海音寺 潮五郎
平将門 上巻
目 次
早い春・おそい春
男の山・女の山
矢風
父と子
北上メノコ
土地
筑波の楓
官位
宮仕え
暗の人々
几帳の陰
女王
招かぬ客
梟首
東風のたより
破陣楽
盗賊王
ほととぎす
更生
百日紅
氏族放逐
驕妻
桔梗の宿
父と娘
春の突風
青柳
阿修羅の群
死の旋風
[#改ページ]
早い春・おそい春
筑波《つくば》の山から西一里の石田の里。
常陸《ひたち》の|前 大 掾 平《さきのだいじようたいら》 ノ 国香《くにか》の館《やかた》を中心として、その家の子、郎党、農奴などによって形成されている部落である。
暑いさかりの午下《ひるさが》り。
部落では、どの家も午睡《ひるね》でもしているのだろう、生きて動いているものは、なに一つとして見えなかった。人はもとよりのこと、犬も、鶏も、雀《すずめ》も、燕《つばめ》も。
丁度この時、石田の里をつつむ松林のつづく小高い台地の端に、二人の人物があらわれた。
男と女。二人ともまだ若い。共に十五六。二人とも美しいが、身分は、服装から見てわかる、大へん違うようだ。少年の方は、色どり美しい狩衣《かりぎぬ》に、銀《しろがね》造りの太刀を佩《は》き、扇子など持って、清らかで涼しげな|いでたち《ヽヽヽヽ》だが、少女はあらい麻の野良着《のらぎ》を、わずかに肌《はだ》をつつむばかりに着ている。
松林を出ると、少年は、小川のへりにしゃがんで、ザブザブと手を洗い、嗅《か》ぎなおしては、また念入りに洗う。
少女は、ぼんやりそれを見ていた。暑い日に照りつけられながら立っている顔が、放心したようであった。
少年はいたずらッぽく笑って、その顔を見上げた。
「そなたも洗ったらどうだ。くさいぞ」
少女の汗ばんだ顔に、羞恥《しゆうち》の色があらわれた。うつ向いて、黙って、小川に近づいた。手を洗い、ついでに顔も洗った。
その間に、少年は、松の木蔭《こかげ》に腰を下ろし、扇づかいしながら、眉《まゆ》にせまって大きく、目のさめるように濃い緑の色に塗りつぶされている筑波の山の方を見ていた。その顔には、いく度か微笑に似たものがかすめ、あこがれに似た物思いの影が浮かんだ。
少女は、髪を撫《な》でつけながら、近づいて来たが、一間ほどのところで立ちどまった。近づくのを遠慮している風であった。
「ここへ来い。ここへ坐《すわ》れ」
少年は、パタリと扇子を閉じて自分の脇《わき》を示した。
少女の顔は、うれしげにかがやいた。おとなしく、しかし、おどおどと、示された場所に腰を下ろした。
少年のちょいとした|しぐさ《ヽヽヽ》にも、少女の表情が敏感に変化するのは、いじらしいくらいであった。しかし、少年にはそんなことは一向感ぜられないらしく、支配しなれた者の無頓着《むとんちやく》さで、少女にむかって言う。
「そなた、今夜、お山に行くつもりか」
少女は、一旦《いつたん》相手を見て、うつ向きながら、
「若君は?」
「おれは行く」
「わたくし、行ってはいけないのでしょうか」
「そうだ。行ってはいけない」
少女は相手を見た。やや長い間、見ていた。しかし、少年が見返すと、うつ向いた。消え入るように低い声で言った。
「若君がお出《い》でになりますのに」
「そうよ、おれは用事があるから行くが、そなたには用事があろうはずはない。そなたは行ってはならんのだ」
ふと、少女は歌い出した。美しい声ではあったが、低い、ふるえる、かなしい声であった。
卑田《ひきた》には道一筋
高原《たかはら》は八《や》ちまた
八ちまたに花は咲けども
卑田には人も通はず
一日二日三日《ひとひふたひみか》の春雨《はるさめ》
少女の顔には、おさえきれない嫉妬《しつと》の色があった、少年は、その横顔を見つめながら、唄《うた》を聞いていたが、だんだん意地悪い顔になった、微笑して言った。
「それはあてつけか」
少女はあわてた。自らの大胆さにおどろきもしたようであった。
「いいえ、いいえ、いいえ――でも……」
「でも……?」
少女は涙ぐんだ。答えなかった。少年は意地悪い調子で追求した。
「でもなんだというのだ?」
「……かなしゅうございます」
「うらめしくはないのか。腹も立ったのだろう」
「いいえ、いいえ、そんな恐れ多い……」
「それを知っていれば、言うことはないはずだ」
少女はうつむいた。声を立てずに泣いていた。少年は、少し気の毒になったらしい。顔をやわらげた。
「おれは男だから、一人の女だけで満足しているわけには行かない。しかし、そなたの方からそむかないかぎり、捨てはせぬ。きげんをなおせ。いとしい子よ」
と、言いながら、やさしく背を撫でてやった。いかにも可愛《かわ》ゆくてならないもののように、少女の頬《ほお》をつまんだ。涙にぬれてはいるが、まるくなめらかで、生き生きとつややかな血色の頬。
少女のきげんは忽《たちま》ちなおった。媚《こ》びをたたえた目で、少年を見た。
「いけない若君。姫遊びばかりしてと、評判が悪うございますよ。けれども、わたしを忘れないでね。忘れないでね」
「ハッハハハハ、忘れはせんといっている」
「きっとでございますよ」
「うん、うん、忘れるものか。可愛いやつめ」
少年は、少女の頬にまた手をふれた。立上った。
「それでは、また逢《あ》おう」
「こんどはいつ?」
少女はあわてて、言いすがったが、少年はもう歩き出していた。
「使いをやる」
もうふりかえりもしない。口笛を吹きながら、油のにじむように暑苦しく蝉《せみ》の鳴きしきっている松林の中につづく径《みち》を、歩み去った。
十分位の後、少年は、松林を行きつくして、館の上に出た。
館はこの山つづきに、広大な地域をしめて建っている。前面に深い濠《ほり》と高い土居《どい》をめぐらし、部落を眼《め》の下に見下ろす位置であった。十数棟ある建物は、すべて草|葺《ぶ》きであったが、大きく、高く、厚く葺いてあるので、重厚で、壮大な建築美を構成していた。
依然として口笛を吹きながら、少年は、裏庭に通ずる急な小径をトントンと下りて来た。すると、そこの厩《うまや》の前に立って、奴僕《ぬぼく》をさしずして馬の足を洗わしていた男があった。足音にふりかえって、
「やあ、これは太郎|君《ぎみ》」
と、片膝《かたひざ》ついた。
二十二三の、究竟《くつきよう》な体格の若者であった。ちぢれて房々とした濃い|ひげ《ヽヽ》や、左右連なった濃い眉と深い眼窩《がんか》をもった鋭い目に、なんとなく日本人ばなれのしたものが感じられた。これは侘田《わびた》ノ真樹《まき》といって、この館の数ある郎党中、武勇第一の名ある人物であった。
あいさつされて、少年は、軽くうなずいただけで行きすぎようとしたが、ふとふりかえった。
「小次郎はいるか」
「おいでになります」
「どこへも出ずか」
「はい。ずっとおいでであります」
「なにをしている」
「さあ、なにをしておいででありますか。大へんおとなしいお方で……」
「おれとは、まるでちがうと言いたいようだな」
と、少年は微笑した。真樹も微笑した。
「よくおわかりで」
「おのれらの胸の中《うち》くらいわからんでどうする。しかし、おれは小次郎のような朴念仁《ぼくねんじん》ではない。いくら暑いからとて、この若さで、日がな一日、家へすッこんでなんぞおられるものか」
「お違いになってお悪いとは思っておりません」
「あたりまえよ。朴念仁がよくて、おれが悪くてたまるか」
「といって、姫遊びばかりなさるのがよいとも考えてはいません」
「こいつ!」
真樹は、ひげの中の赤い口をあいて、カラカラと笑った。くったくのない、明るい笑いであった。少年も、笑い出した。
やがて、少年は、母屋《おもや》のわきに小さくつき出した小座敷の庭にあらわれた。
そこには、一人の少年が、へやの真中に円座《えんざ》をしいて、きちんと坐って、庭の空を見ていた。浅黒い血色のよい顔に、眉のひきしまった、凜々《りり》しい感じの顔立ちであったが、目つきに沈鬱《ちんうつ》なものがあった。なにか一心に思いつめているのか、放心しているのか、少年の来たのも気づかないようであった。
「小次郎」
と、こちらの少年は呼びかけた。
座敷の少年は、ゆっくりとこちらを見た。
「おお、太郎ぬしか」
おちついてはいたが、楽しい空想を破られた人の調子があった。
「よせよ、太郎ぬしなどという年寄りくさい呼び方は」
庭の少年は、こう言いながら、簀子《すのこ》(縁側)に上ってそこに坐った。小次郎と呼ばれた少年は立上って、自分の円座をもって来て、裏返してすすめた。
「かまうな。おぬしは当家の客人《まろうど》だ。そんなことをしてもらうと、こまる」
しかし、そう言いながらも、太郎は円座に坐って、ハタハタと扇子づかいをしていたが、しばらくすると、小次郎を見た。
「退屈そうだな」
微笑しながらであった。からかうような表情があった。それに気づいたかどうか、小次郎は沈鬱な調子でこたえた。
「退屈している」
「酒を飲もうか」
「ほしくない」
このへんから、太郎はますますからかい面《づら》になる。
「どうしたのだ。いやに気鬱げだぞ。陸奥《むつ》にのこして来た女のことでも思い出していたのか」
「ばかばかり言っている」
と、苦笑した。微《かす》かに頬が赤らんだ。
「オヤ、赤くなったぞ。少しその話を聞かせろ。話すだけでも結構楽しいものだ」
面白がって、はやし立てんばかりだ。
「ばかを言うな! 女なんぞいるものか!」
小次郎は、少しムッとした様子だが、相手は調子をかえない。
「オヤ、おこったのか? おこることはないじゃないか。お互い、もう一人前の若者だ。女の三人や四人いたとて、一向不思議はない。おぬし、何人いるのだ」
「いないといっているじゃないか!」
「いないなんて、信ぜられるか。男が十五にもなって。しかし、陸奥では日本人は少ないだろう。相手は蝦夷《えぞ》人かね。蝦夷人は、色は白いが、毛深くて臭いというね。入墨《いれずみ》をしているというね。おぬしの女もそうか」
こちらの機嫌《きげん》などまるで無視して、サラサラと気軽に弁じ立てる明るさに、小次郎はまた苦笑してしまった。
「ばかばかり言っている」
「その|せりふ《ヽヽヽ》二度目だぞ。気の利《き》かない男だな」
「そうか。しかし、同じことを二度言って、なぜ悪いのだろう。同じ気持から同じことばが出るのはあたりまえではないか」
小次郎は大まじめだ。しかし、腹を立てているのではなかった。
「あれだ」
と、太郎は、あきれたようであったが、すぐ、
「ところで、今夜、面白いところに連れて行ってやろうか」
「どこへだ。おれはこれから豊田へかえろうかと思っているのだ」
「かえる? かえるのは明日にしろ。今日という日にかえるということはない」
小次郎は、だまっていた。相手を見ていた。相手は、フフと笑って、
「こんな歌があるが、おぬし知っているか」
といって、紅《あか》い形のよい唇《くちびる》をひるがえし、扇子で拍子をとって、低声《こごえ》でうたい出した。
鷲《わし》の住む
筑波の山の
もはぎ津の
その津の上に
誘《いざ》なひて
をとめをのこの
行きつどひ
かがふ|※[#「女+櫂のつくり」]歌《かがひ》に
人妻に
われも交《まじ》らむ
わが妻に
人もこととへ
この山を
統制《うしは》く神の
昔より
制禁《いさ》めぬ業《わざ》ぞ
今日のみは
目配《めぐ》しもな見そ
ことも咎《とが》むな
「どうだ、知らんかね」
「知らん。なんのことだか、意味もわからん」
「あきれた男だぞ、十五にもなって。陸奥なぞという所にいると、そうももの知らずになるものかな。――では、こんなことを聞いたことはないか」
と、太郎は、なにか言いかけたが、急に気をかえたらしく、
「とにかく、夕方から出かける。支度していてくれ」
と、言いおいて、立去った。
庭を遠ざかって行く太郎の姿を見送って、小次郎はあきれていた。
「なんという男だろう」
と、その溌剌《はつらつ》とした美少年ぶりや、くったくのない行動にたいして、一脈の羨望《せんぼう》感があった。
小次郎は、伯父のこの館《やかた》に、三日前に来て、五年ぶりに、伯父や、同年のこのいとこに会ったのだ。彼の家は、ここから東南三里半の地点にある豊田にあるのだが、五年前から鎮守府将軍である父|良将《よしまさ》と共に、その任地である陸奥の胆沢《いさわ》城に行っているからであった。
五年ぶりに見る太郎は、まるで以前とちがっていた。以前の太郎は美しくはあるが、いかにも病身そうで、ひよわく陰気な少年であったが、今ではからだも丈夫に、することも明るく気が利いていて、その前に出ると、口下手で、鈍重な小次郎は翻弄《ほんろう》されているようで、まごついてばかりいるのだ。
小次郎が、出来るだけ口数を少なくし、行動も重々しくしているのは、このまごつきをかくすためであった。しかし、決してきらっているのではなかった。反対に、そのはなやかな才気と瀟洒《しようしや》な美少年ぶりとを羨望し、尊敬し、軽蔑《けいべつ》されまいと用心しているのであった。
日没少し前、夕風のそよぎ出た頃《ころ》、太郎がやって来た。折立《おりた》ての烏帽子《えぼし》に、すずしげな狩衣《かりぎぬ》を折目正しく着て、|むかばき《ヽヽヽヽ》をはき、|やなぐい《ヽヽヽヽ》を負い、弓をたずさえている。湯浴《ゆあ》み上りらしく、美しい顔がさっぱりと清らかで、着物にたきしめた空薫《そらだき》が、風にのってふわりとただよって来た。
「おや、まだ支度していないのか」
「うむ、しかし、どこに行くのだ」
「それはあとのお楽しみだ。早く支度をせい」
「伯父上のおゆるしを得んでは……」
「おやじどのはいない。昼過ぎに出て行ったそうだ。とにかく、早く支度したり」
せき立てられて、着がえをするために立上った。
「一番よい着物を着るのだよ。もし、用意があったら、薫物《たきもの》をしめたのがよいな」
不意に、小次郎は胸がどきどきしはじめた。調子が、どうやら、女のところへ行くらしいのだ。どうしようかと思った。しかし、行かないといったら、またひやかされそうだ。
恥かしくて、着がえを手伝ってくれる郎党の顔を、正面から見ることが出来なかった。
太郎は、薫物をしめた着物がよいといったが、京《みやこ》下りの官人《つかさびと》や女房衆ではあるまいし、そんな洒落《しやれ》たわざはしたことがない。着物なら、かなりなものを持たないではないが、それもてれくさい。せっかく郎党が出してくれた晴着を、首をふってしりぞけ、ふだん着の中でややいい部に属するのを、自らつかみ出して着た。烏帽子と|むかばき《ヽヽヽヽ》は郎党のえらんでくれたのをつけた。
支度の出来た小次郎を見て、太郎は気に入らなかったらしい。
「おれの着物を持って来ようか」
と、言った。
「これでよい」
むっつりとして、小次郎はこたえた。じろじろ見られるのが、たまらなかった。
しばらく後、二人は野道を筑波山の方に向って、馬を進めていた。供は連れていなかった。
館を出る時、小次郎の郎党等が供に立つ支度をしたのだが、
「汝《わい》らは来るな。汝らが来ては、面白うない」
と、太郎がしりぞけたのだ。
日は没していたが、筑波の山の頂きや、その上に棚引《たなび》く夕雲には、朱金の色の残照があり、その照りかえしで、世間はまだ明るかった。
(どこへ連れて行くつもりだ)
と、いくどか口に上りかけるのを、小次郎はおさえていた。行く先はたしかに女のところらしいと推察はついているのだが、それだけに一層気楽に口にされないのだ。
ふと、太郎が言う。
「おや、向うから来るのは、おやじどのだぞ」
「ほんに伯父上だ」
小次郎も気づいた。
二人は、道のかたわらに馬を寄せ、下馬して待った。
平《たいら》ノ国香《くにか》は、四十五六の、やせて小柄《こがら》な男だったが、しわ一つよっていない浅黒い顔はつやがよく、いかにも健康そうで、いつも折目のついた狩衣に、きちんと烏帽子をかぶっていた。身ぎれいで、風采《ふうさい》のよい点は京下りの官人に似ていたが、浅黒い顔によく光る茶色の目が敏捷《びんしよう》そうに動いている所は京下りの商人《あきゆうど》に似ていた。従者ともに五騎。
二人の前に馬をとどめた。小次郎に微笑をおくり、太郎に言う。
「どこへ行くのだ、今時分から」
「はい、父上。筑波明神の御祭礼にまいります。将門《まさかど》がつれて行ってくれと申しますので」
父の前では、太郎はおそろしく行儀がよい。ほかの時とあまり違いすぎるので滑稽《こつけい》なくらいだ。
「ああ、そうか。気をつけて行くがよい」
国香と別れて少し行った所で、小次郎はきいた。
「祭礼に行くのか」
ホッとする気持がある一方、拍子ぬけした気持もあった。
「ああ、祭礼だ」
太郎はけろりとした調子でこたえて、さらに言う。
「おぬし、どこへ行くつもりでいたのだ? なにやら、気合ぬけした風だな」
にやにやしている顔つきが、なにかまたからかいそうであった。
こちらは警戒した。
「いや、なんだかわからなかったので。夜涼《よすず》に乗じての遠乗りだ。愉快だよ」
桜川をこえる頃、筑波山のいただきに残っていた残照がすっかり消え、にわかに暮色が濃くなった。
その頃から、筑波の山から、太鼓や笛の音が、青田の上をわたる風に乗ってひびいて来はじめた。太鼓の音は大きくうねる波に乗るようにのびやかであり、笛の音はそそり立てるように浮き浮きとした調子だ。
楽しげな拍子に、二人の馬の足もおのずからはずんで、並足《なみあし》が速歩《そくほ》になったが、ふと、太郎が手綱をしぼって、足をとめた。小次郎もとめた。
前方を見ながら、太郎はひとりごとのように言う。
「いやなやつめ」
少し行ったところで、道は南から来る道と交叉《こうさ》しているのだが、その南からの道を来る数騎があった。あたりはばからない談笑をまき散らしながら来るのが、にぎやかで、荒々しくて、なにか放埒《ほうらつ》で向う見ずな感じであった。
太郎は、身動き一つせず、見ていた。その連中の目をひくのをおそれるもののようであった。
その連中も、祭礼に行くのであろう、交叉点のところから右折して、筑波の方に向う。小次郎は注意して見ていたが、黄昏《たそがれ》の光の下では、どの男も顔がよくわからなかった。
太郎はなおしばらく進もうとしなかった。
小次郎はきいた。
「誰だね、あれは」
「藤原ノ玄明《はるあき》という男、当国一の暴れ者と自称している」
「どう暴れ者なのだ」
「腕自慢で、いのち知らずで、喧嘩《けんか》、押借り、人さらい、悪事の数々をしているので、いつも国検非違使《くにけびいし》が追いかけまわしているのだが、奇妙に世間で|ひいき《ヽヽヽ》にしている者が多く、いつも巧みに網の目をくぐって、捕まったことがない」
「ほう、どこの者だ」
「本貫《ほんかん》は鹿島《かしま》の神人《じにん》の由《よし》だが、今の住所は不定だそうな」
「世間の評判がよいというのに、おぬしはなぜきらうのだ」
「女だ」
「え?」
「女だよ」
「おぬしの女をやつがとりでもしたのか」
「やつの女をおれがとった」
小次郎はあきれた。失笑した。
「それでは、おぬしの方が悪いでないか」
太郎も笑いながら答える。
「おぬしのような朴念仁《ぼくねんじん》にはよくわからんだろうが、男女の仲というものは、善悪の問題ではない。好ききらいの問題だ。つまり女はあいつよりおれの方が好きになった。だから、おれの女になったというだけの話だ」
経験のないことだ。黙っているほかはなかった。彼には、男女のことは、色ある靄《もや》につつまれた遠山のように、あまいあこがれにみちてしか感じられない。
二人が筑波の麓《ふもと》についた頃、満月近い月が出て、笛や太鼓は一層はっきりと、一層楽しげに聞こえはじめた。
筑波山は裾野《すその》のひろい山で、その広さは幾里にわたっている。今日では、その全部が、丹念にきずいた石垣《いしがき》をつらねた段々田や段々|畠《ばたけ》に化しているが、この時代は、もっと耕地化しやすい土地が未墾のまま関東平野の至るところにあったから、ほとんど全部が、原野や原生林のままで、その原野や原生林の中に、あそこに一むら、ここに一つまみと、小さな部落が散らばって、それらの部落の周囲だけが少しばかり耕地化しているにすぎなかった。
笛の音と太鼓の音は、その原野や原生林のかげの村々から、人をさそい出す。
月影に照らされた彼等の黒い姿が、至るところの細道から、一人ずつ、二人ずつ、また三人ずつ、ゆるやかな勾配《こうばい》をもって裾野をたてにつらぬく参道に出て、ぞろぞろと山に登って行くのが、蟻《あり》の行列のようにとぎれがなかった。
太郎は、参道から横に切れて、細い道に入った。左右からのびた夏草が、身を蔽《おお》うばかりにたくましく繁《しげ》った道だ。夏の夜の虫が、ムンムン顔に襲いかかった。
「どこへ行くのだ?」
「だまってついて来い」
やがて、小さな部落に入り、一軒の農家の庭に、馬を乗り入れた。
防風林にかこまれたその農家の庭には、上って間もない月の光はとどかない。真暗で、しばらくはなんにも見えなかった。
「居るか」
馬上から、太郎が叫ぶと、暗《やみ》におしつぶされたように小さく低いその家から、人影が一つ出て来た。
「どなたさまで?」
「おれだ」
「おお、これは石田の若君で」
どんな男で、いくつくらいか、一切わからない。黒い影とのみ見えるその男は、地べたにひざまずいた。
「馬をあずける。飼糧《かいば》をやっておいてくれ」
「かしこまりました」
黒い影は立上って、太郎の馬の口をとった。小次郎の馬も受取った。
真直《まつす》ぐその男を見て、小次郎はおどろいた。しっかりした声だったので、まだ壮強な男かと思っていたら、放髻《はなちもとどり》(烏帽子をかぶらない髪)にしている髪は真白で、腰はかがみ、ずいぶん老人だったのだ。
「お祭りにお出《い》でになりましたので?」
と、太郎に言う。
「そうだ」
「お若いうちのことでございますよなあ。おうらやましゅうございます」
笑いをふくんだ老人の声には、詠嘆の調子があった。
太郎は笑った。
「爺《じ》イは、もうさんざん楽しんだことだ。未練はなかろうがや」
老人は、カラカラと笑った。
「六十には六十の、七十には七十の楽しみようがございまして、これでもう心残りないということはございません」
「ハッハハハハ、あきれたおやじだ」
老人はまた笑った。
「あきれるのは、爺イでのうて、若君でございますよ。村にもずいぶん若君をうらんでいる娘共がおりますぞよ。ほどほどになされんと、罪つくりでございますて」
「なにが罪つくり! みんな向うから誘いかけたのだ。うらまれる筋はないぞ」
「それはまあそうでございましょうが、女心というものは……」
「うるさいな。もう言うなよ」
老人は黙った。
太郎は、弓も|やなぐい《ヽヽヽヽ》も、|むかばき《ヽヽヽヽ》も、老人にあずけ、小次郎にもそうさせた。
その家を出て、夏草の道を逆にたどる。月がかなりに高く上って、ぬれたように草を光らせていた。
「あれは誰だ」
と、小次郎はきいた。
「おれの家の百姓だ。長男は館《やかた》に来て、下人《げにん》奉公している。このへんは、おれの家の領地と、現大掾《げんのだいじよう》の領地とが入りくんでいるため、時々もつれが出来てこまるのだ」
太郎の返事はしさいらしくなった。小次郎はまたしても、相手がはるかにはるかに、自分より大人びていることを感じた。
男《お》の山・女《め》の山
筑波《つくば》明神の祭神は、男体《なんたい》山に祀《まつ》ってあるのがイザナギの尊《みこと》、女体《によたい》山に祀ってあるのがイザナミの尊、ということになっている。しかし、これはずっと後世、おそらく、江戸中期以後か、明治年代になってからの附会《ふかい》で、元来は男根《だんこん》と女陰《じよいん》を祀ったものであろう。
男体山女体山という名称が承知しない。今日でも、陰陽神を祀った所が諸国にあって、民俗学上興味ある資料を提供しているが、この山も古代においては、その陰陽神にほかならなかった。
古代人にとっては、陰陽の合致によって新しい生命が誕生するという事実は、大変な神秘であった。彼等は、そこに神格のはたらきを認めざるを得なかった。男女の交りにおける忘我|恍惚《こうこつ》の境地が、原始宗教における法悦の境地に似ていることも、この思惟《しい》を助けた。
彼等は、ついに男根女陰を神とあがめ、その形をした山岳や、岩石や、洞穴《ほらあな》等を、斎《いつ》き祀ることをはじめた。その上、もともと祭礼というものが、神を慰め楽しますことを目的としているものだ。この種の神の祭礼に、後世の常識では判断にこまる奇怪な行事があるのは当然のことだ。
たとえば、武蔵《むさし》府中の「六所明神の闇祭《くらやみまつり》」など、それだ。この祭りの夜のある時間、全府中一点の火光もない真の暗と化したが、その間に一種の乱婚が行われたことが、つい近年までつづいたという。六所明神の主祭神は、大国魂命《おおくにたまのみこと》ということだが、このような祭事がのこっていた所を見ると、あやしいもので、古代には陰陽神だったのではないかと思われるのだ。
筑波明神の祭礼にもそれがあった。カガイ(※[#「女+櫂のつくり」]歌)である。男女が集まって、歌を唱和しながら乱舞し、情の激するにしたがって、手をたずさえて陰所に行き、愛撫《あいぶ》し合ったのだ。
後世の倫理観念からすると、不都合千万な卑猥事《ひわいじ》であるが、古代人にとっては、あらゆることに優位する宗教上の厳粛な行事で、こうすることによって、神を慰め楽しませていると、信じたのだ。
もちろん、このような信仰は、はるかに上古のことで、すでに奈良朝末期には、神を楽しませ慰めるより、人間の楽しみが主になっていたことは、太郎が小次郎に唄《うた》って聞かせた、高橋|虫麻呂《むしまろ》の歌(万葉集巻九)によっても明らかであるから、それからさらに百三四十年も後世のこの小説の時代には、もっともっと人間本位の愉楽になっていたことは争えない。
※[#「女+櫂のつくり」]歌の場は、男体山と女体山のわかれる所にあった。三四人かかっても抱きまわせないくらい巨《おお》きな松が、一本中央にそびえ、長い枝を月光の中に墨絵の竜《りゆう》のように、四方にのばした所であった。
天心に近く上った月が、松の黒い影と明るい光とで、複雑な模様を描いているあたり一面、草を払って広場とし、いく団にもなった人々が、たえずうごめいていた。
至る所に高話しがあり、高笑いが湧《わ》き、汗臭い人いきれがムッと顔を打った。微風が時々それを吹きはらって、高い空からすがすがしい空気を運んで来たが、すぐまたもとにかえった。
広場をとりまく木立の中にも人がいて、女の忍び笑いや、男の熱ッぽい低声《こごえ》がこもって、早くも人々の心を淫《みだ》らな空気にさそいこんでいた。
ふと、太郎が、小次郎の耳許《みみもと》でささやく。
「今のうちに目星をつけて、大体話をつけておくのだ」
「え? なに?」
小次郎には、その意味がよくわからなかった。
「気に入った女を見定めて、わたりをつけておけというのだ」
太郎は興奮しきっていた。こう言う間も、呼吸をはずませ、たえずキョロキョロしていた。女とさえ見れば、すばやく、またしつこく目をつけた。追いすがって行ってその顔をのぞきこむこともあった。いつもの自信のある態度が失われていた。気違いじみてさえ見えた。交尾期の牡犬《おすいぬ》が連想された。
小次郎は、あさましいと思った。帰りたくなった。しかし、太郎が気を悪くするだろうと思うと、そうするわけに行かなかった。
とつぜん、つい間近な所で、太鼓が鳴り出した。同時に、ざわめきは、ピタリとしずまった。水を打ったようであった。
ドーン……
ドーン……
ドーン……
と、にぶく、太く、鳴りひびく太鼓の音とともに、人々はそれぞれの位置に釘《くぎ》づけになったように静止した。月に照らされて、生命《いのち》のない岩石の群がりのように見えた。
「これからが正念場《しようねんば》だ」
と、太郎がまたささやいた時、月の光を受けて氷のようにつめたく白く見える純白な祭服に、冠をかぶった神職《はふり》が、白丁《はくちよう》を着た二人の男に大きな太鼓をさしにないにさせて出て来た。時々、ドーン、ドーン、と打ち鳴らした。
つづいて、白いきものに緋《ひ》の袴《はかま》をはいて巫女《みこ》が出て来た。右手に幣《しで》をゆりかけた榊《さかき》をふり、左手に金鈴をふり鳴らしながら、何やらおそろしく早口に口ずさんでいた。
神職等は、とくべつ人の多く群がっているような所をえらんで通ったが、人々は彼等が近づくと、おとなしく道をひらいた。ぐるりと広場を一まわりすると、しばらく松の下にたたずんだ後、急調子に太鼓をたたいた。
ドロロン、ドロロン、ドロロンと、鳴る音につれて、人々は動きはじめた。男は男体山に近い側に、女は女体山寄りにわかれる。
すっかりわかれてしまうと、神職等は、松の周囲をまわりはじめた。はじめはゆるやかな足どりであったが、次第に速くなり、ついには目まぐるしいほどとなり、突然、獣めいた不思議な声で一声叫んだかと思うと、男体山の方に向って走り出した。月光の中に、しばらくチラチラと見えていたが、やがて見えなくなった。
たちまち、男組の中から、歌いながら出て行く者があった。りんりんと張った声は、こう歌った。
男《を》の神に
雲立ちのぼり
すると、女組の中から出て来てやさしくやわらかい声で受けた。
女《め》の神に
霧湧きうごき
二人は、次第に近づき、松の下で向い合って、合唱によって結んだ。
雨降るらしも
こうしたのが幾組もあって、はじめのうちは一組ずつ出て行っていたが、次第に乱雑になり、勝手放題に出て行った。歌わずに行く者もあった。
誰がさしずするともなく、人々は円陣をつくり、歌いながらおどりはじめたが、次々に加わる人によって、見る間に、円陣は大きくなった。はじめは松の下の小暗いところがおどりの場であったが、次第にはみ出して、ついには月光の明《て》りわたっている所にひろがった。
歌われる唄は、和歌の形式のものもあれば、俗謡もあった。一人が歌い出すと、皆合唱しながらおどった。しずかな調子のものはない。すべて淫猥《いんわい》な文句にみちたもので、おどりもそれにふさわしく狂躁《きようそう》的であった。
人々が、手をふり、足をあげ、ぐるりぐるりとまわるにつれて、こまかな埃《ほこり》が霧のように人々の上に立ちこめ、月光がこもって、白い虹《にじ》のようにうるんで見えた。
ふと、小次郎は、自分がひとりとりのこされていることに気づいた。いつの間に、どこへ行ったろうと、太郎の姿を、おどりの輪の中にさがしたが、急にはわからなかった。
とりのこされても、うらめしいとは思わなかった。とうてい、こうした中に入って行けない自分であることを知っていた。彼には、唄をうたえる自信もなければ、おどりの出来る自信もない。また、この放埒《ほうらつ》な空気に反撥《はんぱつ》する気持もあった。
彼は、広場の外の木立の中に歩をうつしたが、その時、太郎の姿を見つけた。
太郎は、一番女の多い場所に割りこんで、誰よりも愉快げに、誰よりもふざけておどっていた。巧みなおどりぶりであった。融《と》けこみきった楽しさがあった。
小次郎は、感心して見ていたが、ふと、
「おれもあんなに|こだわり《ヽヽヽヽ》なくふるまわれたら」
と、思った。うらやましいと思った。
皆が皆上手におどっているのでないことに、小次郎も気づいている。ズバぬけて上手に、流れるようにしなやかにおどっている者があるかと思うと、ぎごちない動きでまわりの人々にぶつかって、邪魔をしているとしか思われないほど下手くそな者もあるのだ。
「気軽さと無邪気ささえあれば、おれだって入って行けないことはないのだ」
と思った。
しかし、それが出来なかった。彼は、巧みな人を見ては、あんなにおどれればよいと思い、へたな人を見ては、あの無邪気さがほしいと思いながら、ただ見ていた。
二時間の後、様子はまるでかわっていた。広場にはまだおどりが行われていたが、盛りはとうの昔に過ぎていた。わずかにのこっている人々が、惰性で、大儀そうにおどっているだけであった。
今や、中心は林の中に移っていた。月の光を一点も漏らさない真暗な場所にも、月光が点々と斑《ふ》になって薄明るい場所にも、平らかな所にも、斜面になった所にも、凹《くぼ》みになっている所にも、――至る所に、ヒソヒソ話があり、熱ッぽいささやきがあり、おさえつけたような女の含み笑いがあり、繁《しげ》みのそよぎがあり、空気が神経質にふるえていた。
何か目に見えない電流のようなものが林の中に走って、林全体がひっきりなしに|けいれん《ヽヽヽヽ》しているようであった。
すがすがしい香気にみちて、つめたく清らかであった林の中の空気は、重く、熱ッぽく、ねばねばした、淫猥なものにかわっていた。
小次郎は、身のおき場がなかった。どこへ行っても叱《しか》られた。しかし、この林を離れる気にはなれなかった。
不思議なものが、からだ中に燃えていた。それは全身をいきなりカッと燃え立たせるかと思うと、異常な強い力で、からだを内側から突っぱった。胸苦しくて、むやみに|のど《ヽヽヽ》がかわいた。目も耳もとぎすまされたように鋭くなった。
餓《う》えた犬のようにキョロキョロしながら、足音をしのばせて歩きまわったが、ある繁みの中でささやき合っている声を耳にすると、そっと近づいて行って耳をすました。なまめかしい睦言《むつごと》がしめやかにつづいているようであったが、ふとそのささやきが切れたかと思うと、パン、パン、パン、と、強い平手打ちの音がし、つづいて、鋭い女の声が叫んだ。
「お退《さが》り! 無礼者!」
「な、な、なにをさらすこのあばずれ女め! ここを、今夜を、何だと思っていさらすのだ!」
狼狽《ろうばい》しながらも、男の声は猛《たけ》り立った。飛びかかったようであった。組み打ち、もみ合う肉体の音がし、そのへんの繁みがはげしく揺れさわいだ。
小次郎は、どうしてよいかわからなかった。まごついて、ただウロウロしていた。忽《たちま》ち、女はおさえつけられたらしい。
「今夜がどんな晩か、承知で来ていながら、今更となって……」
「イヤ、イヤ、イヤ! 助けてーッ」
反射的だった。小次郎はそこに向って突進していた。繁みがピシピシと頬《ほお》を打ったが、かまわなかった。彼は、黒い影がもみ合っているのを見た。その影の上に散りこぼれている月光が、はげしい格闘を示して、目まぐるわしく揺れたり消えたりしていた。
「乱暴はよせ!」
力一杯つき飛ばした。
相手はケシ飛んで、繁みの中にころがりこんだ。
「アッ! なにもの!」
突然の邪魔ものに、相手はおどろきもしたし、腹も立てたらしい。喚《わめ》きながらも、すばやく立上った。
「乱暴はよせ!」
呼吸《いき》をきらして、小次郎はまた叫んだ。その小次郎の袖《そで》の下をくぐって、女は脱兎《だつと》のように逃げにかかった。
「待て! こやつ!」
男は、女の袖をつかんだ。その手を、小次郎はしたたかに叩《たた》いた。男の手は袖から離れ、女は逃げ去った。ザワザワと繁みに鳴る音が次第に遠ざかるのを聞きつつ、三度、小次郎はさけんだ。
「乱暴はよせ」
「こやつ! 無礼な!」
男は胸をついて来た。邪慳《じやけん》なほど強い力であったが、小次郎はウンとこらえた。
「あの女はいやがっている」
「馬鹿《ばか》め! いやな女が、今夜ここに来るか! 退《ひ》け! 退かんと承知せんぞ!」
「たしかに、いやがっていた」
「このわからずやめ! 痛い目が見たいのか! おれは鹿島《かしま》ノ玄明《はるあき》だぞ! キリキリ、退けい!」
ああ、この男かと思った。悪いやつと因縁がついたと思った。しかし、今さらしかたはなかった。
小次郎が黙っているので、相手は恐れ入ったと思ったらしい。
「退け!」
と、また突いて来た。
軽蔑《けいべつ》しきった、不用意な攻撃であった。小次郎は、両手で胸の前で受けとめ、逆にねじ上げた。意外な反撃に、相手は狼狽した。ふりはなそうともがいたが、腕はヘシ折れるかと痛かった。
「おのれ! 手、手、手向うつもりか!」
と言ったのも、やっとのことであった。
小次郎は黙ったまま、無慈悲にズルズルとしょびいた。腕の折れるのを防ぐためには、引きずられるままについて行くよりほかはない。歯がみをし、呼吸をあえがせ、時々悲鳴に近い罵詈《ばり》を浴びせながら、ついて来た。
およそ十五六間引きずって、樹木がまばらになって、月の光が明るく照らしている所まで来て、小次郎は立ちどまった。相手の顔を熟視した。
尖《とが》った頬骨と、角ばったあごと、よく光る細い目と、薄い口|ひげ《ヽヽヽ》をもった、どことなく鯰《なまず》めいた顔であった。年はまだ若く、二十《はたち》を少しこした位に見えた。苦痛のために顔中汗をかいて、月光にヌラヌラと光っていた。
「鹿島の神人《じにん》くずれ、藤原ノ玄明というのは、そなたか」
「な、な、なんべん言えばわかるのだ! う、う、うぬは誰だ!」
苦痛に顔をゆがめ、あえぎあえぎののしった。
「そなた、悪いことばかりしているそうだな」
「そ、そ、それがどうした! た、た、たまたまおれを手込めにしたとて、さ、さ、さかしらぶって、よけいな口をきくな! この腕、へし折るならへし折れ! くそッたれめ! 青二才め! ええい! おれが自分でへし折って見しょうか」
乱暴な男だ、逆に自分の手をひねって、一気にへし折ろうとした。
こちらはかえって狼狽して、手をはなした。玄明ははずみをくって、よろめき、しりもちをついた。はねおきようとしたが、腕が痛くて出来なかったのだろう、坐《すわ》ったまま腕をさすっていた。
ノッソリ立ったまま、小次郎は見下ろしていた。しかけて来たら闘わねばならんが、厄介《やつかい》なことになったと、思っていた。
しばらくの後、玄明は立上ったが、しかけては来なかった。
「今夜はおれの負けにしておく。いずれ改めて挨拶《あいさつ》する。ついては、おのれの名を聞いておこう。名のれ」
十分に凄味《すごみ》のきいた声だ。細い目をすえて、グッと見すえていた。
名のらないわけに行かなかった。
「豊田の平小次郎|将門《まさかど》」
「鎮守府将軍|良将《よしまさ》が小伜《こせがれ》だな」
「そうだ」
「このままではすまんと覚悟しているがよい」
小気味のよい所もある男だ。悠々《ゆうゆう》と引上げて行く姿に、少しも卑屈な様子は見えなかった。
小次郎は、しばらくたたずんでいた。これほどの争闘にも、周囲では誰一人としてさわぐ者はなかった。それぞれの営みに打ち込み切っているのだろう、なまめかしいささやきと、木の葉のさやぎはまだつづいていた。
帰ろう、と思った。このめずらしい行事にも、今は興味がなくなっていた。
林の出口に向って歩き出した。その時、どこか近くで、忍びやかな足音がしたように思ったが、気にとめなかった。この林の中には、何百人とも知れない男女がこもっているのだ。
けれども、数歩にして、不意に足首のところを、なにものかにつかまれた。つめたい感覚であった。蛇《へび》がまきついたのだろうと思った。危うく声を立てるところであった。
しかし、次の瞬間に、そのものはムクムクと立上って、彼にならんで立った。
ほのぐらくて、顔はわからないが、女であった。被衣《かつぎ》をかぶっていた。薫物《たきもの》をしめているらしく、立った時、さわやかな香気が顔を打った。
この香気には記憶があった。先刻、玄明の手から救い出した女の立てた香気と同じものであった。あの女だと思われた。
用心深く被衣で顔をつつんで、その奥から目ばかりのぞかせて、女はささやく。
「あなたは強い方ね」
「え?」
はっきり聞きとれたのだが、よく聞こえなかったような気が、小次郎はした。
「男は強くなければ。女は強い男を好くものなの」
「え?」
女は不思議なほどつめたい手で、小次郎の手をつかんで、歩き出した。小次郎ははげしくふるえた。頭が熱くなり、耳が鳴り、胸がとどろき、目がうるみ、足がよろめいた。
深いしげみや、暗《やみ》に蔽《おお》われている場所は、すべて先客にしめられていた。女は、一々それを選《よ》りわけながら、小次郎をみちびいて行く。臆面《おくめん》がないと言いたいくらい、おちつきはらっていた。
現心《うつつごころ》ないようでいながら、小次郎は、一切それを知っていた。この女はなにものであろう、と、考えていた。
「しかたがない。ここよりほかにない」
やがて、立ちどまったのは、林のつきかける場所であった。ゆるやかな斜面に、樹木がまばらに立ち、月の光があらわであった。
女は男の手を引いたまま、一むらしげった薄《すすき》のかげに、ならんで腰をおろした。
二人は手をつなぎ合ったままであった。どちらからも口を利《き》かなかった。小次郎は、女が被衣の中から顔を出して、自分の横顔を見ているのを知っていたが、ふりかえることが出来なかった。ただふるえていた。そのふるえは下腹のあたりからおこって、おさえてもおさえてもやまない。恥じたが、どうすることも出来なかった。
はじめのうち、小次郎の胸には、追い立てられるようなあせりがあったが、間もなく、不思議な|ものうさ《ヽヽヽヽ》を感じて来た。こうしてこのままでいるだけで、十分に幸福ではないかと、思いはじめていた。
これは一種のおちつきであった。このおちつきが、相手の顔を見る勇気をあたえた。ゆっくりとふりかえった。
二人の目は、ピタリと合った。
月の光が真直《まつす》ぐにおちている女の顔を見た時、小次郎は目をみはった。
細く真直ぐに通った鼻筋と、深い色をたたえて黒々とした切れ長な目をしたその顔は、おどろくほど美しく、また、高雅な品位にみちていた。年頃《としごろ》は十六七と見えた。
女はにっこり笑った。すると、形のよいつややかな唇《くちびる》がわれて、よくそろった、染めた歯が、黒い宝石のように光った。小次郎は、その笑いにこたえることが出来なかった。相手の美しさと高雅さに、圧倒されていた。どう見ても、下々《しもじも》の者ではなかった。衣服も、地味ながらも絹ものであった。
あまり小次郎が見つめたからであろう、女は羞《はず》かしげに顔を伏せた。すると、月の光が長いまつ毛で、匂《にお》わしい陰を顔につくった。
小次郎はまた熱した。いきなり、相手を両手にかきいだいた。女はなやましげな溜息《ためいき》をつき、男の胸にすがりついて来た。あたたかで、たおやかで、しっとりと重みのあるからだだ。切ない呼吸が、小次郎の耳に、湯気のように熱くかかる。幸福感が、つき上げるように胸にたかまった。
「抱いて、抱いて。きつく抱いて。もっときつく」
小次郎の腕の中で、女はあえいだ。上ずって、有頂天なささやきであった。熱い息を吐く唇が、風に吹かれる花びらのようにふるえ、目がキラキラと光っていた。
強く強く抱きしめながら、小次郎はささやいた。
「そなたは誰? どこの誰?」
女はこたえない。聞こえなかったのかも知れない。かたく目をつぶって、興奮の波に乗っていた。
小次郎はまた聞いた。いらだたしげに、女は首を振った。
「誰でもいいじゃないの! 今夜は恋の夜! ――ああ、あなたは強い人!」
林の上をいくどか風がわたり、天ぺんに澄む月の面《おもて》をいくどか浮雲がかすめて、悠々とすぎた。
二人は、薄むらの斜面に、長々と寝そべっていた。男になったのだ、と小次郎は考えた。打ってかわって、大人びた落着きを自覚していた。女にたいする愛情が、胸をしめつけるようであった。いとしげに頬を撫《な》でながら聞く。
「もう言ってもいいだろう。そなたは、どこの誰?」
やはり女は答えない。目を閉じて、グッタリ横になったままだ。
「なぜ教えてくれないのだ」
また言った時、とつぜん、女は半身をおこした。林の中を透かして、眸子《ひとみ》を定めていたが、忽ちパッとおどり上っていた。被衣をかぶりながら走り出していた。獣めいたすばやさであった。
ほんの三四間の間、木の間を漏れて斑《ふ》になって散らばっている月光をかすめて、チラチラと、白い鹿《しか》かなんぞのように見えていたが、すぐ木《こ》の下暗《したやみ》にとけこんだ。枯枝や落葉をふみくだきつつ遠ざかって行く速い足音が、しばらく聞こえていた。
小次郎はあきれていた。追う機転も出ず、茫然《ぼうぜん》と突っ立っていると、そのわきを風のようにかすめて追って行ったものがあった。
「太郎ではなかったかしら」
ややしばらくして、小次郎は考えた。そこにのこっている空薫《そらだき》の香《にお》いの中に、太郎のと似たものがただよっているように感じたからである。
矢風《やかぜ》
奇妙な一夜が明けかけて来た。
人々は、まだ夜の暗いうちに、それぞれの恋の塒《ねぐら》を出て、山を下りはじめた。
小次郎はちょっと太郎をさがしたが、所詮《しよせん》さがし出せそうもなかったので、ひとり山を下りた。途中で夜が白み、昨夜の老人の家についたころには、薄明るくなっていた。
老人はもう起きて、ゴホンゴホンと|せき《ヽヽ》をしながら、まだ薄暗い厩《うまや》で、馬の飼糧《かいば》にする|わら《ヽヽ》をきざんでいたが、小次郎の姿を見るとすぐやめた。曲った腰を老人は左右にゆすりながら出て来て、庭にひざまずいた。ただれた赤い目で見上げた。
「おかえりなさいませ。お首尾はいかがでございました。石田の若君はまだおかえりになりませぬ」
「そうか。では、待たせてもらうぞ」
「はいはい。追っつけおかえりでありましょうで」
老人は、家の内から古びた床几《しようぎ》を持ち出して来て、庭にすえてくれた。
「いただく」
腰をおろした。
明るい光の中で見ると、この家は、軒はかたむき、柱はゆがみ、今にも地べたにのめりそうだ。その上、防風林に深くかこまれて日のさす時間が少ないので、青々とした苔《こけ》が、屋根にも庭にも一面に蒸して、いかにも不健康な感じだ。
けれども、これは特別この家がみすぼらしいというわけではなかった。この時代の農奴や小百姓の家としては、普通であった。この程度の農家は、千二三十年後の現在でも、関東平野の各地にめずらしくないのだ。
従って、このことには、小次郎も、特別な感慨はなかったが、この老人がたった一人で生活しているらしいのに、心を動かした。
「爺《じ》イ、そなたひとりものか」
厩にかえって、また|わら《ヽヽ》をきざんでいた老人は、仕事を中止して出て来た。またひざまずいてからこたえる。
「婆《ばば》めが死んでから、ちょうど五年になります。|せがれ《ヽヽヽ》が一人おりますが、これは石田の館《やかた》に召されております」
「その年で、ひとりではつらかろうな」
「なんの。わたくし共の分際の者は、馴《な》れておりますで。しかし、冬の寒い朝などは、いくらかこたえますわい」
笑って答えながら、赤い目でしげしげと小次郎を見上げていたが、
「もしや、若君は、陸奥《むつ》に行ってござる良将将軍様の公達《きんだち》ではございませんかや」
と、きいた。
「そうだ。しかし、どうしてわかった」
「はアれ、まあ! やはりそうでございましたか! よう似てござる。その太い眉《まゆ》、大きなお目、しまったお口許《くちもと》、巌《いわ》にきざみ出したようなお体格、まことにまことによう似てござる。わたくしめは、将軍様のお幼立《おさなだ》ちをよくぞんじておりますが、今のあなた様にそっくりでおわしましたわの」
泣き出さんばかりになつかしげな顔になって、小次郎の周囲をヨチヨチ歩きまわりながら、と見、こう見する。
老人は色々なことを聞く。
父の近況。小次郎の年。今どこに在《おわ》す? 陸奥に父君と? こちらにかえって見えたは、これからずっと豊田に在すためでか? また陸奥へ? それはそれは。等々々。
そのうち、ふとこう言う。
「お不在《るす》中、御領地は、石田の殿にお預けのようでございますな」
「豊田まわりのほんの少しばかりのほかは、全部伯父御に頼んである」
「そのようにうかがいましたが……」
老人は、ためらうように一旦《いつたん》口をつぐんでから、思い切った様子で、なにか言おうとしたが、その時、太郎がかえって来た。
急ぎ足に入って来る太郎を見て、オヤ、と、小次郎は思った。びっくりするほど青い顔をしている太郎であった。老人に言う。
「弓を出せ。|やなぐい《ヽヽヽヽ》をくれ。馬を引出せ。すぐかえりたい」
せわしない言葉だ。いつもの軽快な調子が失われて、へんにいら立っていた。なにか追われている者のあわただしさがあった。
ほどなく、二人はそこをあとにした。太郎の様子は、依然としておちつきがない。疾駆こそしないが、たえず馬を急がせる。のみならず、やなぐいから矢を二筋ぬき出し、一筋は弓につがえ、一筋は右に持ち、油断なく目をくばりながら行く。
とうとう、小次郎はきいた。
「太郎、おぬし|けんか《ヽヽヽ》でもしたのではないか」
太郎は神経質に笑った。
「ちょっとやった」
「相手は誰だ。鹿島《かしま》ノ玄明《はるあき》か」
「いや、今の大掾《だいじよう》の郎党共だ。わずかな口争いがもとであったが、おそろしく奴等《やつら》をおこらせた。昨夜《ゆうべ》もちょっと話した通り、このあたりはおれの家の所領と、今の大掾の所領とが入りくんでいて、よく|もめごと《ヽヽヽヽ》があってこまるのだが、それがあるので、昨夜もわずかなことから花が咲いた」
「今の大掾は源《みなもと》ノ護《まもる》だな」
「そうだ。やつ官人《つかさびと》かせぎに見切りをつけて、坂東《ばんどう》に根をおろすつもりらしく、開墾したり、買収したり、賄賂《わいろ》にもらったりして、所領をひろげることに懸命なのだ」
「それで?」
「それでとは?」
「斬《き》ったのか」
「斬りはせん、なぐりたおしておいて逃げて来た」
「逃げて来た? なぜあやまらさんのだ。その分際の奴原《やつばら》から逃げるとはなにごとだ。おれ達は王《みこ》の末だぞ、祖父《じい》様の代までは王《おう》を名のった。高貴な血統《ちすじ》だぞ」
「敵は多数であった。とてもあやまらせるなど、出来なかった」
「だったら、斬りすてるべきだ。なぐっただけで逃げて来るなどという生半尺《なまはんじやく》なことをする故《ゆえ》、相手をつけ上らせるのだ」
「斬っては、あとがうるさい」
「斬らんでもうるさいではないか」
いつもと反対だ。小次郎が|かさ《ヽヽ》にかかって言いまくるのに対して、太郎は言訳ばかりしていた。凜々《りんりん》たるものが、小次郎の胸にあふれていた。こいつは、案外武者度胸はないのだな、と、思っていた。
不意に、太郎がさけんだ。
「アッ、出た!」
二人の行く手に桜川があり、そのこちらに雑木林があったが、そこに半武装した武者が一人、チラチラと隠見していた。
二人はすばやく弓を引きしぼって、馬を乗りとどめた。すると、武者は、
「待てーッ!」
と、どなりながら、林の中を駆け出して来た。その男の色の黒い角ばった顔を見ると、太郎は、
「アッ」
と、さけんだ。
鹿島ノ玄明であった。玄明は、左手に弓、右の小脇《こわき》に手鉾《てぼこ》をかいばさんで、
「待て、待て、話がある!」
と、呼ばわりながら、馬を飛ばせて来る。太郎があわてて矢を放とうとするのを、小次郎はおしとめた。
「きたない真似《まね》はよせ!」
「しかし……」
「よせといったらよせ!」
その間に、玄明は乗りつけて来た。
「よく待ってくれた。天晴《あつぱれ》だぞ」
「話は、どちらにあるのだ」
と、小次郎がきいた。
玄明は、ニヤリと笑った。
「今日のところは汝《われ》だ。石田の小冠者にもつけねばならん話があるが、これは後日のことにしよう」
小次郎も微笑した。
「よかろう。弓でか、打物《うちもの》でか」
「そちらにまかせる」
「おれはどちらでもよい」
「では、打物で行こう」
「よし!」
サッと両騎は飛びひらいた。弓を捨てていた。玄明は手鉾をふりかざし、小次郎は太刀をふりかざしていた。左右に馬を乗りめぐらしつつ、すきをうかがった。
おりから筑波の山の北の稜線《りようせん》上に朝日が顔を出し、強い光で二人の姿を赤々と照らし出したが、そのためばかりでなく、小次郎のまるッこい頬《ほお》は真赤になり、目が爛々《らんらん》とかがやいていた。一方、玄明の黒い顔は青ざめていた。細い目の瞼《まぶた》を一層細めて、その間から針のように目を光らせていた。薄い口ひげの口許に、不敵な微笑があった。
意外ななり行きに、太郎は|あっけ《ヽヽヽ》にとられていた。息づまるばかりに緊張した二人の動きを、茫然として見ていたが、ふと、我にかえった。
「小次郎、助勢するぞ!」
と、さけんだ。光る鏃《やじり》を玄明に向けて、弓を引きしぼった。
小次郎は、あわてた。
「男と男の勝負だ。手出しするな」
「そうだ。手出しするな!」
と、玄明もどなった。
「これが黙って見ておれるか! おれの男はどう立つのだ!」
と、太郎は叫びかえす。今にも、切って放ちそうであった。
「放すな! 放せば、おれはおぬしを敵とするぞ! こんな時には、黙って見ているのが男なのだ。手出ししては、おぬしもおれも卑怯者《ひきようもの》になるぞ!」
「しかし、こいつは、おれのためにも敵だ!」
と、太郎がいきり立つと、玄明は大口あいてカラカラと笑った。
「それそれ、それがその小冠者の本音だ。二人がかりでおれをたおして、枕《まくら》高く寝ようというのだ。王《みこ》の孫にしては、天晴な性根だて。よしよし、さらば二人がかりで来い。枕を並べて退治てくれよう」
あくまでも高言した時だった。筑波の山の方から、疾駆して来る多数の馬蹄《ばてい》の音が聞こえた。
どう少なくみつもっても、二十騎はあろうと思われるその人馬の響きは、三人の注意を引かずにはいなかった。しかし、切迫した場だ。互いに相手から目をそらすわけに行かない。三人は睨《にら》み合いをつづけつつ、耳をそちらに立てていた。
その間に、その響きは益々《ますます》近づいて来て、叫ぶ声が聞こえた。
「追いついたぞ! あれにいるぞ!」
はっきりと、そう聞きとれた。
玄明が提議した。
「気になる声だ。あちらを見よう。その間、お互い、仕掛けッこなしにしようまいか」
言下に、太郎が応じた。
「よかろう!」
弓から矢をはずした。一層青い顔になって、おちつきを失っていた。
「相談出来た。――そら、一、二、三!」
玄明の合図で、三人は一斉《いつせい》にそちらを見た。
おどろきの声が、玄明と太郎の口から、同時に上った。
三町ほどの距離にせまっていた。二十五六騎はいた。半具足して、皆弓に矢をつがえ、密集してつむじ風のように疾駆して来つつあったが、三人が向きなおったのを見ると、パッと散った。道を来るのは二騎、あとは左右の畠《はたけ》に散って、土煙を蹴立《けた》てて押して来る。戦《いく》さなれた行動であった。また叫びが上った。
「玄明の乱人《らんじん》めもいるぞ!」
「天のあたえだ! 二人ともにがすな!」
いきなり、玄明は馬から飛び下り、弓をひろい上げた。馬首を引きまわすと、飛びのった。駆け出しながら叫んだ。
「今日は喧嘩《けんか》はやめだ! 都合が悪いわい!」
太郎も逃げにかかった。
「小次郎! どうしよう? 大掾の郎党共だ!」
ということばは、馬上に身をかがめ、めったやたらに鞭《むち》をくれながらであった。
関係のないのは自分だけだ、と小次郎は考えたが、知らん顔は出来なかった。それは坂東の男の習わしではない。
彼は弓をひろい上げ、地勢を見定めて、林の中まで退《さが》って、馬首を立てなおした。
玄明と太郎とは、一筋に道を逃げて行ったが、すぐ引きかえして来た。林の中に入って来た。
「いかん! 前方《まえ》にも敵がいる。ついにおれも年貢《ねんぐ》の納め時か」
玄明はヤケな調子で言った。袖《そで》をたくし上げてグイグイ顔の汗を拭《ふ》きつつ、足場をえらんで馬を立てた。弓に矢をつがえながら、小次郎に言う。
「豊田の。石田のに聞いたが、おぬしは関係がないのだそうだな。奴等にそう言って、立去ってはどうだ」
「そうはいかん。太郎はおれのいとこだ」
「そうか。運の悪いことだったな。しかし、昨夜の今日《きよう》だ。心残りはなかろう」
にやにや笑っている。
「昨夜の今日とは?」
小次郎は赤くなった。
「しらばくれるな。おれは知っているぞ。おれを追っぱらっておいて、いい思いしたな。けしからん童《わつぱ》だ」
玄明はカラカラと笑った。
緊張しながらも落着きを失わない玄明と小次郎と反対に、太郎はまるで落着きがなかった。いつも匂《にお》うように血色の鮮麗な頬は青ざめ、繊細な輪郭をもつ美しい唇《くちびる》は色を失ってふるえていた。おびえきった目は、たえず前後を見まわしていた。
その前面の敵は、矢頃《やごろ》に近づく前に停止して、こちらを凝視していた。背後から来る味方の到着を待って、包囲する計略と見えた。
「あちらから来るのは、何騎ほどだ」
と、小次郎は、太郎にきいた。
玄明が答えた。
「十五騎だ。おれは数えてみた」
「では、そちらを破ろう。敵の勢《せい》の嵩《かさ》むのを待つのは愚だ」
「それはそうだ。そうしよう。おぬし、年に似ず戦さ巧者だな」
「おれは陸奥育ちだ」
陸奥では、こんなことはめずらしくない。叛乱《はんらん》というほどのものではないが、日本人と蝦夷《えぞ》との衝突や、蝦夷同士の小ゼリ合いや、しょッちゅうのことだ。
いつか、小次郎が指揮者の位置に立っていた。彼はさしずして、それぞれに着物の袖をちぎって、木の間がくれの木の枝に掛けさせた。
「いい工夫だな。敵はわれらがここに籠《こも》っていると見て、ちょいと食いとめられるな」
と、玄明がまたほめた。
「黙ってろ! もう口を利《き》くな!」
叱《しか》りつけると、玄明はひとりでクックッと笑っていた。
しばらくの後、三人は林をぬけ畠をわたって、桜川の堤防の下に出ていた。
忽《たちま》ち、川の向うに人馬の声がした。小次郎は馬を乗りとどめた。耳をすましていた。揉《も》みに揉んで駆けて来るけはいであった。とどろとどろしい響きに、太郎は居たたまらなくなったらしい。馬をあおって、夏草のしげった堤防を走り上ろうとした。
「待て!」
小声に叱咤《しつた》して、小次郎はおしとどめた。
その時、後方で鬨《とき》の声が上った。こちらの詭計《きけい》をさとって、林の中に突入したのだと思われた。川向うの敵も、鬨を合わせた。朝日のかがよう空をどよもして響くその喊声《かんせい》を聞くと、こんどは玄明があわてた。
「こりゃいかん! ぐずぐずしとると、挟《はさ》み撃ちされる。早くかかって、前を突き破ろう」
飛び出しそうにした。
「もう少し待て!」
数瞬の後、川の向うの敵は堤を越えて、流れに馬を乗り入れたらしい。ザンブとしぶきの立つ音がし、馬足にかき乱されて激しくなった流れの音がつづいた。
また数瞬。
「それッ!」
小次郎は馬をおどらせた。馬は胸をつくばかりに急勾配《きゆうこうばい》の堤防を、一跳ねに跳ね上った。玄明と太郎の馬がつづいた。
突然の敵の出現に、流れの半ばまで渡っていた敵は狼狽《ろうばい》した。最初は引っかえそうとし、次に思いなおして突進する決心になったが、その時には、堤の上の三騎は、拳《こぶし》下りに引きしぼった矢を散々におくりこんでいた。
鋭い羽音を立て、目にもとまらない速さで飛んで来る矢に、忽ち三騎射落され、つづいて四騎が、しぶきを上げて流れに転落した。
敵は射返そうとして、弓をとり直したが、恐怖しきった馬はさわぎ立ち、棹立《さおだ》ちになり、後しざりし、横にそれてぶつかり合った。乗りしずめるのが、やっとのことであった。
その時、林の中を出はずれた後方の敵が、すさまじい喊声を上げて疾駆にうつった。広い畠に一二間おきに散開して、まっしぐらに駆けて来る。炎天つづきで、乾き切った畠だ。見る間に赤黒い土煙が立上って、林が見えないくらいになった。
小次郎は刀を抜き放った。馬をあおった。陸奥産《みちのくさん》の駿馬《しゆんめ》は、翼あるもののように宙におどったと見えたが、一気に十間ほど飛んで、ザンブと中流におどりこんだ。
この神技に、玄明と太郎は舌を巻きつつも、真似をしようとしたが、馬が言うことをきかなかった。しかたなく、普通に堤防を駆け下りて、川に入った。
敵はまた、驚かされ、おびえさせられた。戦う機転を失って、逃げようとしたが、馬首をめぐらす間もなく、小次郎は迫った。
「下郎共! 推参!」
と、さけんで一人を斬っておとし、つづいて一人を斬った。
のこる二騎は、自ら水に飛びこんで、こけつ、まろびつ、もがきつ、しぶきを上げつ、水を飲みつ、逃げにかかった。
玄明と太郎が面白がって、鉾をとりのべて突こうとし、太刀をふるって斬ろうとするのを、小次郎はとめた。
「捨ておけ! 後詰《ごづ》めの勢は、もうそこに来るぞ!」
三人が渡り切った時、敵勢は堤防の上に姿を現わした。意外な味方の有様におどろいて、口やかましくわめき立てたが、すぐ鏃《やじり》をそろえて、矢を射送った。
玄明と太郎は、堤防を小楯《こだて》にとって応射しようと主張したが、小次郎は反対した。
「いかん! 逃げよう。敵は追いかけるには、川を渡らねばならんのだ。十分に逃げられる。行くぞ! つづけ!」
凡《およ》そ十分ほど、ヒタ駆けに駆けたが、追って来る様子がなかったので、三人は馬足をゆるめた。
さらに十分ほど並足で行くと、石田領になった。もう大丈夫だ。三人は、呼吸《いき》をつき、汗を拭《ふ》いた。
「どうやら、助かったな。イヤ、今日こそ年貢の納め時と、肝の冷えたこと、冷えたこと。そのくせ、暑かった、暑かった。冷汗と熱汗が、合わせて五升|五合《ごんごう》ほども出た」
と、玄明は笑ったが、すぐ様子をあらためて、小次郎に言う。
「豊田の。おかげでいのち拾いした。礼を言う。この通り」
と、丁寧に頭を下げ、
「従って、昨夜《ゆうべ》のことは水に流したい。いかがであろう」
小次郎は笑った。
「あれはあれ、これはこれとしておいても、おれはちっともかまわんぞ」
「イヤ、イヤ、水に流したい。そうしてくれ。――しかしだ」
と、こんどは太郎を見て、
「汝《われ》に対する言い分は、消えんぞ。そのつもりでいるがよい」
と、凄《すご》んだ。
「いいとも、言い分、いつでも聞こう」
と、太郎は笑った。いつもの瀟洒《しようしや》な美少年ぶりにかえっていた。
ここで、玄明とは別れた。
父と子
玄明《はるあき》と別れると、太郎は急に、黙りがちになった。なにを考えているのか、陰鬱《いんうつ》な目を馬のたてがみに向けて、そのゆれるのを見つめていた。
小次郎も、口をきかなかったが、気持はさわやかであった。おのれの計略と武勇によって、見事に危地を脱し得たことが、うれしくてならなかった。われながらうまく行ったと思い、自足に胸がふくらんでくる。
昨夜のことも思い出した。これも胸がときめいてくるほどいい気持だ。あれほど美しく、また、身分も相当であるにちがいない女性が、自ら進んで自分のものになったかと思うと、得意でならない。
ただ素姓《すじよう》のわからないのが残念だ。玄明に聞いてみればよかったと思った。玄明は知っていそうな気がした。
(しかし、おれに聞けるだろうか)
と、思うと、心細くなった。きまりが悪くて、とても聞けそうでなかった。
(どうして突きとめたらよいだろう)
思案を凝らしているうちに、夜どおし一睡もしなかった疲れと、今の激闘の疲れとが出て来た。いつの間にか目がふさがり、意識がおぼろになった。明るい日に照らされた緑の野の色や、馬背のゆれや、馬蹄の音が、時々フッと消えて、なんとも言えず快い眠りにさそいこまれるのだ。
そのものうい、快い、だるい気持の中に、とつぜん、焼けつくような思慕がわきおこった。それは、はげしい慾望《よくぼう》をともなっていた。彼は苦痛をこらえる人のようにうめいて、はっきりと目をさました。太郎がのぞきこんでいた。
「どうしたのだ。うなされていたぞ」
見ぬかれたのではないかと恥かしかった。目をそらしながら、
「そうか」
とだけこたえた。ふと、こいつに聞いてみたらわかるかも知れないと思った。しかし、思っただけだった。この思いこんだ切なさがわかる太郎ではないと思った。男女の仲を遊戯的にしか考えていない太郎は、なぶりものにするにきまっていた。
「小次郎」
ふと、改まった調子で太郎が呼んだ。
「なんだ」
「どうだろう、このままではすまんだろうな」
「なにがだ?」
「今日のことだ」
「ああ、そうか。――すむまいな」
「向うはきっと、お尋ね者の玄明と、我々が腹を合わせて喧嘩を吹ッかけたと言い立てるぞ。あるいは、もっと質《たち》わるく、玄明を召捕ろうとしたのを、我々が玄明に味方して邪魔したと言い立てるかも知れんぞ」
「喧嘩は向うが吹ッかけたのではないか」
「おれは事実を言っているのではない。向うの出様を言っているのだ」
「そんなウソを言うだろうか」
「証人はいないのだ。どんなウソでも言える。なんとか手を打っておかんと、こまったことになるぞ」
小次郎には考えられないことだった。いくらなんでも、そんなウソがつけるはずはないと思うのだ。
太郎は笑った。
「世間の人間というものは、おぬしのような馬鹿《ばか》正直者ばかりではない。おのれに利ありと見れば、どんなことでもするのだ」
「そうかなあ」
「とにかく、このままでは、我々はおそろしく不利な立場に立つことはたしかだ。方法を考える必要がある」
「どうしたらよいだろう」
「その工夫がついておれば、こんなことを言い出すものか。早速とりかかるにきまっている」
小次郎は心配になった。しかし、どうしていいか、まるで見当がつかなかった。
「ああ、運が悪かったなあ。玄明のやつめ! ……一体、おぬしとやつの間には、何があったのだ」
太郎は、愚痴っぽい調子であった。
「昨夜、ちょっとしたことで、やり合っただけのことだ」
少しうろたえて答えながら、小次郎はいやな気がしていた。今更言ってみてもしかたのないことではないか、案外思い切りの悪いやつだ、と、思った。
黙りこんだまま、しばらく行く。蹄《ひづめ》の音だけが、単調に、憂鬱につづく。
「小次郎」
と、また太郎が呼びかけた。
「なんだ」
からかうような表情で、太郎は笑っていた。
「先刻《さつき》、玄明のやつがおかしなことを言っていたことを思い出したぞ。おぬし、昨夜玄明と|さやあて《ヽヽヽヽ》したのだろう? ちょっとその話をして聞かせろ」
小次郎は赤くなった。
「さやあてとはなんだ」
太郎はカラカラと笑った。
「おどろいたなア。さやあてを知らんのか。女を争って喧嘩《けんか》することをさやあてというのだ。しかし、あっぱれだよ。言葉は知らんでも、事はちゃんと実行しているのだから」
「おれは女なぞ争わん。やつをこらしめただけだ」
ムッとして、小次郎はこたえた。
太郎はジロジロ見ながら、薄笑いした。
「そんなに赤くなってもか。オヤ、汗もかいている」
「暑いのだ!」
「まあ、そうかくさんで、いきさつを聞かせろよ」
「いやだ! おぬしは人をなぶりものにする!」
小次郎はどなったが、太郎は平気だ。ヘラヘラと笑った。
「そうかくすところを見ると、益々《ますます》あやしい。どうでも、女を争ってとしか思いようがない」
「なんとでも思え!」
太郎は高笑いしたが、急に笑いやむと、
「ヤ! 工夫がついた。それ急ごう」
ピシッ! と、馬に鞭《むち》をくれて、トットと走り出した。
小次郎も、あわてて馬を並べながらきいた。
「どう工夫したのだ」
「謀《はかりごと》は密なるをもってよしとする。まあ、だまって、仕上げを見ていろ」
もう石田の里が目の前に見えていた。
館《やかた》にかえると、太郎はすぐどこへか姿を消した。その密謀なるものの実行にかかっていると思われた。
小次郎は、その日のうちに豊田にかえるつもりでいたのだが、事情がこうなっては、帰るわけに行かない。あてがわれたへやで、終日を寝てすごした。
夕方目をさまして、顔を洗って、昨夜のことを思い出しながら庭を歩いていると、太郎が来た。
「おやじどのが会いたいといっている」
「そうか」
なにげなく、母屋《おもや》の方に行きかかると、
「ちょっと待て。少し話しておきたいことがある」
と、呼びとめて、
「今朝方のあのことだがね。おれは、おやじどのに、こう話した。
昨夜、お山で、女のことから小次郎が玄明と少しばかりいさかいをした。玄明は、それを遺恨にして、今朝方我々の帰りを待ち伏せしていた。おれも見てはおられないから、小次郎に助勢した。――そうだったな」
小次郎は首をひねった。これでは、太郎がいい子になりすぎる。太郎は太郎自身の理由で玄明を討とうとして、玄明から恥じしめられて、手を引いたはずだ。
太郎はかまわず話を進める。
「二人を相手にして、玄明は負色だった。まさに玄明を討ち取ろうとする所まで行っていたところ、そこに、少なからぬ軍勢が前後から押しよせて来た。
我々は玄明の謀におちたと思った。そこで囲みを蹴破《けやぶ》って逃げ出したが、領内に入って、村々のうわさを聞くと、その軍勢は現大掾《げんのだいじよう》の郎党共で、玄明召捕りに向ったのであるという。
とんでもない間違いに驚いたが、今更どうすることも出来ない。いずれ、大掾の方から抗議して来るだろうが、事情は今述べた通りである。
人の噂《うわさ》では、大掾方には相当な死者があった由《よし》だが、それは我々の知らないことである。もちろん、我々とて、囲みを蹴破るについて、相当には働いたが、それもほんの瞬間の働きだから、二三の者に掠傷《かすで》を負わせたくらいのものであるはずだ。――と、まあこんな工合《ぐあい》に言っておいた。そのつもりでいてくれ」
小次郎はあきれた。ウソを言うにもほどがあると思った。腹も立って来た。
「それがおぬしの自慢の謀か!」
と、どなるような声になった。
「大きな声を出すなよ」
「おぬしは昨夜大掾の郎党等と喧嘩したのだろう。それはどうした?」
「大きな声を出すなというのに! そんなことを今言って、なんの役に立つのだ。あれはあれ、これはこれだ。言って不利なことを言うのは阿呆《あほう》のしわざだ」
「おれは不利でも、ウソは言いたくない」
「なら勝手にせい。おぬし一人の不利でなく、おれの不利にもなることを忘れるな」
と、太郎も腹を立てた。
「おれはウソはきらいだ」
また小次郎が言った時、侘田《わびた》ノ真樹《まき》が来た。
「大殿が待ちかねておられます」
樹木の間から、夕陽《ゆうひ》が縞目《しまめ》になってさしこんでいる庭を見ながら、国香は居間に坐《すわ》っていた。おそろしく渋い顔であった。簀子《すのこ》(縁側)伝いに少年等の入って来たのをふりかえりはしたが、すぐ前の姿にかえった。依然として、にが虫をかみつぶしたような顔だ。
(ああ、これはきげんがわるい)
と、思いながら、小次郎はへやに入って、膝《ひざ》をついた。太郎もならんで坐る。
「小次郎でございます」
と、小次郎は言った。
彼は、伯父に迷惑をかけることになったのを、すまないと思っていたが、恥じる気は毛頭なかった。男としていたし方がなかったのだと思っている。だのに、不覚に声がふるえた。いまいましかった。
国香はなおこちらを向かなかった。それが圧迫になった。反抗心がムラムラとわきおこった。彼は肩をそびやかして、にらむような目で、伯父の後ろ姿を見つめていた。
しばらく沈黙が流れて、木立の中で、カナカナ蝉《ぜみ》が鳴き出した。夕べを告ぐるそのさびしい声を聞いているうちに、ふと、小次郎の目についたのがあった。
伯父の肩が小さくふるえているのだ。曾祖父《ひいじい》様の高見《たかみ》王によく似ているといわれている伯父の体格は、坂東人《ばんどうびと》らしくなく|きゃしゃ《ヽヽヽヽ》に出来ているが、そのきゃしゃな肩から、弱々しげな|ぼんのくぼ《ヽヽヽヽヽ》のくぼみを見せた首筋にかけて、小さいふるえがたえず走っている。
小次郎は、伯父が泣いているのに気づいた。目をしばたたいているのは、涙が出てくるのであろうか。
胸に強くせまるものがあった。反抗心は忽《たちま》ちなくなった。申訳ないことをしたという後悔の念だけになって、頭を垂れた。
国香は、ゆっくりと向きなおった。低い、おだやかな声で言う。
「事情は、太郎に聞いた。余儀ないことであったろうとは思うが、こまったことをしてくれた。思慮が足りなかったな」
「申訳ありません」
こうやさしく、事をわけて言われると、一層すまなくなる。顔を上げられなかった。
その小次郎を、へんに光る目で見ながら、なお声だけはやさしく、国香はつづける。
「しかし、出来たことはしかたがない。なんとか、わしが骨を折ってみようゆえ、そちはこれから帰ってくれんか」
「申訳ありません。帰ります」
と、言ってしまってから、小次郎はハッと気づいた。これでは、太郎のウソの告げ口を全部認めることになると。一応、真相を明らかにしておかねばならないと思った。
調子を改めて呼びかけた。
「伯父上」
国香は目を閉じていた。返事はしないで、ただうなずいた。
口を開こうとして、小次郎は、伯父のくぼんだ眼窩《がんか》に涙がたまっているのを見た。白いものの光るまばらなあごひげがふるえているのを見た。さらに、自分にならんで坐っている太郎がふるえているのを見た。繊細な顔が真青になり、うつむいて膝を見つめて、そこにおいた両手を神経質ににぎりしめている。
伯父のこのかなしげな姿、太郎のこのおどおどした様子を見ると、小次郎は気の毒になった。
「それでは、わたくしはこれから豊田にかえります」
と、言ってしまった。
太郎の顔から緊張が去った。感謝の目で、小次郎を見た。小次郎は目をそむけた。嫌悪《けんお》に似た気持とともに、一種の安堵《あんど》感があった。
「一刻も早くそうするがよい。いずれ、先方から|かけあい《ヽヽヽヽ》があろうが、そなたがいては工合が悪い」
これでは、すっかり罪人あつかいだと思った。また腹が立ったが、若い心の潔癖さと見栄《みえ》とが、なんにも言わせなかった。今更となって文句を言うのは、未練なような気がするのだ。黙って、頭だけ下げて、引退《ひきさが》ろうとすると、国香は呼びとめた。
「ちょいとお待ち。豊田にも、そう長くいることは感心せん。出来るだけ急いで陸奥《むつ》へお立ち。豊田は隣国、所管が違う故《ゆえ》、急にどうということもあるまいが、いずれは苦情を申してくるに違いない。そなたがいれば、事がむずかしくなるからの」
事の重大さが、はじめてはっきりとわかって、小次郎は狼狽《ろうばい》に似たものを感じた。しかし、もうどうすることも出来ないと思った。
とっぷり暮れる頃《ころ》、小次郎は、郎党四人を連れて、豊田に向った。太郎は数町送って出た。
「おぬしのおかげで助かった。この恩は忘れない。おれはおやじどのに頼んで、この事件をもみ消して、おぬしにこの上の迷惑がおよばんようにする。きっとだ。きっとだ」
と、言った。
「出来るなら、そうしてくれ」
とだけ、小次郎は言った。あまり口をききたくなかった。
丁度その時、館の門を出て、反対の方角に向う松明《たいまつ》の光がいくつか見えた。
「おやじどのだ。大掾のところへ、夜をこめて行くのだ。先方からねじこんでくる前に、こちらから出向いて申しひらきした方がよいからね」
と、太郎は説明した。
夜中《よなか》に、豊田についた。
現在、豊田という地名は、鬼怒川《きぬがわ》の左岸地帯に、豊田と本豊田とがあって、共に石下《いしげ》町内の部落の一つにすぎないが、この時代の豊田は一郡の名で、その地域は東は養蚕《こかい》川(小貝川)から、西は毛野《けぬ》川(鬼怒川)をこえてひろがっていたのである。
将門《まさかど》の家の館は、今の茨城県|結城《ゆうき》郡|石下《いしげ》町|向石下《むこういしげ》にあった。鬼怒川の右岸である。このあたりは、石田あたりとちがって、低地つづきであるから、石田の館のように、山に倚《よ》って見下ろすような威圧的な構えは出来ない。土をかき上げて土居《どい》として、この地方に豊富な水をひいて濠《ほり》をたたえた内側に、十数棟の草|葺《ぶ》きの家がならんでいるのであった。しかし、さすがにこのへん一帯の大地主|下総《しもうさ》平氏《へいし》の本拠だけあって、子細に見ると、壮大ではあった。
当主|良将《よしまさ》と小次郎が陸奥の任地に行ったあと、ここには良将の夫人と、幼い子供等だけがさびしい留守居をしているのであった。
小次郎がかえりついた時、母だけが起きて来た。
「おや、まあ、こんなにおそく。どうしたのです」
母はおどろいていた。
母は、当国|相馬《そうま》の豪族|犬養《いぬかい》氏の出で、後添いとして、良将に嫁いで来た人である。
良将には亡妻との間に、二人の子があったが、二人とも早死にしたので、この人との間に最初に生れた小次郎将門が、長子の位置に上った。小次郎という称呼も、彼に二人の兄、太郎と次郎とがあったからつけられたのである。
母は、嫁《か》して十年ばかりの間に、小次郎をかしらにして、男の子ばかり六人生んだ。この多産のために、若い頃は大へん美しい人だといわれていたのに、すっかり衰えつかれて、今では全然の田舎女になりきっていた。
「石田からお帰りですかえ? 夕食はおすみですかえ?」
紙燭《しそく》をもって、座敷に導きながら、母はいそいそとしている。何年ぶりかに陸奥から帰って来たかと思うと、家にはわずか数日いただけで、早くも石田へ行ってしまった息子の帰宅が、嬉《うれ》しくてならないのであった。
小次郎は、言葉少なく返事しながらついて行き、開けはなったすずしい座敷に坐って、月色のきらめいている外を見つめていた。
その息子の様子から、母はなにごとかを感じとったらしい。紙燭の火を結び燈台《とうだい》にうつしおえると、息子を見つめた。
「なにかありましたね」
ふるえる声であった。
「ありました」
小次郎の答えは、われながら|ぶっきらぼう《ヽヽヽヽヽヽ》になる。こんなつもりではなかった。途々《みちみち》、言い方を工夫して来たのだ。出来るだけ母の心をさわがせないようにと。
まごついた。工夫した言い方、工夫した順序は、混乱してしまった。やけくそな調子で言った。
「人を殺して来ました。こうしてはおられません。すぐ陸奥に立ちます。石田の伯父上も、そうせよと言われました」
母の顔が、おそろしいほど青ざめた。表情がシンとしずまりかえった。ひくい、しずかな声で言った。
「事情をお話しなさい」
「常陸《ひたち》の今の大掾の郎党共と喧嘩したのです」
小次郎は口べただ。いくどもつまずいたり、重複したり、言いなおしたりしながら、語りおえた。
母の表情は、にわかに乱れた。半泣きになって、とり乱した言葉を浴びせかけた。
「そなたは、なんという無思慮なことをしたのです。人の争いに巻きこまれるさえある上に、人の罪まで着てしまって!」
言われるまでもなく、このことは、自分でも考えて、自分に腹を立てていたのだ。それだけに、かえって腹が立った。はげしい調子でどなった。
「男には男の意地があります。しかたがなかったのです。今更、そんなことを言って、なんになります!」
「いいえ、石田の伯父様は腹黒い人です。小次郎どの一人に罪をなすりつけなさるつもりに相違ありません。小次郎どのがこちらにいては、その邪魔になるから、陸奥に遠のけようという心なのです。わかっています」
言いながら母は、涙をぽろぽろこぼしていた。
母の今言うような疑いを、小次郎も持たないではなかった。しかし、一層腹が立った。
「なぜそう、母上は、人の心を悪くばかりとりなさるのです。伯父上は、心から小次郎のことを案じて下さっているのです。泣いておいでだったのですぞ」
「誰のための涙だとお思いかえ……」
カッとして、小次郎はどなった。
「もう仰《お》っしゃるな! 一旦《いつたん》、言い切った以上、小次郎は、首がちぎれても、本当は太郎がどうのこうのと、言うわけに行きません。わかっているではありませんか。小次郎は、今夜中に陸奥に立ちます」
母はおろおろした。幼い頃から、めったに無理を言わないかわりに、言い出したら絶対に退《ひ》かない小次郎であることを、母はよく知っている。
「もう言いません。ゆるしてたもれ。ゆるしてたもれ。しかし、立つのは、せめて明日にして……」
涙声で、ふるえていた。
小次郎は、母がかわいそうになったが、そのくせ、いこじに言い切った。
「すぐ立ちます。伯父上は、早いがよいと言われました」
小次郎の心には、不思議な急所がある。そこに触れられると、際限もなく強情になってしまう。この性癖を、彼は自分でももてあましているのだが、一旦はじまったとなると、どうすることも出来ない。理非も利害もなく、ねじれ放題にねじれて行くのだ。
母は溜息《ためいき》をついた。
「そうですか」
紙燭に火を点じて、しおしおと退《さが》っていった。旅立ちの用意をするためであった。
火取虫が来て、うるさく燈台のまわりをまわっていた。白い鱗粉《りんぷん》を散らしながら、単調な旋回をつづけている虫を、小次郎は見つめていた。おこったような顔であったが、本当は泣きたいような気になっていた。母にすまないと思っていた。
二時間ほどの後、一行十二人は、毛野川沿いの道を、結城の方に向いつつあった。
月色が冴《さ》え、路傍の草に露がおり、肌寒《はだざむ》いほどの爽涼《そうりよう》さであった。いきなり熟睡から叩《たた》きおこされての俄《にわ》かの旅立ちに、郎党等は不機嫌《ふきげん》だったが、次第に旅人らしい陽気さになり、にぎやかに談笑しながら進んだ。小次郎だけが、ほとんど口をきかなかった。
昨夜以来の色々なことが胸にむらがっていた。わけても、別れも告げず、枕《まくら》をならべて熟睡している姿を見ただけで来た弟達のことと、筑波《つくば》の女のことが、胸を去来しつづけた。
彼は、幾度かうしろをふりかえり、幾度か東の空に目を放った。豊田はすぐ見えなくなったが、筑波はいつまでも見えていた。月の明るい空にくっきりとした輪郭を見せ、その上空に夜明の明星《みようじよう》をきらめかせていた。
結城についたのが朝の六時頃、ここから下野《しもつけ》の府中にこえて、はじめて奥州道《おうしゆうじ》に出たことになる。
そろそろ暑くなる頃であった。府中に入って少し行くと、ふと、小次郎は馬をとめた。
「ちょっと待て、あれはなんだ」
眉《まゆ》をひそめて、前方に目を凝らした。
彼等の行く手三町ほどのところに、下野の国の国府《こくふ》があるが、その門前に、多数の人がむらがっているのだ。
「聞いてまいりましょう」
郎党の一人が、馬を走らせて行った。群衆の一人をつかまえて聞きはじめた。かなりな時間をかけて、いく人にも聞いてから、かえって来た。
「当国、田原《たわら》の住人、藤原ノ太郎|秀郷《ひでさと》と申す者が罪あって、伊豆《いず》に流されるのを見物に来ているのだそうでございます」
「なに? 田原の藤太が流罪《るざい》?」
と、他の郎党が叫んだ。その人を知っている者の驚きの声であった。
「汝《われ》の知った男か」
と、将門はふりかえった。
「知人《しりびと》というのではありません。利《き》かん気の武勇にたけた男という評判を聞いているだけでございます」
野州田原の藤原氏が、その地方の名族であることは、小次郎も聞いている。数代前、地方官として都から赴任した下級|公家《くげ》が、そのまま土着して豪族となって、ずいぶん栄えている家である。しかし、その家に秀郷という人物がいることは初耳であった。
「当主か」
「当主ではございません。当主の太郎(長男)でございます」
「まだ若いのだな」
「二十を四つ五つもこしていましょうか」
小次郎は、聞きに行った郎党の方をふり返った。
「どんな罪を犯したのだ」
「叛逆《はんぎやく》罪の由《よし》でございます」
「叛逆?」
叛逆とは容易ならん罪だ。
「なあに、藤太の家と、藤太の叔父との間に、所領の争いがあって、国府に訴え出たところ、国府の官人《つかさびと》が、叔父の賄《まいない》を受けて、非分の裁きをしたというので、腹を立てた藤太が、その役人を打ち殺したのでございます」
「それがどうして叛逆か」
「叛逆ということにしたのでございましょう。もっとも、藤太も思慮があったとは言えません。国府にいて執務しているところに乗りこんで来て、難詰《なんきつ》の末、腰かけていた椅子《いす》で打ち殺したというのでございますから。これでは、もともとの理由はどうあろうとも、叛逆罪にあてられましょう」
「そうだろうな。官府を騒擾《そうじよう》した上、官人を殺せば、叛逆罪ということになることはなる。――とにかく、行ってみよう。そうひまがかからんようであったら、藤太という人物を見ておきたい」
一本気な、はげしい気性らしく思えるその人物に、小次郎は好意ある好奇心をそそられた。
国府の門前に群れている人々は時々門内をのぞきこみながら、たえずざわめいていた。小次郎は、馬を木蔭《こかげ》に引いて行かせて、人々の話がとくに盛んにかわされているそばに行って、耳を立てた。
藤太の評判は、なかなかよいようであった。
「いい気味《きび》よ。やつめ、藤太の殿のふりおろされた椅子の下で、蛙《かえる》のように平たくなってくたばったとよ。蛙のように鳴いたともいうぞ」
「たまるものか、藤太の殿のあの剛力でぶッくらわされて」
「国守《くにのかみ》め、青くなって奥へ逃げこんだというぞ」
等々々々。
それらのどの声にも、藤太の乱暴にたいする非難はない。むしろ、その勇気と剛力にたいする讃美《さんび》があふれていた。
伯父と貞盛《さだもり》(太郎)の卑屈な術数を、つい昨日見て来ただけに、小次郎は胸のすく思いがした。
「やあ、見えた、見えた」
不意に、門の近くにいる者が叫んで立上ると、人々はそれぞれの場所から立上った。大ていは道の両側にならんだが、門前におしかけて行く者も少なくなかった。
最初に、国検非違使《くにけびいし》が二騎出て来た。鎧《よろい》だけつけて、冑《かぶと》はぬいでいた。
「退け、退け、道をあけい」
と、どなりながら、馬を乗りまわして、人々を追ッぱらった。
灼《や》けただれた路面から濛々《もうもう》と立つ砂煙が少ししずまると、一人の人物が馬を乗り出して来た。白い袴《はかま》に真紅の水干《すいかん》をつけ、刀を帯びていなかった。
放髻《はなちもとどり》の髪は結んで背に垂れていた。後ろ手にしばられて手綱をとることが出来ないので、国府の奴隷《どれい》であろうか、当人の家の下人であろうか、馬の口をとっていた。
引きそって、右手にまた国検非違使が一騎つき、左手に狩衣《かりぎぬ》姿の老人が、馬を歩ませていた。
「ああ、親御の村雄《むらお》の殿がついてござる。気の毒に、かなしげな顔をしてござる」
と、民衆の一人が口走ったのを、小次郎は聞いた。
村雄の名は、小次郎も知っている。昔この国の権《ごん》ノ大掾《だいじよう》をつとめたことがあり、良吏として民に慕われた人であると聞いている。
老人は、もう六十にもなろうか、からだもあまり強くなさそうな痩《や》せた小男であった。一筋に息子の顔を見つめて、旅中の注意でもしているのであろうか、時々のび上るようにして、息子の耳に口を近づけて、なにやらささやいていた。
息子は、たけはそう高くはないようだが、肩はばのひろい筋骨質な体格は、見るからに堅剛そのものであった。浅黒い顔の、しっかと結んだ大きな口と、口ひげに特色があった。父のささやきに時々うなずきながら、おちつきはらって群衆を見わたしていた。口許《くちもと》に微笑があり、鷹《たか》のようにするどい目には傲慢《ごうまん》なくらい不敵な光があった。
「見事だ」
と、小次郎は感嘆した。
彼等は、門前で勢ぞろいして行列をととのえた。大人数だった。藤太のうしろには、十頭にあまる馬がつづいた。皆藤太の家のものらしく、二頭の乗りかえ馬のほかは、全部|行李《こうり》包みにした荷物を駄《だ》していた。
行列がととのって、出発にかかると、群衆はにわかに熱狂的な叫びを上げた。
「藤太の殿、達者でござれや!」
「行ってござれ! 五年や六年、またたく間ぞな!」
「こんどかえって見えたら、おいらは殿の家来にしてもらうべえでな!」
村雄老人は、その声の一つ一つに、感謝の目を向け、会釈《えしやく》をおくったが、藤太の表情は少しもかわらない。不敵な微笑を浮かべたまま、空気を見るように人々を見ながら通りすぎる。
「見事だ」
小次郎はまた感嘆した。
じっとしていられない感激が、腹の底から湧《わ》き上った。半分無意識だった。小次郎は進み出ていた。
「こら! なにものだ!」
「出るな!」
検非違使共は、どなりながら馬をのりかえし、弓をさしのべてさえぎりとめようとした。小次郎はかまわず、それをはねのけて、藤太の馬前に立った。呼びかけた。
「田原の藤太殿」
藤太は答えない。一層強く口をむすんで、見かえしているだけだ。
「卒爾《そつじ》ながら、|はなむけ《ヽヽヽヽ》|奉 《たてまつ》りたい」
小次郎は、腰の刀を解いて、さし出した。
「これを」
興奮が手をふるわせていた。
検非違使等は、馬を飛び下りた。
「こら! 退れ!」
「勝手にさようなことをしてはならん!」
「何者だ!」
口々にわめきながら、小次郎に手をかけて押しもどそうとした。すると、小次郎の郎党等も集まって来た。群衆も興奮して、走り集まって、わめき立てた。
「やれやれ!」
「やれやれ!」
意外ななり行きに、小次郎は逆上しながらも、
「しずまれ! 皆しずまれ! 勇者に|はなむけ《ヽヽヽヽ》したいだけのことだ! みな寄るな! すぐすむ!」
と、周囲にどなって、
「さあ、受取って下さい!」
と、藤太にうながした。
受取ろうにも、しばられている藤太には、受取ることが出来ないのだが、逆上しきっている小次郎には、それがわからない。いら立った。
「さあ、早く!」
どんなに周囲がさわいでも、藤太はつめたくとりすましていたが、ふと、微笑した。おのれの境遇を苦笑したのだった。また相手の逆上がおかしかったのだった。
小次郎は、自分の失策に気づいた。羞恥《しゆうち》が全身を熱くし、汗が滝になって流れた。兇暴《きようぼう》なものが、胸にわきおこった。おどりかかって藤太を斬《き》るか、検非違使共を斬るかしなければ、おさまりようのない危険な激情であった。
しかし、そのとたんに、村雄老人が、片あぶみをはずして、鄭重《ていちよう》なおじぎをして、両手を出した。
「せがれにかわって、てまえお受けします。かたじけなく存ずる」
「お渡しします。|はなむけ《ヽヽヽヽ》であります」
助かったと思った。なぜこの人に渡すことに気づかなかったろうと、自分の注意の疎漏《そろう》がいまいましかった。
「お志、心からお礼申します」
老人は受けて、やさしい目でなだめるように小次郎を見て、
「御姓名をうけたまわりたい」
小次郎が答えようとした時、後ろにいた郎党がこたえた。
「行きずりの旅の者であります」
「郷国、御姓名は?」
「名のる程の者ではありません。――それでは御平安を祈ります」
郎党は、小次郎の袖《そで》を引いて、わきに避け、道をひらいた。
進行しはじめた行列の中から、老人は感謝のおじぎをおくったが、藤太は目もくれなかった。傲然たる表情にかえって、行く手の空を正視していた。
なにか自己|嫌悪《けんお》に似たものが、小次郎の胸をくらくしていた。
(よしないことをした)
北上《きたかみ》メノコ
陸奥《むつ》に鎮守府がおかれたのは、奈良朝の神亀《じんき》・天平《てんぴよう》の頃《ころ》であった。この時代、この地方は蝦夷《えぞ》の天地で、日本民族の完全な領土ではなかった。鎮守府は、この辺境地帯の総督府と前進基地とを兼ねて設けられたのであった。
はじめ今の宮城県|塩釜《しおがま》市の近くの多賀城に設けられたが、平安朝になって、胆沢《いさわ》に移された。今の岩手県水沢市佐倉河町がその故地であるという。
神亀・天平の頃から、この時まで七十年の間に、約二十五里だけ前進基地が進んだわけである。
その後、この小説の時代よりずっと後、奥州藤原氏がおこって鎮守府将軍となり、平泉にうつすまで、鎮守府はここにあった。
胆沢の鎮守府は、今胆沢|八幡《はちまん》のある場所にあったという。北に胆沢川があり、東に北上川があって、その合流点に位置する形勝の地である。
下総《しもうさ》の豊田からここまで百三四十里、二十日ほどもかかって、小次郎はついた。坂東ではまだ暑いさかりであったが、ここはもう深い秋であった。
意外に早い息子の帰りに、おどろきながらも、良将は喜んで迎えた。
小次郎は、事件の|いきさつ《ヽヽヽヽ》をすぐ父に話しておきたいと思ったが、早くも噂《うわさ》を聞き伝えた父の下僚等が挨拶《あいさつ》におしかけて来て、そのひまがなかった。
良将は、体格も雄偉であれば、性質も豪快|闊達《かつたつ》な人物だ。それらの訪問者に、一々、
「ようこそ、ようこそ。ありがとう、ありがとう。イヤ、おかげで、ごらんの通り、元気でかえって来ましたわい」
と答礼して、一人のこらず引きとめて、酒を出して歓待する。
この地に住む者で、酒のきらいなのは一人もない。盛んな酒宴となり、深夜までつづいた。
大人だけの、こうした酒宴は、小次郎には退屈なだけだが、自分の帰着を祝って集まってくれたのであってみれば、中座するわけには行かない。つまらなく坐《すわ》っていると、一人の若者が、前に来てかしこまった。
「お盃《さかずき》をいただきとうございます」
この国|信夫《しのぶ》の豪族の子弟で、自ら望んで鎮守府に奉仕している男であった。
盃をやると、おしいただいて乾《ほ》した。にこにこ笑いながら言った。
「お退屈そうでございますな」
「ああ」
「面白いところへ御案内しましょうか」
あの時の貞盛の表情と同じであった。
小次郎は、座中を見渡した。宴は盛りで、お酌《しやく》に出ている府に附属の女|奴隷《どれい》をからかってキャアキャア言わしている者、せい一ぱいのだみ声をはり上げて議論しているもの、唄《うた》をうたっているもの、喧騒《けんそう》をきわめていた。
「行こう。連れて行け」
といって、立上った。
誰にも気づかれずに、座敷をぬけて庭に出ると、若者は、
「府門の前で待っていて下さいまし。すぐまいりますから。お馬はいりません。誰にも気づかれないように願います」
と、言って、どこやらに消えた。
小次郎は、言われた通り、府門の前に出て待っていた。
五日の月は西の空に沈みかけて、おぼろな明りが、大きな府門の輪郭や、その前の広場を照らしていた。
ほろほろと酔いがまわって、いい気持であった。女の所へ連れて行かれるのだとは見当がついていたが、この前の時のような羞恥《しゆうち》はなかった。大人になったのだと、心うれしかった。
待つ間もなく、若者が来た。厨《くりや》からもらって来たのだろう、酒壺《さかつぼ》を抱いていた。
「失礼いたしました。さあ、まいりましょう」
若者の足は北上川の方に向っている。この方角には、川まで人家がないのだ。
「どこへ行くのか。川をわたるのか」
「そうです」
「舟は?」
「用意させてございます。実は、ひとりでまいるつもりで、用意をさせていたのでありますが、君《きみ》があまり退屈げにしておわすので、おさそい申したわけです」
やがて北上川の岸に出る。月はここまで来る間に沈んでしまっていた。その上、川の面には深い霧がこめている。なんにも見えない。霧の中から、水の音が聞こえて来るだけだ。さざめくような、つぶやくような、むせぶような。
若者は、葦原《あしわら》の中につづく細径《ほそみち》を水べりまで行くと、口笛を吹き鳴らした。
すると、五六間上流の葦原がザワザワと鳴って、そこから、蝦夷語でなにやら言った。若者も蝦夷語で返事した。葦原の中では、また蝦夷語でなにか言っていたが、すぐ、一|隻《せき》の小舟が漕《こ》ぎ出して来て、水ぎわによせた。
暗いし、霧の中のことではあるし、くわしいことはわからないが、舟には蝦夷人が一人、櫂《かい》をあやつっていた。
「さあ、お乗り下さい」
若者が、小次郎をのせて、自分ものりこむと、漕手はふところから椀《わん》をとり出して、若者の前につき出した。
「ハッハハハハ、御持参か。御用意のよいことだな。しかし、一ぱいだけだぞ」
若者は、高笑いしながら念をおして、壺の酒をついでやった。
蝦夷人は、一息にあおりつけ、タンタンと舌鼓《したつづみ》打った後、漕ぎ出した。
北上川は大河だが、流れは至ってゆるやかだ。ゆっくり漕いで霧の中を進んだが、ほんのしばらくで、向う岸についた。
「早かったな。ホラ、もう一ぱい」
若者は、また酒をついでやって、なにやらボシャボシャとささやいた。舟をすてて、広い青田の中につづく道を七八町進むと、ずっと前方にチラチラと灯影《ほかげ》が見えた。かすかな灯影だが、十五六かたまっていた。部落であることは間違いなかった。川のこちら側には、小さい部落がいくつも散らばっている。小次郎は、府城の物見櫓《ものみやぐら》から、いつも見ている。遊びに来たこともしばしばある。しかし、どの部落かわからなかった。
府城の位置がわかれば見当がつくはずとふりかえってみたが、暗と霧にさえぎられて、なんにもみえなかった。
やがて、その部落に近づくと、犬が吠《ほ》えはじめた。最初一匹だったのが、次々に吠えて、しまいには全部落の犬が気が狂ったように騒ぎ出した。はじめて、蝦夷人の部落なのだと、見当がついた。狩猟がすきで、男という男が一人のこらず狩をせずにおられないため、蝦夷人の家には必ず犬を飼っているのだ。
蝦夷人では興味がなかった。酔いもさめかけていた。
「おれはもうかえりたくなった。眠い」
と、小次郎がいうと、若者は少しあわてた。
「もうすぐでございます。ほんのしばらくで」
と、なだめて、ピーと口笛を吹いた。すると、あれほど吠えたてていた犬共がぴたりと鳴きやんだ。クンクンと、不平らしくつぶやきはしていたが、吠えるのはやめた。
「そなた、いつも来るのか」
「はあ、まあ……」
若者はにやにや笑った。
部落に入った。屋根も、壁も、草で葺《ふ》いた、小さく、低く、粗末な家が、まばらに点在して出来ている部落だ。それらの家々の側《そば》には、必ず犬がいて、二人にうなった。吠えられないのを残念がっているようであった。
若者は、部落の中ほどの家の前に立って、蝦夷語で訪《おとな》いを入れた。待ちかねていたように、入口にかけた|むしろ《ヽヽヽ》をかかげて、一人の蝦夷人が出て来た。
おそろしく大きく逞《たく》ましい体格だが、もう老人だ。半白の髪を肩に波打たせ、胸まで垂れているひげは顔の下半分を蔽《おお》うていた。
種族特有の秀《ひい》でた眉骨《びこつ》の下の、くぼんだ大きな目をすえて、若者を見、また小次郎を見た。
「酒だよ。酒を持って来てやったのだよ」
若者は、胸にかかえていた酒壺を、両手で振ってみせた。チャプチャプとかすかに鳴る音がし、酒の香気がにおい立った。
老蝦夷のいかめしい顔は、くしゃみの出そうな顔になり、次ににたりとくずれた。
「入って下され」
重く濁って、へんな調子はついているが、たしかな日本語でいって、むしろをかかげた。
入ると、床はなく、地面《じべた》にじかに菅《すが》むしろをしいて、真中から少し入口によせて、縦長の炉があり、炉の隅《すみ》にすえた大きな軽石の上で、松の脂木《ひで》がトロトロと赤い炎を上げて、おぼろな照明になっていた。
二人の婦人が、炉をはさんで対坐《たいざ》していたが、二人が入って行くと、一人はすばやく立上った。入れかわりに外へ出て行った。
まだ若いとだけはわかったが、どんな顔で、どんな姿であったか、小次郎にはわからなかった。
老蝦夷は、大きな声でなにか言って呼びとめようとした。返事はなかった。はだしで地べたを踏む軽快な足音が遠ざかって行った。
「ずっと奥へ通って下され」
老蝦夷は、奥の炉辺を指さした。祭壇を真うしろにし、弓や、刀や、唐櫃《からびつ》や、三方《さんぼう》や、そんなものが並べ立ててある棚《たな》を右にした位置である。
蝦夷人にとっては、ここが最も尊貴な席であることを、小次郎も知っていた。遠慮なく坐った。
「今日のこの酒は、特別な酒だぞ。府城の将軍の殿のお召しになる酒だ。よッく味わって飲むがよい」
もったいぶった説明をつけてから、若者は酒壺を老人に渡した。
「ホウ、将軍の殿の……」
老人は目をかがやかせた。両手でささげ持って、フンフンとにおいをかいだ後、
「美酒《うまざけ》じゃ」
と、感嘆して、膝《ひざ》の前においた。自分とならんで坐っている女をふりかえった。
女の占めている席から判断すると、この女は老人の妻であるに相違ないが、年はひどく違っていた。老人はもう六十をこしているに違いないのに、女は三十そこそこにしか見えない。その上、「非常に」といってよいくらい美しいのだ。唇《くちびる》の周囲に刺青《いれずみ》をしていたが、真青なそれと、鮮紅色の唇と、白磁のように白くなめらかな肌《はだ》の色とが相まって、不思議な美しさをつくっていた。
「さかずき!」
と、老人が言うと、妻は大急ぎで、大きな盃に箸《はし》を一本そえて持って来た。そそくさとした挙動や、さし出す手のふるえているのを見ると、この若く美しい妻が、どんなに夫をおそれているかがわかった。
老人は、酒を盃にみたし、呪文《じゆもん》めいたものを唱えながら、酒を箸にひたし、ちょいちょいとしずくをあたりに散らして、それからその箸でひげを上げ、一息にのみほした。タンと舌を鳴らした。
「ああ、美酒!」
と、また言った。
あとはもう立てつづけだ。注《つ》ぎかけ注ぎかけ五六ぱいものんで、はじめて盃をおいた。にこりと賓客達に笑いかけた。
「まことに将軍の殿の召す酒。うまいわの。ところで、これほどの酒をもろうて、どんなお礼をしたらよろしいかの」
藪《やぶ》のように濃い半白の眉《まゆ》の下の、眼裂《がんれつ》の長い目が細くなって、ほろろと酔いが出た様子だ。
若者が、蝦夷語で、早口になにか言いはじめると、老人は、時々小次郎を見ながら、蝦夷語で答えていた。そして、最後に大きくうなずくと、隣のへやの入口に向って、大声で呼ばわった。
妻女があわてて何か言ったが、老人は一|喝《かつ》して黙らせて、呼ばわりつづけた。
やがて、子供の声で返事があって、七つ八つの女の子供が出て来た。波立ちふくらんだ髪をふり乱し、ねむたげな様子がいじらしかった。ふっくらとした頬《ほお》と、くっきりした眉と、やや長目の青白い頸筋《くびすじ》が、成人の後の美しさを思わせた。
少女は、老人の言葉に、その長い首を一々うなずかせて聞いていたが、ふとその真黒な目で小次郎を見て、そのままはだしで外へ飛び出して行った。
小次郎には、老人がなにを命じ、娘がどこへ行ったか、まるでわからない。説明をもとめる目で、若者を見た。
問いかける小次郎の目つきがわからないはずはないのに、若者は説明しようとしなかった。ある時は日本語で、ある時は蝦夷語で、老人やその妻と談笑していた。
少女がかえって来た。入口の乾草《ほしくさ》タバの上で、細ッこい足をかわりばんこに動かして拭《ふ》くと、老人になにやら報告した。小鳥のさえずりのように、細い冴《さ》えた声であった。
少女の痩《や》せた肩や、ちぢれた黒髪はしっとりと濡《ぬ》れていた。寒げにふるえる全身から霧のにおいが立っていた。
老人は、腹を立てた。なにやらどなった。少女のふるえが一層ひどくなり、母親がなにか言おうとした時、若者は気軽に立上った。
「おれが行ってみる」
出て行った。
老人は、ブツブツ言いながら、酒を飲みつづけ、ついに全部あけてしまった。ひどく酔っていたが、飲み足りないらしく、壺の口にこびりついている滓《かす》を指でさらえて、すっかりなめてから、ごろりと横になった。白毛まじりの毛がモジャモジャ生えている胸をはだけて、平手でピシャピシャとたたいて拍子をとりつつ、唄めいたものをうなり出した。おそろしく愉快そうだったが、すぐ、大きないびきをかいて眠ってしまった。
小次郎は所在がない。こんな所に来る気になったのを後悔していた。話しかけようにも、子供はとっくに隣室に行っていた。美しいその母は、灯種《ひだね》をたやさないように時々|脂木《ひで》をつぎ足すほかは、シンとおしだまっている。
(帰ろう)
と、思った時、入口に足音が近づいて、むしろがかかげられた。若者が、手まねきしていた。
立って行った。
「ちょっと外へ出て下さい」
「どうしたのだ」
「とにかく、出てみて下さい」
外は、一面に霧が立ちこめていた。まだ薄かったが、次第に濃くなりつつあった。ソクソクとして冷気が肩先にしみた。
小家を五六間はなれた所で、若者はいう。
「われわれがここに入った時、入れちがいに出て行った娘があったでしょう」
小次郎は答えなかったが、思い出していた。
「あの娘が、あの木立の中で待っています。お出《い》でになって下さい」
十二三間向うの霧の中にあるこんもり黒い木立を指さした。
とつぜん、目のくらみそうな慾情《よくじよう》が湧《わ》きおこった。小次郎はふるえた。しかし、口では反対のことを言っていた。
「一体、どういうことになっているのだ。あの女はなにものだ。おれは気が進まない」
「あの老人とあの妻との間に生れた娘です。今夜の酒のお礼に、あの娘を貸してもらうことに、話がついているのです。それで妹を呼びにやりましたが、恥かしがって来ようとしないので、わたくしが出て行ったのです。娘は若君自身に来ていただきたいと言っています。ぜひ行っていただかねばなりません。今になって、若殿が拒みなさると、老人は腹を立てます。いわれなく人のめぐみを受けることを、彼等は大へんいやがるのです」
「しかし」
と、小次郎はなおしぶると、若者は、
「とにかく、行ってやって下さい。わたくしは、わたくしで、行かねばならない先があるのですから」
と言って、そばを離れる。
「待ってくれ。それはこまる」
呼びとめたが、
「急ぎます」
言いすてて、行ってしまう。
霧の中に、次第に遠ざかって行く足音を聞きながら、小次郎は途方にくれていた。
慾情と好奇心はなおさかんだが、酒で買ったという意識が、若い潔癖な心に抵抗を呼ぶ。
(どうしよう……)
決しかねている小次郎の耳に、ふと、流れこんで来た唄声《うたごえ》があった。低く、かすかなその唄は、蝦夷人の唄であった。意味はわからなかったが、美しく、やわらかく、ものがなしくふるえている声には、男の心に呼びかけてやまないひびきがあった。
小次郎は、からだのどこやらがさかさまにしごかれるような戦慄《せんりつ》を感じた。いきなり、思いが決して、大股《おおまた》にその方に歩いて行った。
娘は、霧の木立の中に真直《まつす》ぐに立っていた。依然として唄いながら。向うを向いているとばかり思っていたが、間近くなって、こちらを向いていることがわかった。
真綿をひきのばしたような霧が、からんだり、渦巻《うずま》いたり、流れたり、くずれたりしながら、その顔の前にあって、その中から、大きな目が、またたきもせず小次郎を見つめていた。
大きな、黒い目であった。不思議なくらいよく光って、そのために、顔形まで、はっきりと見えるような気さえした。広い額と、ひどく目に接近した濃い眉と、水々しくふくらんだ唇をしていた。
からだつきはよくわからないが、大柄《おおがら》なのびやかな肉《しし》おきのようであった。胸のあたりが、圧倒的なくらい分厚く盛り上っていた。依然として唄いつづけているので、真白なのどが、暗《やみ》の底にふるえていた。
なにか言うべきだと思いながら、小次郎は言うことばを思いつかなかった。いきなり、肩に手をかけようとした。
娘は、その手をはずした。鳥のような身軽さで、わきに飛びのいた。そして、なお唄いながら、ドキッとさせるような微笑と流し目をおくって、すたすたと歩き出した。
追いかけて、またその肩をとらえようとしたが、こんどもかわされた。そのくせ、微笑と流し目は忘れない。
いくどかとらえようとこころみ、いくどかかわされながら、次第に興奮し、次第に逆上して、小次郎はあとを追った。
いつか山路をのぼり、深い谷間にのぞんだ草山の斜面に出ると、娘は立ちどまった。すかさず、小次郎は肩をとらえた。逃げられるのを恐れて、強くおさえた。
娘は逃げなかった。よくひびく、明るい声で、カラカラと笑った。
「あなたは将軍の殿の若君ね」
追っかけごっこのために、二人とも、からだは熱し、汗ばみ、呼吸《いき》がはずんでいた。
「そうだ」
と、答えて、小次郎は抱きすくめようとした。
「気ぜわしい人!」
娘は笑って、小次郎の両肩《もろかた》に手を突ッ張って抵抗して、
「あたしは、イカサインの娘、サムロ」
と名のってから、男の胸に身を投げかけた。
「抱いて、いとしい殿よ!」
むせかえるような体臭であった。蝦夷女は臭いというが、本当か、と、言った貞盛のことばが思い出されたが、すぐ夢中になった。かえって、その強烈な体臭に悩乱した。大柄なそのからだを軽々と抱き上げて、草山の斜面を上って行った。
露に濡れた草に足許《あしもと》がすべって、女を抱いたまま、小次郎は前にのめって片膝をついた。
「あれ!」
女はかすかに悲鳴を上げて、小次郎の首に巻きつけた腕を一層強くしめつけた。
小次郎が、力をこめて立上ろうとすると、女は両手をうつして小次郎の後頭部をかかえなおした。自分の顔をふって、乱れかかる髪をはらいのけた。よく光る目で、確かめるように小次郎の顔を凝視したと思うと、グイと引きよせた。
相手の唇が、自分の唇をふさいだのを、小次郎は感じた。しめった、熱い、やわらかな唇であった。小次郎は、また夢中になったが、とたんに、足許をすくわれて、横にたおれた。その上にサムロがおそいかかって来た。
組んず、ほぐれつ、からみつ、ころげつ、いたずらずきの二匹の仔犬《こいぬ》のように、露にぬれた草原の上で、二人はたわむれた。呼吸がはずみ、笑いがはじけ上った。霧の山にこだまし、霧の谷に応《こた》え、夜の山のしじまをおどろかせた。
しばらくの後、二人は斜面の突端の巌《いわ》の上に、ならんで腰を下ろしていた。二人の足許には、深い谷があったが、その谷は漠々《ばくばく》たる乳白の霧にうずめられ、水の少ない谷川の音が、微妙な楽器の音のようにひびき上っていた。
「将軍の殿の若君、若君の名はなんとおっしゃるのでしょう」
サムロには、もうあの蓮葉《はすは》さはない。人がちがうようにしおらしい様子であり、ことばづかいであった。
「小次郎将門」
「いい名前! 小次郎将門!――サムロを忘れないでね」
小次郎は、答えなかった。憂鬱《ゆううつ》であった。筑波の山の、あの名も知らず、所も知らない女のことが、思い出されていた。この娘にたいするよりはるかに強い執着をもって引きつけられていることを感じていた。よしないことをしてしまったと、後悔していた。
「ねえ、忘れないでね、小次郎の殿」
「…………」
「どうしたのです? もうあたしがきらいになったの? ああ、わかった、厄介《やつかい》なことをしてしまったと、悔いているのでしょう」
サムロは、小次郎をのぞきこんだ。大きな目に涙があり、唇がふるえていた。あわれであった。
「そんなことはない」
言わないではおられなかった。
「ほんと? ああうれしい! そんなら、忘れないでね。きっとね、きっとね……」
夜の明ける頃《ころ》、府城にかえって、一寝入りして、父の前に出た。
父は宿酔《ふつかよい》をはらうのだといって、もう飲《や》りはじめていたが、小次郎が、国での出来ごとを話すと、おどろきはしたが、機嫌《きげん》は悪くしなかった。
「男の生涯《しようがい》には、色々なことがある。大事なのは、どんな時にも、男らしく堂々とふるまうということだ。そちのしたことには、いろいろと考えの足りぬ所もあるが、その所は悪くないようだ。わしは叱《しか》らん。
あとのことも、常陸《ひたち》の伯父御がそう言われた上は、心配はあるまい、悪狡《わるごす》いところのある人じゃが、何といっても、一族の長者じゃ。知恵のかぎりをしぼって、処置をつけてくれるじゃろう。わしからも、そう頼んでやっておく。心配はいらん」
と、いって、早速、物なれた郎党を呼んで、このことを言いふくめた。翌日、郎党は、巻絹だ、陸奥《みちのく》紙だ、砂金だ、というような土産物を、多量にたずさえて、坂東に向った。
このことは、これですんだ。冬のかかりに、郎党はかえって来たが、万事はうまく落着したということであった。
すまなかったのは、サムロとのことであった。あれから四日の後、あの若者が小次郎をたずねて来た。
「おひまでしょうか」
「別段いそがしくはない」
「そんなら、ちょっと手前の宿まで来ていただきたいのですが」
「なんの用だ」
若者は声をひそめた。
「サムロが来ているのです」
「なに?」
「若君に逢《あ》わしてくれと申して、先刻まいりました」
若者の顔には、からかうような微笑があった。
小次郎は赤くなった。こまったと思った。しかし、逢いたい気がしないでもなかった。理性の決心とは別に、女を知った若い旺盛《おうせい》な体力の要求であった。
若者の宿は、胆沢《いさわ》川のほとりにあった。鎮守府から受ける給与は、ほんの型ばかりの少ないものだが、実家から豊かな仕送りがあるので、相当な家構えを持ち、下人なども何人か使っている。
サムロは、若者の居間に、つくねんと待っていたが、小次郎の姿を見ると、顔を火照《ほて》らせ、目をかがやかした。
めかしこんでいた。勾玉《まがたま》や管玉《くだたま》をつらねた、首かざりや手纏《たまき》をして、頬には朱をさしていた。日本人の間ではもうとうの昔にすたれたこの風俗が、蝦夷人の間では晴れの場には、まだつかわれているのであった。舞うような足どりで、近づいて来たが、一歩一歩に、それはカラカラと鳴った。
「若君が、お出でになって下さらないので、こちらから来ました」
と、笑いながら言う。
こちらは、黙っていた。行かない決心をしたなどと言えるものではない。
サムロはまた言う。
「おひまがなかったのでしょう。けど、お出でにならなければいけません。なるべくならその日のうち、おそくても三日のうちに来て下さらないと、女は見捨てられたものとして、大へんかなしむのです」
そこへ、若者が酒の用意をさせて、出て来た。
「まあ、酒など召しながら、お話して下さい」
「かまってくれるな。おれはすぐかえらねばならない」
と、小次郎が言うと、サムロは、顔色をかえて叫んだ。
「あら! どうしてそんなに急いでおかえりになりますの?」
早くも涙ぐんでいた。
「大丈夫、大丈夫、ああ仰《お》っしゃるだけだよ。そなたのような可愛《かわい》いメノコがたずねて来たのに、そう早く帰れるはずがない。男冥利《おとこみようり》につきる話だ。安心するがよい」
と、若者は笑って、
「ところで、サムロよ。このうれしい手引きをしたおれに、そなたはどんなお礼をしてくれるつもりだ」
と、からかった。
「どんなお礼がほしいの?」
サムロは、真剣だった。笑いもしなかった。
「そなたのその唇《くちびる》がほしい。一ぺんだけ、吸わしてくれ」
サムロは青くなった。考えこんでいるようだったが、
「いやだけど、吸わしてあげる。あまりうれしいから」
目をつぶって、ぷくんと唇をつき出した。大輪の花のように水々しい唇は、ムズムズと動いていた。
小次郎は、胸に火がついた気持であった。われながら意外なくらいはげしい嫉妬《しつと》だ。けわしい目で見つめていた。
若者は狼狽《ろうばい》した。
「冗談《てんごう》だ、冗談だ。うっかり冗談もいえん」
と、笑って、小次郎の方を向いて、なお笑いながら説明した。
「これが蝦夷のメノコでございます。可愛いとはお思いになりませんか。――それでは、ごゆるりとお語らい下さいますよう」
と、言って、退《さが》って行った。
このようにして、サムロは時々訪ねて来た。連絡は、大抵若者が取ってくれたが、稀《まれ》にはサムロの妹が来ることもあった。
筑波の女のことは、依然として心にかかっていた。サムロと寝ている時さえ、心の片隅《かたすみ》にはその俤《おもかげ》があった。頑固《がんこ》なくらい、きまじめな小次郎にはこれは苦痛であった。しかし、どうすることも出来なかった。
けれども、人間がある状態になれるのは、あさましいくらい早い。間もなく、苦痛を感じなくなった。あれはあれ、これはこれと、整理された気持であった。
これは、忘却への第一歩であった。長い北国の冬がおわって、春の来る頃には、筑波の女を思い出すことが稀になり、思い出しても、前ほどの切なさを伴わなくなった。
「夢のように逢って、夢のように別れた女」
古い物語でも聞くように、淡くなつかしい思い出となっていた。
夏のはじめの、よく晴れた、ある朝であった。
小次郎が、鷹狩《たかがり》に行くつもりで、支度をととのえて、厩《うまや》の前に出て、拳《こぶし》にすえた鷹を愛撫《あいぶ》しながら、馬の支度の出来るのを待っていると、とつぜん、母屋《おもや》の屋内がさわぎ立ったかと思うと、ただならない形相で、郎党が走り出て来た。
「若君、若君、どこにおわす? 大殿が大変です」
魂切《たまぎ》る郎党の叫びに、小次郎はそちらに走って行った。
「どうした?」
「すぐお出《い》で願います。大殿がおかげんが悪くなられました」
「なにッ? どう悪くおわすのだ?」
「お倒れになったのです。卒中らしゅうございます」
「医師《くすし》を呼べ!」
小次郎は走りながら、拳の鷹の攣《へお》を引きほどいて、パッと投げうった。鷹は、地面にぶつかりそうになった所で大きく羽ばたきし、走る小次郎の鼻先を斜めに突ッ切って、空高く舞い上って行った。
父は、居間の真中に、あお向けにたおれていた。出仕するために着がえようとしている所であったのだろう、半裸体になっていた。ぬぎすてた褻《け》の衣服(平常着)とともに、官服や石帯《せきたい》がとりちらしてあった。
父の顔は、熟柿《じゆくし》のように真赤に充血して、すさまじいいびきをかいていた。大酒をした夜の父の寝姿によく似ていた。卒中というのが、ウソのような気がした。
「父上、どうなすったのです」
さけんで、近づいて手をかけようとすると、郎党等がとめた。
「卒中で倒れた人は、みだりに動かしてはいけないと申します。医師の来るのをお待ちになって下さい」
待っているよりほかはなかった。小次郎は、枕許《まくらもと》近くに坐《すわ》って、黙って父を見ていた。子細に見ると、父はいつもとひどく違っていた。第一顔色の赤さだ。いつもはこんなに赤くはない。まるで染めたようだ。次に目だ。薄くあいて、にぶい光を放つ眼球が見えていた。ふさふさとした口ひげのある口許もしまりなくあいて、わが父ながら威厳ある立派な顔が、ゆるみ切っている。
小次郎は、にわかに胸さわぎして来た。ゴウゴウと鳴るいびきが、せつなかった。医師の姿の現わるべき簀子《すのこ》の方を見ていた。
父の着がえを手伝っていたという郎党が、発作の起った時のことを説明した。
立上って、着物をぬぎすて、郎党の着せかける下着に袖《そで》を通そうとして、右手を上にのばした時、不意に前によろめき出たかと思うと、そのままあお向けにたおれたのだという。支える間もない瞬間のことであったという。
ただうなずきながら、小次郎は聞いていた。非常に心配ではあったが、心のどこやらでは、多分助かるだろうと、タカをくくるに似たものもあった。
医師が来た。官制によって、鎮守府に附属している医師だ。
小柄な医師は、走るような足どりでやって来ると、小次郎に小腰をかがめて会釈《えしやく》しただけで、大急ぎで診察にかかった。
まぶたをかえして目を見、脈をしらべ、胸に耳をあて、手足の筋肉をつかんで見たりしていたが、その一つ一つに、表情が暗くなった。時々首をふった。絶望を示すしぐさであった。
医師のこれらの表情は、一々、小次郎の胸にこたえた。しかし、まだ希望せずにおられなかった。
診察をおわると、医師は、郎党等をさしずして、病床の上にうつさせ、手当をさせた後、やっと小次郎の方を向いた。
「まぎれもない卒中でございます」
と、先《ま》ず医師は言った。
「それで……?」
どんな見込みか、とつづけることが、小次郎には出来なかった。
「重態でございます。おそろしくと、申してよろしい」
「それで?」
「半日の間にお気がつかるれば、随分軽くすみましょうが、そうは行きますまい。一日の間にお気がつかるれば、半身は不随になっても、おいのちは助かりましょう。しかし、多分、そうは……」
冷静の医師も、しまいまでは言い切れず、ことばじりをにごして口をつぐんだ。
目の前が暗くなる気持であった。
「そうか……」
と言ったきり、さそくの方策はつかなかった。故郷に待つ母のなげきや、まだ幼い弟達のことが、しきりに思われるだけであった。
この時代の医術は幼稚である。人は医師よりも、呪術《じゆじゆつ》や、加持や、祈祷《きとう》に頼った。医術自身にも、上古の巫医《ふい》未分化の名ごりをのこして、呪術的なもののあった時代だ。とりあえず鎮守府附属の陰陽師《おんみようじ》が呼ばれた。陰陽師は、髪をさばいてうしろに垂れ、長いとがった冠をかぶり、白い装束をしていた。符を書いて病室のまわりに張り、依然としてすさまじいいびきをかきながら昏睡《こんすい》をつづけている病人の枕べに、供物《くもつ》をのせた白木の几《つくえ》をすえ、ものものしい含み声で祓《はら》いの祈祷をした。呪文をとなえながら清水をまき散らし、散米をした。時々、はげしい声で叱咤《しつた》した。それは彼にだけ見える悪鬼や悪霊《あくりよう》に対するものだった。人々は身の毛もよだつ思いで、陰陽師の目の向くところに、ウロウロと視線をうつした。
しかし、これほどの手だても、なんの効果もなかった。一日一晩昏睡をつづけて、次第にいびきの声が低くなって行ったと思うと、風の吹きおちるように呼吸がたえた。
目の回る忙がしさがつづいた。
おびただしい弔問客の応対。気受けのよかった良将《よしまさ》には、豪族達はもちろん、蝦夷《えぞ》人の部落部落からも弔問に来て、ひきもきらなかった。国許、京都、国府等への報告。僧を呼ぶこと。この近くには寺がないので、それのある多賀城まで迎えを出さなければならなかった。
五日の後、葬送《おく》りをして、遺体を荼毘《だび》に附した。この遺骨をたずさえて故郷にかえり、そこで改めて本葬を行うつもりであった。
さらに十数日の後、一切のあとしまつがすんで、帰国することになったが、その出発の前日、小次郎は若者の家でサムロに逢って、別れをつげた。父の発病以来ずっと逢っていないサムロであった。
サムロは別れの覚悟はちゃんとついていると言ったが、その口の下から、
「こんなに早く、こんなに早く。あまり早すぎる。まだ一年にもならないのに」
と、涙をこぼした。
あわれであった。泣きはしなかったが、小次郎も胸がせまった。
小次郎は、前にサムロがほしがっていたが、父からもらったものなのでやれなかった螺鈿鞘《らでんざや》の刀子《さすが》をあたえた上、あとから、砂金や巻絹を、多量にとどけた。出来るだけ幸福にしてやりたいのであった。
土地
父の遺骨を奉じた小次郎が、豊田に帰りついたのは、もう梅雨に入ってからであった。
広い関東平野は、どこもかしこも、農事に忙殺されていた。
葬儀は一先ず延期だった。新たなる家長として、小次郎は、郎党や、下人や、奴隷《どれい》共をさしずして、農事に精出した。
農事といっても、耕作だけではなかった。河川や、沼沢の多いこの地方は、少し多量に雨が降ると、すぐ耕地が水浸しになる危険がある。気をつけて見まわって、少しでも危険のありそうな個所は、手当をしておかなければならないのだ。しごとはいくらでもあった。
小次郎は、朝まだ暗いうちから夕方暗くなる頃《ころ》まで、外に出て働いたが、ほかに新しい仕事がいくらも出て来た。
「わたくし共におまかせ下さいまして。よく心得ておりますから」
と、年かさの郎党等が言ってくれたが、一家を背負って母や弟らを養っていかなければならない身となったという意識が、そのことばに甘えさせなかった。
「いずれは、しなければならないことだ。少しでも早く馴《な》れたい」
と、言い張って、やめなかった。
これらの労働は、彼を鍛えた。ふくよかであった頬《ほお》はやせ、若々しい血色に匂《にお》っていた皮膚は灼《や》け黒ずんだが、同時に一種の逞《たく》ましさが風貌《ふうぼう》全体に添って来た。精神的にも、おとなになったという自覚があった。
また、こうして自ら働いてみて、土地というものに対する愛着の強くなるのを感じた。
「なんという難儀な働きを、祖父《じい》様も、父上も、して来られたのだろう」
遠い昔話として、ずっと前聞いたことのあるこの地方の開拓時代の難儀話が、実感を以《もつ》て偲《しの》ばれた。
小次郎の祖父|高望《たかもち》王は、上総介《かずさのすけ》として、坂東に下って来たのであるが、任期がおわると、土着して開墾にかかった。最初上総、次に常陸《ひたち》、次に武蔵《むさし》、次に下総《しもうさ》と、手をひろげて行った。
下総のこのへんにかかった時、彼はもう老年になっていたが、自ら郎党や奴隷共をさしずして、仕事にあたったという。
河川や沼沢が多くて、出水|毎《ごと》に氾濫《はんらん》して河床のかわるこの辺は、全体が砂利原といってよかった。その砂利を一つ一つふるいのけて行って、耕地としたのだという。
今|穣々《じようじよう》たる美田地帯となっている平野の所々に、樹木のこんもりとしげった塚形《つかがた》の小山が点在しているが、これは塚ではなく、その時の砂利を集めたものだという。
高望王が死んで、その一代に拓《ひら》いた各所の土地は、遺子達に配分された。長男の国香《くにか》は常陸の土地をつぎ、次男の良兼《よしかね》は上総の土地をつぎ、三男の良将はここをつぎ、五男の良文《よしふみ》は武蔵の土地をつぎ、それぞれにまた、高望王同様な辛苦を以て拓《ひろ》げて行った。
どんなに、それは難儀なことであったろう。今、坂東の豪族として、最もその門葉《もんよう》が広く、そして栄えているのは、平氏一門だが、それは祖父高望王以来の、こうした苦心経営の上に築かれたものなのだ。それがはじめてわかった思いであった。
「父祖の汗と魂のこもった土地」
しみじみと思うのであった。
梅雨が明けて間もなく、葬儀が行われた。
門葉がひろく、また人に好かれていた故人だったので、人目をおどろかす盛んな葬儀となった。
故人の兄弟やその一族は皆集まった。他姓の者も豪族といわれるほどの家は、皆自ら会葬するか、使者を送るかした。関東八カ国の国司や陸奥《むつ》の国司も、弔使を送った。
小次郎の家では、遠くから来る人々のために、宿舎や厩舎《きゆうしや》を邸内に急造しておいたが、忽《たちま》ち一ぱいになった。
家族は母屋を開けわたして下人小家《げにんごや》に移り、下人共は厩《うまや》の片隅に引きさがらねばならなかった。大へんな混雑と賑《にぎ》わいであった。
国分寺から多数の僧が呼ばれ、近郷近在の寺という寺から僧が集められた。何時間にもわたって読経《どきよう》がつづけられ、広い館《やかた》中がキナ臭くなるほど香が焚《た》かれた。
やがて、葬列は館を出て、墓所にえらばれた五六町離れた小高い松山に向った。おびただしい人数であった。日にそえて緑の色の濃くなる水田の中の道を引きもきらずつづく行列は、先頭が松山に到着しているのに、後陣はまだ館の門を出てもいなかった。
葬送がすむと、人々は水の引くように引上げて、館には一門の重立った人々だけがのこった。
故人の長兄、前《さきの》常陸|大掾《だいじよう》国香。
次兄、前上総介良兼。
故人のすぐ次の弟、|良※[#「糸+搖のつくり」]《よしより》。これは故人のあとを襲って鎮守府将軍に任ぜられて、近く陸奥に向うことになっていた。
三弟、良文。武蔵村岡に住んで、村岡ノ五郎の名で世に知られていた。
妾腹《しようふく》の弟、良正《よしまさ》。常陸|水守《みもり》に住んで、常陸六郎といわれていた。
小次郎は、この五人のおじ達に、将来のことを相談してもらいたいと思って、一緒に集まってもらったが、一番の長老である国香が、
「今すぐどうということもないのだから、このままでよかろうではないか。小次郎も、年若の身でふびんであるが、考えようでは、もう十六だ。やってやれんことはあるまい。一家を背負って立つも、かえって将来のためになると思うのだが、どうであろう」
と、言うと、良兼がすぐ賛成した。
「わしもそう思う。今の小次郎としては、一刻も早く事になれることだが、人に頼っていては、いつまでもそうなれん。もちろん、小次郎一人ではどうにも処置にこまるという問題でもおきた時は別だ。その時は、皆が総がかりで手伝ってやろう。これは、これまでとて、一門のしきたりであったから、もちろんのことだ。男を育てるには男を育てる愛情がある」
長老二人の意見が一致したので、相談はそれッきりになって、あとは思い思いの雑談のうちに酒を飲み合って散会となった。
翌日は、皆ちりぢりになって、それぞれの居住地へ向ったが、良兼だけは、久しぶりに石田を訪ねたいと言って、国香と同道して去った。
一門の長老二人の帰りなので、小次郎は毛野《けぬ》川を渡って、養蚕《こかい》の渡しまで見送った。
その帰途であった。ふと、父の墓のある丘の松蔭《まつかげ》に、人影の立っているのに気づいた。
(誰かしら?)
