海音寺潮五郎
天と地と(五)
目次
思わぬ客
空巣《あきす》ねらい
雪しんしん
三度目
勝ちどき
かがり火
三国峠《みくにとうげ》
新管領政虎《しんかんれいまさとら》
夕陽《ゆうひ》の山の下に
月|出《い》で月|沈《しず》む
想夫恋《そうふれん》
車がかりの陣法《じんぽう》
筆後敬白
「天と地と」年表(五)
思わぬ客
一
地方の大名がこれほどの人数とこれほどの儀装《ぎそう》をそなえて将軍に参覲《さんきん》することは、この数代絶えてないことである。大名が上京するのは、いつも戦争のためである。ものものしく武装した殺伐《さつばつ》な兵をひきいてしか来たことはない。
「公方《くぼう》はんて、やっぱしえらいのかいな」
と、市民らも将軍を見なおす気になったが、将軍に勤仕《きんし》している武士らのよろこびはひととおりのものではなかった。当時は幕府といっても、実体はないにひとしかった。つかさどるところは天下の政務ではない。京都とその近くにのこる足利《あしかが》家の所領《しよりよう》の政務と権益《けんえき》を保持《ほじ》し、収入を管理するだけの機能しかない。つまり、名は幕府でも、実質は足利《あしかが》という大名の政庁《せいちよう》にすぎない。それもあまり大きくない大名の。それでも幕府は幕府なのだから、時として天下の政治に関係のあることもないでもなかったが、それはすべて三好《みよし》や松永《まつなが》が処理した。だから、将軍といっても、公方《くぼう》といっても、これも名前だけのことで、一種の精神的|権威《けんい》となっているにすぎないのであった。
けれども、将軍に親しく近侍《きんじ》している者としては、いつも将軍を気の毒だと思い、こうした現実に憤《いきどお》りを感じているのはもっとも自然な人情《にんじよう》だ。したがって彼らが景虎《かげとら》がこれほどの将軍|尊重《そんちよう》の心を形にあらわして上洛《じようらく》してきてくれたことをうれしく思ったのもまたもっとも当然なことであった。
将軍の御所《ごしよ》には、景虎《かげとら》の到着するまえに、将軍をはじめ諸方《しよほう》へ献上《けんじよう》するさまざまな品物がおくりつけられ、長尾《ながお》家の家臣《かしん》らはあてがわれた二つの座敷にそれを飾りつけた。どんな品物であったか、どれほどの数量であったかは、まえに景虎《かげとら》の上洛《じようらく》用意のくだりで書いたから、ここでは書かないが、多種多様の品目であり、数量もまたおびただしい。それぞれにかざりをつけ、台の上におかれて陳列《ちんれつ》されたので、おそろしく豪奢《ごうしや》、華麗《かれい》に見えた。
将軍の家臣《かしん》らは所領《しよりよう》せまく、給与《きゆうよ》とぼしいため、朝廷《ちようてい》や将軍に官位《かんい》の昇進《しようしん》などを運動してやって地方武士から受ける謝礼や進物《しんもつ》などをおもな収入にして生活している連中《れんちゆう》だ。根性《こんじよう》がいやしくなっている。豪華《ごうか》にしておびただしい献上《けんじよう》ものの陳列《ちんれつ》を見て、感動することがひととおりでなかった。なかにも彼らの目をおどろかしたのは、金・銀であった。景虎《かげとら》の所領内《しよりようない》には佐渡《さど》がある。金・銀はそこの産出であった。
「これことごとく分内佐州《ぶんないさしゆう》の産にして、年々にその産かぎりなし」
と、上杉年譜《うえすぎねんぷ》にあるのである。
儀礼厳重に、しかももっとも好意《こうい》をもって迎えられるなかを、景虎《かげとら》はひかえの間《ま》に通り、しばらく休息した。茶をもらって一服《いつぷく》した後、屏風《びようぶ》を立てまわした中に入り、従者《じゆうしや》に手つだわせて大紋《だいもん》・長袴《ながばかま》にあらためてまたすわっていると、案内の者が来た。
「およろしゅうござるなら、こちらへ」
景虎《かげとら》は立ちあがり、あとについてしずしずと大広間《おおひろま》に通った。
上段《じようだん》の間《ま》にはすだれが下がり、群臣《ぐんしん》が左右にいながれていた。すだれの中はしんとしずまって小暗《おぐら》い。将軍はまだ出ていないのであったが、景虎《かげとら》がその前に着座《ちやくざ》すると、すぐ出てきたらしく、ちょっとしたざわめきとしわぶきの声とがした。
「弾正少弼長尾景虎《だんじようのしようひつながおかげとら》、参覲《さんきん》のためまかりいでました」
と、奏者《そうしや》が披露《ひろう》した。
「すだれを上げい」
わかわかしい声がして、かすかな音とともにすだれが巻きあげられた。
そのまえから、両手をついていた景虎《かげとら》は、ほんのすこしひたいを上げて、上目《うわめ》づかいに正面を見た。
義輝《よしてる》は身をのりだすようにして景虎《かげとら》を見、視線が合うと、にこりと笑った。
「久しいな。このまえそなたが来てから、はや六年になる。年ごろの忠貞《ちゆうてい》のうえに、遠いところをはるばるとまいった段《だん》、別してうれしく思うぞ」
景虎《かげとら》は両手の間にひたいをうずめて平伏《へいふく》して、言った。
「おねんごろなるおことばをいただき、このうえなき身の晴れでございます。おおせのとおり、お久しぶりでございます。変わりませずと申すより、あのころよりいちだんとおすこやかなるお姿を拝《はい》しまして、恐悦《きようえつ》しごくに存じます」
実際、義輝《よしてる》はたくましい青年になっていた。六年前には、せいは高かったが、骨細で、青白くて、神経質な感じの美少年であったのに、いまは縦横《たてよこ》の均整《きんせい》のとれた、筋骨質《きんこつしつ》の青年になっている。関東の兵法者塚原卜伝《ひようほうしやつかはらぼくでん》に剣法《けんぽう》を学び、なかなかの技倆《ぎりよう》であるといううわさを、景虎《かげとら》は国で聞いていたが、いかにもと思われた。しかし、神経質な感じは、濃《こ》い眉《まゆ》と青白いひたいつきにのこっていた。義輝《よしてる》はこの時二十四であった。
「そなたも達者《たつしや》なようでうれしく思うぞ」
義輝《よしてる》の様子はなつかしげなものにあふれている。顔は上気《じようき》し、目には涙が浮かぶのではないかと思われるほどであった。
こんな様子を見ては、景虎《かげとら》もまた感激せざるをえない。
「ありがたきおことばでございます」
と答えたが、とたんに眼《め》がうるんできた。
義輝《よしてる》は旅中《りよちゆう》のことや、坂本《さかもと》の旅館のことを話題にして、うちとけた話しぶりを見せていたが、近侍《きんじ》の者がなにやらうしろから言うと、にわかに暗い顔になって、押し問答しているようであったが、不承不承《ふしようぶしよう》にうなずいて、こちらを向いて言った。
「今日ははじめてのことで、儀式だけにいたすようにと、この者どもが申す。なごりおしいが、先例にもとるというのじゃ。いたしかたはない。またまいってくれるよう。当分はこちらにいるのであろうの」
諸大名が将軍に謁《えつ》する場合には規定の儀式がある。規定の時間をこえてならず、規定以外のことを言ってはならないのである。義輝《よしてる》は規定の時間をこえているばかりでなく、この感動ぶりではなにを言いだすかわからないところが見える。侍臣《じしん》らがそれを案じていることは明らかであったが、景虎《かげとら》はさらにこう思った。
(ご近侍衆《きんじしゆう》はそうなった場合、三好《みよし》や松永《まつなが》にそれが知れては、公方《くぼう》様のおためにならないと思っているのであろう)
また、こうも思った。
(なに食わぬ顔をしてこうしていならんでいる連中《れんちゆう》のなかに、三好《みよし》や松永《まつなが》に心を通《かよ》わしている者がいないとはかぎらぬ。いや、きっといるはずだ。やつばらほどに権勢《けんせい》をふるっていながら、公方《くぼう》様ご近侍衆《きんじしゆう》を手下《てした》に引きいれていぬはずはない)
猛然《もうぜん》として胸にわきたってくるものがあった。――それならばそれでよし、決心のほどを思い知らせておこうと思った。きっとかたちを正し、声をはげまし、
「せんだっても、大館兵部少輔《おおだてひようぶしようゆう》殿ご上使《じようし》として坂本《さかもと》へまいられました際にも申し上げましたが、拙者《せつしや》は公方《くぼう》様ご帰洛《きらく》の祝儀言上《しゆうぎごんじよう》のためばかりでまかりのぼったのではございません。公方《くぼう》様のお役に立ちたいと決心してのぼって来たのでございます。御用ならば、たとえ国もとに大事がおこりましても、そのためにはけっして帰国いたしません。国もと留守居《るすい》の者どもにも、その旨《むね》きっと申しふくめてまいっております。おふくみおきたまわりますよう」
と言っておいて、調子をやわらげた。
「さらば本日は、まずはごあいさつまででございます。お奥へお入りくださいますよう。拙者《せつしや》もやがてまかりさがらせていただきます」
「うむうむ」
義輝《よしてる》はまた目をうるませて、うちうなずいた。
二
景虎《かげとら》は坂本《さかもと》に引きかえした。西に比叡山脈《ひえいさんみやく》のせまっている坂本はもう日がかげっていたが、湖水をこえた対岸にはまだあかあかと日が照っているころ、帰りついた。
行水《ぎようずい》のあと、さっぱりしたからだを帷子《かたびら》につつんで、うちわをたずさえて縁《えん》に出てすわった。もう湖水も日かげになり、その日かげが見ているうちに対岸の平野を侵《おか》していく。日の光を受けてうす赤くかがやく白壁《しらかべ》の多い村落や森を散らばせている緑の水田地帯がたちまち日かげになっていくのが、あっというまもないくらいだ。
ばたばたとうちわづかいして、はだけた胸に風を入れながら、目を転じて比叡《ひえい》山をあおいだ。ぐっとあおがなければいただきの見えないほど山がせまっている。
(おれは先度《せんど》来た時、木曾義仲《きそよしなか》が北陸《ほくりく》から攻めのぼったように、おれも来ると心にちかったが、とうとう来た)
と、思った。
(公方《くぼう》様は、あんなにおれの来たことをよろこんでおられた。口に出しておおせられたことはあれだけであったが、ご心中はあの何層倍《なんそうばい》であったことは、おれにはよくわかっている。おれはきっとご期待にそむかぬであろう。長いうちには、きっと隈《くま》なくお心のうちをおおせられるであろう。なんなりともおおせつけくださるがよい。おれには力がある。男の信義心《しんぎしん》がある)
京からの帰りのみちみち、いくど思いかえしたかもしれない将軍のことばや態度や表情をまた思いかえし、感慨《かんがい》と決心をくりかえしていると、近習《きんじゆう》の者が、
「関白殿下《かんぱくでんか》がいらせられました」
と、とりついできた。
「殿下《でんか》が? まこと殿下《でんか》か?」
「はい。殿下《でんか》でございます」
「お連れは?」
「おひとりでございます。ご家来衆二人ほどお召しつれなだけの、おしのびのお姿でございます」
これは意外であった。ここへ着いた日の夜、近衛前嗣《このえさきつぐ》は他の公卿衆《くぎようしゆう》といっしょに訪問してき、饗応《きようおう》を受けて立ち帰ったのであるから、一面識《いちめんしき》はあるわけだが、ひとりでしのび姿で訪問されるほどのなかではない。
しかし、追いかえすなどということはできない。
「しばらく別室におひかえねがうよう。十分に気をつけ、無礼《ぶれい》なふるまいがあってはならぬぞ。おれは着がえをする。その間にここをよくとりかたづけ、見苦しいものなどあちらへもっていけ」
さしずして、別室にさがり、手早く肩衣《かたぎぬ》と小袴《こばかま》の姿になり、前嗣《さきつぐ》の待っている座敷に行った。
前嗣《さきつぐ》はやせてせいが高く、うすいあばたのある色白な顔をしている。ひたいの広い、あごの細い、長い顔をしている。あごひげと口ひげがあったが、ともにうすく、口ひげは鼻の下があいていた。美男というではないが、さすがに品はよい。この時、彼は二十四、義輝《よしてる》将軍と同年という若さであった。
景虎《かげとら》が入っていった時、前嗣《さきつぐ》は打ち水した壺庭《つぼにわ》にむかって、植え込みに流れているすずしげな灯籠《とうろう》を見て中啓《ちゆうけい》をはためかせていたが、はたと中啓《ちゆうけい》をとじて、景虎《かげとら》を見た。
ふんふんというように軽快にあごをうごかし、
「先ぶれものうて、だしぬけにまいって、もうしわけないことやな。思い立つと、矢も楯《たて》もたまらんで、ご無礼《ぶれい》はようわかっていたが、つい来てしもうた。来てそなたの顔を見れば気がすむのや。ぐあい悪いなら、このまま帰ったかてええ。どや、かまへんか」
と言う。いたって気軽な、ご身分がらいささか軽すぎるきらいのある調子だ。
帰ってもいいと言ったとて、隣り近所ではない。文字通《もじどお》りに山坂こえて四里もあるのだ。ことさら、関白《かんぱく》という天皇につぐ尊貴《そんき》な人だ。帰せるものではない。
「とんでもなきことをおおせられます。ようこそお運びくださいました。どうぞこちらへ、さ、どうぞこちらへ」
景虎《かげとら》は自分の居間《いま》になっている書院《しよいん》の間《ま》にみちびいた。この家ではこの座敷が一番よいのである。
茶を供《きよう》し、あとはすぐ酒にした。
二、三杯の酒をのむと、前嗣《さきつぐ》はうきうきとした調子で言う。
「今日はさぞ痛快であったろうな。そなたならでは、あれほどのことを言える人物は、いまの世にはない。天下にあらへん。あっぱれであったぞ」
「なんのことでございましょう?」
いぶかしげに、景虎《かげとら》は聞きかえした。ほんとにわからなかった。
「将軍の前でそなたの申したことや。公方《くぼう》の役に立ちたいと決心してのぼってきたのやよって、たとえ国もとに大事がおこっても帰らへん、その用意して来たと申したやろ」
「申しましたが……」
と答えながらも、早くもあのことが聞こえたのか、どんな筋道《すじみち》で聞こえたろうとおどろいた。
「あのことよ。あの席に松永《まつなが》の息のかかった者がいて、びっくり仰天《ぎようてん》、ご注進《ちゆうしん》と出かけたところ、松永《まつなが》の赤いつらが青菜《あおな》のような色になって、こんにゃくのようにぶるぶるとふるえだしたというで。わしにはわしでまた息のかかった者があってな。すんぐにわかったのや。なんともいえず気色《きしよく》がようてな。いても立ってもいられへん。そいで、急に身支度《みじたく》してやってきたちゅうわけよ。アハハ、アハハ、アハハ……」
腹をかかえて笑う。いかにもゆかいでたまらんといったふうだ。
(明るくにぎやかなお気質《かたぎ》の方のような)
とは思ったが、それにしてもいささか軽すぎるお人のようだと、また思い、ちょっとにがにがしかった。
それはそれとして、こんなことだけで来たものとは思われない。ほんとはなんの用事であろうかと気になった。相手の身分が身分だけに、ぶしつけにたずねるわけにはいかない。もてなしに心をくだきながらも、心にこだわりがあった。
だのに、前嗣《さきつぐ》はいっそうふわふわしたことを言いだした。
「弾正《だんじよう》。そなた女ぎらいやそうやな」
「きらいというわけではございませんが、いささか思う仔細《しさい》がございまして……」
苦笑しながらこたえた。苦笑するよりほかのないことだ。
「女がきらいなら、若衆《わかしゆ》が好きやろ。京はなんでもあるところや。ないのは金・銀と正しい心だけ。若衆《わかしゆ》もずいぶんきれいなのがいる。どや、望みなら、一度集めよう。まろもきらいやない。あれはあれで、また別なおもむきのあるものや」
いっそう苦笑せざるをえない。弱った。
「いや、どうも……」
前嗣《さきつぐ》はいくらでも飲む。きゃしゃなからだつきでありながら、大盃《たいはい》でぐいぐいとかたむけ、すこしも酔いが顔に出ないのである。
飲む段《だん》になると、景虎《かげとら》はまけない。同じように飲んだ。
しだいに夜が更《ふ》け、湖上に見えていた漁火《いさりび》の影《かげ》も少なくなったころ、とんと盃《さかずき》をおいて、前嗣《さきつぐ》は言った。
「弾正《だんじよう》、まろはおりいってのたのみがあって来たのや」
三
さあ来た、と景虎《かげとら》は思った。いかにこの人が軽忽《きようこつ》な人でも、これまでこの人が言ったような理由で、現関白《げんかんぱく》ともある人が山坂をこえて四里もの道を来ようとは思われないのである。心をひきしめはしたが、さりげなく微笑《びしよう》して答えた。
「おたのみとはなんでございましょう。拙者《せつしや》の力にかのうことなら、ちかってお望みのとおりにつかまつります。ご遠慮《えんりよ》なくおおせつけてくださいますよう」
「おお、さよか。そらありがたい。あんまり突拍子《とつぴようし》もないことのようやさけ、おどろくかもしれへんが、心からのたのみやよって、そのつもりで聞いてもらいたい。そなた、今日あないに公方《くぼう》の前では言うたものの、いずれは帰国せんならんやろ。その節《せつ》まろを連れていってもらいたいのや。どや、聞いてくれるか?」
思いもかけないことであった。これが一時代前なら、公家衆《くげしゆう》がたつきの道のないままに、地方の大名をたよって都落《みやこお》ちすることもめずらしいことではなかった。周防山口《すおうやまぐち》の大内《おおうち》氏や駿河《するが》の今川《いまがわ》氏が多数の堂上衆《どうじようしゆう》を寄食《きしよく》させていたことは有名だが、一条教房《いちじようつねふさ》は前関白《さきのかんぱく》でありながら土佐《とさ》の所領《しよりよう》に疎開《そかい》したままついに帰京しなかったのである。この小説でも越中《えつちゆう》の放生津《ほうじようづ》に畠山《はたけやま》氏をたよってきていた徳大寺大納言実矩《とくだいじだいなごんさねのり》ら九人の公卿《くぎよう》らが落城とともに猛火《もうか》の中に自殺した話を記述した。
しかし、これらのことは一時代前のことだ。小豪族《しようごうぞく》らがわれおとらじと競《きそ》いたってたがいに相攻伐《あいこうばつ》していた時期がもっとも乱脈をきわめ、公卿《くぎよう》らの所領《しよりよう》もめちゃめちゃになったのだが、戦乱のつづく間に優勝劣敗《ゆうしようれつぱい》がおこなわれ、弱は強に滅《ほろ》ぼされ、小は大にのまれ、だいたい雄豪《ゆうごう》だけが全国の各地に割拠《かつきよ》することになった。この雄豪《ゆうごう》の間に食うか食われるかの戦いがつづけられていることは昔にかわりはないが、そこにはもう無秩序《むちつじよ》はない。乱《らん》きわまって新しい秩序《ちつじよ》が生まれてきつつある。それぞれの地域で新しく雄豪《ゆうごう》となった人々は、もっとも古い権威《けんい》と結びつくことによって、みずからも権威《けんい》をもとうとする。すなわち、もし自分の分国《ぶんこく》内に皇室《こうしつ》や公卿《くぎよう》の荘園《しようえん》であったところがあれば、いくぶんかを返還することによってコネクションをつけ、位階《いかい》を昇叙《しようじよ》してもらったり、官名《かんめい》をもらったりする手を打つ。つまり、公卿《くぎよう》たちは、京に帰ってもどうやら生活ができることになったのだ。同時に京にも小康《しようこう》がきたので、皇居《こうきよ》の修理もできた。みなぞろぞろと帰ってきているのであった。
こういう時に、現関白《げんかんぱく》ともある人が、京を去って越後《えちご》へ行きたいというのだ。景虎《かげとら》は信じかねた。
「つまり、越後《えちご》ご遊覧《ゆうらん》のためでございますね」
と問いかえした。貧乏《びんぼう》はしても、公卿階級《くぎようかいきゆう》は風雅心《ふうがしん》は失ってはいない。ことに、前嗣《さきつぐ》は歌道の達人《たつじん》で、宗祇《そうぎ》から古今伝授《こきんでんじゆ》まで受けているというので有名だ。歌枕《うたまくら》をたずねての遊覧《ゆうらん》のための下向《げこう》とすれば、まあ考えられないことはない。
前嗣《さきつぐ》ははげしく首をふった。
「いやいや、一時の旅ではない。長く越後《えちご》に住みつき、越後《えちご》の土となるために行くのや。どや、連れていってくれへんか」
またおどろいた。とても本当とは思われない。しかし、酒興《しゆきよう》に乗じてのことばとも思われない。うすい口ひげとあごひげのある顔には酒気《しゆき》はただよっているが、もっともまじめな表情がある。
「これは意外なおおせをうけたまわります。いったい、いかがあそばしたのでございますか」
「わけを申さんではあかんか」
「現職《げんしよく》の関白殿下《かんぱくでんか》を遠国《おんごく》にお供《とも》するというのでございます。納得《なつとく》のいく理由がないかぎり、うけたまわるわけにはまいりません。だいいち朝廷《ちようてい》をはじめとして、世の人がいかが申しましょう」
すこし腹が立っていた。非常識きわまると思っていた。子供ではあるまいし、こんな軽はずみな話に乗れるかとも思った。
前嗣《さきつぐ》はひげをかきなでながら盃《さかずき》をふくみ、しばらく思案するふうに見えたが、グッとのみほすと、その盃《さかずき》をさした。
「ひとつ献《けん》じよう」
「おそれいります」
受けると、みずから銚子《ちようし》をとって、ついでくれて、
「すまんが、暫時《ざんじ》人をはろうてもらえんか」
と要求した。
景虎《かげとら》は侍臣《じしん》らに遠慮《えんりよ》するように命じた。
「そなたも、あっちへ行くのや」
前嗣《さきつぐ》は自分は別だと言いたげな顔で、うしろに佩刀《はかせ》をささげてひかえていた自分の従者《じゆうしや》を遠ざけた。
「さて、申さんければ、連れていかんと申すさけ、申す。いちおう聞いてくれいな」
「おそれいります」
「まろは京にいとうないのや。見るもいやなのや。まろは関白《かんぱく》や。人臣《じんしん》として無上《むじよう》の官職《かんしよく》にあるわけやが、力がそぐわんよって、公家《くげ》の位《くらい》だおれや。だれも心の中ではうやもうてはへん。はらわたの煮《に》えかえるような気になることがたびたびや。これは公方《くぼう》も同じ気持ちやろが、公方《くぼう》はまだええ、そなたのような大名がいて、わざわざ遠国《おんごく》から来てくれるさけな。公家《くげ》はなんにもあらへん。あるのはからあがめばかりや。あちらむいた時には赤い舌ぺろりと出しとる。なんぼ公家《くげ》の家に生まれたかて、一生京にいてこのくやしさをがまんしつづけていんならん道理はないやろ。男と生まれた甲斐《かい》には、自分の力で世に立つ身になってみたいと思いはじめたのが、この数年前からのことや。どや、これではあかんか」
人一倍《ひといちばい》男のほこりの高い景虎《かげとら》には、前嗣《さきつぐ》のこの述懐《じゆつかい》はよくわかったが、京ことばでへらへらと言われると、ついていきかねる。
「お話はよくわかりました。しかし、これは重大なことでございます。殿下《でんか》は関白《かんぱく》という無上《むじよう》の官職《かんしよく》にいらせられるのでございます。京をおはなれになってもかまわぬものか、どうか、なおよく考えましたうえで、ご返答申したいと存じます。殿下《でんか》におかれても、さらにご熟慮《じゆくりよ》ねがいます」
と、答えた。
前嗣《さきつぐ》はうすいひげをむやみにひねりあげながら聞いていたが、それをやめ、中啓《ちゆうけい》をとってはたはたと胸に風を入れて言う。
「考えに考えぬいたあげくのことや。このうえの思案はいらへんと、まろは思うとる。関白《かんぱく》であることがいかんなら、やめてもええで。なりたい者は摂家《せつけ》のなかでなんぼでもいるのやさけ」
「ま、このお話は今夜はこれくらいにして、あらためてのことにねがいとうございます。今日うかがって今日きめるには問題が大きすぎます」
「さよか」
不服げではあったが、ともかくも、前嗣《さきつぐ》も切りあげた。
四
将軍に謁見《えつけん》してから四日目の五月一日、景虎《かげとら》は参内《さんだい》した。前嗣《さきつぐ》がそのはからいをしてくれたのであった。
先年|上洛《じようらく》して先帝後奈良《せんていごなら》天皇に拝謁《はいえつ》した時もそうであったが、景虎《かげとら》には昇殿《しようでん》の資格はない。昇殿《しようでん》を許されるのはかならずふつうの人ならば五位《ごい》以上、蔵人《くろうど》は六位《ろくい》以上でなければならないが、昇殿《しようでん》とはつまり天皇の私宅《したく》たる清涼殿《せいりようでん》に出入りすることなのだから、かならず許されるとはかぎっていない。三位《さんみ》以上の人でも許されなかった例もある。天皇ととくべつ親しくしている者でなければならないのである。官位《かんい》は正五位下弾正少弼《しようごいげだんじようのしようひつ》だが、とくに天皇と親しくしているというわけではない。それゆえ、このまえも正式の拝謁《はいえつ》ではなく、禁中《きんちゆう》のお庭を拝見するという名目《めいもく》で入って、お庭先から殿上《てんじよう》にある、みかどからおことばを賜《たま》わったのであるが、こんどもその形式がとられた。
「あんじょう公卿衆《くぎようしゆう》に言いふくめてあるさけ、心配いらん。そなたの入る門の前に行くと、かかりの者が待っていて、案内《あない》してくれる。それについて行きさえすればええ。ほどよいところまで来れば、まろが待ってるさけ、あとはまろが知っている」
前嗣《さきつぐ》はそう言ったのである。
景虎《かげとら》は早朝に、このまえと同じように行列をそなえ、騎馬《きば》で、坂本《さかもと》を出て、まず縁故《えんこ》のある三条西《さんじようにし》家に入って休息し、そこで折烏帽子《おりえぼし》、布衣《ほうえ》姿にあらため、数人だけ従者《じゆうしや》をつれて、徒歩《かち》で禁裡《きんり》にむかった。
前嗣《さきつぐ》の言ったとおり、定《さだ》めのご門前まで行くと、数人の公家《くげ》たちが待っていた。正式の謁見《えつけん》ではないので、この人たちも公家《くげ》としては通常服《つうじようふく》の立て烏帽子《えぼし》、直衣《のうし》姿であった。前嗣《さきつぐ》からの言いふくめがあったばかりでなく、昨日のうちに景虎《かげとら》から十分のつけとどけがあったからであろう。下へもおかないあしらいで案内し、ねんごろに説明してくれる。
六年前とは禁裡《きんり》の様子もかわっていた。あのころはどうやら破損の個所《かしよ》をつくろっただけで荒廃《こうはい》の色がのこっていたが、いま見る禁裡《きんり》は一天のみかどのご住所としては粗末《そまつ》ながら、見ちがえるほどおちついた風情《ふぜい》がそなわり、静寂《せいじやく》で、清らかで、由緒《ゆいしよ》ある神社などのもつ森厳《しんげん》な感じもあった。
初夏の日に白くかがやいている玉砂をふんで、お庭を拝見し、いくつかの小門《こもん》をくぐって奥に行くと、松の木陰《こかげ》に前嗣《さきつぐ》が三人の若い公家《くげ》を従えて待っていた。景虎《かげとら》を見ると、砂をきしらせて進みよってきた。
「本日は身にあまる光栄で、かたじけのうございます」
と景虎《かげとら》が言うと、中啓《ちゆうけい》でちょっとおさえるようなしぐさをして、うす赤い疎髯《そぜん》の生《は》えたとがったあごをふんふんとしゃくった。
「みかどがお待ちかねや。ついて来や」
くるりとむきなおって歩きだした。足もとに砂がきしり、こぼこぼと沓《くつ》が鳴った。
松と竹の生《は》えている狭《せま》い庭に入ると、簀子《すのこ》(縁側)の内がわにかかった簾《すだれ》の内《うち》に人の動くけはいがしたかと思うと、きりきりと簾《すだれ》が巻きあがり、直衣《のうし》すがたの人が出てきた。四十をすこし越えたくらいの年輩《ねんぱい》だ。うすい痘痕《とうこん》の散らばった、色白な柔和《にゆうわ》な顔をしている。微笑《びしよう》をふくんで、景虎《かげとら》を見てうなずいた。
(みかどだ)
と、思ったので、景虎《かげとら》は大地にひざまずき、両手をついた。
その人は、中啓《ちゆうけい》を笏《しやく》のようにかまえて小腰《こごし》をかがめる前嗣《さきつぐ》と目を見合わせてうなずくと、奴袴《やつこばかま》をさやさやと鳴らして奥へはいった。
「ついて来や。みかどがおことばを賜《たま》わる」
中啓《ちゆうけい》の先で景虎《かげとら》の肩をおさえて、前嗣《さきつぐ》はそこにあった階段をのぼった。景虎《かげとら》はあとに従った。
みかどは一段高くなったところの、古びた錦《にしき》のへりのついた重《かさ》ねだたみの上にすわって待っておられた。前はひろい板敷《いたじき》になって、左右に数人の公家《くげ》たちが直衣《のうし》姿ですわっていた。
みかどの前のすこし左によった位置に円座《えんざ》がおいてある。前嗣《さきつぐ》はそれにすわり、みかどの前方の板の間《ま》の一点を中啓《ちゆうけい》で指さした。景虎《かげとら》はそこにすわって、平伏《へいふく》していた。
儀奏《ぎそう》の公家《くげ》であろうか、膝行《しつこう》して数歩出て、威儀《いぎ》を正《ただ》して、
「弾正少弼《だんじようのしようひつ》平景虎《たいらのかげとら》、長途《ちようと》を遠しとせずして入京《にゆうきよう》、献上《けんじよう》の品々《しなじな》まことに夥多《かた》である。忠誠《ちゆうせい》を王室に存するの条《じよう》、感ずるにあまりがある。叡感《えいかん》ななめならず、天盃《てんぱい》ならびに宝剣《ほうけん》を賜《たま》わる」
と披露《ひろう》した。しんとしたなかに、こだまを呼んで響《ひび》く声は、そぞろに身の引きしまるばかりに森厳《しんげん》であった。
純白《じゆんぱく》な着物に緋《ひ》の長袴《ながばかま》をはいた女官《によかん》が二人、三方《さんぼう》と銚子《ちようし》をささげて出てきて、三方《さんぼう》をすえ、酒をついでくれた。厚くおしろいを塗《ぬ》り、置《お》き眉《まゆ》をした女官《によかん》らの顔は、人形のように無表情であったが、膝行膝退《しつこうしつたい》しながらの動きは流れるようにしなやかで美しかった。
三方《さんぼう》の上には白木《しらきさ》の盃《さかずき》があり、酒がうすく黄色にたたえられていた。
景虎《かげとら》は三拝《さんぱい》して、とりあげて飲んだ。うすい酒であった。すこし酸敗《さんぱい》しているようでもあったが、ためらわずのみほし、盃《さかずき》は懐紙《かいし》につつんでふところにし、また平伏《へいふく》の姿にかえった。
公卿《くぎよう》の中から一人がいざり出てきた。これは三方《さんぼう》の上に、八寸ばかりのこしらえつきの短刀と浅葱《あさぎ》緞子《どんす》の袋をのせたのを景虎《かげとら》の前にさしおいて、さがっていった。
「粟田口藤四郎吉光《あわたぐちとうしろうよしみつ》作|五虎退《ごこたい》と名づくる名剣《めいけん》である。景虎《かげとら》忠誠の段をよみしたもうて賜《たま》わる」
と、儀奏《ぎそう》が披露《ひろう》した。
「アハッ」
景虎《かげとら》は三方《さんぼう》を両手にもっていただいた。
同時に、さらりと簾《すだれ》がさがり、人の立つけはいがし、足音が遠ざかっていった。
拝謁《はいえつ》はすんだのである。
五
景虎《かげとら》は帰途近衛邸《きとこのえてい》に立ちよってお礼を言上《ごんじよう》した。もちろん、前嗣《さきつぐ》はまだ禁裡《きんり》から帰っていないので、諸大夫《しよだいぶ》に会って礼詞《れいし》をのべ、よろしくご披露《ひろう》をねがうと言ったのである。この日|世話《せわ》になった公家《くげ》たちはもちろんのこと、格別《かくべつ》な世話《せわ》にはならなくても、列席していた公家《くげ》たちの宅にも、それぞれに家来をつかわして礼をのべさせた。金・銀その他の礼物《れいもつ》を贈《おく》ったことはいうまでもない。
坂本《さかもと》には夕方帰りついたが、それを追っかけるようにして、
「従四位下《じゆしいげ》近衛少将《このえのしようしよう》に任叙《にんじよ》する」
という位記《いき》が到着した。従五位上《じゆごいじよう》を一階飛んでいる。光栄であった。
近衛前嗣《このえさきつぐ》をはじめ公家《くげ》たちはせっせと坂本《さかもと》に景虎《かげとら》を訪問しはじめた。英雄崇拝的《えいゆうすうはいてき》な気持ちからであったと思われるが、この訪問が物質的な利益を即座《そくざ》にもたらすものであったからでもあったろう。景虎《かげとら》もまた彼らのそうした欲望に十分こたえてやった。「在洛中《ざいらくちゆう》、衣服・金・銀・青銅《せいどう》(銭《せん》)・紅燭《こうしよく》・白布をもって旧好《きゆうこう》の尊卑《そんぴ》に贈《おく》りたまえば、日々|使介《しかい》の往来、労苦をつくさずということなし」と上杉年譜《うえすぎねんぷ》にある。
この交際の間に、前嗣《さきつぐ》とはますます親密になった。親密になってみると、前嗣《さきつぐ》の言い分にも十分の同情がもてる。ついに、
「やがて帰国の際はかならずお連れする」
と、かたい約束ができた。
公家《くげ》たちとばかり交際したわけではない。武家ともまた交際を密にしたが、これには目的があるから、将軍にたいして忠誠心のある者をえらんで親しくなり、その他の者にはうわべは別として心からうちとけることは用心した。将軍のもとへはできるだけしげしげと出仕《しゆつし》した。
彼は将軍にたいして三好《みよし》や松永《まつなが》を討つことをすすめ、命令さえあれば即座《そくざ》にたたきつぶしてみせるとまで言ったが、将軍はそのふんぎりがつかなかった。
「やがておりが来る。無理はしたくない」
というのであった。
そのある日、将軍のもとに出仕《しゆつし》して帰る途中《とちゆう》のことであった。彼の行列が烏丸《からすま》通りにさしかかった時、烏丸《からすま》通りを上の方から来た騎馬《きば》の武士が二人あった。それぞれに徒歩《かち》の下人《げにん》を四、五人ずつ召し連れ、馬首《ばしゆ》をならべて談笑《だんしよう》しながら来かかったが、景虎《かげとら》の行列の先駆《せんく》がつい鼻先にさしかかったのを見ると、めんどうと見たのであろう、角《かく》を入れて、さっと駆《か》けぬけようとした。
「下馬《げば》して待たっしゃい! 越後少将《えちごしようしよう》の行列でござるぞ!」
と、先駆《せんく》の者はさけんで走りより、しっかと馬のくつわをとった。
「はなせ!」
武士らはわめいた。
「われらは松永弾正《まつながだんじよう》の家中《かちゆう》、これなるは三好修理大夫《みよししゆりだゆう》が家中《かちゆう》、はなさっしゃい! 無礼《ぶれい》な! なにをする!」
と他の一人もわめく。
景虎《かげとら》は馬上から見ていたが、このことばが聞こえると、猛然《もうぜん》としてさけんだ。
「討ちすてい!」
景虎《かげとら》のわきにじりじりしながら凝視《ぎようし》していた鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》と戸倉与八郎《とくらよはちろう》は、
「かしこまる!」
と言うや、矢のように飛んでいった。弥太郎《やたろう》は景虎《かげとら》の持ち槍《やり》をたずさえ、与八郎《よはちろう》も主人の持ち道具なぎなたをかかえている。駆《か》けながら鞘《さや》をはらった。
このすさまじい形相《ぎようそう》に、三好《みよし》・松永《まつなが》の家来は、くつわをとられた手を振りきってにげながら、
「三好《みよし》の家中《かちゆう》でござるぞ!」
「松永《まつなが》の家中《かちゆう》でござるぞ!」
と、ともにわめいた。このことばにききめのないはずはないと信じきっているように。
「なにが三好《みよし》じゃい!」
「なにが松永《まつなが》じゃい!」
二人は追いつきざまに、エイヤと攻撃をかけた。弥太郎《やたろう》は三好《みよし》の家来を背中から田楽刺《でんがくざ》しにして槍玉《やりだま》にあげ、与八郎《よはちろう》は松永《まつなが》の家来を右の肩から腰のつがいにかけて袈裟《けさ》に斬《き》りさげていた。
空巣《あきす》ねらい
一
白昼《はくちゆう》の街路上《がいろじよう》のことである。いまでは景虎《かげとら》の行列の美々《びび》しさは京都の市民らにもっとも人気《にんき》のあるものになっている。見物人が多数出ていたのである。その前で、当時京の内外で鬼神《きじん》か疫病神《やくびようがみ》のように恐れはばかられている三好《みよし》と松永《まつなが》の家中《かちゆう》の者を、即座《そくざ》に二人ながら誅殺《ちゆうさつ》したのだ。
人々はおそれ、おびえて、ぱっと逃げちり、ややはなれたところから、目をまるくして様子をうかがっていた。その顔はしだいに恐怖《きようふ》の色が消え、ひたすら驚嘆《きようたん》の表情となり、ひそひそと近くの者とささやきあった。
「えらい威《い》のある殿様どすな。蚊《か》か蠅《はえ》をつぶすように殺してしまわはりましたえ」
「三好《みよし》はんかて、松永《まつなが》はんかて、こおうないようどすな」
「ギャーいうて死によりましたで」
景虎《かげとら》は誅殺《ちゆうさつ》がすむまで馬をとめて、にらむような強い目で見ていた。
弥太郎《やたろう》と与八郎《よはちろう》とが、十分にとどめをさして、馬をかえしてきた。片あぶみはずして、
「つかまつりました」
と報告した。
景虎《かげとら》はうなずいて、言う。
「その方ども、あの者どもが主人じゃと申した家へ行ってまいれ。それぞれに討った者の主家《しゆけ》へ行くことにせよ」
「かしこまりました」
二人は同音に答えた。
「弥太郎《やたろう》の討ちはなした者は、だれの家中《かちゆう》と申した?」
「三好修理大夫《みよししゆりだゆう》が家中《かちゆう》と申しましただ」
「与八郎《よはちろう》のは松永《まつなが》じゃな」
「は」
「口上《こうじよう》は、しかじかの無礼《ぶれい》をはたらき申したにより、討ちすて申した。ご家中《かちゆう》の者と申してはいましたが、ご家来中《けらいちゆう》にかほどわきまえのない者があろうとは思われませぬ。おおかたご家中《かちゆう》の名をかたる者と存ずる。しかしながら、ご家中《かちゆう》の名を口にしたことはたしかでござれば、念のためにいちおうのお知らせをしておきます。もしまた、万々が一、ご家中《かちゆう》の者であって、当方のいたしようがご合点《がてん》まいらぬということでござれば、いつ何時《なんどき》なりともおいでいただきたい。ご理解のまいるまで、いく度《たび》なりとも、景虎《かげとら》みずからご説明申すでござろう、と、かように申すのだ。よいか」
「かしこまりました」
二人の顔はいきいきとなっている。おもしろいことがはじまりそうな気がしているのであろう。
弥太郎《やたろう》が言う。
「口上《こうじよう》はようわかったつもりではござるだが、ずいぶんと長口上《ながこうじよう》でござるすけ、ご念ばらしに、一ぺん通り申してみますべいか」
「それにはおよばぬ。主旨《しゆし》さえまちがわねばよい。それでは、さっそくに行けい」
「はっ」
二人は行列の末尾《まつび》についていた自分らの家来をひきつれて、それぞれの目的地にむかった。
景虎《かげとら》はどこへも寄り道をせず、まっすぐに坂本《さかもと》にむかった。
三好《みよし》や松永《まつなが》がどんな反応を見せるか、興味があった。自分ともめごとをおこすことをおおいに警戒《けいかい》している三好《みよし》・松永《まつなが》だ。当方の家中《かちゆう》ではござらぬと答えてめんどうを避《さ》けるか、正直《しようじき》に家中《かちゆう》の者であることを認めてもわびを言ってすませるか、どちらかであろうとは思うが、多数の市民らの見る前でやったことだけに、あるいは、後来《こうらい》に影響《えいきよう》があるとて強みを見せて抗議的《こうぎてき》に出るかもしれない。
(そうなって、弓矢のさわぎになってくれれば、ねがってもないさいわい。踏《ふ》みつぶしてくれるきっかけがつく)
と思った。
雨は降らないが、暦《こよみ》はもう梅雨季《つゆき》に入って、うす曇りしたむし暑い日であった。最初来たころはあざやかな新緑であったのが、いまではもうむさくるしいほどに繁茂《はんも》し、まっさおになっている東山《ひがしやま》の切通《きりどお》し道をこえて、山科野《やましなの》に出てしばらく行ったころ、前方から、白い砂煙《すなけむり》をあげて馬を飛ばしてくる武士があった。
見おぼえがあるので、
(はてな)
と、小手《こて》をかざして凝視《ぎようし》しながら馬を歩ませつづけていると、供頭《ともがしら》の役をつとめて後陣《こうじん》にいた金津新兵衛《かなづしんべえ》が馬を走らせてきた。
「殿、ありゃ源蔵《げんぞう》でございますぞ」
と言う。
秋山源蔵《あきやまげんぞう》のことだ。今日は留守役《るすやく》として坂本の宿舎にのこっていたのである。
二
ただならない様子と思われたので、景虎《かげとら》は行列をとどめ、馬をおりた。路傍《みちばた》の木陰《こかげ》に床几《しようぎ》をすえ、扇《おうぎ》づかいしながら待った。
秋山源蔵《あきやまげんぞう》は、十|間《けん》ほどむこうで馬をおり、汗をふきふき近づいてきて、景虎《かげとら》の前一|間《けん》ほどのところにひざまずいた。秘密を要することかもしれないと思ったので、左右にひざまずいている侍臣《じしん》らにあいずして遠ざからせてから、源蔵《げんぞう》に近くよるように目くばせした。
いざりよってきた。
ふいてもふいても噴《ふ》きだしてくるのであろう、源蔵《げんぞう》のひたいには汗が玉になっており、ほおは水を浴びたようにぬれ、あごから滴々《てきてき》としたたっていた。その汗をそのまま、源蔵《げんぞう》は顔を寄せて、低く言った。
「お国もとから急使でございます。越前守《えちぜんのかみ》(政景)様からのご書面をもってまいったのでございます」
と言いながらふところをさぐって書状を出してさしだした。
景虎《かげとら》が手を出して受けとると、わたしながら景虎《かげとら》の目を見つめて、いっそう声をひくめた。
「この五日、武田《たけだ》が大田切口《おおたぎりぐち》に手づかいつかまつりました由《よし》」
(なにイ?)
と、声が出そうであったが、こらえた。きっと相手の目を見返して、うなずいた。
景虎《かげとら》はことさらにおちつき、小束《こづか》をぬいて丹念《たんねん》に封《ふう》じ目をはがして、書面をひろげた。
「昨五日の正午《しようご》をすこしまわった刻限《こくげん》、善光寺平《ぜんこうじだいら》の横山《よこやま》城から急ぎの注進《ちゆうしん》があった。今早暁《こんそうぎよう》、まだ薄明《はくめい》のころ、とつじょとして武田勢《たけだぜい》が川中島《かわなかじま》にあらわれたかと思うと、そのまま犀《さい》川をふみ越えて侵入《しんにゆう》してこようとする。当城ではただちに出動して河岸《かがん》に布陣《ふじん》し、かねての約定《やくじよう》に違反《いはん》していると抗議《こうぎ》しつつあるが、武田方では、主人|大膳《だいぜん》大夫《だゆう》は昨年末京の公方《くぼう》から信濃守護《しなのしゆご》に任命された。およそ守護《しゆご》たるものがその管内《かんない》を警備し、検断《けんだん》し、暴《ぼう》をこらし、悪を制圧するのは当然の職権《しよつけん》である≠ニ申しつのってやまない。事態ははなはだ険悪である。いそぎ救援《きゆうえん》あるよう、との注進《ちゆうしん》であった。自分はいそぎ陣触《じんぶ》れしておいて、一騎《いつき》がけに春日山《かすがやま》を飛びだしたが、みちみち注進《ちゆうしん》に接すること櫛《くし》の歯を引くようであった。武田勢はついに横山衆の必死の防戦を押しやぶって、北へ北へと進攻《しんこう》してきつつあることがわかった。自分が関山《せきやま》についた時には、武田勢はもう国境《くにざかい》を越えて大田切口《おおたぎりぐち》まで入ってきたとの注進《ちゆうしん》を受けた。自分はそれまでに追いついた勢《せい》三百人余をひきいてはせむかい、大田切《おおたぎり》川をへだてて武田勢と対陣した。武田勢はおよそ五、六千人、晴信《はるのぶ》みずからの出陣らしく、本陣《ほんじん》に四如《しじよ》の旗をおしたてていた。味方は刻々《こくこく》に到着の人数がふえ、夜までに七千人ほどとなったので、夜の明くるを待って決戦の心ぐみでいたところ、本日の夜の引きあけ時から武田勢は退却《たいきやく》にかかり、いまもそれがつづいている。ご承知のとおりの堅固《けんご》な退却《たいきやく》ぶりであるから、追撃に出るすきがなく、油断《ゆだん》なく身構《みがま》えながらも見送っているよりしかたがない。これからどんな変化を見せるか、予見《よけん》はできないが、身命《しんめい》をなげうち、心をくだいて、機《き》に臨《のぞ》み変《へん》に応じて、できるかぎりの手だてはつくす決心である。しかし、できるだけ早く御用をすませて、ご帰国あるようねがう。とりいそぎしたためた。なお後便《こうびん》をさしたてるから、お待ちねがいたい」
という意味のものであった。
(晴信《はるのぶ》め!)
心中、景虎《かげとら》は歯ぎしりした。陋劣《ろうれつ》だと思った。晴信《はるのぶ》がどんな人物であるかわかっていればこそ、わざわざ使者を出して、しかじかの理由で上洛《じようらく》するが、公事《こうじ》のための上洛《じようらく》であるから、不在《ふざい》ちゅうには当方の分国内《ぶんこくない》に手づかいしてくれるな、もしこの要求を聞きいれられないというなら、それもけっこうであるから、はっきりとその旨《むね》を申してもらいたいと、交渉《こうしよう》したのだ。それにたいして、将軍にたいするこちらの忠志《ちゆうし》をさんざんにほめたうえ、申しいれの条委細承引《じよういさいしよういん》した。けっしてご懸念《けねん》にはおよばぬ、もしこの約束にそむくものなら、自分は仏神《ぶつしん》の冥罰《みようばつ》をこうむるであろうとまで言って返答したのだ。その時からまだ半年はたたないのに、早くもこうだ。
景虎《かげとら》は、その時|晴信《はるのぶ》の言ったということばのすみずみまで思い出した。そのことばのどこからこの腹黒さを感ずることができよう。心に腹黒さをもちながら、よくもあんなことが言えたものだ。
(大悪人だ!)
と思った。
はじめから、空巣《あきす》ねらいするつもりであったのだ。
(うすぎたない男め!)
