
こうして、佐久間が今夜大岩山の砦を襲撃することはきまったが、勝家はなおくり返し念をおした。
「砦をおとしたらば、すぐ引き上げるのだぞよ。欲を出してわきの砦に手を出すでないぞ、引き上げがおくれては、まわり全部からふくろだたきにされるぞ。そうなっては、戦さのならい、味方の総敗軍となるぞ。心得ていような」
「承知でござる。叔父ごほどではなくても、われらも場《ば》に覚えはあるつもり、ご心配にはおよびませぬ」
と、盛政は笑って答えた。
盛政は自分の陣にかえると、早速支度にかかって、兵を部署した。先鋒隊《せんぽうたい》は不破《ふわ》勝光と徳川|則秀《のりひで》とがうけたまわって人数四千、盛政は本隊となって四千だ。
夜半、午前一時、夜襲隊は出発した。
同時に、羽柴《はしば》方の諸砦をおさえる任務をあてがわれた諸隊も行動をおこした。羽柴方の第一線である堂木山と神明山の砦《とりで》のおさえは前田|利家《としいえ》とその子利長とがうけたまわって、茂山《しげやま》まで出て、ここにとどまった。賤《しず》が嶽《たけ》の砦のおさえは盛政の弟で勝家の養子になっている柴田|三右衛門尉《さんえもんのじよう》勝政が受持って、三千人をひきいて飯浦坂にひかえることになった。北国街道の東方東野山と田上山にひかえている軍勢は羽柴方の主力ともいうべき勢《せい》だから、これにたいするおさえは勝家が自ら引受けて、北国街道の狐塚《きつねづか》の村落まで出てかまえることになった。
襲撃隊先頭が余呉《よご》の湖《うみ》に達した頃、夏の夜はほのぼのと明けかけて来た。この夜襲のあった四月二十日は、今の太陽暦では六月十日、一年中で一番夜の短い頃だ。
余呉の湖は南北三キロ三百メートル、東西一キロ百メートル、緑の樹木を持つまわりの山に、深くこんもりとつつみこまれたような感じの湖だ。少し前、中川隊の馬ひき共が数十名、それぞれに主人の馬をひいて来て、湖に乗り入れ、馬を洗いはじめた。湖のまわりの山々にこだまを呼ぶほどの大きな声で、陽気で、気楽な無駄話をしながらにぎやかに洗っていたが、ふと異様な物音を聞きつけ、首をあげて見まわすと、湖の東の岸べに沿って、真黒な煙がもくもくと湧《わ》き出すように軍勢があらわれて来た。
しばらくは、敵か味方かと疑うほどのゆとりもない。いずれも口もきけず、ただ凝視《ぎようし》していたが、ふと気づいて、皆火に触れたようにおどり上った。はだか馬に飛びのるもの、徒立《かちだ》ちで駆け出すもの、ひんぷんとして、ただ走り出した。しかし、もうその時には、湧き立つ黒い煙そっくりに見えていた人数の中から、一きわ速く飛んで来る武者が数人あった。馬ひき共は恐怖の声をあげながら、ひたすらにただ走ったが、それでも逃げおくれた者が二人、背中から胸に槍《やり》でつきぬかれて殺された。
這《ほ》う這《ほ》うのていで逃げかえった馬ひき共の知らせを聞いて、岩崎山の砦はうろたえさわいだが、主将中川は鬼瀬兵衛といわれたほどの猛将だ、人々を叱咤《しつた》してさわぎをしずめると、すばやく応戦の支度をととのえ、なんの造作もなく、敵の襲来第一波をまくり返した。
この状況を見て、賤が嶽の砦を守る桑山重晴は使番をつかわし、
「敵は目にあまる大軍なれば、その砦とその小勢ではこらえられますまい。早くわれらが砦に引き上げ給え。力を一つにして働き申そう」
と言ったが、中川は、
「なんの、なんの」
とだけ言って首をふった。
右隣の岩崎山を守る高山右近も、一度敵を撃退した以上、名は立ったわけだ、退いて後図《こうと》を期せらるべしと言ってよこしたが、これにたいしても、
「なんの、なんの」
と言って動かなかった。
寄せ手は中川の勇敢で巧妙な防戦によって、数度撃退されたが、ついに火矢を放って小屋を焼きにかかった。小屋は忽《たちま》ち燃え上った。それでも、中川は気力をはげまして戦いつづけたが、ついに全軍戦死して、その砦は落ちた。もう朝の十時になっていた。