水田つづきの中に小島のように見えるその松山を、小次郎が、馬をひかえて見ていると、人影はすぐ木の間がくれに見えなくなった。こちらの見ているのを知って、隠れたような工合《ぐあい》であった。行って見る気になった。
山の麓《ふもと》で馬を下り、砂利だらけのダラダラ坂を登って行くと、昨日きずいた土饅頭《どまんじゆう》の向う側に、十一二の少年がぼんやり立っていたが、それが、次の次の弟であったので、こちらはおどろいた。
「四郎ではないか」
四郎は、黙っていた。きゃしゃな、色白な顔に微笑を見せただけであった。五人いる弟の中で、この弟は変りものだ。顔立ちも体格も、やさしく細っそりとしているが、性質もものやさしい。坂東《ばんどう》の習わしで、男という男は、荒々しく武張っておればおるほどよいとして、幼い時から弓馬や太刀打ちや角力《すもう》を常の遊びごととして育つのだが、この子はそんなことがあまり好きでない。学問が好きなのだ。
小次郎の家では、子供等が五六歳になれば、結城《ゆうき》の天台|寺《でら》の坊さんについて、読み書きのわざを学ぶことになっている。豪族の子弟として、全然|あきめくら《ヽヽヽヽヽ》ではこまるから、日用の手紙や官庁方面への届書くらいは、人手を借りずに書けるようにしたいとの、良将の考えからであった。
だから、小次郎も、次の三郎将頼も、その程度のことが出来るようになると、さっさと結城通いをやめて、弓馬の術一筋になったのだが、この弟はそうでなかった。
天性の才能があるのだろう、兄達が四年も五年もかかる課程を、僅《わず》か二年ほどで仕上げてしまったのだが、それからも結城通いをつづけている。師の坊も、楽しみにして、
「御先祖の血のうち、文事の方が、この公達《きんだち》には伝わったのでありましょう」
と、言って、内典《ないてん》(仏書)外典《げてん》(仏書以外の書)ともに教えているという。
「なにをしていたのだ」
と、小次郎は聞いた。少年は目をそらした。低声《こごえ》でこたえた。
「なんにもして居《お》りません。ただ、なんとなく来たくなって来たのです」
「そうか」
小次郎には、少年の気持がわかる気がした。父の死がかなしく、父が恋しいのだと思った。この数年、小次郎の弟らは、ほんの時々、わずかに数日帰って来る時しか、父に接する機会がなかった。父の愛情に飢えていたはずだ。やるせないものが、子供達の胸にはあるはずだ、と、思うのだ。とりわけ、気のやさしい子だけに、この子のかなしみは深かろうと、こちらの胸も熱くなった。
小次郎は、塚に向って拝をした後、言った。
「四郎よ、かえろう」
「はい」
おとなしくこたえて、少年はついて来た。
小次郎は、馬には騎《の》らず、口をとって、弟とならんで歩き出したが、ふと、弟が呼びかけた。
「兄上」
せつない調子の声だった。小次郎はハッとして、弟を見た。四郎は、目に一ぱい涙を浮かべていた。
小次郎はおどろいた。
「どうしたのだ? そなた」
四郎の目にたたえられていた涙は、一時にあふれて頬を伝った。その涙とともに、絶叫するように言った。
「人間は、人間は、人間は死ぬのですねえ……」
思いもかけない言葉であった。なぜこんなことを言い出したのか、小次郎にはわからなかった。
「どうしたのだ! そなた? どうしたのだ!」
と、狼狽《ろうばい》した。
「あたしはこわい。あたしはこわい。暗い、つめたい、土と砂利の下に、埋められてしまわなければならないのです。目も見えず、耳も聞こえず、手足も動かなくなって! なぜ、人間は死ななければならないのです。ああ、あたしはこわい! あたしはこわい……」
唇《くちびる》の色がなくなり、涙にぬれた顔は真青になっていた。肉の薄いきゃしゃなからだをはげしくふるわせていた。
小次郎には、まるでわからない心理だ。おそらく大きな恐怖が、感じ易《やす》い少年の心を力一ぱいにゆすぶり立てていることだけがわかった。
小次郎は微笑《わら》って見せた。
「なぜ、今更めかして、そんなことを言うのだ。人間は誰でも死ぬ。きまりきったことではないか。そなた、はじめて知ったのか。かしこいそなたらしくないぞ」
からかうように軽く言ったのだが、少年はその調子に乗って来なかった。
「こわい。あたしはこわい。あたしはこわい。ああ、なぜ死ぬのでしょう……」
と、言いつづけ、ふるえつづけた。
小次郎はあぐねた。もう黙って、見つめているよりほかはなかった。
間もなく、少年の興奮はしずまった。黙って、少しテレたような風で、館の方へ歩き出した。
一緒に行きながら、小次郎は、漠然《ばくぜん》と思った。
(この子は、出家するようになるかも知れない……)
数日の後、石田から伯父の使いで侘田《わびた》ノ真樹《まき》が来て、亡父が陸奥に赴任する時あずけていった所領の証券《てがた》をとどけた。地区別にわけて十数枚ずつの束にして、幾束もあった。
「これで、全部である由《よし》でございます」
と、真樹は言った。
小次郎は、受取りを書き、礼を言ってかえした。
秋のとりいれの頃《ころ》までに、小次郎はその証券を、実地にあたったり、母や古い郎党等の記憶と照合したりして、調べ上げたが、かなり不足しているようであった。
「あの荘《しよう》は御当家のものであったはずです」と郎党等のいう土地が、上総の伯父良兼の家の荘司《しようじ》が行って支配していたり、「石田の前《さき》の大掾の殿と交換したのです」といって他家の土地になっていたりする。
疑いたくはないが、わからないことだらけだ。
「伯父上に逢《あ》って聞いてみよう」
と、思い立ったが、折から収穫期になって、なかなか行けなかった。
秋の末、やっと大体の収穫がすんだので、小次郎は石田に出かけた。しかし、伯父も、貞盛《さだもり》も不在だった。数日前から、府中の館の方に行っているという。
「いつ頃おかえりであろうか」
「若殿は一両日のうちにはかえってまいられる予定《あらまし》でありますが、大殿は当分御滞在のようにうけたまわりました」
そこで府中に向った。
二時間ほどの後、筑波《つくば》の南麓多気《なんろくたけ》(今の筑波町北条)の村落をはずれて、少し行った時、前方から来る貞盛に逢った。多数の郎党等に護衛されて、用心きびしい行装《たびよそおい》であった。
(ああ、そうか)
と、小次郎は合点した。これは鹿島《かしま》ノ玄明《はるあき》に対する用心なのだ。父の葬儀の時、小次郎は貞盛に聞いている。あれ以来、玄明のうわさを聞かないが、捕えられもせず、また死んだといううわさも聞かないので、用心はおこたっていないといったのである。
二人は、道の真中で、馬をとめてあいさつした。
「久しぶりだな。近頃は、まるで|おやじ《ヽヽヽ》になって、よく働いているそうだな」
依然として色白で、瀟洒《しようしや》な美少年である貞盛は、まじまじと小次郎を見ながら言った。労働のために日やけし、家政の切りまわしに分別臭い顔になっている小次郎におどろいているようであった。
「あとつぎの役目だ。しかたはない」
苦笑してこたえて、
「時に、おれはおぬしの家に行って来たのだ」
「ああ、そうか。おやじに用か、おれに用か」
「伯父上に用事だ」
「おやじは、当分府中からかえらん」
「そう聞いたから行くところだ」
「急ぎの用らしいな」
「うむ」
「では、かえりに寄ってくれ。積る話もある」
「用が早くかたづいたら寄ろう。まだ全部|とりいれ《ヽヽヽヽ》を済ましていないのだ」
「おやじくさいことを言うぞ。とりいれなぞ、どうでもいいではないか。郎党共がしかるべくやってくれるだろう」
「そうはいかん」
「ハッハハハハ。とにかく、待っている」
別れて、道を急ぐ小次郎の胸に、ふと羨望《せんぼう》に似たものが感ぜられた。なんのくったくもなく、あくまでも青春を楽しんでいる貞盛にくらべて、同じ年だというのに、と、気が鬱《うつ》して来た。
小次郎は、強《し》いて従者に声をかけて、その鬱屈を忘れようとつとめた。
常陸の府中は、今の茨城県石岡市の石岡だ。
現在の石岡は、霞《かすみ》ケ浦《うら》に注ぐ恋瀬川の北の丘陵地帯の麓にあって、霞ケ浦から二里も奥へ入っているが、この時代、霞ケ浦はこの町の南辺を更に一里ほども奥に入った染谷《そめや》のあたりまでのびていたのであるから、当時の府中は、南を湖水の入江の波に洗われ、北を筑波山塊の山々からなだれて来た丘陵にかこわれていたのである。
とっぷり暮れて、初更をすぐる頃、府中についた。
国香の館では、鄭重《ていちよう》に迎えてくれたが、会うのはかなりに待たされた。唯今《ただいま》ちょっと手ばなせない用事にかかっている、という口上であった。
侘田ノ真樹が応対に出て、行水の世話をしたり、夕食の相伴《しようばん》をしたりした。
夕食がすんで、ずいぶんたって、やっと伯父の居間に通された。
「よく来たな。皆かわりはないか」
国香は、いつものおちついた様子で迎えたが、時々軽い|せき《ヽヽ》をし、鼻をクスンクスンとさせた。
「お風邪を召したのではありませんか」
「そうらしい。先刻から少し頭痛もしている」
「それはいけません。お年ですから、大事になさらなければ」
父を死なしてから、年老《としと》った人の健康が、小次郎には気になる。
「ああ、ありがとう。――時に、どんな用事で来たのかな」
「領地のことについて、わからない所がありますので、うかがいに参ったのでありますが、おかげんが悪ければ、明日にいたしてもようございます」
国香は、せきをし、|こめかみ《ヽヽヽヽ》をもみながらも、
「イヤ、大したことはない。そなたも、そのためにせっかく来たのだ。早く知りたかろう。言ってごらん。どこがわからんのかな」
小次郎は、心覚えして来た書附けをのぞきながら、質問にかかった。
小次郎は一つずつ順々にかたづけて行くつもりであったが、国香は次々に先をうながして、全部を言わせた。
小次郎がのべ立てている間、国香はずっとせきをしたり、鼻をグズめかしたり、額を指先でもんだりしつづけた。しかし、時々聞きかえしたりして、よく聞いてはいるようであった。
「それだけかな?」
「それだけです」
国香はいずまいをなおした。
「それはな……」
と、答弁にかかるけはいだったが、
「……ええと、一番はじめはどこだったかな。ちょっと、その書附けを貸してごらん。年をとると、もの覚えが悪くなってかなわんわい」
笑いながらいって、書附けを受取り、燭台《しよくだい》を引きよせた。書附けを灯《ひ》に近づけ、老人らしく背をそらして見ていたが、忽《たちま》ち激しくせきこんだ。顔をうつ向け、左手を口にあて、ゴホンゴホンゴホンゴホンと、いつまでもせきこんでいた。
こちらは気の毒になった。
「今夜でなくても結構でございます。今夜はおやすみになってください」
実際、夜が更《ふ》けて、冷気が身にしむ気温になっていた。
「なあに、ゴホンゴホン、こりゃいかん。ほんとに風邪をひいたらしいぞ。ゴホンゴホン、いや、しかし、ゴホンゴホン、こりゃいかん。では、ゴホンゴホン、すまんが、そうさしてもらおうか。ゴホンゴホン、そちも、そういそぐことではあるまい……」
国香は苦しげに|せき《ヽヽ》をしながらも、行きとどいたあいさつをして、郎党共に扶《たす》けられながら塗籠《ぬりごめ》に入って行った。
熱が高いということで、三日間、国香は床を離れなかった。
小次郎は、所在のない日を送っていたが、四日目に、床を上げた国香に呼ばれた。
もうすっかり快《よ》くなったということだったが、国香はひどくやつれていた。第一、いつも身だしなみのよい人なのに、今日はそうでない。一筋のおくれ毛もなく櫛《くし》けずられている髪は蓬々《ほうほう》とそそけ立ち、余分なひげは剃《そ》ってきれいに整えられている口ひげ頤《あご》ひげも、むさくるしく乱れていて、そのため一層やつれて見える。年も一ぺんに老《ふ》けた感じであった。
「まだお悪いのではありませんか」
といわずにおられなかった。
「いやいや、もう快い。おり悪《あ》しく風邪などひいて、そなたに無駄《むだ》な日をつぶさせてしまった。済まなんだな」
ていねいにわびを言って、この前の質問に答えはじめたが、言うことは至ってあいまいであった。
「何々の荘は、そちの父が上総(良兼)に譲ったはずだ。いつであったか、古いことで、はっきりせんが。上総に聞いてやればわかるはずだ。わしから聞いてやろう」
あるいは、
「何々の荘は、わしが貰《もら》った。ただで貰ったわけではない。そなたも覚えているだろう。わしの家からそなたの家へ、馬を二十頭やったことがあったな。あれととりかえたのだ。なに? 覚えがない? そうか。そんなら母者か、古い郎党共に聞いてみるがよい。きっと覚えているから。わしは、それを、何某《なにがし》家の何々の荘ととりかえたのだ。わしの家からは遠くて、いろいろと不便だったのでな」
あるいは、
「何々の荘だが、これはわしにもよくわからん。国府へ行って、台帳によってしらべてみたらどうだな。国府の台帳も不備で、調べのつかんことが多いが、案外にまた至ってやすやすとわかることも少なくない」
などといった調子であった。
小次郎は、次第に不愉快になった。まさかと思いながらも、伯父がばかていねいな調子で、そのくせ、病み上りのやつれた顔に似合わないよく光る茶色の目を、クルクル動かしながら言うのを見ると、油断がならないという気にもなった。
しかし、この上押して聞くと、かえって不愉快なことになりそうだ。一応の釘《くぎ》だけさした。
「よく調べてみます。なおわからない所がありましたら、お願いします」
「ああ、いいとも、いいとも」
伯父は、長話にいかにも疲れたといいたげに、グッタリと脇息《きようそく》にもたれながら、うなずいた。
小次郎は、先《ま》ずここの国府の台帳から調べてみようと思った。小次郎の家の領地は、常陸にも下総にもある。両方の国府で調べる必要がある。
夜はなお伯父の館《やかた》に滞在して、毎日国府に出かけて、調査にかかった。台帳はおそろしく大部で、なかなか検出しにくかったが、根気強く調査をつづけた。祖父や父が、石ころを一つ一つひろって拓《ひら》いて行ったことを思うと、これくらいの苦労はなんでもないと思うのであった。
数日|経《た》った日の午後、いつもの通り国府の書類庫に行っての帰途であった。
国府の塀《へい》に沿ったしずかな通りを来かかった時、辻《つじ》を曲って来る女があった。いい服装をして、白い被衣《かつぎ》をかぶっていた。相当な身分の家の婦人であることは一目でわかった。かむろ髪の十二三の女《め》の童《わらわ》を供につれていた。
小次郎ははっとした。はげしい運動をした後のように胸がさわぎ出した。
「筑波のあの女!」
と、思った。
しかし、間もなく、人違いであることに気づいた。
年がちがった。筑波のあの女は十六七ぐらいにしかなっていなかったが、この婦人はもう二十《はたち》を二つか三つ出ている年輩であった。
からだつきも、いくらかちがっていた。あの女は若木の柳のように細っそりとしなやかであったが、この女は太っているというほどではないまでも、成育しきった充実感があった。
しかし、それにしても、実によく似ている。細く真直《まつす》ぐに通った鼻筋も、深い色をたたえて黒々とした切れ長な目も、卵なりのやや長めな小さい顔も、全体にただよう高雅な気品もそっくりだ。
いつか足をとめ、茫然《ぼうぜん》として見ている小次郎の前を、女は一瞥《いちべつ》をあたえて通りすぎた。一種の軽侮を見せたいぶかるようなその目つきに、小次郎は我にかえった。供をしている下人にも恥かしかった。せかせかと歩き出した。
けれども、少し行くと、あの二人は姉妹かも知れない、と、思った。あかの他人が、ああまで似ているものではないと思った。
(あの女の素姓を知るこのよい機会を逸してはならない)
もう恥かしさはなかった。くるりと足をかえした。女の姿は小半町向うを、ゆっくりした足どりで築垣《ついじ》に沿って行きつつある。午後三時頃の明るい日が、女と小女《こおんな》の影を、道路から築垣に屈曲してうつして、二人とともに移動させていた。
「汝《われ》は先にかえっておれ。おれは思い出した用事がある。すぐかえる」
と、下人に言いすてて、急いだ。
女は、ついて来る者があるとは知らないようだ。変らない足どりで歩いて、辻を曲ってやがて一軒の家の門をくぐった。そこは、この国の現大掾《げんのだいじよう》源ノ護《まもる》の官邸であった。
小次郎は、門内をのぞきこみながらすぎ、またかえって来ながら、門内をのぞいた。樹木がかげをおとして、シンとしずまっている門内には、人影一つ見えなかった。
もう一度のぞきたいと思って、足をかえそうとした時、不意に、人のけはいがした。おどろいて、そちらを見ると、百姓男が一人、にやにや笑いながら、辻に立っていた。
百姓に似合わない逞《たく》ましい体格であった。太い担《にな》い棒をかついでいた。色が黒く、あごが角ばって、よく光る細い目を持っていた。
「おれだよ。鹿島ノ玄明《はるあき》だよ」
薄い口ひげをひねりながら、低い声で言った。白い歯を出して、声を立てずに笑った。
女のあとを尾《つ》けているのを見られたのではないかと、小次郎は、きまりが悪かった。急には口がきけなかった。
「久しぶりだな。陸奥に行っていたそうだな」
玄明はなつかしげに言ったが、急にあたりを見まわした。
「まずいなあ。こんな所で立話していては。おれは、今世を忍んでいる身の上なんだ――そうだ。あの一本松の下に行ってくれんか。すぐあとから行くから。つもる話がある」
あごをしゃくって、町の裏山にそびえている大きな松を示した。
小次郎は気が進まなかった。こんな男と親しげに話しているところを人に見られたりしたら、どんな疑いがかかるか知れない。
「おれは、そんなことはしておられない。いそがしい用事があって、こちらに来ているのだから」
玄明はフンと鼻で笑った。
「女のあとを追っかけるのも、そのいそがしい用事のためか」
「おれがなんで……どうして、おぬしは……」
小次郎は赤くなって、しどろもどろになった。
玄明は、意地悪いくらいすました目で、その狼狽《ろうばい》を見て、
「おぬし、筑波の女の素姓が知りたいのだろう。だったら、一本松の下に行っておれ。知りたくなかったら、別だがな」
言いすてて、スタスタと行ってしまった。もうふりかえりもしない。
小次郎はしばらく迷った。玄明のことだから、ずいぶん冷やかすにちがいないと思った。それがいやだった。しかし、ああまで言うのだから、知っていることは確実だと思った。
「玄明め! ひやかすならひやかすがよい!」
と、急に心が決した。
小次郎の胸には、自分ながら意外なほど熱いものが、燃え立っていた。はかなく逢《あ》ってはかなく消えた夢のような女、と考えていたのは、浅い断定であった。胸の奥深いところでは、深く灰をかぶせられながらも赤々とおこっている火のような思いがつづいていたのであった。それが今、灰をはらって、一時に燃え上って来た念《おも》いであった。
岡の一本松は、松のまじった雑木林がきれて、朽葉色の草山つづきになった所にある。この地方特有の、荒いタッチで描いた墨絵の松そっくりの、荒々しくきびしい姿の黒松だ。
小次郎が、そこについた時、日はずっと西に傾いて、草山に乾いた音を立てて夕風がわたっていた。彼は、高く上った松の根に腰をおろした。
眼下には、府中の町があり、その向うには、湖の水があった。小次郎は、現大掾の館をさがして、注意深くそこを見た。いくつもならんでいる檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根の上に、赤い夕日の色が流れ、炊煙であろうか、落葉でも焚《た》いているのであろうか、青い煙が立ちのぼっているほかは、なんのかわりもなかった。
「ヤア、来ているな」
不意に、声がかかった。
いつ来たのか、つい間近に、玄明が立っていた。先刻の太いにない棒の先に、荒縄《あらなわ》でしばった酒壺《さかつぼ》と、何やら小さな包みとをぶら下げていた。
「こっちへ来い。そこでは下から見えるかも知れない」
玄明は、一本松から奥手の草の上に、小次郎をさそって、酒壺と包みを棒からはずした。包みの中には、酒の肴《さかな》が入っていた。
「おぬしと一ぱいやろうと思って、知合いの家から都合して来たのだ。まあ受けてくれ」
と、盃《さかずき》をさした。小次郎は、酒など飲みたくなかったが、受けないわけに行かなかった。
二三献で、玄明は坐《すわ》りなおした。
「時に、将軍の殿はいけないことであったな。うわさに聞いて、ひそかに愁傷に思っていた。くやみに行きたかったが、かえって迷惑をかけてもと、さしひかえた。改めて、おくやみ申し上げる」
この男らしくない律儀《りちぎ》な態度であった。小次郎も、改まってあいさつをかえした。
玄明は、盛んに呷《あお》りつけながら、あの時以来のことを語った。
「あれがケチのつきはじめよ。することなすこと、うまく行かん。すっかり世をせばめて、今ではごらんの通りの有様だ。どうにもならんから、京の方へ行こうか、陸奥の方へ行こうか、と、思案中なのだが、陸奥はどんな工合《ぐあい》だね」
「おぬしのような男が、陸奥などに行ってくれてはこまる」
と、小次郎は無遠慮に言った。玄明は笑った。
「ハッハハハハ、京ならかまわんという意味かね」
「京もこまるだろう」
「ハッハハハハ、ずいぶんむごいことを言うぞ、この小冠者は。他人が言うのだったら、捨ておかんところだが、おぬしでは腹が立たんから奇妙だ。ほれこんでいる弱みだな」
と、上機嫌《じようきげん》で言ったが、ふと、
「そうそう、ほれこんだといえば、筑波の女だがな」
と、話頭を転じた。
酔いが小次郎を大胆にしていた。率直に言った。
「それを聞きたいために、おれは来たのだ。早く教えてくれ」
「オヤ、悪びれないな」
「また余計なことを言う! 早く言え!」
「血眼《ちまなこ》と来たね。ハッハハハハ、あれは先刻おぬしが尾《つ》けていた女の妹だ」
「やはりそうか」
「やはりそうだ」
「どこの家の者だ」
「あの女の入った家がそれだ」
「なに! 現大掾の娘か?」
「そうだ」
「…………」
「現大掾には、三人の男の子、三人の娘がある。その長女が、先刻おぬしの尾けていた娘で、これは鹿島の大宮司家に縁づいている。次女と三女は、まだ家にいる。おぬしが筑波で逢ったのは、その三女だ」
小次郎は、しばらく口がきけなかった。契《ちぎ》った翌日、女の家の郎党共とあんな事件を起したとは、何という皮肉ななり行きであろうと思った。嘆息とともに言った。
「……そうか……」
「そうだよ。おれはウソは言わん。しかし、なるべくなら、あの女はやめた方がよいな。生娘《きむすめ》の身で、あの夜筑波に行くなど、おれは面白くないと思う。ろくな性質《さが》ではないと考えてよいと思う……」
小次郎は、聞いていなかった。自分だけの思いを追っていたが、不意にさえぎった。
「名は? 名は何というのだ」
筑波《つくば》の楓《かえで》
門を入ると、出迎えた郎党が、馬の口をとりながら言った。
「お帰りなさいまし。豊田の殿がまいっておられます」
「そうか。いつ頃《ごろ》来た?」
貞盛《さだもり》は、拳《こぶし》にすえた鷹《たか》をべつな郎党にわたして、馬を下りた。
「未《ひつじ》の刻(午後二時)を少しまわった頃でありました」
「そうか」
父への用事がすんで、府中からの帰途だろうと推察されたが、それにしても、長い滞在だったと思った。
狩装束のまま、簀子《すのこ》伝いに客間に向った。蔀《しとみ》をあけはなった広い座敷に小次郎は坐っていた。こちらに背を向け、夕日の赤く流れている庭にむいていた。庭にはかなり強い風があって、樹木がしきりに揺れ動いていた。小次郎はそれを見つめているらしかったが、なにごとか思いつめているような風であった。足音を聞きつけてふりかえった。微笑して見せた。
「よく来たな。府中からの帰りか」
小次郎は、それに答えなかった。
「猟はどうだった」
「昼すぎに時雨《しぐれ》が来てから、思わしくなくなったが、それまでに、シギを二つ、ウズラを五つとった」
「ホウ、いい猟だったな。どこを狩った」
「養蚕《こかい》川に沿った葦原《あしわら》に行ってみた。雨が来ねば、もっといい猟が出来たのだが……」
しばらく、鷹狩に関係して、鷹のよしあし、狩場のよしあしについての話がつづいた。
貞盛はまたきいた。
「おやじどのへの用事は、もうすんだのか」
「うむ。まあ一応すんだようなものだが……」
「よほど面倒なことなのだな」
「うむ」
「豊田にかえる途中か」
小次郎はしばらく黙った後、
「いや」
と、言った。
「かえる途中ではない? それなら、おれに用があって来たのか」
「そうだ」
「どんな用だ」
「……ちょっと手軽に言えないのだが……」
言いながら、小次郎の顔はボウと赤くなった。
ははあ、女のことだな、と、貞盛は敏感にあたりをつけた。この無骨《ぶこつ》者が、と、おかしくなった。からかいたかったが、
「あとでゆっくり聞こう。着がえて来る。今日の獲物《えもの》で一|盞酌《さんく》みながら聞くことにしよう」
と言って、席を立った。
別室で着がえをしながら、貞盛は、小次郎をからかいながら酒を飲むことを思うと、大へん愉快になった。
「あいつめ、どこの誰に目をつけたのだろう」
ひとりでに顔がニヤついて来た。
日が沈んで暗くなる頃から、酒がはじまった。
貞盛は、一気に本題に入った。
「女の話だろう。話というのは」
小次郎は、忽《たちま》ちまた赤くなった。
「うむ、まあ、そうだが……」
「聞こうでないか。もったいをつけることはあるまい」
「もったいをつけるわけではないが……」
貞盛は笑った。
「大体、おぬしの言おうとしていることはわかっている。女だろう。女を見染めたが、言いよるすべがない。なんとか知恵を貸してくれ、と、こうだろう」
小次郎は驚いて相手を見た。黙っていた。
「なんと見通しだろうがや」
と、貞盛は得意気にカラカラと笑って、
「さあ、言え。どこの誰だ。そんなことにかけての知恵は湧《わ》くがごとしだ。いくらでも貸してやるぞ」
小次郎は、一層赤くなっていた。
「うむ、あたった。しかし、相手が少しむずかしい家の姫君なので……」
「だから、どこの誰だと聞いている」
「現大掾《げんのだいじよう》の三の姫だ」
貞盛は妙な顔をした。少しずつ顔色がかわって来た。
「どこの大掾だ」
「この国、常陸の大掾だ」
「なんだと? 常陸の大掾の三の姫……」
貞盛の声は叫ぶようであった。将門はことばをとぎらせ、少しあわてた目で、貞盛を見た。
貞盛の表情はかわっていた。形のよい紅《あか》い唇《くちびる》がきびしく結ばれ、切れ長な澄んだ目が相手を凝視していた。しかし、すぐそのかたい表情を解いた。
「つづけた、つづけた。一体、どこで見染めたのだ」
「見染めたのは去年だ」
「去年? いつ? どこでだ」
重い口で、小次郎は、筑波の|※[#「女+櫂のつくり」]歌《かがい》の夜のことを物語って、
「おれは、その人のことが忘れられんでいた。しかし、二度と逢《あ》うことは出来まいとあきらめていた。ところが、つい昨日のことだ。府中で、よく似た面影《おもかげ》の人を見た。そして、ある人にそれが大掾の一の姫で、筑波の人の姉であることを聞いた。筑波の人の名が小督《おごう》であるということも聞いた。しかし、どうすればいいのか、まるで方途が立たない。おれは悩みに悩み、悶《もだ》えに悶えた末、おぬしに相談しようと思いついた。おぬしはこんなことには馴《な》れている。一体、どうすればよいであろうか。教えてくれ。頼む」
懸命だった。目に涙さえ浮かべていた。
「おれも、へんなことに見込まれたものだな」
と、貞盛は笑った。美しい顔は気楽そうに、また、面白そうに見えていたが、心ははげしく揺れさわいでいた。
小督――大掾の三の姫は、貞盛の女なのであった。貞盛と小督との関係は、|※[#「女+櫂のつくり」]歌《かがい》の夜から少しさかのぼってはじまる。
去年の春、府中の館《やかた》に行っている時に見染め、その夜呼ばいわたって出来、逢《お》う瀬が四五夜重なった。間もなく石田にかえらなければならなくなったので、筑波の※[#「女+櫂のつくり」]歌の夜に逢おうと約束して別れた。だから、あの夜、彼は熱心にさがしたのだが、どうしたのか、なかなか見つからなかった。なにかの都合で来ることが出来なくなったのかと思った。
そこで、ほかの女をつかまえて、適当にうめ合わせをつけた。その後、夜半を過ぎた頃にさがしあてて、どうやら契りを重ねることが出来たが、今聞いた通りであるとすれば、それはすでに小次郎に逢った後であったわけだ。
(こいつのおこぼれを頂戴《ちようだい》したわけだったか)
と、思うと、貞盛の胸は平らかでない。
おまけに、あの時、大掾の郎党共と喧嘩《けんか》し、ひいて翌日のあの大喧嘩になったのも、根本の原因はふだんからの領地の境界のゴタゴタだが、直接の動機はあの女に逢っている所を郎党共に見つかったからなのだ。ますます癪《しやく》にさわらざるを得ない。
小督との関係は、現在でもつづいている。府中の館に行った時には忍んで行っているのだ。だから、これは手痛い打撃であった。
(あんなに上品で、あんなにとりすましているくせに、なんたる女であろう)
貞盛は、あきれ、おどろき、腹を立てたが、ふと、
(こいつは|いとこ《ヽヽヽ》だと思っていたら、兄弟にもなっていたのだな)
と思うと、おそろしく滑稽《こつけい》な気がして来た。
いきなり、大きな声で笑い出した。すると、一層おかしくなって、腹をかかえて、キャッキャッと、身をもんで笑いつづけた。あっけにとられていた小次郎の顔がだんだんむずかしげになって来たので、やっと笑いやんだ。盃をさした。
「まあ、一つ行こう。兄弟」
小次郎はきまじめな顔で、黙って受けた。貞盛はまたおかしくなった。
「どうして、そう笑うのだ。おれはおれが笑われているようで、だんだん腹が立って来そうだ」
ふるえる声で、少し青ざめていた。
「失礼、失礼。おれは、おぬしがそんなことで悩んでいるのがおかしかったのだ。いかにもおぬしらしいと思ってね。なやむことなんぞ、ちっともないじゃないか」
小次郎は、憂鬱《ゆううつ》げに首をふり、沈んだ調子で言う。
「おれはどうしたらよかろうか。この恋が実を結ぶと、おぬしは考えるか。意見を聞かしてくれ」
この道にかけては、こいつはとんと馬鹿《ばか》だな、と、思いながら、貞盛は言う。
「実を結ぶも結ばんも、もう結んでいるじゃないか。そこまでいっているものを、なにをためらうのだ。文《ふみ》を書くのだ、文を。筑波の夜のことを忘れかねているが、今まではどなたであるかがわからなかった。しかし、近頃はじめてわかって、天にも昇る思いである、ついては、今夜忍びわたるから、そのつもりで待っていただきたい、と、まあこんな意味のことを書いて、心|利《き》いた下人に持たせてやり、その夜忍んで行くという寸法だ。
如才はあるまいが、結び文《ぶみ》にして、木の枝につけてやるのだよ。それが京方《みやこがた》の作法なんだ。ほんとを言うと、文章より歌がよいのだ。『つくば山|繁木《しげき》が下《もと》に木隠れし楓《かへで》は色にあらはれにけり』といったような歌を詠《よ》んで。
そうだ、この歌を紅葉《もみじ》した楓の枝につけて持って行かせるがよい。歌はまずくても、気の利いたやりかたになる」
目をかがやかせ、紅い唇をひるがえし、上機嫌で、面白いことのように貞盛はしゃべった。
女に対する執着や、先刻の怒りは、もう毛筋ほども残っていなかった。あんな頼もしくない淫奔《いんぽん》女、くれてやれ、くれてやれ、と、思うのであった。
小次郎は、なお考えていた。
貞盛は、少し不機嫌になった。
「どうした? 気に入らんのか」
「イヤ、気に入らんのではない。大掾の家の郎党共とのあの事件がある。大掾のきげんはどうであろう。おれは二人だけの恋でおわらせたくない。やがては定まる妻として、家に迎えたいのだ」
「それは大丈夫だ。あの事件は、おやじがうまく話をつけた。一切いざこざはなくなっている」
小次郎は表情をゆるめた。
「そうか、それはありがたい。こんなことにも、伯父上のおかげをこうむっているわけだな」
と、しみじみと言って、
「それでは、先っきの歌をもう一度言ってみてくれ」
貞盛は朗誦《ろうしよう》した。
「つくば山繁木が下に木隠れし楓は色にあらはれにけり、だ」
「どんな意味だ」
「やれやれ。秋になると紅葉するため楓が目立ってくるだろう」
「うむ」
「つまり、三の姫を楓にたとえたわけだ。これまでは誰であるかがわからなかったが、わかりましたから、お便りをいたします、ということになる」
「ああ、そうか」
「今は秋だろう」
「秋だろうか。もう冬だろう」
「チェッ! こんな場合は、そうきびしく区別せんでもいいのだ。秋のほうが都合がよければ秋にし、冬のほうがよければ冬にするのだ」
「そうか、そういう都合のものか。おれは歌つくりには一向不案内だ。しかし、冬の恋歌というのは出来んものか」
ついに、貞盛は吹き出した。
「ハッハハハハ、恋に季節はない。だから作れんこともないが、それも面倒だ。これで間に合わしとけ」
「そうか。秋で通らんこともないな。では、そうしようか」
小次郎は、覚えようとして、口ずさんだが、すぐつかえた。いく度やっても同じだ。
「どうもいかん。すまんが、硯《すずり》を貸してくれんか」
汗をかいていた。
「ありがとう。造作をかける」
墨をすり、懐紙を出して、書きうつしにかかったが、その手つきもたどたどしい。
「どれ、貸してみろ。書いてやろう」
さらさらと書いて、
「それ出来た」
「かたじけない」
小次郎は、おしいただいて、読みかえした。感にたえたようなその顔をにやにや笑いながら見ているうちに、ふと、貞盛の念頭に上って来たことがあった。
「おぬし、ある人に、その姫君の素姓を聞いたと言ったな」
「うむ」
「誰に聞いたのだ」
「鹿島ノ玄明だ」
貞盛は顔色をかえた。
「いつどこで逢《あ》ったのだ」
「昨日、府中でだ」
「不敵な奴《やつ》めが! 府中あたりをうろついていたのか」
小次郎は、簡単にその時のことを語った。貞盛は不愉快な顔で聞いていたが、やがて言った。
「奴とあまり仲よくしないがよいぞ。そんなことがわかったら、この話だってどうなるか分らんぞ」
「心得ている。おれもやつを好きなわけではない」
一晩泊って、小次郎はまた府中へ向った。
府中の伯父の館に帰りつくとすぐ、小次郎は、貞盛に書いてもらった歌を、別の紙に書きうつしにかかった。
上質の紙をえらんで、一字一字に思いをこめた。いく枚も書き損じた。夜寒むの身にしむ夜だったが、なれない作業のために、背中に汗がにじんだ。
夜半近く、仕上げた。出来上りは、悪くないように思われた。
彼は満足して、寝についた。よく眠れなかった。夜どおし、うつらうつらしながら、この手紙を受取った時のその人のことを、あれこれと想像しつづけた。
翌日は、早朝に起きて庭に出た。楓の枝を折るためであった。冬にかかって、楓の葉は多くは落葉し、枯葉のようにかじかんだのしかのこっていなかったが、さんざんさがして、どうやら見られるのを見つけた。
その枝に、結び文にした昨夜の製作品を結びつけた後、下人を呼んで、顔や手足を洗わせ、折目のついた着物を着かえさせて、持って行かせた。昼頃であった。
下人は、半刻経《はんときた》たないうちに帰って来た。たしかに、姫君の侍女に渡して来たという。
「三の姫君へ、と、言ったろうな」
「申しました」
その夜は、十三夜の月が空にあって、宵《よい》から明るかった。
小次郎は、かなり夜が更《ふ》けてから、館を出た。彼の心には、たえずためらいがあった。飛んでもない大胆なことをしているようで、恐れが胸をおびやかしつづけた。
「今さら引返しがつくものか。文は姫の許《もと》にとどき、姫は待っているのだ」
と、はげましながら進んだ。
どこから入ればよいか、どこに姫がいるか、すべて文使いに出した下人に聞いている。築垣《ついじ》の破れから入ると、両側に建物のならんだせまい道があって、そこをぬけた所の右手に見える対《たい》の屋《や》が、姫の住いになっているというのだ。
やがて、入るべき築垣の崩れの所にたどりついた。興奮は絶頂に達し、呼吸《いき》がはずみ、胸がさわいでならない。しばらく、暗い築垣のかげに立って気をしずめた。
冴《さ》えわたる月の明るさが気になって、空を仰いで見たが、意地悪く雲一つなかった。またしてもやめてかえりたくなった。
やっと心を決めて崩れを入ると、自分の足音がイヤに高くひびく。しかし気にしはじめると際限もなく臆病《おくびよう》になる。わざと少し乱暴に、わき目もふらず、建物と建物の間の小路《こうじ》に入った。
片側は、下人共の寝場所かなんぞになっているのだろう、そこから聞こえて来る寝息といびきの声とが、せまい通りに、静かで規則的な反響を呼んでいた。知らず知らずに足音をしのばせていた。
そこを出ると、右手に対の屋があった。月の光が檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根を濡《ぬ》れ濡れと光らせ、簀子(縁側)の半ばまで月がさしこんでいた。
聞いて来た通りの位置にちゃんとあった。ほっとした。
(幸先《さいさき》がいいぞ)
と、にわかに気力が出て、そちらに行きかけたが、その時、不意に横合から声をかけられた。
「おのれは誰だ。この夜更けに」
静かな声だったが、小次郎は飛び上らんばかりにおどろいた。キッとふりかえった。
狩衣《かりぎぬ》姿の背の高い男が、こちらを凝視して立っていた。面長《おもなが》な顔に長いあごひげをもった五十年輩の男であった。呼吸をはずましているだけでなんにも言えない小次郎に、おちついた声で言った。
「まろは、当家の主《あるじ》だが」
しまった、しまった、と、小次郎は心にさけびつづけていた。あたまはしびれたようになって、なんにも考えられなかった。
相手はまた言う。
「おのれは誰かと、まろは聞いている」
「下《しも》、下、下、下総豊田の平ノ小次郎|将門《まさかど》です」
「下総豊田の?――故鎮守府将軍|良将《よしまさ》の殿のお子か」
いくらか丁寧なことばづかいになった。
「そうです」
「何の用でこの夜陰にお出《い》でだ」
「…………」
「何の御用でと、お尋ねしている」
「こ、こ、恋です!」
「恋?」
大掾はほほえんだように見えた。小次郎は少し勇気が出て来た。
「そうです。恋です」
「相手は誰だ」
「大掾の殿の三の姫です」
「これはこれは」
大掾は、今やはっきりと笑い声さえ立てた。小次郎は益々《ますます》元気づいた。
「ほんとです。三の姫に恋いわたっているのです」
「わかった。わかった」
笑いながら大掾は言ったが、すぐにきびしい調子になった。
「しかし、この恋は、父親であるまろが不承知だ」
水をかけられたように、小次郎の気力はすくんだ。
しかし、すぐ、このままでは引退《ひきさが》れないと気がついた。ここで何とか言わなければ、望みの糸はすっかり切れてしまうと思った。
口べたな彼には、なんと言ったらよいか、適当な言葉が思いつけなかった。彼はあせり、そのあせりは怒りに似たものにかわった。自分自身に対するものなのか、人に対するものなのか、はっきりしない怒りであったが、ふるえる手はしぜんに腰刀のつかをつかんでいた。
抜こうというつもりはなかった。斬《き》ろうというつもりもまたなかった。しかし、相手はおどろいた。氷りついたように動かない姿になって、じっと見ていたが、やがて、忍びよるように近づいて来て、そっとその手をおさえた。
「これこれ、太刀なんぞひねくって、どうしようとなさるのだ。よくまろの申すことを聞きなさい。
まろは現常陸大掾だ。これほどの身分の者の姫に恋するには、恋する法というものがあろう。その法をふんでまいられよ、と、まろは申しているのだ。つまり、しかるべき人を中に立てて申しこんでまいられよ、と、申しているのだ。
いいかな、おわかりかな。おわかりならば、帰られよ。そなたは去年、まろが家の郎党共と、いさかいを起されたことがあろう。郎党共の目にかかったら、うるさいことになろう。早く帰られるがよい」
大掾は、子供をあやすようなやさしさとやわらかさで、小次郎の肩を叩《たた》いておいて、足をめぐらした。もうふりかえらない。長身の背をそらすようにして月を仰ぎ、ゆらりゆらりと立去って行った。
官位
国香はこの頃《ごろ》気が重い。小次郎が領地のことを調査する目的で滞在しているためだ。たしかに、彼は小次郎の所領すべき土地を横領しているのであった。
小次郎の父良将が任地に赴くにあたって、その所領の少なからぬものの管理を国香に委任したのは、猫《ねこ》に鰹節《かつおぶし》の番をいいつけたようなものだった。
この時代の豪族といわれるほどの者にとって、土地ほど魅力のあるものはなかった。土地がほしければこそ、彼等は住みなれた京都を離れ、心持よい文化生活への執着を絶って、荒々しい空気にみちた、未開野蛮な片田舎に永住する気になったのだ。
その上、国香には、父|高望《たかもち》王が死んだ時の遺産分配にからんでの、昔の不平がのこっていた。
高望王が死んだ時、諸子の中で最も愛せられていた良将は、三男でありながら、遺産の配分が最も多かった。少なくとも、多いと兄弟等には感ぜられた。このことが、国香にも、また弟らにも不平であったのだ。
誘惑は強烈だった。いくどか、慾望《よくぼう》にふくらんだ猫の鼻は鰹節にすりつけられ、尖《とが》った爪《つめ》のある前足はチョッカイをかけようとして持ち上げられた。
しかし、良将の生きている間は懸命にこらえた。目立たないように収穫をかすめるくらいのことしかしなかった。が、良将が急死したという報告がとどくと、もうがまん出来なかった。弟達を召集して、相談の上、それぞれにかすめ取った。再分配して適正にするのだという考えが、彼等の良心をおさえつけた。
この横領がこのままで済もうとは、国香も考えていなかった。いずれ、小次郎がなんとか言い出すであろうと、覚悟していた。しかし、子供のことだ、なんとでも言いぬけが出来るだろうと、タカをくくっていた。
あんのじょう、小次郎は来た。国香は、一応会って小次郎の調査がどの程度まで進んでいるかをさぐった上で、虚病をかまえて、数日逢うのをさけた。その間に言いぬけの言葉を工夫したのだ。
しかるに、小次郎は、その後ずっと滞在して、日毎《ひごと》に国府の書庫に通って、台帳について調査をつづけている。
国府の台帳は、おそろしく尨大《ぼうだい》ではあるが、内容は不完全きわまるものだ。私人の所領など、わざと記載漏れにしたり、記載はしてあっても、実際より面積を狭くしてあるのが常だ。こんな台帳をいくら調べたところで、なんにもわかるはずはないのだ。
国香はそれを知って、一応タカをくくってはいるのだが、飽くまでも突きとめようとの小次郎の強い決意を見ると、不安がのかない。鈍重なだけにしぶといほど底強い性質だと、国香はこの甥《おい》を見ているのだ。
面倒なことになりそうだとは思うが、返還しようとは思わない。どうして返してなるものか、今さら返したりなんぞしたら、事情は一層悪くなるばかりだ、と、肚《はら》をすえている。けれども、いつまたその話が出るかと、気になってならなかった。
その小次郎が、ある朝、国香の居間に入って来た。
(それ来た!)
と、国香は思った。いつも|むっつり《ヽヽヽヽ》としている小次郎が、今朝は一入《ひとしお》|むっつり《ヽヽヽヽ》としているようなので、一層そう思わざるを得なかった。
国香は、きびしく心を引きしめながらも、あいそよく微笑して迎えた。
「お早う。毎日元気がよくて結構だな。しかし、大分朝夕が冷えるようになったので、わしのような年寄は閉口だよ。今朝などは霜がおりているのではないかと思ったほどだった」
「お願いがあってまいりました」
すぐ小次郎は言った。あいさつもしない。心に思うことをわき目もふらず追っている一途《いちず》な表情だった。
今日は骨が折れるぞ、と、思いながら、国香は軽く受けた。
「ああ、なんだな」
「伯父上のお力にすがりたいことが出来たのです」
オヤ、と、思った。あの話ではないらしいな、と、思った。ちょっと安心した。
「言ってみなさい。なんだな。わしで出来ることなら、骨を折って上げよう」
小次郎は、しばらく膝《ひざ》を見つめて黙っていたが、不意にパッと赤くなると、そのままの姿勢でしゃべり出した。
「わたくしは、恋をしています。相手は、現大掾《げんのだいじよう》の三の姫です。昨夜《ゆうべ》、わたくしは忍びました。そしたら、大掾に見つかってしまいました……」
小次郎の調子はガムシャラな早口であった。早く言ってしまって、この恥かしさから逃れたいと思っているようであった。あるいは、言うべきことを整理し、順序立てていくども練習し、暗誦《あんしよう》して来たので、途中で切ったり、間をもたせたり、問いかえされたりしては、その順序が狂うのかも知れなかった。
彼は筑波の|※[#「女+櫂のつくり」]歌《かがい》のことは話さなかった。ただ見染めたとだけ言い、大掾がしかるべき人を介して申しこむべきだと言ったと語った。
言ってしまうと、肩で呼吸をしながら、身をかたくしてうつむいていた。
話を聞いているうちに、国香には微笑が湧《わ》いて来た。領地のことに熱中しているとばかり思っていた小次郎が恋に心を奪われていると知っての安堵《あんど》の微笑であったが、この際、この微笑は甥の純真でひたむきな恋情に対する愛情の微笑に見えると計算した。そこで、はばからずそれを見せながら言った。
「よしよし、承知した。今日にも行ってやろう。いつぞやの事件があって、一応おさまりはついたとはいうものの、ちょっと面倒があるかも知れんが――なに、家柄《いえがら》もつり合っている。先方が嵯峨《さが》天皇四代の末なら、こちらは桓武《かんむ》天皇五代の末だ。先方が現|常陸《ひたち》大掾なら、こちらは前《さきの》鎮守府将軍の子だ。まとまらんはずはないと思う。十分に望みをつないでよろしい」
「お願いいたします」
感激の色を見せ、ていねいにおじぎして、小次郎は立去った。
その後ろ姿を見送りながら、国香は、久しぶりに気が軽くなっているのを感じた。
「やれやれ、めでたいな」
彼は彼の立場からこの恋を祝福した。
午《ひる》を少し過ぎた頃、国香は大掾館《だいじようやかた》に出かけた。騎馬で行くそれを見送って、小次郎は自分にあてがわれた部屋に引ッこんだが、すぐ庭に出た。おちついて坐《すわ》っておられなかった。十分に希望は持てる、と、伯父は言ってくれたのだが、思いつめている身には不安でならないのだ。考えてみると、領地の調査のことも、あれ以来放棄の姿になっているが、このことがはっきりしない間は、つづける気がしない。飢え、渇き、ゆれてやまない気持であった。
一時間ほども経った頃であった。ふと、門の方がさわがしくなった。
はっとした。帰って来たと思った。胸がさわぎ出した。いい方には考えられなかった。うまく行ったのなら、こんなに早く帰ってくるはずはないと思われた。
迎えに出るべきであると思いながら、それが出来なかった。彼は気を静めるために、庭を出、色々な建物の間をぬけて、館のはずれの塀際《へいぎわ》まで行った。しばらく気息をととのえている間に、ふと考えた。
(ことわられたと思うのは、早合点だ。先方が不在だったかも知れないではないか)
冷静をとりもどして、かえって来て、ある建物の角を曲ろうとした時、風を切る勢いで横合から飛んで来た者があった。
おどろいて、身をひねった。相手もすばやく飛びさがった。
「ハハハハハハ」
空にひびく明るい笑いを上げた。十くらいの女の子であった。かむろに切りまわした髪を房々と肩にゆりかけ、血色のよい浅黒い顔が汗ばんで、大きな黒い目がキラキラとかがやいていた。生気にあふれては見えたが、大へんやせていた。手足も、くびすじも、細っこくて、長く、なにか肢《あし》が長くて色の黒い昆虫《こんちゆう》めいた感じがあった。
少女は、笑いやむと、呼吸《いき》をはずませながら小次郎を見つめた。大胆なかがやく目は、やせている顔には、不釣合《ふつりあ》いなくらい大きかった。不思議なものを見るように、まじまじと、凝視していたが、不意にプッと吹き出すと、身をひるがえして走り出した。おかしくてならないもののように、身をもみ声を上げて笑いながら走っていたが、曲り角で立ちどまって、また小次郎を見た。そして、考えこむようにしばらく立ちどまった後、かえって来た。一間ほどの距離まで来ると、ピタリと立ちどまって、言いかけた。
「あなたは貞盛兄さま?」
笑いのかげはもうない。神妙きわまる顔になっていた。
小次郎は、首をふった。
「じゃ、誰?」
「わしは、豊田の平ノ小次郎将門だ」
「ああ、豊田の! そう、豊田の?」
またまじまじと見つめた。
「あなたは誰?」
「あたしは……」
と、言いかけて、少女は笑い出した。
「あててごらんなさい。誰だか」
「そんなことを言っても、わからないよ。わかるはずがないじゃないか」
「でも、あててごらんなさいよ。あなたの知っている人のはずよ」
「わしが知っているはずだと?……」
小次郎は、熱心に考えこんだ。なにをするにも、彼にはいいかげんなことは出来ない。すぐ全身的になる。
「おわかりにならない?」
少女は、いたずらっぽく小首をかたむけた。面白くてならない表情であった。
「わからないなあ……」
ほんとにわからなかった。
「あたしが、将門兄さまと申し上げても?」
「一族か?」
「それは言えない」
わかりそうな気がした。
「待てよ、待てよ、待てよ」
小次郎は考えた。もう少しでわかりそうな気がした。いつの間にか、微笑していた。
「ええ、待ってます」
少女は、なおにこにこしていたが、不意に身をかえして走り出した。建物の角でふりかえって、
「わからないでしょう。わからないでしょう。アッハハハハ、アッハハハハ……」
はやし立てるように笑って、角をまわって、姿を消した。
小次郎は、たたずんでいたが、なお微笑していた。なにか、くったくのない、明るい、あたたかいものが、胸にあった。当面の心配ごとを忘れていたことに気づいて、おどろいた。
部屋にかえって、伯父の居間に行こうと立上った時、郎党が来た。
「上総《かずさ》の殿がお見えであります」
先刻のざわめきは、このためであったと知った。同時に先刻の少女が誰であるかもわかった。上総の伯父|良兼《よしかね》の娘なのだ。これまで逢《あ》ったことはなかったが、目に入れても痛くないほどに愛《め》でいつくしんでいると聞いている。
「姫を連れて参られたであろう」
「よくごぞんじで」
「そこの庭で会ったよ」
「あ、さようで」
小次郎は伯父に挨拶《あいさつ》に行った。
良兼は、旅装のまま、客殿に坐っていた。小次郎の亡父《ちち》より二歳上だから、今年四十五になるはずだ。長兄の国香にも、小次郎の亡父にも似ず、おそろしく面長《おもなが》な、しわだらけの顔をして、この時代の中年以上の人にはめずらしくきれいにひげを剃《そ》っていた。
「おお、こちらに来ているとの。元気であったか。皆かわりはないか。とりいれは無事にすんだか」
ふだんは、あまり愛想のよい人ではないが、今日はにこにこして、立てつづけに、しゃべり立てる。
小次郎は、一つ一つ、ていねいに答えた。
「ああそうか。ああそうか、ウン、ウン。結構だ、結構だ。わしもあまりここに御無沙汰《ごぶさた》したので、ちょっと来てみたところだ。やれやれくたびれた。年だのう」
笑いながら言っている時、簀子《すのこ》にバタバタと足音がして、先刻の少女が駆けこんで来た。うれしげに笑いながら、小次郎に言った。
「ホラ、もうわかったでしょう。ホラ、わかったでしょう……」
良兼が、「これ!」と叱《しか》ったが、依然として笑いながら言いつづけた。
「わかったでしょう。わかったでしょう……」
「これこれ、どうしたのだ。ちゃんと坐って挨拶をなされよ。これはそなたの従兄《いとこ》豊田の小次郎だ」
良兼はまた叱ったが、叱りながらも、可愛《かわ》ゆくてならないといった風があった。少女はそれを知っている。甘やかされている者の自信と愛らしさを以《もつ》て、なお言いはった。
「それは知ってます。だのに、この人、あたしが誰だかわからないとおっしゃるんですもの。だから、あたしはおこっているんです」
「もうわかった。良子どのだ」
と、小次郎が笑うと、少女は忽《たちま》ちまじめな顔になった。
「そう、良子です。はじめまして、よろしく」
せいぜい大人ぶった、しかつめらしい挨拶であった。小次郎はまた微笑をさそわれながらも、おとなしく答礼した。
「あらまあ、お父様、まだそのままでいらっしゃるの。しょうのないお父様――さあ、さあ、早く着がえをなさって」
良子は、手をたたいて郎党を呼び、父の衣類を持って来させて、着がえをさせはじめた。甲斐《かい》甲斐《がい》しくて、行きとどいて、母親じみた愛情さえ見える。小次郎は、女の子というものの不思議さを見る思いであった。
常陸大掾源ノ護《まもる》は四十三になる。もともとたけの高い男であるが、長い顔に長いあごひげを生やしているので、一層高く見えた。
嵯峨天皇四代の末という高貴な血統を持つ彼が、遠く東路《あずまじ》のはてに、地方官としては三等官にすぎない大掾となって赴任して来たのは、中央にいては官途がふさがれているからだ。当時、中央では、藤原氏の氏人《うじびと》でなければ、ぜったいにといっていいくらい立身が出来なかった。
この由来は遠い。三四十年前、関白藤原|基経《もとつね》は辣腕《らつわん》をふるって、天皇といえども藤原氏の威力の前には手も足も出ないほどの権威をきずき上げたが、このことは皇室内に反藤原の空気をつくらずにいなかった。基経の死後、宇多天皇は、藤原氏をおさえるために、下級|公家《くげ》で儒林の出身である菅原道真《すがわらのみちざね》を右大臣の高官まで引上げたのである。
これは、藤原氏にとって、覆轍《ふくてつ》の戒めとなった。百方術策をつくして、道真を失脚させると、政権の周囲に厳重に垣《かき》を結い、他氏の者で少し目ぼしく見える者は、神経質に、かつ容赦なくたたきおとした。人臣であろうと、皇族であろうと、差別はなかった。
皇族でも、生母が藤原氏の出身である皇子なら、その人一代は相当栄達も出来るが、子や孫の代になると、どうあがいても、ウダツの上らない下級の廷臣となるよりほかはなかった。
まして、藤原氏でない女の生んだ皇族の境遇のみじめさは、話にならなかった。現に小次郎等の曾祖父《そうそふ》である高見王は、まさしく桓武の皇孫だというのに、生涯《しようがい》を無位無官でおわり、その子高望王の時、藤原氏にとり入って、やっと二級の地方官にありついて、坂東に赴任して来たのだ。
護もこれであった。血縁上藤原氏となんの関係もない皇族だったので、要領よく中央に見切りをつけ、百方の運動の末、地方官となってこちらに来たのである。
こんなわけで、護は、最初から、当地に土着するつもりで、赴任して来たのであるが、同じ王氏の末でこの土地に土着して栄えている平氏を現実に見て、その念《おも》いは一層切になった。そこで、地位を利用して、あるいは開墾により、あるいは収賄《しゆうわい》により、あるいは交換によって、さかんに土地を手に入れ、将来の計をなしつつある。
国香はこのことを、よく知っていた。だから、話が不調になることは絶対にないと安心しきっていた。この土地で、平氏一族と姻戚《いんせき》となることが、どんなに有利であるか、馬鹿《ばか》でないかぎりわからないはずはないのだ。
ところが、護は、話を聞いてしまうと、
「さあ」
と、首をひねった。顔に難色があらわれていた。
国香は驚いた。彼は賢い男だから、めったにおこらない。しかし、おこったふりをしてみせることが、時に効果のあることを知っている。そこで、心に怒りを包んで、それをチラリと見せるというこまかい芸をしてみせた。
「御承諾は願えんですかな。甥《おい》の申す所によると、しかるべき人を立てて来いと仰《おお》せられたというのですが、わたしでは貫禄《かんろく》が不足だとでも仰《お》っしゃるのでありましょうか」
護は、蜘蛛《くも》の巣でもかくように、長い手をふった。
「いや、いや、決して。あなたを不足だなどと、そんなことは考えません」
「しからば、甥の身分では釣合わないとでも仰っしゃるのでしょうか」
「そうでもありません」
と、言ってから、ふと、護はにこにこした。
「実は、ほんとのことを申しますと、まろはかねてから、姫はあなたの御子息に貰《もら》っていただけたら、これ以上のことはない、と思っているのですて」
「ほう、これはまた」
早速のへんじは出来ない。憮然《ぶぜん》といった面持で、国香は目を戸外にそらした。
庭には、昼前の初冬の陽《ひ》がしずかに照っていた。セキレイが一羽、長い尾をうごかしつつ、しなうような弾力のある足どりで歩いていた。
護は長い顔に微笑をうかべたまま、長いひげをしごきながら、同じようにセキレイを見ていたが、また言う。
「おっしゃる通り、一応釣合った縁ではありますが、今のところ、まろの心は御子息の方に傾いていますのでね。せめて、あの若者――小次郎将門といいましたか。あれが、身の飾りとなる官位でも持っておれば別ですが」
「官位のないのは、せがれも同様です」
「御子息は別です。つまり、官位の重みを加えて、やっと御子息と同じになるのです」
といって、護はやはりにこにこ笑っている。
子供をほめられては、話の持って行きようがない。国香は、相手が本気で言っているのか、ことわる手段として言っているのか、疑った。
護はまた言う。
「去年のあのさわぎですがな」
国香は顔を引きしめた。
「あれは、あの時、おわび申し上げてゆるしていただいたことと、当方では心を安んじていたのですが、まだお心は解けていなかったのでありましょうか」
強い調子のことばになった。
護はあわてた。
「いや、いや、そのつもりで申したのではありません。即断なさらんでいただきたい。実は、あの時、当方では申せば申すことがありました。あの時の貴方《きほう》の申し条と、当方で取調べたことの間には、かなりな違いがありました。貴方の申し条では、今の話の甥御が主動者ということになっていましたが、当方の郎党共の申す所では、御子息が主動者ということになっていたのです」
国香はだまっていた。実を言うと、彼も大体そんなことではないかと思っていたのだ。あの時の貞盛《さだもり》の説明は非常におかしかった。そのまま信ずるほど彼は単純ではない。しかし、小次郎が別段異議を申し立てなかったし、何よりもそうしておいた方が都合がよいと思われたから、洗い立てなかったのだ。
が、今はおどろいて見せる必要がある。彼は大いにおどろいた顔になり、口を挟《はさ》もうとした。
護は手を振っておさえつけた。
「まあ、まあ、もう少し聞いていただきたい。――つまり郎党共は、あの前夜、御子息と争いをおこして手込めにされたのを遺恨として、仕返しのため押し出して、あのさわぎになったと申したのでした」
国香は、反駁《はんばく》しようとした。護は、またそれをおさえた。
「まあ、まあ、まあ。そのことを、まろはむしかえす料簡《りようけん》はさらにありません。まろは、まろの心意気を聞いていただきたいだけなのです。即《すなわ》ち、あの時、まろが、貴方《きほう》の申立てをそのまま呑《の》んで、なんの異議も申し立てなかったのは、先刻お願い申したようなことを考えていたからなのであります」
「…………」
「まろのこの思い立ちが、ずいぶん久しいものであることを、わかっていただけましたろうか」
国香は、茶色の目をすえて、考えこんでいた。
昔その官にいた国香には、現職の大掾というものがどんなに力のあるものか、よくわかっている。そのような人物と縁を結んでおくことは、決して損になることではない。開墾しようとする原野の払い下げや、所領の境目争いの時など大いに役に立つ。とりわけ、悪くすると訴訟さわぎにもなりかねない小次郎との所領一件のことには、早速役に立つというものだ。
けれども、小次郎に頼まれて来ている今の今、これを受けることは出来なかった。小次郎への義理の悪さはともあれ、護に心術の奥底を見られるおそれがある。
国香は考えこんだ顔で言った。
「意外なことをうけたまわって、途方にくれました。出直してまいりたい」
護はわらった。
「そうですか。しかし、まろの心は変りませんよ」
「とにかく、出直して参ります」
「結構」
国香のかえって行くのを、護は車寄せまで見送った。もうあの話は出なかったが、二人とも上機嫌《じようきげん》で、にこにこしていた。
国香は、途々《みちみち》思案を凝らし、ある工夫に達して、館《やかた》にかえりついた。
郎党等にまじって、良兼|父娘《おやこ》と小次郎が、車寄せに出迎えた。
「おお、来ていたのか」
「ああ、あまり御無沙汰ばかりしているので」
二人は、二人にだけ通ずる複雑な思いをこめた目くばせをし合った。
「あとで呼ぶから来てもらおう」
と、国香は小次郎に言って、良兼父娘だけを伴って、客殿に向った。
小次郎は、国香の表情から何も読みとることが出来なかったが、いい方には考えられなかった。一言ですむことだ、首尾がよければそう言ってくれるはずと思うのだ。おちつかない気持で、あてがわれたへやに引っこんで待った。
小一時間も待たされた頃《ころ》、短い冬の日は、早くもたそがれて来た。気温が生温かくなって、空が薄曇りして来た。その薄曇りした空を凝視しながら物思いにふけっている小次郎の胸に、ふと湧《わ》いた思いがあった。
伯父達二人の間に、このことが話題に上っているに違いないと思ったのだ。縁談を申しこんでことわられたということが。
(良子も同席して聞いているのだ)
と、思った時、からだ中が羞恥《しゆうち》に燃え上った。いきなり立上って、へやを出ようとした。国香の居間に行くつもりであった。
そこに、国香の家の下人が来た。国香が呼びによこしたのであった。
気負いこんだものが、小次郎の胸にはあった。
「そうか。よし!」
と、答えて、その方に行った。
国香は、良兼とともにいた。良子はいなかった。なぜかホッとした。黙って、一礼して、小次郎は坐《すわ》った。
そのどこか重く鈍げな様子を見ると、国香は今さらのように、なるほどせがれにくらべると大分おとるわいと思った。喜びと意地悪さのまじった心で、顔形、風采《ふうさい》、立居振舞、口のききかたと、一々くらべて見ずにはおられなかった。
国香は、まず言った。
「話は、案外簡単に行かない」
そうか、やっぱりそうか、と、一層重い心になった。小次郎は、
「不承知だというのでしょうか」
声がふるえた。
「イヤ、イヤ、そうはっきりとことわられたわけではないが、先方では、身分が釣合《つりあ》わないという」
「身分?」
「先方の言う身分とは、官位のことだ。せめてしかるべき官位でもあればと申している。つまり、そなたの血統やそなたの身上《しんしよう》や、そなたの人物に不足があるわけではないが、官位というお飾りがほしいという」
小次郎はうつ向いていた。膝《ひざ》を見つめて、黙っていた。
良兼が口を出した。
「わしも今、話は聞いた所だ。血統や、身上や、人物に文句をつけるなら、わしも伯父の一人として、大いに言い分があるが、官位ということになると、なるほど無理からん言い分と、うなずかれるでの」
「どうだな。京へ二三年行って、官位を受けて来ぬか。わしも、上総の伯父御も、そなたの父者《ててじや》も、みんなそうしたのだ」
国香はさりげない調子で言った。
こうして京都へ追いはらってしまおうというのが、護の館から帰りつくまでの間に出来た思案であった。
小次郎はへんじをしない。前の姿勢のまま考えこんでいた。
国香はチラと良兼の顔を見た。
良兼がまた言う。
「わしもその方がよいと思う。官位というものは、ありがたいものでな。単に身の飾りになるだけでなく、これがあるとなかなかはばがきくのだ。領主なかまの寄合の時など、官位がないと、どう血統が尊くても、身上がよくても、武勇にたけていても、遥《はる》かな末席に坐らんければならんからのう」
しかし、まだ小次郎は黙っていた。
良兼の顔にあせりの色があらわれた。なにかはげしい調子で口を出そうとした。国香は目つきで制して、おだやかな調子で言った。
「よく考えてみるがよい。急にきめなければならないことではない。しかしそなたが行くなら、いいついでだから、貞盛もやりたいと思っている」
小次郎は顔を上げた。
「太郎も行くのでありましょうか」
「ああ。そのことは、前から考えていたのだが、そなたが行くなら、くり上げて一緒にやりたい。そなたとは兄弟同様に仲のよい貞盛だ。何かと心強かろうでな」
良兼がまた口を出す。
「いい都合でないか。そうせい、そうせい。一緒に行けば、何かと頼りになり合うことも出来る」
小次郎はふりむきもしなかった。ひたすらに自分の思考を追いつづけて、聞こえないもののように、ヒタと国香を見つめて言う。
「およそどれほどの官位を受けてくればよいのでしょうか」
国香は首をひねった。
「そうだな。先《ま》ず検非違使《けびいし》ノ尉《じよう》というところかな」
良兼も言う。
「そう、そのへんのところだな。なに、わけはない。父の由緒《ゆいしよ》、そなたの武芸、わが家の血統を以《もつ》てすれば、それくらいの役につくことは、なんの手間暇いらん」
「まいりましょう」
溜息《ためいき》をつくように重い調子で、小次郎は言った。良兼は、大きな手で、小次郎の肩をたたき、にぎやかに言った。
「行くか! 羨《うらや》ましいな。羨ましいな。京はいいぞ、酒がうまい。女が美しい。武器や武具の類も精妙なものがある。男にはこらえられんところだ。その上、かえってくれば、大掾《だいじよう》ももうイヤとは言わん。ああ羨ましい。若い者はいいな。ハハ、ハハ」
しばらくの後、小次郎は庭を歩いていた。庭には深い霧があった。ものの三間も離れると何にも見えないほどの深い霧だ。彼はいく度も重い溜息をついた。なにか心におちつきがなく、なにか不安であった。
「ああ、京! いく年行っていなければならないのだろう……」
つぶやいた時、とつぜん、つい間近で、人の声がおこった。
「マア、深い霧! まるで煙のよう。あら! ほんとに煙たいわ」
あくまでも明るい、冴《さ》えたその声は、良子の声であった。対の屋の簀子《すのこ》に立っているらしかったが、濃い厚ぼったい気体に閉ざされて、その姿は見えなかった。
なぜか、小次郎は良子に知られるのがはばかられた。すくんだようになって、そこに立っていた。
姿は見えないが、空には十四夜の月があるはずだ。霧はその細かな粒子の一つ一つに真珠色の光を含んで、あたり一面、明るくて、おぼろで、乳色の世界であった。
良子はなお簀子にいるようであった。長い溜息の音が聞こえた。
「お姫《ひ》イ様」
と、侍女らしい女の声が遠くでした。
良子はこたえなかった。
侍女がまた呼んだ。こんどはずっと近く聞こえた。
「なあに?」
と、良子は答えて、急に声をはり上げた。
「ここへ来てごらんよ。霧が面白いから」
侍女は、そばに来たようであった。良子とならんで声が聞こえた。
「ほんとに深い霧」
「ね、面白いでしょう。クルクルクルクルまわったり、長くのびたり、ちぢんだり、生きてるみたい。ホラ、その木の枝にからんでいるのをごらん。薄い絹のよう。手でとれるみたいでしょう」
侍女は、我にかえったらしく、また改まった調子になった。
「こんなところへいつまでもいらしてはいけません。お風邪を召します」
「大丈夫。こんなにあたたかい夜だもの。ほら、さわってごらん。胸のとこ、汗かいてるのよ」
「いけません。こんな夜は、魑魅《すだま》や物怪《もののけ》が飛び歩いて、人に災事《まがごと》をするのです。早く入りましょう」
「いや! 良子は、魑魅なんて、ちっともおそろしくない。――ほんとに面白い。どうして霧は出来るのかしら。どこから来るのかしら。こんな夜、寝るのおしい。トントントントンと、どこまでも歩いて行きたい。ねえ、庭におりてみましょうよ」
「お姫イ様!」
「いいの! だまっていらっしゃいよ。離しなさいよ。庭くらいおりたっていいじゃない」
押問答がつづいて、ほんとに庭に下りて来るけはいであった。
小次郎が狼狽《ろうばい》して立去りかけた時、掃きよせるように、端の方から霧が薄くなって、水墨でぼかし描《が》きしたように、対の屋の姿があらわれた。
「あら! 誰かいる! 誰? 魑魅《すだま》? それとも人?」
良子はさけんだ。今にも走って来そうだった。しかたはなかった。小次郎は近づいて行った。
「わしだ。小次郎だ」
「まあ、ほんとに小次郎兄様だ。どうなさったの。霧が面白いの。ねえ。よく見てごらんなさいな。霧って、生きているのよ。ホラ、ホラ、ホラ、そうでしょう」
庭の木立の間に流れ入り、渦巻《うずま》き、そよぎ、動いてやまない霧を指さして良子は言う。
黙ってその霧をみながら、小次郎は、どうしてこの子はこんなになんでも面白がるのだろう、と思っていた。そして、自分は近いうちに京へ上るのだといったら、なんと言うだろうと思った。
宮仕え
年が明けて間もなく、小次郎は貞盛とともにそれぞれ郎党七八人ずつをしたがえて京へ向った。
所領の管理は、また国香に依頼することにした。油断のならない伯父だと思うのだが、他のおじ達もその点では似たりよったりのものだった。なによりも、この際その心証を害してはならなかった。
京では、それぞれの父の由緒で、小次郎は小一条のおとどと呼ばれている左大臣藤原|忠平《ただひら》に、貞盛は三条のおとど右大臣藤原|定方《さだかた》の家人《けにん》となることになっていた。
こうした有力な廷臣の家人となって勤仕《ごんし》しているうちに、その手引きで官途につくのが、当時の地方豪族のならわしであった。
家人といっても、主家に住みこむのではない。住いは外にあって、毎日出勤して、主人の外出の供とか、使いに行くとか、その他の雑用をつとめるのであった。
給与も、普通の家臣は別だが、地方の豪族で家人となっているものは、なにかのおりに不時のものを下賜《かし》されることはあるが、定まった俸禄《ほうろく》はなかった。むしろ、馬だ、巻絹だ、布だ、紙だ、砂金だと、国許《くにもと》からとりよせては献上することの方が多かった。
こうした関係を主従というのは、今の人にはおかしく思われるだろうが、猟官のための主従と思えば、容易に理解されるだろう。
国を出てから、二十日ばかりの後、二人は京へ入った。
蹴上《けあげ》を過ぎて、白川《しらかわ》まで来ると、主家への先触れや住宅の用意のために先発させておいた郎党等が、わずかに青みわたった河原に焚火《たきび》しながら待っていて、こちらの姿を見ると、大急ぎで走って来た。それぞれの主人の馬の口綱をとったり、朋輩《ほうばい》のかついでいる荷物を受取ったりした。皆なつかしげであった。
「お早いお着きでございました。もう二三日はお待ちしなければならないだろうと思っていました」
一昨日から待っているのだという。
「ずっと天気がよくて、一日の無駄《むだ》もなく来られた」
将門《まさかど》もなつかしかった。足柄《あしがら》を越えてからこちら、ずっと感ぜられなかった故郷の空気が、一時に身を取りまいた感じであった。
「当地での用意は、すっかり出来ております。小一条の御殿でも、大層およろこびで、お待ちかねのように、家司《けいし》様にうかがいました。宿は御殿の近くにいい家を見つけました」
「御苦労であったな。なれぬ土地で骨がおれたろう」
「いや、いや、さすがに京《みやこ》でございます。よろずに便利に出来ています。少しも苦労はありませなんだ」
間もなく、少しはなれたところで、同じように郎党と話していた貞盛が、馬を近づけて来た。にこにこしていた。
「小次郎、ちょいと耳をかせ」
「なんだ」
「ちょいと他聞をはばかる」
耳をよせると、ボシャボシャとささやく。
「おれの宿のとなりは、大蔵の史生《ししよう》(書記)の屋敷で、若い美しい娘が二人もいるという。おぬしの宿の附近はどうだ」
小次郎は笑った。
「知らんよ、そんなこと」
「聞いてみろ」
「そんなことが聞けるか」
「聞けないことがあるものか。よし、ではおれが聞いてみる」
貞盛は、小次郎の郎党を呼んで、馬上から首をさしのばして、その耳許にささやいた。郎党はにやにや笑いながら聞いていたが、首をふりながらささやきかえした。
貞盛は、馬上に居ずまいを正した。
「居ないというぞ。右も、左も、前も、古女房ばかりだというぞ。しかし、その方が小次郎にはよかろう。京方《みやこがた》の女などに心をうつしては、国に待つ人が泣くからな」
と、大きな声で言い、大きな声で笑った。
「ばかばかりいう男だ」
赤くなりながら苦笑する将門の胸に、その人への切ない思慕が灼《や》けつくようにせまって来た。
彼の視線の向いている前方には、いく筋もの浅い細い流れが糸のようにもつれながら流れている賀茂川があり、その向うに、京の町があって、おどんだような薄靄《うすもや》の中に、薄ら陽《び》ににぶく光る屋根をならべていた。それを見ながら、小次郎は、遠い東路《あずまじ》のはての国に思いをはせ、そこでその人は今どうしているであろうと思いやった。涙がにじんで来そうな気持であった。
馬の膝《ひざ》も濡《ぬ》れないほどに水の涸《か》れている賀茂川をわたったところで、この二組の坂東人《ばんどうびと》等はわかれた。貞盛等は真直《まつす》ぐに三条通りへ、小次郎等は河原の堤の上を上《かみ》の方へと。
別れる時、貞盛は言った。
「落ちついたら来いよ。おれも行く」
「ああ」
小次郎は心細くなっていた。ここまでの旅の間中、宿を借りるとか、関所での応対とか、そんな色々な交渉事は、すべて貞盛がひきうけて、てきぱきとやってくれて、小次郎はなんにもすることがいらなかった。しかし、これからは自分でやらなければならない。郎党がいるといっても、相手と事柄《ことがら》によっては、主人たる自分がやらなければならないと思うと、不安になってくるのだ。
少し行ってふりかえってみると、貞盛の一行は三条通りへ入るところであった。ふりかえるかも知れないと、馬をひかえて待った。しかし、出迎えの郎党等と馬をならべて話しながら行きつつある貞盛は、遠く離れているここまでひびく高笑いを上げながら、ついに一度もふりかえらなかった。
小次郎のために郎党の準備しておいた家は、勘解由《かげゆ》ノ小路《こうじ》高倉にあった。下級の廷臣で、去年から北陸路へ受領《ずりよう》(国司)となって行っている者の邸《やしき》であるとかで、かまえは小さかったが、木立なども適当にあって、住み心地は悪くなさそうであった。もう水仕《みずし》の婢《おんな》なども三人やとって、不便のないようにしてあった。
小一条(近衛通りの南にあった通り)東《ひがし》ノ洞院《とういん》にある小一条院へは四五町の距離であった。
とりあえず、到着の由《よし》をとどけるために、郎党をそこへ走らせると、間もなく帰って来た。
「明朝|巳《み》の刻(十時)までに御出頭あるようにと、家司《けいし》様の仰《おお》せでございます」
翌日は、早朝から起きて、服装をととのえ、時刻までに出かけた。
驚くばかりの壮大さであった。北は小一条から南は勘解由ノ小路に至り、東は洞院から西は烏丸《からすま》に至る一|区劃《くかく》の条坊全部が、その邸になっている。
壮麗でもある。ぐるりと邸地を取りまいている築垣《ついじ》は、普通より高く、塗りもなにか特別な色素でもまぜてあるのか、豊かで貴い色をしている。建物が大きくて、その数の多いことはもちろんだ。屋根は檜皮《ひわだ》で葺《ふ》いてあるが、葺き方が違うのであろうか、材料の檜皮からして違うのであろうか、厚く豊かに葺かれたそれは、燻《いぶ》した黄金のように高貴な色をして、深々と春の陽を吸いこんでいた。庭の樹木も、一つ一つの葉が洗いみがかれてあるように清麗で、また生き生きとしていた。
話には聞いて来たが、想像は遠く及ばなかった。
そぞろに湧《わ》いて来た畏怖《いふ》感に、肩をすくめながら腋門《えきもん》を入ろうとすると、いきなり、どこからか、はげしい叱咤《しつた》の声が飛んで来た。
「無礼者! どこへ通る!」
小次郎は、はっとおびえて足をとめた。どこに人がいるかわからないので、キョロキョロと見まわしていると、門側の建物から、刀を帯び、弓をたずさえた男が出て来た。紅《あか》い水干《すいかん》に白い袴《はかま》をはき、背に負うたえびらの矢が、肩の上で扇形にひらいていた。
「どこへ通るのだ! ここは左大臣殿下の御殿だぞ!」
と、どなりつけた。
小次郎は、うやうやしく式体《しきたい》した。
「てまえは、下総《しもうさ》豊田の住人、平ノ小次郎将門と申す者であります。この度、当御殿に勤仕《ごんし》するゆるされをこうむって、国許から出てまいりました。御家司大中臣《おんけいしおおなかとみ》ノ康継の殿から、今日この時刻に出頭するようにとのおさしずをいただいております」
紅い水干の男は、まじまじと小次郎を見、そのうしろにつつしんだ形でひかえている郎党共に目をくれ、さらにその目を小次郎にうつした。
「ハハァ、おぬしか、今日来ることになっている東夷《とうい》は」
トウイとはなんだろうと、思ったが、口数多くものを言いたくなかった。
「そうでございます」
相手はにやりと笑った。
「おぬし、東夷というのはなにか知っているか」
「存じません」
相手はカラカラと笑った。
わけはわからなかったが、侮辱されていることは感ぜられた。ムッとした。おそろしい目になってにらみつけた。国では草刈りの奴隷《やつこ》にもいないようなヒョロヒョロ男め、これ以上侮辱するようだったら、ゆるさんぞ、と、思った。
それに気づいてか、相手は笑いやんだ。
「家司様からのおさしずがあったのなら、手形があるはずだ。見せい」
「手形と申しますと」
「御殿出入りの手形だ」
小次郎のうしろにひかえていた郎党が進み出た。黙ってその男の側《そば》に近づいて、男のあいている手と、自分の手とを、サッとふれ合わせた。
郎党の手と、相手の手とは、触れたか触れないかわからないくらい、ほんのちょっと触れ合っただけだったのに、どうして渡したか、どうして受取ったか、男の手には砂金包みがつかまれていた。
男は紅い袖《そで》をひるがえし、重さをはかるように、軽くその手を一ふりしたと見えたが、これまた実にすばやく、からだのどこかへしまいこんだ。
「よろしい。りっぱな手形だ。通りなさい」
しかつめらしい顔になっていた。
家司、大中臣ノ康継は三十七八の、でっぷりふとった、色の白い顔がテラテラと脂《あぶら》光りしている男であった。以前山陰地方の国司をつとめ、今は退官しているが、やがてまた大臣《おとど》の引きで国司かせぎをしたいと思って、この家に勤仕しているのだ。つまり、彼も、また猟官者の一人なわけであった。
彼は六人居る家司の一人で、侍所《さむらいどころ》の別当をかねていた。
「おお、おお、御無事の着到めでたいな。道中はどうであった。面白い旅が出来たかな。先だっては、御家来衆をもってくさぐさのものをたまわり、お心入れの段いたみいる」
小次郎を見るや、こぼれんばかりの愛嬌《あいきよう》をもって迎えた。返事のことばを入れるスキのないほど流暢《りゆうちよう》に、次から次へとしゃべり立てる。こちらはまごつくばかりであった。しかし、べつだん返事をしてほしいわけではないらしく、なおひとしきり弁じ立てた後、
「それでは、明日より出仕いたすよう。辰《たつ》の刻(八時)が出仕の時刻になっている。本日はこれで帰ってよろしい」
といって、立去った。
左大臣にお目見えする心組みで来たのだが、しかたがない。小次郎は帰宅した。
帰宅すると、郎党が、別当のところへ進物を持って行きたいと言った。
「進物は、この前持って行ったろう。今日それについての礼を言われたぞ」
「着到の際は、またもって行く習わしである由です」
「では持って行け」
「なにをいかほど持って行ったらよろしゅうございましょうか」
「おれは知らん。汝《われ》が適当と思うものを、適当と思うだけ持って行け」
不愉快であった。物おしみの心からではない。取ったが上にも取る強慾《ごうよく》を礼儀という名目で合理化しているのが、不愉快であった。
「巻絹五反に砂金の五両も持ってまいりましょうか」
「この前はなにをいかほど持って行ったのだ」
「巻絹十反に砂金を十両持ってまいりました」
「よかろう」
旅の疲れがあったので、その日はそれから寝てすごし、夜になって酒をのんでまた寝た。
翌日は、昨日言われた時刻に出勤した。
「昨日はいただきものをした。お世話であった」
と、家司は言った。昨日のように愛想よくはなかった。なんとなくよそよそしいものが感ぜられた。進物が少なかったのではないかという気がした。
「こちらへまいれ」
家司は、侍所につれて行った。
侍所は、西の対の屋の外に、厩《うまや》とならんで建っている建物の中にある。薄暗いそこでは、多数の侍等が円陣をつくって坐《すわ》り、ガヤガヤ言い合っていたが、一せいにふりかえった。薄暗いので、目ばかり鋭く光っていた。坐り直して、居流れて家司を迎えたところを見ると、皆くっきょうな体格と面魂《つらだましい》をもった者共であった。
「またバクチを打っていたのか。精が出るのう」
と、家司は苦笑した。小次郎を示して紹介した。
「この者が、今日からそなた等のなかまになる。下総の国の住人、平ノ小次郎将門、前《さき》の鎮守府将軍|良将《よしまさ》の嫡子《ちやくし》だ。よろしくつき合うよう」
侍等もそれぞれ名乗った。多くは小次郎と同じような目的をもって来ている者らしく、地方の出身者で、京出身の者は二人しかいなかった。
家司は、そのまま立去りかけた。小次郎は追いかけた。
「しばらく」
「なんだ」
「おとどにお目見えのことは……?」
「あとであとで」
手をふって、行ってしまった。
あとで連絡するという意味であろうと、小次郎は考えた。侍所にかえって、朋輩等のバクチを見ていた。
「東《あずま》の衆、入りなさらんか」
と、一人がさそった。
すると、他の一人が、どなった。
「入りなさるなよ! ばかなことだ。おことのような若い人の覚えなさることではない!」
はげしい調子だったので、小次郎はおどろいた。ここにいる連中の中で、一番たくましいからだと面魂を持っている男であった。備後《びんご》の国の住人、三宅《みやけ》ノ太郎清忠というこの男は、バクチも一番上手らしく、しきりにもうけていた。
小次郎は、昼過ぎまで待ったが、なんの連絡もなかったので、家司のところへ行ってみた。すると、もう退出していた。
所在なく、夕方の退《ひ》け時までバクチを見ていて帰った。
翌日は、出勤するとすぐ、お目見えのことを頼んだが、「本日は多忙でそんなひまはない」といわれ、また終日バクチを見ているよりほかはなかった。
四日目は非番だとかで、家司は出勤していなかった。
五日目には、出勤するや、淀《よど》のなにがし寺まで手紙を持って行って返事をもらって来いと命ぜられた。
騎馬で出かけて行ったので、昼にはまだ間のある頃《ころ》、先方についたが、坊さんが他出していた。帰りを待ったので、帰りついた頃には、もう薄暗くなっていた。
その翌日は、非番だったので、市中見物に出かけた。郎党一人、下人一人をつれて、先《ま》ず内裏《だいり》を志して行くと、ある町の辻《つじ》で、横合から声をかけられた。
「下総の、下総の」
三宅ノ清忠であった。供もつれずただ一人、辻を曲って出て来た。にこにこと、笑いをふくんでいた。
「おお、これは……」
小次郎も、微笑して、会釈《えしやく》した。
「どこへ在《わ》せられる?」
清忠はノソリと寄って来た。
「非番でありますので、見物にまいります。おことはまたいずれへ」
「わしも非番で、あまり退屈なので、出てまいった。――どうです、案内役をうけたまわりましょうかな」
「願ってもないことですが、それはあまりに恐縮です」
「|しんしゃく《ヽヽヽヽヽ》はいりません。なんでもないことです。おかげで、退屈がしのげます。――見物は今日がはじめて? さようか。それでは、先ず内裏だろうな。それがすんだら、次は清水《きよみず》にいたそう。それで、今日一日はたっぷりかかる」
相手は、もう引受けた気になって、見物のプランを立てる。
知りあってわずかに数日にしかならないが、小次郎は、同僚の侍共の中ではこの男に一番親しみを感じている。
先ずその容貌《ようぼう》だ。骨組が荒く、皮膚が厚く、遅鈍なくらいノンビリしていながら、どうかしたはずみに出るはげしい気性や鋭い目のきらめきは、狩猟や、牧畜や、農耕や、戦争を日常のことにしている人のものであった。こんな顔は京にはない。あくまでも地方のものだ。坂東や陸奥《むつ》に多くある顔だ。小次郎にはそれがうれしかった。
次には、その性質だ。薄いなじみだからよくはわからないが、ちょっと鹿島《かしま》ノ玄明《はるあき》に似たところがあるように思われる。あの悪党じみた豪快さは、国にいる頃には魅力でもなんでもなかったが、見ず知らずの人ばかりの中で生活するようになった今では、なつかしいものと思い出されるのだ。
当時の内裏は、大《だい》内裏である。北は一条におこり、南は二条に至り、東は東大宮から、西は西大宮に至って、南北四百六十丈、東西三百八十四丈、全面積約五十万坪を占め、瓦《かわら》屋根をいただいた高い築垣《ついじ》をめぐらし、その外を溝《みぞ》が流れ、四方に十二の門を開き、中には皇居と中央官庁の全部とをはじめとして、種々の儀式の殿堂等が甍《いらか》をならべていた。
日本の皇室が名実共に日本の主《あるじ》となり、完全に日本を握ったのは、七世紀半ば以後のことである。クーデターによって最も強大な豪族であった蘇我《そが》氏をほろぼし、引きつづいて大化の改新を行って、支那《しな》の制度にならった中央集権の制度をしき、次々にこれを整理して行って、完全に日本全土の民と富とを集め、ついにあの奈良朝の盛世を招いたのだ。
平安の京《みやこ》のこの大内裏は、この奈良朝盛世のあとを受けて、八世紀末に営まれたもので、いわば皇室の繁栄の最も見事な象徴というべきであった。
その時からさらに百二三十年、皇室の権力は藤原氏にうばわれ、天皇は飾雛《かざりびな》的存在となり、諸国には在地の地主が続出し、群盗めいたものもぼつぼつ出ている。即《すなわ》ちかつては皇室の栄えのもとであった中央集権の制度は老衰期に入りかけている。
だから、その目で見れば、大内裏の宏大《こうだい》壮麗も、いたずらに昔の栄えを物語る暗い記念物としか見えないはずであった。しかし、小次郎にそんなことのわかろうはずはない。ひたすら驚嘆して眺《なが》めた。
清忠は、小次郎の感嘆している様子を、黙って見ていたが、ふと言った。
「将門の殿、おこと三善《みよし》ノ清行という人を御存知《ごぞんじ》か」
「存じません」
小次郎はおどろいて、ふりかえった。
「御殿の方でしょうか」
清忠はほほえんだ。
「もう死んだ人ですよ。学者ですよ。文章《もんじよう》博士《はかせ》で、後に参議にして宮内卿《くないきよう》を兼ねる身分となられた」
なぜそんな人のことを清忠が言い出したか、小次郎にはわからないが、清忠の語気には是非知っていなければならないことを教えるというような感じがあった。小次郎はあっけにとられた。
「はあ……」
つつしんだ様子で聞いていた。
「ずっとずっと前、もう十いく年も前、その清行卿がみかどに封事《ほうじ》を奉《たてまつ》られた。封事というのは、かたく封をしてみかどに奉る意見書のことです。その意見書の中で、清行卿は、今の世の政治上の弊害十三カ条を数え上げ、これを改革なさるべき旨《むね》を説かれたところ、みかども、公卿《くぎよう》方も、一々もっともであると、大へん感心されたが、感心されただけで、どうということもなく、今日に至っている由《よし》。
このことを、わしに話してくれた人が、その説明をしてくれた。これは、みかどや公卿方に政治にたいする熱情がないからではない。改革したい気持は十分にあるのだが、色々な因縁がからんでいるので、やりたいにもやれないのだと。
将門の殿、これをどうお考えだ。世の中になにがおそろしいといっても、このままではいけぬ、どうにかせねばますます悪くなるばかりとわかっていながら、どうすることも出来ないというほどおそろしいことはありませんぞ。これは澆季《ぎようき》(世の末)の相《すがた》だ。滅亡の遠からぬ相だ」
小次郎は、ただおどろいていた。おそろしいことを言う人と、まじまじと見つめていた。彼は清忠の言うことを信じはしない。この大内裏の雄大壮麗を眼前にしながら、どうしてその衰弱や滅亡を考えることが出来よう。いつか、われ知らず、薄笑いが浮かんで来た。
その薄笑いに気づいて、清忠はカラカラと笑った。
「お信じにならんようだな。無理はない。おことは京へ来てまだ数日にしかならない人だ。しかし、やがて、京の公家《くげ》衆というものが、朝廷というものが、どんなものか、おわかりになるであろう。そしたら、わしの申すことがまんざらのでたらめでないことも、おわかりになるであろう」
たっぷり五時間ほどもかかって、内裏の見物をすませて、清水に向ったが、朱雀大路《すざくおおじ》を下って四条の通りまで来ると、前方におびただしい人の群れているのを見た。真黒にかたまって、わいわいとひしめき、同時に、笛や、太鼓や、銅鑼《どら》等の器楽音が、節おもしろくはやし立てている。
清忠は立ちどまって、そちらを見た。
「ああ、またやっている」
と、つぶやいた。
「なんでしょう」
と、小次郎はきいた。
「近頃のはやりものですよ。神様だといっていますがね」
「神様?」
「供物《くもつ》をささげて礼拝《らいはい》して信をいたせば、七難即滅、七福即生、願事《ねぎごと》すべてかなうというので、近頃大はやりのものです」
「験《げん》があるのでしょうか」
「さあ、どんなものですか。しかし、ああして大繁昌《だいはんじよう》であるところを見ると、相当験もあるのでしょうな。――行ってみますか」
「行ってみましょう」
五条通りのこちら、高辻通りの辻であった。道のわきに祭壇を設けてあった。御神体をすえた壇は、質素というより粗末といっていいくらいの、白木《しらき》造りのごく簡単な小さいもので、移動の便のためであろう、二輪の小さい手車にうしろ向きにのせてある。
しかし、その祭壇の前にすえた供物台はすさまじい。同じく白木造りではあるが、はば二尺長さ五尺にも及ぶのが三つも並んで、上には餅《もち》だ、米だ、粟《あわ》だ、黍《きび》だ、栗《くり》だ、酒だ、巻絹だ、布だ、干魚だ、というようなものが、それぞれ三方《さんぼう》に盛りわけて、所せまいばかりにならべ立てられている。
その几《つくえ》の前に、さらにもう一脚、少し脚の低い小型のがあって、早春の花をさした瓶《へい》と、香炉がおかれて、あたり一面が霞《かす》んで見えるくらい濛々《もうもう》たる香煙が立昇っていた。
祭壇の両わきには、古びた白丁をまとった十人あまりの人がいて、笛だ、太鼓だ、銅鑼だ、笙《しよう》だ、ササラだ、といった様々の楽器を奏していた。おそろしくやかましく、おそろしく性急な曲だ。聞いていると、耳がつんぼになりそうだし、気が変になりそうだ。
それに、その楽人共だ。一人として、普通の人相のものはない。赤黒く日灼《ひや》けした荒れた皮膚をし、鼻がとがり、鋭い目がくぼみ、頬《ほお》が落ち、首が長く、やせた手足も長く、なにか闘鶏めいた感じの者共であった。