とも思った。
炎《ほのお》のようなものが胸に燃えあがり、翼《つばさ》があるものなら飛んでかえりたかった。
やがて、気をとりなおして、源蔵《げんぞう》を見た。源蔵《げんぞう》はまだ汗をかいている。まっかな顔から毛深い胸もとのあたりが、見るからに汗くさそうであった。
「源蔵《げんぞう》」
と呼んだ。
「はッ」
「このこと、しばらく他言無用《たごんむよう》だぞ。宿もとに帰ったうえで、おれの口から触《ふ》れる」
「かしこまりました」
三
坂本《さかもと》にかえりつくと、すぐ国もとからの使いの者と会って、いろいろと様子を聞いていると、また使いが到着した。これも政景《まさかげ》の手紙をたずさえている。
「武田勢はいぜん退却《たいきやく》をつづけ、ついに犀《さい》川以南につぼまってしまった。当方は犀《さい》川まで兵を進め、厳重に抗議《こうぎ》ちゅうであるが、武田方は、はじめ犀《さい》川を越えようとした時の口上《こうじよう》をくりかえすだけである。たとえ信濃守護職《しなのしゆごしき》に任《にん》ぜられたとて、約束は約束だ。一方的にやぶらるるのは心得《こころえ》がたい。しかし、これはいちおうおくとしても、国境《くにざかい》を越えて越後《えちご》に侵入《しんにゆう》なされたのは、なぜであるか≠ニ、申したところ、それは当方の過失《かしつ》であった。国境線がどこであるか、よくわからなかったのである。重々《じゆうじゆう》おわびする≠ニの答えである。狡猾《こうかつ》おどろくべきものである。当方では、貴方《きほう》でもご承知のとおり、景虎儀《かげとらぎ》は参覲《さんきん》のため上洛《じようらく》ちゅうであるゆえ、われらとしてはもうお尋《たず》ねはいたさんが、やがて景虎《かげとら》帰国のうえは、あらためてご説明をもとめるであろう。ご承知おきねがいたい≠ニ申しいれて、論判《ろんぱん》は中止しているが、なお両軍|犀《さい》川をへだてて対陣ちゅうである」
という文面であった。
いくらか安心はしたものの、なお心配であった。政景《まさかげ》が中心になって留守《るす》をあずかっているのであるから、たとえ合戦《かつせん》となっても、へたはすまいとは思うが、尋常一様《じんじよういちよう》の敵ではない。なろうことなら、合戦《かつせん》にせずことを治めてほしいと思った。祈るような気持ちであった。
連れてきた将士にこれを発表することにも技術がいると思われた。遠く国をはなれて、不安になりやすい心理でいる者に、いきなり知らせては、収拾できない混乱と動揺《どうよう》におちいることは目に見えている。
しかし、こんなことはすぐ知れるものだ。大身《たいしん》の者には家族や家来どもから知らせてくるであろうことも考えなければならない。自分が発表する以前に、そんなことで知っては、無用な|かんぐり《ヽヽヽヽ》をして、結果はかえって悪くなりがちなものだ。
あれこれと思いめぐらしたすえ、部将級の者だけには知らせておいた方がよいと決心した。使い番の者どもを呼んで、部将らに、今夜の五ツ(八時)までに、本陣《ほんじん》に集まるように伝えよと命じた。
使い番らを出してやると、いくらか気持ちがおちついたが、同時にかなり疲《つか》れていることに気がついた。足をふみのばして、横になり、ひじ枕《まくら》していると、弥太郎《やたろう》がかえってきた。
起きあがって、迎えた。
「どうであった。そちは三好《みよし》の方であったな」
「三好《みよし》でございます。まいりましたところ、やせてしわくちゃな老人が、すこし腰をかがめてチョコチョコと出てまいりまして、それは当家中《かちゆう》の者ではござらぬ。あの方角には本日は当家中《かちゆう》の者はまいらなんだはずでござる。おおかた当家の名前をかたる者でござるべ、と、かように申しましただ。三好《みよし》家ともあれば、家中《かちゆう》の者も多数あろうに、あの方角には今日はまいらなんだはずじゃとは、目ざましいことを言うわとおかしゅうて笑いだしとうございましただが、文句《もんく》を言うこともなかるべと思いましたすけ、はあ、さようか、それは重畳《ちようじよう》、おかげでこちらも助かり申すと言うて、もどってまいりましただ」
と、弥太郎《やたろう》はにやにや笑いながら報告した。
なるほど、これはこっけいであった。
「そうか、そうか」
と笑った。めんどうを避《さ》けたがっているのがよくわかった。
そこへ戸倉与八郎《とくらよはちろう》もかえってきた。
「そちらも、家中《かちゆう》の者ではない、松永《まつなが》の名前をかたっている者であろうと申したか」
「いえ、家中《かちゆう》の者かもしれぬ。いずれとり調べます、さような無礼《ぶれい》をはたらいたとすれば、お討ちすてになるのは当然のこと、文句《もんく》など申そうとはつゆ思いませぬ。ご無礼《ぶれい》をおわび申すだけのこと。とり調べましたうえで、家中《かちゆう》の者と判明いたしましたらば、あらためておわびに上がりますれば、ひとまずお引きとりください、と、まことに鄭重《ていちよう》なあいさつでございました」
「ほう」
意外であった。どうするつもりであろうと考えた。
「拙者《せつしや》も心ひそかにおどろきましたが、文句《もんく》を言うすじあいではございませんので、ご諒解《りようかい》くださればそれでようござる、あらためてのわびなどはいらぬことでござると申して、まかりかえってございます」
「応対にはだれが出たのだ?」
「家老《かろう》じゃと申していました。四十|年輩《ねんぱい》の恰幅《かつぷく》のよい人物でありました。しかし、どういう料簡《りようけん》でございましょうか」
「そうよなあ。……横着《おうちやく》で、悪知恵《わるぢえ》のある男だ。いまのように表面はなにごともないようでいても、いつどういう態度に出られるかわからん間柄《あいだがら》では、不安でならんので、この機会にこちらにとりいろうというのかもしれんな」
「ああ、さようで」
二人を座敷にのこしたまま、景虎《かげとら》は刀かけの刀をとってはだしで庭に下りたった。つい数日前、大館兵部少輔《おおだてひようぶしようゆう》から返礼にもらった太刀《たち》だ。備前長船《びぜんおさふね》の住兼光《じゆうかねみつ》の作、二尺七寸五分という大業《おおわざ》ものだ。五尺をわずかに越えたくらいの小柄《こがら》な景虎《かげとら》には、長大《ちようだい》にすぎる刀だが、かるがるとひっさげ、庭の中ほどに出た。
腰にさして、しばらく気息《きそく》をととのえていたが、いきなり、すさまじい気合いとともに抜いた。
「エイ! エイ! エイ! エイ!……」
つづけさまな叫びをあげながら、縦横《じゆうおう》に撃刺《げきし》した。笞《しもと》をふるうよりも軽く、打ちふるたびに刀は風を切って鳴った。
やがて、やめて、全身を汗にぬらしながら、縁側《えんがわ》に出てきてかしこまって拝見している二人に言った。
「ちと重いわ。おしいが、すこし上げねばなるまい」
「すこしもそのようには見えませんが」
「ずいぶんお使いよげに見えますに」
と二人は言う。
「ちとさわる。小柄《こがら》で非力《ひりき》じゃゆえ、せんない」
庭と縁側《えんがわ》とで語りあっていると、とりつぎの者が、松永《まつなが》弾正忠《だんじょうのじよう》様がお見えになったととりついできた。
四
「よし。通せ。ここがよい」
と言って、景虎《かげとら》はさらに刀をふるいはじめた。まえよりもさらに勁烈《けいれつ》なさけびを上げ、さらにはげしい動作で撃刺《げきし》をつづけた。
やがて素袍《すおう》姿の松永《まつなが》がとりつぎの者に案内されて、架灯口《かとうぐち》を入ってきた。庭先の景虎《かげとら》を見ると、にこりと笑った。赤い顔はほくほくと、いかにも楽しげなものになって、座敷にすわってからも見つづけていた。
景虎《かげとら》はなおしばらく撃刺《げきし》をつづけてから、刀をさやにおさめて、こちらをむいた。まだ笑顔《えがお》をつくっている松永《まつなが》の顔がそこにはあった。景虎《かげとら》ははっとした。彼は松永《まつなが》が自分のこの行為を演出と見ていることを知った。演出のつもりはなかった。疲労《ひろう》による惰気《だき》をはらわなければ松永《まつなが》のようなアクの強い人間と会うことはできないと思ってしただけのことであった。けれども、そのくせ、顔が赤らんでくるのを感じた。もっとも、それははげしい運動による上気《じようき》と発汗《はつかん》でわきからはわからない。
「失礼いたした。すぐまいる」
「どうぞ、おゆるりと」
松永《まつなが》はまだ微笑《びしよう》しながらあいさつを返す。大人《おとな》が子供にたいするような余裕《よゆう》のある表情であった。
景虎《かげとら》は湯殿《ゆどの》に入って水をかぶって汗を流し、衣服を松永《まつなが》と同じく素袍《すおう》にして帰ってきた。
松永《まつなが》は円座《えんざ》をさがり、両手をついた。
「本日はお使いをたまわりました。さっそくに取り調べましたところ、まさしく拙者家中《せつしやかちゆう》の者でございました。かねがね教誨《きようかい》はおこたってはいないつもりではございますが、多数の中には不心得《ふこころえ》な者もいまして、ご成敗《せいばい》になるような無礼《ぶれい》なことをいたしてしまいました。家来の罪《つみ》は主人の責任、まことにもうしわけなきことでございました。いくえにもおわび申しあげます」
鄭重《ていちよう》をきわめた口上《こうじよう》であった。
「わかっていただけば重畳《ちようじよう》でござる。ご丁寧《ていねい》なごあいさつおそれいる。わざわざ来ていただくほどのことではござらなんだ」
と、景虎《かげとら》はあいさつを返した。
「いやいや、まいりませいでは、念がとどきませぬ。ところで、あの者の家族どもでござるが、いかがつかまつりましょうか」
「家族をどうしようと言われるのだ」
「主《しゆう》のかねての教誨《きようかい》をよそに聞き、あのようなまちがいをしでかし、お怒《いか》りに触《ふ》れました段《だん》、もってのほかの罪科《つみとが》でありますゆえ、本来ならばその家族にも科《とが》をおよぼすべきでありますが、もし寛大《かんだい》のごさたをたまわることができますなら、しかりおくくらいのことですませたいと存ずるのであります」
松永《まつなが》の態度はあくまでうやうやしい。あまりうやうやしすぎて、本気でそう思っているのではなく、こちらを試《ため》しているのではないかと思われるほどだ。
景虎《かげとら》はじりじりしてきた。
「それはご家法《かほう》によること。われらが口を入れることではござらぬ」
と、すこしきびしい調子になった。
「おそれいります。他意《たい》あっておたずね申したのではございませんが、おおせられること、道理であります。おわび申し上げます」
松永《まつなが》はわびた。
しばらく世間話《せけんばなし》をして、ふと松永《まつなが》は言う。
「さきほど京を出がけに家来の者が町で聞いてきたうわさじゃそうでありますが、お国もとでは武田《たけだ》がご分国《ぶんこく》内に侵入《しんにゆう》して、合戦《かつせん》がおこったとか。真実とすればゆゆしいこと。事実でございましょうか」
なるほど、これを早くも聞き知ったから様子を見るためにみずからわびに行きたいと言ったのだな、と思った。おそらく信州路《しんしゆうじ》か越後《えちご》か、その近国《きんごく》に間者《かんじや》を入れていて、それの報告でいちはやく知ったのであろう。
景虎《かげとら》は笑った。
「きついお早耳《はやみみ》でござる。われらは今日、京からの帰りに、ここへとどいた書面をもってこられて、それではじめて知ったのです。しかし、その後また急使がまいって、武田《たけだ》が分国《ぶんこく》外に退去したことを知りました。留守居《るすい》の者ども、よくつとめてくれます」
かくすことはない。ほんとのことを言った。
「それはけっこうでございました。旅に出ていては、さなきだになにかと心もとないものでありますのに、そのようなことが起こっては、一時のご心配はさぞなと、お察し申しあげます。軽うすんで大慶《たいけい》しごくでございます。しかし、武田もまたなんという不信義《ふしんぎ》なことをいたしたものでありましょう。貴殿《きでん》ご出発にあたっては、ご不在ちゅうはご分国《ぶんこく》内に手づかいはせぬと堅《かた》い約束があったのでございましょう。そのことについては、公方《くぼう》様よりも、御教書《みぎようしよ》をくだされ、くれぐれも訓戒《くんかい》あそばされたとうかがっておりますのに。音に聞く人のようでもありませんな」
松永《まつなが》は弁じたてる。心の底から晴信《はるのぶ》の不信義《ふしんぎ》をいきどおっているもののようだ。
聞いているうちに、景虎《かげとら》は、あんがい、武田は松永《まつなが》にそそのかされてことを起こしたのかもしれないと思った。
(おれは領内《りようない》にも道すじの国々にも、このたび、上洛《じようらく》のうえは、われらの力によって京に平和をうちたて、天子と将軍家との本来の権威《けんい》を復《ふく》したてまつることによって、天下を太平《たいへい》ならしめ、万民《ばんみん》をして安堵《あんど》させたい決心であると宣言《せんげん》して来た。また、将軍にお目見得《めみえ》した時にも、お役に立ちたいと決心して来た、御用ならば、たとえ国もとに大事が起こっても、そのためにはけっして帰国しないとちかった。いずれも松永《まつなが》は聞いているに相違ない。おれがいつまでも京にいることは、松永《まつなが》にとってはいやなことにちがいない。みしみしと鳴るうす氷の上にいる気持ちであろう。そこで、武田をそそのかす手を打ったにちがいない。国《くに》もとをおびやかされれば、おれがこちらに滞在《たいざい》していることができないと見たのだ。もっともありそうなことだ。武田にすれば、いくらかでも切り取れば、それだけ得《とく》と勘定《かんじよう》したのであろう。これもありそうなことだ。狐《きつね》と狸《たぬき》が組んだら、なにをやりだすか知れたものではない……)
景虎《かげとら》は微笑《びしよう》した。
「おことばのとおり、武田の不信義《ふしんぎ》はさることながら、じつはさほどにも案じはいたしませなんだ。公方《くぼう》様にも申しあげましたとおり、何年|滞京《たいきよう》してもかまわぬよう、留守居《るすい》の者どもによく申しふくめてありますので、びくともする国もとではないのでござる」
「なるほど、なるほど。さすがは武威《ぶい》天下に鳴るお家《いえ》と、感服にたえませぬ。天下の大慶《たいけい》であります。みかどは申すもかしこし、将軍家はもとよりのこと、数ならぬわれら式《しき》まで、このうえのうれしいことはございません」
大げさなほめ方をする。
景虎はにくいと思った。不安もあった。恐怖《きようふ》といってよいかもしれない。こうして滞京《たいきよう》をつづけている間に、武田がくりかえし侵入《しんにゆう》してくれば、政景《まさかげ》らだけでは力がおよばなくなることは目に見えていた。国もとの豪族《ごうぞく》らにたいする武田の調略《ちようりやく》のあるだろうことも考えなければならない。連れてきている者どもの心理の動揺《どうよう》もおさえられなくなるであろう。
景虎《かげとら》はあせりを感じた。
五
軽い饗応《きようおう》にあずかって松永《まつなが》が辞去《じきよ》していってまもなく、長い日も暮れた。
とっぷり暗くなるころ、部将らは集まってきた。それぞれに直垂《ひたたれ》姿で、従者《じゆうしや》に松明《たいまつ》をもたせ、騎馬《きば》で来たのである。
景虎《かげとら》はこの家でもっとも広い座敷に集めて、口で報告したばかりでなく、政景《まさかげ》の書面を見せ、使者を呼びだしてその口からも語らせた。一同はおどろきもしたが、納得《なつとく》もして、酒をふるまわれ、ほろ酔いのいいきげんになって帰っていった。
景虎《かげとら》は滞在《たいざい》をつづけ、将軍のところに顔を出したり、近衛前嗣《このえさきつぐ》をはじめ公卿《くぎよう》たちと交際したり、ときどきは社寺詣《しやじまい》りをしたりして日を送った。
表面|悠々《ゆうゆう》たる態度ではいたが、内心ではあせっていた。
彼の観察によれば、京畿《けいき》の乱れのもとは三好《みよし》と松永《まつなが》にある。元来が陪臣《ばいしん》であり、陪々臣《ばいばいしん》であるこの二人が権力をほしいままにしていることが、上下|転倒《てんとう》の混乱のもとであり、ひいては天下の乱れとなっている。天下が定《さだ》まるとは、名と実とが相応《そうおう》することである。そうでなければ位《くらい》などというものは意味のないものになる。天子の名に天子の実権がそなわり、将軍の名に将軍の実権がそなわってこそ、天子の位《くらい》であり、将軍の位《くらい》である。本《もと》であるこれが今日のように乱れているかぎり、末が治まろうはずはない。上下|転倒《てんとう》、弱肉強食《じやくにくきようしよく》の今日の天下の禍乱《からん》は、なによりもまずここを正《ただ》すことから手をつけなければならない。せんずるところ、三好《みよし》と松永《まつなが》を誅殺《ちゆうさつ》するところからはじめるべきである。
景虎《かげとら》のこの考え方は正しいとはいえない。天皇や将軍が権力を失墜《しつつい》したのは、今日《こんにち》の人の考え方からすれば、長い歴史の結果であり、三好《みよし》や松永《まつなが》の所為《しよい》ではない。もし責任者をもとめるとするならば、その長い時代に生きた、天皇や将軍をも含めたすべての日本人の負うべき責任である。つまりは必然の結果として下剋上《げこくじよう》の社会的気風が生まれ、上下|転倒《てんとう》、弱肉強食《じやくにくきようしよく》、戦乱たえまない世の中になったのだ。景虎《かげとら》の考え方は順序が逆になっている。三好《みよし》や松永《まつなが》が権《けん》にほこって暴悪《ぼうあく》なふるまいのあることは事実ではあるが、彼らの力によって、京都がともかくも小康状態《しようこうじようたい》を得ていることも事実である。その点では功績《こうせき》だってないわけではない。
が、しかしながら、これは後世《こうせい》のわれわれの判断だ。頭脳《ずのう》が優秀《ゆうしゆう》であればあるほど、学問をすればするほど、観念論的になるのがふつうである時代だ。景虎《かげとら》が上記のように考えたのは無理はないのである。
「三好《みよし》と松永《まつなが》を誅殺《ちゆうさつ》すれば、おれの当地でのしごとはいちおうすむ」
と、考えたが、三好《みよし》も、松永《まつなが》も、景虎《かげとら》の気持ちは十分に読みとっているのだろう、へたな行動をしない。家来どもの末まで身をつつしんで、乗《じよう》ぜられるすきをつくらないのだ。
ついに景虎《かげとら》は将軍に会った時、人を遠ざけて、もっとも痛切《つうせつ》なことばをもって、誅殺《ちゆうさつ》を命じてくれるよう要求した。義輝《よしてる》は景虎《かげとら》の忠心を賞《しよう》しながらも、
「そなたの勇武《ゆうぶ》にたいしては彼ら輩《はい》が敵するはずはないとは思うが、なんと申してもここは彼らの地元だ。衆寡《しゆうか》の勢いが懸絶《けんぜつ》している。万々が一のことがあっては、わしはこれからだれをたよりにしよう。もしそなたが帰国してのち、彼らが僭上暴悪《せんじようぼうあく》のおこないをするようなことがあったら、その節《せつ》ひそかに告げ知らせるゆえ、大軍をもよおして上洛《じようらく》、退治《たいじ》してくれるよう。いまは時機《じき》ではない」
と許さなかった。景虎《かげとら》は、
「合戦《かつせん》は勢《せい》の多寡《たか》にはよらぬものでござる。拙者《せつしや》には五千の兵があります。たとえ彼らにいく万の兵がありましょうとも、即座《そくざ》に踏《ふ》みつぶしてごらんにいれます」
と言ったが、どうしても義輝《よしてる》は承諾《しようだく》しなかったと、上杉年譜《うえすぎねんぷ》は記述している。
そのくせ景虎《かげとら》が帰国の支度《したく》をしているといううわさが立つと、あわてて大館兵部少輔《おおだてひようぶしようゆう》をつかわして実否《じつぴ》をとりしらべさせたり、滞在《たいざい》を懇請《こんせい》したり、家格《かかく》の昇進《しようしん》を意味する塗《ぬ》り輿《ごし》や朱柄《しゆへい》の傘を《からかさ》用いることを許したり、足利《あしかが》氏が皇室《こうしつ》から賜《たま》わった五七《ごしち》の桐《きり》の紋章《もんしよう》をあたえたり、屋形《やかた》号を称することを許したりしている。こういう格式的なことしか、このころの将軍には自由になることはなかったのである。
ついには、関東管領職《かんとうかんれいしよく》を授《さず》けるとまで言いだした。
関東管領職《かんとうかんれいしよく》は、先年《せんねん》、上杉憲政《うえすぎのりまさ》が小田原北条《おだわらほうじよう》氏の累年《るいねん》の圧迫にたえかねて越後《えちご》に落ちてきて庇護《ひご》をたのんだ時、上杉の名跡《みようせき》とともに景虎《かげとら》に譲《ゆず》るから、そのかわりに関東にうってでて小田原北条《おだわらほうじよう》氏をほろぼして恥辱《ちじよく》をすすいでくれたうえ、上州《じようしゆう》一国を自分にあたえよと言ったのであった。その時、景虎《かげとら》は、お家《いえ》の名跡相続《みようせきそうぞく》と管領職《かんれいしよく》のことはともに家の面目《めんもく》ではあるが、いずれも京の公方《くぼう》家の台命《たいめい》なくして私《わたくし》の授受《じゆじゆ》ははばかりがある。公方《くぼう》家のお許しも受け、関東にうってでて北条《ほうじよう》氏にいちおうの打撃をあたえたうえで、あらためてご相談にあずかりたいと言って、あずかりにしてきたことだ。
将軍はそのことをだれからか耳にしたのであろう、みずから言いだしたのであった。
景虎《かげとら》は年若い将軍が、自分一人をたよりにして、どうしたらよろこばすことができるかと、心をくだいているのが、胸が痛くなるほどいじらしかった。
「そのことについては、先年《せんねん》こういうことがあったのでございます」
と、いきさつをくわしく言上《ごんじよう》した。
将軍はひざを乗りだした。
「そうだろう、そうだろう。だから、わしはこう言うのだ。許す。受けるがよい」
「ありがたいおおせでございます。しかしながら、関東管領《かんとうかんれい》はなかなかの重職《じゆうしよく》、ただいまの拙者《せつしや》では荷が勝ちすぎることでございます。拝任《はいにん》するとすれば、拙者《せつしや》がその任にたえる力があることをみずからたしかめもし、世の人にも示してからであるべきでございます。されば、やがて帰国の後関東に出馬《しゆつば》し、北条《ほうじよう》に一塩《ひとしお》つけてからのことにねがいとうございます。拙者《せつしや》は田舎《いなか》ものでござれば、みずからも納得《なつとく》し、世の中も納得《なつとく》できぬようなことは、恥《は》じがましくてできぬのでございます」
将軍は感嘆《かんたん》した。
「そなたの心術《しんじゆつ》のさわやかさには、いつも感じいらずにはいられぬ。それにはおよばぬと思うが、そなたのその心術《しんじゆつ》をのちの世の人にも伝えるために、心にまかせよう」
と、言って、とくに内書《ないしよ》を自筆で書いてさずけた。上杉|五郎憲政《ごろうのりまさ》の進退は、すべて景虎《かげとら》の指揮《しき》にまかせるという文面であった。憲政《のりまさ》の名字《みようじ》と管領職《かんれいしよく》のことは、その方の随意《ずいい》にしてよいという意味である。
六
九月に入ると景虎《かげとら》は帰ろうと思いはじめた。彼が滞在《たいざい》をつづけていることは、たしかに京を安定させている。彼のいるかぎり、三好《みよし》や松永《まつなが》の暴悪《ぼうあく》はない。しかし、そういつまでも滞在《たいざい》をつづけることは、実際問題としてできないことである。彼自身のあせりもだが、だいいち、連れてきている武士らが里心《さとごころ》をおこしてきた。このころになると、武士らの間の会話はみな国のこと、家庭のことであるという。また、国もとでも不安の念がつのっている模様《もよう》だ。政景《まさかげ》をはじめ留守《るす》をあずかっている者どもからせっせと書面が来るが、それはすべてその不安をうったえ、帰国をうながすものばかりである。放置しておくと、これは動揺《どうよう》になるおそれがある。
「いずれにしても、帰らねばならん」
と思った。
自分の立ち去ったあとの京はもちろん心配だ。せめて三好《みよし》・松永《まつなが》を誅伐《ちゆうばつ》して後患《こうかん》を絶ってからにしたいと思って、帰国の意志を告げて、ふたたび将軍を説いた。将軍は帰国のことについては驚きあわて、悲しんで、引きとめようとしたが、誅伐《ちゆうばつ》のことはやはり決断しなかった。
「ご決心がつき申さぬとあれば、いたしかたないことでございます。しかしながら、拙者《せつしや》帰国のことは、もはややむをえぬことで、いまさらひるがえすほどならば、最初から申し上げはいたしませぬ。おことばに従い申さず、心苦しくはございますが、なにとぞお許しをこうぶりとうございます」
きっぱりとしたことばに、将軍はついに黙《だま》った。
にわかに悄然《しようぜん》としてたよりなげになった将軍を見ると、景虎《かげとら》は胸が痛かった。
「国もとに帰りはいたしましても、ご奉公《ほうこう》の心はつゆ忘れはいたしませぬ。おぼしめし立ちたもうことがございましたら、さっそくご密使をたまわりとうございます。ちかって即座《そくざ》にまかりのぼり、お役に立ち申すでございましょう」
と言った。
「たのむぞ、たのむぞ」
ことば少なくくりかえして、将軍は涙ぐんでさえいた。
雪しんしん
一
景虎《かげとら》は帰国の決意を近衛前嗣《このえさきつぐ》に告げた。
「約束や。連れていってくれるやろな」
「もちろん」
「ありがたや! 所願成就《しよがんじようじゆ》や!」
前嗣《さきつぐ》は大喜びでこのことを発表し、支度《したく》にかかったが、前嗣《さきつぐ》の父|稙家夫妻《たねいえふさい》もおどろいたし、天皇もおどろかれた。公家《くげ》たちはもちろんのことだ。稙家《たねいえ》は、
「現職《げんしよく》の関白《かんぱく》が一時の遊山《ゆさん》に近国《きんごく》に行くことはあっても、遠国《おんごく》に長《なご》う行った先例はあらしまへんえ。そもそも、そなた様は関白《かんぱく》いうものをどんなものやと思うていなさるのどす。とんでもないことどす。思いとどまってたもるよう」
と訓戒《くんかい》したが、前嗣《さきつぐ》は聞かない。
「先例がないなら、関白職《かんぱくしよく》はやめてもようおます。まろはもう久しいこと長尾《ながお》と約束していますさけ、いまさら変《へん》がえはできしまへん」
と言いはってきかない。
しかたがないから、稙家《たねいえ》は義輝《よしてる》将軍に引きとめをたのんだ。義輝《よしてる》は前嗣《さきつぐ》をいさめたが、やはりきかない。義輝《よしてる》は一策《いつさく》を案じて、景虎《かげとら》に連れていくのをことわってくれるようにと言いよこした。
すると、これを見越したように、前嗣《さきつぐ》は景虎《かげとら》のところへ手紙をよこした。自分の越後下向《えちごげこう》について将軍からそなたになにか言ってよこすであろうが、自分の決意はみじんもかわらないのだから、そのつもりで返答してくれるようとの文面であり、熊野《くまの》の牛王《ごおう》に血判《けつぱん》した誓紙《せいし》までそえてあった。
景虎《かげとら》は弱ったが、約束は約束だ。将軍の使者|大館兵部少輔《おおだてひようぶしようゆう》に会ったうえで、請書《うけしよ》をしたためてわたした。
(近衛殿下《このえでんか》が越後《えちご》へ下向《げこう》あそばされることについて、ご命令をこうむりまして、恐縮《きようしゆく》であります。世間《せけん》では拙者《せつしや》が殿下《でんか》を誘引《ゆういん》したと思っているらしゅうございますが、そんなことはけっしてございません。これは殿下《でんか》から申し出されたことであります。これについて、太閤殿下《たいこうでんか》ご夫妻《ふさい》も、また公方《くぼう》様も、ご同意でないゆえ拙者《せつしや》から関白殿下《かんぱくでんか》にご下向《げこう》をことわれとのことでございますが、まことに当惑《とうわく》しております。もちろん、一応も二応も、諫言《かんげん》は申し上げるつもりではいますが、それでも殿下《でんか》がお聞きいれなく、ぜひ連れていけとおおせいだされた場合、拙者《せつしや》としてはいたしかたがございません。異議《いぎ》なくご命令を奉《ほう》ずることができませず、おそれいることではありますが、当今《とうこん》の都のありさまを見ていますと、暴悪《ぼうあく》な者どもが満ち満ちて、殿下《でんか》にたいして礼を失するふるまいにおよぶ者が多々《たた》あるようでございます。殿下《でんか》が都を去る気になられたのも、拙者《せつしや》がそれにご同情申し上げて、国もとへお供《とも》する心になりましたのも、当然のことではありますまいか)
という意味の文面だ。
この手紙は上杉文書《うえすぎもんじよ》の中に「謙信自筆請書案《けんしんじひつうけしよあん》」との付箋《ふせん》をつけてのこっている。作者はそれによって、ここを書いている。正直《しようじき》すぎるほど正直《しようじき》な景虎《かげとら》の性格のよく出ている手紙である。
彼は前嗣《さきつぐ》に会って、義輝《よしてる》の意向《いこう》を告げ、忠告をこころみた。
「連れていかんいうのやないやろな」
と、前嗣《さきつぐ》は顔色をかえた。
「そうは申しません。しかし、ご両親や公方《くぼう》家までこうおおせられるのでございますから、時期をお待ち合わせになってはいかがでございましょうか」
「そら、あかんわ。一寸《いつすん》のびれば尺というたとえもある。ちょっとと思うてのばすと、ついには行けへんことになるおそれがあるさけな。まろはけっして決心をかえへんで」
「さようでございますか。それならば、拙者《せつしや》もそのつもりでいます」
景虎《かげとら》は重ねて将軍に手紙を書き、前嗣《さきつぐ》の意志が変わらないから、お供《とも》申すよりほかはないと告げてやった。
すると、こんどは天皇の密旨《みつし》をふくんで、三条西大納言《さんじようにしだいなごん》が来た。
「しかじかの由《よし》、聞くが、来年正月、主上《しゆじよう》の即位式《そくいしき》がおこなわれることになっている。この大典《たいてん》に殿下《でんか》がおられんでは、礼に欠けることになる。かしこくもみかどもお心をなやましたもうて、関白《かんぱく》のこの思い立ちはよほどのことであろうから、無理にとめることはできないが、大典《たいてん》がすんでからのことにしてもらいたいと、おおせくだされた」
との口上《こうじよう》であった。
勅命《ちよくめい》とあっては、いたしかたはない。ましてや、ご即位式《そくいしき》に現職《げんしよく》の関白《かんぱく》がいないなどあってしかるべきことではない。景虎《かげとら》はおそれいってお受けし、もっとも強いことばで、前嗣《さきつぐ》をいさめた。
「ほうか。そやったなあ、ご即位式《そくいしき》があんのやったわ。うっかりしとったなあ。どやろ、関白辞《かんぱくや》めてしもてもあかんやろか」
ご一代ちゅう最大最上のありがたい儀式に、臣下《しんか》として最上の席につくのだ。このうえない光栄であろうと思われるのに、前嗣《さきつぐ》の心はまだ見ぬ越後《えちご》に子供のようにあこがれわたっているのであろうか、こんなことを言うのだ。
景虎《かげとら》はむっとした。
「さようなことをおおせられるものではございません。関白《かんぱく》のおん職はなんのためのものでありますか。さしせまったいまとなって、ご辞官《じかん》なさっては、朝廷《ちようてい》もおこまりでございましょう。ここはどうしてもご大典《たいてん》がすむまでご延引《えんいん》なさるべきでございます。わずかに数か月のことであります。越後《えちご》の国はなくなりはしません」
「うむ、うむ……」
「じつを申しますと、拙者《せつしや》もお力をもって四位《しい》の少将《しようしよう》の官位《かんい》を拝し、殿上人《でんじようびと》のはしにつらならせていただいたのでございますから、できることなら帰国をのばして、ご盛儀《せいぎ》に参列させていただきたいのであります。しかし、国もとの事情でそうもなりかねます。帰国のうえは、殿下《でんか》をお迎えする支度《したく》も心してととのえておきますれば、このたびは思い返しをねがいます」
「……そうか。いたしかたないな。そんなら、そうしょ。けど、そなた心変わりしたのやないやろな」
「申すまでもございません。かならずお迎えの者をつかわして、お迎えいたします」
「そうか。そんなら、起誓《きせい》かいてくれ。そなたのことやから、まちがいないとは信じとるが、まろの念ばらしのためにな」
「かしこまりました」
熊野《くまの》の牛王《ごおう》をとりよせ、誓書《せいしよ》を書き、血判《けつぱん》をすえて渡した。
二
景虎《かげとら》が帰国の途《と》についたのは、十一月七日、春日山《かすがやま》へ帰りついたのはその二十六日であった。
四月はじめに出たのであるから満八か月ぶりに帰ったわけだ。随従《ずいじゆう》の家臣《かしん》らやその家族らのよろこびはいうまでもない。あたかもその日は寒気《かんき》がきびしく、雪がちらついていたが、大手《おおて》の門前で解散すると、霏々《ひひ》として降る雪の中を、よろこびにあふれて連れだって帰っていく。熱しきった調子で夢中《むちゆう》で談笑《だんしよう》しながら行く者もあれば、おさない子を抱きあげてほおずりしながら行く者もあり、人目《ひとめ》もはばからず妻の背をなでて顔をのぞきこみのぞきこみやさしく声をかけていく者もある。
馬上からそれらを見送ったまま、景虎《かげとら》は城門を入るのをしばらく忘れていた。胸を熱くしていた。
(帰ってきてよかった。どんなにかみな帰りたがっていたろう。武田《たけだ》のことさえなければ、おれはまだまだいるつもりであったが、それはとんでもなく罪《つみ》の深いことであったわ)
と思った。
しかし、この熱い胸の底に、言いようのない寂寥《せきりよう》があった。
(おれにはああしてよろこんでくれる妻もなければ、子もない)
天地のまっただなかにただ一人|孑然《けつぜん》として立っている自分だと思った。
(おれの家はこの国、家来や民《たみ》どもがおれの家族だ。こうしてみなおれの帰ってきたのをよろこんでくれるでないか)
と思ってみたが、それでもやはりさびしかった。生涯《しようがい》を独身《どくしん》でおわろうときめたことを後悔《こうかい》するに似た気持ちがあった。
その日、とりあえず留守居《るすい》をしてくれた老臣《ろうしん》らを集めて、帰国を自祝《じしゆく》する小宴《しようえん》をひらいたが、そのあと、政景《まさかげ》と宇佐美定行《うさみさだゆき》とをとくに居間《いま》に呼んだ。
近年、宇佐美《うさみ》はめっきり老《ふ》けた。肉つきのうすかったからだはいっそう枯《か》れ、髪もひげもまっしろになっている。もともと品のよかった風貌《ふうぼう》は、高歩《こうほ》する皓鶴《こうかく》のような趣《おもむき》になっていた。景虎《かげとら》が上洛《じようらく》する時、宇佐美《うさみ》は春日山《かすがやま》まで来て見送り、その後ずっと城下の屋敷に滞在《たいざい》して、政景《まさかげ》をたすけて留守《るす》していたのだが、その出発に際して見た時より、さらに年をとっているようであった。いたましかった。
「そなたいくつになった?」
とおぼえずたずねた。
「古稀《こき》を一つ越しました。まだまだ気力は若いつもりでいますが、年のせいでございましょうな、年々《ねんねん》冬になると寒気《かんき》がこたえます」
と、わらった。
「十分に気をつけて、丈夫《じようぶ》にしていてくれよ」
と、景虎《かげとら》は心から言った。その時、彼の胸を乃美《なみ》のことがかすめた。乃美《なみ》はまだどこへも嫁《か》していない。ずっとまえ、縁《えん》づくことになったと言ったことがあるが、どういう都合《つごう》であったのか、あれっきりになっている。自分より一つ二つ年上のはずだから、もう三十一、二になっているわけだ。そんな年まで娘のまま家にいるというのが、なにか心にからむものがあった。
景虎《かげとら》は乃美《なみ》のことを聞いてみたいと思ったが、気軽《きがる》に口に出なかった。
酒を出し、飲みなおしながら、景虎《かげとら》は二人に言った。
「その方らにのこってもらったのは、武田のことをくわしく聞きたいと思ってだ」
「拙者《せつしや》どもも申し上げたいと存じていたのでござるが、お疲《つか》れもおわそうゆえ、明日にでもと思っていたのでござる」
と、政景《まさかげ》は答えて、言いついだ。
「京地からおさしずがありましたによって、ご分国《ぶんこく》内のさむらいどもにたいする武田の調略《ちようりやく》については、ずいぶん気をつけてさぐりましたが、これと思わしいかどはないようで、まず心を安んじましたが、くさいのは隣国越中《りんごくえつちゆう》の方でござる。富山《とやま》の神保《じんぼ》をはじめとしてあの国のさむらいどもに、武田の使者がせつせつとまいっているげにござる。これはついこのごろになって知りえたことでありますので、どのほどに調略《ちようりやく》がおこなわれているか、まだよくわかりませんが、ご油断《ゆだん》あってはならぬことであります」
「なるほどな。武田ほどの者、それくらいのことはしような」
と言いながらも、じつのところ景虎《かげとら》は意外でもあった。上洛《じようらく》の時に越中《えつちゆう》を通過する際、主としていろいろと世話《せわ》をしてくれたのは、松倉城《まつくらじよう》の椎名右衛門大夫康種《しいなうえもんだゆうやすたね》であったが、富山《とやま》城の神保良春《じんぼよしはる》もまたおおいに世話《せわ》してくれて、富山《とやま》を通過した際はわざわざ前日途中に迎えに出、富山《とやま》では旅館でさかんな饗応《きようおう》をし、翌日は高岡《たかおか》までの道のなかばまで送ってくれた。帰国の時もそうだ。ひたすらな親愛の色を見せ、異心《いしん》などさらにあるようには見えなかった。景虎《かげとら》は好意《こうい》さえ抱いて別れたのだ。
またしても、心の若さとあまさをたしなめられたようで、
(世の中は表裏《ひようり》ものばかり、油断《ゆだん》もすきもならぬ)
と、にがい気持ちであった。
景虎《かげとら》は武田勢が侵入《しんにゆう》してきた時の模様《もよう》をたずねた。政景《まさかげ》はくわしく話した。
その後しばらく犀《さい》川をはさんで両軍|対峙《たいじ》したが、べつだんの戦《いく》さはなく、ほぼ一月ほどの後、両軍|談合《だんごう》してともに兵を引きあげた。そのことは、こちらからの報告で、景虎《かげとら》も知っていたのだが、その後のことをたずねた。これは宇佐美《うさみ》がこたえた。
「とりたてて申し上げるほどのことはございませんが、察するところ、年が明けて春ともなれば、また動きだすのではありますまいか。越中《えつちゆう》の国侍《くにざむらい》らにたいする調略《ちようりやく》はそのためでありましょう。つまり、越中侍《えつちゆうざむらい》どもにことをおこさせ、殿《との》がそれにむかわせられるを待って、南から入ってくるつもりか、川中島《かわなかじま》のあたりでことをかまえ、こちらを引きつけておいて、越中《えつちゆう》勢に背後を襲《おそ》わせ、進退よりどころを失わさせるつもりか、いずれかでございましょう」
景虎《かげとら》もそれは考えていたところであった。うなずいた。
「油断《ゆだん》はできんのう。しかし、手を打とうにも、証拠《しようこ》がない。なんとかして、証拠《しようこ》をつかみたい。証拠《しようこ》なしに越中《えつちゆう》に入っては、無名の戦《いく》さになる」
「ごもっともでありますが、事実のあることなら、さがせばかならずつかめましょう」
と、これは政景《まさかげ》であった。
「うむ、うむ」
景虎《かげとら》は深くうなずいた。
深夜《しんや》になって、二人は退出《たいしゆつ》した。景虎《かげとら》は書院《しよいん》の入口まで送って出たが、その時になって雪が本降りになっていることを知った。見えるかぎりのものがまっしろになっている。もう三、四|寸《すん》も積もったろうか。まっくらな空から灰のようにこまかでかわいた雪が音もなくしんしんと降りつづけているのであった。根雪《ねゆき》になる雪であった。
「今年はすこし早いようだな」
と言いながら、景虎《かげとら》は侍臣《じしん》に手燭《てしよく》で照らさせて、いつまでも見ていた。
三
景虎《かげとら》はいろいろと思案したすえ、越中《えつちゆう》方面の探索《たんさく》のためにしのびの者を多数出すとともに、将軍によって関東管領職《かんとうかんれいしよく》をつぐのを許されたことを発表した。武田《たけだ》は大敵《たいてき》である。できるなら、越中《えつちゆう》とことを起こしたくない。これを発表することによって、越中《えつちゆう》ざむらいが武田のそそのかしに応じなくなるかもしれないと考えたのであった。
上杉憲政《うえすぎのりまさ》との約束もあり、将軍の前で言いきったこともあるので、こういうぐあいに発表した。
「しかじかで、上杉|管領《かんれい》様からのお話もあり、このたびまた公方《くぼう》様からのご教命《きようめい》もあって、余《よ》は管領職《かんれいしよく》をつぐ決心をしたが、当分のところはいまのままでいる。やがて関東に出て、正式に就任《しゆうにん》するであろう」
この発表はおそろしく反響《はんきよう》があった。
景虎《かげとら》の家来や越後《えちご》の国侍《くにざむらい》らは争って祝辞言上《しゆくじごんじよう》のために来て、太刀《たち》を献上《けんじよう》した。信州侍《しんしゆうざむらい》らもそうであった。彼に味方している者はいうまでもなく、武田に属している者でも祝辞《しゆくじ》を言上《ごんじよう》し、太刀《たち》を献上《けんじよう》した。関東の大名らも、常陸《ひたち》の佐竹《さたけ》氏をはじめ、使者をつかわして祝辞《しゆくじ》をのべ、太刀《たち》を献上《けんじよう》する者が三十二家におよんだ。
かんじんの越中《えつちゆう》方面もそうであった。豪族《ごうぞく》らはみなそうした。もちろん、神保良春《じんぼよしはる》も入っている。
効果はおおいにあったわけだ。
景虎《かげとら》はいちおう意を安んじたが、なお探索《たんさく》はおこたらなかった。
雪に閉ざされた年の暮れに、近衛前嗣《このえさきつぐ》から知恩寺《ちおんじ》の坊さんにたのんで手紙をとどけてきた。
前嗣《さきつぐ》は、御即位式《ごそくいしき》が正月二十七日におこなわせられることにきまったことを知らせ、それがすみ、それに付帯《ふたい》する諸儀式がおわったら、ただちに越後《えちご》に行くつもりでいるゆえ、まにあうように迎えの者をよこしてくれと書いていた。
「こちらを極楽浄土《ごくらくじようど》のように思うておられるわ」
と、苦笑せずにはおられなかった。
ともかくも大急ぎで使者をえらんで、祝儀《しゆうぎ》のためと称して、うんと金銀をもたせてさしのぼせた。前嗣《さきつぐ》にあてた返書ももたせた。
「当地は二月の末までは雪に閉ざされているゆえ、三月|陽春《ようしゆん》のころになってからおいであるよう」
との文面であった。
そのころ、乃美《なみ》の消息《しようそく》が聞こえてきた。
四
乃美《なみ》は父とともにずっとこちらの屋敷に来ているというのであった。景虎《かげとら》はこれを侍臣《じしん》らどうしの会話の中で聞き知った。ある日景虎《かげとら》が居間《いま》で書見《しよけん》していると、隣室《りんしつ》にひかえている侍臣《じしん》らが火鉢《ひばち》をとりかこんで雑談《ざつだん》している会話がきれぎれに漏《も》れてくる。
「……昨日《きのう》はえらい雪じゃったが、どうしても行かんならん用事があって、おれ府内《ふない》に行った。カンジキはいて、蓑笠《みのがさ》着てよ。ひるすぎ、用事がすんだすけ、酒などすこしふるまわれて、ほろ酔いで帰ってきたが、お城下《じようか》に入るころ、雪がすこし小降《こぶ》りになった。こんなことならゆっくりしとればよかったと思いながら、毘沙門堂《びしやもんどう》の近くまで来ると、どこからか笛《ふえ》の音《ね》が聞こえる。なんという曲か知らんが、ジーンと身も心も澄《す》みしずまってくるような曲なんじゃ。横なぐりに来る風も、渦《うず》を巻いて乱れる雪も、そのままに動きをやめはせんかと疑われるばかりなんじゃな。おれおぼえず雪の中に立ちどまって聞きほれていた。どうやら、毘沙門《びしやもん》さんの方から聞こえてくるようなのじゃ。だれのすさびじゃろう、と、ゆかしゅうなったすけ、おれ毘沙門《びしやもん》さんの方に行った。たしかに毘沙門《びしやもん》さんの堂内から聞こえる。おれ門をくぐって入りかかると、ぴたりと音がやんでしもうた。それでもおれずんずん入っていった。だれのすさびか、たしかめたかったのじゃ。すると、数歩行った時、お堂の戸があいて、出てきた者があった。雪が横なぐりに降っとるので、どんな者じゃかようわからんが、お堂の前でカンジキはき、蓑笠《みのがさ》をつけて、ざっくざっくとこちらに出てくる。だんだん近づいたすけ、おれことばをかけようとして、その笠《かさ》が市女笠《いちめがさ》であることに気がついた。おんや、おなごじゃわ、と、声をかけるのをためろうた。すると、ふとその笠《かさ》のふちが上がって、その人がこちらを見た。おれ、ぞーっと骨のずいまで冷とうなったような気がした。とっさには雪上臈《ゆきじようろう》でないかと思うたほどじゃった。それほど美しかったのよ。おりゃこんどのご上洛《じようらく》にお供《とも》して、都でずいぶん美しいおなご衆《しゆう》を見たが、あげいに美しいおなごは見なんだ。そのおなごはそのまま前をむいて、蓑《みの》の背中を見せ、ザックリ、ザックリと行ってしもうた。おれその人が門の外に消え去っても、立っていたわ」
話しじょうずな男なのだ。適当な間《ま》をもって、聞き手の興趣《きようしゆ》を引きつけるように話していく。こちらで、はじめ景虎《かげとら》は読書のじゃまになって、声をひくめよと言おうとしていたが、ついおもしろさに耳をたてていた。若い同僚《どうりよう》らはなおさらのことであったろう。
「年ごろは?」
「どんな顔であった?」
「どこのだれであるか、わからんのか」
などと聞く。
「おちつけ、おちつけ。いま語ってやる。――おれ、庫裏《くり》に行って、坊《ぼん》さんたちに聞いてみた。ご本堂で笛を吹きすさんでいたおなご衆《しゆう》はだれでござるとな。そしたらな、飯《まま》たきしとった坊さんが、ああ、あれは宇佐美駿河《うさみするが》様の姫君《ひめぎみ》でござる。ときどきあげいにして来ては、ご本尊《ほんぞん》の前で笛をかなでてもどりなさる。なにじゃらご心願《しんがん》がおわす模様《もよう》でござる、と、こう言うたわ」
こちらで、景虎《かげとら》はどきりとした。はじめ笛の話の出た時から、なんとなくそんな気がしないではなかったのではあったが、それでも強い衝撃《しようげき》があった。乃美《なみ》はこちらに来ていたのか、と思った。
隣《となり》では言う。
「なるほどな。宇佐美《うさみ》様にどこにも嫁《ゆ》かぬ姫君《ひめぎみ》があったな。しかし、もうそうは若うはないじゃろ。われらよりよほどの年上のはずじゃぞ」
「そう、よほどの年のはずじゃ。われら少年のころ、二、三度見たことがあるが、そのころお年ごろであったすけ、もう三十を越えていなさるはずじゃ」
「それでも、美しいかや。そなたいつもの話しじょうずで、話をおもしろうするために、漬物《つけもの》にするために二、三日、日にほして小じわのよった大根《だいこん》みたいになった人を、京三界《さんがい》にもない、雪上臈《ゆきじようろう》にまごうばかりの美女ということにしたのではないかえ」
などと笑っている。
話し手はむきになった。
「けっしてけっして。そりゃあ、行きずりにちらりと見ただけじゃすけ、小じわがよっていたかどうか、そげいに細かなところはわからん。しかし、おれはその時、ほんとにそう思うたのじゃすけ、しかたはない。まだ話があるのじゃ。黙《だま》って聞け。おれ、坊さんたちに、どげいなご心願《しんがん》があるのじゃろうと聞いてみた。するとな、坊さんは笑うてな、そりゃおよばんことじゃ。やめさっしゃれ、と言う。おれまごついた。え、なんでござると? と問いかえすと、坊さんはいっそう笑うて、かくさっしゃることはない。わしには見通しじゃ、あの姫君《ひめぎみ》には思うお人があってそのためにあのご身分、あのご器量《きりよう》でありながら、あのお年になるまで、どこにも縁《えん》づきなさらんのじゃとわしは狙《ね》らんどる、おおかた、ここへちょいちょいと来て、ご本尊《ほんぞん》の前でお笛をかなでたてまつられるのも、その思う人に添《そ》わせてくだされというご心願《しんがん》のためであろうで、そなた様なんどがいくら思うたところで、およばぬ恋じゃ、やめさっしゃれ、と、こげいに申して、大口あいてけらけら笑うたわの。ハハ、ハハ、ハハ……」
どっと一同笑いくずれた。
「ほんとかの、その坊主《ぼうず》の言うことは?」
「それはわからん。しかし、ああ言うたからには、なにか見るところがあるのじゃろうな」
「だれじゃろう、その思われ人というのは」
とりとめもないせんぎがはじまった。
こちらで、景虎《かげとら》は雷《かみなり》に打たれたような気持ちであった。乃美《なみ》に思われ人があるとするならば、それは自分以外にはないと思った。
書物の上に左手でほお杖《づえ》をつき、ぼうぜんとして宙を凝視《ぎようし》していた。
五
乃美《なみ》に会いたいと思った。しかし、会えばのっぴきならないことがおこりそうだ。でも、会いたい。われながらハキつかないうじうじした気持ちでいると、いよいよおしつまって、今年ももうあと三日しかないという二十七日、定行《さだゆき》が登城《とじよう》してきて、目通《めどお》りをねがいでた。すぐ居間《いま》に通させた。
「てまえ、お暇《いとま》をいただき、明朝出発して、琵琶島《びわじま》へ帰りたいと存じます。琵琶島《びわじま》はせがれがいますによって案ずることはないのでありますが、てまえもずいぶん長く不在していますので、久方《ひさかた》ぶりに帰ってくつろぎ、新しい年を居城《きよじよう》で迎えたいと思うのでございます。新年になりましたら、またご年礼のためにまいりますが、ともあれ、お暇《いとま》をたまわりたくねがいあげます」
と、定行《さだゆき》は言うのであった。
そうか、乃美《なみ》も帰るのだなと、まず景虎《かげとら》は考えた。緊縛《きんばく》から解きはなたれたに似た気持ちと、のこりおしさとが同時に感ぜられた。
「そうか。さもあろうな。許そうとも。長い間、ごくろうであった。どうか定勝《さだかつ》にもよろしゅう申してくれ。定勝《さだかつ》もそなたの留守《るす》をあずかって、苦労であったろう」
「いやいや、この数年、てまえはよろずのことをせがれにまかせまして、家のことはなんにもせず、娘を相手に茶を喫《きつ》したり、読書をしたり、楽隠居《らくいんきよ》同然の身になっていましたので、せがれとしてはいつものとおりで、格別《かくべつ》しごとがふえたわけではございません」
「ああ、そうか。とすれば、この方だけのために、その年になって苦労してくれたわけか。いっそう礼を申さねばならんわけだの。ともあれ、慰労《いろう》としばらくの別れをおしむために、一献酌《いつこんく》もう」
酒を命じ、軽く一酌《いつしやく》して送りだしたが、別れぎわに京で購《あがな》ってきた茶器《ちやき》をひとそろい引いた。
「このごろ、あちらでは茶の湯も侘《わ》び茶とて、新しい方法がはやっている。堺《さかい》の町人で千宗易《せんのそうえき》と申す者がはじめた方式であるとか。この者はまだ四十にはならぬ年ごろじゃそうなが、その道の先達《せんだつ》について諸流《しよりゆう》を学んで允可《いんか》を得、独得《どくとく》の方式をはじめたと聞いた。なんでも茶室のこしらえ方でも、田舎家《いなかや》のかまえで、しずかに清らに心を澄《す》ましておこない、これを侘《わ》びると称しているので、侘《わ》び茶≠ニ世間《せけん》では言うている由《よし》だ。おもしろいと思うたので、当家出入りの堺《さかい》の鉄砲商人にたのんで、宗易《そうえき》に見立ててもらって、ひとそろい手に入れてきた。いま聞けばそなた近ごろ茶が好きになっているという。ちょうどよい。使ってくれるよう」
「いまのてまえにはなによりのもの」
定行《さだゆき》はおしいただいて、受けた。
相当な重さなので、あとでとどけようと言ったが、定行《さだゆき》は一時《いつとき》も手ばなすのがおしいらしく、
「いやいや、わがものと思えば、ちっとも重いことはございません」
と言いながら、ほくほくして、かかえて帰っていった。
送りだして居間《いま》にかえり、また酒をつづけた。
「とうとう乃美《なみ》は帰ってしまった」
と、胸の中でつぶやいてみた。
北の海をわたってくる季節風に吹きまくられる雪の中につづく海ぞいの道を、つつましい行列を組んで、老父とともに厳重に雪支度《ゆきじたく》して、徒歩《かち》で帰っていく姿が思い描《えが》かれた。
「明日は雪がやんでくれればよいに」
と思った。
自分のくれた茶の湯道具をつかって、父と二人で茶の湯をしている情景も思い浮かんだ。
侘《わ》び茶の道具は、なれない者にはぜんぜん美しいとは思われない。むしろ、まずしく、醜《みにく》くさえ見える。
(これが京方《みやこがた》でははやっているのでございますと?)
と言って、さらによく見、一段声をおとして、
(これがねえ)
と言う乃美《なみ》の姿がありありと思い浮かび、声が聞こえるようであった。
景虎《かげとら》はひとりで、長い間飲みつづけた。
翌日はさいわいに雪がやんだ。空は陰気《いんき》に曇り、針で刺《さ》すような風がこおった雪の上を吹きつづけてはいたが、それでも雪の降りしきっている日よりは楽な道中《どうちゆう》になるにちがいなかった。
(いい都合《つごう》だ)
父娘《おやこ》のために、景虎《かげとら》はよろこんだ。
六
暮れの三日間、いいぐあいに雪はやんでいたが、大《おお》晦日《みそか》の夜なかからまた降りだし、元日《がんじつ》は終日《しゆうじつ》降りくらした。人々はその雪の中を、年始のために登城《とじよう》してきた。
景虎《かげとら》は大広間《おおひろま》に出て、家臣《かしん》らの賀礼《がれい》を受けて酒宴《しゆえん》をひらいて盃《さかずき》をあたえた。夕方になると、例年のとおり奥殿《おくでん》で近習《きんじゆう》の者どもに酒をくれ、しばらく相手して飲んでいたが、朝からの酒にひどく酔ってしまった。
とうてい、席にたえられそうでない。
「どうしたものか、今年はきつう酔うてしまった。わしはさがって寝るゆえ、その方どもはのこってたんのうするまで飲んでくれい。やがて酔いがさめたら、また出てくるかもしれぬ」
と言って、寝室にさがって寝てしまった。
夢も見ず熟睡《じゆくすい》して、ふと目をさますと、酒宴《しゆえん》はまだつづいているらしく、にぎやかな歓声《かんせい》が聞こえていた。となりの宿直《とのい》の間《ま》でもはじまっている。番にあたった者らである。本当はみなといっしょにむこうでおおいににぎやかにやりたいのであろうが、景虎《かげとら》が寝ているものをほうっておくわけにはいかないので、こちらでしんみりとやっているのであるらしい。正月らしいことだ。
景虎《かげとら》は微笑《びしよう》し、音を立てないように寝返りを打って目をつぶった。熟睡《じゆくすい》したあとで、なかなか寝つけない。声をひそめて話している隣室の会話が聞こえる。聞くともなしに聞いていると、一人が言う。
「そうそう、このまえ、山吉《やまよし》がお城下《じようか》の毘沙門堂《びしやもんどう》で雪上臈《ゆきじようろう》を見たという話をしたの」
「宇佐美《うさみ》殿の嫁《ゆ》かず姫《ひめ》のことか」
「そうよ。おれも見た。つい昨日のことよ。あの近くを通りかかると、笛が聞こえた。このまえの山吉《やまよし》の話があるすけ、おれもいちばん雪上臈《ゆきじようろう》を見てくれようと思うて、――もっとも、昨日は雪は降らなんだがの。とにかく、行ってみた。なるほどじょうずな笛じゃ。おれは本堂の前にたたずんだまま、聞きほれていた」
「うそを言え。笛に聞きほれていたのではあるまい。すんで出てくるのを待っていたのじゃろうが」
「ハハ、それを言うな。しかし、笛もなかなかのものじゃぞ。聞いていると、心魂《しんこん》、澄《す》みに澄《す》むわい」
「笛のことはわかったゆえ、さきを言え。山吉《やまよし》の言うとおりに美しいか」
「無風流《ぶふうりゆう》なやつはいたしかたがないのう。では端折《はしお》る。美しいわ。山吉《やまよし》の言うたとおりじゃ。やや青みをおびたおもながな顔が憂《うれ》えをふくんでいるところ、なんともいえず美しく、上品じゃった。もっとも、本堂を出てまいられた時ちらりと見たばかり、あとはさっと被衣《かつぎ》のかげにかくれてしまわれたすけな。あれほど美しいと、年など考えるひまはないの。ひたすらにハッと呼吸《いき》をのむばかりじゃ」
景虎《かげとら》は夜具《やぐ》の中に身動きもせず聞いていた。
(そうか、琵琶島《びわじま》には駿河《するが》だけが帰って、乃美《なみ》はこちらにのこっていたのか)
と思った。
(雪の中を行く旅だ。女には無理だ。それでのこったのであろう)
と解釈もした。
断絶《だんぜつ》したと思っていた細い糸はまだつながっていたのかと思った。ますます眠れなくなった。
まもなく、広間《ひろま》の方のさわぎは静まった。みな飲みつかれ、満足して、帰っていったのであろう。
しかし、隣《となり》の小宴《しようえん》はまだつづいている。話題はとうの昔に別なことになっている。ずいぶん酔ってきたらしく、相当声が高くなっていた。
景虎《かげとら》はむくりと起きあがった。隣《となり》はぴたりと静かになった。
「だれぞまいれ」
すぐ二人入ってきた。
「着物をくれい。起きる」
酔ってたどたどしい手つきの二人に手つだわせて着がえをし、隣室《りんしつ》に入っていった。そこにのこっていた者三人は、あわてて盃盤《はいばん》を片寄せつつあったが、周章《しゆうしよう》してまえの二人もいっしょに平伏《へいふく》した。
「かたづけることはない。おもしろそうであった。おれも加えてくれい」
と言って、すわりこんだ。
「しかりはせぬ。正月のことじゃ。かまわんぞ」
新しく酒をもってこさせて、数杯《すうはい》をかたむけてみせると、青年らは安心し、またにぎやかになった。
やがて、景虎《かげとら》はにこにこ笑いながら、
「おれはこれから行きたいところがある。その方ども、供《とも》せ」
と言って立ちあがった。
みなおどろいていたが、かまわず歩きだした。
一時間の後、景虎《かげとら》は霏々《ひひ》として降りしきる雪の中を、城下の武家町《ぶけまち》の宇佐美《うさみ》家の屋敷の前に立っていた。渋《しぶ》をひいた苧屑頭巾《ほくそずきん》をかぶり、蓑《みの》を着、カンジキをはいていた。供《とも》に立った五人も、同じようないでたちであった。
門はぴったりとしまり、門番小屋の明りは消えていたが、供《とも》の者にたたきおこさせて名のると、門番はおどろいて起きいで、女房《にようぼう》は母家《おもや》に知らせに走り、本人は開門《かいもん》して、雪の上に平伏《へいふく》した。
「時ならぬ時にまいって、迷惑《めいわく》をかけるな」
声をかけて通って、すこし時間をかけて玄関にさしかかった。
あわてはしたであろうが、玄関では戸をあけ、燭台《しよくだい》をつらねて、乃美《なみ》が式台《しきだい》に平伏《へいふく》していた。景虎《かげとら》が来ても、顔は上げない。つきそろえた白い手が目にしみるようであった。
「そなたの笛を聞きにきた」
はっとしたように顔を上げて、こちらを見たが、すぐまたまえの姿になった。
景虎《かげとら》が頭巾《ずきん》のひもをときにかかり、供侍《ともざむらい》らがそれを受けとるために足を進めると、乃美《なみ》はさっと立ちあがった。はだしで土間《どま》におりたち、片ひざついて両手をさしだした。
その手に景虎《かげとら》は頭巾《ずきん》をぬいでわたし、つづいて蓑《みの》をぬいでわたした。わたしながらふと見ると、両手の指先がはげしくふるえていた。
三度目
一
客殿《きやくでん》に通ると、景虎《かげとら》はすぐ言った。
「そなたの笛《ふえ》を聞きにきた。聞かせてくれい」
乃美《なみ》はそれには返事をせず、うやうやしく新年の賀詞《がし》をのべた。
「おめでとう」
景虎《かげとら》も受けた。
乃美《なみ》ははじめて微笑《びしよう》して、
「どうしてまあ、そんなお気になられたのでございましょう」
と、言った。動揺《どうよう》から立ちなおって、三十女らしいおちつきのある態度であった。
瞬間《しゆんかん》、景虎《かげとら》はなんのことかわからなかったが、すぐ気づいた。
「例年によってみなに酒をふるまった。おれものんだ。したたかにじゃ。酔うて寝たが、目をさました。雪はしんしんと降っている。耳をすますと、夜の底に雪の音が聞こえる。その音の底から、笛の音がひびいてくるように思うた。そなたのことがむくむくと思い出され、一曲聞きたいと思い立った」
景虎《かげとら》は自分で冗舌《じようぜつ》にすぎると思いながらも、しゃべった。しゃべっていなければ、座にとどまっていられないような気がした。
