海音寺潮五郎
新太閤記(一)
目 次
地獄の底から
柿色の着物
日なたで踊ろう
金竜の笄
成 敗
東から来る嵐
読心法
好運桶狭間合戦
胸につく火
あせり
思いもかけぬ縁談
地獄の底から
一
「兄《あに》さ、腹へったじゃろ」
ならんで刈《か》っていた小竹《こちく》が声をかけた。
「へらんでもねえが、まだええわさ。どうでも今日のうちにここと向う田をすまさんと、明日がこまるで」
といいながら、与助はせっせと刈りつづけた。小がらだが、強健な体質だ。鍛錬《たんれん》もきいている。めったなことにはへこたれないが、なれない稲刈りには腰がめきめきいうほど痛い。しかし、何によらず弱音は吐《は》かない心の誓いを立てている。左手に稲株をつかんでは右手の鎌をあてて引くという単調な作業をつづけた。
「そんでも、もう時分どきやでえ、ええかげんに持って来なならん時じゃに、お浅のやつ何してんのやろ。道草食うとると違うかの」
小竹は妹のお浅が弁当を持って来るであろう方角を、あごにしたたる汗を拭《ふ》き拭《ふ》き見ていたが、やがてうれしげな声をあげた。
「ああ、来た来た! 兄さ、お浅が来たで。えらい澄まして来るわ。あこの田圃《たんぼ》に源兵衛のやつがいるんで、えらい澄ましてくるわ。あの歩きぶりわいの」
といいながら、のそのそと堤の方に行きながら言う。
「兄さ。上らんかい。飯やがな」
与助は刈《か》りやめて、腰をのばした。腰骨のあたりがガクッといった。痛かったが、いい気持であった。背をそらして上を見た。つきぬけたように真青な空だ。軽い雲が真白に光って、ふわふわと動いている。大きく呼吸をしてから、妹の来る方にひとみを放った。
小一町《こいつちよう》向うの、日のあたっている竹藪《たけやぶ》に沿った道を、お浅が来る。右手に弁当の入った竹かごを下げ、左手に土びんを下げて、ゆっくりと来る。髪は白いきれで包んでいる。筒袖《つつそで》のきものの短い裾《すそ》から、はだしの足が出ている。その足も袖から出ている腕も、真白であった。明るすぎるほど明るい日のかげんであろうが、奇妙なくらい生々《なまなま》しい感じであった。
お浅の今過ぎて来つつある横の田圃《たんぼ》に百姓が三人出て稲刈りをしているが、その中の一人の青年がお浅に好意を持っているということだ。そうかも知れない。お浅の歩きぶりになんとなくしながあり、その青年だろう、立ち上って見送っており、ものを言いかけてはいないようだが、二人の様子に目に見えないつながりがあるようだ。
(お浅も十六じゃ。母《かか》さがなくなった父《とと》さのところへ来たのは十五、二年すると、姉《あね》さを生ましゃったというさけな。お浅も年頃《としごろ》じゃて)
と、思いながら、小竹の待っている堤の方に行った。
「どっこいしょ」
と、ならんで腰をおろした。頬《ほお》に食い入っている汗にぬれた笠《かさ》のひもを解いて、笠をはらった。ひたいを撫《な》でると、ぬるりと汗がすべった。かさかさに荒れた手の甲にしみてぴりぴりした。
兄弟ならぶと、からだはまるで反対だ。小竹《こちく》はまだ十八だが、二十三になる与助よりずっと大きい。与助はやせて小さいが、小竹はのびのびと大きいからだつきだ。顔立ちも、兄はかじかんだように小さくて、艶《つや》のない黒さだが、弟は日やけこそしておれ、はっきりとした目鼻立ちをしている。
(おらがせめてこの弟ほどのからだつきと面付《つらつき》をしとったら、あげいな難儀《なんぎ》はせんで済んだじゃろうになあ)
ふみのばしたたくましい弟の両足と、細く短く黒い自分の足とを見くらべて、与助はふとため息に似たものをついたが、あわてて自分をたしなめた。
(ああ、いかん! 金輪際《こんりんざい》、こげいな愚痴《ぐち》をこぼさんと心に誓うたことを、また忘れとるぞ! 弱いやつめ!)
とたんに、小竹が妹の方に向ってどなった。
「早う来《こ》う! なにぐずぐずしとるだァ!」
「あい、あい」
やさしい声で、愛嬌《あいきよう》よく答えて、お浅の足どりは少しばかり速くなり、やがて側へ来た。
「なんでこないに遅かったのや。時分どきうんとすぎとるで。あんまり腹空《す》いて目がまわりそうじゃがな」
と、小竹はがみがみときめつけた。
「かんにんや。そのかわり、炊《た》き立てのぬくとい飯《まま》のむすびですね」
とやさしく言いながら、お浅は兄達の前の草の上にぺたりとすわって、竹籠《たけかご》のふたをあけて湯のみを出し、土瓶の湯をついで、先ずすすめた。
お浅は美しい娘だ。おも長でゆたかな頬《ほお》にはまだ未熟な果物のような清新な生硬《せいこう》さがあるが、大がらでのびのびしたからだつきはもう娘になり切った豊かさがある。
「さあ、さあ、食べてくらっせ」
竹籠を二人の前にすえた。
麦まじりの大きなむすびがいくつも入り、わきに竹の皮をしいてへだてをつくって、煮しめと大根のつけものがこてこてと入っている。
うまそうであった。グーと腹が鳴った。
「えらいご馳走《ちそう》じゃな」
与助は左手にむすびをとり、右手に大根の煮しめをつまんだ。むすびはあたたかかった。
「ほう、ほんまに炊き立ての飯じゃな」
「そうですわい。あの子は小《ち》ッこい時から他人の飯食うて難儀ばかりしとったよって、せめてしばらくはぬくい飯食べさせたいいうて、母《かか》さが炊かしゃったのですわい。兄さがもどって来てから、母さは兄さのことばか言いくらしていなさりますぞえ。父《とと》さはにがい顔しとりなさるわ」
と、お浅は言って、ハハとくったくなげに笑った。
すると、小竹も笑って、
「ハハ、おら共ばかりの時は、いつもぼろぼろした冷飯のむすびじゃ。おらも一番どこぞへ行ってしばらくしてからもどって来べえかの。――ああ、うまいわ。ぬくとい飯《まま》のむすびはうめえの。おら大好きじゃ」
といって、舌を鳴らしながらむさぼり食った。与助も、
「うまい、うまい。頬《ほお》べたがおちそうじゃわ」
といい、タンタンと舌を鳴らし、がつがつと食べつづけた。腹が空いているし、あたたかいむすびだし、もちろんうまかったが、言うほどうまいわけではない。母の愛情に胸がツーンとして、そのままでは泣けて来そうであったからだ。
飯がおわると、与助は堤の下におりて行き、溝川《みぞがわ》のへりで鎌をといだ。朝出がけに荒縄《あらなわ》でしばってぶら下げて来た砥石《といし》をすえ、中腰になって、シュッシュッととぐのだ。
小竹は堤の上で、妹とのんびりと話をしている。
「小竹、汝《われ》のもといでやろう」
「うんにゃ。おれ自分でとぐ。兄さ、すんだら、そいってくれや」
「よしや」
なおといで、とげたから、
「おれすんだで」
といって、上って来た。
「おいさ」
小竹は軽く尻《しり》を上げて、堤をおりて行った、シュッシュッと砥石《といし》の音を立てながら、なにか鼻唄めいたものをうなり出した。
お浅は湯呑《ゆのみ》を竹籠《たけかご》にしまってふたをし、土瓶《どびん》を引きよせたが、ふと兄の顔を仰いだ。
「これ置いて行きまほか」
「うんにゃ。いらんわ。たんとのんだけに、もうのども渇くめえ。――母さに、おれがえらいうまがって食うたというてくれや」
といって、田におりて、またさくさくと刈《か》りはじめた。
お浅は来た時と同じように、左右に竹籠と土瓶をさげて帰って行く。真白な足をして、すっかり発育しきったからだつきをして、ぷりんぷりんと尻がうごいて。
わき目もふらず稲を刈りつづける与助の胸に、先《さ》っきお浅の言ったことばのきれはしが思い浮かぶ。
(父《とと》さはにがい顔しとりなさるわ、ハハハ)
与助の顔にもにがいものが浮かんだが、手は休めない。サクサク、サクサク、と刈りつづけた。
二
与助が長い放浪の旅から帰って来たのは、つい十日ほど前のことだ。十六の時に村を出たのだから、七年ぶりの帰国だが、家を出たのは八つの時で、それから十六まで時々は家にも帰ったが、一月といたことがない。よその家に奉公にやられたり、勝手にとび出したりして、近郷、近在、近国をうろつきまわっていた。家におちついて居たかったのだが、それが出来なかった。
はじめは継父《ままとと》にきらわれたためだが、度々家を飛び出しているうちに、少しでも気に食わないことがあると、まるでがまん出来なかった。おろおろしながら母のとめるのをふり切って、
「おらが出てけばええのやろ。出てくよ。ええ天気や。向うの方に米の飯が見えるで」
と、にくまれ口をたたいては飛び出した。
自分の出て行ったあとで、母《かか》さと継父《とと》さとの間にねちねちと陰気な口争いがおこり、母さのあきらめときげんとりでそれがおわることを、与助は知っている。与助には、誰もいないところで、母さがひそかな涙をこぼして、
「与助や、ゆるしておくれ、ゆるしておくれや」
と、胸のうちで言っている姿が目に見えるようだ。
「母さにゃすまねえけんど、おれどないしても、継父《とと》さにゃがまん出来ねえだ。母さも、よりによっていやなやつを亭主にしたもんや。――ああ、思うめえ、思うめえ。いやなやつのことは忘れるにかぎる」
プイと空を仰ぎ、やせた小さいあごを天に向けて、足の向いた方にすたすたと歩いて行くのが常であった。
与助の実父|弥右衛門《やえもん》は下《しも》の織田家の三奉行の一人、織田|備後守《びんごのかみ》信秀の家の鉄砲足軽《てつぽうあしがる》で、その頃は木下という名字を持っていたというが、ほんとだかうそだかわかったもんじゃねえと、与助は思っている。
(ほんとじゃにしても、一年か二年のものじゃろう。母《かか》さは、お前の父《とと》さは名古屋の織田様のご家中のお鉄砲足軽で、木下弥右衛門といえば、数あるお鉄砲足軽の中でも、指おりの鉄砲上手で、勇ましゅうて強いお人じゃったが、三河《みかわ》の戦さで腰骨に鉄砲玉があたって、右の足が自由にきかんようにならしゃったので、これでは武家奉公はなりがたいいうて、村に引っこんで百姓になって、わしと夫婦《みようと》にならしゃったのじゃえ。鉄砲傷さえ負わしゃらなんだら、お高《たか》取りのりっぱなお武家にならしゃったにちがいないお人じゃったのじゃ。ようおぼえておくがええと、おらがまだうんと小《ち》ッこい頃《ころ》に、よう言うた。今の継父《ままとと》と一緒になりなさらん前のことじゃ。おらは父さのことはまるで覚えとらん。父さはおらが生まれて三年立つや立たずで、死んだのじゃからな。母さはそれが心細うて、頼りのうて、その上その頃は死んだ父さのことが恋しゅうてならなんだので、あないなことをいつも言うたのじゃろう。おらも父さはえらい人じゃったのじゃと思うていたが、だんだん大きくなると、疑わしゅうなった。数ある鉄砲足軽の中で指おりの上手で、勇ましゅうて強かったというなら、ちっとは人のうわさにも上ろうものを、誰《だ》ァれもそんなこと言う者はなかったものな。一年か二年、鉄砲足軽になって、そいでけがしてもどって来たくらいのもんじゃろうと、おら思うとる。第一、からだの小ッこい、貧相な面《つら》つきしとったに違いなかろうず。母さは尋常なからだして、尋常な顔して、今でこそ普通の百姓婆さまじゃが、おらがまだ小ッこい頃は、色白で器量のよい人じゃったから、おらがこないに小ッこうて、こないな面しとるが、その証拠じゃ。父さに似たに違いないのじゃ。こないな小ッこいからだと、こないな面つきで、なにが強いものか。いくさに出ても、ひょろひょろと逃げまわってばかりいたに違いなかろうず。逃げまわっているうちに、ドンと腰骨をやられたというわけか。おかしゅうてならんわい! おなごというものは、気がやさしいゆえ、とかく亭主や子供のことは、よいようによいようにと思いこんでしもうのじゃ。言うことをほんとじゃ思うて、人になんぞ語ったら、えらい恥をかくことになるぞい)
というのが、彼の実父にたいする現在の考え方だ。
母が継父に再縁したのは、与助が五つの時であった。母は父に死別して後、三年間、一つちがいの男女二人の子をかかえて後家ぐらしをつづけたのだが、女手一人では猫のひたいほどの田畠のしごとも骨がおれたし、年もまだ二十を少し出たくらいの若さであったので、村の人々の世話で、今の夫を迎えた。
これも名古屋の織田家の奉公人上りだったが、武職《ぶしよく》ではなく、茶道坊主《ちやどうぼうず》であった。奉公しているうちに小金が貯《た》まると、いつまでも人に追いつかわれる身がいやになったといって、生まれ在所《ざいしよ》であるこの中村に帰って来て、少しばかりの田畠を買い、小金貸しして暮すようになった。その頃は竹右衛門《たけえもん》と名のっていたが、人は茶坊主だった頃の名で、やはり竹阿弥《ちくあみ》どんと呼ぶことが多かった。
竹阿弥は織田家に奉公している期間が長かったので、もう年も四十に手がとどいていたが、いつか若い後家である与助の母に思いをかけて、村の口利《くちきき》の者に頼んで話を持って来たのである。
「お前もまだ末長い身で、いつまでもひとり身で通せるものやない。竹阿弥どんは、年こそ少し離れとるが、からだも丈夫じゃし、身上《しんしよう》もよい人や。この上もないいい縁やないか。何よりも、二人の子供のためになるやろ。あの人はもう四十を越えとるさけ、もう自分の子供は出来へんやろから、おともと与助を可愛がってくれるにきまっとる」
という工合《ぐあい》に、口利どんは口説いたのだ。
こうして、竹阿弥は与助姉弟の継父《ままとと》になったのだが、その以前から与助は竹阿弥を好きなおじさんとは思っていなかった。小川のへりの竹藪《たけやぶ》の陰にある竹阿弥の家はたった一間に台所と土間のついた小さい家ではあったが、屋内も菜園つきの庭も、いつ行って見てもきれいに片づいていて、台所の板の間など舐《な》めたように拭《ふ》きこまれて、鏡のように顔がうつった。
そこの庭つづきの小川のへりはたんと蟹《かに》がいて、竹阿弥が家を建てる以前は、子供らのいい漁場《りようば》になっていたので、子供らはよく蟹とりに行ったが、竹阿弥はそのたんびに、
「おどれ共、入って来てはいかん! 入って来てはいかん! 早う出い! 早う出い!」
と、目を三角にしてどなり立て、子供らが渋々と出て行くと、箒《ほうき》をとってぶつくさ言いながら掃いて、きれいに箒目を立てるのであった。
つめたくて、神経質で、口やかましくて、子供らは誰一人としてよく言う者はなかった。
「あの爺《じじ》ィ、茶道坊主《ちやどうぼうず》やったさけ、きれい好きなんやとよ。おらがうちの爺《じじ》さがそない言うたわ」
と、子供の一人が言ったので、子供らは茶道坊主というものを、最も気味わるいものに思った。つめたァい、黒ォい、カチカチのからだをした、三角の目をした、ばけものじみたものだと思った。
その竹阿弥が自分の父となったのだから、与助はいやでいやでならなかった。友達に顔を合わせるのがつらかった。
竹阿弥は二人の継子に親しみ、可愛がろうとつとめたには違いなかった。おもちゃをこしらえてやったり、作《さく》ばたらきに出る時は手を引いて連れて行ったりした。姉のおともはおとなしい娘だったので、はいはいと何でもよく聞いたが、元気ないたずら小僧であった与助は継父の口やかましさにがまん出来なかった。おもちゃをこしらえてくれるのはよいが、よごしたと言っては小言をいい、どこぞを損じたといっては叱《しか》り、なくしなんぞした日には、目から火の出るほど叱りつける。そのほか、やれ鼻汁《はな》をかめ、足を洗って上れ、その手でそのへんをべたべた撫《な》でまわしてはならん、飯をこぼすな、そないに口をぺちゃぺちゃ鳴らしてもの食べてはならん、そのすわり方はなんじゃい、などと、小言の言いづめだ。呼吸《いき》がつまりそうであった。
何よりもがまん出来なかったのは、ある時しみじみと与助を見て、
「この子はまあ何ちゅう器量の悪い子じゃろう。猿《さる》そっくりじゃわ。この小《ち》ッこいからだといい、顔つきといい、そっくりじゃわ。目が一番似とるわ。くりくりした形もそうじゃが、目ン玉の色を見い。人間の目はあないな色をしとらんで」
と言って、それからは「猿」としか呼ばなくなったことだ。
自分が醜《みにく》い子であることは、子供心に与助はよく自覚している。
(姉さはあないに色が白うて、顔立ちがようて、村の衆が、年頃《としごろ》になったらさぞきれえな娘になるじゃろうというとるのに、おらはなんでこないにみっともないのやろ)
と、いつもかなしいのだ。女の子供らとままごと遊びをしても、どの子も与助と夫婦《めおと》になろうとしない。与助はいつも下男にしかされない。
かなしがったり、くやしがったり、おこったりしては、かえって気持がみじめになることを知っていたので、いつも、
「おれ、おまえンちの作男《さくおとこ》になるわ」
と、一番好きな女の子に進んで言って、下男にしてもらい、おもしろく、おかしくその役を演じて、笑わせたり、ほめさせたりした。
ほんとうは悲しいのだ。せめて人なみな器量に生まれて、その子のご亭主になれたらと、どんなに思っているか知れない。
その自分を、「猿」などと呼び名をつけて! と、煮えくり返るほど腹が立った。
なお腹の立つことには、村中の人々が「猿」と呼び出し、子供らもそう呼ぶようになったのだ。
猿と呼ばれれば、
「おいよ、何じゃい」
と、こちらはいとも気軽な調子で返答することにした。時々は、歯をむいて、キーキーと言ってみたり、胸のへんをさかさまに掻《か》いたりして見せる。腹を立てたり、ふくれたりしては、かえってみじめな心になるからだ。
しかし、その度に、
(クソッたれ父《とと》さめ!)
と継父をうらんだ。
三
人間の心理の反射作用は微妙なものがある。はじめはそれほどのことはなく、単に神経質で口やかましいばかりであった竹阿弥が、いつか与助をきらうようになった。
翌年になると、とうてい子供を生ませる能力はあるまいと思われていた竹阿弥の胤《たね》が母にとどまって、年の暮に男の子が生まれた。小竹《こちく》である。
こうなると、実子にたいする愛情がたかまって来るにつれて、与助にたいする嫌悪はつのって来る。すると、与助の方もさらにきらうようになる。もう胸の中だけできらっているのではない。口ごたえをするし、ふてくされを形に見せるし、時には手むかいさえする。
「こないな子をおれ見たことがないわ。ようもこう横着に育ったものや。こんな子には他人の飯食わせるが一番や」
と、竹阿弥は言って、八つの時であった、海東郡萱津《かいとうぐんかやづ》の、といっても中村からせいぜい二里くらいしかないが、そこの光明寺《こうみようじ》という遊行《ゆぎよう》派の念仏道場に奉公に出した。成長の後、本人が出家するのを得心するならこの上のことはないが、出家をきらうならそれもよし、ずいぶん仕付《しつけ》をきびしくしていただきたいと頼んだ。
与助は十一の時まで足かけ四年いたが、出家になる気はついに起こらなかったから、お経などまるで覚えなかった。もっとも、この宗派は経文にはあまり重きをおかない。ひたすらに念仏せよというのを教えとして、おどり念仏とて、念仏しながらおどりなどしていればいいのだ。文字を少し読みならったし、手習もしたが、それもほんの少しだ。坊さん達すら日常の用が足りるだけで十分とするのだから、和尚《おしよう》さんでも、この方の力は知れたものだ。
ここでも、坊さんに「猿《さる》やん」と呼ばれた。
「あいよ、なんぞ用ですかい」
と、与助はいつも陽気に、きげんよく返事していたが、ある時、新たに入って来た幼い小僧が、坊さんらを見習って、
「猿やん」
と呼んだのが、むらむらと来た。
「おどれが猿やんいうことがあるか! おどれこそうらなりの冬瓜《とうがん》みてえな頭《どたま》しとるくせに! そのどたまぶちわってくれるど!」
とどなって、いきなり薪《まき》ざっぽうでなぐりつけた。相手は青い頭から血を吹き出させてたおれ、ワアワア泣き出した。与助は一層《いつそう》腹を立てて、背中じゃ、腰じゃ、足じゃと、薪ざっぽうの行き放題に、めったやたらになぐりつけ、半殺しの目にあわせ、なおなぐろうとした。坊さんらがおどろいて駆けつけ、叱《しか》りつけてとめようとすると、与助はこんどは坊さんになぐりかかった。
「おらがおとなしゅうしてれば、おとなしゅうしてれば!……」
どなり立てながら、猛《たけ》り立って、手がつけられない。
いたずら者ではあるが、陽気で、よく働いて、一山の愛嬌《あいきよう》ものであったが、まるで狂気のようだ。やっとのことでとりおさえて、和尚さんの前に連れて行った。和尚さんはわけを聞きにかかったが、ぷっとふくれかえって、ひとことも返答しない。わびを言うて、これからこないな乱暴はせんと誓わなければ、寺におくことはならんと和尚さんがおどかすと、打って返すように、
「おお、おいてもらわんで結構や! ええかげん飽きあきしとったとこや。出てくさけ、この縄解《なわと》きくされ! このズク入《にゆう》め! 頼んだかて、居てやるもんか!」
と、ののしり返した。おそろしい顔になっていた。怒って毛を逆立《さかだ》て、歯をむき出して噛《か》みつこうとする小さな野獣のようであった。和尚さんはおそろしくなり、早々に家へ送りかえすことにした。
与助の放浪の生活がはじまったのは、この時からだ。家に帰った彼が継父《ままとと》に歓迎されようはずがない。家では与助が寺に入ってすぐお浅が生まれたのだが、それが四つになっていた。それはよいとしても、お浅が生まれてすぐ竹阿弥は大病をして、一年余も寝ていた。そのため、持っている金を使いつくし、田畠も半分は手放して、おそろしく貧窮《ひんきゆう》して、口べらしのため与助の姉のおともはやっと十二というのに、隣村に下女奉公に出されている始末であった。竹阿弥は、
「十一といえば、子供でも少しは考えも出るはずじゃ。何でもどって来たのか」
と、叱ったばかりか、おりにふれては、ねちねちと皮肉を言った。とてもおられるものではない。とび出した。
農家に奉公したこともあれば、清洲《きよす》の商家に奉公したこともある。どこも長くはつづかなかった。まともな奉公がいやで、乞食《こじき》になったこともある。ひもじさに駆られて盗みをしたこともある。夜盗《やとう》・強盗の群に入って走り使いや見張役をつとめたこともある。時々家に帰ったが、いつもすぐ継父と喧嘩した。そうでなくても、放浪が身についたものになっていて、四、五日もすると、尻《しり》がむずむずして来た。
十六の春、家に帰ったが、また喧嘩《けんか》して飛び出した。
「おお、誰がこないな家にいてやるもんか。ええ天気やわ。ずっと向うに米の飯が見えるでェ」
と、きまりの文句をはき散らして、足の向いた方にすたすたと歩いていると、母が追いかけて来た。
「汝《われ》の父《とと》さがのこしておくれであった銭が永楽銭《えいらくせん》で一貫文ある。われが年頃になったら、渡そうと思うて、どないに苦しゅうても、手ェつけんで来た。われももう十六になったことゆえ、これ渡す。これをもとでにして、何とか身を立てておくれや」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、母はさしにつないだ銭を二連わたした。
与助はいきなりしぼり上げられるように胸がせまって来た。自分も泣きながら、
「おらはそないにはいらねえだ。少しでええだ。あとは母《かか》さとっておきや。おら少しでええだ」
と言って、一連のうちの半分だけをとり、あとは母の胸におしこんで、別れた。
彼は清洲《きよす》に行って、その銭で縫針を仕入れ、それを売りながら三河に行き、遠州《えんしゆう》に行ったが、そこでふとした縁で駿河《するが》の今川家の被官《ひかん》で、遠州|頭陀寺《ずだじ》(松坂の西北三キロ富塚にあった)城主松下|嘉兵衛尉之綱《かへえのじようゆきつな》の下僕《げぼく》となった。はじめての武家奉公であった。武家奉公は気分に合ったのであろう、放浪癖も出ない。勤勉に、忠実につかえた。嘉兵衛尉も奉公ぶりをよく見てくれて、二年の後には若党《わかとう》にとり立てて、二本差させてくれた。また二年後には徒士《かち》にとり立ててくれた。楽しみであった。
こうなると、放浪時代のことは悪夢のような気がする。飢えに迫られて盗みをしたり、乞食《こじき》をしたりしたことなど、思い出すと身の毛のよだつ気持だ。
(もうあんな境遇に沈むのは、金輪際《こんりんざい》いやだ!)
と思った。
だのに、そんな夢をよく見た。月のおぼろな夜中なのだ。ぼろぼろの着物を着て、くるぶしがやっとひたるくらいの水がちゃらちゃらと流れている小溝《こみぞ》の中にしゃがんで、しきりに向うの藪《やぶ》を見ている夢だ。なかまがずっとうしろの土居《どい》をめぐらした大きな屋敷に押入っているのだが、あの藪をぬけて来る道から役人共が出て来そうなので、見張っているわけであった。
その夢を見ていながら、与助は自分に腹を立て、
(ああ、またはじまった、またはじまった、おらはいつまたこのなかまになったのじゃろう、いつなったのじゃろう……)
と、自分をののしり立てるのだ。
やがて、その夢がさめると、呼吸《いき》がはずんで、全身が汗にぬれていることを知る。
(ああ、よかった! 夢じゃった……)
と、涙の出てくるほどの気持で安心するのだ。
ここでも、彼が乞食同然の境遇から松下にひろい上げられたことと、からだの小さいことと、面《つら》つきの醜悪《しゆうあく》さが、皆のからかいの的《まと》になった。松下はそんなことはなかったが、家中の者、とりわけ朋輩《ほうばい》らは、「チビ助」「猿」「尾州猿《びしゆうざる》」などと、口から出放題なことを言ってからかった。彼はもう腹は立てなかった。立たないわけではなかったが、決してその怒りを出さなかった。行動に出せば、火が風にあおり立てられるように、怒りが激し上って、とりかえしのつかないことをしでかすであろうと、思ったからだ。
(そうなれば、またあのみじめな境遇におちてしもう)
平気な顔で、いつもその場に適当な軽口をいっては、大きな声で笑ってすませることにした。
(どんなことがあっても、当家は去らない)
と、かたく決心していたのだが、そう行きかねる事情が生じた。
松下は与助の忠実で、しかもよく行きとどく奉公ぶりが気に入って、さらに士《さむらい》にとり立て、納戸役《なんどやく》を申しつけた。これが松下の近習《きんじゆう》の者共の嫉妬心《しつとしん》を挑発したのであろう、笄《こうがい》じゃ、小束《こづか》じゃ、印籠《いんろう》じゃ、巾着《きんちやく》じゃ、鼻紙じゃと、何かちょっと見えなくなると、
「尾州猿めがあやしい」
「猿めをあのへやの前で見かけたぞ」
などと言い立てるのだ。
これらのことは、笑って済まされることではない。与助は泣いて松下に訴えた。
松下は聞いて、しばらく思案した後、
「そちがさような不都合を働く者でないことは、わしはよく知っている。しかし、そうまで皆ににくまれては、そなたの末のひらけようはなかろう。ふびんな者ながら、当家の奉公をやめて、本国に帰るがよい。そちほどの者であれば、どこに奉公しても必ず運はひらける。そちはわしにとっては、おしいものであるが」
と言って、永楽銭を三十|疋《ぴき》くれた。
しかたはない。再び帰るまいと思って出た母の家に、帰って来た。つい十日ほど前のことである。
四
せっかくありついて、生涯離れまいとかたく決心していた松下家を浪人して、七年前とかわりのない境遇になったものの、性根《しようね》はまるで昔とかわっていた。
「二度とあのみじめな身になってはならん! あれは地獄だ。おれは地獄の底からやっと這《は》い上って来たのだ」
ときびしく思い定めている。
「そのためには、どんな辛抱でもしよう。決してくじけまい。決してあと先き見ずの腹立ちなどすまい」
とも考えている。
こんどもやはり武家奉公しようと心組んでいる。これまでいろいろなことをして来たが、武家奉公が自分には一番合っていると見きわめがついた気持だ。
奉公先をどこにするかも、大体きめている。清洲の織田家がよいと思うのだ。
清洲の織田家はつい数年前、名古屋からここに移ったのだ。もとはよい家柄《いえがら》の武家ではない。元来、尾張《おわり》は越前とともに管領《かんれい》家|斯波《しば》家の管国だ。戦国という時代は、上の権力が次第に下に移って行った時代だ。足利将軍家の勢いは管領の細川家に移り、細川家の勢いはその家老|三好《みよし》家に移り、三好家の勢いはその家宰《かさい》である松永に移るといった調子だ。斯波家もまたそうであった。斯波家の勢いがおとろえ、その家老である朝倉家と織田家が勢いが強くなり、朝倉家は越前を自分のものにしてしまい、織田家は尾張《おわり》を自分のものにしてしまった。尾張の織田家はやがて二つにわかれた。
尾張八郡を二つにわけて、上《かみ》四郡と下《しも》四郡をそれぞれに支配して、上の織田家、下の織田家と呼ばれるようになった。その下の織田家に三人の奉行がいて、皆名字を織田といっていたが、その三人のなかで、津島近くの勝幡《しようばた》村に城がまえをしていたのが織田信秀であった。与助の父の弥右衛門が鉄砲足軽《てつぽうあしがる》としてつかえたという人物だ。
これがなかなかの人物で、下四郡を全部自分のものにして、名古屋に居城をうつし、「名古屋の織田殿」といわれるようになった。しかし、斯波家から見れば陪臣《ばいしん》、足利将軍家から見れば陪々臣《ばいばいしん》だ。家柄の低いことはいうまでもない。副将軍と俗に言われている駿河《するが》の今川家の被官《ひかん》である松下|嘉兵衛尉《かへえのじよう》の家より一格半は下るわけであった。けれども、人物は一通りや二通りのものではない。
下四郡の主《あるじ》となると、しくしくと上四郡にも食いこみ、これもあらかた自分のものにしたばかりか、連年兵を美濃《みの》に出し、三河に出し、これも蚕が桑を食うようにかじり取りつづけた。
この人は今から九年前に死んで、あとには長男の信長が十六という若さで立った。立った当座、信長は少し気のおかしい阿呆《あほう》じゃといわれていた。
「先代があれほどかせぎためたあの家も、息子の代になるとチングヮラリか。なかなか二代とはつづかぬものと見える」
と、世間で言っていたくらいだから、家中もおさまろうはずがない。信長の弟の信行をかついで謀反《むほん》をくわだてる老臣が出てくる、今川家と気脈を通ずる被官《ひかん》が出て来る、失地を回復するために立ち上る他の織田家がある、というようなゴタゴタが次から次にとおこった。ところが、案外なことに、信長は阿呆どころか、なかなかの技倆《ぎりよう》を見せはじめた。ほぼ十年の間に、尾張内のゴタゴタを全部かたづけてしまい、居城を清洲《きよす》にうつし、信秀の在世当時におとらない確かな家となったのだ。
「どうやら、奉公しがいのある殿様らしいわ。どうにかして、この家でありつきたい」
と、考えたのだ。
継父には相談する気になれなかったし、よしんば相談しても、身を入れて相手になってくれもすまいと思ったから、何にも言わなかった。母にはそっと相談した。
「わしにはわからんけど、われが父《とと》さはあの家に足軽奉公しとられたお人じゃ。それを言い立てて、誰ぞに頼んで話をしてもろうたら、出来んことではないやろがの」
と、母は言った。
その誰に頼むかが眼目なのだ。
「誰か居らんやろか」
「さあてのう、どないな人がいいのやろ」
と、母は思案していたが、やがて言う。
「われ知っとるかの、源助|爺《じじ》さとこの源太郎が、清洲のご城内に奉公して、今ではお小人頭《こびとがしら》になって、一若《いちわか》いう名になっとるが、あれはどうやろ」
源助爺さも、源太郎も、一切記憶がない。お小人頭という役目も力のあるものではない。しかし、ほかに頼るところがないから、これに頼むよりほかはない。
与助は遠州でもらった三十疋の銭のうちから十疋もって、清洲に行き、一若に会った。
会ってみて、一若が幼い頃の誰であるか、すぐ思いついた。堤上《どてうえ》の源助爺さのうちの卯吉《うきち》のことであった。与助より五つ六つ年上で、意地の悪い子で、その頃一番与助をいじめた子だ。
猿兵衛、猿吉、猿蔵、猿助、黒猿などと、その時の思いつきで呼んでは、いやがらせをするので、殺してやりたいとまで思ったこともあったのだ。
「おおら、一若殿ちゅうのはおまんやったのか。源助爺さの家の源太郎どんやと、母《かか》さがいうものじゃから、誰のことやろと思うとったわ。おまん、あの頃は卯吉いう名やったの」
というと、
「ああ、卯年の生まれやさけな。われは申《さる》年やったの。ハハ、あの頃と同じや。やっぱりわれ猿に似とるの」
と、一若はまた意地悪いことを言って笑った。
与助は、自分の頼みをのべ、青緡《あおざし》をさし出した。
一若はおじぎもせずにそれを受取って、両手の間にもてあそびながら、
「そらまあ、幼《おさ》な友達のわれの頼みやさけ、こないなものもらわんかて、出来るだけの口はきいたるが、あんまり頼みにしてくれんといてや。いかなんだ時、おれ切ないよってな。――おれ、あすから数えて五日目の夕方、村に帰るさけ、夜さりでも家に来てみいや。その時、もっとくわしい話聞こ」
と言った。いつの間にか魔法のように青緡はどこかへしまいこまれていた。
清洲から帰る途中、姉の奉公先に寄って、姉に会った。
姉はこの頃では琵琶島《びわじま》の川舟問屋に飯炊《めしたき》奉公をしているのだ。帰って来てはじめての対面であった。
美しい年増女《としまおんな》になっていた。四年ほど前、縁があって清洲の町の小さな町人に縁づいたが、一年立つや立たずに夫に死に別れたので、今の家に奉公に出たのであった。
「われ大きゅうなったのう。ほんと大きゅうなった。家を出た時、いくつやった? 十六やて? われとおれ一つちがいやから、ちょうど七年になんのやねえ!」
といって、姉は泣き出した。泣いている時のその頸筋《くびすじ》のぬけるような白さときめのこまやかさとには、わが姉と思いながらも、ドキッとするような衝撃があった。
一若との話を語ると、
「源太郎さ、そない言うたかえ。ふん」
と、言った。不思議な思入れのある調子であったので、
「頼んでは来たのやが、どうやろ、頼みになるやろか」
と聞いた。
おともはそれには返事せず、
「源太郎さは、わしが夫《やど》が死んでからしばらく、わしにつきまとうて、うるそうてうるそうてかなわなんだことがあったわ。ハハ」
と、笑った。
くったくない調子であったから、こちらも笑って言うことが出来た。
「そないなことがあったのかえ。ありそうなことでもあるのう。そやかて、姉さ、えらいきれいやもの。今日清洲の町で、仰山《ぎようさん》おなご見たが、姉さほどにきれいなのは、あんまり見なんだで」
「きれいやいわれると、おなごはやはりうれしいわの。ハハハ。わしらが所帯もっとった清洲の家は、裏が竹藪《たけやぶ》になっとった。源太郎さは、三七日《みなぬか》もすまんうちから、その竹藪の横っちょに、非番の晩はいつも来て、手下の者をわしがところへ呼びによこしたのや。わしは呼出しがあれば必ず出かけて行ったが、言うことはきいてやらなんだ。ふってふってふりぬいてやったのや。ハハハ、ハハハ。同じ在所の者やさけ、行ってもやらんのは義理が悪かろと思うたけにな。しかし、言うこと聞いてやっては、亭主どのにすまんがな。死んでいくらも立っとらんのに、口説くちゅうは、わしをよっぽど男好きと見とるらしいと思うて、腹も少しは立っていたわの」
と、姉はまた笑った。
これらのことは、つい一昨日のことであった。
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秀吉の幼名日吉丸が信ずべからざることは常識でもわかる。サルというのは渾名《あだな》である。与助と呼んだことは三河|後風土記《ごふどき》にある。これがもっとも信ずべきものである。
琵琶島は今は枇杷島と書いているが、古い頃には琵琶島と書いた。地形が琵琶の形に似ているところからこの地名となったというのだから、この方が正しい因縁があるのである。
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柿色の着物
一
一若《いちわか》は朝の八時頃、勤務から帰って来た。いいきげんであった。勤務の合間に、いつものことでばくちがはじまったので、ちょいと眠気ざましに張ると、トントン拍子《びようし》に勝ち進んで、銭《ぜに》ももうけた上に、着物や、脇差《わきざし》までもうけた。それらを一包みにしてぶら下げて、帰って来た。まだ勘定《かんじよう》はしていないが、大かた五貫文はあるだろう。こんなに勝つことはめったにない。ごきげんなはずであった。
しかし、眠くてならない。腹もすいている。
「飯を食うたらすぐ寝てこますのじゃ」
と考えながら、帰って来た。
小人《こびと》は小者《こもの》ともいって、中間《ちゆうげん》の一格下の雑用夫で、広い部屋に何十人でも合宿しているのだが、頭となると、その合宿所に隣り合って二へやつづきの居場所をもっている。
小者が迎えるのにうなずいて、
「飯持って来《こ》う。早う持って来う」
とどなりながら、居間に入り、風呂しき包みをほうり出し、ガタンとひっくりかえった。ぼんのくぼに両手をあてがい、天井を見ている間に、ついうとうととした。
「飯でやすわい。上りなさろ」
という声に起こされた。
むくむくと起き上った。玄米《くろごめ》のかたい飯を黒ぬり御器《ごき》(椀)にこてこてと盛り上げたのと、ぬか味噌汁《みそしる》をもった椀《わん》、塩鰯《しおいわし》二ひきを焼いた皿とがのっている膳《ぜん》が目の前にあった。小者がそばにかしこまっている。
一若は黒いひげのむくむく生えた大きな手で箸《はし》をとり上げ、一箸飯を口に運んで、もぐもぐと言った。
「そこの包み解《と》いて、銭を勘定してみてくんろ」
「へい」
小者は包みを解いて、ひゃァとおどろいた声をあげた。
「えらいもんや。お頭《かしら》、よっぽど勝ちなさりましたな」
「もと手は百文や。われながらけたいと思うほど、ゆんべはついとったわ。思う目ばかり出よった」
一若はたくましい食欲で食事をつづけながら説明し、忽《たちま》ち食べおわって、
「湯《ゆう》くれ」
といった。
「へい。ちょっと待っておくんなさい。もうちょっとで勘定がすみますさけ」
小者《こもの》は言って、しきりに口の中で数を読みつづけていたが、やがておわって、
「銭が三貫六百五十五文、着物が二枚、脇差《わきざし》が二ふり、全部で大体七貫か八貫ちゅうとこでんな」
と報告しながら、土瓶《どびん》を持ちに出て行った。
「なるほど、銭三貫六百五十五文か。案外少なかったなあ。もっとあると思うとったけどな」
一若はゲップをしながら楊枝《ようじ》使いして、百文ずつならべて、いく十列もおいてある銭をながめ、着物や脇差をながめて、値段づもりをした。
(あまいつもりようや。着物が二枚で五百文、脇差が二ふりで一貫五百文、全部で、ざっと五貫五、六百文ちゅうとこや……)
と、つもっていると、小者が土瓶を持って来て、御器に湯をついでくれて、言う。
「おなごがお頭《かしら》をたずねて来ましたそうで」
「おなご?」
一若は藪のように濃い眉《まゆ》の下の目をむいた。元来体格もりっぱであれば、顔立ちも悪くないのである。後世太平の世になっては、こんな顔はあまりはやらない。道具立てが大きくて荒々しくて、憎体《にくてい》な顔といわれるようになるのだが、この時代には「男ぶり見事に候」とほめられる顔立ちだ。この顔立ちで、強力《ごうりき》でけんかにも強く、小気もきくところから、小人頭にもなっているのだ。
小者はにやにやと笑った。
「琵琶島《びわじま》から来たと言いましたそうで」
「なにィ? なんでそれを早う言わんのじゃ!」
と、腰を浮かしかけた。
「もうもどったそうでごわります。用のあるすけ、都合のつき次第、来てほしい言うて帰って行ったげにござる。何者でござりますだ。お頭《かしら》のこれでござるか。きれいなおなごやったいうことでござるが」
小者は小指を出した。まだにやにや笑いをやめない。どうやらこの話はお頭のお気に召すと判断した模様である。
「余計なことを言うな!」
一若は決しておこってはいないが、どなりつけて、ごろりと横になった。
「枕《まくら》をくれえ。掛けるもんもくれや。眠《ねぶ》たいわい。その銭、苧《お》を通してから包んどいてくれや。ああ、ねぶたい、ねぶたい」
出してもらった枕をし、小掻巻《こがいまき》を裾《すそ》にかけて、目をつぶった。
ねむたいのも事実であったが、実は小者を追いやって考えたいためであった。
小者が銭の包みを下げて行くと、どんぐりのように大きな目で、すすけた壁をみつめて、ニヤリと笑った。
琵琶島から訪ねて来たという女が誰であるか、もちろん、一若には見当がついている。おともに違いないのである。おともがなぜ来たかもわかっている。弟の与助の奉公口を頼むつもりに違いない。
実を言うと、一若は与助がご当家に奉公したいから、骨折ってくれといって頼んで来たことを忘れていた。おともが来たというので思い出した。昨夜のばくちのもとでが、あの時与助が是式《これしき》(わいろ、進物)としてくれた銭十疋であったことも思い出した。
(猿がくれた銭で、こげいにもうかったわけやが、大方山王の権現《ごんげん》さんでもついとったのかな)
と思った。しかし、別段恩に着る気になったわけではない。銭の百文くらいもろうたからとて、そう骨折ってやらなければならないことはない。おらもずいぶん骨はおってみたが、お小人頭くらいではうまく行かんわ、まあ気長に待つことや、そのうちにはうまいこと行くかも知れへんとでも言って済ませればいいのである。
(しかし、おれうっかりしとったが、おとものやつ、猿と姉弟やったな、骨おって、なんとかしてやったら、おとものやつ、言うこと聞くかも知れへんなあ……。こら一つよう考えてみなならんことやわ……)
と考えているうちに、一気に深い眠りに入った。
二
一若はおとものことを子供の時からよく知っている。きりょうのよい子だと思ったことはなかった。目鼻立ちは尋常だが、色が青白くて、病身なようで、魅力を感じたことがなかった。おともの家があまり貧乏だったせいかも知れない。
そのおともが、清洲《きよす》の町の小町人に縁づいてしばらくすると、おそろしく美しくなった。第一皮膚の色がなんともいえず美しくなった。貧乏による栄養の不足か、不健康をそのままあらわしているように見えていた青白く艶《つや》のなかった肌色が、におわしい血色をただよわせ、こまやかな艶を帯びて来た。そうなると、からだつきもいかにもしなやかな風情に見られる。ぱっちりとした眼つきなど、しおがあって、なんともいえず色っぽい。一時に花がひらいた感じた。
清洲の町を歩いている時、久しぶりにおともを見て、一若は別人かと思った。
「おおら、おめえおとも坊かァ! おらはまたえれェ別品《ぺつぴん》が来るわと、見とれながら来たのぞい。ほんにまあ、どないしたのぞい」
と言ったものだが、誇張でもなんでもないほんとの感嘆であった。
「おなごいうものはばけもんや。男の手入れのしようでは、美しゅうもなれば汚《きた》のうもなるわの。ハハ、ハハ、ハハ」
と、おともは男のように明るく笑った。この明るさも、前にはなかったものであった。
しばらく立話などして別れたが、帰って行きながら、一若は、
「おしいことをした」
という気がしてならなかった。
以前のおともだったら、言い寄ったらすぐ言うことを聞いたに違いなかった。女房にくれよと申込んだら、竹阿弥《ちくあみ》夫婦はよろこんでくれたに相違ない。
(おれ、まるっきりあのおなごに気をひかれなんだな。第一、おなごと思うとらなんだわ。おれはおなご見る目はからきしやな)
と、悔んだ。銭《ぜに》でも二、三貫文おとしたような気持であった。
この時はこれくらいの気持ですんだが、それから二年ほど立って、おともの亭主が風邪をこじらして死んでしまった。
一若はせっせとおともを口説いたが、おともはなびかない。
「からかわんといてんか。あんたお小人頭《こびとがしら》いうえらい身分やないかん。おらみてえなおなごにチョッカイ出さんかて、世の中のおなごはよりどり見どりやがな。そういうのを浮気いうんやで。男は浮気ですもうが、おなごは傷ものになるのやさけな。おら、まだひもじゅうないわ。ひもじゅうなったら、言うことを聞いたげるかも知れへんけど、今はあかんわ」
と笑ってはねつける。
そのうち、琵琶島に奉公口を見つけて、清洲を立ち去ってしまった。
琵琶島にも二、三度行って、小あたりにあたったが、
「男とちごうて、おなごは一生でもひもじゅうならんで済むこともあるのや。よそ様で埒《らち》あけるがええわ。おらその気になんねえ。アハハ」
と、相手にならない。
こんなことで、とうとう一若の恋はしぼんでしまったのであった。
一若の眠りは、昼をかなりにまわった頃から浅くなった。となりの大べやで、小者共がバクチを打っている。その掛声や、壺《つぼ》の音や、賽《さい》ころの鳴る音や、その他のざわめきを聞きながら、半分目ざめ、半分眠って、うつらうつらとしているうちに、はげしい欲情を感じた。おとものことが最もなやましく思い出されて来た。
「くそやろう! こんどこそ言わしたる!」
と、ことばに出して言い、それではっきり目をさました。
三
夕方近く、一若はひげを剃《そ》り、さかやきをして髪を結《ゆ》いなおし、もう一ぺん歯をみがき、新しい着物を着、刀脇差《わきざし》もこしらえのよいやつをえらんでさして、お城を出た。誰《だれ》も連れない。今夜は人がいては邪魔になるのである。
琵琶島《びわじま》は清洲から四キロほど、庄内《しようない》川の左岸にある。吹きざらしの野ッぱら道を行くこととて、日がかげって来てはずいぶん寒かったが、今日はめかしこんでいるので、決していそがず、悠々《ゆうゆう》と歩いた。
日が入る頃、庄内川の渡しをこえて、琵琶島について、おともの奉公先の川舟《かわぶね》問屋に行った。
家の横手に舟おき場があり、舟がいくはいもつないである。その一つの上に若者がいて、何やらしている。
「これや、おぬしに頼みたいことがある」
と、一若は高い岸に立って声をかけた。
「なんですかや。ちょっこら待ってくらっせ。すんぐに用がすむけにな」
若者はしばらくなおこちょこちょとやっていたが、すぐざぶざぶと手を洗い、その手を頬《ほお》っかむりの手拭《てぬぐい》でふきながら上って来た。
「なんですい!」
おじぎもしない。
「おらは清洲《きよす》のお城でお小人頭《こびとがしら》をしている一若と申す者じゃが」
と、一若はせいぜい威儀をつくろって名のったが、相手は一向感動した様子はない。
「さいか。それで、おらに頼みたいことは何やね」
一若としては千万残念であるが、いたし方はない。
「おのしの家で飯炊《めした》きしとるおともいうおなごに用事があって来た。とりついではくれまいか。わしは清洲のお城でお小人頭をしている一若ちゅうものや」
「それもう聞いたわ。ほんなら、待ってなされ。そういうたげるわ」
若者は横っちょのくぐり戸をおして、入って行った。
一若は岸に立って、赤い夕ばえの色をうつしている庄内川を見おろして待った。川を渡って来る夕風はずいぶん寒い。枯れかけた葦《あし》に鳴るさやさやと乾いた音が一層《いつそう》寒く感じさせた。
うしろの方でくぐり戸の枢《くるる》がきしる音がした。一若はふりかえった。
おともが出て来た。手拭を姉《あね》さんかぶりにして、たすきをかけ、裾《すそ》をつぶって、白い二布《ふたの》を出している。その手拭をとり、たすきをはずし、裾をおろして、にこにこ笑いながら近づいて来た。
「ああ、来ておくれやったな。頼もしいお人やな」
といった。色の白い顔が薄紅い色ににおっているのが、まるで湯気でも立っているようで、いかにもあたたかい感じであった。
「来いというさけ、来たのや」
こちらもにこにこした。
「うれしいわな。やっぱり源太郎さんやなあ」
「用ちゅうのはなんやな」
「大ていあんたわかっとるはずやと思うけど、とっくりと語りたい。しかし、おらはまだしごとがあんのや。飯炊《ままた》いているとこやさけな。若い衆《しゆ》に飯食わせて、あとしまつしてからやないと、ひまにならんのや。それまでには大分あるわな。こないところで待っていてもろうのは気の毒や。風邪なんどひいてもろうては、おらが前の亭主みてえなことになってはならんけな。――どうしょうぞいの……。おお、そやそや、おらがへやで待っていておくれな。きたないとこやけど、あたたかいことはあたたかや。火桶《ひおけ》にあたって、酒飲んどるがええわ」
「酒があるのけえ?」
「あらいでか。あんたがきっと来るやろ思うて、ちゃんと用意しといたわな」
ぞくぞくとうれしくなった。大体今夜はうまく行くだろうと思っていたものの、こうまで段どりよく行こうとは望外なことであった。
おともの寝場所は、母屋《おもや》から離れた裏の川っぷちに建っていた。板ぶきの掘立小屋みたいな小さい家だが、莚《むしろ》じきのそのへやはきちんと片づいて、鏡台があったり、針箱があったり、何となく若い女の住いらしいなまめかしさがただよっている。
欠皿《かけざら》に灯心《とうしん》を一筋入れた照明を箱にのせ、火桶にこんもりと埋《う》めた壺《つぼ》であたためた酒をのみながら、一若は待った。何となく心待ちはされるが、楽しい気持だ。
(同じ待ち心でも、こないなのは悪うないな。酒もええ酒やわ。吟味《ぎんみ》して買《こ》うたのやろ。おらに飲んでもらおう思うてや。エヘヘ、エヘヘ)
また、こうも思う。
(おとものやつ、どこで待ってもらお? お、そうそう、おらがへやで待ってもらお≠ニ、急に思いついたようなこと言うたが、あの場になっての思いつきであるものか。はじめからそのつもりでいたのや。じゃから酒なんどもこうして用意しておいたのや。あないに、すぐケツからわかって来るウソ言うところがおなごやて。可愛いものやて。エヘヘ、エヘヘ)
大いにうれしく、大いに楽しく、ほろほろと酔いがまわって来る頃、おともが来た。
顔を洗って、化粧して来たにちがいない。
「おそうなったなあ、すまんことや」
といって戸をあけて入って来た時、ぷんと白粉《おしろい》のかおりがただよって来たのだ。
おともは前掛の下にどんぶりをかくして持って来た。魚の切りみと里芋《さといも》を煮つけたのがこてこてと入っていた。
「せっかく来てもろたのに、何にものうて気の毒やな。奉公人やさけ、かんにんしてェや」
と言って、どんぶりを一若の前におき、
「おんやまあ、気がせくさけ、箸《はし》を忘れて来たわいの」
といって立ち上り、押入から箸箱を出して来て、
「これ死んだ亭主の箸やけど、よう洗ってしもうといたけ、ちっともきたないことあらへん。これ使うておくれな」
と言って差し出した。
「そないにかもうてくれんかてええで。それよか落ちついてすわりいな。一つどやな」
一若は盃《さかずき》を向けた。
「いただこかな、男とさし向いでいるの、久しぶりや。少し酔わんと、おもはゆいけ」
はにかみを見せて言うおともの様子の色っぽさに、一若はぞくりとした。手を出して引きよせたくて、身ぶるいが出たが、こらえて、盃をさし、壺《つぼ》をとり上げた。
「ちょッぽりよ、そないに飲《い》けへんのやけ」
半分ほどついでもらって口をつけた。眉《まゆ》をひそめて飲む風情、次第にあおむくにつれて真白なのどがあらわに見えてくる風情が、言いようもなく艶冶《えんや》だ。
一若はからだの最も奥深いところがぞくりとし、またふるえた。急《せ》くことはないわな、今夜は間違いないのや、どねにしてこのおなごが持ちかけてくるか、それもまた楽しみやて、とおさえて、返盃《へんぱい》を受け、酌をしてもらって言った。
「時に、用ちゅうのはなんやね。おらを呼んで、酒のませたいというので呼んだわけやないやろが」
「そら、もちろんそうや。けど、言いにくいなあ。――も一つお酒《ささ》おくれな」
「ほうかい、ほうかい、さあさ、飲みいな」
一若は盃をさして、注《つ》いでやった。
「こんどは、なみなみついでェな。思い切り飲まんと、言えんわな」
「ほうかい、ほうかい」
一若は大満悦でかなり大きな盃《さかずき》のふちを越すほどについでやった。
それを一気にのんで、
「ああ苦し! むせるわの」
苦しげに袖で胸をおさえ、返盃して、
「さあ、この勢いで、言うてしまお!」
と、真直ぐに一若の顔を見た。
「おまん、言わんかて、わかっとるはずやの」
「うむ、まあ、わからいではないが……」
一若はニヤニヤと笑った。どんぐり目を細めて、そりあとの青い角ばったあごを撫《な》でた。抱いて寝てくれという意味じゃろうと思った。ここに来てからの空気が、与助の頼みごとなどすっかり忘れさせていた。
「わかっていてくれるのやったら、話がしやすい。与助は可哀そうな子でのう。小《ち》ッこい頃《ころ》から継父《とと》さと折合《おりあい》が悪うて、よそに奉公に出たあげくには、あそこここほッつき歩いて、遠州《えんしゆう》の方まで行って、難儀したのや。おらもう可哀そうで可哀そうでならねえだ。親はかまわんでも、子供は成人する。あれもいい若い衆になってもどって来て、どうでも清洲様に奉公したいという。おまんはお小人頭という身分やさけ、何とかしてやってェな。おまんがその気になれば、出来んことないやろがな。ええ、こうして頼むけによ」
おともは熱心に言い、手を合わせて拝みまでした。
与助ということばが出た時から、一若の胸は索然たるものに占められていた。
与助の依頼を忘れはてていたのは不覚といえば不覚であるが、それでも裏切られたような気がするのをどうすることも出来ない。けれども、おともは今夜はまたべらぼうに美しい。二はいのんだ酒がまぶたのあたりにほんのりと上っているが、薄くはいた白粉となじんで、色っぽいこと限りがない。索然たるものは忽《たちま》ち消えた。
「そらまあ、与助は同じ在所の生まれで、幼《おさ》な友達である上に、この前はわざわざ来て、是式《これしき》までおいて行って頼んだのやから、おらも出来るだけのことはしてやるつもりではいる。けんどなあ、お武家は百姓や町家とちごうて、上になんぼでもえらい人がいる。そのえらい方々が一々よかろうと言わんことには、人を入れることは出来んのや。なかなかのことやで。聞きそくなわんとけや。おれ世話せんいうのやないで。そなたの弟のことや、おら出来るだけのことはするわ。しかしやなァ……」
「お願い! ほんまに世話しとくんなはれ。恩に着るよってな。お願い」
おともはいざり寄り、一若の膝《ひざ》に手をかけてゆすぶった。白い顔が下から仰いでいる。
一若は悩乱した。その手をつかみ、ずるずると引きよせ、背を抱き、熱い呼吸《いき》を吐《は》き吐《は》き言う。
「働いてはやる。働いてはやるが。そのかわり、そなたおらが言うこと聞くやろな……」
おともは抱かれていながら、決して身をゆるめない。
「厭《いや》とは言わんわ。おらもおまんが好きやけ。しかし、今はいかんわ。男はおなごが言うこと聞いてやると、すんぐに忘れてしまういうさけな。与助の奉公が出来るまで待ったりや。しんぼうしいな」
「殺生《せつしよう》な! ここまでなっていて……」
一若はもがいたが、おともはかたくひざをしめて、ゆるさず、
「しんぼうしい、しんぼうしい。おらもしんぼうしてるのや。与助が奉公|出来《でけ》たら、なんぼなと聞いたる。なんなら女房になってあげてもええ。しんぼうしいッたら! そのかわり、口吸《す》わしたげる」
むしゃぶりつくようにおおいかぶさって唇に来る男の唇をとらえ、適当に吸わせておいて、さっと引きはずし、
「しんぼうしいったら!」
と、手を引ッぱらって、飛びのいた。
四
一若は望みを達せず、寒い夜風に吹かれて、清洲《きよす》にかえった。うまくしてやられたとは思ったが、腹は立てていなかった。おともが「おらもおまんが好きじゃけ」と言ったことと、「しんぼうしい。おらもしんぼうしてるのや」といったこととが、喜ばせ、夢見心地にさせていた。なまなましい感覚で腕にのこっているあたたかくやわらかいからだや、熱い唇の記憶が恋情の炎をあおり立ててやまない。おともはもうぜがひでも自分のものにしなければならない女になっていた。
「さて、どないしたら、あのチビ猿《ざる》めをはめこむことが出来るやろな」
あれやこれやと、思案をねりながら帰って来、かえってからも工夫をつづけた。
夜が明けると、工夫にしたがって、上役のところに行った。永楽《えいらく》を五百文持って行く。昨日ばくちでもうけた銭のなかから、永楽銭で、しかもチビたり欠けたりしないものばかり五百文えらんだのだ。大ふんぱつだが、少しもおしいとは思わなかった。
上役の士《さむらい》は、見事な永楽銭ばかり五百文もらって、大いに気をよくして、一若に会った。
「てまえと同じ在所の者で、お家に小者奉公したいというている者があります。てまえ小《ち》ッこい頃からよう知っている者でありますけに、人物のほどはてまえが受合います。きさくいばかりか、よう働くやつでございます。長い間、遠州の方に行っていて、今川家の被官《ひかん》松下|嘉兵衛尉《かへえのじよう》が家中に奉公して、士分《さむらいぶん》にまで成り上ったといいますが、同じ武家奉公するなら、本国の大名衆の家中で人になりたいとて、このほどもどって来たのでございます」
と、一若は口説き立てた。
「ほう、松下は小身者ではあるが、その家中で士分にまでなっていながら、新たに小者奉公したいとは、どない量見かの。ちと妙だの」
「ごもっともなお疑いでございやす。てまえもそう思いましたので、聞いてみましたところ、ご当家の殿様のご家督この方のご威勢を見ていると、どれだけ大きくおなりになるかわからぬすさまじいご威勢が見える、立寄らば大樹《おおき》の陰というし、本国の殿様じゃし、と、暇《ひま》をもろうてもどって来たと申します。何せ、小ッこい頃からよう知っているやつでござりまして、決してウソはいわぬ正直で……」
一若は懸命だ。ここを先途《せんど》と口説き立てた。
「よかろうわい。小者一人のことじゃ。そうきびしい詮議にもおよばんことじゃ。わしから上々に申し上げ、殿様のおゆるしをもろうことにする。追って、きまり次第に沙汰《さた》する」
と、上役は言ってくれた。
これであらましきまった。一若はおともにも知らせたし、与助と約束した日には中村に帰って、その夜与助にも会った。
「あらかた工合《ぐあい》よう行きそうや。こないこないなことになっとるさけな。もっとこまかなことがきまったら、また知らせるわ」
と、一若が言うと、与助のよろこびは一通りではなかった。
「みなおまんのお陰や。おれいよいよご奉公|叶《かの》うたら、一生懸命働くわ。いのちかぎり働くわ。おまんの恩は、一生忘れませんわ。必ず恩返しするでな」
と涙をこぼさんばかりになって言った。
一若も悪い気持ではない。
「おらが骨おりなんど、なんでもないことよ。同じ在所の幼な友達のことや。これくらいしてやるの、あたり前のことやがな。どや、汝《われ》、酒飲むか」
といって、酒まで出した。人に親切をしてやるのはいい気持のものだ。感謝されれば一層《いつそう》いい気持だ。そうなると、よほどたちの悪い人間でないかぎり、人がよくなる。少なくとも、その時は。
与助は酒は強くない。二、三ばい飲むと、忽《たちま》ち染め上げたように赤くなった。若いくせにしわの多い、とがった小さい顔がそんなに赤くなると、一層猿に似て来る。
(みっともないやつやなあ、どうしてこいつばかりこないにおかしな面《つら》してけつかんのやろ。おともといい、お浅といい、人なみはずれてええおなごやのになあ。弟の小竹かて、尋常以上やがな。おらこないな面つきに生まれて来んで、ありがたいと思うわ)
一若はいっそうあわれになって、しみじみと与助の顔を見ていた。この面では奉公が叶《かの》うても、とてもお小人頭にはなれへん、一生小者やな、とも思った。
そんなことを一若が考えているとは、与助は知らない。ちゃんと盃《さかずき》をおいて、思いこんだ風で言う。
「おらおまんの知恵を借りてえことがある。貸してくんなさるかや」
「ほう、何じゃい。なんなと言うてみや。おらが知恵ぶくろも大して大きゅうはないが、大ていなことは思案のつく覚えがある」
と、一若は少し反《そ》った。大いに知恵者になった気がした。
「そらありがたいわ。ふとつ考えてみておくんなされ。おらが父《とと》の弥右衛門はご先代様の時、鉄砲足軽としてご奉公申して、その頃は木下という名字を持っていたげなで、おら松下様にご奉公している頃には、木下藤吉郎秀吉と名のっていた。それでな、こんどご奉公するにも、その名字とその名にしてえと思うのやが、どうやろか」
