海音寺潮五郎
天と地と(四)
目 次
夢 想
流 水
四如《しじよ》の旗
愛欲と信仰
美女《びじよ》は魔物《まもの》
旭山《あさひやま》城
善光寺如来《ぜんこうじによらい》
裾野《すその》の秋
甲越虚実《こうえつきよじつ》
六分《ろくぶ》の勝ち
上洛《じようらく》計画
松永《まつなが》弾正忠《だんじようのじよう》
「天と地と」年表(四)
夢 想
話きまって一月《ひとつき》の後、お綾《あや》は上田《うえだ》へ輿入《こしい》れした。手早く運ぶ必要があった。手のびしてはまたどんな支障が生ずるかわからないのである。景虎《かげとら》はお綾《あや》の化粧料《けしようりよう》に五千|貫《がん》の知行《ちぎよう》を持参させた。不幸であった娘時代をいくらかでもつぐなってやりたいのであった。
さらに一月《ひとつき》立って、秋のはじめ、まず房景《ふさかげ》が春日山《かすがやま》に出仕《しゆつし》した。
「なかよう暮らしているわ。わしも安心じゃ。いつあの世に行っても心のこりないてや」
と、房景《ふさかげ》は言った。本心からそう思っているようであった。さらに人のよげな老人に見えた。
「心細いことを仰《おお》せられんで、いつまでも達者《たつしや》でいてくだされ。お前様は一族中のただ一人の長老であります。別して長生きなされて、いろいろとお世話いただかねばなりません」
と、景虎《かげとら》は言った。心にもないことを言っているつもりではなかった。
「はは、うれしいことを言うてたもるわ」
房景《ふさかげ》はほくほくと笑った。
房景《ふさかげ》がかえるとすぐ、政景《まさかげ》が出て来た。これも現在の境遇《きようぐう》に満足しきって、何の不足もなげな様子であった。
その政景《まさかげ》が言った。
「景虎《かげとら》殿、こんどはおことが奥方《おくがた》をもらいなさらねばならぬ番ですぞ」
「まだ早うござる。わしはやっとはたちじゃすけ」
と景虎《かげとら》は答えた。きまりが悪くてならない。この際そんなことでは子供じみて、守護代《しゆごだい》という職分にもふさわしくないと思いながらも、どうしようもない。
「はたちなら早いことはござらぬ。いずれは持たねばすまぬものじゃ。早いなどと言わんで、まじめに考えていただきとうござる。綾《あや》とも相談して、またまいる」
と言って、政景《まさかげ》は上田《うえだ》へかえった。
そのあと、政景《まさかげ》が言いおいたのであろうか、景虎《かげとら》の側近《そつきん》の豪傑連《ごうけつれん》がおりにふれて、景虎《かげとら》に言う。
「お年ごろであります。奥方《おくがた》をお迎えなさるべきでございましょう。そうあってこそ、殿《との》にたいする世の見る目も、国ざむらいの心おきも、いっそうなものとなってまいりましょう」
と、いうのだ。そのたびに、
「まだだ、まだだ。やっと国内が平均したばかりじゃ。あわてることはないぞ。まるで、女房《にようぼう》をもらうために、これまで車輪《しやりん》になって働いてきたようなことを、汝《わい》らは言うの」
と笑ってしりぞけた。
こんな話の出る時、景虎《かげとら》の胸には、琵琶島《びわじま》城の乃美《なみ》の姿が思い浮かんだ。彼がこれまで見た女性のなかで妻にしたい女があるとすれば、乃美《なみ》以外にはなかった。しかし、彼にはあるおそれがあった。乃美《なみ》は気が進まないのではないかと思うのだ。彼がくれよと言えば、定行《さだゆき》は承諾《しようだく》するにちがいないし、定行《さだゆき》さえ承諾《しようだく》すればまとまる縁《えん》ではある。結婚は家と家とのもので、女の意志は問わないことになっているのだから。しかし、乃美《なみ》自身が心からよろこんで来るとは思われない。乃美《なみ》は彼を夫として見ることはできないにちがいないと、彼には考えられるのだ。
乃美《なみ》にきらわれているとは思わない。彼女がある種の好意を持っていることは疑いない。しかし、それは姉の弟にたいする、一種の優越《ゆうえつ》感をもっての愛情で、女の男にたいする愛情ではないような気がする。乃美《なみ》に関する記憶のどれもこれも、彼女が常に一格上の余裕《よゆう》のある態度で自分に接したことばかりだ。
「乃美《なみ》はおれより一つ上のはずだ。たった一つだが、人なみすぐれてかしこいせいであろうか、いつも姉《あね》さまぶっていた」
世の中には、年上《としうえ》の女房《にようぼう》を持って、それで十分うまくいっている例が少なくないことは彼も知っている。早い話が、鬼小島弥太郎夫婦《おにこじまやたろうふうふ》だ。たしか松江《まつえ》は弥太郎《やたろう》より三つ四つ年上のはずだが、この上ない円満《えんまん》な夫婦《ふうふ》だ。しかし、これは弥太郎《やたろう》があんな男だし、松江《まつえ》があんな女であるからで、つまりは人によろう。
この意味では、自分と乃美《なみ》ぐらい不適当な組み合わせはないであろう。自分は何《なん》ぴとにも頭をおさえられたくない性質だし、乃美《なみ》はまた乃美《なみ》であの目から鼻にぬけるようなかしこさは、とうてい年下《としした》の夫の手綱《たづな》の下におとなしく服従しているだろうとは思えないのだ。
「われ人ともに不幸になることかもしれん。その上、そうなっては、定行《さだゆき》とおれとのなかもおかしなものになる。婚姻《こんいん》というものは、うまくいけば両家をますます強く結ぶきずなになるが、悪くすれば、親しかった両家を引きはなすことにもなる……」
景虎《かげとら》は気の弱い性質ではない。たいていなことに、失敗の可能性より、成功の可能性の方が多く考えられる性質だ。つまり、強気《つよき》な人間だ。それは天性《てんせい》でもあったが、挙兵《きよへい》以来計画すればかならず成り、戦えばかならず勝ったことによって、いっそう自信に満ちた性質になっている。しかし、このことについては、自分でもおどろくほど悲観的な予想しか立たないのであった。
はきつかないこの気持ちは、われながら不愉快であった。一夜、彼は猛然《もうぜん》として思い立った。
「乃美《なみ》に会《お》うて、じかに聞いてみれば、それでわかるでないか。ひとりでうじうじと思いめぐらして苦しむことはない。よし、明日《あす》にも琵琶島《びわじま》に行こう」
鬱屈《うつくつ》は晴れ、すがすがといい気持ちになって、寝《しん》についた。
夢を見た。
場所は琵琶島《びわじま》城内であった。屏《へい》に沿うて、若葉がすずしげな蔭《かげ》をつくっているだらだら坂がある。ところどころ岩の頭が飛び出している小径《こみち》だ。景虎《かげとら》はその径《みち》をあえぎあえぎ、少し汗《あせ》ばんでのぼっていた。たえず笛の音《ね》が聞こえてくる。飄逸《ひよういつ》で、滑稽《こつけい》な感じの曲だ。この曲を吹いているところに、彼は行かなければならないと思いつめている。吹いている人に会って、その曲を教えてもらわなければならないことになっているのだ。彼もまた一管の笛を、汗のにじむほど片手ににぎりしめているのであった。
しかし、行っても行ってもだらだら坂はつづいて、なかなかそこへ行けない。いく度も足をとめ、ずっとつづいている坂道を見上げては、長い息をついた。
「もう行くのはやめよう。たかが笛だ。武将にとってかならず心得《こころえ》ねばならんものではない」
とも考えたが、その間も、笛は聞こえてくる。軽快でおどり立つようなその曲は、誘《いざな》うようであり、そそのかすようだ。
景虎《かげとら》は気力をふるいおこしては、エイサ、エイサとのぼりつづけた。いく度目の時であったろうか、ふと見上げると、はるかな坂の上に豆粒《まめつぶ》のように見えてあらわれた人影《ひとかげ》が、見る間に近づいて来て、目の前に立った。長い白いひげを生やし、甲冑《かつちゆう》を着て、上の曲がりくねった長い杖《つえ》をついている。
景虎《かげとら》はそれを上田《うえだ》の房景《ふさかげ》であるとばかり思っていたが、老人はその長い杖《つえ》をつきしめると、
「わしは毘沙門天《びしやもんてん》じゃ」
と言った。
「えッ!」
こちらはおどろいて見上げた。
老人は笑った。
「そなた、どこへ行くのじゃ。この道はそなたの行く道ではないぞ。この道を行けば、そなた、きっと後悔することになるぞ」
「どうしてでしょう」
と、景虎《かげとら》は聞きかえしたが、そこで目がさめた。
夜はまだ深く、寝間《ねま》をとりまいて、さまざまの虫の声に満たされていた。ひとしきりひとしきり、驟雨《しゆうう》のおそってくるように鳴き立てるのだ。
「ああ、夢か……」
全身に浮いている汗《あせ》を感じながら、景虎《かげとら》はつぶやいた。
景虎《かげとら》は細めたともし灯《び》がおぼろに照らしている天井《てんじよう》を仰ぎながら、いま見た夢を思い出していた。隅《すみ》から隅《すみ》まで、はっきりと覚えている。
(笛の音《ね》と毘沙門天《びしやもんてん》とは、妙《みよう》なとり合わせじゃわ)
と思った。もとより、これを夢知らせなどとは考えない。しかし、笛の音《ね》が乃美《なみ》を意味し、毘沙門天《びしやもんてん》が自分の誇りを意味しているのではないかとは思った。
(おれはよほどに乃美《なみ》をにが手にしているらしい)
と、苦笑《くしよう》した。
(にが手とあっては、ぜひ行って、正面からあたってくだけてみねばならん)
かえって、闘志《とうし》に似たものが湧《わ》いてきた。
翌日早朝、景虎《かげとら》は、急に思い立ったことがあると言って、琵琶島《びわじま》に向かった。わずかに三人の従騎《じゆうき》と小者《こもの》二人を連れただけの微行《しのび》すがたであった。
正午《ひる》ごろ、朔日峠《ついたちとうげ》をこえて山下《やました》の村の入り口にさしかかると、村の様子がおかしい。馬を乗りとどめて、しばらく様子をうかがった。一軒一軒の家が木立ちにつつまれ、その間を一筋の道がつづいて、見るからに静かでおちついた村であるのに、へんなざわめきが村中をこめている。
はてな、と小首《こくび》をひねる間もなく、その静かな家々から、人々がはじけ出すようにとび出して、通りを向こうに走って行きはじめた。手《て》ン手《で》に天秤棒《てんびんぼう》だ、鎌《かま》だ、鉈《なた》だというようなものをつかんでいるのだ。何やら口々にどなり立てているが、何をいっているのかわからない。
女子供も飛び出して来た。子供らが走って行きたがるのを、女らはけんめいに引きとめている。
ただごとではなかった。盗人《ぬすつと》か、強盗《ごうとう》か、旅のいたずらものが見つかったにちがいないと思われた。
景虎《かげとら》は馬をすすめ、最初の家の前に群れている女子供の前でとまった。
「おい」
と声をかけた。
びっくりして、ふりかえった、夢中《むちゆう》になって先方を眺《なが》めていたので、景虎《かげとら》らの近づいて来たのがわからなかったらしかった。
「何がおこったのだ」
返事はせず、あわてて土下座《どげざ》した。しのびすがたではあるが、身分高い武士であることはわかるのである。
「返答せい。何がおこったのだ」
「人殺しでごぜえますら」
色の黒い、かじかんだような小さい老婆《ろうば》がやっと答えた。
「村の者か、わきから来た者か」
「村の者ですら」
「だれを殺したのだ」
「二人殺しましたら。村はずれのお堂にこもっていますら」
「二人も?」
「へえ」
「だれとだれを殺したのだ」
返事しない。ぴたッと口をとじて、陰気《いんき》な顔になり、自分のひざを見つめていた。ふたをして砂利《じやり》の間にへばりついている川螺《かわにし》のようであった。
とてもこれ以上のことは聞き出せないと思ったので、馬を進めたが、おどろいたことに、行く手の家々の前に群れていた女子供が全部見えなくなっていた。聞きただされることを厭《いと》ってのことに相違《そうい》なかった。ふりかえってみると、今の者どもも姿を消していた。苦笑せずにおられなかった。
それでも、わいわいいう声が、ずっと向こうに聞こえる。行けばわかるにちがいなかった。急ぐ合図《あいず》を従騎《じゆうき》らにして、馬を走らせた。
村を出はずれて少し行くと、川がある。道は川に沿って下流に向かって走っているのであるが、その道と川とが平行になろうとする近くに椀《わん》を伏《ふ》せたような小さな山があり、上に赤松が数株あり、草葺《くさぶ》きのお堂があった。
村人らはそのお堂から麓《ふもと》にかけてとり巻き、わいわいさわいでいたが、景虎《かげとら》らが近づいて来るのを見て、ぴたりとしずまった。
景虎《かげとら》は十|間《けん》ばかりのところまで行って、従騎《じゆうき》をふりかえった。
「二、三人連れてまいれ。村役《むらやく》か何か、口のきける者がよいぞ」
「はっ」
一人が馬を走らせて行った。しばらくぐずぐずと押し問答するようであったが、間もなく二人連れて来た。連れに行った者が、こちらの身分を告げたのであろう、二人とも恐怖しきった顔であった。景虎《かげとら》の側まで来ると、へたへたとひざをおって、はいつくばった。快晴の秋の日のつづく路面にはこまかな埃《ほこり》が厚くつんでいる。それが煙のように舞い立った。
景虎《かげとら》は馬をおり、二人の前に立った。
「人をふたりも殺したのじゃそうだが、村の者じゃとの」
百姓《ひやくしよう》らは口では答えない。ひたいをほこりにうずめるように平伏《へいふく》した。
「だれを殺したのじゃ。顔を上げてこたえい」
何やらもごもごといったが、よくわからない。
「顔をあげて言えい。よくわからんぞ」
「へえ」
少しばかり上げる。ひたいに白くほこりがついていた。
「太郎兵衛《たろべえ》とおさわを殺しましてございます。鎌《かま》で斬《き》りましたら。はじめに太郎兵衛《たろべえ》を斬《き》り、次におさわの首を掻《か》っ切りましたら」
と、一人が言うと、一人がつけ加えた。
「髪を左手にからんで、右につかんだ鎌《かま》をのど首にあてがって、ざくりと引き切りましたら。ちょうろ稲株《いねかぶ》を切るようでごぜえましたら」
手まねまでして、ひどく熱心な説明であった。
「殺したのはだれだ」
「次郎兵衛《じろべえ》ですら。太郎兵衛《たろべえ》の弟ですら」
「なんじゃと? 殺した者と殺された者は兄弟か」
「へえ、兄弟ですら」
「おさわというのは?」
「次郎兵衛《じろべえ》の女房《にようぼう》ですら」
「わが女房《にようぼう》と兄を殺したのか」
「へえ。かねてから二人があやしいといううわさはごぜえましたらが、とうとう現場を見たのでごぜえましょう、やりましたら」
いきなり、頬《ほお》をひっぱたかれたような衝撃《しようげき》があった。景虎《かげとら》は口をきかず、赤松の疎林《そりん》にかこまれているお堂を凝視《ぎようし》していた。そこをとり巻いている群衆は、しずまりかえっている。こちらの身分がわかったので、どういうことになるかと、かたずをのんでいるふうであった。
やがて、景虎《かげとら》はいった。
「不義者を成敗《せいばい》したわけだな」
「へえ」
「その方ども、なぜこんなにさわぐのだ。不義者|成敗《せいばい》は、おきてによってゆるされていることだぞ。よも知らんことはあるまい」
「知ってはおりますら。けろも、相手が兄ですけ。兄殺しは親殺しと同じですら」
百姓《ひやくしよう》どもとしては、判断に迷うのは道理であった。いやいや、景虎《かげとら》にしても迷わざるをえない。
しばらく思案した。自分のこととして考えてみた。男として、殺さずにおられないと思った。弟の妻を奪うような者は人間ではない。人間でない者が人間の兄である道理はないという理窟《りくつ》が、そのあとにつづいた。
「このさばき、おれがつけてやる」
景虎《かげとら》は高声《こうじよう》にさけんで、そこに向かって歩き出したが、その時、堂をとりまいている人々がいっせいに声を上げてひしめいた。
「死んら、死んら!」
「のどぶえ切って死んらぞい!」
とさけぶのだ。
(しまった!)
舌打《したう》ちして、走り出した。人々は水のひくように道をあけてくれた。赤土《あかつち》の小径《こみち》を走り上って堂の前につくと、その近くにいた百姓《ひやくしよう》らが心得《こころえ》て、堂の戸をあけてくれた。
野良着《のらぎ》すがたの百姓《ひやくしよう》が、一面の血のたまりの中に、うつ伏《ぶ》せになって、微《かす》かにうめいていた。血はのどの血管からまだこんこんとして泉のように流れつづき、血にそんだ右手は大鎌《おおがま》の柄《え》をきびしくつかんでいた。
前に、首が二つすえてある。男と女の首。切り口を下にして板じきにすえられ、自殺者の血にひたされていた。
景虎《かげとら》はその前に立って、きびしく沈鬱《ちんうつ》な目で凝視《ぎようし》していた。
「この者はしょせん助からぬ。生きていれば、罪にはせぬのであったに、気のどくなことをした。死んだらば、手厚く葬《ほうむ》ってとらせい」
やがて、景虎《かげとら》はこう言い、村長《むらおさ》を呼び出して鳥目《ちようもく》をあたえ、引かれて来た馬に乗ったが、先へは進まなかった。
「気がかわった。帰る」
従騎《じゆうき》らに言って、馬首《ばしゆ》をかえした。
春日山《かすがやま》へはとっぷり暮れてから帰りついた。城へは帰らず、毘沙門《びしやもん》堂に行った。
「心願《しんがん》の筋《すじ》がある。おこもりしたい。護摩《ごま》を焚《た》いてくれい」
と寺僧《じそう》に頼んで、終夜|本尊《ほんぞん》の前に端座《たんざ》しつづけた。
以前から、彼は男女の愛欲にたいして一種の潔癖《けつぺき》感がある。それが彼を二十という年まで女に触れさせなかった。それは、この時代としては信ぜられないくらいめずらしいことなのである。彼には、男女の愛欲とは、得体《えたい》の知れない気味《きみ》わるさをもった、どろどろな泥沼《どろぬま》のように思える。多数の剛勇《ごうゆう》な男がこの泥沼《どろぬま》に足をさらわれて柔弱臆病《にゆうじやくおくびよう》になり、多くの正義の念に強い男が溺《おぼ》れて不義非道《ふぎひどう》の徒となったというのは、説明のできる気味《きみ》わるさだが、そのほかに何とも名状《めいじよう》のできない不安で不快なおそろしさがあるような気がする。
乃美《なみ》のことを思う時、この気持ちは消え薄れていたが、今日途中であの事件にあって、もっとも鮮烈《せんれつ》なものとなってよみがえってきた。
彼は昨夜の夢を単なる雑夢《ざつむ》と考えることができなくなった。
「真の啓示《けいじ》であるかどうか、たしかめたい」
と、思い立ったのであった。
堂内には住職と景虎《かげとら》しかいなかった。余人《よじん》の入るのを禁止したのであった。
住職は四十を少し越した年輩《ねんぱい》で、僧侶《そうりよ》に似合わしからず魁偉《かいい》な容貌《ようぼう》と体格の人物だ。純白な浄衣《じようえ》を着、無患子《むくろじ》の大念珠《おおねんじゆ》を左の手首にかけ、不動明王《ふどうみようおう》の剣の印《いん》をむすんで、礼盤《らいばん》に趺坐《ふざ》していた。たえず微声《びせい》に陀羅尼《だらに》を誦《じゆ》し、ときどき印《いん》をといては乳木《ちぎ》をつかんで火炉《かろ》に投げ入れた。そのたびに煙は新たな勢いを得て立ちのぼった。
景虎《かげとら》は礼盤《らいばん》からななめ横の少し退《さが》った位置に円座《えんざ》をしいてもらい、住職にならって結跏趺坐《けつかふざ》していた。きびしく合掌《がつしよう》はしていたが、にらむようにするどい目で、本尊《ほんぞん》を凝視《ぎようし》しつづけた。
香煙《こうえん》と護摩《ごま》の煙とを全身に這《は》い上らせている本尊《ほんぞん》は等身より少し大きかった。昔は彩色《さいしき》してあったにちがいないが、色どりは剥《は》げ、真っ黒に煤《すす》けて、西域風《さいいきふう》の甲冑《かつちゆう》の刻み目もおぼろであった。両眼だけが光っていた。眼《め》の胡粉《ごふん》だけが白くのこっている上に、ひとみに水晶《すいしよう》でも入れてあるのだろうか、ときどき灯明《とうみよう》の穂先《ほさき》がゆらぐと、射るような光をきらりと放った。いのちあって、サッと顔をふり向けて凝視《ぎようし》するかと疑われるほどであった。
秋も最中《もなか》だ。堂の周囲はさまざまな虫の音《ね》に満たされ、それが一つのリズムをつくっていた。低い調子からしだいに高い調子に移り、上りつめるとしだいに低くなり、ついにはすっかり聞こえなくなる。これが飽《あ》きずにくりかえされていた。住職の陀羅尼《だらに》はその間を、つぶやくような低い声で、高低もなく、きれ目もなく、単調に、どこまでもつづいた。
夜がふけるにつれて、冷気がひしひしとしみてくる。肩もつめたければ、手足の先もつめたく、ひざもつめたく、背中もつめたい。腹までつめたくなってくる。だんだん知覚《ちかく》がなくなるにつれて、ときどき住職の陀羅尼《だらに》が遠のき、茫《ぼう》と目の前に霧《きり》がかかるように感ずることがあった。
べつだん眠いと感じていたわけではなかったが、こうなるのは眠りかけているにちがいないと思った。
(眠ってはいかん。おれは毘沙門天《びしやもんてん》と対決しなければならんのだ!)
そのたびに心をひきしめ、大きく眼《め》をみひらいた。
奇蹟《きせき》はそうした時におこった。いく度目か、大きく眼《め》をみひらいた時に、護摩《ごま》の煙がひときわ濃《こ》く立ちのぼり、尊像《そんぞう》を霧《きり》のようにおしつつんだが、その煙を射つらぬくように、尊像《そんぞう》の両眼《りようがん》がかがやいたかと思うと、尊像《そんぞう》はゆらりと歩をおこして目の前に来た。
あっと思う間もない。異国風《いこくふう》な籠手《こて》をはめたもろ腕は三叉《みつまた》の戟《ほこ》の柄《え》をかえして、ぴたりと景虎《かげとら》の首筋《くびすじ》をおさえた。石づきは肝《きも》にこたえるほど強い力にみち、またつめたかった。憤怒《ふんぬ》の目でにらんで、言った。
「そなたはおれが権化《ごんげ》じゃほどに、かくべつ目をかけていてつかわしているに、いっこうにそれがわからぬ。昨夜のことも、せっかく夢枕《ゆめまくら》に立ってまで教えてつかわしたのじゃに、信じようとせぬ。そのようなことでは、啓示《けいじ》もせんない。以後も今の疑い深さを通すつもりならば、もう教えてやらぬぞ。どうじゃ、どうじゃ……」
もみこむように、ぎゅうぎゅうおさえつける。おそろしい力だ。景虎《かげとら》は身動き一つできなかった。せいいっぱいの努力でこらえながら、口はきかなかった。わびる気はしない。啓示《けいじ》なら啓示《けいじ》らしく、はっきりと示すがよい、普通の夢とかわりないあらわれ方をして、信じないのが悪いとは圧制《あつせい》きわまると、心中《しんちゆう》腹を立てていたが、何としても肩の重圧はたえがたい。骨がくだけるかと痛かった。
きりきりと歯を食いしばってこらえていると、肩をつかんではげしくゆすぶられていることに気がついた。
「いかがなされました。いかがなされました。これはしたり……」
遠いところから、こんな声が近づいて来たかと思うと、目がさめた。
「お気がつきましたか。どうなすったのでございます。きついうなされようでございましたよ」
住職であった。のぞきこんでいる目が心配げであった。
景虎《かげとら》はほっと息をついて、本尊《ほんぞん》の方を見た。前と少しもかわらない姿で、かすかな煙につつまれて立っていた。
(あれが啓示《けいじ》だったのか)
と、思った時、尊像《そんぞう》の目がきらりと光り、微笑《びしよう》したようであった。
覚えず、合掌《がつしよう》して、口ずさんだ。
「南無帰命頂礼毘沙門天《なむきみようちようらいびしやもんてん》……」
もう啓示《けいじ》であったことを信じて疑わなかった。敬虔《けいけん》な念《おも》いが泉のように胸に湧《わ》き、みうちにみちひろがってくるのを感じていた。全身に汗《あせ》が浮き、ひたいの汗《あせ》がしずくをなしてしたたった。
しばらくして、景虎《かげとら》は毘沙門《びしやもん》堂を出た。夜はまだ暗かった。家来どもの待っている庫裏《くり》を避《さ》けて、脇門《わきもん》から境内《けいだい》を出て、田圃《たんぼ》の方へ道をとった。
しとどな露をおいた道草《みちくさ》を踏みしだいて行く景虎《かげとら》の眼前には乃美《なみ》の姿がある。笛をかまえて月にむかって吹きすさんでいる姿だ。月の光は根元を結んで背に流した豊かな髪の生《は》えぎわから長めの細い顔にさし、肩や胸に流れている。細い指が器用に笛の孔《あな》の上におどり、息をつぐたびに歌口にあてた唇《くちびる》がすばやく動き、こんもりした胸もとがやさしくあえぎ、細いがくっきりと長い眉《まゆ》の下の眼《め》は閉ざされ、長いまつ毛のかげを下まぶたにうつしているのだ。景虎《かげとら》の耳には、軽快で飄逸《ひよういつ》な曲調まで聞こえるようであった。
戦場における武勇と、愛欲と、どちらが大事であるか、景虎《かげとら》には考えるまでもないことであった。彼が簡単にそう結論することができたのは、まだ若くて、愛欲のおそろしさも、したがってその魅力《みりよく》もよくわかっていなかったからであろうと思われるが、とにかくも、愛欲を捨てて、武勇を取ることにきめたのだ。
武勇の道である。功名《こうみよう》の道ではない。したがって権勢《けんせい》の道でもない。武勇の道はもちろんこの二つの道に通ずるが、それは彼にはそれほど魅力《みりよく》はない。戦えばかならず勝ち、攻むればかならず取る武力を一身にそなえて、天下なにものにもおそれずはばからず、男性的|気概《きがい》を立てとおしたいのであった。
これもまた彼が若いからであったろう。一人前《いちにんまえ》の男性にとっては、権勢《けんせい》の方が愛欲よりずっとずっと魅力《みりよく》のあるものなのだが、それがまだわからないのだから、そうとより思いようがない。
けれども、決心は決心にすぎない。即座《そくざ》に決心通りにいくものなら、人生は容易だ。景虎《かげとら》は乃美《なみ》のまぼろしを追いはらおうとつとめたが、追っても追っても、かえって来た。つめたい露に足をぬらしながら、いつまでも歩きまわった。
夜が白《しら》み、東の空の横雲《よこぐも》が曙《あけぼの》の光に彩《いろど》られてきた。
幻影《げんえい》は亡霊《ぼうれい》と同じものかもしれない。明るくなるにつれて、乃美《なみ》のまぼろしは景虎《かげとら》をはなれた。
「南無帰命頂礼毘沙門天《なむきみようちようらいびしやもんてん》!」
しだいにかがやきを増してくる横雲《よこぐも》に向かって、合掌《がつしよう》し、つぶやいた。
上田《うえだ》との妥協《だきよう》、お綾《あや》の上田輿入《うえだこしい》れで、越後《えちご》には完全な平和が来たが、上杉定実《うえすぎさだざね》の死後、越後《えちご》には国主《こくしゆ》がいないわけであった。定実《さだざね》には子供がなかったのである。景虎《かげとら》は守護代《しゆごだい》であるが、この役目はいわば越後《えちご》の豪族《ごうぞく》らの旗頭《はたがしら》というにすぎない。豪族《ごうぞく》らと彼との関係は、ともに同格の豪族《ごうぞく》で、主従ではない。それに、定実《さだざね》の死によってこの国には守護《しゆご》がいなくなったのだ。守護《しゆご》がいないのに守護代《しゆごだい》というのもおかしなものである。
景虎《かげとら》は豪族《ごうぞく》らを召集して、この問題について協議した。
「おことが国主《こくしゆ》になるがええ。守護《しゆご》ということになると、いろいろと先祖からの格式《かくしき》がいり、京《みやこ》の公方《くぼう》様の任命がなくてはならんが、国主《こくしゆ》なら、そげいな小面倒《こめんどう》なことはいらん。力ある者が国のあるじになることは、近ごろどこでもはやっていることじゃ。遠慮《えんりよ》することはないわな」
と、まず房景《ふさかげ》が発言した。こともなげな言いぶりであった。
「それがようござる。近ごろのはやりでもござる。京《みやこ》の公方《くぼう》家か、関東《かんとう》の公方《くぼう》家に勢いがあれば、伺いを立てて、しかるべい公達《きんだち》を申し下すのがいちばん筋《すじ》の通ったことでござろうが、このごろでは関東《かんとう》の公方《くぼう》家はあるかなきかのかすかなおありさまでござるし、京《みやこ》の公方《くぼう》様もとんと勢いがござらっしゃりませぬ。今の世のならわしに従うて、おんみずから国主《こくしゆ》となられてしかるびょう存ずる」
と、同意する者が多かった。
宇佐美《うさみ》が一言も口をきかないので、景虎《かげとら》はそちらを見た。宇佐美《うさみ》は腕ぐみし、片手の指先でまばらなあごひげをちりちりともんでいた。何か思案しているようなおももちだ。
「駿河《するが》、そなたの意見をききたい」
宇佐美《うさみ》ははっとしたようであった。姿勢を正した。
「皆様と同じ意見でございますので、改めて申し上げるまでもないことと、さしひかえておりました」
と言った。
同意であろうはずはない。同意ならばあんな顔をしていようはずはない。景虎《かげとら》にはそれがわかる。その真に言おうとしていることもわかっているつもりだ。宇佐美《うさみ》は、京《みやこ》の将軍に請《こ》えといいたいのだ。おそらくは、こうだろう。
「しかじかのことで、当国の守護《しゆご》の血統がたえました。つきましては、国は一日も主なくしては立ち行かぬものでありますれば、守護代《しゆごだい》たる拙者《せつしや》が旧によって国務を代行しています。なにぶんのおさしずを願います」
との口上《こうじよう》に、相当|吟味《ぎんみ》した礼物《れいもつ》をそえて請願《せいがん》すれば、将軍はきっと聴許《ちようきよ》するに相違ない。今や将軍は名だけのものになっている。京《みやこ》近くにおいてこそその威令《いれい》も多少は行われようが、地方の国々にたいしてはその命令は何の力もないのに、こちらから請願《せいがん》するのだ、よろこばないはずはない。その上、その勝手向きの窮迫《きゆうはく》ぶりは一通りや二通りのものではない。鄭重《ていちよう》な礼物《れいもつ》をそえての請願《せいがん》であれば、そのためだけでもゆるす気になることは受け合いだ。どんな手段で得ても、聴許《ちようきよ》は聴許《ちようきよ》だ。正しい名分《めいぶん》が立つ。名分《めいぶん》は力だ。第一には、ひょっとして抜け駆けして請願《せいがん》する気をおこす者が出ないものでもないが、それを封ずることができる。第二に、国内の諸豪《しよごう》で反抗の挙《きよ》に出る者があった時、討伐《とうばつ》の名義が立つ。第三に、ひょっとして運よくいけば、守護《しゆご》に任命してくれるかもしれない。労はこのように少なく、利はこのように多いことを、やらないという法はないと、宇佐美《うさみ》は言いたいにちがいないのである。
その通りだと思った。景虎《かげとら》は言った。
「上田《うえだ》の叔父君《おじぎみ》をはじめ、皆々|腹蔵《ふくぞう》のない意見を聞かせてくれて、礼を申す。しかし、わしの意見は少しちごう。おとろえたとはいえ、公方《くぼう》家は公方《くぼう》家じゃ。わしは事情を訴《うつた》えて、おさしずを仰ぐことにしたい。どうであろうか」
「それもよかろう。格別《かくべつ》手のかかることではない」
と、また真っ先に房景《ふさかげ》が言った。
これもみな賛成《さんせい》した。すでに事実の上では景虎《かげとら》が国主《こくしゆ》なのだ。実質がこうである以上、形式などどうでもよいと思っているようであった。
「しからば、皆々もれなく同意と見て、そのようにとりはからいたい。ついては今請願書《せいがんしよ》を作らせ申すによって、ご一同の連署《れんしよ》を願いたい」
景虎《かげとら》は祐筆《ゆうひつ》を呼び出し、その場で請願書《せいがんしよ》を作成させ、もれなく人々に連署《れんしよ》させた。
請願書《せいがんしよ》と献上品《けんじようひん》をたずさえた使者は、数日の後上京の途についたが、歳末《さいまつ》に近く、時の将軍|義晴《よしはる》からの女房奉書《にようぼうほうしよ》をたずさえて帰って来た。奉書《ほうしよ》の主文には願いの趣《おもむき》を聴許《ちようきよ》したことと、献上品《けんじようひん》の礼とを書いてあり、奥に、
「近日なおなお申すべく候《そうろう》」
と、男手で書きそえてあった。
義晴《よしはる》の筆跡《ひつせき》であると思われた。とくに自分で書きそえたところに、期待を抱《いだ》かせるものがあった。
(何を言ってくるつもりであろうか)
あれこれと、景虎《かげとら》は思いをめぐらした。
数日にして新しい年天文《てんぶん》十九年が来、景虎《かげとら》は二十一になった。
その二月の末、ようやく雪の消えかかるころ、義晴《よしはる》将軍から来書《らいしよ》があった。
「白の傘袋《かさぶくろ》と毛氈《もうせん》の鞍覆《くらおおい》とを許す」
というのであった。この二つは越後守護《えちごしゆご》の格式《かくしき》だ。だから、これは守護《しゆご》に任命したと解釈してよいのであった。はっきりと任命したと言わないのは、実権《じつけん》のなくなっている身をかえりみてのことであろう。
ともかくも、これで名実《めいじつ》ともに越後国主《えちごこくしゆ》、越後守護《えちごしゆご》となれたわけだ。うれしくないことはなかった。手厚く献上物《けんじようもの》を持たせた使者を京《みやこ》につかわした。
満一年、おだやかな日がつづいた。
記録によると、この期間、景虎《かげとら》は神社・仏閣にたいして、異常なくらい深い崇敬《すうけい》をささげている。
十九年の五月一日には、魚沼《うおぬま》郡の宇都宮《うつのみや》神社の大宮司《だいぐうじ》に、上弥彦吉谷《かみやひこよしたに》十八社の魚沼《うおぬま》郡内にある社領《しやりよう》をあずけて、神事《しんじ》や諸役《しよやく》を怠りなくつとめるよう命じている。
同月十三日には、刈羽《かりわ》郡吉井《よしい》の菊尾寺《きくおじ》の別当《べつとう》を吟味《ぎんみ》選任して、怠りなく寺社役をつとめよと命じている。
二十年の三月二日には、先年世話になった礼として栃尾《とちお》の常安寺《じようあんじ》に田地《でんち》を寄進《きしん》している。
「先年|不慮《ふりよ》の鉾楯《むじゆん》これあるの節、忠節を抽《ぬき》んでらるるの条、比類《ひるい》なく候《そうろう》」というのが、寄進《きしん》文書の書き出しである。
以上は越佐《えつさ》史料に所載《しよさい》の分だ。古文書《こもんじよ》の現存しているものだけであるから、実際にはこの数倍あったと思うべきであろう。
常安寺《じようあんじ》に田地《でんち》を寄進《きしん》して十数日の後、上州平井《じようしゆうひらい》にいる関東管領上杉憲政《かんとうかんれいうえすぎのりまさ》と小田原《おだわら》の北条氏康《ほうじよううじやす》との間に合戦《かつせん》がおこなわれ、上杉《うえすぎ》方が惨敗《ざんぱい》して、城まで攻めつけられているとのうわさが伝わって来た。
関東管領《かんとうかんれい》といえば、本来の職は全|関東《かんとう》から北陸《ほくりく》、奥羽《おうう》、つまり東日本全部を統轄《とうかつ》するにある。それにたいして小田原北条《おだわらほうじよう》氏は、その第一世|早雲入道《そううんにゆうどう》は生まれ素姓《すじよう》もはっきりとはわからない旅牢人《たびろうにん》だったのだ。その旅牢人《たびろうにん》の孫に、関東管領《かんとうかんれい》が居城《きよじよう》まで攻めつけられるようになるとは、戦国という時代のすさまじさであった。
くわしく事情を知りたいと思っていると、宇佐美定行《うさみさだゆき》が来た。来はしないかという気がしていた。
「関東《かんとう》のことで来たろう」
というと、
「ほう。おわかりでございますか」
と、定行《さだゆき》は笑った。
「くわしいことを知りたいと思うている。そなた知っているであろうな」
「おおよそのことは存じています」
宇佐美《うさみ》は話してくれた。
合戦《かつせん》は武蔵児玉《むさしこだま》郡と上州多野《じようしゆうたの》郡の境を流れている神流《かんな》川の河原でおこなわれたという。ここは平井《ひらい》から一里数町の地点だ。氏康《うじやす》が二万余の兵をひきいて来襲《らいしゆう》しつつあるとの報告を受け取った憲政《のりまさ》は、上州《じようしゆう》・野州《やしゆう》の豪族《ごうぞく》ら三万余をひきいて行き向かい、ここで遭遇《そうぐう》した。戦いは三月十日に行われた。
管領《かんれい》方は大軍ではあり、逸《いつ》をもって長途《ちようと》を来た敵を待っていたことではあり、緒戦《しよせん》には切り勝った。北条《ほうじよう》方とはこれまで十数年にわたって合戦《かつせん》し、小ぜり合いには勝ったことがあっても、大事な時にはいつも敗れているのだ。双方《そうほう》がこれほどの大軍をもってする戦いに勝ったことははじめてであった。大いに気をよくしていると、午後になって形勢が逆転した。
北条《ほうじよう》方の主将|氏康《うじやす》が、みずから槍《やり》をとって先陣《せんじん》に立ち、手をくだいて奮戦《ふんせん》したのに励《はげ》まされて、雑兵《ぞうひよう》の末にいたるまでふるい立ったのだ。
管領《かんれい》方は四分五裂《しぶんごれつ》して、敗走《はいそう》し、憲政《のりまさ》はほうほうのていで平井《ひらい》城に逃げこんだという。
「小田原《おだわら》勢は城の濠《ほり》ぎわまで攻めつけましたが、早朝より終日の合戦《かつせん》に死傷した者も多く、無事なものも疲れはてていましたので、後度《ごど》のこととして、器用に引きとったげでございます。功をあせらぬところ、さすがに老練《ろうれん》の名ある人物でございます」
と、定行《さだゆき》は話を結んだ。
「うむ、うむ」
景虎《かげとら》はうなずきながら聞いていたが、言った。
「ところで、そなたおれに何をすすめに来たのだ。おれは動く気はないぞ」
宇佐美《うさみ》は上杉管領《うえすぎかんれい》家とは親しいなかだ。景虎《かげとら》の生まれたころまで、管領《かんれい》家をうしろ楯《だて》にして、景虎《かげとら》の父|為景《ためかげ》に抵抗多年にわたったと、聞いている。てっきり関東《かんとう》に出兵して管領《かんれい》家に助勢して小田原《おだわら》にあたれよと説くつもりと思っていた。
宇佐美《うさみ》は微笑《びしよう》して、
「しごくの思《おぼ》し召し。ここはお動きになってはなりませぬ。しかし、関東《かんとう》がこのような形勢になっていることはお心にとめおき、以後の変化をよくごらんありますよう」
と言った。
その夜、景虎《かげとら》はまた夢を見た。
十日ばかりの月の出ている深夜の山路を、数十騎の人がひそやかに通行している夢だ。主人とおぼしい人物を中心に、声をひそめ、蹄《ひづめ》の音も立てないようにして、しとしとと行くのだ。
「平井《ひらい》の管領《かんれい》殿じゃよ」
ふと、そばで言うものがあった。いつの間に来たのであろう、そばに老人が立っていた。甲冑《かつちゆう》を着、長い白いひげをはやし、上の曲がりくねった長い杖《つえ》をついていた。はっとした時、目がさめた。
遠いところに鶏の声がしている。景虎《かげとら》は暗い天井《てんじよう》をまじまじと見つめていた。
流 水
鎧《よろい》を着、長いひげを生やし、上部の曲がりくねった長い杖《つえ》をついている老人が毘沙門天《びしやもんてん》であることは、いつぞやの夢でわかっている。景虎《かげとら》はその夜の夢を何かの啓示《けいじ》であると信じて疑わなかった。
彼は毘沙門《びしやもん》堂に参詣《さんけい》し、寺僧《じそう》に修法《しゆほう》させ、くわしい啓示《けいじ》を仰いだが、啓示《けいじ》らしいものはまるでなかった。
しかし、啓示《けいじ》であるとの信念は動かなかった。彼は関東《かんとう》に忍びの者を出して、形勢を探索《たんさく》することをおこたらなかった。「砕玉話《さいぎよくわ》」によると、彼の諜者《ちようじや》らは越後《えちご》の産物である蝋燭《ろうそく》・からむし(苧)・塩引き鮭《ざけ》・きはだ(黄蘗・健胃薬《けんいやく》)などをたずさえ、商人に変装して、国々をめぐり歩いたとある。この時の諜者《ちようじや》らも、そうであったろう。
数か月立って、秋になって間もなく、関東《かんとう》の形勢の変化が報告されて来た。
このほど小田原《おだわら》では、また平井進撃《ひらいしんげき》を計画し、味方の豪族《ごうぞく》らに陣支度《じんしたく》を触れ出したところ、管領《かんれい》方の動揺は一方《ひとかた》でない。累代服属《るいだいふくぞく》の豪族《ごうぞく》らで、公然|平井《ひらい》と手を切って小田原《おだわら》へ出仕《しゆつし》をはじめた者も少なくないが、平井《ひらい》との関係はつづけながら内密に小田原《おだわら》へ服属《ふくぞく》を申し送っている者も多数あって、平井《ひらい》城内は人々疑い合って安い心もないありさまであるという。
「可惜《あたら》、名家《めいか》がきのどくなもの。時の勢いはおそろしいものだ」
と、無量《むりよう》の感慨《かんがい》があった。
情報はその後も引きつづきとどいた。それによると、管領《かんれい》方の勢いは流水に投げこまれた土くれのように日にまし崩《くず》れ去りつつあるが、小田原《おだわら》ではなかなか出陣にかからないという。
「なるほど、掛け声ばかりでくずれ去ると見ているのだな」
北条氏康《ほうじよううじやす》という男の知恵のたくましさが感ぜられた。
こうして、天文《てんぶん》二十年が暮れて、新しい年が来た。景虎《かげとら》は二十三になった。
新しい年になって正月半ばの深夜しんしんと雪の降る夜であった。諜者《ちようじや》の一人が帰って来た。侍臣《じしん》にこのことをとりつがれると、景虎《かげとら》は、
「酒を熱うして一ぱい飲ませ、熱い雑炊《ぞうすい》を食わせておけ」
と、さしずしておいて、起き上がった。
適当に時刻を見はからって出かけた。
奥殿《おくどの》の一隅《いちぐう》に、こうした者どもを冬の間に引見《いんけん》するためにしつらえられた場所である。土をたたきかためた土間《どま》に大きな炉《ろ》を切り、いつも山のように火をおこし立て、鑵子《かんす》がしゃんしゃん湯気《ゆげ》を立たせている。
諜者《ちようじや》は中年の男である。身分《みぶん》は低くても武士であるが、いつもこの特殊な任務にばかり服しているので、武士らしいところはどこにもない。諸国をまわり歩く行商人《ぎようしようにん》らしい、やわらかで、そのくせ狡猾《こうかつ》な風貌《ふうぼう》になっていた。酒をふるまわれ、雑炊《ぞうすい》を食べさせられて、いい顔色になって、両手をこすり合わせていた。景虎《かげとら》の入って来たのを見て、床几《しようぎ》からすべりおり、うずくまって、炉《ろ》べりに手をついた。
景虎《かげとら》は向かいあった位置にすえられた床几《しようぎ》に腰をおろした。
「雪の夜道、大儀《たいぎ》であったな」
「はッ」
「聞こう。よほどのことがおこったのであろうな」
「はッ」
うずくまったまま、吃々《きつきつ》として、諜者《ちようじや》の語るところはこうだ。
平井《ひらい》ではますます勢いがおとろえて、今年の新年の賀儀《がぎ》にはわずかに数人の豪族《ごうぞく》しか伺候《しこう》しなかった。これではその全動員力をもってしても騎士《うまのり》五百、歩《かち》二千くらいしか集めることはできない。おとろえつつあることは知っていたが、かほどまでとはだれも予想しなかった。今さらのように管領《かんれい》をはじめ重臣《じゆうしん》らはおどろきあわてた。管領《かんれい》家譜代《ふだい》の臣《しん》としてはまだ上州箕輪《じようしゆうみのわ》に長野業正《ながのなりまさ》がおり、武蔵岩槻《むさしいわつき》に太田三楽入道資正《おおたさんらくにゆうどうすけまさ》がいて、志を変ぜず、またなかなかの勇将ではあったが、朝日の昇る小田原《おだわら》の勢いにくらべては微弱《びじやく》なものであった。平井《ひらい》城内では新年というのに日夜に評定《ひようじよう》が行われたところ、重臣《じゆうしん》の一人|曾我兵庫《そがひようご》がこう発議した。
「当家に縁故《えんこ》ある近国の大名らを吟味《ぎんみ》してみますに、近ごろ武名のもっとも高いは越後《えちご》春日山《かすがやま》の長尾景虎《ながおかげとら》であります。元来、長尾《ながお》家は当家|譜代《ふだい》の家老の家柄《いえがら》でありますれば、お恃《たの》みあってはいかがでありましょうか」
賛成する者がある一方、反対する者もある。
「いやいや、それはよろしくござるまい。いかにも、長尾《ながお》家は当家の家老の家柄《いえがら》ではござるが、今の景虎《かげとら》の父|信濃守為景《しなののかみためかげ》の代に当家と鉾楯《むじゆん》のなかとなり、直接の主《しゆう》である越後守護房能《えちごしゆごふさよし》殿を弑《しい》したばかりか、その兄君《あにぎみ》で先々代《せんせんだい》の管領《かんれい》であられた顕定君《あきさだぎみ》をも弑《しい》しまつっています。重ね重ねの怨敵《おんてき》であります。頼みにすべきではござるまい」
もみ合って数日決しなかったが、ついに憲政《のりまさ》が裁断を下して、
「長尾《ながお》家は重畳《ちようじよう》の怨恨《えんこん》ある家ではあるが、もとを正せば家来筋《けらいすじ》である。その上、聞くところによれば、当|景虎《かげとら》は弱年《じやくねん》ながら武略抜群《ぶりやくばつぐん》であるのみならず、仏神にたいする信仰が厚いと聞く。およそ仏神に信仰厚き者にして不義の者は少ない。余儀《よぎ》なく頼み入るならば、よも拒《こば》みはすまい。おれが心は決した」
といったというのだ。
景虎《かげとら》は去年の夢を思い出して、やはりあれは雑夢《ざつむ》ではなかった、まさしき啓示《けいじ》であったと、おごそかなものに胸が引きしまった。
「それで、お使者でもつかわされるというのか」
「お使者どころではございません。管領《かんれい》様おんみずから見えるのでございます。すでに、この十日の深夜、同勢五十人にて平井《ひらい》をご出立《しゆつたつ》になったのでございます。早くば明後日、遅《おそ》くもその翌日ごろには当地にご到着でございましょう」
さすがに景虎《かげとら》はおどろいた。いっそう胸の高まるのを覚えた。
来たら、依頼にまかせて関東《かんとう》に出兵し、北条《ほうじよう》氏と勝敗を決しようとの覚悟は即座《そくざ》にきまった。
北条《ほうじよう》氏がなり上がりものながら、三代のたゆまない経営によって、関東《かんとう》一の大大名《だいだいみよう》になっていることは十分に知っている。国富み兵強く、小田原《おだわら》城は天下の名城といわれるほどに宏大堅牢《こうだいけんろう》なものであり、その城下町の繁栄は京《みやこ》の四条五条《しじようごじよう》にもまさるほどであり、関東《かんとう》では髪のゆい方、着物の着方、刀のさしようまで、「小田原様《おだわらよう》」とて、人々が真似《まね》するほどであるとの評判も聞いている。つまり関東《かんとう》一の覇者《はしや》なのだ。これほどの敵と勝負を挑《いど》み決することは、男子として快心のことであった。冒険であることは言うまでもないが、それだけに熱い血の湧《わ》き立ってくる気持ちであった。ましてや、これは毘沙門天《びしやもんてん》から啓示《けいじ》のあったことだ。やらねばならぬことであった。
「大儀《たいぎ》であった。さがって休むよう」
ねぎらって、引きとらせた。
寝室にかえったが、しばらくは眠りを結ぶことができなかった。りんりんとして高鳴るものが胸にあって、じっとしていられない。寝床《ねどこ》の上に起き上がり、灯《ひ》をかき立て、枕刀《まくらがたな》をぬきはなった。匂《にお》い出来はなやかな丁子《ちようじ》乱れの刃紋《はもん》は、はばきもとから切先《きつさき》まで霜《しも》を凝《こ》らしてすみとおっている。なめるようにして見つめた。二尺五寸五分、長船《おさふね》の住長光《じゆうながみつ》だ。小柄《こがら》なからだに似ず、彼はこの長い刀を愛用した。冴《さ》えた刃風《はかぜ》を立てて十回ほど振って、ぱちりとおさめた。
薄く汗ばんで、いい気持ちであった。一気にぐっすりと深い眠りに入った。
雪は翌日はやんで、よく晴れたあたたかい日になった。日課にしている鉄砲の稽古《けいこ》をおわって、昼食をとっていると、上田《うえだ》の房景《ふさかげ》から急使が来た。房景《ふさかげ》の手紙をたずさえていた。
(本日、上州平井《じようしゆうひらい》の御所《ごしよ》がお見えになった。貴殿《きでん》にご依頼の筋《すじ》があって、貴城《きじよう》へまいられる途中であるとの仰《おお》せである。一両日当城でご休息あらせられてから貴地《きち》へ向かわせられるご予定とうけたまわる。とにかくも急ぎお知らせすることかくの如《ごと》し。なお、貴地《きち》へは政景《まさかげ》にお供をさせて向かわせることにするが、ご出立《しゆつたつ》の際にはまた急使をまいらせるであろう)
という文面であった。日付《ひづけ》は二日前になっていた。
使者は、憲政《のりまさ》の従者は、騎士《うまのり》・歩立《かちだ》ちあわせて五十余人であると語った。
景虎《かげとら》はねぎらって一夜とめ、引き出ものをあたえ、つつしんでお待ちしているとの返事をわたしてかえした。
その翌日、また房景《ふさかげ》の使者が来た。本日|政景《まさかげ》お供にて出立《しゆつたつ》された。三日の後には貴地《きち》に到着されるであろうという口上《こうじよう》。
迎える宿所は二の丸にすでに用意してある。景虎《かげとら》はなおさまざまな用意をととのえさせた。
到着予定の日は雪であった。真冬《まふゆ》のような乾いた雪が降ったりやんだりしていたが、景虎《かげとら》は早朝に城を出て、五十公野《いきみの》まで出、村の寺に接待の支度《したく》をして待ち受けた。
一行《いつこう》は昼少し前についた。おりしもひときわはげしく雪がふりしきって、人も、馬も、つかれきって到着した。
上杉憲政《うえすぎのりまさ》はこの時三十歳になったばかりのはずであるが、ひどく老《ふ》けて見えた。近ごろでは極度に家運《かうん》が傾いたのでつつしんでいるが、数年前までは常習的の大酒《たいしゆ》である上に、女色《じよしよく》・男色《だんしよく》ともに好きで、放縦《ほうじゆう》をきわめていたためかもしれない。政景《まさかげ》が披露《ひろう》して、景虎《かげとら》は目通りした。
用意の昼食を献じてしばらく休んだ後、景虎《かげとら》が先導し、春日山《かすがやま》に向かった。
その夜は歓迎の酒宴《しゆえん》だけにして、改まっての話は明日のことと心組みしていたが、春日山《かすがやま》について、二の丸の宿所に入るとすぐ、憲政《のりまさ》は、
「わしがどんな用件で来たか、それをまず申したい。それがきまらねば、わしも心がおちつかぬが、そなたも不安であろう」
と言い出した。
せかせかと、いかにも不安げな態度だ。放縦《ほうじゆう》で、暴悪《ぼうあく》ですらあるという風評《ふうひよう》を聞いていたので、この落ち着きのなさは意外であった。苦労知らずに育って鍛練《たんれん》がないだけに、今のように運命が傾くと、名家《めいか》の人としての意地も張りもなくなったのだと判断された。
「一両日たって、改めてのことと考えていましたが、さらばうけたまわることにいたします」
と答えた。
「よし、聞いてくれい。わしは平井《ひらい》を落ちて来たのだ。よいか、このままではふたたび平井《ひらい》にかえらぬ覚悟で出て来たのだ」
なぜか、憲政《のりまさ》はりきんでいう。自慢話《じまんばなし》をしているようにも、平井《ひらい》を落ちて来たのがこちらの責任であるというようにも、思えるような言いぶりだ。妙《みよう》なお人だ、およその器量が知れると思いながらも、ことばの意味にはおどろかされた。これもこちらを説得《せつとく》するためのかけ引きであろうと思ったが、一応おどろいた顔をこしらえて問いかえした。
「思いもかけぬおことばをうけたまわります。いったいいかがあそばしたのでありましょうか」
「よく聞いてくれた!」
と、憲政《のりまさ》は膝《ひざ》をのり出した。これもこうまで力《りき》むことはないにとおかしかったが、調子を合わせて相手の顔を見つめた。
「知っているな。おれが家が十年この方、小田原《おだわら》の旅牢人《たびろうにん》の孫に負けつづけていることを」
「おきのどくに存じておりました」
とひくい声で景虎《かげとら》が答えると、憲政《のりまさ》ははらはらと涙をこぼした。だしぬけであったので、景虎《かげとら》はおどろいた。滑稽《こつけい》感はあったが、憐愍《れんびん》もあった。
涙をはらいながら憲政《のりまさ》は言いつぐ。
「いくさには負けたくないものじゃ。累年《るいねん》の敗戦に人々の心がゆらいでいる時、去年の春、神流《かんな》川の合戦《かつせん》に敗れたので、士《さむらい》どもの心がちりぢりになり、今はもう戦うにも戦えぬ微弱《びじやく》な力となってしまった。このまま関東《かんとう》にとどまっていても、しょせんは見苦しい最期《さいご》をとげねばならぬ身となった」
憲政《のりまさ》はまた泣いて、ことばをとぎらしたが、突如《とつじよ》として、
「そなたに管領《かんれい》職をゆずる――」
と言った。さけぶような声であった。
景虎《かげとら》は自分の耳を疑った。おどろきもされない。ただ、相手を見つめた。憲政《のりまさ》は追い立てられるようにつづける。
「上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》もゆずる。永享《えいきよう》の乱《らん》の時朝廷から下し給うた錦《にしき》のみ旗も、関東管領《かんとうかんれい》職補任《ふにん》の綸旨《りんじ》も、系図《けいず》も、家に伝うる太刀《たち》・脇差《わきざし》も、竹に雀《すずめ》の幔幕《まんまく》も、みんなそなたにゆずる。関東《かんとう》に討って出て、北条《ほうじよう》をほろぼし、わしが恥辱《ちじよく》を雪《すす》いでくれい。わしには上州《じようしゆう》一国をくれれば満足だ。引き受けてくれい! 頼む。この通りだ」
憲政《のりまさ》は両手を合わせていた。青ざめた頬《ほお》を涙が伝っていた。
思いもかけないことであった。ああこのことであったかと、また夢のことが思い出されたが、急には返事できなかった。
「それは……」
とだけ言った。
ことわられると思ったのであろうか、憲政《のりまさ》は立ち上がった。
「今申した重代《じゆうだい》の宝器、みなここへ持って来ている。見せよう」
走るような足どりで、上段の間の一隅《いちぐう》に進んだ。ここには彼が下人《げにん》らに舁《か》かして来た唐櫃《からびつ》がすえられている。それがきわめて鄭重《ていちよう》にあつかわれて、ここに舁《か》きこまれて来たことを、景虎《かげとら》は見ている。しかし、そんな貴重《きちよう》なものが入れられているとは思いおよばなかった。
「さあ、見るがよい」
ふたをはねて、両手で取り出して見せた。まず青貝ずりの黒い箱に入った綸旨《りんじ》だ。次に錦《にしき》のみ旗だ。次に系図《けいず》だ。いずれも箱に入っている。次に太刀《たち》と脇差《わきざし》だ。これは錦《にしき》の袋に入っていた。一つ一つほうり出すようにならべた。最後に幔幕《まんまく》をつかみ出し、両手でひろげて見せた。そうしなければ景虎《かげとら》がいやと言いはしないかと心配しているようなあわただしさであった。辻《つじ》に立って行人《こうじん》を集めてせり売りしている旅《たび》商人《あきんど》めいても見えた。
「どうだ。わしはいつわりは言わぬぞ。わしは決心して来たのだ!」
憲政《のりまさ》は言った。熱し切った語気であった。
「みなおそれ多いばかりに貴《とうと》い品々でございます。ひとまずおしまい願いとうございます」
と、景虎《かげとら》は言った。毘沙門天《びしやもんてん》の啓示《けいじ》はたしかなものであったというおごそかな感慨《かんがい》はあったが、あまりにも憲政《のりまさ》のふるまいが軽佻《けいちよう》であったからであろうか、景虎《かげとら》は急にはその言うところに乗って行けなかった。気が重かった。
「数ならぬ身をそれほどまでに、思《おぼ》し召《め》し給いますこと、恐縮しごくでございますが……」
と、ここまで言ってきて、景虎《かげとら》は自分がことわりかけているのに気づいて、はっとした。これは啓示《けいじ》なのだ、謝絶してはならないと思った。言いついだ。
「累代《るいだい》の主家《しゆか》の仰《おお》せでございますれば、身のおよぶかぎりの秘計をめぐらし、おん敵を退治して、ご安堵《あんど》をなしまいらせるでございましょう。しかしながら、ただいま仰《おお》せられました、お家の名跡《みようせき》相続と管領《かんれい》職のことはともに家の面目《めんぼく》ではありますが、いずれも京《みやこ》の公方《くぼう》家の台命《たいめい》なくして私《わたくし》のはからいははばかりがございます。公方《くぼう》家のおゆるしもこうぶり、おん敵に一塩《ひとしお》つける働きもしました上で、仰《おお》せに従いたいと存じます」
ことわられはしないかと、はらはらしているようであった憲政《のりまさ》は明るい顔になった。
「礼をわきまえたあいさつ、感じ入ったぞ。上杉《うえすぎ》の氏《うじ》はわしが家のものであり、管領《かんれい》職はわしが家|世襲《せしゆう》のもの、いずれもわしの勝手にしてよいものとは思うが、そなたの気がすまずば、そういたしてもよい。しかし、ことわるつもりではあるまいな」
「決して、決して」
「おお、そうか。では話はきまった。めでたい、めでたい、めでたいな」
憲政《のりまさ》は浮き立ったが、ふとまた不安になったらしく、
「上州《じようしゆう》一国はわしの領分にしてくれるの。忘れるでないぞ」
と念をおした。
「決して忘れませぬ」
と答えながら、景虎《かげとら》はこの人はおれがことわったら、この話を他に持って行くだろう。とうてい管領《かんれい》職を保ち得る人ではないと思った。また軽侮《けいぶ》感と憐愍《れんびん》とが同時におこった。
こうして、憲政《のりまさ》はずっと春日山《かすがやま》城の二の丸にとどまることになった。景虎《かげとら》は三百|貫《かん》の領地を寄せて、主従の食費としたと、関八州《かんはつしゆう》古戦録は伝える。
関東管領上杉憲政《かんとうかんれいうえすぎのりまさ》が小田原北条《おだわらほうじよう》氏の圧迫にたえきれず、関東《かんとう》をおち、景虎《かげとら》をたよって越後《えちご》に来てから五か月目、景虎《かげとら》は弾正小弼《だんじようしようひつ》に任ぜられ、従五位下《じゆごいのげ》に叙《じよ》せられた。