岩崎山の高山右近は、中川と同じ摂津|士《ざむらい》で、ふだんから最も仲がよく、荒木村重の寄騎《よりき》としても共に働き、村重が信長に謀反した時には共に村重と縁を切って信長に味方し、山崎合戦にも共に秀吉に味方した。いずれも最も勢心なキリシタンでもある。このように、いつも手をつないでやって来た二人である。意見が食いちがったことは、これまで一度もなかった。
この日の戦いではじめて意見が合致しなかった。いや、いや、ゆっくりと話し合う余裕があったらきっと一致したであろうが、ことはにわかに起って、そのひまがなかった。一歩も退かず戦いぬこうとする中川と反対に、高山は寡勢《かせい》でなまじいな抵抗をするより、無傷で退却して、力をのこしておいた方が全局的には利になると考えていた。だから、中川に退却をすすめた。しかし、中川はきかずついに戦死した。高山は親しい朋友の死をかなしみながら、自らも退却した。やがて敵は岩崎山へも攻撃して来るに相違ないと思ったからであった。
この間の心理も、行動も、高山には恥ずべきことは一点なかったのであるが、この時から高山は臆病者《おくびようもの》の名をとった。中川の死が勇者の死として武士の間に称讚されるとともに、高山の生は怯者《きようしや》の生とさげすまされるようになったのだ。高山の運命はこの時以来ふるわず、やがて信仰のことで秀吉に勘当された。秀吉は生涯その勘当をゆるさず、高山は前田利家にひろわれて加賀で余生を送るつもりでいたのであるが、慶長十九年、大坂の陣のはじまる年の春、徳川幕府の最初のキリシタン宗弾圧の犠牲者として、国外に追放されるのである。
彼は熱心なキリシタンではあったが、この時その運命が狂わなかったら、彼の晩節は平安であったかも知れない。人間の運命はいつどこでどうなるかわからないものである。
高山は岩崎山を退却して、木之本の方に向う途中、田上山の羽柴小一郎の陣所へ使いを出して、
「岩崎山の砦は所詮|支《ささ》えがたく存じましたので、退却でござる。ご陣所を拝借して一方をうけたまわって働きたく存ずる」
と言いやった。
小一郎は高山のとった処置が不満ではあったが、何も言わず、陣中に入れてやった。
五
賤《しず》が嶽《たけ》を守備していた桑山|修理亮《しゆりのすけ》重晴もまた、退却したなかまだ。彼は大岩山と岩崎山の両砦に火の手が上り、ついに陥ったと見ると、守りを捨てて逃げ出したが、半時間くらい後に、丹羽長秀が入って、桑山を呼び返すために使番を走らせた。
この朝、丹羽はいつもの通り海津《かいづ》の港から船を出して、湖上を巡回しつつ、葛籠尾崎《つづらおざき》の鼻をまわると、はるかに北方、余呉《よご》の湖《うみ》のあたりと覚しいあたりに、さかんな鬨《とき》の声と銃声の上るのを聞いた。言うまでもなく、これは佐久間勢と中川勢との合戦の声だ。丹羽は家来の望月某という者を召し、
「その方ははしけにて急ぎ海津にかえり、軍勢の中から二千をさいて、連れ来よ。賤が嶽の守りを心許《こころもと》なく思う故、後詰《ごづめ》するのじゃよ」
と命じた。すると、望月は、
「五里|漕《こ》ぎもどって、また五里来るのでござる。時間がかかり過ぎ申す。とても間に合うものではござらぬ」
と言った。丹羽は、
「それは若い理窟《りくつ》である。ものごとというものは時の延びることが多いものじゃ。その上、おれが賤《しず》が嶽《たけ》に入ったと聞こえれば、敵は定めて多勢を引きつれてのことであろうと思うて、急に攻めかかりはせぬ。十分に間に合う。急ぎ漕ぎもどれよ」
とさとして、はしけをおろしてのせ、自らは船をすすめて、琵琶湖の東北隅の山梨子《やまなし》浦というに上陸した。これは賤《しず》が嶽《たけ》の大体南方にあたる地点だ。すると、村の者が、大岩山と岩崎山の両砦が落ちたので、賤が嶽の桑山様も逃げ出しなされそうなと語った。