「ふうん、木下――なんじゃて?」
「藤吉郎秀吉や」
「木下藤吉郎秀吉か」
「そや」
「えらそうな名やなァ。われ、士奉公《さむらいぼうこう》のつもりでいるのやないやろな」
「とんでもない。小者や」
「そらまあ、われが名やけ、なんと名のろうが勝手やが、あまりえらそうな名はいかんで。上の人々が気ィ悪うなさるけな」
「そうやろなァ」
「おらが思案では、木下はわれが父《とと》さの名字やったのやけ、お家とまんざら因縁のない者やないというしるしに、名のったがええ。しかし、秀吉はやめとけ。名のりまであっては、小者風情が生意気に見えていかん。木下藤吉郎だけでええな。ほんとは郎もしかつめらしゅう聞こえて感心せんのやけど、それはまあ考えようではかまへんともいえる。太郎兵衛、次郎兵衛、太郎作、次郎作なんどと、郎の字のつく者がうじゃうじゃいるけな。――あんまり大した知恵でもないが、まあ、おらが考えたところは、こんなもんやな。木下藤吉郎、これでええじゃろ。どや?」
与助は大いに感服した顔になった。
「もっともじゃァ、もっともじゃァ。ようこそ相談したわ。なるほど、おまんの言う通りや、名前だけで上の方々に生意気や思われて、気ィ悪うしたら、そらいかんわな。ほなら、木下藤吉郎だけにしとこ。おまんの方もそういうことに手続き頼むわ。やっぱり、頭《かしら》と名のつく人には相談するものやなあ。なんでも無《の》うて頭になっているわけではないのやなあ」
「まあな」
一若はチュッと盃をすすり、そりあとの青い角ばったあごをざらざらと撫《な》でた。
翌朝、一若が清洲に帰る時、与助は早起きして見送り、また永楽銭《えいらくせん》十|疋《ぴき》を贈った。
「こんなものいらんがな。礼儀だけのものはこの前もろうた。余計なことや」
と、一若はおし返したが、
「そんでも、おらの気がすまんけに」
と、与助がさらにおし返すと、
「われがうちは貧乏や、おら貧乏なものから、重ね重ねもらいとうないわ。そんなにくれたいなら、もろたことにして、おらがまたわれにくれる。それで、妹や姉に布子《ぬのこ》の一枚ずつも買《こ》うてやれ。おらがわれのことに骨おっとるのは、銭金《ぜにかね》のことやないのや」
といって、行ってしまった。
五、六日立って、秋晴れのよい天気であった。与助が小竹《こちく》と一緒に田圃《たんぼ》に出て、稲こきをしていると、お浅が一若の組下の小者を連れて来た。一若の使いで来たという。
「かねて頼まれていたことについて、大事な話がある。来るように」
という口上《こうじよう》だ。
もう午《ひる》をはるかにまわっているのに、まだ大分のこっている。ちょっとためらっていると、小竹が言う。
「すぐに行きなはれ、あとはおらとお浅と二人でするわ。なんとかやれるやろ。やれんかて、稲こきなんど、今日にかぎったことやない。そっちゃの方は、急いで行かないかんのやけ」
「そんなら頼んだでえ。大事なことやさけな。なんぞでまたこの埋《う》めあわせするわ」
与助は日の高さをはかりながら、小者と一緒に家に帰り、母に小者に茶を出してくれるように言っておいて、身支度にかかった。いつもは顔を洗うにも、手足を洗うにも、少し離れた溝川《みぞがわ》に行くのだが、急ぐので勝手の水甕《みずがめ》からびんだらいに水をくんで庭に持ち出した。先ず顔と手を洗い、それから足を洗っていると、継父が外から帰って来た。近年老衰して、野良に出て働くことはしないで、いつもぶらぶらしているが、生来のきれい好きで、粗末な着物ながらいつも小ざっぱりと着て、百姓のようではない。長い杖《つえ》をつきながらよちよちとかどを入って来たが、びんだらいで足を洗っている与助を見ると、目をむいた。杖をつきしめて、立ちどまり、しばらくにらむように見てから、
「びんだらいいうものは、顔を洗うものや。足洗ういうことあるか。武家奉公もしたことある者にしては、心得のないやッちゃ。味噌《みそ》もクソも一緒いうのは、そのことや。それに、その水は毎朝お浅が遠い井戸からくんで来る水や。むざむざとそねなことで使いすてるいうことがあるか。顔や手足は溝川で洗え。不精なやッちゃ」
と、きめつけた。
またはじまったと、むっとしたが、腹は立てないことにきめている。
「継父《とと》さに見つかったらきっと叱られることやと思うとったが、やっぱり見つかったか」
と、明るく笑って、
「おら清洲から一若さの使が来て、急いどんので、ついやってしもうた。かんにんしてや。今日帰って来たら、どねにおそうても、くんで来て一ぱいにしとくわ。ほら、あの小人衆《こびとしゆ》や。お使いうのは」
と、ちょうど家から出て来て空を仰いでいる男を指さした。
他人がいては、竹阿弥も小言をいうのをはばかって、しわばんだ口もとをぶすッと食いしめた。黙って、おこったような目で小者に会釈《えしやく》して、よちよちと家に入って行った。
(しんぼう、しんぼう。この家にいるのもあとしばらくのことや)
家に入って、着がえをした。引両《ひきりよう》のついた麻の袷《あわせ》に四布《よの》ばかまをはいたが、刀はわざとささなかった。母《かか》さがむすびをこしらえて包んでいてくれた。これから行くと、帰りは夜にかかり、大分おそくなるからである。継父の冷たさと母の愛情との違いがこうまであざやかであると、感慨がないわけには行かないが、おし伏せて、黙って受取り、
「行って来るわ。もどりに姉さのとこへ寄って来るけ、おそうなるやろ」
と言って、小者とならんでかどを出た。
五
一若は意外に緊張した顔で迎えた。人を遠ざけ、声をひそめて言う。
「妙なことになった。殿様が一ぺんわれを見たいと仰せられるそうな。上役衆は、先代様の時足軽奉公したことのある者のせがれであるというのにお気をとめられたのやろうと申されるが、おらが見るところは違う。遠州の松下殿の家中で、士分《さむらいぶん》にまでなり上った者でありながら、小者奉公から出直したいいうのが、お気にかかるのやと思うとる。われも知っとるやろ、松下殿のご主《しゆ》の今川家と当家とは、ご先代様の時から犬と猿のなかや。われを間者《かんじや》やないかと狙《ねら》んでいなさるのやで」
一若のことばはふるえを帯びている。
信長のこの疑いは当然といってよいかも知れない。織田家は信秀の時から、今川家は当代義元の父|氏親《うじちか》の時から、おりに触れては交戦している、いわば仇敵《きゆうてき》の間なのである。間者や諜者《ちようじや》の潜入はおたがいさまのことであるが、警戒しなければならないのは当然のことである。
「さいでしょうな。おまんの見る目はちがわん。殿様はきっとそう疑うていなさるのですやろ」
与助は相手の眼力をほめることを忘れない。しかし、一若はよほどに心配なのであろう、まるで浮き立たない。また言う。
「急なことやが、殿様は明日|比良《ひら》の川で川狩《かわがり》をなさるについて、われを連れて来い、見てくれるといいなさったそうな。それで、おれ明日はわれを連れて、比良に行かなならん。じゃから、われは明日は早うからここへ来てくれや。ええかな」
「はいはい。心得ました。身支度もありますけ、今日は一旦中村にもどりますが、明日は早う来ますわい」
一若は低い上にも声を低めて言う。
「心得てはいるやろが、殿様ははげしいお気性の方や、その上、われを疑っておいでや。へたなことすると、そのままお手討やで。ストーンと、われの首はとんでしもうのやで。われだけやない。そんなもんの口入れしたいうて、おれの首もストーンや。おれの首だけじゃない。われが親子きょうだい、皆首|斬《き》られることになる。気ィつけてや」
声はわなわなとふるえ、にくていな顔が青くなっている。つまらん口ききなどしたことを後悔しているのかも知れない。
「大丈夫ですわい。お疑いなされているようなこと、まるで身に覚えあらしまへん。おらもよっぽど気ィつけますが、殿様は大へんかしこいお人やいいますけ、めったに見違いなさる気づかいありまへんわ。大丈夫ですわい」
なおくどくどと念をおされて、与助は城を出た。
短い晩秋の日はもう沈みかけていたが、与助は大急ぎで明日川狩が行われるという比良《ひら》に向った。比良は清洲から東北六キロだ。代々|佐々《さつさ》氏の所領で、小さいながら佐々氏の居城もある。
一面の平坦《へいたん》な田圃《たんぼ》つづきで、灌漑《かんがい》のため縦横にクリークが通じているが、それらの細流《ほそ》を統一するやや大きな川があって、末は与助が幼い頃いた光明寺《こうみようじ》のある萱津《かやづ》村で庄内《しようない》川に入っている。このへん一帯の地理は、放浪時代にさんざ歩きまわっているから、手にとるようにわかっている。
川狩はそのやや大きな川で行われるに違いないと見た。季節がら、川を堰《せ》いてかいぼしするつもりに相違ないとも判断した。魚の多そうないい場所を見定めておけば、きっとお気に入るようなことが出来るにちがいないと思ったのだ。
つめたい風に吹かれながら、とっぷり暮れるまで川筋を見て歩き、心覚えしてから、庄内川の堤の上をてくてくと下流に下《さが》り、渡しをわたって琵琶島に出て、姉を訪ねた。
おともは若い衆に夕食を食べさせており、薄暗い灯《あかり》のついている台所の隅で自分も飯を食べているところであった。
「われ、飯《まま》食うやろ」
と、先ず言った。
「食うが、むすび持っとるけ、かもうてくれんでもええ。湯《ゆう》だけおくれや」
「ほうかい。まあ、ここへ来ておかけ」
姉は油皿に灯心を一筋入れて照明を明るくして、近くに持って来、上りがまちに掛けさせた。煮しめや香の物の皿をのせた盆を供してくれる。しゃんしゃん湯気を立てている罐子《かんす》から熱い湯も湯呑《ゆのみ》にくんでくれる。
与助はふうふう吹きながら湯をのんだ。生き返ったような気がした。
「疲れとるようやの」
「ああ、ちょこっとな。しかし、湯を飲んだので、もう快《え》えわ」
むすびを食べ、煮しめを食べ、時々湯をのみながら、食事をつづけた。姉はよく気をつけていて、皿の煮しめがなくなると、鍋の中からよさそうなのを選び上げては補給し、湯呑の湯がなくなるとすぐついでくれる。
「もう沢山や、腹一ぱいや。これで元気出た」
と与助が言うと、はじめて姉はたずねる。
「どこへ行ったのや」
「清洲《きよす》へ行った。一若さから使が来たのや」
と、全部話した。
「今の殿様はかしこいお人やというけど、お年の若いせいか、気の荒いご性質やけ、気ィつけてくれや」
と、姉の顔にもおびえたような色があらわれた。
「心配すんなや。大丈夫やわな。身になんの覚えのねえことが、なに疑われることがあるものか。おらをごらんになれば、すぐにわかることや」
「そらそうやろうけど」
「おらは自分のことより、一若さが気の毒でのう。おろおろしとったわ。あの人《ふと》も、喧嘩《けんか》は強いいうことやが、あんまり度胸はないようだのう」
と、与助が笑うと、姉は、
「心配するのはあたり前やで。われは他国にばかり行っとったから、今の殿様のことをよう知らんのや。それはそれは気のあらいお人なんやで」
とたしなめるように言って、
「ほんとうに一若さには世話になったのう」
と言った。
嘆息するに似たそのことばを聞き、どこか遠いところを見るようなその目つきを見て、与助はへんな気がした。
六
翌日は早朝、まだ暗いうちに中村を出た。
松下家に奉公中、嘉兵衛尉からもらった最上の着物、柿色《かきいろ》の地に輪つなぎ模様を胸から袖にかけて白く抜いた袷《あわせ》に、これも嘉兵衛尉から拝領の薄縹色《うすはなだいろ》の袴《はかま》をはき、大小を帯びた。現在としては最上の盛装である。昨夜一晩工夫して、こうでなければならんと考えたのであった。
新しく月代《さかやき》し、顔を剃《そ》り、髪を結《ゆ》いなおしたことももちろんだ。どんなにめかしてみたって、どうにもならん容貌であることはよく知っているが、礼儀でもあり、また今日はぜったいにそうする必要があった。
日のやっと出た頃《ころ》に、清洲についた。一若はもう食事をすまし、いつでも立てるように身支度して待ちかねていたが、与助の姿を見ると、目をむいておどろいた。じろじろと見ていたが、言う。
「殿様がごらんになるのやけ、ええ着物《きりもん》着て来たのはええが、刀脇差《わきざし》はどやろな、おらはやめたがええ思うで。小者《こもの》奉公望むものが、あんまりえらそうな姿してては、気ィ悪うなさると思うで。とって行き」
きっとそう言うであろうと、与助は予想していた。用意しておいた返答をする。
「おまんのことばは道理やとは思うが、それは常の時のことですやろ。殿様はおらを疑うていなさるのじゃという。そないな時、おらがいかにも小者らしい身なりで出ては、一層《いつそう》お疑いを深うすることになりはせんかと思うのや。遠州で士分《さむらいぶん》であった時と少しもかわらん姿でごらんに入れ、おたずねがあったらあったで、ハキハキとご返答申し上げたが、かえってお疑いを解くことになると思うのやが、どうですやろ」
「ふうむ」
一若はうなった。決しかねる風であった。
与助はこのことについては、我意を通す決心だ。たとえ一若が腹を立てても、ここまで事が運んでいる以上、今さら中止になることはないと見切っている。しかし、言った。
「おらの言うことも、道理ですやろ。そうして下されや。悪いようにはならせんけ」
「……まあよかろう。そのかわり、生意気なやつやいうて、望みがふッとんでも、おら知らんで」
と一若は言った。
二人は出かけた。小者が二人、一若の弁当を持ったり、佩刀《はいとう》をかついだりしてついて来る。小者頭は部屋頭だ。そのなかまでは威張ったものである。
今日も秋晴れの、川狩《かわがり》にはもって来いのいい天気であった。見わたすかぎり打ちひらいて、遠く西の美濃伊勢の山々も、東の三河境の山々も、地平にひくく山頂をうねらせているにすぎない。広い広い尾張平野の田はもうほとんど刈入れがすんで、稲は掛干《かけぼ》ししたり、稲堆《いなむら》にしたりしてある。
比良《ひら》についてみると、信長はまだ来ていなかったが、多数の小者や駆り集められた近在の百姓らが、二、三人の徒士《かち》に指揮されてわいわい言いながら、川に堰《せき》を築きつつあった。場所も漁法も、推察した通りであったので、与助は満足であった。しかし、皆が堰をこしらえている場所は、大していい場所ではない。
彼は一時、小魚をすくって竹串《たけぐし》にさして火取ったり、あるいは生のまま、清洲のお城下や津島の町に持って行って売り、それで生活していたこともあるから、どんなところに魚が多いか、よく知っているのである。その頃は「どじょう売りの与助」と皆に言われていた。
(こんなところをかい干《ぼ》ししたって、居やへんのやが)
と思ったが、余計なことを言って憎まれてはつまらんから、黙っていた。
一若は与助を連れてそこから少し離れた民家の庭に入って一服した。
信長の来たのは、それから一時間ほどの後であった。
遠い田圃《たんぼ》の向うの森から十ほどの騎馬《きば》の人影が立現れたかと思うと、せまい田圃道を飛ぶ速さで近づいて来る。
「ああ、お見えじゃ。気早なお人じゃけ、お側に行っとって、お呼びになったらすぐ出んと、きげんを損ずる」
と一若はつぶやき、与助を連れて、小走りに堰場《せきば》に行き、稲堆《いなむら》のかげに土下座《どげざ》した。
騎馬の人々は無鉄砲な速さで、だが最も巧みな騎乗ぶりで来る。
「真先に立っておいでなのが、殿様やで。お馬、鉄砲《てつぽう》、槍《やり》、刀法、泳ぎ、駆けくらべ、何でもきついお達者なのじゃ。きついお人じゃ」
と、一若はささやいた。
信長は、働いている人々が大急ぎで川から這《は》い上って土下座しようとすると、
「手を休めるな! こんな時、辞儀《じぎ》など、いらんことじゃ!」
と、途方もない大きな声でどなり、馬をあおって堤に乗り上げ、ひらりと飛びおりた。
人々ははきおとされたように、また川にかえって働きはじめた。
信長は堤のふちに立ち、ぼつぼつかい出しにかかっている川を見下しながら、
「どうじゃ。まだ獲物《えもの》はあがらんか!」
と言った。これもどなりつけ、叱《しか》りつけるようなはげしい調子だ。
奉行役の徒士《かち》が、堰を築きおわって、やっとかい出しにかかったところであると答えた。
「鯉《こい》がほしいな。これくらいのやつが。ドンガメ(スッポン)もよいぞ。それもこれ以上のやつがよい」
信長は手で大きさを示しながら言う。子供のように無邪気な態度だが、声はやはり大きく、いかにもせっかちだ。
持って来てあった床几《しようぎ》を、供侍《ともざむらい》らが堤の上にすえた。信長はそれに掛け、供侍らはその左右の芝の上に思い思いにすわった。
しばらくすると、堰のうちは水が少なくなり、ぼつぼつと獲物が上りはじめた。濁った水に背びれで波を立てながら走りまわる魚を、網をかぶせたり、笊《ざる》ですくったり、手づかみにして捕えるのだ。鯉じゃ、鮒《ふな》じゃ、似鯉《にごい》じゃ、鯰《なまず》じゃ、鰻《うなぎ》じゃと、いろいろと捕られて、手桶《ておけ》や籠《かご》に入れられた。大小さまざまだ。
大きなやつが上ってくると、信長は子供のように歓声をあげた。
大鯰が上った時など、持って来させて、自分で首根ッ子をつかんで高く持ち上げ、下からのぞきこんで、
「ほう、長いひげなど生やしおって、大き口じゃな。こりゃァ誰かに似とるぞ。権六《ごんろく》、汝《われ》が縁者ではないかや。われにそっくりじゃぞ」
と、側にすわっている男に言った。
(ああ、あの方が柴田《しばた》権六勝家様か)
と、こちらで与助は、眼をとぎすまして凝視《ぎようし》した。
たくましく、いかついからだと顔を持っている。いかにも強そうだ。しかし、口ひげを生やし、大きな口をへの字にむすびしめ、まるく小さい目を見はって気ばっているところ、鯰に似ているといえばたしかに似ている。笑いが出そうになった。
「めいわくでござる」
勝家はしぶい顔をして、にが笑いしている。
「ハッハハハハ」
信長は底ぬけに明るい声で笑って、バチャンと手桶に鯰を返し、袴《はかま》にごしごしと手をこすりつけた。
やがて獲物《えもの》の上ることが少なくなると、退屈げな顔になり、あごのはずれるような大きなあくびをしたが、ふと小首をかたむけて、
「思い出した。小者奉公を望みの者があって、面《つら》を見てくれることになっていたな。つれて来い」
と言った。
一若は呼びに来られるのを待たなかった。ぐいと与助の袖をひいて、稲堆《いなむら》のかげを走り出して、堤を這《は》い上って平伏した。堤を這い上る時、与助は刀脇差をぬいで、うしろの田圃にほうり投げた。貴人の目通りに出る時の作法なのである。
日なたで踊ろう
一
信長は切長な眼裂《がんれつ》とよく光る眸子《ひとみ》とでまるで剃刀《かみそり》のような感じを見る人にあたえる目で、平伏している与助を凝視《ぎようし》した。
一若がおそるおそるものを言おうとすると、
「わかっとる。おのれは口をきくな」
と言った。どなりつけるようなはげしい語気であった。一若はちぢみ上って平伏した。
「汝《われ》じゃな。おれが家に奉公したいというのは」
と、信長は与助に言った。
「はっ!」
与助は堤の枯草にひたいをうずめるばかりにした。
「面《つら》を上げて、見せろ」
与助には恐怖の念はない。年は若くても、世の辛酸《しんさん》をなめつくして来ている身には、人には死以上の災厄《さいやく》はない、どう悪くころんでも殺されることで始末がつくのだと性根《しようね》がすわっている。しかし、こんな場合には恐れ入った風を見せなければならないということも知っている。おずおずとした様子で少し顔を上げた。
「もっと上げい!」
もっと上げる。
「ふうむ。奇妙な面《つら》をしとるわ。猿《さる》に似とるわ。チビ猿じゃな」
と、最も無遠慮な声で言って、呵々《かか》と笑って言う。
「われは今川の被官《ひかん》松下|嘉兵衛尉《かへえのじよう》が家で士奉公《さむらいぼうこう》しとったというが、ほんとか。うそじゃろう」
与助は信長のわきにひかえた者にむかって、
「お側の方《かた》にまで申し上げます」
と言って、説明しようとした。
信長はさえぎった。
「直答《じきとう》をゆるす。言うてみい。うそじゃろう。われがようなチビのみっともないやつが、士とは受けとれんぞ」
「おことばではございますが、いつわりは申していません。たしかに士奉公していたに相違ございません」
「ふうん。中村の者で、おやじはおれがおやじ殿の頃《ころ》におれが家に奉公しておったと?」
「木下|弥右衛門《やえもん》と申して鉄砲足軽としてご奉公申しておりましたに相違ございません。三河における今川家との合戦に手傷を負うて奉公のかなわぬ不具の身となりましたにより、お暇《いとま》をいただき、生まれ在所に帰って百姓となって世を終えたのでございます」
「ようまわる口じゃな。見て来たようなことを言うやつじゃ」
と信長は皮肉な調子であった。つづいてまた聞く。
「松下の家中《かちゆう》につかえていた時の名は?」
「木下藤吉郎秀吉と名のっておりました」
「なんじゃとォ?」
「木下藤吉郎秀吉でございます」
「ふうん。えらそうな名じゃな。われには過ぎるぞ」
「恐れ入ります」
信長は与助の目を凝視《ぎようし》した。きびしい目だ。こちらに隙《すき》があったら、忽《たちま》ち激発して、うしろにひかえた小姓《こしよう》のささげた刀のつかに手がかかり、抜身《ぬきみ》が飛んで来そうであった。与助は背筋につめたいものが走るのを感じたが、おさえてうやうやしい表情を保ち、相手の視線を支えていた。
やがて信長の眼がなごみ、いたずらそうな色になり、やや青白い顔に笑いが浮かんで、言った。
「どう見ても、われの顔は猿に似ている。定めて心も猿に似て小気がきいているであろう。よかろう。召抱《めしかか》えてつかわそう。しかし、士にはせんぞ。小者だぞ。そのつもりでおれい」
張りつめた心のささえがふっと切れた気持であった。与助は平伏した。
「ありがとうございます!」
やっとかなったと、涙がこぼれて来たが、すぐ、
「ご奉公はじめに、うんとこさ魚を獲《と》ってお目にかけとうござります」
といった。
「なんじゃとォ?」
「てまえは、昔このへんで魚をすくい、津島の町や琵琶島あたりに売りに行っていましたけ、このへんの川筋のことはようく知っているのでございます」
「われ、魚すくって売り歩いていたのか」
「へえ、どじょう売りの与助といえば、津島や琵琶島ではみんなよう知っていたほどでございます」
武家奉公したい身として、ほんとはかくし切りたい履歴だが、この際としては自分の言うことに信用をつけなければならない。体裁《ていさい》などつくってはおられなかった。
「どじょう売りの与助じゃとォ?……」
というと、信長は腹をかかえて笑い出した。
「これはよい、これはよい! いかさま、どじょうでも売り歩かしたいやつじゃわ! 一番がらに合《お》うとるぞ! どじょう売りの与助かァ!……」
と、さんざんに笑った。
柴田勝家をはじめ供の者も、声こそたてないが、笑い顔になっていた。
「よし! そのうんといるところに連れて行け。そしてうんと獲《と》って見せい。うんと獲らずば、われがその猿首、引きぬいてくれるぞ。覚悟があるか!」
と、しまいはどなりつけるような調子になった。
「覚悟がございます」
すずしく答えておいて、袴《はかま》のすそを高々とまくりあげ、溝《みぞ》にとびこみ、鍬《くわ》をかつぎ、手桶《ておけ》をぶら下げて、働いている者共に、
「お聞きの通りじゃ。わしが案内役をうけたまわった。こうござれ!」
と、言って、堰《せき》をふみくずしておいて、向う側の堤に這《は》い上り、とことこと、上流の方に歩き出した。泥《どろ》だらけな鍬が晴着をよごし、ぶら下げた手桶が袴をよごすのを、少しもかまわず、すたすたと行くのである。初お目見えにおいて信長の印象を強めるためのはじめからの計算であった。だからこそ昨日日の暮れるまでこのへんの川筋を見て歩いた。とっておきの晴着を着て来た。
信長は床几《しようぎ》に腰をおろしたまま、またたきもせずその姿を見送っていた。だんだんふきげんそうな顔になり、きびしく口をひき結び、眸子《ひとみ》をすえていたが、やがて立ち上り、こちらの岸を大股《おおまた》に上流の方に歩き出した。
高言するほどのことはあった。与助の指示する場所は魚の巣になっているようであった。数か所でかいぼりしたが、どの場所でも驚くほどの獲物《えもの》があった。それに、与助の働きぶりはまことに目ざましいものがあった。柿色の晴着も、薄縹色《うすはなだいろ》の袴も、どろどろに泥にまみれさせ、顔も頭も泥人形のようになって、かいがいしく働いたのである。今日召しかかえられたばかりの新参者《しんざんもの》でありながら、
「てまえはこのへんの川筋の主《ぬし》のようなものでござるけに、今日ばかりはわしがさしずに従うて下され」
と、古参《こさん》の者共にことわっておいてキビキビとさしずして働かすのが、いかにも見事である。
信長は大いに満足した。
「猿が働きで、今日は思いのほかにおもしろい川狩《かわがり》をした。キビキビと小気味のよいやつじゃわ」
と言って、帰りがけに与助を呼び出した。
「今日の働き、気に入ったぞ。われが名は藤吉郎じゃというが、おれは猿と呼ぶぞ。そう心得い」
と言った。
与助は泥だらけのままかしこまり、ひたいを地にうずめてこたえた。
「お気に召していただき、ありがたく存じます。またてまえの名前をお覚え下され、お礼申し上げます」
「ふん、いかさま士奉公《さむらいぼうこう》していたのであろう。口のきき方が殊勝《しゆしよう》らしいわ。しかし、おれが家では小者だぞ。間違うな」
信長の念のおし方には傲慢《ごうまん》さと底意地の悪さとがうかがわれる。この殿は意地の悪い、いたずら好きのお人がらに違いないと思いながらも、はきはきと答えた。
「ご念にはおよばぬことでございます。織田|上総介《かずさのすけ》様のお家のお小者木下藤吉郎、呼び名は猿でございます」
信長はからからと笑った。
「ぬけ目のないやつめ、いかさま、猿の性《しよう》じゃろ」
と言って立ち上り、
「馬!」
とどなって、ひかれた馬に飛びのり、風のように走り出した。供の者はあわてて馬に乗ってつづいた。
砂ほこりを巻き上げつつ、一団の旋風《せんぷう》のように遠ざかって行く姿を、こちらは土下座《どげざ》したまま見送っていた。不思議なことに、猿と呼ばれたことが少しも口惜しくない。お気にかなって、上首尾《じようしゆび》にお目見えがすんだことが言いようもないほどうれしくなっている。
どこへすくんでいたのか、一若が這《は》い出して来た。
「われはええ度胸《どきよう》じゃのう。おらすっかり見直したで」
と言った。疲れ切った顔にあきれたような表情があった。
「度胸やあらへんわ。おら、お気に入られたいとばかり思うて、一生懸命じゃったのや。こわいなど思うひまなかったのや」
「それが度胸ちゅうものや」
一若はならんで堤にすわり、引上げるために各人が仕事じまいにかかっている溝川をぼんやり見おろしている。
「やあ、うっかりしとったわ。おらも手伝わにゃなんねえ。ほなごめんやッしゃ!」
と、一若に言っておいて、また溝川に飛びこみ、
「済まん! 済まん! つい気をとられていたさけな!」
と、元気のよい声で皆に言いながら、堰《せき》を踏みくずしたり、諸道具を洗って堤に上げたりして、まめまめしく働き出した。
二
こうして、与助は木下藤吉郎という名で、織田家の小者となり、清洲城内の一若《いちわか》が部屋頭をしている小者部屋に住込むことになった。
つとめ心地は決して悪くない。一若は大変よくしてくれる。こちらは新参《しんざん》だし、皆ににくまれんようにしたいし、何としても目立つ働きをして一応の身分になりたいという気持から、人の分まで引受けてくるくるくるくると働くようにつとめているのだが、一若は、
「藤吉や、われは新参ではあるが、そげいまで気ィつかってせいでもええぞ。ちっとは気ィ楽にもって、ぽっつりぽっつりやるがええ。それではからだがもたんぞい」
と、言ってくれる。
どうやら、一若は姉のおともといいなかになったらしいのだ。時々一若がひげを剃《そ》り、月代《さかやき》をし、晴着を着、大いにめかし立てて、夕方から出かけて行き、深夜にはほろ酔って帰って来るが、それは姉のところへ行くのであることを、藤吉郎は知っている。姉から聞かされたのでもなければ、一若から打明けられたのでもないが、何となくわかるのだ。こんどの自分の奉公に一若が一方《ひとかた》ならない熱心さで骨をおってくれたのも、姉がからだを餌《えば》にして一若を釣ったからであることも、今はもう感知している。
一若がよくしてくれるのも、このためだ。
(ありがたいことじゃ。姉さの恩は忘れてはならん)
とは思うが、姉と一若とが結ばれたのを悪いこととは思っていない。姉さもいつまでも人の家に飯炊《ままた》き奉公しとるわけには行かんのやけ、この縁から正当な夫婦となってくれればこれ以上のことはないと思っている。貞婦両夫に見《まみ》えずという儒教の婦人道徳の遵奉者《じゆんぽうしや》は絶無ではなかったがきわめて実例が稀《まれ》で、上流階級の婦人でも再婚、三婚、四婚するのがめずらしくなく、下層社会では後家《ごけ》になれば再婚しない以上、村の若者らの共有物になるのが普通だった時代である。
さて、部屋頭の一若がこうであっただけでなく、小者なかまも骨身をおしまず自分らの仕事まで進んでやってくれる上に、愛嬌《あいきよう》がよくて、明るくて、鳥目《ちようもく》を持ってさえおれば酒や餠《もち》を買ってふるまってくれる藤吉郎をきらうはずがない。
要するに、つとめ心地は大いによいわけであるが、肝心《かんじん》なところで不満があった。殿様との関係があれッきりになってしまったことだ。
比良《ひら》の溝川《みぞがわ》での初お目見えは最も上首尾《じようしゆび》に行き、殿様に相当以上の好感を持たれたとの自信があったのだが、あれから後格別なことはない。お側には寄れず、遠くからお姿を見るだけで、普通の小者づとめをしているにすぎない。
あれほどの働きを見せ、あれほど機嫌をとり結べば、何かの形ですぐそれがあらわれて来なければならないはずである。松下家ではそうだった。
(なるほど、大身代《おおしんだい》と小《こ》身代では違うのじゃわ。身代が大きければ大きいほど血のめぐりは悪い道理か。殿様はおれがことを忘れてしまわしゃったらしい。あるいは川漁《かわりよう》にだけ役に立つ者と見てお出《い》でるのかも知れんわい)
と思案した。
忘れていさっしゃるなら思い出していただかんならん、川漁にだけ役に立つやつと見てお出でるのやったら、ほかのことにも立派に役に立つ者やいうことを見ていただかなならんと思った。
唄は聞く人のあるところで歌い、おどりは見物人のいるところでおどることが肝心や、奥山中《おくやまなか》でひとりで歌っとっても、暗夜に一人でおどっとっても、自分ひとりの気慰《きなぐさ》みにしかならへん、おれは今人のしごとまで引受けて一生懸命働いとるが、人が見も聞きもせんところで気慰みに歌ったりおどったりしとるようなもんや。
(なんとしてでも、早う殿様のお側近くに出る工夫をせなならんが、はて、どうしたらええやろか……)
と、大いにあせったが、いい工夫がつかない。
数日の間、ひまがありさえすれば考えつづけていたが、ある日、大庭に寸ばかりもある霜柱が立ち、その上に雪のように真白に霜のおりているきびしい寒気の朝であった。殿様のご殿《てん》の近習衆《きんじゆしゆ》の詰所《つめしよ》の近くにある厠《かわや》掃除の番にあたっていた者が、ひどく行きしぶって、
「あこの小便《しようべん》の溜桶《ためおけ》は大きゅうて、一度では運べんのや。なんせ、お近習衆みなお若いやろ、ぎょうさん垂れはるので、でッかい桶がいつもこぼれるほど一ぱいになっとるのや。とても一度では運び切れへん。どうでも二度にわけて運ばなならんのや。その上、血気のさかんなお人達のやろ、きつい臭《にお》いなのや。なまぐそうて、鼻がひんまがってしまいそうなのや。この番にまわると、おれ三日は胸が悪うて、飯《まま》がうもうないのや……」
と、いつまでもくどくどとこぼしている。
近習衆の厠にかぎらず、小便のくみとりがむさいしごとであることは言うまでもないが、こいつのいやがっているのは、そのためばかりではない。汲《く》みとったあとのしごとがずいぶんある。第一に溜桶を洗っておかなければならない。第二にうんと水を流してその場所を竹箒《たけぼうき》でガシャガシャと掃いてきれいにしておかなければならない。寒さにいじけている根性では渋るはずだ。
そいつはこぼしながら、藤吉郎の方をちょいちょいと見る。そんならおらが行ってやろかと言い出すかも知れんと考えていることが明らかであった。それが半分こちらを馬鹿にしてのことであるのはよくわかっているが、腹を立てるひまがあったら働こうと性根をすえている。
「おらがかわりに行ってやろうず。そのかわり、おらになんぞあった時には、われかわっておくれや」
と言った。
「おおら、藤吉どん、われかわってくれるのけえ。ありがてえ、ありがてえ。礼を言うで。ええとも、ええとも、藤吉どんになんぞ都合のある時は、どやんしごとでも、おらがかわろうず」
藤吉郎はまだ殿様のご殿のご用をうけたまわったことがない。厠《かわや》の掃除にかぎらず、庭掃除なども、小者のしごとなのであるが、そのご殿のご用はすべて古参の者がうけたまわることになっているのだ。
勝手をよく聞き定めてから、桶《おけ》をにない、ひしゃくと箒《ほうき》を持ち、ご殿の裏庭に入った。
物語を進めて行くためには、尾籠《びろう》ながら、この時代の大名屋敷の厠の構造を知っていただく必要がある。谷崎潤一郎氏の武州公秘話《ぶしゆうこうひわ》に戦国時代の大名の城内の厠の説明があるが、あれは婦人の厠である。ここで必要なのは男の小便用厠である。実はぼくも四、五年前、文藝春秋社の講演旅行の一員になって江州彦根《ごうしゆうひこね》に行き、もと井伊《いい》家の下屋敷《しもやしき》が旅館となっている家に泊まるまでは、その構造がわからず、従ってこの物語にも合点《がてん》が行きかねていたが、そこの厠を一見して、大いに合点するところがあった。
厠は渡り廊下の一部分に、それに沿ってある。その廊下の床はかなりな高さを持ち、ちょっとこごむだけできわめて容易に下をくぐりぬけることが出来そうである。多分庭掃除の下男などはここをくぐって裏庭から表庭へ、表庭から裏庭へ往来するのであろう。その廊下からちょっとわきに入ったところに、床に竹の簀子《すのこ》が張ってあり、そこに朝顔《あさがお》があり、下に尿《によう》を受ける桶《おけ》がおいてあった。その桶をかくすべき壁は前面にも後方にもない。床下を吹く風は前方から来れば後方に、後方から来れば前方に、自在に臭気を吹きはらうにちがいない。あたかも朝方使用した時には、溜桶《ためおけ》の中に泡立《あわだ》ちたたえている液体が朝日のただ射す中に、竹の簀子をすかして最も鮮明に見えていた。この溜桶は毎日か、あるいは隔日毎に汲《く》みかえるか、とりかえるかするものと判断された。
井伊家のこの下屋敷は江戸末期の建造であるが、こうした部分の構造は現代と違って昔はほとんど新しい工夫をしないから、戦国の時代とさしてかわりはないはずである。ぼくのこれから書こうとする話は名将言行録にあることであるが、ともかくこの構造と合致《がつち》するのである。
さて、藤吉郎はその厠の下に行った。きびしい寒気のため、あたり一面凍って、石をたたんだ下はつるつるして、油断すればすべりそうであった。吐く息が白い。足もとを用心しながら、大きな桶にたまった尿《によう》を、かついで行った桶にくみかえて庭にかつぎ出し、枯木のようになっている梅の古木の下にかきすえ、水を汲んで来てきれいに溜桶を洗いすすぎ、石だたみに水を流して竹箒《たけぼうき》で掃き清めていると、どかどかと足音がして、数人が廊下を渡って来て向うの建物に行ったが、中の一人が厠に立ちよった。いきなりシャーッと朝顔の出口から流れてきた。こちらはおどろいてとびのいた。
出口から流出する液体は湯気を立てて勢いよく桶《おけ》にそそぎ、はずれたのは簀子のすき間からしたたり落ちてこれも湯気を立てている。横ざまにさす朝日を受けて、小さな滝しぶきは立ちのぼる湯気の中に虹をつくった。
(なんと威勢のよいしょんべんやなあ)
藤吉郎は感嘆してながめていた。
やがて滝は停止して、その人は朋輩《ほうばい》らのあとを追って、みしみしと行ってしまった。
藤吉郎はまた厠の下に入り、掃除をつづけた。いつ人が来てシャーッとやるかと、不安である。大急ぎでおわって、桶とひしゃくを持ち、タップタップと揺れる桶を腰で調子をとってかついで裏庭を出たが、その間に、ふと天来のように胸にひらめいたことがあった。
心理の動揺が腰の調子を狂わせ、桶の中身はおどってはね出そうとした。
「おッ、と、と、と、と……」
腰だめでなだめしずめて、そーっと桶を大地にすえた。にない棒を肩にあてたまま小腰をかがめた姿で、今ひらめいた思案を検討してみた。
「……ふん、ふん、ふん、ふん……」
考えの屈折する度にうなずきながら、吟味《ぎんみ》する。効果は大いにありそうだ。ずいぶんむさいことだとは思うが、それだけに即効的であるにはちがいないのだ。即効のある方法である以上、むさいなどと厭《いと》ってはおられない。
「よし! きめた!」
桶をかつぎ上げ、腰をふりふり、調子をとって歩き出した。
小者部屋に帰って来ると、かわってやった男に水を汲んでもらってきれいにからだを洗い、着物をかえてから、一若の前に出た。一若は今おきて、小者の一人に給仕をさせて飯を食べおわったところで、悠々《ゆうゆう》と楊枝《ようじ》使いしていた。
「お頭《かしら》様や」
と、その前にかしこまった。
一若は湯呑《ゆのみ》をとって一口ふくみ、がらがらとうがいしてグッとのみこんで、
「おお、なんじゃい。われは今日は非番じゃったはずじゃが、どこへ朝から行っていたのぞい」
と言った。
「わしァ殿様のご殿《てん》に、しょんべん桶かえに行っとりました」
「なんやて? われがご近習衆《きんじゆしゆ》の厠《かわや》の掃除に行ったのやてェ? 今日は源六の番にあたってたはずやでェ。あのヘゲタレめ、また横着かまえおったのやな。源六を呼んで来《こ》う!」
と、一若は腹を立てた。
「まあ、まあ、そないおこらんとくんなはれ。そら、わし源六どんに頼まれてかわり合って行ったにはちがいないのやが、わしそれを申し上げに来たんやあらしまへん。そないおこらはると、わしが申し上げしたみたいで、わしが済まんことになりますさけな。気をしずめて聞いとくんなはれ」
「阿呆《あほ》いえ! これがおこらんとおかれるかん! そげいな勝手なことを皆がするようでは、お小人頭《こびとがしら》としておらがきめた番が乱れてしもうやないかん。土台、われがいかんのや。われが何でもかんでも人好《よ》う引受けるさけ、皆がええ気になって、好《す》かんことはみんなわれにおしつけてしもうのや。ちったァ自分の身をいたわれ。人の分まで引受けて際限も無《の》う働いて、病気にでもなったら、どげいするのや。親きょうだいのことを考えたら、少しは考えなならんはずや」
一若のことばは教えさとし、いたわるような調子になった。恋こそはまことに人の心をやさしくするものだ。「紫の一本《ひともと》ゆゑに武蔵野の草は皆《みな》がらあはれとぞ見る」という古歌があり、「恋人の家の屋根にとまる小鳥さえいとしいものだ」という古諺《こげん》もある。おともを愛するが故に、一若は昔は猿々と呼んでいじめた藤吉郎に大いに好意を持つようになっているのである。
藤吉郎は一若の心をうれしいと思った。
「お頭《かしら》がわしがことをそやんまで案じて下さるのは、わし涙が出るほどありがたいと思います。けど、これはそげいまできつう頼まれて行ったことやありまへん。わしもあのご殿に一ぺん行ってみたいと思うていたとこに、ちょいとそげいな話があったさけ、行く気になったのですのや。いわば、わしが進んで行ったようなもんですわい。源六どんを叱ることはやめとくれやす。ところで、わしあこのあれ汲《く》みとって、あこをきれいに掃除したら、何ともいえんええ気持になったのです。そこで、お願いですけんど、あこの掃除、これからわし一人にまかしてくれまへんか。どうですやろ」
「ふうん? 妙なことわれ言うのう」
一若はまじまじと藤吉郎を凝視《ぎようし》する。
「妙なことですやろなあ。しかし、これわしの信心みたいなものですねや。どうぞ、そないしておくんなさい」
「信心かあ! 信心にはいろいろ妙なものがあるということはおらも聞いとるが、信心にはご利益《りやく》があんのやろ。この信心にはどげいなご利益があるのけえ」
一若は大いに興味を釣り出された風だ。ちょいと改まった顔になっている。ご利益は大いにあるはずだが、それは言うわけには行かない。
「信心みたいなものというので、信心ちゅうわけやありまへん。まあ心の誓いでんね。わしは子供の時からどこへ奉公しても尻《しり》がすわらんで、どこぞに奉公してぼつぼつ尻がねくとうなって来ると、つい気がふわふわとして来て飛び出してしもうて、そのためにせいでもよい難儀ばっかりして、おのれもこまれば、親きょうだいにも心配かけて来ましたのや。それで、こんどはそげいなことのないように、人のいやがることを一年つづけてやってみようと、心の誓いを立てましたのや。こげいなわけですけ、一つ聞きとどけとくんなはれ。頼みますさけ」
口から出まかせではあるが、気持は懸命だ。なんとしても承知させなければならないと、口説き立てた。
「えらい!」
一若は大あぐらをかいていたひざをピシャッとたたいた。
「えらいわい! われ! ようその気になった。感心じゃァ、感心じゃァ。初お目見えの時から、おれ、われの人がらが昔と違うような気がしていたが、いよいよこの部屋に来てからのわれが様子を見ていて、ほんとに違《ちご》うたと思うていた。それが何でやか、今のわれが言うことを聞いて、はじめてわかったわい。なるほど、なるほど、その決心があるからのことやな。えらい! 感心や。へやのやつらにわれが爪《つめ》の垢《あか》でもせんじて飲ませたいわ。ええとも、ええとも、そげいな立派な決心でいるのや、聞きとどけいでおられようか。聞きとどけるとも! あこの汲《く》みとりと掃除とは、これから一年間、われ一人にまかせる!」
一若はひざをひっぱたきひっぱたき、泣かんばかりに感激して言う。
三
この頃の信長の近習衆《きんじゆしゆ》は、前田|又左衛門《またざえもん》、佐々《さつさ》内蔵助《くらのすけ》、下方左近、戸田半右衛門、津田金左衛門等はもう青年だが、十五、六の少年としては岩室長門、長谷川橋介、山口小弁、佐脇藤八郎、加藤弥三郎等の人々がいた。時代が時代であり、主人たる信長の好みが好みだから、いずれも気のあらい、おそろしく威勢のよい連中であった。
藤吉郎の計画はこの人々と知り合いになることであった。いつも殿様の側近くいるこの人々と知り合いになれば、いろいろな機会に自分のことをうわさするであろうし、しぜんそのうちには殿様のお耳に自分のことが達するであろうと考えたのであった。
藤吉郎は専任の厠《かわや》掃除の小者になると、これまで隔日に汲《く》みとって掃除することになっていたのを、毎日のこととして、最も念を入れて掃除した。
その数日目、いつもの通り掃除をしていると、厠《かわや》に入って来た者があった。
(来たな)
藤吉郎はわざと桶《おけ》のそばにうずくまった。きたなくても、むさくても、考えぬいた末の計画だ。身動き一つしなかった。
上では悠々《ゆうゆう》と用を足しはじめた。
シャーッと勢いよくほとばしって桶の底に音を立てた時、藤吉郎は、
「ワッ!」
とさけんで縁下から庭に飛び出し、窓にむかって、せい一ぱいの声でわめき立てた。
「やい、やい、やい! 何で男の生《い》け面《づら》にしょんべんしかけるのや! かんべんならねえ! 出て来《こ》う! 出て来て面ァ見せろい! ひッかけ返してくれるわ!」
厠ではびっくりしたらしい。一時、はたと流れがとまったが、出かけたものはいつまでもせきとめは出来ない。またシャーシャーと奔出《ほんしゆつ》させながら、言う。
「ゆるせ、ゆるせ。下に人がいるとは知らなんだのだ」
「しょんべんばり散らしながらゆるせということがあるかん! そげいなわびようはないぞ! かんべんならん! 出て来う! 出て来う!」
腹に一物《いちもつ》があるから、猿に似た小さな顔を真赤にして、じだんだふみふみ、小さいこぶしを振りふり、絶叫する。
「無理を言うな。出かけたしょんべんがとめられるものか。ゆるせよ。わびているでないか」
と、内では言う。
「おお、いかさま、出かけたしょんべんはとめられへんわ。それは納得したが、面《つら》ァ見せろ! 面もさし出さいで、口先ばかりでじょべらじょべらわびても、おら承知|出来《でけ》へんでェ! かんべんならねえ!」
と、またどなり立てる。
「無理ばかり言うやつじゃな。われが見ての通り、拙者《せつしや》はまだしょんべんしつづけとる。顔を出したいにも、身動き出来んでないか。待て、待て。もう少しだ。やがてすむ」
「なんちゅう長しょんべんじゃァ。大方|霜朝《しもあさ》の馬のしょんべんほど出たぞい」
このへんのところから、藤吉郎のことばはひょうきんな調子を帯びて来る。なんとも言えないおかしみがあって、内の男は笑い出したらしく、忍び笑いの声がクスクスと聞こえて来る。透《す》かさず、こちらは、
「笑いごとではござらねえでェ! わしは腹立てているのでござるでェ! オマンをどうしてくれようと思案しているのでござるでェ!」
と、こんどは声の調子に間のぬけたおかしみをそえることを忘れない。
「ゆるせ、ゆるせ。悪い気ではなかったが、ついな……」
という声がし、廊下に出て、武者窓に顔をさしのぞかした。
「われらは前田|又左衛門利家《またざえもんとしいえ》だ。ついうっかりして、そなたが下にいることを知らんで、粗相《そそう》をしてしまった。ゆるしてくれるよう」
鄭重《ていちよう》なわびだ。
竪《たて》に立った太い窓格子《まどごうし》の中でおじぎしているのがけはいでわかった。
「わびていなさることはわかりましたが、お顔よう見えませんわい。もそっとどうぞして、お顔をのぞけておくんなさい。顔がよう見えんでは、わしもあいさつがしにくうござるけ」
「こうか」
内では苦労して、顔が少し見えるようにした。色の浅黒い、血色のよい、切長《きれなが》な目と端正な鼻筋をもった、凜々《りり》しい青年のようであった。
「おお、それでよござる。知らずしてなされたことでござれば、深くはとがめはしますまい。聞きわけました。わしも口が過ぎたかも知れませぬが、ゆるして下され。わしが名は木下藤吉郎、お小人頭一若《こびとがしらいちわか》が支配の者でござります」
こんどは小者らしいことば使いをやめて、さわやかな武士ことばにした。
一体この時代の武士の標準語というべきことばは、われわれが今日狂言で聞くものがそれであったと思われるのだが、交通の不便な時代のこととて、それのよく行われているのは京都を中心とする近国だけで、他の国々は方言の濃厚に入ったものだったのだ。後年秀吉が天下とりになってから、諸大名の子供らを引見したあと、その大名にたいして、
「田舎育ちに似ず、ことばになまりが少ない。丹誠して育てたことがわかる」
とほめてあいさつしたり、
「しばらくおれが手許《てもと》において、ことば使いなど直してやろう」
と言ってとどめおいたりしていることがしばしばある。足利幕府の間に自然に武士の標準語が形成されたものの、交通や教育の不備のままに伝播《でんば》が行きとどかなかったことがわかる。それだけにそれを見事に使いこなすことは、一つの教養として珍重されたこともわかる。
前田又左衛門は、最もあざやかな標準語をきいて、おどろいた。その男は窓の下に上を仰いで立っている。醜悪といってよいほどにみすぼらしい顔と体格をもち、身にはそぼろな小者の着物をまとっている。ほとんど自分の耳を疑った。
「そなたは当国の者か」
「さようにございます。当国名古屋在の中村の者でございます」
「ほう、それにしては見事なことばを使うの」
「しばらく遠州にまいって、今川家の被官《ひかん》で浜名《はまな》を所領する頭陀寺《ずだじ》城主松下|嘉兵衛尉《かへえのじよう》に奉公していましたので、その間に習いおぼえましてございます」
「なるほど、今川家は聞こゆる名門で作法きびしいお家である上に、都方《みやこがた》から人の往返《おうへん》が多いと聞いている。さすがその被官だけあって、松下殿の家中も作法が厳重なのであろう。われら感服したぞ」
「恐れ入ります」
「木下藤吉郎と申したな。よく覚えておくぞ。今日はまことに済まなんだ」
「てまえもことばが過ぎました」
又左衛門は立ち去った。
藤吉郎は厠《かわや》の下に這《は》い入り、掃除をつづけながら、
(手はじめは先ずうまく行ったわい)
と、思った。
この手を時々使った。あまりせっせと使うと、こちらの心事を見ぬかれて逆効果になる。よほどに工夫して、自然な感じでやらなければならない。苦心はそこだけにあった。しかし、どうやらうまく行ったようだ。誰からもその点で疑惑をもたれることはなく、とがめ立てした人々とは皆親しくなった。裏庭のあたりで彼が草ぬきしたり、とりかたづけをしたりしているのを見かけると、その人々は笑顔で声をかけてくれるようになった。その上、その人々から聞いて親しみを持つようになったのであろう、他の人々も親しみをもってくれるようになった。
ここまで漕《こ》ぎつけるのに、半年立った。もう夏である。しかし、信長は一向に自分を思い出してくれそうにない。
(あの衆は、殿様の前でおれの話などすることはないのであろうか。うまい手だてじゃと思うてかかり、あの衆に顔と名を知られ、親しみを持たれるところまではうまく行ったのじゃが、肝心《かんじん》なところがどうともならんわ。どうやら、この手はいかんじゃったらしいわ)
と見きわめをつけた。
しかし、失望はしない。
(これからは川狩《かわがり》の季節じゃ。殿様はきっとおれを思い出して下さるに違いない。思い出して下されば、お名ざしでお供を仰せつけられるじゃろう。そしたら、働きをごらんに入れることも出来る。それに、そうなると、あの衆もいろいろとおとりなし下さるじゃろう。つまりあの衆は播《ま》いておいた種子《たね》になるというわけじゃ。気をくさらさんで、いつも一生懸命につとめることじゃ。しかし、もう一おししてみよう)
と思って、一若に頼んだ。
「お頭《かしら》様、わし、お陰様でご殿の近習衆《きんじゆしゆ》の厠番《かわやばん》をこれで半年つづけることが出来ましたが、厠番だけでは、暇がありすぎてなりませんけ、あのご殿のお庭掃除もさせてもらいたい思うのですが、どうですやろ。聞いてくれはりまへんか」
四
一若はこの頃では、おともとの交情が益々《ますます》密になって、近いうちに晴れて夫婦《みようと》になる相談が進んでいる。
藤吉郎はそれを一若からは聞かない。一若はおともとのことはがらになくはにかんで、時々てれ臭《くさ》そうな顔で匂《にお》い程度におともの話をするくらいのことであるが、おともはあけすけだ。一若とカチ合ってはまずいから、藤吉郎はめったに姉を訪ねないが、たまにたずねると、出るのは一若の話ばかりだ。
「男の中の男というのは、あの人のことやで。気っぷもええし、知恵もはたらく。中村いうところは、しょむないところで、昔から人の上に立つほどのもんは一人も出てへん。一若サだけやで、何百人ものお小人《こびと》の上に立って束《たば》ねをする身分になったのは。われもようく見習うがええわ。おら、ええ男もったと思うとるわ。縁というものは異《い》なもんやなあ。おら、村にいる頃《ころ》は、あの人のうちにそれほどの力があるとは、ちっとも気ィつかへんだになあ」
といったことがある。
「何から何まで、おら大好きや。あの人、胸にこわい毛が仰山《ぎようさん》生えてんのやでェ」
と言ってしまって、ぱっと顔を赤らめたこともある。
この前会った時には、
「おら共、所帯もつことにきめた。夏の間は祝言《しゆうげん》するもんやないというけ、秋になって少し涼しゅうなったら、祝言して、晴れて世帯を持つわ。あの人大部屋の横に自分のへやを二つも持っているというけ、そこに住んでもええのやけど、それでは女けのないお小人衆に気の毒やけ、どこぞご城下にチンマリしたお屋敷もろうか、徒士衆《かちしゆう》か足軽衆のお長屋を一つもろうかして、暮すことにするわ。そしたら、遊びに来てや。存分《ぞんぶ》ご馳走《ちそう》したるわ。ここでは何いうても、雇人やけ、その気はあっても、出来へん」
と、言ったのである。
女は恋をすると美しくなるというが、この頃おともは一層美しくなった。からだ全体から彩《あや》のある艶《つや》が出、一種の香気を発散しているようだ。女の花が一時に咲いた感じであった。
藤吉郎は、自分が織田家に奉公がかなったのは、姉がからだを張って一若の心をとりこにしたためであることを知っている。誰から聞いたわけではないが、前後の事情から見て、そう推察しないわけに行かないのである。
だから、涙のこぼれるほど姉に感謝している。いつかはこの恩返しをしなければならないと思っている。しかし、これは恩返しで追いつくことではない。いやでいやでならないものを自分のためにそうしたと考えることはたまらない。しかし、姉が一若を好きになったのなら、気持は大いに楽だ。
(結構なことや。お小人頭といえばりっぱな身分や。何よりも、姉は一若どんを好いている。幸せになるやろ)
と、思っているのである。
もっとも、藤吉郎自身は、なんとしてでも士分《さむらいぶん》になるつもりでいる。松下の家中で一度士分になった身には、士という身分に大いに未練があった。
さて、一若はおとものことを別にしても、今では藤吉郎の人物と勤勉ぶりに感心しきっている。ましてや、こんな工合におとものことがあり、やがては義兄弟になるのだから、いやを言うはずはないと思われたのに、
「われ、どうしてそげいに働きたがるのや。変った男やなあ」
と、あきれた表情で、うんと言おうとしない。藤吉郎は不審《ふしん》に思いながらも、
「変っとるかも知れへんけど、いつぞやも言いましたように、わしは生まれかわった気でいるのですわい。どうぞ、許してやっておくんなさい」
と、重ねて嘆願した。
「われのことは、おらはいつでも感心しとるのやが、こんどのその思い立ちは少し考えもんやで」
「そら、またどうしてですねん」
「お庭がかりの同朋《どうぼう》が少したちの悪いやつなんや。ひょっとして、そいつににくまれるようなことがあっては、われの身にようないと思うのや」
庭の掃除は、同朋のさしずによってすることになっている。同朋は童坊とも書く。江戸時代にはお城|坊主《ぼうず》という名になった。茶坊主などもこの中に入る。城内のボーイと考えればよい。庭掃除は庭の風致《ふうち》に関係するところが大きいから、茶の湯と関係をもつ同朋がさしずをすることになっている。
同朋は身分のひくい者であるが、権力の中心に近接しているため、機密に通ずることが多く、また権力者の密旨《みつし》を受けて機密の使いなどうけたまわることが多いので、人によってはなかなかの権勢を持ったものなのである。
この時のお庭がかりの同朋は十阿弥《とあみ》という男である。藤吉郎はこの男の顔を知っている。ものもいく度か言ったこともある。少しにぶいようなどんよりとした顔をしているが、口のきき方などいかにも気がきいて、眠ったような顔をしながらとっ拍子《ぴようし》もない冗談を言うのが、いかにもおもしろかった。
「たちが悪いというのは、十阿弥殿のことですかえ」
と、たずねた。
「ああ、あの男、あんな顔しとるくせに、欲深で、小意地の悪いやつなんじゃ。あれで小気がきいとるし、時々まじめな顔して剽《ひよう》げた軽口をきくので、殿様をはじめ近習衆《きんじゆしゆ》のお気に入りじゃけ、油断も隙《すき》もならんのよ。ひょっとして、憎まれでもすると、何を申し上げるかわからん。身の破滅になりかねん。それじゃによって、おれお庭掃除にはせっせと人をかえて出しとんのや。ひとりの人間をつづけて出すと、憎まれることが起こりやすい道理じゃけな」
と、一若は説明した。
「お頭《かしら》もずいぶん細《こま》こう、深う、考えてはるのですの。わし感心しましたわ」
と、とりあえず、藤吉郎はお世辞を言ったが、思いとどまる気はない。十阿弥が殿様や近習衆の気に入りなら、これはぜひとり入って、殿様に近づく梯子《はしご》にしなければならないと思った。
「お頭の話はようわかりましたが、わしも一旦《いつたん》思い立ったことですけ、聞きとどけてくれはらんでしょうかな。どうでもわしあのご殿のお掃除役になりとうてならんのです。十阿弥殿のことはあんじょう気ィつけて、決して機嫌《きげん》そこなわんようにしますわい。なに言われてもさからわんようにして、ハイハイいうて一生懸命働いているぶんには、なんぼうあの人が意地悪でも、どうとも出来へんやろ思いますで」
「それも信心か」
「そうです。信心ですわい! 心の誓いですわい!」
熱心な頼みに、一若はついほだされた。笑い出して言う。
「われも物好きな男やなあ。あぶない橋わたらんかてええと思うのじゃが、それほど頼まれるものを、いやも言えんわな。許したろ。そして、二、三日のうちに十阿弥の家へ連れて行って、ようく頼んだるわ」
一若は早速《さつそく》十阿弥の都合を聞き合わせた。すると、明日は非番で家にいるという。
一若は藤吉郎を連れて、十阿弥の家を訪問した。
十阿弥の家は、三の丸の隅っこにある。母親と、同じ同朋《どうぼう》をつとめている六阿弥という弟との三人ぐらしである。まだ独身であった。門を入ったところに大きな青桐《あおぎり》が三本あって、やかましく蝉《せみ》が鳴いていた。
十阿弥は二十四、五――藤吉郎とほぼ同じ年頃であろう。小がらだが、小肥りにふとって、色白の顔に薄いあばたのある顔をしている。太くて少し鼻梁《びりよう》が横に曲った鼻をして、眠っているように細い目をしている。全体として、にぶい感じの男だ。
自ら入口まで迎えに出た。
「ようお越《こ》し」
と、青々と剃《そ》った頭を下げて一若を迎えたが、細い目を、そのうしろにお供《とも》の形でひかえている藤吉郎に向けると、
「オヤ、これは東司《とうす》どのではないかん。今日はお供かの」
と言った。
寺院で便所のことを東司という。もともとは便所の守護神で不動明王の化身《けしん》だという。つまり、厠《かわや》の守《かみ》殿と呼びかけたわけだ。こんな知識は一若にはないが、藤吉郎は子供の頃寺で数年暮しているから知っている。この半年毎朝厠の掃除をしてはいるが、こんな時にこんな呼びかけをすることはなかろうと、チクリと心にささくれが立った。しかし、おこってはならない、気にかけてはならない、おこればもちろんのこと、気にかけただけでも、相手の心に反応を呼ぶのが人間の心の不可思議さであると思って、忘れることにつとめた。
(なるほど、一若サの言う通りじゃわ、小意地の悪いところのある男のようやな)
と思いながらも、愛嬌《あいきよう》よく笑って、
「お供でもありますけど、今日はそればかりではないのです。あとで、お頭《かしら》から申し上げます」
といった。
「ほう。さようか。ともあれ、入って下され」
青桐の緑をうつして、一層《いつそう》青く光っている頭をふり立てながら、請《しよう》じ入れた。
十阿弥は大きなうちわで、胸に風を入れながら、明日からこの者をお庭掃除番としてご殿にうかがわせたいと思うから、よろしくお引きまわしを願いたい、この者はてまえと同じ在所の者で、素姓《すじよう》も性質もよく知って、信用しきっている者である、本日はお願いとごあいさつをかねてうかがったのですと、熱心に語る一若のことばを聞いた。時々茅《かや》ッ葉《ぱ》で引っ切ったように細い眼裂《がんれつ》の間から、白目の多い目を藤吉郎に向けながら聞いているところ、かなりに熱心な感じではあるが、それでいてずいぶん傲慢《ごうまん》そうに見えた。
一若のことばがおわると、
「なる」
といって、半呼吸ほどして、
「ほど」
といった。
それがいかにも気むずかしげであった。