几の前に、一人の女がいた。白綾《しろあや》の袿《うちぎ》に、緋《ひ》の袴《はかま》をはき、長い真黒な髪を背になびかせ、顔にも、手にも、胸にも、真白に白粉《おしろい》をぬり、唇《くちびる》には玉虫色に光る臙脂《べに》を点じていた。いやらしいくらいけばけばしい化粧《けわい》であったが、器量は悪くなかった。そのいささか角ばったあごや、かがやきの強い目に、一種異様な妖《あや》しい美しさがあった。
女は右手に檜扇《ひおうぎ》を持っていたが、時々それを目の高さに上げて、印《いん》でも切るような動かし方をした。
すると、その度に、群衆は、
「帰命頂礼《きみようちようらい》、帰命頂礼……」
と口ずさみながら、合掌し、拍手《かしわで》した。
香炉の前には、たえず群衆が入れかわり、香をつかんで投げこんでは、礼拝した。
小次郎は、清忠に連れられて、祭壇の前面にまわり、人々の頭ごしに御神体を見た。
それは、小さな人形であった。男女二体。男は衣冠し、女は宮女の服装をしていた。男神も、女神も、顔面に胡粉《ごふん》をぬり、ピカピカ光っていた。精巧なこしらえのようではあったが、なんのめずらしいところもない普通の神像のように見えた。
「なんという神様です」
と、小次郎は聞いた。
「さえの神といっています」
と、清忠は答えた。
「さえの神?」
「ささえ、さえぎる神という意味の由。この世とあの世の境、人間の世界と魔界との境におわす神ですとか。あの連中は、こう申す。すべて人のわざわいは、あの世にいる死霊《しりよう》、魔界の魔物の働きかけから生ずるのであるが、さえの神はその境目にいて、これをさえぎりとめてくれる。されば、これを礼拝して信をいたせば、すべての災厄《さいやく》はおこらず、無病息災、福徳円満となる、と」
「ホウ? まこととすれば、なかなかのものですが、今まではどこに祀《まつ》られていた神なのでしょう」
「どこという定まった所に祀られていたのではなく、あの連中だけで昔から祀っていたものらしいです」
清忠は奏楽している連中をあごで示した。
「あの連中は、クグツですよ」
「クグ……?」
「ク、グ、ツ」
清忠は、一音一音切って発音した。
「それはなんです」
「御存知ないのか。なるほど、坂東にはいないのか。そうか。彼等は、本来この国土のものではありません。いつの頃からか、この国土に渡って来た異人種でありますとか。その本国においてはどうであったか知らぬが、この国に来てからは、一カ所に定住することをきらって、旅から旅にわたり歩いているのです……」
ここまで言って、清忠は急に声をあげて小次郎の注意をうながした。
「あ! ごらん! 面白いことをはじめるから」
小次郎は、祭壇の方に目を向けた。
いつの間に出て来たのか、祭壇の両わきに、二人の少年が出ていた。紅《あか》い水干に、紅い袴をはき、上のとがった金の烏帽子《えぼし》をかぶった、十一二の少年であった。
少年等は、重々しい挙動と手つきで、御神体にふれて、着物を脱がせにかかった。同時に、囃子《はやし》は一層の急調になった。太鼓や銅鑼は小刻みなひびきをドロドロガンガンと鳴らし、笛や笙は悲鳴に似た音を切ないばかりにきしらせ、それとともに、群衆は一斉《いつせい》に祈りの声をわめき立てた。
「帰命頂礼、帰命頂礼、帰命頂礼……」
たちまち、一種狂的で熱ッぽいものが、早春の午後の日に明《て》りわたったあたり一面にたぎり上った。
その間に、御神体は、少年等の重々しい手つきによって着物を脱ぎすてられた。裸の神体の五体はどんな仕掛があるのか、屈伸自在で、まるで生きているようであった。胡粉で塗られているので、生々《なまなま》しいくらいに白かった。
少年等は、小型なだけで生きている人体とほとんど変らない神体を壇の両端に立てて向い合わせて、囃子に乗せて、チョッチョと動かした。首をかしげ、足ぶみするそれは、生きている裸形の男女が互いに相手の様子をうかがって会釈し合うもののように、表情にみちて見えた。
御神体は、進んだり、退いたり、横に行ったり、立ちどまったりして、決断とためらいの姿を、しばしつづけた。小次郎は熱心に見ていた。信心的なものはまるで湧《わ》かなかったが、巧妙さにおどろかされた。
間もなく、彼は、あることに気づいた。御神体の肢間《しかん》に、性器がつくられているのだ。しかも、彩色までほどこして。
彼はおどろきもし、おかしくもあり、一種の憤《いきどお》りも感じた。性器の崇拝は、この時代にはさして珍しいことではないのだが、衣冠した神体がそれをそなえているばかりか、これを赤裸に引きむくるなど、見たことがない。それは涜神《とくしん》である。
(まともなものではない)
と、いう気がした。
壇上では、さらにおどろくべきことがおこった。男女の神体が抱き合って、卑猥《ひわい》きわまる所作をはじめたのである。
狂躁《きようそう》的で猥雑で、剽《ひよう》げた音楽につれて、所作はややしばらくつづき、群衆の熱狂は頂点に達した。
「帰命頂礼、帰命頂礼、帰命頂礼……」
と、唱える声は絶叫のようになった。皆、顔を真赤にして、目を狂的にかがやかせ、合掌していた。からだの中心から湧きおこって来る躍動をおさえかねて、おどり上りおどり上りした。完全に狂人になりきっていると思われた。
妖しいことに、その狂態が、ともすればこちらの身に乗りうつって来そうなのだ。小次郎の膝頭《ひざがしら》はおのずからピクリピクリとけいれんをおこし、両手は合掌しそうにふるえ、今にものどもとから叫びが迸《ほとばし》り出そうであった。
その時、清忠の手が肩をおさえた。
「行きましょう」
清忠は、微笑していたが、目には冷静な光があった。
小次郎にも、冷静がかえって来た。
「まいりましょう」
狂躁をあとに、少し行った時、清忠は言った。
「おかしな神でしょう」
「ええ」
すんでのことにあの拝跪者《はいきしや》共と同じように、合掌して叫び立てるところであったと思うと、はずかしかった。
「あるもの知り人が、あの神のあのすさまじい|はやり《ヽヽヽ》について、こう説き聞かせてくれました。澆季《ぎようき》の世になると、天妖《てんよう》、地妖、人妖と申して、色々と不思議なことがおこる。この神の盛行《せいこう》などは人妖の一つで、唐《から》でも、天竺《てんじく》でも、世の変り目にはよくおこったものだと。
それから、こうも申された。やがて、これは|おかみ《ヽヽヽ》で禁断なさるであろう。人妖は世が末になったために現われるので、人妖のために世が末になるのではない。だから、|おかみ《ヽヽヽ》としては、天の警告《さとし》と見て、先《ま》ず政治をつつしまるべきであるが、|おかみ《ヽヽヽ》というものは、なかなかそうはせぬものだ。第一、政治の弊害を除くとちがって、この禁断は大へん容易だからなと。ハハ、ハハ、ハハ、……」
清水を見物しているうちに、日が没したので、帰途についたが、河原まで下《くだ》って来ると、もう薄暮になった。
薄明りの東の河原を、上《かみ》の方に向った。方々に小屋があって、多数の人がモソモソと動いていた。藁《わら》をつかねて屋根を葺《ふ》き、莚《むしろ》をかけて壁とした、低い、小さい、それらの小屋もみすぼらしいが、人もまたみすぼらしい。髪を蓬々《ほうほう》とそそけ立たせ、ぼろぼろの衣《きぬ》を、腫物《できもの》だらけの垢《あか》づいた体にまとった、不潔とも悲惨ともいいようのない者共であった。
「これは乞食《こじき》。難病や不具のために肉親に打ちすてられた者共もあるが、多くは課役の苦しさに故里《ふるさと》を離れてこちらに流浪《うか》れて来て、この境涯《きようがい》に沈んだ者共です」
と、清忠は説明した。
浮浪人《うかれびと》については、小次郎もある程度知っている。浮浪人とは、故郷を逃亡して、流浪《るろう》して歩く民のことだが、これは公領の民に最も多い。負担が過重であるからだ。
公領の民は、普通の男で、租が稲四|束《つか》四|把《わ》(米にして二斗二升)、庸《よう》(力役)が十日、調(土産品献上)が|※[#糸+施のつくり」]《あしぎぬ》八尺五寸、絹糸なら八両、雑徭《ざつよう》(臨時力役)六十日だ。
大宝の令《りよう》に規定する正規のものですら、こんなに重いのに、中央派遣の国司共は、私利のため、これに輪をかけて搾取《さくしゆ》する。公民の生活は目もあてられない惨澹《さんたん》たるものにならざるを得ない。
圧迫された水がすき間すき間から逸脱するように、苛政《かせい》の民は故郷を離れて流民となる。これは自然の勢いだ。厳刑を以《もつ》て制禁しても、防ぐことは出来ない。
流民の多くは、私領に流れこんで、私領の民となる。これも自然の勢いだ。本来は勤勉な彼等だ。生活が立つようにして働かしてくれるなら、喜んで働きたいのだ。
坂東や、陸奥には、特に流入者が多い。未墾の曠野《こうや》が多く、従って豪族等の開拓事業が盛んであり、労働力を必要としているからだ。
こんなわけで、小次郎は浮浪人については、相当程度に知ってはいたが、まるっきりの遊民と化して、こんな悲惨な生活におちている者があろうとは知らなかった。
(なぜこの者共はこちらにいるのだろう。坂東や、陸奥に行けば、立派に人並な暮しが立つのに)
と、思った。
その小次郎の心がわかったのか、清忠は言った。
「悪いくせというものはつきやすい。怠けぐせがついたのですよ。京《みやこ》では、とりわけ、この怠けぐせがつきやすい。怠けていながら気楽な生活《くらし》をしている者が多いので、まじめに働くのがいやになるのでしょうな。ロクなところではありませんよ、京という所は」
「政治が悪いためですか。それとも、世が末であるためですか」
先をこして、小次郎が笑いながら言うと、清忠も笑って、
「その通り! よくおわかりだ」
と、言ったが、すぐまじめな調子になった。
「怠けぐせばかりならまだよいが、やつらの中には盗賊を働くやつも少なくないのです。また、さるもの知り人の受売りになるが、唐では、『勇は盗となり、怯《きよう》は乞食となる』という|ことわざ《ヽヽヽヽ》がある由《よし》。つまり、世が乱れると、勇気ある者は盗賊となり、勇気のないやつが乞食になって露命をつなぐという意味とか。このやからがそうなのですよ」
三条河原まで来て、もうとっぷりと暗くなった川瀬に、飛び飛びにおいた石に架した板橋に足をふみかけた時、不意にうしろから声をかけた者があった。
女であった。暗《やみ》にほの白く浮き上っている衣《きぬ》を被《かつ》いだ姿が、それとわからせた。しかし、顔はわからない。年頃《としごろ》もわからない。なんと言ったかもわからなかった。
「もし、そこのお人」と言ったようでもあり、名を呼びかけたようでもあった。女の少し後ろには、護衛の男だろう、太刀を横たえ、弓矢をたずさえた黒い影がうずくまっていた。
清忠はつかつかと引きかえした。目を凝らして、衣の陰の顔を見た。年頃二十五六の、切れ長な目と、面長《おもなが》な顔をもった、美しい女であった。
「おお、そなたか」
清忠の声は低い。女も低声《こごえ》で言う。
「ええ、あたし。あれは誰」
「こんど御所に勤仕《ごんし》に上った東人《あずまびと》だ。平ノ小次郎将門。桓武《かんむ》五世の後だ」
「強そうね」
「む。国の家の威勢《ちから》もかなりなものらしい。だから、色々とわたりをつけているところだ」
「そう。しかし、東人は強いばかりで、馬鹿《ばか》正直だから、よほどうまく運ばないと」
「そこにぬかりがあるものか」
「そこは殿のことゆえ、それはそうでしょうけど……」
「それはそうと、そなた、どこへ行くのだ?」
「粟田口《あわたぐち》へ。藤二《とうじ》の殿からお召しがあったので」
「そなたひとりを召されたのか」
「そうではないでしょう。阿倍《あべ》ノ小麻呂《こまろ》も召されたと言っていましたから」
「そうか。そんなら、あとでわしも行く。そう申しておいてくれ」
ふたりは別れ、清忠は小次郎のところへかえって来た。
小次郎は、郎党等と共に、所在なく待っていた。
「失礼いたした。さあ、まいろう」
橋を渡りながら、清忠は言う。
「あれはさる宮家《みやけ》に仕えている女房です。清水にお籠《こも》りにまいる途中だというのです」
弁解めいた言い方だと小次郎は思ったが、
「そうですか」
とだけ答えた。
川をわたって、少し行ったところで、清忠は別れを告げた。小次郎は、清忠を宿にともなって饗応《きようおう》するつもりでいたが、なんにも言わず、礼だけ言って別れることにした。なんとなく、あの女のあとを追って行くのだという気がしたからである。
「では、明日御殿でお会い仕《つかまつ》ろう」
清忠は、小路の暗に消えて行った。
翌朝、出仕しようとして、着物をかえていると、門前を掃除していた下人が、庭に走りこんで来た。
「申し上げます」
下人は箒《ほうき》をたずさえたまま、庭に膝をついて、ほんの今、往来の人から聞いたという昨夜の出来ごとを報告した。
七条烏丸に、遠国の国守《くにのかみ》を二期もつとめて有徳《うとく》(富裕)の評判のある人の屋敷があるが、その屋敷を、昨夜半、十数人の兇盗《きようとう》が襲い、家族全部を惨殺《ざんさつ》して、財宝を奪い去ったという。
「甲冑《かつちゆう》に身をかためて乱入し、人々を殺した後、牛車にのせて財宝を運び去ったと申しますから不敵な話で」
「それほどのさわぎを、隣近所の者は、どうしていたのだ」
「右隣も、左隣も、前も後ろも、公家《くげ》衆の邸《やしき》でありますが、皆ただ恐れに恐れ、声をのみ、息をひそめて、かがまっていた由であります」
「女子供はそうであろうが、男はどうだったのだ。男はいなんだのか」
「いましても、さわらぬ神に祟《たた》りなし。わが家ばかりを守って、よそのことにはかまわぬのが、当地の習わしでありますようで。――人の情《こころ》の薄いところでございます、当地は。なにごとも、自分だけで」
先発して来ている下人は、いく度かそんな目に逢《あ》っているのだろう、なげくような調子のことばになった。
都会の個人主義は、都会という社会形態が生む必然のもので、あながち都会人の不人情にのみ帰することは出来ないのだが、吉凶ともに隣保相救い相慶弔する田舎の生活しか経験のないものにしてみれば、こう考えるのも無理ならぬことであった。
「人の情が薄いのか、男心《おのこごころ》がないのか、おれは気に入らぬ」
小次郎も、いまいましげにつぶやいた。
間もなく、御殿に出勤した。盗賊の話は、侍等の間に出てはいたが、通り一ぺんの噂話《うわさばなし》にしかなっていない。近頃の京ではめずらしいことではないのだという。被害者にたいして同情のないのにもおどろかされた。
「あの受領《ずりよう》は在国の時、随分ひどいことをしたと聞く。財|悖《もと》って入るものは悖って出る。天罰だな」
清忠などは、こう放言したほどだ。
その日も、お目見えは出来なかった。明日、お邸で管絃《かんげん》の遊びがあるとのことで、邸中が準備に忙殺されていたからである。
翌日は、その管絃の遊び――
お客方は、昼少し過ぎから車をきしらせて集まって来た。
小次郎は新参不慣れであるというので、何にもしないでよいからお目ざわりにならない所につつしんでおれ、と、言い渡された。
今日招かれた人々は、管絃の道にすぐれた技倆《ぎりよう》があるか、詩歌《しいか》の道に名声の高い人か、学才があるか、公家の中でも選《よ》りすぐった人々ということであったが、車のすだれを巻き上げ、長い裳裾《もすそ》をひいて下りて来る所をみると、皆薄化粧し、とりどりにあでやかな衣《きぬ》をまとい、女より美しく見えた。また、その歩きぶりの美しく優雅なこと! 小次郎は気も遠くなるほど縹渺《ひようびよう》とした思いにさそわれた。
「この人々はそのままに雲の上人で、この世の人々ではない」
という気さえした。
遊びは南庭のさかりの桜の下でもよおされ、日が入ってからはかがり火を焚《た》いてつづけられた。
小次郎は、中門の廊《わたどの》の下から見物させてもらったが、咲きものこらず散りもそめぬ花の下で、優婉《ゆうえん》典雅な大宮人《おおみやびと》達が奏楽し、歌詠し、舞いかなでる有様は、これまた地上のものでなく、彩雲の中にあそぶ天上界の人の姿と見えた。
お客方を送り出して、二更(十時)をすぎてから家へ帰ると、貞盛《さだもり》が来ていた。
おどろいたことに、貞盛は京仕立の色あざやかな狩衣《かりぎぬ》を着、薄化粧して、すっかり京の公達《きんだち》風になっている。
いやらしいことをするとは思ったが、よく似合って、優雅な中にも一脈の凜々《りり》しさをたたえた貴公子ぶりになっていることは、認めざるを得なかった。
「どうだ、男ぶりが上ったろう」
袖《そで》をひろげ、衣紋《えもん》をつくろって、すまして見せた。
小次郎は笑った。なんのためらいもなく、軽々と時の花をかざして行くその性質を、軽薄だと軽蔑《けいべつ》もしたが、一面うらやましくもあった。
色々な話の末、ふと貞盛はきいた。
「おぬしお目見えはすんだか」
「おぬしは?」
「おれはすんだ。最初の日にすんだ」
「おれはまだだ」
「まだ? どうしてだ? かかりの家司《けいし》に進物はしたろうな」
「した」
「なにをどれだけした」
「巻絹五反、砂金五両、その前に先発の郎党が、こちらへついた時、その二倍している」
「わかった。原因はそれだ。それでは少ないのだ。おれは第一回目は、おぬしと同じだけしたが、二度目ははじめの分に馬を一頭そえて贈った」
「しかし、そうだろうか。あまりケタはずれに贈物をすることは、失礼なように思われるのだが」
貞盛は笑った。
「おぬしやおれのような人間にはその通りだ。しかし、当地の者共には決して失礼ではない。多ければ多いほど喜んでいる。だから多く贈らないと失礼にあたる。それが当地の|手ぶり《ヽヽヽ》だ」
「そうかなあ」
「その証拠には、見ろ、おれは最初の日にお目見えをすましたのに、おぬしはまだウロウロしているではないか」
「おぬしの家の家司とおれの家の家司は別人だ」
「人はちがっても心は同じさ。同じ淵川《ふちかわ》に育った魚は皆似た味がするものだ」
小次郎は最初の日の門番のことを思い出した。魔術のような素早さで砂金包みをつかみ、赤い袖をひるがえして重さをはかって、からだのどこやらへしまいこんだ門番のいやらしい微笑が、目の前にちらついて来た。
「それでは下種《げす》下郎とかわりはないではないか。以前|国守《くにのかみ》もつとめ、左大臣家の家司ともあろう人の心根がそうであろうとは、おれには信ぜられない」
小次郎は腹立たしげに言ったが、もう相手の言うことを信じていた。最初の日の家司の愛想のよさ、翌日の無愛想さ。そんなことではないかという気が、心のどこやらではしていたのを、今までおし伏せて来たのだ。
なんたるいやしい根性! 身ぶるいしたいほどの気持であった。
貞盛は一層大きな声で笑った。
「京下りの国司というものが、どんなものであるか、国でおぬしも知っているではないか。とにかく、やってみろ。霊験|顕然《いやちこ》なものだぞ」
貞盛は、夜なかまでいて、帰って行った。
「泊って行ったらどうだ。ひどく物騒だというぞ」
と、小次郎は昨夜の七条烏丸の話をした。
貞盛も、その話は知っていたが、笑いながら言う。
「盗賊はイヤだが、おれには女が出来ている。隣の大蔵の史生《ししよう》の姉娘よ。一昨夜からだ。年は二八だ。ポチャポチャして可愛《かわい》いぞ。これから行くと、ちょうどいい時刻になる。盗賊なんぞ、こわがってはおられんて」
あきれていると、
「うらやましかろう」
と、大きな声で笑った。
貞盛の供をして来た郎党は、下人部屋に入りこんで、うたたねしていた。それを、
「おきろ、おきろ。供先で寝惚《ねぼ》れるということがあるか」
と、たたきおこして、帰って行った。
翌日、御殿への出がけ、小次郎は、郎党に、家司の宅に贈物を追加して持って行くように言った。
郎党はおどろいた。
「馬もでございますか」
「そうよ! 鹿毛《かげ》をひいて行け……」
どなった。いやらしくてならなかったが、しかたはなかった。
出勤すると、すぐ、皆|台盤所《だいばんどころ》に集まるようにとのふれがまわって来た。
台盤所では、台盤の上に昨日の残肴《ざんこう》が出ていた。
「これを御|下賜《かし》になった。ありがたく、皆で頂戴《ちようだい》するよう」
と、家司は言った。
人々はお礼を言上して、台盤の周囲に坐《すわ》った。
酒もある。
皆、それぞれの小皿に料理を受け、にぎやかな酒宴となった。
こうして、主人の残肴を家来共が集まっていただくのは、当時の習慣であった。しかし、小次郎はこれまで、人に食べさせた経験はあっても、食べさせられる側にまわったことはない。人々のいかにもうれしげで、楽しげで、またうまげであるのを浅ましいと思わずにおられなかった。
「おれは王《みこ》の孫で、坂東の豪族だ」
という気概が、ムラムラとわきうごいた。座にいるにたえられなくなった。そっと席を立って侍所にかえった。
誰もいないだろうと思っていたそこで、ただ一人しずかに酒をのんでいる者がいた。三宅ノ清忠であった。
清忠はにやりと笑った。飲みほした盃《さかずき》を、小次郎の前にすえ、酒をついだ。一切無言であった。
小次郎も、目だけで礼をして、それをのんだ。
だまったまま、二三度盃が献酬された時、台盤所の方から、酒に浮かされた唄声《うたごえ》が聞こえて来た。
清忠はフンと冷笑した。はじめて口をきいた。
「雲の上人のものでも、食いあましはいただきたくないですな」
こちらは微笑してうなずいた。うれしかった。この男だけが自分に近いと感じていたが、やはりそうだったと思った。
それにしても、胸に望郷の思いがせつなかった。彼は小督《おごう》を思い、広漠《こうばく》たる坂東の平野を思い、汪洋《おうよう》たる坂東太郎の流れを思い、豊田の館《やかた》を思った。
霊験は実に|いやちこ《ヽヽヽヽ》であった。翌日出勤すると、家司が上機嫌《じようきげん》で迎えたのだ。
「おお、出てまいったか。待っていたぞ。――昨日はくさぐさのいただきものをした。礼を言う。とりわけ、駿馬《しゆんめ》がかたじけない。昨日帰宅して早速に乗りこころみたが、さすがに坂東の牧育ちだ、まことに工合《ぐあい》がよろしい。うれしくてな、今朝ほども出がけに一|鞍《くら》せめずにおられなんだ。ハハ、ハハ、ハハ。
さて、今日は幸いおひまであらせられる。これからお目見えをたまわる」
手のひらをかえすようなこの軽薄な変化がいまいましくはあったが、それでも、やはりうれしかった。
「おお、おお、うれしかろう。ずいぶん待たせたからの。まろも気にはなっていたが、なにせ、御繁多でいらせられるので……」
家司は、庭伝いに、寝殿の南面《みなみおもて》の方に連れて行った。そこの庭は一面に日があたり、明《て》りわたっていた。なにをついばんでいるのか、雀《すずめ》が五六羽、チョンチョンと歩きながら、時々パッと飛び立ったが、その小さい羽音が心をおびやかすほど静かであった。寝殿もしずかだ。どこにも人のけはいがないようであった。
家司は、小次郎を南階の下に土下座させておいて、階段を上って行った。小腰をかがめ、欄干《てすり》にすれすれのわきの方を、ぬすむような恭敬しきった足どりであった。どこへ行くのかと見ていると、廂《ひさし》の間の入口に坐った。
あまり静かだったので気がつかなかったが、そこに人がいた。黒ずんで見えるほどに濃い緑の綾文《りようもん》の直衣《のうし》に、立烏帽子《たてえぼし》をかぶり、机によりかかって、頬杖《ほおづえ》をついていた。
家司が小声でなにかいうと、頬杖をついたまま、こちらに顔を向けた。しなやかそうな口ひげがあり、小さいあごひげが生えていた。下ぶくれの色の白い顔である。小次郎の方に視線を向けつつ、家司のことばに耳をかたむけていたが、やがて立上って大股《おおまた》に階段の上まで出て来た。からだは小柄《こがら》で、年は四十をはるかに越していると見えた。
「良将《よしまさ》のせがれだとな。よくまいった。――名はなんとやら言ったな」
小次郎はのぼせ切っていた。胸がドキドキし、頬がほてっていた。砂に|ひたい《ヽヽヽ》を埋めるばかりに平伏し、ふるえる声で名のりはじめた。
とたんに、家司は小声で叱《しか》った。
「これ! 直答《じきとう》はならんぞ! 直答はならんぞ!」
小次郎は動顛《どうてん》し、全身汗にまみれて、言いなおした。
「家司の殿にまで申し上げます。小次郎|将門《まさかど》と申します」
この坂東武者のしくじりが面白かったらしく、忠平《ただひら》は微笑しながら言った。
「父は達者か」
父の死んだのを知らないのだろうかと、小次郎はおどろき、また当惑した。その当時、ここへは報告したはずだ。普通の者のことなら忘れることもあろうが、鎮守府将軍に在職中の死亡だ。太政《だいじよう》大臣や関白のいない現在では、この人は朝廷の首班である。どうして知らないのであろうと、迷った。
おろおろしながら言った。
「父はなくなりました。昨年、陸奥《むつ》の胆沢《いさわ》城でなくなりました」
「これ! 直答はならんぞ!」
と、また、家司はうろたえた。
忠平は、声をたてて笑った。
「おお、そうであった。そうであった。良将は死んだのであったな。気の毒なことをした。――それでは、今はそちが当主というわけだな」
小次郎は無言の平伏で、返答にかえた。
「こちらへは、どんな望みで出て来たかの」
「家司の殿へまで申し上げます」
と、こんどは小次郎も間違わずに順序をふんだ。家司のふりむくのを待って言った。
「お引きをもって、検非違使《けびいし》ノ尉《じよう》となりたいと存じて、出てまいったのでございます」
家司の顔色が変った。おびえたような顔になっていた。
わけはわからなかったが、小次郎はあわてた。覚えず、忠平の顔を見た。これにも不興げな表情が浮かんでいた。
「若いな、そちは」
つめたい調子で言いすてて、忠平は廂の間に入って行った。机の前に坐って頬杖をついた。もうこちらは見なかった。
なにか御機嫌を損じたことは明らかであった。なにが悪かったのだろうと考えてみたが、わからなかった。途方にくれて、平伏していた。
「出い! 出い! 早く出い! こちらにまいれ!」
家司は、小声に叱りつけながら、追い立てるようにして、小次郎をつれて南庭を出た。そして、中門を出るや、さんざんに小言を言いはじめた。
「いくら片田舎の育ちとはいえ、礼儀を知らぬにもほどがあるぞ。
第一、無位無官の身で、しかもはじめてのお目見えに、直答をするということがあるものか。
第二、お思いちがいのおことばではあっても、あんな返答をするということがあるものか。あんな時には、生きていますれば、何歳になるはずでございます、と、こんな工合に答えるものだ。
第三、初お目見えというのに、いきなり、検非違使ノ尉になりたいなど、おねだりがましいことを申す者があるものか。
検非違使ノ尉を、そなたはどれほどの官と思っているのだ。田舎武者などがたやすくなれるものではないぞ。
御徳を慕って恪勤《かくご》し、都の手ぶりを覚えにまいったのでございますと、こういう工合に答えるものだ。
そうして、怠りなく忠勤を励んでいるうちに、お気に叶《かな》う身になって、お気分よろしき時をうかがって、嘆願を申すのだ。
かような間違いをしでかすというのも、もとはといえば、お上を尊み奉《たてまつ》る心が薄いゆえのことだ。
まろは、そなたのため、ずいぶんと骨を折り、お気に入るよう申し上げておいたのだが、あんな風ではまるで骨折りがいがない。
気をつけてくれねばこまるでないか……」
小言は、クドクドと、いつまでもつづく。
小次郎は、また坂東にかえりたくなった。武蔵野《むさしの》、坂東太郎、狩猟、すなどり、騎射……
なにもかも駄目《だめ》になったような暗い心になって侍所にかえった。
またバクチがはじまっていた。その中心になっていた三宅ノ清忠は、鋭い目で小次郎を見たが、なにも言わずにすぐバクチにかえった。
暗《やみ》の人々
小次郎にとって、京都はいつまで経《た》ってもなじめない土地であった。
彼とて、京で官位を得ようとする以上、早く土地の風に同化しないと、不利であることがわからないではなかったが、いくらつとめても、野太いひびきと激しい抑揚をもった坂東なまりは抜けなかったし、逞《たく》ましい骨格とかたい筋肉をもったからだには、優婉《ゆうえん》な都の手ぶりがそわなかった。
気のきいた口のきき方は、軽薄に思えて、工夫する気になれないし、婉曲な言いまわしは、腹黒いことのような気がしてならない。
このような人間にたいして、都会人は決していたわりを持たない。こんな人間を軽妙に、また、婉曲に、軽蔑したり、からかったり、嘲弄《ちようろう》したりすることは、都会人にとっては、楽しい遊戯の一つだ。
小次郎は鈍感な人間ではない。その鈍重げな外貌《がいぼう》の下に、むしろ多感で、傷つき易《やす》い魂がつつまれているのだ。
彼の毎日は憂鬱《ゆううつ》なものにならざるを得なかった。官位を得るまでは京から去れないという抑圧された観念が、その憂鬱に輪をかけた。
彼に温かいものを感じさせるのは、ただ一人、三宅ノ清忠だけであった。
清忠は陰になり、日向《ひなた》になりして、彼を庇護《ひご》し、世話した。彼は急速に清忠と親しくなり、夜間や、非番の日には、互いに往来し合った。
清忠の住いは、四条の高倉にあった。これも受領《ずりよう》となって地方に行っている下級|公家《くげ》の屋敷を借りているのだとのことだが、将門の住いとは比較にならないほど大きくて立派だ。置かれている調度類も上品《じようぼん》のものばかりだ。召使っている奴婢《ぬひ》共もずいぶん多い。京へ来てこれほどの生活が出来るとは、よほどに本国の家は富裕なのだと思われた。
梅雨に入って間もなくのある日のことであった。夕方の退出時、小次郎は清忠に言われた。
「将門の殿、今夜おさしつかえなくば、お連れしたいところがありますが、いかがでしょうか」
「べつ段、さしつかえはありませんが、いずれへお供するのでしょう」
「面白いところです。必ずおためにならないような所ではありません」
「そうですか。では、お連れ下さい」
清忠は、あとで小次郎の家へさそいに行くといって、わかれた。
家にかえり、浴《ゆあ》みして、夕食をおえてしばらくすると、雨が降り出して来たが、その雨の中を、清忠は、蓑笠《みのかさ》姿で、郎党に松明《たいまつ》を持たせてやって来た。
上れというのに、面倒だからと、庭に立ちながら、言う。
「とうとう降って来ましたが、折角思い立ったことです、参りましょう。そう遠いところではありません」
「では、少々お待ち下さい」
小次郎は、同じように蓑笠姿になって、庭に下り立った。
ぬかった路《みち》を、松明の火影《ほかげ》に拾いながら、しとどな雨にぬれつつ、しばらく行ってから、かなりに大きい屋敷の門をくぐった。暗いからよくわからないが、西ノ大宮の近く、公家屋敷ばかりならんだあたりの一つのようであった。
小次郎はきいた。
「これはどなたのお屋敷でありましょうか」
「太宰《だざい》ノ少弐筑前守《しようにちくぜんのかみ》で果てられた故藤原ノ良範卿《よしのりきよう》のお屋敷でありましたが、今は御|嫡男《ちやくなん》が早く果てられましたので、御二男の純友《すみとも》の殿のお住居になっています」
こう聞いても、小次郎にはよくわからない。
「その純友の殿というのは、官位は?」
相手が自分の説明をまるでわかっていないことを、清忠は知った。笑いながら、さらに説明する。
「太宰ノ少弐で果てられた良範卿というのは、枇杷殿《びわどの》のおとどといわれた贈太政大臣|長良《ながよし》公のおん孫です。われらの仕えている小一条院のおとどの父君|基経《もとつね》公は、実はこの長良公の御三男で、叔父君である良房公の御養子になられたのですから、良範卿と小一条院のおとどとは、まさしくいとこ同士《どち》にあたり、従って、純友の殿は、小一条院のおとどのいとこ半《はん》にあたるというわけです」
「ホウ、なかなかの御家門でありますな。おいくつくらいで、どれほどの官位でいらせられるのでしょう」
「それが、無位無官」
「えッ! それほどのお家柄でありながら……?」
清忠は笑った。
「これからお逢《あ》いになるわけ故《ゆえ》、すぐおわかりであろうが、少しくせのあるお人柄で、とても薄化粧して束帯などつけておられるようなお人ではない。豪傑ですよ」
清忠は、中門を入って、寝殿の南庭に導いて行く。
寝殿の廂《ひさし》の間に、灯影があって、雨足のけぶる中に、ほのかな光をにじませていた。
ピチャピチャと、ぬれた足音を立てて入って行くと、そこの戸が音を立ててひらいた。はばひろい灯影が一気に雨の中を足許《あしもと》までとどいた。
「清忠か」
さえたひびきをもった強い声であった。灯影をかげらせて、南階の上に出て来て、ぬっと立った。
「そうです」
「連れて来たらしいな」
「連れてまいりました」
「よし。上れ。ようやく酒がうまくなった時だ」
清忠は、寝殿の西側にまわって、そこに流れている溝《みぞ》でシャカシャカと足をすすぎ、そこにあった階段を上る。小次郎もそれにならった。
廂の間には、一穂《いつすい》の大燭台《だいしよくだい》を中心に、三人の人がいた。主人の席にいる人物ともう一人は、公家風であり、もう一人は、美服をまとってはいるが、色の黒い、いやしげな顔をした、なんとなく市《いち》の商人《あきゆうど》めいた男であった。
「よく来たな。そちのことは、おりにふれ、清忠に聞いていた。まろが当屋敷の主人、純友だ」
清忠の改めての紹介を待たず、こう言って、盃《さかずき》を上げてさした。
年頃《としごろ》二十二三、血色のよい、分厚く逞ましい顔立ちだ。濃い眉《まゆ》と、かがやく大きい目が、おそろしく強烈なものを感じさせる。からだも、たてよこ共に大きくたくましい。
なにかすさまじく精力的な感じのする顔だ。
たしかにこれは公家面《くげづら》ではない。坂東や陸奥の人に多い顔だが、その坂東や陸奥にも、これほど強烈な印象をあたえる顔はめずらしい。
しかし、小次郎は、これと似た顔をどこかで見たような気がする。
(どこであったか、誰であったか……)
考えたが、なかなか思い出せなかった。
口数少なく、沈鬱な態度でいる小次郎をどう思ったか、純友はまた盃をくれて、
「遠慮はいらぬ。ちとしゃべれ。――ハハア、そちは人見知りするたちらしいな。坂東育ちだけに、からだは大きくとも初《うぶ》いらしいな。一応この連中の紹介をしておこう」
と言って、先客等を指さした。
「この公家面は、伴《とも》ノ正時、五六十年前に応天門に火放《ひつ》けした大納言《だいなごん》善男《よしお》の曾孫《ひいまご》だ。曾祖父《ひいじい》さまの悪業がたたって、なかなかの才学があるにかかわらず、また上古以来の名家大伴の正統を伝えながら、位は正八位上、官は中務《なかつかさ》省少録という小役人で、この先とて先《ま》ず昇進の見込みはない男だ。
それからこの商人面は、南海道伊予の舟乗りで、小麻呂《こまろ》という。自分では、阿倍《あべ》姓で、遠祖は斉明天皇の朝、舟師《しゆうし》何百かをひきいて蝦夷《えぞ》を伐《う》ち、粛慎《みしはせ》を伐《き》って、大武功を立てた、阿倍ノ比羅夫《ひらぶ》であると申しているが、なにわかるものか。第一、商人になり下ってからの家柄自慢など、滑稽《こつけい》なばかりだ。
しかし、なかなかの福人《ふくじん》だ。なまなかな公家など、及びもつかぬ。なにせ、安きに買い、高きに売り、舟を以《もつ》て有無相通ずるのだからの。おまけに本業以外に、チョイチョイは海賊働きもするそうな。こいつはてんからの丸儲《まるもう》けだ。福人にもなるはずさ。ハッハハハハ」
この口の悪い紹介のことばを聞いて、二人はにやにやと笑って、ただこう小次郎に言っただけであった。
「ここの殿の口の悪さは、世間で知らぬものはありません。したがって、誰も本当にはしないので」
すかさず、純友は口を入れた。
「と、言っておくのだな」
次第に小次郎も酔って来た。口数は依然として少なかったが、気持は大へんほぐれて来た。
純友は、口をきわめて、朝廷の政治のあやまりを罵倒《ばとう》した。
彼は不思議によく諸国の事情に通じていた。
曰《いわ》く、何年何月に、信濃《しなの》の国司何某が、あまりなる誅求《ちゆうきゆう》に憤《いきどお》った土民の集団に殺害された。
曰く、何年何月には、因幡《いなば》の国衙《こくが》が土民集団の攻撃を受けて、穀倉を破られて、米全部を奪われた。その際、国司はなすわざを知らず、ただ逃げに逃げた。
曰く、瀬戸内の備前・備中《びつちゆう》・備後《びんご》と南海道の伊予との間には、無数の島々が散らばっているが、その島々におびただしい海賊がいて、西海道(九州)方面からこちらに官物を運輸して来る官船は常に襲撃を受け、無事に到着するのは、十に三もない。
以上のようなことを、掌《たなごころ》に示すように知っていた。従って、彼の政治批判は、単なる慢罵ではなかった。証拠をそろえ、根柢《こんてい》を示して、堂々たるものであった。
純友は、結論をつける。
「これは天下大乱の前兆だよ。この勢いが更に進めば、天下は四分五裂する。即《すなわ》ち、英雄豪傑雲のごとく起る時代となる。前漢の末がそうであった。後漢の末がそうであった。これは唐土だけのことではない。世の中というものは、すべてこういう経路をとって移りかわって行くのだ。日本だけが例外でおられるはずがない。
この英雄豪傑共の中の最も傑出した者が、次の時代の王者となるのだ。一人が最も傑出しておれば、天下の王者となる。前漢の高祖皇帝|劉邦《りゆうほう》がそれであり、後漢の光武皇帝劉秀がそれだ。傑出の者が数人あって、その力が似たようなものであれば、天下はその数だけに分れて、その数だけの王者が出来る。魏《ぎ》の曹操《そうそう》、呉の孫権、蜀漢《しよつかん》の劉備の三人がそれだ。
今や、日本は、大乱前兆の時期にある。やがて雲の如《ごと》く起って大乱をなすべき英雄豪傑共は、どこにいるか。誰であるか。もう生れているか。
そうだ。もう生れている。おそらくは、今、諸国にあって国司を殺し、国衙を襲撃して、朝廷の官人《つかさびと》共に、盗と呼ばれ、賊と呼ばれ、姦《かん》と呼ばれて追捕《ついぶ》を受けている者共の中にもあろう。国郡に蟠踞《ばんきよ》して知らん顔で財力武力の涵養《かんよう》につとめている豪族の中にもあろう。朝廷の下役人として不平満々、酒と女に鬱をやっている者、たとえば、ここにいて、まろの気焔《きえん》を聞きながらニヤついてばかりいる伴ノ正時などもその一人かも知れない」
急転直下に、話にオチがついて、一座はドッと笑いくずれた。
うまくしてやって、純友も、面白そうに哄笑《こうしよう》していたが、すぐまたつづける。
「諸君子は笑っているが、まろは単なる冗談を申しているのではないぞ。和漢古今の歴史に思いをひそめてさぐり得た大道理を踏んまえて、論を構成しているのだ。大地を打つ槌《つち》ははずれることがあろうとも、まろのこの説にはずれはない。
さて、すでに英雄豪傑はこの世のどこかに生れているとするならば、これを統一し、これを制御して王者となるべき大英雄もどこかにいるはずだ。それは誰であるか?……」
「そこの|みこと《ヽヽヽ》だろう」
すかさず、伴ノ正時が言ったので、また一座に哄笑が湧《わ》いた。
純友だけは笑わない。人々の笑いやむのを待って、ゆるやかに首を振った。
「残念なことにまろではない。才力の点だけなら、まろは余りあるとの自信があるが、日本という国は、才力だけでは王者になれない国だ。
天照大神《あまてらすおおみかみ》の末でなければならないことになっている。それ故に、おそらくは、宮方から出るであろうが、藤原氏に関係ある人から出ないことは確実だ。なぜなら、この人々は今の世に不平を持たない。大バクチを打とうはずがない。
後漢の光武帝は、前漢の景帝六世の末で、王氏を出て久しく地方の豪族になっている身から立って、天下の主となっているが、日本でもそうなるかも知れん。とすれば……」
やや間をおいて、純友の指は、不意に小次郎に向った。
なんのことかと、小次郎があっけにとられていると、純友は言う。
「この坂東人《ばんどうびと》など、桓武五世の末だ。光武帝たるの資格はありあまっている」
思いもかけず自分に鉾先《ほこさき》を向けられて、小次郎は狼狽《ろうばい》した。どもりどもり言った。
「て、て、て、てまえは、そ、そ、そんな大それたことは、つ、露ばかりも考えておりません。迷惑であります」
そのうろたえぶりがおかしいとて、人々はまた笑いくずれた。
「こ、こ、こまります」
と、また小次郎は言った。
「まあ、そうむきになるな。ほんの座興で言ったのだ」
と、純友は笑いながらなだめて、
「座興ついでに、もう少しつづけてみよう。
さて、かくして、南陽の一豪族劉秀が雲蒸竜変《うんじようりようへん》して光武皇帝となれば、補佐の大臣には誰がなるか。それには……」
と、おのれの鼻の頭を指でおさえて、
「この純友がなってやってもよろしい。純友は、大織冠|鎌足《かまたり》の末だ。北家藤原氏、昭宣公《しようせんこう》良房の甥子《おいご》だ。家柄《いえがら》だけでも、資格は十分だ。
こんな資格は、本来はバカげたものだが、世間にはバカ者が多い故、世間に立って大仕事するには、案外このバカげたものの必要がある。これこそほんとの|こけおどし《ヽヽヽヽヽ》。ハッハハハハ。
その上、才力は余りがある。これは諸君子がよく知っている。太政《だいじよう》大臣でも、関白でも、りっぱにつとめてみせる。
オイ、坂東|人《びと》、その節はよろしく頼むぞ」
ペコリと、純友は頭を下げた。
また大笑いであった。
夜が更《ふ》けて、雨がやんで、梅雨時にめずらしく、星の降るような空になった。
このことを知ると、純友は、提議した。
「このままここで男ばかりで酒をのんで、大ぼら吹いているのも曲がない。どうだろう。出かけようか」
「結構でございますな」
と、阿倍ノ小麻呂が賛成し、一同、ゾロゾロと立ち出《い》でた。
「郎党共はかえしてしまえ。神遊《かんあそ》びは下々の者が見ては罰があたって、目がつぶれる」
と、純友は、清忠と小次郎とに言った。
実を言うと、小次郎はもうかえりたかったが、興をそぐのがはばかられた。郎党共をかえして、行を共にすることにした。
やがて、五人は、松明《たいまつ》もつけず、朱雀《すざく》大路に出て、真直《まつす》ぐに下って行った。路《みち》はまだぬかって、所々星明りで光っていた。
夜空に黒く高く羅城門《らしようもん》の聳《そび》えているのが、小半町先に見えるあたりから、狭い小路《こうじ》を東に曲って、やがて、一軒の門をくぐった。どうやら、ひどい荒屋敷のようであった。築垣《ついじ》は方々崩れおち、門の柱も傾いて、庇《ひさし》の中ほどは莚《むしろ》のように垂れ下っているように見えた。しかし、門脇《かどわき》の雑舎《ぞうしや》からは灯影が漏れていた。
「居るか」
と、純友がどなると、
「どなたで」
と、答えがあって、戸が内からひらき、紙燭《しそく》をとぼした男が出て来た。
年頃二十五六の男であった。服装も、顔つきも、卑《いや》しげであった。紙燭を目の高さにかかげて、用心深い目で純友を見、またそのうしろにつづいている人々を見た。
「おお、これは殿方、晩《おそ》いおんいらせで」
と、いいながら、小腰をかがめた。
純友は言った。
「呼んでくれ。すぐ来るだろう」
「さあ……こんなに晩いのでございますから、どうでございますか。それにこの頃はとりわけ物騒でございますから……」
「物騒をこわがる奴等《やつら》か」
言いすてて、さっさと中門の方に行く。
この中門も、くずれかけていた。
男があとを追いかけて来て、東の対《たい》の屋《や》に導き入れた。寝殿の前の南庭には、雑草が生いしげり、その中を野の道のように一筋の細道が踏みわけられていた。しとどにぬれた草が左右から蔽《おお》いかぶさって、人々の裾《すそ》をぬらした。建物に沿って樹木が植えてあったが、これも横にも上にものび放題にのびしげっているらしく、おぼろげな紙燭の灯《ひ》を頼りにして入って行くと、大森林の中に分け入るような錯覚さえあった。
建物の荒れさびているのも、言うまでもない。くずれかけた軒に八重葎《やえむぐら》がしげり、鴨居《かもい》など傾いている所もあった。
「しばらくお待ち下さい。支度いたしますから」
男は一同を簀子《すのこ》に待たせておいて、一室に入って、しばらくコトコト音を立てていた。
「お入り下さい」
ややひろいへやの真中にともし灯をおき、それをとりまいて、円座が人の数だけしいてあった。
古びてはいるが、思ったほどに荒れてはいない。いつも人が使っているらしく思われた。
「さあ、皆|坐《すわ》った坐った。何をキョロキョロしている」
純友は、一同を坐らせておいて、男の方を向いた。
「先ず酒。それから先刻申したように」
男は、無言でおじぎをして退《さが》って行く。
小次郎は、この屋敷について、これは空屋敷で、男はその番人だろうと見当はつけたが、それにしても純友とどういう関係があるのだろう、いつも来なれているらしいが、と思いながら、あたりを見まわしていると、純友が声をかけた。
「坂東の」
「はい」
「この屋敷のことを、当地ではばけもの屋敷といっている」
「さようでございますか」
「一向におどろかんな。ハハ、ハハ。ばけもの屋敷であるには相違ない。鬼も、魑魅《すだま》も、あやかしも出ないが、時々おれのようなばけものが来て、神遊《かんあそ》びをやるから。ハハ、ハハ」
「さようでございますか」
「張り合いがないな。また、さようでございますかか。しかし、そのひたおしでケレンのないところがそちの身上《しんしよう》だ。結構だ。人に調子を合わせることばかりしている当地の気風に染むなよ。男児たるものは、人の真似《まね》をしてはいかん。百世に特立特行する気概がなくてはいかん」
酒が来て、飲みはじめてしばらく後、多数の人が庭をわたって来るけはいがした。
「それ来た」
にこりと、純友は笑った。
足音は建物の中に入り、ガヤガヤと笑いさざめきながら近づいて来る。女まじりの声であった。
やがて、室内に立ちあらわれたのは、全部で十人。六人まで、若い女であった。皆美しい衣《きぬ》を着、濃い脂粉をほどこしていた。
ずらりとならんで、あいさつしかけると、純友は、
「おそいぞ!」
と、大喝《だいかつ》した。しかし女共は、一向おどろかない。一人が媚《こ》びた目をじっとりと向けて、
「おそいのは、そちら様でございましょう。こんなに更けてから……」
と、言うと、ほかの女共も一斉《いつせい》に言う。
「ほんと、こんなにおそく……」
「もう寝ていましたのよ……」
「そこの殿だからこそ来て上げましたのよ……」
藪《やぶ》の中の朝の雀《すずめ》のさえずりのようであった。
「それでもおそい。罰だ。すぐかかれ」
にやにや笑いながらも、純友のことばは厳しい。
一二杯酒をいただいてからにしたいと、女共は主張したが、
「ならん、ならん。すぐかかれ」
女共は、ブツブツ言いながら、男共の方を向いた。その以前に、男共はたずさえて来た包みを解いて、いろいろな楽器をとり出していた。銅鑼《どら》、太鼓、笛、笙《しよう》、四ツ竹、百済《くだら》琴(ハープ)。それらの楽器を一つずつ女共にわたし、自分等も持った。
しばらくざわめきがつづいて、それぞれの位置にかまえた。
四ツ竹を持った女と、百済琴を持った女とが、六尺ほどのへだてをおいて、こちらを向いて並んで立って、一礼した。
ふと、清忠が小次郎の耳許《みみもと》でささやいた。
「左側の女に見覚えがありましょう」
百済琴を持ったその女の顔をよくよく見て、小次郎はおどろいた。|さえ《ヽヽ》の神を祭っていた、あの女であった。
「どうしたのです。この者共は?」
「みんなクグツですよ。クグツは生業《なりわい》をいくつも持っていますが、天性、歌舞や音曲が好きなので、呼べばこうしてやって来て、酒宴の興をそえてくれるのです」
と、清忠が説明した時、百済琴が、余韻のない音で、ピピンピピンと鳴りはじめ、つづいて、笛がピーとひびいた。
はじめのうちしずかな、まだるいような調子の音楽であったが、ドンと太鼓が一撥《ひとばち》入れると、やや急調になった。
次には、銅鑼が鳴り、更に急となった。その頃《ころ》から四ツ竹が鳴り出した。両手にもった四ツ竹が、器用な指の動きにつれて、チャカチャカチャカチャカと鳴りつづけるにつれて、それを持った女は、ピクッピクッと、けいれんするように顔をふるわせ、やがて|のど《ヽヽ》もはり裂けよとカン高い声で歌い出した。
この殿に
福の神々寄りまして
それを受けて、百済琴の女が歌う。
酒《みき》召しまして
ゑらぎ笑み
また四ツ竹が言う。
七珍万宝生み給《たま》ふ
一の宝は黄金《こがね》なり
二の宝は白き金《かね》
三の宝は瑪瑙《めなう》なり
四の宝は琥珀《こはく》なり
一句一句かけあいで、際限もなくつづく。
「古い古い。いつまで馬鹿《ばか》の一つ覚えをやっているのだ。聞きたくないぞ」
と、純友がどなった。
女共は歌いやんだ。愛嬌《あいきよう》のよいつくり笑いを浮かべてはいたが、途方にくれている様子であった。
「|さえ《ヽヽ》の神をやれい!」
と、伴ノ正時が叫んだ。
「よかろう。|さえ《ヽヽ》の神ならまだしもだ。やれやれ!」
と、純友がまたさけんだ。
女共はしばらく顔を見合わせていた。もうつくり笑いもない。こまった顔であった。すると、純友はふところをさぐって、砂金包みをとり出し、
「それ!」
とさけんで、投げてやった。
蝶形《ちようがた》にむすんだ白い檀紙《だんし》の袋が、灯影《ほかげ》をかすめて、ヒラリと飛んで行くと、男の一人があざやかな手つきでとらえた。
「ヘッ! これはお大層に……」
男はおしいただき、女共に言った。
「こんなにいただいた。やってこませよ」
二人の女は、微笑しながら、おどかすような目つきを、純友に向けた。
「いけ好かない殿。でも、しかたありません。遊女《あそびめ》の習いです」
といって、別室に消えた。
ほんのしばらくの間があって、いきなり、銅鑼がけたたましく打ち鳴らされ、同時に笛が切り裂くように吹き鳴らされ、太鼓が無気味な音をドロドロとひびかせたと思うと、今し方女の消えた入口から、雪のように真白なものがおどり出して来て、兎《うさぎ》のようにトンボ返りを打って、両足をそろえて立った。にこりと笑って、こちらに会釈《えしやく》した。
危うく、小次郎は声を立てるところであった。それは女であった。身に一糸もまとっていなかった。
つづいて、また一人おどり出して来た。これも女。裸。
二人はならんで立った。胴がしまり、腰が大きく、四肢《しし》がすらりとのびて、同じ型から打ち出されたようによく似た美しさと逞《たく》ましさであった。
小次郎は呼吸《いき》がつまりそうであった。これまで、こんなにあらわな女体を見たことがない。一種の嫌悪《けんお》感がありながらも、目をそらすことが出来なかった。
狂躁《きようそう》的で、卑猥《ひわい》な音楽と共に、二人は向い合っておどりはじめた。それは、いつぞや見た木偶《もくぐう》のおどりよりまだ露骨で、まだ淫《みだ》らであった。たえずグルグルと旋回し合い、もつれ合い、からみ合い、追いつ追われつ、舞い狂う。二人の髪は解けて、空《くう》になびいたり、乱れたり、鞭《むち》のようにしなって、相手のからだを音を立ててひっぱたいたり、からみついたりする。
はげしい動きにつれて、燈台《とうだい》の灯はたえず明滅して、その度にしぼり上げるように人々の興奮を盛り上げて行った。
空気はむし暑くなり、人々は呼吸《いき》苦しくなった。彼等はもう酒をのまなかった。ギラギラと目を光らせて凝視し、そのくせ、たえずクスクス笑ったり、ひやかしの声をかけたりした。
女共はつかれて来て、やめようとしたが、そのたびに、純友は、
「もっとやれ、もっとやれ!」
と、さけんだ。
女共は、へとへとになり、あえぎ、よろめき、目がくらみ、ついにバッタリたおれた。
人々は哄笑《こうしよう》し拍手してはやし立てた。しかし、女共はしばらくそのままの姿でいた。逞ましいくらい大きな臀部《でんぶ》と楔子《くさび》のような尖端《せんたん》を持つ胸の隆起が苦しげに波打ち、からだ全体がぬらぬらと汗に光っていた。
また清忠が、小次郎の耳にささやいた。
「お気に召したのがあれば、どれでも枕《まくら》の塵《ちり》をはらわせることが出来るのですよ。いかが」
小次郎は首を振った。
清忠は笑った。
「遠慮なさることはない。それがこの女共の主要な生業《なりわい》の一つなのですから」
小次郎ははげしくまた首を振った。衆人の前で全裸になって恥ずる色もなくおどる女など、身ぶるいするほどイヤだ。
やがて、一同はそこを出た。また純友の屋敷にかえって飲み直そうというのだったが、小次郎はもうイヤだった。一人途中で別れて、家に向った。
まだ夜は深かった。空模様はまたかわって、今にも降って来そうになっていた。酔いにほてった顔に、しめったつめたい風が快かった。
彼は今別れて来た純友のことを考えた。えらい人だが、危険な人柄《ひとがら》だと思った。あれでは折角の家柄に生れても、運命がひらけないはずだと思った。
そのうち、ふと思い当ったことがあった。
「ああ、あの人は田原の藤太殿に似ている」
これは最初顔を見た時から、誰かに似ていると思っていたのだが、思い出せないで気にかかっていたことであった。顔立ちはまるで違うが、感じが似ているのだ。
この時から、小次郎は、時々純友の屋敷に遊びに行った。行く度にちがった客が来ていて、一々紹介された。
不思議なくらい多種多様の客人達であった。地方の官人《つかさびと》や豪族がおり、諸省の下僚がおり、大学僚の学生《がくしよう》がおり、衛府《えふ》の武官がおり、大官の家の舎人《とねり》がおり、僧侶《そうりよ》がおり、陰陽師《おんみようじ》がおり、商人や工人がおるという風であった。
それらの人々を相手に、適当な話題と調子で談論して飽かせない純友の人間的魅力と話術の巧みさに、小次郎は舌を巻くばかりであった。
ある日、いつもの通り小次郎が清忠と共に訪れると、純友は机に向って書き物しつつあったが、すぐやめて、二人の前に来た。
「まろはその方共の主人の左府公に嘆願書を書いていた所だった。この頃、しばらく外官《げかん》(地方官)になって地方に行って来たくなったのだ。任地に望みがある。南海道の伊予か、山陽道の備前・備中・備後の中《うち》のどれかに行きたい。海賊共の姿を、この目でよく見たいのだ」
と、言って、呵々《かか》と笑った。
几帳《きちよう》の陰
その邸《やしき》は、小次郎の寓居《ぐうきよ》と小一条院との中ほどにあった。相当に広い敷地をしめていたが、門もなくなった築垣《ついじ》はいく所もくずれおち、荒れはてた邸内の様子が、通りすがりによく見えた。
敷地一ぱいに雑草が生いしげり、その雑草に埋もれるようにして家が建っていた。
寝殿造りに建てられたのには、相違なかったが、対《たい》の屋《や》の一つはなくなり、のこっている部分も、屋根には穴があき、軒はかたむき、荒れに荒れていた。天気のよい日には、子供等の遊び場となっていた。貧しい家のものらしい汚い子供等は、叢《くさむら》の中で虫を捕えたり、棒ぎれをふりまわしたりして駆けまわっていた。寝殿に上りこんで騒ぎ立てていることもあった。
小次郎は、はじめそこを空邸《あきやしき》だろうと思っていたが、ある夜、対の屋におぼろな灯影《ほかげ》がにじんでいたのでおどろいた。
それから気をつけて見ていると、対の屋の端《はず》れの枯れかかった庭木に、洗濯《せんたく》ものがほしてあったり、時々かすかな煙が立迷ったりしていた。人の出入りすることもあると見えて、築垣の破れの一つからその対の屋までついている一筋の細道は、草ののびしげる季節になっても蔽《おお》いかくされずに、消え消えながら土の色を見せてつづいていた。
「どんな人が住んでいるのであろうか、いずれは公家《くげ》衆か、そのゆかりの人には違いないが」
栄えとかがやきにみちた主家のありさまとくらべて考える時、小次郎の胸には、感慨めいたものが湧《わ》いた。
秋になって間もなく、すさまじい暴風《あらし》が襲って来て、ひと夜あれくるったことがあった。小次郎は終夜主家へ詰めて警戒につとめたが、その最中、ふとこの邸のことを思い出した。
「気の毒に、このあらしで。大方吹ッ飛んでしまったろう」
その時は、忙がしさにまぎれて、すぐ忘れてしまったが、夜が明け、風が静まって、帰宅する途中、また思い出した。足を速めて行ってみた。
想像した通りであった。すき間だらけながら、形だけはのこっていた築垣は、やっと隅《すみ》の方だけ、ほんの少しのこって、あとは全部つぶれていた。対の屋はともかくも無事なようであったが、寝殿は屋敷全部、壁全部が吹ッ飛び、半ば傾いた木組みが骸骨《がいこつ》のような姿を見せていた。風の渦巻《うずま》いたあとをそのままのこした雑草の上には、木片《きぎれ》や、枝片《えだぎれ》や、生々しい折れ口を見せた大きな樹《き》の枝が散乱し、それらの上に、暴風の翌日の洗いみがかれたような朝日が照りわたっていた。
「手ひどくやられたのう」
小次郎は、郎党と共に敷地に足をふみ入れた。
間近く見ると、一応無事なように見えていた対の屋も、廂《ひさし》が吹ッ飛んでいたり、蔀《しとみ》が損じていたりした。
丹念に方々を見ながら歩きまわっているうち、ふと叢にふみこんだ足の下に、蛇《へび》をふんだ。すばやく飛びのいたが、飛びのいた所に釘《くぎ》のささった板が、あお向けに散らばっていた。
全身の重みを以《もつ》て、急激に飛び乗ったのだからたまらなかった。錆《さ》びた釘は履《くつ》をとおし、襪《しとうず》(足袋)をとおして、右足の裏から甲へぬけてつきささった。足を持ち上げると、その広い板が足について上って来た。
「おい、踏みぬきをした」
「あッ……」
郎党はあわてて、小次郎の足許《あしもと》にひざまずいた。釘をぬき、襪をぬがせた。血がほとばしるように出て来た。郎党は自分の着物の袖《そで》で拭《ふ》いたが、それがたちまち真赤に染まった。
「これはまあ、これはまあ……」
うろたえて、度を失った。
「大したことはない。土でもすりこんでおけ」
「釘が錆びています。よく洗っておきませんと、あとがとがめるかも知れません。とにかく、早くかえりませんと……」
おろおろしながら、着物の片袖を裂いてしばりにかかった時、ふと、人のけはいが近づいて来て、
「もし」
と、呼びかけた。
その女は、年頃《としごろ》四十五六と見えたが、まるで白昼に見る亡霊のように無気味な感じであった。若い頃は相当美しかったにちがいないと思われる端正な顔立ちであるが、古い象牙《ぞうげ》のような色をして、全然血の色がない。おそろしく痩《や》せている。こんなにも人間が痩せられるものかと思われるくらい痩せ細ったからだは、着ている薄縹《うすはなだ》色の色|褪《あ》せた衣《きぬ》と相まって、すきとおるような感じがあった。
女は桶《おけ》に汲《く》んだ水をさし出した。
「これで」
とだけ言って、しょんぼり立っている。
「洗えとおっしゃるんですか」
言葉はなくて、ただうなずいた。
「ありがとう。いただきます」
受取って、郎党に洗ってもらっていると、また、
「これを」
といって、白い麻の布きれをさし出した。これも、礼を言って受取った。
間もなく、小次郎は、女の色のない唇《くちびる》がかすかにうごいているのに気づいた。耳をかたむけると、つぶやくような顔で言っていた。
「申訳ないことをしました。昨夜《ゆうべ》のあらしで家がこわれたものですから。しかし、これは当家の板ではございません。どこかよそのお家から飛んでまいったのでございます。風の向きからしましても、当家のなら、こちらへは飛んでまいらないはずでございます……」
熱心な弁解のしぶりが、気違いじみた感じであった。
「こちらが悪いのです。勝手にお屋敷に入りこんで来たのですから」
「いいえ」
女は、不意に、長いおじぎをして立去りかけた。
小次郎はおどろいた。茫然《ぼうぜん》として見送っていた。
女は対の屋の階段を上り、内へ入り、戸をしめ切った。
郎党もおどろいていた。
「なんでございましょう、あれは?」
「わからん」
一応の手当をしておいて、郎党は馬をひいて来るために帰って行った。
小次郎は、対の屋の階段を借りて腰を下ろし、郎党のかえって来るのを待っていたが、ふと人のけはいを感じてふりかえった。上げ蔀《じとみ》の一部分に二寸角ほどの破れがあって、そこから人の目がのぞいていた。一二瞬、双方の目は宙にからみ合った。
女の目であった。しかし、先刻の女ではなかった。若い女の美しい目であった。小次郎がそう判断したと同時に、それは消えた。立去る足音はしなかったが、再びあらわれなかった。
間もなく、郎党共が馬を引いて来て、小次郎は帰宅した。
小一条院へは届を出して、しばらく静養することにした。
その日の夕方、清忠をはじめとして、同僚等が見舞に来てくれた。一体どこでそんな|けが《ヽヽ》をされたのだと聞いた。これこれだと答えると、
「ああ、あの屋敷か。ああいう屋敷をなぜ早くとりつぶさないのかのう。あらしの時など危険にきまっているではないか」
「そうでなくても、盗賊共の|すみか《ヽヽヽ》になるおそれがある」
「一体、どうした屋敷なんだろう」
などと、しゃべった。
最後に、一番古参の男が、
「あれはさる王《みこ》のお屋敷のあとということだ」
と、言った。
皆興味をそそられた。
「王? なんという王だ」
「嵯峨《さが》のみかどの皇子《みこ》でなんとやら申す親王の御子《みこ》だ。至《いたる》とか勝《まさる》とか、あのみかどの流れらしく、とにかく一字名の方だ。西国の国守《くにのかみ》などつとめておられたそうだが、もう久しい以前に亡《な》くなられた。わしが御殿にまいった頃には、もう亡くなっておられたのだから。――そうそう、その頃、九つとか十とかになる姫君が一人おられると聞いていたが、さて、どうなられたかのう。生きておわせば、もうお年頃になられるはずだが」
小次郎は、蔀の破れからのぞいた目を思い出していた。しかし、その姫君であったとは思わなかった。仮にも王の姫君があんなみじめな生活をしていようとは思われないのだ。
皆は、住む人のない空《あき》屋敷であると思っているらしかったが、訂正してやる気にはなれなかった。
傷の経過は順調であった。化膿《かのう》もせず、一週間の後には、出勤出来るようになった。
そのはじめの出勤の朝、この前の礼を言うため、荒屋敷に立寄った。
|おとない《ヽヽヽヽ》を入れても、シンとしずまりかえったまま、返事はなかった。二度、三度と、重ねて呼んでいると、この前の蔀の破れのところに、人の目があらわれ、おびえたような風情《ふぜい》でのぞいていた。あの痩せた女の目であった。
その目にむかって、小次郎はおじぎをした。
「この前は大へんお世話になりました。お礼のためにうかがいました」
戸をあけて、女は出て来た。依然としてすきとおるばかりに痩せ、一抹《いちまつ》の血の色もない顔だ。古びた冷たげな簀子《すのこ》の上にきちんと坐《すわ》り、だまって頭を下げた。
あの時のあらし以来、めっきり秋めいて、朝夕は肌寒《はださむ》いほどに爽涼《そうりよう》になっているのだ。その姿を見ていると、ぞくぞくして来るようであった。
「この前は、お世話になりました。おかげさまでどうやらよくなりましたので、本日はお礼のために上りました」
あいさつして、郎党に目くばせして、持たせて来た礼物をさし出させた。晒麻《さらしあさ》一匹、絹一匹の礼物であった。
女はうつ向いて聞いていたが、すぐおし戻した。
「かようなものをいただくわけがございません。お持ちかえり願います」
押問答がつづいた。相手のことばが少ないので、ひどく骨が折れた。面倒臭くもなって来た。しかし、なお言い張った。
女は途方にくれたような面持《おももち》であったが、不意に、
「それでは、主人の考えを聞いてまいります」
と言って、奥に消えた。
小次郎は、自分が汗をかいていることに気づいた。苦笑してその汗を拭いた。主人というのは、この前のあの美しい目の所有者のことであろうか、それとも男の主人がいるのであろうかと、思った。
女が出て来た。
「主人がお目にかかりたいと申します」
出勤途中のいそがしい時で、ためらわれたが、好奇心が勝《か》った。
「それでは」
といって、はきものを脱いだ。
家の内部は、外側ほど荒れていなかった。清潔できちんと片づいていたが、いかにもまずしげであった。おかれている調度類も、すべて由緒《ゆいしよ》ありげなものではあるが、いずれも古びたり、塗りがはげたり、片輪《かたわ》になったりしていた。何よりも数が少なかった。
そんな調度品のならんだ、薄暗く冷え冷えとした|へや《ヽヽ》を二つ通ると、その奥のへやに几帳《きちよう》が下っていた。
所々塗りのはげた螺鈿《らでん》の|わく《ヽヽ》に、昔は美しかったものらしいが、今は色あせ黄ばみ、地質も薄くなった絹がかかっている。
女は、小次郎をその几帳の前に坐らせておいて、うやうやしい態度で、几帳の内側に声をかけた。
「お連れいたしました」
すると、几帳の絹がかすかにふるえて、若いやさしい女の声が聞こえて来た。
「過分なものを。礼を言います。いただくべきではないと思いますが、せっかくの思召《おぼしめ》しですから、いただいておきます」
「ほんのしるしだけでございます」
小次郎は、几帳の裾《すそ》からのぞいている、古びてはいるが、なおはなやかさを失わない若々しい色の衣《きぬ》を見ていた。その衣は、着ている人のしずかな呼吸《いき》づかいを伝えて、きわめてかすかにふるえていた。
今はもう小次郎は、この衣の主が王《みこ》の姫君にちがいないと思うようになっていた。
彼は、相手の顔を見たいと思ったが、相手から見せてくれないかぎり、その工夫はつかなかった。
せめてもう一度、声だけでも聞きたいと願ったが、それももう言おうとしない。はなやかな衣がしずかに呼吸づいているだけであった。
しんと家中が寂《しず》かである。案内の女は、その血の気のない顔を伏せて坐ったままだ。ひっそりとしたその姿は、まるで彫像のようであった。
少しばつが悪くなった。
「それでは、お暇《いとま》します」
といって、立上った。
その荒屋敷は、その後もそこを通る度に、小次郎の気にかかった。再びそこを訪れようとは思わなかったが、いつも古びた几帳の裾からのぞいていた若々しい衣のふるえを思い出した。そして、
「あれは王《みこ》の姫君なのだ」
と、思うのであった。
彼とて王の孫だ。身に引きくらべて、今日の皇族がどんなものであるかを知らないではなかったが、それにしても、あまりひどすぎると思わないではおられなかった。
いつか、あわれなもの、と、思うようになった。同じ王の末であるという気持が、これを助けた。その生活を扶助してやりたいと思うのだったが、きっかけがつかない。郎党を使いに出してみようかと思ったり、自ら訪問しようかと考えたりしたが、それでも、いざとなると決心がつかなかった。
いく月かが流れて、おしつまった年の暮のある夕方であった。小一条院から帰路について、あの屋敷の前まで来た時であった。わずかに隅《すみ》にのこった築垣《ついじ》の陰から、影のように立ちあらわれたものがあった。あの女であった。
忍ぶような足どりで、痩せたからだを小次郎の前にはこんで来た。だまって頭を下げた。
「おお、これは、あの節は」
おどろきながらも、こちらはあいさつをかえした。
女はうつ向いたまま、例のつぶやくように低い声で言う。
「……お願いしたいことがございまして……お待ちしていました……」
「どんな御用でしょうか」
「…………」
急にはこたえないで、うつ向きつづけていた。なにか一筋に思いこんでいるものが、ありありとうかがわれた。
「どうなさった? なんなりとも、身に合うことなら、お引受けしますから、遠慮なくお申しつけ下さい」
「……姫君のお命があぶないのでございます」
「え? なんですと?」
つぶやくような声が、四五日前から風邪を召していたのが、昨夜から急に容態がかわって、熱が高く、今では意識も混濁している有様であるという。
「医師《くすし》に見せましたか」
黙って首をふった。なにか言いたげにして言えないでいる風があった。
小次郎は、相手の言おうとしていることをさとった。医師に見てもらおうにも、その代《しろ》がないから出来ない、その代を貸していただきたいと言いたいのだと思った。
小次郎は郎党を招き寄せ、その耳許にささやいた。
「いそいで帰って、絹を十反持って来い。それから、誰かを医師の家に走らせて、ここへ連れて来させい」
当時の日本は、まだ完全な貨幣経済の時代ではなかった。和銅年間にはじめて貨幣が鋳造され、政府はその通用の奨励につとめ、金を貯《た》めた者には位階を授けるというまでの方法を取ったが、社会全体の経済力がそこまで達していないので、一片の政令や奨励策くらいでは中々普及しなかった。和銅から二百年以上も経《た》っているこの小説の時代でも、物々交換の方がむしろ普通であった。人々は銭をもらうより物をもらう方を喜んだ。
郎党の急ぎ足に立去って行くのをあとに、小次郎は女をうながして、霜にただれしおれた雑草が離々《りり》としてつづく中を、その家に向った。
かぼそいともし灯《び》に照らし出された姫君の顔を見た時、小次郎はその顔色の青さにおどろいたが、その美しさにもおどろいた。
高熱のため真青になっていながら、その顔は、名工のノミによって刻み出された女神の像のように端正で高雅な気品にみちていた。豊かなうねりとなって枕許《まくらもと》にわがねられている黒髪の艶《つや》やかさは、八入《やしお》に染めた黒い絹糸のようであった。
小次郎は、この人の顔が、どこか小督《おごう》に似ているように感じた。同じ嵯峨のみかどの流れで、二《ふた》従姉妹《いとこ》か三いとこの関係にあたるらしいから、似ていても不思議はないわけであった。
姫君はまるで意識がなく、昏々《こんこん》とねむりつづけていた。呼吸が短くて、急速で、切なげで、聞いているこちらの胸がいたんだ。
室内には熱臭い空気がこもっているくせに、じっと坐っていると、皮膚がぬれて来るような冷気があって、吐く息が白く氷った。高熱の姫君の顔の周囲には霧のような薄い湯気が立ち、その湯気に灯影《ほかげ》がにじんで、おぼろな虹《にじ》になっていた。
小次郎は、へやもあたためなければいけないし、夜のものも薄すぎると思った。この重態でありながら、姫君は着物を七八枚重ねてかけただけで寝ているのだ。
言いつけた絹を持って、郎党が来た。
「夜のものと、炭を持って来るよう」
「こちらにお泊りになるのでしょうか」
「そうではないが、いそいで持って来い」
暗い寒い風の中に、郎党が消え去ると、入れちがいに、別の郎党が医師を連れて来た。
もったいらしくあごひげなど生やした医師は、使いに立った郎党の人品と服装から、相当な富家からの招きと判断して家を出たのに、この荒屋敷に連れこまれ、不平たらたらであった。しかし、迎えに出た小次郎を見ると、また希望をよみがえらせて、愛嬌《あいきよう》のよい顔になった。
「これはこれは、オホン」
と、せきばらいなどしながら、枕許に通った。姫君の美貌《びぼう》を見ると、小次郎の寵愛《ちようあい》の女とでも思ったのだろう、一層愛想のよい顔になった。
医師は、しさいらしく額に手をあてて熱を見、脈をとり、召使いの女に容態を聞いたりした後、これは傷寒《しようかん》の一種であるといった。
「気をおつけなさい。相当の重態です。しかし、手おくれというほどではありません。先《ま》ずへやを温めること。これでは健康なものでもたまらない。つぎには夜のものをもっと厚く。つまり、出来るだけ温かくして上げるのですな」
絹を一反もらって喜んで医師がかえって行って間もなく、二人の郎党が、一人は厚く筑紫綿《つくしわた》の入った夜具を背負い、一人は炭俵を背負ってやって来た。
小次郎は、召使いの女をさしずして、姫君にあたたかい夜具をかけさせ、また炭櫃《すびつ》(火鉢《ひばち》)に火をおこさせて、へやを温めさせた。
姫君は、よほど楽になったようであった。真青だった頬《ほお》のあたりに、ほんの少しだが紅《あか》みがさし、聞いているさえ切なかった呼吸の切迫がゆるやかになって来た。
「おかげさまです。この御恩は決して忘れません」
と、女は泣いて礼を言った。
「郎党を一人おいて行きます。遠慮なく御用を仰《おお》せつけ下さい。また、わたくしに御用がありましたら、これまた御遠慮なく、郎党を呼びにつかわして下さい」
郎党にもよく言いふくめて、家に帰った。
おそい、細い月が出ていた。風はおちていた。が、しみるように寒い夜であった。
翌日、出勤の途中、寄ってみた。上らないで、階段のところで、女と立話しただけで失礼したが、昨夜より一層よくなって、もうなおったようだと、姫君も言っておられるということであった。
帰りがけにまた寄った。枯草の中を近づいて行くと、そこから聞こえて来る読経《どきよう》の声があった。さびた男の声であった。誰だろうと思った。
「昼過ぎからまた悪いのです。それで近頃《ちかごろ》大へん奇験《きげん》があると評判の高い、東山の持経者《じきようじや》殿に来ていただいて、ああしてお経を誦《よ》んでもらっています」
女は、こういいながら、病室へ導いた。
姫君はまた昏睡していた。あの青白い顔にかえり、呼吸が切迫していた。
枕許に、白衣の上から茶の法衣《ほうえ》を着た五十年輩の僧が坐って、きびしい顔で経を誦《ず》していた。二人の方を見向きもしなかった。
細いともし火の光に、古びた螺鈿の衣桁《いこう》の青貝がきらめいたり、香の煙が立迷ったり、隅の方が薄暗かったりする室で、僧のしわがれ声を聞き、そのきびしい顔を見ていると、そぞろに身の毛が立ってくるようであった。
ふと、女が袖《そで》を引いた。
「ここにいては、誦経《ずきよう》のじゃまになるそうです」
となりのへやに退《さが》った。
長炭櫃におこした炭火に手をかざしながら、女とむかい合って坐っていると、不意に女がしゃべりはじめた。
「一体、このようなことがあってよいものでございましょうか。姫君は、まさしく王《みこ》の姫君でございます。嵯峨のみかどのおん曾孫《ひまご》にあたられるのです。その方が、こんなにまで|いぶせく《ヽヽヽヽ》、こんなにまでまずしいお身の上であって、よいものでございましょうか」
女の声には怒りの響きがある。炭火の照りかえしで、強い陰影をつくっている顔にも、怒りの表情がある。
女のはげしい調子はつづく。
「ああ、これは皆藤原氏一門の飽くない貪慾《どんよく》のためです。財宝をほしがるだけが貪慾ではありません。権勢をひとりじめにするのは、さらに大きな貪慾であります。
三十年の昔、本院の大臣《おとど》(時平)は、同族の人々と腹黒い陰謀をめぐらして、菅原道真《すがわらみちざね》公を朝廷から追いおとされました。
どんなに道真公のお口惜《くや》しかったことか!
それは、二年の後、道真公が筑紫でなくなられた後、京《みやこ》でさまざまな怪異があったことを以てもわかります。
先ず内裏の一部が炎上しましたが、その造営の時、ある大工《たくみ》が普請場《ふしんば》に出てみますと、昨日削って張った天井に、薄黒いシミが見えます。はしごをかけてのぼってみますと、一夜のうちに虫が蝕《く》い、そのあとがこう読まれました。
つくるとも又も焼けなむすがはらや
むねのいたまのあかぬかぎりは
いくら造営しようと、まろの胸の鬱憤《うつぷん》のはれないかぎりはいくどでも焼けるぞ、という意味《こころ》であります。
人々は身の毛をよだたせましたが、あんのじょう、いくらお造りかえになっても炎上したのであります。
次には、公をおとし入れる陰謀に加担した人々や、その公達《きんだち》や孫君方が、全部あやしい死に方をなさいました。
参議の菅根卿《すがねきよう》という方は、所もあろうに、内裏で雷《かみ》に蹴《け》殺され、全身黒|焦《こ》げになってなくなられたのであります。
張本人の時平の大臣が、なんで御安泰ですみましょうか。三十九というお若さでなくなられ、おとどの公達方も皆若死なされ、御長男の顕忠《あきただ》卿だけが、どうやら御息災でありますが、それは、この卿がそのように高いお家柄《いえがら》の人に似ず、お暮し向きもごくじみに、ひたすらに身をつつしんでおいでであるためであるということであります。
あなた様の御主人である小一条の大臣(忠平)が、時平公の三番目のおん弟君でありながら、御兄君の仲平卿をこえて右大臣となり、左大臣となって栄えていらっしゃるのは、陰謀に加担なさらなかった上に、始終、道真公に厚い志を運び、筑紫の配所にも折々お見舞などなさったためであると、世間では申しております。
道真公のお祟《たた》りはまだまだございました。右大臣の源ノ光《ひかる》公は、時平公と心を合わせて道真公をおとし入れられた方でありますが、狩に出て泥田《どろた》に陥って無残な最期《さいご》を遂げられたのみか、その御|遺骸《いがい》は今日に至るまで見つからないのであります。
それから、時平の大臣の妹君のお腹《なか》に生れ給《たも》うた皇太子|保明《やすあき》親王が、にわかになくなられたのもまた、公のおん祟りであります。
朝廷では忌《い》みはばかられて、今の皇太子|寛明《ひろあき》親王も、お生れになって以来、一度も大空の下にお出ましになったことがなく、格子《こうし》を下ろした密室で、昼夜灯をともした所で、お育ちであると申します」
綿々たる女の話はまだつづく。
「こんな風に、あまりにも道真公のおん祟りがすさまじいので、朝廷では、比叡《やま》の相応《そうおう》僧正に仰《おお》せて、調伏させようとされましたが、僧正が恐れて辞退なさったので、三善《みよし》ノ清行卿の御子息で、奇験《きげん》の聞こえ高い浄蔵法師にお頼みになりました。
法師は、仰せをかしこみ、きびしく壇をかまえて、日夜を分たずお祈りなされた所、ある日、まっ昼間、公のお姿がありありと現《げん》ぜられ、法師に向って、まろは天帝のお許しを得て、怨敵《おんてき》共をほろぼしているのだ、余計なことをするな、と、お叱《しか》りになりましたとか。
その時の公の形相は、両眼《りようめ》は鏡をかけたよりもまだかがやき、左右の耳からは青竜《せいりゆう》が現じ、吐かれる息は火をまじえていたと聞きます。
これをお聞きになった帝《みかど》はおじ恐れ給い、公のお心をなだめるために、公のお処罰の時の書きものの全部を焼き、従《じゆ》一位|太政《だいじよう》大臣を御追贈になった上、様々な祈祷《きとう》や供養《くよう》をなされたのであります。
けれども、ほんの形だけのこんなことで、どうしてお憤《いきどお》りが散じましょう。公のお憤りは、藤原氏の貪慾さにあるのです。それが改まらないかぎり、やむはずはないのであります。
御追贈の翌年、前に公の祟りによって亡《な》くなられた保明親王の御子《みこ》で、父君のあとを襲って皇太子に立たれた慶頼《よしより》王がなんのお病《わずら》いもなく、にわかに亡くなられたのが、その証拠であります。
さらに去年であります。去年は春から雷《かみ》の荒《あら》びがすさまじく、雨の日といえば必ず雷が荒れすさび給うて、人々はおじおそれていましたが、ついに夏の末に清涼殿におちられまして、大納言《だいなごん》の藤原ノ清貫《きよつら》公、左中弁の平ノ希世《まれよ》卿など、数人の公家《くげ》方が死なれたのです。みんな藤原氏と与《く》んで道真公につらかった方々であります。藤原氏に対するこの憤りは、道真公の御|怨霊《おんりよう》だけではありません。藤原氏以外の人は皆同じ思いでいるのです。
右近《うこん》の馬場に、道真公をお祀《まつ》りして社が出来ています。これは、多治比《たじひ》の某《なにがし》という低い身分の官人《つかさびと》の娘に、この頃のある日、公の霊《みたま》が憑《かか》って、われを祀れと、託宣があって出来たのであります。
一度ぜひお出《い》でになるがよろしい。信仰の人々の群集《ぐんじゆ》していることのおびただしさに、きっとびっくりなさいます。
人々のこの信仰ぶりこそ、民が藤原氏に対して同じ憤りを含んでいることの、明らかな証拠ではありませんか。
朝廷では、『火雷天神』という神号をお授けになりましたが、そんなことで、どうしてすみましょう。今に、今に……」
つきぬ恨みを綴《つづ》って、女のことばはどこまでもつづく。隣の部屋からしわがれた誦経の声がたえず聞こえて来る真暗な中に坐《すわ》って、この|くりごと《ヽヽヽヽ》を聞いていると、総身の毛が立って来るようであった。長炭櫃に向った顔がカッカとするほど熱いくせに、背中が水をかけられているように寒いのも、無気味であった。
女王《ひめみこ》
数日の後、姫君の容態は危機を脱したが、すっかり恢復《かいふく》したのは、年が暮れて新しい春が来てからであった。
健康になると、大へん快活な姫君であることがわかった。頬に匂《にお》い立つような新鮮な血色があり、目の光に生き生きとした活気があった。
なによりも声が美しかった。やさしくしめやかという声ではない。明るく澄んでいて、その淀《よど》みなく話すのを聞いていると、春の小鳥のさえずりを聞くような愛らしさと生気を感じた。
姫君の名もわかった。嵯峨《さが》天皇の皇子|康《やすし》親王の御子|透《とおる》王の姫君で貴子《たかこ》というのであった。長門守《ながとのかみ》を最後に父の王《みこ》が死なれたあと、頼る親戚《しんせき》とてもないので、年々に窮迫し、召使い共も四散して、この十年ばかりというものは、乳母と二人きりで、この荒屋敷にはかないくらしをしていたのだという。
小次郎は、勤めの行きかえりには必ず立寄って見舞った。なにくれとなく生活上の補助もした。特別な気持はなかった。まさしき女王ともある方がと、気の毒でならなかったのだ。
しかし、小次郎に対する乳母の態度は、次第にある意味を帯びて来た。乳母はよく、坂東における小次郎の家のことを聞いた。所領のことや、家族のことや。
うとい小次郎も、乳母が小次郎を姫君の終生のよるべにしたいと思っているのではないかと気づかずにおられなかった。
それとともに、姫君の様子もかわって来た。姫君は、小次郎の顔を見ると、いつも最初は赤い顔をするのだ。また、小鳥のさえずりのような声で流れるようにおしゃべりをしているかと思うと、なんの|きっかけ《ヽヽヽヽ》もなく言葉をもつらし、赤い顔をする。そんな時、その目には薄く涙がにじんでいる。
危険だ、小次郎は思った。故郷に待つ人があるという思いは、片時も胸を去ったことがない。しかも、その人とその姫君とは、互いにそんな人がいるということすら知っていないだろうが、血縁の関係にあるのだ。
「決して垣根《かきね》をこえてはならない」
と、思うのだ。
けれども、人に恋せられているという気持は、決して不愉快なものではなかった。なにかしら、あたたかく、やわらかいものにとりまかれている気持だ。近づいてはならないと思いながらも、訪問をやめることが出来なかった。
二月になって間もなくの、明日は非番という日であった。
いつもの通り、帰りがけに姫君の家に立寄ると、乳母が、
「明日は御非番ですね」
と、聞いた。
小次郎の庇護《ひご》のために生活の苦労のなくなった乳母は、この頃では見ちがえるほど明るくなっている。血色もよくなり、気持も快活になって、数カ月前のあの狂気じみたものはなくなっていた。
「そうです」
と、小次郎がこたえると、少しお願いがあるという。
「どんなことでしょう」
「右近の馬場の火雷天神様へ、姫君をお連れしていただきたいのですけど」
小次郎は、急には返事が出来なかった。姫君と同伴して外へ出ると考えただけで、幸福感が呼吸《いき》をつまらせる気持であった。
小次郎の無言を、拒絶の意思表示と見たのか、女は熱心に言う。
「御病気になられるずっと前から、姫君はお参りしたがっておいでだったのですが、お供をして行く男《ひと》がないので、果さないでおられたのでございますよ。連れて行っていただくと、大へんお喜びだと思うのですけどねえ」
小次郎はあわてた。大急ぎで答えた。
「イヤ、お供いたします」
これだけでは足りないような気がしたので、重ねて、言った。
「いたしますとも」
力がこもりすぎた返事であったような気がして、少し恥かしかった。
「まあ、行っていただけますの。それはそれは……」
乳母は上機嫌《じようきげん》になった。奥へ叫んだ。
「姫君、小次郎の殿がお連れして下さいますと」
「まあ、嬉《うれ》しい! ほんと? ほんと?」
声は、すぐ隣からおこった。そこまで来て、耳を立てていたものらしかった。
出て来た。美しい顔一ぱいにあふれているうれしげな表情が、小おどりしたい気持を懸命におさえているようであった。
いろいろな打ち合わせをして、小次郎は辞去した。
終夜、心が浮き立っていた。姫君の屋敷から右近の馬場までは、ほんの十二三町しかない。行きかえりの時間と、社での時間とを合わせても、一時間そこそこのものだ。しかし、その一時間が、なんと楽しみにみちて考えられることだろう。
(おれは姫君に恋しているのかも知れない)
ふるえるような思いで、いくどか考えた。
興奮して、よく眠れなかった。いつまでも、明日のことを考えていた。
翌日。
打ち合わせの時間に、小次郎は、一番よい着物を着、弓や、太刀や、襪《しとうず》(足袋)から履《くつ》に至るまで、十分に念を入れて装束《そうぞ》き、供の郎党共にも仕立おろしの清らかな水干《すいかん》を着せて、姫君の屋敷に行った。
ここでも、もう用意が出来ていた。二人とも晴れの着物を着て、肩から懸帯《かけおび》をかけ、白い衣《きぬ》を被《かつ》いでいた。
風のない、晴れた、あたたかい日であった。
姫君と乳母とを前に立てたあとに、小次郎は郎党共をひきいて従ったが、少し行くと、乳母が引きかえして来た。この女は、今日は顔に白粉《おしろい》と紅をはいて、大へんなまめかしい様子になっていた。
「姫君のおそばにお出で下さい」
「それはいけません。従者《ずさ》の礼ではありません」
「それでも、姫君の仰《おお》せです」
小次郎は、姫君のそばへ行った。胸がわくわくしていた。
「うれしいのです、わたくし。そばにいて下さい」
とだけ言って、姫君は歩き出した。被衣《かつぎ》のはしからのぞいている顔が真赤に染まっていた。
ほんの一歩|退《さが》ってついて行きながら、小次郎は胸がふるえていた。目がうるんでいた。足許《あしもと》が雲をふむようによろめくのを感じていた。
あたたかい日なので、都大路《みやこおおじ》にはたくさんの人が出ていた。皆、美しい姫君の姿と、それにならんで行く小次郎の若くたくましい様子に目を引かれているようであった。向うから来る者は目をつけながら近づき、行きすぎるとしばし立ち止まって見送った。うしろから来る者は足早に追いこし、ふりかえりながら行った。
子供のような誇らしさが、小次郎の胸をふくらました。酔ったような気持になった。声高らかに、
「この姫君はおれの保護している人だ。おれは下総《しもうさ》豊田の住人、平ノ小次郎|将門《まさかど》だ」
と、呼ばわりたいような気さえした。
火雷天神は、境内はひろかったが、社殿は非常に小さかった。ほとんど祠《ほこら》といってよいくらいであった。
しかし、日のあたっているその広い境内には、多数の参詣《さんけい》人がいた。社殿の前にぬかずいて合掌して帰るものもいれば、社僧に頼んで護摩《ごま》をたいてもらっている者もいた。
神前で焚《た》かれる護摩の煙は、濛々《もうもう》と天井につきあたり、天井伝いにひろがって、軒先まで来ると、ゆらりゆらりと立昇って、うららかな空の色にとけこんだ。焚かれて立昇る時は真黒に見える煙が、軒を這《は》い出す時には透きとおる青さになっていた。
姫君は、しばらく社前にぬかずいて合掌した後、立上り、乳母と二言三言ささやき合った後、社殿の横の住居づくりの家へ行く。
「いずれへ?」
「ちょっと」
としか、姫君は答えなかった。
乳母が走りぬけて行って、勾欄《こうらん》の|きざはし《ヽヽヽヽ》の下から案内を乞《こ》うた。
「おう」
と、応答があって、ピッタリと閉ざされた蔀《しとみ》に沿った簀子《すのこ》をめぐって、一人の僧侶《そうりよ》が出て来た。階段の上に立った。
「いずれから? なに御用?」
乳母は階段を上って行った。僧侶の耳になにやらささやいた。
それほどの年でもないのに、しなびたように|しわ《ヽヽ》だらけの、青白い顔をした僧侶は、きッと見すえるような目で、姫君を見、さらに小次郎を見た。また簀子をめぐって引っこんだが、間もなく、こんどは、階段の正面の蔀をあけて出て来た。
「お上りなさい」
と、言った。
乳母は姫君をうながし、姫君を先に立てて階段を上った。
小次郎はそこで待っているつもりでいたが、乳母は、ふりかえった。
「小次郎の殿も」
「わたくしも?」
「はい」
「なにかあるのですか」
「はい、ちょっと」
乳母の顔に、謎《なぞ》のような微笑があった。
薄暗いへやに通された。
かなりの広さのあるそのへやには、なんの装飾もなければ、なんの器物もおいてない。木肌《きはだ》のまだ新しい板の間がよく拭《ふ》きこまれて、薄暗い中に冷たい光をかえしていた。
三人は、僧のさしずにしたがって、堅いつめたい床に、姫君、小次郎、乳母の順序で坐《すわ》った。
板の間のつめたさが腰にしみる頃《ころ》、どこからか、かすかに、チリッ、チリッ、チリッ、と鳴る金鈴《きんれい》の音が近づいて来たかと思うと、上座《かみざ》の遣戸《やりど》があいて、足音もなく入って来た者があった。純白な浄衣《じようえ》に、緋《ひ》の袴《はかま》をはき、長い髪をうしろに曳《ひ》いた女であった。
黙って、へやの真中に坐った。
姫君と乳母とは、その女にむかって合掌した。小次郎もそれにならった。なにがはじまるのか、まるで見当がつかなかったが、その女の入って来た時から、なんとも言えず無気味なものが座中に流れた。髪の根がひきしまり、奥歯がギュッと噛《か》み合わさるような感じがあった。
女は金鈴を左手に、肩のあたりまでささげて持ち、右手を鼻先に立てて、瞑目端坐《めいもくたんざ》していた。なにやら口の中で、ブツブツとつぶやいていた。
その時になって、小次郎は、やっとはっきりと、相手の顔を見た。年の頃三十五六の、頬骨《ほおぼね》の立ったそのくせあごが細くとがって、色の青白い女だ。紅《べに》をさしているとも見えないのに、いやらしいくらい唇《くちびる》が紅《あか》かった。
間もなく、左手の鈴が、チリリ、チリリ、と鳴り出したが、見る間に急調になり、同時に右手がはげしく上下し、それとともに、緋の袴につつまれた膝《ひざ》がしらが、ピョコンピョコンと、おどるように動きはじめた。背に流れている髪がザワザワと鳴りながら、風に吹き乱されたようにふり立ちつつ、少しずつ顔へ垂れかかって来た。なにか強い力をもった動物がからだに入りこんでいて、内部から、グイ、グイ、グイ、と、つきうごかしているように見えた。
途端に、ひきさくように鋭い声が、紅い唇をほとばしり出た。
幕《とばり》なし
とざせる雲を
火の矢もち
つらぬき破り
とどろとどろ
天雲《あまぐも》ふみて
ふみ鳴らす
われは雷《いかづち》
天《あめ》の神。
めぐしをとめよ、
汝《な》が前に
玉鉾《たまぼこ》のひろ道ひらけむ。
その道は
黄金《こがね》、白金《しろがね》
七くさの珍《うづ》のみたまや
千万《ちよろづ》の宝の道ぞ。
鳥が啼《な》く
東男《あづまを》の子の
ゆたゆたに
ひらかむ道ぞ
ましぐらに
をとめよ、い往《ゆ》け!