丹羽はおどろいて、急いで賤が嶽に上ってみると、早や落ち散って一兵もいない。この砦《とりで》の地勢を見ると、中川や高山の守っていた砦とはずいぶんかけはなれて、容易には寄せることは出来そうにないのである。
「臆病者の桑山め! 見くずれしおったのじゃ! 役に立つべきやつでなし!」
と、ののじったが、すぐ思い返して、足ばやな者をえらんで、桑山を追いかけさせた。
「五郎左衛門|尉《じよう》、唯今《ただいま》加勢として当砦に到着いたした。急ぎおもどりあれ」
という口上だ。
桑山はすでに木之本近くまで行っていたが、使いの口上を聞くとすぐ帰って来た。その時の桑山のあいさつのことばが、今に至るまで笑いぐさになっている。
「丹羽殿がご加勢下さるとは夢にも存ぜず、退きました。しかしながら、これからは万事相談して、ずいぶん粉骨《ふんこつ》をつくしましょう」
桑山くらいの身分でおれに、しかも一旦逃げ落ちた身でありながら、「万事相談して」とはおかしき言いぐさかなと、丹羽は思ったが、すまして、
「その方が立ちかえり申されたので、下々《しもじも》の者共、気力がつき申したわ」
と言った。さすがににぶい桑山ももう何にも言えなかったという。
さすがに丹羽は老功だ。付近の村々や砦に、丹羽五郎左衛門が唯今賤が嶽の砦に加勢として入ったれば、安堵《あんど》せよ、と触れた。武功は積んでおくべきものだ。どっと人々は気力づいた。
さて、話は佐久間盛政の方にうつらなければならない。
佐久間は計画が十分な成功をしたので、意気大いに上った。夜通しの作戦であったのに、疲労などまるで感じられない。この勢いに乗じて、明朝賤が嶽を襲って、大岩山、岩崎山のごとくにしてくれんと思った。だから、勝家の本陣|狐塚《きつねづか》へ勝ち戦さの注進をした時、こう言い添えた。
「夜どおしの働きに、兵共がきつう疲れていますにより、今日はここで休息して、明日引取るでござろう」
勝家は不安がり、歴々の身分の者を再三使いに立て、急ぎ引取れと言いおくったが、玄蕃《げんば》はのらりくらりと言いぬけて、聞く様子がない。勝家はついに養子の勝久をつかわした。これは勝家の妹の子で、多数いる勝家の養子の中で最も可愛がり、自分の若い時の名|権六《ごんろく》を名のらせて、将来は家督《かとく》に立てようとまで思っていた。まだ十六の少年であった。
盛政は、この少年が使者に立って来ると、一族の親しさからであろう、笑いながら言った。
「叔父ごはこの頃、えらい苦労性になりなされた。三、四年前まではああではなかったぞ。おれは老いぼれかけていなさるのではないかと、心配じゃよ。そなた帰って、いらぬことを心配せんで、上洛《じようらく》の支度などなされよと申してくれい。おれは引受けてそうさせて上げるつもりじゃ」
勝久はことばなく、かえって盛政の言ったことを勝家に告げた。勝家は身もだえして、
「玄蕃め、ついにはこの勝家にしわ腹切らすやつめ! われらはこの年に至るまで、戦さに出て一度も敵にうしろを見せたことはないに、玄蕃のために、この年になって、そうさせられるのか。ぜひに引取れよ。聞かずば、われらみずから迎えに行こう」
と、また使いを出したが、盛政はもう返事もしなかった。
さて、この柴田勢が夜襲に出たという報告は、小一郎によって発せられ、二十日正午、大垣《おおがき》城にいる秀吉の許《もと》にとどいた。
前述した通り、秀吉は十九日に岐阜城の総攻撃に出る予定だったのに、大雨のため河川が洪水となった。やむなく計画を延期し、水のひくのを待つことにしたが、報告のとどいた時もまだ水がひいていなかった。しかし、これが秀吉の幸運になったのだ。城攻めはむずかしいものだ。ことに岐阜城は信長がずいぶん苦心した城だけあって、斎藤氏時代とはくらべものにならないほど堅固《けんご》になっている。秀吉は一挙に抜くつもりでも、そうは行かないかも知れない。一旦攻城にとりかかったあとでは、急報があっても、秀吉といえどもそう迅速《じんそく》な機動は出来るまい。最も少なく見つもっても一日くらいはかかって、城にたいするおさえの勢をきめたりなんぞしなければなるまい。とすれば、形勢はどう変るかわかったものではない。その間に、もし柴田が賤《しず》が嶽《たけ》の砦《とりで》と堂木・神明両山の砦とをおとして、堅固に守備態勢をととのえてしまったら、滝川も信孝も気力を回復するだろうし、徳川家康だってどんな量見になるかわからない。毛利だってじっとはしていないだろう。そうなれば、秀吉に好意をよせている諸将も心変りする者が相当出よう。
