寺田屋騒動
海音寺潮五郎
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目  次
朝 幕 関 係
久 光 由 来
斉彬と誠忠組
大久保のはなれわざ
桜田門外の変
有 馬 新 七
清河八郎と平野国臣
西日本を蔽う雷雲
西 郷 帰 還
西郷・大久保の談合
西郷の先発
薩摩ブロックと長州ブロック
禍 の 種 子
大久保と西郷
久 光 上 洛
京の風大坂の風
伏 見 集 結
惨たり、朋友相討つ
陰惨な結末
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朝 幕 関 係
本題に入ります前に、ちょっとおしゃべりをさせていただきます。
幕府政治は、皆様御承知の通り、荘園の発達によって律令政治が自然崩壊してしまって、王朝政府はすでに存在の意義を失っているのに、依然として権威をもって存在しつづけ、社会の実状とまるで適合しない政治を行っているところからおこったものです。
具体的に申しますと、平安朝時代が三分の一ほど経過した頃から、日本の各地に住人または武士と呼ばれる人々が多くなりました。この人々は本来は在地地主です。開墾したり、買収したり、時には詐取《さしゆ》したり、横領したりして、自らの土地を持つようになった人々ですが、これらの土地を自分だけの所有にしておきますと、重税を課せられたり、労役を賦せられたりしますので、多くはこれを中央の有力な皇族や公卿《くぎよう》や大きな寺院や神社に寄進したという名目にしました。こうしますと、その領主に少しばかり上納するだけで、あとは全部自分の収入になったし、課役もまぬがれたし、かえって利益だったのです。つまり、住人あるいは武士は在地地主であり、寄進を受けた中央の皇族・公卿や大社寺は不在地主ですね。
王朝時代の中期以後の日本の経済は、この在地地主によって成り立っていましたのに、王朝の政治は中央の不在地主によって、その人々等本位に運用されていたのですから、在地地主に不平のなかろう道理がありません。すでにそれは平将門の乱となってあらわれています。将門がおこした天慶承平の乱は、京都に都がさだまってから約百四十年目ですから、ほぼ四百年にわたる平安時代を上中下の三期に分ちますと、上期の終り頃に相当しますが、その頃にすでに地方の在地地主はあの形で不平を爆発させたのです。
平安朝時代の中央の貴族が政治的にどんなものであったかは、刀伊《とい》の入寇《にゆうこう》の時のことがよく語っています。将門の乱から七十年後のことです。今のロシア領沿海州あたりにいて、高麗人等から刀伊と呼ばれていた蛮族(実は女真族です)が日本を襲い、九州の海岸地帯を荒らしました。当時藤原隆家は眼病をわずらって、その治療のために高麗から医師を招く便宜上、望んで大宰権帥《だざいごんのそち》となって九州に来ていまして、北九州の武士等を召集して防戦し、見事にこれを撃退したのですが、その報告を受取った時の朝廷の態度こそ奇怪しごくなものでした。
「この戦いは朝廷の命令によってやったのでないから、私闘である。賞するわけに行かない」
と主張する公卿があって、まさにそうきまろうとしたのです。しかし、今後のこともあるから少し賞しておこうということになって、ごくごく少々行賞が行われたのです。こんな愚にもつかない論を出したのが、凡庸な人物でなく、藤原|公任《きんとう》、藤原行成など、その頃賢臣をもって称せられた人々だったのですから、何とも合点《がてん》の行かない話です。当時の朝廷が政治の実務にも、地方の事情にもまるで盲目なくせに、ひたすらに朝廷の権威だけは立てようと考えていたことがよくわかります。こんな人々が賢人といわれていた政府ですからね、存在の意義はなかったといっても言いすぎではありますまい。
こんな政府が何百年もつづいたのが、むしろ不思議です。ですから、平清盛が太政大臣となって政権の座にはい上ったのは、普通に言われているように、公卿政治の模倣《もほう》をしただけではないと思います。公卿政治から幕府政治への橋渡しとしての折衷政治だったと考えるべきではないでしょうか。
その時までの摂関政治にしても、院政にしても、皇族や公卿や社寺の利益を専一にはかるものでしたが、清盛の政治は在地地主たる武士の利益もまたそれにおとりなくはかるものだったように見受けられます。だから、後白河法皇や公卿や寺院にああまで憎まれたのでしょう。
ともかくも、譜代の家人《けにん》である西国の武士群の利益が保護されたことは言うまでもありませんが、東国の武士等の利益も相当には保護されたと思います。源義朝が平治の乱で敗死した後、それまで源氏の家人であった東国の武士等がなだれを打って平家の家人となっていますからね。利益のないところによりつきはしませんよ。
それはもちろん、西国の平家譜代の武士等にはおとったでしょう。伊勢武者の藤原忠清が上総介となって関東に赴任したのは、一種の占領軍司令官的のもので、関東の武士等は恐れて従いました。それを和田義盛が見て、しみじみとうらやましく思って、後に頼朝にねだって侍所の別当にしてもらったという話が、『源平|盛衰記《じようすいき》』に伝わっていますからね。差別はあったでしょうが、東国の武士等にとっても、摂関政治や院政よりも、平家の政治の方がよかったろうと思います。
やがて、彼等は頼朝を擁して立ち上るのですが、それは八幡殿以来の源氏にたいする恩義のためなどではなく、西国の武士らにとっての清盛政権のごとく、自分等の一層利益になる政権を頼朝につくらせたかったからだと思われます。どうやら、そのはじめ東国の武士等は東国だけの政権にして、京都や平家などはほうっておくつもりだったように、私には思われます。富士川を越えて西に向うことを、東国武士等は大へんいやがっていますからね。
木曾義仲をたおすために西に兵を送らなければならなくなった時、頼朝は東国武士中の第一の実力者であった平広常をだまし打ちに殺しています。広常は、源氏政権は東国をかためるだけで沢山だ、京都や西国まで手をのばして危険を冒すことはないという東国武士一般の考えの代表者だったのでしょう。以上のようなわけですから、遠くは平将門の理想、近くは平清盛の仕事の実質を受けついだのが、源頼朝といえましょう。
その幕府政治をはじめるについて、頼朝はずいぶん狡猾《こうかつ》な智恵をはたらかしています。義経が吉野山の奥へ入って、行くえが不明になった時期が二、三年ありますが、頼朝はその時期のはじめに、義経を探索追捕するという名目をもって、公領・私領を問わず、全国に守護、地頭をおいて、公領も私領も田一反歩から五升ずつ兵糧米をとり立てる許可を朝廷からもらいました。反別米の方は翌年廃止しましたが、守護、地頭の方は、間もなく義経が奥州の平泉にいることがわかったのにやめず、さらに一、二年後には義経を藤原|泰衡《やすひら》に命じて殺させたのですが、それでもやめません。
当時は天下の土地の九九パーセントまで荘園になっていて、その荘園の所有者は皇族あり、公卿あり、社寺あり、武士あり、僧あり、白拍子《しらびようし》までいたのですが、その全部に自分の任命した守護、地頭をおいたのですから、しぜん鎌倉幕府は日本全体に支配網を張ったことになります。実質的に全日本の政府ということになり、反対に朝廷は有名無実となったのです。その手品の種は、つまりは義経追捕のためということだったのです。
後白河のように権謀術数にたけた智恵者が、よくもむざむざとだまされたものだという疑問も湧きますが、それは法皇の方に頼朝の願いを聞かないわけにはいかない弱みがあったためです。義経にねだられたからとはいえ、頼朝追討の院宣《いんぜん》を出したりなどしておられるのです。
もっとも、この当時は皇族や公卿の荘園が大分ありましたから、鎌倉幕府も天下の政府となったとはいえ、不徹底であることは免れませんでしたが、この時から三十数年後に承久《じようきゆう》の乱がおこりました。この乱は御承知の通り、後鳥羽上皇が幕府を誅伐《ちゆうばつ》して、世を平安朝の昔に返そうとされたところからおこった戦いですから、朝廷方が惨敗しますと、皇族や公卿達の荘園は大幅に没収されて、幕府の支配するところとなりまして、幕府の勢力は大いにのび、基礎もまた大へん確実になりました。
上述のように、鎌倉幕府の成立は、武家が武力をもって天下をおさえつけることによって大いに武力を見せておいて、詐術をもって朝廷をごまかして、政治の実権をかすめて出来上ったものです。
もっとも、これは幕府政治が日本の国や国民にとって悪いものであるという意味ではありません。北畠親房《きたばたけちかふさ》は南朝の大忠臣で、武家政治を廃して天皇親政の王朝政治を回復しようとして生涯悲壮な努力をつづけた人ですが、その親房すら、「源頼朝という人がいなかったら、日本の国はどうなったかわからない」と『神皇正統記《じんのうしようとうき》』に書いて、頼朝の救国の功業をたたえていますからね。とりもなおさずこれは、王朝時代の政治が言語道断なものになりはてていたことを前提にしてのことばです。
あるいは親房のこのことばは、頼朝は朝廷が放棄したにひとしいことになっていた政権をひろい上げて、役に立つ新しい生命を吹きこんだという意味に解すべきかも知れません。親房にとっては、役に立つということと正しいということとは、別な|ものさし《ヽヽヽヽ》による価値判断であったようですから、頼朝をほめることと、幕府政権を打倒することとは少しも矛盾しなかったでしょうね。
鎌倉時代の末期に、後醍醐天皇は天皇親政の政治組織を回復することを目的として、幕府討伐の挙をおこされました。これは一応成功して、天皇親政の世が出来《しゆつたい》しましたが、わずかに三年にして、新しく足利幕府が成立しました。天下は北条氏の主宰する鎌倉幕府には飽いていたのですが、幕府政治には飽いていなかったのですね。つまり、まだまだ存在の価値もあれば、意義もあったということです。
鎌倉幕府は天下の権をおさめて天下の政府とするにあたって、実質は詐取でも、形式は朝廷に請願し、天皇の許しをもらっていますが、足利幕府は後醍醐天皇の手から暴力をもってもぎとったのです。すなわち、幕府政権は、詐取あるいは強奪によって成立したもので、決して平和|裡《り》に朝廷と交渉して政権授受があってはじまったものではないことを、よく記憶しておいて下さい。
足利氏は、統一政権としては初代の尊氏の頃から弱体で、三代義満の時一時いくらか強力になっただけで、あとは次第に弱化の度を深めて、統一政権というも名ばかりで、後にはその統治力の及ぶのは京都市内だけもおぼつかないほどになったのですが、それでも十五代二百二、三十年つづきました。力がないのにこんなに続いたのは、天下の大名等がその存続を欲していたためとしか考えようはありません。精神的権威として必要だったのでしょう。
次の織田信長と豊臣秀吉は、公卿の首長となることによって天下の政権を握ろうとしたり、握ったりした人で、その政府には幕府という名は用いていませんが、実質は幕府ですね。これももちろん、天皇のお許しをもらって政権の座に坐ったわけではありません。きまり切った当然のことのように坐り、朝廷がこれに異議しなかったというに過ぎません。言うまでもなく、無力な朝廷に異議なんぞ出来はしませんがね。
次は徳川氏ですが、これも別段天皇にお願い申し上げ、そのお許しをいただいて政権の座についたのではありません。もちろん、将軍|宣下《せんげ》は受けていますから、頼朝以来の先例によって征夷大将軍の職には天下の政権が附随しているのですから、天皇が特に天下の政権をまかせると仰せられる必要はなかったのだと解釈することは出来ます。しかし、頼朝は詐取し、尊氏は奪取したという沿革を考えますと、御委任というより泣寝入りと説明した方が適切ではないでしょうか。
どうして私がこんなことをくどくど申すかといいますと、寺田屋の壮士等によって計画されたことは、幕末維新史において最初の幕府からの大権奪還の挙であり、その失敗が寺田屋事変ですから、幕府政権というものの成り立ちを究明してみたくなったからです。
幕府政権の成り立ちは以上申しました通りのものですが、江戸時代約二百七十年の間に、幕府は朝廷から委任されて日本の政治をつかさどることになったのだという常識が出来ました。長い間平和がつづき、学問がさかんになったためです。
当時の学問は、中国伝来の儒学が主流です。儒学の盛行に刺激されて国学も成立し、さかんになりましたが、各時代を通じて主流をなした学問は儒学です。申すまでもなく、儒学は道徳の学問であり、政治の学問ですから、日本人中の頭脳の優秀な人々が熱心にこれを学ぶことになりますと、京都にお出での天皇と、江戸にいなさる将軍とは、どういう関係のものかと考えざるを得なくなって来ます。学問とはそのように理窟《りくつ》っぽいものであることは、皆様すでに御承知です。
人々は大いに考えました。すると、儒学という学問の性質上、天皇を日本国の最上の権威とせざるを得ません。儒学には史学の面がありますが、儒学の史学は「尊王|賤覇《せんぱ》、中国至上、外夷|蔑視《べつし》(あるいは撃攘《げきじよう》)」の思想が根本になっています。これは朱子学の史学において最も鮮明ですが、朱子学にかぎらず、儒学そのものにあるのです。王覇ということば、尊王|攘夷《じようい》ということばがすでに春秋の時代からあることをもってもそれはわかります。
このような学問ですから、この学問をしている人々としては、どうしても天皇を日本国の最上の権威者とせざるを得なくなるのです。しかし、その人々も幕府を否定するわけには行きません。何といっても、幕府は社会の秩序と平安の元締ですからね。またこれを否定するようなことを言っては、一身一族の滅亡になりますからね。天皇を最高権威としながら、幕府の存在理由も認めることが必要です。そこで、案出されたのが、
「将軍は天皇の御委任を受けて、日本の国政をとっているのである。幕府とはそのようなものである」
という理論です。将軍が天皇から委任なぞ受けていないことは、ずっと書いて来た通りですが、これで皆満足したのですね。
いつ頃からこんなことを日本人が信じはじめたか、わかりませんが、江戸中期を過ぎた頃、寛政から文化・文政頃にはもうそう信ずるようになっていたのでしょう。頼山陽の日本外史などはこのような考えが根柢《こんてい》にありますからね。
これで前おきをおわりにして、本題にかかります。
井伊|直弼《なおすけ》という人は、譜代大名の筆頭の家の当主である関係もありまして、精一ぱい徳川家に忠誠を尽しているつもりで、安政の大獄などおこしたのですが、時代はあの人の考えているよりはるかに変化していて、あの人が忠義のつもりでしたことは全部裏目に出ました。志は殊勝ながら、時代の測定をあやまったといえましょう。
井伊が桜田門外で身首《しんしゆ》ところを異《こと》にしたあと、世間一般は幕府はこれで一層硬化して、圧迫政策を強めるであろうと思い、乗ぜられる隙のないように身をかたくしたのですが、幕府当局といえどもインテリですから、物の道理はわかるのです。今さらのように時勢と人心の変化を知って、とてもこれまでのような幕府本位、幕府独裁の方法では、多難な時勢を乗切ることは出来ないと考えたのです。ここで、閣老やそのブレーン等の心理を領したのは、
「幕府政治は委任政治ではあるが、東照公が御委任を受けられた頃と今では大変時勢が違う。御委任を受けているのだからとて、これまでのように独断でしてはならない。幕府は朝廷と親和一致して天下の政治をするようにしなければならない」
ということでした。
数年後、これについて公武合体という政治用語が出来ましたが、この当時は朝幕和親とも、公武和合とも、公武一致ともいっていたのです。
変れば変るものです。安政五、六年に井伊直弼によって処断された人々の政治意見は、皆この公武合体だったのですが、井伊が横死しますと、これが幕府の意見となり、従って最も適正な意見ということになったのですからね。政治上の意見には、絶対性などあるものではありません。為政者が適しているとするものが正しいとされ、不適当とするものが不正当とされるに過ぎません。適・不適は為政者によってきめられるのですから、真に適当であるか不適当であるかわかりはしません。その判断が食い違うから、政治党争にもなれば、極端な場合には革命にもなるのです。
ともあれ、幕府当局は朝廷と融和妥協する方針を立てたのですが、その第一手として取上げたのが、皇妹和宮の降嫁を請願することです。当時の将軍|家茂《いえもち》は数え年十五になったばかりです。もちろん独身です。これに天皇の妹宮を降嫁していただいて、朝廷と和親し、またこれをもって国民の心をなだめたいと思ったわけです。
大体、この皇妹降嫁の策は、井伊が生前に計画し、とりかかりまでしたものでした。井伊がどんな考えからこれをやろうとしたかは、安政五年十月二日付で、井伊の公用人宇津木六之丞が井伊の師であり腹心の臣であり、このことの創案者でもある長野主膳にあてた手紙によってわかります。こうあります。
「いよいよ幕府の考へが主上に貫通いたし候へば、条約一条も穏かに相済み申すべく、その上にて御所向き御政道のみだりがましきことどもは、十七ヶ条の御法則をもって御改正、いよいよ以《もつ》て公武御合体、皇女お申し下《くだ》しと申す場合に至り申さずては、後患はかりがたく、この儀は君上(直弼)と殿下(関白九条尚忠)との御在職中にこれなくては相整ひ申さずとのお見込み、至極ごもっともに存じ奉り候。もとより右等の処、君公(直弼)の御眼目にござ候間、何分にも御丹精なし下さるべく候」
これを、説明を加えて現代語訳すれば、こうなります。
「貴殿のこの前のお手紙を拝しますれば、御意見では、幕府の意志が至尊に徹底すれば条約問題は解決するであろう。しかる上は、神君(家康)御制定の公家法度《くげはつと》によって朝紀の紊乱《びんらん》を正し、堂上が実際政治に口出しすることは禁止するという手を打たなければならないが、それには公武の間がぴったり行き、大政は全部幕府に御委任になっているという証拠に、皇女の御降嫁をいただかなければ、世間がうるさく、後患はかりがたい。これは殿様(直弼)が大老であられ、九条殿下が関白に御在職中でなければうまく行かない、というのでありますね。至極同感です。右のことは殿様も平素から考えておられるところでありますから、何分にも努力して下さい」
つまり、創案者である長野にしても、これを採用した井伊にしても、和宮を将軍夫人にするという名目で人質にとり、公武合体の美名のもとに朝廷を江戸幕府創業当時のように骨抜きにする計画だったのですね。
一体、和宮は嘉永四年、おん年六歳の時、有栖川《ありすがわ》宮|熾仁《たるひと》親王との御婚約がととのっていたのですから、井伊のこの計画はそれを破棄してもらって、こちらに来ていただこうという最も無理な相談だったのです。しかし、井伊は敢《あえ》てやろうとして、表面からは所司代酒井|忠義《ただよし》(若狭小浜藩主)を通じ、裏面からは長野主膳が九条関白家の家司島田左近によって、強引かつ周到に運動したのです。しかし、目鼻のつかないうちに、桜田門外の変となって立消えたのです。
井伊の横死によって、今後の政治路線として公武合体を採用することにした幕閣は、立消えになったこの方策をひろい上げることにしました。もちろん、井伊のように朝廷を幕初当時のようにロボット化出来ようとは、誰一人として考えはしなかったでしょうが、和宮というテコを入れて、幕府の権威を高め、同時に朝廷を懐柔して政治にたいするうるさい横槍《よこやり》を封じこめることは考えたでしょう。何にしても、幕府の権威回復は焦眉《しようび》の急でしたから。
天皇ははじめなかなかお許しになりませんでした。誰が考えたって、幕府の手のうちは読めます。現在は、幕府には和宮を人質にとる料簡はなくても、情勢の変化によっては人質にとったと同じ結果になるのはわかり切ったことですからね。
幕府は手をかえ品をかえ、執拗《しつよう》に運動と請願をくりかえし、ついに天皇のお心を動かしまして、天皇は条件をお示しになりました。
「諸外国との通商条約を破棄して、嘉永以前の状態に復することを約束するか」
というのです。
これに対して、幕府は、
「誓って御約束いたします。今後七、八年から十年の間に、平和なる交渉または武力によって、必ず条約を破棄し、嘉永以前のごとき鎖国の状態に返します。その以前でも、条約の条目にそむいたり、日本の法を犯したり、あるいは合戦をしかけてくる国がありますなら、即座に条約を破棄します」
と奉答いたしました。
絶対に出来っこないことがわかっているのに、こんな返答をした幕府の真意はどこにあったのでしょう。
「なんでもよいわ。もらってしまえばこちらのものだ」
という心だったのでしょうか。もしそうだったら、当時世間では和宮様を人質にとるつもりだと考えて、反対する者が多かったのですが、この世間の推察はあたっていたと言わなければなりません。あるいは、
「和宮様が御台所におなりになれば、そこは肉親の情で、陛下も幕府に同情的になられ、しぜん時勢もおわかりになるだろう。おりにふれて、和宮様から説いていただく手もある」
というのだったかも知れません。あるいは、
「十年もたつ間には時勢に教えられて、頑固な朝廷もかわって来るだろう」
というのだったかも知れません。
万延元年の九月十八日、井伊が横死してちょうど六カ月半の後、天皇は正式に和宮降嫁を御聴許になりまして、宮はこの翌年(文久元年)の冬、江戸に下って、翌二年二月家茂将軍と婚儀されました。
この降嫁事件が呼びおこしたといえます。まじめに公武合体による国論の統一を考える者が出て来ました。その最初の人物が長州藩士長井|雅楽《うた》です。
長井は体格長大で、態度堂々として、風采《ふうさい》がよく、弁舌にたけ、頭もまた切れる人物でした。恐らくこの当時においては、ひとり長州藩内だけでなく、天下におし出しても、優に五本の指に入ったでしょう。
和宮の降嫁の決定した翌年の文久元年の春、長井は『公武合体・開国遠略の策』という意見書を草して、藩主|慶親《よしちか》に提出しました。
その大意。
「今日、日本は開国・鎖国の議論が紛々として、国論が一定していません。幕府は米国をはじめ数国と通商条約を結びながらも、朝廷の御意向をはばかって、開国に徹することが出来ず、国民の外国渡航も禁止しています。そのため、日本人は外国の事情に対して盲目であり、貿易も片貿易の状態です。これでは、日本は外国の術中に陥り、よいところは皆外国に吸い取られてしまって、十年を出でずして、臍《ほぞ》を噛《か》むの悲嘆に至ることは必定です。
そもそも朝廷が幕府の条約締結に御不満であられるのは、幕府が朝廷を踏みつけにして、勅許を待たずしてことを運んだによります。一方、朝廷の方では、鎖国は日本古来の風であると考えてお出でですが、ここに間違いの第一があります。鎖国はわずかに江戸初期の三代将軍家光の時の島原の乱からはじまったもので、その以前は日本人は自由に外国と交通し、外国人の内地居留も許されていました。王朝時代には京都・太宰府・難波・博多には外国使臣を接待する鴻臚《こうろ》館の設備さえあったのです。天照大神の神勅にも、日光の照臨するところは皆皇化の及ぶべきところであるとあります。されば、この点を朝廷に説き進めますなら、必ず御納得いただけるはずです。一体、朝廷には、時節がら威勢だけよくて無智な攘夷論ばかりが入説《にゆうぜい》されますので、この点がよくおわかりにならないのです。
現在の時代、朝廷のいわれるような条約破棄だの、鎖国だの、出来るものではありません。守るべき力あってよく攻め、攻むべき力あってよく守るとは、兵家の常識です。鎖国するには、外国に踏み出して戦えるほどの力がなければなりませんが、果して今日の日本にその力がありましょうか。あると言い切れる人は恐らく一人もありますまい。
となれば、開国の方針を徹底しなければならないことは明らかですが、それには国論の統一が必要であり、国論の統一には朝幕の一和が必要であり、朝幕の一和には幕府が君臣の位次をかたく守って、朝廷尊崇の実を示すことが必要です。そのためには、さしあたっては、将軍自身か、徳川一門の身分高い一人か、老中《ろうじゆう》の誰かが上京して、数年来の朝廷にたいする不臣のおわびを申し上げることが必要です。そうすれば、世間もまた納得します。
そこで、天皇の御意志による勅諚《ちよくじよう》をもって、断乎《だんこ》として開国のことを仰せ出され、幕府これを奉命して諸大名に伝え、実行するということにすれば、ここに国論は統一したことになります。
しかる後、日本は兵を練り、士気を振作し、多数の軍艦を建造し、五大洲におし出し、さかんに交易を行うべきであります。そうすれば、日本の国威は自然と上り、諸外国も恐れはばかるようになります」
以上が、長井雅楽のいわゆる公武合体・開国遠略の策の大略ですが、彼はこの論にそえて、こう慶親に説きました。
「わが長州藩がこの論をもって公武の間に周旋し、国論の統一をはかりますなら、これは即今の急務ですから、幕府はもちろん喜びますし、朝廷もお喜びになって、必ず成功します。つまり、忠君愛国の道にかない、わが長州藩をして九鼎大呂《きゆうていたいりよ》よりも天下に重からしめるでありましょう」
慶親は重臣や藩政府の要人等に検討を命じましたところ、皆よろしかろうと賛成しましたので、長井は慶親の命によって中央に出て、朝幕の打診をして、運動の下ごしらえをすることになりました。
久 光 由 来
開国説をもって朝廷と幕府とを融和させて、日本の国論を統一することによって、挙国一致の体制を作り出そうという長井雅楽の意見は、長州藩主や重臣、要人等の賛同を得まして、長井は藩主毛利慶親の命を受けて、中央に出て朝幕の打診をし、運動の下ごしらえをすることになったのですが、長州藩の全部が長井の味方だったわけではありません。故吉田松陰の旧門下生等は、大反対でした。
安政大獄の時、松陰が国許《くにもと》から江戸に送られましたのは、そのはじめはもちろん幕府からの要求によるものですが、その頃江戸藩邸の要人であった長井がそのつもりで立働けば、そうならないで済んだのに、長井その者が松陰先生を邪魔ものと見ていたので、いい幸いにして引渡したのだ、つまり長井が売ったのだと、門下生等は考えていました。松陰自身もこの疑いを抱いていたのですから、門人等がその疑いを捨てかねたのは当然でしょう。姦物《かんぶつ》め! 恩師のかたきめ! といつも白眼視していたのです。
その上、松陰は生前すでに幕府を見はなしていました。門人入江杉蔵(九一)に、安政六年正月二十七日付で手紙を書いてますが、それにごく婉曲《えんきよく》な言いまわしでありますが、「我々国民は、徳川家のためにはもう決して尽す必要はない。日本と皇室のために身を殺してたおすべきである」という意味のことを言っていますから、口頭ではうんと直截《ちよくせつ》激烈なことを説いたに相違ありません。長井の公武合体論は、幕府と朝廷との二本建てを認めた上で、この両者の調和融合をはかるのですから、佐幕説でもあるわけです。松陰の説とはこの点でも背離します。
「やつは幕府のためをはかるために、殿様をだまし申し、朝廷をだまし奉って、開国論をおしつけるのだ。すべて一身の栄達のためだ。姦物め!」
と、立腹|一方《ひとかた》でありませんでした。
松陰門下の人々は皆まだ若いし、身分も低かったので、その考えは長井をはじめ藩の上層部の人々にはわからなかったようです。またわかったところで、何をこわっぱ共がと、特に問題にもしなかったのでしょう。ところが、後のことになりますが、この人々によって長井の運動は停止のやむなきに至ったばかりか、やがて長井は切腹させられるのです。政治というものの恐ろしいところですね。
しかしながら、この当座においては、長井は藩主の特命を受け、且つ全藩の輿望《よぼう》を担った形で国許を出まして、先ず京に上って、正親《おおぎ》町《まち》三条|実愛《さねなる》(後の嵯峨実愛)に説きました。実愛は、
「こんな大議論は、これまで聞いたことがない。今まで朝廷に入る議論は慷慨《こうがい》血気の攘夷論ばかりなので、至尊におかせられても、成敗をかえりみず、鎖国一筋と御決心遊ばされたのでごす」
と嘆称しまして、その説を文章にして差出すようにと申しました。長井は、
「拙者の申し上げました議論は、主人大膳大夫の説に相違ございませんが、これを文章にするということになりますれば、誤りなきを期するために、国許に帰りまして主人と相談して書くべきであると存じます。しかしながら、そうしましては往復に大分に日を取ります故、文章にすることはおゆるし願いとうございます」
開国遠略の策の本家本元は長井自身なのですが、それは内々のことで、名儀は毛利慶親が考え出し、長井はその指令を受けて遊説《ゆうぜい》に出て来た者ということになっていますので、こんなことを言ったのです。
「そうまで念を入れることはあるまい。今そなたが申したことを、そのまま文字にしてくれればよいのだ」
と、実愛はあせりの色を見せて言います。
実愛のあせりの色はわが遊説の成功を意味すると、長井はずいぶんうれしかったにちがいありません。
「拙者の申し上げましたことは、主人の申したことを拙者流に解釈しましたもので、厳格には主人の説そのままとは申せませぬ」
「それでもよい。ぜひ文章にしてほしい」
「それでかまわぬと仰せられますなら、奉りましょう」
「そうしてくれよ。至尊のお目にかけるのである故、そのつもりでな」
「身にあまる光栄でございます。有難く存じ上げます」
さすがに長井は才人です。万一のことを思って十分に警戒し、正親町三条の言質《げんち》まで取っておいたのですが、やはりこのことで失脚したばかりか、切腹までさせられてしまうのです。それはその時になって、くわしく語りましょう。
長井の京都における住居は、河原町の藩邸内にある願就院でした。そこへ退《さが》って、およそ一週間、精進潔斎の思いで、堂々四千五百字の文章を草して、提出しました。『防長回天史』に全文が出ていますが、なかなかの名文です。正親町三条はこれを天皇の御覧に供しました。
一週間ばかりして、六月二日、正親町三条は長井を自邸に呼んで、至尊が長井の意見書を叡覧あって御感あったこと、そして長州藩に朝幕の融和一致の運動をせよとの御内命をお下しになったことを伝え、毛利慶親へたまわった御製の和歌を伝えました。
国の風吹き起しても天《あま》つ日をもとの光にかへすぞを待つ
というのが御製です。
また長井には正親町三条が自ら和歌を詠じてあたえました。
雲居にも高く聞こえてすめみ国長井の浦にうたふ田鶴《たづ》の音
というのです。
上々の首尾だったといえましょう。孝明天皇という方は、生涯、欧米人ぎらいの攘夷家だったのですが、少くともこの時は長井の説に感心して、開国説になっておられたといえると思います。これが七、八カ月後にはきれいに引っくり返って、長井は窮地に立ち、やがて死ななければならなくなるのですから、この世のことはお先真暗です。
長井は江戸に下って、幕府にたいする運動にかかりました。老中|久世《くぜ》大和守|広周《ひろちか》、安藤|対馬《つしま》守|信睦《のぶゆき》に謁して説きますと、幕府にとっては棚から牡丹餅《ぼたもち》のような説であり、すでに京都で大成功をおさめて、天皇の御衣頼すら受けて来ているというのですから、よろこばないはずはありません。よろしく頼むということになりました。
そこで、長井は報告のために同僚の林|主税《ちから》という者を国に帰すことにしました。林は途中京都で正親町三条を通じて、藩主慶親あての、
「好成績で運動が運んでいることをうれしく思う。なおこの上も努力を頼む」
という意味の内勅を申し下して長州に向いました。
やがて、長井も京都に上って、正親町三条を通じて江戸での運動の経過を上奏してもらった後、長州に帰って、慶親に委細を報告し、もはや殿様おんみずから乗り出さるべき時でありますと説きました。
慶親は、ちょうど参覲《さんきん》交代で出府すべき時でもありましたので、これを容れまして、九月半ば萩を出発しましたが、途中で軽い病気になりましたので、しばらく逗留《とうりゆう》して療養することにして、長井には先発させました。
やがて慶親も出発しまして、途中伏見で正親町三条によって天皇の御内旨を伺い、国俊の短刀を献納しています。このところ、『防長回天史』の記述は至ってあいまいですが、この時慶親はひそかに京都に入って天皇に拝謁してか、あるいは拝謁までのことはなくても、京都に入って正親町三条あたりを通じて至尊に意を奏上し、おことばを賜わっているにちがいないと、私は推測しています。そう考えなければ判断に苦しむ孝明天皇のおことばが、この翌年初夏、島津久光の意見によって天皇が勅使を江戸に差遣されるについての勅諚案の中に出てくるのです。
維新革命は尊王攘夷運動によって成功したと、明治時代には解釈されていましたので、長井雅楽の開国論を基本にした公武合体説を長州人等は長州藩維新史の恥部のように考えて、一時期これを長州の藩論として朝幕の間に運動したという事実を認めたがらず、あれは長井個人の運動で、藩は無関係だったのだと主張したがるのです。現代に至るまでです。ですから、慶親が天皇に拝謁までし、あるいは拝謁はしないまでも、京都に入って、運動の次第を正親町三条あたりに奏上してもらい、おほめのおことばを蒙《こうむ》り、なお将来の尽力を依頼されたとあっては、恥部に大関係があったということになるので、わざとあいまいにしているのではないかと思われるのです。
念のために申しそえておきます。この運動が決して長井の個人的運動ではなかったことは、縷々《るる》述べて来た通りです。
慶親は十一月十三日に江戸に入っています。そして十二月十八日に、幕府に建白書をたてまつりました。内容の根本は、長井が天皇にたてまつったのと同じですが、受け取る相手が幕府ですから、その斟酌《しんしやく》はしています。
幕府はよろこんで、慶親の建白書を受け入れまして、将軍の内示として、慶親に今後朝幕間の融和運動をしてくれるようにと頼みました。それは文久元年十二月末日のことでした。
このように、長井の運動はしごく調子よく運んだのですが、文久二年になってすぐ、この運動にとって調子の悪い事件がおこりました。正月十五日のこと、長井の運動に最も熱意を持っていた老中安藤信睦が、登城の途中、坂下門外で攘夷浪士等に襲撃されたのです。襲撃者は六人でした。内訳は水戸人四人、宇都宮人一人、越後人一人です。
襲撃は不成功でした。六人とも斬死《ざんし》にしたのですから、よほど激しく戦ったのですが、井伊の事件以来老中等は大へん用心深くなりまして、安藤も武芸達者な連中をすぐって供廻りとしていましたので、全員斬死するほど働いたにかかわらず、安藤に軽傷を負わせたにすぎない結果になったのです。
水戸人河辺佐治右衛門は同志の一人でしたが、あまりに早くその場に来て、同志が誰もいないので、よそに行ってひまをつぶしてまた来てみますと、もう事が終った後でしたので、かねて親しい桂小五郎をたずねて長州藩邸に来て、桂に事情を打明け、ふところの斬奸《ざんかん》状を示した後、自殺の決意であることを告げました。桂は死に場所はこれからいくらでもあるから、死に急ぎすることはないと、いろいろなだめ、費用も都合してやるからどこぞへ行って身をかくすがよいと説諭しますと、河辺はちょっと書きたいものがあるから、しばらくひとりにしておいてほしいと言って桂を遠ざけた後、切腹してしまいました。斬奸状は斬死にした人達も皆一通ずつ懐中していたのですが、幕府はこれを秘密にして発表しませんでした。しかし、河辺のものが桂によって発表されて、広く世に流布されました。
河辺が桂をたずねて来て切腹したのは、もちろん、桂をよく知っていたからですが、桂は河辺だけでなく、水戸の人々と懇意だったのです。万延元年といいますから、井伊の殺された年ですね、その夏頃、桂は品川沖に碇泊《ていはく》中の長州藩の軍艦丙辰丸で、艦長松島剛蔵等とともに水戸藩の有志等を会して、幕政を改革して、安政大獄によって蟄居《ちつきよ》謹慎、さしひかえ等に処せられている皇族・公卿・大名等以下の罪をゆるさせたいと相談して、こんな計画を立てて盟約を結びました。
「幕府の要路の大官を殺すか、横浜の外人居館を焼打ちすれば、天下震動して、幕府は戦慄《せんりつ》するであろうから、この役目は水戸人が引受ける。長州人は幕府に建言して、幕政を改革して、安政の大獄の裁判を撤回させる役目を引受ける」
この盟約は、水戸藩内が混雑していたため実行に至りませんでしたが、桂の水戸人との親しい関係はずっと続いていたのです。
桂は長井とも親しく、その運動に好意を持っていた証拠もありますが、水戸の攘夷志士等ともこんなに親しかったのです。現代人にはわからない分裂した心理ですね。何でもよい、国家のそのために働きたいという鬱勃《うつぼつ》たるものに駆られていたのでしょうか。後年の木戸孝允からは想像つかない不統一さです。
さて、安藤襲撃は以上のように失敗したのですが、時勢というものはおそろしいもので、安藤は傷が癒《い》えて出仕しますと、どうにも世間の評判が悪く、ついに老中を辞職せざるを得なくなったのです。つまり、暗殺は失敗だったけれども、目的は達することが出来たという次第ですね。
自分の運動に最も好意と期待を抱いている老中の一人が退身しますから、長井の運動も打撃をこうむることになります。もっとも、すぐにはそうなりません。数カ月後にそうなるのです。
以上述べて来た長州藩の動き、長井雅楽の活躍に最も強い衝撃を受けたのは、薩摩の島津久光でした。
島津久光を語るには、その兄である斉彬《なりあきら》のことをある程度知っていただかねばならず、斉彬を語るにはその曾祖父である重豪《しげひで》(栄翁)をある程度知っていただかねば、十分に御理解が行かず、幕末から維新時代にかけての薩摩藩の動きもおわかりいただけないと思います。しばらく御辛抱あって、お聞き下さい。
島津重豪という人は、「豪邁《ごうまい》」ということばが最も適切な性質の殿様でした。積極的で、はで好みで、豪放で、三百諸侯中第一の豪傑といわれ、幕府老中すら手こずることがしばしばでした。一言にしていえば、生れ時を間違えた、不運な英雄の一人でした。戦国の乱世か、維新の風雲期に生まるべき人でしたのに、江戸中期の最も平和な時代に生まれました。碁盤の目割のように封建の組織がきちんと立ち、万事が因襲と先例がらめになっている時代ですから、その鬱屈する英雄的|気魄《きはく》は、途方もなく進歩的な藩政となり、けたはずれに豪奢《ごうしや》な私生活となりました。
藩黌《はんこう》造士館をひらき、医学館をひらき、天文台を設けて暦を造らせ、西洋人のシーボルトなどと交際して、西洋の文物に心酔し、厖大な『成形《せいけい》図説』(博物全書)や『南山俗語考』(中国語辞典)を編纂《へんさん》したなどは、賢君的業績ですが、薩摩人の固陋《ころう》を矯正《きようせい》するためと言って、都会風な遊楽機関――江戸・大坂・京都と同じように角力《すもう》興行場、芝居小屋、遊女屋町などを城下に設けたのは、はなはだしい行きすぎです。薩摩語は特殊すぎて他に通じないばかりでなく、荒々しくて美しさを欠いているとて、京の公卿《くげ》ことばをもって来て、薩摩の武家ことばとしようとしました。今日、薩摩語の特色になっている「ごわす」ということばは、元来は公卿ことばで、この時から薩摩の武家ことばになったのです。大坂の船場のことばもそのはじめは公卿ことばを模したと言うのですが、「ごわす」を使うところは両方まことに似ています。この当時、薩摩では「仕付方《しつけかた》」という役所があって、厳重に武士等のことばづかいを監督し、うっかり純粋薩摩語を使うと、叱《しか》られたそうです。頼山陽が『後兵児謡《ごへこのうた》』で、「一たび南音を操《と》れば官長|嗔《いか》る」と歌ったのは、この事実を指しているのです。
十一代将軍|家斉《いえなり》は、歴代の将軍中、最も豪奢な生活をした人ですが、この家斉の夫人は重豪の娘でした。家斉がまだ一橋家にいた頃に入輿《にゆうよ》したのです。この家斉が重豪をうらやましがって、
「舅《しゆうと》殿のようにやりたい」
といっていたというのですからね。
武家大名は元禄の少し前あたりから、軒並み貧乏になりました。最も根本的な原因は、日本は織豊時代にすでに商業経済の時代に入っているのに、徳川氏が農業中心の経済組織を墨守して、鎖国などという愚策をとったことにありましょう。徳川家康は豊臣秀吉のあの巨大な富が何によって蓄積されたと思ったのでしょうね。家康という人はなかなかえらい人ですが、経済眼においては信長や秀吉の足許にもよりつけませんね。参覲交代の制度で諸大名に金を使わせたことや、田租を主収入にする諸大名の収入はほとんど増加しないのに、太平打ちつづいて生活がぜいたくになったことなど、原因であるには相違ありませんが、前述の根本原因にくらべれば、いずれも小さいものです。
薩摩もこの軒並みな貧乏で、藩の財政は年々ひっぱくして来つつあったのですが、重豪の先代の重年の時に、幕府から木曾川の治水工事を命ぜられまして、ぐんと借金がふえました。ですから、重豪が藩主になった時はもうずいぶん藩債があったのですが、前に言ったようなぜいたくをした人ですから、ついに藩債五百万両という途方もないことになりました。今日の金にしたら、何十兆円でしょう。
ついに重豪は五十六で隠居して、息子の斉宣《なりのぶ》に世を譲りましたが、十年ばかり後には斉宣の施政方針が気に入らぬとて、斉宣取立ての家老は切腹させ、斉宣は隠居させ、孫(斉宣の子)の斉興《なりおき》を当主にし、自ら藩政後見となりました。
重豪は藩財政の建直しを計画し、すっかり計画を立てて、どうやらそれが緒につきはじめた頃、死にました。八十九という高齢でした。
重豪の死から十二年後、薩藩の財政は見事に建直されて、天保十五年には百五十万両の非常準備金まで出来て、江戸・大坂・国許の三カ所にわけて格納したといいます。
けれども、ここに至るまでの薩摩人の苦しみは言語に尽せるものではありません。領民がきびしい取立てに苦しんだことは言うまでもありませんが、藩士等も知行や扶持《ふち》の借上げで苦しんだだけでなく、男は小束《こづか》を売り、目貫《めぬき》を売って献金し、女も髪飾りや衣裳《いしよう》を売って献金したというのです。薩摩人等は長くこの苦しみを忘れず、そのために後にお家騒動がおこりました。
斉彬は斉興の長男ですから、重豪の曾孫《そうそん》にあたります。しかし、重豪は稀有《けう》の長命で、斉彬の二十五の時まで生きていました。重豪はこのかしこい曾孫が大の気に入りで、よちよち歩きの頃から側を離さず鍾愛《しようあい》しましたので、重豪の好みを最も濃厚に受けつぐことになりました。気宇が宏達であり、西洋の文物が好きというのが、曾祖父から受けついだところです。薫陶もありましょうが、遺伝もありましょう。新奇なものが好きという性質を遺伝し、今の日本にとって最も重要なものは何かという理屈がわかれば、どうしても西洋の文物が好きになるはずですからね。
斉彬は斉興にとっては長男でしたし、重豪のお気に入りでしたから、世子に立てられ、早くから将軍にお目見得して、叙位までしたのですが、斉興は実は斉彬が好きではなかったようです。斉興が斉彬を好きでなかったのは、斉彬が曾祖父にその性質がよく似て、積極的であり、西洋の文物が大好きであったところにあるようです。栄翁様によく似ているということは、折角建直った家の財政をまた駄目にする危険性があると思われたのですね。こんなことは、個人の家でもよく見ることですね。
ですから、重豪の生きている頃は、重豪にはばかって、斉興も本心をかくし切っていましたが、重豪が死んでしまうと、斉興の心はにわかにあらわになりました。そこに持って来て、斉興には由羅《ゆら》という妾《めかけ》がありました。江戸の町家の出身です。美しく、また才気ある女であったといいます。斉興は大へん気に入って、自分が江戸に出る時は江戸に連れて出、国許に帰る時には国許に連れて行ったというのですから、少しの間も放ち難かったのですね。この女に男の子が生まれました。久光です。国許での誕生だったといいます。
久光は天性かしこい人ではありましたが、性格は斉彬とは全然違って保守好みで、長ずるに及んで学問が好きになりましたが、その学問も、斉彬が洋学好みだったのにことかわって漢学と国学で、とりわけ歴史が好きだったそうです。
愛する女の所生ではあり、このような性質なので、斉興は大へん久光を愛するようになりました。いつか斉彬のかわりに久光を立てたいと思うようになりました。自然、斉興のこの心を知って、その心をかなえてやりたいと思う家臣も出て来ます。斉興を助けて藩財政の建て直しに苦労しつづけて来た重臣や経済官僚に多かったことは言うまでもありません。自分等の多年の骨折りの結果である藩の富を使い崩されたくないという気持ですよ。美しい妾あり、その妾の生んだ息子あり、正妻腹の長男あり、父親の心は美しい妾にひかれてその生んだ子に傾斜し、忠義だてに父親の心を成就させようとつとめる家来ありで、薩摩藩の様相はすっかりお家騒動の典型的膳ぞなえになったわけです。
斉興の心は久光に傾いているのですから、斉彬を廃嫡《はいちやく》して久光を立てるぐらいわけのないことではないかと思われそうですが、なかなかそうは行かないのです。斉彬はすでに斉興の世子として幕府に届けずみになって、叙位までしていますし、斉彬に忠誠の念を持つ家臣も多数ありますので、そんなことをしたら、幕府でも問題にしましょうし、藩内もおさまりませんからね。
こんな場合、支障なく行く方法としては、斉彬が狂気して廃人になるか、死んでしまうか、いずれかしかありません。そこで、斉興・由羅・老臣等によって、この方法がとられることになりました。
九州南部――薩摩・大隅・日向南半地方は薩摩藩領ですが、この地方には古くから兵道《ひようどう》という呪術《じゆじゆつ》が伝えられていました。多くは山伏が行うのですが、薩摩領内の山伏は薩摩藩士で、何か特に必要のある時は山伏の服装をしますが、平常は普通の武士の服装をして、普通の武士として生活し、勤務していました。名も兵道家といっていたのです。戦国の頃には戦場において味方の勝利を祈ったり、敵将を呪咀調伏《じゆそちようぶく》したりしたのだそうです。果して効験があったものかどうか、疑わしいのですが、昔の人は信じていたようです。斉興等はこの兵道家等に命じて、斉彬を呪咀調伏するように命じたと、伝承されています。薩摩の伝承によると、この調伏修法によって、斉彬も時々|得体《えたい》の知れない病気になりましたが、斉彬の子供等が皆幼時に死んで行ったといわれています。斉彬も呪咀調伏の事実は信じていました。それは『島津斉彬文書』を読めばはっきりとわかります。
嘉永元年、斉彬は四十になりました。ペリーの来航までには五、六年|間《ま》がありますが、すでに日本の近海には欧米諸国の船がひんぴんと姿をあらわし、そのうちのあるものは日本の開国をうながしたことが幾度かあり、悪いことをする船もありました。ロシアなどずいぶん北海道や千島で悪いことをしています。ともかくも、天下多事の時代となることを思わせるものがありました。斉彬は世子の身ながら、その賢明の名は天下に高く、老中主席の阿部伊勢守なども最も斉彬を買って、親しく交際していました。斉彬にしてみれば、四十にもなって、この多難な時局に、部屋住みでいなければならないことは何ともやる瀬ないことだったに相違ありません。
斉彬が働きかけたのでしょう。斉興を隠居させて、自分の襲封《しゆうほう》を実現しようという動きが、斉彬の親交ある人々の間に進められました。そのメンバーは、宇和島の伊達|宗城《むねなり》、筑前の黒田|斉溥《なりひら》(後長溥)、それに幕閣の阿部伊勢守です。伊達宗城は小藩十万石の身代ながら賢諸侯として当時最も有名な人です。黒田斉溥は島津重豪の子で黒田家に養子に行った人です。斉彬からすれば大叔父《おおおじ》にあたります。阿部伊勢守は名は正弘、備後福山の領主で、幕末の老中の中では最も賢明であり、この人がもっと長命であったら、徳川氏の命脈はずっと延びたろうと、歴史家たちが口をそろえて言ってるほどの人です。
この人々が斉興を隠居に追いこむために取った方法は、薩摩が琉球を介して行っている密貿易を幕閣の問題とすることでした。薩摩が琉球政府をしてやらせている唐貿易は、幕府の許可を得ているのですから、貿易行為そのことは問題にはなりませんが、年間の額がきめられているので、その額を超えた分が密貿易ということになるのです。密貿易というより、密輪といった方がよくわかりましょう。
この密輸をしたればこそ、薩摩の財政建直しはわずかに十年を少し越えたぐらいの短い間に完遂されたのです。財政の建直しということはどこの藩でも何十年という歳月がかかっているのです。米沢の上杉|鷹山《ようざん》の財政建直しは最も有名ですが、五十五年かかっています。鷹山はその五十年目に死んでいますから、死後五年にして出来上ったのです。
ですから、琉球を介しての中国貿易は、薩摩藩にとって最も大事なことだったのですが、恐らく阿部との間に、
「貴藩の密貿易は天下にかくれなき公然の秘密でござるが、それを問題にいたそうか」
「しかし、それでは悪くすると藩の存亡の大事になりましょう」
「いや、それは拙者が加減して、そんなにまでは発展させません。おまかせいただいて大丈夫でござる。情報を提供していただきましょう。決して貴殿のお名前の出るようなへたはいたさん。公儀の隠密共よりの報告ということにいたせばよいのですから」
というような談合があっての上であろうと思います、斉彬は相当な情報を伊達宗城に漏らし、伊達から阿部に報告したようです。『島津斉彬文書』を縦横に精読しますと、このように思われてならないのです。
斉彬と誠忠組
幕府は薩摩の密貿易を問題にしました。薩摩からは家老の調所笑左衛門《じゆしよしようざえもん》が出て来て、取調べを受けました。調所は重豪《しげひで》に見こまれて、財政建直しにあたった人物です。見事に成功したので、斉興《なりおき》の覚えも至ってめでたく、ずっと仕置家老をつとめているのです。建直しに最も苦労しただけあって、藩の蓄積に最も愛情があり、従って斉彬《なりあきら》のような積極的な人間は危険であるとして、久光擁立派の重鎮でした。
調所は頭もよければ、人間としての土性骨もたくましい男でしたが、幕府の尋問のきびしさには、とうてい言いぬけることは出来ないと思いました。そこは腹は出来ています。
「すべては自分がとりしきってやったことで、責任の一切は自分にある。主人は何にも知らないのだ」
と遺書をのこして、藩邸内の長屋で毒を仰いで死んでしまいました。幕府の追究を食いとめるために、一身に責任を負うて死んだのです。
折角の名案がそれで駄目になったばかりでなく、斉興の斉彬にたいする憎悪が一層つのるという結果になってしまいました。斉興は頑固ではありますが、頭は決して悪くないのです。むしろ相当かしこい人ですから、幕閣の裏面に斉彬がいることを鋭く察知していたのですね。
「斉彬などに譲るものか」
と、一層意固地になって、調所の後任には骨髄からの久光擁立派である島津豊後を立て、藩政府は益々その派でかためました。
このような情勢にいきどおって、藩政改革と斉興隠居、斉彬襲封を早く実現することとを目的として、結集した藩士団がありました。彼等の決議したことは、上述のことにすぎませんが、決議に至るまでの間には、久光を暗殺しようとか、久光党の連中をたおそうとか、ずいぶん過激なことを言った者もありました。気の荒い直情径行の薩摩武士ですからね、情が激すると色々なことを言いますよ。
これが斉興の耳に人ったから、大変です。厳命が下って、重立った者は切腹、その他流罪、座敷|牢《ろう》、謹慎と、一党|潰滅《かいめつ》させられました。一党の中で、逸早く国外に逃亡した者が二人、さらにその後逃亡したのがまた二人いまして、四人とも筑前の黒田|斉溥《なりひろ》のところへ駆けつけ、委細を報告して、斉溥の羽がいの下にかくまわれました。また公儀の隠密で、武家の中間《ちゆうげん》となって鹿児島城下で奉公している者があって、それも逃亡しました。
ですから、事件は全部幕閣に知れたのです。
以上の事件があったのは、嘉永二年から三年にかけてのことですが、嘉永三年の暮、斉興は参覲交代のために江戸に出て来ました。斉興は前から家の極位《きよくい》である従三位《じゆざんみ》になりたいと思って、幕府の要人である西の丸留守居の筒井伊賀守政憲を通じて運動を続けていましたので、早速侍臣を筒井の許に向けました。この時、斉興は六十一、還暦の年です。今の六十一とは違います。ずいぶん老人なんですが、従三位になって、なお末長く藩主であろうと思っているのですね。
筒井は斉興の侍臣を迎えますと、
「官位の昇進どころではござらんぞ。貴藩ではこの頃、何やら騒ぎがありました由。公辺の評判がまことによくない。悪くすると飛んでもないことになりますぞ」
と、散々おどかして追い返し、数日の後、島津豊後ともう一人の重臣を呼んで、
「早く隠居を願い出なされよ。遅延なさるにおいては、これまでの御勤労もせんなきことになりましょうぞ。拙者は阿部勢州殿の旨をふくんで申すのでござる。それよりほかにお家の助かる途《みち》はありませんぞ」
と言ったのです。
こうなっては、斉興も観念せざるを得ません。嘉永四年二月、隠居願いを出しまして、斉彬の襲封がやっと実現しました。斉興六十二、斉彬四十三でした。こんないきさつでの無理隠居ですから、斉興の無念残念は申すまでもありません。斉彬への憎悪がどんなに深刻であったか、容易に推察出来ましょう。
一方、斉彬は待望の当主にやっとなれたのですが、父の気持を考えますと、大いに心せざるを得ません。普通、新藩主が襲封しますと、自分の政治がしやすいように藩政府の役人等を配置がえするのですが、斉彬は父の時代の家老・重臣はかえって位と待遇を上げて、そのかわりに実務的でない部署につかせ、政治のためには別に役人をつくったのです。
やがて斉彬の仕事がはじまります。近代工業を藩内におこして、製鉄し、銃砲・刀剣・農具をつくり、西洋型の帆船を造り、蒸気船も小型ながら造り出し、紡織工場をつくり、洋式製塩、陶磁器、ガラス、綿火薬、硫酸、氷砂糖、白砂糖、樟脳《しようのう》、硝石、サツマ芋《いも》を原料とするアルコールの製造、電信機を研究して城内で実用化する等、一々あげるにたえないほどです。そうそう、電気で爆発する機械水雷も瓦斯燈《ガスとう》も作り出しました。
中央の政治にたいしては、幕府にたいする発言力を強めるために、一族の娘を養女として、十三代将軍家定に入輿させて、将軍の岳父になりました。家定は体質が弱く、頭脳も弱い人でしたので、子のないのを幸いとして、一橋|慶喜《よしのぶ》を将軍世子に立てる運動を、越前|慶永《よしなが》と共に最も強力におし進めました。西郷隆盛が橋本左内と相|識《し》ったのは、この運動を通じてでありました。
ペリーが来航したのは嘉永六年のことであり、和親条約を結んだのは翌安政元年のことであり、安政四年にはハリスが通商条約を結ぶことを要求し、幕府は承諾して、条約締結に向って進みはじめました。それが翌五年になって大問題となったことは皆様すでに御承知です。
斉彬は安政四年の八月という時点――ハリスと幕府との間に通商条約を結ぶ下相談がぼつぼつとある頃です――において、こんな決心をしました。
一、琉球・大島を外国貿易場とし、引いては本土の山川港もそうすること。
二、琉球王の名儀をもって、フランスから蒸気船二隻を買い入れること。一隻は軍艦、一隻は商船で、いずれも大砲・小銃、その他航海に重要なもの一切を完備のこと。
三、琉球王の名儀で、小銃製造機械を買い入れること。その機械は年間五千|梃《ちよう》から七千梃の製造能力のあるものでありたい。
四、琉球人と薩摩藩人から選抜して、英・仏・米に留学生をおくること。
五、台湾島内の便利な地を見立て、中国から借りて、渡唐船の中継地を設置すること。
六、中国貿易を一層盛んにするため、福州の琉球館を拡張し、渡唐船の数をふやすこと。
七、日本の旧式小銃を中国に売りこむこと。
斉彬は、この旨を琉球奉行高橋|縫《ぬい》殿に言いふくめ、同時に市来四郎という家臣を琉球に派遣して、専らことにあたらせました。
幕府は開国策を取ったとはいうものの、その開港場はすべて幕府の直轄領(天領)にあって、諸大名の領地で港をひらいて外国貿易をすることは許さないのです。色々問題のおこるのを恐れた点もありましょうが、私には貿易の利は幕府で独占したい、諸大名が貿易で富強になってはこまるというのであったと考える方が素直に胸におちます。
ともあれ、斉彬は貿易の先取りを計画したわけですが、このことは琉球解放に連なります。薩摩が琉球を征服したのは、貿易の利がほしかったからなんです。秀吉の朝鮮出兵以前には、薩摩大隅・日向の薩摩領の港には、いつも中国船が来て、貿易が行われていたのですが、朝鮮出兵でばったりそれが絶えたのです。薩摩では貿易の回復に努力したのですが、色々なことがあってなかなか回復しないので、しからば琉球を征服して、ここを通じて貿易すべしということになって、琉球征服が行われたのです。
ですから、すでに大島や山川港で外国貿易を行うようになれば、琉球を持っていることは無意義になります。解放に連なると私が言ったのはこの理由によります。
ことは江戸で隠居している斉興に聞こえました。斉興取立ての家老・重臣等は昔のままに藩政府の高い地位にとどまっているのですから、斉彬の琉球を通じてのさまざまな策謀を知らない道理はありません。知れば当然斉興に報告します。
斉興は驚愕《きようがく》し、激怒したに違いありません。
「琉球は家久公以来、わが家の至宝になっている。一代の当主である斉彬が独り思案でこれを手離してよいものではない。あの飛び上りものめ! 何ということをするのだ」
と、カンカンに立腹して、必定、暗殺命令を国許のわが取立ての家老島津豊後に出したに相違ないと、私は推察します。斉彬にたいしては最も強く深刻な憎悪を持っている斉興であるという事実を想起して下さい。
しかし、命を受けた島津豊後等にしてみれば、何といっても重代の主家の正系の当主です、この時は実行出来なかったのだと思います。
ところが、その翌年になりますと、井伊直弼の登場となって、条約無勅許調印問題と将軍世子問題とが交錯しておこって、全日本の大問題となり、井伊の暴圧がはじまりました。
斉彬は国許にいましたが、中央から馳《は》せ帰った西郷吉之助によって、それを知ると、クーデターを決心しました。兵をひきいて中央に出、幕政改革の勅諚をいただき、幕府にせまって幕政を改革し、井伊を幕閣から放逐するという策です。
斉彬が西郷の報告を受けて、この策を立てたのは六月七日であったが、半月ばかりの後、藩内に、
「天下のために、近々に兵をひきいて東上する。皆々心得よ」
と布告して、家中の壮士等を天保山調練場に集めて、洋式調練にかかりました。洋式調練は以前からはじめていたのですが、大々的に、また猛訓練をはじめたのです。
それが二十日足らずつづいて、七月八日、斉彬は病気になりました。この日は暑い日でしたが、斉彬は早朝から天保山に行って、炎天の下で終日騎馬で調練に立会いましたが、夕方帰城して間もなく、違和を訴え、しばしば下痢《げり》し、次第に重くなって、十六日の夜明け方、ついに空しくなりました。