あなかしこ、
疑ふなゆめ。
あなかしこ、
疑ふなゆめ
あなかしこ!
巫女《みこ》は、ここまでうたって来ると、ヤア! ヤア! ヤア! と、けものめいた声で連呼し、ドウとたおれた。苦痛にたえないもののように、身をもがき、手足をふるわせていたが、やがてそれがしずまると、ゴウゴウといびきをかく昏睡《こんすい》の状態におちいった。
帰る途々《みちみち》、姫君は、小次郎に説明した。
「あの巫女が、多治比《たじひ》ノ文子《あやこ》という巫女です。道真公はあの巫女に神|憑《がか》りして、あの地に鎮座したいと仰せられたのです。前には、普通の娘であったのが、その神憑りからこちら、神のように鋭い知恵となって、人の運命《さだめ》の吉凶禍福を、鏡にものをうつすよりもはっきりと指し示すようになったので、世間ではサスノミコといっているそうです」
姫君は、ひどく快活になっていた。酔っているようであった。あの小鳥のさえずりのような生き生きとした明るい声で、小やみなく話しかけて来るのであった。
小次郎も愉快であった。彼には巫女の託宣のくわしい意味はまるでわからなかったが、姫君がその開運のことについて伺いを立て、その託宣が吉であったらしいことは想像がついた。彼は姫君のために喜んだのであった。
堀川通りを中《なか》の御門《みかど》の通りに曲って少し来た時であった。横町から馬を駆って来た者があって、小次郎を見ると、はげしく手綱をひきしめた。
「小次郎、小次郎」
と、呼んだ。
おどろいてふりかえると、貞盛《さだもり》であった。主家の使いでどこか遠い所に行ったのでもあろうか、狩衣《かりぎぬ》に綾藺笠《あやいがさ》、むかばき、背に矢を負い、手に弓をにぎっていた。
内証事《ないしよごと》でも見つけられたように、将門は赤い顔をした。
貞盛は馬を下り、連れていた郎党に手綱と弓を渡して、大股《おおまた》に近づいて来た。
「久しく会わんが、達者か」
「ああ、おぬしも達者でか」
貞盛はいつもの快活さで、国許からの近頃の便りのことや、勤務の話や、いろいろとしゃべったが、しゃべりながら、時々、姫君と女の方に、チラチラと視線をおくった。
姫君も、乳母も、路傍の公家《くげ》邸の築垣《ついじ》によって、被衣《かつぎ》の前をきっちり合わせて向うを向いている。いくら貞盛が見ても、顔を見られるはずはないのであったが、小次郎には貞盛のその目つきがイヤであった。切れ長で、澄んで、よく動くその目がそちらに向くたびに、不安なものが冷やり冷やりと、心をおびやかした。
「おい、あれは誰だ」
と、貞盛は声をひそめた。
「おれが出入りをゆるされているさる宮家《みやけ》の姫君だ」
「どこの宮家だ」
しかたなく、姫君の父君の名を言った。
「聞かん宮様だな。どうせ貧乏な宮家だろう」
腹が立って、黙っていると、
「おぬしのこれか」
と、小指を出した。
「馬鹿《ばか》な!」
「ハッハハハハ、では、また逢《あ》おう」
貞盛は馬を手招いて打ち乗り、馬上から、
「あまり浮気をするなよ。おぬしは国に待つ人がある身だ。ハッハハハハ」
と、大きな声で笑い、もう一度、姫君達の方を見て、駆け去った。
苦笑して見送った小次郎が向き直った時、姫君はもう歩き出していた。
小次郎は急いで追いついた。
姫君は無言のまま歩いていたが、やがて聞いた。
「あれはどなたですの」
「|いとこ《ヽヽヽ》です。わたしと一緒に京上りして来て、三条の大臣《おとど》へ勤仕《ごんし》しています」
「名は?」
「平ノ太郎貞盛、常陸《ひたち》石田の住人である所から、当地では常《じよう》平太と呼ばれている由《よし》であります」
それっきりで、姫君はまた黙った。被衣の前をきびしく合わせて、真直《まつす》ぐに前方を見つめて、さっさと歩いて行く。小がらなからだでありながら、非常に足が早い。大男の小次郎がかなり急がなければならないほどであった。明らかに、さっきまでの快活さがなくなっていた。
小次郎は気になった。
(なにがごきげんを損じたのだろう?)
と、考えた。別れぎわに貞盛の言ったことが原因であるらしいと推察した。やましいことはないはずであるのに、心がおびえていた。はらはらしながら、ついて行った。
「大へんお世話になりました。では、また」
屋敷につくと、姫君はそっけないほどかんたんに礼を言って、そのまま階段を上りかけたが、ふと立ちどまると、ふりかえった。小次郎の目を見つめた。美しい顔には、ためらうような表情があった。しばらくだまっていた後、口をひらいた。
「あなたは、お国に待つ方がいらっしゃるのですね」
小次郎は狼狽《ろうばい》した。
「それは……、しかし……」
と、しどろもどろに言いかけると、姫君は面白そうに笑い出した。
「言訳をなさらなくてもいいのです。きっと、美しい方でしょうね」
しなやかで真白いのどを見せて空を仰ぎながら、コロコロとよくひびく明るい笑いを、いつまでも上げている。
こちらは途方にくれた。この笑いをどう解釈してよいか。全身汗になって、なにか言おうとあせった。
すると、また姫君の表情がかわった。真赤になり、きびしい顔になり、はげしい調子で言い放った。
「あなたはひどい方です!」
階段を駆け上り、戸をあけて中にかけこんだ。ハタ! と音の立つほど強くあとをしめた。
茫然《ぼうぜん》として見送っていると、乳母がそばにすり寄って来た。なだめるような声でささやいた。
「お久しぶりの外出で、姫君は気が立っていらっしゃいます。あとでよく申し上げてごきげんを直していただきますから、今日はこれでお帰り下さいまし」
日は依然として美しく照り、荒れた庭にもかげろうがもえ、離々《りり》たる春草が彩《いろど》り、白い蝶《ちよう》がヒラヒラと舞っていた。しかし、そのうららかな春の日が、小次郎には、一時にくらく陰鬱《いんうつ》になったように感ぜられた。
招かぬ客
夜に入って、貞盛がたずねて来た。
今夜も、貞盛は薄化粧し、仕立下ろしの狩衣を着て、めかし立てている。
「さっきは失礼」
「いや」
こいつの心ない言葉のために、姫君のきげんを損じたのだと思うと、歓迎する気になれない。しぜん、ぶっきら棒な調子になった。しかし、貞盛は気にとめない。いつもの快活な調子で言う。
「今日あれから少しして、大事なことを言い忘れたことに気づいた。それでやって来た」
「大事なこと?」
「運動の方だ。手落ちなくやっているだろうな」
「運動とは?」
「要所要所への運動だ」
なんの要所だろうと、こちらは考えた。
「そんな風ではやっていないな。おぬし、除目《じもく》の日が来月にせまっていることを忘れていはしないか。ぼんやりしていると、馬鹿を見るばかりだぞ」
除目というのは、官職の任免のことで、当時は地方官のそれが十二月中に、中央のそれが三月中に行われる恒例になっていた。
あッ、そうか! 小次郎は少なからず狼狽した。それをかくして、さりげなく言った。
「運動って、どうするのだ。また、ものでも贈ればいいのか」
貞盛は舌打ちした。
「やれやれ、今頃《いまごろ》になって、そんなのんきなことを言っていて、どうするのだ。しっかりせんか。
贈るべき先は、おとどと家司《けいし》――その家司も、こんどは全部の家司だ。それから、忘れてならんのは、北の方をはじめ奥向きの女連のおも立った連中だ。これにも贈る必要がある。
むしろ、この方が大事だ。男というものは女にあまい。一応|軽蔑《けいべつ》したり、馬鹿にしたりしているくせに、その口から噂話《うわさばなし》のようにして話されることには、案外もろいのだ。
出世しようと思ったら、ふだんから気をつけて、女連の心を買い、好意をもたれるようにすることを忘れてはならんのだ」
「…………」
「いい餌《えさ》を使わんと、大きな魚は釣《つ》れない。ものおしみしてはいかんぞ」
「ものおしみの心なぞさらにないが、そうまでしなければならんのだろうか。もしおれが貰《もら》う立場にいたら、腹が立つだろうと思うのだ」
いつわりのない小次郎の気持であった。主家や家司等に、進上という名目で、いろいろなものを贈呈する時、いつも顔の赤らむ思いをしないではおられない。
「ヤボなことを言うな。京住いもやがて一年にもなろうというのに、京のやつらの根性がまだわからんのか」
「わかってはいる。しかし、それでは市《いち》の賤《いや》しい商人《あきゆうど》の心と、かわりはないではないか」
「市の商人どころか、売買するのが官位だけに、もっとあさましい根性よ。商人はおのれのものを売るのだが、やつらはうぬが利得のために、朝廷《おおやけ》のものである官を売るのだ」
にやにやと笑っているくせに、貞盛のことばは辛辣《しんらつ》をきわめる。
「そんな官位が、なんでありがたいのだろう」
と、小次郎が言うと、貞盛はなお笑った。
「馬鹿|律儀《りちぎ》もほどにするがよい。有難がる人がいるから有難いのさ。有難いから有難がるのではないぞ」
「…………」
「その上、官職というものは、使いようによっては、ずいぶん利得のあがる仕組になっている。大蔵の省《つかさ》のやつらには、物を朝廷《おおやけ》に納めようとする商人共が進物を持って来、検非違使《けびいし》庁のやつらには盗人共からのつかいものがあり、神祇官《じんぎかん》には社々の祝《はふり》共から進物が来るという次第だ。地方の国司共がどんなものであるかは、お互いイヤになるほど知っている。皆、官職についた力よ。皆が血眼《ちまなこ》になってほしがるも道理よ。アハハハハ」
それはそうだと思うのだが、やはり腹が立つ。
「しかし……」
と、言いかけると、貞盛はおっかぶせるように、
「くだらんことにこだわるな、おぬしだって、官位をもらって帰れば、好きな人が貰えることになっているではないか。十分にありがたがるべき理由があるはずだ」
まさにそうであった。小次郎は口をつぐんだ。
「おぬしは官位を貰うことを目的として、京に来ているのだ。忘れては駄目《だめ》だぞ。早くせんと間に合わんぞ」
「…………」
「第一、おぬしはいかんよ。人にばかり気をもませて、御自分は宮家の姫君などと、よろしくやっているのだから」
「バカをいうな!」
小次郎は赤くなった。
アハハと、貞盛は笑った。
「バカを言うなといっても、ずいぶん睦《むつ》まじげにしていたぞ。ありゃただの仲ではないとにらんだ」
「いいかげんな当推量するな。姫君が迷惑なさる」
今日もこの口で姫君のきげんを損じたのだと思うと、腹が立った。思わずはげしい調子になった。
貞盛は一向平気だ。
「ハッハハハハ、姫君が迷惑なさると来たね。おれにかくすことはなかろう。あっさり白状しろよ」
「おれはかくしたりなんぞしない。ありのままのことを言っているのだ」
「ほんとになんでもないのか」
「あたり前だ」
「そうかなア、残念だなア」
貞盛はため息をついた。それがほんとに残念そうであったので、いきり立っていた小次郎も、ふき出してしまった。相変らずのこいつだと思った。
「忠告しているのかと思ったら、こんどはけしかけているのか」
「親しい友があれほどの美女を前にしながら、ものにしていないとあっては、一応悔みを言わないわけに行かん。
しかし、おぬしの性質では、深入りせん方が無事だな。おぬしは軽くサラサラとこなせない。なにごとにも、忽《たちま》ち大わらわになる。泥沼《どろぬま》に首まではまりこんだ形になって、身動き出来なくなる。目に見えている。無器用な男だからな」
「とんだ悔みを言われることだな」
と小次郎は笑ったが、貞盛が鋭く自分の性質を見ぬいていることを認めないではおられなかった。彼は、おれが無器用なのは、おれが誠実だからなんだと思った。また、人生を幸福に送るためには、貞盛のように何事も浅く軽く考え、浅く軽く歩いて行くことだとも考えた。
貞盛はまた聞く。
「一体、どういう因縁で、あんな姫君と知合いになったのだ」
小次郎は、はじめからのいきさつを語った。
貞盛は嘆息した。
「やれやれ、それで出来ないのか。条件はそろっているではないか」
「出来《でか》す気が、おれにはないのだ。出来るわけがない」
「腕はあるのだが、気が進まんから出来《でか》さないまでのこと、と、言いたいところかね」
「へんなことを言うな。おれは事実を事実として言っているだけだ」
「そんな事実は、男として自慢になることではないて」
「もうおぬしとはこの話はせん。曲解ばかりする」
「ハッハハハハ」
小次郎は、口をつぐんで、どんなに貞盛がその話をしかけても返事しなかった。しかし、しばらくすると、姫君が小督《おごう》に似ていることを話したくなった。ますますへんな推量をして、からかわれるばかりだとは思ったが、だんだんがまん出来なくなった。頬《ほお》にモヤモヤとしたほてりを感じながら、口早に言った。
「姫君は、どこか小督の前《まえ》に似ているのだ。どうかしたはずみには、姉妹ではないかと思われるほど似て見える時がある」
「へえ?」
その瞬間、貞盛の目に異様な光が点じたが、冷静を失っている小次郎は気づかなかった。
貞盛は笑った。
「不思議だな。ほれた女は皆一つに見えるという次第かな」
「またバカを言う! 二人は二従姉妹《ふたいとこ》か三いとこくらいの血筋つづきになるはずだ。似ているのに不思議はないのだ」
「ハッハハハハ、なるほどそうか」
間もなく、貞盛は辞去した。
「運動の方は早速かからなければだめだよ」
と、かえりがけに念を押した。
翌朝、小次郎は、一番年長で、家政をとらせている郎党を呼んで、貞盛の言ったことを伝えた。
郎党は困惑した顔になった。実はそんなに多量に品物がないという。一年間の京住いに費《つか》いつくしてしまったという。
「この前、弥五が帰国いたしました時、その旨《むね》を申し送っておきました故《ゆえ》、追ッつけ送ってまいるにはちがいないのでございますが」
どなりつけた。
「いそぐのだ! いつ来るかわからんものを、待っておられるか!」
このかんしゃくは、郎党にたいしてだけのものではなかった。貞盛に言われるまで気のつかなかった自らの迂闊《うかつ》にも、京人《みやこびと》の強慾《ごうよく》さにも、くさり切った風習にも、腹が立っていた。しかし、この際、腹を立ててみても、なんの役にも立たない。
「しかたはない。太郎(貞盛)のところへ行って借りて来い」
出勤の途中、姫君の屋敷に寄る。
乳母が出て来た。昨日の礼を言った後、精一ぱいの愛嬌《あいきよう》笑いをしながら言う。
「昨日は、姫君がおむずかりで、御心配をかけました。しかし、あれからすぐごきげんがなおりましてね。
あなた様のことばかり申していらっしゃるのですよ。巫女《みこ》のお告げの中にあった『東《あずま》の男』というのは誰のことだろう。あなた様のことではないだろうかなどとね。ホホホホホ」
「東の男」ということばが、昨日の託宣の中にあったことは、小次郎もおぼえているが、託宣全体の意味がどうであったかは、まるで分らない。したがって、「東の男」が、姫君の運命にどう関係があるといったのかもわからない。
けれど、姫君がよろこんでいるとすれば、悪いことではあるまいと、うれしかった。
「いかがでございます。ちょっとお上りになって、姫君にお会いになりましては」
と、乳母はすすめた。
そうしたかったが、今朝はなにやかやとあって、大分時刻がおくれていた。帰りに寄せていただきます、姫君によろしく申して下さいといって、辞去した。
彼は、心楽しく朝の道を歩いて、主家に向った。昨日からの憂鬱は吹ッ飛び、胸が明るかった。
「ごきげんがよいようだね。なにかあったのですか」
と、清忠が言ったほどであった。
「そうでしょうか。自分では一向変らないつもりでいるのですが」
と、答えるのも、楽しかった。
二時間ほどの後、貞盛の家へ走らせた郎党が、小次郎をたずねて小一条院へやって来た。
しょんぼりして、郎党は言う。
「こまりました。あちらでも、お持ち合わせが少ないのです。進物につかってしまって、国許《くにもと》から送って来るのを待っている所だと仰《お》っしゃるのです」
「少しもないのか」
「いいえ、あるだけ全部をお借りして来ましたが、家にある分《ぶん》と合わせましても、入用の三が一にも当りません」
晴れやかな心が、一ぺんに暗くなったのが、いまいましかった。
清忠に相談してみようかとも思ったが、思っただけであった。他人に対して恥をさらすようなことはしたくなかった。世間では普通のことになっているか知れないが、贈賄《ぞうわい》ということは、彼にとっては、やはり恥かしいことである。
こうなっては、あるだけのもので工作するよりほかはなかった。小次郎は、郎党共に命じて、
「この頃《ごろ》、国許から送ってまいりましたので、ほんのお目よごしに」
という口上で、それぞれの向きに贈った。
月がかわって、三月半ば、除目《じもく》の日が来た。小一条院の侍たちでは、五人だけが望みの官位を得ただけで、あとは全部もれた。もれたなかまに、小次郎も清忠も入っていた。
「一年位の御奉公ではしかたはありませんよ。拙者など、もう三年になるのですからな」
と、清忠が笑って慰めてくれた。
そうにちがいないとは、小次郎も思う。しかし、貞盛がみごとに左衛門府《さえもんのふ》の武官に任命されて、七位に叙せられているので、心がおだやかでなかった。
「純友《すみとも》の殿の所へ行かれぬか。酒でも御馳走《ごちそう》になりながら、あの殿の話を聞いたら、少しは気もまぎれましょう」
と、清忠がさそってくれたが、行く気がしなかった。不平から来る気焔《きえん》を聞いたとて、一層みじめになるばかりだと思った。
「少し用事がありますから」
と、ことわって家にかえったが、貞盛が訪ねて来やしないかと思うと、落ちつかなかった。得意であるにちがいないその顔を見るのは、つらかった。気持の整理がつくまでは会えないと思った。
彼は、|えびら《ヽヽヽ》を負い、弓をたずさえ、馬に騎《の》って家を出た。郎党共がついて来ようとしたが、
「来るな!」
と、一喝《いつかつ》してしりぞけた。
京の町を出て、一筋の道のつづくままに、北へ北へと馬を駆って、小一時間の後、山にはさまれた緑の野に出た。
この道が鞍馬《くらま》道であり、この野が市原野《いちはらの》であるとは知らなかったが、春の野の花が咲き乱れ、青い空の至る所にヒバリが鳴きしきっているのを見た時、故郷の野を思い出した。
彼は馬に角《かく》を入れ、鞭《むち》をくれ、疾駆にうつった。案内を知らない野を向う見ずにスッ飛ばせることの危険を思わないではなかったが、胸にわき上る狂暴に近いものがかまわせなかった。
縦に駆け、横に馳《は》せ、斜に奔《はし》り、円を描いて走った。驚かされた野の鳥が飛び立ち、野兎《のうさぎ》がとんぼがえりを打って飛び出した。
馬上に弓をとりなおし、駆けながら矢をつがえたが、それはその鳥や兎を目がけたのではなかった。ただ放った。前に向って射、横に向って射、うしろに向って射、幾筋となく射放った。
射放たれた矢は、おだやかな午後の日に矢竹を光らせつつ、少し風の出ている野の上を、鋭い音を立てながら飛んで行って、草の中に没したり、斜めに大地につきささったりした。
広漠《こうばく》たる坂東の大平原にくらべると、この広い野も箱庭ほどにしかあたらなかったが、それでも、こうして馬を疾駆させ、はげしく騎射していると、故郷のにおいを嗅《か》ぐくらいの気持にはなれた。
鬱《うつ》して淀《よど》みきっていた全身の血が、生き生きと流動しはじめるにつれて、ケチくさく、女々《めめ》しい鬱屈はしだいにほぐれた。かわって、歓喜に似たものが、徐々に胸にひろがって来た。
汗の臭《にお》いをまじえた体臭が発して、からだをつつんで来たのも、なにか逞《たく》ましく、なにか男々《おお》しいものがよみがえって来た思いであった。
彼は、空に向って雄叫《おたけ》びしつつ、矢種のつくるまで、騎射をつづけた。
日が没して、とっぷり暮れてから、家にかえった。
湯浴《ゆあ》みして、さっぱりとなり、いく椀《わん》もかえて飯を食い、それから、家を出た。姫君の屋敷に行くためであった。
乳母が迎えに出た。心配げな顔で問いかけた。
「お待ちしていました。いかがでございました」
除目のことであった。
「だめ、だめ」
小次郎の大きな声は、むしろ愉快げにひびいた。乳母は笑った。
「まあ、おたわむれを」
「たわむれではありません、ほんとにだめでした」
声は一層大きく、一層愉快げだ。
姫君の耳に聞こえたらしい。その前に出ると、すぐ聞かれた。
「なにがだめですの」
「除目ですよ」
「あらまあ、いけませんでしたの」
「いけませんでした。こんなことなら、附届《つけとど》けなどするのではありませんでした。おしいことをしました。ここへ献上した方が、よほど意味がありました」
「どうしていけなかったのでしょう」
「国許から品物を持って来るのが間に合わず、予定の三分の一ほどしか附届けが出来なかったからでありましょう。つまり、値段が折り合わなかったということになります」
「面白いことを仰っしゃる」
「面白いことはありません。今はもう平気になりましたが、昼頃までは胸に火が燃えていました。プスプスブスブスとくすぶる火が」
わきから乳母が口を出した。
「今夜は、殿は酔っていらっしゃいますの」
「どうしてです」
「いつもと御様子が違います。大変ごきげんなように見えます」
「野へ出て、馬を駆けさせて弓を引いたら、気が晴れて来ました」
「あたしは好きです。あなたの今夜のようなごきげんが。だって、面白いんですもの」
と、姫君が言った。
「へえ、それでは、これまではきらっておいでだったのですか」
「きらってなんて……。いつもは、少しおそろしかったのです」
「おそろしかったなど、いけません。女性《によしよう》方には至ってやさしい男なのですから」
「あら、まあ」
姫君は笑い出した。
まるく、柔らかく、美しく、いかにも楽しげな笑い声であった。
小次郎も大きな声で笑った。笑いながら、今夜のおれはいつもと違うと思っていた。軽くすらすらとことばが出てくるのが、われながら不思議であった。
「酒のことを言われたら、少し飲みたくなりました。酒をとって来させますが、ここで飲むことを許して下さいましょうか」
「どうぞ、どうぞ。家にあればお出しするのですけど、女ふたりのくらしでは、一向にお酒に縁がありませんので」
すると、乳母も口をそえた。
「お下物《さかな》は、こちらからさし上げます」
「ありがたいです。では早速」
供の下人に、家にかえって酒を持って来るように命じた。
ほどなく帰って来た下人は、簀子《すのこ》の階段のところから、小次郎を呼んだ。
「ホイ、帰って来ました」
気軽に立って出ると、月はあるが薄い雲が空全体にかかり、おぼろな明りのひろがっている階段のところに下人がおり、それにならんで人影があった。
「誰だろう」
と、眸子《ひとみ》をさだめながら近づいて行くと、その人影が進み出た。
「おれだよ」
貞盛であった。いつもの薄化粧した美しい顔をし、折目立った狩衣《かりぎぬ》を瀟洒《しようしや》に着こなして、にこにこ笑っていた。
「おぬしか」
「おぬしの家に行ったのだ。そしたら、下人が酒を取りにかえって来て、ここだとわかったので、いささか御無礼だとは思ったが、おしかけて来た」
舌打ちしたい気持になっていた。上きげんは忽《たちま》ち消えていた。
「そうか。ではすぐ帰ろう。おことわりして来るから、しばらく待ってくれ」
と、いって、奥に引きかえしかけると、下人が呼びかえした。
「これを」
といって、胸に抱いた酒|瓶《がめ》をさしだした。
遅鈍なそのやり方が、グッと来た。馬鹿者《ばかもの》! と、どなりつけそうになったのを、やっとおさえた。
「もういらん」
奥へ入ると、姫君も、乳母も、不安げな顔をしていた。
「どなたかお出《い》でになったのではございませんか」
「友達がたずねて来ました。帰らねばなりません。残念でありますが、またのことにさせていただきます」
姫君がきいた。
「お友達って……?」
「いつぞや、右近の馬場の火雷天神からの帰りに逢《あ》った|いとこ《ヽヽヽ》です」
「ああ、あの方!」
小次郎は、いまいましさが胸にこみ上げていた。貞盛も貞盛だ、こんな所までのこのこ押しかけて来るということがあるものか、と思った。
「それでは、失礼いたします」
膝《ひざ》を立てた。
すると、その時まで、シンと表情をしずめて、なにか考えこんだように黙りつづけていた乳母が、口を出した。
「失礼でございますが、せっかくのことでございます。ここにお呼び入れになってはいかがでございます」
小次郎はおどろいた。なんということを言い出すのだ、と、あきれてその顔を見た。
乳母は動揺のない目で、小次郎の視線を迎えた。
「おぼろ月夜の小酒盛《こざさもり》、わたくし共もお相伴《しようばん》しとうございます。ねえ、姫君」
おびえたような表情が、姫君の顔に走ったが、すぐ前にかえった。
「ええ」
と、小さくうなずいた。
「そうなさいましよ。もっとも、お気が進まなければ、いたし方はございません。
しかし、お|いとこ《ヽヽヽ》様に、わたくし共がこう申したということだけは、仰っしゃって下さいましよ」
そして、笑いながら、つけ加えた。
「わたくし共が、あなた様の御一族の方をきらって、お通ししなかったなどと、思われては、イヤでございますからねえ」
乳母の言いぶりは、嫁の実家《さと》の母親が、聟《むこ》の一族のことでも話しているような親しみがこめられていた。
あまく温かいものが、霧のようにふんわりと、小次郎をくるんだ。
「それでは、御迷惑でありましょうが、呼び入れます」
貞盛のところへかえって来た。
「上ってくれ!」
「えッ! 上る? どうしたんだ?」
貞盛はおどろいたような顔をしたが、早くもはきものを脱ぎかけていた。それに気づいて、小次郎はまた暗い気になった。
「御当家で会ってよいとのお許しを受けた」
「そうか。そうか。おとなしくする。口もつつしむ」
その浮き浮きした言葉が、一層小次郎の気を重くした。
姫君も、乳母も、少しかたくなって、貞盛を迎えた。
貞盛は礼儀正しく、しかし、持ち前の明るさを失わず、初対面のあいさつをした。自分の名を言い、小次郎が世話になっている礼を言い、小次郎同様に、自分もよろしくおつき合いを願うと結んだ。
酒がはじまると、小次郎は任官の祝いを言った。
「ありがとう。しかし、まだ|ひよこ《ヽヽヽ》だからな」
「ひよこでもいい、おれなんぞ、まだ|たまご《ヽヽヽ》にもなっていない」
「そりゃしかたがないさ。おぬしはこんな美しい姫君と知合いになったりなぞして、あちらの方には熱心でなかったのだから。人間ふたつながらいいなどということはないわさ」
このへんから、貞盛はいつもの態度になった。姫君達に、小次郎が一向運動に不熱心であったことを、面白くおかしく、すっぱぬいた。
「こいつは、人間がまじめすぎるのです。賄賂《わいろ》なんぞ、おれは貰《もら》うのが嫌《きら》いだから、人も嫌いにちがいないと言うのです。賄賂を持って行くと、こちらが恥かしくなるというのです。
それで、わたしがやいのやいのと突つくまで、なんにもしないでいたのです。これでは、除目《じもく》に漏れたって、不服を言うことはないですよ。ねえ。
それから、もう一つは、あなた方にも幾分の責任があります。こいつは恋ではないと言い張るのですが、一応夢中の形ですからね。
そうなると、他のことは、どんな大事なことでも放擲《ほうてき》です。あれもこれも上手に処理するなどということは、こいつには出来ないのです。まじめすぎるのです。
しかし、今年はわたしが目を離さず見ていてうまくやってやります。わたしはこいつと違って、横着ですからね。融通|無碍《むげ》ですからね。女だって、同時に十人は愛することの出来る自信があります」
これには、皆、大笑いであった。
貞盛のはなやかで軽快な話術と、享楽《きようらく》的で才気にみちた雰囲気《ふんいき》とは、暗いじめじめした日陰の生活をつづけて来た二人の女性に、媚薬《びやく》のような作用をした。二人の目はみずみずしくかがやき、頬《ほお》は赤くもえ、蓮葉《はすは》なくらい賑《にぎ》やかな笑いが、その口をこぼれ出る。
小次郎はおどろいていた。胸の奥深いところが痛んだ。それが嫉妬《しつと》だとは思いたくなかった。
貞盛は、しげしげと姫君の邸《やしき》に出入りするようになった。
「気の毒だよ。実に気の毒だよ。坐視《ざし》するに忍びんじゃないか」
などと言いながら、時々贈物をしたりする。
小次郎は、貞盛が女にかけては油断のならない男であることを知っている。不安でならなかった。
しかし、幸いなことに、姫君は年にも見かけにも似ず、しっかりしている。貞盛の来訪を歓迎し、にぎやかで気のきいた話しぶりを喜びはするが、要するにそれだけのことで、信頼感などまるでもっていないようだ。とりわけ、男女の愛情についての、貞盛の信用は皆無なように見えた。
ある夜。
在五ノ中将|業平《なりひら》の昔話が話題に上ったことがあった。貞盛は、業平を弁護してこう言った。
「わたくしは、業平|卿《きよう》生涯《しようがい》の数々の恋に、浮気心は一つもなかったと思います。
卿の恋が浮気心から出たとするのは人間のこまやかな心情のわからない|かたくな人《ヽヽヽヽびと》の考えです。卿自身はどの恋にも一筋に魂を打ちこまれたのだと思います。いのちがけの真剣な恋だったと思うのです。
卿は余りにもゆたかな情愛を持って生れられました。そのために、至るところで恋をされました。
人はこれを責めます。しかし、これは一体責められねばならないことでありましょうか。空飛ぶ鳥は翼があるから飛ぶのです。鳥の飛ぶのをどうして責めることが出来ましょう」
熱弁であったが、姫君はホホと笑った。
「鳥は飛んでも、ひとに迷惑はかけないけど、業平卿の手当り次第の恋の陰には、ずいぶんたくさんの人が涙をしぼっているのですからね」
そして、さらに、皮肉な調子でつけ加えた。
「あなたは御自分のことをおっしゃっているのではございません?」
貞盛は滑稽《こつけい》なくらいあわてた。
「わたくしは……」
と、いったきり、次のことばが出ないで、まごまごしていた。
姫君は笑いながら、また言った。
「殿方のそういう心は、女には決してわかりません。女のことばでは、そういうのを『浮気|心《ごころ》』としか呼ばないのでございます。
女心《おんなごころ》は一筋なものです。一筋にひとりの人を思いつめて変らない、そういう人をこそ、頼もしいと思うのでございます。
これはあなた様にはおわかりになりますまい。小次郎様ならおわかりでしょうけど」
小鳥のさえずりのように美しく明るい声なだけに、意味の辛辣《しんらつ》さは、一層の味がそなわった。さすがに快弁な貞盛も口がふさがって、へへへへ、と、馬鹿げた微笑をもらしながら、首筋ばかり撫《な》でていた。
その夜|更《ふ》けて帰る途《みち》に、貞盛は小次郎にいった。
「おどろいたなあ。おれは、全然、信用がないのだね」
小次郎は、ハハ、と、ただ笑ったが、腹のうちでは、あたり前じゃないかと思った。自分を信頼しきっている姫君の心をうれしいと思った。
梟首《きようしゆ》
三月ほど経《た》って、梅雨明けの灼《や》けつくような暑熱の頃《ころ》であった。小次郎は、主家の使いで、宇治に行って、日暮に近く賀茂川の東の河原の乞食《こじき》部落の近くを帰ってくると、乞食小屋の中からふらふらと出て来た乞食があって、小次郎を目がけて歩き寄って来た。
「殿よ、殿よ。あわれな乞食《かたい》に、もの恵みたまえ。殿よ、殿よ、このあわれな様を御覧《ごろう》ぜられよ。情あって、もの恵みたまえ」
小腰をかがめ、片手をさし出して、しきりに言う。
おどろな髪が乱れかかって上半分を蔽《おお》うている顔も、わずかに褌《たふさぎ》一つに腰のあたりだけをかくしているからだも、腫物《はれもの》の|かさぶた《ヽヽヽヽ》だか、泥《どろ》だか、はだのところどころを蔽うて、目立ってきたない乞食であった。
「寄るな、寄るな」
郎党が叱《しか》りつけて、追いのけようとするが、一向ききめがない。
「あわれみたまえ。殿よ、殿よ、東《あずま》の殿よ」
と、いいながら、側《そば》へよって来た。
片手を小次郎に向けて、ヒョコヒョコとしゃくりながら、片手をのばして、馬の口綱をつかもうとする。
郎党は腹を立てた。杖《つえ》づいていた手鉾《てぼこ》をふりかざして威嚇《いかく》した。
「無礼なしれものめ、その分には捨ておかんぞ」
すると、乞食は真直《まつす》ぐ立ちになった。顔にこぼれて蔽うていた髪をかきあげた。
「推参な下郎め! おれは汝《われ》が主人にもの言うているのだ。引っこめ!」
と、低く叱咤《しつた》した。みにくい顔が微笑したようであった。
小次郎は、オヤと思った。その声にも、その顔にも、覚えがあるような気がした。郎党を制止して、つくづくと顔を見た。
「オオ、おぬしは……?」
「東の殿、おわかりか」
たえて久しい玄明《はるあき》であった。にやりにやりと笑っていた。
「そなた、どうしたのだ? こちらに来ていたのか?」
おどろきのあまり、小次郎は、笑うことすら忘れていた。
「ああ、重なる悪行の報い、世をせばめて、坂東《ばんどう》にいることも出来んことになったので、こちらに上って来たが、こちらも思わしくない。ごらんの通りの仕儀だ」
と、言いながらも、玄明は依然として笑っている。苦にしている様子も見えない。
「そうまでならん先に、なぜたずねて来なんだのだ。身に合うほどの合力はいつでもしたに……」
さまで親しくした覚えはない。その上、親しくしては不利益でさえある相手とは思うのだが、小次郎の性質として、気の毒でならなかった。
「ありがとう。しかし、この境涯も、馴《な》れてみれば、ずいぶん気楽でな。こいつは、ちょいと、おぬしらにわかるまい。アハ、アハ、アハ……」
気楽げな笑いが負けおしみではなさそうでもある。
美々しく装った武者と、このきたならしい乞食との親しげな問答を、一帯の乞食小屋からゾロゾロと這《は》い出して来た乞食等が興ありげに眺《なが》めている。わざわざそばへ寄って来て見物しているものもある。
小次郎はきまりが悪くなった。
「路上のことで、思うようなことも出来ぬ。これを当座の引出《ひきで》ものにする。これで一応の身なりをととのえて、おれが住いに来てくれ。おれが住いは、しかじかだ」
と、言って、差しぞえの鞘巻《さやまき》をぬいてさし出した。
「遠慮なくいただこう」
玄明は、きたない手をさし出して受取った。とっくりと、つくりを見た。
「ホウ、いいつくりだな」
さらに中身をしらべた。
「上作だな。陸奥《むつ》ものだな」
「よく見た。陸奥ものだ。――きっと来いよ」
「うん、行く」
といいながらも、玄明はなお秋の水のようにさえた刀身に見とれていた。
「では」
別れて馬を進めた。少し行って、ふりかえってみると、玄明のまわりには、乞食が一ぱい群がっていた。その乞食共にむかって、玄明は鞘巻をかざすようにして見せびらかして、なにやらしゃべりまくっていた。
玄明の手の動きにつれて、キラキラと白刃《はくじん》が光っていた。なにを言っているのかわからなかったが、大へん得意げに見えていた。覚えず苦笑が出た。ありゃおれのごくごく懇意な友達でね、あるいは、おれの一族の者でね、くらいのことを吹きまくっているのかも知れないと思った。
小次郎は、帰宅すると、郎党や下人等にこの話をして、たずねて来たら丁寧にもてなすように言った。
しかし、なかなか現われなかった。そこで、四五日の後、この前の郎党に、巻絹や砂金を持たせて行かせてみたが、間もなく、持たせてやったものをそのまま持ってかえって来た。あの翌日あたりから、姿が見えないのだという。
「どこへ行ったか、聞いてみたか」
「いく人もの乞食共に聞いてみましたが、どこへ行かれたか、よくわかりませんそうで。急にいなくなられた由《よし》で」
「…………」
いつぞや、あの乞食共の中には盗賊をはたらくやつがいると、清忠が言ったことを思い出した。案外その乞食共の手下として、盗賊働きでもしているのではないかとも考えた。
(怯《きよう》は乞食となり、勇は盗となるか。やつは、一応、勇者であるにちがいないからな)
気にはなったが、どうしてもさがし出して助けなければならないというほどの義理はない。そのままに打ちすてた。いつか忘れるともなく忘れた。
平和な幾月かが流れた。小一条院への勤務、貴子《たかこ》姫の邸への訪問、純友の邸への折々の訪問、そんなことがくりかえされて、年の暮になって、例年の通り外官《げかん》(地方官)の除目が行われた。
その一月ほど以前、純友は、
「まろは、この度の除目で、望み通り伊予に行くことになるよ。この前、おぬしらの主人に会った時、まろを伊予に行かせれば、必ず海賊共の横行をしずめてみせると申したところ、きつう気をひかれた風だったから」
と、皮肉な笑いと共に言っていたが、その日になってみると、果して伊予|掾《じよう》に任命されていた。
純友の長官である国守《くにのかみ》には、紀淑人《きのよしと》という人物が任命された。が、本人がことわったという。
「どんな人でしょう」
「文章《もんじよう》博士で、学者としても名誉の博士でありましたが、亭子《ていし》のみかど(宇多天皇)の御信任が厚く、中納言《ちゆうなごん》にまでなった人で、紀ノ長谷雄《はせお》という人がいました。その人の御子息ですよ。さすが学者の家の生れだけに、学問もあれば、手腕もあり、うちの大臣《おとど》もきつう信用しておられます。おとどの子分の中では、第一等の人物と申してよいでしょう」
「それにしては、お邸にお見えになりませんな」
「子分も、淑人卿ほどになると、淑人卿がおとどを頼りになさるより、おとどが淑人卿を頼りになさる方が強いのでしょうな。だからことわったのでしょう。おれほどの者が地方落ちすることはないというのでしょうな」
と、清忠は笑った。
国の守はその国では王者だ。ひょっとするとみかどより、小一条院のおとどより、国人らには恐れうやまわれていよう。すげなくそれをことわる人もおれば、名前だけの官位をもらいに来ている者もいると、感慨があった。
その夜、二人は同道して純友の邸にお祝いを言いに行った。ふだんから出入りして来ているあの様々な職業と階級の人々が同じ目的で集まって来ていたが、純友はいなかった。それぞれの向きに、お礼まわりをしているのだという。
「まあ、待っていようじゃありませんか。そのうち帰って見えるでしょうから」
と、皆がすすめるので、しばらく待ったが、一時間以上待っても帰って来ないので、日を改めて出直すことにして帰った。清忠はあとにのこった。
三四日の後、純友の邸で、自祝の宴が開かれて、招待を受けたので、夕方から出かけて行くと、車寄せのところに立ってしきりに来客の世話をやいている男がいる。
どこやら見覚えのある感じだが、誰であるか、はっきりわからない。
注目しつつ近づいて行ったが、それが誰であるか知ると、声を立てんばかりにおどろいた。玄明《はるあき》だったのだ。
この前とまるで違って、公家《くげ》の家人《けにん》風の、小ざっぱりした服装をし、なれ切った態度で、小まめに立ちはたらいている。
小次郎の近づくのを待って、ひょいと顔を上げて見た。
「よう。この間はありがとう。不思議な所で逢《あ》うことだな」
おちつきはらって、にやにやと笑っていた。
「不思議なとは、こちらから言いたいところだ。どうして、こんなところに……」
「どうしてということはあるまい。類は友を以《もつ》て集まるというではないか。おれは当家の殿の人物が大へん気に入ったので、頼んで家人にしてもらったのだ」
「いつからだ?」
「つい数日前からよ。おれは伊予に連れて行ってもらうので、うれしくてならないところだ。おぬしも行かんか。京にいて窮屈な公家奉公などしているより、ずっと面白いぞ」
ほんとに愉快げにあごの角ばった顔に、喜悦の色がおどっている。
「そうもなりかねる。おれは一族の首長だ。いずれは坂東に帰らなければならない身だ」
まじめに受けて答えると、玄明は呵々《かか》と笑った。
「一族より、大掾《だいじよう》の弟姫《おとひめ》にひかれているのだろう」
「馬鹿《ばか》な!」
「アッハハハハ、おれはあまり感心せん女子《おなご》とは思うが、おぬしにしてははじめて知ったおなごだ。忘れられまい。まあよろしくやるがよかろう」
やがて、純友に会った。改めて祝いを言い、餞別《せんべつ》の品物などさし出すと、純友も、
「ありがとう。よく来てくれたな。折角知合いになったのに、大へんなごりおしいが、なに人間の運命というものは、どうなるかわかるものではない。やがてまた意外なことで会うことになるだろうよ。まろはその時を楽しみにしている。からだを大事にして、息災でいてくれ」
と、持ち前の豪快さは失わないが、しみじみとした調子であった。
小次郎は、ちょっと玄明のことを話した。
「うん、そうそう、やつとよく知っているそうだな。貴公とは兄弟同様の仲だと言っていた。もっとも、まろは信用はしないんだ。いくらか知合いであるにウソはなかろうが、その格式ではないと思っていたのよ。ハッハハハハ」
小次郎も笑った。
「彼がそう申すのは、彼としてはウソを申しているつもりはないのでしょう。ほんの二三度しか会ったことはありませんが、国にいる頃から、ずいぶん親しげに申してはまいりましたから。手のつけられない暴れものではありますが、面白いところもある人物です。殿のような方ならば、よく使いこなせましょう。わたくしからも、よろしくお引きまわしのほどを、お願い申します」
「よしよし、悍馬《かんば》ならば悍馬の使い先がある」
と、純友は笑った。
その夜の客は、ふだんからこの屋敷に出入りしているあの多種多様の者共だけで、いつもの乱暴な宴《うたげ》になったあとは、これまたいつもの通り、あのばけもの屋敷へ押し出して行くことになった。小次郎は途中から抜けて帰宅した。
年が明けて間もなく、純友は、伊予に向って出発した。玄明も供をして、京を去った。
純友を送って十日ほども経《た》つと、こんどは清忠が、故郷へかえるといって、御殿からひまをもらった。
「拙者も、型ばかりでもよいから、官位をもらうまではと思って、今日まで辛抱したのですが、国許《くにもと》の方で、拙者がおらんとどうもならんことになりましたのでね。残念なことです」
と、清忠は言った。
ほんとに残念げであった。打ち沈んでも見えた。ひとごとではないと、小次郎は思った。
数日の後、清忠は故郷に向った。小次郎はこれを、河陽《かや》の駅まで送った。
河陽は、今の大山崎だ。京都盆地が、東から迫る男山《おとこやま》と西から迫る天王山によってすぼまって、間に一道の淀《よど》川を通ずる地点に、天王山の麓《ふもと》、淀川に臨んで位置している。
河陽という地名は、この時代の初期、嵯峨《さが》天皇がここに河陽館《かようやかた》という離宮を営まれたところから出た。淀川の陽《きた》にあるので、こんな支那《しな》風の名前がつけられたのである。陽という文字は「日なた」の意味で、山の場合には南をいい、川の場合には北をいうのである。
嵯峨天皇の時代からこの小説の時代まで約百二十年、離宮はいつか廃せられて、そのあとには河向うの男山|八幡《はちまん》から八幡神社を勧請《かんじよう》して、今にのこる離宮八幡となったが、河陽の地名はのこって、その地は繁昌《はんじよう》した。
京都から西国へ向う路《みち》の要地であったからだ。当時、京都から西国に向うには、川船で淀川の河口近くの江口まで行き、神崎川という運河を通って、今の尼崎《あまがさき》市の東郊大物の浦で海に出て、船をかえて、四国なり、九州なり、中国なりに向うのが、普通のコースであった。だから、京都から出るにも、京都へ入るにも、必ず通過しなければならないのであった。
菅原道真《すがわらみちざね》が左遷《させん》せられて九州に赴く時、途中の駅の長《おさ》が、昨日にかわる道真の境遇の変化を驚きかなしんだ時、道真が、
駅長驚ク勿《ナカ》レ時ニ変改アルヲ
一栄一落、コレ春秋
という詩句を示したという有名な話も、この河陽でのことである。
ここは、北方に、丹波地方から連亙《れんこう》して来た丘陵地帯が天王山を突端として迫り、南方に淀の大河が岸を洗っているため、不規則な帯状をなした狭い土地だが、公私の倉庫があり、市《いち》がひらけ、居住の人が多く、その繁華は、難波《なにわ》の津とならんだといわれている。
「今日別れれば、いつまた会えるかわからないのです。|はめ《ヽヽ》をはずして盛大にやりますかな」
舟を下りて、駅亭に向う途中、清忠は言った。
「そうしましょう、そうしましょう」
小次郎も、惜別の情にたえなかった。思えば、不愉快なことのみ多い宮仕えも、この人があったればこそ、どうやらがまんが出来たとも言えるのだ。
清忠は立ちどまった。
「さて――とすれば、駅亭などに行って、公務風《おおやけかぜ》を吹かせる官人《つかさびと》に出会っては、せっかくの興がさめる……」
と、思案していたが、やがてにやにやしながら言った。
「将門《まさかど》の殿。遊女《あそびめ》を買うてみる気はありませんか」
こちらはドギマギした。
「遊女がいるのですか、当地には?」
「ホウ、おこと、ごぞんじないのか」
「存じませんでした」
「なかなか上品《じようぼん》(上等)なのがいるのですよ。公卿《くぎよう》方でさえ、ここの遊女は珍重しておられるくらいです」
「そうですか。てまえはいずれでもよいです」
なにか恥がましく、小次郎が口早に言うと、清忠は笑った。
「人なみな遊びは、時々してみられるがよいですぞ。おことのように、堅くばかりしておられては、他国の住いはつらくいぶせいばかりで、その余りには、往々、つまらぬことをしでかしてしまう。鬱屈《うつくつ》は積《つも》らしてはならぬ。積らぬ先に散じて行くのが、利口な方法ですて。ハハ、ハハ、ハハ」
いそがない足どりで、賑《にぎ》やかな町を行きながら、清忠はなお言う。
「ここから三四里下流の右岸に、鳥飼《とりかい》の里というのがあります。船つき場である上に、近くに左馬寮《さめりよう》の御牧《みまき》がありますので、大へんにぎやかな里で、そこにも多数の遊女がいますが、そこでこういうことがありました。
亭子のみかど(宇多天皇)のおん時ですから、三四十年前のことです。みかどが、鳥飼の御牧に御幸《みゆき》なさった時、おかえりがけに、御座船の上でお供の方々を集《つど》えて和歌《うた》の御会《ぎよかい》があり、その後、管絃《かんげん》の御遊《ぎよゆう》にうつりますと、土地の遊女共が大勢船に乗っておしかけてきました。
遊女というものは、そういうものなのです。招かれれば、もちろん行きますが、招かれずとも押しかけて行くのが、彼女等の習わしなのです。
みかどは、大へん面白がられまして、歌などうたわされましたが、その中にとりわけ器量がよく、とりわけ声美しく節おもしろく歌うのがいますので、名を問わせられますと、白女《しろめ》と答えました。
『何者の娘だ。由《よし》ありげな様に見える』
と、重ねて問わせられますと、本人は答えませなんだが、他の遊女共がお答え申しました。
『丹後守《たんごのかみ》大江|玉淵《たまぶち》が女《むすめ》であります』
みかどは驚いて、しげしげと見ておられました。しばしがほどは、おことばも出ません。
玉淵は平城《へいぜい》天皇四世の末で、歌人として有名であった人物です。いかに人の運命がはかられないとは申せ、その娘が遊女に身を沈めていようとは、みかどとしては、たしかに御意外であったに相違ないのです。
それに、これは拙者《てまえ》だけの考えですが、このみかどには、皇族のかかる零落に対しては、一入《ひとしお》痛切な御感慨がおありになるべき理由があったと思うのです。
というのは、このみかどは、まことに不思議な幸運から帝位に上られた方なのです。
御承知でしょうか。みかどの父君小松のみかど(光孝天皇)は、あまりパッとしない親王として、五十四歳まで来られました。従ってその御子《みこ》である亭子のみかども、既に臣籍に下って、源|定省《さだみ》と名乗っておられたのです。ところが、不思議な幸運によって、小松のみかどは御老年になってから帝位をふまれることになり、従って、定省卿も皇族に復帰して、父帝崩御の後、帝位に即《つ》かれることになったのです。
つまり、運命の神の意志が途中で動いたがために、自分は帝位につくことが出来たが、でなかったら、自分の子孫が白女《しろめ》の境遇になったかも知れないと、お考えになったに違いないと、拙者は思うのです。
このようなことは、亭子のみかどが、菅原道真公をしきりに登庸《とうよう》して、わずかな年月の間に、右大臣にまで昇進させられたことにも、大いに関係があるに相違ありません。王氏の零落は、藤原氏の専権のためなのですから」
清忠の話はつづく。
「さて、――
それから、みかどは、白女を御座船に召上げられました。間近くごらんになりますと、その美しくたおやかなこと、高雅なこと、まことに、まことに、王氏の間近い末に違いないと思われました。
みかどは、白女に席を賜うて、仰《おお》せられました。
『そちの父玉淵は、世にすぐれた歌人《うたびと》であったが、そちにもそのたしなみがあるか』
『いささか』
『では詠《よ》んでみよ』
『御題をたまわりとうございます』
みかどは、その日の歌会の題であった『とりかひ』という題をお示しになって、これを詠めと仰せられますと、白女はしばし打ち案じた末、筆をとってさらさらと書きました。
ふかみ|どりかひ《ヽヽヽヽ》ある春にあふときは
霞《かすみ》ならねど立ち昇りけり
みかどは、手にとってそれをごらんになりました。さまでよい歌とは申せませんが、決して拙《つた》ない歌ではありません。筆蹟《ひつせき》も美しくなだらかに見事です。
みかどは、涙ぐまんばかりに感心されて、おほめになり、御袿《おんうちぎ》を一かさね、引出ものとして賜わりました。
すると、列座の公家《くげ》方も、それぞれ、先を争って、お召しものをぬいでかずけられましたので、二間ばかりの間に、それがうず高く積み重なったということであります」
小次郎は、一言の問いかえしもせず、ただ聞いていた。彼の心には、白女というその遊女と、貴子《たかこ》姫の面影《おもかげ》とが重なり合っていた。自分がいなかったら、貴子もそんな境遇に転落したかも知れないと思うのだ。恐怖に似たものが、胸をつめたくした。今さらのように、よかった、と、胸を撫《な》でおろす気持であった。
道はいつか市街地をはなれて、山路にかかっていた。石ころだらけのやや急な路の両側に、藪《やぶ》や木立がせまり、所々に今をさかりの梅の花が真白に咲いている路であった。
「どこへ行かれるのです!」
「もうすぐです」
山路にかかって、十二三間を行った頃《ころ》、道のわきに門があって、その奥に一軒の家があった。
やや古びた、板|葺《ぶ》きの家だが、檜網代《ひあじろ》の腰がこいなどして、なんとなく雅《みや》びたものを感じさせるものがあった。
「ここですよ」
清忠は門内に進み入る。小次郎もつづいた。
二人の足音が、シンとしたあたりにこだまを呼んでひびきわたると、網代がこいの上の上げ蔀《じとみ》が内側から開いて、そこに人の上半身があらわれた。
女であった。老女であった。四十五六の眼鼻《めはな》立ちはよいとは言えないが、どことなく、清らかで、色めいて見える様子をしていた。
「あらまあ」
清忠の顔を見ると、年に似合わないつややかな声を上げた。黒い宝石のようにつややかな歯を見せた顔には、こぼれるばかりの愛嬌《あいきよう》があった。
「おめずらしや、すっかりお見限りでございましたのねえ」
と、女は親しげだ。
「ほんとに久しいな。変りはなかったか」
と、清忠も親しげだ。
女は、純友のことを語って、伊予ノ掾に任官されたということだが、もう御赴任になったろうか、と、きいた。
「行かれたよ。十日ほどにもなるかな。当家へ寄りたいと仰せられてあったが、急に前途をお急ぎにならねばならんことになって、心をのこしてお行きであったよ」
「まあ、そうでございましたの。いくらもひまのかかることではなし、ちょっとでもお寄り下さればよかったのに」
「ちょっとではすまないとお考えであったのだろうよ。好きだからね、あの殿も」
「ホホ、ホホ、あらまあ、わたくしとしたことが、お上げもしないで。さあさあ、どうぞお上り下さいまし」
眺望《ちようぼう》のよいへやであった。前面に河陽の町があり、それをこえた向うに淀の大河が白く光り、さらにその向うに男山の翠微《すいび》が望まれた。
二人の席をしつらえ、女が退《さが》って行くと、清忠は説明した。
「ここは遊女宿《あそびめやど》ですよ。あの女が当家のあるじ。あれも若い頃は遊女だったということです。器量はあの通りで、さしてよいとは申せませんが、歌舞のわざにかけては、この里ではいうまでもなく、この川筋の方々にある遊里の女共の中で、第一といわれていた由です。
純友の殿はごひいきで、よくおいででありました。拙者《てまえ》も、そのお供をしてまいってから知合いになったのです」
やがて、酒が来、女が二人来た。二人とも美しくはあったが、とり立てていうほどの品位は感ぜられない。清忠のこれまでの話の工合《ぐあい》から、しぜん相当高い期待を持っていたので、かなり失望を感じないではおられなかった。
けれども、酒がすすんで、歌や舞いなどが出ると、しだいに心が浮き立って来た。
その頃、門外の坂道に数頭の馬の蹄《ひづめ》の音がしたと思うと、にわかに門内がさわがしくなり、すぐそれは屋内に入って来た。はずみ切った若々しい声と、乱暴なくらい力のこもった足音とが、若い男等であることを想《おも》わせた。
「お客さまだね。若殿原だな。たぶん京からだ。御繁昌だな」
と、清忠が言った時、そちらから、荒い足音が近づいて来て、入口の遣戸《やりど》の前でとまったかと思うと、
「もの申す。開けてよろしいか」
と、声をかけた。
「どなた?」
と清忠が答えた。
「まろは京《みやこ》の者だ。開けてよろしいか」
「お開け下さい」
サラリとあけた。
色白のたけの高い公家風の青年が立っていた。年頃は十七八と見えた。射るように鋭い目で、キッと座中を見た。内には入らず、そこに立ったまま、
「お願いがある」
と、言った。
無礼な男だな、と、小次郎はムッとしたが、清忠はおだやかに言う。
「お入り下さい」
「ここでよろしい」
と、相手は動かず、つづけた。
「願いというのは、そこの女をひとり、どれでもよいから、ゆずってもらいたいのだ。まろらは五人連れで、京から遊びに来たのだが、女が一人足りない。せっかく三里の道を来て、無興《ぶきよう》のいたりだ。ぜひ、そうしてもらいたい」
わがままな言いぐさだ。こちらの都合など、てんで考えないのだ。あまりなことに、小次郎は腹を立てるより、あきれていた。
清忠は、依然としておだやかな顔で言う。
「おことわり申したら、どういうことになりましょう」
「ことわる?」
おどろいたように、相手はさけんだ。傲慢《ごうまん》な表情は忽《たちま》ち消えて、途方にくれた顔になった。が、すぐそれは怒りの表情にかわった。
「ことわるなど、まろがこんなに頼んでいるのに!」
清忠はにこりと笑った。
「そなたさまはどなた様でしょうか。人にものを頼むには頼む法があります。われら二人はそなたさまの家人《けにん》でもなんでもありません。あかの他人です。それを、そんなところに突ッ立ったまま、こちらの都合も考えず、高飛車なものの言い方がありましょうか。喧嘩《けんか》でもしたいおつもりなら別ですがね。お名前をうかがいましょう」
おだやかな言いぶりではあったが、底にひめている強いものがうかがわれた。
相手は腹を立てつつも、言いかえすことが出来なかった。ハタと戸をしめきった。立去りながら、いまいましげに言った。
「覚えているがよい。まろが誰であるか、今に思い知ろう」
清忠は低声《こごえ》に笑った。女共をふりかえった。
「ありゃ時々当家へ来るのか」
女共は不安げだ。青年公家のへやの方を気にしながら、低く答えた。
「ええ、ほんの時々」
「そなたら、どちらか馴染《なじみ》ではないのか」
二人とも首を振った。
小次郎には、清忠が、あの青年が誰であるかを知っているらしく思われた。
向うのへやでは、荒々しく何かを言い合っていたが、ドヤドヤと出て行くけはいがし、間もなく、馬蹄《ばてい》の音を立てて立去った。
「やれやれ、しずかになった。せっかくの酒がまずくなったな。もう、二三人来てもらって、賑やかにやり直しましょうか」
「いいでしょう」
と、いっている時、女あるじが顔を出して、わびを言った。
「かまわないよ。こちらは少しも気にはしていない。ああいう連中を気にしていては京の住いはならん」
と、清忠は笑って、もう二三人女共をよこすように注文した。
「かしこまりました」
女あるじが退って行くと、小次郎はきいた。
「あの若公家は誰です。お知りのようですが」
「六孫王の経基《つねもと》ですよ」
「宮様ですか」
「そうです。つい三四年前、源姓を賜わって臣籍に降下しましたが」
「どんな血統です」
「清和天皇の第六皇子四|品《ほん》中務《なかつかさ》卿|貞純《さだずみ》親王の第一王子です。近い皇親なのですが、傲慢な上に軽率なところがあって、時々、先刻のようなことをしでかしては、世の物笑いになっています。|とりえ《ヽヽヽ》は、馬術と射術の巧みなことですが、なあに、これとて京方《みやこがた》での、しかも宮様芸、おことら坂東人の鍛練にくらべれば、ものの数でもないでしょうよ。
純友の殿は、あの人を大のおきらいでね、いつか目にもの見せてくれると言っておられました。しかし、ついにそのことに及ばないで、任地に行ってしまわれました。今日のことなど、もしお話ししたら、なぜ懲《こ》らしめてやらなんだのだと、きっと仰せられましょうよ」
笑いながらの説明であったが、強い憎悪《ぞうお》の感ぜられることばづかいであった。
清忠は、もっと何か言いたげな風だったが、新しい女共が三人来たので、話はそれきりになった。
しばらく、賑やかに遊んだが、ふと気がつくと、もう夕方だ。遠く男山のいただきにさす日が薄赤くなり、窓外の木々に夕風がそよいでいる。
小次郎は、明日の勤務が気になった。帰らなければならないと思った。すると、清忠が言う。
「なにをそわそわなさる。拙者は二三日当家に逗留《とうりゆう》のつもりですが、おことも一晩くらい泊って行かれたらどうです」
自分が宮仕えをやめたからとて、勝手なことを言うと、小次郎はおかしかった。
「お邸《やしき》をどうします? 拙者は明日は出番ですよ」
清忠は、ハハと笑った。
「勤務など、そうクソまじめにすることはいりませんよ。賄賂《わいろ》さえぬかりなくつかっておかれれば、時々の怠け休みくらいなんでもない。どんなにおことが勤務に精出されたところで、それだけではぜったいに除目《じもく》にあずかることは出来ません。ほんとですぞ」
「しかし、無断で休むことになります」
「届を書いて、御家来の一人をかえして、お邸に持って行かせなさるがよい」
「いいでしょうか」
「いいですとも」
そうすることにした。
一層のさわぎになって、深夜になって、したたかに酔って寝についた。どうして寝室につれて行かれ、どうして寝についたか、まるで意識がなかったが、ふと、おそろしく|のど《ヽヽ》がかわいて目をさますと、そばに女が添い臥《ぶ》していた。
小次郎はおどろいた。そっとそちらを見た。
女はよく寝ていた。細めた枕頭《ちんとう》の結び燈台《とうだい》の光に照らされたそのきめの細かな顔は、かすかに青ざめ、薄く汗ばんでいた。小さく口があいて、歯がのぞいていた。
小次郎は、女をおどろかさないように手をのばして、そこにあった銀の提子《ひさげ》から椀《わん》に水をついでのんだ。
酒にただれた|のど《ヽヽ》に、つめたい水がうまかった。立てつづけに三ばい飲んで、夜のものの中に身を入れた時、女が身動きした。
目をさましたのか、と、思ったが、そうではないらしかった。目をつぶり、眠りを思わせるしずかな呼吸をしている。そのくせ、腕は小次郎の方にのびてかき抱こうとし、足は小次郎の足にからもうとする。
女の足は、こちらの足をまさぐってからんだ。なめらかでやわらかい感触が、小次郎をぞっとさせた。小次郎が上体をそらしていたので、女の腕はなにものも抱くことは出来なかった。二の腕までまくれた白い腕が、二三度さぐり抱くように宙に動いたが、下におちると動かなくなった。大きな吐息を一つして、あとはおだやかな呼吸が規則正しくつづいた。
疲労と深酔のはての睡《ねむ》りの中にも、客にたいする手管《てくだ》が習慣的に出て来る女が、あわれでもあれば、いとわしくもあった。
つくづくと女の顔を見た。たしかに宴席にいた女の一人ではあるが、どうしてこの女をえらんだか、まるで記憶になかった。
さくばくたるものが胸にあった。ここへ泊る気になったことを後悔した。
(ばかなことをした。帰った方がどんなによかったことか)
彼は自宅の寝床の気がねのないのびやかさを、せつないほどなつかしく思い出した。
それにしても、この寝床の熱さ! ほてるような暑さだ。からんで触れ合っているあたりは汗がねばって、気味が悪かった。相手の眠りの深くなるのを待って、足をはずしたが、はずした瞬間に、相手の寝息はとまって、ぽかりと大きな目をあいた。はっきりと目ざめた人の冴《さ》えた目つきであった。にこりと媚《こ》びた笑いを見せた。
「あら、どうなさいましたの。お水?」
やわらかで、ささやくようで、好色的な声であった。
荒々しい男の情熱が、いきなり、からだ中に燃え上って来た。両腕《もろうで》をのばし、足をからみ、グッと抱きよせた。
「あれ! まあ乱暴な……」
女は、口ではたしなめながらも、すりよって来た。からだ全体が綿のように柔かくなって、男のはばひろい胸にもぐりこんでくる。
はげしい慾情《よくじよう》に、小次郎は周囲全体が炎の中にあるように真赤に見えた。わなわなとふるえながら、胸の中の女を見た。
女は男を見上げていた。媚びた光をたたえた目であった。
また、さくばくとしたものが、胸にさした。同時に、黒い影が霧のように目の前にふさがるのを感じた。
(一筋に思いつめてかわらない人、そんな人をこそ、女は頼もしいと思うのでございます。これは常《じよう》平太様にはおわかりになりますまい。将門様ならよくおわかりでございましょうが)
霧のような影のなかから、こういう声を、聞いたと思った。
彼は女を抱いた腕をといた。起き上って、坐《すわ》った。
「あれ!」
女はかすかに悲鳴を上げて、おどろきうらむ目で、小次郎を見た。小次郎は見もしなかった。提子をとって、口からじかに流しこんだ。ゴクゴク、ゴクゴク、とのどを鳴らして。
翌日は早朝に河陽《かや》を出た。
「自愛して下さい。除目など面白く行かなくても、ヤケになんぞならないことですよ。純友の殿の言いぐさではありませんが、きっと今に我々の天下が来るのですからね」
清忠は、船つき場まで送って来て、こう言った。
小次郎はうなずきはしたが、藤原氏の栄華の尽きる世など考えられなかった。ましてや、天下大乱など思いも及ばない。望みは、東国の一豪族として、波瀾《はらん》のない生涯《しようがい》を送りたいだけであった。
京へは、午頃《ひるごろ》ついた。帰宅すると、今し方貞盛が来たという。
「何か用でか」
「除目も追々迫って来つつあるが、諸家へは如才なく附届けしてあるかと仰《おお》せられました」
これは先《ま》ず遺漏はないつもりであった。
「その他には?」
「ただそれだけを仰せられて、おかえりでありました」
貴子《たかこ》姫の邸に行ったのではないかと思われた。貞盛に会いたいとは思わなかったが、なにか気になるものがあった。着がえをするとすぐ、出かけた。
あんのじょう、貞盛は姫君の家にいて、いつもの調子でにぎやかに話しこんでいた。
「お友達の御帰国を送って、河陽までお出《い》でであったそうでございますね」
と、乳母が言った。貞盛が話したものと思われた。
「はい、昨日のうちに帰って来るつもりで出かけたのですが、あまりになごりが惜しまれましたので、つい泊ってしまいました」
昨夜はよくぞ規《のり》をこえなかったと、思った。もしこえておれば、こうして姫君の前に出て来ることは出来なかったろうと思った。
貞盛が笑いながら言う。
「河陽の遊女《あそびめ》共はどうであった。美しいのに行きあったか」
こんなことには、いつも無神経な相手だとは思いながら、今の場合、小次郎はいささかあわてた。しかし、平気にかまえて答えた。
「ああ、皆美しかった」
「それで、どうであった?」
「どうであったとは?」
「もてたかというのだ」
「もてたかとは?」
「共臥ししたのだろう」
しなかったとは言えなかった。赤い顔になった。
貞盛はカラカラと笑った。
面白そうに問答を聞いていた姫君の顔が、いつかシンとしずまっていた。青ざめて、涙ぐんでいるように見えた。大へんな場に立っていることを、小次郎は感じた。せい一ぱいの勇気をふるいおこした。
「共臥しはした。しかし、それだけのことであった」
腹をかかえて、貞盛は笑った。
「ハッハハハハ、それだけのことであったと? いいかげんなことを言うな。誰がそんなことを信じられるものか」
小次郎は腹を立てた。
「おれは、おぬしではないぞ!」
どなるような声になった。
「ハッハハハハ、信ぜん、信ぜん」
「信ぜんと言って、事実そうなのだ。おれは俯仰《ふぎよう》して天地に恥じない」
この瞬間、小次郎は、貞盛がにくくてならない気がした。
貞盛は一層笑った。
「そう力みかえるほどのことではない。女性《によしよう》方の前だ。そう荒い声を出すな。おれはおぬしの言うことを信ぜんが、もしおぬしの言う通りであるとすれば、こんどはおぬしが一人前の男であるかどうかを疑わんければならん。男が一晩美しい女と寝て、それで何事もなかったなど、一体自慢になることかね」
小次郎はなお言いかえしたかった。おれは心のともなわない情慾だけで女に触れることの出来ない人間だ、と。しかし、姫君の前でこれ以上のことについて語ることは、つつしまねばならなかった。
ずっとずっと後世、江戸時代になってこそ、儒教の影響によって、恋愛や情事には罪悪めいた陰翳《いんえい》がともなうようになったが、この時代の日本人はむしろ、それらのことの情趣を解しないのはもののあわれを知らないふるまいとして、紳士淑女の資格に欠けるとすらしていた。
が、それも程度がある。こうまで話が深入りしてはあまりだ。程度を越したことが非礼とされるのは、いつの時代だって同じだ。
「おれはもう言わん。なんとでも、おぬしの思いたいように思え」
言い放って、口をつぐんだ。くやしくて、身がふるえた。
「申訳ありません。話がとんだ所まですべってしまいました」
笑いながら、気軽に、如才なく、貞盛は姫君と乳母にわびた。
「いいえ」
乳母は笑って、そして、依然として笑いながら、小次郎に言う。
「あなた様は、お国に待っていらっしゃる方に、志を立てていらっしゃるのでしょうね」
姫君の青い顔が一層青くなったのを、小次郎は見た。
「そ、そんなことはありません!」
あわてて言った。わたしは姫君に志を立てているのです、と、言いたかった。しかし、それは言えることではなかった。姫君が自分をどう考えるであろうかと思うと、たまらなかった。こんな立場に自分を追いこんだ貞盛をにくいと思った。
二月になって間もなく、東山の奥に巣窟《そうくつ》をかまえていた盗賊が、追捕《ついぶ》にむかった使庁の者に抵抗し、殺された者が数人あり、獄門に梟首《きようしゆ》された事件があった。この時代は仏法尊重の精神から、凶悪罪人でも決して死罪にはしなかったが、それではいろいろこまるので、捕縛に際して少しでも抵抗行為があれば、容赦なく殺した。この梟首の中に美しい女がまじっているというので、大評判になって、左京の獄舎の前には、毎日おびただしい人出であった。
小次郎も、見物に行った。首は五つあった。陽春の明るい日ざしに照らされて、どの顔もピカピカ光って、急には人間の首という感じはしなかった。こしらえものめいて見えた。右の端が女の首であることは一目でわかった。なるほど生きている時は美しい女であったにちがいないと思われる整った顔立ちだったが、青黒い色が全体に行きわたって、今はもう醜悪なばかりであった。
小次郎は、一つ一つ順々に見て行ったが、三番目のを見た時、はッとした。
それは、純友の邸によく出入りしていた大学の学生《がくしよう》紀ノ何某《なにがし》という男によく似ていた。あわてて下につけられた名札を見た。白木の札に、筆太に書かれた文字は、たしかにこう読まれた。
「元大学学生紀豊久」
茫然《ぼうぜん》として、小次郎は立ちすくんでいた。
東風《こち》のたより
除目《じもく》の日は追々に近づいて来た。
「今年は大丈夫だよ。これだけの布石をしながら、いけないわけがない。しかし、仕上げはなんによらず大事だからね」
まる一年小次郎を指導して、おりにふれての進遣《しんけん》を要所要所に怠らせなかった貞盛は、さらにそれぞれの向きに、十分の贈遺《ぞうい》をさせた。
貞盛の見通しの通りだった。その日になってみると、小次郎は右兵衛府《うびようえふ》の少志に任ぜられていた。
「そら見ろ」
「礼を言う。みんなおぬしの賜物だ」
と、小次郎は一応の感謝はしたが、本当はそれほど楽しくなかった。貞盛が勤務先は左衛門府《さえもんふ》から左兵衛府にかわったが、数階をこえて少尉《しようじよう》になり、同時に検非違使《けびいし》庁兼務を命ぜられていたからだ。
「よかったのう。おぬしはもう国にかえれるじゃないか」
うらやましさをこらえながら、小次郎は祝いを言った。貞盛はヘラヘラと笑った。
「おれは当分国にはかえらん。出来るなら、こちらで終生を送りたい。おれには京が向いているのだ。坂東の風気《ふうき》はおれには向かん」
「しかし、それでは、おじ上が承知なさるまい」
「なあに、なんとかごまかせるさ。とにかく、こちらは楽しいからね。第一、女が美しい。こちらの女にくらべたら、坂東の女はばけものだよ。女なんてものじゃない」
「おじ上に言いつけてやるぞ」
と、小次郎は笑ったが、笑いながらも、まじめな生活をきずくために、検非違使になることをこんなに必要とする自分がそれを得られず、単に都会生活を享楽《きようらく》することしか考えていない貞盛が、それを得たことが、不合理きわまることのような気がして、心がにがかった。
その夜、二人は打ちそろって、姫君の邸《やしき》に行った。
「ようございましたこと」
と、姫君は祝いを言って、さらに小次郎に言った。
「小次郎様、あなた様がお望みの検非違使におなりになれなかったのはお気の毒ですけど、あたしはうれしいのです。だって、検非違使におなりだったら、あなた様はお国に帰っておしまいになりますもの」
貞盛にはこう言った。
「あなた様は、検非違使におなりであろうが、何におなりであろうが、お帰りにならないでしょうね」
「どうしてです。当地がどんなにいい所でも、わたくしにとってはやはり旅路ですよ。人は一生を旅路に送るわけには行きませんよ」
「ウソおっしゃい。あなた様は決してお帰りにはなりません。もしあなた様が帰ろうとなさっても、女の方々がお離しにならないにきまっていますもの」
「そんな女なぞいません」
「あんな白々しいことを!」
姫君は、かつて貞盛の話の中に出た色々な女のことを、一つ一つかぞえ立てた。
「もう結構。驚きました。おそろしく物覚えがいいのですな」
と、貞盛が閉口すると、
「仰《お》っしゃったことを、みな忘れていらっしゃるんでしょう」
と、姫君は報いた。一同、大笑いであった。
微官でも、任官は任官だ。国許《くにもと》へも知らせてやった。それぞれの向きへのお礼まわりやあいさつまわりもした。
そうした多忙がしばらくつづいた後、小次郎は右兵衛府に勤務することになったが、かたわら、小一条院へもかなりしげしげと顔出ししなければならなかった。
この顔出しは、名義はごきげん伺いということになっているが、二三日おきにはしなければならないのだから、実質的には出勤とかわりはなかった。
この習慣は最初は小一条院から強制されたものではない。ごきげん取りにいくらかの人がはじめたことに皆が競って倣《なら》い、小一条院の方でも期待するようになり、いつかしなければならないことになったのであった。
四月の末、郎党が上って来た。春と秋に年二回、滞京に必要な物資をとどけることになっているのであった。
郎党は、国許の様子を報じ、人々がこの度の任官を喜んでいることを告げた後、一封の書状をさし出した。
「四郎の若子《わくご》からのお手紙でございます」
かなりに長文であったが、要するに、学問するために、京へ出たいという意味のものであった。
四郎は言う。
(自分は、当地においては、学べるだけのことは学んでしまって、この上はもうどうすることも出来ない。向学の念はなおやみがたきものがあるが、僻壌《へきじよう》(片田舎)師友に乏しく、空《むな》しい日を送っている。出来ることなら、京に上って、良師を得て、なお学びの林の奥深く分け入りたい。願わくは、兄上、この衷情を酌《く》んで、切に切に、上京のことを許していただきたい)
文章も、手蹟《しゆせき》もなかなか立派だ。小次郎には読めない文字すらあった。
「よかろう」
と、小次郎は思った。四郎の性質から見て、武勇を事とする普通の坂東の地主にはなれない。僧になるか、学者になるかしかないと思った。
彼は、郎党の帰国する時、四郎にあてた手紙をことづけた。
(出て来るがよい。おれはお前と一緒に京の生活をするのを楽しみにしている)
母と次弟の三郎|将頼《まさより》とにあてた手紙にも、四郎を上京させるように書いた。
梅雨が明けて、炎天の酷暑がつづく頃《ころ》、四郎は上京して来た。
大津の宿駅からよこした使いが夜に入ってついて、明日の京入りを知らせて来た。小次郎は役所へ欠勤の届を出して、三条の河原まで迎えに出た。
一行は、正午少し前、そろそろ暑くなる頃、到着した。
同勢三十人にもあまる大人数であったので、小次郎は驚いた。しかし、それは単なる道連れであった。
「では、御機嫌《ごきげん》よう」
「またいつかお逢《あ》い仕《つかまつ》ります」
などと、あいさつして、四郎とその郎党等と別れ、さっさと川を渡る。
「ありゃ誰だ。途中で一緒になった人々か」
と小次郎が聞くと、
「武蔵《むさし》入間郡《いるまごおり》の高麗人《こまびと》共でございます」
と、四郎は答えた。
朝鮮民族が大挙して日本に帰化したのは、天智《てんじ》天皇の時代が最初である。
当時、朝鮮半島で最も日本に親近していた百済《くだら》は、その隣国の新羅《しらぎ》が唐帝国の援助を得て、しきりに侵略して来るので、日本に救いをもとめた。
日本は、大軍を送って、唐の水軍と、白村江(今の熊川の河口)で大海戦したが、不幸|惨敗《ざんぱい》した。
かくて、百済はついに滅びたが、その遺民二千四百は、新羅の民となるのをきらって、日本に亡命して来て、帰化を乞《こ》うた。
日本は、これを許し、四百を近江《おうみ》に定住させ、二千を東国各地に分住させた。
間もなく、高麗も新羅と唐の連合軍に滅ぼされ、その少なからぬ遺民が、日本に亡命して来た。
朝廷ではこれもまた東国においた。その時から二十年ほどの後、持統天皇の時代に、こんどは新羅の民数十人が来朝して帰化を乞うた。朝廷ではこれを許して、東国においた。
さらに二十八年後、奈良朝の初期、朝廷は諸国に散らばっている朝鮮民族をほぼ一まとめにして、当時まだ未開の原野であった武蔵国に移住させて、開発にあたらせた。
本国にいた頃には、互いに異った国を建てて、憎み合い争い合っていた人々であったが、異境へ来ての半世紀に及ぶ生活は、偏狭な憎悪心《ぞうおしん》を消散させていた。三国の亡命者等は、互いに睦《むつ》み合い扶助し合って、新しい生活をきずくことにつとめた。
その時からこの小説の時代まで二百二十年、この外来民族の絶えざる努力によって、武蔵国は見事に開発され、この時代には、今日の一等県に相当する「大国」の一つとなっており、首長の家筋の者の中には廷臣となって栄えているものも出ており、民族全体も日本民族と混血を重ねて同化の度を深めている。
けれども、父系の血統に、現代人の想像も及ばないほど神聖感を持っていた時代のことだ。周辺の日本人等も、また帰化人等も、民族を異にしているとの観念をかたく抱いているのであった。
四郎は、なお説明した。
「足柄《あしがら》峠にさしかかる頃、道連れになりまして、ずっと一緒に旅をしてまいりました」
「ホウ、そうか。それはよかった。おかげで、道中ずっと安心だったというわけだな」
さびしい山路や、広漠《こうばく》たる原野の中の道には、兇悍《きようかん》な盗賊が待ち伏せしていて、弱い者や、道連れの少ない者と見れば、これを襲うのが普通になっているのだ。
「いいあんばいでありました。それに、皆正直で、親切な者共でありまして、大へん世話になりました」
「そうか、そうか。それならもっと礼を言わなければならないのだったな」
兄弟は、馬をならべて、賀茂川を渡って、町に入った。
十五の美しい少年に成長している四郎は、二年半ぶりに兄に会ったのと、目的の京都についたのとのために、興奮しきっていた。
四郎は、頬《ほお》を真赤にほてらせ、目をきらめかせて、はじめて見る京の町をキョロキョロと見まわしていたが、ふと、なんの継穂《つぎほ》もなく言う。
「あの人々は、百済《くだらの》貞連《さだつら》というお公家《くげ》の邸に行くのだそうです。あの人々の主人筋にあたる家なので、毎年一回、総代の者がごきげん伺いのために上るのだそうです。武蔵の百済|人《びと》だけでなく、ほかの土地の百済人等も、年に一度は必ず伺候することになっていると聞きました。兄上は、その人を知っておいでですか」
「会ったことはないが、名前は聞いている。邸も知っている。右京にある」
「朝廷での官位はどうなのでしょう。ずいぶんえらいのでしょうか」
「それが、そう高くない。たしかまだ昇殿もゆるされていないはずだ。もっとも、年も若いそうだが」
「そうですか。あの者共は、神様のように言っていました。王様とも言っていました。百済王と名乗ることを、朝廷から許していただいているのですってね」
「それは百済家だけではない。高麗家でもそうだ。高麗王と名のっている。しかし、日本人はそう呼ばない。百済|氏《し》、高麗|氏《し》とだけ呼んでいる」
別段の感興もなく、小次郎は答えたが、現代人の考えからすれば、これは相当問題になることだ。帰化して日本の民となりながら、別に百済王国、高麗王国を建てていることになるからだ。
しかし、小次郎がなんの感興も覚えなかったというのも、理由がある。日本が朝廷中心の律令《りつりよう》制度となってからもう二百年も経《た》っているが、なお社会の色々な部面に、氏族の長が氏族の民と土地とを私有して、皇室を中心とした寄合国家を営んでいた古代のなごりが、のこっていたからである。小次郎はこれを百済王国、高麗王国と見ず、藤原氏や橘《たちばな》氏や、大伴《おおとも》氏や菅原《すがわら》氏の氏《うじ》ノ長者が、その氏人《うじびと》等をひきいて朝廷に奉仕しているのと同じことに見たわけであった。
韓人《からびと》等の話が一通りおわると、四郎は学問の話にうつった。東国の片田舎にいながら、どうして調べたのか、四郎は官立の大学のことも、勧学院以下の私学のことも諸博士等の私塾《しじゆく》のことも、実によく知っていた。
当時の学校は、官学も、私学も厳しい入学資格があって、誰でも志願し得るものではなかった。官立の大学に入り得るのは、五位以上の者の子か孫でなければならなかったし、私学はまたその氏の栄えのために建てられたのであるから、氏人の子弟しか収容しなかった。兄弟の父、良将《よしまさ》は従《じゆ》四位|下《げ》であったから、大学に入る資格はあるわけだが、四郎は大学はイヤだと言う。
「今、大学では、博士達は互いに嫉《ねた》み合い、にくみ合い、学生《がくしよう》を前にして他の博士方の悪口ばかり言っている由《よし》です。学生は学生で、学問を将来の栄達の道具としか考えていないといいます。もはや、大学は学問の府ではなくなっているのです。わたくしは、ただ学問がしたいのですから、そんなところはイヤです」
とすれば、皇族の子弟の教育のために在原《ありわら》氏の建てた奨学院か、一般庶民のために弘法大師が東寺に附属して建てた綜芸種智院《しゆげいしゆちいん》に入るよりほかはないわけであった。
しかし、四郎は、奨学院も、綜芸種智院もきらった。奨学院にはいい学者がいないし、種智院は仏臭いのがイヤだという。
小次郎は吹き出してしまった。
「ではどうするのかね。ずいぶん気むずかしいじゃないか」
「わたくしは、私塾に入りたいのです。立派な博士の」
「誰が立派なんだね」
「それが、よくわからないのです」
四郎は、博士達の学風や学識について、鋭い批評を加えはじめた。どれもあまり気に入らない風だ。打ってかわって憂鬱《ゆううつ》げな顔になっていた。嘆息と共につけ加えた。
「菅公《かんこう》のような方がおいでであれば、文句はないのですけどねえ」
どの話も、小次郎にはほとんどわからない。むずかしくて、頭が痛くなりそうだ。しかし、このひよわげな弟が、この若さで、しかもあの片田舎にいながら、こんなにもむずかしいことが言えるほど学識を積んだかと思うと、うれしかった。
小次郎は、また笑った。
「ハッハハハ、おれは何を聞かされても、まるでわからない。まあよかろう。急ぐことはない。当分京見物でもしながら、ゆっくり調べて、いい師匠につくのだね。学問の本場の京だ。おまえの気に入る師匠が一人もいないということもなかろう」
やがて、家についた。門前に出ていた郎党や下人等が、声を上げて四郎に走りよって来た。馬の口をとったり、持ち物を受取ったり、|ほこり《ヽヽヽ》をはらってやったり、色々と世話をやく。いく年ぶりの対面なのだ。双方とも、涙ぐまんばかりに感動していた。
その夜、貞盛《さだもり》が来た。彼もまた到着の日取りを知っていたのである。
「ヤア、よく来たな。道中は暑くて閉口したろう。学問したいのだってな。結構だ。一人くらい一族の中から学者が出てもよいよ。みながみな、東国で百姓していることもなかろうからな。ハハ、ハハ、ハハ」
と笑った。
私塾に入りたいのだが、誰の塾が適当か、わからないでこまっているというと、言下に答えた。
「小野道風《おののとうふう》殿がよい」
「書道のあのお人か」
小次郎も、それくらいのことは知っていた。当時、天下第一の書道の名手として、その筆蹟は、方々の宮殿の諸門をはじめとして、到《いた》るところの神社仏閣の扁額《へんがく》となってかかげられているのだ。
貞盛はうなずいた。
「そうだ。しかし、あの方は書道だけのお人ではない。さすが、嵯峨の朝の大学者小野|篁《たかむら》公のお孫だけあって、学者|面《づら》して威張りかえっている大学の博士先生方なぞ、及びもつかんほどの深い学識があると聞いている。
ぜひ、道風|卿《きよう》にきめるがよい。もっとも、ずいぶん変りものでおわすというから、おいそれとは弟子にして下さらんかも知れんが」
四郎は黙っていたが、かなりに意を動かした風であった。貞盛がかえって行ったあと、どうする、と、聞いてみると、
「お願いしに行ってみましょう」
と、答えた。
道風は、本当の呼び方は「ミチカゼ」であるが、世間では音読して「トウフウ」と呼んでおり、自らもそう名のっていた。
年は、当時三十五六、官位は正六位上、太政官《だいじようかん》の大外記《だいげき》であった。決して卑官ではないのだが、家計は相当以上に苦しかった。酒好きである上に、全然経済に無頓着《むとんじやく》であったからである。
左京にある彼の邸宅は、築垣《ついじ》はくずれ、軒はかたむき、庭には蓬々《ほうほう》と草が繁《しげ》り、池の水は涸《か》れているという有様であった。
四郎を連れてここに訪れた小次郎は、あまりのことに、本当にその人の邸宅かと疑ったほどであった。
くたびれた青い衣《きぬ》をまとった顔色の悪い若者が、とりつぎに出て来た。こちらの名を言って、お願いしたいことがあって参上したというと、
「しばらくお待ちを」
と、言って引っこんだが、かなり待たされた。
車寄せの前には、何年となく手入れを怠っているらしい樹木がむさくるしいばかりに繁って、ミンミン蝉《ぜみ》が無我夢中に鳴き立てていた。
その蝉の鳴声を聞きながら待っていると、不意にうしろに、はだしの小さい足音がかけて来た。ふりかえってみると、モチ竿《ざお》を持った七つ八つの子供が三人走って来たのであった。そのへんの民家の子供なのだろう、ゆきたけの合わないチンチクリンな着物の前がはだかり、胸も、へそも、可愛《かわい》いオチンチンもむき出しにしていた。呼吸《いき》をはずませ、汗だらけの顔を上気させて、夢中な目を木立の梢《こずえ》に向けて、獲物《えもの》を物色しはじめた。そこにいる大人達には気もつかない風であった。
小次郎には、遠い少年の日が思い出された。可愛い、と、思って見ていると、とつぜん、うしろから、
「こらッ! また来とるッ!」
と、呶声《どせい》がおこった。
吹ッ飛ばされたように、子供等は逃げ散った。
先刻の若者だった。おどろいている小次郎等に、にこりともしないまじめな顔であいさつした。
「これは失礼。――お待たせしました。お会いします。お通り下さい」
小次郎は、郎党を呼んで、持たせて来た品物をさし出させた。
「しるしだけのものであります。お納め下さい」
「ああ、そうですか。主人なんと申しますか。一応お受取りしておきます」
若者は、こう言ったきり、品物はそこに置きっぱなしにしたまま、兄弟を導いて奥へ向った。
道風は、寝殿の廂《ひさし》の間にいた。むくんだような瞼《まぶた》と、赤い鼻と、どんよりと濁った顔色の、見るからに酒好きらしい風貌《ふうぼう》だ。
昼寝の夢から呼びさまされたのであろうか、あまり機嫌《きげん》がよくないように見えた。小次郎が、折目正しくあいさつをしかけると、面倒くさそうに手を振った。
「名前もよい。あいさつもよい。とりつぎから聞いている。用件をいわっしゃい」
小次郎は、まごついた。しばらく絶句した。
すると、急に道風の顔はやさしくなった。呵々《かか》と笑った。
「失礼、失礼。寝起きで、少しきぶんが悪いのでな。しかし、もうよい。なんの用で見えたかな。まろに頼みがある由だが」
小次郎は、口ごもり口ごもり、用件をのべた。
「フーン。この少年がな」
道風は、四郎に目を向けた。はれぼったい瞼の間に光っている小さい瞳《ひとみ》は、その全体の風貌がどんよりと鈍いのと反対に、よく澄んで、強いかがやきを持っていた。
四郎は頬を紅潮させて、両手をついた。
「お願いいたします」
「フーン。これまで、誰について学んだかな」
「国許《くにもと》で、天台宗のお坊さまについて学びました」
「どんな本を読んだ」
「大学、中庸《ちゆうよう》、論語、白氏|文集《もんじゆう》、文選《もんぜん》は、読みも釈義も学びましたが、五経は素読《そどく》だけ学びました」
「老荘《ろうそう》は?」
「まだでございます」
「史記と漢書は?」
「まだでございます」
「どれ」
ノソリと立ってへやの一隅《いちぐう》に行くと、そこにうず高く積み上げてある書物の中から、一冊をとって、パンパンとほこりをはらってもって来た。手あたり次第にひらいたところをさし出した。
「さあ、ここを読んでごらん」
論語の泰伯篇の一章であったが、小次郎にはなんであるか、まるでわからない。むずかしげな文字がならんでいるとのみ見て、四郎にこれが読めるかと、不安であった。
四郎は、一礼して、すらすらと読んだ。
「よし! 釈義してごらん」
釈義する。これも流暢《りゆうちよう》だ。
「よし!」
道風はにこりとした。
「田舎師匠についていたため、すっきりとせんところはあるが、力はたしかだ。その年で、よくそこまでやった」
上機嫌になっている。
小次郎はうれしかった。今のは試験だったのだと気がついた。
「お願いの儀、おゆるし下さいましょうか」
「そうさな」
道風は首をひねって、
「もう一つ聞きたい。当地には、名を得た博士方も多いに、なぜまろを目ざして見えた。まろは書道にこそいささか得たところもあると自負しているが、学問の方はまだまだだ。とても人の師になるほどのものでないことは、まろ自身がよく知っているのだがな」
小次郎が返事にこまっていると、四郎が答えた。
「田舎|学生《がくしよう》のわたくしには、批判がましいことは出来ませんが、どの博士方も好きになれません。しかし、御当家には、なんとなく心がひかれるのでございます。切に、お聞きとどけのほど、お願いいたします」
「好きか、好きか、なんとなく好きか。見ぬ恋だな。まろが大酒飲みの大ズボラであることは知らなかったろう。アハ、アハ、アハ……」
道風は、また哄笑《こうしよう》した。
小次郎はあきれていたが、四郎はおこっているようにはげしい顔になって言う。
「見ぬ恋でもよろしゅうございます。お弟子におとり下さい」
道風は笑いやんだ。小さい眸子《ひとみ》を瞼のかげにひそめて、しばらく少年の顔を凝視してうなずいた。
「よかろう」
緊張しきっていた少年の顔が、急にゆがんで、泣き出しそうになった。小次郎の胸にもこみ上げてくる熱いものがあった。こうまで思いこんだ弟の心根がいとしかった。
感謝のことばは、同時に出た。
とりつぎの若者が、杉なりに数本の巻絹をのせたものを持ちこんで来た。先刻兄弟がわたした贈り物だ。若者が披露《ひろう》すると、主人は、
「ホウ。これはありがとう。この度だけは遠慮なく受けておくが、以後は無用にしてもらいたい。未熟なまろは、ものをもらうくせがつくと、人間が俗になるおそれがあるからな。かたく申しておくぞ。持って来たら、即座に破門と心得るがよい」
夜間ならいつでもよい。昼間なら二の日と六の日を稽古《けいこ》日にしようと話がきまった時、また若者が入って来て、
「右少将の殿がいらせられました」
と、とりついだ。
「ホウ、どれ、どれ」
道風は、廂の間の入口まで行って、小手をかざした。
古びかたむいた中門を、車輪の音をきしらせて車が入って来るのが見えた。
兄弟が辞去しようとして、あいさつしかけると、道風は手まねでとめた。
「おことらの方が先客だ。ちっともかまわん。そのままにしているがよい」
と、言いすてて、南階の方に出て行った。
むさ苦しく南庭一面に生いしげった夏草を車輪におしつぶしながらきしりこんで来た車が南階の下でとまると、一人の公家《くげ》が、雑草の中におり立った。四十年輩、眉《まゆ》の濃い、きびしくひきしまった顔をしていた。
道風は階段を下って出迎え、親しげに話をかわしながら上って来た。
新来の客は、兄弟がそこにいて平伏しているのを見ると、いぶかしげな目を道風に向けた。
「これは坂東の住人であります。高望《たかもち》王の子、故鎮守府将軍良将の子、小次郎将門と、その弟四郎と申す者であります。乙子《おとご》の方が、まろの学問の弟子にしてもらいたいとてまいって、たった今師弟の契約をすましたばかりのところです」
公家はだまってうなずいた。微笑をふくんで、兄弟を見ていた。好意ある顔ではあったが、強い目つきにはいささかのゆるみもなかった。
道風は、こんどは兄弟に言う。
「これは、まろが兄上《このかみ》、小野ノ好古《よしふる》。位は正五位下、官は右近衛《うこんえ》少将。まろとちがって、大の堅人で、まろを叱《しか》ってばかりいる。大方、今日も叱りに見えたのじゃろうわい」
好古は苦笑しながら、弟のすすめる座についた。この坂東|人《びと》の兄弟に、とりわけ、小次郎に心を引かれたらしく、つくづくと凝視しつづけた。
好古の目に悪意は感ぜられなかった。むしろ好意的なものが感じられたのだが、なぜとはなしに、小次郎は心のすくむのを覚えた。
ふと、好古は微笑した。
「そなた、強そうだな」
「……いいえ……」
「弓は何人張りを引く?」
「五人張りをつかまつります」
「ホウ。坂東のことだ。騎射であろうな」
「はい」
「いつこちらには出て来た?」
「てまえは、一昨年の春出てまいりましたが、舎弟は出てまいったばかりでございます」
「官位を受けているか」
「今年の除目《じもく》で、従《じゆ》八位上、右兵衛《うひようえ》ノ少志を拝命しました」
「――右兵衛ノ少志? そうか」
好古は、軽く首をふって、道風と顔を見合わせた。道風はにやりと笑った。好古は、また首を振った。不服げに見えた。
また言う。
「そなた、京へ来て二年半にもなるのであれば、朋友《ほうゆう》も出来ているはずだが、どんな連中とつき合っているかな」
「先《ま》ず……左兵衛ノ少尉《しようじよう》、平ノ太郎貞盛。前《さきの》常陸《ひたち》大掾《だいじよう》国香の嫡男《ちやくなん》でございます。これは|いとこ《ヽヽヽ》であります上に、一緒にこちらに出てまいりましたので、大へん親しくしております」
「ほかには?」
小次郎は清忠と純友のことを思い出したが、それとともに、左京の獄門に梟首《きようしゆ》されていた大学生《だいがくしよう》のことが思い出された。正直に言うのがためらわれた。
「……ほかにはございません。小一条院での同僚はございますが、特に親しいというほどの交《まじわ》りはいたしておりません」
ウソを言いなれない小次郎は、覚えず赤い顔になったが、それを自覚すると、一層顔が熱くなり、涙までにじんで来た。
好古は、また鋭い目になって、その狼狽《ろうばい》のさまを見ていたが、重々しい調子で言った。
「友はえらぶがよいぞ。今の京は言語道断なおそろしいところになっている。よき家の公子――たとえば王《みこ》、たとえば公卿《くぎよう》の公達《きんだち》であればとて、それだけでは決して信用が出来ぬ。
大へんなさわぎであったゆえ、そなたも知っているであろうが、この春、大学の学生が、盗賊団の一味として捕えられて梟首されたことがあったな。あの学生は、もう数年前に故人になられたが、西国の大国の守《かみ》をした人の嫡子であるそうな。おどろくべきではないか。
まろは使庁の者に聞いたが、そのはじめはといえば、悪友にそそのかされて、悪い遊びを覚えたからだという。くれぐれも気をつけるがよいぞ」
小次郎は、相手が自分と純友等との交りを知っているのではないかと思われて、伏せた顔を上げることが出来なかった。全身につめたい汗がわいた。
こうして、四郎は道風の邸《やしき》に通うことになった。熱心であった。
「いい師につきました」
といつも口ぐせのように言っていた。
一月ほどの後、ある夕方、師の邸からかえって来ると、小次郎の居間に来て、少し改まって話があるという。
その日、四郎が道風の邸に行くと、すぐ道風は、
「いい師匠を世話してやるが、そなた国にかえらんか」
と、言った。
藪《やぶ》から棒の話に、四郎はおどろいた。てっきり破門と、胸をふるわせ顔色をかえた。
道風は頓着《とんじやく》なく語り進む。
「菅公の三男に景行《かげゆき》卿という方がある。菅公|左遷《させん》の時、その一族はちりぢりばらばらに諸国に流されたが、景行卿は幼年であったため、特にゆるされて、父君と共に筑紫《つくし》に行かれた。
数年前、菅公の罪名が取消しになった時、景行卿は、三十歳にして、こちらに帰って来られた。まろは、その頃《ころ》知合いになって、ずっと懇意に願っているが、さすが菅公のお子で、その仕込みだけあって、学問はたしかなもので、まろの益友の一人だ。
ところが、これほどのお人だが、そなたも知っての通りの世の中だ。その後六年、官途につくことも出来ず、無位無官にして、今日に至っておられる。
したがって、諸事まことに御不如意だ。不如意という点では、まろは大ていヒケは取らぬ方だが、景行卿には一籌《いつちゆう》を輸すると申せば、およそその程度が察しがつくだろう。
景行卿もいろいろ考えられたのであろうよ。昨日、遊びにまいられて、こう仰《おお》せられる。
『常陸の国|筑波山《つくばさん》の近くに、紫尾《しお》の里というのがある。これは、まろが家の相伝の所領である故《ゆえ》、そこへ行って残生をおわりたい』
まろとしては、京にお引きとめしたい。尊敬に値する学問の友を遠くへ離したくはない。しかし、引きとめるには引きとめるだけのことをして上げねばならないが、まろにはその力がない。
『やれやれ、おなごりおしや。面白からぬ世でありますな』
と、なんの足しにもならぬいつもの不平や、慷慨《こうがい》談などしていたが、ふと思い出したのはそなたのことだ。
早速に話した。
『坂東といえば、下総《しもうさ》豊田の住人で、高望王の孫にあたる平ノ四郎と申す少年が、最近学問したいとて出て来て、まろに弟子入りしていますが、この者を卿の弟子にして、連れて帰ってたもるまいか。聞けば、豊田|郡《ごおり》は国こそ下総常陸とちがっても、筑波の山から程遠からぬ所の由《よし》、卿の御領地とも遠くはあるまいと存ずる。何かと、双方にとって好都合ではありますまいか』
すると、景行卿も、大へん喜ばれて、
『ぜひ、そうしてもらいたい。父祖相伝の領地とはいいながら、踏みもみぬ東路《あずまじ》のはてのこと。諸事心細く存じているのだ。もし、そうなってくれるなら、この上のことはない。当方も、その少年の学問の方は引受ける。必ずものにしてみせる』
と、仰せられる。
そなたも、せっかく京へ出て来たことだ。色々と京に未練もあろうが、学問のためだけなら、良師さえあるなら、諸事誘惑の多い京などより、田舎の方がよいのだ。そうしてくれまいか。
景行卿の学問の洽博《こうはく》にして深奥《しんおう》なことは、まろが証明する。立派なものだ。まろなどとても及ばない。そうするがよいぞ」
四郎は、京都には未練はなかった。道風ほどの師とこんなに早く別れなければならないのがつらかった。しかし、その道風のこれほどのすすめを無下《むげ》に拒《こば》むことは出来なかった。尊敬してやまない菅公の子息だという人にひかれもした。
彼は承知の旨《むね》をこたえた。
「よく聞きわけてくれた。それでは、早速だが、景行卿のところへ行こう。卿もお喜びになるであろう」
道風はよろこんで、車を命じ、四郎と同車して、右京の六条にある景行卿の邸に向った。
景行の邸は、想像したほど荒れてはいなかった。むしろ清潔で、キチンと片づいていた。しかし、すべてのものが不足である家のこうした清潔や、整頓は、いかにも貧しげで、寒む寒むとした感じさえあった。
景行は、四十年輩の、清らかにやせた人であった。道風から話を聞くと、しずかに笑った。
「ホウ、それはうれしいこと。礼を言いますぞ。大外記の卿にも、四郎とやらにも」
と、言って、さらに四郎に言う。
「そなたも、せっかく良師を得て、これからという時、迷惑であろうの」
謙虚でものしずかな人がらが、道風とはまたちがった魅力があった。
四郎は、道風の立会いで、師弟の契約をかわして辞去した――
以上のことを聞いている間に、小次郎はただ一度こう言った。
「紫尾《しお》の里というのは、筑波の西北の麓《ふもと》だ。半分は筑波の山にかかっていて、土地としてはよい場所ではない。国香伯父の館《やかた》のある石田から一里くらい東北に行ったあたりだ。なるほど、そう聞けば、菅家の領地がどこやらにあると聞いたような記憶もある。そうか、あそこがな」
ほかにはなんにも言わなかった。学問のことは、自分にはわからないときめている。道風卿ほどの大学者のすすめである上に本人がよいというのであってみれば、よいにきまっていると思うのだ。
しかし、四郎にしてみれば、無断できめてきたことが気になったらしい。
「一応、兄上のお考えをうかがった上のことにすべきであるとは思ったのですが……」
「なんの、なんの。おれに聞いたとて、何にもわかりはしない。善はいそげというではないか。よかった、よかった。――ところで、いつ帰国するのだ」
「いつでございますか。そのことは、今日はまだ出ませんでしたが」
「少し間があるといいな。帰国してしまえば、めったに出て来られないのだ。学問も大切であろうが、それまでは一時学問の方はやめて、方々見物するのだな」
「わたくしも、そのつもりでいます」
翌日、小次郎は、四郎と同道して、景行の邸を訪問した。礼を言い、なお将来のことを頼むためであったが、景行の方がかえって熱心に頼んだ。
「まろはよろこんでいる。おかげで心丈夫になった。頼むぞよ、頼むぞよ」
道真公ほどのお人の公達が――と、胸が熱くなった。憤《いきどお》りに似たものが動いていた。どういうものか、貴子《たかこ》姫のことを思い出していた。
破陣楽《はじんらく》
菅原景行と四郎とが坂東に去って間もなく、京の町には疫癘《えきれい》が大流行となった。
今日の赤痢かコレラであったろう、この病気にかかった者は、はげしい吐瀉《としや》が数日つづいて、餓鬼のように痩《や》せおとろえ、猛烈な渇きをうったえながら死んだ。
病気は最初、この初夏、下京のまずしい民家に発生したが、その頃までは大したことはなかった。附近七八軒の同じように貧しい家の者が十二三人|罹病《りびよう》したくらいのものであったが、梅雨の明ける頃からじりじりとひろがり、盛夏から初秋の頃になると、おびただしい病者が一時に出た。くすぶっていた焚火《たきび》が風を得てパッと燃え立つに似ていた。忽《たちま》ちのうちに京のうちにあふれ、近畿《きんき》一帯にひろがり、なおとめどなく見えた。
衛生の観念もなければ、治療の方法も幼稚であった当時の人々は、隣近所や家族に病人が出ると、ひたすらに恐怖し、せいぜいのところ、陰陽師《おんみようじ》を呼んで祈祷《きとう》してもらうか、護符を受けて家の周囲にはりまわすくらいのことしかしなかった。そして、死ねば埋葬もせず野や河原に持ち出してすてた。
残暑の頃なので、これらの死体は忽ち腐敗した。ウジがたかり、青光りする蠅《はえ》が雲のようにわき、いたるところ、嘔吐《おうと》をもよおす強烈な悪臭がただよいこめた。
朝廷では、度々布告を出して、死体を棄《す》てることを厳禁し、厳罰を以《もつ》てのぞんだが、違反する者はあとをたたなかった。
一体、死体遺棄は、当時の下層民にとっては、普通のならわしといってよかった。
先ず、彼等は埋葬の資力を持たなかった。次に、彼等の信仰は死体遺棄を厭《いと》うべきこととしなかった。
当時盛行をきわめたと普通に伝えられている仏教は、上流階級だけのもので、下層民にとってはまだ無縁のものであった。
仏教が一般庶民に結縁《けちえん》したのは、浄土門の新興仏教以後で、その浄土門の教えは、この時から数年後に空也《くうや》上人によってやっと唱道されたに過ぎない。従って、この時代の下層の民は、樹木や岩石や山岳等に神力ありとして拝跪《はいき》する自然崇拝や、ケモノや虫ケラ等の人間以外の動物に霊力を認めて、これを尊崇する動物崇拝をふくむ原始|神道《しんとう》を信仰していた。神道では死を汚穢《けがれ》として、これから遠ざかることをもとめる。
この経済条件と、この信仰条件とが結びつく時、死体遺棄という現象が出て来るのは必然のことだ。雨のように禁令を下しても効果がなかったのは当然至極であった。
検非違使《けびいし》庁では、毎日のように放免《ほうめん》(検非違使庁の奴僕《ぬぼく》。元来罪人であるのを放免して召使ったので、こう呼ばれていた)をくり出して、遺棄された死骸《しがい》をとりかたづけたが、夜が明けてみると、前日以上に多数の死体が棄ててあって、手のつけようもない有様であった。
このさわぎの最中、右近の馬場の火雷天神がまたあの巫女《みこ》に憑《かか》って、託宣されたといううわさが立った。
火雷天神の託宣は、れいによって歌の形式をとり、おそろしく長いものであったが、要約すると、こういう意味であった。
「この疫病《えきびよう》は、すべて自分のなすわざである。朝廷は、自分の祟《たた》りを恐れて、自分の罪名を取消したり、自分に官位を追贈したりしているが、このようなゴマ化しに自分は決して満足していない。自分はすでに帝釈天《たいしやくてん》の許しを得ているのだから、京の人種《ひとだね》のつきるまでこのわざわいを降《くだ》しつづけるであろう」
このおそろしい託宣は、すぐに朝廷に報告された。
季節はずれに雷鳴がしたり、小鳥の死体が御所の屋根におちたりしてさえ、太占《ふとまに》したり、祈祷したり、天皇が潔斎謹慎したり、内裏《だいり》全体の大さわぎとなる時代だ。全廷|戦慄《せんりつ》した。神祇官《じんぎかん》に命じて日本古来の太占を行わせたり、陰陽寮をして支那《しな》伝来の卜術《ぼくじゆつ》による考勘をさせたりした。
占兆《うらかた》はともに凶と出た。
朝廷では一層おそれて、火雷天神に厚く奉幣し、高徳|有験《うげん》の名ある高僧等を社前に集《つど》えて経を誦《よ》ませ、また、社殿を壮麗に建立《こんりゆう》するという誓約を立て、その怒りを宥《なだ》めようとした。しかし、病気の流行の勢いは少しもおとろえなかったばかりか、託宣の内容を伝え聞いた人心は激しく動揺し、これに乗じて、盗賊等の横行がすさまじく増大した。
これまでの盗賊は、大ていが一人か二人、集団をつくってもせいぜい十二三人までのもので、犯行も、財宝さえ奪えば殺傷は出来るだけ避けていたのに、この頃では数十人の集団をなし、押入ったら必ず人を殺した。人を殺すのを目的の一つにしているのではないかと思われるほどであった。
こうした疫病の流行や治安の乱れにたいして、決して朝廷は無為無策であったわけではない。悲田《ひでん》院や施薬《せやく》院の設備を拡大して、病者の収容や貧困者にたいする施療につとめもしたし、検非違使庁や六衛府を督励し、所属の武士共を夜な夜な巡行させもした。しかし、罹病者は無限に出て来たし、盗賊団の出没は変幻自在をきわめ、警邏《けいら》のスキをくぐっては、兇悪《きようあく》な犯行をつづけた。魔神のような通力をもって、こちらの手配りの計画を見通しているようであった。
社々に勅使を派遣しておびただしい幣帛《みてぐら》を奉《たてまつ》り、法力|顕然《いやちこ》のほまれ高い高僧や智識《ちしき》達に修法《ずほう》や祈祷を依頼したことももちろんだ。
美しい行列をそろえた奉幣使等は、白いシデをつけた榊《さかき》を四隅《よすみ》に立て、おごそかにシメナワを張った幣帛入りの唐櫃《からびつ》を幾頭もの馬に駄《だ》し、屍臭《ししゆう》に息づまり、盗賊におびえきっている京を出て、社々への道をたどった。
高僧等は、自らの寺や、禁裡《きんり》の諸所に、森厳で妖異《ようい》で華麗な荘厳《しようごん》をほどこした壇を設け、正面に薬師如来や不動明王の像をおき、片手に印を結び、片手に金鈴をふり、口に経を誦《ず》し、秘呪《ひじゆ》をとなえ、目に見えない鬼神を激励し、叱咤《しつた》し、責め立てた。
夜となく、昼となく、焚き上げる濛々《もうもう》たる護摩の煙と、ゆらめく燈明《とうみよう》の明りの中に行われるそれらの修法は、人々に、身の毛のよだつような敬虔《けいけん》な念《おも》いをかきおこした。
けれども、それらの試みも、効験がありそうに見えなかった。
その夜、小次郎は、右京一帯の警備の番にあたったので、最初の巡邏をすませて、二更頃、詰所にかえって来た。宵《よい》にあった月が沈む頃であった。
もう夜寒むの頃だ。詰所では、同僚等が真赤に火のおこった大|炭櫃《すびつ》をかこんで、にぎやかに談笑していた。
「どうだ。かわりはないか」
と、上席の男が聞いた。
「ござらん」
そこへ行って、霧にぬれた手をあたためつつ、雑談のなかま入りをして間もなく、あわただしく入って来た者があった。放免の一人であった。
「なんだ」
と、上席の男が聞いた。
「大へんでございます。今、左京の市《いち》の倉を、盗賊共が襲撃中である由でございます」
「なに」
「市人《いちゆうど》の一人が、たった今、駆けつけて注進したのでございます」
「呼べ! すぐつれて来い」
総立ちになっている中に、市人は、放免に案内されて入って来た。この夜寒むに、額をびっしょりと汗にぬらし、そのくせ、恐怖に真青な顔になっていた。
「むごい盗人共でございます。馬に乗ってまいりました。市の者は、みな殺されたり、おさえられたりしました。てまえ一人が、やっとぬけ出すことが出来ました。見張りをおいて、倉から貨物を運び出しては、馬に積みこんでおります。不敵な者共でございます」
動顛《どうてん》しきって、順序なく、きれぎれなことばだが、意味は明瞭《めいりよう》だ。
けれども、武士達は、なおおしかえして質問をつづける。
「盗賊共の数は、幾人ほどだ」
「幾人ほどでございますか。仰山な数でございます。皆、馬に乗ってまいりました。弓矢も持っております。太刀も持っております。手鉾《てぼこ》も持っております。|まさかり《ヽヽヽヽ》をかついでいる者もございます。そのまさかりで、薪《まき》を割るように人を斬《き》り裂くのでございます……」
