海音寺潮五郎
天と地と(二)
目 次
甘《あま》い晴景《はるかげ》
にわか雲水《うんすい》
兵書《へいしよ》と糸車
兼備《けんび》の女
諌《かん》 言《げん》
精進談義《しようじんだんぎ》
早熟《そうじゆく》な天才
裏富士《うらふじ》
旗上《はたあ》げ
雪|来《きた》る
仁王《におう》おどり
浅《あさ》 緑《みどり》
「天と地と」年表(二)
甘《あま》い晴景《はるかげ》
一
十分に昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》の心を動かし得たと見きわめた松野小左衛門《まつのこざえもん》は、ふところをさぐって、一通の文書を出して、ひざの前においた。昭田《しようだ》は何だろうといいたげな目で見ている。松野《まつの》はそれを知りながら、その説明はせず前の話をつづける。
「しかしながら、ここにただ一つの活路《かつろ》がござる。貴殿《きでん》が三条《さんじよう》の俊景《としかげ》殿に内通《ないつう》して、弾正《だんじよう》殿に反旗《はんき》をひるがえして立ち上がりなさることであります。かならずや、弾正《だんじよう》殿亡滅《ぼうめつ》の後には、俊景《としかげ》殿は貴殿《きでん》の働きを多《た》とし、国を二分して、その一つを貴殿《きでん》にまかせられるでござろう。これすなわち落日を去って朝日につき、禍《わざわい》を転じて福となすの法でござる」
ますます冴《さ》えて、いまや核心《かくしん》に入ってきた松野《まつの》の弁舌《べんぜつ》を、昭田《しようだ》は身じろぎもせず聞いていた。てっきり、この男は三条《さんじよう》からつかわされて来たにちがいないと思ったが、すぐまた、いやいや、先刻《せんこく》の話では、今日|越中《えつちゆう》から来たということであったな、三条《さんじよう》と越中《えつちゆう》勢とははや連絡を取っているのであろうかと、いっそう恐怖した。
松野《まつの》はひざの前においた文書をとり上げ、ひらきながら言う。
「拙者《せつしや》は、朝倉《あさくら》家退散の後、長らく牢人《ろうにん》していましたが、このほど縁あって、神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》に随身《ずいじん》しています。先刻《せんこく》、越中《えつちゆう》からまいったと申しましたが、つまり神保《じんぽ》のもとからまいったのでござる。神保《じんぽ》は小身《しようしん》ながら武略《ぶりやく》たくましい武将でござる。それは昨年|栴檀野《せんだんの》において信濃守《しなののかみ》(為景《ためかげ》)殿を計略にかけて討ち取ったことをもっても、おわかりでござろう。神保《じんぽ》はすでに俊景《としかげ》殿と謀《はかりごと》を通じているのでござるが、もし貴殿《きでん》がこれに加担《かたん》あって、内より旗を上げて弾正《だんじよう》殿を伐《う》ち給うなら、神保《じんぽ》はかならず貴殿《きでん》を後ろ巻きいたすことを誓います。ここに持参《じさん》したこの文書が、その盟書《めいしよ》でござる」
言いおわって、手にした文書をさし出した。
受けて、見ると、神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》をはじめとして越中《えつちゆう》の豪族《ごうぞく》らが連署《れんしよ》した起誓文《きせいもん》であった。
昭田《しようだ》はついに説伏《せつぷく》せられた。みずからも誓書《せいしよ》をしたためて、松野《まつの》に渡した。
「かならず不日《ふじつ》に事を挙げるでござろう。しかしながら、衰えたりとはいえ、守護代《しゆごだい》家を相手の旗上げでござる。多少の支度《したく》も必要でござれば、しばらく猶予《ゆうよ》ありたい」
「よろしゅうござる。いつ何時《なんどき》なりとも、後詰《ごづ》めの勢《せい》を出すことのできるよう、越中《えつちゆう》では手配しておきます」
その夜は一泊して、翌日、松野《まつの》は越中《えつちゆう》へかえった。城門を出るためには、昭田《しようだ》みずからが林泉寺《りんせんじ》へ参詣《さんけい》と申し立てて出た供廻《ともまわ》りの中にまぎれこませた。
昭田《しようだ》常陸《ひたち》は息子《むすこ》である黒田《くろだ》和泉守国忠《いずみのかみくにただ》・金津《かなづ》伊豆守国吉《いずのかみくによし》と相談の上、手をまわして、かねて懇親《こんしん》を結んでいる豪族《ごうぞく》らに呼びかけた。すると、三条《さんじよう》の旗上げに心を動揺《どうよう》させている時だ、呼びかけられた豪族《ごうぞく》らはほとんど全部応じた。十数年前|岡田合戦《おかだのかつせん》で為景《ためかげ》との合戦で討ち死にした八条左衛門《はちじようざえもん》大夫《だゆう》の子で、やはり同名を名のっている八条左衛門《はちじようざえもん》大夫《だゆう》・風間《かざま》河内守《かわちのかみ》・五十嵐小文四《いがらしこぶんし》・野本大膳《のもとだいぜん》らである。
叛乱《はんらん》軍は、晴景《はるかげ》から、それぞれの居所から三条《さんじよう》に向かうようにとの催促状《さいそくじよう》が来ているのを利用して、
「ひとまず守護代《しゆごだい》の殿に勢ぞろいをお目にかけた上で、できるならば殿のご本隊を護《まも》りながら三条《さんじよう》に向かいとうござる」
と申し入れた。
内部には張本人の昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》がいる。
「あっぱれ忠節《ちゆうせつ》の人々でござる。願いにまかせてご城下に来させ、おことばを下しおかれてしかるべし」
と、とりなした。
そこで、軍勢は続々と春日山《かすがやま》さして集まって来た。
かれこれ五千にもおよぶ軍勢だ。城下に野陣《やじん》をしいて滞在《たいざい》した。おそろしい逆意《ぎやくい》を抱《いだ》いている軍勢であるとは、晴景《はるかげ》はもちろん知らない。昼は馬塵《ばじん》を揚《あ》げ、朝夕《ちようせき》は炊煙《すいえん》を上げ、夜は万灯《まんとう》のように篝火《かがりび》を焚《た》いているさかんな軍容《ぐんよう》を見て、
「あっぱれ頼もしや」
と、よろこんでいたのだから、あさましい。
叛乱《はんらん》軍が蹶起《けつき》したのは、晴景《はるかげ》の三条発向《さんじようはつこう》が両三日の後に迫った夜であった。彼らはいつものとおり陣所陣所《じんしよじんしよ》には篝火《かがりび》をさかんに焚《た》きつづけながら、ひそかに兵をくり出して城をとり巻いておいて、春日山《かすがやま》の背後の山の頂きに松明《たいまつ》の火のあがるのを合図に、いっせいに鬨《とき》をつくり、諸手《もろて》の城門におし寄せてこみ入ろうとした。
この時、春日山《かすがやま》城内ではほとんど全部が三条討伐《さんじようとうばつ》に行っていて、四、五百人しかのこっていなかった。しかも、その人数も、晴景《はるかげ》の親衛《しんえい》兵である近習《きんじゆう》や馬廻《うままわ》りの者百五、六十人をのぞいては、多くは老幼病弱の者が多い。降って湧《わ》いた変事にあわてふためいた。
「敵はだれだ?」
「三条《さんじよう》からか?」
「越中《えつちゆう》勢か?」
「叛逆《はんぎやく》だと?」
夜のことで、様子はわからないし、女子供は泣きさけぶし、混乱がつづいたが、それでも当時の武士だ。それぞれ諸門に駆けつけて防戦にかかったものの、甲冑《かつちゆう》すらつける間がなく、みな素肌《すはだ》で、槍《やり》・太刀《たち》・薙刀《なぎなた》・弓矢、思い思いの武器をとって奮戦した。
多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》である上に素肌武者《すはだむしや》だ。志は健気《けなげ》でも、戦闘力は格段におとる。もみ合って、突き合い、切り合いしているうちに、しだいに圧迫されて、今にも押し破られそうになったが、間もなく心の利《き》いた者がいて、門の楼上《ろうじよう》に馳《は》せ上って矢を射かけはじめた。門前の狭い橋の上に、はやりにはやっておし合いへし合いつめかけて来る寄せ手だ。さしつめ引きつめ射る矢に空矢《あだや》はなく、たちまち数人が射たおされ、数人が傷を負い、歯がみしながらひとまず少し退却した。
城方《しろかた》は気を得た。
「この図《ず》をはずすな」
と、楼上に馳《は》せ上るものが相つぎ、それぞれに弓をとってさんざんに射たので、寄せ手は近づきかね、さらにまた退いた。
しかし、城方《しろかた》はそれ以上のことはできない。攻勢に出て追い散らすには、人数が足りない。固く門を守っているのがせいいっぱいの抵抗であった。
しばらく両軍の間に矢戦《やいく》さがつづいた。上弦《じようげん》のかぼそい月の下に、両軍の射る矢が飛びかっていたが、間もなく、二の丸内ですさまじい鬨《とき》の声がおこった。
それは昭田《しようだ》常陸《ひたち》がその屋敷から斬《き》って出て、本丸《ほんまる》におしかけたのであった。諸門を守っている兵らには、それが何を意味するか、はじめはわからなかったが、寄せ手が鬨《とき》を合わせ、いっせいにまた攻勢になって、しゃにむに攻めつけて来たので、不安が増した。
「裏切りだ!」
「城内に裏切りがおこったぞ!」
と、いうさけびがどこやらからおこると、気力は一時に消散した。どんな勇敢な兵でも臆病《おくびよう》になる瞬間であった。どっとくずれ立った。
二
月があるとはいっても上弦《じようげん》の片割《かたわ》れ月だ。小暗《おぐら》い。城方《しろかた》では、敵が何者《なにもの》であるか、よくわからない。城外の陣所陣所《じんしよじんしよ》にさかんに篝火《かがりび》が燃えつらなっているのに、そこが静まりかえって助勢として来てくれないので、
「さては、あの者どもであったか」
と見当をつけているにすぎなかった。ずいぶん迂闊《うかつ》な話だが、夜中にとつぜん起こったことだ、狼狽《ろうばい》しきっているのだから無理からぬことかも知れない。
しかし、間もなく、叛乱《はんらん》軍の中心に昭田《しようだ》父子のいることがわかった。本丸《ほんまる》にこもった城方《しろかた》は、
「しゃッ! 先殿《せんとの》以来抜群のご厚恩を受けながら、人非人《にんぴにん》め!」
と激怒《げきど》した。ここにこもった勢は、晴景《はるかげ》の近習《きんじゆう》と馬廻《うままわ》りの連中が大部分だ。いわば精鋭だ。大手《おおて》と搦手《からめて》にわかれて、頑強《がんきよう》に抵抗して、こみ入って来る寄せ手をいくども追い出したが、何といっても寄せ手は大軍だ。入れかわり立ちかわりこみ入って来て、ついには防ぎかねて見えた。
この夜|晴景《はるかげ》はいつもの通り寵愛《ちようあい》の女中や小姓《こしよう》どもを集めて夜更《よふ》くるまで酒宴《しゆえん》して大酔《たいすい》した後、このころもっとも寵愛《ちようあい》している女とともに寝についたので、さわぎがおこって相当たつまで目ざめなかった。
「もし、お殿様、もし、お殿様……」
と、女に起こされて、やっと目をさました。
「あれは何でございましょう。あのさわぎは?……」
女は真っ青になり、声をふるわせていたが、晴景《はるかげ》にはそれがわからない。
「なに、さわぎ? 何のさわぎじゃ? よいよい、寝よ。まだ夜は明けぬわ……」
薄目《うすめ》をあいて、まだ酔っている声で、意味もなく言いかえし、また目をつぶって引きずりこまれるように睡《ねむ》りかけた時、あらあらしい足音が寝室の外に走って来、そこからさけんだ。
「殿! 一大事でございます! 謀反《むほん》でございます! お目ざめくださいまし! お起こし申してくだされ!」
小姓《こしよう》の声であった。
女は悲鳴を上げて、晴景《はるかげ》をゆすぶった。
「謀反《むほん》で! あの、殿様、謀反《むほん》で……」
晴景《はるかげ》はいっぺんに目をさました。
「謀反《むほん》だと!」
はね起きた。
英雄的|気魄《きはく》も、豪傑《ごうけつ》的性根《しようね》も、さらにない晴景《はるかげ》ではあったが、臆病《おくびよう》ではない。こんな際に武将としてしなければならないことは知っている。
「具足《ぐそく》を持てい!」
と、さけんだ。
「はッ」
と答えるとともに、隣室のふすまの際《きわ》に両手をついていた小姓《こしよう》は、おどり上がって、蹴《け》はなすように大きくふすまを開けはなって駆け入り、へやの隅《すみ》から具足櫃《ぐそくびつ》をかかえ出して来て晴景《はるかげ》の前にすえた。
晴景《はるかげ》は小姓《こしよう》に手伝わせて、寝間衣《ねまぎ》の上に腹巻をつけながら、
「何者《なにもの》の謀反《むほん》じゃ? 謀反《むほん》は何やつじゃ?」
と聞いた。
「定かにはわかりませぬが、三条発向《さんじようはつこう》を名としてご城内に滞陣《たいじん》しています諸家《しよけ》の者どものようでございます」
まんまと謀《はか》られたことを、晴景《はるかげ》は知った。
「不埒《ふらち》な奴《やつ》ばらめ!」
晴景《はるかげ》は怒号《どごう》しながら、小姓《こしよう》の捧《ささ》げる弓矢を受け取って、表御殿《おもてごてん》に向かった。背後の奥御殿では、女らの泣きさけぶ声と、右往左往してふためくひびきとがおこった。名状しがたい混乱であった。晴景《はるかげ》は熊手《くまで》のようなものでめちゃめちゃに胸を引っかきまわされる気持ちで、いっそうの狼狽《ろうばい》に追いこまれた。
いくらかでも事を鋭く思いめぐらす人間なら、ここで昭田《しようだ》常陸《ひたち》父子にも疑惑《ぎわく》をもたなければならないはずであったが、晴景《はるかげ》にはその推理力はなかった。辛辣《しんらつ》すぎるくらい辛辣《しんらつ》な推理力をもち、また辛辣《しんらつ》にならざるを得ないような波瀾《はらん》の多い生涯《しようがい》をおくった為景《ためかげ》に似ず、晴景《はるかげ》は性質もなまぬるい上に、人間の性格の形成される若い時期を温室《むろ》の植物のように平坦《へいたん》容易な境涯《きようがい》のうちに送って、四十の坂を越えてきたのだ。よろずにあまい。父の代に旅人の身から取り立てられて家老《かろう》にまでなり、自分の代になっても家老《かろう》として重用《ちようよう》されているばかりか、自分を推薦《すいせん》し擁立《ようりつ》までした昭田《しようだ》が、自分に謀反《むほん》をくわだてるなど、まるで考えられないことであった。彼はほとんど、
(昭田《しようだ》を呼べい、常陸《ひたち》を呼べい)
と呼ばわるところであった。困惑《こんわく》するような事件の際は、いつも昭田《しようだ》がこれを解決してくれたのだ。昭田《しようだ》にさえまかせておけば、間違いないと、ほとんど信仰的に考えているのであった。
だのに、座敷に出た時、近習《きんじゆう》の者がまた走って来た。
髪《かみ》はもとどりがゆるみ、頬《ほお》のあたりにかすり傷まで負うて、乱戦の中から駆けもどって来たことがわかる形相《ぎようそう》だ。
「謀反《むほん》の大将は、昭田《しようだ》常陸《ひたち》でござる。黒田《くろだ》和泉《いずみ》・金津伊豆《かなづいず》、先鋒《せんぽう》となって、ご本丸《ほんまる》に攻めかけております」
と注進《ちゆうしん》した。
「なにい! 昭田《しようだ》が!……」
とさけんだきり、晴景《はるかげ》は何にも言えなかった。疑いはしなかった。目から鱗《うろこ》がおちた気持ちであった。怒りはほとんどなかった。絶望が胸を暗くした。気力が一時にぬけて、その場に居すわりそうになった。
そのうち、敵は本丸《ほんまる》に押しこんできたらしく、至るところで太刀《たち》打ちの音や、器物のこわれたり、おしたおされたりする音がおこったが、晴景《はるかげ》にはどうしてよいか、まるで方途《ほうと》がつかない。弓を杖《つえ》づいたまま、茫然《ぼうぜん》として居すくんでいると、おいおいに武士らが集まって来た。皆はげしい血戦の中から来たこととて、傷《て》を負わぬはない。
晴景《はるかげ》にはまだ思案が立たない。
(腹を切ることになるかも知れん)
ぼんやりとそんなことを考えながら、家臣《かしん》らを見まわしていると、次弟の平蔵景康《へいぞうかげやす》と三弟の左平二景房《さへいじかげふさ》とが、兵をひきいて駆けつけて来た。兄を見ると、二人ながら片膝《かたひざ》おって色代《しきたい》した。景康《かげやす》が言う。
「味方は寡勢《かぜい》、敵は多勢《たぜい》。防ぎの術《すべ》も尽きはて、敵は本丸《ほんまる》へ乱入してまいりました。今は城もかぎりと覚えますが、謀反人《むほんにん》どもの手にかかり給わんこと、口惜《くちお》しゅうござる。ひとまずここを落ちさせられ、後日の征伐を心掛けくださいますよう。われら兄弟は、ふみとどまって、必死の防戦をいたします。片時《へんじ》も早く! さ、者ども、お供して行けい!」
言いすてて、兄弟は身をひるがえして走り去った。
まるで自分の意志をうしなっている晴景《はるかげ》には、景康《かげやす》のことばは催眠術《さいみんじゆつ》にかかっている人にたいする術者の暗示のようなものであった。のそのそと歩き出した。そんなことは、家臣《かしん》らにはわからない。この危急な場合に、この悠々《ゆうゆう》たる態度は、さすがに先君のご長子ほどあると感心しながら、
「お急ぎなさいますよう。お急ぎなさいますよう。こちらへ、こちらへ」
と言いながら、とりまいて、広縁《ひろえん》から庭におり、おぼろな星空の下を暗い方へ暗い方へと導いて行った。月はもう沈んでいた。
三
叛乱《はんらん》勢が本丸《ほんまる》へ攻めかかった時、喜平二景虎《きへいじかげとら》は小さな腕に槍《やり》を引きずって大手《おおて》の門に駆けつけたが、一間半《いつけんはん》の槍《やり》が重くて持てあつかいかねた。脇差《わきざし》をぬいて、石突《いしづ》きから二尺ほど切りおとして、それで戦った。
思いもかけない初陣《ういじん》ではあったが、恐怖など少しも感じなかった。暗《やみ》の中に真っ黒になってどよめきよせる敵勢の中に霜《しも》を帯びた薄《すすき》の穂《ほ》のような槍《やり》の穂先《ほさき》や刀の光がそよぐのを見ると、きびしい緊張が凛々《りんりん》と身うちにみなぎり、歓《よろこ》びに似たものが胸に湧《わ》き立った。
「逆賊《ぎやくぞく》め! 逆賊め! 逆賊め!……」
のどもはり裂《さ》けんばかりに絶叫《ぜつきよう》して、だれよりも先に槍《やり》をひねって踏《ふ》み出して、戦った。短い戦闘であったが、彼はたしかに三人は突き伏せたと思った。
敵勢が新手《あらて》を入れかえてあとからあとからと攻めつけて来たので、味方は戦いながら引きしりぞいて来たが、ややもすれば景虎《かげとら》が敵中に踏みこんで行きそうになるので、終始そばについていた金津新兵衛《かなづしんべえ》は、
「退《ひ》きどきでございます。退《ひ》きどきでございます」
と、たえずおさえては、潮合《しおあ》いをはずさず退却させて、表御殿《おもてごてん》の入り口までさがって来たが、もうその時には搦手《からめて》からこみ入って来た敵兵らが御殿に入りこんで、晴景《はるかげ》をさがしもとめながら、至るところで、味方の兵と激闘していた。
景康《かげやす》も、景房《かげふさ》も、討ちとられた。高々と上げる名乗りによって、それがわかった。
「まさしき兄上らのかたきだ。あれをこの耳で聞きながら捨ておいては、おれが名のけがれになる」
と景虎《かげとら》が駆けつけようとするのを、金津新兵衛《かなづしんべえ》は必死におさえた。
「道理でございますが、ここはお忍びくださいまし。あの者どもはただの武者《むしや》。真の敵は昭田《しようだ》常陸《ひたち》でございます。昭田《しようだ》を討ち取りなさらでは、真にかたきを討ったことになりませぬぞ」
新兵衛《しんべえ》は、どうにかして、景虎《かげとら》をここから脱出させなければならないと思っていた。彼は景虎《かげとら》の供をしながら懸命《けんめい》に退路をさがしたが、どこへ行っても敵影がある。それを避けているうちに、表御殿《おもてごてん》の侍詰所《さむらいつめしよ》に来てしまった。追いつめられた形であった。
ついに、一策を案じ、
「お供して、この囲みを出ようと心くだきましたが、敵兵ども城中に充満して、できかねます。しばらく、ここの床下《ゆかした》にお身をかくしていただきとうござる。今夜はもうどうすることもできませぬが、明夜かならずお迎えに上がります」
といった。
「よいわ。昔|鎌倉《かまくら》の右大将頼朝《うだいしようよりとも》公も、朽《く》ち木《き》の洞《ほら》の中に身を忍ばせられたことがあると聞いている。おれがえらくなる前表《ぜんぴよう》であろうよ」
景虎《かげとら》はこういって、隅《すみ》の床板《ゆかいた》を引きはなさせて、みずからもぐりこんだ。
四
春日山《かすがやま》城が完全に叛乱《はんらん》軍の手に帰したのは、夜のほのぼのと明けるころであった。そのころまでに城方《しろかた》の者はあるいは討ち死にし、あるいは城外にのがれ、城内には一敵もなくなっていた。
昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》は黒田《くろだ》・金津《かなづ》の二人の息子《むすこ》をはじめとして、与力《よりき》の諸将を従えて、城内で勝鬨《かちどき》の儀式を行い、討ち取った景康《かげやす》や景房《かげふさ》その他の名ある武士らの首実検《くびじつけん》をした後、城内の財物|庫《ぐら》全部をひらいて、諸将や功のあった武士らにおしげもなくあたえた。こういう点、一介《いつかい》の旅牢人《たびろうにん》から為景《ためかげ》ほどの人物に取り立てられて家老となったほどのものはあった。この際は人々の心を攬《と》るのがもっとも大事で、そのためには財宝などおしんではならないことをよく知っていた。
とにかくも、すべり出しはうまくいったのだ。昭田《しようだ》は三条《さんじよう》へも越中《えつちゆう》へも報告の使者を派しておいて、城をかためた。やがて越中《えつちゆう》から後ろ巻きの兵も来るであろうし、三条《さんじよう》の俊景《としかげ》も気勢を得て討伐軍を圧倒するであろうと考えたのであった。
城のかためは厳重をきわめた。諸門はいうまでもなく、土居《どい》や塀《へい》の要所要所にも番卒《ばんそつ》を立て、間断なく兵を巡回させた。主将である晴景《はるかげ》を取りにがしている上に、一里くらいしか離れていない府内館《ふないやかた》には守護《しゆご》の上杉定実《うえすぎさだざね》がいる。油断はならないのであった。
昭田《しようだ》にとっては、定実《さだざね》はあつかいにくい人であった。実力は全然ない。長尾《ながお》家が立てている飾《かざ》り雛《ぴな》にすぎないのだから、つぶすつもりになればわけはないが、あとがうるさい。国内の豪族《ごうぞく》らは定実《さだざね》にたいして宗教的ともいうべき権威を認めている。晴景《はるかげ》に対する叛逆《はんぎやく》には味方した連中も矛《ほこ》をさかさまにして立ち向かって来るおそれが十分ある。とかく、敵にしてはならないのである。といって、用心を怠《おこた》ってはならない。こちらが無用心《ぶようじん》では、ひょっとして向こうから攻めかかって来るかもしれない。功臣春日山長尾《かすがやまながお》家の仇《あだ》を伐《う》つといっても、北《きた》の方《かた》の実家の仇《あだ》を伐《う》つといっても、名義はりっぱに立つのである。せんずるところ、守備を厳重にして、その気をおこさせないのが一番である。
その日が暮れて、昼の間から出ていた細い弦月《げんげつ》がすがすがしい光を放つころになると、城は至るところに大かがり火が焚《た》かれ、空をこがすばかりとなった。
それからかなり時間がたって、日が沈んで、かがり火の光がますます冴《さ》えてきたころ、春日山《かすがやま》から小半里はなれた村落の農家の藁小屋《わらごや》から、金津新兵衛《かなづしんべえ》は這《は》い出した。
景虎《かげとら》を本丸《ほんまる》の侍詰所《さむらいつめしよ》の床下《ゆかした》にひそました後、彼は城の濠《ほり》を泳いで脱出し、ここに来た。かねてから家に出入りしている百姓《ひやくしよう》の家だが、こんな際のこと、どんな料簡《りようけん》をおこして、「ご注進《ちゆうしん》」などと城内に駆けこまないものでもない。利には皆さといのだ。だから、そっと忍びこんで、どんぶりに入れてふたをしてあった冷や飯をさらって裏の林に持って出て、手づかみで食った。雑穀のうんと入った、つかめば指の間からぼろぼろとこぼれる飯であったが、空《す》き切った腹にはものすごくうまかった。半面を蔽《おお》うて生えている濃くこわいひげにくっついた飯粒《めしつぶ》まで、一粒一粒|丹念《たんねん》につまんで食べた。そのあと、藁小屋《わらごや》に入り、藁《わら》の中にもぐって、終日寝ていた。夜にならなければどうしようもないのだ。長い一日を、とろとろと眠って目をさまし、目をさましてはまたとろとろと眠って、やっとこの時刻になったのだ。
小屋を出ると、空を仰いで大きなあくびをした。うるんだようにおぼろな星が少し出ている空だ。薄く雲がかかっているらしい。終日休養して、気持ちはいたって爽快《そうかい》だ。気力がみなぎっている感じだ。
便意をもよおしたので、林の中に入った。おそろしく多量に快通した。ますます精気に充《み》ちてきたが、同時にまた腹が空《す》いてきた。
用心のためには、また盗んで食うよりほかはない。春日山《かすがやま》城への道をたどりながら、適当と思われる農家を物色《ぶつしよく》して忍び寄って様子をうかがったが、目あてをつけた家が三軒とも皆まだ起きていた。
めんどうくさくなった。
「おいおい」
と三軒目では、戸をたたいた。
真っ暗な中でぼそぼそと寝物語でもしていたらしい話し声がぴたりとやんだ。
「おい、開けてくれい。城内の者だ」
というと、ガサガサと寝藁《ねわら》の鳴る音がして起き出て来るけはいがする。すかさず、
「城内の者だ!」
と、少し調子を張って言うと、
「へい」
と返事した。戸にとりついて、ガタガタとあけた。同時にそのうしろで寝藁《ねわら》をガサガサいわせていたあたりで、ボウと灯《ひ》がついた。囲炉裡《いろり》の埋《うず》み火から脂松《やにまつ》に火をうつしたのであった。当時の百姓《ひやくしよう》らの夜間の照明具は筆ほどに裂《さ》いた脂松《やにまつ》に火を点じ、それを炉の隅《すみ》にすえた大きな軽石《かるいし》にのせたものであった。気泡《きほう》の多い軽石はよく空気をとおして、上におかれた脂松《やにまつ》の火を燃え立たせたのだ。菜種油《なたねあぶら》や荏胡麻《えごま》油を皿《さら》に盛り、灯心《とうしん》をひたして火を点ずる照明具はもちろんあったが、これは町人《ちようにん》なら中流以上、百姓《ひやくしよう》なら庄屋《しようや》か名主《なぬし》くらいの家でなければ使わなかった。それ以下の階級では、食用になる油を灯火用にするなど冥加《みようが》を知らないことなのであった。
中年の百姓《ひやくしよう》夫婦《ふうふ》と子供二人の家族であった。亭主《ていしゆ》は土間《どま》に立っており、女房《にようぼう》と子供らは寝藁《ねわら》の中にすわっている。いかめしい新兵衛《しんべえ》のひげ面《づら》に、恐怖しきっている。黒い油煙《ゆえん》と赤い炎《ほのお》を長々と上げて燃えている脂松《やにまつ》の光をすかしてみる亭主のやせた毛脛《けずね》ははげしくふるえており、家族どものせいいっぱいに見はった目にはおびえ切っている色があった。
「所望《しよもう》じゃが、飯を食わしてくれい」
「へッ?」
「飯だ。急ぐゆえ、のこり飯でよい。お使者に行ってここまで帰って来たら、にわかに腹が空《す》いて、どうにもがまんできんようになった。鳥目《ちようもく》の持ち合わせはないが、代《しろ》にはこれをおく」
肌《はだ》ぬぎになり、肌着《はだぎ》をぬいで女房の前に投げおいて、土間《どま》の棚《たな》にのせた釜《かま》に歩きよって、とりおろした。先刻から目をつけていたのだ。椀《わん》も箸《はし》も洗って、ザルにふせてある。釜《かま》のふたをはらうと、底に三杯ほどの飯があった。これも雑穀《ざつこく》まじりのぼろぼろな飯だ。水をかけて、肌脱《はだぬ》ぎのまま、立ったまま、さらさらとかきこんでいると、女房がとびおりて来た。ぼろな着物と煮《に》しめたようによごれた短い湯巻《ゆまき》一つの、半裸体にひとしい姿だ。串《くし》にさして火取った川魚のように痩《や》せひからびた亭主《ていしゆ》とはまるで正反対に、肉つきのよい大女だ。雄大といってもよいほどな大きな乳房《ちぶさ》をぷりんぷりんとふりうごかしながら、漬物桶《つけものおけ》の重石《おもし》を上げにかかった。のこりものの冷や飯二、三杯の代価に真新《まあたら》しい白麻《しろあさ》の肌着《はだぎ》をもらっては申しわけがないと思ったらしかった。
「そうしてくれんでもよいぞ」
と言っているうちに、女房《にようぼう》は菜漬《なづけ》をつかみ出し、バシャバシャと流しもとで洗って、手早くきざんで、どんぶりに盛ってさし出した。いっさい無言《むごん》だ。
「ありがたい」
もらって、最後の一膳《いちぜん》はおかずつきで食べた。おそろしく塩からかったが、おかげで飯はたいへんうまかった。もっと食べたかったが、もう飯がなかった。椀《わん》と箸《はし》をおき、着物の肌《はだ》を入れた。
「おどろかしたばかりか、いかい世話をかけたな。おかげで人心地《ひとごこち》がついた」
礼を言って出た。
五
城に忍びこむ方法については、新兵衛《しんべえ》は工夫《くふう》をつけていた。脱出して来た時のコースを逆に、濠《ほり》を泳ぎわたり、水門口から忍びこむつもりにしていた。警戒のもっとも厳重なのは二の丸の外郭《がいかく》であろうが、ここを無事にくぐり入れば、あとはたいしたことはなかろう。二の丸内の各所や本丸《ほんまる》の外郭《がいかく》にも番の者が立ってはいようが、多くは在所《ざいしよ》から主人に連れられて来てはじめて城内に入った連中だ、勝手を知りつくしているこちらには、この連中の目をくぐることは、たいしてむずかしいことではないはずだ。
新兵衛《しんべえ》は自信のある足どりで、昨夜の夜中過ぎに泳ぎ上った濠端《ほりばた》に向かったが、そのつい手前で黒い人影が数個|物陰《ものかげ》にうごめいているのを見た。
こちらはすばやく身を伏せて様子を見ていた。影を数えると、四人だ。槍《やり》は持っているが、甲冑《かつちゆう》はつけていないようだ。どうやら人目をはばかっているように見える。
(味方だな、これは)と思った。
思い切ってかくれがから離れて、すたすたと近づいて行った。四個の人影はぱっと飛びひらき、槍《やり》をかまえた。声は立てない。じりじりと腰をかがめた。暗《やみ》をすかしてこちらを凝視《ぎようし》しているふうだ。味方ではないかと疑っていると思われた。
新兵衛《しんべえ》は足をとめて、小声で言った。
「味方だろう。わしは金津新兵衛《かなづしんべえ》、そちらはだれだ」
四人は緊張を解いて、身をおこし、槍《やり》を立てた。
「新兵衛《しんべえ》どのか。拙者《せつしや》は戸倉与八郎《とくらよはちろう》」
「拙者《せつしや》は曾根平兵衛《そねへいべえ》」
「秋山源蔵《あきやまげんぞう》」
「鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》」
とつぎつぎに名のった。四人とも長尾《ながお》家で勇士の名ある青年らであった。
一同は間近くかたまった。青年らは素肌《すはだ》ながら皆たすきをかけ、鉢巻《はちまき》していた。
「おぬしら、どうしたのじゃ。仔細《しさい》ありげだの」
と新兵衛《しんべえ》はきいた。新兵衛《しんべえ》は年長でもあれば身分も上だ。こんな調子のことばづかいになるのはそのためであった。
「拙者《せつしや》ども、昨夜、不意を打たれた上、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》、いたし方なく城を落ちたのでござるが、今日になってみますと、臆病至極《おくびようしごく》のことであったと、骨を刺《さ》す恥ずかしさであります。無念やる方がござらぬので、たがいに申し合わせて、城内に忍び入り、斬《き》り死にするつもりで、こうしてまいったのであります」
と、鬼小島《おにこじま》は答えた。
若者らの純粋ではげしい心に、新兵衛《しんべえ》は感動した。ひげに蔽《おお》われた頬《ほお》の皮膚《ひふ》がきゅっとひきしまり、鼻の根もとがむずむずしてきた。それのしずまるのを待って、言った。
「おぬしらの人柄《ひとがら》として、まことにそうであろう。しかしながら、四人くらいの人数では、おぬしらがいかに剛勇《ごうゆう》でも、格別なことができようとは思えぬ。所詮《しよせん》は、あったら勇士が犬死にすることになる。それより、どうじゃな、わしは喜平二《きへいじ》様をご城内におかくし申しているので、これからお連れ出しにまいるところじゃ。間もなくお連れしてくるが、喜平二《きへいじ》様をもり立てて、お家再興ということにせんか。おぬしら知っているかどうか知らぬが、喜平二《きへいじ》様は弾正《だんじよう》様のようなお人ではない。お年若ながら、あっぱれ名将となるべきご性質だ」
「ご城内のどこにおかくし申していなさるのです」
新兵衛《しんべえ》は言うべきかどうかちょっと迷ったが、ひょっとして行きつくまでに自分が敵の手にかかるかも知れないと思ったので、打ち明けた。
「ご本丸《ほんまる》の侍詰所《さむらいつめしよ》の床下《ゆかした》だ」
四人はあっとおどろいた。
「ご無事でありましょうか」
と不安がった。
「ご無事とわしは信じている。お体格《からだ》こそお小さいが、胆《きも》はお太いぞ。なみの子供とはちがう」
ほめられても、四人には実感はない。先殿《せんとの》の愛情が薄く、一度も目立つような位置におかれなかったばかりか、幼い時からついこのころまで栃尾《とちお》に遠ざけられていた若君だ。どんな性質だか、まるでといってよいくらい知らない。しかし、今、この激揚《げきよう》した行動の意欲の前には、だれでもよい、忠誠心を注ぐべき人がほしかった。
「究竟《くつきよう》なことでござる。喜平二《きへいじ》様をもり立て申そう。しかし、お迎えには拙者《せつしや》どものうちだれかがまいりましょう。われらのような若い者にもっとも似合いなことであります」
と、鬼小島《おにこじま》が主張した。
「いやいや、お迎えはやはりわしでなくばかなわぬ。おぬしらは忍び入るべき道を知るまいが、わしはそこから出て来たのだ。来た道を逆に行けばよいのだ」
と新兵衛《しんべえ》は答えて、着物をぬぎ、すっぱだかになり、下《さ》げ緒《お》で刀を背にななめに負い、短刀をふんどしにさし、脱出の時|濠《ほり》から這《は》い上がった場所まで行って、水に入った。水音の立たないように岸をつかんでしずかにずぶずぶと入った。
四人は濠端《ほりばた》に散った。それぞれの地物《ちぶつ》にぴったり身をよせ、しゃがみこんで、水面をすかし見た。星影一つうつしていない黒い水面には波紋《はもん》一つ立たず、また水音も全然立たなかった。水底を潜行して行ったのであろう。
六
番の者のすき間を巧みにくぐって、新兵衛《しんべえ》は本丸御殿《ほんまるごてん》の侍詰所《さむらいつめしよ》の縁の下にたどりついた。
詰所《つめしよ》には、数人の武者《むしや》らが詰めているが、酒宴をひらいている。酔いだみた声で高笑いしながら、女まじりにしゃべり立てている。逃げることのできなかった奥女中らを拉《らつ》して来ているにちがいなかった。
「運がよいわ」
新兵衛《しんべえ》はにこりと笑った。
ここの床下《ゆかした》は、縁と座敷の境目《さかいめ》が厚い板で張りめぐらしてあるが、一か所だけ、大掃除《おおそうじ》の時のために、板がはずれるようになっている。新兵衛《しんべえ》はそこに行って、板をはずした。はずすと、かび臭《くさ》い、しめっぽい空気がしずかに鼻先に流れて来た。入っては行かなかった。景虎《かげとら》の方で気づいて出て来るはずと思った。あんのじょうだった。待つ間もなく、かすかな呼気《こき》の音が聞こえたかと思うと、ぬっと出て来た。
二人はうなずきかわし、あたりに目をくばりながら縁の下を出て、物陰《ものかげ》から物陰をたどって本丸《ほんまる》の濠《ほり》ばたに出た。濠《ほり》にさしかかって枝をのばしている老松の陰にうずくまった。
ここからは水に入らなければならないが、新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》の幼いころに泳ぎをしこんでいる。泳ぎの効果は水に対する恐怖心のなくなることだ。恐れさえしなければ、人間のからだは水に浮くようにできている。上手《じようず》へたに関係なく、一度泳ぎをおぼえた者が終生泳ぎを忘れないのはこのためである。
しかし、新兵衛《しんべえ》はささやいた。
「若君《わかぎみ》は栃尾《とちお》で泳ぎをなされましたか」
「うん。夏は刈谷田《かりやた》川に漬《つ》かりぱなしだった。栃尾《とちお》の子供なかまでは、おれほど達者《たつしや》なものはいなかった」
「それでは心安《こころやす》うございます。できるだけ水中にもぐって、音を立てぬようにして、てまえの後から泳いで来てくださいまし。水門口をくぐって、二の丸の濠《ほり》へ出ます」
「心得た」
景虎《かげとら》は着物を脱ぎすてた。これも刀をななめに背に負い、短刀をふんどしにさした。
本丸《ほんまる》の警備は二の丸の厳重さにくらべるとずいぶん疎略《そりやく》だが、それでも所々にかがり火が焚《た》いてあり、時おりは巡邏《じゆんら》の兵も通る。二人はそのすきを見て、掻《か》き上げの土居《どい》をすべりおりて水に入った。
かがり火の光のとどかない、岸の暗いところをえらんで、ごく静かに水門口の方へ潜行して行った。
やがて、水門間近になったが、どうしたはずみであったか、景虎《かげとら》が呼吸《いき》をつごうとして水中から浮かび上がって顔を出した時、不覚《ふかく》に水の音が立った。しずかな夜気《やき》の中に、それは異様《いよう》なくらい高くひびいた。
新兵衛《しんべえ》はハッとして、景虎《かげとら》の腕をつかんで、岸の暗《やみ》に身を寄せ、ゆっくりと首をまわして両岸の土居《どい》の上と水門の上の土居の上を見まわした。するとその目に、水門口に向かって、槍《やり》を引きそばめて行く兵の黒い姿が見えた。
(しまったな! やつめ、見つけたらしいぞ)
新兵衛《しんべえ》は凝視《ぎようし》していたが、その番兵が全然他に知らせようとしないことに気づいた。新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》の腕をつかんだ手を放さず、あごでそちらを示し、なお見つめていた。番兵の姿は土居《どい》の向こうに消えたが、高々と上がった槍《やり》が石突《いしづ》きを上に、遠いこちらで焚《た》いているかがり火の光を受けて見えていた。かがり火の焔《ほのお》がのびたりちぢんだりなびいたりするためであろう、一筋《ひとすじ》のその槍《やり》は光る線になったり消えたりしている。
なるほど、と、新兵衛《しんべえ》は合点《がてん》がいった。水門口を出るところを、上から一突きにして、手柄《てがら》をひとりじめにするつもりであることは明らかであった。
にわか雲水《うんすい》
一
思案はとっさに定《き》まった。新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》の耳に口をつけてささやいた。
「拙者《せつしや》がまず行ってあの者をしとめます。若君《わかぎみ》はそれから出ていただきます。ともかくも、水門までいっしょにまいりましょう」
「どうするのじゃ。上がっては、ほかの番卒《ばんそつ》どもに見つかるぞ」
「上がりません。まいりましょう」
新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》をうながして、また水にもぐって、水門口まで行き、そこで景虎《かげとら》の腕をつかんで、ここにとどまれと合図《あいず》した。景虎《かげとら》は心得て、水路の側壁にぴたりと身を寄せた。側壁は石でたたんである。切り合わせて寸分《すんぶん》のすき間もなくしてある上に、水苔《みずこけ》でぬるぬるし、せまい水路に入った水は早い流れになっている。とどまることは骨がおれたが、わずかなすきに爪《つめ》を立ててしがみついていた。
その間に、新兵衛《しんべえ》は大きく水を蹴《け》って、激する水とともに水門口をひらめき出た。
落ち口の真上に足をふみひらき、槍《やり》の穂先《ほさき》を下に向け、今か今かと待っていた番兵は、ヤスで魚を突くように、声もなく、力まかせに突きおろした。
新兵衛《しんべえ》は十分に用意している。水門口を出る時、すでに正面を避けている。身をひねりざま、流れる槍《やり》のケラ首をつかむや、グンと引いた。気合いをはかってひいたのだ。番兵はしまったと思う間もない、すさまじい水音とともに濠《ほり》に引きずりこまれた。新兵衛《しんべえ》がそのもとどりをつかむと、右手に抜き放った短刀で首をかき切るとは同時であった。
その以前、景虎《かげとら》は水門を出て来ていた。ぬきはなった短刀を口にくわえていた。
深夜のにわかな水音に、諸所に立っていた番卒どもはおどろいた。
「何だ?」
「どこだ?」
「水門口の方であったぞ!」
と、口々にさけびながら、馳《は》せ集まってくる。篝火《かがりび》の薪《たきぎ》をさっそくの松明《たいまつ》として引きぬいて来る者もある。
しかし、その時には新兵衛《しんべえ》と景虎《かげとら》は水中深くもぐり、濠《ほり》をななめに横切って、岸に向かって泳ぎつつあった。
本丸《ほんまる》の土居《どい》の上を右往左往してさがしている番卒《ばんそつ》らのさわぎに、二の丸の番卒らもどよめき立ったが、二人は早くも岸に泳ぎついた。
濠端《ほりばた》の地物《ちぶつ》の陰に身をひそめて、はらはらしながら待っていた若者らは走り寄って来た。
「ご無事か!」
「かすり傷一つ負わぬぞ」
若者らのさしのばしてくれた槍《やり》にすがり、片手をとられて、這《は》い上がった。
暗い夜であったが、番卒らは懸命《けんめい》にさがしはじめたのだ。これほどの人数が濠端《ほりばた》でうごめいているのが目につかないはずはない。
「やあ、あれだ! 濠端《ほりばた》の角《かど》になっているところにあやしい人影が見えるぞ!」
とさわぎ立てた。濠《ほり》の向こうの櫓《やぐら》の上や土居《どい》の上から矢が飛んで来はじめた。門にまわって馳《か》け出そうとひしめき走る兵もある。
長居《ながい》は無用だ。人々は景虎《かげとら》を中におしつつんで、走り出した。
何よりも、景虎《かげとら》の衣服を都合《つごう》しなければならない。追っ手のかかることも覚悟しなければならない。
走りながらの相談の結果、林泉寺《りんせんじ》へ駆けこもうということになった。
二
天室和尚《てんしつおしよう》は寝もやらず、居間で禅定《ぜんじよう》に入っていた。この寺を建てた大檀家《おおだんか》である長尾《ながお》家におこった大災厄《さいやく》は、きびしい修業《しゆぎよう》に鍛《きた》えられた七十余歳の老僧の胸にもいたましかった。俗界のこととして捨ておけないものがある。
和尚《おしよう》すらこんな気でいるのだから、若い寺僧らが心をさわがさないはずがない。
「黙止すべきではござるまい。逆臣《ぎやくしん》どもに説いて、正道《せいどう》に引きもどすべきでござろう」
といきり立っておしかけてくる者がいく人もいた。
そうした説得《せつとく》が効果のなかろうことは確実だ。逆徒《ぎやくと》らが叛逆《はんぎやく》に踏み切ったのは十分な思慮《しりよ》を経ての上であろうし、一応成功して城を乗りとっているのだ。おごり切った心になっているにちがいない。真っ盛りの炎《ほのお》のようなものだ。何を言ったとて、心を動かそうとは思われない。
「わしも考えている。説くべき時がくれば説く。今はまだその時でない。さわぐな。こんな時平常心を失わず静まりかえっているこそ、かねて修業《しゆぎよう》の功というもの」
と、いちいちに教えさとして、どうやらおししずめたものの、和尚《おしよう》自身の心は決して静かではなかった。
城主|晴景《はるかげ》は城を落ちたとは聞くものの、どこへ行ったか明らかでない。それに、あの器量ではふたたび家を回復することができるか、あやしいものだと思う。回復には国侍《くにざむらい》らの助勢を必要とするが、その人気《にんき》があろうとは思えないのである。
次弟の景康《かげやす》も、三弟の景房《かげふさ》も、戦死した。今日の昼前、昭田《しようだ》常陸《ひたち》の使者が、二人の死骸《しがい》を送りつけて来た。切られた首をつないである死骸《しがい》であった。
「お討ち取り申すつもりではござらなんだが、乱戦の間にかかる仕儀《しぎ》となりました。合戦《かつせん》のならい、是非《ぜひ》もなきこと。ご代々の菩提所《ぼだいしよ》のことでござれば、お送り申す。ご葬送の儀、お願い申す」
という口上《こうじよう》に布施《ふせ》をつけてあった。
和尚《おしよう》は引き取って、代々の墓所に埋葬《まいそう》し、法事もおごそかに修めた。
兄弟のうち、のこるところは、末子《まつし》の喜平二景虎《きへいじかげとら》だけだが、これはまたどうなったか、まるでわからない。三条《さんじよう》に乱がおこって間もなく、栃尾《とちお》から帰って来て勘当《かんどう》がゆるされて城内にいるようになったのだから、昨夜も城内にいたのであろうが、全然消息を聞かない。
「弾正《だんじよう》殿といっしょに落ちたのであろうか」
とも思う。
景虎《かげとら》がいのちが助かっているなら、長尾《ながお》家の前途もいくらか明るい。幼年のころ、わずかに半年足らずではあったが、寺にあずかって四書の素読《そどく》を教えた記憶によるとすぐれた素質《そしつ》の少年であった。出家《しゆつけ》には本人も好まなかったし、不適当であると見たが、気性《きしよう》の強くたくましいこと、頭脳の明敏《めいびん》なこと、武将にはもっとも適した素質《そしつ》と思われた。しかし、また、
「それにしても、まだ幼いのう。やっと十三か四じゃわ。もう三、四年も長尾《ながお》家が前のままであったら、あっぱれ、よき武将として、家の名をあげられたろうに、こうなってはどうであろう。あの年若では、国侍《くにざむらい》衆が心を寄せてくれようとは思われぬ」
と、天室和尚《てんしつおしよう》の心は千々《ちぢ》に乱れるのであった。
そのようなさまざまなことを胸に去来させながらすわりつづけていると、にわかに山内《さんない》がさわがしくなった。どうやら山内《さんない》の僧らがそれぞれの寝場所からいっせいに本堂の方にとび出して行くけはいだ。
天室和尚《てんしつおしよう》はくゎっと目を見ひらいた。何かことがおこったに相違なかった。
「これよ」
と隣室の侍僧《じそう》を呼んだ。
「はッ」
侍僧はふすまをあけて出て来て、かしこまった。
「あのさわぎは何じゃ。行って見て来なされ」
「はッ」
侍僧《じそう》はこたえて出て行く。和尚《おしよう》は何もなかったように、静かな禅定《ぜんじよう》の姿になったが、すぐこの室と母屋《おもや》とのつなぎになっている渡り廊下をわたってくる足音が聞こえた。静かに歩こうとつとめながらも心のせいている足音だ。一人の足音ではない。和尚《おしよう》は表情を動かさずすわりつづけていた。ボウと灯影《ほかげ》が障子《しようじ》にさし、足音は障子の外でとまって、すわるけはいだ。
「申し上げます」
侍僧の声だ。
「なんじゃな」
「とりつぎの者がまいりました」
「入りなされ」
障子《しようじ》をあけると、侍僧《じそう》と執次《とりつぎ》僧とが、雪洞《ぼんぼり》をそばにおいて、ひざまずいていた。おじぎして、しきいをこえて入って来て、あとをきちんとしめてから、執次《とりつぎ》僧は言う。
「ただいま、喜平二景虎《きへいじかげとら》様をご守護して、お傅役《もりやく》の金津新兵衛《かなづしんべえ》殿外数名の方がまいられました。昨夜のさわぎの時以来ご城内に潜伏《せんぷく》しておられて、たった今金津《かなづ》殿が助け出し申してまいられたというのでございます。濠《ほり》を泳ぎ越してまいられたとて、おはだかでございますので、とりあえず衣服をまいらせ、客殿《きやくでん》にお通し申しました」
「すぐわしがまいる。なんぞあたたかいものでもまいらせるがよい。この季節、あたたかとはいえ、夜ふけに水に入られては、お冷えであろう」
「かしこまりました」
執次《とりつぎ》僧は去ろうとする。
「ちょっと待ちなされ。本堂でえらい皆がさわいでいるようじゃが、定めて景虎《かげとら》様がまいられたからであろう。さわがぬよう言いなされ。へたなさわぎをしたら、おいでになったことを謀反人《むほんにん》どもに教えるようなものじゃ」
「ハッ」
執次《とりつぎ》僧は退《さが》って行った。
天室和尚《てんしつおしよう》は、侍僧《じそう》に手伝わせて、白衣の上に法衣をまとい、袈裟《けさ》をかけ、灯《ひ》をうつした雪洞《ぼんぼり》を侍僧《じそう》に持たせて居間を立ち出《い》でたが、本堂の方のさわぎは静まるどころか、いっそうさかんになっている。
和尚《おしよう》は白い長い眉毛《まゆげ》をピリピリとふるわせたが、急にはだしのまま、庭におりた。
「ついて来なさい」
おどろいている侍僧にそう言って、飛び石伝いに中門を出て、本堂の前に行った。
本堂の前には、山内《さんない》の坊さんたちが集まっていた。真っ暗な中にまるい頭だけがひしめいて、異様な風景であった。
「喜平二《きへいじ》様が当山にござると知ったら、敵の押し寄せてくるは必定《ひつじよう》じゃ。当山は長尾《ながお》家によって建立《こんりゆう》され、長尾《ながお》家代々の菩提所《ぼだいしよ》じゃ。恩沢《おんたく》をこうむること久しい。喜平二《きへいじ》様をお渡ししてならぬこと申すまでもない。おのおの心を専一にして守護し、かなわぬ時は本堂を枕《まくら》にして、一人のこらず討ち死にするのじゃ。どうじゃ皆々、覚悟はよいか……」
だれであろうか。本堂の階段の中ほどに立って、ほえるような声で演説している。一語一語のきれ目ごとに、まるい頭の群れははげしくゆれて、
「そうじゃ! その通りじゃ!」
といっせいに合槌《あいづち》を打った。興奮しきっている。
和尚《おしよう》はそこに、侍僧《じそう》を連れてやって来た。侍僧の手から雪洞《ぼんぼり》を受け取って、坊さんらの顔につきつけるようにして、一人一人を見た。
まるい頭にはみな鉢巻《はちまき》がしめられていた。奉納《ほうのう》された甲冑《かつちゆう》からはずして来たのだろうか、冑《かぶと》だけかぶっている坊さんもあった。みな袖《そで》をしぼって肩にかけていた。薙刀《なぎなた》を杖《つえ》づいているものもいた。棍棒《こんぼう》をたずさえた者もいた。薪《まき》割りの斧《おの》をひっさげたものもいた。菜切り庖丁《ぼうちよう》をつかんでいる者もいた。
天室和尚《てんしつおしよう》は一人ずつしつッこく照らし出して、頭の先から足もとまで見ていく。坊さんらはきまりが悪くなって、肩をすぼめてしりごみした。ざわめきはたちまちしずまった。階段に立って気焔《きえん》をあげていた坊さんも、いつかこそこそと人々の中にもぐりこんだ。
数人をこうして見た後、和尚《おしよう》は、
「この際さわいでは、かえって敵に教えるようなものじゃというたわしのことばは通じているはずだな。皆、房《ぼう》にもどらっしゃい」
と、つぶやくように低い声で言いすてて、すたすたと、方丈《ほうじよう》の方へかえって行った。
三
客殿《きやくでん》で、寺小姓《てらこしよう》の着る着物をもらい、温かい粥《かゆ》を馳走《ちそう》になって、景虎《かげとら》は少しねむくなった。
「おりぁねむたい。和尚《おしよう》が見えたら、おこしてくれ。そなた、膝《ひざ》をかせい」
と、金津新兵衛《かなづしんべえ》に言った。
「少しがまんあそばして、すぐ和尚《おしよう》も見えましょうから」
と新兵衛《しんべえ》が言ったが、きかない。
「その少しががまんならぬ。しばらく眠ればよい。和尚《おしよう》が来るまでのことだ」
と言って、新兵衛《しんべえ》のひざを枕《まくら》にして横になった。すぐすやすやと寝息を立てはじめた。からだは小柄《こがら》であるし、ふっくらとした顔は、いっそあどけないといいたいほどだ。勇士といわれる大人《おとな》人(おとな)にもまさる大胆不敵《だいたんふてき》さを見てきている新兵衛《しんべえ》には、同じ人だと思われないくらいである。
(お父君におとらぬ名将となり給うであろう)
と、涙のこぼれるような気持ちで、寝顔を見つめていた。
鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》をはじめ若者らも同じ思いであった。彼らは彼らで、この危難の際に平常と少しもかわらず安眠する大胆《だいたん》さを、名将の素質《そしつ》と見て感激した。なに、子供というものは、こんな際でも眠くもなり、眠りもするのだが。
間もなく、和尚《おしよう》が出て来たので、新兵衛《しんべえ》はゆりおこした。景虎《かげとら》はなかなか起きない。
「うむ、うむ……」
といいながら、寝返りをうち、新兵衛《しんべえ》の腰を片手で抱くようにして眠りつづける。
「ホ、寝てござるのか。そのまま、そのまま。お疲れであるのも無理はござらぬ。なにかかけるものをまいらせよう」
役僧《やくそう》に言いつけて、小掻巻《こかいまき》を持って来させて、かけさせた。
それが済んでから、新兵衛《しんべえ》らはあいさつした。
「ようおいでくだされた。わしも世捨て人の身ながら檀越《だんおち》の大変事、案じ申していました。まことに申しようもない仕儀《しぎ》でござる。長生きしたために、憂《う》いことを見ることでござる」
和尚《おしよう》はうれわしげに言ったが、すぐ、
「それにしても、喜平二《きへいじ》様がご無事であったのはこの上もない喜びでござる。この若君がまだお幼いころ、ゆくゆくは出家《しゆつけ》させようとて、先殿《せんとの》が当山にお入れになった時、わしは半年近くおあずかりして、学問を教え申したので、どんなお人であるか、よく存じ上げているつもりでござる。武将としては申し分のないものを持っていらせられると見ました。されば、このたびも、この若君さえ生きておわすなら、お家の再興も疑いないと、ご安泰《あんたい》を祈念していたような次第でござる。案ずるところは、お年が若すぎるゆえ、国侍《くにざむらい》衆の思いつきがどうであろうかということでござるが、おのおのがたのような人々がつき従っておられるなら、人々の思いつきもまた格別でござろう。めでたいことに存じますじゃ」
と言った。
次には、今後をどうするかが問題になった。
「ともかくも、夜の明けぬうちに当地を立ち退《の》きたいと思います。今のうちならば、城外の警戒はさしたことはないようでござるが、夜が明け、日が立つにつれて、謀反人《むほんにん》どもの警戒は城外ひろくひろがるに相違ないと思うのです」
と、新兵衛《しんべえ》は言った。
「それはそうじゃ。当山にてご守護したいはやまやまでござるが、城と目と鼻の場所、しかも長袖《ながそで》ばかりの当山、万一にも敵にさぐり知られれば、危ないことになります。しかしながら、どこへおいでになるおつもりでござる」
「さあ、それでありますが……」
定まったあてはない。返事はくらいものになった。
その時、執次《とりつぎ》僧が入って来て、和尚《おしよう》の耳もとでなにやらささやいた。和尚《おしよう》はうなずきながら聞いていたが、人々の方を向いて言う。
「栃尾《とちお》の常安寺《じようあんじ》の住職|門察《もんさつ》というが、数日前から当山に来ております。その者がただいま、栃尾《とちお》は前に景虎君《かげとらぎみ》のおいでになったところでもあれば、お供《とも》して、常安寺《じようあんじ》におかくまい申したいと申しておりますが、皆様のお考えはいかがでござろうか」
新兵衛《しんべえ》は急には答えられない。景虎《かげとら》は三条《さんじよう》の俊景《としかげ》の追っ手をのがれて栃尾《とちお》からかえって来たのだ、ふたたびそこに行くというのはどうであろうかと思うのであった。相談の目で、人々の方を見た。
人々も同じ思いだ。返事はできず、たがいに顔を見合わせていた。
その時、新兵衛《しんべえ》のひざの上から、景虎《かげとら》は顔を上げ、むくむくと起き上がった。
「和尚《おしよう》、しばらくでありました。この度《たび》はまたきつい世話になります」
と、天室和尚《てんしつおしよう》にあいさつして、
「その栃尾《とちお》の坊様、お呼びください。栃尾《とちお》に連れて行っていただきましょう」
と言った。
新兵衛《しんべえ》はおどろいて、何か言おうとしたが、景虎《かげとら》は、
「栃尾《とちお》はおれが育ったところじゃ、三条《さんじよう》から追っ手がかかってついこの前逃げ出したところじゃ、まさかと思うて、敵もしばらくはさがすまい。当分の危難さえしのげれば、あとはあとのことじゃ」
とおさえつけて、執次《とりつぎ》僧に連れて来るように言った。
やがて入って来た常安寺《じようあんじ》の住職|門察《もんさつ》は、三十五、六の年配の、たくましい相貌《そうぼう》の僧であった。うやうやしく、平伏《へいふく》した。
「わしが景虎《かげとら》じゃ。そなたに身をあずける。連れて行ってくれい」
と、景虎《かげとら》は言った。子供ながら、威厳にみちている。門察《もんさつ》は打たれたように、はっとまた平伏した。
間もなく、網代笠《あじろがさ》を深くかぶった六人の雲水《うんすい》と編笠《あみがさ》で顔をかくした旅支度《たびじたく》の寺小姓《てらこしよう》とが、林泉寺《りんせんじ》の門を出て、東に向かった。
四
早朝であった。宇佐美定行《うさみさだゆき》はただひとり、庭の奥深いところを歩いていた。季節に似ず霧《きり》の深い朝であった。遠く見れば一面の乳白の色に漠々《ばくばく》としている霧《きり》だが、近づいて見れば真綿《まわた》をひくように長く流れたり、糸を巻くようにくるくるとまわりながらまるくなったり、おもしろく変化している。その霧《きり》に閉ざされた木立ちの間から、さまざまな小鳥の声が聞こえてくる。定行《さだゆき》は鳥をおどろかさないように、足音をひそめて、一歩一歩気をくばりながら歩いた。木々の幹はぬれ、葉には露が一面においている。
定行《さだゆき》の胸には、現在の越後《えちご》の乱れのことがある。いつも思うことだが、
(さて、どこにおちつくか。だれの手によってこれは平定されるであろう)
ということである。
為景《ためかげ》が死に、だれが次の守護代《しゆごだい》となるかについての相談がもつれた時、晴景《はるかげ》が適任であると発言したのは定行《さだゆき》であった。それで、事が決したようなものであった。彼のこの発言に長尾《ながお》一族以外の豪族《ごうぞく》が同意し、つづいて上田《うえだ》城主の長尾房景《ながおふさかげ》が同意して、このことは決定したのであった。
しかしながら、定行《さだゆき》が晴景《はるかげ》を推《お》したのは、晴景《はるかげ》の人物を買ったからではなかった。会議があのままで進行するかぎり、三条《さんじよう》の俊景《としかげ》が守護代《しゆごだい》となるにちがいない勢いであったからだ。彼は俊景《としかげ》を守護代《しゆごだい》にしたくなかった。俊景《としかげ》は勇猛《ゆうもう》な人物だ。戦さはなかなか強い。救いがたいのはその貪欲《どんよく》で無慈悲な性質だ。勇猛なだけに、これはまことにおそろしい。かならずや民を酷虐《こくぎやく》し、豪族《ごうぞく》らを無名の戦さに駆り立てるにちがいないのだ。こんな人物は上に統制し得る人物がいて戦陣《せんじん》の用にだけ立てるのはよいが、大国の主としてはならない、というのが、定行《さだゆき》の思案であった。
(なんとしても、これだけはせきとめなければならない)
と思った。
彼は、上田《うえだ》の房景《ふさかげ》を推《お》そうかと思ったのだが、房景《ふさかげ》では年をとりすぎているし、俊景《としかげ》が承知するはずはなかった。
やむなく、晴景《はるかげ》を推《お》した。前守護代《しゆごだい》の嫡子《ちやくし》であるから、人々の同意が得やすいはずと思ったのであった。
晴景《はるかげ》が適任であるとは、あの時から思っていない。晴景《はるかげ》はもっとも凡庸《ぼんよう》な人物だ。性質はなまぬるいし、享楽《きようらく》的だし、かしこくもない。梟雄《きようゆう》と言ってもよいほどの為景《ためかげ》の子とは思われないくらいだ。
(とうてい、このままではおさまるまい)
と、あの時すでに予測がついていた。
だから、俊景《としかげ》が事を起こしたについては、予測のつかないことではなかったのだ。しかし、昭田《しようだ》常陸《ひたち》の叛逆《はんぎやく》は意外であった。が、起こってみると、これも不思議ではない。権勢の府はすなわち衆怨《しゆうえん》の府だ。信任してくれていた主人が亡い人となれば、人々の怨恨《えんこん》が行動となってあらわれてくるのはもっとも当然なことである。常陸《ひたち》もそこを考えたればこそ、擁立《ようりつ》の功をもって次の代にも権勢を保とうと、晴景《はるかげ》を推薦《すいせん》したにちがいないのだが、俊景《としかげ》が事を起こしてみると、今さらのように晴景《はるかげ》が頼りない主人であることが痛感され、いっそのこと自立して、俊景《としかげ》と国を分かった方がよいという気になったのであろう、と、定行《さだゆき》は推理している。
しかし、この揣摩《しま》(心理|洞察《どうさつ》)は、事が起こってからはじめてできたのだからくやしい。
(おれの人を見る目は、まだあまい)
と、反省せざるを得ない。
一時行くえ不明を伝えられていた晴景《はるかげ》は、その後ここから二里少し離れた笠島《かさじま》に来て兵を募《つの》っている。定行《さだゆき》のところにも催促《さいそく》の使いが来たので、息子《むすこ》の定勝《さだかつ》に五百人の兵をつけてつかわした。どうやら集まって来る国侍《くにざむらい》らも相当ある模様だが、彼は晴景《はるかげ》という人物を見はなしている。
(今の世は武略《ぶりやく》がすぐれねば、どうにもならぬ。弾正《だんじよう》殿ではそれがまことに心細い。こんどのことはどうやらおさまっても、あとでまた問題が起ころう)
と思うのだ。
では、だれを?