ところが、大雨のために岐阜城攻撃は日のべになっていた。運のよいやつにはかなわないのである。高松城の攻囲以来、秀吉のつきようは尋常ではないのである。
小一郎の報告を受取って、秀吉はおどり上らんばかりによろこんだ。
「やれ、戦さは大勝利ぞ! 思いのほかに早かったわ!」
とさけんだ。ほんとにそう思ってさけんだのか、人を気力づけることが魔法のようにたくみな男だけに、景気づけのためにさけんだのか、わからないが、ともかくもれいの大声でこうさけんで、徒歩の者二百人のうちから、とくに足の達者な者五十人をえらび出して、二十人の組と三十人の組にわけ、前者には、
「わいらは大急ぎで長浜に走り行き、街道筋の町々村々からあるかぎりの松明《たいまつ》を出させ、在々《ざいざい》の百姓どもをくり出させて、その松明をともして街道に立たせよ」
と言いつけ、後者には、
「わいらも長浜に急ぎ、長浜領内の村々にふれをまわして、庄屋、大百姓どもの蔵をひらいて飯を炊《た》かせよ。飯が炊き上ったならば、空俵《あきだわら》のあと先きをそのままにして、中ほどを切りあけ、中へ濃い塩水を入れてよくしめしたに入れさせて、牛馬《うしうま》の背につけて街道を賤が嶽を目ざして持ち行かせよ。秣《まぐさ》も用意させよ。これには糠《ぬか》をまぜて、やはり俵につめて持って出させよ。飯の俵との見分けには木の枝か紙をつけさせおけ。わしが人数ども、途々《みちみち》わしにつづいて駆けゆくこと故、ずいぶん、飢え疲れたる者があるであろうが、それを見かけたらば、これは飯でござる、これは秣でござると教えて食べさせよと言え。奪い取ろうとするものもあろうが、その時は奪いとらせよと言え。着物になりと、手拭になりと、包んでお持ちあれと教えてとらせよと言え。このためにいった米も秣も糠も、あとで十層倍にしてとらすと、よく言い聞かせよ」
と、綿密周到なさしずをして、出発さした後、自らも馬にまたがって疾駆《しつく》した。一万五千の軍勢が全部あとにつづき、四、五時頃にはもう一兵も大垣にはのこっていなかったという。
六
大垣から木之本まではいくらあるだろう、ほぼ五十キロくらいのものであると思うが、大垣を出たのが未《ひつじ》ノ下刻《げこく》というから午後三時だ。それが午後の九時にはもう木之本についた。一時間に八キロ余だ。単騎《たんき》ならそれほどの速さではないが、大軍をひきいての行軍であるから、おどろくべき機動力である。もっとも、急ぐに急ぐ秀吉には諸勢はどうしてもおくれて、木之本についた時は主従わずかに十騎であったという。
とっぷり暮れた街道筋には、百姓共がそれぞれ松明《たいまつ》をつけて出て、万燈《まんとう》のように明るい。また、食べものも、馬のまぐさも、さしず通りにして運びつつある。絡繹《らくえき》としてさかんな有様である。長浜やその近くの村々町々では、町人や百姓らが、酒や、肴《さかな》や、赤飯などを持って待ちかまえていて、秀吉を歓迎した。去年の夏まで領主であった旧情を忘れないのである。時代が時代であるから、秀吉とてそれほど租税《そぜい》をゆるやかにしたり、夫役《ぶやく》を軽くすることも出来なかったであろうが、政治に思いやりと温かさと明るさがあったのが、領民らには忘れがたく慕《した》わしかったのであろう。
秀吉は感動して、たずさえていた餅《もち》を袋からとり出して、人々にあたえたという。