乃美《なみ》はおちついた微笑《びしよう》をつづけて聞いていたが、また言う。
「お屋形《やかた》様はずいぶんお長い間のご滞京《たいきよう》でございました。さだめてその道のすぐれたお人々の芸をお楽しみになっていらっしゃいましたろうものを、田舎女《いなかおんな》のすさび、お恥《は》ずかしゅうございますに」
ことばはおわりに近づくにつれてふるえ、うす赤いものが顔にひろがった。泣きだすのではないかと思われる感じがあった。それは乃美《なみ》の嫉妬《しつと》であった。乃美《なみ》の心のうちを包みかくしなく、飾《かざ》りなく言うなら、京には美しく、また諸芸にも達している女衆《おんなしゆう》がたんといて、お気に召したでございましょうと、言いたいところであったろう。
しかし景虎《かげとら》には女性のそんなこまかな心の経緯《ゆくたて》はわからない。狼狽《ろうばい》に似たものがあって、またしゃべらないではいられない。
「そなた、ときどき城下の毘沙門堂《びしやもんどう》に行って、一曲|奏《そう》しては奉納《ほうのう》しているそうではないか。近習《きんじゆう》の者どもがそう申していたぞ」
言ってしまってから、言うべきことではなかったと気がついた。いっそう狼狽《ろうばい》した。
乃美《なみ》もまた狼狽《ろうばい》の色を見せた。羞恥《しゆうち》の色が顔じゅうにひろがり、燃えるように赤くなったが、じょじょにそれがさめ、澄《す》みとおるほどの青白さになると、
「ふつつかではございますが、一曲つかまつります」
と言い、一礼して席を立って出ていった。おちつきはらった、いたってもの静かな様子であった。
しばらくすると、酒肴《しゆこう》がもちこまれてきた。熨斗《のし》あわびをのせた三方《さんぼう》と焼き栗《ぐり》をもりあげた三方《さんぼう》だけのいたって簡素《かんそ》な肴《さかな》だ。盃《さかずき》は朱塗《しゆぬ》りで同じく朱塗《しゆぬ》りの台にのせ、酒は銀の提子《ひさげ》に入れてある。直垂《ひたたれ》に侍烏帽子《さむらいえぼし》を着た三人の侍《さむらい》がもってでて景虎《かげとら》の前にそなえてしりぞくと、素襖《すおう》に小袴《こばかま》をはいた年老《としお》いた侍《さむらい》が出てきて、
「おそれながら」
と言って酌《しやく》をし、すこしさがり、袖《そで》をかきあわせて両手をつき、うずくまった。見知りごしの宇佐美《うさみ》家の老臣《ろうしん》であった。
「おお、汝《われ》はこちらに来ていたのか。めでたいの。いくつになったぞ」
と、景虎《かげとら》はきげんよくことばをかけたが、相手はかすかに笑顔《えがお》づくって、
「おめでとうございます。当年六十五にまかりなりましてございます」
と言っただけで多くを言うことをつつしんでいるようであった。
(妙《みよう》だな)
と、思いながらも、盃《さかずき》を上げて一口ふくんだ時、どこからか笛の音《ね》がひびいてきた。はじめはごく低く、しだいに調子を上げてくる。座敷三つ四つへだてたと思われるあたりからのようであった。
曲はあのひょうげた曲だ。三、四|寸《すん》ほどの小さい小さい人形のようなお神楽師《かぐらし》か狂言師《きようげんし》が、道化《どうけ》たかっこうで、ひょっこりひょっこりと首を振っておどりながら、あとからあとからと宙を飛んで出てきて、おどりながら飛び去っていくような、あの曲だ。
この曲を景虎《かげとら》はこれで三度聞く。一回目は栃尾《とちお》に最初の旗あげをし、おしよせてくる三条勢《さんじようぜい》を二度にわたって撃退し、その二度目には敵の大将|長尾新六郎俊景《ながおしんろくろうとしかげ》を討ちとったが、その翌年秋の一夜であった。
(中秋《ちゆうしゆう》の名月に近い、よい月夜であった。おれはあの時十五であったな……)
と思った。
だれが吹いているのであろうと、笛の音にさそわれてたどっていき、それが乃美《なみ》であったのでおどろいたことも思い出した。しばらく話している間に、戦《いく》さには運がつきものだから、めったにするものではない、戦わざるをえなくなってはじめてすべきものだと、乃美《なみ》が忠告したのが、こちらの力をあやぶんでいるように聞きなされ、
「おれが負けるというのか!」とどなりつけて帰ってきたことも思い出した。
(若かった。おれは子供だったのだ)
と苦笑したが、はじめての旗あげが調子よくいき、人々のほめそやす声ばかり聞き、のぼせあがり、思いあがっていた自分であったと思うと、恥《は》ずかしかった。子供であったのだとは思っても、それでもほおがもやもやとし、うめきたいような気持ちであった。
二度目は、兄のあとをついで家督《かとく》をつぎ、三条城《さんじようじよう》にこもる昭田《しようだ》常陸《ひたち》を討滅《とうめつ》し、国内を平均《へいきん》した年の夏であった。上田《うえだ》の叔父《おじ》と政景《まさかげ》との態度が奥歯にもののはさまったようであるので、その対策を定行《さだゆき》に相談するために琵琶島《びわじま》城へ行った時であった。その夜、笛の音が聞こえた。しかも、最初の時と同じ曲であった。こちらに聞かせるためであることは明らかであった。
(あれは夏であった。やはり月のある夜であった。おれは二十《はたち》であったな)
と思った。
曲は昔よりさらに軽快で洒脱《しやだつ》なものになっている。景虎《かげとら》はくまなく月の光のゆきわたっている澄《す》んだ夜空に弧状《こじよう》の列をなして踊《おど》りつつあらわれ、踊《おど》りつつ消え去っていく無数の小人《こびと》の群れを見る思いがしていたが、いつかそれは暗い空から霏々《ひひ》として降ってくる雪片《せつぺん》にかわった。その雪片《せつぺん》は風につれて散ったり、渦巻《うずま》いたり、濃《こ》くなったり、淡《あわ》くなったりして、乱舞《らんぶ》してやまない。もう楽しげなものではない。悲愁《ひしゆう》と蒼涼《そうりよう》の感がそくそくと胸をしめつけてきた。
知らずに立ちあがり、知らずに笛の聞こえる方に歩きだしていた。笛を聞きながし、知らず知らずにすごしていた酒が酔いとなって足をよろめかしていたが、景虎《かげとら》はそれを意識しない、涙がほおに筋《すじ》を引いていたが、それも感じない。
さらりと唐紙《からかみ》をあけると、火の気《け》のない座敷のまんなかにすわっている乃美《なみ》の姿があった。一穂《いつすい》のともし灯《び》にむかい、青だたみにしきものもなくすわっている。火の気《け》のないへやはこごえるようにつめたく、景虎《かげとら》は自分の吐《は》く息が白くこおって煙のようになるのを見た。
乃美《なみ》は景虎《かげとら》が来たのに気づかないかのように、こちらに目をむけることもなくかなでつづけている。景虎《かげとら》は一歩中へ入って、立ったまま見ていた。
ひとしきり、なおつづけてから、乃美《なみ》は吹きやめ、こちらを見あげた。一抹《いちまつ》の血の色もなく蒼白《そうはく》な顔に、微笑《びしよう》があった。
「いかが」
悲しみとも、あわれみとも、悔《く》いとも、わびとも、あるいは怒《いか》りともつかない、名状《めいじよう》しがたいものが、一時に胸に吹きあげてきた。
「そなた、なぜいつまでも縁《えん》づいてくれぬのだ! なぜいつまでもひとりでいるのだ!」
と言うと、そこにすわった。両手をつき、うつむいた。湯のように熱いものが、その手の上にぽたぽたと落ちた。
乃美《なみ》もまたうつむいた。髪がふるえ、肩がふるえ、ひざの上に両手でしっかりつかんでいる笛の上に、頭が近づいていった。きりきりときしる歯の音が小さくしていた。嗚咽《おえつ》をこらえているのであった。
二
四日たって、正月五日、定行《さだゆき》が年賀のために登城《とじよう》してきた。昨日こちらについたというのであった。元日《がんじつ》、二日と降りつづいた雪は、三日からやんでいたが、それでも雪のあとを十二里の道を出てくるのは難儀《なんぎ》なことであったにちがいない。ねぎらうと、
「さしたることもございません。雪のない季節なら一日でよいところを、二日かけてまいったのでございますから」
と、笑った。
「おれは元日《がんじつ》の夜、そなたの屋敷に行った。乃美《なみ》の笛を聞きたいと、思いたつと、矢も楯《たて》もたまらんで行ってしもうた。昼からの酒に酔っていたせいだ。時ならず行って、迷惑《めいわく》をかけてしもうた。酔いがさめたあと、すまぬことをしたと悔《く》いたが、もう追っつかぬ。ハハ、ハハ」
と、笑いながら、景虎《かげとら》は言った。弁解《べんかい》めいた調子になったのはいたしかたがなかった。
「さようでございました由《よし》で」
と、定行《さだゆき》はことば少なく答えて微笑《びしよう》しただけであった。
定行《さだゆき》も乃美《なみ》の心は知っており、それをみとめ、それに同情しているのだと思うと、切《せつ》なかった。
二月になってまもなく、かねて越中《えつちゆう》方面にはなっている忍《しの》びの者から、松倉《まつくら》城の椎名康種《しいなやすたね》と富山《とやま》城の神保氏春《じんぼうじはる》とが所領《しよりよう》の境目《さかいめ》争いが原因《げんいん》で仲違《なかたが》いし、雪の解けるを待って合戦《かつせん》によってことを決しようと、双方支度《そうほうしたく》しつつあると知らせてきたが、数日たつと、椎名《しいな》から直接使いを立てて、ことの次第をうったえ、うしろ楯《だて》を頼《たの》んできた。
椎名《しいな》の使者の口上《こうじよう》によると、争いの最初は双方《そうほう》の家臣《かしん》らの知行地《ちぎようち》の境目《さかいめ》争いであるが、それに宗派《しゆうは》問題がからんでいるので、事《こと》が複雑になったというのである。
「主人を同じゅうしている者なら、主人のことばでたやすく折れ合いがつくのでありますが、双方《そうほう》の主人が違いますので、つまりは主人どうしの境目《さかいめ》争いということになりまして、争いが二重になったわけでございます。そのうえ、争いになっているところに、百姓《ひやくしよう》の家が四、五軒《けん》あるのでございますが、それの檀那寺《だんなでら》が神保《じんぼ》領にありますので、そこがこちら領になることを承知しません。かれこれことが重なりまして、うるさいことになったのでございます。てまえ主家《しゆうけ》も、神保《じんぼ》家も、武士の意地《いじ》ということになりまして、双方退《そうほうひ》くにひけぬ立場になったのでございますが、このほどむこうがわには武田《たけだ》が尻《しり》おししているところが見えますので、かねてご厚情《こうじよう》をいただいているお屋形《やかた》に、もしそれが本当ならお後《うし》ろ見《み》をおねがい申したいとて、拙者《せつしや》をつかわしたわけでございます」
と、椎名《しいな》の使者は説明した。
かねてこちらが疑惑《ぎわく》しているとおり、神保氏春《じんぼうじはる》が武田に内通《ないつう》しているのであれば、こうして神保《じんぼ》と椎名《しいな》との間に争いをおこさせ、こちらが越中《えつちゆう》に出陣するのを待って、越中《えつちゆう》にうんと肩入れしてこちらを釘《くぎ》づけにし、南からこちらに兵を進める計略にちがいないと思った。
(その手に乗るものか)
と、思いながらも、けぶりにも見せず、言った。
「そなたの主人も、神保《じんぼ》も、ともに畠山《はたけやま》殿の家来じゃ。つまりは朋輩《ほうばい》じゃに、なんとか話し合いはつかぬものかの」
「朋輩《ほうばい》と申しましてもそれは遠い昔のこと、朋輩《ほうばい》という気持ちは、今日《こんにち》ではつゆないのでございます」
この答えも、景虎《かげとら》は予期していた。元来、越中《えつちゆう》と能登《のと》は足利《あしかが》将軍家|三管領《さんかんれい》の一つである畠山《はたけやま》の一族が守護大名《しゆごだいみよう》であったところだ。神保《じんぼ》氏も椎名《しいな》氏も越中《えつちゆう》の地侍《じざむらい》であったが、畠山《はたけやま》氏が国の守護《しゆご》となって来て以来、その被官《ひかん》となったのであるが、その後|畠山《はたけやま》氏がおとろえ、能登《のと》一国に閉じこもってからは、自立《じりつ》しているのである。いまさら畠山《はたけやま》氏を主《しゆう》とあおぐ気持ちもなければ、おたがい朋輩《ほうばい》であるという意識もあろうはずのないのは当然のことであった。
「そうか。では、もう一つ聞く、その檀那寺《だんなでら》というのは、やはり一向宗《いつこうしゆう》じゃろうな」
「そうでございます」
「そこが椎名《しいな》領になると、その寺はそこの檀家《だんか》を失うというわけだな」
「そうでございます。しかし、また当方でも、領分内《りようぶんない》にある民家は当方の寺の檀家《だんか》にいたしませんと、いろいろさわりがございますので」
「その寺も、もちろん一向宗寺《いつこうしゆうでら》であろうな」
「申すまでもございません」
和解《わかい》させることができそうな気がした。本誓寺《ほんせいじ》の超賢《ちようけん》にたのんで周旋《しゆうせん》させれば、寺と寺との談合《だんごう》は容易につくであろうと思った。また、土地のことは、数年前に経験があるが、土地の由来《ゆらい》をせんさくすれば、双方《そうほう》に言い分があり、双方《そうほう》それを信じきっているだけに、なかなか双方《そうほう》を納得《なつとく》させる裁《さば》きはできないものだが、さいわいわずかな土地だ。折半《せつぱん》してあたえ、不服なところは金品《きんぴん》をくれることによって、これまた解決がつきそうだと思った。金品《きんぴん》は自分がくれてやってもよい。せいぜい、黄金《こがね》百両もあればあまるくらいであろう。ともあれ、合戦《かつせん》さわぎなどおこさせてはならない、武田に乗ずるすきをあたえるだけだと思った。
「段々《だんだん》の話、よくわかった。合戦《かつせん》になったら、後《うし》ろ見《み》をたのむということであるが、それしきのことで、合戦《かつせん》などあほうなことだ。おれがあつかって、さようなことにならぬようにしてやろう。椎名《しいな》殿にそう申せい。もっとも、そなたが申したように、合戦《かつせん》さわぎとなり、むこうに後押《あとお》しがついているということであれば、その時は後《うし》ろ見《み》を引きうける。これも申すよう」
椎名《しいな》の使者は感謝し、なおいくえにもたのんで、帰っていった。
三
景虎《かげとら》は超賢《ちようけん》を呼んで、事情を語り、骨折《ほねお》りをたのんだ。
「かしこまり申した。なんでもないことでござる。かならずまとめてごらんにいれます。愚僧《ぐそう》も一昨年《おとどし》以来、ずいぶんとお屋形《やかた》のお世話《せわ》になっています。なにか一つくらいはおためになることをせねば、あいすまぬと考えていたところでござる。やれ、お役に立ってうれしいことでござる」
超賢《ちようけん》はこう言って帰っていったが、翌日はすぐ旅支度《たびじたく》して越中《えつちゆう》にむかい、数日の後には雪やけした顔で春日山《かすがやま》に来た。
「話はつき申した。いずれにきまろうと、けっして文句《もんく》は言わぬことにしてまいりました。これが両寺の証文《しようもん》でござる」
と言って、二通の証文《しようもん》をさしだした。
景虎《かげとら》は超賢《ちようけん》を請《しよう》じて本誓寺《ほんせいじ》を建立《こんりゆう》するにあたって、自分の分国《ぶんこく》である越後《えちご》と佐渡《さど》、それから犀《さい》川以北の信州《しんしゆう》の地の一向宗寺《いつこうしゆうでら》はみなその支配下にあることを定《さだ》めた。それほど超賢《ちようけん》の力を認めたわけであるが、越中《えつちゆう》のその宗派《しゆうは》の寺にたいしても、これほどの支配力をもっていることをはっきりと見て、みずからの鑑識《かんしき》のあやまらなかったことをよろこんだ。
饗応《きようおう》し、布施《ふせ》をつつんで送りだした。
問題は半分はかたづいた。そこで、老臣《ろうしん》の一人|直江実綱《なおえさねつな》に黄金《こがね》百両をもたせ、旨《むね》をさずけて、越中《えつちゆう》につかわした。直江《なおえ》は人物もしっかりしているうえに、熱心な一向宗《いつこうしゆう》の信者でもあるから、もっとも適任と思ったのであった。
これもみごとに行った。数日後帰ってきたが、折半《せつぱん》の意見を出し、不足は黄金《こがね》五十両ずつを景虎《かげとら》から与えるから納得《なつとく》するよう提議《ていぎ》したところ、神保《じんぼ》も椎名《しいな》も、その家来どもも承諾《しようだく》して、ことは無事におさまったというのであった。
「関東管領《かんとうかんれい》、長尾景虎《ながおかげとら》のあつかいということにしたのでございます」
と、直江《なおえ》は言った。
四
椎名《しいな》家からも神保《じんぼ》家からも、使者をつかわして、こんどのあつかいについて、鄭重《ていちよう》な礼を申しのべ、やがて雪が消えて陽春《ようしゆん》ともなったら、みずから参上拝謁《さんじようはいえつ》して口ずからお礼を申し上げる心づもりにしていると言ったほどであった。
(よかった)
善事《ぜんじ》をし、成功し、当事者《とうじしや》らによろこばれていることを、心から景虎《かげとら》はうれしく思った。
ところがだ。やがて雪が消え、もっとも美しい北国《ほつこく》の陽春《ようしゆん》がおとずれたころ、越中《えつちゆう》方面を担当《たんとう》している諜者《ちようじや》が帰ってきて、
(このほど神保《じんぼ》家の物頭《ものがしら》をつとめている家来二人が、神通川《じんずうがわ》ぞいの道をさかのぼって飛騨《ひだ》にむかうので、ひそかに尾行《びこう》したところ、飛騨《ひだ》から信州《しんしゆう》に出、深志《ふかし》〈いま松本〉で武田《たけだ》方の屯営《とんえい》に入り、一夜泊まった後、さらに南にむかった。甲府《こうふ》を目ざしていることは明らかだと思ったので、あとは追わず、とりあえず報告のため走りかえってきた)
という。
やはり武田との関係はつづいているのだな、と、思った。
「ご苦労であったな。よく知らせてくれた。とりあえずのほうびをやらずばなるまい」
景虎《かげとら》は銀をあたえてねぎらい、
「苦労ついでに、すぐまた越中《えつちゆう》へかえり、その者どもが帰ってくるのを待ち、どんなことがはじまるか見ていて、なにかあったら、急ぎ知らせてくれるよう」
と言って、費用をあたえてさがらせた。
その諜者《ちようじや》から、二人の使者が帰ってきたと報《しら》せがあってまもなくのこと、椎名康種《しいなやすたね》がみずからやってきた。
椎名《しいな》はこのまえ仲裁《ちゆうさい》してくれたことに礼を述べたが、さらに言う。
「このようにせっかくお骨折《ほねお》りいただき、めでたくことがおさまりましたものを、このほど神保《じんぼ》方より、このまえの仲裁《ちゆうさい》には依怙《えこ》がある、当方がだいぶんの損になる、よって話をもとに返したいと、藪《やぶ》から棒《ぼう》に申してまいったのでございます。どうでもこれは弓矢のさたにおよばねばおさまらぬかに思われます。されば、お屋形《やかた》様にはあいすまぬことながら、神保《じんぼ》とのせりあい、ご諒承《りようしよう》いただきたいのでござる」
と、いきどおろしげではあるが、余儀《よぎ》なげな口上《こうじよう》だ。
(来たな、やはり)
と、思った。
「けしからぬ神保《じんぼ》がいたしよう、それならそれとまず仲人《なこうど》たるわれらに申し談ずべきであるに、ほしいままな話のむしかえしは、われらを恥《は》ずかしめるものだ、踏《ふ》みつぶすになんの手間《てま》ひまいろう、と、こう言いたいところであるが、まず待たれよ。いちおうわれらから問いただしたうえで、返答の仕儀《しぎ》によっては、われらが相手になる。神保《じんぼ》ずれが虎《とら》のひげをひねるようなことをするは、たのむところがあればこそのことであろう。あらまし目星《めぼし》はついている。ともあれ、安心してまかり帰っているがよい」
と答えて、椎名《しいな》をかえしておいて、直江実綱《なおえさねつな》を呼んで、
「しかじかだ。そなたこのまえの行きがかりもある。行って詰問《きつもん》してまいれ」
と命じた。
実綱《さねつな》も憤慨《ふんがい》した。
「けしからぬ神保《じんぼ》であります。さっそくにまかりますが、これは拙者《せつしや》一人でまいるより、本誓寺《ほんせいじ》殿にも行っていただくべきではありますまいか」
景虎《かげとら》は笑った。
「神保《じんぼ》は所詮《しよせん》は踏《ふ》みつぶさねばならないものだ。そちのこのたびのしごとは、神保《じんぼ》の量見《りようけん》をひきもどし約束に従わせるにはない。段取りをつけにまいることと承知してほしい」
出兵《しゆつぺい》の名目《めいもく》が立つように働いてこいというのだ。実綱《さねつな》ははっとさとった表情になった。
「よくわかりました。かならずさようにしてまいるでございましょう」
こうして実綱《さねつな》を出してやるとともに、陣触《じんぶ》れを出し、同時に手まわりの兵だけ三百人をひきいて春日山《かすがやま》を出て、西にむかった。
「おれは市振《いちふり》に行っている。着到《ちやくとう》の人数は着到《ちやくとう》の順にしたがって、時をうつさず追うてこさせい」
と、言いおいた。迅雷《じんらい》耳をおおういとまのないような戦《いく》さぶりで、たたきつぶすや、さっと国もとに兵をかえして備え、武田が手を出すひまのないようにすることが、この際としてはもっとも肝要《かんよう》だと思ったからだ。
(晴信《はるのぶ》め、はかりすましたつもりでいるであろうが、その手に乗るおれか)
岩かどだらけのせまい道ではあるが、いまは風が凪《な》ぎ、日の光うららかに照りわたっているのどかな海を右に見て、馬を打たせながら、景虎《かげとら》のほおには微笑《びしよう》が浮かんだ。
五
景虎《かげとら》はだいたい五千の兵に陣触《じんぶ》れして春日山《かすがやま》を出たのだが、市振《いちふり》について三日目にはそのほとんど全部が到着した。市振《いちふり》は海と山とにせまられた狭《せま》い村だ。五千という兵が宿営《しゆくえい》するにははなはだ不便だ。景虎《かげとら》は街道《かいどう》ぞいの村落村落に分宿《ぶんしゆく》させることにしたが、うしろは親《おや》不知《しらず》・子《こ》不知《しらず》の難所《なんしよ》だから、行く手の村落村落を使うよりほかはない。しかし、市振《いちふり》からすこし行くともう越中《えつちゆう》だ。景虎《かげとら》は越中《えつちゆう》に入って、宮崎《みやざき》という村に本陣《ほんじん》をすえ、そのうしろ一帯の村々に分宿させることにした。
直江実綱《なおえさねつな》が汗馬《かんば》にむちをあげてはせもどったのは、宮崎《みやざき》に本陣《ほんじん》をすえた翌日のひるごろであった。
「よし!」
景虎《かげとら》は鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》を使者として、富山《とやま》城にさしたてた。
「関東管領《かんとうかんれい》たるべき景虎《かげとら》が顔に泥《どろ》を塗《ぬ》った。覚悟はあるはずである、これより征伐《せいばつ》にまいる、さよう心得《こころえ》よ、と、こう申し渡すのだ」
「かしこまりました。つまり手切れのあいさつでございますな」
いきいきとした顔になって、弥太郎《やたろう》は言う。いつまでも気の若い男だ、もう四十をこえているはずなのに、こんなことには魚が水を得たように元気づいてくる。
弥太郎《やたろう》は素袍《すおう》に侍烏帽子《さむらいえぼし》の姿で騎馬《きば》で出発したが、こも包みにした具足《ぐそく》を従者《じゆうしや》に背負わしてもっていった。手切れを言い渡すと時をおかず景虎《かげとら》がおしよせて合戦《かつせん》になるはずであるから、それにおくれないようにとの用意からであった。
翌日、早朝、景虎《かげとら》は進撃を開始し、その日は魚津《うおづ》の北方三キロほどの北中《きたなか》まで出た。松倉《まつくら》の椎名康種《しいなやすたね》と魚津《うおづ》城主の鈴木国重《すずきくにしげ》には昨日のうちに使者を立て、
「富山《とやま》の神保氏春《じんぼうじはる》、無礼《ぶれい》の所業《しよぎよう》があったについて、尋問《じんもん》のために立ちむかった。神保《じんぼ》の返答の次第によっては誅伐《ちゆうばつ》ということになるであろうが、十分に軍兵《ぐんぴよう》どもをいましめて、貴領《きりよう》には迷惑《めいわく》をかけぬようにつとめるが、貴方《きほう》でも当方の軍兵《ぐんぴよう》どもを刺激《しげき》しないようにつとめてもらいたい。右は関東管領《かんとうかんれい》として要求するのである」
と申し送らせておいたので、椎名《しいな》は北中《きたなか》の北方|経田《きようでん》まで出迎えていた。
わずかに手廻《てまわ》りの兵三十|騎《き》ほどをひきいて、馬をかたわらに立てて路傍《みちばた》にひざまずいて出迎えている椎名《しいな》を見て、景虎《かげとら》は馬をおり、出陣の途中、兵に命じて藪《やぶ》から切りとらせた細い青竹のむちを軽くつきしめながら近づいた。
「立つがよい。軍旅《ぐんりよ》の間のことだ。略式でまいろう」
と、立たせてねぎらった。
「ついに来ることになった。好《この》むところではないが、あまりに仕打《しう》ちがにくいのでな」
「すべては拙者《せつしや》どものことからおこったのでございます。申しわけございません。つきましては、拙者《せつしや》の本国のことでもございますれば、拙者《せつしや》にご案内を申しつけくださいますよう。ここにはこうした手軽《てがる》な支度《したく》でまいっておりますが、魚津《うおづ》からすこし南にまいりましたところに、千人の兵をひかえさせております。おさしずによって働くことができましょうなら、もっともありがたきことに存じます」
椎名《しいな》の態度もことばづかいも鄭重《ていちよう》をつくしている。この出兵《しゆつぺい》が自分のことのためであるばかりではない。すでに実質上の関東管領《かんとうかんれい》であり、近く名義的《めいぎてき》にもそうなる景虎《かげとら》であるからでもあった。
「おお、おお、働いてもらうぞ。とりあえず、案内役をつとめてもらいたい」
と言って、椎名《しいな》を乗馬させ、くつわをならべて北中に入った。
しかし、鈴木国重《すずきくにしげ》はついに姿を見せなかったばかりか、使者もよこさなかった。物見《ものみ》の者の報告によると、鈴木は家来どもを城内に集め、さかんに糧食《りようしよく》を運びこんで、籠城支度《ろうじようじたく》にけんめいであるという。
(鈴木ごとき小身《しようしん》の大名が、おれに反抗の色を立てるのか)
と苦笑はしたが、さもあろうとうなずく気持ちがないわけではなかった。
(これも武田の手がまわっているのじゃろう。籠城《ろうじよう》して時をかせいでいる間には、武田勢が越後《えちご》に攻めこみ、おれはいたたまらず、越後《えちご》へ引きかえす。長いしんぼうではない、と、ふんでいるのであろう)
と推察した。
兄の愛妾《あいしよう》であった藤紫《ふじむらさき》が鈴木の寵妾《ちようしよう》になっていることも考えた。
(兄のあほうぶりのおおかたはあのおなごのさしくりであったということであるから、なかなかのおなごじゃろう。鈴木も巻かれているにちがいない。あのおなごはおれに好意《こうい》はもたぬはず、ひょっとすると、武田に気脈《きみやく》を通じているというのも、もともとはあのおなごのさしくりかもしれぬ)
七年前の晩秋《ばんしゆう》、最初に上洛《じようらく》する時、魚津《うおづ》城外の武家町《ぶけまち》で、藤紫《ふじむらさき》のひく琴《こと》を聞いたことが思い出された。しずかな朝日の照っている通りであったこと、濠《ほり》と狐色《きつねいろ》の草の枯《か》れた大きな土居《どい》をめぐらした屋敷であったこと、邸内《ていない》の木々の多くが葉をふるいおとして箒《ほうき》を立てたようであったこと、美しい曲目《きよくもく》であったこと、まざまざと思い出される。
鈴木国重《すずきくにしげ》のこの不遜《ふそん》な態度は、景虎《かげとら》の家臣《かしん》らを怒《おこ》らせた。
「生意気千万《なまいきせんばん》でござる。軍神《いくさがみ》の血祭《ちまつ》り、ふみつぶしてくれましょう」
とたけりたったが、景虎《かげとら》は笑って首を振って、
「このような小城《こじろ》はうちすてて進むものだ。この城にいる者どもは神保《じんぼ》の城の守りをたよりにしているのじゃゆえ、神保《じんぼ》の城さえおとせば、すておいても戦《いく》さする気力はなくなって落ちうせる。なまじ攻めて、万が一にも手間どれば、敵に気勢《きせい》を添《そ》えて、むずかしい戦《いく》さになるのだ。よくおぼえておくがよい」
と、言い聞かせた。
「はあ、さようなものでござるか。しかし、鈴木しきの者にこの無礼《ぶれい》を働かせて黙《だま》って過ぎねばならぬとは、口おしいではござりませぬか」
と、家臣《かしん》らはなお言った。
「まあ、見ているがよい。おれが言うことに狂《くる》いはないはずだ」
翌日は早朝にまた北中を立って陣押《じんお》しをつづけたが、魚津《うおづ》城下を過ぐる時、城に使者を立てた。
「神保氏春問罪《じんぼうじはるもんざい》におもむくにあたって貴城下《きじようか》通過に際し、とくに使者を派して通告したにたいして、なんのごあいさつにも接せず、はなはだ心がかりである。やがて軍をめぐらすの日、あらためてあいさつをするであろう」
という口上《こうじよう》であった。
景虎《かげとら》の計算では、これで鈴木の恐怖《きようふ》はひととおりならないものとなるべきであり、やがて富山《とやま》城が踏《ふ》みつぶされれば、いても立ってもいられないほどのものとなり、城を打ちすてて落去《らつきよ》せずにいられない心理に駆《か》りたてられるはずであった。
魚津《うおづ》城下を過ぎて半里ほど行った時、使者に立った武士は追いついた。
「城門まで乗りつけまして、ご当家《とうけ》の家臣《かしん》なにがしと名のり、使者となってまかりいでたにつき、開門《かいもん》ねがうと申しいれましたが、おししずまってうんともすんとも答えません。それで、城門の際《きわ》で、三度くりかえして口上《こうじよう》をのべて、まかりかえりました」
と言う。
「それでよい」
とだけ言って、景虎《かげとら》はうなずいた。城内|一様《いちよう》に呼吸《いき》をひそめ、声をのんで、いすくんでいる情景が想像された。
藤紫《ふじむらさき》のことも考えた。
「あれは悪智《あくち》にたけたおなごじゃ。兄の時にも形勢が不利と見ると、どこぞへにげだしてしまったが、こんどもあほうでないかぎり、鈴木がもっともあぶない立場に立っていることがわかるはず。あんがい、鈴木に泣きついて、城下を遠く離《はな》れた安全なところに身をひそめているかもしれない……」
景虎《かげとら》は藤紫《ふじむらさき》のひく琴《こと》は聞いているが、まだ一度も顔を見たことがない。美しく、高雅《こうが》な容姿《ようし》の女と聞いているが、そんな邪悪《じやあく》な心をもつそんな容姿《ようし》の女を想像することはできなかった。
六
魚津《うおづ》城下を出て十四、五キロで常願寺《じようがんじ》川に行きつく。正午《しようご》すこしまえにここについた。
兵をひきいて昨夜のうちに先発した椎名康種《しいなやすたね》が縦横《じゆうおう》に奔走《ほんそう》して集めてくれた渡河《とか》用の船がおびただしく、草が萌《も》え柳が芽ぶいている岸につないであり、日をきらきらと照りかえす青い水の上をなお続々と集まりつつあった。
すこし早いが、兵らにひるの兵糧《ひようろう》を使わせていると、対岸に侍烏帽子《さむらいえぼし》、素袍《すおう》姿の騎馬《きば》の武士があらわれ、馬上に扇子《せんす》をひらいて、
「おおい、おおい」
と呼ばわった。
弥太郎《やたろう》であった。
「鬼小島《おにこじま》様じゃ」
「弥太郎《やたろう》様じゃ」
と兵らはざわめきあい、こちらからも手を上げて振った。
弥太郎《やたろう》は扇子《せんす》を閉じてどこかにしまったかと思うと、手綱《たづな》をかいくり、輪乗《わの》りをかけはじめたが、あっというまもなかった。青い堤《つつみ》の上から馬をおどらせ、ざんぶとばかりに飛びこんだ。
人々はわっと声を上げた。
「あほうなやつめ、ばかばかしくはりきっているわ」
と、景虎《かげとら》は笑いだした。手切れの言い渡しは予定のとおりにいったにちがいなかった。
ゆるやかなように見えても、相当流れが速いのであろう。押し流されぎみにカネにわたして、岸に乗りあげた。身ぶるいする漆黒《しつこく》の馬のまわりに、霧《きり》のようにしずくが立ちのぼったが、すぐそのまま緑の堤《つつみ》の上を疾駆《しつく》してきて、本陣《ほんじん》の前でとびおり、景虎《かげとら》に近づいてきた。ひざまずくとともにどなった。
「ご進発《しんぱつ》、ご進発《しんぱつ》! たしかに手切れのご口上《こうじよう》、申しわたしてまいりました。これほどまでにご出馬《しゆつば》がお早かろうとは、意外であったのでございましょう。敵のうろたえよう、もってのほかであります。おんよせあらば、片時《かたとき》の間にかたがつきましょう」
大音声《だいおんじよう》ともいうほどの高声だ。言いおわって、呼吸《いき》をきらして、せいせい肩で呼吸《いき》をし、びしょぬれの全身から、ぽたぽたしずくをたらしている。
「よし、大儀《たいぎ》であった」
景虎《かげとら》は左手の青竹を右手にとりなおし、ビューとうならせて横にふった。
「進発《しんぱつ》!」
まぢかくいて、食いいるように聞きいっていた黄母衣《きほろ》の使い番らはさっと立ちあがり、馬に飛びのると、それぞれに受持ち隊にむかって駆けだした。
余談《よだん》だが、ここを書いていてふと思い出した。近ごろ交通事故の多いところから、小学生の通学服の色を黄色系統にすることがはやっている由《よし》である。この色がいちばん目立つからだというが、戦国時代の戦場における使い番(伝令)は黄色の母衣《ほろ》をつけていたのである。これも目立たせるためであったのであろう。
さて、使い番らがそれぞれの隊へ飛びだしていったと同時に、弥太郎《やたろう》は乗りすてていた自分の馬に駆《か》けより、鞍《くら》のうしろにつけていた菰包《こもづつ》みをおろして引き裂《さ》き、具足《ぐそく》をとりだすと、びしょぬれの素袍《すおう》をかなぐりすてて着かえた。すばらしい速さであった。たちまち着てしまった。
しかし、もうそのころには、各隊|粛々《しゆくしゆく》と岸の船に乗りこみつつあった。
勝ちどき
一
川を渡れば富山《とやま》までわずかに七キロだが、怒濤《どとう》の進撃というぐあいにはいかない。常願寺《じようがんじ》川と神通《じんずう》川とにはさまれたデルタに似た地勢をもった富山《とやま》市のまわり一帯は、網《あみ》の目《め》のように細川《ほそ》(クリーク)がからんでいて、いっきに兵をおしすすめることができない。一見なんでもないようでありながら、天然《てんねん》の要害《ようがい》をなしているのである。
さらにまた城そのものがずいぶん堅固《けんご》だ。現在|富山《とやま》市の西のはずれを流れている神通《じんずう》川は、このころはさらに西方四キロの呉羽山《くれはやま》のふもとを流れていたのであるが、城はこの川の水を引いて濠《ほり》としているのである。元来が水の豊富な土地であるから、ふつうの濠《ほり》ではない。広く深くうがって、満々《まんまん》とたたえているのである。
このような地勢であることは、二度の上洛《じようらく》のみちすがら見て、景虎《かげとら》はよく知っている。
軍勢を数隊にわけ、案内者として土地の百姓《ひやくしよう》をそれぞれにつけて、ちがった道から城にむかわせた。また、一隊をえらんで、これにははなばなしく旗《はた》や吹き流しを立てさせて、海べをまわって、神通《じんずう》川ぞいにさかのぼり、城の西方に出るように言いふくめた。
三月末といえば、いまの暦《こよみ》では四月末だ。北国のことで、水田の植えつけも早い。デルタ一帯にひろがる田圃《たんぼ》の多くは田植えの支度《したく》をしつつあったので、水を満たしてある。その間にさまざまの春の花にいろどられてつづく緑の草の野道を、いく隊にもわかれた越後《えちご》勢はえんえんとつづいて、富山《とやま》城に進撃していった。
景虎《かげとら》は、神保《じんぼ》は戦わずして城はおちるであろうと計算していた。こうこちらの出陣が迅速《じんそく》では、武田《たけだ》勢の加勢《かせい》はもちろん、背後から越後《えちご》を牽制《けんせい》することも望まれない。神保《じんぼ》の第一の誤算だ。おそらく、いまごろは気落ち魂《たましい》おびえて、うろたえきっているはずである。それでも、武門《ぶもん》の面目《めんもく》にかけて、かなわないまでも籠城拒戦《ろうじようきよせん》の性根《しようね》をすえるであろうが、まもなく西方の神通《じんずう》川下流の堤《つつみ》にこちらの旗幟《きし》が動きはじめるのを見れば、退路《たいろ》を遮断《しやだん》されるとて、いったんきめた覚悟はぐらついてくるであろう。籠城《ろうじよう》の性根《しようね》をすえたといっても、それはすえたつもりでいるだけで、心の底の奥深いところには、自分でも気づかない未練《みれん》がひそんでいるのがふつうだ。神通《じんずう》川下流の堤《つつみ》の上にあらわれ、しだいに上流へせりのぼってくる越後《えちご》勢の旗幟《きし》と軍勢は、その未練《みれん》を心の表面にひきずりだす力をもっているはずである。そうなれば、恐怖《きようふ》はいっそうのものとなって、ついに城を出て落去《らつきよ》ということになる。山の裾野《すその》の草原に巻狩《まきが》りして、欲《ほつ》する方角に野獣《やじゆう》どもを追いつめていくとかわるところはないのである。
この見通しを、景虎《かげとら》は部将にも馬廻《うままわ》りの者にも語りはしなかった。味方の景気《けいき》が悪く、将士が恐怖《きようふ》している時は、見通しを語り、勝つべき戦《いく》さであることを納得《なつとく》させることも必要だが、勢いのよい時にはぜったいにそれはしてはならない。兵は驕兵《きようへい》となって緊張《きんちよう》を欠き、すきを生《しよう》じ、そこを敵につけこまれ、意外なやぶれをとるおそれがある。そんなことは古今《ここん》ためしが少なくないのである。
いつもの合戦《かつせん》にのぞむ時のきびしい表情であった。紺色縅《こんいろおど》しの鎧《よろい》に白練《しろねり》の袖《そで》なしの陣羽織《じんばおり》、わざと冑《かぶと》は着ず、白絹《しらぎぬ》で頭をつつみ、青竹のむちを手綱《たづな》と合わせて片手にしっかととり、栗毛《くりげ》の馬を打たせる彼の目は前方を凝視《ぎようし》してまじろぎもせず、きれいに剃《そ》りあげられた口もとはきびしくしまって、ひとことも口をきかない。彼の左右とうしろには、えりすぐって壮強《そうきよう》な壮士《そうし》らが、四、五十|騎《き》従っていたが、これまた一語も口をきかず、緊張《きんちよう》しきった顔で前面を凝視《ぎようし》している。この人馬の間から聞こえるものは、物《もの》の具《ぐ》や馬具《ばぐ》のふれあう音と馬蹄《ばてい》のひびきだけであった。蕭々《しようしよう》として雨が過ぎていくようだ。おそろしい威力《いりよく》と威厳《いげん》とがあった。
しだいに近づくと、一キロほど前方に、やや小高くなった地点がこんもりと木立ちにおおわれているのが見えた。新緑のその木々の間に、建物の屋根がやや疲《つか》れたような晩春《ばんしゆん》の午後の日を受けてにぶく光っている。目ざす富山《とやま》城だ。
景虎《かげとら》は馬をとめて、あたりを見まわしたが、すこしはなれた左方にあるやや小高い畑地にむちの先をむけた。
「あれに」
はっと答えて、従騎《じゆうき》の一人が後方に飛ぶと、この隊のあとからついてきつつあった小荷駄隊《こにだたい》から雑兵《ぞうひよう》らが駄馬《だば》をひいてとぶようにその高地に駆《か》けつけ、たちまち陣所《じんしよ》をしつらえた。幕《まく》を打ち、吹き流しや幟《のぼり》を立てつらね、四隅《しぐう》に毘《び》の字の旗を立てた。
できあがると、景虎《かげとら》はそこに馬を進め、中ほどにすえた床几《しようぎ》に腰をおろした。その以前、馬廻《うままわ》りの者どもはその左右と背後に、定《さだ》められている序列をもってすわっていた。折敷《おりし》いて右ひざを立てたすわりようだ。だから、それぞれのひざにかかえた槍《やり》の柄《え》は自分の前に位置している者の肩にかけられ、穂先《ほさき》はややうわむいて前方につきだされていた。いずれもどぎどぎするほどに研《と》ぎみがかれている穂先《ほさき》であった。すわといえば、即座《そくざ》におどりたって敵にかかれる身がまえであった。しわぶきひとつするものはなく、全員食いいるようにするどい目で前方をにらんでいるだけだ。見るからに髪の根がしまってくるような森厳《しんげん》な感じであった。
彼らの前方には思い思いの道から城にせまりつつある諸隊の姿が見えていたが、とつぜんその一隊が黒い豆粒《まめつぶ》をまくように散開《さんかい》したかと思うと、小さな煙が上がり、つづいていり豆のはじけるような銃声が聞こえてきた。同時に、その前方に、それまで姿を見せなかった敵がまばらにあらわれて、同じように鉄砲を撃《う》ちはじめた。しかしそれはそこだけであり、兵数もいたって少ない。百人あるやなしだ。
(こちらの手なみを見るためのさぐりの矢だ。やがて城内につぼまるはずだ。あるいは根強く戦うと見せておいて、城を落ちる支度《したく》をしているのかもしれん)
と景虎《かげとら》は考えた。
日をあおいで、時刻を見た。未《ひつじ》の下刻《げこく》(午後三時)か申《さる》の上刻《じようこく》ごろと思われた。海べの道を迂回《うかい》して神通《じんずう》川の下流に達した一隊がそろそろ堤防《ていぼう》道をさかのぼりはじめたころだ。
二十分ほど鉄砲|戦《いく》さしただけで、敵はすこしずつ後退《こうたい》しはじめたが、その敵の姿がまだ見えている時、城から一すじの煙が立ちのぼりはじめたかと思うと、たちまちほうぼうからのぼりはじめた。
いきなり、景虎《かげとら》は立ちあがった。
「馬引け! 神保《じんぼ》は城を落去《らつきよ》するぞ。のがすな」
とさけび、ひいて来られた馬にとびのった。従士《じゆうし》らもまた騎乗《きじよう》した。景虎《かげとら》はまっさきかけて馬を飛ばせた。煙は濁《にご》りかえった黒褐色《こつかつしよく》にかわって城一面を包み、木立ちも建物も見えなくなっていた。
ほうぼうの道から城に近づきつつあった諸隊も、いっせいに城にむかって急行しつつあった。
二
にげ足の早い神保《じんぼ》であった。東と北から攻め寄せられ、さらに一隊に神通《じんずう》川の東岸を下流からおしあがってこられれば、当然、南方か西南方にむかってにげるよりほかはないはずと計算して、城のはるか南方に、大きく迂回《うかい》ぎみに西にむかって、逃走《とうそう》のあとをさがしながら行くと、神保《じんぼ》は主従《しゆじゆう》百二、三十|騎《き》、城の西南にあたる地点で神通《じんずう》川を渡り、さらに西南方にむかったと、土民《どみん》が教えてくれた。
川はばがひろい上に水量が多く、しかもそのへんに舟はない。逃走《とうそう》にあたって、神保《じんぼ》の従騎《じゆうき》らが、見えるかぎりの地域にあった舟の底を槍《やり》の石突《いしづ》きでつきやぶり沈めて川を越えたという。
土民《どみん》はまた、
「栴檀野《せんだんの》に近く亀山《かめやま》という山がござります。ここは神保《じんぼ》様のずっとまえの先祖の城あとがござります。建物もなんにものこっちゃいませんが、とりつくろえばええ城になりましょう。おおかたここへ落ちなすったのではありませんかね」
とも言った。
景虎《かげとら》は追跡《ついせき》をやめて、城近くに行き、火のおさまるのを待って、諸軍勢をひきいて城に入って、勝ちどきを上げた。建物のほとんど全部が焼けたばかりか、火に面したがわは木々も焼けこげて醜《みにく》い姿になっていた。
夕日のなかに勝ちどきの儀式をおこなって、その夜は城内とその付近に、終始《しゆうし》あかあかとかがり火をたいて夜営《やえい》した。城外の武家屋敷《ぶけやしき》や民家は無事にのこっていたが、これには泊まらないのがこんな場合敵地に宿営《しゆくえい》する法であった。人家に泊まっていては、夜襲《やしゆう》など受けた時、とっさに応ずることができないのである。
翌日は早朝から越中《えつちゆう》の国侍《くにざむらい》らの帰服《きふく》する者がひきつづいた。本領《ほんりよう》の安堵《あんど》を乞《こ》い、神保征伐《じんぼせいばつ》の先手《さきて》をつとめたいとねがうのであった。景虎《かげとら》はすべてこれをゆるした。疑わしく思われる者もないではなかったが、急がなければならない場であった。
ひる近く、神保《じんぼ》が栴檀野《せんだんの》の亀山《かめやま》の古城跡《こじようあと》にこもるために、付近の百姓《ひやくしよう》らを駆《か》りだして、けんめいに修築《しゆうちく》しつつあることがわかったので、帰服《きふく》を申しこんだ国侍《くにざむらい》らを討手としてつかわした。
「奉公《ほうこう》はじめだ。ひとはたらき見せてもらおう」
と申しわたし、軍目付《いくさめつけ》として本庄慶秀《ほんじようよしひで》に曾根平兵衛《そねへいべえ》と秋山源蔵《あきやまげんぞう》とをそえてつかわすことになった。
その連中《れんちゆう》が出発してまもなく、魚津《うおづ》城の鈴木大和守《すずきやまとのかみ》が逐電《ちくでん》して行くえ不明になり、城兵らは思い思いに城内の器財《きざい》・貨物《かもつ》をさらってにげちったとの報告が入った。
「お屋形《やかた》のお見通しのとおりでございました」
と、みな舌《した》を巻いた。
「世にはとくべつ心の剛《ごう》な者は少ない。おおかたは似たり寄ったりのものゆえ、こうなるのは当然のことじゃ」
と、景虎《かげとら》は笑った。こんな報告はできるだけ早く国侍《くにざむらい》らに知らせた方が、帰服《きふく》の心をかためる。すぐ使い番に含めて、神保討伐《じんぼとうばつ》にむかった人々のあとを追わせた。
夜に入って、本庄慶秀《ほんじようよしひで》から注進《ちゆうしん》が入った。
「神保《じんぼ》のこもる亀山《かめやま》城は一名を増山《ますやま》城と申すのでござる。さすがに神保《じんぼ》の先祖が数代の居城《きよじよう》としていただけあって、修理なかばとはいえ、なかなかの要害でござるうえ、神保《じんぼ》に与力《よりき》する国侍《くにざむらい》らがはせ集まって、籠城《ろうじよう》の人数も相当に多数でござる。のみならず、味方の国侍《くにざむらい》らのなかには、越中《えつちゆう》の国侍《くにざむらい》らと血の続きがあったり、平素《へいそ》からの親交があったりするためでござろうか、戦意を欠いている者もかなりにあるかに見えます。いかがすべきか、おさしずをあおぎとうござる」
というのであった。
手間《てま》どって、一日のびれば一日だけ、国侍《くにざむらい》らの心は離反《りはん》するにちがいなかった。
弥太郎《やたろう》を呼んで、命じた。
「汝《われ》、行って、慶秀《よしひで》に言えい。明日|早暁《そうぎよう》おれが立ちむかい、おれが攻めつぶすゆえ、この旨《むね》、味方の国侍《くにざむらい》らに直《ただ》ちに触《ふ》れるよう。また、こうも触《ふ》れるよう。城中にこもる者どもと絶ちがたいほだしのある者もあるであろうが、奉公《ほうこう》に専心《せんしん》になれぬと思う者は、その旨《むね》を軍目付《いくさめつけ》にまで申し出て、退陣いたすよう、けっして不服とは思わぬ、ただしそうせいで味方づらつくってとどまりながら、敵と通謀《つうぼう》する者はけっして容赦《ようしや》せぬと。これも即座《そくざ》に触《ふ》れまわすよう」
景虎《かげとら》のまゆはあがり、眼裂《がんれつ》の大きい目はひときわ鋭《するど》い光をはなち、おそろしい形相《ぎようそう》になっていた。
この申しわたしのなかにも、綿密《めんみつ》な計算があった。断乎《だんこ》たる決意を示すことによって、国侍《くにざむらい》らの帰服《きふく》の心をかためることができることはもちろん考えていたが、さらに深い思案があった。敵味方の国侍《くにざむらい》の間にはすでに交通があるに相違《そうい》ないから、自分のこの断乎《だんこ》たる決意は即時《そくじ》に城中に聞こえ、城中の人心を動揺《どうよう》させ、国侍《くにざむらい》らの心を離反《りはん》させ、そのあげくには神保《じんぼ》の勇気はおおいにたわむであろうと考えたのであった。
しかし、この計算は計算として、ことばの進むにつれて、景虎《かげとら》の意気は激揚《げきよう》し、はげしい顔になったのであった。計算は綿密《めんみつ》に立てるが、計算のとおりに動けないものが、いつも景虎《かげとら》にはあった。それは彼の欠点でもあったが、利点となることもまた少なくないのであった。
はげしい気魄《きはく》に打たれて、侍坐《じざ》している家臣《かしん》らが胸をふるわせているなかで、弥太郎《やたろう》は、
「かしこまり申した。そう申しつたえますべい。それでは、お屋形《やかた》様はあしたの五ツ時(八時ごろ)までには、ご到着でござりましょうで、われらはむこうでお待ちしていてようござりますか」
と、いつものざっかけない調子で言った。おおかたぬけがけでももくろんでいるのであろうと思われた。
「おお、いいぞ。ずいぶんと働け」
と言ってやると、大喜びで立ち去った。
翌日は夜半《よなか》をすこしすぎたころにはもう起きて、出発の支度《したく》をし、夜明けにはまだすこし間のあるころ出発したが、全軍が神通《じんずう》川を渡りおわったころ、ほのぼのと明るくなってきた。
さらに進んで五、六|町《ちよう》行ったが、そこに弥太郎《やたろう》がはせかえってきた。
弥太郎《やたろう》はおそろしく腹を立てていた。
「越中《えつちゆう》の国侍《くにざむらい》どもは、腰ぬけばかりでござる。城中にこもった者ども、あらかたは落ち失《う》せてしまい申した。神保《じんぼ》もどこへ失《う》せたか、姿を消したのでござる。じゃによって、いのこった国侍《くにざむらい》どもも、せんかたのうなって、お味方になっている国侍《くにざむらい》どもをたのんで、降参申してまいったのでござる。わずか一日一夜のこらえようもせぬほどなら、はじめから手むかわぬがようござる。前代未聞《ぜんだいみもん》の弱敵《じやくてき》どもに会うて、胸が悪うござる」
と、かんで吐《は》きだすように言う。
これも計算のとおりにいったのだ。心中よろこびながらも、景虎《かげとら》は、
「さもあろうな。おれもここまで来ながら、振りあげたこぶしのおろし先のない気持ちだ。この国の者どもに、おれが弓矢のほどをとっくりと見せてやろうと思うていたのじゃが、さてものこりおしいぞ」
と、笑った。
三
魚津《うおづ》城下を通過して富山《とやま》にむかう時、景虎《かげとら》がゆくりなく考えたように、藤紫《ふじむらさき》は魚津《うおづ》城内にはいなかった。彼女は自分がこんなところにこんな身分になっていることを景虎《かげとら》が知っていようとは思わない。しかし、自分に好意《こうい》をもとうはずのない景虎《かげとら》であることは十分に覚悟している。だから、いつも景虎《かげとら》を悪意をもって意識せずにはいられなかった。
その景虎《かげとら》の威勢《いせい》が隆々《りゆうりゆう》とあがり、北陸道《ほくりくどう》一の名将《めいしよう》と言われるようになり、去年はもっともはなばなしい行装《ぎようそう》で上洛《じようらく》し、朝廷《ちようてい》のおぼえ、将軍《しようぐん》のおぼえが最もよく、関東管領《かんとうかんれい》たることを許されて帰国してきたとあっては、いっそうたいらかな心ではいられなくなった。
この以前から、武田晴信《たけだはるのぶ》から鈴木《すずき》にはたびたび密使が来ていたのだが、鈴木はたしかな返答をしないできた。鈴木|程度《ていど》の小大名《こだいみよう》が強い隣国の敵国と結ぶことは、うまくいけばこのうえもないが、危険が大きい。つかずはなれずで、どちらともほどよくつきあっているのがもっとも安全な道なのだ。鈴木はかしこいというほどの人物ではないが、それくらいの分別《ふんべつ》はつくのである。
それを、藤紫《ふじむらさき》は日夜に鈴木を説き、ついには泣いてかきくどき、武田《たけだ》に与力《よりき》することに踏《ふ》みきらせた。
けれども、景虎《かげとら》の越中《えつちゆう》入りは意外に早かった。彼女は恐怖《きようふ》した。こんなに早くては、武田の救援《きゆうえん》もまにあわないであろうから、うまくいきそうにないと思った。
春日山《かすがやま》を落ちた時のことが、まざまざと思い出され、おそろしさはいっそうとなった。
彼女は鈴木に説いて、魚津《うおづ》から四キロほど東北方の片貝《かたかい》川にのぞんださびしい村にひそむことにした。
四
鈴木国重《すずきくにしげ》が藤紫《ふじむらさき》のために選定《せんてい》したかくれがは、村の南部に位置し、裏手は樹林をもった小高い丘がうねりながら南へ行くほど高くなっていくふもとにある神社の社家《しやけ》であった。藤紫《ふじむらさき》はここへおびただしい荷物とともに移ってきた。
彼女は春日山《かすがやま》での経験に懲《こ》りた。いつ合戦《かつせん》がはじまるかわからない世の中にいながら、その用心をおこたって災厄《さいやく》におちいるのは、本人の罪《つみ》だとさとった。だから、鈴木の寵愛《ちようあい》を受けるようになるとまもなく、京の実家に言ってやって、家来を京都からとりよせた。京育ちの男どもがこの地の男どもとはくらべものにならないほど、体力も心も惰弱《だじやく》であることはわかっていたが、いくら強くても久助《きゆうすけ》のような悪い男では毒蛇《どくへび》をふところにしているようなものだ。ともあれ、田舎者《いなかもの》は気心がはかれないからぶきみであった。忠実でさえあってくれれば、少々|弱虫《よわむし》でも、ずっとよいと思った。
その家来は、女中が二人、侍分《さむらいぶん》の者が二人、小者《こもの》が五人、みな京生まれの京育ちの者どもであった。藤紫《ふじむらさき》はそれを全部つれ、鈴木からつけられた武士や小者《こもの》らに案内されて、このかくれがに来た。
「静かでいいこと」
藤紫《ふじむらさき》はうれしげに言って、仔細《しさい》にあたりを点検し、案内してきた武士や小者《こもの》らを魚津《うおづ》にかえして、侍女《じじよ》らを相手に当分の居場所《いばしよ》の設営にかかっていたが、にわかにそれをうちやめ、そわそわと女中二人と小者《こもの》二人だけを連れて、裏の山に上った。
花と新緑とがいっぺんに出ている林の中につづく細い道を歩いていくと、低い丘だ、すぐてっぺんに出た。てっぺんといっても、うしろの方にしだいに高くなりながら尾根《おね》がうねりつづいているのだから、山の鼻柱《はなばしら》といった感じの場所だ。そこは樹木がたえて、草山になって、短く青い草の間のところどころに、わらびがにょっきりにょっきりと頭をもちあげていた。
女中らはすぐ夢中《むちゆう》になって、わらびを摘《つ》みはじめたが、藤紫《ふじむらさき》はまっすぐに立ったまま、うしろにつづく山を見上げたり、前面の村を見わたしたり、はるかに左方一里ほどの距離にある魚津《うおづ》の町をながめたりしていた。
彼女はまだ十分に美しかったが、それでも三十五という年は争われない。明るいまひるの外光の中で見ると、まなじりのあたりにこまかなしわが見えた。肌《はだ》の色がまだ美しいので、そこのあたりはしぼみかけた花びらのような感じがあった。
おちつきなく見まわしていたが、やがてその目は前方にむかったまま凝視《ぎようし》になった。前方四、五|町《ちよう》のところを片貝《かたかい》川がうねっている。銀色に光りながら大きくうねって、一里ばかりむこうで、海に入っているのだが、彼女の目はその銀色に光る川を凝視《ぎようし》しているようであった。
やがて、そのみがきあげた銀面のように見える河面《かわも》に、上流の方から一艘《いつそう》の舟がくだってきた。そう大きいとは思われないが、帆《ほ》を張って、まっしろにそれをかがやかしながら、くだってき、たちまち下流の方へ消え去った。
彼女はにわかに明るい顔になり、
「みんな帰るんどっせ。わらびみたいなもん何するんどす。すてておしまい」
と、家来どもに言って、さっさと山を下りはじめた。
社家《しやけ》に帰りつくと、家来どもに、
「ここから他へ移ります。みな荷物をもってついておいでなさい」
と言い、社家《しやけ》にあいさつもせず、それぞれの馬の背に荷物をつけ、さっさと引き移った。次の場所は片貝《かたかい》川に臨《のぞ》んで、新緑の木立ちに囲まれた浄土真宗《じようどしんしゆう》の寺の庫裏《くり》であった。
寺の裏手は木立ちをぬけるとすぐ高さ二|丈《じよう》ばかりの崖《がけ》になり、崖《がけ》の下は青い淵《ふち》になり、崖《がけ》からななめに切りおろした石段道《いしだんみち》が、淵《ふち》にむかってついていた。
寺につくと、家来に言いつけて、寺僧《じそう》に、
「しばらく貴院《きいん》をお借りしたい。これは鈴木大和守《すずきやまとのかみ》が身うちの者でござる」
と交渉《こうしよう》させて、否応《いやおう》なしに庫裏《くり》につづく離《はな》れを借りた。藤紫《ふじむらさき》と女中二人がそこに住まいし、男の家来どもは本堂に寝起きさせた。寺では迷惑《めいわく》がったし、梵妻《ぼんさい》どののふくれようったらなかった。しかし、住職に金をあたえ、梵妻《ぼんさい》に着物をひとかさねあたえると、手のひら返すように愛想《あいそ》がよくなった。
きげんのよくなったところで、藤紫《ふじむらさき》は住職にたのんで、舟を三艘《さんそう》借りてきて、裏の淵《ふち》につながせた。
春日山《かすがやま》をのがれる時の失敗は、かたいしこりとなって、いまも心の底でうずいている。どんなに念入りに手だてを講《こう》じてみても、どこかにほころびがあるようで、不安でならない。山の手の神社はこんもりとした林にかこまれて、身をひそめるにはもっともよさそうなところであり、万一敵がせまってきそうだったら裏山ににげ、山づたいに深く入ればよいとたいへんうれしかったが、しばらくたつと、こんなところこそ、かえってもっとも敵が目をつけてさがしに来そうだと思われた。不安になって、ここを見定《みさだ》めて引き移ってきた。
裏手が片貝《かたかい》川に臨《のぞ》んでいるのは、丘の上から見当をつけたのだが、舟をかくしておくに便利な淵《ふち》にのぞんでいるとは望外《ぼうがい》のさいわいであった。これで、万一の際には舟で海に脱出できると安心した。
もってきた荷物の整理にかかった。城を出る時、相当よりわけて貴重《きちよう》なものだけにして来たのであるが、革籠《かわご》に三十数|個《すうこ》もあってみれば、危急《ききゆう》の場合には処置がつかない。四様によりわけた。
その一つめは、金銀と多少の銅銭《どうせん》を小さな包みにした。これはもっとも急速に危険のせまった際、みずからのふところに抱いてにげるためのもの、その二つめは次の段階の危急《ききゆう》の際に、家来らにかつがせて舟に運ぶためのもの。革籠《かわご》二つにおさめた。金・銀・銭と、衣服。その三つめは五つの革籠《かわご》に荷造りした。これは大部分が衣服で、小量の髪かざりや什器《じゆうき》類だ。その四つめは以上から選びのこされたもの。
荷造りをおわって、いくらか気の休まることのできた翌日は、もう越後《えちご》勢が海近い地点で片貝《かたかい》川をおし渡って南にむかい、その夜は魚津《うおづ》北方の北中《きたなか》で野営《やえい》にかかったといううわさがつたわってきた。片貝《かたかい》川の渡河点《とかてん》も、北中も、ともにここから一里あるやなしだ。家来どもに異変《いへん》があったらすぐ注進《ちゆうしん》に駆《か》けもどるように言いつけて、その方からの道の要所に立てて見張らせ、みずからは呼吸《いき》を殺している気持ちで、蟄居《ちつきよ》していた。
五
越後《えちご》勢は北中《きたなか》に一泊《いつぱく》しただけで、さらに南して富山《とやま》にむかったという。富山《とやま》城の守りがかたく、長くもちこたえることができれば、武田《たけだ》からの後詰《ごづ》めもまにあおうし、あるいは武田方が越後《えちご》を衝《つ》いて牽制《けんせい》することもあろうしするから、ひとすじに富山《とやま》城の守りのかたくあることを念じた。
富山《とやま》城には一日で行きつける道のりである。どんなふうにことが運ぶか、心配でならない。様子をうかごうために魚津《うおづ》城まで家来を出したが、その夜おそく、その家来がはせもどってきた。
「富山《とやま》の神保《じんぼ》殿は、一戦にもおよばず、城に火をかけていずれかへ退去されたと申すことで、魚津《うおづ》のお城は上を下へ返しての大さわぎでございます」
と言う。
「なんと言いやる?」
と言ったきり、しばらく口がきけなかった。
家来はまた言う。
「それで、殿様はこうおおせられました。家中一統仰天《かちゆういつとうぎようてん》し、にげることばかり考えよって、籠城《ろうじよう》などできそうな気色《けしき》はさらにない、そやさけ、おれも城を落ちる決心した、ひとまず北山《きたやま》に落ちて後図《こうと》をくふうするつもりじゃ、すこしまわり道になるが、そちらの村を通っていくことにするゆえ、支度《したく》して待っているように、と、そうおおせられてでありました」