となると、思わしい人がない。上田《うえだ》の房景《ふさかげ》やその子の政景《まさかげ》のことはもちろん考えた。武勇という点では十分だが、その他のことが心から推《お》す気になれない。
(守護代《しゆごだい》は長尾《ながお》一族にかぎるというきまりは、こうなると不便なものじゃわ)
と思う。その規定がないなら、自分がなりたいところだ。だれよりも立派《りつぱ》な守護代になれる自信もある。しかし、規定は動かせない。乱離《らんり》の世とはいえ、案外こうした規定には、みな忠実なのだ。なあに、ほんとをいえば、「人がなるならおれが」という気のあるところから守られているのだろうが。
(こんな時、人は謀反《むほん》の志を起こすのじゃな)
と考えると、苦笑が浮かんできた。
霧《きり》がやや薄くなり、どこやらから日の光に似たものも木の間にさしこんできた。いつの間にか、着物がじっとりとしてきている。
(毒だな、帰ろう)
木立ちを出て、居間の方に向かいかけた時、霧《きり》の中から若い女の声が聞こえてきた。
「お父様《とうさま》、お父様、お父様……」
かなしいほど澄んだ声だ。
「ここじゃ、ここじゃ。すぐ行くぞ」
定行《さだゆき》はいそぎ足になった。やさしい顔になっていた。
五
定行《さだゆき》は、声の主と、泉水にわたした石橋の上で逢《あ》った。年ごろ十四、五の美しい娘である。細おもての顔と細い真っ直ぐな鼻筋と、よく澄んだ茶色の大きな目とは、定行《さだゆき》に似て上品であったが、未熟《みじゆく》なくだもののような青い色の膚《はだ》は、清純ではあっても十分に美しいとはいえなかった。しかし、あと一、二年もしたら、おどろくばかりに美しくまた魅力《みりよく》的になるに相違なかった。定行《さだゆき》のたった一人の娘、乃美《なみ》であった。
「お茶が沸《わ》きすぎます」
ニコリと笑って言った。よくそろった真っ白な歯が、薄紅《うすあか》い唇《くちびる》の間に見えるのが、清らかであった。
「ああ、もうかえろうと思うているところであった。どうやら茶の沸《わ》いたころと思うてな」
きげんよく、定行《さだゆき》は言う。他人には絶対に見せたことのない、いかにも老人らしく人のよい様子をさらけ出していた。
父子は肩をならべて、居間にかえった。
居間の隅《すみ》の地袋《じぶくろ》の前に、風炉《ふろ》がすえられて、茶釜《ちやがま》がしずかな音を立てていた。
乃美《なみ》はその前にすわって、茶を立て、父の前に持って来た。
「よいかげん」
一口のんで、定行《さだゆき》はこう言った後、作法通りに喫《きつ》しおわると、
「うまかった。今日は少し散策が長くて、いつもよりのどがかわいたが、それに合わせて大服《おおぶく》に立ててたもったの。よく気がついた」
と、ほめた。
ほめられて、少女はうれしそうに笑った。
「久しぶりでございます。茶の湯でほめられたのは」
「ハッハッハハハハ」
まばらな、白いあごひげを撫《な》でて、定行《さだゆき》はきげんよく笑った。
間もなく、朝食が持って来られた。定行《さだゆき》は家来をしりぞけ、娘に給仕をさせて、何くれとなくきげんよく雑談しながら食事をしたが、それがおわってすぐ、近習《きんじゆう》の者が来た。
「栃尾《とちお》の本庄慶秀《ほんじようよしひで》殿のお使いとて、若い坊様が見えています」
「栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》が使い?」
本庄慶秀《ほんじようよしひで》が三条《さんじよう》からわずかに五里しかないところにいながら、俊景《としかげ》の謀反《むほん》に加担《かたん》していないことも、前に為景《ためかげ》の末子の喜平二景虎《きへいじかげとら》が慶秀《よしひで》の家で数年間を過ごしたことも、定行《さだゆき》は知っている。用心深い彼はいつもしのびの者を国内に放って情報を集めているのだ。
(なるほど、喜平二《きへいじ》殿の行くえがわかったのだな。ひょっとすると、また引き取ってかくまっているのかも知れない)
と、見当は早くもついた。
「お通し申せ。ここがよかろう」
「僧形《そうぎよう》ではございますが、ほんとの出家《しゆつけ》であるかどうか、筋骨まことにたくましい坊さまでございますが……」
と、近習《きんじゆう》の者は不安がった。
「かまわぬ。連れてまいれ」
近習《きんじゆう》の者が去ると、定行《さだゆき》は乃美《なみ》に目くばせした。乃美《なみ》は心得て引っこんだが、入れちがいに近習《きんじゆう》の若者どもが入って来て、左右に居流れようとした。
ほんとに本庄《ほんじよう》家からの使者であるか、であっても不用意に引見《いんけん》してよいか、疑えば疑えるのである。いつどんな相手にも用心をおこたってはならない時代であった。しかし、定行《さだゆき》は、
「その方どもも退《さが》っておれ。城内のこの奥深くまで来て、白昼《はくちゆう》何をしでかすことができよう」
と笑った。
若侍《わかざむらい》らが去ると、定行《さだゆき》は腕組みして、庭に目をはなった。霧《きり》はもうなごりなく晴れて、うららかな朝の日がみなぎりあふれている庭であった。雪国の春から夏にかけての推移はまことにあわただしい。ついこの前までかたい根雪《ねゆき》に閉じこめられていたのに、その雪がとけたと思うと、梅・桃・桜の春の百花が一時にひらき、たちまち散りすぎて、今はもう完全に初夏の風物《ふうぶつ》になっている。
美しい緑金《りよくきん》の色に新緑を噴《ふ》き上げている木々を眺《なが》めているうちに、定行《さだゆき》は喜平二景虎《きへいじかげとら》のことを考えていた。彼は景虎《かげとら》にまだ逢《あ》ったことがない。為景《ためかげ》が栖吉《すよし》の長尾《ながお》家から輿《こし》入れして来た若い妻に生ませた子だが、どういうものか為景《ためかげ》はこれを愛せず、出家《しゆつけ》させようとして林泉寺《りんせんじ》に入れたり、養子に出そうとしたり、城を出して傅役《もりやく》の金津新兵衛《かなづしんべえ》にあずけたりした末、勘当《かんどう》して追放したため、栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》家で数年間を送り、こんど三条《さんじよう》で俊景《としかげ》がおこした謀反《むほん》に追われて春日山《かすがやま》にかえって間もなく、昭田《しようだ》常陸《ひたち》の叛逆《はんぎやく》にあい、乱戦の間に行くえ不明になったとしか知らない。
(どんなお子であろうか。きかぬ気で、あまりに肝《きも》太くしぶといのが、信濃守《しなののかみ》〈為景《ためかげ》〉殿のお気に召さなかったのじゃといううわさじゃったが、古来幼い時にはかわいげのない人が、成人の後には案外名将になるものじゃと聞く。もしそうなら、当国も守護代《しゆごだい》のなり手があるわけじゃが、年が幼すぎるのう。たしか十三か四のはずじゃが、それではあまりに幼すぎるわ。これが守護なら飾《かざ》り雛《びな》でもよいが、守護代《しゆごだい》まで飾《かざ》り雛《びな》では、さらに権力が下に移ることになる……)
六
小腰《こごし》をかがめて、鄭重《ていちよう》に案内する侍臣《じしん》のあとから、大股《おおまた》にのっしのっしと歩いて来る坊さんはおそろしく雄偉《ゆうい》な体格と相貌《そうぼう》をしていた。身長は六尺に近かろう。肩はばひろく、胸あつく、法衣の袖《そで》からこぼれている両腕には隆々《りゆうりゆう》と筋肉が立ち、あらい毛が密生していた。太い眉《まゆ》と、鷹《たか》のようにするどい目をしている。
(なあんだ)
と、定行《さだゆき》は思った。この坊さんがだれであるか、定行《さだゆき》はよく知っている。春日山長尾《かすがやまながお》家の勇士|鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》なのだ。年はまだ二十三、四にしかならないが、為景《ためかげ》の馬廻《うままわ》りをつとめ、この前の越中《えつちゆう》入りの時にも抜群の功をいくども立てている。しかし、鬼小島《おにこじま》の方では知られていないと思っているかもしれない。定行《さだゆき》はそしらぬふりでいた。
「はじめてお目通りいたします。拙僧《せつそう》は栃尾常安寺門察和尚《とちおじようあんじもんさつおしよう》の弟子《でし》僧|道忠《どうちゆう》と申す者でございます。お見知りおきたまわりますよう」
長いたくましい膝《ひざ》を窮屈《きゆうくつ》げにおりかがめて、神妙《しんみよう》なあいさつをする。
「わしが定行《さだゆき》でござる。本庄《ほんじよう》殿からのお使者としてまいられたと申すことでござるが」
こちらも大まじめで応対した。試験するつもりになっていた。
「さよう、本庄《ほんじよう》の使いでまいりました……」
弥太郎《やたろう》は青々と剃《そ》りむくったたくましい頭をうなずかせて、一膝《ひとひざ》ゆすり出て、言いつごうとしたが、この時、近習《きんじゆう》の者が立ちあらわれた。一人は焼き栗《ぐり》を持ち、一人は茶をささげている。いずれも、この僧の相貌《そうぼう》ただならずと見て、警戒のために出て来たのであった。
「粗茶、粗菓でござるが、まずまいられよ」
と、定行《さだゆき》は言った。
「いただきます」
弥太郎《やたろう》はまず焼き栗《ぐり》を食べ、つづいて茶碗《ちやわん》をとり上げた。こうした場合の禅僧《ぜんそう》の作法《さほう》は水ぎわ立って颯爽《さつそう》としたものだが、弥太郎《やたろう》はそうはいかない。一応の儀礼はならって来たに相違ないが、まことにぎごちない。
定行《さだゆき》はおかしさをおさえかねて、微笑《びしよう》をさそわれたが、突如《とつじよ》として大喝《だいかつ》した。
「鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》、そこ動くな!」
弥太郎《やたろう》は仰天《ぎようてん》した。口もとにはこびかけた茶碗《ちやわん》をとりおとした。同時にとびすざって、縁側《えんがわ》に立ちはだかり、八方に目をくばっていた。おそろしい形相《ぎようそう》になっていた。
定行《さだゆき》の大喝《だいかつ》に、別室にいた若侍《わかざむらい》らがわらわらと立ちあらわれた。主人の命令次第では飛びかかる姿勢と隊形をとった。
定行《さだゆき》はニコリと笑って、若侍らに手を振った。若侍らは急にはその意味がわからないらしく、やはり立っていた。
「退《さが》っておれ、退《さが》っておれ。何でもないのじゃ」
と、定行《さだゆき》が重ねて言ったので、やっと引きさがった。
弥太郎《やたろう》の様子はかわらない。法衣の袖《そで》をまくり上げ、太い腕を出して、仁王《におう》様のように気ばった姿でいる。
定行《さだゆき》は微笑《わら》いかけた。
「道忠《どうちゆう》どの、席へかえられよ」
と、席を指した。
弥太郎《やたろう》には、定行《さだゆき》が何を考え、何をたくらんでいるかがわからない。いったいに、策謀《さくぼう》型の人物はにが手なのである。やけくそな調子で言った。
「拙者《せつしや》は鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》でござる。道忠《どうちゆう》などと申すものではござらぬ」
定行《さだゆき》はいっそう笑った。自分にない性質だけに、こういう単純率直な人間はうれしいのであった。
「それでは、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》殿であってもよろしい。席へおかえりあれ」
「しからば」
弥太郎《やたろう》は席にかえった。このしからばも気に入った。
「さて、鬼小島《おにこじま》殿、道忠《どうちゆう》とお名のりあったのがいつわりなら、本庄慶秀《ほんじようよしひで》殿のお使者としてまいられたというも、いつわりでござるかな」
弥太郎《やたろう》は狼狽《ろうばい》した。
「いやいや、それはほんとうでござる。それまでいつわりと思うていただいてはこまり申す」
「はは、さようか」
定行《さだゆき》はまた笑ったが、すぐまじめな顔になって、弥太郎《やたろう》を凝視《ぎようし》した。
なぜ凝視されるのか、弥太郎《やたろう》にはわからないが、とりあえず、負けるものかとばかりに、大きな目をむいてにらむように見返していた。
凝視したまま、定行《さだゆき》は言う。
「貴殿《きでん》がどんなご用件で見えたか、あててみましょうか」
「…………」
「喜平二景虎《きへいじかげとら》殿は、春日山《かすがやま》のさわぎの時、貴殿《きでん》らに供《とも》されて、栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》家にまいられた。いや待ちなさい。本庄《ほんじよう》家ではなく常安寺《じようあんじ》ですかな。本庄《ほんじよう》家では三条《さんじよう》の目が光っていて、危《あぶ》のうござるでな。常安寺《じようあんじ》に、貴殿《きでん》らに守護されていなさると見てよいようでござるな。喜平二《きへいじ》殿の守護をしている人々は貴殿《きでん》のほかに数人あるはず。なぜなら、貴殿《きでん》お一人なら、お側をはなれてここにこうしてまいらるるはずはござらぬでな。常安寺《じようあんじ》に潜伏《せんぷく》しておられても、本庄《ほんじよう》家との連絡はとっておられるようだな。おそらくは、常安寺《じようあんじ》の坊さま方がその役にあたっておられましょう」
白日のもとに手のひらにものを指すようなといおうか、みごとな的中であった。弥太郎《やたろう》は舌を巻き、顔色もかわるばかりにおどろいた。目をみはったまま、返事もできなかった。
定行《さだゆき》は微笑した。
「あたったようでござるな。それでは、こんどは貴殿《きでん》がここにまいられた用件をあててみましょうか。兵をおこしたいゆえ、兵を借りたいというのでござろう」
これは半ばあたり、半ばはずれていた。弥太郎《やたろう》は安堵《あんど》に似たといきをついた。
兵書《へいしよ》と糸車
一
「いやいや、さようなむずかしいことではござらぬ。一度|景虎《かげとら》様に会っていただきたいのでござるが、お会いくださるか、お会いくださるとならば、いつがご都合《つごう》がよいか、うかがいにまいったのであります」
と、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》は答えた。
「なるほど」
定行《さだゆき》はほんのしばらく思案した。会っての上は、結局は兵を貸せということになるだろうと思った。貸すまいとは思わない。助けるに甲斐《かい》ある人物なら、喜んで貸そうと思った。
「一応おたずねするが、拙者《せつしや》に会わせたいというのは、本庄《ほんじよう》殿だけのご思案か、景虎《かげとら》様もご所望《しよもう》あってのことですかな」
「よくおたずねくださった。まず景虎《かげとら》様が言い出されて、本庄《ほんじよう》殿が同意なされたのであります」
弥太郎《やたろう》の返答はうれしげであった。少年の身でありながら景虎《かげとら》がこの思案をしたのを誇りと思っているふうだ。
鬼小島《おにこじま》ほどの勇士がこうもなついているところを見ると、景虎《かげとら》という少年は相当買ってよい器量と見られると思ったが、念のためになお聞いた。
「景虎《かげとら》様には、貴殿《きでん》のほかにどんな人が随従《ずいじゆう》しているのでござる」
弥太郎《やたろう》はあらい毛の密生しているたくましい手をひろげ、指をおりつつ、一人一人の名前を言った。
「まず、金津新兵衛《かなづしんべえ》、これは傅役《もりやく》でありましたゆえ、当然のこと。次に戸倉与八郎《とくらよはちろう》、曾根平兵衛《そねへいべえ》、秋山源蔵《あきやまげんぞう》、最後にかく申す鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》、都合《つごう》五人でござる」
いずれも春日山長尾《かすがやまながお》家では、聞こえた若武者《わかむしや》らであった。これほどの者どもが慕《した》って随従《ずいじゆう》しているとすれば、一応すぐれた器量であろう、ともかくも、一度会ってみる価値はあると思った。
「よろしい。拝謁《はいえつ》いたそう」
きっぱりと言った。
定行《さだゆき》の慎重な態度から、ことわられるかもしれないと、弥太郎《やたろう》は不安であったようだ。ほっとしたおももちになった。
「ご承引《しよういん》かたじけのうござる。それでは、いつどこで会っていただけましょうか。景虎《かげとら》様を当地にお連れいたしましょうか」
「いや、それは恐れ多い。ご幼年とはいいながら、守護代《しゆごだい》の殿の弟君に居ながらにしてお会いするは礼ではない。拙者《せつしや》の方からおうかがいしたい。しかし、栃尾《とちお》まで踏み出してまいるとなると、人目に立ちますな……」
定行《さだゆき》は思案して、やがて、
「ここへまいられる途中、片貝《かたかい》村というのをお通りではなかったか」
とたずねた。
「片貝《かたかい》は通りませなんだ。しかし、知ってはいます。来迎寺《らいごうじ》村の近くでございましょう」
「仰《おお》せの通り。来迎寺《らいごうじ》村の南一里ほどの村でござるが、その片貝《かたかい》の村はずれの山中に福昌庵《ふくしようあん》とて、拙者《せつしや》のよく知っている禅僧《ぜんそう》の行いすましている庵寺《あんでら》がござる。そこまでお運びいただけますまいか。当地と栃尾《とちお》の中ほどにある地点でもあり、景虎《かげとら》様のご母堂の実家である栖吉《すよし》領からも遠からず、拙者《せつしや》領分からも遠くない。万一のことが起こっても、てだてに都合《つごう》がよいと存ずるが、いかが」
「結構であります。それで、日時は?」
「今日より七日の後の正午といたしましょう。福昌庵《ふくしようあん》の住僧には、当方より連絡をとっておきます」
話はきまった。あとは饗応《きようおう》だ。
弥太郎《やたろう》はすさまじい健啖《けんたん》ぶりを見せた。
「禅寺《ぜんでら》と申すところは、粗食《そしよく》で、量も少ないのでござる。われらは僧体でこそおれ俗人でござるが、禅寺に厄介《やつかい》になっている以上、一応|清規《しんき》に従わんわけにまいらんので、坊さんらと同じものを食うているのですが、つらいことでござる。今日は施餓鬼《せがき》に逢《あ》うの思いであります」
と大笑しながら、片っぱしから平《たい》らげていく。禅僧姿で魚といわず、鳥といわず、舌つづみを打ってむさぼり食う様子は、まことに異様なものであった。
二
約束の日の早朝、まだ日の出ないころ、定行《さだゆき》は琵琶島《びわじま》を出発した。半武装した手勢《てぜい》五十人を従えていたが、これは万一の急にそなえて領分|境《ざかい》にとどめておくためで、あとは普通の旅支度《たびじたく》した近臣《きんしん》を五人連れて行くつもりである。
琵琶島《びわじま》から片貝《かたかい》までは六里の道のりだ。正午にはまだ一時間以上もあるころに、山の麓《ふもと》に達した。庵室《あんしつ》は山の中腹にある。老いた杉の巨木がしんしんとしげっている山だ。つづらおりな山路がつづく。どこやらで早い蝉《せみ》が鳴いている。定行《さだゆき》はひたいににじむ汗を編笠《あみがさ》の下に拭《ふ》きながら、ゆっくりとのぼって行った。馬は小一里向こうの領分境に、五十人の手勢とともにおいて来たのである。
庵室《あんしつ》から少し下ったあたりに、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》とほかに一人、迎えに出ていた。
「はやおつきであったか」
「かれこれ四半|刻《とき》(三十分)ほどになりましょう。この前はお造作《ぞうさ》にあずかりました。これは戸倉与八郎《とくらよはちろう》であります」
とやはり僧形《そうぎよう》のつれの男を紹介した。名は聞いている。顔にも見覚えがあった。しかし、
「はじめてお目にかかります。宇佐美《うさみ》でござる」
と言った。
連れ立って上った。
上りついたところは方《ほう》三十歩ほどの平地になり、その一隅《いちぐう》に崖《がけ》にのぞんで庵室《あんしつ》は立っている。山は東に向かってひらけている。昼近い日が庵室《あんしつ》の前の平地にさして、明りわたっていた。遠く一里ばかりの東方に、信濃《しなの》川がうねっているのが白く光り、その向こうに高い山々が見えていた。眺望はまことによい。笠《かさ》をはらうと、すずしい風が身をつつんで、全身に浮いた汗は一時にかわいた。
庵室《あんしつ》の入り口に、人影があらわれた。僧三人だ。一人は庵主《あんじゆ》の琢元《たくげん》、一人は金津新兵衛《かなづしんべえ》、一人はまるで見たことのない人物だ。しかし、本ものの禅僧《ぜんそう》であることは一目でわかった。景虎《かげとら》を栃尾《とちお》に連れて行った門察和尚《もんさつおしよう》であろうと推察したが、あたっていた。門察《もんさつ》は名のって、
「拙僧《せつそう》は本庄慶秀《ほんじようよしひで》殿の名代《みようだい》としてまいりました」
と言ったのである。
金津新兵衛《かなづしんべえ》とは、それほど親しく口を利《き》いたことはないが、面識はある。会えばあいさつくらいはかわすなかだ。
「苦労をなされたな。ご忠勤のほど、定行《さだゆき》感じ入っていますぞ」
と、ねぎらった。
人の情けに感じやすくなっているのであろう、ひげの濃い金津《かなづ》の顔には泣き出しそうな表情が浮かんだ。
「ありがとうござる。――それでは、お待ちかねでござれば、こちらにおいでくだされ」
といって、内へ請《しよう》じた。
天気つづきの山路を歩いて来たこととて、足もほとんどほこりをかぶっていない。わらじをぬいで、手拭《てぬぐ》いではらっただけで、上がった。
「よう来てくれた」
と、子供らしく明るくカン高い声が言った。
出て迎えるように言いふくめられていたのだろうか、自発的の意志であろうかと、定行《さだゆき》は考えた。
こんな場合、武将たるものの器量のほどがあらわれると、古来言い伝えられている。平将門《たいらのまさかど》は田原《たわら》ノ藤太《とうた》が服属すべく訪《たず》ねて来た時、よろこびのあまり、結いかけていた髪をそのままにして出迎えたので、藤太《とうた》は、
(大将たる重みなし)
と判断して服属をやめたという。
また、源頼朝《みなもとのよりとも》は石橋山《いしばしやま》の合戦《かつせん》に破れて安房《あわ》に走り、やっと四、五百|騎《き》の兵をかき集めて下総《しもうさ》に入った時、平広常《たいらのひろつね》が二万|騎《き》という大軍をひきいて馳《は》せ加わったところ、頼朝《よりとも》は目通りをゆるさず土肥実平《どいさねひら》をして、
「たびたびの催促《さいそく》に領掌《りようしよう》を申しおくりながら、かくも遅参《ちさん》するの条、はなはだ不審である。後陣《こうじん》にあって沙汰《さた》を待て」
と申し渡させた。すると、広常《ひろつね》は、
「この殿はかならず日本の大将軍となり給うであろう。当日|無下《むげ》に無勢《ぶぜい》でおわすところに、この大軍をひきいて参ったのであれば、定めておよろこびのあまり、追従《ついしよう》ごとなど仰《おお》せられるであろうと存じたのに、お目通りもゆるされず、実平《さねひら》をもってお叱《しか》りなされた。おそろしくも威《い》のおわすおん大将かな」
と、舌をふるって恐れたという。
ところが、中国|周《しゆう》代の聖人で摂政《せつしよう》で、その政治は理想的であったと伝えられている周公《しゆうこう》は、賢士《けんし》をもとむるのあまり、一飯《いつぱん》(一食事)に三度口の中の食を吐きすて、一沐《いちもく》(一度髪を洗う間)に三度洗いかけの髪を片手でつかんだまま出て、来訪者に逢《あ》ったと、史書は伝える。
以上の三例は、同時に定行《さだゆき》の胸をひらめいた。しかし、定行《さだゆき》はこんなことで人の器量を判断しようとは思わない。
(うわつらの形だけで、人がわかるものではない)
と、思っている。
「これは恐れ多うござる。まずまず、席へおかえりください」
礼儀にしたがって、定行《さだゆき》は景虎《かげとら》をおしもどして席にかえし、しきいをへだて両手をついた。
「はじめてお目通りいたします。宇佐美定行《うさみさだゆき》でございます」
「わしが景虎《かげとら》、当年十四になる。見知りおいてくれい。そちの名は前から聞いて、したわしく思うていた。逢《あ》えてうれしいぞ」
景虎《かげとら》は席にかえって端坐《たんざ》している。その態度にも、どこやらにのこっている幼いことばづかいにも、さらにぎごちなさがない。自然で、闊達《かつたつ》だ。
(ああこれは教えこまれての所作《しよさ》ではない)
と、定行《さだゆき》は考えた。
景虎《かげとら》はまたいった。
「近《ちこ》うよってくれい。そこでは話がしにくい」
「それでは、ごめんをこうむります」
定行《さだゆき》はしきいを越えて入った。
すると、景虎《かげとら》はいきなり言った。
「そちに逢《お》うてもろうたのは、そちの弟子《でし》にしてもらいたいからだ」
子供らしい性急さもだが、意味もよくわからない。定行《さだゆき》は微笑が出て来た。
「弟子《でし》とは?」
「その方に兵法《へいほう》を教えてもらいたい。そちも知っているであろうが、おれは父上のお気にかなわず、幼い時に坊主《ぼうず》になれよと林泉寺《りんせんじ》に入れられた。林泉寺《りんせんじ》の和尚《おしよう》はおれを坊主《ぼうず》には向かん人間と見たので、四書の素読《そどく》と手習いだけを教えて、城にかえしてくれた。坊主《ぼうず》にされなんだだけでもおれはうれしいと思うているが、父上はますますごきげんが悪うて、春日山《かすがやま》にいることができんようになったので、ここにいる金津新兵衛《かなづしんべえ》が働いてくれて、栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》が家で育った。そちも知っていることであろう」
口惜《くちお》しく、またいきどおろしいことであろうと思われるのだが、景虎《かげとら》は笑《え》みをふくんで、さらさらとした調子だ。年にははるかにませていると思いながらも、定行《さだゆき》は神妙《しんみよう》な態度でこたえた。
「存じ上げております」
「本庄《ほんじよう》はいいやつで、まことに親切にしてくれた。しかし、何というても栃尾《とちお》はいなかだ。おれは村の子供らと棒《ぼう》ぎれを振りまわしたり、水泳ぎしたり、狐《きつね》わなをしかけたり、そんなことばかりしてくらした。そのため、せっかく林泉寺《りんせんじ》で教わった学問もあらかた忘れてしもうた。いくさの駆け引き、陣法《じんぽう》など、武将として心得ねばならぬことは、さらに知らん。ところが、そちは稀代《きたい》の戦さ上手《じようず》で、しかもそれは学問として学んだものじゃと聞く。おれをそちの弟子《でし》にして、兵法《へいほう》を教えてほしいのだ」
どうせ兵を貸せぐらいのところに落ちつくのだと思ってたのに、少年の心は遠大なところにあった。意外であった。定行《さだゆき》は自分の心が急角度に傾くのを感じた。ほとんど涙さえ感じた。
「仰《おお》せられること、よくわかりましてございます。失礼ながら、お年のほどでさほどのご思慮《しりよ》、感じ入りました。若年《じやくねん》から好きな道とて手さぐりで兵法《へいほう》の書を読んでまいりましただけで、人に誇るほどの心得はございませんが、承知しているかぎりはお伝え申すでございましょう」
定行《さだゆき》は答えながら、次代の守護代《しゆごだい》はこれできまったと思っていた。この少年によって、国内の乱れは鎮定《ちんてい》されるであろうと信じた。年の若さについては、もう考えなかった。
三
金津新兵衛《かなづしんべえ》をはじめ五人の武者《むしや》や栃尾《とちお》の門察和尚《もんさつおしよう》も加えての相談の結果、景虎《かげとら》と若者らは琵琶島《びわじま》城に来ることになった。
「当分は修業《しゆぎよう》する。世の中のことはいっさいかまわぬ」
と、景虎《かげとら》は言い放った。
彼らが琵琶島《びわじま》に来て間もなく、春日山《かすがやま》城を占拠《せんきよ》していた昭田《しようだ》常陸《ひたち》は、春日山《かすがやま》城を去って三条《さんじよう》に退《さが》り、さらに蒲原《かんばら》郡に退去した。約束の越中《えつちゆう》勢がなかなか来ないのに、笠島《かさじま》にいる晴景《はるかげ》方に馳《は》せ参ずる兵がしだいに増加して、ついには二千という軍勢になったので、心細くなったのである。
ことは、府内館《ふないやかた》の定実《さだざね》から、早速|笠島《かさじま》に通達された。
晴景《はるかげ》はよろこんで帰城した。
これは、定行《さだゆき》の命を受けて晴景《はるかげ》勢に属している定行《さだゆき》の嫡子定勝《ちやくしさだかつ》から急報があって、琵琶島《びわじま》にも聞こえた。
「かんたんに運がよいとは言えぬ。一度でもよいから合戦《かつせん》して勝った上で帰城せんことには、あとがこまろうが、その思案もなく、ただよろこびによろこんで帰城するようでは見込みのないお人じゃて。朽木《きゆうぼく》は雕《え》るべからずと古聖人の申されたのは、かかる人物のことじゃな」
と、定行《さだゆき》はひとり苦笑して、おりを見て、できるだけ早く帰ってくるようにとさしずしてやった。
この情勢の変化にも、景虎《かげとら》は全然心を動かす様子はなかった。ひたすらに定行《さだゆき》について兵書《へいしよ》を学びつづけた。
定行《さだゆき》は学問のある武将ではあるが、学者ではない。したがって、その教授法は簡明|直截《ちよくせつ》であった。彼はまず言った。
「兵法《へいほう》の要は、われの実をもって敵の虚《きよ》をうつにあります。これにつきるといってよろしい。その虚は軍勢の虚もあれば、心の虚もあります。古来奇手といわれている軍略はほとんどすべてが、心の虚をうったものと言ってよろしい。でありますから、こんな場合におかれた時、人の心はどうなるか、あんな場合にはどうなるか、という研究はもっとも大事なことになります。たとえば、赤坂《あかさか》城における楠木正成《くすのきまさしげ》の戦略をお考えなされよ」
といって、太平記《たいへいき》の一節を読み聞かせた上で、
「坂東《ばんどう》勢三十万の大軍は楠木《くすのき》がこもった城におしよせるや、『これほどの小城、片手につかんでも投げられようぞ』と、馬を飛びおり、堀にとびこみ、塀際《へいぎわ》におしよせたことは、今お聞きのとおりです。この時、坂東《ばんどう》勢の心は楠木《くすのき》勢をあなどり切った心となり、ひたすらに攻め上ろうとばかり思うて、防禦《ぼうぎよ》のことなど露《つゆ》考えておりませぬ。楠木《くすのき》はその心になることを見通していたので、橋の上、狭間《はざま》の陰から、さんざんに射て、たちまち千余人も射取ってしまいました。手ごわしと見て、坂東《ばんどう》勢は引き退いたのでござるが、ここで坂東《ばんどう》勢は『とても一日二日で落ちる城でなし、ゆるゆると攻めよう』という心になり、馬は鞍《くら》をおろし、人は物具《もののぐ》ぬいで休息する。楠木《くすのき》は前もってこうなることを見通していました。されば前から東西の山に兵を伏せておりましたので、それをもって襲撃《しゆうげき》させ、さんざんに打ち破ったのであります。このように、こうなればこういう心となる、ああなればああいう心となると、人の心の変化を読む修練をすることを、日常に怠ってはならぬのであります。孫子《そんし》以下の兵法《へいほう》七書はまことに立派なものでありますが、この心をもって読み取っていけば、さほどにむずかしいものではなく、またこの心を忘れて読んではほとんど役に立たぬものであります」
と説明したのであった。
熱心な勉学がつづき、渇いた砂が水を吸うように、景虎《かげとら》は貪欲《どんよく》に吸収していたが、ある日、暑い真昼のことであった。
受業《じゆぎよう》をおわって、定行《さだゆき》の居間をさがって、庭伝いに住まいのある二の丸にかえって来つつあった景虎《かげとら》は、ふとかたわらの建物から糸車の音の聞こえるのを聞きつけた。単調で、ねむけをもよおさせる音だ。
(この暑い日に糸などとっていては、ねむかろうな)
と思った。居ねむりながらまわしているかもしれないとも思った。
景虎《かげとら》はつかつかと建物をまわって、そこの座敷をのぞきこんだ。
糸をとっているのは、定行《さだゆき》の娘|乃美《なみ》であった。きちんとすわって、片手に糸車をまわし、片手に苧桶《おおけ》の中からこまかに裂いた麻苧《あさお》を管に巻きつけるという単調な動作をつづけている。白いひたいにこまかな汗が一面に浮き、背中からすわっている腰にかけて、ぐっしょりと汗にぬれていた。庭先にした足音にふと目を上げたが、そこには思いもかけない人が立っているのを見て、おどろいた。これが二月ほど前から来て、父に兵書《へいしよ》を教わっている春日山長尾《かすがやまながお》家の末弟|喜平二景虎《きへいじかげとら》であることは知っていたが、顔を見るのははじめてなのである。
景虎《かげとら》もまた驚いた。こんな若い、こんな美しい姫君《ひめぎみ》がまわしていようとは思っていなかった。中年をすぎた女中がしているとばかり思いこんでいたのである。
四
乃美《なみ》は作業の手をやすめ、座を退《さが》って礼儀正しくおじぎした。十四歳だと聞いていたが、からだの小さいお人だと思っていた。
景虎《かげとら》は会釈《えしやく》を返した。何か目の前がにわかに明るくなったような感じであった。からだ中が熱くなって一時に汗が流れた。
「そなたはどなたなのじゃ」
と聞いた。
「当城の主《あるじ》駿河《するが》の末娘《すえむすめ》でございます」
乃美《なみ》ははっきりと答えた。かたくはなっていないが、礼儀正しいから、打ちとけた感じはない。
「ほう。駿河《するが》殿にはそなたのような姫君があったのか」
景虎《かげとら》はニコリと笑って、簀子《すのこ》に近づいて来た。笑うと、血色のよいやや下ぶくれでおも長な頬《ほお》にえぐったようにかわいいえくぼができるのである。
「名は?」
「乃美《なみ》と申します」
応答にいささかも渋滞《じゆうたい》がない。かしこい娘にちがいないと、景虎《かげとら》は思った。
「わしを知っていなさる?」
「存じ上げています。春日山《かすがやま》の守護代《しゆごだい》様のご末弟|喜平二景虎《きへいじかげとら》様でございます」
景虎《かげとら》はもっと話したかったので簀子《すのこ》に腰をおろした。
「そなたはそうして自分で糸をこしらえるのか」
「はい」
「駿河《するが》殿のお言いつけ?」
「いいえ。麻糸がいる時には、いつもとります。いっぺんにたんとこしらえておけばよいのでございますが、怠《なま》けものでございますので、いる時にいるだけつくることになってしまいます」
と、乃美《なみ》は笑った。くったくのない、明るい調子だ。
「そんなら機《はた》も織りやるじゃろう」
「織ります」
「わしが母君も、糸を取ったり、機《はた》を織ったりなされた。春日山《かすがやま》の女中どものだれよりも上手《じようず》で早かった。からだの弱い人であったが、働くことが好きであった。わしは男でも女でも怠《なま》けものはきらいだ」
「おやおや、わたくしは怠《なま》けものと、今申しました」
と乃美《なみ》は笑った。
景虎《かげとら》は狼狽《ろうばい》し、赤くなった。
「わしは、そなたがきらいとは言わん。なまぬるくて、怠《なま》けているやつがきらいと言ったのだ」
ややしどろになって、おこったような語気になった。汗が滝になって全身を流れた。
「暑い! 暑い日じゃ、今日は」
と、まだおこっているように言って、プイと立ち上がって、庭を出て行った。
乃美《なみ》は作業にかえった。ブーンブーンとうなる糸車をまわしながら、景虎《かげとら》のことを考えていた。
(お腹立ちになったのだろうか。気性《きしよう》のはげしいお人なのだ。でも、母君のことを言っておいでであった。お小さい時におなくなりになり、それからは父君のご愛情が薄くて、勘当《かんどう》にまでなられたと、お父様におうかがいしたっけ。それだけに母君にたいするおなつかしさはひとしおのものがあろう……)
乃美《なみ》はやや長い美しい頸《くび》を少しかしげている。白い百合《ゆり》の花のようであった。その顔には微笑があった。年長の娘の余裕《よゆう》のある微笑。
景虎《かげとら》はわき目もふらず二の丸の住まいに急いだが、ふきげんな顔をして、ときどき胸のうちでつぶやいていた。
「あの娘はいくつだろう。おれより年かさなことはわかっている。十五か六だろう。たった一つか二つしかちがわないくせに、姉様ぶって、あげ足などとって、生意気だ。おれはなまぬるい怠《なま》けものがきらいだからきらいと言ったまでのことだ。あいつのことをきらいだとは言わん。そんなこと、わかっているではないか。生意気なやつだ……」
しかし、住まいにつくころには、もうきげんがなおっていた。何か浮き浮きしたものが胸の底にある。たとえばうららかな春の日に遠山の桜を見る時のような、あるいは美しい夕焼け雲を見る時のような、うっとりとした気持ちがあった。
五
その時から、景虎《かげとら》は受業《じゆぎよう》のかえりに、ときどき乃美《なみ》の居間の庭に立ち入ってはしばらく遊んだ。
乃美《なみ》は怠《なま》けものではなかった。いつも何かしらしごとをしていた。縫いものをしたり、陣羽織《じんばおり》か何かにするのだろう、金銀の糸でぬいとりをしたりしていた。そのきれ地はある時は京や堺《さかい》の旅あきゅうどの持って来た南蛮《なんばん》わたりの羅紗《ラシヤ》や呉絽服林《ごろふくりん》であったり、白の練絹《ねりぎぬ》であったりした。
景虎《かげとら》はぬいとりをしている乃美《なみ》を見るのが好きだった。わくに張ったきれ地を一心に見つめ呼吸《いき》をひそめるようにして、細く白い指で針をさしていく姿は、静かで充実して、何ともいえず美しかった。昨日までとびとびに糸がさされて、何の象《かたち》になるかわからなかったものが、今日はさんらんたる金色《こんじき》の獅子《しし》の丸の模様になったり、橘《たちばな》の模様になったりしているのもおどろきであった。
ときどき居間にいないことがあった。
「機屋《はたや》にはた織りに行きました」
またの日にたずねると、そう答えて、しずかにほほえんだ。
「お茶を立ててさしあげましょうか」
と、ある日言った。
「茶って、薄茶《うすちや》ですか」
薄茶は閉口《へいこう》だ。匂《にお》いはよいが、飲んでうまいと思ったことがない。第一あのどろどろした緑色の飲みものは気味《きみ》が悪くてならない。
「お薄《うす》はおきらい?」
「きらいです」
「あら、どうしてでしょう。父など飲みものの中では二番目においしいものと言っていますよ」
「二番目にうまい? そんなら一番目にうまいのはなんです」
「お濃茶《こいちや》」
「あれはいっそうどろどろしている」
乃美《なみ》はホホと笑った。
「試しに飲んでごらんあそばせ。お薄《うす》をお立てします。お気に召さなかったら、あとで煎茶《せんちや》をおいれします」
乃美《なみ》は茶筅《ちやせん》をさらさらと鳴らして立てて、簀子《すのこ》に腰かけている景虎《かげとら》のところへ持って来た。
「どうぞ」
立てる動きにも、すがたにも、持って来てすすめる姿にも、胸のすくようなさわやかさがある。渋滞《じゆうたい》がなく、また虚飾《きよしよく》がなく、ぎりぎりの必要だけのこしたものを手順よく手なれてやっているところから生ずるさわやかさであるとは、景虎《かげとら》は気がつかない。静寂《せいじやく》で歯切れがよいとだけ感じた。
景虎《かげとら》は横におかれた茶碗《ちやわん》の底にもり上がっている緑のこまかな泡《あわ》を横目ににらんだ。菓子には麦粉に柿《かき》の皮をほして粉にはたいたものをまぜて木型で打ち出した落雁《らくがん》がついている。
「どうぞ」
とまた言う。すました顔だが、どこやらにからかっているのではないかと思われるものがある。
景虎《かげとら》は落雁《らくがん》をとって口に入れ、噛《か》みくだくや、むんずと茶碗《ちやわん》をつかみ上げた。薬湯《やくとう》をのみくだすように、目をつぶってのどに流しこんだ。
乃美《なみ》はあきれたような顔で見ている。
(ざま見ろ!)