私はこれは島津豊後一派の毒殺であったと思っています。琉球解放問題では踏み切れなかったけれども、引兵上京ということになると、
「こんなことをさせ申しては、お家は必定取潰される。いたわしけれども、もはやいたし方はない。江戸の御隠居のお差図の通りにするほかはない」
と、踏み切ったのだと思うのです。
恐らく毒殺でしょう。毒殺するとなると、斉彬は夏の間は磯の別邸に行っていて、天保山へ通うのも、船で出かけて行き、船で帰って来、時には別邸の前の海でしばらく糸を垂れて釣魚《つり》を楽しみ、釣り上げた魚を自分で小束で小さく切り、少量の酒をまぜてフタモノに入れ、居間の小床《こどこ》の上において、ねれて鮨《すし》になったのを食べるのが好きであったといいますから、その中に毒を投ずれば極めて容易だったはずです。毒物の種類も、私は亜砒酸系のものだったろうと見当をつけています。下痢がつづき心臓がひどく衰弱して、体温は三十度に下向したのですが、これらは亜砒酸中毒の症状だと聞いたことがあります。
侍臣の山田壮右衛門に脈を取らせて、
「こんどは助からんかも知れん。脈がないじゃろう」
といったという事実があります。極度に心臓が衰弱していたのです。
藩では、斉彬は末期《まつご》に久光を呼んで、
「あとには御辺の長男又次郎を立てなされよ。又次郎のあとには哲丸(斉彬の子)を立てなされよ」
と遺言したと発表されて、又次郎をあとつぎに立てることにして、幕府へも願書を出しました。
又次郎(後の忠義)を立てるよりほかのない場合ですから、こういう遺言もしたでしょうが、斉彬の心からの意志であったかどうかは疑わしいと私は思っています。数年前、斉彬は西郷に又次郎を立てることを相談して、西郷の猛反対に逢《あ》い、しばらく君主不興であったという事実があります。この頃は斉彬はもちろん元気でしたが、父の自分に対する不機嫌になやんでいました。ですから、父の気に入りである久光の子をあとに立てることにすれば、父の機嫌も直るであろうというので、こう考えたのでしょう。しかし、現在は違います。父の魔手がまわって、非命にして死んで行く身です。心から又次郎を立てたいと思ったとは思われません。念のために申しそえておきますが、斉彬は西郷に相談しただけで、又次郎のあとつぎのことは、末期の遺言の時まで全然発表していません。
ともかくも、こうして久光の子の又次郎が藩主になりました。又次郎は十九になっていました。家老等もついていることですから、十九なら馬鹿でないかぎり、ちゃんとやって行けるはずですが、襲封の事情が事情であっただけに、斉彬びいきの藩士等の出ようを警戒したためと思われますが、隠居の斉興が江戸から帰って来て後見になりました。又次郎の父たる久光は依然として島津本家の分家である重富家の当主で、正式の身分は臣籍にあります。斉興としては、久光を藩主にしたかったのでしょうが、あまりにもあざとすぎるので、出来なかったのでしょう。依然として臣籍においたのも、藩内の評判をはばかってのことに違いありません。
従来の定説では、斉彬は積極進歩主義の人で、日本をこの国難から救うことを志としていたが、斉興は保守主義の人で、ひたすらにお家大事を心掛けていたので、斉彬時代の藩政の方針を飛び上りものの所行として一切廃止して、消極保守の殻に閉じこもることにして、斉彬の創《はじ》めた西洋式の機械工場も破壊し、天下の政治からも遠ざかることにつとめたのだというのです。一応首肯出来る説明のようですが、だからといって巨額の費用をかけて設備して、十分に利益の上ることが確実な工場を破壊する必要があるでしょうか。密貿易と、琉球をふくむ南島地方の搾取、本土領内の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》によって、藩財政を建直し、百五十万両という非常準備金まで積み上げた人です。金もうけは好きなはずです。確実にもうかることの明白である工場を閉鎖したり、破壊したりするのはおかしいじゃありませんか。
私は斉興時代の藩政府は斉彬時代の藩政府のしたことに憎悪感情をもっていたが故に、ひたすらに破壊したのであると見ないわけに行きません。その方が素直な見方であると思います。
この見地に立って眺めますと、月照事件なども最も明白に納得出来ます。月照という人は、斉彬の時代に、薩摩藩から頼まれて、朝廷方面に大いに働いた人です。なかにも斉彬の引兵上京の計画においては、朝廷から上京を命ずるという内勅を申し下す必要があったわけですが、その内勅申し下しにあたっても、その後にまた幕府に幕政を改革せよという勅語を下してもらわなければなりませんが、朝廷にその了解をしてもらうためにも、随分、月照は働いたのです。月照が幕吏に追われることになったのは、そんなことをしたためです。
ですから、薩摩藩としては、どこまでも月照を助けかくまわなければならない義理があるのです。それを、西郷がいくら事情を話して頼んでも、斉興の意を受けた家老・重臣等はきいてくれなかったのです。薩摩領内は深い山岳地帯が多いのですから、意志があれば、本土領内にもいくらでも場所はあります。南方の島々になら更にあります。はじめからかくまう意志がないからかくまわなかったのです。意志がないのは、単に主義の相違ではありません。義理は主義に関係なくあるのですからね。斉彬のしたことを憎悪していたからだとしか考えようはありませんね。
こうなれば、西郷としては、
「せめては自分が一緒に死ななければ、先君はお義理が立ちなさらぬ」
と思ったのは無理ならぬことではありませんか。西郷が月照と相抱いて投海したことは、昔から研究家が解明に苦しんでいるのですが、こう考えればきれいに説明がつくと思いますが、いかが。
それから、前章で語りました琉球における斉彬の計画です。あの計画の大方の下準備はほとんど完全に出来ました。汽船や軍艦や小銃製造機械の買入れのことも、当時那覇に居留していた二人のフランス人にむりやりに頼んで、福建省の福州のフランス領事を介して注文しました。旧制の小銃・大砲を中国に売りこむことには、市来四郎が琉球商人を同伴して中国に渡り、中国の商人と相談し、北京まで行って軍部の大官と折衝して、持って来さえすればいくらでも買い入れようという約束をとりつけたのです。
これらのことについて、琉球政府の人で最も働いてくれて、政府の要人を説得したり、フランス人との交渉にもつとめてくれたのが、四人いました。玉川《たまがわ》王子、三司官の一人|小禄良忠《おろくりようちゆう》、奉行の一人|恩河朝恒《おんがちようこう》、外国通事で薩摩からの要求で新しく表十五人衆にされた牧志朝忠《まきしちようちゆう》です。この人々は進歩主義の人々でしたから、斉彬を信頼し、これに協力することによって、琉球の独立と栄えとが得られると信じて、熱心に協力したので、羽ぶりもよかったのです。
ところが、斉彬のにわかな死によって、事情は一変しました。羽ぶりがよかっただけに、四人には政敵が多かったのです。薩摩の本国政府の方針の一変とともに、政敵等は四人に襲いかかったのです。根も葉もない疑獄を次ぎ次ぎにデッチ上げて、惨烈な拷問《ごうもん》にかけ、そのためにそれぞれに悲惨な死をとげたのです。
この事件も、薩摩側から一言申しこめば、四人は不問にされ、釈放されたに違いないのですが、それをしなかったのは、薩摩の新政府は旧政府と主義主張が違っていただけでなく、憎悪感情を持っていたからであると考えるのが、最も納得しやすいではありませんか。四人の人々の政敵等は、そこをちゃんと洞察して、決して横槍が来ないことを知っていたのでしょう。
私がこんなにこのことをくどく申しますのは、寺田屋の壮士達があんなことを企てた根底には、斉彬の後の藩政府に彼等が絶望していたという事実があるからです。
当時、薩藩に、誠忠組という青年武士の集団がありました。ずっと前、島津重豪が隠居してから、次代の斉宣《なりのぶ》の施政ぶりが気に入らず、斉宣取立ての家老秩父太郎等を切腹させ、斉宣には隠居させ、その子斉興に家をつがせたことを書きましたが、この秩父太郎という人物はまことに見事な心術の武士でした。
この秩父太郎の人となりを思慕する西郷・大久保・伊地知龍右衛門(正治)・吉井幸輔(友実)・有村俊斎(海江田信義)などという人々が、秩父の愛読書であった『近思録』(朱子とその友|呂東莱《りよとうらい》の共著、朱子学では精髄とするほどの書です)を共同研究したのが、誠忠組のそもそものおこりです。そのはじめが秩父太郎の人となりを慕ってはじめたものですから、この人々の目的はよくわかります。秩父太郎のような見事な人がらの人物になりたいというのですから、立派な薩摩藩士となりたいというのであったことは明らかです。
やがて彼等の中の西郷が斉彬に抜擢《ばつてき》され、薫陶を受けて日本の危機を知り、またその指示を受けて国事に立働くことになりますと、メンバー全部も西郷の話や手紙によって国事に関心を持つようになりました。つまり、西郷は斉彬学校の直接生徒、他のメンバーは通信受業生というところです。
こうして、単に藩にまことの忠誠を尽す見事な藩士となりたいとだけ思っていた彼等は、憂国慨世の政治青年となったのです。彼等のこの態度に刺戟《しげき》されて新しく加入する者が引きつづいて、藩中の一勢力にまでなったようです。
時勢もまた大いに彼等を刺戟しました。ぺリーが二度目に来航して、昨年おいて行った「開国要求」の回答を聞きに来、もぎとるようにして修好条約を取りつけたのは、西郷が斉彬に抜擢されて、斉彬の供をして、はじめて江戸に出て来た時です。どこの藩でも、ぺリー来航が動機になって青年等が国事に関心を持つようになったのですから、薩摩の青年等がそうなったのは言うまでもありません。
誠忠組の人々は斉彬を心から崇拝して、斉彬の指揮の下に救国の事業に立働くことを熱望し、その引兵上京に供することに張切っていたのですから、斉彬の突然の死に悲嘆たえがたいものがありました。西郷が国へ帰って斉彬の墓前で殉死する決意をしたのを、月照に知られて訓戒されて思い止まったことは有名ですが、『維新前後実歴史伝』によりますと、海江田信義も殉死するつもりになったというのです。海江田の外にもいたに違いありません。
ここに密勅事件という、幕末史で最も有名な事件があります。もと水戸藩士であった日下《くさか》部伊三次《べいさじ》は、元来父が薩藩士だった縁故から斉彬に召しかかえられていました。以前水戸藩士であっただけに、井伊が水戸老公等に厳重な処分をし、その政治活動を厳重に封鎖したのを憤激して、水戸の有志等にこう持ちかけました。
「拙者は京の三条前内府公をよく存じ上げている。いかがでござろう、京に行って三条公によって朝廷に運動し、井伊を罷免し、老公や尾州|慶恕《よしくみ》公、越前|慶永《よしなが》侯等の処分を解除せよとの勅諚を下していただくことは。拙者は必ず成功すると信じているが」
水戸の有志者等にしてみれば、慷慨悲憤は日下部におとるものではありません。
「ぜひ頼む」となって、日下部は上京して来ました。それは斉彬の訃報《ふほう》がまだ届かず、西郷が必要な運動を着々と進めている頃でした。日下部は西郷から話を聞くと、
「もはや天下のことは成ったと同じです。拙者の運動はやめて、貴殿のお手伝をしながら太守様の御|上洛《じようらく》を待ちましょう」
と言って、そうしていたのですが、やがて斉彬の訃報がとどきました。
日下部は失望しましたが、やがて梁川星厳、頼《らい》三樹三郎、梅田|雲浜《うんぴん》、池内大学等の京都の浪人学者やその門下につらなる青年志士等にすすめられて、一時捨てていた、密勅降下運動を取り上げることになりました。
日下部の運動は成功して、密勅は水戸に降下するのですが、そのために水戸藩はてんやわんやの騒ぎになり、藩中ついに四分五裂の状態となってしまいました。幕府の強圧が藩士等の心をずたずたに引裂いたのです。いわゆる天狗《てんぐ》党さわぎなどもこのためにおこったのです。
西郷は水戸家の事情がわかっていますので、一応瀬踏みしてから下賜される方が安全だと近衛公に説いて、勅諚の写しを奉じて江戸に下って、水戸家の家老|安島帯刀《あじまたてわき》に会い、とうてい奉承出来る情勢にないことを知りましたので、水戸家は幕府の警戒が厳重で、寄りつけなかったと言って、返還することに、安島と相談をまとめて辞去して、有村俊斎が帰国するのに託して、京都に送りかえしました。
ところが、朝廷の方では、折角瀬踏みのために西郷を江戸に下しながら、水戸家の情勢がそれほど窮迫衰弱しているとは思わなかったのでしょう、西郷が京都を出発した六日後に、水戸家の京都留守居役鵜飼吉左衛門を呼び出して、下賜してしまいましたので、吉左衛門の子幸吉が持って江戸に下りました。水戸家としては、下賜されれば、受けないわけに行かず、大騒ぎになったのです。
当時、誠忠組の同志で中央(江戸と京)に居たのは有馬新七、堀次郎、西郷、有村俊斎、吉井幸輔、伊地知龍右衛門の六人でした。藩と関係なく、誠忠組の同志だけで、広く天下の諸藩の有志と協力して、クーデターをもって井伊をたおして幕政を改革する計画を立てました。寺田屋の壮士等の計画は、つまりはこれが幾変化したものだという見方も成立ちましょう。西郷等の計画には、応ずる諸藩人もいたのですが、幕府の探索網は案外行きとどいていまして、追捕の手がのびて手も足も出なくなって来ましたので、それぞれに国に逃げ帰りました。
西郷と有村とは月照を同伴したのですが、そのいきさつ、結末は、皆様すでによく御存じのことですから、省略します。
月照は死にましたが、蘇生した西郷は、奄美大島居住を命ぜられて、健康の回復を待って、翌年(安政六)正月半ばから、島住いの身になりました。
西郷がこうなりましても、計画だけはのこって、堀次郎がまた国外に出て、いろいろ試みましたが、ものになりません。消えてしまった火を吹きおこそうとするに似た結果になりました。
大久保のはなれわざ
誠忠組の壮士等は、斉彬の志を継ぐことは、現在においては井伊を政局面から追放することであると信じて、努力をつづけたのですが、その間に井伊の暴力政治(テロリズム)は益々強行され、宮方も、公卿も、諸藩士も、浪人志士も、戦慄し、息をひそめて、なるべく目立たないように身をすくめることになりました。薩藩当局はもとよりです。
「触らぬ神に祟《たた》りはなかのじゃ。先代様が飛び上ったことばかりなさったから、お家はにらまれることになったのじゃ。昔にかえって、お家のことだけを考えていれば、なにごともなくてすむのじゃ」
とばかりに、保守の殻に閉じこもったのです。
藩のこんな態度が、誠忠組の青年等に気に入るはずはありません。そうでなくても、彼等は斉興という人もきらいなら久光もきらい、久光の子であるから又次郎(忠義)もきらいなんです。いずれも|順 聖《じゆんしよう》公(斉彬)を毒殺した張本人とその片割れ共と思っているのです。
ですから、こんな人々が主宰する藩が順聖公の頃のようなことをする道理はない、我々は藩とは関係なく、我々だけでやることを考えるべきだと思っていました。当然、これは脱藩につながって来ますね。
ここにただひとり、大久保だけは考えが違いました。
「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん。何としても、藩全体でやることを考えなければならん。老公は見込みはないが、もう六十九というお年だ。長くはなか。あとはきっと久光様が政治後見になりなさる。久光様は今はまだ臣籍に居なさるが、それは家中の思惑を憚《はばか》って、わざとそうしていなさるので、何というても太守様の御実父じゃ、老公の死後には、親を臣籍におくわけには行かんというて、上通《かみどお》り(太守同様)にして、政治後見となさるにきまっている。こちらとしては、うまく説きつけて天下のことに目ざめさせればよかのじゃ。それには先ず近づくことじゃ」
と思案したのです。不敵な考えです。陰謀に類しています。ここにも大久保の一特質があります。薩摩人は大体陰謀が不得手なんですが、大久保は大いにそれの出来た人です。革命は前政権からすれば犯罪ですから、陰謀は絶対に必要です。維新革命の陰謀面は、大久保と岩倉が受持ったのです。
大久保は久光に近づく工夫をしました。何事によらず、この男のすることは念入りです。準備を周到にし、段取りを立ててやるのです。
同志|税所《さいしよ》喜三左衛門の実兄で、鹿児島城下の天台宗の大寺院南泉院(今の照国神社の場所にあった)の子院吉祥院の住職で乗願《じようがん》(真海ともいう)という人がありました。久光の碁がたきで、久光が領地から城下の屋敷に出て来る度に、呼ばれて碁の相手をしていました。大久保は税所に頼んで、この乗願の碁の弟子にしてもらいました。
碁を習いながら、それとなく誠忠組のことを語って、それを乗願が久光に伝えるようにたくらんだのです。気長に根気よく努力をつづけていることには、必ずといってよいくらい、よい機会がめぐって来るものです。
その機会が来ました。
税所喜三左衛門は江戸勤番中に平田|篤胤《あつたね》の子|銕胤《かねたね》に入門して、平田派の国学を修めたのですが、昨年勤番の交代で帰国する時、平田塾で近く篤胤の遺著『古史伝』を刊行することになっていると聞き、発刊されたら送ってくれるように頼んで、金を託して来たのです。この頃、その第一冊目が刊行されて、以後、冊を追うて送って来ます。誠忠組の人々はよろこんで、回覧していました。
平田派の国学は、当時最も流行した学問です。学問的には相当いかがわしいところがありますが、日本という国が何から何まで万国に冠絶していることを博弁宏詞をもって論証する、国民的誇りが基調になっていますから、欧米諸国の圧力をはね返しながら、日本を建直さなければならないと考えている当時の心ある青年にとっては、最もうれしく、最も役に立つと思われる学問だったのです。
この『古史伝』のことを、乗願が久光に話しました。久光は学問好きですが、兄の斉彬と違って、その好みは漢学と国学ですから、古史伝が篤胤の自著『古史成文』の注釈書であることはすでに知っていまして、
「そうか、とうとう『古史伝』が刊行されたか。わしは『古史成文』を読んでいるから、『古史伝』が出たらぜひ読みたいと思うていた。どうじゃろう、二才《にせ》衆が読んでしまった分《ぶん》を、わしに貸してくれるように頼んでくれまいか」
と頼みました。
乗願は承諾して、弟に伝えました。兄の頼みとはいいながら、同志一同のきらいな久光に貸すことなので、税所は決しかねて、大久保に相談しました。
大久保にすれば、待ちに待った機会の到来というべきです。
「それはお貸し申されたがようごわす。久光様は由羅の出生《しゆつしよう》じゃというので、皆はよう思っておらんが、わしが乗願様から折々聞いたところでは、心術も正しく、なかなか賢明で、尊王の大義も十分にわきまえていなさるという。また、これも乗願様から伺ったことじゃが、われら誠忠組のこともご存じじゃという。書物の借覧を頼んでおじゃったとは、よか都合じゃ、我々がどんな書物を読んでいるかを御承知になれば、我々の精神をお知りになれる道理でごわすからな」
といい、一切を自分にまかせよといって、自分の手から乗願に渡しました。
書物には細工がしてありました。ページの間に、ぺリー来航以来の外交問題、将軍継嗣問題、それらをめぐっての朝廷と幕府との間の葛藤、井伊の暴圧政治、諸大藩の憤激、斉彬の壮図、急死によるその挫折、大獄、密勅を請下し諸雄藩を動かして、クーデターをもって井伊を幕閣から追放して幕政を改革しようと企てた誠忠組の行動、この数年間の日本の情勢と、薩藩がそれにどうかかわつて来たかを書いたものを挟んであったのです。
これを最初にして、次々に手渡して行く巻毎に、大久保の細工はつづきました。
久光という人は、学問もあり、相当かしこい人でもあり、気性も鋭く生れついたのですが、薩摩で生れて、薩摩で育ち、これまで一度も国外に出たことのなかった人です。当時は時事解説書のようなものもなければ、新聞も雑誌もないのです。また久光のように身分の高い人には、打ちとけて時局談などをする友人もいませんから、時勢のことについては無知に等しかったのです。その久光を、大久保は前述の方法で、すっかり教育してしまいました。もちろん、改まって久光の方から問いかけたことはありません。乗願を通じて面白く読んだと言ったこともありません。
大久保にとっては、暗夜に鉄砲を放っているようで、心細く思うことがしばしばだったに相違ありませんが、この男はめっぽう根気がよいのです。けしからんことをすると咎《とが》められないのは喜ばれていることを意味するのだと押し強く考えて、しくしくとつづけました。
この頃、江戸に出ていた堀次郎は、やはり江戸に出ていた有村|雄助《ゆうすけ》、その弟次左衛門(いずれも俊斎の弟)、山口三斎、田中謙助、高崎五六などと相談して、幕府の圧迫を最も強く受けて、藩中激し切っている水戸藩の人々に働きかけて、
「薩・水両藩の有志だけで井伊をたおし、一方京都で九条関白をしりぞけ、所司代酒井|忠義《ただあき》をたおそうではござらんか。そうすれば、必ずや人心興起し、天下の正気はふるい立つでござろう」
と説いて、相談をまとめ上げ、堀と有村雄助の連名で、大久保と有村俊斎とに、
「出来るだけ早く突出して来てくれ」
と申し送って来ました。
誠忠組の人々の意気のふるったことは言うまでもありません。藩を飛び出す相談が毎日のように行われはじめました。
すると、以上に少しおくれて、大獄にたいする幕府の第一判決があり、その報告が薩摩にとどいたのですが、当然、誠忠組の人々はワッとばかりに激し上りました。
「脱出だ! 脱出だ!」
と、皆狂気のようです。
ところが、ちょうどその頃――九月十六日のことです。斉興が永眠しました。ほんの数日の病気によってです。一般家中の者は病気であることも知らなかったのですから、その死は突然であったと言ってよいのです。
すると、忠義は、
「実父である人を臣籍におくことは、子として忍びない」
と言って、久光を上通りに直し、また恐らくは久光の要求によるのでしょうが、政治後見としました。上通りというのは、藩侯と同じ資格の人という意味です。大久保の先見は見事に的中したわけですね。
久光はこれまでは領地である重富郷《しげとみごう》住いが主で、城下の屋敷は時々出て来た時の泊り場所にすぎなかったのですが、以後はずっと城下にある屋敷にいて、隔日に登城して政務を見ることになりました。やがて、城内の二の丸に移って、「二の丸様」と呼ばれるようになります。
こうして、久光は政治後見になり、またその胸中には大久保に教育されて、薩摩全藩の力をひっさげて中央に出て志をのべたい意欲がむくむくと動きはじめていたのですが、いきなりそれを実行にうつすわけには行きません。藩政府という大きな組織を納得させてからでなければならないわけですが、それには先ず要所々々に自分と同じ意見の者を配置する必要がありますが、配置がえは急速には出来ません。藩政は斉興後見の時代と変らない姿で続けられました。
大久保は斉興の死んだ頃から、同志の昂奮《こうふん》をなだめにかかっていました。
「しばらくお待ちなされよ。きっと久光様は藩政後見になりなさる。わしの見るところでは、久光様は斉興公のようなことはない。憂国のお心もあり、尊王のお心もある人のようだ。きっと順聖公の御遺志を継ぎなさるに相違ない」
大久保の見識と才腕は、同志は皆信じて尊敬していますから、しばらくは鳴りをひそめていましたが、久光が藩政後見になり、上通りになっても、藩政府は一向に変化を見せません。壮士等はしびれを切らして、
「由羅が子じゃ、懦弱《だじやく》な根性にきまっとる。何にも出来はせんど!」
と、また激昂がもどって、脱出説がさかんになって来ました。
大久保は久光にたいする希望を抱きつづけているのですが、同志等の興奮はもうとうてい、尋常の方法では制止出来ないと判断したので、思い切って念の入った――大久保の志の高さを買わないかぎり、陰険姦悪であるとも評せらるべき策を立て、同志の集会をもとめて、こう提議しました。
一 脱出すること。
二 個々脱出しては、最初の数人で藩当局に気づかれ、あとの者は出来なくなるから、全員一挙にやること。
三 当然、それは船を以てすること。
四 脱出すれば他藩当局や他藩人などと公的に交渉することもあるから、総裁を立てる必要がある。一同で選んでもらいたい。
五 船で海路による脱出であるから、船の操縦になれた船長役が必要である。それも一同で選びたい。
六 ことは厳に秘密にして、父母、兄弟、妻子にも語らないこと。
以上でしたが、いずれも道理至極なことですから、全員同意しました。
船の用意をするには、船の購入費がいるわけですが、これは一党中の富豪である森山新蔵が引受けようといって、それで片付きました。
森山はもと豪商で、商業のかたわら漁業も手びろく営み、また日向の今の小林市のあたりに四十余町歩の田地を開墾して農業も経営している豪農でもありました。藩に多額な献金をして士籍に列せられて、五十石を受けていましたが、五十石などという禄は森山にとっては小遣銭にもあたりません。長男新五左衛門とともに誠忠組に入って、組の費用はほとんど森山が出し、同志の中には家計まで助けられている人もありました。大久保一蔵や有村俊斎なども助けられていたなかまです。士籍に列せられてからは、農園の経営だけをつづけて、商業と漁業はやめたことになっていましたが、それは表面だけのことで、内実は一族の者の名で続けていたようです。
総裁の件は、大久保が岩下佐次右衛門(明治後の名は方平、子爵)を推薦しました。岩下の藩士としてのランクは最も高く、家老・重臣となれる家柄の人でした。家柄がかけへだたっていますから、誠忠組に入ってはいませんでしたが、思想・心情は全然誠忠組の人々と同じで、組外の同志ともいうべき人でしたので、一同大久保の推薦を承諾しました。
封建時代は階級がものを言う時代ですから、他藩当局や他藩人と折衝するにあたって、こちらの身分が高いことは大いに有利であるには違いありませんが、大久保が特にこの人を推薦したのは、単にそれだけのためではありますまい。大久保は久光や藩主忠義との連絡を考えていたのだと思います。藩士として身分高い人物でなければ、橋渡しになれませんからね。
船長には、森山新蔵が田中新兵衛を推薦して、全員承諾しました。
田中新兵衛とは、後に中央に出て、人|斬《き》り新兵衛と呼ばれ、暗殺名人の名をほしいままにし、京坂の間を戦慄させたあの男ですが、その素性は薩摩でもはっきりはわかっていません。海江田信義の『維新前後実歴史伝』には、鹿児島城下前の浜の薬種屋のせがれであったと言っていますが、私は国の古老に前の浜の漁師であったという説も聞いています。海江田はこの時から新兵衛を親しく知り、可愛がり、後に京都に出てからは一時新兵衛の仮《かり》主人(奇妙な言い方ですが、新兵衛は薩藩士ではなく、町人であったことは事実ですが、町人であれば薩摩領外である京都に定住的に滞在することや、まして武士姿で自由に藩邸に出入りすることは許されないので、藩士の誰かを主人として、その家来であるという名目になっていたので、仮主人というのです。ですから、新兵衛には時期々々で、いろいろな人が仮主人になっています。最初は海江田武次―信義(有村俊斎)、次は藤井良節、最後に姉小路《あねがこうじ》公知《きんとも》を暗殺したという嫌疑を受けて自殺した頃の仮主人は仁礼《にれい》源之丞です。後の子爵、海軍大臣、軍令部長の仁礼景範)であったほどの深い関係があるのですから、その言う所は大いに信用しなければなりませんが、森山新蔵が彼を船長役に推薦しているのですから、船のことにくわしくなければならないはずで、漁師説も捨て難いのです。そこで、私は両説を折衷してこう考えています。
森山新蔵は武士になってから、表面商業や漁業はやめたが、一族の名でいずれも続けていたに違いない。当時の薩摩の大商人等は、沖縄物産をとりあつかいましたから、森山もそうであったろうと思います。沖縄物産の中には、琉球政府が中国から輸入する中国物産もあったのです。もちろん、薬種もあります。薬種屋のせがれ新兵衛は、その薬の仕入れのために、森山の持船で度々沖縄へ行く間に、船のことに興味をもち、ついに森山の持船の一つの船頭となってしまったのではないか――という推察です。いかがでしょう。
もう一つ。新兵衛の家は町人ながら田中という名字を持っているのですから、相当格式のある町人ですね。とすれば、漁師ではなく、薬種屋というのがほんとうである可能性が多いですね。
さて、こうして脱出のことがきまりましたので、一同のよろこびは一方でありません。吉井幸輔などは、早くも遺書のことを案じたと伝わっています。ついでながら、吉井幸輔という人は、西郷と大久保の陰にかくれて、それほど光らない人ですが、この人のこの幕末維新頃の書簡を見ますと、文章は実にうまいです。吉井勇氏の文学的才能は、祖父であるこの人の遺伝だろうと、私は見ています。
有馬新七は最も純粋激烈な人柄で、一党中の最激派で、脱出説の急先鋒でしたから、最もよろこび、船用意のために日向の細島《ほそじま》に行くことを買って出て、森山新蔵から費用十両を出させて出かけて行きましたが、日ならずして帰って来ました。
「船は鰹《かつお》釣船二|艘《そう》を百五十両で買うことにきめて、手付を十両打って来た。残金は船を受取った時渡すことにしてある。いよいよ日がきまったら、わしが行って乗りこんで、所定のところへ連れて来る約束になっている」
というのです。
一切の準備はととのいました。大久保は細工の仕上げにかからなければなりません。
そこで、総裁岩下をして一同を集合させて、
「一切の準備は出来た。日ならず、決行の日を告げる故、各々はいつでも突出できるよう、支度をととのえていただきたい」
と言わせました。
かねて覚悟していたことながら、一同の緊張は一方でありません。家族等にわからないように支度をしたり、遺書を書いたり、金銀の用意をしたりです。
そうしておいて、ある夜、大久保は忠義の小姓で、志があるのでかねて親しくしている谷村愛之助の宅を訪れて、事の次第を告げました。
谷村は驚愕しましたが、大久保はそれを制して、じゅんじゅんと説明して、
「事の成否も、一身の生命も、我々は少しも念頭にはござらんが、案ぜられるのは太守様のごきげんでごわす。御家老や御重役衆は皆凡庸なる俗人でごわすから、我々の純忠無私の志などわからず、従って我々の志がゆがめられて太守様のお耳に達し、我々をいたずらに乱を好む暴勇の徒とお考えになり、我々の父母や兄弟にきびしいお咎めが及び、天下正義の士の間に太守様が悪しざまに風説され給いはせんかと、それを恐れもす。実はこのことは、親兄弟夫婦の間でも漏らしてはならんことに、堅く誓い合っているのでごわすが、オマンサアは同志同然の方でごわすので、敢て申し上げもした。吾々は国外に去ってから、連名をもって藩庁にお届けすることにしておりますから、やがて太守様は御承知になる筈《はず》でごわすから、その時、オマンサアから、吾々の志のあるところを、太守様に申し上げて、おとりなしをしていただきたいのでごわす」
もちろん、谷村はなおくわしく聞くために、また諫《いさ》めてとめるために、何か言いかけましたが、大久保は、
「もはや、我々は弦ばなれした矢と同じでごわす。おとめあっても、従うわけにはまいりません。今申し上げたことを、切に切にお願い申し上げます」
と言いすてて、帰ってしまいました。
谷村は以前は斉彬の近臣でしたから、誠忠組の壮士等のこの計画が、突然の死のために未発におわった、斉彬のあの大策の継承であることがわかります。大いに同情はされますが、水戸側も、こちら側も、つまりは浪人集団の仕事で、成功するだろうとは思われません。
(あったら人々を、非業にして死なせるばかりでなく、お家にも御迷惑の及ぶことは必然だ。なんとかして制《と》めたい)
と思いまして、翌日出仕すると、すきをうかがって、昨夜大久保から聞いたことを、忠義に告げました。こうなることを見通して、大久保は谷村に告げたのですから、谷村は見事に大久保の策に乗ったことになります。このように手のこんだ策ですから、陰険姦悪めいたところがあると申すのです。
忠義は驚きながらも熱心に聞いた後、谷村を重富邸に走らせて、事情をよく申し上げて、御意見を伺ってまいれと命じました。
久光は谷村の話を聞き、登城して、忠義と相談して、忠義の名前で誠忠組の壮士等に諭告状を出して、制止することにきめました。
どうやら、この夜あたり、久光は吉祥院乗願をして、大久保を重富邸に連れて来させて会っているのではないかと思われます。やがて下賜した諭告状の文句や下賜ぶりから、そう推察するのです。
諭告書はこうです。
方今、世上一統に動揺し、容易ならざる時節。万一時変到来の節は、順聖院様の御深意をつらぬき、国家(藩)を以て忠勤を抽《ぬき》んずべき心得に候。各々有志の面々、深く相心得、国家(藩)の柱石に相立ち、我等の不肖を輔《たす》け、国名(藩の名誉)を汚さず、誠忠を尽しくれ侯様、ひとえに頼みに存じ候。よってくだんのごとし。
安政六年己 |未《つちのとのひつじ》十一月五日
[#地付き]茂久(忠義のこの頃の名)花押
誠忠の士の面々へ
書中の「順聖院様の御深意」「誠忠を尽しくれ侯様」などの文句、「誠忠の士の面々へ」という宛名によって、この文章の考案には大久保の智恵が入っていると、私には思われてなりません。久光に呼ばれて行って会い、彼の口から事のいきさつを語り、参考のためにと所望されて案文する様子が、私には思い描かれるのです。
この諭告書を持って行ってわたしたのは、前述の谷村愛之助と児玉雄一郎でした。児玉も谷村と同じく斉彬在世の頃は近臣として親しく仕えて、国事に志のあった人です。身分が高かったので、誠忠組には入っていませんでしたが、誠忠組の人々とは懇意にし、大いに気が合っていたのです。
また、諭告書は大山正円の宅に持参され、正円に渡されました。なぜ正円の宅がえらばれ、正円に渡されたかと申しますと、正円は誠忠組の一人であるばかりでなく、井伊によって処罰されて、当時永|蟄居《ちつきよ》の身の上だったからです。薩摩藩で、井伊が目ぼしをつけた者が三人ありました。日下《くさか》部伊三次《べいさじ》、西郷吉之助、大山正円です。日下部は捕えられて早く獄死し、西郷は月照と一緒に死んだことにして奄美大島に移居させましたから、生きていて処罰されているのは正円一人だったのです。その正円の宅に諭告書を持って来、正円に渡すとは、殿様達の智恵にしては出来すぎています。これも大久保の入れ智恵ではないでしょうか。
ついでに書いておきます。
正円は本名は格之助、明治以後は綱良と名のり、鹿児島県令になっていましたが、西南戦争の際西郷に大いに肩入れして、戦後処刑されました。
正円という名は有村俊斎の俊斎や山口三斎の三斎などと同じく、茶道坊主としての名前です。薩藩には藩士の家計の貧困を救うために、部屋住みの者をアルバイト的に役につける制度がありました。その役はいろいろで、西郷は郡方書役に任用され、大久保は記録方書役や蔵方書役になっていますが、俊斎や正円は茶道方に任用されたのです。茶道坊主としてあたまは丸めていますが、ふだんの服装は普通の武士と同じく両刀をさしているのですから、すこぶる異様な姿だったでしょう。
話をもとへ返します。
前もって知らせがありましたから、誠忠組の代表者として大久保と有村俊斎とが、正円の家に出向いていました。俊斎を代表者の一人に選んだのは、江戸で水戸人との連合にあたっている雄助と次左衛門の兄だからでしょう。
諭告書は、誠忠組の壮士等に非常な衝撃をあたえました。当時の武士と藩主との関係は、今日の会社員と社長の関係とはまるで違います。武家の主従は単なる雇傭《こよう》関係ではありません。君臣ともに父祖代々最も緊密な運命共同体として生きつづけるのであり、物ごころのつくかつかないかの頃から、日毎に君恩を説かれ、忠誠を尽すべきことを教えこまれるのですからね。皆泣いて感動して、脱出の心をやめ、連名で請書を奉りました。
故順聖公は、日本の当面している国難を救い給わんとして、破天荒な大策をお立てになったのでありますが、不幸、御|逝去《せいきよ》、事は未発におわってしまいましたので、西郷吉之助等がせめては御遺志を継ぎ申したいと思い立ちまして、諸藩士を連合しての挙義を計画しましたのがはじまりで、数変転の後、こんどの挙義計画となりました。すなわち、我々がこうして皇国の大義に殉ぜんとしますのは、先君の御遺志を継承し、偉烈を顕彰し奉らんとの微意に外なりません。しかるに、今、ありがたき御書を御下賜あって、やがて太守様おんみずから順聖公の御深意を貫徹するべきお志を表明遊ばされ、我々に藩の柱石として、御大業を輔けよとまで仰せ出されました。かかる有難き、身にあまる仰せを受けましては、累代厚恩をいだいて来たお家の臣として、いかでか違背出来ましょう。天下のために働くとともに、累代の君恩に報い奉ることが出来るのであります。一同、恐悦|恐懼《きようく》して、連名をもってお請けつかまつります。
というのが本文で、それぞれに署名したのですが、大久保が、筆頭に西郷の名を記すことを提議しますと、皆賛成しましたので、大久保は筆をとって、「大島渡海菊池源吾」としるしました。以下それぞれ署名したのですが、在江戸の者も、京都にいる者も、旅行中の者も全部代って署名しましたので、四十九人になりました。
この請書は、谷村と児玉を通じて、忠義に差し出されました。
このように、大久保のはなれわざは、まことに見事に行ったように見えたのですが。
桜田門外の変
藩主の鄭重《ていちよう》にして懇切な諭告書に感激して、誠忠組の壮士等が脱出計画を中止してから二月足らずで、新しい年になります。安政七年(一八六〇)です。三月十八日に改元されて万延元年、即ちその三月三日に桜田門外の事変があった、あの年です。天下の大老が路上に身首《しんしゆ》ところを異にするような大変事がおこったのは不祥というので、改元されたのです。
前に述べましたように、元来、この計画は誠忠組の壮士等が水戸藩有志の者に呼びかけて成立したもので、そのために誠忠組の壮士等の脱出計画も立てられたのです。ですから、壮士等が脱出計画を中止したのは、単に諭告書に感激したためばかりではありません。感激とともに、殿様御父子は我々の至情をよく御承知であればこそ、こんな諭告書を賜わったのだから、井伊が殺されるという事変が中央でおこれば、殿様は必ず藩兵をひきいて御出馬になると思ったからでもあります。つまり、彼等は諭告書を殿様御父子の自分等にたいする契約書と受取ったと言えましょう。
国許にいる連中も、ほとんど全部がそう受取ったのですから、江戸に出ている連中はなおさらです。藩は自分等が水戸衆と共同謀議して計画したことを承認した、従って自分等が断行して井伊暗殺に成功しさえすれば、藩は全力をあげて乗り出すことになったと思いこんだのです。ところが、久光父子の気持はそうではありません。遠い将来、時節が到来したら、全藩の力をあげてやる決心だから、それまでわし等父子を信じて待てといったつもりだったのです。
誠忠組は間もなくはげしく動揺し、ついに一種の分派活動がおこり、その分派した激派の連中が寺田屋事変の主体となるのですが、その分派の最も根本的な原因は、この時の食いちがいであったといってよいでしょう。
さすがに、大久保は周到な男ですから、江戸に出ている連中をうまく説得しなければ、そちらから破れて来ると思いまして、もちろん手紙でくわしく説明してやりましたが、なお久光に、自分が江戸に行ってなかまを説得しますから、出府を許していただきたいと願い出ましたが、どうしたものか、久光は許しません。思うに、『古史伝』のページの間にはさみこんで呈した書付によって、よほどに過激な思想と行動力のある者と見て、かえって江戸のなかまをあおり立てる危険があるとでも判断したのでしょうか、家老、重役、児玉、谷村等の、あらゆる線をたぐって願い出もしたのですが、ついに許さなかったのです。
「在府の者共の|うわおし《ヽヽヽヽ》になっているのは堀じゃろう。堀を呼び返せば、首を失った蛇じゃ。何にも出来はすまい」
と、久光は考えて、「内用あり」という名目で、堀次郎を呼び返す命令を急送しました。
先へ行って相当重大な関係がありますから、ここで堀次郎のことについて、簡単に説明しておきます。堀は儒学研究のために藩命によって江戸に出て、昌平黌《しようへいこう》で遊んでいた男ですから同志中では一番学問があったでしょう。才人でもあり、行動力もありましたが、かなり軽はずみで、お調子もの的なところもあったようです。彼が誠忠組の同志となって、政治に関心を待つようになったのは、島津斉彬がまだ生きている頃、西郷が斉彬の命を受けて江戸に出て、一橋慶喜を将軍世子とするために、越前家の橋本左内などと連絡を取って働いている時期に、西郷に近づき、西郷を輔けて助手的の仕事をするようになってからです。当時、誠忠組の同志では有村俊斎も江戸にいたのですが、俊斎は知能的な仕事には向かなかったらしく、走り使いくらいしかやらされていません。少しこみ入った仕事には堀を使っていますから、頭のよいことは西郷も認めていたようです。
久光は学問好きですから、学才によって藩から選抜されて昌平黌に遊学させられたというので、大いに買ったのでしょう。堀は幕末の情勢が煮えつまって来た頃には、さほどの人物ではなくなりますが、この頃から、久光の中央乗り出し、寺田屋事変、久光が勅使大原|重徳《しげとみ》を護衛して江戸下りして強引に勅諚を幕府に奉承させた頃までは、久光は大いに信頼しています。堀自身もその頃は策もよく立ち、腕も切れました。ですから、久光の覚えのめでたさは、大久保を凌《しの》ぐほどだったようです。明治になる少し前頃から名を伊地知|貞馨《さだか》と改め、明治後は久光の家の家令のようなことをしていますから、信任はずっと続いたのでしょう。
堀の召還命令が出される時、大久保もまた書面をしたため、くわしく国許のことを説明して、くれぐれも軽挙なさるなと戒めて、同じ便《びん》で江戸に発送しました。江戸時代の諸藩は、大体月に二回くらい、定期に江戸と国許との間に飛脚を往復させていまして、藩士等の私信もその便に託するのが普通でした。この定飛脚のほかに不定期に出す特別便ももちろんありました。
さて――
ところが、以上のことが江戸に到着する以前、江戸では計画の実行が大いに促進されていました。水戸衆の領袖高橋多一郎と金子孫二郎とが、薩摩側――といいましても、当時江戸にいたのは、堀次郎・高崎猪太郎(後に五六)・山口三斎・田中直之進(後に謙助)・有村雄助・その弟次左衛門の六人にすぎなかったのですが、それにむかって、
「幕府の水戸家にたいする圧迫は大いに募って、もはや一刻もたえられないほどとなった。ひとえにこれは井伊のなすわざである。出来るだけ早く決行したい」
と申しこみました。
六人は国許の事情をまるで知らないではありません。大久保やその他の同志等の通信である程度は知ってはいますが、そのわかりようは前述のようなものですから、
「ようごわす。早いのは大いに結構でごわす。国許でも、かようになっているのでごわすから、皆よろこぶことでごわしょう」
と答えました。
数回の会合が重ねられて、多分十二月はじめ頃だったろうと思いますが、両者の間に、次のような四カ条の申し合せが決定しました。
一 井伊を誅《ちゆう》すること。
二 御殿山の外国公館、横浜の外国商館を焼払うこと。
三 京都御所を守護し、至尊から幕府の外国と結んだ条約は破棄するとの勅を出していただくこと。
四 以上の一と二とは水戸衆が受持ち、三は薩摩衆が受持つこと。
以上のことがきまって間もなく、国許から久光の堀の召還命令と、大久保の手紙が到着しました。一同は意外でもあり、こまったとも思いましたが、かえって、井伊を見事にたおすなら、それこそ御諭告書にいうところの「時変到来」である。殿様も、同志も、よろこびこそすれ、よくないとはいわないはずだと考えたようです。
相談して、
「こちらの事情がこうなっとることを説明して、準備をさせる必要がある。堀どんがお呼び返しとはよか都合じゃ。説明して、準備をさせて下され。もっとも、藩のお偉方《えらがた》はものわかりが悪か上に用心深かすぎもすから、堀どんはおひとりでは難儀じゃろ。高崎どんも一緒に帰って下され」
となって、二人は国許にむかいました。
二人の鹿児島帰着は正月五日でした。二人はわが家にかえらず、大久保の宅に行き、大久保の説明によってはじめて国許の事情の変化をくわしく知ることが出来たのですが、知ってかえって激情的になり、大久保の知らせによって集まって来た同志等に、最も情熱的なことばで説き立てました。
「水戸衆とここまで約束した以上、武士としてあとへは引けんことは、皆おわかりじゃろう。太守様御父子のお心は最もありがたかことではごわすが、これは誠忠組がおらんでもよかろう。誠忠組としては前議に立返って、水戸衆とことを共にするほかはなかとは思いなさらんか。水戸衆は必死を期しているのでごわすぞ。いかなる理由があっても、これを見捨てるような不信義は、武士として出来ることではごわはん。それは卑怯《ひきよう》でごわす」
薩摩の男にとって、卑怯と臆病ほどの悪徳はないのです。それは藩の方針として代々訓育され、伝承されて、男等の気風となっているのです。人々の心は最もはげしくゆさぶられました。
冷静であったのは、大久保だけでした。大久保は挙藩勤王以外には効果ある途はない、井伊を誅したくらいでは、形勢は動きはしない、一個の小義に拘泥《こうでい》して全体の見通しを忘れてはならないと、説得につとめましたが、誠忠組の壮士等の動揺はつのるばかりでした。
この間、久光はどうだったかと申しますと、堀を呼んで、中央の形勢を聴取はしましたが、在府誠忠組壮士と水戸衆とのことはたずねませんでした。堀が帰って来れば、もう案ずることはない、かれこれ尋ねたりなどしては、ことをめんどうにするだけだと思ったのでしょう。久光は個人の志と力とを軽く見すぎていたのですね。机上の研究だけして、実地に事にあたったことのない人には、よくこんなことがあります。二月たたないうちに、桜田事変はおこるのですからね。
堀もいけないのです。問われなかったとて、黙っているべきではありません。進んで説明し、大いに説得につとめねばならないところです。久光の威にけおされたのでしょうか。堀は勇気ある人ではなかったようです。それはこの後のいろいろな事を通じて露呈して来る彼のマイナス面の一つです。幕末の情勢が煮えつまって来る頃に彼が舞台面から退かなければならなかったのは、主としてここに原因があったようです。
この間に、江戸における水・薩の談合は益々切迫して、そのことを告げるために、二月四日、山口三斎が馳せ帰って来ました。
「幕府の水戸がかりである若年寄安藤|信正《のぶまさ》は、こんど老中に昇進した。一層幕府はきびしく水戸にせまって来ることが予想されるので、水戸人の激昂は極点に達し、元兇《げんきよう》井伊をたおすために江戸に出て来る者が相つぎ、薩摩側に即行を申し入れて来たので、連絡のために昼夜兼行で帰って来た」
というのです。人々の情熱はさらに湧き立ちまして、
「我々が太守様の御親書に請書を奉ったのは、かかる時に乗り出して下さると信じたればこそのことじゃ。今こそそうなさるべきじゃ。もし猶予なさるにおいては、我々はもう請書に縛らるべきではない。前議に立ちかえって突出して応ずべきである」
と言います。
大久保はこれをなだめる一方、幹部達と相談して、堀を江戸の同志の鎮撫《ちんぶ》と水戸の事情をさぐる役とを兼ねさせて出府させることにきめて、事情を説明して、許可を願い出ました。かなりな|いきさつ《ヽヽヽヽ》はありましたが、結局久光が許しましたので、二月十八日、堀は出発しました。ところが、その三日後、田中直之進が帰って来たのです。堀とは途中でたがいに知らずにすれ違ったのです。
田中の報告はこうです。
「井伊の襲撃は三月二十日と決定した。これより早めることはあっても、決して延期はしない。井伊を襲撃するとともに、同志の両三人を江戸城内に潜入させて、紅葉山の離れ家に放火させ、老中等が驚いて登城するのを、別働隊が途中で討取り、さらに横浜の外人商館や、品川御殿山の外国公館を焼払う。以上のことはすべて水戸側で引受ける。
薩摩側は何らかの方法で京都朝廷に手入れして、幕府が諸外国と結んだ通商条約を全部破棄するとの旨の勅を出してもらうこと、とりあえず百人か二百人を御所守護のために上京させること、最後には三千人くらいを上京させ、京都を警護することを決定した云々」
なお、暗号やその他いろいろありました。
まことに手荒ですが、大久保は驚きはしません。目的は井伊をたおすことだけではありません。幕府を改革し、日本の姿勢を立直して、外力の圧迫に対処するにあるのですから。しかし、三千人の出兵の約束には驚きますと、
「時節到来すれば、全藩をひきいて乗出すと、太守様は御約束なされたのでごわす。その時節が到来したのでごわす。七十七万石のお家として、三千人くらいに驚きなさることはごわすまい」
と、田中は昂然たるものです。
だから、わしが行って説得すると言ったのにと、大久保は唇を噛みましたが、追いつくことではありません。
堀を出府させたことでいくらか鎮まっていた人々はまた沸き立ちました。
大久保はこの日の日記に、田中の報告したことを、水戸藩にたいする幕府の圧迫情況から、計画の微細に至るまでを、くわしく書きつけていますが、その末に、「田直(田中直之進)の注進を一日千秋の如《ごと》く一同相待ち候こと故、同志中|勃起《ぼつき》いたし候」と書いています。山口三斎の知らせで手ぐすね引いて待っていた誠忠組の壮士等が一斉に沸き立ったことがわかります。
大久保は児玉雄二郎を通じて、久光に建白書を差出しました。事情をのべ、江戸と京都とに守衛という名儀で百人ぐらいずつ海陸から出していただきたいという要旨のものです。しかし、久光は、
「すでに争乱がおこっているならともかく、未然の出兵は名目が立たない」
という理由で却下しました。
大久保はまた建白して、
「それでは御約束が違います。今や御諭告書に仰せられた『時変』が到来したのです。それを空しく見送らるるにおいては、我々は自ら突出するほかはありません」
と、威迫的なことすら述べました。ここで久光にだまされては、大久保は同志等を久光父子に売ったことになります。必死だったはずです。
さすがに久光も動かされて、一番手を江戸と京都へ百人ずつ、二番手を三百人ずつつかわす、そして三番手には藩主自ら出馬すると回答しました。
しかし、それは結局は実行されませんでした。わずかに三十人を二度にわけて出発させましたが、しかもその中には誠忠組の者は一人も加えていないのです。久光はあざむくつもりはなく、実行するつもりだったのでしょうが、藩政府が承諾しなかったのでしょう。
話が前後しましたが、久光は前年十二月はじめ頃から藩政府を改組にかかり、正月中旬にはほぼそれを完了しました。概説的に申すなら、斉興の後見時代の主席家老島津豊後以下を閑地に移し、斉彬時代の内閣を復活したと言ったらよいでしょう。主席家老は斉彬に信任された島津下総(左衛門)で、家老座全部をほぼその頃の人で固めたのですから。
誠忠組の壮士等は、この改組によって、久光の志のほどを大いに買ってよろこんだのですが、下総は久光の人物、手腕、声望をまるで買わないのです。下総にしてみれば、斉彬とくらべて考えますから、無理はないともいえます。久光が誠忠組の若者等の言うことを聞いて、出兵などするとあっては、おのれの力もはからず、おとなの真似をする飛び上りな子供を見るようで、不安でならなかったのでしょう。このことは別段書いたものがのこっているわけではありませんが、この翌年、久光が中央乗出しにかかろうとしたのに、下総がまるで同意しないので、両者の間は不和になり、ついに下総の職を免じていますから、上述のような推察をするのです。藩政後見になっても、この頃の久光の統制力の微弱さがわかりますね。ずっと臣籍にいたのですから、これは当然でしょう。
久光はやがて事実上の薩藩主となって、すべてを独裁し、忠義は床の間の置物同然になってしまうのですが、それは次第に養い立てて行ったのです。その点では、寺田屋事変の処理のつけ方――|峻烈《しゆんれつ》をきわめたやり方は、大いに効果があったといえます。一種の恐怖《テロ》政策《リズム》といえますからね。
ついでながら、下総は誠忠組の壮士等は過激であるとて気に入っていませんでしたが、西郷にたいしては斉彬時代から大いに信用していました。ですから、この時も西郷がいたら、あるいは下総の出ようも違ったかも知れません。もっとも、西郷がいて誠忠組をひきいているのだったら、藩主の諭告書くらいで久光と誠忠組の和合が出来たかどうか疑問です。西郷は久光を、先君のかたきの片割れとして、死ぬまで心の深いところでは許していませんからね。久光も西郷をきらっていますが、それは西郷のこの気持を反射してなんです。
ともあれ、久光は誠忠組の壮士等にたいして食言せざるを得ないことになったのです。
誠忠組の壮士等の胸中に、
「我々は殿様御父子にあざむかれたらしかぞ」
と、久光にたいする不信の情が根づいたことは当然です。
大久保はいきり立つ同志をおさえる一方、いろいろと久光に工作して、久光に拝謁して、その口からこんな約束をとりつけました。
「事変勃発の報告があったら、必ず即座に人数をくり出す。その際、京都方面へは誠忠組の者等をつかわす故、一同落ちついて待つように」
また、大久保は田中直之進を江戸へお帰しありたい、長く引止めておいては、江戸の同志等が疑惑すると願っていましたが、それも許可されました。
この際、久光はこう言い添えました。
「何分にも、藩政府の吟味は、先例故格などの詮議《せんぎ》が面倒である上に、重役等に有志の者が少く、思う通りに行かんことが多くて、まことにしにくい。苦心を察してくれるよう」
久光の愚痴だったでしょうが、ウソではなかったと思います。前述したように、久光は主席家老島津下総に信頼されておらず、またその支配力は至って微弱だったので、いろいろ面倒な先例や故格などを理由に、久光の言うことを拒むことがよくあったことは考えられることです。せっかく改組した藩政府に久光が不満を感じていることを、大久保は知ったはずです。知った以上、やがて大久保は藩政府を久光の自由になるものに再改組するに違いありません。ここまで深入りした以上、大久保は久光を手駒《てごま》と思っているのです。久光のままになる藩政府にならないかぎり、誠忠組の志を行うことは出来ないのですからね。不敵な陰謀家の面を持っている男ですからね。
電信・電話のない時代はもどかしいものです。以上のことがあったのは、二月二十六日の夜だったのですが、それから七日目が三月三日なのですからね。
御承知の通り、桜田門外の事変の十八人の中には、薩摩人としては有村次左衛門が一人しか入っていません。堀次郎も、田中直之進もまだ道中で、江戸には次左衛門とその兄の雄助としかいなかったからです。
雄助には別の任務がありました。井伊討取りが成功したのを見とどけて、水戸の金子直二郎・佐藤鉄三郎と同道して京に向いました。有村はもちろん、水戸の二人も、京都御所守衛のために薩摩から兵がくり出されて来るもの、あるいはもうすでに到着しているかも知れないと信じ切っていたのです。
しかし、江戸の薩摩藩邸は、桜田事変を知り、弟の次左衛門がなかまの一人であると知ると、兄の雄助もあやしいと思い、色々探索して何か重大な企図を抱いて京に向ったらしいと知って、公儀役人に捕えられては藩の一大事と、足軽小頭坂口周右衛門に足軽数人をつけて追わせました。坂口は卑役ながら、当時出色に有能な人物で、この前々年の冬、西郷と月照が相抱いて鹿児島湾に投じた時も、二人につきそって舟中にいました。
坂口は伊勢の四日市で三人に追いつき、深夜、寝こみを襲って逮捕して、伏見の藩邸まで連れて来ました。伏見藩邸では、雄助は坂口に附添わせて国許にかえすことにし、金子と佐藤とは釈放しましたが、この釈放は釈放とは名ばかりで、実は幕府に引渡したのです。伏見奉行所に連絡しておいて釈放したので、藩邸の門前に幕府役人が待ちかまえていて、出て来る二人を召捕ったのですから。
雄助は坂口に附添われて国にむかい、途中筑後の瀬高で、参覲交代のために出府する藩主忠義の行列に逢って、桜田のことを告げました。
行列の驚愕は一方《ひとかた》でありません。行列中の旅家老や重役等は、薄々計画のあることを知ってはいたのですが、とうてい実行されるものではないと|たか《ヽヽ》をくくっていたのですから、成功すると思おうはずはありません。大急ぎで会議がはじまり、とりあえず有村と坂口とは国への旅を急がせ、行列はのろのろと北上をつづけました。報告に間違いはないが、江戸藩邸からの正式の報告ではないから、引返すに十分な理由にはならないという解釈です。行列はこの翌々日、久留米を過ぎたところで江戸藩邸からの飛脚に逢って、引返しています。度しがたい形式主義ですが、これが当時の諸藩の役人や幕府の役人等の考え方です。もっとも、現代の官僚もあまり違わないようですが。
雄助は三月二十四日に鹿児島城下の自宅に着きますと、藩当局は有村家の親戚《しんせき》を呼び出して、雄助を今夜中に切腹させよと申し渡しました。
「雄助がこの度関東表でしたことは、まことにいさぎよいことではあるが、お家に迷惑をかけたことは否定出来ない。すでに幕府の追手も踏みこんで来るということである。されば、お家にたいして不忠をいたしたことは思召されぬが、雄助としては覚悟あるべきである。もちろん、覚悟は最初からあったはずである。不愍《ふびん》ながら切腹しておわびいたすように。帰着と同時に切腹したという形にならなければならんから、今夜中にいたすように」
というのが、申渡しのことばでありました。
有村家に集まった誠忠組の同志等は、持ってまわったくだくだしい言い方に、久光の窮している心がわかりはしましたが、うらめしさは薄れはしません。結局は殺してしまうのですからね。こんな処置をなさるようでは、京都出兵のこともあやしいものだと疑わしくなりました。
「久光様は京都に出兵することを約束なさったのでごわす。これは即ち幕府との対決を意味するではごわはんか。なお、何のために幕府をおそれて、雄助どんに腹を切らさなければならんのでごわす。久光様の心事は暗うごわすぞ!」
と、はっきり言う者もあれば、
「雄助どんひとりを死なせて、おいどんらがべんべんとして生きておられもすか。一同決死の覚悟で、久光様に助命を嘆頼しようではごわはんか!」
「雄助どんは死なせるし、出兵はなかちゅうことになったら、どげんことになりもす。友情も立たず、大義もまた立たんのでごわすぞ。我々は生をむさぼって、雄助どんを見殺しにしたことになりもすぞ」
と、人々のことばは熱っぽくなる一方でした。
この中で、大久保だけは醒《さ》めていました。彼も久光にたいする不満と憤りとは、皆におとりはしませんでしたが、この前の謁見で久光の権力がまだ微弱で、藩政府にたいする支配力が十分でないことを知りましたので、疑惑はしません。出兵はもちろんなさる決心でいなさる、雄助どんも助けたいお気持は山々であろうが、藩政府が主張してやまないからであろうと思っています。全藩の力をもって乗り出さないかぎり、効果ある働きは出来ないというのは、彼の信念ですから、この際としては久光の自由になる藩政府をこしらえ、久光の権力を強化することにつとめるのが最も大事なことだと思っています。