藤紫《ふじむらさき》はまだ口をきかない。きけなかった。だいたいにおいて、いやいや、いまとなっては、心の奥深いところではすっかり見通しがついていたことがはっきりわかる。ちゃんと見通していながら、たよりにもならない万一を僥倖《ぎようこう》していたにすぎないことが、痛いほどわかった。そのくせ、とほうにくれる思いであった。どうしよう、どうしようと思った。
(もうあんなことはこりごりだ)
と思った。あんなこととは、春日山《かすがやま》をにげだした時に出あったことだ。
「京へ帰りましょう。あの舟はこんな時のためどす。みなにそう言って、支度《したく》させてたもれ」
ゆっくりした調子ながら、よどみなく出た。
「へ?」
よくわからなかったようだ。目をぱちぱちさせていた。
「はようおし、荷物を運んでたもれ。荷物には順序がつけてあります。その順に運ぶよう」
「へッ!」
飛びたつように走り去った。藤紫《ふじむらさき》の意図《いと》していたことがはじめて合点《がてん》がいったのか、京へ帰れるというのがうれしいのか、小おどりするような足どりであった。
こうするうちにも鈴木《すずき》が来れば、駄目《だめ》になる、急がなければならなかった。三十個にあまる荷物を全部というわけにはいかない。半分だけもっていくことにする。松火《たいまつ》をつけて運びだしていくさわぎに、住職も梵妻《ぼんさい》もおどろいて、口もきけない。
「お城からにわかに他へ行くように申してきましたよって、そちらに参ります。のこった荷物は、お世話《せわ》になったお礼に、お寺さんへ寄進《きしん》します」
と、藤紫《ふじむらさき》は言った。
「ヘッ、寄進《きしん》?――これはこれはご殊勝《しゆしよう》なことで」
住職も梵妻《ぼんさい》も、喜色満面《きしよくまんめん》となった。
「それでは」
おじぎして、藤紫《ふじむらさき》は歩きだしたが、数歩でうしろにあわただしい足音がしたので、ふりかえって見ると、屋内に駆《か》けこんでいく二人の背が、こちらの松火《たいまつ》の明りで見えて、すぐ消えた。足音だけがしだいに遠ざかりながらしばらく聞こえた。もらった革籠《かわご》のところへ駆《か》けつけるのに相違なかった。いまさらのようにおしくなったが、どうしようもない。急いで歩き去った。
六
一時間ほどの後、鈴木国重《すずきくにしげ》は二十数|騎《すうき》の家臣《かしん》らと雑兵《ぞうひよう》五十人ほどを連れて、この寺に来た。
「なんじゃとオ? おらぬ? そんなはずがあろうか!」
鈴木は腹を立ててどなりたてたが、寺僧《じそう》はおろおろしながら、いきさつを話した。
「ご家来のお侍《さむらい》が一人もどって見えるとすぐでござりました。お城からのおおせでほかへ移るのじゃとお言いなされてござります」
鈴木は藤紫《ふじむらさき》が自分から逃《に》げたことをさとった。信じたくなかったので、なお問いただしているうちに、まえから裏の片貝《かたかい》川の淵《ふち》に数艘《すうそう》の舟を用意していたことを知った。もう信じたくなくても信じないわけにはいかない。
「売女《ばいた》め!」
うなって、くるりと身をかえし、馬に飛びのった。これも急がなければならない。できるだけ早く北山へ行って身をひそめなければならない。
「急げ!」
と、どなって、めったやたらに馬を飛ばして駆《か》け去った。従騎《じゆうき》らは馬だからよいが、雑兵《ぞうひよう》らは呼吸《いき》せき切って、具足《ぐそく》をがちゃがちゃ鳴らして追いかける。とんだところにとんだとばっちりであった。
このころ、藤紫《ふじむらさき》の乗った舟は片貝《かたかい》川を川口に近いところまで下っていた。
やがて海に出る。
富山《とやま》城の落ちたのは三月三十日であった。月はない。海の上はまっくらであった。風はなかったが、富山湾《とやまわん》は外洋といってよいほど広く口のひらいた湾《わん》だ。うねりが大きく、底のひらたい川舟ではあぶなくてならない。みな恐怖《きようふ》した。
家来らは、一度|陸《おか》に上がって舟をかえようと言ったが、藤紫《ふじむらさき》にはそれが恐ろしかった。こうして夜の海に出てみると、春日山《かすがやま》を脱出して危険な雪の海をやっと魚津《うおづ》港まで漕《こ》ぎつけてきたかと思うと、浜べで鈴木の番士《ばんし》らに捕《と》らえられた記憶《きおく》が、いっそういきいきとよみがえってきて、恐ろしくてならない。どこの浜べに寄せても、そこにおそろしい番士《ばんし》らが目をすがめ、呼吸《いき》をひそめて、この舟どもの近づくのを待ちぶせしているような気がした。
「夜の間はあぶないから、夜が明けてちゃんと見通しがきくようになってからにしましょう。それまでは、たがいに舟がはなれないようにして行くことにします。陸からあまり遠くないところを、陸にそって行ってたもれ。この海はずっと浜べで、岩の多い磯《いそ》はないはずどすから、あぶなくはないはずどす」
と、命令した。
三|隻《せき》の舟は、ひらたい底を波のうねりごとに木の葉のようにかるがるともちあげられながらも、海岸線にそってのろのろと進んだ。
夜の明けるころ、魚津《うおづ》の沖《おき》にかかったが、ここにはとうてい寄せられない。横に見て通りすぎた。
ひるごろ、常願寺《じようがんじ》川の河口《かこう》の沖《おき》にさしかかった。この時まで、一同、飲まず食わずであった。準備《じゆんび》に手落ちはないつもりであったが、もっとも肝心《かんじん》な食糧《しよくりよう》のことについては、ぜんぜん考えもしなかったのであった。こんなにも長い時間海にただよっていなければならないとは予想外のことであった。波を切ることのできない川舟の構造を計算に入れなかったのだ。帆《ほ》を上げれば、夜の明けるころまでには富山湾《とやまわん》を横ぎって放生津《ほうじようづ》の港につくことができるから、食べものを買うこともできるし、新たに船を雇《やと》いかえて能登《のと》に行き、その先は陸路を加賀《かが》に出てもよければ、便船《びんせん》をもとめて半島を迂回《うかい》して越前敦賀《えちぜんつるが》か若狭《わかさ》の小浜《おばま》まで行ってもよいと思ったのだが、底のひらたい川舟は海上では帆《ほ》を上げれば、波頭《なみがしら》に乗って転覆《てんぷく》するおそれがあるので、よっちよっちと漕《こ》ぐよりほかはないのであった。
空腹《くうふく》はがまんするとしても、うららかな春の日に半日を照らされて、北海をわたってきてそよぎかける潮風《しおかぜ》に半日を吹きさらされると、のどがかわいてならなくなった。みな、日にほしあげられた青菜《あおな》のようになった。
とうとうたまりきれなくなって、水をくみ、できたら食べものもすこし都合《つごう》をつけてくれるように言いつけて、家来の乗った舟を一|隻《せき》だけ浜にむけた。のこりの舟は、浜から一|町《ちよう》ほどの沖《おき》に、いかりをおろして待った。この湾《わん》は打ち出す河川《かせん》が多く、それが多量の土砂《どしや》を運びだしてくるので遠浅《とおあさ》で岸を一|町《ちよう》ぐらいはなれたところでは、十分に錨《いかり》がとどくのである。
水くみ舟はよたよたと岸に遠ざかっていき、浜につき家来どもは松林の陰《かげ》の村落に入っていった。屋根に石をならべて風おさえにしたみすぼらしい家が十五、六|軒《けん》、おしつぶされたようなかたちでかたまっている漁村《ぎよそん》であった。こんな村では水はあるであろうが、とうていろくな食べものはないにちがいなかった。しかし、みな、
「いわしの干物《ひもの》でもよい。アジなら上等《じようとう》だ。スルメなら無類《むるい》とびきりだ」
と思った。みながそう思っただけでなく、藤紫《ふじむらさき》までそう考えていた。しかし、そう思っても、かわききった口にはつばき一|滴《てき》出なかった。
日のよくあたっているその村落に一同熱心に視線を集めていると、とつぜん、そこから、いま入った家来どもがはじけだしたように飛びだし、乗りすてた舟にむかって走りだした。
「あッ!」
とこちらではいっせいに声を上げた。
すると、村から胴具足《どうぐそく》だけつけて、素足《すあし》で、冑《かぶと》もかぶらない雑兵《ぞうひよう》が十人ばかり追ってでて、家来どもを追いかけた。手に手になぎなたや、刀をふりかざしている。ただ一人ついていた侍《さむらい》は、とうていにげられないと思ったのだろう、踏《ふ》みとどまり、くるりとむきなおって刀をぬいたが、なぎなたをもった兵にひと薙《な》ぎに薙《な》ぎふせられてしまった。
小者《こもの》らはやっと舟にとりついたが、とりついたところで、斬《き》りたおされた。
かがり火
一
恐怖《きようふ》が人々を引っつかんだ。
「にげてェ! にげてェ!」
と、藤紫《ふじむらさき》はさけんだ。
その以前に、人々は錨《いかり》を上げにかかっていた。錨綱《いかりづな》はほんとうはそう長くない。せいぜい一|丈《じよう》そこそこのものだが、それをたぐりあげるのがおそろしく手間《てま》どるような気がした。男らは総立ちになってさわいだ。吃水《きつすい》のない川舟はたらいのように揺《ゆ》れて、いまにもくつがえりそうで、それもおそろしかった。藤紫《ふじむらさき》は手で左右の舟《ふな》べりをつかんでふるえていた。
陸《おか》では、こちらの侍《さむらい》や小者《こもの》どもを斬《き》りつくした兵士らが、舟に積んである革籠《かわご》のひもを切りほどいてふたをあけ、てんでになかみをつかみだしていた。蟻《あり》が獲物《えもの》にむらがっているようであった。一枚の着物を二、三人で争っているのもあった。はなやかな色どりのそれが日にかがやいて引っぱりあわれるところも、数|匹《ひき》の蟻《あり》が蝶《ちよう》の羽を争っているに似ていた。
獲物《えもの》にありつけなかった蟻《あり》どもは、浜べに引きずりあげてある漁師《りようし》の舟を海におしだそうとしていた。この舟を目がけていることは明らかであった。
(やはり同じことになった)
と、暗い絶望感《ぜつぼうかん》が藤紫《ふじむらさき》の胸をしめつけたが、それをはねかえすように、かんだかくさけびつづけた。
「早く! 早く! 早く!……」
にげのびなければならない、どうしてもにげのびなければならないと、思った。
やっと錨《いかり》が上がった。漕《こ》ぎだした。人々の顔はまっさおであった。だれもかれもまっさおだ。藤紫《ふじむらさき》の乗っている舟だけではない。すぐあとにつづいている舟の者どももまっさおだ。それに気づいた時、藤紫はいっそう強い恐怖《きようふ》を感じた。
(ついににげのびることはできないかもしれない)
と思った。
やがて、陸の舟は水におしだされた。兵士らは腰までつかった水からひとはねはねて飛びのって漕《こ》ぎだした。櫓《ろ》が底につかえるらしく、ほんのしばらくは手間《てま》どっていたが、みるみる速度をましてきた。それにくらべて、こちらの舟はおそろしくのろい。はっているようだ。漕《こ》ぎ手も、そうでない者も、しきりに追っ手をふりかえる。恐怖《きようふ》にたえない様子だ。ふりかえってみたところで、どうなろう。距離はぐんぐんちぢんでくる。
藤紫《ふじむらさき》は腹が立った。
「荷物をすててーッ! 荷物をすててーッ!」
とさけんだ。
この場になっても、藤紫《ふじむらさき》の知恵《ちえ》はするどくはたらいた。これで舟脚《ふなあし》を軽くすることができるうえに、追っ手らがそれに心をひかれてひろいあげうばいあいしている間ににげのびることができるかもしれない、あるいはもっとも都合《つごう》よくいけば、そのまま追跡《ついせき》を断念《だんねん》するかもしれないと思ったのであった。
革籠《かわご》はのこらず投げすてられた。なめし革《がわ》を張った上に丹念《たんねん》に渋《しぶ》をぬってある革籠《かわご》だ。舟の行くあとにぷかぷかと浮いていた。藤紫《ふじむらさき》のこの計略はみごとにあたった。追っ手は革籠《かわご》の浮いているところにかかると、進行をとめてひろいあげにかかったばかりか、ふたをあけてなかみを点検し、奪《うば》いあいまではじめた。
こちらはその間にかなりにげのびた。長い年月かかってたしなみととのえた衣服や諸道具《しよどうぐ》を兵士らが分けどりしたり、うばいあったりしているのを見て、身を切られるようにおしかった。しかし、金銀だけは、肌身《はだみ》に巻きつけている。持ちおもりするくらいもある。
(これがある。これだけあれば、京で一生こまらずに暮らせる)
と思った。嵯峨野《さがの》か、東山《ひがしやま》のふもとか、下加茂《しもがも》か、そのへんに屋敷をかまえ、田畑の十四、五|町歩《ちようぶ》も買い、男女の召し使いを五、六人おいて、気楽《きらく》な生涯《しようがい》を送っている自分の姿が想像された。
(そのうちには、妻にほしいと言ってくる人もあろう)
とも思った。堂上《どうじよう》はいやだった。堂上《どうじよう》の生活力のなさと貧乏《びんぼう》はふつふついやであった。武家ももう気が進まない。つまらないことに意地《いじ》を立てて、すぐ刃傷《にんじよう》ざたや合戦《かつせん》ざたにおよぶ武家生活は正気《しようき》のさたとは思われなかった。そのたんびにこんな目にあうのではたまらないと思った。
(裕福《ゆうふく》な町人《ちようにん》がよい。このごろでは京も昔にかえって、にぎやかなところになり、下京《しもぎよう》あたりには大きな町人もできたという。堺《さかい》の大町人で京に別邸《べつてい》をかまえているものもあるという。あながち望みのないことではない……)
こんなさまざまな望みは、ひとすじにこれに連なっているのだと、腰に巻きつけている金銀包みに手を触《ふ》れてみた。小袖《こそで》の上から、それはこちんとするほどかたかった。
追っ手の舟はもうずいぶん遠くなった。どうやら、ぶんどったものに満足して、追うのをやめて、漕《こ》ぎもどる支度《したく》をしているようだ。安心した。
が、それはまだ早かった。舟が舟だから、あまり沖へは出られないので、だいたい岸から二、三|町《ちよう》の沖《おき》を岸にそって西へむかって漕《こ》ぎ進んでいたのだが、行《ゆ》くて二、三|町《ちよう》の岸から、漕《こ》ぎだしてくる舟があった。具足《ぐそく》を着て、抜き身の刀や長巻《ながまき》をたずさえた兵どもが乗っている。この舟を目がけていることは明らかであった。
からだじゅうがつめたくなった。こんどこそ助からないと思ったが、それでもなお、さけんだ。
「沖《おき》へ出して! 沖《おき》へ早く!……」
漕《こ》ぎ手も動顛《どうてん》して、へさきを沖《おき》へむけたが、いくらも進まないうちに、矢を射るような速さで漕《こ》ぎすすんできた舟はせまってきた。
「エッシ、エッシ、エッシ」
と、櫓《ろ》を漕《こ》ぐかけ声がしだいに高く聞こえ、兵士らの顔もはっきりと見えてくる。ひげづらの赤黒い、あらあらしい顔をした、鬼のような男どもばかりである。こちらの漕《こ》ぎ手は櫓《ろ》をおす気力を失った。みるみる速度が落ちた。
追いついた舟はふなべりをすりあうほどに舟をならべ近づけた。
「わっ!」
とさけんで、こちらの一人がおどりあがって水に飛びこんだが、同時に追っ手の一人がこちらの舟におどりこみ、なぎなたの柄《え》をとりのべて、そいつの背中を刺《さ》した。悲鳴が上がり、しぶきを飛ばしてはげしくもがきながら、その小者《こもの》はぶくぶくと沈んだ。
「にげるものはこのとおりじゃぞ!」
なぎなたの柄《え》をどんと舟底《ふなぞこ》につきしめ、仁王《におう》立ちに立ちはだかり、その雑兵《ぞうひよう》はわめいた。
のこるところ侍《さむらい》が一人、小者《こもの》が二人、都合《つごう》三人の男が、二|隻《せき》の舟にはいたのだが、いずれも抵抗《ていこう》しなかった。ふるえながら手を合わせておがんでいすくんだ。二人の女中はいうまでもない。藤紫《ふじむらさき》のそばに身をすりよせ、死人のような顔になって、ふるえているばかりであった。
「衣類財宝はあちらですてました。あの人々がひろって帰っていきます」
と、藤紫《ふじむらさき》はさけんだ。最後のあがきであった。こう言えば、この兵どもはあの舟を追いかけ、分け前をよこせと要求し、なかまげんかをするかもしれないと計算したのであった。
「そげいなものはほしゅうないわい。おらどもがほしいのは、おぬしら三人じゃ。ほ、きれえなつらしとるわ。白い白い。雪よりまだ白えわい!」
と、もっとも猛悪《もうあく》な顔をしたのが言った。熊《くま》のようにこわそうな不精《ぶしよう》ひげがぎっしりと生《は》えた顔に、にたにたと笑いを浮かべていた。黒いやぶのようなまゆの下に、目が糸を引いたように細くなっている。
(ああ、まただ、まただ。おんなじことになった)
藤紫《ふじむらさき》は胸の奥でそうつぶやいていた。
二
その男は、この雑兵《ぞうひよう》どもの中で一番のきけものであろうか。悠々《ゆうゆう》と舟に乗りうつり、藤紫《ふじむらさき》のそばにすわって、
「このおなごはおらがものだど。みんなそう心得《こころえ》い」
と、宣言したが、異議《いぎ》を申し立てる者はなかった。
他の雑兵《ぞうひよう》どもは二人の女中を、自分らの舟にうつした。女中らはまるで抵抗《ていこう》しない。おとなしく手をひかれて立ちあがった。舟が揺《ゆ》れるので、移りわずらっていると、一人が腕をひろげた。
「大事ない、大事ない。おらが抱きとめてやるすけ、おらを目がけて飛びつけやい」
と言った。
おとなしく、言われたとおりにした。
「ヘッ! ほう柔《やわ》かい、柔《やわ》かい。このええ気持ちの重さわの。とんとええ匂《にお》いじゃわ」
雑兵《ぞうひよう》は腕に抱きしめたまま、しばらくはなそうとしなかった。それでもおとなしくしていた。
「さあ、漕《こ》げやい! おらどもが出てきた岸にむかってまっすぐに漕《こ》げやい! ちっとでもそれたら、ぶち斬《き》ってくれるどオ!」
と、藤紫《ふじむらさき》をおれがものと宣言した兵は、こちらの櫓《ろ》をとっている小者《こもの》にどなりつけた。小者《こもの》は漕《こ》ぎはじめた。その臆病《おくびよう》げで、なんでも言うことをききそうなのが、おおいに興味をそそったらしい。
「はようしろい! おら様はお床《とこ》いそぎじゃ! あんまりひまどりくさると、ぶち斬《き》るどオ!」
と、またどなった。
いたずら小僧《こぞう》にあしをおさえられたバッタに似ていた。小者《こもの》はピッチを上げて漕《こ》ぎだした。
「もっとはよう、もっとはよう、もっとはよう。たるむとぶち斬《き》るどオ!」
ひげ雑兵《ぞうひよう》はおもしろがって、はやしたてるようにどなりつづけたが、その間、藤紫《ふじむらさき》の手をいじったり、ふところに手をつっこんでまさぐったりした。藤紫《ふじむらさき》はされるままになって、身動きひとつしなかった。どうしたらここを助かることができるかと、くふうをつづけていた。
やがて舟は浜べに近づく。浜ベには黒山のように雑兵《ぞうひよう》らが集まっていた。やや西にかたむいた日が具足《ぐそく》に反射して、かたい殻《から》をかぶった昆虫《こんちゆう》の集まりのように見えるその顔には、みなうらやましげな色があったが、いよいよ舟が岸の砂地に乗りあげると、わっといっせいにさけんで走りよってきた。ひしめきあって、前に出ようとした。
「触《ふ》れるでねえど。触《ふ》れるでねえど。おらたちのじゃど!」
こちらの雑兵《ぞうひよう》らは、水におりたち、両手に女らを抱きあげて、ざぶざぶと岸に上がってきた。
「こらやい! のけやい! 道をひらけい! 弁天《べんてん》様のお通りじゃ! のきくされ!」
ひげ雑兵《ぞうひよう》は、まっさきに立って、どなりながら歩いた。こげいな美しいおなごをとらえて自分のものにし、人々をうらやませがらしていることが得意《とくい》でもあったが、横どりされはしないかと不安でもあった。その両様《りようよう》の心理がひげづらに浮かんでいた。
ひげ男が歩を進めるにつれて、兵士らはひしめきながらあとしざりして道をひらいたが、とつぜん、その中からさけびたてるものがあった。
「伝六《でんろく》やい。そのおなご、おらは見おぼえがあるぞい! そのおなごは、ご先代|千巌寺殿《せんがんじでん》様のご寵愛《ちようあい》じゃったおなごじゃぞやい! そげいなおなごを、汝《われ》どげいにしようちゅうのじゃ! おとがめがあるぞい!」
「なんじゃとォ?」
ひげ男はびっくりして、抱いている藤紫《ふじむらさき》の顔をしげしげと凝視《ぎようし》した。
すると、またさけぶ声がほうぼうからおこった。
「ほんにそうじゃ! 藤紫《ふじむらさき》ご前《ぜん》じゃ!」
「藤紫《ふじむらさき》ご前《ぜん》にちがえねえだど!」
「京おなごの、悪党《あくとう》おなごにまちげえねえど!」
「おうら、伝《でん》よォッ! 汝《われ》とんでもねえことをしてしもうたで! そげいなおなごに手をつけて!」
「ハリツケだどォッ!」
自分を抱きあげている男の手がふるえはじめたのを、藤紫《ふじむらさき》は感じた。自分をのぞきこんで凝視《ぎようし》している目に恐怖《きようふ》の色があらわれたのを見た。あとはどうなるかわからないが、この際はこれに乗《じよう》ずべきであると思った。彼女も景虎《かげとら》と晴景《はるかげ》の間が、最後には内実《ないじつ》はどうあれ、表面はおだやかに家督《かとく》の譲《ゆず》り渡しがおこなわれたことも、あの以後|晴景《はるかげ》が五年も隠居《いんきよ》の生活を送ってから死んだことも、まぢかい隣国《りんごく》のことだ、うわさに聞いて知っている。あんがい、春日山《かすがやま》では先君《せんくん》のご寵愛《ちようあい》として、自分にそれほどの憎悪《ぞうお》をもっていないのかもしれないとも思った。
抱かれたまま、藤紫《ふじむらさき》はごくしずかに、十分な威厳《いげん》をもって言った。
「この手をはなすがよい。身がだれであるか、そなたはわかったはずじゃの」
みるみるひげづらが土色になった。こわれやすいものでもおくようにおろしたかと思うと、火のかたまりから飛びさがるようであった、ぱっと飛びのいた。両手をつき、ひたいを砂におしあててうずくまった。
「ヘッ!」
なんともかなしい、かぼそい声であった。鼠《ねずみ》のなき声に似ていた。
女中らを抱いてつづいていた雑兵《ぞうひよう》らも同じであった。それぞれの場所におろして、飛びすざり、ひれふした。
この者どものこんなにおそれいった様子が、他の兵どもにも恐れを抱かせたのであろうか、しんとおししずまって視線を集めているだけだ。それをつとめてきびしくつめたい目つきをこしらえて見わたしながら、藤紫《ふじむらさき》は、
(さて、これでこの場はのがれたが、これからどうしたらよいか)
と、考えていた。
三
その夜おそくまで、景虎《かげとら》は富山《とやま》城内の本丸のあとに張った幕舎《ばくしや》の中で、新たに自分の分国《ぶんこく》となった越中《えつちゆう》東部の要地《ようち》への諸将の配置をしていた。
幕舎《ばくしや》の外にはさかんなかがり火が焚《た》かれ、内にはあかあかと蝋燭《ろうそく》が立てつらねられ、使い番の者が入口から外まであふれてひかえていた。
景虎《かげとら》はごく大ざっぱにかいた越中《えつちゆう》の略図を前にひろげ、ときどきのぞきこんでは、すらすらと数行の文句《もんく》を紙に書きつけては、使い番をふりかえる。ふりかえられた使い番はすぐ出ていってかしこまった。
「これを何々へ」
景虎《かげとら》は言って、書き付けをわたす。
「はっ、何々殿へとどけます」
使い番は復誦《ふくしよう》してさがり、そのまま幕舎《ばくしや》の外へ出、新しい松火《たいまつ》をぬきとってかがり火から点火し、パチパチと小さい音を立てながら火花をこぼすそれを打ちふりながら、すこしはなれたところにつないである馬どもの中から自分の馬をえらびだしてとびのり、どこへか駆《か》け去るのだ。
景虎《かげとら》は明日早朝にここを出発、春日山《かすがやま》へ帰る予定でいる。どうしても今夜じゅうに配置をおわる必要があった。
夜半《よなか》をすこし過ぎるころ、ほぼ全部の任命ができた。
(やれやれ)
大きくのびをし、ひさごの酒を数杯《すうはい》かたむけた後、そのひさごを片手にもったまま、幕舎《ばくしや》の外に出た。
かがり火のあるあたりは明るいが、月のない暗い夜だ。景虎《かげとら》はその暗さを慕《した》うかのように、本丸《ほんまる》のはずれに行き、土居《どい》をのぼって、腰をおろした。
ここまで来ると、空の星があざやかだ。その星をあおぎ、遠田《とおだ》の蛙《かえる》の声を聞きながら、しきりにひさごを傾《かたむ》けた。
ほろほろと酔いがほおにのぼってくるころ、幕舎《ばくしや》の方から松火《たいまつ》をかざしながら、番士《ばんし》の一人が近づいてきた。
そばまで来ると、片ひざついて言う。
「申し上げます」
「うむ」
「日方江《ひかたえ》の浜をかためています山吉《やまよし》殿から、ただいま注進《ちゆうしん》がございました。千巌寺殿《せんがんじでん》様のご寵愛《ちようあい》であった藤紫《ふじむらさき》ご前《ぜん》と名のる婦人がいますが、いかがはからいましょうかとの口上《こうじよう》でございます」
四
「ほう……?」
景虎《かげとら》は盃《さかずき》をひかえて、番士《ばんし》を見た。
「使いの者を連れてまいりましょうか」
「うむ。そうせい」
番士《ばんし》は火の子の散る松火《たいまつ》をかかげながら急ぎ足に引きかえしていったが、すぐ連れてきた。雑兵《ぞうひよう》ではない。士分《さむらいぶん》の者だ。そのひざまずくのを待って、景虎《かげとら》は問いかけた。
「どこにどうしていたのだ。あれは先年《せんねん》春日山《かすがやま》を落去《らつきよ》した後、魚津《うおづ》あたりにいるということはいつやら小耳《こみみ》にはさんだことがあるが」
「そのことについては、いちおう問いただしましたが、ご当人はお答えございません。おつきしていた女中衆《じよちゆうしゆう》や侍《さむらい》・小者《こもの》どもをきびしく尋問《じんもん》いたしまして、やっとわかりました」
「ふむ」
「魚津《うおづ》城の鈴木《すずき》大和《やまと》が寵者《おもいもの》となっておられた由《よし》であります」
「ふむ」
「このたび、鈴木が神保《じんぼ》に一味《いちみ》してお屋形《やかた》様に敵対《てきたい》の色を立てたについて、危険をさけて城を出て、片《かた》田舎《いなか》にかくれていたところ、神保《じんぼ》が落去《らつきよ》に心おじけた鈴木が城を落去《らつきよ》しましたので、寄るべを失い、京へ帰ろうとて海に浮かんで越前《えちぜん》を志《こころざ》す途中、水をくみに日方江《ひかたえ》に上がったところを、われらが手の者どもがとりおさえたというしだいでございます」
「ふむ」
魚津《うおづ》を通過して富山《とやま》へむかう途中、藤紫《ふじむらさき》について想像したことがあまりにみごとに的中《てきちゆう》したので、急にはさしずのことばが出なかった。やはり、あれは悪いおなごなのじゃと思った。
「よし、連れてこい。供《とも》の者どももいっしょにじゃぞ」
「かしこまりました」
幕舎《ばくしや》にかえった。
明日が早い。
「山吉《やまよし》のところから、とりこの者が数人来るはずになっている。どこぞそこらへ幕《まく》でも張って入れておくように。おれは寝る。戦《いく》さ以外のことにはおこすなよ」
と言って、さらに酒をのみ、寝てしまった。
夢ひとつ見ない深い熟睡《じゆくすい》であったが、夜明け前には目をさました。口すすぎをし、顔を洗ったところで、近習《きんじゆう》の者が、昨夜おやすみになってまもなく、日方江《ひかたえ》の山吉《やまよし》殿の陣から、捕虜《ほりよ》を送りとどけてきたので、おおせつけのように幕舎《ばくしや》をしつらえて入れてあると、報告した。それにはうなずいただけで、格別《かくべつ》な指示はせず、
「今日|帰陣《きじん》することは昨夜のうちに触《ふ》れだしておいた。貝を吹いて、城外に陣ぞろいさせよ」
と、言った。
まもなく、暁闇《ぎようあん》の空をどよもして、貝の音が鳴り響くと、それぞれの陣所《じんしよ》をひきはらって大手《おおて》の門前に軍勢どもが集まるのであろう、しずかであった空気がにわかにざわめきたってきた。
それを聞きながら、景虎《かげとら》は食事をとったが、食事しながら、藤紫《ふじむらさき》の処置について思案していた。
いちばんめんどうがないのは斬《き》ってすてることだ。現に最初に上洛《じようらく》しての帰途《きと》、随従《ずいじゆう》していた鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》・戸倉与八郎《とくらよはちろう》・秋山源蔵《あきやまげんぞう》の三人が魚津《うおづ》城下で散歩に出て、路上で藤紫《ふじむらさき》を見たと言って帰ってきての顔色がふつうでなかった。それを見てとったので、こちらは、
「おなごにすたりものはないと聞いたが、ほんとじゃの」
と笑って相手にならず、そのままにすませたのだが、もしあの時三人に思うままのことを言わせたら、
「斬《き》ってすててくれましょう。あのおなごは極悪非道《ごくあくひどう》の魔女《まじよ》でござる。千巌寺殿《せんがんじでん》様が民百姓《たみひやくしよう》をしいたげ、お家に忠心を存《そん》するよいさむらいどもをしりぞけ、ご政道《せいどう》が乱れに乱れ、ついにはご兄弟が戦われねばならぬ仕儀《しぎ》に立ちいたりましたは、みなあのおなごが蕩《たら》かし申したからでござる。首をぶち切って越後《えちご》にもち帰り、大きな建《た》て札《ふだ》立てて辻《つじ》にさらしてくれましょう」
と、言ったであろう。
三人の心は全|越後《えちご》の人の心だ。さむらいといわず、百姓《ひやくしよう》といわず、藤紫《ふじむらさき》を憎《にく》まない者はあるまい。とりわけ、晴景《はるかげ》を危難《きなん》の中に見すててひとりの安全をもとめてにげさったことにたいして、いっそうの憎悪《ぞうお》となっているはずである。晴景《はるかげ》がよい領主《りようしゆ》でなく、領民《りようみん》から慕《した》われていなかったことは事実だが、それとこれとは別だ、藤紫《ふじむらさき》は晴景《はるかげ》に殉《じゆん》じて、晴景《はるかげ》と運命をともにしなければならなかったのである、それが道である、と、みな思っているはずだ。
だから、ここで首を斬《き》ってもって帰ってさらしものにすれば、みなはよろこぶにちがいない。生きながら連れて帰り、諸人《しよじん》の見る前で斬《き》って梟首《さらしくび》すればいっそう満足するであろう。
いったんはそうしようかと考えた。
「人々をよろこばせるだけでなく、政道《せいどう》の見せしめにもなる……」
と、思った。
けれども、また思いかえした。
(もうはるかな昔にすんだことだ。いまさら人々を怨悪地獄《えんおじごく》におとすこともあるまい。兄君《あにぎみ》はあれをいまわのきわまで慕《しと》うておられた。斬《き》ってさらしものなどにして恥《はじ》を見せることをお喜びになろうとは思われない。考えてみれば、あれもあわれな不運なおなごだ。世が世なら、堂上家《どうじようけ》の貞淑《ていしゆく》な北《きた》の方《かた》となって平安な世を送れたであろうものを、乱世《らんせい》に生まれ合わしたため、遠い北のこの国に来て妾奉公《めかけぼうこう》などせねばならなんだことから、道を踏《ふ》みちがえてしまったのであろう。さいわい京生まれの随従《ずいじゆう》の者もあるという。助命《じよめい》して帰してやろう)
助命《じよめい》すると心をきめると、おおいに気が楽になった。
(怨《うら》みに報《むく》ゆるに徳《とく》をもってせよとは、古人の教えだが、これは人間の本性《ほんしよう》なのであろうな。はればれと、いい気持ちだ)
と、思いながら、食事をおえた。
五
具足《ぐそく》を着ているところに、馬廻《うままわ》りの豪傑連《ごうけつれん》がうちそろって来た。ぐゎさぐゎさと具足《ぐそく》を鳴らしながらはいってきて、ならんですわった。
なぜこの連中《れんちゆう》が来たか、景虎《かげとら》にはわかっていたが、そしらぬふりで具足《ぐそく》を着つづけ、着てしまうと、笑いながら言った。
「出発まぢかだぞ。えらいおちついているの」
「ちっとばかりおうかがいしてえことがあって、まかりいでしましただが」
と、弥太郎《やたろう》がいざりでて言った。
「ああ、わかっている。藤紫《ふじむらさき》のことじゃろう」
「へい。お屋形《やかた》様はあれをどげいにしょうずと思っていなさるのでござりまするか。越後一国《えちごいつこく》は、士《さむらい》も百姓《ひやくしよう》も、引き裂《さ》いてむしゃむしゃ食うてしまいたいほどに、あのおなごをにくんでいるのでござりまするぞ。そればかりではござらねえ、さきほど兵どもの申すを聞きますれば、魚津《うおづ》の鈴木《すずき》がてかけになっている間も、さまざまと悪いことばかりたくらんで、士・百姓を苦しめたということでござるだ。ひっきょう、あのおなごは蝮《まむし》の化身《けしん》でござるべし。生きているかぎりは、世のわざわいをなすにきまっているやつでござるべし……」
滔々《とうとう》と論じたてる弥太郎《やたろう》の一語一語に、他の豪傑連《ごうけつれん》がうなずく。
弥太郎《やたろう》は声を張って、
「それじゃすけ」
と、言った。結論をのべようというけはいだ。
景虎《かげとら》は手をふった。
「わかっている、わかっている。そのさきは申すな。おれが考えぬとでも思っているのか」
「お考えなされているなら、申すことはござりませぬ。さりながら……」
「くどいぞ。――はや出立《しゆつたつ》だぞ。行けい。おくれたらば、軍令《ぐんれい》に照らして、きっと処分いたすぞ」
「それではまかりさがり申す。お考え申されているとよ……」
と言いながら一礼して立ちあがると、みなもいっしょに立って、ぞろぞろと出ていった。
景虎《かげとら》も幕舎《ばくしや》を出た。侍臣《じしん》が冑《かぶと》をもってあとにつづいた。景虎《かげとら》の幕舎《ばくしや》を張った位置は一昨日まで城主|神保《じんぼ》の居間《いま》のあった場所である。したがって出たところは、庭になっている。一昨日の火事のためにだいぶん傷《いた》んで、植木など全焼したり半焼したりしたものもあるが、すこしむこうの小竹叢《こたけむら》はなんの損傷も受けず、ようやくさしそめた暁《あかつき》の明るさの中に、露《つゆ》を帯《お》びて、目のさめるようなあざやかな色をしていた。景虎《かげとら》はそこに歩き寄り、脇差《わきざし》をぬいて、手ごろな太《ふと》さの竹を伐《き》り、笹《ささ》をはらって杖《つえ》の長さにおしきり、刀をよくふいて鞘《さや》におさめた。こしらえた杖《つえ》を数回音を立ててうちふった。この青竹の杖《つえ》はこんどの出陣の途次《とじ》から采配《さいはい》のかわりに使いはじめたのだが、たいへんぐあいがよい。馬を走らせる時にはむちに使えるし、歩行《かち》の際には杖《つえ》になる。なによりもいさぎよくさわやかな感じが気に入った。当分|飽《あ》きるまで、そのつどこしらえて使うことにしようと思ったのであったが、これ以後彼はずっとこの習慣をかえず、当時有名な話になった。彼のこの習慣は彼のあとに立って家をついだ景勝《かげかつ》に伝承《でんしよう》され、大阪冬の陣・鴫野口《しぎのぐち》の戦いに青竹の杖《つえ》を陣中について戦況《せんきよう》を凝視《ぎようし》している景勝《かげかつ》の颯爽《さつそう》たる風姿《ふうし》が、常山紀談《じようざんきだん》に記述してある。
景虎《かげとら》は庭の中ほどにある庭石に、腰をおろした。侍臣《じしん》らは冑《かぶと》をささげた男を中心にして、すこしさがって左右に居ながれた。それをふりかえって言った。
「夜前《やぜん》、山吉《やまよし》が手から送りとどけてまいった者どもをこれへ引きだせい」
「はっ」
と答えて、二人走りだした。
「ちょっと待て」
二人はこちらをむいてひざまずいた。
「手荒《てあら》なことをするなよ。故千巌寺殿《こせんがんじでん》のご寵愛《ちようあい》のおなごだ。鄭重《ていちよう》にあつかって連れてくるのだぞ」
「かしこまりました」
二人は駆《か》け去った。
六
藤紫《ふじむらさき》がここへ連れてこられたのは、もう夜なかであった。日方江《ひかたえ》の陣所《じんしよ》では相当|鄭重《ていちよう》にあつかわれた。景虎《かげとら》の気持ちがわからないので、ともかくも大事にあつかった方がまちがいがないと思ってのことであったが、藤紫《ふじむらさき》はそうはとらなかった。
(越後領内《えちごりようない》では自分に悪意をもっているわけではないような)
と考えた。だから、藤紫《ふじむらさき》はできるだけ威厳《いげん》を保つようにつとめた。こんな時自信のない様子を見せると、結果がよくないことを知っていたのである。ほとんど傲慢《ごうまん》なくらい権高《けんだか》にふるまった。
しかし、ここに連れてこられると、あしらいはがらりとかわった。荒むしろをしいただけの幕舎《ばくしや》に、従者《じゆうしや》らとこみにしてほうりこんだまま、白湯《さゆ》ひとつくれないのだ。そのうえ、警戒《けいかい》は厳重をきわめている。幕舎《ばくしや》の近くに番所《ばんしよ》があり、番の者がひっきりなしに幕舎《ばくしや》のまわりを巡回《じゆんかい》している。そのひっさげている槍《やり》の穂先《ほさき》がかがり火の光を照りかえしてぎらりと光るのが、ぞっとするほどおそろしかった。
それでも、藤紫《ふじむらさき》は威《い》をつくって、
「喜平二《きへいじ》殿に会いたい。とりついでくりゃれ」
と、番の者に要求した。
「喜平二《きへいじ》殿とはだれがことじゃ。うぬはなにものであれば、そんげな無礼《なめ》げな口のききようをするのじゃ。お屋形《やかた》様と言えい。しかも、関東管領《かんとうかんれい》とならせらるるに定《さだ》まりたもうたと知らぬか」
と、相手はきめつけた。
希望的な甘《あま》い予測は、もうすてなければならなかった。心の底にずっとあった恐怖《きようふ》が一時にからだじゅうにひろがった。
「それでは、お屋形《やかた》様にそう申してたもれ。藤紫《ふじむらさき》でござりますと……」
声がふるえるのが、いっそうの恐ろしさをあおった。
「ならん! お屋形《やかた》様は、いまおやすみちゅうじゃ!」
と、相手はどなりつけた。
もうなにも言えなかった。ふるえながら、荒むしろの上にすわった。幕舎《ばくしや》の一方のすみに女中二人が肩をよせあってすくんでおり、反対のすみに侍《さむらい》と小者《こもの》ができるだけ小さくなろうとするかのようにうずくまっているのが、幕《まく》をすかしておぼろにひろがっているかがり火のうす明るさの中に見える。こちらの恐怖《きようふ》をまざまざと見せられる気持ちであった。藤紫《ふじむらさき》は自分のいまの境遇《きようぐう》はこの者どものためのような気がして、憎悪《ぞうお》をこめてにらんでいた。
藤紫《ふじむらさき》はまんじりともすることができなかったが、供《とも》の者らはしばらくたつとふらりふらりと居眠りをはじめ、やがて横になり、海老《えび》のように背中をまるくして眠ってしまい、小者《こもの》などいびきすらかきはじめた。
(あたしは殺されても、この者どもは助かるかもしれへんのや。そやから、眠れるのや)
と思った。いっそう憎《にく》くなり、さけびだしたかった。それをおさえて、必死の思いで考えた。
(どうしたら助かるやろ。どうしたら助かるやろ……)
なんのくふうもつかないうちに、夜が白《しら》んできたかと思うと、番の者とちがった足音が幕《まく》の外に近づいてきて、いきなり入口の幕《まく》がひきあけられた。
よく眠っていると思われた供《とも》の者どもが、むくむくと起きあがった。藤紫《ふじむらさき》はまた腹が立った。
幕舎《ばくしや》の入口では、じっとこちらをすかし見ながら言った。
「お屋形《やかた》様がお目見得《めみえ》たまわります、主《しゆう》の人、出なされ」
意外にやさしい声であった。
藤紫《ふじむらさき》の胸にはまた希望が生じた。
「しばらくお待ちください。支度《したく》します」
ここはどうしても景虎《かげとら》に好意《こうい》をもたれなければならないと思った。そうなると、どんなに賢《かしこ》くても、こんな世をわたってきた女の知恵《ちえ》はひとすじにしかはたらかない。歩きなれた道を行くことだ。できるだけ美しく見られることによって、相手の心に愛欲《あいよく》、あるいはそれに似たものをおこさせることしか考えることはできない。
藤紫《ふじむらさき》はまだおぼろな明るさのなかで、ふところ鏡にうつして、顔に浮いた脂《あぶら》を紙で丹念《たんねん》にふきとり、どんなかすかなよごれも見落とさなかった。おしろいをとく水がないのが残念であったが、これはあきらめた。顔色が青ざめていたので、紅《べに》をつばきでといてうすくはき、唇《くちびる》にもさした。だいたい満足できる美しさになった。
入口に立って待っている武士らはまだ若かった。悠々《ゆうゆう》としていそぐ色のない藤紫《ふじむらさき》の様子に、いらだちながらも、あきれていた。しだいに明るさをましてくるなかで、口をぽかんとあき、目をまるくしているおどろきの表情がよくわかった。
「おまちどおでしょうが、もうすこし待ってね。女は支度《したく》に手間《てま》どるものどすのよ」
と、微笑《びしよう》して言った。化粧《けしよう》がうまくいったので、すこしうきうきした気持ちになっていた。
それからまた、長い時間をかけて、着物を着なおした。着がえがないのが残念であったが、しかたはなかった。
「さあ、おまちどおさま」
と言いながら入口に近づいていくと、武士らがおもおもしいといきをつくのが聞こえた。こちらは満足であった。きっとうまくいくにちがいないと思った。
景虎《かげとら》はじりじりしながら待っていた。いくども空をあおいで時刻を見た。ひざの上に横にとった青竹の杖《つえ》で、あいている左のてのひらを軽くたたいているのが、そのいらだちを見せていた。
藤紫《ふじむらさき》がつれられてくるのが見えた。
景虎《かげとら》は杖《つえ》を右手にとって突きしめ、そちらを見た。美しかった。すっかり明けはなれた暁《あかつき》の明るさのなかに、それは牡丹花《ぼたんか》のような妖艶《ようえん》な美しさをもっていた。しかも、近づくにつれて美しさがましてくる。
景虎《かげとら》はぼんのくぼのあたりに、なにかじりじりともみこまれるように感じた。
一|間《けん》ほどの距離まで近づいてすわった。微笑《びしよう》して見上げた。
「お屋形《やかた》様には、かけちがって、一度もお目にかかりませんでしたねえ。藤紫《ふじむらさき》でございます。ご出世《しゆつせ》をかげながらおよろこび申し上げていたのどすえ。なんとまあ、おみごとなご成人ぶり……」
しなしなとまといついてくるような目であり、声音《こわね》である。
景虎《かげとら》のぼんのくぼのじりじりはいっそうひどくなった。ぎりっと杖《つえ》を大地におしこむと、立ちあがった。おそろしい声でどなった。
「そなたは死なねばならぬ! おぼえは胸にあるはずだ!」
微笑《びしよう》がのこったまま、藤紫《ふじむらさき》の顔はさっと青ざめた。にげようとするかのように、身を引いた。景虎《かげとら》は刀をぬいて、横にはらった。
悲鳴もあげえない。ばさっとぬれ手ぬぐいをはたくような音とともに、藤紫《ふじむらさき》の首はとんで、ころころと地べたをころがり、半焼けの赤松の根元でとまった。長い黒髪が尾のように引いていた。
景虎《かげとら》のこの処置は近習《きんじゆう》の者らにとっても意外であったらしい。しんとおししずまっていた。
景虎《かげとら》は番所《ばんしよ》の者を召して、
「この死骸《しがい》をとりかたづけるよう。この近くの僧を請《しよう》じて鄭重《ていちよう》に葬《ほうむ》ってとらせい。なお、供《とも》の者は追いはなせ」
とさしずして、冑《かぶと》をかぶり、馬を引いてこさせて、乗った。
「帰陣《きじん》じゃ。鬨《とき》を上げよ」
と、近習《きんじゆう》らに鬨《とき》を三度上げさせた後、馬をおどらせて城門の方にむかった。
三国峠《みくにとうげ》
一
三年前から、上杉憲政《うえすぎのりまさ》は春日山《かすがやま》城の二の丸にはいない。元来が享楽的《きようらくてき》な性質の憲政《のりまさ》には、他人の城内、とりわけ、清潔《せいけつ》で厳粛《げんしゆく》で、律僧《りつそう》じみた生活をしている景虎《かげとら》のような者の城内では、窮屈《きゆうくつ》でならなかったらしい。府内《ふない》あたりに住みたいと言いだしたので、景虎《かげとら》は府内館《ふないやかた》の近くに館《やかた》を造営して、ここに移した。
景虎《かげとら》には、憲政《のりまさ》のような人はよくわからない。累代《るいだい》つづいた名家をつぶしてこの国に落ちてきて、頭の先から足の爪先《つまさき》まで旧家来筋《きゆうけらいすじ》の世話《せわ》になって生をつないでいながら、まことにのんきだ。毎日のしごとは女ぐるいと若衆《わかしゆ》ぐるいと、酒宴《しゆえん》と、歌舞音曲《かぶおんぎよく》だけだ。
(あれでは家がもたなかったはず)
と、景虎《かげとら》はいまさらのように合点《がてん》した。
かと思うと、なんのきっかけもなく、
「関東をどうしてくれるのだ。はようとりかかってくれい。わしはゆうべ夜なかに目をさまして思い出し、とうとうまんじりともできず、朝になったのだ」
と、火のつくようにせきたてるのだ。しかしまたけろりと忘れて、享楽的《きようらくてき》な日常にかえっていく。
小田原北条《おだわらほうじよう》氏にたいする怨恨《えんこん》はいぜんとして深いものではあるらしいが、要するに踏《ふ》みしめたところのない、とりとめのない性質なのであった。
越中《えつちゆう》から凱旋《がいせん》した翌日、その憲政《のりまさ》が訪問してきた。
「時の間に敵を追いおとし、越中一国《えつちゆういつこく》を平均《へいきん》しての凱陣《がいじん》、そなたにとってはめずらしからぬことではあるが、祝着《しゆうちやく》しごくである」
と、祝いを言った後、
「さて、関東のことであるが、この勢いで、くりだすことにしてはくれまいか。そなたが越中《えつちゆう》を時の間に平均《へいきん》したことは、もう関東にも聞こえていよう。関東の大名どもはみな舌《した》を巻き、身の毛をよだたせているに相違ない。ひとたびそなたの旗が関東の平原の一角《いつかく》におしだされるなら、草の風になびくように帰服《きふく》しよう。そうなれば、北条《ほうじよう》いかに猛悪《もうあく》でも、どうすることができよう。関東はこんどの越中《えつちゆう》そのままに平均《へいきん》するに相違ない。ぜひとも出馬《しゆつば》してはくれまいか」
と、言った。
憲政《のりまさ》の所望《しよもう》はいちおうもっともだ。たしかに憲政《のりまさ》の言うとおり、この戦勝の余威《よい》をもって関東に出馬《しゆつば》すれば、おおいに効果的であるには相違ない。しかし、武田《たけだ》方への用心をおこたるわけにはいかない。せっかく手入れして味方に引きいれた越中《えつちゆう》を、裏をかかれて手もなく攻略《こうりやく》された晴信《はるのぶ》にしてみれば、周辺《しゆうへん》の豪族《ごうぞく》らの将来の向背《こうはい》にも関することだ、おめおめと引っこんではおられないところだ。かならずなにかの手を打ってくるに相違ないのである。
「おおせのおもむき、お道理しごくであります。しかしながら、しかじかのわけで、いましばらくのところ、お待ちねがいとうござる。われらけっしてそのことを遺忘《いぼう》はいたしませぬ。かならず、近々《きんきん》のうちには関東にうって出、北条《ほうじよう》を追いちらし、君《きみ》に上州一国《じようしゆういつこく》を進上《しんじよう》申し上げるでありましょう。おあせりになるお気持ち重々《じゆうじゆう》わかりますが、お心を安んじてお待ちねがわしゅうござる」
と、答えた。
「さようか。それもそうじゃな。よろしゅうたのむ。それでは、わしは帰る」
けろりとして、帰っていった。
景虎《かげとら》は信州《しんしゆう》方面を守備している諸将を督励《とくれい》し、また直属《ちよくぞく》の諜者《ちようじや》をはなって、武田方の動きをさぐった。景虎《かげとら》の越中攻略《えつちゆうこうりやく》の迅速《じんそく》さは、ずいぶんに武田の家中《かちゆう》をおどろかしたようであるが、晴信《はるのぶ》自身はさわぐ色もなくおちつきはらっているという。越後《えちご》勢力の分野との境目《さかいめ》の守備はきびしくしたが、そのほかには越後《えちご》にせりかけようとする様子もないという。
「腹黒いこと底知れぬ男だ。油断《ゆだん》はならぬ」
景虎《かげとら》はいっそう用心を厳重にし、信州《しんしゆう》への注意をとぎすました。
四月の末、常陸《ひたち》の佐竹義昭《さたけよしあき》が使者をつかわし、関東の形勢を報告してきた。
「いまや関東では、お屋形《やかた》が瞬息《しゆんそく》の間に神保《じんぼ》を追い落とし、越中《えつちゆう》を討平《とうへい》されたというので、武勇のご名声は雷のごとく鳴りひびき、北条与力《ほうじようよりき》の武士どもは肝《きも》たましいをおののかせ、義を守って旧管領家《きゆうかんれいけ》に忠心を存している武士どもは、領《えり》を引いてご出馬《しゆつば》をのぞんでいること、大旱《たいかん》に雲霓《うんげい》を望むがごときものがござる。ひとたびお旗をむけられるものなら、関東は風動《ふうどう》し、八州《はつしゆう》がご手中《しゆちゆう》に帰すべきこと、もっとも明瞭《めいりよう》であります。一時も早くご出馬《しゆつば》あって、八州《はつしゆう》を平均《へいきん》し、正式に関東管領《かんとうかんれい》におなりあそばすよう、もっとも切望《せつぼう》します」
というのであった。
景虎《かげとら》はこれにたいして、越中討伐《えつちゆうとうばつ》の次第をくわしく報じ、武田への用心上、しばらく動くわけにいかないが、まもなく出馬《しゆつば》するであろうと言い、末尾《まつび》にこう書きそえた。
「総体《そうたい》、われらは理のないえこひいきによって戦《いく》さはしない。だれであっても、正しい道理のあるがわに合力《ごうりき》することを信条としています。(総体、景虎事、依怙(ニテ)不[#(レ)]携《たずさわら》[#(二)]弓|箭《や》(ニ)[#(一)]候。只々以(テ)[#(二)]筋目(ヲ)[#(一)]、何方へも致(ス)[#(二)]合力[#(一)]※(ニ)候)」
二
五月末、連日の降りみ降らずみの雨の中に、広い越後《えちご》平野の早苗《さなえ》が日々にのびて色を濃《こ》くしていくころ、おどろくべき報告が信州路《しんしゆうじ》に出している諜者《ちようじや》からとどいた。
この五月十日、四万という大軍をひきいて上洛《じようらく》の途《と》についた駿河《するが》の大守今川義元《たいしゆいまがわよしもと》が、十九日、尾州桶狭間《びしゆうおけはざま》で織田信長《おだのぶなが》に討ち取られたという報告だ。
急には本当とは思われなかった。
(こういうことは得《え》て針ほどのことが棒《ぼう》ほどに伝わるものだ。今川の本営がちょいとあらされて、治部大輔《じぶたゆう》〈義元《よしもと》〉がすこしばかりにげたくらいのことではないかな)
と、思ったのだが、つぎつぎに諸方《しよほう》から報告が集まってくると、もう疑うことはできなかった。
今川軍は破竹《はちく》の勢いで尾州《びしゆう》に入り、諸所《しよしよ》の砦《とりで》を攻略《こうりやく》し、織田《おだ》方は手も足も出ず、いまやその亡滅《ぼうめつ》は火を見るようなありさまとなったところ、信長《のぶなが》はわずかに二千の兵をひきいて山あいを間行《かんこう》し、義元《よしもと》が、谷間の隘地《あいち》で酒宴《しゆえん》をひらいているところを、風雨に乗じて奇襲《きしゆう》し、義元《よしもと》を討ち取って首を上げた。信長《のぶなが》がその首を槍《やり》のケラ首につけさせて馬前にもたせ、清洲《きよす》の居城《きよじよう》に帰ったのは申《さる》の刻《こく》(午後四時)にはまだならなかったという。首将《しゆしよう》を討たれた今川勢が土崩瓦解《どほうがかい》して、国もとににげかえったことはいうまでもない。
景虎《かげとら》の目の前には、夕日のさしているなかを、路《みち》の両がわに垣根《かきね》をつくっていならんでいる民百姓《たみひやくしよう》の間を、義元《よしもと》の首を先頭にかかげ、悠々《ゆうゆう》と馬を打たせていく信長《のぶなが》という小豪族《しようごうぞく》の姿がしばらく揺曳《ようえい》した。
景虎《かげとら》が信長《のぶなが》の名を聞いたのは、去年の上洛《じようらく》まえ、春のことであった。信長《のぶなが》もまた上洛《じようらく》し、将軍にお目見得《めみえ》したと聞いて、身分|不相応《ふそうおう》なことをすると、ふゆかいになったことをおぼえている。
(しかし、ただの鼠《ねずみ》ではなかったのじゃわ)
と、思った。
それにしても、人の運命ほどはかられないものはない。足利《あしかが》将軍家のもっとも親しい一族として、もっとも高い家柄《いえがら》であり、その所領《しよりよう》は駿《すん》・遠《えん》・参《さん》の、日本でもっとも豊沃《ほうよく》で、気候のよい、農産物も豊かであれば、海産物も豊富である土地をしめ、海道一《かいどういち》の弓取りとして、富強《ふきよう》天下に鳴った身が、家柄《いえがら》を言えば陪々臣《ばいばいしん》、身代《しんだい》をいえば尾張《おわり》半国にも足りぬ上総介信長《かずさのすけのぶなが》ごときの鋒先《ほこさき》にかかって果てようとは、だれが予想しよう、義元《よしもと》の油断《ゆだん》はいうまでもないが、戦国という時代のけわしさであると、心にしみるものがあった。
しかし、その感慨《かんがい》は一時のものであった。
この事変が、どんな形勢の変化となってくるかと、思考はそこに行った。
「晴信《はるのぶ》め、かならずや駿河《するが》にむかって爪《つめ》をとぐな」
と、思った。
武田《たけだ》家と今川家との関係はずいぶん深いものがある。今川|義元《よしもと》の夫人は晴信《はるのぶ》の姉であり、その間に生まれたのが、義元《よしもと》のあとをついで立つであろう氏真《うじざね》だ。この縁《えん》を利用して、晴信《はるのぶ》は今川氏と謀《ぼう》を合わせて、父|信虎《のぶとら》を国から追いだしたのだ。信虎《のぶとら》が甲斐《かい》でがんばっているかぎり、晴信《はるのぶ》の前途はひらけようがなかったのだから、彼の今日《こんにち》あるのは、今川家のおかげと言ってよい。そのうえ、晴信《はるのぶ》の長男|義信《よしのぶ》の夫人は義元《よしもと》の娘、氏真《うじざね》の妹だ。
このように重々《じゆうじゆう》の姻戚《いんせき》の間であり、深い恩義まであるのだから、氏真《うじざね》を助けて、今川家の安泰《あんたい》に力をつくしてやるのが人間の道なのであるが、思うに晴信《はるのぶ》にはそんな殊勝《しゆしよう》な心はあるまい。
「駿《すん》・遠《えん》・参《さん》の地は、日あたたかに、風やわらかく、土地|豊沃《ほうよく》、天下の美国《びこく》だ。そのうえ、氏真《うじざね》という男は、大の不覚人《ふかくにん》じゃという。大欲心《だいよくしん》の晴信《はるのぶ》のことだ。鼠《ねずみ》の油揚《あぶらあ》げを前にした狐《きつね》のようによだれが流れてとまらんであろう。――とすれば、当分のところ、こちらにはごぶさたということになろう。なおよくたしかめねばならんが、どうやら関東|出兵《しゆつぺい》をしてもよい時が来たような」
と、判断した。
三
甲州《こうしゆう》方面の様子をさぐりながらも、ぼつぼつと関東|出兵《しゆつぺい》の準備をすすめていると、七月はじめ、房州《ぼうしゆう》の里見義尭《さとみよしたか》から、
「北条《ほうじよう》氏が強勢《ごうせい》にまかせて侵略《しんりやく》してきてやまない。防戦おおいにつとめてはいるが、小は大に敵しがたく、苦戦このうえもない。もし、お屋形《やかた》が関東にご出馬《しゆつば》あそばされるなら、その風聞《ふうぶん》だけでも、北条《ほうじよう》氏は居すくんで侵略《しんりやく》をやめるであろう。ご出馬《しゆつば》のご意志があると、世のうわさではうけたまわってはいるが、真《しん》にご出馬《しゆつば》あるのかどうか、お漏《も》らしいただきたい」
という書面をもたせて、使者をよこした。
どうやら、武田は景虎《かげとら》の予想どおり、しきりに駿河《するが》方面に手入れをはじめているようでもある。景虎《かげとら》の決心はついた。
「かならず来月ちゅうには出馬《しゆつば》するであろう。心を強くもって防戦あれ」
と、答えて帰し、領内の諸将にも関東出陣のことを告げ、同時に関東の諸豪族《しよごうぞく》にも触《ふ》れをまわした。
「八月|下旬《げじゆん》、関東に出陣すべきにつき、管領家《かんれいけ》に忠心を存するにおいては、おのおの兵をひきいて参会《さんかい》すべきこと」
というのが、その触《ふ》れ状の文面であった。
不在ちゅうの規則も定《さだ》めた。
在陣留守中《ざいじんるすちゆう》の掟《おきて》
一 留守《るす》をおおせつかった者は、つねに分限相当《ぶんげんそうとう》の兵を春日山《かすがやま》城に駐在《ちゆうざい》させること。
一 春日山《かすがやま》城の普請《ふしん》を油断《ゆだん》なくつとめること。
一 諸郷《しよごう》それぞれ郷内《ごうない》で徴発《ちようはつ》できる人足《にんそく》をよく調査しおくこと。
一 万一|不慮《ふりよ》の事件がおこったら、頸城《くびき》郡内の一般|庶民《しよみん》を春日山《かすがやま》に召集すること。
一 なにごとにまれ、無道狼藉《むどうろうぜき》をはたらく輩《やから》は即座《そくざ》に処罰《しよばつ》すること。もし依怙《えこ》ひいきして犯人を隠匿《いんとく》するにおいては、われら帰陣《きじん》の際、その主人に一段重き処罰《しよばつ》をするであろう。
一 今度の留守衆《るすしゆう》のなかで不正を見のがした者があるのを知ったら、かくすことなくわれらが陣中《じんちゆう》へ注進《ちゆうしん》すべきこと。
一 なにごとにおいても、留守衆《るすしゆう》みなが相談して、善をとり悪をすてるよう処置あるべし。もし依怙《えこ》の心をもって他と同意せず、わがままないたしかたをする者あらば、隠匿《いんとく》せず、目付《めつけ》の者ども、その名前をわれらが陣中《じんちゆう》へ注進《ちゆうしん》すべきこと。
一 信州《しんしゆう》については、留守衆輪番《るすしゆうりんばん》にて、物見《ものみ》のためと称して兵を出し、高梨源太政頼《たかなしげんたまさより》に合力《ごうりき》すべきこと。
一 春日山《かすがやま》の竹木を伐《き》りとるべからず。
右の条々厳守《じようじようげんしゆ》すべし。 目付《めつけ》として萩原《はぎわら》掃部助《かもんのすけ》・直江与兵衛《なおえよへえ》(実綱《さねつな》)・吉江《よしえ》織部助《おりべのすけ》(景資《かげすけ》)をのこしておく。みなみなよく気をつけること肝要《かんよう》である。よってくだんのごとし。
永禄《えいろく》三年八月二十五日
景虎《かげとら》(花押《かおう》)
この掟《おきて》を出した翌日、二万の兵をひきいて春日山《かすがやま》を出発したが、その出発まぎわ、京の近衛前嗣《このえさきつぐ》から便りがあった。
「いよいよ数日のうちに京を出発、そちらにむかう。供《とも》には新三位《しんさんみ》西洞院時秀《にしのとういんときひで》がついていくことになっている。よろしくたのむ」
というのであった。
景虎《かげとら》は直江実綱《なおえさねつな》を召し、前嗣《さきつぐ》の書状を見せ、
「殿下《でんか》が下向《げこう》あそばされたら、そうだの――府内《ふない》の至徳寺《しとくじ》あたりをご旅館にしておもてなし申し上げるよう。よろずに疎略《そりやく》のないようにいたせ。そのつもりをもって、至徳寺《しとくじ》をよく検分し、つくろうべきところがあったり、建て増すべきであったら、急ぎそうはからうよう。やがてまた、関東からさしずしてよこすであろう」
と、申しつけて、出発した。
越後《えちご》から関東への出口は二つしかない。三国峠《みくにとうげ》をこえるか、その東北方の清水峠《しみずとうげ》をこえるか、いずれかをとるよりほかはないのである。いずれも山峡《さんきよう》の道を上州沼田《じようしゆうぬまた》に出、そこから利根《とね》川ぞいに渋川《しぶかわ》に出、さらに厩橋《うまやばし》(前橋)に出るのである。
春日山《かすがやま》を出た翌々日の午後、景虎《かげとら》は三国峠《みくにとうげ》の上に立っていた。
三国峠《みくにとうげ》は千二百四十四メートルの海抜《かいばつ》をもっているが、前面に高い山々が立ちふさがっているので展望がきかない。峠《とうげ》から左手二キロほどのぼると、三国《みくに》山だ。これはよほどに高い。景虎《かげとら》は近習《きんじゆう》の者だけ従えて、三国《みくに》山にのぼった。最高所に立つと、高低|環擁《かんよう》しながらしだいに低くなる山々のむこうに、うすい靄《もや》のような気がたなびき、その底に模糊《もこ》としたものがあるようだ。大気の澄《す》む秋のもなかではあるが、よく見えない。それでも、景虎《かげとら》は、
(あれが関東の大平原だ)
と、思った。
名状しがたい感動があった。
おれが支配に属すべき関八州《かんはつしゆう》!