この官位は春日山長尾《かすがやまながお》家の格式《かくしき》で、彼の兄|晴景《はるかげ》もこの官位であったのだ。しかしながら、家の格式《かくしき》とはいっても、この時代はこうした官位はベつだん朝廷に功績《こうせき》があったので授けられるのではなく、朝廷に献金《けんきん》することによって得られ、それが朝廷のもっとも重要な財源になっていた。つまり、献金《けんきん》したことが功績《こうせき》というわけだ。
この少し前から、景虎《かげとら》は音曲《おんぎよく》の稽古《けいこ》をはじめた。師匠は上杉憲政《うえすぎのりまさ》であった。
憲政《のりまさ》は武将としてはなんのとりえのない人物であったが、名家《めいか》に生《お》い育っただけに、風雅《ふうが》の嗜《たしな》みはありすぎるほどあった。和歌《わか》を詠《よ》み、連歌《れんが》をたしなみ、蹴鞠《けまり》に達し、琵琶《びわ》・横笛《よこぶえ》・尺八《しやくはち》・小鼓《こつづみ》等の音曲《おんぎよく》にも通じ、つまり、この時代の家格《かかく》の高い斜陽武家《しやようぶけ》らしく、公家《くげ》的教養はのこるところなく持っていたのである。
景虎《かげとら》に関東《かんとう》回復を頼みこみ、引き受けてもらい、鄭重《ていちよう》な待遇《たいぐう》を受ける身となると、大船《おおぶね》に乗った気になり、かねて嗜《たしな》む音曲《おんぎよく》などを奏して、いとものんびりとした日を送りはじめたが、無聊《ぶりよう》にたえられなくなったのだろう、景虎《かげとら》に何か教えようと言い出した。
「武士は戦《いく》ささえ強ければよいようなものじゃが、風雅《ふうが》のたしなみがあればなおよい。そなたはいずれは関東管領《かんとうかんれい》となる者じゃ。上洛《じようらく》して公方《くぼう》家や天子のお目通りに出ることもあろうが、その際、風雅《ふうが》の嗜《たしな》みがあれば、武辺《ぶへん》もいっそうかがやくというものじゃ。何ぞ嗜《たしな》むがよい。教えてつかわそう。いったい芸ごとというものは、少年のころからはじめるべきで、中年からはじめたのでは、いくら上手《じようず》になっても、どことなく武骨《ぶこつ》なかげがあって、垢《あか》ぬけせんものじゃが、そなたの年ごろならまだいける。はじめるがよい。教えてつかわす」
公家《くげ》的教養を必要とは思わないが、詩も和歌もきらいではない。詩興《しきよう》が至れば、今でも作っている。ことばや句法の不適当なところは、林泉寺《りんせんじ》の坊さんに頼んで直してもらっている。かならずしも巧をもとめない。心持ちが出さえすれば、それでよいと思うのだ。だから、今さら憲政《のりまさ》などに教えてもらおうとは思わないが、音曲《おんぎよく》には大いに意がかたむいた。これは以前からやりたいと思っていることであったのが、このごろはいっそうそうなっている。
この数年来のことだが、ときどき彼はおそろしい憂鬱《ゆううつ》感におそわれる。何もかもが空《むな》しく、何もかもがつまらなくなるのだ。なぜというとりとめた理由はないのに、その期間はかねてはあれほど心の昂揚《こうよう》する戦争のことも、領内の政治《しおき》のことも、信仰のことにも、何の感興《かんきよう》もなくなる。
(こんなことをして何になるのだ。いずれは数十年の後にはおれは死ななければならないのだ。おれがどれほど武勲《ぶくん》を立てても、善政《ぜんせい》をしいても、やがて人は忘れてしまうであろう。いやいや、永く人の記憶にのこり、追慕《ついぼ》されようとも、おれにとってなんのかかわりがあろう。おれはそれを知ることも、感ずることもできない、むなしいものとなっているのだ)
という思念が、陰湿《いんしつ》な雨雲のように胸を蔽《おお》うて、どんよりと動かないのだ。死んでしまいたくなるのはいつものことだ。実際、いくど短刀《さすが》をぬいて、冴《さ》えた切先《きつさき》を見つめたか知れない。
たいてい数日でこの不思議な気持ちは去るが、その間が実に苦しい。この期間は酒ものまない。いくら飲んでも心はほぐれず、重苦《おもくる》しい酔いばかりが深くなり、翌日はいっそう憂鬱《ゆううつ》になるからだ。
こんな時、よく思い出すのは、琵琶島《びわじま》城で聞いた乃美《なみ》の笛の音《ね》であった。月夜の空をわたって来た軽快な曲調がありありと思い浮かんで、おれもなにか音曲《おんぎよく》ができれば、こんな時は助かるのだが、と思うのであった。
「音曲《おんぎよく》をなんなりとも教えていただきとうございます」
と、景虎《かげとら》は言った。
「やるか。何でも教えるぞ。おれが知っているものは、すべて伝授《でんじゆ》する。まず琵琶《びわ》がよかろう。おれがもっとも得意《とくい》とするものじゃから」
と、憲政《のりまさ》は大満悦《だいまんえつ》であった。武将としては何もかもこの若年者《じやくねんもの》におとっているばかりでなく、生活まで見てもらっている身として、自分の長技をもって上位に立つのがうれしいのであった。
憲政《のりまさ》は数面の琵琶《びわ》をたずさえて来ていた。その一面を景虎《かげとら》にくれた。
「これは銘《めい》を慈童《じどう》と申して、いつのころからかわが家に伝来したものだ。進ぜるゆえ、長くかわいがってもらいたい」
と言って、みずからは「凩《こがらし》」というのをかかえて、その日から教えにかかった。
はじめのうちはずいぶんむずかしかったが、一月《ひとつき》ほどの後、ふとさとるところがあると、すらすらとのみこめてきた。
「やあ、これは張り合いがある。そなたには天分《てんぶん》があるぞ。普通《ふつう》の者はそうはいかぬものだ」
と、憲政《のりまさ》はほめて、教授にもひとしお精《せい》を入れた。
このほめことばを、景虎《かげとら》はお世辞《せじ》とは聞かなかった。われながらさとりがよいと思っていたのだ。久しく心がひかれていたのは、このためだったとも思った。ともかくも、はげみが出て、政務《せいむ》のひまには練習した。憲政《のりまさ》のところへ行って練習する以外に、ひとり稽古《げいこ》にもはげんだ。
一応|琵琶《びわ》がひけるようになると、憲政《のりまさ》は笛にかかった。音曲《おんぎよく》になれたせいであろう、これは琵琶《びわ》のときよりのみこみが早かった。
「うまい、うまい」
憲政《のりまさ》は有頂天《うちようてん》なくらい上機嫌《じようきげん》になって、こんどは小鼓《こつづみ》を教えにかかった。これにも、上達が速かった。
音曲《おんぎよく》の効果はあざやかであった。二、三か月目ごとにはおそってきていた憂鬱《ゆううつ》であったのに、その後はそれがなくなったのだ。音曲《おんぎよく》によってまぎれるのではなく、熱心な稽古《けいこ》によってまぎれるのかもしれないが、効果は効果だ。よいことをはじめたと思った。
景虎《かげとら》は憲政《のりまさ》との約束を忘れてはいなかった。たえず諜者《ちようじや》をつかわして関東《かんとう》の形勢を偵察《ていさつ》させて情報を集めたり、関東《かんとう》への軍道をひらかせたりして、おこたりはなかったが、機会が熟せず、その年は音曲《おんぎよく》の稽古《けいこ》だけで暮れた。
明くれば天文《てんぶん》二十二年だ。
その二月十日、晴景《はるかげ》が死んだ。
家督《かとく》を景虎《かげとら》にゆずりわたした後、晴景《はるかげ》は府中《ふちゆう》に館《やかた》づくりしてもらって、のんきな余生《よせい》を送っていたが、正月末に引きこんだ風邪《かぜ》をこじらせ、ほんの十日あまりの病気で死んだのであった。
危篤《きとく》であるとの知らせで、景虎《かげとら》がかけつけた時、晴景《はるかげ》はもう意識がなくなっていたが、しばらくして正気《しようき》にかえった。景虎《かげとら》を凝視《ぎようし》しつづけ、ふとくちびるをふるわせた。何やらものを言っているようであったので、耳をよせると、声は、
「……申しわけなかった。わしをゆるしてくれい……」
と聞こえた。生涯《しようがい》つれなくばかりあたって、兄らしいあたたかいあしらいを一度もしなかったことをわびたのであろうと思われた。しわだらけな頬《ほお》に涙が光っていた。
景虎《かげとら》の胸は熱くなった。兄の手をつかんで、にぎりしめてやった。晴景《はるかげ》にはもうにぎり返す力はなく、ただほほえもうとするように口もとをゆがめたが、それはほほえみにならず、また目を閉じた。意識がなくなっていくようであったが、かすかに口がうごいて、また何やら言っているようであった。耳を近づけると、
(……お藤《ふじ》よ。これ、お藤《ふじ》よ。そなたどこへ行って……)
と聞かれて、切れた。
呼吸《いき》がたえていた。晴景《はるかげ》の言ったことは、景虎《かげとら》をひどくおどろかせた。男女の愛欲というものの強さ、おそろしさ、気味悪《きみわる》さ、なんとなき不潔《ふけつ》さが、一時に胸をおおうてきた。
(この人はまだあの女を思っていたのか。自分を捨てて行った女を……)
いきどおろしさに似たものがあった。兄の顔を凝視《ぎようし》していた。よごれたひげの生えた口が少しあいて、黄色い歯ののぞいている顔がしだいに無心なものになり、つかんでいる手がつめたくなってきた。
思いもかけなかったほどの悲しみが、どっと胸にあふれ、涙がこぼれてきた。
遺骸《いがい》は数日の後、林泉寺《りんせんじ》に葬《ほうむ》った。法名千巌寺殿華嶽大禅定門《ほうみようせんがんじでんかがくだいぜんじようもん》。
兄を葬送《おく》った翌々月、信州《しんしゆう》方面に出しておいた諜者《ちようじや》が馳《は》せかえって来て、容易ならない情勢の変化を報告した。武田晴信《たけだはるのぶ》が北信州《きたしんしゆう》の村上義清《むらかみよしきよ》の最後の拠点《きよてん》である埴科《はにしな》郡の葛尾《かつらお》城を攻撃すべく甲府《こうふ》を出発したというのだ。
村上義清《むらかみよしきよ》は北信州《きたしんしゆう》第一の豪雄《ごうゆう》だ。村上《むらかみ》がどうやら健在であるために、高梨《たかなし》・井上《いのうえ》・島津《しまづ》・須田《すだ》・栗田《くりた》らの信州《しんしゆう》の諸豪族《しよごうぞく》らも、どうやら武田《たけだ》氏の侵攻《しんこう》をささえているが、もし村上《むらかみ》が亡滅《ぼうめつ》するようなことがあっては、諸豪《しよごう》は総くずれになり、北信《ほくしん》地方は即座《そくざ》に武田《たけだ》の有《ゆう》に帰するにきまっている。北信《ほくしん》が武田《たけだ》の有《ゆう》になれば、越後《えちご》は武田《たけだ》勢力と直接に肌《はだ》を接することになるのだ。
「油断《ゆだん》なく見はって、少しでも変わったことがあったら、すぐに注進《ちゆうしん》せい」
景虎《かげとら》はさらに多数の諜者《ちようじや》を送った。
裏富士《うらふじ》の見える山路で見た晴信《はるのぶ》の姿、さては可憐《かれん》な諏訪《すわ》ご料人《りようにん》の姿をありありと思い出していた。指おり数えれば、すでに九年の昔であった。
村上《むらかみ》氏と武田《たけだ》氏のせり合いは、六年前の天文《てんぶん》十六年にはじまる。天文《てんぶん》十三年に諏訪《すわ》氏をほろぼして諏訪《すわ》郡を切り取った晴信《はるのぶ》は、この年までに伊那《いな》郡の北半を征服し、鋒《ほこさき》を北に転じたが、その最初の餌食《えじき》になったのが、村上《むらかみ》氏の属城の一つである佐久《さく》の志賀《しが》城であった。
村上《むらかみ》氏は代々|埴科《はにしな》郡|坂木《さかき》(今の坂城《さかき》)の葛尾《かつらお》城におり、その所領《しよりよう》は信州《しんしゆう》に四郡、越後《えちご》に二郡、合して六郡あって、小豪族割拠《しようごうぞくかつきよ》の信州《しんしゆう》では第一の豪族《ごうぞく》であったばかりか、当主の義清《よしきよ》がなかなかの猛将《もうしよう》であったので、北信《ほくしん》の豪族《ごうぞく》らの旗がしら的存在であった。志賀《しが》城はこの村上《むらかみ》氏の小県《ちいさがた》・佐久《さく》方面の経略基地であったのだが、それを奪われたので、この地方の豪族《ごうぞく》らは村上《むらかみ》氏にそむいて武田《たけだ》氏の旗風になびいた。
「おれが武田《たけだ》に何をしたというのだ。大欲心の非道者《ひどうもの》め!」
義清《よしきよ》は激怒《げきど》し、しばしば武田《たけだ》氏に抗戦した。
たがいに勝敗があったが、それでも武田《たけだ》氏はしだいに村上《むらかみ》方を圧迫《あつぱく》し、翌年の天文《てんぶん》十七年二月には、義清《よしきよ》と決戦すべく、板垣信形《いたがきのぶかた》・飫富兵部《おおひようぶ》・小山田信有《おやまだのぶあり》・同|昌辰《しようしん》・内藤豊昌《ないとうほうしよう》・馬場信勝《ばばのぶかつ》・諸角虎定《もろずみとらさだ》・栗原《くりはら》左衛門佐《さえもんのすけ》・原昌俊《はらしようしゆん》・真田幸隆《さなだゆきたか》・浅利信音《あさりのぶね》らの腹心《ふくしん》の諸将のほとんど全部をひきいて、大門峠《だいもんとうげ》をこえて依田窪《よだくぼ》に出、砂原峠《すなわらとうげ》から塩田《しおだ》に進出し、倉升山《くらますやま》の麓《ふもと》に陣を張った。必勝を期したのであった。これにたいして、義清《よしきよ》は、信州《しんしゆう》中部以北の豪族《ごうぞく》を糾合《きゆうごう》して打って出た。
武田《たけだ》勢の先陣《せんじん》は板垣信形《いたがきのぶかた》であった。いずれも卓抜《たくばつ》な戦《いく》さ上手《じようず》ぞろいの武田《たけだ》勢の諸将の中で、板垣《いたがき》はもっとも老練な武将だ。麾下《きか》にも勇士をそろえている。決死の信州《しんしゆう》勢もあたりがたく、たちまち二陣まで追いくずされた。
板垣《いたがき》は器用に人数をまとめて陣をかためたが、運命の尽きる時、人はかねての人がらに似ず不覚《ふかく》なことをすることがよくある。板垣《いたがき》ほどの名将が、勝利に心おごったのか、陣表《じんおもて》で将士らの討ち取った首実検《くびじつけん》をはじめたのだ。彼の陣は敵を破り、相当追撃してから停止した位置にあるので、味方の諸陣をかなりに離れている。もし、敵が不意に逆襲して来たら、味方の救援は間に合わないおそれがあったのだが、板垣《いたがき》にはその注意がはたらかなかったらしい。ゆうゆうとして事をおこなっていた。
物見《ものみ》を出してこれを知った信州《しんしゆう》勢は、一手《いつて》の勢《せい》の旗を伏せ、物音をひそめて物陰《ものかげ》を迂回《うかい》し、不意に立ちあらわれて襲った。
板垣《いたがき》はおどろきながらも、素速《すばや》く隊を指揮して防戦にかかったが、最初の立ちおくれは最後までついてまわった。みずから槍《やり》をとって奮戦したし、諸隊も救おうとつとめたが、間に合わない。ついに討ち取られてしまった。
激戦がはじまった。信州《しんしゆう》勢は武田《たけだ》家|筆頭《ひつとう》の将|板垣《いたがき》を討ち取り、緒戦《しよせん》の恥を雪《そそ》いだので、意気大いにあがったが、百戦練磨《ひやくせんれんま》の武田《たけだ》勢だ、数も多い、苦しい戦いになった。
義清《よしきよ》は居城《きよじよう》を出て来た時から、胸に秘策《ひさく》を抱《いだ》いている。混戦に陥《おちい》ったと見て、決行にかかった。一人に矢五|筋《すじ》入った竹えびらを背負わせた百人の弓足軽《ゆみあしがる》を前に立て、穂長《ほなが》の槍《やり》を持たせた百人の武士を、おのれの馬の左右に立て、すさまじい喊声《かんせい》とともに突撃にうつった。味方の諸勢の苦戦にはいっさいかまわない。ただ、まっしぐらに晴信《はるのぶ》の本陣を目がけて突進した。
義清《よしきよ》はかねて弓足軽《ゆみあしがる》らに、
「決して迂闊《うかつ》に矢を放つな。矢つがえして引きかためて進み、敵が七尺の距離に近づくのを待って切って放せ」
と言いつけている。
武田《たけだ》勢は村上《むらかみ》勢をさえぎりとめようと、先を争って殺到《さつとう》して来たが、この奇計《きけい》にかかって風にはらわれたようにたおれ、のこる勢《せい》はあっと尻《しり》ごみした。透《す》かさず槍《やり》隊がつけ入り、無二無三《むにむさん》に突き立てて突きくずす。
「あっぱれ、者ども! この図《ず》をはずすな! 敵は色めきさわいでいるぞ! それ行け! それ行け!」
義清《よしきよ》はこの時四十八という年であったが、鍛練《たんれん》のきいているからだは少しもおとろえを見せない。紺糸《こんいと》おどしの鎧《よろい》に鍬形《くわがた》打った冑《かぶと》を着、燃ゆるばかりに紅《あか》い房《ふさ》のついた胸《むな》がい尻《しり》がいをかけた鹿毛《かげ》の馬にまたがり、声をかぎりに叫《さけ》び立てながら突き進んだ。ついに目ざす晴信《はるのぶ》の本陣に突入《とつにゆう》した。
百戦の功を経ている晴信麾下《はるのぶきか》の勇士らも、生死知らずにまっしぐらに突入《とつにゆう》して来る村上《むらかみ》勢の猛進《もうしん》には、さすがにたじろいだ。
晴信《はるのぶ》は卯《う》の花おどしの鎧《よろい》に白い|※牛《からうし》の毛を背にふりかけた、俗に諏訪法性《すわほつしよう》の冑《かぶと》といわれている冑《かぶと》を着、墨《すみ》をすり流したかと思うばかりの黒馬に緋《ひ》の胸《むな》がい尻《しり》がいをかけて打ち乗っていた。
「退《ひ》くな! こらえろ、こらえろ!」
と、声をからして制止していたが、とたんに、どっとおめいて村上《むらかみ》勢が乗りかけて来たかと思うと、大将|義清《よしきよ》がもう目の前に迫っていた。
「おのれ、晴信《はるのぶ》か!」
とののしり、刀をふりかざして馬をおどらせた。
「心得《こころえ》た! 義清《よしきよ》かッ!」
晴信《はるのぶ》も刀を抜きかざして馬を駆けよせた。
馳《は》せちがいざまに両人同時に斬《き》りつけたが、共に刀がとどかない。たがいに刀が流れた。乗りかえして、また斬《き》りおろしたが、これはたがいに敵の鎧《よろい》の袖《そで》をわずかに斬《き》り飛ばしたにすぎなかった。三|太刀《たち》目は刀と刀とが打ち合って、鏘然《しようぜん》と音が立った。四度目に近づいた時、晴信《はるのぶ》の馬はにわかにものにおどろいて、たてがみを振りざま、横にそれ、一足《いつそく》とびに三|間《げん》ばかりもとびのいた。
「きたなし! 逃げるか!」
義清《よしきよ》はかっと怒り、追おうとした時、横合いから馬をあおって立ちふさがろうとした武田《たけだ》氏の武者《むしや》があったが、間に合わぬと見て、
「推参《すいさん》!」
とさけびざま、槍《やり》をひねって、義清《よしきよ》の馬の平首《ひらくび》を突いた。
急所の痛手《いたで》だ。義清《よしきよ》の馬は屏風《びようぶ》をたおすように横だおしになり、義清《よしきよ》は真っさかさまに落馬《らくば》し、どうと大地にたたきつけられた。
「したりや!」
晴信《はるのぶ》の馬廻《うままわ》りの武士らは八方から走り集まり、義清《よしきよ》に襲いかかった。義清《よしきよ》がやっと半身をおこし、刀を車輪にまわしながら防戦しているところに、村上《むらかみ》勢が十五、六騎駆けつけ、馬を乗り放ち乗り放ち、おり立って、主人を救った。
この戦いを塩田原《しおだわら》の戦いといい、ついにものわかれとなったのだが、宿将|板垣《いたがき》を討ち取っているだけに、どちらかといえば、信州《しんしゆう》勢の歩《ぶ》のよい戦いであった。
甲州《こうしゆう》勢の武威《ぶい》にすくんでいた信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らは奮い立った。まず立ち上がったのは筑摩《ちくま》郡|深志《ふかし》(今の松本《まつもと》)の小笠原長時《おがさわらながとき》だ。村上《むらかみ》・仁科《にしな》・藤沢《ふじさわ》らの諸氏と同盟《どうめい》して、塩尻峠《しおじりとうげ》をこえて下諏訪《しもすわ》に侵入すること両度におよんだ。両度とも撃退されはしたが、こんどは諏訪《すわ》郡内の豪族《ごうぞく》らが蜂起《ほうき》したばかりか、動揺は全|信州《しんしゆう》にひろがり、六年間にわたる晴信《はるのぶ》の信州《しんしゆう》経営の成果は土崩瓦解《どほうがかい》する形勢になった。
「猶予《ゆうよ》はできぬ!」
きびしい決意をもって、晴信《はるのぶ》は七千の兵をひきいて甲府《こうふ》を出、下諏訪《しもすわ》に入って郡内の地侍《じざむらい》を圧服《あつぷく》し、鋒《ほこ》を筑摩《ちくま》郡に向けた。
小笠原長時《おがさわらながとき》は塩尻峠《しおじりとうげ》で防いだが、敗れて、今の松本《まつもと》市の南方|奈良井《ならい》川の西方|桔梗《ききよう》ガ原《はら》に退《ひ》いたが、追撃して来る武田《たけだ》勢にまた敗れ、とうとう居城《きよじよう》にもとどまることができず、埴科《はにしな》郡にのがれ、村上義清《むらかみよしきよ》に頼った。
雨降って地かたまるだ。晴信《はるのぶ》の勢力は筑摩《ちくま》・安曇《あずみ》両郡にのび、その大半を領有《りようゆう》することになり、今や信州《しんしゆう》は南信《なんしん》の伊那《いな》郡の南部と、北信《ほくしん》地方をのぞくほかは全部彼の有《ゆう》となった。
北信《ほくしん》の反|武田《たけだ》勢力の中心である村上義清《むらかみよしきよ》は、諸豪《しよごう》を糾合《きゆうごう》して、懸命《けんめい》に戦いつつあったが、勢いは日にふるわず、しだいにおしつめられつつあるのであった。
四如《しじよ》の旗
景虎《かげとら》が信州《しんしゆう》へ放った諜者《ちようじや》らはひっきりなしに情報を送った。葛尾《かつらお》城にとりかけた武田《たけだ》勢にたいして、村上義清《むらかみよしきよ》はけなげに防いではいるが、しょせんはもちこたえることはできるまいというのである。
唇《くちびる》が欠ければ歯が寒い道理だ。景虎《かげとら》は上田《うえだ》の政景《まさかげ》に信州《しんしゆう》の形勢を知らせ、至急に中魚沼《なかうおぬま》郡の倉俣《くらまた》まで出て固めるようにさしずし、みずからは三千の兵をひきいて出て中頸城《なかくびき》郡の関山《せきやま》をかためた。中魚沼《なかうおぬま》郡の倉俣《くらまた》以南と、中頸城《なかくびき》郡の関山《せきやま》以南は村上義清《むらかみよしきよ》の所領《しよりよう》なのである。葛尾《かつらお》城を落とした勢いに乗じて、武田《たけだ》勢が越後《えちご》内の村上《むらかみ》領まで攻めてくる公算《こうさん》は大きいのである。戦《いく》さは勢いだ。たやすく村上《むらかみ》領を攻略することができれば、こちらの領内に侵入して来る公算《こうさん》もまた大きい。守りあることを示すことが必要なのである。景虎《かげとら》は寨《とりで》を構築して北国街道《ほつこくかいどう》を切りふさぎ、軍容《ぐんよう》をさかんにして万一に備えた。
数日の後、武田《たけだ》方の猛攻《もうこう》によって葛尾《かつらお》城が落ちたとの報告があった。城兵らはあるいは戦死、あるいは降伏、あるいは逃亡《とうぼう》し、主将|義清《よしきよ》もいずれかへ落ちたというのである。
「あわれに、ついにそうなったか」
景虎《かげとら》はいっそう警戒を厳重にする一方、さらに諜者《ちようじや》をはなって情報を集めたが、それによると、義清《よしきよ》の行くえがまるでわからないので、川中島《かわなかじま》から善光寺《ぜんこうじ》のあたりにかけて、武田《たけだ》勢がしきりに残敵を探索《たんさく》しつつあるという。しかも、武田《たけだ》勢は全然引き上げた者はなく、川中島《かわなかじま》南方の雨《あめ》の宮《みや》・屋代《やしろ》・塩崎《しおざき》のあたりに宿営《しゆくえい》をつづけているという。その宿営《しゆくえい》の様子が、下知《げじ》が行きとどき、整然厳格で、なかなかみごとであるともいう。
はげしく好奇心《こうきしん》をそそるものがあった。
行って、見て来ようと決心した。
すぐ実行にうつした。
諜者《ちようじや》の一人から虚無僧《こむそう》の服装を借りて変装した。よごれたネズミ色の木綿《もめん》の行衣《ぎようえ》、丸ぐけの帯をしめ、わらじ・脚絆《きやはん》、尺八《しやくはち》をたずさえ、笠《かさ》をかぶる。笠《かさ》は今日《こんにち》の形のあの天蓋《てんがい》ではない。普通の編笠《あみがさ》だ。薦《こも》を巻いて背負うた。野宿《のじゆく》や休息のためのものだ。もともと、こも僧の名はこれからおこったのだ。
近侍《きんじ》らはもちろんとめた。供をしたいともいったが、
「ひとりがよい。なまじ多人数だとかえって疑われる」
としりぞけて、関山《せきやま》を出た。
その第一日目だ。関《せき》川のひらく峡谷《きようこく》平野がしだいにせばまって、やがて信《しん》・越《えつ》の国境にかかろうとするあたりに小さな祠《ほこら》がある。何を祀《まつ》ってあるか知らないが、仏神の前を通る時には一曲を奏して供養《くよう》するのが作法になっている。祠《ほこら》の前の庭に入ってしばらく吹きすさび、拝礼してそこを出た時、はるかな向こうから来る数騎の武士の姿が目についた。駆けさせるわけではないが、かなりな早足で来る。直垂《ひたたれ》に綾藺笠《あやいがさ》をかぶって、狩か旅の姿であった。
(当国の者であろうか、信濃《しなの》武士であろうか、それとも武田《たけだ》衆であろうか)
と思いながらも、かまわず行くことにして、尺八《しやくはち》を吹きすさびながら、路のわきをしずかに歩いて行ったが、近づくにつれて、
(はてな?)
と、首をひねった。七、八人にもおよぶ一隊であり、先頭に立ったのが主人らしいのだが、これほどの従者をつれているにしては、歩立《かちだ》ちの小者《こもの》が一人もいないのである。
(これが村上《むらかみ》ではないか)
という考えが閃《ひらめ》いた。こういうカンは、われながら鋭いという自負《じふ》がある。そうにちがいないとまで思った。それでも、尺八《しやくはち》を吹くのはやめずに歩きつづけた。
しだいに近づき、ついに目と鼻の距離になった。
景虎《かげとら》はいっそう路のわきにより、尺八《しやくはち》を吹きやめた。編笠《あみがさ》のふちに手をかけて上げ、先頭の人を仰いだ。四十を半ば以上こしたらしい年ごろであった。笠《かさ》の下の小びんに白いものがまじり、きびしく結んだ口もとに深いしわがきざまれていた。きっとこちらを見た目が、鋭くたけだけしく、にらむようであった。いったいに年に似ず強烈な感じであった。しかし、それも二、三瞬にも足りない間に、行きすぎてしまった。
(たしかに村上《むらかみ》にちがいない)
と確信した。
このあたりは村上《むらかみ》領だ。したがって、敗残の彼が潜伏《せんぷく》しているのは無理はないのだが、それにしてもあぶないことと言わなければならない。川中島《かわなかじま》から善光寺平《ぜんこうじだいら》にかけて探索《たんさく》しているという武田《たけだ》勢は、やがて探索《たんさく》の手をこちらにのばして来るに相違ないのである。
(いつまでかくれおおせるつもりか。それとも、小田原北条《おだわらほうじよう》氏あたりと連絡をとって背後から武田《たけだ》をおびやかし、武田《たけだ》の去るのを待って与党《よとう》を駆りもよおして、回復にかかる策が立っているのであろうか)
と思った。
いずれにしても、武田《たけだ》の軍容《ぐんよう》を一見《いつけん》しておくことは必要と思われた。
翌日の朝、善光寺《ぜんこうじ》についた。
まず善光寺《ぜんこうじ》に参拝して、一曲を献奏《けんそう》した。変装を見破られないためには、定められた虚無僧《こむそう》の作法をふむ必要があったのであるが、それだけではない。元来、神仏にたいする信仰心が厚いのである。
善光寺《ぜんこうじ》を出ると、小具足《こぐそく》に身をかためた十数人の武士の集団に会った。槍《やり》の穂先《ほさき》を初夏の朝の日にきらめかし、いかにも殺伐《さつばつ》なふうではあったが、粛々《しゆくしゆく》として行進して行く。軍規の厳正さがしのばれた。残敵を探索《たんさく》しているのであることは明らかであった。
こうした集団には行くにしたがっていく度も出逢《であ》った。尋問《じんもん》されたこともあったが、べつだんあやしまれはしなかった。年が若く小がらで、一見弱々《いつけんよわよわ》しげに見えるためであったろう。
川中島《かわなかじま》にわたった。犀《さい》川と千曲《ちくま》川とにはさまれたこの広いデルタは、ところどころに村落と林を散らばらせて、三分の一は川原のような原野《げんや》、三分の一は畠作《はたさく》地帯、三分の一は水田《すいでん》地帯となっている。寒気の早く来る地方なので、もう植えつけがすんで、満々と水をたたえた田は淡彩《たんさい》で一はけはいたような薄緑《うすみどり》におおわれていた。
世は戦国であり、武士という武士は合戦《かつせん》にあけくれているのだが、農民らはこうして耕作している。この労働と生産がなければ、世の中全部が飢《う》え、武士の生活もなり立たないから、領主《りようしゆ》らが百姓《ひやくしよう》を鞭撻《べんたつ》して勤労に追い立てるからでもあるが、領主《りようしゆ》の強制だけで働いているわけではあるまい。勤労をよろこびとし、生産を尊しとする気持ちもあるにちがいない。尊い心だ。人間の世の中はこの心にささえられて成り立っている。それにくらべては、我慾《がよく》にあえいで、あけてもくれても人の所領《しよりよう》を奪うことばかり考えている大名などは度《ど》しがたいものだ――というに似た感懐《かんかい》があった。
彼はしばらく、笠《かさ》のふちを上げて、広い平野を見まわしてたたずんでいた。
ここは村上《むらかみ》家の所領《しよりよう》だ。村上《むらかみ》家の所領《しよりよう》は越後《えちご》に二郡(共にその一部)、信州《しんしゆう》に四郡あるが、この川中島《かわなかじま》から善光寺平《ぜんこうじだいら》にかけてはもっとも膏腴《こうゆ》な土地で、その所領《しよりよう》の中心をなしている。
「この植えつけのすんだ田の収穫も、今年から武田《たけだ》のものになるのか」
と思うと、かなしみに似た感慨《かんがい》があった。
「いくさは負けてはならないものだ」
とも思った。
「好むところではないながら、いつかは晴信《はるのぶ》と戦わなければならないであろうが、その時はこのあたりが戦場になるであろう」
とも思った。
関山《せきやま》からここに至るまでの間はひろい平地がない。川沿いの峡谷《きようこく》地帯と野尻湖《のじりこ》周辺には多少の平地があるが、いずれもきわめて狭《せま》い。
大軍を動かせる地勢ではない。やるとすれば、善光寺平《ぜんこうじだいら》からここにかけてがもっともふさわしいのである。
明るい日のあたっているひろい田野《でんや》の中に一筋《ひとすじ》につづく野道を、ときどき立ちどまって見まわしながら、南に下った。
およそ二里ほど行くと、はるかに前面の三か所に、さかんな炊煙《すいえん》の立ちのぼっているのが見え、さらによく見ると、新緑と民家のちらばっている間にちらちらときらめくようなものがある。思案するまでもなく、旗であることがわかった。この季節のこんな天気の日には、遠くの旗はこんなふうに見えるものなのである。
尺八《しやくはち》を吹きすさびながらも、そこらから目をはなさず見て、そろそろと行くうちに、川に行きあたった。千曲《ちくま》川であるにちがいなかった。広い大きな川だ。水量もたっぷりあり、流れも急だ。
岸に渡しの舟がある。くずれかけたような小家が岸の堤防《ていぼう》のかげの大きな柳の陰に立っていて、その前に舟がつないであり、そこからはるかな向こう岸まで太い藤《ふじ》づるを引きわたしてある。この蔓《つる》をたぐって渡るのだと見えた。この急流では、棹《さお》や櫓《ろ》だけでは無理にちがいない。
景虎《かげとら》は堤防《ていぼう》を下りてその小家の前に行くと、素懸《すがけ》の具足《ぐそく》に陣笠《じんがさ》をかぶった雑兵《ぞうひよう》が二人、うるさいほど葉のしげった柳のかげにすわって、腰兵糧《こしひようろう》を使っていた。景虎《かげとら》を見ると、びっくりしたのだろう、一人が飯《めし》にむせた。
「何者《なにもの》だ! うぬは!」
と、他の一人がどなった。
「旅の普化僧《ふけそう》でござるが、気の毒しましたな」
と、おちついて答えた。
「なるほど、こも僧どのじゃが、何しに来なされたのじゃ」
といった。
「向こうへ渡るつもりじゃろうが、向こうへは手形《てがた》がなくば渡さんぞ。そげいなことになっとるのじゃからの」
と、いま一人がむせるのがなおったのであろう、様子づくって言った。
二人とも、せいいっぱいきびしい表情をとろうとして努力しているが、人のよさそうなにぶい顔はどう引きしめようもない。
「拙者《せつしや》はいくさ見物《けんぶつ》にまいったのでござるが、もうすんでしまったそうでござるな。しかし、せめては勝った武田《たけだ》殿のご陣営だけでも拝見しておきたいと思うのでござる。渡るのをゆるしていただきたい」
後世《こうせい》もそうだが、この時代も虚無僧《こむそう》には牢人《ろうにん》武士が世に出るまでの、みすぎのために入っているものが多かったし、時世《じせい》がら武者修行《むしやしゆぎよう》をかねている者も多かったのである。
「お前様、武者修行《むしやしゆぎよう》か」
とことばがていねいになった。
「まあそのつもりでいる。わしじゃとてもとは相当な家に生まれたさむらいじゃ。いつどんなことで諸国大名衆に召しかかえられんものでもないゆえ、どうせ|たつき《ヽヽヽ》のために歩くのじゃから、同じことじゃ、武者修行《むしやしゆぎよう》もかねたいと思うての」
「よい心がけじゃ」
と、飯《めし》にむせた雑兵《ぞうひよう》は感心したように言ったが、すぐしげしげと景虎《かげとら》を見て言う。
「けんど、お前様えらい小《ちつ》こいなあ。こも僧専一の方がようはござらぬかや」
ご親切なことであった。景虎《かげとら》は苦笑した。
「わしもそう思うことがないではないが、人間は運のものじゃから、いつの日もとのさむらいに返り咲くことがあるかもしれんのでのう。武者修行《むしやしゆぎよう》をやったかて、損になるわけではないけにのう」
「ああそうか。それはまあお前様次第のことじゃ。立ち入ってわしらがかれこれ言うべき筋合《すじあ》いのものではござらんわい」
これだけの問答がすむと、二人はまた熱心にむすびを食べはじめた。
「これよ。向こうには渡してもらえんかのう」
と、景虎《かげとら》はたのんだ。
「手形《てがた》はござるかや」
指についた飯粒《めしつぶ》を一粒一粒前歯でこきとりながら答える。
「それはないのじゃが……」
「いかんわい!」
といきなりびっくりするような声でどなった。
すると、別のが気の毒になったらしく、言いそえる。
「手形《てがた》なしには通してならんことになっとると、さっきも言うたじゃろう。ああ、ほんにお気の毒」
「その手形《てがた》というのは、どこで出しているのじゃ」
「お前様の通って来なさった道に、篠《しの》ノ井《い》ちゅう村があったはずじゃ。ついその向こうの村よ。あこの寺に、士衆《さむらいしゆう》がつめていなされて、そこで出してござるのじゃ。本通りから少しはずれているので、気がつかんでござったのじゃろう。このへんの村の者は皆もろうとるがのう」
「そうか。それではやはりもどってもらって来なければならんか」
「そうしなされ、そうしなされ。なんでもないことじゃ。ほんの一走りじゃけ」
と二人は熱心だ。しみじみ同情しているようであった。
景虎《かげとら》は引きかえしたが、もう帰って来る気はなくなっていた。
(近ごろ名に高い、孫子四如《そんししじよ》の旗≠ニいうのを見たいと思うたが、残念なことをした)
とは思いながらも、これで武田《たけだ》家の軍律のきびしさ、したがって用兵の程度もわかったと思っていた。
関山《せきやま》へかえって数日の後、甲州《こうしゆう》勢が本国に引きとったので、こちらも春日山《かすがやま》にかえった。倉俣《くらまた》の政景《まさかげ》にも知らせて引きとらせた。ところが、それから三か月の後、思いもかけないところに村上《むらかみ》があらわれたという報告が入った。善光寺《ぜんこうじ》の東北方五里の高梨平《たかなしだいら》の高梨政頼《たかなしまさより》の居城《きよじよう》にあらわれたというのだ。これには、井上《いのうえ》、須田《すだ》、島津《しまづ》、栗田《くりた》らの信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らが馳《は》せ加わっているという。執拗《しつよう》で根強い武田《たけだ》の侵略に、わずかにのこっている信州《しんしゆう》の全豪族《ごうぞく》らが全力的な抵抗《ていこう》をする決心をかためて集まっているという。
ここは川中島《かわなかじま》よりもさらに越後《えちご》に近い。油断《ゆだん》はならなかった。早速、上田《うえだ》に通報して、前のように倉俣《くらまた》に出てかためるようにさしずした。
その急使を出した日の午後、高梨《たかなし》城から使者が来、籠城《ろうじよう》の諸将連名の手紙をもって来た。
(われわれが武田《たけだ》の飽《あ》くなき貪欲《どんよく》のために、年々に領地を削《けず》り取られ、居城《きよじよう》を追いおとされ、今や身をおくにところなき状態になろうとしていることは、隣国のことゆえ、さだめてお耳に達しているであろう。われらはこのたび衆心一致《しゆうしんいつち》して、武田《たけだ》の暴悪《ぼうあく》と懸命の戦いをしようと思う。ついては、われらのこの衷情《ちゆうじよう》をあわれんで、一臂《いつぴ》の力をかしていただけまいか。われらのうち、せめて一人なりともみずから参上して、お願い申し上ぐべきであるが、敵の来襲がほどないことと思われるから、ここをはずすわけにいかない。非礼をもかえりみず、使者をもってお願いする次第である)
というのが文面であった。
雷電《らいでん》に打たれたような衝撃《しようげき》があったが、瞬間にそれは去って、
(ついに来た。意外に早かった……)
という思いだけがのこった。またしても、御坂峠《みさかとうげ》で見た晴信《はるのぶ》の姿が思い出された。あのころから今日の日を、心の底深いところで待っていたような気がしてきた。
使者は手紙に書かれたことを補足しようとして、いろいろと語りはじめたが、景虎《かげとら》にはもうそれはいらなかった。力をかす気になっていた。さえぎって、言った。
「ご依頼のことは、承知した。まず高梨《たかなし》殿は、わしが家の縁者じゃ。今の政頼《まさより》殿は、年はわしよりずっと上じゃが、わしの甥《おい》にあたる。わしがいちばん上の姉が先代《せんだい》の播磨守《はりまのかみ》殿にとついで生んだのが政頼《まさより》殿じゃ。頼まれた以上、見過ぐしにできぬ。次は、この手紙の方々《かたがた》がみんな武田《たけだ》のために万一のことがあれば、武田《たけだ》の鋒先《ほこさき》はかならずわしに向かって来るであろう。手をつかねて見ているわけにはいかぬ。どんな方法で助勢するかまだ工夫《くふう》がつかぬが、かならず何かの形で、もっとも力のある助勢をするであろうと申したと言うてくれるよう」
使者はよろこんで帰って行った。
月がかわって八月はじめ、甲州《こうしゆう》勢が川中島《かわなかじま》を通過し、信濃《しなの》川沿いの道を高梨平《たかなしだいら》に向かったとの知らせを受けると、景虎《かげとら》は柿崎《かきざき》和泉守《いずみのかみ》を主将とし、数人の豪族《ごうぞく》らをそえて、川中島《かわなかじま》に出動させた。みずからは向かわなかった。背後をとり切られた武田《たけだ》勢は高梨《たかなし》城へ攻撃を集中することができず、自分に使者を立て、抗議をして来るにちがいない。そこで、信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らの所領《しよりよう》を返還するように勧告する。普通なら聴くはずはないが、危地《きち》にあるのだから、聴くかもしれない。聴けばもうけもの、聴かずとも、これで堂々と手切れが言いわたせる――と計算したのであった。
「おそらく、合戦《かつせん》にはなるまいが、油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》だぞ。少しでも変わったことがおこったら、すぐ知らせい」
と申し渡して出発させた。
ところが、これが大誤算であった。越後《えちご》勢にうしろをとり切られたと知った晴信《はるのぶ》は、その夜のうちに一軍をわかってひそかに引きかえし、夜半を少しすぐるころに川中島《かわなかじま》につくと、そのまま夜襲《やしゆう》をかけ、さんざんに撃破したのだ。
報告はその翌日の夜明けに春日山《かすがやま》についた。
景虎《かげとら》は仰天《ぎようてん》した。戦《いく》さをはじめて最初の不覚《ふかく》である。憤《いきどお》りと恥辱《ちじよく》に、全身が火のようになった。口すすぎもせず甲冑《かつちゆう》を着、着ながら、軍勢の部署を口授《くじゆ》して侍臣《じしん》に書きとらせ、
「すぐくり出させい。おれは先に行くぞ!」
とどなりすて、馬の口取り一人だけつれてただ一騎、北国街道《ほつこくかいどう》を南に飛んだ。
翌日の朝、景虎《かげとら》は川中島《かわなかじま》に馬を立て、周囲を顧望《こぼう》していた。
ここまで来る間に、彼はいく立てかの味方の使者に逢《あ》った。その使者らの注進《ちゆうしん》を綜合《そうごう》すると、こうなった。
(武田《たけだ》勢は夜襲《やしゆう》してこの地で柿崎《かきざき》和泉《いずみ》ら味方の諸勢を撃破すると、そのまま高梨平《たかなしだいら》にとって返し、無二無三《むにむさん》、損害をかえりみず猛攻《もうこう》、数刻の後には攻めくずし、直ちに退却にかかったが、途中の城々砦々《とりでとりで》に兵をおいて厳重にかためさせながら、深志《ふかし》と上田《うえだ》方面へわかれて引きとってしまった)
重ね重ねの不覚《ふかく》であった。景虎《かげとら》は歯がみをしいきどおり、羞恥《しゆうち》に全身を熱くしながらも、晴信《はるのぶ》の武略に舌をまいていた。こちらの手の内を、鏡にかけて見るよりもはっきりと読みとり、先手先手《せんてせんて》と出て、ついに押し切ってしまった手際《てぎわ》はおどろくべきものであった。
しかも、こちらが激怒《げきど》して出て来るであろうと見通して、「死にものぐるいになってくる者とのいくさはごめんこうむる。勝ててもきつい損害をまぬかれんものじゃからな」とばかりに、素速《すばや》く領分内奥深い方へむかって引きとったやり方のあざやかさに至っては、見上げたものであった。
これにひきかえ、味方はどうかといえば、柿崎《かきざき》をはじめ諸将は切り散らされて、西の方上《かみ》水内《みのち》郡の山間へ追いこまれて手も足も出なかったというし、高梨《たかなし》城の諸将は行くえ知れずに落ち行《ゆ》いたというのだ。
「晴信《はるのぶ》め!」
ギリッと歯をかんで顧望《こぼう》するまわりには黄熟《おうじゆく》した稲田《いなだ》があり、畑がつづき、桑畑《くわばたけ》がある。戦いの行われたあたりは踏みあらされているが、それも昨日半日の雨であらかた回復したように見える。戦いはごく短時間に、しかももっとも無駄《むだ》なく行われたにちがいないのである。これも味方の油断《ゆだん》と敵の戦術の冴《さ》えを語るものであった。
「おれがいたら……」
と口惜《くちお》しくつぶやく下から、
「未練《みれん》がましいことを言うべきでない。どんな理由があろうと、負けは負けだ。不覚《ふかく》を認めて、できるだけ早く雪辱戦《せつじよくせん》を心掛くべきだ」
と思いなおしたが、すぐまた、
「ともかくもおれの武名にきずがついた。不敗の武将と仰いで服属していた越後《えちご》国内の豪族《ごうぞく》らの心中は、かならずやこれまでのようではあるまい」
という思いがしくしくとひろがってくる。
陰気で、鬱陶《うつとう》しい気持ちだ。何もかも打ちすててしまいたいようなニヒルな気持ちですらあった。
「ぜがひでも、おれは晴信《はるのぶ》と決戦し、晴信《はるのぶ》をたたきつけなければならない。でなくば、おれの武人としての立場はなくなる。おれが勝ちのこるか、彼が勝ちのこるか、終生《しゆうせい》をかけて戦わなければならない……」
ギリギリと奥歯をきしらせながら、改めて決心した。
ぐるりと見まわすこの盆地の周囲には、いく重《え》の山々がたたんでいる。その山の大部分の名を、彼は知らない。しかし、妙高《みようこう》・戸隠《とがくし》・飯縄《いづな》等の山々は知っている。昨日半日の雨に洗われた秋気は水のように澄み、山々は真昼の太陽の下に手にとるようであった。
午後になって、越後《えちご》の将兵らが到着し、つづいて柿崎景家《かきざきかげいえ》らが山々の間から出て来た。
「申しわけございません。まさかあれほどすすどい出方をしようとは思わなんだのでございます。油断《ゆだん》でございました」
と、柿崎《かきざき》はわびたが、そのことばには事前における景虎《かげとら》のことばについ油断《ゆだん》をしてしまった、責任は自分にだけはないといいたげな語気がある。たしかにそうにちがいないのである。「油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》だぞ」と言いながらも、
「おそらくは合戦《かつせん》にはなるまい」と景虎《かげとら》は言ったのである。骨を刺《さ》されるような痛苦があった。
「おれのことばが足りなんだ。そなただけの不覚《ふかく》とは思わんぞ」
と、景虎《かげとら》はなぐさめた。
それ以上口をきく気がしなかったが、心をはげまして、武田《たけだ》勢の戦いぶりについてたずねた。
「負け武者《むしや》である今の拙者《せつしや》がかようなことを申しては、言いわけがましくて、かたわら痛《いと》うござろうが、拙者《せつしや》今日までかほどの剛敵《ごうてき》に会《お》うたことがござらぬ。『疾《と》きこと風のごとく、掠《かす》むること火のごとし』とは、彼が本陣旗の文句《もんく》じゃと聞いていますが、まさしくそうでありました。当方の油断《ゆだん》はもちろんのことでございますが、音もなくひたひたと水のように寄せて来たのでございましょう、気づいた時にはもう小半町《こはんちよう》にも近づいていまして、鉄砲を撃ち立て撃ち立て、煙の下から切って出て、暴風《あらし》のように渦巻《うずま》きこんでまいったのでございます。寝ごみをさんざんにあらされ、ただもうあきれまどい、うろたえるばかりで、防戦というほどのこともできず、ただ退《ひ》きに退《ひ》いてしまったのでございます。炎《ほのお》のあらしに襲われた思いでありました。あっぱれな夜討ちぶりでございました。拙者《せつしや》ほどのものをこうまでやりつけましたこと、敵ながら見上げたものでございます」
柿崎《かきざき》はくやしくてならないにちがいないのだが、この際はほめなければかえって醜態《しゆうたい》と思うのだろう、しきりに敵をほめ上げた。しかし、ついにたまらなくなったらしく、ひときわ大きく声をはりあげた。
「しかしながら、拙者《せつしや》は決しておそれてはいません。これで敵の手なみのほどもとっくりとわかりましたすけ、またの機会にはかならず存分な働きをして、こんどの恥を雪《すす》ぐことを、ここにお誓い申しておきます」
「そうであろうとも。おれもこのままではおかぬつもり。その際は十分に働くよう」
「かならずともに、おほめにあずかる働きをいたすでございましょう」
と、柿崎《かきざき》は答えた。
景虎《かげとら》は先刻から気になっていたことをたずねた。
「そなた、武田《たけだ》勢が鉄砲を撃ちかけ撃ちかけ襲うて来たと申したが、ずいぶん多数であったか。およそいく梃《ちよう》ほどと思うたか」
柿崎《かきざき》は小首《こくび》をひねった。
「とっさのことでありましたし、あわてておりましたし、夜陰《やいん》のことでもあり、たしかなことはわかりませぬが、百|梃《ちよう》を下ることはあるまいと思います。言いわけがましゅうございますが、手の者どもがそのすさまじい響きと筒先《つつさき》からほとばしる玉薬《たまぐすり》の火の色におびえてふためき立ちましたために、さしずがとどかず、崩《くず》れ立ったのでございます」
「うむ、うむ」
と景虎《かげとら》はうなずいていたが、心中にはかなりな動揺がおこっていた。武田《たけだ》勢は先夜の襲撃に百|梃《ちよう》以上の鉄砲を使ったというが、それが全部の鉄砲ではあるまい。少なくともその二倍は持っていよう。
ところで、こちらはどうかといえば、三条攻《さんじようぜ》めの時以来だんだんに買い足してはきたが、それでもせいぜい八十いく梃《ちよう》しかない。これでは自分が出てまともに対陣しても、勝てる見込みはまずない。みずから出陣しなかったのが不覚のもとだったと思っていたが、出なかったことが最小限に不名誉を食いとめることになったのかもしれないと、背筋《せすじ》の寒くなる思いであった。毘沙門天《びしやもんてん》の加護がこんな形で恵まれたのかもしれないと思った。
川中島《かわなかじま》に滞陣すること二日、三日目の早朝から撤退にかかって、引き上げた。
三日の後、春日山《かすがやま》に帰りついた。村上義清《むらかみよしきよ》・高梨政頼《たかなしまさより》・井上昌満《いのうえまさみつ》・島津忠直《しまづただなお》・須田満国《すだみつくに》・栗田永寿《くりたながひさ》らの信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らが春日山《かすがやま》に来たのは、その翌日であった。
高梨《たかなし》には幼いころに一、二度会ったことがあるが、他は全部初対面である。景虎《かげとら》は鄭重《ていちよう》にもてなして対面し、
「おのおのがたのご依頼にまかせて、川中島《かわなかじま》まで出陣したのでござるが、つかわした者の不覚で不手際《ふてぎわ》なこととなりました。頼まれ甲斐《がい》もなかったと、恥じています」
とあいさつすると、村上《むらかみ》が皆にかわって言う。
「いやいや、不覚はわれらでござる。気をつけておれば、あれほどのことをする敵のけはいが、前もってわからぬことはないはずでござる。気づいて打って出るか、せめては注進してご用心をさせ申すべきを、|あけらかん《ヽヽヽヽヽ》として気もつかなんだのは、返す返すもわれらの不覚であります。せっかくのお力添えをいただきながら、申しわけないことであります」
彼らはまた口々に武田《たけだ》氏の横逆《おうぎやく》をうったえ、この上の助力を乞《こ》うた。
「よろしいとも。弱輩者《じやくはいもの》ながら、名に聞こえたおのおのにさほどまで依頼されること、弓矢とる身の面目《めんぼく》であります。この前もお使者にまで申しましたが、おのおのの所領《しよりよう》が武田《たけだ》にうばわれているかぎり、拙者《せつしや》にしても隣家まで火がのびて来たと同じこと。枕《まくら》高く寝るわけにいきませぬ。かならず武田《たけだ》を駆逐《くちく》して、おのおのをその本領《ほんりよう》に安堵《あんど》なし申すでありましょう」
と、景虎《かげとら》が答えると、信州豪族《しんしゆうごうぞく》らは涙を流して感謝して、
「それほどのおことばを賜わる以上、われら今日ただいまより、お幕下《ばつか》となり申します。ご芳情《ほうじよう》によって本領を安堵《あんど》しましても、永くご当家の家来としてお仕え申すことを誓約《せいやく》いたします」
と言った。とりわけ、村上《むらかみ》は越後《えちご》国内に持つ二郡のうち一郡をただいまから献上《けんじよう》するとまで言った。
「おのおののお心はよくわかりました。しかし拙者《せつしや》はまだおのおののためにいかほどの力もいたしておりません。報ゆることなくして取るは貪《むさぼ》るのでござる。これからおのおののために尽くし、拙者《せつしや》もおのおのも得心《とくしん》のいったところで、改めての約束をいたしましょう。まずそれまではお客のつもりでいてくださるよう」
筋道《すじみち》を立てて、きれいに、さわやかにふるまいたいのであった。六人は心を打たれて見えた。
饗応《きようおう》になって、打ちとけての会話になった時、景虎《かげとら》は武田《たけだ》の戦《いく》さぶりについてきいた。
「晴信《はるのぶ》という男、貪欲非道《どんよくひどう》の心術《しんじゆつ》の者ではありますが、戦《いく》さは稀代《きたい》の上手《じようず》でござる。いつの戦《いく》さにも彼が総くずれになって敗走したことはありません。かならず最後まで芝居を踏みしめて(戦場を確保しての意)います。彼の戦《いく》さぶりが人と異なるところは、決して調子に乗らぬことでございます。十里のところなら五里、五里のところは三里、三里のところは一里と、まことに用心深い進撃ぶりでございますので、途中で形勢がかわって、勝っている戦いが敗けになるようなことは一度もございません。無類《むるい》に堅固《けんご》な戦《いく》さぶりでございます」
と、村上《むらかみ》が説明すると、他の人々もうなずいて、自分らの経験した例をあげて証明した。
順序正しく兵をくり出して来るさまや、節度《せつど》をわきまえたおちつきはらった合戦《かつせん》ぶりがありありと目の前に浮かんできた。しくしくとしぶり腹の痛むような鬱陶《うつとう》しさが感ぜられてくる。景虎《かげとら》はぐいと朱塗《しゆぬ》りの大杯をかたむけて言った。
「なるほど、よくわかり申した。察するに、晴信《はるのぶ》が戦《いく》さは後の勝ちを心がけ、なお言うなら、領地をひろめるのが最後《つい》の目あてであるようでござるな。しかし、拙者《せつしや》の心掛けはちがう。拙者《せつしや》は後の勝ちなどはかまわぬ。もとより領地をひろげようとの量見《りようけん》もござらぬ。さしあたった戦《いく》さには、一戦たりとも負けじとばかり思うています。年の若いがためでありましょうな。ハッハハハハ」
酔いがまわっていた。昂然《こうぜん》たるものが胸に高まってきていた。
二十日ほどたって、九月はじめ、景虎《かげとら》は急に思い立って京上《みやこのぼ》りすることにした。主たる目的は堺《さかい》に行って鉄砲を注文するにあったが、ついでに朝廷にたいして昨年の官位|叙任《じよにん》のお礼を言上《ごんじよう》したいし、できれば将軍に拝謁《はいえつ》して関東管領《かんとうかんれい》家相続の諒解《りようかい》も得たいと思ったのであった。
九月はじめのある日、春日山《かすがやま》を出発した。供には、れいによって豪傑連《ごうけつれん》が立ったが、彼らも中年になって昔のように足軽く走りまわることができないので、その用には若い小者を二十数人も召し連れた。全員では四十人近い人数になった。
武家姿で、士分《さむらいぶん》の者は皆|騎馬《きば》した。越後《えちご》に来ている関東管領上杉憲政《かんとうかんれいうえすぎのりまさ》の家臣《かしん》らが、主命を帯びて上洛《じようらく》するということにした。
九年前|回国《かいこく》の六部《ろくぶ》姿となってたどったと同じ親不知《おやしらず》・子不知《こしらず》の嶮《けん》のある海沿いの道をとって、五日目の夕方、魚津《うおづ》の港についた。
その夜は海べに近いはたご宿に泊まった。諸国往来の船乗りらの泊まる家だ。
翌朝、だれよりも早く目をさました景虎《かげとら》は、ただ一人宿を出て、町をそぞろ歩きした。かつてこの国は父|為景《ためかげ》に征服され、彼の家のものになっていた期間があるが、その後国内の諸豪《しよごう》が蜂起《ほうき》して、父を討ち取ってしまった。いわば父の怨敵《おんてき》の国である。その父の愛情薄く育った身ではあるが、武門の意気地《いきじ》は別だ。いつかはこの国を伐《う》って父の遺業を回復し、父の怨《うら》みを報じようとの念は去ったことがない。かれこれ、町の地理を見ておくことは、必要なことと思われるのであった。
港の町の朝は早い。まだ日の出には遠く、水色の暁の光線をこめている海近い町には、もうぽつりぽつりと人の姿が見えていた。皆漁具が入っているらしい箱をかかえ、櫓《ろ》をかついで、黙々《もくもく》と海の方に行く。景虎《かげとら》はその人たちと同じように海べに行き、潮風と露にしめった砂の上をさくりさくりと歩きながら、諸国往来の商人船《あきんどぶね》や漁船のもやっている港を見た後、町をまわって城の方に行った。
この時代の城は、この少し後のように石垣《いしがき》をきずき、天守《てんしゆ》を上げた、あんな美しくおごそかなものではない。石垣《いしがき》のかわりには土をかき上げて芝を植えた土居《どい》があり、白堊《はくあ》の壁の天守《てんしゆ》や角《すみ》やぐらのかわりには、壁は板や荒土《あらつち》、屋根は板ぶきのやぐらが建っているにすぎなかった。魚津《うおづ》城もそうであった。この城のあったあたりは、今日では市中の平地で、小学校になっている。しかし、当時はもちろん人家|櫛比《しつぴ》の市中ではない。町をはなれ、周辺は樹木の多い武家屋敷になっていた。
城は濠《ほり》をめぐらしている。すがれた蓮《はす》の葉や菱《ひし》の葉が浮いて、底の見えないくらい青黒い水を深くたたえている。景虎《かげとら》は、葉をふるいおとした柳の植わっている、濠《ほり》に沿った道を歩いて、城のまわりを一巡《いちじゆん》した。平城《ひらじろ》ではあるが、相当な規模と堅固《けんご》さを持っている。
「なかなかのものだな」
と、いくどもつぶやいた。
この間に日が出た。はたごのある方に向かって足をめぐらして、武家屋敷にはさまれた通りにさしかかると、どこからともなく、琴《こと》の音《ね》が聞こえてきた。
ごく遠い音で、ごくかすかであるが、ようやくのぼりはじめた朝日の中に、古さびた樹木のしげっている武家屋敷の通りで、その音はまことに美しく聞こえてくる。
(さすがにこの地は諸国の船の集まるところだ。片《かた》田舎《いなか》に似ず、みやびたたしなみの者がいるのだな)
と、思いながら進んだが、進むにつれて琴《こと》の音《ね》ははっきりなってくる。
近づけば近づくほど、曲調がよくわかる。十分に手なれて、巧みな手であった。
(これほど巧みなところをみると、若い者ではないな。しかし、音に艶《つや》やかさがあるところを見ると、あまり年老いた者ではない、中年の武家女房《ぶけにようぼう》か、中年の瞽女《ごぜ》であろうか。早朝からみやびたことじゃわ)