「どちらの方角から来たか」
「どちらからでございますか。いきなり仰山な蹄《ひづめ》の音がしたかと思うと、ドッと乗り込んで来たのでございます。見当り次第に、虫けらでもたたきつぶすように、殺すのでございます」
「およそどれほどで来たぐらいのことはわかるはずではないか。人数がわからんでは、こちらも勢《せい》の繰り出しようがないぞ」
「仰山でございます。早く行って下さいまし。でございませんと……」
いくら聞いても、この恐怖し切っている商人《あきゆうど》からは聞き出しようもないのに、押問答は際限もなくつづく。
新参の身を遠慮していた小次郎であったが、じりじりして来た。こうしてぐずついているうちに盗賊共の逃げてくれるのを望んでいるのではないかと疑った。
「拙者がまいります。手のびしては、間に合いません」
はげしいことばが、口をついて出ていた。
皆、こちらを見た。なにか言いたげにしたが、激し切って猛烈になっている顔を見ると、口をつぐんだ。
小次郎は、その方を見なかった。狩衣《かりぎぬ》の下の腹巻の帯をしめなおし、やなぐいを背負うや、弓をつかんで、大股《おおまた》に詰所を出た。
坂東武者の訓練だ。詰所の前には、早くも郎党が馬を引き立てて待っていた。
星の美しい夜空の下にひっそりと寝しずまっている町を、手鉾や、棒や、刀をかついだ郎党や放免共をしたがえて、小次郎は馬を走らせた。
逞《たく》ましい胸に、潮のさして来るように、刻々に勇気がみち、ついには凜々《りんりん》と高鳴るばかりになった。
「機会が来た。機会が来た……」
と、心にくりかえしつづけた。賊共がいなくなっていはしないかと、それだけをおそれた。
市の近くまで行くと、馬を下りた。
「戦うのはおれがするから、おのれらは手出しするな。物かげにかくれて、人数を見すかされないようにして、おれが戦いをはじめたら、物をたたき、鬨《とき》の声を上げ、出来るだけさわぎ立てよ。よいか」
郎党等に、それぞれ二三人ずつ放免をつけて、市の出口出口へまわるように命じた。手許《てもと》には一人ものこさなかった。
郎党等は、それぞれの途《みち》をとって闇《やみ》に消え去り、大体持ち場についた。それを見すましてから、小次郎は、足音をしのばせて、目的の場所に近づいて行った。
盗賊共は、十いく戸前《とまえ》もならんだ倉庫の場所にいた。不敵なことに、いく個所も捨篝火《すてかがりび》を焚《た》いているので、手にとるように様子がわかった。
倉庫の中からこも包みや革籠《かわご》をかつぎ出して来ては、倉庫の前の広場につないだ馬の背に駄している。馬の数はおよそ十五六頭。地方から貨物を運んで来る馬をつなぐために、一定の間隔をおいてきちんと立てつらねた駒《こま》つなぎの杙《くい》につながれていた。黙々として秣《まぐさ》を食《は》みながら荷物を背につけられていた。
人間の数は、蔵を出たり入ったりして、たえず動いているので、よくわからないが、三十人は下らないと思われた。
首領なのであろうか、広場の真中に、唐櫃をすえて、腰をおろしている男がいる。さわやかに物の具をよろい、片手に弓杖《ゆんづえ》ついていた。左右に究竟《くつきよう》な壮漢が侍して、大地に片膝《かたひざ》をついていた。油断なく目をくばっている様子であった。
首領は、時々、右手に持った鞭《むち》をふるって指揮する。その度に、短いことばが聞こえた。歯ぎれがよくて、美しく澄んだ、若々しい声であった。
小次郎は、物陰から物陰をたどって、少しずつ近づいて行ったが、ふと、こちらを向いた首領の顔を見てぎょッとして足をすくませた。身の毛のよだつ思いであった。
猛悪至極の顔であった。悪鬼のようなと言おうか、羅刹《らせつ》のようなと言おうか、金色の巨眼をきらめかせ、白い牙《きば》をむき出した口は耳まで裂けていた。
しかし、瞬間の後、気がついた。それは生身《しようしん》の顔ではなく、舞楽の面をかぶっているのであった。
さらによく見ると、左右の壮漢等もまた、舞楽の仮面をかぶっていた。
舞楽の仮面は、普通民間にあるものではない。盗品にちがいないと思われた。
矢頃《やごろ》まで近づくと、小次郎は、弓をとりなおし、上差《うわざ》しのかぶら矢をつがえ、きりきりと引きしぼった。
忘れるばかりに引きしぼった小次郎は、しばしかためて、フツと切ってはなった。かぶらは、重く強いうなりを、あたり一面にひびかせて飛んで行き、あやまたず、首領の杖づいた弓の弦《つる》を射切った。
射切られた弦が宙にはね上り、弓がピンとのびるのが見えた。その弓をつかんだまま、首領は、キッとふりかえった。
すかさず、小次郎は二の矢をつがえて引きしぼった。大|音声《おんじよう》に呼ばわった。
「追討に立向ったは右兵衛《うひようえ》ノ少志平ノ小次郎|将門《まさかど》ぞ! 盗賊共、神妙に縄《なわ》につけい」
降って湧《わ》いたこの仕儀に、盗賊共はおどろき、狼狽《ろうばい》したが、決して混乱はしなかった。
左右に侍していた壮漢は首領の前に立ちふさがって楯《たて》となり、そのへんや蔵の中で立働いていた輩下共は首領の叫びと共にイナゴのように馳《は》せ集まって来た。三人を中心にして、忽ち鉾矢形《ほこやがた》の陣形が組み上った。訓練を思わせるあざやかさであった。
小次郎は舌を巻きつつも、矢を切ってはなち、つづいてまた放った。その一矢|毎《ごと》に、首領の楯となっている壮漢がたおれた。
盗賊共は馬に乗って逃げるつもりらしく、しきりに馬に近づきたがったが、小次郎はそこに矢を集中して、決して近づかせなかった。
鋭い小次郎の弓勢《ゆんぜい》に、盗賊共は馬をあきらめ、首領を中につつんで、徒歩で逃げようとする動きを見せたが、この時、市《いち》の八方から鬨の声がおこった。
何をたたきまくっているのか、けたたましい物音とともに、せい一ぱいの声でわめき立てるさわぎは、深夜の寂寞《せきばく》を破って、よほどの軍勢がよせているようなすさまじさに聞こえた。
賊共は乱れかかった。しかし、首領が一声鋭く叱咤すると、忽ち立直った。こちらに向って突進して来た。手に手に、手鉾、まさかり、棒、刀などをふりかざして、まっしぐらに走りよって来るのが、すさまじい速さと力で突進して来る鉄車のようであった。
まともにはあたりがたいと見た小次郎は、あとへあとへと退《さが》りながら、さしつめ引きつめ、散々に射た。一筋のあだ矢もない。弦《ゆんづる》の鳴りひびく度に、敵は戦列をこぼれおちた。
ついに賊勢は完全に乱れ立った。もう首領の叱咤もききめはなかった。火のようにはげしく、輩下共にたいして魔法のような力をもっていたその声は、むなしく空《くう》に流れた。人々は八方に散り、首領は一人立ちになった。
しかし、首領は逃げる形を取らなかった。抜きはなった刀を真向にふりかざし、真一文字に小次郎をめがけて走りかかって来た。
「あっぱれ!」
小次郎は感嘆した。こんな勇敢な敵には、たとえ賊であっても、弓矢で迎えるべきではないと思った。ちゅうちょなく弓をすて、やなぐいをかなぐりすて、刀をぬいて走り向った。
二人は二つの鉄丸のようにはげしく打《ぶ》つかり合い、飛びはなれ、馳せちがいつつ、いどみ戦った。
双方とも、さわやかに鎧《よろ》っている上に、一方は舞楽の面をかぶっているのだ。破陣楽の舞いを見るように壮美であった。しかし、これは舞いではない。刹那刹那《せつなせつな》が、生命の危機である闘いであった。二人が接近するたびに、刀は鋭い音を立てて噛《か》み合い、鉄火が迸《ほとばし》り、灼《や》けた鉄の匂《にお》いが散った。
八方から押寄せて大きく周囲をとった小次郎の郎党や放免等は呼吸《いき》をこらし、手をにぎりしめて凝視していた。
いく十度目かの馳せちがいに、首領のからだがさッと沈んだと思うと、刀は白い風がわたるように横に走った。
「あッ!」
人々は悲鳴に似たうめきを上げてどよめいた。てっきり、小次郎の両膝《もろひざ》は薙《な》がれたと思った。
が、同時に、小次郎は絶叫していた。
「心得た」
膝をちぢめておどり上っていた。両手《もろて》につかんでいた刀を、真向からふりおろしていた。
首領は、身をひねって飛びのこうとしたが、及ばなかった。渾身《こんしん》の力をこめた小次郎の刀が、したたかに肩先に食いこんでいた。
「無念!」
血をしぼるような叫びと共に、首領の膝はくだけたが、居坐《いすわ》りつつ、刀をひいて投げうった。
小次郎は、飛び退りながら刀を舞わした。鋭い金属音を立ててからんだ刀は地にはらいおとされ、火花を散らしつつ石にはねかえった。
野獣のようにうめきを上げて、首領は腰の刀子《さすが》を抜いたが、そのまま、切ッ先を口にくわえて、うつ伏せになった。刀子の白い切ッ先が後頭部にぬけ、断末魔の苦痛の見える痙攣《けいれん》が全身に走って、すぐ動かなくなった。
「手ごわかった」
ひたいににじむ汗を拭《ふ》きながら、小次郎がそろそろと近づきかけた時、いつの間に来たのか、同僚等が、人々をおしわけて、ゾロゾロと出て来た。
「祝着《しゆうじやく》、お手柄《てがら》であったな」
「間に合わずに、残念千万であります」
「イヤ、羨《うらや》ましい」
「右兵衛府のほまれですぞ」
と、口々に祝いを言う。
小次郎は、郎党を呼んで、首領のかぶっている面をのけさせた。郎党は、うつ伏せになっている死体を仰向けにし、それから面をはずした。
「ホウ!」
とりまいてのぞいた人々は一斉《いつせい》におどろきの声を上げた。
猛悪至極の相貌《そうぼう》の面《めん》の下からあらわれた顔は、眉《まゆ》のかかり、鼻梁《びりよう》の形、唇《くちびる》のしまり、形のよい頬《ほお》、すべて端正で、高雅で、ほれぼれするほど若々しく俊秀《しゆんしゆう》であったのだ。
さらに、首領の両翼をなしていた壮漢二人の面をはぐってみたが、これも凡下《ぼんげ》の者とは見えない典雅さと端正さをもっている顔であった。
ふと、武士の一人がつぶやいた。
「いかなるもののなれのはてであろう。こいつら」
盗賊王
半日のうちに、小次郎は英雄になった。
上司に報告して、
「比類なき功名だ。追って勧賞《けんじよう》の御|沙汰《さた》があろう」
とほめられて、役所にかえって来ると、もう話を聞きつたえた人々が、ひっきりなしに祝いを言いに来た。
若い殿上人《てんじようびと》や廷臣等は、公務のひまを見ては、右兵衛府にやって来て、小次郎を呼出し、珍奇な猛獣でも見物するような目でつくづくと見ては、
「いかさま、見事な骨柄《こつがら》と面魂《つらだましい》だ。勇士の相貌だ」
と、こんな工合《ぐあい》にほめる。
そして、誰も彼も、判でおしたような質問をくりかえす。
「身のたけはいくら?」
「年は?」
「弓は何人ばり?」
「矢は何束《なんそく》?」
また、
「立ってみろ」
「歩いてみろ」
「向うを向いて」
「馬を見せろ」
あげくのはては、弓や矢を借りてひねくりまわし、素引《すび》きをしたり、刀を借りて振りこころみたり……
うれしいよりなにより、てれくさかった。
昼頃、貞盛《さだもり》もやって来た。
「うまくやったな。おれの主家でも大評判だ。下々の者だけでなく、おとどまで、どんな人物かとお聞きになったぞ。おれのいとこだとお知りになると、一度連れて来い、それほど強い男を見てみたいと仰《おお》せられた。うまくやったな。おれも肩身がひろい。坂東平氏一門のほまれだ。これで、もう宿願の検非違使《けびいし》は間違いないことになったよ」
そして、つけ加えた。
「忘れてはならん。今日帰りがけには、必ず小一条院へ伺候《しこう》するがよいぞ」
なるほどと思った。そこで、小一条院へ伺候すると、ここでももう知っていて、家司《けいし》をはじめ侍等が口々に祝いを言ってくれた。
間もなく、奥から南庭にまわるようにとさしずして来た。
忠平《ただひら》は、寝殿の南階を下りて来て、そこにひざまずいている小次郎に、
「まろが家人《けにん》のうちに、そちのような勇士が出て、まことにうれしい。この上とも、武勇をはげんで、朝家の守りとなるよう」
と、ねんごろなことばをかけてくれた。
さらに、貴子《たかこ》姫の家に立寄ると、ここもまたうわさを聞き知っていた。
「お手柄でございました由《よし》。こんなうれしいことはございません」
と、姫君が言うと、乳母がわきからことばをそえた。
「今夜こちらでお祝いの御酒《ごしゆ》をさし上げたいと存じますから、お出《い》で下さいまし」
こんな工合であったので、はじめはそれほどのこととは思わなかった小次郎であったが、しだいに心が浮き浮きして来た。
快く酒がまわって来る時のように、心気が昂揚《こうよう》し、見なれた町の風景さえ、七彩《なないろ》の虹《にじ》がにじんでいるように、明るく美しく見えてくる思いであった。
家にかえって、姫君のところへ行くために着がえをしていると、郎党が来客をとりついで来た。
「勘解由判官《かげゆほうがん》の興世《おきよ》王と仰せられる方がお見えになりました」
「勘解由判官の興世王?」
聞いたことのない名であった。出がけにこまった、とは思ったが、仮にも王と名のる人とあっては疎略《そりやく》には出来ない。鄭重《ていちよう》にしてお通しするようにと言ったが、着がえだけはしてしまった。
「平ノ小次郎将門とはそちか」
客間に入って行くと、夕陽《ゆうひ》のさしている庭をながめて坐っていた男が、いきなりこう言う。開けっぴろげな、野太い声だ。
先《ま》ず、鋭い光のある目と、よくそろって、光るように真白い歯とが目についた。色の浅黒い、ひきしまった小さい顔に精気のあふれている、小柄なからだをした、二十二三の人物であった。
「さようでございます」
小次郎はかしこまってこたえた。
「まろが興世王だ。興世王といっても、そちは知るまい。なにせ、従《じゆ》六位下、勘解由判官という微禄《びろく》の貧乏王だからな。
しかし、そちと同じく桓武《かんむ》のみかどから出ている。桓武のみかどの皇子に、伊予親王というのがあった。それから四世目がまろだ。つまり、桓武五世の孫というわけだ。だから、王といっても、血統はもとより、格も、そちと同じよ。以後懇意に願う」
開けっぴろげな調子は持ち前と見えて、まるで公家《くげ》ばなれがしている。坂東あたりの武人のように粗野なところさえあった。
しかし、小次郎は一層つつしんだ態度になった。
「ごていねいなおことばで恐れ入ります。こちらこそ、お引立てをお願いいたします」
誠実な性質である小次郎には、どんなに微禄でも、王族として王を名のる資格のある人は、依然として、尊いのだ。こんな工合に、磊落《らいらく》に、あたかもこちらを同格のようにあつかってもらっては、うれしいより切ないのだ。王族というものにたいする冒涜《ぼうとく》のような気がして、一種の腹立たしささえ感ぜられるのだ。
「かくべつな用事はないのよ。そちの昨夜《ゆうべ》の手柄を聞いたので、どんな人物かとゆかしくなって、会いに来たまでのこと。しかし、これでもうよい。帰る」
と、いって立上る。
あきれて見ていると、
「また来る。造作であった」
そして、なぜか、途方もなく大きな声で笑って、さっさと簀子《すのこ》に立ち出で、階段を下りて行く。
こちらは、おどろきからさめて追いかけて見送りに出たが、もうふりかえりもしない。車寄せの陰から走り出して来た従者三人をしたがえて、斜めな赤い日の中を、中門の方に歩き去る。
小さいからだでありながら、坂東あたりではやりそうな、太く長い野剣《やけん》を佩《は》き、おまけに肩をいからせ、ノッシ、ノッシと、歩いて行く。こんな堂上人《どうじようびと》は見たことがない。
「かわったお人だ」
ぼうぜんとして、小次郎は見送っていた。やがて、小次郎は家を出たが、少し行くと、前方を行く貞盛を見た。公用でどこかへ行く途中らしく、衛府《えふ》の下僚を数人したがえて、騎馬であった。
小次郎は、何か会いたくない気がして、歩調をゆるめた。姫君の邸《やしき》へは少し先で横へ曲るのである。その辻《つじ》まで見つからずに行きたいと思ったのだが、下人はその気持を知らない。
「あれは太郎の殿ではございませんか」
と、言った。
「そうだな。そのようだな」
生返事した時、けはいを感じたのか、貞盛はふりかえった。
ぜひなかった。小次郎は微笑をつくって、合図をおくった。
「やあ」
貞盛は快活に笑いかえし、下僚共に何か言って、馬をかえして来た。
「どこへ行く? 公用か」
と、こちらは先をこして問いかけた。
「うむ。公用のかえるさだが、おぬしはどこへ行く。えらい美々しく装束《そうぞ》いているようだが」
大きな声だ。こちらは恥がましく、頬のあたりがモヤモヤと火照《ほて》ったが、かくすわけには行かない。さりげない調子をつくってこたえた。
「姫君の家へ行く。先刻、かえりに立寄ったら、今夜|饗応《あるじもうけ》してやると仰せられたので」
「祝宴というわけだな。羨ましいな。ハッハハハハ、おれもあとから伺おう。そう申しておいてくれ。それとも、おれが行っては邪魔かな」
「そんなことがあるものか。来られるものなら、来てくれ」
と、言わざるを得なかった。
「よし、それでは行く」
「うむ」
「なま返事だな。恋路の邪魔か」
「なにを言う!」
「ハッハハハハ。では、行くぞ」
それで別れた。
小次郎は、二重に腹を立てていた。自分の気の弱さにも、その気の弱さに貞盛がたくみにつけこんだことにも。憂鬱《ゆううつ》だった。晴れた空がにわかにかき曇った気持であった。
姫君の邸では、待ち設けていた。
「よくお出で下さいました。さあ、さあ、どうぞこちらへ」
乳母は手を取らんばかりにして奥へ案内しつつ、呼ばわった。
「姫様《ひいさま》、姫様、お出ででございますよ」
「さあ、どうぞ、ちょうどよいところでございました。ほんの少し前、やっと支度が出来たところでございますのよ」
と、姫君もいそいそと迎える。
へやには、もう燈台《とうだい》に灯《ひ》が入っていた。古びたへやだが、小ざっぱりと片づいて、かざりつけなどして、まるでちがった感じに眺《なが》められた。
「いらっしゃいまし。ほんとにお待ちしていましたのよ」
姫君は、いつもより濃く化粧《けわい》して、見なれない美しい衣《きぬ》をまとっていた。いつもの清楚《せいそ》な美しさとちがって、かがやくような華麗さであった。
美しい衣を着たためであろうか、小次郎の功名を祝って心うれしいのであろうか、姫君の様子も、浮き浮きと楽しげだ。
憂鬱は、いつか小次郎の胸から去って、半ば茫然《ぼうぜん》として姫君を見とれていた。
姫君は笑った。
「あら、何を見ていらっしゃいますの。この衣でしょう。似合いますかしら? いつかあなたさまにいただいた唐織で仕立てましたのよ」
袖《そで》をひろげて見せた。
そう言われて、小次郎は思い出した。この春のことだ。宋《そう》渡りの貨物が色々と東市《とうし》で売りさばかれた時、あまり美しかったので、買って来て、姫君に贈りものにしたことがあった。
「おお、あれですか」
「あれですのよ。この模様にお見覚えはないのでございますか。ホラごらんなさい。桐《きり》に鳳凰《ほうおう》の模様でございますよ」
「ああ、そうか」
姫君は、声を立てて笑った。
「殿方って、皆様そんなですかしら。女は衣の模様なら決して忘れませんのよ」
「そんなものですかなア」
「そうですとも。だから、大事にもしますのよ。この織物も、仕立てるのがおしくて、そのまましまっておいて、ついこの前、乳母に仕立ててもらいましたの。今日が着ぞめですのよ。うれしいこと、あなたさまのお祝いの日に着ぞめが出来て」
小鳥のさえずりのように浮き浮きと言いつづけて来た姫君は、ここでにわかに改まった調子になった。
「どうもありがとうございます。改めてお礼を申します」
きちんと頭を下げた。
小次郎は、おぼえず、カラカラと笑った。われながら、意外なくらい明るい笑い声になった。ますます楽しくなった。
待つ間もなく、酒肴《しゆこう》が運びこまれて来た。
「ほんの形ばかりの饗応《あるじもうけ》でございますが、志のほどをおくみ取り下さいまして、遠慮なくお召上り下さいまし」
乳母は銚子《ちようし》を取ってすすめる。
小次郎は、礼を言って、二三杯傾けたが、ふと、貞盛のことを思い出した。
「おお、忘れていました。こちらへうかがう途中、常平太《じようへいた》に逢《あ》いました。お招きを受けて参る途中であると申したところ、平太も、あとで伺候すると申しておりました」
「あらまあ、そうでございますか」
乳母は姫君の方を見た。姫君もまた乳母の方を見た。何やら当惑げなものが二人の顔に浮かんだ。
小次郎は|ばつ《ヽヽ》の悪さを感じた。
「まいってはいけないでしょうか」
乳母はすぐにこやかに笑いを見せた。
「いいえ、そんなことございませんけど……」
と、いったが、すぐ、
「今夜は少し、あなた様におうかがいしたいことがあるのでございます。あとでと存じましたが、常平太様がお出でになるのでしたら、今うかがっておきましょう。あちら様の前では、少し工合の悪いことでございますから」
何を聞こうというのか、半ばわかる気がした。胸の動悸《どうき》が高くなり、血が顔に上った。何か言うべきだと思いながらも、言うことが出来なかった。
気がつくと、姫君の顔が真青になっていた。小次郎から目をそらして、暗い一隅《いちぐう》に目を向けている横顔のきゃしゃな線がこおりついたようにかたくなっている。膝《ひざ》においた白く小さい手が、片手が片手の爪先《つまさき》をつかんで小さくふるえている。
小次郎の胸は一層さわぎ立った。見ているにたえなかった。乳母の顔に目を向けた。微笑しようとつとめた。
乳母は、小次郎の緊張をときほぐそうとするかのように、微笑して見せた。
「なんでもないことでございますのよ。どうぞ、気をお楽にして、お聞き下さいまし」
と、言って、銚子をとって酒をついでやった後、
「あなた様は、昨夜のお手柄《てがら》で、こんどの除目《じもく》には、きっとお望みの通り、検非違使におなりになるに違いございませんが、そうなられたら、お国許《くにもと》へおかえりでございましょうね」
小次郎は答えに窮した。叙任してすぐ辞任して帰国するわけには行かない。少なくとも半年なり一年なりは勤務しなければなるまい。しかし、いずれは帰国しなければならないのだ。
けれども、今、この際、帰国するとは言えなかった。といって、帰国しないとも言えなかった。
小次郎の答えを待たずに、乳母はつづけた。
「ことあたらしく申し上げるまでもないことでございますが、あなた様は、姫君の大恩人でございます。あなた様がいらっしゃらなかったら、姫君のおいのちはないところでございました。そればかりでなく、その後も、あなた様のおんはぐくみを以《もつ》て、今日までまいっております。
こうした場合、女が男にどんな心を抱くようになるか、おわかりでございましょう。
わたくし、はっきりと申し上げます。姫君はあなた様をお慕いなされているのでございます。
またいつぞや、あなた様にお願いして、火雷天神につれて行っていただいた時、お託宣をいただいたことを、覚えておいででございましょうか。
あの時のお託宣では、姫君の御運命は、東《あずま》の殿方によってひらけるとあったのでございます。
わが思いは神の|おさとし《ヽヽヽヽ》とも合致する、と、姫君のお心が、一層かたくなったのは当然のことでございます。姫君は、あなた様を杖《つえ》とも柱とも思《おぼ》されて、お慕い申しておられるのでございます。
そのあなた様が、坂東にお帰りになりましたら、姫君はどうなるのでございましょうか……」
乳母の目には涙があった。声が打ちしめって、とだえた。同時に、姫君の口からも、嗚咽《おえつ》が漏れた。金銀の糸のかがやく唐織の衣につつまれたかぼそい肩がふるえ、背になびく黒髪がさざ波立ち、きゃしゃな頬《ほお》に涙が筋を引いていた。
小次郎はたまらなかった。夢中で言っていた。
「拙者は、坂東へは帰らないつもりでいます。こちらで身を立てることを考えています」
言ってしまってから、その意味の重大さが感ぜられた。後悔はなかった。ないと思った。かえって、非常なよろこびが感ぜられた。それは解放感に似ていた。
乳母の顔にも、姫君の顔にも、安堵《あんど》とよろこびの色があらわれた。小次郎は一層うれしくなった。
乳母はまた言う。
「それでも、あなた様は下総《しもうさ》平氏の御総領、そうもまいらないでございましょう」
躊躇《ちゆうちよ》をおそれるもののように、小次郎はこたえた。
「かまいません。拙者には弟共が多いのです。弟共によって、家は立ちます」
そうしても、ちっとも支障は生じて来ないような気がした。
「そうだとうれしいことですけれども、ほんとにそうしていただけるでしょうか」
あくまでも用心深く念をおす乳母のことばが、腹立たしかった。
「誓ってもよろしい。てまえは、決して京を去りません」
急に姫君が手をふった。
「もうよろしい。やめてたも……」
たえ入るように低い声で言ったかと思うと、その手にひたいをおさえ、片手を床についた。ひたいにこまかな汗の玉が浮き、真青になっていた。崩折《くずお》れそうに見えた。
小次郎は、はっとした。なにが気分を悪くさせたろうと、うろたえた。どうしてよいかわからなかった。手を出してささえるのははばかられた。口に出して聞くのはこわいような気がした。胸をさわがせて、おどおどと見ているだけであった。
「どうなさいました。お気分が悪いのでございますか」
乳母がものなれた動作で、胸に抱いた。
「……うれしいのです。あたし……」
笑おうとつとめながら、姫君は言った。すきとおるように青ざめた頬に涙がぽろぽろとまろびおちた。
「お聞きになりましたか」
にこりと笑って、乳母は小次郎をふりかえった。
死にたいほどのうれしさが、小次郎の胸をつらぬいた。この人のためには死んでもよいと思った。うなずいた。
姫君は、すぐ気分がなおった。
酒宴がつづけられた。
「召上って下さいまし。どうなさいましたの。殿方がそんなことでどうなりましょう」
と、しきりに乳母がすすめるが、あまりうれしくて、ほとんど小次郎は飲めなくなっていた。幸福感が、かたいしこりになって、からだ中につまって、胸一ぱいな気持であった。
小次郎の見る姫君の目には、前にはなかった媚《こ》びと羞《はじ》らいがあった。それを見ると、小次郎は、やわらかい手で、逆さまに撫《な》でられるような感じが、ぞくっとからだ中を走った。
貞盛が来たのは、初更をはるかに過ぎた頃《ころ》であった。
「やあ、次から次に用事が出て来ましたため、途方もなく遅くなってしまいました。小次郎が大手柄、拙者も大へんうれしいので、押しかけながら参上いたしましたが、お邪魔ではありませんでしたかな」
賑《にぎ》やかで、きさくなあいさつを姫君にして、すぐ小次郎に言う。
「どれ、盃《さかずき》をくれい。おれもおぬしにあやかりたいから」
「あやかるなどと、そんな言い方はやめてくれ、おれアきまりが悪い」
貞盛は笑った。
「おれはおぬしの手柄にあやかりたいというのではない。姫君のような美しい方に、こんな風に、祝っていただく幸運にあやかりたいのだよ。そんならよかろう」
すかさず、姫君が口を出した。
「あなた様には、これまでだって、美しい姫方がずいぶん祝って下さったでしょうに」
笑いながら、姫はチラと小次郎に目くばせした。二人だけに通ずる無量の思いが、そこにあった。小次郎は逆上するくらいうれしくなって、カラカラと笑った。
二人の目くばせに、貞盛は気づいたようであったが、どう解《と》ったか、自分でも面白そうに笑った。
「それでも、羨《うらや》ましいですよ。あるが上にもありたいと願うのが、男の常でありましてな」
乳母が大きな三方《さんぼう》を持って入って来た。巻絹十本ばかりと、砂金包みとがのっていた。
「常平太の殿のお持たせでございます」
と、姫君に披露《ひろう》した。
貞盛は言う。
「近頃、国許から届いたのであります。献上いたしたいと心掛けておりましたが、近頃の公事多端で、そのひまがありませんでした。今宵《こよい》はついででありますので、持参いたしました。なに、いつもの通りのつまらんものです」
姫君は、かんたんに礼を言った。さしてうれしげに見えなかったが、小次郎の心は曇った。なぜ自分も気づかなかったろうと、じだんだふみたい思いであった。招待されたとは言え、手ぶらで来て馳走《ちそう》になっている自分の気の利《き》かなさが口惜《くや》しかった。
しかし、間もなく、小次郎の心はもとにかえった。おりおり向けてくれる姫君の目づかいが、いつの間にともなく心の雲を払ってくれた。
夜半に近く、二人は辞去した。
家へ帰るとすぐ、小次郎は寝についた。ひどく酔っていたが、たえず胸がときめいて、寝られそうになかった。
「……姫君はおれを好いてくれている。……おれはもう坂東へは帰らない……」
と、たえずつぶやきつづけていたが、いつの間にか、ぐっすりと寝入った。
およそどのくらい眠っていたろう。とつぜん、おこされた。
「……殿、殿、殿……」
「……なに? どうした?……」
まだ目をつぶりながら、小次郎はきいた。
郎党は何とか言ったが、よく聞きとれなかった。誰やらが来たというようであった。
小次郎は起きたが、酔いと眠たさのために、意識も視力も霞《かす》んでいた。枕許《まくらもと》の結び燈台のチラチラする灯影《ほかげ》の中に、郎党が手をついているのがおぼろに見える。
「なんだ、誰が来たのだ」
あくびしながらきいた。こんな夜|更《ふ》けにと、少し腹が立っていた。
「太郎様がおいでになったのです」
「なに? 太郎が?」
どうしてやって来たのだろうと、のろのろと着がえをしていると、貞盛はどしどしと乗りこんで来た。
「何の用だ。すぐ出て行くところなのに」
「急ぐのだ」
「急ぐ? どうしたのだ? こんな時刻に?」
貞盛は、それには答えず、そのへんをかたづけている郎党に、そこはそれくらいにして早く向うへ行けと、追いやった。
「おい、大へんなことがおこったぞ」
「なにがおこったのだ。女出入りか?」
この男のことだ、そのへんのことにきまっていると思った。
「おれのことではない。おぬしのことだ」
「おれのこと?」
貞盛の顔がきびしくひきしまっているのに、小次郎ははじめて気づいた。
「おぬしの昨夜《ゆうべ》の手柄について、意外なことがおこった。おぬしが退治した盗賊共が大へんな人達だったのだ」
「…………」
「主領が貴明《たかあきら》親王の御子恆明《みこつねあきら》王、一人が中納言《ちゆうなごん》藤原ノ資近卿《すけちかきよう》の次男良資の殿、今一人が参議源ノ静卿の次郎君|祐《たすく》の殿だったのだ」
おどろきのあまりに、小次郎は急には口がきけなかった。やっと言った。
「ほんとか、それは、いつ、どこで聞いたのだ」
「姫君のお邸《やしき》から帰ってすぐ、同僚が来て教えてくれたので、使庁に行ってくわしく調べて来たのだ」
「信ぜられん」
「信ぜられんでも事実だ。使庁の調査だ」
貴明親王というのは、宇多天皇の皇子で、藤原氏の出ではないが、忠平となかがよくて中務《なかつかさ》卿として栄えている人だ。小次郎も、おことばこそ賜わったことはないが、お顔はよく知っている。
青くなった。酒気も睡気《ねむけ》も飛んだ。
「ほんとか」
と、またきいた。
「なんべん聞くのだ!」
不意に、小次郎は腹が立って来た。
「なぜ、盗賊など働くのだ。みんな名門の、ゆたかな家の公達《きんだち》ではないか。盗賊せねばならん必要がどこにあるのだ」
と、叫ぶような声になっていた。
「大きな声を出すな。そんなことは、この際|せんさく《ヽヽヽヽ》する必要はない。女をこしらえるにも、遊ぶにも、先《ま》ず必要なものは財宝だ。だから、盗賊したのよ。――そんなことより、問題はおぬしのことだ」
貞盛は、殺された人々の身分が明らかになると同時に、小次郎にたいする公家達の評判が一変し、その取った処置が適当であったかどうかと論議しはじめたことを伝えた。
「おれの取った処置が悪かったというのか」
「悪かったとは、さすがに誰も言っていないらしい。しかし、果して殺さなければならないほど事情が切迫していたかどうか、軽く手傷を負わせるくらいのことで抵抗力をうばっておいて、捕縛することは出来なかったろうか、というのだ。つまり、おぬしほどの勇士なら、それくらいのことは出来たのではないかと言っているのだな」
「事情は切迫していた。殺さなければおれが殺されたろう。しかし、そんなことはどうでもよい。一体、なんの文句があるのだ。これまでの彼等の悪業《あくごう》からするなら、殺されたって文句のあろうはずはないではないか」
「しかし、巡邏《じゆんら》の者の役目は追捕《ついぶ》にある。しかも、捕えても死罪にはしないのが、今の官《おおやけ》の習わしになっている」
小次郎は、じりじりしていた。貞盛まで公家等と同じ調子になって非難がましいことを言っているようであるのが心外であった。
「おれにはそんな理窟《りくつ》はわからん、もし、おれがあの盗賊共の親兄弟であったら、一思いに殺されたことをありがたいと思うだろう。おれの子や兄弟が、こともあろうに盗賊として捕えられて、生き恥をさらすなど、おれはイヤだ。
しかし、これもどうでもよいことだ。おれは盗賊共を退治したのだ。その盗賊がどんな名門勢家の人であろうと、おれの知ったことか!」
小次郎があまりむきになって、ポンポン言うので、貞盛は笑った。
「ちょいと待て。おれに怒るなよ。おれはおぬしのことが心配になったから、夜の夜中、こうして善後策を相談しに来たのだよ。おこられては|ましゃく《ヽヽヽヽ》に合わんぞ」
小次郎は気をとりなおした。しかし、笑う気にはなれなかった。
数日の後に、この問題は、全朝廷の人々に知れわたった。殺された人々の身分が身分なので、公然と話し合う者はなかったが、二三人よると、きっとこの話が出た。しかし、人々の興味は、盗賊共やその家のことよりも、小次郎にたいする朝廷の覚えがどう変るかにあるようであった。
もうその功名をうらやむ者はなかった。むしろ、一種の軽蔑《けいべつ》と安堵感をふくんだ冷淡さで見ているようであった。
役所における小次郎の立場は孤立した形になった。小一条院においてもまたそうであった。忠平が、
「小次郎という男は、少し粗忽《そこつ》なところがあるな」
と、家司《けいし》に言ったといううわさが立ってからは、一層そうなった。
小次郎は、朝廷の大官達にも、同僚にも腹を立てていた。どんな身分の者であっても、盗賊は盗賊だ。盗賊がどんな名門の子弟であったとしても、それを退治した者に落度があると考えるなど、まるで理窟が立たないと思っていた。
ある日、また貞盛が小次郎の家に来た。言う。
「おぬし、領地を小一条院へ献上する気はないか」
「藪《やぶ》から棒になんだ」
「あまり評判が悪いので、その工夫してみたのだ。たんとではない。十町か十五町くらいでよい。献上せんか。そしたら、なんとか挽回《ばんかい》がつきはせんかと思うのだ。こんどのことは少し深刻にすぎるので、巻絹や砂金くらいで追いつかんと思うのだ」
「…………」
「おれはとりかえしのつかないことになりはせんかと、心配でならないのだ」
「とりかえしのつかないこととは、おれを処罰でもしようというのか、そんな話でもあるのか」
「まさか、そんなことは出来るはずはない。しかし、出世の|しん《ヽヽ》はとまるぞ」
これは考えられることであった。小次郎は沈思した。しかし、そのために土地を献上する気になれなかった。
土地は父祖代々の膏血《こうけつ》の結晶だ。代々の懸命の思いのこもったものだ。祖父が、また父が、どんな工合にして原野を拓《ひら》き、どんな工合にしてひろげて行ったか、小次郎はよく知っている。その土地を、家にいては、美衣を着、薄化粧し、女の尻《しり》を追っかけることと詩歌管絃《しいかかんげん》の遊楽とだけで日を送り、朝廷に出ては、民の生活にはなんの関係もない儀式と、手続きと、権勢の争奪とをマツリゴトという名で行い、どんなに死者が出、どんなに治安がみだれても、奉幣《ほうへい》とか修法《ずほう》とかする以外、策のない公卿《くぎよう》共に、一寸だってくれてやってなるものかと思うのだ。
彼は、重《おも》立った廷臣等がそれぞれ、地方に土地を持っていることを知っている。坂東の各地にもそれがある。彼が主人と仰ぐ小一条院のおとどの領地など、坂東にあるものだけでも、おびただしい数だ。それらの土地はほとんど全部こうしたことで地方の者から巻き上げたのだと思った時、はげしいものが胸に燃え上った。
「おれはイヤだ!」
鋭く言い切った。
「駄々《だだ》ッ子のようなことを言うなよ。損して得《とく》とれというのは、ここのことではないか」
貞盛の顔には微笑があった。強情を張ってみすみす不利におちて行く子供にたいする大人《おとな》の余裕のある表情であった。けれども、それを見た時、小次郎の心は一層|頑固《がんこ》になった。
「おれはもうイヤだ。こんな筋道の立たん話がどこにある。まるでおれに落度があるような話ではないか。
おれがどんな悪いことをしたというのだ。盗賊を退治したために上から憎まれ、その憎みをなだめるために賄賂《わいろ》をつかわねばならんなど、そんなバカな話がどこにあるのだ。おれは真ッ平だ」
「理窟はそうだが、理窟どおりに行かん世の中だ。せっかく、お互いにこうしてこちらに出て来ているのではないか」
「真ッ平だ。どうにでもするがよい」
貞盛にも腹を立てていた。自分の心がピッタリ|ふた《ヽヽ》をしめた角だらけの貝に似て、陰鬱《いんうつ》な頑固さに閉じこもっていることを感じていた。
姫君のところだけが、心の憩《いこ》い場になった。姫君も、乳母も、心から小次郎の立場に同情し、世間の不合理な考え方に腹を立てた。とりわけ乳母の憤《いきどお》りははげしかった。
「小次郎の殿になんの落度がありましょう。悪いのは、何不自由のない身分でありながら盗賊など働かれた公達方です。
そしてさらに悪いのは藤氏《とうし》一門が、世の栄えをひとり占めにしていることです。これでは、世の若い公達方が、心をすさませて悪の道に迷いこまれるのも無理とは申せません。
藤氏の大臣《おとど》方は、小次郎の殿を責めたり、盗賊|王《みこ》方を責めたりなさる前に、御自分をお責めになるがよいのです」
と、痛烈であった。かつての姫君の零落と貧苦を思い出しているもののようであった。
そのくせ、小次郎が、貞盛が荘園《しようえん》を小一条院のおとどに献上せよとすすめたと語ると、それはいい考えだといった。
「さすがは、世なれた常平太の殿のお考えです。そうなすったがよいと、わたくしも考えます。なんといってもお手柄《てがら》はお手柄なのですから、そうなされば禍《わざわ》いは福にかわるかも知れません」
小次郎は、急にはへんじしなかった。面白くなかった。京の人々にとっては、土地は単に年に一度ずつ貢物《みつぎもの》をもってくる財産の一つでしかないかも知れないが、小次郎にはそう簡単には割り切れない。父祖が膏血をしぼって拓き、自分がいのちをかけて守って来たものだ。文字通りに「懸命の地」だ。
やっと、こたえた。
「土地はてまえだけのものではありません。弟共とも相談いたしませんでは、てまえだけの料簡《りようけん》では決しかねます」
声がふるえ、ことばがものものしくなったのが、自分ながらさらに不愉快になった。
気まずいことになったが、乳母はすかさずホホと笑った。
「いいえ、それならそれでよいのでございます。検非違使《けびいし》におなりにならなければ、一層お国におかえりではないでしょうから。わたくし共は、あなた様がこちらにいて下さりさえすればよいのでございます」
「国へは帰らないと申したではありませんか。てまえは二枚舌は使いません」
おこっているように、むっつりと、小次郎は言った。
さらに一月ほど経《た》った。
その日、小次郎は、公用で乙訓《おとくに》の大原野《おおはらの》まで行き、夕日の山に臼《うす》づく頃《ころ》に帰途についたので、桂《かつら》川をわたって鳥羽《とば》の畦道《あぜみち》にかかる頃には、もう深夜に近くなっていた。
霧の深い夜で、おそく出た片割月が東の空にあるはずだが、その所在さえわからなかった。
この霧はこの季節の京都盆地のくせだ。日没頃から立昇って、夜の更《ふ》けるとともに次第に濃く、深夜になると、ただ一面の乳白色の幕となって、地上のあらゆるものをうずめつくす。
霧の中には屍臭《ししゆう》があって、京の町へ近づくにつれて強くなった。
疫病《えきびよう》の流行は少しも衰えず、この頃では野や河原だけでなく羅城門《らしようもん》の楼門や大路《おおじ》にまで、屍体を遺棄するようになっている。だから、この屍臭は、つい間近に屍体が累々《るいるい》と横たわっていることを語っているのだが、濃い霧の幕は視界をさえぎって、それを見せなかった。ただ、主従三騎の先頭に立っている小次郎の馬が、時々|たたら《ヽヽヽ》をふんであとすざりする。その時には必ず路上に屍体があった。
馴《な》れるということは恐ろしい。これらの屍臭も、屍体の羅列も、この頃では、感覚や感情を刺戟《しげき》しなくなっていた。しかし、深夜の霧の路上に黒々と横たわっているこれらの屍体は、自分で動く力があって、いきなりぬッと出現して来たように錯覚され、かなりに気味が悪かった。
「チェッ、チェッ、チェッ……」
と舌打ちして馬をはげまし、おどりこえおどりこえ進んだ。
その幾度目かであった。ほんとにその屍体がうごいた。小次郎がおどりこえようとしたとたんに、パッとはねおきるや、その屍体の手が動き、白い虹《にじ》のような光が半円をえがき、霧をつんざいて、小次郎の乗った馬の前足をはらって来た。恐怖や疑問のおこる先に、小次郎のからだははげしい行動をおこしていた。馬をあおってその上をおどりこえ、おどりこえざまに、右手の鞭《むち》を打ちおろした。
したたかな手ごたえがあって、相手はアッとさけんだ。顔でも打たれたのか、片手を顔にあてて、しばしたじろぐと見えたが、たちまち、長い太刀をふりかざしてせまって来た。
屍体の真似《まね》をして、行人をおびやかそうとする悪がしこい盗賊であることは、今は明らかだ。
「おのれ、しれ者!」
小次郎はゆん手ににぎった弓で、賊の足を薙《な》いだ。
「小癪《こしやく》な!」
賊はたおれながらも、小次郎の弓をたぐりながらはねおきようとした。郎党等が馬を飛び下りて斬《き》ろうとした。あわてているので、刀はぶつかり合って、はげしい音を立てて火花を散らした。
「斬るな! おさえろ!」
と、小次郎はさけんだ。殺しては、また面倒だと考えた。
郎党は刀をすててとりおさえようとしたが、賊はその刹那《せつな》のひるみに乗じた。郎党等の手がおのれのからだにとどく前に、ゴロゴロところがって逃げ、イナゴのように一はねはねると、路《みち》より一段ひくくなっている田圃《たんぼ》の霧の中に消え、そこで鋭く口笛を吹いた。
忽《たちま》ち、霧の中に数十人の鬨《とき》の声が上り、弦《ゆんづる》の音がし、鋭い矢の音がせまって来た。
小次郎は弓を上げて、胸の前で一ひねりした。すると、カチリと音がして、矢が地におちた。二の矢は鞍《くら》に身を伏せて避けた。三の矢が来るまでには、こちらが矢をつがえて叫びかけた。
「右兵衛府《うひようえふ》の平ノ小次郎|将門《まさかど》と知っての盗賊共か!」
|こだま《ヽヽヽ》のかえって来るように、こたえがかえって来た。
「西の市で討たれた朋輩《ほうばい》共への手向《たむ》けのためと思い立ったが、おのれがあまり強い故《ゆえ》、もうやめた。逃げる故、追うなよ」
また口笛が聞こえ、足音が乱れつつ遠くなって行ったが、かなり遠くの、矢ごろを離れたと思われるあたりで、カラカラと笑う声が聞こえた。
「はてな?」
この野放図な感じの笑い声は、以前たしかに聞いたことがあると思った。すると、前の返答の声音《こわね》にも聞きおぼえがあるような気がして来た。
(勘解由判官《かげゆほうがん》、興世《おきよ》王)
こつねんとして、この名が思い浮かんだ。眼光の鋭い、歯の見事な、色の浅黒い、精気にあふれた、ひきしまったその小さい顔も、小柄なからだも、肩をそびやかせてノッシノッシと歩く歩きぶりも、すべて思い出された。
漠々《ばくばく》たる乳白色の霧の幕を見つめたまま、小次郎は馬上に居すくんでいた。
このことを、小次郎は心一つにつつんでいた。この前のことがあるだけに、めったなことを口外しては禍いを引くにきまっていると思ったからである。
しかし、心のうちでくりかえし吟味しているうちに、興世王であるという考えは動かないものになった。
彼はただひたすらに浅ましかった。興世王ひとりを浅ましいと思ったのではない。公家《くげ》というもの、朝廷というところ、京というところが、あさましいもののかぎりに考えられるのだ。
「こんな風で、どうして世の中が立って行こう。あらゆるものが腐り切っているではないか。地獄道、餓鬼道、畜生道の世の中ではないか」
右近の馬場の巫女《みこ》によって下されたという、京の人種《ひとだね》がたえるという託宣は、決してそらごとと聞いてはならないという気にもなった。
望郷の思いが切なかった。野蛮ではあっても、血なまぐさい喧嘩沙汰《けんかざた》がたえないところではあっても、坂東にはこんな陰険な罪悪はない。乱人は乱人、賊人は賊人と、瞭然《りようぜん》としている。そこにあるものは、男と男の武勇の争いだ。
「暗い、実に暗い。女々《めめ》しい、実に女々しい。じめじめとしめっている!」
と、思った。
しかし、その望郷の念《おも》いより、姫君への愛情はさらに強かった。
「おれが帰ったら、姫君はこのイヤな京でひとり立ちになってしまわれるのだ」
と、思うと、それだけで胸が痛くなった。世の荒波にもみくだかれて行く白い花を見る幻想がいつもともなった。
この頃、小次郎がわれながらいぶかしいと思うことは、小督《おごう》のことをほとんど考えなくなっていることだ。
「あれは恋だったろうか、恋とはこんなにはかないものなんだろうか……」
貞盛の浮気を笑えないと思うのであった。
ほととぎす
また年が明けて、除目《じもく》の季節が来た。
除目について小次郎は決してあきらめ切ってはいなかった。むしろ、上京以来のどの年にもまして希望にもえていたとさえ言えた。
彼は、今年もおこたりなく、それぞれのつけとどけをして来た。また、盗賊退治のことだって、理由にもならない理由で大官連のきげんを損じはしたが、功績は功績だ、かけらほどでも朝廷に良心があるなら無視するわけには行かないはずだと思っていた。
やがて、その日が来たが、期待は無残にも裏切られた。彼の官位は去年のままであった。一方、貞盛の方は、役所がかわり、左馬寮《さめりよう》の大允《だいじよう》になっていた。
左馬《さま》ノ大允は、官等から言えば、これまでの左兵衛ノ少尉《しようじよう》と同じで、ちっとも昇進していないことになるが、左馬寮は禁裡《きんり》内にある役所で、しばしば主上をはじめ大官連から直接に御用をうけたまわる機会があり、従って立身のためには非常に有利な地位なのだ。
憤りと、寂蓼《せきりよう》と、敗北感が、胸に渦《うず》を巻いた。やるせなかった。もう郊外に出て騎射をこころみる気力もなかった。姫君のところだけは心から慰めてくれるとは思ったが、ここも面目なくて行く気にならなかった。
「誰が来ても会わんぞ」
帰宅すると、郎党等にきびしく言いわたしておいて、ひとりで酒をのみはじめた。きっと貞盛が来るだろうと思ったが、今の場合、最も会いたくないのは貞盛であった。得意げなその顔、快活さ、都会の貴公子風なその服装、などを考えただけでも、怒りに似たものが湧《わ》いて来る。
はじめは蔀《しとみ》を開けはなして飲んでいたが、やがてそれも閉めた。ギッシリと新芽をつけ、春の喜びに一斉《いつせい》に歓呼しているような草木や、明るい光にみたされている庭の景色を見るのが、今の小次郎には苦痛であった。
彼は、その薄暗い室で、ひとりで黙々と夕方まで飲み、それ以上飲めなくなって横になったが、たちまち轟々《ごうごう》といびきをかく眠りに入った。
ちょうどこの時刻、貞盛は姫君の邸《やしき》を訪れた。
「オヤ、まあ、お出《い》でなさいまし。いかがでございました?」
と、乳母は、すぐ除目のことを聞いた。
「左馬ノ大允に叙せられました。従って成績がよいとは申せません」
「そんなことはございません。左馬寮に御転勤なら、御栄転でございます。おめでとうございます。それで、小次郎の殿はいかがでございました?」
「まだ参りませんか。どうせ、こちらに参ることと思いましたので、彼の家には行かずに、こちらにまいったのでしたが……」
「まだでございます。――そうですか、いけませんでしたか……」
「気の毒でした。居坐《いすわ》りです」
がっかりした風で、乳母は長いため息をついた。
「やっぱりねえ……」
上に通された。
話は姫君の前に行ってからもつづけられた。
「言わないことじゃないのです。頑固なことばかり言って、少々くらいの荘《しよう》を吝《お》しむので、こんなことになってしまったのです。てまえはそれが口惜しいのです」
「その頑固さがあの方のよい所ではありますけどね」
と、乳母が言うと、貞盛は一層いきり立った。
「ことによりますよ。世を挙げてこんなに濁りかえっているのに、一人だけ清くったって、何になります。暴風の時の草木をごらんなさい。風にしたがって靡《なび》いていればこそ、無事でおられるのです。時々、これに抵抗しているのがありますが、全部の風を一つに引受けているように、見るも無残に痛めつけられているではありませんか。こんな態度は、清いとか、強いとかいうより、愚かなんですよ。世に従わぬを狂人という本文《ほんもん》がありますとか。
てまえは、今日こそ、小次郎に言うだけのことを言うつもりでいます」
姫君は、ものを言わなかった。シンと表情をしずめて、一点を凝視していた。繊細で、清らかで、見ていると気も遥《はる》かになるような優婉《ゆうえん》な姿であった。小次郎の不運に胸を痛めているもののように見えた。
貞盛は、覚えず空唾《からつば》をのみこんだ。嫉《ねた》ましさが、じりじりと胸を灼《や》くのを感じていた。
彼はにわかに大きな声で笑った。
「ハッハハハハ、こなた様方を叱《しか》りつけるような口を利《き》いてしまいましたな。失礼いたしました。ところで、てまえのためには、祝宴を催していただけないのでしょうか。小次郎同様に御懇情をいただいている身と思っているのですが」
姫君は乳母の方を見た。うろたえた風であった。乳母はおちついていた。ホホと笑った。
「いたしますとも。わたくし共には、|えこひいき《ヽヽヽヽヽ》はございません。しかし、多分、これから小次郎の殿がいらっしゃいましょうが、そうするとむごいことになりましょうから、日を改めて、またのこととしていただきましょうか」
貞盛は笑った。
「なるほど、女性《によしよう》方のやさしい心づかいでは、そうお考えになるのは道理ですが、男というものは決してそんなものではありません。自分の不運は自分だけの不運、友の幸事は友の幸事、きちんと割り切って考えるのです。必ず心からよろこび、心から祝うのです。それが男と申すものです。ましてや、頑固《がんこ》者だけに、小次郎は最も男らしい性根《しようね》の男です。女々しい気持などおこそうはずはありません」
言い切っておいて、
「そうはお考えになりませんか」
と、姫君に鉾先《ほこさき》を向けた。にこりにこりと笑っていた。
貞盛の胸には、不思議な情熱が燃えていた。是が非でも、今夜自分のために祝宴を開かせねばならないと思いつめていた。この道の手練者《てだれ》である彼には、この関門さえ破ることが出来れば、あとは刃を迎えて裂ける竹のようにもろいことが、よくわかっている。
姫君は少し腹が立っていた。小次郎の心はどうあろうとも、こんな時にはそれは遠慮するのが、朋友の思いやりというものではないかと思うのだ。そう言おうとして口をひらきかけた時、乳母が口を出した。
「そう仰《お》っしゃればそうにちがいございません。小次郎の殿の御性質として、なまじいな気兼ねはかえって御不快に思《おぼ》すでしょうね。では、早速に、その運びにいたしましょう」
言いながら、乳母の目は、時々チラリチラリと姫君に向けられる。何にも言うな、万事まかせておけと、その目づかいは語っている。
姫君は面白くなかった。小次郎が気の毒でならなかった。しかし、父母に死別して以来、乳母ひとりを頼りとして暮して来た姫君には、こうした場合、だまって乳母のさしずに従う習慣が出来ている。姫君は口をつぐんで、せめてものことに、むっつりした表情を保っていた。
支度のために乳母は退《さが》って行った。
(うまく行った)
と、貞盛は思った。そして、不機嫌《ふきげん》そうな姫君を見ながら、さてこれからどうしよう、と、考える。
何よりも、この不機嫌をときほぐす必要があると思われた。彼はこんどの除目において色々な人におこった悲喜さまざまな事件について語りはじめた。持ち前の明るい調子で、面白おかしく弁じ立てた。姫君は次第にその話に乗って来た。不機嫌げであった表情はいつか消えて、いつもの明るい笑い声まで上げはじめた。
「ところがね」
と、不意に貞盛の調子は一転した。
「このように、気の毒な人も多いわけですが、その誰よりもあわれなのは、この常平太ですよ」
「なにを仰っしゃるのです。あなた様ほど、何もかも都合よく行っている方はないではありませんか」
姫君は笑った。れいによって、冗談を言っているのだと思った。
貞盛は首を振った。かなしげな顔になっていた。
「どうなすったのです」
急には答えない。いくどか逡巡《しゆんじゆん》の様子を見せた後、低い声で、どもりどもり言う。
「てまえは、生涯《しようがい》を当地でおわる覚悟をきめています。坂東の荒々しい風気《ふうき》は、てまえの肌《はだ》に合わないのです。そのてまえにとって、何よりの関心事は、喜びを共にし悲しみをわかち合って、終生の伴侶《はんりよ》たるべき人を得たいということです。
てまえは、それにふさわしい人をもとめにもとめ、さがしにさがして、ついに見つけました。
そして、心のたけを運びつづけて来たのでありますが、その人はてまえを愛してくれません。その証拠は、この度の除目に、将来の栄達に大へん都合のよい位置に任ぜられたのを、少しも喜んでくれないのです。これをあわれと言わずして、なにをあわれと言いましょう」
姫君は青くなっていた。ふるえながら、貞盛をみつめていた。
貞盛はつづける。
「なおかなしいことは、その薄情《うすなさけ》の方を、てまえがどうしても忘れることが出来ないことです。
これまで、てまえは数々の人とかれこれのことがありました。それは決してかくしません。しかし、この恋は格別です。はじめての経験です。恋とは、こんなにも苦しく、こんなにもなやましく、こんなにもかなしいものなのでしょうか。
それから見ると、これまでのかれこれは、恋ではなかったとしか思えません。若いたわぶれにすぎなかったという気さえしています。
人はどうとも思え! 笑いもせよ! てまえは、生れてはじめての恋をしていると、自分では信じこんでいます」
いつか貞盛の声は濡《ぬ》れて、かきくどいていたが、突如、身をふるわせ、ほとばしるように言った。
「ああ、姫君! 思わぬ人を思うこの切なさをわかっていただけましょうか」
姫君は、強い力で胸を突かれたように感じた。悲しくなった。苦しくなった。早く乳母が来てくれればよいと思ったが、一方では、もっと聞きたいような気もした。どうしてよいかわからなかった。
笑おうとつとめたが、笑えなかった。
「その方というのは、どなたなのでしょう」
軽くさりげなく言おうとしたのだが、なぜかささやくように低い、そしてふるえる声になった。
貞盛は、熱ッぽい目で姫君を見つめた。姫君もまた見かえしていた。
かすかな呼吸《いき》のように低く、貞盛は言った。
「むごいことをおたずねです」
おとらぬ低い声で、姫君はささやきかえした。
「どうしてむごいことですの。でも、あたしは知りたいのですもの」
「その薄情《うすなさけ》の人は――」
と、言いさして、貞盛は一際《ひときわ》熱い目で、姫君の目を見入ってから、聞こえるか聞こえないかの声でささやいた。
「――ほかならぬ姫君です……」
期待した答えであったにかかわらず、姫君ははッと呼吸をのんだ。胸苦しくなった。立上ろうとした。貞盛はいざり出て、膝《ひざ》でその裾《すそ》をおさえた。
腹を立てねばならない場であると気がつきながらも、姫君にはそれが出来なかった。一層青ざめ、わなわなとふるえ出した。白い小さい一輪の花が強い風に吹かれているようにむざんに見えた。
「はなして……」
と、力弱く言った。
貞盛は、それには答えなかった。聞こえなかったのかも知れない。あるいは聞こえないふりでいたのかも知れない。一筋に自分の思いを追っているもののひた向きさで言った。
「小次郎の心は、てまえよく知っています。ですから、こういうことを申し上げるのが、友情にそむいていることは、十分に承知しています。しかし、申さずにはおられません。てまえは、姫君を思いつづけています」
「……は、はなして……」
と身もだえする姫君を、貞盛は、いきなり抱きすくめた。
姫君はつきのけようとしたが、貞盛の腕は、がっしりと抱きすくめてはなさなかった。双の腕に感ぜられる姫君のきゃしゃなもろさと、近く見れば見るほどかがやきまさる美しさとが、貞盛を逆上させていた。計算はもうなかった。うつつ心なく口走っていた。
「義理知らずと言わば言え! ののしらばののしれ! この恋に、いのちも名もかけているてまえです!」
湯気のように熱い、男くさい呼気《こき》が、姫君の顔にかかり、うなじを吹いた。
「……は、はなして!」
と、姫君はまた言ったが、たちまちカッと悩乱した。逃れなければならないと思い、逃れようとする意志はありながら、故知《ゆえし》らぬものが、全身の力を萎《な》えさせた。はげしくふるえながら、かえって男にしがみついた。
「てまえ、姫君を幸福にします。誓います。約束します。小次郎よりも、誰よりも……」
「……はなして、はなして……」
「今その証拠《あかし》を見せて上げる」
「……はなして、はなして……」
しぼんだ花びらのように乾き切って、熱い呼気をあえいでいる唇《くちびる》を、貞盛はおのれの口でふさいだ。
うッ! と、うめいて、顔をふって、姫君は逃れようとしたが、間に合わなかった。唇をわって火のようなものがつぎこまれた。むせかえるその息苦しいものは、全身に走る異様な感覚となって、からだ中を手足の先まで戦慄《せんりつ》させた。
全身の皮膚を深部に至るまで、逆さまにこき上げるに似た激しいその感覚は、不快感であるか、快美感であるか、わからなかった。ただ血が沸き立ち、気が遠くなった。その自失感のうちに、姫君は、血の臭《にお》いをかぎつけた蛭《ひる》のように、相手の唇を貪《むさぼ》り吸った。
恍惚《こうこつ》の幾瞬間かがすぎた。
貞盛は、室に近づいて来る足音を聞きつけて、抱擁を解いた。
姫君には、それが聞こえなかった。
「……ああ……」
と、かすかな嘆声を上げた。目まいがして、片手にひたいをおさえ、片手を床についた。
「しゃんとして! あの人が来ます」
小声で、貞盛は注意した。
居ずまいを直しながらも、姫君は言った。
「だってえ……」
しぜんと、あまえる調子になり、媚《こ》びる目つきになっていた。
すました顔をしながら、貞盛は笑った目で見かえした。
(他愛《たわい》ないものだ)
と、考えていた。得意さと、よろこびとが、胸にふくらんでいた。
酒肴《しゆこう》をささげて、乳母が入って来た。
「さあ、さあ、お祝いしますよ。どうか、お受け下さいまし」
乳母は、貞盛の前に膳部《ぜんぶ》をすえて、瓶子《へいし》を取り上げた。
「とうとうねだりおおせましたな。言っては見るものですな」
笑いながら、貞盛は盃《さかずき》をとり上げたが、乳母が酒をつごうとすると、急に言った。
「同じことなら、先《ま》ず姫君にお酌《しやく》していただきましょうか」
複雑な思いをこめた目で見つめていた。姫君は赤くなった。
赤くなって酌をする姫君と、微笑をふくんでそれを受ける貞盛とを見ている乳母の顔に、オヤ、といいたげな表情が走ったが、すぐそれは消えた。愛嬌《あいきよう》のよい顔になって言う。
「ゆるりと召上って下さいまし。そのうちには、小次郎の殿もお見えになりましょうから」
若い二人は、なんにも言わなかった。
乳母はなんとなく、ばつの悪さを感じた。改めて、さりげない顔で、しかし、心をとぎすまして観察した。心の奥底で、小次郎と貞盛をはかりくらべていた。
(小次郎の殿の方が誠実なお人柄《ひとがら》ではあるけど、この殿の方が出世なさることは間違いない……)
さらに、
(火雷天神の託宣にあった『東《あずま》おのこ』というのを、小次郎の殿のことだとばかり考えていたけど、この殿だって、あちらの殿御だねえ……)
はじめて気づいたことであった。一通りの分別で、啓示《さとし》の神秘を即断してはならないと思った。
乳母には、姫君の幸福だけが問題であった。束《つか》の間も忘れないのは、姫君の薄倖《はつこう》な運命を強くたしかな人の運命に結びつけたいということだけだ。もし託宣に示された『東おのこ』が小次郎以外の人であって、そのために小次郎が傷心の人となったとしても、一応は気の毒とは思うが、それはしかたのないことだと思うのだ。
敬虔《けいけん》な念《おも》いをこめて、考えた。
(どうなることか、すべては神のみこころがさだめて下さるであろう)
その小次郎は、夜半《よなか》になって目をさました。郎党等がかけてくれたのだろう、夜のものをかけてあった。枕許《まくらもと》の燈台《とうだい》のかすかな光が、水を入れた銀の提子《ひさげ》を、つめたくしずかに照らしていた。
その提子を取って、口から飲んだ後、大きな目をあいて、薄暗い天井を見つめて仰臥《ぎようが》していたが、しばらくすると、ムックリ起き上り、乱れた着物をととのえはじめた。
すっかり酔いはさめているつもりであったが、こうして起きてみると、頭が痛んで、からだがふらふらしていた。
足音をしのばせて、外へ出た。姫君に会いたいと、一筋に思いつめていた。会ってどうするか、そこまでのことは考えない。ただ会いたかった。
意地悪な友達にいじめぬかれた子供が、母親のふところに走って行く気持に似ていた。おさえにおさえた恋情が、寂寥《せきりよう》と、敗北感と、絶望に打ちのめされている心の唯《ただ》一つの救いとして、一時に燃え立っていた。
暈《かさ》をかぶった月が空の真中にあって、真珠色のおぼろな光がひろがっている通りを、飛ぶように急ぎ、姫君の邸《やしき》の敷地に足をふみ入れたが、その時、月光の下に黒くこんもりとしずまっている家の入口に灯影《ほかげ》がさし、にぎやかに談笑する声が近づいて来た。
貞盛の声!
と、聞いた時、反射的に身をひいていた。となりの屋敷の小暗い築垣《ついじ》の下かげにひそんだ。背をはりつけて、目を射そそいだ。
真ッ先に貞盛が出て来た。つづいて姫君、つづいて乳母、最後に貞盛の郎党、これはものものしく弓矢をたずさえて、ずっとあとから来る。
貞盛も、姫君も、乳母も、皆浮き浮きとしている。持ち前の軽快さで、貞盛が弁ずると、姫君も乳母も声を立てて笑う。何を話しているかわからないが、愉快そうだ。貞盛が多弁で調子が軽いのはいつものこととしても、姫君や乳母の様子にも、へんにはしゃいだところが見える。今の小次郎の不運など、全然考えていないようだ。
小次郎は、ますます孤独の感に襲われながらも、三人とも酔っているらしいと判断した。
やがて通りに出て来る。
「大へんおもてなしにあずかりました。それでは、お別れします。また伺います」
と、貞盛があいさつすると、
「お近いうちにね」
と、姫君は言った。
そこは、小次郎のひそんでいる場所から二間とはなれていない。
三人の顔の表情も、別れの合図に親しげに振り合う手の白さも、はっきりと見えた。
(どうしたのだろう)
にがい嫉妬《しつと》と疑惑に、小次郎はとらえられていた。小次郎ほど姫君の役に立ち、親しまれていても、こんな夜更《よふ》けに、こんなところまで送り出されたことはない。いつも、精々、家の入口までだ。
ふと、姫君がふりかえった。
「常平太の殿、ちょいと」
貞盛がつかつかと引きかえした。姫君もかえって来る。二人は、また小次郎の前で、むかい合った。
「……ねえ、明日来て下さる?」
「まいりますとも」
「きっとね」
「きっと」
どちらの声も低い声であったが、はっきりと小次郎の耳にとどいた。やさしく、あまい声であった。小次郎は身ぶるいした。
誰もいなくなってから、やや長い間、小次郎は動かなかった。目には今見た情景がのこっており、耳には今聞いた会話がのこっていた。血がさわぎ、胸が波立っていた。しかし、信じたくなかった。しきりにつぶやいていた。
「どうしたのだろう? どうしたのだろう?……」
翌朝、出勤しがけに訪問した。
「おや、まあ、昨夜《ゆうべ》は、お出《い》でになることと、ずっとお待ちしていました。常平太の殿からうかがいましたが、いけませなんだそうでございますねえ。でも、お力をお落しにならないように」
と、乳母はくやみを言った。
小次郎は強《し》いて明るく笑った。
「覚悟していたことです。何とも思いません――姫君にお目にかかりたいのですが」
「まだお寝《やす》みですのよ。昨夜、お酒を召上ったのです。あなた様のお出でを待って、常平太の殿のお相手をなさっている間に、ついあの方のすすめ上手に乗せられましてねえ。召上りつけないものなので。ホホホホホ、でも、ほかならぬあなた様です。お起し申します。少々お待ち下さい」
乳母は奥へ行きかけた。
小次郎は、あわててとめた。そんな無礼なことは出来ないと思った。出勤の時刻もせまっていた。かくし立てのないらしげな乳母の態度やことばにも安心させられた。
(なんでもないのだ)
明るい心になって、辞去した。
事なく十数日過ぎた。姫君の様子も変らなければ、貞盛の態度も同じだ。
「なんでもなかったのだ。どうしておれは疑ったりなぞしたのだろう」
根も葉もないことに疑心暗鬼を走らせて、わずかな間でも男らしくない妬心を燃やしたことが恥かしかった。
人間の救いはどこにあるかわからない。この疑惑の消散が、除目《じもく》に漏れたことの憂悶《ゆうもん》を救った。
「来年こそは!」
新しい希望をもって、毎日を勤務した。
月がかわって間もなく、南海道から飛報があって、海賊の蜂起《ほうき》を伝えて来た。
南海道、特に伊予と山陽道の間の多島海のあたりには、ずっと以前から多数の海賊団体がいて、往来の官船や商船の患《わずら》いになっていたが、今年になってから特にその活動がすさまじくなって、九州からの官船は一|隻《せき》のこらず襲撃され、その数すでに十二隻に達しているというのだ。
朝廷では不時の除目が行われ、前にことわった紀淑人《きのよしと》が伊予守《いよのかみ》に任ぜられた。こんどは淑人もすなおに受けた。
「あの卿《きよう》ならば、不日に鎮定の功を上げられるであろう」
と、皆言った。
淑人は、任命を受けると、特に奏して、武勇の士を選抜して連れて行きたいと請《こ》うて、許しを得ると、その人選にかかった。
その人数の中に、小次郎が入っていた。小次郎は淑人の邸に召されて、交渉を受けた。
「まろは、ずっと以前、小野ノ好古《よしふる》卿に、そちの名を聞き、ゆかしく思っていた。されば、そちがあの功を立てた時も、さてこそ、と、ますます頼もしく思ったのだ。しかるに、思わぬことで、あれほどの功が打ちすてられた。まことに気の毒にたえず思っている。
一緒に行って、まろを助けてくれまいか。そうしてくれれば、まことにうれしいのだが。このことは、そちのためにも、悪いことではないと思う。まろに従っているかぎり、この前のようなばかげたことにはせぬ。必ずや、功にふさわしい恩賞を得させてみせる。
まろの任期一ぱいいてくれというのではない。海賊共の鎮定さえつけば、半歳《はんとし》でも一年でもかまわぬ。すぐこちらにかえって来てよろしい。もちろんその時は現在の官にかえれるよう、はかろう」
小次郎は感激した。朝廷全部が腐り切っているわけではなく、自分の手柄を認めていてくれた人もいたのだと、うれしかった。条件もよいと思った。純友《すみとも》に会って旧情を温められることにも心をさそわれた。
ただ、姫君のことが気にかかった。十分なことは、勿論《もちろん》しておくつもりだが、それでも自分がいなくては心細かろうと思うのだ。
「数ならぬ身に、ありがたき至りの御諚《ごじよう》ではございますが、色々と一身の事情もございます。一両日、とくと思案させていただけましょうか」
「もちろんのことだ。まろも即答はもとめぬ。しかし、色よい返事を待っているぞ」
「おそれ入ります。出来るだけ、御意に添いたく存じます」
とうに桜も過ぎて、世は晩春初夏の好季節になり、明るい光が天地にみなぎっていた。小次郎は心明るく、淑人の邸を出た。
「戦場には情実がない。おれは必ず目ざましい功を立てる。おれには、その力があるのだ。そして、その功は必ず認められる。おれを理解してくれる公家《くげ》方もあるのだから」
と、たえず考えつづけた。
先ず、左馬寮《さめりよう》に、貞盛をたずねた。
とりつぎの下役人は来意を聞いて奥へ入ったが、すぐ出て来た。
「どうぞこちらへ」
と言って、一室に通した。すっかり青葉になりながらなお一二輪の花ののこっている桜樹《さくらぎ》が軒端《のきば》にあるへやであった。塗りのはげた腰かけをすすめて、
「しばらくお待ち下さい。すぐまいります」
と言って、立去った。
かなり長い間待たされた。軒の桜の枝をすかしてさしこんでいる日かげが相当移動するまで、なんの音沙汰《おとさた》もなかった。
「どうしたのだろう。忘れているのではないか」
と、不審に思いはじめた頃《ころ》、やっと貞盛が出て来た。
「やあ、待たせたな。失礼失礼、ちょいと手ばなせない用をしていたものだから」
いつもの快活なことばづかいではあったが、なにか顔色が暗く、そわそわしているように思われた。
「いそがしいようだな」
「ウム、まあ……」
「すぐすむ用事だ」
小次郎は、淑人からの話をして、意見を聞かせてもらいたいと結んだ。
話の半ばから、貞盛の顔が明るくなった。そうか、そうかと、しきりにうなずいていた。
「大いに結構じゃないか。おれは行くことに賛成だな。すすめたいよ」
「おれも行きたいとは思っているのだが」
「ぜひ行け。おぬしなら、必ず抜群の武功を立てるに相違ない。そして、それは決してこの前のように暗《やみ》から暗に葬《ほうむ》られるようなことはない」
誰の見る目も同じだと、小次郎はうれしかったが、なお姫君のことが気になった。
「おれもそう思って、大いに気は進んでいるのだが……」
「進んでいるがどうしたというのだ? ためらうことはないじゃないか。そうしろよ」
と、言っておいて、急に貞盛は、カラカラと笑い出した。
「そうだったな。おぬしには貴子姫という人があるんだったな。あの人の意見を聞いてみる必要があるな」
小次郎は赤くなった。
貞盛は、一層大きな声で笑った。
「多分、姫君は不賛成だろうな。なにせ、一番頼りにしているおぬしが、しばらくでも京を不在《るす》にすることは、あの人にとっては好もしくないに違いないからな。しかし、それでも聞く必要があるね」
「おれも、そう思っている」
小次郎は、まだ赤い顔であった。
「こいつが! ぬけぬけと!」
貞盛は、イヤというほど小次郎の肩をなぐりつけた。
「では、今夜、あの家で逢《あ》おう。もし、姫君が賛成なさらんようであったら、大いにおれが説得しよう。男として、こんないい機会をのがすという法はないからな」
と、貞盛は言った。
「頼む」
「果報ものめ!」
貞盛は、またなぐりつけようとして手をふり上げた。
「よせ! 痛いじゃないか」
浮き浮きと、貞盛は小次郎を送り出した。はじめの暗い表情は、もうどこにもなく、持ち前の軽快さが、軽佻《けいちよう》と思われるくらいのはしゃぎになっていた。
小次郎を送り出して、自席にかえる貞盛の顔には、複雑な微笑があった。おかしさをこらえているような、会心のような、悪意的なような。
その夜、小次郎が姫君の邸へ行った時、貞盛はもう行っていて、
「おそかったな。ずいぶん待ったぞ」
と、あびせかけた。
格別おそく来たつもりはなかったが、現実におくれているのだから、しかたはなかった。
「すまなんだ」
と、わびを言って坐《すわ》った。
「すまんどころか、おぬしの来ようがおそいものだから、おれは姫君に問いつめられて、事の次第を説明しなければならないことになった。おかげで、うらまれて、引合わない話だ」
姫君は、うつ向いていた。切なげに見えた。小次郎は早くも途方にくれた。
しかし、貞盛はつづけて、
「ところが、とにかくも、おわかりを願った。長いことではないし、そういう都合なら、行ってよいと仰《おお》せられた」
と言って、姫君の方を向いた。
「そうでございましたね」
姫君はうつ向いたままうなずいたが、にわかにサッと顔色をかえたかと思うと、そのまま席を立って次の間に去った。そのかぼそい肩がはげしくふるえ、その目に涙があったのを、小次郎はたしかに見た。
追って行って、わびたかった。もう行くのはやめますと言いたかった。しかし、それは出来なかった。そんななれなれしいことはしたことがなかった。
途方にくれて、もだえるばかりでいる小次郎に、貞盛は言う。
「あの調子だ。骨が折れた段ではなかったぞ。うんと礼を言ってもらわないと、引合わん」
小次郎は答えなかった。うらみを言いたいくらいであった。
姫君が出て来た。いつもの顔にかえっていた。貞盛は笑いかけた。
「姫君、小次郎に笑いかけていただきましょう。姫君のお顔を拝したら、この男、せっかくの奮発心がにぶったように思われますから」
姫君は、小次郎を見た。
「そんなことはございませんわねえ、坂東武者でいらっしゃいますもの。こんないい機会をおのがしになることはございませんわねえ」
ふるえる声であったが、顔には微笑があった。
「申訳ありません」
小次郎は、泣かんばかりの切なさで答えた。
ともかくも、姫君は諒解《りようかい》してくれたのだ。小次郎は、翌日すぐ淑人の邸《やしき》に行った。
「かたじけない。そちが行ってくれれば、一軍の味方を得たよりもまだ心強い」
と、淑人の喜びは一通りではなかった。
色々なことを打ち合わせて、辞去した。
小次郎の身辺はにわかに忙がしくなった。とにかくも、坂東屈指の豪族である下総《しもうさ》平氏の当主が海賊征伐の宗徒《むねと》の一員として出るのだ。小次郎は、京の邸の留守居役として、下僕二人をのこすだけで、国許《くにもと》から連れて来ている者全部を連れて行くことにして、支度にかかった。総勢十五六人の旅支度と戦さ支度だ。目のまわるような多忙な日がつづいた。
その一日、郎党が、意外な人の訪問をとりついで来た。鹿島《かしま》ノ玄明《はるあき》が来たという。
折も折、その人のいる国に行こうとしている時だ。小次郎はよろこんで、自ら迎えに出た。
夕陽《ゆうひ》のさしている車寄せの前に、玄明は腕組みして立っていた。家中ごったがえして支度につとめている様を、ジロジロと見まわしていた。地方官の郎党となって伊予に行ってやがて一年半にもなろうというのに、その風貌《ふうぼう》は一向変っていない。坂東をあばれまわっていた頃と同じように精悍《せいかん》不敵な面《つら》がまえだ。
「ヤア、めずらしいではないか」
と、呼びかけると、ゆっくりふりかえって微笑した。ノソノソと、歩きよって来た。
「ヤア、久しぶりだな。ちょっと主用があって、上って来た。四五日前に来た。大体用事もすんだので、たずねて来た。掾《じよう》の殿がよろしく申してくれとのことばであった」
「そうか、そうか、おかわりもないか」
「至って御息災だ。おぬしのことを、いつも仰せられている」
「とにかく、上ってくれ。つもる話もある」
上へ通した。酒を飲みながら、何よりも気がかりのことを聞く。
「伊予はどんな工合《ぐあい》だ?」
「どんな工合とは?」
「大分海賊共があばれているというではないか」
玄明はにやりと笑った。
「ウン、まあね。しかし、瀬戸|内《うち》の海賊共のことは、今にはじまったことではない。いつものことだ。京人《みやこびと》が今さらめかしくさわぐのは、あちらにいる我々から見ればおかしいよ」
「しかし、今年になってから、もう十二隻も官船が襲われているというではないか」
「十二隻というのは、先月までのシメだ。おれが向うを出る時には十五隻になっていた」
けろりとした返事だ。
小次郎はおどろいた。
「それで、おぬしよく無事で来られたな」
玄明は、フフと笑った。
「だから京人《みやこびと》共のさわぎ立てるのがおかしいのよ。こちらには、瀬戸内のことといえば海賊のこととしか伝わらない。だから、海じゅう海賊共でうずまっているように考えているらしいが、それでは海賊共の仕事がなり立つはずがないではないか」
玄明の言うことにも一理はあるかも知れないと、小次郎は思った。京の人の坂東という土地に対して抱いている考えがそうだ。狩猟と争闘だけに明け暮れている荒々しい土地としか思っていない。可憐《かれん》な恋の事実もあれば、平和な生業《なりわい》の姿もあるとは、まるで考えないのだ。
小次郎は笑った。
「そんなものかも知れないな。しかし、今年になって海賊共の乱暴がひどくなったことは事実だろう」
「ウン、そりゃいくらかはな」
「そんならよい。そのために、おれは伊予に行くのだ」
「ホウ、おぬしもか」
「おぬしもとは?」
「新国守が勇士をすぐって連れて行くことになったと聞いているよ」
「淑人卿《よしときよう》から鄭重《ていちよう》なお招きにあずかったので、行くことにしたのだ」
小次郎は得意の情をつつみかねた。しかし、言いはなしではきまりが悪い、つけ加えた。
「それに、純友の殿にお会い出来るのにも心が引かれた」
「フウン、読めた。その支度のため、家中このさわぎというわけか」
「そうだ」
フウン、と、またうなったが、
「おれはとめたいね」
という。小次郎はおどろいた。
「どうしてだ?」
「つまらんからよ。先《ま》ず、伊予というところが坂東育ちの我々にはとんとつまらん。伊予には坂東のような曠野《ひろの》がない。一時間も馬を突ッ走らせれば、すぐ山だ。鼻が突ッかえて、呼吸《いき》がつまりそうな気がする。坂東人には坂東が一番よい。おれも近々に坂東にかえろうと思っているのだ」
小次郎は笑った。
「おぬしあんなに喜んでついて行ったではないか」
「大掾《だいじよう》の殿にほれこんだのよ。今でも、大掾の殿は大好きだ。しかし、伊予はいかん。あんなところに行くな。おれはそう言いたい」
「…………」
「それに、海賊だ。おぬしは、あのへんの海賊をどういうものと思っているか知らんが、大へんなものだぞ。あの広い海に、それこそ豆腐を大地に打ッつけたほどにちらばっている大小さまざまな島々の全部が、やつらの巣だ。|かくれが《ヽヽヽヽ》だ。縦横無尽、神出鬼没だ。おさえようも、攻めようもあったものではない。
気の毒なこと! 新国守の決意のほどは殊勝ながら、味噌《みそ》をつけるよりほかはない。したがって、それにつきそう勇士連中も、必定、味噌の相伴《しようばん》だな。
ほかの連中はどうともなれだ。おれはおぬしが好きだから、みすみすそんな阿呆《あほう》なつき合いをさせたくないのだ」
小次郎は笑った。
「おぬしらしくない気の弱い言い草だな。第一、純友の殿の考えはどうなのだ。あの殿は、海賊退治を申し立てて、あの国の掾に任ぜられて行かれたはずだぞ」
「掾の殿は、今も心をくだいておられる。しかし、それでもおれはおぬしの行くことをとめたい。切にとめたい」
はじめのほどの投げやりな様子は消えて、おそろしく熱心な様子になっていた。
あまりに熱心なとめようが、なにか異様であった。妙だな、と、思った時、ふと閃《ひらめ》くものがあった。こいつ、案外、海賊共と気脈を通じているのではないかという考えだ。玄明の性行からすれば、あり得ないことではないと思われた。
小次郎は皮肉に笑った。
「おぬし、誰に頼まれて来たのだ?」
玄明は、細い目をしずめて、じッと小次郎を見つめた。
「それはどういう意味だ」
「はっきり言う。おぬし、純友の殿から離れて、海賊のなかまになっていはせんか」
「バ、バ、バカを言う! そんなことがあるものか! おれはおぬしに対する友情から言っているのだ!」
猛然として、玄明は絶叫せんばかりであった。
小次郎は笑った。
「おこるな。おこるな。おぬしの以前を知っているおれには、ないことではないという気がするのだ。無理はなかろうが。ハッハハハハ」
「バカにしとる!」
「ハッハハハハ、親切はありがたいが、そういうわけに行かんのだ。おれはもう行く約束をしてしまったのだからな」
玄明は、ぷりぷりしていたが、二三杯|手酌《てじやく》で飲むと、平静をとりもどして、
「おれは言うだけのことを言ったのだが、きいてくれんのならしかたがない。勝手にするがよかろう」
と言ったが、すぐにやにやと笑って、
「時におぬしがほれていた宮家の姫君のことだがな」
「なんのことだ? なにをいうのだ?」
小次郎は赤くなって狼狽《ろうばい》した。
「かくすことはなかろう。おれはちゃんと知っていたのだ。そして、大いに羨《うらや》ましく思っていたのだ。あれは中々の尤物《ゆうぶつ》だ。あれほどの女なら、いくらおぬしが物堅くても、いくら国許にほれた女がいようと、ああなるのは当然だと思っていたのだからね」
玄明のにやにや笑いがおそろしく下卑に見えて、小次郎は我慢出来なかった。
「よせ! くだらんことを言うと、承知せんぞ!」
と、本気に腹を立てて、どなった。
「ハハハハハ、未練があると見えるな」
妙なことを言う。にらみつけながらも、小次郎はその意味を考えた。その心の動揺を見ぬいたのだろう、玄明は次を言わない。悠々《ゆうゆう》と酒をのみつづけた。こちらはじりじりして来た。突ッかけた。
「未練とはなんだ!」
「未練とは未練だ。即《すなわ》ち失った宝玉にたいする愛惜の情だ。のこりおしく思うことだ」
ますます妙なことばだ。不安に胸が波立って来た。
「おれがなにを失ったというのだ」
「失ったじゃないか。即ちあの女王《ひめみこ》を人にゆずったではないか」
「なにイ!」
覚えず声が突ッ走った。
いつかとっぷり暮れて、室内には燈台《とうだい》の灯《ひ》が明るかった。
玄明は腕を組んで黙って小次郎の顔を見ていたが、やがて、フウンとうなって、
「こりゃおれは飛んでもない思いちがいをしていたらしいぞ」
と、いった。
「なにを思いちがいをしていたというのだ」
「それは言えない。思いちがいとわかった以上、言っては罪つくりなことになる」
と口では言いながらも、玄明の目には餌《えさ》を目がけて慕いよって来る魚を見ている釣師《つりし》の表情がある。しかし、小次郎にはもうそれが見えない。
「そこまで言っておいて、言わないということがあるものか!」
「しかし、おれの思いちがいらしいから……」
「思いちがいでもいいから言え!」
「では言うが、おれは世間で噂《うわさ》していることをそのまま言うので、おれが考えたことを言っているわけではない。その点は思いちがいしないように頼むぞ」
「なんでもいいから言え!」
「世間では、あの女王を、おぬしが人にゆずったといっているのだ」
「誰にゆずったというのだ!」
「さる人、つまりおぬしの親しい友にだ」
「はっきり言え! あいまいな言い方をするな!」
小次郎はもう血眼《ちまなこ》であった。はげしく胸がさわぎ立っていた。
「つまり、その……」
「ええい! 誰だ! 言え!」
片ひざ立てて、つかみかからんばかりの形相《ぎようそう》であった。
「こまるのう。そういきり立たれては。先刻も言う通り、世間の噂なのだ。真偽のほどは、おれは知らんのだ。――ああ、これは大へんなことになった」
「言わんのか!」
「言うよ。言うよ。――つまり、世間では、おぬしが、あの女王を、いとこの常平太にゆずりわたしたといっているのだ」
寂寞《せきばく》が来た。小次郎はふるえながら玄明をにらみつけており、玄明はその視線をさけて、酒をのみつづけた。瓶子《へいし》から盃《さかずき》につぐ酒の音と、飲む時にゴクリと鳴る咽喉《のど》の音とが、異様なくらいはっきりと聞こえた。
小次郎の胸には吹きまくるあらしがあった。そうにちがいないと断定するものと、そんなバカなことはないと否定するものとが、たえず争っていた。
「小次郎」
やがて、玄明が言った。
「なんだ」
平静を保とうとする努力のために、声はかえってふるえた。
「この上言いたくはないが、うわさにかこつけて根もないつくり話をしたと思われては心外だから、もう少しくわしく言っておく。世間では、近頃《ちかごろ》、あの女王の邸《やしき》に常平太がしげしげと行っているというている」
|わら《ヽヽ》にもすがりたい気持がホッとさせた。そんなことから出た噂か、と、思った。反駁《はんばく》しようと考えた。が、言い出す前に、残酷なことばがつづいた。
「毎夜のように、夜半《よなか》に行って、夜明けにかえるといっている」
玄明の言葉は、小次郎の心に強い毒液を注ぎこんだにひとしかった。彼の心は、痛み、うずき、悩み、のたうった。玄明の去った後、その心をおさえて、長い間、考えこんでいた。身動き一つせず、眼前一尺の空《くう》を見つめながら。
これまで見過しにして来た色々なことが、新たな意味を帯びて思い出され、その一つ毎《ごと》に胸がゆれ、はげしいうずきが走った。
しかし、二人の自分にたいする態度、とりわけ、伊予行きのことがおこった時の貞盛の友情にみちた言葉や、行くことを承知しつつも深い悲しみとなげきの色を見せた姫君の様子を思うと、口|善悪《さが》ない世間が根も葉もなく立てている噂にすぎないではないかという気もしてくる。
(おれはあんなにも二人を信頼していたのだ。人間である以上、その信頼を、そうもむざんに裏切れるはずがない)
とも考えるのだ。
けれども、そう思う下から、また別な考えが湧《わ》き動いてくる。――あの夜、貞盛は自分より先に姫君のところへ行っていたが、それは口うらを合わせるためではなかったのだろうか。また、万事貞盛がとりしきってひとりでしゃべり、姫君はほとんどものを言わなかったではないか。また、途中で姫君の表情がかわって席を立ったが、それはあまりにも|ざんこく《ヽヽヽヽ》な裏切りに心がひるんだからではなかろうかなどと、思われて来るのだ。
小次郎の心は、動揺してやまない。あらしの時にもみ立てられ、吹きなびかされ、枝や葉を吹きちぎられへし折られながら悲鳴を上げて身もだえしている繁《しげ》みのように、自分の心を観じていた。
ふと、気づいた。
(そうだ。行ってみれば、すぐわかることだ)
貞盛は毎夜半に行って夜明けにかえって来ると、玄明は言ったのだ。
このたやすいことが、どうして今まで気づかなかったろう、と、小次郎は自分ながら不思議であった。しかし、これは気づかなかったのではない。のっぴきならない証拠を見たくない気弱さが、無意識のうちに避けていたのだ。
小次郎は、身支度して、家を出た。郎党共に気づかれないように、そっと着がえをし、こっそり庭から出た。悪事でも働くように卑屈になっている心が、われながらあわれでもあれば、厭《いと》わしくもあった。
しばらくの後、姫君の家の階段《きざはし》の下に立っていたが、シンとしずまっている屋内からかすかな灯影《ほかげ》が一筋漏れているのを見ると、今更のように夜のふけているのが感ぜられ、きおいこんだ気は忽《たちま》ちくじけた。
(この深夜に、どうして訪《おとな》いを入れることが出来よう)
やや久しくたたずんでいたが、すごすごと足をめぐらした。しかし、帰ってしまうことも出来なかった。以前|寝殿《しんでん》のあったところに行き、雑草の中に散らばっている礎石《そせき》の一つに腰をおろした。
長いため息をつき、姫君の住居の方に視線を向けた。ここからは灯影は見えない。夜の暗《やみ》の下に黒くおししずまって、深い熟睡の中にあるように見える。
(あの下には、姫君と乳母だけしかいない。太郎なぞがいるものか)
さわやかな風が胸を吹きぬけて、しだいに心がしずまる思いであった。
四半時《しはんとき》(三十分)も経《た》ったろうか、とつぜん、小次郎は身ぶるいした。遠いところに、人の足音がしたのであった。
この足音がこの小路《こうじ》に入って来、さらにこの邸に入って来るか来ないかで決するのだ。
小次郎は、呼吸をひそめ、耳を凝らし、祈るような心で、足音の遠ざかってくれることを願った。
しかし、足音はしだいに近づき、ついに小路に入った。全身につめたい汗が浮き、呼吸があえいで来た。
この上は、邸の前を素通りしてくれることだ。彼はその方に目を凝らした。数年前のあらしに築垣《ついじ》が吹きくずされてしまってからは、小路との間には目をさえぎるものはなんにもないのだ。
やがて、隣り邸の築垣のはずれに、ぽかりと黒い人影が浮かび上った。二人。一人はおとなであり、一人は子供のようであった。
小次郎は、この頃貞盛が公家《くげ》風を学んで、しのびの外出には郎党や下人を連れずに、小《こ》舎人童《とねりわらわ》を供としていることを知っているが、それでも望みを捨てなかった。
(太郎ではなかろう。どこかのお邸の女房衆に通いわたられる公家衆にちがいない)
が、その二つの黒い影は、容赦なく邸内に入って来て、雑草の中に踏みわけられた細道をたどりはじめた。
ついに小次郎は、それが貞盛主従であることを、はっきりと見た。全身の血は逆流したが、身動き一つしなかった。礎石の一部に化してしまったかと疑われるほど動かない姿であった。
その小次郎の前を、貞盛は悠々と通って、家にたどりつき、階段の下に立ちどまった。そして、何やら童にささやくと、そのまま階段を上って、屋内の暗に消えた。案内も乞《こ》わないのだ。
童は足をかえした。口笛を吹きながら、来た道を逆に広い敷地内を横切り、小路に出、立去った。一旦《いつたん》帰宅して、夜の明ける頃、迎えに来るためにちがいなかった。
もう疑う余地はない。玄明の言ったことは事実だったのだ。はげしい怒りが胸を焼いていた。ギリギリと歯をかみ鳴らした。刀をぬきはなって、走り出そうとした。
しかし、走り出そうとしただけであった。その刀をなげうつと、両手に顔を蔽《おお》うて、礎石の上にかがみこんだ。声をあげて泣きたかったが、それはこらえた。熱湯のような涙が掌心《たなそこ》にあふれ、指の間をしたたった。
いく時間か過ぎて、まだ世間は真暗だが、高い空で早くも暁の光を感じとる星が性急にまたたきはじめた頃、とつぜん、真上の空を、鳥が一声鋭く啼《な》いてすぎ、ずっと遠くなって、また啼いた。ほととぎすであった。
小次郎は顔を上げてその方を見た。この鳥の別名を、唐土《もろこし》で不如帰といい、その啼声を『帰るにしかず』と聞きなしているとは、もちろん、小次郎は知らない。けれども、つぶやいた。
「坂東にかえろう」
涙はもうかわいていた。怒りももうなかった。功名の念も、愛恋の情も、なかった。寂寞と、厭人《えんじん》感と、望郷の思いばかりが、切なく胸にみちていた。
更生
梅雨に入って間もなく、広い坂東の平野が農事に忙殺され切っている頃、小次郎は豊田にかえりついた。
なんの予告もない突然の帰国であったので、母も、弟等も、郎党等も、喜びよりもむしろ驚きを以《もつ》て迎えた。どうしたのだ、と、口々にたずねた。
「京はイヤな所だ。もうどこへも行かぬ。坂東が一番よい」
とだけ、小次郎は答えた。
なにか不愉快なことがあったらしいとは、皆考えたが、言いたくない心を露骨に見せているので、押しては聞けなかった。
母は胸をいためた。供をしてかえって来た郎党等を呼んで、そっと問いただしたが、はっきりしたことは聞けなかった。
「伊予の海賊退治に行かしゃることになって、ずいぶん勇み立って、用意万端ほぼ出来上っていたのでございましたが、急にお考えが変ったのでございます。
伊予にいらっしゃれば、新国守の殿のお覚えもめでたい上に、その国の掾《じよう》の殿という方とは、かねて御懇意でもありますので、ずいぶん目ざましいお手柄《てがら》をお立てになるは必定で、われわれも張り切っていましたので、心のこりなことでありました。
しかし、ほかならぬ御帰国というのでありますから、心のこりも何のその、なんの文句も申さず、伊予行きの支度をそっくり帰国にふり向けました次第で」
と、いうだけであった。
母の目に明らかにわかるのは、小次郎の風貌《ふうぼう》が国を出る時とまるでちがってきたことだ。
あの頃の、まだ少年らしいやわらかさのなごりは、顔立ちにも、からだつきにも見えない。すべての線がきっぱりと力強く角《かど》立っている。眉《まゆ》は濃くなり、あごにも頬《ほお》にも濃い剃《そ》りあとが青々となり、目は爛《らん》とした強いかがやきになっている。口数の少ないのは子供の時からだが、一層|寡黙《かもく》になっているようだ。
要するに、強く、たくましく、力にみちた青年となっているが、全体として沈鬱《ちんうつ》なものが蔽《おお》うている。
母親の愛情にとぎすまされた目で見る時、その沈鬱は、心に痛むところがあるのを必死にこらえている表情のようにも、なにか異常に強い決意を秘めているようにも見える。
(なにかあったにちがいない)
とにかくも、三年数カ月ぶりの帰国だ。驚きは驚きとし、心配は心配として、母はしだいに嬉《うれ》しくなった。何はともあれ、帰国祝いをしなければならないと思った。
しかし、小次郎は首を振った。
「田植えがすんでからにいたしましょう」
きっぱり言って、帰国の翌日には、野良《のら》支度して、田に出た。
働くこと! 毎日、暗いうちから、暗くなる頃まで、下人共や奴隷《どれい》共をさしずして、憑《つ》かれたような懸命な働きぶりであった。
梅雨が明け、目のまわるようであった田植時が過ぎると、小次郎は、一族のおじ達や、重立った国府の役人や、附近の豪族等に招待状を発した。
国府役人や豪族等への招待状には、
「長らく京に行っていたが、この度帰国したから心祝いのため薄酒を献じたい」
というだけのものであったが、おじ達へのには、
「上洛《じようらく》前に少しばかりお話しておいた所領のことについて、この機会にきまりをつけたいと思うから、ぜひとも御参会を願いたい」
という意味の『追って書き』があった。
彼は、この地方の名望家達の前で一挙に黒白を明らかにしたいと思ったのであった。
招待を受けた人々のほとんど全部が、参会の返事をくれた。おじ達も皆行きたいといって来た。
数年前の父の葬儀の時のように、泊りがけの人々のために宿舎や厩舎《きゆうしや》を用意したり、肴《さかな》を集めるために漁《すなど》りしたり、山狩りしたりして、この時代のこの地方の豪族特有の大がかりな準備が進められた。
いよいよその日になった。よく晴れた、暑い日であった。正午頃には、もう客人達は集まりはじめた。それぞれに、多きは十四五人、少なきも五六人の従者を召しつれて、騎馬で来るのである。広い館《やかた》もごった返した。
こうした饗応《きようおう》には『尊者《そんじや》』と呼ぶ正賓《せいひん》を定めて、これを中心にして宴を進行させるのが、当時の習わしだ。小次郎は、その尊者に、三弟の四郎|将平《まさひら》の学問の師である菅原景行卿《すがわらかげゆききよう》になってもらうつもりでいた。
その景行卿も、やがて到着した。
京で別れて以来の対面だ。景行卿はなつかしげであった。
「おお、おお、かえってみえたな。御健勝でめでたい。まろも、当地へまいって、かえって達者になった。あちらにいる時は、なにやかやと微恙《びよう》に悩まされたものだが、当地の風気《ふうき》が合うのか、風邪一つひかぬ」
それでも、京をなつかしく思うかして、小野道風の近況を一通り聞くと、色々と京のことを聞きたがった。
小次郎は、尊者の役を引受けてもらいたいと頼んだ。
「まろが? そりゃいかん。国府の守《こう》の殿もお見えになるというし、おじ御達もお見えになるのだろう。旅人さながらのまろなどふさわしくない」
と、景行卿は|けんそん《ヽヽヽヽ》した。
小次郎は、おしかえして頼んだ。
「官人《つかさびと》というものがどういうものか、拙者はあちらでとくと見てまいりました。またおじ共にたいしては、今日は思う所がありまして、平の客人《まろうど》となってもらう必要があるのでございます。卿《きみ》は神と祀《いわ》れておわす道真《みちざね》公のまさしき三郎君であります。卿《きみ》をおいて尊者となり給《たも》う方はありません。まげて、お引受け下さいますよう」
なお押問答がくりかえされて、ついに景行卿は引受けた。
小次郎は、その景行卿の相手にかかりきりで、あとの賓客等の応対は、弟等や親しい知人等にまかせておいたが、ふと、四郎がやって来た。景行に会釈《えしやく》してから、
「兄上、ちょっと」
と、目くばせした。あちらに用事があるという目くばせであった。
中座をわびて母屋《おもや》の方に退《さが》って行く中《うち》、四郎は言う。
「石田の伯父上から使いがまいっているのでございます」
「使い? 不参とでもいうのか」
果して、という気がした。
「そうでございます」
「誰が来た?」
「侘田《わびた》ノ真樹《まき》が代理でまいりました。伯父上には、昨夜《ゆうべ》から腹痛だそうでございます」
いそいで行きかかると、前方から急ぎ足に来る人物があった。
年頃三十、色の浅黒い篤実《とくじつ》そうな風貌の男だ。
これは多治《たじ》ノ経明《つねあき》といって父祖代々、伊勢の大神宮領である生羽《いくは》の御厨《みくりや》の別当をつとめている人物である。同じ豊田|郡《ごおり》の住人である所から、父の代から小次郎の家と親しく、今日も主《あるじ》振りを頼まれているのだ。
「小次郎、こまったことになったぞ。上総《かずさ》の伯父御も不参といって来たぞ」
といった。
「これも腹痛か」
「いや、これは夏風邪を引きこまれたという」
にやにや笑っていた。おじ等が小次郎の家の領地をごまかしていることを知っているのであった。
「誰が来たか」
「蓮沼《はすぬま》ノ五郎と名のっていた。郎党の一人だという」
小次郎はきびしい顔になっていた。しめし合わせているのだと思った。
この分では、水守《みもり》の良正《よしまさ》叔父も来ないな、と、思った。
二人の郎党等は、対面所にならんで坐《すわ》って、邸内のごったがえすにぎわいを、ぼんやりとながめていたが、小次郎の姿を見ると、平伏した。
先《ま》ず、侘田ノ真樹が、蝦夷《えぞ》じみたちぢれひげの口の中から、くぐもるような声で言う。
「この度は、数年の御滞京から、御無事にて御帰国あそばされ、およろこび申し上げます。主人もいたく喜びまして、本日の参会を大変楽しみにしておりましたが、食あたりでございましょうか、昨夜よりはげしい腹痛を訴えまして、残念ながら不参のやむなきに立ちいたりましたため、不肖ながらてまえ代理としてまかり出ました。ここに持参いたしましたは、主人より持たせましたものでございます。御|祝儀《しゆうぎ》のしるしまででございます。御受納願い上げます」
やや不明瞭《ふめいりよう》な声ながら、ものなれた調子であった。三方《さんぼう》にのせた矢羽《やばね》の包みと砂金包みとをさし出した。
小次郎は答えないで、黙って上総の伯父の使者の方を向いた。言え、と、いうように、あごをしゃくった。
この口上も同じであった。昨夜からの腹痛が数日前からの風邪とかわっているだけであった。これは、巻絹と砂金包みとをさし出した。
はじめて小次郎は口をひらいた。
「両人とも、暑いに大儀であった。伯父上方によろしく申してくれるよう。
それから特に忘れず申し伝えてもらいたい。先日の書状にも書いておいたが、先年申し入れたことについて、近日中、小次郎が参上いたしますと。
あちらに行って、席についてくれ。間もなくはじめる」
きっぱりとした調子であった。来たくなければ来んでもよい。こちらから押しかけて行って|らち《ヽヽ》を開けるまで、と、決意していた。
間もなく、祝宴がはじまった。賓客は総数で五十人にもあまるほどであったが、主人の一族としては、一人もいない。賓客達には不審であったらしい。ボソボソとささやき合っている者もあった。
小次郎は、先ずあいさつした。
(都の手ぶりも覚えたいし、また、相当な官位を得たいと思って、上京したのであるが、坂東の野人として生い育った身には、なにもかも失敗におわった。野人は野人として、野にこそ居るべけれであると、覚悟がついたので、帰って来た。今後は一筋に父祖の業をついで、坂東にいるつもりであるから、よろしく願う)
という意味のことを、ごく素直に物語ったあと、おじ等の不参についても触れた。
「……おりあしく、おじ等は一人のこらず病気その他のさしつかえのため、参会しておりませんが、それぞれ代理の者をつかわしておりますれば、この者共をその主人と思召《おぼしめ》して、心おきなく召上っていただきたく存じます」
この言いまわしは一層異様な感じを人々にあたえた。とりわけ、『一人のこらず』という言い方に、小次郎の平らかでない心がこめられているように感ぜられた。
しかし、小次郎の様子には全然それらしいところは見えなかった。たえず愛想のよい微笑を含み、今日の宴を出来るだけ楽しいものにしようと心をくだいているようであった。
坂東人にはあるまじきことだ。誇りを重んじ、恥を重んじ、目には目を、歯には歯をと、恩怨《おんえん》共に火のようにはげしいのが、坂東の気風なのだ。
人々は首をひねった。少年時代から父の任地である陸奥《むつ》の胆沢《いさわ》城に行き、父の死後故郷にかえっても、せいぜい半年くらいで、また京に行ってしまった小次郎であるから、人々はその人物をよく知らない。
「少しまぬるい性質なのではないか」
と、考える者があった。
せっかく京に上りながら、目的の官位|貰《もら》いがうまく行かなかったことも、この推察を助けた。
当然のこととして、同時に上った貞盛《さだもり》のことが考えられた。
「あれは除目毎《じもくごと》に昇進して、今ではもう左馬寮《さめりよう》の大允《だいじよう》じゃというのに」
けれども、宴は調子よく運んで無事におわった。
二三日後――
小次郎はおじ等の歴訪にかかり、先ず上総の良兼《よしかね》の館に向った。
前《さき》の上総介《かずさのすけ》良兼の館は、今の山武《さんぶ》郡横芝町屋形にあった。九十九里ケ浜の長汀《ちようてい》が弓なりに反った真中あたりに相当広範囲にわたって沼沢地帯があるが、その東北のはずれに、この沼沢を半面の守りにし、前面に高い土居《どい》と濠《ほり》とをめぐらして、用心堅固な構築であった。
豊田からここまで三十里に近い。途中三泊して、四日目の午頃《ひるごろ》、館を小半里向うに望む地点に達した。
このへんは、もう片側は沼沢になっている。岸近い所は一面の蓮《はす》が蔽うて、紅白の花が点々と咲いていた。
「あれだったな」
小次郎は、はるかなかなたに、沼に臨んで壮大な構えを見せている館を望んで言った。
七つ八つの頃に、父に連れられて一ぺん来たことがあるだけで、ほとんど記憶というほどのものがなかったが、来てみると、やはり思い出した。
「あれでございます。ずっと昔このあたりを支配しておりました国造《くにのみやつこ》の居宅のあとを修築して営まれたものであると、うかがったことがございます」
と、郎党がこたえた。
一休みすることになって、沼の岸べに、巨《おお》きなケヤキが数本、幹をならべている樹蔭《こかげ》に馬を寄せた。
沼を蔽うて密生している蓮や菱《ひし》の葉をゆるやかにゆりうごかしつつ、すずしい微風がたえずわたって来て、忽《たちま》ち汗がひいた。
「いい風だ。生きかえったような」
皆、こう言い合って、割籠《わりご》をひらいて、昼食《ちゆうじき》をしたためていると、どこやらで、唄《うた》をうたう声が聞こえてきた。
愛《は》しけやし
君が家居《いへゐ》は
青垣《あをがき》の
山のかなたぞ
そが路《みち》は
雲深く閉ぢ
霧うづみたり
鳥がなし
通ふすべもがな
通ふすべもがな
若々しく張り切った女の声であった。艶《えん》にたおやかにうたいおわると、はじけかえるように数人の笑い声がおこった。これも若い女声《じよせい》であった。
小次郎と郎党等は、顔を見合わせて、にこりと笑った。それは向うの森かげのあたりのようであった。耳をすましていると、また唄い出した。別な声であった。ずっと近くなっていた。
森かげを
吹き来る風の
愛《かな》しもよ
昨夜《ようべ》の君が
袖《そで》の香に似る
ドッとまたはなやかな笑いがおこった。
このあたりの乙女等がさそい合って、草刈りにか、野遊びにか来て、その年頃の娘らしく浮かれ切っているのだと思われた。
一層近づいて、三度、唄がはじまった。また別な声だ。
隠《こも》り沼《ぬ》に
蓴菜《ぬなは》とり
菰枕《こもまくら》
高島山に
茸《たけ》とるは
なにがためぞも
隠《かく》り恋ひ
かなしき君に
御饗《みあへ》せむため
ドッと有頂天な笑いが、また爆発した時、森のかげから、一|隻《せき》の小舟が姿をあらわした。
娘が五六人乗っていた。皆、美しい衣《きぬ》を着て、器量のよい娘達のようであった。とうてい普通の民家のものではない。単なる舟遊びではなく、蓴菜《ぬなわ》でもとりに来たのであろうか、一人が艫《とも》に立って艪《ろ》をおしているほかは、皆長い柄《え》のついた鎌《かま》をたずさえていた。
にぎやかで、はなやかで、楽しげなこの群に、見とれている者があるとも知らず、娘等は、紅白の花をぽかりぽかりと咲かせている青い蓮葉の中に舟を乗り入れ、岸近くよって来る。
娘等は、今は合唱になっている。
手枕《たまくら》の
手纏《たまき》の玉の
たゆたひに
しづ心なく
君を待つかも
これも恋の歌だ。すみとおり、ふるえる声の合唱が、待つ宵《よい》の乙女のせつない恋心を、美しく、艶に、はなやかなものにかえて、湖面一ぱいにひろげて、娘等はおのれの声に聞きほれつつあるようであった。
娘等は、うたいつつ、棹《さお》をあやつり、せっせと鎌を動かして、水中から蓴菜の茎をたぐり上げては、その先端についている蓴菜を採取している。強い日の光が水にぬれた蓮を光らせ、鎌の柄を光らせ、鎌の刃をきらめかす。すんなりのびた腕は上膊《じようはく》部まであらわになって、真白にかがやきながら、いとも機敏に採取物をよりわけている。
小次郎等は、うっとりとなった。身動き一つせず息をひそめ、目を凝らしていたが、ふと、なにげなくこちらに目を向けた娘の一人が気づいて、何やら叫んだ。娘等は一斉《いつせい》にこちらを見た。
好色な下界の男に水浴の場を見つけられた天女のさわぎがおこった。娘等は一時に魂消《たまぎ》る叫びを上げ、笑い声をまき上らせ、舟を漕《こ》ぎかえそうとしたが、とつぜん、鋭い声で一人がなにやら叫ぶと、逃げるのをやめた。のみならず、|へさき《ヽヽヽ》をかえして、ゆっくりとこちらに近づいて来た。
少し近づくと、中ほどに位置していた娘が、扇をあげてさしまねきつつ呼ばわった。
「のうのう、そこにおわす旅の人々、いずれよりおわし、いずれへおわす方々ぞ」
現実ばなれした重々しい声づかいであった。細おもての、彫の深い、高雅で美しい顔立ちだが、仮面《めん》でもかぶっているように堅い表情をしている。
こちらはあっけにとられて、ただ見つめていた。
その間に、舟はますます近づいて、岸についた。娘は立上って、白い手で裾《すそ》をとると、ひらりとおどって岸に立った。すばやくて、軽やかで、鳥か蝶《ちよう》かなんぞのようであった。
つづいて、あとの娘等も岸におどり上り、小次郎主従は、たちまちはなやかな女群の中にとりこめられた。
最初に声をかけた娘は小次郎の前に立って、強い目でにらんだ。
「なぜ返事をしやらぬ!」
鋭い声で叱咤《しつた》した。
小次郎は立上って、娘と直面して立った。今の小次郎は、誠実なあまりに内気で引っこみ思案であった、以前の小次郎ではない。にがい経験は、それが自分にはなんのプラスをももたらさないことを教えた。なにごとにも積極的に出て行こうと、強い決意をしているのだ。娘の美しい堅い顔ににこりと笑いかけた。
「おことらは?」
娘はきびしい目で小次郎を見かえしていたが、ふとその目に揺れるような表情が点じ、つづいて紅《あか》い蕾《つぼみ》のような唇《くちびる》がしだいにせり出して来、全身がさざ波立ってふるえはじめた。くすぐったくてたまらないのをこらえている表情に似ていた。
(オヤ?)