その日は、三国峠《みくにとうげ》で夜営《やえい》して、翌日早朝、関東に下った。
景虎《かげとら》が出発して二十数日立って、九月十九日、近衛前嗣《このえさきつぐ》は越後府内《えちごふない》に到着した。
その前日、小泊《こどまり》から使者をつかわしたので、直江実綱《なおえさねつな》はいっさいの手くばりをするように命じておいて、夜をかけて迎えにいった。
前嗣《さきつぐ》と西洞院新三位《にしのとういんしんさんみ》との二人の供《とも》まわりを合しても、わずかに十人ほどの人数で、土地の代官《だいかん》の家に泊まっていた。
前嗣《さきつぐ》はいたって元気そうであった。実綱《さねつな》をよくおぼえていて、気さくにことばをかけた。
「そなたのこと、よくおぼえとるわ。丈夫《じようぶ》でけっこうやの。越後少将《えちごしようしよう》は関東出陣やとの。いよいよさかんでめでたいわ。関東の在陣《ざいじん》が長びくようやったら、まろも関東へ行ってもええと思うてんのや」
などと言った。
翌日は、かねて用意して昨夜もたせてきた輿《こし》に二人をのせ、小具足《こぐそく》をつけた兵士どもに行列をつくらせて、出発した。
二人とも、こういうことを予期していたのであろう、新しい狩衣《かりぎぬ》を出して着て、輿上《よじよう》の人となった。そのまえに、
「春日山《かすがやま》城へは、いずれおちつきたもうてから、おいでをねがうことにいたしまして、本日のところは、府内《ふない》にかねてご旅館を用意しておきましたれば、それへお入りをねがわしゅうございます」
と言うと、
「ああ、ええとも、ええとも。舟に乗ったら船頭《せんどう》まかせ、旅に出たら旅宿の亭主《ていしゆ》まかせというさけな」
と、前嗣《さきつぐ》はうなずいた。
府内《ふない》に入るまえから、沿道には関白《かんぱく》様という天子《てんし》様に次ぐ尊《とうと》いお人を拝《おが》もうと、人垣《ひとがき》をつくっていた。みな土下座《どげざ》している。
西洞院新三位《にしのとういんしんさんみ》はおごそかな顔と姿で、前方をにらむようにかまえていたが、前嗣《さきつぐ》はものめずらしげに、あちらを見、こちらを見、とくに若く色白な女がいると、無遠慮《ぶえんりよ》にすばやくそちらを見るのであった。
四
三国峠《みくにとうげ》を下っていけば、右手に温泉で名高い法師《ほうし》がある。しかし当時すでに温泉が発見されていたかどうかわからない。さらに下っていくと西川の峡谷《きようこく》になり、永井《ながい》・吹路《ふくろ》・猿《さる》ガ京《きよう》となる。ここで川は西谷《にしたに》川となり、浅地《あさじ》・布施《ふせ》・新巻《あらまき》・押出《おしだし》・月夜野《つきよの》となって、利根《とね》川の上流になる。けわしい道であるが、昔は関東と中越後《なかえちご》・下越後《しもえちご》とを通ずる唯一《ゆいいつ》の道であるから、今日《こんにち》の人が考えるほどさびしいものではなかった。相当にぎわったのである。
三国峠《みくにとうげ》から二十五キロだ。大軍の険路《けんろ》における一日の行程《こうてい》としてはやや過ぎる。月夜野《つきよの》から二キロほどの押出《おしだし》あたりで野陣《やじん》したろう。たぶんこの時であったろう、下野唐沢山《しもつけからさわやま》城(佐野《さの》城・栃本《とちもと》城ともいう)の城主|佐野《さの》周防守昌綱《すおうのかみまさつな》が手勢《てぜい》をひきいて帰服《きふく》してきたのは。
昌綱《まさつな》はこの時五十二。当時としては老年といってもよいのであったが、体躯《たいく》たくましく、心剛強《ごうきよう》で、その勇武《ゆうぶ》は全関東に鳴りひびいていた。田原藤太秀郷《たわらとうたひでさと》二十四世の孫という家柄《いえがら》の誇《ほこ》りによって、一介《いつかい》の旅浪人《たびろうにん》から成り上がった小田原北条《おだわらほうじよう》氏にひざを折るのをいさぎよしとしなかったのか、北条《ほうじよう》氏のやり方が気に食わなかったのか、旧管領《きゆうかんれい》家への節義《せつぎ》を守ってのことか、北条《ほうじよう》氏にたいして抵抗《ていこう》しつづけている数少ない関東大名の一人であった。まえから、景虎《かげとら》に、関東ご出馬《しゆつば》の際には、かならず第一番にはせ参じ、ご案内役をつとめるであろうと申しおくっていたのであったが、そのちかいを忘れなかったのだ。
こういう誠実な人物は、景虎《かげとら》のもっともよろこぶところだ。さっそく引見《いんけん》した。
「ようこそ、ことばをたがえず来てくれたな。過分《かぶん》に思うぞ」
と、心からのことばをかけた。
昌綱《まさつな》はもっとも礼儀正しい態度ではあったが、関東|経略《けいりやく》の方策をじゅんじゅんと説いた。傾聴《けいちよう》させるに十分なものがあった。
「生まれてはじめての土地だ。諸事《しよじ》、指南《しなん》をたのむぞ」
酒をあたえ、自分もこころよく飲んでいるところに、また一隊の人馬《じんば》をひきいてきた者があった。
「上州箕輪《じようしゆうみのわ》城主|長野業正《ながのなりまさ》の与力衆大胡《よりきしゆうおおご》武蔵守秀綱《むさしのかみひでつな》。長野《ながの》の命を受けて、ご案内をつとめるためにまいりました」
と言う。
召しいれて対面すると、まだ三十そこそこの年ごろではあるが、沈着で、老成《ろうせい》した人物であった。
大胡《おおご》武蔵守秀綱《むさしのかみひでつな》という名ははじめてお聞きになる読者も相当あると思うが、新陰《しんかげ》流の流祖上泉《りゆうそかみいずみ》伊勢守信綱《いせのかみのぶつな》のことである。彼の本姓《ほんせい》は金刺《かなざし》、信州諏訪《しんしゆうすわ》の下社《しものやしろ》の宮司《ぐうじ》のわかれである。いつのころからか上州上泉《じようしゆうかみいずみ》、(前橋の東方)に移って地名を名字《みようじ》として上泉を名のるようになったが、またいつのころからか、付近の大胡《おおご》に移って大胡《おおご》を名のるようになったのである。名字《みようじ》はもともとは住所を示したのが固定化したものであるが、この時代まではその名ごりがまだ濃厚《のうこう》にのこっていて住所の変動するにしたがって変わることが少なくなかったのである。
大胡秀綱《おおごひでつな》が与力《よりき》している長野|業正《なりまさ》は上杉|管領《かんれい》家にもっとも強固《きようこ》な節義心《せつぎしん》を持《じ》している反|北条党《ほうじようとう》の大名で、したがって秀綱《ひでつな》と佐野昌綱《さのまさつな》とはよく知り合ったなかであった。
楽しい酒宴《しゆえん》になり、歓《かん》をつくして散会した。
翌日はまた行軍だ。
月夜野《つきよの》から利根《とね》川にそって、真庭《まにわ》をへて七キロで沼田《ぬまた》に達する。
沼田には北条《ほうじよう》方の猪股左近《いのまたさこん》大夫則頼《だゆうのりよし》がいる。猪股《いのまた》は中途《ちゆうと》に兵を出し、逆茂木《さかもぎ》を引き、砦《とりで》をかまえて待ち受けていたが、これは先頭に進んだ佐野昌綱《さのまさつな》が一戦に蹴《け》ちらした。砦《とりで》の守兵《しゆへい》らは足の立ちどもなく潰走《かいそう》して、沼田城ににげこんだ。
沼田は赤城《あかぎ》山の広大な裾野《すその》の東北|隅《ぐう》にある。字義《じぎ》のとおり、利根《とね》川・薄根《うすね》川・片品《かたしな》川の三つが会するデルタ地帯の盆地だが、関東古戦録《こせんろく》の記事から察すると、この当時の城はこの盆地の北隅《ほくぐう》、利根《とね》川と薄根《うすね》川の会する山ぎわにあったようだ。しかし、ここもその前面は湿地帯《しつちたい》で、大軍を動かすには不便なところだ。
景虎《かげとら》は案内役の佐野昌綱《さのまさつな》を呼び、馬をならべて城を望見《ぼうけん》し、攻撃法を相談していると、大胡秀綱《おおごひでつな》が馬を寄せてき、片あぶみをはずして、ていねいに会釈《えしやく》して言う。
「佐野《さの》殿はすでにみごとなお働きをなされて、お手柄《てがら》をお立てになったのでござれば、ここは若年《じやくねん》の拙者《せつしや》におゆずりいただきとうござる」
と言う。自信ありげだ。
昌綱《まさつな》はすこし気色《けしき》ばんだ。拒絶《きよぜつ》しようとする顔色であった。景虎《かげとら》は笑って言った。
「周防《すおう》、年役《としやく》だ。若い者に手柄《てがら》を立てさせてやるのだな」
昌綱《まさつな》は顔色をなおした。
「譲《ゆず》りがたいところじゃが、お屋形《やかた》のおおせじゃ。譲《ゆず》ろう」
秀綱《ひでつな》がのちに上泉《かみいずみ》伊勢守信綱《いせのかみのぶつな》となって、新陰《しんかげ》流の兵法《ひようほう》を創始《そうし》したことは有名だが、兵学にも達して上泉《かみいずみ》流と名づけて、所望《しよもう》の人には伝えた。彼の弟|上泉《かみいずみ》主水祐憲元《もんどのじようのりもと》(通治《みちはる》)は景虎《かげとら》のあとに立った景勝《かげかつ》につかえた人だが、兵学に通暁《つうぎよう》した武将として有名である。思うに兄から伝えたのであろう。
秀綱《ひでつな》は、
「君《きみ》は大手《おおて》よりむかわせられとうござる。われらは数手《かずて》の案内《あない》をいたし、搦手《からめて》から攻めたてます」
と言って、薄根《うすね》川の上流で大木を伐《き》りだして筏《いかだ》に組み、大岩・巨石《きよせき》をのせて薄根《うすね》川を流しかけ、城の周辺の足場をかためさせた。同時に、柿崎景家《かきざきかげいえ》その他数人の部将らを案内して、間道《かんどう》から城のうら手の戸神《とがみ》山によじのぼり、そこからつるべ打ちに鉄砲を打ちかけさせた。
これらの攻撃にいく日かかったか、諸記録はそれを明らかにしていないが、この大じかけな攻城法《こうじようほう》は、実際の威力《いりよく》を発揮《はつき》する前に、城兵の胆《きも》をうばった。城主|猪股《いのまた》はひそかに城を脱《だつ》して小田原《おだわら》に走り、城はおちいった。
元来、沼田《ぬまた》は沼田万喜斎《ぬまたまんきさい》という者が先祖から伝承していた土地であるが、この数年前にお家騒動《いえそうどう》がおこり、万喜斎《まんきさい》は国を出奔《しゆつぽん》して奥州黒川《おうしゆうくろかわ》(会津《あいづ》)の芦名《あしな》氏に寄食《きしよく》の身となり、沼田は管領憲政《かんれいのりまさ》によって猪股《いのまた》にあたえられたのだ。しかし、その後、猪股《いのまた》は心を変じて北条《ほうじよう》氏の幕下《ばつか》になったのであった。景虎《かげとら》は沼田をおとすと、万喜斎《まんきさい》のゆかりのものをさがし、万喜斎《まんきさい》の末子平八郎《ばつしへいはちろう》という者が民間にひそんでいたのを取りたて、これを沼田城主とした。
政略的なものがあったにはちがいないが、筋目《すじめ》を立てようとする景虎《かげとら》のやり方がよくわかるのである。
沼田城|攻略《こうりやく》に示した景虎《かげとら》の兵威《へいい》とその後の沼田の処置のつけ方とは、おおいに効果があった。戦わずして帰服《きふく》してくるものが引きつづいた。
景虎《かげとら》は関東《かんとう》経営の本拠《ほんきよ》をひとまず厩橋《うまやばし》(前橋)におき、兵を諸方に出して、北条《ほうじよう》氏に服属《ふくぞく》している諸城をしきりにおとしいれた。
五
小田原北条《おだわらほうじよう》氏がこの形勢を一大事と考えたことはいうまでもない。この当時の北条《ほうじよう》氏の当主は早雲《そううん》の孫で、名将《めいしよう》といわれた氏康《うじやす》だ。深沈《しんちん》にして大度《たいど》ありといわれている人だ。かねてから景虎《かげとら》の人物や戦法を研究していて、いちおうの対策はもっていたようである。
思うに、その対策は、北条五代記《ほうじようごだいき》や関八州古戦録《かんはつしゆうこせんろく》を参考にしての事後《じご》からの判断であるが、
「景虎《かげとら》という男は潔癖《けつぺき》で、正義|好《ごの》みで、みずからの武勇に絶対の自信をもち、烈火《れつか》のような戦いぶりをする男だ。欠点はあまりに名誉心《めいよしん》が強いのと気短《きみじか》なことだ。持久《じきゆう》はその得意《とくい》とするところでない。こんな男と正面から全力をもって接戦するのは策《さく》の得たものではない。鋭鋒《えいほう》をかわしかわし接戦をさけているうちには、こらえきれずに退去するであろう。しからずとするも、癇癪《かんしやく》をおこして、粗漏《そろう》な戦いをするようになるに相違ない。それを待って撃《う》てば、かならず利《り》がある」
と、いうのではなかったかと思われる。
ともあれ、氏康《うじやす》は櫛《くし》の歯をひくがごとき注進《ちゆうしん》にも動ずる色がなかったが、関東諸国の大小名《だいしようみよう》らの動揺《どうよう》があまりにひどいので、そうしておられなくなった。期するところあって悠々《ゆうゆう》とかまえている氏康《うじやす》の態度は、豪族《ごうぞく》らには理解できない。臆《おく》していすくんでいると見たのであろう。付属していた豪族《ごうぞく》らで景虎《かげとら》方に降伏《こうふく》する者がいくらでも出てくる。譜代《ふだい》の家臣《かしん》らは気をもんだ。
「このままの勢いで進めば、早雲公《そううんこう》以来三代のご経営は無になってしまいます。一時も早くご出馬《しゆつば》あって、有無《うむ》の一戦をねがわしゅうござる」
と、口説《くど》きたててやまない。
「さわぐことはない。おれには目算《もくさん》があるのだ」
と、氏康《うじやす》は答えたが、それでもこのへんで一塩《ひとしお》つけてみる必要があるかもしれないと思った。景虎《かげとら》と正面から衝突《しようとつ》することは、危険が大きいから避《さ》けなければならないが、味方の豪族《ごうぞく》らの動揺《どうよう》を静める手は打たなければならないと思った。
この時代の名将《めいしよう》といわれるほどの武将は、みな巧妙《こうみよう》なスパイの使用者である。氏康《うじやす》もまたそうで、領内にも近隣諸国《きんりんしよこく》にもつねに多数の諜者《ちようじや》をはなっている。その諜者《ちようじや》の報告を綜合《そうごう》すると、越後《えちご》軍は北条《ほうじよう》方付属の豪族《ごうぞく》らの城々を攻略《こうりやく》するために、それぞれの方面に出動して、厩橋《うまやばし》城の景虎《かげとら》の手もとにいる兵はせいぜい五、六千のものと判断された。さらにまた諜者《ちようじや》らのもたらした情報のなかに、佐野昌綱《さのまさつな》がその居城《きよじよう》に帰っているが、兵の大部分は一族の者につけて越後《えちご》勢の案内役をつとめさせ、唐沢山《からさわやま》城にいる勢はいたって少数であるというのもあった。
「これを討とう」
と、氏康《うじやす》は決意した。
佐野昌綱《さのまさつな》はまっさきに景虎《かげとら》に帰服《きふく》し、案内役をつとめて忠勤をぬきんでている男だ。これを攻めつけ、手痛い目にあわせることは、関東の豪族《ごうぞく》らにもっとも見せしめになることだ。
さっそくに陣触《じんぶ》れして、子息氏政《しそくうじまさ》を大将にして、福島《ふくしま》・遠山《とおやま》・大道寺《だいどうじ》・多目《ため》・笠原《かさはら》・垣和《かきわ》・清水《しみず》・内藤《ないとう》・富永《とみなが》等の武蔵《むさし》・相模《さがみ》の豪族《ごうぞく》や譜代《ふだい》の家臣《かしん》ら、総勢三万五千の兵をもって、野州《やしゆう》へむけた。
「暇《ひま》どると、諸方に散っている越後《えちご》勢が後詰《ごづ》めにはせ集まり、めんどうなことになる。摺鉢《すりばち》でものを摺《す》りつぶすように、息つくまもなく攻めて攻めぬき、即座《そくざ》につぶせ。忘れるな」
と、訓戒《くんかい》して、送りだした。
冬にかかって、万物《ばんぶつ》うら枯《か》れている関東の広野を北へ北へとむかった北条《ほうじよう》勢は、四日目には佐野《さの》に到着、唐沢山《からさわやま》城の攻撃にかかった。寄せ手はにくい佐野めと思っているうえに、氏康《うじやす》のさしずもあることだ。「ぜひとも抜きとらんと、昼夜の境《さかい》もなく、ひら攻めに攻めなやます」と関八州古戦録《かんはつしゆうこせんろく》にある。
佐野昌綱《さのまさつな》は厩橋《うまやばし》に急使を出して援助《えんじよ》をもとめはしたが、越後《えちご》勢が四方に散らばって、景虎《かげとら》の手もとにはいくらも兵のないことを知っている。急には助勢《じよせい》は来ないと見きわめをつけたが、
「まにあわずば死ぬまでのこと。おれがおぼえのほどを、景虎《かげとら》公に見てもらう好機《こうき》じゃ。者どもくじけるな」
と、将士を叱咤激励《しつたげきれい》して、火水になれと防戦した。「昌綱《まさつな》、あくまで強勢《ごうせい》の生得《しようとく》にて、目にあまる大敵にすこしも屈せず」と、古戦録《こせんろく》にある。
六
昌綱《まさつな》からの注進《ちゆうしん》が来ると、景虎《かげとら》は勇躍《ゆうやく》した。敵勢三万五千であるという。小田原譜代《おだわらふだい》の勢の大部分であると見てよい。決戦してこれを痛破《つうは》すれば、北条《ほうじよう》家の武力はガタ落ちになるはずだと思った。
「こらえろ! かならず後詰《ごづ》めするぞ」
と、返事をもたせて使者をかえしておいて、四方に出ている味方に急使を出してはせ参ずるように命令し、同時に三千の兵をひきいて厩橋《うまやばし》をうってでて、「栃本《とちもと》より上道(坂東里《ばんどうり》にたいすることばだ。上方里《かみがたり》の意味だろう。坂東里は六|町《ちよう》をもって一|里《り》とするが、これは三十六|町《ちよう》をもって一里とする)五里西の方」に陣取ったと古戦録《こせんろく》にあるから、いまの太田《おおた》市あたりに陣をすえたのであろう。
景虎《かげとら》はときどきみずから物見《ものみ》に出て寄せ手の攻撃の状態を見たという。「自身|大物見《おおものみ》に出、高場の地に登つて敵陣をうかがひ見られけるに、南方(北条方)の大軍、家々の旗・纏《まとい》を風に吹きそらさせ、いやが上に備へをれば、飛鳥《ひちよう》も翔《かけ》り過ぎがたく、いはんや人倫《じんりん》の輩にはいかがしてこれを打ち破るべしともおぼえず。手を打つて昌綱《まさつな》が勇猛《ゆうもう》を再三《さいさん》感激し」と、ある。
こうしていながら、景虎《かげとら》は四方に派遣《はけん》してある味方の諸勢《しよぜい》の集結を待ったのだが、なかなかそれがはかどらない。北条《ほうじよう》方では、景虎《かげとら》の出陣を知って、軍のなかばをわけてこちらにむかってそなえながらも、一刻も早く攻めおとせと、城の攻撃はますます猛烈《もうれつ》さを加えた。
とうてい、まにあわん、と判断するよりほかはなくなった。
決断はもっとも速い景虎《かげとら》だ。
部将らを集めて言った。
「佐野は男の中の男だ。どうまちがっても降伏《こうふく》などしはせぬが、力つきて攻めつぶされるかもしれぬ。おれが関東に入るやまっさきに味方したばかりか、おれがためにあれほど働いてくれた。それを見殺しにしては、おれの男が立たぬ。おれは城へ駆《か》け入って、佐野とともに城を守ろう。その方どもは、諸勢《しよぜい》の集まるを待って、外から寄せ手に攻撃をかけい」
と、言いわたした。
諸将はみなあやぶんでとめた。
「お屋形《やかた》のお心はよくわかりますが、この大軍の中をおしとおってのご入城がまずむずかしゅうござる。大軍もしかさにかかっておしつつんでまいらば、お屋形《やかた》のご武勇をもってしても、あぶのうござる。あと両三日もしたら、諸勢《しよぜい》も集まるでござろうから、それまでお待ちいただきとうござる」
景虎《かげとら》は首をふり、
「その両三日をもちこたえることのできる城とその方どもの目には見えるかや。おれが心は決している。たとえ途中に討ち取られようと、一片《いつぺん》の義《ぎ》を踏《ふ》んで死んだといわれるはおれが面目《めんもく》となることだ。とめるな」
と、言いはなち、さっそく、実行にうつした。
ひきいてきている三千の兵を、こちらに備えている敵勢にむけて備えさせ、翌日早朝、城にむかった。
景虎《かげとら》はわざと甲冑《かつちゆう》は着けず、黒い木綿《もめん》の道服《どうふく》を着、白綾《しらあや》で頭と顔をつつみ、する墨《すみ》のごとき黒馬の野髪《のがみ》長くのびたのに金覆輪《きんぷくりん》の鞍《くら》をおき、十文字槍《じゆうもんじやり》を小脇《こわき》にかいこんで乗り、旗奉行横井《はたぶぎようよこい》内蔵助《くらのすけ》に「無」の字の旗をもたせてみずからの脇《わき》に密接して立たせ、旗本《はたもと》の壮士《そうし》から身体強壮《しんたいきようそう》、心|剛《ごう》な者十六人をすぐり、一様《いちよう》に鹿の角《つの》の前立《まえだて》打った冑《かぶと》を着せ、二列に立て、右列には五尺|柄《え》の手鉾《てほこ》をかつがせ、左列には長巻《ながまき》をかつがせ、これを徒歩《かち》でまっさきに立て、次には騎馬武者《きばむしや》十二人、冑《かぶと》は着せず白布で鉢巻《はちまき》させ、金のバレンにそれぞれの名を書かせた差物《さしもの》をささせ、これも二列に立て、自分のまわりには馬廻《うままわ》りの者を十六人、いずれも徒歩立《かちだ》ちで、白布をもって鉢巻《はちまき》させて従えた。総勢わずかに四十五人だ。
きびしい霜の朝だ。本陣《ほんじん》を乗りだし、粛々《しゆくしゆく》として敵陣の中に入り、真一文字《まいちもんじ》に城を目ざした。
古戦録《こせんろく》は、
「主従《しゆじゆう》わづかに四十五人、徐々《しずしず》と本陣《ほんじん》を打ち出《い》で、十重二十重《とえはたえ》に備へたる敵軍のまんなかを、怯《お》めず臆《おく》せず一文字《いちもんじ》に押しきり通らるるその勢ひ、活溌巍然《かつぱつぎぜん》として肌《はだ》へ撓《たわ》まず、目まじろがず、あたかも毘沙門天《びしやもんてん》・韋駄天《いだてん》などの荒ぶりたまふ景色《けしき》」
と叙述《じよじゆつ》している。
この猛威《もうい》に三万五千の北条《ほうじよう》勢は気をのまれ、一人として手出しする者がなかったという。
城中からはるかにこれを見ていた佐野昌綱《さのまさつな》は、景虎《かげとら》が城門近くまで来ると、ひたかぶと四、五十|騎《き》をひきつれて門をおしひらいて駆《か》けだし、景虎《かげとら》の馬の口にすがりつき、泣いて感激して、城内に迎えいれた。
城内の者は、どっと歓声《かんせい》をあげ、勇気百倍した。
これで気をさましたのであろう、北条《ほうじよう》勢は退却《たいきやく》にかかった。越後《えちご》勢も佐野《さの》勢もそれを追撃して、敵が古河《こが》までしりぞく間に、千三百七十余級の首を上げたとある。
新管領政虎《しんかんれいまさとら》
一
景虎《かげとら》の威風《いふう》が関東を風靡《ふうび》するのを見て、武田晴信《たけだはるのぶ》は安からず思った。彼は駿河《するが》にむかって野心《やしん》をとぎ、せっせと今川《いまがわ》家の諸将に籠絡《ろうらく》の手をのべたり、三河《みかわ》の松平家康《まつだいらいえやす》に遠州分割案《えんしゆうぶんかつあん》を提示《ていじ》したりしていたのであるから、その道をひとすじに行けばよいようなものであるが、そうはいかないのが、人間というものだ。
いったい、彼は小田原北条《おだわらほうじよう》氏と浅からぬ因縁《いんねん》がある。六年前の天文《てんぶん》二十三年に、氏康《うじやす》の長男|氏政《うじまさ》に娘をくれて姻戚《いんせき》のなかになっているのだが、それは彼の心を動かすことにはならない。なにせこの五年後には彼の駿河侵略《するがしんりやく》に強硬《きようこう》に反対するというので、長男の義信《よしのぶ》を自殺させるほどのドライな性格なのである。彼を動かしたのは、もっぱら利害関係であった。
古い中国の諺《ことわざ》に、「隣国の強は国の衰《おとろ》ふるなり」というのがある。強弱は相対的なものだから、隣国が強大《きようだい》になることは、自国が弱小《じやくしよう》になると同じだという意味だ。晴信《はるのぶ》にとってもっとも手ごわい敵である景虎《かげとら》が関東管領《かんとうかんれい》の確定的|後継者《こうけいしや》となったばかりでなく、関東に出陣して勢威《せいい》おおいにふるい、八州《はつしゆう》のなかば以上がその威令《いれい》に伏《ふく》するとあっては、黙視《もくし》できなかった。
「なんとかせねば、関八州《かんはつしゆう》のこらず景虎《かげとら》のものになってしもうぞ」
と、考えているおりもおり、北条氏康《ほうじよううじやす》から使者が来た。
「長尾景虎《ながおかげとら》、関東に乱入してほしいままに地を切りとり、八州《はつしゆう》の平和をおびやかしています。長尾《ながお》は貴辺《きへん》の宿敵《しゆくてき》、それが大となることは貴辺《きへん》の利ではありますまい。背後より彼をおびやかして掣肘《せいちゆう》していただけまいか。景虎《かげとら》を退《の》けることができたうえは、西上州《にしじようしゆう》は貴意《きい》にまかせたい」
という口上《こうじよう》だ。
網《あみ》の目のようにからんでいる各家の利害は、事の大小のちがいはあっても、十九世紀以後現代にいたるまでの世界情勢と同じだ。一端《いつたん》をひけば網目《あみめ》全体に響《ひび》きがあるのだ。
「よろしい」
晴信《はるのぶ》は答えて、使者をかえした。
機会がなかったから書かなかったが、晴信《はるのぶ》はこの数年前|入道《にゆうどう》して徳栄軒信玄《とくえいけんしんげん》と号するようになっている。いつ入道《にゆうどう》したか、正確にはわからない。甲越軍記《こうえつぐんき》には天文《てんぶん》二十年二月十二日であったと書いてあるが、あてにならない。永禄《えいろく》元年八月付の古文書《こもんじよ》に「武田徳栄軒信玄」と彼の署名《しよめい》があるから、その以前に入道《にゆうどう》したとだけしかわからない。かりに永禄《えいろく》元年六、七月に入道《にゆうどう》したとすれば、この時まで二年三、四か月たっているわけである。
さて、信玄《しんげん》の打つ手は、れいによって手がこんでいる。彼は自分の妻が大阪|本願寺《ほんがんじ》の門跡顕如《もんぜきけんによ》の妻と姉妹(三条公頼《さんじようきんより》の娘)であるのを利用して、遠く大阪に使いをはせ、加賀《かが》・越中《えつちゆう》の一向宗門徒《いつこうしゆうもんと》を扇動《せんどう》して越後《えちご》に侵入《しんにゆう》しておびやかしてもらいたいとたのみ、同時に、越中《えつちゆう》の豪族上田《ごうぞくうえだ》石見守《いわみのかみ》と神保氏春《じんぼうじはる》とに指令を発した。
「大阪|本願寺《ほんがんじ》へしかじかの由《よし》をたのみつかわしたところ、快諾《かいだく》したとの報告がきている。われら不日《ふじつ》に北条氏康《ほうじよううじやす》と謀《ぼう》を合わせて進発することになっている。いまや長尾《ながお》は進退よりどころを失い、滅亡《めつぼう》必然である。国内の豪族《ごうぞく》や門徒中《もんとちゆう》の重《おも》なるものと相談して、越後《えちご》にむかって干戈《かんか》を動かすよう、馳走《ちそう》もっとも肝要《かんよう》である」
という指令。
これと同時に北条氏康《ほうじよううじやす》も大阪に使者を出し、
「加賀《かが》の門徒《もんと》をして越後《えちご》に乱入させてくださるなら、従来|拙者分国《せつしやぶんこく》内では貴宗《きしゆう》を禁断《きんだん》していましたが、その先規《せんき》をあらため、貴宗《きしゆう》の寺々を建立《こんりゆう》し、その弘法《ぐほう》を許すことにいたしましょう」
と依頼《いらい》した。
神保氏春《じんぼうじはる》は景虎《かげとら》に居城富山《きよじようとやま》を追いおとされ、またこもった亀山《かめやま》の増山《ますやま》城を追いおとされ、行くえ不明になっていたが、景虎《かげとら》が越後《えちご》に引きあげたのち立ちあらわれて、西越中《にしえつちゆう》で敗残兵《はいざんへい》をかき集めていたのであった。信玄《しんげん》の指令を受けとって大喜びだ。さっそくに上田石見《うえだいわみ》と相談をかためた。
信玄《しんげん》が二人に指令を発した時までは、信玄《しんげん》の依頼《いらい》も、氏康《うじやす》の依頼《いらい》もまだ大阪|本願寺《ほんがんじ》にはとどいていなかったのであるが、その後本願寺《ほんがんじ》は依頼《いらい》を承諾《しようだく》して、加賀《かが》と越中《えつちゆう》の門徒《もんと》に指令を出した。しかし、景虎《かげとら》はすでに数年前に領内における一向宗弘法《いつこうしゆうぐほう》をゆるし、北陸道《ほくりくどう》における宗派《しゆうは》の大立者超賢《おおだてものちようけん》のために春日山郊外《かすがやまこうがい》に本誓寺《ほんせいじ》を建立《こんりゆう》し、もっとも親しいなかになっている。北陸路《ほくりくじ》の門徒《もんと》らは、大本山《だいほんざん》の指令でも、おいそれとは動かされなかった。ごくわずかな連中《れんちゆう》が、神保《じんぼ》や上田と談合《だんごう》して、越後侵入《えちごしんにゆう》をくわだてたが、越中《えつちゆう》の各地を守備している越後《えちご》方の兵にたちまち追いちらされてしまった。
二
報告は厩橋《うまやばし》にいる景虎《かげとら》のもとにとどいた。彼にはこれが信玄《しんげん》のさしがねであることがすぐわかった。また氏康《うじやす》と信玄《しんげん》との間に脈絡《みやくらく》のあることも見当がついた。
「さもあろうこと」
と、うなずいた。
不安でないことはなかったが、その不安にかられておめおめと越後《えちご》へあとしざりする気にはならなかった。
「さらばよし。いっきに北条《ほうじよう》を攻めつぶしてしもうまでのこと!」
と、決心を新たにした。
彼は今年は関東で越年《えつねん》するゆえ、なお油断《ゆだん》なく留守《るす》せよ、ついては思う仔細《しさい》あれば、上杉憲政《うえすぎのりまさ》様と近衛殿下《このえでんか》とを関東にお送りせよと申しおくった。上杉憲政《うえすぎのりまさ》は、これを奉《ほう》じて小田原《おだわら》を攻めつぶすためであり、近衛前嗣《このえさきつぐ》は、こうして関東を平定《へいてい》した後、前嗣《さきつぐ》を関東公方《かんとうくぼう》としようというつもりであった。
関東において小田原北条《おだわらほうじよう》氏は成り上がりものの侵略者《しんりやくしや》である。この侵略者《しんりやくしや》を古くからの正当な権威者《けんいしや》である上杉憲政《うえすぎのりまさ》が征伐《せいばつ》するという名目《めいもく》を立てたわけだ。このやり方はこれから八年後に織田信長《おだのぶなが》もやっている。すなわち、足利義昭《あしかがよしあき》を奉《ほう》じて三好《みよし》党を蹴《け》ちらして入京《にゆうきよう》している。つまり、当時としてはこの程度の権威《けんい》主義は人心にマッチさせるうえで必要だったといえよう。
しかし、近衛前嗣《このえさきつぐ》を関東公方《かんとうくぼう》としてあおごうというのは、景虎《かげとら》という人物を考察するうえに、よいよすがになる。前嗣《さきつぐ》は関東には縁《えん》もゆかりもない人物だが、現関白《げんかんぱく》であり、天皇についで日本でもっとも尊貴《そんき》な人だから、関東人らもみなよろこんであおぎ服《ふく》するはずと、景虎《かげとら》は判断したのであろう。景虎《かげとら》の権威《けんい》主義が単に便宜《べんぎ》のためのものではなく、骨髄《こつずい》からのものであったというよい証拠《しようこ》になる。
当時の日本は大変革期《だいへんかくき》にあったのだから、こういう点、古い権威《けんい》にたいしては利用価値しか認めなかった信長《のぶなが》よりも、また、ひょっとすると彼より九つも年長であった信玄《しんげん》よりも、古かったかもしれない。信玄《しんげん》は古い権威《けんい》を尊重《そんちよう》することはけっして彼におとらなかったが、これを利用するにあたってはじつにドライであったからだ。余談《よだん》だが、古いというも新しいというも、時代による。この次の時代になると、徳川家康《とくがわいえやす》のような古い権威《けんい》の尊重者《そんちようしや》がもっとも新しいことになってくる。時代にマッチした者がもっとも新しく、そして繁栄《はんえい》もするのである。
以上のように、ある意味では景虎《かげとら》はこの時代としてはもっとも古い型の人間ではあったが、それだけに正直者《しようじきもの》であったとはいえよう。彼はもっとも純粋《じゆんすい》な気持ちで、昔ながらの権威《けんい》を権威《けんい》あらしめることによって、世の秩序《ちつじよ》を回復したいと意図《いと》していたのである。それは歴史の流れに逆行《ぎやつこう》する努力であったが、歴史の流れなどという哲学は当時の人の知りうるところではなかった。
憲政《のりまさ》と前嗣《さきつぐ》とは、前後して厩橋《うまやばし》に到着した。関東の諸将は争って参集《さんしゆう》し、憲政《のりまさ》に賀詞《がし》をたてまつったが、そのなかには北条《ほうじよう》方と目《もく》されている者も少なくなかった。
この形勢に不安を感じたのは、古河公方《こがくぼう》の足利義氏《あしかがよしうじ》である。義氏《よしうじ》は前公方晴氏《ぜんくぼうはるうじ》の末子《ばつし》(四子)であるが、生母が北条氏康《ほうじよううじやす》の娘であるところから、氏康《うじやす》は義氏《よしうじ》を公方《くぼう》として立てていたのであった。もちろん、名前ばかりの公方《くぼう》であるが、それでも公方《くぼう》は公方《くぼう》である。景虎《かげとら》の関東|出馬《しゆつば》とその威風《いふう》とは、義氏《よしうじ》の地位に不安を感じさせた。北条氏康《ほうじよううじやす》もまた義氏《よしうじ》に立って防衛することをすすめた。義氏《よしうじ》は古河《こが》城を修理し、教書《きようしよ》を四方に出して、味方をつのった。
「しおらしいことをなさるわ」
景虎《かげとら》は笑っていた。
厩橋《うまやばし》で越年《えつねん》して、二月なかばまで十分に兵馬《へいば》を休養させ、二月|下旬《げじゆん》、厩橋《うまやばし》を出馬《しゆつば》して南にむかった。雷霆《らいてい》の激発する勢いであった。古河《こが》城はひとささえもできず、義氏《よしうじ》は小田原《おだわら》にのがれた。降伏《こうふく》するものは本領《ほんりよう》を安堵《あんど》し、抵抗《ていこう》するものは時《とき》の間《ま》に蹂躙《じゆうりん》して、三月はじめには相州《そうしゆう》に入り、小田原《おだわら》城を指呼《しこ》の間《かん》に望《のぞ》んだ。従うもの関東の大小名《だいしようみよう》七十六人、兵九万六千、景虎《かげとら》の勢を合して十一万三千というのが鎌倉管領九代記《かまくらかんれいくだいき》の記述、小田原記《おだわらき》の記述もほぼ同じである。
小田原城内では防戦の評定《ひようじよう》がおこなわれる。いろいろな意見が出たすえ、氏康《うじやす》はにこにこ笑いながら言った。
「みなの所存《しよぞん》もっともじゃが、わしの意見を申そう。わしの見るところでは、景虎《かげとら》という男は天性《てんせい》の剛気《ごうき》もので、気性《きしよう》たけだけしく、腹を立てる時は烈火《れつか》の中にも飛びいり、鬼神《きじん》をも取りひしぐばかりであるうえに、こんどは関東管領《かんとうかんれい》になるまぎわであるゆえ、関東の大小名《だいしようみよう》らにひとしお強みを見せようとするに相違ない。そのような者に野外の合戦《かつせん》をするほど損なことはない。まず負けは目に見えている。勝ったとて、味方の損害がおびただしかろう。城にこもって戦うがよい。早雲《そううん》様以来三代の堅城《けんじよう》だ。糧食《りようしよく》も山ほどある。心を一つにして防守《ぼうしゆ》すれば、二年や三年ではけっして落ちぬ。それに景虎《かげとら》がような血気《けつき》の剛者《ごうしや》はあんがい辛抱力《しんぼうりき》はないものでの、やがて攻めあぐんで、気力おとろえ、もどっていくわな。そのまま帰してもよし、追いうちかけてもよし、それはその時の時宜《じぎ》できめよう。どうじゃな」
氏康《うじやす》は百戦の経歴《けいれき》があり、名将《めいしよう》の名の高い人だ。みな、その議《ぎ》に同じて、籠城《ろうじよう》ときまり、遠く国府津《こうづ》・前川《まえかわ》・一色《いつしき》・酒匂《さかわ》・大磯《おおいそ》・小磯《こいそ》・梅津《うめづ》のへんに出していた兵を全部引きとって、かたく城にとじこもり、同時に武田家と今川家へ援軍《えんぐん》を乞《こ》う使者を出した。
景虎《かげとら》は手もなく城ぎわにおしよせた。城内と鉄砲ぜり合いがはじまった。
「景虎《かげとら》は、関東の諸士《しよし》に剛強《ごうきよう》の威勢《いせい》を知らせんと思い、金小札緋縅《きんこざねひおど》しの鎧《よろい》に、萌黄《もえぎ》緞子《どんす》に笹《ささ》に雀《すずめ》を繍《ぬいと》った陣羽織《じんばおり》を着、憲政《のりまさ》からゆずられた朱《しゆ》の采配《さいはい》を腰にさし、諸手《もろて》に乗りこんで下知《げち》した。そのありさま、敵の矢玉《やだま》の飛来《ひらい》する中を南から東へ、東から南へと乗りわたり乗りわたりし、およそ人を塵芥《ちりあくた》とも思わぬふるまいであった。関東の諸将はこれまで上杉管領家《うえすぎかんれいけ》の悠長《ゆうちよう》な指揮《しき》ぶりばかりを見ているので、このはげしい指揮《しき》ぶりにみな舌《した》を鳴らした」
と、小田原記《おだわらき》にある。鎌倉管領九代記《かまくらかんれいくだいき》、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》、みな大同小異《だいどうしようい》の記述をしている。北越家書《ほくえつかしよ》の記述もだいたい同じだが、こうある。
「城内では弓鉄砲をしきりにはなち、ここを先途《せんど》といどみふせいだ。総大将|景虎《かげとら》公は、白綾《しらあや》にて頭を包みたまい、緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》に金小札《きんこざね》の大袖《おおそで》をつけ、竹に雀《すずめ》を縫《ぬ》った萌黄《もえぎ》緞子《どんす》の胴肩衣《どうかたぎぬ》を召され、蔵王権現《ざおうごんげん》の前立《まえだて》打った冑《かぶと》を隊長|上田《うえだ》能登守《のとのかみ》に馬上にて捧《ささ》げさせて身わきに従え、着がえの鎧《よろい》を二人にもたせ、憲政《のりまさ》公より譲《ゆず》られた朱《しゆ》の采配《さいはい》を腰にさし、青竹の三尺ばかりなるに隅取紙《すみとりがみ》を結びつけたるをとり、六寸余《むきよ》の月毛《つきげ》の駒《こま》の三日月《みかづき》と号したるに金覆輪《きんぷくりん》の鞍《くら》おき、紅《くれない》の厚総《あつぶさ》かけてかるがると乗り、坂東武者《ばんどうむしや》いやがうえにつらなったなかを乗りわけ乗りわけ、かいがいしく下知《げち》せられた云々《うんぬん》」
三月はじめから閏《うるう》三月なかばまで四十日近くも攻めたが、城中はいたって堅固《けんご》に守っている。また甲州《こうしゆう》と駿河《するが》も援軍《えんぐん》を、その国境線まで送り、甲州《こうしゆう》勢は笛吹峠《ふえふきとうげ》まで出てき、駿河《するが》勢は三島《みしま》まで出てきていた。
どうやら、成功しそうにないと見きわめがついたので、三月なかば、囲みを解いて鎌倉《かまくら》にむかった。
上杉家譜《うえすぎかふ》は、これを宇佐美定行《うさみさだゆき》・直江実綱《なおえさねつな》の二人と関東大名|佐竹義重《さたけよししげ》・小田中務少輔《おだなかつかさしようゆう》・宇都宮弥三郎《うつのみややさぶろう》の三人とが、景虎《かげとら》に献言《けんげん》した結果と記述しているが、景虎《かげとら》にしても、そういうきっかけを待っていたのであろう。
三
いったい、景虎《かげとら》が関東に進出したのは、関東|平定《へいてい》と関東管領職《かんとうかんれいしよく》に就任《しゆうにん》して上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》を相続《そうぞく》することとの二つのためであった。小田原《おだわら》城を攻めつけたのも、この二つの目的による。一つには関東の横領者《おうりようしや》である北条《ほうじよう》氏を撃滅《げきめつ》するためであり、一つには彼は古式《こしき》にのっとって鎌倉鶴《かまくらつる》ガ岡八幡宮《おかはちまんぐう》の宝前《ほうぜん》で管領職《かんれいしよく》につきたいのだが、小田原《おだわら》をおさえつけておかないと、横あいから攻撃を加えてくるおそれがあったためである。
しかし、いまや攻略《こうりやく》することはできなかったとはいえ、十分に武威《ぶい》を見せつけられ、とうてい小田原《おだわら》方が攻撃に出るとは考えられない。
閏《うるう》三月十六日、もっとも盛大な就任式《しゆうにんしき》が、八幡宮《はちまんぐう》でおこなわれた。
あたかも陽春《ようしゆん》の候《こう》、風やわらかく日うららかな好晴《こうせい》の日であった。この季節はいまの四月中旬《ちゆうじゆん》から下旬《げじゆん》にあたるから、鎌倉《かまくら》あたりでは桜はすでに散り、青葉の季節になっている。六百余人の兵が町々を警護《けいご》し、関東の諸大名《しよだいみよう》は行列に供奉《ぐぶ》する者のほかは全部、式のはじまるに先だって境内《けいだい》に入り、庭にいならんだ。
時刻になると、景虎《かげとら》が行列をそろえて参入《さんにゆう》してきた。彼は先年|義輝《よしてる》将軍からゆるされた網代《あじろ》の輿《こし》に乗り、朱柄《しゆへい》の傘《からかさ》、梨地《なしじ》の槍《やり》をもたせ、毛氈《もうせん》の鞍覆《くらおおい》をした馬をひかせていた。直江実綱《なおえさねつな》・柿崎景家《かきざきかげいえ》が先駆隊《せんくたい》の将となり、従うもの千人、みな美々《びび》しいよそおいであった。道の左右に鎌倉《かまくら》のうちはもとより、戸塚《とつか》・藤沢《ふじさわ》あたりからも人々が出て、人垣《ひとがき》をつくって見物したとある。景虎《かげとら》は鳥居《とりい》の前で輿《こし》をおりて参入《さんにゆう》した。
上杉年譜《うえすぎねんぷ》は、この時のことをこう書いている。
「景虎《かげとら》公|華表《かひよう》の前にて輿《こし》よりおりたまひ、参詣《さんけい》あり。おん太刀《たち》は鷹巣《たかのす》城主|小幡《おばた》三河守《みかわのかみ》これに役す(この人は美貌《びぼう》で風采《ふうさい》がりっぱだったから選ばれたと九代記《くだいき》にある)。すでに神前に礼拝あつて、帰依《きえ》の丹祈《たんき》をこらさる。諸士《しよし》は庭上《ていじよう》に羅列《られつ》し、各々《おのおの》頭を傾《かたむ》けて拝賀《はいが》す。渇仰肝《かつごうきも》に銘《めい》じ、懇精信《こんせいしん》を発す。雄剣一口《ゆうけんひとふり》、竜蹄《りゆうてい》(名馬)一匹《いつぴき》、黄金《こがね》百両を奉納《ほうのう》あり。社僧《しやそう》は真読《しんどく》(全部読むこと)の仁王《におう》・般若《はんにや》を転じ、祝部《はふり》は中臣《なかとみ》の祝言《よごと》を唱《とな》へ、五人の神楽男《かぐらお》、八人の乙女《おとめ》、袖《そで》を返し拍子《ひようし》を調《ととの》ふ。鈴の声|颯々《さつさつ》とし、鼓《つづみ》の音|鼕々《とうとう》たり。香煙《こうえん》の薫《くゆ》り四方に徹《てつ》し、灯火《とうか》の輝《かがや》き内外に映《えい》ず。寺院の諸僧《しよそう》・禰宜《ねぎ》・神主《かんぬし》以下まで、金銀|衣帛《いはく》数をつくした恩賜《おんし》あり」
この拝礼がおわってから、神前において、憲政《のりまさ》から上杉《うえすぎ》の家督《かとく》をゆずられ、名を政虎《まさとら》とあらため、管領職《かんれいしよく》に就任《しゆうにん》した。つまり、越後守護長尾景虎《えちごしゆごながおかげとら》は、ここで関東管領上杉政虎《かんとうかんれいうえすぎまさとら》となったのである。この時、三十二歳。政虎《まさとら》の政《まさ》は上杉憲政《うえすぎのりまさ》の一字をもらったのである。後に将軍|義輝《よしてる》に輝《てる》字をもらって輝虎《てるとら》となるが、これはずっとずっと後のことである。
この儀式がすんで八幡宮《はちまんぐう》を退出する時、こんな事件があったと、九代記《くだいき》は伝える。
景虎《かげとら》が鳥居《とりい》の外に出た時、武蔵忍《むさしおし》の城主|成田《なりた》下総守長康《しもふさのかみながやす》という者が、首を上げてこちらを見た。景虎《かげとら》は、
(無礼千万《ぶれいせんばん》、作法《さほう》を知らぬ男かな!)
と怒《いか》り、もっていた扇子《せんす》で成田《なりた》が顔を丁々《ちようちよう》と打って過ぎた。長康《ながやす》は、
(口惜《くちお》しいことかな。小身《しようしん》ながらおれは五百|騎《き》を出す身分、このたびは奉公《ほうこう》と思えばこそ千|騎《き》をひきいてまかり来たものを、恥《はじ》見せたもうた。末たのもしからぬ新管領《しんかんれい》殿かな)
と、暇《いとま》も乞《こ》わず、在所《ざいしよ》へかえった。これを聞きつたえ、関東の諸将らみな成田《なりた》に同情し、景虎《かげとら》をうとんじ、それぞれ在所《ざいしよ》にかえったので、景虎《かげとら》の手勢《てぜい》さえさわぎたてて落ち支度《じたく》をした。これを見て、小田原《おだわら》城中では攻撃を加えたので、越後《えちご》勢は斬《き》りくずされた。景虎《かげとら》は返し合わせ返し合わせ駆《か》けやぶり、斬《き》り通り、かろうじて上州《じようしゆう》に引きあげた云々《うんぬん》。
政虎《まさとら》が相当以上の癇癪《かんしやく》もちであったことは事実だが、この話はあとに続く話から見て、うそにちがいない。上杉年譜《うえすぎねんぷ》によると、政虎《まさとら》はしばらく山内に滞在《たいざい》して関東の諸将に行賞《こうしよう》して、それぞれ在所《ざいしよ》に帰ることを許した後、四月二十八日に鎌倉《かまくら》を出発し、途中|武蔵府中《むさしふちゆう》の六所明神《ろくしよみようじん》に参詣《さんけい》してしばらく滞在《たいざい》してから、上州厩橋《じようしゆううまやばし》に引きあげている。小田原《おだわら》から数千|騎《き》の兵をさしむけはしたが、それはついに越後《えちご》勢の前にはあらわれなかったとある。
上杉年譜《うえすぎねんぷ》は、成田《なりた》が無断《むだん》で帰国したことは事実であるが、それは関東の大名の中では上州箕輪《じようしゆうみのわ》の長野業正《ながのなりまさ》、武蔵岩槻《むさしいわつき》の太田三楽入道資正《おおたさんらくにゆうどうすけまさ》、成田《なりた》の三人が武功《ぶこう》の大将と称せられていたところ、こんどの儀式で長野は有職故実《ゆうそくこじつ》に通じているところから儀式の役をつとめ、太田《おおた》は鎌倉《かまくら》の町の警固役《けいごやく》に任ぜられたのに、成田《なりた》にはなんの役もつけられず、多くの大名とともに庭中に雑居《ざつきよ》したにすぎなかったのを怒《おこ》ったのだとある。また成田《なりた》を役づきにしなかったのは、昔|憲政《のりまさ》がまだ、平井にいたころ、ある時は憲政《のりまさ》につき、ある時は小田原《おだわら》につき、信義《しんぎ》のない人物であったからだともある。成田《なりた》は剣術者塚原卜伝《けんじゆつしやつかはらぼくでん》という者の門下《もんか》で、その芸|精妙《せいみよう》を得て世の誉《ほま》れはあったが、大名の器《うつわ》ではなかったともある。
上杉年譜《うえすぎねんぷ》の記述が正しいであろう。
やはりこのころ、政虎《まさとら》は近衛前嗣《このえさきつぐ》を関東公方《かんとうくぼう》にすることはあきらめ、現公方義氏《げんくぼうよしうじ》の長兄|藤氏《ふじうじ》を公方《くぼう》に擁立《ようりつ》することを、関東の武将らに約束している。前嗣《さきつぐ》には関東の諸将らが服《ふく》しなかったのである。
四
政虎《まさとら》が厩橋《うまやばし》に帰ってきたのにもっともうれしげな様子を見せたのは近衛前嗣《このえさきつぐ》であった。すべき仕事もなく、遊び相手も京から連れてきた西洞院新三位《にしのとういんしんさんみ》だけとあってはあきあきしていたのかもしれない。
「やれやれ、とうとう待ちつけたわ。お帰りなされよ」
と、うすあばたのある色白で長い顔にいかにもうれしげな笑いを浮かべて迎えた。
「なにか御用でもあるのでしょうか」
と言うと、
「いやいや。ただ会いとうて会いとうてな。ハハ、ハハ。これは申しおくれたわ。このたびはなんともまあ、めでたいことやったな。りっぱな管領《かんれい》ぶりや。それに、そなたがまろと同族にならはったことは、別してうれしいわ。よろこび言いますで」
と言った。政虎《まさとら》が上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》をついだことを言うのだ。上杉氏は元来は藤原北家《ふじわらきたけ》の勧修寺《かんじゆじ》家の分かれである。京都|公家《くげ》だったのが、鎌倉時代に観修寺重能《かんじゆじしげよし》が将軍ノ宮宗尊《みやむねたか》親王の供《とも》をして関東に下ったのが、関東に根を生《は》やした由緒《ゆいしよ》である。その節|所領《しよりよう》として丹波《たんば》何鹿《いかるが》郡上杉|庄《しよう》をもらったところから、上杉を氏とするようになった。政虎《まさとら》が上杉の名跡《みようせき》をついだのは藤原《ふじわら》氏となったことだ。氏《うじ》の長者である前嗣《さきつぐ》としては、それがうれしいと言うのであった。
「それはわれらから申し上ぐることばでございます。ご同姓《どうせい》のはしにつらならせていただきまして、まことにありがとうございます。よろしくお引きまわし、おねがい申します」
と、鄭重《ていちよう》にあいさつした。
その日、将士をねぎらうためにひらいた帰陣の祝宴《しゆくえん》には、前嗣《さきつぐ》も、上杉|憲政《のりまさ》も列席した。夜に入り、憲政《のりまさ》は退出したが、前嗣《さきつぐ》はなおとどまって興《きよう》じていた。
初更《しよこう》を過ぐるころ、宴《えん》は果てたが、政虎《まさとら》はまだ飲み足りない。
「殿下《でんか》はおつきあいくださるでしょうな。われらまだ興《きよう》が尽《つ》きないのですが」
と政虎《まさとら》が言うと、
「ええとも、つきおうどころのことかいな。夜が明けてもええわ。久方《ひさかた》ぶりにそなたと会えて、まろはうれしゅうてならんのやさけな」
と言った。
淋漓《りんり》たる男性的|気概《きがい》を愛して、相当気分屋であり、ずいぶん強酒《ごうしゆ》でもある政虎《まさとら》は、こうした儀式的|酒宴《しゆえん》を催《もよお》した場合、ひととおりなことですんだことはめったにない。たいていの場合、席を奥殿《おくでん》の書院《しよいん》の間《ま》にうつして、今日のことばで二次会《にじかい》ともいうべき小宴《しようえん》があとにつづく。その際はごく気に入りの若い勇士ら数人が相手をつとめ、盃《さかずき》も一ぺんに二、三|合《ごう》は入るほどな大きなものを用いるならわしになっている。
この日もそうであった。奥殿《おくでん》に移って、大盃《たいはい》をまわしはじめたが、それが二、三巡《じゆん》した時、前嗣《さきつぐ》は、
「どやな、同じことやさけ、こんどはまろが住まいに行かんか。また趣《おもむき》がかわってええぞ」
と言った。
「ご趣向《しゆこう》がおわすのでござるか」
「趣向《しゆこう》というても、べつだんなことはないが、まろのところからは赤城《あかぎ》山がよう見えるのや。そろそろ月も中天《ちゆうてん》にかかるころや。涼風《すずかぜ》に吹かれ、月をあおぎ、赤城《あかぎ》山を見ながら、酌《く》んだら、いちだん酒の味もさえようやないか」
「なるほど、今夜は六日月でありますな」
と言いながら、政虎《まさとら》は明けはなした簀子《すのこ》先の庭を見た。ひさしが深いから月の姿は見えないが、明るい月光が庭いっぱいに冴《さ》えて、こんもりしげった木々の葉が一枚一枚光っていた。
「空もよく晴れているようであります。おもしろうございましょう。まいりましょう」
盃《さかずき》をすて、
「その方どもも供《とも》せ」
と、若い家臣《かしん》らに言って、立ちあがった。
前嗣《さきつぐ》の住まいは、城内の北のすみにあった。厩橋《うまやばし》城は利根《とね》川を背にして東面して建てられているから、前嗣《さきつぐ》の居室《きよしつ》にすわると、やや東にふった北方に、赤城《あかぎ》山のいただきが望める。
赤城《あかぎ》はおそろしく裾野《すその》のひろい山だ。かりにもっとも高い大黒檜山《おおくろひやま》を中心と考えて里程《りてい》をはかってみると、遠きは二十キロ、近きも十六キロの地域はみな裾野《すその》だ。厩橋《うまやばし》もその裾野《すその》のはしである。ここから山を見上げると、遠くなるにつれて勾配《こうばい》が急になり、いただきはあおむかなければならないほどだ。
中天《ちゆうてん》に近く澄《す》んでいる月の明りわたっているなかに、山は大きく、明るく、ひっそりとして、威圧《いあつ》するような荘厳《そうごん》さがあった。政虎《まさとら》は感動的な衝撃《しようげき》すら感じた。
「ああ、みごと」
と、しばしみとれた。
「気にいってうれしいわ。そんなら、こんどはこっちゃの方を見てくりゃれ」
前嗣《さきつぐ》は左の方を指点《してん》した。すると、そこにははるかに北方から、赤城《あかぎ》の裾野《すその》を洗って流れてくる利根《とね》川がひろい河原をひろげ月明りの中を太くうねっていた。いやいや、それよりも、その河原の葦《あし》の間に、光芒《こうぼう》のない青白い光が、帯をひいたようにぼうとつづいている。ところどころやや明るくかたまったり、散らばってまばらになったりしながら、広い河原一帯にある。
「あれは蛍《ほたる》や。あいにくと月があるさけ、今夜はそれほどでもないが、月のない夜や曇った夜は、花が咲き乱れているように見える。京の宇治《うじ》川の蛍《ほたる》は天下に名が高いけれど、これほどのことはない。だいいち、ながめが大きいさけな」
政虎《まさとら》はしばし見とれた。家臣《かしん》らも同じだ。赤城《あかぎ》をあおぎ、利根《とね》川を見おろして、みなしばらく感嘆《かんたん》しつづけた。
「なによりの肴《さかな》であります。ようこそお招きいただきました」
やっと言って、政虎《まさとら》は席についた。
酒が来て、みなよいほどに飲んで、一時間ほどの後、政虎《まさとら》は辞去《じきよ》したが、月の明るい玄関に出た時、どこやらに女の声を聞いた。若く、やさしく、美しい声であるとだけはわかったが、なんと言ったかわからなかった。べつだん気にはしなかった。それどころか、瞬間《しゆんかん》の後には忘れてしまった。しかし、数歩行って十段ほどの石段道《いしだんみち》を半分ほど下った時、
(ああ、あれは殿下《でんか》がご寵愛《ちようあい》しておいでの女《おなご》なのじゃろうな)
という考えが浮かんだ。ほおがゆるんで、微笑《びしよう》した。
「はは、お達者《たつしや》なものじゃわ。好《この》みのやかましいお人のようじゃが、坂東《ばんどう》のおなごでお気にいるかな……」
とつぶやいた時、よろりと足もとがゆらいだ。
「おあぶのうございます!」
と、家来らはあわてて手をさしのばしてささえようとした。
「だいじょうぶじゃ」
よほどに酔ったようだと思いながら、石段をおりつくしたが、ふとせつないものが胸いっぱいに満ちひろがってきたのを感じた。歩くにたえられなくなって、立ちどまった。月をあおいで、長い呼吸《いき》をついた。
胸にひろがっているのは、乃美《なみ》の姿であった。月影《つきかげ》のさしこんでいる琵琶島《びわじま》城の彼女の居間《いま》の簀子《すのこ》先にきちんとすわって、笛を吹きすさんでいる姿であった。喨々《りようりよう》と鳴りひびく笛の音《ね》が耳に聞こえるように、政虎《まさとら》は思った。
不安げに自分を見つめている家臣《かしん》らの姿に気づいた。
「ああ、いい気持ちに酔うた」
政虎《まさとら》は言った。自分でも意外なくらい高い声であった。よほどに酔ったらしいと、また思った。
五
二十日ほどたって、五月末、北条《ほうじよう》氏の軍が武蔵《むさし》南部までおしだしてきたので、政虎《まさとら》は出陣した。政虎《まさとら》の出陣を聞くと、敵はすぐ退却《たいきやく》にかかった。政虎《まさとら》はこれを追ったが、六郷《ろくごう》川まで行くと全軍に停止を命じた。追って追って追いまくるのは容易であったが、籠城《ろうじよう》に追いこんではまたまえの轍《てつ》をふむことになる。なんとかして氏康《うじやす》をおびきだして野戦《やせん》で一挙《いつきよ》に勝負を決したいと思ったのであった。彼は病気になったと言いふらして数日|本陣《ほんじん》に籠居《ろうきよ》して陣見廻《じんみまわ》りをやめまでした。
この策には味方の者まであざむかれて、前嗣《さきつぐ》が心配して、厩橋《うまやばし》から見舞いの書状をもたせて、いくども使者を送ったほどであった。
「腹中《ふくちゆう》いかが候《そうろう》や、これのみ案じ申し候《そうろう》。うけたまはりたく候《そうろう》。なほなほご油断《ゆだん》なくご養生肝要《ようじようかんよう》にて候《そうろう》」
「返す返す申すに及ばぬことながら、聊爾《りようじ》におん働きあるまじく候《そうろう》。ことにおんわづらひにて候《そうろう》と申し、暑き時分《じぶん》にてお心もとなく存ずるばかりにて候《そうろう》」
「返す返す、そなた容体《ようだい》うけたまはりたく候《そうろう》て、かねて飛脚《ひきやく》をもつて申し候《そうろう》、わづらひ如何《いかが》にて候《そうろう》や。これまた賜《たま》はしく候《そうろう》。くれぐれ養生肝要《ようじようかんよう》にて」
などいう文句《もんく》にみちた手紙であった。
手紙のなかには、こんな文句《もんく》もあった。
「昨日も申し候《そうろう》やうに、いかやうにも参り候《そうろう》て、そばにありたく候云々《そうろううんぬん》」
政虎《まさとら》のそばにいたいというのである。政虎《まさとら》のそばをはなれていては心細いらしいのである。心細いというのは、武士らが心をかたむけていないからのことだ。
(やはり関東公方《かんとうくぼう》になっていただくべきお人ではなかったのだ)
と苦笑した。
(将来のことはお心にまかせはするが、できるなら、なんとかご満足のいくようにはからって、京におかえりをねがうようにすべきであろうな)
とも思った。
この対陣ちゅうに、京の義輝《よしてる》将軍からも使者が来た。一舟《いつしゆう》という僧が義輝《よしてる》の親書《しんしよ》と大館輝氏《おおだててるうじ》の手紙とをたずさえてきたのだ。
東国《とうごく》にいたつて出陣せしめ、すなはち本意《ほい》に属するの由《よし》、その聞こえ候《そうろう》。珍重《ちんちよ》に候《そうろう》。よつて一舟《いつしゆう》差し下《くだ》し候《そうろう》。なほ輝氏《てるうじ》申すべく候《そうろう》
六月二日
義輝花押《よしてるかおう》
というのが義輝《よしてる》の親書《しんしよ》で、政虎《まさとら》の関東における成功を祝ったものであったが、大館《おおだて》の手紙は、将軍が越後《えちご》に下向《げこう》して政虎《まさとら》の世話《せわ》になりたいと言っているから、よろしくたのむという意味のものであり、将軍の手書《しゆしよ》を同封《どうふう》してあった。その将軍の手書《しゆしよ》はこうであった。
ここもとの儀、存分《ぞんぶん》にまかせざるにより、堪忍《かんにん》しがたく候条《そうろうじよう》、しかるべきよう馳走《ちそう》たのみいるの由《よし》。一舟《いつしゆう》を差し下《くだ》し、景虎《かげとら》に対して申し越すべく肝要《かんよう》に候《そうろう》。相調《あいととの》ふにおいては、この方の儀、相違あるべからず候《そうろう》。なほ一舟《いつしゆう》は疑ひあるべからず候《そうろう》の由《よし》を申し越すべく候《そうろう》なり。
六月二日
足利義輝花押《あしかがよしてるかおう》
大館左衛門佐《おおだてさえもんのすけ》どのへ
権臣《けんしん》らに拘束《こうそく》されて不自由|千万《せんばん》であるから、もうがまんできない。越後《えちご》に行きたいから、よろしくたのむと、一舟《いつしゆう》をつかわして景虎《かげとら》にたのんでくれ、景虎《かげとら》が承知してくれるなら、おれの方はいつでも発足できる、一舟《いつしゆう》は信用してよい人物であることも言ってやるように、という意味である。
政虎《まさとら》はくわしく一舟《いつしゆう》に語らせて聞いた。一舟《いつしゆう》は涙をこぼしながら、三好党《みよしとう》・松永党《まつながとう》に苦しめられている義輝《よしてる》の様子を語った。すべて、かつて政虎《まさとら》が在京ちゅうに見通したとおりであった。
(あの節《せつ》、おれが申し上げたとおりになさっていたら)
と、くちおしかったが、それにしても、いたわしさはひとしおであった。とりわけ、こんなにも自分をたのみにしておいでかと思うと、涙がにじんだ。
「いつなんどきなりとも、お迎えいたします。当方よりお迎えの人数をさしのぼせはいたしますが、これは公然《おおやけ》にはならぬこと、せめて江州路《ごうしゆうじ》あたりまでは、公方《くぼう》様の方からご脱出くださらねば、かなわぬことでござる。その打ち合わせを綿密《めんみつ》にしていただかねばなりませぬ。よろしいか。そのために、当方より心きいた者を両三人、貴僧《きそう》につけて上洛《じようらく》させましょう」
と言って、ひとまず一舟《いつしゆう》を越後《えちご》にむかわせた。
近衛前嗣《このえさきつぐ》の先例もある。将軍がくだってきてもうまくいかないかもしれないとは思ったが、こうしてたのまれれば、成敗《せいはい》をあらかじめ計算するわけにはいかないと思った。
(たのまれたら引きうける。一寸もためらうべきでない。男はかくこそあるべけれ)
というのが、政虎の常住不断《まさとらじようじゆうふだん》の覚悟であったのだ。
さて、虚病策《けびようさく》は味方まであざむかれたほどに成功したのであったが、氏康《うじやす》はその手に乗らない。出てくる模様《もよう》もなかったばかりか、軍勢を引きとり、蛇《へび》が穴にこもるように、また小田原《おだわら》城へずるずると入れてしまった。しかたがない。
「相手にならぬやつにはどうしようもないわ」
苦笑して、政虎《まさとら》も厩橋《うまやばし》へかえった。六月なかばであった。
六
そのころの一日、宇佐美定行《うさみさだゆき》が拝謁《はいえつ》をねがいでた。すぐ会ってみると、定行《さだゆき》の老《お》いた顔には目に立つほどのやつれが見える。
「どうしたのじゃ。心配ごとのありげな顔じゃが」
と聞くと、
「昨日、在所《ざいしよ》から使いがまいりました。つい十日ほどまえに、娘が夏風邪《なつかぜ》をひきこみました由《よし》。すこし熱があって食気がおとろえただけであるゆえ、ほどなくなおることと、さして気にもしませなんだところ、数日すぎてにわかに血をはき、枕《まくら》も上がらぬ重態《じゆうたい》となったとのこと……」
政虎《まさとら》はおどろきの声を上げることも忘れていた。からだ全体が四方八方から強い圧力でしめつけられ、胸がしぼりあげられるようで、いすくんでいた。顔色がかわったのが、自分でもわかった。
「それはいかん! さっそくにかえれ」
と言ったが、その声が自分のものではないような気がした。
「はッ!」
定行《さだゆき》は平伏《へいふく》した。
「すぐに陣ばらいして帰るよう。ここもとの儀はさしつかえない。おれもちかぢかには帰陣したいと思うていたのじゃゆえ、ちょうどよい。すぐに帰れ」
早口に、いっきに、ここまで言って、さらにつけくわえた。
「乃美《なみ》はその方にとってはただ一人の娘、いとしかろう。乃美《なみ》もまた、その方に会いたかろう。心細くもあろう。一時も早く帰って、顔を見せてやれ……」
うすい涙がにじみ、声がふるえそうになったので、ことばを切った。
定行《さだゆき》は白くうすくなった頭を見せ、平伏《へいふく》していたが、言う。
「武士が戦《いく》さに出た時は、妻子眷属《さいしけんぞく》すべて忘るべきものと若年のみぎりから覚悟して、その修行《しゆぎよう》をしてまいったつもりでありますのに、この年になってまだ心を迷わし、お恥《は》ずかしく存じます。しかしながら、どうやら当地の形勢も、さしたることはないげに見えますれば、お情《なさ》けにあまえさせていただきとう存じます」
「そうせい。そうせい」
定行《さだゆき》は席を立って出ていく。その姿が書院《しよいん》の明るい縁《えん》をむこうに遠ざかっていくのを見送っていた政虎《まさとら》は、
「駿河《するが》」
と呼びとめた。
「は」
定行《さだゆき》はこちらをむいてひざまずいた。
(死なすなよ!)