とつおいつ、思いめぐらしているうちに、その音の立っている屋敷の前に来た。
ひときわ大きな屋敷だ。はば二間ほどの濠《ほり》をめぐらし、その内側に狐色《きつねいろ》に枯れた芝を植えた高い土居《どい》の上にひめ垣《がき》として|からたち《ヽヽヽヽ》を高くぎっしりと植えこんで、まことに堅固《けんご》なかまえだ。城主の重臣《じゆうしん》か、城主の一門の屋敷にちがいなかった。琴《こと》の音《ね》は邸内《ていない》に植えこまれた常緑樹や葉のすがれた樹々の間から、まろび出すようなやわらかさで漏《も》れてくるのだ。
景虎《かげとら》は足どりをゆるめ、ついには立ちどまって、耳をかたむけていたが、どうした心の作用であったろう、いつか胸に兄の愛妾《あいしよう》であった藤紫《ふじむらさき》のおもかげが思い浮かんでいた。
(いつか、あの女の奏《ひ》く琴《こと》をおれは聞いたことがあり、それがこの曲目であったのかもしれんな。しかし、何という曲であろう。のどかないい曲だな……)
と思った。
日はますます高く上る。
「こうしてはおられぬ」
急ぎ足に立ち去った。
愛欲と信仰
景虎《かげとら》の去った後、琴《こと》はなおひきつづけられていた。朝の日が寂《しず》かに照りわたっているだけで、まるで人影《ひとかげ》のない通りに、琴《こと》の音《ね》はしばしその玉をまろばすような美しいひびきをひろげていた。
琴《こと》の音《ね》は、その屋敷のもっとも奥まった小座敷《こざしき》から聞こえて来るのであった。根もとに青々とした笹《ささ》のある、赤松まじりの落葉樹の木立ちを前にした座敷だ。しだいに高くなる日が、あらかた葉の落ちた枝の間から木立ちの根元までさしこみ、座敷には明《あか》り障子《しようじ》がぴったり立てられていた。張り立ての真っ白な明《あか》り障子《しようじ》は、早くも冬を迎える支度《したく》をしているように見えた。
琴《こと》の音《ね》は小川のせせらぎのように、あるいは緩《ゆる》やかに、あるいは急に、その障子《しようじ》の内側からひびいていたが、とつぜん、バランと乱暴な音が立った。手いっぱいに絃《げん》をつかんで切れよと弾《はじ》いたようであった。つづいて、
「ああ」
と、しめやかなため息の声がもれ、身をおこすけはいと衣《きぬ》ずれの音とが近づき、障子《しようじ》があいて、立ち出《い》でたものがあった。女であった。人のカンは時に霊妙《れいみよう》をきわめる、藤紫《ふじむらさき》だったのである。
藤紫《ふじむらさき》は縁《えん》に立ったまま、日の光のよく通っている木立ちを凝視《ぎようし》して、長い間動かなかった。憂鬱《ゆううつ》げな表情であった。
彼女はもう二十八になるが、依然《いぜん》として美しかった。昔は痩《や》せて細くてまるで血の色がなく、すきとおるような白さが異風な美しさになっていたが、今はやや肉置《ししお》きがゆたかになり、血色がよくなっている。人によっては昔より美しくなったというかもしれない。ともあれ、いささかも年のおとろえが見えないのである。
彼女が春日山《かすがやま》を落ちてここへ来てから五年になる。あの時以来、彼女は魚津《うおづ》城主|鈴木《すずき》大和守《やまとのかみ》の寵妾《おもいもの》になって、今日に至っている。
あの時、大和守《やまとのかみ》は久助《きゆうすけ》にたいしてはずいぶん手ひどいあつかいをした。からだ中を調べて刃物はもちろん、金物と名のつくものはいっさいとり上げて城内の牢《ろう》に投げこんだ。しかし、彼女にたいしては相当いたわった。奥殿《おくどの》におしこめたとはいえ、入浴させ、やわらかくあたたかい衣服をあたえ、熱いものを食べさせた上で、あたたかく寝せたのである。
最初、大和守《やまとのかみ》の受けとった報告では、二人は越後《えちご》の戦乱を避けて当地に逃げて来た夫婦《みようと》ものであるということであったが、二人の姿を見ただけで、それを信ずる気はなくなった。二人の顔形と風姿とはあまりにちがいすぎた。持ちものを点検していっそうその感があった。最上流の階級の子女でなければ持つことのできないものばかりなのだ。
「女は身分いやしからぬものだ。高貴な身分の者といってもよい。どう考えても下賤《げせん》な、せいぜい武家の小者《こもの》としか思えぬようなあの男と夫婦《みようと》であると名のるのは、深い事情があるに違いない」
と推察した。
彼は事情をただすために、翌日、書院の間に呼び出した。
「殿様にだけ申し上げたいことがございます。余人《よじん》がいましては申し上げるわけにまいりません」
と、藤紫《ふじむらさき》は言った。手厚い待遇《たいぐう》で一夜ゆっくりと休息させられて、彼女はさらに美しく、掾sろう》たけてさえ見えた。余人《よじん》のいるところでは一語も答えまいとかたく決心しているらしい表情のはげしい美しさは、大和守《やまとのかみ》の同情をそそった。彼は家臣《かしん》らを遠ざけて、藤紫《ふじむらさき》と二人になって対座《たいざ》した。
「これでよかろう。さあ、聞こう」
「はい」
と答えて、藤紫《ふじむらさき》は目を伏せた。それがなんともいえず美しくたおやかで、高雅《こうが》にさえ見えて、こちらはあやしく心がゆれた。
「さ、申すがよい」
知らず知らずやさしい声になって、うながした。
すると、とつぜんだった。藤紫《ふじむらさき》はたもとを顔にあてて、さめざめと泣き出した。たえがたい苦難に逢《あ》って、精いっぱいの努力でたえしのんできた人が、親切な人にあって、心の張りが切れた時のよりすがる心をあらわに見せる姿のようであった。大和守《やまとのかみ》は胸がきびしくしぼり上げられ、胸が熱くなった。
「泣いていてはわからぬ。さ、申すがよい。何なりとも、力になってつかわすぞ」
といってしまった。
「……は、はい」
藤紫《ふじむらさき》は涙をおさえて、虚実《きよじつ》とりまぜての話をした。自分が京《みやこ》の堂上《どうじよう》家の生まれであること、縁《えん》あってはるばると越後《えちご》にくだって来て、守護代《しゆごだい》の長尾晴景《ながおはるかげ》の側室《そくしつ》となったこと、晴景《はるかげ》の弟の景虎《かげとら》が謀反《むほん》をおこし、晴景《はるかげ》方が惨敗《ざんぱい》したこと、出陣に際して晴景《はるかげ》が万一味方不運の節は急報するから、その節は城を落ちて、しかじかの土地にのがれて身をかくしているよう、やがてまた味方を糾合《きゆうごう》してかならず昔の栄えをとりもどして迎え取るであろうと言いおいたこと、そこで城をおちたこと、しかるに、供に召し連れたあの者がにわかに悪心をおこして、女中を殺してしまい、自分に乱暴をはたらいたこと、かよわい女としてどうすることもできなかったこと、他国に行こうと男のいうにまかせて、雪と風をしのいで、海路当地に来たこと、等々々。
鋭い知恵で思いをめぐらし、辻褄《つじつま》をぴたりぴたりと合わせて、語った。話はいく度《たび》かむせび泣きでとぎれた。不思議なことだが、そのむせび泣きは決してうそ泣きではなかった。ほんとに悲しくなり、ほんとに胸がせまり、ほんとに熱いものがのどをふさぎ、ほんとに涙があふれてきたのだ。
男は美しい女の涙にはもろい。大和守《やまとのかみ》は心の底からあわれと思った。
「よくわかった。不埒《ふらち》な下郎《げろう》めじゃ。いずれそういうことではないかと思うていた。そのような不埒《ふらち》、見過ぐしにはできぬ」
大和守《やまとのかみ》は即座《そくざ》に命を下して、久助《きゆうすけ》の首をはねさせたが、その夜、みずから藤紫《ふじむらさき》のへやに行ってこのことを告げた。
「お礼の申し上げようもございません。ただこの通りでございます」
藤紫《ふじむらさき》は両手を合わせて伏しおがんだ。白くて、かぼそくて、てのひらの紅《あか》い手である。ぴったり合わせた間から紅《あか》い筋《すじ》になって見えているのが可憐《かれん》であった。
この氏素姓《うじすじよう》が高雅《こうが》で、容姿《ようし》も美しい女性に、こうまで感謝されるのが、大和守《やまとのかみ》には言いようもないほど満足であったが、その時、どうした心理のはたらきであったか、この女があの醜悪《しゆうあく》な顔をした下賤《げせん》な男におかされる有様《ありさま》がまざまざと思い浮かんだ。むざんな想像であったが、その底に残酷《ざんこく》なくらい好色《こうしよく》的なものがむらむらとうごめいた。ギリギリと歯をかみしめてこらえた。
この時、藤紫《ふじむらさき》は目を伏せ、自分のひざを見つめて言った。
「わたくし、この身になっては、もう越後《えちご》へは帰れません。たとえ弾正《だんじよう》様のご利運がひらけてもとのお身の上になられましょうとも……」
つぶやくような言い方であった。しだいに語尾が低くなって、いつ消えたともなく消えた。このささやきがさそい出したといえるかもしれない。あらあらしいものが一時にこちらの身うちにみなぎった。いきなり、長いひじをのばしてひっかかえていた。
「あれ!」
かすかにさけんで、藤紫《ふじむらさき》はのがれようとしてもがいたが、はなさなかった。
「拙者《せつしや》が世話をする。当地にとどまりなされよ。帰りたくなくば、越後《えちご》などへ帰ることはない」
しっかと抱きかかえ、熱い呼吸《いき》とともに耳もとにささやいた。
「いや、いや、いや、いや」
藤紫《ふじむらさき》はいっそうもがいたが、はなそうか。もがくにつれてはげしくにおい立つかぐわしい体臭《たいしゆう》に、狂気せんばかりになった。
「はなさぬぞ。はなさぬぞ。どうしてあの下郎《げろう》にはゆるして、拙者《せつしや》にはゆるしなさらぬのだ! どうして拙者《せつしや》には……」
と、あえぎあえぎ言って、ねじ伏せようとした。
「……下賤《げせん》の者にけがされた身でございます。……もったいのうございます!……ああ……」
ここに至る段取りが、藤紫《ふじむらさき》のたくみに伏せた|わな《ヽヽ》であるとは、大和守《やまとのかみ》は知らない。拒《こば》まれれば拒《こば》まれるほど心をつのらせ、完全に獣《けもの》になり切っていた。
このようにして、藤紫《ふじむらさき》は大和守《やまとのかみ》の寵妾《おもいもの》となったが、大和守《やまとのかみ》の夫人はこの京上掾sみやこじようろう》と自称する旅の女が気に入らない。城内にはおもしろくない空気が生じた。そこで、下屋敷《しもやしき》であったこの屋敷に移して、時おり通うことにしたのであった。
越後守護代《えちごしゆごだい》と単なる魚津《うおづ》一城の主《あるじ》である鈴木《すずき》大和守《やまとのかみ》とはかなりな身分と身代《しんだい》のへだたりがある。その上、越後《えちご》では晴景《はるかげ》の寵愛《ちようあい》を一身に集めて言うところはみな聞かれたのに、ここではそうはいかない。大和守《やまとのかみ》は彼女を愛してはいるが、側室《そくしつ》としての分をこえさせることはない。
「あのころはよかった」
と思わないではおられない。悪い女らしく、彼女は権勢欲も物質欲も強烈だ。しかし、今はがまんするよりほかはないと、心をなだめているのであった。
泊まりを重ねて京《みやこ》についた景虎《かげとら》は、まず幕府に出頭した。当時の将軍は足利《あしかが》十三代の義輝《よしてる》であったが、その勢力のおよぶ範囲は京都付近だけであった。しかも、将軍の権力は管領《かんれい》の細川《ほそかわ》氏にうつり、管領《かんれい》の権力はその家老である三好《みよし》氏に移り、将軍というも名ばかりで、全然のかざり雛《びな》といってもよいほどであった。
これらのことは聞いていないことではなかったが、これほどとは思っていなかった。彼は将軍に拝謁《はいえつ》するにも相当めんどうな手続きがいり、許されるにしても数日はかかるだろうと思っていたし、ひょっとすると許されないかもしれないと思って来たほどであったのに、幕府《ばくふ》の役人は遠路来たことをねんごろにねぎらった上、明日|何刻《なにどき》に出頭《しゆつとう》あれ、お目通りのことにはからっておきますと言ったのだ。一つには彼の献上物《けんじようもの》がおびただしく、また役人らへのつけとどけも行きわたっていたからかもしれない。それが、景虎《かげとら》にはわかった。尊んでいる権威の傷つけられるのを見るようで、不快に似た気持ちがあったが、ともかくも、
「それでは明日その時刻に参上いたします。ご前よろしくおとりなしください」
と答えて帰った。
京《みやこ》における彼らの宿所《しゆくしよ》は三条西大納言《さんじようにしだいなごん》家を中心としてその付近の民家であった。三条西《さんじようにし》家は越後《えちご》の国と深い関係がある。越後《えちご》の国は古い時代から|からむし《ヽヽヽヽ》(青苧《おおそ》)の産が多く、王朝時代には京都|朝廷《ちようてい》に献納《けんのう》していたが、その後|荘園《しようえん》制度の発達につれて朝廷《ちようてい》への庸《よう》・調《ちよう》の献納《けんのう》がなくなると、越後《えちご》の商人らは青苧座《あおそざ》を組織して全国に売り出すことになった。その座たるを許可する権利を三条西《さんじようにし》家が持っていた。東洋でも西洋でも中世という時期は経済的には同業組合の時代で、その組合に入らないかぎり商業を営むことも、独立した職人となることもできなかったのであるが、その組合を座といい、組合員たることを許可する権限は、多く公家《くげ》や神社や仏寺が持っていた。京都|祇園《ぎおん》神社は綿座《わたざ》の許可権をもち、大山崎《おおやまさき》の離宮八幡《りきゆうはちまん》は荏胡麻油座《えごまあぶらざ》の許可権をもっていたことはよく知られていることであるが、青苧座《あおそざ》の許可権は三条西《さんじようにし》家が持っていたのである。
こういうわけで、三条西《さんじようにし》家と越後《えちご》人とは特別な関係があり、したがって景虎《かげとら》とも親しみがあり、この家を上洛《じようらく》中の宿所《しゆくしよ》に頼んだのであった。もっとも、当時の公家《くげ》のことで、三条西《さんじようにし》家もいたって手狭《てぜま》だ。全員厄介《やつかい》になるわけにいかない。景虎《かげとら》と二、三の者だけがここに泊まり、あとは付近の民家に分宿《ぶんしゆく》したのであった。
「ああ、さよか。そら会いまっしゃろ。あんたみたいな豊かな大名衆がわざわざ来てまでお目通り願い上げるのやさかい、将軍かてうれしゅうおまっさ。せいぜいうれしがらせてやんなはれ。アハハ」
と、三条西卿《さんじようにしきよう》は笑った。
景虎《かげとら》は不快であった。将軍の職を授け給うのは天皇だ、その将軍を笑い話にするのは、天皇の権を笑い話にするにひとしい、余人《よじん》ならば知らず、みずからもそこに近侍《きんじ》し、それによって世に立っている公家衆《くげしゆう》がこうであってはならないはず、と、思うのであった。
「やがて後ほど」
とだけ言って、景虎《かげとら》は席を立って、自分にあてがわれたへやに引きとった。
いきどおりに似たものが胸にあった。
「みずから侮《あなど》って人これを侮《あなど》る」
という句をいく度かつぶやいた。これは少年のころ出家《しゆつけ》させるために林泉寺《りんせんじ》に入れられているころ、天室和尚《てんしつおしよう》に教わった孟子《もうし》の中にあった文句だ。そのころは素読《そどく》だけしか教わらなかったので、やみくもに暗誦《あんしよう》しただけで、意味などまるでわからなかったが、成人した今になると、実感をもってわかる。今の世の公家衆《くげしゆう》がそうだと思い、阿呆《あほう》な公家衆《くげしゆう》と思わずにおられない。
「今の世は間違っている!」
と改めて考えた。
人間は自分の生きている世の中はゆがんでおり、不均整《ふきんせい》であり、濁《にご》っており、不正当であると、常に思っている。かつては均整《きんせい》のとれた、正しい姿を持った世があったと思っている。しかし、実在するものはすべて個性的であるがゆえに、常にゆがみ、常に濁《にご》り、常に動揺《どうよう》しているものだ。完全な世の中などというものはこれまでもあったことがなく、これからもあり得るものでないのである。だから、完全とは人間の観念の中にしかないものであると知ることは悟《さと》りの一段階である。この実在を直下《じきげ》にとらえても失望することなく、少しでも状態をよくしていくことにつとめる者がいたら、悟《さと》りの二段階に達したのである。不完全をいとわず、完全を望まず、しかもいっさいの行動云為《こうどううんい》がしぜんに完全に向かっての歩みとなっている人がいたら、大悟《たいご》の域に達しているといえるであろう。
しかし、こんなことは若い人に望み得ることではない。彼らには不完全こそ実在の証明であるということはわからない。彼らはそれをあってはならないことと憤《いきどお》るのだ。憤《いきどお》りは情熱であり、情熱は力だ。この力によって世の中の変化も向上《こうじよう》も促進《そくしん》されることがあるのであるから、珍重《ちんちよう》さるべきものではあるが、しょせんは認識の不足から生じたものであることは否定《ひてい》できない。
景虎《かげとら》の憤《いきどお》りも、つまりはそれであった。彼は弱《じやく》が強《きよう》に食いつぶされ、正が邪《じや》におさえられ、戦乱たえ間のない乱離《らんり》の世となっていることを憤《いきどお》っているのであるが、いま三条西大納言《さんじようにしだいなごん》の態度を見て、その根原がわかったと考えた。天子の尊厳《そんげん》と将軍の権威《けんい》とが無視されているところに、世の乱れの根原があると見たのだ。平和は秩序《ちつじよ》の中にある、秩序《ちつじよ》とは尊《そん》が尊《そん》とせられ、卑《ひ》が卑《ひ》とせられることであると、彼は思ったのだ。
この認識は、順序が逆になっている。世が乱れたから秩序《ちつじよ》が失われたのであり、尊卑《そんぴ》の別が乱れたのである。しかし、彼はそう思ったのである。彼の若さのためであったとしか考えようがない。
翌日、彼は将軍|義輝《よしてる》に拝謁《はいえつ》した。
義輝《よしてる》はこの時十八歳であった。やせて、青白く、神経質げな顔立ちであったが、親しみを見せて、越後平定《えちごへいてい》のいきさつや、合戦《かつせん》の話をくりかえしたずね、飽《あ》きずに聞いた。うつぼつたるものが胸にあって、それをおさえかねているようであった。
(この君も決して今の世に満足しておられない)
と、深く感銘《かんめい》して退出したが、思いもかけないことであった、その夜、将軍から使いが来て、
「至尊《しそん》にお目通りする気があれば、そのようにとりはからってやるが、どうだ」
と言ったのである。
すると、三条西卿《さんじようにしきよう》も言った。
「そうや。まろはうっかりしとったが、ええ機会や。その気があんのやったら、まろもあんじょうはかろうてやるわ」
と言った。
このようなことの周旋《しゆうせん》によってもろう謝礼が、公家衆《くげしゆう》はもとより将軍の重要な収入になっていることは、景虎《かげとら》も知らないではなかったし、純粋さがけがされるような気がないではなかったが、辞退すべきではなかった。
「望外《ぼうがい》の光栄でございます。そのようにおとりはからいたまわるなら、ありがたいしあわせでございます」
と、将軍の使いに答え、三条西卿《さんじようにしきよう》にもとりなしを頼んだ。
早いものであった。翌日にはもうその運びになった。景虎《かげとら》は三条西卿《さんじようにしきよう》に連れられて参内《さんだい》し、当時のみかど(後奈良天皇《ごならてんのう》)に庭上で拝謁《はいえつ》し、天盃《てんぱい》を賜《たま》い、瓜実《うりざね》の御剣《ぎよけん》をいただいた。黒漆鞘《くろうるしざや》の長さ七寸何分のもろ刃の短剣であった。
彼は拝謁《はいえつ》の前、三条西卿《さんじようにしきよう》を通じて、「隣国の敵を征伐《せいばつ》し、太平《たいへい》をいたすよう努力すベし」とのおことばをたまわるように頼んだが、聴《き》き入れられて天皇はそう仰《おお》せ出《いだ》された。彼はおのれの力に自信があり、みずからの心術《しんじゆつ》の正しさをも信じている。みずから作為《さくい》してこの運びにしたことをやましいとは思わなかった。それどころか、もっとも正当なことと信じ切っていた。
このことがあった翌日、彼は大徳寺《だいとくじ》の前住職|徹岫宗九《てつしゆうそうく》のもとに参禅《さんぜん》した。時おり彼を襲うあの理由のない憂鬱《ゆううつ》にたいする救いをもとめるためであった。この憂鬱《ゆううつ》におそわれると、彼はみずからの力量にたいしても、心術《しんじゆつ》の正しさにたいしても、まるで自信がなくなり、いっさいが虚《むな》しいもののかぎりに思われてくるのだ。
宗九《そうく》はこの時七十三、時のみかどのご信仰が厚く、普応大満《ふおうたいまん》と国師号《こくしごう》をたまわっているほどの名僧《めいそう》であった。長く白い眉《まゆ》と、角立《かどだ》った顴骨《かんこつ》を持っていた。鋭い目を光らせて、景虎《かげとら》の訴えを聞いて、
「人間の生まれながらの知恵才覚《ちえさいかく》や善良な心などというものは頼りないものじゃ。一にも打座《だざ》、二にも打座《だざ》、三にも打座《だざ》、座《すわ》ること以外にはござらぬ。座《すわ》りなされ」
と、早速に座《すわ》らせた。
その日、宗九禅師《そうくぜんじ》は座《すわ》り方を教えた上で、無字《むじ》の公案《こうあん》を授けた。
「唐土《もろこし》に趙州《じようしゆう》という大《だい》和尚《おしよう》がござってな。この道では大先達《だいせんだつ》のひじりになっとる。その趙州和尚《じようしゆうおしよう》に、ある僧が、天地|草木《そうもく》、禽獣《きんじゆう》虫魚、悉皆仏性《しつかいぶつしよう》があるということじゃが、しからば狗子《くし》――犬ころじゃな、犬ころにも仏性《ぶつしよう》があるか、と、問うたところ、和尚《おしよう》は『そりゃあるわい』と言うた。ところが、またある時、一僧あって、『狗子仏性《くしぶつしよう》ありや』と問いかけたらな、和尚《おしよう》は『無《む》ーッ』というた。おかしな話でござろう。しかし、ちっともおかしゅうござらんのじゃ。これが納得《なつとく》がいったら、お前様は自由自在、金剛不壊《こんごうふえ》、死んで死なぬ身、つまりそのままに仏《ほとけ》様にならしゃるのじゃ。せっかく工夫《くふう》しなさるがええ」
といったのである。
景虎《かげとら》は拝礼して、その日は帰った。そのまま大徳寺《だいとくじ》にとどまり、僧堂の生活をしながら座《すわ》りたかったが、短い日数に多数の用事をかかえて来ている身ではそうはいかなかった。用事の合い間合い間に打座《だざ》し、外出の時などは道を歩く間も打座《だざ》のつもりで工夫《くふう》した。
どこからどう手をつけてよいか、まるでわからない。堅剛無比《けんごうむひ》の敵と刀をまじえてむかい合っているような感じであり、四方|聳立《しようりつ》して手がかりも足がかりもない大岩石をよじのぼろうとして、周囲をぐるぐるとまわっているにも似ている。景虎《かげとら》はみずからがその岩石のまわりにうろうろしている蟻《あり》のようにはかないもののような気がした。
座《すわ》って工夫《くふう》している時、彼の胸中には波濤《はとう》が洶湧《きようゆう》しているようである。無限に広い海が風なくして山のような大波を上げ、いただきを白く泡立《あわだ》たせて、おしかえし、ぶつかり合って湧《わ》き立っているのだ。
たえず外からのひびきが入って来る。遠くで戸を開けしめする音、井戸車のきしる音、人の声、小鳥の声、風の音、雨の音、外の通りを馬を走らせて行く音、遠いどよめき。それらの音が聞こえて来る時、いつか心はその音を追って工夫《くふう》を忘れている。
外物によらず、わが心に湧《わ》く雑念《ざつねん》に引きずられていることもある。不在《るす》中の国のこと、武田晴信《たけだはるのぶ》のこと、村上義清《むらかみよしきよ》らの信濃《しなの》から亡命《ぼうめい》して来た者どものこと、将軍のこと、禁裡《きんり》のこと、旅中に経験したこと、おどろくのは魚津《うおづ》城外の武家町で聞いた琴《こと》の音《ね》まで思い浮かんできて、いつか工夫《くふう》を反《そ》らしていることであった。
こうしたさまざまな雑音《ざつおん》、さまざまな雑念《ざつねん》が絶えることがなく、なかなか専一《せんいつ》になることができない。
「むずかしいものだ」
と、改めてしみじみと感じたが、そう感じることすら雑念《ざつねん》の一つだと思うと、途方《とほう》にくれる思いであった。
呈すべき見解《けんげ》もなく、したがって再び大徳寺《だいとくじ》にも行かず、数日たった。日数を切っての旅だ。そう京都にとどまってはおられない。堺《さかい》にむかった。
堺《さかい》行きは、こんどの旅の主目的だ。当時は種子島《たねがしま》以外にはここだけが鉄砲の生産地になっていた。その鉄砲を注文するためであった。
京を出た翌日、大阪についた。このころの大阪は石山本願寺《いしやまほんがんじ》の所在地として有名であった。ここに本願寺《ほんがんじ》の寺が建てられたのは、この時から五、六十年前のことである。建てたのは蓮如《れんによ》であった。その地《じ》ならし工事の時、礎石《そせき》や石瓦《いしがわら》が多量に出土して、以前ここに大寺院があったのではないかと考えられたので、蓮如《れんによ》の感激は一方《ひとかた》でなく、
「かかる由緒《ゆいしよ》ある丘に寺を建てるのを思い立ったのは仏縁深重《ぶつえんしんじゆう》のいたすところ」
とて、寺が完成すると石山御坊《いしやまごぼう》と名づけた。
もっとも、今日の学者の研究によると、ここは孝徳《こうとく》天皇の時の難波《なにわ》ノ宮《みや》のあったところで、この時、出土した礎石《そせき》や瓦《かわら》は難波《なにわ》ノ宮《みや》のものではないかということになっている。
当時は一向宗《いつこうしゆう》の本山《ほんざん》は山科《やましな》にあり、この石山御坊《いしやまごぼう》は蓮如《れんによ》の隠居寺《いんきよでら》として建てられたのだが、その後三十数年たって、本願寺《ほんがんじ》と日蓮宗《にちれんしゆう》の本山本国寺《ほんざんほんこくじ》との間に戦争がおこって、山科《やましな》の本願寺《ほんがんじ》が焼失したので、ここを本山《ほんざん》とし、本願寺《ほんがんじ》とした。
本山《ほんざん》になったのだから、それにふさわしく伽藍《がらん》も壮大なものに修築したが、戦乱たえ間のない時代である上に、本願寺《ほんがんじ》はその財力の豊富さと俗権《ぞつけん》の大を武将らに羨望《せんぼう》・嫉妬《しつと》・憎悪《ぞうお》されていたので、全体の構造を城郭《じようかく》がまえの堅固《けんご》なものにした。八|町《ちよう》四方、周囲に深い濠《ほり》と高壁をめぐらしたものであった。大阪の町はその門前町《もんぜんまち》として信徒らが集まって営んだものである。当時六町あり、その周囲にはさらに土塁《どるい》がめぐり、濠《ほり》がめぐっていたから、さながらに封建大名《ほうけんだいみよう》の城下町であった。
景虎《かげとら》はこの寺城のありさま、城下町の殷盛《いんせい》な状態をみて、実を言うと舌《した》を巻いた。彼の家は代々の一向宗《いつこうしゆう》ぎらいだ。父|為景《ためかげ》はとりわけきらいで、領内の一向宗徒《いつこうしゆうと》を弾圧《だんあつ》した。元来|越後《えちご》は一向宗《いつこうしゆう》にとっては由緒《ゆいしよ》あるところだ。現に府内《ふない》近くの直江津《なおえつ》には宗祖親鸞《しゆうそしんらん》の上陸したという遺跡《いせき》があり、彼が長い間とどまって教えを説いた国だ。それだけに門徒の数も多いし、信仰も熱心だ。これらの門徒らは領主への租税《そぜい》はおこたっても、本山《ほんざん》への納めものは忠実にはたした。本山《ほんざん》の献納《けんのう》のために租税《そぜい》として納むべきものをふり向け、役人にはかれこれとごまかしの言い抜けをすることはしょっちゅうのことだ。こういうことが、為景《ためかげ》を怒らせたのであった。
「坊主《ぼうず》が檀那《だんな》の布施《ふせ》で生きるのは常のことであるが、一向宗《いつこうしゆう》の坊主《ぼうず》どもはあくどすぎる。百姓《ひやくしよう》らの無智《むち》につけこみ、献納《けんのう》をおこたったものは地獄《じごく》に行くとおどしつけては、はたるが上にもはたり、しぼるが上にもしぼろうとする。どうして坊主《ぼうず》にあんなに銭《ぜに》がいることがあるものか。みんな坊主《ぼうず》が破戒無慚《はかいむざん》の贅沢《ぜいたく》につかいすてているのだ。これでどうして領主《りようしゆ》が立つものか」
と、領内の一向宗《いつこうしゆう》の僧どもを弾圧《だんあつ》したのだが、ついにそのために越中《えつちゆう》で戦死した。越中《えつちゆう》で彼と戦ったのは、表面はその土地の豪族《ごうぞく》らであるが、本質は越中《えつちゆう》の門徒だったのだ。おとし穴をこしらえて戦うなど、百姓《ひやくしよう》どもでなければ思いつかない戦術といえよう。武士には体裁《ていさい》がある。効果ある策とわかっていても、あまり品位にかける戦術は使えないのである。
こんなわけであるから、本願寺《ほんがんじ》は景虎《かげとら》にとっては父の仇敵《きゆうてき》といってよいのであったが、今この壮大な本願寺《ほんがんじ》の構え、殷賑《いんしん》な町の様子を見た時、怨恨《えんこん》よりも驚嘆《きようたん》の情のほうが大きかった。彼の胸には、武田晴信《たけだはるのぶ》と本願寺《ほんがんじ》の現門跡顕如《もんぜきけんによ》とが相聟《あいむこ》であることも考えられていた。二人の夫人はともにもう故人になったが左大臣三条公頼《さだいじんさんじようきみより》の娘なのである。
「これは敵としてはならない相手だ」
と思った。
一見《いつけん》しただけで泊まらず、堺《さかい》に向かった。
堺《さかい》は元来|足利《あしかが》将軍から山名《やまな》家にあたえられたものであったが、山名《やまな》家が謀反《むほん》した時|没収《ぼつしゆう》され、大内《おおうち》氏にあたえられたが、大内《おおうち》氏また謀反《むほん》して没収《ぼつしゆう》され、細川《ほそかわ》氏にあたえられ、このころは細川《ほそかわ》氏の陪臣松永久秀《ばいしんまつながひさひで》のものになっていたが、久秀《ひさひで》は多少の租銀《そぎん》を徴収《ちようしゆう》するだけのことで、支配権は持たなかった。町は町自身の支配にあった。この時代に幕府に多額の献金《けんきん》をして、町の自治権その他を買いとったのである。
元来、この地は茅渟《ちぬ》の浦《うら》にのぞんだ漁夫の集落であった。後にこの地の草分けの富商らを納屋衆《なやしゆう》というのだが、納屋《なや》は魚屋《なや》である。元来は魚問屋だったのであろう。ここの繁栄がはじまったのは、大内《おおうち》氏の所領《しよりよう》であった時からである。大内《おおうち》氏は足利《あしかが》幕府の貿易長官の地位にいた。この時代は倭寇《わこう》の全盛時代であったため、明《みん》では倭寇《わこう》と平和な貿易船とを区別するため、足利《あしかが》幕府から出した勘合符《かんごうふ》をたずさえない船は受けつけないことにした。この勘合符《かんごうふ》を出す役目を持っていたのが、大内《おおうち》氏だ。
魚問屋にすぎなかった堺《さかい》の小金持ちらは、この勘合符《かんごうふ》をもらい、おそらくそのはじめは諸大名に出資を仰いでのことであろうが、貿易船を仕立てて中国や朝鮮《ちようせん》に出かけて交易《こうえき》し、巨利《きより》を得、しだいに富有《ふゆう》となり、ついに豪富《ごうふ》となった。こちらから行くだけでなく、向こうの船も来る。当時中国ではここと博多《はかた》と薩摩《さつま》の坊《ぼう》ノ津《つ》を日本|三津《さんしん》といったというが、坊《ぼう》ノ津《つ》は少しおちる。博多《はかた》とこことがならんで日本の貿易港の双璧《そうへき》であった。こんなに殷賑《いんしん》になり、富庶《ふしよ》になりしたので、幕府から自治権を買いとるなどということもできたのである。
応仁《おうにん》の大乱以来、京都は打ちつづく戦乱のために焼土と化した。再建してもすぐ合戦《かつせん》があって焼けるし、荒らされるから、ろくな家は建たない。留《とど》まっている者もどうしても京にいなければならない者だけで、わきへ行ける者はみな京を去ってしまった。公家衆《くげしゆう》まで立ち去っているのだ。武田晴信《たけだはるのぶ》と本願寺顕如《ほんがんじけんによ》の夫人の父である三条公頼《さんじようきみより》も左大臣《さだいじん》という高官でありながら山口《やまぐち》の大内《おおうち》氏を頼って都落《みやこお》ちしている間に、陶晴賢《すえはるかた》の反乱によって大内《おおうち》氏がほろんだ時、死んでいるのである。
公家衆《くげしゆう》さえ天皇をおき去りにして都落《みやこお》ちしているのだから、芸道・技芸をもって立っている人々はなおさらのことだ。思い思いに都を落ちたが、もっともその人たちが多く集まったのは、この堺《さかい》であった。芸道・技芸の人々は、これを鑑賞し、保護してくれる人々がなければ立っていけない。豪商《ごうしよう》・大賈軒《たいこのき》をならべ、町また殷賑《いんしん》をきわめている上に、ここは平和郷でもあった。こんな時代に軍備がなくては、こんな富有《ふゆう》な土地は他の侵略をまぬかれることができないので、この町は諸家《しよか》の浪人《ろうにん》を召しかかえて雇兵《やといへい》とし、町の周囲には深い濠《ほり》をめぐらし、高い塀《へい》をきずいて、堅固《けんご》な防備をかためていたのだ。ここに人々が集まって来たのは、砂糖のかたまりに蟻《あり》が集まるようなものだ。もっともしぜんななりゆきであった。
だから、このころの堺《さかい》は和歌・連歌《れんが》・音曲《おんぎよく》・香道《こうどう》・舞踊《ぶよう》・絵画《かいが》・彫刻《ちようこく》・細工《さいく》もの等の名匠《めいしよう》・巨匠《きよしよう》が集まり、新しく茶道《さどう》という芸術も誕生し、日本の芸術・技芸の淵叢《えんそう》になっていたのである。
こんなにぎやかな町、こんな豊富な町は、これまで見たことがない。景虎《かげとら》は見るものごとに心をおどろかせながら町に入った。
堺《さかい》の町の宿は、毎年|越後《えちご》に来る堺《さかい》商人の本家|納屋助八郎《なやすけはちろう》の家にした。京から近々に貴地《きち》に行くと通知を出しておいたので、助八郎《すけはちろう》の家では心待ちしていた。助八郎《すけはちろう》は高麗《こうらい》に行っているとかで、番頭《ばんとう》と助八郎《すけはちろう》の妻とが迎えた。
「おいでやす。いつおいでるかと、毎日毎日心待ちしてましたんどっせ。ちょうどの時、主人が他出《たしゆつ》しとりまして、鈍《どん》なことどす。どうぞゆっくりとご滞在《たいざい》あそばして、ゆっくりとご見物しておくれやして」
青く眉《まゆ》を剃《そ》った美しい内儀《ないぎ》は、花のようにやわらかな口もとから黒い宝玉のような歯をちらちらときらめかせながら、愛想《あいそ》よく、そして、てきぱきと応対した。
まずそれにおどろかされた。相当な身分の家の妻が、よほどに親しい者なら別として、普通の客の前に出て、喋々《ちようちよう》と応対するなど、越後《えちご》などではさらにないことだ。しかし、それよりもおどろかされたのは、主人が高麗《こうらい》に行っているというのを、ちょいと隣近所に用足しに行っているくらいな調子で言っていることであった。
この気宇《きう》の壮大さは武士にはないものであると、感嘆《かんたん》もしたが、
(町人《ちようにん》というものはおそろしいものだ。利のためには地獄《じごく》の底にでも出かけて行くかもしれない)
とも思わずにはおられなかった。
堺《さかい》には十日|滞在《たいざい》した。
鉄砲工場も見せてもらった。
鋼《はがね》を刀を鍛《きた》えるように焼きを入れて打ちのばしては折り返し折り返して打ちのばし、細い鉄棒に巻きつけて打ち、合わせ目を薬と真鍮《しんちゆう》でつなぎ、中の鉄棒をぬきとり、底をふさぎ、わきにタガネで穴をあける。底をふさぐには、筒《つつ》の内側をタガネでねじ形に切り、ねじ形に切った鉄棒をねじこむのであった。
「このふさぎようがわからんで、はじめ種子島《たねがしま》でこれをこしらえた鍛冶《かじ》はたいへんな苦労をし、娘を紅毛人《こうもうじん》にくれて、やっと聞き出しましたそうで」
と、番頭《ばんとう》は語った。ともあれ、すべてが見ているのが辛気《しんき》くさくなるほどめんどうで、はかの行かないものであった。高価なのも道理だと思われた。百|梃《ちよう》だけ注文した。
本願寺《ほんがんじ》にたいして、一応の工作をしておくことが必要だと思われたので、金津新兵衛《かなづしんべえ》を使者として音物《いんもつ》をもたせてつかわした。
一 太刀《たち》 一口《ひとふり》 一 月毛馬《つきげのうま》 一頭 一 鳥目《ちようもく》 千疋《びき》
このたび堺《さかい》見物にまいりまして、貴地《きち》を通過しましたので、あいさつのため進上いたします
という目録であった。太刀《たち》と鳥目《ちようもく》(銭)はもちろん現物を持たせてやったが、馬は旅先のことで用意がないので、これは口上《こうじよう》で、
「帰国してからさし立てることにします」
と言わせた。新兵衛《しんべえ》はその日のうちに帰って来た。
「おどろきました。外から見たところもおびただしい堅固《けんご》さでありますが、内部の厳重なこと、話そうにも何にもできることではありません。たとえいく万の軍勢が何年攻めようと落ちる気づかいはありません。もとより、その華麗《かれい》・豪奢《ごうしや》は、てまえこの年まで見たことがありません。不思議な寺ができたものでございます」
と、舌《した》を巻いて語った。するとその翌朝には、本願寺《ほんがんじ》から太刀一口《たちひとふり》、どんす十|端《たん》、縞《しま》織物二十|端《たん》を持って答礼《とうれい》の使者が来た。こちらの贈物に数十倍するお返しだ。
よいほどに応対して帰した後、景虎《かげとら》は皮肉《ひにく》に笑った。
「世のたとえに反対にものをもろうことを寺から里へというが、文字通りにこれじゃのう。新兵衛《しんべえ》が言う通り、不思議な寺ができたものじゃわ」
堺《さかい》から高野山《こうやさん》に向かうことにしたが、乗馬や荷物は若侍《わかざむらい》らに宰領《さいりよう》させて京都におくり、山へは豪傑連《ごうけつれん》だけ召しつれた。一同いく年ぶりに六部《ろくぶ》姿に変装して、堺《さかい》を出た。
この時代の高野山《こうやさん》の参拝者は、地方により家により、宿坊《しゆくぼう》がきまっていた。それは先祖代々のものだ。越後長尾《えちごながお》家の宿坊《しゆくぼう》は、本中院谷の中院|御坊《ごぼう》と普通言われている竜光院《りゆうこういん》であった。これは長尾《ながお》家だけではなく、上越後《かみえちご》地方の府内《ふない》を中心とする付近一帯の地域のもので高野山《こうやさん》に参詣《さんけい》する者は、武士たると百姓《ひやくしよう》たるとを問わず、この院に泊めてもろうことになっていた。毎年この院から府内《ふない》地方に坊さんが来て、一軒一軒まわって、護符《ごふ》を配布し、それにたいしてどこの家でも応分の布施《ふせ》をするのだ。つまり、この地方の家々はこの院の檀家《だんか》であり、ここを通じて高野山《こうやさん》を信仰しているというわけであった。禅宗《ぜんしゆう》の信者でも、天台宗《てんだいしゆう》の信者でも、一向宗《いつこうしゆう》の信者でも、それはかわりはなかった。おかしな話ではあるが、日本人には神様にたいする信心と弘法大師《こうぼうだいし》にたいする信心は宗派《しゆうは》信仰とは別なのである。
ここにも前もって、不日《ふじつ》に参詣《さんけい》のために登山すると知らせておいたので、首を長くして待っていた。院では越後《えちご》の守護《しゆご》大名である景虎《かげとら》の参拝に大喜びで、寺僧《じそう》が数人ついて、奥の院から壇場《だんじよう》、これらに付属している十谷の寺々に至るまで案内してくれた。
南国に似合わず寒気《かんき》のきびしいこの山は、もういく度《たび》かの雪が降ったとかで、谷々や日陰《ひかげ》には白いものが消えのこっており、朝ごとにきびしい霜《しも》がおりた。
ここに来てから四日目、景虎《かげとら》は寺僧《じそう》の一人が古製の琵琶《びわ》を一面|所蔵《しよぞう》しており、ときどき奏して楽しんでいると聞いた。名器《めいき》と称せられるほどの琵琶《びわ》をほしいとはいつも思っていたことだ。京でも堺《さかい》でも気をつけていたが、ついに出あわなかったのだ。早速会って見せてくれと頼むと、快く見せてくれた。
一見《いつけん》して景虎《かげとら》は気に入った。転手《てんじゆ》をひねって爪弾《つまび》いてみると清亮《せいりよう》な音《ね》が立った。いっそう気に入った。譲ってもらえまいかと頼んだが、それはゆるしていただきたいという。そんなら、せめて一日だけ貸してほしいと頼みこんで、翌日早朝、それをたずさえて深い杉木立ちの中に入って行った。高野《こうや》の山林は弘法大師《こうぼうだいし》がこの山をひらいた時から特別|愛護《あいご》したものと伝える。二かかえも三かかえもあるような巨樹《きよじゆ》が真っ直ぐに空高くのび、夜明けの霜気《そうき》の中に、他の土地では見ないほどの深い色に繁っている。
景虎《かげとら》はほどよいところに座をしめ、琵琶《びわ》を抱き上げて調子を合わせはじめたが、最初の音から胸の底まで澄みとおり、顫音《せんおん》とともに魂がふるえるように感じた。いつもとまるでちごう。稀世《きせい》の名器《めいき》であるにちがいなかった。高揚《こうよう》するものが心にあった。
上玄《じようげん》の曲はこの道で最上の秘曲《ひきよく》とされ、このころ彼も憲政《のりまさ》から伝えられたのだが、心ゆくまで弾《ひ》きこなせたことがない。しかし、どうやら今朝《けさ》は弾《ひ》けそうな気がした。
調子を合わせおわると、心気をすまして弾奏《だんそう》にかかったが、われながら軽々とひける。きびしい寒気《かんき》の中だのに軽く自在に手が動いて、しだいに熱中し、いつかわれを忘れた。身は空を流れる浮き雲の上に座《ざ》しているような気持ちになった。上には朝の日のみなぎった青い空があり、脚下《あしもと》に風が流れている。いやいや、全身が気体と化して空にとけてしまい、琵琶《びわ》の音《ね》だけが空を流れてどこまでもどこまでもひろがっていく気持ちであった。
どれだけの時間が立ったのだろうか、忽然《こつぜん》として、胸にひらめくものがあった。
「天真独朗《てんしんどくろう》……」
それと同時に、眼の前の巨杉《きよさん》も、そのあたりの岩石も、はるかな山のいただきも、天も、地も、あらゆるものがカーッと明るくなり、ほとんど真っ白にさえ見えた。外部だけでない。自分自身がかがやきを発しているようにさえ思われた。朝日の光を反射してのことではない。それはわずかに遠い山のいただきや杉の梢《こずえ》を赤く染めているだけなのだ。それぞれのものがみずから光を発していると彼には見えた。
そのかがやきの中で、景虎《かげとら》はなお無意識に弾奏《だんそう》をつづけていたが、ふと心づき、渾身《こんしん》の力をこめて、一気に四弦を弾《ひ》き切り、声に出して言った。
「解けた!」
彼は無字の公案《こうあん》が解けたと信じた。歓《よろこ》びが徐々《じよじよ》にこみ上げてきて、知らず知らずにほほえみが浮かんできた。
美女《びじよ》は魔物《まもの》
京へかえったのは、すでに十二月に入ってからであった。あの琵琶《びわ》をたずさえていた。どうしても譲ろうとしないのを、頼みに頼んで譲ってもらったのであった。なかなかの名器《めいき》であり、ひきやすくもあったが、それを弾奏《だんそう》している間に一つの悟達《ごたつ》に達したと思われるために、手離しがたいものになったからであった。彼はそれをみずから負うて京にかえって来た。
「めずらしい姿でかえっておいなはったのう。そなたそないな嗜《たしな》みがあったのか。槊《ほこ》を横たえて詩を賦《ふ》すというに近い。古名将《こめいしよう》のおもかげがあるわ」
と三条西大納言《さんじようにしだいなごん》はほめて、
「どや、名前つけたろか。朝嵐《あさあらし》いうのはどや。『吹きおろす富士の高嶺《たかね》の朝嵐《あさあらし》、袖《そで》しをれそふ浮島《うきしま》が原』という古歌《こか》が、風雅《ふうが》和歌集にあるわな。そなたの居城《きよじよう》は山のいただきにあるちゅうさかい、そこでひいたら、『吹きおろす春日《かすが》の山の朝嵐《あさあらし》』じゃわな。ええ名やないか」
と言った。
「朝嵐《あさあらし》、よい名でございます。ありがたく頂戴《ちようだい》いたします」
景虎《かげとら》は感謝して受けた。春日山上《かすがさんじよう》に早朝の爽涼《そうりよう》の中に弾奏《だんそう》するというのが気に入った。みずからの奏する楽音《がくおん》が海にひろがり、遠く佐渡《さど》ガ島《しま》の方にひびいて行くであろうことを思うと、雄大な気宇《きう》がのびのびと胸にひろがる思いであった。
京についた翌日、大徳寺《だいとくじ》に出かけた。
宗九《そうく》は一目《いちもく》して、景虎《かげとら》がなにかをつかんだことがわかったらしい。前にすわるや、左にとった如意《によい》を右にとりなおしたかと思うと、おそろしい目でにらみつけて、
「作麼生領会《そもさんりようえ》するぞ! 無《む》ーッ!」
と大喝《だいかつ》した。
景虎《かげとら》は頂礼《ちようらい》し、合掌《がつしよう》してさけんだ。
「天真独朗《てんしんどくろう》!」
「無は天真独朗《てんしんどくろう》か! 人間は生きものじゃが、生きものは人間か!」
和尚《おしよう》はひざを立ててどなりつけた。
景虎《かげとら》ははっとした。たしかにつかんだと信じきっていたものが何の他愛《たあい》もないものであったことを感じた。狼狽《ろうばい》し、ことばがふさがった。
「さあ、言え! さあ、言え! さあ、言え! 無とはなんだ! 無とはなんだ! さあ、言え!」
つめかけつめかけ、どなり立てる。やせて、やさしくて、弱々しげでさえあった宗九《そうく》はおそろしい形相《ぎようそう》になっていた。長い白い眉毛《まゆげ》の下の目は巌下《がんか》の電光のようにきらめき、力にあふれている。今にもふり上げた鉄|如意《によい》がうなりを生じて打ちおろして来そうだ。
景虎《かげとら》の全身には汗《あせ》が流れ、呼吸がせまってきた。さけんだ。
「そのままの姿でござる!」
宗九《そうく》はいっそう腹を立てたようであった。ひざを景虎《かげとら》のひざに乗りかけ乗りかけ、どなり立てた。
「まだそんなことを言うている! 窮屈漢《きゆうくつかん》め! その窮屈《きゆうくつ》を解脱《げだつ》するが悟りと知らんか! さあ、言え! さあ、言え!」
追いつめられ、逃げ場を失い、せっぱつまった景虎《かげとら》はうめいた。
「むーッ!」
「なんじゃと?」
「無ーッ!」
宗九《そうく》の相貌《そうぼう》はがらりとかわった。やさしい顔になり、からからと笑いながら言った。
「できたわ」
景虎《かげとら》はぼうぜんとして自失《じしつ》している気持ちであった。渾身《こんしん》の力でおしていたものが、サッとはずされたようでもあり、目の前の障子《しようじ》がとれ、視界がからりとひらけたようでもあった。ほっと呼吸《いき》をつき、全身に浮いた汗《あせ》がつめたくなっているのに気づいた。
「どうじゃな、今の気持ち」
「八方無礙《はつぽうむげ》、天地がひろびろとなった気持ちでございます」
「よしよし、今こそそなたは金剛不壊《こんごうふえ》、死んで死なぬ、自由自在の仏となったのじゃ。めでたいのう、めでたいのう。さあ、今日はかえって、ゆるゆると法悦《ほうえつ》にひたり、酒でも飲み、明日またござれ。進ぜるものがある」
と宗九《そうく》は言った。
翌日行くと、宗九《そうく》は宗心《そうしん》という法号を授け、三帰五戒《さんきごかい》をしたためた書きものをあたえ、また衣鉢《いはつ》を伝えた。三帰五戒《さんきごかい》の三帰《さんき》は仏《ぶつ》・法《ぽう》・僧《そう》の三宝《さんぼう》に帰依《きえ》する戒《いましめ》であり、五戒《ごかい》は在家《ざいけ》の者の守るべき五つの戒律《かいりつ》である。不殺生《ふせつしよう》、不偸盗《ふちゆうとう》、不邪淫《ふじやいん》、不妄語《ふもうご》、不飲酒《ふおんじゆ》の五戒《ごかい》だ。武将であり、酒好きである景虎《かげとら》に不殺生戒《ふせつしようかい》・不飲酒戒《ふおんじゆかい》はおかしいが、これは不義非道《ふぎひどう》の動機で殺すなの意であり、極端《きよくたん》な大酒をするなの意であろう。衣鉢《いはつ》とは三衣《さんえ》(三種の袈裟《けさ》)と布施《ふせ》を受ける鉢《はち》で、達磨《だるま》が慧可《えか》にこの二つを授けて伝法《でんぼう》の証としたという故事《こじ》から、禅家《ぜんけ》ではこの二物を伝えることは道の奥義《おうぎ》を伝えたことになるのだという。
これらのことは、いかに宗九《そうく》が宗心《そうしん》の道心《どうしん》を買ったかを証するものであろう。居士禅《こじぜん》の大器と思ったのであろう。
法悦《ほうえつ》のよろこびのまだ失《う》せない景虎《かげとら》は、心にしみてこれらのものを受けた。
なお十数日京にとどまり、帰国の途《と》についたのは、極月《ごくげつ》もおしつまった下旬であった。
粟田口《あわたぐち》から入って蹴上《けあげ》をこえ、山科野《やましなの》に出、逢坂山《おうさかやま》をこえれば、湖畔《こはん》の大津《おおつ》だ。湖畔《こはん》をめぐり、唐橋《からはし》をわたって東岸に出て、北へ北へと行く。湖国の極月《ごくげつ》はもうきびしい寒気《かんき》だ。田は刈りわたし、湖岸やいたるところにある沼地《ぬまち》に叢生《そうせい》している葭葦《よしあし》はうら枯れ、北海をわたり若狭地峡《わかさちきよう》をこえて吹きつけて来るつめたい風に蕭々《しようしよう》と鳴っていた。左手の対岸に比叡《ひえい》があり、その右手に比良《ひら》がある。比良《ひら》のいただきは真っ白に雪をかぶっていたが、比叡《ひえい》は黒いほどに蒼々《そうそう》たる色に蔽《おお》われている。
つめたい風に吹かれながら、景虎《かげとら》はしばし湖畔《こはん》に馬をとめて、比叡《ひえい》を打ちながめた。ゆくりなくも、彼の胸には源平《げんぺい》の昔のことが思い浮かんでいた。
木曾義仲《きそよしなか》は信州《しんしゆう》の木曾《きそ》の峡谷《きようこく》地帯におこったが、越後《えちご》の城資茂《じようすけもと》と戦ってこれを破り、越後《えちご》を手に入れてから飛躍《ひやく》的に勢力を増大し、越中《えつちゆう》に出て倶利加羅峠《くりからとうげ》の夜襲戦《やしゆうせん》と篠原合戦《しのはらのかつせん》に引きつづき平家《へいけ》の大軍に殲滅《せんめつ》的大打撃《だいだげき》をあたえ、あとは破竹《はちく》の勢いで加賀《かが》を席巻《せつけん》し、越前《えちぜん》、近江《おうみ》を長駆して京にせまり、比叡山《ひえいざん》のいただきに白旗を林立させたことは、琵琶法師《びわほうし》の語る平家《へいけ》物語で、景虎《かげとら》は十分に知っている。平家《へいけ》の一門は狼狽《ろうばい》し、恐怖し、戦慄《せんりつ》し、多年住みなれた一門の邸宅を一炬《いつきよ》の煙として都を落ち、西海《さいかい》の波に浮かんだのだ。
「越後《えちご》から京への道は、三百数十年の昔、義仲《よしなか》によって踏みひらかれている。できないことではない」
と思った。京で拝謁《はいえつ》した天皇や将軍の顔がちらちらと思い浮かんだ。
彼は自分が叡山《えいざん》の四明《しめい》が獄《だけ》の草山の上に立って、山城《やましろ》盆地を見下ろしているような気になった。彼は京都|滞在《たいざい》中に延暦寺《えんりやくじ》に参拝し、四明《しめい》のいただきにも登り、将門《まさかど》岩に腰をおろして眺望《ちようぼう》したのだ。京は眼下に、黒くごみごみとあり、比叡《ひえい》からなだれ下っている東山山塊《ひがしやまさんかい》との間に鴨《かも》川が細く白く見え、遠く右手に桂《かつら》川が白くうねり、はるかに南方の薄靄《うすもや》の中で一つに合っている。
「おれは木曾《きそ》などとちがって、みずから将軍になる気などない。おれは天子を奉じ、将軍を奉じ、この乱脈《らんみやく》をきわめた世を道ある世とするのだ」
天皇にしても、将軍にしても、自分の来るのをよろこばないわけはないと思った。
「おれの上洛《じようらく》をおそれ、色を失い、ふるえ上がるのは、三好《みよし》が輩《ともがら》だ。管領《かんれい》家|細川《ほそかわ》の家老であり、将軍にとっては陪臣《ばいしん》でしかないくせに、京《みやこ》の政権を一手《いつて》ににぎり、不臣《ふしん》のかぎりをつくしている三好《みよし》ばらだ!」
心が高揚《こうよう》してきた。時のすぐるのを忘れて、馬をとどめたままであった。こごえるような風が吹き立て、馬のたてがみを乱し、たもとをひるがえし、頬《ほお》を吹いたが、それも意識しないでいた。
北陸路《ほくりくじ》はすでにいく度《たび》かの雪に見舞われてはいたが、まだ根雪《ねゆき》は来ていなかった。楽な旅を重ねて、数日の後には魚津《うおづ》についたが、その夜から、景虎《かげとら》は風邪気《かぜけ》で、翌日は熱があった。かなりの高熱だ。出発を見合わせて、あたたかくして寝た。
「今日一日やすんだら、明日はなおろう」
と、景虎《かげとら》は言ったのだが、翌日に至っても下熱《げねつ》せず、三日目になってやっと平熱になった。しかし、まだからだがふらふらする。
「お顔色がようござらぬ。真《ま》っ青《さお》でござる。いま一日休みなさるがようござる」
と、家来らもいう。もう一日休むことにした。年の内に帰りつけるようにと心組んで京を出たのだが、もうそれのできないことが明らかになった以上、急ぐことはなかった。
厚く着物を重ね、炉《ろ》へんにすわって茶をのんでいる景虎《かげとら》の前に、昼を少しまわったころ、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》、戸倉与八郎《とくらよはちろう》、秋山源蔵《あきやまげんぞう》の三人が、ひざをつきならべて、
「お願いがござる」
と言った。
「なんだ」
「ちょっくら、半時《はんとき》か一時《いつとき》、おひまをたまわりたいのでござる。殿様の看病に三日も家にばかりいて、気は鬱《うつ》する上に、骨身がかッたるうてなりましねえすけ、ちょっぽり外を歩いて来てえのでござる」
という。
無理はない。こんな無為《むい》な生活は、この連中にはまことにめずらしいのである。
「よい。歩いて来い。申すまでもないことだが、人目《ひとめ》に立つことをしてあやしまれたりなぞしてはならんぞ」
「大丈夫《だいじようぶ》でござる」
三人はよろこんで外へ出た。
彼らが景虎《かげとら》に言ったことにうそはなかったが、もう一つ理由があった。景虎《かげとら》にとって、この国は父の敵の国だ、いずれは当国|征伐《せいばつ》のことを思い立たれるにちがいないから、こうした機会によくよく城やその周辺の地理を見きわめておくべきだという思案。
三人はさりげない様子であちらこちらを見てまわり、最後に城のまわりを一巡したが、そのころからにわかに雲が低くなり、気温が下がってきた。
「急いで帰ろう。どうやら、これは雪のようじゃぞ」
足を速めて帰りにかかったが、一つの辻《つじ》を曲がって広い通りに出ると、つい目の前にひときわ大きな屋敷があった。はば二|間《けん》ほどの濠《ほり》をめぐらし、その内側にうら枯れた芝を植えた高い土居《どい》があり、土居《どい》の上にはからたちがひめ垣《がき》として高くぎっしりと植えこまれている。
京に上る途中、景虎《かげとら》が琴《こと》の音《ね》を漏《も》れきいたあの屋敷であるが、もちろん、三人はそれを知らない。
「ほう、堅固《けんご》なかまえじゃのう。これは城主の鈴木《すずき》大和守《やまとのかみ》の下屋敷《しもやしき》か、重臣《じゆうしん》の屋敷じゃな、必定《ひつじよう》」
「よう見ておこうず。こげいな屋敷がまさかの時にはむずかしいところになるのじゃすけ」
ささやき合いながら、近くよってみる。
濠《ほり》の水はよく澄んでいるが、底の見えないほど深い。つめたげな青黒い水をたたえているのがすごいようだ。菱《ひし》をうえこんであるのであろう、枯れた蔓《つる》がところどころに浮いていた。
濠《ほり》に沿うてまわりながら辻《つじ》を曲がると、つい十五、六|間《けん》の向こうを、三人づれで行く人があった。美服をまとった女である。|むし《ヽヽ》をかけた市女笠《いちめがさ》をかぶっている。他の二人は、一人は小女、一人は下僕《げぼく》だ。物詣《ものもう》でにでも行ってのかえりであろうか、下僕《げぼく》はにない棒で塗りの円櫃《まるびつ》を両掛けにしてになっていた。薄暗く陰気になった通りには、他には人影がない。その中に美しい色彩の人がちらちらと動くのが、何ともいえず艶美《えんび》な感じであった。
あとからついて行きながら、三人の武者《むしや》らは、主人の女の服装と姿に都会の空気を感じていた。京や堺《さかい》で見て来たと同じものがあった。
少し行くと、門があった。城門のようにいかめしい門だ。門から道路に橋が架《か》してある。女らはその橋をわたりかけた。
そのころから、ちらちらと雪が降りだした。こまかな花びらの舞いおちるような雪の中を橋を渡っている女の姿はいっそう艶《えん》であった。
(なるほど、この屋敷の主人の妻女らしいな。京の堂上衆《どうじようしゆう》の姫君《ひめぎみ》でも申し受けたのじゃろうか)
と、武者《むしや》らは思った。金を積みさえすればそれがむずかしいことでないのは、当時の人は皆知っていたことだ。
三人に、ふと小女が気づいて、主人に何やら言ったようであった。女はゆったりとふりかえり、笠《かさ》のまわりに垂れている|むし《ヽヽ》をわけてこちらを見た。雪がちらちらするので、すぐにはわからないのであろうか、ややしばらく凝視《ぎようし》している。白く細《ほ》っそりとした顔形だ。
(美しい!)