と、小次郎が不審がった時、花の咲きくずれるようであった。プッと咲き出したかと思うと、忽ち全身的な笑いになっていた。
「ホッホホホホホ」
はじけかえる明るい笑いとともに、娘はほとんど身もだえした。笑いやもうとしながらも、出来ないで苦しがっている様子であった。
小次郎は、あきれながらも、何か心が明るく温かくなって、しぜんに微笑していた。
娘は、やっと笑いやんだ。そして、なおこみ上げて来る笑いを懸命にこらえながら、口をひらいた。
「豊田の小次郎様ね、殿は」
太い棒であたまのてッぺんをなぐられた感じであった。
「えッ!」
叫んで、まじまじと見直した。
「お見忘れ!」
娘は、小首をかしげた。
「……おお、おお、おお、そなた、……そうだ、良子どのではないか」
年月の底に沈んでいた記憶がやっと浮かび上って来た。良兼伯父の愛娘《まなむすめ》であった。どこやらに、その頃の俤《おもかげ》があることはあるが、それにしても、こんなに変ろうとは!
京へ行く前年の初冬、常陸《ひたち》の府中の国香伯父の館《やかた》で会ったのが、会いはじめの会いじまいであったが、あの頃の良子は、生き生きとした生気にあふれてはいたが、いたずらに目ばかり大きくて、首筋も、手足も痩《や》せこけて、色が黒くてなんとなく肢《あし》の長い黒い昆虫《こんちゆう》めいた感じの、どちらかと言えば醜い娘であった。
その時からやっと四年近くというのに、なんという驚くべき変化であろう。毛虫が蝶になったほどの変り方だ。黒かった肌《はだ》えは新鮮な血色の匂《にお》う、白い艶《つや》やかさとなり、からだにはしっとりと肉がつき、見つめているとうっとりなってしまうほどの美しさだ。
「頼りない従兄《にい》様! やっと思い出していただけましたのね」
すねるような、からかうような表情だ。
「すまん、そなたがこんなに美しくなろうとは思わなかったのでね」
小次郎もからかった。しかし、正直なところであった。
良子はうれしげに笑ったが、すぐまじめな顔になって、
「そう、あたし、美しい?」
と、問いかえした。
「美しい。大へん美しい。うっとりなるくらいだ」
「ほんとのことを言って」
「ほんとに美しい」
「ウソじゃないのね」
「ウソじゃない」
「ああうれしい。従兄さまも立派になりました」
「お世辞を言うな」
「ほんとです。大へん男らしく、きっぱりした様子になられました。ひげのあとが青々としているところなぞ、とりわけお立派です。ほんとです。ほんとです。ウソじゃありません」
|むき《ヽヽ》なのである。
良子は、娘等の同意をもとめた。
「ねえ、みんな、この人、立派な殿御ぶりだとは思わない?」
「そうです。そうです。大へんお立派です」
花のゆれるようにどよめく娘等の中から一斉におこる声が、唱《うた》うようにリズミカルであった。集中している視線も讃美《さんび》にみちていた。
小次郎は紅くなりながらも、いい気持であった。しかし、そのあとが悪かった。
「小次郎従兄さまは京《みやこ》でうまく行かなかったんですってね」
と、良子が言ったのだ。
小次郎はほほえんだ。
「そうだ。うまく行かなかった」
と答えた。屁《へ》とも思っていない心を見せたつもりであった。しかし、良子が重ねて、
「石田の従兄さまは大へんな御出世なんですってね」
と、言うと、胸が暗くなった。良子の顔にある微笑も、意地悪いものをたたえているように思えた。
「あれは京向きに出来た人間だ。おれは骨髄からの坂東|人《びと》だ」
むっつりした顔で答えた時、森の中から飛び立ったものがあった。白鷺《しらさぎ》であった。強い真昼の陽《ひ》を受けて、時々、目を射るばかりに銀色にかがやきながら、湖上を横に飛んで行く。
小次郎は弓をとりなおし、すばやく矢をつがえた。無造作に引きしぼり、しばらく鳥を追って鏃《やじり》をうつした後、切って放った。鸛《こう》の鳥の風切羽《かざきりば》をはいだ矢は、鋭い音を立て、矢竹を光らせ、糸を引くようにのびて行ったが、あやまたずあたった。
一瞬にして、白鷺は大きくひろげた翼をとじて丸くなり、石をおとすように、はるかにへだたった水面に落下した。
しぶきが立ち、波紋がひろがり、キラキラと陽を照りかえした。
「おわかりか。これが坂東の男というもの」
にこりと笑って、小次郎は良子を見た。
良子はおどり上った。
「見事、見事、見事」
さけびながら、手をたたいた。
ほかの娘等も、一斉に拍手し、どよめき、ほめ立てた。
そのさわぎがしずまると、良子は、
「さあ、お行きなさい。父はお出《い》でを待っています。あとでまたお会いしましょう。あたしは、お従兄様方をおもてなしするための料《しろ》を集めに来ているのです。もっと集めなければなりませんから」
と言って、娘等をひきいて、さっさと舟にもどって行った。
このにぎやかではなやかな一行と別れて馬を駆る小次郎の胸は、たえず明るいものに揺れていた。
「大きくなったものだ、美しくなったものだ……」
と、つぶやきつづけていた。
良兼伯父が自分の来訪を待っているというのが、不思議ではあった。用向きから言えば、歓迎せらるべき客ではないはずなのだ。しかし、今はそれも気にならない。なにか明るく、あたたかく、ゆたかなものが、春の潮《うしお》のように胸にたゆとうていた。
百日紅《さるすべり》
良兼が小次郎の来るのを待ちこがれていたとはウソではないらしかった。水草の浮いた館の濠《ほり》に架した橋にさしかかると、早くも下人共が門を走り出して来た。鄭重《ていちよう》な式体《しきたい》して言う。
「豊田の小次郎の殿でいらっしゃいましょうか」
そうだと答えると、
「お待ち申していました」
と、立寄って馬の口をとった。
小次郎にだけでなく、郎党共にまでそうなのだ。
導かれて、橋をわたり、門を入ると、男の子供が三人走り出して来た。十二三をかしらにして七つ八つくらいの可愛《かわい》らしい子供等だ。服装から見て、はじめて見る従弟《いとこ》等であろうと思われた。
ひどく興奮して、子供らしくカン高い叫びを上げながら走り出して来たのだが、小次郎がほほえみかけつつ、馬をとめておりようとすると、ワッとさけんで、笑いながら逃げ出した。面白くてならない風だ。木立のかげにかくれてからも、子供らしく曇りない笑い声が、よく晴れた空に明るくこだまして、いつまでも聞こえていた。
良子といい、この弟等といい、幸福な家庭にのびのびと育った者の愛らしさにあふれているようだ。小次郎は、おぼえずにこりと笑った。
小次郎は、良兼にいい感じを持っていない。母や、年老いた郎党共の口からも、父の死後、小次郎の家に対して決して親切ではなかったと聞いている。また、他の伯叔父《おじ》達同様に領地をごまかしていると思っている。しかし、子供達がこんなにのびのびと育っているとすれば、案外にいい人柄《ひとがら》なのかも知れないと思った。
良兼は、みずから母屋《おもや》の入口まで迎えに出た。
「おお、おお、よく来たの、いい若者になったのう。おやじ殿の若盛りの頃《ころ》そっくりだ。たのもしいことだ。よく来た、よく来た。今日か今日かと、毎日待っていたぞよ」
と、いかにもなつかしげに、いかにも愛想よく言って、みずから洗足《すすぎ》のさしずをしたりした後、奥へみちびいた。
小次郎は、良兼の老《ふ》けようのひどいのにおどろいた。まだ五十にはならないはずなのに、髪は真白になり、特長のある長い顔には以前から多かったしわは一層多く一層深くなり、足どりなどよぼついてさえ見える。
小次郎は、この伯父が一昨年妻を死なせたことを思い出し、老の影の深くなったのはそのためであろうと思った。
前面に沼を見わたす座敷へ案内された。沼の方からたえず風が吹きこんで来て、夏知らぬ涼しさであった。
小次郎は、先《ま》ず伯母の弔《くや》みを言った。
「ありがとう。ありがとう。この年になって、連合いに先立たれるのは、なんともいたし方のないものでのう。弱ったよ。何よりも、まだ幼いものがいるじゃろう。それがふびんでのう」
目をショボつかせて答えた。いかにもあわれで、いかにも人が好《よ》げであった。
その時、バタバタと足音が近づいて来たかと思うと、座敷の入口に、さっきの子供等があらわれて、のぞきこんでいた。大きい子はそこにすわり、中の子は柱のかげからのぞきこみ、小さい子は柱によじのぼろうとしている。
「これこれ、なにをそんな所でいたずらしている。ここへ来てあいさつなさい」
良兼は、子供等を呼んだ。
子供は、てれながら、クスクス笑いながら入って来て、父から少し退《さが》って、大きい順に坐《すわ》っておじぎした。
「そちが来ると聞いてから、子供等の待ちかねようといったらなかった。母が亡《な》くなってから、皆ひとしお人なつこくなっての」
子供等の名を言って、一人一人紹介した。
上が公雅《きんまさ》、十三になるという。次が公連《きんつら》、十になるという。末が公元《きんもと》、やっと七つであるという。
皆、人なつっこく、にこにこ笑っていた。美しく、愛らしく、いい子供等のようであった。
「良子はどこへ行ったのかな。あれもずいぶん待っていたがの」
「あの人とは、ここへ来る途中、会いました。蓴菜《ぬなわ》とりに出たとて、女共と一緒に、舟に乗っておられました」
「ホウ、ホウ、そうか。そうか。そうだったな、あれはそちとすでに顔を知合っていたのであったな」
ほくほくとした表情が、ますますいい父親らしいのだ。
小次郎は、ずっと抱きつづけて来た敵意に似たものが、日にあたった蝋《ろう》のようにとけて行くのを感じたが、気をとりなおして、これはこれ、あれはあれだと、心をひきしめた。
子供等が退って行ってすぐ、用件に入った。
良兼は、小次郎の言うことを、黙って聞いていた。小首をかたむけ、一語一語うなずき、熱心な様子であった。話がすむと、おだやかな調子で答弁にかかった。
「その荘《しよう》は、その頃常陸|大掾《だいじよう》であった源ノ護《まもる》の殿へ寄贈したのだ。そうだ、そちがあの家の郎党等と喧嘩《けんか》して、陸奥《むつ》へ逃げかえった、あの時のことだ。そちの父者《ててじや》から、もみ消しのため色々な財物を郎党共に持たせてよこしたが、あの時、どうしてもうまく行かなんだら荘の三四カ所くらい贈りものにしてもよいから、そうしてくれと申して来た。
石田の伯父御が色々骨を折られたが、なかなか先方のきげんが直らんでのう。石田の伯父御もあぐねられた。
そこで、わしや水守《みもり》にも相談があった。なるべく荘には手をつけたくないというのが、石田の意見であった。わしらもまた同じ意見であった。しかし、先方はどうしてもきかぬ。今にも表沙汰《おもてざた》にして、陸奥の国府に移牒《いちよう》して、追捕《ついぶ》の手つづきを取ると、剣もほろろなけんまくだ。
千万いたし方はなかった。ついに荘四カ所をおくることにして、やっとのこと、事がすんだ。その荘じゃよ。
このことは、落着の時、陸奥へ書きおくったのだから、そちの父者はすっかり承知で、お礼の手紙なども来た。それは、石田の伯父御のところにあるはずだ」
はじめて聞くことであった。父からも聞いたことがないし、先年問題にした時も聞いていない。
ウソだと思った。ムラムラと激し上って来るものがあった。それをこらえて、小次郎は冷静に口をきいた。
「その話ははじめてうかがうことです。御記憶ちがいではありませんか」
「そんなことはない。現に、それらの荘は、前《さき》の大掾家の所有になっているのだから」
「しかし、わたくしは、先年も、そんな話はうかがっておりません。どうしてあの時うかがえなかったのでしょう」
礼儀を失わない言葉づかいではあったが、語気は鋭かった。しかし、良兼はおちついていた。
「ホウ、そうだったかの。石田の伯父御は言わなかったか。どうして言わなかったろうの。そうだ、あの時、そちは大掾の殿の三の姫に恋して、夢中であったから、聞いてもわからなかったのではないかな」
と、笑った。
かすかに赤くなりながらも、小次郎はきっぱりと言った。
「そんなことはございません。あれはあれ、これはこれです。たしかにわたくしは聞いておりません」
「そうかの。では、どういう都合であったろうのう。しかし、事実はたしかに今言った通りだよ」
小次郎はじりじりして来たが、書いたものがあるわけでもなければ、証人がいるわけでもない。所詮《しよせん》は水掛論にすぎない。どうすべきかと思案していると、良兼はにこりと笑った。
「所で、大掾の家の三の姫のことじゃが、そちは今でも思っているかな」
小次郎は、また頬《ほお》がもやついて来た。思っていないとは言えなかった。ああいうことがあってこちらに帰って来てみると、再燃する気持であった。しかし、それはわれながら虫のよすぎることだと思って、つとめてその心をおしつぶしているのだ。
小次郎は笑った。
「思ってもいたしかたはございません。官位がなければという先方の言い分でありましたのに、足掛け四年も京に行っていながら、わずかに従《じゆ》八位上|右兵衛《うひようえ》ノ少志で帰って来たのですから」
良兼は急に熱心な顔になった。
「待て、待て。真実、そちの心が変らないのなら、そう気早くあきらめることはない。わしや石田が骨折ったら、話がつかんものでもない」
あまりにも熱心になった様子が、かえって、小次郎の心に警戒を呼んだ。つめたく言い切った。
「そのことはそのことで、また日を改めてのことにいたしましょう。今度は所領のことでまいったのでありますから、それについてだけの話をうかがいたく存じます」
良兼は、興ざめた顔になった。
「そうか。しかし、荘の話は、今申した通りだ。ほかに言うべきことはない」
と、にがにがしげに言ったが、ふとまたきげんのよい顔になった。
「そうだ。このままではそちの気もすまんじゃろう。また、わしらにしても疑いをのこされては面白うない。どうじゃろう、前の大掾の殿のところへ行って、あの当時のことを聞いてみようではないか」
異様なくらい明るく生き生きとなっているのである。
前の大掾のところへ行ってみたところで、大掾が良兼と口裏を合わせておれば、何にもならないことだと、小次郎は考えた。しかし、それよりも、伯父のこのほとんど喜悦といってよいほどの興奮をどう解釈すべきであろう。
小次郎は皮肉に笑った。
「行けばはっきりなるでしょうか」
「そりゃなる。当時のことを聞くことが出来るのだから」
「当時の当事者といえば、石田の伯父上も、水守の叔父上もですが……」
「二人にも一緒に集まってもらおうでないか」
良兼はますます熱心だ。
いくら集まったところで、一つ穴のムジナなら同じだ。小次郎は内心腹を立てた。京に行っている間に、すっかり膳立《ぜんだ》てをしてしまったのだと思った。薄々は考えていたことだが、自分をすすめて京に行かしたのも、そのためだったと断定してよいと思った。
前の大掾までなかまに引入れているのだから、たくらみは周到深刻をきわめている。
(慎重を要する。軽忽《きようこつ》に出ては、ぬきさしならないことになる)
と、考えた。しかし、一方、また考えた。一応皆に会って、様子を見ておくことも、この際必要かもしれない、と。
「そんなら、まいってみましょうか」
「そうか。行くか。その方がよい。その方がよい。善は急げだ。明朝|発《た》とう」
良兼は、勇み立ってさえ見えた。
なにかある、と、小次郎はまた考えた。
間もなく、あてがわれたへやに退った。湯浴《ゆあ》みをしたり、着がえをしたりして、さっぱりなって、座敷に坐った。
ずっと西に傾いた陽が、はるかに南の山脈からなだれて来て、低い丘陵地帯になる西方の台地の稜線《りようせん》に近づき、広い沼の面はその照りかえしでまぶしいくらい金色にかがやいている。目を細めて、それを見つめている間に、小次郎はいつの間にともなく、良子のことを考えていた。
(あれはもう帰ったろうか……、帰ったろうな……、そういつまでも蓴菜とりもしているまい……)
なにか、はるかで、なにか、うっとりとした気持であったが、不意に呼びかけられた声で、それを破られた。
「お従兄《にい》さま」
ふりかえると、その良子が、へやの入口にいた。美しく化粧し、都会風の衣《きぬ》をまとって、おそろしくとりすました容儀で、しゃんとひざまずいていた。
「ヤア、これは。いつかえって見えた」
と、こちらはきさくに声をかけたが、それにはこたえず、
「あちらにおいで下さいまし。夕餉《ゆうげ》をたてまつります」
と、これまたとりすました口上であった。
「そうか。おそれいる」
小次郎は、立上った。衣紋《えもん》をかきつくろい、劣らない容態ぶった態度をつくって、へやを出る。良子は、前のままのとりすました態度で、案内に立つ。
少し行って、小次郎は良子の耳許《みみもと》にささやいた。
「どうしてそんなにとりすましているのだ。ちっとも似合わないぞ」
良子の態度は忽《たちま》ちくずれた。声を上げて笑った。
「ほんと? 似合わない?」
「似合わないね。そなたはいつも笑ってにぎやかにしているのが一番よく似合う」
「でも、そう笑ってばかりはおられません。これでかなしいことも、心配なこともあるのですからね」
「ホウ、そなたに?」
「ずいぶんね」
良子は笑いながらにらんだが、すぐまじめな顔になって、声をひそめた。
「現にお父さまは、明日お従兄様と常陸にお出《い》でになるでしょう」
「ああ、前の大掾の殿の館《やかた》に行くことになっている」
「それです」
「え?」
「お父様は、今恋をなさっているのです」
良子の声は一層低くなった。
「なに? なんだと?」
よくわからなかった。
「誰にも言っちゃだめですよ。実はね、前の大掾の家の大姫は、以前|鹿島《かしま》の大宮司《だいぐうじ》家に縁づいていなさったのですが、去年、その方がなくなられたので、近頃では実家にかえっていなさるのです。その方にお父様は胸をこがしておいでになるのです。
お父様も、お母様が亡くなられてから、なにか頼りなげで、なにかさびしげにしておられますから、そんなにお気に召した方がいらっしゃるなら、わたしは大へん結構だとは思うのですが、ずいぶん年が違うのでねえ。
お父様は来年五十だというのに、その方はやっと二十八というのですもの。大へん美しい方だと言うことですが、性質なども、気がかりでねえ。
あたしはいいの。もう大人ですもの。しかし、弟達がねえ。まだほんの子供でしょう」
耳に触れるくらいに口を近づけてささやくのだ。ことばとともに温かい呼気《こき》が耳にふれて、くすぐったかった。
小次郎は、おどろきもしたが、何よりもおかしかった。枯れ切ったようにしか見えない伯父が恋をしていると思うと、吹き出したかった。彼は、その大姫を知っている。かつて常陸の府中の通りで見て、あまり小督《おごう》に似ているので、あとをつけて、玄明《はるあき》に笑われたのだ。あの美しい姫とシワだらけな長い顔の伯父とは、およそ不釣合《ふつりあい》だ。
「それで、先方はどうなのだ。伯父上の片思いではないのか。大掾が許すだろうか」
「それは許しますとも。前《さきの》上総介《かずさのすけ》で、坂東屈指の豪族ですもの。頼りになりますもの。どんなに年が違ったって、許さないはずがないではありませんか」
「…………」
「だから、父は明日お従兄様と一緒に行くのを大へん喜んでいます。子供みたいにほくほくしていますの。あれを見ると、いっそ可愛《かわい》らしくもなりますけどねえ……」
翌日、上総を出発した小次郎と良兼とは、常陸の石田に向った。
一昨年、源ノ護は任期がつきると、かねての計画通り土着することにして、ここに館造りして移り住んだのだ。
ここは国香の館のある所で、護がここに館を営んだのも、そのすすめによったのである。
一行は、途中二泊して、三日目の昼頃《ひるごろ》、筑波山《つくばさん》の南方三里の小田《おだ》の里についた。
時分|時《どき》なので、昼食《ちゆうじき》することになって、郎党共に適当な場所をさがさせると、道から五六十歩入った岨陰《そばかげ》の祠《ほこら》をさがして来た。
背後に赤松林がつづき、横には清い泉が湧《わ》き、ものさびた祠であった。
枯枝を集めて焚火《たきび》し、乾魚を焼き、泉からくんで来た水で糒《ほしい》をほとびらかして食べ、酒なども少しのんで食事をすました時、ふと、良兼が言う。
「どうじゃろうの、水守《みもり》には使いを出して、直接石田に来てもらおうではないか」
はじめの予定では、水守に立寄って、良正をさそって同道しようということだったのだ。
水守はここから西北方一里の地点にある。いくらかは寄り道になるにしても、大したことはないのだ。
黙っていると、良兼はまた言う。
「この暑いのに、わざわざ道をまげて行くのも大儀じゃからのう」
弁解するような調子だ。
ハハア、と、小次郎は合点した。この老人は、一刻も早く目ざす護の館について、大姫に逢《あ》いたいのだと思った。
「それもそうですな。では、そういたしましょうか」
と、おかしさをこらえて答えると、
「そうしよう、そうしよう。わしが、よくわかるように、書面を書くから、それを持たせてやればよい」
良兼は、下人に命じて、荷物の中から硯《すずり》と用紙をとり出させて、サラサラとしたためる。
もったいらしくとりすました様子が、小次郎には一層おかしく、笑いをこらえるのにこまった。
手紙が出来上ると、小次郎は自分の郎党を呼んで、旨《むね》を含めてわたした。
「かしこまりました」
郎党は、すぐそちらに向って馬を走らせて行った。
およそ二時間ほどの後、一行が筑波山の西麓《せいろく》、石田から一里ほどの地点まで行った時、郎党等が、なにがしが帰ってきます、と、いった。
ふりかえってみると、先刻水守へ出した郎党が、小一町あとの道を速歩で馬を駆って、追って来るのが見えた。
早すぎる帰りが不安であった。馬をとどめて、待っていると、忽ち追いついた。
「御《お》不在《るす》だったのではないか」
郎党は馬を寄せ、下馬して、答えた。
「はい。しかし、石田に行かれたのだそうでございます」
「石田? 兄者のところへ行ったのか」
と、良兼がわきからきいた。
「はい、ついでにはそちら様へもお寄りになる由《よし》でございますが、さしあたっては前《さき》の大掾《だいじよう》の殿のお館へとて、今日早朝に行かれた由でございます」
小次郎は心をひきしめた。折も折、良正が源ノ護《まもる》の館に行っているのをどう解釈すればよいか?
国香は護にすすめて、その館を自分の根拠地である石田に営ませるほど親密なのであり、良兼は護の長女に恋しているというし、今また良正はどんな用事か知らないが、これを訪問に行ったというし、皆それぞれに深い親しさを持っているわけだ。
(たくらみは深い)
との感が、ますます切であった。
小次郎は、良兼の表情の変化に注意をとぎすました。しかし、良兼の様子には、べつだんの変化はなかった。
「おお、そうか。それは好都合だ」
と、郎党にこたえておいて、小次郎の方を向いた。
「急ぐことにしようよ。水守が先方を出ないうちに行きついた方が面倒がないからの」
小一時間の後、一行は石田へついた。
源ノ護の館は、国香の館の前を過ぎて二三町西方にある。
「そなた、先に行っているがよい。わしは兄者をさそって、すぐ追いつくから」
国香の館の前に来た時、良兼はそう言った。
「てまえもまいりましょう。それではあまりですから」
と、小次郎が言ったが、良兼は手を振った。
「かまわん、かまわん。兄者にはわしからよく申しておく」
打ち合わせをするつもりと、小次郎は見た。しかし、一緒に入ってみたところで、阻止することは出来ない。用を設けて座をはずして相談されればしかたはないのだ。
(いくらでも打ち合わせするがよかろう。おれは決してだまされないぞ!)
と、思った。
「そうですか。それでは、てまえは先にまいります」
「ウン、ウン、すぐ追いつく」
良兼にわかれて、進んだ。
目ざす源ノ護の館は、鬱然《うつぜん》たる夏山を持った小高い台地が尽きて、平野に移ろうとする位置に、西向きに建っていた。ようやく勢いがおとろえて、やや赤みを帯びた陽《ひ》が棟にイチハツを繁《しげ》らした門を正面から照らしていた。塀《へい》の内側に花ざかりの大きな百日紅《さるすべり》の木があり、長い枝を門の上にのばし、紅《あか》い花びらが門の屋根にも、門前の土にも散りしいていた。
小次郎等の近づくのを見ると、門内から、郎党風の若い男が出て来て、門前の花びらの上にひざまずいた。小次郎は、馬を下り、自らその前に立った。
「これは、隣国|下総《しもうさ》豊田の住人、平ノ小次郎|将門《まさかど》でありますが、いささか、前の大掾の殿に用事があって、伯父の国香、良兼とともに推参いたしました。伯父共は、追っつけまいることになっていますが、拙者だけ一足先にまいりました。おとりつぎ下さい」
「かしこまりました。しばらくお待ち下さい」
郎党はうやうやしくおじぎして、門内に入った。その姿が、門内を十二三間も向うに行った頃、先刻水守に使いに出した郎党が、小次郎の側《そば》に寄った。
「ちょっと申し上げておきたいことがございます」
郎党の声は低い。他聞をはばかる風だ。
「なんだ」
と、小次郎も小声になった。四五歩、供の者共から遠ざかった。
「水守の殿が、当家をお訪ねになった用件について、あの館の近くの百姓から聞いて来たことがございます」
「…………」
「水守の殿は、この頃三日に上げず、当家を御訪問である由でありますが、それは当家の二の姫にひかれてのことであります由」
「なんだと?」
「てまえにそう教えてくれたのは、水守の長《おさ》百姓の一人で、かねててまえのよく知っている者でございますが、良正の殿はもう大へんなのぼせようでおわしますとか」
郎党の生真面目《きまじめ》の顔には、ほんの少し笑いのかげが見えかけたが、小次郎が真剣な様子をしているので、それはすぐ消えた。
「当家の二の姫と申すと、いくつだ? 二十四五にはなっているだろう。まだ嫁がないでいるのか」
「はい。武蔵《むさし》三田の同族源ノ備《そなう》の殿と縁談がととのっていましたが、先年、備の殿が、狩に行って怪我《けが》されたのがもとで急死されましたので、そのまま家におられるのであります。噂《うわさ》によりますと、前の大掾の殿は、かえってそれをよろこんでおられますとか」
「…………」
「つまり、坂東に根を下ろされるについて、三田の故殿《ことの》などより羽ぶりのよい、たとえば平氏一門の方々のような豪族方と縁組みして、御自分の根をかたくしたいとの意でおられるらしいのであります」
「それにしても、水守には叔母御がおわすではないか。うまく行くかな」
一夫一婦の制度は、当時まだ確立されていない。同時に数人の妻のあるのは、そうめずらしくないことであった。しかし、前の大掾ほどの人が、もう老人といってよいほどの良正に、しかも嫡妻《むかいめ》のあるのに、娘をくれようとは思われないのだ。
「ところが、当家ではくれる腹になっておわすらしいのであります」
「ホウ」
「その長百姓は申しておりました。この色事は、はじめはうちの殿から出たのではない。前の大掾の殿が|わな《ヽヽ》をもうけて、うちの殿をさそいこんだのだと」
この姫を、小次郎はまだ一度も見たことがない。しかし、あの姉の妹であり、あの妹の姉なら、美しいにちがいないと思った。
良兼伯父といい、良正叔父といい、何ということだ、と、思った時、おかしさがこみ上げて来た。
「ここも老いらくの恋か。おさかんなことだな」
と、笑いながら、小次郎が言うと、郎党も微笑した。
時々思い出したように花びらを散らし、夕方近い陽に照らされて、ただれるように紅い百日紅を見ながら、小次郎は奇妙な憂鬱感にとらわれた。
この館を中心に、良兼、良正、そして自分まで、つまり坂東平氏一族が恋情と物慾《ぶつよく》とでからみ合っている姿が、なんともいえずあさましいものに考えられるのであった。
当館の郎党が出て来た。また大地にひざまずいて言う。
「お通り下さい。おりよく、水守の叔父の殿もお見えでございます」
「造作《ぞうさ》をかける」
導かれるままに、小次郎の一行は門を入った。
館の内部は、外から見た以上に宏壮《こうそう》であった。陰森たる樹林があり、池泉があり、その間に各種の建物があった。京の公家邸《くげやしき》と坂東の豪族館の風とを折衷した結構に見えた。一期ぐらいの任期で、これほどの富をつくり上げるには、よほどの努力と苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》をしたに違いないのであった。京で官人《つかさびと》社会の内幕を見て来た小次郎には、それがすぐにわかるのであった。
寝殿の廂《ひさし》の間に通されて、しばらく待たされた。
夕陽のあたっている広い南庭はきれいに清掃され、はるかに向うに見える池泉や中の島あたりの樹木も、よく手入れがとどいている。京ならば三公か、それに近い権勢をもった上流|公卿《くぎよう》でなければこうは行かない。
(末々の王族や下級公家達が、好んで地方官となって行きたがるはずだ)
と、思った。
そのうち、ふと、小次郎は、当家のどこかに小督《おごう》がいるはずだと思った。
二人がかつて逢った筑波山は、一里のかなたにあるが、山が高いため、眉《まゆ》にせまるくらい間近く見える。
胸が波立って来た。彼は、目の及ぶかぎりの邸内を見わたした。
こうした邸の姫君の住んでいる場所はきまっている。東西の対《たい》の屋《や》か、北の対の屋である。北の対の屋は、この建物の裏手になっているから見えないが、東西のは、つい目の前に見える。
夕陽を受けて、いぶした金のように深い艶《つや》をたたえた檜皮葺《ひわだぶ》きの屋根の下に、簀子《すのこ》の勾欄《こうらん》や、その内側の蔀《しとみ》などを見せて、こんもりとしずまっている。
(あの下にいるかも知れないのだ)
と思った。
あの夜見せた美しくしなやかな肢体《したい》や、はげしい媚態《びたい》が、まざまざと思い出され、胸がうずいた。
それはほとんど慾情に似ていた。彼ははずみ上って来る呼吸をおさえて、左右の対の屋をかわるがわる見ていた。
「ヤア、これはお待たせいたしましたな」
ふと、うしろに声が聞こえて、主人が入って来た。
依然として、せいが高く、長い顔をし、長いあごひげを生やしていた。ただ、そのあごひげが胡麻塩《ごましお》になり、顔にしわがふえているのが以前とちがっていた。
小次郎は、席を退《さが》って、式体《しきたい》した。
「おとりつぎにまで申し入れました。豊田の小次郎でございます」
「存じおる。そなた様とは、以前、一度お会いしたことがありましたな」
長い顔に微笑があった。以前逢ったとは、貞盛《さだもり》の教えにしたがって、小督のところに呼ばい渡ろうとしたその夜だったのだ。
小次郎は、赤くなった。
「そなた様は、あれから京に上っておいでだと聞いていましたが、見事に成人なされましたの。先《ま》ずはおすこやかでおめでたい」
長いあごひげの先をさらりさらりと指先でもみながら、護のことばは愛想がよいが、目つきは注意深い。この年頃の男がはじめて見る若い男に対する時の値ぶみするような目つきだ。
「あの節は失礼いたしました。みこともお変りもなく、およろこび申し上げます。京に上っておりましたが、不調法者のこととて、よろず不如意《ふによい》で、つい一月ほど前に舞いもどりました……」
ここまで言って、小次郎はまた赤くなった。こんな工合《ぐあい》に自卑して言うべきではなかったのだと思った。京での不如意は、こちらに落ちどはなかったのだ。恥ずべきは情実と利慾からげの朝廷の方なのだ。
もっと誇りある堂々たる言い方をすべきであったと思った。
小次郎は気をとりなおした。胸を張って微笑して言いついだ。
「坂東人《ばんどうびと》には、京の風気は合いません。以後はくだらん望みはすてて、坂東人らしく行きたいと存じますれば、何分の御懇情をお願いいたします」
「それはお互いのことだ」
にやりと笑いながら、護は言った。その笑いはカッとしたものを、小次郎の胸に呼びおこした。しかし、それをあらわすわけには行かない。むずと唇《くちびる》をひきしめ、自若とした態度を保った。
そこへ、良正が入って来た。故|高望《たかもち》王の庶腹の子で、小次郎の父の二歳の弟であるから、今年四十四になるはずである。
長兄の国香に似て、色が浅黒く、小柄《こがら》なからだにピチピチと弾力があって、いかにも精力的な感じであった。饗応《きようおう》にあっていたのだろう、かなり酔って、足どりがもつれていた。
「ヤア、小次郎、めずらしいところで逢うな。京からかえって来てはじめての対面だな。あの節は失礼、当日の朝まで、久しぶりに会うて、そちの元気な顔を見、京の話も聞きたいと、楽しみにしていたのに、急にのっぴきならん用事がさしおこってな、失礼した。
なるほど人伝《ひとづ》てには聞いていたが、見事な男ぶりになったな。故将軍に生きうつしだぞ」
ふだんから、豪快をてらって大袈裟《おおげさ》なもの言いをする人だが、酒が入っているために、今日は特に大袈裟だ。
小次郎は、適当に返事をかえした。
「時に、今日はなんの用で来た。当地の兄者も、上総《かずさ》の兄者も、あとから来ることになっているというではないか」
「はい。叔父上も御足労願うつもりで、ここへ上る途中から使いを出しましたが、すでに当家へ行かれたと聞きまして、途《みち》を速めてまいったのでございます」
「ホウ? 一体どうしたのだ、おじ共全部を駆り催して?――そうだ、そなたは、ここの末姫を恋していたというから、そのことか」
小次郎は微笑して、首を振った。
「そうではありません。皆様おそろいの上で、申し上げます」
二人の伯父がそろって来たのは、それからすぐであった。
国香にも、帰国最初の面会であった。常に摂養に心がけ、身だしなみのよいこの人だけは、ヒゲにこそいくらか白いものがふえていたが、顔には依然としてしわ一つなく、ピカピカ光る浅黒い皮膚をして、かえって壮強になったようにさえ見えた。
これも、お世辞沢山の見えすいた弁解を小次郎にした後、護の方に向った。
「おん前もはばからず、一族の懇親ばなしなどいたして申訳ありませんが、工合悪く今まで逢《あ》うことが出来ませなんだので、お心|易《やす》だてのことと、先ずはおゆるしを。ハハ、ハハ」
と、笑いと共にわびて、
「実は、今日うちそろってまいりましたのは、数年前、この若者の亡父|良将《よしまさ》が、殿に荘《しよう》をお譲りしたことがありましたな。あのことについてでございます」
一語一語に区切りをおいて、ゆったりとした説明だ。護はうなずいた。だまっていた。目が光って用心深い表情であった。
国香はつづける。
「これは、明らかに故良将の手落ちでありますが、その時の事情が、遺族共に通じていなかったらしく、この若者がちと苦情を申してまいりましてな、それで……」
ここまで言った時、良正が、
「なんじゃと? 苦情を申して来た?」
と、どなっておいて、小次郎の方に膝《ひざ》を向け直した。
「小次郎! 真実か! 真実そなたは苦情を申して行ったのか!」
酔いと怒りに真赤になって、かみつくような形相であった。
冷静に、小次郎は答えた。
「真実であります。父の生前、わたくしは少しも聞いておりません。また、先年京へ上る前、このことを国香伯父上に御説明をもとめたことがありますが、その時もそれらしい話をうかがっておりません。疑問に思うのは当然のことであろうと思います」
良正はいきり立った。
「おのれは、あの時、あの不始末をしでかし、一族に散々な迷惑をかけ、かつて人にわびたこともないおじ共に百万遍のおじぎと共に散々のわびを言わせて、恥見せたくせに、疑うとはなにごとだ! 承知せんぞ! おれは承知せんぞ!」
膝を立て、つかみかからんばかりだ。
良兼がなだめにかかった。
「待て、待て、そう水守《みもり》のように一刻《いつこく》に言うてもいかん。小次郎とて、わからんければ疑問に思うも無理はない。しかし、すぐ納得の行くことだ」
「承知出来ん、承知出来ん、第一われらは一族のことである故《ゆえ》かまわんとしても、この家の殿にまで迷惑をかけるとは、無礼千万だ。わしは申訳ない」
なおブツブツいう良正を、国香も、
「まあ、まあ、しばらく黙れ。すぐわかることだ」
と、制止して、また護《まもる》に、
「とにかく、以上のような次第であります。千万恐縮ではありますが、ひとつ、当時の譲り状など、小次郎に見せてやっていただけますまいか」
護は、露骨に不愉快な顔になった。
「見せというなら、お見せしてもよいが、今になって、そんなことを申されるのは、まろはあまり快くありませんな。こんなこともあろうかと思ったればこそ、まろはあくまでも公沙汰《おおやけざた》にすると申し張ったのだ」
良正がまた口を出した。
「それ見ろ。当家の殿の仰《おお》せられること、一々当然だ。小次郎の申し条は、当家の殿に迷惑をかけ、一族の長老等の面《つら》をよごし、おのれの恥をさらし、不覚悟千万というべきだ」
「まあ、まあ」
また良兼がなだめ、国香が護におじぎした。
「幾重にもわびます。しかし、ともかくも、お願い申す」
「さようか。では、しばらくお待ち願う」
護は室外に去った。
あとは一族だけだ。良正は血走った目で小次郎をにらんでぐずぐずと|くだ《ヽヽ》を巻いており、良兼はそれをなだめており、国香は瞑目《めいもく》して端坐《たんざ》しており、小次郎は胸を張ってきびしく唇をひきむすんでいた。
護がかえって来た。
「さあ、ごらんいただこう」
「拝見いたします」
小次郎は一礼して、点検にかかった。
券《てがた》は四枚、それぞれに譲り状と国府の認可状とがついていた。みな手落ちなく規定の手続きをふんだものだ。しかし、譲り状の日附も、認可状の日附も、三年前、小次郎が京に上った年の冬のものであった。
あんのじょう、と、思った。気のせいであろうか、おじ等も、護も、固唾《かたず》をのんで見ているようだ。
小次郎は、書類を前において、人々を見まわした。
「日附がずいぶんおくれているようでありますな。父の死後約一年半、わたくしが京に上ってからでも十カ月後になっていますが、これはどういう次第でありましょうか」
また、良正がいきり立った。
「無礼千万! うぬは、護の殿を何と思っているのか! うぬのケチ臭い根性で推しはかって、横領でもしたと思っているのか! ゆるさんぞ」
「待て、待て」
と、国香はおしとどめて、説明にかかる。
「それはな、手続きがあとになったのだ。実際の譲り渡しは、あの事件の時にあったのだ。そういうことは、めずらしいことではない。世間にはよくあることだ。それだよ」
教えさとすように、おちつきはらった調子だ。
小次郎は、決して信じない。非違が行われたことは今は確実だと思った。はげしい怒りがこみ上げて来たが、こらえた。しずかで、ねばり強い調子で言った。
「しかし、この書類だけからは、それは考えられません。他に何か証拠になるような書きものがありましょうか」
「あるある。そちの父の手紙がある……」
国香は、ふところをさぐって一通の書状をとり出した。
「これだ」
と、小次郎の前においた。
古びた黄ばんだ紙には、たしかに父の筆蹟《ひつせき》があった。なつかしさに、小次郎の目はうるみ、紙はその手の中で小さくふるえた。小次郎は、一字一字に心をこめて黙読した。
文面は簡単であった。
(愚息の過失の後始末につき、一方ならぬお骨折りをわずらわし恐縮至極である。とにかくも落着した趣、安堵《あんど》した。おとりはからい下さった条々は、すべて結構である。その程度で済んだのは望外のことであった。ひとえにお力によること、厚く感謝する)
との旨《むね》が書いてあるだけだ。
「父者《ててじや》の手蹟であろうがや」
と、国香が言った。
「たしかに」
と、うなずいたが、すぐ、小次郎はつづけた。
「が、この手紙では、荘のことであるかどうか、はっきりわかりません」
「わからん? どうわからんのだ? おとりはからい下さった条々すべて結構である、と、はっきりしたためてあるじゃろう」
世にも不思議なことを聞く、といいたげな国香の顔であった。
「条々とのみあって荘のこととは書いてありません。証拠としては不十分と存じます。他にはっきり書いたものはないのでありましょうか」
小次郎は、きっと国香が腹を立てると思った。国香が腹を立てれば、もう争いは避けられないと思った。その覚悟のため、声はふるえた。
しかし、国香は変らないおだやかな声で、さとすように言う。
「他にはないな。しかし、これでどうして不十分なのだ。そりゃこれには、荘のことははっきりとは書いてない。しかし、これは一族同士の私信だ。そういうことははっきり書こうはずがないではないか。お互いの間に意味が通じさえすればいいのだからな」
「わたくしも、もし、荘の譲り渡しの日附が、父の生前にあるなら、この手紙を立派な証拠と認めます。しかし、日附ははるかな後になり、手紙の文面はこうあいまいであるとすれば、信じたいにも信じられないのであります」
「これこれ、そなたは、証拠証拠と、しきりに言うが、わしらがおぬしの父の頼みを受けて、あのことに尽力したのは、ひとえに一族のよしみのためであったのだぞよ。後にこういうことになって証拠を出せと迫られようとは、ゆめ思わなんだのだ。手落ちなく証拠の書類など取っておこうはずがないではないか。そうした証拠の書類などない所にこそ、わしらの潔白な心事があるではないか」
巧みな弁解であった。しかし、小次郎は屈しなかった。
「ごもっともなお言葉であります。が、それならば、なぜ、わたくしが京に上る前、このことについてお尋ねした時、そう説明していただけなかったのでしょうか。あるいは、書類上の手続きが行われた時でもよろしい。その旨を通知していただけなかったのでしょうか」
その時、不意に、護が立上った。
露骨に不愉快な顔をして、護は言う。
「まろは退席いたす。ことは各々《おのおの》だけで詮議《せんぎ》なさるべきで、まろには関係なきことであります。当家に持ち出して来て、かれこれ論議されること、まことに迷惑に存ずる」
一も二もなく、おじ達はおそれ入った。平身低頭してわびて、どうぞ御退席願いたいと言った。
中にも、良正は、またしても、小次郎を叱《しか》りつけた。
「不所存者めが! わずかな所領に慾《よく》をかいて、言うまじきことを言い、場所がらの見境もなく、御当家などに持ち出して来て! やがて見ろ、その分には捨ておかんぞ!」
小次郎も腹を立てた。
「思い違いなさらんでいただきます。御当家へ持ち出して来たのは、わたくしではございません。上総の伯父上の申し出されたことでございます」
「おのれが強慾のあまりにわけのわからん屁理窟《へりくつ》を言いつのる故だ!」
「不審を不審として、納得の行く御説明をもとめているだけであります。屁理窟呼ばわりは圧制でありましょう」
「こいつ、くちばしの黄色い分際で! 出い! 斬《き》って捨ててくれる」
完全に怒号であった。立上っていた。顔をひきつらせ、口をゆがめ、おそろしい形相《ぎようそう》になっていた。
二人の伯父達はとめにかかった。
「待て、待て……」
「捨ておかれい! 小童《こわつぱ》め、口で言うたくらいではわからぬ。へらず口引裂いて、踏みつぶしてくれる!……」
なおもいきり立つのを、やっとのことでおさえた国香と良兼が、わびを言おうとしてふりかえると、もう護はそこにいなかった。
端坐して動かなかった小次郎だけが、護の立去ったことを知っていた。つい今し方、護は、荘の書類をひろい上げると、急ぎ足に立去ってしまったのである。
書類をひろい上げる時のさらうような手つき、そわそわとした足どり、それらは皆小次郎には、護の心のうしろ暗さを語っているように思われた。
再び、おじ達は坐《すわ》った。三人とも、小次郎にきびしい視線を集めた。しばらく黙っていたが、やがて、国香が、
「小次郎」
と、おごそかに呼びかけた。
小次郎は答えなかった。
「今日の仕儀を何と考える?」
「…………」
「家門の恥をさらして、申訳ないとは思わぬか」
小次郎は、依然として返事しなかった。恐れ入ってはいない。強い目に、反抗の色を見せて、三人を見かえしていた。
「思わんか!」
小次郎は、肩を張った。おちついた声でこたえた。
「思いませぬ」
「こいつ!」
良正が、またおどり立った。こぶしをかためてふり上げた。強い光が小次郎の目に点じた。キリッと引きしまった肉の厚い頬《ほお》に、すさまじいものがあらわれていた。
「小次郎をどうなさるおつもりです。小次郎は、腑《ふ》におちる御説明さえいただけばよいのです。めったなことをなさると、腹を立てますぞ」
「それが叔父を見る目かの。恥かしくはないか」
と、国香が言った。国香は絶対に荒い声を出さない。いつもおちついて、もったいぶった調子だ。それも今日の小次郎には気に食わない。この子細らしく気取った口のきき方が陰険至極なものと思われるのだ。
「叔父上を見る目ではありません。圧制者を見る目です」
と、うそぶいた。
「なにィ!」
と、良正は立上ろうとした。それをおさえて、国香は苦笑した。
「これは手がつけられんて」
と言って、弟等をかえりみた。
「どうしようの?」
「こらしめてやろう! でなくば、一族の秩序は失われてしまう」
と、良正がいきまいた。
良兼が割って入った。
「待て、待て。おちつけおちつけ。ともかくも、ここは他家だ、一応ここをお暇《いとま》して、兄者の館《やかた》へ行って、万事のことを、もう一ぺんとっくりと話し合ってみようでないか。小次郎とて、それに不服はなかろう。どうだな」
長い顔をあちらに向け、こちらに向け、懸命に説くのであった。おじ等も、小次郎も諒解《りようかい》した。
護は出て来なかった。郎党等が駒寄《こまよ》せまで送った。
駒寄せには、それぞれの主人の供をして来た郎党や下人《げにん》等が、それぞれに支度して待っていた。一族のよしみで、かねて顔見知りである彼等は、主人等の口論も争いも知らず、前からの懇親話をつづけていた。
更に西に傾いた日に鮮血のような色に染まった百日紅《さるすべり》の花の散りしいている門前まで出た時、小次郎と馬首をならべていた良正が不意に手をふり上げた。
とっさに、小次郎は身をひねった。良正の手に握られた鞭《むち》はヒューと鋭い音を立てて、小次郎の馬腹にふりおろされた。馬はおどって飛び出し、はげしく首を振って狂った。乗りしずめ、馬首をめぐらしつつ、小次郎は叫んだ。
「なにをなさる!」
「ええい! 腹が立つ!」
打ちはずして、良正は一層腹を立てた。鞭を捨て、刀を引きぬいた。
「おのれ、成敗してくれる!」
「おやりになるつもりか!」
すさまじい目つきになって、小次郎は叫びかえした。抜刀はしないが、|つか《ヽヽ》に手をかけて、いつでも応戦出来る構えをとっていた。
両家の郎党等にとっては、降って湧《わ》いた椿事《ちんじ》だ。狼狽《ろうばい》し、周章し、とまどいしたが、坂東人の訓練だ。サッとひらき、それぞれの主人にひきそって戦闘隊形をつくった。
国香も、良兼も、驚いたようではあったが、これをとめない。さわぎ立つ自分らの郎党等をおさえ、馬を立てて見ていた。
小次郎はおじ等の殺気をはっきりと知った。喧嘩《けんか》にことよせ、ここで殺してしまうつもりに相違ないと思った。怒りに顔は真青になり、髪は逆立った。
良正の武勇は世に許されている。常陸《ひたち》六郎といえば、勇者ぞろいの坂東の豪族中でも、五本の指には必ず入るほどの勇名がある。
しかし、小次郎はおそれない。ただ、二人の伯父がどうするかが不安であった。はじめから敵として立向ってくればよい、中立を偽装していて、すきを見て途中から攻撃して来られることをおそれた。
彼は、伯父等に向って叫んだ。
「そこの伯父上方! あなた方も、水守《みもり》の叔父上と御同意か! 小次郎を敵として戦おうとなさるおつもりか! 御同意ならそれも結構、お相手|仕《つかまつ》る。御同意でなくばそこをひらかせられい! うろんな振舞いは坂東の作法ではござるまい」
国香も、良兼も、狼狽したらしい。顔を見合わせ、弟と甥《おい》の対峙《たいじ》を見、また顔を見合わせた後、両者の間に馬を乗り入れて来た。
持ち前のおだやかな調子で、国香は言う。
「待て、待て。これはおだやかならんことになった。わずかなことを根に、一門たるものが、こう血走ってはならん。やめい、やめい……」
良兼があとを受けた。
「場所|柄《がら》もある。所もあろうに、ここは前《さき》の大掾《だいじよう》の館の前だ。恥さらしなことはやめてもらいたい。とんでもないことだぞ」
小次郎には、強《し》いて争う心はない。話がわかりさえすればよいと思っている。
「わたくしは好む所ではありません」
と、言ったが、良正は猛《たけ》り立つばかりだ。
「退《の》かっしゃい! 退いて見物していてくれ! おれはもう腹にすえかねたのだ。場所がらもなにもあるものか! この僭上《せんじよう》を見すごしにすれば、一門の規制は立たぬぞ! ええい! 退かっしゃいというに!」
夕陽《ゆうひ》の中にふりまわす刀が、キラキラとかがやいて、怒号する。小次郎の若い心はあおり立てられずにはいない。油断のない目を等分に三人にくばりながら、猛々しく叫んだ。
「わたくしはいずれでもよい。しかけられた喧嘩に逃げはせぬ、叔父上とて、しんしゃくはしませんぞ」
呼吸《いき》ぐるしいほどの殺気が急速にたかまって来た。今はもう爆発するよりほかはないかと思われたが、その時、ふと、門内に馬蹄《ばてい》の音がしたかと思うと、しずしずと出て来る騎馬の一隊があった。
真ッ先に立ったのは、源ノ護《まもる》であった。黒鹿毛《くろかげ》のたくましい馬にのっていた。つづいて、被衣《かつぎ》姿の三人の女が、同じように白くきゃしゃな馬に貝鞍《かいぐら》をおいて、いともしずかに乗り出して来た。
平氏一族の前に、馬を立て、にこりと笑いながら、護は言う。
「ホウ、まだここへおわしたか。まろは、結城寺へ参籠《さんろう》の志があって、まいる所であります」
三人の女、それは護の姫君達であった。被衣にしっかりと顔をつつんでいるが、その中からのぞいている黒い目と、美しい衣《きぬ》の色とが、何ともいえずはなやかで艶冶《えんや》な空気をただよわせていた。
護の言葉の真偽はわからない。あるいは、門番共の報告によって門前におけるこのさわぎを知って、けわしい空気を消散させるために出て来たのかも知れない。とすれば最も巧妙な策であった。殺気は忽《たちま》ち消散した。
まごつきながらも、国香がやっと立直った。
「それはそれは。御信心なことで。しかし、この時刻からでは、途中で日が暮れますな」
「娘等は、早く行きたいとせがんだのでありますが、日のあるうちはあの暑さでありましょう。夕かけてまいろうと、おしとどめていたのでありますよ。ハハ、ハハ、いずれ様もごめん。またお出《い》で下され」
会釈《えしやく》して、馬をくり出す。
娘等も、被衣のかげから会釈をおくってつづく。
深い紫紺の色に薔薇《ばら》色の夕映《ゆうばえ》のさしている空をバックにして、鼻面《はなづら》も蹄《ひづめ》も薄桃色をした、雪のように真白できゃしゃな馬に乗った娘等が、白い繊手に手綱をとって乗り過ぎて行く姿は、言いようもないほど艶麗で瀟洒《しようしや》な感じであった。
良兼も、良正も、小次郎も、国香でさえ、うっとりと見とれた。
他の人のことは知らない。小次郎は、最後に行く姫から目をはなさなかった。たしかにそれは小督《おごう》であった。小督の顔の全貌《ぜんぼう》はわからない。しかし、それでも小督であった。被衣のかげから見える目、眉《まゆ》のかかり、半分しか見えない鼻梁《びりよう》に、たしかにその俤《おもかげ》があった。
思えば、筑波の初会以後、一度も逢《あ》っていないのだ。そして、あの時から、もう満五年以上もたっているが、記憶は鮮明強烈をきわめている。
言うべからざる感情が、小次郎の胸をゆりうごかしていた。恋しいというにははかなく、あきらめるというには切なかった。
食い入るように見つめている小次郎のその視線を、小督は見返したが、別段な表情はなかった。空気を見るようなすげなさで視線をそらし、そのままに過ぎて行く。
護等の一行は、次第に遠ざかり、次第に小さくなって行った。
とつぜんだった。ピシッと鞭をくれて、良正が馬を駆け出させ、駆け去りながら、なにやら言った。何といったか、よくわからなかった。
「おれはちょっと……用を思い出した」
と、言ったようにも聞こえた。ただ、まっしぐらに、護等を追いかけて行く。
すると、また良兼が駆け出した。
「おれも、ちょっと……」
これも、ふりかえりもしない。
あわてたのは、両人の従者共だ。一時にどっと駆け出した。天気つづきで乾き切った地面に、煙のようにほこりが舞い立って、忽ち空の一部分を真黄色に染めた。
それを見送って、国香が言った。
「やれ、やれ」
苦笑していた。小次郎をふりかえった。
「そちは用を思い出さぬのか」
小次郎も苦笑した。何かはかなく、何かばかばかしく、何か羨《うらや》ましいような、奇妙な気持であった。
氏族放逐
小次郎は、その後も、説明をもとめてやまなかったが、あれ以上の説明は得られなかった。ついには、国香も、良兼も、小次郎と逢うのを避けるようになった。
この間に、小次郎は調査して、問題の荘《しよう》が護の名義になった頃《ころ》からしばらく後に、おじ達が護から多少の所領をそれぞれに譲り受けていることを知った。世間でも、これは交換であると言っていた。
小次郎は自分の推察のあたっていたことを信じて疑わないようになった。
しかし、どうすることも出来なかった。いくら論争しても、つまりは水掛論におわるのだから。
この上は、公《おおやけ》に訴えて黒白を正すよりほかはなかったが、一門の醜態をそこまでさらすことははばかられた。それに訴えてみたところで、坂東屈指の有力者であるおじ達三人が|ぐる《ヽヽ》になった上に、前常陸大掾まで抱きこんでのしごとであってみれば、法律的にはどうしようもない手を打っていると思わねばならなかった。
「情ないお人達だ」
あきらめることにしたが、憤懣《ふんまん》はやるかたがなかった。
その年の秋、上総《かずさ》の良兼《よしかね》は護の長女を後妻にめとった。その祝いに、小次郎は招待を受けなかったが、ともかくも祝儀《しゆうぎ》の使者をおくった。
しかし、使者はけんもほろろなあいさつで追いかえされて来た。
「我意《がい》を言いつのって、一族の規矩《きく》をみだる者の祝儀など、受けるわけには行かん。まかりかえれ」
と、良兼自らが出て、どなったというのである。
年が明けて二月、水守の良正《よしまさ》が、次女を第二夫人として迎えた。
どうせこれも同じあしらいを受けるのだとは思ったが、するだけの礼は尽さなければならない。また郎党をつかわしたが、これも罵倒《ばとう》されて帰って来た。
平氏一門は、小次郎を一門から放逐したことを、はっきりと示したわけであった。
上古の氏族制度のなごりがまだ濃厚で十分な活力を持っている時代だ。一門から放逐されることは手痛い打撃であった。将来彼が他氏の者と争いでもおこしたとしても、一門のうちにあれば一門全部が加勢してくれるが、もう誰も力をかしてくれない。独力で戦わなければならないのだ。坂東のような辺境地帯で、正義は力によってのみ立て得る環境では、これはこの上なくつらいことであった。
けれども、嘆願する気にはならなかった。
「よしよし、おじ等がその気なら、ひとりで立って行くまでのこと」
きびしい決意に胸をしめつけられながらも、小次郎はほほえんで言い放った。
梅雨が過ぎて、また酷暑になった頃のある日であった。
この日小次郎は、朝から数人の下人をしたがえて、毛野川《けぬがわ》沿いの田を見まわりに出て、方々を見まわっていると、うしろの方で、オオイ、オオイ、と、呼ばわる声が聞こえた。ふりかえってみると、青田の中にはるかにつづく道を、郎党が馬を飛ばして来つつあった。
「石田の太郎の殿がお見えになりました」
やがて乗りつけて来た郎党はこういう。
「石田の太郎というと?――貞盛《さだもり》か」
「はい」
「どうして太郎が?」
「一昨日、御帰着との由《よし》でございます」
思いがけないことであった。
とにかく、帰途についたが、複雑なものに胸はみたされていた。なつかしくもあったが、言いようもない不快感もあった。逢いたいとも思ったが、逢いたくないような気もしていた。
途々《みちみち》、いろいろなことを考えた。
(どうして帰って来たのだろう。賜暇《しか》でももらっての一時の帰国だろうか、それとも京を引上げて来たのであろうか。
京を引上げて来たのだとすれば、貴子《たかこ》姫を連れて来たのだろうか、ふり捨てて来たのだろうか、それともきちんと末々のことまで処置して来たのだろうか、あるいは姫君に新しい保護者でも出来たのだろうか、また、あるいは……)
ここまで考えた時、小次郎は胸がつめたくなった。姫君は死んだのではないかと思ったのだ。
一時の帰国か、そうでないか、郎党に聞けばある程度のことはわかると思ったが、なぜか聞きにくいような気がした。きびしい表情で、ただ馬を急がせた。
貞盛は、客殿で、小次郎の母と談笑していた。坂東ではおそろしく目立つ京風の華麗な服装だ。これが小次郎だったらきまりが悪くてならないであろうに、一向気にする風もなく、いたって気楽な様子だ。
小次郎を見ると、
「ヤア」
と、笑いかけた。いとも快活に、いともなつかしげな顔だ。
母はゆっくりして行ってくれるようにあいさつして、退《さが》って行った。それの遠ざかる頃を見はからって、小次郎は口をきいた。
「一昨日帰って来たと聞いたが、どうしたのだ? すっかり引上げて来たのか」
「イヤ、賜暇だよ。おやじ殿が、ぜひかえって来い、逢って相談せねばならんことがあるといってよこすものだから、二カ月ほど賜暇をもらって帰って来たのよ」
「そうか、そうか」
うなずいて、それから思い切って言った。
「それでは、姫君も御安心だな」
言うのが、実につらかった。しかし、割合い気軽な調子で言えた。
一瞬、貞盛の表情が動かなくなったが、すぐ、カラカラと笑い出した。
「知っていたのか」
「ウム」
「そうか、知っていたのか。誰に聞いた?」
「誰にも聞かん」
「ゆるせ。しかたがなかったのだ。おぬしが除目《じもく》が不満でこちらにかえったあと、姫君があわれでね、こうなった方が、姫君も心が安まるだろうと思ったのでね」
くわっとしたものが、胸につき上げて来た。白々しい! この期《ご》におよんでまだウソを言うのか!
「おれは知っているのだ」
激し上って来る心をおさえている小次郎の声には、沈痛な響きがあった。
また貞盛は顔色をかえたが、忽ちまた笑い出した。
「これはいかん。それも知っていたのか。ゆるせ、ゆるせ。やむを得なんだのだ。一体おぬしが悪いのだよ。おぬしが煮え切らんものだから、あんなことになったのだ。おぬしがちゃんと旗を立ててさえおれば、いくらおれでもあんなことになりはしないのだ。占領したら標《しめ》を結うことを忘れてならんのは、恋の道だって同じだよ……」
こんな調子で、あのことを言ってもらいたくない。小次郎はさえぎった。
「もういい、言うな!」
「おこっているのか」
貞盛も顔をひきしめた。
「おこってはおらん。身の不覚をなげいているだけだ」
といった時、不覚に涙が胸にこみ上げて来た。しばらく絶句して、言いついだ。
「あの人を不幸にしてくれるなよ……」
神妙な顔で、貞盛は、無言で、ただうなずいた。
「おれの言いたいことは、それだけだ」
また貞盛はうなずいた。
言うだけのことを言ってしまうと、小次郎の胸ははればれとなった。
酒肴《しゆこう》が出て、二人は酌《く》みはじめた。
京の話が色々と出る。
貞盛は言う。
「おれの主人の定方公が、去年おぬしがこちらへ帰って間もなく薨《こう》ぜられたことは、おぬし知っているな」
うなずいた。去年の八月、右大臣定方が病死したことは、風のたよりで坂東にも伝わっていた。
「そこでおれは、おぬしの故主、小一条院のおとどの家人《けにん》になったよ。京では、なんと言っても、|ひき《ヽヽ》だからな。どうやら無事に恪勤《かくご》している。おとども時々おぬしのことを話されるよ」
「ハハ、そうか。気のきかん荒夷《あらえびす》じゃと仰《おお》せられるだろう」
「ハハ、まあそうだな。武勇の道には申し分のない人物だが、都向きではないと、仰せられたことがあったな」
「ハハ、ハハ、だから、おれは、見切りをつけて帰って来たのよ。とても、おぬしのようにはしッこくは立働けんからな」
「皮肉だな。耳が痛いぞ」
「ハハ、ハハ、ハハ……」
南海道の海賊のことも、話題に上った。
「おぬしが懇意にしていた純友卿《すみともきよう》、あの卿が、国司の紀淑人《きのよしと》卿を輔《たす》けて、なかなかの働きであった由で、海賊共、今ではすっかり鳴りをひそめている。おぬしもあの時行っておれば、ずいぶん手柄《てがら》を立てたであろうがな」
その南海道に行けなかったのも、ほかならんおぬしの裏切りのためであったではないか、と、思った。しかし、もうこの問題にはふれたくなかった。
やがて、貞盛は容《かたち》をあらためた。
「実は、今日来たのは、帰国のあいさつのほかに、もう一つ用件があるのだ」
小次郎も坐《すわ》りなおした。国香の命を受け、一族と小次郎との仲たがいをおさめるために来たのだろうと、推察した。和解の意志は大いにあった。さすがに一門の長者だとも思った。
「なんだな、改まって」
と、微笑した。
貞盛も微笑した。軽い調子で語り出す。
「おやじがおれを呼びかえしたのは、縁談がおこっているのだよ」
予想ははずれたらしい。軽い失望を感じながらも、小次郎はまた微笑した。
「ホウ、そうか。それはめでたいことだな。しかし、おぬし貰《もら》うつもりか。姫君はどうするつもりだ」
「姫君の方には何も関係はない。貰ったところで、あちらに連れて行くつもりはないのだから」
「しかし、将来はどうするつもりだ。今のところは京住いでも、いずれはこちらに帰らなければならんだろう」
「おれはこちらには帰らん。ずっと京にいて、廷臣としての途をひらきたいのだ。そりゃもちろん、所領がこちらにあるのだから、時々は帰って来るが、帰りきりにするつもりはさらにない」
勝手な言い草に、小次郎はあきれた。
「おぬしの妻《め》になろうというのはどこの誰なのだ。年に一度帰って来るか来ないかわからない夫を待つ身になることを、承知なのか」
と、皮肉な調子になった。
「知りゃせんさ。そんなことをいう段取りにはまだなっていない。しかし、言っても、多分承知するだろう。この縁談は、先方の方がすすんでいるのだから」
「大した自信だな。一体、どこの誰なのだ」
貞盛は、にやにやとした。美しい顔でありながら、実にイヤな顔であった。なぜとはなく、小次郎の胸はひやりとした。
「それが、少し言いにくいのだが……」
と言って、またにやりとして、
「おぬし源家《げんけ》の末姫をどう思っている? まだ思っているか」
顔から血が退《ひ》き、それとともに胸の波立つのが感ぜられた。胸のしずまるのを待って、言った。
「おれはもう思っていない」
わが言葉ながら、あさましいほどきっぱりした調子にひびいた。幸福が一瞬にして飛び去った思いであった。心の動揺を見せないために、小次郎は盃《さかずき》をひろい上げて口にふくんだ。
「そうか。本当だな」
「本当だ」
忽《たちま》ち、貞盛は饒舌《じようぜつ》になった。
「そうか、おぬしの心がそうなっているなら、おれも安心だ。実はな、相手というのは、あの姫なのだ。あの家から、ぜひおれにくれたいと、話があったというのだ。
おやじは、先年おぬしに頼まれたことがあるので、一応も二応もことわったのだが、護《まもる》のじじいめ、なかなかきかんのだという。
それに、おぬしからも一向話がないし、多分もう忘れたのだろうというので、大体の約束だけして、おれを呼びかえしたという次第だ。
一旦《いつたん》、おぬしと|いきさつ《ヽヽヽヽ》のあった女だ。おれはあまり気が進まんのだが、ハッハハハハ、しかたはないよ」
間もなく、貞盛は暇《いとま》を告げた。
「では、おれは帰るからな。また逢《あ》おう。おれも来るつもりでいるが、おぬしも来てくれ」
小次郎は引きとめなかった。愛想にも、そうする気になれなかった。
一門から追放の姿になっていることを、その時また思い出した。貞盛に言えば、きっとおれにまかせよと言って、必ず和解の途をつけてくれるに違いないとは思ったが、言う気にならなかった。屈辱の上に屈辱を重ねる気がした。
豊田|館《やかた》をはなれた時、貞盛は自分が相当酔っていることを知った。まだ高い日がくらくらするほど強烈ではあったが、そのためばかりでなく、まぶしくて、ものうくて、うっとりした気持で、馬の背にゆられていた。従者等の馬蹄《ばてい》の音や、時々話しかわす声も、はるかであった。
そのうっとりした気持の中で、貞盛は、小次郎が門まで送って出なかったことを思い出した。
(……なるほどね、小次郎のやつ、腹を立てているというわけか。……もっとも、やつにしてみれば、おこるのも無理はない。なにしろ、重ね重ねのことだからな……)
われながら人の悪いことだと思いながら、にやにや笑いが出ずにいない。しばらく、そのにやにやをつづけて、
(……しかし)
と、また思う。
(大体、あの女は、おれの女だったのだ。それがへんな行きちがいから、あの夜、小次郎とちぎってしまったのだ。もとより、小次郎はそんなことに気づく男ではない。にぶいやつだからな。しかしおれの女であったことは事実なのだ。つまり、取返したという次第だ。……また、つまり、あいつとおれとは、何とか兄弟というわけだ……)
にやにやと、また笑いが出たが、とたんに、猛烈な嫉妬《しつと》と慾情《よくじよう》とを同時に感じた。ギリギリと歯をかみ鳴らしながら、ほとんどうめいた。
これが、彼を我に返らせた。馬上にしゃんと身を正し、目をみひらいて、あたりを見まわした。青田と森のつづく広い平野のかなたに、筑波《つくば》の山がくっきりと見えた。
はっきりなった心には、嫉妬など馬鹿《ばか》らしかった。苦笑した。
(おれらしくもないぞ)
彼は小督《おごう》を愛してはいない。以前だって、多数ある女の中の一人として、性慾だけでつづいているにすぎなかったが、小次郎との関係が出来たと知っては、なおのことであった。何の未練もなく、くれてやるつもりになったのだ。
(その女が、おれの妻《め》になることになった?)
妙な運命のめぐり合わせだと思うだけだ。厭《いと》いもしない。
(おやじが貰えというし、貰えば相当な所領を持参するというし、どうせおれは京住いで、年に一度か二度、賜暇で帰って来る間だけの妻だし、かまうものか)
といった、気楽といえば気楽、無責任といえば無責任、軽薄といえば軽薄をきわめた肚《はら》であった。
それにしても暑い。
「おい、水をくれ」
赤トンボのしきりに飛び交っている路《みち》に馬をとめて、下人から吸筒《すいづつ》をもらって、ゴクゴクとのんだ。水は生温《なまぬる》くなっていたが、それでもうまかった。
貞盛を送り出したあと、小次郎はしばらくひとりで酒を飲みつづけていた。すると、次弟の将頼《まさより》が、庭から来た。田圃《たんぼ》の見まわりにでも、行っていたのだろう、野良着《のらぎ》姿であった。
将頼は十七になる。まだ十分に発育しきらないが、将来を思わせるたくましい骨格と、慓悍《ひようかん》な目をした青年である。母方の祖先に蝦夷《えぞ》の血でも入っていたのが出たのだろうか、口許《くちもと》やあごのあたりにのびた生毛《うぶげ》がいかにも毛深い感じで、兄弟中ただ一人、髪もちぢれ気味であった。
「石田の太郎が来たというな」
と、庭に立ったまま問いかける。
「うむ」
「何の用で来たのか」
「帰国のあいさつに来た。一昨日帰って来たという」
「それだけのことか。上総《かずさ》や水守《みもり》との仲を取りなそうというのではなかったのか」
「うむ」
「兄者は頼まなかったのか」
「頼まなかった」
「なぜ?」
「頼む気にならなかった」
将頼はかすかに嘆息した。
くわっとした。おぼえず、鋭く言っていた。
「おれに頼ませる気か! 太郎に頼むことは石田の伯父御に頼むことになるのだぞ! 石田の伯父御がすべてのもとであることを忘れたか!」
「忘れはせぬ。忘れはせぬが……」
「せぬが、どうしたというのだ!」
いつにない兄の怒りに、将頼はおびえた。
「もういい、もういい、わしは往《い》ぬる。おこってくれるな」
しょんぼりとして立去る弟を、小次郎はふるえながらにらんでいたが、急に荒々しく立上ると、狩装束に改めて、鷹屋《たかや》に入った。
いくつにも仕切った鷹屋には、鷹が五羽、それぞれの仕切りの止り木にとまっていた。琥珀《こはく》色の鋭い目を光らせ、翼をたたんで、憂鬱《ゆううつ》げにひっそりとしていたが、主人を見ると、どれもこれも、羽をひろげ、鈴を振るように澄んだ声で短く啼《な》いた。この猛禽《もうきん》の無器用な媚《こ》びであった。
小次郎は、ずらりと見て通って、一羽の|へお《ヽヽ》を解いて、拳《こぶし》にとまらせた。軽く頭を撫《な》でてやった。鷹は、その度に刃物のように光った爪《つめ》で|※[#「弓+蝶のつくり」]《かけ》をつかみ直してはよろめいたが、目を閉じたり、みひらいたりした。表情にとぼしいこの動物には、これが精一ぱいの満悦の表現であった。
しばらくの後、小次郎は、毛野《けぬ》川をわたり(この時代、鬼怒川は今と流れがちがって、向石下《むこういしげ》の西方を流れていた)途《みち》を東北方の芦江津《あしえつ》にとって、馬を走らせていた。犬を一匹連れただけで供人は随《したが》えていなかった。
芦江津は、今の芦ケ谷新田のあたりにあった。今では新田の中ほどを縦に流れる飯沼川の両側にわずかばかりの湿地帯のあるほかは、すべて穣々《じようじよう》たる美田地帯と化して、当時の景観は想像しにくくなっているが、芦江津と呼んだ時代は、一面の漫々たる湖水で、東北方の大間木《おおまき》の台地は一面の林であり、西南方の逆井山《さかいやま》村から沓掛《くつかけ》村にかけた台地もまた林と畠地《はたち》で、林のつきる水辺は茫々《ぼうぼう》たる草地であった。
豊田館から、芦江津まで一里半。すぐついて、湖畔の草地《くさち》に馬を入れると、忽ち犬がカザに乗った。尾を垂れ、耳を後ろに引きつけ、鼻を地べたにすりつけるようにして、しとしとと歩きはじめた。輪をえがいてまわったり、あとがえりしたり、横に行ったりしていたが、ようやくたしかな筋を嗅《か》ぎあてたと見えて、真直《まつす》ぐに前方に進み、次第に用心深い足どりとなり、ぴたりととまって、前方の藪《やぶ》に向ってかまえた。
片足を上げ、藪の一隅《いちぐう》をにらみ、主人の合図次第で飛びかかる姿であった。
「それ!」
小次郎は小声にさけんだ。
犬は、藪に向って跳躍した。
とたんに、音もなく藪をかすめて、飛び立ったものがあった。翼をはばたかせ、まりのようにまるいからだが、石を投げ上げたように見えた。ウズラであった。
同時に鷹を放った。右手の|へお《ヽヽ》を解くと共に、左拳にすわった鷹をウズラに向って投げかけるようにした。
抛物《ほうぶつ》線の形をえがいて投げられた鷹は、翼をひろげて一はばたきした。空気を切る鋭い音が立ったが、忽ち地上二間ほどの高さを、水平に、一直線にウズラを追った。矢を射放ったようであった。十間と相手を飛ばさないうちに追いつめると、長い翼で包みこんだように見えた。草いきれと陽炎《かげろう》のよじれ上っている明るい光の中に、幾片の羽毛がはじけ散ったと見ると、からみ合って一つになった両鳥は、大きな石のように草むらの上に墜落した。
小次郎は、馬を飛ばせて駆けつけ、犬が吠《ほ》えながらあとにつづいた。
鷹は長い夏草のしげみの根方にもう呼吸のとまっているウズラを鋭い爪の生えた両足でおさえつけ、目をきらめかせて、主人の近づくのをみていた。
「あっぱれだぞ。可愛《かわい》いやつめ!」
小次郎は、馬を飛びおりた。鷹を拳にすえ、|へお《ヽヽ》をつけ、餌袋《えさぶくろ》から餌を出して、鷹にも犬にもあたえて愛撫《あいぶ》した後、ウズラをとり上げた。グタリとなってはいたが、まだあたたかかった。
こうして、小次郎は終日湖畔の草原を狩りくらした。犬がカザに乗ってから鷹が獲物《えもの》をからみおとすまでの緊張感と、その後の勝利感の間は、小次郎の心には何の雑念もなく、張り切った痛快感に没頭していることが出来たが、そのほかの間は、はらっても去らない陰鬱な雲が胸を蔽《おお》うていた。時々、キリキリと歯をかみ鳴らし、短くうめいた。
この陰鬱な雲の中心は、ある焦躁感《しようそうかん》であった。はじめ、小次郎はこれを貞盛にたいする嫉妬、小督にたいする未練から出るものと思っていたが、日がくれる頃《ころ》、そうでないことがわかった。
貞盛より早く、おれは結婚しなければならない。その相手は上総《かずさ》の良子だ。
「そうだった! ああ、そうだった!」
雄叫《おたけ》びのように、小次郎は暮色のこめて来つつある湖面に向って叫んだ。疲れを忘れた。明るく、快く、さわやかな風が胸を吹きとおる思いであった。
どうして求婚するか、それが問題であった。良子の父は自分によい感情を持たない。結婚祝いに持たせてやった祝儀《しゆうぎ》をたたきかえしたほどだ。一族としての交際を絶つことをはっきりと表示したつもりでいる。
一番順当でもあれば、成功の可能性もあるのは、石田の伯父の口|利《き》きを頼むことであった。しかしこれは考えるだけでもイヤだ。どんなことがあっても、再び石田の伯父に頼みごとなどしようとは思わない。
けれども、石田の伯父以外の者なぞやったら、良兼はかえって|つむじ《ヽヽヽ》をまげるに違いない。
こんなことはこじれさせたら、うまく行かないだろう。
どうすべきか?