と言おうとして、すぐ思いかえした。
「おれがよろしゅう言ったと言ってくれい。達者《たつしや》になって、また笛を聞かせてほしいと言ったとも……」
またつきあげてくるものがあって、声がふるえそうになって、ことばを切った。
「……ありがとうございます。かならず申し伝えるでございましょう」
定行《さだゆき》は平伏《へいふく》して言った。
「よい、行け」
静かに立って、やせたうしろ姿を見せて立ち去った。
夕陽《ゆうひ》の山の下に
一
宇佐美定行《うさみさだゆき》を送りだして数日の後、春日山《かすがやま》から急使があった。
「武田信玄《たけだしんげん》が信越《しんえつ》の国境にうってでた」
というのである。
信玄は川中島《かわなかじま》に本陣《ほんじん》をすえ、春日《かすが》弾正忠昌信《だんじようのじようまさのぶ》を先手《さきて》として犀《さい》川を越えさせた。守備の任にあたっている高梨政頼《たかなしまさより》をはじめとして政虎《まさとら》に帰属している信州豪族《しんしゆうごうぞく》らが制止したがきかず、野尻湖《のじりこ》をこえ、国境をこえ、大田切《おおたぎり》近くまで北上してきた。野尻湖《のじりこ》の東南方|割《わり》ガ嶽《だけ》には政虎《まさとら》方の城があり、信州豪族《しんしゆうごうぞく》らが交代で守備している。
武田勢の進撃を傍観《ぼうかん》しているかに、鳴りをひそめていたが、信玄《しんげん》が城の様子を見るために城下に来たのを見ると、門をおしひらき、ドッとばかりに攻撃にかかった。同時に間道《かんどう》を通って横あいからも攻めかかった。
信玄《しんげん》は苦戦におちいり、味方の勇士で戦死する者が少なくなかった。夜叉美濃《やしやみの》のあだ名のある原《はら》美濃守虎胤《みののかみとらたね》が十三か所の手傷《てきず》を負うたというのだから、苦戦のほどが思われる。しかし、ついに越後《えちご》勢を圧迫し、どうやら割《わり》ガ嶽《だけ》城を攻めおとした。
春日山《かすがやま》では、政虎《まさとら》が関東出陣の時に定《さだ》めおいたおきてに従って、兵をくりだし、続々と南下させたため、さすがに信玄《しんげん》も、せっかく攻めおとした割《わり》ガ嶽《だけ》城を確保することはできず、川中島《かわなかじま》にひきさがったが、ここで味方に所属していた信州豪族《しんしゆうごうぞく》海野《うんの》民部丞《みんぶのじよう》・ 仁科右衛門大夫盛政《にしなうえもんだゆうもりまさ》・高坂《こうざか》安房守《あわのかみ》の三人を呼びだし、
「その方ども、長尾景虎《ながおかげとら》が関東管領《かんとうかんれい》に就任《しゆうにん》したについて心まどい、当家|離反《りはん》のきざしがあると告げ知らす者があったが、このたびの合戦《かつせん》におけるふるまいを見るに、その疑い十分なものがある。人につかえて二心《にしん》ある者には、古来定《こらいさだ》まった律法《りつぽう》がある。覚悟いたすよう」
と申し渡して斬《き》ってしまった。
しかし、そののち、
「この三家はともに信濃《しなの》の由緒《ゆいしよ》ある名家である。名跡《みようせき》を絶つべきでない」
と言って、自分の次男で盲目《もうもく》であったため竜宝《りゆうほう》と名のらせていた十八歳の青年に海野次郎勝重《うんのじろうかつしげ》と名のらせて海野《うんの》家を立てさせた。しかし、これでは海野《うんの》の家来どもが従わないことが明らかなので、海野譜代《うんのふだい》の家老奥座《かろうおくざ》若狭守《わかさのかみ》が元来百|貫《かん》の知行《ちぎよう》であったのを加増《かぞう》して千貫とらせて籠絡《ろうらく》した。
仁科《にしな》家のあとは、油川《あぶらかわ》家から来た妾油川《しようあぶらかわ》殿に生ませた五男がわずかに五つであったのを立てて、仁科五郎信盛《にしなごろうのぶもり》と名のらせた。
高坂《こうざか》家の名跡《みようせき》は、春日《かすが》弾正忠昌信《だんじようのじようまさのぶ》(のち虎綱《とらつな》)に立てさせ、春日《かすが》弾正《だんじよう》はここに高坂弾正《こうざかだんじよう》となった。
政虎《まさとら》に報《ほう》ぜられたことは以上のようなことであった。
政虎《まさとら》は怒《いか》りのうちに、
「うすぎたないやつめ! 空巣《あきす》ねらいばかりいたしおる!」
と、軽蔑感《けいべつかん》のおこってくるのをどうしようもなかった。もちろん、こんどのことの直接原因は小田原北条《おだわらほうじよう》氏からたのまれて背後から自分を牽制《けんせい》するための侵入《しんにゆう》にはちがいないが、越後侵入《えちごしんにゆう》は信玄《しんげん》の素志《そし》だ。小田原《おだわら》からたのまれたをさいわいに、かねての志を遂《と》げようとしたものに相違なかった。おそらくは、
(当の政虎《まさとら》の不在をねらうのは本意《ほんい》ではないが、縁家《えんか》からたのまれたのじゃからしかたはない)
という好辞柄《こうじへい》のできたのをほくほくしながら。
とすれば、うすぎたなさはいっそうだ。
「不潔《ふけつ》なやつめ!」
虫ずの走るほどのいやらしさだ。
とりわけいやらしく思われたのは、信州豪族《しんしゆうごうぞく》三家の始末《しまつ》だ。三家のうち、仁科《にしな》と海野《うんの》は自分が京から帰って、将軍の命《めい》によって関東管領《かんとうかんれい》のあとをつぐことになったと宣言した時、北陸・関東の諸豪族《しよごうぞく》とともにそれぞれ太刀《たち》を献上《けんじよう》している。しかし、それだけのことだ。武田家に二心《にしん》を抱いて自分に帰服《きふく》を申しこんだりなどはしておらぬ。高坂《こうざか》にいたっては太刀献上《たちけんじよう》もしていない。
つまり、三家ともその心術《しんじゆつ》にはなんら疑うべきところはなかったのだ。しかもそれを有無《うむ》を言わさず捕《とら》えて斬《き》ったというのは、不当な嫌疑《けんぎ》をかけたのだ。
あるいはこうも考えられる。武田・上杉の間が険悪《けんあく》になれば、まずとばッちりを受けること必然である地域に三家は城地《じようち》をもっているので、こんどの武田の侵略《しんりやく》には乗り気でなく、したがって働きぶりもかいがいしくなかったと思われる。そのために、かねてから抱いていた信玄《しんげん》の三家にたいする疑惑心《ぎわくしん》が、
「さてこそ」
と思わせたのかもしれない。
だから、単に三人を捕《とら》えて斬《き》っただけなら、戦国の争い、武将として当然の処置ともいえる。なにがどうあろうとも、すでに戦場に臨《のぞ》んだ以上、武士として働きに糸目《いとめ》をつけるべきではないからだ。異議《いぎ》や諫言《かんげん》はそこになるまえまでのこと、精かぎり、根《こん》かぎりの働きをすべきものだからだ。でなければ戦争はできるものではないからだ。
しかし、そのあとが悪い。三家の名跡《みようせき》の絶えるのをおしむなら、その血筋《ちすじ》を伝えている者をさがして、それをもって名跡《みようせき》を立てさせるのがもっとも道にかなったことだ。血筋《ちすじ》の者がなければ他姓《たせい》の者をもって立てさせるのもいたしかたなき処置であるが、段取りをふまずにいきなりそこへもっていったのは、名跡《みようせき》ほしさに三家の当主を殺したと解釈されても弁解のことばはないであろう。
ましてや、海野《うんの》家の名跡《みようせき》をつがせたのは、信玄《しんげん》の次男とはいえ、盲目というではないか。仁科《にしな》家をつがせたのは五歳の幼児というではないか。高坂《こうざか》家をつがせた春日弾正《かすがだんじよう》は百姓《ひやくしよう》の子であったのを美貌《びぼう》であったので少年のころ召しだして寵愛《ちようあい》した者というではないか。いずれも名跡《みようせき》を立てるとは名目《めいもく》だけのこと、三家の所領《しよりよう》をうばい、同時に私愛《しあい》に報《むく》いようとの意図《いと》であることは明瞭《めいりよう》である。
「うすぎたないやつめ! 関東管領《かんとうかんれい》の職分《しよくぶん》のうえからも、この非違《ひい》を黙《だま》って見すごすことはできぬ」
と、憤激《ふんげき》した。
二
六月二十一日、政虎《まさとら》は前管領憲政《ぜんかんれいのりまさ》と同道《どうどう》して、厩橋《うまやばし》を出発、帰国の途《と》についた。近衛前嗣《このえさきつぐ》は古河《こが》城にとどめた。
「まろは当分こちらにいるわ。そなたがそばにいてくれんと心細うてならんのやけど、これも修行《しゆぎよう》やろ。それに欲《よく》を言えばきりがない。こちらの武士どももあまりまろの言うこと聞いてはくれへんけど、京の三好党《みよしとう》や松永党《まつながとう》とは大ちがいや。うやもうてだけはくれるさけな。そなたがあんじょう言いわたしてくれれば、言うことももっと聞いてくれるようになるやろでな。修行《しゆぎよう》のためやと思うて、当分しんぼうしてみるわ」
と、前嗣《さきつぐ》が言うからであった。
あんなにそばにいたがっていたのに、どうした心境の変化か、よくわからない。寵愛《ちようあい》の女が関東をはなれることができないとでも言うのかもしれないとは思ったが、政虎《まさとら》としても名代的《みようだいてき》の意味で、手腕《しゆわん》のある人物か、関東の武士らの尊敬を集めうる名門《めいもん》の人かをのこしておく必要があった。そうなると、上杉憲政《うえすぎのりまさ》はすでに試験ずみの失敗者であるし、足利藤氏《あしかがふじうじ》はいまのところまだ反対者が多すぎるし、前嗣《さきつぐ》がもっとも難《なん》が少ないのである。
「それでは殿下《でんか》はおとどまりください」
と、承諾《しようだく》して、関東の武士らに、
「殿下《でんか》に疎略《そりやく》があってはならんぞ。もし無礼《ぶれい》をあえてする者があったら、政虎《まさとら》はけっしてすておかぬぞ」
ときびしく申し渡して出発した。
信州《しんしゆう》の形勢については、帰りの道すがら、たびたびの注進《ちゆうしん》があって承知した。信玄《しんげん》は川中島《かわなかじま》に近く、千曲《ちくま》川にそった海津《かいづ》に城をきずき、ここに春日弾正《かすがだんじよう》あらためて高坂弾正《こうざかだんじよう》をこめ、甲府《こうふ》に引きあげたというのだ。
(敵もさるものだ。よも、おれが黙《だま》っているとは考えておらんのだな)
と、思った。
政虎《まさとら》の覚悟は最初の報告を受けた時からきまっている。こんどこそ新関東管領《しんかんとうかんれい》の面目《めんもく》にかけて、われたおれるか、彼たおれるか、ぎりぎりの決戦をしようとのすさまじい覚悟である。
彼はみちみち策をねりながら旅をつづけ、六月二十八日に春日山《かすがやま》に帰着《きちやく》した。
ついて数日は凱旋《がいせん》にともなう行事で過ぎた。この年の六月は小の月で二十九日までしかなく、翌々日から七月がはじまるが、二十九日と七月一日は、義輝《よしてる》将軍から使者として関東陣《かんとうじん》に来てこちらへ送りつけた僧|一舟《いつしゆう》を饗応《きようおう》したり、一舟《いつしゆう》と同道《どうどう》して上洛《じようらく》すべき使者の選択《せんたく》や、命令を下すことで過ぎた。
「よくご都合《つごう》とご予定とをうかがい、ずっと京に滞在《たいざい》して、だいたいのお日取りがきまったら、さっそくに一人はせ帰って注進《ちゆうしん》せい。時をうつさずお迎えの人数を江州《ごうしゆう》までさしのぼせることにする」
と、言いふくめた。
一舟《いつしゆう》は政虎《まさとら》の家臣《かしん》三名をともなって、二日に帰京の途《と》についた。
その二日は、政景《まさかげ》をはじめとして一門の者や重臣《じゆうしん》らが、関東管領就任《かんとうかんれいしゆうにん》と凱陣《がいじん》とを祝してそれぞれに太刀《たち》を献上《けんじよう》したり酒肴《しゆこう》を献《けん》ずる儀式があり、三日・四日は政景《まさかげ》が諸将や諸士を招待しての帰陣《きじん》祝いをして、将士の労を慰《なぐさ》めた。
四日から信玄《しんげん》と決戦の手くばりにかかった。
空前《くうぜん》の大がかりな準備であった。
彼は会津《あいづ》の芦名盛氏《あしなもりうじ》、出羽庄内《でわしようない》の大宝寺義増《だいほうじよします》に加勢《かせい》をたのんだ。関東管領《かんとうかんれい》の管轄《かんかつ》する地域は、そのはじめにおいて関八州《かんはつしゆう》であったが、しだいに拡張されて、伊豆《いず》・甲斐《かい》が加わり、さらに奥羽《おうう》地方もまたその管国《かんこく》となった。つまり、もっとも盛んな時代は、伊豆《いず》・甲斐《かい》から東は全部その統制下《とうせいか》にあったのだ。その後勢いおとろえて、上野《こうずけ》一国もおぼつかなくなったことは、ずっと書いてきたとおりであるが、政虎《まさとら》は理想家であり、権威《けんい》主義者だ。関東管領《かんとうかんれい》になった以上、制度に規定されたとおりの関東管領《かんとうかんれい》にならなければならないと信じ、その実力をもっていると信じている。古制《こせい》に従って来援《らいえん》を催促《さいそく》したのであった。
現在の史料《しりよう》ではよくわからないが、この三年後、芦名《あしな》氏が信玄《しんげん》に誘《さそ》われてともに政虎《まさとら》を挟撃《きようげき》しようとして越後《えちご》に出陣しているところを見ると、両氏はこの時|政虎《まさとら》の催促《さいそく》には応じなかったのではないかと思われる。政虎《まさとら》は理想家だが、芦名《あしな》も大宝寺《だいほうじ》も現実派なのである。関東管領《かんとうかんれい》の権限《けんげん》を昔どおりには受けとらないのである。こういう点、政虎《まさとら》のやり方はこっけいといえないことはない。しかし、悲壮美《ひそうび》や、壮大美《そうだいび》や、荘厳美《そうごんび》や、厳粛美《げんしゆくび》などというものは、現実派の目から見ればつねにある程度のこっけい感のあるものである。
とにかくも、芦名《あしな》と大宝寺《だいほうじ》とにこの催促状《さいそくじよう》を出しておいて、家臣斎藤朝信《かしんさいとうあさのぶ》・山本寺定長《さんぼんじさだなが》らに越中《えつちゆう》を守らせ、政景《まさかげ》に春日山《かすがやま》城の留守《るす》をさせることにした。
彼が政景《まさかげ》に出した指令はこうだ。
一、越中《えつちゆう》の人質《ひとじち》のとりあつかいはもっとも注意して油断《ゆだん》あるまじきこと。
一、もし会津衆《あいづしゆう》(芦名勢《あしなぜい》)・大宝寺衆《だいほうじしゆう》が到着したら、蔵田《くらた》のところに顔出しさせ、西浜《にしはま》(西頸城《にしくびき》郡内)・能生《のう》・名立《なだち》に陣をとらせよ。しかしながら、越中《えつちゆう》方面の情勢が火急《かきゆう》でない時には、府内《ふない》に止《とど》まらすべきこと。
一、越中《えつちゆう》方面へ援軍《えんぐん》を出さねばならぬ時は、蔵田《くらた》に申しつけて府内《ふない》勢を出させ、そなたそれをひきいて出陣し、適当な処置をとるべきこと。
付けたり。斎藤《さいとう》下野守朝信《しもつけのかみあさのぶ》・山本寺《さんぼんじ》伊予守定長《いよのかみさだなが》の両人を、越中《えつちゆう》方面の守将としてあの国にとどめおくゆえ、あの方面のことはこれと相談して処置すべきこと。
以上
政虎《まさとら》(花押《かおう》)
長尾《ながお》越前守《えちぜんのかみ》殿
大綱《たいこう》がきまれば細目《さいもく》もきめなければならない。乾坤一擲《けんこんいつてき》の覚悟をきめている政虎《まさとら》は城内の毘沙門堂《びしやもんどう》にこもりきりで、座禅《ざぜん》し、護摩《ごま》を焚《た》きあげて、心気《しんき》をすましながら、専心にくふうを重ねた。
三
八月十日、いっさいの作戦計画ができた。
「これでよし! これ以上のことはあらかじめきめても無駄《むだ》だ。その時はその時の変化に応じてくふうするよりほかはない」
とつぶやいて、毘沙門堂《びしやもんどう》を出た。月余《げつよ》にわたって、ろくに寝もせず、飲食もしなかった政虎《まさとら》は、髪もひげものび、ほおは削《そ》げ、目だけが鋭いかがやきをはなって、おそろしい相貌《そうぼう》になっていた。
「みなを集めい」
と、諸将を屋敷に集合するように使いを出させておいて、湯浴《ゆあ》みをし、髪とひげをそらせ、衣服をあらためた。
すがすがしくていい気持ちであった。
ごく少量の酒をゆっくりとのみながら外をながめた。よく晴れた日で、うす赤い色をおびた中秋《ちゆうしゆう》の日が明るくさしていた。
久しぶりの酒に、ほろほろとした酔いがまぶたのあたりにのぼってきたころ、近習《きんじゆう》の者が来て、人々がみな集まったことを告げた。
「よし」
政虎《まさとら》は小机《こづくえ》の上においた書き付けをつかんで、広間《ひろま》に出た。
広間《ひろま》には、重《おも》だった武士らが大紋《だいもん》の袖《そで》をつらねていならんでいた。こうした軍議の席ではいつものことであるが、しわぶきひとつする者がなく、深い林の中の樹木のように人々は森《しん》とおししずまっていた。政虎《まさとら》があらわれると、一同、大紋《だいもん》の袖《そで》を左右にひろげて両手をつき、ひたいを床《ゆか》につけた。
政虎《まさとら》はつかつかと上段《じようだん》の間《ま》に進み入って、定《さだ》められた席にすわった。
部将らの前のはしにいた本庄慶秀《ほんじようよしひで》が席を立って、政虎《まさとら》の前に進み出、両手をついた。
政虎《まさとら》は右手につかんだ書き付けをさしだした。
慶秀《よしひで》はいざりより、両手で受け、ざっと目を通すと、また平伏《へいふく》して、すこし席をさがり、部将らの席にななめにひざをむけた。
「このたびの信州表《しんしゆうおもて》へのご出陣にあたっての諸手《しよて》の編成《へんせい》、お伝え申す。みなみなお聞きとりありたい」
低いが、よく透《とお》る声で言って、つぎつぎに読みあげていった。
先陣《せんじん》、二陣、後備《あとぞな》え、遊軍《ゆうぐん》一陣、同二陣、旗本前備《はたもとまえぞな》え、同|左備《ひだりぞなえ》、同|右備《みぎぞな》え、軍奉行《いくさぶぎよう》、小荷駄奉行《こにだぶぎよう》、旗本先手《はたもとさきて》、お手廻《てまわ》り、海津《かいづ》城のおさえ、春日山《かすがやま》城の留守番《るすばん》、府内《ふない》の留守番《るすばん》、等々々だ。いちいちに人名と人数が定《さだ》められている。
人々は自分の名が読みあげられると、
「はっ」
とこたえて、平伏《へいふく》した。
先陣《せんじん》は、村上義清《むらかみよしきよ》・高梨政頼《たかなしまさより》・井上昌満《いのうえまさみつ》・須田親満《すだちかみつ》・島津忠直《しまづただなお》等の信州豪族《しんしゆうごうぞく》らで、当家に随従《ずいじゆう》している連中《れんちゆう》であった。これだけは、政虎《まさとら》が説明したが、それもごくごく簡単であった。
「先手衆《さきてしゆう》はその本国である。地理にも通じているであろう。親しい者も多いであろう。味方に加わりたいという者がいたら、みな味方に引きいれい。用心をおこたってならぬことは申すまでもない」
と、言っただけであった。
「これでざっとすんだ。みないつなんどきなりとも出陣できるよう支度《したく》しておいてくれるよう」
最後にこう言いわたし、酒を出して饗応《きようおう》して、その日はおわった。
政虎《まさとら》はその日は小宴《しようえん》におよばず、また毘沙門堂《びしやもんどう》にかえった。
日の没《ぼつ》するころである。毘沙門堂《びしやもんどう》の扉《とびら》をあけはなち、円座《えんざ》をしいて、目をはなっていると、ずっとはるかなまむかいに、米山《よねやま》が見える。あかあかと夕陽《ゆうひ》を浴びている。
(あの山のむこうに琵琶島《びわじま》がある)
と思った時、政虎《まさとら》の胸はいきなりはげしく波だってきた。
四
政虎《まさとら》の胸には、細面《ほそおもて》の顔がいっそう細くなり、すきとおるばかりの皮膚の色になり、目だけがさらに大きくすんできている乃美《なみ》の顔がまざまざと思い浮かんだ。紅《あか》さを失って、他の皮膚と同じ色になっている唇《くちびる》や、骨がすけて見えるほど細くなっている青い手も、目に見えるようであった。
宇佐美定行《うさみさだゆき》は、政虎《まさとら》が帰国した当座《とうざ》、凱陣《がいじん》の祝儀《しゆうぎ》の使いに長男の民部少輔実定《みんぶしようゆうさねさだ》をつかわしたが、その際、
「乃美《なみ》の容態《ようだい》が思わしくござらねば、当分|出仕《しゆつし》はおゆるしいただきたい」
と、申しそえたのである。
乃美《なみ》はよほど重態《じゆうたい》にちがいなかった。
じつをいえば、政虎《まさとら》がこの堂内にこもって寝食を忘れて作戦計画を練っている間も、乃美《なみ》のことがしばしば影《かげ》をさして、心をかき乱した。彼はそれをはらいのけはらいのけして思念《しねん》をこらした。どうしてもはらいのけられず、禅定《ぜんじよう》に入ったり、護摩《ごま》を焚《た》いたりして、やっとはらったこともあったほどだ。
いっさいの計画ができ、あとはその場その場の気合いとひらめきにまかせるだけとなったいまは、その抑圧《よくあつ》が全部とれたわけであった。沈まんとする夕日を受けてあかあかとかがやいている米山《よねやま》を凝視《ぎようし》している政虎《まさとら》の心は、ひとすじにその山のむこうのふもとに病《や》みやつれて寝ている人にはせた。
(会いたい!)
と、やけつく思いで考えた。
出陣を前にひかえて、こんな気になったことは、いままであったことがない。いつの戦《いく》さにも、きびしく心が引きしまり、昂揚《こうよう》し、無二無三《むにむさん》な気持ちになるのがつねだ。よくぞ男に生まれた! という気魄《きはく》が全身にみなぎり、一種の恍惚感《こうこつかん》さえあるのだ。彼はこの気持ちを尊重《そんちよう》した。おれにこれがあるかぎり、ぜったいに合戦《かつせん》に負けることはないとさえ自信している。
だから、狼狽《ろうばい》に似た気持ちがあった。
「出陣を前にして、なんたることだ。おれらしくもない!」
とたしなめて、ゆっくりとひざを組みなおし、結跏趺坐《けつかふざ》、目を半眼《はんがん》にして、動かない姿勢になった。
多年の修練《しゆうれん》だから、ほどなく無念無想《むねんむそう》になることができた。直江津《なおえつ》の浜に終日餌《しゆうじつえさ》をあさって日が暮れかかってきたので、この城内や裏山にかえってくる烏《からす》の鳴き声も、城内のどこかでしている物音も、軒端《のきば》に鳴る夕風の音も、すべて聞こえはするが心になんの痕《あと》ものこさず刹那刹那《せつなせつな》に消えていき、心身ともに脱落《だつらく》していたが、やがてわれに返って目をみひらいた。
米山《よねやま》とその上の空をさっきまで色どっていた夕焼けは消えて、山は濃《こ》い暗青色《あんせいしよく》となり、山をはるかに右にはずれたところに十日の月がのぼっていた。
思慕《しぼ》はまたかえってきた。思い返してみると、無念無想《むねんむそう》の境に入っていたというのはみずからそう思っていただけのことで、寸時のきれ目もなく乃美《なみ》のことを心のどこかで考えつづけていたようであった。
嘆息《たんそく》とともに、
(行って会ってくるよりほかはない。そうしないかぎり、おれはいつもの心になって合戦《かつせん》の場に臨《のぞ》むことはできない)
と思った。
三十分の後、政虎《まさとら》は十人ほどの従者《じゆうしや》をつれて、城門を出て、東にむかった。月はますます高くなり、光はいよいよ冴《さ》えていた。
「さしせまる出陣にあたって、駿河《するが》に知恵《ちえ》を借りたいことがあるゆえ、行ってくる。明日の夕方までには帰る」
と、言いおいた。
主従《しゆじゆう》十人、みな騎馬《きば》で、乗りかえの馬までひいて、急ぎに急いだので、春日山《かすがやま》から琵琶島《びわじま》まで六十キロあるが、深夜をすこしまわったころについた。
宇佐美定行《うさみさだゆき》はおどろいて、月かげ青い城門まで走りでて迎えた。
「これはまた思いもかけぬ時刻に、思いもかけぬおんいらせでございます。この夕方、せがれからの急ぎの報《しら》せがまいりまして、ご出陣のお触《ふ》れだしのあったことを承知申したところでございました。なにはともあれ、こちらへ」
夜ふけの冷気《れいき》がしみるのであろうか、しきりにしわぶきながら言う。やせた顔は月の光に青白く照らされて、いたいたしくさえあった。
「急に思い立ったことがあってまいったのじゃ」
と、言いながら政虎《まさとら》が馬をおりようとすると、
「道がほどあります。そのままお召しありますように」
と言って、定行《さだゆき》はみずから政虎《まさとら》の馬の口をとって、ゆるやかな勾配《こうばい》をもった道をみちびいていった。
五
日よりつづきの道を飛ばせてきたのだ。半途《はんと》からは夜露《よつゆ》がおりていたが、それでもからだじゅうほこりと汗にまみれて、気持ちが悪い。
「行水《ぎようずい》を使わせてくれい」
と、所望《しよもう》して、湯殿《ゆどの》にはいって湯浴《ゆあ》みして、貸してもらったきものとかえ、さっぱりなって、客殿《きやくでん》にかえってきた。
定行《さだゆき》は冴《さ》えた月光の庭に臨《のぞ》んだその座敷に酒肴《しゆこう》を用意して待っていた。
「まず召しませ」
と、みずから提子《ひさげ》をとってすすめる。ほどよく燗《かん》をした清酒《すまし》だ。
「世話《せわ》をかける」
受けてのむと、はらわたにしみるばかりだ。
「ああ、うまい」
おぼえず舌《した》を鳴らした。
「お重《かさ》ねあそばせ」
つづけさまに三献《さんこん》のんで、ほろりと酔いが出てきた。
「軍勢の編成《へんせい》はこうきめた。この十三日に出陣のつもりにしている」
と言って、政虎《まさとら》はもってきた編成の書きつけを定行《さだゆき》にわたした。
「これはおんわざわざ」
定行《さだゆき》は受けて、灯火《とうか》をかきたて、書き付けを灯《ひ》に照らして見た。老《お》いて眼《め》が遠くなっているので、上体をそらし、書き付けを手いっぱいにのばして見なければならない。
無言《むごん》のまま、ときどきうなずきながら見ていたが、見てしまっておしいただき、返した。
「思いきった戦《いく》さをあそばされるのはつねのことでございますが、このたびはまたいっそう思いきったことをなされるお覚悟でございますな」
「さすがだな。よう見た。きゃつとの合戦《かつせん》は、いつもふっきれぬ。勝ったようでもあり、負けたようでもある。はっきりせぬところが、業《ごう》がにえてならぬ。こんどこそ、はっきりと雌雄《しゆう》を決したいのだ。場合によっては、きゃつを討ち取るか、おれが討ち取られるか、そこまでやる決心でいる。それで来た」
平静《へいせい》に言おうとつとめながらも、一語一語短くくぎったことばが、強い調子になった。
定行《さだゆき》はそれをしずめるかのように微笑《びしよう》をつくり、
「まず、まず……」
と言い、のどかな調子で言いついだ。
「お気をしずめてお聞きたまわりとうござる。お屋形《やかた》様近年のお戦《いく》さぶりを拝見しては、われらがような老《お》いぼれ武者《むしや》などがさかしらを申すはいらぬことでありますが、ちょっと申させていただきとうござる。お聞きたまわりましょうか」
「聞こう」
「ありがとうございます」
定行《さだゆき》はおじぎして、白い疎髯《そぜん》を細い指先でもんで、低く、しずかな声で言う。
「およそものごとをなすに拘泥《こうでい》することがもっとも悪いことはすでにご承知でありましょう。八方碧落《はつぽうへきらく》のただなかに孑然《けつぜん》として立っているがごときこだわりなさでいてこそ、いかなる変化にたいしてももっとも的確《てきかく》な応対ができるのであります。その点から申しますと、かならず雌雄《しゆう》を決したいとか、われたおるるか彼たおるるかいずれかに決着したいとか、ましてや、業《ごう》が煮《に》えるなどというお気持ちは、恐れながら、八方碧落《はつぽうへきらく》、四方無礙《しほうむげ》の境地とは千万里《せんまんり》のへだたりがあるかと存じます。ご反省をおねがい申しとうございます……とは申しますものの」
と言って、目を伏《ふ》せて、いちだんとひくい声になった。
「すでにご決意あった以上、お聞きとどけいただけぬでございましょうな」
泣いているかと思われるようなしみじみとした様子であった。
政虎《まさとら》の胸は熱くなった。
「いや、聞きいれぬことはない。心にしみてたしかに聞いたぞ。よくぞ申してくれた。そちならずば、申してくれることではない、礼を言うぞ。しかしながら、おれは戦《いく》さ場では、いつも気ちがいになれる男だ。気ちがいほど無心なものはあるまいがや。ハハ、ハハ」
あまりむきになったのがてれくさくて、政虎《まさとら》は笑った。盃《さかずき》をさした。定行《さだゆき》は受けた。酌《しやく》をしてやった。のんでかえした。政虎《まさとら》は受けて、なみなみとつがせ、その盃《さかずき》を胸にささえて言った。
「おれが今夜ここへ来たのは、二つの用事があってのことだ。一つはいますんだ。もう一つすませたい。乃美《なみ》に会わせてくれい」
おわりの方は、呼吸《いき》もつがず、いっきに言った。
定行《さだゆき》は答えない。うつむいていた。聞こえなかったのではないかと思われるような姿であった。
「会わせてくれい。おれはそちのゆるしを肴《さかな》にして、この酒をのむ」
知らず知らずに、にらむような強い目つきになっていた。
「乃美《なみ》の容態《ようだい》はどうなのだ。重態《じゆうたい》なのであろうな。おれは三日後には出陣する。かれ死ぬか、われ死ぬかの覚悟をもってだ。会わんではおれんのだ。それで来た。会わせてくれい」
かきくどく、切迫《せつぱく》した語調《ごちよう》になった。それはもういっさいの虚飾《きよしよく》を脱《ぬ》ぎすてた恋の告白といってよかった。
定行《さだゆき》は顔を上げた。灯《ほ》かげを受けた老《お》いた顔は蒼白《そうはく》になっていた。その顔に定行《さだゆき》は微笑《びしよう》を浮かべたが、それは泣いているような表情になった。
「ありがとうございます。娘もいかばかりよろこびますことか。さいわい、昨日《きのう》今日《きよう》は、気分がよいとて昼のあたたかい間、ほんのしばらくでございましたが、床《とこ》の上にすわっていたほどでございます」
「聞きいれてくれるか! 重畳《ちようじよう》!」
政虎《まさとら》は胸にささえていた盃《さかずき》を口もとに運んで、ぐっと飲みほした。こらえかねた涙がつきあげてきて、酒にむせんだ。
六
病室のとりかたづけをする間しばらく待たされた後、定行《さだゆき》にみちびかれて、そこに行った。
乃美《なみ》は床《とこ》をはなれた位置に、侍女《じじよ》二人をしたがえてすわっていた。大急ぎで化粧《けしよう》したのであろうか、へやの入口を凝視《ぎようし》している顔には、紅粉《こうふん》が刷《は》かれて美しく、なんのやつれも見えないようであった。
入口にあらわれた政虎《まさとら》を見ると、立ちあがって出迎えようとして、よろめいた。
「そのままでいよ。迎えるにおよばぬ」
政虎《まさとら》は言って、すばやく入った。彼のために設けられた席は一|間《けん》ほどのこちらにあり、夏毛《なつげ》の鹿の皮をしいてあったが、かまわず進んで、四尺ほどのまぢかにすわった。定行《さだゆき》があわてて敷皮《しきがわ》を引きずってきてすすめた。
「かまうまい」
と言って、乃美《なみ》を凝視《ぎようし》した。
乃美《なみ》は両手をついて、おじぎした。その髪がいつも見るよりも黒々とし、つきそろえた両手がいたいたしいほど細くなっているのに気がついた。
「病気であると聞いて、案じていた。見舞うてやりたいと思いながらも、ひまがなかった。わしはこんどは大戦《おおいく》させねばならんのでのう」
うちとけた軽い調子をとろうと、つとめた。
「信州《しんしゆう》へのご出陣のことは、父に聞いています。お忙《いそが》しいところを、わざわざのお見舞い、お礼の申し上げようもございません」
うつむいたまま、くぐもるように低い声で言う。
定行《さだゆき》も、侍女《じじよ》らもいなくなって、二人だけになっていた。それに気づくと、政虎《まさとら》は目のくるめくような気持ちにおそわれた。
「顔を上げい。顔を見せてくれい」
と言ったが、その声がふるえた。自分のその声を、政虎《まさとら》は遠いところに聞くもののように感じた。しかも、もっともあざやかにそれがわかった。
乃美《なみ》は目を上げて、じっと見つめた。黒々とすんで、大きな大きな目であった。
「うれしゅうございます」
と、ふるえる声で言った。涙が筋《すじ》をひいて、そのほおを伝った。その涙の伝って行く先のあぎとが、おどろくほど細くなっていることを、政虎《まさとら》は気づいた。
愕然《がくぜん》として、見なおすと、やつれていないと思ったのは、目のあやまりで、どこもかしこもうすく、細く、すきとおって、もろいもろい氷のかけらのようになっているのであった。
「冷気《れいき》がしみる。いたつきの身だ。かまわぬ。床《とこ》に入れ」
「…………」
「床《とこ》に入れ。そなたがそうして起きていると、おれもおちついてここにおれぬ」
乃美《なみ》は細い指先で涙をはらった。だまって、すなおに、床《とこ》に移ろうとして、かすかによろめいた。政虎《まさとら》は抱いて移らせてやりたかったが、気軽《きがる》にそれができなかった。はらはらしながら見ていた。
乃美《なみ》は床の上に横になった。
政虎《まさとら》は夜具《やぐ》を胸までかけてやり、軽く四隅《よすみ》をおさえた。
「うれしゅうございます」
と、乃美《なみ》はまた言ったかと思うと、考えられないほどのすばやさで手を出して、政虎《まさとら》の手首をつかんだ。ぞっとするほどのつめたさであった。
「乃美《なみ》は、乃美《なみ》は、乃美《なみ》は……」
と、言った。顔をむこうにそむけている。
自分の手をつかんでいる乃美《なみ》の手を、もう一つの手でおさえ、あたためるようにくるみこんで、政虎《まさとら》は言った。
「おれもだ。おれもだ。そなたのことを、おれは一日として忘れたことはなかった。一日として思わないことはなかった。ずっと昔、おれはそなたを嫁《よめ》にくれいと駿河《するが》にたのむつもりで、途中まで来かかったことがある。途中で妙《みよう》なことを見たため、おれはおなごというものがいやになって、そのまま引きかえした。くだらんことよ。ああいうことに思いまどわず、ひとすじにここに来ていれば、そなたはおれが女房《にようぼう》になっていたのじゃ。そうしたら、こんな病気にもならず、いまごろは二人か三人、おれが子供を生んでいたであろうにな。返らぬくりごとながら、おれは残念じゃよ。ハハ、ハハ、ハハ……」
熱に浮かされたような気持ちであった。政虎《まさとら》は夢中《むちゆう》にしゃべりつづけた。
「うれしい、うれしい、うれしい。乃美《なみ》もそうでございました。お屋形《やかた》おひとりをお慕《した》いして、今日まで来ました。お慕《した》い申しているこの心をお知りねがうこともできないままに死んでしまわなければならないかと思うていましたが、……それもけっして不足にも思いませんけど……、こうして心をお知りねがい、お心のほども知ったのですもの。もう思いのこすところはございません。本望《ほんもう》でございます。本望《ほんもう》でございます……」
切迫《せつぱく》した呼気《こき》が、政虎《まさとら》の耳を吹く。熱い呼気《こき》だ。
どちらからであったか、二人はしっかと抱き合い、唇《くちびる》を合わせていた。熱のためであろうか、乃美《なみ》の唇《くちびる》はささくれだっていたが、燃えるように熱かった。政虎《まさとら》はわずかにそれを感じただけですぐ忘れ、ただむさぼり吸った。
月出《い》で月沈《しず》む
一
男の情熱は疲《つか》れやすくできているのであろうか、それとも感情が複雑にできているのであろうか。やがて政虎《まさとら》の心に陰《かげ》がさしてきた。乃美《なみ》は重病なのだ、いつまでもこうしていては病気に悪いであろうとも思い、明日は朝の間にここを立って帰らなければ日暮れ前に帰りつけない、もうさがって休息しなければならないとも思った。
ひたむきな純一《じゆんいつ》さを失ってきた政虎《まさとら》の心を、乃美《なみ》は感じたのであろうか、身もだえするように唇《くちびる》を動かしてはげしくしがみついてきたが、ふたたび相手の情熱を呼びかえすことができないとわかったのであろう、首すじにからんだ腕から力がぬけ、唇《くちびる》をはなした。
政虎《まさとら》はその背をなお抱きつづけ、耳に口を寄せてささやいた。
「養生《ようじよう》して、きっとなおってくれい。おれはかならずそなたを妻にする。きっとだ、きっとだ」
乃美《なみ》は答えなかった。涙がしずかにほおを伝った。
「養生《ようじよう》してくれな。なおってくれな。このままでは、二人ともあまりあわれだ……」
「……は、はい……」
と、かすかに答えるとともに、はげしくむせび泣きはじめた。
うれしさに感情が激しのぼってきたのだと思われた。政虎《まさとら》も泣きたいほど胸にこみあげてくるものがあった。
そっと、手をはなして、はなれた。
席をさがって、顔を見ると、乃美《なみ》のほおには涙が小さなしずくになってのこっていたが、もう涙の乾《かわ》いた目で凝視《ぎようし》していた。異様《いよう》なくらいふかぶかと澄《す》んだ目であった。
「どうしてそうおれを見ているのだ」
と政虎《まさとら》は微笑《びしよう》した。
「いいえ、でも……」
乃美《なみ》は笑おうとしたようであったが、ふいにぱっと赤くなった。やせ細り、すきとおって、もろいもろい器《うつわ》のように見える顔が赤くなったのを、胸が熱くなるような気持ちで見ながら、政虎《まさとら》は言った。
「さっき申したことは、よく心得《こころえ》ているな」
「はい」
赤くなった色がしだいにさめながら、低く答えて、目を伏《ふ》せて答えた。
「明日が早い。おれはむこうへ行く。明朝また会おう」
「はい」
やはり目を伏《ふ》せたまま答えた。
政虎《まさとら》は乃美《なみ》の肩をよく夜着《よぎ》でくるんでやって、立ちあがった。
寝所《しんじよ》は客殿《きやくでん》をあててあった。供《とも》をしてきた小姓《こしよう》が眠そうな顔でまだ起きていた。
「ああ、これはすまなんだの。疲《つか》れていて眠かったろうに」
いたわって、手伝わして、寝衣《ねぎ》にかえて、床《とこ》に入った。
小姓《こしよう》は政虎《まさとら》のぬぎすてた着物をたたもうとする。
「たたまんでもよい。その衣桁《いこう》にかけておけばよい。はよう行って寝よ。明日は起こすまで寝《ね》ていてよいぞ」
と言った。
すなおに着物を衣桁《いこう》にかけ、
「それではさがります」
両手をついてあいさつし、灯火《とうか》を細めて、立ち去った。
のびのびと足をふみのばし、うす暗くなった天井《てんじよう》をあおぎながら、政虎《まさとら》は満ち足りた気持ちであった。
(こうなることにきまっていたのだな。世の中はきまったようにしかならないものと見えるのう。あとはおれがこの戦《いく》さに勝つことと、乃美《なみ》が元気になることだけだ。病気はなおるじゃろう。あんなにまでよろこんでいたもの……)
ともあれ、満足であった。思いきり大きなあくびして、目を閉じると、そのまま深い眠りに入った。
二
夢を見た。
目のつづくかぎり薄《すすき》の穂《ほ》がつづいて、白い波を打っていた。はるかなかなたからやや傾斜《けいしや》して、なだれてき、はるかなかなたに傾斜《けいしや》し去っている広い広い野だ。
(妙高《みようこう》の裾野《すその》かもしれない)
と思って、右をむいて高みをあおぐと、高い高い空にしだいに急峻《きゆうしゆん》になりつついくつかの山のいただきが見えた。
(ああ、やはり妙高《みようこう》だ)
と合点《がてん》した。
彼はその裾野道《すそのみち》を、供《とも》もなくただ一人、青竹の杖《つえ》をつき、わらじを踏《ふ》みしめながら大股《おおまた》に歩いていた。どこへ行くつもりか、それは考えない。ただむやみに心にせくものがあって、急いでいた。
やがてはるかに前方に、馬に乗っていく人影《ひとかげ》が見えてきた。女だ。市女笠《いちめがさ》をかぶり、美しい模様《もよう》の着物を着ている。笠《かさ》のかたむきぐあいから見て、ややうなだれぎみなのだと思われた。供《とも》の者はいず、ただ一人だ。馬のあしのなかば以上、薄《すすき》の穂波《ほなみ》にかくされて、とぼとぼと行く。
(あぶないことだ。こんなさびしいところを、女の一人旅とは)
と思っているうちに、
(ああ、ここは妙高《みようこう》ではない。あれは信玄入道《しんげんにゆうどう》の側室諏訪《そくしつすわ》ご前《ぜん》じゃ。いまに供《とも》の者が多数出てくるはずじゃ。とすれば、ここは御坂峠《みさかとうげ》でなければならぬはず)
と思った。
そこで、左の方を見ると、ちゃんと富士があった。もっとも高く、もっともおごそかな姿で。
(やはりそうだった)
満足であった。
彼はなお急ぎつづけていたが、そのうち自分らの距離がすこしもちぢまらないことに気づいた。こちらは大急ぎに急いでおり、先方はごくゆっくり歩いているのに、まるで距離がちぢまないのだ。
(いぶかしいこともあるもの。それとも、急がないようでも、相当急いでいるのであろうか)
と思ったが、とたんにはっと気がついた。
あれは乃美《なみ》なのだ!