(雄助どんは気の毒であり、切腹は不当な処置であることは言うまでもないが、この際としては藩命にまかせるよりほかはない。今、皆がわめき叫んでいることは、つまりは決して実ることのない無駄ごときに過ぎない)
というのが、彼の心中でした。彼は決して冷酷、刻薄な性質ではないのですが、大目的のためにはどんなむごいことでも忍ばなければならないと思い、且つ忍ぶことの出来る男だったのです。彼はただ、人々が疲れて、おのれの発言に適当な時の来るのを待っていました。
やがて鶏が鳴き出しました。今夜中に自殺させよという藩命なのですから、人々は絶体絶命の気持になりました。
大久保は機会と見て、発言しました。
「各々の言われることは、皆もっともでごわすが、わしの思うところも聴いて下され。――今、我々の前にある途は二つしかごわはん。即ち雄助どんと共に一同腹を切るか、生きのこってあらんかぎりの力をつくして本来の目的の達成につとめるかの二途、それしかなかのでごわす。さればこれだけを専心に考えればよかのでごわすが、雄助どんは果していずれを望むか、伺って見ようではごわはんか」
つきつめたところは、この通りですから、一同粛然となりました。すると奥のへやから、雄助が兄の俊斎をつかわして、
「御一同の御友情のほど、涙をもって奥でうけたまわりもしたが、一蔵サアの仰せられる通り、拙者の考えをのべさせていただきもす」
と言わせた後、出て来ました。月代《さかやき》をし、ひげを剃《そ》り、髪を結い直して、身ぎれいになっています。
この時代、鹿児島では、有村兄弟は首尾が悪いといわれていたそうです。即ち長兄の俊斎は元気者ながらいささか粗暴で落ちつきを欠いており、末弟の某もどこと言ってすぐれたところのない普通の人間である、しかし、次男の雄助と三男の次左衛門は俊秀卓抜であるの意味です。次左衛門は純情で、勇敢で、いかにも人好きする青年であったことは、今にのこるいろいろな逸話によって偲《しの》ぶことが出来ます。雄助はまた純情義烈でしたが、いかにも沈着な青年だったようです。
雄助はおちつきはらって、しとしとと述べました。
「拙者は江戸か京都で死ぬべき身で、こうして帰国いたすのは、本意ではなかったのでごわすが、すでに御承知の事情で、無理に帰国させられたのでごわすので、道中かたく心に決したことがごわす。それは京都へお繰り出しになる人数に加えていただくなら大いに幸い、それが叶《かな》えられぬ場合、あるいは万々一にも御出兵が中止になる場合、そのいずれであっても、切腹して死のうということでごわした。拙者は各々とは事情が違いまして、水戸衆は拙者のことばを信じて、決行に踏みきったのでごわすから、そうせねば、水戸衆へ義理が立たんのでごわす。でごわすので、帰国いたしますとすぐ、ひそかに兄へこの決心を告げましたところ、兄はいろいろと諭して、思いとどまれと申しました。拙者は表面承知したふりをいたしましたが、心の中では決してやめる気はありませんでした。このような次第でごわすから、藩の厳命はむしろ本望でごわす。従って、拙者のために各々がいのち乞《ご》いをなさり、そのために揃《そろ》って死を賜わられるようなことがごわしては、以ての外でごわす。固くおことわりいたしもす。今、拙者が各々に望みますところは、各々が初志を捨て給わず、本来の目的に邁進《まいしん》していただくことでごわす。またもし、各々の御尽力によって、この機をもって御出兵の運びになりましょうなら、この上のよろこびはごわはん」
はっきりと、よどみなく言う、沈着なことばは、一同の胸にしみて、皆泣きました。
言いおわりますと、雄助は服装を改め、東方京都の方を拝し、父祖の位牌《いはい》に拝礼した後、同志一同へ訣別《けつべつ》の辞をのべ、
「従容《しようよう》迫らずして臨終に及んだ。行年二十六。ああ天乎命乎、一同の愁傷憤激。言うべからず」と大久保は日記に書いています。
介錯《かいしやく》は親友の奈良原喜八郎がしました。雄助が頼んだのです。
有 馬 新 七
誠忠組の人々が悲憤しながらもおとなしく有村雄助の死を見送ったのは、大老が殺されるという大事変があった以上、彼等との約束に従って、久光は自分等をひきいて出兵するであろうと信じたからですが、久光にはそのけはいすら見えません。
壮士等はまた沸き立ちました。大久保はそれをおさえる一方、久光に目通りをもとめて、違約を責め、百方説きましたが、久光は桜田一挙の人々の中に有村兄弟の入っていたことを理由にして、
「世間の疑惑は、水戸にたいすると同様、わが薩摩にも集まっている。この際出兵などしては、益々真意を疑われる」
と言うばかりか、
「桜田の挙は無謀きわまる暴挙である。その一味であったとは、有村兄弟は藩にたいしては不忠、親にたいしては不孝である。それに同意していたとは、その方共も同罪であるぞ」
と、まことにきげんが悪いのです。
水戸人と誠忠組との密約のことは、はっきりとは久光に打明けていなかったのですが、それはわかっているはずと、こちらは思っていたのです。しかし、久光が知らなかったことは事実でしょう。生れながらに身分の高い人は、案外こういうことにはさとりの鈍いものですから。わかっているはずと大久保が思っていたのは、身分高い人の推理力を自分等と同等と考えていたあやまちによるのです。改めて、大久保もさとるところがあったでしょう。大久保は根気強いこと無類の男です。黙って引きさがりはしません。
「ひとえにこれは連絡不十分のためにおこったことでごわす。かようなことになるのではないかとも思いましたので、説得のために拙者に出府をお許し下さるようにと願い出ましたのに、お許し下さらなかったのでごわす。とは申せ、有村兄弟が私共の同志であることはまぎれもごわはん。私共、決して責任を避けようとは存じもはん。同罪に仰せつけられましても、いとうところではごわはん」
と、はっきりと申しました。
久光は江戸の町家出身の女を母として生まれた人ですが、六つの時からずっと薩摩で育っただけに、薩摩人の長所、短所ともに持っていて、勇ましく、いさぎよいことが大好きであったようで、大久保の態度が大へん気に入りました。それに、彼は天下のことに乗り出す心がないのではありません。ただこの際の出兵は浪人共の運動の尻馬《しりうま》に乗るような気がして、いやだったのです。彼は妾腹の庶子として一旦臣籍に下っていた身から偶然の幸運|乃至悪辣《ないしあくらつ》な毒殺手段によって、権威の座に這い上った身であるからでありましょう、極度に自らの権威を立てるところがあり、従って統制主義の信奉者でもありました。また島津下総等重役陣の強い反対も予想されたので、次の機会を待つ心になったのであります。久光はこの点――藩政府が自分の志にたいして無理解であることをとりわけ懇々と説きました。久光もなかなかのものです、誠忠組の壮士等を利用して、下総等を退けて、自らの権威をかためようという考えがあったのでしょう。
大久保は慧《さと》い男ですから、久光のこんな心ぐらい見通していたでしょうが、久光が藩政を一手に握る身にならないかぎり、挙藩一致して、誠忠組の志をのべることの出来ないのは明らかですから、
「同志等は定めて不満でありましょうが、それは拙者において十分に説得しておさえます。恐れ多き申し条ながら、君には本来のお志をお忘れ遊ばさず、やがて私共によき死に場所をおあたえ下さいますよう、幾重にもお願い申し上げておきます」
と、答えました。
「決して案ずるな。誓うぞ」
と、はっきりと、久光は言いました。
大久保が懸命に説得して、同士等の興奮がいくらか静まった頃、水戸の関鉄之助が、肥後の水俣《みなまた》まで来ました。現代では水俣病で有名な土地ですが、少し以前は徳富|蘇峯《そほう》・蘆花《ろか》兄弟の生地として知られていた名邑《めいゆう》です。薩摩の北端と境を接しています。関鉄之助は、後の計画を成就する任務があるために自らは手を下しませんでしたが、現場にあって桜田の襲撃を指揮した人物です。ですから、水俣から誠忠組の人々にたいして面会をもとめ、また約束に従って突出して来るようにうながしたのです。当然、人々はまた沸騰します。
「水戸衆は我々との約束を信じて桜田の挙をおこなったのでごわす。有村兄弟が参加しただけで、我々の義理が済む道理はごわはんぞ。我々が雄助どんの死をおとなしく見送ったのは、すぐに出兵があると思ったればこそでごわす。じゃのに、出兵はとりやめになりもした。もはや、我々は最初の決心に立ち返って、突出して桜田の挙の仕上げをすべきでごわす。そうせんければ武士とは言えもはんぞ」
というのが、その言いぶんです。これにたいして、大久保は、
「おはん方の言やることはよくわかる。しかし、我々が寸時も忘れてはならんのは、本来の志の達成でなければならん。それには、浪人運動ではもういかんのでごわす。それは一時の快を得るにすぎん。本来の志を達成するためには、七十七万石の総力を結集して、堂々とやることにせんければならん。それには、久光様をいただくよりほかはないではごわはんか。冷静に考えてみて下され」
と説きました。もちろん、反論が出ます。我々は幾度もだまされとる、信用出来んのだという者もあります。それにたいしては、久光の志と重役等の心との食い違いを説明して、あながち、久光様が我々をだましなされたと考えるべきではない、やがてこの形勢は必ず変って、久光様の志が素直に実行に移される時が来る、遠いことではない、間もなくのように拙者には思われる、それまで待とうではごわはんかと説きました。
「関殿をどうなさるのだ。関殿は幕府に追われていなさるのだ。今応じなければ、見殺しにすることになりますぞ。武士として、そげん不徳義をして、よかとお思いか!」
と、最も鋭く突っこんで来るものもあります。
「やむを得んことでごわす。見殺しにするのでごわす。関殿だけではごわはん。なお色々な人が来るじゃろうが、いたし方はごわはん。いずれも見殺しにするのでごわす。男子たるものが大事をなすにあたっては、小さな義理は捨てんければならん場合のあることは、おはん方も知っておじゃろう。今がその時でごわすぞ」
と、大久保はたじろがず答えたと、後年、高崎五六が追憶談しています。
あっぱれと言ってよいでしょう。幕末維新の時代は、日本歴史の中で、戦国の中期以後の時代とならんで、英雄時代と言ってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出ましたが、大久保と西郷とは最も異色の型の英雄です。この時代にめずらしかっただけでなく、いかなる時代にも居なかった型のように私には見えます。二人に共通するところは、勇気と無私とです。勇気は英雄といわれるほどの人には必ずある特性ですが、無私は英雄には最もめずらしいものです。英雄とは強烈な自我の人であり、功業の人でありますから、無私ではあり得ないのです。しかし、この二人は最もめずらしくそうであって、あらゆる時代の英雄等ときわ立った相違を見せているのです。思うに、これは武士という日本特有の階層人が、儒教という学問によって三百年近くも陶冶《とうや》されて結んだ、最も見事な成果なのでありましょう。
現代は儒教を否定的に見ることが主流的で、本場の中国では最もそれが盛んで、儒教の集大成者である孔子は聖人の座から引きずりおろされ、大罪人のように駁撃《ばくげき》・|痛罵《つうば》されつつありますが、人間の営みには全善のものも、全悪のものもないのですから、全称肯定が誤っているように、全称否定も誤っているはずです。今日のこの派の人々の言う通りであるとすれば、孔子以来二千数百年の間に生きていた中国・朝鮮・日本のほとんど全部の人は愚昧《ぐまい》で、今日のその派の人々だけが賢く正しいということになりますが、そんないい気な議論にたいしては、私は甚だ警戒的です。平凡ながら、私などは、儒教は人間社会の幸福のために、人間の道義心をみがき、文化を貴重し、政治の道を確立しようとつとめる学問だから、そう悪いところだけであるはずはない、そりゃァ、欠点もあろう、どうせ人間の営みだ、完全であろうはずはない、それは今さら言うまでもないことだと思っています。
つい、筆がそれてしまいました。大久保にかえりましょう。西郷にももちろん大久保の持たないすぐれた特質がありますが、大久保にも西郷にないすぐれた特質があります。大久保のその特質は、意志の強靱《きようじん》さ――堅忍不抜という性質でありました。
周到綿密な熟思の末、こうと定めたなら、決して飽くことなく、疲れることのない根気強さと、鋼鉄のように強靱堅剛な意志をもって、守りつづけるのです。薩摩人としては最もめずらしい性質です。短い時間に最も強い力と勇気とを集中することは、薩摩人の得意とするところで、しばしば驚嘆すべき力量を発揮し、大功を奏しますが、根気強く、しくしくとねばるのは、苦手なのです。ですから、大久保のこの特質は最もめずらしいものでした。彼はこの特質ある故に、これまでもうんざりするほど執拗な運動を久光にたいしてくりかえしたのですが、ここでは関鉄之助を見殺しにするのです。
大久保のこの壮烈ともいうべき、きびしい態度は、一種の感動を呼んだのでしょう、同志等は渋々ながら説得されましたが、中には心中は不服な連中もありました。この人々は大久保にたいして一種の失望感を持ちました。あまりにも冷徹、堅剛なところが、非人間的に見えたからでありましょう。
間もなく、田中直之進や堀次郎が帰国して来て、中央の形勢の変化がわかりました。幕府の努力によって桜田事変の衝撃はしずまり、彦根・水戸の両藩の間にも何事も起らないし、幕府も大いに反省的になって、朝廷にたいして暴圧的に出ることはないようであるというのでした。しぜん、壮士等の興奮もおさまらざるを得ないわけです。
間もなく、大久保は勘定方|小頭《こがしら》格に昇進しました。これが同志等の胸に疑惑を呼びおこしたことは言うまでもありません。すでに大久保に批判的になっていた人々はなおさらのことです。
「一蔵どんは久光公に取入って、近頃は公の代弁者のごとなっている。これはその報いかも知れん。我々は一蔵どんの言うことには、大いに批判的である必要があるようじゃ」
と思いはじめたのです。
大久保だって、出世欲が全然なかったわけではありますまいが、志を行うためにはある程度の身分になっておくことが必要と思ったのでしょうから、責むべきでないことは言うまでもありませんが、こんな余裕のある考え方をするのは、利害関係の全然ない人か、かねてから好意を持っている人か、智明らかで公正な人かで、それ以外の人は必ず辛辣《しんらつ》な見方をするのです。大久保にもそれはわかっていたでしょうが、意に介しませんでした。おれには恥じるところは全然ないと自信していたのでしょう。
彼は一層久光に接近することをはかり、久光の寵臣《ちようしん》である中山尚之助に近づきました。尚之助は父次左衛門とともに斉彬時代に斉彬によって用いられていた青年です。つとめて斉彬に倣《なら》おうとする久光によって、召出されて、久光の側近となりました。相当学問もあり、才気もありましたが、権力主義的で、統制好きなところがあり、従って久光にたいしては至って忠誠でありますので、大へん久光の気に入っている人物でした。当時二十八歳でしたから、大久保より少し若いわけです。
大久保はこれに近づいて、ぼつぼつと藩政府を改組しないかぎり、久光公が志を行われることは困難であると持ち出しますと、
「おはんも気がついておじゃったか」
と、忽《たちま》ち乗って来ました。
二人は、忠義の側近である谷村愛之助・児玉雄一郎なども加えて、相当綿密な相談をしました。
大久保はこの人々に、堀次郎と有村俊斎とを引き合せました。堀は前に申しましたように学問があり、才気があり、中央での政治運動の経歴もありますから、田舎《いなか》者ぞろいの一味には、当時はいろいろ便利だったのでしょう。有村は二人の弟によって、当時藩内の名物男になっており、大久保に心服して、最も忠実な同志だったからでしょう。この俊斎という男は、無類の強情もので、後年に至るまで、拗《す》ね出すと、西郷の手にもおえなかったけれども、大久保にたいしては不思議にすなおだったので、俊斎をおさえつけるのはいつも大久保の役目となっていたそうです。
この頃、俊斎は海江田武次と改名しています。海江田は日下部伊三次の本姓です。安政の大獄で伊三次は幕府に捕えられ、間もなく獄中で病死しましたが、そのあと伊三次の妻子は江戸にとどまり、桜田の浪士等の江戸に出て来た際の宿先などつとめていましたので、桜田のことがあると、薩藩では幕府の手ののびることを案じて、妻子を薩摩に引取らせ、つづいて海江田に復姓させました。俊斎は伊三次の娘松子と結婚して、海江田姓をついで、海江田武次という名になったのです。
このようにして、大久保が久光や忠義の側近の人々と親密に往来して工作している間に、誠忠組の左派の人々は自然かたまって、分派の形をなして来ました。
その首領は、有馬新七です。有馬は純粋すぎるほど純粋な人物です。これも薩摩人にはめずらしい性格でした。薩摩人は理窟を軽蔑する習性があります。現実をうまく処理するためには、理論にかまわず、便利な方法をとります。現実にかまわず理論に殉ずるのは、長州人の特性ですが、薩摩人にはそれはほとんどありません。ですから、人によっては、薩摩人のすることは筋道が立たないといってきらいます。このような薩摩人の中で、有馬新七一人はそうでないのです。最も清冽《せいれつ》にして勁烈《けいれつ》な主義の人として、その理論に殉じています。
三田村|鳶魚《えんぎよ》翁は、私の江戸学の師匠ですが、旧幕臣であったことから、水戸・薩摩・長州・土佐等の、およそ幕末・維新の際に勤王をもって知られた諸藩は皆大きらいで、なかにも薩摩藩を最もきらっていましたが、有馬新七だけは激賞して、
「お国の有馬新七という人はまことに美しく見事な人柄です。先生の『都日記』などはまことに結構なものです。まだ読んでいないなら、ぜひお読みなさい」
と、私に言ったことがあります。新七のいささかの妥協なく、あくまでも志に殉じて、壮烈無比の概をもって散って行ったのを見事としたのでありましょう。
新七は若い頃、江戸で山崎|闇斎《あんさい》流の家元である小浜藩士山口管山に入門して勉学し、その代講をつとめるほどの造詣《ぞうけい》があったといいますから、ずいぶん深い学識があったのです。
ついでながら、安政の大獄で井伊に真先きに逮捕・処分された梅田|雲浜《うんぴん》はもと小浜藩士で、山口管山の門人で、京都では山崎闇斎流の朱子学者として門戸を張っていたのですから、新七とは兄弟|弟子《でし》だったわけです。交際もありました。しかし、相提携して政治的な活動をしたことはないようです。梅田の運動は直接に公卿衆に説いて、幕府の開国策に反対させたのであり、新七ははじめは島津斉彬により、斉彬の死後は西郷等誠忠組の人々や日下部伊三次等と共に朝廷に働きかけて、密勅を水戸家をはじめ諸雄藩に下してもらい、さらに諸藩の有志者を糾合して、雄藩連合の勢力をつくって井伊をしりぞけ、幕政を改革することによって、国難を克服して日本の建て直しをやろうというのでありました。
新七は学識からしましても、年齢からしましても、運動歴の古さからしましても、人柄からしましても、同志の人々の尊敬を集めていましたから、首領としての貫禄は十分です。大久保のやり方に不満を抱いている者は、皆彼を仰ぎました。
その頃、日本の憂国者等の心を攘夷に駆り立てて行くことが新しく育っていました。それは開国という事態によって生じたものです。
日本が開国して欧米諸国と貿易するようになって、当時の外国商人が日本から好んで買ったのは、生糸・茶・水油・蝋《ろう》・雑穀等でしたが、当時の日本は生産力が至って貧弱でしたので、忽ち品不足になり、値段が上り、それにつれて一切の物価が騰貴しました。物価の値上りには必ず連鎖反応があって、品不足のものだけが値上りするのではなく、何から何まで値上りするものであることは、現代の我々にはよくわかりますね。
また、その頃、欧米では金一銀十五の割で取引きされていましたのに、日本では黄金白銀《こがねしろがね》と並称されて銀を貴金属とする古来の習慣から、金一銀六の比率でありましたので、外国商人等は洋銀をもって来て、金貨や金地金《きんじがね》を買いあさりましたので、その流出はおびただしいもので、忽ち金貨が減少しました。また銅銭は、日本では洋銀一ドルは四千八百文に交換されていたのに、中国では一ドルは一千文ないし千二百文にしか交換されていませんでしたので、日本で買って中国で売れば、四倍ないし四・八倍の利益になりましたので、これまたざらざらと流出しました。
こんな風でしたので、当時の日本人の生活は、品不足による物価騰貴と通貨不足による不景気とによって、往復ビンタを食らわされている形で、その苦しさは一通りのものではありませんでした。
もちろん、これは開国や貿易そのものが悪いのではありません。幕府の開国のやり方が拙劣きわまるものであったためです。先ず貿易額を適当に協定し、周到な調査をもとにして貨幣の交換比率を定めて、情勢と見くらべながら徐々に進めて行けば、決してこんなことにはならなかったのですが、そんなことには幕府はまるで関心がなかったのです。井伊大老を開国の恩人だなどと、今でもほめる人がいますが、この不手際を見ても、なおそう言いつづけるつもりでしょうか。井伊は苦しまぎれに開国しただけのことで、自主的なものが全然なかったことは明らかです。よく知らないことには、断定的なことを言うべきではないという教訓になることでありましょう。
当時の人は、もちろん、こんな行きとどいた考え方はしません。一般の人々の間では開国を呪《のろ》う声が満ち、井伊の登場以来反幕精神に燃えていた有志者等は、最も端的に、
「我々が憂慮していた通り、開国は日本のためにはならないのだ。条約は即時に破棄すべきである。外国人は追っぱらうべきである」
と、言うことになりました。
この以前の開国反対論は、日本はこれまで東海の一角で孤立して十分にやって来たのだから、外国人とつき合う必要はさらにない、昔の孤立にかえるべきであるという、単なる日本孤立論でしたが、この時から、外国人は寄せつけるな、強いて来ようとするなら追っぱらえという、武力攘夷論となったのです。
鬱屈している誠忠組分派の人々は、もちろんこの考えになって、
「長崎を襲って、外国人を追っぱらおう。そうすれば、いやがおうでも戦争になる。幕府は覚醒《かくせい》し、国民全体も目ざめる。条約はもちろん破棄される」
と、計画を立てました。
国際間の条約はなかなかきびしいもので、一方的に破棄することの出来ないものであることは、国際常識ですが、現代でも日本人にはその意識が稀薄《きはく》で、やたら大衆運動がおこるのですから、この時代の人がそうであったのは無理からぬことです。それはさておき、後世の我々から考えますと、無謀きわまる企てなんですが、皆大まじめです。脱藩して実行することにして、ひしひしと計画を進めました。
これが誠忠組右派の人々に漏れまして、大久保に報告されました。大久保は驚愕して、百方、説得につとめて、ともかくも、おさえつけました。
有馬新七は不満ながらも、一応は納得しましたが、心服はしません。単身、京都へ出る計画を立てました。新七は父四郎兵衛の時から近衛家に因縁があります。近衛|忠煕《ただひろ》の夫人郁子は島津家の姫君ですが、この人の入輿の際、四郎兵衛は附人としてお供して行き、近衛家につかえ、京で死んだのです。新七もその頃長く京都にいましたし、また安政五年、井伊の弾圧の劇烈な頃に、忠煕の取次ぎで越前・土佐・宇和島の三藩に賜わる密勅を申し下して、これを捧持して江戸に下っています。これらの縁を言い立てて、中山大納言家の諸大夫田中河内介へ手紙を書いて、自分を近衛家にとりなして、近衛家の命令で京へ召しよせていただくようにしてほしいと頼んだのです。
当時、近衛家は大獄の際の怯《おび》えが強い後遺症となっていましたので、こんなことを受付けるはずはありません。事は不調におわりましたが、この時、田中河内介と因縁のついたことが、この翌年の寺田屋事件に発展して行く、そもそもの起りとなります。歴史の脈絡は水脈に似ています。ごくごくかぼそい深山の谷水がどんな大河につながって行くか、まことにはかりがたいものがあります。
そのうち、大久保の藩政府を改組する企て――陰謀といってもよいでしょうな――は、成功の曙光《しよこう》が見えて来ました。
大久保等が最も腐心していたのは、藩政府の改組の第一手として家老座を改組する必要があるが、家老とすべき適当な人物がいないことでした。家老となるには、人物才幹とともに格式ある家の生れであることが必要です。平侍では、どんなに才能手腕があっても、なれません。久光に十分な貫禄と英雄的迫力があれば、島津重豪が調所笑左衛門《じゆしよしようざえもん》を抜擢して家老としたように、出来るのですが、一旦臣籍に下っていて、この頃やっと上通《かみどお》り(太守同様)になった身では、それは出来ません。
才能のある者には家柄がなく、家柄のある者には才能がないというわけで、大久保等はこまっていたのですが、はからずも、小松|帯刀《たてわき》という人物のことを、大久保が聞きこみました。
大久保にこれを教えたのは、奈良原幸五郎(後の繁)だったと伝えられています。奈良原は小松と学問の師を同じくし、年もほぼ同じ二十七、八で、その人となりをよく知っているといいました。
「学識もあり、志もあり、時勢眼もあります、ことに異とすべきは、身分の高いに似ず、年の若いに似ず、少しも高ぶるところのないことでごわす。いわゆる、賢を愛し、寛弘にしてよく人を容《い》るという人でごわすよ」
小松は肝付《きもつき》家という大身の家の三男に生まれ、小松家という大身の家の養子となった人です。実家も養家も藩の屈指の名門でした。
大久保は早速、奈良原に連れられて小松家に行って、小松に会い、実際なかなかの人物であることを知りましたので、中山尚之助に紹介し、中山から久光に言上してもらいました。
久光が、自らの志を行うに都合のよい藩政府をつくりたがっていたことはいうまでもありませんから、早速召出して会い、気に入りました。
文久元年の五月、久光は小松を側役とし、中山尚之助をお小納戸としました。側役は官房長官、お小納戸は元来は経済官僚ですが、この時代の薩摩では官房主事的なものになっています。いずれも君側にあって機密を掌《つかさど》る役目です。
日本の南端、薩摩で、大久保がねばり強くこんな努力をしている間に、天下の情勢は大きく動きまして、和宮の御降嫁がきまり、公武合体の気運がおこり、長州藩主毛利慶親の旨を受けて長井|雅楽《うた》が開港遠略の策と名づくる公武合体論をひっさげて乗り出し、京都と江戸とを風靡《ふうび》しました。
久光は大いに刺戟されました。彼は天下のことに乗出す気がないのではありません。大久保の教育によって天下のことに目ざめて以来、彼の胸裡にあることは、亡兄斉彬の遺策の実行でありました。
斉彬の企画については、前に書きましたが、思い出していただくために、簡単に復習します。斉彬自身、兵をひきいて京に上り、朝廷から幕府にたいする政治改革の勅諚を下してもらい、その勅諚を奉ずる勅使を護衛して江戸に下り、勅使をして幕府に勅諚の遵奉《じゆんぽう》を要求させ、斉彬は幕府もし聴かずんば兵を用うるぞ、という気色を示し、いやがおうでも奉じさせるというのでした。ですから、明らかにクーデターです。
しかし、狙いは倒幕にはありません。この形で公武合体して挙国一致の体制をつくり、日本を強化し、難局を乗り切ろうというのでした。
つまり、公武合体という点では、長井雅楽と同じ狙《ねら》いを持つものですが、違う点を申しますと、長井の説は朝廷は先ず開国論となり、幕府が諸外国と結んだ条約に勅許を与えるべきである、朝廷のこの御恩情にたいして、幕府は長い間の朝廷にたいする無礼をわびて、将来の忠誠を誓うべきである、かくて公武の間のわだかまりは解消して、公武合体、挙国一致が出来るのだというにあり、斉彬のは開国を認めてはいるのですが、それはこの際朝廷を刺戟すること甚だしいから、わざと触れず、ただ幕府はその政治のやり方や幕府の政治機関の組織を、時勢に適当するものに改革せよ、それで公武合体は成立するとだけ説いているのでした。この政治機関の組織の改革の中には、当然、やがては幕府の役職が譜代大名と旗本にのみ任命される現制度は公的機関としては不適当であるから、外様大名からも任命せよという含みがありますが、もちろん、そこまでは明言しません。幕府部内に抵抗のおこることをおもんぱかったのです。実際政治家らしい斉彬の周到な心くばりですね。
一体、この時代の情勢の変化のすさまじさは、驚くべきものがあります。安政五年夏という時点においては、公武合体は最も適切な政治路線だったでしょうが、その後の三年の間に、この路線ではもう間に合わなくなって来たようにも思われます。
ですから、斉彬が生きていれば、あるいは討幕路線に切りかえたかも知れません。
しかし、久光にはそんなことは出来ません。斉彬の遺策を忠実に実行することだけを思いつめていました。ですから、長井の評判を聞きますと、一方ならずあせりはじめました。
「ぐずぐずしているうちには、おれの出る場はなくなる」
と苛立《いらだ》って、小松帯刀、中山尚之助をはじめとする側近の者と大久保と堀とに命じて、引兵上京のことを練らせました。そして、大体の構想が出来ると、それを家老座に下して、詮議することを命じました。
清河八郎と平野国臣
島津下総は、斉彬時代に仕置家老として重く用いられた人ですが、斉彬が急死し、斉興が藩政後見となりますと、しりぞけられて閑地にあった人です。久光が藩政後見となって、また用いられて仕置家老となったのですから、久光にたいしては大いに好意を抱くべきであるはずですが、そうではありませんでした。中央乗出しの案を示されますと、賛成しないのです。何といって反対したか、伝わっていませんが、賛成しなかったことは事実です。これほどの大仕事にたいしては、久光の力量と声望ではおぼつかないと思ったのです。思うに、
「これは|順 聖《じゆんしよう》公が計画なされて、御実行を目前にして他界なされたあのことじゃ。順聖公ならば、御力量といい、御貫禄といい、御声望といい、何の不安はなかったが、久光様には荷が勝ちすぎる」
というのでありましたろう。家老の地位にある者としては、久光の志だけを買うわけにはまいりません。八方に思慮をめぐらして、決定せざるを得ません。ともあれ、下総は反対しました。
数度の折衝があって、ついに下総は、
「それでは、私共は職にとどまっていることが出来ません」
と言いました。ほんとにやめるつもりはなく、久光を翻意させるためであったのでしょうが、久光の方ではかねてから自分の意のままになる家老座をつくりたいと思い、内々その候補者も見定めていたことですから、下総のこのことばは思う壺《つぼ》です。
「いたし方のないこと。さらばやめてもらおう」
と言って、全部やめさせ、用意しておいた人々をもって家老座を改組しました。喜入《きいれ》摂津を仕置家老とし、小松帯刀と中山尚之介とを側役《そばやく》にしました。これらの家老座改組の準備には実質的には大久保が一番働いていますから、抜擢されてお小納戸となりました。堀も同様お小納戸になりました。堀はそれほどの人物ではありませんが、この時期は彼の生涯の花ざかり期であったと見えまして、なかなかの手腕を発揮しますので、久光は大いに買ったのでしょう。
また、久光が中央乗出しについて、最も頼みとするところは誠忠組の人々であるはずですから、その主要人物等もそれぞれに抜擢されました。有村俊斎と吉井幸輔とが徒目付《かちめつけ》、有馬新七が造士館訓導師、柴山愛次郎と橋口壮助とが江戸藩邸学問所の糾合方《きゆうごうかた》(校合《きようごう》方と同じ。書籍の校合を担当するというのが原義である。つまり図書係である。かたわら教授もするのである)にされました。
有馬新七以下の三人は、大久保のやり方にあき足りず、分派運動をしてしばしば国を飛び出そうとした人々です。この人々を特にこのように任命したのは、この人々がとくに学問が深かったからでもありましょうが、一つにはその不平をなだめようと考えて、大久保や堀が推薦してこの運びにしたのでしょう。しかし、三人の猛気は少しもなごみませんでした。寺田屋の壮士等の中心になったのは、この三人ですからね。
ここで、とくに筆者が引っかかりますのは、斉彬が死の床で久光を呼んで、
「わしのあとには御辺《ごへん》の長男又次郎(忠義)を立てなされよ。又次郎のあとには哲丸(斉彬のただ一人のこっている子)を立てなされよ」
とあとつぎのことを指示した後、
「御辺は又次郎の後見となって、わしの遺志をついで、必ず日本を安泰して下されよ」
と遺言したと、薩摩に伝承されていることについてです。
端的に申して、私はこの伝承の真偽を疑っているのです。これは藩中の疑惑と動揺を封ずるために、斉興を中心にする藩政府当局が発表したウソで、斉彬はそんなことを遺言しはしなかったと思っているのです。その最も力ある証拠は、久光の中央乗出しについて、島津下総が猛反対したこのことです。下総は斉彬の時の仕置家老で、斉彬の末期の時には在国したのですから、斉彬と久光との最後の面会の際には、必ず席につらなっていたはずです。つらなっていて、斉彬が久光に遺志の継承を遺言したことを聞いていれば、久光が遺志を継承するために中央に乗り出すことに猛反対する道理はありますまい。
やがて、西郷も奄美大島から召喚されて帰って来るのですが、西郷も久光の中央乗出しに猛烈に反対しています。斉彬の遺志を継承して実行しようというのに、西郷が反対するというのは、どう考えても辻褄《つじつま》が合いません。斉彬の最も信任していた二人が、揃って反対するのですからね。ただごととは思われません。私のこの疑惑が、斉彬の毒殺説につらなることは言うまでもありません。
ともあれ、このようにして、久光の再度の藩政府改組が成就したのは、文久元年(一八六一)十月のことでした。以後、久光とブレーン等は、はばかるところなく、中央乗出しのことを推し進めます。
彼等の計画したことは、大体三つに分けることが出来ます。
一 西郷を奄美大島から呼びもどして、この大事に参加させること。
一 江戸幕府への工作。
一 京都朝廷への工作。
西郷は先君斉彬の寵臣で、斉彬の内使となって、当時の知名人――これには上は大名、旗本から諸藩の重臣、平侍《ひらざむらい》、大町人まであります――の許へ行っていますから、その名は最も当時の有志者の間に聞こえています。とりわけ、斉彬のクーデター計画においては、斉彬の命を受けて、京都の朝廷方面にも、諸大名や幕臣にも、働きかけた経歴がありますので、こんどの計画にはなくてはならない人物と、大久保をはじめ誠忠組の人々には考えられたのです。
大久保はこれを自らの口からは久光に言わず、中山尚之介を説き、中山から久光に説かせています。中山は久光の寵臣ですから、これに説かせた方が聴許され易いと思ったためだと考えるのが普通でしょうが、私はちょっと違った解釈も持っています。
これまで、大久保は西郷の召喚を度々願い出ていますが、その度に久光はいろいろな理由をならべて許可していません。その理由の重なるものは、
「西郷にたいしては、安政の大獄の時、幕府から追捕命令が出て、捕吏が肥後の水俣まで来て、筑前藩の捕吏を鹿児島城下までつかわした。あたかも西郷は月照和尚とともに入水《じゆすい》自殺をはかり、月照は死んだが、西郷は蘇生《そせい》した時であった。藩は月照の墓とともに西郷のためにもニセ墓をつくり、筑前藩の捕吏にこれを見せて、両人とも死んだと説明した。筑前の捕吏は納得して帰って行ったが、幕府としては疑惑しているに違いないから、西郷を呼びもどすことは危険である」
というのでした。
これは一応もっともな理由のようですが、大久保はこの久光のことばの中に、西郷を呼び返したくない心が嗅《か》ぎとれるような気がするので、こんどは拒まれないようにと、中山をして願い出させたのではないかと疑ってみたいのです。私には、島津下総兄弟や西郷にたいする久光の態度には、何か暗い陰翳《いんえい》があるように感ぜられてならないのです。
西郷の召喚は、島津下総等、前家老座の人々も熱心に希望し運動しました。下総等は、久光が悪くすると藩の存亡にもかかわるような思い立ちをしたのは、誠忠組の壮士等に煽動《せんどう》されたために違いないが、西郷は誠忠組の首領的人物ながら、重厚堅実な性質だから、帰って来れば必ず誠忠組の血気の暴走をおさえてくれるであろうと見たので、その召喚を希望し、運動までしたのです。
誠忠組の人々が熱望したことは言うまでもありませんが、一般の藩士等も、以前の西郷の働きを知っていますから、「これは吉之助サアのしごとじゃ」と、その召喚を当然のこととしました。つまり、西郷の帰還は全藩の輿望《よぼう》だったと言ってよいでしょう。
こんな次第ですから、たとえ久光が西郷にどんな気持を持っていようと、さからうわけには行きません。召還のことは聴許されまして、召喚命令が発せられることになりました。西郷の許にこれが到着したのは、十二月二十日でした。これは命令だけで、やがて迎えの船をよこすから、そのつもりでおれというほどの口上だったようです。
江戸幕府へ工作すべきことは二つあります。一つは、藩主忠義の参覲延期を許してもらうことです。忠義は安政五年(一八五八)、斉彬の死の直後、江戸へ出て、襲封の許可を得て、藩主となったのですが、すぐ帰国して、その後参覲していません。万延元年(一八六〇)の春、参覲の途につきましたが、途中、桜田事変のことを知って引きかえしています。つまり、安政五年以来満三年以上も参覲していないで、来年(文久二年)の春には参覲しなければならないことになっているのです。
久光の中央乗出しは、保守的な考えの人にとっては、幕府にたいする叛逆《はんぎやく》行為と見られるに違いないのですから、忠義が参覲して江戸に入ることは、人質にとられていることになって、危険です。少くとも、久光の働きが大いに不自由になることは確実です。何としても、忠義の参覲延期の許可を得る必要があるのでした。
もう一つは、久光は国許においてこそ、藩主の実父で、政事後見で、藩主同様あるいはそれ以上の待遇を受けていますが、無位無官の身の上ですから、江戸に出ても、京都に出ても、先方はそのあしらいに困惑するはずです。とりわけ、江戸城中においては、控えの席もありません。幕府に働きかけて何かしようとするからには、しかるべき資格を持つことが必要なことは申すまでもありません。その資格としては、第一案には、忠義を当主の位地から退《ひ》かせて、久光が当主になることを幕府から許してもらうことが考えられ、第二案としては、もし上述のことが許されないなら、久光が忠義の名代《みようだい》になることを許可してもらうことにしようというのでした。そして、これらのことには、島津家の親戚である黒田|斉溥《なりひろ》、南部|信順《のぶより》や、支藩である日向佐土原の島津忠寛等に努力してもらおうということにきまりました。以上のことのために、堀次郎が上府の途につきました。堀はこの頃、名前を小太郎と変えています。この人はしょっちゅう名前を変えるのです。何か落ちつかない性質の人だったようです。
京都朝廷への工作は二つありました。朝廷から久光をお召しになるようにすることが一つ、それに応じて久光が上京したら、朝廷は幕府にたいして政事改革の勅命を出し、同時に久光にたいして幕府をして勅命を奉行させよと下命してもらう約束をとりつけることが一つ。
これは二段階に運ぶことになっていました。斉彬の生前、斉彬は天皇にたいして王朝時代の薩摩の名刀鍛冶|波《なみ》ノ|平行安《ひらゆきやす》の鍛刀を献上する許しをもらっていましたが、果さずして死にまして、そのままになっていました。また当時、久光の養女貞姫(一族の島津兵庫久與の長女直子)と近衛忠房との縁談がおこっていました。
そこで、第一段の工作は、中山尚之介がうけたまわって、御剣献上のことと、縁談をとりきめることを名儀にして、近衛家を訪問し、名儀上の用談をすませた後、久光の中央乗出しの志を語り、近衛家から朝廷に工作してもらう約束をとりつけること。第二段は大久保一蔵がうけたまわって、近衛家を通じて、久光召還の勅諚を申し受けてくること。堀に少しおくれて、中山は京に向いました。
清河八郎は、出羽の庄内藩領田川郡清川村の豪農であるとともに酒造業を営んで、名字帯刀を許されている斎藤治兵衛の三男で、元司というのが本名です。清河八郎とはいわばペンネームのようなもので、自らつけた名前です。スターリンが変名でありながら、本名のヨセフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリより通りがよくなって、本名以上のものになったようなものです。
若くして江戸に出て、儒学を学びましたが、やがて思うところがあって千葉周作の道場に入って、剣術もおさめました。二十五の時、神田三河町に「文武教授所」という看板をかけて、門弟を取立てはじめました。文武いずれもその修行ぶりは凄《すさま》じいもので、毎日二時間ないし四時間しか眠らなかったというのですが、修行の年限はそう長くはありません。儒学は七年、剣は三年十カ月です。いずれにも天賦《てんぷ》の才があったのでしょうが、多士済々の江戸で、こんな看板を上げるとは、よほどの自信です。自信に満ち、気を負うて、常に人を凌がずんばやまないというのが、彼の顕著な特徴です。
この後二、三年の間に、清河はしばらく帰国したり、母を奉じて近畿から四国、九州にかけて旅行したりして、再び江戸で道場を開きましたが、時勢はこの間に激湍《げきたん》のように変遷していました。即ち清河が再び江戸へ出て来た翌年の安政五年には、井伊大老の登場となり、勅諚を無視しての条約締結があり、世論の沸騰があり、それを弾圧するための最も暴力的な検挙があり、末曾有《みぞう》の大獄がおこったのです。この時局のためでしょう、清河は憂国者となり、攘夷家になりました。その頃には、彼の塾はもう単なる文武教授所ではなく、憂国の攘夷青年等のクラブのようになっていました。清河がいささか東北なまりのあることばで、滔々《とうとう》と説く慷慨悲憤の言説に引きつけられて集まって来るのでした。その青年等の中に薩摩人が四人いました。伊牟田《いむだ》尚平、益満新八郎(後休之進)、樋渡《ひわたし》清明、神田橋直助。この中の伊牟田尚平は、島津家の家臣|肝付《きもつき》家の家来で、揖宿《いぶすき》郡|喜入《きいれ》の生れです。父は山伏(薩摩では山伏は武士)でしたが、彼は医者になる目的を立てて、安政二年に江戸に出て来て、蘭学の修業をはじめたのです。
しかし、時勢に激せられて、蘭学より国事に引きつけられ、最も過激な攘夷家になっているのでした。
この頃、清河の家には、諸藩の攘夷家だけでなく、浪人も、また旗本も志ある者は出入りしていました。山岡鉄太郎(鉄舟)などがそれです。山岡は千葉道場で親しくなったのですが、その後もずっとつき合っていました。山岡の紹介で、松岡|万《よろず》なども出入りしていました。
万延元年の春、桜田事変があったのですが、この事変が当時の人にあたえた衝撃は大変なものでした。人にあたえた衝撃が強烈だったので、しぜん時局も益々多事となりました。清河は益々国事に傾倒し、その心は激烈になり、議論は勁烈になり、それに引きつけられて、青年等が益々集まって来、ようやく捕吏が目をつけはじめました。
その年の十二月、米国公使館の通訳官ヒュースケンが、麻布古川橋で斬られるという事件がおこりました。攘夷派の者が斬ったらしいという見当だけはつきましたが、くわしくはわかりません。実は薩摩人伊牟田、神田橋、樋渡の三人がやったのです。神田橋と樋渡は藩邸に帰りましたが、伊牟田は陪臣ですから不安だったのでしょう、清河の塾へ逃げこみました。清河はそれを羽がいに抱きました。
清河は時勢の激化につれ、鬱勃《うつぼつ》としてやみがたいものを感じ、攘夷の大行動をおこすために、よりより同志を糾合していましたが、文久元年の五月二十日に、意外なことから幕吏の追捕を受けることになりました。両国万八楼の書画会へ出席しての帰途、酔っぱらいにつきまとわれました。この酔っぱらいは、町方《まちかた》同心の手先で、かねてから清河をさぐっていたので、実に執拗にからみました。清河も酔っていたので、ついかっとして、斬ってしまいました。一刀に斬った首が飛んで、そこにあった瀬戸物屋の棚の上の皿にちょこんとのったというのですが、本当かウソかわかりません。斬った次第は清河自身が、和文で書いた『潜中始末』、漢文で書いた『潜中記略』があって、記されていますが、単に無礼を働いたから斬ったとだけ書いてあります。
以後、清河はお尋ね者になって、弟分の安積《あさか》五郎を連れて、各地を流浪して歩くのですが、仙台に行って、暫《しばら》く知人にかくまわれている間に、伊牟田尚平が訪ねて来ました。伊牟田は言います。
「水戸の住谷寅之助殿が、拙者にこう言いました。この頃、幕閣の安藤対馬守が和学講談所の塙《はなわ》次郎(|保己一《ほきいち》の子)に命じて、廃帝の故事と譲位の儀式とを取調べさせている。これは次郎の子が有志の士に漏らしたのだから、確実なことである。次郎の子は尊王の志ある者で、父を諫めたが父が聞かなかったのだという。安藤の意図しているところは明らかである。今上陛下は攘夷のお志がかたく、幕府としてはあつかいにくいので、御退位をさせ申そうとしているのである。大逆無道、言語に絶する。そこで、安藤を斬ろうということになったが、今はそれにあたるべき者が五人しかいない。もう五、六人ほしい。ついては、清河君を説いてあたらせてくれまいかというのです。ですから、拙者は来ました」
清河は伊牟田の言うところをつくづくと聞いていましたが、やがて答えました。
「それはやめたい。君も手を引くがよい。桜田一件以来、閣老の警戒は尋常でない。第一、十人という人数が江戸へ入るのさえ、出来そうもないことだ。たとえ入れたとしても、十人くらいの人数ではとうてい出来るものではない。あたらいのちを落して、国家に寸分の益もないことになる。ましてや、それは桜田一挙の真似だ。人の真似なんぞして、どうなるものか。やめるがよい」
「そうですか」
伊牟田もやめることになりましたが、そのうち、こんな話をしました。伊勢の外宮《げくう》の御師《おし》の山田|大路《おおじ》という人物は、薩藩領の士民と師檀の関係があり、中山大納言とは姻戚《いんせき》である、つまり大納言|忠能《ただやす》卿の妹君が山田大路に縁づいているのだと言いました。
聞いているうちに、清河の胸に忽ち策が組み上りました。この山田大路の紹介によって、中山大納言に近づき、大納言を通じて一封の奏書を天覧に供し、なんらかの密旨をいただいて九州に下り、薩摩の有志を十五、六人も糾合して連れて出し、甲州から関東を横行して義兵を募り、尊王攘夷の義挙を上げよう、もしくは京都地方の方が工合がよかったら京都でやってもよいという策。
安積と伊牟田に説きますと、もちろん同意します。この二人は清河を尊敬しきっていますから、清河の言うことには、何によらず、一も二もないのです。ついでながら、安積五郎について、簡単な説明をしておきます。安積は、清河が江戸に出た当初東条一堂の門に入った頃の同門です。呉服橋に住む売卜《ばいぼく》者安積光角の後を継いで安積氏を名乗り、年は清河より二つ上で、片目であばた面のみにくい男だったそうですが、清河の俊才ぶりを慕って、終始弟分として行動を共にしております。
早速、仙台を出発して西に向いました。伊勢について、参宮の後、山田大路に会います。山田はよく待遇してくれて、清河の話を聞きますと、
「それはもと中山家の諸大夫であった田中河内介にお頼みになるのがよろしい。河内介は志ある人物です」
と言いました。
明治天皇の生母は中山大納言家の生れの人です。従って、天皇は中山家で誕生になり、お育ちになりました。田中河内介はそのお傅役《もりやく》として大いに忠勤を抽《ぬき》んで、天皇もずっと後年まで、河内介のことをなつかしがられたと伝えられています。
清河等は京に着くと、その足で田中を訪ねました。田中は三人を鴨川に臨んだ二条の自分の宅に泊めて、こまやかに談合しました。
二人の話は大いに合いまして、その結果、田中はこう言いました。
「当今の時局については、大納言の長男の忠愛《ただなる》は憂えています。唯今相国寺に御幽居のお身の上であらせられる青蓮院宮(後の久邇宮朝彦親王。井伊の大獄によって幽閉されたままになっているのです)も御案じであります。拙者はこの春九州に旅行しまして、肥後では松村大成父子、大野鉄兵衛、河上|彦斎《げんさい》、豊後では岡藩の小河《おごう》一敏、薩摩では美玉《みだま》三平、是枝柳右衛門等、その他七、八人の人々に会って、交際を結んでまいりました。九州の有志はなかなか頼もしいですぞ。どうでしょう、あんた九州に下りなさらんか。そして、青蓮院宮の令旨《りようじ》が下ることになっていると言って説き、有志等を糾合して上ってこられては。その上で、宮を相国寺から奪い出して、征夷大将軍に奏請し、攘夷実行ということにしては。天下のこと成るべしですぞ」
これは宿志に合っている上に、壮大な計画です。清河の好みにぴったりです。血湧き、肉おどりました。
「いいですなあ。やりましょう!」
と、一議に及ばず賛成しました。
計画はさらに練られて、九州の同志等が京都に上るとともに、関東の同志等も京都に入り、青蓮院宮を奉じ、天子を擁し、天下に号令を下し、第一手として所司代酒井忠義を誅し(京都守護職という職制が設けられて、会津の松平|容保《かたもり》が就任したのは、この翌年八月のことである)、それから夷狄《いてき》征伐にかかるということにきめました。そのために、清河は水戸の同志や、江戸の山岡鉄太郎や、甲府の同志にもこのことを知らせる手紙を書いています。
十一月十五日、清河等は九州人等への田中の紹介状をもらって、九州へ向いました。
清河等が肥後に入り、玉名郡高瀬近くの安楽寺下村の医者で、有志者として聞こえていた松村大成の家の厄介になっている時、平野|国臣《くにおみ》に会いました。
平野は筑前藩の要注意人物として、絶えず捕吏につきまとわれるので、この少し前まで、河上彦斎の世話で、天草|下島《しもじま》の南端|牛深《うしぶか》の近くに寺小屋の師匠となって潜居していましたが、その間に『尊攘英断録』なる漢文の長篇論策を書き上げました。薩摩侯への建白書の形式をとり、堂々七千余言のものです。
「日本今日の急務は、外難を克服して国の独立を確保することであるが、そのためには挙国一致の体制となることが絶対必要である。しかし、今日ではもはや公武合体などは俗論である。幕府は打倒すべきものとなっている。今日の挙国一致は、薩摩のような富強な大藩が奮起すればわけなく出来るのである。すなわち、朝廷に請うて討幕の勅をいただき、兵をひきいて東上し、大坂城を抜き、天下に義兵を募り、栗田口宮(青蓮院宮)を将軍とし、鳳輦《ほうれん》を奉じて東征し、箱根に行在所《あんざいしよ》をおき、幕府の降伏をうながし、幕府が罪を謝して降伏するなら寛宥《かんゆう》して諸侯とし、然らざれば断乎としてこれを伐つのである。かくて、日本は天皇を中心とする、最も強固なる結束を持つ国となるのである」
というのが要領です。討幕論ですね。この時点ではまことに乱暴な意見のようですが、この六年後には、大略この段取りをとって、維新政府が確立するのですから、最も鋭敏な見識と言うべきでしょう。
平野はこれを、久留米水天宮の前の宮司であった真木和泉守へ見せました。真木は十余年前に久留米藩におこった藩政改革事件のために罪を得て、この頃は久留米から四里ほど南方の水田村の天満宮の宮司である実弟大鳥居理兵衛にあずけられて、謹慎蟄居中でしたが、その人物の卓抜さと、社会的地位の高さによって、筑後地方の勤王家の巨擘《きよはく》と称せられて、久留米藩士や水田村周辺の郷士には、その薫陶を受けて、勤王家が輩出しています。真木は『尊攘英断録』を見て、激賞して、
「早く薩摩侯の御覧に入れなさるがよか」
とすすめました。
言われるまでもなく、平野はそのつもりでいます。そこで、南下して肥後に来、かねてから親しいなかである松村家にまいりましたところ、清河等が来ていたという次第です。
平野は清河にも、『英断録』を見せました。清河等も感嘆して、早く薩摩侯へ献ぜよとすすめます。清河は、もし薩摩が立つなら、自分は青蓮院宮の令旨を奉ずる浪人志士群をひきいて、これと合流すればよい、天下のことなるべしと、思ったのです。
薩摩は秘密の国と言われ、他国人の入国を厳重に取りしまっています。公儀の使い、または諸藩の飛脚以外は、ほとんど絶対に入国させないことになっています。この国の国境には、西目口《にしめぐち》と称する西の海岸沿いの出水《いずみ》郡|野間《のま》ノ関所、東目口《ひがしめぐち》と称する日向の去川《さりかわ》ノ関、|大口口《おおくちぐち》と称する中央山間の小川内《おごうち》ノ関の三つの関所がありますが、いずれもその地域の郷士等が厳重に固めていました。
しかし、平野はこの国に、これまで二回も潜入した経験があります。一回目は安政五年秋、月照和尚の供をして入りました。この時は海路から黒《くろ》ノ|瀬戸《せと》の浜に上陸したのですが、土地の郷士等が秋祭りかなにかで酒に酔っていたので、ホイホイと許してくれて、入国することが出来たのです。二度目は、つい去年の秋、捕吏がうるさくてならないので、薩藩士で、誠忠組の一人である村田新八に頼んで、その従者ということにし、西目口の野間ノ関所から入国したのです。平野は月照の供をして来て、その志のほどが誠忠組の人々によくわかっていますので、有馬新七、田中謙助などの人々は、平野をかくまうように藩政府へ働きかけようと主張したのですが、大久保や堀が、
「久光様は浪人的運動はおきらいで、従って浪人もおきらいだから、それはむずかしかろう。むずかしいだけでなく、平野殿の不為《ふため》になる恐れもある」
と主張しまして、大久保が平野に説明し、大久保、堀、有村俊斎の三人で、天草の牛深まで送りとどけたのでした。
こんな経験がありますので、平野は薩摩への潜入をそうむずかしくは考えなかったようです。平野は最初に薩摩へ密入国した時、中央の大口口から出国していますが、何か見るところがあったのでしょう。ここから入国することにきめていました。大口口の小川内ノ関は、私の生れ在所の連中が交代で固めるのですが、私の在所は今日でも鹿児島県で有名なノンビリしたところで、お人好しの多いところですから、この時代は一層そうだったに違いありません。そこを平野に狙われたのでしょう。
平野が薩摩潜入のことを言いますと、伊牟田尚平が、
「それでは拙者がまいりましょう。国には神田橋、樋渡などの同志もいることでござれば、それを通じて同志を募ることが出来ましょうし、今薩摩で重役になっている小松帯刀は、元来は拙者の主家肝付氏の生れで、出でて小松氏を嗣いだ者でござるから、この縁故を言い立て、小松を説き、小松から久光に説かせることも出来ましょう」
と言います。
そこで、平野は藤井五兵衛、伊牟田は善積慶介と変名して、南にむかいました。平野は筑前藩の飛脚と名のって、正面から関所にかかって、無事に入りましたが、伊牟田は脱藩の罪を犯していますので、関所から入るわけに行きません。間道から入ったところ、忽ち発見されて捕えられ、役人に引渡されました。しかし、役人は情ある人で、伊牟田がしきりに小松に会いたいと陳弁するのを聞きますと、自分の従者に変装させて城下に連れかえり、小松に告げて、指揮を仰ぎました。
二人は係り役人に取調べられ、潜入の目的も明らかにされて、久光に届けられました。久光は藩外でも、浪人志士等によって、自分の計画と似た計画がめぐらされていることを知ったのです。
久光は無統制なことが大きらいです。ですから、浪人共が時局の乱れに乗じて横議し、ややもすれば暴挙に出る当今の風を最もにがにがしく思っています。二人の志は嘉《よみ》すべきであっても、平野の論策には感心しても、浪人の所為であるというだけで気に入りません。もし中山尚之介がいたら、二人は藩法に照らして斬られたかも知れません。中山が京都に行っていて不在であったのは、幸いでした。
大久保は平野とは月照以来の深い交りがあります。またその説くところに共鳴も覚えます。現在では彼は久光の線に沿って公武合体で行くよりほかはないと思っていますが、もうこの線ではいかんのではないかという疑いがないでもないのです。
実際、誠忠組の少なからぬ者が、公武合体などはなまぬるい、幕府は今や無用の長物だ、日本には皇室という肇国《ちようこく》以来不動の中心がある、幕府なんぞたたきつぶして、皇室を中心にした形にすべきだ、それが当今最も適した国家体制であり、本来の日本の姿でもあると言っていることを、知っています。
そこで、百方奔走して、助命にこぎつけたばかりか、二人に会って藩の計画した中央乗出しのことをくわしく打明け、藩から十両ずつの餞別《せんべつ》まで出させて贈って、送りかえしたのでした。
西日本を蔽う雷雲
平野と伊牟田とが、鹿児島城下を離れたのは、十二月十七日でした。西目《にしめ》街道を経て出国するようにと命ぜられていました。出水《いずみ》郷の野間《のま》の関所を通って、肥後の水俣に出る道です。俗説にすぎないと私は思っていますが、薩摩藩が他国人を国外に送り出す時、西目街道からする時は安全に送り出し、東目街道――日向の去川《さりかわ》の関から出る道を指定した時は、途中で斬ったという説が行われています。私はこれは他国人を恐怖させて、みだりに来させないようにするために戦略的に流したのか、俗説にすぎないと思っていますが、この時、二人が相当に優遇されて送り出されたのは事実です。平野の上《たてまつ》った『尊攘英断録』にたいしては、
「詮議の上、取捨する。この上ともよい思案があったら、更に来て建白していただきたい」
と言ったばかりか、先に書いたように道中の心付として、十両ずつ贈っているのですから。
二人の通過する伊集院には、有馬新七、田中謙助(前名直之進)、柴山愛次郎、橋口壮助、是枝柳右衛門、美玉三平などの、誠忠組激派の人々が酒をたずさえ待ちかまえて、談論しています。
この中の是枝柳右衛門と美玉三平とは、この春田中河内介が九州へ来た時、河内介と交際を結び、河内介が頼みとしている九州志士中のメンバーです。是枝は武士ではありません。谷山郷の商人ですが、学問があり、時局に憤る心が深く、誠忠組に近づいて、その客員の形になり、誠忠組激派のために国外に使いに行くのが彼の役目だったようです。美玉三平も商家の生れでしたが、藩の重臣関山家の家臣となって、陪臣ながら二本差す身分となったのです。関山家は家老にもなる家柄です。この数年後には関山|糺《ただす》という家老も出ています。もっとも、この人は保守家で、西郷などこまっています。
さて、この人々と平野等とが何を談論したか、記録したものはありませんが、大体、見当はつきます。平野と伊牟田とが国外の情勢を説明し、今や気運は熟しているから、起《た》って幕府を倒すべきだと説くのにたいして、薩摩人等は、自分等が薩摩の片隅で考えていたことが今日の情勢にぴったり合っていることに感激して、共にやろうと誓ったことは、ほぼ間違いないでしょう。