この思案のために、小次郎は毎日のように鷹狩に出た。芦江津は言うまでもなく、降間木《ふるまぎ》の沼、広河《ひろかわ》の江《え》等の湖沼の畔《ほとり》の草原《そうげん》を狩り歩いた。
これらの湖沼は、今は耕地となって消滅しているが、皆、今の飯沼川の線にあって、いずれも豊田館から遠からぬ地点にあった。
ある日、広河の江の畔に行ったが、半日狩っても、シギ一つとれなかった。不猟だと、人間ばかりでなく、馬や犬や鷹まで元気がなくなる。おまけにおそろしく暑い日だ。皆くたくたになった。
木蔭《こかげ》をもとめて一休みしていると、眠くなった。
「一寝入りすることにしようよ。日がかげって涼しくなったら、様子がかわってくるかも知れない」
小次郎は、人間に言うように、動物共に言った。馬をつなぎ、鷹をそのへんの木にとまらせて、肱《ひじ》をまげて横になった。
時々、湖の上をわたり草の葉をそよがせて風が吹いて来て、いい気持だ。いつか、ぐっすりと寝こんだ。
どれほどの時間を眠っていたか、急に犬が吠え、鷹がはげしく羽ばたきはじめたので、小次郎はおどろいて目をさました。
つい近くに、数人の供をつれた、狩衣《かりぎぬ》姿の人が馬をとめて、こちらを見ているのだった。菅原景行《すがわらかげゆき》だった。
「おお!」
小次郎は、立上った。いそがしく衣紋《えもん》をつくろって、出て行った。
「豊田の小次郎でございます」
と、名のりながら近づいた。
馬を下り、持ち前の静かな微笑を浮かべて、景行は迎えた。
「そうらしいと思って見ていたが、あまりに快げに熟睡していなさるので、声をかけるのがはばかられてな。鷹狩のようだが、成績は?」
「今日は、まるでいけません。早朝から出ているのに皆目《かいもく》です。それで、馬もイヤ気がさし、犬もイヤ気がさし、鷹まで不貞《ふて》くされて来ましたので、ヤケ寝をきめていた所でした」
「ハハ、ハハ、ハハ」
「殿はまたどうして、こんな所に?」
景行はテレたような笑いを見せた。
「実はわしも人|真似《まね》して、このへんを墾田《はりた》してみようかと思って、検分に来た。御承知の通り、紫尾《しお》は山地が多くて、耕地が至って少ない。今のところは、どうやらあれだけのもので暮しが立っているが、子孫の先々のことを考えると、心細いのでな」
二人はならんで、広漠《こうばく》たる草原を眺《なが》めわたした。
この平坦《へいたん》な草原は、一見したところでは、少し手を加えれば、すぐ立派な耕地になりそうだが、これが放置されているのは、ずっと昔の大河の河床で、表土一寸下は砂利ばかりで、おそろしく開墾が困難なためである。
「それはいいお考えですが、うまく行きましょうか」
小次郎は、土地の性質を説いた。
「そうだろうな。まろも来てみて、それに気づいた。しかし、少しずつやって行くつもりなら、やれはすまいか」
「それはやれますとも。砂利原といいましても、くわしく調べれば砂利の少ないところもあります。そういう所から手をつけて行かれればやれます。このへんには、拙者は、度々狩に来て、多少そういう所を知っています。おはじめになるなら、お教えしましょう」
景行は非常によろこんだようだったが、喜怒哀楽、すべてきわめてひかえめにしかあらわさない人だ。
「ホウ、そうか、それはかたじけない。何分にも頼み入る」
と、ものしずかに言って、頭を下げただけであった。
「承知しました。先《ま》ず図面につくって大体のことを書いてさし上げた上で、実地に御案内しましょう」
と小次郎は言ったが、その時、ふと、上総への申込みをこの人に頼んでみようかと思いついた。
この人なら、血統といい、身分といい、非のうちどころはない。良兼だって、石田の伯父をさしおいたと、不快には思うまい、と、考えた。
すばらしい思いつきと考えられた。胸がわくわくして来た。一刻も早く実行にうつしたかった。本来なら、日を改めて紫尾に出向いて頼むのが礼だとは思ったが、がまん出来なかった。
「紫尾の殿」
と、呼びかけた。不覚に調子が改まった。景行はいぶかしげな目を向けた。
「なんだな」
「少々、改まったお願いがあります。しばらくお人ばらいしていただけますまいか」
強い目つきになり、赤い顔になっていた。景行は一層いぶかしく思ったらしいが、うなずいた。
景行の供の者が聞こえない距離に去るのを待って、小次郎は頼みの趣を語った。おじ共との不和の次第も語った。
景行は快く承諾した。
「お易《やす》いことだ。おことには京都以来ずいぶん世話になっている。お知りの通りの貧人《ひんじん》の身ゆえ、お返しのしようもないが、そんなことでもさせてもらえれば、かえってありがたい」
「わたくし共が何のお世話をしましたろう。かえってお世話になっています。しかし、早速にお引受けいただき、うれしく存じます」
なお、今夜はぜひとも自分の家に泊っていただきたいと頼んだ。景行はそれも感謝して受けた。
二人は馬をならべて帰途についたが、少し行って雑木林のわきを通ると、一頭の馬が入口の木につながれて、そのへんの下草を食《は》んでいるのを見た。黒鹿毛《くろかげ》のいい馬だが、おかれた鞍《くら》の美しさが一層目を引いた。一面に青貝をすり、金で覆輪《ふくりん》した見事な鞍だ。
馬の主は、多分この森の中に入って、用でも足しているのだろうが、これほどの馬にこれほどの鞍をおかせるのは、よほどの人でなければ出来ない。しかし、それにしては、供人の見えないのが不思議であった。
「誰でしょうか」
と、話し合いながら、二人は乗りすぎた。
森に沿った道を小半町も行った頃であった。とつぜん、その森から悲鳴が聞こえた。
二人は馬をとめて、顔を見合わせた。
何と叫んだか、わからなかったが、たしかに女の声であった。絹を裂くように鋭くて、急に切れたのは、口をふさがれたためらしかった。
小次郎の犬が、森に向ってはげしく吠えはじめた。時々小次郎をふりかえっては吠える。助けに行ってやろうじゃありませんかというような調子だ。
「しばらく、ここでお待ち下さい。行ってみます」
小次郎は、馬を下り、鷹を景行の従者にわたして、森に入った。犬はつづいた。ピタリと吠えやんで、主人の一間ほど先を走る。すでに行くべき先の見当がついて、案内する形であった。
およそ一町ほども走った時、犬は走りやんだ。前方をにらんで、火のつくように吠えはじめた。
小次郎は、そこに格闘している男女の姿を見た。女はおさえつけられ、口をふさがれながらも、必死にこばんでいる。上衣をひきむしられてあらわになった豊かな胸や腕が目を射るばかりの白さであった。とっさにこれだけのことを見てとった小次郎は、
「ウシ!」
と、犬にけしかけた。犬は大きく跳躍して、長くのばしている男のふくら脛《はぎ》に食いついた。
男は悲鳴を上げた。とたんに、女は男のからだの下から脱《ぬ》け出し、ころがりながら二三間離れ、飛びおきて、小次郎のうしろにまわった。
滑稽《こつけい》であったのは男であった。足を振って犬をふり飛ばそうとしたが、犬は離れなかった。肉を噛《か》みとおすほどに強くかみついた歯を食いしめ、背をまるめ、四足で男の脚を抱いてしがみついている。
「痛《いた》ッ! こいつ!」
男は立上った。そして、片方の足で蹴飛《けと》ばそうとしたが、その足がとどく前に、犬はパッと飛びはなれた。あらんかぎりの力をこめて蹴った足は、真新しい噛み傷のあるおのれの足をイヤというほど蹴はらった。
男は三度悲鳴を上げて、ひっくりかえった。
その時になって、小次郎は、その男が土民や百姓でないことに気づいた。ゆがんではいるが、烏帽子《えぼし》をかぶり、狩衣を着ている。しかし、袴《はかま》をぬぎすてて、腰から下が|たふさぎ《ヽヽヽヽ》一つのはだかになっているので、醜態をきわめていた。
(誰だろう)
と思った。多分あの見事な鞍置馬《くらおきうま》の主であろうとも思った。年はまだ若く、二十四五と見えた。顔立ちはいやしくはない。
男は、はだかの足を宙におよがせてはねおき、また犬を蹴飛ばそうとした。犬はすばやく身をひるがえして、主人のそばにかえり、歯をむき出して威嚇《いかく》のうなりを上げた。
目のくらんでいる男には、小次郎の姿が見えない。犬にだけ気をとられていた。
「こいつ!」
と、どなって、また攻撃を加えようとして、はじめて小次郎のいることに気づいた。
「ヤ!」
飛びすざった。そして二間ほど向うにころがしてある太刀に近づこうとして、じりじりと退く。下半身スッ裸の不様《ぶざま》さのくせに、威嚇の目をこちらにつけたまま、少しずつ退いて行く緊張した姿の滑稽さに、小次郎はおぼえず破顔した。
「こちらから手出しはせぬ。袴をはかれたらどうだ」
「何者だ!」
「名を聞いてどうするつもりだ。そちらが聞けばこちらも聞かねばならない。お互い、なかったことにして袂《たもと》をわかった方がよいぞ」
返事はなかった。
小次郎は、くるりと背を向け、彼の背後にちぢこまってふるえている女を先に立てて、歩き出した。
女はいつか着崩れはなおしていたが、髪の乱れを撫《な》でつけ撫でつけ、うなだれながら歩く。やや大柄《おおがら》な健康そうな娘だ。逞《たく》ましい腰をふりながら、はだしの足でスタスタと行く。このあたりの百姓の娘であろう。服装はよくないが、うつむいて、襟《えり》をぬいてあらわになっている首筋から背中の上部にかけたあたりのなよやかさと、こまやかな白さが、なやましいほどであった。あわてて視線をそらしたが、目はともすればそこにかえりたがった。
少し行くと、女は急にふりかえって、ひざまずいた。
不意だったので、危うく小次郎はつまずくところだった。
「どうした?」
年は十六七にもなろうか。大柄なからだにふさわしからず、あどけない顔をした、美しい娘であった。両手を地べたにつき、うやうやしく頭を下げた。
「館《やかた》の殿、殿のお出《い》でがなくば、つらい恥かしい目を見るところでございました。ありがとうございました。ありがとうございました」
と、礼を言って、つづける。
「しかし、ここでもうおゆるし下さいまし、お願いでございます」
小次郎は、おどろきもし、あわてもした。
「これこれ、思いちがいしてはならん。おれはどうするつもりはないぞ。大丈夫というところまで、そちを連れて行こうというだけのことだ」
娘は、パッと赤い顔になった。
「それは、わかっています。でも館の殿、わたしは、鉈《なた》と背負梯子《せおいばしご》をあそこにおいています。持って帰らないと、父《てて》に叱《しか》られます」
と、右手の林の奥を指さした。
貧しい百姓の家にとっては、鉈一つ背負梯子一つでも、おろそかには出来ないものにはちがいないが、微笑をさそわれる幼さであった。小次郎は笑った。
「よし、よし、そんなら、取って来るがよい。おれがここで見張っていてやるから」
「それでは、取ってまいります。しっかり見ていて下さりませ」
暮色の濃くこめている林の奥に、娘は入って行ったが、すぐ出て来た。薪《たきぎ》をつけた梯子を背負い、鉈を手にしていた。この林の中で薪をひろっている所を、あの男に襲われたものにちがいなかった。
「ああ、こわかった。あの殿がまた来なさりはしないかと気が気ではありませんでした」
呼吸《いき》をはずませているが、愛らしかった。
娘は、にわかに元気づいたようであった。ひっきりなしにしゃべる。
「あたしは、この芦江津《あしえつ》村の長《おさ》百姓|栗麻《くりま》の長《おさ》娘|マユラ《ヽヽヽ》ですの。年は十六になります。よく働くので村のほめものになっています。今日も、朝から草刈りに行き、昼間は田の水を見に行き、夕方前からここに薪ひろいに来たのです。
そしたら、あの殿が来られたのです。あの殿は時々この辺に遠乗りに来ては、村の娘等に悪いことばかりしなさるのです。それで、あの殿の姿を見ると、娘等は皆かくれるのです。
今日は、ここへ来る途中、わたしはあの殿と逢《あ》ったのです。それで、途《みち》をかえて見つからないように来たつもりでしたが、ちゃんと見ておられたのでしょうか、それとも、さがしつけられたのでしょうか、いきなりうしろから首をしめつけなさったのです」
ここで、娘はおかしくてたまらないように、コロコロと笑い出した。
「おかしい! あの殿は、袴をぬいで、腰から下はすはだかになって、襲いかかって来なさったのでございます。おかしいこと! どういうつもりだったのでしょう」
そして、また笑ったが、ふと、火の出るように真赤になった。おりから林を出かかっていたので、沈みかけた日の光が黄金《きん》の縞目《しまめ》になってさしこんでいて、それを透かして、娘の耳朶《みみたぶ》がすきとおる美しい紅《あか》さに見えた。
小次郎は、あの男は一体どこの誰かと、いくどか聞こうとして、ひかえた。知らない方がよいのだ、と、思うからであった。
景行等の待っているところまで行って、娘と別れた。
「真直《まつす》ぐに、急いでかえれよ」
「はい、真直ぐにかえります。ありがとうございました。館の殿、この御恩は忘れません」
娘は、また地にひざまずいて、こう言うと、夕方の煙の上っている部落の方へスタスタと歩き去る。たくましい腰をふり、はだしの足に乾いた路《みち》をふみながら。
「お待ち遠でありました」
と、景行にあいさつし、鷹《たか》を受取って、小次郎は馬に乗った。
馬を並べて行きつつ、景行が言う。
「常陸《ひたち》源氏の太郎の扶《たすく》だそうだな」
「え?」
「つい先刻、ここをあの鞍置馬で駆け通って行ったよ。顔青ざめ、鬢髪《びんぱつ》をみだし、眼《め》を血走らせ、そっくり狂人であった。下人共が顔を知っていて教えてくれた。さて、さて、憂《うれ》わしい。都も、鄙《ひな》も、名家の子弟ともあろうものが……」
驕妻《きようさい》
源ノ護《まもる》の長女を迎えるについて、良兼《よしかね》は都風《みやこふう》の新屋《しんおく》を建築した。材料をえらび、木匠《こだくみ》をえらび、費用をおしまなかったので、目をおどろかす見事なものとなった。とりわけ、場所を高い土居《どい》で沼に臨んだ位置にえらんだので、すばらしく眺望《ちようぼう》がよかった。
彼は、美しく若い新妻と、この新屋で新しい生活をはじめたが、この一月ほど前から、また新屋の建築にかかった。新妻が、沼の湿気がいやだと言い出したからである。
若い妻は、良兼に対して驕慢であった。嫁いで来てやったという気持がいつも去らないらしく、折りにふれてはその口吻《こうふん》をもらした。子供等との折り合いもいいとは言えなかった。特に虐待《ぎやくたい》することもなかったが、かまいつけもしなかったので、はじめのうち継母《はは》の美しさを喜び慕っていた子供等も、次第に冷淡になった。父の連合いではあるが、自分等には何の関係もない人、と、思っているようであった。
しかし、それでも、良兼はこの妻を愛した。溺愛《できあい》といっていいほどであった。彼は妻がどんなことを言っても腹を立てなかった。妻の心の動きにはいつも周到な注意をはらって、言い出されない前に、その意を満たしてやった。夫婦というより主従といった方が適当なくらいであった。もちろん、良兼の方が家来だ。しかも最も忠実な。
再婚して、良兼は大へん元気になり、若やいで来た。小ぎれいにはしていても、しわだらけで、いかにも老人臭かった顔には、生き生きとした沢《つや》がそい、立居ふるまいにも、溌剌《はつらつ》とした弾力が出て来た。工事場の見まわりする時など、口笛を吹き鳴らしていることもあった。
新しい家は、沼からずっと引っこんだ位置に、敷地を普通より一丈も高くして営む予定になっていた。
領内から徴発された領民や、家に養っている奴隷《どれい》や、およそ三百人ほどが、館の横の丘をほりくずした土をモッコで運び、ロクロをしかけて地つきをし、さわぎはまるで戦場のようであった。
その日も、良兼は、弓の折れを杖《つえ》にして、ここに行き、一通り見まわりをすまして、沼べの新居の方にかえりかけたが、その時、門番が走って来て、菅原景行の来訪をとりついだ。
とっさには思い出せなかった。
「菅原景行?」
と、首をひねった。
「常陸|筑波《つくば》の麓《ふもと》の紫尾の里に、数年前から来ておられる、菅公《かんこう》の御三男であります」
「ああ、そうだった。……何の用で見えたのだろう。……とにかく、お通しせよ。お家柄の人だ。逢わんというわけには行くまい」
良兼は、一旦《いつたん》、妻の許《もと》へ行った。妻は、土居の端の老松の下に立って、真昼の日の光をギラギラと照りかえしている沼を眺めていた。繊《ほそ》く白い手を軽く幹にかけ、ものうげに身をくねらせた立姿が、いつものことながら、ぞっとするほど美しく、良兼には感ぜられた。
良兼は、しばらく、陶然として見とれた後、衣紋《えもん》をかきつくろい、それから呼んだ。
「詮子《せんこ》や」
良兼は意識していないが、とろけるような甘い声になっていた。
若い妻はふりかえらなかった。答えもしない。
良兼はせきばらいを一つしておいて、さらに呼んだ。
「詮子や」
さらに甘い声だ。
詮子はゆるやかにふりかえった。面長《おもなが》な白い顔に、微笑が浮き上り、茶色の美しい目が媚《こ》びを含んでいた。
この美しい若い女はおれの妻なんだと思うと、良兼はぞくぞくするほどの幸福感が胸にあふれて、若者のような元気な足どりで近づいた。
「何をそんなに熱心に見ていやった?」
「鳰鳥《におどり》を見ていました。あんなにひっきりなしに水にもぐって、もぐる度に魚が捕れるのでしょうか。詮子が見ている間に、七十八度もぐりましたよ」
この子供ッぽさも、良兼には可愛《かわ》ゆくてならないものだ。声を立てて笑った。
「ハハ、ハハ、もの好きなこと、数えていやったのか」
「だってえ……あんなにもぐってばかりいるのですもの」
詮子は、また沼の方に向きなおって、白い指先で、沼のはるか向うを示した。
「どこだの」
「あすこ。ホラ、沼が浅くなって真菰《まこも》が一際《ひときわ》広く繁《しげ》っている所があるでしょう。あのこちらにいるではありませんか」
「……ああ……わかった。……フム、なるほど、よくもぐるのう。ひっきりなしだの」
「でしょう。もぐるたんびに魚がとれるのでしょうか」
「ハッハハハハ、どうだろうのう。わしにはわからんが、そうは捕れるまい。そんなに捕れては、あの小さな鳥だ。餌袋《えぶくろ》が裂けてしまおうからの」
「あら、そう! そうだったら可哀《かわい》そうね」
詮子は、眉《まゆ》をひそめた。白いなめらかな額にくっきりした眉の寄るのが、途方もなく艶《えん》だ。それに、この日盛りの暑熱にもかかわらず、詮子の膚《はだえ》には微塵《みじん》も汗の気など見えない。ひたすらに白く、ひたすらになめらかそうで、その周囲だけ涼しい風でも吹きめぐっているのではないかと思われるほどだ。さわったら、きっと冷んやりしているだろう。
いつか、良兼は来客のことを忘れた。
「家に入らぬか。ちょっと暑すぎる」
詮子が答えなかったので、良兼はくりかえした。
「詮子はここに居たいのです。家の方がずっと暑うございます」
打ってかわって、不機嫌《ふきげん》そうな調子だ。
良兼は途方にくれた顔になった。どうして機嫌を損じたろうと考えていた。沈黙の間を、工事場の方からのかけ声やどよめきが聞こえつづけた。
その時、郎党の一人が、急いで来た。
「申し上げます。客人《まろうど》が客殿でお待ちかねでございます」
あっ、そうだった、待たせておいたのだ、と、良兼は思い出した。
「すぐまいる、すぐまいる」
詮子が問いかけた。
「どなたがお出でなのでございますの?」
「筑波の麓の紫尾に来ている菅家《かんけ》の三郎殿が、何の用か知らぬが来られたのだよ」
「あら、まあ、そうでございますの。では、行ってお出でなさいまし」
すばやく、良兼の服装を点検して、衣紋の乱れをなおしてやり、腰のあたりについた土くれを、白い指先ではらった。
「普請場《ふしんば》歩きもようございますけれど、気をつけて下さいませんと、お召物がよごれます。しかし、これでようございます。行っていらっしゃいまし」
打ってかわって、まめまめしい世話焼きぶりだ。
猫《ねこ》の目のようにはげしい感情の変化に、いつも当惑しながらも、時々こんな風にされると、良兼の胸は、
(何という立派な女だろう。迎えてよかった)
と、幸福感にはち切れそうになる。
沼の見える客殿に、景行は持ち前の端然たる姿で、ひっそりと坐《すわ》っていた。
「てまえが、当家のあるじ良兼であります。ちょうど普請をいたしておりまして、見まわっておりましたので、ついお待たせいたしまして、失礼しました」
「まろが景行であります。坂東にまいりまして、皆様のなかま入りをいたしましてから、すでに年を経ました。一度ごあいさつに上りたいと存じながら、今日まで失礼いたしました。今後とも、なにぶんにもよろしく」
「てまえこそ」
二人は、おり目正しくあいさつをかわした。
しばらく、いろいろな雑談があった後、景行は容《かたち》をあらためた。
「実は、本日まいりましたのは、貴殿の甥御《おいご》の、豊田の小次郎殿に頼まれてであります」
「ホウ?」
「甥御には、まろは京以来ずいぶん世話になって、そのお人柄《ひとがら》については、よく存じているつもりでありますが、なかなかよいお人柄であります。弓馬武勇の道は申すまでもなく、とりわけ、その誠実な性質は、当世得がたいものがあると存じます」
良兼には、相手がこれから何を言い出すつもりか、見当がつかない。不和を仲裁するつもりかとも思うが、それならばこう小次郎をほめるわけがない。長い顔を一層長くして、目をパチつかせながら、黙って聞いていた。
「うけたまわれば、貴殿には、良子と仰《おお》せられる妙齢《としごろ》の姫君がおわす由《よし》。その方を、小次郎殿のお内方《うちかた》にたまわりますまいか。御一門であり、両総の豪族であり、年頃《としごろ》も似合いであり、申し分なき良縁のように、まろには考えられるのでありますが」
なるほど、そうだったのか、と、良兼は合点が行った。
実を言うと、良兼は良子の始末にこまっている点がある。詮子との折り合いだ。他の子供等はまだ幼いので、なつかないというだけのことだが、良子は年が年だ。時々冷やりと感じさせるものが若い継母との間に閃《ひらめ》くのを見るのだ。
(くれてやってもよい。この際、良子が家を出れば、家庭の空気はずいぶんなごやかになる)
と、良兼の意は動いた。
しかし、売り急ぐ様子を見せてはならない。それは決して娘の将来のためにならない。
良兼はしぶい顔をつくった。
「尊《みこと》は、小次郎から頼まれておいでになった、と、仰せになりましたな」
「そうであります」
「それならば、小次郎に申していただきたい。このようなことを申しこんで来るには、そなたはその以前にすべきことがあろうと」
景行は、うやうやしく頭を下げた。
「それは、甥御が、貴殿のご機嫌を損じていることを仰せられるのだと存じますが、さようでございましょうな?」
「そうです」
「そのことについては、まろの至らぬため、話があとさきになりましたが、実は甥御も大へん心配なされて、くれぐれもおわびを申し上げてほしいと申されたのであります。どういうことがありましたか、くわしいことは、まろは存じませんが、何と申しても、御一門、切っても切れぬ血縁の間のもつれ、若さゆえのあやまちと、御寛容の上、お聞きとどけ賜わりますよう」
能弁ではないが、落ちついて、しっとりとした説きぶりだ。態度にも、誠実さがあふれている。
「それでは、甥は前非を悔いているのでありますな」
「さよう。一族の長老方のごきげんを損じて、心苦しいと申しています」
良兼は、このへんでもう折れ合ってもよいと思った。しかし、もう一押しすべきだと、何か言おうとした時、詮子の侍女の一人が、簀子《すのこ》伝いに姿をあらわした。
「申し上げます。北の方様が、殿様にちょっとお出《い》でを願っておられます」
侍女のことばがおわるかおわらないうちに、もう良兼は腰を浮かしていた。
「あ! そうか。すぐまいる」
と、へんじしておいて、景行に、
「しばらく中座。失礼ながら……」
というや、相手の返事を待たず、あたふたと客殿を出た。
詮子は、新殿の廂《ひさし》の間に、沼から吹きこんで来る風に吹かれて坐っていた。ただよう雲の姿でも見ているらしく、細めた目を空に向けて、うっとりとした表情であった。
「詮子や、御用かな」
あのとろけるような甘い声をかけながら、良兼は入って来た。いそいだため、少し呼吸《いき》がはずみ、からだじゅうに汗が流れていた。
詮子はふり向いた、にこりと笑った。
「すみません。御来客のところを」
と、わびながら、手をのばして円座《えんざ》をしきなおした。
「なんの、なんの」
良兼は、坐った。
「ところで、御用は?」
詮子は、また笑った。
「早く用事をすまして、お客様のところへいらっしゃりたいのでございましょう」
からかうような、怨《えん》ずるような態度だ。良兼はあわてもしたが、うれしくもある。
「そんなことはない、そんなことはない」
と、良兼は言ったが、足りないような気がして、つけ加えた。
「わしには、そなたが一番可愛いのだ。そちと一緒にいるのが、一番楽しいのだ。それは知っているではないか」
「ホホ、うれしいこと!」
詮子は、笑った。うれしげというより、皮肉げにとれる笑いであった。しかし、良兼にはそれはわからない。もっと愛情にみちたことを言って喜ばしてやりたいと思った。
「そなたのためには、わしはどんなことでもする。なにものもおしまない」
うるさげな表情が、詮子の顔を走ったが、すぐ消えた。
「ほんと? うれしいこと」
と、言って、つづけた。
「菅家の三郎の殿は、豊田の甥の殿の用事でまいられたのでしょう」
良兼はおどろいた。
「ホウ、そなた、どうして知っていやる。よくわかりやったの」
「ホホ、あの方は、豊田の甥の殿のお世話で、当地方に下ってまいられたと、実家《さと》にいる頃聞いています。そして、小次郎の殿は、今、こなた様のごきげんを損じておられます。それよりほかに考えようはありませんもの」
「ああ、そうか」
良兼は、またしても、若い妻の慧敏《けいびん》さに感心させられた。
詮子は、得意気に笑って、
「でも菅家の殿は、和解のためにお出でになったのではないでしょう。もっと改まったことでお出でになったのでしょう」
良兼はまた舌を巻いた。
「ホウ、よくわかりやったの。何もかも見通しだの」
「豊田との不和はもう長いことでありますのに、今までそれについて何ごとも申して来られませんのに、改めて菅家の殿ほどのお人がまいられたのは、改まってのことが出来た故《ゆえ》としか考えられませんもの」
説明されれば、当然の推理だが、それにしてもおどろくべき才智《さいち》だ。良兼はほとんどもう尊敬した。いとしさは増すばかりだ。
「そうだ、そうだ、その通りだ。そなたは、なんというさかしい人だろう」
「ホホ、ホホ、ホホ、それで、どんな御用でまいられましたの。やはり荘《しよう》のことでございますの」
「荘のことではない。思いもかけないことであった。実はな、良子を嫁にくれというのじゃよ」
「まあ!」
詮子も意外であったらしい。しばらく黙っていた。
この沈黙を、良兼は、良子にたいする遠慮からだと思った。内心ではくれてやってくれればよいと思っているのだと想像した。何よりも、早くよろこばしてやりたかった。せかせかと話しついだ。
「良子も年頃だ。いずれは嫁がなければならないのだ。小次郎ならば一門だ。前非を悔いているならば、やってもよいと、わしは思っているのだ」
なお言いつづけようとする夫を、若い妻はさえぎった。
「それでは、承知と仰《お》っしゃいましたの?」
「イヤ、はっきりとはまだ申さなんだ。申そうとしている所に、そなたの使いが来たので」
と、良兼は言訳するように言った。
詮子は、ホッと溜息《ためいき》をもらした。それがいかにも安堵《あんど》したような風に見えたので、良兼は意外に思った。
詮子は、ニコリと笑った。
「それはようございました。姫のことについては、わたくし、考えていることがございますの」
良兼は、目をパチつかせ、長い顔を平手で撫《な》で下ろした。
「ホウ?」
詮子は、また笑った。
「御縁がございまして、わたくしが当家に嫁いでまいって、当家とわたくしの実家《さと》とは、大へん親しいなかになりましたが、わたくしとしては、更になお両家の縁がかたくなってほしいと、いつもいつも、思っているのでございます。殿は、そうはお思いになりません?」
詮子の言うことなら、何によらず、良兼はさからえない。まして、これは適切きわまる提言だ。力をこめて合槌《あいづち》を打った。
「思うとも、思うとも、わしもそう思いますぞ!」
「それでねえ、殿。わたくしの実家には、弟が三人もいます。一番上の扶《たすく》は二十四にもなるのに、まだ定まる妻がございません。もし姫を扶にやっていただければ、両家は重縁の間柄となるわけでございます。
ねえ、殿、そうでございましょう」
良兼は、丁と小膝《こひざ》をたたいた。
「そうだ! どうして、わしはそこに気がつかなかったろう。そう願えれば、わしとしては、この上のことはない。
しかし、扶殿のお気持はどうだろう。また、お父上のお気持は? もらって下さるかな」
良兼は良子に愛情がないわけではない。幼い時から、良子は良兼の鍾愛《しようあい》の的であった。すべての子供等の中で、一番良子を可愛《かわい》がって育てた。ただ、老年になってからの恋妻の方が、それ以上にいとしいというにすぎない。
ところが、良子に対してあまりいい感じを持っていないとばかり思っていた恋妻が、案外な愛情を持っているばかりか、実家の弟に縁づけて、両家の親しみの新しいクサビにしようと考えていようとは!
こんなうれしいことはなかった。
良兼は、妻に対して感謝し、さらに愛情の湧《わ》くのを覚えた。
詮子は考え深い顔になった。
「このことは、まだわたくしだけの考えで、父にも弟にも相談したわけではございません。しかし、わたくしにまかせて下さいまし、きっとうまくはからいますから」
実を言うと、すでに相談の出来ていることであった。父も、弟もこのことを望んで、数カ月前、詮子にまで頼んで来ているのだ。しかし、詮子は知っている。すべて取引きというものは受けて立つ方が有利であることを。
「では、客殿へいらして下さいまし。あまり長くなっては失礼でございますから」
「よしよし」
良兼は、客殿にかえって来た。
「失礼いたしました。よんどころない用でございましたので」
「イヤ。こちらこそ、唐突に参上したのでありますから」
景行は、儀礼正しく、沈着に受けて、
「所で、先刻の話、お聞きとどけ願えましょうか」
良兼はムッとした顔で黙っていた。相当|老獪《ろうかい》な性質ではあるが、気は弱い方だ。出来ることなら、理窟《りくつ》の立った拒絶をしたいのだが、その理窟が見つからない。
景行はいぶかった。先刻とまるで様子がちがう。先刻は今にも承諾しそうだったのだ。しかし、あわてなかった。一応のもったいをつけているに過ぎないと見た。微笑を浮かべて言った。
「先刻も申しましたように、甥御も御機嫌《ごきげん》を損じていることを後悔しておられることなり、御一門の結束をさらにかためることなり、御勘考の余地なき良縁と、まろは考えるのでありますが……」
「…………」
「それとも、赤の他人であるまろが参ったのが、お気に召さんのでありましょうか。実を申すと、甥御もその点を気になさったのでありますが、石田の殿は、目下御令息|貞盛《さだもり》の殿の婚姻のために多忙でいらせられるし、水守《みもり》の殿とは、昨年来まだ和解が出来ていないというので、やむなくまろがまいることになったのであります。
何もかもあとさきとなって、恐縮でありますが、以上の次第でありますれば、何分ともに御諒解《ごりようかい》を願います」
良兼は、景行にものを言わせれば言わせるほど、拒絶しにくくなると思った。もう理窟なんぞどうでもよい、一気に直進するだけだと思った。守り本尊の御姿を思い浮かべて敵陣に飛びこんで行く兵士の気持で、妻の美しい顔を思い浮かべながら、言いはなった。
「この縁談、おことわり申す!」
景行はおどろいた。急には口がきけなかった。
良兼は、ガムシャラな調子でつづける。
「小次郎がなんと申そうと、つかわすことは出来申さん。第一、拙者は小次郎を甥と思っており申さん。やつは一族としての規矩《きく》を破り、一族から勘当されたものです」
「それは……」
と、景行がことばを挟《はさ》もうとしたが、良兼はおどりかかってねじ伏せるような勢いでつづける。
「イヤ、イヤ、何と仰せられても無駄《むだ》です。拙者は決してゆるさん。ゆるさん者に娘をつかわすなど、出来ることか、出来んことか、考えるまでもござらん」
こうなっては、もうまともに相手にはなれない。景行は口をつぐんだ。なぜ、こうも急に態度が変ったろうと、考えていた。
物静かなその姿を見ているうちに、良兼はいささか恥かしくなった。
「失礼。せっかくお出で下さったのに」
と、わびて、少し考えて、つけ加えた。
「実は、姫はもう縁談がきまっているのです。前《さき》の常陸《ひたち》大掾《だいじよう》の長子につかわすことになっています」
彼はこれを言わないつもりでいたのに、言わずにおられなかったのだ。しかし、言ってしまってから後悔した。これを言うなら、これまでやりとりしたことは必要のないことだった。
桔梗《ききよう》の宿
「そうでありましたか。いたしかたのないことです。お骨折りありがとうございました」
表面は平静に言いながらも、小次郎の胸中は煮え返るようであった。拒絶はまだよい。人もあろうに、源ノ扶などにやろうとは、と、思うのだ。良子があわれでならない。あの清純で、明るく、可憐《かれん》な良子が、札つきのきらわれものである扶のものとなり、ふみにじられるかと思うと、言いようもないむざんな気がする。
「源家《げんけ》の太郎殿のことについては、色々と風評も聞くし、いつぞや、おことと広河の江のほとりで見たこともある。そんな人に大事な姫君などをつかわされるとは、と、まろは思った。しかし、申すわけにはまいらなんだ。良兼の殿の北の方は、扶殿の姉君であるとやら」
「そうです。そうです。それ故に、必ずや、これは源ノ護《まもる》のさしくりと存じます」
小次郎は、なお言いたかった。おそらくは、源ノ護は上総《かずさ》の伯父の身代全部を源家におさめようと思っている。即《すなわ》ち、伯父百年の後、その遺産の相当部分が長女である良子に行き、のこりの大部分は未亡人である詮子に行き、つまりの果ては常陸源氏のものになるという仕組だ。良子の弟等こそあわれなものだ。形式的にほんの少しばかりのものしか譲られまい、と。
しかし、考えただけで、口にはしなかった。今の小次郎の立場で、これを言っては、見苦しいことになる。
景行は、一夜とまって、紫尾《しお》にかえって行った。
十数日の後、もう秋のかかりであった。貞盛の婚礼が石田の館《やかた》で行われた。貞盛自筆の招待状が来た。
「あいつなら、行くだろうな、平気な顔で。そして、気の利《き》いたからかい口でもきいて、愉快に、気楽にさわぐだろうな」
と、思ったが、これは行けるものではなかった。郎党を代理にして、祝いの品物を持たせてつかわした。
面白からぬ日がつづいた。農事にいそがしい季節であれば、それにまぎれもしようが、おりあしく、稲田は除草もすみ、水もいらなくなって、稔《みの》りを待つばかりの農閑期だ。やるせなかった。小次郎の毎日は、酒か、狩猟か、漁《すなど》りかに費された。
そのある日……
いつもの通り、鷹狩《たかがり》に出て、芦江津《あしえつ》のほとりの草原で昼食《ちゆうじき》をつかおうとしていると、横の方から来かかった、数人の百姓娘があった。草刈り帰りらしく、皆草刈|籠《かご》を背負い、鎌《かま》を手にして、若い娘らしくにぎやかにおしゃべりしながら出て来たが、小次郎を見ると、一斉《いつせい》にひざまずいておじぎした。
小次郎は、無言で答礼したが、ふと気づくと、中の一人が親しげに微笑しかけている。
いつぞやの芦江津村の長《おさ》百姓|栗麻《くりま》とかの娘マユラであった。
「おお? そちか」
「この前はありがとうございました。館の殿は、ここでお昼食でございますか」
少し赤い顔をして、にこにこ笑いながら問いかける。
しばらくの後、小次郎は娘等と連れ立って、芦江津の部落に向った。家へ来て、昼食なされたらよい、お湯など沸かしてさし上げましょう、と、マユラが言ってくれたからであった。
若い異性、しかもふだん近づくことすら出来ない館の殿と、親しい口をききながら連れ立って行くよろこびのために、娘等ははしゃぎ切っていた。ひっきりなしにおしゃべりをし、笑いさざめき、時々|大袈裟《おおげさ》な叫びを上げた。
小次郎も、楽しい気持になっていた。性質で気軽に口はきけないが、日頃《ひごろ》の鬱屈《うつくつ》がほぐれる思いで、たえずにこにこしながら歩いた。
娘等の話によると、あれ以来、扶は姿をあらわさないという。
「いい気味! 犬に食いつかれて! 皆に見せたかったよオ!」
マユラは、身ぶり、手真似《てまね》で、あの時の扶の醜態を演じてみせて、アハハと笑った。
他の娘等も笑った。その中の一人は、草刈場で真ッ昼間扶にひどい目にあわされたというのだが、皆と同じように笑った。まるで屈託がない。明るく、ほがらかに、面白そうだ。身分のあるものや、京あたりの者にとっては、とりかえしのつかない災難として生涯《しようがい》の運命を狂わせるにちがいないことが、せいぜい蜂《はち》に刺されたくらいのこととしか考えられていないようだ。
うらやましいような明るさ、健康さ、たくましさであった。
マユラの家は部落の中ほどにあった。部落の家はどれも似ている。樫《かし》の防風林にかこまれた真中に、苔《こけ》むした小さい母屋《おもや》と牛馬小屋とが、もたれ合うような形で密接して建ち、家の前面に穀ほし場があるという構成だ。マユラの家も、この通りであったが、長百姓だけに、いくらか規模が大きい。邸地《やしきち》も広ければ、家屋も大きく、道路に面した所に空を払うばかりの巨欅《おおけやき》が数株あって、人目をひいていた。
また、ほかの家では床がなく、たたきかためた土間にじかに莚《むしろ》をしいて、その上で生活しているのだが、この家では床が張ってあった。
館の殿の時ならぬ来訪に、マユラの家では大さわぎになった。マユラの父も、母も、兄弟等も、飛び出して来て土下座した。
「かもうてくれるな。湯を一ぱいくれれば、それで結構なのだ」
と、小次郎は制したが、
「へい、へい、へい、なんにもいたしはしません。小百姓のことでございまするで」
と、言いながら、何くれとなく心をくだく。
屋内はむさくるしいからと、欅の下の緑蔭《りよくいん》に莚をしき、円座をおき、そこに坐《すわ》らされた。
マユラの兄が、鶏を捕えて羽根をむしり、弟が椎茸《しいたけ》山に走り、一緒にかえって来た娘等が、それぞれに手わけして、湯をわかし、酒器をみがき、庖丁《ほうちよう》をとった。
いくら辞退しても制しがたい勢いと見た小次郎は、その日の獲物《えもの》であった鴨《かも》や雉《きじ》を出して差出した。
「わア! こらアええ!」
娘等は、両手《もろて》を上げて歓声をあげた。
酒のはじまる頃から、村人等がそれぞれ酒肴《しゆこう》をたずさえて集まって来て、それをささげ、
「館の殿、ようこそお出《い》で下さいました」
「館の殿、殿にこうして間近くお目通り出来る時を待っておりましただ」
「館の殿、先殿《せんとの》にはえらい可愛がっていただいて、狩場の案内などつとめさせていただいたものでございますだ」
などと言っては、入りかわり立ちかわり、前に出る。粗野で、素朴《そぼく》で、喧嘩《けんか》早くて、人がよくて、人情厚い坂東|人《びと》どもだ。小次郎はよろこんで相手になった。
はじめは男共、それも中年以上の者共ばかりであったが、やがて、若い男等もやって来、最後には女まで老若《ろうにやく》を問わず集まって、大饗宴《だいきようえん》になった。
唄《うた》が出、おどりが出、笛や、太鼓まで持ち出され、人々はひたすらに熱狂した。
日が暮れたが、空には十日ばかりの月がある。人々の興は高まる一方だ。樫の防風林にかこまれ、夜空をはらう巨大な欅の下にある広い穀ほし場には、幾カ所も火が焚《た》かれて、饗宴は新たな元気をもって続行された。
素朴で卑猥《ひわい》で、滑稽《こつけい》な唄が至るところから出、笛や太鼓がそれに綾《あや》をつけ、哄笑《こうしよう》と拍手が勢いをそえた。それは、人間の原始の感情に直接に訴えて、快い波を心にかき立てるものであった。
小次郎は、唄がうたえない、人々とともに手拍子を打ち、囃子《はやし》を立て、笑うばかりであったが、それでも、かつて覚えないほど楽しかった。
「いいなあ、いいなあ、実にいい」
と、たえず胸の中でくりかえした。一度ならず二度までも貞盛に恋人を奪われたことも、上総《かずさ》の伯父が申込みを拒絶したことも、野の人々のこの素朴で、単純で、それ故《ゆえ》に根元的な喜びにくらべれば、何でもないと思いはじめた。
とつぜん、一人の若者が、そばにいる娘を引ッかかえて、燃えさかる炎のそばに出て行ったかと思うと、唄いながらおどり出した。片手をつなぎ、片手で人々を招きながらおどる。
皆|来《こ》
皆|来《こ》
はしけやし好男子《えをのこ》
はしけやし美少女《えをとめ》
月|白《あか》し この夜
風|清《すず》し この夜
場《には》はひろし
踊りたぶれむ
このよき夜
踊り明さむ
このよき夜
旋風がまきおこったようであった。人々はドッと立上って、そこへ走り集まった。皆手をつなぎ、パチパチとはぜては火花を上げる炎のまわりに、円陣をつくって、おどり出した。大方は若い男女であったが、中には髪の白い、腰の曲った老人や老女もいて、元気よく手足を屈伸して、はしゃぎ切った声を張り上げていた。
芦江津の広野《ひろの》に
尾花|靡《なび》かふ
靡かふなべに風ぞ吹く
靡き靡かひ波立つさまは
二人寝た夜の
二人がなかよ
ヤハアレ、ヤハアレ
小次郎は驚嘆し、また羨《うらや》ましく思いながら見ていたが、ふと、そばにすり寄って来た者があった。
「……殿」
マユラであった。酒気と興奮に頬《ほお》を染め、微笑し、目が大きく黒々とかがやいていた。
「行っておどりましょう」
マユラは言った。吐く息がはずんでいるのが、なにかなやましかった。
小次郎は笑った。
「おれはおどれないのだよ」
「あたしが教えてあげます。おどりましょう。おどれないことがあるものですか。手足のある人なら、誰でもおどれます。人一倍たくましい手足をもっておいでの殿ではありませんか」
「それでも、おどれない」
「いいから行きましょう。こんな夜、容儀づくっている人は、神々の罰があたります。さあ!」
酔っているらしい。大胆に、小次郎の腕をつかんで、邪慳《じやけん》なくらい強く引っぱった。
引かれるままに、小次郎は立上った。おどってみようか、という気になった。
「やあ、殿もおいでだ、殿もおいでだ」
人々ははしゃぎ叫び、おどりは一層熱狂的になった。
薄野《すすきの》の芦野《あしの》のうつりに
鴨《かも》二つ
夫婦《めをと》なるげな。
ガガと鳴いてはつがひ
ククと啼《な》いてはつがひ
ルルと鳴いては
並《なろ》うでおよぐ。
夫婦なるげな 鴨二つ
ヤハアレ、ヤハアレ
うらやましもよ
ハッハハ!
ハッハハ!
ハッハハ!
おどってみれば、小次郎にもおどれた。所作は単純をきわめている。唄のリズムに乗って、人のする通りに手を上げ、足を上げ、旋回し、進退していればいいのだ。面白かった。次第に夢中になった。
どれほどの時間がたったか、気がつくと、踊りの輪は小さく、またまばらになっている。
「皆どうしたろう?」
と、思った時、つと手をのばしたマユラが、小次郎の袖《そで》をつかんでグイと引いた。
小次郎には、なぜ少女がそんなことをするか、わからない。軽くはらった。マユラは、はらわれた手を、唄いながら舞いの手のように大きくまわして、また袖をとらえた。グイと引く。
またはらったが、今度ははなさない。唄いながら、片手は拍子に乗って動かしながら、足ぶみしながら、グイグイと引きずる。炎に照らされた目が燃えるようにかがやき、可愛《かわい》い唇《くちびる》がはげしくふるえていた。
小次郎は胸がふるえ、全身が熱くなり、足がよろめき、よろめく足どりのまま相手の引くがままに輪をはずれた。
篝火《かがりび》の明りのある間は、マユラの足どりはゆるやかであった。手も舞いの手をくりかえしていた。しかし、そこをはずれて小暗い所に入ると、小次郎の片腕をわきの下に抱きこみ、
「急いで!」
というや、防風林の中に走りこんだ。
マユラはさらに防風林を駆けぬけた。
駆けぬけると、明るい月の下だ。
「どこへ行くのだ?」
「シッ! だまって!」
マユラはなお走る。顔を汗にぬれ光らし、髪をふり乱し、異様に目がきらめき、しっかと小次郎の腕をかかえた手も汗にぬれていた。
部落を出て、野に出た。月の光煙りわたる方々に、男女|一対《いつつい》の姿があって、それぞれに非常な速さで、藪蔭《やぶかげ》や、草むらや、堤のかげに走って行っては、姿をかくす。野の獣のようであった。かつての筑波の夜が思い出された。
二人は芦江津のほとりについた。
「さあ、ここへ来れば大丈夫。誰も邪魔するものはいません」
マユラは、袖をたくし上げて、顔の汗をふいていたが、やがて着物をぬぐと、上半身はだかになった。皮をむいたようにつるりとしたからだは、明るい月光に照らされて、雪のかたまりかなんぞのように真白に見えた。
マユラは、脱いだ着物で、そのからだをゴシゴシと拭《ふ》いた。両腋《りようわき》を拭き、胸部を拭き、腹部を拭き、背中を拭いた。はげしい動きにつれて、かっちりとしまって、槍《やり》の穂先のように斜めに乳首を突き上げている双の乳房が、月の光の中にふるえた。
すっかり拭いてしまうと、こんどは髪をたくし上げにかかった。
この少女は、稚《おさな》げな顔立ちに似ず、からだはたくましい。胸はばも、胸のあつさも、しまった腰も、もうすっかり成女だ。腕など意外なくらい肉づきがよくてたくましい。しかし、適当な長さを持っているため、不恰好《ぶかつこう》ではない。
そののびのびとして美しい両腕を上げて髪を解くと、長い髪がはらりととけて、白い背中に流れ、腰まで蔽《おお》うた。叢立《むらだ》つ黒雲がサッとひろがった感じであった。
マユラは、その髪を両手にとってたくし上げ、やや長い時間をかけて、頭の上にとめた。そばに小次郎の見ているのを、まるで意識していないようであった。
小次郎は、つい三四尺はなれた位置に、草をしいて腰をおろしていた。彼は少女の大胆さに驚き、その美しさに圧倒される思いであった。次第に呼吸《いき》がはずみ、火のようなものが体内に燃え上って来つつあったが、ふとその腋の下の陰に、薄墨をぼかしたようにほのかに黒くやわらかな影を見ると、忽《たちま》ち呼吸がつまった。
その時に、マユラがふりかえった、白い歯がチラリと月光に光ったのは、笑ったのであった。
猛虎《もうこ》が獲物を搏《う》つようであった。小次郎はおどりかかった。
「あれ!」
マユラはかすかにさけんで飛びのいた。
小次郎の手は、わずかに相手のまるく、つめたくすべっこい肩にふれただけであった。
ものも言わず、小次郎はまたおどりかかった。
少女はカラカラと笑ってまた飛びのいて、身をひるがえした。とたんに、サッと乱れてまた解けたマユラの髪は、はばひろい鞭《むち》のように靡いて、小次郎の顔をピシッと打った。
小次郎は、すばやくその髪をとらえて、キリリと右手に巻きつけた。手にあまるほど、多量で、つめたくて、なめらかな髪だ。ぞっとする感覚となって、心の最も奥深いところにひびいた。
小次郎は、ギリッと奥歯をかんで、力まかせに手許《てもと》に引いた。引かれて、マユラはよろめき、上体がたおれかかって来た。小次郎は、その裸の肩に左手をまわしてかかえこんだ。
つめたくて、なめらかで、しなしなと吸いつくようにやわらかなくせに、労働に鍛えられた筋肉がかっきりとした手ごたえをもって底にうねっている肩だ。
マユラは笑いながら、小次郎に身をあずけ、小次郎の肩を両腕《もろうで》に抱いた。
小次郎は、悩乱し、夢中になった。右手にからんだ髪をふりほどき、抱きすくめようとしたが、その咄嗟《とつさ》の手のゆるみに、マユラは身をひねって、抱擁を脱した。飛びのいていた。
「アッハハハハ」
白いのどを見せて月を仰ぎ、明るい笑いをはじけ上らせていた。
季節に浮かれた野の獣の牝《めす》が、表面|牡《おす》の求愛を拒みつつも実は誘惑するに似ていた。追えば逃げ、とどまれば近づいた。
しとどな露に濡《ぬ》れた月下の野を追いつ追われつしているうちに、二人はしだいに野の獣になってしまったような気になって、狂いに狂った。
薄刃の刃物のような薄《すすき》が皮膚をかすって血をにじませ、茨《いばら》がからんで引き裂き、灌木《かんぼく》がはじけかえって笞《むち》となって顔やからだを打ったが、ほとんど痛いと感じなかった。感じても、かえって情をあおられた。
とつぜんだった。風を巻く勢いで疾走していたマユラが、急角度に旋回したかと思うと、|まり《ヽヽ》のはずむに似て、小次郎の手許におどりこんで来た。
二人は激突し、激突したまま、しっかと抱き合って、同体にたおれた。
ひとむらたけ高く薄の繁《しげ》っている上であった。二人のからだは汗にぬれ、はずみかえる呼吸は湯気のように熱かった。その呼気《こき》をからませ、相手の顔にはきかけ、二人は唇を合わせた。共に火のように熱し切っている唇だ。
「うッ!」
と、マユラはむせかえるうめきを上げたが、小次郎ははなさなかった。渇《かつ》した人が熟れた果実《このみ》をむさぼるように、むさぼり、またむさぼった。
二人とも、目を閉じていた。青ざめていた。身動き一つしなかった。合わさった唇だけが、うごめくようなかすかな動きを見せているだけであった。
月は中天をすぎたが、ますます明るく、風は死んで、広い野にはなに一つとして動くものがない。ただ、二人の横たわっている右手二三町のかなたの、梨地《なしじ》の銀板をのべたような芦江津の沼の隅々《すみずみ》に、薄い煙のような霧が湧《わ》き、目に見えないほどずつ動いて、沼の面を蔽うて行きつつあった。
「……ああ……」
どちらがうめいたか、一つうめき、共にかすかに身動きし、またうごかなくなった。
ふと、小次郎は目をさました。月はとうの昔に沈んでいたが、東の空に薄明りがさしていた。
むっくりと起き上って、周囲を見まわした。ただ一人、露の薄むらの中に寝ていることを発見した。
長い呼吸をつき、薄い霧の立っている芦江津の沼に眸《ひとみ》をはなったまま、ややしばらく動かなかった。
昨夜のことは、夢のような気がする。とても現実にあったこととは思われない。しかしあったにはちがいない。腕に、唇に、からだの至るところにのこるこのまざまざとした感覚が、現実以外のものであるはずがない。
(筑波の時もこんな気がしたっけ)
と、思った。
(胆沢《いさわ》で蝦夷《えぞ》娘サムロとの最初の契《ちぎ》りも、山の露草の中であった)
と、思った。
(おれの情事は、いつも山や野の中ではじまる)
とも思った。
おかしくなって、ひとりで声を立てて笑った。
(おれは坂東の曠野《ひろの》の男だ。それにふさわしく、山の鳥や野の獣のような恋をするのだろう)
粗豪で、大らかで、たくましいものが胸にひろがっていた。いく度か長い呼吸をくりかえして、つめたく、しめっぽく、清らかな空気を呑吐《どんと》した。
その間に、あたりは益々《ますます》明るくなって来た。
(帰ろう)
と、思って、立上り、身をかえしたが、ふと、そこに一輪の花の咲いているのを見つけた。
桔梗《ききよう》であった。あたり一面、狂熱的な昨夜の愛慾《あいよく》の荒《あら》びに踏みにじられている中に、この一輪だけ、葉も茎もしゃんとして、可憐《かれん》な紫の色に露をふくみ、目のさめるような鮮やかさで咲いている。
小次郎は、腰をかがめて折り取り、それを鼻にあてて匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、歩き出した。
一旦《いつたん》、マユラの家に行った。
マユラの家では、もう昨夜のなごりはどこにも見えず片づいて、人々はそれぞれに朝の営みにとりかかっていた。なごりは、どの顔にもない。きびしいくらいまじめな顔をして、小屋から牛をひき出したり、鋤《すき》をかつぎ出したり、鎌《かま》をといだりしている。
「ヤア。昨夜《ゆうべ》はずいぶんと造作をかけたな」
小次郎は、牛小屋から牛を引き出しているマユラの小さい弟に何か注意をしているマユラの父に、声をかけた。
栗麻《くりま》はふりかえって、ひざまずいた。
「お早うござります。なんの、なんの。おかげさまで、今日もいい天気でござりますだ。今年は豊作でござりますぞ」
と言って、日の出前のよく晴れた空を仰いだ。明るい声、明るい表情であった。
マユラは、どこにいるかと、それとなくさがしたが、目のとどく所にはいなかった。のこりおしかったが、このいそがしい様子を見て、ぐずついてはおられない。
「それでは、わしはかえる。いずれお礼に来る」
と、あいさつして、鷹《たか》をすえ、犬をつれ、馬に乗った。その時、家のうしろから、マユラが出て来た。
ひょいと出て来たマユラは、草刈りに出かける所らしく、その支度をしていた。草刈|籠《かご》を背負い、鎌を手にしていた。
小次郎と、真正面から顔を合わせると、にこと笑った。
「お早うございます」
すがすがしく血色のよい顔をしている。これにも、昨夜のなごりは毛筋ほども見えない。
小次郎は、昨夜のことにこだわっている心がやましいような気がした。
「お早う」
とだけ言って、馬を乗り出したが、ふと、手綱《たづな》にそえて先刻の桔梗をまだ持っているのに気づくと、ふりかえって、それを差し出した。
「これをやろう。あそこに咲いていた」
にわかにマユラの様子がかわった。おちつきはらった様子は消えて、羞《はず》かしさにたえないように、赤くなった顔を伏せ、おずおずと手を出して受けた。
「また来る。おれを忘れないでいてくれ」
少女は、微《かす》かに顔を上げ、上目づかいに小次郎を見た。疑っているようであった。
小次郎は、栗麻の一族どもが、それぞれの位置から、緊張した顔をして見ているのを意識して、それに聞こえるように、はっきりした声で言った。
「おれは必ず来る」
少女はかすかにうなずいた。よろこびの表情とともに、媚《こ》びるような、すがりつくようなものが両眼《りようめ》にあふれ、忽ちそれは薄い涙になった。
三日に上げず、小次郎は芦江津村に通うようになったが、一月ほど後には、館《やかた》の近くに家造りして、そこにマユラを置くことにした。
その館は桔梗の館と名づけられ、住む人は桔梗の前《まえ》と呼ばれた。
桔梗の前は、彼によく仕えた。彼もまた満足した。家族等も、世間の人も、これを非難はしない。こんなことは、当時では普通のことなのだ。
「豊田の殿も、男ざかりだ。これまで何もなかったのが異例だったのだ」
と、話が出れば言うのであった。
しかし、人間の行動というものは、そのことだけでは終らないのが普通だ。一つの行為は、二つの行為を生み、さらに三つを生み、四つを生む。愛慾のことは、とりわけそうだ。
ひとたび手綱を切った小次郎の意馬《いば》は、野にはなたれたにひとしかった。領内の至るところに女をこしらえた。彼はめったに館にかえらず、次々に女の家を泊り歩いた。
どの女も、心から小次郎に仕えてくる。それは彼にもよくわかっていたが、それでいながら、いつも飢え渇くものが、心の奥深いところにある。その飢え渇くものが、彼をおちつかせない。次から次へと、女を漁《あさ》らせてやまない。
「どうしたものじゃろうの、豊田の殿のこの頃《ごろ》の有様は、あれではあまりぞよ」
と、人々は噂《うわさ》し合った。
小次郎の生活はすさんだ。
父と娘《こ》
良子が、父から、継母《はは》の弟の扶《たすく》との縁談が持ち上っていると聞かされたのは、秋ももう末のことであった。
「家柄《いえがら》といい、人物といい、両家の間柄からといい、この上もない良縁だと、わしは思うのだが、そなたはそう思わぬか」
と、こんな工合《ぐあい》に、良兼《よしかね》は話した。
良子はあまり気が進まなかった。いずれは縁づかなければならない身とは思うが、自分の嫁《い》ったあとの弟達のことが気にかかった。また、何となくもっとよい嫁ぎ口があるような気もする。
彼女は笑って、父をまるめる時のいつもの方法によって、あまえるような言葉でこたえた。
「良子はまだまだ嫁になど行きたくはございません。まだまだお家にいて、お父様達と一緒に暮したいのでございます」
「行きたくないと申しても、そなたの年なら、もう早いことはない。そなたのお母様が当家にまいられたのは、十五であった。そなたはもう十六になっているでないか。おそいくらいだよ」
「だって、それはお母様ですもの。良子はまだ子供ですもの」
稚《おさな》げな言いぶりに、良兼は覚えず笑い出した。可愛《かわい》さがこみ上げて来た。いつもなら、話を打ち切らずにおられないところであった。
しかし、これは自分だけの考えでなく、詮子《せんこ》の意志である。気をとりなおさざるを得ない。
「良子や」
「はい」
考え考え、良兼はつづける。
「女というものは、いつまでもひとりでおられるものではない。いずれは夫を持たねばならぬものだ。そしてまた、女の盛りというものは、短いものだ。春咲く花のさかりよりもまだ短い。あっという間もなく凋《しぼ》み散る。
それ故《ゆえ》に、その盛りの間に嫁ぐのが、生涯《しようがい》の幸《しあわ》せを開く一番よい道だ。何やかやと我儘《わがまま》を言って、盛りの時をすごしては、よい人は見向きもしなくなる。
高慢を言うて、選《え》り好みしていたために、可惜《あつたら》、花の盛りをすごして、つまらぬ男の妻《め》になった人の例《ため》しは、世に少なくない。そういう人を、そなたも知っているであろうがや」
神妙そうな様子で聞いていながら、良子の心はさかしく思いめぐらす。
(お父様がこうまでしつこく言われるのは、お母様の指金《さしがね》があるからにちがいない。お母様は御実家の栄えのために当家に嫁いで来られたが、またそのために、わたしを御実家に縁《かた》づけようとなさっているのだ)
良子が黙っているので、良兼はいくらかその心を動かすことが出来たと思った。
「どうだの、合点行ったかや」
良子は顔を上げた。にこりと笑った。
「良子が源家《げんけ》に嫁げば、当家の幸せになりますの」
笑いながらのことばではあったが、鋭いものがあった。良兼はやましさに似たものを感じた。しかし、おちついて答えた。
「もちろん、両家の幸せになる。しかし、そんなことよりわしはそなたの幸せを思っている」
良子は笑い出した。
良兼は一層心のひるむのを覚えたが、きびしい顔をつくった。
「なにを笑う?」
良子はなお笑いながら、
「だって、おかしいんですもの。あたしの幸せと仰《お》っしゃっても、あたしはまだその方にお会いしたこともありません。生涯を委《ゆだ》ねていい人かどうか、わからないではありませんか」
「そなたはまだ子供だ。たとえ会ったとて、その人物の程がわかるはずがない。この人と、親が見きわめたら、文句を言わずに従うがよいのだ。そなたも、やがて子を持って知るであろうが、子の幸せを願う親の心というものは大へんなものだぞよ」
心が言葉を支配するのが普通だが、言葉が心を支配することもしばしばある。この場合の良兼がそうであった。しみじみとしたものにその心はぬれた。この瞬間、ほんとに良子をいとしいと思った。
良子もまじめな顔になって聞いていたが、父の顔を凝視して言った。
「でも、お父様、ほんとにその方は良子を幸せにして下さるでしょうか」
澄んだ目にはひたすらな信頼があった。良兼の心はまたひるんだ。反省が来た。しかし、同時にまた詮子のことが思い出された。
「わしは、そなたの父だ」
良子は、また黙った。
「そなたもよく考えてみるがよい。今すぐといっても、返事も出来まいからな。それから、そなたがそれほど不安なら扶の殿に一ぺん来てもらおう。そなたの目でよく見てみるもよかろう。
さ、話はすんだ。あちらに退《さが》るがよい」
このような緊張した空気が、もう良兼にはたえられなかった。そわそわした言葉になっていた。
「はい」
と答えながらも、良子は退らなかった。なお考えているようであったが、また言った。
「そうまでお父様がおっしゃるなら、特に扶の殿に来ていただくことはいりません。しかし、良子が源家に嫁ぐことは、当家のためになりましょうか……」
ここで、良子はしばらく絶句したが、思い切ってつづけた。
「もちろん、源家のためにはなりましょうが」
低い、早口で言われたこのことばに、良兼は鋭く胸をつかれたように感じた。しかし、こんな場合、これが反省になることは、誰にも至って少ない。良兼は、腹を立てた。
「源家のためになることが、どうして当家のためにならないのだ。さかしらぶって裏くぐりした考え方をするのは、いやしいことだ」
鋭い調子で言われたこのことばを、良子は笑って受けた。
「お父様、そんなにおこってはいや! お父様ですから、良子はこんなことを申すのですのに」
腹を立てつづけることも出来ず、きげんを直すことも出来ず、中途|半端《はんぱ》な顔をしている父に、良子はなおにこやかに笑いかけながら、
「そんなら、その人に来てもらって下さいな。良子、ようく、自分でみてみますから。ほんとうを言うと、良子には、もっといい人がどっかにいそうな気がするのだけど……」
良兼の報告を受けて、詮子は石田に使いを出した。使いは、おりかえし、父の返事を持ってかえって来た。
「お便りの趣は、委細よくわかった。お骨折であった。ついては、近日中に、まろが本人をつれて参上する。扶のこともだが、まろ自身も、自分の目で和御許《わおもと》の新しい生活を見たいからである。良兼の殿にもこの旨《むね》申してほしい。なお、一層のお骨折を願う」
という意味のものであった。話を聞いて、良兼は感激した。
「ありがたいこと、おんみずから連れて来て下さるというのか。ホウ、ホウ」
良兼は、良子の縁談のこともだが、詮子が幸福な新生活を享受《きようじゆ》していることを護《まもる》に見せなければならないと思った。出来るかぎりの歓待をしなければならないと思った。
一月ほど前に完成した詮子の住居に、更に飾りつけをし、領内の百姓共の家から美貌《びぼう》の娘を数人えらんで、詮子の侍女の数をふやした。護|父子《おやこ》の宿舎には、以前詮子の住居であった沼に臨んだ御殿をあてて、十分な設備をした。
次には、饗応《あるじもうけ》のしたくだ。沼に網を曳《ひ》かせて魚をとり、九十九里の浜べに人を派して魚介類の手当をし、野山には郎党や下人共が出て鳥獣を狩り、女|奴隷《どれい》共が野菜を集め、酒蔵にはまだ男を知らない少女《おとめ》等が集まって、幾重の絹で酒を濾《こ》した。
そうした準備がほぼ出来て二三日目の正午少し前、途中から護の出した使いがついて、未《ひつじ》の刻(午後二時)頃には到着の予定であると知らせて来た。
広い館中に、また新たな興奮が巻きおこった。良兼は途中まで出迎えるといって、数人の供を連れて騎馬で出かけていったが、その後も館中の興奮はしずまらなかった。
良子は、館をあげてのこの興奮がにがにがしかった。この興奮は、一つには主人たる良兼が無暗《むやみ》にさわぎ立てる所から、皆が感染して巻きおこったのだが、一つには良子の聟《むこ》となるべき人が来るというのでおこったのだ。
とくに若い婢女《はしため》等はそれであった。彼女等は、自分のことのように、そわそわとおちつきなく動きまわり、時々思い出したように衣紋《えもん》をつくろい、髪を撫《な》でつけ、水鏡しては鼻の頭をなでまわした。
なにか依怙地《いこじ》なものが、良子の胸にあった。館中のさわぎをよそに、居間にいて、侍女を相手に双六《すごろく》を打ちつづけた。
詮子の住いから使いの侍女が来たが、化粧《けわい》もせず、着がえもしていないのを見て、おどろいたようであった。
「申し上げます。追っつけ御到着のことと思いますれば、そろそろあちらにお出《い》でになるようとの北の方の仰《おお》せでございます」
「ああそう。すぐまいると申し上げてくりゃれ」
良子は、ふりかえりもしない。筒をふっては、采《さい》をふり出して駒《こま》を進める。
こちらの侍女がたまらなくなったらしく、そろそろお支度をなさいませんと、と、言った。
カッとしたものがこみ上げて来た。荒々しくさけんだ。
「いいのです! どうせ、当家にいらっしゃるんでしょう!」
詮子の侍女は驚いて立去った。
良子は、なお双六をつづけた。
継母《はは》のところからは、もう使いは来ない。相手になっている侍女も、ひっそりした姿で、機械的に遊戯の手をつづけている。
良子には侍女の心がよくわかる。良子と継母の両方に気をかねて、胸をわななかせているに相違ないのだ。良子はしだいにいらだたしい気になって来た。叫び出したかった。しかし、おさえて、かわりに、
「しかたはないねえ」
と、長い息をついて、立上った。
「支度します。手伝っておくれ」
次の間の鏡の前に行った。
侍女はホッとした。いそいそと立ってついて来た。
侍女は、青銅のまるい鏡のふたを取り、主人の顔のよくうつる位置に台を進め、うしろに立って櫛《くし》をとった。黒くて、量が多くて、長い主人の髪をすくのは、いつも侍女には楽しい仕事だ。丹念にすき上げにかかった。
「ざっとでいいのよ」
まるい鏡面にうつる自分の顔を見ながら、良子は、自分の顔が今日は泣いているようだと思った。
だんだんきげんが直って来た。頭の地にあたってかすかな痛みを感じさせながら、すうッ、すうッと、すいて行く櫛の歯につれて、清涼の気の通って来るのが快い。
その快さの中で、考える。
(あたしの聟君になりたいという人がくる。多分もう五六町、ひょっとすると二三町のところに近づいているかも知れない。どんな顔の人だろうか。お継母《かあ》様に似ているなら、美しい人にはちがいないが。
しかし、いくら美しくたって、心の悪い人ではしかたがない。あたしはことわらなければならないが、ことわったら、お父様、お継母様も、さぞごきげんを悪くなさるだろうね。ひょっとすると、いい人で、嫁《ゆ》くことになるかも知れない。心のいい人なら、弟達のことも心配することはないからねえ……)
髪の手入れがおわると、お化粧だ。サッと軽く白いものを刷《は》いて、口紅をさした。少し濃目にさした。
大へんきれいになった。われながら美しいと思った。
「ねえ、きれいでしょう」
と、侍女に顔を見せた。
「ほんとに!」
感嘆して、見とれた。
「どれくらい美しい?」
「……花よりも美しゅうございます」
「聟君になりたいという方が心も空にあくがれるくらい美しい?」
「ホッホホホホ。それはそうでございますとも。女のわたくしでも、うっとりしますもの」
きげんが直って、いつもの明るい姫君になったので、侍女もうれしい。
次は着がえ。紅梅の下がさねに緋《ひ》の袴《はかま》をはき、菊花の綾紋《りようもん》のある袿《うちぎ》を着せかけてもらいながら、また思う。
(不思議だこと! 妹背《いもせ》になるかも知れない人が、もうそこに来ているというのに、あたしは一向平気だ。ほんとに、あたしは嫁ぐことになるのだろうか)
侍女が、檜扇《ひおうぎ》を渡してくれた。それを受取って、裾《すそ》をさばいて、少し|しな《ヽヽ》づくって、良子はそのへやを出た。
美しく化粧した詮子は晴着姿の侍女等をひきいて、女王のように堂々たる威容で、母屋《おもや》の車寄せに出ていたが、一瞥《いちべつ》のうちに、良子の姿を上から下まで、化粧の工合から着ているもの持ち物に至るまで、のこりなく観察した。白いものの刷きようがいささか淡いと思われる以外には、どこも悪いところはなかった。
「大へんあでやかです。よく出来ました」
きげんよく、言った。
良子は、軽くおじぎをして、
「まだ報《しら》せはまいりませんか」
といいながら、継母にならんで立った。
間もなく、馬をおどらせて、郎党が門を駆けこんで来た。
「おつきでございます」
報告して、馬をひいてわきによった時には、もう門を入って来た人数が、木立の向うにチラチラとしはじめた。
真ッ先に護と良兼が馬を打たせ、つづいて扶、その後に両家の従者等が、騎馬や徒歩でしたがっていた。郎党等は、木立を出たところで馬を下りたが、主人達はそのまま車寄せまで乗りつけて下馬した。
護は、自分の娘には父親の愛情にみちた一瞥をあたえただけで、すぐ良子にあいさつした。
「あなたが当家の姫君でおわしますな。まろが護であります。お噂《うわさ》は、これまで、度々聞いていましたが、はじめてお目にかかります。ああ、これは美しい。目がさめるようでありますぞ。父君の御|鍾愛《しようあい》のほどがようくわかります」
長い顔にあらんかぎりに愛嬌《あいきよう》づくりして、真向から愛想を言う。
(なんという長い顔であろう。ひげだけ余分だこと)
と思うと、良子は吹き出したかった。しかし、おちつきはらって、頭を下げた。
護は、扶をふりかえって、目で呼んで紹介した。
「当家の姫君だ。――これは、長男の扶でござる。御縁につらなる身でありながら、父君以外の方には、まだお見知りおきをいただけませんので、召連れてまいりました」
若い男女は、双方とも、無言でおじぎし合った。
扶は、十分な身長を持つ逞《たく》ましい体格と、血色のよい、男らしい顔立ちをしている。良子はりっぱな男ぶりだと思った。また、この人がわたしの聟君になりたがっているのだ、と思った。しかし、別段の感情はおこらなかった。
扶の方もまた、おちつきはらった目で、相手を観察していた。
(美しい)
と、先《ま》ず思った。しかし次には、
(少し細すぎる)
と、思った。
扶は、大柄《おおがら》で、豊満な感じの女が好きだ。たっぷりと肉置《ししお》きがあって、抱きごたえがなければならない。その好みからすると、この姫君は繊細優美にすぎる。彼の自信ある女性鑑賞の目は、袿にかくされた良子を裸にして観察して、結論をつける。
(肩も、胸も、腰もまだ発育しきっていない。おれのたくましい腕で抱きすくめたら、ひとたまりもなくへしおれるだろう)
こんな女には、魅力はなかった。
しかし、だからといって、扶は良子との結婚をやめようとは思わない。良子との結婚は、家のためだ。家が必要とするのだから、やめるわけには行かない。たとえこの娘が二目と見られない醜女《しこめ》でもかまわないと、きれいに割りきっているのだ。
間もなく彼は気づいた。姉の背後に居並んでいる侍女共が、皆よりすぐって美しいことに。
彼は一人一人を鑑賞しはじめた。練達な鑑賞家が美術品を鑑賞するような、冷淡でおちつきはらった目であった。侍女共の間に、かすかな動揺がおこった。微風に吹かれる花叢《はなむら》の花が、長い花梗《かこう》をゆすって花びらと花びらを押しつけ合って揺れ合うに似ていた。
その花の中には、十分に彼の好みに合う豊麗なやつも二三輪あった。
(フン、この姫君がおれのところへ来る時には、この二三輪もたずさえて来てほしいものだ。そしたら、十分に埋合わせがつく)
彼は悠々《ゆうゆう》と目をそらし、また良子を見た。
「さあ、こちらへ来て下され。一応、御宿所におちついていただいて、それからゆるりとお話することにいたそう」
ひとりおちつきを失っている良兼は、気もそぞろな調子で言って、賓客父子《まろうどおやこ》を沼の御殿に案内して行った。
詮子も、良子も、一旦《いつたん》、それぞれの居間に引きとった。
しばらくの間、良子は居間に坐《すわ》ったきり、扶のことを考えていた。
(生涯《しようがい》を偕《とも》にする聟になる人にはじめて会ったというのに、この心の静けさはどういうことだろう。こんな時、誰でもこうなのであろうか。とすれば、昔から伝わるあの心を燃え上らせる恋の歌は、いつわりなのであろうか……)
けれども、このために、結婚を拒むまでの決心に至らなかった。特に好きにもなれないが、厭《いと》わしい人とも思わないのである。
沼の御殿に案内された護は、その眺望《ちようぼう》の雄大さを、良兼に激賞した。誇張的なことばづかいは、まともには聞いておられないものであったが、興奮しきっている良兼は、ひたすらに嬉《うれ》しがった。
「お気に召して結構であります。しかし、どんな景色もなれれば一向につまらなくなりましてな。これは詮子を迎えるについて造作したものでありまして、はじめのうち、あれも喜んでいましたが、しばらくすると、沼の湿気がいやだと申しましてな。あちらにまた新しく造作しまして、今はそこに鎮座させてあります。
女というものは、いくつになっても、子供のように飽きっぽいものでありましてな。ハハ、ハハ、ハハ……」
愚痴の調子の中に、どんなに詮子を愛しているかを言うのが、うれしいのであった。
扶は、老人等のそんな話には加わらない。さっさと自分の居間と定まったへやに入って、下人等に手伝わして、着がえにかかった。
「おやじどのは、幾日当家に滞在するつもりであろう。それによって、おれも手だてを立てなければならない」
と、考えつづけていた。
彼は自分の一瞥が侍女等にあたえた効果を知っていた。男として、その効果を利用しないでおられるものではないのである。
着がえをすますと、扶は護の許《もと》に行った。父も着がえしつつあった。
「父上」
他人が側《そば》にいない時の護は、人がちがうようにむずかしい顔をしている。じろりと息子の顔を見た。
「うむ」
いくらむずかしい顔をしても、扶は平気だ。大胆不敵というのではない。生来の性質が、いろいろなことに無感動に出来ているのだ。悲喜哀歓の感情はもちろんのこと、敬愛の情も稀薄《きはく》なのだ。これは先天的の痴呆《ちほう》にはよくあることだが、彼は痴呆ではない。何をさせても、相当以上にかしこいのだ。とりわけ、女色にかけての知恵は鋭敏をきわめている。
彼は、落ちつきはらって、きいた。
「父上、当家にはいつまで滞在するのです」
「いつまでといって、話をきめて帰らなければならんのじゃ。はっきりと、きめるわけに行かん」
「それでも、大体の予定はあるでしょう。それをおうかがいしたいのです」
「聞いてどうするのだ。しのこして来た用事でもあるのか」
「そんなものはありません。いつまで滞在してもかまわないのですが、一応うかがっておきたいのです」
「そうさな。すらすらと話がまとまれば先ず三日だが、渋るようであったら、七日は見なければなるまいな」
「では、三日から七日の間ですな」
扶は、父のそばを離れて、簀子《すのこ》の階段から庭におりかけた。
「これ、どこへ行く? あちらの庭面《にわも》などを、ヒョロヒョロ歩きまわるでないぞ」
父はあわてて呼びかけたが、扶は委細かまわず、そちらの方に行きながら、
「姉君にお目にかかってきます。姉君にはまだごあいさつもしていません」
と、言った。
(三日から七日か。しかし、先ず三日と見なければならんな。急ぐ必要がある)
扶は、邸内の通路や、地物《ちぶつ》の工合を注意深い目で観察しながら歩いて行った。
詮子の住居につくと、庭の方から奥へ進んで行った。こんなことは、肉親の間でも、礼を失したことだとは、全然考えなかった。侍女らの居場所を知るには、これが最も都合がよいとしか考えないのだ。
ぜいたくの限りをつくした、木の香の匂《にお》い立つような新しい建物について、一つの角を曲ると、奥殿につづいているらしい簀子を来る侍女の姿が見えた。
「あら!」
かすかに叫んで、侍女は立ちすくんだ。紅《あか》くなったのが、匂い立つように美しかった。先刻、すばやい目で、目星をつけておいた好みの肉置《ししお》きゆたかな部類の一人である。
扶は、にこりと笑った。さわぎ立てないように目でおさえ、おちつきはらって近づいて行った。
「黙っていてくれ。姉君をびっくりさせて上げたいのだから」
簀子の下から見上げて言った。
侍女は、依然として、無言で、紅い顔をして、簀子の上から見下ろしている。
「ねえ、わかっただろう」
扶は、また愛嬌づくった笑いを見せた。この愛嬌笑いに、彼は十分の自信がある。はたして、侍女の顔には、かすかな笑いが見えた。見えたと思った。益々《ますます》、好もしい娘と思われた。同時に、ひらりと身をおどらせて、勾欄《こうらん》をこえ、簀子の上に立って、相手と向い合った。
「アッ!」
かすかにさけんで、侍女は一歩|退《さが》った。
「静かに、静かに。聞こえると悪い」
扶はいたずらっぽく笑っておさえる手つきをした。
あらゆる女性は母性本能をもっている。男のこのようなやんちゃぶりを見ると、それは必ず呼びさまされる。
「まあ!」
侍女は、おかしくてたまらないような笑顔になった。
計算があたったので、扶の自信はますます強まった。ささやくような声で言った。
「そなたは何という名」
侍女は微笑したまま答えない。一層顔が紅くなっていた。
「教えてくれ。何という名だ。おれはそなたが気に入った」
侍女は答えない。笑いはもう消えていた。しかし、扶の経験は、これは女がこちらのことばの真偽を測定しつつあるのだと教える。彼もまた笑顔を消した。相手を凝視した。侍女がふるえ出して来るのが見えた。豊かにもり上った胸許があえぎを伝えて上下していた。抱きしめたい強い慾望《よくぼう》が、扶の胸にこみ上げて来た。かかえこむようにのぞきこんで、さらにひくい声でささやいた。
「さあ、名を。そして、そなたは夜はどこで寝《やす》むのだ?」
侍女は青ざめた。ふるえる睫毛《まつげ》がかすかに上って、何か言い出しそうに唇《くちびる》がふるえ出した。
その時、不意に遠くから声がかかった。
「オヤ! 扶《たすく》どの」
詮子の、おどろいたような声であった。扶はふりかえらなかった。依然としておちつきはらって、侍女を見つめていた。
侍女の様子は一変した。貝が|ふた《ヽヽ》をしめたようにこわばった表情になって、そそくさと一礼して、行ってしまった。
扶は、相手の入ったへやを見とどけた後、ゆっくりとふりかえった。
十間ほど向うの簀子の真中に、詮子がいて、こちらを見ていた。濃化粧の美しい顔には、不安げな様子がありありとあらわれていた。
扶は、気軽な微笑を浮かべながら、悠々と近づいて行き、軽く会釈《えしやく》した。
「ごあいさつに上りました。姉君には、まだごあいさつをしていませんので」
詮子はこたえない。さぐるような目で見ているだけだ。
「姉君をびっくりさせたいと思って、そっと上るつもりだったのですが、とうとう見つかってしまいました。ハハ、ハハ、ハハ」
どんな目でみられようが、扶は無感動だ。おちつきはらった明るい声で笑って見せる。
「こちらへいらっしゃい」
低く鋭く言って、詮子は扶を自分の居間に導いた。そして席をあたえて向い合うと、そのへんに立ちはたらいていた侍女等に、それぞれ用を言いつけて立去らせた。
無恥なくらい好色的な目で、扶は侍女等の一人一人を見ていた。詮子は、恐れと怒りのまじった表情で、それを見ていた。彼女は、この弟の性行をよく知っている。この大事な時、いつものくせを出して、万事を破りはしないかと不安でならないのだ。
ホッと、といきをついて、
「扶どの」
と、呼びかけた。
扶はふりかえった。にこりと笑った。
「ずいぶん美しい女共を集めましたな。楽しくなりますよ」
詮子は、情なさそうな顔をして、またためいきをついた。
扶は一向平気だ。
「あれは皆、姉君の侍女ですな。家人《けにん》共の家から集めたものですか。それとも百姓共の娘ですか。いずれにしても、あれほどのものがよく集まりましたな」
美食家が、くさぐさの山海の珍味について論じているような、あるいは、蒐集家《しゆうしゆうか》が他人の蒐集品について羨望《せんぼう》しているような、つまり、涎《よだれ》を口にふくんでいるような調子であった。
詮子は、にがにがしげに笑った。
「扶どの」
「はあ」
「あなたは、どんな用事で、わざわざ当家へ見えたか、御存知《ごぞんじ》ですね」
「知っていますよ」
「そんなら、気をつけて下さい。大事な時であることは、おわかりでしょうね」
「大丈夫ですよ」
詮子は、弟の顔をつくづくと見た。扶はにやにやと笑った。姉の目には、それがとても無邪気に見えた。
「しようのない人ね」
とうとう詮子は笑い出してしまった。
やがて、十分な偵察《ていさつ》をとげて、扶は姉の許を辞した。
饗宴《きようえん》は、母屋の客殿で、日の暮れる頃《ころ》から行われて、深夜に至った。盛んな饗宴であった。もちろん、詮子も良子も出た。
その宴がはてて、広い館《やかた》中が深い睡《ねむ》りにおちた頃、扶は沼の御殿を立ち出《い》でた。
暗い夜であった。沼から上って来る霧が深くこめて、四五尺先はもう見えなかった。しかし、先刻の偵察で、案内はよく知っている自信があった。扶はかなりに酔って少しふらふらする足どりながら、ちゅうちょなくその方へ進んだ。
彼の胸は熱し、頭は先刻の侍女のことで一ぱいであった。しびれるような慾情が全身を占めていた。小鼻をふくらし、時々熱い息を吐きながら、せっせと歩いた。
「オヤ?」
かなり歩いた後、扶は足をとめた。もうとうについていなければならないはずなのに、そのへんには目的の建物がないようであった。彼は両手をのばし霧の中をかきさがした。何にも手にふれなかった。彼はよろめき歩きつつ、そのへん一帯をかきさがしはじめた。
どうかきさがしても触れるものがない。おまけに、霧は益々濃くなる。吹くともない風に送られて、ある時は煙の渦巻《うずま》くように濛々《もうもう》と、ある時は真綿を引きのばすように、ある時は巻絹をひろげるように流れて来る霧は、忽《たちま》ちのうちに扶の周囲をこめた。
扶はしだいに物狂わしくなって来た。きれぎれに不明瞭《ふめいりよう》なつぶやきをもらしながら、右に行き、左に行き、前に行きつつ、手をまわし、足を上げした。狂人か、憑《つ》きものした人の姿であった。そのはげしい動きに、しずんでいた酔いが、水の底から濁りが上って来るようにわき上って、忽ち全身を占めた。
「やい! こら! どこだ?……」
「どこがあの家だ?……」
「この霧め……ああ、ああ、ああ、まるでわからん……」
つぶやきは、いつかわめきとなって、なおも狂いまわっていたが、ふと、足をふみすべらすと、ストンと横だおしになった。
「おのれ! 突き飛ばしたな!」
はね起きようとしたが、またはげしく尻《しり》もちをついて、他愛《たわい》なくあお向けになった。
「無礼者! またしても!……」
わめくうちに、冷え冷えとした大地の快さに、そのままうっとりとなり、つづいて深い眠りに入った。
「……もし、もし、……もし、もし……」
耳許に呼び立てる声に、扶は目をさました。自分をのぞきこんでいる数人の男があった。
それは、当家の郎党等であった。彼等は、霧中にわめき立てる途方もない声を聞きつけて駆けつけて、この賓客《まろうど》の酔臥《よいふ》しているのを見つけたのであった。
(しまった!)
と、扶は思った。しかし、あわてなかった。こうなった以上、この醜態を醜態としない工夫をせねばならない。彼は、わざと弱々しい声を出した。
「……苦しい」
郎党等は、助けおこしにかかった。
一層、弱々しく言った。
「このままにしておいてくれ。まだ苦しい」
「どうなすったのでございます」
郎党等は、途方にくれて、黙って見下ろしていた。
扶はなおしばらく弱々しい声でうめいた後、言った。
「……悪酔いして、苦しくなったので、外の空気にふれて……少し庭を歩こうと思って……しかし急に一層苦しくなった。……何せ、霧が深い、道がわからない……それで、つい……」
やがて、頃合いを見はからって、自分でおき上った。
「ああ、苦しかった。世話をかけたが、もうよい。引きとってくれ、おれもかえる」
言いすてて、沼の御殿の方へ歩き出した。変化の早い霧は、もう薄れていた。
事件は、扶の災厄《さいやく》として、翌朝、良兼を恐縮させた。良兼は、扶にも護にも、散々わびを言った。
詮子だけは、真相について、ほとんど正確な推察を下していた。こまったものだと思い、また、事を急ぐ必要があると考えた。
詮子は、出来るだけ早く話をまとめて、扶を常陸《ひたち》にかえしてしまわなければならない、長くおればおるほど|ぼろ《ヽヽ》を出して、とりかえしのつかないことになると、判断した。
彼女は、すぐ良兼に来てもらって、説得にかかった。
「弟がどんな人物であるか、大体、姫もわかったことと思います。姫の考えを聞いて下さいませんか」
「よし、よし」
良兼は、一も二もない。早速、良子の居間に出向いた。
ほんとを言うと、良子はもう少し扶の人物を見、もう少し考えたかった。しかし、老いた父がこうまで言うのを、これ以上突ッ張りきれなかった。何よりも扶が悪い人物ではないような気がしていた。
「お父さまのおよろしいように」
とうとう、こう答えた。
話は、急転直下についた。その日のうちに、契約が行われ、輿入《こしい》れの日どりもきめられた。年内はあわただしいから、年が明けて二月の吉日を卜《ぼく》して行おうということになった。
その夜は、祝宴が張られ、両家の郎党や下人共にも、酒がふるまわれ、広い館中が深更までさんざめいた。
その宴が果てると、詮子は、沼の御殿の周囲を厳重に警固するよう、下人共に命じた。理由は、昨日のようなことがあって、賓客に万一のことがあってはならないからだと、説明された。
「チェッ! なにもかも見通している。女の利口なやつほど始末のわるいものはないわい」
扶は、心ひそかに舌打ちした。宝の山に入りながら手を空《むな》しくして帰る無念さをかこちながら、ひとり寝の夢を結ぶよりほかはなかった。
翌日、護父子は、常陸にかえって行った。
良兼の館は、良子の輿入れの支度のために、にわかにいそがしくなった。
良兼には、一種の心のやましさがある。若い後妻との新生活の幸福を護《まも》るために、良子を縁づけようとしているという。
この良心の呵責《かしやく》のために、この輿入れを出来るだけ盛大にしてやりたいと思った。詮子もまたそれをすすめた。彼はわざわざ京《みやこ》に人を派して、高価で珍奇な織物や器物をもとめ、近国の牧《まき》はもとより、遠く奥州《おうしゆう》の牧まで人をつかわして、良子にもたせてやる駿馬《しゆんめ》を百頭ももとめた。
館にはたえず、織匠、玉工《たまつくり》、金銀|鍛冶《かじ》、塗師《ぬし》、木匠《こだくみ》等の色々な職人が出入りして、それぞれの仕事にいそしんだ。
この間に詮子は、良兼にたいして、良子に持たせてやるべき田荘《たどころ》について折衝を重ねた。
「出来るだけたくさん持たせて上げて下さいまし。義理のなかであるだけに、世間の口がつろうございます」
と、こんな工合に、詮子は夫を説いた。
その結果、常陸国内と、その境上に近い上総《かずさ》国内の田荘五十余カ庄《しよう》を良子にゆずり渡して、持って行かせることになった。
何もかもがこうしてさわぎ立っている館中で、本人の良子だけは、一種奇妙な茫然《ぼうぜん》たる思いでいた。承諾した時を境に、何もかもが驚くべき速度ではかどって行くのが不思議でならない。
「ああ、もうしかたがない、とりかえしはつかない」
それは絶望に似た思いであった。
春の突風
小次郎が、扶《たすく》と良子との婚約がはっきりととのったことを聞いたのは、もう歳末に近かった。
その日、小次郎は毛野《けぬ》川を舟で下って、印旛郡《いんばごおり》の木下《きおろし》川のほとりの村に行きつつあった。そこには、その頃出来た女がいるのであった。
小次郎は、船首《へさき》に席をしめ、壺《つぼ》に入れた火で手をあたためながら、広い両岸になびく枯葦《かれあし》を眺《なが》めていたが、船尾《とも》の方にいて笑いながら雑談している従者等のことばのはしが、ふと耳に入った。
「子春丸」
小次郎はふりかえって、呼んだ。
「はっ」
呼ばれた下人《げにん》は、大きな声で答えて、人々を押しわけて、近づいて来た。
十七八の、まだ少年といってよいほどの幼い顔だが、額や頬《ほお》のあたりには、もう大きなにきびがいくつも出来ていた。小次郎の家の百姓の子で、おそろしく足の速いところから、使い走りなどに召しつかわれているのであった。
「汝《われ》は今、石田の源ノ扶の話をしていたな」
「へい」
「扶がどうしたというのだ」
「へい。上総の殿様の姫君との縁談のことでございます。この度、しっかりと縁談がきまりまして、来年の二月にお輿入れがあるのだそうでございます」
「誰に、どこで聞いた?」
「へへへへへ」
少年は、首筋のあたりを掻《か》いて、急には答えようとしなかった。
すると、従者等がドッと笑い出した。
「申し上げます」
と、一人が呼びかけた。
「何だ」
「子春丸は、この頃色気づきまして、石田の百姓の許《もと》へ、時々通っているのでございますから、そこで聞いたのでございます。若いとはいいながら、えらいもので、五里半の道を、三日にあげず通っているのでございます」
子春丸は赤くなって、にやにや笑いながら首筋を撫《な》でたり、にきびをつまんだりしていた。一同はドッと笑い出した。
小次郎も笑って、からかった。
「汝《われ》の足の速さはおれも知っているが、一夜に五里半を往復《ゆきかえり》し、おまけに色事までしてかえるとは、えらいものだ。感心したぞ」
「へへへへへ」
「ところで、先刻の話はたしかなことなのだな」
「へい。たしかなことだそうでございます」
小次郎は、自分の心が至っておだやかであるのを感じた。意外であったが、うれしかった。こんなことに心を乱し、心を苦しめるのは、もう沢山だった。
彼は、従者等と一緒になって、さんざん子春丸をからかっては、腹をかかえて笑い、愉快さのあまり、用意の酒まで出して、皆にふるまった。
少し酒がまわると、人々は一層愉快になり、小次郎もまた愉快になった。
盃《さかずき》をあげ、冗談をいい、哄笑《こうしよう》しながら、時々、心中につぶやいた。
(もう沢山だ、もう沢山だ……)
年があけて正月になっての半ば頃、小次郎は、輿入れの日取りが二月七日に決定したという噂《うわさ》を聞いた。
依然として、心は平静であった。
(フーン、そうか、おれには関係のないことだ)
いつもの通りの生活をつづけていたが、ある日、ふと考えた。
「今日は二月一日だな」
なにか胸の波立って来る感じがあった。さらに、
「あと六日すると、良子は石田の源氏|館《やかた》に入って、扶の妻となるのだ」
と、考えた。
すると、自分でも思いもかけず、からだのどこかに火がついたような気持におそわれた。狼狽《ろうばい》であり、執着であり、愛着であり、憤激であった。
決心は、一足飛びであった。
「あんなくだらん男に、渡してなるものか――、良子はおれの妻になるべきものだ!」
坂東の兵《つわもの》にとって、決心はそのままに行動を意味する。
五日の後の早朝、つまり二月六日の早朝、小次郎は狩衣《かりぎぬ》の下に腹巻した姿で、同じように武装した郎党四人を引きつれて、筑波山《つくばさん》の南麓多気《なんろくたけ》(今の筑波町北条)から府中(今の石岡市石岡)にこえる山路に沿った山の中腹にいた。乗馬は皆附近の立木につなぎ、人は凹地《くぼち》にうずくまっていた。いずれも路《みち》から見えない位置であった。
昨日までの間に、彼は必要な情報をすっかり集めた。源家の館は、府中にもあるが、そこへは良子を迎えず、石田の館に迎えて祝儀《しゆうぎ》を挙げることにしているという。
とすれば、良兼の上総の館から石田へは、武射郡《むさごおり》の山路から下総《しもうさ》の香取郡に出、牧野(今の佐原地方)で船に乗って、霞《かすみ》ケ浦《うら》を縦断して府中につき、そこから山路を取って多気に出るのが順路だ。
この点についても、小次郎は、綿密な調査をしている。昨日の午後府中へついた良子の一行は、昨夜は国香《くにか》の府中の館に泊ったが、今日早朝そこを出発し、この路を取って、石田に向う予定だという。
小次郎は、郎党等と少しはなれた位置にただ一人、腰をすえていた。緊張しきっている心はたえずさわぎ、顔は真青になっていた。それは戦闘の直前における心理に似ていたが、どんな戦闘の前にもこれほど心のさわいだことがなかった。
彼のしようとすることは、掠奪《りやくだつ》結婚だ。しかも、他家への縁談がきまって嫁ぐ途中を要してだ。
掠奪結婚は、当時、庶民にとってはめずらしいことではなかった。京の市内においてすら行われていたくらいだから、地方においてはなおさらのことであった。しかし、豪族と称せられるほどの階級の者は、もうしないことであった。もしすれば世間の指弾をまぬかれない。
これが心をひるませる。
「やめた方がよい」
と、たえず心にささやくものがある。
その度に、小次郎は自分を叱《しか》りつけ、はげまさなければならない。
「いくじなし。何たることだ。ここまで来て、引ッかえしがつくか!」
よく晴れた日であった。太陰暦の二月はじめといえば、太陽暦では三月はじめから三月中旬、場合によっては三月末にあたる。山の木々はみずみずしく樹液がまわりはじめ、乾燥しきって枯木のように見えていた枝は柔軟な感じとなり、早いのはわずかに破った苞《つと》の先に薄青い新芽を見せ、おそいものはふっくらと苞をふくらましていた。いずれも、樹間にさしこむ上りかけた朝日に照らされて、珠玉をつらねたように美しかった。
どこかで、しきりに小鳥が啼《な》いていた。玉をころがすようにやわらかで、なめらかで、澄んだ声だ。
その美しい景色も、のどかな啼声も、今の小次郎には、いたずらに心のおちつきを奪うはたらきしかない。
彼は、きびしく歯をかみしめ、彫りつけたように不動な姿で、心の動揺をこらえていた。口をきいたり、身動きをしたりすると、心のかまえまでくずれそうな不安があった。
とつぜん、郎党の一人がさけんだ。
「あ! 殿! 子春丸が来ました」
小次郎はこたえない。動きもしなかった。郎党等の方を見て、うなずいただけであった。
郎党等が、皆中腰になって、目を射そそいでいる方角から、枯枝をふみくだく音が聞こえ、せわしい呼吸の声がし、やがて、子春丸が山の斜面を上って来た。郎党等の方には、白い歯をむき出した笑顔を向けて二三度うなずいて見せただけで、真直《まつす》ぐに小次郎めがけて走って来た。
「殿、あの方々がおいでになります!」
と叫んだ。
「来たか!」
と、叫びかえして、立上った時、小次郎の心のさわぎはピタリとやんだ。
「すぐか?」
「七八町ほどにも近づかれましたろうか」
「人数は?」
「前の人数に、府中から国香の殿の下人共が五人、源家からの迎えの者が五人ほど加わりまして、総勢では男三十人女が十人ほどであります。姫君は、詮子《せんこ》の刀自《とじ》と馬をならべ、女共にかこまれて、中陣におられます」
呼吸《いき》をはずませ、額の汗を袖《そで》をたくし上げて拭《ふ》きながらも、子春丸の報告は明瞭《めいりよう》であった。
「大儀!」
小次郎は、太刀の紐《ひも》をしめなおし、やなぐいを負い、弓をにぎり、手を上げて郎党等をさしまねきつつ、馬に近づいた。口づなを解いて引きまわしながら、ひらりと飛びのった。郎党等もそれにならった。
主従は、ゆっくり馬を歩かせ、斜面の半町ほど下に山路を望む地点まで行って、馬をとめた。
「子春丸」
声に応じて、一番あとからついて来つつあった子春丸が、人々の馬の間をくぐって、走って来た。小次郎は、馬上から身をのり出して、子春丸の耳許で、何やらささやいた。
子春丸は、一語一語にうなずいていたが、小次郎が正しい姿勢にかえると、五六間向うの一抱えほどもある松の幹に抱きついて、よじのぼって行き、五六丈も上の木の股《また》に、小猿《こざる》のようにチョンと腰をおろした。
朝の白々明けに府中を出た良子の一行は、辰《たつ》の刻(八時)頃《ごろ》山路にかかった。ここから山合の道を爪先《つまさき》上りに十五町ほどのぼって峠にかかり、そこから十町下ると、小田の里につき、そこからは平地になって、二十町ほどで多気の里につくという。
一行四十人。源家の郎党をまじえた十騎が、武装して先陣に立ち、走り使いの下人共が、徒歩で五人つづき、中陣に良子と詮子を中心にして十人の侍女等が、思い思いの色彩の被衣《かつぎ》姿で馬をならべ、次は荷物を駄《だ》した馬の口綱をとった五人の下人、後陣はまた武装の騎馬武者十人がかためた。
やや急な道ではあったが、苦になるほどではない。しかし、道の両側にせまる山は、相当に急峻《きゆうしゆん》だ。一面の雑木林になって、そこからたえず春の小鳥の美しい啼声が聞こえて来た。
一行は雑談をかわしながら、ゆっくりと上って行った。
良子だけが、口を利《き》かない。ここまで来ても、物思いがやまないのだ。
(わたしは、ほんとにあの人の妻になるのだろうか。わたしは幸せになれるのだろうか。父君も、弟達もしあわせになれるのだろうか。わたしのためにも皆のためにもなる人は、ほかにあるのではなかろうか)
と、いうようなことが、たえず考えられる。
良子のその沈黙を気にして、詮子は天気のことや、植物の名や、山の名や、小鳥の啼声や、道のりや、実家のことや、さまざまなことを話題にして話しかけた。やさしく、明るく、おだやかな調子で、浮き立たせようとし、きげんをとろうとして。
しかたがないから、良子は簡単にへんじはしたが、本当はなにを話しかけられているかさえわからなかった。
峠に近づき、左右の雑木林が松林にかわって来た時であった。とつぜん、口笛の音が鳴りひびいた。
どこから聞こえて来たかはわからなかったが、しずかな山路に、それは異様な鋭さをもってひびいた。
人々は、はっとして、あたりを見まわした。しかし、別段に警戒はしなかった。近くの村里の子供等が小鳥のわなでもかけに来て、友達同士で合図し合っているのだろうくらいの気持であった。
が、その途端、鋭い羽音と共に一筋の征矢《そや》が、先陣の武者の馬の尻《しり》につきささった。馬は悲鳴を上げ、首をふり、後脚《あとあし》をはね、前脚をあげて狂い、前に狂奔し、味方の馬に打《ぶ》つかり、なお狂った。
「すわや! くせ者!」
と、一騎が叫んだが、応戦の用意をするどころではなかった。一頭の狂いにさそわれて、先陣の馬の全部が一斉《いつせい》に前に駆け出した。
それとほとんど同時であった、雷の落ちかかるような喊声《かんせい》とひびきと共に、左手の斜面から突出《とつしゆつ》して来た騎馬の一群があった。
あッという間もない。何事がおこったかと思案する間もない。一行はあきれにあきれ、狼狽に狼狽して、居すくんだようになっていた。
さながらに一陣の突風であった。下人共や後陣の騎馬武者等が、気をとりなおして、婦人達の庇護《ひご》に駆けつけようとしたが、間に合わなかった。突風は早くも、そこに突入していた。
女達は悲鳴を上げた。被衣が飛び、落馬するものがあり、狂奔する馬があり、八方に飛びわかれた。狂風に吹き散らされる花びらのようであった。
その混乱の中を、良子はやっと馬にしがみつきながら、後陣の方へ逃げようとしたが、どうしたのか、馬は一はねはねて、道を横に、山の斜面におどり上り、下草に熊笹《くまざさ》や歯朶《しだ》の生いしげったそのまばらな小松林を、やみくもに走って行く。
被衣が吹き飛び、袖が樹枝にからんで引裂け、あらわになった顔や肱《ひじ》を何かがひっぱたいたが、ふりかえって見ることは出来なかった。一寸でも遠く逃げたいのと、落馬の恐怖とで、必死に首にしがみつき、目をつぶり、歯を食いしばっていた。
ずっと後ろの方では、戦闘がはじまったらしく、しきりに喊声が上り、弦《ゆんづる》の音がしはじめた。それでも、良子はふりかえらない。馬の走るにまかせ、落馬しまいとしがみついているばかりであった。
そのうち、自分がなにものかに追われているようであるのに気づいた。そいつは、ついうしろに食ッついて来て、荒々しい呼気《こき》を吐き、荒々しいひびきを立て、時々ヒューと風を切る音を立てる。
おそろしさに、良子は気を失いそうになった。ふりかえってたしかめたかったが、とてもそんな気力はなかった。
やがて、小松林がつきて、からりと打ちひらいた場所に出た。緑の色はまだ見えず、一面の枯草が、明るい陽《ひ》に照らされて、毛皮のような艶《つや》やかさと暖かさを見せ、所々にかげろうが立っていた。
そこへ飛び出すと、良子の馬は不意に走るのをやめた。すくい上げられたように、良子の腰は浮いた。悲鳴を上げて、しがみつこうとしたが、及ばなかった。もんどり打って前に投げ出されようとした。
とたんに、風が吹きつけて来たようであった。颯《さつ》と馬を駆けよせて来た者があって、宙に浮いた良子のからだを、ひょいと抱き取った。
「あれッ」
良子は、また悲鳴を上げた。身をふりもぎってのがれようとした。しかし、相手の腕は鉄のように強靭《きようじん》であった。どうもがいてものがれられないと知った時、良子は泣声を上げた。
「はなして!」
その時、良子は、相手が誰であるかを知った。豊田の小次郎であった。小次郎は、良子の馬を追い立てながら、ついて来たのであった。
良子は目をみはった。まじまじと見つめていた。
「わしだ。豊田の小次郎だ」
小次郎は微笑しようとするようだったが、それは笑いにならず、半ば泣くような顔になった。
(ああ、この人だった。この人のことをあたしは忘れていた……)
良子は、安らぎに似たものを感じたが、忽《たちま》ち猛《たけ》り立った。
「離して! 離して! バカ! バカ! バカ!」
ののしりつつ、つかみかかった。
小次郎は抵抗しない。抱きかかえたまま、相手のもがくのにまかせた。
良子は、ますます激昂《げつこう》した。
「あたしを、あたしを、どうしようというの?……縁の定まったあたしを?」
呼吸をきらして叫びながら、小次郎の手や頬《ほお》に爪《つめ》を立ててかきむしっていたが、ふとその抵抗がやんだと思うと、気を失っていた。
おのれの腕の中に、まるで無力になってもたれこんでいる良子の顔を、小次郎は、凝視した。真青な顔をしていた。目をつぶっていた。やわらかな唇《くちびる》が少しあいていた。
「とうとう、おれの手に帰した!」
可憐《かれん》さが胸に切なかった。悔いに似たものがあった。
小次郎は、あたりを見まわしながら、呼んだ。
「子春丸、どこにいる?」
「へい」
小松林の一隅《いちぐう》に、もそり動くものがあって、子春丸が出て来て、馬前にひざまずいた。
小次郎は、馬を下り、特に草の密生している場所をえらんで、そっと良子をおき、太刀をぬいてそのへんの灌木《かんぼく》を切って、顔にあたらないように立てまわした。
「しばらく汝《われ》にこれをあずける。気をつけて見はっておれ。おれは様子を見てくる」
「へい、へい。行っておいでなさりませ」
このへんまで来ると、もう戦闘のひびきは聞こえない。しかし、小次郎は、その方に馬を走らせて去った。
陽の明るい丘の斜面に、子春丸は、長い両膝《りようひざ》を立てた間に顔を伏せた姿で、うずくまっていた。身動き一つしない。ただ口の中でブツブツとひとりごとを言っていたが、何を言っているのか、それは聞きとれなかった。
彼等がここへ来た時から啼きやんでいた小鳥が、また啼き出した。次第に高く、しまいには声をかぎりに高くなった。それとともに、子春丸のひとりごとも、はっきりとなった。
「……逢《あ》いてえ、逢いてえ、逢いてえ。逢いてえよ。この前逢ったのは、先月の三十日《みそか》だったんだから、もう六日も逢わねえんだ。心配してるにちげえねえんだ。ちっとはおいらの気にもなってもらいてえよ。それを……」
しゃべりながら、次第に顔を上げて来て、なにげなく横を向いたが、そこに寝ている良子を見ると、おしゃべりをやめた。ぽかんと口をあけたまま、凝視した。
「……はアれ、まあ、なんちゅう美しい姫御前《ひめごぜ》じゃ。こいつアたまげた。おいらのあれもよっぽど愛《め》ぐしい女子《おなご》じゃあるが、こんげに美しゅうはない。これがほんとの段ちがいというものじゃて。今まで見たのは遠目《とおめ》じゃった故《ゆえ》、美しいとは思いながらも、こう美しかろうとは思わんじゃったが、こうして間近く見ると、イヤ、ハヤ、これが人間かいな。まるで天女様じゃないかいな。あの眉《まゆ》つき……あの頬……あの口許《くちもと》……ほう愛ぐしいわい。愛ぐしいわい……」
だんだん立上り、および腰になって見つめた。にきびだらけの顔に好色的な表情が浮かび、しまりのない口許は涎《よだれ》がたれそうであった。
小次郎が立去った後、郎党等は苦戦に陥った。敵は後陣の十騎が備えを立てなおしたばかりでなく、狂奔し去った先陣の十騎も引きかえして来のだ。その十騎ずつがこちらを挟《はさ》む陣形を取って、すきまもなく矢を射送りはじめたのだ。だのに、こちらはわずかに四騎しかいない上に、敵を殺傷してはならないと小次郎に言いふくめられている。はかばかしい応戦の出来ようはずがなかった。
四騎ともそろって、すぐった精兵《せいびよう》(弓の上手な兵)だ。あるいは烏帽子《えぼし》の頭を射切り、あるいは耳許すれすれを射、あるいは弦を射切って、当時の武者ことばで言う「矢風を負わせ」ておびやかしたのだが、懸絶している衆寡《しゆうか》の勢いはどうとも出来ず、しだいに林の中に追いこまれた。
突出《とつしゆつ》して駆け散らそうにも、矢はすき間もなく飛んで来る。逃走にかかろうにも、勢いに乗じた敵の駆引は巧妙で、そのすきを与えない。いつか、樹木の密生した一隅に居すくみの形になった。
彼等が敵を殺傷するつもりになれば、この難場《なんば》を脱するのはわけもないことだったが、四人とも、決してそうする気にはならない。あくまでも主命を守って、歯を食いしばり、目をつり上げたおそろしい形相《ぎようそう》で、不利な防戦をつづけていた。
引きかえして来る小次郎には、この形勢が大体推察ついた。彼は道のない山の斜面を迂回《うかい》して敵の背後に出た。
小高いここから見ると、敵は道路からかなり山に踏みこみ、そのへんの地物《ちぶつ》――岩や、樹木や、藪《やぶ》等を利用して散開し、四人のこもる地点を半ば包囲の陣形をつくっている。藪かげに居すくんでいる獣を追いつめて行く狩場の勢子《せこ》の気になっているのであろう。地物から地物へと、|すき《ヽヽ》を見ては移動しつつ、巧みに包囲をちぢめて行く姿が楽しげでさえあった。
小次郎は、そのへんの足場を、十分に注意をもって検分した。ここから小半町の間は、岩石や立木が多くて、馬の駆場として不適当だが、そこを越せば、いくらかの障碍《しようがい》はあっても、十分に駆けさせられると判断した。
馬を下り、口綱をとって、ゆっくりそこまで行って、馬に乗った。弓をとりなおし、鏑矢《かぶらや》を二筋とってつがえ、最も遠い敵の頭上四五寸のところを狙《ねら》って、切ってはなった。
三つの目穴《めあな》にはらんだ風によって響き立つ重い強いうなりは、谷間いっぱいにひろがり、反響を呼んで更にすさまじい響きとなりながら敵勢の上を飛びすぎ、狙った武者の頭すれすれをかすめて、草の中に消えた。
二十人の敵勢は、文字通りに仰天したが、その視線をかすめて、また一筋、うなりすぎた。
「すわや! 敵には新手《あらて》があるぞ!」
と、いう間もなく、小次郎は、馬をあおって、馳突《ちとつ》して行った。左手《ゆんで》に弓、右手《めて》に刀をぬきはなち、雷の鳴りはためくように大呼していた。
敵はふためいた。それぞれの地物のかげから、わらわらと立上ったが、まるで度を失って、右往左往するばかりであった。
同時に、林の中の四人も、突出して来た。
敵は混乱し、また混乱した。
子春丸は、時の移るのを忘れた。ひたすらに良子の寝姿に見とれていた。小次郎をうらやましいと思った。
厳重な身分の規制は、慾望《よくぼう》にもきびしい制限を生んでいる。郎党、下人、農奴等の階級のものの手のとどくのは、その階級の女にかぎられている。殿と呼ばれる階級の異性は、天上の星にひとしい。絶対に手のとどかないものだ。ほしいと思ったこともなく、それ故に羨《うらや》ましいと思ったこともない。
が、今、つい間近に、まるで抵抗力を失って昏睡《こんすい》している人を見ては、心から、小次郎を羨ましいと思わないではいられない。
「……うまいことしなさる……うまいことしなさる……」
つばきがかわいて、のどがグビグビと鳴る。
小次郎のものになる際のことが色々と想像される。その想像に、石田の情婦《おんな》と自分とが逢う夜の様々な痴態の記憶が重なって、それは放恣《ほうし》をきわめたものとなった。
子春丸の胸は燃えた。にきびだらけな顔が真赤になり、胸がとどろき、のどがかわき、呼吸《いき》がつまった。
血走った目をあげて、周囲を見まわした。明るい陽が照りわたり、かげろうの燃えている草原の斜面は、風一つそよがない。暗い林の奥から、小鳥のさえずりが聞こえて来るだけだ。
じりッと歩をにじらせ、一層深く目を近づけた。凝視し、また凝視しているうちに、知らず知らずに膝をつき、次第に顔を近づけて行き、蔽《おお》いかぶさり、抱きかかえるような形になった。
この姿になると、姫君が呼吸をしているのがわかる。繊細な線をもつ形のよい鼻を出入りする、糸筋のように微《かす》かな微かな呼吸が、こちらの頬をくすぐる。小鳥の胸の和毛《にこげ》で撫《な》でるよりまだ微妙な感覚だ。
子春丸は悩乱した。前後を忘れた。かき抱こうとした。
その時、良子は正気にかえった。目をあいた。自分の上にのしかかっている赤い顔を見た。目いっぱいにひろがっている顔だ。
「あれッ!」
良子は、手を上げ、したたかにその顔を打った。
「無礼者! 何をしやる!」
子春丸は狼狽《ろうばい》し、後悔した。しかし、断念しきれなかった。
「ちがいます。ちがいます。て、て、て、てまえは……御、御、御介抱……殿の仰《おお》せを受けて……」
しどろもどろに言いながらも、なお抱きすくめようとした。
子春丸にとっては、運の悪いことであった。この時、敵を追い散らした小次郎等が、ここへかえって来た。
小次郎は、林の中から一目この格闘を見るや、並み立つ木々の間を、巧みな騎乗でサッサッサッと抜けて来た。てっきり、良子が逃走しようとするのを、子春丸がおしとどめているのだと判断した。それ以外のことが考えられようはずはなかった。その時、良子が、こう叱咤《しつた》するのを聞いた。
「無礼者! 無礼者! 身分を知りや!」
風のように、小次郎は乗りつけて来た。
その時になって、子春丸ははじめて小次郎の来たのを知った。仰天し、恐怖し、逃げようとした。その時まで、小次郎は半信半疑でいたのだが、これではっきりと疑う気になった。
「不埒者《ふらちもの》!」
子春丸は、三歩と逃げのびることは出来なかった。雷喝《らいかつ》と共にふりおろされた弓で、一打ちに打ちたおされ、さかトンボ打ってひっくりかえっていた。
「バカめ! バカめ! バカめ!」
たおれた子春丸の上に、りゅうりゅうと弓はうなって打ちおろされた。一打ち毎《ごと》に、子春丸は悲鳴をあげつつ、ころげまわったり、身をそらしたり、手足をちぢめたりする。そのために、弓は、頭、背、腹、手、足のきらいなくあたった。
小次郎は、すさまじい形相になっていた。全身的な憤怒《ふんぬ》に烏帽子をこぼれた髪はすべてそそけ立ち、まなじりは裂け、頬は荒れ、正視出来ないほどおそろしかった。彼を怒らしたのは子春丸の不遜《ふそん》さもあったが、より以上に良子に対するすまなさであった。
彼は前後を忘れきっていた。このまま打擲《ちようちやく》がつづいたら子春丸は殺されてしまったかも知れなかった。
良子はおそろしさにふるえ上り、切り裂くような声で叫んだ。
「やめて! やめて! もうやめて!」
小次郎はわれにかえり、弓をひかえた。荒い呼吸を吐きながら、良子を見た。
「やめて! やめて! やめて頂戴《ちようだい》!」
良子は真青になって、すくみ上っていた。今にもたおれそうであった。
おびえ切ったその様子に、小次郎はひるんだが、急には感情の転換の出来ない性質だ。むっつりと言った。
「わしはわしの下人の不埒をこらしめているのだ。姫にかかわりのあることではない」
「どうして、あたしにかかわりのないことですの。あたしの目の前で人が殺されようとしているのに」
「わしはこいつにおことをよく看護《みと》るように言いつけておいた。こいつはその言いつけにそむいて、あろうことか、不埒を働こうとした。これは、こらしめねばならんのだ」
小次郎は、また弓をとりなおした。もうなぐりたくはなかったが、騎虎《きこ》の勢いであった。
子春丸は、藪に頭を突っこんでたおれていた。今にも呼吸がたえるかと、弱々しいうなりを上げていたが、この小次郎のけはいがわかったと見えて、いきなりおどり上った。よろめきながら逃げ出し、五六間走ってバタリとたおれ、また藪に頭を突っこんだ。徐々に腹這《はらば》いになり、背をまるめた。弱々しくうめきはじめた。少し足りない人間に時々見る横着さだ。打撃面をちゃんと狭くしているのであった。
小次郎は、また本気で腹が立った。馬をそちらに近づけようとした。
「いけません! いけません! もういけません!」
良子はまた叫んだ。
良子の顔には、深い哀《かな》しみの色があった。それは、あなたはそんな人なのですか、と、責めているようであった。それが、小次郎を打った。
小次郎はふりかえって、郎党等をさしまねいた。
林の入口に馬首をならべていた四騎が、大急ぎで近づいて来た。
「上総《かずさ》の姫君に馬をまいらせよ」
良子の馬は、はるかにはなれた所に行って、そのへんの草をよりわけてはプツプツと食いちぎりつつ食《は》んでいた。
一騎が馬を走らせていって、ひいて来て、下馬して口をおさえて、良子に騎馬をすすめた。
良子は小次郎に目を向けた。詰責《きつせき》の目であった。
「あたしをどこへ連れて行こうというのです」
強い目で見かえして、小次郎はこたえた。
「豊田におつれする」
「なぜ?」
「おことをいとしいと思う故だ。お乗りになるがよい」
最後のことばは、やさしくいたわる調子になった。
良子は、なお何か言いたそうにしたが、ふと涙ぐむと、急にしおしおとなった。小次郎は馬上から手を貸して、乗せてやった。
小次郎は人々を指揮して、草原を横切り、また林に入って、細々とつづく径《みち》を、山の尾根の方に向った。前もって十分に踏査しておいた道だ。本街道を避けたこの小径はやがて小田郷の南辺に出る。そこまで出れば、あとは平地だ。豊田まで四里、領内までは三里あるやなしだ。
一同の行ってしまったあと、子春丸は依然として弱々しくうめきながら、前の姿勢をつづけていたが、うめきはやがてつぶやきに変った。
「……殿の業畜《ごうちく》め! あの叩《たた》いたことわいの。あんなにも、人を叩けるものかいの。おいら、てっきりこりゃ殺されると思うたぞいの。あいたたッたたたた! あいたッたたたた! ……ああ、痛い。痛いわいの。
殿の馬鹿《ばか》力で、あの馬鹿でかい弓で、ああ叩かれてたまるものかいな。おいらじゃよってに、うまいこと身をくねらせて、力をそらしたけに、これくらいですんだが、ほかのもんじゃったら、殺されとるで、ほんとに!