と、三人は一様《いちよう》に思ったが、同時にハッとした。顔色のかわるのが自分でもわかった。
女ははらりと|むし《ヽヽ》をおろし、むきをかえ、門内に進み入った。供の二人もつづく。音がきしって鉄鋲《てつびよう》を打った扉がしまった。
三人は呼吸《いき》をとめ、身動き一つしないでいたが、たがいに目くばせして歩き出した。急ぎ足になっていた。
ややそこを遠ざかってから立ちどまり、ふりかえり、つくづくと屋敷を見た。雪はもうやんでいた。
弥太郎《やたろう》が大息《おおいき》ついていう。
「おどろいたのう、ありゃ藤紫《ふじむらさき》じゃったぞい」
戸倉与八郎《とくらよはちろう》がまた大息《おおいき》ついて応じた。
「ほんによ。おれは|あやかし《ヽヽヽヽ》かと思うたぞい」
「あのさわぎでどこへ行ったかと思うていたら、こげいなところに来ていたのじゃ。ほんとぞや、美しいおなごは魔物《まもの》じゃとは」
と、秋山源蔵《あきやまげんぞう》が言う。これも大息《おおいき》ついている。
「たしか、あの時、あのおなごは殿原豊後《とのはらぶんご》殿を刺し殺して姿を消したということじゃったのう」
と、また弥太郎《やたろう》が言った。
「そう聞いとる、いよいよもって魔物《まもの》にまぎれがない」
と、秋山《あきやま》は身の毛のよだつような顔だ。
「あのおなご、われらをしげしげと見とったが、われらの顔に見おぼえがあるのではないかや。とすれば、大事《おおごと》じゃぞい。こうはしとられんぞ」
と、戸倉《とくら》が言った。
「そうじゃな」
と、弥太郎《やたろう》は首をひねったが、すぐ、
「いや、それは大丈夫じゃろうで。われらこそよそながら見て見覚えてあるが、向こうは見覚えのあろうはずはなかろうず。しかし、ともあれ、早うかえって、殿《との》に申し上げようず」
大急ぎではたご宿にかえったが、町に出ると、すぐ通行人をつかまえて、今見てきた屋敷がだれの屋敷かきいた。
「ああ、からたち屋敷でやすか。ありゃ殿様のお下屋敷《しもやしき》ですわい。あすこには京下りの上搶蘭[《じようろうにようぼう》がおいでやしての、殿様は首ったけでやすわい。ハハ」
と、聞かれた男は言った。
越後《えちご》から来た女ではないかと聞いてみたかったが、三人が三人見て藤紫《ふじむらさき》であると認めたことではあり、あまりくどくど聞いて怪しまれてはならないと、それだけで、礼を言って別れた。
景虎《かげとら》は炉《ろ》べりで酒をのんでいた。先刻《さつき》までの青白かった顔がいい顔色になっている。
「帰ったか。どうじゃった。何ぞおもしろいものを見てきたか」
と、上《じよう》きげんで問いかけた。
「見た段でございますか。思いもかけぬものを見てきてございます」
弥太郎《やたろう》はたくましい膝《ひざ》を進めた。
「ほう、そうか。話せ。まず一つやろう」
弥太郎《やたろう》から順々に三人に盃《さかずき》をあたえた。
その盃《さかずき》がすんでしもうのをもどかしげに待って、弥太郎《やたろう》は言う。
「故|弾正《だんじよう》様のおもいものでござった京上掾sきようじようろう》の藤紫《ふじむらさき》を見てまいりました」
「なにい?」
景虎《かげとら》は口もとに運びかけていた盃《さかずき》をとめて、きっとなって弥太郎《やたろう》を見返した。
弥太郎《やたろう》は委細《いさい》を語った。
景虎《かげとら》はその屋敷が、京への上りがけに自分がその外の通りで琴《こと》の音《ね》を聞いた屋敷であることを知った。あの時、藤紫《ふじむらさき》のことを思い出したようであることも思い出した。しかし、それらのことはすべてだまっていた。
「そうか」
とだけ言った。
彼は兄が最期《さいご》のきわまで藤紫《ふじむらさき》を忘れかねていたことを知っている。
「お藤《ふじ》よ、これ、お藤《ふじ》よ、そなたどこへ行って……」
と、息のたえる間際《まぎわ》の兄のつぶやきが、今でもありありと耳の底にのこっている。それゆえに、捨ておこうと思った。藤紫《ふじむらさき》は悪い女だ。もともとかしこくない兄ではあるが、藤紫《ふじむらさき》が来てからその施政《しせい》ぶりはいっそう悪くなった。兄の悪政《あくせい》の半分以上はこの女のせいといってよい。それだけに、越後《えちご》の民百姓《たみひやくしよう》の怨恨《えんこん》が集まっている。どうにかしてこれを誅殺《ちゆうさつ》して、首を持ちかえってさらしものにすれば、どれだけ人々はよろこぶか知れないのである。しかし、捨ておこうと思った。兄の末期《まつご》の心を酌《く》んでのことであった。
「おなごにすたりものはないと聞いたが、ほんとじゃの、ハハ」
と、笑った。
意外に手ごたえがないので、弥太郎《やたろう》らは不服げであったが、もう景虎《かげとら》は相手にならず、
「琵琶《びわ》をひいて聞かそうか」
といって、琵琶《びわ》をとり出させた。
「万巻《ばんかん》の書を読み、万里《ばんり》の道を行《ゆ》いて、はじめて人はともに談ずることができる」
と、中国の古哲人が言っている。書物の種類が少なく、また手に入れにくかった時代、旅行はもっとも効果ある学問であった。
十五の時、六部《ろくぶ》姿になって近国を遍歴《へんれき》した際もずいぶん得るところがあったが、こんどはいっそうであった。旅行の範囲が広かったせいもあるが、その後、戦争や、兄弟争いや、政治や、一通り世の中の経験を積んだ後であったからでもあろう。
話に聞いてある程度の想像はしていても、京都の荒廃《こうはい》、皇室《こうしつ》の衰微《すいび》、幕府の権威の失墜《しつつい》等がこうまでひどかろうとは思われなかった。景虎《かげとら》はここに天の自分にあたえんとしている使命を知り得たと思った。堺《さかい》を見て、新しい外来の文化におどろき、また平和が人間の社会をどんなに豊富に、また幸福にするものであるかを心にしみて感じた。本願寺《ほんがんじ》の勢力の強大さ、高野《こうや》の霊域《れいいき》の森厳《しんげん》、清浄《せいじよう》さ、徹岫宗九禅師《てつしゆうそうくぜんじ》のきびしい鉗鎚《かんつい》、みな強烈なものとなって心にのこった。景虎《かげとら》は一まわりも二まわりも自分が成長したように感じた。
年が明けて三日目、彼は春日山《かすがやま》にかえりついた。
出発するまでに彼はこう予定していた。年の暮れには帰国し、武田《たけだ》にたいして、信州《しんしゆう》の諸豪族《しよごうぞく》の旧領を返還《へんかん》するよう要求する。武田《たけだ》は承知するはずはないが、その交渉が決裂するのは三月か四月ごろの、ちょうど兵を動かすに都合《つごう》のよい季節になる。
この計画は旅の間に綿密《めんみつ》な工夫《くふう》が加えられたが、帰着《きちやく》するとすぐ、実行にとりかかった。まず甲府《こうふ》へ使者をつかわした。
「かけちがっていまだ拝眉《はいび》の栄を得ないが、武勇|絶倫《ぜつりん》の芳名《ほうめい》はつとに承って、仰望《ぎようぼう》している。すでに昨年のことになるが、信州《しんしゆう》の豪族村上義清《ごうぞくむらかみよしきよ》、高梨政頼《たかなしまさより》、島津忠直《しまづただなお》、井上昌満《いのうえまさみつ》、須田満国《すだみつくに》、栗田永寿《くりたながひさ》らが拙者《せつしや》のもとにまいり、貴殿《きでん》に本領を横奪《おうだつ》せられ、居るに所がないと訴えた。まことにあわれである。禽獣《きんじゆう》ならば知らず、人間はおのれ強ければとて、他を侵奪《しんだつ》、圧服《あつぷく》すべきではない。人間の世界には道がある。人それぞれ道をふむことによって秩序《ちつじよ》が保たれてこそ人間の世界である。公の賢明《けんめい》、よもお知りでないことはないはずである。速《すみ》やかに彼らの所領《しよりよう》を返還《へんかん》し、彼らを安堵《あんど》せしめられたい。切《せつ》に願うところである」
という口上《こうじよう》であった。
これと同時に、北陸路《ほくりくじ》の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》にたいする懐柔《かいじゆう》工作にかかった。これは旅の間に、越中《えつちゆう》、加賀《かが》、越前《えちぜん》等の人々の一向宗《いつこうしゆう》の信仰の熱烈さを実見し、石山本願寺《いしやまほんがんじ》の勢力の強盛《きようせい》を見たからであった。今のままでは、武田《たけだ》と手切れになり、その争いが長引けば、北陸路《ほくりくじ》の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》は越後《えちご》の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》に働きかけ、国内にさわぎをおこすおそれがあった。為景《ためかげ》の時代、越後《えちご》内の一向宗《いつこうしゆう》の寺々は全部追いはらわれて、越中《えつちゆう》、能登《のと》、加賀《かが》等に分散したが、国内の在俗《ざいぞく》の信者はほとんど全部がそのままに残留している。門徒は農民だけでなく、豪族《ごうぞく》にもいる。危険は必然といってよかった。
彼はまず、大阪で石山本願寺《いしやまほんがんじ》に、国もとから差《さ》し上《のぼ》せると約束して目録に書きのせておいた月毛《つきげ》の駒《こま》を、大阪にひいて行かせた。とくに厳選した駿馬《しゆんめ》であった。
次には根本的な対策を講じた。
去年|武田《たけだ》氏のためにうばわれた高梨政頼《たかなしまさより》の居城高梨《たかなし》城は、高梨平《たかなしだいら》の中心である中野《なかの》にあるが、その中野《なかの》に隣接して笠原《かさはら》という村がある。ここに本誓寺《ほんせいじ》という一向宗《いつこうしゆう》の寺があった。ずいぶんな大寺院で、北信州《しんしゆう》から西|越後《えちご》の一向宗《いつこうしゆう》の寺々はみなその支配を受けていたので、本願寺《ほんがんじ》でも大事にし、住職には特別に人をえらんでおくるのが例になっていた。
当時の住職は超賢《ちようけん》という人物であった。才智抜群《さいちばつぐん》、武略《ぶりやく》にも秀でていた。この十数年前まで一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》は各地に一揆《いつき》をおこして、土地の豪族《ごうぞく》らと戦っているが、超賢《ちようけん》はそれらの一揆《いつき》の指導者としていく多の武功《ぶこう》を立てた閲歴《えつれき》がある。
その超賢《ちようけん》は、中野《なかの》が戦火の巷《ちまた》となり禍《わざわ》いは笠原《かさはら》にもおよぶことが必定《ひつじよう》と思われたので、加賀《かが》の御山《おやま》を志して、笠原《かさはら》を去った。
加賀《かが》の御山《おやま》は今の金沢《かなざわ》城だ。この時から六、七十年前に加賀国司《かがこくし》の富樫《とがし》氏は一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》の一揆《いつき》に攻め殺され、加賀《かが》一国は本願寺領《ほんがんじりよう》となったが、その以前からここにあった寺を拡張し、城づくりにして加賀御堂《かがみどう》とし、北陸《ほくりく》地方のその宗派《しゆうは》の寺々を総轄《そうかつ》させた。信徒らはこれを御山《おやま》と尊称したが、この後の時代にはなまって尾山《おやま》というようになった。音が通ずるところから小山《おやま》と誤り書いた書物もある。後年《こうねん》のことになるが、この地方の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》が織田信長《おだのぶなが》の部将佐久間玄蕃盛政《ぶしようさくまげんばもりまさ》に制圧《せいあつ》され、この山もおちいって、盛政《もりまさ》の居城《きよじよう》となり、盛政《もりまさ》が賤《しず》ケ岳《たけ》の戦いに豊臣秀吉《とよとみひでよし》に生擒《いけどり》されてほろんでから前田利家《まえだとしいえ》にあたえられ、利家《としいえ》が金沢《かなざわ》の旧名を復して現代に至っている。
超賢《ちようけん》はここを志したわけだが、その途中、しばらく春日山《かすがやま》の東麓福島《とうろくふくしま》村(のち有田村。現在は上越市の一部)に滞在《たいざい》した。中頸城《なかくびき》郡一帯の門徒《もんと》らが教化《きようげ》をもとめるので、逗留《とうりゆう》して説法《せつぽう》していたのである。超賢《ちようけん》を信仰するのは百姓《ひやくしよう》らだけでなく、豪族《ごうぞく》の中にもおれば、長尾《ながお》家の家臣《かしん》らの中にもいた。一月ほどの後、超賢《ちようけん》は越後《えちご》を去って加賀《かが》に向かった。
このことを、景虎《かげとら》は知ってはいたが、気にはとめていなかった。しかし、こんど改めて一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》と妥協《だきよう》を思い立つと、この超賢《ちようけん》を利用する気になった。
彼は家中《かちゆう》や豪族《ごうぞく》ら中の一向宗《いつこうしゆう》の信者、中にも超賢《ちようけん》と親しくしていた者はだれであるかを、家臣《かしん》らにたずねた。
景虎《かげとら》の心をはかりかねて、家臣《かしん》らは顔を見合わせて急に答えようとしない。
「悪《あ》しゅうするつもりはない。おれが仏道に執心《しゆうしん》の深い者であることは、その方ども心得ていよう。一向宗《いつこうしゆう》とて仏道であることは同じじゃ。安心して申せ」
家臣《かしん》らは、一人一人の名をあげた。ずいぶん多数であった。これほど深くひろがっている宗旨《しゆうし》を禁断するなど、とうていできることではないと思われた。
(父上ほどの方に似気《にげ》なきことをなされた。ああされるにはああされるだけのわけはあったのであろうが)
と思った。
一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》中、とくべつ超賢《ちようけん》に親しかった者は十指にあまったが、直江《なおえ》山城守実綱《やましろのかみさねつな》、吉江《よしえ》織部助長資《おりべのすけながただ》の二人がとりわけ耳についた。直江《なおえ》は三島《さんとう》郡|与板《よいた》城主であり、吉江《よしえ》は蒲原《かんばら》郡|吉江《よしえ》城主だ。吉江《よしえ》は上杉《うえすぎ》家の元来の家人《けにん》であるが、直江《なおえ》は長尾《ながお》家の譜代《ふだい》の家来だ。しかし、それは元来の格式で、数代前から吉江《よしえ》も長尾《ながお》家に臣礼《しんれい》をとるようになっていた。二人は身代《しんだい》も豊かであり、大剛《たいごう》の者でもあり、国人《くにびと》の信頼も厚い。
(よし、この者どもに働かせよう)
と、即座《そくざ》に心を決して、二人を召した。
「おれは一向宗《いつこうしゆう》と仲直りしようと思う。こんど旅をしてみて、そうすべきじゃと気がついたのだ。ついては、その方どもの信仰している超賢《ちようけん》とやらいう坊さまが、加賀御坊《かがごぼう》にいると聞く。その方ども、その超賢《ちようけん》殿を説得《せつとく》し、ともに働いて、話をまとめてくれい」
景虎《かげとら》が単刀直入《たんとうちよくにゆう》に、いきなり本題に入ったので、二人はあっけに取られていた。
かまわず、景虎《かげとら》はつづける。
「おれの口上《こうじよう》はこうだ。『先々代以来、ご宗門《しゆうもん》と仲違《なかたが》いのなかとなり、当領内からご宗門《しゆうもん》の寺々いっさい追い立てたが、拙者《せつしや》世となったについては、同じくみ仏の道であるものを、そのようなとりあつかいをいたしては、来世《らいせ》のほどおそろしく存ずるによって、いっさい改めたい。すでに昨年冬|上方《かみがた》見物にまいった時、石山《いしやま》のご本山《ほんざん》に礼物《れいもつ》を献《けん》じてあいさつしたのは、この含みであった。ついては前代の時他国へ散在したご宗門《しゆうもん》の寺々を帰住せしめ、前々《まえまえ》通り心おきなく教化《きようげ》させるようご尽力《じんりよく》ありたい。それについて、貴僧《きそう》も当国へおいでなされ、これらの寺々を惣録《そうろく》していただけばまことにありがたい。お聞き入れたまわるにおいては、当国にてお望みの場所に本誓寺《ほんせいじ》を建立《こんりゆう》し、寺領《じりよう》なども進ぜ申すであろう』以上だ」
二人はいっそうおどろくばかりだ。しばらくして言った。
「ただ今|仰《おお》せられましたこと、ほんとでございましょうか」
景虎《かげとら》はきびしい目で二人を見た。
「おれがこれまでうそを言うたことがあるか」
二人ははっと平伏《へいふく》した。
「仰《おお》せられる通りでございます。誓って説き伏せ、思《おぼ》し召しの通りにいたすでございましょう。宗門《しゆうもん》の者どももいかばかりよろこぶでございましょう。わたくしどもからもお礼を申し上げます」
声がふるえていた。こうした場合の感激は、今日の日本人にはわからないものになっている。日本人と比較にならないくらい宗教心が厚いといわれている欧米人だってそうだろう。信仰というものの本質がかわってきているのだ。回教徒《かいきようと》やヒンズー教徒《きようと》だけがわかるであろう。
二日の後、二人は、おりからの雪をついて、西に向かった。もちろん、二人きりではない。それぞれに従者を数十人つれ、景虎《かげとら》からの音物《いんもつ》をかつがせてだ。
加賀《かが》まで九十里、はじめの三日は大雪のために道がはかどらず、十七日もかかって着いた。
加賀御坊《かがごぼう》は、前に書いた通り、北陸道《ほくりくどう》における一向宗《いつこうしゆう》寺院を総轄《そうかつ》するところであるだけでなく、加賀《かが》一国の政庁でもある。堂宇《どうう》は宏壮《こうそう》・雄麗《ゆうれい》、要害は堅固《けんご》をきわめている。宗教は堂塔・伽藍《がらん》を壮麗《そうれい》にしはじめた時、その堕落《だらく》がはじまると言われるし、一向宗《いつこうしゆう》の宗祖親鸞《しゆうそしんらん》自身も、「生涯《しようがい》堂塔を持たず」と公言しているのだが、宗教の本質が信ずること以外になにものもなく、ただ信ずるということにつきる以上、信を呼びおこすよすがとなるという点において、仏像を端麗壮厳《たんれいそうごん》につくると同じように、堂塔・伽藍《がらん》を壮麗《そうれい》にすることはまぬかれないことであろう。
二人の越後《えちご》武士らは、加賀御坊《かがごぼう》の結構の壮大さを見て、この世ながらの極楽《ごくらく》とも観じ、ますます信仰を深めながら、超賢《ちようけん》に面会を申しこんだ。
思いもかけない人の来訪に、超賢《ちようけん》はおどろいて客殿《きやくでん》に案内させて会った。
超賢《ちようけん》は年輩四十前後、宗内屈指《しゆうないくつし》の豪僧《ごうそう》であり、たびたび合戦《かつせん》にも出ている。たけ高く骨格雄偉《こつかくゆうい》、右の頬先《ほおさき》にあざやかな刀痕《とうこん》があった。
「これはめずらしや。どうなされたのでござる」
「われら、めでたいお知らせを持ってまいったのでござる」
二人は、景虎《かげとら》からの口上《こうじよう》をくわしく伝えた。
「なるほど」
といったきり、超賢《ちようけん》は急に諾否《だくひ》を言わない。分厚《ぶあつ》い唇《くちびる》をぎゅっと引きしめて、二人を見ていた。疑っていると思われたので、二人は力をこめて言った。
「これまでの長尾《ながお》家のいたしようから見て、お疑いのあるのは無理ではござらんが、今の景虎《かげとら》は決してうそを言わぬ男でござる」
二人が誠実な人がらであることは超賢《ちようけん》はよく知っている。
「信じましょう。いかさま。うれしいお知らせであります。しかし、拙僧《せつそう》の一存《いちぞん》では返答できかねます。坊主《ぼうず》に申し、坊官《ぼうかん》らと相談の上、ご返答申し上げますことにいたしますれば、数日ご滞在《たいざい》、お待ちいただきたい」
「ごもっともであります。くれぐれもよろしくおとりなしくだされ。景虎《かげとら》のお願いが聞きとどけられましたなら、越後《えちご》内の門徒らいかばかりよろこびますことか、われらも門徒の一人として皆に肩身《かたみ》がひろいことになります」
「ごもっともであります。十分に心得ています」
二人はちょうど五日|逗留《とうりゆう》した。その間に寺内の方々を拝観し、いよいよ信を深くした。待遇《たいぐう》もまた鄭重《ていちよう》であった。善美をつくした食膳《しよくぜん》をあてがわれ、越後《えちご》のような片《かた》田舎《いなか》では見たこともないような、厚く真綿《まわた》の入った絹の夜具に寝せられた。
返答の伝えられたのは、五日目の午後であった。
「さぞお退屈《たいくつ》でありましたろう。申しわけありません。やっとご返答ができることになりました。お申し出のことありがたくお受けいたすことにしますが、拙僧《せつそう》が貴地《きち》にまいることは、急には運びかねましょう。参ることは必ずまいりますが、その以前にご領内から立ち退《の》きました寺々を帰参させることにしたいと存じます。したがって、拙僧《せつそう》が貴地《きち》へまいりますまでは、それらの寺々は当山から支配することになりますが、それでようござろうか」
大事をふんでいるのだと思われたが、為景《ためかげ》時代のことを考えれば、無理のないことであった。このへんで折り合うよりほかはないと思われた。
「景虎《かげとら》が所存を聞きませぬ以上、ここで即答はいたしかねますが、たぶん承知するのではないかと存じます。拙者《せつしや》どもも、十分によく申すでありましょう。しかしながら、貴僧《きそう》の越後《えちご》ご移住はいつかは必ずしていただけるのでありましょうな」
「もちろんのこと。身分がら急にはできませぬが、できるだけ急いで景虎《かげとら》様仰《おお》せの通りにしたいと心組んでいるのでござる」
「それをうけたまわって安心いたしました。使者として参ったかいがありました」
話がおわって坊主《ぼうず》(金沢御坊《かなざわごぼう》の主、石山本願寺《いしやまほんがんじ》より派遣《はけん》)に謁見《えつけん》し、坊官《ぼうかん》(寺の役人、俗人である)らとも会い、その夜はさかんな饗応《きようおう》を受け、翌日帰国の途についた。
帰途は天気もよく、十日ほどで帰りついた。報告を聞くと、景虎《かげとら》は、
「もっともなことだ。それで結構だ。その方どもの名で書面を出しておくよう。なお、くどいようだが、超賢《ちようけん》移住のことは念をおしておくよう。おれからも書面をさし立てる」
といった。
その以前、甲州《こうしゆう》に行った使者もかえっていた。
「公の義気は感ずるにあまりがある。しかしながら、拙者《せつしや》が村上《むらかみ》、高梨《たかなし》らと戦ってその所領《しよりよう》をおさめたのは、一朝一夕《いつちよういつせき》のゆえではない。拙者《せつしや》には拙者《せつしや》の申し分がある。彼らの片訴訟《かたそしよう》を聞いて、拙者《せつしや》を悪いとのご判断は失礼ながらご軽率《けいそつ》ではないかと思う」
という晴信《はるのぶ》の返答であったという。
景虎《かげとら》はまた使者を送った。
「公の所領《しよりよう》は甲州《こうしゆう》全国と信州《しんしゆう》の大部分におよんでいる。たとえ彼らに罪ありとしても、彼らの所領《しよりよう》まで奪われることはよろしくないことと存ずる。ご返還《へんかん》あってしかるべく存ずる。武士というものはそういうものであってはならないと思う」
というのがその口上《こうじよう》であった。
晴信《はるのぶ》の返事は聞かずともわかっていた。
「武士が弓矢をもって取ったものでござる。弓矢をもってお取り返しあるが、武士のならわしでござろう」
と言ってくるにちがいないのであった。
景虎《かげとら》は村上義清《むらかみよしきよ》、高梨政頼《たかなしまさより》ら信州亡命《しんしゆうぼうめい》の諸将を呼んで、武田《たけだ》家との交渉の次第を告げ、春になったら信州《しんしゆう》に打って出る予定であるゆえ、そのつもりで旧領内のしかるべき者どもと連絡しておくように告げた。
皆泣いて感謝し、よろこんだ。
一月ほど立って、もう春であった。景虎《かげとら》はよりより重臣《じゆうしん》らを集めて信州《しんしゆう》出動の軍議をめぐらしていたが、ある日、上杉定実未亡人《うえすぎさだざねみぼうじん》である姉から使いが来た。ちょっと用事があるから、来てくれというのである。
景虎《かげとら》は供まわりも少なく、騎馬《きば》で出かけると、姉は思いがけない人と対座《たいざ》していた。たえて久しく逢《あ》わない乃美《なみ》であった。胸をつかれたような衝撃《しようげき》があったがわざと笑った。
「これは思いもかけぬお人に会《お》うたな。かわらず元気な模様、祝着《しゆうちやく》だ」
乃美《なみ》は座をさがって、両手をついた。
「お久しぶりでございます。父がおよろしく申し上げてくれるように申しました」
「駿河《するが》にも久しく逢《あ》わぬ。かわりはないであろうな」
「はい」
乃美《なみ》はひどくやせたようだ。以前から肉《しし》おきの薄い方ではあったが、いっそう細《ほ》っそりとなって、目だけがさらに大きくなったようだ。顔色も青い、どこか悪いのではないかという気がしたが、それを言えばめんどうなことになりそうで、だまっていた。姉は、
「乃美《なみ》は駿河《するが》殿のお使いで見えたのです。駿河《するが》殿がご自分で見えるべきなが、それでは人目《ひとめ》に立つというので、この人をここに遊びにやるという名目《めいもく》でよこしなされたのじゃそうです」
と言って、別室に去った。
景虎《かげとら》は乃美《なみ》の方に膝《ひざ》をむけて、聞こうとする姿になった。
「甲斐《かい》の動きについてのことでございます。すでに上洛《じようらく》ご不在中からのことじゃそうにございますが、このごろいっそうそれがはげしくなっている。つまり、武田《たけだ》様から当国の地侍《じざむらい》にたいして、いろいろと手入れなさっているゆえ、くれぐれもご用心あそばすようにと申すのでございます」
ありそうなことであった。疑ってみなかったのは不覚《ふかく》というべきであった。
「それで、だれがあやしいとは申さなんだか」
「北条《きたじよう》丹後守《たんごのかみ》殿がもっともいぶかしいと申しました」
丹後守高広《たんごのかみたかひろ》は古い越後《えちご》の豪族《ごうぞく》で、なかなかの勇将だ。
「そうか。よく心づけたもった。駿河《するが》に礼を申してくれ」
「かしこまりました」
話のすんだところに、姉が出て来て言う。このまま帰ったのでは、人が怪しむであろうから、酒宴をひらくことにした、その酒席でそなたのたしなむ小鼓《こつづみ》と乃美《なみ》のたしなむ笛とを合奏して聞かせてほしい、そうしたら、人の嫌疑《けんぎ》を避けることができる云々《うんぬん》。
酒宴がはじまり、二人はそれぞれの楽器で奏楽《そうがく》して、定実未亡人《さだざねみぼうじん》に聞かせた。未亡人《みぼうじん》は二人を見くらべながら、感にたえた表情で聞き入っていた。
夜に入って間もなく、景虎《かげとら》は辞去した。姉と乃美《なみ》は中奥の入り口まで送って来たが、景虎《かげとら》がお錠口《じようぐち》の戸口を出た時、乃美《なみ》はつと寄って、その耳もとにささやいた。
「わたくし、ちかぢかに嫁にまいります」
「えッ?」
問いかえそうとしたが、もうその時には、乃美《なみ》は戸をはたとしめきっていた。
おぼろな月の空にかかっている宵《よい》であった。
旭山《あさひやま》城
北条《きたじよう》丹後守高広《たんごのかみたかひろ》は本姓を毛利《もうり》という。源頼朝《みなもとのよりとも》を輔《たす》けて幕府政治という新しい政治形態を創始させ、その組織をととのえたのは京都朝廷の下級|公家《くげ》であった大江広元《おおえのひろもと》であるが、その広元《ひろもと》の子孫だ。広元《ひろもと》の三男|季光《すえみつ》が相模国愛甲《さがみのくにあいこう》郡|毛利《もうり》(森《もり》)郷を領して毛利《もうり》と名のったのがおこりだ。季光《すえみつ》の子は経光《つねみつ》、経光《つねみつ》の子|時親《ときちか》が越後刈羽《えちごかりわ》郡|佐橋《さばし》ノ庄《しよう》をもらってここに土着《どちやく》したのが越後毛利《えちごもうり》家のおこりだ。本家は後に至るまで毛利《もうり》を名のったが、高広《たかひろ》の家は分家《ぶんけ》で、代々佐橋《さばし》ノ庄《しよう》の一つ北条《きたじよう》にいて、北条《きたじよう》を名のり、今では本家《ほんけ》をしのぐほどの勢いとなっていた。余談だが、後に長州《ちようしゆう》藩主となった毛利《もうり》家もこの越後毛利《えちごもうり》家の分かれで、南北朝《なんぼくちよう》時代に安芸《あき》の吉田《よしだ》に領地をもらって行ったのがおこりになっている。
高広《たかひろ》の居城地北条《きよじようちきたじよう》は、宇佐美《うさみ》の居城地琵琶島《きよじようちびわじま》から三里とは離れていない。何かのことがあれば、定行《さだゆき》のするどい目にかからないはずはないのであった。
「ばかなやつめ、つつみかくせると思ったのであろうか」
と、景虎《かげとら》は馬上ひそかにつぶやいた。
それにしても、油断《ゆだん》のならないのは、武田晴信《たけだはるのぶ》だ。こちらが上洛《じようらく》して不在であるのに乗じて、誘惑《ゆうわく》の手をのばしたのに相違ないのであった。水がしくしくとしみこんで、いつか建物を腐朽《ふきゆう》させていくようにして、こちらの内部を切りくずす算段なのだ。
戦国の習い、敵味方となっていれば普通のことではあろうが、おそろしい人物であると思った。薄ぎたない根性《こんじよう》であるとも思った。
「孫子《そんし》に用間篇《ようかんへん》というのがありはするが、いやらしい術策《じゆつさく》だ。効果はあるにちがいないが、おれは使いたくない。おれは堂々と戦いたい。坂東平氏《ばんどうへいし》の疎族《そぞく》の流れであるおれでもそう思うのに、名将|新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》の嫡流《ちやくりゆう》、甲斐源氏武田《かいげんじたけだ》の当主でありながら、きたないと思わぬのか。さすが親を追い出し、妹聟《いもうとむこ》を殺し、その娘を妾《めかけ》にするほどの男だけあって、することが暗いわ」
怒りは北条《きたじよう》にたいしてより、晴信《はるのぶ》にたいしてのほうが強かった。
「今に見ろ!」
ぎりりと奥歯をかみしめた。
問題は、その晴信《はるのぶ》の手のおよんでいるのが北条《きたじよう》だけではないようであることであった。宇佐美《うさみ》の口上《こうじよう》もそうであった。
(父も北条《きたじよう》丹後守《たんごのかみ》殿がもっともいぶかしいと申しました)
と、乃美《なみ》は言った。
もっともいぶかしいとは、そのほかにもあると言外《げんがい》にふくめているわけだ。
いったい、それはだれだれであろう。くわしく聞くべきであったのに、つい聞きそびれてしまった。
(おれは乃美《なみ》に会うと、いつも口数が少なくなる。言いたいことも、聞きたいことも、つい口が重くなって、半分も口がきけなくなる)
と、苦笑した。
しかし、それは大事なことだ。また明日行って聞きただしておかなければならないと思った。
その時、ふと心に引っかかるものがあった。別れしなに、お錠口《じようぐち》まで送って出た乃美《なみ》の言ったことを思い出したのであった。いやいや、思い出したのではない。それははじめから心の片隅《かたすみ》にからんではなれなかったのを、武将としては北条《きたじよう》のことが大事であると、おしのけていたにすぎないのだ。
(わたくし、ちかぢかに嫁にまいります)
と乃美《なみ》は言ったのだ。そのふるえる、低い声音《こわね》まで、まざまざと覚えている。
嫁に行くのに不思議はない。彼女はたしか自分より一つ年上のはずだ。二十六にもなっている。女としてはとうに婚期をすぎている。今まで縁づかなかったのがおかしいのである。
しかし、そうは思いながらも、景虎《かげとら》は胸が波立ってきた。こちらに迎える気持ちもないのに、今さらうろたえて胸をさわがせるとは、理窟《りくつ》にもなんにも合ったものではない。
(おれはやはり乃美《なみ》を思っていたのであろうか。乃美《なみ》がどこへも縁づかず、実家にいるということが、おれの心のささえになっていたのであろうか)
と、思った。虫のよい、男らしくない根性《こんじよう》だと、恥じたが、どうしようもない。
どこのだれのところへ嫁《ゆ》くのか、それを知りたいと思った。知ったところでどうするつもりはないが、それでも知りたかった。
とつぜん、景虎《かげとら》は気が沈んできた。なにもかもが空《むな》しいものとしか考えられなくなるあの憂鬱《ゆううつ》が襲ってきそうであった。
(ああ、またか)
無字の開眼《かいげん》も、見性成仏《けんしようじようぶつ》も、かいがないのかと思った。ぼうぜんとして、あたりを見まわした。
暈《かさ》をかぶった月が空にあり、地上にはおぼろな明るさがひろがっている。梅も、桃も、桜も、野の草も、一時に花咲く雪国の春の宵《よい》だ。乗っている馬のひづめがぽっくぽっくと単調な音を立てる。
「この月が悪い。このそよ風が悪い。この馬蹄《ばてい》のひびきが悪い……」
一刻も早く城にかえり、宗九《そうく》にもらった袈裟《けさ》をかけて座《すわ》りたかった。そうしなければ、あの憂鬱《ゆううつ》に陥《おちい》り切ってしまいそうであった。
「急げ!」
と、従者らにさけんで、馬をはやめて、小駆《こが》けになった。
夜どおしすわりつづけて、やっと心がおちついた。景虎《かげとら》は朝の食事をすますとすぐ府中館《ふちゆうやかた》に使者を出した。
「昨日はお世話になって、楽しい時をすごさせていただきました。ついては、琵琶《びわ》をお聞きに入れたいと存ずれば、乃美《なみ》をお連れになっておいでくだされたい。午餐《ごさん》をさし上げた上、また一日を楽しく過ごしたいと思います」
という口上《こうじよう》を持たせた。
使者はほどなく帰って来た。
「乃美《なみ》はもう帰って行った。すでに一刻《ひととき》ほどにもなろうか。いま少し早かったならばと残念に思う。わたしはありがたくお受けして、追っつけ伺うであろう」
という姉の返事であった。
しまった、とは思ったが、すぐ、
「これでこちらはすんだ。なるがままにならせよとの天意であろう」
と、思いかえした。
こうなってみると、あれこれと気をもんでもどうにもならないことであり、またもむ必要もないことであることがはっきりとわかった。人間の煩悩《ぼんのう》は、一歩退《ひ》くか、観点をかえて考えれば、そのたいていがこんなものかもしれないとも思った。
甲州《こうしゆう》の誘惑《ゆうわく》を受けている豪族《ごうぞく》らのことは、あとで書面で問い合わせることにした。
景虎《かげとら》は北条高広《きたじようたかひろ》の本家にあたる毛利景元《もうりかげもと》を呼んで、ざっくばらんに、しかじかの風説があるが、どうなのだとたずねた。景元《かげもと》はまるで知らないと答えた。
「しかし、火のないところに煙は立たぬということわざもございます。十分にとり調べました上で、改めてご返答申し上げます」
「そうしてくれい。丹後《たんご》ほどのものが、ただ欲にからんでだまされたとは思えぬ。おれに不平があるのかもしれぬ。よく調べてくれい」
「かしこまりました。お心をわずらわし申して、申しわけございません」
と恐懼《きようく》してかえって行った。
一方、景虎《かげとら》は宇佐美《うさみ》に書面で問い合わせた。宇佐美《うさみ》はすぐ返事をよこした。三人ほどあった。これは甲州《こうしゆう》から密使が来たというだけであるから、あるいは話は進んでいないかもしれないが、曇りのない身ならお屋形《やかた》に申し上げるべきが当然であるのに、そうでないのだから、用心を怠られてはなるまいというのであった。まことにその通りであった。
数日の後、毛利景元《もうりかげもと》は来て、風説されていることが事実であることを告げた。景虎《かげとら》は油断《ゆだん》なく見張っているように命じてかえした。
景虎《かげとら》はすぐにも踏みつぶしてしまいたいと思ったが、明らかな証拠《しようこ》をつかむ必要があった。また一度|征伐《せいばつ》にかかったら一気にたたきつぶしたかった。だれに見せても明瞭《めいりよう》な証拠《しようこ》なくしてかかっては、人々の心を疑惑《ぎわく》させて武田《たけだ》方に追いやることになり、手間《てま》どってはすでに武田《たけだ》に心を通じているものを蜂起《ほうき》させるおそれがある。かれこれ慎重《しんちよう》に運ぶ必要があった。
こうなっては当分|信州《しんしゆう》入りは延期しなければならない。
「こんどこそ一戦に勝敗を決したいゆえ、支度《したく》に万全《ばんぜん》を期したい」
と、村上義清《むらかみよしきよ》らの信州亡命《しんしゆうぼうめい》の豪族《ごうぞく》や家臣《かしん》らには告げた。
男の数え年二十五と四十二は厄年《やくどし》であるというが、たしかにこの年は景虎《かげとら》にとっては災厄《さいやく》の多い年であった。上野中務大輔家成《うえのなかつかさだゆういえなり》と下平《しもだいら》修理亮《しゆりのすけ》という豪族《ごうぞく》がある。中魚沼《なかうおぬま》郡に住んでいた。上野《うえの》は今もその地名がのこっている。千手観音《せんじゆかんのん》で名高い千手《せんじゆ》町の北一里の地点だ。ここに城があり、下平《しもだいら》は十日町《とおかまち》近くの沖立《おきだて》に城があった。信濃《しなの》川をへだてて筋《すじ》かいにむかい合っていたわけだが、領地がたがいに入りくんでいたので、この二人の間に領地争いの訴訟《そしよう》がおこったのだ。
領地争いの裁きほどむずかしいものはない。土地がもっとも重要な生産機関なのだから、武士どもの土地を大事がったことは、今日の人の想像を絶する。「一所懸命《いつしよけんめい》」ということばの起こりになっているくらいだ。この裁判にあやまちが多かったために鎌倉《かまくら》幕府はつぶれ、この裁判が乱脈であったために建武中興《けんむのちゆうこう》は瓦解《がかい》したといわれているほどのものだ。当時の大名は後世《こうせい》の大名とちがって、国内の諸豪族《ごうぞく》と純粋な君臣関係にはなっていない。豪族《ごうぞく》らの旗頭《はたがしら》的のものでしかない。だから、大名の政治家としての手腕は主として、かつての鎌倉《かまくら》将軍がそうであったように、豪族《ごうぞく》らの間の領地に関する紛争《ふんそう》を公正に裁き、その判決を納得《なつとく》させることにあったのだ。
「おりもおり、厄介《やつかい》なことがおこった」
と、思いながらも、景虎《かげとら》は双方《そうほう》の言いぶんを聞き、証拠《しようこ》の書類などを提出させて帰した。信濃《しなの》川右岸の田地《でんち》二十余|町歩《ちようぶ》を、数代前から上野《うえの》方が横領《おうりよう》しているというのが争点であった。景虎《かげとら》は両者の差し出した証拠《しようこ》書類をみずから点検し、重臣《じゆうしん》らにも点検させ、また土地の百姓《ひやくしよう》らを呼び出して尋問《じんもん》した。
その結果、明らかに下平《しもだいら》方の申し立てに理のあることがわかったが、上野《うえの》家はすでに数代にわたってそこを自家のものにしているので、自家のものと思いこんでいる。一刀両断《いつとうりようだん》には行きかねると思われた。
ふだんの時ならあくまでも黒白を明らかにし、法の命ずるところのまま裁き、判決を強制することができるが、この際それは避けたかった。もつれが深くなれば国内に動揺をきたすおそれがあった。そうなれば、甲州《こうしゆう》方の蒔《ま》いている種がどんな変化を見せるかわかったものではない。
景虎《かげとら》は重臣《じゆうしん》らに命じて、半分だけ土地を返還《へんかん》することにして和解するようにすすめさせた。双方《そうほう》なかなか聞き入れなかった。とりわけ、上野《うえの》の方が頑強《がんきよう》であった。
時は移って、九月に入ったが、どうしても解決しない。あぐねきっていると、北条高広《きたじようたかひろ》が兵を挙げて、謀反《むほん》の色を明らかにした。景虎《かげとら》の説得がすらすらといかないのを見て、士心は景虎《かげとら》にない、今|挙兵《きよへい》すれば蜂起《ほうき》するものが多く、越後《えちご》はふたたび戦乱状態になると判断したに相違なかった。
(来た!)
景虎《かげとら》は、おりから春日山《かすがやま》に来ていた上野《うえの》と下平《しもだいら》を本庄美作《ほんじようみまさか》の屋敷にとじこめておいて、出陣した。
景虎《かげとら》の向かうを聞いて高広《たかひろ》は善根《よしね》に出て陣をしいた。迎え戦うつもりであった。景虎《かげとら》は善根《よしね》に到着すると、そのまま攻撃にかかったが、高広《たかひろ》方はたちまち裏くずれして、四分五裂《しぶんごれつ》となって敗走した。高広《たかひろ》の本家|毛利景元《もうりかげもと》が背後から襲いかかったのであった。
景元《かげもと》は高広《たかひろ》の挙兵《きよへい》に同意のふりをして出陣していたのだから、この裏切りは最初からの計画であった。こうでもしなければ、景虎《かげとら》に申しわけがないと思ったのであろう。こうした義理の立てかたは、景虎《かげとら》の好みでない。味方は味方、敵は敵と、旗幟《きし》を鮮明にして堂々と戦ってこそ男のふるまいであると思うのだが、この際としては景元《かげもと》を賞するよりほかはなかった。しぶる気持ちをおさえて、
「大儀《たいぎ》であった。今日の働き、忘れぬぞ」
と声をかけた。
善根《よしね》の野戦《やせん》に敗れた高広《たかひろ》は、居城《きよじよう》に逃げこもった。景虎《かげとら》は城下におしよせ、一気に攻め潰《つぶ》そうとしたが、高広《たかひろ》は備えをかたくして戦おうとしない。時日をかけてはならないのだ。景虎《かげとら》はあせって火のような下知《げじ》を下し、入れかえ入れかえ攻め立てたが、城も堅固《けんご》であり、城兵もよく防ぎ、寄せ手はいく度か撃退された。
本陣の前に床几《しようぎ》をすえ、城をにらんで、工夫《くふう》をこらしていると、侍臣《じしん》が思いもかけない人の来たことをとりついで来た。
「鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》殿のお内方《うちかた》が、ご陣見舞においででございます」
といっているうちに、松江《まつえ》の姿が向こうに見えた。
白|小袖《こそで》に色目《いろめ》の美しい被衣《かつぎ》を裾《すそ》をはしおって羽織《はお》り、青竹の杖《つえ》に草履《ぞうり》ばきという姿だ。小女《こおんな》を一人連れている。
松江《まつえ》はもう三十九になる。数年前から戦場に出ることをやめたし、年のせいもあって、ずいぶん肉付きがよくなった。しかし、色白な顔は豊艶《ほうえん》なおもかげをそえて、まだなかなか美しかった。
遠いところで被衣《かつぎ》をぬいで小女《こおんな》にわたして、近づいて来た。ふとったからだのせいもあって、しとやかにというわけにはいかない。のそのそと近づいて来た。小腰《こごし》をかがめる作法をおぼえただけでも奇特《きとく》というべきであろう。
「よう来たな。なにか用があって来たのか。ただの陣見舞なら、いらぬことだぞ。おそくとも明日中には攻めつぶすのじゃから」
と、景虎《かげとら》は言った。いら立っている心が、つい荒いことばづかいになった。松江《まつえ》も負けない荒っぽさで答えた。
「陣見舞なんどには来ましねえ。武士が戦《いく》さ場に出て苦労するのはあたりまえのことですけ、見舞なんどいらねえこんだ。うらは主人《やど》が行ってお手伝いして来《こ》うといいますけ、来ましただ。ちょっこら行って降参《こうさん》させて来ますけ、行かせてくんなさろ。おなごはおなご同士といいますけ、あんじょういきますわい」
敏《さと》い景虎《かげとら》はすぐ相手の意図《いと》していることがわかった。北条高広《きたじようたかひろ》の妻女を説き、妻女から高広《たかひろ》に降伏をすすめさせるつもりなのだ。
「弥太郎《やたろう》の策か」
弥太郎《やたろう》は留守居《るすい》役として春日山《かすがやま》にのこったのだ。
「そうですわい。案のほか知恵者でござろうず」
と、まるい頬《ほお》にえぐったようなえくぼを見せて、にこにこと笑った。
こちらも笑い出してしまった。いら立っている心がおちついてきた。
「鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》の妻女、丹後守《たんごのかみ》殿奥方をお見舞のために当陣中まで来ている。ご引見《いんけん》たまわりたい」
との口上《こうじよう》が城中に申し入れられた。
かなりな時間がかかったが、おいであるように、との返事があった。かなりに日がかたむいて、風がつめたくなるころであった。
松江《まつえ》は出かけた。
濠《ほり》に架《か》した橋の袂《たもと》まで、槍《やり》をたずさえた城兵が迎えに出ていた。取りまかれるようにして橋をわたり、大手《おおて》の門をくぐった。
大きく厚い扉がぎしぎしぎしと、重たげな音を立ててうしろにしまった時、どこからともなくすさまじく猛《たけ》り狂った犬の声がしたかと思うと、桝形《ますがた》のかげからひらりと飛び出して来た犬があった。ふさふさとした尻《し》っぽをきりりと巻き上げた、萱毛《かやげ》の大きい犬だ。まっしぐらに松江《まつえ》目がけて走りかかって来る。
松江《まつえ》は、自分をおどそうとする城兵のたくらみであることをとっさに読みとった。自分がどんな女であるか、もちろん城兵らは知っていよう。どんな目的をもって来たかも推察していよう。おどかして、どぎもをぬくつもりにちがいないと察した。
おそれず、横目《よこめ》に見て行きすぎようとすると、逃げると見たのか、矢のようにおどりかかって来た。真っ赤な口をあいている。松江《まつえ》はその口めがけて、素速《すばや》く右の手を突っこみ、長い舌をつかみ、さらにのどの奥へ突っこんだ。犬は松江《まつえ》にぶら下げられ、あと足だけで立っている形になってもがいた。ゆらめく旗のようにみごとであった尻《し》っぽはだらりと下がり、苦しげにあえぎ、クウクウとのどの奥で鳴いた。松江《まつえ》はつかんだまま、ゆうゆうと二、三|間《げん》歩いてから、どさりと投げ出した。犬は狂ったような悲鳴をあげながらどこかへ走り去った。
すると、敵にはもう一段のそなえがあった。桝形《ますがた》から数段の石段をのぼって上の道に出た時、向こうの土居《どい》の陰から河原毛《かわらげ》の馬が、ものにおどろかされたように駆け出して来た。引きちぎった染め分けの手綱《たづな》を空《くう》になびかせていた。追い立てられたに相違なかった。
松江《まつえ》の前まで来ると、後脚《あとあし》で立ち上がり、前脚《まえあし》を泳がせた。抱きすくめようとするかのようであった。松江《まつえ》はおどり上がりざま、思いきり馬の長い横面《よこづら》をたたいた。こんな手荒なあつかいにははじめてあうのであろう、馬はおどろきおびえながらも、なお猛《たけ》り立ったが、松江《まつえ》は被衣《かつぎ》をぬぐと、ふわりと頭にかぶせた。馬は急におとなしくなった。
「どう、どう、どう、どう……」
口綱《くちづな》をとって、引きまわして静め、武士どもに言った。
「ええ馬ですのう。水飼《みずこ》うて、しばらく暗いところに置きなさるがよいですわい。気が立っていますけにな」
重ね重ねのことに、武士らはおどろきあきれ、返事もできない。黙《だま》って、うやうやしく受けとった。
松江《まつえ》は奥殿《おくでん》に通って、高広《たかひろ》夫人に会い、もち前のざっかけない調子で、降伏をすすめて帰ったが、彼女の見せた武勇がかえって効果があったのだろう、翌日、高広《たかひろ》は降伏を申し出た。景虎《かげとら》はこれをゆるし、今後を戒めて引き上げた。
景虎《かげとら》が信州《しんしゆう》へ出陣したのは、翌年の四月であった。善光寺《ぜんこうじ》西方の旭山《あさひやま》に要害をきずいてここを根拠地として諸方に兵を出し、武田《たけだ》方の諸城を焼きはらった。晴信《はるのぶ》をおびき出すためであったが、晴信《はるのぶ》はなかなか腰を上げなかった。彼のもっとも寵愛《ちようあい》している諏訪御前《すわごぜん》が重病だったのである。
諏訪御前《すわごぜん》は今年二十七になる。諏訪《すわ》家のほろぼされた時十四であったから、晴信《はるのぶ》の愛を受けるようになってから十三年になる。彼女は十九の時、晴信《はるのぶ》の子を生んだ。四郎《しろう》と名づけられた。後の勝頼《かつより》である。
晴信《はるのぶ》には多数の妻妾《さいしよう》があったが、諏訪御前《すわごぜん》にはとくべつ深い愛情を持っていた。その父を殺し、その地を奪ったことにたいしては、彼は格別後悔もしていなければ自責の念もない。信州《しんしゆう》経略は自存《じそん》の道であった。|地味磽※《ちみこうかく》で天産にめぐまれない甲州《こうしゆう》にとっては他を切り取るより自存《じそん》の途《みち》はなく、南と東を強国に塞《ふさ》がれ、北を嶮峻《けんしゆん》な山岳地帯で塞《ふさ》がれているのだから、西に向かうよりほかはなかった。たまたまその出口に諏訪《すわ》氏がいたゆえ、これをたたきつぶしただけの話だ。
「人はそれぞれに生きなければならない。人を食ってでも生きなければならない。食われるのがいやなら強くなることだ。おれが強かったから諏訪頼重《すわよりしげ》を食っただけだ」
と割り切っている。
しかし、その頼重《よりしげ》の女《むすめ》にたいして一通りや二通りではない愛情を覚えたことにたいしては、因縁《いんねん》ごとめいた複雑な感慨《かんがい》を覚えずにはおられなかった。
「諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らはおれにうらみをふくんでいるじゃろう。しかし、おれが姫《ひめ》を側《そく》に入れて子供でもでき、それに諏訪《すわ》の名跡《みようせき》を立てさせれば、遺臣《いしん》らの心もなごみ、心を寄せて来ようというものじゃ。おれは色好みだけで姫《ひめ》を側《そく》に入れようとしているのではないぞ」
と、彼は不安がって諫《いさ》める老臣《ろうしん》らに言って納得《なつとく》させたが、そんな功利的な思案ははじめからのものではなかった。はじめはただ姫《ひめ》をいとしいと思い、引きつけられてやまないものがあり、自分のものとせずにおられなかっただけだ。こんなことを言い出したのは老臣《ろうしん》らを説得するためであった。
だから、飽《あ》きがくればその日からでも捨ててしまったろうし、たとえ男の子が生まれても、諏訪《すわ》の名跡《みようせき》を立てさせなかったかもしれない。立てたくなければ、その理窟《りくつ》はまたどうでもつく。権力のあるかぎり、理由にこまることはない。縛《しば》られることはないのである。
しかし、諏訪御前《すわごぜん》への愛情は日を追い月を追うて増すばかりで、少しもおとろえない。子供を生むといっそういとしくなった。生まれた子供もまたかわいい。これまで男の子だけでも三人もいるが、どの子にたいしてもこの子にたいするほどの愛情をおぼえたことがないような気さえする。成長するにつれて、美しく、また気性《きしよう》の雄々《おお》しさがあざやかに出て来るのが満足であった。
「そなたの家の名跡《みようせき》を立てような」
晴信《はるのぶ》は諏訪御前《すわごぜん》に言って、四郎《しろう》を武田諏訪四郎《たけだすわしろう》と名のらせることにした。
諏訪御前《すわごぜん》は泣いてよろこんだ。諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らもよろこんだ。諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らのある者は去って他国に行ったし、もちろん武田《たけだ》家につかえたものもあったが、それらはごく一部で、多くは諏訪《すわ》や伊那《いな》地方で帰農していた。十分な不平があったようだ。かっこうな機会さえあれば、反|武田《たけだ》の挙をおこしたがっているようであった。現に四郎《しろう》の生まれた翌々年、晴信《はるのぶ》が村上義清《むらかみよしきよ》と戦って老将|板垣信形《いたがきのぶかた》を討ちとられた上田原《うえだはら》の合戦《かつせん》の後、諏訪《すわ》の遺臣《いしん》らは深志《ふかし》(松本《まつもと》)の小笠原長時《おがさわらながとき》と策応《さくおう》して一揆《いつき》をおこしたくらいで油断《ゆだん》もすきもならないのであった。
しかし、四郎《しろう》を諏訪四郎《すわしろう》と名のらせてからは、彼らの不平の気は急速におとろえた。諏訪《すわ》家時代の武功を申し立てて召し抱《かか》えを願い出て来る者も少なくなかった。
「これで、諏訪士《すわざむらい》どももお家の力となり申した」
と、老臣《ろうしん》らもよろこんだ。
晴信《はるのぶ》も満足であった。
それから数年、四郎《しろう》は九つになってますますかしこく、ますます雄々《おお》しく成長したが、その母は依然として美しくまた可憐《かれん》で、子にも母にも晴信《はるのぶ》の愛情は深まるばかりであった。
その諏訪御前《すわごぜん》が病気になったのは、この春のうららかに晴れた日からであった。その日、晴信《はるのぶ》は諏訪御前《すわごぜん》を連れて、奥殿《おくでん》の庭に咲いた緋桃《ひもも》の花を見に行った。侍女《じじよ》が数人つき従っていた。
桃は岸を岩石でたたんだ池にさしかかって咲いている。周囲には芽ぐみかけた柳や松があって昼前のあたたかい日ざしに照りはえ、池に影をうつし、何ともいえず艶麗《えんれい》であった。
晴信《はるのぶ》はしばらく見ているうちに、ふと詩句が口にのぼってきた。
孱顔《せんがん》また蛾眉《がび》の趣あり  (孱顔亦有蛾眉趣)
一笑|靄然《あいぜん》として美人の如《ごと》し(一笑靄然如美人)
すらすらと出て来たので、気持ちがはずんだ。いい詩ができそうであった。これを転結《てんけつ》として、起承《きしよう》をつけようと、燃え立つような花のむらがりを見つめながら工夫《くふう》していると、少しうしろにたたずんでいた諏訪御前《すわごぜん》が急にはげしくせきこんだ。
詩興《しきよう》を中断されて、ややふきげんに晴信《はるのぶ》はふりかえると、諏訪御前《すわごぜん》はきゃしゃなからだをこごめて、こみ上げて来るせきをこらえようとして苦しんでいるのであった。
ただごとでなかった。
「どうした」
晴信《はるのぶ》はおどろいて、声をかけた。
侍女《じじよ》らが走りよって、
「どうなされました」
「あれ、ご前《ぜん》さま」
口々に言いながら、のぞきこんだり、背中をさすったりしはじめた。
諏訪御前《すわごぜん》はやっとせきがおさまって、身をおこした。顔が美しく上気《じようき》していた。
「失礼いたしました。おゆるしくださいまし」
「もういいか」
「はい。どうしましたのか、急にせきがつき上げてまいりまして」
と、諏訪御前《すわごぜん》は微笑《びしよう》したが、晴信《はるのぶ》はその顔がいつかすきとおるような青さになっているのに気づいた。
「風邪《かぜ》でもひいたのではないか。きつう顔が青いぞ」
「そんなはずはないつもりでございますけど……」
といっているうちに、またせきはじめた。両手で袖《そで》を口にあててせきこんでいる。侍女《じじよ》らはまた介抱《かいほう》にかかった。
ただごとではなかった。
「人を呼べ。あちらに連れて行けい」
と晴信《はるのぶ》が言っているうちに、ひときわ強くせきこんだかと思うと、口をおさえた袖《そで》をあふれてたらたらとおちたものがあった。明るい日ざしに照らされて、それは黒く光りながら地にしたたったが、地におちたところを見ると真っ赤だった。
(あッ!)