と、こちらは溜飲《りゆういん》のさがる気持ちであった。薄茶ののみ方くらい知っている。しかし、こう何もかも心得顔《こころえがお》に、しかもみごとにやられては、横紙破《よこがみやぶ》りをせずにはいられなかった。正式と正式では向こうは手馴《てな》れているだけにどうしてもこちらの負けになるが、これなら対々《たいたい》だというほどのまとまった思案は意識の上にはなかったが、心の底の深いところではあったかもしれない。
乃美《なみ》は笑い出した。
「そんなにして召し上がっては、味がおわかりにならないのはあたり前です。一口一口舌にのせるようにして、おちついて味わっていただかなければ」
景虎《かげとら》はそれには答えないで、
「約束だ。煎茶《せんちや》を入れてください」
と言った。上に上にとおさえつけるように出たつもりであった。
「はいはい。それではお煎茶《せんちや》を」
乃美《なみ》は気軽に風炉《ふろ》の前に退いて、茶棚《ちやだな》から煎茶《せんちや》道具を出していれて、持って来た。これもものしずかで美しい作法であった。すすめながら言った。
「もう二、三年もしたら、喜平二《きへいじ》様もお抹茶《まつちや》の味がおわかりになりましょう」
景虎《かげとら》はのみかけた茶碗《ちやわん》を投げつけたいような衝動《しようどう》を覚えた。小娘の分際《ぶんざい》でおとなぶって、と、思った。たった二つしかちがっていやしないじゃないかとも思った。胸のふるえるのをこらえながらのみほした。
「ああうまかった。こっちの方がずっとうまい。ありがとう。また来ます」
と言いすてて、帰って行った。
こんなぐあいに、乃美《なみ》の景虎《かげとら》にたいする態度には姉の弟にたいするようなものがあった。姉様じみたゆとりと愛情が、景虎《かげとら》にはしゃくにさわってならない。乃美《なみ》と相対していると、ときどき大きな網のようなものをふわりと頭から投げかけられるような気がする。そのたびに、景虎《かげとら》は意地になってはねのけた。はねのけたと思うと、目に見えない次の網がまたふわりとかかってくる。
(クソ!)
とばかりにまた斬《き》り破る。
景虎《かげとら》は、自分がふわりふわりと無限に投げかけられてくる網の中にあって、刀を引きぬいて必死にくるっている人間のような気がすることがあった。
逢《あ》えば、くたくたに疲《つか》れてかえった。しかし、逢《あ》わずにおられなかった。乃美《なみ》の住まいの横を通る時には、かならず庭にまわって声をかけた。
六
その年が暮れて、また夏が来た。
景虎《かげとら》の陣法《じんぽう》の上達は定行《さだゆき》を驚かすほどとなった。図上の戦術では、定行《さだゆき》のおよばないほどに鋭い工夫《くふう》を立てることがしばしばあった。
「もはや、書物や口頭でお教えすることはござらぬ。あとは場をふまれることだけでございます。陣法《じんぽう》と申すものは、五情六欲を持つ生きた軍勢同士を戦わせるのでござるから、力も勢いもたえず変化流動しています。その変化流動の中に勝機は一瞬にして来、一瞬にして去ります。これは実地に場を踏む以外には会得《えとく》のしようのないものであります。昔もろこしの戦国の世に、趙《ちよう》という国の王族に馬服君趙奢《ばふくくんちようしや》という人がありました。兵法《へいほう》にたけて名将の名のある人物でありましたが、これに括《かつ》という子があって、少年のころから父のたくわえている兵書《へいしよ》を読み、自得するところありと称して、議論縦横、兵を談ずればあたる者がない。さすが名将の名ある父の奢《しや》も、議論では息子に敵しない。しかしながら、奢《しや》は書物の上の究《きわ》めだけでなく、若い時から実地の場も数多く踏んでいる者だけに議論には負けても、納得《なつとく》せず、死に臨んで妻に、『わが趙《ちよう》国がせがれを大将軍として他国と戦うようなことがあっては、かならず大敗北を招くであろう。それゆえ、もし朝廷でそういう議が出たら、わしが死に臨んでこう言うたとお上《かみ》に申し上げてさしとめ申すよう』と遺言したのでございます。数十年経って趙《ちよう》が秦《しん》と戦うことになった時、趙《ちよう》王は趙括《ちようかつ》を大将軍に任命してつかわすことにしました。趙奢《ちようしや》の妻は王に上書して、夫の遺言を申しのべましたが、王はかえりみず、定めた方針通り、趙括《ちようかつ》を大将軍として送り出しましたところ、はたせるかな、父の先見あやまたず、趙《ちよう》軍は秦《しん》軍のために大敗し、大将軍|括《かつ》は射殺され、四十万という趙《ちよう》の大軍は降伏しました。秦《しん》はこれを全部深い谷におしおとしてみなごろしにしてしまったという故事があります。以後、机上《きじよう》のみの兵法《へいほう》をさして『趙括《ちようかつ》の兵法《へいほう》』ということばができ、世の物笑いになっています。君の議論が趙括《ちようかつ》の兵法《へいほう》に似ていると申すわけではございませんが、兵法《へいほう》を学ぶ者にはだれしももっともいましむべきことと存じますので、はなむけのことばとして申し上げておきます」
といって、講説を閉じたのである。
旅に出て、近国の形勢を自分の目で見たいという気がおこったのは、この時からであった。
景虎《かげとら》はまず定行《さだゆき》に相談した。
定行《さだゆき》は同意しなかった。
「諸国の地勢の険易《けんい》、国人《くにびと》の風俗、諸大名の政治の善悪、兵制などのことを、みずからの目で見ることはまことにためになることで、普通の時なら拙者《せつしや》の方からおすすめしたいことでござるが、今はその時期ではないと存じます。当国の現在の形勢は、君が長期にわたって不在《るす》なされてよい形勢ではありません。現在、越後《えちご》の国は四分しております。一つは春日山《かすがやま》の弾正《だんじよう》殿を中心にする勢力、一つは拙者《せつしや》の勢力、一つは三条《さんじよう》の俊景《としかげ》殿の勢力、一つは蒲原《かんばら》郡の昭田《しようだ》常陸《ひたち》が勢力、このばらばらな分立だけでも憂《うれ》うべきでありますのに、越中《えつちゆう》の諸豪《しよごう》らは春日山《かすがやま》の背後から、すきあらば攻め入ろうと牙《きば》をとぎ目をすがめています。その上、弾正《だんじよう》殿の心掛けがまるでなっていません。男の魂のあるものなら、一日も早く国内の乱れを平らげ、越中《えつちゆう》に発向《はつこう》して、無限の恨みをのんで栴檀野《せんだんの》の露と果てられた信濃守《しなののかみ》(為景《ためかげ》)殿の弔合戦《とむらいがつせん》をせずにはおられないはずでありますのに、国内四分の勢力がせり持って一時の平安を保っているのに心を安んじていなさるさえあるに、聞けば日夜に言語道断《ごんごどうだん》なる淫酒《いんしゆ》にふけっていなさるので、士心も民心も日に春日山《かすがやま》を離れつつあるとか。されば、この|せり持ち《ヽヽヽヽ》の平安は、かならず近く破れます。他国になど行っていなされては、お間に合いますまい」
というのが、定行《さだゆき》の言いぐさであった。
景虎《かげとら》は道理と聞いた。中にも痛切にひびいたのは兄のことであった。今定行《さだゆき》から聞くまでもなく、景虎《かげとら》はこれまでおりにふれては鬼小島《おにこじま》らから晴景《はるかげ》の行状について聞いている。
その一つはこうだ。
晴景《はるかげ》はよく遊山《ゆさん》のために城外に出かけるが、その途中で美しい女を見ると、人妻《ひとづま》であろうと、娘であろうと、捕らえて連れかえって伽《とぎ》をさせ、訴え出たりする者は、無礼討《ぶれいう》ちにしてしまうので、近ごろでは晴景《はるかげ》が遊山《ゆさん》に出かけると聞くと、民らは皆どこかへかくれてしまい、その道筋は白昼でも人影一つ見えないという。
その二つはこうだ。
この春、晴景《はるかげ》は京方から美女を召しかかえた。すばらしい美女である。この美女に一つちがいの弟がいるが、女にもまれな美貌《びぼう》であるので、晴景《はるかげ》はこれにも心をうばわれ、姉弟ともに寵愛《ちようあい》しているという。
どの話も、少年の一本気な心には耳をおおいたくなるほどのことであった。とりわけ姉弟ともに寵愛《ちようあい》しているという話は、胸が悪くなるほどの不潔感があった。
(弾正《だんじよう》殿にお会いして、思うさまに諌《いさ》めたい)
と思った。
定行《さだゆき》に相談してみた。
定行《さだゆき》はしばらく思案していたが、
「よろしかろう。拙者《せつしや》の推察では、弾正《だんじよう》殿はお聞き入れにはなりますまいが、男のご肉親としては、お二人しかおわさぬのでござる。一応|諌言《かんげん》を奉っておかれることは必要でありましょう」
といっておいて、一段声をおとしてまた言った。
「将来のためでござる」
謎《なぞ》めいたことばであったが、胸の底のなにものかに触れてハッシと音を立てるものがあった。
景虎《かげとら》は定行《さだゆき》を見返した。定行《さだゆき》は庭の緑に目をはなって、あごの疎髯《そぜん》を指先につまぐっていた。何ごともなげなしずかな目の色であった。
数日の後、景虎《かげとら》は金津《かなづ》以下の五人の武者《むしや》を連れて、琵琶島《びわじま》を出発した。途中|三条《さんじよう》の俊景《としかげ》の腹心の味方となっている柿崎弥二郎《かきざきやじろう》の領内を通らなければならないので、六人とも廻国《かいこく》の六十六部に変装した。
出発の時、定行《さだゆき》は景虎《かげとら》に言った。
「途中のこともずいぶん用心をなさって、かりそめにも春日山《かすがやま》にちなみあるお人と人に知られるようなことがあってはなりませぬが、これはものなれた五人の衆がおられるので、如才《じよさい》はあるまいと思うております。もっとも用心なさらねばならぬのは、春日山《かすがやま》におつきになってからであります。琵琶島《びわじま》の武士どもが君を守護してまいってご城下の各所に分宿していると匂《にお》わせなさるよう。人はおのれの弱点をつかれると腹を立てるものであります上に、君は弾正《だんじよう》殿のもっとも近いご血縁であります」
謎《なぞ》のようなことばであったが、景虎《かげとら》にはよくわかった。感謝してうなずいた。
兼備《けんび》の女
一
琵琶島《びわじま》から春日山《かすがやま》まで十三里半ある。一日の行程としては無理だが、二日の行程としては不足である。急ぐ旅ではない。せいぜい諸国巡歴の六十六部らしく道すがらの神社や寺に立ちよりながら行くことにする。
琵琶島《びわじま》を出た日の昼すぎ、米山薬師《よねやまやくし》についた。七年前、父に勘当《かんどう》されて栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》家を頼って落ちる時ここを通ったのがはじめてで、去年もまた昭田《しようだ》常陸《ひたち》の乱れでここを通って栃尾《とちお》に落ちた。
去年ここへ来た時もそうだったが、薬師堂の縁先に立って頸城《くびき》平野を遠望すると、かわらぬ強い感慨《かんがい》があった。
「おれがはじめてここに立ったのは八つの時であった。おれはここに陣場《じんば》をすえれば、府内《ふない》も春日山《かすがやま》も一もみじゃ、早くおとなになりたいというて、新兵衛《しんべえ》にほめられたが、宇佐美《うさみ》について兵法を学んだ今の目で見ても、最上の陣場《じんば》どころじゃわ」
最初の時は晩秋、去年は晩夏、こんどは盛夏だ。野も山も濃緑《のうりよく》に塗りこめられ、強烈な日の光に照りかがやき、遠い山々の上や右手にひろがるはてしない大洋のはてには夏雲が湧《わ》いている。
この一年の間に組織的に学んだ戦術眼をもって、いろいろな場合を想定して戦術の工夫《くふう》をしていると、飽《あ》かぬおもしろさがあった。
景虎《かげとら》の立っている位置から少しはなれて、供の五人は汗を入れていたが、やがて車座《くるまざ》になって弁当をひらいて景虎《かげとら》に声をかけた。
「飯じゃぞーい。早う来て食わんと、みんな食うてしもうぞーい」
ぞんざいなことばづかいだが、用心のため、旅の間中いっさい同輩《どうはい》として行動することに申し合わせてある。
「おお」
景虎《かげとら》はそこに行った。
「水飲むか。今酌《く》んで来た」
鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》が、水にぬれた竹の吸筒《すいづつ》をとり上げて言う。
「飲む」
もらって、飲み口に吸いついて飲んだ。氷のようにつめたかった。
空腹だったので、飯がうまかった。専心に皆が食べている時、汗を拭《ふ》き拭《ふ》き参道を上って来た旅人があった。ひどい反《そ》ッ歯《ぱ》で、奇妙な顔をしていた。人々の姿を横目に見て、お堂の前で拝礼し、わらじをぬぎ、階段を上って人々と反対側の隅《すみ》に行った。肌《はだ》ぬぎになり、汗を拭《ふ》いて涼を入れる。ごく自然にふるまっているのだが、だれもそれに気づかなかった。
気づいたのは、その男が十分に涼んで肌《はだ》を入れ、菅笠《すげがさ》を枕《まくら》もとにほうり出して肱枕《ひじまくら》ですやすやと寝こんでからであった。
最初に気がついたのは金津新兵衛《かなづしんべえ》であったが、しばらく人々に知らさず、そいつを見つめながら思案していた。
(こいつ、いつ来たのじゃろう。われわれがここへ来てからであろうか。それとも、つい気がつかなかったが、われわれより先に来ていたのじゃろうか。怪しまれるようなことはわれわれは言わなかったろうか……)
いずれにしても怪しまれるようなことは言っていないと考えたので、はじめて皆に教えた。
「いつ来たのかな、人がいる」
と、そちらにあごをしゃくった。
一同見て、おどろいた。けわしい目をしそうだ。新兵衛《しんべえ》は目つきで制して、
「そろそろ行こうか。ここは涼しゅうていいが、そうゆっくりもできるまい」
「ああ、行こう行こう。たっぷり涼んだで、元気が出た」
皆立ち上がって、ドヤドヤと階段まで来て、わらじをはいた。
新兵衛《しんべえ》はだれよりも早くはきおわって、気になるままに旅人の方を見た。旅人は前のまま向こうむきの姿で寝ている。よく寝入っているようであった。肩から横腹のあたりがゆっくりと起伏しているのが、安らかな寝息を伝えていると思われた。
(やはり普通の旅人のようだ)
一同つれ立ってお堂を出たが、少し行って、また新兵衛《しんべえ》はふりかえってみた。男の体はあおむけになり、顔だけがこちらに向いていた。寝返りを打ったのだろうと思ったが、何やら薄目をあけてこちらを見ているような気がして、注意して見直した。しかし、その時はもうそんな様子はなかった。目に立つほどきつい反《そ》ッ歯《ぱ》の口をあんぐりとあけて、爽涼《そうりよう》の中に満足しきっている気楽な寝顔であった。
谷の深い木立ちの中で鳴き立てるひぐらしの声を聞きながら山路を下る途中、新兵衛《しんべえ》はふと、
(あの顔はどこかで見た顔だ)
と思った。
思い出せなかった。記憶をくりひろげながら歩いた。
「どうなさった? ごきげんが悪いようじゃな」
と鬼小島《おにこじま》が顔をのぞきこんだ。
「黙って歩け。考えごとをしとるのじゃ」
どなりつけたが、聞いてみる気になった。
「先刻、薬師堂に旅人がいたろう」
「ああ、居た。気持ちよさそうに寝とったわ」
「あの男、わしはどこかで見た顔じゃという気がしてならんのじゃが……」
と、ここまで言って、新兵衛《しんべえ》は足をとめた。
「や! あいつじゃ!」
皆おどろいて足をとめた。
「服部玄鬼《はつとりげんき》じゃわ」
「玄鬼《げんき》? 玄鬼《げんき》とはちごうとった。玄鬼《げんき》ならみな知っとる。烏天狗《からすてんぐ》のような顔を見忘れる道理がない」
とみな言った。
「いいや、おれの目に狂《くる》いはない。あいつは口にものを含んで自在に顔の形をかえることができるのじゃ。さっきのやつは、きつい反《そ》ッ歯《ぱ》じゃったろう。歯ぐきにものを入れて、反《そ》ッ歯《ぱ》に見せたに相違ない。しかし、争われんのは、やつの艶《つや》のないあの色の黒さと、鼻じゃ。反《そ》ッ歯《ぱ》にばけていたゆえ、あの鼻が目立たなんだが、それでもどこやらに俤《おもかげ》がのこってるのが、おれの心にからんではなれなかったのじゃ」
と新兵衛《しんべえ》が説明して、急に、
「おりゃ行ってみる。まんざら知らんなかでもないわれわれと逢《あ》いながら、狸寝入《たぬきねい》りなどして薄目で見ていたのがいぶかしい」
といって、さっさと引きかえす。
景虎《かげとら》をのぞいて、みな玄鬼《げんき》を知っているのだが、こう言われても、玄鬼《げんき》だとは思われなかった。しかし、新兵衛《しんべえ》がこれほどの自信をもって引きかえす以上、いっしょに行かないわけにいかない。みな引きかえした。
急峻《きゆうしゆん》な坂道だ。たちまち汗になってお堂についたが、蝉《せみ》しぐれのしきっている閑寂《かんじやく》なそこには、すずしい風が吹きとおっているだけで、人影は見えなかった。
「ふけおった! じゃろうとは思っていたが」
と、新兵衛《しんべえ》はくやしがったが、他の四人はそれが果たして玄鬼《げんき》であったかどうか疑わしいと思っていた。下|越後《えちご》の方へ行く旅人なら、彼らが去ったあと、山を北へおりて行ったのに不思議はないのだ。しかし、そんなことを言えば、新兵衛《しんべえ》が腹を立てるにきまっている。黙っていた。
いつごろから玄鬼《げんき》が春日山《かすがやま》からいなくなったか、だれも知らない。為景《ためかげ》の葬儀《そうぎ》があってしばらくはいたように思うが、いつの間にか姿を見かけなくなった。それも今|玄鬼《げんき》のことが問題になったから思い出したので、その当時は居なくなったことすら、だれも気づかなかった。もともと正式の家臣《かしん》でなく、特別な用務に服させるために為景《ためかげ》が雇《やと》った一時の奉公人だ、雇い主《ぬし》である為景《ためかげ》が死んでしまえば立ち去るに不思議はないという腹がみなにあったからだ。
「故殿《ことの》が昔柿崎弥二郎《かきざきやじろう》につかわされた京生まれの女どもは、やつが堂上方《どうじようがた》から買い取って来たのじゃ。ゆかりは十分ある。やつは柿崎《かきざき》に身を寄せているかもしれぬ。油断はならぬぞ」
と、新兵衛《しんべえ》は言った。
「ははあ、なるほど」
と、はじめて、みなうなずいた。しかし、この昔話は若者らにはごくおぼろな印象しかない。なんせ、いずれもそのころやっと七つか八つであった。女のことなぞにはまるで関心のない年ごろだ。今言われてみて、当時のことを漠然《ばくぜん》と思い出したくらいのものであった。もっとも、用心することに異存《いぞん》はなかった。
彼らはまた山を下りはじめたが、その姿が見えなくなるとすぐ、本堂の高い格天井《ごうてんじよう》の隅《すみ》からとび下りたものがあった。大きな風呂敷《ふろしき》か何ぞがおちてきたようであった。ふわりと音もなく本堂の隅《すみ》にひろがり落ちたように見えたが、落ちたとたんには人の姿となって足をそろえてすっくと立っていた。わらじをはき、菅笠《すげがさ》を胸に抱き、杖《つえ》をつかんでいる。するすると縁に出、一はねして手すりをおどりこえて堂の下の大地におり立ち、そのまま谷に走りこんだ。まるでとびこんだようであった。わずかに傾斜を見せて手のひらを立てたように嶮《けわ》しい崖《がけ》を、ななめにさらさらと走り下りて、青い巨大な鉾《ほこ》をぎっしりと植えならべたような谷底の杉木立ちの中に消えた。
この男の姿を、景虎《かげとら》の一行が見たのは、それから間もなくのことであった。景虎《かげとら》が見つけた。はるかに谷底の白い谷川沿いに飛ぶ速さで下流の方に下って行く姿をふと見つけたのだ。
「何じゃ、あれは。天狗《てんぐ》のように速いぞ」
とおどろいて指さした。
一同は視線をこらした。
「や! やつだ! 玄鬼《げんき》だ」
と新兵衛《しんべえ》がさけんだ時には、もう谷川を蔽《おお》う木立ちの中にかくれていた。
「あれでも、玄鬼《げんき》でなかったというのか」
新兵衛《しんべえ》は言って、人々を見まわした。
二
それはほんとに玄鬼《げんき》であった。彼は長尾《ながお》家を立ち去ってはいなかった。為景《ためかげ》が死んだ後は、晴景《はるかげ》にわたりをつけて、晴景《はるかげ》に雇われていた。一時|春日山《かすがやま》から姿を消したのは、晴景《はるかげ》の密命を受けて京都に行っていたのである。
「そなたは昔おれがおやじ殿が柿崎《かきざき》和泉《いずみ》にくれた女どもを京から買って来たという。おれはその女どもを見る機会はなかったが、あのころのうわさでは天人もおよばぬほどの美女ということであった。おれは和泉《いずみ》がうらやましかった。おれが世になったら、どんなことをしても、それほどのものを手に入れたいと、その時から心をきめた。おやじ殿につづいて、そなたをおれが雇うたのも、本心をいえばその役に立てたいと思うたからじゃ。京に行って、まさるともおとらぬ女を買《こ》うて来い」
と、晴景《はるかげ》が言ってつかわしたのだ。
玄鬼《げんき》は適当と思われるのを買って連れてかえった。これも堂上《どうじよう》の姫君《ひめぎみ》で、かつての二人にまさるともおとらないほど美しかったので、晴景《はるかげ》はきげんがよかった。
「よしよし、気に入ったぞ」
と、多分な褒美《ほうび》までくれた。
それは晴景《はるかげ》が守護代《しゆごだい》となった年の夏のことであったがその年の暮れ近く、晴景《はるかげ》はまたひそかに玄鬼《げんき》を召した。
「あの女じゃがな、あれは美しゅうはあるが、夜のおもしろくないおなごじゃ。つまり、絵に描《か》いた花の匂《にお》いのないと同じじゃ。そのつもりで、今一人ほしい。器量はあれほどのことはなくても、それのすぐれたのがほしい。もし器量もそれもふたつながらすぐれている者を連れて来てくれれば、うんと褒美《ほうび》をくれるぞ」
玄鬼《げんき》はこの殿は年もやがて四十のはずだが、女のことばかり考えていなさるようじゃとおどろきもすれば、けいべつもしたが、いつもの通り、ことば少なく、
「かしこまりました」
とだけ答えて、京に立った。
容貌《ようぼう》の美醜《びしゆう》は見ればわかるのだが、かんじんの条件はそのほかにある。どうして鑑別《かんべつ》するか、まさかみずから試みてみるというわけにもいかん。難題であった。
「阿呆《あほ》なことばかりいう殿じゃ。国侍《くにざむらい》衆も心服しているわけでもないのに。いずれ長いことはないな」
ニコリともしないで、こんなことを考えながら、旅をつづけた。
京についてしばらくすると、風の便りに三条《さんじよう》の俊景《としかげ》が謀反《むほん》し、つづいて昭田《しようだ》常陸《ひたち》が謀反《むほん》し、晴景《はるかげ》は春日山《かすがやま》を追いおとされ、越後《えちご》大いに乱ると伝わって来た。
「それ見ろ、あんのじょうだ。どうなるか、しばらくなりゆきを見てからのことじゃわ」
金はうんともらって来ている。このまま晴景《はるかげ》がつぶれるようなら、そっくり頂戴《ちようだい》できると、京でぶらぶら遊んでいたが、間もなく晴景《はるかげ》が春日山《かすがやま》を回復し、まだ賊徒はほろびないが、合戦《かつせん》というほどのこともなく、一応の小康を得ていると伝わってきた。
「とすれば、もどらねばならん。どちらにしても、損の行くことでなし」
と思案して、女さがしにかかった。
かねて知る女衒《ぜげん》の家にいって、条件を言って頼んだ。
「むずかしいことじゃと思うが、なにぶん骨をおってくれい」
「かしこまりました。両方を兼ねているのは、なかなかないものでございますが、お運がよかったのでございますね、ちょうど一人心当たりがございます。そのかわり、代の方は十分におはずみくださいまし」
「はずむどころではない」
「それでは、しばらくお待ちくださいまし」
女衒《ぜげん》は玄鬼《げんき》を連れて出かけた。行ったところは三条高倉《さんじようたかくら》を少し上ったあたりの家であった。建てても建てても兵火に焼けるので、京はみすぼらしい小屋がけの家だけがならんで、町全体が乞食《こじき》小屋の大集団のようになっている。玄鬼《げんき》の連れられて来た家もそうだ。もとは公卿邸《くげやしき》だったにちがいないくずれかけた練塀《ねりべい》の内に、ポツンポツンと小屋が三軒立って、長虫《ながむし》でも出そうな緑の草に半分うずもれていた。
女衒《ぜげん》はその一軒の戸口に立って、案内を乞《こ》うた。
「どなた?」
と奥から一人の少年が出て来た。肩にはぎのあたった着物に水干《すいかん》の袴《はかま》をはいていた。姿はみすぼらしかったが、匂《にお》い立つばかりの美貌《びぼう》であった。年ごろは十五、六にもなろうか。
「あ、そなたか」
と、少年はかすかに笑いを見せたが、女衒《ぜげん》のうしろに玄鬼《げんき》が立っているのを見ると、パッと顔を染めた。それが女のようになまめいて見えた。
「お蒙様《もうさま》(お父様)は?」
「いる。しばらくおひかえなされよ」
少年は奥へ消えたが、すぐセキばらいとともに、四十年配の色の青白い人物が出て来た。くたびれ色あせた水干《すいかん》に奴袴《ぬばかま》をはき、風折《かざお》りの立烏帽子《たてえぼし》をかぶっている。
「おお、しばらく見なんだの。どうじゃの、景気は」
と、笑いかけ、ついでに玄鬼《げんき》にも愛想笑いを見せた。卑屈《ひくつ》で、ずるそうな表情であった。
「いつぞやのことでうかがいました。こちら様は越後《えちご》の春日山長尾《かすがやまながお》家のご家来衆で」
「ああ、さようか。それはまあ遠路はるばると……」
これで朝廷に出れば何位なにがしの中納言《ちゆうなごん》という人にちがいないその人物は、商人のように愛嬌笑《あいきようわら》いを見せておいて、
「これよ」
と、奥にむかってよんだ。
「はい」
澄んだ美しい女の声がして、しずしずと出て来た。これも服装はよくない。つぎはぎこそなけれ、洗いざらした小袖《こそで》を着ている。紅《あか》い帯だけが目立ってあざやかであった。おしろい気《け》のない顔に、口紅《くちべに》だけをさして、髪は結び下げにしていた。年は十七、八であろうか。茶碗《ちやわん》を両手にささげているが、その手と指がすきとおるばかり白く細かった。やせているのは手だけではなかった。顔も、肩も、からだ全体が病的なくらいやせて細かった。異様な美しさであった。細く、そのくせ濃く長い眉《まゆ》とかがやきの強い大きな目がややつり気味で、細い鼻筋がとがって、おとがいが細いので、真っ白な狐《きつね》を見るような美しさがあった。
「どうぞ」
と、ひくく言って、玄鬼《げんき》の前にさし出し、そのまま退《さが》って行く。どんな用件で彼らが来たか、よくわかっているのであろうに、おちつきはらって、まるでわるびれないのである。
これだけのことで、その日はかえった。
「いかがでございます」
築地《ついじ》の破れから外へ出ると、すぐ女衒《ぜげん》は言った。
「美しゅうはあるが、もう一つの方はいいかの」
「それはお引き受けします。手前もこの道でもう三十年も苦労している者でございます。めったに目に狂いはございません。ああいうからだつきの、ああいう顔の女はおもしろいのでございます」
自信にみちて言う。
「そうか、ではもろうとして、いかほどほしいのだ」
「めったにない玉でございます。百両といいたいところでございますが、ほかならぬあなた様でございますから、八十両いただきましょう。決して法外な値段ではございませんよ」
「どうじゃな。百両出すが、あの若衆もいっしょにというわけにいかんか」
「そうでございますな。話をかけてみねばわかりませぬが、もう十両おはずみくださいませんか。でしたら、たぶんまとまると存じますが」
「よかろう」
こうして、姉弟二人ながら買いとって、玄鬼《げんき》は連れかえって、晴景《はるかげ》にさし出した。
晴景《はるかげ》は姉弟とも気に入った。
「でかしたぞ。褒美《ほうび》をとらせる」
二、三日たって、玄鬼《げんき》に五十両という金をあたえたのである。
姉弟の名は、姉は藤紫《ふじむらさき》、弟は源三郎《げんざぶろう》とつけられた。
これらのことは、つい二か月前のことである。
三
晴景《はるかげ》の朝寝はいつものことだが、この日はとりわけおそかった。昼近いころにおきた。からだ中にのこってムカムカさせる酒気と脂汗《あぶらあせ》で、おそろしく気分がわるい。ゲーゲーいいながらうがいをし、行水《ぎようずい》までした。いくらか直ったが、食事をするとまた気分が重くなった。
今日も暑い日だ。庭じゅうが見ているだけでくらくらするような強い日ざしにみたされ、城中の木立ちのいたるところで蝉《せみ》が鳴き立てている。生気にあふれ、ここを先途《せんど》と専心な鳴きぶりが、こちらの汗をじくじくとしぼり立てて、疳《かん》が立ってくる。
(なにがうれしくて、ああまで夢中に鳴けるのか、阿呆《あほう》な虫けらどもめ!)