二人がこの人々と別れて道を急いでいますと、柴山愛次郎と橋口壮助とが追っかけて来まして、川内《せんだい》の向田《むこうだ》町で追いつき、旅亭で酒宴をひらいて、いろいろと打ち合せをしました。柴山と橋口とは、先にのべましたように、江戸藩邸学問所の糾合方となって、近く赴任しますから、その時はゆっくりお会いして、いろいろくわしい打合せをしようとか、自分等は江戸で事を起すつもりだとか、そんなことを話したと思われます。この時、橋口が平野に贈った長詩がありますが、中にこんな句があります。
言う勿《なか》れ、大業、機未だ到らずと
精気一たび発すれば皇風を起さん
況《いわ》んや又大勢は人事に由るをや
よろしく一死以て群雄に先んずべし
我々は先駆者となって、斃《たお》れるを覚悟でやろうという意味ですね。
平野等二人は、肥後高瀬村の松村大成の家に帰りつきまして、待っていた清河に、薩摩でのことを報告しました。先に、私は二人にたいして大久保が「藩で計画している中央乗出しのことをくわしく打明けて云々」と書きましたが、大久保はのこらず打明けたのではなかったようです。つまり、久光の目的は、幕府をして朝廷に従順忠誠ならしめることによって日本を挙国一致の体制としようというのであって、幕府の存在を否定するものではないということは打明けなかったのではないか、あるいは打明けても、情勢の次第によっては討幕に切りかえるかも知れないと言ったのではないかと思うのです。以後の大久保の動きを見ていますと、そうとった方が納得されるのです。
もし二人がこのような含みをもったことばで、大久保から説明され、さらに伊集院や川内町で誠忠組激派の人々と会ってその激烈で勇気|凛々《りんりん》たる風貌と言説とに接すれば、
「薩摩はやるつもりで大兵をひきいて上京することになっている」
という報告になるのは最も自然なことです。清河は大いによろこんで、
「しからば、拙者は京に上り、田中河内介と相談して、青蓮院宮の令旨をもらって、また九州にまいることにするから、それまでに同志を糾合しておいてもらいたい」
と言って伊牟田と安積《あさか》とを連れて、豊後の岡に行き、小河一敏から運動資金を五十両もらって、京にかえりました。
清河等が京都へかえりついたのは正月十一日でした。田中河内介に報告しますと、田中も大変なよろこびようです。中山|忠愛《ただなる》中将を招待して酒宴をひらき、田中もともども、
「九州へお出で願えましょうか」
と言うと、行くと言います。
一体、公卿などという手合《てあい》は、ごく稀《まれ》な特別な人物を別にして、性格的にはほとんどいかがわしい連中です。人間は幾代も生産の仕事から遠ざかっていると、血統的にも肉体的にも精気がぬけ、精神的にも品性がいやしくなるものです。公卿《くぎよう》は、大化の改新以来千数百年の間、天皇家の家臣であるということだけを特権にして、徒食して来たのですから、人間としてのよい性質を全部欠落しています。江戸時代、太平であった頃の公卿が、たとえば勅使となって江戸へ下向したり、たとえば日光奉幣使となって日光へ参詣したりする場合、その道中筋では厄病神のようにきらわれたものです。勅使である公卿も、その家臣ということになって随従している者共(実際は京都や大坂の商人が山科式部とか淀川|刑部《ぎようぶ》とか名のって、その期間中家来ということになって随従したのです)も、|宿 々《しゆくじゆく》をいたぶって金をしぼり、賄賂《わいろ》をむさぼって、少なからぬ貯えを特って京都へ帰ったのですからね。
幕末になって、時局が緊迫し、国難来の感が痛切になり、天皇家をもって世直しの本尊としようという考えと、学問の隆盛によってさかんになった尊王思想とが、一つになり、天皇家の存在がクローズアップされて来ますと、自然その家臣群である公卿も有難いものに思われて来て、急に公卿が大事にされはじめたのです。
公卿は天皇家の世襲の直属家臣であり、直属家臣であるということだけで先祖代々遊んで衣食して来たのですから、天皇家にたいしては忠誠心があるべきは当然です。なければならないのですが、実際はどうだったのでしょうね。歴史は、戦国乱離の時期、多数の公卿等が地方に落ちて有力大名の家に寄食したことを伝えています。天皇家が京で筆耕のようなことをして衣食しておられるというのにね。私はこんな手合に忠誠心のあることを信ずるわけにはいきませんね。
幕末には忠誠愛国の情に燃えているような公卿が相当数出ていますが、私はあまり信用しないのです。自分では本心からのものと思っているのでしょうが、本質ははやりに浮かされているというにすぎなかったのではないかと、思うのです。はやりですから、若い公卿に多かったのは言うまでもありません。この中山忠愛もその一人です。一体、中山家というのは、偏執的といいますか、熱狂的といいますか、そんな血統のある家です。忠愛の弟の忠光という人などは狂気じみた過激派で、暗殺に熱中したり、この翌年には激士等にかつぎ上げられて、天忠組の事変をおこしています。失敗して、やっと長州に逃げましたが、過激派ぞろいの長州でも手こずって、とうとう暗殺されています。
忠愛も大した人ではありません。性根だって、すわっている人ではない。清河・田中・伊牟田・安積等にちやほやされ、清河が小河一敏からもらって来た五十両の運動費で、祇園《ぎおん》だ、円山《まるやま》だ、東山だと、しげしげと案内されて美女・美酒にとりまかれて歓待されるので有頂天になっているにすぎないのです。
その後、肥後から宮部|鼎蔵《ていぞう》と松村大成の子の深蔵とが上京して来ました。宮部は吉田松陰と同学の山鹿流の兵学者であるところから、兄弟同様の親友でした。肥後の勤王党の長老として、この前清河が来熊して説き立てたことが事実かどうかを調べに来たのでした。肥後の志士等は清河の言うことを信用しない者が多かったのです。もちろん、清河はそれが不満で、議論ばかりしていて埒《らち》のあかん連中だと『潜中始末』に書いています。
宮部は清河等が中山忠愛を請じている遊興の席に呼ばれたわけですが、清河や田中の言葉に中山が口うらを合わせますので、すっかり信用しました。田中は一月二十五日をもって、青蓮院宮の令旨を奉じて京都を出発する予定であることを告げて、中山忠愛の教書を申し受けてくれましたので、勇み立って国に帰りました。
ここでしばらく筆を九州に返さなければなりません。薩摩の川内町の旅宿で、平野国臣とともに志を披瀝《ひれき》し合って、将来の打ち合せまでした柴山愛次郎と橋口壮助とは、江戸藩邸に赴任することになって、国を出ましたが、途中、筑後の水田村に真木和泉守保臣を訪問しました。それは二月一日のことだったそうです。
真木は、傲岸《ごうがん》でめったに人を許さない清河が、「そのてい五十位の総髪、人物至ってよろしく、一見して九州第一の品位あらわる。すこぶる威容あり」と『潜中始末』にほめて書いているほどの立派な風采の人でした。人格も、見識も、また抜群の人だったといいます。
あとから、平野もまいりましたので、いろいろ談合がはじまりました。
昭和十九年の春、私は真木とその高弟|淵上《ふちがみ》郁太郎のことを調べるために水田村に参りました。唯今ではどうなっているか知りませんが、その頃までは真木の幽居の家がのこっていました。草|葺《ぶ》きで、見たところ大へん荒れていましたが、茶室のような感じの一軒家でした。へやはただ一室、それも六畳くらいのごく狭いものでした。水田天満宮に隣り合った大鳥居家の門を入ったところのすぐわきにありました。真木はここに十年余も幽閉の生活を送っていたわけですが、はじめの間は相当厳重で、訪問者などとも会うことは出来なかったようですが、監視はしだいにゆるやかになって、訪問者があればほぼ自由に会うばかりか、久留米の藩士や水田村周辺の若者――郷士の子弟もいれば、普通の農家の子弟もいたようですが、慕って来れば、門人たることを許して道を説いたようです。久留米藩士や水田村と近在の若者には勤王志士が多数いて、それが皆真木の門人で、水田村は久留米藩領内の勤王家の淵叢《えんそう》の観をなしていますからね。
談合は、私の見たあの小さな草葺き家で行われたと思ってよいでしょう。
真木はもともと思慮周密の人である上に、年も年です。この前平野が薩摩から帰って来てすぐ報告した薩摩のこんどの大計画について、くりかえし思いめぐらしている間に、納得の行かないところのあることを感じました。誠忠組の壮士等の平野に語ったことは実に明快ですっきりしているが、大久保の語ったという藩の計画にはどうも不分明であいまいな感があるように思うのです。壮士等が、「もはや幕府の存在は皇国の存立のためには邪魔でしかない、打倒して、皇室を中心にしたすっきりとした本来の国柄に返すべきである、今日の日本人の大義はこれ以外にはない、かくてこそ欧米諸国の圧迫をはね返して、皇国は確立することが出来る」と言っているのにたいして、大久保は、「わが薩摩の企図しているところは、当今有名な長州の長井雅楽の策とは全然違う。根本的に相違していると言ってよい。つまり、勅諚を請下《せいか》してこれを幕府につきつけ、薩摩の健兵をもって遵奉《じゆんぽう》を迫るのである。幕府は奉ぜざるを得ないはずである。もし奉ぜずんば討つ」というのです。言っていることは、平野の『尊攘英断録』そっくりですが、幕府につきつける勅諚の内容がわからない。『英断録』では大権返上を迫ることになっているが、これはどうもそうではなさそうな匂いが感ぜられるのです。
そこで、そのことを言いますと、平野も、
「そう言われればそうでござすたいな。拙者もなんか気にならんことはなかったのですが、あんまり拙者が意見と似とりますけん、うれしゅうて心がおどってしまいまして、つい聞き返すことば忘れてしまいました。そののち、伊集院で誠忠組の皆様に会い、またああた方が追いかけて来て下さって、川内でさかんな御決心をうかがったものですけん、久光様の御計画もああた方の御決心もぴったり一緒じゃと思いこんでしもうたのです。粗忽《そこつ》なことでした。ちょうどよか。お二人が見えました。ひとつ、そこのところを、教えて下さい」
と言います。
すると、柴山と橋口は、
「いやいや、我々こそ疎漏でごわした。はっきりと、御説明申しもす。久光はしかじか、我々しかじかでごわす。しかし、久光がどんなつもりでいようとも、それは今の久光の考えでごわす。実際に働くのは我々でごわすから、いやが応でも、こんどの挙を討幕に持って行くつもりでいます。今時、公武合体などと、ゆうべの寝言のようなことを言っておられもすか」
と、昂然と申しました。
「よくわかりました。しからば」
と、四人は相談し直しまして、こんな計画を立てました。
「真木と平野とは、九州と長州の有志者を結集して京都に乗り出し、田中河内介・清河八郎等のグループと謀を合せ、久光が京坂に到着したら、その供勢の中の有馬新七以下の誠忠組の激派と共に行動をおこし、久光を盟主に、かつぎ上げ、九条関白を襲い、酒井所司代を討取る(九条尚忠と酒井|忠義《ただあき》とは、安政大獄の際に井伊の手先となって忠誠憂国の人々を迫害したというので、この頃からこの後にかけても、大へん志士等にきらわれたのです)。以上は京都方面でのことだが、江戸方面では、柴山と橋口とが、水戸人や在府の諸藩の有志者を糾合して義兵を挙げ、東西相応じて討幕の挙をなそう」
クーデターですね。由井正雪の慶安事変以来、日本のクーデター計画は、必ず京坂地方と江戸方面と両所で事をおこすことを考えています。由井の場合は中央の駿府近くの久能山を占拠することも計画していますが、それは久能山の東照宮の金庫に家康の遺金何百万両かが格納してあると言われていたので、それを押えるつもりだったのです。金はもうとうに江戸に運ばれてしまって、久能山の金庫はからだったのですがね。
安政大獄の進行中、西郷をトップとする薩摩の誠忠組の連中が、諸藩に働きかけて、幕政を改革させ、井伊を幕閣から追放することを目的としてクーデターを計画した時も、東西で事をおこすことになっていました。この西郷の企画が受けつがれて、幾変りもしながら、桜田事件になるのですが、桜田事件の時も京都でも事をおこすことになっていたことは前に書きましたね。
これは日本が東西に長い国であるということと、政治の実権からは離れていても、京都御所の存在を無視しては政治上の大変革は日本では出来ないというのが当時の人々の自然の感情だったためでしょうね。
やがて、柴山と橋口は江戸へ向います。
その後、平野は肥・筑の間の同志募集にあたり、真木の高弟の淵上郁太郎は牟田大助と変名して、萩に入って、長州藩に働きかけます。前に、私は長井雅楽の航海遠略の策を基本とする公武合体論は、藩侯毛利慶親の名で、長州の藩論として唱道され、公武の間にもてはやされているが、長州藩内の故吉田松陰門下の人々は大反対で、こんなことを言い出した長井を姦物であると悪《にく》んでいたと書きましたが、そういう底流が藩内にあったので、淵上郁太郎の遊説は恐ろしくききました。
「長井などというやつが途方もないことを考え出したために、わが藩は汚名を天下に流し、薩摩などをして正義の功をなさしめるのだ。一刻も早く長井を引っこめて、邪説をやめ、薩摩とともに乗り出さなくては、間に合わんぞ」
と、松陰門下の壮士等が奮い立ち、藩の要路にも説きました。藩の要路の人々も、長井の説にたいしては全面的に賛成というのではありません。寛永以来二百年以上も鎖国を続けて来、今日の情勢になっても鎖国をよしとするのが国民のほとんど全部の気持なんですから、心から長井の説に賛同しているわけではありません。松下村塾の壮士等から説き立てられますと、その気になった政府要人がいくらも出て来ました。浦靭負《うらゆきえ》などは家老の一人なんですが、最も熱心な支持者になりました。靭負だけではありません。実際に藩務をつかさどる、今でいえば局長・部長クラスの要人らも多数その派となって、熱心に動きはじめたのです。
大久保が京都へ向けて鹿児島を出発したのは、平野と伊牟田とが鹿児島を出た日の翌日でした。数日の後、水俣まで行きますと、そこで京都から帰って来る中山尚之介にばったり逢いました。
いつも気負って揚々とした態度でいる中山が何となくしょんぼりした様子に見えます。
「首尾はいかがでごわした」
と大久保がききますと、中山は、
「思ったよりむずかしゅうごわすぞ」
と言います。近衛家では、御剣献上のことと縁談のこととは首尾よく行ったが、最も肝心な引兵上京のことには難色を示したというのです。近衛忠煕は、井伊大老時代からの幕府の嫌疑がまだ解除になっていないと言って、会ってくれもしない。もっぱら忠房との交渉になったが、これまた幕府を恐るること虎のごときものがあって、到底、尽力してくれそうにない云々。
事は斉彬が安政五年に計画したことを復活して実行するというだけのことです。当時すでに朝廷では御許可あって、上京せよとの勅諚も受けていたことです。それを近衛家ではこんなに幕府を恐れはばかって、そんな相談を受けることをいやがっているようですらあるのです。大久保は、今さらのように井伊のとった恐怖《テロ》政策《リズム》の影響の深刻さにおどろきました。
「こんな風では、近衛家ばかりでなく、公家《くげ》衆全部がまだおびえ切っているらしいから、ものにならんかも知れない。案を練り直してみる必要がある」
と意見が一致して、連れ立って引きかえしました。
案外だったのは、久光の態度でした。中山の報告を聞きますと、断乎たる調子で、大久保に言ったのです。
「もう勅書などはいらん。おれの上京の目的の説明だけして来い」
大久保はまた出発しました。おしつまった暮の二十八日でした。この年の十二月は大の月ですから、あと二日で文久二年になるのです。
やがて大坂につきましたが、大坂藩邸の留守居から意外な報告を受けました。これをよく理解してもらうためには、堀小太郎の江戸における働きぶりを簡単に知ってもらわなければなりません。堀は天璋院夫人をはじめいろいろな手蔓《てづる》をたぐって、忠義の参覲延期の工作をしましたが、なかなか幕閣が許してくれませんので、思い切った策を立てました。三田の上屋敷を焼いて、出府しても忠義の居場所がないということで、無理に延期許可をもぎとろうという策です。国許と連絡をとりますと、国許の連中――久光のブレーン等、つまり小松・中山・大久保等ですが、これも、いたし方はない、上手にやるようにと言ってよこしましたので、放火して焼いてしまいました。十二月七日のことでした。さすがに幕府でも、いたし方はなかろうと、延期を許可しました。
ところが、歳末になって、その頃幕府は木曾川の治水工事費として、薩摩藩に七万五千両の献金を命じていたのですが、それを免除した上に、天璋院夫人からの火事見舞という名目で三万両を下賜して、「早く屋敷を再建して、急いで参覲せよ」と命じたというのです。
また久光の柳営での資格獲得も、いろいろ困難があって、うまく行っていないというのです。
つまり、江戸における堀の工作は全面的に失敗したわけです。大久保の胸には、前途にたいする不安がおこったに違いありません。
もし、この計画が失敗しても、挙国一致は日本にはどうしても必要なことだから、幾年かの後にはまた同じようなことが誰かによって企てられ、それが失敗してもまた企てる者が出て、結局は成功するに違いないけど、当面のこととしては、自分は発議者としての責任を問われて、切腹させられるに違いないと思ったはずです。しかし、大久保は、最も意志堅剛な男です。困難にあえばかえって勇気を鼓舞され、益々凛々たる意気で立ち向って行く男です。そのくせ、最も冷静沈着な表情でね。
ともあれ、大久保は京に上って、近衛家に出頭しました。この時も、近衛家では忠房しか会いません。明らかに迷惑げな顔を示したのですが、大久保は委細かまわず、言うべきことを全部言いました。
即ち、幕府が和宮様の御降嫁をお願いしたことは、朝廷を骨抜きにする姦計《かんけい》にすぎませんから、すでに御降嫁になったことは朝廷としては人質をとられ給うたと同じでありますと断定し、万一の際の御用心のためにも兵力を備えられるべきでありましょうと説き、今度の薩摩の出兵数、部署、出兵目的を語って、朝廷のお声がかりで京における駐兵の場所を賜わるように御尽力ありたいと頼みました。
大久保は雄弁家です。語調は論理的で、力強く、声に錚々《そうそう》と鳴る鋼鉄のひびきがあります。一方的に押してくることばに、反撥《はんぱつ》を感じながらも、弱い近衛の性格では、反駁《はんばく》は出来ません。身をすくめるようにして聞いているだけです。
大久保は続けます。
「かくて、久光が到着しました上は、朝廷におかせられましては、勅使を関東にお立てあって、一橋公(慶喜)を将軍後見に、越前老公(春嶽)を大老とするように御勅命いただきます。その際、もし命を奉ぜぬ時は、首席老中安藤対馬守に誅伐を加える旨をお申添え願います。(余談のようですが、ちょっと関連がありますから、申しそえます。近衛邸で大久保がこう言っている頃か、少し前に、江戸で安藤老中は水戸人を主とする浪人等に坂下門外で襲撃され、負傷し、それがもとでやがて老中をやめるのです)また別勅を尾州、仙台、因州、土佐等の諸大藩に下されて、各藩談合して皇国のために忠誠の道を講ぜよと命じていただきたくござる」
と、幕制改革が、久光の引兵上京の目的であることを明らかにして、
「このようにきびしく仰せつけられ、諸雄藩また連合して幕政を監視します以上、幕府はもう叡旨《えいし》にそむくことは出来ません。必ず戦慄して命を奉じましょう。もし奉ぜずして反抗の色など立てますなら、天下有志の諸浪士が蹶起《けつき》して、討幕の義挙をおこすことになりましょう。いずれにしても、幕府は手も足も出せません。
なお、勅使御差遣の暁には、九条関白の御退職、お父君忠煕公の関白御復職、青蓮院宮の御幽閉解除のことも、仰せ出していただきたく存じます」
忠房は恐怖のあまり、口もきけません。次々に大久保の口から打出されて来ることばの片端でも、幕府役人の耳に入ったら、どんなことになるかわかりません。幕府は融和政策をとって、公武一和のムードが大いにもり上ってはいるのですが、捨てておくはずはありません。
早くやめてもらいたいと、はらはらして聞いているのに、大久保はさらに言います。
「今日世間では色々な説をなす者があり、幕府など今や無用の長物ゆえ、たたきつぶして、古制に復して、天朝帰一の国にすることこそ、大義の道にもかない、現在の日本の当面している国難解決の役にも立つと論じています。しかし、これは色々と困難が予想されますので、わが藩は干戈《かんか》を用いず、幕府の存立は認め、これを扶助する公武合体の御叡慮を奉じて、ことをなしたいと思うのであります。これが先代斉彬の志でもありました」
と、ここで大久保はことばを切り、力をこめて、次を言いました。
「しかしながら、やむを得ざる仕儀に立至りますなら、幕府は倒してしまうことになるかも知れません。お含みおき願います」
私はここを書くにあたって、『島津久光公実記』と海江田信義(有村俊斎)の『維新前後実歴史伝』とにある文書によって記述しました。この「しかしながら」以下のところの原文は、「乍併、不被為得止儀到来に及び候ては、是非に及ばざる儀に可有之奉存候」というのです。私はこれを「しかしながら、やむを得させられざる儀到来に及び候ては、是非に及ばざる儀にこれあるべしと存じ奉り候」と読み、上述のように解釈したのですが、この文書のこの部分は多くの歴史学者が見のがしており、たとえ採用しても十分に利用していません。私はこれはごく重要な史料で、これによってこの時期の西郷の行動の解釈、また寺田屋の壮士等の行動の解釈もつくと思っています。ともあれ、御記憶の端にとめておいて下さい。
近衛は返事らしいものはしません。ただ恐怖しているだけです。そうそう、この近衛忠房という人は、臆病人の多い公卿の中でもずばぬけて臆病だった人です。この数年後の西郷の手紙や大久保の手紙にその話が時々見えます。久光はただ宣言して来いと言ったのですから、大久保は言うだけのことを言って、さっさと京を離れました。
九州へ入ったのは二月になってからでしたが、その三日の夜、筑後の羽犬塚《はいぬづか》宿にかかりますと、ここに真木和泉守が待ちかまえていまして、声をかけました。真木は一昨日江戸出府の途中に立寄った柴山愛次郎と橋口壮助とに、近々に大久保が京都から帰って来るはずだと聞きまして、調べて見ますと、三日の夜ここを通過するという先触れが来ていましたので平野国臣と手分けして、真木はこの駅に、平野は瀬高宿で待っていたのです。
真木は大久保に、少々お暇をお割き願えまいかと頼みました。帰りを急いでいる大久保でしたが、大久保は平野から真木は北九州の志士等の中心人物であると聞き、その人物のほども聞いていましたので、ことわれません。
「少々のことならば」
と、駕籠《かご》を出て、羽犬塚の、真木が用意していた家に案内されて、対談しました。大久保は相当くわしく真木に語りました。近衛家が煮え切らなかったので、久光の命に従って上京の宣言だけして来たことも語りました。慎重な大久保のことですから、久光のこんどの挙は討幕を目的とするものであると言うはずはありませんが、「しかしながら、やむを得ない仕儀に立至りましたなら、幕府はたたきつぶしてしまうことになるかも知れません」と、大久保が近衛家に宣言したことは、大いに真木をよろこばせたはずです。
ここまで薩摩が考えている以上、もう一押しで薩摩の中央乗出しの目的を討幕にすることが出来ると思ったに違いないからであります。間もなく、この月の十六日、真木は子弟をひきいて南走して薩摩に入るのですが、それはこのためでもありました。
大久保は真木と別れて南に向い、瀬高の駅で平野に呼びとめられましたが、すでに真木と会って来たことを告げて立話で別れました。
鹿児島には二月八、九日頃に帰着したようです。
その頃、京都から宮部鼎蔵と松村深蔵が帰って来て、田中河内介はすでに先月二十五日には青蓮院宮の令旨を奉じて京都を出発したはずだから、二月半ばには九州に到着するであろうと言い、中山忠愛の教書を見せて、同志を糾合しはじめましたので、肥後・筑後の有志等は奮い立ちました。しかし、田中はついに来ませんので、やがてこの人々は久光の中央乗出しに望みをつないで、京坂へ駆けのぼって行くのです。
すでに長州が前述の通りになり、九州がそうなり、またこの少し以前から土佐の郷士等は藩政府に愛想《あいそ》をつかして、脱藩する者がつづいていますが、この人々がまた奮い立って、長州人の中に入って共にことを為そうとする一方、本国の同志にも呼びかけますので、土佐もまた震動します。豊後の岡藩は重役級である小河一敏が真先に立って挺身しようというのですから、小藩ながら藩全体が投入して来んばかりの勢いです。即ち、今や西日本全部の空に雷気をはらんだ暗雲がひくくこめて、今にもすさまじいことがおこりそうな摸様になったという次第です。
西郷が帰還したのは、大久保が帰りついてから二、三日後の二月十一日のことでした。船が枕崎のものだったので、枕崎に帰着しました。弟の慎吾(従道)や誠忠組の同志等が迎えに出ていました。その人々に迎えられて、その夜は枕崎に泊って、積る話をしました。中央の情勢や、藩の現状や、久光の中央乗出しのことなど、くわしく聞いたわけですが、聞くにつれて、西郷は言いようのないほどの不愉快な気持になりました。
西 郷 帰 還
西郷が不快になったのは、第一は、島津下総が藩政府の首座の地位から下野させられたことです。
下総は先君斉彬に信任され、首席家老に任用されていた人なので、西郷は尊敬し、大いに親しくもしていた人ですが、斉彬が急死し、久光の長男の忠義が新藩主となり、隠居の斉興がその後見となると、下総を政治の場から逐《お》いました。斉興は斉彬のやることに反対というはおろか、憎悪心すら抱いていたので、斉彬のはじめた近代工業の設備を閉鎖停止したと同じく、藩内政治の方法も、幕府や朝廷にたいする方針も全部改変して昔に返したのですが、家老座も昔にかえし、下総を罷免したのです。
このようなことも、西郷にとっては、斉彬の死は良死ではなかったとの疑惑を強めるものだったでしょう。
機会がありませんでしたので、書きませんでしたが、西郷は斉彬の死が良死でなく、斉興が国許の手先の者共に命じて毒殺させたのだと、終生疑惑していたようです。この置毒に久光も一枚かんでいたのではないかとの疑惑も、はじめのうちは持っていたように思われます。久光は西郷を終生憎悪し、その憎悪はずいぶん深刻であり、西郷もまた久光に終生好意を持っていませんが、その最初はここに原因があったと私は思っています。
ことは多分、久光の知らないところで計画され、知らないうちに行われたものでしょう。しかし、斉彬を廃して久光を立てようとする斉興の陰謀はずいぶん久しいものがあります。それは斉彬がまだ世子だった頃からありまして、斉彬及びその系統の全部を断絶させるため、呪咀《じゆそ》だの、調伏《ちようぶく》だのという奇妙でまがまがしいことが行われ、斉彬の子女が全部幼少のうちに死に、斉彬自身も時々得体の知れない病気になったのは、そのためだと藩中の斉彬びいきの人々には信ぜられたのです。西郷はそれを信じ、同志とともに久光の生母由羅を殺す計画まで立てたことがあります。その当時西郷が同志の人々に書いた手紙がのこっているのですから、西郷が呪咀調伏の事実が行われていることを信じていたことは確実です。こんな西郷ですから、斉彬の死が良死でなかったことを疑惑したのは最も自然なことです。とすれば、久光も一枚噛んでいるのではないかと疑ったのも必然でありましょう。
西郷がいつ久光にたいする疑いを晴らしたか、それはわかりません。あるいは終生晴らさなかったのかも知れません。西郷には、久光をかたきの片割れ、あるいはかたき方の一人と見る、最も深刻な心理があったはずです。しかし、そうは思っても、忠義が譜代の主家である島津家の当主となった以上、その実父である久光をかたきとすることは出来ません。まして、久光はお手盛とはいえ、上通《かみどお》り(太守同様)の身分となっているのです。西郷の島津家に対する感情は大いに変化したはずです。一応の忠節をつくして働いたなら、隠居したいという気持、あるいは浪人となって天下のために働きたいという気持が、彼の心に萌《きざ》したのは、このためではないかと、私には思われるのです。西郷がたえず隠居|遁世《とんせい》の思いに心をさそわれていたことは、多少なり西郷の生涯を研究したことのある人なら、皆気のつくことですが、それは普通言われているように若い時の禅の修行の影響によるのではなく、譜代の主家たる島津家が斉彬を非命にして死なせたかたきの系統の人のものになったことにたいする憤りと嫌悪によるものだと私は解釈しています。
ともあれ、西郷は久光に好い感情を持っていなかったのですが、久光が斉彬の志をつぐ心をおこし、その第一手として閑地にあった島津下総を起用して、斉彬時代と同じく首席家老としたことには、オヤといい意味の驚きを感じたはずです。島にいたために、大分おくれて知ったはずですが、久光に対する観念を改める必要を感じたにちがいありません。少くとも、順聖院様の御遺志をつぐという決心を形に示しなされた以上、久光様は毒殺にたいしては何にもご存じなかったのかも知れないと思っただろうと思います。
「順聖公のお志をついで、天下のために尽そうとなさるのであれば、精一杯のお手伝いをしなければならない。わしが、順聖公のおなくなりになったあと、江戸や京都でいろいろな画策をしたのは、すべて順聖公のお志をつぎ奉ろうという心からであった。万事すべて失敗に帰して、薩摩に逃げ帰り、ついに月照和尚と投海しなければならない破目になって、こんな身になってしまったとはいえ、久光様が薩摩全藩の力を挙げて、順聖公の御遺志を継ごうとなさる以上、全力をあげて、わしは立ち働かなければならない」
と、ほとんど勇躍する気持で、島をあとにしたと思われるのです。
ところが、枕崎についてみると、その下総は政治の座を逐われていました。西郷は驚いたに相違ありません。
事情を聞いてみますと、恐らく誠忠組の同志らは、
「しかじかで、下総殿が中央お乗り出しに反対なさったのでごわすよ。順聖公の御遺策を御実行になろうというのでごわすから、感激して力を尽しなさるであろうと皆思うていたのでごわすが、案外でごわした。騏驥《きりん》も老いたのでごわしょうか。そこで、では退《ひ》いてもらおうということになったのでごわす。高うは言われもさんが、後継の家老座の編成には、一蔵サアが大分お働きであったということでごわす。小松帯刀殿を見つけてまいられたは一蔵サアでごわすそうな」
と言いまして、新家老座になってから、誠忠組にも春が来て、大久保と堀とがお小納戸の要職に抜擢されたのをはじめとして、多数の同志がそれぞれに役づきしたことも語って、
「わが党の天下でごわすよ。大事なるべしでごわすよ」
と、気焔《きえん》を上げるのです。
西郷は実にいやな気になりました。この気持を、彼はこの数カ月後、また島に流されて徳之島に送られた時、大島本島の見聞役木場伝内にこう書き送っています。木場は西郷が大島にいた頃、最も親しくした藩庁派遣の役人で、西郷は島を去る時、島にのこる妻子のことを頼んでいます。また名をかえて帰って来るようにという藩名だったので、木場に頼んで、「大島三右衛門」という名を選んでもらっています。彼はこの名前で、数年いるのです。二年の後、彼は流罪を赦《ゆる》されて帰還し、直ちに京に上って、こんどは薩摩藩代表者として京で最も油の乗ったみのり多い働きをするのですが、そうなっても一年ばかりはやはり大島三右衛門の名前でいます。公文書にも私文書にもこの名前で出て来ます。
「島元より相考へ候よりは雲泥の違ひにて、御府内(お城下)すべて割拠の勢ひに相成り居り、頓《とん》と致しやうもこれなき模様故、暫くの間観察仕り候ところ、当時(今)の形勢は少年国柄を弄し候姿にて、事々物々、無暗《むやみ》な事のみ出で候て、政府は勿論《もちろん》、諸官府一同、疑惑いたし、為す所を知らざる勢ひに成り立ち、かやうな事はここで引き結び、ここで成るものといふことは全く知らず、志はよく向ひ候ても、所置に至っては疎《うと》く、俗人の笑ふこと多く、君子のつもりに候へども、為すところに至っては卑しき手のみ相見えて、君子の所行にはこれなく候。いはゆる誠忠派と唱へ候ふ人々は、これまで屈し居り候ふものの伸び候ひて、唯上気に相成り、先づ一口に申さば世の中に酔ひ候ふ塩梅《あんばい》、逆上いたし候ふ模様にて、口に勤王とさへ唱へ候へば、忠良のものと心得、さらば勤王は当時(現在)は如何の所に手をつけ候へば勤王にまかり成り候や、その道筋を問ひつめ候へば、訳もわからぬことにて、国家の大体さへ、かやうのものと明らめも出来ず、日本の大体はここといふことも全く存じこれなく、幕の形勢も存ぜず、諸国の事情もさらにわきまへこれなく、さうして天下のことに尽さうとは、実にめくら蛇におぢずにて、仕方のない儀にござ候」
というのが、西郷の木場に書きおくった、この時の鹿児島城下の情況であり、それについての西郷の感懐です。
西郷は枕崎に一晩泊まって、翌日鹿児島にかえりました。枕崎から鹿児島までは十里余(四十二、三キロ)あります。早朝に出発しても、鹿児島着は夕方近くになったはずです。当時の西郷家は、加治屋町にはありません。やはり甲突川《こうつきがわ》に沿ってはいますが、ずっと上流の右岸に位置する上之園町にありました。
西郷が南島在住を命ぜられて家を出たのは安政五年(一八五八)の十二月ですから、この帰宅は満三年二カ月ぶりです。彼には弟が三人、妹が二人あります。妹らはいずれも縁づいていますが、この時は帰って来ていましたろう。また彼には祖母がいます。祖母の年はわかりませんが、西郷の無事の帰還を迎えて、「もうこれで安心」と大よろこびであったと西郷が木場への手紙に書いていますから、ずいぶん老い衰えていて、日頃西郷のことばかりを心配していたことが想像されます。
夕餉《ゆうげ》は一家打ちそろってしたため、多少の酒も飲んだことでしょう。西郷は晩年には下戸同様になりましたが、この頃は機会があれば相当飲んだようです。そういう記事が彼の書簡に散見しますから。
しかし、この夜はそう飲みはしなかったと思います。この夜、彼は島津下総を訪問したようですから。この訪問には文書的な証拠は何もないのですが、この夜の訪問がなければ、この翌日以後の西郷の行動の説明がつきかねるのです。
今鹿児島市に天文館通といって、映画館やキャバレーなどの櫛比《しつぴ》している繁華街があります。藩政時代にここに天文館があって、薩摩暦などを編纂していたので、この名前がのこっているのですが、藩政時代にはこの通りを真直ぐに行きますと、地蔵堂に行きあたりました。この地蔵堂にむかって右手にある大きな武家屋敷が、当時日置屋敷と呼ばれていた島津下総の屋敷でした。
上之園からここまでは小一里ありますから、西郷がここへついたのは、多分今の九時頃になっていたのではないでしょうか。
西郷がこの夜どんなことを下総と話し合ったか、それももとよりわかりません。しかし、後におこる事柄によって、想像はつきます。
西郷は先ず下総が職を退くことになった事情をたずねたでしょう。その事情については、前に書きました。下総はあの通りに答えたことでしょう。
ここで、当然、西郷の問いは、
「こんどの御計画は順聖公の御遺策の御実行でございもす。順聖公の御他界になった頃、私は京都におりましたので、あとで伺ったのでごわすが、順聖公は御末期に久光様をお召しになり、わしのあとにはご辺の長男又次郎を立て、哲丸は又次郎の順養子《じゆんようし》にせよ、又次郎はまだ年若であれば、ご辺後見となって藩政を見、また又次郎を助けて、わしの志を継いで日本の国事にも力を尽してくれるようにと、御遺言遊ばされたとのことでごわした。オマンサアは当時首席家老の御重職におわしたのでごわすから、これほどの重大な御遺言の席にお出ででなかったはずはごわすまい。必ずや御侍座あって、御自分のお耳でお聞きであったはずと存じます。でありますなら、順聖公が御計画になり、御実行にお移しになり、半月の後にはお国許御出発ということにまでなっていた、あの御大策を、久光様が御実行になろうとするのを、なぜお制《と》めになるのでごわすか。お伺いいたしとうごわす」
というのであったろうと、私には想像されます。西郷は斉彬の死は良死でなかったという疑いを捨てかねているのですから、こんなところから突きとめようと思ったはずと思うのです。
下総はどう答えたでしょうか。もし下総が侍座しており、遺言を聞いていれば、先ずそのことを答えたはずですが、そうではなく、
「この大策は久光公には荷が勝ちすぎる。順聖公なら、見事に成功なさったじゃろうが、久光公では、貫禄が足らん、声望が不足じゃ、力量も足らん。つまり荷が勝ちすぎるのじゃ。お家を危くするだけじゃ。じゃから、きびしくお諫め申したのじゃが、聞いていただけんばかりでなくお役を退《ひ》かんければならんことになった」
とだけ答えたらしいのです。
家柄から言っても、職掌柄から言っても、お家大事ということを考えなければならない人ですから、普通ならこの答えでよいはずですが、この場合の西郷は違います。真に聞きたいのは、斉彬が末期にわが志を継げと遺言したかどうかを知りたいのであり、さらに進んでは斉彬の死に久光が関係あったかなかったかを知りたいのです。
「オマンサアのおことばはもっとも至極でごわすが、真に御遺言があったのであれば、別でごわす。成敗をかえりみず、お賛《たす》け申すべきでごわしょう。私共も、以前、順聖公のお遺志を継ぎ申すことであると考えて、いろいろ画策したこともごわす。私共のような微力不肖の者すら、やろうとしたほどでごわすから、御遺言を受けられたのなら、久光様がその決心をなさるのは、最も当然なことでごわす。なぜ、そこに御思案を致して、お賛けにならんのでごわすか」
下総は答えることが出来なかったはずです。追いつめられて、苦しげな表情になったところを、西郷はさらにつめよったでしょう。
「御遺言はなかったのではごわはんか。あっても、単にあとは又次郎様を立て、哲丸様を順養子にせよというだけで、遺志を継げなどということは仰せられなかったのでごわしょう。いかがでごわす」
「実は……その通りであった」
下総のことばは、ほろりと物をこぼすようであったと思われます。
「その哲丸様は、間もなくおなくなりになりもしたなァ。そして、順聖公の御血統は絶えはててしまったのでごわす。昔、斉興公と悪女(由羅)とがたくらんで、いろいろつとめた通りになってしまったのでごわす」
といって、西郷は涙をこぼしましたろう。元来、感情がはげしく、涙の多い男なのです。
西郷の言う通りですから、下総は返すことばはなかったはずです。
そこで、西郷はさらに肉薄したでしょう。
「順聖公の御最期は御病死ではなかったのではごわはんか。怪しかふしがあったのではごわはんか」
下総は狼狽《ろうばい》しながら言いましたろう。
「なぜそげんことを言う? 容易ならんことじゃぞ。坪井芳州はコロリであろうと申したぞ。蘭方医として天下に高名な典医である坪井がそう診断した以上、それを信ずべきではないか」
「坪井は何と申そうとも、あの大事な瀬戸際に、御急病でなくなられたのが、私には疑わしくてならんのでごわす。疑っても道理なほどのいきさつが積み重なっていることは、オマンサアも御承知でごわしょう。オマンサアのお目から見て、疑わしかふしはなかったでごわしょうか」
ひたと見つめて迫る西郷の巨《おお》きな双眼にはまた涙がたたえられていましたろう。
「容易ならんことを言う」
「お答え下さい!」
「それを聞いて、どうするつもりじゃ。何があったろうと、お家はわしらの主家ではないか。わしらは、お家に忠義をつくさねばならんのじゃ。坪井の診断《みたて》を信ずるよりほかはないじゃないか」
下総も泣いていましたろう。
「仰せの通りでごわした。しかし、一つだけお伺いしもす。久光様は御関係なかったのでごわしょうな」
「まだ言うのか!」
と、下総が叱りますと、西郷はそのかがやきの強い巨きな目で、にらみすえるように見て、強い調子で言いましたろう。
「昔から武家の習わしとして、特別な御恩寵を蒙《こうむ》った者は、主人の死に際しては、殉死することになっていると、聞いていもす、私は順聖公に特別な御恩寵を蒙った者でごわす。公の特別なお取立てによって自由に君前にまかり出ることが出来たのであり、公の御薫陶によって天下のことに目ざめ、公の御使命を奉じて四方に使いしたため、天下の人に人がましくあつかわれるようになったのでごわす。公は私にとっては、主君でおわし、恐れながら大恩師でおわし、大恩人でごわす。本来ならば、殉死せねばならぬ者でごわした。それをそうせなんだのは、月照和尚に諫められて、御遺志を継いで日本のために働くことこそ真の殉死になると思うたからでごわす。私は順聖公のお志を継いで日本のためには身命をなげうって働きもすが、順聖公のおん血が一滴ものこっておらん島津家のために働く心は毛頭ごわはん。しかし、日本のために働くにしても、もし久光様が順聖公の御最期に御関係があるのでごわせば、その人の下で働くことは出来もはん。私はお家を去って浪人となって、日本のために働きもす。それもかなわずば、世を捨てて、順聖公の菩提《ぼだい》を弔《とむろ》うて生涯を終るつもりでごわす。御関係はあったのでごわすか。なかったのでごわすか」
西郷の感情とことばのはげしさに、下総は炎に顔を吹かれる思いでありましたろう。たじろぎ、しばらく黙った後、
「それほど思いつめているのか。そんなら、言うて聞かせよう。久光様は全然御関係はなか。久光様は窮屈なほど心正しかお人柄じゃ。そげんことのあろうはずはなか。わしはそう信じている」
「そうでごわすか」
と、西郷はうなだれましたろう。下総の答えには言外に、斉彬の死は毒殺であったということが語られています。
であります以上、西郷の決心はこうなったはずです。
(久光様のこんどの思い立ちはせきとめなければならない。順聖公は久光様を御遺策を実行し得る器量の人とは思うていらせられなかったのだ。だから、御遺言がなかったのだ。何よりも、まさしくおいのちを縮め申したかたきの片割である久光様などが、順聖公の御遺策を奪い奉って、実行しようなど、不都合、僭越《せんえつ》である。断じて阻止しなければならん)
以上の会話は、もとより私の推理ないし想像によって書いたのですが、大体、これに近いやりとりがあったものと、私は信じています。
この上にさらに、久光のこんどの計画を阻止してくれるようにとの、下総の依頼があり、西郷がこれを承諾して、出来るだけのことはしようと言ったことは確実です。でなければ、この翌日からの西郷の動きの説明がつきません。
翌日は、西郷は早朝から島津家の菩提寺である福昌寺に行って、斉彬の墓に詣で、さらに南林寺に行って祖先の墓と月照の墓に詣で、午《ひる》過ぎ帰宅しますと、藩庁から八ツ(午後二時頃)までに小松帯刀の屋敷に来るようにと言って来ていました。
小松帯刀が中山尚之介とならんでお側役の要職にあることは、昨日枕崎で、同志の者に聞いています。また小松を見つけて来て、中山に紹介し、中山が久光に推薦したことも、聞きました。
従って、今日呼ばれるのが何の用件のためであるか、見当はつきます。
西郷はあの風貌《ふうぼう》に似ず、神経も思慮も至ってこまやかで敏感ですから、相手は小松一人ではなく、中山も、大久保も居るであろうと予想がついたはずです。
(どうせ、気に入らないことを言わねばならんのじゃ)
と、ものうい気持で中食をしたため、出かける支度をしていると、大久保が来ました。
大久保とは満三年二月ぶりに会うのです。いろいろとあいさつがあり、島にいる間に時々ものなど送ってもらっていますから、そのお礼など言ったことでしょう。大久保は薩摩人にめずらしく、身だしなみがよく、昔から小ざっぱりした風姿の男でしたが、今ではさらに清らかで、冴《さ》えた顔色をし、上質な着物を着て、立派になっています。一口に言って、尾ひれがついた感じです。
「小松どん屋敷にわしは呼ばれているのじゃが、おはんも行きなさるのじゃろう」
「そうでごわす。お迎えかたがた、あいさつにまかり出たのでごわす」
「そいじゃ、行こう。八ツまでに来いということじゃから」
小松の屋敷は、普通|吉利《よしとし》屋敷と呼ばれていました。吉利地方の領主だったからです。今の市電朝日町停留所の西側一帯あたりにあったようです。加治木島津家と隣り合っていました。
上之園からここまではずいぶんあります。小一里あるでしょう。その長い間を、二人はたえず談笑しながら来たはずです。恐らく大久保はこんどの久光の計画について、大いに語って、西郷によろこんでもらい、今日の会談に先立って西郷の了解を得ておきたいと思っていたはずですが、それを話した形跡はありません。恐らく、西郷の態度のどこかに、そんな話の出ることを拒否するものがあったのではないでしょうか。
斉彬にも久光にも用いられて、かなり重要な役にあった市来四郎が、明治になって史談会で語ったところによりますと、小松は斉彬の時代にはお小姓であり、久光の時代に家柄によって重役に取立てられたというのですから、西郷とは面識はあったと思われます。
ともあれ、小松とあいさつしていますと、中山尚之介が来ました。これも斉彬のお小姓をしていたのですから、面識はあったと思われますが、口をきくまでのことはなかったと、私には思われます。中山のことを、「無暗なるもの」と驚きと嫌悪の情をもって、木場伝内に書き送っていますからね。前に多少なり知り合ったなかであれば、驚きはなかろうと思うからです。
さて、小松、中山、大久保、これに堀次郎が加われば、久光のブレーンが全部出そろったことになります。しかし、堀は特命を帯びて江戸に行っています。三|智嚢《ちのう》を眼前に見て、西郷はどんな感慨を持ったことでしょう。
やがて、多分別座敷に席がもうけられていて、そこで会談がはじまったことでしょう。今度の計画が語られ、その語り手は小松だったでしょう。
西郷は巨きな腕を組んで、相槌《あいづち》一つ打たず、だまりこんで聞いていたのでしょう。予期に反するものがあります。三人にしてみれば、この計画には、西郷は大いに勇み立って賛成するはずと思いこんでいたのですからね。なにか無気味になったに違いありません。
西郷・大久保の談合
西郷は腕組を解いて、口をひらきました。
「なるほど、幕政を改革して、一橋公を将軍後見に、越前春嶽公を大老にして、天下の望みに合致せよとの勅を申し下して、武力をもって迫って幕府に遵奉させようとの御趣意はようわかりもした。しかし、勅を申し下すには、朝廷内に手蔓がなければなりもさんが、それはどうなっていもすか。また幕府につきつけるにしても、いきなりつきつけても、うろたえさせるばかりで、どうにもなりはしもさん。前もって閣老中の有力者と話をつけ、諸雄藩とも連絡をとって、勅が下ったらすぐに遵奉するという諒解《りようかい》を得ておかんければならんものでごわす。仰せられました通り、これは順聖公の御遺策の踏襲でごわすが、順聖公は天下の人がひとしく仰いだほどの御英邁でおわしながら、それだけの段取りをおつけになった上で、御実行になろうとしたのでごわす。そこのところは、どうなっているのでごわすか」
大太刀を大上段にふりかぶり、真向から斬りおろすに似た西郷の態度であり、ことばでした。三人はすくみ上ったに違いありません。大久保が口を出して、
「それはまだ何にも出来ていもさん。実はしかじかでごわした」
と、京における運動のこと、江戸における運動のこと、いずれも失敗に帰したことを語りました。実はそのへんについては、西郷は昨夜下総からおおよそのことを聞いていたでしょう。政治の局を離れている下総にはくわしいことはわかっていなくても、大体のことは見当がついていたに違いありませんから。しかし、
「そういう都合なら、勅書を申し下すというのが、先ず中々のことでごわすな」
と、わざと驚いた顔になって、
「しかし、仮に申し下すことが出来て、それを奉じて関東に下り、幕府につきつけても、もし幕府がことば巧みにお請けの旨を奉答しながらも、実行せん場合は、どうなさるおつもりでごわす。なかこととは言えもさんぞ。勅書の権威上、黙過することは出来もはんが、口先だけでもお請けしているのでごわすから、忽ち武力に訴えるというわけにはまいりもさん。せっせと実行をうながすことしか方法はなかわけでごわすが、その間久光様も、兵共も、京に滞在していなければなりもさん。一年二年も御滞在が出来もすか。幕府は必ず引きのばし策に出もすぞ。そこの都合はどげんなっていもすか」
鋭いダメ押しです。幕府がこんな老獪《ろうかい》な手に出ることは、これまでのやり方から見ても、最もあり得ることです。西郷に指摘されるまで気がつかなかったのは、不覚というほかはありません。これでは調子のよさにのぼせ上って、世の中に酔っているといわれてもしかたがありません。返事は出ません。
「それでは、次の質問にうつりもす。すでに勅命によって上京なさった以上、京都御守衛の御任務をお受けになることになられもすが、お受けなされたからには、その実をお上げにならなければなりもはん。単に兵を錦のお屋敷においていなさるというだけでは無意味でごわす。つまり、酒井所司代を追いのけ、朝廷監視の任にある彦根藩の力を排除せねばならんことになりもすが、久光様にそこまでの御覚悟がおすわりでごわしょうか」
形骸《けいがい》だけの御遺策踏襲で、功業をあせっていなさるだけのことじゃろう、それが今の日本にとって何になる、鵜《う》の真似をする烏《からす》のふるまいはやめなされよ、と言わんばかりの西郷の語気ですが、これにも返答は出来ません。
「幕府が勅書の御趣意を遵奉せん以上、違勅の罪をたださんければなりもはんが、諸藩との連合がなかのでごわすから、藩は独力で征伐せんければなりもさん。久光様にその御決心がついておられもすか。ついておられるにしても、もし幕府が外国の公使共と結んで、外国艦隊に大坂湾を占領させ、お国許と京都との連絡を絶つ策に出た場合の御対策は立っていもすか。幕府と外国公使等との懇親は一通りならんものがごわすから、あり得んことではごわさんぞ」
巨砲を連発するように、次から次へと打ち出して来る西郷の質問のいずれにも、三人は返答出来ません。
三人は最も意外でした。彼等はこんどのことについて、西郷ほど喜ぶ者はないであろうと信じきっていたのです。西郷にとっては、先君の指図でこの計画の実行に働いていたさなか中断したものを、こんど継いで再挙しようというのですから、勇躍して、最も頼もしく、最も力ある同志として働いてくれるに違いないと思いこんでいたのです。そのつもりで召還もしたのです。ですから、狼狽しながらもいぶかりました。大久保に至っては、ここに来るまでの間に、わしはどうして余計な物語ばかりして、かんじんなことを話さなかったのであろう、しまった、しまった、と後悔したことでしょう。
西郷は最も無遠慮に断定を下しました。
「そげんとりとめもなかことで、ようもかほどの大事を思い立たれたものでごわすなあ、拙者は驚いていもすぞ」
ざぶッと、冷水を打《ぶ》っかけるようだったでしょう。三人は狼狽しながらも、中山が申します。
「じゃから、おはんの帰りを待っていた。おはんにいろいろと働いてもらおうと思って、首を長くして待っていたのでごわす。今おはんの言われたようなことは、すべておはんにおまかせしもすから、大いにやっていただきたいのでごわす」
きげんをとるような言い方です。我《が》の強い性格である上に、今久光の寵愛が最も厚く、家中第一の権勢の人となっている中山がこんな調子で言うのは、よくよくのことです。
しかし、西郷は首をふり、にべもなく答えます。
「それはおことわりしもす。これがまだ御内評中というなら、いたしようもごわすが、こうしてさらしてから、まかせると申されても、出来ることではごわはん」
座中索然としてしらけ、中山の顔色はさっとかわりました。
私はここを、先に一部分を披露しました西郷の木場伝内あての手紙によって書いています。『大久保日記』も、『大久保文書』も、このへん二月半ほどの分がごっそり抜けていますので、西郷のこの手紙以外には根本史料がないのです。
西郷は自分のとった態度を正当と信じ切った書き方をしていますが、公平に見て妥協がなさすぎるという感もありますね。それはきっと、先に推理したように下総に頼まれ、西郷もそれに同意したために違いありません。そして、それは斉彬の末期の遺言はなかったということにも連なりましょう。
ともあれ、西郷のこの時のこの態度が根本的原因となって、やがて再び南海に流されるのですが、それには中山尚之介の西郷にたいする感情が大いに作用しています。
前に書きましたが、西郷が大島から帰還する運びになったのは、大久保が中山に頼み、中山が久光に嘆願したためです。つまり、中山のお陰なのです。ですから、市来四郎は、明治になってから史談会の席上で、
「西郷は中山によく礼を言うべきであったのに、それをせず、かえって冷淡にあしらった。西郷が再び南島に追放されたのはそのためである」
という意味のことを申しております。これが一つです。
二つには、中山は君寵《くんちよう》を受けて、大変な羽ぶりでいます。明治中期の頃に、当時の生きのこりの故老が、この当時の首席家老は喜入《きいれ》摂津であり、側役は小松帯刀と中山尚之介であったが、藩政の真の実権者は喜入でもなく、小松でもなく、中山であった。当時の藩政府は中山内閣ともいうべきものであった、と言っています。これほどの中山にたいして、西郷は全然尊敬の態度を見せなかったのです。
西郷という人は、人の好ききらいのはげしい人です。心術が清潔で、さわやかな人柄の人や、朴直で勇敢な人間は、手腕がともなえばもちろん大好き、手腕がなくてもある程度は好きですが、私利私欲の徒や、傲慢《ごうまん》な威張屋や、小才にたけて多弁な人間は大きらいなのです。中山は傲慢で威張屋で、小才にたけて多弁な人間と、西郷には思われたのでしょう。人間の好悪《こうお》の感情は、光と影、音と反響のようなものがあります。好意を持てば好意を、悪意を抱けば悪意を、反射するのです。
三つには、久光の心に、ある劣性コンプレックスがあったことです。久光は斉興の死ぬまでは臣籍にありました。斉興が死んだのが、安政六年(一八五九)九月、忠義が発議して(実際は久光が所望してそうさせたのでしょう)、久光を本家に復籍させ、「上通《かみどお》り」として、藩主同然と心得、「国父」と唱え申すべしと藩中に布告したのが、文久元年四月です(『久光公実記』)。その時から今まで、まだ十カ月しか経っていません。久光にしてみれば、家中の者が自分を主と仰いでくれないのではないかとのコンプレックスがあったはずです。
ところが、西郷の当時の藩内の声望は最も高いものがありました。士分としては最も低い家格である扈従組《こしようぐみ》、役目といえば前|徒目付《かちめつけ》、鳥預《とりあずかり》、庭方という卑職にすぎないのに、誠忠組はもちろんのこと、前家老の島津下総一派も、一般家中も、西郷の帰還を熱望したのです。少々誇張して申しますなら、救世主の来るのを待ち望むに似ていました。このような西郷にたいして、久光はそうでなくても、久光の最も忠誠な直臣《じきしん》をもって自任している中山としては、平心でおられるわけはありますまい。今日までのところ最もすぐれた大久保利通の伝記を書いている勝田孫弥が、その伝記中に、「西郷はそのあまりにも高い声望を、久光派の人々に嫉妬《しつと》され……」という意味のことを書いていますが、それはこの意味においてでありましょう。久光にたいして最も純粋にして篤実な忠誠心を持っている中山にとって、西郷が望ましからぬ人物に思われたのは、不思議ではないでしょうね。
小松と大久保とがいろいろ説得につとめましたが、西郷は受けつけません。
「おはん方とこの上議諭しても、埒はあきもはん。どう考えても、わしには疎漏千万な計画としか思われもさんから、久光公に直々《じきじき》お目通りして、うかがいとうごわす。その手続きをして下され」
「それはもう予定してごわす。両三日中にはお召出しになることになっていもす」
と、三人は答えました。
「それは有難いことでごわす。万事その時のことじゃ。もう気づまりな話はやめもそ」
といって、のんびりと大島の話をはじめました。西郷は冗談好きで、またそういう話が上手で、いつも自分も笑えば、人も笑わしていたそうですが、この時もそうで、島の風俗や島の女の話、狩の話や釣の話など、いろいろ滑稽《こつけい》な話をしましたので、小松も大久保も笑いました。
中山だけが笑いません。元来、中山は余裕のない生真面目《きまじめ》な性質で、薩摩人にめずらしくユーモアや滑稽の感覚を欠いていたのでしょう、ふだんから笑うことの少い男でしたが、むっつりとして、
(笑うどころのことか、こげん目にあわせられながら)
と、小松にも大久保にも立腹していました。
ですから、
「御用がまだ残っていもすから」
と、あいさつして、すぐ辞去して、城内の二の丸御殿にかえりました。ここが前年四月、久光が本家に復籍して「上通《かみどお》り」となり「国父」といわれるようになってからの、久光の居館であり、従って中山の勤務場所でもあったのです。現在の照国神社参道の右端から鹿児島|城趾《じようし》としてのこっている場所の際までの地域を占めていました。現在でも二の丸といっています。県立図書館などのあるあたりですね。
私はその日すぐ中山は久光に、西郷が異説を唱えて御計画に反対であるということを言上したろうと思っていますが、市来四郎の明治二十六年十月の史談会の講演によりますと、後年市来が久光から聞いたこととして、中山はこの翌日、前夜の次第を逐一《ちくいち》久光に報告して、この上はおん直きにお聞き下されよと言ったので、久光は会いたいということになった、と言っています。
これでは、久光は中山の報告を聞いてから、西郷に会う気をおこしたということになりますが、上述しましたように、
「おはん方とこの上論じても無駄だ、この上は久光公に拝謁して直接御料簡をうけたまわりたい」と西郷が言ったのにたいして、三人が「自然拝謁仰せつけられるつもりに候間、両三日中に召出されるとのことに御座候」と答えたと、木場伝内あての手紙にあるのですから、すでに予定されていることだったのです。市来の記憶違いか、久光の記憶違いか、いずれかでありましょう。でありますなら、報告の日が翌日であったというのも、記憶違いである可能性が多いと思います。これほどの大事なことを、翌日まで報告をのばすとは、私には考えられません。その日のうちに報告したと私は信じます。
どちらでもよいことのようですが、中山が余裕のないほど生真面目で、せっかちで、権力的な性格の人間である以上、その性格の人らしく描出したいのです。作家の書く史伝は文学でなければならないと信じていますから、どうでもよいでは済まされません。ですから、ここでは、その日のうちに報告したことにします。
中山の報告を聞いて、久光がどんな気持になったか、それについては書きのこされたものもなければ、語り伝えられた話もありませんが、いい気持のしなかったことは申すまでもないでしょう。また、
(西郷はこの計画には最もよろこんで賛成し、努力をおしまないはずの男ではなかったか。そういう触れこみであったから、召還を許したのだ)
と思い、
(なぜだろう、なにかあるぞ、これは?)