と叫び出しそうになるのをおさえて、晴信《はるのぶ》は侍女《じじよ》らをおしのけて近づいたが、どうしてよいかわからなかった。安静にしておくべきであるとは思うのだが、こんなところにこのままではおけないとも思った。頭に血がのぼって、やたらに気だけあせった。
その間も、諏訪御前《すわごぜん》はせきがとまらず、せきのたびにこみ上げて来る血が、袖《そで》をあふれてきゃしゃで真っ白な手を紅《あか》く染めた。こんなかぼそい胸のどこにこれほどの血があるかと思われるほど、あとからあとからと出て来る。晴信《はるのぶ》はいとしくて、かあいそうで、自分がかわりたいほどに切《せつ》なかったが、どうすることもできない。
「しっかりせい、しっかりせい。しゃがむがよい、しゃがめぬか……」
狼狽《ろうばい》しながらおろおろと言っていたが、ふと思いついて、羽織《はおり》をぬぎ、それを大地にしき、その上に寝せようとこころみた。
この時から、諏訪御前《すわごぜん》は病床の人になった。医師は肺癆《はいろう》だという。これは医師の診断を待つまでもないことであった。
病勢は一時重体であった。喀血《かつけつ》がなかなかやまず、高熱がつづき、衰弱がつづいた。内から削《けず》るように肉が落ち、やせ細ったからだはすきとおるばかりになった。一抹《いちまつ》の血の色もないくせに、美しさはさらにましてきて、おそろしいほどであった。
晴信《はるのぶ》は平癒《へいゆ》に全力をつくした。家中の医者の技倆《ぎりよう》を心もとなく思って、小田原《おだわら》から関東一《かんとういち》の名のある医者を招いたし、領内の諸社・諸寺に祈願《きがん》をこめ修法《しゆほう》を行わせたし、遠く比叡山《ひえいざん》や高野山《こうやさん》にまで金銀・礼物《れいもつ》を持たせて人を派し、加持《かじ》・祈祷《きとう》を依頼した。
その後、喀血《かつけつ》はおさまったが、熱は下がらず、衰弱《すいじやく》は依然つのっていった。
「これに万一のことがあったら、おれはどうなるじゃろう」
晴信《はるのぶ》は諏訪御前《すわごぜん》のいなくなった後の自分を考えると、切《せつ》なかった。彼は万人にすぐれたかしこい男である上に、好学《こうがく》で、当時の武将にはめずらしく広く読書をし、その読書範囲は経書《けいしよ》や兵書だけでなく、史籍《しせき》にもおよんでいる。仏法にも帰依《きえ》が深い。年も三十五になっている。人間が同じ感情や心理を長くいつまでも持ちつづけていることのできないものであることを知っている。よろこびも、悲しみも、なげきも、いきどおりも、しょせんは一時のことで、やがては忘れられるものであることがよくわかっていた。
しかし、それでも、諏訪御前《すわごぜん》がいなくなった後の自分を考えると、生きつづける精がなくなるにちがいないと思わざるを得なかった。
ちょうど、晴信《はるのぶ》がこんな気持ちでいる時、長尾景虎《ながおかげとら》が善光寺平《ぜんこうじだいら》に出て来たという急報があった。注進は櫛《くし》の歯をひくように甲府《こうふ》にとどく。よほどの決意で出て来たのであろう。長尾《ながお》勢は善光寺《ぜんこうじ》の裏山にとりでをかまえて本陣《ほんじん》とし、諸方に兵を出して、こちら方のとりでを攻撃しては焼きはらっているという。こちらを引き出して、無二無三に決戦をいどみかけるつもりにちがいなかった。
こうなることは、晴信《はるのぶ》にはずっと前からわかっていた。去年のはじめを最初にして、越後《えちご》から数度にわたって使者が来る。晴信《はるのぶ》が奪った村上《むらかみ》・高梨《たかなし》ら信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らの領地を返還《へんかん》してやれというのだ。それにたいしてこちらは、片訴訟《かたそしよう》によって強奪者視《ごうだつしやし》なされるのは軽率《けいそつ》であろう、当方と彼らとの間のことは一朝一夕《いつちよういつせき》のゆえではないのであると返答した。その後数回の使者の往返があった。晴信《はるのぶ》には景虎《かげとら》が、
「武士が弓矢をもって取ったもの、弓矢をもってお取り返しあれ」
との返答をこちらから引き出し、それを合戦《かつせん》のきっかけにしたがっていることがわかっていたから、その手には乗らなかった。信州豪族《しんしゆうごうぞく》らの非を列挙し、自分の正当さを主張する口上《こうじよう》を何度でも述べ立てた。
もちろん、いずれは合戦《かつせん》にならずにはすまないことがわかっているから、おこたりなくその準備をした。越後《えちご》の豪族《ごうぞく》中の不平分子に働きかけたのもそれだ。景虎《かげとら》の働きがすばやかったのでこれは失敗に帰したが、その他にもいろいろ手を打った。北信《ほくしん》の城々を修理し、要所要所に砦《とりで》をきずいて兵をこめたのもそれだ。善光寺《ぜんこうじ》の堂衆《どうしゆう》に手入れし、その結果として堂主の栗田寛明《くりたかんみよう》を味方に引き入れたのもそれだ。
準備は十分にできた。いつでも戦えることになったところに、諏訪御前《すわごぜん》のこの病気であった。晴信《はるのぶ》は出陣する決心がつかなかった。
「武将たるものがこんなことではいかぬ。武威が張り、家が安泰《あんたい》であればこそ、家族との愛情も平安に幸福につづけることができるのだ。本末をあやまるべきではない」
とはよく知っているのだが、こんどはそれができない。今少し容態《ようだい》が好転してからと、一日のばしに出陣をのばした。もちろん、その他の手当は手落ちなくつくした。鉄砲三百|梃《ちよう》、弓八百|張《はり》をふくむ三千人の部隊を送り出して、善光寺《ぜんこうじ》の堂主の軍勢の援軍《えんぐん》とした。
善光寺《ぜんこうじ》の堂主は、長野《ながの》市の西郊 旭山《あさひやま》を砦《とりで》としてここにこもった。これにたいして、越後《えちご》勢は善光寺《ぜんこうじ》の北方、今|城山《しろやま》といわれている横山《よこやま》に砦《とりで》をきずいてここを根拠地とし、旭山《あさひやま》を攻める一方、諸方に軍勢を出し、武田《たけだ》方の城々を攻め、砦《とりで》を焼きはらった。
五月末になって、諏訪御前《すわごぜん》の容態《ようだい》もいくらかよくなったようであるので、やっと晴信《はるのぶ》は腰をあげた。
「日ならず打ちかってかえって来る。腕におぼえのある身じゃ。わしがことは少しも案ずることはない。保養専一につとめて、昔の元気な姿で、わしを迎えてくれるよう」
出陣の儀式の直前、晴信《はるのぶ》は病室を見舞ってこう言った。諏訪御前《すわごぜん》は臥《ふ》したまま合掌《がつしよう》した。
「こちらの方こそお案じなく。めでたいおかえりを祈っています。よろずにお気をおつけあそばして……」
諏訪御前《すわごぜん》の枕《まくら》べには、四郎《しろう》がいて、かいがいしく看病していた。血色のよい、美しい少年だ。父母の別れに顔をそむけていたが、父が立ち上がると、鎧下姿《よろいしたすがた》のその姿を仰いで、
「母上《ははうえ》がこうでおわさねば、わたくしはお供して初陣《ういじん》しとうございましたに」
といった。
軽いとげのように心に引っかかるものがあった。晴信《はるのぶ》は不快に似たものを感じたが、すぐおさえて、にこやかに笑いながら、小さい肩をおさえ、やさしく撫《な》でて、
「あっぱれ武将の子だ。うれしいことを申す。しかし、そなたの年ではまだまだだ。今のそなたとしては、母者《ははじや》の看病をして、一刻も早くなおしてくれることだ。わしはいちばんそれがうれしいぞ」
と言って、病室を出た。四郎《しろう》のことはすぐ忘れたが、骨がすけて見えるかと細《ほ》っそりとなった白い手を合わせた姿や、すきとおるばかりに白い頬《ほお》にぽっちりとこぼれていた涙の記憶はいつまでものこって、胸をしめつけた。
晴信《はるのぶ》は五千の兵をひきいて、甲府《こうふ》を出たが、途中で馳《は》せ参ずる兵が多く、上田《うえだ》を通過するころには一万三千という大軍になっていた。彼は千曲《ちくま》川をこえて、川中島《かわなかじま》にわたり、犀《さい》川を前にひかえた大塚《おおつか》に陣をしいた。大塚《おおつか》は今も地名がのこっている。今の更北《こうほく》村の一村落だ(現在は長野市)。
晴信《はるのぶ》が向かいつつあるとの報告を受けとると、景虎《かげとら》は勇躍《ゆうやく》した。
「さあ来た! こんどはおれがみずから戦うのだ。おとどしのような不覚は取らぬぞ」
諸方に出して焼き働きさせていた兵を横山《よこやま》に集結させ、旭山《あさひやま》の攻撃に全力をあげた。ここを落として敵を追いちらすか、全滅させるかしなければ、両面から敵を受けることになるのだ。
しかし、旭山《あさひやま》の敵はおそろしく頑強《がんきよう》であった。彼らは決して山を出ては戦わない。天険に十分な手を加えた要害によって、鉄砲と弓であしらう、数が多いし、精妙《せいみよう》な射手をすぐっているのであろう。なかなかの威力である。あぐねた。
かれこれしているうちに、晴信《はるのぶ》勢は到着した。横山《よこやま》に拠《よ》る長尾《ながお》勢、旭山《あさひやま》に拠《よ》る栗田《くりた》勢と武田《たけだ》勢の連合軍、大塚《おおつか》の武田本陣《たけだほんじん》と、鼎立《ていりつ》の姿となった。
犀《さい》川の対岸にひるがえる黒地《くろじ》に金をもってえがいた孫子四如《そんししじよ》の旗を望見して、景虎《かげとら》はあせった。川を越えて決戦を挑《いど》みかけたくてうずうずするのだが、めったなことをしては、旭山《あさひやま》勢が横撃《おうげき》してくるおそれがある。
いつまでもにらみ合いがつづいた。
あせりは双方《そうほう》にあった。晴信《はるのぶ》は一刻も早く片づけて帰らなければ諏訪御前《すわごぜん》のことが気になってならない。景虎《かげとら》はもとよりのことだ。膠着《こうちやく》の形勢を破るために、双方《そうほう》とも謀略《ぼうりやく》を駆使《くし》した。晴信《はるのぶ》は現在では景虎《かげとら》の本陣《ほんじん》に近い土地を部下の将士らにあたえる朱印状《しゆいんじよう》を頻発《ひんぱつ》して、勇気を鼓舞《こぶ》した。景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》とちがって謀略《ぼうりやく》工作は好きでもなければ得意でもないが、この際としてはやむを得ない。善光寺《ぜんこうじ》の堂衆《どうしゆう》の切りくずしにかかった。
善光寺《ぜんこうじ》ほどの大寺になれば、堂衆《どうしゆう》もおびただしくある。多数の人が集まれば、意見も一致しないのが普通であり、利害関係もからみ、かならず対立のあるものだが、この時の善光寺《ぜんこうじ》にもそれがあった。栗田寛明《くりたかんみよう》に党《くみ》する者だけではない。景虎《かげとら》の目をつけたのはこれであった。
「お味方なさるにおいては、永代《えいだい》まで尊崇《そんすう》申すであろう。われらが仏法信仰に厚い心を持っていることは世のうわさでもお聞きであろう」
と説き、また、
「当地はいつ戦場となるやもはかられぬ時でござる。万一《まんいち》兵火などおよぶことがあってはゆゆしいこと。一応ご本尊《ほんぞん》を越後《えちご》にお移し申されてはいかがでござる」
とも説いた。
景虎《かげとら》は単なる謀略《ぼうりやく》だけで言ってはいない。信仰厚い彼には、謀略《ぼうりやく》をはなれた本心からの心配もあったのだ。
それが相手方の心を感動させたのであろう。少なからぬ堂衆《どうしゆう》が景虎《かげとら》方に加担《かたん》した。
米沢《よねざわ》市に法音寺《ほうおんじ》という寺がある。高梨政頼《たかなしまさより》の子孫が代々住職をつとめることになっている寺であるが、その寺に善光寺《ぜんこうじ》の本尊仏であったと寺で言っている如来《によらい》像がある。善光寺《ぜんこうじ》の本尊仏と称するのは、長野《ながの》の善光寺《ぜんこうじ》をはじめ全国にいく体もあって、いずれが真であるか、門外漢《もんがいかん》であるわれわれにはわからないが、米沢《よねざわ》の法音寺《ほうおんじ》の仏像が善光寺《ぜんこうじ》から持ち出されて越後《えちご》に移ったのはこの時のことにちがいあるまい。
鼎立《ていりつ》しての対陣は夏がすぎ、秋がすぎ、十月までつづいた。その間に景虎《かげとら》は川中島《かわなかじま》におし出して一合戦《ひとかつせん》したが、勝敗は決せず、また横山《よこやま》に退《ひ》いて、ふたたびにらみ合いとなった。
十月半ば、諏訪御前《すわごぜん》の容態《ようだい》がまた悪化したという知らせが来た。晴信《はるのぶ》は滞陣《たいじん》をつづける気がなくなった。
彼は景虎《かげとら》と違ってドライな男である。利になることなら、男の意地だの、武士の誇りなどに縛《しば》られはしない。自在に知恵が働く。意地や誇りをつくろう工夫《くふう》も即座《そくざ》に立つ。姉婿《あねむこ》である駿河《するが》の今川義元《いまがわよしもと》に使いを出し、仲裁して和平させてくれるように頼んだ。
足利《あしかが》将軍の一族であるという家柄《いえがら》から言っても駿《すん》・遠《えん》・三《さん》の三国を領有しているという身代《しんだい》の点から言っても、義元《よしもと》は東国大名の頭領《とうりよう》をもって自任している。早速に承諾《しようだく》し、老臣朝比奈泰能《ろうしんあさひなやすよし》をつかわして、景虎《かげとら》を説かせた。
善光寺如来《ぜんこうじによらい》
膠着《こうちやく》状態におちいった戦争はいやなものだ。さみだれ時の空模様のように陰気だ。将士の気はだれる。群疑百出《ぐんぎひやくしゆつ》の条件がそろっているのだから、流言《りゆうげん》は縦横に乱れ飛ぶ。そのくせ、いつ敵が攻勢に出て来るかわからない。味方の内部にたいしての敵の謀略《ぼうりやく》ももちろんさかんに行われる。主将は寸分《すんぶん》の油断《ゆだん》もできないのである。
まして、この時代は、これまでたびたび説明してきたように、守護《しゆご》大名または守護代《しゆごだい》と国内の豪族《ごうぞく》らとの関係は、後世《こうせい》の大名とその家臣《かしん》との関係ではない。守護《しゆご》大名または守護代《しゆごだい》はつまりはその国の豪族《ごうぞく》らの旗頭《はたがしら》にすぎない。その統制力は強力なものではなかった。この長期の滞陣《たいじん》に飽《あ》いて、自ままに陣ばらいして帰国する者さえあった。この時|景虎《かげとら》が味方の諸将らから徴した誓紙《せいし》が現存していて、それによってわかるのである。誓紙《せいし》の第一条に、
「景虎《かげとら》何ケ年御陣を張られ候《そうろう》とも、各々の儀はいかがとも候《そうら》へ、拙者《せつしや》一身のことは、無二に御諚《ごじよう》次第に在陣いたし、御馬前において走り廻《まわ》るべきこと」
とある。景虎《かげとら》様が何年ご対陣をおつづけになっても、他の人々は知らず、拙者《せつしや》においては二心なくご命令のまま在陣して、ご馬前で粉骨いたしますの意だ。
景虎《かげとら》は諸将の誓紙《せいし》までとって、滞陣《たいじん》をつづけていたのだ。
だから、景虎《かげとら》にとっても、この今川《いまがわ》家の仲裁《ちゆうさい》は渡りに舟といってもよいのであった。もちろん、景虎《かげとら》はそんな様子は気ぶりにも見せない。
(おれの方も苦しいが、敵はいっそう苦しいらしいな。しかし、妙《みよう》だな、晴信《はるのぶ》はしぶといくらい情のこわい男のはずじゃが)
と思いながらも、おちつきはらって朝比奈《あさひな》に会った。
朝比奈泰能《あさひなやすよし》はこの時三十五、六、名家|今川《いまがわ》家の重臣《じゆうしん》として諸家《しよけ》に使いした経験を積んでいるだけに、物なれた人物であった。この戦争が双方《そうほう》ともにさしたる怨恨《えんこん》もないのにはじめられたものであること、双方《そうほう》のためにならない戦争であること、民はもとより、双方《そうほう》に与力《よりき》している豪族《ごうぞく》らの迷惑《めいわく》になるべきことである等を、ねんごろに忠告し、中止して和睦《わぼく》してはくれまいかと頼んだ。
これにたいして、景虎《かげとら》は答えた。
「合戦《かつせん》は拙者《せつしや》の好むところではござらん。しかしながら、拙者《せつしや》が拙者《せつしや》の利得のために出陣してまいったのではないことは、ご承知でござろうな」
「よく承知しています。ご高義《こうぎ》の段は、胸のすくばかりのさわやかで感佩《かんぱい》しておりますゆえ、ご堪忍《かんにん》分のものはもってまいりました。いかがでございましょう、犀《さい》川を境として川から北は貴方《きほう》の領分、以南は武田《たけだ》領ということと、旭山《あさひやま》の要害《ようがい》を破壊するということの二つの条目では。武田《たけだ》も多年苦労してせっかくかせぎ取ったのを、ここまで譲歩《じようほ》しようというのでございますれば、誠心は疑うべきではありますまい。貴方《きほう》も承諾《しようだく》していただけますまいか」
これは案外であった。
景虎《かげとら》は亡命《ぼうめい》の信濃豪族《しなのごうぞく》らからの訴えをはじめとして、細作《しのび》の者どもを放って集めた情報によれば、武田晴信《たけだはるのぶ》はずいぶんしぶとい男で、いったん占領した土地はどんなことがあっても決して手離さないというのであった。敵に奪いかえされもしないが、領民に離心《りしん》されるようなこともない。これは武勇もすぐれているが、政治も上手《じようず》で、民を思いつかせることになみなみならない手腕《しゆわん》を持つ――つまり、恩威《おんい》ならび行われる名将であると考えてよいのである。
彼は晴信《はるのぶ》のような陰性の人間は好きでないから、相当|皮肉《ひにく》な判断も下している。
(やつは強欲《ごうよく》なのだ。強欲《ごうよく》じゃから、いったんわがものにした土地は決して手離さんのだ。切りとった土地の政治に注意深いのも、その手離したくない心から出て来る。気長にしくしくと絞《しぼ》った方が得《とく》と算用しているのじゃ。しかし、名将といわれるほどの者は、おおかたがこうかもしれん。おれはそんな名将になることは真《ま》っ平《ぴら》じゃが)
という観察。
その晴信《はるのぶ》が、犀《さい》川以北を割譲《かつじよう》するばかりか、旭山《あさひやま》の要害《ようがい》を撤去《てつきよ》しようといっているという。旭山《あさひやま》のある場所は犀《さい》川以北だ。当然こちらのものになるのだから、要害《ようがい》を撤去《てつきよ》して引きわたそうというのだろうが、いったん砦《とりで》にとり立てられた土地は、たとえ撤去《てつきよ》されても修復はいたって容易だ。万一の際には当方のよい拠点《きよてん》とすることができる。
どの点から考えても、武田《たけだ》方には不利な条件で講和するわけだ。よほどな譲歩《じようほ》だ。これまでの晴信《はるのぶ》から見るとありそうもないことだ。
あのしぶとい、欲ばりが、これほどの譲歩《じようほ》をするのは、あせっていればこそのことだ。なにかわけがある。それを知りたいと思った。
しかし、とりあえず、念をおした。
「それはたしかに武田《たけだ》方から申し出たことでござるな」
「申すまでもないこと。うろんなことで、主人が乗り出して骨をおりましょうや」
と、朝比奈《あさひな》はむっとしたふうであった。
「かようなことは、えて後に紛擾《ふんじよう》のおこりがちなものでござるゆえ、おたずね申したわけでござる。他意はござらぬ。しかしながら、拙者《せつしや》もここまで乗り出して来たことでござる。即席《そくせき》ではお答え申し上げかねる。今日のところはひとまずお引きとりくだされて、しばらく考えさせていただきましょう」
朝比奈《あさひな》も即答は予期していなかったらしく、二日の後を約束して帰って行った。
景虎《かげとら》はすぐしのびの者を呼んで、武田《たけだ》軍の内情を探索して来るように命じた。
「大膳《だいぜん》大夫《だゆう》が心をなやましていることが、何かあるはずだ。急ぎさぐってまいれ」
しのびの者どもは風のように散って行ったが、翌日の夜、次々に帰って来た。
「格別のこともわかりませなんだが、大膳《だいぜん》大夫《だゆう》殿が最愛の側室《そくしつ》である諏訪御前《すわごぜん》と申すが、この春から病気でありますが、このごろ重態である由でございます。病名は癆咳《ろうがい》とか」
と報告するのが、五人の細作《しのび》の中に二人いた。
これだ、と思った。
彼は諏訪御前《すわごぜん》というのが、晴信《はるのぶ》にほろぼされた諏訪頼重《すわよりしげ》の女《むすめ》であり、晴信《はるのぶ》がこれに男子を生ませ、諏訪四郎《すわしろう》と名のらせていることを知っている。
(あの人が重態か……)
裏富士《うらふじ》の見える御坂峠《みさかとうげ》で見た、初々《ういうい》しく美しかった人の姿を思い出した。
(不幸なお人だ。神代以来の名家《めいか》に生まれ、もっとも誇り高く育ったであろうのに、家は亡ぼされ、父は殺され、その父の仇《かたき》のもてあそびものになり、早や死なねばならぬとは……)
きびしく胸がせまってきた。危うく涙のにじんでくる気持ちであった。男女の間は男の社会とはちがった法則が支配し、たとえかたき同士でも、愛し合えば十分に幸福になり得るものであるという事実は、景虎《かげとら》の知らないことであった。
翌日は、約束によって、また朝比奈《あさひな》が来た。景虎《かげとら》はすぐ、
「たびたびのお運び、恐縮でござる。和議のこと、この前の条目にて承諾《しようだく》つかまつる。よろしくお願いいたす」
と言った。
「おまかせいただいて、ありがとうございます。まいったかいがありました。肩の重荷がおりたようであります。主人|治部大輔《じぶだゆう》、いかばかりよろこびますことか」
と、朝比奈《あさひな》は礼を言った。
「お礼は当方から申さねばならぬことでありますに、恐縮であります」
と答礼しておいて、景虎《かげとら》はつづけた。
「すでにご承知のことを、くどいようではござるが、念のために申しておきます。このたびの合戦《かつせん》は、拙者《せつしや》においては土地の野心《やしん》など露ござらぬ。一筋《ひとすじ》に当国を追われた武士どもに頼まれたゆえであります。犀《さい》川以北では、彼らの所領《しよりよう》はいくらも返らぬわけでありますが、今川《いまがわ》お屋形《やかた》のおあつかいとあっては、余儀《よぎ》ないことでござる。あるいは不平を申すかとも思われますが、それは拙者《せつしや》において、名跡《みようせき》だけはこの国で立てることができるではないかと、納得《なつとく》させます。されば、武田《たけだ》家においても向後《こうご》は彼らをおびやかすようなことは、厳につつしまれるよう、今川《いまがわ》お屋形《やかた》よりお申しおきください」
「ご念の入ったことでございます。かしこまりました」
手打ちの式には景虎《かげとら》も晴信《はるのぶ》も出ず、両家の重臣《じゆうしん》が出て、契約書に調印し、日を定めて両軍同時に撤退《てつたい》した。閏《うるう》十月の半ばであった。
春日山《かすがやま》にかえると、景虎《かげとら》は信濃《しなの》武士らを呼んで、武田《たけだ》家から返還された信州《しんしゆう》の地をそれぞれに分配してあたえた。
「不満もあろうが、これでがまんしてもらいたい。今川《いまがわ》殿からあつかいが入っては、どうにもならぬ。おのおのもご案内の通り、拙者《せつしや》は関東管領《かんとうかんれい》の上杉《うえすぎ》殿に頼まれているので、遠からず関東《かんとう》に出ねばなりません。その節お力添えたまわらば、今日のうめ合わせはきっとつけます」
信州豪族《しんしゆうごうぞく》らは心から感謝して礼を言った。そのはずである。錐《きり》を立てるほどの地も本国にとりとめ得なかったのだ。彼らもまた本領全部をとりかえせるものとは思っていなかった。これだけでも回復して家名を立てることができるのは、ひとえに冒険をかえりみず出動してくれた景虎《かげとら》の侠心《きようしん》によるのだ。以後彼らは無二の景虎《かげとら》党となり、武家社会の組織がかわってくると家臣《かしん》となり、後に長尾《ながお》家が上杉《うえすぎ》氏となり、豊臣秀吉《とよとみひでよし》によって会津《あいづ》に移され、徳川《とくがわ》家によって米沢《よねざわ》に移されるにつれて、彼らも従って移り、明治維新《めいじいしん》におよんでいる。今日でも高梨《たかなし》家は米沢《よねざわ》にあり、代々|法音寺《ほうおんじ》の住職をつとめていることは、前に書いた。
景虎《かげとら》が春日山《かすがやま》城下に寺院を建立《こんりゆう》し、これに善光寺如来《ぜんこうじによらい》を奉安して善光寺《ぜんこうじ》と名づけたのは、この時のことである。この寺の付近一帯には尊像《そんぞう》とともに移って来た堂衆《どうしゆう》らが住まいをかまえて町をなしたので、善光寺《ぜんこうじ》町といったという。景虎《かげとら》はよほどにこの善光寺如来《ぜんこうじによらい》を尊崇《そんすう》したらしく、この尊像《そんぞう》と泥足《どろあし》の毘沙門天《びしやもんてん》と上杉《うえすぎ》家で言っている毘沙門《びしやもん》像とを終生《しゆうせい》の護身像《ごしんぞう》にしている。またこの善光寺《ぜんこうじ》一帯の火の用心などきびしくいましめている古文書《こもんじよ》ものこっている。
以上は景虎《かげとら》方の所伝で、武田《たけだ》方ではまたこの時|善光寺如来《ぜんこうじによらい》を甲州《こうしゆう》に移し、甲府《こうふ》の板垣《いたがき》に寺を建てて奉安した。これが今ものこる甲府善光寺《こうふぜんこうじ》のおこりであるといっている。この如来《によらい》像は後日|武田《たけだ》氏が織田信長《おだのぶなが》にほろぼされた時、京都に遷《うつ》されたが、翌年|甲府《こうふ》にかえされた。その後|豊臣秀吉《とよとみひでよし》が方広寺《ほうこうじ》(大仏殿《だいぶつでん》)を建立《こんりゆう》した時、この如来《によらい》像を迎えて奉安したが、一年にして如来《によらい》が秀吉《ひでよし》の夢枕《ゆめまくら》に立って、信濃善光寺《しなのぜんこうじ》にかえりたいといったので、甲府《こうふ》へはかえさず、信濃《しなの》にかえした。時に慶長《けいちよう》三年、弘治《こうじ》元年から四十三年目であったと伝えている。ここに書いた信長《のぶなが》や秀吉《ひでよし》と現在の善光寺如来《ぜんこうじによらい》との関係は、たしかな文献もあるから、間違いはあるまい。また秀吉《ひでよし》という人は主人でもあれば師でもある信長《のぶなが》とちがって、徹底無神論者ではない。土民の出身らしい素朴《そぼく》な信仰が心の底にからみついていて、伊勢《いせ》大神宮の夢を見たといっては神宮領の検地を中止したりなどしていることもあるから、善光寺如来《ぜんこうじによらい》が夢枕《ゆめまくら》に立ったというのも、あながち信濃善光寺《しなのぜんこうじ》側の宣伝ばかりではないであろうが、信濃善光寺《しなのぜんこうじ》で大いに返還運動もしたのであろう。
だからといって、現在の信濃善光寺《しなのぜんこうじ》の本尊《ほんぞん》が上古以来のものであるかどうかは別問題である。信長《のぶなが》が京都に持って行き、秀吉《ひでよし》がまたとり寄せて方広寺《ほうこうじ》に安置して信仰したという履歴だけでも、当時としては大いにありがたく、大いに民衆の信をつなぐ力があったろうと思われるからだ。もちろん、念のために言っておく。これは現在の信濃善光寺《しなのぜんこうじ》の本尊《ほんぞん》は古来のものではないという意味ではない。前に書いたように、専門に研究しているのでないぼくには断定的なことを言う資料はない。古来の伝説と疑問とを提示しているだけのことである。
もっとも古い伝説に従えば、善光寺如来《ぜんこうじによらい》は欽明《きんめい》天皇の十三年に日本に最初にわたって来た仏像で、蘇我《そが》・物部《もののべ》両氏の崇仏《すうぶつ》・排仏《はいぶつ》の争いの時に難波《なにわ》の堀江《ほりえ》に投げすてられたのが、信濃《しなの》水内《みのち》郡の住人|本田善光《ほんだぜんこう》という者がひろい上げて本国に持ってかえり、はじめ自宅にまつり、後に今の善光寺《ぜんこうじ》の地に堂宇を営んで奉安したのであるということになっている。はたしてそうであるかどうか。本田善光《ほんだぜんこう》などという姓名が日本上古のものでないことはだれでもわかる。本田善光《ほんだぜんこう》なる人物に関係があるとするならば、少なくとも平安《へいあん》朝中期ごろまで引き下げてもよいのではないかと思われるのだが、それにしても古いものである。
この由緒《ゆいしよ》ある古い仏が、今ではどこにあるかも確言できないのだ。仏の教えは因果《いんが》の連鎖《れんさ》を断絶し、変化流転《へんげるてん》の相から超越するにあるということだが、人間の手になったものは仏像すらもこうだと思うと、無量の感慨《かんがい》と寂寥《せきりよう》とがある。
それはさておき、和議《わぎ》の約束ができると、晴信《はるのぶ》は調印を待たないで、甲府《こうふ》にかえった。もちろん、調印のすむまでおごそかに本陣《ほんじん》をかまえておいて、ほんの数十騎の兵を連れ、微行《しのび》姿でかえったのである。
諏訪御前《すわごぜん》はもう枕《まくら》も上がらない容態《ようだい》になっていた。
「申し上げにくいことでございますが、もはや日を数えて待つばかりでございます。ご看病がいもないことで、恐れ入ってございます」
と、医者も言った。
先月の半ばごろ、にわかに大喀血《だいかつけつ》があり、なかなかそれがおさまらず、高熱の日がつづいた。今月に入って喀血《かつけつ》はおさまったが、熱は少しもさがらない。さなきだに衰弱《すいじやく》したからだが、ますます衰弱がつのっていくのが、蝋燭《ろうそく》かなんぞが燃え細っていくのを見るようであるという。
衰弱していることはひと目でわかった。この前別れた時にやせ細れるだけやせ細っていたのであろう、こんどはそうやつれなどは見えなかったが、生気《せいき》がまるで見えないのであった。
病室に入って来た晴信《はるのぶ》を見て、諏訪御前《すわごぜん》は微笑《びしよう》したようであったが、他の部分の皮膚と同じ白い色になっている唇《くち》もとには、笑いが結ばなかった。陰のようなかすかなものがそこをかすかに掠《かす》めただけであった。晴信《はるのぶ》は、真っ黒なものが胸におおいかぶさったように感じた。
(ああ、これはいけない)
と思った。
それと同時に、
(死なせてなるか! かならずなおしてみせる!)
という気持ちが猛然として湧《わ》きおこった。
「きつう悪いと聞いて、大へん案じていたが、見ればそれほどでもないでないか。安心したぞ。気を丈夫にもてい。わしがかえって来たからには、きっと前のからだにしてみせるぞ」
と、晴信《はるのぶ》は言った。
相手は感謝の目《まな》ざしをおくり、低い声で言った。
「ご心配をかけて恐れ入ります。お知らせしてはならぬと申したのでございますが……」
微笑《びしよう》をつくろうとつとめているのが、いたましかった。
「なんのなんの。いくさが釘《くぎ》づけになってしまっての。ひまをかければ、打ち勝つことは案のうちであったが、そろそろ寒うもなるので、このへんが見切りどきと思うて、和議《わぎ》をとり結んで帰って来たのじゃ。そなたのことでやめて帰って来たわけではない。気にすることはないぞ」
といったが、諏訪御前《すわごぜん》は返事をしなかった。見ると、薄青い色に澄んだ白目の中の真っ黒なひとみは、天井《てんじよう》に向けられたままだ。どこか遠い遠いところを見ているような感じであった。
晴信《はるのぶ》は何かに気をとられて、こちらの言うことが聞こえなかったのかもしれないと思ったが、その時、四郎《しろう》が入って来た。四郎《しろう》は今あちらで父を迎えてあいさつをしたのだ。軽く父に目礼《もくれい》して、いつも自分のすわる席についた。健康な美少年である四郎《しろう》は、咲き立ての花のようににおわしい美しさがあって、見ているだけでも快かった。
晴信《はるのぶ》は、その四郎《しろう》を諏訪御前《すわごぜん》が全然見ようとしないことに気づいて、はっとした。そこには何か異様なものがあった。
(はてな……)
と思った時、諏訪御前《すわごぜん》のひとみがくるりと動いて四郎《しろう》に向けられたが、それはいっそう晴信《はるのぶ》をおどろかせた。
諏訪御前《すわごぜん》の目には何の表情も浮かんでいなかったのだ。その目は、母親が自分の子を見る時の目ではない。冷淡というべきか、非情というべきか、まるで関心のない目だ。いやいや、見ていないのかもしれない。彼女の心の目は遠いはるかなものにだけ向けられて、周囲のものは見えないのかもしれない。
こごえるようなものを全身に感じながら、晴信《はるのぶ》は今ははっきりと知った。
「この女はもう死んでいる。からだはまだ生きているが、魂はあの世に行っている」
目をつぶって、深い息を吐いた。
十一月六日、諏訪御前《すわごぜん》は死んだ。
信濃《しなの》落ちの豪族《ごうぞく》らに領地の配分をし、春日山善光寺建立《かすがやまぜんこうじこんりゆう》のさしずをしたころ、また、国侍《くにざむらい》の境目争いがおこった。こんどは下越後《しもえちご》だ。黒川《くろかわ》下野守実氏《しもつけのかみさねうじ》と中条《なかじよう》越前守藤資《えちぜんのかみふじやす》とがそれをおこしたのだ。二人は北蒲原《きたかんばら》郡の北端にいる。胎内《たいない》川をはさんで北に黒《くろ》川、南に中条《なかじよう》があって、一里ばかりをへだてて位置している。
元来この地方一帯は鎌倉《かまくら》幕府創業の功臣和田義盛《こうしんわだよしもり》が頼朝《よりとも》からもらった土地で、それを子供らに分与した。胎内《たいない》川を境界線として、南部を五男|義茂《よししげ》に、北部を六男|義信《よしのぶ》にあたえたのだ。義茂《よししげ》の子義資《よしすけ》、義信《よしのぶ》の子義治《よしはる》にいたって、それぞれの所領《しよりよう》に定住し、郷名をもって氏の名とするようになったのである。こんなわけだから、本来はこの両氏はもっとも親密であるべき一族なのである。
この所領《しよりよう》の境界争いも、この前の上野家成《うえのいえなり》と下平修理《しもだいらしゆり》との争いが信濃《しなの》川の川筋がかわったところに根本の原因があったように、胎内《たいない》川の川筋《かわすじ》の変化に原因があった。川は何年目おきにはかならず氾濫《はんらん》する。時によると二年も三年もつづけて氾濫《はんらん》する。ろくな堤防《ていぼう》がないのだから、そのたびに川筋《かわすじ》が変化するので、川筋《かわすじ》は境界線にならなくなった。何百年にもわたる長年月の間のことだし、ひんぴんたる変化ではあるし、そのたびに河床《かわどこ》であったところが陸地となり、陸地であったところが河床《かわどこ》となりして、両家の領地は川の両岸に入りまじった。境界争いのおこるのは当然のことで、この争いも今にはじまったことでなく、もういく世代にもわたって係争《けいそう》がくすぶりつづけていたのであったが、このころになってにわかに激しくなり、不穏《ふおん》な様相さえあらわれてきた。
「またか」
景虎《かげとら》はひたすらににがにがしかった。
実をいえば、一昨年の上野《うえの》・下平《しもだいら》の係争《けいそう》もはっきりとは解決していない。下平《しもだいら》の方に理があるように思われるのだが、下平《しもだいら》をなだめ、ある程度の譲歩《じようほ》をさせて、土地の分割案を出した。上野《うえの》方はしぶりながらもそれをのんだ。この時、景虎《かげとら》がいったん係争《けいそう》の土地を引き上げて分割してやればよかったのだが、まさかと思って気をまわさなかったのが失敗であった。係争《けいそう》は再燃《さいねん》した。係争《けいそう》の土地は上野《うえの》方で管理している。上野《うえの》方から下平《しもだいら》方に割譲《かつじよう》する形になったので、上野《うえの》方は|ふけ《ヽヽ》地(湿地《しつち》や池沼《ちしよう》)を含んだ土地を約束の面積だけ引き渡したのだ。下平《しもだいら》方がおさまろうはずがない。
「殿様のおねんごろなお諭《さと》しでござるゆえ、本来は全部が当方の所領《しよりよう》たるべきを、曲げて折合いをつけ申したに、沙汰《さた》のかぎりないたしようでござる。もうかんべんなり申さぬ。万事ご破算、新規まきなおしということにしていただきとうございます」
と申し出た。
景虎《かげとら》は本庄慶秀《ほんじようよしひで》に命じて事情を調査してみると、下平《しもだいら》の申し立てた通りだ。上野《うえの》のきたないやり方に腹が立ったが、何よりも円満に解決することが大事だ。また本庄《ほんじよう》に命じて上野《うえの》を訓戒《くんかい》し、改めて割譲《かつじよう》しなおさせることにしたが、こんどは下平《しもだいら》がうんと言わない。
「拙者《せつしや》はかんにん袋の緒《お》が切れ申した。上野《うえの》が憎うござる。もはや談合《だんごう》はいやでござる。先祖ゆかりの所領《しよりよう》、一歩《いちぶ》もわかち申すまじ」
と言い張って、頑強《がんきよう》をきわめている。
これだけでもいいかげんうんざりしているところに、また同じような事件がおこったのだ。
景虎《かげとら》はこの前のような失敗をしてはならないと思って、工夫《くふう》をこらしたが、ふと気づいたことがあった。
「いく世代にわたって混雑している境界だ。それぞれに自分の方に理があると信じこんでおり、それを証するに足ると思いこんでいる文書類その他の証拠《しようこ》も持っているであろう。だからこそ、この係争《けいそう》もおこり、決着することなく数代争いつづけているのだ。こんなことは理否をもって解決しようとしてはならない。理をもって解決されるものなら、とうの昔決着しているはずだ」
という思案。
そこで、幼時に林泉寺《りんせんじ》で学問を教えてくれた天室光育《てんしつこういく》に仲裁役を頼んだ。光育《こういく》は数年前に林泉寺《りんせんじ》の住職をやめて、長慶寺《ちようけいじ》の住職になっていた。長慶寺《ちようけいじ》はどこにあったのかわからないが、思うに林泉寺《りんせんじ》の隠居寺《いんきよでら》で、やはり春日山《かすがやま》近くにあったのではなかろうか。
「ようござる。やってみましょうわい」
天室和尚《てんしつおしよう》は気軽に引き受けた。もう七十余歳になっていたが、一杖一蓋《いちじよういちがい》、ただ一人、ふらりと下越後《しもえちご》に出かけた。何といって説いたか、数日の後には帰って来て、春日山《かすがやま》城にあらわれた。
「行って来ましたわい。二人ともいっさい殿様におまかせするというて、起誓《きせい》をさし出しましたよって、もろうて来ました」
といって、二通の書きつけを渡した。
「天室《てんしつ》様が遠路わざわざおいでくださいまして、懇々《こんこん》とご意見を賜わりました。お心をなやまし奉っているとのこと、恐縮|千万《せんばん》であります。この上はいっさいのことを殿様のご裁量におまかせ申しますれば、いかように仰《おお》せつけられましても、異議は申しません」
という意味のものであった。
天室《てんしつ》の手ぎわはみごとなものであった。景虎《かげとら》は驚嘆《きようたん》しながら、お礼を言っておさめた。
「もともと兄弟から出たお家でないか、こんな争いをなされてはご先祖がなげいておわそう、理窟《りくつ》を言いつのってはならぬと申しましたら、はっと覚悟してくだされましての。あんじょういきましたわ」
と、和尚《おしよう》は白い眉《まゆ》をぴくぴくと動かして笑った。
景虎《かげとら》は直江実綱《なおえさねつな》に命じて係争《けいそう》の土地を綿密に調査させ、均分してあたえ、双方《そうほう》それで納得《なつとく》し、和解の盃《さかずき》をしてことはおさまった。
これで解決法を教えられた気持ちで、上野《うえの》と下平《しもだいら》との調停にかかったが、こじれにこじれているこれはなかなか解決がつかない。
その年は暮れ、弘治《こうじ》二年となっても依然《いぜん》として紛争《ふんそう》をつづけている。両人とも春日山《かすがやま》に出て来て、毎日のように本庄慶秀《ほんじようよしひで》以下の重臣《じゆうしん》らを歴訪して、みずからの正当性を主張してやまない。
すると、いったんおさまっていた中条《なかじよう》と黒川《くろかわ》もまた紛争《ふんそう》をむしかえしてきた。
我欲《がよく》にからんだこの争いは、潔癖《けつぺき》にすぎるほど潔癖《けつぺき》な景虎《かげとら》には理解できないことであった。
「たかの知れた数十町歩の田地《でんち》のことで、こうもあさましくなれるものか」
と、おどろきあきれていたが、やがて、自分のように物欲に恬淡《てんたん》に生まれつく者は稀《まれ》で、人間という人間のほとんど全部が我欲旺盛《がよくおうせい》で、我欲旺盛《がよくおうせい》こそ人間の本性といってもよいほどであることを、いやでも知らねばならなかった。
「人間というものは!」
厭人的《えんじんてき》な気持ちにならないわけにいかなかった。
彼はまた雪国の人に似合わず気の長い方ではない。それどころか、短気といってよいかもしれない。潔癖《けつぺき》、爽快《そうかい》、からりとした行き方を好むのもそのためだが、しくしくとねばるのはにが手だ。
れいの憂鬱《ゆううつ》が忍びよって来た。いっさいのことがいやになった。何もかもうっちゃってしまいたくなった。
春日山《かすがやま》のいただきにある本丸《ほんまる》とならんだ台地にしつらえた毘沙門《びしやもん》堂にこもり切りになって禅定一途《ぜんじよういちず》になったが、憂鬱《ゆううつ》と厭人《えんじん》感はつのる一方だ。
ある日、すき間風のように心にしのびこんで来たものがあった。
「人間いくら長生きしても、百年の寿命《じゆみよう》は保てぬ。このくだらん者どものいる世の中で、どんな功業《こうぎよう》を立てたとて知れたものではないか。何をあくせくと喜怒哀楽《きどあいらく》して骨をおることがあろう……」
とり憑《つ》かれた気持ちであった。景虎《かげとら》はこの観念から離れることができなくなった。
高野山《こうやさん》の静寂《せいじやく》さと清澄《せいちよう》さがしきりに思い出された。
三月末、ついに重臣《じゆうしん》らを本丸《ほんまる》に召し出して、言いわたした。
「思う仔細《しさい》があって、おれは隠居《いんきよ》する。あとはその方どもにまかせる。国のしおきは上田《うえだ》の政景《まさかげ》殿を主と仰いでするもよし、その方ども合議の上できめるもよし、あるいは各人てんでんばらばらに別れるもよかろう。おれは隠居《いんきよ》し、近々に紀州《きしゆう》の高野山《こうやさん》に行くことにする。それゆえ、いっさいのしおきは今日以後おれのところに持って来るな。おれは決して見ぬぞ。さよう心得《こころえ》い」
思いもかけないことだ。重臣《じゆうしん》らはおのれの耳を疑い、また仰天《ぎようてん》せんばかりにおどろいたが、景虎《かげとら》は言いすてたまま、さっさと毘沙門《びしやもん》堂にかえり、宗九和尚《そうくおしよう》にもらった袈裟《けさ》をかけて、毘沙門天《びしやもんてん》の前で禅定《ぜんじよう》に入った。
やがて重臣《じゆうしん》らが来て、近習《きんじゆう》の小姓《こしよう》を通じて、お目にかかりたいと言ったが、
「申すべきことはみな申した。会う必要はない。おれは決して会わぬぞ」
と答えて追いかえした。
春日山《かすがやま》城にあった毘沙門《びしやもん》堂は、上述したように春日山《かすがやま》城の絶頂にある本丸《ほんまる》にならぶ一|支峰《しほう》のいただきをけずりひらめた台地にあった。谷にのぞんで方形に練《ね》り塀《べい》をめぐらし、正面の楼門《ろうもん》を入ると、毘沙門《びしやもん》堂、諏訪《すわ》堂、護摩《ごま》堂の三つがならんで建ち、本丸《ほんまる》とは切り立てたような谷をもってへだたっていた。
景虎《かげとら》は決してこの区域から出ず、どんなに重臣《じゆうしん》らが拝謁《はいえつ》を願い出て来ても会わなかった。上田《うえだ》の政景《まさかげ》は房景《ふさかげ》が病死してからは上田長尾《うえだながお》家の当主となっている上に、もっとも近い一族であり、姉聟《あねむこ》でもあるので、老臣《ろうしん》らはこれに相談してやった。政景《まさかげ》はおどろいて出て来て、老臣《ろうしん》らのくわしい話を聞き、景虎《かげとら》に謁見《えつけん》を申しこんだが、これとも会おうとしなかった。
「遠路をはるばるとおいでくだされた段恐縮でござるが、ご用件は決心をひるがえせと申されるのであると存ずる。それならばお会いすること無用でござる。拙者《せつしや》のこのたびの決心はかたいのでござる」
と答えさせて、ことわった。
「少しお気が静まるまで待とう。今すぐどうということもあるまいでな」
と老臣《ろうしん》らに言って、政景《まさかげ》は上田《うえだ》に帰った。
現代に至るまでなぜ景虎《かげとら》がこういうことを言い出したか、歴史上の謎《なぞ》になっている。江戸《えど》時代に出た武者《むしや》物語・北越《ほくえつ》軍記等はすべて、これは景虎《かげとら》のストライキであって、こうすることによって諸将らを後悔させ、その誓書《せいしよ》をとろうとしたのであると書いているし、表面にあらわれたところだけで結果的に見ればこう解釈されないこともないから、老臣《ろうしん》らにしても、政景《まさかげ》にしても、まさか景虎《かげとら》が本心から隠遁《いんとん》の決心をしているとは思わなかったのかもしれない。
六月末、長慶寺《ちようけいじ》の天室和尚《てんしつおしよう》は、景虎《かげとら》から書面を受けとった。この書面は現存しているが、千四百字におよぶ長文のもので、隠遁《いんとん》の理由と決意を告げ、この書面の趣を家臣《かしん》や豪族《ごうぞく》らに告げてくれるように頼んだものであった。
「当国、往時、逆臣競い起こり、兇徒《きようと》横行、国内|乱離《らんり》の形勢となること多年、宗心《そうしん》は年少であったが、坐視《ざし》するに忍びず、討伐の義兵を栃尾《とちお》に挙げた。幸いにして、祖先の余烈《よれつ》によって戦うごとに利を得、ついに乱賊を掃滅《そうめつ》し、国内平定をいたすを得た。その後、信州《しんしゆう》亡命の豪族《ごうぞく》らに乞《こ》われて甲州武田《こうしゆうたけだ》氏と戦い、今川《いまがわ》家の仲裁によって和議《わぎ》するに至ったとはいえ、なお信州人《しんしゆうびと》らの所領《しよりよう》を回復してやることができた。自賛《じさん》のようではあるが、彼らの名跡《みようせき》のたえざるを得るようになったのは、われ宗心《そうしん》の力である。また、先年、宗心上洛《そうしんじようらく》した時、かたじけなくも参内《さんだい》をゆるされ、天盃《てんぱい》、御剣《ぎよけん》の賜《たまもの》を拝受するを得た。これは当家|空前《くうぜん》のことで、無上の光栄というべきであろう。一方、国内をかえりみるに、豊年、年々につづき、戸々|余積《よせき》あって、民は鼓腹《こふく》の有様《ありさま》である。天実に宗心《そうしん》に幸いすること厚しといってよい。古人いう、功成り名遂げて、身退くは天の道であると。宗心《そうしん》の今踏むべき道であると思う。およそわが越後《えちご》の国は名族《めいぞく》、旧家多く、賢良《けんりよう》の士また乏《とぼ》しくない。人々合議して国政をとることにすれば、何のさしつかえはないであろう。よろしく依頼する。宗心《そうしん》がこんなことをくだくだと書き連ねたのは、国を去るの後、あるいは無実の誹謗《ひぼう》をなす者があるかもしれないと恐れるからである。誤解ないように願う云々《うんぬん》」
という意味のものであった。
披見《ひけん》して、天室和尚《てんしつおしよう》はおどろき、春日山《かすがやま》に駆けつけたが、景虎《かげとら》はもう居なかった。
近侍《きんじ》の者に書面をとどけさせるとすぐ、景虎《かげとら》は剃髪《ていはつ》して僧形《そうぎよう》となり、ひそかに春日山《かすがやま》を出て南に向かった。信州《しんしゆう》に出、木曾路《きそじ》をとってひとまず京《みやこ》に上り、ついには高野山《こうやさん》に行くつもりであった。
六月末――当今の七月から八月中旬ごろにかけての季節だ。暑いさかりであるが、墨染《すみぞ》めの法衣《ほうい》に網代笠《あじろがさ》、杖《つえ》にしこんだ戒刀《かいとう》をついた身軽な身は、身にも心にも解放感がみちて、ひどくすがすがしかった。かつて徹岫宗九和尚《てつしゆうそうくおしよう》に鉗鎚《かんつい》されて見性《けんしよう》した時のような自在感があった。
「なぜ早くこうしなかったろう。今となってふりかえってみると、地獄の生活であったわ。受けがたい人身《じんしん》を受けて生まれながら、生涯《しようがい》を地獄の中で送るなど、愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》だわ」
と思った。
春日山《かすがやま》で大さわぎしているであろうことはもちろん考えた。追っ手のかかるであろうことも考えた。だからこそ、越中路《えつちゆうじ》をとらず、こちらの路をとったのだ。越中路《えつちゆうじ》を追ってそちらに居ないことがわかれば、こちらに追ってくるであろうが、うまくいけばそれまでに犀《さい》川をこえて武田《たけだ》領に入ることができる。その前に追いつかれても、決して引きかえすことはすまい、まさか力ずくで引きもどすこともあるまいが、もしそんな手に出たら、やむを得ない、斬《き》って捨てるまでのこと、と、すさまじい覚悟をきめていた。
「西行法師《さいぎようほうし》とやらは、世にある時は佐藤義清《さとうのりきよ》とて、院の北面につかえて弓馬の道ゆゆしい武士であったそうなが、いったん心を決して仏門に入ろうとする門出《かどで》には、とりすがる幼女を簀《す》ノ子から庭に蹴《け》おとして家を走り出たというが、おれの今の心もそれにちっともかわらぬ」
足を速めて小休みもなく急いだので、午《ひる》前には春日山《かすがやま》から二十七キロの関山《せきやま》についた。一昨々年、武田晴信《たけだはるのぶ》が村上義清《むらかみよしきよ》の居城|葛尾《かつらお》城に攻めかけた時、万一を用心してここに出兵して国境をかためたことがある。その時のことを思い出すと、まるで世をへだてたことのように遠い。
「世に在《あ》ればいろいろと気をまわして、寸分《すんぶん》も心の休まるひまもない。大事な一生をくだらんことに使うて、阿呆《あほう》なことじゃわ。その阿呆《あほう》なことを、用心がよいと自賛《じさん》するのじゃから、いっそうな阿呆《あほ》らしさじゃ。阿呆《あほう》の底が知れんとはこのことじゃ」
と思った。
その時だった。とつぜんうしろの方で、
「おーい」
と呼ぶ声が聞こえた。
(そら来た! 意外に早かったな、どうでも今日の夕方までは大丈夫じゃろうと思うたに)
と、思いながら、ふりかえりもせず、いっそう足を速めたが、うしろの方では、おーいおーいと呼ばわりつづける。馬蹄《ばてい》のひびきまで聞こえてきた。一人や二人でなく、相当な人数らしいのだ。
行く手の街道《かいどう》の両側の民家から人々が走り出して来た。手に手に棒や槍《やり》や刀を持っている。これほどの追っ手がかかる以上罪ある落人(おち国守《くにのかみ》)にちがいないから、おしとどめて恩賞にあずかろうという量見《りようけん》であろう。
こうなってはしかたない。景虎《かげとら》は街道《かいどう》にさしかかって笠《かさ》のように枝をひろげて木蔭《こかげ》をつくっている赤松の下に立ちどまって、ふりかえった。
追っ手は一町ほどの距離にせまっていた。白いほこりを霧《きり》のように巻き上げて、馬を飛ばして来る。真っ先に立ったのが松江《まつえ》であり、つづくのが弥太郎《やたろう》だ。あとはほこりの中におぼろにしか見えないが、松江《まつえ》と弥太郎《やたろう》がいる以上、どんな連中であるか、容易に推察がつく。馬廻《うままわ》りの豪傑連《ごうけつれん》にちがいなかった。
(こりゃいかんわ)
と苦笑した。無理なとめようをしたら斬《き》って捨てようとまで思いこんでいたのだが、この連中にはそんなことはできない。やれやれ……。
裾野《すその》の秋
松江《まつえ》は真っ先に馬を乗りつけ、真っ先に馬をとびおりたが、さすがにしおらしく夫が馬をおりるのを待った。
弥太郎《やたろう》が先頭に立ち、つづいて松江《まつえ》、そのあとから金津新兵衛《かなづしんべえ》、戸倉与八郎《とくらよはちろう》、秋山源蔵《あきやまげんぞう》、曾根平兵衛《そねへいべえ》、鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》らの馬廻《うままわ》りの豪傑《ごうけつ》連中がぞろぞろやって来る。頭から顔、衣服にいたるまで、いずれもきな粉をまぶしたようにほこりをかぶっているが、両眼だけが異様に光って血走っていた。しかし、景虎《かげとら》の僧形《そうぎよう》を見、笠《かさ》の下の頭が青々と剃《そ》られているのをたしかめると、皆雷にでも打たれたような顔になり、見る間に涙ぐんだ。
弥太郎《やたろう》がかつて見せたことのない、しおしおとした様子で、あたまを下げて、ぼそぼそといった。
「天室《てんしつ》様におつかわしになりましたお書きおきにあります段々、とっくりと聞かせてもらいましたすけ、おあとを慕《しと》うてまいりました」
こちらの気合いを見ているようなおどおどした調子で言いおわると、「へえーッ」と頭をさげた。すると、つづく連中もまた一様に「へえーッ」といっておじぎした。びくびくしているのが、よくわかった。
しばらく頭を下げたままでいて、顔を上げたが、どれもこれも途方《とほう》にくれたような表情がある。彼一人を中心にして、今日まで懸命な働きをつづけてきたのだ。こんなことになっては途方《とほう》にくれるのも無理はないのである。
景虎《かげとら》はすまないと思った。
金津新兵衛《かなづしんべえ》が進み出て言う。
「お書きおきの条々、拝承いたしました。しかしながら、このような形でご退去あそばすのは、あまりに軽々しく存じます。ご身分にふさわしい儀式をもって、ご家中《かちゆう》一統の者や国侍《くにざむらい》らにもお別れを告げられてから、ご隠居《いんきよ》あるべきであると存じますれば、一応お立ちかえりあそばすよう、お願い申し上げます」
新兵衛《しんべえ》は五十の坂を去年越して、鬢髪《びんぱつ》に白いものがまじっている。顔にも老いのかげが見える。今日は別して老いの色が濃いようだ。切々《せつせつ》たる説きようだ。
景虎《かげとら》は気がひるんだ。しかし、おし切らなければならないと思った。
「そちの申すことは道理だが、もうここまで来てしまったのだ。そういうわけにはいかん」
と、強く言い切った。
「でもございましょうが、決しておとめ申そうというのではございません。外聞《がいぶん》もございますれば、定まった儀式をふんでいただきたいだけのことでございます。ぜひ、一応お立ちかえりのほどを……」
重ねて新兵衛《しんべえ》が言った時、いきなり、松江《まつえ》が新兵衛《しんべえ》の腕をつかんで、ぐいと向きなおらせた。
「新兵衛《しんべえ》様、お前様、それでは約束がちがいますぞい。お前様の言いなさることを聞いていますつうと、殿様の隠居《いんきよ》なさるには異議はねえ、ただ皆に別れを告げなさらんのがいがねえと聞こえますけんど、そげいなことはおらたちの話には出ませなんだぞや。おらたちは殿様よりほかに殿様と仰ぎつかえ申すお人はねえすけ、なにがなんでも殿様を引きとめてお連れかえり申すべし、殿様が何といわしゃっても、聞くことでねえ。引きずり申してでもかえり申すべし、と、相談ぶって飛んで来たのですぞい。お前様もまだ耄碌《もうろく》なさるお年ではねえ。よもやお忘れではござるまいがや」
食ってかかる勢いでとうとうとまくし立て、さらに一同に同意をもとめた。
「のうや、宿の旦那《だんな》さんや、そうじゃったのう。皆の衆や、そうでござりましたわのう」
一同は松江《まつえ》のように単純ではない。新兵衛《しんべえ》があんな言い方をしたのは、景虎《かげとら》を引きもどすための策略で、あとはあとでゆっくりと口説《くど》き立てるためであることを知っている。急には返事ができず、たがいに顔を見合わせていた。
松江《まつえ》はかっと逆上した。このごろ下《しも》ぶくれになったほっぺたに血を上らせた。きな粉のようなほこりが薄くかぶっている下に、それが見えた。
「なんとか言いなされや! お前様方、聾にならしゃったのか! 唖にならしゃったのか! こら、やい、ご亭! お前様、言わっしゃれ!」
松江《まつえ》は新兵衛《しんべえ》から手をはなして、弥太郎《やたろう》の胸ぐらをとった。
「なにさらす!」
弥太郎《やたろう》は弱りきりながらも、はねのけようとしたが、はなすどころか、
「こら、やい、ご亭! 言わっしゃれ! 大事な正念場《しようねんば》ですぞい! 言わっしゃれ! 言わっしゃれつうに!」
大力にまかせて、ゆすぶり立てる。弥太郎《やたろう》のひげ面《づら》が弱りきった表情になって、ふらふらとゆれた。
戸倉与八郎《とくらよはちろう》がなかに入った。
「松江《まつえ》殿、こら、はなさっしゃれ、はなさっしゃ! 路上でござるぞ。あれ、人々が見て笑うていますぞ!」
「なにい! 見て笑っとりますと?」
松江《まつえ》はすごい顔になり、そちらに走って行って、どなり立てた。
「うぬらァ! なに見とるだァ! 人《ふと》がこまっとるのを見て、笑うということがあろうずることかァ!」
さび槍《やり》をもったり、刀をもったり、棒をもったりして飛び出して来ていた土民《どみん》らは、わっとさけんで、散らばり、それぞれの家に逃げこんだ。
「ふんとにまあ、何つう情《じよう》なしどもじゃろう」
ぶつぶつといいながらかえって来て、また弥太郎《やたろう》にとりかかろうとする。
景虎《かげとら》はおかしくもあったが、その真情《しんじよう》には心を打たれた。決心をひるがえす気は毛頭《もうとう》なかったが、この連中をこのまま追いかえすことはできないと思った。
「ともあれ、おれについて来い。言って聞かせることがある」
と言いすてて、すたすたと歩き出した。
関山《せきやま》は北国街道《ほつこくかいどう》に沿ってできた町である。街道《かいどう》に沿うて民家がここに三、四軒、かしこに五、六軒とかたまりつつ、帯のように長い宿場町《しゆくばまち》を形成している。そのひょろひょろと長い町の中ほどから右手に妙高山《みようこうざん》へ登る道がわかれている。いったいこの町は妙高山《みようこうざん》の裾野《すその》をめぐり気味《ぎみ》にあるといってよいので、妙高道《みようこうみち》は分岐《ぶんき》したあたりからもうゆるやかな坂道になっている。
景虎《かげとら》はその分岐《ぶんき》点から少し妙高道《みようこうみち》に入ったところにある関《せき》ノ明神《みようじん》の別当寺宝蔵院《べつとうでらほうぞういん》に入った。一昨々年|信州《しんしゆう》のさわぎを用心してこの地に出陣した時にはこの寺を本陣《ほんじん》としたし、昨年|善光寺平《ぜんこうじだいら》に出た時には往復ともにここに泊まり、寺僧《じそう》と親しいのである。
宝蔵院《ほうぞういん》の滞在は長いことになり、日夜に主従《しゆじゆう》の間に問答がかわされた。景虎《かげとら》はいろいろな説き方で自分の隠遁《いんとん》を納得《なつとく》させようとつとめたが、豪傑連《ごうけつれん》はどうしても承服しない。