侍女《じじよ》をうしろにひかえさせてうちわであおがせているが、少しもすずしくない。ごろりと横になって目をつぶると侍女《じじよ》は大急ぎで枕《まくら》をもって来た。
「お枕《まくら》を」
晴景《はるかげ》は首筋を少しもたげた。侍女《じじよ》はその下に枕《まくら》をおしこんで、またあおぎつづけた。
四十といえば人間のはたらきざかりのはずだが、横になって目を閉じている晴景《はるかげ》の顔はたるみ切っている。元来は美男《びなん》型の整った顔立ちなのだが、青白くむくんで生気《せいき》のない色をして、まぶたは黒ずみ、厚ぼったい唇《くちびる》はいやな色をして、醜怪《しゆうかい》といってもいいほどに無気力な感じであった。過度な酒色に明けくれているためにちがいなかった。
目をつぶったまま、晴景《はるかげ》は昨夜から気にかかっていることを反芻《はんすう》していた。
毎日夕方になると、生まれかわったように気持ちがさわやかになる。季節を問わないから夕方の涼風のためではない。終日体内によどんでいた酒気がちょうどそのころに発散しつくしてしまうからであろうが、それと同時にたまらなく酒がほしくなる。
翌日の不愉快さが気になるから、ほんの少し、渇きをとどめ、ほろ酔いになる程度でやめようと思って盃《さかずき》をとるのだが、やりはじめると、もういけない。飲めば飲むほどうまくなり、おもしろくなり、だれを呼べ、かれを呼べと、大|酒宴《しゆえん》になって深夜までつづく。毎夜のことだった。判でおしたようだった。
昨夜は、とくにそれがひどかった。それというのも、いやな報告を玄鬼《げんき》が持って来たからだ。陶然《とうぜん》とした酔いごこちが来、しだいに酒のうまくなるころ、侍臣《じしん》が、服部玄鬼《はつとりげんき》がお耳に達したいことがあると言って来ているととりついで来た。
めんどうで、会いたくなかったが、姉といっしょに酒席に侍《じ》していた源三郎《げんざぶろう》が、
「とくに玄鬼《げんき》がそう申してまいったのでありますれば、相当重大で、いそぐことであると存じます。お目通りをおゆるしになったほうがおよろしいのではございますまいか」
と言った。
すると、藤紫《ふじむらさき》も、
「弟の申す通りであると存じます」
と言った。
ほかの者が言うのだったら、きくところではない。一喝《いつかつ》してしりぞけるか、明日でもよかろう、明日来るように申せとしりぞけるところだが、目下この姉弟はかわゆくてならないところだ。
「それもそうじゃな、では、会おうか」
玄鬼《げんき》を奥庭の四阿《あずまや》に連れて行くように命じ、時間を見はからって出かけた。姉に手燭《てしよく》をもたせ、弟に佩刀《はかせ》を持たせて供をさせた。二人がどんなにあでやかになり、自分がどんなに寵愛《ちようあい》しているかを玄鬼《げんき》に見せたい腹があった。玄鬼《げんき》が買って来てさし出したのだ。玄鬼《げんき》がよろこばないはずはないとかたく信じている。
もともと美しかったのだが、晴景《はるかげ》のもとに来てからいっそう美しくなっている。化粧《けはい》して、きらびやかな着物を着ているところ、姉弟ともに妖艶《ようえん》な花のようであった。
玄鬼《げんき》は四阿《あずまや》の隅《すみ》にうずくまっていた。目を伏せて、だれの顔も見ようとしない。
晴景《はるかげ》は酔いがまわりかけて、ほろほろと快い気持ちになっている。
「しばらくだの。変わりはなかったか。目を上げて、この者どもを見るがよい。おれが丹誠《たんせい》で、こうなったぞ」
ときげんよく声をかけた。
「へえ」
玄鬼《げんき》はかすかに顔をあげたが、見たのか見ないのか、そのまままた平伏《へいふく》した。たいして感動したように見えない。晴景《はるかげ》は不満であった。
「よく見ろよ」
と、いささか調子を張った。
「へえ」
玄鬼《げんき》は顔を上げて、ゆっくりと二人を見た。細い眼がぱちぱちとまたたいて、ぽかんと口をあいた。疑い、おどろき、あきれた表情であった。
「どうだ」
晴景《はるかげ》は満足であった。微笑をおさえかねた。
玄鬼《げんき》は本当はいたって冷静であった。どんなに美しくなろうと、人の庭の花だ。もうけるだけもうけさせてもらったあとのかすだ。関心なぞない。おどろいたような顔をしないと晴景《はるかげ》のきげんが悪いようだから、そんな顔をしてみせたにすぎなかった。
(会うたびに阿呆《あほう》さが増してくる。底が知れんわ。実の父子じゃというのに、先殿《せんとの》とこうもちごうものか)
と心中せせら笑いながらも、神妙《しんみよう》な顔で、
「いや、もう仰天《ぎようてん》いたしました。お二人とももともとお美しくあられたのでございますが、今はもうおそれ多いばかりのお美しさで」
「アハ、アハ、アハ」
晴景《はるかげ》は上きげんだ。二重《ふたえ》ほどあげをしたいくらい顔がのびた。いつまでも笑っている。玄鬼《げんき》は前の姿勢にかえって顔を伏せ、しんぼう強く待った。
晴景《はるかげ》はやっと笑いやんだ。
「さてと、何か耳に入れたいということであったが、何ごとだな」
「へえ」
玄鬼《げんき》はうつ向いたまま、ぼそぼそと語り出した。今日|米山薬師《よねやまやくし》で、六十六部に身をやつしている景虎《かげとら》とその随行《ずいこう》の者らを見たということ。その者どもの名を言った。
たいした関心はない。もともと兄弟としての親しみや愛情を感じたことは一度もないのである。これは晴景《はるかげ》にかぎったことではない。武家時代の大豪族《だいごうぞく》やその以前の王朝時代の貴族はみなそうであった。母親がちがえば住む場所もちがう。兄弟という名はあっても実際は他人同様に疎遠《そえん》なのだ。それどころか、父祖の遺領《いりよう》相続の競争者であるだけに、憎み合っている兄弟さえめずらしくなかった。とりわけ、晴景《はるかげ》と景虎《かげとら》の場合は、年が父子ほどにも違っている上に、景虎《かげとら》は父の勘当《かんどう》を受けて幼い時からよそで育っている。親しみや愛情の湧《わ》こうはずがなかった。
だから、昭田《しようだ》常陸《ひたち》の乱れで兄弟わかれわかれになり、一時たがいの消息が不明であった時も、べつだん気にもならなかった。その後、昭田《しようだ》が蒲原《かんばら》郡に退去したので城へかえって来る少し前、笠島《かさじま》の本陣《ほんじん》に林泉寺《りんせんじ》から使僧が来て、景虎《かげとら》が栃尾《とちお》にのがれたいきさつを伝えてくれたが、ほう、生きていたのか、と思っただけであった。
「フウン、六十六部の姿での、なんでさようなもの好きな姿をしているのじゃろうな」
と、気のない返事になった。
玄鬼《げんき》はうんざりした。蠅《はえ》の頭ほども思考力のないお人じゃなと思ったが、すぐまた、兄弟の情が薄いため、てんから考えてみる気がないのだと気がついた。
「敵中を通られますので、ご用心のためかと存じます」
「あ、そうか。それでどこに何しに行くのじゃろう」
「ここへまいらるるのでございましょう」
「ここへ? ここへ何のために来るのじゃ。ここで暮らすためか」
と、おどろいた声になった。
「それは存じませぬ。しかし、ここへおいでになることは間違いないと存じます」
ぼそぼそとした調子はかわらないが、ことばは確信的であった。晴景《はるかげ》は足もとに火がついた気持ちになった。急におそろしく不愉快になった。彼も自分の行状がよいとは思っていない。急にはどうしようもない形勢だからしかたなしに逸楽《いつらく》にあけくれているのだと思っている。やがてその時が来たら、大いにやることを忘れてはいないとも思っている。
しかし、人がそれを信じないであろうこともわかっている。ましてや、子供の時から何を考えているかわからないようにむっつりした、しぶとい景虎《かげとら》が、どんな心で自分を考えているか、だいたい察しがつく。おそらく景虎《かげとら》がここへ来るのは、ここへ住むためであろうと思うが、あの目で二六時中《にろくじちゆう》見ていられてはたまらないと思った。
(やつ、いくつになったのじゃろう)
と、心のうちで指をおった。
(十四か五か、もう六になったろうか)
とあいまいであったが、不安になった。器量がすぐれていれば、家臣《かしん》らの心が引きつけられるかも知れない、もし、宇佐美定行《うさみさだゆき》がしりおしでもすれば、もっとも油断のならないことになる。琵琶島《びわじま》城に身を寄せていたということだから、しりおしの約束はもうできているかもしれない、とそれからそれへと不安は大きくなっていった。
こんな不安を投げこんで、眠ってでもいるようにモソッとうずくまっている玄鬼《げんき》が、むしろにくかった。頼みもせんことを忠義|面《づら》して言って来おって、おおかたほうびでもほしいのじゃろうが、くれるものか、と思った。
「わかった。大儀《たいぎ》であった」
と言いすてて、宴席にかえった。
不愉快で不安でならない。すさんだ酒になって、ついいつもの倍もすごしたばかりか、あとでは姉弟ともに同じ寝間に寝せて、右に行き、左に行きしてたわむれた。
刺戟《しげき》はくりかえされると、感覚が鈍磨《どんま》する。漁色《ぎよしよく》にあけくれている晴景《はるかげ》は、普通のことでは感興《かんきよう》を覚えなくなっている。いつかこの無恥《むち》なことを試みたいと思っていたのであるが、ゆうべついに試みてしまった。二人はもちろんいやがったが、こちらは言いはってきかなかった。酔いに乗じたというより、そうでもしなければ不安の忘れようがなかった。
ふと、そのことに思いが走った。ひどく酔っていたから、記憶はおぼろだ。ところどころ消えているところもある。
(楽しかったな)
覚えず頬《ほお》がゆるみ、にやにやしてしまったが、すぐまた景虎《かげとら》のことを考えて、ドッと胸が重くなった。
(やつ、いつ来るじゃろうか。昨日の昼ごろ米山薬師堂《よねやまやくしどう》にいたとすれば、早ければ今日、遅くともあすの昼前には来るじゃろうな)
米山薬師《よねやまやくし》のこちらの麓一帯《ふもといつたい》は、柿崎《かきざき》和泉《いずみ》の弟|弥三郎《やさぶろう》の所領だ。
(弥三郎《やさぶろう》に見つかって殺されてくれればありがたいが、そううまくはいかんじゃろうな)
と思った。
目をつぶって、そんな場面を想像しているうちに、いつかぐっすりと眠ってしまった。
四
「……殿、殿、殿……」
さっきからだれかが呼んでいると思っていたが、急に目をさました。おどろいて、起き上がった。
「や! なんじゃ!」
と目をすえると、源三郎《げんざぶろう》が媚《こ》びのある微笑を浮かべて、両手をついていた。
「ああ、そちか」
ゆうべこの少年がどんなにふるまったかを思い出していると、それがわかったのであろう。女のように美しい顔を首筋まで染めてうつむいた。
「……あのう、喜平二《きへいじ》様がご到着になって……」
「来たか!」
艶笑《えんしよう》気分は一時にふっ飛んだ。
「はい、お目通りを願っておいででございますが……」
「うむ」
と答えながらも、どうしようと思った。態度を全然きめていないことに気づいた。
思案していると、脂汗《あぶらあせ》でぬるぬるした顔にさらに汗が出て来た。
「手拭《てぬぐ》いをしぼって持ってまいれ」
源三郎《げんざぶろう》のしぼって来たつめたい手拭《てぬぐ》いで顔を拭《ふ》き、首筋を拭《ふ》き、ついでに胸のあたりまで拭《ふ》いた後、晴景《はるかげ》は言った。
「そちはどうしたらよいと思う?」
「どうとは……?」
黒い目がぱっちりとあいて、見上げている。唇《くちびる》が花のように紅《あか》かった。
「会った方がよいか、会わん方がよいか……」
言いながら、晴景《はるかげ》は、この子はおれが景虎《かげとら》にどんな感情を持っているか知らないのだったと、はじめて気づいた。
「お肉親のご兄弟のことでございますから、お目通りをおゆるしになった上で、先のことはさらにお考えになるべきではございますまいか」
さかしいことばと聞かれた。
「そうだの、うん、そうだの。それでは会うことにするか。そちの申す通りだ。そちはおれの心のうちをよく知っている」
「姉と相談したのでございます。わたくし一人の思案ではございません」
「ほう、そうか。二人で相談して考えたのか」
「表から、さように申してまいりましたが、昨夜の殿のご様子が何となく気がかりでございましたので、まず姉に相談したのでございます」
「そうか、そうか、よく気がついてくれた」
二人にたいするいとしさに胸が切《せつ》ないほどとなった。
こうなると、とりあえず藤紫《ふじむらさき》にも会って、ひとことほめてやりたい。
「待ちついでだ。間もなく行くゆえ、今しばらく待たせておくよう、表の者へ申しておけ」
と言って、藤紫《ふじむらさき》の居間に行ってみた。
藤紫《ふじむらさき》は居間に端坐《たんざ》して、まだきつい日のさしている庭を眺《なが》めていたが、晴景《はるかげ》の入ってくるけはいにふりかえった。
「あ!」
と軽いおどろきの声を上げて、立ち上がって迎えに来た。雪のように白い生絹《すずし》の着物に緋《ひ》の帯をゆるやかにしめていた。
「おいでなさりませ」
とひざまずいて迎える。
「わしはそなたをほめに来た」
と言いながら、すすめるしきものにすわった。
「なんでございましょう」
まなじりのやや上がった大きい目がせいいっぱいにみひらかれて、無邪気《むじやき》なおどろきの色を見せている。
「源三郎《げんざぶろう》に聞いた。喜平二《きへいじ》がことじゃ」
「あれまあ、あんなことを! でも、心配でございましたから……」
「案じてくれてうれしいぞ。わしにはそれがうれしくての。ハハハ、ハハ、ハハ」
笑っているうちに、晴景《はるかげ》はまたしてもいとしさに胸が熱くなってきた。
「恐れ入ります。わたくしども姉弟、殿だけをお頼り申して生きている身でございます。殿のお情けを忘れてはならぬと、いつも姉弟で語り合っているのでございます」
と、藤紫《ふじむらさき》は薄く涙ぐんだ。
晴景《はるかげ》の胸は切《せつ》なくなるばかりだ。
それはそれとして、この女はいっこうに肉がつかない。京の実家のくらし向きのことは玄鬼《げんき》からあらかた聞いている。どうやら朝夕の煙も立てかねていたらしい。やせているのはそのせいかと思っていたが、こちらに来て豊富な生活をするようになっても、かわらずすきとおるばかりにやせている。
それはかまわんのだ。今の晴景《はるかげ》にとってはそれが魅力《みりよく》であるといってよい。肉つきのよい女はこれまで多数経験がある。ちがっていなければ新鮮でない。
第一、そのやせているためにちがいない、この女はこの暑さにまるで汗というものをかかないようだ。すきとおるような白い肌《はだ》をして、いつもまわりを微風が吹きめぐっているようにすずしげで、端然《たんぜん》としている。
(そのくせ、寝ると火のように熱くなって、寝衣《ねぎ》もしぼるばかりの汗になるのだ。同じ者とは思われんな……)
長々とすわりこんで話しこみながら、晴景《はるかげ》はそんなことを考えていた。
景虎《かげとら》はいつまでも待たされた。
諌《かん》 言《げん》
一
景虎《かげとら》は、特別、兄に愛情を持たれている自分だとは思っていない。しかし、これは特別な時だ、逆臣《ぎやくしん》の叛乱《はんらん》があって城を追いおとされ、わかれわかれになった兄弟が一年半ぶりに再会するのだ、いつもとは違うはずだと思っていた。義経《よしつね》と頼朝《よりとも》の黄瀬《きせ》川の対面のことなども思い浮かんで、一種の昂奮《こうふん》すら覚えていたほどであったが、日が落ちてしだいに暮色《ぼしよく》のせまるころになっても晴景《はるかげ》は出て来ない。しかも、ここへ通された時、茶を一ぱいくれたきりで接待の者さえ出ていない。こんなあしらいがあってよいものではない。
ただごととは思われなかった。琵琶島《びわじま》を出る時、宇佐美《うさみ》がくれぐれも心づけてくれたことが思い出された。恐怖はなかったが、不安があった。
敷居《しきい》一つをへだてた隣り座敷にいる金津新兵衛《かなづしんべえ》以下の五人もそうであった。彼らは横に一列に、肩ひじ張って粛然《しゆくぜん》といならんでいたのであるが、たがいに目と目で不安をささやきはじめた。
何か一計をほどこす必要があった。
「城内の者、たれかおらぬか」
と、大きな声で呼んだ。
「ご用で?」
と、金津新兵衛《かなづしんべえ》がいざり出て来た。
「とりつぎの者を呼んで来てくれい」
「は」
たがいに目で意をかよわせて、新兵衛《しんべえ》は客殿《きやくでん》を出て行ったが、間もなく一人連れてかえって来た。
その侍《さむらい》は座敷のうちが意外に暗くなっているのにおどろいて、
「あ、これは気づきませなんだ。すぐ灯《あかり》を持って参じます」
と、あわてて出て行ったが、すぐ手燭《てしよく》を持って来て、座敷の隅《すみ》の燭台《しよくだい》に灯《ひ》を点じて持ち出した後、景虎《かげとら》の前に両手をついた。
「お待ち遠《どお》でございます。今しばらくお待ちいただきます。さて、ご用は?」
「城下の村々に、琵琶島《びわじま》からそれとなくわしを守護して来てくれた者どもがとどまっている。あまり長くなっては、不安に思おう。安心させたいと思うゆえ、供の者を一人連絡のためにつかわしたい。城を出ることのできるようはからってくれい」
相手はおどろいたようであった。
「あ、さようでございますか。しばらくお待ちを。早速にさようはからうでございましょう」
と答えて、あわてて退《さが》って行った。
これは前もっての打ち合わせのあることではない。新兵衛《しんべえ》らも口にこそ出さないが、おどろいていた。景虎《かげとら》は微笑して五人を見て、
「弥太郎《やたろう》、その方行ってまいれ」
と言った。
「は?」
鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》のいかつい顔には困惑《こんわく》の色がある。策略《さくりやく》だとは思うが、案外そんな人数が来ているかもしれないと思っているような顔だ。
「行ってまいれ」
景虎《かげとら》はくりかえして、かすかに二、三度あごをうごかした。
「はッ、はッ、はッ」
やっと合点《がてん》がいって、ニコリとしようとして、あわてて口を引きむすんだ。
(やりなさる。やりなさる。おみごとでございますぞ)
と、五人はひとしく目つきでほめた。
取り次ぎの侍《さむらい》がふたたび来るまでにはかなりな時間があった。それは晴景《はるかげ》が藤紫《ふじむらさき》のへやに入ったきり出て来ないので伺いを立てることができなかったからであったが、景虎《かげとら》らはそうはとらなかった。あわてて相談しなおしているためと思った。
相談の結果がどうなるか、宇佐美《うさみ》家の家来らが万一に備えるために城外に待機していると聞いては、不穏《ふおん》な挙《きよ》に出ることはあるまいとは思うが、ひょっとして、なお強行しようということになるかもしれない。その際の対策を考えておく必要があった。
「万一の時は城内に火をかけていただきたい。拙者《せつしや》は外にあって、城下の民家に火をかけ、軍勢が多数おしよせたように見せかけましょう。さすれば城内ではうろたえさわぐこと疑いなければ、それに乗じて斬《き》りぬけ給うこともあながちできぬことではありますまい」
と、弥太郎《やたろう》はささやいた。
「よかろう。しかし、はやまるなよ」
「かしこまった」
相談が一決して間もなく、取り次ぎの侍《さむらい》が入って来た。
「それでは、お使いの方。それから、ほどなく殿がお出ましになります」
「城内の案内はよく存じているが、勝手に行ってよろしゅうござるか」
と、弥太郎《やたろう》が言うと、侍は、
「ご案内の者が外にお待ちしています」
と答えた。
「さようか。――それでは行って参じます」
弥太郎《やたろう》は両手をついて景虎《かげとら》を仰いだ後、朋輩《ほうばい》らにも目くばせして、立ち去った。
こうしたものものしい緊張と悲壮感は、彼我《ひが》の情況をよく知っているわれわれには滑稽《こつけい》でしかないが、相手方の内幕《うちまく》を知りようのない彼らとしては、いたし方のないことであった。人生は賢人《けんじん》にとっては常に喜劇であり、凡人《ぼんじん》にとっては常に悲劇であるといわれる所以《ゆえん》も、悲壮美と滑稽《こつけい》美は一枚の紙の裏表であるといわれる所以《ゆえん》もここにある。
二
弥太郎《やたろう》が去って間もなく、晴景《はるかげ》は客殿《きやくでん》に出て来た。彼は取り次ぎの侍《さむらい》から、宇佐美《うさみ》家の人数がひそかに景虎《かげとら》を守護して来て城下の民家に分宿しているということを聞いた。あまり遅くなってはその人数が不安がるから連絡の使いを出したいと景虎《かげとら》が言っているということも聞いた。
不安がるとは、この城に攻めかかるという威迫《いはく》であることは明らかであった。
(宇佐美《うさみ》め、おれが喜平二《きへいじ》を恐れて殺しでもすると思うのか!)
晴景《はるかげ》は腹を立てた。玄鬼《げんき》から報告されて以来、気になっていたことは事実だ。不愉快であったことも事実だ。しかし、殺そうとまでは思わなかった。それだけにへんに勘《かん》ぐられては腹が立つのだ。柿崎《かきざき》一党の領地内を経てくる間に、柿崎《かきざき》がこれを殺してくれればありがたいと思ったことはもう忘れていた。
悪人といわれるほどの者は皆かしこい。愚鈍《ぐどん》な悪人というものはない。古代には奸智《かんち》と巧智《こうち》とは同じものであった。今日でもすべての戦術は奸智《かんち》の所作《しよさ》といってよい。晴景《はるかげ》は悪人ではない。賢《かしこ》い人でもない。遊惰《ゆうだ》で享楽《きようらく》的な凡人《ぼんじん》にすぎない。感情を矯《た》めて心にもない顔つきをつくることはできない。不機嫌《ふきげん》なぷりぷりした顔で、客殿に出て来た。
黙ってすわって、黙って弟を見、さらにそのうしろに敷居《しきい》をへだててすわっている四人の従者らを見ていた。
つめたいあしらいを受けて、長い間待たされて、張りつめた気のゆるんでいた景虎《かげとら》は、いっそう熱がなくなった。しかし、言うだけのことは言わなければならない。気をとりなおし、両手をつき、口をひらいた。
「お久々《ひさびさ》でございます。思いもかけぬ乱れのためにお別れしましてから、早や一年半となってしまいました。あの際のこと、申し上げようもございません。しかしながら、ふたたびこうしてお城でおかわりもないお顔を拝することができまして、よろこびこの上もございません」
言わなければならないとの義務感から言い出したことだが、途中で胸がせまって涙声《なみだごえ》になった。涙は時々さまで感情が激しもしないのに出て来るものだが、この時は感情が激しなかったわけではない。晴景《はるかげ》にたいしては、はじめから兄弟らしい愛情を持っていないのだから、そのために情の激しようはないが、去年の乱れのことを思い、九死《きゆうし》に一生《いつしよう》を得た危難の場がまざまざと思い出されて胸がせまってきたのであった。
しかしながら、この涙を、晴景《はるかげ》も、晴景《はるかげ》の侍臣《じしん》らも、新兵衛《しんべえ》らも、そう深入りしては考えられない。ごく常識的に、兄弟の再会をよろこんでのうれし涙と受け取った。
晴景《はるかげ》は熱くなった眼頭《めがしら》を指でおさえ、人々もうつ向いてすすり泣いた。
晴景《はるかげ》の心は綿のようにやわらかになった。
「そなたも|まめ《ヽヽ》で結構だ。しばらく見ぬうちにきつう成人したの。いくつになった。会えてうれしいぞ」
と言う声もうちしめってやさしかった。
生まれてはじめての兄のやさしいことばであった。やっと十五の景虎《かげとら》の胸はいっそう熱くなった。
「十五になってございます」
と答えた。つかえた両手の上に涙がぽとぽととおちた。
(弾正《だんじよう》殿はこれまで自分の思っていたようなお人ではなかった。いいお人なのだ。お話し申せば、わかってくださるにちがいない)
と思った。それは|あまえ《ヽヽヽ》であったかもしれない。
やがて、晴景《はるかげ》を仰《あお》いで言った。
「おり入って申し上げたいことがございます。お人ばらいを仰《おお》せつけられとうございます」
晴景《はるかげ》は答えない。黙って景虎《かげとら》を見ている。やわらいでいた顔はかたくなり、さぐるような狡猾《こうかつ》な目つきになっている。
景虎《かげとら》も自分の心が硬くなり、今の今までの感激が風にふかれる霧《きり》のように吹き散っていくのを感じた。性急に言い出したことを後悔した。しかし、言い出した以上、乗り切るよりほかはない。強い目つきになって、兄の目を凝視《ぎようし》していた。
晴景《はるかげ》はつぶやくように言った。
「人ばらいなどと……何を言いたいのだ? 人ばらいなどすることはなかろう……。言いたいことがあるなら、かまわぬから、このままで言うがよかろう……」
晴景《はるかげ》はまともには景虎《かげとら》を見ることができなくなっている。たえず視線をそらそうとする。景虎《かげとら》は執拗《しつよう》にそれを追いかけながら、また言う。
「他聞《たぶん》をはばかることを申さねばなりません。ぜひお人ばらいを」
強い調子になった。
晴景《はるかげ》の青白くむくんだ顔に稲妻《いなずま》のように走るものがあった。うろうろさせていた視線をグッと景虎《かげとら》に向けた。
「かまわん! 言え! このままで聞く」
顔が赤くなっている。腹を立てているにちがいなかった。
景虎《かげとら》も激した。
「しからば申し上げます」
ついていた両手を上げて膝《ひざ》につき、小がらなからだをしゃんと正すと、真っ直ぐに相手の目を見つめた。
「わたくしが敵地をおし通って当地にまいりましたのは、弾正《だんじよう》様のこのごろのご所行《しよぎよう》が腑《ふ》におちかねるからでございます。こと新しく申し上げるまでもなく、わが春日山長尾《かすがやまながお》家は今たいへんな場に立っています。父君信|濃守《しなののかみ》殿は越中《えつちゆう》でお討ち死に、国内には賊徒蜂起《ぞくとほうき》して、越後守護代《えちごしゆごだい》として越後《えちご》一国はもとよりのこと、越中《えつちゆう》まで支配していた家が、今ではわずかに頸城《くびき》一郡を支配しているにすぎません。しかもその頸城《くびき》郡も、米山《よねやま》の西の麓《ふもと》一帯は敵地となっているという情けなき有様《ありさま》であります。男の魂ある者なら、居ても立ってもおられぬところでありますのに、世のうわさでは弾正《だんじよう》様のこのごろのご行状は日夜に遊楽《ゆうらく》にふけり、とても国内を平定し、父君の弔合戦《とむらいがつせん》をなさるお心はあられぬようであると申します。わたくし、おん弟の端《はし》につらなる身として、口惜《くちお》しくてならぬのでございます。それで、このことを申し上げて、一日も早くご本心に立ちかえっていただきたく、こうしてまいったのでございます。急ぎ兵をおこして、賊徒を討って国内を平定なされた上で、越中《えつちゆう》におし出し、父君の弔合戦《とむらいがつせん》をなされるよう、お願い申したいのでございます。国内の賊徒は、国の乱賊であるばかりでなく、弾正《だんじよう》様には弟君、わたくしには兄君にあたる景康《かげやす》殿・景房《かげふさ》殿の仇《かたき》でもございます。いつまでも捨ておかれてよいものではございません。もし弾正《だんじよう》様が思い立ち給うものなら、小腕ながらわたくしもご馬前に立って懸命《けんめい》のご奉公をいたすでございましょう」
言いたいことは山ほどある。激情的なことばがあとからあとからと胸につき上げてくるが、家来どものいる前だ。そのままには口にできない。おさえて、できるだけおだやかに言ったつもりであった。
晴景《はるかげ》の様子はいろいろに変化した。身分と年長者にふさわしい余裕《よゆう》を示す傲然《ごうぜん》たる様子でいたり、神妙《しんみよう》に耳をかたむけているようなふうを見せたり、かと思うと今にもどなり立てるのではないかと思われるばかりに顔をけわしくさせたりした。そのどれも彼の本心ではなかった。彼はただ困惑《こんわく》していた。どう言いのがれようと、それだけを考えていた。
言いのがれのことばは思いつけなかったが、何とか言わなければならない場になってしまった。
「諌言大儀《かんげんたいぎ》、兄弟なればこそのこと。ありがたいと思うぞ」
と、まず言ったが、ここでつかえた。
「おそれ入ります」
とだけ言って、景虎《かげとら》は軽く頭を下げた。きらきらとよく光る双眸《そうぼう》が真っ直ぐに晴景《はるかげ》を見つめている。射るような鋭さだ。次のことばを待っている顔だ。あくまでも言わせようとの気魄《きはく》にみちている。晴景《はるかげ》はせっぱつまった。
「しかしだな……」
と、とりあえず言ったが、とつぜん、猛烈に腹が立ってきた。小わっぱの分際《ぶんざい》で何を言うと思った。
「そちは今、わしが日夜に遊楽《ゆうらく》にふけっていると申したが、何をさして言うのじゃ。世間は口さがないものにきまっている。その世間のうわさを信じて、そう思いこむなど、浅慮《せんりよ》とは思わんか。わしは故|信濃守《しなののかみ》殿のように人に名将といわれるほどのえらい人間ではない。しかし、世の常におとる人間とも思わん。格別、人にすぐれたことをしているとも思わんが、人にかれこれ後ろ指さされるようなことをしているとも思わんぞ」
晴景《はるかげ》は呼吸《いき》をきらした。心が激している上に、酒色に弱ったからだだ。せいせい呼吸《いき》がはずんだ。
景虎《かげとら》は何か言いたげにした。
「待て」
晴景《はるかげ》はおさえた。呼吸《いき》はきれても、感情はますます激し上ってくる。もっと言わなければ腹が癒《い》えなかった。
「そちはまたわしが国内の平定にも父君の弔合戦《とむらいがつせん》にもまるでその心がないように申したが、過言だぞ。ことをなすには時節が大事だ。燃えさかる火に向こう見ずに向かって行っては、こちらが焼き殺されてしもう。おれは時節の到来を待っているのだ。その方ごとき子供が考えるほど世の中はあまくないぞ」
また呼吸《いき》をきらして、肩をあえがせていた。
景虎《かげとら》は兄の強弁《きようべん》に腹を立てた。元来がはげしい気性《きしよう》である上に、年が年だ、こうなるとことばなぞえらんでいられない。にらむような目で兄を見つめて言った。
「世のうわさで聞いたと申し上げたのは会釈《えしやく》であります。ここへまいる途々《みちみち》、わたくしは調べてまいりました。ご遊山《ゆさん》を好まれて、しばしばご遊行《ゆぎよう》になるのはよいとしても、途中に出会わせられる婦女子で眉目《みめ》よしと見させられる者は、人妻《ひとづま》たると娘たるを問わず、みな引きさらって城中に連れかえって伽《とぎ》をさせられるため、このごろではご遊山《ゆさん》と聞けばおん道筋《みちすじ》には人影一つ見えないことは、かくれない事実でございますぞ。また京都から姉弟二人の者を召し下し、姉弟ながらご寵愛《ちようあい》であることも、確かな筋から聞いています。四民の上に立つ大名たるもののすべきこととは思われません。逸楽《いつらく》にふけり給うていると申したのがあやまりでありましょうか。さらにまた、時節を待っているのじゃと仰《おお》せられましたが、わたくしにはさようには見られません。時節とはわれの力が実《じつ》し、彼の力が虚《きよ》となった時のことにほかなりませんが、ただいまのように日々|遊楽《ゆうらく》にふけっていらせられては、彼が虚となる前にこちらが虚となってしまいましょう。片時《かたとき》のおこたりもなく、武力と財力をたくわえ、民心をなつかせるにつとめてこそ、時節を待つといえましょう。弾正《だんじよう》様の今のおことばはお言いわけとしかわたくしには思われません」
景虎《かげとら》のいうことはいちいち道理であったが、道理であるだけに、晴景《はるかげ》の腹立ちはいっそうであった。おそろしい顔をして、これでもかこれでもかと挑《いど》みかけてくる態度にも腹が立った。兄たる者をこうまで完膚《かんぷ》なく言いつめてよいものかと思った。殺してやりたいほど憎かった。しかし、景虎《かげとら》のうしろにひかえている四人の家来らの形相《ぎようそう》のすさまじさに心がおびえた。太くたくましい腕を真四角に膝《ひざ》につき、むんずと口をむすび目をきらめかしているのが、仁王《におう》像か鬼のようだ。四人とも一騎当千《いつきとうせん》ともいうべき勇士であることを晴景《はるかげ》はよく知っている。宇佐美《うさみ》家の人数が城下の村々にわかれわかれに止宿《ししゆく》しているということも思い出した。
めったなことをしてはならないという思慮は晴景《はるかげ》にもある。が、それだけにいっそう腹が立つ。何か言わずにおられない。
「余人《よじん》のいる前で、あれほどまでに口ぎたなく言うてよいものか……」