藤吉郎は一若のななめうしろに、膝《ひざ》を正してすわっていたが、一若のはばひろい肩がぴくりとふるえるのを見た。相当に威圧されたにちがいなかった。
この効果に、満足したのであろう、十阿弥の表情は急にやわらぎ、すらすらと弁じ出した。
「それはそれはご丁寧なことですて。わしはただの同朋《どうぼう》、たまたまお庭のことを仰せつけられているにすぎんのですわい。されば、一若殿のところからつかわされるお小人達《こびとだち》とは、朋輩《ほうばい》同士です。引きまわすの、引きまわされるのということはないのですて。よろしゅうお願い申すはわしの方も同然、まあまあよろしゅう頼みますわい」
といって、ちょいと藤吉郎の方におじぎしておいて、うちわを左手に持ちかえ、右手でおおきな鼻をつまんで、ぎらぎらと浮いている脂《あぶら》を拭《ふ》き、居ずまいを正して、
「ところで、朋輩は朋輩ながら、わしはお庭のことにはこの数年たずさわっている。いわば古参《こさん》ですわい。そこで、古参の者として心得をお話し申しておくことも無駄ではないじゃろと思うのじゃ」
と言って、一旦《いつたん》切った。
「それはぜひお聞かせ下さりますよう、お願い申し上げます」
と一若は言った。
藤吉郎は、ちょいと指先を膝の前の畳について、かしこまって聞く姿勢をとった。
みんみん蝉《ぜみ》が鳴いて、おそろしく暑い昼下りであった。
金竜の笄
一
藤吉郎は望みの通り、信長のご殿《てん》の掃除役になることが出来たが、十阿弥《とあみ》に釘をさされている。
「一つ、いつも身なりを小ざっぱりとしていること。二つ、掃除は人々の見ていないうちにかたづけ、出来るだけ人々の目につかないようにすること。三つ、毎日定まったことはその必要はないが、少しでも特別なことをする時には、必ず自分に告げてさしずを仰ぐべきこと」
一はあたり前のことだし、三はこちらの工夫の余地をなくすることで、あまりおもしろうないが、それでもまだがまん出来ないことはない。最もこまるのは二だ。これではなんのために望んでこの役にしてもらったか、わけがわからない。出来るだけ信長の目につく場所で働き、働きぶりと才能を認めてもらいたいと思えばこそ、この役目を所望《しよもう》したのだ。
それについて、十阿弥はこう言った。
「庭でも座敷でも、同じことじゃ。掃除いうものは掃除の途中を見るものでは無《の》うて、掃除しあげてきれいになったところを見るものじゃ。むさいものを掃き集めているところを見せられるのは、誰かて好きやない。まして持主にとっては、いつもきれいにしているほどうれしいことはない。じゃけ、人の知らん間に掃除してしもうて、人の見る時にはいつもきれいになっとるというのが、一番ええ掃除ぶりいうものや。人の目に立つような働きぶりするのは、怠け者よりええことは言うまでもないが、極上の働きぶりとは言えへん。そなたも自ら望んでその役目になったからには、極上の働きをせな、甲斐《かい》がない道理や」
まるでこちらの胸の底を見通している言いぐさだ。油断のならない男だ、なるほどこのにぶい顔をしているくせに、鋭い知恵を秘めてもいるし、意地も大へん悪そうなと、藤吉郎は考えずにはおられなかった。しかし、はいはい、仰っしゃる通りで、ええこと教えて下さりました、万事その心掛けでつとめさせてもらいまほと答えたのであった。
こんな工合《ぐあい》にせっかく手に入れた場が、働きぶりを認められることを封ぜられることになったが、藤吉郎はへこたれない。殿様の住んでござるご殿内で働いているのや、どんなに陰で働いていても、働いている以上は、いつかはお目につくに違いないと信じた。
いつも朝まだ暗いうちに起きて、打水してほこりをしずめ、ほの明るくなる頃《ころ》に掃き、また水を打って、夜の明け切る頃にはすがすがとした庭にすることにつとめた。雑草など物かげからどこにあるかを見定めておいて、人けのないのを見すまして入り、すばやく抜《ぬ》いた。日でりがつづいて庭木のよごれがひどくなると、夜なかに洗った。厠《かわや》の掃除役もつづけてしているが、これは毎朝の庭掃除が済んでからにすることにした。これも少しも手をぬかず、誠実につづけた。
こうなると、信長の目につくために働くという最初の目的はいつか忘れられて、庭も厠もひたすらにきれいに清掃することばかりを心掛けるようになった。自然の心理上そうなったのであるが、そうなったからこそ継続することが出来たといえる。人間は報《むく》いられない苦労をいつまでもつづけることは出来ないものだが、しごとそれ自身を見事にやることを目的とするかぎり、その都度《つど》報いられていることになるからである。
十阿弥がどんなに意地悪でも、藤吉郎のこの最も誠実で陰ひなたのない勤務ぶりには、文句のつけようがない。その上、藤吉郎は十阿弥のきげんをとることも忘れない。勤務のひまには十阿弥の家に行って、庭掃除や、菜園《さいえん》つくりや、走り使いや、時によると洗濯《せんたく》まで手伝ったので、十阿弥の母や弟の六阿弥が先ず気に入り、ついにはさすがのむずかしやの十阿弥も気に入るようになった。
「あの藤吉いう小者、お庭掃除と厠掃除をしとる、あれなかなか感心な男やな。めずらしい篤実《とくじつ》な男や。篤実なもんは気のきかんのが多いが、あれは気もつく。わし感心してますで」
と、ある日一若に言ったという。
一若はその話を藤吉郎にして、
「われのことやから、如才《じよさい》はにゃァと思うてたが、相手が十阿弥のことやから、おれ心配してたわ。ようそこまでやったな。これでおれも安心じゃわ」
と言ったのである。
一若は数日のうちにおともと祝言することにして、もうお屋敷ももらっている。お城外の徒士《かち》屋敷ばかりならんでいる町の隅ッこにある屋敷だ。大部屋にとなり合った部屋から引っこす日、藤吉郎は他の小者らと手伝いに行ったから、よく知っている。
家は五|間《ま》しかない小さいものだが、生垣《いけがき》をめぐらし、片びらきながら門を持ち、裏手に菜園まであるきちんとした小屋敷だ。
(姉サもこれでやっと家らしい家に住めるようになるわけや)
と、藤吉郎は考えた。
その祝言の時、藤吉郎は姉のために荷宰領《にさいりよう》をつとめた。荷物といっても、ごく少ない。あき番にあたった小者《こもの》が三人、包みにしてそれぞれに背中に背負い、肩に結びつけて持って行ったのである。藤吉郎は宰領だから、上下《かみしも》を着、脇差《わきざし》を一本さし、扇子《せんす》をぱちつかせてついて行った。
「おたがいの中や、むずかしい口上《こうじよう》はええやろ。きまった祝儀や、酒のんでくれ」
一若はかなりにてれていた。こういって、酒を出して、藤吉郎にも小者らにもふるまった。一若のうちには小者らが手伝いに来ていたが、一若はその者共にも、
「わいらも来て、酒のんでくれーッ」
と呼立てて飲ませた。これもうれしさとてれがさせているのだと藤吉郎は思った。
(姉サはええ聟《むこ》とった)
とまたしても思った。
おともの付添《つきそ》いとしては、中村から遠縁の中年の婆《ばば》さまが出て来てつとめた。清洲《きよす》の城下の一若の知合いの家を借りて、そこから一若のところに来ることになっていた。おともは粗《あら》い麻布《あさぬの》に歯朶《しだ》模様を青く刷《す》り出した表《おもて》に、あかね色の麻布を裏につけた袷《あわせ》を裾《すそ》みじかに着て、真白におしろいを塗り、その婆さまのあとから、しゃんしゃん歩いて来た。手をひかれるのが本式だが、
「おらは二度目やけ、そげいすることはないやろ。馴《な》れとるのやけ、あんまり初《うぶ》らしゅうしては、かえって恥かしいわな」
と言ったのである。
もちろん、もう夜だった。
この時も、藤吉郎は松明《たいまつ》をとって先導した。往来の左右には、もの見高く見物が群集《ぐんじゆ》していた。その中を、
「ええ、ごめんやっしゃァ、ごめんやっしゃァ。道ふさがんといておくれやっしゃァ!……」
といいながら歩いたのである。
ともあれ、こうして、姉サはお小人頭一若のお内方《うちかた》となった。
この以前から、小者らは藤吉郎の姉と一若との関係を知っていたので、藤吉郎にたいしては一目おくようになっていたが、これ以後は一層そうなった。年若でも人の五倍も六倍も苦労して来ている彼は、いい気になってはいけないことを知っている。つとめてきさくに、つとめてへりくだって付合い、余裕のある限りはおりにふれては餠《もち》や酒を買って皆にふるまうことを忘れなかった。
二
同じご殿で勤務しているのだから陰ひなたない勤めぶりが殿様に知られないはずはないという藤吉郎の計算に狂いはなかった。十阿弥《とあみ》の指示するように出来るだけ信長やご近習衆《きんじゆしゆ》の目につかないようにして働いていたのだが、ある日、庭に落葉が二ひら三ひら散っているのを見つけ、あたりに人けのないのを見すまして、ちょろちょろと走り出してひろっていると、いきなり障子があいて、緑側に出て来た者があった。はっと思って見返ると、信長であった。近習衆もそのあとから出て来た。
藤吉郎はその場に平伏した。
「猿《さる》じゃな」
と、信長は言った。
藤吉郎は一層《いつそう》平伏して、信長のことばが聞こえたことを示した。
「おれはわれがほんとの名は忘れた。おれがつけた猿というあだ名だけおぼえている。そうじゃ。われが川狩《かわがり》の上手《じようず》であることもおぼえている。子供の頃《ころ》、どじょう売りの与助といわれていたということもおぼえている」
信長は大きな声で言って、ハハハ、と笑った。
「おそばの方までに申し上げます。いろいろとお覚えおきたまわりまして、ありがとうございます」
と、平伏したままこちらは言った。
「とりつぎはいらん。直答《じきとう》でよい」
と信長は言って、つづける。
「おれは前からわれの働きぶりを見ていた。ずっと前から、庭がまことにすがすがしくなって来たことに気づいた故、気をつけて見ていたのじゃ。感心なやつじゃとおれが言うと、近習共が、われが来てから、近習らの厠《かわや》の掃除もこれまでになく行きとどくようになったという。小者ながら、あっぱれなやつと、おれはいよいよ気に入った。おれはおれに言われてから働くようななまぬるいやつはきらいだ。言いつけられいでも、言われいでも、しごとを見つけて、手落ちなく働くやつでなくば、気に入らん。われはそういうやつじゃ。気に入った」
近習衆の末席に十阿弥がいて、何やら口出ししようとするが、信長はふりかえりもせず、一気に言ってしまった。
このことばを、藤吉郎は夢のように聞いた。
(おれの考えは狂わなかった。骨おしみしないまじめな働きは、いつかはお目につくと信じとったが、とうとうお目についた。ありがたいことや、ありがたいことや……)
と、涙があふれてとまらなかった。べとべとに土が濡《ぬ》れ、顔につくのも忘れて平伏をつづけていた。
「ほめた以上、とり立てて得させねばならぬ。われはこれから、おれが直《じ》かに召使《めしつか》うことにする。おれが草履《ぞうり》をとれい。どうじゃ! 承知か!」
最後はどなりつけるような声になった。
「ありがとうござります。身にあまるおことばでござります。必ず一生懸命につとめますでござります」
「よし! 顔を上げい」
藤吉郎は顔を上げた。恐ろしいことはなかったが、ここは恐れ入っているように見せなければならないところである。少し顔を上げた。
「もっと上げい!」
もっと上げた。
信長はプッと吹き出した。
「何ちゅう顔をしている。泥が一ぱいついているぞ。泥猿じゃわ」
と言って、呵々《かか》と笑った。信長はその泥がありがた涙によってくっついたものであることがわかったにちがいない。ふと笑いやんで、凝視《ぎようし》して、
「庭掃除と厠の掃除は、明日から余人にさせるよう、一若に言えい。われはおれが直々《じきじき》の中間《ちゆうげん》じゃ」
と言うと、ぷいと座敷に引っこんだ。ぞろぞろとついて入って行くあとから、十阿弥が入って行く。青白くぶよぶよした顔が、きびしく緊張していた。じろりとこちらに向けた目に尋常でないものがあった。
(ああ、十阿弥どんはおこっとる)
と、こちらは思った。
藤吉郎はぐるりと庭を見まわし、落葉を全部ひろってから庭を立ち去った。
(何よりも一若サに告げてよろこんでもらわなならん。かわりの小者もよこしてもらわなならん)
と思いながら、大部屋にさがった。
しだいにうれしさがこみ上げてくる。空にむかって両手をあげ、ウァーッとわめき立てたいほどの気持だ。
(これでやっと日なたに出た)
と思った。
まじめにたゆみなく働いていれば、必ず認められるものだという、祈りをこめたふだんの考えが立証されたことがうれしかった。寸分の油断も隙《すき》もならないお人だが、それだけに奉公ぶりもお見落しのない殿様であることもうれしかった。
(おら一層《いつそう》働くでェ。働きさえすれば、きっとお目にとまる。お目にとまりさえすれば、やがては、士《さむらい》にお取立て下さるやろ。お取立て下さらんではおけんように、おれしてみせる)
と、覚悟を新たにした。
一若は以前の居間を、今でも出勤した時の居間にしている。
「ほう、そうけえ、そらよかった、そらよかった。小者《こもの》風情が殿様のお目について、そげいなおことばを賜《たま》わって、お引立てをこうむるなんどいうこと、めったとあるもんではにゃァ。われのつとめぶりもよかったに違いにゃァが、よッぽどわれは運がええのじゃ。ありがたいことと思うて、ようつとめるがええぞ。もどっておともに聞かせたら、泣いてよろこぶぞい。おらもうれしいわい」
とよろこんでくれて、早速《さつそく》、かわりの小者を選定して、
「藤吉のつとめぶりをおらはかねてから感心して見ていたが、殿様のおめがねにかのうて、こんどお中間《ちゆうげん》――しかも、殿様お直々《じきじき》に召使《めしつか》わっしゃるお中間にとり立てられたのぞい。わいらもようく見習うがええぞい。かげひなたのう一生懸命に働いておれば、天道《てんとう》様はちゃんと見てお出《い》でることが、ようわかったはずや。藤吉はおらが女房の弟じゃけ、身びいきでこげいに言うと思うてはならんぞ。わいらじゃて、藤吉のつとめぶりはようわかっているはずや」
と、訓戒して、ご殿にさしむけた。
小者が立ち去って、二人きりになると、一若は声をひそめた。
「われが出世はええとして、十阿弥のきげんはどや。ねたんどるような風はにゃァかえ。あの坊主《ぼうず》は、われが気に入って、おらにほめたこともあるのやが、嫉《ねた》み心の深いやつじゃけ、われがこげいまで殿様のお気に入ったとなると、われを嫉もうも知れん。気をつけなあかんで。今日の幸せが明日のわざわいのもとになるようなことがあってはならんけになあ」
十阿弥が気になる表情をしていたことは、藤吉郎は忘れてはいない。何とか方法を講ずる必要があると思っている。しかし、軽く答えた。
「べつだんに何ちゅうことはありまへんわ。その場にあの人もいましたけど、きげんようしとりましたで」
「そうかァ。そらええ工合《ぐあい》や。しかし、気ィつけなあかんで。あれは途方もにゃァ腹黒いやつやけな」
「はいはい、よう心付けて下さりました。ありがとうございます。大きに気ィつけることにします」
「ああ、そうするがええ。出来るなら、近々に一度あれの家に顔出しして、きげんとり結んでおくがええで」
「そうしまほ」
そのつもりでいたのである。
「それから、われ、これからご殿のお中間衆《ちゆうげんしゆう》のなかま入りすることになるのやが、どこの世界も同じで、古参衆《こさんしゆう》いうものは新入りをいびり立てるものや。われのことやから如才《じよさい》はあるまいが、これも気ィつけて、にくまれんようにせなあかんで。ほんとを言うと、しごともほどほどにした方が、朋輩《ほうばい》には憎まれんですむのやが、われにそげいなこと言うたかて、働かんではおれんやろで、言うだけ無駄やろと思うさけ、それは言わんが、ほんとに気ィつけてな」
と言って、酒を五升樽《ごしようだる》に入れてくれた。
「これで皆に一ぱいのんでもらえ。そしたらいくらか受けが違うてくるやろ」
何から何まで気をつけてくれる。親身《しんみ》になって心配しているのだ。姉への愛情がしぜんそうさせるのだとは思ったが、それでも、藤吉郎は胸が熱くなった。この恩は忘れてはならない。いつかは報《むく》いなければならないと思った。
藤吉郎は町に出て、ちょいとした肴《さかな》と、下戸《げこ》のためには餠《もち》を買って帰り、中間|部屋《べや》に行って、新入りのあいさつをのべ、酒肴《しゆこう》と餠とを出した。
「ほんのあいさつのしるしまでですのや。よろしゅうお引廻しをお願いしますっさ」
「おお、われ、今日殿様からお直々《じきじき》のおことばをいただいて、お中間にとり立てられたいうのう。もう聞いとるでェ。なるほど、気のきいたしかたするわ。殿様のお気に入るのも道理やて。――おおい、皆|来《こ》う! これ新入りの手みやげや。さっそくやらかそうで」
と、中間頭は受入れ、皆を呼び集めた。
三
中間は戦争の時は別として、平時は殿様のお出かけの時お供したり、使い走りしたりするのが仕事だ。使い走りは命ぜられた先きに行って、命ぜられた通りの口上《こうじよう》をのべて用を足してくればよいのだから簡単だが、お供はちょいと複雑だ。先ず任務が専門化している。お槍《やり》持ち、馬の口とり、お床几《しようぎ》持ち、お草履取《ぞうりと》りという工合《ぐあい》だ。それぞれに専門の作法と技術とがあって、その役の中間はそれに達しなければならない。
しかし、この点、藤吉郎は至って都合がよかった。松下家は小身な豪族だから、中間の数も少なく、一々そう受持を専門化するわけに行かない。中間たるものは何でも出来なければならなかった。だから、彼はそのいずれにも通じていた。小者からいきなり中間に抜擢《ばつてき》されたからとて、とくに練習をしなければならないことはなかったのである。彼は投げ草履でもなんでも出来た。なにかの都合で主人の側によってはならない時、四、五間も離れたところから草履を投げて、かまちの下《お》り口《くち》にぴたりと草履をそろわせるのを投げ草履といって、草履とり中間の間では高級技術になっているのだが、藤吉郎はそれも出来た。
もし藤吉郎が槍持ち中間にされたのだったら、受け渡し、投げわたし、振り方もたくみにやってのけたろう。馬中間《うまちゆうげん》ももちろんだ。痩《や》せこけた矮小《わいしよう》なからだではあるが、少年時から青年時にかけて、毎日の生活そのものが鍛錬《たんれん》であったおかげで、息を切らさず何里でも走れる。かなりの駿足《しゆんそく》にもおくれずついて走れる自信がある。水を飼ったり、洗ったりも人なみ以上にやれるつもりだ。
「妙な奴《やつ》ちゃなあ、われ! そんだけなんでも出来るのに、なんで小者奉公などしとったのや」
と中間共は皆おどろいた。
藤吉郎の精勤ぶりも皆をおどろかせた。彼は自分の番の日は、前晩前の番の者が帰って来る数時間前から出て行って、詰所《つめしよ》につめた。
「そやん早うから行かんかてええに。まだあれが持番のうちや。そやんつとめては、寝る間もにゃァやろが。よう寝とかんと、肝心《かんじん》の時かえって思わん粗相《そそう》することも考えとかなならんの」
と、中間頭がたしなめた。
「そらそうですけど、わし気になってなりまへんのや。眠《ねむ》うなったら、あこで寝ますわ。あこの方が静かでよう寝られますさけ。えらいすんまへんけど、勝手さしておくんなはれ」
と、やわらかに諒解《りようかい》をもとめた。
自分の番をそのようにしてつとめるだけでなく、人が何かの都合でかわってくれというと、よろこんでかわってつとめた。はりつめた心には苦労でもなければ、疲労もなかった。いつも爽快《そうかい》感や愉楽《ゆらく》感に似たものさえあった。
こんな風にいそがしい上に、十阿弥の非番の日に行かなければ効果がないと思うので、うまくこちらのひまと向うの非番とが重なる日を待っていると、一月ほども日が流れてしまった。大いに気になったが、どうにもしかたがない。
やっとのことで、うまく日が重なったので、ちょいとした手《て》土産《みやげ》を持って出かけた。
弟の六阿弥がとりつぎに出て、口上を聞いて奥へ入ったが、すぐ出て来て、裏庭にまわれという。
どうやらきげんが悪そうな、と思いながら、裏へまわった。
家の裏手は菜園になっている。ちょうど季節なので、畝《うね》を立てた菜園には大根や菜っぱや葱《ねぎ》が青々とした色を見せていた。十阿弥は、その畑で、ほっかむりに野良着《のらぎ》姿で、しゃがみこんで、菜っ葉や大根の虫をとっていた。
「おお、これは十阿弥様」
と声をかけたが、十阿弥はろくにふりむきもしない。大きな芋虫《いもむし》のような鼻をぶつッとさせた顔で、葉を一枚一枚返して虫をつまみ上げては、反古紙《ほぐがみ》に集めている。
「つとめがかわりまして、何かといそがしゅうございましたさけ、心ならずもご無沙汰《ぶさた》してしまいました。まことに申訳ないことで」
といいながら、藤吉郎は自分もしゃがみこんで、せっせと虫をとって十阿弥のそばの紙にのせる。おこっとるわ、せい一ぱいきげんの悪いところを見せとるとこやなァと思いながらも、きさくな調子でまた言う。
「これで一霜《しも》来ると、もう虫は出来《でけ》んようになるのどすが、今年はいつまでもぬくといので、いつまでも蝶《ちよう》のやつめ生みつけよりますわ。おお、こらひどいわ。こら一々指でつまんどってはらちがあかしまへんわ。ええ方法伝授しまほ」
立ち去ったかと思うと、欠《か》け茶碗《ちやわん》に赤土をどろどろに溶《と》いて入れ、箸《はし》ほどの木切れを二本持って来た。
「十阿弥さまや、見なされ、こやんするのですわ」
木片の先きに赤土をつけ、ちょっと青虫をおさえると、ねばねばの赤土がとりもちのように虫をくっつけてくる。それをちょいと紙の上につけると、虫は紙にのこるのである。
「ね、ようとれますやろ。ほら、ちょいとつけてちょい。ちょいとつけてちょい。おもろいようですやろ。てまえの工夫ではありまへん。このへんの百姓共が昔からやっとる方法ですねや。お前さまもやってごらんなはれ」
明るく気楽な調子でしゃべってはとり、しゃべってはとりする。
さしもふきげんなふくれ面《つら》をしていた十阿弥も、この調子に出られ、また自分も木片をとりあげてこころみてまことに調子よく行くので、次第にきげんをなおして、舌《した》がほぐれて来る。
「勤めが違《ちご》うて来たさけ、近頃《ちかごろ》は顔見ることもめったに無《の》うなったが、どやな、あんじょうつとめとるかな」
「へいへい。お陰様で、どうやら毎日無事につとまっとりますわ」
「そうか。そらええわ。おれも安心や。われは知る道理がないが、こんどわれがお取立てになるには、おれもずいぶん口きいたのやで。おりにふれては、われのことをほめちぎって申し上げたのやで」
と、十阿弥は言う。
何、大ウソこきやがる、ほめて申し上げてお取立てを願ってくれた者が、あの時あんな顔をするものか、と思ったが、けぶりにも出さない。
「おお、やっぱりそうでございましたか、あんまりとつぜんなお取立てで、ありがたいおことばをいただきましたさけ、どなたかが手前のことをおとりなし下さっているに違いない、そうであれば、十阿弥様が一番口きいて下されたろうと、実は思うていたのでござりました。やっぱり、そうでござりましたか。ありがとうござります。何とお礼を申し上げてよいやら、ことばも存じまへん」
と言って、畑の上に両手をついておじぎした。
「そやんまで丁寧に礼を言うことはない。おれが申し上げいでも、いずれは誰《だれ》ぞが申し上げたやろからの。われのまめな働きぶりはそれほどのことはあるのやけな。――やれ、もう少しじゃ。もう少しで済んでしもう。済んだら茶にして、いろいろ語ろうわい」
虫をとってしまってから、座敷の縁で茶のご馳走になった。藤吉郎は手土産をさし出して、改めてあいさつをし、とりなしてくれた礼を言った。さらにそんなことはなかったに違いないと確信するのだが、これも手土産の一つやと、心からありがたがり感謝しているような口上をのべた。
十阿弥のずうずうしさは底が知れない。落ちつきはらって、殿様にどう取りなし、どうほめて申し上げたと、滔々《とうとう》と述べ立てる。薄《すすき》の葉を引っ切ったような細い眼裂《がんれつ》の中の目がきらきらと光って、熱中的にさえ見えた。うっかり聞いていると、ほんとと思いそうだ。あんまり臆面《おくめん》がないので、
(この坊主め、自分でも取りなした気になっているのやないやろか。世の中にはウソと知りつつ言うているうちに、自分でもほんとやと思いこんでしもう気違いみたいなやつもあるものやから)
と、思ったほどであった。
藤吉郎はさからわず、一々かしこまって礼を言い言い聞いた。
夕方近くなって、やっと帰ることが出来た。
ふりかえりもせず、赤い日の中を歩いて、道を曲って十阿弥の家が見えなくなったところで、足をとめてふり返った。
「くそったれめ! 何ちゅう大ウソつきや!」
とつぶやいて、唾《つば》を吐《は》いた。不潔感に胸が悪くなるほどであった。それは十阿弥にたいするものでもあったが、将来の不利をはかられることをおそれて、あの歯の浮くような大ウソに調子を合わせておべんちゃらを言い、いくども礼まで言った自分自身にたいする不潔感でもあった。
いく度も唾を吐き吐き帰った。
四
お中間《ちゆうげん》になってうれしいと思ったことの一つはお近習衆《きんじゆしゆ》から一層《いつそう》親しく口がきいてもらえることであった。これまではめったに顔も合わされないし、声をかけられるといっても、こちらは屋外にいるのに、廊下や縁側を通りすがりにかけてくれるに過ぎなかったが、今はお供先で供待ちしている時や途中ご休息の時などに、ごく近間《ちかま》で話が出来る。
藤吉郎はご用を欠かないかぎり、進んで近習衆の用を足すことにもつとめた。人々は一層気に入って、親しくしてくれた。その中で、前田又左衛門が一番親しくしてくれた。
又左衛門は藤吉郎より二つ年下であったが、からだはもちろんはるかに大きい。二人は何から何まで最も対照的であった。
藤吉郎がもと足軽《あしがる》の名もない貧農《ひんのう》の子であるのに、又左衛門は中村にほど近い荒子《あらこ》に城を持つ前田|蔵人《くらんど》利昌という所領二千貫の武将の四男である。前田家は今こそ織田家の被官《ひかん》であるが、祖父の代までは織田家と対等の家柄であった。つまり、身分において月とスッポンほどの違いがあった。
又左衛門は犬千代といった少年の頃《ころ》はすばらしい美少年で、その点で信長の特別な寵愛《ちようあい》を受けたというが、今でもなかなかの美男子である。体格もまたりっぱである。筋骨のたくましいすらりとした長身は、見るからに胸のすくような颯爽《さつそう》さがある。顔貌体格、やせ猿《ざる》そっくりな藤吉郎にくらべる時、これまた月とスッポンである。
すでにいく度か戦場に出て、度々抜群《ばつぐん》の功も立てている。なかにも十六の時の初陣《ういじん》に敵の勇士に右の眼の下に矢を射立てられたのを引抜きもせず走りより、槍《やり》をふるって突きふせて首をあげた手柄は、今でも世の語りぐさになっているほどだ。
この時の合戦は信長方七、八百の勢《ぜい》であるのに、敵方《てきがた》は三、四千もあって、ずいぶん苦戦であったところ、又左衛門がこの手柄《てがら》を立てたので、信長は馬上にその首をさし上げ、
「犬千代は小せがれながら、このような手柄を立てたぞ。これ見よ、これ見よ。この首だ。皆々負けずにはげめ!」
と持前の大音声《だいおんじよう》で呼ばわった。それにはげまされて、味方はふるい立ち、次第に敵を圧迫し、ついに追いくずし、大勝利を得たというのだ。
こちらは遠州《えんしゆう》で武家奉公の経験があるとはいっても、戦場に出たことは一度もない。いや全然ないわけではない。それに近いことはしている。少年時の放浪の期間、野武士の集団や強盗団の走り使いをして、夜盗ばたらきや、落武者《おちむしや》を引剥《ひきは》いだりしたことがいく度かある。しかし、それは他人には語れないことだ。泥棒|猫《ねこ》や屍肉《しにく》をあさる野犬のような働きが、くらべものにならないことはもちろんだ。
要するに、藤吉郎にとっては、又左衛門は最も羨望《せんぼう》すべき人であった。理想の人と言ってもよい。
「おらがあの人のような生まれつきやったらなあ……」
と、いく度思ったかわからない。そのりりしい姿、颯爽《さつそう》たる立居ふるまいを、うっとりと見とれていることがよくあった。羨望というより思慕《しぼ》に近いものであった。
又左衛門は気の荒い青年であった。武勇を武士第一の資格とする時代であるから、武士の気の荒いのはごく普通のことではあったが、なお目立つほどの気の荒さであった。口のきき方なども至って乱暴で、いつも喧嘩《けんか》ごしで、すきさえあれば爆発しようと待ちかまえている火薬のようであったが、そのほんとの心はあたたかくて、篤実《とくじつ》で、また真正直であることを、藤吉郎は見ぬいていた。また、藤吉郎にたいしては、気の荒い面はまるで見せず、あたたかく、篤実な面だけを見せていた。
藤吉郎は又左衛門が最も好きであったし、また最も親しくもなった。
「遊んで行くがええ」
非番の時など、よく自分らの居室に上げて、茶を立ててふるまったりしては、世間話をする。今川家の士風や、今川の家中の勇士豪傑の話は最も聞きたがった。
「今川は足利将軍家の一門という名門である上に大家《たいけ》だ。京の将軍家が今のような風では、どうなるかわからん。そうなれば、治部大輔《じぶのたいふ》(義元)殿はきっと京に上って自ら将軍になろうという気をおこすじゃろう。当尾州はその通り路にあたる。一戦は知れたことじゃ。その時のために、おれは今川家中の勇士豪傑共のことをよく知っておきたいのよ」
というのがその説明であった。
藤吉郎も京の将軍家の現状についてはうわさに聞いている。義輝将軍は細川|管領《かんれい》家の家老である三好長慶《みよしちようけい》と、三好家の家老である松永久秀におさえつけられて、手も足も出ず、おもしろからぬ日を送っているということだ。おもしろからぬ日でも安全である間はまだよい。いつ消されてしもうかわからない身の上であるという。武臣として最上の身分である将軍が、陪々臣《ばいばいしん》におさえられてグーの音《ね》も出ないでいるのだ。
(こんな世の中やのに、どうして世間はおらを土百姓の生まれやいうて、下目《しため》に見るのやろ。世のほんとの姿がさっぱりわかっとらせんやないか)
と、痛憤《つうふん》するにつけても、
(おれかて! 今に!)
と、むくむくと腹の底から湧《わ》き上ってくるものがある。
冬になって、きびしい寒気がつづくようになると、信長は槍《やり》と馬の寒稽古《かんげいこ》をはじめた。毎朝、起きぬけに庭にはだしでとびおり、前晩から庭に出しておいたタンポつきの稽古槍をつかむ。槍は霜《しも》にこおってがりがりになっているが、それをしごき、はげしい矢声《やごえ》をあげて数千回の撃刺《げきし》をこころみるのだ。縦横の馳突《ちとつ》によって寸余の霜柱にとざされた庭が蹴散《けち》らされて、荒れ狂う信長のからだからも、槍からもほうほうと水蒸気が立ちのぼる頃になって、やっと稽古《けいこ》をやめて、汗を拭《ふ》く。
それがすむと、馬場に行って馬にかかる。いく百回となく輪乗りをかけ、いく十回となく柵《さく》をはねこえ、馬が白泡《しろあわ》を食《は》み、からだ中が汗に濡《ぬ》れ、信長自身もしっぽりと汗をかいたところでやめる。
この稽古に、藤吉郎はいつも供した。自分の番であろうと、なかろうと、かまわなかった。いつどんなことでご用を仰せつけられるかわからないと思ってのことであった。お庭の隅の霜柱の上にひざをついて両手をつき、信長のはね上げる泥《どろ》をかぶり、馬場のかこいの外にひざまずいて、拝見していた。
番でない者がこうしていては、いやでも目につく。信長の目にもついた模様である。あるいは目ざわりだと叱責《しつせき》されはしないかと案じていたが、何ともいわれなかった。
「殿様はおらをきらってはお出ででない」
と、うれしかった。
こうしたお稽古拝見の間に藤吉郎の得た最も大きな収穫は、信長という人がさらにはっきりとわかったことであった。以前からそうだとは見ていたが、この人がいつも寸分のゆるみなく緊張しつづけており、家来共にもその緊張を要求し、最も敏捷《びんしよう》で、最も献身的な奉仕を要求し、その要求を満足させる者には必ず大いに酬《むく》い、そうでない者は一度で見はなしてしまい、二度と見なおしてくれない人であることがはっきりわかった。
(おそろしいお人やが、つかえ甲斐《がい》のあるお人や)
と、考えた。
その日、その稽古がすんで、中間部屋《ちゆうげんべや》に引上げた。非番の日であったから、又左衛門をはじめお近習衆《きんじゆしゆ》のお使いでもあったらしてあげようと、顔と手足を洗って行こうとしていると、又左衛門が来た。
その顔を見た時、藤吉郎はいつもと違う顔つきをしてはると感じたが、それほど気にはとめず、朝のあいさつをした。
「ああ、お早う」
又左衛門は答礼して、
「ちょっと改まって聞きたいことがある。こちらに来てくれ」
と言って、外に連れ出し、中間部屋の前の広場の隅っこ、塀際《へいぎわ》につれて行った。
「藤吉郎、われ、おれが大事にしていた金の笄《こうがい》を知っとるな」
と言った。声をひくめている。
「知っとります。竜の彫物《ほりもの》のしてあるお品でございましょう。いつぞや見せていただいて、お見事なお品ゆえ、よく覚えております」
こちらは顔色のかわったのが自分でわかった。こんな調子で、こんな工合《ぐあい》に聞かれると、情けないことに、早くも推測がついてしもう。あの品物が紛失して、自分に疑いがかかっているのではないかと思うのだ。
(ああ、ここでもまたそんな疑いをかけられるのか)
と、絶望的なものが胸を暗くした。
その藤吉郎の顔を鋭く凝視《ぎようし》しながら、又左衛門はあらあらしくなった。
「おれはこそこそと人の腹をさぐるような口のきき方をするのはきらいだ。はっきりという。あの笄がなくなった。昨日の昼頃まではあったことを、おれははっきり覚えとる。今朝になってなくなったことがわかった。昨日の昼から今朝までの間になくなったことは明らかだ。十阿弥《とあみ》のやつが、われが怪しいという。われは昨日の夕方近く、おれをたずねておれが部屋へ来たじゃろう」
「いかにも参りました。今日は非番でございますので、何ぞ外へ出てご用を達するようなことはないかと、うかがうつもりでまいったのでございますが、あなた様がご不在でございましたので、そのままかえりました。お部屋の入口の遣戸《やりど》をあけはしましたが、中には一足も入りませんでした」
十阿弥のやつ、いつかはわざわいをするやつと思うていたが、おれがやつに何をしたか、なんでこんな根も葉もないことを言うのやろと、口惜《くちお》しさと、絶望のために声がふるえた。どうしたらこの最もいやらしい嫌疑《けんぎ》から脱することが出来るかと、からだ中が熱くなった。
「おれはわれを疑っているわけではない。十阿弥がそう言うたので、一応聞きに来ただけのことじゃ。そんなら、われは知らんというのじゃな」
「存じません。露存《つゆぞん》ぜぬことでございます。しかし……」
「しかし、どうしたというのじゃ!」
ガンと耳が聾《ろう》するような声で、又左衛門はどなった。おそろしい顔になっていた。今にもスッパぬいて斬《き》りつけそうな形相《ぎようそう》だ。
(ああ、疑ってはいないといっても、この人は疑っている)
と、泣きたいようなものがせまって来た。何としてでも、この疑いは晴らさなければならないと思った。立ちなおった。
「てまえは身分のいやしいものでございます。貧しくもございます。しかし、人様のものに手をかけるような卑しい根性はございません。十阿弥殿が何と申されたか存じませぬが、それはあらぬ疑いでございます。てまえはきっとてまえの無実のあかしを立てます。しばらくごかんべんをいただきとうございます」
はっきりといった。貧《ひん》ほど口惜しいものはない、貧しければこそ、こんな疑いをかけられるのだということばも胸に浮かんだが、それは言うのをさしひかえた。こんなことばは、今の際泣言《なきごと》にしかならない、はっきりした形で身のあかしを立てさえすれば、それでよいのだと思った。
又左衛門はきびしい目をゆるめず、藤吉郎を凝視していたが、
「よし。おれはわれを信用する。やってみるがよい」
と言った。そのあと、しばらく黙っていたが、とつぜん、
「さわがせたな」
といって、立ち去った。
はばひろく、厚く、筋骨の鍛《きた》えを思わせるような肩をそびやかして立ち去るそのうしろ姿を見送って、藤吉郎はやせた腕を胸にくんだ。ああは言ったものの、どうしたら身のあかしが立てられるか、方策が立っているわけではない。何としてでもあかしを立てねばならぬ、立てねばせっかくありついた当家もまたお払箱《はらいばこ》だ。お払箱どころか、当家の最もきびしい家風では首を斬《き》られるにきまっていると考えたから、言ったのだ。
ややしばらく、霜柱《しもばしら》がとけて、ほうほうと水蒸気の立ちのぼっている塀際《へいぎわ》に立って、腕をこまねいていたが、やがてへやに入り、身支度して外へ出た。晴着を着て、脇差《わきざし》を一本ぶちこんで、お城を出て、すたすたと西に向った。
五
二時間ばかりの後、津島《つしま》の町に入った。佐屋《さや》川の岸べに発達したこの町は、東に豊沃《ほうよく》な尾州《びしゆう》平野をひかえ、佐屋川を利用しての舟運の便で美濃《みの》地方との連絡もありして、昔からこの平野で最もにぎやかで、最も豊かで、富商の多い土地であった。少年の頃《ころ》、とった魚を串《くし》にさして火取《ひど》ったのをよく売りに来て、町の富商達の家とも、よく知っていた。
(あの金竜の笄《こうがい》はよほどに高価なものだ。盗んだやつはきっとこの町のものもちの家に売りに来るか、質入れに来るであろう。すぐには来んでも、いつかは来る。町のもの持連《もちれん》に話をして頼んでおけば、きっとわかる)
と、判断したのであった。
藤吉郎は数軒を歩いて、頼んだ。
皆、藤吉郎の昔を知っている。
「おんや、われずいぶん長いこと姿を見せなんだが、どやんしとったのぞい。東国《とうごく》の方に行ったという話を聞いとったがの」
と、なつかしがってくれた。
藤吉郎は手短にこれまでのことを語り、去年から清洲《きよす》の織田家に奉公していることを話した。
「ほうかい、ほうかい。他国の奉公もよう行けばええやろが、やっぱり生国《しようごく》で奉公するがええわな」
と、相手は言ってくれた。
藤吉郎はかんじんのことを頼んだ。紙と筆を貸してもらって、簡単に図どりして見せまでした。
「大層《たいそう》りっぱなものやけ、きっとこの町に持って来てさばくか、質入れするに違いないと思いますけ、もしそういう者があったら、あんじょう言うてあずかっといて、その者の名前と人相をよう覚えていて、わしに知らせて下され。恩に着ますけ。謝礼には金を五両進上しますわい。わしにはそげいな大金はにゃァけど、都合してくれる先きを知っていますさけ、きっと進上しますでな。この盗《ぬす》ッ人《と》がわからんと、わしは首くくって死なんならんのですけ、よろしゅう頼みますわ」
と、熱心に頼んだ。
「ええとも、ええとも、そやんやつが来たら、きっと知らせて上げるでな。せっかく奉公口にありついたに、われもえらい災難なことやな」
と、どの家も言ってくれた。
藤吉郎は清洲に帰ったが、いく日待ってもよい知らせが来ない。中間《ちゆうげん》なかまや、お近習衆《きんじゆしゆ》は疑いの目をもって藤吉郎を見ている。つらいことであった。ただ又左衛門がある程度信じていてくれるらしく、ことを公《おおや》けにしてさわぎ立てないので、いくらか助かった。
(又左衛門様のこの思いやりは、生涯忘れてはならん)
と、思うのであった。
毎日待って、毎日失望する日がつづいて、その年は暮れた。新しい年になって、日毎《ひごと》に寒気がゆるみ、春めいて来たが、依然《いぜん》として津島からは便りがない。
改めてまた頼みに行っておかんと、忘れるかも知れんと思ったが、藤吉郎の考えでは、どうやら犯人はご殿内の者のような気がする。他から侵入したものなら、他にもなくなったものがあるはずだが、それは全然ないのだから、こう考えるよりほかはないのである。犯人がご殿内にいるとすれば、あまりしげしげと津島に行くことは、用心させることになる。
一若に相談して、姉に行って、重ねて頼んでもらった。姉は行ってくれたが、やはり何の消息もなく、また日数が立って、世は陽春となった。
六
憂鬱《ゆううつ》な日がつづいたが、藤吉郎はその気持にとらわれないようにつとめた。あせったところで、憂鬱になったところで、それで事がうまく運ぶものではない。打つべき手を打っている以上、こちらは気を楽に持っているべきである、気を屈してこだわっていては、大事なご奉公をしくじって、不幸の上に不幸を重ねることになると思うのだ。
つとめてしゃんと気を張り、もっとも明るくふるまい、一層ご奉公に精を出すことにした。人がどう陰言《かげごと》を言おうと、悪口を言おうと、一切聞かないふりで通した。
その日、信長は清洲から二里ほど東方の味鋺《あじま》村に遠乗りに出かけた。藤吉郎は馬中間《うまちゆうげん》ではないが、お供して、馬中間におくれずついて走った。
味鋺村に天永寺《てんえいじ》という天台宗の寺がある。信長はそこで中食《ちゆうじき》をしたため、しばらく休息して帰路についた。来る時とは別に、庄内《しようない》川の堤の上を馬を駆っていたが、途中まで帰って来ると、何を思ったか、いきなり馬首を右に向けて、田間《でんかん》の道を駆けさせはじめた。供衆《ともしゆう》もそちらに馬首を向け、ためらわずついて行く。
信長の遠乗りには、こんなことはめずらしくないのである。藤吉郎は馬中間とともに、せっせと走った。
十町ほど走ると、村があり、その村の入口にこんもりと繁った森がある。雑木《ぞうき》の類はまだ若芽が出ず、箒《ほうき》をさかさまに立てたような梢《こずえ》をしているが、深い色をした杉の大木が多いので、小暗く見えるほど陰森とした感じである。これが神社であることを、藤吉郎は知っている。
その森の前の青い毛氈《もうせん》をしきつめたように一面に緑の草のしげっている田圃《たんぼ》の中に、はなやかな色彩の人の群があった。
女の群だ。森近いところに、幔幕《まんまく》と小袖幕《こそでまく》を張り、その中から青い煙が立ちのぼっている。湯を沸《わ》かしているか、なにか食べものを煮ているにちがいなかった。
幕の前に三々五々、美しい色の着物を着た女らが、立ったり、しゃがんだりして、ゆるやかな動きを見せている。しだいに近づくにつれてわかった。手ん手に小さい籠《かご》をさげている。草を摘《つ》んでいるのであった。馬上の集団が疾駆《しつく》して近づいて来るのに気づいて、女らは一斉《いつせい》にこちらを見たが、やがて何やら呼びかわすと、野道まで出て来て、ずらりとならんだ、幕のうちからも走り出して来てならんだ。
やがて信長がその近くまで行って馬をとめると、女らは一斉におじぎをした。
馬中間は藤吉郎とならんで、騎馬《きば》の人々の直後について走っていたが、さっと駆けぬけ、騎馬の人々の間をひらひらとくぐって信長に近づき、馬のくつわを取った。
藤吉郎は四、五間離れたところから見ていた。
信長は馬をおり、女らにものを言いながら近づいて行った。
女らの群の先頭に、とりわけ美しくよそおった少女が二人いた。一人は十六、七、一人はまだ十三、四にしかならないと思われたが、いずれもおそろしく美しかった。単に美しいだけではない、なんとも言えない品位があった。
細おもてでありながら、ふっくらした頬《ほお》の顔は、二人とも実によく似ていた。姉妹にちがいないと思われた。
二人ともぬけるように色が白い。いくらか青みをおびた肌の色だが、頬のあたりは血の色をのせている。その美しい血の色とあごやこめかみのあたりの青さとがとけあっているあたりの美しさといったら、うっとりするほどだ。桃がほんの少し熟しかけた時、こんな色に近くなる。七分生硬で三分熟している美しさだ。
信長は二人に、かわるがわる、いとも親しげにものを言い、二人を左右につれて、緑の草をふんで、幕の方に行く。
(何ちゅう美しい。何ちゅう上品な。どこの姫君やろ)
ぼうぜんとして見ているわきに、馬中間が信長の馬をひいて来て、手入れをはじめた。口の白泡《しろあわ》を拭《ふ》いて、田川の水を腰にさしたひしゃくにくんで飲ませ、全身の汗を手拭《てぬぐい》でごしごしと拭いてやる。
そんなことをしながら、中間は藤吉郎の魂を吸《す》われたような姿を見て、笑いながら言う。ごくひくい声だ。
「われ、あれがどなたやか知らんような風やな」
「ええ、知らん。われ知っとるのか。どこの姫君やね」
「お二人とも、殿様のお妹ご様やがな。思いをかけたかてあかんで。それこそ高嶺《たかね》の花ちゅうもんや」
「ほう、ほう、殿様にはあげいなお妹ご様方があったのかいな。おれ、はじめて知ったわ……」
もう小袖幕のうちに消えてしまって、幕の外にはお近習衆だけが、草を藉《し》いてすわっている。
そこを凝視《ぎようし》しながら、藤吉郎はつぶやくように言った。
薄赤い色を帯びて来た春の午後の日があたり一面をそめて、うるんだようにあたりが見える。藤吉郎の胸にはしめつけられるように切ないものがあった。
成 敗
一
その日、藤吉郎はもう一度その姫君《ひめぎみ》達を見ることが出来た。信長が幔幕《まんまく》と小袖幕《こそでまく》の中から出て来て帰る時、姫君達が送って出て来たのだ。
藤吉郎は心をひかれながらも、そちらをふりかえることが出来ない。信長は最も鋭敏な人だ。そうしたふるまいを見ては、ぱっとこちらの心をさとろう。さとれば、下郎《げろう》め、不遜《ふそん》と、一刀のもとに首をふッ飛ばすかも知れない。そこまでのことはないとしても、こちらを見はなすことは間違いない。
藤吉郎は最初に一べつしただけで、せいいっぱいにこらえて、そちらを見返らなかった。信長は馬中間《うまちゆうげん》のひいて来た馬に飛びのるや、
「すぐにもどれよ。風がつめとうなって来たぞ!」
と妹達にさけんでおいて、いきなり馬を飛ばして走り出した。家臣らがつづき、そのあとから馬中間とならんで、藤吉郎も走り出した。ふりかえって、もう一度見たかったが、歯を食いしばってこらえ走りつづけた。
日没はるか前に帰りついた。
馬中間に手伝って、お馬の世話をし、ついでに供衆《ともしゆう》の馬まで世話をした。すっかり済んだ時にはもう日が落ちて薄暗くなっていた。
藤吉郎は井戸ばたに行き、顔や手足を洗い、つめたい水でからだを拭《ふ》いた。そうしたことをしている間も、胸一ぱいに姫君達のおもかげがひろがっている。
(高嶺《たかね》の花やと、杢兵衛《もくべえ》どんが言うたが、ほんまやて、高嶺も高嶺、富士山のてっぺんに咲いとる花やわ。それにくらべれば、おらは浜名湖のわきの田圃《たんぼ》の溝《みぞ》あたりにぴょんぴょんはねとる泥かわずみたいなもんや。似合いのオンバコの葉でもなめとりゃええちゅうわけやなあ)
と考えた。
真実すぎる述懐で、ニヤニヤと笑いが出て来たが、同時にじくじくと涙がにじんで来た。
姫君達にたいするせつない思いは、数日の間、藤吉郎をとらえてはなさなかった。昼はよく姫君達の住いになっている奥殿の方を見、屋根やそのあたりの樹木や、その上に浮いている雲を見てひそかに溜息《ためいき》をもらし、夜はひそかな涙をにじませた。やるせなかった。
この二人の姫君は、姉姫は後に尾張ざむらい佐治《さじ》八郎に嫁《か》し、佐治の死後|摂津芥川《せつつあくたがわ》の城主細川|昭元《あきもと》に嫁したおひろであり、妹姫は後に江州小谷《ごうしゆうおたに》の城主浅井長政に嫁して小谷の方と呼ばれ、長政の死後は柴田勝家夫人となったお市である。淀君の母親となった人といえば一番手っとり早くわかるであろう。
やがて、あきらめがついた。
どうにもならんと見きわめのつくことに、いつまでももたもたしていることはしないのである。
(似合いのオンバコをさがすことや。しかし、そのオンバコかて、今の身分ではどもならん。奉公に精出して、早う一人前のさむらいになることや。それにしても、盗みの疑いを受けているようでは、どやんなるかわかったもんやない。先ずこの疑いを晴らしてからのことや。一ぺん津島に行ってみようか)
と考えた。手近のことを小マメにかたづけて行くことが、先き先きのことを解決する最も効果ある方法であることを知っているのである。次ぎの非番の日、津島に行ったが、最初の家の暖簾《のれん》から顔をつッこんであいさつしようとすると、向うから番頭が言ったのだ。
「おう、これからおまんの姉サの家に使《つかい》出そう思てたとこや。よう来たな」
「ヘッ」
藤吉郎は駆けこんだ。上りがまちに腰かけて、
「とうとうわかりましたかえ」
と、声をはずませた。
「わかったいうてええやろかな。ともかく、奥へおいな。店先きでははばかる話や。そこの土間《どま》を通って、奥の庭に来とくなはれ。そやんするように、旦那《だんな》も言うとるさけ」
暗い土間から入り、台所をぬけると、明るい庭になる。ちょいと数寄《すき》をこらした造り庭になっている。その庭にむかった座敷に主人がせん茶をのんでおり、番頭は両手をついて縁側にかしこまり、何やら主人に言っていた。
主人は庭に入って来た藤吉郎を見ると、
「よう来たな、与助どん」
といいかけて、
「いや、藤吉どんという名になっとるのやったな。失礼したわ。ここへござれ、ここへござれ」
と、縁のくつぬぎのあるところを指さした。
「へい」
藤吉郎はそこに行った。くつぬぎの正中《せいちゆう》を避けて、縁に腰をおろし、両手をついてあいさつした。
「番頭どんから聞いたやろが、ちょうどそなたの姉サのとこへ使《つかい》を走らせようと思うとるとこやったのや」
と主人はいって、番頭にあごをしゃくった。
番頭は鄭重《ていちよう》に会釈《えしやく》して座敷に入り、棚《たな》から箸箱《はしばこ》ほどの、よごれた白木の小箱をおろして来て、主人にさし出した。主人は受取らず、またあごをしゃくった。
番頭は藤吉郎のところへ持って来て、箱をあけた。なかみは古びたもみ紙につつんである。紙をむいて、藤吉郎の前においた。
主人は座敷から言う。
「これかな。そなたのたずねる品物は?」
まさしくこの笄《こうがい》であった。赤銅《しやくどう》の地《じ》についている浮きぼりの黄金の竜が明るい外光に豊かな光を反射させていた。たしかに、前田又左衛門の持っていたものに相違ない。
「これに違いありまへん」
胸がふるえ、とり上げる手がふるえた。
「よう見なあかんで。ちょっこらうるさい人が持って来たのやけ」
と、主人が言う。声がおししずめられていた。
藤吉郎はためつすがめつ、丹念に見て、
「たしかにこれです。違いありまへん」
きっぱりと言った。
主人は席を立って、縁側に出て来てすわった。番頭が急いでしきものを持って来てすすめた。主人はその上になおり、半身《はんみ》をつき出して、ささやくような声で言う。
「そなた、それを誰《だれ》が持って来た思うかや」
十阿弥《とあみ》の青ぶくれした薄あばたの顔が思い浮かんだが、めったなことは言えない。
「まるで見当つきまへん」
と首をふった。
「それはな、昨夜《ゆんべ》、大分遅かった。わしはもう寝とったが、誰ぞが店の大戸をひそかにたたく音が聞こえた。店のものがおりて行って大戸をあけ、店の間でぼそぼそ話しとるようやったが、すぐ、この番頭どんがこれをわしの枕《まくら》もとに持って来た。番頭どんも、かねてそなたから話のあった品物と見たので、わしに見せに来たのや。わしも確かにその品物やと見た。それで、誰が持って来たのやと聞くと、おどろきなや……」
主人は話し上手だ。適当な間《ま》をもたせて、しとしとと語って来て、ここでちょいと息を入れた。
「誰やったと思う?」
「わかりまへん」
藤吉郎はまた首をふった。
「……思いもかけん人やったのや。――十阿弥殿やったのや」
「げえっ!」
藤吉郎は大いにおどろいたふりをし、おどろいた声をあげた。
話術の効果があったので、主人は大いに満足げだ。大きくうなずいて、
「おどろくのも無理はない。わしもおどろいたのやけな。十阿弥殿はこれを売りはらいたい、十両でどうやろう、殿様から拝領《はいりよう》したもので、大事に大事にしとるのやが、急に金子《きんす》のいることが出来て、しかたなく手放すのやと、こう言いなさったいうわ。わしは、十両はよう出せん、しかし流さんことをきっと約束なさるなら、五両金であずかりましょうと、番頭どんに言えとさしずしたのや。番頭どんがその通りに言うと、十阿弥殿はそれでよいというて、これをおいて五両受取って帰って行かしゃったそうな。始終おちついて、前にそなたの話がなければ、ちっとも怪《あや》しゅう思いはしなかったろうと、番頭どんが言うとったわ」
二
一時間ほどの後、藤吉郎は清洲《きよす》に引きかえしつつあった。彼は約束の五両の礼金をすぐ持って来ると約束し、この事件が表沙汰《おもてざた》になったら、証人になってくれよと番頭に頼んで承知させたのであった。
まだ一若は小者べやにいるはずだから、一若の宅には行かず、お城内に入った。
「わしは今日津島に行って来ましたのや。それでちょっこらご相談してえことがあります」
というと、一若は何の話かすぐわかって、そのへんにうろうろしている小者共をはらってくれた。
「わかったか」
「わかりました。十阿弥殿です」
「なんじゃとォ?」
聞いた通りのことを語った。
「ほうかい、十阿弥がのう。――なるほど、ご用心堅固なあのご殿《てん》や、他から入る者は先ずにゃァ。ご殿外の者でちょこちょこお出入りするのはわれが一人やから、われに先ず疑いがかかったのはこれ当然のことや。しかし、そのわれがそうでにゃァのやから、ご殿内の者に疑いをかけねばならんことになる。とすれば先ず同朋衆《どうぼうしゆ》じゃよなあ。あの野郎、太ェやッちゃ。自分がしとるくせに、われがあやしいなどと言いくさって!」
と、大いに憤慨し、金はうちへ行っておともにそう言って出してもろうがええといった。
「おかしらには世話にばかりなっとります。ご恩は決して忘れしまへん。そんなら、そうさせてもらいます」
と言って城を出て、一若の家に行き、姉に話をした。
「おお、そらよかった。それはよかった。にくいやつやなあ、その十阿弥というわろ。自分が悪いことをしていながら、われに罪かぶせるいうことがあるかいな。出したるとも、出したるとも。ギューッという目にあわせてやりいな」
おともはすぐ金を出してくれた。
藤吉郎は証文《しようもん》を書いた。
「血のつづいたわれのことやけ、証文なんどとりとうないし、家の人かて水臭《みずくさ》いことするなといわはるにきまっとるやけど、義理いうものはそうはいかんさけ、もろとくわ」
おともは言訳しながら証文を受取った。
津島にとんで行き、主人と番頭に金をわたした。
「わしが本当の心持を言えば、そなたからこげいなものはもらいとうはないが、約束やさけ、あきんどとしてはもらわんわけに行かん。もろとく。ありがとうごわります」
主人はすわり直して、鄭重《ていちよう》に礼を言って金をもらい、そのまま番頭に渡した。
「これはわれがものや。もろとき。そのかわり、いざいう時には、われ証人に立って、はっきりと申し立てるのやで」
「へい、へい。きっとそういたしま」
番頭は受けて、藤吉郎にも礼を言った。
これで、こちらの方はがっちりとかたまった。清洲に帰った。春先きのあたたかい日に二度も津島まで往復したので、からだ中汗とほこりにまみれている。顔や手足をあらい、からだを拭《ふ》き、着物をこざっぱりと糊《のり》のきいたものにかえて、前田又左衛門の居室を訪れた。大ていもうご前《ぜん》を退出して来る頃《ころ》と思ったのである。
又左衛門はもうご前を退《さが》って、袴《はかま》をぬいだくつろいだ姿で、縁ばなに出て、槍《やり》の手入れをしていた。又左衛門はその容貌の秀麗《しゆうれい》さに似ず、また篤実《とくじつ》な性質に似ず、異風好みであった。髪の結《ゆ》いざま、着物の好み、武器・武具の色や形、歩きざま等、世間なみをきらい、風がわりなのである。当時のことばで、これを「かぶく」という。これは動詞で、「かたむく」から来たのだという。正常からかたむいているの意だろう。この動詞が形容動詞となって「かぶきたる」となる。「かぶきたる風俗」「かぶきたる大名」という工合《ぐあい》に使われたのである。次の時代にこれから名詞が出来て、「かぶきもの」「かぶき踊《おどり》」「かぶき芝居」などとなり、「歌舞伎」と漢字をあてるようになった。
一言にしていえば、又左衛門は「かぶきたる武士」であったわけだが、これは剛強で人目に立つことを好む時代の風尚《ふうしよう》でもあり、また、織田家の家風からでもあった。信長という人が、当時の書物に「かぶきたる大名」とあるくらいで、少年の頃から異風好みで、人とちがった服装、人とちがった言行ばかりしていたので、その家中は皆かぶきたる風俗になってしまった。この異風好みの織田家の家中でも、又左衛門は異風好みであった。たとえば槍《やり》などとくべつ柄《え》を頑丈にこしらえ、穂先は中国の戟《げき》というのに似た形をしていた。つまり主鋒《しゆほう》から二つの支鋒が出ているのだが、一鋒は上に向き、一鋒は下に向いているのだ。突いてよく、引いてよいという利がある。従ってその鞘《さや》も異様な形になり、遠くから見ても又左衛門の槍だとわかった。
又左衛門はその槍の穂先を小さい砥石《といし》でごしごしと磨き研《と》いでいるところであった。
「やあ、藤吉郎か。もう少しですむ。待っているがよい」
といいながら、ケラ首をつかんで、打ち返しては、たくましい手の指先につまんだ砥石をこまめに動かしてはこする。槍の柄は座敷の方にのびて、打ち返すたびにドタリドタリと音を立てていた。みがいては袖《そで》で拭《ふ》き、拭いてはみがきながら言う。
「先《さ》っき退《ひ》けて帰って来て、ふと思いついて鞘をはらってみたら、錆《さび》が浮いていたのよ。不心得千万な話じゃ。あわてて磨いているところだ」
やがて、丹念に拭き、ふところから紙を出し、引き裂いてフッと穂先に吹きつけた。穂先はさっと紙を切り裂いた。支鋒の股《また》になっているところにも吹きつけたが、こんども紙は造作《ぞうさ》なく二つに切れた。見ていて、身の毛のよだつばかりのすごい刃味《はあじ》であった。
「えらいもんでございますなあ。そないに味がようないといかんもんですかえ」
と、藤吉郎はたずねた。
「いかんことはないが、味は鋭いが上にも鋭いがええ。穂先のどこかが敵の具足の胴の糸目にかかったら、そのまま糸目を切っていれば、敵と同時に突き出しても、敵の槍がこちらを突きぬくより、こちらの槍の突きぬくのがいくらかでも速い。戦《いく》さ場ではいくらかでも速いということが大事だ。生死を決すのじゃ。敵の穂先がこちらの具足をつらぬく時、こちらの穂先が敵の胴中《どうなか》に二寸入っていれば、敵の力は衰える故、その槍は力がぬける。こちらはいのちが助かり、敵の首を上げられるということになる――と考える故、おれはいつも槍の手入れをしとるのじゃが、このところちょっこら怠けていて、錆《さび》を浮かしてしもうたのじゃ。しかし、もうええ、これですんだ」
ぬぐいをかけ、鞘《さや》をはめて、室内に持って入り、なげしにかけた。座敷の真中にすわって、
「さあ、上って来い」
といった。
藤吉郎は会釈《えしやく》して上って行った。
「われが来るの、ずいぶんしばらくぶりじゃなあ。茶を立てて飲まそうか。おれものどがかわいている。しかし、火を起こさなならん。われ起こしてくれるか」
又左衛門はいいきげんである。あの時のことは全然忘れ去っているようだ。またあの愉快《ゆかい》では決してあろうはずのないことをむし返すのはためらわれた。少しのばそうと思った。
「おこしましょうとも」
台所に行って火をおこし、湯をわかして持って来た。
その間に又左衛門はからからにひからびた干柿《ほしがき》など戸棚《とだな》から出して、用意している。
さわやかな茶筅《ちやせん》の音を立てて、茶を立ててくれた。
ありがたくいただいた。