ああ、痛い。ああ痛い。
ああまで叩かんかていいじゃないか。きれいな女《おなご》は、誰が見たかてきれいに違いないじゃないか。殿かて、きれいじゃからほれなさったんじゃろが。それを見とれるが悪いちゅうて、ああまで叩くちゅうことがあるかいな。
そら、おいらもちったア悪い。夢中とはいいながら、あこまで行くのはようない。しかし、あの叩きようはあんまりじゃぞいの。
ああ、痛い。ああ痛い。痛いわいの! おいら忘れせんで。殿よ。今に見てなされや。丈部《はせべ》の子春丸ちゅう人間が、どんな人間か、今に思い知らせて上げるけに……」
つぶやきながら、そろそろと身をおこし、藪の中から頭を出して来た。悲惨で滑稽《こつけい》な形相だった。にきびだらけの顔には縦横にみみずばれが走り、血がにじみ、烏帽子の飛んだ頭は乱髪になり、こぶででこぼこになっていた。中天に上って明るくなった日が、それをさんさんと照らしていた。
豊田へは、まだ日のあるうちについた。
小次郎は、とりあえず、良子を自分の居間に入れ、女《め》の童《わらわ》二人をつけた。
「用があったらこの者共に仰せられるがよい」
良子は、へんじをしなかった。白い目で、小次郎をみただけであった。
「わしは、そなたと今夜結婚する。そのつもりでいてもらいたい」
良子の顔に動く色があった。しかしやはりへんじせず、白い目を向けていた。
小次郎の心にひるむものがあった。しかし、肩をそびやかして、そのままそこを出た。
母屋《おもや》の一室に、母を中心にして弟等が集まっていた。皆ことのなりゆきの意外さにおどろき、将来の不安に胸をさわがせていた。小次郎は、家族の誰とも相談しないでことを運んだのだ。
小次郎は、ここへ来た。
人々は、一斉《いつせい》に小次郎に目を向けた。問いかけ、また咎《とが》める目つきであった。
小次郎は、全然それを無視した。
「母上、ちょっと来て下さい」
と、母に言って、べつのへやへ行った。母はついて来たが、へやへ入って二人っきりになると、すぐ言った。
「そなたは、そなたは、まあ、なんということをおしだえ」
涙をこぼし、声はおろおろとふるえた。
泣かれるのは閉口だ。無理はないと思いながらも、ぶっきらぼうな荒いことばになってしまう。
「考えに考えた末、やったことです。将来《さき》はどうともならばなれ。あの人を他人のものにすることは、わたしは我慢出来なかったのです。それにやってしまったことです。今さらどうにもなりはしません。言わないで下さい」
「上総でも、源家でも、きつい腹立ちであろ。大へんなことになりますぞ」
「言わないで下さいと頼んでいるではありませんか」
「……それでも……ああ、大へんなことになったわのう……」
小柄《こがら》なからだをちぢめ、白くなった髪を伏せてふるえているのが、痛々しかった。小次郎はその心に負けまいとして、声の調子を張った。
「今夜|祝言《しゆうげん》したいと思いますから、支度をお願いします」
母ははっとして、息子の顔を仰いだ。母と子の目はピタリと合った。
小次郎の目に、見る見るにじんで来るものがあった。
「母上、お願いです」
母の目にも、涙がせき上げて来た。熱くなった胸の中に、息子のこれまでの悲恋と不運とが思い出されていた。
母は、息子に知れないように溜息《ためいき》をつき、それからうなずいた。
「よしよし、支度はしますぞえ」
そして、ちょっとためらってから、ひくい声でつづけた。
「あちらはどうですかえ?」
荒々しいものが、また小次郎の胸にわき上った。
「あちらの心がどうあろうと、わたくしは妻にするのです!」
母はきびしい顔になった。
「そんなものではありません。女は弱いものですけど、一旦《いつたん》心をきめてイヤと思いこんだら、これ以上強いものはありません。力ずくなどではどうすることも出来ないものです」
小次郎は、そうとは思わない。彼は女の弱さを、これまで二度も見て来ている。源家の小督《おごう》。京の貴子《たかこ》女王《ひめみこ》。いずれも、その弱さのために、煮え湯をのまされる思いをされて来たではないか。
彼は、なんにも言いはしなかったが、肩をそびやかした。
「わたしにとっても、嫁になる人。ことさら、あの人がほんのまだ子供の頃《ころ》、一ぺん会っただけです。ごあいさつに、行って来ます」
母は立上った。
小次郎はとめなかった。母の小さい姿が、そのへやの方へ行くのを見ていたが、急に立上ると、庭に出、さらに|あずち《ヽヽヽ》のある方へ向った。
なにか心がおちつかない。弓でもひいてまぎらかすよりほかはなかった。
母の入って来た時、良子はぼんやり坐《すわ》っていた。へやの隅《すみ》に、所在なげに身を寄せてうつむいている二人の下婢《かひ》の方を見もしなかった。
彼女は、自分では非常に腹を立てているつもりであったが、ほんとを言うと、そう腹を立ててはいなかった。むしろ、一種の安らぎを感じていた。
(へんな人、こんなことをするくらい良子が好きだったら、なぜ正式にお父様に申しこまなかったのだろう。人のものになるときまってから、急にほしくなるなんて、いやしい根性よ。良子は決してゆるさないから。見ているがよい……
百姓や、下人|風情《ふぜい》の娘みたいに、こんな風にしてさらって来るなんて、良子をなんと思っているのでしょう。良子を軽べつしているのよ。良子は決してゆるさないから……
しかし、ずいぶん思い切ったことをしたものね。あの人にこんな向う見ずな性質があろうとは、知らなかった。源家でも、お父様も、きっとかんかんに腹を立てるだろうから、うっかりすると、戦さ沙汰《ざた》になるかも知れないじゃないの。
無茶ですよ。ほんとに。そんなに好きだったら、ちゃんと申込みすればいいじゃないの。そうしたら、良子はお嫁になって上げたにちがいない、きっと。こんな風になっては、もうダメだけど……)
糸くり機《はた》で糸をくるように、まくりかえし、引っくりかえし、同じ物思いをつづけている時、小次郎の母が入って来た。
髪の真白になった、小さいその姿を見た時、小次郎の母であることがすぐわかった。五つ六つの幼い時、一ぺん逢《あ》ったきりで、すっかり見忘れてはいたけれども。
良子は、笑いかけそうになって、急に気づいて、きびしい顔になった。
母は、下婢等を、手真似《てまね》で立去らした。おじぎをし、それから、いざり寄って来た。
良子はおじぎをかえさなかった。だまって見つめていた。
「良子どの、あなたはわたしを覚えていますか」
と母は言った。
強い目をゆるめず、良子は首を振った。
「そうでしょうね。あの時、あなたはおいくつだったでしょう。四つか五つだったでしょうね。あなたは、まだこんなに小さかった」
母は床から三尺ほどの高さを手で示した。
不意に、泣きたいような気に、良子は襲われた。母はつづけた。
「あなたは、あなたの、お母様と、この家に来られたのですよ」
良子は、また泣けて来そうになった。
「ああ、あの頃はよかった。あなたのお母様も生きておられたし、小次郎の父も生きていました。一族が皆むつみ合って、互いに往来《ゆきき》し合って暮したのです……」
ことばがとぎれたと思うと、老母は泣いていた。うつむいた白い小さな頭がふるえて、目に袖《そで》をあてていた。
それを見ると、良子はもうたまらなかった。せきを切ったように涙があふれて来た。泣いてはいけない、泣いては負けになると思いながらも、あとからあとから涙が出て来る。良子は自分では気づきもしなかったし、気づいても認めようとはしなかったであろうが、こうして泣くのが、決して不快ではなかった。
二人は泣きやんだ。良子の心はさわやかになり、またおちついていた。
「どうして、|なに《ヽヽ》はこんなことをなさったのです。ちゃんと申しこんで下さればよかったのに」
微笑をふくまんばかりの態度になっていた。良子には、羞《はず》かしくて、小次郎の名を言うことが出来なかった。
母も、なごやかな心になっていた。
「ほんとですよ。身分がらにあるまじきことです。わたしはもうびっくりしましてねえ。けど、申しこみはしたのですよ。あなたはお知りでないのですの」
「ほんとですの?」
「こんなことにウソを言ってどうなりましょう。去年の夏、筑波《つくば》の麓《ふもと》の紫尾《しお》の里に来ておられる菅原《すがわら》ノ景行卿《かげゆききよう》をお頼みして、あなたのお家へ行っていただいたのです。そしたら、源家の太郎君と縁がきまっているということでねえ」
去年の夏、菅原ノ景行が来たことは、良子にも記憶があった。新しい別な怒りが湧《わ》きおこった。お継母《かあ》様のさしがねだ、と、思った。みんなお継母様が実家《さと》の利益のためになさったのだ、と、思った。
「男のことですから、小次郎は愚痴めいたことは一ことも申しませんでしたが、心の傷《いた》みは一通りのものではなかったのでしょう。人がちがったように身性《みじよう》がすさんで来ましてね」
「…………」
「こんどのことは、わたしも大へん申訳ないとは思うのですが、母のわたしにしてみれば、小次郎があわれでねえ……」
「そうですとも。無理ではありません。良子はちっとも知らなかったのです。なんにも教えられなかったのです。良子はよろこんで当家のものになります」
はげしい調子で言ったが、言ってしまうと、またさめざめと泣き出した。
「ああ、それはほんとでしょうか。ほんとに、小次郎の妻《め》になって下さるのでしょうか」
母はいざりよった。良子の手をつかみ、背を抱いていた。
「ほんとですとも、ほんとですとも、良子は小次郎様の妻になります」
「ああ、これは現実《うつつ》であろうか。夢ではないか。礼を言いますぞえ。……礼を言いますぞえ」
しだいに暗くなって来るへやに、二人は快い涙にひたりながら、しばし抱き合っていた。
一刻《いつとき》ほどの後、祝言が行われた。席につらなったのは、小次郎の家族とおもだった郎党だけであった。しかし、これは当時としては格別さびしい婚礼ではなかった。親戚《しんせき》知人のあるかぎりを集《つど》えて、媒酌人《ばいしやくにん》によって式が行われ、盛大をきそうのは、はるかに後世のもので、この小説の時代は、家族だけでごく内輪に行われるのが、普通であった。
盃事《さかずきごと》がすんだ後、小次郎と良子は、一室に入った。
小次郎は、先《ま》ず言った。
「すまなんだ。わしは申訳ないことをしたと思っている。しかし、わしとしてはこうするよりほかはなかったのだ。それをわかってほしい」
良子は、わらった。
「わかっていますとも、たしかに、ああなさるよりほかはなかったのです」
「おお、わかってくれるのか。ゆるしてくれるのか」
小次郎は熱狂し、ふるえた。相手を抱きたいと思った。しかし、どうして抱いてよいか、見当がつかなかった。
良子はまたわらった。
「男がそんなにへりくだったものの言い方をするものではありません。もっと威張っていてよいのです。おわかりになりまして?」
良子には、五つも年上のこの従兄が、まるで子供のような気がして来た。
「ありがとう。ありがとう。おれはうれしい」
「あたしもうれしい。あたしは、はじめっから、お従兄《にい》様の妻になるつもりでいたのです。こうなることを、ずっとずっと待っていたのです」
これは本当ではなかった。しかし、この時、良子は本当にそんな気がしたのだ。いやいや、本当だったのかも知れない。良子自身すら意識しなかった魂の最も奥深い所での希望という意味で。
二人は、微笑し合ったまま、しばらくむかい合っていた。心があたたかくて、ゆたかで、みち足りた気持であった。
しかし、そのうち、良子は、なにかもの足りないような気がしはじめた。
(何が足りないのだろう)
と、熱心に考えた。そして、思いあたった。
――夫婦《めおと》というものは、こんなにむかい合ったまま、夜どおし坐っているものではない、おまけに、にこにこ笑ってばかりいて。ばかみたい!
良子は声を立てて笑った。そして、急に赤くなると、小次郎に身を投げかけた。
「抱いてちょうだい!」
青柳
良兼《よしかね》が変事を知ったのは、あの翌日の深夜であった。郎党の一人が昼夜兼行で馳《は》せもどって来て、報告したのである。
郎党|頭《がしら》のしたためたその注進状は、きわめて不完全であった。
(しかじかの地点で、しかじかの賊に襲撃された。大いに防戦につとめたが、不意のこととて、姫君をさらわれてしまった。まことに申訳ない。わずかに申訳の立つのは、北の方はじめ、女中衆が皆安全であることだ。
姫君をさらっていっただけで、財物には目もくれなかった点からして、盗賊ではないと思う。御一門の豊田の小次郎の殿であるという説もあるが、今のところでははっきりしない。なお、鋭意探索中であるから、判明し次第、重ねて注進申し上げる)
良兼は、仰天し、度を失ったが、忽《たちま》ち地だんだふんで猛《たけ》り立った。
「不覚人共め! あれほどの人数でいながら、四騎や五騎の敵に駆け散らされ、姫を奪われるとは、何たる不覚!」
怒りは先ず郎党等に向って爆発した。
さらに、こちらの人数には一人の死者も重傷者も出ていないと聞くと、怒りは倍加された。
「腰ぬけ共めら! それで坂東の男《お》の子《こ》か! |ふぐり《ヽヽヽ》下げているといわれるか!」
さながら、はためく雷鳴であった。
上総《かずさ》平氏の頭領として、若い時代、良兼の武名は全坂東にとどろきわたったものであった。老年に及んでからは、猫《ねこ》のようにおだやかになり、特に近頃では若い妻にとろけ切ってその言いなりになっているので、昔の良兼を知る者にも、果してあんな時代があったかと疑わせるほどだ。
が、今、その往年の猛烈さが呼びさまされた。
「小次郎にきまっているではないか! きゃつは姫をくれよと申しこんで、ことわられたのだ! きゃつ以外に、誰がこんなことをするものか!
なお探索の上、判明したら注進とは、緩怠《かんたい》しごく! なぜ、そのまま豊田に押して行かんのだ。
小次郎が武勇におじけ、いのちおしさの故《ゆえ》の言訳にきまった!
皆々、すぐ帰れといえい! 一々、首ねじ切って捨ててくれる!」
激情のあまり、良兼は、小次郎が縁談の申しこみをしたことは、家来共の誰にも秘密にしておいたことさえ忘れていた。
注進の郎党は、恐怖のあまり、一言の返答も出来ず、車寄せの地べたに、ひたいをすりつけて平伏していた。それをにらみつけながら、良兼は簀子《すのこ》の板をとどろしくふみ鳴らしながらどなった。
「すぐ行け! 一人のこらず、三日のうちにつれて帰れ。半刻《はんとき》おくれれば、首|斬《き》るかわりに、車裂きにしてくれるぞ!」
一昼夜半を、小休みもなく馳せもどって、郎党は衰弱しきっている。乱れた髪や、おちくぼんだ目や、埃《ほこり》だらけの衣服が、その労苦と疲労を語っていた。
けれども郎党は一礼してよろめき立ち、厩《うまや》の方に行きかけた。それを果して帰って来れば自分も死ななければならない使命におもむくために。
パチパチと火花をこぼしながら燃えている松明《たいまつ》を下人共からもらって、よろめきながら行く郎党の後ろ姿を見送った良兼は、荒々しい足どりに余憤を見せながら、居間に引きとった。
「小次郎め! 小次郎め!」
怒りは、ようやく小次郎に向った。良子がどんな目にあっているか、しきりに思われた。親としては、深く追うにしのびない想像であった。
「どうしてくれよう」
良子をとりかえすべき方法、小次郎にたいする制裁の方法、熱心に、色々と工夫していたが、そのうち、自分が良子のことばかりを心配して、詮子《せんこ》のことは全然心配していないことに気づいた。
あんなに愛している妻であるのに、これは不思議であった。詮子は無事だったのだから、そのためだろうと、一応の解釈はしてみたが、更に考えると、それのわからなかった時からそうであったのだ。
この発見は、良兼に一種のよろこびをあたえた。
(おれは姫の方を、妻より、本当はやはり愛しているのだ!)
若い後妻の愛に溺《おぼ》れ、それを喜ばせるために良子の好まない縁談を強《し》いたのではないかとの自責が、いつも心の底にあったのが、そうでないことの証明が立ったような気がしたのであった。
この喜びが、怒りをやわらげた。
彼は、再び車寄せに立ち出《い》でた。
「誰かおらぬか、誰かおらぬか」
と、暗い庭に呼ばわった。
郎党が三人、走って来て、うずくまった。
「おん前に」
「あれは行ったか」
「まいりました。もう小一里もまいりましたろうか」
「呼びかえせ。あれはきつう弱っていた。とても行きつくまい。そのかわり、汝《わい》等行って、探索の者だけ両三人をのこして、余の者は御前《ごぜん》を守護してまかりかえるように伝えよ」
「はッ!」
主人の気持がかわり、朋輩《ほうばい》共のいのちを召されるようなことはないらしいとわかったのがうれしいのであろう、勇み立つけはいが暗中に見えた。一斉《いつせい》に立って、厩の方に走り去った。
五六日|経《た》って、詮子等は帰って来た。賊が小次郎であることを突きとめていた。
詮子は、おそろしく腹を立てていた。彼女は、良兼が郎党等を呼びかえしたのが、先ず不平であった。
「報《しら》せをお受けとりになったら、なにをおいても、兵をくり出して後詰《ごづめ》においで下さることと存じ切っていましたのに、お呼びかえしになるなど、緩怠しごくのおんことと存じます。かつては鬼神と謳《うた》われた上総の良兼も、老いぬれば腰がぬけたと、もっぱらの世のとりさたでございますよ」
また言う。
「これは、当家に対するだけでなく、源家にたいする侮辱でございます。どうなさるおつもりでございます」
美しいだけに、怒りをふくんで緊張し切った顔は、この上なくおそろしいものであった。
権高なことばと態度に、良兼はムッとした。これは結婚後はじめてのことであった。しかし、その怒りをあらわすことは出来なかった。気弱く笑いながら、子供をなだめるような調子でこたえた。
「そなたのように、そう性急に申されるものではない。わしとて、腹の底は煮えかえるようだ。しかし、卒爾《そつじ》なことをしては事を破る。また、ほしいままに兵を動かしては、公儀《おおやけ》にはばかりもある」
「それが、わたくしには気に入らないのでございます。大事を取りすぎてぐずぐずしているうちには、姫はとりかえしのつかない身になってしまいましょう!」
いたわりのない鋭い調子であった。それはことばの意味以上に、露骨なものをつたえた。
おぼえず、良兼はふるえた。目まいしそうな気持であった。ふるえる指先で、ひたいをおさえ、重々しくうめいた。
つめたい目でそれを見ながら、嵩《かさ》にかかって、一層|辛辣《しんらつ》な調子で詮子は言った。
「お見事なこと! 一門の長者ともある身で、一門の末にやっとつらなっている小童《こわつぱ》にひとしい年の者に、大事な姫をうばわれて、腹もよう立てず、うつむきこんでうめいていなさるなど!
年寄りはそれだからきらい! 腹を立てなければならない時にも、腹を立てない。そんなのは、分別でも、おちつきでも、知恵でもありません。弱いのです! 臆病《おくびよう》なのです! 気力が衰えているのです!」
急所であった。若い妻を持つ老いたる夫の誰もが持つ劣等感を、えぐられたのであった。
「そんなことはない! わしが臆病などと! 気力が衰えているなどと! わしを誰だと思いなさるのか! 前上総介《さきのかずさのすけ》平ノ良兼ですぞ! 豊田の小せがれごときに、なにしに恐れよう! 見ていなさるがよい。明日、兵を集め、明後日には出発して、豊田に向おうぞ! 見ていなさるがよい、見ていなさるがよい」
良兼はいきり立った。ことば半ばに立上って、いらだたしげに室内を歩きまわった。
「ほんとでございますの」
詮子は夫を見上げて薄笑いした。半ば媚《こ》びるようでありながら、疑うような、小馬鹿《こばか》にしたようなものをただよわしている目つきであった。
良兼は、一層激した。
「見ているがよい。見ているがよい」
と、言いながら、ぷいッとへやを立ち出で、簀子の勾欄《こうらん》に立って、しわがれた声で、懸命に呼ばわった。
「誰かある、誰かある。いそぎまいれ」
建物の角をまがって、郎党等が数人、庭を走って来て、ひざまずいた。
鋭い目でキッと見て、良兼は叫ぶような声でいった。
「明後日早朝、豊田に向って出陣する。明日昼までに兵ども集めよ」
「はアッ!」
郎党等は、走り去った。
詮子は、居間でそれを聞いていた。にッと微笑した。薄暗い中に妖女《ようじよ》めいて見える笑顔であった。
忽ちのうちに、甲斐甲斐《かいがい》しく身支度した十人ほどの郎党や下人が、馬を飛ばせて門を出、八方に散った。在所住いの郎党や、領内の百姓共にふれを伝えるためであった。
同時に、館《やかた》のわきの丘に駆けのぼった郎党は、螺《かい》を吹き鳴らした。勁烈《けいれつ》な螺のひびきは、館をとりまいて散らばっている村々に急を告げ、なお平野と沼をこえて、数里の遠くまでひろがって行った。
螺の音のとどいた村々は、にわかにさわがしくなった。田畑に出て働いている者は働きをやめて一散に家に走りかえり、家にいた者は飛び出して小手をかざして館の方を眺《なが》めた後、屋内に走りこんだ。
「戦さじゃ、戦さじゃ。館の殿がお召しじゃ」
どこの家も、刀や、手鉾《てぼこ》や、弓矢や、鎧《よろい》をとり出して、点検した。錆《さび》がついておれば、井戸ばたに持ち出してシュッシュと研ぎ、縅《おど》しがほつれておれば、女共に命じてつくろわせた。
どこも、かしこも、ワイワイワヤワヤと、蜂《はち》の巣をつついたようなさわぎとなり、やがて思い思いに武装した人々は、あるいは騎馬で、あるいは徒歩で、全速力で館に向った。
こうして、近在の者共が集まってしまうと、しばらくあとはとぎれたが、日の暮れる頃《ころ》になると、遠方の者共が来はじめて、終夜、引きも切らなかった。
館には、門前から門内の広場の至る所に篝火《かがりび》が焚《た》かれて夜空をこがし、幾十|旒《りゆう》の旗が夜風にはためきひるがえり、焚出《たきだ》しが行われ、命令の伝達のはげしい声がたえずひびきわたり、白刃《はくじん》がきらめき、鎧が光り、犇《ひし》めき、さわぎ立ち、終夜やまなかった。
人々は、広場の隅《すみ》の木蔭《こかげ》に荒莚《あらむしろ》をしき、交代で眠った。
良兼も鎧をつけて広庭に出、真中にしつらえた床几《しようぎ》に腰をおろして、人々の着到《ちやくとう》を受けた。
老いてはいても、こうして、武装した姿は、おごそかで、ひきしまって、堂々として、四辺を圧する風格があった。
しかし、夜がふけるにつれて、次第につかれが出て来た。春の夜の寒さも肌《はだ》にしみはじめた。われながら立派であると思われるこの物の具姿を、詮子に見てもらいたくもあった。
「出陣は、明後日だ。さしせまったことではない。皆々、ゆるりと休息して、気力を養うよう。今酒をくばらせる」
と、言いおき、重立った郎党等に耳うちして、引きとった。
詮子の居間の入口に立つと、詮子はおどり立つように立って来た。夫の前に立って見上げ、見下ろし、はずみかえる声で嘆称した。
「まあ! お立派でございますこと! 獅子《しし》王のように雄々しゅうございます。わたくし、先刻《さつき》からあちらに行って、見とれておりましたのよ。それでこそ、詮子の夫《せ》の殿でございます」
先刻と、打ってかわったきげんのよさであった。あこがれ切っているような目の色に、良兼は酔った。しだいに感ぜられて来た物の具の重さも、吹っとんだ。
「ホウ、ホウ、わしは武人だでな。本来の姿になると、気力も出るわの」
ほくほくと笑って、雄々しく力強く、歩きまわって見せた。
翌日になると、人々はさらに集まり、昼頃には、総勢では騎馬の者三百、徒歩《かち》の者六百に及ぶほどとなった。
良兼は、早朝から物の具して、宗徒《むねと》の郎党等を一室にあつめて、戦略を議した。すると、午《ひる》を少しまわった頃であった。広場のざわめきが急に高くなった。怒声に似た声が聞こえ、走りまわる足音がきこえるのだ。喧嘩《けんか》でもおこったのではないかと思われた。こんな場合にはこんなことがよくあるのである。
「チェッ! なにをはじめおったのか! ――ちょっと、まいってみます」
郎党が二人、大急ぎで出て行ったが、すぐかえって来た。ものものしく緊張した顔になっていた。
「豊田からの使者でございます」
「豊田から? 軍使か?」
「そうではない由《よし》でございます。小次郎の殿と姫君とのお使いにまいったと言われます」
「誰だ? 誰が来たのだ?」
「羽生《はにゆう》の御厨《みくりや》の別当、多治《たじ》ノ経明《つねあき》の殿と仰《おお》せられます」
「多治ノ経明が……?」
知らないではなかったが、豊田|郡《ごおり》の住人で、良将《よしまさ》以来、豊田方に関係の深い人物だ。多分、小次郎に頼まれて、こちらの様子を偵察《ていさつ》かたがた来たのであろうと思われた。
思案しながら、言った。
「……とにかく、会おう。羽生の別当ほどの者を、追いかえしもなるまい……」
母屋《おもや》の客殿に席を設けさせて、そこで対面した。
経明は、狩衣《かりぎぬ》姿の普通の旅よそおいであった。邸内の戦さ支度を見たためであろう、持ち前の篤実《とくじつ》げな顔には緊張の色があった。しかし、それでも微笑しようとつとめていた。
良兼は、先《ま》ず恫喝《どうかつ》した。
「よくまいられたと申したいが、おり悪《あ》しく、戦さにくり出すところでござる。どんな御用でまいられたか存ぜんが、手短かに願いたい」
金物《かなもの》の光る鎧の胸を張っての、儼然《げんぜん》たる調子であった。
経明は軽く会釈《えしやく》して、一層微笑づくった。
「拙者も手短かが結構であります。おとりつぎまで申し入れましたが、拙者は豊田の甥御《おいご》より頼まれて、おわびを申し、また、改めてのお願いを申しにまいりました。甥御は、こう申される……」
カラリと、鎧のどこやらが鳴って、良兼は片手をつき出した。
「それはお聞きすまい。今さらわびて追いつくことではない。かかる恥辱は、血を以《もつ》て清めるよりほかはない。小次郎も坂東|人《びと》なら知っているはず。
早々にまかりかえって、当方はかくかくの支度をしている、そちらも応戦の支度をいたすようと、かように仰せられたい」
激し上る新たな怒気に、良兼の声はふるえた。
経明は一礼した。
「ごもっともです。しかし、ほかならぬ御一門のこと……」
「それは聞かぬと申した!」
とりつく島がない。経明は溜息《ためいき》をついた。
「さようでありますか。それではもうこのことは申しますまいが、これをごらん下さい」
ふところをさぐって、一通の封書をとり出し、相手の前においた。
「姫君の御消息《みしようそこ》であります」
「姫の消息?」
良兼は、どうせにせものか、でなければ、無理やりに書かされたものに違いないと思った。
とり上げるまいと思った。嘲笑《ちようしよう》しようと思って肩をゆすった。しかし、封書の表書が目にふれると、不意に胸がふるえた。
たしかに、それは良子の筆蹟《ひつせき》であった。手にはとらず、じっと見つめていた。
「御|披見《ひけん》下さい」
経明は、ずいとおしやった。
気合であった。おぼえず、良兼はとり上げていた。
とり上げれば、体裁上、まごついてはおられない。糊《のり》をはがして、ひろげた。
老人らしく上体をそらし、両手をさしのばして読んで行く手の間に、薄葉《うすよう》の紙は、かすかな音をたててふるえた。
(とつぜんの意外ななりゆきに、大へんおどろいていらっしゃることと存じます。しかし、良子は今大へん幸福でいます。こうなってはじめてわかったことですが、良子はずっとずっと以前から、小次郎様を慕っていたのでありました。
お父様はお信じにならないかも知れませんが、ほんとうなのでございます。神にも誓いましょう。仏にも誓いましょう。良子が子供だったので、自分の心の底がわからなかったのでございます。
くりかえして申します。良子は大へん幸福でございます。
小次郎様のなさったことは、申すまでもなくいけないことです。小次郎様は大へん後悔しておられます。さぞかし、お父様はお腹立ちでありましょう。しかし、どうぞどうぞ、ゆるしてあげて下さい。小次郎様としては、ああなさるよりほかはなかったのですから。そして、ああなさったため、良子は今の幸福な身になれたのですから。
良子のこの幸福を破らないで下さいまし。お願いでございます。
お父様は、源家にたいして顔向けがならないと思っていらっしゃるにちがいありませんが、源家へ行くことは、決して良子の幸福にはなりません。それは誰よりもお父様がお知りなはずです。お父様の御決心には、良子の幸福を願う以外のものが入っていたはずです。こんな言い方をおゆるし下さい。
どうぞ、どうぞ、お父様、小次郎様をゆるして上げて下さい。良子からこの幸福をとり上げないで下さい。
お父様が小次郎様をゆるして、両家が昔通りむつまじくつき合うことになったら、どんなに良子はうれしいことでしょう。良子は、それをいくえにも、お父様にお願いします。
最後に、念のため、申しそえておきます。この消息は、良子が自ら進んで書いたものです。強《し》いられたものではありません)
こんな意味の文面であった。
良兼は信じまいとした。
(これはにせものだ)
と、言いたいと思った。
しかし、この長い全文が、良子の筆蹟であった。文章の調子にも、良子の語気があった。とりわけ、源家に嫁ぐことは良子の幸福にはならない、それは誰よりもお父様が知っていらっしゃるはずだ、お父様は別な理由でこの縁談をきめられた、という条《くだり》は、強い力をもって、良兼の心を打った。
熱いものが、良兼の胸にこみ上げて来た。ふるえがどこからか湧《わ》いて、いく度となく全身を走りすぎた。
(そうだった。たしかに、この縁談をきめるにあたって、良子の幸福という立場からだけでは考えなかった。詮子の意志によって決定した)
危うく、涙がこぼれそうになった。それをこらえて、良兼は思案にふけった。
この時の良兼の気持をいつわりなく言えば、文句を言うどころではなかった。わびを言った上に、祝福をおくりたいほどであった。しかし、同時に、詮子のことが考えられた。源家の立場も考えられた。
どうしたら、良子の幸福を破らないで、詮子の怒りをなだめ、源家を納得させることが出来るか?
ひっそりとした表情の底で、良兼の心は千々《ちぢ》にくだけた。全身の血が頭に集まって|こめかみ《ヽヽヽヽ》の血管は怒張しきって音を立てていた。そのくせ、全然、思案はつかない。
重苦しい悔恨ばかりが、胸にふたがっていた。
(ああ、なんという無思慮なことをおれはしたのだろう。年甲斐《としがい》もない無思慮が、このむずかしい立場に、おれを追いこんだのだ)
急に気力がおとろえて、鎧が重くなった。老いの衰えが、しみじみと感ぜられた。
良兼の心の動揺が、経明にはよくわかった。いま一押しだと見た。
「いかがでありましょうか。先刻のことでありますが……」
良兼はぼうぜんとして、目を上げた。はじめて、その存在に気づいたような風であった。
会釈して、やわらかに、愛想よく、経明はつづけた。
「先刻の話でありますが、すでに姫君も……」
良兼は、手を振った。口早に言った。
「お話はよくわかった。しかし、返答はあとでいたす。一応、お引きとり願いたい」
詮子に聞かしたくなかった。詮子が知ったら、返事はきまってしまうと思った。
しばし、経明は思案した。ここまでの相手の心の動揺を見ながら、確実な返事をきかないで帰って行くのは残りおしかったが、こう言われてはやむを得なかった。また相手の気持がここまで動いた以上、悪い結果にはならないだろうとも思った。
「さようでござるか。それでは引きとります。何分ともによろしくお願いいたします」
「そうして下され。そうして下され」
自ら車寄せまで送って出て、郎党を呼んだ。
「お帰りになる。お見送りするよう。者共に聊爾《りようじ》なふるまいをさせるでないぞ」
「かしこまりました」
五六人の従者をしたがえた経明が、こちらの郎党に導かれて、前栽《せんざい》のかなたに姿をかくすまで見送って、良兼は前の座敷にかえった。よく考えるためであったが、坐《すわ》るとすぐ、入って来たものがあった。
詮子であった。
ここは詮子の住居ではない。思いもかけないことであった。良兼は顔色をかえてあわてた。
「おお、そなた……」
「詮子でございます」
はっきりした言い方が、皮肉な調子であった。正面に坐った。青白むばかりにひきしまった顔に、冴《さ》えた目がつめたかった。
「……そ、そなた、どうしてここへ……?」
おずおずと、良兼が言うと、詮子は薄く笑った。そして、問いには答えず、
「おさしつかえなくば、姫の消息《しようそこ》を、見せていただきとうござります」
「姫の消息? 姫の消息というと?……」
どういう心理であったか、無意識のうちに、しらばくれる口のきき方になった。
「今のお使者の持って見えた消息でございます。お年のせいで、よもお忘れではございますまい」
つめたく、意地の悪い調子であった。
下品なかくしだてをしたことを、良兼は後悔し、恥じたが、それは忽《たちま》ち怒りにかわった。カッと激して、叫んでいた。
「そなた、立ち聞きしていたのか!」
詮子を妻に迎えてはじめての怒号であった。
詮子はたじろいだが、すぐ立ちなおった。不敵に微笑した。
「かくしだてをする夫《せ》に、立ち聞きをする妻《め》、似合いでございましょう」
「黙んなさい! それが前《さき》の常陸《ひたち》大掾《だいじよう》の娘で、前の上総介良兼の妻《め》たるものの口の利《き》き方か! 恥じなさい!」
「殿こそお恥じになるがようございます。妻にかくして娘と文のやり取りをして、陰謀をたくらむなど……」
良兼は、身分がらも考えた。年も考えた。可愛《かわい》い妻との間《なか》がぬきさしならぬ不和になるだろうと恐れもした。しかし、憤怒《ふんぬ》の快感と怒号のよろこびは、彼をひっつかんで、遮二無二《しやにむに》、駆り立てた。立上った。ドウと床を蹴《け》って、あらんかぎりの声で絶叫した。
「出なさい! あちらへ行きなさい!」
いつも柔和な長い顔は真赤になり、目がきらめき、口がゆがみ、おそろしい形相《ぎようそう》になっていた。座敷の入口を示している指が、刀の切ッ先のように鋭かった。その顔も、その指も、からだをつつんでいる物の具も、たえずふるえていた。憤怒の焔《ほのお》が全身を燃えつつんでいるようであった。
詮子は、なお言いかえそうとしたが、ふと、恐怖の色を浮かべると、立上った。入口でふりかえった。おちつきはらって、
「あとでお気がしずまってから、改めてお話申し上げたいことがございます。御承知おき願います」
と言って、立去った。
良兼は、なお恐ろしい顔をして突ッ立っていたが、詮子の足音が聞こえなくなると、ホッと溜息をついて坐った。首を垂れ、腕を組み、物の具の重みにたえないようなしょんぼりとした姿であった。老年の怒りは長続きしない。燃えるだけ燃えて怒りの焔がつきたのであった。
彼は、長い間そうした姿で坐っていたが、やがて、のろのろと立上ると、座敷を立ち出て、庭におりた。
外は、うららかな日が照りかがやいている春の午後であった。
良兼は、沼に面した土居《どい》の端まで出て行って、たたずんだ。ここはなお明るかった。風がないので、広い沼は張りつめた大鏡面のように白く光り、ところどころに、そこだけ水が湧いているのか、ゆるやかな流れでもあるのか、微風でもそよいでいるのか、さざ波立って、白い光がキラキラとくだけていた。
急な傾斜をもって沼になだれている土居には、若草が萌《も》え、その上に陽炎《かげろう》がよじれ上っていた。
広庭の方から、人馬のざわめきがたえず聞こえていた。
このあくまでも明るくうららかな景色、にぎやかなざわめきは、今の良兼の心理と、まるで反対のものだ。良兼の心は一層暗く、一層|鬱《うつ》して来た。
胸苦しい念《おも》いで、考えた。
(事情はますます困難になって来た)
せっかく良子がつかみ得た幸福を奪わないためには、小次郎と仲直りし、正式に聟《むこ》とみとめるよりほかないわけだが、それでは詮子がおさまらない。
(あとで改めてお話したいことがある。御承知おき願いたい)
と、詮子は言った。
離婚をほのめかしたのだ。
良兼は知っている。これがこの世における自分の最後の情熱であることを。再びこんな情熱の燃え上ることはないことを。詮子のような女を再び妻とすることは出来ないことを。これを失えば、以後の生涯《しようがい》は、寂寞《せきばく》、荒涼をきわめるであろうことを。
とても出来ない、とても出来ない……
それから、あの兵士共だ。ああして、今にも繰り出すようなことを言って集めたものを、何といって帰すことが出来よう。めったなことを言っては、いいもの笑いだ。おれの武名は地におちてしまう。再び上総平氏の頭領と名のって、人の前に出ることは出来なくなるだろう。
「といって、良子の幸福を奪ってはならない……」
胸苦しかった。いくどか重々しい溜息をつき、ひたいににじむ汗を拭《ふ》いた。ねとねとねばるつめたい汗であった。
処置のつけようのない、この八方ふさがりの状態が、みんな自分の軽率さから、いや、いや、もっと悪いことには、詮子のきげんとりにしたことから生じた結果であることを、良兼は考えて、胸が痛んだ。
「ああ、ああ、ああ、ああ……」
彼はうめいた。
彼のつい前に、若い柳があった。しなやかにしだれた枝に、ぎっしりと新芽がついて、その一つ一つに明るい陽《ひ》があたって、翠《みどり》の珠《たま》をつらねたように美しかった。彼は、それを暗い目で凝視していたが、ふとその緑の条《えだ》が縦横に交錯し、ゆれ動き、次第に速くなり、ついには目にとまらないほどの速さとなり、視界一面が真青に塗りつぶされて来るのを感じた。何か胸苦しく、嘔気《はきけ》に似たものを覚えた。
「……いかん、たおれる……」
何かにとりすがろうと、二三度手を動かしたが、不意に何もわからなくなった。棒をたおすように、あおむけにたおれた。
阿修羅《あしゆら》の群《むれ》
多治《たじ》ノ経明《つねあき》が豊田にかえって来たのは、出て行ってから六日目であった。
経明の報告は、小次郎を喜ばせた。
「なにせ、門内にはすでに打ち立たんばかりに支度した兵《つわもの》共がみちあふれ、殺気にたぎり切っているのだ。さらに、前《さき》の介《すけ》の殿に会うと、これまたいかめしい甲冑《かつちゆう》姿で、こちらの申すことには、けんもほろろなあしらいだ。
さすがのわしも、こりゃだめだな、と、一先《ひとま》ずは考えた。
それが、お内方《うちかた》の消息をさし出すと、にわかに介の殿の様子がかわった。お読みになると、さらにかわった。子を思う親の心のあらわれだな。意地も、張りも、怒りもなくなって、いかにも切なげな様子に見えて、じっと思案しておられたが、やがて、
『あとで、何分の返答をする故《ゆえ》、一先ず引取ってくれ』
と、仰《おお》せられた。
わしの見る所では、介の殿の心はがっくり折れて、おぬしらの仲を許す気になられたのだが、源家への義理をどうしようと、なやんでおられるのだと、思う。
しかし、当の介の殿のお心がそこまで動いているのであり、もともと、切っても切れぬ一族のことでもある。やがて、快《よ》い返答が来るに相違ないと思う」
小次郎は、礼を言い、厚く経明をねぎらってかえした。
希望をもって小次郎は待った。もっとも、武人当然の用心として、兵備をととのえることは忘れはしなかったが。
待つ返答はなかなか来なかった。ついに五日たった。
こう長引いてはいい方には考えられなかった。こちらを油断させておいて襲撃する計略ではないかと疑われた。
そこで、偵察《ていさつ》のため、しのびの者を放った。その者は、百姓姿に変装して出発したが、数日の後、かえって来た。
「上総《かずさ》の殿は、御病気の由《よし》でございます」
と、報告した。
「病気? いつからだ?」
「羽生《はにゆう》の別当の殿がお出《い》でになった日、急病さしおこられて、そのまま臥《ふ》しておられる由でございます。そのため、せっかく御領内から集められた兵《つわもの》共も、分散せしめられた由でございます。事実でございましょう。一時、お館《やかた》に充満していたという兵共は、一兵もいなくなっていましたから」
「――そうか」
とすれば、なんの返答もないのも、腑《ふ》におちる。
小次郎は色々考え、良子とも相談して、見舞かたがた、再度の使者を送ってみることにした。
使者の役目を仰せつかった郎党は、様々な見舞品を持って出発したが、数日の後、大急ぎでかえって来た。
「介の殿の御病気は実正《じつしよう》でございます。御重態とかで、お目にかかることは出来ませんでしたが、お館中が憂《うれ》えの色に打ちしめっているのでございます」
「病気はなんだ」
「中気の気味であります由」
「なに中気?」
叫ぶような声で、小次郎は問いかえした。
父の死んだ時のことが思い出された。一族には、この遺伝があるのだ。
「それで、どうなのだ。気はつかれたのか」
「お気はつかれた由でありますが、当分はお臥せりになったまま、ものを仰せられてもならぬとの医師《くすし》の注意であります由、お目にかかることが出来なかったのであります」
ますます納得の行くことであった。小次郎はうなずいたが、同時に強い当惑を感じていた。看護にかえりたいにもかえることの出来ない良子の心を思いやったのであった。
思案にくれていると、郎党がつづけた。
「てまえが帰ろうとしておりますと、北のお方から、わざわざお使いがありましてお呼びになりましたので、お目通りしてまいりました」
小次郎は心をひきしめた。彼は、詮子《せんこ》にいい感情を持たない。良子と扶《たすく》との縁談を強引に進めようとしたのは、この女であると思うと、好意を持てるはずがなかった。その人物について、良子から色々なことを聞いてもいる。
「ホウ、会って、どういう話があった?」
「上総の北のお方は、こう仰せられました。
この度は意外ななりゆきとなったが、今更となっては、いたしかたはない。介の殿はお怒りがはげしく、そのために、こんどの御病気も出たようなわけであるが、その後、自分が色々とおなだめ申して、今のところは、あきらめもつき、お腹立ちもなぎたように見受けられる。
が、ここにこまったのは、源家の方だ。父の護《まもる》は老年のことではあり、話せば言訳も聞いてくれるが、扶をはじめその弟共は、血気な年頃《としごろ》のこととて、顔じゃ、恥じゃと言い立てて、一通りのことでは承知しそうにない。
ついては、女であり、また、その家の出である自分の口から言い出すのは、はばかり多いことではあるが、小次郎の殿が御自身、石田へ行って、わびを申して下さるまいか。そうしていただけば、源家でも一応の顔が立つこと故、万事ケリがつくのではないかと思う、と、かように仰せられたのでございます」
黙然として、小次郎は聞いていた。思案していた。なるほどそうすればいいだろうとは思った。そのほかにいい方法がありそうもなかった。しかし、非常な危険が考えられた。もしその家で遮二無二討ち取る手に出られたら、万に一つも脱《のが》れることは出来ないであろう。
郎党はつづける。
「みすをへだててのお目見えでございますので、はっきりとはわかりませんが、北のお方は泣いていらせられましたようで、まごころがあふれて聞かれました。てまえだけのカンでございますが、十分に信用してよいと思いましてございます」
「――そうか、なおよく考えてみよう。大儀であった。退《さが》って、ゆっくりと休んでくれ」
小次郎は席を立った。思案にふけりながら、良子のへやに向った。
良子は、居間にいなかった。
「オヤ?」
と、カンをとぎすましていると、台所の方から、女共のにぎやかな笑い声がドッとおこって、特色のある良子の明るい笑いが一段と高く聞こえて来た。
あたたかい潮が満《さ》して来るように幸福感がみちて来た。快活で、くったくのない良子は、この半月ほどの間に、すっかりこの家の空気にとけこんで、こまごまとした家政を、母と共にとっている。つまり、若刀自《わかとじ》としての手習いをしているわけであった。
知らず知らずに湧《わ》いて来る微笑に頬《ほお》をゆるめて、小次郎は聞耳《ききみみ》を立てていたが、女共の笑いがやむと、手をたたいた。冴《さ》えた音が、静かになった屋内にこだまを呼んでひびいて行った。
またざわめきが台所におこって、「ハーイ」と、長く余韻をひく良子の返事がして、間もなく、姿をあらわした。
まだ子供っぽさののこっている生き生きと血色のよい良子の顔には、何か面白いことがあったらしく、笑いの陰がのこっていた。
「お呼びでございますか」
と、言いながら、坐ったが、すぐ笑い出した。今あった面白さを思い出して、たまらなくなったらしいのだ。玉をまろばすようにやわらかで、しかも明るいひびきの持つその笑い声を聞くと、小次郎もほほえまれた。やさしい目つきで問いかけた。
「だって、だって、モロがね……、モロが……、鼠《ねずみ》におどろいて、ひっくりかえったんですよ……」
良子は、女|奴隷《どれい》の台所での失敗を、せき上げて来る笑いに、いく度もせきとめられながら語った。
その場に居合わさない小次郎には、そんなことがなぜそれほど面白いかわからなかったが、良子の全身にあふれている幸福感は、小次郎とても同じだ。彼もまた身をゆすって、カラカラと笑った。
笑うだけ笑って、良子はまじめになった。
「それで、なんの御用ですの」
小次郎はわれにかえった。すんでのことに、かんじんな用事を忘れるところであった。
委細の話をした。
見る見る、良子の様子はかわった。子供っぽい、浮き浮きした様子は消えて、考え深そうな顔になった。やや長めの美しい首筋をしなやかにかしげて、じっと聞いていた。
「それで、あなた様はどうなさるおつもりですの」
「思案がつかないから、おことに相談するのだ。しかし、思い切って行ってみようかと思っている。源家の立場にしてみれば、平らかならぬ心でいるのは無理からぬことだ。どうしても、わしがわびに行かねばおさまるまいと思うからだ」
言葉なかばから、かすかに首をふりつづけていた良子は、急に言った。
「あたしは不同意です。お出でになってはなりません。お出でになるにしても、卒爾《そつじ》ではいけません。誰かしかるべき人を立てて、たとえば石田の伯父さまからでも、あらかじめ話をしていただいて、話がついた所でお出でになるがよいと思います」
良子には、継母《はは》が信ぜられない。
良子は心ひそかに考えている。継母は父を少しも愛していない。継母が親子ほども年のちがう父に嫁《か》して来たのは、すべてその実家の利益のためだと。実家の利益のためには、どんなことでもする人だと。
けれども、仮にも継母である人のことをそこまでは言えなかった。
しかし、石田の伯父に頼んで大体の話をまとめてから行くべきだという良子の意見は、重々もっともであった。
「では、そういうことにしようかの」
と、小次郎はそのつもりになった。
ところが、その翌日であった。上総から使いが来て、詮子の消息《しようそこ》をもたらした。こちらの郎党が行った翌日|認《したた》めて、すぐ持たせてよこしたものであった。
(昨日、お使者が見えた時、一応心づくままのことを申したが、念のため、更に申し上げる)
と、前置きして、郎党の持ってかえって伝えたと同じことを書き、後にこう書きそえてあった。
(この使いの者と同時に、石田の実家へもこの旨《むね》を申しおくった。きっと、実家では諒解《りようかい》してくれることと思う。何せ、顔が立ちさえすればいいのだから)
この手紙を、小次郎は良子と共に披見《ひけん》した。
読みおわっても、良子は、紙面を見つめたまま、何にも言わなかった。美しく繊細な横顔に、物思わしげな表情があった。それを見ながら、小次郎は言った。
「そなた、どう思う?」
良子は顔を上げた。小次郎を見つめた。
「あなたのお考えはどうなのです」
「わしは行こうと思う。ここまで言って来られたものを、行かないとあっては、礼にそむく」
良子はしばらく躊躇《ちゆうちよ》の表情を見せた後、思い切った様子になった。
「もしこれがいつわりであっても?」
「そうだ。いつわりであってもだ。いつわりであるかどうかは、行ってみなければわからない。だから、もし行かなかったら、やはり礼にそむくことになろう」
そうにちがいなかった。良子は深い溜息《ためいき》をついた。
同意せざるを得ないことであった。しかし、良子は、なお主張した。せめてものことに、十分の備えをして行き、先方についても、万事につけ用心は怠ってくれないようにと。
「よしよし。わしもそのつもりでいる」
相談はきまった。翌日、小次郎は源家へ使者を出した。この度のことをわびた上、上総からの勧告もあり、自分もその通りだと思うから、明日、おわびに参上するという口上を持たして。
使者はその日のうちにかえって来た。
「お待ちしている、との御返事でございます」
先方がどんな態度であったかを聞いたが、格別なことはなく、至って平静であったという。
上総からの説得のためだろうかと思ってもみたが、たしかめる術《すべ》はもちろんない。
翌日、早朝、小次郎は、郎党十騎、下人二十人をひきいて、豊田を出た。下人も、すぐってくっきょうな者共で、皆|狩衣《かりぎぬ》の下に腹巻をしていた。
なお、小次郎は次弟の将頼《まさより》に五十騎の兵を授けて留守居させ、万一の際には報《しら》せをおくるからすぐ駆けつけるようにと、言いふくめた。
「承知した。しかし、どうだろう。道筋の所々に下人共を配っては。報せが早くとどくためだ」
将頼は興奮していた。毛深い頬はひきしまり、慓悍《ひようかん》な目は血走って、猛々《たけだけ》しい光があった。
「そうまですることはいらん。多分、何事もなくすむと思う。そちも、あまりのぼせんがよい」
と、小次郎は笑ってたしなめた。
不平だったらしい。ムッとした顔になったが、言いかえしはしなかった。
好晴の朝であった。一行は、毛野《けぬ》川の左岸につづく径《みち》を、先ず大串《おおくし》郷の方に向った。ここまで行って、斜めに右折して養蚕《こかい》川を渡り、更に一里半ほど行った地点に石田はある。
径は、広い草原を貫いて、北へ通じている。草原は、出水|毎《ごと》に氾濫《はんらん》する毛野川が長い年月の間につくり上げた河原だ。砂利や砂だらけの土だが、様々な春の花ときらめく朝の露とに飾られた緑の草に蔽《おお》われて、目のさめるように新鮮な美しさになっていた。
もし危険があるにしても、それは先方についてからだと思っている一行は、何の警戒もなく、ひたすらにその美しくすがすがしい景色を楽しみながら、乗りすすんだ。
実際、何の危険もなく、草原を乗り切ったが、大串の部落を包む森を五町ばかり前方に望む地点まで来た時、とつぜん、その森の中から耳をつんざく強さで、螺《かい》の音がおこった。
一行は、おぼえず、手綱《たづな》をしぼって馬をとめて、そちらを見た。色様々の若葉を夏雲のような形に、もくりもくりと盛り上げている雑木や樫《かし》だけのその森には、そこから螺の音がおこって来るだけで、なんの異変もあるようではなかったが、そのためにかえって無気味な感じであった。やがて、その螺の音もたえ、一層の無気味さとなった。
その時になって、小次郎は、はじめて、この好晴の春の朝だというのに、見わたすかぎりの田野に、一人の百姓も出ていないことに気づいた。
(来たな!)
きびしく胸をひきしめながら、ぐるりと、あたりを見まわすと、四町ほど右手にある雑木林の中に、ドッと喊声《かんせい》が上って、一隊の人馬が突出して来た。
およそ五十騎、午前九時頃の明るく爽《さわ》やかな春の陽《ひ》の照る畠地《はたち》の中を、白い旗を吹きなびかせ、鎧《よろい》の金具や、白刃《はくじん》をきらきらときらめかせて、小次郎等の過ぎて来た方角に向って疾駆して行く。馬足に蹴立《けた》てられた砂塵《さじん》は、濃い煙のようになって立ちのぼり、忽《たちま》ち彼等を蔽いかくしたが、その土煙の中を、なおまっしぐらに駆けつづける。退路を絶ち切るつもりと見えた。
同時に、一旦《いつたん》絶えていた螺の音がまたおこって、そこから人馬がおどり出して来た。これも五十騎ばかり。密集して、ドッと鬨《とき》の声をあげた。
見事に術中に陥ったのであった。全身的な怒りに、小次郎はふるえ、髪をさか立てた。
(卑怯《ひきよう》な!)
と、思った。が、うろたえはしなかった。戦闘になれた鋭い目で、迅速に、そして見落しなく、状況を観《み》て取った。
前面の敵も、背後の敵も、まだ五町もはなれている。彼等が一気に殺到して来れば、衆寡《しゆうか》の勢い、とてもふせぎはつかないが、この陣形のとりようでは、そうはげしい戦法に出るはずはないと見た。次第に距離をちぢめ、矢頃になってから矢戦さにかかる段取りになるのだと見た。
(どうせ、京育ちのへろへろの公達《きんだち》が大将となってきているのに違いない)
小次郎は、フン、と、鼻先で笑った。そばの郎党をかえりみた。
「はッ!」
郎党は、馬上ながらの片あぶみはずして、かしこまった。
「汝《われ》は何としてでも馳《は》せかえって、このことを三郎に告げ、後詰《ごづめ》の勢《せい》をくり出すようにせい」
「かしこまりました」
郎党は、ただ一騎、さっとそこを飛びはなれると、径を左手にそれ、微風に吹きなびく麦畠《むぎばたけ》の中をまっしぐらに飛ばしはじめた。
それを見送っているひまは、小次郎にはない。
「つづけ!」
と、叫ぶや、最初に敵の立現われた雑木林を目がけて、馬を飛ばした。この林を小楯《こたて》にとって、防戦しつつ、時をかせぐつもりであった。
林の中に優勢な敵がのこっておれば、好んで死地に飛びこむことになる。不安ではあったが、ほかに方法はなかった。のこっているか、のこっていないかで、決する運命であった。
青い麦畠、黄色い菜の花畠、小高い堤、草むら、小藪《こやぶ》、等、等、等、そんなものの散らばる上を、徒歩《かち》だちの下人共を中につつんで十騎が左右に立ち、出来るだけの速さで、林に向った。
敵は、豊田勢は必定逃げにかかり、そのためには径を左右に切れて、毛野川の方に向い、川向うの領内を目ざすものと思いこんでいたのに、まるで反対の方角に向ったので、狼狽《ろうばい》したらしい。ひしめき、ののしり立て、さわぎ立てる物音が聞こえた。
味方は動揺した。濛々《もうもう》と立ちのぼる濃い砂塵の中を歯をくいしばって走っている下人共は、そちらをふりかえろうとする。
「ふり向くな! ただ進め! 行きつくまでに矢頃に迫られると、一人も助からんぞ!」
小次郎は声をからして、叱咤《しつた》し、激励した。彼もまたふりかえらなかった。彼がふりかえったら、下人共もふりかえらないではおられないことがわかっていたから。彼は物音だけで状況を推測しながら進んだ。
同時に、その鋭い目を、次第に近づいて来る林に射つけて、敵がのこっているかどうかを観察しつづけた。
ついについた。林の中には、一兵もいないようであった。
(先《ま》ずよかった)
と思った。
しかし、戦いはこれからはじまるのだ。呼吸《いき》つく間もなく、敵状の見きわめにかかった。
敵は両隊とも、こちらを目ざして接近しつつあったが、その速力はひどく緩慢であった。窮鼠《きゆうそ》の勢いとなるのを恐れたのか、戦略なのか、互いに進みすぎないように用心しつつ、徐々にせまってくる。
「心憎からぬ振舞いだ。大丈夫だぞ。安心してよいぞ」
と、小次郎は人々に言った。勇気づけ、おちつかせるためであったが、ほんとうにそう思ったのであった。事実、敵の動きには迫力がなかった。どんなに緩慢な動きでも、真に闘志にみちているものなら、言い知れない気魄《きはく》があって、見ているこちらの胸がゆらいでくるものだが、それが全然感ぜられないのだ。
小次郎はさしずして、徒歩立ちの下人共を林の中に入れ、騎馬の者を林の外のそれぞれの地物を利用して散開させた。
小次郎のこの沈着に、人々は忽ちおちついて、さしずの通りに動いたが、ふと、一人の郎党が叫んだ。
「やあ! やった! やった!」
鞍壺《くらつぼ》に小おどりしながら、はるかに向うを指さしている。
見ると、ずっとずっとかなたの野のはてに、先刻の郎党が疾駆し去るのを、六騎の敵が追いかけているが、先頭の一騎が射落されているのであった。足のどこやらが馬具に引っかかっている。馬腹に、頭を下にして引きずられ、青い麦畑に黄色い土煙を立てていた。
つづいて、また一騎が射落された。鞍壺にのび上ろうとするように見えたが、そのまま、目に見えない手でおしおとされたように転落し、馬は横にそれた。
よく見ると、郎党は、馬上に身をひねって弓をひきしぼり、追いせまる敵を矢頃《やごろ》に引きよせては、切ってはなつのだ。笠懸《かさがけ》の射芸をそのままの見事さだ。
「それ、ほめろ!――したりや! したりや!」
鞍壺をたたいて、小次郎が叫ぶと、馬上の郎党共も、林の中の下人共も、一斉《いつせい》にわめき立てた。
声のかぎりのその叫びに、迫りつつあった敵は、両隊ともハタと進行をとめた。犇《ひし》めき合って、急にはもう進もうとしない。
「見ろ! 敵はおじけづいているぞ!」
すかさず、小次郎はさけんだ。
味方は、また威嚇《いかく》的な喊声を上げた。
その間に、敵はまた二騎射落された。もう追う勇気がなくなったらしい。のこる二騎の速度は急におち、見る見る距離がへだたり、郎党は野のかなた、林のかげに消えた。
ほんの二三瞬の間に、敵四騎を射落した朋輩《ほうばい》の働きに、味方の勇気は百倍した。おさえ切れない闘志が鬱勃《うつぼつ》として湧《わ》いて来る様であった。とぎすました鋭い目で観察しつつ、おりを待っていた小次郎の胸に、戛然《かつぜん》としてひびくものがあった。
小次郎は、右手の隊の先頭に、一際《ひときわ》目立ってさわやかに鎧《よろ》った武者のいるのを見た。どうやら、それが扶《たすく》ではないかと思われた。そこで、馬を乗り出して、大音声《だいおんじよう》に呼びかけた。
「これは、豊田の住人、平ノ小次郎|将門《まさかど》ぞ! なにものなれば、行く手をさえぎって|おこ《ヽヽ》のことをする! 名のれ! 名のれ!」
真新しい鎧のその武者は、黒鹿毛《くろかげ》の駒《こま》をおどらせて、陣頭に飛び出し、おとらない大音声で名のりをあげた。
「常陸《ひたち》源氏の頭領、前《さき》の常陸|大掾《だいじよう》源ノ護《まもる》が嫡子《ちやくし》扶だ! わけはそちらに覚えがあるはず! 待つこと久し。覚悟せよ!」
その叫びがおわるかおわらないかに、左手の隊の陣頭に、ならんで二騎おどり出した。一騎は連銭|葦毛《あしげ》に騎《の》り、一騎は栗毛《くりげ》にまたがっていた。二騎とも、新しく流行しはじめた小札《こざね》おどしの鎧を着用していた。
先ず、前者が呼ばわった。
「これは扶が次弟、隆《たかし》、生年二十三。汝《なんじ》がために蒙《こうむ》った一族の恥を雪《すす》がんために立向った。いざ戦おう」
つづいて、後者が名のった。
「隆が弟|繁《しげる》、生年二十」
なるほど、兄弟総出か、と、小次郎は思った。またさけんだ。
「口先あまく人をさそい出して、騙《だま》し討ちにするを男の恥と思わぬとは、どこの国の作法だ。坂東でははやらぬことだぞ!」
すかさず、扶が叫びかえした。
「これすなわち戦略だ! だまされてさそい出された汝《うぬ》が馬鹿《ばか》なのだ!」
小次郎は、嚇《かつ》と激した。
この間に、敵は二町ほどの距離まで近づいた。普通ならまだ矢頃に遠いが、小次郎の弓勢《ゆんぜい》なら十分にとどく。
「見事討つなら、この矢を受けてみよ」
と、叫ぶや、五人張りの強弓に十三|束《ぞく》三ツ伏せ、小さな鉾《ほこ》の穂先ほどもある鏃《やじり》をすげた山鳥の羽をはいだ矢をつがえ、忘るるばかりに引きしぼって、フッと切ってはなった。磨《みが》き上げた矢竹に春の陽を照りかえす矢は、一筋の白光か、一筋の銀の針金を引いたように見えて、すばらしい速さで飛んで行った。
扶はおのれに迫って来る矢を見て避けようという気はありながら、五体がすくみ上って、まるでこなしがきかない。どちらに逃げても、その矢の方角であるような気がして、おびえきっていると、とたんに、なんにおどろいたか、馬がおどった。扶ははずみをくって、イガからこぼれおちる栗の実のように、他愛《たわい》なく落馬したが、その背をかすめて矢は飛びすぎ、背後から押して来つつあった軍勢の一人の胸板を、射つらぬいた。
悲鳴も得上げず、その郎党は馬上から転落した。矢は、胸を半ば以上つらぬいて、鋭い鏃は赤く染まって背中に出ていた。
すさまじい弓勢に、人々は、身の毛をよだたせた。全隊の馬足がぴたりととまり、その場にたゆとうた。すかさず、味方が喊声を上げたので、その動揺は一層はげしくなった。
今だ! と、小次郎は思った。この小次郎の気持は、そのままに郎党等の気持であった。
「それ!」
叫んで、小次郎が馬をおどらせるかおどらせないかに、それぞれの地物の陰から、郎党等は飛び出して来た。
ばらばらの位置におどり出した郎党等は、次第に集結して、一団となった。小次郎をトップにしたクサビ形の隊形だ。ウワーッ! と、狂的な叫びを上げながら、矢のような速さであった。わずかに十騎の寡勢ではあったが、人馬ともにすぐりにすぐったものばかりだ。
小次郎も、郎党等も、疾走する鉄車の速さと力とを感じた。瞬間|毎《ごと》に、力の充実を感じ、意気の高まりを感じ、満々たる自信を感じた。昂揚《こうよう》しきって、目のくるめくような気持であった。
彼等の経験は、これが勝利の予感であると教える。こんな気持のする時の戦いには、必ず勝つのである。
「一当てだ!」
と、皆思った。
彼等の行く手には、扶にひきいられた五十騎が主将を中心に密集した隊形でひかえているが、彼等の目には、もうそのままの姿にはうつらない。裏崩れして四分五裂になって敗走しつつある幻影が重なって、チラチラと揺れている。
事実、敵の動揺の様はますますはっきりとなった。しかし、くずれ立つほどにはならない。どうにか踏みこたえて、こちらがなお進んで射程内に入ると、矢を射そそぎはじめた。
いのちのすりへるような無気味な音を立てて飛んでくる矢は、羽虫がむらがり襲ってくるようであった。郎党等は、駆けながら応射しようとした。小次郎はゆるさなかった。
「返し矢射るな! ただ駆けて、蹴散らせい! 馬の平首に頬《ほお》をつけ、袖《そで》をかざして矢防ぎせよ」
と、指図《さしず》して、自ら範を示した。
郎党等も、それにならった。
豊田勢のこの猛烈な突撃に、扶の隊が動揺しつつも踏みこたえたのは、理由があった。豊田勢がこちらに向って突撃を開始した時、隆と繁の隊がこれを追尾にかかったからである。適当な距離まで引きよせておいて反撃に出れば、挟撃《きようげき》の窮地におしおとせると目算したのであった。
小次郎は、隆と繁とが追尾しつつあることを知ってはいたが、タカをくくっていた。一当てに扶を蹴散らし、直ちに馬をかえしてその弟共を蹴散らそう、何の手間ひまいるものか、と思ったのだ。
敵との距離は、いよいよ近づき、今はもうはっきりとその顔が見えるほどになった。
「そうれッ!」
はねかえるように、小次郎は馬上に身をおこした。同時に、右手に刀を抜きはなった。郎党等もそれにならった。
ウワーッ!
ウワーッ!
ウワーッ!
…………
あらんかぎりの絶叫であった。きらめく刀は高々とふりかざされていた。烏帽子《えぼし》は皆飛び、逆立つ髪は風になびいていた。眉《まゆ》はさか立ち、目はきらめき、顔相は荒れ、さながらに阿修羅《あしゆら》の群《むれ》であった。
敵陣を、踏みにじり切りまくり、はね飛ばす殺伐な期待がはげしいよろこびとなって、小次郎のからだの隅々《すみずみ》、郎党等のからだの隅々にまで、熱い血のようにたぎった。
その時であった。小次郎はおそるべきものを、眼前に見た。
死の旋風
つい一跳足の前方に、長い広い凹地《くぼち》があった。古い河床のあとであろうか、雨の多い季節や、豪雨の時には水が流れるのだろうか、もろい砂地になった底には、全然水はないようであったが、おそろしく深い。優に六尺はある。おどりこえようにも、広さは三間もある。
一瞬の間に、これだけのことを見てとった小次郎は、手足の先までつめたくなった。
「馬をとめい! 馬をとめい!」
絶叫しつつ、ふりかざした刀をはげしく打ち振って、郎党等に異変を知らせながら、グンと手綱を引きしめた。が、及ばなかった。はずみ切っている馬は、ちぎれるばかりに舌をくつわにひきしめながらも、宙におどり、次の瞬間には、凹地の底に激突し、前脚を折り、ドウとたおれた。
その寸前に、小次郎は馬を飛びはなれたが、咄嗟《とつさ》のこととて、軽く身をこなせなかった。強い力で叩《たた》きつけられたように、横倒しになった。
郎党等は、小次郎の叫びを聞いた。はげしく刀を打ちふるのを見た。しかし、それがなにを意味するか、わからなかった。敵に対する威嚇であると思って、彼等もまた刀をふりうごかし、喊声《かんせい》を上げた。
その直後に、彼等は、足許《あしもと》にあいている凹地を見た。恐怖と、絶望の悲鳴が口をついて上り、人馬もろとも、掃きおとされたように重なり合って、そこに顛落《てんらく》した。それらのあるものは、やっと半身をおこした小次郎の上にもおちて来て、小次郎の頬に、なぐりつけるような強い打撃をあたえて、また大地に叩きつけた。
この打撃が、小次郎をふるい立たせた。自分の不覚にたいする怒りと共に、猛然たる敵愾心《てきがいしん》が湧き立った。
彼は、前後に、勝ちほこる敵の喊声を聞いた。高い両岸にさえぎられて、様子は見えないが、両隊とも半町ぐらいの距離に迫っているらしかった。
はねおきた。弓をひろい、刀をひろい、やなぐいをひろい、矢をひろい集めつつ、郎党共に呼ばわった。
「しっかりしろ! 傷《て》を負うた者は、誰と誰だ! 戦える者は、誰と誰だ!」
おり重なった人馬の中から、一人一人、イナゴがはね出すようにはね出して来た。
六人あった。大てい頬のあたりにすりむき傷や、引っかき傷をこしらえていたが、元気であった。
あとの三人のうち、一人は足を折り、一人は腕をくじいていた。一人だけが、首の骨を折って、息がたえていた。馬も三頭は無事であった。
小次郎は、元気な一人に、その三頭と、負傷者を、上手へ連れて行くように命じた。
「上手へ上手へと行き、出来るだけ遠くここを離れい。途中に適当な場所があったら、そこにかくれてもいいぞ」
いそがなければならなかった。言いすてておいて、小次郎は、のこりの者共をつれて、反対側の方へと下って行った。
一方、常陸勢は、アッという間もなく、掻《か》き消すように豊田勢の姿が見えなくなったのに、おどろいた。
彼等もまた、こんな凹地があるとは知っていなかった。異変のあったらしいことは、あの瞬間に豊田勢の示した魂切《たまぎ》る叫びや、絶望的な身ぶりによって推察がついたが、どんな異変であるかは、まるでわからない。とりあえず、喊声を上げてみた。先刻小次郎等の聞いた喊声であった。
その喊声には、応答がなかった。敵の喊声には喊声を合わせるのが普通なのだ。
麦畠《むぎばたけ》と菜種畑のつづいているそこを見つめながら、扶は小首をひねった。敵は相当な損害を受けて凹地の底にへたばっているのではないかと思い、こんな場合には時をうつさず攻撃を加うべきだと考えはしたが、ひょっとして、案外何の損害もなく、こちらの近づくのを待って手痛い攻撃を加えるつもりではないかとも思うのだ。
一体、彼は良子との結婚を、それほど熱望していない。父や姉が有利な結婚であるとて熱心にすすめるので、その気になったにすぎない。それ故《ゆえ》にこうなったことを、それほど口惜《くや》しいとは思わないのだ。
(世間には女は多いのだ。おれほどの門地があれば、もっと有利な条件で、もっと気に入った女との縁組が出来るはずだ)
と、思う。
が、父や、姉や、弟達は、ものすごい腹の立てようだ。
(泣寝入りにすませては、せっかくここまで築き上げた家の名はすたれてしまう。男の第一資格を武勇においている坂東のことだ。豪族同士のつき合いが出来なくなるばかりか、領内の百姓共への睨《にら》みもきかなくなろう)
とりわけ、姉の怒りがすごい。おせっかいにも、謀《はかりごと》をめぐらして、敵をおびき出してくれた。
もう、のっぴきならない。
(やれ、やれ、大儀なことだ)
と、心中大いにぼやきながら、出て来たという次第であった。
ぼんやり前方を見つめながら、なんの指揮もしない扶を、郎党等は腹立たしげに眺《なが》めていた。彼等は、もう朋輩を五人も死なして、敵愾心をもやしている上に、思いもかけず情勢が有利になったのだ。ぐずぐずしておるべきではないと、はやり切っていた。
はげしい調子で、一人が呼びかけた。
「若君!」
扶はふりかえった。
「すぐ寄せましょう。敵に立直るひまをあたえてはなりません」
扶は答えず、視線をもとにかえした。
その目の中に、迷いと躊躇《ちゆうちよ》を読みとったその男は、いきなり馬をおどらせて前に出た。
「斥候《ものみ》つかまつります!」
叫びすてにして、駆け出した。つづいて、また数騎が駆け出そうとした。
「行ってはならん! 一人で十分だ!」
扶は、強く制して、それは行かせなかった。
弟等の隊からも、二騎走り出して来た。
三騎は、その地点について、馬上からそこを凝視していたが、忽《たちま》ち、手を上げて、それぞれの本隊をさしまねいた。
扶の指揮も待たず、ドッと一同は駆け出した。同時に、隆と繁の隊も、駆けて来た。一筋の凹地を中に、両隊は向い合って、その凹地を見入った。
彼等は、そこに一人の武者と数頭の馬がたおれて死んでいるのを見て、同時に歓声を上げた。
「見ろ! 天罰だ!」
親がゆるし、家と家とが堅い約束をして定まったものを、力にまかせて横合いから強奪した不法者に、仏神の下した冥罰《みようばつ》の明らかな証拠《あかし》を見たと、皆思った。
数人が、すばやく馬を飛び下りて、凹地におどりこんで、調査にかかった。
皆、浮き浮きと楽しげであった。凹地の底と上とで、冗談半分の会話がかわされて、時々、ドッと笑った。
その中で、ただ一人、扶《たすく》は浮かない顔でいた。彼はしきりに考えつづけた。
彼の勘定したところでは、敵は小次郎もこめて十騎いた。ところで、ここに死んでいるのは人一人、馬七頭だ。のこりの九人の人と、三頭の馬は、手傷は負っているかも知れないが、とにかくも助かっている計算だ。
それはどこへ行ったか?
その者共が、思いもかけない所から、ワッと打って出て来るかも知れないぞ……
ここまで考えた時、扶はふるえ上った。おそろしい勢いで馬をかけよせ、いきなり叫んだ。
「待て! ふみ荒すな! 上ってこい!」
叱咤《しつた》するようなはげしいことばに、凹地の底にいた郎党等はおどろき、うろたえた。
「上って来い! 上って来い!」
と、また叫んだ。馬を飛びおり、凹地のふちに走りよった。
郎党等は、上の者に手を引っぱってもらって、上って来た。
扶は、凹地の底を、注意深い目で見た。
もろい砂地で出来ているそこには、多数の足あとが乱れていた。上手に向ってもついており、下手に向ってもついている。上手の方がいくらか多いが、馬の足あとがまじっているから、本当は下手の方が多いかも知れない。
(やつらは、左右にわかれた。馬を連れた組と、徒歩《かち》の組とに。そして徒歩の組の方が人数が多い)
と、扶は判断した。しかし、その先の推理は立たない。
なぜわかれたか? 単にばらばらに逃げたのか? 深い計略があって戦うためか? 戦うためならどんな計略で? 小次郎はどちらに行ったか?
扶は、弟等を呼んだ。
弟等は馬を寄せて来た。
凹地をへだてて、扶は自分の判断と疑問をつげて、意見を徴した。
年若い弟等には、考えがつかないが、この運のよさに勇み立っている。
「わからんな。しかし、わからんでもさしつかえない。馬はわずか三頭しかのこっていないのだ。おそれることはない。両方共にさがそう」
と、隆《たかし》が言うと、
「そうとも、そうとも。おそれることはない。両方ともさがそう。そして、ついでに、あの林の中にひそんでいる下人共も狩り出そう、一人も生かして帰すまいぞ」
と、繁《しげる》も気おい立った。
扶はなお考えていた。
このまま帰ろうか、と、先《ま》ず思った。
(これは一応の勝利だ。すでに恥は雪《すす》いだことになる。器用にかえるのが上分別ではないか)
しかし、決しかねた。
(追って追って追いつめて、皆殺しにしておかないと、あとがうるさいぞ。それの出来る今ではないか)
とも考えるのだ。
隆が叫んだ。
「兄者! 何をためらっている? さあやろう。われらはあの林の徒歩武者共に行き向う。おことはこの溝《みぞ》にそって、こちらを追ってくれ! 必定、小次郎はこちらに行っている。馬と離れるはずがないからだ」
それが、扶には疑問だと思われる。下手をさして言った。
「しかし、こちらの方が人数が多いぞ。大将は人数の多い方につくが自然ではないか」
「それが計略だ。そうして、われらの目をくらまして下手に去らせておいて、これを上手に行ってあの林の中の味方と一緒になるつもりなのだ。林の中には、徒歩武者ながら二十人はいる。これを利用しないはずがないではないか」
なるほど理窟《りくつ》は立っている。しかし、扶はなお決しかねた。
とたんに、末弟の繁が、
「議論ばかりしていては戦機は去る! 兵は拙速を尊ぶ! まろはまいるぞ」
と、いらだたしげに叫ぶや、さっと馬首を向けなおして一|鞭《むち》あてた。
「つづけ者共!」
ことばは、十間も駆けはなれてからであった。
「では兄者! 頼むぞ!」
隆も、言いすてて、駆け去る。
郎党等も、それぞれに馬首をめぐらして、先を争ってつづいた。しだいに追いつき、密集し、おのれの蹴立《けた》てる土煙に包まれながら、林の方に遠ざかって行った。
こうなれば、扶もためらってばかりはおられない。
「では、まいろうか」
と、思い切り悪く、郎党等をふりかえった。
はやりにはやって、じりじりしていた郎党等は、ことばのおわるまで待っていなかった。凹地に沿って、一斉《いつせい》に早駆けにうつった。
隆の推察は、ある程度まであたっていた。負傷者と馬をつれた郎党は、凹地を上へ上へと行き、それが林について屈曲する地点で今までのコースをはなれて林へ入り、味方の下人共と合流した。気迷いした扶があれこれと論議して時間を空費したのが、好都合であった。
合流した彼等は、林中深く入り、特別樹木の密生している場所を見つけて、ここにかまえた。勇武のほまれ高かった故|良将《よしまさ》に訓練され、蝦夷《えぞ》を相手に多年の実戦の経験を積んで来た者共が半数以上もいるのだ。騎馬で来る優勢な敵を徒歩で迎えるには、これが唯一《ゆいいつ》の戦法であることを、よく知っていた。
なお、彼等は陣地の周囲一帯に樹木を折りかけて簡単な鹿垣《ししがき》をつくりかけたが、その時、林の入口にドッと喊声が上り、矢を射込んで来た。もちろん、その矢はとどかない。はるかに遠いところで、そのへんの樹木の幹につきささったり、しげった樹枝にさえぎられたりした。
常陸勢は、林の入口まで来て、林の奥をすかしみたが、どこに敵がいるかわからない。とりあえず、さぐりの矢を射かけた。しかし、その矢は大木にさえぎられた。
坂東武者の習いで、徒歩立ちの戦闘は得手でないが、やむを得ない。一同は馬を下りて散開し、踏みこんで行った。
騎馬戦になれた彼等にとって、馬を離れるのは、不安でならないことだった。なにか無気味な思いで、一歩一歩、さぐるような足どりで進んだ。
明るい春の陽《ひ》はあざやかな新緑を透し、またその間をもれて、林にさしこみ、新鮮でかんばしい若葉のかおりがみちみちていたが、それを感ずる余裕はなかった。冑《かぶと》の眉庇《まびさし》の下から、ギョロギョロと目を光らせ、全身の神経を緊張させていた。
十五六間も進み入った時、彼等は前面の小暗いほど樹木の繁《しげ》ったところに、簡単な鹿垣をめぐらした敵の陣地を見た。
「居たぞーッ!」
口をついて、同音の叫びが、方々におこった時、そこからはげしい弦《ゆんづる》の音が一斉におこり、同時に、矢が飛んで来た。木漏日《こもれび》の間を、素速い縫針のように緑金《りよくきん》の光をはねかえしつつ飛んで来たそれらの矢は、やにわに三人をたおした。
「手ごわいぞ! 用心してかかれ!」
叫び合って、思い思いに、姿勢を低めたり、樹木のかげに身をよせたりした。
「ウワーッ!」
と、威嚇《いかく》するような喊声が、鹿垣の向うからおこって、また矢が飛んで来た。こちらが用心しているので、こんどはあたりはしなかったが、狙《ねら》いはおそろしく正確であった。下人共とはいいながら、射芸にすぐれた者共であることがわかった。
人々は、一層用心する気になったが、戦さなれない若大将である隆と繁は、これが歯がゆくてならない。
「ためらうな! 敵は小勢だ。有無を言わさず、ふみこめ! ええい! ふみこめというに!」
いらだった繁が立木のかげをはなれて、突進しようとした時、ヒューッ! と、鋭い音を立てて、木々の間を飛んで来た矢が、眉庇の下から右の眼《め》を射つらぬき、勢いあまって首筋をぬけて、冑の錣《しころ》に射つけた。
繁は、魂切る悲鳴を上げて、その矢をぬこうとして右手を上げたが、そのまま、棒をたおすようにたおれた。
ウワーッと、鹿垣の内から、また喊声《かんせい》が上った。
繁を抱きおこそうとして、附近の郎党が、それぞれのかくれ場をはなれて、駆け寄ろうとしたが、それを狙って矢が集中し、また二人たおされた。
やっとのこと、一人が木蔭《こかげ》に引きずりこんで、介抱にかかったが、繁の若々しい顔には死相がまわり呼吸《いき》がたえていた。血はほとんど出ていなかった。鷹《たか》の羽ではいだ矢が深く強く射こまれている右の眼のふちに、ほんの少しにじんでいるだけであった。
隆は、弟のたおれたのを見ながらも、危険でどうすることも出来ない。楯《たて》にとった樫《かし》のかげから、
「しっかりせい! しっかりせい!」
と、はげますだけであった。
繁を介抱していた郎党が、手真似《てまね》で、すでにこときれたことを知らせた。
隆はおどろいた。危険を忘れた。かくれ場所から飛び出して、弟の場所に走った。
ほんの五六歩を走る間に、矢がいく筋も飛んで来て、一筋は鎧の袖《そで》の裏かくばかりに深くつきささった。
「しっかりせい! しっかりせい!」
叫びながら、弟を抱きおこした。末期《まつご》の無念をそのままにのこして、きびしく歯を食いしばって硬直している顔であった。ゆりうごかす兄の両腕の中に、ふらふらと力なくゆれていた。それにつれて、目につきささっている矢がゆれるのが残酷であった。隆はその矢を抜こうとしたが、篦《の》深くつきささっているそれは、ちっとやそっとではぬけなかった。いたましくて、あまり力をこめることは出来なかった。
火のような怒りが、隆の全身を燃え立たした。恐怖も、思慮もなくなった。彼は遮二無二《しやにむに》突撃にうつろうとした。しかし、郎党がとめてそうさせなかった。
「とんでもないことです。あの引きもうけている手練《てだれ》の敵に行き向おうとは! もってのほかのことであります!」
もみ合っている間に、隆のいきり立ちはしずまり、それとともに、扶にたいする不満がこみ上げて来た。
(誰のためでもない。もとはといえば、自分のことからおこったことではないか。それを便々としていらぬ論議立てばかりしていたために、敵にこの用意をさせてしまったのだ!)
と、思うにつけても、腹が立ってならない。ギリギリと歯をかみならして、敵陣をにらんでいた。
その時、敵陣の向う側に、ドッと鬨《とき》の声がおこった。凹地《くぼち》をたどって、追跡して来た扶にひきいられた勢であった。
腹背に敵を受けながらも、豊田勢は決してくじけなかった。二組になって背中合わせになり、落ちつきはらって防戦して、常陸《ひたち》勢をその位置に釘《くぎ》づけにして前進させなかった。
ついに、常陸勢は林の中を退去して、遠巻きにとりまいて、火をかけた。水気の多い春の樹木はなかなか燃えつかなかったが、一旦《いつたん》燃えついたとなると、忽ちひろがって、林は煙と炎につつまれた。
こうなれば、豊田勢も斬《き》って出るよりほかはない。彼等は炎と煙をくぐって一団となって斬って出た。常陸勢はまともにこれに当ろうとはしなかった。騎馬の円陣をつくってひろく取りまき、小手をそろえて射た。狩場で獲物《えもの》を射るに似ていた。獲物共の動きにつれて円陣はのびたり、ちぢんだり、ひろがったり、すぼまったりしつつ移動して、追物射《おうものい》に射たおすのであった。
常陸勢は、自分等の取り巻いている敵のなかに、かんじんの小次郎のいないことに気がついたが、たとえば生簀《いけす》の中に追いこんだ魚の群か、囲いの中にしぼりこんで来た獣の群のような敵勢をそのままにしておいて、小次郎を追跡する気になれなかった。
残酷で血なまぐさい歓《よろこ》びに熱狂し、酔い痴《し》れたようになって、ウワーウワーと歓呼しながら、殺戮《さつりく》して行った。
獲物が勇敢で強猛であればあるほど、この狩猟は面白かった。突進して来れば網はサッと後退して矢を射そそぎ、後退すればスウとすぼまって射そそぎ、結局はたおすのだ。
あくまでも明るい春の日の真昼だ。火勢にさそわれて出た風に、林全体が轟々《ごうごう》と鳴っていたが、炎の色はほとんど見えない。渦巻《うずま》きながら立ちのぼる黒白の煙の間に、ほんの時折、赤い舌のようにちらつくだけだが、恐ろしい速さで、火はまわりつつあった。
その林を背景にした緑の野の上で行われるこの残忍刻薄をきわめた虐殺《ぎやくさつ》は、のどかな春の日である故《ゆえ》に、明るい真昼である故に、鮮明である故に、嬉々《きき》とした歓声の故に、子供の無邪気な戯《たわむ》れのようでさえあった。
この殺戮の行われている時、小次郎は遠く毛野《けぬ》川の岸まで後退していた。ここで、後詰《ごづめ》の勢の来着を待って反撃に出ようと思案を定めていた。のこして来た下人等のことが気にならないではなかったが、馬がなくては、この優勢な敵に駆け向うことは出来ない。
彼等は、川沿いの竹藪《たけやぶ》にひそんで、援軍の来べき方角を見たり、離脱して来た戦場の方をふりかえったりして、じりじりしていた。
十五六町も離れている戦場は、その間に森や、藪や、高地があるために、様子がよくわからなかったが、間もなく、その方角から一筋の煙の立ちのぼるのが見えた。
見る見る煙は大きくなり、重く濁って、その方角の空の一部分は茶色の雲に蔽《おお》われたようになった。
これがなにを意味するか、戦さなれた彼等には、すぐ推察がついた。彼等は、すさまじい顔になって、なお見つめた。一人も口をきかなかった。身動き一つする者がなかった。
(さわいだとて、こうなっては、どうなるものではない。死んでくれ。出来るだけ勇敢に戦って死んでくれ。やがて、後詰の勢が来たら、必ず仇《かたき》を討ってやるぞ。おぬし等に加えた苦しみに百倍する苦しみを与えてやるからな)
と、一人一人が、胸の奥でくりかえしつつ黙祷《もくとう》していた。
間もなく、煙はますます濃くなり、空にひびく喊声も聞こえて来た。この喊声の意味も、わかっている。
彼等は、もうその方を見ない。一筋に、援軍の来べき方を見ていた。
「来た!」
とつぜん、一人が叫んだ。
毛野川沿いの緑の草原のはてに、ポツリと黒い点のようにあらわれたと思うと、忽《たちま》ち一団の人馬となり、濛々《もうもう》たる砂塵《さじん》を野面《のづら》一ぱいにひろげながら、もみにもんで駆けて来るのであった。
後詰の勢は七十騎もあった。小次郎の出発後、将頼《まさより》が自分の料簡《りようけん》でなお二十騎集めたのであった。また、乗換え用に二十頭の馬も連れていた。
「兄者無事であったか? よかった、よかった……」
馬を飛び下りて、小次郎の前に立って、将頼はハラハラと涙をこぼした。汗とほこりによごれて、一層|精悍《せいかん》な顔になっていた。
黙ってうなずいて、小次郎は牽《ひ》きよせられた馬にまたがった。
「余の者共は?」
と、将頼がきいた。
小次郎は、無言のまま鞭《むち》を上げて、煙に濁っている空を指した。
「あれがやはりそうか!」
鋭い将頼の叫びに兵士等もその方を凝視した。
「弔《とむら》い合戦だ! 一人も容赦するな!」
絶叫して、小次郎は馬に鞭打った。ドッと響きがあがり、砂塵があがって、一同はつづいた。
馬蹄《ばてい》のひびき、馬具の音、鎧《よろい》の音、武器の音――一つになって雪崩《なだれ》の響きのようになってつづく音を聞きながら、小次郎はきびしい決意に胸をしめつけていた。くりかえし、つぶやいた。
「一人ものこさぬ。皆殺すのだ。一軒ものこさぬ。すべて焼くのだ。石田まで攻めつけ、館《やかた》も焼いてしまうのだ。三人の兄弟どころか、護《まもる》も安穏《あんのん》にはおかぬ」
あざむかれた怒り、下人共を殺された怒りは、もちろんであった。しかし、それだけではなかった。この際報復をしなかったら、彼は頼りにならない弱い主人として、郎党等や、下人共や、百姓共から離反されるのだ。その報復が痛烈であればあるほど、強力で、勇敢で、頼りになる主人として、畏敬《いけい》され、倚附《いふ》されるのだ。国家の警察力が微弱で、人々がそれぞれの主人達の気力によって生命と財産の安全を得ている時代であってみれば、これは当然のことであった。
次第に激揚し、次第に熱して、つむじ風のようになった小次郎等が、駆けつけた時、残虐な殺戮はもうおわって、常陸勢の姿は見えなかった。林の火勢もおとろえて鎮火しかけていたが、まだ一面の薄い煙につつまれて、シューシュー音を立てて煙を噴き出したり、チラチラと炎を舐《な》めまわっている樹々《きぎ》もあった。
その林を少し離れた麦畠《むぎばたけ》の方々に、味方の兵がたおれていた。様々の姿で死んでいる彼等は、皆右手にきびしく刀をにぎりしめ、全身にハリネズミのように矢を射立てられていた。とりかこんで追物射《おうものい》に射殺したことは、附近一帯の畠がひろびろと馬蹄に踏み荒されたのではっきりわかった。
朝夕に馴《な》れむつんだ朋輩《ほうばい》だ。親しい友垣《ともがき》もあれば、血のつながったものもある。
「むごいことを、むごいことを……」
人々は歯ぎしりしつつつぶやいた。全身を蔽うてつきささっている矢にも、ひきゆがみかがまった四肢《しし》にも、歯を食いしばって硬直している死顔にも、死んでも死にきれないうらみがこもっているように感ぜられた。
「このかたき、きっと討つぞ! きっと討つぞ……」
口々に叫びながら、兵士等は馬をとびおりて、死骸《しがい》をとりおさめようとしたが、小次郎はそうさせなかった。
「それはあとだ! つづけ」
と叫んで、また駆け出した。
速度も、意気の昂揚《こうよう》も、加速度的だった。砂塵につつまれて、ひたすらに疾駆しつづける一団の上には、一種異様な気魄《きはく》がかげろうのように立ちのぼっているようであった。
忽ち、大串郷の林を駆けぬけて部落をつい目の前に見る地点にかかったが、その時、部落の家々や、小藪のかげから、矢が乱れ飛んで来た。
おびただしい矢だ。せまい道路を密集して一かたまりになって進むこちらを、矢頃《やごろ》をはかって引きもうけていたらしく、狙いも相当正確だ。歯がみをしながら、小次郎は、矢頃の外までしりぞいた。
こちらの退却を見て、向うではドッと鬨を上げ、声をそろえて哄笑《こうしよう》した。嘲《あざけ》り笑う声であった。味方はいきり立ったが、小次郎はそれを制して、注意深く観察した。
敵は、部落の家々の生垣や藪のかげに、板片や、戸板や、薪《たきぎ》や、|わら《ヽヽ》をつんで、そのかげにかくれている。どうやら、源家の郎党だけでなく、村の百姓共もまじっているようであった。しかも、それがずいぶん多数だ。
このへんは、源家の領地ではない。伯父の国香の領地だ。たとえ威を以《もつ》て迫られたとしても、拒絶することが出来るはずなのだ。
「けしからん百姓ばらめ」
と、小次郎は、猛烈に腹を立てたが、ふと、あることに思いいたって、はっとした。
(このたくらみに国香伯父も同腹なのではないか? 伯父が命令を下して百姓共を参加させたのではないだろうか?……)
新たな怒りが燃え上った。
小次郎は、郎党共の方をふりかえって、精兵《せいびよう》(弓勢の強いこと)の者だけ七八人を呼んで、なにごとかをささやいた。一同は、うなずいて行きかけた。小次郎は、その一人に、おのれの上差《うわざ》しの鏑矢《かぶらや》を一本ぬいてわたした。射手共はそろって後陣の方に去った。
こちらのこうしたしずかな様子を、戦いあぐねているものと、思ったのだろう、向うでは板をたたいたり、螺《かい》を吹き鳴らしたり、哄笑したり、からかいの悪口を投げつけたりして、大浮かれだ。
やがて、先刻の精兵の射手共がかえって来て、陣前にズラリと横にならんで馬を立てた。それぞれ右手《めて》に鏑矢をとっていた、小次郎も、彼等とならんで立った。彼もまた先刻一人にわたした鏑矢を受取って携えていた。この鏑矢の目穴《めあな》には、火種が入れてあるのだ。
小次郎を中にして左右に居ならんだ射手等は、手なれた弓をとりなおし、鏑の目穴をのぞいてフーと軽く火を吹きおこしておいて、弓につがえた。あるものは草|葺《ぶ》きの屋根、あるものは積み上げたわら、あるものは枯草、それぞれに目標を定めて、キリキリと引きしぼるや、切ってはなった。
発射に遅速があったので、ややしばらくの間、鏑のさまざまなうなりが空一ぱいにみちて、矢はそれぞれの的に、あやまたずとどいた。
この奇手に、敵は狼狽《ろうばい》した。燃え上らないうちに消そうとしてふためくもの、矢を射かけるもの、おどり出して来ようとするもの、忽ち混乱におちた。
人々ははやり立った。敵のこの混乱に乗じて、一気に駆け散らそうと、口々に言った。
「兄者! さあ行こう! 進めの下知してくれ」
と、将頼も叫んだ。
小次郎はゆるさなかった。
「あわてることはない。石田まで攻めつけねばならんのだ。無益の力のつかい方をしてはならん。ただ、射よ!」
と、いいながら、ふためく敵をめがけて、ピシピシと射た。坂東に土着してからまだ間のない源家の郎党には、手練《てだれ》の精兵というほどの者も少なく、剛の者というほどの者も少ない。彼等の射る矢はこちらにとどかないのに、こちらの精兵共の射る矢は、楽々と向うにとどいた。勇敢な者は、狼狽しながらも矢頃まで出ようとしたが、そこに達する前に、空矢《あだや》なく射たおされてしまった。
混乱がますます大きくなった時、火矢《ひや》の火が燃え上った。快晴つづきで、あらゆるものが乾燥しきっている季節だ。明るい陽《ひ》ざしの中にそれぞれの場所からゆるやかな煙を上げはじめたかと思うと、パッと燃え上り、見る間にひろがった。住家の屋根の上から。牛馬の小屋の上から。枯草の束の中から。わら束の中から。
「ウワーッ!」
と、すかさず、こちらが威嚇の鬨の声を上げると同時であった。敵の中に、臆病《おくびよう》げな悲鳴が一声あがると、全部が背を向けて逃げる姿になっていた。
「そうれッ!」
撓《た》めに撓めた馬をおどらして、小次郎が飛び出すと、せきとめられた水が、堤を決して一時に奔出したようであった。狂的で、殺伐で、豪壮な喊声を、あらんかぎりに絶叫しつつ、全隊はつづいた。
忽ちの間に、村に突入し、敵に追いついた。彼等は、なにものも容赦しなかった。源家の郎党も、下人も、百姓も、追いついて、刀がとどけば必ず斬った。必ず馬蹄にふみにじった。
「一人ものがすな! 一軒もそのままにおくな!」
すべての人を斬り、すべての家を焼き、死の旋風か、火の旋風のように、荒れ狂いつつ、部落をかけぬけた。前もって避難さしてあった老幼婦女子だけが、わずかに助かったにすぎなかった。
怒りと復讐《ふくしゆう》の念にかられた豊田勢がこの血と火の饗宴《きようえん》に熱狂しきっている間に、扶と隆とは、十数人の部下をひきいて、やっとのこと、村を脱出して、隣り村まで逃げたが、一息ついたと思うと、豊田勢が殺到して来た。
「一人ものがすな! 一軒もそのままにおくな!」
復讐の魔神の合言葉を叫び合いつつ、豊田勢はこの村にも火をかけて焼きはらいつつ、殺戮《さつりく》をほしいままにした。ここでは老幼婦女子を避難させてなかったので、皆ころされた。
扶兄弟は、またその隣り村に逃げたが、ここでは一息つく間もなかった。豊田勢はもう追いついて来た。
逃げる間ももうない。矢戦さの間もない。最初から白兵戦であった。
源家の兄弟は、ここまで運んできた繁の遺骸の首をはねて、郎党の一人にこれを石田に持ちかえるように命じた後、馬首をならべ、左右に郎党共をひきいて、豊田勢を迎えた。とても勝味のない戦いであることはわかっていたが、こうなれば家の名のためにも、勇敢に戦わなければならないと、悲壮な覚悟をきめたのであった。
小次郎は、豊田勢の先頭に立った。一きわたくましい烏黒《からすぐろ》の駿足《しゆんそく》に、燃え立つ緋《ひ》の厚総《あつぶさ》の胸がいと尻《しり》がいをかけてまたがった彼は、手痛い闘いにいつか狩衣《かりぎぬ》の袖《そで》はちぎれ、身ごろも引きちぎって、下につけた腹巻一つになり、たくましい両腕は肩からむき出しになっていた。もとどりの切れた髪が逆立ち、まなじりが裂け、頬《ほお》が荒れ、四尺に近い剛刀をふりまわし、雷のような声で絶叫しつつ、馬をあおり立てて来る姿は、そのままに黒雲に乗じて襲い来る阿修羅《あしゆら》王の姿であった。
射放つ電光のような双眸《そうぼう》を、キッと二人に射つけつつ、
「腹黒いたくらみの報い、今こそ思い知るか!」
と、怒号しながら、馬をかけよせた。
あまりのすさまじさに、扶も、隆も、胸がふるえた。ともかくも扶がやりかえした。
「かたわら痛や! おのれに出《い》ずるものはおのれにかえる。はじめに種を蒔《ま》いたのはおのれではないか!」
しかし、これがぎりぎりの抵抗であった。
「しおらしや、へろへろ共、豊田の小次郎と、見事太刀打ちするか!」
と、大喝《だいかつ》して、さらに小次郎が迫ると、がまんも張りも切れた。家名も忘れた。
「それ! 者共、ふせげ!」
と、言いすてると、兄弟ともに、馬をかえして逃げにかかった。
「きたなし!」
追いすがる小次郎に、源家の郎党等が馬をかけ合わせて、太刀を閃《ひら》めかして、斬ってかかった。
「推参なり、下郎共!」
小次郎の大太刀は、右をはらい、左をはらった。的確な太刀さばきであった。一人は左の綿上《わたがみ》から右の乳の下にかけて、一人は冑《かぶと》の吹きかえしから両頬かけて顔を切りさかれ、悲鳴も上げ得ず、のけぞりかえりつつ、馬から転落し、主人を失った馬はぶつかり合おうとしてさっと飛びわかれ、狂ったようにいずれかへ駆け去った。
小次郎は、もうその時、そこにはいない。はるかに駆けぬけて、兄弟を追っていた。はためき落ちかかる雷のような声で呼ばわりつつ、
「逃げようとて、逃がそうか! 返せ! 返せ!」
鍛練のない兄弟は、こうなると、底知れず臆病になる。真青になって、めった打ちに馬に鞭をくれて、逃げに逃げ、逃げに逃げた。
このきたなさに、小次郎の怒りは倍加された。追いすがりながら、刀を引っかつぐよと見えたが、手をはなれた刀は真直《まつす》ぐに飛んで、馬上に身をかがめた扶の腰の只中《ただなか》を、草ずりをつらぬいて、サッと立った。扶は、魂切《たまぎ》る絶叫を上げて、鞍壺《くらつぼ》に立直ろうとしたが、そのままぐらりと横にゆれ、土煙を上げて、麦畠の中に転落した。
「者共、しとめろ!」
と、後ろにつづく郎党共に叫んでおいて、小次郎は逃げる隆を追いかけた。
「兄の危難を捨てて、どこまで、きたなく逃げるつもりだ!」
と、大手をひろげて、追いすがる。
おびえきって、その声が聞こえないのか、聞こえても気力がないのか、ふりかえりもせず、逃げて行く。
小次郎は弓に矢をつがえて引きしぼったが、その時、左方から馬を駆けよせて来たものがあって、手鉾《てほこ》の柄《え》をとりのべ、小次郎の頭上をはらって弦《ゆんづる》を切った。緊張しきった弦は音を立てて切れ、つがえた矢はこぶしをこぼれおちた。狼狽する間もなかった。そいつは手鉾をまわして、狂気したように斬《き》りかかって来る。身を楯《たて》にして、隆をのがすつもりと見えた。
腹も立ったが、しおらしいとも思った。
「じゃまひろぐな!」
弓をふるって、はねのけて、駆けぬけようとしたが、相手は執拗《しつよう》だ。よろめきながらも、立ちなおり、小次郎と雁行《がんこう》して馬を駆けさせつつ、なお挑《いど》みかけてやまない。ついには、薄傷《うすで》ながら小次郎の左の高股《たかもも》を斬った。
もうあしらってはおられない。
「こやつ!」
手鉾をはらいおとし、襟《えり》がみをつかんで無造作に鞍壺から引きぬき、一ふりふって投げうった。相手は三間ばかり宙を飛んで、したたかに畔道《あぜみち》にたたきつけられた。
この間に、隆は一町ほども逃げのびていた。さらに小次郎が馬を飛び下りて弦をはりにかかると、その距離は一層のびて、二町をはるかにこえた。小次郎の弓勢《ゆんぜい》をもってしても、これでは遠い。小次郎は矢をつがえて引きしぼりつつ道をそれて斜めに追い、しばらく駆けて矢頃に入ったと見るや、発矢《はつし》と切って放った。
隆は左手に馬の平首を抱いて馬背に身を伏せ、右手でめった打ちに鞭をくれながら疾駆していた。馬の足許《あしもと》から立つ砂煙が彗星《すいせい》の尾のように後ろに曳《ひ》き、末はひろがって、人馬の姿をおぼろにしていた。矢はそのおぼろに見える隆めがけて斜め後ろから獲物《えもの》を追う鷹《たか》のように追いすがり、ついに追いつき、その脇腹《わきばら》に触れたと見ると、忽《たちま》ち隆はもがき一つ見せず転落し、そのまま動かなくなった。
「ウワーッ!」
と喊声が上った。それぞれに敵の郎党共と戦って、今や全部たおしてしまって、主人の働きを見ていた郎党共が、一斉《いつせい》に熱狂して上げたのであった。
彼等は先を争って、隆の死骸をめがけて殺到して行った。戦いは狂気だ。狂気は狂気を呼ぶ。勝ちほこり、熱狂しきった豊田勢は、過ぐる所の在々村々に火を放ちながら、石田をさして進撃した。
(野本、石田、大串、取木等ノ宅ヨリハジメテ、与力《ヨリキ》ノ人人ノ小宅ニ至ルマデ、皆、悉《コトゴト》ク焼キ巡《メグ》ラス)
と、当時書かれた「将門記」にある。今日のこる地名は、石田と大串しかないが、ともかくも、今の下妻《しもづま》から東石田に至る間に散在していた村落のほとんど全部が灰燼《かいじん》に帰したのであろう。
[#地付き](中巻につづく)
本作品中、今日の観点から見ると差別的ととられかねない表現が散見しますが、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性、また著者がすでに故人であるという事情に鑑み、原文どおりとしました。(編集部)
この作品は昭和四十二年五月新潮文庫版が刊行された。