と疑惑したことも考えられます。久光という人は、当時の大名の中では出色に頭がよく、学識もあり、鋭い人ですからね、以上のような疑惑を持った可能性はずいぶんあります。疑惑すれば、
(西郷の反対説と下総の反対説とは、ずいぶん似とるなあ)
と思ったかも知れません。やがて、久光はそう思うようになるのです。
あるいは、久光自身が疑惑し、推理するまでもなく、中山がこの日、端的に、
「下総殿の反対説と西郷の反対説とはよく似ています。思うに、昨夜二人は会って、しめし合わせたのかも知れません」
と言ったのかも知れません。中山は久光の最も忠実な臣をもって任じている男です。久光のためを思う一念だけで、讒言《ざんげん》とか、中傷とかの気持はさらになかったでしょう。
一日おいて二月十五日、久光は西郷を前職である徒目付、庭方に復職させる辞令を出しておいて、引見したのですが、この前日あたりに大久保は西郷を訪ねなかったでしょうか。常識から考えますと、西郷を訪問して説得につとめるはずだと思われるのですが、前述しましたように大久保の日記はこのへん二、三カ月がごっそりと欠落していますし、西郷の木場あての手紙にも、それは出て来ません。多忙で行けなかったのか、口説いても説得出来ることではないと投げたのか、いずれかでありましょう。投げるなどということは、大久保の性格からは考えられないことですが、西郷という人間を底の底まで知っているだけ、吉之助サアがああ言い出したからには、とうてい翻意するものではないと見きわめをつけたとも思われます。あるいは、斉彬が国事について末期に久光に遺言したというのは、大久保あたりの細工なので、もはや西郷を動かすことは出来ないと思ったのかも知れません。ともあれ、大久保は西郷を訪問しなかったとしか、考えようはありません。
西郷は久光にたいしても、会釈のない質問を次々に浴びせかけました。久光に反答の出来ないことは言うまでもありません。一昨夜以来感じていた不快感がさらに増大したに違いありません。久光は読書が好きで、その読書は中国と日本の史書が最も多く、明治になってからは自ら筆を取って、『通俗国史』と名づくる大部の日本通史を書いて、江戸初期までのところは書き上げているほどですから、最も豊富な歴史知識を持っていたことは確実です。恐らく、不快な心を抱いて西郷をはじめて見たので、
(唐の安禄山、本朝の安倍|貞任《さだとう》は巨大漢であったというが、こんな男であったろうか、いずれも叛逆の臣だな)
と、思ったのではないでしょうか。
久光が西郷の質問に答えることが出来ず、何か言っても答えにならないで、西郷は真直ぐに久光を見すえて言いました。
「周防様(当時の久光の名は周防でした。間もなく和泉と改名して京都に出て行くのですが、京都で朝命によって三郎と改めるのです)は、順聖公の御大策を実行すると仰せられもすが、当時と今とは時勢が違っていもす。当時は公武合体によって挙国一致することが、外患に対処する最上の方法でごわしたが、今日においてもなおそれでよいか、疑いがごわす。順聖公は何事にも神のような洞察力のおわすお方であり、凝滞するところなき自由|無碍《むげ》な御見識の方でごわした故、今日御存命であれば、あるいは幕府は解消して、朝廷を唯一無二の中心とする、日本本来の姿とするお策をお立てになったかも知れぬと、拝察もされるのでごわすが、それは一先《ひとまず》おくとしましても、周防様と順聖公とでは一様にはまいりません。順聖公は天下の人が皆その御賢明を仰ぎ、天下の望みの集まっているお方でごわしたが、それでもその御大策をお立てになりますと、朝廷方面にも、幕府内部にも、同志をつくられ、諸雄藩とも同盟し、水も漏らさぬ御周到な前工作を遊ばされました。私は御命令を受けてその一端に働かせていただいたのでごわすから、よく存じています。しかるに、周防様は、お国許では殿様の御尊父で、藩政御後見で、上通りで、御国父として、最も尊い御身分となっていらせられますが、朝廷におかせられては無位無官、柳営においてはお席もない御身分でごわす。有力な諸侯方との御交際もあられません。はばかるところなく申せば、地《じ》ゴロであられもす。しかも、この御不用意でごわす。お乗り出しあっても、事が成ろうとは、拙者には考えられもはん」
地ゴロとは田舎ものという意味の薩摩方言です。かなり軽蔑の心をこめたことばです。勇気は西郷の最も顕著な特性ですが、地ゴロといったのは、言いすぎでしょう。久光が西郷に憎悪感を抱いていたと同じく、西郷も久光に憎悪感を抱いていたということでしょうね。西郷が感情が強く、人にたいして好き嫌いが強かったことは、既に言いましたね。西郷が再び厄難に陥らねばならないことは、最早確実になったと言ってよいでしょう。
さすがに、久光は態度は変えませんでした。身分がありますからね。しかし、心中は煮えかえるようであったでしょう。
「その方の申すことは、一々道理であるが、すでに京へも、江戸へも、届け済みである。江戸へは太守が病気である故、代理としてわしがまいると届けたのだ。もうやめるわけにはまいらん。いつもの参覲の姿で出てゆき、やれるだけはやるつもりでいる。あまり大形《おおぎよう》に考えんでもよかろう」
と、おだやかな調子で言いました。妥協の手をさしのべたわけですが、西郷は受けつけません。
「仰せではごわすが、非常のことは非常の用意があってこそ出来もす。普通の心で出来るものではごわはん。今の際、お国は固く守ることが適当と愚考いたしもす。既にお届け済みでごわすなら、周防様におかれても御病気をお言立てになり、御中止あって、三州に割拠して力を養い、時運の際会をお待ちになるべきであると愚考いたしもす」
最も強硬な反対です。
すでに久光の出発は二月二十五日と内定していたのですが、西郷のこの反対のために、三月十六日と延期されました。西郷一人の反対がそれほどの力があったかと疑わしいような気もしますが、西郷には全藩の輿望が集まっていますから、その反対を無視することは、影響が大きいと思われたのではないでしょうか。
翌日、久光は直命して、
「参府確定を条件として、策を立ててみるように」
と、西郷に通達させました。
翌十七日、西郷は上下二策を立てて、文書にして提出しました。
上策  参府を中止して、お国許に割拠なされよ。
下策  藩の汽船天祐丸で関東に直行なされよ。陸路をとりなされば、必ず京都で異変がおこりますぞ。
陸路をとるな、京都に立寄るな、と、特に西郷が言っているところを見ますと、西郷は誰からか、平野国臣と伊牟田尚平とが密入国したこと、二人がもたらした使命、国外の情勢などについて、ある程度聞いたに違いありません。枕崎まで迎えに来ていた弟の慎吾からか、誠忠組の同志からか、島津下総からか、あるいは大久保からか。ひょっとすると、誠忠組の激派の人々が平野や伊牟田と伊集院やその他で談合して肝胆相照らしたことも、ある程度聞いたのかも知れません。たしかに、西郷の心配した通りのことになったのですからね。
久光には、もちろん気に入りません。ブレーンの連中も同じです。上策は参府中止、即ち計画の全面否定であり、下策もまた計画を骨抜きにするものですから。
西郷は文書を提出した翌日には、
「足痛のため湯治にまいりもす」
と届け捨てにして、指宿《いぶすき》の二月田《にがつでん》温泉に行ってしまいました。献策が容れられても容れられなくても、もはやするだけのことはした、お家にたいする奉公の道は立てた、この上はおりを見て隠居するだけのことというつもりだったのでしょう。島津家にたいして飽くまでも忠節を尽さなければならないという心はなくなっているからこうだったのだと、私には解釈されます。
西郷が城下を去った後、鹿児島には諸藩の有志等が続々と来ました。平野と真木和泉守の線から、薩藩の正気勃興、久光の引兵上京のことが伝えられたためです。肥後の有志の代表として宮部鼎蔵・松田重助、豊後の岡藩の代表(これは有志代表というより、藩の代表に近かったのです)として小河一敏・高野真右衛門、長州からは来原良蔵と堀真五郎。
長州の二人は藩の使者として、真に討幕に乗り出されるのでござらば、弊藩もことを共にしたいと言って来たのです。真木の門人|淵上《ふちがみ》郁太郎が、真木の命を受けて牟田大助と変名して長州に入って遊説し、長州全藩に長井雅楽の開港遠略策を揚棄して、薩摩と事を共にしようとの動きがおこったことは、前に書きましたね。
真木和泉守も、久留米藩の監視をかすめて、水田村の幽居を脱して、子息菊四郎と門人二人とを連れて薩摩に来、久光に建白書を提出しました。
これらのことが西郷にわかったのです。指宿は現在では新婚旅行者のよく行く土地として、最も有名であり、交通もずいぶん便利になっていますが、昭和初年この地に鉄道がかかって鹿児島市から便利に連絡が出来るようになるまでは、実に不便なところでした。私は大正十五年の四月から昭和三年の三月まで、この地の中学校の教師をしていましたから、よく知っていますが、鹿児島県人でも行ったことのある人は至って少く、まして他県の人は「指宿」という地名の訓方《よみかた》もごく特別な人をのぞいては知らなかったほどです。そんな不便なところに行っている西郷が、どうして城下にそんな人々が来たことを知ることが出来たのでしょうか。
城下に噂《うわさ》が立って、それが伝わって行って、自然に西郷の耳に入ったとは、とうてい考えられません。鹿児島城下から指宿の二月田温泉までは、海沿い道十里(四十キロ)もあるのですからね。
大久保が知らせたか、島津下総、あるいはその弟桂右衛門が知らせたか、誠忠組の同志が知らせたか、西郷の弟等が知らせたか、いずれかであると思うよりほかはありません。
それについては、直接的な史料も、伝承もありませんから、推理で行くよりほかはありませんが、私は大久保が知らせて、帰って来てほしいと言ってやったに違いないと思います。
大久保は京都に使いした時、近衛忠房に、久光のこの度の中央乗出しの目的は、幕府をして朝廷の御意向を遵奉させることによって、国難を処理し得る挙国一致の体制を作らせるにあって、倒幕などということは考えていない、しかし、幕府の態度が悪く、万やむを得ない場合は、倒幕ということになるかも知れません、と言ったのです。大久保がそんなことを言ったのは、彼が現在のところは久光の意志に調子を合わせて公武合体で行くことにしているが、本心ではいずれは幕府は倒して朝廷を中央政府とするすっきりした国柄にしなければ日本は立ち行かないと思っているところに、平野国臣・伊牟田尚平等に会って、満天下の志士等の心と動きを知って、「何やらその時が来たような」と思うようになっていたからでしょう。
今また前述のように諸藩の志士等が国許に様子を聞きに来、長州藩などは藩を挙げてことを共にしたいと申しこんで来ましたので、
「もはや、その時が到来したらしい」
と思って、西郷に連絡をとったに相違ないと推察します。
彼は西郷の平生の志をよく知っています。また、西郷が久光に謁見して、直後に意見をのべた時、その席に侍坐して西郷のことばを聞いています。西郷は、
「順聖公の当時と今日とは、時勢が違っています。順聖公は拘泥するところなき明智の人でごわしたから、今日まで御存生であれば、あるいは幕府は解消して、朝廷を唯一無二の中央政府とする策を立てられたかも知れません」
と言ったのです。
大久保としては、
「こうなったら、吉之助サアはきっと動きなさる。諸藩の志士や浪人志士等の統制は吉之助サアでなければやれんところじゃ」
と、思ったであろうことは、最も容易に推察のつくことではないでしょうか。度々申します通り、このへん二、三カ月のところが、最も筆まめな大久保でありますのに、日記も文書も欠落しているのです。もし日記がのこっていれば、この推察のつく記事があるに相違ないと私は信じています。
ともかくも、大久保から西郷に城下の情勢を知らせてやって、至急帰って来てくれるように言ってやったものと私は信じます。
西郷には、島津家のために働く心はもうなかったはずですが、情勢がこうなったとあっては、別です。日本の国を建て直すことは、順聖公の終生の意志であったし、真の意味においてその意志を継ぐことには、彼は最も純粋な熱情を持っているのですから。
指宿に逗留すること二週間、三月はじめに、鹿児島に帰って来ました。「一夕、大久保参り」と木場伝内あての西郷の手紙にありますから、大久保の方から訪ねて来たのです。
両人の対話については、木場あての西郷の手紙に、
「一夕、大久保参り、実に心配いたし居り、いよいよ変を生じ候との趣き」
と書いているのだけが史料ですが、思うに、これはくわしく書けば、こうだったと思います。
「この天下の形勢は、久光公の御計画の逐行には順風のようなものでごわすが、この人々の志と久光公の公武合体の御目的とは、方向は似ていもすが、肝心なところが違いもす。ほおっておくと、暴風になって、公のお仕事をめちゃめちゃにしてしまう惧《おそ》れがごわす」
と、大久保の言ったのにたいして、
「周防様が公武合体を墨守しなさるかぎり、これは大変乱となりもす。そう思うたから、わしは出て行くのをやめなされよ、どうしても行きなさるなら、海路、汽船で江戸に直行なされよと申し上げたのでごわす。わしのあの判断は、多少のことを側聞していたから出たのでごわすが、わしの不在《るす》中、諸国の志士等がお国許へ来てしかじかであったという話を聞きもすと、お出かけになっては、天下の動乱になることは確実でごわすぞ」
と、西郷は言ったに違いありません。
「何とか方法はごわはんか。お乗出しをおとめすることは、今は出来んことでごわすから……」
「一蔵どん。どうしても乗り出そうという周防様のお心をせきとめることが出来んなら、たった一つ方法がある。それは、もし天下の志士等の動きが強力で、倒幕の勢いが燃え上って来るなら、周防様が公武合体の志を倒幕に切り直しなさることじゃ。わしの見るところでは、時期は熟しているようじゃ。もし、この機変が周防様にお出来になるなら、わしが乗り出して、志士達を統制しよう。いざという肝心な時まで、決して暴発させず、かたく手綱を引きしめておこう。どうじゃな」
「ようごわす。もはや機が熟したのではないかという気はわしもしていもす。その含みでやろうじゃごわはんか。わしら二人で背負って立とうじゃごわはんか」
「おはんにその覚悟がある以上、よろこんでやりもす。嘉永以来、夢にまで見た時が来たのでごわす。順聖公のお志を真につぎ奉ることでごわす」
と、まあこんなことだったのではないでしょうか。私のこの解釈は、世間の人々の解釈と違いますが、こう解釈しなければ、あとの説明がつかないのです。
西郷の先発
西郷と久光との問答から、西郷と大久保とが最も重大な相談をし、両人が合意に達したところまでを、西郷の木場伝内あての手紙を主たる史料として、推理と想像をもって補って書きましたが、この事件にはもう一つ史料があります。
それは、明治二十六年十月十六日に、市来四郎が中山中左衛門(中山尚之介のことです。中山は久光の中央乗出しにあたってこう改名し、これまでの名は長男に襲名させたのです)のことを、新尚之介に物語ったのを、史談会員も陪席して速記し、その速記を『史談会速記録十九|輯《しゆう》』に収録しましたが、それです。
原文は明治中期の話しことばで語られていますので、現代の人には少々わかりにくく、また語りっぱなしで語り手市来の整理を経てもいませんので、主客の関係などの不明なところや、意味不明の個所も相当ありますから、私が翻訳します。時々注釈や批評もいたしましょう。
「西郷と御親父《ごしんぷ》さん(中山中左衛門のこと)などとが大議論になって、ついに論が合わず、別れられたそうです。
これから、私(市来)が久光公へこのことについて伺った話になります(明治になってから、市来は久光の命で、『薩藩維新史』とか、『久光公勤王事蹟』とか名づくべきものを書くことになりましたので、折々久光から往時のことを聞いたのです。もっとも、これらの書は完成しなかったようです)。
翌日、御親父さんは、久光公に、前夜の西郷との議論の次第をくわしく報告なされて、『この上は直接にお聞取り下されたい』と申し上げられましたので、久光公がお逢いなさることになったそうです」
ここが先ず違っていますね。久光が西郷に逢うことは、すでに決定されていたことであり、その日も一日おいて二月十五日であったことは、先に書いた通りです。
「当時は二の丸のお住い御殿は造営中で完成はしていなかったので、表御書院(本丸のでしよう)の小座敷に呼んで、西郷にはじめて逢《お》うたとのお話しでございました」
これは或《あるい》はそうかもしれません。とすれば、二の丸住いはまだ触れ出しだけで、この頃は重富屋敷に住んでいたのでしょうか、或は二の丸にある程度の御殿があるので、そこが住いになっていたのでしょうか。こういう点が昔の人の書いたものや話はあいまいなことが多く、後世の我々をじりじりさせます。
久光公は西郷に、先ずこう仰せられたそうです。
『昨晩は中山らと議論が合わなかったそうだが、その方の論をくわしく、腹蔵なく聞きたい』
『さようでございました。少し暴言も申しました』
『それは大略聞いたが、もう一度、直接に聞きたい』
『さようならば、申し上げましょう』
と言って、第一に西郷の申したことは、久光公は斉彬公と違って、地五郎《じごろ》だから、いきなり中央に出て行かれて、天下の大小名を駕御《がぎよ》しようとなされても、出来るものではないということでありましたそうです。そこは西郷だけに、憚《はばか》らず、明白に言ったと、久光公は仰せられました。
西郷はつづけてまた申しました由。
『順聖公の御遺策を御継承になることは、あるいはお出来になるかも知れませんが、天下の人心については、あなた様はよく御承知ありますまい。しかし、今度のおんことは天下の人心の向うところを定めるにあるのでごわす。恐れながら、実に一大事のおん場でごわすぞ』
久光公はこれにたいして、仰せられたそうです。
『その方の申す通りである。拙者が江戸へ出ても、到底、順聖公のおあとを継ぐことの出来ないことは知れ切ったことである。拙者もその方の申すように考えている。だが、その方はどうすればよいと思うか』
この語気には、久光の口惜《くや》しさがにじみ出ていますが、なお精一ぱいにこらえて、何とかして、西郷の同意と協力とを得たいとつとめていることがうかがわれますね。
西郷は言います。
『順聖公の御遺業をお継ぎになって、御実行なさろうとの思召しのほどは、まことに有難いことで、順聖公の御尊霊もさぞかし御満足でおわすこととは存じますが、今日の場合にあたっての御上京は、しばらく御猶予なされたいと存じます』
『そうか、いかにも、拙者がことについて、その方がそう言うのは、もっともなことだ。しかしながら、この度その方を島から呼びかえしたのは、拙者のこの思い立ちに手伝わせ(原文には補佐と書いてあります)ようと考えたからである。であるのに、今日になって上京を猶予せよと言う。それは出来ないことである。すでに幕府への出府願いも済んで、準備もととのい、近日出立ということになっているのだ。猶予することは決して出来ないことである』
「いかにも、拙者がことについて云々」というは、拙者の人物と才幹だけについて考えるなら、その方がその意見に達したのは道理であるという意味でしょう。憤懣と皮肉とに満ちた語気ですね。久光は相当強い調子で言ったようです。「と言い切ったところが……」と、久光は言ったと、市来は伝えていますから。
西郷が申しました由。
『それだけの御決心であられるなら、仕方はございません。しかしながら、御道中には諸国の浪人等が御随行するつもりでお待ち申しているということでございますから、御|障碍《しようがい》になりましょう。とくに丹波浪人の一団がございまして、面倒なことを申し上げるかも知れません。その時の御覚悟はどうなさいますか』
丹波浪人というのは田中河内介とその一党のことでしょう。清河八郎もこれに加えてよいでしょう。田中河内介は但馬国|出石《いずし》郡香住村の出身で、京に出て田中家に養子に入った人ですが、隣国のこととて、丹波浪人と思い違いされていたのでしょう。
『それはずいぶん面倒なことになりそうだな』
『さようならば、恐れながら、私へ御先発を仰せつけて下さいまし。そして、その浪人鎮撫の役目を仰せつけられとうごわす』
『それならば、その方先きへ行って、鎮撫せよ』
『かしこまりました』
と、西郷は言って、先発することになった。そうして、拙者は下関まで陸行し、そこから汽船で大坂まで出るつもりであったから、下関で待ち受けるということに約束した。
その時、西郷が言うには、
『関東へすぐお下りになりますにしても、御滞京になりますにしても、下関で御決定ありたく存じます』
と申して、西郷は二才《にせ》(青年)共一両人召し連れたいと言ったので、それは勝手にするがよい、その方が適当と思う者を連れて行くがよいと拙者は申した。
つまり、西郷は道中で浪士を鎮撫すること、拙者がすぐ江戸に下るか、滞京するかは、西郷と話し合いの上で決定することにして、下関で待合わせる約束をした。
西郷は村田新八、森山新蔵を連れて出立した云々。
以上が、久光から聞いたこととして、市来の語ったことです。
もしこれが久光の真の談話を伝えたものなら、久光は記憶違いをしているか、故意に歪曲しているのです。この談話では、最初に西郷を引見した日に、西郷を先発させることまで話が行ったことになっていますが、そうでなかったことは、先にくわしく書きました。最初の引見の日には西郷は強く反対し、その反対のために、すでに二月二十五日にきまっていた出発予定日を三月十六日に延期し、さらに翌日西郷に直命をもって「参府することを条件として、策を立ててみるように」と通達させ、西郷は上下二策を立てて文書にして提出し、その翌日には届け捨てのまま指宿の二月田温泉に行ってしまったのでしたね。
久光はこれらのことを全部言っていないのです。忘れてしまったのか、故意に歪曲したのかわかりませんが、事実をさぐる史料としては役に立ちません。西郷と久光との心の不熟を証明する史料にはなりますが。
それから、西郷の先発に至るまでの過程が、西郷と久光との直取引きで、いかにもスムーズに行ったように語られていることも、そのままには信用出来ません。こんな風に運んだのであれば、後の久光の激怒は説明がつかなくなります。
こんな史料は、大体において信用出来ない不良史料ですから、歴史学者は思い切りよく捨ててしまうでしょうが、文学者には捨てられません。久光が西郷にたいしてどんな感情を持っていたか、市来四郎が西郷にたいしてどんな心情を抱いていたか、そういうことを窺《うかが》うにはなかなか役に立ちますからね。
ともあれ、市来の史談会におけるこの談話は大体において信用出来ないことがわかりましたから、西郷の木場伝内あての書翰《しよかん》を基本にして、その後の事情の展開を参照しながら、考察を進めて行きましょう。
西郷・大久保の両人が、
「もし世間の討幕気運が熟しているなら、久光の方針を公武合体路線から討幕路線に切りかえさせようではないか。その大事な際まで、諸藩の志士や浪人志士等が勝手な動きをしないように、西郷が身をもって統制することにする」
と相談をきめたことは、先に書きました。
とすれば、先ず久光から西郷の出国許可をもらう必要があります。もちろん、両人の談合の次第を明白に打ちあけるわけには行きません。そんなことをしたら、許されないことは明白です。
大久保から願い出たのでしょうか、西郷が直接願い出たのでしょうか。西郷の木場あての手紙では、ここのところは、「一夕、大久保参り、実に心配いたし居り、いよいよ変を生じ候との趣きを承り候故、やむを得ず、出足仕り候ことにござ候」とだけで、詳細には書いていません。それは両人の談合が談合だけに、大久保の身に災厄の及ぶことを用心してのことと思います。しかし、この書きぶりと、直接西郷と話してきめたという久光の話とを考え合せますと、西郷が久光に拝謁を願い出て、直接許可を得たのではないでしょうか。久光の後年の談話には、ずいぶん過誤のあることは、前述した通りですが、直接話し合ってきめたということまで間違うことは先ずないでしょう。ですから、西郷が久光に直接拝謁を願い出、久光がこれを許し、それから久光との約束があったのでしょう。
ともあれ、西郷は出発して出国する許可をもらいました。その任務は浪人志士等の鎮撫であり、下関で久光の来るのを待って、そこから久光の供をして京都に向うということになったようです。
久光の市来に話したことによりますと、京都に到着して後、久光が江戸に下るか、京都滞在を続けるかは、西郷の判断にまかせて、それは下関で決定することになっていたということになっていますが、これはどうでしょうね。これでは、西郷を重く見すぎます。それほど重く見ていた西郷にたいする、後の処理が苛酷《かこく》にすぎます。これは久光の歪曲でなければ、市来の歪曲であり、或はどちらかの記憶違いでしょう。
私の推察を申せば、西郷が全然久光の思い立ちに好意を見せず、全面的に否定的な意見書を提出して、届捨てで勝手に指宿温泉に行ってしまった時から、久光には西郷を使う気はなくなっていたと思うのです。
「西郷々々と、西郷がいなければ、何にも出来ないように藩中の者が思うとるが、西郷なんぞいなくても、やれるところを見せてやらねばならない」
というのが、この時点での久光の心だったと思うのです。
しかし、西郷が拝謁を願い出、先発して諸浪士を統制したいと願い出ますと、無下《むげ》にそれを拒むことは出来ないと思ったはずです。西郷は先君斉彬の殊遇を受けていたばかりか、この問題についてはその当時大いに働き、全藩の輿望が集まっています。西郷から願いがあった以上、この時点における久光には無下に拒むことは出来なかったはずです。だから、許したのでしょう。
しかし、私は、当時の久光の心理をこう推理しています。
「何とか理由をつけて、下関から追いかえそう。使ってみたが、役に立たなかったということにすれば、藩内も納得するじゃろう」と。
西郷自身は、木場への手紙の中で、藩内が三つに割れている、一派は急進勤王派(誠忠組)であり、一派は漸進勤王派(島津下総派)、一派はお家大事派ともいうべき島津豊後派。自分は島津豊後派をおさえつけること二度、前両派を調和一致させたいとつとめたが、結局はこれが一番久光公に憎まれることになったと書いています。
西郷の主たる目的は両派の調和をはかるにあったでしょうが、島津下総の弟の桂右衛門はこの時南島方面海防総督的役目に任ぜられて、近く奄美大島に行って駐在することになっていましたので、西郷としては島にいる妻子のことを頼む用もあったはずです。かたがた、せっせと下総や桂右衛門の宅を訪れました。両者の邸は隣り合っています。
下総は久光の中央乗出しに強硬に反対した人であり、西郷もまた反対しました。探索方の報告によってこの二人がせっせと往来していることを知って、久光やその側近の中山尚之介等が平心でおられるはずはありますまい。その人々にとって、西郷は最もにくむべき者になったことは最も考えられるではありませんか。しかも、輿論をはばかって、一応は用いなければならないと来ては、一層でしょう。西郷自身も、それはわかっていたと思えて、木場への手紙の後段で、このことを書いています。それは後にくわしく申しましょう。
ともあれ、西郷は鹿児島を出発しました。西郷の出発に数日先立って、森山新蔵が出発しています。久光の話では西郷が選び出して同道したことになっていますが、これは久光の記憶が混乱したので、森山を探索ががりとしてえらんで推薦したのは、大久保だったろうと、私は思います。森山はこれまで大久保とはごく親しいですが、西郷とはそれほどのことはありませんから。
森山新蔵のことについては、ずっと前に述べました。元来は大町人です。従って藩領外に顔がひろいのです。探索役としては最も適材でしょう。大久保はその貧困な頃、森山から時々経済的な援助を受けていますが、西郷にはそれはなかったようです。西郷のうちも貧しいには違いありませんが、安政元年以来は彼は斉彬の寵臣となっていますから、豊かではないまでも朋輩《ほうばい》の援助を仰がなければならないほど窮迫はしていなかったと思われるのです。まして、誠忠組が結成されて、森山と相知るようになったのは、安政四年頃のことであり、その頃から西郷は斉彬の密命を受けて江戸に出て国事運動して国にはいないのですからね。
村田新八をえらんだのは、西郷でしょう。『西南記伝』によると、新八は少年の頃から西郷を尊敬し、この時も随従を望んでやまなかったので、西郷は連れて行くことにしたとあります。西郷はずいぶん新八が気に入ったようで、ずっと後年まで二人は最も親しく、村田はついに城山で西郷に殉じました。
これ以外に、西郷は大島から従僕として連れ帰った宮登喜《みやとき》という青年を従者としていました。大島にいる間、よくつかえて、西郷は気に入っていたので、本人の望むままに連れて帰還したのです。後に沖永良部島から西郷が大島の得藤長《とくとうちよう》という知人に出した手紙の中に、「宮登喜も知っている通り、急しいことばかりで、考えていたことは一つも出来ませんでした。宮登喜の役格のことすら、愚生や親類の働きでは出来ず云々」という意味のことがあるところから見ますと、いずれ大島における何かの役職に宮登喜を推薦するつもりであったようにも推察されます。よほど誠実でもあり、利口でもあって、気に入りの青年だったのでしょう。
西郷はこの時三十六歳、身長五尺九寸余、あの相貌です。「大目玉《うめだま》どん」と人々に仇名されたほどの巨眼です。しかも、真黒に澄み切って、よく輝く目です。村田は二十七、身長六尺、これも炬のごとき眼光をしていたといいますから、二人が連れ立ち、そのあとに宮登喜が従っていく旅姿は、見る人々の目を相当そば立てさせたことでしょう。
二人は肥後の情勢を見、筑後に入りました。どこもかしこも、有志者等の興奮は一方でないばかりか、京坂へ京坂へと、春のつばめのごとく急ぎつつあります。ある程度予想はしていたことながら、西郷はおどろかずにはおられません。
「新八どん、こりゃァお国許で思うた数倍じゃのう」
「ほんとでごわすなあ」
筑前の飯塚《いいづか》まで来た時、森山新蔵が下関の白石正一郎の宅から差し立てた飛脚に逢いました。西郷の木場への手紙には、「飯塚において森山新蔵方より差立て候飛脚へ逢ひ」とだけありますから、藩の定宿に泊まっているところに飛脚が来たのか、路上でばったり逢ったのか、わかりません。飯塚は街道沿いの宿場ですから藩の定宿があったのでしょうし、そこあてに便を出すのが確実に届くわけでしょうが、それならば、「森山の差立て候飛脚届き候」とか「届きをり候」とか、書くのではないかと思われます。「飛脚へ逢ひ」とありますから、路上で逢ったと考えた方が素直なような気がします。どっちでもよいことながら、路上で逢わしたいですね。
「からだの巨きなお人だ。お連れも大きい。一目でわかるから、道中も気をつけて行くように」と森山に言われた飛脚が、二人を見て、
「もうし、お武家様は薩摩様の御家来、大島様(大島三右衛門と変名)ではございませんか」
とたずねてから、そうだという返事を聞いて、手紙を渡したことに考えたいですよ。
あるいは、飛脚は街道の宿場々々の薩摩藩の定宿を片ッぱしあたって来て、飯塚の定宿で西郷に逢った、という意味かも知れません。なるほど、これが正しい解釈でしょうな。しかたはない。こうなると、これに従わざるを得ませんな。
「大急ぎで来ていただきたい。容易ならぬ形勢です」
と、森山の手紙には書いてありました。
西郷一行は道を速めて、二十二日の朝、下関につきました。朝ついたのですから、昼夜兼行して、小倉からは夜舟に乗ったのでしょう。
森山の泊まっている白石正一郎の家は、下関郊外の竹崎にあります。この頃白石は薩藩の御用商人になっていましたが、そのきっかけを作ってやったのは西郷です。この時から五年前の安政四年十月、西郷が斉彬の密命を受けて一橋慶喜を将軍世子に擁立する運動に働くために江戸へ出る途中、偶然のことでここへ立寄った時、白石から、阿波の藍玉《あいだま》商人の暴利の貪《むさぼ》りぶりが憎いから、薩摩産の藍玉を仕入れたいと思う、口をきいてほしいと言われて、家老座書役をつとめている妹婿の市来正之丞へ紹介の手紙を書いてやったのですが、それがきっかけになって、白石は薩藩の御用商人に任ぜられたのです。白石は町人ながら国事に憂心が強く、長州藩の志士らはもとよりのこと、平野国臣をはじめ北九州の志士らもその世話になること多く、またこの海峡を通る志士らは皆その援助と保護を受け、勤王志士のシンパサイザーとして全国に名前の知れていた人物であったことは、皆さん夙《とう》に御承知のことでしょう。
森山が白石の家を宿もとにしていたのは、白石が藩の御用商人だからでもありますが、そのためだけではありますまい。森山と白石とは、ともに大商人として、以前から取引きがあり、従って親しいなかだったと思われるのです。
西郷の木場にあてた手紙の、下関における記述は至って手短です。直訳しますと、
三月二十二日朝、白石へ到着しましたところ、豊後岡藩の人々が二十人来ていましたので、ちょっと面会いたしました。この人々はすぐ大坂へ出船しました。新蔵は船の用意をして、既に大坂へ出船というところへ私は参りついた訳でしたので、あとへ書面一通をのこして、その暮方出船……
とこうです。まことに簡単をきわめていますから、当時の下関の情況や他の史料をもって補って、推理し、想像して、組み立てなければなりません。
紙幅を節約するために、結論的に述べましょう。
西郷は白石とは上述のような因縁があるのですから、積る話があったはずですが、時が時だけにとりあえずの挨拶だけですませて、森山からの報告を聞いたでしょう。
その森山の報告は二種類であったはずです。その一つは森山や西郷等が国許を出発して以後の国許の情勢であったはずです。森山は大富豪で、自由につかえる自らの金をうんと持っていますから、たえず国許と連絡をとっていたに違いありません。
果してそうなら、彼等の出発後、久光は随行の藩士一同に次のような訓令を出していますから、それを知っていたはずです。
「幕府が欧米諸国と通商条約を結んで以来、天下の人心は紛乱して、天下の有志と称する者共が、尊王攘夷を趣旨とする激烈な説をとなえて、四方に相結び、容易ならない企てをしている由で、わが藩中でもその者共と交際を結び、手紙の往復などしている者がいると聞く。ひっきょう、これは勤王の志に感憤してのこととは思うが、諸藩の過激な士や浪人共の企てに引きずりこまれて、軽率なことをしでかしては、藩の禍害となるのは言うまでもなく、全日本の乱れを引きおこして、ついには群雄割拠の形勢となり、かえって外国人共に乗せられることになる危険がある。不忠不孝の大罪悪となることである。
余のこの度の中央乗出しは、公式(朝廷と幕府)のために余が胸中に抱いている微志を実行するためであるから、随行の者等は、前記の者共とは一切交際を絶ち、余の統制に従って動くようにせよ。事情があって絶交の出来ない者は、その旨を申し出よ。訳柄《わけがら》に応じてこちらで処置してやる。道中、あるいは江戸において、前記の者共が面会に来ても、勝手に面会してはならない。やむを得ずして会っても、決して議論の相手になるな。役向きの者に申し入れるように返答せよ。
右のことを納得せず、違反する者は、藩のため、日本のためを考えない者であるから、断然たる処罰をする。右心得よ」
というのが、久光の出した布告です。
西郷は聞いて、「なるほど、久光様もこのすさまじい形勢がわかりなさるようになったのじゃ。しかし、一片の訓令で防ぎがつくと思うておじゃるとすれば、真のわかりようではなか。通り一ペん、表面だけしかわかっておじゃらんような」と思ったでありましょう。
この訓令をよくごらん下さい。寺田屋の事変は、つまりは訓令の末尾に言うところの、「断然たる処罰」であることがわかります。
森山の報告のもう一種類は、下関における色々な情勢――もちろん、それは久光の中央乗出しによって引きおこされた情勢ですが、それについての報告であったはずです。森山は各地の志士等が――九州といわず、長州といわず、土佐の志士等も興奮していると語ったはずです。
「ほう、土州人まででごわすか」
「土州の吉村虎太郎、沢田|慰右衛門《じよううえもん》という人々が、わしをたずねてこの家に見えもした」
「ふむ、それで」
「皆、わが藩の今度の挙のことをくわしく知りたがり、一方ならず覚悟をしている模様に見えもした」
森山はまた長州藩の興奮の有様も語ったはずです。これは『防長回天史』の記述によってわかります。
「わしは長州藩の久坂玄瑞《くさかげんずい》、土屋矢之助、山田亦介、軍艦丙辰丸の松島剛蔵などという人々の訪問も受けもした。皆一通りならぬ覚悟をしているようでごわした」
長州藩が薩摩藩のこの度の挙に一通りならぬ衝撃を受けていることは、この前藩の代表者二人(来原良蔵・堀真五郎)が薩摩に来て、薩摩の真念をただして、討幕のために乗り出されるのであれば、弊藩も事を共にしたいと申しこんだことによって、およそのことは西郷にはわかっていたでしょうが、それでも、時勢はもはや久光様の考えていなさるようなことでは解決出来ない、討幕以外には日本の立直りの方法はないと思わせたでしょう。
それにつけても、西郷は長州藩が藩論として打ち出し、長井雅楽をして朝幕の間を説きまわらせている開港遠略の説とこの動きとをどう調和させるつもりかが不審になって、森山にたずねたに相違ありません。それにたいして、森山は、
「ごもっともでごわす。わしも当地へ参って、はじめてわかりもしたが、長井の開港遠略の説は長州藩内では評判が悪いのでごわす」
と言って、吉田松陰の門下生等がきらって、長井を先師のかたきとまで憎悪していることや、それに動かされて国許の藩政府の要人等も同調しつつあったところに、薩藩のこんどのことがおこったので、忽ち沸き立って来たと観察されると説明したでしょう。森山は学問もあれば、志も高く、大商人として世故にも長《た》けていて、なかなかの人物である上に、白石正一郎と最も懇意でもありますから、長州藩の内情などくわしく聞くことが出来たはずです。
森山はまた平野国臣と豊後岡藩の重役小河弥右衛門一敏以下の二十人が、当家に泊まっていることを語ったはずです。
西郷は平野とは重々の縁があります。月照和尚を保護して薩摩に来たのは平野でありました。月照と相抱いて錦江湾に投身した時、船中にいて救助した一人は平野でした。あの時以来、三年三カ月になりますが、西郷は相見ていないのです。
小河が長州の堀真五郎、肥後の宮部鼎蔵、松田重助等とともに、久光の中央乗出しの真意を知るために、この前薩摩に来たことを、西郷は知っています。小河が小藩ながら岡藩の重役で、こんど二十人もの藩士を同道して下関に来ていることは、岡藩が藩を挙げて動くつもりではないかと思わせるに十分なものがありますが、それも森山は西郷に語ったでしょう。
「平野さんにも会いとうごわす。小河さんとやらにも会いとうごわす」
と、西郷は言ったはずです。
小河が同藩の高野真右衛門とともに、肥後藩の有志代表宮部鼎蔵・松田重助、長州藩代表の来原良蔵・堀真五郎等と、同道して薩摩に入国して来たことは、先に書きましたが、この人々は海路から薩摩の西海岸の市来《いちき》港に入ったのです。その節、大久保は藩政府と相談して、有馬新七・田中謙助・村田新八の三人に命じて応対させました。三人は藩政府の旨をふくんで、
「久光のこんどの東上は三つの用件のためです。一つは藩主忠義が病気のため久しく参覲の礼を欠いていますので、その代理、二つはこの度藩邸焼失にあたって、幕府から莫大なお見舞金をいただきましたので、そのお礼言上のため、三つは藩邸造営の監督のためです。以上のほかには、何の趣意もありません」
と、説明したのですが、この三人は誠忠組の激派中の激派です。そのような三人を特にえらんで応対役とした大久保の心事、村田を同行者として連れて先発した西郷の心事には、何か共通するものが窺われますね。寺田屋の事変には、従来の通説では解釈のつかない、微妙なものがあるとは、お考えになりませんか。
さて、応対役の三人は、上述のように藩命による公式な説明をした後に、次のように言ったに違いないと、私は推察してします。
「以上は藩庁からこう言えと申されたことでござるから申しました。拙者共の存念は別でござる」
と前置きして、久光のこの度の東上はいつもの参覲の例と違って、多数の兵をひきいており、兵器、糧食も多量に準備しています。兵器は大砲まで持って行きます。とうていいつもの参覲とは考えられません。藩内でも志がありながら随従に漏れた者共は脱走して駆け上る決心をしているほどでござる。と説明した上で、こう結論したに違いないと思います。
「あるいは久光とその側近等の抱いている目的は、勅命を申し下して、幕政を改革することによって、朝幕を和親させ申し、皇国を挙国一致の体制にしようというだけのものかも知れませんが、拙者共同志は、日本がそれで済む時期は過ぎたと思っています。されば、久光が京へ出たらば、拙者共の是と信ずる方向へ久光を引っぱって行くつもりしています」
これはもちろん、私の推理ですから、そっくりこのままの言葉ではなかったろうことは言うまでもありませんが、こうとしか意味のとりようのないことを言ったに違いないと信じています。有馬新七であり、田中謙助であり、村田新八なんですからね。
やがて、村田は西郷とともに大坂から鹿児島に送りかえされるのですが、有馬と田中とはその直後におこった寺田屋の事変の主謀者なんですからね。この三人を大久保が応接役にえらんだこと、村田を西郷が同伴者にえらんだことも考え合わせたいのです。どうしても、この時にこう言ったはずという推理が出て来ずにはいません。
この時の応接のことを、道中、村田は西郷に語ったに違いありませんから、西郷はそれを心において、小河等に会ったわけです。
先ず平野に会いました。当然、足かけ五年前の月照事件の時のことに触れて、西郷は礼を言ったでしょう。やがて話が即今の時勢のことになりますと、西郷は、
「五年前に死ぬべき命を今日まで借りていたのでごわす。こんどはその借金払いをしもす」
と言って、慨然たるものがあったと、『防長回天史』にあります。『回天史』の記者は同藩士山田亦介が探索方から聞いた報告をもとにして、この記述をしているのです。西郷の木場伝内への手紙には、
「関(下関)にて、筑前浪人平野次郎と申す者、これは以前月照和尚の供をいたしてお国元へ参り、臨終の時に同じくまかりあり候人にて、それより方々へ徘徊《はいかい》いたし、周旋奔走、勤王のために尽力いたし、艱難《かんなん》辛苦を経候人にござ候。右の者、至極決心いたし居り候故、またそなたと死を共に致すべき我等に相成り候。いづれ決策相立ち候はば、共に戦死いたすべしと申し置き候」
とあります。五年前の借金払いをするという言い方は、薩摩人的言いまわしです。薩摩人で多少なり豪傑の気を持つ者は、よくこんな豪快な表現をするのです。木場への手紙では、それを具体的に説明したので、同じことを言っているのです。
薩摩ブロックと長州ブロック
前に書いたと思いますが、小河《おごう》弥右衛門一敏は、豊後の岡藩で五百石取りの武士です。岡藩は七万石余という小藩です。こんな藩で、五百石とっているとあっては重臣クラスです。それが二十人も藩士をひきいて、久光の挙に合流するつもりで出て来ているのです。『防長回天史』は、岡藩は家老・重臣の中にも多数の同志があり、藩を挙げてこの運動に投ぜんとする形勢であると書いています。ですから、小河ら二十人は先発隊で、小河はその先発隊長だったのでしょう。
西郷は小河に会いました。長い島住いの後、働き場を得て、よほど西郷は英気にあふれていたのでしょう、小河は西郷のことを、郷里の同志にこう書き送っています。
「この大島はもと西郷吉之助といい、月照和尚とともに投身したのを引上げられて蘇生した男ですが、さてもかほどの勇夫、大胆の人が、今の世にあろうとは思われないほどの人柄です。平野は西郷が投海した時同船していた人ですから、西郷とはごく親密です。西郷はその後菊池源吾と改名しましたが、今また大島三右衛門と改めています。森山(新蔵)は小生以前から交際があります。中々の勇士で、しかも方略もあるようです。村田は先日薩摩に参った時、かの国の市来駅で、有馬(新七)、田中(謙助)等に付添って来ましたので、はじめて会う人物ではありません。三人とも皆腹蔵なく申し談じました。大島とはとりわけさし含んだ話をしましたが、くわしく書くにははばかりがあります。きわめて大事をなし得る人物と思いました。かかる勇士もあればあるものと感心しました。しかも、猪《いのしし》武者ではありません」
また別にこう手記しています。
「今度、平野は下関の白石宅で、久しぶりに西郷に会ったわけである。平野は西郷と会った時のことを自分に語った。曰《いわ》く、予想した通り、西郷の態度には、今度の大事に全身をもってあたり、勇決すべき覚悟が言外に看取されたと。自分もはじめて西郷に会ったのだが、まことに勇威たくましく、胆略世にすぐれたる風貌で、今の世にこんな人があろうとは思われないほどであった」
この小河の手記を精密に読みますと、西郷はことばとしては、久光を擁して討幕の挙をなすとは言わなかったようです。しかし、語調と語気と態度とに、久光の中央乗出しを日本の救国の挙とすることに死を決してあたろうとの覚悟がうかがわれたと、平野から聞いたのですね。先に『防長回天史』の記述をあげて、
「西郷は、平野に、『五年前に死ぬべきいのちを今日まで借りていたのでごわす。こんどはその借金払いをしもす』と語って、慨然たるものがあった」
と書きましたが、つまり、それなんですね。
平野や小河一敏らは、すでに注文してありましたので、その船ですぐ大坂に向いました。
長州藩の応接役山田亦介も、西郷に会いに来ました。山田は、長州藩が薩摩のこんどの動きを知ると、他藩応接役という名目で下関へおいた人物です。
長州藩は本来幕府にたいして最も深刻なうらみを持っている藩です。関ヶ原役で、この藩は西軍の主将に祭り上げられて、関ヶ原に大軍を出しはしましたが、毛利家の一族で、支藩主である吉川広家の働きで、東軍に志を通じ、毛利輝元は大坂に居すわって戦争に出ず、軍勢は高い山上にひかえて動かなかったのですが、吉川広家と家康との約束を信じ切っている輝元が、戦後大坂城を出て家康の許に伺候しますと、家康はにわかに約束にそむいて、毛利家を百二十万余石から三十六万九千石に削って、芸州広島から長州萩に移しました。実に身代が三分の一になったのです。この点、伏見城攻め、合度《ごうど》川の戦い、最後の関ヶ原の決戦と、いずれも最も勇敢に猛戦した薩摩が一合も削られなかったのとは大違いです。
三田村|鳶魚《えんぎよ》老は、長州には年頭に秘密の儀礼があって、家老が藩主の前に出て、「今年こそ関東御征伐を」と言上すると、藩主は「いや、まだ時機が熟さぬ、機会を待とう」と答えることになっていたと言いました。私は信じません。江戸初期から幕末の文久元年(一八六一)まで、長州藩は至って幕府に従順忠誠です。長州藩に限らず、どこの藩も、たとえ関ヶ原役で徳川家の敵にまわった藩、薩摩でも、佐竹でも、京極でも、いずれも従順です。関ヶ原で敵にまわった外様藩は、ずっと徳川氏を敵と見てひそかに復讐《ふくしゆう》の刃をといでいたなどというのは、薩・長によって徳川氏がたおされた後に出来た、小説的発想にすぎません。それほど幕府の威力はすさまじかったのです。
ですから、長州藩も長井雅楽の開港遠略の説を藩論として、朝幕に説いて、朝幕を和親融合させることによって、日本の挙国一致をはかろうとしたのです。
長井の説は、はじめなかなか好調子だったことはずっと前に申しましたね。朝廷でも公家はもちろん、天皇様まで好意をもって迎えられ、天皇様は御製を毛利慶親に賜い、正親町三条実愛は歌を長井にあたえて、嘉賞し、この上とも皇国のために努力するようにと言葉をそえ、幕府でも老中中の第一の手腕家とされていた安藤信睦が大いに長井の説が気に入り、全面的に支持して、朝幕の間の運動を委嘱したこと、だから、毛利慶親も、自ら運動に乗り出すために長州から出て来たことなども前に述べましたね。思いおこしていただきましょう。
このように、長井の威勢と評判とは天下の有識者の間に最も高いものになりました。薩摩の誠忠組の幹部である堀次郎は、長井の評判が最も高くなった頃の文久元年初冬に、久光の中央乗出しの準備のため――藩主忠義の参覲延期、久光の江戸城内における資格獲得のために、江戸に出て、運動をはじめたのですが、長井の評判が余りに高いので、長井とコネクションをつけておくことが、薩摩の利であると判断して、長井を訪問して、長井の開港遠略の説を激賞して、
「わが薩摩の藩論も、貴説と全然同じである」
と述べました。
薩摩ほどの大藩――しかも、富強天下に鳴っている藩が、わが説と同じであるとあっては、長井としてうれしくないはずはありません。一層勢いを得て、京都朝廷にたいしては、薩藩も同説であると申していますと、説き立てたのです。
ところが、人気というものほど、たよりないものはありません。長井の人気がガタ落ちして来たのです。その動機となったのは、坂下門外で長井の説を最も買っていた安藤信睦老中が攘夷浪士らに襲撃されて負傷したことにあることは前に述べましたが、なお考えますと、時期的には文久二年になって間もなくの頃、先ず天皇が公武和親、挙国一致は大いに結構だが、開国などは大きらい、まがりならんと仰せ出されますと、公家連中がなだれを打って、開国はいかん、欧米人と交際するなど、もってのほかのことだと言い出し、民間の攘夷志士等も勢いを得て、
「至尊は欧米が大のおきらいでおわす。しかるを、長井雅楽はその欧米と交際通商することが日本国のこれからの途《みち》であると申す。必定、通商条約を結んで、朝廷の御許可がないので、困《こう》じ切っている幕府のために、朝廷を蕩《たら》し申すことによって、幕府の機嫌をとり、おのれの栄達の途を開こうとの根性にきまった。大姦物である」
と言い立てたのです。
どういう次第で、こんなことになったか、考えてみましょう。表面にあらわれたところでは、坂下門外の変につづいて孝明天皇が御変心なさったのが震源のようですが、実際は浪人志士らが震源でしょう。この人々が、島津久光の中央乗出しを、故意か、誤解か、尊皇攘夷、討幕の挙をなすためであると信じこみ、これに合流しようと動きはじめたのを、公家らの密奏によって天皇が御承知になったので、一旦あきらめておられた欧米嫌いがよみがえったのだろうと、私には思われます。
元来、長井の藩である長州では、故吉田松陰門下の人々は、長井をきらい、長井の説には相当強烈な否定論を抱いていたのですが、こうなりますと、動き出さずにいません。その上、真木和泉守の高弟|淵上《ふちがみ》郁太郎が、真木の命を受けて、牟田《むた》大助と変名して萩に来て、久光の中央乗出しのことを語り、これに応じて九州では全九州の志士群が、中央では田中河内介と清河八郎とが同志を集めて立上りつつあると説き立てたのですから、その動きは最も活発になりました。国許の藩の要路に、大いに説き立てました。要路の中には、以前から長井の説にたいして批判を持っている人々もいましたから、これらが先ず説き伏せられて、長州藩は急速に態度を改めました。来原良蔵と堀真五郎とを薩摩につかわして、久光の中央乗出しの真意を質問したことを、前に述べましたが、それが第一手で、第二手が他藩応接役という新しい役目を設けて、山田亦介を下関に駐在させたことです。
山田と西郷との面会の次第は、『防長回天史』に、山田の筆記を引用してこう書いてあります。先ず山田は西郷にこうたずねました。
「京都へはいかほどのご人数をご手配なさることになっていますか」
「総数では千人ほどでござる。二百人ほどは早船にて先発させ、久光は八百人ほどをひきいて国許を出ますが、うち二百五十人は当下関へとどめおき、五百五十人をひきいて蒸気船をもって東上し、室津《むろのつ》と兵庫の間で上陸し、蒸気船は当地にかえして、のこしおいた二百五十人と入用の品々を積んでまたのぼる手筈になっています。京都においてのことは、久光が上京して、情勢に応じて駆引きするでありましょう」
そこで、山田はこう言いました。
「これは強いてはお願い申すことは出来ませんが、一応折入ってお願いしてみます。実は弊藩においては藩主が唯今江戸にいますので、国許の政府だけの判断でご加勢ご一味などいたすわけにまいらず、まことに残念なことでござる。しかしながら、安政五年(一八五八)以来、兵庫の海辺九里の間は弊藩の守衛区域になっていますから、ここへの出兵はしてよいことになっています。つきましては、久光様のご上京をいくらかでも遅くするようにしていただくことが出来ますなら、江戸表に急使を派して、藩主の指図を受けることが出来まして、弊藩としてはまことに都合がよいのでござる。申すまでもなく、ご既定のご方針をお改め下されよとお願い申しているのではございません。江戸表の主人のことを痛心して、ご相談に及んでいるのでござる」
山田のこのことばを、よくよく玩味していただきましょう。久光の中央乗出しを討幕のためと信じこみ、藩をあげてそれに同調したいが、そうするには江戸に釘《くぎ》づけになっている藩主のことが心配でならないという心がよくわかりますね。
寺田屋事変は、薩摩人が主動者であり、薩摩人のために薩摩人が犠牲者となったのですが、長州藩も重大な関係があったのです。もっとも、西郷は久光の上洛については久光は決して討幕ということまでは考えていないとは申しませんでした。討幕がその目的であると申すことはしませんが、否定もしなかったのです。公武合体などのことでおさまる形勢ではない、必定、討幕の挙まで行くにちがいないと見ているのですから、それは当然でしょう。
しかし、それはさておき、西郷は答えました。
「拙者に引きとめのご相談をかけていただきましても、久光の出発を延引ということは出来ません。しかしながら、久光の上陸を、兵庫からとせず、室津《むろのつ》あたりからとしますれば、京都到着は一両日おそくなりますが、その程度のことは出来るでありましょう」
山田はこの対談の次第を文章にして、藩政府に報告していますが、その末尾に次のような見解をつけ加えています。
「久光は六、七分の勢いであるが、大島(西郷)は十二分の勢いをふくんで、まことに先鋒《せんぽう》暴発の謀主で、久光の意向とは別に、いつでもことを起すかも知れない」
西郷は間もなく浪人共や若い藩士らを煽動して、久光の滞京をはかったと久光に怒られ、国許に追い返され、つづいてまた南島に流されるのです。滞京とは、滞京して勅を請下するということであり、その勅とは討幕の勅ですから、つまり討幕の挙に追いこもうとしたと怒られたのです。これについて、西郷は、自分はちゃんと藩籍のある人々には、長州藩士をはじめとして会ったが、浪人などには全然会ってもいない、また藩の若い連中にたいしては、京都藩邸や大坂藩邸のおえら方は皆こわがって、いいかげんなごきげんとりな言辞を弄しているばかりなので、その人々に頼まれて、叱りつけ、おさえつけていたのだと、弁解しています。
たしかにそうであったと言えないことはありませんが、西郷があの風貌で、しかも十分な勇気をふくんで、断乎たる調子で言えば、「やるに違いない」と、人々が思いこんだのは、無理はないでしょう。寺田屋事変がおこったについては、西郷もかなりな責任がありましょう。
西郷がこの日の朝方下関へ到着する以前、森山新蔵は西郷の着否にかかわらず、夕方には大坂へ向けて出帆するつもりで、船の用意をしていましたので、西郷は村田とともに、その船に便乗して、大坂に向いました。
出発に際して、西郷は、藩が下関に買い入れている兵糧米三万石を通知次第大坂に送るように、さらに国許からなお三万石到着するはずだから、これも汽船に積みかえて大坂に送るようにと、白石正一郎に申しふくめました。『防長回天史』にそう記述してあります。『防長回天史』は、白石から聞いて書いたのでしょう。
西郷ら三人は、三月二十七日に大坂に着きましたが、藩邸へは顔を出しただけで泊らず、加藤十兵衛という人の家を宿元とすることにしました。西郷の木場伝内あての手紙に森山の案内で加藤家に行ったとありますから、森山の商業を通じての知人で、大坂の富有な商人であったと思われます。藩邸に泊らなかったのは、当時京坂の地には、久光上京のうわさに感奮して諸方の志士らが多数集まり、その一部は藩邸の一つの二十八番長屋に収容されていますので、藩邸に泊っては押しかけられて、ことめんどうと思ったのだと、私は解釈しています。
西郷はこの家に三日泊りましたが、外出時には必ず編笠をかぶりました。一つには四年前の安政大獄に幕府のお尋ね者になり、それがまだ解除されていなかったためであり、二つには諸方の志士らの目を避けるためであったようです。志士らには、急所々々の人に会っておけばよいので、無暗に多数の人に会っては行動の自由を束縛されるだけと思ったのでしょう。三日の大坂滞在の間に、長州藩の大坂藩邸留守居の宍戸九郎兵衛と会い、さらに久坂玄瑞に会っています。
宍戸九郎兵衛は、長州要人中の急進派の一人です。この時五十五歳、体格肥大の人だったそうです。久坂は吉田松陰門下で高杉晋作とならんで連璧《れんぺき》と称せられた人、従ってはじめから長井雅楽の開港遠略の説には最も辛辣《しんらつ》な否定説を抱いていましたので、久光の中央乗出しのことを聞くと、鋭意、要人らの説得にかかり、宍戸・|周布《すふ》政之助・家柄家老の浦靭負《うらゆきえ》などの人々を説き伏せたのです。ですから、宍戸の方から、久坂に会ってくれよと、西郷に言ったのでしょう。西郷としても、すでに長州藩政府代表の宍戸と会って諒解を得た以上、その藩の有志代表である久坂と会うことは最も必要と思ったはずです。
久坂はこの時わずかに二十三歳、色白で、長身の美青年だったそうです。会うや否や、長井雅楽のことを話題にして、
「弊藩からかかる姦物を出しましたことは、天下に申訳がござらぬ故、我では貴藩と事を共にして、名誉の回復にかかりたいと思うのです」
と言いました。
「貴藩は長井をどうなさるおつもりです。長井は姦論を唱えて、天下を惑乱しているばかりでなく、黄白を散じて堂上方をまどわしていますぞ」
と、西郷は受けました。西郷は利欲に心を奪われた人間を最もきらった人ですから、長井がそう言われているので、姦人として心からきらったのでしょう。長井には気の毒です。
久坂の若々しい顔には血の色が潮《さ》して、はげしい調子で言います。
「斬ります。我々の同志の間でそれを進めつつあります」
「それがよろしい。そうなさって、はじめて帳尻《ちようじり》が合います」
と、西郷がうなずきますと、久坂はまた、
「必ず斬ります!」
と言いましたが、藩意識の強い時代ですから、口惜しくもあったのでしょう、こう言いました。
「長井の姦悪は言うを待ちませんが、その長井に、貴藩の江戸留守居堀次郎殿が同調して、長井を深く信仰して、長井を訪問して、薩摩侯も全然同意であると申しておられます。長井はこの旨を朝廷への上書に書きのせています。これは一体どういう算用になるのでしょう」
西郷はおどろきました。
「堀は拙者共の古くからの同志で、安政以来ずいぶん国事に働いている者ですが、それは本当でごわすか」
「本当です。拙者は長井のその上書の写しを見ています」
西郷は勇気最もたくましい男ですが、最も良心的な性質でもあります。その勇気は、内に省みてやましいところがなく、わが心は皓々乎《こうこうか》として氷雪よりも潔白であると信ずるところに生じたもののようですから、久坂のことばは大変な衝撃だったでしょう。
「よう教えていただきもした。心から礼を申し上げもす」
と言っています。
この時点に、大坂に集まっていた全国の志士らはおびただしいものでしたが、大別して薩摩ブロックと長州ブロックとすることが出来ます。
薩摩ブロックの中心である藩士らは、中之島のはたご屋魚太《うおた》に屯《たむ》ろしていました。久光はまだ到着しませんから、国許から上って来る連中のほとんど全部はまだ道中にあって、ここに屯ろしているのは、江戸から馳せ上って来た藩士等です。すなわち、江戸藩邸の糾合方(図書係)として、つい一、二カ月前に国許から出て行った柴山愛次郎・橋口壮助を中心にした人々です。名をあぐれば、橋口伝蔵・弟子丸《でしまる》竜助・西田直五郎・木藤《きふじ》市助・町田六郎左衛門・河野四郎左衛門・伊集院直右衛門・益満《ますみつ》新八郎(後休之進)等です。支藩である日向佐土原の藩士らもいます。富田孟次郎・池上隼之助等です。数日後には久光のお供人数に漏れたために脱走して来た人々も加わりました。森山新五左衛門・坂本彦右衛門・指宿三次・山本四郎・大脇仲佐衛門・美玉三平の六人です。この中の森山新五左衛門は新蔵の長男で、大柄で、花のように美しい二十《はたち》の青年だったと伝えられています。
浪人志士らは、蔵屋敷の二十八番長屋にいました。田中河内介父子・清河八郎・伊牟田尚平らです。この人々は最初京都の田中河内介の宅にいたのですが、京都町奉行所が目をつけはじめたので、大坂の薩摩藩邸の留守居に自分等を藩邸内に引取ってもらいたいと交渉しましたが、留守居は拒絶しました。すると、この話を聞いた堀次郎(堀はこの頃、江戸から京都に出て来ていたのです)が、「彼らはこんどのことの道具に使うのでごわすから、ひとまとめにしておいた方がよろしい。責任は拙者が負うから」と言って、留守居を説得して、二十八番長屋に収容することにしたのです。こんな訳ですから、最初ここにいたのは田中河内介・清河八郎二人の系統の浪人志士だけでしたが、間もなく、真木和泉守門下の久留米藩脱走の人々、平野国臣・小河一敏以下の豊後の岡藩士ら、秋月藩士ら、熊本藩士らも入って来ました。つまり、浪人志士と九州諸藩の藩士らがいたわけです。真木和泉守が筑後水田村の幽所を脱走して薩摩に入り、久光に建白書を差出したことは前に書きましたが、薩藩では真木を軟禁して国外に出しませんから、この時はまだ来ていません。
以上が薩摩ブロックの人々です。
長州ブロックは、藩士も他藩人も、全部その蔵屋敷にいました。藩士としては久坂玄瑞・寺島忠三郎・入江九一・品川弥二郎らの旧松下村塾の人々をはじめとして約二十人、他藩人としては――他藩人といっても、土佐藩の郷士連中だけですが――吉村虎太郎・宮地|宜蔵《ぎぞう》・吉村|縁太郎《えんたろう》ら小人数です。このほかに、宍戸九郎兵衛が国許から二十人ほど呼びよせて手許におき、また家老の浦靭負が百余人の兵をひきいて来る手筈になっており、それは実際に来るのです。
以上が長州ブロックの人々です。
『防長回天史』に、
「当時、諸藩の志士、大坂に来集するもの、その数三百人を下らず。島津氏一たび動かば、すなわちまさに相呼応して起たんとせり」
とありますが、実際、緊迫し切っている情勢だったのです。
西郷は中之島の魚太にいる江戸から駆上って来た藩士らの領袖《りようしゆう》である柴山愛次郎と橋口壮助とには、もちろん会って、
「わしが出て来たのでごわす。わしを信じて、わしにまかせてもらいとうごわす。おはん方の志を最も見事な形で生かして上げもす。それまでは決して軽挙してはなりもさんぞ。ようごわすな」
と説きました。この人々は西郷を信ずること最も厚いのです。おまかせしもすと答えました。
西郷は二十九日には、伏見に上って藩邸に入っています。ここの留守居の本田弥右衛門親雄は、誠忠組の古い同志で、西郷を深く敬愛していますので、よろこんで迎えました。
西郷は、早速久坂から聞いたことを語って、長井の朝廷へ差出した上書の写しを、近衛家にでも頼んで、手に入れてほしいと頼みました。その写しを本田は持っていました。藩邸の留守居は外交官でもありますから、風説やこうした文書類は、手をつくして集めるのが職務でもあったのです。
「写しはもうここにごわす。その話は確かでごわすぞ」
「そらよか都合じゃ。見せて下され」
上書の大意はこうです。
幕府従来の朝廷にたいする処置はまことによくありませんでしたが、今では幕府も後悔して、改めると申しています故、必ず改めさせます。
つきましては、これまで度々私が申し上げました趣旨により、開国の大国是を確立し給うて、開港を勅許いたされたく存じます。そうしていただきますなら、幕府を説いて、忠順の意の表明として、直ちに安政大獄における堂上方の御|冤罪《えんざい》を解き、諸大名の処罰も解かせましょう。
右の説には、薩摩藩も全面的に同意でありますから、この書も薩摩侯と連名をもって差上ぐべきですが、急なことで運びがととのいかねますので、単記にいたしました。このことについては、くわしくは薩摩の役人堀次郎を召出して、お聞きとり下さいますよう。
久坂の言ったことは本当だったのです。
本田はさらに、堀が朝廷から召されて出頭し、公卿らの質問を受けたことを語りました。
「そうでごわすか」
と、西郷は嘆息しました。
堀は誠忠組の中では、大久保にならんで才のある男です。藩から選ばれて昌平黌留学生となっていたほどですから、学問については誠忠組では第一人者だったでしょう。斉彬の命を受けて西郷が、越前藩の橋本左内と手をつないで、一橋慶喜を将軍世子にする運動をした頃には、堀を助手にしました。有村俊斎も当時江戸にいたのですが、頭脳を要する仕事には、俊斎は向かなかったようです。その後の密勅請下運動にも、水・薩連合(桜田事変となったあの連合)にも、最も精力的に働いたのは、堀と有馬新七だったのです。それほどの堀が、どうしてこんな浅墓なことをしたのかと、疑いなげいたのです。
「堀どんは才子じゃ。才を弄《ろう》しすぎている」
と、結論しました。
当時、伏見の藩邸(薩摩藩では伏見のお仮屋といっています)にも、京藩邸にも、相当数の若い藩士がいます。この人々は京都とその近くにいて、激動する情勢を日夜に見ていますので、最も尖鋭的になっています。久光が自らの中央乗出しのことを藩士らに布告した文書には、その目的は、「公武のためにいささか微衷《びちゆう》を抱いて東上する」とだけ説明しています。久光としては、「公(朝廷)・武(幕府)のため」と言っているのだから、十分にわかるはずであると思ったのでしょうが、人間には自分の欲しないことは認めたくない心理があります。若者らは時勢に激して、幕府の存続を認めたくないのです。幕府は解消して、朝廷だけを中心とする国柄に日本をしたいのです。天下の輿論もそうなっていると信じているのです。ですから、久光の中央乗出しは、公武合体の運動をするためではなく、勤王討幕の挙をなすためであると信じたいのです。こんな心理の者にとっては、「公武のためにいささか微衷を抱いて東上する」というような説明では、決して決してわかりはしないものです。彼らは自らの好きに解釈するのですが、それでは何となく落ちつかないので、藩邸の上役の者や、この少し前に江戸から京に上って来た堀次郎らをつかまえて、幾度も問いただし、議論を吹っかけるのですが、誰もはっきりした返事をせず、若者らの猛気におびえて、きげんをとるようなことばかり言うのです。もちろん、かんじんなところはあいまいなのです。皆じりじりしていました。