又左衛門も自服《じふく》する。
日はまだ沈まないが、そろそろ室内は薄暗くなって来た。
「縁に出ようか。まだ灯《ひ》をつけるのは奢《おご》りじゃ」
と、又左衛門は言って、腰を浮かした。
縁に出ていては、どうしたことで十阿弥《とあみ》が見て、作略《さくりやく》をめぐらかすかわからない。ここで言ってしまわなければならないと思った。すわりなおした。
「又左衛門様、てまえは今日は大事な話があってまいったのでございます」
と切り出した。
「あん、なんだ」
きびしく口もとがひきしまり、けわしい顔になった。なんの話であるか、わかったようだ。忘れていなさるわけではなかったと思った。
「ほかでもございません。いつぞや紛失しました、あなた様の金竜の笄《こうがい》のことでございます。あれの盗人《ぬすつと》がわかりました」
「誰《だれ》だ? それは」
はげしい語気であった。青ざめた顔がふるえ、強い光になった目がすわっていた。
「十阿弥殿でございます」
目がぴかりと光った。
「何じゃとォ? それはたしかなことか?」
「おしずかに願います。ことがらがことがらでございます。なまなかな疑いぐらいで、てまえはこんなことを申し上げはいたしません。てまえは証人をさがしてまいりました。お品物のあるところも、もちろん存じています」
くわしく話をした。
三
「言おうようない悪党め! おのれが盗んでいながら、罪ない他人をあやしいなどと指《さ》すとはなにごと! かんべんならぬ! よくぞ知らせてくれた。そちにはあとでわびをする!」
というや、立ち上って、はかまをはきにかかった。
「どこへまいられるのでございます?」
「知れたこと! ご殿《てん》に行って、十阿弥めを引きずり出して糺明《きゆうめい》する。斬《き》って捨ててくれる」
といいながら、はかまをはいてしもうと、刀をとって差した。
「お怒りはごもっともでございますが、あまりお手荒なことはいかがでございましょう。彼もご奉公人のことでございます。お役向きにお届けなされて、糺明をお仰ぎになるべきであると存じますが」
「それではおれの腹が癒《い》えぬ。おれは斬る」
といいながら出て行こうとする。
「まあ、まあ……」
前にまわってとめようとしたが、又左衛門の右手がぐんとのびると、
「じゃまだ!」
おそろしい力で、はねとばされていた。
そのまま縁側に出て、くつぬぎにそろえてあった藤吉郎の草履《ぞうり》をはいて、庭を出て行った。
座敷の隅にころがされて、藤吉郎はむくむくと起き上ったが、もう追いかけなかった。
(しかたないわな。武家奉公人のくせして、盗みはたらいたのや。十阿弥も年貢《ねんぐ》のおさめ時やろうて)
と思った。
又左衛門が勝手に十阿弥を成敗《せいばい》して、信長の怒りに触れることはないであろうかとはもちろん考えたが、
(十阿弥も一応のお気に入りではあるが、又左衛門とはくらべものにならん。第一身分が違う。大したことにはならせんじゃろ)
と、判断した。
ともかくも、どうなるか決着を見とどける必要がある。場合によっては、自分が証人にならなければならないであろうと思ったので、中間詰所《ちゆうげんつめしよ》に行っていることにした。中間ははだしが本則だ。障子をしめまわし、縁から庭に飛びおりて、そちらに向った。
又左衛門がご殿についた頃《ころ》は、もう日が没して、空には残照があったが、ご殿のうちは同朋《どうぼう》らが灯《ひ》を点じてまわっていた。その一人をつかまえて、聞く。
「十阿弥はどこだ? 詰所か」
「呼んでまいりましょうか。詰所におりますさけ」
「おれが行く」
大股《おおまた》に行く。いつもとちがう足どりの荒さにいくらか不思議に思ったのだろう、その同朋は、又左衛門の長身のうしろ姿を、小首をかしげて見送っていたが、すぐしごとに返った。
同朋の詰所は、近習《きんじゆ》らの詰所と二間《ふたま》へだてたこちらにある。もう灯《あかり》がついていた。十阿弥一人がのこって、小さい膳《ぜん》に塩からかなんぞ入れた壺《つぼ》と盃《さかずき》をのせ、ひざもとに引きつけたひょうたんから酒をついでは晩酌をしているのであった。とくとくと酒を盃についではきっちりとひょうたんのせんをし、チビリと一口のみ、箸《はし》の先きに肴《さかな》をひっかけて一しゃぶりし、タンと舌《した》を鳴らすことをくりかえしている。楽しげではあるが、どこやらみみっちく、なんとやら暗い風情さえあった。
又左衛門が入って来たのは、ほろほろと酔のまわって来た頃であった。うしろの杉の遣戸《やりど》がいきなり開いたが、その音がひどく荒かったので、けわしい顔でふりかえった。同朋なかまだと思ったので、叱《しか》りつけるつもりだったのだ。
しかし、ぬっと入って来たのが又左衛門であることを知ると、顔色をかえた。ニヤニヤと愛想《あいそ》笑いをつくった。
「これは、前田……」
様ということばは口から出なかった。又左衛門のたくましい腕が真直ぐにのび、襟《えり》がみをつかんでいた。
「来い!」
又左衛門は剛力《ごうりき》にまかせて、グンと引き立て、引きずり出しにかかった。
「ご無態《むたい》! 何をなされます!」
十阿弥は悲鳴をあげた。
「なにが無態! ぬす人猛々《とたけだけ》しいとは、うぬがことじゃ! 成敗《せいばい》してくれる」
長身で、剛力な又左衛門は、十阿弥を宙に吊《つ》って廊下に出た。
「ご無態! ご無態! てまえが何をしたと仰《おお》せられるのでございます。てまえは、てまえは、ご成敗に逢《あ》うような……あッ、ご無態!」
けたたましい悲鳴をあげて、廊下の柱にしがみついた。
「おのれ、その腕、へしおってくれるぞ!」
又左衛門はあいている左のこぶしで、しがみついている十阿弥の手をしたたかにたたいた。指がくだけひしげたかと思われるほどの痛さに、十阿弥は泣き声をあげて、手をはなした。
又左衛門はまた廊下を引きずり、時々青々としたあたまを、拳《こぶし》でたたいた。その度に十阿弥はひいひい悲鳴する。
「ああッ! どなた様かァ、どなた様かァ! ああッ!……」
同朋らがおどろいて集まって来、近習《きんじゆ》の詰所《つめしよ》からも走り出して来た。
かまわず、又左衛門は引きずって行っていると、十阿弥は近習らの中に佐々《さつさ》内蔵助成政がいるのを見つけて、助けを呼んだ。
「佐々様ァ! 佐々様ァ! お助け下さいましィ! 佐々様ァ!……」
佐々内蔵助は又左衛門より一つ年下だ。どういうわけか、又左衛門とそりが合わない。佐々は藤吉郎が小者《こもの》に召抱《めしかか》えられた時、信長が川狩《かわがり》した比良《ひら》の城主である佐々氏の生まれである。この点も又左衛門と元来の身分が似ているし、これまでの武功もまた大体同じである。いろいろな点で似ているところが、両者の競争心をそそり立てるのかも知れない、そりが合わないのである。
さすがに十阿弥は狡猾《こうかつ》だ。こんな際にも、それを利用しようと思ったのであろう、声をかぎりに呼び立てた。
十阿弥の思案はあたった。佐々はつかつかと進み出て来て、
「又左殿、一体これはどういうわけでござる」
と言った。
「こいつは盗《ぬす》ッ人《と》だ。拙者《せつしや》のあの金竜の笄《こうがい》を盗んだのはこいつなのだ。津島のしかじかの家に質入れして、金子《きんす》五両借りている」
と、又左衛門はやや呼吸をはずませて言った。
佐々は胸をつかれたような顔になって、
「余《よ》のこととは違《ちご》うて、盗みというのは容易ならんこと。それは確かなことでござるか」
というと、十阿弥は必死の声でさけんだ。
「てまえには覚えのないことでございます。むじつの罪でございます」
「だまれ!」
又左衛門は足もとにうずくまっている十阿弥の肩を力まかせにふみつけた。十阿弥はグウといってふみたおされ、廊下にくらいついた。
「確かな証人があればこそ、おれは言うている。この期《ご》におよんで四の五のほおげたたたくなら、津島のなにがし屋の番頭を呼び出して、つき合わせてくれるぞ!」
十阿弥はめそめそと泣き出した。
「泣くな! 男のくせに、見苦しいぞ!」
又左衛門はかんしゃく声でどなりつけておいて、また成政に、
「盗みをはたらいただけなら、拙者《せつしや》はこうも腹は立てぬ。こいつは拙者のあの笄《こうがい》をおのれが盗んでおきながら、他人に罪を着せようとした。にくんでもあまりあるやつだ。成敗してくれるのだ。そこをのかっしゃい」
と言って、十阿弥を引き立てにかかった。
「待たれよ、待たれよ」
佐々はなお又左衛門の前に立ちふさがり、
「おちついて聞いていただきたい。ここは殿中《でんちゆう》でござる。殿中において成敗など、おだやかでござらぬ。さほど罪状明らかなものなら、殿様にも申し上げられた上、おさしずを仰がれるがよろしいと存ずる」
と言って、朋輩《ほうばい》らをふり返った。
「おぬしらはどう思う? おれは今申した通りに思うのだが」
人々の返事する前に、又左衛門は言った。
「拙者は殿中で成敗しようとは思っておらん。引きずり出して、お城の外で斬《き》って捨てようと思うている。それならよかろう。退《の》かっしゃい」
十阿弥はいきなり、佐々の足許《あしもと》にひれ伏して、
「おとりなし下さいまし、お情けでございます。出来心でございます。もう決していたしません。出来心でございます……」
とわめきながら、おいおい泣き出した。西瓜《すいか》のようなまるい青い頭をごつごつと床にぶちあてて、必死なわびだ。
佐々はまた又左衛門に、
「見られる通り、まことにあわれでござる。いかさま強く後悔しているものと存ずる。再び悪心をおこすことはあるまいと思う。またかような者を斬られたとて、お刀のけがれとなるばかりだ。ゆるしてやってはいただけまいか」
と、言って、近習なかまをふりかえり、
「おぬしらもわびてやってくれまいか」
と言った。
すかさず、十阿弥はその人々の足もとを這《は》いまわって、めそめそと泣きながら、とりなしを頼んだ。
皆|嫌悪《けんお》感とともにあわれをもよおして、口々にわびてやった。
又左衛門は聞く気はなかった。
「盗心に出来心はない。生まれつきのものじゃ。あるいは、仮にそれが出来心であったとしても、罪を人に着せようとした姦佞《かんねい》は出来心とはいえん。生かしておいては、しょせんまた人に迷惑をかけるにきまっている。おれは斬《き》る。斬るときめている。斬るが一番よい」
と言いはっていたが、その時、奥の方から信長が出て来た。
「ガヤガヤとやかましい! 何をさわいでいるのじゃ!」
と、どなりつけた。
居合わせた者は皆両手をついてかしこまった。
「何をさわいでいるのじゃ? 野中《のなか》の一軒家ではないぞ!」
と、信長はまた言った。
「申訳ございません。実はしかじかのことがあったのでございます」
と、又左衛門は言訳した。藤吉郎が嫌疑《けんぎ》を晴らすためにどんな苦労をしたかも語った。
「フウーン」
信長はつかつかと十阿弥の側に歩みよった。
十阿弥はちぢみ上った。小さくなっていたのが一層小さくなり、小石か、首足をちぢめた銭亀《ぜにがめ》のように、こちんとした感じになった。てっきり斬られるとすくみ上った。
信長は足先を十阿弥のひたいの下に入れてグイとはね上げた。十阿弥はひっくり返された小亀のようにあお向けになった。両手両足をちぢめて観念しきっているところ、弱い犬が強い犬に降伏して全面的に無抵抗の意を示す時の姿そのままであった。
信長は失笑した。
「阿呆《あほう》め! 薄ぎたないやつめ! 盗みまで働いた上に、人に罪着せようとは、何たる悪党じゃ。悪党なら悪党らしく、せめて往生際《おうじようぎわ》でもよければまだしものこと、何たるザマだ!」
とののしり立てたが、やがて又左衛門の方を向いて言う。
「又左、こげいなやつは捨ておけ。斬っては刀のけがれだ」
と言い、また十阿弥に向ってどなった。
「やい。かしこまれ!」
十阿弥はくるりと起きなおり、大急ぎで両手をついてうずくまった。
「又左にわびを言えい。そして、十五両明日の朝までにおれが許《もと》に差し出せ。五両は質受けの代金、五両は猿《さる》めが出した嘱託金《そくたくきん》、五両は科怠金《かたいきん》(罰金)だ。持ちもの全部払っても、きっと差し出せ。差し出さずば、おのれがそッ首、おれがねじ切る。なお、われの役職はとり上げる。盗みを働くようなやつに、人の束《たば》ねは出来ぬ。今日|唯今《ただいま》から、平《ひら》の同朋《どうぼう》じゃ。心得おけい。これですんだ。皆散れ!」
てきぱきと言いわたして、さっさと奥へ入った。
又左衛門は自分の手で処分することが出来なかったのは残念ではあったが、信長みずからの裁判であってみれば、どうしようもない。一応満足して退出した。
四
翌日の夕方、十阿弥《とあみ》は十五両の金子《きんす》を、恐《おそ》る恐《おそ》る信長にさし出した。
「われは小前《こまえ》なものをいたぶっては是式《これしき》をとっていたというゆえ、十五両では少なかったわ。五十両もさし出させるべきであったと後悔しているぞ」
と、信長はにやにや笑いながら言って受取った。その微笑を、十阿弥は怒った時の顔よりもおそろしく感じた。
十阿弥は詰所《つめしよ》にさがり、昨日にかわって肩をすぼめて隅っこにちぢまっている時、信長は藤吉郎を庭先きに呼び出した。
「十阿弥という悪党のために、いやな疑いを着せられ、切ない思いをしたこと、気の毒である。よくぞ屈せず働いて、疑いを晴らした。あっぱれである。この金子十両はその方につかわす。内五両金はそちが嘱託金《そくたくきん》としてつかったものにあてるよう。のこりの五両金は十阿弥からその方への科怠金《かたいきん》として差出させたものだ。これでかんべんしてやれ」
と言って、十両を渡した。
両手をさし出して、とりつぎの者から白紙にのせられた金子を受ける藤吉郎はこぼれる涙をおさえかねた。うれし涙であった。身にかけられた最も不潔で陰湿な疑いがとけたことはもとよりうれしかったが、それよりも信長に自分の努力と才覚を認められたことがうれしかった。こんなことが機縁になって、益々《ますます》自分に注意が向けられるに違いないのである。世の中はそんなものであることを、彼はよく知っている。
信長はまた又左衛門にも五両わたした。
「これは笄《こうがい》の質受金だ。いそぎ津島に行って受出してまいれ。贓品《ぞうひん》の質入代金である故、利息は払うにおよばぬ。ほしいと申したら、おれがそう言ったと言え」
又左衛門はその日のうちに津島から笄をとり返して来た。もちろん、利息は支払ったようであった。
一切合財《いつさいがつさい》、これですんだと思われたのだが、思いもかけないところにそれがのこっていた。
その根《ね》は、最初とめ男に入った佐々成政にのこっていた。
もともとこれは佐々が又左衛門とそりの合わないところからのことだが、時代の気風にも原因があった。
男は強ければ強いほどよいとし、そのために意気地こそ男の最も重んずべきこととする気風が武家社会に出来ていた。ある時、佐々は人々にむかって、
「武士は言行の不一致を最も恥とすべきだ。一旦|斬《き》ると口にしたからには、誰《だれ》が何といおうと、斬るべきじゃ。たとえ朋輩がとめ立てしようと、殿が仰せ出されようとじゃ。途中で思い返すくらいなら、はじめから言い出さぬがよい。とかく、又左衛門はなまぬるい男よ」
と言った。
「そうとも、そうとも」
と、同意した者もまたあった。
いつの時代にも、おせっかいな者はつきない。これをまた又左衛門に告げた者があった。
又左衛門は腹を立てた。
「斬りかねるおれと思うてか」
と、目の前が真暗になるほど激し上った。
その日、下城時《げじようどき》に、二の丸櫓《やぐら》の下を少し行った道に出て、十阿弥の退出を待った。
そんなこととは、十阿弥は知らない。下城すべく、ご殿を出て、二の丸櫓の下までさしかかった。又左衛門はぬっと出て、十阿弥の前に立ちふさがった。
ただならない相手の血相に、十阿弥はおびえ立った。
「これは前田様……」
藍《あい》をぬったように顔面|蒼白《そうはく》となり、あごをがくがくふるえさせながら言った。腰をぬかさんばかりであった。
「十阿弥、ちょっとここへ来い。われに言い聞かせることがある」
と、又左衛門は言った。斬らねばならぬ理由を説明してから斬ろうというつもりであったが、十阿弥はその気勢をさとって近づかない。又左衛門を凝視《ぎようし》して、その場に居すわりそうになった。
「来い! 来ねば、こちらから行くぞ!」
と言って、一歩動くと、十阿弥はわっと飛び立ち、あとも見ずに、来た方に走り出した。
「逃げるか! うぬ!」
かっと激し上って追いかけた。
「助けて下されーッ! 助けて下されーッ!……」
十阿弥は声をかぎりに泣きさけびながら逃げて行く。
長い足を飛ばして、又左衛門は追いかけて、二の丸櫓《やぐら》の下で追いついた。堀の向うの櫓の窓から人の叫び声が聞こえたが、誰《だれ》が何をさけんだか、又左衛門にはわからない。追いつくや、右手をのばして襟《えり》がみを引ッつかみ、左の手を腰帯にそえ、宙に投げ上げた。
「ヒーッ!」
と、十阿弥は宙で悲鳴をあげ、路面にひきがえるかなんぞのようにたたきつけられた。
それを目がけて、又左衛門は抜きうちに、すえものを斬るように斬りおろした。
形容のしようのない声をあげて、十阿弥は腰から上下に斬りはなされ、ほこりと血煙とが同時に立った。
十阿弥にとってもこの日は最凶日であったが、又左衛門にとっても凶日であった。ちょうどこの時、二の丸櫓に信長が来ていたのだ。
むし暑い夕方だったので涼《りよう》をとるために、柴田勝家・森|三左衛門可成《さんざえもんよしなり》、その他近臣らを従えて来ていたところ、人の悲鳴が聞こえたので、はっとして立ち上り、窓からのぞいていると、櫓の向うの道を下の方から十阿弥が走って来、つづいて又左衛門が追いかけて来て、この惨劇が行われたのであった。
十阿弥は自分のとりなしで、すでに一旦《いつたん》助命となったものである。それを場所もあろうに自分の見ている前で斬《き》ったのだ。
信長は激怒した。
「おのれ、又左め! おれに面当《つらあて》をいたしおる。成敗《せいばい》してくれる!」
と、小姓《こしよう》のささげている刀を抜きとるや、駆け出そうとする。
柴田と森がその前に立ちふさがり、はかまのすそにすがった。
「又左は血気のものでござる。世間のかれこれの陰言《かげごと》に、ついいきり立ってのあの仕儀、おゆるし下さりますよう。お願いであります。お願いであります」
と、柴田が言うと、
「十阿弥はふびんではござるが、又左とつりがえにはなりませぬ。かねてのご寵愛《ちようあい》をお思いおこして下さりますよう」
と、森も言った。
信長はやっと成敗は思いとどまったが、余憤《よふん》はさめない。
「又左め、気に入らぬ。長の暇《いとま》つかわす。さよう申し伝えい」
と、あらあらしく言って、ご殿《てん》に帰ったのである。不運の多くは悪い偶然が重なる時だ。この時がそうであった。
東から来る嵐
一
信長の怒りに触れて長のお暇《いとま》となった前田又左衛門は大いに難儀した。一体、前田家は、現在では名古屋の中川区になっているが名古屋市が大拡張されるまでは国鉄名古屋駅の西南方一里ばかりに位置する愛知郡|荒子《あらこ》村の領主であり、小さいながら居城もある家であるから、又左衛門が織田家を浪人したとて、生活に窮《きゆう》することはないはずであったが、そこにはまた事情があった。
利家《としいえ》は六人兄弟の四男として生まれた。前田家は二千貫文の領地があったが、六人も兄弟があっては、身代を分けてもらうわけには行かない。皆が分知したら、前田家は微弱きわまるものになってしまう。家が社会構成の単位として最も重要なものである時代だから、本家は出来るだけ大きく強力なものとしておくことが、一族の各員にとっても必要なのであった。
だから、兄弟は一人も分知していない。長兄の蔵人《くらんど》利久が一人で全部を相続して、次兄の利玄《としはる》も、三兄の安勝も、家族の一人として家にとどまって、捨扶持《すてぶち》をもらって家来とほぼかわりない暮しを立てている。弟二人に至ってはまだ子供であるから、これまた当然である。
又左衛門だけが、幼少から信長に召出《めしだ》されて、特別な寵愛《ちようあい》を受け、武功も度々立てて、信長から三百貫ほどの知行地《ちぎようち》をもらって独立した家を立てていたのだ。
普通なら、一朝にして信長の勘気《かんき》を受けて長のお暇《いとま》となっても、実家にかえれば生活にさしつかえはないわけだが、そうは行かない事情があった。長兄の利久と折合いがよくないのである。
利久はごくごく平凡な人がらだ。武辺のほまれもなければ、人がらとしてもすぐれたところはない。たまたま長男として生まれたために、前田家を相続したのである。だから、又左衛門はこの兄を好きでもないが、きらってもいなかった。
「兄者《あにじや》はあれだけの人じゃ。前田の家に傷のつかぬように守り通してくれればよい」
と思って、兄弟としての普通の親しみ、本家の当主にたいする普通の礼儀をつくして来た。しかし、利久が最初の妻を死なせて後添《のちぞい》をめとると、新しい事情が生じて来た。
利久の後妻は、滝川|一益《かずます》の甥《おい》滝川儀太夫の妻であった女である。美貌であったが、心術が妬悍《とかん》であるというので、儀太夫が離縁したのを、利久は美しさに打ちこんで、ずいぶん年も違うのに後添《のちぞえ》としたのであった。
利久はこの若い妻を溺愛《できあい》した。妻は儀太夫から暇《ひま》を出された時、儀太夫の子をみごもっていたらしい。嫁《か》して来て十月ほどで男の子を生んだ。
「前田|蔵人《くらんど》の後添がこのほど生んだ子供は、実は滝川儀太夫が子じゃ」
と、世間でも言ったが、利久はそれを認めない。
「おれが子じゃ。生まれ月に多少ののびちぢみのあるのは、めずらしいことではない」
と言いはり、自分の子であると言いはっているほどである。やがてあとつぎにするつもりなのである。すべてこれ若いこの後妻にたいする愛情からである。
利家にはこれも気に入らない。血筋の者がなければ、あかの他人の子でも養子として家を継がせるのは世の常のことだが、多数の弟らがいるのに、それをさしおいて、血のつながらない者を相続者にするのがよくないことは言うまでもない。嫡々《ちやくちやく》相承《う》けるということが家なるものの原則になっているはずである。原則通りにやれない場合も、出来るだけ原則に近いところで処理すべきはずのものなのである。
しかし、これはまだそうなったわけではない。兄はそうするつもりでいるらしいが、その意志を発表したわけではない。だから、又左衛門もこのために兄を遠ざかったのではない。
又左衛門が兄から遠ざかるようになったのは、兄嫁《あによめ》の性質のためであった。滝川儀太夫が持てあつかいかねて離縁したほどあって、兄嫁は美しい顔形に似ず、性質がまことによくない。兄にたいしては十分な愛情があるようであるが、兄の弟らにたいしては何の情愛も持てないらしい。それどころか、仇敵《きゆうてき》にたいするに似た憎悪感情すらあるようである。生んだ子の競争者と思うためか、兄の愛情を独占したいためか、常に一種の被害|妄想《もうそう》――ひがみを抱《いだ》いているようである。
名もない土民や小商人の妻なら、これでもさしたる欠点ではないであろう。夫婦だけが愛し合っていればそれでよいのだから。しかし、一族のひろがりが大きく、名家といわれるほどの家である場合、武家であると、町家であると、農家であるとを問わず、これではこまる。妻は主人の妻であるとともに、一族全部の女主人でもあるのだから。
又左衛門は直情な男だ。直情であることを誇りにもしている。
「こんどの兄嫁はおれはきらいだ。盗《ぬす》ッ人《と》でも見るような目で、おれを見る。おもしろうない」
誰《だれ》にも言いはしなかったが、そう考えて、しぜん、荒子《あらこ》からも、清洲《きよす》にある兄の屋敷からも、足が遠のいた。どうしても行かなければならない法事であるとか、儀式であるとかの日以外には、行くこともなく数年立って、今日に至っている。
こんなわけだから、こんどのような境遇となっては、一層《いつそう》行きたくない。兄嫁はきっと、何をもらいに来たか、何を盗み出しに来たかと警戒し、いやな目で見るにきまっているのだ。
「飢《かつ》え死ねばとて、兄の厄介にはならぬ!」
きびしく心をきめて、清洲から少しはなれた村に住いを定めた。この村の庄屋《しようや》とは以前から懇意《こんい》にしていたので、ちょうどあいていた庄屋の家の隠居所《いんきよじよ》を借りて、当分の住いにしたのであった。
いくらか貯《たくわ》えがあるから、当分の暮しは細々と立てることが出来る。貯えがなくなれば、持ちものを一つずつ手放せば、なおしばらくはつづく。
「そのうちには、一合戦おころう。駆けつけて一手柄《ひとてがら》立てれば、ご赦免《しやめん》になって、お召しかえしにあずかることが出来よう」
と、考えている。
柴田勝家と森可成の二人は、又左衛門のことを最も心配して、すぐに訪ねて来てくれたが、ともに、
「当分のしんぼう、当分のしんぼう。一合戦あるまでのことじゃ。ほかならぬおぬしのことじゃ。必ずご勘気はゆりる。気を屈せず待て」
と、言った。
二人はまた、
「わしらもまたごきげんのよいおりを見て、おとりなししよう故、その以前にご勘気ご赦免、めでたく帰参《きさん》ということになろう。あれほどご寵愛《ちようあい》厚かったおぬしほどのさむらいと、十阿弥ごときたちの悪い同朋《どうぼう》と釣りがえになろうか」
とも言ってくれた。
又左衛門は自信をもって、浪人生活をつづけた。釣りに行ったり、山狩りに行ったりして、心気が鬱屈《うつくつ》しないようにつとめた。
二
藤吉郎は又左衛門が気の毒でならなかった。いやいや、気の毒というより、すまない気がしてならない。自分に責任のないことは知っている。責任どころか、こちらは被害者なのである。あらぬ疑いをかけられて、何十日という間、不愉快《ふゆかい》しごくな日を送った。十阿弥が盗んだのであることを突きとめるまでの苦労も大ていなものではなかった。
しかし、それは理窟《りくつ》だ。自分はそんな目にあったとはいえ、青天白日の身となって、ほうびのおことばをいただき、ほうびの金子《きんす》までいただいたばかりか、殿様の自分をごらんになる目がさらにごきげんがよくなり、
「猿《さる》よ、猿よ」
と、ことあるごとにご愛顧《あいこ》いただけるようになったのに、又左衛門様はあれほどのご寵遇《ちようぐう》から一ぺんにご浪人の身となってしまわれた。何ともお気の毒でたまらない。
それで、ひまのある度に、又左衛門のわび住いを訪ねて、ごきげん伺《うかが》いした。ひまといっても、非番の日以外にはないわけだが、その非番の日も多くは出勤して不時のご用にすぐお役に立つように心掛けているから、なかなかないのだ。しかし、ひまがありさえすれば、ちょいとした手土産を持って出かけることにつとめた。
又左衛門を訪問するのは、ごくかぎられた人々であるとのことであった。
「さむらいでは柴田権六殿と森|三左《さんざ》殿以外にはない。お小姓《こしよう》で二、三人時々来てくれるのがいる。あとはとんとないわ。お怒りに触れてお暇《ひま》をたまわったのである故、皆はばかっているのであろうよ。人のことでごきげんを損ねるなど、阿呆《あほう》の骨頂《こつちよう》じゃ、利口な者はせぬわな」
と、又左衛門は皮肉な調子で言って笑った。
「そなたはよく来てくれる。決して忘れぬぞ」
と言ったこともある。
非運に沈んでみて、はじめて人の心の奥底がわかり、深い感慨をかみしめているようであった。
(なるほど、おらには子供の頃《ころ》から数え切れんほどの覚えがあって、あたってくだけ、心にしみていることじゃが、又左衛門様のように日当りのよいところで、何の苦労もなく育ったお人には、はじめてのことであろうわい)
と、合点《がてん》した。
(又左衛門様にはよい学問じゃ。世の中を見る目も、人を見る目も、深くなりなさるじゃろ)
と思ったし、
(又左衛門様が再び世に出なさったら、決して軽薄《けいはく》をはたらいた人々をよくはしなさらないであろう。おりにふれては、人にも信用の出来ぬ人間じゃと言われるであろ。じゃからこそ、非運に沈んでいる人には、いつもより心をつくしてねんごろにせねばならんのじゃ。でなくば、心の底が浅いと見られ、ひいては世の信用もなくなるな。とかく、軽薄ということは、損にこそなれ、決して得にはならぬ)
と、改めてしみじみと考えもした。
又左衛門は、いつ会っても、信長のことを聞きたがった。こうなされた、ああなされた、こんなことがあったと、日々の信長の言行や、ご殿《てん》の出来ごとを語るのを、熱心に聞きほれていた。涙のこぼれるような表情になることもある。
(忠義|一途《いちず》なお人じゃわ)
と、藤吉郎は胸が熱くなる。とりなすことの出来る地位に自分がいないのが残念でならなかった。
秋になってからのある日、しばらく無沙汰《ぶさた》して、行ってみると、不在《るす》であった。
「この頃、釣魚《つり》がおもしろいというて、釣魚にばかり行っていなさりますわな」
と、庄屋《しようや》の家の下男《げなん》が言って、よく行く釣場を教えてくれた。
まだとり入れははじまらず、黄熟しかけた一面の田圃《たんぼ》の中にある社《やしろ》の森のそばを走る細流《ほそ》の堤に、又左衛門は腰をおろし、竿《さお》を三本出していた。
藤吉郎が行った時、ちょうど一尾《いつぴき》つれたところであった。又左衛門は竿をあげ、ぴんぴんはねる小鮒《こぶな》をはずして魚籠《びく》に投げこみ、笠《かさ》をかしげてこちらを見た。にこりと笑って、
「やあ、来てくれたか」
といった。
餌《え》をつけかえて、その手をごしごしと堤の草にこすりつけながら、
「まあすわれ」
と言って、薄濁《うすにご》りした水にぽつんと浮いている浮きを凝視《ぎようし》しつづける。
「近頃、釣りにお凝《こ》りやいいますな」
といいながら、藤吉郎は魚籠をのぞきこんだ。よく見えないが、薄暗い中に背びれがうようよと動いているところ、かなりな収穫のようだ。
「ほう、なかなかの大漁《たいりよう》でござりますな」
といいながら、ならんで腰をおろした時、また釣り上げた。これはよほど大きい。七、八寸はある鮒だ。
「もうやめて帰ろうと思うのだが、こう食いが立って来ては、やめる機《しお》がない」
と、笑った。
「おやめにならんかてよろしゅうごわりましょう。てまえもべつだん用があってまいったのではごわりまへん。いつもの通りごきげん伺《うかが》いに参じただけでごわりますけ。何なら、竿《さお》を一本貸していただいて、てまえも釣りながら、よも山ばなしいたしましょう」
「そうするか」
一本貸してくれた。
ならんで竿を出していると、ぼつぼつとは釣れるが、それほど釣れないところが、こんな際にはかえって都合がよい。いつもの通り、ぽつりぽつりと、ご城内のことや、信長のことを語ったが、そのうち藤吉郎は又左衛門の風貌が大分前とかわって来ていることに気づいた。一口に言って、やつれて薄よごれて来たのだ。以前のいかにも俊秀《しゆんしゆう》で颯爽《さつそう》とした感じがなくなり、痩《や》せが目立ち、色も黒くなっている。毎日釣りばかりしているというから、日やけしたせいでもあろうが、そのためばかりとも思われないのは、一体の感じが暗いのである。だんだんあせりが出て来なさったのやなあと思った。
(無理ないわ。このお若さで、こげいなところで所在ない日を送っていなさるのや。早うなんとかならんものかいな)
と思った時、又左衛門の竿の浮きが動いた。又左衛門はぱっと竿を上げたが、遅すぎたか早すぎたかしたのであろう、魚はかかっていず、勢いよく上った鉤《はり》が、向う岸からのびている川楊《かわやなぎ》の枝にからんだ。
「エーイ、クソーッ!」
又左衛門はおそろしく大きなかんしゃく声をはり上げ、力一ぱいに竿をはね上げた。糸は浮きの下から切れて、舞い上った浮きが竿のはるか上の空で舞った。たたきつけるようにその竿をおいて、こちらを向いた。
「藤吉郎!」
はげしい声だ。
「はい」
と答えながらも、こちらはおどろいていた。恐怖に似たものが胸をつめたくした。
「はじまりそうにないのか、戦さは? 美濃《みの》はどうなのだ? 今川はどうなのだ? どちらもそのけはいはないのか?」
たたみかける調子だ。こちらを凝視《ぎようし》している目が血走っていた。
切ないものが胸にせまった。
(あせっていなさる、あせっていなさる……)
と、思った。
今の織田家は、東の三河境の方に少しばかり今川の勢力が食いこんでいるが、それを別にしては尾州《びしゆう》一国ほぼ完全に統一が出来て、信長の触手は美濃と東の国境方面にのびようとしているが、やっと足もとの統一が出来たばかりの力ではうまく行かない。去年の春から今年の春までのほぼ一年間に、三河に二度、美濃に一度入ったが、成功しないで退却した。
どうやら、現在のところ、信長は当分|雌伏《しふく》して力をたくわえる気になっているらしいのである。
こんなわけだから、藤吉郎もなんとも言いようがない。ただいたましかった。
興奮のあまりとり乱したのを恥じるように、又左衛門は微笑した。別な竿をあげ、餌《え》をつけなおしてほうりこみながら、
「小鮒《こぶな》を相手にしながら、おれは合戦のことばかり考えている。合戦以外には、おれを今の境涯《きようがい》から助け出してくれるものはないのじゃからのう」
と言った。こちらは見ず、浮きを見つめながらである。
藤吉郎はまた胸がつまった。
三
今川家の動きがおかしいとの情報が入ったのは、秋の半ばの頃《ころ》であった。織田家から駿府《すんぷ》に入っている忍びの者が馳《は》せ帰って、一葉の書付を信長にさし出した。
定《さだめ》
一つ、兵糧《ひようろう》と馬の飼糧《しりよう》は着到の日から配給する。
二つ、各隊出陣の日どりは予告通りとするようつとめよ。万事|差図《さしず》に従え。
三つ、勝手に占領地の民を捕えて使役《しえき》に供したり、物品を徴発したり、その他|狼藉《ろうぜき》を働いてはならない。
四つ、正式に暇《いとま》を乞《こ》わないで勝手に退散して新しい主人に奉公している家来を見つけた場合は、現在の主人にこの旨《むね》を通告した上で訴え出よ。裁断してつかわす。主人同士で交渉して争いなど起こしてはならない。すでに通告を受けてから、その奉公人が逃亡した際は、現在の主人の落度《おちど》となる。逃がさぬよう用心せよ。
五つ、城攻めの場合は、軍令によって攻撃隊と定められた隊だけが攻撃せよ。抜駆《ぬけが》けなどしてはならん。
六つ、合戦の場合と出陣の場合との先陣後陣の次第は、一切奉行のさしずに従うべきこと。
以上
治部大輔《じぶのたいふ》
永禄二年三月廿日
「ふうん」
信長はざっと目を走らせて、うなった。
忍びの者は言う。
「それは、今川の家中|朝比奈備中《あさひなびつちゆう》(泰能《やすよし》)の右筆《ゆうひつ》部屋で見つけて、書きうつして来たものでございます」
「日付が今年の春になっているの」
「さようでございます。それ故にこそ、由々《ゆゆ》しいとてまえは見てとったのでございます。この軍令状は出陣に際して出す形のものとなっておりますし、しかもなかなかの大軍を動かす際のものとしか見えないのでございますが、その日付からこちら、今川家はどこにも出陣していないのでございます。治部大輔《じぶのたいふ》が京に出て、足利将軍家を輔《たす》けてか、自ら将軍となってか、天下に号令しようとの野心を抱《いだ》いていることは、世間の人の皆知っていることでございます。今川家でもかくしてはいません。今川家中の者がよく、京に上ったらばしかじか≠ニ話のはしばしに出すほどでございますから。これらのことで、拙者《せつしや》は上洛《じようらく》に際しての軍令書であると判断したのでございます」
「うむ、うむ、おれもそう考えてみた。なるほどのう、こげいなものまで出していたのか。そうすると、今年の麦秋《むぎあき》頃は、ひょっとすると、治部大輔め、上洛軍をくり出したのだな」
と、信長は言った。そんなことは露《つゆ》知らず、のほほんと太平楽をきめていたことを思い返すと、背筋につめたい風の走る思いがする。
「これがてまえの判断したようなものであったとしますれば、先ず、そうでございましたろう」
「それで、どうなのじゃ。今年はあきらめても、そのままにはしておかんじゃろう。おさおさおこたりなく支度をととのえているような風か」
「別段に目立つほどのことはないようでございますが、この頃松平元康をしげしげと城内に呼び出しては、何やらしきりに談合しているということでございます。怪《あや》しめば怪しめるかと存じます」
「うむ、うむ、うむ、……」
信長は深くうなずいた。
松平元康とは、後の徳川家康のことである。
信長は元康に面識がある。もっとも、それは元康がまだ竹千代といっていた頃《ころ》だ。竹千代が六つから八つまでの間、信長が十四から十六までの間であった。
時代が時代だけに、不幸不運な生《お》い立《た》ちをした武将は世に少なくないが、元康ほど苛酷《かこく》な運命にさいなまれながら生い立った者は最も少ない。
元康の父|広忠《ひろただ》は十の時、父清康に死別した。清康はなかなかの人物で、十三の時家をついでから二十五までの間に西三河を統一し、鋒《ほこ》を尾張に向けて織田家の領分をしきりに切りとったほどであったが、織田方の反間《はんかん》の策《さく》にかかって家臣のために殺されてしまった。
松平家の非運がここにはじまった。わずかに十という年で広忠が当主となったが、外は今川と織田という強隣のために圧迫され、うちは一族に野心を抱《いだ》くものがありして、広忠の生命さえ危険になった。老臣阿部大蔵は広忠を奉じてひそかに広忠の叔母聟《おばむこ》東条持広を頼って伊勢の神戸《かんべ》に奔《はし》って急をのがれたが、持広が病死すると持広の養子義安は広忠を織田家に引渡す計略をめぐらしはじめた。頼む木陰《こかげ》に雨が漏《も》りはじめたのだ。広忠は神戸を出奔《しゆつぽん》して、三河《みかわ》や遠州《えんしゆう》の片《かた》田舎《いなか》をさすらった後、せっぱつまって駿河の今川家を頼り、その力でどうやら三河を回復することが出来た。
この間最も働いたのは阿部大蔵だ。大蔵の忠誠ぶりは涙ぐましいほどのものがあるが、元来松平家のこの悲劇の原因である清康の横死《おうし》は大蔵の長男弥七郎によってなされたので、大蔵の誠忠はせめてもの贖罪《しよくざい》の気持があったと思われる。
ともあれ、広忠はこうして三河の旧領を回復することが出来たのだが、この時から今川家にたいして頭が上らないことになった。一言にして言えば属国になったのである。
元康はこの広忠の長男である。幼い時の名を竹千代といった。六つの時、今川家に人質になって行くことになり、岡崎を出て途中まで行くと、三河田原《みかわたわら》の城主戸田康光が出迎えた。康光の女《むすめ》は竹千代の継母であるから、康光は竹千代にとっては義理の外祖父《がいそふ》にあたる。
「陸路より海路が楽でもあれば、安全でもござる」
といって、田原から息子の政直をつけて船にのせて送り出したが、これは戸田の姦計《かんけい》であった。戸田はかねてから織田家に内通している。船が港について上ってみると、そこは尾州の宮《みや》(熱田《あつた》)の港であった。付添《つきそ》って来た戸田政直は、織田家――当時は信長の父信秀の時代だ――に、
「三河の松平広忠の嫡子《ちやくし》竹千代、当年六つなるを、今川家へ人質につかわしますのを、途中うばいとってまいりました。人質としてお家にとどめおき給うなら、子の愛に引かれて、広忠は今川家と縁を切って幕下《ばつか》にまいること必定《ひつじよう》でありましょう」
と連絡した。
信秀は大いによろこび、戸田にほうびとして永楽銭《えいらくせん》五百貫をあたえ、竹千代を引きとった。徳川家康が幼時|銭《ぜに》で売り渡されたというのは、この事実を言うのであり、大久保彦左衛門の三河物語にはズバリ、「竹千代様を売り申した」と書いてある。もっとも、三河物語では五百貫ではなく、千貫である。
信秀は、竹千代を名古屋の万松寺《ばんしようじ》という禅寺の塔頭《たつちゆう》天王坊において、広忠に帰服せよと交渉したが、広忠は、
「子の愛に迷うて、恩義重畳《ちようじよう》の今川家にたいする多年の義理を忘れること、武士の道でござらぬ。愚息の存亡はお心にまかせる」
と、はねつけた。
以後、八つまで、満二年間、竹千代は天王坊に軟禁される。
これは信長の十四から十六までの間だ。天性旺盛な好奇心を持ち、習慣や礼儀の拘束など屁《へ》とも思わなかった信長だ。三河の松平の小せがれが五百貫で売りわたされて来て、万松寺の塔頭にいると聞くと、矢も楯《たて》もたまらず見たくなった。遠乗りと称して清洲《きよす》を出て、名古屋に向った。
もともとめずらしい動物を見るに似た興味で行ったのだが、竹千代が利発げで可愛い顔をしており、しかも恐れる色もなく遊びたわむれているのを見ると、複雑な感慨があった。あわれとも思い、また、
「血のつづきはないにしても、仮にも外祖父《がいそふ》であり外叔父《がいおじ》である者が、かようなことをするとは! しかも、たとえ褒美《ほうび》という名目で出されたにしても、銭《ぜに》を受取るということがあるものか。売り渡したと同じことになるではないか」
と、戸田父子の不信と不潔をいきどおりもし、
「とにかく、この世には心をゆるして信用出来るものは誰もいぬ。決して忘れぬぞ」
と、人間不信の思いを強めもしたのであった。
二年たった春、岡崎で広忠が死んで、松平家には主人がなくなり、同じ頃《ころ》に織田家では信秀が死んで、信長が当主となった。
その頃、織田家と今川家との間に合戦がおこり、今川勢は松平家の家臣らを先鋒《せんぽう》部隊として、当時織田側の城になっていた三河の安祥《あんじよう》城を攻め、勢い猛烈をきわめた。城主は信長の庶兄《しよけい》信広であったが、二の丸、三の丸を攻めおとされ、本丸に追いこめられ、今は自殺するよりほかはなくなった。
その時、今川家から交渉があって、竹千代と織田信広との交換を提議した。
信長は即座に承諾した。庶兄である信広を見殺しにするわけには行かなかったからであるが、竹千代を人質にしておくことが何の効果もない無意味なことであるからでもあった。父である広忠の生きている間でも、松平家は竹千代を捨殺しにする態度でいたのだ。その一族、家来共だけとなっては、一層《いつそう》冷たくこそなれ、愛情深い態度になろうとは思われなかったのだ。
交換が行われ、竹千代は三河にかえったが、三河を素通り同然にして駿府《すんぷ》に連れて行かれてしまった。こんどは今川家の人質とされたのである。松平家の武士らが安祥城の攻撃に死力をつくしたのは、
「城主織田信広をぎりぎりのところまで追いつめれば、織田家に交渉して竹千代殿をとりかえしてやる」
と今川家からいわれたからであるが、その交換が成功すると、こんなことになってしまった。松平家の家臣らは今川家にあざむかれたようなものであった。
当主はありながら、岡崎城は城主不在の城になり、松平家の家臣らは一層《いつそう》苦しい境遇におちいった。岡崎城には今川家から城代《じようだい》が来てあずかり、領分には代官が来て管理し、家臣らには知行《ちぎよう》も扶持《ふち》もろくにくれない。それでいながら、合戦でもある時には、最も困難な場に行き向わされる。腹は立っても、
「われらが不服を申して働かんでは、竹千代様にお難儀がかかろう」
と思って、皆歯を食いしばって忍耐していたのであった。
竹千代は約十年駿府にいて、その間に元服《げんぷく》して元信と名のった。「元」の字は今川義元が名のりの一字をくれたのだ。元信は翌年元康と改名した。「康」の字はすぐれた武将であった祖父清康の名のりの一字を襲《つ》いだのだ。十五の時結婚もした。妻は今川の一族である関口親永の女《むすめ》である。
これらのことは、信長はすべて調べて知っている。信長の調べたところと推察するところでは、元康の結婚は今川氏におしつけられたのである。女の方が十も年上だというから、おしつけ女房にきまっていると判断されるのだ。
信長はまた夫婦の間の交情まで調べている。
「今年の三月、男の子が生まれ、竹千代と名づけられたが、もうあとが入っている由《よし》。よほど夫婦なかはよいと見なければならぬ。十も年上の女房のどこに心を引くところがあるのかのう。今川こわさに、ほかに女を持つことも出来ず、寝るは女房とばかりという次第かも知れぬ」
とも見ている。
元康が十も年長の妻との交情が密であるのは、ぼくは元康が三つという幼い時に生母と生別して、母性の愛情にたいして飢餓感《きがかん》があったためだと見ているのだが、そんな心理は当時の人には想像もされなければ、理解も出来ることではない。
元康が相当に長期ずつ岡崎に帰ることを許されるようになったのは、結婚してからである。しかし、帰りっきりは、今川家で許さない。数か月の滞在で、駿府《すんぷ》に帰らなければならないのである。けれども、何度かのこの帰国の間に、元康は有能な武将ぶりを見せている。三河の豪族で織田家に志を通じている者をいく人か討っているが、皆勝っているのである。
ついに去年の春、さすがの今川家も、元康に恒久《こうきゆう》的に岡崎にいることを許したが、どういうものか、城代をおいたっきりにして呼びかえさない。そのため、岡崎城では今川からの城代が本丸におり、城主である元康は二の丸に肩をすぼめているという珍現象がおこっている。所領も返さない。依然、今川家から派遣されている代官が租入《そにゆう》をにぎりづめにして、元康はあてがい扶持《ぶち》のありさまであるという。
(おかしなことをする。さほどまで岡崎の城や所領に未練があるなら、元康を帰さなんだらよかろうに。煮え切らんことをする男じゃわ)
と、信長は不思議でもあれば、今川義元という人物に強い軽蔑感すら持っていたのであった。
四
しかし、今やわかった。
今川が今年の三月、上洛《じようらく》のための出陣についての軍令状を出しているからには、またこの頃《ころ》しきりに元康を呼んで密議をこらしているからには、岡崎にたいするこの不徹底で未練げたっぷりなやり方は、上洛出陣と関連して考える必要がある。
「わしの上洛に際して、うんと働け。そしたら、城も所領もすっかり返してやろう。手がらの次第によっては、織田家の所領も少しくらいはわけてやるぞ」
と、釣っているに相違ないのである。
信長は報告に馳《は》せかえった忍びの者を、また駿河《するが》にかえした。
「なおおこたらずさぐって、これはと見こんだことがあったら、何なりとも知らせい」
と言いふくめた。
そのほかにも、多数の諜者《ちようじや》を送りこんだ。
こうしておいて、信長は対策を考えたが、どう工夫しても、勝てる見込が立たない。
何よりも、身代が違いすぎるのだ。
今川家は駿・遠・三の三国をもっている。内輪に見つもっても百万|石《ごく》はあろう。こちらは東方の国境地帯を大分今川家に切りとられているし、木曾川べりの方々に本願寺領が相当あるから、尾張一国から大分欠けるのである。せいぜい二十五万石くらいのものである。領地の生産高はすなわち動員力だ。こちらはあるかぎりくり出しても八千人くらいしか動員出来ないが、今川は三万五千人は出せよう。戦さの勝敗は兵数の多寡《たか》だけできまるものではないが、それでも兵数は最も重要なものだ。十中の七、八はこれできまってしまう。
次ぎは家柄《いえがら》の相違だ。今川家は足利将軍家の最も近い一族だ。世間では、もし公方《くぼう》家にあとつぎがなかったら、三州《さんしゆう》の吉良《きら》家が入って公方様になる、吉良家に人がなかったら、駿河の今川家から公方様が立つことになっているといっている。そんな規定はないし、先例もありはしないが、世間の人がそう信じているほど、今川家の家格は高いのである。三州の吉良家が衰微してごく小さな豪族となっている今日では、今川家は足利将軍家につぐ家柄となったと言ってよい。しかも、将軍家よりよいことは、富力と武力をもっていることだ。
これにくらべれば、織田家の家柄など、低い低いものだ。管領《かんれい》家斯波《しば》家の家老織田家の家来である三奉行の織田家の家筋だ。足利将軍家から見ると、陪臣《ばいしん》の家来、つまり陪々臣である。将軍家の一族である今川とは大へんなちがいだ。
家柄の相違はすなわち世の思いつきの相違である。戦国|下剋上《げこくじよう》の世と言われているが、世間の人には家柄はまだまだ権威だ。早い話が、今川が兵をひきいていよいよ京都進発に押出したなら、沿道の大名らのほとんど全部が馳《は》せ参ずるに違いない。その進出をいやがっている中央の勢力と結んでいるごくわずかの大名だけがそうでないであろうが、これとても馳せ参じないというだけのことで、立ちふさがって積極的にじゃまはしないであろう。今川家ならば、上洛《じようらく》して将軍家を助けて天下の秩序の乱れを正すという大義名分が納得出来るからである。
しかし、同じ声明をかかげて織田家がとりかかったとて、協力するものは一人もあるまい、協力どころか、
「織田ごときが何を僭上《せんじよう》な!」
と、寄ってたかってふくろだたきにするに違いない。その家格にふさわしからぬ僭上|沙汰《ざた》であるというだけで、十分の理由になるのだ。
ここでもこうまで違っては、勝負にならない。今川家が味方を多数得ることが出来るのに、こちらは単身で戦うことになる。
つまり、信長の前にあんぐりと口をあけているのは、敗戦への途《みち》だけしかないのだ。
だからといって、降伏《こうふく》は出来ない。こちらは父の信秀の若い頃から、向うは義元の父氏親の代から、戦いつづけて来ているのだ。遺恨は重畳《ちようじよう》している。たとえこちらが降伏すると言っても、普通の条件では聞き入れないことがわかっている。聞いてもろうためには、織田家の身代は滅亡にひとしいほどに切りちぢめられることを甘受しなければなるまい。
そんなにまでして生き長らえるなど、真ッ平である。いつも愛誦《あいしよう》している「小敦盛《こあつもり》」に、
人間五十年
化転《けてん》のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり
ひとたび生《しよう》を受け
滅せぬもののあるべしや
とあり、いつも口ずさんでいる小唄に、
死なうは一定《いちじよう》
忍びぐさには
何をしよぞ
一定
語りおこすよの
とあるではないか。
敗滅を覚悟で立ちふさがり、万死の中に一道の生路をもとめるまでのこと、覚悟は最初から定まって小ゆるぎもしない。
「しかし、勝ちたい!」
痩《や》せる思いで、信長は苦慮《くりよ》をつづけた。
この苦慮の一環が、信長にしきりに三河境の方に遠乗りや小鷹狩《こたかがり》と称しての遊行《ゆぎよう》の足を向けさせた。鳴海《なるみ》、大高《おおたか》、有松《ありまつ》を越えて、時には沓掛《くつかけ》のへんまで行くこともある。
藤吉郎はいつも供《とも》をして、馬について走ったが、慧《さと》い彼は疑いを持たずにおられない。信長の顔が日に日にやつれてとげ立って来るのも気になる。
(どうやら、今川とはじまるらしいぞ)
と、見当がついた。
五
いつもの通り、非番の日を利用して、又左衛門のわび住いに行って、
「別段に聞きこんだことのあるわけでもなければ、うわさになっているわけでもありませんが、殿様は近頃これこれで、ご様子がしかじかでござります。これは近か近かに駿河《するが》とことがあるものとしか、てまえには考えられないのでございます」
と語ると、この頃|不精《ぶしよう》になってむさくるしくひげののびている又左衛門の顔がぱっとかがやくようになり、目がらんと光った。
「われの見る通りに相違ない! こりゃどうでも近か近かにはじまる! 向うから来るか、こちらから押しかけて行かしゃるのか?……」
といううちに、わなわなと全身ふるえて来た。そして、
「うれしや! いずれにしても、はじまるのじゃ!」
と、絶叫するように叫んだかと思うと、つと立ち上った。なげしにかけた、自慢の「かぶきたる槍《やり》」をおろし、そのまま庭にとびおりた。
庭の中ほどに仁王立ちになり、右手につかんだ槍の石突《いしづき》を、どんと飛石につきおろすと、鞘《さや》ははずんで中天に舞い上り、異相の穂先が秋の午後の日の下に白く光ってあらわになった。
「うれしや! はじまるか!」
またさけんだ時、槍はかまえをとられた。勁烈《けいれつ》な矢声《やごえ》をあげながら、又左衛門はくり引き、くり出し、はらいつ、はね上げつ、馳突《ちとつ》の形を見せて、縦横に庭中を狂いまわった。見ていて、きりきりと毛根が引きしまり、髪がさか立って来るような壮烈な情景であった。又左衛門の頬《ほお》は血に燃え、目はさわやかにかがやき、日頃の鬱屈《うつくつ》の色はもうどこにもなかった。
藤吉郎は見ていて、涙がこぼれて来た。
この二、三日後のことであった。一夜、秋の台風が濃尾《のうび》地方を襲った。大小の河川の多い地方だ。洪水はもちろんあったが、それは幸い大したことはなかった。しかし、風の被害は大きかった。清洲《きよす》の城下も、方々の村々も倒壊した民家が相当あったが、清洲城に大被害があった。城の外郭《そとぐるわ》の塀《へい》が百間《けん》ばかりもくずれたのだ。
信長は早速《さつそく》作事奉行《さくじぶぎよう》を呼び出して修理を命じた。工事は翌日からはじまったが、なかなかはかどらない。二十日たっても、まだ土台工事すら済まない状態であった。
信長は領内の被害状況を見てまわったり、それが一通りすむと、また三河境への遠乗りや小鷹狩《こたかがり》をはじめて、別段工事をせき立てはしなかったが、それらのことに出かける前と帰って来てからと、必ず工事現場を見まわった。
(心のうちではあせってお出《い》でるにちがいない)
と、藤吉郎は鑑定《かんじよう》した。近々のうちに今川家との間に事のあるのは確かであると、彼は信じている。であるなら、城をこんな無防備な状態でおくことにあせりがないはずはないのである。
(阿呆《あほう》なお人じゃな、奉行様は。こんな大事な時じゃということにも一向めくらじゃ。殿様のお心もわかっとらん。これがおれなら、どんな無理をしてでも、早う仕上げるのじゃが)
と思った。
この感想が、一夜|忽然《こつぜん》としてこんな思案にかわった。
(これは出世の大機会じゃ。これを見のがすという手はない)
はげしい決意に、藤吉郎はからだ中から火花が散るような思いであった。終夜工夫をつづけて、ついにある工夫に到着した。
あくる朝、信長はまた小鷹狩に出かける前、普請場《ふしんば》を見まわったが、藤吉郎はその時は何にも言わなかった。夕方まで待とうと思った。その方が段取《だんどり》に都合がよいと考えたのである。
夕方帰って来て、また普請場まわりをした時、うずくまったまま、信長に聞こえるようにつぶやいた。
「油断もすきもならぬ今の世に、しかも、今川という大敵がいてすきを狙《ねら》っているというのに、あぶないことじゃ。ひょっとして事がおこったら、どうなることであろ。悠長《ゆうちよう》にもほどがあるわい」
低声ながら、聞こえるようにかげんしてつぶやいたのだ。信長の耳にとどいた。きっとなってふりかえって、どなった。
「猿《さる》! ここへ来い!」
「へ、へい」
藤吉郎は十分に恐怖の色を見せながら、いざりよって、信長の前にうずくまった。
「われは今、何やらぶつぶつ言うていたな。あれをもう一度言うて見い」
ここで得たりとぺらぺらとしゃべり立てるようでは、作事奉行《さくじぶぎよう》に憎まれて敵をつくることになる。効果も少ない。芸としても浅い。
「お、おそれ入ります。ひとりごとでございます」
「ひとりごとでもよい。言えい!」
「申し上げるほどのことでは……」
「言えと言うているのだ!」
おそろしい声でどなりつけ、鞭《むち》を左の手に持ちなおし、右手をのばして藤吉郎の腕をつかんで、背にねじり上げた。
「言えい!」
肩のつけ根がねじおれるかと痛かった。
「申します、申します」
藤吉郎は観念した様子をつくって、言った。今川のことはわざと言わなかった。心中の秘を造作もなく人に指されて快く思う人はいない。油断のならぬやつと警戒されるにきまっている。まして、天と地ほどに身分が懸絶《けんぜつ》している場合はなおさらのことだ。才幹を買って引き立ててくれるのは、相当身分が接近してからのことだ。あっさりと消してしまわれる危険が十分だ。
信長は穴のあくほど、こちらの顔を凝視《ぎようし》した。
「ふうん」
と言って、なお凝視した。底意地悪げで、皮肉げで、底におそろしいものを秘めているような目であった。
藤吉郎は、自分が最も危険な場に乗り出してしまったことを痛いほどに感じた。目が霞《かす》んで来る気持であった。ふるえが出そうであった。しかし、こうなっては、ひるんではならなかった。心をおししずめ、静かな目つきを保つことにつとめた。
やがて、信長は言った。
「われがそう言う以上、われには早う仕上げられるあてがあるのじゃろうが、いく日あったら、出来る」
押せども引けども動かなかった山のようなものが動き出した手ごたえに似た感じが、藤吉郎にはあった。ここが大事なところだと思った。ここでは相手をおどろかさなければならないのだと思った。おどろきが大きければ大きいほど、効果は大きくなるはずである。
「四日のお暇《ひま》をいただけば、十分でございます」
「なにィ? 四日じゃとお?」
途方もない大きい声だ。腹を立てているようであった。こちらは性根《しようね》をすえた。出来なんだら死ねばいいのじゃ。死んでしまえば、万事ご破算でケリがついてしもうのだと思った。信長の左右やうしろにひかえているお供衆《ともしゆう》が、あきれ切った顔で自分を見ているのを視線の端《はし》に見てとっていた。この連中をもおどろかし、この連中の口から伝えさせて、家中全体の噂《うわさ》とすることも、将来のために大いに肝心であると思った。もうほんとの落着きがかえって来ていた。微笑さえふくんで、至っておだやかな調子で言った。
「四日と申しましたのは、万一のことを考えて、ゆとりを見ての日限でございます。本当はもっと少ない日数で仕上げられると存ずるのでございます」
「よし!」
信長は叱《しか》りつけるように言った。
「さらば、われにこの普請《ふしん》奉行を申しつける。たしかに四日のうちに仕上げい。もし、一日たりとも延びたらば、われがその素《そ》ッ首《くび》、即座にはね飛ばすぞ、それを覚悟でつかまつれ。明日からかかれ!」
作事奉行を呼びつけて、
「猿《さる》が四日で仕上げて見せるというている故、猿を普請奉行にした。その方は今日ぎりでこの普請には手を出すな。普請にいる道具や品物を、猿が入用と申すかぎり、子細《しさい》なく急ぎ渡さねばならんことは言うまでもない。意地悪根性など出したことがわかったらば、首|斬《き》って捨てる故、左様心得い」
と言い、また藤吉郎に、
「われが見事に日限通りに仕上げたなら、われをひとかどの役人にとり立ててくれるが、先刻も申した通り、はずれたならば、首はないぞ。心得たか!」
テキパキと言いつけて、ご殿《てん》に帰った。
藤吉郎は人夫《にんぷ》を集めた。城内の小者《こもの》らもいるが、それはごく少数で、大部分は夫役《ぶやく》として徴集された近在の百姓らである。その前に立って言った。
「わしのことは、オマンらの中で知っとる者がようけいるやろうと思うが、お草履《ぞうり》とりの中間《ちゆうげん》や。オマンらと同じ身分や。しかし、今、殿様の仰せつけで、この塀普請《へいぶしん》の奉行を仰《おお》せつかった。みんな一生懸命働いてくれや。頼むけにのう。四日という日ぎりで仰せつかった仕事やが、今日はこのまま帰って、明日は六つ前にはみんなそろうて集まっておくれ。そのかわり、帰りには酒の所望の者には酒を二合ずつ、下戸《げこ》には餠《もち》を四つずつやるけ、酒のほしいものは徳利を、餠を所望の者はなんぞ包むものを持って来るようにの。普請についてのくわしいことは、明日の朝言うわ。そんなら、気をつけて帰っておくれや」
人々は四日という日限におどろきながらも、明日は酒か餠をくれるというので、よろこんで散って行った。
藤吉郎は一若の宅に行った。
うわさは早くも伝わっている。夫婦とも顔色もかわるほどに心配している。