と言い出したが、さすがにそれが愚痴《ぐち》になっていることに気づいて口をつぐんだ。
「それゆえにこそ、お人ばらいを願ったのであります」
と、景虎《かげとら》は切りかえした。煮《に》えかえるほど腹が立ったが、何にも言えなかった。胸がふるえて、のどがかわいていた。
「茶を」と、うしろの侍臣《じしん》に言った。
「はっ」
侍臣《じしん》が立って行こうとした時、座敷の入り口のふすまが外からさらりとあいて入って来た者があった。目のさめるようにはなやかな服装をした美しい少年であった。真っ白な両手に黒い天目茶碗《てんもくぢやわん》をささげて、流れるような足どりで出て来て、晴景《はるかげ》の前にすえた。一礼して、少し座をすざって晴景《はるかげ》を仰いでいる。次の命令を仰ぐもののようであった。
けたはずれた美しさ――妖艶《ようえん》といってよいほどのその美しさに、景虎《かげとら》は呼吸《いき》をのんでいた。
(これだな、源三郎《げんざぶろう》とかいう弟の方は)
もう何を言ってもだめだという気がしていた。
三
二時間ほどの後、景虎《かげとら》らは海べに沿った道を越中《えつちゆう》に向かいつつあった。
諌言《かんげん》が入れられないばかりか激怒《げきど》まで挑発《ちようはつ》した以上、とどまるべきではなかった。とどまっては晴景《はるかげ》がどんな気をおこさないものでもない。
「わたくしはただ家のため、弾正《だんじよう》様のおんためを思って申し上げたのでありますが、若年者《じやくねんもの》で口上《こうじよう》にならいませぬため、お気をそこねるような申しようをしてしまいました。おゆるしいただきとうございます。しかしながら、申し上げるほどのことはみな申し上げましたので、今はもう心のこりはございません、琵琶島《びわじま》からまいっている者どもも待っていることでございますから、お暇《いとま》いたしたく存じます」
と、また宇佐美《うさみ》がかくし勢をつかわしていることをひけらかして晴景《はるかげ》の害心《がいしん》を封じて、暇《いとま》を告げた。そして、新兵衛《しんべえ》らを引きつれて城外に出て鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》と落ち合うと、すぐ城下を立ち去って府中《ふちゆう》に向かった。城下にぐずぐずしているのは危険であった。琵琶島《びわじま》からのかくし人数などもともといやしないのだ。服部玄鬼《はつとりげんき》にでも命じて調べさせればすぐわかってしまう。わかれば晴景《はるかげ》がどんな気をおこさないものでもない。時をうつさず立ち去るに越したことはなかった。
府中《ふちゆう》への途々《みちみち》、景虎《かげとら》は言った。
「ことのついでに、近国を見てまわりたいと思うが、どうであろう」
景虎《かげとら》の諸国巡歴の希望が宇佐美定行《うさみさだゆき》からとめられていることを知っている五人は、それを言ったが、景虎《かげとら》はきかない。
「おれは遠国へ行こうというのではない。越後《えちご》の国のまわりだけを見て歩けばいいのだ。おれの見るところでは、さしせまってはこの国にことが起こりそうにもないが、よしんば起こったとて、まわりの国なら間に合わぬことはなかろう」
と言い張る。
景虎《かげとら》の近国巡歴の目的が武将としての修行《しゆぎよう》のためであることは、五人もよく知っている。その意義も認めている、また彼らとて血気さかんな身であってみれば、琵琶島《びわじま》城内の掛《か》かり人《うど》として窮屈《きゆうくつ》な毎日を送るよりそのほうがはるかに楽しくもある。
「それほどまでにお望みならば、まいりましょう」
と答えて、まず越中《えつちゆう》を志すことにして、府中《ふちゆう》から道を左にとった。
海ぞいの道である。はるかに遠い北方の海の上に北斗七星《ほくとしちせい》のかがやきがあり、銀河が霧《きり》のように煙って北から南に流れていた。一行は波の音を聞きながら終夜歩いた。できるだけ遠く春日山《かすがやま》を離れる必要があった。
夜明けは能生《のう》という海ぞいの村駅であった。ここは能生《のう》川の河口に臨んでいるので、小さいながら港の体裁《ていさい》をしていて、ちょいとにぎやかな町であり、この地の海べに近い権現山《ごんげんやま》には白山権現《はくさんごんげん》のお社《やしろ》があって、越後《えちご》国内では名高いところになっている。
ここはまだ春日山長尾《かすがやまながお》家の領内ではあるが、春日山《かすがやま》から七里へだたっている。だいたい安心してよい。
「六十六部の姿をしていながら、これほどのお社《やしろ》に詣《まい》らんのもおかしなものじゃ。お詣《まい》りすることにしようではないか」
と、新兵衛《しんべえ》が発議《はつぎ》した。
みな異議はない。ぞろぞろと山にのぼった。
山の別当寺《べつとうじ》は金剛院《こんごういん》といって、真言宗《しんごんしゆう》の寺だ。まず金剛院《こんごういん》の本堂に拝礼した後、社《やしろ》に詣《もう》でた。
「ここのお社《やしろ》には武蔵坊弁慶《むさしぼうべんけい》とならんで九郎判官義経公《くろうはんがんよしつねこう》の郎党《ろうどう》中の二人の法師武者《ほうしむしや》として世に知られている常陸坊海尊《ひたちぼうかいそん》が銘文《めいぶん》をえらんだ梵鐘《ぼんしよう》がありまして、その音がまことによく、海上数里に響《ひび》きわたって、このあたりを往来する船の道しるべとなっていましたので、いつだれが名づけたともなく『汐路《しおじ》の鐘《かね》』と呼ばれ、近国に名の高いものでありましたが、おしいことに数十年前の火事で焼けてとけてしまったということであります」
と、新兵衛《しんべえ》が教えてくれた。
早朝の海上をわたって高みに吹きつけて来る風は肌寒《はださむ》いばかりに冷涼《れいりよう》で、展望もまたまことに雄大《ゆうだい》だ。はるかに北方の水平線上に佐渡《さど》ガ島《しま》の山々のいただきが見え、西には朝の日を受けた能登《のと》の山々がきらめくようにくっきりとした陰影《いんえい》を見せて横たわっていた。
六人は金剛院《こんごういん》に布施《ふせ》して斎飯《とき》をいただいてしばらく休んだ後、山をくだって道をついだ。
昼前、糸魚川《いといがわ》についた。ここはにぎやかな港町で、船乗りらのための宿屋もある。その一軒に入って、しばらく午睡《ごすい》して疲れを休め、暑いさかりを過ごした。夕方近くなってから立った。
ここから外波《となみ》まで三里、たそがれ時について、宿屋に入った。この時代は現代のように日本中至るところに宿屋のある時代ではない。日本は鎌倉《かまくら》時代の中ごろから大都市やおもな街道筋《かいどうすじ》の要地にぼつぼつ旅人を宿泊させる職業の家ができ、この時代になるとそうした家はかなり多くなってはいたが、それでもごく少なかった。大きな街道《かいどう》の宿駅《しゆくえき》でも、ないところが多かった。旅人はたいていの場合、野宿《のじゆく》するか、神社や寺や普通の民家に頼んで泊めてもらうかした。しかし、この外波《となみ》は、ここを出て一里ほどで親《おや》不知《しらず》・子《こ》不知《しらず》の難所にかかり、市振《いちぶり》まで一里の間はおそろしい険路《けんろ》となり、潮のかげんや天候のかげんでは、いく日もここにせきとめられるので、片《かた》田舎《いなか》の寒駅《かんえき》ながら、数軒の宿屋がある。この海べの民家はすべて軒が低くて屋内は薄暗く、屋根は板ぶきで、大小の石をのせて風鎮《かぜしず》めにしている。彼らの入ったのもそんな家であった。
宿屋といっても、今日《こんにち》の概念《がいねん》とは遠い。泊まり客の全部が一室に同宿だ。食事も宿屋でこしらえてくれるわけではない。各自が持参の米をかしぎ、道中で買ったり、そのへんで買いもとめたりした魚や野菜を、携帯《けいたい》の鍋釜《なべかま》で、宿屋の|かまど《ヽヽヽ》や囲炉裏《いろり》で焚《た》いて食事する。宿屋に支払うのは泊まり賃と薪代《まきだい》だけであった。ごくまれに客の依頼に応じて食事を宿屋でつけてくれることがあって、これを|はたご《ヽヽヽ》(旅籠)といった。はたごというのは、元来は米や乾飯《ほしいい》や乾魚《ほしうお》や塩・味噌《みそ》などを入れて旅中にたずさえる器のことで、転じて宿屋で出す食事のことをいうようになったのだ。後世の木賃宿《きちんやど》・旅籠屋《はたごや》の名はここから出たものだが、そうなったのは江戸時代に入ってかなり経《た》ってからのことで、この時代は宿屋といえば木賃《きちん》が普通だったのである。
六人はそれぞれ食料はもちろん鍋《なべ》・釜《かま》・食器やを手分けして携帯《けいたい》している。一人が米をかしぐ間に一人が漁師の家を訪ねてとりたての鮮魚を買って来、また一人が百姓《ひやくしよう》の家から野菜を買って来るというふうで、支度《したく》をととのえ、食事をおわった。
親《おや》不知《しらず》・子《こ》不知《しらず》の難所は、日本アルプスから連亙《れんこう》して来た山脈が海に至って屏風《びようぶ》を立てたように絶ちきれる岩壁と波打ち際《ぎわ》との間に一筋の岨道《そばみち》が通じている場所だ。天候の険悪な日にはたえず逆《さか》まく波濤《はとう》に洗われて通れないし、おだやかな日でも満潮時には通れない。景虎《かげとら》をのぞく者どもは、たびたびの越中《えつちゆう》出陣によってそれを知っている。飯をおわると、宿のおやじに、明日の天候と潮時《しおどき》を聞いた。
「天気はいいだ。いい凪《なぎ》だべ。けんど、おそうても巳《み》の刻《とき》(十時)までには、市振《いちぶり》につかしゃるようにしなさるがいいす。そのころから潮がさしはじめてきますけ」
とおやじは答えた。
はやばやと寝て、翌日はしらじら明けに外波《となみ》を出た。一里行って、いよいよ難所にさしかかったのは、朝日がはるかに向こうの能登《のと》半島の山々のいただきにさすころであったが、海にはまだ日がささず、青黒くしずんでいる色が無気味《ぶきみ》であった。しかし、いたっておだやかだ。つい足もとの磯《いそ》によせて来る波も静かで規則的な音を立てるだけでしぶき一つ上げないほどであった。
道に沿うた岩壁に、ところどころ大きな洞穴《ほらあな》がある。大きなのは八、九|間《けん》のひろさがあり、小さいのも五間はある。
「波風の荒い日は、押し寄せる波のすき間をくぐって、この洞穴《ほらあな》から洞穴《ほらあな》をたどって通りぬけるのであります」
と、新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》に説明した。
景虎《かげとら》の関心は軍事にある。やがては父の弔合戦《とむらいがつせん》のために越中《えつちゆう》に兵を出さなければならないと決心しているのだが、こんな道から兵を出すなど思いもよらない。かならずやわきに道があるにちがいないと思った。
「わき道があるだろう」
ときいた。
「ございます。外波《となみ》から左に入る道がございます。また糸魚川《いといがわ》と外波《となみ》の中ほどに青海《あおみ》と申す村がございましたな。あれから山に入る道もございます。もっとも、この二筋は先で一つになって、市振《いちぶり》の少し先の境《さかい》村でこの街道《かいどう》に合うのでございます。信濃守《しなののかみ》様たびたびの越中《えつちゆう》ご出陣は、すべてこの両道によられました」
「そうだろう。この道は兵を行《や》るべき道ではない。しかし、その他にはないか」
「ないことはございませんが、これは槍《やり》・杓子《しやくし》・白馬《しろうま》・乗鞍《のりくら》などの高い山々の立ちならぶ間の道でございますから、ここ以上の難所でございます。とうてい兵を通ずべき道ではございません」
「そうか。越中《えつちゆう》からすれば、越後《えちご》は守るに易《やす》い国じゃな。父上のご死去直後、また三条《さんじよう》や昭田《しようだ》の乱れの後、越中勢《えつちゆうぜい》が今にも押し寄せそうに見えながら押せなかったのは、この天険をはばかったのじゃな」
「御意《ぎよい》の通りでございます。まことにお国にとりましては宝と申すべき難所でございます」
「一概《いちがい》にそうともいえん。弾正《だんじよう》殿のようなお人にはそうであろうが、おれにはうれしくないぞ。守りには固いが、踏み出すにはまことに不便じゃ。おれには父上が越中《えつちゆう》に兵を出して、これを分国にしておられたお心がよくわかる。越後《えちご》の国は越中《えつちゆう》に足をふみ出さぬかぎり、西に向かっては居すくんでいるよりほかのない国じゃ」
精神的にも肉体的にもおどろくべき速度でのびる時期ではあるが、宇佐美定行《うさみさだゆき》について兵学を学びはじめてからの景虎《かげとら》の精神の成長の速さにはいつもみな驚嘆させられる。
「御意《ぎよい》」
「御意《ぎよい》」
「御意《ぎよい》」
と、五人の荒武者《あらむしや》らはほとんど涙ぐんで感激した。
四
泊まりを重ねて四日目、一行は栴檀野《せんだんの》に立った。西方の庄川《しようがわ》の河原の石が白く光っているほかは、見わたすかぎり夏草が身たけの半ばを蔽《おお》うばかりにのび、さかんな草いきれがむせぶばかりに立てこめている野であった。
五人の武者《むしや》らはその時の戦闘に参加していたのであるが、まるで様子がちがっていて、はじめのうち見当がつかなかった。
おたがいにいろいろと話し合った末、当時の記憶がよみがえってくるとともに、しだいにわかってきた。
彼らは地形を指さししめしながら、両軍の陣形をのべ、戦闘の経過を説明した。
敵が陥穽《かんせい》をうがっていたあたりにも連れて行った。しかし、もう何の痕跡《こんせき》ものこっていない。緑濃い夏草が茫々《ぼうぼう》と生えつづけているだけであった。
「拙者《せつしや》どもみなちりぢりばらばらに打ちなされ、こみかけて来る敵を相手に懸命《けんめい》に戦っていましたので、他をふりかえるゆとりがありませなんだが、信濃守《しなののかみ》様が討ち死にされたのは、たぶんこのへんではなかったかと思います」
といって連れて行ってくれたところも、夏草の原で、他と何のかわったところはない。
ことはわずかに二年前のことだ。自然の力のすさまじさと人間のいとなみのはかなさが胸を打った。
悲しみもなければ、いきどおりもない。ただ茫然《ぼうぜん》たる気持ちで、ひたいに流れる汗を指でおしぬぐって見まわしていた景虎《かげとら》は、ふとひときわしげった夏草の下に、赤くさびたものを見つけた。
身をかがめてひろい上げてみると、冑《かぶと》であった。しころや縅毛《おどしげ》は朽《く》ちてしまったのか、野鼠《のねずみ》が食ってしまったのか、鉢金《はちがね》だけだ。真《ま》っ赤《か》にさびてはいたが、銀の星だけが真昼の日にあざやかにかがやいている。
はじめて、景虎《かげとら》は涙をこぼした。
なおあたりを見ながら歩きまわって、庄川《しようがわ》の河原に出ると、浅瀬《あさせ》に膝《ひざ》のあたりまで入って釣《つり》をしている者がいた。ざわざわと鳴りながら流れる瀬に糸を打ちこんでは流し打ちこんでは流しして釣っている。四、五回に一回くらいの割合で釣れている。小さい魚は釣竿《つりざお》の先を弓のようにしなわせては、銀色に光って糸の先におどりながら上がってくる。六人はしばらく杖《つえ》を立ててそれを見ていた。
やがて魚の食いがとまったらしく、釣りてはザブザブと水をわたって岸に上がって来たが、六人を見ると、
「お前さま方、何かさがしものでもしてござるようじゃが、何をさがしてござりますかや」
と問うた。
このあたりの百姓《ひやくしよう》にちがいない。腰ぎりのボロな野良着《のらぎ》を着て、菅笠《すげがさ》をかぶっている。その笠《かさ》の下からのぞいている小鬢《こびん》のあたりに白い髪が見えた。
新兵衛《しんべえ》らがどう答えようかととまどいしていると、景虎《かげとら》が言った。
「わしらは越後《えちご》の者で、すぐる年にここであった戦さに親・兄弟を討ち死にさせた者でござるだが、こんど諸国修行《しゆぎよう》のため国を出ましたについて、まずその菩提《ぼだい》をとむらいたいと思うて、ここに来たのでござるだ。けんど、どこでどうじゃったかさっぱりわからねえすけ、うろうろしているのでござるだ」
「やっぱりそうだか。おらもこちらから見ていて、そんげなことではねえかと思うていましただ。戦さはお前様方がうろうろしていなさったあたりであったらしいだ。おらども百姓《ひやくしよう》は、あの時はみんな村から山の方に逃げていたすけ、見たわけではねえが、戦さがすんでかえって来てみると、あのあたりで死んでいる人が一番多かったすけ、そう思うのですわい」
その男は死者|累々《るいるい》たる戦さのあとのことを語り、その死骸《しがい》を葬《ほうむ》るために付近の村々から百姓《ひやくしよう》らがいく日も駆り出されて働かされたことを語った。
「あんまり多いすけ、いちいちに葬ってもおられねえ。陥穽《おとしあな》に投げこみにして葬りましただ。ただ、総大将の信濃守《しなののかみ》様の死骸《しがい》だけは、首を上げなされた江崎《えざき》但馬《たじま》様が首と合わせて、この先の頼成《らんじよ》ちゅうところに葬って上げなされました。江崎《えざき》様は神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》様のご家来で、まだお若い方じゃそうでござるが、奇特《きとく》なことじゃと、ほめぬものはありませなんだ」
景虎《かげとら》は江崎《えざき》但馬《たじま》という武士の志に感じ、その名を心にきざみつけた。
一行は百姓《ひやくしよう》にわかれ、聞いた通りに行ってみた。
頼成《らんじよ》は栴檀野《せんだんの》の北につづく野であったが、このへんはかなりに耕地もひらけて、ところどころに村落もあった。その頼成野《らんじよの》に入ってかなりに北へ行ったところに、たずねる塚はあった。白く乾いた道のわきの、高さ四尺ほどの土饅頭《どまんじゆう》であった。この上にも夏草がしげり、おりから傾いて薄く赤みをおびた夕陽《ゆうひ》の中に、そよぎ出た微風にゆるやかにゆれていた。
人々はひざまずき、じゅずをおしもんで合掌《がつしよう》した。
景虎《かげとら》は笈《おい》の中から香《こう》をとり出し、火をきり出して焚《た》き、また合掌《がつしよう》した。彼の胸に去来する父の記憶はなつかしいものではなかった。冷淡な目つきの顔や、きびしく叱責《しつせき》する声や、憎悪《ぞうお》の目であった。けれども、景虎《かげとら》のふっくらとした頬《ほお》には、知らぬ間に涙が伝っていた。
五
一行は頼成《らんじよ》から山越えして神通川《じんずうがわ》のほとりに出、川に沿うて細々とつづく道をさかのぼって飛騨《ひだ》を志した。飛騨《ひだ》から信州《しんしゆう》にぬけ、信州《しんしゆう》から甲斐《かい》に入ってみたいと思ったのであった。
おそろしい険路《けんろ》であった。わずかに七里の道を二日もかかって、飛騨《ひだ》と越中《えつちゆう》の境の中山《なかやま》というにたどりついた。
夕方近く、道ぞいの民家に休んで、今夜の泊まりのために、このあたりに寺はないかと、主人の百姓《ひやくしよう》にたずねると、
「ありますだ。けんど、尼寺《あまでら》ですだ」
という。
尼寺《あまでら》はこまる。荒くれ男が六人もそろっていては泊めてくれるとは思えない。
「ほかにはねえだか」
「ありましねえ。けんど、尼寺《あまでら》じゃござるだが、泊めてくださりますで。男なんど屁《へ》とも思っていねえ尼《あま》さんだで」
「ほう、もう婆《ばあ》さまだの」
「うんにゃ、若いだ。むざむざ尼《あま》さんにするにはおしいくれえ奇麗《きれい》なお人《ふと》ですだ」
その尼《あま》さんは二年前の夏、この村に来たのだという。どこかで、この村の寺が久しく無住《むじゆう》になって荒れはてていると聞いて来たらしく、村の庄屋《しようや》を訪ねて、自分を住まわしてくれと頼んだ。村では葬送や法事を主宰《しゆさい》してくれる坊さんがいなくてこまっていたので、好都合《こうつごう》ではあったが、尼《あま》さんがあまりにも若くて美しいので、不安であった。第一、人里はなれたさびしい寺の住まいがなるものでないと思われた。庄屋《しようや》のおやじ殿が返事をしぶっていると、尼《あま》さんはいきなり庭にとびおりて、庭にすえてあった石の杵臼《きねうす》をヨイショとかかえ上げ、高く頭上にさし上げたまま庭を三べんまわって、そっともとにすえた。目方《めかた》三、四十|貫《かん》はある石臼《いしうす》だ。美しい顔が少し紅《あか》らんだだけで、呼吸《いき》一つはずませていない。庄屋《しようや》どんはたまげて、話はまとまった。
以後、住職となって、ただ一人さびしい寺に住んでいるが、なかなかいい住職ぶりだ。なにしろ美しい尼《あま》さんなので、はじめのうち村の若い衆で夜這《よば》いをかける者も相当あったが、一人のこらず手ひどい目にあわされて追いかえされた。
去年はまたこんなこともあった。越中路《えつちゆうじ》から入って来た夜盗《やとう》かせぎの野武士数人が、寺に泊まった夜、村に夜討《よう》ちをかけようとすると、尼《あま》さんはありあう担《にな》い棒《ぼう》をふるって、一人のこらずたたきたおし、ふんじばったので、領主の三木《みき》家から多分のほうびをいただいたが、尼《あま》さんはそれを全部|庄屋《しようや》どんに渡し、村の役に立ててくれと言った――というのである。
精進談義《しようじんだんぎ》
一
百姓《ひやくしよう》の話を聞いているうちに、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》は大いに興趣《きようしゆ》をそそられたらしい。
「行こうでないか。おもしろそうじゃ」
と言った。
「いかさまな。美しい上に怪力《かいりき》ときては、見ておきたい」
と他の連中も言う。
それぞれ一騎当千《いつきとうせん》の勇士どもであり、武士としての心のたしなみも十分ある連中ではあるが、身木石《みぼくせき》ではない。年もまだ若い。好色《こうしよく》といっては強すぎるが、大いに好奇心をそそられているのであった。
「美しい尼《あま》どのと聞いて、えらいみな張りきったの。よくないぞ」
と、新兵衛《しんべえ》は笑った。
みなあたまをかいて、ハハと笑った。
「好色《こうしよく》の心ではさらになし。源平《げんぺい》の昔、木曾《きそ》殿の寵妾巴《おもいものともえ》も木曾《きそ》殿没落の後には越後《えちご》の友松《ともまつ》で、尼《あま》となっておわったという話があります。今巴《いまともえ》ともいうべき尼《あま》殿を一見しておくも後学《こうがく》のためと存ずる次第で」
と、弥太郎《やたろう》が肩ひじはって言う。
「何のための後学《こうがく》だ」
と、新兵衛《しんべえ》はまたひやかして、景虎《かげとら》の顔を見た。尼寺《あまでら》などいやじゃというかもしれないと思ったのだが、景虎《かげとら》は黙ってうなずいた。承諾である。
「ま、よかろう。他に泊めてくれる家はないようじゃし、野宿《のじゆく》もいやじゃし、いたしかたないわ」
と、新兵衛《しんべえ》は言った。
一同その家を出て、百姓《ひやくしよう》の教えてくれるままにその寺に向かった。
中山《なかやま》は末は富山《とやま》の町の西郊を洗って富山湾《とやまわん》に注ぐ神通川《じんずうがわ》の上流――くわしく言えば、宮川《みやがわ》と高原川《たかはらがわ》とが合流して神通川《じんずうがわ》となるその川合《かわあ》いの地点だ。寺は宮川《みやがわ》に沿った街道《かいどう》を四、五町さかのぼって、左手の山路《やまじ》に小一町も分け入った場所にあった。白樺《しらかば》や楓《かえで》などの闊葉樹《かつようじゆ》と杉や檜《ひのき》のような樹木が入りまじってる林の中を石ころだらけの小径《こみち》がつづいている奥であった。
もう薄暗くなっていたが、林の中では蜩《ひぐらし》が金属的な鳴き声を立てて、どこかに谷川でもあるのだろう河鹿《かじか》の美しい鳴き声も聞こえていた。そうした鳴き声を聞きながら、景虎《かげとら》の胸に去来するものがあった。
幼年時代のひところ、自分の傅役《もりやく》であった松江《まつえ》のおもかげである。
栴檀野《せんだんの》の戦いで松江《まつえ》が為景《ためかげ》のうらみを報いようとして最後まで力戦して敵に捕らえられたことは確かなこととして聞いているが、その後のことは明らかでない。敵将|神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》に意に従えと言いよられたのを拒《こば》みに拒《こば》んだために殺されたとも、番卒《ばんそつ》を色じかけでたらしこんでしめ殺した後|逐電《ちくでん》したとも、うわさはとりどりである。
景虎《かげとら》の知るかぎり、松江《まつえ》は男を色じかけでたらしこむことのできるような女ではない。拒《こば》みに拒《こば》んでついに殺されたというのが、松江《まつえ》らしいと思うのだ。
だから、今日までそうとばかり信じて、おりにふれて回向《えこう》をしてきたのだが、百姓《ひやくしよう》の話を聞いた時から、その尼《あま》は松江《まつえ》ではないかという気がしはじめた。無双《むそう》の剛力《ごうりき》であることといい、美貌《びぼう》であることといい、よく合致するのだ。
尼《あま》さんがこの村に来たという時日も、二年前の夏なら符合する。戦いは陽春の花のさかりに行われたのだが、敵のとらわれをのがれた後、どこかの寺に身をひそめて得度《とくど》した後ここへ来たとすれば、だいたい夏ごろになろうというものだ。地理的にも栴檀野《せんだんの》から自分らが歩いて来た道をとったとすれば、無理がない。
いささか不安なのは、尼《あま》さんの年ごろをよく聞かなかったことだ。聞きたいとは思ったのだが、何とやらおもはゆくて、聞けなかった。しかし、話全体からうかがわれるところでは、まだ若い尼《あま》と判断してよいと思った。
(松江《まつえ》であるとすれば、今いくつになっているであろう)
景虎《かげとら》はひそかに胸のうちで指を折った。
(おれが五つの時、あれは十八だった。十三ちがっている。二十八になるはずだ)
と思った。
男のように荒っぽく、そして百姓女《ひやくしようおんな》むき出しの粗野《そや》さでありながら、深い愛情でいつくしんでくれたあのころのことを、いろいろと思い出して、景虎《かげとら》の胸はぬれた。
二
とっぷりくれる寸前、寺にたどりついた。かなりに大きな寺だ。暗いからよくわからないが、そう荒れているとは思われなかった。
本堂に沿って、少し引っこんで、庫裏《くり》がある。奥にちらちらと灯影《ほかげ》がさし、夕餉《ゆうげ》の煙とともにものの煮《に》えるいい匂《にお》いがただよってくる。
「お頼《たの》み申《もう》、お頼《たの》み申《もう》……」
暗い玄関に立っておとないをいれると、片手に脂松《やにまつ》の小切れに火を点じたのをささげ、片手に太くけずりなした棒《ぼう》を杖《つえ》づいて出て来た。裾短《すそみじ》かな白い着物に、同じきれの帯を前結びにして、男のように軽くさわやかな足どりだ。脂松《やにまつ》の灯《ひ》が暗いので、顔がよくわからない。いささかもどかしい。
「お晩でござる」
と、新兵衛《しんべえ》は言った。
「お晩でござる」
と尼《あま》さんはおうむ返しにこたえたが、じっと視線をすえると、言った。
「そなた様がた、六十六部の姿をして見えるようじゃが、ほんとの修行《しゆぎよう》者で宿が借りたいだけでござるだか、それとも尼《あま》一人の山住まいと見くびって悪《わる》さしに来たのか、どちらでござるだ。宿を借りたいなら貸しても進ぜようし、飯《まま》なと汁《しる》なとふるもうてもあげるべ。また悪さするつもりで来たのなら、それも相手になるべ。本堂の前でたたき合って勝負すべい。どっちじゃな」
その声に覚えがあった。顔もわかってきた。景虎《かげとら》は進み出た。
「松江《まつえ》でないか。虎千代《とらちよ》だ。景虎《かげとら》だ」
「ひえッ!」
松江《まつえ》は脂松《やにまつ》をとりおとしそうになった。棒《ぼう》をつきしめながら、つかつかと近づいて来て、上がりがまちに立った。そして、灯《ひ》にむかってつき出すようにしている景虎《かげとら》の顔を見つめていたと思うと、棒《ぼう》をほうり出した。くずれるようにひざまずいた。
「ひゃア! お虎《とら》さまだあ!」
絶叫《ぜつきよう》し、たちまち片袖《かたそで》を顔にあて、声をはなって泣き出した。
新兵衛《しんべえ》ら五人の武者《むしや》らも、為景《ためかげ》の近習《きんじゆう》や馬廻《うままわ》りだったのだから、常に影身《かげみ》に添うて為景《ためかげ》から離れることのなかった松江《まつえ》のことはよく知っている。実を言えば、今も松江《まつえ》の応対の口上《こうじよう》をきいて、聞いたような声という意識が心のどこかにあったのだ。奇遇《きぐう》にみなおどろいた。
松江《まつえ》の泣きやむのを待って、それぞれに名のった。
「おお、おお、おお……」
奇遇《きぐう》がうれしいにつけて、栴檀野《せんだんの》のみじめな敗戦が思い出されるのであろうか、かつての長尾《ながお》家の繁栄がなつかしくなるのであろうか、五人の名のりを聞き、その顔を見るごとに、新たな涙にむせるのであった。
請《しよう》ぜられるままに上にあがって、庫裏《くり》の奥座敷に通った。
松江《まつえ》は男のような気性《きしよう》ではあったが、なまけることがきらいで、働くことが好きで、いつも手まわしよく働いている女であったが、今でもそれはかわらないとみえて、明るくしたともし灯《び》のもとに見る座敷は、質素ながら清潔できちんとしていた。
「ここはお虎《とら》さまのおへやにしてくださろ。お供衆は本堂が広うてよござる。あとで案内してあげますで、それまでここでお虎《とら》さまのお相手していてくださろ。つもる話があって、すんぐにもお話ししてえだが、まんず食《あが》りなさるものをこしらえますべ。ひもじゅうござるであろうすけ」
といって、松江《まつえ》は引っこんで行った。大車輪で働いているようであった。たぶん、この座敷の裏あたりは菜園になっているのであろうが、そこへ走りこんでゴソゴソしていたかと思うと、台所のマナイタがせわしなくカタカタと鳴り、たちまちまた庫裏《くり》の前の物置の戸がガタビシと鳴りひしめくというふうであったが、やがて姿をあらわした。
昼間の暑熱に打ってかわって、日が入ってからはこの山中の気温はぐっとさがって、うっかりすると肌寒《はだざむ》さを感ずるほどであるのに、松江《まつえ》の青々とした頭から顔やあごにかけては汗の玉がきらきらと灯《ひ》に光り、白い湯気《ゆげ》が頭から立っていた。
「さあ、できました。おいでてくんなさろ」
という。
腹の空《す》いている六人は、勝手の方からたえずただよって来るおいしそうな匂《にお》いに、たまらなくなっていたので、よろこんで出かけた。
囲炉裏《いろり》の自在には大鍋《おおなべ》がかけてあった。火の気《け》のない囲炉裏《いろり》なのだが、おろし立てと見えて、まだぐらぐらと煮立《にた》っていた。野菜を大きく切り、たっぷりと味噌《みそ》をつかったゴッタ煮《に》は、つばの湧《わ》いてきそうなかんばしい匂《にお》いを立てていた。
松江《まつえ》は大きな御器《ごき》にやまもり盛ってまず景虎《かげとら》に供《きよう》し、次に新兵衛《しんべえ》に給仕し、あとはすわっている順に盛りあたえた。
おそろしくうまかった。ただの野菜や山菜のゴッタ煮《に》の味ではなかった。時々野獣の肉と思われるものが入っていた。
「何じゃ、これは。ここは寺じゃろう」
と景虎《かげとら》が箸《はし》ではさみ上げて見せながら言うと、松江《まつえ》はからからと笑った。
「寺ではござるだが、こげいな奥山住まいでは、精進《しようじん》ものばかりというわけにまいりませぬだ。夏の間はよござるが、冬になって雪と氷に閉じこめられますちゅうと、精進《しようじん》ものばかりではとてもからだが持ちませんだ。それで、どこの家でも猪《しし》がとれたら猪《しし》、熊《くま》がとれたら熊《くま》、鹿《しか》がとれたら鹿《しか》、何でもほどに合うほどに猟師から買《こ》うて塩をしてほし上げたり、味噌《みそ》づけにしたりして、たしなんでおいて、それを雑炊《ぞうすい》の中に切りこんで、野菜や山菜と煮て食いますだ。なんでもあるところでこそ、坊主も精進ものだけでおらななりましねえが、こげいな山の中の冬はなまぐさであろうが、なんであろうが、精《せい》のつくものを食べなならんのですわな。お釈迦《しやか》さんじゃて、牛の乳のんで、苦行《くぎよう》に弱りはてたからだを養い立て、それから成道《じようどう》しなされたと、おらは聞いたことがありますで。なんでもかんでも、坊主《ぼうず》や尼《あま》は精進《しようじん》ものしか食うてならんちゅうのは、こげいなところの冬を知らねえものの言うことずら」
聞いてみれば、道理に思われることであった。