西郷が来たのは、こういう時でしたので、若者らは皆西郷に面会をもとめて、食ってかかるような調子で議論を吹っかけました。
「我々はもう幕府などというヌエ的なものを認めんのでごわす。しかも、今や無用有害なものとなっているのでごわす。従って、公・武合体などということも認めもはん。わが皇国には、建国以来、不動の中心である皇室があられもす。これを中心にして挙国一致するのが、筋道でもあれば、効果もあると考えもす。すなわち、勤王第一義、幕府は打倒すべきものと心得もす。先生のお考えはどうでごわすか」
西郷は持ち前の巨眼を真直ぐに相手にむけて、答えます。
「どげん正しか意見じゃからとて、時《じ》・処《しよ》・位《い》の条件をかまわんで押そうとしても、出来るものではごわはん。これを一切かまわず主張するのは空論でごわす。すべて物事には段取がごわす。勢いがごわす。それを十分に考えて、どこを押せばどうなる、どこから手をつけてどう進むと、確かな見きわめをつけた上でなければ、やれるものではごわはん。おいどんが出て来たのでごわす。おいどんにまかせて、おとなしゅうして待っておじゃれ。必ず見事な死に方をさせてあげもす。もちろん、おいどんも死にもす。あせって軽はずみなことをするのは、真の勇気のなかもののすることでごわすぞ」
西郷のことばにも、久光の上京の真の目的は語られていません。久光が公・武合体運動によって公・武を融和させて、日本を挙国一致の体制にするとしか考えていないことは、西郷はよく知っています。しかし、同時に、情勢上、そこでは止まれず、討幕にまで行かなければならないであろうと信じ、そうあらせなければならないと思っているのです。けれども、この際としては、はっきり言うわけに行かないのは当然なことでしょう。
しかし、人々は西郷が決してウソを言わない人間であることをよく知っています。凄まじい覚悟をきめているらしいことも心に響くものがあって、よく感知されます。すべてをまかせ切る心になって、一切をおまかせして決して勝手な動きはしませんと誓いました。
このへんのくだりを、西郷は後に木場伝内への手紙にこう書いています。
「浪人共は、始終、私がおさえつけて動かしませんでした。又、年若な者共を私が煽動したと久光様はご立腹ですが、煽動どころか、私は先生方(藩邸の上層役人や堀次郎らのこと)から、若者共にかように言ってくれ、こんなことはしないように訓戒してくれと、いつも頼まれては、叱りつけていたのです。先生方は若者共にすら十分にはものを言うことが出来ず、唯一身の安全だけを考えて、偽謀をもってごまかしておられたのです」
ある日、堀が伏見へ参りました。堀としては、多年の盟友であり、兄貴分である西郷が島から召還されて、再び自分らと共に国事に働くようになったことがうれしくもあり、相談したいこともあって来たのでしょう。
前掲の木場伝内あての手紙の別なところの記載によりますと堀は、西郷に、
「久光様は京都に御到着になって、朝廷方面に運動なさった後、関東へお下りになるご予定でごわすが、それは考えものでごわす。京都に長くご滞在あって、ご尽力遊ばすべきで、関東などへお下りになっては、何にもならない」
と語っています。とすれば、堀もこの時点では、討幕に持って行くつもりだったのですね。西郷はこれにたいして相槌は打たなかったようです。長井雅楽にたいして、その説に薩藩は全面的に同意だと言い、それについて朝廷から呼ばれて行って、長井説に同意であるかの如く、不同意であるかの如く、あいまいなことを言ったに違いない堀に強い不信感情があったのでしょう。
やがて、様子を改めて言いました。
「堀どん。おいは長州の長井が朝廷に差し出した上書を見たど」
堀は赤面しました。彼は利口者ですから、功をあせって、時運に乗りおくれまいとして、長井のところへ行ってあんなことを言ったのですが、長井の評判がガタ落ちした今となっては、自らの早計を大いに後悔していたのです。
西郷は巨眼でにらみすえて言いました。
「おはんはなぜそげんことをしたのじゃ。長井の説と久光様の説とは、一見同じのようじゃが、大事の点が違うぞ。長井の説には朝廷尊崇の念が薄い。ないといってもよかほどじゃ。彼が論を割り出して来るところは、すべて当面の政策であり、当面の幕府の都合じゃ。その上、当の長井は自身の功業と自身の栄達とだけを考えとる人物じゃ。このような心事は姦悪の徒の心事じゃ。おはんほどの人がここに気づかんはずはなか。なぜ長井に同調召したのでごわす?」
堀は青くなり、赤くなり、うろたえながらも、弁解をこころみます。
「わしは真に長井に同調したのではごわはん。和宮様の御降嫁以来、公武合体の気運が大いに高まり、長井の説は大へんな勢いになりもしたので、これにわが藩が全然あずからんでは、せっかく久光様が出てまいられても、長井の下風に立たんければならんと思い、公武合体にはわが藩も同意であると申したまでのことでごわす。決して心からの同意ではごわはん。拙者の真の志は、久光様のご着京を待って事を挙げようと張切っている諸方の有志らを、拙者の計らいで、大坂藩邸に収容していることをもって知って下されよ。留守居方は皆不承知でごわしたのを、拙者が全責任を持つと言うて、納得してもろうたのでごわす」
西郷は首をふった。
「益々いかん。おはんは、あの衆は道具じゃから、道具箱に納めて手許におくのじゃと言いなさったじゃろ。仮にも有志の人々を、道具とは何ちゅう言草でごわす! おはんは昔と人が違《ちご》うて来たな。おはんのやり方は、いずれも人を欺く術策でしかなか。術策で天下のことが成ると思うていなさるのか。大体、人が術策を用うるのは、勇気がなかからじゃ。自分の身が恐ろしゅうなるから、術策に頼ろうとするのじゃ。天下のことは誠心をもってすべきであり、また誠心でなければ成りはせん。誠心をもってするならば、たとえ仕損じても、感憤して統《つ》いで起《た》つ人が出て来る。あっちをだまし、こちらを欺くというような卑劣なやり方で、天下のことが成るものか。今後は一切そげん術策はやめなされ」
堀は一言もありません。西郷はつづけます。
「この上、おはんが長井などという大奸物と同調するなら、そのままではおけん。長井は長州の有志者諸君が討つことになっているから、こちらも亭主ぶりにおはんを料理せんければならんのじゃ」
西郷がここまで言った時、興奮のあまり、村田新八が、
「その時はわしがやります!」
とさけんで、火の入った火鉢を堀の前に投げつけました。堀は真蒼《まつさお》になって、ただすくみ上るばかりだったと言います。
禍 の 種 子
西郷が伏見に上り、堀次郎が長井雅楽に|おべんちゃら《ヽヽヽヽヽヽ》を言って同調の意を表したことを叱りつけたというところまで書きましたが、ここで話題を薩摩本国へ転ずる必要があるようです。
久光は三月十六日に鹿児島城下を出発しました。出発に際して、従士らに訓戒の辞をあたえたことは、西郷と森山との下関の会話のおり書きました。
『久光公実記』は、その出発を、「小松帯刀、中山尚之介、大久保一蔵等、扈従《こしよう》する者上下千有余人」と、ごく大ざっぱな書き方をしていますが、市来四郎の講演筆記にはこうあります。
「岩下方平さんと町田久成さんが、兵をひきいて、久光公ご出立の翌日に、日向の細島《ほそじま》から大坂へ向って汽船で出発しました。岩下君のひきいた人数の内には有島新七などと同論の者が入っていました。久光公のお供をした人数と合せますと、ちょうど千余人でございます」
これを西郷が下関で長州藩の他藩応接掛の山田亦介に語った。
「総数では千人ほどでござる。二百人ほどは早船にて先発させ、久光は八百人ほどをひきいて国許を出ますが云々」
ということばと対照しますと、岩下、町田の二人にひきいられて汽船で大坂にむかった兵は二百人であったことがわかります。
この人々は久光の出立の翌日、三月十七日に日向の細島を出帆したのですから、鹿児島出発はその数日前、思うに三月十一、二日頃だったのでしょう。この人々の中には有馬新七は入っていません。新七の同志らが入っていたというのですから、新七でなかったことは明らかです。
新七は伍長に任ぜられて、三月十六日に鹿児島を出発して、久光に随行して陸路を行ったのです。伍長というのは、古代の中国の軍制では五人一組の隊の長でした。後の日本軍隊では下士官の最下位の階級になりましたが、それでも明治初年の伍長はなかなかえらく、昭和年代の少尉くらいの感じがあります。この当時の薩摩藩の軍制でも小隊長くらいのものだったと思います。
新七は、出発に先立って、妻お貞《てい》を離縁して、娘の|けさ《ヽヽ》を託して、実家の中原家に帰しました。
新七の叔父《おじ》に坂木《さかき》六郎という人がいます。神影流剣法の名手で、新七の剣はこの人に学んだのです。薩摩人の大多数の剣法は示現流ですが、新七の剣法は神影流です。もっとも、神影流は、示現流についで薩摩には多く行われました。師範家は鈴木といって、享保頃に徳川家から島津家に入輿した竹姫の附人《つけびと》としてついて来た家です。薩摩のシンカゲ流は新陰流ではなく、神影流です。
話がそれてしまいました。さて坂木六郎は剣術の達人でもありましたが、憂国の志も厚く、西郷や西久保なども尊敬していた人です。
こんな話がのこっています。月照事件の後、西郷がからだの調子は回復したものの、精神面ではなお立直りが出来ず、沈み勝ちにしていますので、西郷の同志らは相談して、西郷の快癒の祝いと西郷の気ばらしを兼ねて西郷の大好きな角力会を同志で行うことにしました。その招待を受けた人の中に坂木六郎がいました。坂木は城下|士《さむらい》ではなく、城下から二十キロの地点にある伊集院郷の郷士であり、この時はもう六十二という年でもありましたが、新七の叔父であり、鋭い時勢眼があり、憂国の志の厚い人だったので、誠忠組の壮士らは尊敬していたのです。
招待を受けて、六郎老人はよろこんで、
「それはよかことでごわす。必ずうかがわせていただきもすぞ」
と、使い者に答えたのですが、その当日、なかなか姿を見せません。
「六郎サァは、一旦約束召されたことを違《たが》えなさるようなお人ではなか。なにか事情がおこったに相違なか。様子を見に行くがよかど」
と、一人が伊集院の方へ走りますと、途中で老人の来るのに会いました。
連れ立ってもどって来ますと、角力はもうはじまって、さかりとなっています。老人は西郷にむかって快気の祝いをのべた後、一同にたいして、
「本日はせっかくお招きを受けもしたのに、にわかに持病の|おこり《ヽヽヽ》(マラリヤ)がおこりもして、このように遅参して、失礼しもした」
とあいさつして、羽織・袴・着物を脱ぎすて、素っぱだかになり、
「わしは老人でごわす上に、今日は病気がおこりもして、とうていおはん方のような若かお人達と角力はとれもはんから、|押し《ヽヽ》なりとしてごらんに入れもそ」
といって、たずさえて来たシメコミをしめはじめました。
青年らはおどろいて、
「そげんご無理をなさってはいきもはん。先ず先ず、今日はわたくし共、若か者共の角力をごらんになるだけにしていただきとうごわす」
とめて、着物を着せて、席につかせたというのです。
この文久二年(一八六二)には、六十六になっていましたが、新七が久光上洛の供に立つにあたって、妻を離縁したと聞いて、行列を追いかけ、川内《せんだい》町の向田《むこだ》駅で追いつき、休憩の時間を利用して、新七に会い、ひそかに言いました。
「お前、お貞を離縁したちゅうね」
「はい」
「お貞は立派なおなごじゃ。夫婦仲もよかったように、わしには見えていた。なぜそげんことをしたのじゃ」
「……」
「お前は、こんどお供に立ったのを機会に、何かゆゆしいことを企てているのではなかかな」
すると、新七は答えました。
「やるつもりでごわす。公武合体の何のという因循|姑息《こそく》なやり方では、いつまで経っても日本の建て直しは出来もはん。今では、日本の建て直しは、天皇様一本槍になって、王政復古する以外には途はごわはんが、七百年もつづいて来た武家政治でごわす。よほど根が深《ふこ》うごわす。たやすく復古が出来ようとは思われもはん。しかし、誰かが皮切り役を引受けねばなりもはん。この度はよか機会でごわす故、私共がその役を引受けようと決めもした。たとえ私共はことならずして死んでも、必ず私共のあとをついで立つ者があり、やがては必ず王政復古が出来ると信じていもす。私共は源三位《げんざんみ》頼政となって、潔く死ぬつもりでいもす」
六郎老人はうつむいて、黙然として物思いにふけっている体でしたが、やがて顔を上げ、甥《おい》の顔を凝視して、
「よかろう。そういうことなら、存分にやれ、行け!」
といって袂別《べいべつ》したというのです。薩摩人で、薩藩維新史にくわしかった歴史家渡辺盛衛が、その著『有馬新七先生伝及び遺稿』中に記していることです。渡辺さんは、『島津久光公実記』の編者岩崎宰氏から聞いたと附記しています。この人も薩摩人ですから、もとづくところは古老の伝承でしょう。新七が娘をつけて妻を離縁したことは事実です。罪が及ばないように図ったのでしょう。
ついでながら、この貞は後妻で、新七は先妻との間に男子幹太郎がいます。これは嫡子であり、また生母も死んで生存していませんから、家にのこしましたので、後に新七の罪が及んで、士籍を除かれています。もっとも、二年の後復籍して家名を相続させられました。
これほどの覚悟で国を出ているのですから、有馬ら誠忠組激派の人々が、諸藩の志士や浪人志士らと、すでに相談をまとめて、事を挙げる決心であったことは間違いないことでしょう。
久光の行列は、三月二十八日に下関に到着しました。
ここまで来る間に、浪人志士らが途中に待ちかまえていて、随従を乞《こ》うたと、市来四郎の講演筆記にあります。
「御途中、出水《いずみ》(薩摩領内の地)でも、熊本でも、浪士が段々御旅館に推参して随行を願った者が二、三十人もあったそうです」
と、市来は久光から聞いたこととして言っているのですが、出水の西目口の関門――野間の関の外や、熊本の旅館に、あるいは肥後の志士等が来て随行を願ったのかも知れません。そう言えば、清河八郎や平野国臣がわざわざ肥後まで来て大いに説得につとめたのに、肥後の志士らは一人も寺田屋事変に関係していません。それは久光の行列に直接願い出て、久光の意志が討幕にはないことを知ったためかも知れませんね。
ともあれ、久光には、肥後の志士らは別として、他の藩の志士らは春の燕《つばめ》のごとく続々として京坂の地に急行しており、それが自分の中央乗出しを機にして何ごとかを行わんと期しているらしいことはわかったはずです。
九州諸藩の志士らや長州藩士らが自分に期待をかけ、興奮動揺していることは、鹿児島にいる頃すでに知っていたはずですが、果してどの程度に知っていたでしょう。
殿様などという人々の見聞は、大体において直接の見聞ではなく、間接的であるのを常とします。家来共の報告を聞いて知るのですが、その報告は多くの場合セレクトされ、アレンジされていますから、厳しい意味ではウソですね。かなりにゆるやかになり、耳ざわりよくなっていることはまぬかれません。ですから、賢い殿様は必ず直属のスパイを持っています。久光は相当以上に賢い人ですから、もちろん直属のスパイを持っています。この頃の彼の第一のスパイは中山尚之介でした。
中山は最も久光にたいして忠実ですから、その報告は誠心誠意のものであったには相違ありませんが、元来、久光と同じように浪人嫌いで、統制好きな人ですから、その観察とその報告とは、相当偏ったものであったと思ってよいでしょう。必ずや浪人や志士らの動きを憎悪をもって見、悪意をもって報告したに相違ないと、私には思われるのです。果してそうなら、久光は志士らの動きについて、歪んだ情報を聞かされ、歪んだ観念を抱くようになっていたに相違ありません。
しかしながら、全九州の志士らが自分の中央乗出しに異常に興奮して、京坂地方へ乗出したことは知ったはずです。ですから、西郷と大久保とが、統制の必要があると言ったことについては、納得するところがあったと思ってよいでしょう。
しかし、下関へついて、西郷が約来にそむいて自分を待っていず、京坂へ去っていたことにたいして、どんな反応を示したでしょうね。きげんのよかろうはずのないことは申すまでもありませんが、思うところがありますから、大久保一蔵の側から眺めてみましょう。
勝田孫弥という歴史家がありました。鹿児島県の生れで、明治の末年に、『大久保利通伝』というよい史伝を書いています。大久保の伝記は何種類か出ていますが、この書は吟味した史料を多量に使って書かれていますので、そのほとんど全部がこの書の上に立って書かれています。もちろん、この書にも誤りはあります。たとえば、この人は儒学については全然の素人なんでしょう、儒学について書かれていることは、大抵まちがっています。しかし、これは当然のことでしょう、完全は神のこと、人間には期待出来ないことですから。後人は前人の著述にたいしては微瑕《びか》をもって排撃すべきではなく、もし誤りがあるなら訂正し、長所を学びとるようにするのが、よい読書態度というべきでありましょう。
さて、この書に、この時の大久保のことについて、こういう意味のことを書いています。
「三月二十七日に、久光の行列が黒崎についた時、大久保は白石正一郎に命じて、諸藩の形勢や志士の動静を報告させた。そこで白石は翌二十八日に、諸藩の形勢や下関を通過して上京した諸藩の志士の姓名などを書いて、大久保の旅宿に持って来た」
これを『大久保日記』に照らし合せますと、三月二十八日の条に、「今夕、奈良原、吉井、松方(正風)子入来。白石兄弟、波江野(休右衛門)も入来」とあります。白石兄弟(正一郎と廉作)は波江野休右衛門と一緒に来たのでしょう。波江野は鹿児島の大町人で、西郷と月照との入水事件の際、月照の葬式に至るまで心切に世話してくれた人物です。白石とは大町人同士で、懇意だったのでしょう。それに白石は薩摩の御用商入になっていますからね。
多分、この時の訪問は、昨日大久保が対岸の黒崎から依頼してよこしたことについて、情報を蒐集《しゆうしゆう》して書面として持って来たのでしょう。
大久保は、白石から受取った報告を読み、その夜一晩かかって整理し、分析したに違いありません。それは、翌三月二十九日の日記でわかります。
こうあります。
「昨夜、白石正一郎から一封の書面を受取った。それによると、いよいよ諸藩士・浪人らの事情が切迫していることがわかる。彼らは次ぎ次ぎに上坂しているという。大事の勃発すべき形勢が顕然としている」
「このことについては、自分はお国許にいる時から、相当に憂慮して、しばしば小松殿や中山へ話をし、ついに激論に及んだこともあり、また久光様に建白もして、不敬にわたることも顧みずして顔を犯して直言したこともあったのだが、わが至誠の情届かずして、お聞き入れにならず、一身の力の不足を恨むよりほかはなかったのである。しかるに、今当地まで来てみると、現実に、前条の通りとなっている。黙止《もだ》しがたく、今日は幸い当直にあたっているので、久光様に切に建白に及んだところ、云々のことあって、出坂を仰せつけられ、小松殿へ談合せよとのご沙汰《さた》であった。そこで、ちょっと宿舎へ帰って、船の都合をするように頼み、また出勤して、経過を言上して、中山と当直をかわって、宿舎にかえった」
通説では、西郷が待っていなかったので久光は激怒し、大久保を呼んで叱責《しつせき》したので、大久保は西郷のことをわびて、しかしながら西郷が敢《あえ》てご命令に背《そむ》いて上坂しましたのは、何か考えがあってのことと存じます、事情をよく聞いて参りますから、拙者を先発させていただきたいと言って、久光の許可をもらったことになっていますが、日記のこの記述から見ますと、諸藩士や諸浪人の上坂によって、京坂の空気の緊張が一方ならぬものがあるので、自らそれを処理するために、先発を願い出て許されたことになっていますね。
あるいは、「久光様に切に建白に及んだところ、云々のことあって」ということばの中に、西郷のことについての久光の怒りのことばや、大久保の弁解のことも、込められているのかも知れません。
ここでまた、市来四郎の講演速記を見てみましょう。
「また久光公のお話しなさったことを申し上げます。
『下関に着いてみると、蒸気船はそこに碇泊《ていはく》してわしを待っていた。到着して間もなく、大久保が来て、わしに言う。“まことに不都合なことになりました。西郷は三、四日前までは当所に留まっていましたが、浪士等を連れて上方へまいったそうでございます。一封の手紙ものこしてございません。実に不都合な次第で、いかなるつもりかわかりません。ご約来を違えましたことは恐れ入ります”』」
とあるのですが、果してこれは久光の言った通りなんでしょうか。大久保と西郷との友情、特にこんどの西郷の乗出しの時のことから考えましても、こんなことを大久保が言ったろうとは、考えられないことです。しかし、あまりにも変りすぎていますから、久光の記憶違いとも思われません。もしこれが市来の創作でなく、久光の言葉そのままを伝えたものなら、久光は悪意をもっていつわりを言ったのだと断ぜざるを得ません。下関を去る時、西郷は一封の置手紙をしたと、木場伝内への手紙に書いています。もっとも、到着してすぐ、大久保の方から久光の前に出て、情勢の報告にかかったことは、『大久保日記』にもあることで、この点だけはたしかに一致していますね。
ともあれ、もう少し追ってみましょう。
「『それは怪しからんことである。はじめの約束と違ったではないか、とわしが言っていると、中山が出て来て、“西郷ははじめから、私などとは意見が合わなかったのでございますが、西郷は悪い考えでいたしたのではございますまい。けれども、浪士らを引連れて大坂の方へまいりましたのは、何か思うところがあったのでございましょう。しかし、一通の書付ものこさないで行きましたのは、怪しからん次第でございます”と、目をむき出して言った。その時、小松と大久保とが言うには、“ともかくも、当地へは長くは御逗留出来ませんから、大久保を先発させまして、西郷のしたことの目的を聞いてきて、何分の御報告をいたしますから、御前《ごぜん》は蒸気船に召されて、室津へんに御碇泊下さい。そのうちには大久保が京坂で西郷に面会いたし、あるいは模様を探《さぐ》って、御報告申し上げます。それまでは室津へ御碇泊下さい。そうしませんでは、しかたがございません”ではそうしよう、ということで、大久保を先発させることになった」
やはり、『大久保日記』中の「云々のことあって」という表現の中には、西郷のことについての問答が込められていましたね。しかし、西郷は置手紙ものこさなかったと、中山も言っていますね。
速記録をもう少し追ってみましょう。久光はつづけてこう言っています。
「『それから、道中の探索には、高崎猪太郎(後五六)と有村俊斎(この頃から海江田武次)を やろうということを、中山が言い出したので、大久保についで出してやった。そして、その翌日、わしは蒸気船で室津にむかって出帆して、室津に三日碇泊していた』」
ここでは、久光の記憶は明らかに混乱しています。高崎猪太郎は、あるいは下関で探索方として先発させられたかも知れませんが、有村が探索方として先発させられたのは、薩摩領内の阿久根であったと、これは西郷の木場伝内あての手紙にあります。西郷の手紙でも全然間違いのないことはありますまいが、西郷が久光から厳罰に処せられたのは、有村の久光への報告ということになっているのですから、西郷にとっては相当強烈な記憶になっているはずです。誤りは先ずないと考えるのが普通でしょう。高崎猪太郎に探索方を命じて先発させたために、久光の記憶がつい混同したのではないでしょうか。
大久保は、その夜大坂に向って出発の予定でいたのですが、風雨が強くなって船が出ないので、翌朝の十時頃出帆しています。
この当時の、大久保の心事をうかがうべきよすがが、白石正一郎の日記にあります。
三月三十日の条にこうあります。
「薩藩を脱走して来た者が五人、新地へ潜伏していることが問題になっているとて、高崎左太郎さまからしかるべくするよう頼まれた。そこで、新地巡察がかりの山本喜平へ穏便なはからいを頼んだところ、聞いてはくれたが、なおむずかしいことを言うので、この旨高崎様へ報告すると、しからばその五人が新地を出て下関へ入り次第、ひそかに上方へ行くように言ってほしいと頼まれた。承諾した」
下関の新地とは、下関へ隣接している土地で、遊廓などあるところです。薩藩脱走の五人というのは、久光の随従者の選に漏れたため、藩を脱走して駆け上った若者らです。名前もわかっています。森山新五左衛門、坂本彦右衛門、指宿三次、山本四郎、大脇仲左衛門の五人です。
この中の森山新五左衛門が森山新蔵の長男であることは、前にどこやらで申しましたね。多分、遊廓で遊んで、酔狂したかなにかで、土地の役人といざこざをおこしでもしたのではないでしょうか。
それを高崎が白石に頼んでもらい下げさせ、大坂へ急行させたのです。大坂でおこるべきことに遅れさせないためです。高崎は誠忠組大久保派に属しています。この当時は役づきもしていたようです。その人が、大坂で何事かがおこるであろうことを予期しているのです。高崎の心事は即ち大久保の心事ではないでしょうか。
さらに、四月一日の日記にこうあります。
「吉井仲介様から在筑前の工藤左門と北条右門へあてた書状を頼まれた」
翌二日の日記にはこうあります。
「今日、在筑前の工藤左門様来関。天気次第に上坂されるとのこと」
工藤左門は前名井上出雲守正徳といって、鹿児島城下の諏訪神社の宮司だった人、北条右門は前名木村仲之丞といって、井上の親友だった人で、ずっと以前、薩摩にお家騒動のあった時、薩摩を脱走して、筑前藩主黒田|斉溥《なりひろ》のふところに逃げこんで今の名になって斉溥に庇護《ひご》されていたのです。二人とも斉溥にたいして最も忠誠心が深く、国事にたいして志もある人だったので、誠忠組の人々はいつも准同志として交際していたのです。
このような形勢――久光の中央乗出しがゆゆしい風雲を巻きおこすにちがいないと思われるので、吉井仲介(少し前まで吉井幸輔といっていました。後の友実のことです)は、早く出て来るようにと二人に手紙を書いて、白石に託したという次第です。二日の日記の記事は、この手紙がとどく以前に、工藤が下関へ出て来たことを語っていますね。
吉井は西郷とも大久保とも最も親しく、少年の時からずっと志を一つにしているのです。大久保も、中央に大風雲がおこることを予期していたと考えていいでしょう。
ここまで考察を重ねて来ましたが、西郷が一通の置手紙もしていないと、大久保が言ったということが、どうにも気になります。
西郷の置手紙は、当然、白石正一郎に託されていたはずですね。白石がそれを遺失したり、渡さなかったりしたとは、とうてい考えられません。渡したに違いありません。渡したとすれば、それは必ず大久保に渡したでしょう。西郷がまた大久保に渡せと言いおいたに違いありませんからね。
とすれば、大久保が、それを読んで、その内容がそのままに披露すれば、久光の不興を買うに違いないと思われる激しいものであったので、置手紙はなかったことにして、握りつぶしたのではないでしょうか。西郷は書いたといっており、大久保は手紙のことは日記に全然書かず、久光は追憶談で、手紙は全然ないと大久保から聞いたといっているのですから、この矛盾に筋を通すなら、何らかの理由で大久保が握りつぶしたのだと考えるより外はありませんね。いかがでしょう、この解釈は。
大久保は前述の通り、三月三十日に下関を出帆して、四月五日大坂につき、大坂の旅籠《はたご》に一泊して、六日朝の三十石船で淀川をさかのぼり、夜に入って伏見の藩邸についています。それから、有名な西郷との談話があるのですが、これは一先ずおいて、目を久光にうつしましょう。
久光は室津に三日碇泊している間、次のような漢詩を詠じました。
家郷を出でしより已《すで》に二旬
轎舟 渡り得たり幾関津《いくかんしん》
此の行何の意か 人知るや否や
払はんと欲す 扶桑《ふそう》国裡の塵
押韻《おういん》、平仄《ひようそく》には間違いありませんが、へたな詩です。この人は文章が得意で、朝廷への上書など、家来等の書いたのが気に入らず、よく自ら筆を取って草しています。たしかに下手じゃありません。論理的で、行きとどいていて、むしろ上手な文章といっていいでしょうが、文学の才分はなかったのでしょう、文章にうるおいがありません。ごらんの通り、この詩もそうですね。
そういう意味の詩や文章は、土佐の山内容堂は巧みです。詩も文章もすぐれた文学になっています。
室津の碇泊中、下関から探索のために先発させました高崎猪太郎が参りまして、大坂の情況を報告いたしました。
「大坂では、浪人共がお邸に入りこみまして、まことに穏かならぬ形勢でございます」
と言って、先に書きました、大坂の情況をくわしく申しのべました。
(これでは、うっかり大坂へ行くわけに行かない)
と、久光もその側近らも考えました。しかし、いつまでも室津にいるわけに行きませんので、ともかく兵庫まで行こう、兵庫にしばらく滞在しているうちには、大久保から様子を知らせて来るであろうと、出発しました。どうやら、ここから陸路をとったようです。途中、姫路に泊まりましたが、ここで探索の役目をもって先発していた海江田武次が来て、西郷のことを報告いたしました。
海江田は京都まで行って情勢を偵察しましたが、伏見から三十石船で大坂に下る時、船中で平野国臣と会いました。海江田と平野とは昔からの知合いです。島津斉彬の死の直後、西郷・有馬新七・海江田らが、井伊排撃を目的として、京都で朝廷の密勅を請下して、雄藩連合を企てたことがありますが、その時平野もそのなかまだったのです。それから間もなく、月照が幕府の追捕を避けて薩摩に落ちたのですが、その月照を薩摩に連れて密入国したのは平野だったのです。月照と西郷とが相抱いて鹿児島湾に投じた時、平野はその船にいました。こんなわけで、誠忠組のメンバーとは、平野はごく親しかったのです。
平野は、まさか海江田が誠忠組左派を最も嫌っている久光の探索方となっているとは思いません。心から打ちとけて、いろいろな話をしましたが、下関で西郷に会った時のことを語りました。
「西郷さんも、よほどの覚悟で出て来なさりましたなぁ。五年前からの借金ばらいばすると言うていなさりましたばい。楽しみなことでござす。薩摩のような大藩が奮起して、討幕の勅ば奉じて義兵をおこせば、幕府なんぞ忽ちつぶれて、王政復古が出来るというのは、わしの持論ですたい。去年の暮、お国に行って、『尊攘英断録』ちゅう論策ば、お国の太守様へ献上しました。その話をお聞きにならんかったですかい。西郷さんの話ば聞いた時、わしァうれしゅうてなりませんじゃった。夢に見るほど思いつめていたことがはじまるのですけんなあ」
という調子だったでしょう。
海江田武次――有村俊斎という男は、硬骨で、勇敢で、一本気で、強いことが何より好きで、典型的な薩摩|隼人《はやと》ですが、頭はあまりよくないのです。それに、世間には、野にある間は権威筋にたいしては倨傲《きよごう》で、いかにも反権威精神が旺盛なように見えるけど、ひとたび権威につらなる地位につくと、権威者にたいする最も忠実な奉仕者になる人がよくいるものですが、その類の人間でもあったようです。彼はこの少し前に徒目付《かちめつけ》に役づきし、新たに探索方のしごとを仰せつけられて、大張り切りに張り切っていますので、平野への友情どころか、西郷への友情も忘れてしまいました。よいことを聞いたとばかりに、大坂につくや、真直ぐに西に飛んで、姫路で久光の旅館に出頭して、平野から聞いた西郷のことを報告しました。
西郷は、平野にああいうことを言ったのを、木場伝内への手紙の中で、あの連中は死地の兵だ、死地の兵を御するには自らも死地に入らなければならない、自分も一緒に死ぬ覚悟でなければ、統制出来るものではない、自分は彼らと運命を共にするつもりだった、そうであってはじめて彼等を統制出来るのだと説明していますが、こういうことは常識人にはわかりません。西郷は浪人等と手を組んで、乱を企てていると、久光は解釈しました。もともと、久光は西郷を憎み、下関から追い返すつもりでいたのだと西郷は言っていますが、もしそうなら策略上からもそう解釈して立腹して見せたはずです。
さらにまた、この姫路では、堀次郎も久光を待ちかまえていて、こう報告したのです。
「西郷は二才《にせ》(青年)共を煽動しまして、暴勇な他藩士や浪士輩と通謀しまして、御前を擁立申し、勤王討幕のことをおこそうとして画策中であります」
長井雅楽にオベンチャラを言ったことを、後輩の面前でしたたかに叱られて、面目を失っている堀は含むところがあります。憎いと思う心で西郷のすることを見れば、こうとしか思われなかったのでしょう。
久光は大久保の報告を聞く前に、西郷にたいする憎悪をさらに煮えたぎらせたのです。
海江田といい、堀といい、西郷にとっては弟のような存在です。ずいぶん可愛がって来ましたのに、こういうことになるのですから、人間はどこに禍《わざわい》の種子《たね》が蒔《ま》かれるかわからないものですね。
大久保と西郷
目を、下関から久光一行に先発して上方にむかった大久保一蔵に移しましょう。
大久保は筆まめな人で、彼が国事に関係するようになってからは、大体欠かさず日記をつけています。もっとも、大事なところに限ってぽかりと大きく欠落していたり、自分だけの心覚えのために書いた日記ですから簡潔をきわめてもいますが、まず大体のことはわかります。それによりますと、彼は三月三十日の朝の十時過ぎごろに下関を出帆して、四月五日の夜八時頃に大坂に着いています。途中、和歌など数首詠じていますが、いずれもまずい歌です。文学の才分はなかった人なんでしょうね。
大坂につきますと、加藤十兵衛方へ西郷のことを聞き合せました。加藤十兵衛は森山新蔵の親しい知合いで、大坂の相当大きな町人であったらしいことは、前に西郷が森山と村田新八とを同道して大坂に入ったことを書いた時、申しましたね。多分、西郷が下関へのこした手紙(大久保が握りつぶして久光に示さなかったと私が推理したあの手紙です)に、大坂では加藤十兵衛方に泊まるとか、ここを連絡先にせよとか書いてあったのでしょう。西郷が伏見の藩邸にいることがわかったようです。
大久保は加藤家へ出かけて行きはしなかったようです。
「加藤へ引合候処……」と書いていますから。それによって、堀次郎が先刻、久光の行列を出迎えるために船に乗って西に向ったことがわかりました。この堀が、先に書きました通り、姫路で久光に会って西郷のことを悪しざまに申し上げたわけですが、この時の大久保にそんなことが予想されようはずはありません。
大久保はその夜、藩の定宿である寅屋という宿に泊まりました。
翌日は四月六日です。早朝、大坂藩邸へ行き留守居に会った後、十時頃の三十石船に乗りました。夕方、夜に入る前に伏見に着きましたので、伏見藩邸(伏見のお仮屋と薩摩では言いならわしていました)へ行きましたところ、留守居の本田弥右衛門も、西郷も、森山も、村田も外出していることがわかりました。四人は宇治へ行っていたのです。
西郷が伏見に上って来たのは数日前のことですが、話を聞き伝えて、諸藩の有志らがよく訪ねて来ます。平野国臣などここでも訪ねて来て会っています。西郷はその訪問者がうるさいので、藩邸を出て、藩の定宿である文殊屋(兼春ともいう)の奥座敷へ移りましたが、ここもうるさいので、宇治のあたりに移ろうと、この日人々とともに出かけたのです。
宇治へ行くこと、宇治のどこあたりにいるなどのことは、藩邸に言いおいてあったのでしょう、大久保は早速、本田あてに手紙を書いて持たせてやりました。
これから先のことは、本田弥右衛門の後年の追憶談がありまして、大いに参考になるのですが、いろいろと本田の記憶違いや、聞き違い(つまり解釈違い)がありますので、それを訂正しながら語って行きましょう。
大久保の手紙の文面は、
「久光公のお供をして兵庫まで来たが、寸暇をいただいて、要用のために伏見まで上って来たわけであるが、ついて見ると、何たることぞ、この大事な時節に、西郷まで同道して、宇治に川遊びとは。急ぎ帰らるべし」
というのであったと、本田は記しているのですが、大久保が兵庫から来たというのは、本田の記憶違いですね。我々は彼が下関で久光に別れて先発して来たことを見ていますからね。まあ、こんな風によく記憶違いがあるのです。解釈違いもあります。
西郷等は、宇治の万碧楼に登り、宇治川の清流にのぞみ、朝日山にたいして、折りしもさしのぼる四月六日の月を賞し、酒宴をひらいて歓談しました。その夜は本田もそこに泊まるつもりでしたから、皆大いにくつろいでいますと、そこへ大久保の手紙がついたのです。
本田はその手紙を見、それを西郷に見せ、人々にも見せて、
「いつも沈着で周到な一蔵サアが、お側を離れて馳せのぼっておじゃったのは、よほどのことがあるのでごわしょう。急いでもどりもそ」
といって、帰り支度にかかりました。
すると、西郷は笑いながら、
「一蔵どんもせっかくのこと、ここまで来ればよかのじゃ。そしたら、このよか景色を一緒にながめ、酒でも飲みながら話が出来るのに、いつも変らんやかましか男でごわすわい」
と言ったと、本田は記しています。
西郷は鈍い男ではありません。あの外貌に似ず、最も鋭敏な神経を持っています。久光の怒りがぴんと来たのでしょう。だから、こんな冗談を言って韜晦《とうかい》したのでしょう。
柴舟をやとって帰路につきました。
大久保は、文殊屋に宿をとっていましたが、十時頃、帰って来たとの知らせが藩邸からとどきましたので、早速出かけて行って、西郷に会いました。
「かれこれ京地の模様を承る。別して大機会にて候。且つ大島(西郷)へ少々議論これあり候処、|一盃振たまり故《ヽヽヽヽヽヽヽ》、先ず先ず安心いたし、鶏鳴に及び候」
と、『大久保日記』にあります。「一盃振たまり」は、史籍協会本校訂者の誤読でしょう。薩摩方言で、全身的にふみこんで努力するのを「|一盃《いつぺ》踏んはまる」といいますが、それでしょう。ですから、この日記の記述は、
「いろいろ京都の情勢を本田に聞いた。別して大機会到来と思った。西郷へは少々こみ入った話があって来たのだが、精一ぱいに身を投じて努力している様子故、先ず先ず安心した。鶏鳴におよぶまで語った」
と解すべきでしょう。京都の情勢を聞いて、「別して大機会にて候」と大久保が記しているところは、目をすまして見るべきでしょう。単に大へんな時勢だというだけのことをこうは書かないでしょう。これはすなわち、前に大久保が西郷の出馬を要請し、西郷がこれを許諾した時の二人の談合を推理しておきましたが、あれと照応するものでありましょう。
本田の追憶談は至って平明です。大久保は西郷にむかって、こう言ったと書いています。
「久光公はオマンサアが京坂の間を駆けまわって、諸浪人を語らい、先きに立って煽動しておられると聞かれて、ごきげんを損ぜられることが一方でごわはん。わしはオマンサアにかぎってそげんことのあろうはずはなかと思いもしたが、一大事じゃと思うて、真偽の調査と京坂の情勢を見るために、お許しをもらってここまで来たのでごわす。浪人等の様子とオマンサアが現在とっておじゃる方針とを聞かせていただきとうごわす」
本田はこの時の大久保の様子を、「至誠面にあらわれ、辞気共に切なり」と描出しています。
西郷は聞きおわって、下関到着以来、大坂やこの伏見に至るまでの間に会った諸浪士の意気ごみや、その裏面に伏在する形勢や、つまり浪人志士や長州藩の動向や、それにたいする自分の考えや、それに自分がどう対処して来たかというようなことでしょう、縷々《るる》数千言にわたって述べた後、容《かたち》を改めて言ったとあります。
「わしは浪士連を誘いもせんが、きらいもせん。ただ彼等がはやって無謀な挙に出て、かえって大事をあやまることを心配しとる。じゃから、今日まで彼等に説き聞かせて、鎮静させようとつとめてきた。このことはここに居なさる諸君が見ていてよく知っていなさることで、国でおはんと打合せたわしの任務のはずじゃ。もし、わしが京坂の地を去ったら、とても無事ではおさまらんと思いもすぞ」
大久保は疑い解け、憂え散じて、
「ようわかりもした。オマンサアのことじゃ、無思慮なことをなさるはずはないと思うていもしたが、これで安心でごわす。御報告申せば、久光公も疑いをお解きになるでごわしょう」
と言い、あとは一般的の時事談となって、たがいに談じ合っているうちに夜が明けて来て、大久保は兵庫をさして馳せ帰ったとあります。久光の日程はきまっていて、大久保は兵庫で久光に会うことになっていたのでしょう。本田はそのことを大久保から聞いたので、大久保が兵庫から先発して来たなどと記憶が狂って来たのでしょう。
西郷らに別れて、大久保は伏見を立ちました。それは正午頃であったと大久保の日記にあります。「天気|宜《よ》く格別の景色にて」と書いています。西郷のことについても安心したし天気快晴で、景色がよかったりするので、冷静な大久保もつい心が浮き立って来たのでしょう、男山八幡に参詣《さんけい》したい心をおこして、狐河《きつねかわ》渡しで三十石船を上り、山に登って参詣しました。
この日は四月七日ですが、この日久光は姫路につき、そこに待っていた海江田武次と堀次郎とに、西郷のことについて歪んだ報告を聞いて激怒したのです。人間というもののはかなさですね。そんなこととは露知らず、大久保ほどの念入りな男が安心しきって、こんな道草を食ったのですからね。
橋本へ下りて、そこからまた三十石船にのり、大坂へついたのは午後の四時頃でした。その夜のうちに船の注文をして、夜明け頃に乗りこんで西に向いました。風も順風で、午後二時頃、大蔵谷へつきました。大蔵谷は現在の明石市内になっていますが、旧明石の東のあたりです。古い時代からの名邑《めいゆう》です。
久光の行列はまだ到着していません。
そのうち堀次郎が先行して来ましたので、いろいろ話を聞きました。
「且つ大島一条承知、故に云々申し置く」
と日記に書いています。自分の心覚えのためのメモ程度の日記ですから、『大久保日記』はよくわからないところが多いのですが、ここは後のことと考え合わせますと、
「久光が西郷のことを烈《はげ》しく怒っていると堀から聞いて知った。だから、こちらはくわしく真相を話しておいた」
と解釈してよいと思います。
「おはんも公にこの旨を申し上げて下され」
と頼みもしたようです。
午後四時頃になって、行列が到着、久光は本陣宿に入りました。
大久保は堀に別れて自分の宿所に引取りました。そこへ奈良原喜左衛門と海江田武次とが来ました。二人も久光の激怒を語りました。
海江田は前にも申しましたように、頭はあまりよくないのです。従ってこまやかな心遣《こころづか》いは不得手です。西郷のことを申し上げても久光がそんなに激怒するとは思わなかったのでしょう。従って久光の反応の強烈であるのを見てすっかりあわてて、奈良原に相談した上、大久保のところへ来たという次第でありましょう。大久保は後の祭ながら、海江田に訓戒したことでしょう。
心配でならず、暮六つ頃、堀の宿舎に行きました。日記には「鳥渡逢否承候処不分明」と書いてあります。「ちょっと逢うや否や、承り候ところ、分明ならず」と訓んで、「ちょっと逢うや否や、聞いてみたが、はっきりしない」と解釈するのでしょう。
「申し上げて下さったろうな、どんな風でごわした」
と、立話しのような形でたずねたが、堀の返答はあいまいであったというのでしょう。
心配でならないので、堀の宿舎から小松帯刀の宿舎に行きました。日記には、「則ち小松家へ差越《さしこし》、云々」とだけ書いています。前も言いましたように、大久保の日記は「メモ」なんですから、こう書いておくだけで、後日記憶を呼びおこすよすがになったのでしょう。
この「云々」の中には、次のようなことが込められていたろうと、私は推察します。
この時、すでに久光は西郷の捕縛命令を出して、目付|喜入《きいれ》嘉次郎、横目|志々目献吉《ししめけんきち》をして足軽数人をひきいて伏見に向わせていたのです。また久光の怒りは一通りのものではなく、「あいつはとうてい薬鍋かけて死ぬやつではない」とさえ言ったと伝えられています。小松はそれらのことを大久保に語ったに違いありません。
薬鍋かけて死ぬとは、病気にかかって尋常の死をとげるという意味ですから、それが出来ないとは、非業の死をとげるという意で、ここでは刑罰によって死に処せられるといいたかったのでしょう。
このような久光の怒りを思うにつけても、
「吉之助サアは切腹を仰せつけられるかも知れない」
と、大久保は不安でならなかったはずです。
小松はまた久光の激怒の理由を語ったに相違ありません。その理由は、
一、浪人共と組合って暴動をくわだてている。
一、若者等を煽動している。
一、久光を江戸にやらず京に引きとめて暴動に引入れようとの計画をめぐらしている。
一、命令にそむいて下関へとどまって待っていず、勝手に大坂へ飛び出した。
の四カ条です。
大久保は西郷に会って調べて来ていますから、それぞれに説明して、西郷のために弁解したはずです。このことも、
「云々」の中に入っていましょう。
小松の宿舎を辞して自分の宿舎にかえる途中、堀に会いました。「帰懸《かえりがけ》堀子行逢旅宿へ同伴云々論じ候」と書いています。「帰り|懸《が》け、堀子に行逢い、旅宿へ同伴、云々論じ候」と訓むのでしょう。小松の宿を辞して帰る途中、ひょっこりと堀に逢ったので、自分の宿舎に連れて来て、いろいろと論じたというのでしょう。
恐らく、堀もこの時は、西郷が伏見の藩邸で青年等の前で自分を罵倒したことを語り、西郷の行動には人の誤解を招いても仕方のない点が多々あること、自分も西郷に快い感情を抱き得ないことを語ったでありましょうし、また自分が久光に西郷のことをどんな風に報告し、久光がそれをどう受けとめたかも、語ったでありましょう。もちろん、それはある程度でしょう。堀は、坦懐《たんかい》な性質ではなかったようですから、ザックバランに打明けたとは思われません。これにたいして大久保は、西郷の計画と心境とを語って、その誤解を解くことにつとめ、改めて久光に西郷のために弁解してくれるようにと、懸命に論じたと思います。
日記にはさらに「御本陣へ罷出候処既に御引けに而《て》候」とありますから、大久保は堀に色々な話をした後、久光の本陣へ行ってみましたが、久光はすでに寝《しん》に就いていて、目通りが出来なかったことがわかります。堀を同道したかどうかは記していませんが、強靱で徹底的な大久保のことですから、共に弁解するために連れて行った可能性は大いにありましょう。やむなく、宿舎に引取りましたが、悶々《もんもん》の一夜でありましたろう。
翌日の日記には先ずこうあります。
「今日御供六ツ前出勤、六ツ半時分御立、七ツ時分兵庫へ御着」
直訳しますと、こうなります。
「今日は御供に立つことになっているので、六(午前六時)前に出勤した。六ツ半(七時)頃御出発であった。七ツ(午後四時)頃、兵庫に御到着であった」
つまり、この日、大久保は午前六時頃に本陣に出仕しましたが、出発の準備でごった返していて、久光に謁して調べて来た京坂の情勢を報告したり、西郷のことを弁解したりするすきがなかったことがわかります。また、七時頃行列は大蔵谷を出まして、大久保は行列中の一員として、淡路島の見える青松白砂のつづく海べの道を歩きつづけたわけですが、その間なんにも出来ず、心を苦しめるよりほかはなかったこともわかります。
『大久保日記』のこの日の条は、以上につづいて、すぐ、
「大島|風与《ふと》参り云々、心中中々難堪候……」
とあります。大島三左衛門はこの当時の西郷の変名です。
「西郷がふと大久保の宿舎へやって来た。西郷の運命はすでにきわまっているので、たえ難い気持であった」というわけですが、それについては、説明の便宜上、西郷に視点を移しましょう。
大久保が西郷に会って伏見を立去ったのは、四月七日です。その日の正午に、三十石船で伏見を出発したのですが、その日の午後、かなり遅くか、九日の朝、京都藩邸の留守居から、伏見藩邸の留守居本田弥右衛門の許に急ぎの手紙が参りましたが、その中に長井雅楽がその頃朝廷に差出した建白書の写しが入っていました。
この頃浪士不逞の徒が勤王攘夷を名として、実は討幕の策をめぐらしています。これは朝幕の間を疎隔し、機に乗じておのれの栄達をはかっているのでありますから、決して近づけてはなりません。彼等の言う攘夷は最も危険無謀なことです。この問題については、幕府はすでに深謀があり、大藩に命じて必ず何らかの手段を講ずることになっています。西洋列国は、大艦巨砲の利器を多数備えているから、現在の日本の十倍の力をもってしても、到底敵することは出来ません。もし、敵の軍艦数千艘が木の葉の浮かぶごとく、日本の周辺の海に浮かんで押寄せて来ましょうものなら、海上運漕の道は全く絶えて、半年一年の後には、どうなるでしょう。京も江戸も危険となることは申すまでもありません。無知無責任な浪士共はこの考慮なく、幕府の深謀も知らず、薩藩士等と結び、島津久光を擁して、近く上京するという噂です。もし久光が伏見に到着しましたら、朝廷においてはその入京をとどめ、一刻も早く公武一和の運びになされねば、朝廷のおん大事になりましょう。久光に説諭のことは、もし御命下さるなら、不肖ながら拙者があたりましょう。
という意味のものです。添えた手紙には、長井はこの策をもって堂上の間を説きまわって、相当動かされている人もあるとの噂であるとありました。
本田からこれを見せられると、西郷は、
「わしが思うていた通り、長井はこんどのわが藩の運動の邪魔をはじめもした。その上、『久光公の入京をとどめ、一刻も早く公武一和の運びになされねば、朝廷のおん大事になりましょう』というところは、また安政の大獄の時のようなことになりますぞと、朝廷をおどし申しているのでごわす。けしからん男でごわす」
といい、また、
「これは軽く見過せることではごわはん。わしは大久保と談合の上で、依然ここにとどまっていたのでごわすが、これはこんどの御運動に大関係のあることでごわすから、わしはこの書面を久光公にお目にかけ、御決心をうながし申しにまいりもす。オマンサアは京に行って、お留守居と相談して適当な方法を講じて下され」
といって、村田と森山とを連れて、伏見を出発し、九日の夜、兵庫についたという次第でありました。
西郷がどういう事情で、突然自分の宿舎にあらわれたか、大久保はもちろん知りません。ともかくも、上へ請《しよう》じ上げて、西郷の言うところを聞きました。西郷は長井の建白書の写しを見せて、
「わしは久光様の大決心をうながすつもりで来たのでごわす」
と言いましたろう。大決心とは、公武合体などという生半尺《なまはんじやく》なことは捨てて、討幕に思い切ることを言うのでしょう。つまり、国許において、両人が相談したあのことに断行すべき時が来もしたぞと、言っているわけです。
ところが、西郷の運命は、今や切腹を命ぜられるかも知れない危険に迫られているのです。大久保としては、「心中なかなか堪え難く候」ということになったわけです。
大久保は、苦しさのあまり、話頭を転じます。
「オマンサア、お一人でおじゃったのでごわすか」
「森山も村田も同時して来もしたが、有村の宿舎に行かせもした」
その有村――当時の海江田武次の報告が、西郷の運命を決した一半であると思いますと、大久保は一層切なくなったでしょう。
大久保の日記は、すぐ、
「篤と申含候処、従容《しようよう》として許諾。拙子も既に決断を申し入れ候に、何分右の通りにて安心にてこの上なし」
とつづけて、ごく大ざっぱなことです。本人のメモとしては、これで十分に足りるでしょうが、これだけでは第三者にはわかりません。ここに本田弥右衛門の手記がありますから、それによって補わなければなりません。しかし、本田はこの場に居合わせたわけではなく、この翌々日大久保に会って、この夜のことを大久保から聞いたことを土台にして、後年になって書いているのです。相当には信用出来ることは申すまでもありませんが、まるまるは信用出来ません。我々は実歴談や見聞談がいかに過誤に満ちたものであるかは、海江田武次の『実歴史伝』で十分に見て来ました。脇をよく研究し、史眼をもって吟味しながら採用しなければなりません。しかし、煩雑になることを避けて、私が吟味して達したところを、次に書きます。
大久保は、
「ここでは大事な話は出来もはん、外へ出もそ」
と、西郷をさそって旅館を出ました。
やがて、二人は海べの「人遠き物蔭の砂上」に対坐しました。浜べの砂の上に引き上げてある舟の蔭にでもむかい合って坐ったのでしょう。『大久保日記』によりますと、この日は雨、翌日も雨とありますから晴れた夜ではなかったでしょう。しかし、この時は降っていたようではありませんから、曇りだったでしょう。もっとも、雲の上には四月九日の月があるはずですから、薄明るかったと思ってよいかも知れません。
先ず大久保は、久光が海江田や堀の報告を聞いてすっかり激怒し、すでに捕吏を派遣していることを語り、
「わしは、海江田どんらの報告が早合点や誤解にもとづくものであることがよくわかっていもすので、オマンサアの浪士鎮撫の始末、オマンサアの心事について、くわしく申し上げようと思うて骨折りもしたが、お目通りすら許していただけんのでごわす。しかも、わしとオマンサアとは同腹であると思われていもすから、こうなってしもうた上は、わしも君側を退けられるでごわしょう。多年の間一心不乱に努力して来たことが、こんどこそ達成出来ると、おたがい大計画を立ててやって来もしたが、こうなった以上、もうどうにもなりはしもはん。天命いたし方はごわはん。今のところオマンサアは逮捕せよというだけのお申付けでごわすが、どんな御処分を仰せ出されるかわかりもさん。縄目の恥を受けた上に切腹などということになるより、今のうちに切腹した方がようごわす。しかし、オマンサアお一人だけを死なせはしもはん。オマンサアのなさったことは、わしと相談の上のことでごわす。罪があるなら、二人は同罪でごわす。一緒に死にもっそ。さしちがえて死にもっそ。わしはそれを決心して、ここにお連れしたのでごわす」
西郷は黙然として聞いていましたが、従容として申します。
「さしちがえて死のうとは、いつものおはんに似合わん浅慮なことでごわすぞ。わしらは誠心誠意をもって考え、努力して来たのじゃが、それが久光様の御激怒を買い、お側衆の気にも入らず、こうなったのは、ぜひもなかことでごわす。おはんの言われる通り天命じゃろう。しかし、わしは仰せつけに先立って腹を切ったりなんどは決してせんぞ。おほんの言う通り、武士として縄目にかかるのは、大恥辱には違いないが、じゃからといって、自ら死のうとは、わしは思わんのじゃ。はっきりと切腹の仰せつけがなか以上、どげん憂目《うきめ》に遭《お》うても、わしはいのちを長らえ、働ける時が来たら立上って働き、必ず望みを達成しようと思うとる。おはんじゃて、同じ気持じゃろう。もし、わしら二人がここで死んだら、天下のことはどうなると思いなさる? 我々の志は誰が継ぎもす? わしら二人がおらんければ、日本はどうなりもす。誰が薩摩を導いてゆきもす。男が歯を食いしばってこらえ抜かねばならんのは今でごわすぞ。恥を忍び、がまんせんければならん時でごわすぞ。何としてもこらえんければならん時でごわすぞ」
西郷は自殺などはしないのです。月照事件以後、彼は敬天の信仰の人になっています。武士として自殺をはかって死にそこねるなど、しかも友と二人死のうとして、友は死に、自分一人が助かるなど、こんなはずかしいことはありません。西郷は悩みに悩み、ついにそれは天が自分を殺さなかったのだ、天はやがて自分に大任を負わせるために自分を死なせなかったのだと考えることによって、やっと心の安らぎを得たに違いありません。以後、彼は天にたいする最も敬虔《けいけん》な信仰を持つようになったと私は解釈しています。自殺は小我の恣意《しい》をもって天命に限定をつけるものですから、彼は決してしないのです。城山における彼の最後を、世の多くの人は自殺といっていますが、自殺ではありません。門弟らがしきりに、もうこのへんで、もうこのへんで、と自殺をすすめるのに、
「まだまだ、まだまだ」
といって、雨のように弾丸の飛んで来るなかを、門弟等の舁《か》く山駕籠を進めさせ、一弾が下腹部をつらぬくと、はじめて、
「晉《しん》どん、もうよかろう」
と、別府晉助に言って駕籠をすえさせ、東方を遙拝《ようはい》して、別府に首を刎《は》ねさせているのです。天命尽きたと納得したから、死んだのです。断じて自殺ではありません。自殺しては、西郷の「敬天愛人」の信仰的哲学は一角が崩れます。
つづく『大久保日記』には、
「御前へ相伺候処、奈良海江拙子同船、大坂の様廻舟可致御沙汰にて候」
とあります。
「御前へ出て委細を報告して、どうすべきかをお伺いしたところ、奈良原喜左衛門、海江田武次、それに自分がつき添って、西郷・森山・村田等と同船して、大坂の方へ行くようにとの御沙汰であった」
と解釈してよいでしょう。つまり、大久保は西郷を宿舎において、身支度して、本陣に伺候し、西郷が自分の宿へ来て謹慎していることを報告しますと、久光は、
「西郷等(西郷・村田・森山の三人)は、その方と奈良原と海江田の三人であずかって、同船にて大坂へ行くよう。しかし、大坂についても上陸はせず、船に留まったままにいよ」
とさしずしたのです。西郷等ばかりでなく、護送の三人の上陸まで禁止したのは、西郷を慕う青年等にことの漏れるのを恐れたのだと思われます。
『大久保日記』の原文にある、「大坂の様」の「様」は、今日ではもうよほどの老人でなければ使いませんが、古い薩摩方言で、方角を示す接尾語です。うんと古い時代には中央でも使われていた一般日本語で、これが変化して敬称の言葉にもなったのですが、元来は方角を示す接尾語です。東北地方では今でもそのように使われています。「東京|さ《ヽ》行く」の「さ」は「様」が変化したものです。言語変化は中央でおこって波紋のように地方に及ぶのですが、遠い地方に行くまでには波動はかなりに弱まりますから、変化が及ばず、古いことばがそのままにのこっていることが多いのですね。
つづく『大久保日記』は、
「今晩舟都合致候得共、順風不宜、出帆不相叶、拙者旅宿へ一宿」
とあって、この日の日記を終っています。
「今晩舟都合を致し候へども、順風宜しからず、順帆相|叶《かな》わず、拙者旅宿へ一宿せり」
と訓《よ》むのでしょう。
大久保は、久光のさしずをかしこまって受けて退出して船の用意にかかりましたが、その夜は風が逆で船が出せないというので、明朝出す手配をして帰宿し、海江田の宿舎に連絡して、森山も、村田も、奈良原も、海江田も呼んで、一同枕《まくら》をならべて寝たという次第でしょう。
翌四月十日の日記には、こうあります。
「今日は大雨にて候処、四ツ後晴上り、直様《すぐさま》出帆致し候処、八ツ時分着舟、尤《もつと》も上陸は不致御届申出候様承知故、則帯刀殿へ届申出候。大鐘時分、御用に而罷出候処、今晩中に出帆候舟有之候に付、乗用致し御国元之|様《さま》、帰帆可致致承知。今晩中、舟仕舞不相調」
この日記を、他のいろいろな史料で補って、解釈しますと、次のようになります。
「この日は大雨であったが、午前十時過ぎ頃から晴れ上ったので、早速に舟を出して、午後二時頃大坂についた。しかし、昨夜の命令に従って上陸はせず、小松帯刀殿に到着の旨を届けた。小松殿は久光公のお供をして、すでに大坂に御到着しておられたのである。当時、自分に御用召しがあったので出頭したところ、申渡しがあった。
『今晩中に藩の汽船天祐丸が帰帆の途につく故、西郷等三人をそれに乗せて国許へ送れ』
というのであった。しかし、その夜は船の用意が調わず、天祐丸に乗船させることは出来なかった」
西郷にたいしては、ただ単に国へ帰せというだけで、実際の処分は延期されたわけです。将来のことはどうなるかわからないことですが、一応は皆ほっとしたことでしょう。
翌四月十一日の日記には、こうあります。
「今日四ツ時分出帆に付、本船へ三子乗付け、拙子共三人相送り候。其段帯刀殿へ届申出候」
午前十時頃、天祐丸が出帆するので、西郷、森山、村田の三人は乗りこみ、大久保、海江田、奈良原の三人はこれを見送った上で、そのことを小松帯刀にまで届けたのです。
大久保の日記にはなお、大久保が西郷のことについては、自分が保証人のような立場でいたので、進展を帯刀に伺って、自発的に出動をさしひかえたことが出て来ます。また、夜本田弥右衛門が訪ねて来たことも出て来ます。西郷・大久保の海べでの劇的談合の話は、この時本田は大久保に聞いたのでありましょう。
ともかくも、これで西郷・大久保の計画は全部|空《くう》に帰し、これまで薩摩藩の激派と、長州藩の激派(激派といっても、藩のおおよその全力を挙げたものであったようです)と、浪人志士らとを、一身をもって連絡し統制していた西郷がいなくなったのですから、もはや一路暴発するよりほかはなくなったのです。
久 光 上 洛
前章は、西郷が、村田、森山と共に藩の汽船天祐丸で本国へ追い返され、西郷と大久保とがひそかに計画していたことは全部空に帰し、薩藩の激派、長州藩の激派、浪人志士等は、連絡し統制する人物を失い、もはや一路暴発するよりほかはなくなったというところまででした。
それは四月十一日のことでしたが、西郷送り返しのことは、一切秘密にされました。藩の若者らが興奮し激昂《げつこう》することを恐れたのです。久光をとり巻いている連中のうちの誠忠組所属の人々は、『白石正一郎日記』に所載する久光の行列が下関へ到着した際の高崎佐太郎の行動や、吉井仲介の行動は、明らかに京坂の地で何事かがおこることを予想してのことですから、一騒ぎおこることを警戒したのでしょう。もっとも、やがて若者らに知られて、若者らが、
「合点《がてん》ならぬ」
と、側役衆へ突っかけの大論判するという騒ぎになったそうです。
久光は天祐丸の出帆した前日に大坂に到着し、上佐堀の藩邸に入りました。久光にひきいられてこの日に大坂に入った者が八百人、二百人は日向の細島から藩の汽船で出て、大坂についてからもう二十日近くになっていたはずです。合してこの千人になった武士等にたいして、久光は武士らの心得についての訓戒である次の条々を発表しました。
一、諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。
一、命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。
一、万一、異変が出来《しゆつたい》しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場へ駆けつけてはならない。
一、酒色を相慎むべきこと。
右の趣きは以前からしばしば申し渡して来たことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう。
国許出発の際に出した訓令と全然同じです。久光という人は統制が大好きで、自らの指揮の下に一糸乱れず整々とやりたい人でしたから、これは当然のことです。
ずっと前に、久光の上洛《じようらく》を聞いて、江戸詰めの身でありながら無断で脱走して駆け上って来て、中之島のはたご屋|魚太《うおた》に屯《たむろ》している者のあったことを書きましたが、久光はこの人々の罪を問わず、謁見をゆるしました。
魚太には、下関の新地で問題をおこし、高崎佐太郎が白石正一郎に処理させて、急ぎ上坂するようにはからってやった、森山新五左衛門以下の青年等もまた同宿していました。
十二日には、西郷のことで昨日以来、御前を遠慮して謹慎していた大久保一蔵が、正午過ぎから出勤することを許されました。わずかに一日の謹慎でした。大久保ほど役に立つ人物を長く引っこめておくわけには行かなかったのでしょう。
浪人志士の連中が、堀次郎の世話で、蔵屋敷の二十八番長屋に収容されていたことも、前に述べました。平野国臣も、もちろんここにいました。この日、外出先から帰って来た筑前藩の支藩秋月藩の海賀宮門《かいがくもん》が、平野にむかって言いました。
「容易ならんことを聞いて来ましたばい。ああたんとこの大守様(黒田美濃守|斉溥《なりひろ》)は、今江戸御参覲のために御出府の途中でござすそうなが、伏見へんで御当家の久光様と会見なされて、久光様のお考えをお諫めなされて、京都にはお立寄りにならんで、真直ぐに江戸へ行きなさるようにすすめなさるお積りでいなさるそうですばい」
「ほんのこつとすれば一大事じゃが、ああた誰に聞いて来なさった」
「わしが藩の蔵屋敷に在勤しとる田中万太夫から聞いて来ましたとばい。まんざらのウソじゃなかごたりますばい」
秋月藩は筑前藩の支藩ですから、内証事を知る便宜は大いにあるはずです。
「うーむ」
と、平野は腕を組みました。
黒田斉溥は、実は久光の曾祖父島津重豪の子で、出でて黒田家を嗣いだ人ですから、久光にとっては大叔父にあたります。その忠告は大いにききめがあるはずです。一体、平野は斉溥にある望みをかけていました。安政五年に島津斉彬が井伊の暴力政治を怒って、クーデターを計画した時、斉溥も片棒かつぐ約束になっていたことは、その頃京都で西郷や有馬新七や有村俊斎(海江田武次)などと同じ宿屋に泊まって、今か今かと斉彬の引兵上洛を待っていた平野はよく知っています。ですから、斉溥が出て来たら(斉溥の参覲上府の時期がいつであるかは、そこの藩士である平野にはよくわかっていますから、その時期がごく近いことは知っていたのです)、何とかして説きつけて引きずりこもうと思っていたのです。しかし、海賀の言う通りであるとすれば、とんでもないことです。
平野は思案の腕組みを解くと、
「こりゃ、途中でぼい返すことにしましょうわい」
と言いました。こんなことの対策は奇妙に即座に立つ男でした。
「ひとりよりふたりの方がやりよかが、ああた一緒に行きなさらんか」