「出来るのや、出来るのや。心配せんかてよろし。おらにはちゃんと工夫が立っとるのや。そこで、そこ出来《でか》すについての相談に来たのやが、兄《あに》さん金五両ほど用立ててんか。銭《ぜに》ならなおええ。貸してんか。わしはいつぞや殿様が十阿弥からとっておくれやった科怠金《かたいきん》ののこりが四両なんぼあるが、これは使い途《みち》がきまっとる。用立ててもらいたいのや」
最も自信ありげで、明るい藤吉郎の調子に、夫婦はいくらか安心した風ではあったが、一若は言う。
「金はなんでもにゃァ。銭がええなら、二十貫なと三十貫なと出してやるが、ほんまに大丈夫やろなァ。しくじったら、首にゃァのやで」
今さら心配したとて、どうなろう。あれからよう考えてみましたら、出来そうもありませんけ、やめさせていただきとうございますと言ったとて、殺されるに違いないのだ。といって駆落ちはいやだ。せっかくありついて、ここまで漕《こ》ぎつけたものをまた振出しにもどるのはいやである。よしんばまた駆落ちしたとて、逃げおおせるものではない。不埒者《ふらちもの》! おれを愚弄《ぐろう》しおったと、激怒した信長は、追手をくり出してきびしいせんさくをするであろうからだ。しょせん、是が非でもやりぬくよりほかはないのである。
しかし、藤吉郎はそうは言わなかった。
「大丈夫、大丈夫。わしが今まで出来へんこと受合うたことがあるかえ。出来るというたしかな思案がここにあるのや」
と、胸をたたいて見せた。
一若は永楽銭で二十貫文用立てると言ったが、二十貫文といえば、孔方銭《あなせん》二万枚だ。よほどの重さだ。実際の重量も二十貫ある。非力な藤吉郎一人ではとうてい持って行けない。
「銭は明日、兄《あに》さんの組下《くみした》の者に普請場《ふしんば》に運ばせておくんなはれ」
と頼んで辞去し、その足で清洲の町の町家を数軒まわって、酒を五樽《いつたる》、餠《もち》を二千個注文した。
いずれも、
「明日の昼まで、外ぐるわの普請場までとどけてくれるよう」
と言って、手付をおいて引き上げた。
読心法
一
明け六つはるか前に、藤吉郎は普請場《ふしんば》に出た。霜《しも》のきびしい朝だ。暗いなかに吐《は》く息が白かった。松明《たいまつ》をつけて、もう一度子細に普請の個所を見てまわり、工夫している工事の方法を検討した。
「大丈夫、出来る!」
と、自信がかたまった。
この霜のきびしさを見て、新たに気づいたこともあった。昼間は暖くても、こんな夜になって冷えこめば、土塗りの壁はこおって、ぼろぼろにくずれる恐れがあるということであった。壁土に塩をうんとまぜる必要があると思った。
(阿呆《あほう》な男が普請奉行になっていたさけ、せっかくのええ季節を無駄にしてしもうて、使わいでもええ塩を仰山《ぎようさん》使うて殿様にご損をかける上に、乾きも遅うなるが、しかたない。この普請、人のしくさらしたあとをついでやるのじゃけ、半分は尻《しり》ぬぐいじゃわ)
つぶやきながら、作事《さくじ》小屋の前に焚火《たきび》をして、あたっていると、空が白みかけて来て、見る見る薄紙をはがすように明るくなってくる。
一若《いちわか》の組下《くみした》の小者《こもの》らが、数人がかりで樽《たる》を四つかついで来た。銭《ぜに》を五貫文ずつ入れた樽だ。
「やあ、ご苦労、ご苦労」
藤吉郎はねぎらって、作事小屋の板の間にむしろを敷いて、ぶちまけさせた。それぞれ一貫文ずつさしでつないで、太い紐《ひも》か蛇《へび》のようにうねっているのである。
藤吉郎はその一つをとり上げ、さしを切ってこきおとして、一つかみずつ小者らにやった。
「おらがはじめて奉行という名のつく役についての仕事じゃ。心祝いのため、進ぜる。この仕事がめでたく行くよう、おぬしらも祈っていておくれや」
藤吉郎の気前のよさは、前から知っていることだが、今日はとくべつ豪気《ごうき》だ。皆よろこんで、くりかえし礼を言って帰って行った。
藤吉郎はのこり十九本のサシを一旦《いつたん》杉なりに積んでみたが、それほど景気よく見えない。全部のサシをぬいて、ごちゃごちゃにして山形に積み上げてみた。とうてい二十貫文くらいとは見えない。百貫文もありそうで、なかなかの眺めだ。
(よっしゃ! これならききめがあるやろ)
大いに満足であった。
そのままにしておいて、また外に出て、焚火《たきび》にあたった。
その頃から、工事がかりの中間《ちゆうげん》らが出て来た。
「お早うござい」
「お早うござい」
とあいさつする。藤吉郎とは朋輩《ほうばい》なわけだが、この普請中は藤吉郎は奉行だ。中間らはくすぐったいような顔をしている。藤吉郎だって、平静な気分ではないが、こんな時、てれたり怯《おく》れたりしては、見くびられて、万事の調子が狂って来ることを、よく知っている。
「ああ、お早う!」
と、にこにこしながら、元気な声で答礼した。
中間らは、作事《さくじ》小屋の前まで来て、小屋の中に積み上げてある銭の山を見て、どきりとした風で、しばらく凝視《ぎようし》し、それから藤吉郎の方を見た。
中間らにつづいて、百姓や小者らがぼつぼつと集まって来て、忽《たちま》ち多数になった。
明け六つの太鼓《たいこ》がお城の矢倉《やぐら》からとうとうと鳴りひびくと、藤吉郎は立ち上り、皆に作事小屋の前に集まるようにさけんだ。からだは小さいが、声はおそろしくでッかくて、よく通るのである。
「さあ、これから仕事にかかるのやが、先ず組分《くみわけ》をしよう」
といって、全員二百人を一組十人ずつの二十組にわけた。組頭もきめた。
先ず修理すべき塀《へい》の方に向かせた。
「さあ、ようく見とおくれ。普請の場所は全部で百|間《けん》や、二十に区切ると一区切五間ずついう勘定になる。オマンらの一組十人で、五間の塀をこしらえるのや。一人あたりに割りあてると、三尺ずつや。どやな、一生懸命働いたら、二日か三日で出来るやろが。土台に石おいて、柱立て、くいを打ち、屋根をふき、コマイをして、土をぬり、その上にシックイで化粧するだけや。出来るやろが」
と言った。
人々は目の前の普請すべき場所を見た。そこには、昨夜のうちに藤吉郎が五間|毎《ごと》に打ったくいが、白い紙シベをつけてはっきりと見えて立っていた。十人かかって、わずかの五間だ。二日では無理でも、三日か四日かかったら、りっぱに出来そうであった。人々はうなずいた。
「わかったら、もう一ぺんこっちゃ向いておくれ」
とむかせて、
「向いたら、作事《さくじ》小屋の板の間見とくれ。そっちゃとこっちゃの端の方にいて、見えにくいもんは、かまへんけに、ここへ来て、よう見とくれ。わかるやろ。むしろしいて、銭《ぜに》がうんとこさ、山形にもり上げてあるやろ。あれは、今日の夕方までに、仕事が丈夫にまたよう進んだ組の者全部に、一つかみずつほうびとしてやろう思《おも》て、用意してあんのや。よっぽど仕事が出来れば、一つかみずつどころか、二つかみずつ上げるで。そのつもりで、せい一ぱい働いとくれ」
山の端《は》を少し離れた朝日が窓から真直ぐに作事小屋に入って、そこにもり上げられている銅銭の山を照らし出していた。現代の人が青銅の穴あき銭の山を見たとて、格別な感慨がおころうはずはないが、この時代の銅銭はなかなかの使用価値があった。読史備要収録の金銀米銭相場一覧によると、この年すなわち永禄二年の五月七日米の値段は、一文で二合買えた。今日米は一升《しよう》百四、五十円のものだろうが、仮に百五十円としても、銅銭一枚は今日の三十円の使用価値があったわけだ。これは東福寺|文書《もんじよ》による調査であるから、京都の相場だ。米どころである尾張あたりでは一文で三合ないしは四合くらい買えたかも知れない。それほどの使用価値のある銭が山をなしてざくざくともり上げてあり、働きの工合《ぐあい》ではそれを一つかみも二つかみもほうびとしてくれるというのだから、百姓らがぞくぞくするほどうれしくなったのは当然のことだ。声のないどよめきがおこり、波立った。
その気合を見て、藤吉郎はまた言う。
「それから、もう一つ、皆によろこんでもらわんならんことがある。昼になったら、餠《もち》と酒が来る。これは昨日《きんの》言うたように、夕方仕事上りに、皆に同じように持ってもどってもらう。酒の所望なものには二合ずつ、餠のほしいものには四つずつや」
人々は有頂天《うちようてん》になった。早く仕事場に駆けつけて仕事にかかりたいという様子がありありと見えた。
「さあ、それではかかっておくれ!」
という藤吉郎のことばが口を離れるか離れないかに、人々は先きを争って道具小屋に殺到し、道具をつかみ取るや、それぞれの持場に走りついて働きはじめた。すでに石材や柱材は前の奉行の時集めて、あらかた用意がすませてある。人々は土を掘り、石材をおき、貫《ぬき》を柱に通して立て、支柱で固定し、屋根を組んで行った。さかんな掛声がたえず上っていた。百間の普請場に人々がとりついて営々として働いている様子は、みみずに蟻《あり》がたかっているように見えた。
藤吉郎は下役《したやく》の中間《ちゆうげん》を、作事奉行の役所に走らせて、塩を十俵要求した。
「何に使うのじゃと言わしゃったら、壁土にまぜるのでござる。今の季節の空気では、壁が乾くまでに凍ります。凍ればはがれてぼろぼろになりますよって、凍らせぬためにまぜるのでござると、こう言えや、心得たやろな。もろたら、手車借りて運んで来ておくれ」
「心得ました」
「急いでおくれや」
中間は走って行った。
藤吉郎は、作事小屋の前に床几《しようぎ》をすえ、中間らを側において、鋭い目で普請場《ふしんば》を見まわし、気のついたことがあると、すぐ中間を走らせて注意した。彼は自分がひとかどの武将になり、軍勢をひきいて合戦の場に臨んでいるような気がしていた。軍勢は人夫らであり、手もとにひかえている中間共は使番だ。快い興奮がわき上り、こめかみには強く血が脈うち、酔っているような気持であった。
人々がよく働き、調子よく仕事がはかどっているので、藤吉郎の意気は益々《ますます》昂揚し、英気が渾身《こんしん》にあふれ、自分が雲つくばかりの巨人か、高い一本杉の梢にとまって鋭い目で下界を睥睨《へいげい》して獲物《えもの》をさがしている鷹《たか》か鷲《わし》に化したような気もしていた。なあに、実際は川原の砂利の上にとまっているミソサザイが、胸をそらして気取っているくらいの恰幅《かつぷく》なのだが。
四ツ時(十時)の小休みには、茶を接待し、作事奉行から漬物《つけもの》を出してもらって茶うけにあてがった。前の奉行の時には湯さえくれなかった。茶うけに至ってはなおさらのことだ。皆くみおきの生ぬるい水をがぶがぶとのんで、渇きをとめたのだから、人々のありがたがることは一通りでなかった。
人を使うのにあまやかしてばかりいてはいけないことは、藤吉郎は知っている。人間はなれ易いものだ。とくに楽なことにはなれやすい。雑穀を常食としている者がたまに米の飯を食うと、天下にこれほどうまいものがあろうかとまで感嘆するが、それが毎度の食事になると、格別美味とも思わず、さらに一層の美味がほしくなるのが人間の性情だ。背負ってやれば、次には抱けと要求するのが人間の常だ。この性情があるために、人間は原始のみじめさから、次ぎ次ぎに工夫を積み重ねてここまで来たのだが、問題を使う人間と使われる人間との関係にしぼると、そう大づかみなことは言っておれない。恩恵ばかりをほどこしていてははてかぎりがなく、こちらが窮《きゆう》するだけでなく、恩恵のききめもなくなる。だから、人を御《ぎよ》するには苦と楽とを適当にからみ合わせることが、恩恵に常に新鮮感をもたせ、従って効果あらしめる方法であることを、藤吉郎は知っている。彼が人に言われないほどみじめな多年の間の生活体験の間に得た知恵の一つは、人間心理の秘奥《ひおう》の読みとり方であった。
しかもなお、この普請で、彼がこんなに人々を厚遇するばかりか、人夫らを浮き浮きと夢見心地にするほどの気前のよい褒美《ほうび》を約束したのは、彼にとってこの仕事が生死|栄辱《えいじよく》の岐《わか》れ目《め》であるからであった。この仕事をしくじれば彼は殺されるのであり、この仕事に成功すれば、信長は彼の人物才能を認め、二段も三段も抜擢《ばつてき》してくれるに違いないからであった。人間が生涯のうちにいく度か出逢《であ》う最も大事な場の一つであった。どんな無理をしても、どんな代価をはらっても、ぜがひでも、これはしとげなければならないと思ったのであった。
藤吉郎は人々の休んでいる間を利用して、普請場を見て歩き、手際よく、また最もはかどっている個所の前に立ちどまると、
「この組の組頭は誰や?」
と大きな声で言った。
四十年輩の百姓がひょこひょこと出て来た。
「おらですがな。どこぞいかんとこがありますかいな」
「ああ、オマンかあ。いかんとこやない。手際も目立って見事やし、はかどりも速いけに、感心しとるとこや。ようやったなあ。おれ向うからずっと見とったが、オマンのさしずぶりも見事やったが、組下の衆《しゆう》のはたらきぶりも尋常でなかった。あんのじょうや、仕事ぶりが違うで。このままではおけん。組の衆を連れて、作事小屋の前に来とォくれ。ほうび上げんならんわ」
といって、作事小屋の前にかえって来ると、その組の者が十人ぞろぞろと集まって来た。藤吉郎は一人あたりに五文ずつ、組頭には七文、
「皆ようやってくれた。あとも頼むで」
と言って、一人一人に手渡しておいて、普請場一ぱいにひびく大きな声で、
「みんなも聞いとくれ。ええしごとしてくれれば、どの組にかて、ほうび出すのやでーッ! そのつもりで働いとォくれ!」
と呼ばわった。あらゆる機会を利用して、人々の奮発心をかき立てなければならないのだ。そうするには、今の藤吉郎としては、人々の利得心に訴え、これをゆりうごかすより手はない。地位もなければ、人の信用を買えるような経歴もない身としては、いたし方ないことなのである。
十人が褒美《ほうび》の銭《ぜに》をもらったのを見、また藤吉郎の叫びを聞いて、人々はどよめいた。このどよめきは、とりもなおさず、藤吉郎の策が大いにききめがあったことを意味する。
(うまく行く、うまく行く)
余談だが、秀吉にもの惜《お》しみの心が露ばかりもなく、賞賜《しようし》をおしまず、わずかな手柄《てがら》にたいしても当人がおどろくほどの褒美をくれるのが常であったというのを、古来美談として、秀吉はその素姓《すじよう》の卑賤《ひせん》であったにもかかわらず、寸毫《すんごう》も卑吝《ひりん》な心のない人であったと激賞しているが、素姓が卑賤であったればこそ、切ればなれよくしなければならなかったとも解釈出来る。最も卑賤な境遇から成り上ったために、真に信頼出来る譜代《ふだい》の有力な重臣を持たなかったので、賞賜をうんとはずんで人の心を攬《と》るよりほかはなかったのだという解釈だ。この点、小身《しようしん》でも大名の家に生まれ、数代恩顧《おんこ》の家臣群を擁していた信長や家康とは根本的に条件が違うのである。
秀吉の方法、従って秀吉の功業、秀吉の運命を解釈するに、彼の素姓にたいする劣等感は、その容貌や体格の醜悪矮小《わいしよう》にたいする劣等感とともに、最も重要な鍵である。彼の空前絶後の栄達はつまりはそれらの劣等感を跳躍台としてかち得られたものと言えるのである。
二
小休みがすんで、また仕事にかかった頃《ころ》に、酒肴《しゆこう》と餠《もち》とがかつぎこまれて来た。
「この通り、酒も餠も来たでえ! 約束通り、仕事あがりに持って行ってもらうのや。みんな精を出しとくれえ!」
と藤吉郎はさけんだ。
人々の働きぶりは一層《いつそう》よくなり、仕事はぐんぐんはかどった。昨日までぐずらぐずらと進まなかったのが、こうしてとんとん拍子《びようし》にはかどると、欲がなくても励みが出るのが人情だ。その日の夕方にはほとんど全部の組がコマイをすませた。荒壁まで塗り上げているのも幾組かあった。
藤吉郎は点検して、出来ばえもまた見事であるのを知って、約束通り、それらの組の一人一人に一つかみずつの銭をあたえた。全員に約束の通り餠や酒をあたえたことは言うまでもない。
すると、仕事の遅れている連中が言う。
「おら共、夜なべして追ッつきてえですが、追ッついたら、おら共も銭がもらえますかの」
「そら奇特な心掛や。追いついたらやるで。そのかわり、明日の仕事にさしつかえるなや」
「大丈夫ですだ」
その連中は、寒げに星のまたたいている空の下で、松明《たいまつ》をつけて、なお一刻《ひととき》(二時間)以上ものこって、土をこねて荒壁をすませた。
「ようやったな。よう出来たで。えらい寒うなったのに、ご苦労やったな」
藤吉郎はねぎらって、銭をあたえてかえした。
その夜はとくに寒気がきびしく、夜半になると部屋に寝ていてさえ、顔がばりばりするほど冴《さ》えて来た。
藤吉郎は作事《さくじ》小屋に夜具を持ちこんで寝ていたが、起き上って、松明をつけて見てまわった。小屋の前においてある手桶《ておけ》から水を飲もうとしても、柄杓《ひしやく》がこおりついてとれなかったほどだが、壁はどこにも異状はなかった。用心してうんと塩をまぜてこねさせた壁土は、ぬれぬれとした色で松明の光を反射していた。
(ようこそ塩をまぜた)
小屋に入って寝たが、心配になって、いく度も起きて行ってしらべた。行く毎《ごと》に壁は少しずつ乾きを見せてはいたが、凍る模様はなかった。
七ツ(午前四時)にはもう起きて、昨日のように普請場を検分してまわり、諸道具を働きやすいように整えてから、焚火《たきび》をし、井戸ばたに行って顔を洗った。朝飯がわりにしようと、焚火で餠《もち》を焼いていると、薄明るくなった向うから来る二人づれがあった。ようやく近づくと、一若とその組下の若者であった。若者は岡持《おかもち》をさげていた。
「おや、義兄《あに》さん、ゆんべは宿直《とまり》か」
と、藤吉郎が言ったが、一若は返事もせず、もう中塗をするばかりになっている塀《へい》をずっと見て行き、見て帰って来て、
「やあ、お早う。ようここまで一日のうちにやりつけたな。おどろいたわ」
と言った。
「二十組にわけて、割普請《わりぶしん》にして、褒美《ほうび》をうんとこさはずんだのですわな」
「その話は昨日《きんの》のうちに聞いていたが、ようここまで漕《こ》ぎつけたのう。おらは気になって、昨夜《ゆんべ》のうちに見に来たかったが、恐ろしゅうて、ようこちらに足が向かなんだ。ようやったものや。われは知恵者じゃ。おどろいたわ」
一若は感動のあまり、泣き出さんばかりだ。藤吉郎も感動したが、おさえて、また聞いた。
「義兄さん、ゆんべは宿直か」
「とまりやなかったが、おともが、この普請がすむまで心配で心配でならんさけ、お前さんずっとお城に泊まりこみで気ィつけとくんなはれと言うものやさけ、泊まることにしたのや。おとものやつ、おらよりわれの方がよっぽどいとしいらしいわ」
と、一若は笑って若いものに持たせて来た岡持のなかみを取り出して、藤吉郎の前にならべた。飯椀《めしわん》と汁椀《しるわん》が一つずつ、香《こう》のものもそえてある。面桶《めんつう》と小鍋《こなべ》のふたをとると、飯と味噌汁《みそしる》が入れてあって、いずれもほかほかと湯気が立ちのぼった。ひえ切った鼻に、味噌汁の香気とあたたかい飯の匂《にお》いとがなつかしくもやもやと来て、腹がぐーと鳴った。
「おお、おお、これをわざわざ持って来ておくれだったのかいな」
「ああ、食べろや」
「ありがたいことや、おら餠ですまそうと思うていたとこでしたわ」
ちょうど餠が焼き上ったところであったので、これは岡持を持って来た若い衆にやって、合掌《がつしよう》して、箸《はし》をとった。飯を口にして、汁を口にふくんだ。恐ろしくうまかったが、とたんに、一若の志、そして姉の愛情が胸にせまって、口にしたものがのどにからみ、むせた。椀と箸をおいて、一若にむかって合掌した。
「義兄《あに》さんや、姉《あね》さんや。この恩は一生忘れまへんで」
と言った。涙がぽろぽろとこぼれて来た。
「何いうてんのや、これしきのこと。縁につながる兄弟ならあたり前のことやがな」
と、一若も笑いながらも鼻をつまらせていた。
食事がすんで、一若らが引き上げて行った頃《ころ》から、下役《したやく》の中間《ちゆうげん》らが出て来て、つづいて人夫らが出て来た。昨日一日のことで、皆大いに藤吉郎に打ちとけた気持になっている。皆気軽にあいさつに来る。
「お早う。きんのはえらい働きやったが、疲れはせなんだかえ。今日も頼むで。ほら、見なよ。オマンらが気ィつけて、一生懸命はたらいてくれたおかげで、ゆんべの寒さにも、ちょっとも凍ってへん。おらうれしいわ。礼言うで」
藤吉郎は一人一人に、ていねいに明るく答礼して、昨日の礼を言う。人にお世辞を言うことをてれてはならないと、藤吉郎は思っている。軽薄か重厚かは、実行がともなうかともなわないかできまる。口先きだけでほめて実際の報《むく》いようが足りなかったり、こちらに用事のある時だけちやほやしてふだん冷淡であるのが軽薄だ、これでは人の信を得ることは出来ない。しかし、言行を一致させるかぎり、どんなに大袈裟《おおげさ》にほめても、人はよろこび、大いに信頼してくれるのだ。藤吉郎はこれをこれまでの体験で知っている。
「さあ、さあ、あたりなさろ。どんどん焚《た》いて煖《あたた》まりなさろ」
と、人々をあたらせて、くったくなく四方山《よもやま》話をした。気さくで、明るくて、よく笑う藤吉郎の態度にひかされて、百姓らもいろいろと話をしたが、その一人が、ここへ来る途中、鷹狩《たかがり》にお出でになる殿様と行き逢《あ》って面くらったという話をした。
「おら茂助を誘って、藪《やぶ》ン中の道を抜けて、街道に出て、琵琶島《びわじま》の渡しの近くまで来ると、向うの方からカッポカッポいう馬の足音が近づいて来んのよ。旅の衆《しゆ》じゃろか、よっぽどの早立じゃのうと、茂助と話しながらだんだん近づいた。白みかけては来ていたが、まだ薄ぼんやりしていたさけ、近づく姿は見えても、誰《だれ》じゃかわかるはずはねえ。そんでも、もしかして、お武家やとこわいけに、ずっと道のわきを来ると、つい目と鼻のところまで来てから、お馬に召《め》したのが殿様とご近習衆《きんじゆしゆ》、徒歩《かち》立ちのが鷹匠衆《たかじようしゆ》と中間衆とわかって、肝《きも》ッ玉がでんぐり返った。ウヘーッと這《は》いつくばったわな。
塀へい普請《ぶしん》に行くのじゃな。よう働けよ
と、殿様はお言いなすって、カッポカッポと行き過ぎなされた。おら、この頃《ごろ》、こげいにびっくりしたことねえ。まァだ胸がどきどきするような」
と言ったのである。
琵琶島の渡しということばが出たので、藤吉郎は殿様はまた三河境の方へお出でになったのだと思った。
(必ず夕方一度は見まわりにお出でになる殿様が、昨日はお出でにならなかった)
と、気がついた。
(おらが四日と日を切ったさけ、期限まではごらんにならないつもりなんやろか。甘う考えれば、おらを信用しなさってやろうが、そうではあるまい、四日目に来て、出来とらなんだら、おらをさんざんに叱《しか》り、なぶりものにした上、首斬《き》ろうと考えなさってのことにちがいないわ。殿様はあれでなかなか底意地の悪いところがありなさるけに)
と、思った。
こう考えたことが思いつかしたといえる。
「よッしゃ! 殿様が夕方帰って見えた時には、きれいに仕上げておいて、お目にかけようわい!」
と、一足とびな決心が出来た。
信長がどんなに驚き、どんなに満足し、どんなに自分をほめ、自分を認め、自分を気に入るようになるかと思うと、胸がわくわくし、目がくるめくような気になった。
(やるとも! やってこますとも!)
と、ふるえる胸にくりかえした時、六ツの太鼓がとうとうと鳴りはじめた。藤吉郎は身ぶるいして立ち上り、昨日のように人々を作事《さくじ》小屋の前に集めて、また演説をこころみた。
「オマンらの精一杯な働きで、思いのほかに仕事がはかどったので、殿様もさぞご満足であられようと、わしはまことにうれしゅうござる。わしの面目でもあると思うと、これまたうれしゅうござる。今日はここにまたオマンらにお願いがござる。オマンらも見る通り、普請はあともう中塗と上塗をすませば、すっかり出来上るところまで来ている。一つ今日中に全部仕上げてくれなさらんか。今から中塗にかかって、四ツ(十時)までに中塗をすませ、かれこれ道具を片づけたり、掃除をしたりして、中食《ちゆうじき》時にかかり、一刻《ひととき》(二時間)ほどして八ツ|刻《どき》(二時)になったら、中塗もほどよう乾いとるやろから、上塗にかかる。すんで、あと片づけするのはちょうど日の暮れる頃になるやろ。どや、一つ気張っておくれんか。そのかわり、今言うた時までに仕上ったら、一人のこらず一つかみずつ銭やる。中にも一番早う仕上げた組は一人に二つかみずつやろ。中塗の時かて、早くて上手に仕上げたら、これまた褒美上げよ。引受けてくれるかのん」
やりますでえ! という声が方々からおこった。
「やあ、ありがたい! ほなら、頼む。さあ、かかっとくれ!」
人々は大急ぎでわが仕事場に走って行った。大車輪だ。なにをするにも、のそのそしている者はない。小走りに走って小手まわしよくきりきりと働いている。
万事予定の通りに行った。四ツの小休みまでにどの組も中塗をすませ、あとは中食時まで片づけものをし、中食時から先きは上塗のしっくいを練ったり、道具類をとりそろえたりして、八ツになるのを待った。時刻になると、一斉《いつせい》に上塗にかかった。わずかに五間、十坪はないのである。七ツ(四時)頃にはどの組も塗り上げてしまい、間もなくあと片づけも掃除もすました。
「ようやってくれた。よう出来た。見事なものや。皆もよう見ておくれ。皆オマンらがしてくれたのやで」
と、藤吉郎は皆をねぎらった。人々は自分らの労働のあとをしみじみとながめ、大いに満足した。二日前まで野良犬が掘りくり返したように無様《ぶざま》な様子をしていたそこに、雪のように真白な壁を夕日にかがやかせ、一|間毎《けんごと》に柱を立て、屋根まで葺《ふ》いた塀《へい》が、百間の長さにわたってつづいているのを見ると、自分らの力に驚嘆し、また自足する心をおさえることが出来なかった。
藤吉郎は一人一人に一つかみずつの銭《ぜに》をあたえ、最も成績のよかった組には二つかみずつあたえ、中塗の際に成績のよかった組もちゃんと見ていて、これには十枚ずつ余分にやった。すべて約束した通りにした。餠《もち》も酒も持たせた。
「さあ、これでざっと済んだ。皆もう帰ってええが、わしが約束したことはきっと果す人間であることは覚えといておくれ。そして、これからまたわしが殿様のご用をつとめるようなことがあったら、そのつもりで一生懸命働いてくれ。よろしゅうお頼みしときますで」
と、言った。皆名ごりおしげにあいさつして帰って行った。
そのあとで、藤吉郎は中間らをさしずして、塀の腕木《うでぎ》に松明《たいまつ》を結びつけさせ、さらに掃除して水をまかせた。やがて鷹狩《たかがり》から帰って来るであろう信長に、完成したことを報告し、検分してもらうためであった。売物には花を添《そ》えよという。役目としては塀をこしらえさえすればよいわけだが、塵《ちり》一つとどめないように掃除し、打水した上で見てもらえば、一層出来ばえが引き立つというものだ。
これらのことが出来ると、のこっていた酒と餠を全部中間共にやった上に、
「夫役衆《ぶやくしゆう》のおかげとはいいながら、オマンらがわしのさしずに従って小まめに走りまわってくれへんだら、こげいまで思うようには行かへなんだ。お礼せなならんわ」
といって、銭もまた二つかみずつやった。
二十貫文――二万枚という銭は大きい。二日の間これほど気前よくばらまいても、まだ五貫文くらいはのこっていた。それは最初に持って来た樽《たる》の一つにおさめて、一若のところへ持って行かせた。
三
藤吉郎は中間の一人を城外の信長の帰って来べき道筋に出し、もし信長の姿を見かけたら、松明《たいまつ》に火を点じて合図せよと言いつけ、他の中間らには合図を見たら、塀にとりつけた松明に火を点ぜよと言いつけておいて、自分は城門の外の橋の上に出て、信長の帰りを待った。
とっぷり暮れて、橋の上を吹く風がずいぶん寒くなる頃、新しく普請した塀のあるあたりの空がぽっと明るくなった。信長の帰って来る道筋から合図があって、塀にとりつけた松明に点火したに違いなかった。
(やれ、帰って見えたぞ)
と、待つ間もなく、信長らの姿があらわれた。徒歩で供をしている中間が松明をもって一行の前に立っている。藤吉郎は橋の真中に土下座《どげざ》して待った。三、四間まで迫った時、
「恐れながら、猿《さる》めでございます」
と呼ばわった。
「やあ、猿! どうした?」
信長は叱咤《しつた》するような声で言いながら、かまわず馬をすすめて来た。
「仰《おお》せつけをこうむりました塀普請、今日|成就《じようじゆ》いたしましたれば、それを申し上げたく、ご帰城をお待ちしていました」
その時信長の馬はつい鼻先に来ていて、手綱《たづな》をしぼってとめた。
「なんじゃとォ? ほんとか? まだ二日にしかならんぞォ!」
おどろいた声だ。藤吉郎はぞくぞくするほどうれしかった。おどろかせ、そして感心させるために骨おったのだ。しかし、こんな時得意な様子を見せてはいけない。ごく平静に、出来るなら悄然《しようぜん》として、失敗した者のごとくふるまう方がよいのである。
「ほんとでございます。ご検分たまわりますなら、ご案内つかまつります」
と、つぶやくような声で言った。
「出来たのじゃな? 出来たのじゃな?」
せきこんだ調子だ。
「たしかに出来ましてございます」
「よし! 案内《あない》せ。検分してくれる」
塀の腕木の一つ一つにつけた松明《たいまつ》がのこらず火がつき、明りわたっているところは、祭の夜のようなにぎやかさであった。針の落ちているのもはっきりと見えるほどのその明るさに、塗り立ての白壁と、整然たる柱の列と、新しい木口とが、真昼の光で見るよりもあざやかでまた美しい。
信長は馬をおり、鞭《むち》を片手に、むんずと口を結び、鋭い目つきで見て行き、見てかえって来たが、引添《ひきそ》って歩いている藤吉郎をふりかえった。にこりと笑った。
「やったの、猿。あっぱれじゃぞ」
「はっ!」
お気に入るようにと十分な手を打ち、十分な自信もあったことだが、覚えず膝《ひざ》の力がぬけ、へたへたと居すわった。両手をついた。自失したような気持で言っていた。
「ありがとうございます。ありがとうございます。ご威光をいただいていればこそのことでございます。百姓衆も、お中間衆も、てまえの言うことをよく聞きわけ、よく働いてくれました。てまえの手がらではございません」
いつわりない涙に、声は濡《ぬ》れた。もっとも、それは百姓や中間らにたいする感謝の涙というよりも、一切の計画がうまく行ったことにたいするうれし涙という方が適当なものではあったが。
「われとしては、そう言わねばならぬところであろうが、おれはわれが働きとしか思わぬ。ようやった。ようやった。あっぱれじゃ。われほどのものに、いつまでも草履《ぞうり》をとらせておくことは出来ぬ。今からわれはさむらいじゃ。扶持《ふち》などのことは、あとで沙汰《さた》する」
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
平伏したまま、くりかえすだけであった。つめたい大地につかえている両手の甲を、湯のような涙が濡らした。
中間と士《さむらい》との間には足軽《あしがる》と徒士《かち》の二階級がある。中間は兵のうちには入らない。軍夫や雇員にあたるものである。足軽に至ってはじめて兵のうちに入る。兵卒である。その上が徒士、下士官である。その上が士、将校である。このわかちは身分の規制であって、禄高《ろくだか》には関係がない。時として士より徒士の方が扶持の多いこともあった。旧軍隊でも、准尉《じゆんい》の方が新任の少尉《しようい》より俸給《ほうきゆう》が多かったものだが、そんなものと思えばよかろう。
藤吉郎は、中間から一飛びに士分に抜擢《ばつてき》されたのだから、軍夫からいきなり将校にされたようなものだ。信長に自分の才能が認められ、抜擢されることを目的として、計画一切を立てて推し進めて来たのであるが、これほどの抜擢は意外であった。せいぜい徒士に引上げられるくらいのことと見当をつけていたのである。感激したのも道理であった。
翌日、信長は扶持をきめた。五人扶持というのである。一人扶持とは一日玄米五合の割で支給される禄米《ろくまい》のことだ。五人扶持では二升五合だ。今日なら日割にして三百七十五円、月収にして一万一千二百五十円くらいというところ。薄給だが、独身ならどうやら生活の立たないことはない。
何はともあれ、藤吉郎は士分《さむらいぶん》になれたことがうれしかった。つまりは松下家に奉公していた時と同じに過ぎないではないかと言えばそれまでのことだが、あれは他国、これは生まれた国でのことだ。大分違う。武家奉公人として、中間や足軽では一人前とはいえない。徒士《かち》なら先ず一人前だが、それでも百姓らから十分に尊敬されるとはいえない。士分になってはじめて尊敬されるのだ。自分を軽蔑しきっていた在所《ざいしよ》の連中も、もう自分を軽く見ることは出来ない。無礼をはたらいたら討捨てることだって出来るのである。そんな阿呆《あほう》なことをする気は毛頭ありはしないが、てんから資格のないのと、資格はありながら使わないのとでは、大いに違う。財布に仰山《ぎようさん》銭を持って、市《いち》をぶらぶらとひやかして歩くのは、鎌|一挺《いつちよう》買わんでもうれしいものである。
士分になっては、もちろん中間部屋《ちゆうげんべや》にいるわけには行かない。しばらく一若の家に厄介になっていたが、数日の後、役目がついて、炭薪奉行《すみまきぶぎよう》を命ぜられたので、その宿直《とのい》べやに住むことにした。
これまでは士になれれば望みは足りると思っていたのだが、なってみると、普通の士ではやはり不安であることがわかった。松下家でのように、あんなに主人に気に入られていても、あっさりとひまを出されることもあると思うと、せめて物頭《ものがしら》くらいにはならないと、安心出来なかった。
(もう二、三段上らにゃ、どもならん)
と、思うのだ。
そのためには、どんな役目でも、精一ぱいな勤め方をして、殿様のお気に入られるにかぎる、それが一番の近道であるとは、かねてから知っているところだ。
ことに、こんどの役目を仰せつかった時、信長は、
「この城内での薪炭《まきすみ》の費用が年に千石もかかっている。かかりすぎると思う。いるものを簡略《かんりやく》(吝嗇《りんしよく》)は出来ぬが、無駄はやめたい。われが働きで、いくらかでも切りつめることが出来れば、われが手柄《てがら》じゃ。工夫するよう」
と言ったのだ。信長は藤吉郎の手腕《しゆわん》と才覚に期待しているのだ。何としてでも、その期待にこたえなければならないと思った。たんにこたえるだけではなく、あッとおどろかせるほどの成績を上げなければならないと思った。藤吉郎のような身分の出のものは、普通の功績では人の心をゆり動かすことは出来ない。おどろかせるほどの功績でなければならないのである。それはいつも考えていることである。
数日の間、城内をまわって、薪や炭の使用工合を見た。その後、台所の炉《ろ》にむかって自分で焚《た》いてみて、一日にどれくらいの量がいるものかを実験してみた。それを基準にして計算してみると、従来の半分くらいで上りそうに思われた。
なお節約の方法はないかと工夫して、新しいかまどを考案した。城内多数の炉の中には、単に湯をわかし、その湯がさめずにいればよいというだけのものが少なくない。こんな炉に煖《だん》をとるための普通の炉のように四方あけっぱなしで、どんどん火を焚いているのは無駄なことである。
藤吉郎は焚口《たきぐち》を一方だけにした。風炉《ふろ》の形をしたかまどを土でつくり、これまでの囲炉裡《いろり》や火鉢《ひばち》の中にすえた。この工夫で、炭の消費量はさらにへり、極寒《ごつかん》の季節であるのに、春秋の相当あたたかい頃《ころ》と、総体の消費がほとんど違わなくなった。
節約ということは、人に好かれるものではない。自分のものを節約するのは大ていやむを得ない事情があってのことだから、がまんもするが、主人の家の費用が従来より切りつめられることは、奉公人にはうれしいことではない。
「猿《さる》めがおのれの貧乏人根性で、妙なことをはじめた。窮屈《きゆうくつ》でならぬわ」
と、言う者が多かったが、実際には不自由がないのだから、やがて落ちついた。
新しい年になってから、同じ期間の去年までの消費量と今年の消費量とを書付にして、信長にさし出した。
信長は藤吉郎を呼び出して、説明を聞き、数か所の火を焚《た》く場所を見てまわった後、その報告にいつわりのないことを知ると、上機嫌《じようきげん》になって、
「おれが見こんだに、ちっとも違《たが》わぬ。小気のきいたいたし方、炭薪奉行にはもったいないわ。今日から秣《まぐさ》奉行を仰せつける。しっかりとつとめい」
と言ったのである。
炭薪奉行は日常生活に関係のある職で、戦争には関係がないが、秣奉行は兵糧《ひようろう》奉行とともに戦争に直接関係のある役目だ。兵糧奉行ほどの高い役目ではないが、職責としては重要な役目である。太平の時代と違って、戦さが常住にあり、軍事が武家の本職といってもよいこの時代では、炭薪奉行からこの役へ転じたことは、さらに一段を上ったと言ってよい。
「ありがとうございます。根《こん》かぎりのご奉公をつかまつります」
感激して言ったのである。
四
三月半ばになると、今川上洛《じようらく》の意図《いと》はずいぶんはっきりして来た。今川家自身はまだ公式な発表はしないが、織田領との接壌地帯の城々、大高《おおたか》、鳴海《なるみ》、笠寺《かさでら》、それからずっと北の瀬戸の近くの品野《しなの》等の城に、兵員を増加して、守備を強化しはじめたのだ。織田方でも対策を講じた。鳴海城にたいしては丹下《たんげ》、善照寺《ぜんしようじ》、中島の三か所に砦《とりで》をきずき、大高城にたいしては鷲津《わしづ》、丸根《まるね》の二か所に砦をきずいた。この二城は今川家の前線基地として最も堅固でもあり、この両城の間に東海道が通じ、これが義元の進路となるであろうと予想されたので、かくも防備を集中したのであった。
しかし、これらの砦をきずき、それぞれに守将をこめただけで、信長は他に準備をしている風は見えない。ただ毎日のように、この地方に鷹狩《たかがり》して、そのついでにそのへんの庄屋《しようや》の家や、神社や、寺などに立ちよって休息して茶を所望したり、持参の弁当をひらいて、ちょっとばかり酒をのみ、その家の主人にも盃《さかずき》をくれたりして、のんびりと世間話をしているという。
今はもう秣《まぐさ》奉行である藤吉郎は供《とも》に出ることが出来ないから、供に出ている昔の朋輩《ほうばい》である中間《ちゆうげん》らから話を聞くよりほかはないのであるが、前にはなかったそうした信長のふるまいが、ただごととは思われない。
(なにを考えていなさるのであろう。庄屋といい、神社といい、寺の住職といい、民のなかのおも立った者や。その者共とことさら懇親を結ぼうとなさっているのは、何か今川家との戦さに用立てようとのお考えにちがいないが……)
と、考えずにいられない。
(今川勢が来た時、一揆《いつき》をおこさせようと考えて、手なずけてお出でるのやろか。……いやいや、そげいなあぶないことを、引受けるわけがない。一揆など起こさせるためには、かねてからよほど善政をしいて、民に慕《した》われているか、たった今よほどに大きな利をくらわした上に、戦さが勝ったあとのほうびもよほどのものを約束するかせなならんが、あのへんはご当家と今川家とが昔から取ったり取られたりしているところで、別段ご当家の恩徳をありがたがっていやせん。また誰が見たかて、この戦さは勝目はないと思われるやろから、どげいなほうびの約束をしたかて、承知するはずがない。火の上にかけた鉄の丸太橋に油ぬって、その上を渡れというようなものや、引受けるはずがない。そら口先では、はいはいいうておくやろが、本気でないことははっきりしとる。殿様はするどいお人や。それくらいなことのわからんお人やない)
と思うのだ。
(けんど、なにか考えてお出でるに相違ない。このさしせまった時に、あのかしこい殿様が、無駄なことなさるはずがない。今川家の軍勢の様子をあれこれと知らせてくれるようにと頼んでいなさるのやろか。それにしては、念が入りすぎとるなあ……)
いくら考えてもわからないが、何かあるという疑いは消えない。
織田家の家中の人々の心もひどく動揺して来た。重臣衆がいく度となく戦備のことを申し出たという。家中一般の考えは、とうてい野戦では目にあまるであろう今川の大軍にあたることは出来ないから、清洲《きよす》城にこもって戦うよりほかはない、野戦では寡《か》は衆《しゆう》に敵することは出来ないが、籠城《ろうじよう》戦となると十分にやれる、古来の合戦を見ても、寡勢が城にこもって大軍を引受け、見事な戦さをし、ついには勝つことの出来た例が少なくない、楠木正成《くすのきまさしげ》の千早・赤坂の籠城戦を引くまでもないというのであった。重役衆が申し出た意見もそれで、
「籠城よりほかに手はございませんから、城の防備をもっと厳重にすべきであります。兵糧《ひようろう》をうんと集めましょう。濠《ほり》をさらえて深くいたしましょう。砦《とりで》もきずきましょう。城の四方に縦横に掘割を走らせるなどもよろしい。掘割の底に菱《ひし》を立てれば最もよろしゅうござる。方々に柵《さく》をこしらえ、逆茂木《さかもぎ》をひくこともよろしゅうござる」
などと言ったというが、信長はこう言ったという。
「籠城という手は、他に味方がある場合の手だ。その味方が後ろ巻きに来てくれれば、城内から切って出て敵を挟《はさ》み撃ちにして破ることが出来る。あるいは後ろ巻きには来ずとも、わきで大きな力となってあばれ、敵の本国でも衝《つ》いてくれれば、これまた敵は囲みを解いて帰らんではおられん。それを城内から追撃に出る。退色《ひきいろ》が立っている上に、本国が危ないとあっては、いかな大軍も心が乱れて臆《おく》してくるものじゃから、ふみしめる力はない。大体勝てるとしたものじゃ。しかし、今のおれが家にどこに味方がいる? どこにもおりゃァせんぞ。おまけに、この尾張国は四方まっ平ら、川や掘割こそ方々にあるが、大きな川は庄内《しようない》川一筋、舟という舟を全部とりかくしても、百姓家をこぼって筏《いかだ》を組めば、たやすく軍勢を渡せる。あッという間もなく、この城のまわりは敵軍で埋まってしまおう。その方共の言うように、兵糧をうんとかこいこみ、城のまわりを厳重にしても、目にあまる大軍にかこまれ、一月立ち、二月立ち、三月立つ。わきに味方がいるわけでもないのに、人の心がゆるがいでおこうか。必ず裏切り、内応などという見苦しい心をおこす者が出て来る。そんなきたない心はないと、今は皆言うじゃろう。自分でもそう信じているじゃろう。しかし、人の心は弱いものじゃ。前途のひらけるあてもなく、心細うなっている時、敵からうまいことを言うて来てみよ、きっと心を動かすやつが出て来る。いい面《つら》の皮はおれよ。すばやく腹を切らねば、裏切者共に殺されるか、敵に捕えられて縛り首になるだけのこと。おりゃァいやじゃよ。なくなられた親父《おやじ》殿は、さすが小身代からたたき上げたお人だけに、よう目が見えていたわ。万一、大軍をもって当国におしよせて来る敵がいたら、決して籠城《ろうじよう》などするな、必ず領内から踏み出して戦え、戦う者の勇気が違うと、くれぐれも言いおかれた。おれは今それを思いあたっている。おれは鳴海《なるみ》・大高《おおたか》のあたりで戦うつもり」
と言い切ったという。
言われてみると道理ではあるが、大高城と鳴海城とにそなえた五つの砦はいかにも孱弱《せんじやく》だ。
要害も手薄であれば、守兵もすくない。定めて敵は少なくとも二万の兵をもっておし寄せてくるであろうが、怒濤《どとう》のようなその大軍の前には一たまりもないであろう。
それで、その強化を進言すると、
「砦《とりで》はせっせと普請《ふしん》している。兵も出来るかぎりはこめている。この上、どうせよというのだ」
といったという。
これも言われてみるとその通りだ。要害の強化も兵数も、手一ぱいのことをしているのだ。
重臣らは口をつぐみ、胸を暗くして引き退《さが》ったというのである。
こういうことは、機密に属することだが、近習衆《きんじゆしゆ》と親しくしている藤吉郎にはそっと漏《も》らしてくれた者があった。
その近習衆は心配でならない風で、
「こんどこそ、われら死ぬべきの時じゃ」
と、悲壮なおももちであった。
藤吉郎もきびしいものに胸がしめつけられはしたが、胸の底には、なに大丈夫、という気があった。
なぜ大丈夫なのか、よく考えてみて、それは信長がしきりに敵の進路にあたるへんに鷹狩《たかがり》に行き、そのへんのおも立った者と懇親を結びつつあることにたいする信頼に根ざしているのであった。
(殿様ほどのお人や。何かしっかりした手を打ってお出でるにちがいない)
と、思っているのであった。
日はどしどし立って行き、四月になり、それもあと二日をのこすばかりになった日の夜、駿河《するが》に入っている忍びの者が馳《は》せかえって来た。
「いよいよ、治部大輔《じぶのたいふ》は上洛の途《と》につきます」
といって、この五月一日の日付で領内と属領内の武士らに出すことになっている軍勢催促状の写しを差し出した。
「いよいよ上洛の途につく。先鋒隊《せんぽうたい》は五月十日をもって府中を出発、治部大輔は十二日出発するであろう。府中以東の者と府中周辺の者は八日までに着到せよ。遅れても九日を過ぎてはならない。岡部以西の者は、もよりの街道筋に出ていて、所属の隊に入るよう」
という意味の文面であった。
「よしよし、手がらであったぞ。二日も前に知ることが出来て、まことに都合がよい」
と言って、褒美《ほうび》の銀子《ぎんす》をあたえて、退《さが》らせた。
「ついに来るか」
信長は行燈《あんどん》を見つめてつぶやいた。考えに考えぬき、練りに練った方策――成功の確率としては千分の一くらいしかない方策ではあるが、それよりほかに手はないと見きわめをつけ、今日までずっとそれをおし進めて来たのだ。覚悟の定まっている身には、微塵《みじん》も動揺はない。別段心が引きしまって来もしない。
いつか、口ぐせになっている小敦盛《こあつもり》の小謡《こうたい》が口にのぼっていたが、途中で気づいて、うたいやめ、にやにやと笑った。
好運桶狭間合戦
一
五月十日、今川勢の先鋒隊《せんぽうたい》は駿府《すんぷ》を出発した。十二日、義元の本隊も出発した。万事予定の通りである。沿道にはその地方の被官《ひかん》らが待ちかまえていて参加した。これも指令の通りである。総勢二万五千、四万余と声言《せいげん》している。
今川方の先鋒は十五日に尾張と三河の境目に近い池鯉鮒《ちりふ》(今は知立)に到着し、宿営して、本営からの差図を待った。
義元は翌十六日に岡崎に到着した。
これらのことは、全部信長の許《もと》に報告された。
人々の不安と興奮は一通りのものではないが、信長は一向平生とかわりがない。朝起きればすぐ馬場に出て馬に乗り、おわれば弓を引いたり、鉄砲を撃ったり、昼は小姓《こしよう》らに角力《すもう》をとらせて見物し、夜は酒を酌《く》みながら、幸若《こうわか》の太夫《たゆう》宮福太夫というのに謡《うたい》をうたわせたり、舞をさせたりしている。悠々《ゆうゆう》たるものだ。
十七日には今川勢は尾張に入って来て鳴海《なるみ》まで出て、付近の民家を焼きはらっているという報告が入った。
「うむ、うむ、にくいやつじゃ」
といいながらも、信長の態度は少しもかわらない。
重臣らはまた籠城《ろうじよう》を説いた。
「それはこの前とくと言うて聞かせたはず。忘れたか、耄碌《もうろく》するにはまだ早いぞ」
と、信長はきめつけた。
翌日の夕方になると、敵方の大高城にそなえて築いた鷲津《わしづ》城と丸根《まるね》城から間もなく敵がおしよせて来るであろうという報せが到着し、つづいて、義元が沓掛《くつかけ》に本営を進めたことも知らせて来た。
両城とも、城とは名ばかり、砦《とりで》に毛の生えたほどのものだ。守将は、丸根は佐久間大学盛重《さくまだいがくもりしげ》であり、鷲津は織田|玄蕃《げんば》、飯尾|近江守《おうみのかみ》定宗であり、いずれも武勇の士であるが、守兵は四、五百人に過ぎない。必死を覚悟してはいるものの、心細くもあったのであろう、
「急ぎご出陣」
と、しきりに言って来る。その度に、
「うむ、うむ」
と返事はするが、とり立ててどうするでもない。
急を聞き伝えて、重臣らは皆集まって来た。信長はそれを相手に酒宴《しゆえん》をひらいて、悠々と寛談《かんだん》している。さしせまった戦さのことなど一言も言い出さない。
重臣らにしてみれば、雑談などする気にはならない。酒だってうまかろうはずがない。通夜《つや》の席のように陰気な気持になって、にがい酒をなめていたが、信長はひとり愉快《ゆかい》そうだ。
「おい、なんぞ謡《うた》え。今夜は皆がえらいくすんでいる。勇ましいのをやれ」
と、宮福太夫に言った。
「かしこまりました」
宮福太夫は、膝《ひざ》を正し、背筋を立てて、うたいはじめた。朗々たるその曲は羅生門《らしようもん》であった。
ともなひ語らふ諸人《もろびと》に
み酒《き》をすすめて盃《さかずき》を
とりどりなれや梓弓《あずさゆみ》
やたけ心の一つなる
つはものの交り
頼みあるなかの
酒宴かな
能の太夫とか、幸若の太夫とかいう連中は、この時代は幇間《ほうかん》のようなものであるから、こうした場合の主人の心理の洞察には最も鋭い感覚をもっている。重臣らが信長の心理がわからず悲観しきっている時、早くも信長の決意と心に恃《たの》むところのあるのを読みとったのであろう、末尾の「頼みあるなかの酒宴かな」というところを、とくに力強くうたった。
「あっぱれ、あっぱれ、今日は一段とよう出来た。気に入ったぞ」
信長はほめて、小姓《こしよう》に手文庫を持って来させて、中から砂金包みを出してくれた。
こんなことで、次第に夜も更けて来た。
信長はとつぜん大あくびして、沈み切っている重臣らを見て、
「夜もふけた。おれは眠うなった。いずれにせよ、明日は戦さじゃ。皆帰ってぐっすりと寝て、気力を養え」
と言いすてて、寝室に入った。
とりのこされた重臣らは、顔を見合わせた。心配は怒りになり、なげきになっている。
「さて、さて、人の家の運のかたむく時はいたし方のないもの。殿様ほどの方の知恵の鏡も曇った。われらも今は死ぬよりほかのない仕儀となったのう」
と、つぶやき合いつつ、下城して宅に向った。
藤吉郎はもちろん情勢の切迫を知っている。重臣方がご前に集まられたことも知っている。戦さ評定《ひようじよう》が行われているのであろうと推察している。
評定がどんな工合《ぐあい》に行われ、どう決定するか、知りたい。しかし、役目の違う身で評定の場をうろついていては、どんな疑いを持たれるか知れない。がまんしていたが、ついにたまり切れなくなった。近習衆《きんじゆしゆ》の誰かに会ったら様子を聞くことが出来るだろうと、その建物の方に向った。
晩《おそ》い月があるはずだが、雨を持った曇が空一ぱいにかけて暗く、むしむしと暑い夜であった。提灯《ちようちん》をぶらさげて、本丸のご門前まで行きついた時、重臣らの退出して来る姿が見えた。
藤吉郎は道の小脇により、草履《ぞうり》をぬぎ、それに膝をつき、提灯をわきにおいて、かしこまっていた。
これが、この時代の、普通の士分《さむらいぶん》の者の、家老や重役衆にたいする路上のあいさつの方式であった。これにたいして、相手は立ちどまり、足の爪先からはきものの鼻緒をはずす。はきものを脱ごうとするしぐさを見せるわけだ。すると、こちらは「そのまま」と声をかける。相手は「恐れ入る。それでは」と言って、鼻緒を通し、おじぎして行きすぎるということになっていた。ずいぶんめんどうなことなので、つい横着《おうちやく》をしてしもう者が双方ともにあり、そのために殺伐な事件のおこっている例が多い。
重臣らは一人、あるいは二、三人ずつ来る。それぞれに提灯もち、草履とり、若党を従えている。
藤吉郎はその人々が目の前に来ると、
「木下藤吉郎でございます。どうぞそのままに」
と、声をかけて、おじぎした。
「おお、木下か。恐れ入る」
相手は方式に従って返事し、会釈して通りすぎた。
藤吉郎は人々の様子が一人のこらず暗く、物思わしげであり、声も沈んでいると思った。
これでは、評定によい意見も出なかったのであろうと、こちらの胸も暗くなった。よっぽど、どうきまりましたと聞きたかったが、聞いたところで答えてもらえるわけのものではなく、悪くすると怪しまれるくらいが関の山だと思って、口をつぐんでいた。
「岩室長門守《いわむろながとのかみ》様にご用あってまかり通ります」
と門番小屋にことわって、通った。
岩室長門守は信長|寵愛《ちようあい》の小姓である。少年ながら、知恵も武勇もすぐれて、すでに数度の戦功を立てている。信長の側近くつかえる人々は皆藤吉郎を気に入っているが、この少年はとりわけひいきにしてくれるのであった。
すでに重臣方が下城されたところを見ると、殿様は奥ご殿にお引取りになったであろうと思ったので、庭伝いにそちらに行って、とりつぎ衆《しゆう》に頼んで、岩室を呼び出してもらった。
待つ間もなく、岩室は出て来た。
「何ご用だ、この夜ふけ?」
岩室は美しい眉《まゆ》をかすかにひそめていた。
「申訳ございません。実は明日にせまった戦さのことが心配でなりませんので、夜更《よふ》けをもかえりみず、おうかがいしたわけでございます」
美しい顔はむずかしげにひきしまり、返事はしない。
「拙者《せつしや》ごときが心配でならぬといえば、自分の身がどうなるかと案じているとお考えになるかも知れませぬが、決してそうではありません。お家の一大事と思いますので、心配でならぬのでございます。ご評定《ひようじよう》はどうきまりましたか、ごく手短で結構でございます。お聞かせ願いとうございます」
真心《まごころ》をこめて説く藤吉郎の様子に、少年の表情は少しやわらいだ。
「それがのう、評定というほどのことは何にもなかったのじゃ。重役方は戦さのことを申したがっておられるようであったが、殿様がまるで受けつけぬ様子でおられたので、申し出されかねて、皆々むっつりとおし黙っておられたのだ」
岩室は、大広間の様子をくわしく語った。
「殿様お一人、のんびりと、そしておもしろげにしていらせられたのでございますな」
「そうだ」
「何かかわったところはあられませんでしたか」
「そうよなあ、宮福太夫に謡をうたわせて、気に入ったと仰せられて、黄金を一包み下された」
「その曲は何で」
「羅生門《らしようもん》の、つはものの交り頼みあるなかの酒宴かな≠ニいうあれであった」
藤吉郎は、胸になにやらカチリと鳴るもののある気持がした。
「籠城《ろうじよう》は決してせぬと仰せられているとうけたまわりましたが?」
「そうだ。前からそう申しておられたし、昨日も重役衆が、目にあまる大軍の敵なれば、籠城でなくばあたりがたいと申されたところ、籠城はせぬとこの前とくと申し聞かせたはず、忘れたか、耄碌《もうろく》にはまだ早いぞ、ときめつけられたよ」
「さようでございますか。殿様には出て、野合《のあい》の合戦を遊ばすのでございますね。定めし、必勝の目途《めど》がおありなのでございましょう。いくさはきっと明日でございましょう。よいお手柄《てがら》をお立て遊ばしませ。ありがとうございました。それではごめん下さりませ」
礼を言って、立ち去ろうとすると、少年は呼びとめた。
「そなた、いくさは明日と思うのか。どうしてわかるのか」
「敵はもはや鷲津《わしづ》・丸根《まるね》におしよせています。殿様のご出陣は明日よりのびること、決してございません」
力をこめて、言い切った。
「そうだな、そうだな、敵はもう鷲津と丸根にとりかかろうとしているのであったな」
少年の顔はぱっと燃えていた。
「立派なお手柄を!」
と、もう一度言って、藤吉郎は立ち去った。岩室長門は翌日の桶狭間《おけはざま》合戦の直前に、討死して、あたら花のいのちを散らすのである。戦さはいつの時代にもむごいものである。
二
住いにしている秣《まぐさ》奉行の宿直《とのい》べやに引き上げると、藤吉郎は、
(さて、どうしたものか)
と、思案した。
彼の現在の役目は、戦闘員ではない。従って、特に命令のないかぎり、出陣すべきではないのである。城内にとどまって十分に秣を用意し、公正に割当をすることにつとむべきなのだ。
しかし、武士として、これほどの合戦に出ないのは、残念である。
塀普請《へいぶしん》や、炭薪《すみまき》奉行としての働きや、秣奉行としての働きで、十分の功を立て、殿様に知恵、才覚、奉公ぶりを認めてもらっているとはいえ、こんな働きは武士としては裏の働きだ。何といっても、武士は戦場の働きが第一だ。
戦さは初陣《ういじん》ではない。放浪時代にいく度も戦場に出ている。しかしこれは野武士《のぶし》の中にまじって、半分は野盗《やとう》働きを目的としての出陣であった。初陣というのも恥かしいことだから、人に語ったことはない。
松下家に仕えている時、今川家と北条氏との合戦で、一度出たことがある。富士川のほとり柚《ゆ》ノ木《き》というところで行われた戦闘であったが、戦闘そのものが小ぜり合いにすぎなかったので、大いに張り切っていたのに、手がらというほどの働きをする機会もなく、あっけなく済んでしまった。あの時、しかるべき手柄を立てていれば、ああまで朋輩《ほうばい》に軽蔑されることもなかったろうから、いまだに松下の家中にとどまって、こんどの戦さには今川方として出陣して来たに違いないのである。そう思うと、人間の運命ほどわからないものはないと思わずにはいられない。
ともあれ、こんな風で、度々戦場には出ているのだから、戦場の勝手はよくわかっているつもりだ。出れば必ず一かどの手がらを立てることが出来るという自信があるだけに、出られないのは、なんとしても残念でならない。
具足《ぐそく》や槍《やり》は、士分《さむらいぶん》にとり立てられた時、すぐ用意した。いつどんなことで戦場に出なければならないかもわからないと思ったので、一若から銀子《ぎんす》を借りて、用意したのだ。その借銀を少しずつ返して、完済したのは、ついこの一月ほど前のことであった。
値段が値段だから、上等な具足ではない。素掛《すがけ》のごく粗末なものだが、軽い上に色が赤いのが気に入っている。赤は大好きな色なのだ。第一、目立つのがよい。なんでも働きは目立つがよいが、とりわけ戦場の働きは目立たなければいけない。武者ぶりとはそれを言うのだと思っている。
彼はその具足をかかえ出してへやの真中におき、次ぎにはなげしの槍をおろして来て、さやをはらって穂先を改めた。前田又左衛門の真似をして、おりにふれては研《と》いでいる銀杏穂《ぎんなんぼ》三寸ばかりの穂先は、分厚くぶつりとした感じで、澄みとおった鉄色《かねいろ》をしずめていた。穂の尖端《せんたん》がわずかに銀杏の頭ほどにとがっているだけで、三稜形《さんりようけい》の身は無骨《ぶこつ》なくらい厚いのだ。しかし、こうだからこそ、容易に敵のかたい具足をつきくだいて中に入るのである。
冑《かぶと》は桃なりである。やはり赤塗りの素掛のしころがついている。
彼はその冑をかぶってみた。しっくりとして、まことに工合がよい。
(さて、どうしたものか)
冑をかぶったまま、思案をつづけた。
急におそろしくむし暑くなったと思うと、蚊がものすごく出て来た。今夜はうっかりして、蚊遣《や》りを焚《た》くのを忘れていたのであった。襲いかかって来る蚊をたたきつぶしたたきつぶし、方々をぽりぽりかきながら、思案をつづけていたが、やりきれなくなった。蚊帳《かや》をつって中に入った。
蚊帳をはぐって中に入る時、冑をかぶっていることに気づいてぬいだ。その時、はっきりと決心がついた。
(この戦さ、殿様にご利運なくば、殿様はご戦死、お家は亡びるのじゃ。常例によるべきではにゃァわ。行ってこまそう!)