「おれは正直に言って、阿呆《あほう》ではない。どちらかというと知恵のある方じゃと思うし、勇気じゃとてない方ではないと思うている。しかしながらおれの先祖には、ずっとずっと立派《りつぱ》なお人がおられた。高景入道魯山《たかかげにゆうどうろざん》などというお人は、足利《あしかが》三代の将軍|義満《よしみつ》公のころ、無双《むそう》の勇将といわれ、そのころ京《みやこ》の相国寺《しようこくじ》の絶海中津和尚《ぜつかいちゆうしんおしよう》が大明《だいみん》にまいられた時、魯山《ろざん》殿の勇名はすでにかの地にも聞こえていて、大明《だいみん》人らにいろいろとたずねられた。絶海和尚《ぜつかいおしよう》は知っているかぎりをお話し申されたところ、大明《だいみん》人らはことごとく感心して、国にお帰りあらば、魯山《ろざん》殿の形像《けいぞう》をうつさせてお送りくだされと頼んだ。和尚《おしよう》は引き受けなされ、帰朝《きちよう》の後、はるばると使いを当家に寄せて、しかじかのわけなれば、魯山《ろざん》殿の絵図を所望《しよもう》したいと申しこされた。それで、当家では画工に命じ、魯山《ろざん》殿の画像をうつしてお送り申し、和尚《おしよう》は便船をもって大明《だいみん》へつかわされた。家の記録にあることじゃ。これほどのお人であったが、なしとげられた仕事はおれよりいささかおとる。魯山《ろざん》殿のころにも当国|乱離《らんり》の姿となって、守護《しゆご》でおわす上杉屋形《うえすぎやかた》のお勢いちぢまったのを、魯山《ろざん》殿懸命の働きによって国内平定した。おれは十五で栃尾《とちお》で旗上げして数年にして国内平均せしめたばかりか、信濃《しなの》の国侍《くにざむらい》らの所領《しよりよう》をとりかえしてやった。それだけおれの方がまさりじゃ。また受け得た栄誉《えいよ》に至っては、おれの方が大まさりじゃ。魯山《ろざん》殿は将軍家や関東管領《かんとうかんれい》殿からおほめにあずかられただけであったが、おれは関東管領《かんとうかんれい》家から上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》と管領《かんれい》職を譲ろうといわれており、将軍家からもおほめのおことばをいただいたのみならず、参内《さんだい》までして天盃《てんぱい》をいただき、御剣《ぎよけん》を拝受している。数等まさり、数十等まさりの栄誉《えいよ》を受けているというてよい。おれは自慢《じまん》で言うているのではない。おれの力以上に運がよいと言いたいだけだ。力以上の栄誉《えいよ》を受けるは、人としてつつしまねばならぬ。満つれば欠くるといい、高明《こうめい》神の悪《にく》みにせまるといい、亢竜《こうりよう》は悔《くい》ありともいう。おれの身|退《ひ》くべき時が来ているのだ。おれをおれの気ままにさせてくれい」
と、景虎《かげとら》が説くと、豪傑連《ごうけつれん》は、
「魯山《ろざん》様は魯山《ろざん》様、殿様は殿様でござる。わしらは魯山《ろざん》様もおえらいお方であったとは思いますけんど、これは見ぬ昔のお人でござる。殿様は恐れながらわしらが幼立《おさなだ》ちのおんころから手塩《てしお》にかけて育て上げ申したお人でござる。そう早う見切りをつけてもらいとうござらぬ。殿様はいろいろむずかしいことを言いなさるけんど、つまりは足もとの明るいうちに引っこみたいと仰《お》っしゃるのでござるべし。足もとは白昼《まひる》よりも明るうござる。当分暗うなる気づかいはござらぬ。今《いんま》のお話の上杉《うえすぎ》のご名跡《みようせき》も管領《かんれい》職も管領《かんれい》様は譲《ゆず》ろうと仰《おお》せられてはいますが、殿様はまだお受けになっておらんではござりませぬか。わしらは殿様が上杉《うえすぎ》のご名跡《みようせき》をつぎ、管領《かんれい》職となられ、関八州《かんはつしゆう》のおん主《あるじ》と仰がれ給うまで、ご隠遁《いんとん》なんどさせとうありませんわい」
と言い張る。
「そなたらの申す通り、そなたらはおれと特別に深い関係がある。そのため、おれを見る目も特別なものがある。しかし、それはひいき目というものだ。おれはそれほどの者ではない。世間のおれを見る目はそんなあまいものではない。ずいぶんにがいぞ。おれは天性《てんせい》人一倍|見栄坊《みえぼう》だ。傷のつかぬうちに身をひくが上分別《じようふんべつ》と思うのだ。みじめなことになっては、おれは死んでも死にきれんぞ。わかってくれい」
と言うと、
「殿が何をさしてそう言わっしゃるか、おおかたわかり申した。上野中務《うえのなかつかさ》と下平修理《しもだいらしゆり》がことでござるべ。黒川下野《くろかわしもつけ》と中条越前《なかじようえちぜん》がことでござるべ。北条丹後《きたじようたんご》がことでもござるべ。あのド畜生《ちくしよう》ども! わしらが今これからでも馳《は》せ向かって、素《そ》ッ首《くび》ひきぬいて来ますべ。何のご心配もいらぬことですわい。ですけ、ご隠遁《いんとん》なんどということだけは、平《ひら》に思いとどまってくださりませ。お願いでござる」
と口説《くど》き立てる。
どう説諭《せつゆ》しても、きくものではない。
のみならず、昼夜隣室に交代で不寝《ねず》で番をしているばかりか、追いおいに駆けつけて来た彼らの手の者に宝蔵院《ほうぞういん》の周囲をとり巻いて番に立たせた。もしや脱出でもくわだてるかと用心してのことだ。
間もなく重臣《じゆうしん》や豪族《ごうぞく》らが次々に駆けつけて来た。
彼らはたかをくくっていたためにこんなにまでなったことを後悔していた。こうなってはじめて、景虎《かげとら》の存在が越後《えちご》一国のために、自分らのために、どんなに重要であるかに思い至った。景虎《かげとら》がいないかぎり、国内はどん栗《ぐり》のせいくらべだ。強力な権威者によって統一されていればこそ平和が保たれているが、それがなくなれば各人の我欲《がよく》がむき出しになり、たちまちまた乱離《らんり》の姿になることは明らかだ。晴景《はるかげ》が守護代《しゆごだい》でいてさえ、その器量が十分でなかったため、数年の間国内は乱れに乱れた。まして、現在は他国との関係もそのころとちがって複雑だ。武田《たけだ》その他の勢力の侵入を招くことは火を見るよりも明らかだ。
彼らは今さらのようにあわてふためき、いやがおうでも、思いとどまらせなければならないと考えて来たのだが、景虎《かげとら》は決して会おうとしなかった。
「会わぬ。その方ども追いかえせ。それができずば、その方どもも立ち去れ」
ときびしく命じた。
しかたはないから、豪傑連《ごうけつれん》は、
「しばらく拙者《せつしや》どもにまかせておいていただきとうござる。かならずお引きとめ申しますすけ」
と、余儀《よぎ》なきていで言って帰ってもらった。
しかし、豪族《ごうぞく》らの来るのはあとを絶たない。北国街道《ほつこくかいどう》はその往来で織るようなにぎやかさであった。
景虎《かげとら》の滞在は長期になった。引っこんでばかりはいられないから、日に一、二度は外へ出て野を歩きまわったが、その間はもちろん豪傑連《ごうけつれん》がついて来てはなれなかった。
高原地帯である妙高《みようこう》の裾野《すその》は秋の来るのが早い。六月末になると、もうそのけはいがただよいそめ、七月半ばになるといよいよ色濃くなった。暁ごとにかん高い声で|もず《ヽヽ》が鳴き、夜どおし虫が鳴くようになり、見わたすかぎりの山のスロープに薄《すすき》の穂波《ほなみ》がなびき、草むらからバッタが飛び立ち、山々の上には秋めいた雲がひっそりと静止しているようになった。
こうなって、景虎《かげとら》にはいっそう高野山《こうやさん》の澄明《ちようめい》と静寂《せいじやく》がしたわれ、いつも思いつづけに思っていたが、この古なじみどもをふり切る工夫《くふう》がつかない。あせりにあせりながらも、どうしようもなかった。
上田《うえだ》の長尾政景《ながおまさかげ》が春日山《かすがやま》に出て来たのは、もう八月半ばになってからのことであった。景虎《かげとら》が入道《にゆうどう》して春日山《かすがやま》を脱出したという知らせはその当座に受けとった。馬廻《うままわ》りの寵臣《ちようしん》らが追いかけて関山《せきやま》の宝蔵院《ほうぞういん》で引きとめているという報告も、そのころに受けた。
しかし、彼は急には腰を上げようとしなかった。領内にごたごたがおこって、急にはずせないという名目《めいもく》で一月《ひとつき》以上も上田《うえだ》にとどまりつづけ、次には痢病《りびよう》をわずらっていると言い立てて、動かなかった。景虎《かげとら》の隠退《いんたい》が自分の運命をひらくものであるという考えにとりつかれたのであった。
「長尾《ながお》本家には、景虎《かげとら》とおれの二人がのこっているだけだ。景虎《かげとら》が隠居《いんきよ》するなら、おれが本家の当主となるは当然のことだ」
という思念がむくむくと湧《わ》きおこったのだ。戦国の武将らしく、彼も人なみな野心《やしん》はある。現に景虎《かげとら》の姉のお綾《あや》をめとるまでは、父の房景《ふさかげ》とともに、景虎《かげとら》が兄の晴景《はるかげ》を討って無理|隠居《いんきよ》させた罪を伐《う》つという名目《めいもく》で景虎《かげとら》と決戦し、みずからとってかわる計画をめぐらしたこともあったのだ。武勇|智略《ちりやく》に自信もある。景虎《かげとら》が年若《としわか》でありながら稀世《きせい》の戦《いく》さ上手《じようず》であることは否定すべくもないが、自分とてもそう劣ったものでないと自信している。
「待てば海路《かいろ》の日和《ひより》という。どうやらおれにも運が向いて来たような」
形勢を観望していた。景虎《かげとら》がいよいよ関山《せきやま》を立ち去って国外に去ったら、春日山《かすがやま》に出て行き、事後をてきぱきと処理して、家督《かとく》になおろうと心組んでいた。
しかし、八月半ばになっても、景虎《かげとら》は関山《せきやま》から動かないし、国内の豪族《ごうぞく》らの心はひた向きに景虎《かげとら》に向いてきたようだ。
「人間の心はおかしなものだ。失いかけると、えらい貴重《きちよう》なものになる。景虎《かげとら》は今はもう神様ほどのものに思われるようになったわ。匂《にお》いばかりで運は去ったらしいの。こうなれば景虎《かげとら》を引きとめることに骨をおらずばなるまい」
苦笑とともに心をきめて、春日山《かすがやま》に出て、重臣《じゆうしん》らに会い、委細《いさい》のことを聞きとってから、関山《せきやま》に向かった。
日の暮れるころ、関山《せきやま》についた。
政景《まさかげ》は重臣《じゆうしん》らや他の豪族《ごうぞく》らと関係もちがえば、格式もちがう。会わないというわけにはいかない。
「お通しせい」
と、景虎《かげとら》はとりついだ豪傑連《ごうけつれん》に言った。
話には聞いて来たことだし、以前からよく袈裟《けさ》をかけたりなどして、若いに似ず坊主《ぼうず》くさいところのある景虎《かげとら》ではあるが、青々と剃《そ》りむくった青い頭をし、黒い法衣《ほうい》を着て、すっかり僧形《そうぎよう》になっている姿を見ては、やはり異様な感動を覚えずにはおられなかった。
「かわった姿におなりでありますなあ」
と、心からな嘆声《たんせい》が出た。
「ハハ、ハハ、いかがです。似合いますかな」
と、景虎《かげとら》は笑った。
政景《まさかげ》は急には本題に入らない。お綾《あや》のことや、去年生まれて、景虎《かげとら》が名つけ親になって自分の幼名をあたえて喜平二《きへいじ》(後の景勝《かげかつ》)とつけた長男のことなどを語っていた。
やがて夕食時になる。ともに夕食をとり、軽く一酌《いつしやく》した。
いつかとっぷり暮れて、家の周囲にはさまざまの虫の声が降りそそぐしぐれの音のように湧《わ》きおこっていた。
政景《まさかげ》は景虎《かげとら》という人間をよく知っているつもりだ。したがって、どう説けば効果があるかもわかっているつもりであったが、その説得法をとることをためらった。その手で説けば景虎《かげとら》はかならず隠遁《いんとん》の志をひるがえすであろう。それは政景《まさかげ》から長尾《ながお》本家の家督《かとく》相続の好運が去ることであった。今はつい間近《まぢか》の、ちょいと手をのばしさえすれば確実につかめるところにあるのだが、一度去ったらもうほとんどぜったいに手のとどかないところに去るのだ。おしかった。彼がなかなか本題に触れようとしないのは、そのためであった。
しかし、そういつまでも無関係なことをしゃべっているわけにいかない。ついに容《かたち》を改めた。
「時に、われらがまいったのが何のためであるか、もちろん、ご推察はついていることでありましょうな」
景虎《かげとら》もかたちを正した。憂鬱《ゆううつ》げな顔になった。
「ついています」
「お気持ちはよくわかっているつもりでござるが、越後《えちご》の国はそなた様のお力によってようやく静謐《せいひつ》になりましたものの、これはそなた様という重石《おもし》があればこそのこと、そなた様がお志の通り他国へ去ってしまわれては、どうなるかまことに心もとなくござる。何とぞ思いとどまっていただきたいのであります」
景虎《かげとら》の顔はさらに憂鬱《ゆううつ》げになった。
「それはゆるしていただきたい。あとのことは、そなたもおられることだ。皆と談合《だんごう》の上なされば、かならずうまくまいりましょう。拙者《せつしや》はすでにこうして剃髪染衣《ていはつせんえ》の身になったことでござる。このまま志を通させていただきたい」
と言って、笑ってつけ加えた。
「人の道心《どうしん》をさまたげるは大罪悪であると申しますぞ」
こんな説き方では景虎《かげとら》の心の動かないことは、政景《まさかげ》はとうに推察している。しかし、これで一応の義務は果たしたことになる。ここで器用に話を打ち切れば、長尾《ながお》本家の家督《かとく》とともに全|越後《えちご》の支配権は自分の手に帰すると、胸がふるえた。
しばらく沈黙した。
景虎《かげとら》も黙っている。
家をめぐっていたるところから湧《わ》く虫の音《ね》が、ともし灯《び》だけ明るい室に流れた。どうしてそうなるのか、ひとしきりひとしきり、驟雨《しゆうう》かなんぞの襲って来るようにいっせいに鳴き出し、しだいに調子を上げては、上げ切ったところで一時にぴたりと黙りこむのをくりかえしている虫の声だ。
政景《まさかげ》は、言えばかならず効果があると信じていることを言わないではいられない気になった。ダメをおすつもりであったかもしれない。潔白《けつぱく》を好む武士らしい心からであったかもしれない。あるいはただの気の弱さからであったかもしれない。口をひらいた。
「そなた様がいっさいの政務をごらんになられずなってから、すでに半|歳《とし》になろうとします。その間に、どんなことがおこったか、ご存じでござろうか」
景虎《かげとら》は笑って答える。
「世を遁《のが》れると心をきめた身の、何がおころうと、かかわるところではござらぬ」
「そう情《すげ》なく仰《おお》せられてはなりますまい。先々月の末までは、そなた様はまだ春日山《かすがやま》へいらせられたのでござる。ご責任ないとはいえますまい」
景虎《かげとら》ははっとした顔になった。
「それはそうです。思慮《しりよ》のないことを申しました」
「そなた様、武田《たけだ》が当国の侍どもにいろいろと手入れしていることをよもお知りではござるまい」
緊張の色が景虎《かげとら》の顔にあらわれた。目がかがやいて、青白むばかりの顔になった。効果のあろうことは十分に予想していた政景《まさかげ》もおどろくほどのあざやかな反応であった。政景《まさかげ》は自分の一言によって幸運が遠く飛び去ったことを知ったが、不思議に失望はなかった。むしろ安堵《あんど》感があった。
「大熊備前《おおくまびぜん》に、種々手入れしている様子があるのでござる。すでに先年|北条丹後《きたじようたんご》のこともござる。わからぬだけでおそらく他にも手入れしているかもしれませぬ」
大熊《おおくま》備前守朝秀《びぜんのかみともひで》は春日山《かすがやま》からわずかに十八キロの山部《やまべ》村(今|板倉《いたくら》町の大字《おおあざ》)の箕冠《みかぶり》城の城主である。元来は長尾《ながお》家と同格の豪族《ごうぞく》であるが、景虎《かげとら》が家督《かとく》してからは臣従《しんじゆう》を誓い、本庄慶秀《ほんじようよしひで》・直江《なおえ》山城守実綱《やましろのかみさねつな》などとともに重臣《じゆうしん》の列にあり、一昨年|上野家成《うえのいえなり》と下平修理《しもだいらしゆり》との境目《さかいめ》争いのおこった時など、本庄《ほんじよう》とともに仲裁役をつとめさせたほどだ。信任しきっている武士の一人であった。景虎《かげとら》にはこの上ない強い衝撃《しようげき》であった。歯ぎしりしたいほどであった。
「それは確かなことでありますか」
「それは存じません。何せおさしずを仰ぎたいとて、いく度お目通りを願っても、お会いくださらぬし、文書をもって願っても、『浮世《うきよ》のことはすべて捨てた』と仰《おお》せられてお取り上げないので、せん方なくてそのままに捨ておいてあると、老臣《としより》どもが申しています。あの者どもにしてみれば、同格の大熊《おおくま》であります。取り調べをいたす手だてがないのでござる」
政景《まさかげ》のことばは責めなじる調子になっていた。ことばだけではない、心もいつかそうなっていた。
景虎《かげとら》は眼裂《がんれつ》の長い、鋭い目を一点にしずめていた。きびしく引きむすんだ口もとがかすかにふるえていた。
政景《まさかげ》はなお言う。
「かようなことは、うわさとなって世に流れては、傚《なろ》うものがかならず出て来るものでありますゆえ、世に漏《も》れぬようにと、老臣《としより》どもの苦労は一通りではないのであります」
「…………」
景虎《かげとら》はおそろしい形相《ぎようそう》になりながらも、黙っている。はげしく心をゆすぶられながらも、なお心と戦っていると思われた。政影《まさかげ》はもう一押しする必要を感じた。
「大膳《だいぜん》大夫《だゆう》は、信州下高井《しんしゆうしもたかい》郡|市川《いちかわ》の市川孫三郎信房《いちかわまごさぶろうのぶふさ》にも領地をあたえる約束をしていると、たしかな筋から聞いていますぞ」
市川《いちかわ》谷は千曲《ちくま》川の峡谷地帯にあって、山|一重《ひとえ》越えれば、もう越後《えちご》の東頸城《ひがしくびき》郡だ。内外からひしひしと越後《えちご》を図《はか》ろうとする武田《たけだ》の野心《やしん》は明瞭《めいりよう》であった。
景虎《かげとら》は大きな息をつき、政景《まさかげ》にむかって両手をついた。
「われらが不心得でござった。生道心《なまどうしん》などおこしたればこそ、侍《さむらい》どもの心がばらばらとなって、こんなことになったのでござる。大熊《おおくま》がことも、頼るところないままに誘いに乗ったのでありましょう。もはや、隠遁《いんとん》などという生賢《なまさか》しらは申しますまい。ご心配をおかけして、申しわけないことでありました」
と、わびた。涙がこぼれてきた。
「思いかえしていただきましたか。ああ、ありがたいことでござる」
と言った時、政景《まさかげ》も涙が出た。それを片手でおさえて、言いついだ。
「そなた様がこんどのようなお心になられたについては、われらご一族はじめ、ご家中《かちゆう》はもとよりのこと、国侍《くにざむらい》にも、心のいたらぬ点があったとみずからとがめていますゆえ、それぞれに起誓文《きせいもん》を奉ることにいたします」
「それはご念の入ったこと。重畳《ちようじよう》です。拙者《せつしや》からも差し出しましょう」
「そなた様が……?」
「拙者《せつしや》には坊主《ぼうず》くさい好みがござって、時々世の中がいやになり、自分ながらどうにもならぬのでござる。将来とも、決して遁世《とんせい》などせぬという誓書《せいしよ》を、さし出します。貴殿《きでん》にあてて」
と景虎《かげとら》は笑った。
人知れぬ望みは遠く遠く去り、もう絶対に手がとどかなくなったと、政景《まさかげ》は考えたが、それはもう心残りでもなんでもなかった。安心感とよろこびだけがあった。
「ありがたいことであります」
と、また涙ぐんだ。
二人は誓書《せいしよ》をとりかわし、翌日、早朝に関山《せきやま》を発《た》って、春日山《かすがやま》にかえった。八月十八日のことであった。
景虎《かげとら》が隠遁《いんとん》を思いとどまって春日山《かすがやま》にかえったと聞くと、家臣《かしん》らは言うまでもなく、越後《えちご》中の豪族《ごうぞく》らは大急ぎで春日山《かすがやま》に集まって来た。皆暗夜の明けたような気持ちで、よろこびの色が顔にあふれていた。政景《まさかげ》はその人々に、
「殿様ご安心のために、将来にわたって異心ない旨《むね》の起誓《きせい》をさし出すように」
と説いた。
「かしこまる」
いずれも先を争ってさし出した。中にも中条《なかじよう》越前守藤資《えちぜんのかみふじやす》は、
「拙者《せつしや》は別してご心配をかけ申した。このたびのことにはひとしお心のとがめるものがござれば、誓書《せいしよ》にあわせて質人《しちびと》を奉ることにいたします」
と言って、愛子《あいし》を奉った。
すると、中条《なかじよう》の喧嘩《けんか》相手であった黒川実氏《くろかわさねうじ》も、
「われらも心のとがめることは中条《なかじよう》と同じでござる。なんじょうおくれを取るべき」
と、これまた愛子《あいし》を二人まで奉った。
二人になろう者が続々と出た。
「殿様ご安心のためならば、誓書《せいしよ》だけより質人《しちびと》まで奉った方が、ききめは数倍のはずでござるすけ、われらも奉り申すべ」
というのであった。
しかし春日山《かすがやま》へ伺候《しこう》しない者が二人いた。大熊《おおくま》備前守朝秀《びぜんのかみともひで》がその一人であった。城《じよう》織部正資家《おりべのかみすけいえ》もそうであった。二人ともに武田《たけだ》に籠絡《ろうらく》されていると見てよかった。
六か月も政務を放擲《ほうてき》していたのだ、そのはずと、後悔は大きかった。それほど責める気はおこらない。二人に使いを出した。
「急ぎ伺候《しこう》するよう。妙なうわさを聞く。早く来て疑念をはらしてくれるよう」
自分が遁世《とんせい》をやめた以上、後悔して武田《たけだ》と縁を断つであろう、断ったらゆるしてやろうと思ったのだが、その使いの行きつく前に、二人は合流して、一族全部をひきいて越中《えつちゆう》へ出奔《しゆつぽん》した。城《じよう》の居城|鳥坂《とりさか》城は箕冠《みかぶり》城から八、九キロしかないのである。
城《じよう》氏は越後《えちご》ではもっとも古い家柄《いえがら》だ。余五将軍《よごしようぐん》と称せられた平維茂《たいらのこれもち》の末裔《まつえい》で、先祖が秋田城介《あきたじようのすけ》に任ぜられたところから、越後《えちご》に移り住んでからも城《じよう》を氏《うじ》とし、この国第一の大族《たいぞく》として長く栄えた。すでに平家《へいけ》物語・源平盛衰記《げんぺいせいすいき》・吾妻鏡《あづまかがみ》等にその名が出ている。木曾義仲《きそよしなか》に反抗し、源頼朝《よりとも》に反抗し、頼朝《よりとも》の子|頼家《よりいえ》に反抗し、つまり徹底的に源氏《げんじ》に反抗したので、鎌倉《かまくら》時代以後は昔の勢いはなくなったが、それでも家柄《いえがら》をもってすればこの国第一の名族であるには相違なく、由緒《ゆいしよ》が古いだけに身代《しんだい》は小さくても侮《あなど》れない潜勢力があるのだ。それだけに、この両氏が出奔《しゆつぽん》したことは、景虎《かげとら》としてはむしろ祝福してよいことかもしれないが、他への見せしめもある、見すごしにはできない。追撃の兵をつかわすことにすると、上野家成《うえのいえなり》と下平《しもだいら》修理亮《しゆりのすけ》とが、
「わたしどもに討っ手を仰《おお》せつけくだされますよう」
と、願い出た。
二人は最初に境目《さかいめ》争いをおこして、景虎《かげとら》を厭世《えんせい》気分に追いこむ第一段階をつくったのだ。自責《じせき》の念もひとしおに深く、そのつぐないをしたがっていることが明らかであった。
最初に人質《ひとじち》を差し出した中条藤資《なかじようふじやす》や黒川実氏《くろかわさねうじ》といい、これといい、かわいいと思った。
「よし。許すぞ。行けい」
と、躊躇《ちゆうちよ》なく命じた。
二人は勇躍《ゆうやく》し、手勢《てぜい》をひきいて出発したが、二日後の深夜、勝報がついた。出奔《しゆつぽん》勢のあとを慕った二人は、この日|西頸城《にしくびき》郡の駒返《こまがえし》で追いつき、猛撃を加えたところ、敵は少数に打ちなされ、船にとり乗って西へ去った、越中《えつちゆう》へ上るものと思われるというのだ。
駒返《こまがえし》は親不知《おやしらず》・子不知《こしらず》の難所《なんしよ》をわずかに西に出た地点にある。もし出奔《しゆつぽん》勢がこの難所《なんしよ》によって防戦につとめたら、討っ手がこうやすやすと勝ちを制することはできないはずだが、生国《しようこく》を裏切って出奔《しゆつぽん》しつつあったので、気力が萎《な》えおとろえ、闘志がわかなかったのであろうと思われた。
翌々日、両人が凱旋《がいせん》したので、聞いてみると、想像した通りであった。
「拙者《せつしや》らは親不知《おやしらず》・子不知《こしらず》で追いついたのでありますが、やつらは意外にも一防ぎもせず、ひたすらに逃げるばかりでございます。不思議なことよ、計略があるかも知れぬぞ、用心しながら追えと、いましめ合いながら追うたのでございますが、駒返《こまがえし》について、はじめてわかりました。やつらはそこから船路をとることにして、前もって使いの者をつかわし、多数の船を雇《やと》うていたのでありました。あたら難所《なんしよ》で戦いもせず、逃げるに懸命であったはずでございます。しかし、拙者《せつしや》ども、やみやみと逃がしはしませぬ。火のつくばかりにまくり立てましたので、船人らの逃げ散る者が多く、やつらもせん方なく戦ったのでございますが、臆病神《おくびようがみ》のついた者ども、なにほどのことをし出《い》でましょう、たちまちのこるところ少なく討ち取ったのでございます。残念は、大熊《おおくま》と城《じよう》の逃げ足があまりに早かったため、とりにがしてしまったことでございます」
景虎《かげとら》はうなずきうなずき聞きおわり、二人に感状をあたえて退《さが》らせたが、深い感慨《かんがい》があった。
「戦《いく》さは気だが、気はみずからの正しさを信じて疑わぬところにのみ生ずるのだな。大熊《おおくま》といい、城《じよう》といい、さしも勇士の名の高い者どもでありながら、心にやましいところがあれば、このざまだ」
数日の後、北|越後《えちご》から注進があった。本日、会津《あいづ》の芦名《あしな》家の軍勢が突如《とつじよ》として侵入して来たので、直ちに出動して撃退した。くわしくは追ってご注進する。
「はてな?」
景虎《かげとら》は首をひねった。これも甲州《こうしゆう》の働きかけを受けてのことではないかと思ったのだ。
第二報は翌日あった。
「生けどりの者が十数人あったが、中に部将分の者があったので、厳重に取り調べたところ、芦名《あしな》家は甲州《こうしゆう》から頼まれて、このことにおよんだのであるという。遠く国をへだててのことで、信用しがたくもあるが、まことならば重大である。おんみずからご糺問《きゆうもん》あられるよう、右の者を差し立てることにします」
というのであった。
「あんのじょうだ」
景虎《かげとら》は首を長くして待った。
捕虜《ほりよ》は二日の後、到着した。四十を少し越した年輩《ねんぱい》の、ひげ面《づら》のたくましい大男であった。景虎《かげとら》はみずからとりしらべた。縛《いまし》めを解き、縁に上げて敷き皮をあたえてすわらせた上、問うた。
「そなたの名は?」
「芦名《あしな》が譜代《ふだい》の郎党《ろうどう》、長井六郎兵衛《ながいろくろべえ》と申す」
ひどいなまりだ。よほど気をつけて聞かないとわからない。
「知行《ちぎよう》は?」
「二千貫を所領《しよりよう》していますだ」
「さてはなかなかの身分じゃ。骨柄《こつがら》もあっぱれじゃ。さぞや芦名《あしな》の家中《かちゆう》では名ある勇士であろう。運つたなく捕らわれの身となったこと、無念であろう。しかし、勝敗は武士の常じゃ。武運つたなく生けどりの憂目《うきめ》を見ること、古今《ここん》勇士にはめずらしからぬことだ。決して恥とすべきでない」
と、なぐさめると、よほどにうれしかったのであろう、暗くきびしく引きしまっていた顔がゆるんで、にっこりと笑った。
「拙者《せつしや》にものをお尋ねなさるべいとて、そんげに情《なさ》けらしゅう申さっしゃるのでござるべいが、そんでもうれしゅうござるだ。なんなりともお尋ねたまわるべい。主のためにならぬことは答え申すことはいがねえけんど、そのほかのことはみんな申し上げるべえ」
景虎《かげとら》も笑った。
「そなたの申す通りだ。尋ねたいことがある。それはすでにそなたが捕らわれた際に申した由だが、芦名《あしな》家は真実|甲州《こうしゆう》から頼まれてくり出したのか」
「ほんとでござるだ」
やはりそうかと思いながらも、なお言ってみた。
「当国は芦名《あしな》家と境を接してはいるが、これまでに恩怨《おんえん》のあったことはない。信じかねるのじゃが」
「そんでもほんとでござるだ。甲州《こうしゆう》から使いがまいって、当国に焼働《やきばたら》きしてくれい、こと成らば岩船《いわふね》一郡を進ぜるべい、というて参ったによってわれらが旦那盛氏《だんなもりうじ》様は承知の旨《むね》をご返事なさりましただ。その後、また甲州《こうしゆう》から使いがまいって、越後《えちご》の大熊備前《おおくまびぜん》つう老臣《ろうしん》を味方に引き入れたによって、その大熊《おおくま》ととっくら談合《だんごう》して、ほどようやってくれるよう言いましただ。ところが、このほどその大熊《おおくま》が家来どもが来て、ことはさしせまった、急ぎ焼働《やきばたら》きにかかってくれ申すべえと申す。そこでわれらが旦那《だんな》は山内舜通入道《やまうちしゆんつうにゆうどう》――これは老臣《ろうしん》の一人でござって、黒川《くろかわ》の城(後の会津《あいづ》城)の中の丸をあずかっている者でござるだが、この者に言いつけなされ、舜通入道《しゆんつうにゆうどう》は小田切《おだぎり》安芸《あき》ちゅう者を筆頭《ひつとう》にしてわれわれに言いつけ申した。そんで、大熊《おおくま》が家来どもを案内者としておしこんでまいりましただ」
わかりにくい発声と訥々《とつとつ》としたことばづかいながら、長井六郎兵衛《ながいろくろべえ》はくわしく語った。
疑いは完全に的中《てきちゆう》した。晴信《はるのぶ》は周到《しゆうとう》水ももらさぬ越後《えちご》の包囲体制をつくっているわけだ。緻密《ちみつ》で、大がかりな謀略《ぼうりやく》にたいするおどろきはもちろんあったが、
「腹黒い!」
と思わざるを得なかった。この半年の間、晴信《はるのぶ》は空巣《あきす》ねらいのような態度でせっせせっせとこの包囲網を絡《かが》っていったにちがいないのであった。そこには何かどろどろした、ねばっこく、しつこいものがあった。
「負けてなるか!」
猛烈《もうれつ》な敵愾心《てきがいしん》がかっと燃え立った。
甲越虚実《こうえつきよじつ》
このままでは戦えない。大急ぎで対策を講ずる必要があったが、晴信《はるのぶ》の策謀《さくぼう》はこの程度ではなく、もっとあるはずと思った。諜者《ちようじや》を派してさぐりにかかると、さまざまなことがぞろぞろとわかってきた。
善光寺《ぜんこうじ》の北方の山岳地帯にいる小|豪族《ごうぞく》らは葛山《かつらやま》に城をきずいて団結し、葛山衆《かつらやましゆう》といわれている。この土地は犀《さい》川以北にあり、越後《えちご》の勢力圏内にあるので、景虎《かげとら》に所属していたのであるが、晴信《はるのぶ》はこれを切りくずしにかかっている
葛山衆《かつらやましゆう》の中でもっとも人数が多ければ勢力も大きいのは落合《おちあい》備中守《びつちゆうののかみ》を中心とする落合《おちあい》氏であるが、晴信《はるのぶ》は落合《おちあい》氏の分家、落合《おちあい》遠江守《とおとおみのかみ》、同|三郎左衛門《さぶろうざえもん》に密使を出して、
「そなたらがわれらに味方するなら、将来かならずそなたらのうち一人を落合《おちあい》氏の総領《そうりよう》としよう。もし今の総領《そうりよう》である備中守《びつちゆうののかみ》が後にわれらに味方するようになっても、この約束はたがえないであろう」
と口説《くど》かしていることがわかった。
その他、水内《みのち》郡の山岳地帯の香阪《こうさか》筑前守《ちくぜんのかみ》、高井《たかい》郡の井上《いのうえ》左衛門尉《さえもんのじよう》等にも土地をあたえて味方にひきいれていた。
景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》を悪人だと思った。これまでとて善人だと思っていたわけではなく、虫の好かない、気に入らない人物とは思っていたが、こんどこそ心の底からの姦悪《かんあく》の徒であると思った。
こうなると、いっそう迂闊《うかつ》に合戦《かつせん》はしかけられなかった。十分に足もとをかためる必要があった。
弘治《こうじ》二年はこうしてくれた。
新しい年になって間もなく、景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》が信州更科《しんしゆうさらしな》郡|八幡《はちまん》村の更科八幡《さらしなはちまん》宮に願文《がんもん》を奉って、信州平定《しんしゆうへいてい》を祈っていることを聞き、その願文《がんもん》を書きうつさせて来て見た。信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》らが相攻伐《あいこうばつ》して国内不安となり、万民塗炭《ばんみんとたん》の苦にあることを見るに忍びず、すなわち堅《けん》を蒙《こうむ》り鋭《えい》をとり、国内を一統したが、ここに隣国の主なにがし、みだりに私意をさしはさんで、当国に侵入、わが大業をさまたげんとしている、仰ぎ願わくはこの敵をしりぞけ、当国を平均に帰せしめよ、所願成就《しよがんじようじゆ》の上は、神領《しんりよう》一所を奉献《ほうけん》するであろう、という趣意のものであった。
景虎《かげとら》は腹が立った。
「どこまで腹黒いか! 神まであざむき奉ろうとしている!」
直ちに筆をとって、願文《がんもん》を草した。この願文《がんもん》は越佐《えつさ》史料に全文を収録してある。こうだ。
敬《うやま》って白《もう》す。それ当社は垂迹《すいじやく》にして本地《ほんじ》は無量寿仏《むりようじゆぶつ》である。はるかに十万億年を経て日本に来給うて、父は仲哀《ちゆうあい》天皇、母は神功皇后《じんぐうこうごう》として生まれ給う。すでに胎内にあらせらるる時、三韓《さんかん》を征伐して帰朝され、死して百王百代の鎮護となって八幡宮《はちまんぐう》とあらわれ給うたので、九州|豊前《ぶぜん》国に宇佐《うさ》宮を建立《こんりゆう》して斎《いつ》き祀《まつ》った。その後清和《せいわ》天皇の御宇《ぎよう》に城州男山《じようしゆうおとこやま》に勧請《かんじよう》し奉ったが、石清水《いわしみず》の流れ六十余州に遍満《へんまん》し、日本全国|八幡《はちまん》のみ社《やしろ》のなきところなきに至った。当|信濃国更科《しなののくにさらしな》郡にも勧請《かんじよう》し奉り、人々の崇敬《すうけい》ひとしおである。
ここに武田晴信《たけだはるのぶ》と号する佞臣《ねいしん》がある。当国に乱入して暴威をふるい、当国の諸士をことごとく滅ぼし、神社・仏塔を破壊し、国内の悲嘆|累年《るいねん》におよんでいる。景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》にたいして闘諍《とうそう》しなければならない遺恨《いこん》はいささかもないのであるが、ただ当国に隣る越後《えちご》の国主であるために黙止することができず、また棄《す》てがたきよしみある当国の豪族《ごうぞく》らに頼まれてこれを助けなければならないために、晴信《はるのぶ》を敵として軍功をはげましているのである。他には毫末《ごうまつ》も私利私欲《しりしよく》の念はない。
神は非礼を受け給わずと聞く。たとえ晴信《はるのぶ》に当社信仰の心があるにしても、非望をもって当国を奪い、ゆえなくして当国の領主《りようしゆ》らをなやまし、万民《ばんみん》を乱しているのである。神明《しんめい》真に霊あらば、いかで感応《かんのう》にあずかるを得ようか。
伏して願わくは、景虎《かげとら》がこの精誠《せいせい》を明鑑《めいかん》あって、佑助《ゆうじよ》を垂れ給えよ。当国もし景虎《かげとら》の本意のごとく静謐《せいひつ》に帰し、景虎《かげとら》が家名天下に上り、所願成就《しよがんじようじゆ》するにおいては、当国において神領《しんりよう》一所を寄進《きしん》し奉り、いよいよ丹誠《たんせい》を抽《ぬき》んでて信仰し奉るべし。信《しん》・越《えつ》両国、長く栄花を楽しみ、万民悦喜《ばんみんえつき》のために、祈願かくのごとし。
弘治三年           長尾弾正少弼《ながおだんじようしようひつ》
正月廿日           |平 景虎《たいらのかげとら》
八幡宮
御宝前
晴信《はるのぶ》のしうちに対する景虎《かげとら》の憎悪《ぞうお》がいかに強烈なものとなってきたか、よくわかるのである。
晴信《はるのぶ》は日本の武将中、古今を通じてもっとも策謀《さくぼう》的な人物である。周到緻密《しゆうとうちみつ》さは景虎《かげとら》に数倍している。その放っている諜者《ちようじや》らがこの願文《がんもん》を見のがすはずがなかった。写しとられて、甲府《こうふ》に持って来られた。
「なるほど、なるほど」
晴信《はるのぶ》はにやにや笑いながら読んだ。あれほど深刻であった諏訪御前《すわごぜん》の死にたいする悲しみも、すんでしまえば彼の現世的欲望に何のかげりものこしていない。それどころか、心を専一にすることができるようになったので、いっそう強烈なものになっている。
彼には景虎《かげとら》のこうした憤《いきどお》りや言い分がよくわからない。こんなことで、みずからの運命を賭《か》け、将士の生命を賭《か》けて、よくも戦《いく》さに乗り出せるものだと不思議でならない。本気でそう思っているのかと、疑わしくもある。しかし、一昨年《おとどし》の講和後、景虎《かげとら》があれほどの犠牲をはらったことなのに、一坪の土地も自分のものとせず、全部|信州豪族《しんしゆうごうぞく》らに分与して家名を立てさせているのを見ると、その言い分にうそのないことを認めざるをえない。感心はしない。
「いさぎよくはあるが、子供じみたお人じゃわ」
と、いささかの滑稽《こつけい》感があった。
そんな子供じみた正義感の犠牲になって、もはや掌中《しようちゆう》に帰していたと同然な犀《さい》川以北の信州《しんしゆう》の地を吐き出さなければならなくなったことは、何としても残念であった。
「こういうのは取りかえしておかんと悪例をのこすことになる」
と思った。
次には、関東管領《かんとうかんれい》の上杉憲政《うえすぎのりまさ》が景虎《かげとら》を頼って越後《えちご》におちて行き、管領《かんれい》職と上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》を譲る約束をしたといううわさが彼を刺戟《しげき》していた。この約束には、上州《じようしゆう》一国を憲政《のりまさ》のために回復してやることが条件になっていると聞くが、晴信《はるのぶ》は関東《かんとう》にも野心《やしん》を持っている。南を今川《いまがわ》氏にふさがれ、東南を小田原北条《おだわらほうじよう》氏にふさがれている武田《たけだ》氏としては、信州《しんしゆう》攻略を完了した後には、上州《じようしゆう》方面に出るよりほかはないのである。
かれといい、これといい、景虎《かげとら》は制圧しなければならない敵になっているのであった。今川義元《いまがわよしもと》の仲裁によって和議《わぎ》をとり結んだ直後から、越後《えちご》にたいする包囲線を形成し、内部の切りくずしにかかり、信州豪族《しんしゆうごうぞく》らの籠絡《ろうらく》をはじめたのは、すべてこのためであった。
景虎《かげとら》の願文《がんもん》を見て、晴信《はるのぶ》は景虎《かげとら》の自分にたいする敵意と戦意とをはっきり知ったわけであった。いつか微笑をひそめていた。
「どうやら戦いをはじめる時が来たような。幸いなこと、今年は越後《えちご》はことのほかの大雪と聞く。一《ひと》楔子《くさび》打ちこんでおくか」
甲州《こうしゆう》武士にも、勢力分野となっている信州《しんしゆう》の武士どもにも、ふれをまわし、六千の兵をくり出して、葛山《かつらやま》城の攻略にかからせた。大将には馬場民部信春《ばばみんぶのぶはる》を任じた。
葛山《かつらやま》は善光寺《ぜんこうじ》の西北方にある山だ。城はその山巓《さんてん》にあって要害をきわめている。武田《たけだ》方としては越後路《えちごじ》に雪どけが来るまでに攻めおとさなければならない。損害をかえりみず遮二無二《しやにむに》攻め立てたが、城方はよく防いで屈する色を見せない。
この山の中腹に静松寺《せいしようじ》という寺が現在でもあるが、この寺の僧が利をもってさそわれたか、城内の幹部級の武士にうらむことがあったか、寄せ手に、
「この城は水の手の悪いところで、水はいっさい当寺から汲《く》み上げている」
と密告した。
寄せ手は大いに喜び、兵を出して寺をかため、山上との交通をいっさい絶った。おりから天気つづきで、一滴の雨も降らない。城中が弱り切っているところを見すまして、火箭《ひや》を乱射したので、各所から火を発し、たちまち炎につつまれた。今はせん方なしと、城主以下の男らは皆切って出て戦死し、婦女子は高い崖《がけ》から身を投げて死んだ。悲惨《ひさん》な落城であった。
以来、籠城《ろうじよう》者らのうらみは綿々《めんめん》として尽きず、静松寺《せいしようじ》の住職が山に登ればかならずたたりがあると伝えられ、今日でもこの寺の住職は山上に上らないという。
伝説では、この籠城《ろうじよう》中、城内では水に不自由していることを寄せ手に悟らせないために、寄せ手からよく見える崖《がけ》ばなから絶えず米をおとして滝に見せかけていたというが、籠城《ろうじよう》にからむこうした伝説は中国にも日本にも多数あって、籠城《ろうじよう》伝説の一典型をなしている。信用できないのである。
越後《えちご》方としてはこの近くには千曲《ちくま》川西岸の長沼《ながぬま》城(今の長野市の長沼大町《ながぬまおおまち》にあった)信州豪族《しんしゆうごうぞく》の島津忠直入道月下斎《しまづただなおにゆうどうげつかさい》がこもっていたが、葛山《かつらやま》城が落ちては、とうてい一手では武田《たけだ》勢の攻撃をささえがたいと見たので、北方五キロの大倉《おおくら》城(今の豊野《とよの》町にあった)に退《さが》った。
島津月下斎《しまづげつかさい》は薩摩《さつま》の島津《しまづ》氏の分かれである。鎌倉《かまくら》時代に信州《しんしゆう》に所領《しよりよう》があって、一族が来て支配していたものの子孫だ。余談だが、こういう一族のあったことは今日では薩摩島津《さつましまづ》家でも忘れている。しかし、今日でも信州《しんしゆう》には島津《しまづ》を名のる家があると聞いている。月下斎《げつかさい》は後に上杉《うえすぎ》氏となる長尾《ながお》家の家臣《かしん》となり、景勝《かげかつ》の代に従って会津《あいづ》に移り、景勝《かげかつ》が石田三成《いしだみつなり》と策応《さくおう》して会津《あいづ》にことを起こした時、しばしば目ざましい戦功を立てているから、今日でも米沢《よねざわ》にはその子孫がのこっているかもしれない。
注進は櫛《くし》の歯をひくように春日山《かすがやま》城へとどく。景虎《かげとら》は豪族《ごうぞく》らに陣触れしておいて、春日山《かすがやま》を出発し、信越《しんえつ》の国境|田切《たぎり》に出て、諸将の到着を待ったが、近年にない大雪にはばまれて、なかなか兵が集まらない。あせりながらも、どうすることもできなかった。
武田《たけだ》勢は無人の野を行く勢いだ。大倉《おおくら》城はおさえの兵をもって封じこめておいて、千曲《ちくま》川両岸の地を席巻《せつけん》して下り、下《しも》水内《みのち》郡の飯山《いいやま》城の攻撃にかかった。一昨年の平和協定以後、この城は高梨政頼《たかなしまさより》の居城《きよじよう》になっている。
政頼《まさより》は急使を派して景虎《かげとら》に援《たす》けをもとめたが、景虎《かげとら》は田切《たぎり》を動くことができない。政頼《まさより》の注進はしだいに切迫《せつぱく》し、
「ご出馬|遅々《ちち》たるにおいては、この地を打ち明けて立ちのくよりほかはござらぬ」
とまで言って来た。
景虎《かげとら》はいくらか集まった兵でとりあえず一部隊を編成し、先鋒《せんぽう》隊として飯山《いいやま》に送りつける一方、上田《うえだ》城の政景《まさかげ》に出陣を命じた。政景《まさかげ》は即座《そくざ》に上田《うえだ》を出発、山をこえて信濃《しなの》川べりの十日町《とおかまち》に出、えんえんとして川をさかのぼること五十キロ、飯山《いいやま》についた。
越後《えちご》勢が出て来たことは甲府《こうふ》に急報された。晴信《はるのぶ》は甲府《こうふ》を出て信州《しんしゆう》に入ったが、飯山《いいやま》へは向かわない。諏訪《すわ》から入って松本平《まつもとだいら》へ向かった。彼と景虎《かげとら》とは戦いにたいする気がまえがちがう。景虎《かげとら》は思い切った合戦《かつせん》をして雌雄《しゆう》を一時に決するのが好きなのだが、晴信《はるのぶ》はそんな冒険は好みでない。敵の手をもぎ、足をもぎする戦いをくりかえし、敵の主力を弱らせておいて最後のとどめをさしたいのである。景虎《かげとら》の主力の集結するであろう善光寺平《ぜんこうじだいら》から飯山《いいやま》地方には出ず、松本平《まつもとだいら》に出た。この行動は極秘《ごくひ》にされた。
四月半ばになって雪が消えた。越後《えちご》の豪族《ごうぞく》らはドッと田切《たぎり》に集結した。十八日、景虎《かげとら》は、
「このたびはどうにかして晴信《はるのぶ》を引き出し、かならず有無《うむ》の一戦をとげる」
と、宣言して、国境を越えて善光寺平《ぜんこうじだいら》に出た。彼は晴信《はるのぶ》が松本平《まつもとだいら》に出たことを知らなかったのである。
善光寺《ぜんこうじ》の裏、横山《よこやま》城に本陣《ほんじん》をすえると、上高井《かみたかい》郡の山田《やまだ》城(今の高山《たかやま》村にあり)福島《ふくしま》城(今|須坂《すざか》市のはずれ千曲《ちくま》川に臨んで福島《》がある)等にこもる武田《たけだ》方の兵は早くも戦わずして城を出て退去してしまった。景虎《かげとら》は旭山《あさひやま》城を復興して兵をこめ、横山《よこやま》城と掎角《きかく》の勢をなして晴信《はるのぶ》の来るのを待った。しかし、晴信《はるのぶ》の所在さえよくわからなかった。松本平《まつもとだいら》方面にいるらしいことだけはわかっているが、どこにいるかはわからないのである。
「どこまできたないやつか。その儀ならば」
景虎《かげとら》は横山《よこやま》城と旭山《あさひやま》城に兵をのこして、一応|飯山《いいやま》にさがり、ここから北方の武田《たけだ》勢力を一掃した。
五月になって間もなく、晴信《はるのぶ》が川中島《かわなかじま》に出たらしいとの報告が入った。
「よし!」
景虎《かげとら》は飯山《いいやま》を出て横山《よこやま》城に入った。武田《たけだ》勢が善光寺平《ぜんこうじだいら》の諸所にいることはいるが、そのどれが晴信《はるのぶ》の本隊であるかわからない。
景虎《かげとら》は気をいら立て、腹を立てた。
「片ッぱしから攻めつぶしてやる!」
とばかりに、西は犀《さい》川が山岳地帯に入った峡谷地帯の香阪《こうさか》(今|信州新町《しんしゆうしんまち》、南は今の上田《うえだ》市の北のはずれ岩鼻《いわはな》まで出動して、敵の陣営という陣営を片ッぱしから攻めつぶしにかかったが、敵は決して戦おうとしない。疾風《はやて》の勢いで景虎《かげとら》勢が馳《は》せ向かうと、そのはるか前に退却してしまうのである。しかも、景虎《かげとら》が引き上げると、またどこからかのこのこと出て来る。翻弄《ほんろう》されているようであった。
「晴信《はるのぶ》め! おれをここに釘《くぎ》づけにするよう言いふくめているのだな」
と、気がついた時には、晴信《はるのぶ》は兵を仁科《にしな》(今|大町《おおまち》)方面に出し、さらに北に向かわせ、北《きた》安曇《あずみ》郡北部の小谷《おたに》城を攻めおとした。ここにはこの地方の山岳武士で小谷《おたに》七騎といわれている人々がこもって、越後《えちご》方に所属していたのである。
しかしながら、こうしている間に戦機は徐々《じよじよ》に熟して、ついに上野原《うえのはら》の合戦《かつせん》となる。
上野原《うえのはら》は、現在では長野《ながの》市になっているが、その東北部にある上野《うえの》付近である。
戦機の動いたのは八月下旬であった。晴信《はるのぶ》は一万五千の兵をひきいて、川中島《かわなかじま》に出た。これにたいして、景虎《かげとら》は右に旭山《あさひやま》城、はるか左方|飯山《いいやま》城に軍勢をこめ、みずからは横山《よこやま》城に本陣《ほんじん》をすえた。
にらみ合いが数日つづいた。また一昨年のような膠着《こうちやく》状態が来そうであったので、両軍ともにそうなるまいとして、たがいに策をつくした。
川中島《かわなかじま》五度合戦次第によると、こうだ。
景虎《かげとら》は各陣中に山のように薪《たきぎ》を集めて積ませた。甲州《こうしゆう》方の諜者《ちようじや》はこれを見て帰って報告した。
「長陣支度《ながじんしたく》でございますな」
と、諸将が言うと、晴信《はるのぶ》は首をふって、
「そうでない。一両日後の夜、きっと敵陣に火事がおころう。そのためよ。もとより|にせ《ヽヽ》火事で、こちらをおびき出し、兵を伏せて討ちとろうとの策なれば、一人として出てはならぬ。しずまり返って見物しているがよいぞや。お若いわ。おれがそんな手に乗ると思うていなさるのかな」
と笑った。
一両日後の八月十三日の払暁《ふつぎよう》、越後《えちご》の陣では小荷駄《こにだ》を馬に駄し、引きはらいの支度《したく》をしている。武田《たけだ》方では諸勢追撃しようとはやったが、晴信《はるのぶ》は、
「出てはならん。敵はそれを待っているのだ」
ときびしく制止して出さなかった。
その夜、越後《えちご》の陣所の至るところに火がおこり、諸勢あわてふためいて防火につとめている様子が、夜明けの月の光と燃え上がる炎《ほのお》に照らされてありありと見える。
今朝|払暁《ふつぎよう》の小荷駄《こにだ》の引きはらいといい、この火事といい、あれほど晴信《はるのぶ》にきびしくいわれていたことだが、いつわりとは思われない。またまた出撃しようとしたが、
「軍令に背《そむ》く者は厳罰に処するぞ」
ときびしくふれさせて制止した。
やがて夜が明けると、武田《たけだ》勢の来攻すべき道筋はがらあきになって大道のようにひらき、その両側に越後《えちご》勢が展開して、中に入って来たものは一兵もあまさず皆殺しにする陣形となっていた。人々はきもをひやし、晴信《はるのぶ》の先見に感じ入ったというのだ。
次には晴信《はるのぶ》が計略をめぐらした。馬を数頭放して越後《えちご》勢の陣近く行かせ、足軽《あしがる》五、六十人をつかまえにつかわす。味方の陣近く来た敵の足軽《あしがる》をそのままおけるものではない。かならず越後《えちご》勢はこれに攻撃を加える。そこでこれを救うために百騎ほどの兵を出してやる。越後《えちご》勢はつり出されて、さらに多数の兵が出て来るであろう。こちらはさらにそれに上越《うわこ》す兵をくり出す。そのうちおりを見てこちらは逃げにかかる。敵は勢いに乗じて追って来るであろう。勢を伏せおいて討ち取るという計略。しかし、景虎《かげとら》はその計略を見ぬいて、その手に乗らず、一人も出さなかったという。
江戸《えど》初期の軍学者が机上で案出した戦術めいていて、事実ではあるまいが、両者がたがいにすきをはかりつつも、膠着《こうちやく》状態におちいることを避けようとつとめたことはたしかであろう。
八月二十六日の早暁《そうぎよう》、まだ夜の明けないころであった。暁の冷気にふと目をさました景虎《かげとら》は厠《かわや》に行った。暁のかたわれ月の光の漏《も》れる粗末《そまつ》な急ごしらえの厠《かわや》だ。用を足して、森陰《もりかげ》に湧《わ》く手の切れるようにつめたい水で神経質に手を洗っていたが、はっとして空を仰いだ。
暁の空には薄い霧《きり》がこめて、二十六日の月が中天にかかり、おぼろな光をひろげていた。その空に一種の動揺がある。ざわめきというほどのものではないが、動くともなく動いている感じがある。
大股《おおまた》に歩いて、崖《がけ》ぎわの物見《ものみ》場に出た。この城を中心にして左方と前方の諸所にかまえている味方の諸陣はまだ寝しずまっており、かがり火が燃え、そのまわりを、払暁《ふつぎよう》の冷気にこごえるのであろうか、時々足ぶみしたり、手をこすり合わせたりしながら警邏《けいら》している哨兵《しようへい》の姿が小さく見えていた。
景虎《かげとら》は敵陣のあるはるかな東方を望んだ。ごくゆるやかな傾斜をもって八キロのかなたでは千曲《ちくま》川となる平野には霧《きり》がこめている。このあたりではごく薄い霧だが、川近くの低地ではたえず湧《わ》き上がってくるのであろうか、乳色の気体がよどんで動かない。
景虎《かげとら》はしばらくその霧の中を凝視《ぎようし》していた。動くものは何一つとして見えなかったが、たしかにそこにはざわめきがあった。
引きかえして近習《きんじゆう》の者をおこした。
「その方ども手わけして諸陣をまわり、急ぎ起きていくさ支度《じたく》するように触れい。急ぐが、音を立てぬように行け。諸勢にもできるだけ物音を立てぬようにして支度《したく》するよう言えい。敵陣に異変が見える。必定《ひつじよう》、今日ははじまると言えい」
「かしこまりました」
近習《きんじゆう》の若者らは、手早く身支度《みじたく》して、それぞれ出て行った。
景虎《かげとら》は城内にも同じ命令を伝え、自分も具足《ぐそく》を着たが、それをおわったころ、諜者《ちようじや》がつぎつぎに駆けこんで来た。みんな百姓《ひやくしよう》姿になっている者どもだ。はじめの者どもの報告は、
「敵は夜中過ぎから行動をおこし、千曲《ちくま》川をわたりにかかっている」
というだけであったが、つづく報告はしだいにくわしくなってき、最後には、
「敵は全軍川を渡りつつあるようである。目ざしている方向は東北方のようである」
となった。
景虎《かげとら》には敵の意図《いと》がはっきりとわかった。この横山《よこやま》城から東北方四キロに戸神山《とがみやま》(もとどり山と同じか)という山がある。山というより丘といったほうがぴったりする小高い山だ。思うに敵はこれを占拠《せんきよ》して、ここと飯山《いいやま》城の高梨政頼《たかなしまさより》や大倉《おおくら》城の島津月下斎《しまづげつかさい》との連絡を断ち切るつもりにちがいなかった。
孫子《そんし》に「常山《じようざん》の蛇勢《だせい》」ということばがある。常山《じようざん》という山に首尾《しゆび》ともに頭のある蛇がいる。頭を打てば尾にある頭が咬《か》みつき、尾を打てば頭が咬《か》みつき、中を打てば首尾《しゆび》ともに咬《か》みつく、長蛇《ちようだ》の陣を張る場合、かくあるべきである、と孫子《そんし》は説くのである。
(なるほど、なるほど、晴信《はるのぶ》はこちらのこんどの陣形をそう見たか。あの男らしく万事学問じたてじゃな。ものものしいわ)
と、景虎《かげとら》は心中笑った。
常山《じようざん》の蛇勢《だせい》と見て、首尾《しゆび》を胴中で切断するつもりでいる以上、切断に全力をかけることはないはずだ。かならず兵力の大部分は適当なところに集結して、両断されたこちらを一つずつつぶしていく算段にちがいないのである。
(おめおめとそれを待っているおれと思うか)
戸神山《とがみやま》にもっとも近く布陣《ふじん》しているのは、政景《まさかげ》だ。付近一帯の味方の諸勢は、すべてその指揮を受けることになっている。景虎《かげとら》は政景《まさかげ》の本陣《ほんじん》に使い番を走らせて、
「定めて敵の先鋒《せんぽう》は貴陣《きじん》の近く戸神山《とがみやま》をとり切りにかかるでありましょうが、それにはいっさいかまわず、まっしぐらに敵の諸陣を突きくずさるべし」
と伝えた。
政景《まさかげ》には、景虎《かげとら》の計画していることがよくわかった。自分らが武田《たけだ》の諸陣とせり合ってかきまわし、これを相当疲労させた時、景虎《かげとら》みずから本隊をひきいて敵の本陣《ほんじん》をつき、一気に有無《うむ》の勝負を決するつもりに相違なかった。
「かしこまる」
政景《まさかげ》は指揮下の諸陣に命を伝え、兵粮《ひようろう》をつかわせ、物見《ものみ》の兵を放って、機の熟するのを待った。
もうすっかり明るくなって、霧《きり》の中に真っ赤な朝日が上っていた。
戸神山《とがみやま》は、政景《まさかげ》の陣所の東北方二キロほどにあり、千曲《ちくま》川がその山から四キロほど東を北流している。戸神山《とがみやま》は薄い霧《きり》の中に薄絹《うすぎぬ》をへだてて見るように見えているが、川の方はまだ濃い霧《きり》がこめていた。その向こうの上高井《かみたかい》の山々は薄《う》っすらと見えているのだが、山麓《さんろく》から川にかけてはただ漠々《ばくばく》として白く澱《よど》んでいる霧《きり》だ。
霧《きり》の中にはたえずざわめきがあり、しだいに近づいて来つつあったが、やがてその中から軍勢が姿をあらわした。近づくにつれてはっきりなる軍勢は湧《わ》くようであった。いくら出てくるかわからないほど出て来る。横ざまに衝《つ》かれるのを警戒しているのであろう、できるだけこちらに側面を向けないようにして、迂回気味《うかいぎみ》に近づいて行く。
斥候《せつこう》が走りかえって来た。先鋒《せんぽう》隊につづいてつぎつぎに川をおし渡った敵の諸隊は、善光寺《ぜんこうじ》へ向かって進みつつあるという。
「よし!」
政景《まさかげ》は床几《しようぎ》を立ち上がるや、つかつかと貝役の者のそばに近づき、その手から貝をとり、みずから吹き立てた。
勁烈《けいれつ》な貝の音は薄霧《うすぎり》とすきとおる白い朝の月のかかっている空にひびき上がり、耳をつん裂くひびきとなってひろがった。
「すわこそ!」
という気勢を見せて、山に向かいつつあった敵は進行をとめて身がまえる様子であったが、政景《まさかげ》はそれをふりかえりもしない。なお余念《よねん》もなく吹き立てた後、貝を返し、槍《やり》をつかんで陣所の前に出た。
そこには馬が引き立てられて来ていた。引きよせて、槍《やり》を杖《つえ》づいて、ひらりと飛びのるや、
「それッ!」
とさけんで、まっしぐらに、東南方に向かって馬を飛ばせた。千曲《ちくま》川を渡って善光寺《ぜんこうじ》に向かいつつあるという敵の諸勢の側面を衝《つ》くつもりであった。貝の音によって、突撃の用意をととのえていた諸陣はいっせいに喊声《かんせい》をあげてつづいた。なだれのおし出すような勢いであった。
戸神山《とがみやま》に向かいつつあった武田《たけだ》方の一隊二千人は、ややしばらく停止してこちらを見ていた。思いもかけず越後《えちご》勢がこちらにかまわず本隊の攻撃にむかったので、どうしようと迷ったらしいのである。その側面を衝《つ》けばきわめて容易にたたき破ることができると、強い誘惑を感じたふうであった。しかし、山を占拠するのが任務であるとくれぐれも言われて来たのであろう。ふたたび行進をおこして、山にむかった。
政景《まさかげ》は二キロほどをただひたすらに駆けたが、その間に霧《きり》はますます晴れ、あたりはさらに明るくなった。見わたすと、稲田と原野の散らばる前方一キロほどにきびしくかたまった集団が、いくつも点在している。馬じるしが風にひるがえり、鎧《よろい》の金具《かなぐ》が朝日にきらめいていた。冑《かぶと》の鍬形《くわがた》であろうか、刀槍《とうそう》であろうか、ときどき目を射る強さできらめくものがある。こちらを見て、それぞれに身がまえる様子である。
政景《まさかげ》は馬をのりとどめて、ふりかえった。騎馬のものはおくれずついて来たようだが、歩立《かちだ》ちの兵はかなりおくれている。待ちそろえる必要があった。
「馬をおりて休め。見張りの兵をおいて敵の様子に心をくばり、油断《ゆだん》するのでないぞ」
と命令して、自分も下馬《げば》した。
やがておくれていた兵が追いついて来た。なおしばらく休息させた後、また馬にまたがり、鞍坪《くらつぼ》に立ち上がって大音声《だいおんじよう》に、
「敵は大軍だが、味方には横山《よこやま》城に宗心《そうしん》様がおわし、機を見て突出して来てくださることになっている。われらはそれまでにできるだけ敵を引ッかきまわせばよいのじゃ。おれは真っ先に立って働くが、わいらの手がらはよく見ているぞ。決して見のがしはせぬ。心得たか! よく働けい!」
と言って、粛々《しゆくしゆく》と馬を乗り出した。
諸隊はつづいた。
敵前五、六十|間《けん》のあたりで、弓隊と鉄砲隊だけを前に出して散開させつつ、二、三十間ばかり近づかせ、射撃を命じた。矢が飛び、銃声がとどろきはじめると、敵も応射する。
射撃をつづけるよう命じておいて、政景《まさかげ》は騎馬兵五百騎で編成されている一隊をひきい、
「それ!」
というや、槍《やり》を高々と打ちふって馬をおどらせた。
わーッ!