と、久留米藩士の原道太をさそいました。原をはじめとして久留米藩士が六人いるのですが、これは真木和泉守の門下生で、真木に説かれて出て来たのです。しかし、真木は水田村の幽居を脱して南行し、鹿児島に入って、久光に建白書を出したあと、鹿児島に抑留されましたので、まだ到着しないのです。そこで、今のところは清河八郎を頼っていました。
「行ってもよごさす」
と、原はすぐにも立上りそうにしましたが、清河がとめました。
「平野君、君は筑前藩の亡命者だ。その亡命者が藩侯の行列を冒して面謁を乞いに行くのは冒険にすぎることだ。下世話に言う、飛んで火に入る夏の虫だ。やめたほうがよいな」
「大丈夫ですたい。ちったアあぶなか目もくぐらんば、大事はなすことは出来ませんばい」
「拙者は賛成出来んなあ。飽くまでも行くというなら、止められもせんが、原君を同道することはやめ給え。原君は真木泉州殿の子弟だ。真木殿の到着以前に、勝手にそんな危いところへ連れ出すのは道にはずれる」
清河はきれいな口をきいていますが、実は久留米の連中が真木の未到着で途方にくれているのを幸いに、自分の子分にしようと心組んでいるのでした。しかし、言っていることは道理です。平野も返すことばはありません。そこで、伊牟田尚平をさそいました。伊牟田は、昨年一緒に薩摩に密入国したなかまでもあります。
「おお、行きましょう」
言下に、立上りました。清河はこれもとめましたが、伊牟田は、「なあに」と、笑って首をふりました。
ふたりは大坂の薩摩藩蔵屋敷二十八番長屋を出て西に向いまして、翌十三日に大蔵谷につきました。
黒田斉溥が今日の夕方近くここに到着し、本陣宿に投宿することはすぐわかりました。
そこで、準備にかかって、平野が筆をとって、こんな内容の書面を書きました。
「島津和泉(久光)殿の御忠誠と、こんどのお思い立ちとに、天下の有志の士らは感動し、京摂の間に集まるもの今や数百人、和泉殿を助けて、義のために身命をなげうたんことを期しています。何とぞ斉博公におかせられましても、お志を振起して、和泉殿と共に力を尽していただきたい。申し上げにくいことではありますが、敢て申し上げます。公が幕府を重んぜられて、因循の説を墨守していらせられるとの噂は、天下の有志の士ことごとく知っていまして、或は公の御行列を遮って駕前に鮮血を流さんと暴言する者さえある情態であります。切に切に御思案願います」
やがて、斉博の行列が到着しますと、薩摩人である伊牟田は久光の使者、平野はその従者と名のって、本陣宿に乗りこみました。
久光の使者とあれば、疎略には出来ません。斉博は会いました。会ったところで、前掲の書面を差出して、驚愕する斉博に、なお口頭で、京坂の間の志士激揚の情態を説きました。
まことにいくじのない話ですが、五十二万石の家中が恐怖して、斉博が病気になったことにして、そこから帰国することにしたばかりか、二人の労を厚くねぎらって辞去をゆるしたのです。平野は筑前藩では安政大獄以来のお尋ね者で、藩でずいぶん辛辣に追いかけていたのですが、この時は何のお咎めもなかったのです。
ふたりは大いにいい気持になりました。宿屋に引取って祝盃をあげました。いずれも相当以上の酒客です。大いに飲んで沈酔して、ぐっすりと寝こんでいますと、いきなり捕吏がふみこんで来て、縄を打ちました。薩摩の捕吏でした。薩藩では、久光が大の浪人ぎらいなので、大いに警戒を怠らないでいましたところ、かねてから過激人として目をつけていたふたりが飛び出しましたので、直ちに捕吏を出して追跡させたのでした。捕吏としては、薩摩に藩籍のある伊牟田だけを捕えればよいわけですが、どちらが伊牟田だかわかりませんので、ふたりとも捕えたのでした。
やがて判明して、伊牟田だけを大坂に連れかえり、平野は黒田家に引渡しました。伊牟田は国許に送りかえされ、喜界島に流され、慶応三年(一八六七)までゆるされません。
平野にたいする黒田家の待遇はまことに鄭重で、すぐ縄を解き、新しい衣服を給して、
「その方の申したことの趣意はよくわかった。帰国の上、よく詮議して、しかるべく取りはからうであろう」
と申し渡し、行列の一員に加えました。
平野という人は火のような熱情家であると同時に、随時随所に遊びを見つけることの出来る、まことに洒落《しやらく》な風懐の人でした。藩侯の行列のお供の一人として旅をしながら、ある宿場で生きた梟《ふくろう》を持っている者を見つけると、なにがしかの金で買って、それを近くにいる年若い藩士にあたえ、鷹《たか》をすえるように拳にすえさせて歩いたということが伝わっています。お小姓に鷹をすえさせて道中する殿様になったつもりで楽しんだのでしょう。
しかし、この寛大な待遇は、平野をだましたのでした。行列が下関につきますと、筑前の藩船日華丸が来ていました。去年アメリカから買い入れた西洋型の帆船で、斉溥を迎えるために来ているのでした。斉溥の乗船が明日という日、平野は役人の内許をもらって船の見物に行き、くまなく船内を見て歩いていますと、船内に盗賊方の役人が伏せられていて、あっさり捕縛されてしまいました。安政以来、彼は実に巧妙に逃げまわり、ある時などまるで奇術のような動作で危機を脱しているのですが、こんどはどうにもなりませんでした。
国許に護送されて、この翌年の文久三年三月末日まで、囹圄《れいご》のうちにいなければならないことになったのです。
寺田屋の事件には最も関係の深かるべき平野国臣、伊牟田尚平の二人が加わっていないのは、以上のような次第によるのです。清河八郎もまた加わっていないのですが、それにももちろん理由があります。
二十八番長屋の清河のところに、本間精一郎という浪人志士がよく遊びに来ました。
本間は越後|寺泊《てらどまり》の酢・酒・醤油・味噌醸造の豪商で大庄屋である本間辻右衛門の長男で、武士にあこがれ、少年期の終り頃から家を出て、幕府の名臣として当時有名であった川路|聖謨《としあきら》の中小姓となりましたが、川路に奉公している間に政治づいて来て、世を憂え憤る青年になりました。安政大獄の頃は川路家から暇をもらって、いっぱしの有志者となって京都で働いていたようです。本間はからだが大きい上に、家からの仕送りが潤沢であるところから、美衣をまとい、――ある時は紫ちりめんの紋付羽織に白絹の紐《ひも》をつけ、古代錦《こだいにしき》のはかまをはき、髪を大たぶさに結い、長い朱鞘《しゆざや》の大小をさしていたといいます。風采《ふうさい》なかなか立派である上に、弁舌が立ったといいますから、田舎から出て来たての尊王攘夷青年らには大分信者がありました。
しかし、言うことの激烈なわりには言行がともなわないというので、きらっている人もいました。薩摩藩の橋口伝蔵などは、斬って捨てるとまできらっていました。
けれども、清河は江戸で安積艮斎《あさかごんさい》の塾にいた頃に同門であったよしみがある上に、頼って来られますと、英雄豪傑をもって自任している清河としてはふり切るわけには行かず、何かにつけてかばっていました。
四月十三日といえば、大蔵谷で平野と伊牟田とが黒田斉溥の宿所に出頭して脅迫した日です。また久光が大坂を出発して伏見に向かった日でもあります。久光は随従の武士の大方は大坂にのこして、ごく少数の者だけ連れて京に向かったのです。朝廷の人の心を驚かすことをはばかったのでしょう。
話は本間のことです。この日の午後三、四時の頃、本間が二十八番長屋に来て、清河と安積五郎・藤本鉄石などを舟遊びにさそいました。前述しました通り、本間は金廻りはよいのです。清河のごきげんとりのためでしょう。
「よかろう。拙者もこの十数日、工夫ばかりしていて、少し疲れた」
と、清河は承諾しました。土佐脱藩の吉田某も同行しました。土佐の人々は長州屋敷に入っていたのですが、どういうわけかこの人は薩摩屋敷にいました。あるいはこの日だけ長州屋敷から遊びに来たのかも知れません。この頃は薩・長の反目や対立はまだありません。それどころか、この時は長州藩の激派と薩摩の激派とは共に事をおこそうとしているのですからね。
妓をのせ、酒をのせ、安治川に浮かんで、海に出ようとして、川口の番所の前にさしかかりますと、船頭がお番所にお届けすることになっていますさかい、旦那《だんな》はん方のお名前をお書き下さいましと言いました。
清河の『潜中紀事』に、本間と安積とが、「酔いに乗じて悉《ことごと》く奇名を記す」とありますから、荒木又右衛門とか、後藤又兵衛とかいうような名を書きつらねたのでしょう。
番所役人は、船頭から差出された書付を見てびっくりしました。
「いずれの御藩中です」
「長州藩士。船遊びにまいった。アハハハ、アハハハ」
本間はばかにしたように、はらりと扇子をひらいて、招くように振りました。さすがに役人は立腹しました。
「ふざけなさるな! 我々を何とお考えだ!」
『潜中紀事』に、「精一直ちに刀を携へて直ちに官亭に上る云々」とありますから、役人の呶声《どせい》を聞くや、本間は刀を引っつかんで船をおり、つかつかと番所へ進み入ったのです。安積もつづきました。「舟中悉く警《いまし》むれども、之を如何《いかん》ともするなし。既にして悉く抗弁して還《かえ》り、云ふ、何の懼《おそ》るる所あらん」というのですから、皆がとめたが、酔っているから聞かず、番所内で滔々《とうとう》と弁じ立て、言いこめて帰って来て、
「役人風を吹かせおって、我々が役人などをこわがるとでも思っているのか」
というようなことをつぶやいたのでしょう。
川口まで船を出し、三味線太鼓で思い切りさわいでから、日暮れ方帰って来まして、また番所の前を通りましたが、全然とがめられません。揚々と二十八番屋に帰って来ました。
これが問題にならないはずはありません。その夜ふけてから、本間がひそかに清河のところへ来て、
「今日のことがすでに役所の問題になり、拙者の身辺は甚だ危うくなりました。もう町方の宿屋などには泊まっておられません。貴殿方は薩摩という大藩の屋敷内におられるので、官では知っていても手出しが出来ないのです」
といいます。
つまり、自分もこの邸内にかくまってほしいと謎《なぞ》をかけたのです。清河としては、こまったと思っても、ふりきるわけに行きません。天下の豪傑をもって自任している者のつらいところです。
「だろうな。そうなった以上、かもうことはない。ここへ居給え」
と言いました。本間のよろこんだことは言うまでもありません。
すると、間もなく、薩藩士の橋口壮助、柴山愛次郎の二人が来て、清河に言います。
「諸君がこの屋敷にいることは、幕府役人はとっくに知っています。ですから、諸君としては、注意に注意を重ねて、事に先立って乗ぜられぬようにすることが肝心なわけでごわす。しかるに、今日の諸君のなされ方は何でごわすか。今や幕府の嫌疑はまことに厳重で、身動きも出来んほどでごわすぞ」
まことにきびしい言い方です。さすがの清河も何にも言えません。「其の意、蓋《けだ》し余輩をして暫時邸中を避けしめんと欲する者に似たり」とありますから、暫《しばら》くこの屋敷を出て行けという意味に清河は受取り、ついに安積・本間・藤本鉄石・飯居簡平《いいおりかんぺい》等をつれて、薩藩邸を退去しました。十三日の三更でした。
『潜中紀事』に清河は愚痴を書きならべています。
「一旦引受けて邸中におきながら、官の嫌疑を恐れて出て行けというのは信義にはずれるので、謎をかけて自分が自ら出て行くようにしたのだ、しかし、真実はそうではない。田中河内介や小河一敏のような老人組が久光の意見にまいって少壮者らに決挙をさせないようにしはじめたのだ。だから、拙者の意見に表面は賛成しながら内実は忌みはじめて来た。そこで、橋口・柴山をしてこんなことを言わせたのだ」
というのです。明らかに|ひがみ《ヽヽヽ》ですね。一体|ひがみ《ヽヽヽ》というものは劣性コンプレックスからおこるものですが、清河においてはうぬぼれからおこっています。不思議な|ひがみ《ヽヽヽ》です。清河という人はなかなかえらい人ですが、その割りに買われないのは、この底ぬけのうぬぼれのせいです。過大なうぬぼれのために自分のしたことにたいする正しい評価が出来ず、常に過大な評価をあたえるため、滑稽でいやらしくなるのですね。
さて――。
やがておこる寺田屋事変の際、平野国臣・伊牟田尚平・清河八郎――つまりこの情勢をつくり上げるに最も力のあった人々であり、当然その場に居るべきであった人々が居なかったのは、上述の通りの次第ですが、平野・伊牟田の不在理由は堂々たるものといえましょうが、清河の場合は実にくだらない理由ですね。事の大小の弁別がわからないのですから、革命家としては失格的欠点でしょうね。
長州藩が、久光の中央乗出しのことを聞いて、藩をあげて興奮したことは、ずっと前に書きました。あれは長州本国でのことでしたが、京坂地方でもそうでした。それは旧松下村塾の人々やその人々に近い人々だけではなく、重役の一部から家老の一部までそうでした。大坂屋敷の留守居役宍戸九郎兵衛が自分の方から求めて西郷に会ったことは前に語りましたが、その後宍戸は京都に上って来ました。家老の一人|浦靭負《うらゆきえ》も国許から京都へ上って来ました。いずれも百数十人の壮士をひきいていました。薩摩が事をおこしたら、即座に立って事を共にするためです。
長州人らをこうまで興奮させたのは、大義名分や、時勢にたいする憤激や、吉田松陰の教育効果のためだけではありますまい。ずっと前に書いたと思いますが、関ヶ原役によって、不当に禄高を三分の一に減らされたことにたいする綿々たる怨恨《えんこん》がこの時一斉に爆発したのが最も根本的なものであると思われます。ともあれ、この時爆発した反幕的なものが、最後までずっとつづくのです。
この長州人らと薩摩の激派との連絡にあたっていたのは西郷でしたが、西郷が国許へ追いやられて以後は、長州側では久坂、薩摩側では有馬がそれぞれ連絡役になったようです。しかも、長州藩は有馬等の運動資金まで支給したようです。薩摩|士《ざむらい》は一般に貧乏ですし、公私の別が厳重な藩風なので、こんなことで藩から金を引出すことは不可能だったのです。その点、長州藩は気前がよいというか、ルーズというか、若い者らに実によく金を出してくれました。高杉や井上などのグループは、遊蕩《ゆうとう》費まで藩から引出していますからね。
この後、久光は長州藩を、ずいぶん長い間、徹底的に憎み嫌いまして、後年薩・長連合の成立もゴタゴタして、当時では斡旋《あつせん》者である坂本龍馬や中岡慎太郎をやきもきさせ、後世では歴史学者に首をひねらせていますが、その最初の理由は、長州藩がこのように薩摩の壮士らに経済的の援助までして、久光の意図から反《そ》れさせたことにあり、その後次から次に久光を怒らせるようなことが重なったからです。
さて、有馬新七ら薩藩激派の人々と浪人志士らとは、久光の真意を知らないではありませんでしたが、その知りようは相当あまいものでした。
つまり、それは久光という人間の性格を十分に知っていなかったところから来るのです。今は公武合体などというなまぬるい考えでいなさるが、我々がクーデターによって九条関白をしりぞけ、酒井所司代をたおし、同時に相国寺に幽閉蟄居されている青蓮院宮を救い出し申し、参内していただき、天皇を御輔佐する役についてもらうなら、久光様のお考えは容易にかわって、討幕の総帥となりなさるであろうと踏んでいたのです。彼らの観察では、機会はすでに十分に熟しているとしか思われなかったのです。
話は少しもどります。
前述しました通り、久光は四月十三日に伏見に上って来て、伏見の藩邸に入りますと、翌十四日に、近衛忠房(この時大納言)から来書がありました。
いよいよ御勇健、珍賀いたします。明後十六日は御面会出来ることと、楽しんで待っています。正親《おおぎ》町三条《まちさんじよう》(実愛《さねなる》)にも御面会のことを申し入れましたところ、よろこんで承諾いたしました。さりながら、酒井若狭守(忠義《ただあき》、所司代)から伝奏《てんそう》へ、同封の通りの書付を差出していまして、堂上が武士へ面会などすることは全く禁止という次第になっています。しかしながら、其許《そこもと》さえ嫌疑を恐れられないなら、大磐石の至り、いつなりとも面会するとのことです。其許の御返答次第で面会されるとのことですから、急使をもってかくお尋ねいたします。
早々に御返答頼み入ります。
くれぐれも、其許の御忠誠のことはまことに頼もしく思っていますが、今お膝元《ひざもと》で騒々しくならないように、事穏便にして、関東(幕府)の改革あられることをお願いいたします。返す返すも、お膝元において人気が立って騒動がましくなっては、かえって誠忠も立ちがたくなります。先ずもって穏便の手段をもって宸襟《しんきん》を安んじられるように、良策ありたいことです。
くれぐれも、大磐石の腎慮をもっぱらにして、精々誠忠を尽されるようにひとえに願いますが、帝都が戦場となっては、容易ならざる大乱ですから、くれぐれもお膝元は静謐《せいひつ》にして、宸襟を安んじなられるよう、長藩などとも一致して、良策あらんこと肝要です。
くれぐれも卒爾《そつじ》がましい次第があっては、事が成就しがたい故、何分如才はあられぬとは存じますが、静かにして宸襟を安じられるような良策を伏して頼み入ります。
○同封の書付は所司代から伝奏へ差出したものの写しです。急ぎこれも御返却下さるよう伏して頼み入ります。
四月十四日(文久二年)
[#地付き]忠 房
島津和泉殿
極密早々
典型的な公卿の手紙ですね。なよなよして、くどくて、臆病な心理が横溢《おういつ》しています。近衛忠房という人は元来臆病で、その臆病は公家なかまでも有名でしたが、安政の大獄以来は幕府を恐るること鬼神のようでした。久光の中央乗り出しを迷惑がり、出来るだけ掣肘《せいちゆう》しようとして、中山尚之介が来ても、大久保一蔵が来ても、色よい返事をしなかったのですが、すでに久光は乗りこんで来ました。どうにもしかたがありません。会わないわけにも行きません。会ったらこと穏便にするように頼もうと思い、それがこの手紙になったのです。文面全体にその気があふれているのはそのためです。
久光の京都進出を心配し、恐れたのは、近衛忠房だけではありませんでした。島津家の一門や親戚の大名らもそうでした。すでに黒田斉溥については述べましたが、島津の分家である日向佐土原の島津|忠寛《ただひろ》もまた心配して、わざわざ樺山直記《かばやまなおき》という重臣を伏見によこして、いろいろ不穏なうわさもあるから、京都には立寄らず、真直ぐに江戸に出て来るようにとすすめてよこしました。もっとも、これには幕閣からのさしがねがあったようです。これにたいして、久光はこう返答しています。
この節、小子の出府について、諸浪人らが多数大坂に集まり、容易ならざることを企図しているやの風評があり、至極御心配下され、樺山直記を当地まで差しつかわされて、御所存の趣きを仰せ聞け下さいました。委細承り、別してかたじけなき次第に存じます。小子においては、毛頭そのような考えはないのですが、家臣の中で、小子の趣意を取りちがえている心得違いの者があり、筋なきことを申し散らしているところから、事が起《おこ》って、いささかでも公辺のお疑いを蒙りましたことは、まことにもって心痛至極であります。この上は浪人共を取り鎮めないでは、とても無事に伏見を通過することは出来かねますから、貴意には沿いかねますが、暫時、伏見に滞在します。小子の苦労を御遠察願います。
先度、堀次郎をして大略を申し上げさせました一条も、実以て天下のおんためと存じている趣意でありまして、浪人に同調しているのではありません。とても今のような形勢では、恒久的太平は望まれないことは、心ある人は誰でも考えていることで、改めて申すには及ばぬことであります。しかしながら、小子がこういうことをしますので、家督の身分でもないのに余計なことをするとお考えかも知れませんが、数百年来、徳川家の厚恩を蒙っている身である以上、このような時節に思いついたことを申さないのは、かえって不忠の至りと考えましたところからはじまったことであります。当主修理大夫殿(忠義)から建白致されるのが順当でありますが、修理大夫殿は御存じの通りまだ若年でありますし、病気のため当年の参府も御猶予していただいていますこと故、そのお礼言上のため小子が出府し、ついでに建白するのです。
申すに及ばぬことながら、左衛門(島津下総のこと。久光の中央乗出しに反対して、家老をやめさせられた)を復職再勤させることを御周旋していなさるとか伝承していますが、もし事実ならば以ての外の次第であります。左衛門は権威が強くなり過ぎて我儘《わがまま》になったようなところがあり、これ以上年を重ねましては益々増長して、ついには手のつけようもないことになってはならないと思って、やめさせたのです。上に威勢がある方がよいか、家老に威勢がある方がよいか、和漢の歴史に顕然たるものがあります。貴君ももちろんよく御案内のことと存じます。また壮右衛門(山田壮右衛門、斉彬の側役で、斉彬の末期に侍して看護した人物である)のこともいろいろとお取りなしでありますが、壮右衛門という男は奸佞《かんねい》邪智で、表裏があり、軽薄な所行も多々あって、とても君側に召しおくべき者ではありません。今の処置では軽すぎるとて、色々申し出る者もありますが、先君(斉彬)の時から勤仕している者ですから、先ず今の処置ですませたのです。右等の趣きを厚くお汲み取りあって、精々御尽力下されたく、千万頼み奉ります。
最後に、この品は至って軽微なものですが、書信にそえて御覧に供します。先は右、乱筆をもって頼み申し上げました。恐々謹言。
この手紙は、斉彬の死の真相を究明するためには、まことにいい材料になります。久光は斉彬の志を最もよく知っているはずの西郷を放逐《ほうちく》し、斉彬の末期の遺言について最もよく知っているはずの島津下総を家老職から追い、斉彬の末期の病状を最もよく知っているはずの山田壮右衛門を免職し、処罰同様の処置をしているのです。
しかし、これはこの際は関係はありません。ここで関係のあるのは、久光が家中の激派の者や浪人らの動きを逆手にとって、これでは空しく京・伏見を素通りするわけには行かないと言っていることです。久光もさるものと言わねばなりません。
京の風大坂の風
前述しましたように、久光は四月十三日に大坂藩邸から伏見に上り、伏見の藩邸に入りましたが、翌日近衛忠房からの来書があって入京をうながして来ましたので、中一日おいて十六日に京都に入り、近衛邸を訪問して、忠房に謁しました。議奏の中山大納言|忠能《ただやす》、同じく議奏の正親《おおぎ》町《まち》三条大納言|忠愛《さねなる》も来ていて、その席に立合いました。忠房の父である左大臣忠煕も在邸していたはずですが、この席には顔を見せなかったようです。安政大獄による咎めをまだ解かれていなかったからでしょう。実直なことですが、つまりは幕府が恐ろしかったのです。
久光は抱懐している改革意見をのべました。それには手控えがのこっていて、『久光公実記』に載っていますから、今日でも正確にたどることが出来ます。次の通りです。
「こんど私が関京へ出府いたします趣意は、表面は一昨年(万延元年)以来、藩主忠義が両度まで参府を延期させてもらっていますので、そのお礼のためと、藩邸焼失後(忠義の参覲出府を延期するために堀小太郎が三田の藩邸を放火焼失させたことは前に書きました)の下知をしなければならぬこととのためであることにしていますが、内実は公武御合体の上、皇威を御振興あって、幕政を改革させるようにしたいと建白するためでございます。このことは一朝一夕の思いつきではございません。
一つには去る午年《うまどし》(安政戊 |午《つちのえうま》五年)以来、幕府の老中共が勅諚《ちよくじよう》にそむいて、外夷との通商を免許し、その上、正議の宮方・公卿方をはじめ奉り、一橋・尾張・水戸・越前、その他の有志の諸侯を禁錮《きんこ》し、庶人は死刑・流刑に処しましたため、恐れながら宸襟をなやまし給う御様子と伝承していますため。
二つには諸国の町人らへ迫って金子を買い上げた上、勝手にその値段を上げて、洋銀と称して白銅をもって国家の通用金を改鋳していますため。
三つには諸侯へ河川工事の手伝いと称して、献金を命じていますため。
四つには悪政がこのように募っていますので、諸国の人心が険悪となり、浪人共は尊王攘夷を主張し、慷慨激烈の説をもって四方に交りを結び、すでに大老を刺し、すでに夷人を斬るなどのことがありまして、それにたいして幕府の老中共は取締りの厳命を下しましたところ、浪人らの憤激はかえって募り、近頃になりましては殊に増長し、ついには容易ならざる企てに及んでいるやに伝聞していますため」
久光という人は頑迷としか言いようのないほど保守的な人柄でありましたが、頭は悪くないのです。むしろずいぶんよい人でした。学問も漢字と国学に限られていましたが、相当ありました。文章も、生き生きしたところはありませんが、そつのない論理的な文章を書く才能を持っていました。気力も鋭敏で、相当迫力のある人柄でした。出京の理由を、筋道を立てて、堂々とのべ立てました。反駁のしようのないことですから、近衛も二人の議奏も、大いに傾聴していました。
久光はつづけます。
「私の憂えは、以上申し上げたようでは、皇国全部の騒乱の基となり、勤王の趣意にも合致せず、かえって外夷の術中に陥るに相違ないと思われるからであります。かくてはならじと思うのは、皇国の臣子として当然なことではありますまいか。
私は島津の家督をついだ者ではありませんが、私の家島津家は三百年来、幕府の鴻恩《こうおん》を蒙っています。殊に亡兄斉彬が臨終の節に、私にたいして国政のことはもちろん、天朝と幕府のおんためにわが宿志を継述して、精力を尽すようにと、篤く遺託いたしました次第もございますので、これを傍観猶予していましては、不忠不孝の罪をのがれることは出来ないと存じつめ、当主と談合しまして、ぜひ出府して所存を十分に言上すべき決心をもって、去年三月十六日国許を出発、当月六日播州姫路へ到着いたしましたところ、諸浪人共が追々に上坂し、私の伏見通過を待って事を起すべき趣きに聞こえますので、道中を急ぐことが出来ず、ようやく去る十日に大坂へ到着した次第でございます。しかるところ、大坂表は諸浪人共が多数滞在していまして色々混雑し、とうてい通行いたしがたいので、家臣を内々に浪人共の許へつかわし、その方共が実際に勤王の志があるのなら、拙者が上京して叡慮《えいりよ》を伺い奉るから、暫時静まっていよと精々説き聞かせさせまして、やっと承服させ、十三日に伏見へ到着、今日かくのごとく参殿、叡慮を伺い奉る所存で建白いたすことにしたのでございます。
拙者は決して粗暴なことをして事を破るつもりはなく、天下の人心の安堵《あんど》するように処置いたしたい所存でいるのでありますから、悪しからずお聞きとり下されて、委細奏聞なし下さいますよう、伏して願い上げ奉ります」
雄弁ではありませんが、誠実感にあふれています。三人は好意を持ちましたが、正念場はこれからです。現実の改革意見がどうであるか、それが不安です。ひたすらに沈黙して耳を傾けていました。
久光は言いつぎます。
「それでは、私の考えています改革意見を申しのべます。一通りお聞きとりいただきとうございます。
先ず粟田口宮(青蓮院尊融親王、後の久邇宮朝彦親王)、左府公(近衛忠煕)、鷹司公御父子(政通・輔熙)のおん慎みを御解除になり、且つ武家においては一橋(慶喜)、尾張老公(慶恕《よしくみ》、後の慶勝)、越前老公(春嶽)等のお慎みを解除するように仰せ出されたいことです。(つまり、安政大獄において井伊の行なった処分を全部取消せというのです)
右のことがおわりましたら、朝廷におかせられましては、左府公に関白を仰せつけられ、幕府においては越前老公を大老職に任ずるように仰せつけられたく存じます。大老職となるのは幕府では家格や先例がありますので、必ずやそれを言い立てて拒むでありましょうが、非常の時節には非常な処置のあることは当然であると仰せ渡しいただきたく存じます。田安|慶頼《よしより》殿は将軍後見の名のみあって実のないことでありますから、免職するよう仰せ渡されたく存じます。また、安藤対馬守は手疵平癒《しゆしへいゆ》して出勤するようになった由でありますが、これは最も天下の人心に関係することで、そうあってはならないことでありますから、速かに退職するように仰せ渡されたいと存じます。
(安藤信睦は尊王浪士らから天皇の廃位を計画して廃帝の故事を塙《はなわ》次郎に調査させているとの疑いを持たれていたことを、ずっと前に書きましたが、この年の正月十五日に水戸浪士その他の浪士らに、登城の途中坂下門で襲撃され、負傷したのです。この疑惑は根のないことのようでしたが、安藤は井伊大老の衣鉢《いはつ》を最も伝えているというので、志士らの憎悪の的になっていたのです。気の毒なのは塙次郎です。この年の暮に暗殺されています。斬ったのは伊藤博文、当時の名伊藤俊輔だったとも言われています)
老中筆頭たる久世|広周《ひろちか》が早々に上京するよう仰せ渡され、前述の儀を速かに取行なうようにきびしく仰せ渡していただきたく願い上げます。これについては、朝廷に御威光があらせられないでは幕府役人共が遵奉いたさぬ懸念がありますれば、大名二、三家へ内勅をお下しになり、もし幕府役人共に違勅の様子があります節は、速かに弁責するよう仰せ渡しおかれたいと存じます。以上のことは、叡慮の趣きが浪人共に漏れないようにお取締りを厳重に遊ばされて、妄《みだ》りに浪人共の説を御信用なさらぬように願い上げます。
越前春嶽が大老になりました以上は、上洛を仰せ出され、将軍はまだ弱年であるのに、非常の時節ゆえ御心配であるとの旨で、一橋を後見にするよう仰せつけられ、関東において朝廷尊崇の道を精々尽し奉り、邪正の別を明日に打立て、外夷の処置は天下の公論をもって、永久不朽の明制を御確立になり、皇威が海外にまで振わせられるようにいたされたく、恐れながら存じ奉ります。
右の条々、至愚の身を顧みず、存慮の趣きを申し上げました。厚く御評議をお尽し給わり御採用をいただきますなら、一日も早く勅命あらせられたく、ひとえに心願いたします」
久光は大熱弁をふるって弁じ立てた後、口演原稿を三人に呈示しました。中山と正親町三条とは、その原稿をたずさえて、近衛家を辞去して参内しましたが、しばらくして、奏上をすませて帰って来ました。天皇は久光の忠誠を大いに御感になり、次のような勅諚を賜わったと伝達しました。
浪士共蜂起の不穏な企てのあるところ、島津和泉(久光はこの頃から通称を和泉と改めていましたが、やがて三郎と改めるのです)が取りおさえた旨、先ずもって叡感に思し召された。特にお膝許において容易ならざることが発起するにおいては、実に宸襟を悩まされることなれば、和泉は当地に滞在して、鎮静に骨折るようにと思し召されること。
おほめにあずかったばかりでなく、京都滞在を勅諚をもってお命じになったのです。久光の感激は言うまでもありません。
その日、久光は伏見藩邸に帰りましたが、翌日は京に入って、錦《にしき》の藩邸に入りました。この頃の薩摩の京都屋敷は、四条通の今の大丸デパートの裏側一帯にありました。
ここで話を大坂に移さなければなりません。
大坂では、有馬新七等誠忠組激派の人々によって、着々と計画が進められていました。久光が伏見へ移った頃には、相当深いところまでそれは行っていました。この計画が江戸から駆け上って来て中之島の魚太《うおた》に泊まっている柴山愛次郎・橋口壮助以下の人々、二十八番長屋にいる浪士ら、さらには長州藩邸にいる長州藩士や土佐藩人らとも、すべて合議の上であったことは申すまでもありません。
計画の目的はこうです。
関白九条尚忠を襲って幽閉し、所司代酒井|忠義《ただあき》を討取り、安政大獄以来相国寺に幽閉されている青蓮院宮を助け出し、宮から天皇に志のあるところを奏上していただいて、討幕の勅を請下し、久光を盟主にかつぎ上げるというのでした。
ずっと前に述べたところでは、これと同時に江戸でも水戸藩士その他と共に義軍を挙げて京都と呼応するというのでしたが、江戸におけるそれを担当した柴山愛次郎、橋口壮助らが江戸を去って大坂に来てしまいましたので、江戸での挙義は取りやめになったのです。なぜ柴山らが大坂に上って来たかと申しますと、これは堀次郎がすすめてそうさせたのです。
堀が久光の江戸乗出しの下地ごしらえをする任務を帯びて江戸に出ていたことは、前に書きましたね。恐らく水戸藩士との提携がうまく行かず、柴山等が苦しんでいるのを見て、堀はそう言ったのでしょうが、このへんの堀の動きには妙な翳《かげ》りがあります。西郷が久光の怒りに触れて国許へ送り返された時、久光は堀が口を利いて浪人志士らを大坂藩邸の二十八番長屋に収容したことを怒って詰問した時、
「これは『戦国策』にいわゆる守ると謂《い》いて拘《とら》うるなりのつもりでございました」
と答えて、久光の怒りを解いています。つまり、この連中は何をしでかすかわからない者共ですから、放置しておくより、一緒にかためて監督下においた方がよいと思ってそうしましたと言ったのです。
ところが、この以前に伏見藩邸で西郷に会い、西郷から長井|雅楽《うた》のごきげん取りをしていると叱られた時、あれは時勢のバスに乗りおくれないための一時の策にすぎない、自分の真の志は、久光公のご到着を待って事を挙げようと張り切っている諸方の有志らを、拙者が全責任を持つといって、留守居方の不承知を説得して、大坂藩邸に収容したことをもって知ってもらいたいと言っています。
久光にたいしては自由な動きをさせないための策略的処置であったといい、西郷にたいしては一緒にことをなすために保護しているのだと言っているのです。相手の好みによって答えが違っています。堀の狡猾《こうかつ》は申すまでもありませんが、私は両方ともウソじゃなかったろうと思っています。
堀も誠忠組の大幹部ですから、西郷と大久保の談合の次第はよく知っていて、相成るべくは、討幕の挙をおこして久光をかつぎ上げたいと思って、ある程度の努力はした、それが西郷へのあの返事となったのであり、その西郷が久光の怒りに触れて国許へ追い返されたので、久光への弁解が「守ると謂いて拘うるなり」というあのことばとなったのであると判断するのです。
私の問題にしたいのは、寺田屋の人々の意図はあの人々だけのものでなく、久光の側近でも誠忠組の人々――大久保は申すまでもなく、堀、吉井など、また誠忠組ではないが高崎佐太郎(正風)なども、心の底では討幕となることを期待していたようであるということです。この人々は久光の態度を見て、さっさとその心を引っこめて、何食わぬ顔になったのですね。利口ものですよ。純粋とは言えませんね。私には西郷一人を犠牲の羊として、口を拭いて知らん顔をしたとまで思われるのですがね。
話を元に返しましょう。
有馬等は、四月十八日の夜を期して事を拳げることにして、十八日の早朝には伏見に上る手筈《てはず》にしていました。ですから、長州藩の家老|浦靭負《うらゆきえ》は、十七日には百余人の兵をひきいて大坂から伏見に上ったのです。
ところが、この十七日に、柴山愛次郎と橋口壮助とにあてて、在京の堀次郎、京都藩邸留守居の鵜木《うのき》孫兵衛から、手紙が来ました。前に書いた久光の近衛家におけることが書かれています。中山・正親町三条両卿がその旨を奏上すると、主上の御機嫌はまことにうるわしく、久光の忠誠と時宜を得た働きとに浅からず叡感あって、しばらく滞京すべき旨の内勅まであって、万事至極の好都合であるから、この旨を二十八番長屋の面々へも伝えて、安心して暫くそのまま滞坂あるべし、そのうちまた便りをするであろうと言うのでした。
この頃はまだ有馬ら誠忠組激派の面々も、浪士らも、多分の希望を久光につないでいましたので、十八日夜の一挙は一先ず日のべすることにしました。もちろん、大坂から動きません。
翌十八日、奈良原喜八郎(繁)、海江田武次の二人が、久光の命を受けて、京都から大坂へ下って来て、有馬新七らに、久光公の運動は大いに好調に運びつつあるから、皆々益々自重して鎮静にすべき旨を説きました。
二人の説くところはこうです。
「咋十七日朝、朝廷では所司代に仰せつけられて、急飛脚をもって、久世閣老に早々に上洛せよと幕府に命ぜられた。かく閣老が上京すれば、久光公とともに天下のことをご相談になることになっている。堂々たる薩藩が朝命を奉じて幕府とことを議するのである。決して長井雅楽の説くような、まやかしの公武合体にはならないはずである」
これにたいして、有馬らは、それは大いに結構でごわす、おいどんらについてのご心配は無用になされとうごわすと答えて、二人を返したのですが、そのあと、有馬、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助らは、小河一敏、田中河内介らと相談し合いました。
「海江田・奈良原の両君の話を聞きますれば、一応もっともなようではござるが、この際久光公が幕府の老中と談合されるというのが、先ず拙者らは気に入りません。拙者らのこんどの挙は、幕府そのものを討滅することが目的でござる。しかるにこれと寛談するなどということがあっては、出て来る結論は大ていわかっています。拙者等の抱懐する尊攘の大義が正しく行われるはずのないことは明らかです。しかし、京都でそういう道が進行中であるなら、それも捨つべきではござるまいから、それはそれでやっていただいて、それを正兵として、われらの企てていることは奇兵として、これまたやろうではござらんか。正奇ともに備わって、最も完全な道と申すことが出来ましょう」
というのが、有馬等の意見でした。
この議論は、忌憚《きたん》なく評すれば屁理窟《へりくつ》です。こんなことで正兵も奇兵もあったものではありませんが、彼らにとっては久光は譜代の主家を代表している人です。類似のことをやっているのに、無視したり、敵にまわしたりするには忍びなかったのでしょう。また彼らとしては、つまりは何とかして久光を討幕軍の大将軍にかつぎ上げたかったのです。このように考えれば、この屁理窟も納得が出来ましょう。ともあれ、二十八番長屋の人でも納得しました。
そこで、改めて相談が行われて、二十一日に上京して、その夜すぐ一挙にとりかかることに決議されました。
ところがです、二十日の早朝、大久保一蔵から、中之島の魚太に泊まっている柴山愛次郎と橋口壮助とに連絡がありまして、今暁大坂に到着して、加藤十兵衛宅に泊まっている、用談があるから、早速訪問する、待っていてもらいたい、藩邸にいる有馬新七、田中謙助の両君にも、二十八番長屋の田中河内介殿、小河一敏殿にも会うつもりで、すでに連絡をとってあると言って来ました。
大久保は、魚太で柴山と橋口とに会い、ついで藩邸に行って有馬と田中とに会い、その席に田中河内介と小河一敏とに来てもらいました。大久保の言うところは、つまりは静かにおとなしくしていよというのに尽きるのですが、大久保は西郷と国許で約束したことがあります。それはこれまでくどいほど述べました。
想い起こしていただきましょう。ですから、大久保としては、いろいろな意味で、誠忠組左派の人々に責任を感ぜざるを得ないものがあります。それ故、さすがの大久保の雄弁も、この日は精彩がありませんでした。
大久保はこの人々に利をくらわそうとしました。
「幕府との談合において、久光公は朝廷に御親兵を備え申すことを提議なさることになっております。さすれば、この度お供して来た誠忠組の面々は御親兵となるのでごわす。それはまた浪人衆も同断でごわす。御親兵となれるのでごわす。これまでと違って、遠く勤王の志を運ぶのではなく、いつも間近く王事に忠誠をいたすことが出来るのでごわす。久光様は決して各々の御誠忠をお忘れではありませんぞ」
大久保は強い男です。強靱なこと鋼鉄のごとき意志の男ですが、さすがにこの時は心が餓《う》えていたようです。
この純粋|無垢《むく》な連中にこんな説き方をしてしまったのです。
彼らは言いました。
「我々を御親兵となし下さるとは、まことに有難いことでごわすが、我々の中には一身の栄辱存亡を考えている者は恐らく一人もごわすまい。ただ一筋に国辱を洗い雪《すす》がんとの念だけをもって、藩中の者はこの度のお供をし、浪人衆は馳せ集まりなされたのでごわす。今、天下の人皆泰平に溺《おぼ》れて、因循《いんじゆん》をこととして、外侮を外侮とも思わずにいます時、かたじけなくも御英明なる至尊は、夷狄掃攘《いてきそうじよう》のことを深く大み心にかけ給うていらせられると伺いますのに、御側近の雲上の方は義烈の心薄く、ひとえに婦人に似ておわす有様であります。かくては思い切ったる御一新の事業も行われ難いであろうと拝察し奉る次第でごわす。されば、今日の急は、ただ雲上方をして男子の気に立ち返らせ奉り、天下の列藩をして酔夢から揺りおこすことであります。今やわれらとして頼むところは、久光様の御処置がどうであろうかということだけでごわす。拙者共の今知りたいことは、それだけで、御親兵の何のというようなことではござらん。久光様は当今のことをどう御処置なさるおつもりでごわしょうか。それをお尋ね申したく存ずる」
ことばは鄭重《ていちよう》ですが、意味は最も痛烈です。大久保の功利主義を真向|微塵《みじん》にたたきつけたのです。何しろ有馬新七です。大久保ほどの男が説きようをあやまったというべきです。といって、つい数日前、西郷のことが久光の怒りに触れて国許に追い返されるまでは、自分もそのつもりでいた身として、はかばかしい答えが出来ようはずはありません。
「とにもかくにも、各々方に静穏にしていていただきたいのでござる。久光様は必ず朝廷を輔《たす》け申され、朝威の恢復《かいふく》をはかり給うために、折角御腐心最中であり、すでにお知らせいたしたように朝廷のお心寄せも重く、滞京の御叡旨すら下し賜わったほどでござれば、決して貴殿方の御期待に沿わぬ結果にはならぬと、拙者はかたく信じています」
「それはおはんの御信念で、久光様としては、ただ叡旨も下って上首尾じゃから静穏にせよと仰せられただけでごわすな」
「その通りでごわす。しかし、臣子の分として、それ以上のことが必要でござろうか」
有馬は沈黙し、沈思し、同志の人々をじろりと見まわしましたが、急に、
「ようごわす。よくわかりもした。御苦労でごわした」
と言いました。
大久保は、やっと説得し得たと思って、ひそかに太息して、藩邸を辞しました。すでに夕景です。早朝から夕方まで、ほとんど終日を費したわけです。その後、大久保はすぐの上りの三十石船で京へ帰って行きました。
有馬のこの時の様子には、もし大久保が注意深かったら、何か不安を感じさせるものがあったはずですが、大久保は格別気をまわしませんでした。大久保という人間は、諸事念入りで、くどいくらいダメを押した男ですが、どういうものか、政治的のことについて人を説得する場合、意外にツメの甘いことが、往々ありました。この四、五年後、情勢が煮えつまりかけた頃、よくそれがあります。たとえば十四代将軍家茂の死んだ後、彼は徳川幕府を自然に立枯れさせることを計画して、慶喜に将軍宣下がないように運動して失敗しています。また薩摩・土佐・越前・宇和島の四藩連合をつくりましたがそれが、久しからずして崩れました。いずれもツメの甘さを感じさせるのです。絶対にポカのない人物のように見えて、時ダそれのあるところが、彼もまた人間なんでしょうね。あるいはこれが彼のアキレス腱《けん》であったのかも知れません。
大久保が去った後、有馬は人々にむかって言いました。
「もはや大久保は頼みになり申さぬ。久光様もその通り。ことは我々だけでやるよりほかはなかことになりました。幸いなこと、長州藩が一緒にやるといっています。我々と長州とだけでやりましょう。我々の志は功業にはないはず。天下に魁《さきが》けて、いわば源三位頼政の挙をなすのでごわす。それをやって、天下を震動させ、潔く死にさえすれば、感憤して続いて立つ者が必ずあるはずでごわす。時は熟し切っています。そう思いましたので、大久保にはほどよく言うて帰したのでごわす」
柴山愛次郎と橋口壮助とが深くうなずき、力強く言います。
「そうでごわすとも。功業は我々のことではござらぬ。仰せられる通り、我々の役目は天下を震動させ、正気の魁けをなすことでごわす。それでよかったのでごわす」
田中河内介も、小河弥右衛門も、またこの志に異存はありません。
「仰せられる通りでござる。大久保殿が御親兵などということを申されました時、拙者共は、我々の志をそれだけのものとしか思うておられぬのかと、名伏しがたい不快な思いがしました。しかし、今、有馬殿、柴山殿、橋口殿の御決心をうけたまわりまして、涙のこぼれるほどうれしゅうござる」
といって、二人ともほろほろと泣きました。
やがて、実行計画の相談がはじまって、その結果、薩藩士側では、
「二十八番長屋止宿の浪人衆が上京のため一斉に立去りなされては、忽ち邸吏に怪しまれて露見し、京都屋敷に急報して、事の破れのもとになるでござろう。しかれば、田中河内介殿だけひそかにお出かけになり、他は暫くしずまっていて、時刻をはかってあとから上京して来ていただきましょう」
と、要求しました。
もっともなことですが、浪士側としては不服です。貴殿らはどうなさるおつもりですと尋ねました。
「我々はいろいろな理由をこしらえ、事のあらわれぬように十分に注意して脱走、上京いたします」
「とすれば、我々は最初の一挙には漏れることになるかも知れないわけでござるな」
と、小河は無念げです。
「あるいはそうなるかも知れませんが、小さな功名争いは、この際つつしんでいただきとうごわす。我々のこの度の挙は、天下の正気の魁けをなして死ぬことにあるのでごわすから」
と、有馬は答えます。
こう言われれば、一言もないことです。小河はおだやかな人柄でもあります。納得しました。
しかし、久留米藩脱走の人々ははやりにはやっています。清河八郎の退邸の時にも一緒に出て行こうとしたほどですから、とうてい納得しそうにありません。そこで、これは田中河内介と同行させることで諒解させました。
大坂の長州藩邸に屯《たむろ》していた人々の多くはすでに上京していましたが、なおのこっている連中もいましたので、ここにも二十一日の夜決行ということを連絡しました。長州藩邸からは、堀真五郎が京都藩邸へ連絡のためにすぐ上京して行きました。
この夜、薩藩邸内の薩藩士らは、明早朝から上京するつもりで、夜のうちに船用意などしてから寝についたのですが、夜中に橋口壮助が来て言います。
「佐土原藩の同志、富田猛次郎、池上隼之助の両君が、龍手《こて》などの兵具《ひようぐ》をとりに藩邸に行ったところ、藩邸の留守居があやしんで、こちらの留守居に知らせたらしく、用心の手配をしているようである。こんな時に無理なことをしては、破れのもとになろう。しばらく日をのばして、用心の怠るのを待つがよいと存ずる」
用心が大事なことは言うまでもありません。そうすることになり、ともかくも、長州藩に連絡し、土佐人|宮地宜蔵《みやじぎぞう》が二十一日に上京して、京の長州藩邸に報告しました。
長州藩ではその夜(二十一日夜)に決行ということなので、宍戸九郎兵衛はすでに数日前から京都に人っており、浦靭負もこの日の夜百余人をひきいて伏見藩邸から河原町の藩邸内の願就院に移って、それぞれの役割まできめていたのです。即ち久坂玄瑞は所司代屋敷へ討人って酒井忠義を討取ること、浦の人数は禁裡の守衛を主として、かたわら、場合に応じていず方へでも駆けつけること。
こんな風に、張り切って準備をととのえているところに、宮地が日のべのことを言って来たのです。とうてい日のべなど出来るものではありません。
「何としてでも、きめた日にやりたい」
と答えて、宮地をかえしました。
宮地の報告を聞いて、薩摩人らは詮議しました。いかにもその通りです。しかし、これから馳せ上っても、伏見に着くのは、早くても二十二日の朝の八時頃になってしまいます。それからでは、どんなに急いで手配りしても、その夜の間には合いません。思い切って、もう一日延期して、二十三日夜決行ということにしたいと決定して、秋月藩士|海賀宮門《かいがくもん》を早駕で京へ馳せ上らせました。
以上は二十一日のことでしたが、この日はまた次のようなことがありました。
九州勤王志士の首領ともいうべき真木和泉守保臣が、大坂の薩摩藩邸に来たのです。真木が筑後の羽犬塚駅に待ちかまえていて、京都に使して帰る大久保一蔵に会ったのは、二月三日でありましたが、真木はその十六日には、末子の菊四郎、門人淵上謙三、吉武助左衛門の三人を従えて、白昼、水田村の幽居を脱して南行して肥後に入り、肥後の同志らと会った後、海路をとって薩摩の阿久根に上陸し、二十七日に鹿児島城下に達し、有馬新七、田中謙助、大久保一蔵らに会いました。そして、大久保を介して小松|帯刀《たてわき》に嘆願するところがありました。
即ち、自分は久留米藩で幽囚されている身を脱して来たので、このままでは一挙の日までに逮捕される恐れがある、保護下さって御上京にお連れいただきたい、万やむを得ずば、昼は雑卒にまじってお供し、夜だけ御前に召してお話のご相手をつとめさせていただきたい、ともあれ、薩摩侯の御行列の一員となっていれば、決して追手などかかる恐れはないことである。ぜひお世話願いたい、もしまた万々一、久留米藩の捕縛の手がのびた場合は薩摩に逃げこむことを許していただきたいというのでした。
藩も、小松も、真木を待遇すること、まことに鄭重《ていちよう》でした。真木にはそれだけの人格的威厳があったのでしょう。しかし、この嘆願は容れられませんでした。
「志布志《しぶし》に船を用意させますから、志布志から出国して上京なされよ」
といいました。
これらの交渉の間に、中山尚之介もまた真木と会っています。真木はその日記に中山のことを「直介」と書いています。この誤記によって、尚之介は「ショウノスケ」と訓《よ》むのではなく、「ナオノスケ」と訓むのであることがわかります。真木は中山のことを、「喋々《ちようちよう》、その国の未だ事を挙ぐるに足らざることを説く。(中略)|頗《すこぶ》る才力あり。奸乎《かんか》、未だ知るべからざる乎」と大いに批判的です。あまり気に入っていない様子がうかがわれますね。
真木としては取りつく島がありません。三月六日、鹿児島城下を去って、大隅の方へ行きますと、八日、薩庁から召しかえしがあって、鹿児島湾のドンヅマリの福山から小舟に乗って鹿児島にかえり、十一日、小雨のそぼ降る中を、小松邸に連れて行かれました。
小松に会いますと、小松は言います。
「久留米藩が貴殿方をきびしく追捕しているということです。薩摩から出国なさるという情報を得たらしいのです。当分、当地におられた方が安全であろうと思いまして、お呼び返し申したのです」
真木の安全のために逗留せよというのですが、実は浪人志士の巨擘《きよはく》である真木を早や早やと京都に出してやっては、久光の上京目的に支障を生ずる恐れがあるというので、おためごかしにこんなことをするのでしょう。真木にはそれがわかっていたでしょうが、反抗したところで殺風景なことになるばかりであると思ったのでしょう、こう答えました。
「ありがたいお志でござる。ともかくも、有馬新七殿にお目にかかり、相談した上で、御返事申しましょう」
その夜、有馬新七が来て(有馬はこの五日後の十六日、久光随従の一人として出発するのです)、くわしく中央の情勢を伝えました。長州藩が事を共にしようと張り切っていること、豊後岡藩の重役小河一敏もまた大いに感憤して同志をひきいて京都に向う覚悟をきめている等々のことです。これらはその人々が薩摩に来たのであり、有馬は応接役の一人として直接に談話しているのですから、話は確かであり、迫力があったはずです。また、有馬は京都藩邸留守居から藩庁への報告によると、彦根侯井伊直憲が幕命によって上京して来たため、公家衆は安政の恐怖政治が再現するのではないかと恐怖しているということも伝えました。
いずれの話も、真木を興奮させるに十分なものがありますが、最後の話は最も興奮させました。このような事態があるだろうと思えばこそ、彼等はクーデターによって朝権を確立する必要があると思いつづけて来たのです。
しかし、真木のおかれている現実の状況は、急には破ることは出来ません。彼は鹿児島に抑留されること、およそ二十日、三月二十九日に、ようやく出発してよいとの許可を得て、三十日に出発しました。久光はこれに先立つ十五日、三月十六日に鹿児島を出発していますから、もう出してやっても邪魔はすまいというのであったのでしょう。
真木は日向路をとって、延岡近くの土々呂《とどろ》から便船をもとめて、四月十三日に豊後の佐賀関に着き、ここで早船を借りて、四月二十一日に大坂に到着したのでした。
伏 見 集 結
真木は薩摩藩の藤井良節と知合でした。藤井はもと井上出雲守正徳といって、鹿児島城下諏訪神社の宮司だった男です。事情があって薩摩を脱藩して、博多あたりで工藤左門と名のって浪人暮しをしていましたが、久光の中央乗出しに際して帰参がかない、藤井良節という名で、薩藩の公家《くげ》方面の仕事を担当しているのでした。真木がこれと知合だったというのは、多分、神主同士として知合だったのでしょう。
真木はこの井上に会いたいと思って、薩摩藩邸へ行きましたところ、井上は不在でした。いくらか途方にくれているところに、柴山愛次郎と橋口壮助とが聞きつけて出てまいりました。二人は江戸から一緒に駆け上って来た同志とともに中之島の魚太を宿元にしていたのですが、用事があってちょうどこの時藩邸に来ていたのです。この二人が、この春江戸屋敷の糾合方《きゆうごうがた》(学問所の図書校正係兼教師)に任命されて出府の途中、水田村の真木の蟄居所を訪れて、あたかも来合せていた平野国臣もまじえて、久光の出京を機に事を起こそうと相談し合ったことは、前に書きましたね。思いおこして下さい。
二人は真木の到着を大変よろこびまして、この藩邸の二十八番長屋に浪人志士らが収容されていること、真木の門下生である久留米藩人の六人もいること、平野国臣もつい九日前まではいたことなどを語り、真木のために藩邸内に一室をあてがってくれました。
どうやら、そのへやは二十八番長屋とは別だったようですから特別に優待したのでしょう。以下、真木の日記を材料にして書きます。
真木等一行――真木、末子の菊四郎、門人淵上謙三、吉武助左衛門の四人です――が、その一室に一夜泊まった翌日、よく晴れた朝だったそうです。柴山愛次郎がまいりまして、
「急用があります。急いで東隣りの長屋へお出で下さい」
と言いました。
行ってみますと、田中河内介もおり、小河一敏もおり、久留米の六人もまた居ます。久留米人らは真木を見て、皆安心し、喜びの色があふれました。なるほど、ここが二十八番長屋かと、真木は合点したことでしょう。
やがて一室に入って用談にかかります。メンバーは田中河内介、小河一敏、是枝《これえだ》柳右衛門(これは薩摩人ですが、藩士ではありません。現在は鹿児島市に合併されていますが、鹿児島城下近くの谷山郷の町人で、町人ながら憂国の志ある人でした)、柴山愛次郎、橋口壮助、それに真木の六人でした。
田中河内介が議長格で、切り出します。
「島津和泉(久光)殿のこの度の御出京の目的は、はなはだ生《なま》ぬるいものでござるが、我々のあしらいようでは、皇国を救うものとすることが出来ぬわけではござらぬ。しかし、執奏役にあたる公卿衆はいずれも生ぬるい人々でござる。しかも、公卿衆のたばねである九条関白は安政年度には井伊と腹を合せて正議の宮方や堂上衆を迫害圧迫した人でござる。恐らくは、和泉殿は真実の叡慮を伺い知ることは出来させられず、従って実《み》の入ったことは何にも出来させられぬでござろう。つづまるところ、この時にあたって我々の為すべきことは明らかでござる。九条殿を襲ってこれをたおし、そうすることによって堂上方の肝をうばい、革面《かくめん》一新の挙をなすことであると信ずるのでござるが、貴殿のお考えをうかがいとうござる」
真木もクーデターを目的として出て来たのではありますが、いきなり、最も激越なことを言われたので、驚きもし、十分にわからない点もありまして、首を垂れて、考え考え言いました。
「九条殿をたおし申すのは何でもないことでござる。つまりは刺し申すだけのこと。しかし、九条殿をたおしただけでは、何の効果もないことでござる。たおしたら、さらに一大事があるはず。即ち至尊に奏上することをせねば、あとの動きがとれますまい。その奏上の途《みち》はついているのでござろうか」
「途はついています。しかしながら、今日は口舌《くぜつ》だけではどうにもならないのでござる。先ず取りかかることが必要と、拙者は思っている次第でござる」
河内介のことばはむっとした調子です。はげしい気性の人ですからね。
そのかたわらから、是枝柳右衛門が、先ず実行すれば、奏上の途などいくらでも出て来ると申しましたが、そんな大ざっぱなことでは、真木は納得しません。なお思案をつづけていますと、真木の左方にすわっていた小河一敏が、紙にしるした巻物状のものをひらいて示しました。会釈して読みますと、上奏文の原稿です。「天下のことはすでにかくの如し。臣等、権道をもって某氏(九条関白)の奸を討ち、二品親王青蓮院宮を擁して入朝いたします。陛下は親王と御相談あって、急ぎ島津氏を召して、これに御依頼遊ばしますように」
という趣旨のものです。
真木は読みおわりまして、一座の人々に会釈しました。
「よくわかりました。思うに、これは今日における最上の妙策でありましょう。拙者は不肖の者ではござるが、わが子弟をひきいて、御人数に加えていただきましょう」
田中河内介が、奏上の道はついていると申しましたのは、いつわりではありませんでした。田中の親しくしている人物で、同志であり、現在この二十八番長屋に止宿しています青木|頼母《たのも》というのがいます。この人の弟が青蓮院宮の側近に勤仕《ごんし》して、現在は宮が幽居されている相国寺の子院《しいん》にいます。ですから、田中は青木をつかわしまして、その弟を手蔓《てづる》にして宮に連絡をとることにして、この日の夕方、密意をふくめて、京都につかわすのです。
柴山・橋口は、支障があって、度々日のべして、今日に至ったことを語りまして、
「幸いにして、こうして貴殿がお出でになったのでござれば、願わくは第一隊の総督になっていただきとうござる」
と言いました。
真木は固く辞退しましたが、他の人々もぜひ引受けてもらいたいと言ってやみませんので、ついに引受けました。
夕方、真木は一行と久留米人六人を引きつれて、藩邸を出、八軒屋に行って、京屋という船宿に投宿しました。この人々はこの夜から明二十三日朝にかけて、三十石船で伏見に行くのです。ついでながら、久留米人六人の名を挙げておきます。原道太、古賀簡二、鶴田陶司、荒巻羊三郎、中垣倹太郎、酒井伝次郎。
中村主計と千葉郁太郎とは、田中河内介によって加盟し、田中と義兄弟の盟《ちか》いをしている人々ですから、本来なら田中とともに皆を送り出してから一番最後に田中や小河とともに出発すべきでしたが、一挙におくれるかも知れないと案じまして、二十三日の早朝、二十八番長屋を脱出して、船を雇って淀河をさかのぼりました。
明くれば二十三日の早朝、真木和泉守らは八軒屋から三十石船で伏見へ向いましたが、それより早い時刻、まだ薄暗い頃、薩藩邸では、有馬新七らの藩内同志は、朝風呂に行くと言い立てまして、三々五々連れ立って藩邸を出て、中之島の魚太へ行きました。魚太が江戸から駆け上って来た柴山愛次郎らの宿元であることは御承知ですね。
すでに船は四艘雇ってあります。全部集合したところで分乗して、伏見へ向いました。一番舟には有馬新七、橋口壮助等、二番舟には是枝万助(柴山愛次郎の実弟)、吉田清右衛門、篠原冬一郎(国幹)等、三番舟には田中謙助、橋口伝蔵、柴山竜五郎等、四番舟には柴山愛次郎、佐土原藩士富田猛次郎等が乗っていました。
当時、淀河を上り下りする船は、下り船は艪《ろ》や棹《さお》で下りましたが、上り船は曳子《ひきこ》が曳綱を肩にかけ、身をかしげて、エイヤエイヤと岸を歩いて曳き上ったのです。一般の船ばかりでなく、三十石船もそうでした。
『有馬新七先生伝記』と海江田信義(武次、前名有村俊斎)の『実歴史伝』によりますと、海江田と奈良原喜左衛門とは、久光から浪士等を説得せよと命ぜられて、この日京都から大坂に向いました。前書では陸路を下ったとあり、『実歴史伝』では船で下ったとありますが、海江田のこの書は記憶違いや虚飾が多くてあまりあてになりませんから、ひとりこのことにかぎらず、私はあまり信用しないのです。『有馬新七先生伝記』によって記述しましょう。そうでなければ説明のつかない事態も壮士らの遡江《そこう》中に生ずるのです。
二人は淀河に沿った道をてくてくと下って来る途中、一番舟はつい見すごしましたが、二番舟に気づきましたので、
「おおい、おおい……」
と呼びかけ、船を停めさせました。二番舟に乗っているのは、是枝万助、篠原冬一郎等です。ぜひ大坂に引き返すようにと説論しますと、是枝等は、
「われらは有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助等の人々と志を同じくして、九条関白や酒井所司代等の姦物を除くために京へおもむく途中でごわす故、何と申されても、引返す訳にはまいりもさん」
といいました。薩摩人は無骨ではありますが、礼儀は重んじます。とりわけ、長幼の序は最もきびしかったのです。武士同士がたがいに敬語をもって話し合った習慣は、私の少年の頃までは士族の間にはのこっていました。一つでも年がちがえば、鄭重《ていちよう》なことばと態度で接したのです。奈良原も、海江田も年長であり、誠忠組の先輩であり、しかも今では役づきしているのですから、最も鄭重に応対したのです。
しかし、彼一語、われ一語、ことばをかわしているうちに、しだいに双方|激《げき》して来ます。是枝は血気な男です。かんしゃくをおこし、刀をつかんですっくと立上がりました。
「奈良原殿などと尊敬するのは平日のことでごわす。この場合、おいどんらが船をとめんとする者は、皆敵じゃ。この淀河に斬って捨てもすぞ!」
とどなり立て、刀の柄に手をかけて、岸に飛び上がろうとします。
奈良原も立腹します。
「万助どん。これは聞こえん召され方じゃが、そう出られては武士として引退りは出来ん。相手になろう」
と、これまた刀の柄に手をかけて身がまえます。
舟中の人々が総立ちになって、是枝をなだめとめましたので、やっとおさまりました。
そのあと、海江田は、柴山竜五郎どんや橋口伝蔵どんはどこにおじゃるのでごわすとたずねました。
「大坂におじゃいもす」
と、誰かが言いました。
「そうでごわすか」
海江田は、奈良原に目くばせして、下流の方へ急ぎました。急ぎに急いで堤上を行くその二人の姿を、下流から上って来る三番舟から、柴山、橋口、田中謙助等が見つけましたが、堤上の二人は気がつきません。
「見やれ。海江田サアと奈良原サアでごわすぞ」
と言いながら凝視していた田中謙助が、何を思いましたか、手早くかたわらの鉄砲をとり上げ、火薬をつめ、弾丸をころがしこみました。
「誠忠組の同志じゃが、こんどの一挙には邪魔になる人々でごわす。気の毒ながら、いのちをもらいもそ」
といって、火縄をさがしましたが、それが見つかりませんので、腰にさしはさんでいた手拭を引裂いて縄にない、火を点じ、火縄|架《かけ》にさしはさみ、火皿に火薬をばらまいて、照準しました。田中は藩内で聞こえた鉄砲の名手です。一発すれば、堤上の一人は間違いなくたおれるでありましょう。舟中の人々は皆息をのみました。
しばらく狙って、引金を引きましたが、火が消えていたので、不発におわりました。田中は舌打ちして、また火をつけてやり直しましたが、こんども消えました。もう一度こころみましたが、また消えました。その間に、堤上の二人ははるかに行きすぎてしまいました。よほどに二人は幸運だったのですね。人間の生涯には、このように運の強い時と実に実に運の悪い時とが、往々にしてあるのです。
こんな希有な幸運でいのちが助かったとは、奈良原と海江田とは少しも気づきません。急ぎに急いで、大坂藩邸についてみますと、こんどお供して国許から上って来た者の一人永田佐一郎というのが、切腹して死んでいて、邸中さわいでいます。永田は有馬新七等の什長《じゆうちよう》で、はじめ有馬に説明されて一挙に加盟したのですが、その後奈良原や大久保等の説論に感じて、脱盟を申し出、有馬等を翻意させようとしたのです。ところが、この朝、前述の通り有馬等が脱走したので、統制不行届の責任をとって自殺したのです。真正直で、ごくまじめな人だったのでしょうね。
ずっとキナ臭さを感じつづけ来ていた二人は、これではっきりと有馬等の暴発のことを知りました。一刻も早く京都に報告しなければならないと、高崎佐太郎(後の正風)を馳せ上らせました。この少し前、藤井良節は独自の判断で、早駕籠で京へ馳せ上っていました。
一番舟に乗っていた橋口壮助は、舟が男山の下を通過する時、はるかに山上を仰いで拝礼し、歌を詠じて献じました
大君の御代を昔にかへさんと
つくす心は神も助けよ
というのです。寺田屋の壮士等の目的には、まだ幕府否定王政復古の考えはなかった、単に攘夷によって公武合体の体制をつくろうとするにあったという説をなす歴史学者もありますが、それは清河八郎の思想に重心をおいた解釈で、平野国臣の『尊攘英断録』や橋口壮助のこの歌を無視しないかぎり、明らかに王政復古を目的としていると見ないわけに行きません。王政復古とは即ち幕府政治の否定ですからね。
ここを過ぎると間もなく淀です。三番舟までは互いの舟が見えるほどの距離を保って来ましたが、四番舟はずいぶん遅れたと見えて、姿が見えません。そこで、ちょっと淀に上陸して、休息かたがた四番舟を待ち合わせることになりました。
上陸して、それぞれに休息していますと、藤井良節の乗った早駕籠が来ました。人々はばらばらと走りよって取巻き、
「井上サア、早駕籠なんどでどこにおじゃる」
と問いました。藤井の本名が井上正徳というのであることは、皆知っています。藤井は年もたけており、嘉永二年の歳末に国許を脱走してからこの時まで十三年にわたって、他国で浪人生活を送って来ているので、もの馴《な》れてもいます。憂わしげな表情をつくって答えました。
「弥八が大病という知らせが来もしたので、急いで上京するところでごわす」
弥八というのは、藤井の弟の井上弥八郎のことです。神職として大和守に任官して、兄の脱走以後、諏訪神社の宮司をつとめているのですが、この頃藩命によって上京して来て、兄とともに宮方や公家方との交渉を受持っているのでした。それも皆は知っています。嘘《うそ》というものは、根も葉もない、真赤な嘘は通用しにくいものです。このようにある程度たしかな事実があって、それをもとに作為したものが成功しやすいのです。ですから、上手な嘘つきは皆この手をつかいます。皆大いに同情して、