佐久間盛政は、そんなことは露知らない。明日は朝駆けに賤《しず》が嶽《たけ》を奪うつもりなので、大岩山からさらに賤が嶽に近い尾野路山に移り、付近の山々一帯に兵を野営させていた。すると、とっぷり日が暮れて、夜に入った頃、鉢《はち》が峰に陣取っていた兵らが、街道筋に万燈《まんとう》のように松明がつらなりともっているのを見て、おどろいて盛政に報告した。
盛政もおどろいて、巧者《こうしや》の名のある、士《さむらい》をえらんでもの見に出してやったが、ほどなくそいつは馳《は》せ帰って来て、
「筑前が美濃から馳せかえったらしゅうござる。木之本の付近におびただしい人馬のひびきがいたします」
と報告した。
秀吉は百姓らを集めて田上山に上らせ、小一郎の勢《せい》とともに声を合わせて鬨《とき》を上げさせた。諸砦に使いを出して、
「筑前、大軍をひきいて今到着したぞ。夜明け前頃からさかんに鉄砲をはなって敵の肝《きも》奪って、夜明けと共につき崩《くず》せ」
と触れた。
秀吉が美濃から引き返して来たというだけで、柴田方は肝《きも》をうばわれた。佐久間の心づもりでは、大垣からここまで十二、三里はあるから、自分が夜襲して大岩山と岩崎山を奪ったという注進がすぐ発せられたにしても、どう早く見つもっても、筑前が夜なかの丑《うし》ノ刻(午前二時)前までにかえって来ることはむずかしい。たとえ丑ノ刻に帰りついたところで、人馬疲れ切って戦さなど出来るものではないはずだというのであった。しかし、その心づもりはむざんにはずれた。筑前は魔術のような神速さで飛びもどって来たのだ。
鬼玄蕃《おにげんば》の名ある盛政も胸がふるえた。出来るだけ急いで退却しなければならない。十一時頃から、退却に移った。月はまだ出ず、真暗であった。不便で、難渋をきわめた。
秀吉は午前二時頃から、田上山を上り、黒田村を通って観音坂を上った。金の瓢箪《ひようたん》の馬じるしを持つ中間を二人先頭に立て、騎士八人、徒士《かち》五人を従えて、馬を進めるそのあとから、二千余の兵がつづいた。もう月が出ているが、二十日の月で、細く痩《や》せており、光もおぼろだ。こつこつと坂をのぼって、途中丹羽長秀が賤が嶽の砦から迎えに出て来たのに逢って、つれ立って賤が嶽の砦に入り、砦の南の端に馬じるしを立てて、敵の様子をながめた。
佐久間勢は、二手にわかれている。一手は、薄暗いからよくわからないが、相当な大軍だ、黒い影のように見えて、余呉《よご》の湖《うみ》沿いの低地から、賤が嶽の北方につづく山に、煙の這《は》いのぼって行くように這いのぼりつつあり、一手はそれよりはるかに小勢だが、やはり黒いもやもやとしたかたまりとなって、その山と賤が嶽とをつなぐ尾根《おね》の中ほどにとどまったまま動かない。どうやら、前者の引上げを掩護《えんご》するためにかまえているものと判断された。
(大勢が玄蕃が隊、小勢は家来か、弟かじゃな)
と、秀吉は推察した。
追撃戦は方々で行われたが、さすがに敵も精強であった。決してくずれ立たず、しっかりした戦いぶりを見せた。
その間に、秀吉の隊は次第に殖《ふ》えて、六、七千となった。多くは美濃から追及して来た者共だ。
やがて夜が白んで来た。低地から山に這い上りつつあった敵――今やそれははっきりとわかった。秀吉の推察した通り、盛政の隊であったが、どうやら全員山に這い上った。
すると、掩護隊も、――これも秀吉の推察があたって、盛政の実弟柴田三右衛門勝政の隊であったが、静止の状態から背進に移った。兄の隊が一応安全な地点に引取ることが出来たので、自分も引取りにかかったのであった。
秀吉は鉄砲隊と弓隊に、使番を走らせた。
「尾根の敵は引取りにかかるぞ。追いかけて討取れい!」
「かしこまる!」
両隊はどっと追いかけ、谷をかけわたしに狙《ねら》って、撃ちかけた。敵はばたばたとたおされ、動揺の色|蔽《おお》うべくもなくなった。