と、すさまじい喊声《かんせい》とともに、武者《むしや》らはつづいた。
政景《まさかげ》は猛将だ。十五の時を初陣《ういじん》にして、北国一の猛将の名の高かった父|房景《ふさかげ》について合戦《かつせん》のしようを鍛練された彼は、その後二十余年、いく十度の合戦《かつせん》にも彼の持ち場からくずれたことは一度もない。戦えばかならず勝つとの自信にみちている。
緋糸《ひいと》に金糸《きんし》を織りこんだ糸をもっておどした鎧《よろい》に、金の鍬形《くわがた》と金の宝剣を前立てにした同じおどし毛の|しころ《ヽヽヽ》のついた筋かぶとをかぶり、赤地錦《あかじにしき》の袖《そで》つき陣羽織《じんばおり》の裾《すそ》をひるがえし、緋《ひ》のむながい、しりがいをかけた鹿毛《かげ》の馬にまたがり、穂《ほ》の長さ三尺、柄《え》の長さ九尺の、青貝をすり出したにぎり太《ぶと》の槍《やり》を小わきにかいこみ、片手に手綱《たづな》をくって、大波に乗るように馬を打たせて敵陣に近づいた。さながらに十二神将の一人が茜《あかね》の暁雲《ぎよううん》か夕ばえの雲に乗ってよせるかのよう。目のさめるようなみごとな武将ぶりであった。
百戦練磨の甲斐《かい》の武士どもも、覚えず胸のゆるぐのを覚えたが、さすがにすぐ勇気をふるいおこした。すばやく備えを立てなおしたかと思うと、馬首をならべて二騎が進み出た。一騎は槍《やり》、一騎は薙刀《なぎなた》が得物《えもの》だ。
「あっぱれ武者《むしや》ぶり、われらはなにがし、われらはなにがし」
と、名のりを上げたが、政景《まさかげ》は、
「合わぬ!」
と言った。
合わぬ敵――ふさわしからぬ敵、相手にならぬぞ、という意味だ。
二人はかっと腹を立てた。
「合わぬとはなにごと!」
「合うか合わぬか……」
と絶叫《ぜつきよう》して、それぞれの得物《えもの》をふりかざして挑《いど》みかかった。
「うるさい!」
政景《まさかげ》は片手に槍《やり》をあげて、左右に打ちふった。
おどろくべきことであった。膂力《りよりよく》のちがいであろうか。技倆《ぎりよう》のちがいであろうか、それとも威におされたのであろうか、二人は馬上からみずからふっ飛んだように左右にとんで、どうと大地にたおれていた。作物のつくってない畑であるそこに、ぱっと砂煙が立った。
これが接戦の手はじめであった。どっと突入した越後《えちご》勢は阿修羅《あしゆら》の勢いで武田《たけだ》勢を引っかきまわした。「越《えつ》、甲《こう》の諸軍士、互いに旗を東西になびかし、追《おい》つ返しつ、戦争三度におよぶ」と、上杉年譜《うえすぎねんぷ》にある。両軍たがいに勝敗があったが、越後《えちご》勢は武田《たけだ》氏の一族である一条左衛門《いちじようさえもん》大夫《たゆう》、信州《しんしゆう》武士の小笠原《おがさわら》某を討ち取って、勇気百倍した。
しかし、こうなっても、晴信《はるのぶ》の本陣はさわぐ色がない。一帯の低地の中に一段高くもり上がっている桑畑《くわばたけ》の中に、「南無諏訪南宮法性上下大明神《なむすわなんぐうほつしようじようげだいみようじん》」としるした諏訪法性《すわほつしよう》の旗と、孫子四如《そんししじよ》の旗とをおし立てたまま静まりかえっている。しかも、その周囲の田圃《たんぼ》や畑地や草地には、いく隊の軍勢が整然とかまえて、時々本陣から鳴りひびく金鼓《きんこ》のひびきとともに、前線の戦《いく》さに馳《は》せ加わったり、退《ひ》いて来て休息に入ったりしている。
政景《まさかげ》はこれがくやしくてならなかった。こんなにおちつきはらっているばかりか、いく重《え》にも固められていては、景虎《かげとら》が出て来ても雌雄《しゆう》を決することはできないにきまっているのだ。
そこで、選《え》りぬいて壮強な兵三百騎をひきいて、新たな突撃にかかったが、武田《たけだ》の本陣はこちらのその心を見抜いているのであろう、かわらない金鼓《きんこ》の合図によって、兵をくり出しくりひき、入れかえ入れかえ、新手《あらて》の兵をもってあしらって寄せつけないのである。
「無念な! 無念な! 無念な!……」
歯がみしつつも、いつか、かなりに引きしりぞいているのに気がついた。
はっとして、善光寺《ぜんこうじ》の方を見ると、いつ出て来たのか、景虎《かげとら》の本隊がこんもりとした森の前におし出していた。毘《び》の字の旗が朝風にひるがえり、朝日を受けてきらきらとかがやくように反射している。
「宗心《そうしん》様、ごらんの場ぞ! 者ども、はげめ!」
政景《まさかげ》は絶叫《ぜつきよう》し、また馬に飛びのり、士卒《しそつ》をひきいて突撃した。
政景《まさかげ》の推察した通り、景虎《かげとら》は敵陣の混乱を待って一気にその本陣《ほんじん》を衝《つ》く計画でいたので、時間をはかって城を出たのであるが、なかなか突撃の機会が来ない。政景《まさかげ》はよく戦っている。さすがに猛将の名に恥じない戦いぶりではあるが、晴信《はるのぶ》の戦いぶりがより以上に巧妙なのだ。あせってはいたが、敵ながらもあっぱれと思わずにはいられなかった。
こんな戦いぶりを、彼ははじめて見る。彼がこれまで経験した敵は、強弱にかかわらず、みずから手を下して戦っている。強い大将であればあるほど、陣頭に立って刀槍《とうそう》をふるって戦っている。それによって士卒《しそつ》は勇気をはげまされて、全身的な働きができるようになるのである。
ところが、今見る晴信《はるのぶ》は、みずからは本陣《ほんじん》にすわったまま姿も見せず、金鼓《きんこ》の合図だけで士卒《しそつ》を手足のように自在に動かして戦っているのだ。
こういう戦いぶりは、唐土《から》の名将たちの話には聞いている。前漢《ぜんかん》の韓信《かんしん》であるとか、蜀漢《しよつかん》の諸葛孔明《しよかつこうめい》であるとか、魏《ぎ》の曹操《そうそう》であるとか、唐《とう》の李衛公《りえいこう》であるとか、いう人々はいつもこんなふうにして戦ったという。諸葛孔明《しよかつこうめい》などという人は甲冑《かつちゆう》もつけず道服《どうふく》を着て、綸巾《りんきん》をかぶり、羽扇《うせん》を持ち、車上にあって三軍を指揮し、いつもみごとな戦《いく》さぶりを見せたと、宇佐美定行《うさみさだゆき》に聞いている。
しかし、それは人の気性《きしよう》も地勢もちがう唐土《から》のことで、日本では大将みずから手をくだいて戦うのがいちばんよい方法だ、だからこそ皆そんな戦い方をしているのだと思っていたのだ。
毘《び》の字の旗のひるがえる陣頭に、床几《しようぎ》をすえ、青竹の杖《つえ》を片手に握りしめ、目もはなたず凝視《ぎようし》している景虎《かげとら》の胸裡《きようり》に去来する思念《しねん》は以上のようなことであった。
「みごとだ。みごとだ。おれにはできぬことだし、しようとも思わぬが、みごとだ……」
いく度か胸中につぶやいた。
宇佐美定行《うさみさだゆき》も来ているのだ。呼んで聞いてみたいと思ったが、このさしせまった場合、そんなひまはなかった。
その時、政景《まさかげ》勢のはるか後方から、一隊の兵がもみにもんで駆けて来るのが見えた。
はっとした。
戸神山《とがみやま》を占拠した敵の隊が、このせり合いをはるかに見て駆けつけたに相違なかった。
猶予《ゆうよ》はできなかった。
景虎《かげとら》は突っ立ち、
「新発田《しばた》! 本庄《ほんじよう》! かかれ!」
と大音声《だいおんじよう》にさけんで、右手の竹杖《ちくじよう》をふった。
景虎《かげとら》の陣の右手にひかえていた新発田《しばた》尾張守《おわりのかみ》の隊千人と、本庄慶秀《ほんじようよしひで》の隊千人とが、粛々《しゆくしゆく》とくり出して行ったが、敵陣近くなると、つるべ打ちに鉄砲を放しかけ、煙の下から喊声《かんせい》をあげて突撃して行った。
味方のこの新手《あらて》の勢と、敵の戸神山《とがみやま》から来た勢とのために、戦闘はさらに新しい勢いをもって活溌《かつぱつ》になったが、それでも武田《たけだ》の本陣《ほんじん》は小ゆるぎもするけはいがない。諏訪法性《すわほつしよう》の旗と孫子《そんし》の旗とが風にひるがえりながらきらめいているだけであった。
六分《ろくぶ》の勝ち
敵味方の接戦はしばしつづいた。両個の金剛力士《こんごうりきし》が懸命の力をふりしぼって、からみかけからみ返し、打ちかけ打ちかえし、いどみ闘《たたか》っているに似た力戦だ。いずれが勝つかわからない情勢であったが、勝機は新発田《しばた》勢が甲州《こうしゆう》方の高坂弾正《こうざかだんじよう》の先鋒《せんぽう》隊を圧迫したところからはじまった。つづいて本庄《ほんじよう》勢がドッとおめいて突撃に出たので、高坂《こうざか》の先鋒《せんぽう》隊は二陣になだれかかった。あとは竹を裂くようであった。真一文字《まいちもんじ》に高坂《こうざか》隊に割って入り、八方に追い散らしたので、甲州《こうしゆう》勢は混乱におちいり、陣形はまばらに白《しら》けて見えた。
越後《えちご》勢は新しい差図《さしず》を待って新しい攻撃にかかるべく、備えを立てなおした。勝ちに勇み立って気力にみちているのが、旗のひらめきにも見えた。
しかし、それでも晴信《はるのぶ》の本陣《ほんじん》とそれをとり巻いてひかえている諸隊は動揺の色を見せない。気合いをはかっているように、おししずまっている。大胆《だいたん》というべきか、鈍感《どんかん》というべきか、堅固《けんご》というべきか、底の知れない根強さであった。
景虎《かげとら》は望見して、じりじりしながらも、舌を巻いた。この鉄壁にひとしい陣形に向かっては、とうてい有無《うむ》の一戦などいどみかけられるものではない。うかうかすると、ここまで切り勝った結果を無にするばかりか、味方大敗北のきっかけをつくることになると思った。
決定的な勝利が得られないと見通しがついた場合は、一応の勝ちをとったら器用に引き上げて、勝ったという名誉だけを取ることが、武将たるものの心掛けの一つだ。
「鉦《かね》を」
と命じた。
陣鉦《じんしよう》の音がひびきわたると、越後《えちご》の諸隊はそれぞれに引き上げにかかった。
すると、晴信《はるのぶ》の本陣《ほんじん》をとり巻いている諸隊の中から一隊が出て追撃にかかった。距離が遠いので、こころもち太鼓の音がおくれて聞こえたが、それが合図で行動をおこしたに相違なかった。こちらがかかれば中にとりこめ、こちらが退《ひ》けば追撃に出ようと、機をはかって待ち受けしていたのだと思われた。必定《ひつじよう》四方に打ち散らされた武田《たけだ》方が反撃に出るに相違ないと、景虎《かげとら》は見た。
ここで退却をつづければ、味方は全滅と、ひやりとした。
「貝を吹け! 貝を吹け! 貝を吹け!」
絶叫《ぜつきよう》しながら突っ立ち上がった。
勁烈《けいれつ》な貝の音が広い戦場にとどろきわたると、越後《えちご》勢が大返しに返して晴信《はるのぶ》の本陣《ほんじん》から出た一隊をとりこめるように攻撃に出るのと、さらにそれをかこんではじめに打ち散らされた武田《たけだ》方の諸隊が攻撃に出るのとが、ほとんど同時であった。
もしこの際|越後《えちご》勢がまわりから襲いかかる敵に心をとられて躊躇《ちゆうちよ》したら、これまた全滅をまぬかれないところであったが、さすがにそんなへたはしなかった。ふりかえりもせず、中の武田《たけだ》勢に攻撃を集中する。
「あっぱれだ。みごとだぞ!」
景虎《かげとら》はなおもその気勢をはげますために貝を吹き立てさせ、
「柿崎《かきざき》! かかれ!」
と杖《つえ》を振った。
柿崎《かきざき》隊五百人は景虎《かげとら》の本陣《ほんじん》から左手にひかえていた。老練な景家《かげいえ》は、この以前から命令の下ることを予期していた。冑《かぶと》の鍬形《くわがた》がさんぜんたる金色にかがやいているだけの、れいの上から下まで真っ黒ないで立ちして、烏黒《からすぐろ》の駿馬《しゆんめ》をそばに引き立て、鋭い目を眉《ま》びさしの下にしずめて、戦況を凝視《ぎようし》していた。
「かしこまる!」
とどろく大音声《だいおんじよう》でこたえると、ひらりと馬に飛びのり、れいの厚重ね四尺にあまる、鉄棒を打ちひらめたような剛刀《ごうとう》を抜きはなち、
「つづけ!」
とさけんで、馬をおどらせて出た。
さすがに景家《かげいえ》は猛将だ。景家《かげいえ》を頂点にした長三角形の隊形になった柿崎《かきざき》勢は、合戦《かつせん》の場に到着すると、そのまま割りこんで行ったが、さながらに楔子《くさび》をもろい木材に打ちこむに似ていた。その頂点の向かうところ、武田《たけだ》勢はむらむらと乱れくずれ立った。烈風《れつぷう》の枯れ葉をはらうようであった。四角八面に、追い立て、追いくずした。
この柿崎《かきざき》の力闘に他の越後《えちご》勢も気を得て、甲州《こうしゆう》勢を圧迫し、追いくずした。
景虎《かげとら》はまた上げ鉦《がね》を鳴らした。
越後《えちご》勢はまた引き上げにかかったが、晴信《はるのぶ》の本陣《ほんじん》でまた太鼓《たいこ》が鳴ると、一隊が追撃にかかった。越後《えちご》勢がふみとどまり、返し合わせると、また太鼓《たいこ》が鳴ってくり出した甲州《こうしゆう》方の一隊は粛粛《しゆくしゆく》と横に出て、横撃《おうげき》の勢いを見せた。
「味をやる!」
景虎《かげとら》はまた貝を吹き立てて、黒川実氏《くろかわさねうじ》と中条藤資《なかじようふじやす》の隊をくり出し、武田《たけだ》勢の横に出し、会釈《えしやく》もなく突きかからせた。武田《たけだ》勢はたちまちくずれ立ったが、そのまま本陣《ほんじん》に合して、反撃の勢いを見せた。
景虎《かげとら》は味方の諸勢が早朝から五度におよぶ合戦《かつせん》に疲労しきっていると見た。これでは攻撃に出て、敵の本陣《ほんじん》にあたるのはいうまでもなく、器用に引き上げてくることもできないにきまっている。
彼は諸隊に伝令を走らせて、それぞれの位置にとどまったまま陣形をととのえるように命じておいて、さかんに貝を吹き立てさせながら本陣《ほんじん》を進めた。諸隊の引き上げを容易にするためであった。
武田《たけだ》方の諸隊はこちらが総攻撃に出るかと思ったのだろう、色めいたが、本陣《ほんじん》はさわがない。金《きん》・鼓《こ》をかわるがわるに鳴りひびかすと、それが静まれの合図なのであろう。すぐ静かになった。
景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》がこちらの意図を見ぬいてはいるが、積極的な戦意はないと見た。かまわず本陣《ほんじん》をおし進め、適当な距離まで近づくと、上げ鉦《がね》を鳴らした。
諸隊は粛々《しゆくしゆく》と引き上げにかかった。
すると、武田《たけだ》陣はまた色めき立ってきた。
諸隊はふみとどまった。
「それもよかろう! 望むところだ!」
と、景虎《かげとら》はとっさに心をきめた。もし武田《たけだ》勢が総出で追撃にかかったら、こちらもこのまま出て行き、決戦するまでと、くだけるばかりに杖《つえ》をにぎりしめ、敵陣を凝視《ぎようし》していた。すると、武田《たけだ》の本陣《ほんじん》でまた金《きん》・鼓《こ》がかわるがわる鳴りひびいた。今日の数度の合戦《かつせん》いずれもおとりがちであったのをくやしがって、追撃に出て名誉を回復したがっている諸隊のあせりを制止しているものと判断された。
(戦わぬなら戦わぬもよかろう。さすがに晴信《はるのぶ》は名にそむかぬ名将じゃわ)
景虎《かげとら》は微笑《びしよう》して、上げ鉦《がね》を鳴らしつづけさせた。
甲州《こうしゆう》陣の金《きん》・鼓《こ》のひびきと、越後《えちご》陣の上げ鉦《がね》のひびきのうちに、越後《えちご》の諸隊は整々と引きとって、景虎《かげとら》の本陣《ほんじん》の左右に布陣《ふじん》した。ちょうど正午を少しまわったころであった。
その日はもう合戦《かつせん》はなく、双方にらみ合ったまま過ごした。夜に入ると両軍ともにさかんにかがり火を焚《た》き立てて軍容を張って霧《きり》の深い夜明けになった。
景虎《かげとら》は手廻《てまわ》りの者数騎だけを従え、馬を両陣の間に乗り出し、仔細《しさい》に敵陣を観察してまわった。
濃い霧《きり》にとざされてはいるが、どの陣もきびしい姿でかまえているようだ。しかし、どことはなしに気のゆるみが見える。
(今日も戦う気はないような)
と、見た。
またしてもあの膠着《こうちやく》状態が来るかと、じりじりしながら、なおよく見るために敵陣間近に馬を寄せたが、ふと、はるかに遠い陣の後方に馬のいななく声を聞きつけた。一匹がいななき、それにさそわれて、数頭がいなないた。
景虎《かげとら》はこれを敵が陣ばらいにかかっているものと見た。
(どうしよう?)
思案は二つにわかれた。追撃にかかるか、こちらも退陣するかの二つだ。
合戦《かつせん》は死生の地であるだけに、戦場を離脱にかかっている時、兵の勇気はおそろしくたわんでいるものだ。危険の場をやっとのがれ得たという気持ちが、生にたいする執着を数倍につのらせている。それゆえに敵に追撃にかかられればひとたまりもないのが常だ。
強烈な誘惑であった。
景虎《かげとら》はぎりぎりと奥歯をきしらせながら、頭をつつんだ白の練絹《ねりぎぬ》の下から、霧《きり》の中に所在もおぼろな武田《たけだ》方の諸陣を凝視《ぎようし》して思案したが、やがて首をふった。
(智謀《ちぼう》たくましい晴信《はるのぶ》だ。備えなくして退《ひ》くはずはない。かならず十分な備えを立てて退《ひ》くであろう。いやいや、それよりも、誘ってワナにかけるつもりかもしれぬ)
退陣に心を決した。不名誉な退陣ではない。昨日の戦闘は、十分の勝ちを得たとはいえないが、六|分《ぶ》の勝ちは得ている。勝利の名誉はこちらにあるはずだ。
しかし、敵の退陣をあけらかんと見ている手はない。敵より早く陣ばらいして、敵の意表に出てどぎもをぬくのも、武将の技倆《ぎりよう》というものだ。
ゆとりのある、のんきな時代であったといえばそれまでのことであるが、戦争にロマンチシズムもあれば、ヒューマニズムもあり、芸術もあった時代だ。この時代の武将らは多かれ少なかれ、戦争を一種の芸術と見て、手際《てぎわ》を競う点があったが、景虎《かげとら》はわけてそうであった。彼ほど戦争が好きで、彼ほど戦争にたいして芸術家が芸術制作におけるような昂奮《こうふん》と陶酔《とうすい》のあった人はない。彼が生涯《しようがい》女を近づけなかったというのも、芸術家の芸術にたいする、あるいは宗教家の宗教にたいする捨身《しやしん》と犠牲の感情である。
馬をかえすと、直ちに全軍に使い番を馳《は》せて、引き上げにかかった。物音一つ立てず、迅速《じんそく》をきわめ、夜の明けるころには、その本軍は善光寺平《ぜんこうじだいら》を出て、北国街道《ほつこくかいどう》を北へ北へと帰りつつあった。
この後は、晴信《はるのぶ》も景虎《かげとら》も兵を動かさず、弘治《こうじ》三年は暮れて、永禄《えいろく》元年となったが、その春、一向宗《いつこうしゆう》の加賀御坊《かがごぼう》にいる、もと信州中野平笠原《しんしゆうなかのだいらかさはら》の本誓寺《ほんせいじ》の超賢《ちようけん》が使僧をおくって、いよいよ越後《えちご》に移住して来るからよろしく頼むと言ってよこした。これは三年前からの懸案《けんあん》になっていることだ。超賢《ちようけん》はその当初から移住のことは承知していたのだが、先祖代々の一向宗《いつこうしゆう》ぎらいの家の当主である景虎《かげとら》ににわかにそんなことを言い出されたのに疑惑と不安があって、用心していたのだろう、なかなか実行にうつされなかったのである。
その超賢《ちようけん》がこう言ってよこした以上、十分に信頼してよいと見きわめがついたのであろう。
超賢《ちようけん》の信頼を得たことは景虎《かげとら》にとっていく多の利がある。従来父祖以来の長尾《ながお》家を敵視していた越中《えつちゆう》が御《ぎよ》しやすくなったことだ。越中《えつちゆう》は一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》の多い国だ。住民のほとんど全部がもっとも熱烈な門徒《もんと》といってよい。彼らは越後《えちご》からの侵入にたいしては、法敵と見て衆心一致《しゆうしんいつち》、豪族《ごうぞく》らに協力してあたるのだ。正規の武士軍にとって、百姓兵《ひやくしようへい》ほど始末にこまるものはない。名誉や見栄《みえ》を知らない彼らは効果さえあれば、どんな悪辣《あくらつ》・陰険・不潔な戦術でも使う。現に父の為景《ためかげ》はその手にかかって戦死したのだ。
これはまだよい。軍勢の体裁《ていさい》をなしていれば、そのつもりでかかればあしらえないことはないが、平和な良民づらしていながらすきをうかがっては、小荷駄《こにだ》を襲ったり、陣中に忍びこんで放火したり、馬を盗んだり、少数部隊を襲撃したり|のみ《ヽヽ》や蚊《か》がせせり立てるように害悪をする。といって、良民全部を殺すことはできるものではない。まことに始末にこまるのである。超賢《ちようけん》は一向宗《いつこうしゆう》内の高僧だから、これの信任を得ているということになれば、越中《えつちゆう》人らのこちらを見る目は大いにかわってくる。将来|越中《えつちゆう》征服に乗り出すにしても、その国の豪族《ごうぞく》だけを敵にすればよいのである。
第二には、越中《えつちゆう》にかぎらず、北陸路《ほくりくじ》はみな一向宗《いつこうしゆう》全盛の土地だ。能登《のと》、加賀《かが》、越前《えちぜん》までそうだ。江州《ごうしゆう》も半分以上の者が一向宗徒《いつこうしゆうと》だ。これらが自分に好意を持つとすれば、京都までの道も容易になる。
第三には、一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》は越後《えちご》にも少なくない。家臣《かしん》らにもいる。重臣《じゆうしん》級の者にもいる。この者どもは力に制せられ、あるいは主従の義理によって屈服しているが、心中苦悩するところも多かったであろうが、今後は大いに気が楽になり、したがってもっとも純一な気持ちで忠誠であることができるようになるはずである。
景虎《かげとら》は大いによろこんで、春日山《かすがやま》の東方|左内《さない》村に一町四方の地域を境内《けいだい》と定め、付近の福島《ふくしま》・左内《さない》・門前《もんぜん》・春日新田《かすがしんでん》・黒井《くろい》の五か村に命じて、二十四|間《けん》四面の本堂を建立《こんりゆう》することを命じた。この五か村にはわけて一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》が多い。よろこんで造営にかかった。
その造営がずいぶん進んで、落慶《らつけい》もほどないという閏《うるう》六月の末、信州路《しんしゆうじ》にいる駐屯《ちゆうとん》部隊から、武田晴信《たけだはるのぶ》が近々のうちに居城《きよじよう》を甲府《こうふ》から信州《しんしゆう》に移し、徹底的に信州《しんしゆう》攻略に乗り出す決心をしていると報告し、その証拠《しようこ》となるべき書類を送付して来た。
証拠《しようこ》の書類は、晴信《はるのぶ》が戸隠《とがくし》神社にたてまつった願文《がんもん》であった。
戸隠大権現《とがくしだいごんげん》の神前に納め奉る願状《ねがいじよう》
右を奉るわけはこうであります。先年ご神前において、戊午《つちのえうま》の年に居を当国に移したいと思い、そうすれば当国十二郡すべて拙者《せつしや》のものになるかどうかと、易筮《えきぜい》してみましたところ、「升《しよう》」の卦《け》の九三が出ました。易経《えききよう》によって検索しましたところ、「虚邑《きようゆう》に升《のぼ》る。疑うところなかれ。往《ゆ》けばかならず得るなり」という爻辞《こうじ》でありました。
また、越後《えちご》を敵としての戦いはどうであるかと筮《ぜい》してみましたところ、「坤《こん》」の不変でありました。その辞は「君子往《ゆ》く攸《ところ》あれば、まず迷いて後に得《う》。利を主とし、安貞《あんてい》なれば吉」というのでありました。
以上によって思案をめぐらしますに、拙者《せつしや》の信州《しんしゆう》移居は吉であります。戊午《つちのえうま》の年とは今年のことでありますから、拙者《せつしや》が今年中に当国に移住すれば当国全部、錐《きり》を立つるほどの余地なく、拙者《せつしや》の手に帰するという知らせであります。もし、越士《えつし》がこれを怒って干戈《かんか》を動かせば、かえってたちまちに滅亡すること、筮《ぜい》の示すところであります。
以上の次第、まことにありがたく存じます。されば、青銅五十|緡《さし》当社修補のために、ご宝前に献納《けんのう》いたします。
|源 晴信敬白《みなもとのはるのぶけいはく》
この願文《がんもん》の写しを見て、景虎《かげとら》はなるほどと思った。願文《がんもん》中にある「越士《えつし》」が彼を指したのであることは言うまでもない。
神助《しんじよ》や仏力《ぶつりき》や、卜筮《ぼくぜい》を信仰しているのは、景虎《かげとら》も同じだ。この点、この二人の英雄は、同じ時代のやや後輩にあたる尾張《おわり》の信長《のぶなが》とはひどくちがっていた。信長《のぶなが》はいっさいの宗教を受けつけず、徹底した合理精神をもって生きぬき、後年のことになるが、日本仏教の総本山《そうほんざん》といわれた比叡山《ひえいざん》を焼き、また高野聖《こうやひじり》数千人を一挙に殺戮《さつりく》し、本願寺《ほんがんじ》を相手に十数年の戦いをつづけている。二人は信長《のぶなが》にくらべるとき、段ちがいに好学でもあり、学問の教養も豊かであったのに、仏教にも神道《しんとう》にも厚い信仰を持っていたのである。年齢的には、晴信《はるのぶ》が最年長、景虎《かげとら》が十歳の弟、信長《のぶなが》が四つの弟であるが、その宗教観はこれほどちがっているのだ。生まれながらの個性の差もあろうが、戦国末期という時代の急湍《きゆうたん》のような時代思潮の変遷《へんせん》によることも多いであろう。
景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》の願文《がんもん》を見て、容易ならんことだと思った。
「必定《ひつじよう》、晴信《はるのぶ》はまた冬が来、越後《えちご》が雪で降りうずめられるのを待って、ことをおこすつもりに相違ない」
と思った。
「またしても、空巣《あきす》ねらい同然のきたないことを!」
と、腹が立った。
「そうはさせぬぞ」
と、思った。
国内にふれをまわして、信州《しんしゆう》に兵をくり出させた。こうなれば、千曲《ちくま》川を両家の勢力分野の境界線などと言ってはおられない。善光寺平《ぜんこうじだいら》を越えて、小県《ちいさがた》郡に出動させ、武田《たけだ》方の諸城下に焼きばたらきさせた。
そのころ、足利《あしかが》将軍|義輝《よしてる》から急使が来た。
「この五月、管領細川《かんれいほそかわ》家の家老|三好長慶《みよしちようけい》が逆心をふくみ、自分を襲撃したので、自分は難をのがれて、江州坂本《ごうしゆうさかもと》に逃《の》がれている。願わくは兵をひきいて上洛《じようらく》、逆賊を退治して、自分のこの危難を救ってもらいたい」
という口上《こうじよう》であった。
五年前|上洛《じようらく》した時、景虎《かげとら》は乱脈をきわめた幕府の様子を見て来ている。将軍はかざり雛《びな》にすぎず、陪臣《ばいしん》である三好長慶《みよしちようけい》の勢力だけが京都とその周辺の国々にひとりのさばっていた。威勢のおとろえているのは将軍だけではなかった。天皇もまたそうであった。
そういうことは、知識としては知らないではなかったが、目の前に見て、
「乱世《らんせい》なるかな」
の感が切実であった。
腹の底からいきどおりがこみ上げてきた。上下転倒、貴賤錯置《きせんさくち》のこの世は正さるべきであると思い、正さなければならないと思い、おれが正してみせると決心したのであった。
京《みやこ》からの帰途、江州《ごうしゆう》で、湖水をへだてて比叡山《ひえいざん》を望み、木曾義仲《きそよしなか》の故事を思い出し、
「おれは木曾《きそ》などとちがって、みずから将軍になる望みなどない。しかし、やがては都に攻め上り、天子を奉じ、将軍を奉じ、この乱脈をきわめた世を道ある世にしてみせる」
と、心にちかったことが、まざまざと思い出された。
彼はすぐにも命を奉じて京《みやこ》に上りたいと思ったが、あたかも信州《しんしゆう》に兵を出している時だ。当惑《とうわく》した。
「み教書《きようしよ》を拝受いたしました。三好輩《みよしともがら》の暴悪《ぼうあく》は以前から耳にしていましたし、先年|上洛《じようらく》の際まざまざと実見《じつけん》もして、大いに憤《いきどお》っていました。実はその上洛《じようらく》の際、霜《しも》をふんで堅氷《けんぴよう》いたる、やがては言語道断《ごんごどうだん》なる逆心を企てるのではないかと案じていたのでありますが、ついにこのたびの挙におよびました由《よし》、痛恨嘆息《つうこんたんそく》の至り、慷慨《こうがい》の情にたえません。早速に上洛《じようらく》、逆賊を討滅《とうめつ》し、ご鬱念《うつねん》を散じ、おん身を泰山《たいざん》のやすきにおき奉ること、素懐《そかい》でありますが、おりもおり、しかじかのことで、信州《しんしゆう》に兵を出している最中《さいちゆう》であります。できるだけ急いで戦いを終結して駆けのぼりたいと存じますが、相手あってのことでありますから、先方からの出ようによっては、いささか長引くかもしれません。ともあれ、しばらくご近国の義兵を召募《しようぼ》して、何としてでももちこたえていただきとうございます。拙者馳《せつしやは》せ参じます以上は、誓って時の間に逆賊どもを蹴散《けち》らしてごらんにいれます。くわしくは使いの者からお聞きとり願います」
との旨《むね》の書状をしたため、使者に持たせ、将軍からの使者に同道させて、京《みやこ》にさしのぼせた。
急がなければならなかった。
数日の後、本誓寺《ほんせいじ》が竣工《しゆんこう》したので、七月十三日、落慶供養《らつけいくよう》の法会《ほうえ》を行のうと、その翌日にはみずから信濃《しなの》に出馬して、また横山《よこやま》城に入ったが、これは戦うためではなかった。晴信《はるのぶ》と和を講ずるためであった。
彼は信州《しんしゆう》に出動している諸軍に現在地にとどまったまま合戦《かつせん》を停止するようふれを出した上で、使者を甲府《こうふ》につかわした。この時晴信《はるのぶ》はまだ信州《しんしゆう》へは出ていず、部将らだけが出て来ていたのである。
「このほど将軍家よりお使者をたまわり、しかじかのご依頼をいただき申した。武士の道として、また面目《めんぼく》として、早速に京《みやこ》に馳《は》せ上り、逆賊を討滅《とうめつ》、将軍家のご危難を救い申したいと思う。ついては貴殿《きでん》との合戦《かつせん》、当分の間中止したい。私のことでなく、天下のことであるから、ご諒解《りようかい》あって、承諾《しようだく》していただきたい」
というのが、その口上《こうじよう》であった。
景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》が承諾《しようだく》するであろうことを信じて疑わなかった。ことがらがことがらだ、甲斐源氏《かいげんじ》の嫡流《ちやくりゆう》たる武田《たけだ》家の当主として承諾《しようだく》しないはずはないと思った。それどころか、彼もまた三好《みよし》の暴悪《ぼうあく》をいきどおり、ことを憂《うれ》え、会って相談しようというかもしれないとまで思った。もし、晴信《はるのぶ》が会いたいと言って来たら、よろこんで応ずるつもりでいた。急いでみずから信州《しんしゆう》に出て来たのは、この含みがあったからでもあった。
彼は首を長くして使者のかえって来るのを待ったが、なかなか帰って来ない。気の長い方でない上に、時が時だ。気をいら立てていると、二十日目にかえって来た。
「遅かったぞ。どうしたのだ」
「恐れ入ります。しかしながら、これは拙者《せつしや》のあやまちではございません。まず甲府《こうふ》にまいります道中、甲州《こうしゆう》方の諸隊が隊から隊へ次ぎ送りにして、甲府《こうふ》へつくまでに七日もかかったのでございます。急ぎの使者であるゆえ、急ぎくれよと申しましても、『軍令である』と申して、いっこうにきき入れません。その上、ようやく甲府《こうふ》につきましたので、ご口上《こうじよう》を申達《しんたつ》しましたところ、追って返答するとて、これまたなかなか返答がなく、十日も待たされたのでございます」
と、使者は弁解した。
「大膳《だいぜん》大夫《だゆう》は、会うことは会ったのだな」
「いえ、それが大膳《だいぜん》大夫《だゆう》殿にはご病気であるとて、ご面会がかなわなかったのでございます。ご返答がおくれたのも、そのためであるとのことでございました」
「だれに会ったのだ?」
「馬場《ばば》美濃守《みののかみ》殿にお会いいたしました。美濃守《みののかみ》殿ご口上《こうじよう》には、『拙者《せつしや》の申すことは、大膳《だいぜん》大夫《だゆう》の口うつしであるゆえ、大膳《だいぜん》大夫《だゆう》のことばと思うて聞いてもらいたい』とありました」
すべてに、晴信《はるのぶ》の悪意が感ぜられた。景虎《かげとら》はせきこんだ。
「それで、返答は?」
使者は報告したが、それはもっとも悪意にみちたものであった。
「京《みやこ》の公方家《くぼうけ》の難に馳《は》せ参ぜんとのこと、いつもながらのご高義《こうぎ》まことに感嘆《かんたん》にたえない。しかしながら、それゆえに当分の間合戦沙汰《かつせんざた》を中止したいとのご提議は、当方としては理解に苦しむところである。元来、このたびのことは、貴方《きほう》よりはじめられたことである。先年|今川《いまがわ》家の仲裁によって定めた、千曲《ちくま》川を双方の分野の境界として、たがいに侵すことなからんとの約束は、昨年の合戦《かつせん》によって破れたとは言い条、約束は約束であると思うがゆえに、当方ではかたく境界を守り、千曲《ちくま》川以北に出ることはなかったのに、貴方《きほう》は突如《とつじよ》として川をこえて南に出、遠く小県《ちいさがた》郡まで焼きばたらきし、狼藉《ろうぜき》をきわめておられる。はなはだ迷惑《めいわく》である。しかるに、今また卒然《そつぜん》として、しかじかのことあるにより、合戦沙汰《かつせんざた》を中止したいと言われる。虫がよすぎるではないか。貴方《きほう》からしかけて、当方に大損害をあたえておられるのだ。貴方《きほう》にして誠意があるならば、わびを言い、損害を賠償《ばいしよう》するとの条件を示した上でご相談があるべきではあろうと存ずる。せめて信州《しんしゆう》一国は当方の存分にまかせ、越後《えちご》一国に立てこもるとでも仰《おお》せられるなら、当方も考慮いたしましょう」
という口上《こうじよう》であったという。
これは返答ではない。嘲弄《ちようろう》だ。
景虎《かげとら》は激怒《げきど》した。
「晴信《はるのぶ》め! 大欲心者め! 欲心に目がくらんで、公方《くぼう》殿の危難まで見すごしにしようというのか! もうゆるさぬ!」
全軍に戦闘再開の指令を出した。黄《き》母衣《ほろ》をつけた使い番らは、横山《よこやま》城を出て、初秋の明るい川中島《かわなかじま》を南に疾駆《しつく》し、川をこえると、それぞれの行く先に散らばっていったが、それと行きちがいに、前線から急報があった。
「武田《たけだ》の大軍が千曲《ちくま》川沿いに北上して、小諸《こもろ》にあらわれた。諏訪法性《すわほつしよう》の旗と孫子四如《そんししじよ》の旗とがおし立てられているから、晴信《はるのぶ》自身の出陣と見てよい」
というのだ。
「願うところ!」
景虎《かげとら》はふるい立った。
全軍にまた指令を出し、川中島《かわなかじま》に集結を命じた。この坦々《たんたん》たる平地を決戦の場にして、一挙に晴信《はるのぶ》をふみつぶした上で、京《みやこ》に馳《は》せ上ろうと決心したのであった。
越後《えちご》の諸隊はそれぞれの位置から引き上げて川中島《かわなかじま》に集結したが、晴信《はるのぶ》は小諸《こもろ》から動こうとしなかった。誘いの兵を出して挑《いど》みかけたが、武田《たけだ》方は応じない。よほどにきびしい軍令を出しているのであろう、飯の上の蠅《はえ》を追うように、必要の限度の兵数を出して追いはらいはするが、決して長追いはしない。あぐねた。
また膠着《こうちやく》戦になって、秋はすぎ、冬となったが、そのころ、義輝《よしてる》将軍から使者が来た。使者は横山《よこやま》城につれてこられた。義輝《よしてる》の教書《きようしよ》をたずさえていた。
「先般は心配をかけたが、このころ三好《みよし》からことわりを申して来て、和談《わだん》が進みつつある。三好《みよし》は暴悪な人物ではあるが、こんどのことでは世間の評判がひどく悪くなったので、後悔しているようである。迂闊《うかつ》に信用はできないと思って、大いに用心はしているが、相当|懲《こ》りたことは間違いないようである。たぶん近々のうちに京《みやこ》へ帰ることになるであろうと思うから、先般依頼のことは、ひとまずとり消しにしたい。今となっては、余が案じているのは、そなたが武田大膳《たけだだいぜん》大夫《だゆう》と連年戦っていることだ。もともと両人の間には格別な怨恨《えんこん》もないと聞くのに、財を費やし、人命を損じ、民の患《うれ》えとなることを続けるとは、愚の至りではないか。余の方から、晴信《はるのぶ》方にも教諭を加えるから、双方《そうほう》おれ合って、和睦《わぼく》してもらいたい。切《せつ》に願うところである」
という文面だ。
使者もまた、そう説いた。
「ご教諭の段、恐縮しごくであります。仰《おお》せの通り、拙者《せつしや》と武田《たけだ》とは何の恩怨《おんえん》もないのでありますが、晴信《はるのぶ》無道にして信州《しんしゆう》の地侍《じざむらい》どもの所領《しよりよう》を強奪《ごうだつ》しましたため、その地侍《じざむらい》どもに頼まれて、拙者《せつしや》は乗り出したのであります。拙者《せつしや》は弓矢の道においては、常に義にもとづきたいと念じていますゆえ、晴信《はるのぶ》がような無道の輩《ともがら》は、決して捨ておかじと思うているのでありますが、将軍家のおさとしとあっては、違背《いはい》は恐れ多うござる。晴信《はるのぶ》が将軍家のご教諭をかしこまり、和睦《わぼく》を承諾《しようだく》いたしますなら、拙者《せつしや》も和睦《わぼく》いたします」
と、景虎《かげとら》は答え、さらに言った。
「三好《みよし》とのおん和議のことでありますが、拙者《せつしや》には三好《みよし》という人物が信用できぬような気がします。もちろん、しばらくの間はなにごともありますまいが、いずれはまた反逆すべきやつと見ています。くれぐれもご用心あるようにと言上《ごんじよう》していただきとうござる。拙者《せつしや》が武田《たけだ》とことがなくば、こんどの三好《みよし》が逆心はよい機会でありました、早速に攻め上ってふみつぶし、後患《こうかん》の根を絶ちましたものを。まことに残念であります。過ぎたことを申してもせんないこと、これからが肝心《かんじん》であります、そのような兆《きざ》しが少しでも見えましたら、早速にお知らせをいただきとうござる。かならず時をうつさず馳《は》せ上りますと、これも言上《ごんじよう》していただきます」
景虎《かげとら》は以上のことを書面にもして、使者にわたし、数々の献上《けんじよう》ものを持たせて、送りかえした。
義輝《よしてる》将軍の使者は武田《たけだ》家にも来た。これも小諸《こもろ》陣につれて来られた。晴信《はるのぶ》はみ教書《ぎようしよ》を受け、使者に補足的|口上《こうじよう》を聴いた。
「越後《えちご》の長尾《ながお》家との矛盾《むじゆん》について、将軍家のお心をわずらわしていますこと、まことに恐縮でございます。いったいこの合戦沙汰《かつせんざた》のことにつき、長尾《ながお》方では拙者《せつしや》が信濃侍《しなのざむらい》らの所領《しよりよう》をほしいままに切り取ったため、その信濃侍《しなのざむらい》らが長尾《ながお》に救《たす》けをもとめたのがおこりであると、申し触らしていますが、事の大本《おおもと》はそう簡単ではありません。そもそものことを申せば、信州葛尾《しんしゆうかつらお》におりました村上義清《むらかみよしきよ》の大欲心から出たのであります。村上《むらかみ》は信州侍《しんしゆうざむらい》の中では身代《しんだい》も大きく、武勇にもすぐれた者でありましたが、武威《ぶい》にまかせて暴悪《ぼうあく》をきわめ、しきりに傍近の武士どもの所領《しよりよう》を切りとったのでございます。小県《ちいさがた》郡|海野《うんの》の海野幸義《うんのゆきよし》と申す者は攻め殺されて所領《しよりよう》全部をうばわれ、幸義《ゆきよし》の弟|真田幸隆《さなだゆきたか》と申す者は牢人《ろうにん》となって上州箕輪《じようしゆうみのわ》の長野業正《ながのなりまさ》の家に数年の間|食客《しよつかく》となっていたほどであります。この幸隆《ゆきたか》が縁あって拙者《せつしや》の家につかえ、村上《むらかみ》をうらんで、これを討って、伝来の所領《しよりよう》を回復したいと常になげきますので、拙者《せつしや》はあわれと思い、村上征伐《むらかみせいばつ》にかかったのであります。すると、村上《むらかみ》はひとりでは敵しがたいので、北|信州《しんしゆう》の豪族《ごうぞく》どものほとんど全部を駆り集めて、拙者《せつしや》にはむかったのであります。弓矢取る身は、敵となって前に立つ者を容赦《ようしや》するわけにはまいりません。村上《むらかみ》にかぎらず、北信《ほくしん》の豪族《ごうぞく》ども全部を討たねばならぬことになったのであります」
と、晴信《はるのぶ》は弁解した。
まるっきりのうそではない。海野幸義《うんのゆきよし》が村上義清《むらかみよしきよ》にほろぼされ、その所領《しよりよう》をうばわれたことも、幸義《ゆきよし》の弟|真田幸隆《さなだゆきたか》が牢人《ろうにん》して、上州路《じようしゆうじ》で数年の間|食客《しよつかく》生活を送っていたことも事実だ。
しかし、晴信《はるのぶ》が信州《しんしゆう》侵略をはじめたのはそのはるか以前からであり、海野幸義《うんのゆきよし》が村上《むらかみ》に攻め殺されたのは、幸義《ゆきよし》が武田《たけだ》に所属して、その侵略の先棒《さきぼう》をかついでいたからだ。村上《むらかみ》としてはいたし方ない自衛であったと言えるのだ。
幸義《ゆきよし》の弟|真田幸隆《さなだゆきたか》が晴信《はるのぶ》につかえたのも幸隆《ゆきたか》の方から仕官《しかん》を願い出たのではない。幸隆《ゆきたか》はなかなかの人物であり、海野《うんの》地方(今の上田《うえだ》地方)の名族《めいぞく》の出身であるところから、このような人物を利用することは信州《しんしゆう》経略にもっとも効果があると計算して、晴信《はるのぶ》がこれを招致《しようち》したのである。
義輝《よしてる》の使者はもとよりくわしい事情を知るはずがない。
(ああ、そういう次第なのか、越後《えちご》側の言い分だけでは、甲州《こうしゆう》方は大悪|貪欲《どんよく》の所業ばかりしているとしか解釈できぬが、これでは甲州《こうしゆう》方にも理があるのじゃわ。すべてもめごとというものは、双方《そうほう》の言い分を聞かねばならんものじゃな)
と思ったのは道理だ。
しかし、使者が信じようが信じまいが、晴信《はるのぶ》はどうでもよい。彼は将軍のこの仲裁から、ある利益をつかみとらなければならないと目算《もくさん》している。これまでの言いぐさは、それを切り出すきっかけになれば十分なのであった。
晴信《はるのぶ》は容《かたち》をあらため、語調をあらためた。
「とは申しますものの、将軍家のご教誨《きようかい》に違反する気は毛頭《もうとう》ございません。長尾《ながお》方でご教誨《きようかい》をつつしんで和平いたしますなら、拙者《せつしや》も和平いたしましょう。しかしながら、信州《しんしゆう》一国はほとんど全部、ただいまでは拙者《せつしや》の手に帰しています。わずかに犀《さい》川と千曲《ちくま》川以北が長尾《ながお》家に所属しているのと、南信《なんしん》のごく一部分がのこっているだけであります。つまり、信州《しんしゆう》は武田《たけだ》家のものと申してもよいのではないかと存じます。そして、その内に住まいする豪族《ごうぞく》らや民百姓《たみひやくしよう》どもにしましても、ことごとく拙者《せつしや》をなつき慕《した》っています。されば、このたびお使者として当国にまかり下られましたを幸い、ご案内役として家来どもをつけますれば、当国の様子をよくよくごらんくだされて、ご帰洛《きらく》の後、将軍家にこの旨《むね》を言上《ごんじよう》していただきとうございます。そして、拙者《せつしや》が信濃守《しなののかみ》の官名を所望《しよもう》していたと申し上げていただきたい」
彼は使者の前で、越後《えちご》方へ和議の軍使をおくる手続きを取った。
「京《みやこ》の将軍家よりかようなおさとしを蒙《こうむ》った。武臣《ぶしん》として違背《いはい》はできぬ。さればその方、越後《えちご》陣へまかり越し、和議をまとめるよう。両家の境界線は先年のとりきめの通りでよろしい」
と申しふくめて送り出した後、その日のうちに数千騎の従者を連れただけで、将軍の使者を同道して甲府《こうふ》に向かって出発した。
甲府《こうふ》につくと、使者に毎日のように鄭重《ていちよう》きわまる饗応《きようおう》をし、寝所には美女をはべらし、さまざまな名目《めいもく》をつけては連日金・銀・刀剣・名馬等を贈った。
間もなく、和議が成立し、両軍ともに撤退《てつたい》にかかったという報告があった。
「よし、よし」
晴信《はるのぶ》はみずから使者の宿所に出かけて、このことを告げた。
使者は晴信《はるのぶ》の歯切れのよさに、感心しきっている。
「珍重《ちんちよう》でござる。いろいろとご言い分もござろうに、ご渋滞《じゆうたい》なきなさりよう、一筋《ひとすじ》に将軍家を重んじたまわればこそのことと存ずる。立ち帰ってご報告申し上げましたなら、上様《うえさま》もさぞかしご満足のことと存じます。ご所望《しよもう》の国守《くにのかみ》号のことも、きっとご奏請《そうせい》あることでありましょう。拙者《せつしや》もできるだけの骨はおらせていただきます」
と言ったのである。
晴信《はるのぶ》は礼を言った上で、
「なにぶんともにお願い申し上げます。しかしながら、先日|小諸《こもろ》で申し上げましたように、案内の者をおつけ申しますれば、信州《しんしゆう》の様子をくわしくご視察の上、ご帰洛《きらく》ありとうござる」
と言った。
すると、相手は、
「いやいや、もうそれにはおよびませぬ。この前|小諸《こもろ》のご陣へまいりました時、おおよそのことは見せていただきました。すべて仰《おお》せの通りでござる。もはや十分であります」
と答えたのだ。
これも晴信《はるのぶ》は目算《もくさん》していたことだ。だまっておじぎし、感謝の目つきを送った。
上洛《じようらく》計画
武田晴信《たけだはるのぶ》の計画は成功した。
年の暮れになって、義輝《よしてる》将軍は使者を甲府《こうふ》につかわして、晴信《はるのぶ》を信濃守《しなののかみ》兼信濃守護《しなのしゆご》に任ずるとの位記を下付した。
国守《くにのかみ》とは本来はその国の地方長官だ。今日なら官選知事というところだ。なかなか威勢のあったものだが、王朝の実力|失墜《しつつい》とともに、実務も実力もともなわない名前だけのものとなってしまっている。多くはその国に何の関係もない者が、単に栄誉的称号として下賜《かし》――それも献金という名目《めいもく》で金を出して買ったので、その国に関係のある者がその称号を持つのはかえってめずらしいのであった。
国守《くにのかみ》は朝廷の定めた官職だが、守護《しゆご》は幕府の定めた官職だ。鎌倉《かまくら》幕府にはじまって、足利《あしかが》幕府もこれを踏襲《とうしゆう》した。その国の軍事と警察をつかさどるのが本来の役目で、なかなか威勢のあったものである。しかし、これも戦国の世になると、しだいに新興の勢力に圧せられ、それが全国的の傾向になっていた。これについては、越後守護《えちごしゆご》である上杉《うえすぎ》氏が元来は家来筋である長尾《ながお》氏の実力に依存することによって細々と命脈を保ってきた経過を読んでこられた読者諸君は、十分におわかりのはずである。
このように、国守《くにのかみ》といい、守護《しゆご》といい、つまりは実務には関係のない単なる栄誉の称号にすぎないものとなっているのを、もっとも実利を重んじ、今日のはやりことばでいえばドライにすぎるくらいドライであった晴信《はるのぶ》のような人物が、これをほしがったというのは、理由がなければならない。それは先に行って判明するから、ここでは簡単に、彼はこれを手品《てじな》の種《たね》にするつもりであったとだけ言っておこう。
晴信《はるのぶ》は厚く礼をのべ、使者をねぎらい、手厚い贈りものをし、朝廷と将軍にたいする莫大《ばくだい》な献上物《けんじようもの》をもたせて帰した。
その年が明けて、永禄《えいろく》二年となってすぐ、義輝《よしてる》将軍の密使が越後《えちご》に来た。
「その方の憂慮《ゆうりよ》してくれていた通り、三好《みよし》には真実和順の心はないようで、余は日々薄氷をふむがごとき気持ちでいる。ついては、そなたと武田《たけだ》との矛盾《むじゆん》も、双方《そうほう》ともに余の忠告を聞きくれて和睦《わぼく》したのであるから、そなたの後顧《こうこ》の憂えもあるまじと思うゆえ、近々に上洛《じようらく》して来てはくれまいか」
という口上《こうじよう》であった。
京《みやこ》の事情については、あの後探索の者をいく人も上せているので、だいたいわかっているつもりだ。
京《みやこ》では、三好《みよし》の専横《せんおう》が以前と少しもかわらないばかりか、このころは三好《みよし》の家宰《かさい》である松永久秀《まつながひさひで》という者が暴悪をきわめ、将軍の威はますます薄く、民間には怨嗟《えんさ》の声が満ちているというので、景虎《かげとら》は案じていたのである。
「ご上意《じようい》のおもむき、よくわかりました。昨年お約束いたしましたこともあり、また京地の事情については聞き知っていることもございますので、ご上意《じようい》がなくとも上京したいと思っていたのであります。しかしながら、甲斐《かい》の武田《たけだ》は腹の奥の深い人物でございます。昨年お召しをこうむりました時も、しかじかの理由で上洛《じようらく》したいゆえ、合戦《かつせん》を中止したいと頼みつかわしましたところ、しかじかと申して拒《こば》んだほどでございます。迂闊《うかつ》にはふるまえません。一応その意向《いこう》をたしかめました上で確答いたしたいと存じます。しばらくご滞在あって、お待ちいただきとうございます」
と、答えておいて、甲府《こうふ》へ使者をつかわした。
「将軍家のおあつかいによって、われら両国の間には、昨冬以来|和睦《わぼく》が成立していることではござるが、念のためにおうかがいいたすが、あの約束は今日も、また将来も、継続していただけるでありましょうな。かようなことをおたずねするのは、拙者《せつしや》近日中、将軍家ご帰京の祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のために上洛《じようらく》する心組みでいるからであります。拙者《せつしや》の上洛《じようらく》は天下の公事のためで、私事のためではござらぬによって、こい願わくは先約を守り、和平を保ち、拙者《せつしや》が不在の間は拙者《せつしや》の領国へご出張なきよう、いく重にも頼みまいらせたい。承引しがたいとあらば、それもまた結構。しかしながら、それならばそれと明らかにお答えいただきたい。われら上洛《じようらく》をとりやめます」
というのが、景虎《かげとら》の使者に授けた口上《こうじよう》であった。この前のことがあるだけに、相当に手きびしいものであった。
使者も去年のことを聞いている。緊張しきって春日山《かすがやま》を出発した。越後路《えちごじ》にはまだ深い雪があり、信濃路《しなのじ》にも甲州路《こうしゆうじ》にもまだ雪があった。しかし、武田《たけだ》方の態度は話に聞く昨年とはまるで違う。礼儀正しくはあるが、むずかしいことなど、さらに言わない。千曲《ちくま》川を渡ったところに、武田《たけだ》方の第一の番所があったが、そこを守っていた兵の長《おさ》は、
「ご使者で甲府《こうふ》へ? まだ雪の深いに、お難儀なことでござるな。手形《てがた》をさし上げましょう」
といとも気さくに言って、通行手|形《てがた》をくれた。
この手形《てがた》を示すと、甲府《こうふ》までの道筋にある番所や関所は何の仔細《しさい》もなく通して、わずかに二日で甲府《こうふ》へついた。
甲府《こうふ》では、こんども馬場《ばば》美濃守《みののかみ》が出て応対して、口上《こうじよう》を聞いた。きびしい口上《こうじよう》であるから、多少のつめひらきはあるものと、使者は覚悟していたのであるが、馬場《ばば》のおだやかな表情には何の変わりもない。
「ああ、さようでござるか。しばらくお待ちください」
と、言って、ひっこんだ。
晴信《はるのぶ》はこの一、二年前からやや肥満し、赤ら顔になり、いかにも精力的な感じになっているが、寒がりである。うんと炭火をおこし立て、金網《かなあみ》をかけた金蒔絵《きんまきえ》の桐《きり》の大手あぶりをわきにおき、机にむかって書物をひろげ、書きぬきをこしらえていた。たっぷり真綿《まわた》の入った絹の広袖《ひろそで》のきものを羽織《はお》り、ひざもくるんで、背中をまるくしてかがみこんで、チマチマと筆を走らせているのであった。唐人《とうじん》の詩集だ。気に入った詩句に行きあうと、書きぬいていくのである。
越後《えちご》から使者が来、馬場《ばば》が応対に出ていることは、知っている。馬場《ばば》の来るのを心待ちしていた。
やがて、その馬場《ばば》が来た。
晴信《はるのぶ》は筆をおいて、くるりと向きなおった。
「将軍から使いが来た、来てくれとの仰《おお》せじゃから、上洛《じようらく》する、合戦沙汰《かつせんざた》におよんでくれるな、という口上《こうじよう》か」
といって、肉の厚くなった赤ら顔に笑いを浮かべた。こわい口ひげがピクピクとふるえたが、笑い声は立てない。晴信《はるのぶ》も多数の間者《しのびのもの》を京《みやこ》に放っている。その者どもからの報告によって、義輝《よしてる》将軍が依然として三好《みよし》党に苦しめられていることも、三好《みよし》の家宰《かさい》の松永久秀《まつながひさひで》が権勢をほしいままにしはじめ、将軍の立場がいっそう危険なものになったことも、また将軍が越後《えちご》へ密使を出したことも、みな知っているのであった。
「少しちがいました」
と、馬場《ばば》も笑って答えた。
「ほう?」
「将軍ご帰京の祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のための上洛《じようらく》という口上《こうじよう》でございます」
「あの律義者《りちぎもの》殿が、せいいっぱいのうそをついたか」
と言って、着ぶくれたまるい肩をゆすって、笑った。やはり声は立てない。
「それで?」
「鄭重《ていちよう》にもてなしているのであろうな」
「はい」
「すぐ会おう。さらに鄭重《ていちよう》にもてなして、客殿《きやくでん》に連れて行っておけ」
「かしこまりました」
馬場《ばば》が退《さが》って行くと、手あぶりに片手をかざし、時々ひげをかきなでながら宙に目を凝《こ》らしていたが、やがて侍臣《じしん》を呼んだ。
「越後《えちご》の使者に会う」
手伝わせて、衣服を改めた。直垂《ひたたれ》に侍烏帽子《さむらいえぼし》、革足袋《かわたび》をはき、くっきょうな面《つら》がまえの侍臣《じしん》に佩刀《はかせ》を持たせ、長い廊下をのしのしと客殿《きやくでん》に向かった。
客殿《きやくでん》の上段の間には簾《すだれ》がさがり、その前に越後《えちご》の使者が馬場《ばば》美濃守《みののかみ》につきそわれ、かたくなってすわっていた。
晴信《はるのぶ》は無造作《むぞうさ》に上段の間に出て席につき、
「すだれを上げよ」
と命じた。
さらさらとすだれが上がるとともに、馬場《ばば》が両手をつかえて、使者の名前を披露《ひろう》しかけたが、晴信《はるのぶ》は手にした扇子《せんす》を左右にふって、制止し、
「越後《えちご》のお使者なにがし」
と、名前を呼びかけた。
「はっ!」
使者はあわておどろいて平伏《へいふく》した。
使者がおどろいただけでない。馬場《ばば》をはじめ、家臣《かしん》らもおどろきあきれた。新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》以来の名家《めいか》であることを誇りとし、「わが武田《たけだ》家は近ごろの出来星《できぼし》大名とは由来が違う」と、もっとも格式を重んじ、諸事重々しくふるまっている人なのだ。
人々が目を見はっている中を、晴信《はるのぶ》はつづける。
「わしが晴信《はるのぶ》じゃ。弾正少弼《だんじようしようひつ》殿にはいよいよご壮栄の趣、めでたく存ずる」
さらさらと、きさくな調子であった。
使者はどぎもをぬかれて、平伏《へいふく》したまま、何やらもごもごと言った。
晴信《はるのぶ》はさらに打ちとけた様子を見せて、
「ただ今向こうで、美濃《みの》からご口上《こうじよう》をきいたが、こうであったな」
と前おきして、口上《こうじよう》をくりかえした。
「仰《おお》せらるる通りであります」
使者はようやく気持ちの整理ができたらしく、膝《ひざ》に手をおき、しゃんと胸をそらした。ここが正念場《しようねんば》だと、大いに気力をはげましているふうであった。
晴信《はるのぶ》も姿勢を正したが、依然として微笑《びしよう》をたたえて言った。
「これからご返答をする。よく聞いて行ってもらいたい。弾正少弼《だんじようしようひつ》殿、将軍家へ祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のために上洛《じようらく》なさるとのこと、申すまでもなく、これはご奉公である。まことに神妙《しんみよう》の至り、大名たらん者はかくこそあるべけれと、晴信《はるのぶ》感心をいたした。晴信《はるのぶ》も甲斐源氏《かいげんじ》の嫡流《ちやくりゆう》として、ご奉公のことは一日として遺忘《いぼう》したことはない。ごいっしょにまかり上って忠志の一端を披露《ひろう》したいのであるが、戦国の世のこととて、分国のうち何かと落ちつかず、そのひまがない。弾正《だんじよう》殿のご忠心はいつものことではあるが、こんどのことは、とりわけうらやましく存ずる。このような心でいるわれらだ。ことさら、ご口上《こうじよう》にも仰《おお》せられたように、将軍家のおあつかいで、昨年以来|和睦《わぼく》していることでもある。ご依頼のことは決してご心配にはおよばぬ。かならずともに、ご分国内に手づかいはいたさぬ。この約束に違《たが》うならば、仏神の加護《かご》長く晴信《はるのぶ》が家をはなれるであろう。――さ、これが返答だ。たがえず、弾正《だんじよう》殿へお伝え申すよう」
使者は、話に聞いている昨年とはじめから違って調子がよくはあったが、安心はしていなかった。安心させておいてドシンとおとすという辛辣《しんらつ》な手もあると、緊張を解くことができなかったのだ。それだけに、張りつめていた気がいきなり解けて、ほとんど自失《じしつ》した。急には返答することも忘れていた。やがて、ふるえる声で言った。
「申し入れのこと、早速にお聞きとどけくだされ、ありがたくお礼申し上げます。まかりかえりまして、弾正《だんじよう》に申し聞けましたなら、いかばかりよろこびますことか」
と、平伏《へいふく》した。
「はは、はは」
晴信《はるのぶ》はふとった胸をそらし、声を立てて笑って、
「よろこんでもらって、わしもうれしい。これで、ざっとすんだ。わしはしかけていることがあるで、これで失礼する。美濃《みの》が相伴《しようばん》する。ゆるりとくつろぎ、酒《ささ》なとのんでもらいたい。甲州《こうしゆう》の酒《ささ》もなかなか味はよいぞ」
と、また笑って立ち上がり、のしのしと奥へ消えた。
別室に饗応《きようおう》の用意がしてあって、使者はいとも鄭重《ていちよう》な馳走《ちそう》になったが、その席で誓紙《せいし》をもらうべきではなかったろうかと、気がついた。そこで、馬場《ばば》にそのことを言うと、馬場《ばば》は、
「そうでありましたな」
と言ったが、すぐ、
「しかし、そなた様のご口上《こうじよう》には誓紙《せいし》をもらいたいとはありませなんだが、弾正《だんじよう》殿がそなた様に授けられたご口上《こうじよう》にはそれがあったのでござろうか」
と反問した。
「それはありませなんだ」
「ならば、誓紙《せいし》にはおよびますまい。弾正《だんじよう》殿からご要求のないものを、こちらから進んでさし出すも異なもの。われらが主人は当代の名将と世に言われている者であります。いったんつがえ申したことを違背《いはい》するようなことはいたさぬと信じております」
やや強い調子で、馬場《ばば》は言ったのだ。使者はもう何にも言えなかった。
甲州《こうしゆう》へ使者を出すとともに、景虎《かげとら》はよりより上洛《じようらく》の計画について工夫《くふう》していたが、使者が帰って来て、晴信《はるのぶ》がこちらの申し入れを承諾《しようだく》したと聞くと、おりかえし謝礼の使者をおくり、同時に国内の豪族《ごうぞく》らに上洛《じようらく》の計画を発表し、さらに数日の後には供すべき豪族《ごうぞく》の名、その役目、その人数、留守《るす》をうけたまわるべき者の名、その役柄《やくがら》等の細目にわたって発表した。
その一端を言えば、先供《さきとも》の豪族《ごうぞく》としては長尾《ながお》右京亮実景《うきようのすけさねかげ》・同|遠江守藤景《とおとうみのかみふじかげ》・庄新左衛門実為《しようしんざえもんさねため》・直江与兵衛実綱《なおえよへえさねつな》・柿崎《かきざき》和泉守景家《いずみのかみかげいえ》らがおり、旗本《はたもと》には吉江《よしえ》織部佐景資《おりべのすけかげすけ》・北条《きたじよう》下総守高常《しもうさのかみたかつね》らがいた。側去らぬ馬廻《うままわ》りのあの豪傑《ごうけつ》どもは言うまでもない。人数は総計で五千人にあまった。
献上物《けんじようもの》としては、将軍に吉光《よしみつ》の太刀《たち》一腰、黄金三千枚、駿馬《しゆんめ》一頭、将軍の母儀慶寿《ぼぎけいじゆ》院に蝋燭《ろうそく》五百|梃《ちよう》、綿(真綿《まわた》)二百把《ぱ》、銀千両を用意することにした。
これらの準備を進めていると、三月半ば、ようやく雪の消えたころであった。京《みやこ》に出している間者《しのびのもの》が帰って来て、この二月、尾張《おわり》から織田《おだ》上総介信長《かずさのすけのぶなが》という大名が、やはり将軍の帰京の祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のために入京し、将軍にお目見えして帰国したと報告した。
信長《のぶなが》はこの時二十六だ。尾張《おわり》の織田《おだ》家はここの守護《しゆご》大名であった斯波《しば》氏の家老の家で、二家あった。一家は上四郡をおさめ、一家は下四郡をおさめて、上の織田《おだ》、下の織田《おだ》と呼ばれていたのであるが、信長《のぶなが》の家はそのいずれでもない。上の織田《おだ》家の奉行《ぶぎよう》の家柄《いえがら》であった。だから、足利《あしかが》将軍家から見れば陪々臣《ばいばいしん》であった。