また、こうも言った。
「今日はお虎《とら》さまをはじめ皆様が思いもかけずおいでくだされて、うれしゅうてなりませんすけ、お祝いのために、たしなんどいたものをあらかた打《ぶ》ちこみましたわな。熊《くま》も入っとれば、猪《しし》も入っとり、鹿《しか》も入っとり、兎《うさぎ》も入っとりますで。うもうござりましょうがな」
礼の言いようもない心づくしだが、それで冬になったらどうなるつもりかと心配になって、それを言うと、
「先のことはどうなとなりますべ。せんどこまったら、庄屋《しようや》どんの家へ行けば、わしひとりの食う分くらいくれますだ。ちっとも心配なことはねえだ。それより、うんと腹のはちきれるほど食うてくだされ」
と、気楽な返事であった。
三
食事がすむと、松江《まつえ》はこのへんの山で自分で摘《つ》み自分でもみ立てたという茶を入れてふるまった。これもおそろしく香《こう》ばしく、またうまいものであった。
「茶がすんだら、あっちの座敷へ引き上げてくんなさろ。おらもかいこんだらすぐ行きますべ」
奥座敷にかえって、しばらく待っていると、松江《まつえ》が入って来た。
顔や手足を洗って、着物も同じ白衣ながら着かえて来たらしく、小ざっぱりとしている。青々としたまるい頭は異常だが、昔と同じく、いやいや、成熟した色気《いろけ》が全体ににじんで、さらに美しくなっているように、大人《おとな》人(おとな)らは感じた。
つもる話がたがいにかわされた。
景虎《かげとら》が別れて後のことを語ると、松江《まつえ》は栴檀野《せんだんの》以後のことを語った。
「おらは神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》が家来の蒔田《まきた》主計《かずえ》ちゅうのに生け捕られましての。なあに、尋常の勝負ならあげいなやつに生け捕られなんぞしねえども、戦い疲れて弱っているところじゃったすけ、そげいなことになったのですわい。その男は悪いやつではありませなんだ。ずいぶんていねいにあつこうてはくれたのでござるだが、おらはきっと逃げ出してくれべいと、はじめからかたく心をきめていましたすけ、その男がおらに小者《こもの》一人つけておいて、どこかへ往《い》んだすきに、その小者を斬《き》り殺し、馬を盗んで逃げたのですわな。斬《き》った小者はまんだ十五、六のかわいい顔した子供じゃったすけ、あわれとは思うたけんど、背に腹はかえられせんけ、しかたなかったのですて。おらはそれから山をこえて神通《じんずう》川の岸に出たが、虫の知らせで安心できましねえので、常願寺《じようがんじ》川まで来て、川を上って立山《たてやま》の麓《ふもと》の芦峅寺《あしくらでら》ちゅう寺のある山里《やまざと》で、庄屋《しようや》の家に下女奉公していましただ。だいぶたってから、神保《じんぽ》と蒔田《まきた》がえらい腹立てておらが行くえをさがしていることがわかりましての。ようこそ芦峅《あしくら》に逃げて来たと、胸を撫《な》でおろしましたわ。芦峅《あしくら》は芦峅寺《あしくらでら》の領地で、守護不入《しゆごふにゆう》ちゅうことになっていますけ、追捕《ついぶ》がおよばんのですだ。けんど、そのうち皆がおらに目をつけて、『あれこそ神保《じんぽ》左京進《さきようのしん》がさがしているおなごじゃ』などという者が出てきたり、中にはおらに懸想《けそう》して、『なびかねば、神保《じんぽ》のところに言うて行くぞ』などといい出す者も出てきましての。おらもうやるせがのうなりましただ。どうすべえとこまり果てた末、芦峅寺《あしくらでら》に駆けこんで、和尚《おしよう》さんに逢《お》うて、『かようかようしかじかで、身のおき場のねえ切《せつ》ねえことになりましただ。なんとかして助けてくんなさろ』と頼みましただ。そしたら、和尚《おしよう》さんが、『そなた出家《しゆつけ》して信濃守《しなののかみ》殿の菩提《ぼだい》をとむろう気はねえか』といいなさりましただ。『べつだんこれまではそげいな気はありましねえだが、殿様のあとを追うて討ち死にするつもりでいたほどですけ、出家《しゆつけ》してもよござりますだ』と申しましただ。『その決心がついているならええ方法がある』ちゅうて、即座《そくざ》におらの頭を剃《そ》りむくり、法衣をきせ、松妙尼《しようみように》ちゅう法名《ほうみよう》をつけて、『これこれの村にこういう寺がある、今|無住《むじゆう》じゃけ、行って庄屋《しようや》にそう言《ゆ》うて住むがええ。そこは深い山奥のことではあり、他領のことでもあるすけ、神保《じんぽ》の手もとどくはずはねえ』と、こう教えてくださりましただ。それで、ここへ来ましただ」
昔に少しもかわらないざっかけない調子ではあるが、真情があふれている。ぽろぽろと涙をこぼしながら語った。みなもらい泣きした。
鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》はだれよりも感動して、黒い毛の生えたたくましい腕で、あふれる涙をしきりに拭《ふ》きつつ聞いていたが、いきなり口をひらいた。
「おなごのそなたでさえ、それほどの気概《きがい》があるに、春日山《かすがやま》の弾正《だんじよう》様はまるで話にならんのだ。京下りのおなごとその弟とに魂をうばわれ政治は乱脈をきわめ、父君の敵《かたき》を討つ気もなければ、国内の乱れをしずめようとの志もあられない。景虎君《かげとらぎみ》が見かねて、わざわざ琵琶島《びわじま》から敵地をおし通って春日山《かすがやま》に行って、諌言《かんげん》あそばされたのじゃが、耳のはしにもかけず、言いわけにもならぬことを言うてごまかそうとしておられる。譜代《ふだい》の主筋にあたる人ではあるが、おりゃ切って捨てたいほど腹が立ったわ」
慨然《がいぜん》たる調子であった。
松江《まつえ》はにやにやと不思議な笑いを見せて言った。
「あのお人はそげいなお人ですわな。おらが袖《そで》を引きなさったこともござるだ。おらは手ひどく突っぱなしただ。ドンと下《した》っ腹《ぱら》のあたりを突いてやっただが、五日ほどが間、腹が痛いちゅうてこもって寝ていなさったと聞きましただ。おらが力だ。力いっぱいやったらくたばりなさったろうが、ちょいと手かげんしてやりましたすけな。アハ、アハ、アハ。そげいなお人ですだ。父《おや》の側女《そばめ》の袖《そで》をひくちゅうことがあらずか。あれは病気にちがいなかんべ」
はじめて聞くことだ。一同顔を見合わせた。景虎《かげとら》は兄をさらに情けなく思いもしたが、恥ずかしくもあった。唇《くちびる》をかみしめ、ともし火を凝視して動かなかった。
景虎《かげとら》らは数日|滞在《たいざい》をつづけた。相当急がなければならない旅ではあったが、松江《まつえ》が引きとめてやまなかったし、彼らにしてもこの山中の別天地の滞在は快くないことはなかった。
昼の間、まわりの山々谷々にはひっきりなしにうぐいすが鳴いた。春の野山に聞くようなのどかな鳴き声であった。
滞在五日目の午《ひる》を少し過ぎた時であった。景虎《かげとら》がただひとり寺のうしろの林の中を歩いていると、新兵衛《しんべえ》がやって来た。
「妙なことがあります」
と言う。にやにやと、笑っている。爆笑したいのをこらえているような表情であった。
四
景虎《かげとら》は新兵衛《しんべえ》の説明を待った。黙って新兵衛《しんべえ》を見ている。澄んだ目で見つめられて、新兵衛《しんべえ》は少したじろぐ様子を見せた。言ってよいかどうかに迷う風情《ふぜい》であった。
「じつは……、松妙尼《しようみように》殿が弥太郎《やたろう》にとくべつな心を持っていますようで」
「特別な心とは?」
まるでわからないではない。いくらかわかるような気はするのだが、愛欲のことは景虎《かげとら》にはまだ経験のないことだ。霞《かすみ》をへだてて遠い山を望むようなおぼろな感じである。けれども、そう言うとすぐ、頬《ほお》のあたりがもやもやと温かくなったのは不思議であった。
新兵衛《しんべえ》は言い出したことを後悔した。冗談として軽くさらさらと言うつもりであったのに、こう真正面から受け取られては、そういかない。しかし、もうしかたがない。ズバリと言った。
「ほれていますようで」
「なにイ?」
びっくりするほど大きな声であった。
「ほんとか」
「そのように見受けられます」
景虎《かげとら》は上を仰《あお》いだ。長い太い柱を立てならべたようにすくすくとのびている杉の高い梢《こずえ》の間に青い空がのぞいており、そこを白い雲が流れて行く。白く光って、薄い真綿《まわた》のような雲だ。一つが去るとすぐ次が来て、ひっきりなしだ。それを見つめながらまたきいた。
「なぜそう見受けられる?」
「弥太郎《やたろう》だけをしげしげ見ています。その目がほれた男を見るおなごの目でございます」
「……それから?」
「弥太郎《やたろう》に話しかける時の声がちがいます。拙者《せつしや》ども余人《よじん》にものを言う時とはまるでちがった、美しさとやさしさが声音《こわね》にございます」
「それから?」
「ことばとして口に申せることは、だいたいそんなものでございます。かようなことは何となき感じでわかるものでございまして、これこれしかじかと、けざやかに申すことのできるものではございません」
景虎《かげとら》の心は複雑であった。松江《まつえ》にも普通の女とかわりのない男にたいする恋情心《れんじようしん》があったのかというおどろきがあり、人間の愛欲心の深さにたいするおどろきがあり、一種の怒りがあった。松江《まつえ》にたいして、景虎《かげとら》は母親にたいするに似た気持ちをもっている。子供は母親が恋愛したり愛欲したりすることを好まない。たとえそれが父親が相手であってもよろこばない。両親の間を結ぶ愛情は友愛であってほしいと、子供はいつも心の底では思っているものだ。母を神聖なものとして仰いでいたい心理かもしれないが、ひょっとすると嫉妬《しつと》かもしれない。ともかくも、この時|景虎《かげとら》の心には怒りに似たものがあった。
しばらく沈黙があって、
「弥太郎《やたろう》はどうなのだ」
ときいた。
「あれはこういうことにはいっこうに不案内な男と思うていましたが、さすがに男女の道は天然自然のもので大いに感応《かんのう》しているのでございましょう、なんとなくそわそわしております」
景虎《かげとら》はますます自分がふきげんになっていくのを覚えた。数歩あるいて、ひときわ大きな杉のそばに立ちどまって、その幹をとんとんとたたいて、それからふりかえった。
「どうすればよいのか」
「されば、明日立つことにいたしましょう。弥太郎《やたろう》は当年二十五歳、松江《まつえ》殿は二つ三つ年かさではございますが、夫婦としてやってもそうおかしくはありません。まずまず似合いの夫婦となれるでありましょう。しかし、松江《まつえ》殿は尼《あま》となって先殿《せんとの》の菩提《ぼだい》をとむろうている身、めんどうなことにならぬうちに立ち去るがよいと存じます」
「おれもそう思う」
ほっとする気持ちであった。
その夜の食事に皆がそろった時、新兵衛《しんべえ》は、
「ここの滞在《たいざい》も思いもかけず長くなったが、そういつまでも国もとを不在にしてはおられぬわれらだ。できるだけ早く諸国をまわって、できるだけ早く帰国せねばならぬ。ついては、明日はここを立ちたいと思う」
と、皆に言いわたした。
この時、松江《まつえ》は囲炉裏《いろり》の自在かぎにかけた大鍋《おおなべ》から雑炊《ぞうすい》を椀《わん》に盛りわけつつあったが、ぎょっとしたように杓子《しやくし》を持った手をとめて、こちらを見た。真っ直ぐに新兵衛《しんべえ》を見て言う。
「明日立ちなさるのじゃと?」
「そうしようと思っています。きついお世話になりましたな。なごりはつきませんが、先を急ぐ旅でありますので。お礼のあいさつは後に改めていたします」
礼儀正しく、いささか切り口上《こうじよう》で、新兵衛《しんべえ》は答える。
血色のよい松江《まつえ》の顔はにわかに青ざめたようであった。
「立とうと言いなさるものを引きとめることはできねえども、立つなら立つともっと早く言うてくださればいいに、明日立つというのに、今ごろになって言いなさるとは……」
つぶやくようにひくい声だ。ふるえている。
「申しわけござらぬ。ついうっかりしていました」
すなおに、新兵衛《しんべえ》はわびる。
松江《まつえ》はせっせと雑炊《ぞうすい》を盛りはじめた。しだいに、いつものテキパキした態度がかえってくる。
景虎《かげとら》は弥太郎《やたろう》がどんな反応を見せるか、最初から気をつけていたが、べつだんの変化は見えなかった。この際としては何よりも雑炊《ぞうすい》の方が気になるらしく、盛り分けられていく椀《わん》をわき目もふらず凝視《ぎようし》している。母親が食べものを配分するのをつばきをのみこみのみこみ待っている子供のように無邪気《むじやき》な表情であった。
松江《まつえ》はいつもの通りまず景虎《かげとら》に椀《わん》をそなえたが、次ぎには順序をやぶって、弥太郎《やたろう》の前にそなえた。
「わしではない。これは新兵衛《しんべえ》殿じゃ」
と弥太郎《やたろう》は言った。
「うんにゃア、今日はお前様に先に上げたいだア。おらアお前様が好きでたまらねえだども、明日はお立ちじゃというすけ、せめてもの思いざしだア。そう思うて食べてくんなさろ」
と松江《まつえ》は答えた。
なるほど、やさしく、美しく、しおらしい声音《こわね》になっているが、志はさもあれ、言いまわしは相当|滑稽《こつけい》だ。皆ニヤニヤと笑い、弥太郎《やたろう》の魁偉《かいい》な顔は赤くなった。
「雑炊《ぞうすい》の思いざしだ。ありがたくいただくがいいぞ」
と新兵衛《しんべえ》が言うと、たまらなくなって、一同ドッと笑い出した。
はじめて、松江《まつえ》は赤くなった。首筋から、胸から、真《ま》っ青《さお》に剃《そ》ったあたまのてっぺんまで赤くなった。
「いくらでも笑いなさるがいいだ。お前様方が行ってしまいなさると、おらはまたこの人里はなれた山寺で一人で暮らさなならんのですわい。やんがて雪に降りうずめられてじゃで。尼《あま》になんぞならねばよかった。俗人のままじゃったら、お前様方について行って、やがてお虎様《とらさま》のおゆるしをもろうて、弥太郎《やたろう》殿の妻《め》にしてもろうのじゃったに。くちおしゅうござるわい」
いつか濡《ぬ》れた声になり、白衣の袖《そで》をかえして涙をおさえながら次ぎ次ぎに椀《わん》を配る。おかしくもあるが、あわれでもあった。皆おしだまった。弥太郎《やたろう》ひとりが、雑炊《ぞうすい》をむさぼり食っている。てれくさいのであろう、わき目もふらず掻《か》きこんでいる首筋から湯気が立っていた。
五
とにかくも、食事はすんだ。一同はしばらく雑談した後、景虎《かげとら》は奥座敷に引き上げ、供衆は本堂に引き上げた。
松江《まつえ》は自分も食事にかかった。つめたくなった雑炊《ぞうすい》を食べながら、松江《まつえ》はときどき涙を拭《ふ》いた。
(明日は行ってしまいなさるのだ。おらはまたたったひとりでここにのこされるのだ)
という思いが切《せつ》であった。
これまではついぞここの生活をさびしいと思ったことはなかった。夜になれば梟《ふくろう》が鳴き、鳥だか獣だかわからないが、悲鳴に似た無気味な叫びを上げる声が聞こえ、猿が軒《のき》ばたに来てのぞきこんだりして、普通の女なら一夜も暮らすことの出来ないようなことばかりだが、松江《まつえ》は何とも思わないで今日まで来た。しかし、今になってそれらのことをふりかえってみると、よくも辛抱《しんぼう》してきたという気がするのだ。
この気の弱りが、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》を恋するようになったためであるとは、松江《まつえ》は考えない。弥太郎《やたろう》にたいする恋情《れんじよう》は恋情でまたべつなことであると思っている。
松江《まつえ》は男にたいしてこんな気持ちをおぼえたことは、これまでなかった。為景《ためかげ》の愛を受け、為景《ためかげ》によって女になったのであり、彼女もまた為景《ためかげ》によくつかえた。それも愛情の一種ではあったにはちがいないが、女の男に対する愛情ではなかった。しかし、こんどは違う。そんなものではない。弥太郎《やたろう》の何もかもが好もしくて、慕わしくて、その側によったり、ものを言われたりすると、胸の底がふるえてくるようなよろこびがある。
弥太郎《やたろう》は為景《ためかげ》の馬廻衆《うままわりしゆう》(親衛兵《しんえいへい》)であったから、以前から松江《まつえ》は知っている。そのころはべつだんの感情はなかった。殿様のおためになる強く勇ましい若武者《わかむしや》とばかり思っていた。こちらが年上なので、姉が弟を見るような気持ちであった。けれども、今、松江《まつえ》はそうは思っていない。
(あのころから、おらは弥太郎《やたろう》殿が好きであったようじゃ。ただ、あのころは殿がおられたすけ、そう思う心をおさえて、そうでねえように思うていた)
と考えている。
こうしたさまざまな物思いにふけりながらものを食べていると、いくらでも食える。食べていることが意識にないのだ。機械のように箸《はし》を動かし、機械のように噛《か》んで飲みこみ、椀《わん》がからになれば機械のように盛りかえる。とうとう、ずいぶんまだのこっていた雑炊《ぞうすい》をすっかり食べてしまって、自分ながらたまげた。
「はァれまあ! みんな食べてしもうたぞい!」
声に出して言って、からからと笑った。
勝手口の先に山水《やまみず》を筧《かけい》で引いてしつらえた流しもとに鍋《なべ》も椀《わん》も箸《はし》も持ち出して、ごしごしと洗いみがいた。十三夜ほどの月が出ていて、流しかける水にちらちらと砕《くだ》けた。
洗いながら、松江《まつえ》の心はまた前の思考を追う。
「あの人たちはあすは立ちなさる。こんど別れたら、もう一生|逢《あ》うことはできねえかもしれねえ……」
ぽろぽろと、また涙がこぼれてきた。その涙をぬぐいもせず、松江《まつえ》は洗いつづけた。
六
しばらくの後、寺はすっかり寝静まった。景虎《かげとら》の寝ている奥座敷も、供衆の寝ている本堂も、灯影《ほかげ》が消え、寝息やいびきの音だけが漏《も》れていた。寺の周囲の森や谷には、夜ばたらきの獣がうそうそと歩きまわり、梟《ふくろう》が鳴きだした。ホーホーというその声はがらになくさびしがって鳴いているように聞きなされた。十三夜の月が高い天心からこれを照らしていたが、その月が天心を越えてやや西に傾いたころから、霧《きり》が湧《わ》いてきた。
霧《きり》は宮川《みやがわ》の谷から湧《わ》いて、見る間に深い峡谷を埋めつくした上で、いく筋にもわかれて山に這《は》い上がって来た。微風に乗って真綿《まわた》をひくように流れて立ち木の幹や灌木《かんぼく》のむらがりにからんだかと思うと、それをたよりにしてたぐりよせるようになかまを引きよせて見る見る濃くなり、それをくりかえしてはひろがっていく。ついに空の月も見えないほどに漠々《ばくばく》たるものとなった。
松江《まつえ》は茶の間の囲炉裏《いろり》のわきに横になっていたが、寝つけなかった。からだがほてってならない。|しきござ《ヽヽヽヽ》から足や手をおろしてつめたい板じきに触れさせたが、すぐまたほてってくる。いつもはなんとも思わない木の枕《まくら》がかたくて、あたっているところが痛い。いく度も寝返りを打った。
「ああ、寝られない!」
ついに、声に出してこう言ったが、同時に起き上がっていた。手早く帯を結びなおして、外に出た。
つめたい夜気《やき》とともに霧《きり》が吹きつけて来た。
月の姿は見えなくなっているが、一粒一粒のこまかな粒子《りゆうし》に光がとけこんで、霧《きり》は真珠《しんじゆ》色になっている。
いつものことだから、霧《きり》におどろきはしない。ただ冷気に肩をすぼめただけで、すたすたと歩き出した。一|間《けん》先は見えないほどに濃い霧《きり》だが、馴《な》れた道だ、ためらいのない足どりで、本堂の上り口にたどりついた。
三段の階段をつかつかと上って堂の縁に立った。
本堂の戸はあけはなしてあるので、霧《きり》が流れこんでいた。その霧《きり》の中から若々しい寝息といびきの声が交錯《こうさく》して聞こえてくる。
内へは入らず、縁に立ったまま、松江《まつえ》は呼んだ。
「弥太郎《やたろう》殿え」
声を低めたりなぞはしない。普通の声であった。
彼女は自分が一声呼べば弥太郎《やたろう》はすぐ目をさますはずと信じていた。彼女は自分が弥太郎《やたろう》を思っているように弥太郎《やたろう》もまた自分を思っているにちがいないと思っている。自分がこんなに熱い心で思っているのだから、弥太郎《やたろう》だって熱い心でいなければならないはずと信じて疑わないのだ。
彼女の信念は的をはずれてはいなかったのだろうか、交錯《こうさく》して一種の諧調《かいちよう》をつくっていた寝息といびきの中の一つがハタとやんだのだ。
「松江《まつえ》ですだ。出て来てくんなさろ」
言いすてたまま、また階段をおりて庭に立った。かならず来てくれると、これも信じて疑わない。
弥太郎《やたろう》は出て来た。ねむそうな顔だ。
「どうなされた。こんな時刻に。ああ、これは深い霧《きり》じゃ」
といいながら、あくびをした。
その横っ面《つら》を、松江《まつえ》はしたたかになぐりつけた。弥太郎《やたろう》もいたかったが、松江《まつえ》も釘《くぎ》をうえたようなひげがてのひらに痛かった。
「な、なにをなさる!」
狼狽《ろうばい》して、弥太郎《やたろう》はさけんだ。
「ほれたおなごの前であくびをするということがあらずか!」
「えッ! ほれた? だれが……」
「お前様がおらにほれてござるのじゃ。おらがこげいまでにお前様のことを思うとるのじゃすけ、お前様じゃておらにほれていなさるだべ。意地ばらんで、ようく胸に問うてみなさるがいいだ」
弥太郎《やたろう》は黙った。考えこむ顔になった。
「こっちへござれ。ここは仏さんの宝前《ほうぜん》じゃ。仏さんは男とおなごが好き合うのがおきらいじゃというすけ」
袖《そで》を引いて歩き出す。弥太郎《やたろう》は引かれるままについて行く。途方《とほう》にくれていたが、かなりに胸をときめかしていた。相手から指摘されるまでもなく、弥太郎《やたろう》も松江《まつえ》が好きだ。好きで好きでたまらないかどうかは自分でもわからないが、松江《まつえ》が親切を見せてくれると、心があたたかく揺れて、胸がときめいてくることは事実だ。
松江《まつえ》の連れて行ったのは林の中であった。
「このへんでよかろう。腰をおろしなさるがいいだ」
と、大きな岩にすわらせ、自分もそばにすわった。
「おらはお前様に話があるだ。二人の気持ちがこうである上からには、二人は夫婦《みようと》になるべいじゃと思うだが、なんとそうでござるべ」
弥太郎《やたろう》はまたおどろかされた。
彼はこれまで恋愛の経験はない。しかし、強壮な体質だから、女知らずには過ごせない。春日山《かすがやま》の近くの直江津《なおえつ》は港町で遊女《ゆうじよ》がいるから、平時はそれで、戦陣の時にはかならずどこからともなく売色渡世《ばいしよくとせい》の女どもがついて来るものだから、それによって、らちをあけてきた。恋情《れんじよう》のともなわない、生理上の処理だけのことであるから、それほど楽しいこととは思っていない。
こんなぐあいに、彼の女の経験はきわめてかたよったものであるが、それでも男女の恋のすがたは、今|松江《まつえ》が示すようなものであろうとは思っていない。男がもとめ、女が受けて、嫋々《じようじよう》たる感じのものにちがいないと想像しているのだ。
これでは逆だ。
返事ができなかった。
早熟《そうじゆく》な天才
一
「ちゃっちゃと返答しなさろ。うじついていては、男は見よいものではありましねえ」
と、松江《まつえ》はさいそくした。
「拙者《せつしや》は、そのう……拙者《せつしや》は、そのう……」
弥太郎《やたろう》はなんと答えてよいかわからない。松江《まつえ》がきらいではない。松江《まつえ》が好意を見せてくれ、何となく色めいた様子を示してくれるのが大いにうれしい。ちょいと浮き浮きとなって、いい気持ちだ。女にたいしてこんな気持ちになったことははじめてだ。しかし、それが恋情《れんじよう》といってよいものであるかどうか、はなはだ自信がない。第一、それが恋情であるにしても、先殿《せんとの》に寵《ちよう》を受けていた女であると思うと、道ならぬことのような気がしてならない。第二に、|まり《ヽヽ》のようにまるい肉のかたまりがのどもとに上って来て、つかえて、すらすらとことばが出ないのである。
「ええい! じれってえ! お前さま、それで男でござるか!」
じだんだふんだかと思うと、松江《まつえ》は立ち上がり、弥太郎《やたろう》の前にまわった。平手《ひらて》はまた弥太郎《やたろう》の頬《ほお》にしたたかな音を立てた。
「あっ、痛い! またたたいたな!」
と、弥太郎《やたろう》も立ち上がった。
二人は向かい合って立った。
「なんぼでもたたくで。性根《しようね》のいらんかぎり」
「ああ、痛い」
「痛いのはこっちの手のひらじゃて同じじゃ。ひげを剃《そ》りなさろ。あったら男ぶりが、むさいですがな」
弥太郎《やたろう》は痛そうに頬《ほお》をなで、松江《まつえ》はてのひらをさすりながら、しばらく顔を見合わせていた。双方《そうほう》ともにこにこしている。
「……ええと……ところで、話はどこまで行っとりましたかな。……そうじゃ、お前様とおらとは夫婦《みようと》になるべいじゃというところまでであった……」
と松江《まつえ》はまた言ったが、とつぜん、はげしい羞恥《しゆうち》のようすを見せて、両手を上げて顔を蔽《おお》うた。
「恥《は》ずかしいがな。おなごにこげいにまで言わせて……」
と、くぐもった声を出した。
愛情が潮のたかまるように弥太郎《やたろう》の胸にさしてきた。手を上げて、相手の肩にかけた。たくましい手は、かけただけで、その肩を引きよせようとするでもなく、ふるえているだけで、臆病《おくびよう》げで無器用《ぶきよう》であった。しかし、松江《まつえ》は、待ちかまえていたように、相手のはばひろい胸にふわりとその身をよせた。弥太郎《やたろう》はあわてて、片手を出して抱きとった。
(ああ、あたたかい)
弥太郎《やたろう》は、女のからだというものがあたたかく、やわらかく、なんともいえずこころよい重さを持ったものであることを、はじめてのように感じた。おまけに、そのからだにはこころよい香気《こうき》があった。
松江《まつえ》は抱きついて、うれしげにさけんだ。
「うれしや! そんだら、お前様はおらと夫婦《みようと》になるに不服はござらねえのだの」
弥太郎《やたろう》はあわてた。おしのけようとしたが、松江《まつえ》ほどの女が力いっぱいしがみついたこととて、弥太郎《やたろう》の剛力《ごうりき》をもってしても、自在にはならない。もがきながら言った。
「そなたは先殿《せんとの》のお情けを受けなされたお人じゃ。拙者《せつしや》、きらいではないが、そこのところがぐあいが悪うござる。……これ、少しはなさっしゃい! 人に見られては悪い」
松江《まつえ》はいっそう強くしがみついた。
「うんにゃア、はなさねえ! ここは大事な正念場《しようねんば》じゃ。はなしてなるか。先殿《せんとの》になんの義理立て! おらは先殿《せんとの》が生きてござる間、一生懸命おつくし申した。これからじゃて忘れはしねえ。それどころか、お前様方とお虎《とら》様を助けて、お家の立て直しのために忠義しべいと思うているのじゃ。こんだけつくしたら、その上の義理立てはいるはずがねえ。もし、そんだけでは不足じゃ、ほかに男持つなと言わしゃるんだら、それは胴欲《どうよく》ちゅうもんだ。おらはまだ若いのじゃし、せっかく好きな殿御《とのご》が見つかったんじゃすけ、そこは目をつぶってくださるがいいだ。いやいや、よろこんで、『しっかりかわいがってもらえ。おらは年老《としと》っとったすけ、あまりかわいがってやることができんだった。気の毒じゃった。たっぷり埋め合わせするがいいだ』と、こう言うてくださるが、殿様ちゅうもんだ。先殿《せんとの》はいい殿様じゃったすけ、きっとそう言いなさるにきまっていますだ。おらはそう思いこんでいますだ」
ぐいぐいと顔を寄せてしゃべる。熱い湯気《ゆげ》のような呼気《こき》が、弥太郎《やたろう》の顔を吹いた。弥太郎《やたろう》は悩乱《のうらん》した。千万《せんばん》いたし方ない、どうともなれと思った。相手の首筋に腕をかけてグイと抱きしめようとすると、髪を剃《そ》り立てのぼんのくぼがザラザラと腕にこたえた。ハッとしたがここで力をゆるめては相すまないと思った。かえって両方の平手《ひらて》でザラザラの頭をかかえこんで、力いっぱい引きよせた。なんとも奇妙な感じであったが、そう感じた時には、相手の唇《くちびる》はこちらの唇《くちびる》に重なった。しめった、つめたい唇《くちびる》であったが、中は火のように熱かった。
やや長い間、二人は子供が熟した果物《くだもの》をむさぼり食うようにむさぼり合った。
霧《きり》はますます濃く、二人の姿は濃い乳色の気体の中に漠々《ばくばく》と塗りこめられた。その霧《きり》の中に梟《ふくろう》が鳴き、高い梢《こずえ》をわたる風の音が立った。
いく分かがすぎた。
とつぜん、松江《まつえ》は突きはなすように弥太郎《やたろう》を押しやってとびはなれた。弥太郎《やたろう》は目のくらむような気持ちで、よろめきながら、手近の杉の幹に片手をついて身をささえ、肩をあえがした。その耳に、松江《まつえ》のことばが流れて来る。
「もうええわ。たんのうした。このへんでやめとこ。わしらはまだ約束だけで、夫婦《みようと》じゃねえのじゃすけな。お前さま、なりたけ早うお虎《とら》さまのおゆるしを受けてくんなさろよ。おら、そればっかりを待っているでのう」
「うむ、うむ、うむ」
こっくり、こっくりと、力強く、弥太郎《やたろう》はうなずいた。
月は見えないが、真珠《しんじゆ》色の霧《きり》で、ほのぼのと明るい林の中であった。
二
翌日、早朝、まだ霧《きり》の深いころ、一行は中山《なかやま》を立って、宮川《みやがわ》をさかのぼって細江《ほそえ》を志した。
細江《ほそえ》まで十里。宮川《みやがわ》ぞいのつづらおりなけわしい岨道《そばみち》つづきだ。とっぷり暮れてからついた。細江《ほそえ》は当時の飛騨国司姉《ひだこくしあね》ガ小路《こうじ》家の城下であった。
京|公卿《くげ》である姉《あね》ガ小路《こうじ》家がここの国司となって赴任《ふにん》したのは、この時から二世紀以上も前の建武《けんむ》年間であった。天皇親政の公卿《くげ》政治を回復しようとの後醍醐《ごだいご》天皇の方針の一環《いつかん》として、公卿《くげ》国司が実現したのである。その後八十年ほど経《た》って、足利《あしかが》方の京極《きようごく》氏が入って来ていったん姉《あね》ガ小路《こうじ》家をほろぼしたが、国人《くにびと》らが心服しないので、また姉《あね》ガ小路《こうじ》の一族を立てて国司《こくし》の名のみをつがせることにした。さらにその後、京極《きようごく》氏はその家臣三木《かしんみき》氏のために実権をうばわれ、この小説の当時の飛騨《ひだ》は三木《みき》氏の実力下にあった。日本の天井桟敷《てんじようさじき》ともいうべき、山また山の奥深いこの飛騨《ひだ》の国も、権力下に移る下剋上《げこくじよう》の社会的機運はまぬかれることができなかったのである。
こんなぐあいに、姉《あね》ガ小路《こうじ》氏は権力を失うことすでに一世紀以上にもおよんで、名のみの国司であるにすぎなかったが、なお国人《くにびと》らに尊敬はされていて、その城下はかなりな繁栄をしていた。
「どこも同じじゃな。いたわしいのう。古いものはなぜ亡《ほろ》びなければならないのであろう。亡《ほろ》びるには亡《ほろ》びるだけのわけを古いものが内に持っているにはちがいないが、新しいもののすべてがよいとはかぎらないのにのう」
旧勢力と新勢力の交代は至るところにあり、越後《えちご》もその埒外《らちがい》にあるわけではなかったが、形骸《けいがい》だけいたずらに壮大で、荒廃《こうはい》の色のかくしようもない細江《ほそえ》城を見て、景虎《かげとら》は深い感慨《かんがい》にうたれた。
その夜は城近くの寺院のこもり堂で一夜を明かしたが、翌朝、高山《たかやま》をさして出発前、弥太郎《やたろう》がひどく神妙《しんみよう》な顔で、景虎《かげとら》の前にかしこまった。
「おり入ってお願い申したいことがござる」
魁偉《かいい》な豪傑面《ごうけつづら》を赤く染めているのが異様であった。
「なんだ」
そらきた、と、景虎《かげとら》は待ち受けたものが来た気持ちであった。昨日|中山《なかやま》を出た時から、弥太郎《やたろう》の様子がへんであることを、景虎《かげとら》は気づいていた。いつも快活で、よく談じ、よく笑う男が、黙りがちで、時には沈痛なくらい物思わしげなおももちでいたのだ。