大いに安心して横になった。とろとろとまどろんだが、すぐ目をさましてはねおきた。
(鳴海と大高の線からこちらは諸所に川筋や溝川《みぞがわ》こそあれ、まっ平らな平野つづきだ。じゃけ、敵にここを越えさせては、とうてい防ぎのつくものではない。合戦は鳴海・大高をつなぐ線の向うの山や丘の多いあたりで行われるに違いない。とすれば、殿様は夜のあけぬうち、ひょっとすると夜なかにご出陣になるかも知れない。のんびりと寝てなんぞいては、お供の間に合わない)
と、思ったのであった。
蚊帳をたたんで、押入にほうりこみ、飯を炊《た》きにかかった。役所の小者《こもの》がおどろいて起きて来て、代ろうと言ったが、かまわん、かまわん、寝とれと、おしもどして、自分で炊いて、炊き上ると、梅干と香のものをおかずにして、四膳《ぜん》食った。あとはむすびにしたが、そのむすびをこしらえている間に、前田又左衛門のことを思い出した。
(又左様のこと、ぬかりはあるまいが、これァやっぱり知らせてあげねば、念がとどかぬのう。――よッしゃ、一ッ走り、知らせに行って来べえ!)
火の元の始末をしてから、小者共を起こして、
「わいらも知っているであろうが、今日は合戦がある。おらの役目では、出陣はかなわぬのじゃが、せっかく士《さむらい》にしてもろうても、戦さに出られんでは残念や。甲斐がない。そやさけ、おら抜駆《ぬけが》けして行こうと思うとる。あとのこと、わいらに頼んでおく。一切、いつもの通りにはからえばええからの。それでは、おらは行く。火の元に十分気をつけてくれよ」
と、申し渡すと、小者らはおどろきながらも、承知した。
具足を大風呂敷に包んで背負い、むすびを腰にまき、槍《やり》を杖《つえ》づいて、役所を出た。
三
前田又左衛門が仮寓《かぐう》している下之郷《しものごう》村は、清洲《きよす》の町から十五町ほど北に寄っている。梅雨雲《つゆぐも》が重く垂れながらも所々ちぎれて、月の姿は見えないが薄ぼんやりと明るい田圃《たんぼ》を、せっせと歩いて行った。むし暑い上に、具足を背負い、腰にはまだ温いむすびを巻きつけていることとて、忽《たちま》ち全身汗にまみれた。
又左衛門の宿元では、長屋門をぴったり閉ざして、番人べやの窓は真暗だ。番にあたった作男はよく寝ているに相違なかった。窓べによって、ほとほととたたいて、
「ちょっこら起きておくれや、ご城内から、前田又左衛門様に用があって来た」
と呼んだが、なかなか起きない。だんだんはげしくたたき、だんだん声の調子をあげて、やっと起こすことが出来た。
「せっかくよう寝ているところを、気の毒やったな。これ少ないけど、取っといてや」
門をあけてくれた作男に、小銭《こぜに》をつかませた。
又左衛門はこの頃《ごろ》の今川・織田の間の雲行きから見て、寸分も油断していない。門番と藤吉郎との、かなりに長くかかったやりとりに夢を破られた。起きて灯《ひ》を点じ、着がえし、雨戸をくって庭に出て待っていた。飛石の上にたけの高いからだをぬっと立てて、藤吉郎の来べき方を向いていたが、やがてその姿があらわれると、言った。
「木下、おぬしか」
藤吉郎が士分に取り立てられたと聞くと、又左衛門はそれにふさわしくことば使いを改めたのであった。
「わたくしでございます」
藤吉郎はそう答えて進みより、四尺ばかりに近づくと、立ちどまった。
「いよいよ、今日はじまります」
と、前おきして、今川方諸勢の進出の工合や、城内の軍議の模様、推察する信長の方針等を、かいつまんで説明した。
「ありがとう、よく知らせてくれた。礼を言うぞ」
又左衛門は家へ入ろうとした。
「お待ちなさい。わしが推察でござるが、かれこれ考え合わせますに、殿のご出陣はよっぽど早く、遅くとも寅《とら》ノ下刻《げこく》(五時)をすぎることはないと存じます。今から飯《まま》炊きしておられては、遅うなりましょう。拙者《せつしや》が用意してまいった腰兵糧《こしびようろう》があります。これを召《め》して下さりませ。仰山《ぎようさん》ありますけに、十分お召しになっても、二人の昼食分くらいはりっぱにのこりましょう」
と言って、腰に巻きつけた風呂敷包みを解いて、差し出した。
「さようか。ありがたくいただく」
又左衛門は感謝して受けた。座敷に入って、食べはじめた。
藤吉郎は台所の土間《どま》に入って、粗朶《そだ》を炉《ろ》におりくべて、罐子《かんす》の湯をわかして、庭から持って出て、縁側から進めた。
「なにからなにまで世話になる。この一戦に手がらを立てることが出来、勘気《かんき》が赦《ゆ》りてまたご前をつとめる身になったら、おぬしのこれまでの好情に、わしは必ず報《むく》いるぞ」
と、強い感動の色を見せて言った。
「なんの、なんの、人は相身たがいであります。人の運ははかられぬもの、いつわれらがきつい目に逢《あ》うやもはかり知れませぬ。その時は、恩の、報いるの、という改まったことではなく、お世話を願いますぞ」
と、こちらは軽く受けた。
又左衛門の食事がおわり、藤吉郎も白湯《さゆ》を二、三ばい飲んだ頃、遠いところで鶏《とり》の声が聞こえた。
「さあ、お支度なさりませ。拙者の推察では、あと半刻《はんとき》(一時間)立たぬうちに、ご出陣の貝が鳴りましょう」
「そうか!」
又左衛門は立ち上って、くるりと着物を脱ぎすて、具足下《ぐそくした》を着、わらじをはいた。もの馴れて、手早いしぐさだ。トントンと軽く爪先で畳を蹴《け》って、具足をつけにかかった。
藤吉郎も風呂敷包みの具足を出して着用にかかった。
その時、やっと気づいたのであろう、又左衛門は、妙な目つきで藤吉郎を見て、
「木下」
と、呼んだ。
「なんでございます」
「そなたは、今秣《まぐさ》奉行であろう」
「そうでございます」
「それで、出陣するのか」
「今日の戦さは、お家の立つか滅びるかの、ぎりぎり決着の場であります。武職《ぶしよく》でなければとて、おめおめと城にのこってはおられませぬ。あとのお咎《とが》めはあろうとまま。出て行って根《こん》かぎりの働きをしようと決心いたしました」
きっぱりと言うと、又左衛門は慨然《がいぜん》としたおももちで、
「よい決心、よい決心。おぬし、きっと立派な武士《さむらい》になるぞ」
とうなずきながら、手をあげてまぶたをおさえた。
二人が具足を着てしまった時、まだ暗い暁の空の低い梅雨雲をどよもして、勁烈《けいれつ》な貝の音がひびいて来た。殷々《いんいん》と長鳴りして、吹きつぎ、鳴りわたる。
この貝の音こそ、信長が日本歴史に最もあざやかなエポックをつくる第一声であったのだ。
この少し前、鷲津・丸根の両城から、また清洲に注進があった。
「敵がついに城にとりかけました」
という注進。
今川勢は昨日のうちに両城の前に布陣した。恐らくこの勢いを見れば戦わずして両城の兵は落ち行くであろうと思ったのであろう、急には攻めかからず、時々|喊声《かんせい》をあげたりなどして、もっぱら威嚇《いかく》していた。
しかし、城方が飽《あ》くまでも固守する気勢を見せ、動く色がないので、しからばせん方なし、ふびんながら力攻めにしてくれんということになったが、時刻が夕景に迫っているので、攻撃は明払暁《ふつぎよう》ということになった。
古来、夜の合戦は出来るだけ避けたものだ。夜討《ようち》ということばはあるが、これとても、攻撃を開始するのは暗いうちであるが、半ば頃から薄明るくなり、すむ頃にはすっかり明るくなるようにことを運んでいる。すんだ後も暗くてはあと始末に困難し、従ってうまく功をおさめることが出来ないからであろう。だから、夜討といっても、実質的には朝駆《あさがけ》と同じで、つまりは払暁戦なのである。
こんなわけで、今川勢はその日の夜半《よなか》を過ぎ、大体今の時刻で午前三時頃から、両城の攻撃を開始した。
その注進がとどいた時、信長は寝ていたが、がばと起き上って寝所を出ると、
人間五十年
化転《けてん》のうちをくらぶれば
夢まぼろしのごとくなり
一度生《ひとたびしよう》を受け
滅せぬもののあるべしや
という謡をうたいながら舞った。前にも書いた通り、これは信長が大好きで、いつも口ずさんでいた曲だが、この時ほどこれを心にしみてうたったことはないであろう。彼は常住不断に、人間はつまりは死ぬものだとの虚無観の上に立って、同じ死ぬものなら、壮烈に生き、壮烈に死のうとの覚悟をすえていたのであろうが、今こそそのギリギリの関頭《かんとう》に立ったとの、最も痛烈な感懐《かんかい》があったに相違ないのである。
おわると、大音声《だいおんじよう》に、
「貝を吹け!」
「具足《ぐそく》おこせ!」
といい、近侍《きんじ》の者に貝を吹かせながら、具足をつけ、立ちながら飯を三膳《ぜん》食って、かぶとをかぶり、立ち出でて、馬に乗ったのであった。
下之郷村の庄屋屋敷の隠居家で、この貝の音を聞いた二人は、
「おお!」
「意外に早うござりましたな!」
と、さけびかわすや、槍《やり》を小わきに、長屋門をとび出し、まだ暗い田圃《たんぼ》道を、まっしぐらに駆け出した。
四
歴史は、信長が大手門を立出でた時、従うものは小姓|岩室長門守《いわむろながとのかみ》・長谷川|橋介《はしすけ》・山口|飛騨守《ひだのかみ》・佐脇藤八郎《さわきとうはちろう》・加藤|弥三郎《やさぶろう》の五|騎《き》、主従わずかに六騎と雑兵《ぞうひよう》二百余人にすぎなかったと伝えている。
信長の出陣のやり方に一騎がけというのがある。戦争の要素の一つに「機」がある。瞬息に来て、瞬間の後には去るこの機を逸《いつ》せず乗じなければ、勝ちを得ることは実に困難になる。そのために、信長はここぞと思う時には、常に一騎がけで戦場に馳《は》せ向った。決して世間普通の大将の出陣のように全軍の勢ぞろいの出来るまで待つようなことはしないのである。信長がこうして出れば、部下の諸将や諸士ものんびりとかまえてはおられない。大急ぎで支度して追いかけるから、戦場につくまでには勢《せい》がそろうことになるのだ。勢ぞろいの出来るまで待って出陣するより、はるかに速いし、従って「機」を逸せずにすむという次第だ。
もちろん、一騎がけといっても、信長一人ではない。近習《きんじゆ》数人がつきそうし、多少の兵も従うが、大体をとって一騎がけと言いならわしているのである。
信長はよくこの法を用いて功をおさめたので、秀吉も信長にならって、後年にはよく一騎がけをしている。秀吉はいろいろな点で信長に学び、信長の最も優秀な弟子といってよいが、この一騎がけの法も秀吉ほど上手に学びとっている者はない。信長|麾下《きか》の将領らは皆よくこの法を用いているが、秀吉が一番あざやかだ。一騎で駆け出すだけのことなら、誰でもやれるが、かんじんの機を見ることが秀吉ほど鋭敏な者がいなかったのであろう。
信長は主従六騎、雑兵二百余人とともに、熱田《あつた》をさして急行した。
家臣らも、今日の出陣は覚悟していることだ。心用意は皆ある。大急ぎで支度して駆け出し、しだいに追いつく。
信長はそれを辻々《つじつじ》で馬に輪乗《わの》りをかけて待ち受けては駆け出し、待ち受けては進んだ。
藤吉郎と又左衛門とは、庄内川を渡るところで追いついたが、信長の前には出ない。藤吉郎は本務を捨てて来ているのだし、又左衛門は勘当《かんどう》の身の上だ。ひっそりと人々の間にまじっていた。
清洲《きよす》から熱田まで三里、一時《ひととき》の間に乗り切って、熱田神宮の旗屋口《はたやぐち》についた時には、千騎ばかりになっていた。この頃は、もう夜はすっかり明けていた。
信長は、
「当社は日本武尊《やまとたけるのみこと》の由緒ある武神、戦勝の祈願をこめる」
と言って、参拝し、右筆《ゆうひつ》の武井|肥後入道夕庵《ひごにゆうどうせきあん》に、かねて命じて書かせておいた願書を読み上げさせ、鏑矢《かぶらや》に巻いて神前に奉納した。
この時、信長は神主らに頼んで神殿の奥で轡《くつわ》の音をさせてもらい、
「明神味方に神助あろうとして、今ご出陣遊ばす物音じゃ」
と言って将士らの心を勇《いさ》めたとある書物があり、また、熱田を出て進む信長の旗先に、白鷺《しらさぎ》が二羽飛んで行くのを見て、信長が、
「あれ見よ、当社大明神の擁護《おうご》し給う験《しるし》ぞ」
と、将士を励ましたとある書物もあり、また、前もって表の方が出るように二枚を糊ではり合わせた銭《ぜに》数文をもって、将士に、
「この戦さに味方もし勝つものならば、表の出る銭の数が多いであろう」
と言って地になげうったところ、皆表が出たので、
「大明神の神助われにあり、奇瑞《きずい》かくのごとしぞ。勝利は必定《ひつじよう》なり。皆勇め!」
と言ったと伝えている書物もある。
英雄の機略としておもしろいが、片田舎の人情素朴《そぼく》な地方なら知らず、この時代すでに相当にひらけた一種の開化地帯となっている尾張地方では、こんな詐術《さじゆつ》に引っかかる者は少なかろう。引っかかる者が少なければ、逆効果しか生じない。そんな阿呆《あほう》な冒険を、信長ほど目の見える男がしたろうとは思われない。
桶狭間《おけはざま》合戦記に、信長は馬に横乗りになり、鞍の前輪《まえわ》と後輪《しずわ》に左右の手をかけ、後輪の方によりかかり、鼻唄をうたっていたとあるが、これが最も信ぜられる。信長のこの時の心境は大バクチ打ちの心境だ。
彼が胸中深く秘めて、重臣らにすら漏《も》らさない戦術はこうだ。
鷲津・丸根の二城は敵の餌としてあたえる。この二城を屠《ほふ》れば、敵は調子に乗って前や左右に散らばり、今川の本陣は手薄になるに相違ない。その手薄になった本営にしのびより、一気に殺到して、義元を討取ってしまおうというのだ。
うまく行くかどうか、まことにあぶない策ではある。敵が二城を屠ってもみだりに進まず、備えをかたくしていれば、よってたかっておし包まれ、めちゃめちゃにたたきつぶされてしもう。散っていても、発見されれば、成功|覚束《おぼつか》ない、発見される場所によっては、これまた敵が馳《は》せ集まってたたきつぶすであろう。いずれにしても飛んで火に入る夏の虫だ。要するに、この策が成功するためには、敵が調子に乗って無闇に戦線をひろげてくれること、発見されないで本営近くに忍び寄れること、この二つの条件がそろわなければならないのである。千番に一番のかね合いといってもよいだろう。バクチの確率は五十パーセントだが、これは〇・一パーセントの確率だ。よほどに向う見ずなバクチ打ちでも、こんな勝負はしないといってよい。
こんなわけだから、自信なぞあろうはずはない。しかし、これよりほかに活路はないのである。
「一たび生を受け、滅せぬもののあるべしやだ! 千番に一番のかね合いで、うまく行けば、おれは東海一の大名になれる!」
と思い定めた。
こうである以上、キョトキョト、ショボショボなぞして、さなきだに意気の上らない将士らの気力をおとろえさすべきではない。胸中大自信ありげに悠々《ゆうゆう》とかまえて、将士に勇気を持たせるようにすべきであると考えたのであろう。
午前八時、神宮を出て、南に向ったが、ほどなく行く手を望むと、はるかかなたに、真黒な煙が二筋、すさまじく立ちのぼって梅雨雲に冲《ちゆう》しているのが見えた。丸根城と鷲津城の見当だ。
「はや落城じゃわ」
と、人々はどよめき、心はぐんと沈んだ。
信長は少しも屈託《くつたく》しない。
「急げ、急げ」
と、ぐんぐん進ませたが、間もなく、斥候《ものみ》として先行した者が馳《は》せかえって来て、道に潮がさしていて通れないと報告した。
熱田《あつた》から大高・鳴海に至る間は先年の伊勢湾台風で最も惨烈な被害を受けた地帯であるが、実を言うと、この時代このへん一帯はほとんど全部がまだ海であった。現在の国鉄東海道本線のあるあたりはもちろん海中に没していた。後の東海道、この頃の鎌倉街道が波打際を走っていたが、それも熱田と山崎の間は潮の干満によって陸になったり海になったりしていたのだ。
信長は山崎あたりまで行って、そこから東に転じて山の根方を伝って敵の背後に出るつもりであったろうが、潮で道がふさがっているのであればしかたがない、熱田の町を東に出て、井戸田《いどだ》に向い、井戸田から山崎村の新屋敷を過ぎ、野並《のなみ》から古鳴海《こなるみ》に行き、そこから山間を通って丹下《たんげ》に出た。
丹下には敵の鳴海《なるみ》城にたいして砦《とりで》を築き、水野|帯刀《たてわき》忠光を大将として兵をこめておいたのだが、砦を捨てさせて全部引きつれ、善照寺《ぜんしようじ》に出た。ここにも砦をかまえて、佐久間左京をこめておいたのだが、それも砦を捨てさせて全部召連れて、善照寺の東方に出て一先ず相原にとどまった。この時、鳴海城の南方の中島の砦にこめておいた梶河平左衛門《かじかわへいざえもん》の兵も全部引き上げて来させたので、総勢では三千人ばかりになった。
信長は丹下から善照寺に来る時、佐々《さつさ》政次、千秋《せんしゆう》季忠の二人に三百余人の兵を授けて、鳴海の敵にあたらせた。恐らくこれは陽動作戦で、敵の目を引きつけさえすればよいので、その間に信長は善照寺に向い、さらに東に向って義元の本陣をさぐって奇襲しようとの戦術であったろう。
この三百人のなかに前田又左衛門がいた。一刻も早く手柄《てがら》を立て、勘気赦免《かんきしやめん》を願おうと思っている又左衛門は危険をかまってはおられなかった。あの「かぶきたる槍《やり》」をかついで、真先に立って鳴海城におしよせた。
鳴海城内では、近づいて来る織田勢を寡勢《かぜい》と見るや、どっと突出《とつしゆつ》して来た。
はげしい戦闘がはじまった。
又左衛門は絶倫の武へんものだ。一槍によき敵を突き伏せ、首をとって、信長を追いかけ、追いつくと実検《じつけん》にそなえたが、信長はじろりと又左衛門を見て、そっぽを向いて言った。
「首とるはさむらいの役じゃ」
別段に手がらとは認めんぞ、従って勘気はゆるさんという意味だ。
又左衛門はかっと激して、首を水田の中に投げこみ、また鳴海へとって返そうとした。それを見て、近習の者が信長に、
「又左殿は薄傷《うすで》を負うています。この度は討死の覚悟のように見受けられます」
と言った。
「急ぎ引きとめよ」
と、信長は言い、引きとめさせはしたが、まだ赦免するとはいわなかった。
間もなく、鳴海城に向った隊が、ほとんど殲滅《せんめつ》的敗北を喫《きつ》して、ほんの二、三十人が逃げて来た。
「佐々政次殿、千秋季忠殿の両将のほかに岩室長門殿が討死されて、お三人ともその首は敵にとられました」
というのだ。
「長門が?」
信長はおどろいて、左右をかえりみた。美しい少年の姿はそこになかった。美しいばかりでなく勇敢な長門は、三百人をもって鳴海城の敵にあたると聞くと、ふるい立つものを胸に感じ、ひそかに本陣をぬけ出して、三百人と一緒に敵に突進したに相違なかった。
信長は激怒した。
「おれはこれから、中島を攻める!」
と言い出した。
梶河平左衛門《かじかわへいざえもん》を中島から引払わしたあと、中島には今川家の軍勢が多数入ったのである。そこへ押しかけようという信長は何を考えていたのであろう?
一体、信長といえども、その胸中に抱いている奇襲策に自信はなかったはずだ。万一の幸運を僥倖《ぎようこう》していたに過ぎない。だから、本当をいえば、彼の心は実に弱いものであったに相違ない。その弱い心を、無理に強くおし立てているに過ぎなかったといえよう。それだけに、この敗戦に逢《あ》い、寵愛《ちようあい》の小姓《こしよう》まで討死させてしまったとあっては、
(ええい! くそ! 死んでこませ!)
という心になったのではあるまいか。英雄といえども人間だ、ガクリと心の弱くなることもあろうではないか。
信長は早くも馬首を中島の方に向けて乗り出そうとする。林佐渡|道勝《みちかつ》、池田勝三郎|信輝《のぶてる》、柴田権六《しばたごんろく》勝家、毛利《もうり》新助らはあわてて、信長の馬のくつわにすがりつき、
「敵は勝ちほこりたる大軍でござるに、味方は寡勢《かぜい》でござる。とうていあたり難くござる。その上、あの地は馬足の立ちかねる深田にかこまれ、ただ一筋の細道より行くのほかなきところ、この真ッ昼間、あの打ちひらいた地勢では、味方の寡勢は見すかされ、細道を走り行くを一人一人|狙《ねら》い撃ちにされるに相違ござらぬ。とても、利ありとは思われませぬ。思《おぼ》し召《め》しとどまり下され」
と、口々に諫言《かんげん》した。
信長は聞かない。
「はなせ! はなせ!」
と猛《たけ》り立って、押問答をしていると、簗田出羽政綱《やなだでわまさつな》が走りよって来て、
「しばらく、しばらく」
と、主従の間に割って入り、
「われらが手より出していました忍びの者が、唯今《ただいま》、沓掛《くつかけ》方面からかえってまいりましたが、その言うところによりますれば、治部大輔《じぶのたいふ》は沓掛の本陣を引きはらい、大高城へ移ろうとて、桶狭間《おけはざま》の方に向いつつあるとのことでございます」
と言った。
信長はさっと興奮がさめ、英雄の打算が働きはじめたろう。もう少し遅かったら、おれは犬死にしていたろうと、自分の幸運をよろこびもし、自信も出て来たことであろう。
その忍びの者というのを連れて来させて、なおくわしく聞いているところに、もう一人簗田の忍びの者が馳《は》せかえって来た。
「治部大輔は田楽狭間《でんがくはざま》に休息して、酒宴をひらいています」
という。
五
千番に一番の、奇蹟《きせき》といってしかるべき大バクチがどうやらあたるげな様子が見えて来た。
信長は兵一千を割《さ》いてそこにのこし、多数の旗を建て、そこに全軍が陣しているように見せかけ、自ら二千をひきいて、義元の本陣を奇襲することを、兵士らに告げた。
「皆々よく聞け。敵は昨日の宵《よい》の口《くち》に兵糧《ひようろう》を使うただけで、夜通し行軍して来たばかりでなく、大高城へ兵糧を運び入れたり、鷲津・丸根の両城を攻めおとしたり、散々に働いて疲れ切っている者共である。それに引きかえ、こちらは新手《あらて》である。古き人のことばに、寡勢《かぜい》なりとも大敵を恐るるな、勝負の運は天にあるものとある。敵の不意をうって、遮二無二《しやにむに》に斬《き》りこむならば、勝たぬことのあろうか。今日の戦さ、分捕《ぶんどり》すべからず、すべて討捨てにして首取るな。この合戦に勝ちさえすれば、この戦さに出た者は皆|高名《こうみよう》として、家の面目、末代までの手柄としてつかわすぞ。皆々、心得よ!」
と、大音にさけんだ。
人々ははじめて信長の秘策を聞き、それが成功しそうであるのを知って、勇気百倍した。
藤吉郎はこの時まで、信長のまわりに集まっている諸将領のいかにも重々しげな姿や、その人々がそれぞれに自由にその意見を述べるのを見て、羨《うらや》ましくてならなかった。
(士分《さむらいぶん》になれさえすればよいと思うていたが、士分にもいろいろとあるわ。馬に乗れず、おれがように槍《やり》をかついで汗かいて息をはずませてばかりいるのもあれば、ああして殿様のお側近くに集まって、思う意見をズバズバといえる人もいる。どうでも、奮発して、あの人々のようにならねば、士になった甲斐《かい》がないぞよ)
と思いつづけていたのだが、信長のこのことばを聞いて、はっとわれに返った。
「なるほど、殿様はこう考えておられた故、落ちついてお出でであったのか」
と合点した。
こうして、勇み立った二千人は、腰兵糧をつかってさらに気力を回復し、信長の導くままに山間の道を潜行して東北方に向い、さらに南に転じて、鎌倉街道に出、それを少し東進して、右の山に入った。
この日は朝の間は曇ってむし暑かったが、この頃になるとほとんど晴れて、かんかん照りになった。おそろしく暑かった。ところが、鎌倉街道から山路に入った頃から、急に雨気が濃《こ》くなり、一天にわかにかき曇り、一陣の烈風《れつぷう》が西北から襲って来たかと思うと、忽《たちま》ち滝のような猛雨が降って来た。この日の風は「沓掛《くつかけ》の山の上に生ひたる、二蓋《がい》三蓋《がい》の松の木・樟《くす》の木なども吹き倒すばかりなり」と信長公記《しんちようこうき》にあるほどだから、大旋風大豪雨をともなった熱帯性低気圧だったのである。
この風雨の音に消されて、織田勢二千の物音は少しも敵に聞かれず、田楽狭間の西北方六町の太子《たいし》ケ根《ね》山のいただきに達した。重ね重ねの運のよさだ。人々は天の助けを得ているとさえ考えた。しかし、雨も風もなおはげしく、どうすることも出来ない。信長は全軍を停止させ、風雨のおさまるを待った。
田楽狭間はごく不規則な長方形をして、東西に横たわっている小さな盆地である。東端の方がやや広くなり、義元の本陣はここにとどまっていた。太子ケ根山のいただきからも、ここは丘の陰になっていて見えないが、信長は尾根伝いに斥候《ものみ》を出して、敵の様子をうかがわせた。この頃はちょうど今の時刻にして午後一時を少し過ぎた頃であった。
今川義元が沓掛《くつかけ》から大高城への途中、ここにとどまったのは、そのはじめは時分時《じぶんどき》になって中食《ちゆうじき》するためであった。
彼は払暁《ふつぎよう》からの味方の勝ち戦さにおそろしく愉快《ゆかい》になっていた。鷲津《わしづ》も落ちた、丸根《まるね》も落ちた、丹下《たんげ》の砦《とりで》も、善照寺《ぜんしようじ》の砦も、中島の砦も、戦わずして敵は退散したと、揚々《ようよう》たる気分になっている時、鳴海城におしよせた織田勢が殲滅《せんめつ》され、敵の大将分である佐々政次、千秋季忠、岩室長門守忠重を討取ったとて、その首が持って来られた。
義元は益々《ますます》上機嫌になった。彼は赤地錦《あかじにしき》の直垂《ひたたれ》に、胸白《むなじろ》の具足《ぐそく》を着、松倉郷《ごう》義弘の刀、大左文字《さもんじ》の太刀をおびて、三人の首を実検したが、こうなると、酒を飲まずにおられない。
芝原に楯《たて》をおき、敷皮をしかせ、召連れた能楽|太夫《だゆう》や幸若《こうわか》太夫に謡《うたい》をうたわせて酒宴をもよおしていると、このあたりの神社の神主や、寺の坊さんや、庄屋共が酒肴《しゆこう》を持参し、献上した。戦さに権謀術数《けんぼうじゆつすう》はつきもので、いろいろなことをするものであるから、義元としては、この者共は織田家の密旨《みつし》を受けてこんなことをするのではないかと、一応は疑ってみなければならないところであったろうが、こんな際、つまりは土地の有力者らが、こんな風に伺候《しこう》してごきげんをとるのは、出来るだけ土地をあらさないように願うためにするので、当時よくあったこととて、義元もついそこまでは気をまわさなかった。
きげんよく、その者共に盃をくれたりなどして、
「わしが鋒先《ほこさき》には、たとえ天魔鬼神《てんまきじん》たりともたまるものではない。見るがよい、織田家の諸勢のざま、ひとえに風の前の塵《ちり》よ」
と、大言してはからからと笑い、大盃をあげ、気に入りの将士らも呼び出し、大宴会となった。
にわかな烈風大雨も、余人は別として、したたかに酔いのまわっている義元には、そう感じられもせず、
「こころよや。これで暑熱も消え、さっぱりとなろうわ」
と、一層《いつそう》きげんよく盃をあげていたのである。
六
旧|参謀《さんぼう》本部|編纂《へんさん》の日本戦史によると、今の午後二時頃であったという。雨が小やみになり、雲が切れ、青空がのぞいて来た。信長は将士に支度を命じ、支度なるや、
「かかれ!」
と、大音声《だいおんじよう》に呼ばわりながら、真先きかけて山を駆け下った。騎馬武者らがつづいたことは言うまでもない。おそろしい喊声《かんせい》をあげながら馳《は》せ下った。狭間の平地につくや、左方にまたがって、義元の陣地に殺到した。雪崩《なだれ》のくずれかかるすさまじさだ。徒武者《かちむしや》らも精一ぱいの喊声をあげ、おくれじとつづいた。「勝った!」という自信に、一人のこらず恐ろしい強さになっていた。
油断しきっていたこととて、今川方では狼狽《ろうばい》した。狼狽したのは敵襲と知ってのことだからまだよい方だ。喧嘩《けんか》がおこったと思うもの、謀叛《むほん》人だというもの、裏切りだというものが、大部分であったという。
今川勢のこの混乱に乗じて、信長の騎馬隊はただ一団の旋風《つむじかぜ》のように、駆け通り、駆けもどり、縦横に馳突《ちとつ》した。今川方の狼狽は言語に絶した。「弓、鉄砲、のぼり、さしもの、算《さん》(算木)を乱すにことならず」と、信長公記にある。
これに乗じて、徒武者《かちむしや》隊は槍《やり》をひらめかし、刀をふりおろし、うろたえさわぐ敵を突きすて、切りすてた。
藤吉郎は普通の武者には目をくれなかった。
(この戦さ、ここまで漕《こ》ぎつけても、治部大輔《じぶのたいふ》を討取らぬかぎりは、敵をおどかしただけで、勝ったことにならぬ。治部大輔が生きているかぎり、敵は決して退《ひ》きはせんのじゃ!)
と、くりかえし、くりかえし、心に言い聞かせ、義元をもとめて、駆けまわった。五尺をちょっと越したくらいの小さいからだだから、威風はないが、身のこなしは軽捷《けいしよう》だ。赤い鼠《ねずみ》が走りまわるように、ちょろちょろ、ちょろちょろと走りまわっているうちに、二、三十間向うに、黒山のようにかたまっている一団の武者共のいるのが見えた。どの武者の物具もさわやかだ。おどし毛の色もあざやかであれば、金具も日を照り返してきらめいている。身分ある武者共に相違なかった。
「あれこそ、治部大輔よ! あれこそ治部大輔よ! 逃すな、人々!」
と、絶叫しながら、槍をひねって、赤とんぼのように飛んで行ったが、その横合からぬっと槍をさし出してささえたものがあった。
「じゃまだ! 退《の》けい!」
思い切り、その槍を槍ではね上げたが、その槍はびくともしなかった。鉄ののべ棒をたたいたように、手のひらにびーんとひびいた。最も手ごわい敵に相違なかった。こんな敵と突き合うのは阿呆千万《あほうせんばん》だ。逃げるにかぎる。
「治部大輔はここぞ!……」
と声をかぎりにさけびながら、横にそれて駆けぬけようとすると、相手は一|跳足《ちようそく》におどりかかった。
「うるさいやつめ!」
と、おそろしい声でどなりつけるや、風を切る槍がびゅーとしなって、向う脛《ずね》をひっぱらった。脛《すね》が折れ、目の前が暗くなったように痛かった。
一たまりもない。藤吉郎は前にのめった。
(やれ、こんどはどこぞをグサリと突かれるわ!)
と観念したが、そのグサリがなかなか来ない。
(オヤ、助かるかも知れんで!)
と思った時には、もうはね起きて、槍をかまえていた。しかし、あのおそろしく強い敵はそこにはいなかった。十間も向うを走って行きつつあり、その前を味方の騎馬武者らが疾駆《しつく》しつつあり、さらにその向うにさっきのさわやかな具足の武者二、三百人が、依然《いぜん》として密集した一団となって退《ひ》いて行きつつあった。
(逃してなるか!)
藤吉郎は槍をかまえながら、そちらに向って走り出した。
胸につく火
一
信長も、密集して退《ひ》きつつある二、三百人の一団が義元の旗本であることに気づいた。目立ってさわやかな具足《ぐそく》を皆着ているので、そうと知ったのである。
「あれこそ、今川の旗本だぞ! 逃《のが》すな! 追いつめよ!」
と、持前のとどろく大音声《だいおんじよう》で、雷神《はたたがみ》のように呼ばわる。
織田家の武士たちは、馬を飛ばして殺到し、敵合《てきあい》近くなると、はたはたと馬を飛びおり、槍《やり》をひねって突っかけた。
今川勢はあくまでも逃げ切ろうとつとめたが、追撃が急で、出来ない。踏みとどまっては戦い、戦っては退《しりぞ》くうちに、次第に討取られて五十人ばかりになってしまった。
こうなっては、もう逃げることは出来ない。今は義元も最期《さいご》をいさぎよくすることを考えなければならない。床几《しようぎ》をすえさせ、刀もぬかず、左右の者を指揮して戦わせていた。
これを見たのが、織田方の服部小平太《はつとりこへいた》だ。横合からまっしぐらに走りより、
「織田|上総介《かずさのすけ》が家来、服部小平太、見参《げんざん》!」
と叫びざま、槍をひねって突っかけた。白い穂先は義元の胸白《むなじろ》の腹巻の横から、おどし目をぬい切って、したたかに胴につきささった。
義元は激怒した。
「下郎《げろう》! 推参《すいさん》!」
よろめきながら叱咤《しつた》し、くり引こうとする槍の柄《え》をとらえ、たぐりよせながら、腰の大|左文字《さもんじ》の太刀《たち》をぬきざまに横にはらった。いた傷《で》に体力が弱っているので、切先下《きつさきさが》りになったが、それでも服部の膝口《ひざぐち》を切った。服部はどうとたおれた。
義元はたたみかけて斬《き》ろうとして、太刀をふりかぶったが、斬りおろしかけた瞬間、横合からおどりかかった者があった。義元をおし伏せておいて、
「毛利《もうり》新助、織田が家来!」
とどなり、どなった時にはもう鎧《よろい》通刀《どおし》をぬいて、首をかき切っていた。この時、義元は自分ののどをおさえている毛利の左の手の小指が口に入ったので、ガッキと噛んで噛み切ったのだが、毛利はかまわず首をかき切ったのだ。
毛利は立ち上るや、刀の切先に義元の首をつらぬき、高々とさし上げ、大音声《だいおんじよう》に呼ばわった。
「今川|治部大輔《じぶのたいふ》殿がみ首《しるし》、毛利新助討ち取ったり」
と、くりかえし、くりかえし、呼ばわった。敵の総大将や、大将ならずとも敵方が頼みにしている者を討取った時は、こうして名のりを上げるべきものになっていた。自らの手柄の証人をつくるというより、敵の心理に打撃をあたえることが目的なのである。
戦さはこれまでであった。毛利が名のりを聞くと、まだのこって懸命に戦っていた今川勢はどっと崩れ立った。こうなっては、狩場の獣よりも臆病《おくびよう》になる。おのれのあとから逃げて来る味方さえ追撃して来る敵かとおびえて、足も萎《な》える。織田方ではこれを追いつめ、追いつめそれこそ霞網《かすみあみ》にかかったつぐみをもぎとるように、思うさまに討取った。
こういう時はえてして、やぶれかぶれになった敵の剛《ごう》の者《もの》が、味方のふりして主将に近づいて来たりするものだ。信長は馬廻りの者を堅固に周囲に立て、味方の武士らが敵をここかしこに追いつめては討取っているのを、快げにながめていたが、うれしいと思う一方、千に一つの可能性も考えられなかった大バクチが、こうも見事にあたることも、あればあるものか、この世とは何という不思議なところであろうと、夢かと疑う気持もあった。
「おれはついに勝ったのだ。東海一の大大名今川治部大輔が首を討取ることが出来たのだ……」
と、いくども胸のうちにつぶやいた。
藤吉郎もまたよき敵を討取ろうと、血眼《ちまなこ》になって駆けまわり、冑首《かぶとくび》を二つほどとったが、その時、本陣で戦いやめの陣鉦《じんがね》が鳴りひびいた。大急ぎでかえって来た。
本陣に集まった武士らは、大ていの者が首二つ三つぶら下げていないものはない。皆汗と血に染んだ血なまぐさい姿であるが、にこにことうれしげな顔であった。
信長もうれしげだ。
「皆よう働いた。首もずいぶんかせいだようじゃな。しかし、首はかかりの者に名前言うて渡しておけい。城にかえってから、ゆるゆると実検しよう。しかし、治部大輔の首だけは、ここで実検しよう」
といって、実検の席をつくるように命じておいて、側の簗田出羽《やなだでわ》に何やら言っている。
藤吉郎はそれをこちらから見て、清洲《きよす》へ勝ち戦さの注進を走らせようとなさっているのだと見た。
重い首をぶら下げて、つかつかと出て行った。
三間ほどの距離まで行くと、槍《やり》をおき、ひざまずいた。
「木下藤吉郎でございます」
と、大きな声ではっきりと言った。
信長はきげんのよい笑顔を向けた。
「やあ、猿《さる》! われがついて来ていることは、知っていたぞ」
と言って、膝《ひざ》のわきにころがしている首を見て、
「手柄を立てたようじゃな」
と言った。
本務を捨てて合戦に参加したことを怒ってはいないのである。
「お目にとめ下されて、ありがとうございます。お勝ち戦さのおかげで、拾い首同様にして討取ったのでございます」
と言っておじぎして、また言う。
「お城へのご注進をおつかわしになるのでございますなら、てまえに仰《おお》せつけ下さりますよう。てまえ、足には覚えがございます」
信長は笑った。
「はは、そうであったな。われは小男ながら、いつもおれが馬におくれず走ったな。よし! この戦さの模様、走りかえって知らせい!」
「かしこまりました。ありがとうございます」
と、言って、信長のわきにひかえている右筆《ゆうひつ》武井入道|夕庵《せきあん》に、
「首二つ、名はわかりません。ご記帳願います! 殿様ごらんの首であります」
というや、立ち上り、信長に一礼して、冑《かぶと》をぬいで捨て、具足《ぐそく》の袖《そで》をちぎり捨て、槍もほうり出したまま、一目散に走り出した。冑も、具足も、槍もおしいことはなかった。勝ち戦さの注進の命をうけた以上、一刻も早く走りついて注進することが一番大事なことと思うのであった。
田楽狭間《でんがくはざま》から清洲まで六里の道を二時間半ばかりの間に走りかえったが、その途中では、村があれば村で、人に会えば人に、
「戦さは大勝ちだぞ! 田楽狭間で治部大輔の首を討取ったぞ! おれは清洲のお城に注進に行くところじゃ!」
と、呼ばわりながら走った。
当時の領主と領民の間は、太平の時代の仁慈の名君と領民のようには行かない。合戦が絶え間なくあるのだから、領民の平和はたえずおびやかされる上に、誅求《ちゆうきゆう》もひどいもので、民が領主を慕うということはほとんどなかったが、それでも他国の大名よりは自分の領主にひいきする心はある。今川勢が威にまかせて放火|掠奪《りやくだつ》しながら進んで来つつあったので、皆どうなることかと、おびえ切ってもいた。
藤吉郎のことばを聞くと、狂ったようによろこび、忽《たちま》ち村中が蜂《はち》の巣をこわしたように湧《わ》き立った。
いい気持のものだ。疲れも忘れる。
(どうでも、戦さは勝たにゃうそだ! 勝たんければならんものじゃ!)