追いつかねばならないと、足を速めようとしたが、どうしたものか、膝《ひざ》がかたくしこって自由に動かない。
「おおい! おおい!……」
と、手を上げて呼ぼうとしたが、声が出ない。
乃美《なみ》はいぜんとしてゆるやかな足どりながら、すこしずつ遠ざかっていく。
呼ぼうとし、急ごうとして、汗になり、うめいたが、その苦しさに目をさました。
外には虫の声が満ちていた。長い夜を鳴き明かすさまざまな虫の声が、遠くから時雨《しぐれ》が襲《おそ》ってくるように、しだいに高くなり、複雑になり、高調《こうちよう》しきったところではたとやむことをくりかえしている。
「夢か……」
つぶやいて、手を上げて、ひたいに浮く冷たい汗をふいた時、床《とこ》の裾《すそ》にだれやらがいるように感じて、はね起きようとした時、かすかな吐息《といき》の音を聞いた。女の、やさしく、よわよわしい嘆息《たんそく》であった。
政虎《まさとら》はそれが乃美《なみ》のものであることがわかった。
「乃美《なみ》か」
「は、はい!」
と言うとともに、乃美《なみ》は夜具《やぐ》をまわってするするといざり寄ってきたが、三尺ほどのところまで来ると、ひれふした。
政虎《まさとら》は起きあがった。
「どうした。冷気《れいき》は毒だぞ」
と言いながら、自分のきものを衣桁《いこう》からとってきて、肩にかけてやり、灯火《とうか》をかきたてた。
明るくなったなかに、乃美《なみ》はひれふしたまま動かない。
「どうしたのじゃ。眠れぬのか」
答えなかった。髪がふるえ、肩がふるえ、声をしのんで泣いている。
政虎《まさとら》には女との愛欲《あいよく》の経験がない。女にも欲情《よくじよう》のあることは知識としては知っているが、それがどんなものであるか、実際には知らない。よろこびのあまり眠りを結びかねている間に会いたさがつのってきたのであろうと思った。可憐《かれん》とは思ったが、病気のからだであとさき見ずにとまゆをひそめたい気もあった。
しかし、あわれで、そうも言いかねた。なんと言って帰そうかと、思案していると、乃美《なみ》はそのままの姿で、くぐもった、低い声で、きれぎれに言いだした。
「おなごのあられもないと、おさげすみでございましょうか。けど、乃美《なみ》は、長いいのちではないような気がして、ならないのでございます。さきほど、ありがたい、おことばをいただいて、もう、これでいつ死んでも心のこりはないと、うれしゅうございました。……が、それでは、あまりはかないと、欲《よく》が出てきたのでございます。恥《は》ずかしさを忘れてまいりました。――お添《そ》い臥《ぶ》しがしたいのでございます!」
最後のことばは、ごく低い声ながら切り裂《さ》くように鋭かった。
白刃《はくじん》を胸につきつけられても、これほどのおどろきはなかったにちがいない。政虎《まさとら》は、あっ! と言おうとして、あやうくこらえた。同時にからだじゅうが炎《ほのお》になったように熱くなり、目の前がまっかになったかと思った。けれども、それと反対に、顔はまっさおになった。一日たってもう短いひげのぎっしりと生《は》えつまっているあごのあたりははげしくふるえていた。まだふるえている乃美《なみ》の肩のあたりを凝視《ぎようし》している目はおそろしいほどかがやきが強くなり、獲物《えもの》をめがけて襲《おそ》いかかろうとする鷹《たか》の目のようであった。
しかし、すぐその目を閉じた。心気《しんき》を静めるために深い呼吸をいくどかしたが、やがて目をみひらいて言った。
「なぜ長いいのちではないなどと言うのだ。不吉《ふきつ》なことを言うでない。おれはいつまでもそなたとこの世を楽しみたい。そなたもその気になってくれい。心細いことを言うてくれるでない。病《やま》いは気からという。今日以後、そなたには生きる精《せい》がついたはずだ。きっとなおる。きっともとのように元気になる。おれがしてみせる」
乃美《なみ》は答えない。もうふるえてはいない。なにかおそろしく頑固《がんこ》なすがたであった。
政虎《まさとら》は嘆息《たんそく》したが、すぐまた、
「では、こうしよう。そなたの病《やま》いがいくらかおこたったら、春日山《かすがやま》の屋敷へ移れ。おれは毎日、そなたを見舞ってやろう。そうしたら、きっとなおるのも早い。おれはときどき、琵琶《びわ》をひいたり、小鼓《こつづみ》を打ったり、尺八《しやくはち》を吹いたりして、そなたを楽しませてやろう。どうだ、これでなおらぬということはあるまい。聞きわけてくれい」
乃美《なみ》のかたいすがたがすこしゆるんだ。
政虎《まさとら》はいざり寄って、抱きおこして、
「聞きわけたの。聞きわけたの」
と顔をのぞいた。
乃美《なみ》は顔をそむけた。羞恥《しゆうち》していた。
「恥《は》ずかしがることはない。おれはうれしゅう思うていたのじゃから。――話がわかったら、帰ってあたたかくしてやすむのだ。さあ、立つがよい」
乃美《なみ》の肩や背は細くてもろくて、小鳥のようであった。いたいたしさにやるせなかった。たすけおこして、渡り廊下《ろうか》まで連れて出た。もう空には夜明けまえらしいけはいがただよい、米山《よねやま》の北のはずれに沈みかかっている月のうすい光が軒《のき》をかすめて廊下《ろうか》に落ち、廊下《ろうか》の板はおどろくほどひえびえとしていた。
乃美《なみ》が辞退するので、侍女《じじよ》どもの手前《てまえ》もあるのだろうと、そこで立ちどまって、見送った。
乃美《なみ》のうしろ姿はいたいたしいほど細かったが、足どりは意外に軽やかであった。簀子《すのこ》の角《かど》で立ちどまってこちらを見た。微笑《びしよう》したようだったが、よくわからなかった。すぐ曲がって見えなくなった。
三
予定のとおり、その日の夕方まえ、春日山《かすがやま》に帰りつくと、すぐ、
「八月十四日、出陣」
と、家中《かちゆう》にふれを出した。
先鋒《せんぽう》を申し渡された信州豪族《しんしゆうごうぞく》らは、すでに信州《しんしゆう》の居城《きよじよう》にかえっている。それぞれの居城《きよじよう》にもっとも近い道すじで、加わることになっている。だから、政虎《まさとら》とともに春日山《かすがやま》を出陣するのは二陣以下であった。政虎《まさとら》の気の早さと激しさは、諸将はみなよく知っている。このまえの編成《へんせい》申し渡しの時に、陣用意を急ぐように申しわたされてもいる。準備はそれぞれにできていた。陸続《りくぞく》として春日山《かすがやま》城下に集まってきた。
十四日の早暁《そうぎよう》、まだ月が西の空にのこっているころ、諸軍は城外の広場に集結した。将五十余人、兵数は一万をすこし切れた。信州路《しんしゆうじ》に入って先手衆《さきてしゆう》を加えて、将六十人、兵数一万三千余になるはずである。
政虎《まさとら》は諸将を毘沙門堂《びしやもんどう》の前に集め、みずから護摩《ごま》を焚《た》きあげて祈祷《きとう》し、神前《しんぜん》の水をもって出て、みずからも飲み、諸将にも飲ませた。
順々に白木《しらき》のひしゃくがまわり、みなが飲みほすのを待って、貝をとって吹き鳴らした。勁烈《けいれつ》な貝の音は山々にこだまして、ようやく白みそめてきた暁《あかつき》の空に殷々《いんいん》と長鳴りしてひびきわたった。
卯《う》の刻(六時)、大手前《おおてまえ》広場の諸軍は、出陣の三度の鬨《とき》の声を上げ、順をもってくりだした。
善光寺平《ぜんこうじだいら》に出たのは二日の後、十六日の午前であった。ここまで来る間に、先手《さきて》の信州豪族《しんしゆうごうぞく》らがはせくわわり、人数は予定のとおり一万三千になっていた。
この時、善光寺平《ぜんこうじだいら》や川中島《かわなかじま》には、武田《たけだ》方の勢は一手もなく、川中島《かわなかじま》の東南の外、千曲《ちくま》川にそった海津《かいづ》(松代《まつしろ》)に営《いとな》まれた城に、春日源五郎《かすがげんごろう》あらためて高坂弾正《こうざかだんじよう》がこもっているだけであった。
「天のあたえるところであります。敵の諸勢《しよぜい》集まらぬさきに海津《かいづ》城を乗りつぶさるべきでございます」
と、諸将は進言《しんげん》した。
政虎《まさとら》は首をふった。
「信玄入道《しんげんにゆうどう》ならば、そうするであろう。しかし、おれはそうはせぬ。そのような信玄入道《しんげんにゆうどう》が戦《いく》さぶりを、おれはいつも穢《む》さいと思うているからじゃ。むさいことはしとうない。武田の諸勢《しよぜい》が集まってきてから、たがいに堂々の陣を張って戦いたいのじゃ」
「お屋形《やかた》のそのお潔《いさぎよ》さが、信玄入道《しんげんにゆうどう》のつけこみ場なのでござる。そのようなことはなさらぬおん大将と見たればこそ、高坂《こうざか》一人をあの小城《こじろ》にこめおいたのであります。そのずるさが憎《にく》いではありませぬか」
と、諸将はなお言った。
政虎《まさとら》は笑った。
「いかさまそうではあろうが、それでもおれはしとうない。尋常《じんじよう》に立ち合って、おれが勝つか、甲州《こうしゆう》の古狸《ふるだぬき》が勝つか、きめたい。きたないことをしては、勝ってもいろいろと文句《もんく》をつけられよう。それがおれはいやじゃ。それに、その方どもはなんと見るか知らぬが、高坂弾正《こうざかだんじよう》と申すやつ、信玄《しんげん》が床《とこ》をなおした者というゆえ、まだ年若《としわか》であろうに、ただ一人あの小城《こじろ》にこもって、おれほどの者に立ちむかおうとは、けなげではないか。このようなけなげな者はそっとしておいて、その勇を遂《と》げさせたい」
動く色はなかった。
その夜は、善光寺《ぜんこうじ》の横山《よこやま》城に入って泊まった。
翌日から、武田方の軍勢が続々と出てきた。まるで夏雲がわくよう。あるものは海津《かいづ》城に入り、ある者は城外に陣を張った。
「こう来ねばおもしろうない」
政虎《まさとら》はきげんよく言って、物見《ものみ》へ上ってながめたり、ほんのわずかな手廻《てまわ》りをつれてみずから斥候《せつこう》に出たりした。
三日たって、武田勢はいっそう多くなったが、信玄《しんげん》はまだ出てこないようであった。秋晴れのさわやかな日ばかりがつづいた。
四
十九日の夜、甲州《こうしゆう》方面に入れておいた諜者《ちようじや》が飛びかえってきた。
「信玄《しんげん》殿は十六日|甲府《こうふ》出発、途中|一宿《いつしゆく》して昨夜は諏訪《すわ》泊まり、今日はゆっくりと諏訪《すわ》を出発、午後|和田峠《わだとうげ》を越えられました。兵およそ一万、そのなかには今川《いまがわ》家や北条《ほうじよう》家からの加勢《かせい》の兵もいます」
と報告した。
ここに先発《せんぱつ》してきている兵が六千はいようから、総勢では一万六千だな、と政虎《まさとら》は計算した。
相手にとって不足はなかった。
即座《そくざ》に使い番の者どもを呼んで、全軍にふれを出した。
「明早暁《みようそうぎよう》、大荷駄《おおにだ》とその掩護兵《えんごへい》五千だけをここにのこし、のこりは全部当地出発、川中島《かわなかじま》を横ぎり、雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しで千曲《ちくま》川を渡り、妻女《さいじよ》山に押しのぼる。さよう心得《こころえ》るよう」
この命令は全軍をおどろかせた。犀《さい》川が上杉《うえすぎ》・武田《たけだ》両家の勢力分野の境界線《きようかいせん》といっても、実際は上杉の勢力|分野《ぶんや》が犀《さい》川までなら、武田の分野《ぶんや》は千曲《ちくま》川までで、川中島《かわなかじま》はいずれにも属せず、いわば緩衝地帯《かんしようちたい》の役目を果たしていた。ところが、海津《かいづ》に城が築《きず》かれ、ここに高坂弾正《こうざかだんじよう》がこもってからは、それが川中島《かわなかじま》にたいするもっとも効果的なおさえとなり、川中島《かわなかじま》は名実《めいじつ》ともに武田の分野《ぶんや》となってしまった。海津《かいづ》城存在の効《こう》はそれだけではない。千曲《ちくま》川以南の地がこれまでと比較《ひかく》にならないほど堅固《けんご》な武田の分野《ぶんや》となってきたのだ。
その川中島《かわなかじま》を横ぎり、千曲《ちくま》川を渡って以南の地に軍を進めるのは、敵の腹中《ふくちゆう》に深くはいることになる。もし敵が雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しをとり切るなら、味方は善光寺《ぜんこうじ》の大荷駄《おおにだ》との連絡の切れることはいうまでもなく、越後《えちご》との連絡も断絶する。冒険《ぼうけん》というはおろか、もっとも無謀《むぼう》なことというべきだ。
軍奉行《いくさぶぎよう》の直江実綱《なおえさねつな》と後備《あとぞな》えの柿崎景家《かきざきかげいえ》とは、政虎《まさとら》に目通《めどお》りをねがいでて、
「お触《ふ》れ出しのこと、委細《いさい》うけたまわりましたが、あまりにも思いきった軍配《ぐんばい》、およろしいのでございましょうか」
と言った。
政虎《まさとら》はにこりと笑った。
「敵中に孤立《こりつ》して、糧道《りようどう》もたえはせんかというのじゃろう」
「おおせのとおりでございます。糧道《りようどう》もたえ、本国との連絡もたえましょう。兵法《ひようほう》に申すところの死地《しち》でございます」
政虎《まさとら》は、いっそう笑った。
「死地《しち》だけか。海津《かいづ》城の機能《はたらき》がおおいににぶるとは思わぬか」
「それはおおせのとおりでございます。眼下《がんか》に見くだされるため、すくむかたちになりましょう。したがって川中島《かわなかじま》も千曲《ちくま》川の南も敵が確保したとは言えなくなりましょう。しかし、それも雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しが敵の手におちるまでのことでございましょう。おそれながらご再考《さいこう》をおねがいしたいと存じます」
ついに、政虎《まさとら》は声を立てて笑った。
「戦《いく》さというものが安全だけをもとめるものなら、その方どもの申すことはおおいによろしい。しかし、おれはこんどこそ有無《うむ》の一戦をしたいのだ。おれが堅固《けんご》にあやうげなくかまえていたら、信玄狸《しんげんたぬき》め、またはかばかしい戦《いく》させんで、ものわかれにもちこむかもしれぬ。やつはそろばんを十ぺんおいて、十ぺんが十ぺんまで勝つという算用が出てこねば戦《いく》させん男じゃ。おれのいまおそれているのはそれだけじゃ。しかし、おれがのどもとをあけひろげているにひとしい死地《しち》にいると見たら、きっとしかけてこよう。おれはやつを釣《つ》りにかかっているのだ。そのつもりでいてくれるよう」
二人はもうなにも言うことはできない。政虎《まさとら》の決意のすさまじさに胸をしめつけられた。
「よくわかりましてございます。存分《ぞんぶん》にあそばしませ。われらも死に狂《ぐる》いの戦《いく》さつかまつるでございましょう」
と、すずしく答えて退出《たいしゆつ》した。
五
払暁《ふつぎよう》、空にはおそく出た十九日の月が中天《ちゆうてん》にかかり、地上にはうすい霧《きり》がこめているころ、上杉《うえすぎ》勢は行動をおこし、犀《さい》川をおしわたった。
この渡河点《とかてん》から雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しまでの八キロの間が、当時の川中島《かわなかじま》であった。多少の起伏《きふく》はあっても、山や丘というほどのものはなく、ほぼ平坦《へいたん》な地域は、陸田と水田と原野だけであった。
粛々《しゆくしゆく》と押していったが、八千という大軍の移動だ。海津《かいづ》城とその付近にたむろしていた武田《たけだ》勢は気がつき、色めきたち、陣鉦《じんがね》を鳴らし、貝を吹き鳴らし、警戒態勢《けいかいたいせい》に入ったが、こちらはかまわず南下《なんか》して、ついに雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しで千曲《ちくま》川を渡り、妻女《さいじよ》山におしのぼった。
今日《こんにち》では地勢が変化し、千曲《ちくま》川は雨《あめ》ノ宮《みや》を流れていない。川すじがずっと西方に移動して、旧|篠《しの》ノ井《い》、横田《よこた》を経過しているが、この時代の千曲《ちくま》川は、いまの屋代町《やしろ》から右折して雨《あめ》ノ宮《みや》にむかい、ここから山ぎわを洗いながら妻女《さいじよ》山の山端《やまのは》まで行き、さらに右折していまの松代《まつしろ》の町近くを北流していたようだ。だから、今日の千曲《ちくま》川は松代城址《まつしろじようし》のずっと西方を流れているが、当時はつい城のまぎわを流れ、城の西がわの外濠《そとぼり》になっていたと思われる。
これは今日なおその形跡《けいせき》がのこり、空濠的《からぼりてき》の広い地溝《ちこう》が部分的にあるところを見ると、それほど古くない時代までそうであったことがわかる。江戸時代中期の寛保《かんぽう》年間に千曲《ちくま》川が大氾濫《だいはんらん》した時に、だいたい今日の川すじになったようだ。だから、今日では松代《まつしろ》から屋代《やしろ》方面に行くには、妻女《さいじよ》山の山端《やまのは》をめぐって坦々《たんたん》たる道路がついているが、そのころまでは千曲《ちくま》川が山端《やまのは》を洗って流れているためにとうてい人の通れる余地《よち》はなく、妻女《さいじよ》山の鞍部《あんぶ》についている山径《やまみち》を越えていったものであるという。
ともあれ、読者|諸賢《しよけん》が当時の川中島《かわなかじま》、当時の海津《かいづ》城をおもいえがかれるについては、上述のことも材料にしていただきたい。あ、うっかり書き忘れるところであった。今日|松代《まつしろ》に行ってみると、松代《まつしろ》城は小城《こじろ》ながら石をもって築いた堂々たる城壁をもっているが、当時の海津《かいづ》城の城壁は石垣《いしがき》ではない。石をもって城壁を築く方式は松永久秀《まつながひさひで》の大和《やまと》の多聞《たもん》城や織田信長《おだのぶなが》の安土《あづち》城によってはじめられた。この時代よりすこし後の新様式の築城法《ちくじようほう》だ。この時代までは「かき上げ」と称して、土砂《どしや》を積みあげ、芝《しば》を植えるのがふつうの城壁の様式であった。天守閣《てんしゆかく》もそうだ。新様式で、この時代にはまだない。
したがって、海津《かいづ》城は千曲《ちくま》川にその西がわの城壁を洗わしてはいるが、高くきずいた堤《つつみ》によってかこわれた一郭《いつかく》で、そのなかに粗末《そまつ》な建物が立ちならび、粗末《そまつ》な物見《ものみ》やぐらが二つ三つ立っているくらいのものであったろう。堤《つつみ》は芝《しば》におおわれていたろうし、その上には地がためのために樹木も植えこんであったろうが、築城《ちくじよう》後|間《ま》がないのだから、それはまだ若い木であったろう。水が近いのだし、根づきやすいところから、木の種類は柳のようなものであったかもしれない。中秋《ちゆうしゆう》であるから、今日の九月である。柳もまだうら枯《が》れず青々とし、堤《つつみ》の芝《しば》も緑であったろう。
さて、上杉《うえすぎ》軍が妻女《さいじよ》山におしのぼったころは、もう日は高くのぼっていた。快晴の日がつづいていたようであるから、この日も空は高く澄《す》んでいたろう。
妻女《さいじよ》山は標高五百四十六メートルある。海津《かいづ》城は、そのやや北になった東方に、直線距離二キロ半の位置にある。眼下に見おろす位置だ。城内の様子、その周辺にたむろしている甲州諸軍《こうしゆうしよぐん》の様子は手にとるように見えたろう。ここに旗を林立《りんりつ》させて陣を張ったのであるから、威圧的《いあつてき》効果は十二分だ。寂《せき》として声のない状態になった。
政虎《まさとら》の諜者《ちようじや》はたえず信玄《しんげん》の動きを知らせてきた。信玄《しんげん》は二十日に海野《うんの》(上田《うえだ》)城に入ったが、ここでまる一日|滞在《たいざい》し、二十二日からまた動きはじめた。上田から戸倉《とくら》にいたる間四キロは、千曲《ちくま》川の両岸の山がせまって、せまい山峡《さんきよう》となっている。政虎《まさとら》の諸将らは戸倉《とくら》に兵を出して邀撃《ようげき》すれば、敵は大軍を擁《よう》していても地形上すこしずつしかくりだすことができないから、出てくるにしたがってしらみつぶしにすることができると進言《しんげん》したが、政虎《まさとら》は動かなかった。
「おれは晴れの戦《いく》さして勝負を決したい。敵を穴ぐらから出てこさしもせんで松葉《まつば》いぶしにして討ちとるようなことはしとうない。なるほど、信玄入道《しんげんにゆうどう》は狸《たぬき》のような男ではあるがな」
と大笑《たいしよう》し、さらに、
「信玄《しんげん》ほどの者が、その心得《こころえ》がなくてかなおうか。やつが海野《うんの》城にまる一日も滞在《たいざい》したのは、その見きわめのくふうのためよ。くふうがついたゆえ、動きだしたのだ。おれが思案するに、やつは戸倉口《とくらぐち》へは出てこぬ。思いもかけぬ道をとって、思いもかけぬところへ出てくるぞ。おれにはわかっているつもりじゃが、その方どももくふうして見当をつけて待っているがよい」
と言った。
「おれは戸倉《とくら》なんぞに待ちかまえていて戦う量見《りようけん》はないが、やつは自分が腹黒い男だけに、ひょっとしてひょっとしてという恐れがのかぬ。そのためにご苦労な脇道《わきみち》を通って脇《わき》に出てくるのだ。出てきもせん戸倉《とくら》なんどに出張《でば》っているような無駄《むだ》ばたらきしたら、やつに笑われようよ」
とも言った。
すると、ほどなくまた諜者《ちようじや》の注進《ちゆうしん》があって、信玄《しんげん》の先鋒隊《せんぽうたい》は坂城《さかき》まで来ると、ここからすこし進んだ位置におさえの兵を出しておいて、道を左方の山路《やまじ》にとって進みつつあると報告した。
「さもあろう。姨捨《うばすて》のうしろの道をとるつもりじゃ」
と、政虎《まさとら》はうなずいた。
推察があたって、おおいに満足であった。彼は信玄《しんげん》は麻績《おみ》に出、猿《さる》ガ馬場峠《ばばとうげ》をこえて、屋代《やしろ》の対岸地帯に出てくるものと推察していたが、この推察はあたった。二十三日の午前ちゅうには、ここにその先鋒隊《せんぽうたい》が姿をあらわした。
しかし、同時に本道の戸倉口《とくらぐち》からも、その中間の八幡《はちまん》村にも、さらにずっとこちらの、もう川中島《かわなかじま》の一部といってよい石川にも、軍勢がわいてきた。山々のひだから雲がわきたつ様《さま》と言おうか、押しよせた洪水《こうずい》が壁面のいたるところから侵入《しんにゆう》してくる様《さま》と言おうか、すさまじい勢いであった。これは予想外のことであった。用心深い信玄《しんげん》が考えに考え、練りに練った方法にちがいなかった。もし部将らの進言《しんげん》にまかせて戸倉口《とくらぐち》などに出張《でば》っていたら、袋のねずみになってしまったろう。
「やりおるわ。敵ながら信玄入道《しんげんにゆうどう》はなかなかのものじゃわ」
と、政虎《まさとら》はほめた。
こうして諸方面から進出してきた信玄《しんげん》軍はじょじょに一つになると、千曲《ちくま》川の西岸にそった平野の西の山ぎわを北へ北へと進み、川中島《かわなかじま》の西限《せいげん》である茶臼《ちやうす》山にのぼりはじめた。
妻女《さいじよ》山の上から目もはなたず見ていた政虎《まさとら》は、
「ほほう」
と、おぼえずうなった。
これも予想外のことであった。茶臼《ちやうす》山は標高《ひようこう》七百三十六メートルある。妻女《さいじよ》山より高いこと百九十メートルだ。そんなこまかなことは、もとよりこの時の政虎《まさとら》にわかろうはずはないが、直線距離にして七キロ足らずにあるこの山が、こちらの山より高いことはわかる。
茶臼《ちやうす》山にのぼった武田軍は山上に大旗、小旗、馬じるしを林のようにおしたて、さかんに火を焚《た》いて煙を上げて気勢《きせい》を上げた。うんと西にかたむいた夕日と夕映《ゆうば》えの空を背景にして、それは胸のゆらいでくるような壮観《そうかん》であった。山の中腹《ちゆうふく》からふもとにかけて諸隊が布置《ふち》したことはいうまでもない。
これに気を得たのであろう。これまで寂《せき》として声のなかった海津《かいづ》城やその周辺にたむろしていた軍勢も活気づいてきた。しょんぼりと垂れていたように見えた旗じるしが夕風にはためき、立ちのぼる炊煙《すいえん》さえ勢いよくまっくろに見えた。もくもくとわきあがるようであった。鬨《とき》の声まで数度上げた。
「やりおる、やりおる。これでのうてはうれしゅうない」
と、政虎《まさとら》はほほえんだ。渾身《こんしん》にみなぎりわたる精気とりんりんたる勇気に、陶酔的《とうすいてき》なこころよさがあった。
しかし、これで海津《かいづ》と茶臼《ちやうす》山とを結ぶ線によって、妻女《さいじよ》山の上杉軍は、善光寺《ぜんこうじ》の兵站部《へいたんぶ》との連絡を切断されたかたちになった。将士はみなそれを心配し、きびしいものに胸をしめつけられる気持ちになった。
六
茶臼《ちやうす》山の信玄《しんげん》の本陣《ほんじん》も、海津《かいづ》城とその周辺の武田《たけだ》勢も、終夜《しゆうや》大かがり火を焚《た》き上げ、ときどき威嚇的《いかくてき》に喊声《かんせい》を上げた。宵《よい》の口は美しい星空の下に、夜半《よなか》すぎてはなかば欠けた淡《あわ》い月光の中に、かがり火はあかあかと燃え、ときの声は夜空をどよもして聞こえた。
「くだらん細工《さいく》をしおる」
と、政虎《まさとら》は苦笑したが、こちらも対策を講《こう》じなければならない。戦場に出ている兵士の心理は特別なものだ。こうしたことを威嚇《いかく》であると承知はしていても、聞くだけで黙《だま》っていてはつい臆《おく》してき、いったん臆《おく》すると際限《さいげん》もなくそれがつのっていくものなのである。
政虎《まさとら》はこちらでもかがり火を焚《た》かせ、敵が喊声《かんせい》をあげれば、間をおかず喊声《かんせい》をあげさせた。これは当時の武者《むしや》ことば(軍事用語)で鬨《とき》を合わせるというのである。
こうして長い秋の夜が明けた。
政虎《まさとら》は起きるとすぐもっとも展望のきく位置に行って茶臼《ちやうす》山を見、下界を見た。海津《かいづ》城から川中島《かわなかじま》にかけ、さらに善光寺《ぜんこうじ》の方にかけて、下界はいちめんの霧《きり》がこめ、漠々《ばくばく》として乳色《ちちいろ》の海のようになっていた。
「今日も天気じゃ。霧《きり》が深いわ」
と思いながら、その霧《きり》の海を凝視《ぎようし》していた。霧《きり》は平地の底によどみ、ところどころに浮きたっている樹林の梢《こずえ》が島のようであった。
「まだかな。もうそろそろはじめねばならんころじゃが」
やや熱心な目つきで、茶臼《ちやうす》山と海津《かいづ》を結ぶ線上の見当に目をむけ、左右に視線を往復させていると、いくらか霧《きり》がうすれてきたらしく、みるみる森の梢《こずえ》の数がふえ、うす絹をすかして見る程度に集落、集落の家のかたまりなども見えてきた。
すると、ひときわ大きな森かげに一隊の人馬が動いているのを見つけた。
霧《きり》はいよいようすれ、人馬の姿もあちこちに見えた。すべて最初に見当をつけた海津《かいづ》と茶臼《ちやうす》山を結ぶ線付近である。
「やはりな」
政虎《まさとら》は満足して、幕舎《ばくしや》に入り、口をすすぎ、顔を洗って朝餉《あさげ》をとっていると、軍奉行《いくさぶぎよう》の直江実綱《なおえさねつな》が来た。
「すぐすむ。待っていよ」
と言いながら、食べていると、諜者《ちようじや》が山をのぼってきた。
「茶臼《ちやうす》山の敵の本陣《ほんじん》と海津《かいづ》との間に、敵の往来がしきりでございます」
と、報告した。
「よしよし」
政虎《まさとら》はきげんよくうなずき、白湯《さゆ》をのんではしをおき、実綱《さねつな》をかえりみて言った。
「信玄狸《しんげんたぬき》は海津《かいづ》との連絡をつけて、おれを雪隠詰《せつちんづ》めにしたつもりでいるのよ。うまくいったと思うて、さぞ小鼻《こばな》をぴくつかせているであろうが、こちらはこちらでみごと釣《つ》りだしたとうれしゅうてならんところよ」
実綱《さねつな》はなにか意見|具申《ぐしん》をするつもりで来たらしかったが、政虎《まさとら》がこのうえもない上機嫌《じようきげん》でおり、こう言ったので、なにも言わずに帰っていった。
霧《きり》が晴れてしまうと、敵が川中島《かわなかじま》を横断してしきりに往来して密接な連絡をとりつつあることは、だれの目にもはっきりと見えてきた。快晴のおだやかな秋空の下に、越後《えちご》軍はみな色を失った。死地《しち》に入っていることを、痛いほどに感じた。
「これはそもどういうご軍配《ぐんばい》であろう。このようにして日を越え月を重ねているうちには、兵粮《ひようろう》つきはて、飢死《ひじ》にするほかはあるまいに」
と、いたるところでささやいていると、山上の政虎《まさとら》の幕舎《ばくしや》の中から小鼓《こつづみ》の音が聞こえてきはじめた。ハア、ヨウというかけ声とともに、その音は澄《す》んだ秋の気のなかにいとものどかにひびくのだ。人々はまたおどろいた。
想夫恋《そうふれん》
一
将士の心配をよそに、政虎《まさとら》の悠々《ゆうゆう》たる態度はつづいた。日々茶臼《ちやうす》山の信玄《しんげん》の陣所《じんしよ》を望み、海津《かいづ》城を俯瞰《ふかん》するほかは、近臣《きんしん》らに謡《うたい》をうたわせてみずから小鼓《こつづみ》を打ったり、琵琶《びわ》を弾奏《だんそう》したりして、まことに寛々《かんかん》たるものであった。
その間に、川中島《かわなかじま》を横ぎっての甲州《こうしゆう》勢の連絡ぶりはますます緊密《きんみつ》、また大胆《だいたん》になってきた。
「敵からしかけてきたならば格別《かくべつ》、当方からの手出しは無用《むよう》だぞ」
と、政虎《まさとら》がふれだしたので、諸軍|黙《だま》って見ているだけであったが、しだいにずうずうしくなって人もなげな往来ぶりを見ると、みな歯ぎしりしてくやしがった。もちろん、不安をつのらせもする。
大将分《たいしようぶん》のものは気が気でない。
「これでは味方の勇気がたわむばかりじゃ。一塩《ひとしお》つけて気をひきたてる必要がある。ひとつお屋形《やかた》に申し上げてみようではないか」
と、数人の相談が一決《いつけつ》し、連れだって、政虎《まさとら》の本陣《ほんじん》へむかった。
この日、政虎《まさとら》は本営《ほんえい》の幕舎《ばくしや》をすこしはなれた、川中島《かわなかじま》が眼下に見渡せる位置に出て、草の上に熊《くま》の皮の敷皮《しきがわ》をしかせ、琵琶《びわ》を弾奏《だんそう》していた。
澄《す》みきった秋気《しゆうき》の底に、下界のものいっさいが洗いみがいたように鮮明《せんめい》に見えている。畑も、稲田《いなだ》も、原野も、小溝《こみぞ》も、森も、人家も、道路も、さてはそれらの地物《ちぶつ》の間を蟻《あり》のように小さく見えながら、数十人から百人以上の集団をなして往来している武田方の武者《むしや》の姿も、手にとるようだ。
彼はそれらをながめたり、銀色に光りながらうねっている千曲《ちくま》川にのぞんで建っている海津《かいづ》城に視線を転じたり、さらに大きくその目をはなって茶臼《ちやうす》山の信玄《しんげん》の本陣《ほんじん》を望んだりしながら、愛器朝嵐《あいきあさあらし》を弾奏《だんそう》する。ときどき、歌詞めいたものを口ずさむこともある。楽しげであった。
部将らは山路《やまじ》をのぼってきながら、この琵琶《びわ》のひびきを聞いた。それは政虎《まさとら》の自信を示しているものと聞かれた。彼らは足をとめて、顔を見合わせた。
「どうじゃろう。お屋形《やかた》は万事《ばんじ》ご承知のうえであそばしているのじゃと思われてきた。申し上げるだけ無駄《むだ》ではないじゃろうか」
と、一人が言った。
「われらもそれを考えたところじゃ。なにぶん、神わざのような戦《いく》さぶりをなさるお方じゃすけな」
と、一人が答えた。
彼らは思いきり悪くなおとどまっていた。その彼らの上に赤とんぼがそろって鼻を北にむけ、スイスイといくつもとび、彼らの耳には琵琶《びわ》の音が淙々《そうそう》とひびいてくる。
足をめぐらして帰る気になったが、その時、一人がまた言う。
「まあそれはそうじゃが、相手が信玄入道《しんげんにゆうどう》じゃ。めったに手に乗るやつでない。やはり申し上ぐるがわれらの道ではないかの」
「それもそうじゃ。なみの敵ではないわ」
みなうなずいて、またのぼりはじめた。
近侍《きんじ》の者から、部将らが来て目通《めどお》りをねがっているととりつがれて、政虎《まさとら》は撥《ばち》をとめもせず、ふりかえりもせず、ただうなずいた。
「お目通《めどお》りをおゆるしで?」
うなずく。
「ここへお連れしますので?」
うなずく。
部将らが近侍《きんじ》にみちびかれてうしろに来、草の上にすわると同時に、政虎《まさとら》は撥《ばち》をとめ、くるりとむきなおった。
「よう来たな。ここはながめのよいところで、おれは毎日楽しいわ。そのうち酒を出す。ゆるゆると見はらして、楽しんでいくがよい」
きげんよく言った。わずかに三日のことだが、山のいただきの秋の日ざしがきついのであろう、政虎《まさとら》のやや下ぶくれの面長《おもなが》な顔は浅黒く日やけしていた。濃《こ》いひげを身だしなみよく剃《そ》っているうえに、ひどく血色《けつしよく》がよいので、別して健康そうで、幸福そうで、上きげんに見えた。
部将らはあいさつのことばをのべたうえで、用件に入った。
政虎《まさとら》はひざの上に琵琶《びわ》を横たえ、左手で転手《てんじゆ》をひねり、右手で爪《つま》びきして、調子をととのえながら、部将らの言うことを聞いていたが、相手のことばがおわると、
「その方どもの気づかいは道理であるが、まさかおれが思案にあぐねてこうしていると思うているのではなかろうな」
と、言った。
おだやかな調子であり、血色《けつしよく》のよいほおには微笑《びしよう》まで浮かべているのであったが、部将らはしかられたほどに狼狽《ろうばい》した。
「けっしてけっして……」
「さらば申すことはないはず。おれは前代未聞《ぜんだいみもん》の戦《いく》さをするつもりでいる。万事《ばんじ》をおれが思案にうちまかせ、楽しみにして、その時の来るのを待っているのだな。しかし、その方どもの心づかいを悪うは思っていぬぞ。大儀《たいぎ》であった。酒をくれるゆえ、一酌《いつしやく》していくがよい。なんなら一曲聞かせてやってもよいぞ」
酒をふるまわれ、一曲聞かされて、山を下りていった。
そのあと、政虎《まさとら》はなお琵琶《びわ》を奏しつづけていた。撥《ばち》をすてて、爪《つま》びいていた。軽い酔いがある。思念《しねん》は眼前のことを去って、琵琶島《びわじま》城の奥深く病臥《びようが》している乃美《なみ》のことに飛んでいた。
「待っていよ。待っていよ。かならず勝って帰るからの。そちも病気に勝つのだ。いいか、勝つのだぞ……」
曲はいつか「想夫恋《そうふれん》」になっていた。
二
政虎《まさとら》が妻女《さいじよ》山のいただきから川中島《かわなかじま》を見おろし、茶臼《ちやうす》山の信玄《しんげん》陣を遠望《えんぼう》していたように、信玄《しんげん》も茶臼《ちやうす》山のいただきから川中島《かわなかじま》を見おろし、妻女《さいじよ》山の政虎《まさとら》陣を遠望《えんぼう》していた。
彼は入道《にゆうどう》して以後は、出陣の時には具足《ぐそく》の上に法衣《ほうい》をまとったが、この時もそういう服装で、日にいくどか陣所《じんしよ》を立ちいで、高い崖《がけ》の上に立って、妻女《さいじよ》山を望んだ。
彼には合点《がてん》のいかないことがあるのだ。
彼の思案では、政虎《まさとら》が妻女《さいじよ》山におしのぼったのは、海津《かいづ》城を眼下に見て圧倒してその機能を麻痺《まひ》させることによって、千曲《ちくま》川以南のこちらの勢力分野をも圧迫することを目的としていたと判断されるのだが、それは自分がここにおしのぼるまでのことだ。すでに自分がここを占拠《せんきよ》し、川中島《かわなかじま》を横断して海津《かいづ》城との連絡を緊密《きんみつ》にとりはじめた以上、妻女《さいじよ》山は完全に死地《しち》になったわけだ。なんらかの変化が政虎《まさとら》陣に見えるべきはずであるのに、それがぜんぜん見えない。不審千万《ふしんせんばん》だ。
なによりも、ここと海津《かいづ》城との連絡隊が日々あれほど人もなげに往来しているのにたいして、まるで攻撃を加えようとしないのが、いぶかしい。
これが凡庸《ぼんよう》な武将なら、いすくんで手も足も出なくなったのだろうと判断してもよいが、相手が政虎《まさとら》ではそうは考えられない。その戦術には天才的|神気《しんき》があり、その用兵には炎《ほのお》のようなはげしさがあることを、彼は十分に知っている。
「やつ、なにを考えているのか?」
不安であった。
山へのぼってから五日目の二十八日の夜、信玄《しんげん》は召し使っている忍《しの》びの者のなかからもっとも巧《たく》みな者を召しだして、人を遠ざけて密命《みつめい》した。
「汝《われ》はこれから敵陣に行って、ようく様子をさぐって来てくれい。しもじもの兵どもの様子、大将分《たいしようぶん》の者の様子、政虎《まさとら》の様子、みな知りたい。できるだけくわしくしらべてまいるよう」
伊賀《いが》の生まれで、数年前から奉公《ほうこう》しているその者は、うずくまったまま聞いていたが、
「かしこまりました」
と言うと、ちょろりと暗《やみ》に消えたが、夜の白んでくるころ、帰ってきた。
信玄《しんげん》は侍者《じしや》におこされ、袖《そで》つきの陣羽織《じんばおり》を引きまとって寝所《しんじよ》を出て、引見《いんけん》した。夜明けの山上の冷気《れいき》に、しきりにせきが出た。
忍《しの》び装束《しようぞく》のまま、その男はしとどな露《つゆ》にぬれた草の上にうずくまっていた。
信玄《しんげん》はその前にすえられた床几《しようぎ》に腰をおろした。男のいる位置は幕舎《ばくしや》をはずれているが、床几《しようぎ》は幕舎《ばくしや》の中にある。だのに、おどろくほど冷たくなっていて、冷気《れいき》が腰まではいのぼってきた。
「言え」
と言った。
男はひたいを草にすりつけておじぎし、ぼそぼそと語った。
「敵の諸勢《しよぜい》はあらかた妻女《さいじよ》山の三|合《ごう》目から上あたりにいます。それから下、雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しにかけてもいることはいますが、これはいくらもござりませぬ。まず二千ほどのものでございましょう……」
「それはわかっている。兵どもがなんとか申しているはずじゃ。よも勇みたってはおらぬはずじゃが、どうじゃ」
「おおせのとおりでございます。袋の中のねずみになったにひとしい、お屋形《やかた》はどういうご量見《りようけん》であろうと、ぼそぼそとささやきあい、悲しみなげいているようでございました」
「大将分《たいしようぶん》の者どもは?」
「これはいろいろでございました。兵どもほどのことはございませんが、憂《うれ》いの色の見える者もあり、お屋形《やかた》にたてまつったいのち、なにごとも御意《ぎよい》のままよと酒などのんでいる者もあり、おししずまっていっこうかわるところのない者もいます」
「ふむ。政虎《まさとら》は?」
「これはたいへんきげんよげでございました。近習《きんじゆう》の若者衆に謡《うたい》をうたわせ、みずから小鼓《こつづみ》を打って遊びおられました。ひとしきりそれが栄《さか》えたあとは、酒など少々ふるまわれた後、寝所《しんじよ》に入って寝てしまわれました」
「ふむ、ふむ。それで、用心はきびしいか」
「これはきびしゅうございます。かがりの者、番の者、交代して、ひっきりなしに巡視《じゆんし》しております」
「よし、わかった。さがれ」
忍《しの》びの者を立ち去らした後、信玄《しんげん》はそのままの姿で沈思《ちんし》していたが、やがて口をすすぎ、顔を洗い、いつもの服装に着がえて、幕舎《ばくしや》を立ちいでた。
崖《がけ》の上に立って、妻女《さいじよ》山を望んだ。下界には霧《きり》がこめ、妻女《さいじよ》山にもうすくかかっている。
いたって平静《へいせい》なおももちではあるが、胸にははげしいおどろきと強い悔《く》いがあった。
「おれとしたことが、なんということをしてしまったろう。やつを死地《しち》に追いこんだつもりでいたが、おれこそ死地《しち》に引きずりこまれる寸前に立っている。やつはおれをおびきだして、一《いち》か八《ばち》かの勝負をいどみかけようとしているのだ。あぶないことであった。しかし、やみやみと引っかかるおれと思うのか」
とは思うが、いまにも引っかかる直前までいったことは誇《ほこ》りを傷つけずにはいなかった。なによりも、ここにおしのぼってきたことが残念であった。
「やつ、手を打ってよろこんだのだ。若者どもに謡《うたい》をうたわせ、小鼓《こつづみ》を打って楽しげにしているというのがそれだ。香餌《こうじ》にひかれて釣《つ》り針に鼻づらをすりつけている魚を見ている釣師《つりし》のような気持ちでいるのじゃわ」
と、思うのであった。
こうなれば、一時も早くここをおりて、海津《かいづ》城とその付近にいる味方の勢と一手になることが肝心《かんじん》だが、それが容易に行けることではない。
連絡の方法としては、犀《さい》川べりにそって千曲《ちくま》川との合流点近くまで行き、千曲《ちくま》川ぞいをさかのぼって海津《かいづ》城近くの広瀬《ひろせ》の渡しを渡るか、現在連絡路にしている道をとってまっすぐに川中島《かわなかじま》を横ぎって広瀬《ひろせ》の渡しにかかるかするよりほかはない。
しかし、犀《さい》川ぞいをとれば、妻女《さいじよ》山の敵軍からは遠くなるが、もし政虎《まさとら》が善光寺《ぜんこうじ》にたむろさせている五千の予備隊と連絡をとって、川を渡って横撃《おうげき》させ、同時にみずから打って出てくれば、こちらは左右から挟撃《きようげき》されるおそれがある。政虎《まさとら》としては思う壺《つぼ》であろう。
しょせんは、現在の連絡路をとるよりほかはない。これとても、危険はあるが、十分の準備をととのえ、ごく秘密裡《ひみつり》に、夜間にことを運んで、敵が気づいた時には広瀬《ひろせ》の渡しを大半がこえていることに運べば、だいたい行けるであろう。
とつおいつの思案のすえ、こうくふうした。
三
信玄《しんげん》は政虎《まさとら》とちがって、独断《どくだん》でことは運ばない。
ほとんどの場合、政虎《まさとら》は一人で戦術を決定し、決定すると、諸将にそれを言い渡すだけだ。それもごく大まかな戦術だ。細部《さいぶ》にわたっては、みずからもきめていない。戦闘状況《せんとうじようきよう》は刻々に変化していく。細かなところまできめたところで、そうなることはほとんどないばかりでなく、かえって軍の自在《じざい》な働きを封ずることになる、その場にのぞんでのひらめきによってさしずした方がよいと思うからだ。だから、軍議といっても、ほとんど諸将には口をきかせない。決定したことを申し渡すだけである。
しかし、信玄《しんげん》は違う。大綱《たいこう》は自分できめていても、軍議の席で諸将に十分に検討させ、意見を言わせ、もっともと思う意見があれば、訂正を加える。彼も戦《いく》さが生きもので変化縦横《じゆうおう》なものであることは知っているから、そう細かなところまではきめないが、それでもその打ち合わせは政虎《まさとら》にくらべればずいぶん綿密《めんみつ》であった。その綿密《めんみつ》な打ち合わせが実行できるように、かねてから兵が訓練してあるのであった。
彼は部将らを茶臼《ちやうす》山の本営《ほんえい》に集め、いつも彼が、妻女《さいじよ》山をながめる崖《がけ》の上の草原で軍議をひらき、軍配《ぐんばい》うちわを上げて、それぞれの地点を指点《してん》しながら、くふうした方策《ほうさく》を告げ、人々の意見を徴《ちよう》した。
飫富兵部《おおひようぶ》がまず口をひらいた。飫富《おお》は信玄《しんげん》の父|信虎《のぶとら》以来の宿将《しゆくしよう》で、十二、三年前ここからすこし南の上田原《うえだはら》で村上義清《むらかみよしきよ》との合戦《かつせん》があった時戦死した板垣信形《いたがきのぶかた》とともに、信虎《のぶとら》を駿河《するが》に追いだして信玄《しんげん》を武田《たけだ》家の当主とした大功臣《だいこうしん》であった。
「おおせいちおうごもっともでございますが、ずいぶん危険の多いお軍配《ぐんばい》のように、拙者《せつしや》には思われます。いずれは戦わねばならぬ敵、むしろ、当方からも兵を出し、海津《かいづ》城の方からも兵を出し、東西に陣を張り、敵のいずるを待って決戦してはいかがでございましょうか。もし敵がおじけて出てこぬようであれば、その時は東西一つになり、くり引きにして海津《かいづ》城に入ればよいかと存じます」
飫富《おお》のこの発言に、馬場美濃守信房《ばばみののかみのぶふさ》が賛成《さんせい》した。
「兵部《ひようぶ》殿のご意見よろしと拙者《せつしや》も考えます。はじめから、ひたすらに海津《かいづ》城入りを心がけましては、兵どもの心に戦う気が生じません。そこをもし敵に突きかけられましては、ひとたまりもなくくずれたつであろうと、案ずるのでございます」
同意の声がほうぼうに上がった。
「なるほど。他に意見はないか」
信玄《しんげん》は言って、座中《ざちゆう》を見わたした。そして、他に意見がないと見ると、言った。
「その方どもの意見、道理である。しかし、おれはまた見るところが違う。一つには、それでは政虎《まさとら》の術中《じゆつちゆう》におちいったことになる。忍《しの》びの者の報《しら》せでは、政虎《まさとら》はあの山上の陣中《じんちゆう》で、若者どもに謡《うたい》をうたわせ、小鼓《こつづみ》を打って、いとも楽しげにしている由《よし》。あのはげしい男がだ。必定《ひつじよう》これは十死一生の戦さして、勝負を一時に決しようと心ぐんでいるのじゃ。窮寇《きゆうこう》は追わずと、兵法《ひようほう》にあるが、彼はみずから進んでその窮寇《きゆうこう》となったのだ。かような敵にまともに当たっては損《そん》する。鋭鋒《えいほう》をかわしかわし、気力の疲れおこたるを待って戦うのが、兵の常道《じようどう》だ。おれは奇道《きどう》は用いたくない。常道《じようどう》によりたい。二つには、わが家では小幡山城《おばたやましろ》がこの六月病死し、原美濃《はらみの》がこの夏の割《わり》ガ嶽《だけ》攻めに手傷《てきず》を負うてまだ癒《い》えず、このたびは出陣しておらぬ。その方どもを弱しというつもりはさらにないが、味方の力はいつもほどないことは争われぬ。かたがた、あぶないことはせぬにこしたことはない。おれがくふうしたとおりにやってもらおう」
こう言われると、もう反対するものはない。みな平伏《へいふく》して、諒承《りようしよう》した。
四
茶臼《ちやうす》山の武田《たけだ》勢は夜半《よなか》すぐるころに行動をおこし、海津《かいづ》城へ移動にかかった。周到《しゆうとう》をきわめた移動ぶりで、物音ひとつ立てなかった。
雨《あめ》ノ宮《みや》の渡し付近を守備していた上杉《うえすぎ》軍の一支隊が異様《いよう》なけはいに気づいたのは、もう夜明けに近いころであった。大急ぎで妻女《さいじよ》山に注進《ちゆうしん》した。
がばと政虎《まさとら》ははね起き、いつもの眺望台《ちようぼうだい》に走りだして、山下を望《のぞ》んだ。
今日もまた霧《きり》がこめているうえにまだ暗い。夜明けのけはいを感じて天上の星かげが神経質にまたたいてはいるが、地上はまだ幽暗《ゆうあん》の中に塗《ぬ》りこめられている。政虎《まさとら》はその幽暗《ゆうあん》の底を鋭く視線をとぎみがいて縦横《じゆうおう》に走らせた。
なにも見えなかったが、やがてかすかな物音がはいあがって来た。まぎれもなく、それは多数の人馬が、馬にはわら沓《ぐつ》をはかせ、七寸《みずき》をしばり、口には枚《ばい》をふくませ、人は具足《ぐそく》のふれあいを制しつつ、粛々《しゆくしゆく》として移動しつつあるけはいであった。
そのひびきから判《はん》ずると、川中島《かわなかじま》の中心部はすでに過ぎて、広瀬《ひろせ》の渡し近くに行っているらしく思われた。
「しまった! 安心しすぎていた」
と胸の奥で、政虎《まさとら》はつぶやいた。
なによりも、自分の油断《ゆだん》がくちおしかった。いまになって考えてみると、昨日の日暮れの武田《たけだ》陣は、茶臼《ちやうす》山とそのふもと一帯も、海津《かいづ》城とその付近一帯も、ともにいぶかしかった。炊煙《すいえん》がいつもより多く立っていた。当然武田勢がなんらかの行動に出ることを予想しなければならないはずのものであった。
こちらとしては、兵をわかって広瀬《ひろせ》の渡しに伏《ふ》せて、海津《かいづ》城から出ようとする敵にそなえ、自分は主力をひきいて川中島《かわなかじま》の中ほどに待ちかまえていれば、信玄《しんげん》との決戦ができたはずである。
しかし、もうまにあわない。信玄《しんげん》ほどの男だ。海津《かいづ》城と緊密《きんみつ》な連絡をとり、おそらく、この山から下りて追いかける途中の要所要所にはびっしりと兵を伏《ふ》せているであろう。追撃に出ることは、わなにかかりに行くと同じだ。
「不覚《ふかく》であった!」
歯ぎしりしたいほどであった。
しだいにあたりは明るくなってきた。乳色《ちちいろ》の気体の海になっている川中島《かわなかじま》の底に、ごく緩慢《かんまん》にもくりもくりとそれが動くのは、その下に軍勢が動いているのだ。それはもうはるかに東北方の位置だ。すでに軍勢の半分以上は広瀬《ひろせ》の渡しを越えているに相違なかった。
明るさはしだいにまし、それについて霧《きり》もうすれてくる。ぬれ紙をとおして見るように、敵の動静が見えてきた。判断したとおりであった。広瀬《ひろせ》の渡しのきわにはまだ四、五千の人数がかたまって、渡渉《としよう》の番の来るのを待ってひしめいているが、そのこちらがわには一隊千人くらいの兵が二隊、五百メートルほどの間隔《かんかく》をおき、こちらをむいてかまえている。
こちらの攻撃にそなえているのだ。渡渉《としよう》がはかどるにつれて、両隊はくり引きにしてすこしずつさがる。遠いからごく緩慢《かんまん》に、まるでうごめく虫けらの群れのように見えるが、政虎《まさとら》には、もっとも堅固《けんご》な退陣をしていることがわかるのである。こちらが全然追撃に出ず、またそのけはいさえ見せないのに、これは無類《むるい》といってよい用心ぶりであった。
「おどろくわ、やつの用心深さには」
政虎《まさとら》は舌《した》を巻いて感心した。
不安はこうして信玄《しんげん》が海津《かいづ》城に引きこもる以上、いっそう長期の対陣となり、ついにはものわかれにもちこまれそうなことであった。かえすがえすも残念なのは、注意深くさえあれば、きわめて容易に予知《よち》しえたはずのこの作戦をつい見すごして、後手《ごて》を引いたことであった。
ゆううつであった。
しかし、いつのまにか彼の後方に集まっていた近習《きんじゆう》の者らの顔には、安心の色があらわれていた。これまで切断されていた善光寺《ぜんこうじ》との連絡路がつながったからであることは明らかであった。むらむらと怒《いか》りがつきあげてきた。
(だれもおれの心はわかってくれぬ!)
と、思った。
しかし、すぐ思いかえした。
(わからねばこそよいのだ。心中の秘《ひ》が人に見すかされるようでは、武将のうつわとは言えぬわ)
政虎《まさとら》はからからと笑いだした。明るく、くったくなげに、笑い声をひびかせ、人々をかえりみて言った。
「信玄狸《しんげんだぬき》め、ひとり角力《ずもう》をとっているわ。ご苦労なことの。しかし、よいながめじゃわ。酒がのうてはかのうまい。持て」
と命じ、持ってこられた酒をみずからものみ、人々にもあたえ、いとも楽しげな風情《ふぜい》で見物していた。八月二十九日――この年の八月は小の月であるから、月の最後の日であった。
五
九月に入ると、めっきり冷気《れいき》がましてきた。朝な朝なの霧《きり》はますます深くなり、夜が明けてもなかなか晴れなかった。昼になるとおだやかな秋晴れの日が照り、日によっては時雨《しぐれ》がひとむら二むらおそって、山々や広い川中島《かわなかじま》に蕭条《しようじよう》たる音を立てた。野の草は目に見えて黄ばみ、山々の木々は日に日に紅《あか》に黄に色づき、山をわたる風もこれまでとちがう乾《かわ》いた音を樹々《きぎ》に立てた。目にも、耳にも、日々に深まる秋のけはいであった。
こうしたなかに、妻女《さいじよ》山と海津《かいづ》城のにらみあいはつづいた。信玄《しんげん》も動かず、政虎《まさとら》もうごかなかった。動けなかったといった方が適当かもしれない。
「どうやら、ものわかれにもちこまれそうだぞ」
と、政虎《まさとら》の不安はつのったが、こうまで相手が堅固《けんご》に城にこもっているものを、どうできるものではなかった。凡庸《ぼんよう》な将がこもっていても、城攻《しろぜ》めはむずかしいものだ。孫子《そんし》にも十倍の兵力がなければ攻城《こうじよう》してはならないとあるくらいだ。ましてや、信玄《しんげん》ほどの者がこもっているとあっては、難攻不落《なんこうふらく》といってよい。味方に大損害をあたえ、うんと力を弱らせておいて打って出られれば、こちらが大敗北《だいはいぼく》することは目に見えている。敵の変化を待って、勝機《しようき》をつかむよりほかはないのである。
政虎《まさとら》は内心の焦燥《しようそう》をおしかくし、悠々《ゆうゆう》たる態度をつづけ、小鼓《こつづみ》を打ち、笛を吹き、琵琶《びわ》を弾《だん》じて日を過ごした。しかし、信玄《しんげん》が海津《かいづ》城に移動した時から、全軍にふれをまわし、
「兵糧《ひようろう》は夕方|炊《かし》ぐ時、三食分を調《ととの》え、朝と昼は炊《かし》がないこと」
と、申し渡し、これを励行《れいこう》させた。信玄《しんげん》の移動によって考えさせられたのであった。
こうしてにらみあいは、いく日もつづいた。
政虎《まさとら》とちがって、信玄《しんげん》はあせってはいなかった。彼は強《し》いて決戦しようとは思っていない。
「戦うべきなら戦おうが、戦わねばならぬことはない」
と考えていた。しかし、きびしい訓令《くんれい》を出し、敵に乗《じよう》ぜられぬための用心はおこたらせなかったし、最も注意深い目で敵のすきをはかったことはいうまでもない。
九月八日、信玄《しんげん》は一策《いつさく》を案じだして、部将らを海津《かいづ》城に集めて、軍議をひらき、
「いく日もにらみあいがつづいて、みな屈託《くつたく》しているであろうが、敵の様子を見るに、すこしもゆるみが見えぬ。ゆるんでいるように見せかけてはいるが、内実《ないじつ》はそうでない。いぜんとしておれと刺《さ》し違えて果てようとするばかりのはげしいものを秘めていると、おれには見える。うかつにははじめられぬのだ。しかし、今朝《けさ》ほどふと案じた策がある。それをみなで吟味《ぎんみ》してもらいたい」
と、前おきして、言う。
「おれは自分で戦っても見、また政虎《まさとら》が他ととり結んだ戦いぶりを見ていて、政虎《まさとら》の戦《いく》さぶりは、鷹《たか》にそっくりじゃと思う。鷹《たか》が獲物《えもの》をとるには、まっしぐらに襲《おそ》いかかり、一撃してからみおとしてしとめる。一撃してはずれれば、あとをかえりみずして飛び去る。よう似ている。これはやつが気短《きみじか》であるのと、人にすぐれて名を重んずる性質のためじゃ。おれはやつのこの性質に乗って、くふうしてみた。――このにらみあいには、気の長いことでは人に負けぬおれすら、ちとじりじりしているのじゃから、やつのいらだちはずいぶんであろうと思う。悠々《ゆうゆう》としてせまらぬ様子で、楽器などもてあそんでいると聞くが、必定《ひつじよう》、心のうちでは、こんどの戦《いく》さではとても決戦にもちこむことはできぬ、一合戦《ひとかつせん》していくらかでも分《ぶ》がよければ、それで名誉《めいよ》を保《たも》ったことにして引きあげようと思っているのではないかと思う。この気持ちを利用するのだ。味方の総人数二万余あるが、その一万二千をわけて、妻女《さいじよ》山を夜襲《やしゆう》させる一方、のこり八千を川中島《かわなかじま》に出し、善光寺道《ぜんこうじどう》をとりきる。もし政虎《まさとら》が勝てば、これでいちおうの名誉《めいよ》は立ったと思い、必定《ひつじよう》彼は善光寺《ぜんこうじ》へ引きあげるであろう。負ければこれまたもちろん引きあげる。途中に待ちかまえていて、ぱくりと食ってしまおうという寸法《すんぽう》だ。どうであろうの」
飫富兵部《おおひようぶ》が、笑いながら言った。
「しごくの妙計《みようけい》であります。きつつきが、くちばしでトントンと木をたたき、穴をつくってひそんでいる虫を追いだし、穴の口に待ちかまえていて、ぱくりと食ってしもうようなものでございますな」
うまい譬喩《たとえ》であった。人々はどよめき笑った。
信玄《しんげん》も笑って、
「今日は鳥のたとえばかり出るの。いかさま、そなたの申すとおりじゃ。啄木鳥《きつつき》の戦法と名づけようかの」
と言った。
甲陽軍鑑《こうようぐんかん》では、この戦術を立てたのは、山本勘助入道道鬼《やまもとかんすけにゆうどうどうき》であるということになっているし、それが江戸時代を通じてずっと信ぜられてきたのであるが、現代になって渡辺《わたなべ》世祐《よのすけ》博士の研究によると、山本勘助《やまもとかんすけ》は実在の人物であり、またこの時の合戦《かつせん》に出陣もしているが、甲州《こうしゆう》軍の中ではいたって地位の低いものであったとある。博士の記述を引用すると、こうある。
「勘助《かんすけ》は元来|三河《みかわ》の牛窪《うしくぼ》で生れた人であって、山県三郎兵衛昌景《やまがたさぶろうひようえまさかげ》のごく下に使われて居《お》った者でありますが、昌景《まさかげ》が川中島《かわなかじま》戦争の時に斥候《せつこう》に出したのでございます。それが帰って来て昌景《まさかげ》に注進《ちゆうしん》したのが、いかにも殊勝《しゆしよう》らしいので、信玄《しんげん》が、『彼は何者《なにもの》か』と昌景《まさかげ》に聞いた。『彼は近頃《ちかごろ》使っている身分のごく低い三河《みかわ》の者で、口才《こうさい》のある山本勘助《やまもとかんすけ》と申すものであります』と答えた。その後、勘助《かんすけ》はいつ死んだかわからないほど名もない者であったのでありますが、云々《うんぬん》」
これにはいろいろ議論のあるところであろうが、ぼくにはこの説が信用されるので、この小説には勘助《かんすけ》を登場させない。
さて、信玄《しんげん》の戦術は、なみいる部将全部に、異議《いぎ》なく受けいれられた。
そこで、信玄《しんげん》はさらに細かな指令を出し、軍の編成《へんせい》を発表した。
高坂弾正《こうざかだんじよう》、飫富兵部《おおひようぶ》、馬場民部《ばばみんぶ》、小山田備中《おやまだびつちゆう》、甘利左《あまりさ》衛門尉《えもんのじよう》、真田一徳斎《さなだいつとくさい》、相木《あいき》、芦田下野《あしだしもつけ》、小山田弥三郎《おやまだやさぶろう》、小幡《おばた》尾張守《おわりのかみ》の十人が妻女《さいじよ》山を襲《おそ》うこと。その勢|合《がつ》して一万二千。
信玄《しんげん》のひきいるのは、中軍《ちゆうぐん》は飫富三郎兵衛《おおさぶろうひようえ》、左隊は左典厩信繁《さてんきゆうのぶしげ》、穴山《あなやま》、右隊は内藤修理《ないとうしゆり》、諸角豊後《もろずみぶんご》、旗本《はたもと》の左|脇備《わきぞな》えは原隼人《はらはやと》、武田逍遥軒《たけだしようようけん》、右|脇備《みぎわきぞな》えは嫡子太郎義信《ちやくしたろうよしのぶ》。これにさらに右|備《ぞな》えがあって、それは望月《もちづき》。旗本《はたもと》の後備《あとぞな》えは跡部《あとべ》大炊助《おおいのすけ》、今福善九郎《いまふくぜんくろう》、浅利《あさり》式部丞《しきぶのじよう》。その勢|合《がつ》して八千。
日時は明晩夜半にかかり、明後日の朝のひき明けにはことを終わること。
みなみな、諒承《りようしよう》して、退散した。
六
翌九日、日没《にちぼつ》にはまだ間のあるころであった。政虎《まさとら》は妻女《さいじよ》山の上で、いつものとおり琵琶《びわ》を弾奏《だんそう》していたが、日がかげるにつれて、風がつめたくなる。バチをとめ、襟《えり》をかき合わせたが、ふと海津《かいづ》城の方角でいつもと違うざわめきがしはじめたのを感じ、そちらを見ると、炊煙《すいえん》がいつもよりおびただしい。海津《かいづ》城内だけでなくその付近一帯にたむろしている武田方の陣地のいずれも、立ちのぼる炊煙《すいえん》が多い。のみならず、どことなくざわめいた感じがある。
政虎《まさとら》は琵琶《びわ》をひざからおろし、ずいと立ちあがって、そこのよく見える位置に歩をうつした。
日はまだはいらないが、午後になって出た雲が西方の山ぎわに横たわり、太陽はその陰《かげ》になり、赤い夕ばえの色が空に満ちている。この山上はその茜《あかね》の色で明るいが、平地はもう夕べの陰《かげ》がひろがりはじめている。城内でも、城外の陣地でも、炊事《すいじ》の赤い炎《ほのお》の色があざやかに見え、まっくろな煙がもくもくと渦巻《うずま》きつつ立ちのぼっていた。
「なるほど」
にこりと笑った。
二つのことが考えられた。
一つは、信玄狸《しんげんだぬき》め、退陣するつもりかもしれない。関東の形勢によっては、あるいはまた遠州《えんしゆう》方面に徳川《とくがわ》勢が出て焼き働きでもすれば、信玄《しんげん》としてはここに釘《くぎ》づけになっているわけにはいかない。十分に考えられることである。
二つは、ここを夜襲《やしゆう》することだ。
(はて、この二つのうち、いずれであろうか?)
と、考えたが、とたんにこう考えた。
(相手が信玄《しんげん》だ。単純《たんじゆん》な夜討《よう》ちであろうはずはない。かならず二手《ふたて》先、三手《みて》先まで読んで、手くばりするはずだ)
同時に、手にとるようにあざやかに、信玄《しんげん》の手のうちがわかった。
(なるほど、なるほど、おれをここから追いだし、待ちかまえていて、引ッつつんで討ち取るつもりじゃわ!)
笑いが腹の底からこみあげてきた。
「ハハハ、ハハハ、ハハハ……」
海津《かいづ》城を見下ろしながら、政虎《まさとら》はしばし笑いつづけた。
あまり政虎《まさとら》が笑うので、侍臣《じしん》らはおどろきあきれて凝視《ぎようし》している時、各部隊から注進《ちゆうしん》の者がはせのぼってきた。
「敵陣に異変が見えるというのじゃろう。わかっている、わかっている」
きげんよく言い、使い番の者を呼んで、部将らに急ぎ集まるように言えと命じた。
小一時間の後、部将らは続々と山上に集まってきた。
政虎《まさとら》は幕舎《ばくしや》の横の打ちひらいた草原に席をもうけてみなをすわらせた。日はもう没《ぼつ》し、急速に暗くなるころだ。かがり火がかりの者どもはかがり火をふやそうとした。
「それはやめい。話は手短《てみじか》だ。すぐすむ」
と、政虎《まさとら》は制止して、部将らの席の中ほどに進みいり、青竹の杖《つえ》をついて、立ったまま言った。
「敵は一手の勢《せい》をわけて、今夜ここに夜討《よう》ちをかける。よほどの勢であろう。おそらく、敵の半数以上の勢であろう。そうでなければ、ききめがないゆえな。そして、おれが一方を切りやぶって、善光寺《ぜんこうじ》に引きあげるところを、途中にまた勢を伏《ふ》せ、おしつつんで討ち取るつもりでいる。その方どもも敵の夕餉《ゆうげ》の煙がいつにも数倍していることに気づいて、注進《ちゆうしん》の者をつかわしてくれたが、あれはそのためだ。で、おれはその裏を掻《か》いてくれる。夜討《よう》ち勢がここに到着するまでに、おれはここを下ってしもう。そして、川中島《かわなかじま》の中ほどに待ちかまえて、みごとおれを包み討ちするつもりでいる狸《たぬき》めに襲《おそ》いかかってくれようと思う。ふいを襲《おそ》うつもりの狸《たぬき》めを不意討《ふいう》ちにしてくれるのだ。時刻は夜半|子《ね》の刻《こく》。それぞれ支度《したく》して、陣所陣所《じんしよじんしよ》に待っていて、本隊の通過《つうか》とともに従え、いっさい物音を立てるでないぞ。そむく者は軍律《ぐんりつ》によって斬《き》ってすてい。かがり火はいつもと同じに焚《た》き、立ち去って後もかわらず燃えつづけるようにあんばいせよ。わかったな。もう一度くりかえす」
と、くりかえして、退散させた。
車がかりの陣法《じんぽう》
一
政虎《まさとら》は夜半に行動をおこして、山を下った。宵《よい》にさしずしたとおり、山のほうぼうに宿営《しゆくえい》していた諸隊はいずれも準備をととのえていて、政虎《まさとら》の本陣《ほんじん》が下るにつれて加わった。
山下の雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しを前にした河原で勢ぞろいする。
政虎《まさとら》は紺糸《こんいと》おどしの具足《ぐそく》に金の星冑《ほしかぶと》を着、萌黄《もえぎ》緞子《どんす》の袖無《そでな》しの陣羽織《じんばおり》を着、放生月毛《ほうしようつきげ》と名づくる駿馬《しゆんめ》にまたがり、青竹の指揮杖《しきづえ》を片手に、縦横《じゆうおう》に諸勢の中を乗りまわって、備えを立てた。山上の本営《ほんえい》をはじめ、各部隊がすててきた陣所陣所《じんしよじんしよ》には、いつもとかわらずかがり火があかあかと燃えているが、ここは、なかば西にかたむいた九月の月がおぼろに照らしているだけであるばかりでなく、夜の冷気《れいき》の増すにつれて、川から立ちのぼる水蒸気が凝《こ》って霧《きり》となってひろがりつつあった。その霧《きり》はずいぶん早い速度で濃《こ》くなっていく。
馬を乗りまわしながら、低いおさえた声でさしずする政虎《まさとら》の姿は、その霧《きり》の中にはっきりあらわれたり、おぼろになったりしたが、はっきりなった時には冑《かぶと》の金の星がきらりきらりと光った。
やがて隊の編成《へんせい》がおわった。
先鋒《せんぽう》は柿崎《かきざき》和泉守景家《いずみのかみかげいえ》、そのうしろに旗本《はたもと》勢をひきいて政虎《まさとら》、これを中心にして右に六隊、二隊ずつ横にならぶ。そのうしろに一隊、これは右陣の予備隊だ。左に四隊、これも二隊ずつ横にならぶ。予備隊として一隊うしろにひかえる。中軍《ちゆうぐん》のうしろに予備隊として一隊、これは甘粕景時《あまかすかげとき》がうけたまわった。そのうしろに直江実綱《なおえさねつな》が小荷駄隊《こにだたい》をひきいて従うことになった。
これだけのことをおわってから、政虎《まさとら》は諸隊にその位置にとどまったまま休息しているように命じた。
まもなく、山を下りるまぎわに出した物見《ものみ》の兵が来た。
「海津《かいづ》城とそのまわりでは、諸隊が出動の用意ちゅうであります。おびただしい人数で、だいたい半分以上の部隊であるようであります」
と言う。
政虎《まさとら》は敵が確実に妻女《さいじよ》山におし寄せてくることを知った。
「よし」
と、うなずき、諸隊に進発を命じた。
越後《えちご》勢八千、柿崎景家《かきざきかげいえ》の隊を先に立て、肅々《しゆくしゆく》として雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しをわたった。山陽外史《さんようがいし》のいわゆる「鞭声肅々夜河《べんせいしゆくしゆくよるかわ》を過《わた》る」だ。
八千という大軍ではあるが、ひよりつづきで、水流速い千曲《ちくま》川もずいぶんやせている。それほどの時間はかからず、全軍わたりおわった。
渡ったところで、また備えを立てなおし、なるべく海津《かいづ》城と妻女《さいじよ》山から遠ざかるように、うんと迂回《うかい》して北国街道《ほつこくかいどう》にそうて、北へ北へとむかった。
霧《きり》はますます深くなって、いまは空にある月の姿も見えない。漠《ばく》として天地を閉ざす霧《きり》のこまかな粒子《りゆうし》の一つ一つに月光がこもって真珠色《しんじゆいろ》の厚い幕《まく》となり、一|間《けん》もはなれればもうなにも見えないほどであった。
そのなかを、越後《えちご》勢はたえず前方と右方に斥候《せつこう》をはなって警戒《けいかい》しながら、一歩一歩たしかめるようにして進んだ。
六キロばかり行くと、政虎《まさとら》は全軍に停止を命じ、使い番を各部隊にはせて、またその位置で休息させた。
「騎馬《きば》の者は下馬《げば》せよ。ただし馬はかならず身《み》ぢかにおけ、口綱《くちづな》を三尺以上とりはなしてはならない。みなみな腰をおろしてよいが、具足《ぐそく》はゆるめてはならない。得物《えもの》も身辺《しんぺん》をはなしてはならない。急な場合は貝を吹く。ただちに立ちあがり、騎士《うまのり》は騎乗《きじよう》して、次のさしずを待て」
政虎《まさとら》も馬をおり、床几《しようぎ》をすえさせ、青竹の指揮杖《しきづえ》を杖《つえ》づいて、海津《かいづ》城の方角と妻女《さいじよ》山の方角とを、かわるがわる凝視《ぎようし》し、ときどきとぎすました耳を立てた。いずれも霧《きり》にとざされて、まるで見えない。物音もまた聞こえなかった。
二
妻女《さいじよ》山襲撃《しゆうげき》の任をもった武田《たけだ》方十個|隊《こたい》が行動をおこしたのは、子《ね》の刻《こく》をすこしすぎていた。これらの部隊の進路は昨日のひるまでの間に、土地の百姓《ひやくしよう》に聞いたところに従って、ものなれた将校が実地に検分《けんぶん》していた。妻女《さいじよ》山の背後に標高六百九十四メートルの山がある。妻女《さいじよ》山より高いこと百四十八メートルだ。この山のうしろに海津《かいづ》方面からのぼる小径《こみち》がある。主力がこれをよじのぼり、尾根《おね》を爪先《つまさき》下りに縦走《じゆうそう》していっきに政虎《まさとら》の本陣《ほんじん》に殺到《さつとう》する。ふいを襲《おそ》われてうろたえさわぐところを、こんどは妻女《さいじよ》山の東がわ一帯の山麓《さんろく》から諸隊が鬨《とき》の声を上げてよじのぼっていく、そうなればさすがに猛気《もうき》の政虎《まさとら》もどうすることができず、山の西がわを駆《か》けおり、雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しをわたって川中島《かわなかじま》を善光寺《ぜんこうじ》を目ざして落ちるほかはないはずと計算された。
出発と定《さだ》められた子《ね》の刻《こく》ごろからわきたちはじめた霧《きり》は天の助けのかくれ蓑《みの》と思われた。諸隊はしばらく出発をのばし、霧《きり》の濃《こ》くなるのを待って、行動をおこした。象山《ぞうさん》のふもとから山々のすそにそい、旗幟《きし》を伏《ふ》せ、馬の七寸《みずき》をしばり、枚《ばい》をふくませ、物音をひそめ、総勢一万二千、縦隊になって進んだ。
信玄《しんげん》はその奇襲隊《きしゆうたい》が出発してから、のこる八千を部署《ぶしよ》して、海津《かいづ》城を出た。陣形の編成《へんせい》は一昨日|定《さだ》めたとおりだ。具足《ぐそく》の上に法衣《ほうい》をまとい、後世《こうせい》演劇や義太夫《ぎだゆう》で諏訪法性《すわほつしよう》の冑《かぶと》と呼ばれるようになった、あの有名な冑《かぶと》を着、太った背中をまるめて、中軍《ちゆうぐん》に馬を打たせた。馬のあがきのたびに、冑《かぶと》についた雪のように純白《じゆんぱく》な唐牛《からうし》の毛が、霧《きり》の中にふわふわと動いて、夢幻的《むげんてき》な感じであった。
城を出て千曲《ちくま》川にそってすこし下ると、広瀬《ひろせ》の渡しがある。ここでは川はばは広くなるが浅瀬《あさせ》となる。だからこそ、広瀬《ひろせ》といったのであろう。全軍備えをくずさず渡渉《としよう》した。
渡ったところで、馬を乗りとどめ、軍奉行《いくさぶぎよう》に命じて陣形を点検させたが、その間たえず妻女《さいじよ》山の方をかえりみた。霧《きり》にへだてられてまるで見えないが、戦《いく》さがはじまれば陣所《じんしよ》を焼きたてる火の色が見えるであろうし、ときの声も聞こえるはずである。いっこうそのけはいはなかったが、べつだん心配はしない。まだ定《さだ》められた時刻には早いのである。
軍奉行《いくさぶぎよう》がかえってきて、諸隊、みな備えをくずしてはいないと報告した。
「よしよし。それでは、そのままの位置で、腰をおろして休ませい。しかし、いつでも戦えるよう気をひきしめていよ」
使い番が馬を飛ばせていって、命令を伝えた。
信玄《しんげん》は床几《しようぎ》をすえさせてかけ、一時間以上も待った。夜明けの冷気《れいき》がひしひしとせまる。法衣《ほうい》のえりをかきたてて首すじから胸をおおうたが、いくども軽いせきが出た。
信玄はだんだん心がいらだってくるのを感じた。
(せいてはいかん。せくのはおれの持ち前ではない。やつの方だ)
とみずからたしなめてにが笑いした。
しかし、それにしてもおそい、もうはじまらねばならんころじゃがと思って、目をこらしたが、視野は漠々《ばくばく》と閉ざされて、煙のような霧《きり》が渦巻《うずま》いたり流れたりするばかりだ。
どこか遠いところで、鶏《にわとり》の啼《な》くのが聞こえたかと思うと、すぐまた別な遠い方角でも聞こえた。
またあせりが出てきた。
(この策にまちがいはないはずだが、霧《きり》の深さに道に迷ったのではないじゃろうか。いやいや、あれほど綿密《めんみつ》に検分《けんぶん》したのだ。まちがえる道理はない……)
さまざまな疑惑《ぎわく》がわいてきたが、ともあれ、もうすこし進めてみようと思った。
使い番がはせめぐり、諸隊はまた行進をおこした。
二千メートルほど進んだところで、また停止させ、休息させた。うねりながら北流する千曲《ちくま》川の西方千メートルほどの地点だ。出水時《しゆつすいじ》にはいつも千曲《ちくま》川が氾濫《はんらん》して水びたしになるからであろう、川中島《かわなかじま》もこのへんでは、砂と石ころの多い原野のままであった。枯《か》れたすすきや灌木《かんぼく》のしげみに、霧《きり》のきれっぱしが、うすい真綿《まわた》のようにからんでいた。
また一時間ばかりたった。
妻女《さいじよ》山にはなんの異変もおこったように見えない。もうこうなっては、道に迷ったか、他に原因《げんいん》があるか、いずれにしても、夜襲《やしゆう》は失敗に帰したと思わなければならない。にわかに、信玄《しんげん》の焦慮《しようりよ》は強くなった。
(どうしよう?)