勝機とは、敵の心理的動揺だ。これに乗じて、ほころびを引裂くように強い力を加え、その動揺を益々ゆすぶり、ついに敵を臆病者《おくびようもの》にならせるのが、勝利の法である。
秀吉は今こそその時であると思って、旗本の若者らをかえりみて、
「せがれ共、法度《はつと》をゆるすぞ! 手がらをせよ、それ行け!」
と、どなった。鉄砲|丸《だま》をわしづかみにしてはなげうつようであった。福島|市松《いちまつ》、加藤虎之助《とらのすけ》、同|孫六《まごろく》、平野|権平《ごんべい》、脇坂甚内《わきざかじんない》、糟屋助右衛門《かすやすけえもん》、片桐助作《かたぎりすけさく》らが槍《やり》をひねって一斉に飛び出した。いわゆる賤《しず》が嶽《たけ》の七本槍はこの追撃戦中に行われたのである。
柴田勝政は羽柴軍の執拗《しつよう》で果敢な追撃にねばり強く応戦しながら退却する間に、乱戦の間に戦死してしまった。盛政は弟の隊の兵を合わせて茂山の西南の足海嶺まで来ると、そこに前田利家父子の隊が布陣していたので、力を得、踏みとどまった。
しかし、間もなく前田隊が西に向って塩津谷の方に山をおりて退去をはじめると、盛政の隊は動揺し、逃げる者が出て来た。
秀吉はこれを見て、丹羽に追撃に出てくれるよう頼んだ。
「われもそう思うていたところ」
と、丹羽は答えて、桑山|修理亮《しゆりのすけ》の兵とともに追撃に移った。戦いつつあった秀吉の兵らは勇気百倍して益々勇敢になり、佐久間勢は気力|喪失《そうしつ》、ついに総崩れとなった。
秀吉は適当に追撃をやめさせ兵を整え、狐塚《きつねづか》の柴田の本陣を目がけて進めた。
勝家は賤が嶽方面の敗報を聞いても、少しも心を動揺させず、やがて襲って来る秀吉勢と快く一戦する覚悟をきめて、狐塚を動かなかったのであるが、兵士らはすっかり臆病風に吹かれて逃げ散る者が相つぎ、夜が明けてみると、七千の軍勢がわずかに三千になっていた。
東野山にかまえていた堀久太郎は年こそ三十一という若さだが、その戦さ上手を、この頃から名人久太郎と謳《うた》われはじめたほどの人物だ。昨夜勝家が本陣を狐塚までおし出したのを知りながらも、山から動かなかった。勝家が出て来たのは自分にたいする抑えのためだから、こちらが動かないかぎり攻撃に出るはずはないと見て取ったのだ。しかし、夜が明けて、賤が嶽の方面に戦さがおこると、その兵五千をひっさげて山をおりて来、中之郷に布陣していた小川隊千人、堂木山の木下隊五百人を合わせて、狐塚の勝家の軍と真《ま》っ直《すぐ》にむかい合った。機を見て攻撃に出るつもりなのである。
勝家は武将らしく戦って見事に死ぬつもりでいたが、部下の諸将らはこもごも諫《いさ》めた。
「衆寡《しゆうか》の勢いがあまりにかけへだたっております。これでははかばかしい戦いは出来ぬでござろう。柴田勝家とも言われる大将が、言いがいない戦死を遂げられるは口惜《くちお》しくござる。ここはおひらきあって、北ノ荘にかえり、心静かにご自害あるべし」
それでも、勝家はきかなかったが、家臣の毛受勝介《めんじゆしようすけ》家照が、涙をこぼして諫め、お名乗と馬じるしをお貸しいただき、殿にかわって討死いたすことをお許しあれと、熱心に乞うた。勝家はついにそのことばに従って、騎士《うまのり》(将校)八人と兵三、四十人だけをつれて、逃《のが》れ去った。
毛受は決死の兵三百人をひきいて、狐塚の北一キロほどの北尾崎に退き、勝家の金の御幣の馬じるしを陣頭におし立ててかまえ、羽柴方の兵がおし寄せて来ると、勝家であると名乗って突進《とつしん》して奮戦した。
勝介の兄は茂右衛門《もえもん》とて、勝家に従って退却したのだが、途中から暇を乞うて引きかえし、弟とともに奮戦し、三百人の兵が十余人となるにおよんで、兄弟ともに腹を切った。ちょうど正午であった。
秀吉がそこに来たのは午後一時頃であった。勝家の首と称している勝介の首を実検して、勝家ののがれ去ったことを知り、全軍に追撃を命じた。
角川文庫『新太閤記(三)』昭和62年8月10日初版刊行