信長《のぶなが》の父|信秀《のぶひで》は機略たくましい人物で、ついに主家《しゆか》の上の織田《おだ》家を圧倒し、上四郡をその手中におさめ、尾張《おわり》第一の強豪《きようごう》となったのである。
信長《のぶなが》は十六の時、父の死によって家を継いだのであるが、乱暴で、風《ふう》がわりで、不検束で、だれの目からも不良少年としか見えなかったので、生母も彼をきらい、家来どももきらい、お家騒動《いえそうどう》がおこるやら、家臣《かしん》の叛乱《はんらん》があるやら、てんやわんやのさわぎが十年つづき、やっとこの年になって、そのさわぎがおさまって、上四郡の主《あるじ》たる地位が確定したのであった。
彼が今川義元《いまがわよしもと》を桶狭間《おけはざま》で奇襲して討ち取り、天下にその武名を馳《は》せたのは、この翌年だ。
したがって、この時まで、彼の名はほとんど天下に知られてはいなかった。世は下剋上《げこくじよう》の気風の充満《じゆうまん》している戦国で、階級の大転換が行われている時代ではあったが、それが一応|是認《ぜにん》されるのは陪臣《ばいしん》までで、陪々臣《ばいばいしん》となると、話は別だ。松永久秀《まつながひさひで》が陪々臣《ばいばいしん》の身分でありながら権勢をふるったのを、当時もよく言われていないのをもっても、それがわかる。信長《のぶなが》の家はその陪陪臣《ばいばいしん》だ。信長《のぶなが》を知っている者でも、遠国の者は、
「織田《おだ》上総介《かずさのすけ》か。尾張《おわり》の出来星《できぼし》大名の小せがれよ」
くらいにしか考えていなかった。
ましてや、越後《えちご》と尾張《おわり》とは、間に武田《たけだ》勢力の充満《じゆうまん》している信州《しんしゆう》がある。景虎《かげとら》はまるでこの時まで気にとめていなかった。
「聞いたことのない名前ではないか、何でまた将軍家のところへなど行ったのかの」
と、不審《ふしん》げにたずねた。
武士であるかぎり将軍に敬意を持つべきものであり、持たなければならないとさえ思うが、それは使者をもって物を献上《けんじよう》するくらいにとどめるべきで、みずから出かけて行って拝謁《はいえつ》をするなどは、相当に力も貫禄《かんろく》もそなわってからのことで、吹けば飛ぶような弱小な存在では身のほどをわきまえないふるまいで、かえって無礼になろうという気がするのであった。
「織田《おだ》上総介《かずさのすけ》が、なにがゆえに上洛《じようらく》お目見えいたしましたか、たしかなことはわかりませぬが、三好《みよし》・松永《まつなが》らは、将軍家からご密使《みつし》があって、お召しになったのではないかと疑っている由《よし》でございます。もっとも、不快がるどころか、あれ体《てい》の者をお召しになったところで、どうなるものぞと、せせら笑っている趣《おもむき》でございます」
と、間者《しのびのもの》自身は答えた。間者《しのびのもの》自身も笑止《しようし》に思っている風情《ふぜい》がある。
しかし、景虎《かげとら》はそれにたやすくは同意できないような気がしていた。つい今し方まで、吹けば飛ぶような微力《びりよく》な出来星《できぼし》大名のくせに上洛《じようらく》して直接お目通りを願うなど、身のほどを知らないことと思っていたのであるから、この説明は大いに意を得たものであらねばならないはずであるのに、そのような小身者《しようしんもの》でありながらそのようなことをあえてするのは、よほどに肝《きも》の太い人物かもしれないと思ったのであった。
「その人物のことについて、何か聞き出したことはないか」
とたずねた。
「当人はほんの四、五日|京《みやこ》に滞在しただけで帰国いたしましたので、京《みやこ》でのことはさしたうわさもありませんが、国もとではえらい評判の悪い人物でありますそうで……」
と、間者《しのびのもの》は信長《のぶなが》の少年時代の放埒《ほうらつ》・不検束をきわめた行状《ぎようじよう》を語った上、
「京わらんべどもが、聞き伝えて語りぐさにしているおもしろい話がございます」
と、語りついだのは、現代ではだれ知らない者のないほどに知れわたっている信長《のぶなが》の青年時の逸話《いつわ》――はじめて妻の父である美濃稲葉山《みのいなばやま》の城|主斎藤道三《さいとうどうさん》と会った際の話であった。
「上総介《かずさのすけ》が斎藤山城《さいとうやましろ》が娘をめとりましたのは、上総介《かずさのすけ》十六の時、父の信秀《のぶひで》がみまかる前でございました由《よし》。その後数年、むこ・しゅうとが対面することもなく打ちすぎましたが、あまりに上総介《かずさのすけ》の評判が悪うございますので、上総介《かずさのすけ》二十《はたち》の時の若葉のころ、山城《やましろ》は美濃《みの》と尾張《おわり》の境目《さかいめ》の何とやらいう地に、双方《そうほう》から出張《でば》って対面したいと申しこみましたところ、上総介《かずさのすけ》も承諾《しようだく》し、日を定めて出張《でば》りました由《よし》……」
と前おきして、くわしく語った。
斎藤道三《さいとうどうさん》は一足早く到着し、町はずれの民家に入って隙見《すきみ》していると、やがて信長《のぶなが》の行列が来た。供衆《ともしゆう》七、八百、五百本の三|間《げん》半の朱槍《しゆやり》を立て、五百|梃《ちよう》の弓・鉄砲を持たせ、堂々たる行列であったが、中陣に馬を打たせた信長《のぶなが》のいでたちは異風をきわめていた。萌黄《もえぎ》の平紐《ひらひも》で巻き立てた茶筌髪《ちやせんがみ》、雄大な男根を染めつけた広袖《ひろそで》の湯《ゆ》帷子《かたびら》を着、金の丸さやの大小をさし、その大小はとくにつかを長くこしらえ、みご縄《なわ》(三筋より合わせた縄)で巻き立て、つかがしらに太い苧縄《おなわ》の腕ぬきをぶらぶらと下げ、虎《とら》の皮と豹《ひよう》の皮を交互に縫い合わせた四布《よの》の半ばかまをうがち、腰のまわりには猿廻《さるまわ》しのように火打ち袋・瓢箪《ひようたん》、巾着《きんちやく》などの類を七つ八つもぶら下げていた。
隙見《すきみ》をしていた道三《どうさん》も家臣《かしん》らも、
「これア阿呆《あほう》などというものではない、気ちがいじゃわ」
と、きもをつぶしたが、対面所である寺院について、いざ対面となると、こんどは生まれかわったような上品な姿であらわれた。髪は尋常な折りわげに結《ゆ》い、褐色《かちいろ》の長上下《ながかみしも》、小さな刀を前半にさし、優雅《ゆうが》にさらさらと歩いて出て来た。美濃《みの》の君臣はまたどぎもをぬかれたというのである。
「……善悪は知らず、とにかく尋常でははかれぬ人物――と、京《みやこ》では申している者もございます」
と、間者《しのびのもの》は話を結んだ。
景虎《かげとら》は、腕を組んで熱心に聞いていた。異風は彼の好みではない。ケレンやはったりに通うもののように、彼には思える。真に強い人間はもっとも尋常で、もっとも篤実《とくじつ》で、いささかも他奇《たき》なく見えるものだと、いつも思っているのであるが、信長《のぶなが》の話はそれをもっては律し切れないような気がした。
(何かある男)
と思った。
「それで、将軍家はお目通りをゆるされたのだな」
「はい。おゆるしになった由《よし》でございます」
「…………」
三好《みよし》・松永《まつなが》輩の推察している通り、将軍の方から呼ばれたにちがいないと思った。
(こういう出来星《できぼし》の、しかもわずかに半国の主にすぎない小大名《だいみよう》を呼ばれたのは、おそらくは、この前の例もある、ひょっとして自分が上洛《じようらく》することができないかもしれないと思われてのことであろう。おぼれる者はわらでもつかむという。将軍家はよほどに三好《みよし》・松永《まつなが》のやつばらに苦しめられていらせられるに相違ない)
上洛《じようらく》をいそがなければならないと思った。
三月下旬になると、準備はほとんど成り、出発は吉日をえらんで、四月三日と触れ出した。
上田《うえだ》の政景《まさかげ》は、留守《るす》をうけたまわることになっていたが、いろいろと打ち合わせもあることで、月の半ばごろから春日山《かすがやま》城下の屋敷へ来ていた。景虎《かげとら》の不在中ずっといなければならないので、彼は妻のお綾《あや》とむすことを連れて来ていた。むすこはもう五つになる。景虎《かげとら》には甥《おい》にあたる。景虎《かげとら》はこの甥《おい》の誕生をよろこび、名付け親となり、みずからの幼名をあたえて喜平二《きへいじ》と名のらせているほどであった。
その夜、政景《まさかげ》らは親子三人、政景《まさかげ》の居間にいた。喜平二《きへいじ》は小机にむかって大きな筆をもち、このころ林泉寺《りんせんじ》の若い坊さんの書いてくれたお手本をわきにおいて熱心にお手習いし、政景《まさかげ》はその少しはなれた前にすわってお手習いを見物しながら、お綾《あや》の酌《しやく》してくれる酒をゆっくりと傾けていた。
外は百花一時に咲きそろう雪国の晩春のしめやかな暗《やみ》がこめ、遠田の蛙《かわず》の声がしきりにして、この家庭的なひと時をいっそうなごやかにしていたが、間もなく、あわただしい足音とともに、家臣《かしん》が小走りにやって来た。
「申し上げます」
「何だ」
しずかで、のびやかな家庭的な空気をいきなり乱されて、政景《まさかげ》は少し不機嫌《ふきげん》な様子であった。
「ご本家の殿様が、お微行《しのび》でいらせられましてございます。ああ、もうそこに……」
と、言った時、あけはなした縁側のはじの架灯口《かとうぐち》に手燭《てしよく》の灯影《ほかげ》がさしたかと思うと、その手燭《てしよく》を持つ二人の家臣《かしん》に先導されてはいって来る景虎《かげとら》の小がらなからだが見えた。白い絹で頭と顔をつつみ、大股《おおまた》に縁を来る。
「これは」
政景《まさかげ》も、お綾《あや》も、あわてて起ち上がり、迎えに出ようとすると、早くも敷居《しきい》ぎわに来た。
「そのまま、そのまま」
頭をつつんだきれをとってまるい青い頭を出し、よく光る目を細めて微笑《びしよう》しながら、片手を上げて制止した。
「ここは拙者《せつしや》の居間、むさくるしゅうござる。あちらにまいりましょう」
と政景《まさかげ》が言ったが、
「いやいや、ここで結構」
といいながら、室内に入り、適当なところにすわってしまった。
「あまり気持ちのよい夜なので、つい浮かれてまいりました」
と政景《まさかげ》に言い、お綾《あや》に、
「姉上とはずいぶん久方《ひさかた》ぶりでありますな。出てまいられたと聞いて、お目にかかりとうてならなんだのでありますが、ご承知の通りのことで今日までかないませなんだ。おかわりもなく、めでとうござる」
と笑いかけた。
「そなた様も、ますますおりっぱになられて。こんどはまたご奮発で京《みやこ》にお上りなさるとのこと、めでたいことでありますが、諸事にお気をつけなされて……」
お綾《あや》は袖《そで》をかえして、涙をおさえた。
「お心づけ、たしかにうけたまわりました。気をつけて、無事にかえってまいります」
景虎《かげとら》はこんどは喜平二《きへいじ》を見た。
喜平二《きへいじ》は筆を紙の上に真っ直ぐにおし立てたまま、目をまるくして叔父《おじ》を凝視《ぎようし》していたが、叔父《おじ》が自分に微笑《びしよう》しかけたので、はっとわれに返ったらしい。筆をおき、机の前を一ひざすざって、両手をついた。
「おいでなさりませ。喜平二《きへいじ》でございます」
景虎《かげとら》はきげんよく、また笑った。
「そなた喜平二《きへいじ》か。わしはまただれじゃろうと思うたぞ。ハハ、ハハ、それほど大きゅうなったのじゃ。いつぞや会《お》うた時は、やっとよちよちと歩けるだけで、これくらいしかなかったの」
と、たたみの上二尺ほどのところに手を上げ、
「大きゅうなった、大きゅうなった。ここへ来や、ここへ来や」
と呼びよせ、膝《ひざ》に抱き上げた。
「おお、こりゃアめっぽう重いぞ。肩も、腕も、骨太でしっかりと肉がついているわ。丈夫《じようぶ》な証拠じゃ、丈夫な証拠じゃ。よい大将になれるぞ」
と、抱いたまま、しばらく肩や腕や背中を撫《な》でさすっていたが、机の上の習字道具を見ると、
「ほう、お手習いしていたか。どれ、叔父《おじ》さまに習って見せい」
と、抱いていた手をはなした。
喜平二《きへいじ》は叔父《おじ》のひざをはなれ、机の前にかえって、墨をすりなおして手習いをはじめた。
「うまい、うまい。なかなかうまいぞ。お手本は林泉寺《りんせんじ》の大円侍者《だいえんじしや》じゃな」
といいながら景虎《かげとら》は見ていたが、つと立ち上がると喜平二《きへいじ》のうしろにまわり、筆を持つ手に手を持ちそえて、
「ここのところは、こう筆を持っていって、こう引いて、こうおさえて、こうはねるのじゃ。それ、お手本の通りにいったろう。さ、こんどはひとりでやってみや」
と、指導をはじめた。
愛情に満ちた景虎《かげとら》の様子に、夫婦は涙ぐむほどに感動して眺めていた。
やがて、新しく酒肴《しゆこう》が持って来られたので、政景《まさかげ》は景虎《かげとら》を席に請《しよう》じた。
酒をくみかわしながら、しばらく景虎《かげとら》は政景《まさかげ》夫妻と何くれとない閑談《かんだん》をした後、居ずまいを改めて、お綾《あや》に言った。
「姉上、ちょいとご亭主《ていしゆ》と内談がござる。ほんのしばらくですみます。ちょいと席をはずしてくださらぬか」
「はい、はい」
お綾《あや》は喜平二《きへいじ》をつれて、立ち去った。
内密な用談というので、政景《まさかげ》は緊張した顔になっていた。景虎《かげとら》はそれをほぐすように微笑《びしよう》して、
「かたくならんで聞いてくだされ。ま一つまいろう」
と、相手の盃《さかずき》に酒をついでやり、自分の盃《さかずき》にもみたし、一口のんでから、つづける。
「話というのは、やはり上洛《じようらく》のことについてでござる。いろいろな事情からおしはかりますに、このたびの上洛《じようらく》はかなり長いこと京《みやこ》にいることになりはせんかと思われるのでござる。どうやら、将軍家のお苦しみは一通りや二通りのものではないげに見えるのです。それで、わしはこんどこそ禍《わざわい》の根を絶ってさし上げたい。それにはわけはないが、あとがうるさい。将軍家には力があられぬのでありますから、新しい悪党どもが頭を出して来ることは明らかでござる。それでは同じことになります、将軍家に力が出るまで、わしが滞京《たいきよう》をつづける必要があります。そうでござろう」
話は政景《まさかげ》にとってまことに意外であった。緊張した。
「それはそうでござるが……」
「国もとをどうする? と、仰《おお》せられるのでござろう」
「そうです」
「そのために、こうしてまいった。もし、そういうことになりましたなら、当国のことは、貴殿《きでん》に頼みまいらせたい。貴殿《きでん》が中心となり、国侍《くにざむらい》どもとご相談あって、お治めを願いたいのです。貴殿《きでん》のご器量なら、できぬことはないと信じています」
政景《まさかげ》の胸ははげしくさわいだ。これは三年前と同じだと思った。前の時は遁世《とんせい》して国を去ろうとしたのであり、こんどは将軍に召されて兵をひきいて上京するのではあるが、長く越後《えちご》を去るという点にいたってはかわるところはない。あの時、景虎《かげとら》の翻意《ほんい》によって、心の奥深いところにある大望を達する機会は永く飛び去ったと思ったのであるが、今ふたたび思いもかけない形でその機会が来たわけだ。わくわくと燃えるようなものが胸に生じた。
しかし、政景《まさかげ》はそれが顔に出ることをおさえた。ひょっとすると、これは景虎《かげとら》がこちらの気を引く策略《さくりやく》かもしれないと警戒した。きびしい表情で言った。
「思いもかけぬことをうけたまわるものであります。将軍家のおんことがまことに大事であることは申すまでもござりませぬが、今仰《おお》せられる通りのご計画であるとすれば、先年のこととまるで同じであります。それは承引《しよういん》いたしかねます。かならずともに、できるだけ早くご帰国あそばされるよう、お願い申し上げます」
景虎《かげとら》はなお説き、政景《まさかげ》はそれを反駁《はんばく》し、押し問答がつづいたが、やがて景虎《かげとら》は、
「わしは決して帰国せぬと申しているのではござらん。仕儀《しぎ》によってはかなり長い滞京《たいきよう》になるかもしれんと申しているだけのことです。そうむきになってご反対なさることはござるまい」
と、笑いながら言った。
政景《まさかげ》も笑った。
「ハハ、いかにも仰《おお》せられる通りでありました。先年のことがありますので、つい躍起《やつき》になりました。そういうことでありますなら、お不在中のことは、およばずながら、留守居《るすい》の連中と諸事合議して、とりおこないます。お心を安んじてご旅立ちあって、一日も早くご帰国ありますよう、お願いいたします」
このへんがおさめ時と思ったのであった。
四月三日、若葉の越後路《えちごじ》は好晴であった。
「同年夏四月三日、越府を御進発ありて上洛《じようらく》し給ふ。五千の従者前後左右を輔翼《ほよく》す。その行粧《こうしよう》目を驚かせり」
と、上杉年譜《うえすぎねんぷ》にある。
出発にあたって、景虎《かげとら》は国内と京《みやこ》までの道筋の国々にこう布告《ふこく》した。
「人々の知る通り、当時天下|麻《あさ》のごとく乱れ、戦乱相つぎ、万民《ばんみん》手足をおくに所なきありさまである。この天下の大乱は、もとはといえば、天下の中心である京都が乱れているためである。本《もと》乱るれば末《すえ》乱れ、本《もと》治まれば末《すえ》も治まる道理である。われら上洛《じようらく》の上は、われらの力によって京《みやこ》に平和を打ち立て、天子と将軍家との本来の権威を復し奉ることによって、天下を太平ならしめ、万民《ばんみん》をして堵《と》に安んじさせたいと思う」
さらに、越後《えちご》領内にはこう言いそえた。
「右につき、仕儀《しぎ》によっては、あるいは相当長期間|京《みやこ》に留まることになるかもしれないゆえ、その際は、当国のことは越前守《えちぜんのかみ》(政景《まさかげ》)に依頼する。越前守《えちぜんのかみ》は留守居《るすい》の諸|老臣《ろうしん》と合議して、よろず施行《しこう》するであろう。皆々さように心得るよう」
従士《じゆうし》らは下々《しもじも》の者は小具足《こぐそく》姿であったが、士分《さむらいぶん》の者は直垂《ひたたれ》に侍烏帽子《さむらいえぼし》、部将《ぶしよう》級や老臣《ろうしん》らは狩衣《かりぎぬ》に綾藺笠《あやいがさ》、むかばきをつけて馬を打たせた。このように、すべて平和な旅装ではあったが、行列の所々に配置された多数の小荷駄《こにだ》には甲冑《かつちゆう》と糧食が積みこまれて、いつでも合戦《かつせん》の支度《したく》ができるようになっていた。
この大集団の大旅行は沿道のいたるところの国で、もっとも鄭重《ていちよう》な応対を受けた。上杉年譜《うえすぎねんぷ》はこう記述している。
「越中《えつちゆう》の行路は松倉《まつくら》の庄司椎名右衛門《しようじしいなうえもん》大夫康種《だゆうやすたね》これを奉じ、道・橋・旅館等を補作し、御馳走《ごちそう》はなはだもつて厳重なり。加賀《かが》の国は本願寺門跡《ほんがんじもんぜき》の随士これを饗応《きようおう》す。越前《えちぜん》の国は朝倉左衛門《あさくらさえもん》大夫義景《たゆうよしかげ》、路次の断橋を修理し、旅館を結構し、治具《ちぐ》ことごとく張り、膳羞《ぜんしゆう》(ご馳走《ちそう》、羞《しゆう》はすすめると訓ず)美尽せり。義景《よしかげ》、旅館に来謁《らいえつ》して、終夜数盃の興をもよほさる。たがひに兵術、雄略《ゆうりやく》を談じ給へば、聴者寒心|股栗《こりつ》して、これを感ず。江州《ごうしゆう》は守護佐々木修理《しゆごささきしゆり》大夫義秀《たゆうよしひで》これを沙汰《さた》す。国々所々において囲繞《いじよう》・渇仰《かつぎよう》し奉ることは、武威権勢、至大至高《しだいしこう》なるによつてなり云々」
上杉年譜《うえすぎねんぷ》はこのような沿道諸国の奔走《ほんそう》歓迎を、景虎《かげとら》の武威《ぶい》のせいにしているが、それだけではあるまい。これらの国々はいずれも本願寺門徒《ほんがんじもんと》のさかんな国々だ。景虎《かげとら》が父祖以来の方針を改めて一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》を保護し、本誓寺《ほんせいじ》のような大寺を建立《こんりゆう》したりして、一向宗《いつこうしゆう》と妥協《だきよう》したことも大いに効果があったのであろうし、義輝《よしてる》将軍からその土地土地の領主《りようしゆ》らへ命令を下したためでもあろう。足利《あしかが》将軍の実力は地におちてはいたが、まだまだ尊敬はされていたのである。
四月二十一日、湖水をわたって、比叡山《ひえいざん》の東麓《とうろく》、江州坂本《ごうしゆうさかもと》についた。
松永《まつなが》弾正忠《だんじようのじよう》
坂本《さかもと》には三好長慶《みよしちようけい》の家宰《かさい》(家老)で、京都|所司代《しよしだい》であった松永久秀《まつながひさひで》が待ち受けていた。
三好《みよし》氏は阿波《あわ》の豪族《ごうぞく》で、元来は足利《あしかが》幕府の一族でその管領《かんれい》である細川《ほそかわ》家の執事《しつじ》(家老)の家であったが、長慶《ちようけい》が主家の分国である河内《かわち》・和泉《いずみ》の代官《だいかん》に任ぜられたのが運のひらけるもととなった。和泉《いずみ》の堺《さかい》は当時日本一の中国貿易の基地だ。富は流れるように長慶《ちようけい》のふところに入って来た。富があれば兵力を増強することも意のままだ。彼の権勢は急激に増大し、ついに主人の細川晴元《ほそかわはるもと》を追いはらって幕府の権をにぎった。家柄《いえがら》が家柄《いえがら》だから、管領《かんれい》職に任ずるわけにはいかなかったが、実際には管領《かんれい》の実権をもち、管領《かんれい》のことをとりおこなうことになったのだ。
松永久秀《まつながひさひで》はその家宰《かさい》だ。もともとは彼は京都|西岡《にしのおか》の郷人《ごうじん》だという。西岡《にしのおか》というのは本来は京都盆地をかぎる西方の山々のことであるが、いつかその山々の麓《ふもと》一帯の村々を言うことになり、最後には乙訓《おとくに》郡|向日《むこう》町のあたりだけを言うことになっている。久秀《ひさひで》はそこの郷士《ごうざむらい》だったのであろう。前に触れた織田信長《おだのぶなが》の妻の父である美濃稲葉山《みのいなばやま》城の斎藤道三《さいとうどうさん》がやはりここの出身である。似た経歴の所有者であり、似た性格であり、したことも似ている。ともに戦国という時代の特色をもっとも鮮明、端的に一身に具現《ぐげん》している。時代の変化のもっともはげしい京都近くにいて、鋭い頭脳と鋭い目でそれを観察して、同じような人生観に到達したためであろう。
はじめはごく身分のひくい者として三好《みよし》家につかえたが、目から鼻にぬけるようにかしこい男だ。都近くに育って風流気《ふうりゆうぎ》もあり、ごきげんとりもうまい。いつの間にか長慶《ちようけい》のお側去らぬ寵臣《ちようしん》になり、長慶《ちようけい》にとって力の源泉ともいうべき堺《さかい》の代官《だいかん》に任ぜられた。いかに長慶《ちようけい》の心をつかんでいたかがわかる。長慶《ちようけい》がここから利得した以上に彼が利得したこともほぼ推察がつく。ずっと以前|景虎《かげとら》が上洛《じようらく》したついでに堺見物《さかいけんぶつ》に行ったころ、堺《さかい》が久秀《ひさひで》の支配下にあったことは、その節触れておいた。
つづいて長慶《ちようけい》が主人の細川晴元《ほそかわはるもと》を追って京都に入り、幕府の実権をにぎった時、久秀《ひさひで》は大いにはたらいた。京都近郊に生まれて育って、地理にも通じておれば、京都人の心理や習慣もよく知っている。朝廷《ちようてい》、幕府、公卿《くぎよう》、寺社、大町人等の人々をどうあつかい、どう運動してよいかもわかっている。長慶《ちようけい》の京都統治には久秀《ひさひで》はなくてはならない人物であった。長慶《ちようけい》はますます気に入り、ついに京都|所司代《しよしだい》にした。今の職制でいえば東京都知事にして警視総監を兼ね、さらに東京地方裁判所長を兼ねるといった格である。その権勢は主家《しゆか》をしのぐばかりとなりつつあった。
彼は景虎《かげとら》を接待する任務をもって坂本《さかもと》に来たのであるが、それは将軍から三好《みよし》家に命令があり、三好《みよし》家から彼に命じたのであった。この時、彼は五十歳であったが、髪はほとんど一本の黒いものがのこらず、真っ白であった。
坂本《さかもと》の湖岸に出迎えた多数の武士の中で、それはまことに目立った。迎えに来ていた武士らは身分のひくい者どもは直垂《ひたたれ》姿、身分高い者は狩衣《かりぎぬ》姿であり、彼はその狩衣《かりぎぬ》姿十数人の中にいたのだが、烏帽子《えぼし》の下からはみ出している両びんが初夏の明るい日に照らされて銀のように光っていた。
しだいに岸に近づいて行く舟の上で、景虎《かげとら》はその白髪に強く目をひかれた。
「あの髪の白いご人《じん》はだれでござる」
つき添って来た佐々木義秀《ささきよしひで》の家臣《かしん》をかえりみた。
「あれこそ、京都所司代松永弾正《しよしだいまつながだんじよう》殿であります」
と佐々木《ささき》家の家来はこたえた。
景虎《かげとら》も弾正少弼《だんじようしようひつ》であるが、松永久秀《まつながひさひで》も弾正少弼《だんじようしようひつ》であった。弾正少弼《だんじようしようひつ》は弾正台《だんじようだい》の第三官だが、定員は一人というのが令《りよう》の規制だ。しかし、この時代には弾正台《だんじようだい》という役所はなくなってすでに久しく、官名だけが栄誉的称号としてのこっているだけであり、武士がこういう官名を授けられるのは令《りよう》の規定に準拠《じゆんきよ》しないことになっている。こんなことはごく普通であった。まぎれるといけないから、この小説では以後|景虎《かげとら》を弾正少弼《だんじようしようひつ》と書き、久秀《ひさひで》を弾正忠《だんじようのじよう》と書くことにする。忠は尉《じよう》や掾《じよう》と同義に使い、よみかたも「ジョウ」とよみ、少弼《しようひつ》のことをこうも言ったのである。
「ほう、あれが……」
景虎《かげとら》は目をはなたず凝視《ぎようし》した。
近づくにつれて、はっきりなってくる。風采《ふうさい》いかにも立派《りつぱ》だ。身長は普通だが、がっしりとした骨格をし、端正《たんせい》な目鼻立ちを持っている。しかも、血色がひどくよい。赭顔《しやがん》である。銀白の小びんとそれがはえて、きわ立って異彩をはなっている。
(土民《どみん》からの成り上がりものということじゃが、いかさまただものではないな)
と、思った。
船が岸について上陸すると、その人々は粛々《しゆくしゆく》として近づいて来て、いちようにおじぎして、名のりを上げようとした。すると、久秀《ひさひで》が一歩出て、人々をかえりみて言った。
「かようなところにての式代《しきたい》は無礼《なめげ》でござる。ご旅館におちつきあそばされてからのことになされてはいかが」
時宜《じぎ》を得た提議だ。人々はうなずかないわけにいかない。目礼《もくれい》を景虎《かげとら》におくっただけでさしひかえた。
久秀《ひさひで》はゆったりとした挙措《きよそ》で景虎《かげとら》をふりかえり、小腰《こごし》をかがめた。
「てまえ、松永久秀《まつながひさひで》でございます。公方《くぼう》家のお申しつけにより、ご旅館その他のお世話をつかまつるためにまかり出《い》でました。とりあえず、ご旅館にご案内申し上げます」
といった。鄭重《ていちよう》なことばづかいであった。
景虎《かげとら》は久秀《ひさひで》の眉《まゆ》が真っ黒であるのに気づいた。それはその純白な髪と不思議な対照をなしていた。
「あいさつは後で改めていたす。頼み申す」
と、とりあえず言うと、久秀《ひさひで》は、
「はっ」
と答えて、すでに先着している景虎《かげとら》の家臣《かしん》らの方を向いて、
「お馬」
と呼ばわった。
馬がひかれて来た。久秀《ひさひで》の馬もその家臣《かしん》らがひいて来た。
「いざ、召しませ」
景虎《かげとら》が騎《の》ると、久秀《ひさひで》も騎《の》った。
二人が乗りだすとあとから、景虎《かげとら》の家臣《かしん》らが騎馬や徒歩《かち》でつづいたから、京《みやこ》から出迎えに来ていた人々はずいぶん長い間つづくことができなかった。
景虎《かげとら》の本陣《ほんじん》としては、舟橋《ふなばし》弥兵衛尉《やひようえのじよう》という者の屋敷が用意されていた。
上杉年譜《うえすぎねんぷ》によると、舟橋《ふなばし》は目代《もくだい》(代官)であったとある。単に目代《もくだい》とあるだけであるが、足利《あしかが》将軍の目代《もくだい》であろう。坂本《さかもと》は古来|比叡山《ひえいざん》の所領《しよりよう》であるが、数年前|義輝《よしてる》将軍が三好《みよし》に圧迫された時、この地に難を避けて数か月いたところを見ると、坂本《さかもと》の一部分は、足利《あしかが》将軍家の所領《しよりよう》の一つであったのではないかと思われる。とりわけ湖岸にのぞんだ戸津《とつ》だ。戸津《とつ》は大津《おおつ》とならんで東北《とうほく》地方や山陰《さんいん》地方から琵琶湖《びわこ》経由で京都に物資の入って来る重要な港であった。ずっと昔から江戸《えど》時代に至るまで、この両地方の貨物は海路、若狭《わかさ》湾や敦賀《つるが》湾に入り、せまい若狭《わかさ》地峡をこえて琵琶湖《びわこ》に運ばれ、湖上を舟によって大津《おおつ》や坂本《さかもと》の戸津浜《とつはま》に航して、京《みやこ》に入ったのである。足利《あしかが》将軍家の所領《しよりよう》はその実力の失墜《しつつい》とともにしだいに削減《さくげん》せられつつあったが、この時代の港は入港税その他で利益が多かったから、足利《あしかが》家も弱る力を必死にふりしぼって確保につとめていたにちがいない。舟橋《ふなばし》弥兵衛尉《やひようえのじよう》はその名字《みようじ》からいっても、この戸津浜《とつはま》の代官《だいかん》だったのであろう。
この重要で富盛な港の代官《だいかん》の屋敷だ。宏大《こうだい》でもあれば、ことさら数年前|義輝《よしてる》将軍が数か月滞在《たいざい》していたくらいだから、堅固《けんご》でもあり、立派《りつぱ》でもあったにちがいない。景虎《かげとら》の居間としては、その際将軍が起居《ききよ》した大書院《だいしよいん》の間あたりが用意されていたろう。
景虎《かげとら》がそこに通されると、すぐ久秀《ひさひで》に言った。
「われらが家臣《かしん》ども、総勢五千余ござるが、その者どもの宿所についてのお手配をうかがい申したい」
「これは申しおくれました」
といって、久秀《ひさひで》は狩衣《かりぎぬ》のふところからとり出した書類を景虎《かげとら》の前にひろげた。かんたんな図面であった。
「これはこのへんの絵図面でございますが、お供まわりのご人数の宿所をいちいちにしたためておきました。ごらんいただきとうございます。ここが当地の当家でございます」
と、図面の一点を指《ゆび》さした。
地図は墨で描き、それぞれの地点に景虎《かげとら》の供廻《ともまわ》りの部将らの名前とそのひきいる人数を朱で書き入れてある。すべてここを中心として、湖畔《こはん》の村々がその宿営地にしてあった。一目瞭然《いちもくりようぜん》、まことに気のきいたいたし方であった。
「このご縁側《えんがわ》からいちいちに見えるはずでございます。お運びくださいますよう」
久秀《ひさひで》は景虎《かげとら》を縁側《えんがわ》に連れ出した。比叡山《ひえいざん》の裾野《すその》地帯であるこのあたりの地勢は、湖畔《こはん》に向かってゆるやかな傾斜をもっている。水田と林とところどころに集落のある傾斜地だ。水田は植え付け時を前にして満々と水が張られ、林は新緑に色どられていた。傾斜のつきるところに、大湖《たいこ》が白く光り、真っ白にかがやく帆《ほ》を上げたり、漁《すなど》りしたりしている舟がいくつも見えた。
「あれがご家来なにがし殿の宿所、あれに見える村の寺がなにがし殿、あれがだれ、こちらがだれ……」
と、久秀《ひさひで》は湖水に沿って点在している村々をいちいち指点して教えた。近くは呼べば応《こた》える位置にあり、遠きも貝を吹くか、火を焚《た》けばすぐさとって駆けつけられる位置だ。
「のこるところなきお手配《てくば》り、かたじけのうござる」
と、景虎《かげとら》は礼を言って、席にかえった。
すると、久秀《ひさひで》はその前にかしこまり、中啓《ちゆうけい》を前において、両手をついた。
「さて、とりまぎれまして、あとや先となってしまいましたが、てまえは京都|所司代《しよしだい》をつとめております松永《まつなが》弾正忠久秀《だんじようのじようひさひで》でございます。先ほどちょっと申し上げましたが、公方《くぼう》家のお申しつけにより、お世話役としてまかり出《い》でました。このたびはご遠国をもはばかり給わず、ご参覲《さんきん》のほど、ご苦労でございます。ご忠誠のほど今の世にはもっとも珍重《ちんちよう》なことと、深く深く感佩《かんぱい》いたしている次第でございます」
ものなれてはいるが、少しも儀礼をくずさない正しいあいさつだ。
「とりまぎれてあと先になったは当方も同様でござる。われら長尾景虎《ながおかげとら》、田舎者《いなかもの》でござる。お役目とは申しながら、お大儀《たいぎ》でござる。よろしくお願い申し上げます」
と、景虎《かげとら》も答礼した。
はじめ見た時から、今に至るまでの間、景虎《かげとら》は仔細《しさい》に相手を観察しつづけている。そして、かれこれのうわさはあっても、なかなかの人物であると思わずにはおられなかった。することにそつがないのである。一介《いつかい》の土民《どみん》からこの身分になり上がることは稀有《けう》なことではあるが、この才幹《さいかん》なら不思議はないと思った。
けれども、それと同時に、この男はもっとも姦悪《かんあく》な人物に相違ないと思わないではおられなかった。それはその容貌《ようぼう》のためであった。久秀《ひさひで》の顔は目鼻立ちはなかなか立派《りつぱ》だ。大きくて端正《たんせい》だ。しかし、そのつやつやとした赤ら顔と真っ白な髪と、そのくせ真っ黒な眉《まゆ》と、よく光る目と、力のこもったやや分厚《ぶあつ》な唇《くちびる》の結びとを見る時、もっとも姦悪《かんあく》な人物という感がするのであった。
(いずれは敵にまわしてふみつぶしてくれねばならぬ人物)
と、心ひそかに思いながら、きげんよく対談をつづけているうちに、先刻船つき場で別れた人々が来た。
三好長慶《みよしちようけい》の子|義長《よしなが》をはじめとして、その一族。長慶《ちようけい》はちょうど本国にかえっているとて、義長《よしなが》はその名代《みようだい》として来たのであった。
間もなく、坊さんたちが来た。天台座主応胤二品親王《てんだいざすおういんにほんしんのう》の使者としてなにがし大僧正《だいそうじよう》、覚林坊《かくりんぼう》、南光坊《なんこうぼう》、|※足院《けいそくいん》、上乗院《じようじよういん》、三井寺《みいでら》の使僧、百万遍知恩寺《ひやくまんべんちおんじ》の住職、五山《ござん》の禅僧《ぜんそう》らも、それぞれの宗派《しゆうは》で第一装であるけんらんたる法衣《ほうい》と袈娑《けさ》をかけてやって来た。
最後には京都の町の内外の名医、大町人、名を得た連歌師《れんがし》、高名な職人などまで、ごきげんうかがいに来た。
これは当時の習慣であった。この翌年|今川義元《いまがわよしもと》が大軍をひきいて上京の途につき、尾張《おわり》に入り、しきりに織田《おだ》方の諸|城砦《じようさい》をおとし入れた時、その占領地区の神職・僧侶《そうりよ》・富豪《ふごう》の徒は祝儀《しゆうぎ》の献上物《けんじようもの》をもって義元《よしもと》の陣所に伺候《しこう》し、義元《よしもと》がこれらを相手に田楽狭間《でんがくはざま》で祝宴をひらいている時、信長《のぶなが》はこれを奇襲し、奇勝を博したのである。
さらにその後年、信長《のぶなが》が将軍|義昭《よしあき》を奉じて近江《おうみ》の佐々木《ささき》氏を一蹴《いつしゆう》して京《みやこ》に入った時、信長《のぶなが》の宿所|東福寺《とうふくじ》は今日の景虎《かげとら》の坂本《さかもと》の宿所のように、京都の貴賤《きせん》、道俗《どうぞく》の祝賀客で満ちあふれている。
武力だけが権威である時代、民衆は風に吹かれる野の草のようにはかない。その風をもっとも受けやすい草中のやや目立つ存在は、安全を保つためには、いちはやく権力者に媚《こ》びざるをえないのである。
夜になると、公卿《くぎよう》衆まで来た。前関白《さきのかんぱく》近衛稙家《このえたねいえ》、その子|関白前嗣《かんぱくさきつぐ》、三条西大納言《さんじようにしだいなごん》、勧修寺大納言《かんしゆうじだいなごん》、日野大納言《ひのだいなごん》、飛鳥井大納言《あすかいだいなごん》、広橋中納言《ひろはしちゆうなごん》、等々々。
それらの人々との応対は、もちろん酒になる。景虎《かげとら》はきげんよく酒をくみかわしながらも、心中に思いめぐらしていることがあった。
実をいえば、京間近《みやこまぢか》とはいえ、坂本《さかもと》は近江《おうみ》の国である。京《みやこ》に入ったとはいえない。だのに、ここを宿所にあてがうのは、京《みやこ》に入れまいとするつもりではないかと疑われるのだ。もちろん、それは将軍家の意志ではあるまい。三好《みよし》、松永《まつなが》らのはからいであろう。おもしろくないことであった。
しかし、さして気にはとめなかった。
(ま、しばらく出ようを見ておろう。なんの鼠《ねずみ》のようなやつばら、いよいよとなったら蹴散《けち》らして入るに何の手間《てま》ひまいろう)
その心をおくびにも出さず、夜ふけるまで快く宴を張った。
翌日は、昨夜の大酒にもかかわらず、早朝に目をさました。まだ日は出ない。遠く対岸のさらにはるかな向こうで空をかぎる鈴鹿《すずか》の山脈《やまなみ》の上を曙《あけぼの》の色が染めていた。顔を洗うと、縁に出て呼び立てた。
「たれぞまいれ」
庭の向こうの中門の外で、響《ひび》くように返事の声があって、走りこんで来たのは、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》であった。
「ご用は」
と、くつぬぎに片手をついてひざまずいた。
「皆いるか」
「おります」
「今から食事まで、陣所めぐりをする。皆々供せ。その方どもだけでよいぞ」
「かしこまりました」
弥太郎《やたろう》が、直垂《ひたたれ》の大きな袖《そで》をなびかせて走り去ったかと思うと、すぐ中門の外に馬蹄《ばてい》の音と、馬の鼻嵐《はなあらし》の音と、人々のけはいがした。いつもながらの迅速《じんそく》さだ。馬廻《うままわ》りの豪傑連《ごうけつれん》が、早くも身支度《みじたく》をととのえて集まったにちがいなかった。
弥太郎《やたろう》は景虎《かげとら》の乗馬をひき入れて来た。
「ドウ、ドウ、ドウ……」
といいながら、庭にひき立て、片手に口綱《くちづな》をとりながら、片手にたずさえて来た草履《ぞうり》をさっとくつぬぎに投げた。草履《ぞうり》は三|間《げん》ほどの距離をゆるやかな弧をえがいて飛んで、くつぬぎの上におちた。手でていねいにおきならべたように、くつぬぎの真ん中に、左右そろって前向きにぴたりととまった。投げ草履《ぞうり》といって、この時代から江戸《えど》初期までの心掛けのある武士はみな心得のあったものなのである。草履《ぞうり》とりは下僕《げぼく》のしごとであるが、身分高い武士も場合によってはその主人の草履《ぞうり》をとらなければならないのであるから、必要な技術なのであった。
景虎《かげとら》は鞭《むち》をとり、その草履《ぞうり》をはいて、馬上の人となって、中門を出た。
中門の外には、豪傑連《ごうけつれん》がそれぞれに馬を引き立てて待っていた。それぞれに馬の鞍《くら》に鉄砲をつけ、槍《やり》を小わきに立てている。さやをはらった穂先《ほさき》が、しだいに明かりわたってくる空をさして、白く光っていた。
「お早うございます。ごきげんおよろしきようで」
いっせいにあいさつする。
「うむ。お早う」
景虎《かげとら》が答礼すると、豪傑連《ごうけつれん》はざわっと音を立てて騎乗《きじよう》した。
乗り出して、数歩だくを踏ました時、建物の横合いから飛び出して来た三人の武士があった。松永《まつなが》からつけられている者であった。あわてふためいて、
「もし、いずれへ」
と、呼び立てて前をさえぎろうとした。
弥太郎《やたろう》はかけぬけ、三人の前にさっと槍《やり》の穂先《ほさき》を向けてどなった。
「陣所まわりでござる! およそ前に立ってさえぎる者は、斬《き》って捨てるが、長尾《ながお》家の軍法でござる。のかっしゃれ!」
おどろいて、すくんでいる三人の前を、ふり向きもせず、景虎《かげとら》とその家臣《かしん》らは小駆けに馬を走らせて過ぎた。
それぞれの屯営地《とんえいち》の本陣《ほんじん》には神社や、寺や、その集落の豪家《ごうか》等をあて、兵士らは民家に分宿していた。注意をひいたのは、その寺の大方《おおかた》が一向宗寺《いつこうしゆうでら》であることであった。この国における一向宗《いつこうしゆう》の勢力が思われた。
(北陸路《ほくりくじ》の国々がみなこの宗門《しゆうもん》の信者でうずまっている上に、この国がそうであり、摂津《せつつ》の石山《いしやま》には本山《ほんざん》がある。聞けば三河《みかわ》も北伊勢《いせ》も一向宗《いつこうしゆう》のさかんなところという。京へ物資の運びこまれる口は、あらかたこの宗門《しゆうもん》におさえられているわけだ。きついものじゃ。ようこそこの宗門《しゆうもん》となかなおりしたわい)
と、思った。
早朝ではあったが、兵士らはもう起きて、それぞれのしごとにかかっていた。馬の手入れをするもの、昨日しのこした設営をつづけているもの、朝食のために焚《た》き火《び》して干魚《ひもの》を焼いているもの、いろいろであった。当番の兵士が本陣《ほんじん》から飯と汁《しる》を運んでいた。飯はざるに盛り、汁《しる》は桶《おけ》に盛ってある。それを二人がかりでさしにないにして持って行くのだ。いく組もあって、嬉々《きき》として皆上きげんであった。たえずにぎやかな話し声と明るい笑いとがはじけ上がっていた。
住民とのなかも調子よくいっているようであった。このあたりは半農半漁の村が多い。投網《とあみ》や|はえ縄《ヽヽヽ》をほした穀ほし場にしゃがんで老人らと懇親《こんしん》話をしている者があったり、子供らといっしょになって漁具をこしらえている者があったり、女らに水をくんでやっている者があったりするが、いずれもしっくりと解け合って、親和感にあふれていた。
しかし、用心はまことに堅固《けんご》であった。集落の周辺には槍《やり》と鉄砲をたずさえた哨兵《しようへい》が要所要所にいて、同じところをこつりこつりと行き来しながら、見はりをつづけている。
(あっぱれ、おれが手塩《てしお》にかけた者どもだ)
と景虎《かげとら》は満足であった。
兵士らは景虎《かげとら》の一行《いつこう》を見ると、びっくりして立ち上がっておじぎをし、長い間見送ってから、またすわってそれまでのしごとをつづけた。
景虎《かげとら》は二時間ほどかかって、のこらず陣所をまわって帰って来て、使い番を召して、全軍にこうふれた。
「ただいま各陣所を巡視したが、軍規厳正であるばかりでなく、土地の民とも親しみをもっているようで、満足である。この上ともにこの心掛けをくずさぬようつとめてもらいたい。油断《ゆだん》を大敵とし、事あらば時をうつさず命に応ずるの用意あるべきは言うまでもないことであるぞ」
これをすませて、近侍《きんじ》の者に給仕させて朝食をとっていると、金津新兵衛《かなづしんべえ》が来てひざまずいた。新兵衛《しんべえ》ももう髪に白いものがだいぶまじる年ごろである。その半白の髪に侍烏帽子《さむらいえぼし》をかぶった頭を下げて言う。
「松永《まつなが》弾正忠《だんじようのじよう》殿よりの付人《つきびと》方よりお目通りを願い出ておられます」
「飯をしまったら会う。その旨《むね》を申して、しばらくしてから連れてまいれ」
「かしこまりました」
新兵衛《しんべえ》は退《さが》って行った。
景虎《かげとら》はゆっくりと食事をつづける。飯がうまいのである。接待役である松永《まつなが》のさしずであろう、朝から魚鳥の料理がついているが、それには全然ふれない。汁《しる》だけで四|膳《ぜん》も食べ、五|膳《ぜん》目は湯漬《ゆづ》けにし、さわやかな音を立てて香《こう》のものを噛《か》みくだきながらさらさらとかきこんだ。
膳《ぜん》が撤去《てつきよ》されてすぐ、新兵衛《しんべえ》は久秀《ひさひで》の家来を連れて来た。
くどくどと前おきしそうなので、景虎《かげとら》はすばやく言った。
「ご用は?」
「公方《くぼう》様お使い、大館兵部少輔藤安《おおだてひようぶしようゆうふじやす》様がまいられ、お目通りを願っていらせられますが……」
景虎《かげとら》はおどろいた。将軍の上使《じようし》ならば、何の遠慮《えんりよ》がいろう。真っ直ぐにこの家に来ればよいのである。いやいや、それが礼儀なのである。接待役である松永《まつなが》の付人《つきびと》などを介《かい》して案内を乞《こ》うなど、あってしかるべきことではない。
(松永《まつなが》をはばかったのではあるまい。松永《まつなが》の命をふくんでいる付人《つきびと》らが関《せき》を立てて真っ直ぐに来るのを塞《せ》いたのであろう)
と、判断した。
松永《まつなが》――したがって三好《みよし》がこんなことを付人《つきびと》らに申しふくめたのは、自分と将軍とを自由に会わせてはどんなことをはじめるかわからないと恐れてのことにちがいないのである。
(鼠《ねずみ》どもめ!)
と軽蔑《けいべつ》はしたが、腹は立てなかった。
しかし、ここは計略的にも腹を立てて見せなければならないところだと思った。きびしい目を射つけるように付人《つきびと》に向けて言った。
「公方《くぼう》家のご上使《じようし》が一国の守護《しゆご》のもとにいらせられるに、他家の家来のとりつぎがいるとは、はじめて知る作法でござる。当時、都方《みやこかた》ではそのような作法となっているのでござるか。拙者《せつしや》は田舎者《いなかもの》でござるゆえ、昔ながらの作法しか存ぜぬ。教授願いたい」
付人《つきびと》は青くなった。うろたえきって、
「いえ、その、作法がそうなっているわけではござりませぬが、拙者《せつしや》ども、そのご接待のための付人《つきびと》となっておりますので、何事によらず、その、ご無礼なきように……」
と、くどくどと言いかけた。
「お黙《だま》んなさい! 接待のための付人《つきびと》なら、そのためのことだけをしていなさればよいのでござる。いらぬことをなさるゆえ、公方《くぼう》様ご上使《じようし》を待たせ申すなどという失礼を、われら、せねばならぬ羽目《はめ》におちいった。われら、公方《くぼう》様にどうおわび申し上げてよいか、わかりませんぞ!」
叱咤《しつた》するようなはげしい語気で言うと、立ち上がった。
「われらみずからお迎いに上がります。さらずば申しわけが立ち申さぬ。いずれへおいででござるか、案内なされよ」
付人《つきびと》は動顛《どうてん》しきっている。ふるえふるえ立ち上がった足もとがよろめいていた。
大館兵部少輔藤安《おおだてひようぶしようゆうふじやす》は、舟橋《ふなばし》家から四、五町離れた、やはり土地の豪家《ごうか》に休息していた。馬で来ていた。景虎《かげとら》はそこへ出かけて行き、馬首《ばしゆ》をならべて帰って来たばかりか、帰着すると、大館《おおだて》がそれにはおよばないというのを、装束《しようぞく》まで大館《おおだて》と同じく素袍《すおう》・小袴《こばかま》に改め、口すすぎ、手水《ちようず》し、下座《しもざ》にさがってあいさつの辞をのべた。将軍にたいする心からの敬意はもちろんあったが、三好《みよし》や松永《まつなが》にたいするあてつけもあった。自分がどんな態度で上使《じようし》に接したかは、付人《つきびと》らの報告で彼らが知ることは必定《ひつじよう》だと考えた。
「ご鄭重《ていちよう》なこと、珍重《ちんちよう》であります」
大館《おおだて》は心を打たれて見えた。素袍《すおう》の下の帷子《かたびら》の胸もとにさしはさんだ将軍の内書《ないしよ》をわたした。
うやうやしく受けて披見《ひけん》すると、
(その方千里を遠しとせず参覲《さんきん》の途に上り、昨日|坂本《さかもと》へ着津《ちやくしん》の趣《おもむき》、忠良感ずるにあまりがある。早々に入洛《にゆうらく》あるべし。あるいはとかくのさまたげをするやからがあるかとも思われるが、少しもはばかるにおよばぬことである。余はその方と会うのを一刻千秋《いつこくせんしゆう》の思いで待っている。この旨《むね》を固く心にしめるよう)
というのであった。
横暴《おうぼう》な権臣《けんしん》らをはばかりながらも、憤《いきどお》りに満ち、景虎《かげとら》を頼りきっている心のよくわかる書きぶりであった。
そぞろに涙がにじんできた。
「たしかに拝受《はいじゆ》いたしました。ただいま請書《うけしよ》を奉ります」
侍臣《じしん》をかえりみて筆紙をとりよせ、
(大館兵部少輔《おおだてひようぶしようゆう》殿をもって賜わりましたご内書《ないしよ》、たしかに拝受《はいじゆ》いたしました。数ならぬ身に身にあまる仰《おお》せをいただき、感激にたえません。委細《いさい》は口上《こうじよう》をもって、兵部少輔《ひようぶしようゆう》殿に申し上げます)
としたため、署名《しよめい》して手渡した。
「たしかに」
大館《おおだて》は受け取った。
景虎《かげとら》は言った。
「拙者《せつしや》このたびの参覲《さんきん》は、公方《くぼう》様が三好修理《みよししゆり》大夫《たゆう》と和睦《わぼく》あそばされてめでたくご帰洛《きらく》なされました祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のためと、表《うわ》べは申していますが、内実はよほどの覚悟をきめてまいりました。このことはやがて自身の口上《こうじよう》をもって公方《くぼう》様に申し上げますが、そなた様からもただいま申し上げましたことは言上《ごんじよう》してくださいますようお願い申します。なお、入京のことは、できるだけ急いでつかまつります。このことも、言上《ごんじよう》願いまいらせます」
言外に十分の意をこめたことばを、大館《おおだて》もくみとったらしく、深くうなずいた。
「たしかにうけたまわりました。たしかに言上《ごんじよう》いたします。上様《うえさま》のおよろこび、さこそと察し申し上げることができます」
あとは饗応《きようおう》となって、ほろりとした微醺《びくん》を見せて、大館《おおだて》は帰って行った。
景虎《かげとら》は一日も早く入京《にゆうきよう》したいと思ったが、なかなかそうは運ばなかった。三好《みよし》や松永《まつなが》らが、いろいろな理由をつけては、さえぎるのであった。最初からけんか面《づら》に出るのは得策《とくさく》でないと思うので、景虎《かげとら》もできるだけの辛抱《しんぼう》はしたが、一週間目にはついにかんにん袋の緒《お》を切った。
「われらはるばると越後《えちご》から来たのでござる。当地には二十日に到着いたした。今日は二十六日でござる。早や七日になり申す。もはや辛抱《しんぼう》でき申さぬ。明日は何と仰《おお》せられようと、入京いたす。柳営《りゆうえい》のご都合悪《つごうあ》しくば、京《みやこ》にとどまって、ご都合《つごう》のよくなるまでお待ち申す。この旨《むね》、弾正忠《だんじようのじよう》殿にしかとお伝え願いたい」
と言い切った。もともと気の長い方ではない。言い出すと情が激してきて、もっとも激越《げきえつ》な語調になった。
付人《つきびと》らは顔色をかえ、はかまの稜《そば》をつかんで横っ飛びに飛び出して行ったが数時間の後、松永久秀《まつながひさひで》自身やって来た。
今日の久秀《ひさひで》は褐色《かちいろ》の上下姿《かみしもすがた》である。真っ白な髪のくせにひどく量の多い髪をし、相変わらず血色のよい顔であらわれた。久秀《ひさひで》は最初の日に出迎えていろいろ世話をやいただけで、公務|多端《たたん》で京《みやこ》に帰ったとかでずっと顔を見せなかったのである。あいさつをすませると、
「当地にご到着になったのが二十日、今日は早や二十六日であります。京《みやこ》を山一重のところまでおいでになりながら、長々とご滞在《たいざい》、ご退屈《たいくつ》でございましたろう。やっと柳営《りゆうえい》の都合《つごう》もよろしくなりましたれば、明日ご入京くださいますよう。公方《くぼう》家もお楽しみにしてお待ちでございます。おめでとうござる」
今朝方《けさがた》の景虎《かげとら》の憤激《ふんげき》と激語《げきご》を聞かないはずはなかろうのに、それにはまるで触れない。真っ黒な眉《まゆ》の下のかがやきの強い大きな目を細めて、にこにこしている。景虎《かげとら》のために心からよろこんでいるような顔だ。
嘲弄《ちようろう》されているような気がしたが、腹を立てるわけにもいかない。
「やっとな。ご造作《ぞうさ》をおかけしましたな。お礼を申し上げます」
と言っておいて、つけ加えた。
「実は今朝《けさ》ほど、ご家来衆にずいぶん手ひどいことを申しました」
せいいっぱいの皮肉《ひにく》をこめたつもりであったが、これもけろりと受け流された。
「気のきかぬ者どもばかりで、お恥ずかしく存ずる。これからも、ご会釈《えしやく》なくぴしぴしとお叱《しか》りくださりますよう」
景虎《かげとら》は目の前の赤いつらが水をぶっかけられている蛙《かえる》に見えてきた。
翌四月二十七日、景虎《かげとら》は威儀《いぎ》をととのえて入京した。
「騎士《きし》・従士《じゆうし》、威儀《いぎ》を調へて扈従《こじゆう》し、老将《ろうしよう》・ 壮士《そうし》の輩《ともがら》、前後を衛護す。兵具・鞍馬《あんば》等にいたるまで列を乱さず、行路《こうろ》厳重なり」と、上杉年譜《うえすぎねんぷ》は記述している。
坂本《さかもと》から京《みやこ》に入るには、比叡山《ひえいざん》をこえて入る道と、唐崎《からさき》にさがって山中越えして白川《しらかわ》に出る道と、大津《おおつ》にまわって逢坂山《おうさかやま》をこえ、山科《やましな》盆地の北端を通って東山《ひがしやま》をこえて三条《さんじよう》に出る道の三つがあるが、前二者はけわしい山路である。儀装した行列が通るに適当な道ではない。大津《おおつ》に迂回《うかい》する道がえらばれた。
上杉年譜《うえすぎねんぷ》はまた、この日は快晴であったと記録している。初夏の快晴の日だ。坂本《さかもと》から大津《おおつ》に至るまで左に沿っている大湖《たいこ》の水にはさざ波が立っていたであろうし、逢坂山《おうさかやま》も、山科野《やましなの》も、東山《ひがしやま》も、新緑にいろどられていたにちがいない。その中を晴れの美服を着て粛々《しゆくしゆく》と行進する越後《えちご》武士らの行列は、なかなか見ものであった。京《みやこ》近くの人々は現代でも物見《ものみ》高いのであるが、この時代は娯楽《ごらく》が少ないのである。沿道至るところ、付近の住民らが集まって見物《けんぶつ》したが、京《みやこ》に入るといっそうであった。通過の道筋《みちすじ》に集まって人垣《ひとがき》をつくった。
景虎《かげとら》は行列の中央に、浅葱《あさぎ》の帷子《かたびら》に柿色《かきいろ》の小袴《こばかま》をはき、青地錦《あおじにしき》の陣羽織《じんばおり》を着、白の薄絹《うすぎぬ》で頭をつつみ、綾藺笠《あやいがさ》をかぶり、金の|のしつけ《ヽヽヽヽ》(丸さや)の太刀《たち》を佩《は》き、右手に重籐《しげとう》の弓をにぎり、えびらを背おうていた。言うまでもなく騎馬だ。鹿毛《かげ》の太くたくましい馬だ。右に栗毛《くりげ》の乗りかえの馬を曳《ひ》かせたが、それには唐草《からくさ》を金で象眼《ぞうがん》した鉄砲と、糒《ほしい》を入れた緋緞子《ひどんす》の袋を鞍《くら》につけてあった。両馬とも緋色《ひいろ》のむながいと尻《しり》がいをつけているので、一歩一歩に緋《ひ》の絹房《きぬふさ》が燃え立つ炎《ほのお》のようにひるがえった。
京の町は六年前に上京した時とまるで様子がちがっていた。あのころは打ちつづく戦乱のあとがまだ色濃くのこって、町々にも雑草ばかりが繁っている廃墟《はいきよ》めいた空き地がいたるところにあり、建っている家も小さくみすぼらしいものがほとんど全部であったのに、今見る町々は家がぎっしりと立ちならんでいるばかりでなく、いかにも小奇麗《こぎれい》だ。ものを商う家々の棚《たな》にさまざまな品物がならんでいるが、品目《ひんもく》も多ければ、数量も多い。沿道にならんでいる人々の服装もよければ、顔立ちなどもいかにも清げだ。
(京《みやこ》は豊かになった)
と、思った。三好《みよし》や松永《まつなが》輩がわがままのかぎりをつくし、天皇も将軍もまるで無力な飾りびなにされているというのに、この繁栄と殷賑《いんしん》はもっとも不思議なものに思われた。民衆は雑草のように根強い。権力者にいためつけられてもいためつけられても決して活力を失わない。ほんのしばらく小康状態がつづけば、すぐ緑の色を芽ぶかせて繁茂《はんも》していくものなのであるが、それは景虎《かげとら》にはわからないことであった。失望に似たものがあった。
「天と地と」年表(四)
天文十八年(一五四九)
七月、三好|長慶《ちようけい》、入京す。
十一月、家康、今川氏の人質として駿府《すんぷ》に行く。
天文二十年(一五五一)
関東|管領《かんれい》上杉|憲政《のりまさ》、小田原の北条|氏康《うじやす》と戦い、惨敗。
三月、織田信長、家督を継ぐ。
天文二十一年(一五五二)
景虎《かげとら》二十三歳。
一月、上杉憲政、春日山《かすがやま》で景虎と会見、管領職を譲るという。
天文二十二年(一五五三)
一月、織田信長、平手政秀《ひらてまさひで》の意見を聞かず、政秀自殺。
二月十日、長尾|晴景《はるかげ》死す。
四月、武田|晴信《はるのぶ》、北信州の村上|義清《よしきよ》攻略のため、甲府出発の報あり。
武田の猛攻により村上の所領|葛尾《かつらお》城が落ち、義清いずれかへ落ちる。
八月、甲州勢、川中島を経て、高梨平《たかなしだいら》に向かうとの知らせ。景虎、柿崎を主将とし、川中島に出動。晴信は夜襲をかける。景虎、晴信の武略に舌をまく。
九月初め景虎、京に上る。堺《さかい》での鉄砲の注文と、朝廷と将軍に拝謁《はいえつ》、守護代《しゆごだい》のお礼と家督《かとく》の相続の了解を得ることが目的。途中、魚津《うおず》の港で、城主鈴木|大和守《やまとのかみ》の思いものになっていた藤紫の弾く琴の音を聞く。
幕府に出頭、十三代将軍足利|義輝《よしてる》に会い、翌日、御奈良《ごなら》天皇に拝謁。
大徳寺に参弾、前住職の宗九《そうく》に会う。
堺に滞在、鉄砲工場を見学、百挺《ちよう》を注文。
天文二十三年(一五五四)
春日山に帰着、すぐに甲府に使者を出す。信州の諸豪族の旧領返還を要求。同時に北陸路の一向宗徒懐柔工作にかかる。
春、景虎の姉から使者。乃美《なみ》も定行《さだゆき》の使いとして来る。甲斐《かい》の武田が当地の地侍《じざむらい》に対し手入れしているとの伝言。特に北条|丹後守《たんごのかみ》殿がいぶかしいと伝える。景虎の耳に「乃美は近々嫁に参ります」と告げる。
景虎、北条の本家にあたる毛利|景元《かげもと》を呼んで風説のことを尋ね、事実を分かる。
九月、北条|高広《たかひろ》、兵を挙げる。毛利景元、背後から襲いかかり、高広は居城に逃げ籠り、降伏。
甲、駿、相の三国同盟が成立。
十一月、北条|氏康《うじやす》、下総古河《しもうさこが》城を陥し、足利|晴氏《はるうじ》、藤氏《ふじうじ》をとらえて相模波多野《さがみはたの》に幽閉し、晴氏の子|義氏《よしうじ》を古河公方《こがくぼう》とす。
弘治元年(一五五五)
景虎、信州に出陣、旭山《あさひやま》に要害を築き、信州の諸方に兵を出すが、晴信腰をあげず。諏訪御前《すわごぜん》重病のためと分る。
五月、晴信、五千の兵を率い出発。信州の上田を通過する頃、一万三千の大軍となる。川中島を渡り、大塚に布陣、両軍、顔を合わす。対立は十月まで続くが、勝敗決せず。十月半ば、諏訪御前の容態が悪化。晴信、今川|義元《よしもと》に使いを出し、和平のための仲裁を頼む。
七月、朝倉|教景《のりかげ》、加賀一向一揆を攻める。
閏《うるう》十月の半ば、契約書に調印、両軍撤退。
十一月六日、諏訪御前死去。
弘治二年(一五五六)
景虎、越後内での諸豪族の紛争に嫌気がさし、重臣に隠居を告げ毘沙門堂《びしやもんどう》に入る。この時二十七歳。景虎、高野山に行くため、春日山から二十七キロ離れた関山《せきやま》に着く。政景《まさかげ》より、武田から当国の侍に手入れしていることを告げられ、色をなし、隠遁《いんとん》をわび、春日山に帰る。越後中の豪族ら春日山に集まる。
晴信、善光寺の北方の山岳地帯の小豪族らの切りくずしにかかる。
朝倉教景、加賀一向一揆と和睦《わぼく》する。
弘治三年(一五五七)
晴信、六千の兵を繰り出し、葛山《かつらやま》城攻略、落城させる。
八月下旬、晴信一万五千の兵を率いて、川中島に出、景虎は横山城に本陣を据える。
八月二十六日、敵は全軍川を渡り、戸神《とがみ》山に向かいつつあるとの報に政景踊り出、接戦が続くが、柿崎隊、甲州勢を圧進。この機に景虎は退陣を決定、六分の勝ちとみる。
毛利|元就《もとなり》、三子に教訓状。
永禄元年(一五五八)
超賢《ちようけん》から、越後への移住を告げられ、景虎、春日山の東方の佐内《さない》村に地域と境内を定め、五か村に本堂建立を命じる。
閏《うるう》六月末、晴信が信州攻略に乗り出すとの報あり、景虎善光寺、小県《ちいさがた》郡に向かう。
その頃、足利|義輝《よしてる》から急便、三好|長慶《ちようけい》が逆心を含み、襲撃したので上洛《じようらく》を乞うとの口上。
七月十三日、本誓寺《ほんせいじ》竣工、落慶供養《らくけいくよう》。十四日、景虎、横山城に入り、晴信と和を講ずる使者を出す。二十日目、晴信の返信に景虎激怒。全軍に戦いの再開を指令、川中島に集結を命じたが、膠着戦《こうちやくせん》となり冬になる。
将軍よりふたたび使者、三好との和談が進みつつあり、晴信と和睦《わぼく》してほしいとの文面。
晴信、越後の使者に、景虎の上洛のこと感心した、依頼のこと承知との返事。
晴信、将軍への働きかけが功を奏し、信濃守《しなののかみ》兼信濃守護に任ずるとの位記《いき》を受ける。
九月、木下藤吉朗、織田信長に仕える。
永禄二年(一五五九)
将軍の密使より、近々の上洛を求める口上。景虎、国内に上洛の計画を発表。
二月、織田信長、入京。
二月、織田信長、上洛して足利|義輝《よしてる》に謁《えつ》する。
四月三日、景虎、春日山を出発、京に向かう。
角川文庫『天と地と(四)』昭和61年9月25日初版刊行