「それは御心配じゃろ。急いで行きなされよ」
といって、通しました。
その藤井の駕籠が見えなくなったかならないかに、高崎佐太郎の乗った早駕籠が来かかりました。柴山龍五郎は呼びとめて、
「きつうお急ぎのようでごわすが、どこへお行きでごわす」
高崎がそれにたいしてまだ答えない時、遠くから橋口壮助が見て、
「高崎じゃな? 斬れ! 佐太郎を斬れ!」
とさけびました。高崎は嘉永二年に薩摩であった内紛の犠牲者です。この内紛は政権の座にあった久光擁立派が斉彬擁立派の人々に大弾圧を加え、大粛清したさわぎです。この時、佐太郎の父五郎右衛門は斉彬擁立派の首領的地位にありましたので、切腹を命ぜられました。罪は佐太郎にも及んだのですが、まだ幼少だったので、十五歳になるのを待って遠島ということになっていました。しかし、この翌々年に斉彬が襲封《しゆうほう》して藩主となりましたので、佐太郎は遠島にならないで済みました。このように、本来なら佐太郎は久光の敵党の人間であるはずですが、かえって久光に接近し、その信頼を得るようになったのです。さらにこの時から五年後、時勢が煮えつまって、大政奉還となり、伏見・鳥羽の戦争となりする頃の少し前あたり、西郷と大久保とが討幕の計画をひしひしとおし進めている頃、久光の内命を受けて京都に出、高崎左京と名乗って、宮家や高級公卿の間を、「討幕などと言っているのは、西郷と大久保の二人だけで、薩摩全体には幕府否定の意志は少しもない」と遊説してまわっているという事実があります。ともあれ、彼は文久三年(一八六三)という時点において、最も久光に密着していたので、誠忠組激派の人々から見れば、久光の走狗《そうく》としか思われなかったのでしょう。
橋口の叫びを聞いて、森山新五左衛門――森山新蔵の長男で、お供人数に漏れたので、脱走して駆け上って来たことは御承知ですね。これともう一人坂本彦右衛門とがおどり出しまして、刀の柄に手をかけ、じりじりと駕籠ににじり寄りました。
これを見て、柴山竜五郎は手をふり、おちついた声で、
「やめよ、やめよ、今の場合、高崎一人を斬るのは、無益だ」
と制止しておいて、高崎の駕籠をうながして走り去らせました。
ほどなく、四番舟が参りましたので、皆舟にもどって川をさかのぼりました。
彼等の舟が、伏見蓬莱橋のそばの船宿寺田屋の前に到着したのは、午後五時頃、まだ日のある頃でした。
当時、伏見には数軒の船宿があって、藩によって定宿がきまっていましたが、薩摩の船宿は寺田屋でした。坂本竜馬がこの寺田屋に泊まって、さまざまな事件に際会していることは幕末維新史で最も有名なことになっていますが、それはその頃坂本が薩摩藩の庇護《ひご》を受けていたので、ここに泊まることが多かったからです。
この時は、田中河内介がここに人をつかわして、用意を申しこんでいましたので、皆ここへ入りました。
この日の朝、午前七時頃、大坂の薩摩屋敷の二十八番長屋には、田中河内介とその子の左馬介、小河一敏とその同藩の広瀬友之允等だけがのこっていました。
間もなく、田中は出発するのですが、小河等岡藩の人々は大人数《おおにんずう》なので、動けば邸吏の目をひいて暴露の危険がありますので動かず、事を挙げて報《しら》せがあってから上京することになっていました。
田中がそろそろ出て行こうとしている時、奈良原と海江田とがまいりました。二人は今は大体の事情をのみこんでいたのですが、こう田中等に言いました。
「京都では、薩州人といえば、用心して町宿《まちやど》も貸してくれぬほどでござるので、藩から町奉行に頼みこんで、ようやく宿舎の用意がととのいましたので、拙者等は大坂にのこしておかれた守衛人数やこの長屋にお出での人々に、次々に京や伏見へ上ってもらうように申すために、昨夜舟で下って来たのでござる」
手のこんだたくらみをもった口上なのです。この口上には、貴殿等の上京しつつあるのは我々はすでに承知していて、貴殿等の上京目的を遂げさせて上げるために来たのだという含みがあります。詮《せん》ずるところ、上京目的が何であるかを知るためにワナをかけているのです。
田中や小河がよきほどにあしらっていますと、海江田等はまた言います。
「各々方お心づきの旨がおわすなら、いささかも御腹蔵なく仰せ聞け下されよ。仰せ聞けられますお気づきの旨は、拙者共が引受けまして、何としてでも和泉(久光)へ申しつぐでござろう」
田中も、小河も、久光の心を見離してはいません。
彼等の意図していることは久光の絶対に容れないことであるとは思いませんから、ずいぶんまだ望みをつないでいます。ですから、まさか二人が久光の命を受けて、スパイとなって来たとは思いません。一挙のことにこそ触れませんが、思うところをいろいろと語りました。
そのうち、小河はふと思いついた風で、田中に言います。
「河内介殿には、御遠慮なく医師にお出かけなさるように。やがてお約束の時刻でござろう」
田中はうなずいて、海江田等に、
「お間きの通り、いささか不快のため、医師に今朝早く参る故診察してくれるようにと頼んであります。その時刻がまいりました。ごめん下されよ」
と、あいさつして、立出でました。
豊後岡藩は七万石という小藩ですが、小河はその家で五百石の家だったのですから、重臣クラスです。年は四十台の半ばになっていましたが、人ずれしていないウブさがあります。海江田と奈良原とが、最も頑固な公武合体主義者久光のスパイとなっているという意識はありません。二人は誠忠組のメンバーですから、有馬新七等と思想的には同一であると信じ切っています。田中の立去った後、二人が何やら思案にくれている様子であるのを見て気の毒になり、何もかもうちあけて安心させてやりたいと思って、口をひらきました。
「拙者、ちと存ずる子細がござる。一つおちついて、篤とお話しいたしたいと存じますが、いかが」
二人が物思う風情であったのは、有馬新七等の什長永田佐一郎の自殺体の始末をしたり、有馬新七等や二十八番長屋の浪士等がすでに京都方面へ駆け上ってしまったことを、久光に知らせなければならないと、それらを思いわずらっていたのでした。二人は、
「さようでござるか。しかしながら、屋敷に急用がござれば、それを片づけてから、また参って、うかがうことにしとうござる」
と、愛想よく言って立去りました。
そのあとで、小河は広瀬友之允に言いました。
「拙者はあの二人に何もかも打明けて相談したいと思うのじゃが、どうであろう。もし二人がわれらの意見に同意せぬなら、刺し違えるまでのことと思うのだ」
「よろしかろう」
と、広瀬が申しますと、田中左馬介も、
「拙者も同感でござる」
といいます。この人々はいずれも、自分らの計画していることを正しいと自信しています上に、海江田等が誠忠組の有力メンバーであることに信頼心を持っていたのでしょう。
こうなれば一時も早く打明けたい気になって、藩邸の役所に人を走らせ、早く来ていただきたいと二人に言ってやりましたが、使いは二人をたずねあてることが出来ないで帰って来ました。二人は永田の死体の始末や、高崎佐太郎を早駕籠で京都屋敷へ走らせることなどで駆けまわっていたのです。
しかし、間もなく二人はやって来ました。
「遅うなりもした。お待ち遠でごわしたろう」
といって、二人が席を占めますと、その膝許に三人はすりよるようにしてすわります。
小河が口をひらきます。
「今となりましては、もはや包むべきことではないと存じます故、申します。実は」
と、一挙のことをくわしく打明け、我々のこの挙には、長州藩も京藩邸に居合せる者を挙げて応ずることになっています故、千に一つも失敗に帰することはないと信じています、されば、和泉様がこの義挙の中心となっていただくよう、各々方から申し上げられ、お骨折り下されたいのでござると言いました。
海江田等は、すでに九州から下関にかけての間において、さらに京坂の間において、諸藩の志士や浪人志士等の激揚興奮を実見しており、さらに京都からここへ行って来る間に淀河をさかのぼる薩摩の壮士等と出会って、あの緊張した場面を経験しており、大坂についてみれば、永田佐一郎の自殺しているのを見ているのですから、相当には正しい推察をつけたはずですが、はっきりと打明けられては、また驚いたはずです。しかし、ここは驚いた様子を見せてはならないところです。快然とした様子をつくって申します。
「そうでござるか、よくも御心底のほどをお打明け下されました。よくわかりました。お礼申し上げます。各々方の御決心はいかにもごもっともでごわす。所司代は実に憎むべきの甚しき者で、このままに見過ぐすは我々も心外に思っていました。よくぞ思い立ち下されました。然《しか》らば、各々方も急いで馳せ登り召されよ。我々も急ぎ帰京して、そのことを図るでありましょう。和泉が国許から召連れて、この地にのこしています守衛の人数も、全部上京させることにします。しかしながら、九条殿下は暫くさしおき、所司代へお討入りなさるがよいでありましょう。各々方はどちらへ向かわれることになっていますか」
「拙者共は最先陣をこそ、と心掛けていたのでござるが、多人数でござるので、一度にこれが動きましては、事露見の端緒となり、尊藩の同志方の御迷惑となるであろう故、残りとどまるべき旨を、柴山・橋口の両氏から申されましたので、いたし方なく、こうして残っているのでござる。無念の心底、御深察いただきとうござる。しかし、もはやこうなりました上は、和泉様のお差図に従い申すほかはござらぬ。かくて一挙がおこりましたなら、和泉様は必ず兵をひきいて御所へ馳せつけ給うでありましょうから、そのおん手に属しとうござる」
小河のこのことばによって、我々は小河が海江田等に打明けたのは、一挙に取残されたさびしさのあまりに、自分らの働き場を見つけたいとあせったためであることがわかるのです。
「そういうことなら、急ぎ伏見へ上られよ。伏見藩邸の留守居本田弥右衛門に紹介申す故、すぐお上りあるがようござる」
と、海江田は紹介状を書き、なお田中左馬介を早駕籠にのせて伏見へ走らせました。
小河等は船の支度をして、午後の二時頃、二艘の船に分乗して、伏見に向かいました。国許から久光の供をして出て来た守衛人数も、守衛頭|北郷《ほんごう》作左衛門にひきいられて急行することになりましたので、小河等の勇み立ったことは申すまでもありません。
有馬新七等の壮士らが大坂から伏見をさして上りつつあるとの報せが久光にとどいたのは、午後四時頃でした。高崎佐太郎が駆けつけて知らせたのです。
高崎に先立って淀を通過した藤井良節は、どうしたわけか、高崎からかなりおくれてついています。藤井は思うところがあって、京着の後、長州藩のことをいろいろと探索していたと思われます。
この日、大久保一蔵は、午後二時頃、久光の許を退出して、吉井仁左衛門(前名幸輔、後の友実)と連れ立って、知恩院を見物に行きましたので、久光のブレーンの中で、久光の周辺にいたのは中山尚之介、堀次郎の二人だけでした。
二人は高崎と藤井の報告を共に久光に上申して、指揮を仰ぎました。
わが藩士等のこの暴挙を長州藩がバック・アップしているということに、久光は名伏しがたい不快と怒りとを感じましたが、とりあえずのところは、わが藩士等のことだと考えて、言いました。
「そういうことなら、その主謀者等をここへ連れてまいれ。わしがみずから説諭するであろう」
すると、堀が言います。
「もし、おとなしく命を奉じて参ることをせず、拒みましたら、いかがいたしましょう」
久光はしばらく考えて言いました。
「その時はいたし方はない。臨機の処置をとれ」
これは、この際では、上意討ちにせよという意味になります。
中山と堀とは、勇敢で、武技すぐれて、且つ有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壮助等と親しい友人である七人を選びました。親しい友を選んだのは説得の利を考えたのであり、勇敢にして武技すぐれた者を選んだのは上意討ちになった場合の利を考えたのです。こうして選抜されたのは、鈴木勇右衛門、大山格之助(前名正円・後綱良・鹿児島県令)、奈良原喜八郎(繁・男爵・沖縄県知事)、道島五郎兵衛、江夏《こが》仲左衛門、山口金之進、森岡善助の七人でありましたが、これに鈴木勇右衛門の子昌之助と鈴木の部下である上床《うわとこ》源助とが強いて志願して加わりましたので総勢九人となりました。
堀次郎と中山とは、これでも不安に思って、もう少し人数をふやしてやろうと言いましたが、九人は、
「これで十分でごわす」
と、ことわりました。しからば、足軽を二組つけようとまた言いますと、
「いり申さぬ」
と言いはなって出発しました。
十中の八九までは血を見ることになると予想されることであり、相手は全部誠忠組の人々、こちらも九人のうち五人まではそうだったのです。志を同じくし、最も親しく交わっている同志と戦うことになるかも知れないのに、勇み立って凛然《りんぜん》として行くという心理は、現代人にはほとんど不可能です。しかし、これが、卑怯《ひきよう》、未練、臆病、惰弱を男子最大の悪徳とし、勇敢で強いことを最上の美徳とした、当時の薩摩武士の美意識なのでありました。武士道というものは、一言にしていえばストイシズムの美しさそのものなのですが、一面では最も非人間的で、むごく、ほとんど悪徳に類します。
彼等は四人と五人の二組にわかれて、四人組は本街道から、五人組は竹田街道から、伏見に向かいました。ひょっとして伏見を出て京に向かいつつあるかも知れないと思ったからです。
惨たり、朋友相討つ
誠忠組激派の人々が伏見の船宿寺田屋についたのが、四月二十三日の午後五時頃であったことは、前に書きました。それから、二時間後の日暮れ方、真木和泉と久留米人等、田中河内介とそのグループとが到着して、階下の奥座敷に入りました。河内介は二十八番長屋を最も遅く出たのですが、真木が八軒屋の船宿で待合せていて、同じ船で出発したのです。この中には吉村虎太郎、宮地宜義の土佐人もいたようですから、総勢十六人でした。
誠忠組の人々は総勢三十一人、これに支藩の佐土原藩士が二人いましたから、三十三人です。全部二階座敷に集まりました。有馬新七は一同を点検して名乗らせ、着到帳に記入しました。伊集院直右衛門、後の兼寛が手伝ったそうです。点検がすんだところで、有馬は薩藩の伝統となっている隊伍編成法で五人組を定めました。討入りや戦闘の際、五人が一組となってたがいに扶《たす》け合って働くのです。
これが済むと、一同それぞれに身支度にかかりました。草鞋《わらじ》は全部がはきましたが、龍手《こて》、脛当《すねあて》、腹巻などは各自の好みです。そのほか腰兵糧を結びつけたり、夜戦さですから壁につきさして照明用にするために蝋燭《ろうそく》に竹串をさしたものを用意したり、いろいろです。
人々がこれらのことでいそがしく働いている時、有馬新七は草鞋をはきおわった足を投げ出して腰をすえ、天井を仰いで、くりかえして数回、一首の歌を朗吟したそうです。
梓弓《あずさゆみ》 春は来にけり ますらをの
花のさかりと 世はなりにけり
この歌は真木和泉守の娘お棹《さお》がこんど平野国臣がこの挙をなすために上方に来るにあたって、はなむけとして贈ったものです。平野はお棹と相愛のなかであったというのです。その平野がこの時ここにいない理由については、すでに書きました。思うに、平野は有馬にある程度お棹とのなかを打ちあけ、こんど訣別にあたってこの歌をはなむけとしてもらったことを語ったのでしょう。この歌はなかなかの名歌ですから、有馬は大いに気に入ってもいたでしょうが、一つには当然ここにいるべきはずの平野がいないのを残念がって、平野の心事をしのんで朗吟したのでしょう。
有馬という人は最も純粋|勁烈《けいれつ》で、激烈が普通であった当時の薩摩武士の中でも最も恐れられ、西郷や大久保すらこの人には憚るところがあったといわれる人ですが、人の恋愛に同情することも出来る人だったのです。
ついでながら、平野とお棹の恋は実を結ぶことなくおわりました。平野はこの翌年三月、出獄しました。その頃は京都で尊王攘夷派の勢力の最も強くなった時期ですので、その派の志士等が朝廷に運動し、朝旨を以て平野の釈放を黒田家に要求したからです。
その時、福岡の婦人志士野村|望東尼《もとに》が、お棹と結婚させようとして久留米の真木家に行ったりなどしてめでたく行きそうだったのですが、まもなく藩命が下って急に上京しなければならなくなって、ついにその運びになりませんでした。
上京した平野は学習院出仕に任命されました。当時の学習院は公家の子弟の教育機関という本来のものから反《そ》れて、少壮公家と民間志士等の政談クラブとなり、転じて少壮公家等の会議所になり、朝廷の政策を決定したり、ひろく志士等の建議を受けつける機関になっていたのです。従って諸藩からもここへ出仕する武士があり、それは朝廷から任命されたのです。
世間的な意味では、平野は生涯花やかなことのなかった人です。その藩における身分は足軽で、それ以上に登ったことはないのですが、ここではじめて朝廷から学習院出仕に任命されたのです。足軽の身分で学習院出仕に任ぜられた者は他にはありませんから、大|抜擢《ばつてき》されたのであり、大名誉だったわけです。
しかし、彼の学習院出仕はわずかに二日でおわりました。彼の任命は八月十六日でしたが、十八日には維新史上八月政変といわれている大政変があって、それまでの朝廷の実際の政権をにぎっていた激烈尊攘派が朝廷から追いはらわれたからです。学習院の政治機関としての機能などこうなるとふっ飛んでしまいました。
いわゆる七卿落ちです。激烈尊攘派である長州人等は三条実美以下の七卿を奉じて国許へ退去しました。平野は七卿の一人沢|宣嘉《のぶよし》を長州からかつぎ出して、但馬の生野《いくの》で兵を挙げましたが、忽ち失敗して捕えられ、京の六角の牢に収監されている間に蛤《はまぐり》御門の戦いがおこり、どさくさまぎれに幕府役人に殺されてしまいました。
本筋でもないことを長々と書きましたのは、いささか平野を弔いたいからであります。私は平野という人間の人柄が大好きなので、その志の高さにくらべて不幸であった生涯が気の毒でならないのです。おゆるし下さい。
さて、そうこうしている間に十時頃になりましたが、その頃、寺田屋に入って来たのは、奈良原喜八郎(男爵・繁)道島五郎兵衛・江夏仲左衛門・森岡善助の四人です。本街道をとって来た組です。
奈良原は寺田屋の主人伊助に、
「有馬新七殿というのがおられるはずじゃ。わしは同じ薩摩の家中の奈良原喜八郎という者じゃ。会《お》うて話したいことがあると、有馬殿に取次いでくれよ」
と頼みました。
「へい」
伊助は手代に命じました。手代は階段を上っていきました。恐らく手代は二階の薩摩人等がものものしく武装しつつあるのを見て、おどろきおびえたことでしょうが、気をとり直して、有馬様はどこにお出ででございますか、お客様がお出でになりましたと、呼ばわりました。
橋口伝蔵はすでに身支度をおわって、酒をのみ、少し酔っていましたが、強い、きびしい声でどなりました。
「有馬なんどという者はおらんぞ。誰じゃ、会いたいというのは!」
この時、江夏仲左衛門と森岡善助とはすでに階段の上り口まで来ていましたので、橋口の声ははっきりと両人の耳に人りました。両人はつかつかと階段を上りました。両人もまた覚悟して来ていたでしょうが、人々の武装姿を見ておどろいたことでしょう。やがて、人々の中に柴山愛次郎の顔を見つけまして、
「愛次郎サア」
と呼びかけて、
「わしらは、おはんと有馬新七サアと、田中謙助サア、橋口壮助サアの四君に用談があってまかり越しもした。別室でお会い下されよ」
と、申し入れました。
指摘された人々には、相手らがどんな用件で来たか、すぐ見当がついたことでしょうが、かねて親しい交りのある人々です。とりわけ、誠忠組の同志でもあります。
「御用談とあれば、お会いせんわけにはいかんな」
といって、有馬をはじめ四人は、ごく沈着な態度で階段を下りて、奈良原等と共に階下の一室に人って対座しました。
奈良原は申しました。
「拙者等が参ったのは、和泉様の御命令を奉じてのことでごわす。和泉様は、おはん方に今すぐに錦小路のお屋敷に参って、御前に出られよとのことでごわす。和泉様は、朝廷の御首尾まことによろしく、畏《かしこ》きあたりにおかせられては、御忠誠を深く御感になり、京都に滞在して京の鎮めとなるようにとの勅諚まで賜わりなされた次第でごわす。おはん方の働き場所はいくらでもあるのでごわす。早速にかしこまりあって、京のお屋敷へまいられるように。拙者共が御案内つかまつる」
一同を代表して、有馬は答えました。
「せっかくの和泉様のお召しでごわすのに、恐れ入りもすが、拙者共は今、青蓮院宮のお召しをこうむり、これから参るところでごわす。先ず宮の御用を済ませましてから、まかり出でるでごわしょう」
「君命でごわすぞ。君命にたいして、そのような態度に出なされてよいとお思いか」
「君命より宮の仰せの方が重うごわす」
きっぱりと有馬は言い切りました。「宮の仰せ」というのは、この場合、天皇の御命令という意味を含んでいるのです。有馬が山崎闇斎流の朱子学の学徒であったことはずっと前に申しましたね。崎門学はあらゆる儒学の中で最も大義名分を重んじ、激烈純粋を以て鳴る学派です。有馬は天性激烈純粋な人でしたが、崎門学によっていよいよ磨きがかかり、普通の武士なら悩みそうもないこと――薩摩藩士として藩にたいする忠誠と皇室にたいする忠誠とを、いずれを先とし、根本とすべきかに真剣に悩み、悩んだ末、『大疑問答』という文章を書いてこれを究明し、天皇への忠誠を第一義とし、藩主への忠誠を第二義とすべきで、もし朝廷の大事に際して板挟みの境地に立った場合は、藩主を説得して、藩全体をして忠勤を尽させることに努力を傾注し、それが容られない時は一人去って王事に勤《いそし》むべきであるとの結論に到達しています。こんなことは、後世、明治、大正、昭和の大敗戦までの時代には、日本人の最も普通な国民道徳となりましたが、藩というものが厳存しているこの時代では、まじめで純粋な人ほど深刻に悩んだのです。高杉晋作という人は自由奔放、こんなことに悩みそうもない人ですが、やはり悩んでいる時期がありますからね。
有馬はすでにこの疑問を解決して、信念的なものをつかんでいますので、君命より宮の仰せの方が重いと、はっきりと言い切ったわけですが、単に勇ましいだけの薩摩武士奈良原喜八郎には、もちろん彼も人なみな尊王心は持っていたはずですが、わかることではありません。かっとなってさけびました。
「君命にそむくとは何ごとでごわす。腹を切りなされ!」
「宮の御用を終えぬうちは、死ぬわけにはまいらん」
「どうしても聞かれんというのであれば、拙者等は上意打ちの君命を蒙って来ていもすぞ。それでも苦しゅうござらんか!」
「ああ、苦しゅうござらん」
たまりかねて、道島五郎兵衛が、
「どうしても聞かれんと言われるのか!」
とさけびました。
すると、その前に席をしめていた田中謙助が、
「ああ、聞かん! こうなった以上、何といわれても聞かんぞ!」
と答えました。
とたんに、道島は、「上意!」とさけんで、抜き打ちに田中に斬りつけました。田中はひたいを斬り割られ、眼球を飛び出させて気絶しました。
この時には、竹中街道から来た五人組もすでに到着していまして、新七等のうしろに立っていましたが、柴山愛次郎のうしろに立って、刀の柄に手をかけていた山口金之進は、サッと抜刀するや、エイエイと掛声して、柴山に斬りつけました。示現流の立木《たてき》打ちをそのままに、右の肩を袈裟《けさ》がけに斬撃《ざんげき》しましたので、柴山の胸はV字形に切りひらかれ、首はほろりと前に落ちました。
柴山は、橋口壮助とともに、江戸藩邸学問所の糾合方となって江戸へ行く途中、道々、肥後の有志者や、筑後の真木和泉守とその門下生等や、平野国臣などと、久光の上京によって京都で同志が事を起したら、二人は江戸で水戸の志士等と事を起して江戸城を焼き、安藤信睦老中をたおし、東西相応ずる計画を立てて江戸へ入ったのですが、堀次郎にだまされて(あるいは堀はだますつもりはなく、情勢上討幕にいくならそれもまたよかろうと、両天秤かけるつもりであったようでもあります。この点は大久保一蔵もそうだったように思われます)、江戸での計画を中止し、三月半ばに橋口らとともに上方に来て、中之島の魚太に泊まっていたのです。
彼はこの当時から、久光の心事に絶望的になっていたようで、もし上意討ちのお使者が来たら、おいどんは手向いせんで斬られるつもりであると言っていたそうですから、有馬と同じように悩み、有馬が封建武士道を突きぬけて大義に殉ずるのをよしとしたのにたいして、自らを犠牲にすることによって、封建武士道の中に美しく死のうとしたのですね。ですから、この時も小刀だけで二階から下りて来て、斬られた時も、両手を畳についたままであったといいます。まじめな、道義的な人柄だったのですね。
さて、道島が田中の面部を切り割った間、有馬新七は猛然としておどり上り、刀をぬいて、道島に斬ってかかりました。道島は示現流の名手であり、有馬は叔父|坂木《さかき》六郎から神陰流を授けられて、これもまたなかなかの達人です。双方一歩も退かず、ハッシハッシと斬り合っているうちに、有馬の刀が鍔元《つばもと》から折れて飛び散りました。しかし、有馬は瞬時もひるみません。かえって道島の手許にふみこみ、道島を壁に押しつけました。もみ合っているところに、橋口壮助の弟吉之丞が刀を抜きはなって走り寄って来て、有馬を助けようとしましたが、格闘がはげしく、両人の体勢が絶えず変化しますので、有馬を傷つけそうで、手の下しようがありません。うろうろしていますと、有馬はさけびました。
「おいごと刺せ! おいごと刺せ!」
吉之丞はやっと二十《はたち》という若さです。逆上しきっています。
「チェストー!」
と、大喝《たいかつ》して、渾身《こんしん》の力をこめて、柄も通れと、有馬の背中から道島の胸にかけてさし通して、壁に縫いつけました。行年三十八、いかにも有馬新七らしい、はげしい最期でした。
森山新五左衛門は、西郷や村田新八とともに海路国許へ送還された森山新蔵の長男です。やっと二十、まだ少年といってよいほどに若々しく、花のように美しい青年だったそうですが、あたかも二階からおりて来て厠《かわや》に行って出て来た時に、この格闘がはじまりました。彼は大刀を二階におき、一尺三寸の小刀を帯びていただけでしたが、一瞬の躊躇《ちゆうちよ》なく、その小刀をぬいて、乱闘の場におどりこみ、数十カ所の傷を負うて、土間に昏倒《こんとう》しました。現代人の考えからしますと、大刀を取りに二階に走り上り、人々にも急を告げて戦うべきであるとするでしょうが、この当時の薩摩武士はそうは考えないのです。二階に走り上る時、ひょっとして敵に斬られて死ぬようなことがあったりしては、卑怯で戦いの場を逃げたと批判されるかも知れないと思って、一寸も退かず、不利な武器で戦う方を選んだのです。
似た話があります。この年の暮、当時幕府の政治総裁であった越前老公松平春嶽が賓師《ひんし》として越後藩から借りて、常盤《ときわ》橋の越前藩邸の長屋に住まわせて政治について教えを受けていた横井|小楠《しようなん》が、肥後藩中の門弟二人が近々に帰国するので、小楠は二人のために檜物町の待合茶屋で別宴を張ったところ、その肥後藩士等にうらみを含むものがあって、宴席に斬りこんで来ました。横井は両刀を携えずそこに行っていましたので、その場を引きはずして飛んでかえり、両刀を以て引返しましたが、すでに門弟二人は重傷を負い、刺客は退散していました。これが肥後の家中で大問題になったのです。
「横井は士道を取りはずしている。そんな者を他家に貸していては、わが藩の恥辱である。お返し願え」
と言い立てる者が多く、肥後の重役等も弱り切ったのです。
当時、横井は事実上の幕府の参謀長のような格でいましたから、横井が無事であったら、幕府と朝廷とが攘夷の問題であんなにもめることはなかったでしょう。横井が日陰の身となって、江戸におられず、やがて肥後にかえらなければならなくなったことが、天下の治乱にも影響して来たのです。
ともあれ、横井小楠ほどの人でも、戦いの場をはずすと、こんなことになったのです。武士というものは、一寸も退かぬと常に心がけているべきものだったのですね。
階下でこれほどのことが起こっているのに、二階の人々には全然これがわからなかったのですが、弟子丸《でしまる》竜助だけは何となくおかしいという気がしたのでしょう。階段の下り口に立って、しばらく様子をうかがった後、二、三段おりた時、階段の下の暗がりに待ちかまえていた大山格之助がサッと横に抜打ちました。大山は示現流の最も精妙な使い手で、草葺《くさぶき》屋根の軒から滴《したた》る雨垂が地面にとどくまでの間に抜打ちが三べん出来たと言われている男です。その大山に抜打ちをはらわれて、アッという間もありません。弟子丸は腰を斬られて、ドドドドッところがり落ちましたが、落ちると同時にはね起き、刀をぬいて飛びまわって奮戦しました。しかし、すでに重傷を負うている身です。乱刃のもとに斬り伏せられてしまいました。
弟子丸に次いでは、橋口伝蔵がいぶかしく思って、階段の下り口に立ち、真暗な階下をうかがいましたが、もうシンとしずまっています。そこで、用心しながら、そろりそろりとおりました。大山格之助はまた横にはらいました。伝蔵はかわそうとしましたが、大山ほどの者の太刀です、片足を深く斬られました。斬られながら、伝蔵は一気に飛びおりるや、片足で飛びまわりながら、
「おいに敵《かな》う者がおッか! ならば手柄に討ってみよ!」
と、大言しながら、バッタのようにはね飛んで奮撃し、鈴木勇右衛門の横鬢《よこびん》から斬りおろして耳たぶをはらい落しました。勇右衛門の子昌之助はこれを見て、
「父の敵、のがさん!」
とさけんで、伝蔵に撃ってかかりました。伝蔵は二、三人を相手になお健闘していましたが、討取られてしまいました。
西田直五郎は、是枝万助が牛の皮でつくった腹巻を着こむのを手伝っていましたが、ふと、階下の斬合いの音を聞きつけたのでしょう、刀をとって立ち上り、柄に手をかけながら、二、三段階段を下りたところで立ちどまり、階下の暗のけはいをはかっていますと、槍を持って下に待ちかまえていた上床《うわとこ》源助が、エイ! とかけ声して突きました。西田ははげしい響きを立てながらころがり落ちましたが、忽《たちま》ちはねおき、これまた縦横に奮闘して斃《たお》れました。
以上書いてまいりましたように、階下のけはいに異様さを感じて、確かめようと階段の下り口まで出て来た人々はあったのですが、なぜかその人々は他の人々に連絡せずに下りて行っては、討取られてしまいましたので、二階にのこった人々は依然として気づかず、討入りの身支度に専念しつづけました。
ちょうどその時、寺田屋の前の蓬莱《ほうらい》橋の上を牛車《うしぐるま》が通りかかり、すさまじい音を立てました。その音が呪縛《じゆばく》を解いたようなもので、それまでとつぜんにおこった乱闘に、半ば気を失って居すくんでいました寺田屋の女中等が、一斉にわっとさけんで外へ飛び出し、悲鳴をあげました。さすがに二階の連中にもこれは聞こえましたが、まさか階下ですでに数人の同志が斬られたとは考えず、こと露見して、伏見奉行所から多数の役人共が押し寄せてきたのだと思ったのです。美玉三平は、階下をのぞいて、暗の中に斬合う刀から火花が飛び散るのを見て、
「敵はこの家に火をかけるようでごわすぞ。各々、御用心あれ!」
と、人々を警《いまし》めたというのです。先刻、久光からの使者が来たのを見ていながら、この鈍感さは不可思議千万ですが、使者等が誠忠組の同志であったため、信用し切って、全然不安の念を持たなかったためでしょうかね。とかく、人間は時として考えられないくらい不注意になり、そんな時大事件がおこるもののようです。
人々は伏見奉行所から捕吏が押し寄せて来たと思って、緊張し切って、それぞれに刀を引きつけて身がまえました。柴山竜五郎は階下を確かめようとして階段の下り口に出て、きびしく警戒しながら、階段を下りようとしますと、その時、奈良原喜八郎が上り口にあらわれ、仰ぎ見て、手を打ってさけびました。
「竜五郎サア、竜五郎サア、おいじゃ。奈良原じゃ。しばらく待って下され」
見ると、奈良原は肩先からべっとりと血の染んだ、すさまじい姿です。無言のまま見下ろしている柴山にむかって、つづけます。
「上意でごわすぞ。一同、君前に出られて、くわしく事情を申し上げ召されよ。久光公ももちろんおはん方に御同意でごわす。しかし、おはん方が、もし久光公の仰せをきかんで、事を破りなされたら、天下のことはそれまでになってしまいますど。考えて下され。よく考えて下され」
奈良原と柴山とは最も親しい友人です。柴山は答えはしませんでしたが、階段の下り口に立ったまま考えこんでしまいました。奈良原は大小共にがらりとその場に投げすて、諸肌をぬいで、上半身裸かになり、合掌して、
「とまりなされ。とまりなされ。頼む、頼む」
と言いながら、上って来ました。このような無防備な形に出た者にたいしては、武士はかえって手が出ないものといいますが、柴山竜五郎も刀を向けられません。一歩|退《ひ》きました。
奈良原は合掌をつづけながら、座敷に入って、合掌のまま、一同に言いました。
「有馬新七殿らは、君命にそむきなされた故、いたしかたなく上意討ちにしもしたが、各々方にたいしては、毫末《ごうまつ》も敵意はごわはん。君命でごわす。一同速かに京都お屋敷へ参られて、久光公の御前に出て下されよ」
このことばが終るや否や、立上って階段を下りはじめた者がありました。西郷の弟慎吾(従道)、つづいて伊集院真右衛門(兼寛)であり、さらに続きました。慎吾は兄と同じく豪傑の資質が最も豊かな人柄ですが、もっと融通がききました。兄には心の中心にテコでも動かない、最もきびしいものがあって、それが彼を普通の英雄、豪傑ときびしく分けるものになっていますが、従道はこだわらないこと水のようなところがありました。兄にはそれだけ学問による修養と信念とがあり、弟には比較的にそれがなかったためでしょう。
柴山竜五郎は奈良原にむかって、「評議した上で、何分の返答をする故、しばらく階下で待っていてほしい」と要求しました。奈良原は承諾して階下へ去りました。
人々は相談をはじめました。いろいろな意見が出ます。切腹しようという者あり、この期《ご》に及んだ以上、どこまでも志を立てつらぬいて、全員|斬死《きりじ》にすべきであると主張する者あり、いやいや、それは一時の快を取るだけのこと、あくまでも志を捨てず、他日の再挙を期すべきである。そのためには君前に出て謝罪して、その時まで命を全《まつと》うすべきであると説く者ありで、なかなか決定に至りません。
この間のことでしょう。階下で、奈良原がたおれている橋口壮助の側を通りかかりますと、水をくれ、水をくれと呼びかけられました。ふりかえってみますと、肩から乳にかけて斬られています。
手負いには水は禁物ですが、とうてい助からない傷だと判断しましたので、汲んで来てあたえますと、いともうれしげに飲みほして、
「おいどんらが死んでも、おはんらがいる。天下のことは、これからおはんらに頼むぞ」
と言って、そのまま息がたえました。
この橋口壮助のことばほど、この事件の悲痛さを語っているものはありません。同じく誠忠組の同志として、憂国の志を同じくし、親愛の情こそあれ、少しも憎悪心などはないのに、封建の武士道はそれを引裂き、殺戮《さつりく》し合わせたのです。
さて、奈良原等はじりじりしながら、二階からの知らせを待っていましたが、なかなかありませんので、とうとう階下の奥の別室にいた田中河内介と真木和泉守とに説得を頼もうと考えました。
真木等はここに到着するとすぐに食事を注文しました。とりわけ、真木は二男の菊四郎を同道していますので、酒を呼んで、互いに酌み交わしました。口に出しては言わないが、訣別の酒のつもりであったと、真木は日記に書いています。間もなく食膳が到来し、一同食事をおわり、腰兵糧をつけ、それぞれにわらじをはきおわりました頃、店の間の方でさわぎがおこり、時々|啼《な》くがごとき声が聞こえて来ます。それをこの人達も伏見奉行の捕方が来たと思って、一同集まってけはいをうかがっていますと、さわぎは益々はげしくなりました。のぞいてみますと、白刃をもって激闘し、打ち合う度に電光の走るように鉄火の散るはげしさです。そのうち、それが薩摩人同士の闘いであることがわかりました。真木の門人である久留米藩士酒井伝次郎は、真木に言いました。
「先生、どやんして取り鎮めてやりなさらぬのでござすか」
「あの勢いだ。鎮めてもきくまいよ」
どうやら真木は久光からの討手が来たとは考えず、なかま同士で喧嘩《けんか》をはじめたと思ったようです。なにか忌々《いまいま》しく、また軽蔑しているような調子が日記の文章にうかがわれるのです。
しばらくして、争闘はやみました。
真木の門人の原道太は外をのぞいていましたが、言います。
「裏のへやに人がたおれています。顔を斬り割られて、血だらけです」
真木が走って行って見ますと、見知っている田中謙助でした。斜めに眉間《みけん》を斬られ、傷口がはじけてひらき、眼球が飛び出している惨烈さです。真木はそれを繃帯《ほうたい》してやり、原等に水を汲んで来させ、薬をのませました。
そうこうしているうちに、また争闘がはじまりました。真木が出かけて鎮めていますと、抜身の刀をひっさげた者が来て、
「田中河内介殿にお会いしたい」
といいます。
真木はすぐ田中をよこしますといって、座敷にかえり、河内介にこのことを言いました。河内介はすぐ出て行きましたが、ほどなく、
「真木殿、真木殿」
と呼びました。
真木は出て行きました。いたるところに死体が横たわり、血潮が飛び流れて、足のふみ場もない惨憺《さんたん》たる情景です。
田中河内介は奈良原喜八郎とむかい合って座っています。奈良原は、二人に自分らが久光の命を受けて来た者であること、このようにするつもりはなかったのだが、やむを得ずこうなってしまったことなどを語って、階上の人々を説得していただきたいと頼みました。
こうなっては、万事は破れたのです。出来るだけ犠牲者を少くして事をおさめることが大事です。二人は承諾して、二階に上って、薩摩人らに説きました。薩摩人らもついに承諾しました。
薩摩人らは、有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮助・橋口伝蔵・弟子丸竜助・西田直五郎に、討手側の道島五郎兵衛を加えて死者七人、負傷者の田中謙助・森山新五左衛門の二人を駕籠にのせて運び去りました。薩摩藩の有志者も、田中河内介・真木和泉守・その門弟等も、皆京の錦小路の薩摩藩邸に連れていかれ、七番長屋に収容されました。
陰惨な結末
寺田屋で騒ぎがすんだのは、午前二時頃でしたが、その頃、小河一敏等岡藩の有志等は伏見に到着し、薩摩屋敷の前に舟を寄せて上陸しましたところ、屋敷内が大へん混雑しています。留守居の本田弥右衛門に会って、寺田屋のさわぎを知り、同志の人々がすでに京都藩邸へ送られたことを知りました。
「貴殿方もおなかまであると聞いていましたが、そうではなかったのでござるか」
と、本田はたずねました。小河は天を仰いで嘆息して答えました。
「その通りでありますが、拙者共はしかじかの理由であとにのこされましたところ、奈良原喜左衛門、海江田武次の御両人から、当地まで上って、お留守居たる貴殿に相談せよとの指示がありましたので、こうして参ったのでござる。いかがいたしたらば、よろしくござろうか」
海江田等が大坂で小河に言ったことは、すべて無責任な蕩《たら》しことばで、本田には連絡してなかったのですが、本田は誠実で、志もある人物でしたので、
「当屋敷にお出でになるも、京都屋敷へお行きになるも、お心にまかせられるがようござる」
と言ってくれました。
「しからば、我々が唯今馳せ上りましたことを、和泉(久光)様へ仰せ上げていただきとうござる。さすれば、和泉様から何分のお指図をいただけましょうから、我々はそれに従い申すでありましょう」
「しからば、そういたしましょう。それまで、当屋敷に居なされよ」
本田は一同のために邸中の長屋を一棟貸してくれました。一同はそこに入っていますと、午後になって、久光からの命令であるとて、京屋敷は手狭である故、しばらくそのまま伏見にとどまっているようにと差図して来ました。事実、京都錦の藩邸は手狭で、久光が国許から連れて来た守衛人数も大部分は伏見屋敷にとどまっているのでした。
忘れずに書いておかなければならないのは、この時の長州藩のことです。長州藩は、ほとんど藩をあげて薩摩の誠忠組激派の挙を応援したのです。薩摩人等が淀河|遡上《そじよう》のために雇った舟の費用は、長州藩が支援してくれたと伝えられています。薩摩士《ざむらい》は多く貧乏でした。また藩の計画がものがたくて、藩から費用をせびり出すのもなかなか困難でした。この点、長州藩はだらしがないくらい気前がよくて、高杉や井上|聞多《ぶんた》は遊蕩費までよくねだり取っていましたからね。舟賃ぐらいわけなく出してくれたのでしょう。
ことが勃発したら、即座に応じて立つ手筈にして、家老の一人である浦靭負《うらゆきえ》は国許から手兵百余人をひきいて兵庫に出て来、さらに伏見を経て京都に上り、河原町の藩邸内の成就院に止宿していました。またこの藩邸内には大坂藩邸の留守居宍戸九郎兵衛が、久坂玄瑞、寺島忠三郎、福原乙之進、中谷正亮、佐世八十郎(後の前原一誠)、入江九一、久保清太郎、楢崎弥八郎、天野清三郎、品川弥二郎等二十人ばかり、皆吉田松陰の門下生ですが、それを引連れて、手ぐすねひいて待機していました。ですから、二十三日の夜は、それぞれ事の勃発を今か今かと待っていたのでした。
久光はわが家臣等が長州藩と共同謀議していることを知りませんでしたが、寺田屋へ上使を派遣した後、藩邸の守衛のために、家臣等を千本通りの各所に出して固めさせましたところ、その直後、藤井良節が到着しました。藤井は大坂を出発したのも、淀を通過したのも、高崎左太郎より早かったのですが、京都藩邸到着は大分遅くなっています。彼は大坂で薩摩の壮士等と長州藩とが共同謀議しているという情報をつかんだので、京に入ってからその調査に手をつくしたのでしょう。
藤井は、すでに高崎の報告したことと同じことを報告した後、
「世上のうわさでごわすが」
と前置きして、長州藩が薩摩の激派のこの挙を援助して、舟賃などを出していることや、事がおこったら河原町の藩邸に待機している長州人等が一斉に起って合流する手筈になっている由であると語りました。
久光は驚いて、実否をただすために、堀次郎を長州藩邸につかわしました。長州藩では宍戸九郎兵衛と久坂玄瑞とが応対に出て、堀の言うことを聞きまして、大いに驚いた風をつくりまして、
「さようなことははじめてうけたまわります。まさかとは思いますが、万一のことがありますなら、弊藩からお手伝いの人数をつかわします」
と言いました。彼は、
「忝《かたじけ》のうござるが、そのお心遣いは御無用にしていただきとうござる。弊藩かぎりで処理つかまつります」
と答えて辞去したが、邸内にさまざまな武器がとり出され、所々に高張提灯がかかげられているのを見て、疑惑を強めて、帰って久光に報告しました。
クーデター計画は久光に制圧され、寺田屋事変となって消滅しましたので、長州藩は共に起つことが出来ず、知らぬふりで鉾《ほこ》をおさめて、口を拭いて済ますことになったのですが、久光としては、
「わが藩士等を煽動し、資金を与えまでして事をおこさせようとした」
と、長州藩にたいして、おもしろくない感情を持つことになったのです。久光の長州嫌いはこの時にはじまり、この後また数々の事件が重なってずいぶん強烈なものになって行きました。幕末維新史を困難複雑にしたものは、大別して二つあります。一つは孝明天皇の病的なまでの欧米ぎらい、もう一つは薩・長の反目です。この二つがからみ合って事情は複雑な上にも複雑になり、層々と困難な事態を生んで来るのです。ですから、孝明天皇が崩御され、薩・長の連合が出来ると、トントン拍子に維新革命は成就したのです。薩・長反目の重大要素である久光の長州嫌いがこの時からはじまっているのですから、寺田屋事件の研究は幕末・維新史の研究においては、ずいぶん大事なことであると言えましょう。
この夜、京都所司代酒井|忠義《ただあき》は、伏見奉行や、八幡《やわた》・山崎・伏見等を警衛している諸藩から、寺田屋で事変がおこった報告を受けて、すでに浪士等が暴発して戦端をひらいたと考えて、狼狽して所司代屋敷から二条城に入って戦備のととのえることに忙殺され、所司代としての職務を尽す余裕はありませんでした。しかし、そのうち、久光から寺田屋のことが落着したことと事の顛末《てんまつ》とを届けて来ましたので、やっと安心することが出来ました。
明けくれば四月二十四日です。
薩摩の伏見藩邸では、重傷のため辛うじて生きていた田中謙助・森山新五左衛門の二人に、久光の命令で切腹を命じました。
一体、この切腹命令はどういう理由で出されたのでしょうか。多分、久光は寺田屋の藩士等を二つに分けて、戦わなかった者はおとなしく命令に従ったとして助命し、戦った者は抵抗したとして死を命じたのだろうと思われるのですが、田中と森山とはそれぞれ事情が違います。田中は上使等にたいして、はっきりと命令を聞かんと言っているのですから、反抗したことは歴然たるものがあります。しかし、森山はたまたま厠から出て来た時、目の前で争闘が行われたので、武士の本分に従って小脇差という不利な武器であるのをかえりみず、闘いの場に飛びこんで行き、数十剣を負うて昏倒したのです。抵抗の意志があったからこそ戦ったのだと言えば言えましょうが、そんなら階上にあって闘わなかった者は抵抗の意志はなかったかと言えば、そう簡単にはきめられません。彼等は知らなかったから闘わなかったに過ぎません。知ったら、一瞬の躊躇もなく、刀をとって馳せ下りて闘ったはずです。橋口吉之丞が助命されているので、一層わからない処置になっています。吉之丞は有馬新七と道島五郎兵衛を一刀で串ざしにして殺しているのですからね。有馬が「おいごと刺せ」と言ったのをそのまま受けて刺したのだから、自殺における介錯《かいしやく》に准ずる行為とでも解釈したのでしょうか。ともあれ、子細に考えますと、この裁断の規準は甚だ疎漏です。
もちろん、田中も森山も、一切異議は申し立てず、京都の方を拝し、国の方を拝し、従容《しようよう》自若として、最も見事な切腹ぶりだったそうです。
ついでながら、二十七日になって、山本四郎が京都で切腹して死んでいます。命ぜられて切腹したのではありません。自らの意志で死んでいるのです。何か憤るところがあったのでしょう。
寺田屋で闘死したり、こうして切腹したりした人々、合して九人は、伏見の薩摩藩の菩提寺である大黒寺に葬られ、今日でも鹿児島県人から伏見殉難九烈士と称されて尊崇されています。彼等の殉国の壮志をたたえてのことであることは勿論ですが、一面では久光にたいする抗議の気持もありましょう。久光という人は理窟っぽいと言いましょうか、執拗といいましょうか、ずいぶん、|こだわりや《ヽヽヽヽヽ》でした。この年秋、長州藩は朝廷に働きかけて、安政以来国事に死んだ志士等を顕彰することにして、その中にこの九士を加えて、勅旨をもって幕府に要求しました。ところが、寺田屋のことは、その当時、久光は天皇からよくやったとお褒めのことばをいただいているのです。半年経つや経たずに、すっかり忘れて、これを顕彰する朝廷も朝廷ですが、久光としては立つ瀬はないとして、大へんもつれましてね。これも久光の長州藩嫌いをつのらせることになったのです。朝廷もいいかげんなものですが、久光も量見の狭いことです。あれも一時、これも一時、あの時はああでなければならなかったのだ(事実、その通りだったのです)と言って悠然としてはいられないのです。英雄の気宇のない人であったことは確実です。
この日(二十四日)、久光は京都藩邸留守居|鵜木《うのき》孫兵衛に、酒井所司代に、次のように届け出させた。
昨夜、伏見において弊藩の家来共が刃傷《にんじよう》に及びましたので、とりあえず昨夜|口達《こうたつ》をもってお届けいたしましたが、この事件は同封の別紙に記しました一ノ印《しるし》の者共が主命を破って亡命して、昨朝大坂屋敷を立去り、昨夜御当地で無思慮なことをおこす計画をめぐらし、容易ならざる難題をひきおこしそうな有様でしたので、和泉(久光)としては深く心配しまして、別紙二ノ|印《しるし》の人数にねんごろに申し含めまして、京屋敷へ来て鎮静するようにと申し渡させました。しかるに、一向に承服せず、ついに刃傷に及んだ次第であります。別紙肩書の通り、負傷あるいは即死いたしました。場所がら、何とも恐れ入った次第でございます。
なお右のうちには大坂表で取鎮めおきました諸方の浪人共も加わっておりますが、これは当地の屋敷へ連れて来て、一応鎮撫しています。また、前文の即死の人数等は、それぞれ御法によって御検視を御派遣になりますなら、その旨、何分のお差図をいただきたく存じます。もっとも、右の趣きは御用番所並びに伏見御奉行所へも、すぐお届け申し上げるつもりでいます。
前文にある亡命いたしました者共は、追ってきびしく藩法によって処置するでありましょう。右の死骸は仮に伏見屋敷内に保存しておきました。この段、御報まで。以上。
一ノ印。
即死 有馬新七  同 田中謙助
同  柴山愛次郎 同 橋口伝蔵
同  森山新五左衛門 同 弟子丸竜助
同  西田直五郎 同 橋口壮助
二ノ印
薄傷 奈良原喜八郎 深傷 鈴木勇右衛門
薄傷 山口金之進 深傷 江夏仲左衛門
即死 道島五郎兵衛 無傷 鈴木昌之助
無傷 大山格之助  深傷 森岡善助
所司代から随意にせよとの指示があり、検視役人等も遣わさなかったので、久光は死者は葬るように命じ、生きのこった柴山竜五郎以下の二十三人の薩藩士等は、真木和泉守や田中河内介や他藩人や浪人等と引きはなして、他へ移しました。この時のことでしょう、美玉三平が逃亡しました。美玉は長州藩に身を寄せ、この翌年(文久三年)、平野国臣とともに沢宣嘉を擁して生野で挙兵しましたが、こと破れて戦死しました。
久光は討手として向った面々には感状をあたえて、切米十石ずつをあたえることにしました。
薩藩士二十三人の名は次の通り。
柴山竜五郎  大山弥介(後の元帥巌)
西郷慎吾(従道) 篠原冬一郎(後の国幹)
三島弥兵衛(子爵通庸) 是枝万助
吉田清右衛門 森正之進
深見休蔵   有馬休八
岩元勇助   谷元兵右衛門
岸良三之丞  橋口吉之丞
吉原弥二郎  河野四郎右衛門
森 真兵衛  美玉三平
伊集院直右衛門(兼寛) 町田六郎左衛門
永山万斎  木藤市之助
坂本彦右衛門
この中には、是枝柳右衛門は入っていません。是枝は武士ではなく、鹿児島城下の郊外谷山郷の町人であるからでしょう。一同とは別に大坂藩邸内の牢屋に入れられましたが、後国許へ送還され、屋久島に流されました。
藩外の人としては、
田中河内介  青木|頼母《たのも》
中山|主計《かずえ》(以上京都浪人)
|海賀宮門《かんがくもん》(秋月藩士)
真木和泉守  同菊四郎
酒井伝次郎  鶴田陶司
原道太    荒巻平太郎(以上久留米藩士)
古賀簡二   中巻健太郎
吉武助左衛門 淵上謙蔵(以上久留米藩内郷士)
吉村虎太郎  宮地|宜蔵《ぎぞう》(以上土佐郷士)
宮田猛次郎  池上隼之助(以上佐土原藩士)
以上十八人があります。
このほかに、事後に来た者があります。
田中左馬介(河内介の養子)
千葉郁太郎(河内介の甥)
重松緑太郎(上佐人)
下男一人
また、小河一敏等岡藩士等も事後に薩藩邸へ到着したのですが、薩藩では、どういうわけか算入していません。従って幕府側でも放置しています。これから説明しますが、この未発におわったクーデターの関係者等は、朝廷、幕府側、薩藩の三者で話し合って、藩籍のある者はそれぞれの藩にかえし、浪人は薩藩に身柄が託されたのですが、小河等については何の指示もありませんでした。ですから、彼等は京都に滞在しつづけて(もちろん、薩摩の伏見邸からは出てです)、この年十月半ばに朝廷が攘夷の内達書を外様藩十四家へ下賜した時、岡藩にあてたのを奉持して帰国しました。小河等は脱藩して国を出たのですから、藩法を犯した罪人ということになりますが、朝廷からの内達書を奉持して帰れば、一種の功績者となるわけと、考えたのですが、岡藩では容赦なくこれを禁錮に処しました。それを朝廷の少壮公家等や尊攘志士等が立腹して、岡藩主中川修理大夫が参覲交代で出府する途中、襲撃しようといきり立ったという附録まであります。
薩摩藩当局が、薩摩人等を真木和泉守グループや田中河内介グループから引きはなして他へ連れ去ったのは、二十四日の朝でした。その日のことを真木はこう日記に書いています。
二十八日。晴。朝、薩人二十余人が他へ移された。田中河内介が藩邸内の執務所へ行って、帰って来ると、自分に語った。
「今、大久保一蔵に会って来た。大久保は言う。有馬新七等の妄動の罪は特に重い。だから、誅殺したのである。貴殿等も静かにしておられるがよい。今度のことは重大事であるので、すでに今朝、朝廷に奏したと。拙者は言った。有馬君等に何の罪があると言われるのか。公家方が事にたいして盲目であることは、貴殿もよく御承知ではないか。この盲目公家方を通じて、ことを至尊に申し上げても、実のことは至尊はおわかりにならないであろう。青蓮院宮に参内奏上していただいて、はじめて真の叡旨が得られるのである。有馬君等はそれを等え、和泉殿の御事業が速く成就するように図らおうとされたのだ。即ち忠臣である。断じて賊臣ではありませんぞ、拙者は申したのです」
といって、はらはらと涙をこぼした。自分も胸がせまって泣いた。
土佐人吉村虎太郎、宮地宜蔵、秋月人海賀宮門、河内介の甥千葉郁太郎も来て一緒になった。間もなく、吉井中輔(前名幸輔、後友実)が来て、長州人久坂玄瑞等二人が自分に会いたいと言って訪ねて来たと取りついだ。自分は久坂等を連れて来させて、会談した。やがて三島某等四人が来て、「おとなしくしているように」との和泉(久光)公の命を伝えた。
夜、雨となった。
この真木の日記によって、真木グループと田中グループとの様子がうかがわれますね。
久光の側近の者等は、連日御殿へ詰め切りで、後始末のことを相談して、所司代や朝廷の意向もうかがった上で、つい今申したように決定しました。すなわち、
「薩藩士で暴発に加盟した者は国許に送り返す。他に藩籍のある者はそれぞれの藩に引き渡す。田中河内介父子その他の浪人等は、薩摩でおあずかりして、国許送還の薩藩士等とともに薩摩に連れて行く」
というのです。
この決定によって、真木和泉守父子や真木の門人等は、久留米藩士にもちろん、久留米領内の郷士等も、久留米藩に引渡すことにし、吉村虎太郎、宮地宜蔵等は土佐藩へ引渡すことにしました。
この人々は一時その本国で入牢や自宅禁錮になっていましたが、この年の秋頃から翌年の秋頃までは京都は激烈な尊王攘夷論が最も高揚することとなり、朝廷は三条|実美《さねとみ》を頂点とする少壮公家と長州・土佐の壮士等の支配するところとなりましたので、朝命をもって久留米藩と土佐藩とに、この人々を釈放し上京させるように命じました。ですから、真木和泉守は長州藩の尊攘運動の指導者となって、今楠公と呼ばれるほど朝野の人々に尊敬されるようになるのです。吉村虎太郎も上京して、中山忠光侍従を擁して、大和天忠組の挙をおこしました。
海賀宮門も秋月藩に藩籍があるのですから、本来なら秋月藩に引渡さるべきでしたが、どういう都合か、あとにのこって、浪人である田中河内介の組に入られました。あるいは、秋月藩は筑前黒田家の分家でわずかに五万石の小藩なので、京都にも大坂にも藩吏が駐在していなかったのかも知れません。
二十七日夜、国許送還の薩藩士等と田中河内介等とが大坂にさし下され、翌二十八日に真木等が大坂にさし下されました。
これで、京屋敷ははじめて静かになり、久光のブレーン等は六日ぶりに御殿を退出して、それぞれの宿へつきました。
大坂に着きますと、薩摩士二十二人(京都で逃亡した美玉三平をのぞいて)と、田中河内介のグループ四人(養子左馬介、千葉郁太郎、中村主計)と秋月藩士海賀宮門とは、同じ船にのせられました。目付四人と多数の足軽とが附添いました。日向の細島港まで海路を行き、そこから陸路をとって鹿児島城下に行くことになっていると知らされました。恐らく海賀宮門は細島から筑前秋月に送られることになっていたのでしょう。
ともあれ、田中河内介のグループには、
「貴殿方は弊藩でおあずかりすることになりました」
と言いわたしてありました。河内介は今までこそ浪人ですが、多年中山大納言家へつかえて、正六位下河内介という官位も持っている人ですから、薩藩では鄭重にとりあつかったはずです。しかし、これはうわべだけのことで、久光とその側近等は、最も腹黒い計画を立てていたのです。四人の目付等に、途中の海上でグループを皆殺しにし、死体は海中に遺棄するように言いふくめたのです。
後でこの事件について書いた西郷の書翰を紹介しますが、それによると薩摩藩当局は、田中が世間を煽動する材料につかった青蓮院宮の令旨と錦の御旗と称するものとは、いずれもニセモノだというので、こうすることに決定したようですが、それならそれでやり方もありましょうに、陰険で、いやらしい話ですね。
大坂を出帆して間もなくのことでしょう。目付等は薩藩士等にこの任務を命じました。むざんな失敗に終ったとはいえ、ともに事を企てた同志だった人々です。それを殺せとは、むごいとも、非道とも、言うべきことばのないほど背徳的なことです。もちろん、薩藩士等はかたく拒みましたが、藩命あるいは久光の命令であると強く言われますと、拒み通すことは出来ませんでした。武士というものはそんな風にしつけられているのです。しかし、こんな仕業《しわざ》は誰だっていやですから、クジ引きできめることにしましたところ、クジは柴山竜五郎にあたりました。
柴山は一党の幹部の一人として、河内介とはとりわけ親しくしていたのです。苦悩すること一通りでありません。それを見て、実弟の是枝万助が、兄にかわって役目を引き受けて、河内介父子を斬りました。二人の死骸は小豆島《しようどしま》の岸べに漂りついたといいます。後のことになりますが、万助は気がおかしくなり、生涯廃人でおわったそうです。
千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門の三人は、日向の細島の海で斬られました。田中父子のことについて、三人が薩摩人の不信義を論難してやまないので、こうなったという説もあります。論難したという事実はあったかも知れませんが、根本的には最初から亡《な》いものにすることにきめていたと断じてよいでしょう。久光は浪人には特に悪意をもっていた人です。もっとも、海賀宮門だけは別です。これは秋月に藩籍があるのですから、上陸したら藩に送りつけるつもりでいたのでしょうが、論難があまりに鋭いので、斬られたのでしょうか。他の二人は、一人は河内介の甥であり、一人は密着している人物ですから、河内介父子を斬った以上、助命するはずはないでしょう。
この事実は、薩摩藩の幕末維新史における最大の汚点です。寺田屋の事変は、同志相伐った惨烈さはあっても、まだ一種の壮烈美がありますが、この事件はひたすらに陰険陰湿です。久光という人間の性格と、そのブレーンである人々、その側近である人々の性格の反映です。大久保一蔵もその責任をまぬがれることは出来ません。
もっとも、大久保は陰謀的才能は十分以上にある人物です。その才能が、彼を維新革命における重要人物とするのです。この翌々年、元治元年(一八六四)の春、西郷が南の孤島から呼び返され、大久保とならんで薩藩を代表する人物となり、維新革命はこの二人と公家の岩倉具視との三人によって成ったとまで、世間では見たのですが、西郷はその陽の面を受持ち、大久保と岩倉とは陰の面を受持って、その陰謀の才能をフルに活用したのです。革命という政治工作は、旧政権と旧秩序から見れば犯罪行為です。陰謀を欠くことは出来ませんが、その担当者は、当時も、また後世にも、人気はよくないのです。気の毒ですが、いたし方はありません。人にはそれぞれ役まわりがありますからね。
寺田屋の事変のことや、この船中でのことが薩摩に伝えられたのはいつのことでしたか、多分五月半ば頃であったと思われます。その頃、西郷は鹿児島湾の入口に近い山川港にいました。彼と村田新八と森山新蔵の三人をのせた汽船天祐丸は、四月十一日大坂を出港、十六、七日頃には鹿児島湾に入りましたが、山川港で三人をおろして鹿児島港に向いました。三人は鰹釣船に乗り移らされて、山川港内で藩命を待つことになったのです。
当時鹿児島には太守の島津忠義がおり、首席家老の喜入摂津がいたのですが、西郷のどこが久光の気に入らないのか、よくわからなかったのでしょう、ずいぶん長い間処分言い渡しはなく、放置されていました。そのくせ、久光が西郷にたいして最も深刻な憎悪を持っていることはわかっていますので、人に会ったり、上陸することは許しません。西郷の弟等や友人等が訪ねて来ましたが、面会は許されませんでした。西郷の老祖母が西郷が上方に行っている間に老衰死したのですが、墓詣りに帰ることも許されませんでした。
陰暦の四月、五月といえば、薩摩最南端のここらではもう盛夏といってよろしい。退屈なことだったでしょう。西郷はおかれている舟の上から釣魚《つり》をして無聊《ぶりよう》を慰めたと伝えられています。西郷は山|猟《が》りも川や海の漁《すなどり》も好きで、またなかなか上手だったそうです。
このように厳重に他からの連絡を絶たれていたのですが、鹿児島城下のことや中央の情勢については知る便宜があったらしく、寺田屋のことも、その後始末のことについてもよく知りました。
このことを、彼は徳之島に流された後、大島にいた頃、親しく交わった大島見聞役の木場伝内に書いた手紙の中に、こう記しています。
田中河内介と申す人は、もと中山大納言の諸大夫で、京都では有名な人です。この人は粟田口宮(青蓮院宮のこと)様の御令旨と中すものと錦の御旗とを捧持していますとの由。これはいずれも偽物で、これをもって人々を欺いたのであるとのことで、この人を薩摩に差し下すと言いなして、船に乗せ、途中船中でこの父子三人(二人)とほかに浪士三人、都合六人(実は、田中父子と田中の甥千葉郁太郎、浪人中村主計、筑前秋月藩士海賀宮門の五人)を暗殺してしまわれました由。たとえ偽物にもせよ、令旨と称し、錦の御旗と称するものですから、朝廷に差出されて、真偽を明白におさだめあるべきことです。天朝の人を勝手に殺しなされたこと、実に残念なことです。もうわが薩州は勤王の二字を唱えることは出来ますまい。もしこのことについて朝廷からお尋ねになりますなら、どうお答えになるつもりでしょう。
とんとこれまでの芝居でした。今後は見物人もありますまい。
なお、西郷のこの手紙の末尾には、
もう馬鹿らしい忠義立てはやめることにします。お見かぎり下さい。
という文句があります。
話が前後しましたが、西郷等三人が久光の怒りに触れて、大坂で久光の裁きを待って船中で謹慎しています時、伏見藩邸の留守居本田弥右衛門は、西郷等のことが気になって、大坂へ来て、いろいろ探索して、船内で謹慎していることを知り、訪問しました。西郷等の番をしていたのは大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門の三人ですが、この三人はいずれも誠忠組同志で、最も本田と親しいなかなので、快く船内に入れて西郷等に会わせました。西郷は本田を迎え、
「勤王道楽のなれのはてで、こういうことになりもした」
と言って、呵々《かか》と笑ったというのです。このことは、本田が明治三十一年に、税所《さいしよ》篤子爵に書き送っています。この西郷のことばが、ほぼ一月後には、「もう馬鹿らしい忠義立てはやめることにします」となるのです。悲痛をきわめています。
こんな話もあります。
明治天皇は御生母が中山大納言忠能の女であったため、中山家で誕生され、中山家でお育ちになりました。田中河内介はそのお傅役《もりやく》をつとめましたので、天皇はずっと後まで河内介のことが御記憶にあって、なつかしく思っておられましたが、河内介がどんなことからどんな最期を遂げたかは、誰もお話しする者がなかったので、ご存じありませんでした。
明治になって、思うに明治六年秋の征韓論決裂から明治十一年初夏大久保害死までの間のことでしょう、天皇が当年の志士で今は政府の大官となっている人々を集めて、宴を賜うたことがありました。その時、天皇は河内介のことをなつかしげにお話しになって、
「河内介|爺《じじ》いはどうしたろう。生きていれば、その方共とともにひとかどの働きをせぬはずはない人物だったと思われるのだが」
と仰せられましたところ、小河一敏が、
「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その時の薩摩藩当局者として事を鞅掌《おうしよう》したのは、内務卿大久保利通でございます」
と言上しましたが、大久保は一言の反駁《はんばく》も出来なかったというのです。西郷が木場伝内宛の手紙に書いている、朝廷からお尋ねになったらどう答えるつもりであろうという場合に相当しましょう。大久保ひとりがとりあつかったのではありませんが、とりあつかった一人ではあります。男として、かれこれ弁解は出来ないことです。
寺田屋騒動は一見したところでは、単なる薩摩藩内の内紛としか思われませんが、幕末維新史を複雑困難にした薩長反目の最初の契機をなしたものであることにおいて、なかなか重要な事件です。
また忘れてならないのは、この事件の処断によって、久光の薩摩藩内における独裁権が確立したことです。久光の断乎たる態度が、一種の恐怖《テロ》政策《リズム》の効果をもって薩摩人等を畏怖《いふ》屈服させたのです。西郷が南の島から呼びかえされるまで、薩摩藩は久光の意志だけで動いていたのです。従って討幕勢力にはなり得なかったのです。
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初出誌
歴史と旅/昭和五十年四月号〜五十一年十月号
単行本
文春文庫 昭和六十二年三月十日刊
文春ウェブ文庫版
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版