と思った。
まもなく夜が白《しら》んでくるであろうが、それまでに引きとらなければ、恥《はじ》さらしなことになるとも思ったが、ひょっとして敵の警戒《けいかい》が厳重をきわめているので、隙《すき》をはかっているのかもしれない、だとするといまにも始まるかもしれないとも思った。いくさにおいて躊躇《ちゆうちよ》ほどの拙劣《せつれつ》さはないとは思いながらも、いずれとも決することができなかった。
(こうまで間《ま》のびするなら、いちおうの注進《ちゆうしん》をせぬということがあるものか!)
と、腹が立った。妻女《さいじよ》山に行きむかった十|将《しよう》、いずれも百戦の経験をつんだ老巧《ろうこう》の者どもであるのに、考えられないことであった。
引きもできず、進みもできず、時を費やしているうちに、空に明るさがさしてきた。下界はまだ暗く、そして濃霧《のうむ》にとざされているが、まうえの空にあるかなきかの光がぼうとさしてきたかと思うと、急速に明るくなってくる。
その時であった。異様《いよう》な物音がはるかな前方から聞こえてきた。それは風の草原を過ぎる音とも、遠い川瀬《かわせ》のひびきとも、聞けば、聞かれたが、信玄《しんげん》のものなれた耳には、たしかに人馬の押してくる音と聞こえた。しかも、相当大軍の……。きびしく胸がしまった。
信玄は使い番の群れをかえり見て、
「たしかに人馬の押してくるひびきと聞くのに、先陣《せんじん》の者ども、なにも言うてこぬ。夜の長さに寝惚《ねほ》れてはいぬかとおれが言うたと申してまいれ」
と命じた。
「はっ」
使い番の者五|騎《き》、先鋒隊《せんぽうたい》の数だけ、馬を飛ばしていった。
その間に空はますます明るくなり、暁《あかつき》の風がそよぎそめ、しだいに霧《きり》がうすれはじめた。
信玄《しんげん》はまじろぎもせず前方の霧《きり》の中を凝視《ぎようし》していたが、やがて、おぼえず、
「あっ!」
と声を出そうとして、あやうくのみこんだ。
それと同時であった。本陣《ほんじん》にいあわせた武者《むしや》らが、大将分《たいしようぶん》の者も兵も、一様《いちよう》に、
「あっ!」
と言って、総立ちになった。
霧《きり》のうすれるにしたがって、半町ほど前にかまえている味方の五隊が影絵《かげえ》のように見えてきたが、それがしだいに影《かげ》を濃《こ》くするとともに、そのむこうに乳の中におとした墨汁《ぼくじゆう》がにじみひろがっているように、あるいはまた薄墨色《うすずみいろ》の煙が渦《うず》を巻いているように、人馬の群れの影《かげ》が見えてきたのだ。おびただしい人数だ。
(自分がさわいでは、全軍がうろたえる)
とっさに考えて、わざとふかぶかと床几《しようぎ》に腰をおろし、右手をわきに出した。
「よこせ」
低く言った。一人の侍臣《じしん》が心得《こころえ》て、あずかっていた軍配《ぐんばい》団扇《うちわ》をわたした。
信玄《しんげん》は左の手に緋房《ひぶさ》のついた長いひもをしごき、水平に目の高さに上げ、ゆるやかに横にふった。たったそれだけのことであったが、総立ちになっていた本陣《ほんじん》の将兵らのさわぎはぴたりと静まり、みな槍《やり》をひざにのせ、片ひざついた折敷《おりしき》の姿になった。
信玄は団扇《うちわ》を右のひざにおしたてた。自信を思わせるせまらない態度ではあったが、思案はもっともいきいきと、また機敏《きびん》にはたらいていた。
(裏をかかれた。さすがは政虎《まさとら》じゃ。ゆうべの夜討《よう》ちをさとり、そのまえに山を下り、雨《あめ》ノ宮《みや》の渡しをはねこし、おれの来るのを待っていたにちがいない。やつの兵は八千、こちらも八千。対々《たいたい》ではやつの猛勇《もうゆう》、なかなか骨じゃが、どうにかもちこたえているうちには、夜討《よう》ち勢が帰ってくる。そうなれば勝利はこちらのものだ。なんとしてももちこたえることだ)
すばやくその用意をした。武田|重代《じゆうだい》の日の丸の旗と武田菱《たけだびし》の旗と将軍《しようぐん》の旗とを本陣《ほんじん》の右にひかえた嫡子義信《ちやくしよしのぶ》の陣所《じんしよ》に立てさせ、本陣《ほんじん》には馬じるしの纏《まとい》と四如《しじよ》の旗一本だけを立てた。敵の目をまどわし、いずれが本陣《ほんじん》であるかを疑わせるためであることはいうまでもない。
同時にまた使者を召し、一刻《ひととき》(二時間)こらえれば、妻女《さいじよ》山へむかった勢がはせつけ、かならず味方の勝利におわるべきことを伝達《でんたつ》させた。
この間に天地はいっそう明るく、霧《きり》はますますうすれ、上杉《うえすぎ》の先鋒隊《せんぽうたい》の馬じるしまでありありと見えてきた。大根《だいこん》の折掛《おりかけ》の纏《まとい》だ。やや強くそよぎだした朝風に吹きなびいている。この馬じるしがだれのものであるか、甲州《こうしゆう》勢はみなよく知っている。
「なるほど、柿崎《かきざき》和泉《いずみ》が先手《さきて》をうけたまわっているが、そのはず、彼は猛勇随一《もうゆうずいいち》の者」
と、思った。「暁《あかつき》に見る千兵の大牙《たいが》を擁《よう》するを」という山陽《さんよう》の詩句はこれをもとにして詠《えい》じだされたものであろう。
大牙《たいが》は大将の旗のことであるから、柿崎《かきざき》の馬じるしでは大牙《たいが》とはいえないが、文学ではこの程度のやりくりはつねのことだ。事実の追究は文学の目的ではない。気分や精神を効果的に伝えるにある。
三
この時|政虎《まさとら》の用いた陣法《じんぽう》は車がかりの陣法《じんぽう》というのであったと、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》が言いだしてから、後世《こうせい》長く踏襲《とうしゆう》されて、江戸時代にできたこの時の合戦記《かつせんき》はすべてそう述べているが、それがどんな陣法《じんぽう》であったかははっきりしない。軍鑑《ぐんかん》には、各隊が車輪の輻《や》が転ずるようにかわるがわるあらわれ、いくまわり目かにはみずからの旗本《はたもと》と敵の旗本《はたもと》とがめぐりあって勝負を決する陣法《じんぽう》であると記述しているが、実際にはどんな形の陣形にするのか、いたってあいまいである。
日本の兵学《へいがく》は江戸時代になって小幡景憲《おばたかげのり》が甲州流《こうしゆうりゆう》をはじめてからさかんになって、ほとんど全部の流派がその後の所産《しよさん》で、つまりは太平《たいへい》の時代に机上《きじよう》で組み立てられたものであるところから、今日《こんにち》の学者のほとんど全部の人が、車がかりの陣法《じんぽう》なども軍学者《ぐんがくしや》らの空論《くうろん》であると論評している。ぼくはこの時の政虎《まさとら》の陣形が、その左右隊が両隊ずつならんで二、三列をなしているところから見て、両隊たがいに正奇《せいき》をなしてたすけあうのをこの名をもって呼んだのではないかと見ている。
信玄《しんげん》が柿崎《かきざき》の大馬じるしを認《みと》めたと同じく、政虎《まさとら》も敵陣におしたてられる旗幟《きし》を見た。元来|旗本《はたもと》に立てられるべき旗が両陣にわけて立てられたのを見て、かっと激した。
「うすぎたないやつめ!」
と、思った。しかし、それとともに、
「やつは妻女《さいじよ》山にむかった勢が駆《か》けつけるまで、長びかせるつもりじゃわ」
「その手に乗ろうか。ひとひしぎに踏《ふ》みにじってくれる」
と決心し、きびしく引きしめた目で、進むにつれて大きくはっきりとなってくる敵を凝視《ぎようし》しつつ馬を進めた。
武田の先手《さきて》は五隊だ。それぞれの陣に立った馬じるしで、それがだれであるかがわかる。こちらから見て左端が内藤修理《ないとうしゆり》、次が諸角豊後《もろずみぶんご》、飫富三郎兵衛《おおさぶろうひようえ》、信玄《しんげん》の弟|左典厩信繁《さてんきゆうのぶしげ》、穴山信良《あなやまのぶよし》の順に備《そな》えている。おししずまってまるで動揺《どうよう》を見せない様は、百雷《ひやくらい》が一時に落ちかかろうとびくともしない堅剛《けんごう》さにさえ見えた。
こんな敵陣にむかってはかかりにくいものである。やがて柿崎《かきざき》の隊も足をとめるに相違なかった。
政虎《まさとら》は指揮杖《しきづえ》を鞍《くら》の前輪《ぜんりん》に横たえておいて、従士《じゆうし》の一人から鉄砲を受けとり、筒先《つつさき》をななめに空にむけてもちかまえつつ、馬を進めたが、鉾矢形《ほこやかた》に組んだ柿崎《かきざき》隊の先頭と敵陣との距離が十五|間《けん》ほどにせまったと見るや、引き金を引いた。
轟然《ごうぜん》たるそのひびきがむちになった。しだいに足がゆるくなり、知らず知らずに停止しようとしていた柿崎《かきざき》ははっとわれにかえった。
「かかれ!」
柿崎《かきざき》が大音《だいおん》にさけんで采配《さいはい》をふるうと同時に、その隊二千余人、ドッと喊声《かんせい》をあげるや、冑《かぶと》をかたむけ、指物《さしもの》をうつむけ、槍《やり》をくんで、まんまえにかまえている飫富《おお》隊と内藤《ないとう》隊とに突進していった。
四
柿崎はみずからは床几《しようぎ》に腰をかけて采配《さいはい》ばかりをうちふって戦う武将ではない。みずから槍《やり》をとって陣頭に立ち、手をくだいて戦うことを生涯《しようがい》つづけてきた武将だ。この時五十五になっていたが、猛気《もうき》はいささかもおとろえない。隊の先鋒《せんぽう》が敵と接触《せつしよく》したと見るや、れいの青貝《あおがい》ずり握《にぎ》り太《ぶと》二|間《けん》の柄《え》に四尺という長い穂《ほ》をすげた大槍《おおやり》を、槍持《やりも》ちの手から引きもぎるようにさらいとり、馬をあおって先陣にはせついた。いつもの大鍬形《おおくわがた》だけがあざやかな金色《こんじき》で、あとは冑《かぶと》も、鎧《よろい》も、鎧下《よろいした》も、馬も、鞍《くら》も、あぶみも、烏《からす》のように漆黒《しつこく》ないでたちだ。ただ見る一団の黒旋風《こくせんぷう》が殺到《さつとう》するよう。
「かかれ、かかれ、かかれ! なにこれしきの敵!」
と、われ鐘《がね》のような声でどなりたて、どなりたて、敵の槍《やり》ぶすまをたたきたてなぎたてた。おそろしい力、おそろしい勢いであった。さしも堅固《けんご》な槍《やり》ぶすまが、色めき、浮きたち、たじたじとなったとたん、
「つづけ!」
黒旋風《こくせんぷう》はさっと一跳躍《ひとちようやく》して、敵中におどりいっていた。
飫富三郎兵衛《おおさぶろうひようえ》隊の槍《やり》ぶすまはやぶれたのであった。そのやぶれから、柿崎《かきざき》隊はどっとこみいり、みるみるやぶれ口をひろげ、それは諸角《もろずみ》隊にもおよんだ。
しかし、さすがに飫富《おお》隊と諸角《もろずみ》隊だ。やぶられながらもともに一歩も退《ひ》かない。はげしい血戦がはじまった。
政虎《まさとら》は信玄《しんげん》がなるべく戦いを長びかせようとしていることを知っている。長びいて妻女《さいじよ》山にむかった敵の諸隊が駆《か》けつければ、味方の敗戦は目に見えている。
「かかれ! かかれ! かかれ!……」
青竹の指揮杖《しきづえ》をおれよと打ちふりながら、絶叫《ぜつきよう》した。
本隊の左右に備えられていた諸隊はいずれもまっしぐらに突進した。これらの隊は、両隊ずつ組になって、右隊が三段、左隊が二段になり、掩護《えんご》隊がそれぞれ一隊うしろにひかえている。これは妻女《さいじよ》山から来るであろう敵にたいして備えたものだ。対《つい》になった両隊はたがいに連絡し、助けあいつつ戦うことになっている。一段目がドッとおめいて敵の先鋒隊《せんぽうたい》にかかると、二段目はその勝敗にかまいなく、信玄《しんげん》の本隊の左右にかまえた隊にかかり、三段目はその後方《こうほう》にひかえた後備《あとぞな》えにむかって驀進《ばくしん》した。いずれも火のようなはげしさだ。武田の諸隊は鉄砲の筒先《つつさき》をそろえて乱射し、射《う》ち白《しら》まそうとしたが、越後《えちご》勢はたじろぎもしない。たおれる味方をふみこえふみこえ、突進した。火薬桶《かやくおけ》に火のかたまりでもおちたようであった。全戦場が一時にぱっと大激戦《だいげきせん》になった。
戦いは卯《う》の刻《こく》(朝六時)からはじまって、巳《み》の刻《こく》(十時)近くまで続いたというが、この間に信玄《しんげん》方では大将分《たいしようぶん》としては、信玄の弟|左典厩信繁《さてんきゆうのぶしげ》と諸角豊後《もろずみぶんご》が戦死し、武者《むしや》としては初鹿《はつか》の野|源五郎《げんごろう》が戦死している。いかにはげしい戦いであったかがわかる。信玄《しんげん》の方ではなるべく戦いを長びかせようとしたが、政虎《まさとら》の方ではその手に乗るかと、すり鉢《ばち》にものを入れてはげしくすりたてるように攻撃また攻撃、呼吸《いき》もつかせずいどみ戦ったのだ。
さすがの甲斐《かい》の諸隊もくずれたち、敵の追撃の急なままに、広瀬《ひろせ》の渡りに追いこまれ、溺死《できし》する者が多数であったという。ただ、飫富三郎兵衛《おおさぶろうひようえ》と穴山《あなやま》伊豆守《いずのかみ》、信玄《しんげん》の嫡子義信《ちやくしよしのぶ》の隊だけは、乱れる備えを立てなおし立てなおし、こらえた。
信玄《しんげん》の本陣《ほんじん》は味方の諸隊のくずれ乱れるのをすこしもかまわず、備えをかためて整々《せいせい》とひかえていた。孫子四如《そんししじよ》の旗と馬じるしの纏《まとい》とが朝風にひるがえって音を立てるばかり、しわぶきひとつする者のないなかに、信玄《しんげん》は床几《しようぎ》をすえ、敵の本隊を見、ときどき妻女《さいじよ》山の方に目をはなった。彼にはやがて敵の本隊が打ちかかってくることがわかっている。それは避《さ》けることはできないが、どうにか妻女《さいじよ》山の勢が駆《か》けつけるまで時をかせぎたいのであった。
政虎《まさとら》もまたそうであった。毘《び》の字の旗をおしたてた本陣《ほんじん》に床几《しようぎ》をすえ、青竹の指揮杖《しきづえ》をついて、四如《しじよ》の旗を見、また妻女《さいじよ》山をふりかえった。これも本隊の兵を一兵も散らさない。やがて妻女《さいじよ》山にむかった敵勢が駆《か》けつけてくるであろうが、それまでに潮合《しおあい》を見つけ、一挙《いつきよ》にこの兵を投入して、信玄《しんげん》の本隊を突きくずし、全滅《ぜんめつ》させたいと心ぐんでいた。
兵らはそれぞれの武器をくだけよとにぎりしめ、もうもうと立つ砂煙《すなけむり》のなかに濃《こ》くなったりうすくなったりする信玄《しんげん》の本陣《ほんじん》をにらんで、折敷《おりし》き、さしずの下るのを待っていた。
政虎《まさとら》は空を見上げて、日の高さをはかった。いまは霧《きり》はなごりなく晴れて、朝のまっさおな空にのぼっている日は、九時ごろと思われた。
気がせいてきた。
もう猶予《ゆうよ》はできないと思った。
「かかれ!」
とつじょとして、政虎《まさとら》はさけび、指揮杖《しきづえ》をびゅーと振った。
兵は総立ちになり、騎士《うまのり》は馬にとびのり、すさまじい喊声《かんせい》を上げて駆《か》けだし、射程《しやてい》近くにせまるや、停止し、鉄砲をかまえ、じりじりと歩を進め、いっせいに射《う》ちたてた。武田方でも応射《おうしや》した。その玉煙《たまけむり》のため、あたり一面、もうと閉ざされた。煙の中に、両軍の長柄《ながえ》隊は槍《やり》をくみあわせ、
「エイ、エイ、エイ、エイ……」
と諸声《もろごえ》をあげながら近づき、接触《せつしよく》するや、はげしい突きあいがはじまった。
政虎《まさとら》隊が猛烈《もうれつ》なら、信玄《しんげん》隊は頑強《がんきよう》であった。押しあい、へしあい、二、三回進退した。
政虎《まさとら》は腹を立てた。
使い番を背後の甘粕《あまかす》隊と直江《なおえ》隊、左右|両翼《りようよく》の掩護《えんご》隊である須田《すだ》隊と千坂《ちさか》隊に走らせ、
「やがて、妻女《さいじよ》山にむかった敵の隊がおしよせてくるであろうが、ずいぶんこらえて、けっしてやぶられてはならんぞ」
と言いおくっておいて、馬に飛びのり、味方の隊に駆《か》けつけ、長柄《ながえ》隊のうしろに得物《えもの》を按《あん》じてすきをはかっている勇士らの間を、乗りまわし、乗りまわし、
「これしきの敵に、そのざまはなにごと! 臆《おく》したか! 討ち死にを覚悟して、踏《ふ》みこめい! 踏《ふ》みこまずに戦《いく》さができるか! 日ごろの武辺《ぶへん》づらはどこにやったぞ!」
と、叱咤《しつた》しつつ、指揮杖《しきづえ》をふるって、武士ら冑《かぶと》の天辺《てへん》、背中、袖《そで》のきらいなく、たたきたて、たたきたてした。
恥《はじ》しめられて、武者《むしや》らはかっと激《げき》した。
「かしこまる! 討ち死につかまつる!」
と、どなるや、わっとさけんで、槍《やり》ぶすまの中におどりいり、たたきやぶった。武田方からも武者《むしや》が出てくる。はげしい白兵戦《はくへいせん》となった。
五
旗本《はたもと》勢と旗本《はたもと》勢の決戦だ。勝敗なかなか決しない。政虎《まさとら》はいくどか空をあおいで日の高さをはかり、いくどか妻女《さいじよ》山をかえりみた。ますます気がいらだってくる。
そのうち、信玄《しんげん》の本陣《ほんじん》がまばらに見えてきた。旗本《はたもと》の勇士らの多くが血戦の場に出たためであると判断された。
「よし!」
とっさに決心がついた。
「その方どもも行きむかえ!」
と、馬廻《うままわ》りの勇士らに命じ、みながどっと馬を駆《か》けさせて去ると、床几《しようぎ》を立ち、放生月毛《ほうしようつきげ》にとびのり、道を犀《さい》川の方に迂回《うかい》して、信玄《しんげん》の旗本《はたもと》目ざして駆《か》けさせた。戦場になっていない犀《さい》川べりには、すすきの穂《ほ》がなびき、秋草が可憐《かれん》な色を見せて咲いており、馬蹄《ばてい》に蹴《け》ちらされ、馬腹《ばふく》の風にそよいだ。
きびしい決意に胸がひきしまり、ぎりぎりとかみしめる奥歯の間から、おしだすようにつぶやいた。
「信玄坊主《しんげんぼうず》め! 今日こそ勝負を決するぞ。おれの首をわたすか、うぬの首をとるか、二つに一つだ!……」
短刀《たんとう》をぬいて、冑《かぶと》のしのびの緒《お》を切り、ぬいで、ざんぶと犀《さい》川の淵《ふち》に投げこみ、具足《ぐそく》の引き合わせの間から引きだした白練《しろねり》の絹で、行人《ぎようにん》づつみに頭と顔をつつみ、二尺七寸五分、備前長船《びぜんおさふね》の住兼光《じゆうかねみつ》の佩刀《はいとう》をぬき、肩にかつぎ、片手ぐりに手綱《たづな》をとり、まっしぐらに信玄《しんげん》の旗本《はたもと》にむかって駆《か》けた。
政虎《まさとら》の見こみにたがわず、信玄《しんげん》の旗本《はたもと》は人数まばらになり、旗本《はたもと》の勇士らはみな敵ともみあっていたが、用心深い信玄《しんげん》は全部をくりだしはしない。なおかなりの数の勇士らがのこっていた。
ただ一騎《いつき》、思いもかけない方角から、本陣《ほんじん》めがけて真一文字《まいちもんじ》に疾駆《しつく》してくる政虎《まさとら》を見ておどろいた。もとより、敵の総大将|政虎《まさとら》と知ろう道理はないが、わっと立ちあがり、先を争って駆《か》けふさがった。
「推参《すいさん》なり!」
雷喝《らいかつ》と同時であった。右の肩にかついだ兼光《かねみつ》はそのままおどって、左右に斬《き》っておとし、ひるむところをさっと駆《か》けぬけ、本陣《ほんじん》に突入した。本陣に詰《つ》めていた武士らは狼狽《ろうばい》し、総立ちになり、立ちふさがろうとしたが、はやくも政虎《まさとら》は信玄《しんげん》の面前《めんぜん》に乗りつけていた。唐牛《からうし》の毛の冑《かぶと》が目あてであった。政虎《まさとら》はその冑《かぶと》の眉庇《まびさし》の下のあごに食いこむように白いしのびの緒《お》がきっちりと結ばれた信玄《しんげん》の顔が蒼白《そうはく》に変わっているのを見た。昔|御坂峠《みさかとうげ》で見た時の美しい顔ではない。ぶよぶよとふとって、みにくい顔になっている。
が、そう感じた瞬間《しゆんかん》には、斬《き》りつけていた。
「小僧《こぞう》! くらえ!」
という呶声《どせい》は、斬《き》りつけてから出た。
あまりの急なことに、信玄《しんげん》は立ちあがるすきがない。まして刀をぬくひまはない。床几《しようぎ》にかけたまま、軍配《ぐんばい》うちわで受けた。うちわは薄金《うすがね》づくりだが、鋭《するど》い切ッ先はなかばまで斬《き》り裂《さ》いた。
「しぶとい!」
政虎《まさとら》はいく太刀《たち》か斬《き》りつけ、信玄《しんげん》はいくどか受けた。ついにうちわの柄《え》を切りおって小手《こて》に切りこみ、さらにたたみかけて斬《き》りおろした切ッ先は信玄《しんげん》の肩へ切りつけた。
信玄《しんげん》の本営内《ほんえいない》はおそろしい混乱におちいっていた。みな駆《か》けへだてようとしたが、火をするようなはげしさにそのすきがない。あわてふためくばかりであった。
信玄《しんげん》の仲間《ちゆうげん》がしら原大隅《はらおおすみ》は、信玄《しんげん》のそばに立てられた信玄《しんげん》の青貝柄《あおがいえ》の持《も》ち槍《やり》をおっとり、政虎《まさとら》のうしろから突いたが、あわててはおり、政虎《まさとら》の馬上の働きが雋敏《しゆんびん》をきわめているので、突きはずした。また突いたが、また突きはずした。いよいよあわて、たたきおとそうとして、ふりあげて打ちおろしたが、また打ちはずした。しかし、その穂先《ほさき》が放生月毛《ほうしようつきげ》の三頭《さんず》にあたった。馬は竿立《さおだ》ちになり、気の狂《くる》ったように走り去った。
疾駆《しつく》する馬上で、政虎《まさとら》は満足であった。
「おしくも討ちもらしはしたが、おれが手並みはとっくりと見せた。さすがのやつが、青くなっていたわ。ハハ、ハハ。これでよし、これでよし」
本陣《ほんじん》に引きあげた。
このうえは妻女《さいじよ》山勢が駆《か》けつけない間に、器用に引きあげ、勝利の名を確保することだ。
政虎《まさとら》は甘粕《あまかす》に使い番を立て、
「しかじかであれば、その方しんがりいたせ」
と命じておいて、諸勢を集め、犀《さい》川を渡って善光寺《ぜんこうじ》方面へ引きあげにかかったが、その時、妻女《さいじよ》山勢が駆《か》けつけ、追撃してきた。東道《とうどう》十里余(関東里《かんとうり》の一里は六|町《ちよう》である)の間に、越後《えちご》勢は相当な損害を受けたと、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》にある。軍鑑《ぐんかん》にはまた、
「その合戦《かつせん》、卯《う》の刻(六時)にはじまったるは大方越後《おおかたえちご》のかち、巳《み》の刻(十時)にはじまったるは甲州《こうしゆう》のかち」
と、講評《こうひよう》している。
六
途中|一宿《いつしゆく》して、翌日のひるごろ、妙高《みようこう》の裾野《すその》にかかった。
澄《す》みきった秋空に、妙高《みようこう》のいただきが磊嵬《らいかい》とした姿をくっきりと浮きたたせ、見わたすかぎりの裾野《すその》には尾花《おばな》の穂《ほ》がなびき、まひるの日に照らされて純白《じゆんぱく》に光っている。
「おれはいつかこの景色《けしき》を見たことがあった」
と、ふと思った。
「いつであったろう。……そうだ、おれはただ一人、青竹の杖《つえ》をつき、わらじをふみしめて歩いていた。……そうだ、はるか前方に市女笠《いちめがさ》をかぶり、美しい色模様《いろもよう》の衣《きぬ》を着た女が、馬で行っていた……」
と、ここまで考えた時、がくぜんとした。それがこの出陣の前、乃美《なみ》に逢《あ》いに行った時、琵琶島《びわじま》城で見た夢であったことを思い出したのだ。
胸から腹にかけて、すうっとつめたくなり、いきなりはげしく胸がさわぎはじめた。
(なにごともなくてあってくれ)
政虎《まさとら》はいのるような思いをこめ、妙高《みようこう》のいただきをあおいだ。
それからほんの数瞬《すうしゆん》の後であった。前駆《ぜんく》の者が駆《か》けもどってきて、色代《しきたい》して、
「宇佐美《うさみ》駿河守《するがのかみ》殿が、お凱陣《がいじん》お出迎えのためにまいられました」
と報告した。
「凱陣《がいじん》出迎えのためと申したか!」
おぼえず、はげしい調子になった。
「はい」
「たしかか!」
「はい」
相手はいぶかしげであった。
ほっとしながら、言った。
「よし。そこへ待っていよと言え」
前駆《ぜんく》の者は馬を走らせて去る。
そのあとから、政虎《まさとら》も行列を急がせた。
定行《さだゆき》は路傍に馬を立て、家臣《かしん》十人ばかりを従え、草をしき、両手をついて迎えた。
政虎《まさとら》は行列をとめ、馬をおりて、歩み寄った。
「出迎え大儀《たいぎ》。そちに語りたいことがうんとあるぞ」
わくわくする気持ちが、いきいきとした声になった。
「ご勝利、また前代未聞《ぜんだいみもん》のお働きのこと、ただいまお供《とも》の人々にうけたまわり、およろこび申しております」
しずかな調子の声でここまで言って、一段声をおとした。
「――じつは、てまえの方にも申し上げたいことがございます」
おちついた態度と声はいつものことだが、いつもとちがって定行《さだゆき》の顔に微笑《びしよう》がない。それがひやりとさせた。
「なにかおこったのか?」
とせきこんだ。
「はい」
定行《さだゆき》は答えておいてふりかえり、従者《じゆうしや》らにあいずした。
従者《じゆうしや》らは立ちあがり、遠ざかった。
「立て。立って言え」
定行《さだゆき》は立ちあがり、枯《か》れ木のように細くやせた指先で、まっしろな疎髯《そぜん》をもみながら、かわらず低い声で言った。
「乃美《なみ》が、昨日の朝、ついに身まかりました。乃美《なみ》がぜひにと言いはってききませぬので、じつは琵琶島《びわじま》から春日山《かすがやま》城下の屋敷に連れてまいったのでございますが、それがこたえたのでございましょうか、ついた翌日、つまり昨日の辰《たつ》の下刻《げこく》すこしまえ、おびただしい喀血《かつけつ》をしました。一時はおさまったのでございますが、とても助からぬ身と思うたのでございましょう、お屋形《やかた》様にくれぐれもよろしく申し上げてくだされ、末長いおしあわせをあの世で祈っていますなどと言った後、またしても大喀血《だいかつけつ》が来、ついにそのまま絶息《ぜつそく》したのでございます」
定行《さだゆき》は涙|一滴《いつてき》浮かべてはいない。しかし、強い努力でこらえていることは、ひげをまさぐっている細い指先がこまかくふるえていることをもってもわかった。
「昨日の辰《たつ》の下刻《げこく》というと、おれがやつの本陣《ほんじん》に斬《き》りこんだ時だ。乃美《なみ》はおれを勝たせようと……」
いきなり、声がふるえて来、涙がつきあげてきた。
政虎《まさとら》はことばを切り、大股《おおまた》に歩いて、薄《すすき》の中に立った。広い裾野《すその》を見わたし、しだいにその目を妙高《みようこう》のいただきに上げた。先刻までまっさおに晴れわたり、ひときれの雲もなかった空にはまっしろな雲が三つ四つ浮いて、まぶしいほど日に光りながら、悠々《ゆうゆう》と流れていた。
(あくせくと、三十二年の間、おれはなにをしてきたろう。関東管領職《かんとうかんれいしよく》、上杉《うえすぎ》の名跡《みようせき》……、むなしいかぎりのものではないか。……乃美《なみ》、そなた死んだのか、おれをおいて……)
わかわかしいほおを涙があとからあとからと伝ったが、政虎《まさとら》はそれを意識しない。いつまでも妙高《みようこう》のいただきの上の空をあおいでいた。
悠々《ゆうゆう》と雲の流れる青い空。
筆後敬白(「週刊朝日」連載終了に際し)
一
何よりもまず、長い間のご愛読《あいどく》を感謝しなければなりません。二年三か月という長い間、緊張《きんちよう》をもちつづけて書くことができたのは、すべて読者諸賢《どくしやしよけん》の熱心な声援《せいえん》によることです。厚く感謝します。
次に読者諸賢《どくしやしよけん》からのご教示《きようじ》の手紙やご声援《せいえん》の手紙にたいして、ぜんぜんご返事を差しあげなかったおわびを申し上げなければなりません。書くのが本職でありながら、いやいや、本職であるために文章を書くことに食傷《しよくしよう》している点もありまして、元来ぼくは筆不精《ふでぶしよう》なのですが、そこへもってきて、この二、三年前から、年齢的に仕事のできる期間がいくらもないことを考え、
「いままで計画したり、蓄積《ちくせき》したりしたものを、できるだけ形にしておきたい。それがこの世に生を享《う》け、もの書きとして衣食させてもらった奉公《ほうこう》である」
との決心をし、いっさいの世事《せじ》を絶ち、家に籠居《ろうきよ》して、仕事に専念していますので、感謝しながらも、お礼状を差しあげなかったのです。
ぼくがこの決心をつけたのは故幸田露伴《ここうだろはん》先生のことを考えたからであります。幸田《こうだ》先生は学|古今和漢仏《ここんわかんぶつ》に通じ、その識見《しきけん》の透徹《とうてつ》していることは、当代の第一人者でありましたが、それほどの学識《がくしき》も先生の死とともに消えてしまいました。先生の著書はずいぶんたくさんありますが、それは先生の包蔵《ほうぞう》しておられた学識《がくしき》の九牛《きゆうぎゆう》の一毛《いちもう》にもあたりません。おしくてならないのです。
二、三年前に死んだぼくの友人で、幸田《こうだ》先生にかわいがられて、いつも出入りしていた者がいましたが、戦前ぼくはその友人にこう言ったことがあります。
「露伴《ろはん》先生もお年だから、いつどういうことがあるかもしれない。そうなると、あの学識《がくしき》は先生とともに亡《ほろ》びるのだ。できるだけ書いたものにしてのこしておいていただくようにはできないものかね。そうすれば、後の人はそこから出発できるのだがね」
すると、友人はこう答えました。
「ぼくもそう思うのだが、老人あれでものすごく知識欲が貪欲《どんよく》でね。いつ行ってみても書物を読んでいる。目が痛い目が痛いといいながら読んでいる。漢籍《かんせき》や和書《わしよ》だけではないのだよ。洋書《ようしよ》まで読んでいる。吐《は》き出すよりも、吸収に一生懸命《いつしようけんめい》なんだよ」
こうでなければ、あんな超人的《ちようじんてき》なもの知りにはなれないはずだとは思いながらも、ぼくはおしいおしいと思いました。
ところが、そのぼくがそのころの幸田《こうだ》先生の年に近くなったのです。ぼくはもちろん先生の足もとにもよりつけない浅学《せんがく》なものではありますが、それでも多少の知識の蓄積《ちくせき》はあります。歴史上の事件や人物についての前人《ぜんじん》にはない解釈もいくらかもっています。計画した小説もあります。すっかり吐《は》き出して、さばさばした気持ちで、生のおわりを迎えたいという量見《りようけん》になったわけです。
お礼状を書かなかったおわびとしては、ずいぶん立ちいった打ち明け話をいたしましたが、正直《しようじき》なところを申し上げました。ご諒解《りようかい》をおねがいいたします。
二
いったい、この小説を本誌《ほんし》から依頼《いらい》された時の約束《やくそく》は一か年、約五十回というのでした。
ぼくは先天的の分量《ぶんりよう》オンチでして、これだけの内容ならこれだけの回数に盛れるという計算がぜんぜん立たない男です。
「五十回なら、九百枚ある。信玄《しんげん》がわに費やす枚数を節約《せつやく》すれば、だいたい謙信《けんしん》の生涯《しようがい》が書けるであろう」
と思って、誕生《たんじよう》の時からはじめました。
生涯《しようがい》が書けるつもりでしたから、その後半生《こうはんせい》におこる大事件の伏線《ふくせん》も入れていきました。たとえば、謙信《けんしん》のいとこで越後上田《えちごうえだ》の城主である長尾政景《ながおまさかげ》のことをところどころ点出《てんしゆつ》して、読者諸賢《どくしやしよけん》のイメージをかためていきましたが、それは後年政景《こうねんまさかげ》が謀叛《むほん》して謙信《けんしん》に殺される事件があるからでありました。
政景《まさかげ》がひそかに謀叛《むほん》を企《くわだ》てているという報を得て、謙信《けんしん》は心痛《しんつう》しました。政景《まさかげ》は一族中第一の大族であり、謙信《けんしん》の姉聟《あねむこ》でありますから、表だってこれを討伐《とうばつ》するとなると、国内の諸豪族《しよごうぞく》が動揺《どうよう》する恐れがあって、謙信《けんしん》の困却《こんきやく》はひととおりではなく、これを宇佐美定行《うさみさだゆき》に相談しました。
定行《さだゆき》は、
「拙者《せつしや》におまかせください」
と言って、退出《たいしゆつ》し、政景《まさかげ》をさそって野尻湖《のじりこ》(信州《しんしゆう》の野尻湖《のじりこ》という説もあり、越後《えちご》の同名の湖で、いまはないという説もある)で船遊びし、船中|私闘《しとう》にたくして政景《まさかげ》と刺《さ》しちがえて死んだばかりか、謙信《けんしん》に、
「このことはあくまでも私闘《しとう》として処理し、拙者《せつしや》の遺族らは追放することにしていただきたい。なまじお情《なさ》けをかけていただくと、この計略《けいりやく》が成就《じようじゆ》しません」
と遺書したのです。
定行《さだゆき》にとって、謙信《けんしん》は育ての子のようなものです。君臣《くんしん》の義理のほかに父性愛に近いものをもっていたはずです。ですから、こんな犠牲的《ぎせいてき》なことをあえてしたのだろうと思いますが、ともかくも、これでまるく治まりました。
謙信《けんしん》は不犯《ふぼん》の人でありますから、実子《じつし》がいません。その養子《ようし》に政景《まさかげ》の子|景勝《かげかつ》を迎えたのは、この事後処置のためだったのです。あるいは、これも定行《さだゆき》の遺言《ゆいごん》の中にあったかもしれません。小説ではそうするつもりでいました。
柿崎景家《かきざきかげいえ》をおおいに活躍《かつやく》させ、その性格をあのように強く出したのも、やはり伏線《ふくせん》としてでした。柿崎《かきざき》のあの性格は、甲越軍記《こうえつぐんき》の記述をもとにして築きあげたのですが、後年《こうねん》こういうことがあるのです。
柿崎《かきざき》がある時、名馬《めいば》を都の方に売りに行かせました。織田信長《おだのぶなが》は持ち主が謙信麾下《けんしんきか》の猛将柿崎《もうしようかきざき》であることを知ると、さっそくに買いとったばかりか、多分《たぶん》の礼金とともに礼状を柿崎にとどけました。
「先般《せんぱん》はおかげで駿馬《しゆんめ》を得ることができて、感謝にたえない。今後もご懇親《こんしん》にねがって、ご不用な駿馬《しゆんめ》があったら、さしのぼらせていただきたい」
という文面《ぶんめん》。
謙信《けんしん》との離間《りかん》を目的としての謀略《ぼうりやく》だったのです。
柿崎《かきざき》は自分が利欲《りよく》に目がくれたように人に思われることを恐れて、これをひたかくしにしていたのですが、これがかえって悪かった。かようかような書状を礼金と共につかわしましたわいといって、淡泊《たんぱく》に謙信《けんしん》に披露《ひろう》すれば、
「ハハ、やつおれにそちを疑わせようとたくらんでいるのじゃわ。あさはかなことをするものよ」
と、笑ってすまされたのでありましょうのに、謙信《けんしん》の諜報網《ちようほうもう》に知られ、そこから謙信《けんしん》に報告されたので、疑惑《ぎわく》を招くことになり、ついに謙信《けんしん》に手刃《しゆじん》されてしまったという事件。
謙信《けんしん》は、天正《てんしよう》六年都へむかって兵を出し、信長《のぶなが》と雌雄《しゆう》を決しようとの決心をし、三月十五日出陣と触《ふ》れ出し、着々と準備を進めました。報《しら》せを聞いて信長《のぶなが》はふるえあがりました。実戦の武将としては、信長《のぶなが》はとうてい謙信《けんしん》の敵ではありません。これは信玄《しんげん》の死後五年目のことですが、信玄《しんげん》の死んだ後は、謙信《けんしん》は無双《むそう》の武将だったのです。また、兵員の素質《そしつ》から言っても、尾張《おわり》・美濃《みの》などの温暖|豊沃《ほうよく》な土地の兵は、当時の越後《えちご》のように生活|環境《かんきよう》の苛烈《かれつ》な土地で育った兵には、はるかにおとっていました。
上杉《うえすぎ》家に伝える「太祖一代軍記《たいそいちだいぐんき》」に、謙信《けんしん》の出兵通告《しゆつぺいつうこく》をもっていった使者に、信長《のぶなが》は、
「謙信《けんしん》の武勇は摩利支天《まりしてん》の再来《さいらい》というべきでござる。天下|何者《なにもの》がお手向かいできましょう。謙信が向かわれるなら、われらは肩衣姿《かたぎぬすがた》で扇子《せんす》一本だけ腰にさし、一騎《いつき》で路次《ろじ》にお迎えし、これは信長《のぶなが》でござる。降参《こうさん》つかまつる≠ニ申して、都へご案内をつかまつろう。そうすれば、謙信《けんしん》も、われらが粉骨《ふんこつ》して治めとった天下を召し上げることはなさるまい。かくて、われらは西国《さいごく》、謙信《けんしん》は東国《とうごく》を治められ、両旗にて禁裡《きんり》を守護《しゆご》つかまつろう」
と言ったとあります。
ほんとにそうであったかどうか、にわかには信ぜられないことですが、信長《のぶなが》が恐怖《きようふ》したことは十分に考えられることです。
ところが、謙信《けんしん》は、出発を六日後にひかえた三月九日、突如《とつじよ》として脳卒中《のうそつちゆう》をおこし、十三日には一代の功業空《こうぎようむな》しく、逝去《せいきよ》したのですが、この卒中《そつちゆう》をおこした動機というのが、厠《かわや》の中で柿崎景家《かきざきかげいえ》の亡霊《ぼうれい》を見たためであるという説もあるのです。
伏線《ふくせん》はまだあります。無名時代の信長《のぶなが》のこと、桶狭間《おけはざま》で今川義元《いまがわよしもと》を討ちとった信長《のぶなが》のこともいくらか書いて、謙信《けんしん》に相当な感慨《かんがい》に耽《ふけ》らせたりしましたが、これも後の両者のこの衝突《しようとつ》の事実にそなえての伏線《ふくせん》でありました。
最初五十回という制限を承知のうえで書きはじめたくせに、こんな大がかりな構成をするというのが、まず不覚のいたりで、その五十回を百回にのばしてもらい、さらにそれが百十六回までのばしてもらって、なおかつ書ききれなかったというのは、かさねがさねの不覚であります。なんともおわびのいたしようもありません。
さいわいに、読者諸賢《どくしやしよけん》は寛大《かんだい》で、ある程度おもしろがって読んでいただいたようで、望外《ぼうがい》のことでございました。重ねてお礼を申し上げます。
三
途中でおき去りにした人物があります。
松江《まつえ》がそれであります。この女性は、そもそもの原型は甲越軍記《こうえつぐんき》にあります。甲越軍記《こうえつぐんき》ではせんだん野の戦いの場に、為景《ためかげ》の妾《しよう》として甲冑《かつちゆう》をつけて出陣し、為景《ためかげ》戦死の直後、奮戦《ふんせん》の結果、捕虜《ほりよ》となり、捕《とら》えた武士の妻になることを強《し》いられて自殺したことになっています。軍記《ぐんき》にはこの以前には影《かげ》も形も見えず、せんだん野の戦いの場にだけ姿を見せるのですが、近代小説では重要な場にいきなり人物を出すことをしませんので、はじめから、虎千代《とらちよ》にからませて出すことにしました。
しかし、単に美しくて強いというだけでは平凡《へいぼん》であります。美しくて、強くて、愛情が豊かで、田舎《いなか》びた粗野《そや》な活力に満ちた女性にしたら、そのアンバランスなところに、きっといきいきとしたおもしろさが生まれるにちがいないと考え、あんな性格にしましたが、作者としてはだんだん愛情が出てきまして、せんだん野で殺すに忍《しの》びなくなりました。だから、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》とのおかしげなラブロマンスに発展させたのでありますが、なにぶん小説の中の人物も現実の人間のように年をとってきますので、しまいには使いにくくなってきました。いくら若い時美しくても、この時代の女は六十近くにもなったら、しわくちゃになることは避《さ》けられません。教養のある老女なら、それはそれでまた風情《ふぜい》がありますが、大名の側室《そくしつ》になっても、高級武家《こうきゆうぶけ》の妻女《さいじよ》になっても、百姓《ひやくしよう》ことばを改めることのできない女ときては、老年になっては醜悪《しゆうあく》なばかりでありましょう。むしろ引っこめておいて、死ぬ間際《まぎわ》かなんかに美しい話をこしらえて出した方が、本人にたいする愛情だと思ったのです。作家に必要な非情《ひじよう》さ、きびしさの足りないところで、お恥《は》ずかしいいたりです。
近衛前嗣《このえさきつぐ》も関東におき去りにしてしまいました。将軍|義輝《よしてる》も、謙信《けんしん》のもとへ来たいと言ってよこし、それにたいして、「いつでもおいでください」と謙信《けんしん》が返答をもたせて使者をつかわしたことだけを書いて、あと始末《しまつ》をしておりません。
二人が謙信《けんしん》を信頼《しんらい》し、前者が謙信《けんしん》をたよってきて、小説のおわったころにはまだ関東にとどまっていたこと、後者《こうしや》が越後《えちご》に来て謙信《けんしん》にたよる用意をしたこと、ともに史実《しじつ》です。ぼくの創作《そうさく》ではありません。登場《とうじよう》させた以上、なにか適当なおもしろい話をこしらえださなければならないわけですが、当面のぼくのつもりでは、謙信《けんしん》がいかに当時のこんな人々に信頼されていたか、いかに信義的《しんぎてき》な性格であったかを証明する証拠《しようこ》とするだけにありました。
ここに史実《しじつ》ということばが出てきましたから、史実《しじつ》と小説とのちがいについて、一言いたします。
一口に申しますと、小説はウソばなしなのであります。小説の目的とするところは、史実《しじつ》の追究ではありません。小説にもいろいろありまして、書く方も、読む方も、ウソと知って、現実にはありえない話のおもしろさを楽しむものもあれば、いかにもほんとうらしく書かれたものもあります。前者が事実の正否《せいひ》――史実《しじつ》の正否《せいひ》を問題にしていないことは申すまでもありませんが、後者《こうしや》もまた目的はそこにはありません。小説の目的は、作者の意図《いと》している精神なり感動なりを読者に共感させるにあります。だから、その目的を達成《たつせい》するためには、いろいろなことをやります。つくり話もします。人物の創作もします。ほんとうらしく書くというのも、この目的を達成《たつせい》するためで、要するにいきいきとした印象をあたえて読者にうったえるためです。ですから、小説で事実や史実《しじつ》を書くことがあるのも、その方が効果的であると測定されるからやるので、けっして事実や史実《しじつ》をつきとめ、それを再現するためにやるのではありません。
ぼくはときどき史実《しじつ》だけによって小説を書いたり、史実《しじつ》をなるべく多く使い、また曲げることを避《さ》け、できるだけつくり話を少なくして小説にしあげたりします。この小説でも、そういう場面のあったことを、読者はお気づきでありましょう。が、これとても、その方がぼくの意図《いと》している興味を効果的に読者に伝えることができるという判断のもとにやったのです。けっして史実《しじつ》を追究しようと思ったのでもなければ、史実《しじつ》に引きまわされたのでもありません。
したがって、省略もまたいたします。史実的《しじつてき》には重要である事柄《ことがら》や人物も、作者の意図《いと》に不必要、あるいは逆効果だと考える場合には省略することも少なくありません。たとえばこの小説の中で謙信麾下《けんしんきか》の史実的《しじつてき》には有力であった武将でありながら登場《とうじよう》させなかったのが多数あり、登場《とうじよう》させてもほんの名前だけにとどめたのも多数あります。読者の興味の分散をおそれたからであります。都合《つごう》のよいことばかり書いて、都合《つごう》の悪いことは省略するというのでは、たとえ史実《しじつ》ばかりで書いたにしても、広い意味ではやはりフィクションというべきでありましょう。しかし、小説における史実《しじつ》はこんなものなのであります。
史実《しじつ》を追究するためには、小説以外に「史伝《しでん》」という文学ジャンルがあります。史伝《しでん》にも大別《たいべつ》して両種あります。史学者の手になったものはたいてい文学的目的を意図《いと》せず、ひたすらに事実の追究とその解釈《かいしやく》を意図《いと》していますが、ここで申し上げるのは文学の一ジャンルとしての史伝《しでん》であります。これは文学ではありますが、つくり話はいっさいしません。史実《しじつ》を追究し、解釈《かいしやく》しつつも、文学にしようという意図《いと》のものだからであります。推察に類《るい》することはかならずその旨《むね》をことわって記述します。たとえば、人の名前などわからない時には、わからないと書いて、けっしてつくった名前を書くことはしません。ぼくはこれもやっていますから、ぼくのそれをお読みになった方は、もはや説明するまでもなく、おわかりであろうと思います。
話を小説にかえします。小説の場合には、調べて見てわからなければ、つくります。女の名前は、歴史時代にはわかっているのが稀《まれ》で、わからないのがふつうなのです。「母は何々氏」とか、「妻は何々氏」とかいったぐあいで、生家の名字《みようじ》しか書いてないのが多いのです。しかし、いきいきと読者にうったえるためには、端的《たんてき》に、具体的に書く必要があります。たとえば、この小説で、謙信《けんしん》の母が越後栖吉《えちごすよし》の領主|長尾《ながお》肥前守顕吉《ひぜんのかみあきよし》の女《むすめ》であったことはわかっているのですが、名前はわかっておりません。これを「袈裟《けさ》」としたのは、佐渡《さど》おけさから思いついたことです。越後《えちご》の女ですからねえ。呵々《かか》。
この小説でも、以上のようなわけで、ずいぶんフィクションが入っています。しかし、フィクションだけではない。史実《しじつ》も多い。ぼくは自分の好《この》みもあって、できるだけ史実《しじつ》を損傷《そんしよう》しないで、小説としての効果を上げたいと、いつも考えているのですから。どちらのパーセンテージが高いか、ちょっとわかりません。しかし、そんなことは小説には本来なんの関係もないことです。おもしろく読んでいただいたということだけで、ぼくはこのうえなくよろこんでいます。
三たび申します。どうもありがとうございました。
敬《けい》 白《はく》
「天と地と」年表(五)
永禄元年(一五五八)
この年八月付古文書に「武田|徳栄軒信玄《とくえいけんしんげん》」の署名が見られる。
永禄二年(一五五九)
四月二十七日、景虎《かげとら》入京。二十四歳の将軍|義輝《よしてる》に謁見。
五月一日、景虎|禁裡《きんり》に参内《さんだい》。天盃《てんぱい》と宝剣を賜わる。
従四位下《じゆしいげ》近衛少将《このえしようしよう》に任叙《にんじよ》される。
関白|近衛前嗣《このえさきつぐ》と親密になる。
十一月七日、景虎、帰国の途に着く。
二十六日、春日山《かすがやま》に帰り着く。
景虎、関東|管領《かんれい》職の継承を将軍に許されたと発表。家来、越後の国侍、信州侍、関東の大名ら祝辞や太刀を献上。
永禄三年(一五六〇)
景虎、城下の宇佐美家の屋敷で乃美《なみ》に会い、
「そなた、なぜいつまでも縁づいてくれぬのだ」
とたずねる。
二月、越中松倉城の椎名《しいな》から神保|氏春《うじはる》武田に内通との訴えあり、景虎、本誓寺の超賢《ちようけん》に椎名と神保の仲裁を頼むが、神保と武田との関係続く。
景虎、五千の兵を率いて出陣。
三月末、富山城に進撃。神保は城を去る。魚津《うおづ》城の鈴木|大和守《やまとのかみ》も逐電《ちくでん》、行方不明となる。
三月三十日、富山城が落ち、景虎、藤紫《ふじむらさき》を斬る。
五月、織田信長、今川義元を討ち、松平|元康《もとやす》(家康)、岡崎に帰る。
五月十九日、今川義元、尾州|桶狭間《おけはざま》で織田信長に討ち取られる。
七月はじめ、房州の里美|義堯《よしあき》、北条氏の侵略を訴える。景虎、関東出陣のことを領内諸将や、関東の諸豪族に告げる。
二万の兵を率い、春日山を出発。間際に京の近衛|前嗣《さきつぐ》から庇護《ひご》を求める便り届く。
九月二十七日、三国峠を越え、関東に下る。帰服するもの相次ぐ。
景虎、関東経営の本拠を厩橋《うまやばし》(前橋)に置く。
北条|氏康《うじやす》、子息|氏政《うじまさ》を大将として、総勢三万五千の兵をもって野州へ向ける。
景虎、三千の兵を率いて佐野の城に入り、北条、気をのまれ退却。
信玄へ北条氏康から使者、景虎の掣肘《せいちゆう》を依頼。
信玄も大坂の本願寺に使い。加賀、越中の一向宗門徒を煽動《せんどう》、越後への侵入を頼む。同時に越中の豪族上田|石見守《いわみのかみ》と神保氏春にも指令。
北条氏康も大坂に使者を出す。
神保、上田、越後より侵入するも、越中を守備していた越後方に追い散らされる。この報を聞いた景虎、北条氏を一気に攻めつぶすことを決意。関東の諸将、争って参集。
上杉|憲政《のりまさ》と近衛前嗣、前後して厩橋《うまやばし》に到着。これに不安を感じた古河公方《こがくぼう》の足利|義氏《よしうじ》、教書を四方に出す。
永禄四年(一五六一)
この春、松平元康、織田信長と和睦する。
二月下旬、景虎の軍、厩橋を出発。古河城支えられず、義氏小田原に逃れる。小田原城に立て籠《こ》もる。援軍を武田、今川家へ乞《こ》う使者を出す。城中は堅固。
三月半ば、景虎、小田原城の囲みを解き鎌倉に向かう。
閏《うるう》三月十六日、関東官領職の盛大な就任式が八幡宮で行われ、神前において憲政から上杉の家督も譲られる。名を政虎《まさとら》と改める。三十二歳。四月二十八日、鎌倉を出発。厩橋に引き上げる。
六月二日、陣中に京の義輝将軍から使者。越後に下向、景虎の世話になりたいとの封書。
その頃、宇佐美が乃美の重体を伝える。
春日山から急便。「信玄が信越の国境に打って出た」との知らせ。信玄は川中島に本陣を据え、野尻湖の東南方|割《わり》ガ嶽《たけ》の城を攻め落としたが、春日山も兵を繰り出し、また川中島に引き退る。
六月二十一日、政虎、前管領憲政と同道して厩橋を出発、帰国の途に着く。
六月二十九日、春日山に帰着。
七月二日、義輝将軍からの使者僧|一舟《いつしゆう》が政虎の家臣をともなって京へもどる。
政虎、武田との決戦の手配り。会津《あいづ》の芦名盛氏《あしなもりうじ》、出羽|庄内《しようない》の大宝寺義増《だいほうじよします》にも加勢を頼む。
八月、浅井長政、六角|義賢《よしたか》と戦端を開く。
八月十日、政虎、城内の毘沙門《びしやもん》堂に籠《こ》もり、心気をすませ、作戦計画を練る。
定行の長男|民部少輔実定《みんぶしようゆうさねさだ》、乃美のあやうい容態を告げる。
政虎、深夜の道を直行、琵琶島《びわじま》に着く。乃美との面会を求め、「そなたを妻にする。なおってくれ」と体をかき抱く。
八月十四日早暁、城外の広場に集結、将五十余人。
軍勢、信州に入って一万三千余人になる。
十九日夜、甲州からの諜者《ちようじや》が戻る。信玄が十六日、甲府を出発、和田峠を超え、兵およそ一万、今川、北条家からの加勢の兵もいると報告。
政虎、総勢一万六千と計算。
全軍にふれを出し、早暁、千曲川を渡り、妻女《さいじよ》山に押し上がるとの命令。
二十日払暁、犀《さい》川を押し渡る。八千の軍、雨ノ宮の渡しで千曲川を渡り、妻女山に押し登る。信玄はこの日、海津(上田)城に入る。
二十二日、信玄軍、川中島の西限である茶臼《ちやうす》山に上がる。
九月、妻女山と海津城のにらみ合い続く。
八日、信玄、海津城に部将全部を集め、軍の編成を発表。
九日、政虎、夜討ちを察知。妻女山を降って川中島の中ほどに構えて、敵を不意打ちにせんと、夜半に行動、渡しを前にした河原に勢ぞろい。越後勢八千、粛々《しゆくしゆく》として雨ノ宮の渡しを渡る。
信玄は奇襲隊が出発したのち、残る八千を部署して海津城を出る。広瀬の渡しを渡り、陣形を点検。合戦開始、政虎、武田陣営に突進、信玄に三たび太刀を振り下ろすが、惜しくも打ちはずす。満足して本陣に引き上げる。諸勢を集め、本国への帰途、妙高山麓で、出迎えの宇佐美定行から、乃美の死を聞く。
永禄六年(一五六三)
七月、松平元康、家康と改名。
永禄八年(一五六五)
三好|義継《よしつぐ》と松永|久秀《ひさひで》が足利義輝を殺す。
元亀三年(一五七二)
八月、謙信《けんしん》越中に侵入、一向一揆《いつこういつき》を攻める。
十二月、信玄、家康を遠江三方《とおとうみみかた》ヶ原で破る。
天正元年(一五七三)
四月、武田信玄(五三)没す。
天正三年(一五七五)
五月、信長と家康、三河|長篠《ながしの》で武田|勝頼《かつより》を破る。
天正四年(一五七六)
十一月、謙信、加賀、能登《のと》に出陣。
天正六年(一五七八)
三月、上杉謙信(四九)没す。
角川文庫『天と地と(五)』昭和61年9月25日初版刊行