と、思いながら、走りつづけた。
二
清洲《きよす》城を留守していたのは、老人、傷病者、子供、婦人で、壮強な者はほとんどいなかったが、快勝して、義元の首をあげたと聞くと、泣いてよろこんだ。凱旋《がいせん》を歓迎する支度にかかったこともちろんである。
注進役としての任務はこれで一応完了したわけだが、藤吉郎は次の仕事を考えないではいられない。秣《まぐさ》奉行として、凱旋して来る信長をはじめ騎士《うまのり》の人々の馬に飼う秣と水を、下役共に言いつけて用意させた。
信長が田楽狭間をひき上げたのは申《さる》ノ刻《こく》であったという。申ノ刻は大体午後四時頃と解してよいのだが、正確にはこれは春分秋分の昼夜が等分する日だけのことである。昔の時刻の表示は日出・日没を基準にして、日出時を卯《う》ノ刻(明け六つ)、日没時を酉《とり》ノ刻(暮れ六つ)として、昼夜をそれぞれに六等分して、一刻とした。従って、日の最も短い頃には卯ノ刻が今の時間では午前七時近くになり、酉ノ刻は午後四時過ぎになる。反対に日の最も長い頃には卯ノ刻が午前四時過ぎになり、酉ノ刻は午後七時半頃になる。だから、同じ一刻と言っても、季節によって長短がある。夏の昼の一刻は長く、夜の一刻は短く、冬はこの反対になるのだ。
田楽狭間の合戦のあった永禄三年五月十九日は、現太陽暦では六月二十二日である。すなわち夏至《げし》の日である。一年中で一番昼の長い日だ。信長が田楽狭間を引き上げた申《さる》ノ刻《こく》は、今の午後五時頃であったはず。六里の道を歩いて清洲にかえりついた時、まだ日が沈んでいなかったと記録にあるのは、少しあやしいが、記録にある申ノ刻を上刻の意に解すれば、日没まで三時間四十五分あるから、どうやら日のあるうちに帰りつけよう。
清洲の城下は沸《わ》きかえって狂喜し、人々は皆沿道に走り出て迎えた。
信長は義元の首級を、義元の着ていた鎧首垂《よろいひたたれ》につつんで槍につけ、それを行列の先頭に立て、人々の歓呼《かんこ》の中を悠々と馬を打たせた。
没しかけた夕日は斜めに行列を照らし、義元の首をつつんだ赤地錦《あかじにしき》の鎧直垂は炎が燃え立つようであった。将士いずれも、うれしさと、昂揚《こうよう》する意気に、終日の戦闘の疲労を忘れている。歓呼の声に手をあげたり、武器をあげたりして答えつつ、歩を運んだ。いつも青白むばかりに緊張し、はげしいものを眉宇《びう》にみなぎらせている信長も、今日ばかりはゆったりと自足した表情で、時々沿道の歓呼にうなずいては微笑をもらした。
城内の人々も、はるかに城外までおし出して、迎えに出た。皆うれしさに泣いていた。
藤吉郎は、下役の者をさしずして、大手の門の前の駒つなぎのあたりに、飼糧槽《かいばおけ》と水槽《みずおけ》をずらりとならべさせ、その近くに待っていると、歓呼の声が次第に近づき、やがて行列が見えて来た。
大手の門から少し離れたところで、信長は馬をおり、騎馬の人々は皆それにならった。迎えの人々がどっとそのまわりに走り寄って行くのをよそに、藤吉郎は下役共に命じて、
「お馬の飼糧《かいば》の用意がしてござる」
と呼ばわらせ、自らは人々をかきわけ、かきわけ信長の側により、
「猿《さる》でござります。用意がしてございます。お乗馬《め》に飼糧をくれ、水をあてがいとうございます」
と言って、馬の口をとらえた。
信長は迎えに出た重立った者の祝辞を受けていたが、ふりかえり、
「やあ、猿か! 機転のきいたいたし方だぞ」
とほめた。
「恐れ入ってござります」
藤吉郎が馬を引いて、人々の間をぬけると、信長の馬中間《うまちゆうげん》がついて来て、
「木下様、てまえがいたすでございます」
という。
「いやいや、そなたはお供《とも》して来て、くたびれていよう。少しゆっくりするがええぞ。おれはご注進に馳《は》せ帰ったのじゃが、帰って来てからとっくりと休んだので、もうくたびれはとれている」
といいながら、特に信長の馬のために用意してある飼糧槽につれて行った。
藤吉郎のこの行為は、もちろん信長にその精勤を認めてもらうためであるが、馬中間をいたわり、馬をいたわる衷心《ちゆうしん》の気持がなかったわけではない。人にも動物にも親切にすべきものというのも、彼が長い放浪時代に得た人生智の一つである。
「よう働いたの。よしよし、たっぷりと食えや。そら、水もそこにある。いつも飲みなれている、つめたいつめたい、うまい水じゃぞ」
と、馬をいたわりながら、全身に浮いて泡《あわ》となっている汗とほこりを、わらだわしでこすってやっているうちに、大手のご門前がにわかにぱっとはなやかになった。
奥の女中衆《じよちゆうしゆう》が出て来たのであった。
やっと今し方《がた》日が没して、夕焼の色が空にのこり、その反射でおだやかな明りが地上にこめている中に、女中衆のはなやかな色彩の着物と、白い顔とが、花が咲いたように美しかった。
藤吉郎はその中に、信長の二人の妹姫がいることを知った。それは見て知るというより、見るという手続きなしに、直接に知ったともいうべき知り方であった。炎《ほのお》のようなものがいきなり胸に燃えついたような知り方であった。
女中らの中にまじって、人々に何くれとなくことばをかけている兄を見ている二人から、藤吉郎は視線をはなすことが出来なかった。馬の後足のつけねのところをいつまでもこすりながら見ていた。馬をこすっている意識すらないのであった。
藤吉郎が前にこの両姫を見たのは、去年の春の、野の草花の美しく咲く頃であった。一年三月の間に、二人はさらに美しく成長していた。姉のおひろ様は成熟し切った女らしさになり、妹のお市《いち》様は咲きかけている花のような風情になっている。いやいや、こういう言い方では不足だ。そこら一面、なんともいえず、優婉《ゆうえん》で、高雅なものが立ちこめて、魂が宙に引きずり上げられて、ふわふわとひきずり寄せられるようだ。記憶にのこっているよりはるかに美しく、はるかに魅力的だ。
「ああ!……」
覚えず、熱いため息が出たが、それとともに、ひざがしらがふるえ、腰骨がふるえ、手がふるえ、全身にうつり、その場に居すわりそうになった。
もう馬の汗なんぞ拭《ふ》いてはいられない。
「もういいじゃろ。あちらに引いて行って、水使わしてやるがええ」
と馬中間に言って、そこを離れたが、その頃になって、藤吉郎は、女達の中心になっているのは姉妹の姫君達だけではなく、夫人の美濃御前《みのごぜん》もいることに気づいた。
美濃御前は美濃の太守であった斎藤|道三《どうさん》の娘である。信長は十六の時、この人をめとったのであった。御前はこの時十四であった。だから、今は二十五になる。小柄なからだだが、目の大きな、はっきりした顔立ちの、美しい人であった。
(どうしておれは気がつかなかったのじゃろう。鹿を追いかけている猟師は山を見ないというが、とんとおれが今の心じゃわ)
と苦笑した。
信長を迎える留守居の人々の群にまじって、それとなく燃えるような目で、姫君達を見ていた。そのままでは真直ぐに立っていることが出来ないような気がして、濠端《ほりばた》の柳の幹に片手をかけて、ささえていた。
色ある靄《もや》につつまれて、あたたかい風に魂がふわふわとただよわされているような幸福感があった。おれはこのまま死んでもよい、死ねたらどんなにうれしかろとさえ思った。
その間に、信長は留守居衆《るすいしゆう》とのあいさつをおわって、大股《おおまた》に、大手の門にむかって歩き出した。
女達は迎えて、一斉《いつせい》におじぎをしたが、顔を上げると、うれしさあまって涙がこぼれて来たのであろう、袖を上げて眼をおさえる者もあった。
美濃御前が進み出、そのあとから姫君達がつづいて、またおじぎしながら、何やら言った。それに答える信長の大きな声が聞こえて来た。
「わいらはおれが負けて討取られると思うていたじゃろう。ハハハハ。しかし、勝って帰って来たぞ。見る通り。ハハ、ハハ。東海一の弓取今川|治部大輔《じぶのたいふ》義元も、意外にもろかったわ。運のよい者にはかなわんものじゃのう。もはや、おれは近国におそれねばならぬものは一人も無《の》うなった。おれは狭い谷間を出て、広い広い野の入口に立ったような気がするぞ」
と大きな声で笑いながら言ったのである。
信長は女達にとり巻かれ、留守居衆をあとにつれ、城門を入った。
城内であらためてまた勝鬨《かちどき》の式が行われ、将士のとった首実検が行われ、酒肴《しゆこう》がふるまわれ、城は夜更けまでさんざめいた。
将士たちの功にたいする行賞は、翌日から発表になって、二、三日で全部すんだが、藤吉郎は十人|扶持《ぶち》に加増され、また火縄《ひなわ》奉行に役替えさせられた。
「いつにかわらぬことながら、小気味よい働きぶりじゃ。ほめてとらすぞ。なおこの上ともかわらず励めい」
信長はわざわざ呼び出してこう言ったのである。
五人扶持が十人扶持になったのは、首二つとった功績にたいする報奨であるが、秣《まぐさ》奉行から火縄奉行への役替えは、秣奉行としてのかねての働きと、こんどの戦勝の報告にかえって以後の骨身をおしまず時宜《じぎ》を得た迎えようをした働きにたいするものだ。働きが認められたことはもちろんうれしかったが、殿様の目がいつも自分の上に注意深く向いていると考えて、一層うれしかった。この殿様の下では、決して無駄働きにおわることはないと思うのであった。
それはそうとして、藤吉郎はまた恋のとりこになった。姫君達の姿が、いつどんな時でも、心のどこかに引っかかっていた。
(十人扶持、火縄奉行の士《さむらい》と尾張一国のお大名の姫君。とうていどうにもなる縁ではないわ)
と思うこともあり、
(おれもいつまでも今の身分ではいぬ。やがてはご重役の一人になるつもりではいるが、そのやがてというが、何年かかることやら。とうてい、十年やそこらでは達せられるまい。そうすれば、もうその時はおひろ様は二十八。お市様も二十四にはおなりだ。もうどこぞに縁づいてござるわ。間に合うことではないわ)
と思うこともあり、
(せめては、おれが土民の生まれなどでは無うて、又左様ほどの素姓《すじよう》があったら、おれは五年で重役衆の一人になってみせるのじゃが……)
と、思っても甲斐ないことを思って涙をこぼすこともあった。
しょせん、あきらめてしもうよりほかのないことであると思い、忘れようとつとめたが、因果《いんが》なことに、こんどは前のようには行かない。
(風邪でも、ひきなおしは重いものじゃが、恋もそげいなものと見えるわい……)
と、にがにがしく笑いながら考えた。
三
こんどの戦いに、今川方諸将の働きは一つとしてよいとは信長には思われなかったが、ただ一人松平元康だけは別であった。
元康の武勇を、信長は一昨年《おとどし》から見ている。元康が恒久的《こうきゆうてき》に岡崎に帰っていることを今川家からゆるされたのは、一昨年の夏からだ。
もっとも、岡崎城の本丸には駿河《するが》から来ている城代《じようだい》がいばり返って住んでおり、本来の城主である元康は二ノ丸に肩をすぼめて、借家人のような形でいるのだ。こんな風だからいくじなしかと思うと、どうしてどうして、なかなかの戦さ上手だ。かえって来るとすぐ、三河の小豪族で、織田家に志を通じている者どもを片っ端から征伐しはじめたが、負けたことがない。戦えば必ず勝つのである。
刈屋《かりや》の水野家は元康の母の実家で、当主信元は元康の伯父《おじ》にあたる。元康の母は元康が三つの年、水野家が織田家に帰属することになったので、元康の父広忠は今川家の嫌疑《けんぎ》をおそれて離縁してしまった。母は実家にかえり、その後他家に再縁して、今では数人の子まで生《な》している。だから、縁は切れたようなものの、血はつづいているのである。ところが、この水野信元も元康の敵ではなかった。一戦に打ち破られて、刈屋城にとじこもったのである。
水野信元は豪勇な男だ。身代も大きい。これが一戦に破られたというので、これまで織田家に心を通わしていた三河地方、尾州でも知多半島の小豪族らは、あらかた今川家に寝返りを打ったのである。
「不思議なやつ、気性が弱いのか、強いのか、さっぱりわからぬ」
といぶかしがり、小癪《こしやく》にさわりながらも、信長には一種のなつかしさがあった。
竹千代といった幼い頃、継母の父戸田康光に五百貫の銭で織田家に売りわたされ、六つから八つまでの満二年の間、名古屋の天王坊にあずけられていたのを、度々のぞきに行ったことを思い出すのだ。色の白い、ほっぺたのまるい、くりくりした感じの可愛い子供のおもかげが、はっきりと記憶にのこっている。
「あの子が、大きくなったとはいえまだ十七にしかならんのに、見事な戦さぶりをするという。あれが家来共は、先代の広忠が死んでからは、今川にいじめられ、いびり立てられ、ろくろく食うものもなくこの六、七年を暮して来ている。その無念残念が凝《こ》って、滅法《めつぽう》強い。そのためもあろうが、それにしても、元康が相当の器量の者でなくば、ああはいくまい」
と、思わずにはおられなかった。
さらに去年だ。元康は義元の命令で、大高城に兵糧《ひようろう》を運びこんだ。これがまた、なかなかの巧妙さであった。
大高城は、鳴海城とともに今川方の最前線の基地になっている。この城にたいして、こちらでは鷲津《わしづ》城と丸根《まるね》城を築いた。鷲津城は大高城と鳴海城を連絡する道路に臨んですえた。丸根城は三河方面から大高城に通ずる道路を見おろす地点にすえた。これで大高城はいずれからの連絡も切断されて、孤立の形になったのだ。
この城に兵糧を運び入れよというのだから、難題だ。一体、この城の将|鵜殿《うどの》長持は今川家の近い一族だ。今川家の譜代《ふだい》の大身《たいしん》の家来に命ずべきで、年も若ければ、身代もまかせ切っていない元康などに命ずべきではない。それを命じたのは、しくじって死んでもおしくないというむごい根性からとしか思われない。いくら元康が戦さ上手であるからとて、やっと十八になったばかりの者に命ずるのは、今川家の名誉にもかかわることだ。
ところが、元康は一議におよばず、
「かしこまり申した。年少の身の面目であります」
とさわやかに引受けた。
先ず兵をはなって、織田方の砦《とりで》のある寺部《てらべ》・梅坪《うめつぼ》という村に放火して焼き立てたので、鷲津と丸根の両城の守兵らは、両砦が攻め落されるとて、うろたえさわいだ。そのすきに、用意の兵糧をさらさらと運びこんでしまったのである。
味方の不覚を怒るより、元康のやり方のあざやかさにたいする驚嘆の方が、信長には強かった。
「見事なはたらきじゃ。とうてい、十八やそこらの若者のすることとは見えぬ。なかなかのやつじゃわ」
と、慕わしくさえなった。
そこにこんどの合戦だ。
元康は丸根城の奪取を命ぜられたので、田楽狭間の合戦のあった日の払暁《ふつぎよう》、丸根城に攻撃をかけ、守将佐久間大学を鉄砲でたおし、一気に丸根城を乗り取ってのけた。
これで、大高城から三河方面への道がひらけ、従って今川勢の本隊との連絡もついたのである。
義元は元康を賞して、
「早朝よりの合戦で、さぞ疲れたであろう。今日一日は戦さを休み、大高城に入って休息するがよい」
と言って、元康に大高城を守らせ、鵜殿《うどの》長持は本営に呼び返した。元康に休息させるというより、鵜殿に会いたかったのである。
こうであったので、田楽狭間に今川の本陣が奇襲され、義元の首が討取られたことを、元康は相当長い間知らなかった。元康が今川家の一族か譜代の家臣であるなら、どの隊からか連絡があって退却をすすめたであろうが、松平家は今川家では外様《とざま》ともいうべき家だ。知らせてくれるものがなかったのである。古往今来、軍隊ほどセクショナリズムの強いものはなく、わけへだてのはげしいところはない。近代国家の軍隊ですらそうだから、この時代の大名の軍勢では最も強いものがあったろう。とすれば、このことも、単に松平家にたいする今川家の諸隊の差別待遇というだけのことではなく、一般的なものでもあったことになる。
元康はその日も知らず、その翌日も終日知らず、夕方の薄暗くなる頃になって、はじめて家来らがうわさを聞いて来た。元康もおどろいたが、家臣一同もおどろいた。
「必定《ひつじよう》信長は全軍をひきいて、この城に攻めかかるかと思わなければなりません。この城は敵中に孤立している上に、粮米《ろうまい》の貯えもとぼしゅうござる。とうてい籠城《ろうじよう》などは出来申さぬ。敵に道をとり切られぬうちに、国許《くにもと》へ引きとるがようござる」
と、老臣らが口をそろえて言ったが、元康は、
「戦さに流言はつきものじゃ。敵が計略のために言いふらしているのかも知れぬ。確かなことのわからぬ先きに、風説に聞き怯《お》じて逃げ去るは恥じゃ。よくよく聞き定めた上のことにしよう。引き上げがおくれて、野武士や百姓どもが蜂起《ほうき》して道をさえぎろうと、蹴散《けち》らして通るに何の手間ひま。また、その以前に信長がここにおしよせて来たら、それは天命じゃ。治部大輔殿の弔《とむら》い戦さして、いさぎよく死のうまでのこと」
と言って動かなかった。
そのうち、水野信元が使をつかわした。使は田楽狭間の合戦のことをくわしく話してから、
「今川方総敗軍となったことは、以上申し上げた通りであります。つきましては、主人申しますには、道ふさがらぬ前に岡崎にお引上げあるよう、早や日も暮れましたれば、案内者をつかわし申すとて、拙者《せつしや》をさし向けましてございます。ご案内つかまつります」
と言った。
信長は織田方、元康は今川方とわかれて、たがいに戦ってはいても、双方ともに怨《うら》みもなければ、敵意もない。親分同士に憎悪がからみ、野心がからみ、戦さするので、家の安泰《あんたい》のためにいたし方なく戦って来たのである。血のつづいた伯父として、信元は元康のことがあわれになって、わざわざ知らせにやったのである。
しかし、元康はなお疑って、
「かようなことは縁者でも信用は出来ぬものじゃ」
と、ひたすらに籠城の準備を進めていると、岡崎の留守居としてのこっている老臣鳥居忠吉が急使を馳《は》せて、早や早やお帰りあるよう、今川勢は四分五裂して国許に帰りつつござるぞ、と言って来たので、はじめて義元の死と今川勢総敗軍のことを信用して、月の出るのを待って、城内に旗を少々立て、捨《すて》篝火《かがり》を焚《た》き、籠城をつづけている風に装《よそお》って、帰国の途についた。
こんな敗軍によって退却する際には、必ず道筋の百姓共が集団強盗化して、錆槍《さびやり》や竹槍をひっさげて道をさえぎったり、不意討ちをくらわしたりして、始末におえないものであった。しかし、元康勢が整々として一糸乱れず行軍したので、そんなものも恐れて出て来ず、一兵も損じないで、岡崎にかえりつくことが出来た。
岡崎に帰りついても、元康は鈍重なくらい用心深い。城には入らず、菩提寺《ぼだいじ》である大樹寺に入った。もっとも、岡崎城には今川家の代官らがまだいる。
この連中は臆病《おくびよう》風に吹かれ、早く駿河《するが》に帰りたいのであるが、元康が城には入らず、菩提寺なぞに入ったので、使《つかい》をさし立てた。
「貴殿のお城でござる。ご入城あれよ。われらは帰国いたしたい」
という使者の口上であった。元康は、
「駿府《すんぷ》よりのおさしずなきかぎり、拙者《せつしや》は自儘《じまま》なことをいたすわけにまいりませぬ」
と返答して動かない。
駿河士《ざむらい》らはやり切れなくなって、城を捨てて、逃げ去った。
この知らせを聞いて、元康はやっと、
「捨て城ならば拾おう」
と、重い腰を上げた。
これらのことが忍びの者や探索がかりの者から報告されると、信長は元康という若者が益々慕《した》わしくなった。
(くらやみの特牛《こつてうし》のようなやつじゃ。しぶとうて、石橋でも、叩《たた》いた上にも叩かんと渡ろうとせぬところ、頼もしげあるやつじゃ)
と思った。
駿河士らが退去して、完全に岡崎城の主《あるじ》になってから、しくしくとあたりの豪族をきりしたがえ、ともすればこちらの方にまで手出しする気勢を見せるところも、気に入った。
「味方にしたい」
と思うようになった。
そこで、水野信元を呼び出して、
「松平元康はまだ嘴《くちばし》の黄《き》な年頃《としごろ》でありながら、なかなかの人物。おれは気に入った。そなた伯父甥《おじおい》のことなれば、説いて味方にしてくれい」
と言いつけた。
信元も、元康の運命については大いに案じている。艱難《かんなん》の中に育ちながら、立派な武将に成長して来たらしく思われるにつけても、何とか末長く栄える身であらせたいと思う心は山々だ。だからこそ、織田方に対する一種の裏切行為であることを知りながら、大高城にいる元康に案内者までおくって、岡崎に引上げることをすすめもしたのだ。
今や、義元の死によって、今川家は大打撃を受けた上に、義元の嗣子《しし》の氏真《うじざね》が柔弱で、怠惰《たいだ》で、享楽好きだから、当分は昔の威勢を回復することは出来るまい。それどころか、このはげしい戦国の世には、人の盛衰も、国の興亡も、あっという間もない。あるいは亡びるかも知れない。
一方、織田家は、当主の信長は一種異様な人間ではあるが、なにか恐ろしい力をどこやらに持っている。大名にあるまじくかぶいた男とか、礼儀作法も心得ぬ無法者とか、半気違いとか言われていながら、いつの間にか尾州《びしゆう》のほとんど全部を統一してしまった。しかも、こんど義元を討取って、天下の人を驚かせた。
信元は経験豊富な武将だけに、人間というものをよく知っている。人間に自信が出来てくれば、その持つ力の全部が発揮出来るようになる。戦争などは相手あってすることだから、相手をえらいと思えば、萎縮《いしゆく》して持っている力も出て来ないものである。自信ある者の敵にまわるものは皆この萎縮した心理になる。従って、自信に満ちている者は、実際の力に数倍する働きが出来るようにさえなる。
信長には、その自信が出来て来たのだ。信長だけでない、家中の者皆自信に満ちて来た。信長はこれから益々《ますます》強く、益々大きくなって行くであろう。
そうなれば、織田・今川の二強隣にはさまれている元康がどうすべきかは、言うまでもなく明らかだ。自分のように、織田と和親し、服属するのがよいのである。
信元は信長の命令を受けると、一議におよばず承諾して、使をつかわして、元康を説得にかかった。
元康はなかなかうんと言わない。
信長は信元を召《め》して、
「ぜひこの話をまとめてもらいたい。おれは元康を被官《ひかん》にしようとは思うておらぬ。兄弟分になってもらいたいと思うているのだ。くじけず骨おってほしい」
と言ったのである。おそろしい熱心さであった。
藤吉郎はこの信長の執念ともいうべき熱心さを、近習《きんじゆ》の人々から聞いた。
「たかの知れた松平元康ごときに何でこげいにご執心であるか、われらわけがわからぬ。そりゃやつは弱年にも似ず、戦さは上手じゃ。しかし、その身代は知れたものじゃ。従って、家来の数も知れている。その上、松平はご先代以来、ご当家|重畳《ちようじよう》の怨敵《おんてき》じゃ。かほどまでへり下ってのなされ方、われら一向に合点がまいらぬ」
と、その人々は不平げであった。
「仰《おお》せごもっともでござる。今、日の出のお勢いである殿様にそうまでご鄭重《ていちよう》にあいさつされながら、元康もわからぬ男でありますな。拙者《せつしや》少年のみぎり、あの地方に行きましたので、よくわかっていますが、三河ものはおそろしく頑固で、ひがみが強いのでござる。大方、殿様の仰せを疑っているのでござろう」
と、藤吉郎は言ったが、彼には心の奥にぴかりと閃《ひらめ》いていることがあった。
(人の望みははてかぎりがない。田楽狭間の勝ち戦さまでは、殿様のお望みも、せいぜい、尾州一国と三河・美濃あたりまでをご自分のものに出来ればよいと思うてお出でであったろうが、あの戦さで治部大輔を討取って快勝を得させられたので、天下に望みをかける気になられたらしい。足利将軍家は陪臣《ばいしん》の三好《みよし》、陪々臣《ばいばいしん》の松永などという輩《やから》におさえつけられ、将軍という名だけであるそうな。殿様は京へ上って、将軍家のためにその三好や松永を討ちつぶし、将軍|輔佐《ほさ》の職について、天下に号令しようと考えはじめられたのであろう。そのためには、東の方を安全にしておかれねばならん。元康殿に東から来る敵を防がせておいて、ご自分は西に向わせられるご算段に相違ない)
という思案が閃いたのであった。
彼は自分のこの推察ははずれてはいないと信じた。人々がここに気がつかず、累代《るいだい》の怨敵《おんてき》の家だとか、元康が小身だとかいうようなことにこだわっているのが滑稽であった。
(世の中には賢い人間は案外に少ないもの)
と思った。
自分に話してくれたのはまだ年若い近習の人々であるが、重役衆はどうだろうと思った。一人一人を思い浮かべてみたが、いずれもこのケタはずれに大きいお望みに気がついていそうには思われなかった。
(皆様、ご量見が小さい。一人のこらず、尾州の田舎《いなか》ざむらいじゃわ)
と思った。
(おれはズバぬけてかしこく、ズバぬけて量見の大きな人間かも知れぬ)
と、結論はしぜんにこうなった。
信長の壮大な野心は、藤吉郎の心も昂揚《こうよう》させた。殿様がえらくなりなされば、ついている家来共もえらくなる、殿様が天下とりになりなされば、おれかて一国の大名くらいにはなれるかも知れぬ、と思うのだ。
(大名になれば、おれの生まれ素姓《すじよう》がどんなに卑しくても、おひろ様なり、お市様なり、おれは女房にもろうことが出来る。しかし、急がなならん。せいぜい五、六年のうちには、そうならないかん。そうで無《の》うては、間に合わん)
藤吉郎は、心から信長と元康との和議の成立をいのった。
冬になって、ついに和議が成立した。元康がうんと言ったので、信長は滝川一益《たきがわかずます》を正式の使者として岡崎につかわし、証文を取りかわしたのである。
藤吉郎は心から祝福した。
年が明けて、永禄四年二月、元康は家老酒井|忠次《ただつぐ》、石川|数正《かずまさ》をはじめとして百|騎《き》ばかりの供《とも》を連れて、あいさつのため尾張へ来た。
信長は大いによろこんで、道筋の道路や橋などを修理したりして、歓迎の用意をしたばかりか、熱田《あつた》にはこの前正式の使者となって行った滝川|左近将監《さこんのしようげん》一益をはじめとして、林|佐渡守通就《さどのかみみちなり》、菅屋九右衛門《すがやきゆうえもん》等を出迎えさせ、名古屋に案内して万松寺《ばんしようじ》に休息させ、従者らは付近の民家に休息させ、一軒に五人ずつのかかりの者をつけて、接待に手薄のないようにはからったのだ。粗豪《そごう》な平生に似ず、信長の心くばりは大へんなものであった。
(殿様の天下取りへの門出《かどで》の足がためだ。こうあろうはず)
と、藤吉郎はひそかにうなずいた。
万松寺は、元康が幼年の頃、二年をとらわれの生活を送った天王坊のある寺だ。深い感慨のあったことであろうが、元康は顔色一つ動かさず、その天王坊を見たいとも言わなかった。
しばらくの休息がすむと、清洲《きよす》に向った。
清洲についたのは、短い早春の日が西の山に迫る頃であった。
騎馬の行列が清洲の町の入口についた時、そこには町の者や近在の百姓らが多数集まっていた。
この者共はくわしいいきさつを知らない。殿様が今川治部大輔すら一戦に打破り、首を上げなされ、日の出の勢いであるので、累代お家の敵であった三河の松平元康も、家の安全のために降参して来たのだと思っている。だから、尊敬の心などさらにない。三河の山奥で獲《と》れた怪獣が運ばれて来るので見物に出たというほどの気持しかない。思い思いのふだんの仕事着のまま出て、道の両側にかたまって、わいわいさわいでいた。無礼な言辞を放《はな》つ者もあって、三河衆は腹を立てた。
その時、元康にすぐつづいて、元康の持道具《もちどうぐ》である大薙刀《おおなぎなた》をさげて馬を打たせていた少年があったが、いきなり、馬に角《かく》を入れ、さっと駆けぬけると、群衆の前に馬を立てた。薙刀の鞘《さや》をはらい、はげしく叱咤《しつた》した。
「三河の元康、両家のよしみのために参着《さんちやく》されたのであるに、うぬらなんとて無礼なるぞ! 慎まずば、一々に斬《き》って捨ててくれるぞ!」
まだ前髪の十四、五の美しい少年であったが、火のような烈《はげ》しさだ。半口でも返したら、そのまま薙刀とともに飛びついて来そうであった。さしもさわがしかった人々は一時にしんとなって、道の両側にわかれて、土下座《どげざ》した。その前を、行列は蹄《ひづめ》の音もしずかに通りすぎた。
この日、藤吉郎は城内の役目を仰せつかって、一歩も城外に出なかったが、夜に入って、城内で歓迎の宴《えん》のひらかれている時、この話を人に聞いた。清洲の家中では高いうわさになって語り伝えられ、松平殿はよいお家来を持っておられる、小姓衆《こしようしゆう》ですら、火のように烈しいわといわれていたのである。
「その小姓は何という名前でござる」
「本多平八郎《ほんだへいはちろう》、まだ前髪であります由。本多家の嫡子《ちやくし》は代々平八郎を名乗るが規模《きぼ》となっていて、前代の平八郎忠高も武勇すぐれた者で、ご当家の武士はずいぶんやられています」
と教えてくれた者は言った。
あせり
一
元康も見た。余興のために幸若舞《こうわかまい》が演ぜられる時、お縁側の端《はし》から見物させてもらったが、藤吉郎の関心は幸若舞にはない。ひたすらに元康を見ていた。
元康は小がらだが、小ぶとりにふとって、厚いまるい肩と、まるい顔をしている。目が細くて、眉《まゆ》が尻下《しりさが》りで、愛嬌《あいきよう》のある顔だが、動作が重々しい。かすかにどもり気味で、口のきき方はへただが、一語一語、ゆっくりと言うところに、鈍重な強さがあった。日やけして、色が黒かったが、本来は色白なのであろう、ふと手をあげた時などに見える腕の内側が真白なのである。
からだつきも、性質も、口のきき方も、動作も、鋭くてはげしくて軽捷《けいしよう》である信長とは、まるで反対の人がらのようであった。
(おとどしの大高《おおたか》城の兵糧《ひようろう》入れといい、去年の田楽狭間の合戦の後のふるまいといい、その他の場合といい、年は若うても、なかなかのお人じゃが、つき添《そ》う家来衆がまたいいわ)
と、居流れている家臣らを見た。あれが酒井、次が石川、次が誰と心にしみて見た。
武勇がすぐれているだけでなく、忠誠無二でもある。幼い元康殿は人質となって駿府《すんぷ》に行ったきりでいつ帰されるかわからない上に、この人々は伝来の知行地《ちぎようち》さえ今川におさえられてほんの少ししかあたえられず、自ら耕《たがや》してやっといのちをつないで来たばかりか、いくさでもあれば一番むずかしいところに駆り出されて働かされ、手がらがあっても賞せられもせず、おさえつけられ、いじめつけられるばかりであった。おれはそれをこの目で見て来ている。だのに、皆歯をくいしばって、お家への忠義を立て通して来たのだ。その忠誠は世にたぐいがないほどだ。
(うちの殿かて、こんなご家来衆はお持ちでない。うらやましいお人じゃわ)
しみじみと、また元康を見た。何年かたって、織田家の侍大将《さむらいだいしよう》になったとしても、自分にはこんなに信頼される家来は出来はしないのだと思った。さびしくもあれば、ねたましくもあった。
元康は一晩泊まって、翌日はもう帰って行った。
それから間もなく、青天の霹靂《へきれき》のように藤吉郎をおどろかすことがおこった。おひろ様の縁談がきまったのである。縁づき先は知多《ちた》郡大野の領主|佐治《さじ》八郎|信方《のぶかた》であった。大野は知多半島の半ばほど、伊勢湾にのぞんだ地で、佐治氏はそこに城をいとなみ、半島の大部分六万石ほどを領有していた。
勝幡織田《しようばたおだ》氏(信長の家の織田氏)は昔は佐治氏と嫁のやりとりをしているが、信秀の時代から身分がちがって来たので、縁がたえていた。
藤吉郎には、なぜこの不釣合な縁談が出て来たか、よくわかる。松平の勢力は、三年前に元康が今川義元に恒久《こうきゆう》的に岡崎に居住することを許されてから、しくしくと周辺にのびた。昔の被官《ひかん》らで織田家に味方するようになっていた者を打平《うちたいら》げたばかりか、尾州《びしゆう》にも手をのばし、知多半島の豪族らをあらかた手に入れてしまった。その中に佐治氏もある。もっとも、手に入れたといっても、これは松平に降伏したのではなく、今川氏に降伏したのであるから、田楽狭間の合戦の後は、また皆独立してしまった。しかし、焼けぼっくいには火がつきやすい。松平の勢力が今の勢いでのびて行けば、松平のものになるにきまっている。
「殿様はここをお考えになり、おひろ様をかすがいにして、知多半島の豪族中では一番の大身代である佐治家をこちらに引きつけるご算段なのだ」
と、判断がつくのである。
どんなに仲よくしても、利害の算定は決して狂わせず、打つべき手はちゃんと打ち、しかもそれを荒立てないやり方には、舌《した》を巻かずにおられないものがある。
「うまいものや」
と、感心した。あらあらしい日常から考えると、どこにこの巧緻《こうち》な知恵がひそんでいるかと驚嘆させられた。
が、感心は感心、落胆は落胆だ。
「とうとう間に合わなんだ。おひろ様はよその花になりなさるのだ」
と、気が滅入《めい》って来るのをどうしようもない。
「はじめから無理じゃった。おれがはじめておひろ様とお市様を遠くから拝んだ時、おひろ様はもう十七であった。おれはその時、お草履《ぞうり》とりじゃ。精かぎり働いて、ずいぶん無理なご奉公したおかげで、二年のうちに士分《さむらいぶん》になり、火縄《ひなわ》奉行にまでなることが出来た。よっぽど早い出世じゃと、人もうらやましがり、自分でもそう思うが、間に合うことでないわ。無理な望みじゃったのや」
と、自問自答して、強《し》いてあきらめた。
あきらめがわりに早く出来たのは、まだお市様がござると思ったからだ。お市様は今年十五だ。十九になられるには、まだ四年ある。四年の間には、殿様は都に上って、天下の副将軍様と仰がれなさるのであろうから、おれも一生懸命働いて、五万石や六万石の大名になろう。そしたら、いただけぬものでもあるまい。
「働くことだ! 働くことだ!」
目をつり上げる気持で、決心した。
二
夏になるまでの間に、おひろ様は大野へ輿入《こしい》れされた。
その前に佐治八郎も清洲へ来た。肩はばひろく、たけ高く、引きしまった男らしい顔立の二十七、八の男であった。
(男ぶりも見事な男じゃわ)
と、うらやましかった。
「ようお似合のご夫婦じゃ」
と、家中みな祝福した。
佐治は二日清洲に滞在して、鄭重《ていちよう》なもてなしを受けて大野にかえり、間もなく迎えの者をよこした。おひろ様はその迎えの者とこちらの使者とに送られて、大野に行った。積み夜具をした馬にゆられて行く姿を、藤吉郎はお濠《ほり》ばたでご家中の士女らとともに見送ったのだが、|※子《むし》をたれた笠《かさ》を深くかぶっていたので、顔を見ることは出来なかった。馬足の一歩一歩にしなやかにからだが揺れていたのと、ひざのあたりにしっかりと扇子をつかんでいる小さい手の白さとが胸が痛くなる思いで目にしみて、いつまでも忘れられなかった。
(どんな無理をしても、片時《へんじ》も早く出世せねばならぬ)
と、またしても決心した。
おひろの縁組をすませると、信長の美濃《みの》経略は最も精力的に進められはじめた。この以前から、ちょいちょいは美濃に向って兵を出していたのだが、いわば打診の程度であったし、斎藤氏は強かったし、河川の多い要害の地勢であったし、成績は全然上っていなかった。
この頃、美濃の斎藤氏は、信長の舅《しゆうと》道三《どうさん》は五年前その長男|義竜《よしたつ》に殺され、信長の正面に立ちふさがって戦ったのは義竜であった。義竜は若くしてレプラが発病し、面相がくずれながらも、智略、武勇ともに抜群であり、士心もまた心得ていて、実に強かった。侵入する度に手痛くたたき返されて、信長は歯がみしていきどおっていたが、その義竜が、おひろが縁づいて二月ほど後に、病い重って三十六を一期《いちご》として死んだ。
この意味でも、信長にはチャンスであった。大規模な侵略戦を計画し、準備にかかった。
その準備の一環として、藤吉郎は多量の火縄《ひなわ》を用意しなければならなかった。
(こんどの美濃入りは手がらの立て時じゃが、早う出世するためには、すぐれた戦功を立てねばならぬ。ひとり武者では知れた手がらしか立てられぬ。どうしても人数《にんじゆ》をひきいねばならぬ)
と思っていた彼は、この火縄調達を利用して、人数をこしらえようと思った。
(徒歩《かち》で行ってはありがたみが無《の》うて、人々があがめぬ。人々があがめねば、慕《した》いよってくれぬ。どうでも、馬に乗り、槍を立てさせ、供の者の一人は連れて行かねばならん)
と、思った。
馬は高価なのである。一若《いちわか》に相談しても、これはどうにもならない。どこへ行って都合しようと思案しているうちに、甚目寺《じもくじ》村に父方の遠縁の家のあることを思い出した。甚目寺村とは、清洲の西南半里ほどの村で、藤吉郎が幼い頃小僧に行っていた光明寺のある萱津《かやづ》村の隣り村だ。ここに父|弥右衛門《やえもん》の二《ふた》いとこにあたる源左衛門という人物がいる。いつも、「人の世話もせぬが、人の世話にもならぬ」といって、それを通している頑固ものではある。牛馬一頭ずつを持ち、作男も一人使って、四、五町歩の田畑をもち、所帯豊かに暮している。
(よし来た。頑固なおやじやが、真心こめて頼んだら、貸してくれんことはあるまい)
と決心して、公務のひまを見て、出かけた。
源左衛門の家は、庄屋《しようや》にはなれないが、長《おさ》百姓である。格式がある。小さいながら長屋門があり、大きな木のよく繁った屋敷林があって、堂々とした構えであった。
藤吉郎は、源左衛門とは子供の頃二、三度法事の時会ったきりだ。せがれらしい十四、五の少年が玄関にとりつぎに出て来たので、くわしく名のった。少年が引っこむと、四十を少し越したくらいの、色の黒い、やせてはいるが、頑丈なからだつきの男が出て来た。
「やあ、われ、弥右衛門どんとこの与助かァ?」
「与助でござる。今は藤吉郎と名のっています」
「聞いとる、聞いとる。清洲の殿様にご奉公して、えらい出世して、士《さむらい》ぶんになっとるいう話は、誰《だれ》からか聞いて、よろこんどった。まあ上れ」
と、請《しよう》じ上げた。
表座敷で、対坐《たいざ》した。座敷といっても、この頃の長百姓の家だ。畳なしの板じきだ。すわるにはわらで編んだ円座がある。
思い出話が一しきりはずんだ。ずいぶんきげんがよい。木下の血統には阿呆《あほう》は生まれぬ、われがおやじの弥右衛門かて、手傷を負うてかたわにならねば、一かどの士になれたに違いない男やった、傷《て》を負うてかたわになり、武家奉公かなわぬ身となったけに、小前《こまえ》百姓でおわらねばならんかったのや、われがその若さで士ぶんになることが出来たのは、おれに言わせればちっとも不思議なことはない、ちゃんとわけのあることや、などと言う。一族から武家奉公して、士ぶんになった者がいるのが、うれしくてならない風であった。
風むきは大いによいようだ。藤吉郎は力を得た。
「ありがとうござるだ。そう言うてもらうと、拙者《せつしや》も気強うござるだ。武家では氏素姓《うじすじよう》を第一のことに言いますで、肩身狭い心になることもござっただが、木下の血には阿呆な血は一《ひと》ッたらしもにゃァと聞いて、気強うなりましたわい。もう決して肩身せまい心なんどになることはござらねえ」
わざと百姓ことばをまぜて、気に入るようなことを言っておいて、
「さて、ここで今日まいった肝心《かんじん》の用談にかかりますべえ」
と、言った。
「おお、聞こう。どやん用で来たのけえ」
と、大いにうれしい風だ。
「実はお願いがあって来ましただ。おじやんの力で、おらを出世させておもらいしたいのですわい」
と前おきして、事情を語り、馬を貸してもらいたいと頼んだ。
お願いがあると藤吉郎が言い出した頃から、相手は警戒する顔になっていたが、益々《ますます》ぶすッとした様子になった。
「おらが家には馬もいれば、牛もいる。けんどこれは耕作に使う牛・馬や。乗るためのものやない。お前も百姓の出やよって知っとるやろが、作馬《さくうま》を乗用《のりよう》に使うと、横着になって、作《さく》に使いにくうなる。貸すわけには行かんのう。一体、お前かて、そやんまでして、見えを張らんならんことはにゃァやろが。お前はお上《かみ》から仰せつかった火縄奉行に相違にゃァのやよって、どやん身なりで行ったかて、村々が言うこと聞かんはずはにゃァわな。もし、きかざったら、お上のご威光《いこう》で、痛めつけてやればええのや。首斬《き》ることかて出来るやないかん。何で言うこときかせられんことがあるかァ。おれ、そやん見えばったことはきらいやわい」
けんもほろろな返答だ。
「見えと言ってしまえばそれまでのことやけど、その見えが大事なこともありますで。いかにもおじやんの言わるる通り、おらは士分《さむらいぶん》におとり立ていただき、火縄奉行でもござるが、もともとは中村の百姓の小せがれですわい。百姓のうちにはそれを知っとる者も居ますわい。全部の者が知らいでも、いくらかの者が知っていれば、口から口に伝わって、こんど火縄ご用を言いつけに来た奉行は、中村の小百姓から成り上ったものやと、皆軽う見る気持になるは知れたことですわい。そやん気でいるところに、みすぼらしい姿で行っては、どやんきびしゅう言うたかて、言うた通りにしてくれんに違いにゃァです。しかし、馬に乗り、槍《やり》を立て、若党《わかとう》を連れたりして、えらそうにかまえて行くと、皆が恐れ入るのですわな」
「そうしたかて、百姓からの成り上りものやいうことが消えるわけではにゃァで。百姓は皆知っとるわな。恐れ入った風したかて、そら上べだけのことや。かえって心の中では笑うとるで」
「そら笑うものもありましょ。けんど、そんなやつは、とくべつ横着なやつですわい。大方のもんは恐れ入ります。大方のもんが恐れ入れば、横着もんかて、恐れ入るようになりますわな。人間いうものは、そやんもんですわい。ま、理窟《りくつ》はこれくらいにして、貸してくだされや。頼みますけに。ただでとはいいまへん。一まわりして帰ってくると、よっぽど是式《これしき》があつまる。一貫文お礼に出しますけ、十日ばか貸して下されや。十日で一貫文やったら、悪いもうけではにゃァでしょうがな」
と、熱心に口説いた。
熱弁には少しも動かされなかったが、是式をもらえるから、一貫文の礼をするといわれたのがきいた。
公務を帯びて在郷まわりをする役人に村々でわいろをさし出すのは習慣になっている。だまっていても相当なものを持ってくる。もらってやらなければ、自分らの村に特別悪意をもって苛酷《かこく》な取りはからいをするのではないかと、かえって不安になるのである。一貫文くれるのは間違いないと思った。
「その一貫文、たしかなことやな」
「たしかですわい。きっと礼しますで」
「ふうん。われがそれほど事をわけての頼みやし、一族の中からせっかく士ぶんにまでなった者の出世の助けにもなることやし、そんなら、用立ててやろうわい」
と、とうとう言った。
「おお、貸して下さるか! ありがたや、ありがたや、礼を言いますで」
と、藤吉郎はよろこんだ。
これだけで藤吉郎が満足して引揚げればよかったのだが、つい調子に乗った。
「先《さ》っきからせんど言います通り、これはおらが出世の瀬戸際でござる。おらが出世をすれば、一族の人々も捨てておかしまへん。必ずそれぞれに取立てますわい。さすれば、こんどのことは、木下一族の栄えの瀬戸際《せとぎわ》いうてもええのですわい。そこで、おじやんも、そこのところをようく考えてくれはって、いっそのこと、おらが若党になって供《とも》してくれはりまへんやろか。これもただでとはいいまへん。やっぱり一貫文出しますが」
源左衛門の顔色がかわった。深い眼窩《がんか》の底から、おそろしい目でにらみつけていたが、忽《たちま》ちからからと笑い出した。
「与助やい。わりゃ士《さむらい》になっても、昔の図々しい根性がちょこっとも改まっとらんな。つけ上って、法外なことを言いくさる。われがような礼儀も作法もわきまえにゃァやつとは、おりァもう一家のつき合いはやめる。馬も貸さんわい! きりきり、かえりくされ!」
だんだんせり上って来て、しまいにはたたきつける調子となった。
藤吉郎はしまったと後悔しながらも、なおおだやかに言った。
「まあ、まあ、まあ、そやんいきり立たんで、気ィしずめてゆっくりと聞いて下され。そりゃ、おらが昔の与助なら、おじやんがそやん言いなさるのもあたり前やけど、今のおらは士ぶんの端《はし》くれや。おじやんはおじやんでも、平姓にちがいない。おらが若党になって、供してくれはっても、おかしいことはにゃァと、おら思いますで。それもただでとはいわんのや。一貫文お礼するというとりますのや。またおらがだんだん出世したら、この恩に百倍二百倍|報《むく》いて、おじやんを家老にする。先っきとりつぎに出たあの子は利口そうな顔しとったが、このままではおじやんのあとついで百姓や。長《おさ》百姓というたかて、百姓にちがいあらへん。四、五町の田をせせって、領主、代官にはたられて、一生を暮らさんならん。ここでおじやんが、うんというてくれはったら……」
相手はもうはげ頭からかげろうを立昇らせんばかりだ。
「黙りくされ! 何をぞべらぞべらと、阿呆《あほう》なごたくを並べくさる! かえれ! かえれ! われがどやん出世したかて、世話になんどなるけえ! たかの知れた十人|扶持《ぶち》のさむらいになったくらいで、のぼせ上って、大ぼら吹きくさる! 何ちゅう阿呆じゃい! おりゃ、われが食うや食わずで、村々を小ぬすッとしながらほッつき歩いとった頃《ころ》のことを、ようく覚えとるどォ! のぼせ上るのも、いいかげんにしくされい! けえれッ!」
立ち上って、ドンと板の間をふんだ。
放浪時代のことを言われるほど、藤吉郎にとっていやなことはない。かっと激した。
「おお! 帰るとも! 先きざき、おらがどんなに出世しても、決してかもうてやらんぞ! 覚えていくされ。親類の縁もこれまでと思え! 義絶やでェ!」
と、どなりかえして立ち上った。
「阿呆ンだれ! まだそやんこと言っていくさる! ド阿呆の、猿《さる》の、小ぬすッとめ! 親類の縁切りは、こッちゃの方からしてくれたを忘れくさったかァ! けえれ! けえれ!」
蹴《け》り出しもしかねまじき形相《ぎようそう》だ。
藤吉郎は憤然として、その家をあとにした。
三
門を出て、田舎道《いなかみち》を行く間に、怒りはしずまった。へたをした、馬だけでおいておくべきじゃった、たしかに調子に乗りすぎていたと、後悔した。しかし、もう取返しのつくことではない。
(はて、どうしたらええやろ。なんとか他に工面《くめん》の途《みち》を考えなならんが)
と、思いながら、清洲《きよす》へ向ったが、村はずれまで来て、ある農家の前を通りかかった時、藪《やぶ》の中のその家から、馬が鼻嵐《はなあらし》を吹く声が聞こえてきた。
(こんな家かて、馬がいるわ)
と、その家を眺めて、そこが昔の友達の家であることを思い出した。売りものにするどじょうをすくったり、畑から瓜《うり》を盗んで空腹をまぎらしたりしながら、このへんをほっつき歩いて、神社の床下や、橋の下や、藁小屋《わらごや》をねぐらにして暮していた頃、ここの息子も同じ年頃で、しばらく一緒になって悪さしてまわっていたことがある。生きていれば、いい百姓になっているはずだ。ものは試しだ、あたってくだけてみようと、考えた。
小暗《おぐら》いほど両側から繁みがかぶさっている竹藪の中の道を入って行くと、昔とちがって小ざっぱりとした家になっている。どうやら暮しむきもゆたかな風である。
馬小屋で、若い百姓が秣《まぐさ》を切っていたが、藤吉郎の足音を聞いて、ひょいとふりかえった。
こちらはその顔に昔の友達のおもかげをすぐ見たが、相手にはわからなかったらしい。お武家が入って来たと見て、秣切りをやめて、おどおどした風で出て来て、土下座《どげざ》しようとした。
「勘十《かんじゆう》や、おれやで。与助やで」
と、呼びかけた。
「ヘッ?」
おどろいて見ている。与助という名を思い出せない風だ。
「どじょうすくいの与助や」
勘十はひげの濃《こ》い、たくましい、いい若者になっていた。しげしげと凝視《ぎようし》していたが、わかったらしい。
「なんや、与助――どんか」
と言った。「与助」から「どんか」までかなりな時間がかかり、低い調子で発音された。昔は敬称などつけなかったのだから、これはこちらの武家姿にたいしてつけたものに相違なかった。
「久方ぶりやったな。まめで結構やな。どうやら、おまん家《ち》、ええ暮し向きになったようやなあ。昔はこげいになかったで」
武家姿で訪ねて来た与助がどんな目的を抱《いだ》いているのか、勘十にはわからない、暮し向きのことなど言い出すのでは、用心する必要があると思ったのであろう、口をきかず、じろじろと眺めているばかりだ。
藤吉郎には、その心がよくわかる。先ず安心させなければならない。
「おれは、今|清洲《きよす》の織田様に奉公しとる。十人|扶持《ぶち》いう小禄《しようろく》ではあるが、士《さむらい》ぶんや。火縄《ひなわ》奉行のお役目もいただいとる。ここの前を通りかかったら、ふとおまんのことを思い出したので、どうしとるやろ思うて、寄ってみたのや。途中の思い立ちやよって、手土産の用意もない」
と言って、巾着《きんちやく》から銭《ぜに》を二、三百文出して、紙にくるんで、
「これそのかわりや。ほんの少しやが、志《こころざし》やと思うて受けてくれ」
と、さし出した。
「へえ、これ、おらにくれはるのかいな」
「ああ、受けてくれ」
受けた。受けると、さらりと警戒の表情が消えた。打ちとけて、そして敬意の表情にかわって来た。
「おじやんやおばやんはどやんしとる。まめで働いとるかえ」
と、勘十の両親のことを聞いた。二人とも二、三年前、相ついで死んだという。
「ほう、そら気の毒やったな。二人ともええ人やったになあ」
藤吉郎は二人の思い出話をした。二人とも、せがれがいたずらばかりするようになったのは、与助と遊ぶからだと、こちらの顔を見さえすれば口ぎたなくののじったものだが、人は悪くなかった。時々は飯を食わしてくれたこともある。柿や桃をくれたこともある。藤吉郎は叱《しか》られた話や、やさしくしてもらった話などを、なつかしげにした。ほんとになつかしくないこともなかった。
これで、勘十は一層《いつそう》うちとけて来た。
「ちょっこら待ってくんなさろ。茶ァいれて来ますで」
といって、家に入って行ったが、間もなく、二十くらいの色の浅黒い、小ぶとりにふとった、いかにも健康そうな女に茶を持たせてかえって来た。
「女房ですねや。両親《ふたおや》がなくなる前に、もろうてくれました」
といって紹介した。
「わしが木下藤吉郎。勘十どんとは、子供の時のいたずらなかまで、よう暴れまわったもんですわい。見知っておいて下されや。勘十どんも幸いや、おまんのようなきれいなおなごと一緒になれて。おまんを大事にしてくれますかえ」
美しいと言われることが、女の一番よろこぶことであるのを、藤吉郎はよく知っている。女房は大いに藤吉郎が気に入った風であった。
しばらく、夫婦を相手にいろいろな話をしていたが、やがて切り出した。
「先《さ》っきから、見ているのやが、おまんとこの栗毛《くりげ》、ええ馬やのう。よっぽど出したやろな」
「それほどのことはねえです。十貫足らずですわい。けど、丈夫な馬ですよって、おら大助かりですわい。田畑のひまな時には、駄賃に出て、ええ稼《かせ》ぎになりますわい」
駄賃に出るとは耳よりだ。そのつもりで雇《やと》えばいいのじゃと思った。
「駄賃に出るのやったら、おれに雇われてくれんか。おれは殿様の仰せつけで、近いうちに当国八郡を火縄のご用でまわらんならんのだ。馬はおれが乗料《のりりよう》に、われはおれが中間《ちゆうげん》となって槍《やり》かついで、供《とも》してくれんか。十日ほどですむが、馬と汝《われ》とに二貫文はらおう。どや」
いやを言うはずはなかった。話は即座にきまった。藤吉郎は日を定め、その日の早朝、馬をひいて屋敷まで来るように約束した。火縄奉行になった時、お城外に小さな屋敷をいただいて、お浅を連れて来て、飯炊き掃除等をさせているのであった。
その日のうちに、藤吉郎は中村に行き、弟の小竹《こちく》に事情を語って、在郷巡回中二本さしておれが若党となって供してくれるようにと頼んだ。
「ええとも、ええとも。おらも兄《あに》サのことを見て、さむらいになりとうなっていたところや。二本さして、大手をふって歩けるとは、うれしいわな」
と、小竹はよろこんで承諾して、
「ええ機会《おり》や、これからずっと兄サの家来になってもええで」
と言った。
「そうもいくまい。作《さく》は誰がするぞい」
「猫《ねこ》のひたいみてえな田畑、汗水たらして作してみたかて、知れとるわ。捨ててしもうたがええわな」
「そうはいかん。父《とと》サもあれば、母《かか》サもある。おれが禄では、まだ養い切れん」
「それもそうやな」
「ま、とりあえず、こんどのことだけ心得ていてくれ。あとのことも、そう長くは待たさん。おれには考えとることがある」
どうしても、こんどのことをうまくやって、人数を持たなければならないと、改めて決心をかためて、とっぷり暮れてから、清洲にかえって来た。
四
約束の日の朝、勘十《かんじゆう》は馬をひいてやって来た。藤吉郎は一若《いちわか》のところから借り出して来た袢天《はんてん》を勘十に着せ、腰に木刀をささせた。馬の鞍《くら》は、前田又左衛門から借りて来て用意してある。
又左衛門はついこの前、信長と美濃武士《みのざむらい》の長井|甲斐守《かいのかみ》との間に、墨俣《すのまた》から長良《ながら》川沿いに一里ほど下った森部で行われた合戦で、一番|槍《やり》を入れたばかりかよい首二つとって、はじめて勘気《かんき》が赦《ゆ》りて、帰参がかなったのであった。牢人《ろうにん》中の藤吉郎の心づくしを感謝して、最もなかのよい朋友となっているのであった。
小竹は、前夜から来て泊まっている。一晩かかって、刀のさしよう、あつかいよう、さした場合の歩き方、すわり方等を稽古《けいこ》した。
「巡回中は、小竹も勘十も、おれに旦那《だんな》様というのやで。間違うても、兄サとか、与助サなどというてはならんで。諸事《しよじ》、おれを主人と思うてふるもうてくれ。ええやろな」
門出《かどで》にあたって、こんこんと言いふくめた。
勘十が槍をかつぎ、小竹が両刀をさし、はかまのもも立ちを取ってあとに従い、藤吉郎は馬にまたがり、とことこと出かけた。
尾張八郡とは、春日井《かすがい》(今東西に分る)、丹羽《にわ》、葉栗、中島(以上、上四郡)、愛知、知多、海東、海西(以上、下四郡。海東、海西は今合して海部《あま》郡となる)の八つだ。つまり、尾張全部である。
藤吉郎はせっせと駆けまわって、庄屋どもを集めて、火縄のご用を言いつけた。量も多ければ、期限もうんと短い、その上、きびしい課役《かえき》まで言いつけた。
先例によって、是式《これしき》を持って来るが、受けつけない。
「そんなものを持って来たとて、どうにもしてやれんぞ。出来るものなら、してやりたいは山々じゃがな」
と言っては、先きに行く。
村々では、村役共が庄屋の家に集まって、相談する。とうてい出来る量、出来る期限ではない。課役もかんにんしてもらわなければ、どうにもならない。ああしたら、こうしたらと、相談の結果は、
「やはり、是式をうんと持って行って、ゆるめてもろうよりほかはにゃァで」
となって、手織の絹じゃ、布じゃ、銭じゃとたずさえて追いかけて、嘆願した。
「ふうむ。聞けば、気の毒でもあるな。拙者《せつしや》ももとは百姓じゃ。百姓の苦労のわからぬことはない。よろしい。何とかしよう」
と、適当な量の火縄をさし出させることにする。
ちょいと説明する。この時代の火縄は苦竹《まだけ》をたたきやわらげ縄になってこしらえた。綿に硝石《しようせき》をしませて縄にしたものもあるが、この時代は木綿はまだほとんどない。従って、この際の火縄は前者であったろう。
こんな工合《ぐあい》にして、八郡をまわる間に、ずいぶんな量のわいろが集まった。適当にたまると、品物は売って銭にかえ、それをくれて百姓の次男三男と主従の約束をして、清洲の殿様がどこかと戦さでもなさると聞いたら、おれがところに馳《は》せ集まれと言いつけ、その数百人ほどとなった。
清洲にかえって、勘十に二貫文の謝礼をしたことは言うまでもない。
勘十は、武家奉公人の真似をして在郷まわりをしたことが、よほどにおもしろかったらしく、
「おらもお前様の家来にして下され。戦さでもある時は、おら、馬をひいて、真先きに駆けつけますで」
と言う。
「ええ思案じゃ。今の世は百姓では一生うだつはあがらん。さむらいになるが得《とく》や。おまえのせっかくの頼みや。家来にしてやるで。おらもこのままではいんつもりでいる。きっと立派な身分になってみせる。それにつれて、われも引き立ててやる。われが器量では家老とは行くまいが、物頭《ものがしら》ぐらいにはしてやるで。なんぞの時には、しっかり忠義をはげむがええで」
と言って、主従の契約をした。
ところで、かんじんの火縄の方だが、これは期日が来ると、輩下《はいか》の中間《ちゆうげん》らを村々に受取りにやった。およそ三百駄ほど集まって、当分戦さがつづいても、不足を告げることはあるまいと思われるほどであった。
一体、こういうやり方はよくないことであるが、秀吉には、これに類したことがもう一例ある。
彼がまだ士分《さむらいぶん》にならない以前のことだ。ある時、信長が竹が多数入用なことがあって、誰にそのかかりを申しつけたらよかろうと、近習《きんじゆ》の者にたずねているのを小耳にはさみ、
「てまえに仰せつけ下さりませ」
と願って出て許されると、村々に出て、百姓らに、「汝《わい》らにもやるから急いで伐《き》り出せ」と命じて必要量よりうんと多量に伐らせ、上へ必要量をおさめ、葉や枝は一まとめにしてお台所がかりに、
「薪《まき》にいたされよ」
と渡し、のこった竹のうちいく分かを百姓らにやり、あとは売って三十貫の銭にし、自分の戦さ支度をととのえたというのである。
このことといい、火縄奉行としてのことといい、貪官汚吏《たんかんおり》、悪代官《あくだいかん》のすることであるが、信長のように厳格、峻烈《しゆんれつ》な正義派がそれをとがめ立てした形迹《けいせき》が全然ないのは、相当考慮に値《あたい》することである。
こうして手に入れた銭をたくわえこんだり、一身の遊楽のために費消するのではなく、奉公のためにしか使わないからであるという理由も考えられるが、ぼくにはその以前にもっと根本的な理由がありそうな気がする。戦国の時代は最もスピードを重んじた時代である。最も手早く必要量が集まれば、そこに達するまでの手続きは問うところではなかった。つまり、請負《うけおい》のような形になっていたのではないかと思われるのだ。この目をもって見なければ、この時代のことはわからないことが多い。たとえば、江戸初期までの金山奉行らが、豪富を積みながらも、何の罪科にも問われていないことなど、こう考えてはじめて納得出来るのである。
五
年が明けて、永禄五年の五月下旬、信長は美濃《みの》に侵入するために、墨俣《すのまた》の方から兵を入れることにした。
この数日前、陣触《じんぶ》れを聞くと、藤吉郎は主従の契約をした若者共の重立った者に使を走らせ、墨俣近くに集結するように命じた。
彼は先鋒隊《せんぽうたい》と同時に出陣したが、その前日、勘十は馬をひいて彼の屋敷に来て、何くれとなく、家の用事を手伝った。
「あっぱれ、かねての約束にそむかなんだ。われはええさむらいになるやろ。おれはわれが行く末が楽しみや」
と、藤吉郎がほめて、刀を一ふりやると、勘十はよろこんだ。
勘十を連れて、先鋒隊と同時に清洲《きよす》を出、途中から先鋒隊よりはるかに先きになって、墨俣についてみると、堤《つつみ》のかげに、去年約束した若者らが、三々五々たむろして、待っていた。
思い思いの服装だ。戦さのすんだあとで戦場でひろったり、落武者狩りして、手に入れたにちがいないちぎれはぎれの具足《ぐそく》をつけたものがあり、胴だけつけたものがあり、いつものままのぼろ着物のものもあるが、刀や槍《やり》だけは皆持っている。この時代の百姓で、たとえ錆《さ》びてはいても、それを持っていない家はかえってまれだった。これもひろったり、落武者狩りで奪ったりしたものが大部分だが、そうでなく正常な手段で手に入れた家もある。太平の世とちがって、百姓にも刀や槍は生活の必需品だったのである。鉄の陣笠《じんがさ》や、冑《かぶと》をかぶっているのも、皆であった。戦場では頭部を保護することが一番大事であることを、皆知っているのである。
藤吉郎は皆を集めて、一人一人にことばをかけてはげまし、部署を定めて二隊に編成し、用意して来た旗をかかげた。後年最も有名となったひさごを書いた旗であった。ひさごをしるしに画《えが》いたのは、ひさごはふわりと水に浮いて決して沈むことのないものであるからだ。再びみじめな境遇に沈むことのないようにとの祈りを心にこめたのである。これをいくつもえがいたのは、にぎやかさと豊富を愛するからだ。いつもにぎやかに、いつも豊富にして、決して沈淪《ちんりん》することなく、世に立って行きたい念願であった。
間もなく、先鋒隊の姿が、かげろうのゆらめきのぼる青田の向うに見えた。
藤吉郎は、
「しばらくこのままにて待て」
と、言いおいて、馬を飛ばせて走りもどった。
先鋒隊の将は、丹羽五郎左衛門長秀《にわごろうざえもんながひで》だ。この時二十八であった。ひげの薄い、目の細い顔だが、大きくて、角ばって、からだも大きく、いかにも魁偉《かいい》な風貌である。紺糸《こんいと》おどしの具足を着、暑いので、かぶとはぬいで近習《きんじゆ》の者に持たせ、大きな竹ノ子笠《がさ》をかぶって、漆黒《しつこく》のたくましい馬にまたがっていた。
藤吉郎は片あぶみはずして、先頭の者に会釈して、長秀への取次ぎを頼んだ。長秀はすぐ側へ近づけ、馬をならべて行進しながら、旗をひるがえしてかたまっている藤吉郎の勢《せい》を望見しながら、
「あれは何の勢だ。そなた、あの中から来たようじゃったが」
と、たずねた。
「仰せの通りでございます。あの勢のことをお知りおき願いたいと存じてまいったのでございます。あれは、てまえが一人の才覚をもって召連《めしつ》れました者共で、すべて殿様ご領内の百姓共の二、三男共でございます。総勢では百五人となります。身分いやしき者共ではございますが、皆一身の勇気と働きをもって身をおこしたいと心組んでいるものでございますれば、一働きはいたすはずでございます。お含みおき下さいますよう」
「ほう、そうか、そうか。小身《しようしん》の身でありながら、気のきいた致し方。そなたの知恵は殿様もいつも感心しておられるが、おれも感心する。殿様からおたずねがあったなら、そのように申し上げるであろう」
重臣中で、長秀はかねてから好意をもってくれる人だ。いかにも感心したように、しかも、きげんよく言ってくれた。
墨俣《すのまた》の町を左手に見て、長良《ながら》川をおし渡り、なお三キロほど行って、牛牧《うしまき》という村で、もの見をはなって敵勢の様子を偵察《ていさつ》しつつ、野陣の用意をして、後続部隊の到着を待った。
今日はもう申《さる》ノ刻(四時)を過ぎているので、厳重に用心して全軍ここに泊まり、明日早朝から、このへんの村々を焼きばたらきして、斎藤勢を稲葉山《いなばやま》城(後の岐阜城)からおびき出して戦うつもりなのである。
一時間ほどすると、諸勢続々と到着して陣を張り、日の沈む頃には信長の本隊も到着した。
長秀はすぐ伺候《しこう》して、敵勢の様子を報告した後、藤吉郎のことも上申した。
信長はひびきわたる声で、からからと笑った。
「猿《さる》が百人あまりの勢《せい》をひきいて来ていると? どこへだ。連れて行けい。見てくれよう」
と、言って、長秀に案内させて青田の中の道を疾駆《しつく》して行った。
藤吉郎の百余人の勢は、長秀の陣から小半町西によって、左に長良川のかなりに大きい支流をおき、右に神社のこんもりとした森をひかえた位置の川原に、陣どっていた。日没後の水色の明りの中にかがり火の色が赤くかがやき、炊煙《すいえん》がたなびいて、いかにも楽しげな露営の情景になっているが、前後左右に数人の哨兵《しようへい》を飛びとびに立てて、いかにも厳重な警戒をしている。
信長はまた笑った。
「水を左にし、山や林を右にし、見張りを厳重に立て、猿め、兵法にかのうた陣のとりようをしているわ。人になったようじゃな」
「御意《ぎよい》、まことに不思議な知恵才覚の者でございます。やがては、あっぱれお役に立つ者となるでございましょう」
と、長秀が言ったが、信長はじろりと見返したまま、返事はせず、無言でぴしりと馬に鞭《むち》をあて、藤吉郎の陣所目がけて馬を飛ばした。
長秀もあわてて、つづいた。なにか、ごきげんが悪いようなと思った。少年の頃からつかえ、忠誠をおこたらず、数々の武功を立て、指折りのお気に入りになっている長秀だが、信長の心の変化はいまだによくわからないのである。
「とまれ! 誰だァッ!」
道筋に立っている見張がどなって、槍《やり》をかまえてさけんだ。
「わいらが主人藤吉郎が殿様と仰いでいる上総介《かずさのすけ》信長じゃ!」
大音にどなって、少しも馬足をゆるめずに疾駆をつづけた。
はっとして、哨兵は槍をひいて、道のわきの青田の中にころげおちそうになった。
その前を信長が馳《は》せすぎ、つづいて長秀が馳せすぎ、そのあとから馬中間《うまちゆうげん》がつづいた。哨兵はそのうしろから自分の陣所にむかって、大きな声でさけんだ。
「殿様でござるだァ! 殿様がおいでになりましただァ!」
川原の石に尻《しり》をすえ、あぐらをかいて、夕食をしつつあった藤吉郎は、聞きつけて、おどろいてふりかえった。信長と長秀とが、相ついで川原へ馬を入れて飛んで来るのが目に入った。箸《はし》を投げすて、走り出て、平伏して迎えた。
信長はつい近くまで乗りつけて、馬上から大きな声で言った。
「猿《さる》、われ、誰のゆるしを受けて、こげいな気ままなことをしたぞ」
叱《しか》りつける声であった。はげしい調子は激怒しているようであった。
藤吉郎はわずかに顔を上げ、川原の砂利に両手をつかえたまま、言った。
「こんどのご陣のご用に、一方の埋草《うめくさ》にもと存じ、てまえ一人の才覚をもって召連《めしつ》れてまいったのでございます」
はっきりとしたことばであった。
「一方の埋草か。洒落《しやれ》たことを言う。言い方が気に入った。自儘《じまま》なことをして、本来ならば、旗じるしを切りおり、人数一人のこらず追いかえすべきじゃが、ゆるしてとらせよう。はじめて人数をもっての戦さじゃ。しっかりと働け」
と、まだ叱るようなはげしい調子で言って、ぐいと馬首をかえし、疾駆《しつく》し去った。
藤吉郎は両手をついたまま、やや長い間見送っていた。背に汗が浮いていた。信長が決しておこりはしないとの信念はあったのだが、それでもひょっとすると本気の怒りではないかと、そぞろに恐怖が湧《わ》いていたのであった。
翌日は早朝から付近の村落を焼きはらった。正午近くになって、斎藤勢が稲葉山《いなばやま》城から出て来て、牛牧《うしまき》の北方五キロの軽海《かるみ》で戦って、両軍たがいに勝敗あってものわかれとなり、織田勢は本国に引揚げたのだが、斎藤勢が戦場に到着するまでのその各勢の進路の偵察《ていさつ》と、味方の引揚げにあたっての後方の警戒とに、百姓兵らを指揮しての藤吉郎のはたらきは巧妙をきわめた。
信長は感じ入って、帰城の後に、藤吉郎に一挙に知行《ちぎよう》三百石を加増した。藤吉郎くらいの身分では、よほどの手柄《てがら》があっても、一挙にこんな大はばな加増はないことである。家中みな驚嘆したが、信長としては、藤吉郎自身の生活はこれまでの十人扶持でまかない、三百石の知行地から上る収入では百余人の百姓兵らを扶持するようにという含みであり、藤吉郎もまたよくそれを理解していた。
六
三百石の知行地からの収入がどんな目的で使われようと、ともかくも三百石十人扶持とりの士《さむらい》だ。騎士《うまのり》の身分である。当時の織田家では中以上の身分である。
藤吉郎は益々《ますます》奉公に精出したが、彼はこんどのことによって、一つの信念を得た。
「ご奉公によいと信ずることなら、憚《はばか》らず断行しても、決して悪い結果にはならないものである。少なくとも、うちの殿様はそれがわかって下さる。憚るべきでない」
という信念だ。
この信念をつかみ得てから、よいと考えられることは、お目通りを願い出ては、意見を具申《ぐしん》した。採用されることもあったが、
「阿呆《あほう》めが!」
と、叱《しか》り飛ばされることもまた少なくなかった。
ある時、こんなことがあった。
清洲《きよす》城は庄内《しようない》川の支流に臨んでおり、周囲はうちひらいた水田ばかりで、縦横に細流《ほそ》が通じ、湿潤な土地であり、ともすれば洪水の難があるくせに、飲料水に乏《とぼ》しい。水質が悪いのである。城の者は皆それを苦にしていた。
子供の頃《ころ》に尾張《おわり》・美濃を縦横に歩きまわっている藤吉郎には、この平野内の地勢は手にとるようにわかっている。その彼の知識をもってすると、尾州《びしゆう》では城地としては小牧《こまき》山が最適だと思われた。これも平野の中の小高い丘陵にすぎないが、山の周囲には縦横に細流が走って、これを利用すれば要害も至ってよくなるし、山には清らかな水の多量に湧《わ》く泉があるし、便利なところでもある。
いく度か、改めて視察に行っても見た。
どう考えても、清洲に数倍する城地であると信じた。
そう藤吉郎が考えていると、信長がせっせと小牧山の方に鷹野《たかの》に行きはじめた。
(なるほど、かしこい人間の見る目は同じじゃわ。殿様もどうやら小牧山がお気に召しておられるようじゃな)
と考えて、信長の出ようを見ていたが、いつまでたっても、それらしいことは言わない。そのうち、小牧山に行くこともやめてしまった。たまり切れなくなって、お目通りを願い出て、
「この清洲のお城は水が悪うあります上に、洪水の難もございます。拙者《せつしや》は幼少のみぎりから、尾州と美濃とはくまなく歩きまわっていますが、小牧山はまことによろしいところでございます」
と、要害のよさ、山中によい水が湧いてその量が多いこと、家中の人々の屋敷を営むにも便利な土地のあることなどを説いて、
「お移りになるがよろしいと存じます」
と、言った。信長はおそろしく腹を立て、雷のおちかかるようにどなり出した。
「ひぜんかきの猿め! うぬが何を知って! 猿思案で、家中の者の迷惑も考えず、おれにさしずがましいことを言うとは、出すぎたやつめ! おのれ、もう一度言うてみよ。しばり首にしてくれべ! 退《さが》れ! 退れ!」
藤吉郎は恐れ入って、こそこそと退出したが、どうにも腑《ふ》におちない。どう考えても、小牧山が清洲におとっているとは思われない。殿様ほどのお知恵のある方が、どうしてご納得が行かないのか、不思議にたえないのだ。
一晩寝て考えたが、朝目をさましたとたんに、ハハンと思いあたった。
「費用を考えていなさるのじゃわ。人夫は百姓共を夫役《ぶえき》で使うにしても、やはり仰山《ぎようさん》銭かかるでな。しかし、いつかはお移りになるにきまっている。本気でおれをおこってはいなさらんのや。気にすることないわ」
合点が行ったので、はばからず、ご前に出、気づいたことは遠慮なく上申した。
三百石の知行とりになってからは、藤吉郎も皆から気に入られてばかりはいない。ねたむ人間、悪意を持つ人間、きらう人間もずいぶん出来ている。
「出しゃばりの猿め、あれほど面《つら》の皮の厚いやつは、見たことも、聞いたこともないわ」
とののじった。
もちろん、そんなことを気にはしない。おれは殿様のおためになることと信ずることは、皆申し上げるのじゃと、強く覚悟をきめている。それはさておき、永禄六年の三月、信長は妹のお市《いち》を、江州小谷の城主浅井長政に輿入《こしい》れさせた。
話はその年の正月からはじまって、二月に本ぎまりになった。
「やれ、また間に合わなんだ!」
藤吉郎は、天地も暗くなる気持であった。
おひろ様が十九で大野に縁づきなされたので、お市様も十九になられるまでは大丈夫と思っていたのに、お市様は十七というのに、ご縁づきなさるのだ。
仰天したが、よく考えてみると、お市様がおひろ様と同じ年にご縁づきなさらねばならないという理窟《りくつ》はないのである。自分が勝手にそうきめていたにすぎない。
(おれの好きなお人々は、みんな生まれながらの大名衆がさらってしもう。こげいに一生懸命働いても、まるッと五年かかって、やっと三百石十人扶持や。大名になって、それからもらおうなんど、出来ることやあらせん。はかない夢やったわ……)
夜ひとり、寝床の中で涙をこぼした。
春三月、広い尾州平野が菜の花、れんげ草、桃の花、その他さまざまの春の花に色どられる頃、お市様は江州へ旅立たれた。
藤吉郎はもう何にもする気にならない。風邪《かぜ》をひいたといって、三日の間、頭から夜着《よぎ》をかぶって寝ていたが、その三日目、前田又左衛門がたずねて来た。
思いもかけぬ縁談
一
「前田様がおでになりましたで」
と、小竹《こちく》が枕《まくら》もとに来て言った。
藤吉郎が三百石十人扶持の身代になってから、小竹は藤吉郎のところへ来て、用人の仕事をしている。名前も小一郎《こいちろう》と改めた。晴れて二本させる身分になって、大いに得意でいる。
藤吉郎は夜着のはしから亀の子のように首をもたげた。薄い不精ひげが鼻の下にもあごにもしょぼしょぼとのびて、いつも生き生きとした光をもって、これだけは美しい目も、目やにがたまって、まるでかがやきがない。みにくい顔が一層《いつそう》みにくくなっている。
「ことわってくれんか。風邪《かぜ》ひいて、熱が高うて、頭が上らんいうて。見苦しい様子になって、とても人前なることでないというがええ」
最もなかのよい又左衛門だが、今は会いたくなかった。
「さよか。ほなら、そういうて、帰ってもらいますわ」
小一郎は出て行った。
藤吉郎は夜着に額《ひたい》を突っこんで、目をつぶっていた。外は春だ。うららかな日が明るくあたたかく照りかがやいている。こうして夜着を頭からかぶっていると、からだ中に汗がにじみ、顔は脂《あぶら》でぬるぬるしてくる。その不快千万な気持が、心を一層自暴自棄的で、絶望的なものにして来る。
「ああ、ああ、ああ……」
と、つづけさまな溜息《ためいき》をついた。
彼は信長がなぜお市を浅井家に縁づけたか知っている。近江《おうみ》は京へ上るには、通らなければならない道筋だが、その正面の道筋になる南近江は佐々木|六角《ろつかく》氏の所領だ。これは今京で勢いをふるっている三好党や松永党とグルになっているという。浅井家にこの六角氏を北方から牽制《けんせい》させるつもりだ。さしあたっては、美濃の斎藤を退治しなければならないが、斎藤氏と六角氏とは昔からなかがよい。この二つが結んで抵抗するとなれば、大いにこまる。六角をして斎藤に力を藉《か》させないためにも、北方から牽制させる必要がある。大体こんなことで、浅井と縁を結ぶことにして、この婚儀になったと見ている。
(やりなさるわ。いつも先きを先きをと見て、ぬけ目なく手を打って行きなさる。えらい殿様じゃ)
と、舌《した》を巻いて感心せずにはいられない。
感心せずにはいられないが、目の前が暗くなり、全身の力がぬけて、へたへたとへたばる気にならずにもいられない。
(死んでしもたろか)
とも思った。枕べに近い刀架《かたなかけ》にかけてある刀のことをしきりに考えた。脇差《わきざし》の中身は反《そり》の強い直江志津《なおえしづ》だ。鋭い刃味を持っている。その中ほどにきれを巻き、つかんで、左の脇腹につき立て、右に引きまわすことを考えた。
(ずいぶん仰山《ぎようさん》血が出るやろな。痛いやろなあ)
と、眉《まゆ》をひそめて、考えるのをやめようと思ったが、いつまでもその幻影がちらついて消えない。苦しくなった。
(おひろ様やお市様がほしゅうてご奉公したのやない。お二人を見て、お二人が好きになったのは、その後のことや。おれは一人前のさむらい衆になって、暮しも楽に、肩身も狭《せも》うなく世を送りたいと思うたから奉公したのや。その初一念は達せられたのやから、こうまでつきつめて考えることはない。どうかしとるぞ、おれ)
と、反省した。その通りだと思いはしたが、くったくは少しもなおらない。
(ああ、ああ、ああ……)
と、せつない溜息《ためいき》をまたつづけさまについた時、室の外に足音がしたかと思うと、遣戸《やりど》があいて、
「おい」
と、声がかかった。
小一郎の声ではないので、はっとしていると、つづいて、
「風邪ひいたというでないか」
と言いながら入って来た。前田又左衛門の声であった。枕もとにすわった。
(とうとう上って来たのか。やれやれ)
と思った。しかたはない。夜着の中から首を出した。
「又左、こんな体《てい》たらくじゃゆえ、会わぬというたのじゃ。ゆるしてくれ」
と言った。こんな場合であり、こんな気持でいる時にも、人の気を悪くさせたくない気づかいがしぜんに働いた。ことば使いが対等になったのは、藤吉郎が軽海《かるみ》合戦の手がらで騎士《うまのり》の身分になった時からのことだ。又左衛門の方から要求して、そうさせるようにしたのだ。
もっとも、又左衛門の要求がなくても、そうしなければならないものであった。階級制度の社会では、礼儀は単なる敬愛心の表現ではない。秩序を正すものであるから、ことば使いも身分によって変えねばならないものだ。身分の上のものが同位のものや下位のものにへり下りすぎたことば使いをしてはいけないのである。それは階級を乱し、ひいては社会の秩序を乱すことになる。もちろん、やさしく、ものやわらかな言い方をするのはかまわない。
「わかっとる、わかっとる。なるほど、きつう熱が高いようだな」
又左衛門は垢《あか》と汗によごれた藤吉郎の顔を見て、手拭《てぬぐい》を出して汗を拭《ふ》いてやり、ついでに目やにもとってやった。
「春の風邪はたちが悪うて、なかなかなおらぬものだ。気をつけるがええ、おれも長居はせぬ」
「かたじけない。さっぱりなった」
親切にしてもらって、このままでは悪いような気がする。むくむくと起き上ろうとした。
「いかんいかん、冷えると悪い」
「なに。今日でもう三日も寝とるので、足腰がだるうてかなわんのや。少し起きんとやりきれん」
起きて、床の上にすわった。
「時に、なんぞ用があって来たのやろな。見舞ではないじゃろ」
「うむ。しかし、まあよい。おぬしがなおった頃にまた来て、話す」
又左衛門は少しうろたえた顔になっていた。ほんの少しだが、はにかんだ様子も見える。おや? とこちらは思った。大いに好奇心をそそられた。
「どんな用事やか知らんが、聞くだけは聞こやないか」
「うむ……」
考えこんでいる。
「話すつもりで来たのやろ」
「それはそうじゃが……」
はなはだ煮えきらない。いつもの又左衛門らしくないのである。恋だな、恋にちがいないと察した。好奇心はいよいよ募《つの》ったが、こんなことを言わせるには手がいる。ひたおしにおしては、貝が蓋《ふた》をしめたような工合《ぐあい》になってしまう。一応気のない顔をしてほうり出すのがよいのである。藤吉郎にはそのかげんがよくわかっている。
「ま、気が進まずば、今日は聞くまい。こんど来た時、聞かせてもらおう」
と突っぱなした。
「む」
と、又左衛門は一旦《いつたん》うなずいたが、
「いや、やはり、今申そう。聞いてくれ」
と、言った。
やれ引っかかったわと、こちらは少しばかり楽しくなった。この日頃の鬱屈《うつくつ》がいくらか晴れるかもしれないと思った。
「そうか。そんなら、聞こう。話してみるがええわな」
「話す。笑うなよ。クスリとでも笑うたら、おれはおぬしをぶっくらわすぞ!」
又左衛門は肩を張り、両のこぶしをひざに、大きな目をむいて、腹を立てているような、いかめしい顔になった。
(やはり恋じゃわ。同じように春風は吹くわ)
傷心におわった自分の恋を思って、また重いものが胸にのしかかって来かかった。あわてておしのけて、言った。
「わかったわ。恋じゃな。相手は誰じゃ」
「やあ、どうしてそれを?」
と、又左衛門はおどろいた顔になった。男らしいさっくりとした男だが、こんなことにはまるで鈍《にぶ》い。ああ言って、ああいうしぐさを見せれば、すでに白状したと同じであることに気がつかないのである。
「ハハ」
と、藤吉郎は笑った。益々いい気持になった。どうやら、鬱屈は飛んでしまいそうになった。
「図星じゃろう。それは秘伝のあることで、ちっとやそっと言うてもわからぬ。ともあれ、聞こう。相手は誰じゃな」
小がらなからだを反《そ》らし、細いあごにのびた不精ひげをざらざらと撫《な》でながら、いささか気取ったポーズを作った。
「ふうむ、秘伝か……」
たくましく長い腕を組み、男らしい俊秀な顔が、感にたえた顔になる。
「さあ、話した、話した」
二
「つい先月のはじめのことじゃ。わしは津島《つしま》の安井宗兵衛が家に祝いごとがあって招《よ》ばれて行った」
「なるほど」
安井宗兵衛は津島で麹屋《こうじや》をしている、富有な商人である。藤吉郎も少年の頃、とった川魚を度々買ってもらったことがある。
「その席に酌とりのために、五、六人の娘共がいたが、中にねねと呼ばれるのがいた。年は十六、七、よい娘であった。わしはその時は別段何とも思わざった。ただ、きれいなおなごじゃなと思うただけであった。夜に入って、少し酔って、まだつめたい風の中を馬で帰って来て、すぐ床に入った。ぐっすり寝たが、夜なかにのどがかわいて目をさました。台所に行って水をのみ、また床に入ったが、その時、その娘のことがぽかりと思い出された。目の前にちらついて消えぬ。はて、おれは恋をしたらしいと思いついたら、焼けつくように切《せつ》なくなった。それから、片時として忘れたことなし。いつも、何をしていても、その女《おなご》のことを、心のどこかで考えている。どうにもやりきれんのだ。男がこんな気でいては、戦さでもおこった際、きっと不覚をとるに相違ない。早う女房にしてしまわねば、どうにもならんと思うのだ」
きらきらと目を光らせ、意気張ってここまで述べ、
「どうじゃろう、この思案は?」
と言った。
ああ、自分の恋もこんな恋だったら、どんなによかったろうと、また悲しみが鎌首《かまくび》をもち上げて来たが、おしふせた。
「よい思案じゃ。早いとこ、自分のものにしてしまうにかぎる。それで、その娘――何ちゅうたかな……」
「ねねじゃ」
「あ、そうか、そのねねというは、どこの娘か」
「お家の弓足軽頭《ゆみあしがるがしら》、杉原助左衛門《すぎわらすけざえもん》が娘だ」
「ほう。杉原が娘か。ほやったら、むずかしいことはあらへん。杉原が家に行って、おぬしが娘を嫁にほしい、くれろ、といえばすぐに埒《らち》のあくことや。くよくよ思いなやむことはないぞえ」
ああ、ああ、ほどほどな家のおなごにほれるとは、何と安気《あんき》なものじゃろ、身のほど知らぬ高嶺《たかね》の花に胸をこがして、阿呆《あほう》な男や、おれは、とまた思った。
「わしもそう思うて、そのつもりで、何度か家を出て、杉原の家に行きかけたのじゃが、杉原の家の門の見えるところまで行くと、胸がどきどきして、気がひるんで来る。おのれ、くそ! と、戦場で一番槍する時ほどに気力をふるいおこして踏み出し、門前までは行くのじゃが、おれが足め、門に向って歩いたつもりでいるのに、気がついてみると、スタスタと通り過ぎているのじゃ。戦場とはまるで勝手が違う。おりゃあぐねた。あぐねたさけ、おぬしの力を借りに来た」
といって、急に気づいたように、
「おぬし、そうして起きていて、大事ないか。疲れはせんか。寒けがするのではないか」
と、心配げな顔になった。
「大事ない、大事ない。こうして話していて、かえって、えらいいい気持になった。めでたい嫁《よめ》もらいの話じゃ。浮き浮きするわな。ハハ、ハハ。――で、つまるところは、おれに杉原へ行ってくれというのじゃろうな」
「そうじゃ!」
長いひざを、力一ぱいたたいた。
「よいとも! 行ってやるぞ。行って、必ず話をまとめて来る。おれには自信がある」
たしかに自信があった。伝手《つて》になる人間を知ってもいた。
「頼む。この通りだ」
又左衛門はひざに手をおいて、おじぎして、
「おぬしがところへ来て、よかった。胸にあるもやもやを吐《は》き出して、それだけでもさっぱりとなった。頼もしく引受けてもらって、胸がぐんとおちついた。ああ、いいことをした。それでは、わしは帰る。長居をして、風邪が長引いてはよくない。第一、わしがこまる。一日も早うよくなって、話しに行ってくれや」
と言って早々に帰って行った。
床にすわったまま、藤吉郎は夕日のさしている障子を見ていた。
「胸にあるもやもやを吐き出して、さっぱりした、か」
とつぶやいた。おれが胸にあるこのことは、決して人に語ってはならないことだ、ひとり胸の中で、声にならないことばでしねくねとくりかえしているよりほかのないことなのだと思って、また重い溜息《ためいき》が出て来た。
又左衛門が来て、縁談の橋渡しを頼んで行ったことは、藤吉郎にも救いになった。それまでは失恋のいたでがむき出しになって胸を痛ませつづけていたのだが、この用事が傷口をへだてる薄膜《うすまく》となり、傷はほうたいされたような工合になった。
藤吉郎は、翌日は床ばらいして、ひげを剃《そ》り、さかやきをし、からだを洗って出仕し、きげんよく同僚らと語り、帰り途に弓組の足軽《あしがる》の詰所に行き、浅野弥兵衛を呼んで、門口《かどぐち》に待っていた。
浅野弥兵衛は杉原助左衛門の姉婿浅野又右衛門の養子だ。つまり、又左衛門の胸をこがしているねねとはいとこになるわけだ。杉原家のことや、ねねのことについて、一応の知識を得ておきたいと思ったのであった。
浅野弥兵衛はやっと十七の若者だ。去年の秋、養父又右衛門のあとをついで、弓組足軽になったのであるが、藤吉郎はこの若者にはとくべつ目をかけている。又右衛門が隠居して弥兵衛があとをついで足軽となる時、又右衛門は弥兵衛を連れて、家中の士《さむらい》衆の家にあいさつにまわり、せがれをよろしくお頼み申し上げますと頼んだ。そのおり、藤吉郎の家にも来た。
こういうことは誰しもやることで、浅野父子にかぎったことではないが、それから後の弥兵衛の態度がまことによい。会えば必ずいかにもうれしげな笑顔を見せるのである。
(人のよい、正直な性質のようじゃ)
と、藤吉郎は思っている。役筋がちがうから、仕事の上ではどうしてやることも出来ないが、会えば必ず親切にことばをかけてやることにしている。そのうち役目の上で関係が出来れば、目をかけてやろうとも思っている。
弥兵衛はいつもの通り、人なつこい笑顔で出て来た。
「ご用でございましょうか」
「ああ、われ、今日は勤務《しごと》は?」
「もはや交代の後で、帰るばかりでございます」
「それは好都合。一緒に帰ろう。ちとそなたに用事がある。つき合うてくれい。餠《もち》なと、酒なと、好きなものをふるもうてやろう」
「それはありがたいこと。しばらくお待ち下さいませ。すぐ帰り支度してまいります」
詰所へ引っこんだが、すぐ帰り支度して出て来た。
城を出て、堀端の道を行きながら、藤吉郎は少し退《さが》ってあとから来る弥兵衛をふりかえった。
「おいよ」
「はい」
「ちとならべ」
「はい」
肩をならべる。
歩きながら、藤吉郎は言う。
「そなたの組頭である杉原助左衛門は、そなたにとっては母方の叔父にあたるのじゃったな」
「その通りでございます。拙者《せつしや》が母は助左衛門が姉でございます。もっとも、助左衛門は養子でございまして、その妻が拙者の母の妹にあたるのでございます」
「なるほど、なるほど。助左は杉原家の婿養子《むこようし》というわけか」
「さようでございます」
「助左に娘がいるそうじゃな」
「います。二人います」
「ほッ! 二人か。しかし、わしが知りたいのは、十六、七の方の娘だ。美しい娘じゃというな」
「ねねのことでござるか」
「おお、そうだ。ねねというたわ」
「ずいぶん美しゅうござる。もっとも、やさしそうな顔はしていますが、気は強うござる。拙者は子供の時から、口争いでは勝ったことがござらぬ」
「おなごに口争いして勝てる者がいるか。決して勝てぬとしたものじゃ」
と、藤吉郎は笑った。
弥兵衛も笑った。
「さようなものでございますか。拙者共、おなごはやさしいのが本性《ほんしよう》と思うているのでございますが」
「やさしいも本性、口の達者なのも本性、いずれも本性よ。おふくろとしてはやさしい本性が強く出、女房としては口の達者な本性が強く出る」
「ほんにさようでございますな。おふくろはやさしゅうございますが、おやじ殿はよくおふくろにやりこめられて、黙っておりますわい。あなた様、まだ独り身のお若い身で、よくそんなことをごぞんじでございますなあ」
驚嘆したような目で、しみじみと見る。
「ハハ、ハハ、阿呆《あほう》なことに感心するわ。われもおれが年頃になれば、これくらいのことはわかるようになるわさ」
と、笑って、
「さて、本題にかかろう。実は家中《かちゆう》のさるお人が、その娘を嫁にほしいと言うておられるのじゃが、助左はくれるであろうか」
「くれぬことはありますまい。おじ夫婦には男の子もあるのでござれば、いずれはよそへかたづけねばならぬのでござる。しかし、それはどなた様でございますか。まさか、あなた様でございますまいな。あなた様なら、いつぞや叔父がきつうほめているのを聞いたことがございますから、二つ返事でくれるでありましょう」
「おれではないわ」
「ほう、どなた様で?」
「それは言うわけに行かぬ。そちはあの家の親類のこと故、いずれは知れることであるが、今は言うわけに行かぬ」
「さようでございますか」
話しながら歩いているうちに、武家屋敷町を出はずれて、町家町《ちようかまち》に出た。
「約束じゃ。酒がよいか、餠《もち》がよいか」
「餠がよござる」
「おれもその方が好きじゃ」
笑って、街道筋の茶店に入って、餠を注文して、食べさせた。こちらも一つ二つつまんだ。
別れる時、なお一折《ひとおり》つつませて、持たせて、言った。
「われは、ご苦労じゃが、今日でも、明日でも、都合のよい日に、助左が家に行って、おれがおり入っての相談があって訪ねたいが、いつが都合がよろしいかと聞いたというて、返答を聞かせてくれぬか」
「かしこまりました」
屋敷にかえった。こうして弥兵衛から輪郭だけでも話してあれば、話をしやすいと思ったのであった。
三
家へ帰って、出仕着《しゆつしぎ》をぬいで行水《ぎようずい》を使い、縁側に出てぼんやりすわっていた。わずか三日休んだだけであるが、今日はひどく疲れたような気がする。何よりもいけないのは、勤めに身が入らないことだ。これまではそんなことはなかった。どんな仕事でも、精一ぱいになれた。工夫を凝《こ》らしたり、働いたりするのが、楽しくてならない充実感があった。それがないのである。胸の底に冷えびえとしたものが横たわって、働こうとする自分を嘲笑《ちようしよう》しているようだ。しょせんは中村の百姓の小せがれじゃ、どうなるものぞ、ここまで来られたのが山よ、あくせくしたところで、この上は何ともなりはせんぞ、と言っているようだ。
(早くこんな気持から脱け出さねばならん。こんな気持でいるかぎり、せっかくよじのぼった今の身分からもすべり落ちてしまうに違いない。上へ上へとのぼる気を失って、一生懸命つとめない人間は、必ずいつの間にともなく、ずるずるとすべり落ちてしもうのだ。土百姓の小せがれから経上《へあが》ったおれがようなものはとりわけそうや。ささえてくれるものは自分の力しかないのやけ、それがええかげん弛《ゆる》んだら、そうなるのはあたり前のことや。おれはたしかに人にすぐれた器量を持っとる人間や。せっかくここまで上って来たのや、こんなことではいかん。早う前の根性に立ちもどらないかん)
くりかえしくりかえし、自分に言い聞かせているうち、ふと気がつくと、軒《のき》の藤棚《ふじだな》の莟《つぼみ》が大分ふくらんでいるのに気がついた。日が没してしまったあとの茜《あかね》の色が一ぱいに行きわたっている空をバックに、影絵のようなその莟は胴を少しふくらましている。
「ほう」
下駄をはいて、庭におり立ち、光のあたる方にまわってみると、莟をぎっしりとつけている房の一つ一つの先きが藤紫の色を見せて、もう二、三日でひらくところまで行っていた。
(江州の小谷《おたに》でももうこうなのだろうか)
と思った。少年の頃さんざ他国を歩きまわった藤吉郎も、美濃までしか行っていない。江州には足を入れなかった。江州は寒いところだという。いかさまそうだろう。濃尾の平野に春が来ても江州の山々は雪をかぶっている。春はおそいのであろう。小谷はその江州でも北の方にあたって、山ふところにある土地だという。もちろん、もう春になってはいようが、藤が咲くほどにはなっていまい。
(景色も風俗もかわっていて、心細い気でおられるじゃろうか。それとも、昨日あたりは祝言がとりおこなわれたはずじゃが、備前守《びぜんのかみ》(長政の官名)殿と新枕《にいまくら》をかわして、備前守殿をいとしいと思うようになられたであろうか。おなごは男とちごうて、一夜でも枕をかわすと……)
と、思った時、油煙のようにどす黒いものが胸に渦巻いて、波立って来た。
(いかん、いかん! またこんなことを思うてしもうた。思うてはいかんのじゃ!)
食いしばった歯の間からつぶやいて、なお庭をまわっていると、小一郎が来て、縁側から呼んだ。
「兄者、浅野弥兵衛が来ましたで」
「ほう、もう来たか。居間に通せ」
上って待っていると、弥兵衛が来た。もう室内は薄暗くなっている。
「灯《あかり》をもって来い」
と、小一郎に言っておいて、弥兵衛に、
「えらい早かったな。あれからすぐに行ったのか」
ときいた。
「はい。お別れして帰る途々《みちみち》考えますと、叔父は今日は非番でございますが、明日は出番でござる。それでは一日のびてしもうと思いましたけ、あの足で行きました」
「ほう、それはご苦労であったな。そして、返事はなんとあったぞ」
「お待ち申していますけ、早速《さつそく》にお出で下さるよう、明日は出番ですけ、ご都合よろしくば、今夜お出で下さるようにと、かようでございます。なお、失礼ながら粗餐《そさん》をさし上げとうござるから、夕食を召上らんで来ていただきたいと、かようにも申しました」
よい返事だ。うまく行きそうであった。
「ほう、そうか。行くどころではない。早速にまいろう」
と言った時、小一郎が行燈《あんどん》を下げて入って来た。
明るくなったところで見ると、弥兵衛はにこにこ笑っている。うれしげである。
「拙者もご案内申して、一緒に来い、馳走《ちそう》してやるといわれています」
と言った。
すぐ家を出た。月があるから、提灯《ちようちん》は持たないで出た。空にはまだ夕ばえの色が薄くのこっていたが、満月に近い月が、もう東の空に上っていた。夕ばえと月の光の中を、弥兵衛と語りながら行った。
杉原助左衛門は四十を二つ三つ出たくらいの年輩だ。やせて、たけの高い男だ。篤実《とくじつ》な性質で、組下《くみした》の足軽らの信望も厚い。弓足軽五十人のたばねをしているとはいえ、身分は足軽頭だ。伍長《ごちよう》勤務が少佐殿を迎えるようなものである。弥兵衛が走って行って藤吉郎の来たことを告げると、門前まで走り出して来て迎えた。
「はじめて、ことには外ならん用事でまいるのに、ふるまいにまでなって相済まんとは一応考えたが、せっかくのお招きやよって、こらやっぱり遠慮せんと、ありがとうご馳走になるがええじゃろと思いなおして、やって来たわ」
と、藤吉郎はきさくに言った。
「ようこそ、ようこそ。うれしゅうござります」
と、言いながら、屋内に請じ上げた。
身分にふさわしく手狭《てぜま》な家ではあるが、住む人の謹直・篤実な性質をうつして至って小ぎれいであった。手入の行きとどいた植木が体裁よくある庭には打水して、ぽたぽたとしずくがしたたり、ぴかぴか光るほど拭《ふ》きこまれている座敷には、新しい円座《えんざ》がきちんとおかれていた。
その一つに藤吉郎がすわると、弥兵衛は家の者と一緒になってまめまめしく働き、行燈《あんどん》に火を点じて持ち出したり、茶を運んで来たりした。
「早速じゃが、用談を先きにすませてしまおう、弥兵衛からあらましのことは聞いてくれたやろと思うが……」
と話し出すと、助左衛門は、手をあげて制した。
「甥《おい》めに聞きましたが、ま、その話はあとで落ちついていたしましょう。せっかく用意した料理が味が悪うなっては、念がとどきません。少し召上り、酒なども少々まいったところで、ゆるゆるとうかがいとうございます」
おそろしくきげんがよいのである。あまりきげんがよいので、それでは順序が違おうとは言えないような気がした。
「よかろう。ご馳走《ちそう》になろう」
と、こちらもきげんよく言った。
助左衛門の妻と、弥兵衛と、助左衛門の長男――十一、二の少年とによって、膳部《ぜんぶ》や酒が運ばれて来た。
ふるまいと言っても、大したものがあるわけではない。鮒《ふな》の膾《なます》、芹《せり》の胡麻和《ごまあ》え、小魚の昆布巻のようなものだけであるが、生《は》えぬきの百姓家育ちのお浅のこしらえるものばかり食べている口には、皆おそろしくうまかった。
「えらい散財かけたな。こらうまいわ。ほんにうまいわ」
と、舌つづみ打って食べた。
酒はあまりいけないのだが、ほどよく飲んだ。少々酔って来た。もうよかろうと思って、切り出した。
「おれ、あまり飲《い》けんのや。酔うてしもうと、話が出来《でけ》んようになるよって、このへんで用談にかかろう」
というと、助左衛門は盃《さかずき》をおいてかしこまった。
「うかがいましょう。お話し下され」
「話のあらすじはそなたにはもうわかっとる。まだわからんのは、望み手が誰かということだけや。そやろ」
「さようでござります」
「それはな」
といって、からだをつき出し、声をひくめた。
「前田又左衛門殿じゃ。先月のはじめ、そなたの家の姉娘――ねねいうたな、そなたの家の親類である津島の麹屋《こうじや》宗兵衛の家に祝いごとがあって、酌とりに頼まれて行ったじゃろ。又左もあの節|招《よ》ばれて行ったそうなが、その席で娘御《むすめご》を見初《みそ》めてしもうた。どうでも、迎えて女房にしたいと言う。又左は聞こえた勇士じゃが、ここへ来て、そなたに娘御をもらいたいということが言えぬのだ。何度も思い立って、来たそうなが、気がひるんで、どうしても門内に足が入らなんだというている。又左ほどの勇士がいじらしいでないか。どんなに又左が思いつめているかわかって、おりゃ涙がこぼれるような気がした。こんなわけで、自分ではどやんすることも出来んので、おれが家《うち》に来て、おれに行って話をつけてくれと言うて頼んだ。つい昨日《きんの》のことよ。どうぞや、又左が深い志をくんで、うんと言うてくれまいか」
話している間に、藤吉郎は自分のことばに反応というほどのものが感ぜられないことに気づいた。助左衛門のやせた顔がへんにだらりと長くのびて、あきれたような顔になり、手酌《てじやく》でいくらでも酒をのみつづけることにも気がついた。おかしいという気はしたが、心をはげましはげまし、熱を入れて説いた。
もそもそと、助左衛門が何か言ったが、よく聞こえない。
「もそっと、大きい声で言うてくれんか」
「申訳ないことでござります。拙者《せつしや》は弥兵衛から話があった時、それはお前様がほしいと言うていなさるのじゃと思い、実は大へんうれしゅう思うていたのでござります」
こちらは動顛《どうてん》せんばかりにおどろいた。
「何じゃと? わしが? われはそう言うたのか」
と、弥兵衛をふり返った。
弥兵衛は主客を少しはなれた位置に膳《ぜん》をすえて、かしこまって相伴《しようばん》していたのだが、おびえたような顔になり、おじぎした。
「いえ、拙者はそうは申しません。かようかようなお話が木下藤吉郎様からあった故、あなた様ではございませんかとおたずね申したところ、わしではない、家中のさるお人じゃ、しかし、今は言うわけに行かぬとのおことばであったと、申しただけでございますが、それを叔父《おじ》ごは、いや、それは木下様ご自身であろう、そうにきまっていると、かように申すのでございます。あまりきっぱりと申しますので、拙者も、そうかいな、そうかも知れん、きっとそうじゃろという気になり、叔父にも、そうじゃろなあ、木下様ほどの知恵のある人でも、こげいなことにはやはりわれらと同じように恥かしいのやろなと、申したのでございます。あなた様でなかったことは、まことに飛んだことで……」
くどくどと言訳して、しきりにおじぎする。
「年甲斐《としがい》もなく、早合点などして、申訳次第もございません」
しょんぼりとして、助左衛門はわびて、
「この話が前田様からのものなら、拙者ご辞退申します。いえ、又左衛門様に不服はございません。又左衛門様は、ご家中の若い方々の中では一と申して二とは下らぬお方でございます。まことにお立派な方でございます。しかしながら、お家柄があまりに高うございます。荒子《あらこ》の前田様と申しますれば、お家柄としては、殿様のお家よりひょっとするとお高いのでございます。そのような高いお家柄の方に、たとえご四男であるとは申せ、拙者風情の娘が縁づいて、めでたくおさまるものとは、拙者には思われぬのでございます。又左様はあのようなご立派な方であり、またいとしいと思召《おぼしめ》し下さればこそほしいと申して下されるのでございましょうが、ご一族の方々はどうでございましょう。古い、高いお家柄の家には、下々《しもじも》のわれわれの知らぬ、いろいろな習慣《しきたり》やなんぞのあるものでございます。そういう中に、年歯《としは》も行かぬ娘を入れて、苦労させることは、いかにもふびんで、拙者には出来ませぬ。せっかくの身にあまるありがたいお話でございますが、かような次第でございますれば、よく仰せられて、おことわり下さいますよう、お願いでございます」
助左衛門は口に出しては言わないが、又左衛門の兄で前田家の当主である蔵人《くらんど》利久の妻が一通りの女ではないことを考えているに相違ないと思われた。
四
二つ返事で承諾してくれることと思っていた。夕食までふるまおうというのだから、もう話はついたも同然だと思っていた。ところが、その夕食ふるまいも、きげんのよさも、自分からの縁談だと思いこんでいたからのことだったというのだから、藤吉郎はうろたえた。
しかも、助左衛門の言うことには、一々もっとも道理がある。しばらくは、何と言ってよいか、ことばに窮《きゆう》した。
「どうしてもいかんか」
「はい。まことに心苦しゅうはございますが」
といって、助左衛門はふと顔を上げ、真直ぐに藤吉郎を見て、
「あなた様なら、即座に差し上げます」
と言った。
こちらはまたうろたえた。
「そんなことが出来るか! おれと又左とは一番の仲よしである上に、頼まれて来たのじゃ。男として出来ることでない! そねなこと、言うものではない!」
憤然として言った。
「さようでございますね。ああ、せんないこと……」
力なく首を垂れた。膳にのっている盃を見つめている様子だ。
藤吉郎も急にはどうしてよいか、工夫がつかない。一旦《いつたん》帰って、なおよく考えたら、何かいい方法もあろうと思った。
「どうも、殺風景なことになった。いずれまた……」
と、辞去のあいさつをはじめると、助左衛門はむくりと顔を上げて、
「ちょっとお待ち下さりませ」
といって、座を立ち、勝手の方に入って行ったが、しばらくすると、かえって来た。助左衛門のうしろから、来る者がいる。円盆《まるぼん》に提子《ひさげ》をのせて、いともものしずかな足どりで来る。縹色《はなだいろ》に染めた麻の筒袖《つつそで》の袷《あわせ》をまとっている少女だ。短い裾《すそ》は細い足の向《むこ》う脛《ずね》の半ばまでを蔽《おお》うているきりだ。後世の華美な風俗にくらべてはうそのような話だが、当時の民間の婦女子はこれが普通であった。こんな服装しか出来なかったのだから、特に質素という意識もないのである。
もっとも、皆が皆そうなのだから、美しい女はやはり美しいと感ずる。その娘を見た時、藤吉郎は美しいと思った。何よりも可憐《かれん》だと思った。からだも細くすらりとしているが、顔も細おもてで、小さい。緊張のためであろう青白くなっている顔に、くっきりとした眉《まゆ》と、紅《あか》い唇がまことに鮮明で、微風に吹かれてふるえている野の花を見るような感じがあった。細くて長い手足が痛々しかった。
(ああ、これでは又左がほれこんだのも道理じゃわ)
と思った。
「これが、今の話のねねでござる。お目通りだけさせました。――お酌申せ」
妙な細工をしおる、なんのためにこんなことをするのだと、腹立たしい気持であったが、ねねが素直に父の言うことを聞いて、提子の口をこちらに向け、その口がわなわなとふるえているのを見ると、ついあわれになって、盃《さかずき》をとりあげて注《つ》がせた。
ふるえる提子の口から、酒はつがれる。作法通りに、いく度も途中でとめて注ぐ。作法通りにしようと懸命につとめている心が思いはかられて、可憐さに胸がしめつけられる気持であった。
(弥兵衛はこれでなかなか気が強くて、口争いではいつも言い負かされてしまうと言いおったが、ほんとかの。やさしい、やさしい娘のようじゃが)
と、思いながらも、
「いや、かたじけない。そなたのような可愛い娘ごに注いでもろうた酒は一しおうまかろう」
と言って、ぐっと飲みほして、盃を膳におき、
「さらばお暇《いとま》する。この話、これで切れたとは思わいで、またまいるものと思うてくりゃれ。はじめて上ったに、きつい馳走になった」
と言って、立ち上った。
弥兵衛はついて来ない。月の道をひとりわが家に向った。
「さて、こまった。どうしようぞいな。何と又左に言うてよいか。いやいや、どうでもこれは説きつけねばならぬ。助左が言うことはまことに道理ではあるが、気長く口説くうちにはなんとか思い直すであろう。――なるほど、よい娘じゃ。又左のやつ、おなごを見るにも、一《ひと》鑑識《めがね》あるわ。ハハ、ハハ、ハハ」
酔いが出て、考えることが、ついことばになった。
翌日、また弥兵衛を誘い出して、自宅に連れて来た。弥兵衛はこまったような顔でついて来た。
軒先の藤棚の下にむしろをしいて、そこで話すことになる。藤の莟《つぼみ》は昨日より大きくふくらんで、もう咲いているものもぼつぼつとあって、蜂《はち》がぶんぶんうなりながら飛びまわっていた。
「昨日の話じゃがな」
と切り出した。
「はい」
弥兵衛のまだ少年らしいやわらかさののこっている顔には、益々|困《こ》うじはてた表情が浮かぶ。
「あれから、助左は何ぞ言うたか」
「はい」
「何というたぞ」
「おりゃ藤吉郎様がほしいと言われるのじゃと思うて、こんなうれしいことはなかったに、まるで話がちごうて、残念でならぬと申して、いつまでも酒をくらっていました。藤吉郎様は見込のある方じゃ、なんの身分もないお身であるに、ご一身の才覚と忠勤とで、あのご身分になられた。やがては、もっともっと出世なされよう。おしいこと、おしいこと、目の下一尺五寸の鯉《こい》を釣りおとしたような気持じゃとも申しました。てまえは切なくてなりませなんだ」
そんなにまで自分を買ってくれているのかと、うれしかったが、これはこまる。この心を又左にふり向けさせるには、なまなかなことではいかんぞと、うんざりした。
「ねねはどうなのじゃ」
ねねは昨夜又左が自分に思いをかけていることを知ったはずである。だとすれば、若い娘のことだ、父親の気持はどうあろうと、男ぶりのよい又左に好意を持つだろう、もしそうなら、そこに突破口《とつぱこう》があるはずと思ったのであった。
「ねねは何とも申しはしません。しかし、あれは人一倍かしこいおなごでございますけ、もちろん、あなた様が好きでありましょ。又左様のところへ嫁《い》ったかて、末始終がめでたく行かんくらいのことはわきまえがあろうと思いますわ」
にこにこ笑いながら言う。どうやら、こちらの心が傾いたと思っているのではないかと思われた。
「いかんぞ、それは。おれは又左と友達じゃ。又左に頼まれて橋渡しに行ったのじゃ。そげいなことが出来んくらいのことはわかってほしいわい」
ふきげんに言った。
「へえ」
しょんぼりとなった。
「せめて、ねねの心を又左に向けることは出来んか。何とかしてみてくれんかのう」
思いあぐねて、相談したのだが、弥兵衛ははげしく首をふった。
「そらあきまへんわ。あの叔父貴《おじき》、物堅いこと、焼きざましの餠《もち》みたいな男ですわい。てまえがそげいなことしたら、斬《き》りますやろ。そこまでせんでも、義絶やいうて、出入りさせんようになりますわ」
「そうかのう。そうじゃろうのう。やれ、こまったわ」
覚えず、弱音を吐《は》いて、弥兵衛をかえした。
五
工夫はつづけたが、いい工夫がつかめない。四日ほどの後、
(知恵のない話だが、こうなれば正面から打《ぶ》ちあたって、根気攻めにするよりほかはないな)
と決心して、明日はまた訪問するつもりになった日の夜、又左衛門がやって来た。
又左衛門は少し気色《けしき》ばんでいた。あいさつもせず、いきなり、
「藤吉郎、おぬし、病気がなおって、毎日つとめには出ているそうなが、まだ行ってはくれんのか」
といった。
こちらはうろたえた。こんな時の又左衛門は、煙硝《えんしよう》と同じだ。一言気に食わんと、すッぱぬいてしまう。
「ま、落ちつけ。おれは行った。行ったが、返事が思わしくない。しかし、おれはあきらめん。なんとかして、色よい返事をさせようと、今心をくだいているところなのだ。しばらく待ってほしい。きっとまとめて見せるから」
「そうか、やはりいけなんだか!」
と言うなり、又左衛門の顔にあらわれた失望の表情は、見るも気の毒なほどであった。
「色よい返事ではなかったが、まだ望みはある。そう気を落すことはないぞ」
と、慰めたが、それが耳に入ったとは思われなかった。
「で、何というたのだ」
しかたはない。助左衛門の言った通りを言った。もちろん、自分のことは言わなかった。
又左衛門はしばらく黙って、行燈《あんどん》を見つめていた後、ひとりごとのように言った。
「おれは実家へも帰らず、出来るだけ実家に遠ざかろうとつとめているのじゃが、絶縁ということは出来ぬ。助左のいうことは道理じゃ。おぬしが骨折ってくれれば、あるいはまとまる縁かも知れぬが、ねねに苦労をさせることを思うと、こりゃァあきらめたがよかろう。あきらめるのは、つらいがのう」
又左衛門は兄嫁のことを考えていると思われた。この兄嫁がいるために、又左衛門はめったに荒子《あらこ》には帰らない。十阿弥《とあみ》を斬《き》って殿様から勘当された時も、下之郷《しものごう》村の庄屋の隠居所《いんきよじよ》を借りてわび住いしていたのであった。
(いい身分の家に生まれた者は、またそのために厄介なことがあるのじゃな)
と、思った。
又左衛門はにわかに明るい表情になった。
「時に、藤吉郎」
といった。
「なんじゃい」
きげんがなおったようなので、うれしくなって、こちらも明るい調子で応じた。
「おぬしもらわんか」
ハッとした。何のことを言っているのか、もちろんわかったが、わからんふりをした。
「何をじゃ」
「わかっているくせに、わからんふりをするな! ねねをじゃ。おぬし、あのおなごを見たじゃろう。見たら、必ずええおなごじゃと思うたはずだ。どうだ!」
おこっているような形相《ぎようそう》だ。
「そりゃァ見た。見たが、おりゃ友達の思いをかけているおなごにほれはせんぞい。おりゃそねな男でない」
「誰《だれ》がほれていると言った? しかし、ええおなごじゃと思うたことは違わんじゃろう。あげいなおなごは、めったとあるものでない。いずれは誰ぞの女房にならねばならんのじゃが、他人にやるのはおしい。おぬしもらえ、おれが話をつけてやる。おぬしは、おれと違うて、小面倒な眷属《けんぞく》がない。ねねにいらん苦労をさせんでもええ身分じゃ。もらえよ。もろうてくれ。おれはほかの者にやりとうない」
これは妙なことになったと思った。この前の話をしようかとちらりと考えたが、やめた。こんなことを言い出す又左の心は尋常ではない、又左はねねにたいして、なお燃えるような愛情を持っている、それがこんなことを言わせるのだ。この前のことを打ちあけたりなんぞしたら、この男は狂い立って、おれを斬るかも知れん、斬りかねないと思った。
「だしぬけにそねなことを言われても、おれは返答のしようがない。女房をもらうというのは、人間一生の大事だ。よく考えなならん。今夜はその話はやめにしよう」
と言って、やっとおさえつけた。
その夜は、又左衛門はおとなしく帰って行ったが、その後、二、三日おきには来て、口説き立てる。藤吉郎の心は次第に動いた。もらってもよいと思った。
(おれは今までとうていおよばぬ高嶺《たかね》の花ばかりを望んで来たために、いらん苦労をせねばならなんだ。しかも人に語れもしない苦労をだ。似合いのものをもらえば、安気《あんき》になる。安気になったところで、一生懸命働く。おひろ様とお市様とがよその花になってしまいなされた以上、おれにはもうこの世に心から好きなおなごは無《の》うなったのじゃ。誰でもええわけじゃ)
と、思うのであった。
しかし、助左衛門の方をうまくからくっておかんと、又左衛門が狂い出すかも知れない。狂い出さんまでも、面目玉《めんぼくだま》をつぶされた気がして、おもしろくないであろうと思ったので、弥兵衛を呼んで、いきさつを説明し、もし、又左が助左衛門の家へ話を持って行ったら、はじめて聞くこととして応対するように言ってくれと頼んだ。
「心得ました。てまえもご親類の端になれるのでございますね。うれしいことでござる」
と、弥兵衛はよろこんで、助左衛門の宅に走った。
こうして、縁談がまとまって、藤吉郎がねねを迎えたのは、五月半ばのことであった。
ねねが後年の北政所《きたのまんどころ》であることは言うまでもないが、『太閤素生記《たいこうすじようき》』には、この祝言の時のことを、後年ねねは関白夫人となってから、
「わしらは茅葺《かやぶ》きの家で、すがき藁をしいた上に薄べりをのべて祝言しましたわいな」
と、よく女中らに語ったと伝えている。
また、『祖父物語』は、この日ねねの着た上着は、信長が左義長《さぎちよう》の時立てた萌黄《もえぎ》と蘇芳《すおう》染めの木綿の旗をつぎ合わせてこしらえたものであったと記している。左義長というのは、昔正月十五日に行われた悪魔ばらいの儀式で、大|焚火《たきび》をし、旗を立てて行ったのである。この旗はおそらくは、信長が、藤吉郎が嫁をもらうときいて、くれたものであろう。
この時、藤吉郎は二十八、ねね十六であった。
角川文庫『新太閤記(一)』昭和62年7月25日初版刊行