(どうしたのか、何かおれに不服を抱《いだ》くか、朋輩《ほうばい》に腹を立てていることがあるのではないか)
と、景虎《かげとら》は気にしていたのであった。
澄んだ景虎《かげとら》の目に見つめられて、弥太郎《やたろう》はへどもどした。
「ええとォ……、まことに恐れ入ったお願いでござるが……」
と言って、弥太郎《やたろう》は口ごもった。見ると、ひたいに玉のような汗をぎっしりと浮かべ、こわいひげがむさくるしくのびた頬《ほお》からあごにかけて、汗が筋をなして流れている。弥太郎《やたろう》はやぶれかぶれな表情になり、顔じゅうの汗を両手の袖《そで》でグイグイと拭《ふ》いて、朋輩《ほうばい》の方を向いた。
「新兵衛《しんべえ》殿をはじめ、皆ここへ来てくれ。おれの話を聞いてくれ」
とどなった。
何とも異様な弥太郎《やたろう》の様子を、皆いぶかしがっていたところなので、ぞろぞろと集まって来た。
弥太郎《やたろう》は赤い顔をしながら、ともすれば小さくすくみそうになる肩を、強《し》いて大きく張って、人々を見まわして、まず言う。
「拙者《せつしや》がこれから申し上げることは、おそらく、おのおのにはおかしくてならぬであろうが、おかしくても笑っては、おれは腹を立てるぞ。ぶッくらわしてくれるから、そう思え。しかし、批判は随意《ずいい》だ。いかんならいかんと言うてくれても、おれは腹も立てなければ、うらみもせん。納得《なつとく》がいけば、即座《そくざ》に断念する。よいか。笑うなよ」
ものものしい念のおしようだ。皆なにごとを話すかと、真剣な顔になった。
弥太郎《やたろう》は視線を景虎《かげとら》にかえして、真っ直ぐに見つめ、なおも肩ひじ張って、しかつめらしく言う。
「拙者《せつしや》、恋をいたしました。いやいや、恋というては言い足りませぬ。一足《いつそく》とびに夫婦《みようと》約束をいたしました。相手は松江《まつえ》殿でござる」
はっきりとした宣言だ。さあ、どうだ、文句があるなら言え、といわんばかりに、大きな目をむいて、景虎《かげとら》を見、さらにぐるりとなかまを見まわした。
瞬間、景虎《かげとら》は腹が立った。それはかなりにはげしい怒りの衝動《しようどう》であり、複雑な心理でもあった。母親の不貞《ふてい》を見た子供の怒りであり、父の側女《そばめ》と情を通ずる家臣《かしん》にたいする主人の怒りであり、おとなの不潔をいとう少年のいきどおりでもあった。
くゎっとして、景虎《かげとら》が口をひらきかけた時、新兵衛《しんべえ》がおだやかな顔を景虎《かげとら》に向けて目つきで制止して、さらにその顔を弥太郎《やたろう》に向けた。
「わけを話すがよい」
「おお、話しますとも」
弥太郎《やたろう》は咄々《とつとつ》として、先夜のことを語った。
「うじゃじゃけた心ではさらになし。ともに働いて昔のお家にかえしたいとの言い分が気に入り申したるにより、夫婦《みようと》の約束をいたしました。もっとも、これはお虎《とら》様のおゆるしを得て決定すべきことでござるゆえ、双方《そうほう》の話し合いだけのことであること、申すまでもござらん。お虎《とら》様のおゆるしがなければ、また、おのおのが同意なされずば、スッパリと思いあきらめること、申すまでもござらぬ。天地神明《てんちしんめい》に誓って申すこと、かくの通り」
そうたやすく断念できるかどうか、もとよりあやしい。しかし、ここは勢いである。覚悟である。こう断言しなければ、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》は鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》らしくないと、ふみしめて張り切ったのであった。
いさぎよく、かつあくまでも武張《ぶば》った弥太郎《やたろう》のことばと態度に、景虎《かげとら》の心はやわらいだ。口もとがかすかにゆるんできた。
すかさず、新兵衛《しんべえ》が言った。
「恐れながら、これは願ってもなき良縁と、拙者《せつしや》には思われます。古来、名将がその愛妾《あいしよう》を臣下《しんか》に賜《たも》うて、臣下の忠心を励ましなされたことは、数かぎりなくございます。お祝辞を賜うて、おゆるしあってしかるべしと存じます」
やわらいだとはいえ、景虎《かげとら》の心はまだ十分に納得《なつとく》はしていない。人々の顔を見た。
人々もまたうなずいていた。
「新兵衛《しんべえ》殿のご意見しかるべしと存じます」
同意せねばならぬことであろう、これがおとなの世界の約束なのであろう、と、景虎《かげとら》は思った。
「だれも異議はないようである。おれがゆるす。ふたりとも、末長くおれが家のためにつくしてくれるよう」
と言った。
「はッ!」
気ばりきっていた弥太郎《やたろう》の態度がぐらりとくだけて、両手をついた。しばらくは顔を上げ得ない。
「お祝辞をたまわりますよう」
と、新兵衛《しんべえ》が言った。
「何といえばよいのじゃ」
「ただ、めでたいの、と仰《おお》せられればよろしゅうございます」
「そうか。――弥太郎《やたろう》、めでたいの」
景虎《かげとら》は言ったが、それだけでは足りないような気がしたので、つけ加えた。
「おれはよろこんでいるぞ。松江《まつえ》はおれが幼い時、おれを生みの子のようにいとしがってくれた者だ。夫婦《みようと》になった上は、いつまでもかわいがってやれよ。あれは男まさりで、気のあらい性質のように見えるが、本心はいたってやさしいおなごじゃ。いい女房《にようぼう》になるであろう」
すらすらと出てきた。言っているうちに、涙ぐみさえした。今はもう何のこだわりもなく、心からよろこぶ気持ちになっていた。
声もなく、弥太郎《やたろう》はまだひれ伏している。これも泣いているらしかった。
「めでたい、めでたい、めでたい、これでざっとすんだ。手をしめよう」
新兵衛《しんべえ》は陽気な声で言って、人々の手を借りて、シャンシャンシャンと手をしめた。
時ならぬ手打ちのひびきはしずかな山堂と杉木立ちにこだまして、寺僧がおどろいて見に来たが、もうその時には、一行は立ち上がってこもり堂を出かけていた。
三
細江《ほそえ》を立って高山《たかやま》に向かった。
弥太郎《やたろう》とはここで一時別れた。一時《いつとき》も早く松江《まつえ》に知らせて安心させるがよいという人々の意見で、中山《なかやま》に引きかえすことになったのである。弥太郎《やたろう》は大いにてれて、それにはおよばないといったが、人々は無理にそうさせた。信州路《しんしゆうじ》で追いつくことにした。
細江《ほそえ》から高山《たかやま》まで五里。この間はほとんどが宮川《みやがわ》のひらく平原地帯で、田野《でんや》がよくひらけ、にぎやかな人里《ひとざと》もあって、道も平坦《へいたん》だ。
高山《たかやま》は古い時代にひらけたところで、飛騨国府《ひだこくふ》のあったところだが、この時代にはこの地方の経済の中心都市というだけで、政治の中心はここから南一里の松倉山《まつくらやま》にあった。この松倉山《まつくらやま》に三木《みき》氏がいて、飛騨《ひだ》一国三郡を治めていたのである。
高山《たかやま》に泊まった翌日、ここにも来て、城の様子を眺《なが》めた。城は要害堅固《ようがいけんご》であったが、凝視《ぎようし》している景虎《かげとら》の目には皮肉《ひにく》な微笑が浮かんだ。それを見て、新兵衛《しんべえ》が、
「いかが?」
とたずねた。
景虎《かげとら》は、うむ、とだけ言って、べつだんなことは言わなかったが、そこを去ってまた高山《たかやま》にかえり、信州路《しんしゆうじ》に向かう途中、前後を見まわし、人のけはいのないのをたしかめてから言った。
「飛騨《ひだ》は天然の要害じゃ。一国全部が無上の堅城といえる。それゆえ、国内に敵をつくらねば、居城《きよじよう》などどうでもよい。平地に濠《ほり》一重くらいの館《やかた》づくりでかまえていて済むことじゃ。さぞかし寒気きびしかろうに、あの山の中にしゃちこ張っているのは、国の政治がよくいっておらぬためじゃ。それでは、いかほど城を堅固《けんご》にかまえようと、何の役に立とう。国内に敵がいては、他国から攻めかけられた場合、せっかくのこの山河の険が険でなくなる。さても世の中には名将は少ないものと思うぞ」
新兵衛《しんべえ》も、他の供衆《ともしゆう》も、感心して聞いた。
人間には早熟な天才があるが、その多くは智能《ちのう》的な方面にだけ長《た》けていて、感情的には普通の少年とかわりがない。景虎《かげとら》がそれであった。男女の情愛や愛欲についての彼の心が幼いのはそのためである。このアンバランスは、現代の人間にとっては相当問題になることであり、従者らとしてもずいぶん考えなければならないことなのであるが、当時の人のこと、その武将的見識にたいして、ひたすらに感激するばかりであったのは、まことに余儀ないことであった。
飛騨《ひだ》から信州《しんしゆう》へ入るために、彼らのとった道は、宮川《みやがわ》の支流小八賀《こはちが》川をさかのぼって平湯峠《ひらゆとうげ》をこえ、さらに安房峠《あぼうとうげ》をこえ、今日の上高地《かみこうち》の入り口である中《なか》の湯《ゆ》を過ぎて野麦街道《のむぎかいどう》を松本平《まつもとだいら》に出るあの道であった。峻険《しゆんけん》をきわめた道は、ほぼ二十里、途中二夜とまって、三日目の夕方、やっと松本平《まつもとだいら》に出た。
四
信濃《しなの》は山国だ。いく重の山脈《やまなみ》がたたみ、山脈《やまなみ》と山脈《やまなみ》の間を千曲《ちくま》川・犀《さい》川・木曾《きそ》川・天竜《てんりゆう》川その他の川が流れる。これらの諸河川の流域と諏訪湖《すわこ》の周辺にだけわずかな平地がひらけているだけなので、信濃人《しなのびと》らは山々かけて階段状に耕地をひらいて穀《こく》を穫《え》ている。しなの(科野・段野)の名はここにおこったのであろう。
このように地勢が割拠《かつきよ》的にできているので、人の心も割拠《かつきよ》的であった。山に限られたそれぞれの分野をかたくまもって、いくつかの豪族《ごうぞく》らが対峙《たいじ》していたのである。戦国以前は日本中どこの国でも小豪族割拠《しようごうぞくかつきよ》が普通の姿であったから、とり立てて言わなければならないほどのこの国の特色ではなかった。しかし、戦国に入ると、他の国々はこの形勢に変化が来た。戦国とは弱肉強食の時代であるから、どこの国でも弱は強に制圧され、滅ぼされ、割拠《かつきよ》的形勢が破れて統一的機運が動いてきたのだが、信州《しんしゆう》の地勢的条件は、この機運を拒《こば》んだ。依然《いぜん》として小豪族割拠《しようごうぞくかつきよ》の姿がつづき、統一的の大勢力がおこらなかったのだ。
この形勢に変化をあたえたのが、甲州武田《こうしゆうたけだ》氏の信州経略《しんしゆうけいりやく》であった。
甲州《こうしゆう》もこの時代以前はご多分《たぶん》に漏《も》れず、小豪族割拠《しようごうぞくかつきよ》の姿であった。元来、甲州《こうしゆう》は八幡太郎義家《はちまんたろうよしいえ》の弟|新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》の末孫《まつそん》のさかえた土地だ。義光《よしみつ》が甲斐守《かいのかみ》となってこの土地に在任している間に生んだ子供の子孫が、武田《たけだ》氏をはじめ、一条《いちじよう》・甘利《あまり》・板垣《いたがき》・岩崎《いわさき》・小笠原《おがさわら》・南部《なんぶ》・大井《おおい》・秋山《あきやま》・安田《やすだ》・平賀《ひらが》の諸氏となり、甲斐《かい》はもとより信濃《しなの》まで散らばって、それぞれその地方の豪族《ごうぞく》となった。
これらの豪族《ごうぞく》らはもとより小豪族《しようごうぞく》だ。みな似たりよったりの力で、各地に割拠《かつきよ》していた。武田《たけだ》氏だってその通りで、東八代《ひがしやつしろ》郡の伊沢《いさわ》(石和)にいたのであるが、戦国時代に入ってしばらくすると、俄然《がぜん》勢いを得てきた。それはこの家に信虎《のぶとら》という豪将《ごうしよう》が出てきたからである。
信虎《のぶとら》は暴悪な性質で、人間の胎児《たいじ》はどんなぐあいにして発育するものか見たいというので、一月《ひとつき》から十月《とつき》までの十人の妊婦《にんぷ》をとらえて順々に腹を裂《さ》いて点検したとか、怒りにまかせれば重臣《じゆうしん》でも手討ちにしたと伝えられるほどの人であった。中国では夏《か》の桀王《けつおう》・殷《いん》の紂王《ちゆうおう》をはじめとし、日本では古代の武烈天皇《ぶれつてんのう》、この時代直後の殺生関白豊臣秀次《せつしようかんぱくとよとみひでつぐ》、越前宰相忠直《えちぜんさいしようただなお》といったぐあいに、妊婦《にんぷ》の腹を裂《さ》いて胎児《たいじ》の様子を観察することは東洋の暴君の通例になっているから、信ぜられないような気もするが、胎児《たいじ》の発育していく過程は昔の人にとってはよほどに神秘的で、好奇心をそそることであったろうから、自分にだけ極度に忠実で民の生命などまるで気にしない権力者にはあながちないことではなかったろう。
とにかくも、このような人ではあったが、勇猛絶倫《ゆうもうぜつりん》であっただけに、戦さにも強く、十四という若さで家を継《つ》いでから三十数年の間に、国内の豪族《ごうぞく》らを全部征服し、居館を甲府《こうふ》の躑躅《つつじ》ガ崎《さき》に移し、甲斐《かい》全土に号令するようになった。
穴に満ちた水は他に流出の途《みち》をもとめざるを得ない。しかも、甲斐《かい》は|地味磽※《ちみこうかく》で、農業中心の経済の時代には貧国であるをまぬかれない。どうしても他を侵略《しんりやく》しなければ一国の経済が成り立たない。しかしながら、南方の駿河《するが》は今川《いまがわ》氏の所領であり、東方の武蔵《むさし》・相模《さがみ》は小田原北条《おだわらほうじよう》氏の領国だ。共に強国である。湛《たた》えた水はもっとも抵抗の弱いところを破って出る。この点、小豪族割拠《しようごうぞくかつきよ》して強力な統一勢力のない信濃《しなの》は、もっともその条件にかなっていた。武田《たけだ》氏の勢力は西に向かって決した。
甲斐《かい》から信濃《しなの》に出るには、佐久口《さくぐち》と諏訪口《すわぐち》の二道がある。前者は八《やつ》ガ岳《たけ》の東麓《とうろく》から入って千曲川《ちくまがわ》に沿って北進する道であり、後者は八《やつ》ガ岳《たけ》の西麓《せいろく》から入って行く道だ。
佐久口《さくぐち》は嶮岨《けんそ》な山道であり、諏訪口《すわぐち》は上《かみ》川と宮《みや》川に沿った平坦《へいたん》な道なので、最初|信虎《のぶとら》は諏訪口《すわぐち》から入ろうとしてしばしば兵を進めたが、諏訪《すわ》には諏訪《すわ》神社の代々の宮司《ぐうじ》で、祭神|建御《たけみ》名方命《なかたのみこと》の子孫である諏訪《すわ》氏がいて、付近一帯を所領して、勢いなかなか強くよく防いで入れない。
信虎《のぶとら》はあぐねて、諏訪《すわ》氏と和睦《わぼく》し、矛《ほこ》を転じて佐久口《さくぐち》に向かったが、これは道が嶮岨《けんそ》である上に、この道は要衝海野口《ようしよううんのくち》に平賀入道源心《ひらがにゆうどうげんしん》という豪傑《ごうけつ》がいた。平賀源心《ひらがげんしん》は「力七十人と言ひならはせど、十人力もこれあるべく、四尺三寸ばかりの太刀《たち》を常に所持せり」と、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》にあるほどの豪傑《ごうけつ》である上に、ここが破れれば全信州《しんしゆう》の危機となることがわかっているので、村上《むらかみ》・高梨《たかなし》・小笠原《おがさわら》などというこの国の豪族《ごうぞく》らが助勢してよく防ぎ、武田《たけだ》家の鉾先《ほこさき》はここでもしばしば挫折《ざせつ》したばかりか、源心《げんしん》の方から逆《さか》よせに甲府《こうふ》近くまで侵入して来たこともあり、怨恨重畳《えんこんちようじよう》の宿敵《しゆくてき》となってしまった。
五
この平賀入道源心《ひらがにゆうどうげんしん》が討ち取られたのは、天文《てんぶん》六年の冬――この小説の時代から七年前のことであった。
天文《てんぶん》六年の十一月、信虎《のぶとら》はおりから酷寒《こつかん》に向かおうとする季節に、いくどめかの兵を佐久口《さくぐち》に向けた。寒国のことで、冬季には兵を用いないのが習いになっているのであるが、信州諸豪族《しんしゆうしよごうぞく》の援兵《えんぺい》が来るにも来られないにちがいないと見て、わざとこの季節をえらんだのであった。
ところが、さすがは戦《いく》さ上手《じようず》の名ある源心入道《げんしんにゆうどう》だ。勇にはやって出て戦うようなことはしない。かたく海野口《うんのくち》城にこもって、攻撃して来れば防戦はするが、決して出て戦おうとはしない。武田《たけだ》勢は一月余も城下にとどまって攻めたが、効果はさらになく、攻めあぐんだ。そのうち、寒気はますますきびしくなり、大雪となり、難渋一方《なんじゆうひとかた》でなくなった。
信虎《のぶとら》もいたしかたなく、ひとまず甲府《こうふ》へ引きとることにしたところ、長男の晴信《はるのぶ》、当時十七歳であったが、進み出て、
「この殿軍《しんがり》、わたくしに仰《おお》せつけてくださいますよう。手の者だけをもってご本陣《ほんじん》が三、四里おひらきになる間はかたくふみとどまり、決して敵にあとを慕《した》わせますまい」
と所望《しよもう》した。
晴信《はるのぶ》はかしこい少年で、幼年のころから人をおどろかすようなことがたびたびあったが、信虎《のぶとら》は晴信《はるのぶ》をきらって、同母弟の信繁《のぶしげ》を偏愛《へんあい》していてことごとにつらくあたっていたと伝える。こういう例はこの時代実に多く、いたるところの大名の家に実にしばしば見るのである。なぜだかわからない。強《し》いて解釈を加えれば、戦国のすぐれた大名はすべて独裁者であるが、独裁者はおのれの権力を奪われることを何よりも恐れるがゆえに、自分の周辺にすぐれた人物の居ることを好まない。それは父子の間でも同じであったろう、と言うよりほかはない。
とにかくも、信虎《のぶとら》は晴信《はるのぶ》をきらって、ことごとに晴信《はるのぶ》をおとしめた。だから、この時も、
「この大雪にどうして敵が追い撃ちをかけてくるものか、殿軍《しんがり》を武士の名誉とするのは、敵の追撃《ついげき》の危険のある時のことだ。阿呆《あほう》なことを申す。信繁《のぶしげ》ならばさような阿呆《あほう》は言うまい」
と、いともにがにがしげであったが、晴信《はるのぶ》はなお願って、ついに許しを得た。
かくて、武田《たけだ》勢は退陣にかかった。
晴信《はるのぶ》は手勢《てぜい》三百の備えをかたくしてひかえ、本隊が三里ほど行ったと思うころ、ゆるゆると退陣にかかったが、途中まで行くと野陣《やじん》を張った。
退却《たいきやく》はむずかしいものだ。どんな勇者でも退足《ひきあし》立っている時には心におびえが出てくる。足を乱しては敵に乗ぜられる恐れがあるから、気力をふるいおこして沈着にふるまうが、一刻も早く立ち去りたいのが人情だ。晴信《はるのぶ》の麾下《きか》の兵らは、退《ひ》けば退《ひ》ける時刻であるのに、晴信《はるのぶ》が雪の中に夜営《やえい》の命令を下したので、不平でもあり、不安でもあり、色々と諌言《かんげん》したが、晴信《はるのぶ》は頑《がん》として聞かない。
「さてさて、人間の運のきわまる時はいたし方なきもの。敵の襲撃《しゆうげき》でも食うたなら、孤立無援《こりつむえん》のこの大雪の中で野たれ死にすること目に見えているが、こうまで諌《いさ》め申してもお聞き入れくださらぬとあっては、死ぬ覚悟するよりほかはないわ」
と、みな悲痛な思いでいた。
やがて夜となり、夜半《やはん》となった。
晴信《はるのぶ》は起き上がり、近習《きんじゆう》の者を召して、命を下した。
「これより海野口《うんのくち》城にとってかえし、城を攻むるぞ。味方が海野口《うんのくち》城の城下を立ち去った今まで、一人もあとを慕《した》う敵兵の姿が見えぬのは、長陣の囲みとけた安心のあまり、帯ときひろげて油断しきっている証拠《しようこ》である。この油断を襲《おそ》えば、たとえ味方小勢であっても、時の間《ま》に城を乗っとり、城将|源心入道《げんしんにゆうどう》の首をあげることは必定《ひつじよう》である。皆々、勇め!」
人々はおどろき、また感激して勢ぞろいし、ひたひたと雪の中をとってかえし、一手は大手《おおて》の門から鬨《とき》の声を上げて攻め立て、一手は搦手《からめて》からひそかに城壁をよじのぼり、火をかけた。
晴信《はるのぶ》の推理したとおり一月《ひとつき》以上にわたって包囲され、日夜に攻撃を受けて緊張しきった生活をつづけてきた平賀《ひらが》勢は、武田《たけだ》勢の退陣《たいじん》をよろこび、祝宴《しゆくえん》をひらき、油断しきって寝こんでいたこととて、みごとに不意を打たれた。周章《しゆうしよう》し、狼狽《ろうばい》した。
「卑怯《ひきよう》なり、甲州《こうしゆう》勢ども!」
烈火《れつか》の怒りに燃えた源心入道《げんしんにゆうどう》は黒糸おどしの鎧《よろい》の上に鎖《くさり》を入れた裹頭頭巾《かとうずきん》、その上に鉢巻《はちまき》をしめ、四尺三寸の太刀《たち》を佩《は》き、一丈《いちじよう》あまりの八角の樫《かし》の棒《ぼう》、角々には筋金《すじがね》を入れたのをりゅうりゅうと打ちふりながら荒れ狂《くる》ったが、晴信《はるのぶ》の近習教来石民部景政《きんじゆうきようらいしみんぶかげまさ》(後の馬場《ばば》美濃守信勝《みののかみのぶかつ》)に討ち取られてしまったから、海野口《うんのくち》城はここにおち、武田《たけだ》氏の信州《しんしゆう》への途《みち》はひらけた。
記録は、この報告を受けて、信虎《のぶとら》はよろこばなかったと伝える。
「運がよかったばかりよ」
と、いともにがにがしげに言ったばかりか、晴信《はるのぶ》が城を捨てて甲府《こうふ》へ立《た》ち退《の》いたので、ひとしおきげんが悪く、
「一日も城にとどまることができざったは、臆病至極《おくびようしごく》。信繁《のぶしげ》ならばさような不覚《ふかく》はすまいに」
と、腹を立て、またしても二男をひき合いに出したという。
六
信虎《のぶとら》の晴信《はるのぶ》にたいする愛情はますます冷たくなり、この時から四年後の天文《てんぶん》十年には、晴信《はるのぶ》を追い出そうとこころみた。
その方法が腹黒い。信虎《のぶとら》は重臣《じゆうしん》の板垣信形《いたがきのぶかた》を晴信《はるのぶ》のところにつかわして、こう言わせたという。
「そなたは愚《おろ》か者ではないが、田舎《いなか》育ちであるゆえ、ふるまいが諸事なんとなく無骨《ぶこつ》である。それでは機会あって上洛《じようらく》でもして将軍家へお目見えなどする時、田舎者《いなかもの》よと人にあざけられるおそれがある。幸い今川《いまがわ》家はそなたの姉聟《あねむこ》(今川義元《いまがわよしもと》の妻は信虎《のぶとら》の女《むすめ》)であれば、しばらく駿河《するが》に行って諸礼|作法《さほう》を見習うように」
抜群に賢《かしこ》い晴信《はるのぶ》だ。父の真意を読みとるくらいわけはない。が、一応、
「御意《ぎよい》次第にいたすでありましょう」
と答えておいて、板垣信形《いたがきのぶかた》、飫富兵部《おおひようぶ》らの重臣《じゆうしん》らを召して、ひそかに工作にかかった。
「どうしたらよかろうかの。ここで父上の仰《おお》せに従えば、おれはふたたびこの国にかえることはできんことになるが……」
重臣《じゆうしん》らは晴信《はるのぶ》の賢明《けんめい》を十分に知っており、武田《たけだ》家の栄えをこの人の将来に期待している。一方、信虎《のぶとら》の暴悪にたいしては手を焼いている。君は一代、お家は末代、というのは、この時代の武士に共通の考え方だ。
「お気のどくではござるが、お家のためにはかえられませぬ。ここは若君《わかぎみ》にご不孝の名を負うていただきましょう。ご不孝に似たご大孝でございます」
と、相談一決して、信虎《のぶとら》の工作を逆用して、信虎《のぶとら》を追い出す工作をめぐらすことになった。
まず、今川《いまがわ》家に密使をつかわして、
「しかじかのことで、父は拙者《せつしや》を追い出そうとしています。父の手荒《てあら》な性質には民百姓《たみひやくしよう》は言うまでもなく、家来・重臣《じゆうしん》らもまた苦しんでいます。ついては老臣《ろうしん》一同のはからいとして、父をすかして貴地《きち》にやり、拙者《せつしや》の世とすることに定めましたゆえ、父が貴地《きち》にまいりましたなら、おさえて帰国させぬように願いとうござる」
と、交渉《こうしよう》させた。
今川《いまがわ》家としては、猛将信虎《もうしようのぶとら》より年若な晴信《はるのぶ》の代になった方が甲州《こうしゆう》をあつかいやすいと思いもしたのであろうし、また信虎《のぶとら》を人質《ひとじち》にとれば、甲州《こうしゆう》は自然|駿河《するが》の属国となると思ったのであろうし、よろこんで承諾した。
今川《いまがわ》家からこれだけの返事をとりつけておいて、こんどは老臣らをして信虎《のぶとら》を口説《くど》かせる。
「このままで晴信君《はるのぶぎみ》に駿河《するが》に行けと仰《おお》せられても、不安がってなかなかお行きになりますまい。いっそのこと、晴信君《はるのぶぎみ》のお仕込みを依頼されるためという名目で、まず殿おんみずから駿河《するが》においでになった上で、向こうから、『今川《いまがわ》家は引き受けてくれたゆえ即刻《そつこく》まいるよう』と仰《おお》せこしになれば、用心深い晴信君《はるのぶぎみ》とて、おいでにならぬわけにはまいりますまい」
「それもそうじゃな。では、そうしようか」
はかるつもりの信虎《のぶとら》が、きれいにはかられて、駿河《するが》に出かけると、今川《いまがわ》家ではこれを軟禁《なんきん》して動かさない。
晴信《はるのぶ》はここに武田《たけだ》家の主《あるじ》となる。この時二十一歳。
駿河《するが》に追い出されるまで、信虎《のぶとら》は決して信州《しんしゆう》への経略《けいりやく》を怠らなかった。
この前年の初冬には、諏訪《すわ》氏との交わりを厚くするために、諏訪《すわ》氏の当主|頼重《よりしげ》に六女の禰々《ねね》をあたえ、聟《むこ》引き出ものとして小県《ちいさがた》郡の長窪《ながくぼ》城をあたえている。この城の位置からして、諏訪《すわ》氏を佐久口《さくぐち》における武田《たけだ》家の鎮台《ちんだい》司令官的任務をおびさせたことが察せられるのである。
ところが、晴信《はるのぶ》は武田《たけだ》家をつぐと、信州経略《しんしゆうけいりやく》を嶮岨《けんそ》な佐久口《さくぐち》からすることを不利とした。
「諏訪《すわ》氏が手強《てごわ》いからというて、道の平坦《へいたん》な諏訪口《すわぐち》を捨てるということがあるものか。どうでも諏訪口《すわぐち》を取るべきじゃ」
と、思案して、眈々《たんたん》とすきをうかがっていると、あたかもよし、諏訪《すわ》氏の一族に高遠《たかとお》の城主で、諏訪頼継《すわよりつぐ》という者があった。かねてから本家にとってかわろうとの野心を抱《いだ》いていたが、武田《たけだ》氏が代がわりして、その対|諏訪《すわ》氏方針がかわったらしいことを見てとると、諏訪《すわ》の上《かみ》・下社《しもやしろ》関係の者どもを抱きこんで、ひそかに意を通じて来た。
渡りに舟だ。代がわりした翌年六月、晴信《はるのぶ》は二万余の大軍をひきい、怒濤《どとう》の勢いで諏訪《すわ》郡に打ち入った。同時に、高遠《たかとお》の頼継《よりつぐ》も杖突峠《つえつきとうげ》をこえて侵入して来る。挟撃《きようげき》の勢いになり、頼重《よりしげ》は降伏した。
頼重《よりしげ》は当の武田《たけだ》氏より、一族でありながら裏切った頼継《よりつぐ》がにくかったのであろう。
「武田《たけだ》氏の手によって頼継《よりつぐ》をほろぼしてくれるよう」
という条件で降伏した。
こんな条件での降伏であるから、頼重《よりしげ》の助命も、条件になっていたのであるが、晴信《はるのぶ》は頼重《よりしげ》を捕《と》らえると甲府《こうふ》に送り、一室に幽《ゆう》して、自殺せざるを得ないようにしむけた。
頼重《よりしげ》が降伏した時、頼重《よりしげ》の一族は全部捕らえられて、甲府《こうふ》に送られたのであるが、頼重《よりしげ》の妾腹《しようふく》の女子で、当時十四歳というのがいた。
初花《はつはな》の匂《にお》うような美しさだ。しかも、家を亡《ほろ》ぼされ、父を囚《と》らえられ、悲嘆《ひたん》の涙にくれている。二十二歳の晴信《はるのぶ》の胸にひしひしと訴えて来るものがあった。哀憐《あいれん》ではない。欲情である。
こういう欲情は、嗜虐《しぎやく》の一種であると思うが、とにかくも、晴信《はるのぶ》は心を動かした。
彼は枕席《ちんせき》を払うことを命じた。
領土・財宝・美人・駿馬《しゆんめ》、いっさいのものが勝者の所有に帰するというのは、この時代の戦争の約束である。晴信《はるのぶ》の無慈悲と非道を抗議《こうぎ》してもせんないことである。姫《ひめ》は晴信《はるのぶ》の陣中の枕席《ちんせき》をはらい、甲府《こうふ》に送られ、晴信《はるのぶ》の側室《そくしつ》の一人となり、「諏訪《すわ》ご料人《りようにん》」と呼ばれるようになった。
裏富士《うらふじ》
一
晴信《はるのぶ》が諏訪《すわ》ご料人《りようにん》を側室《そくしつ》にする時のこととして、こんなことが伝えられている。
武田《たけだ》家の老臣《ろうしん》らは、これに大反対であった。
「女人《によにん》とは申しながら、まさしき諏訪《すわ》家|嫡流《ちやくりゆう》の血を伝えた人であります。お心をゆるして側近く召し抱《かか》えなさること無用と存じます。当人はかよわき女人《によにん》でも、諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らがそれを手蔓《てづる》にしていかなることをたくらむかわかりませぬ」
と、手強《てごわ》く晴信《はるのぶ》を諌《いさ》めて、晴信《はるのぶ》はこまっているところ、陣法の達人として晴信《はるのぶ》に召し抱えられて、老臣《ろうしん》らにも重んぜられていた山本勘介《やまもとかんすけ》が、
「いやいや、それは方々《かたがた》のお考えちがい。もしお館《やかた》が世の常のおん大将なら、諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らも不逞《ふてい》な企《くわだ》てをいたすかもしれませぬが、お館《やかた》は武将としてもっとも素質すぐれたおん大将でござる。拙者《せつしや》は若年のみぎりより広く天下を遍歴《へんれき》して、各国の大名らを見てきていますが、お館《やかた》ほどのおん大将を見たことがござらぬ。やがては日本|無双《むそう》の名大将と仰《あお》がれ給うこと必定《ひつじよう》と存じます。それほどのお館《やかた》でおわすゆえ、諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らは、怨《うら》みを報ずるより恐れております。案ずべきは、この恐れであります。窮鼠《きゆうそ》はかえって猫を噛《か》むと申す。恐れきわまれば、どんなことをしでかすかわかりません。しかし、もしお館《やかた》が諏訪《すわ》ご料人《りようにん》をお召し出しになりますなら、彼らは『このおん腹におん曹司誕生《ぞうしたんじよう》し給えかし。さすれば諏訪《すわ》の家も立てていただけるであろう』と、心を安んじ、ひいてはお家へ出仕《しゆつし》をのぞみ、忠心をはげまして仕えるようになるでありましょう。これこそ凶《きよう》を転じて吉《きち》とするの道、お家ご安泰《あんたい》の道、お家ご繁栄への道と愚考《ぐこう》いたします」
と説いたので、老臣《ろうしん》らもなるほどとうなずき、異議をひっこめたというのだ。
これは甲陽軍鑑《こうようぐんかん》の説くところだが、そのくせ、この書には勘介《かんすけ》が武田《たけだ》家に仕えたのは天文《てんぶん》十二年春と記している。とすればこの翌年だ。居もしない人間が卓論《たくろん》をのべる道理はない。杜撰《ずさん》をきわめている。
これは晴信《はるのぶ》がみずから、理窟《りくつ》をつけて老臣《ろうしん》らを説得したものにちがいない。
念のために書いておく、諏訪《すわ》氏の滅亡《めつぼう》は、景虎《かげとら》らが飛騨《ひだ》を経て信州《しんしゆう》に入るに先立つ三年のことである。
二
ある程度のことは景虎《かげとら》らも国で聞いていた。十六歳で初陣《ういじん》に猛将《もうしよう》の名ある父|信虎《のぶとら》が八千の大軍をもって攻めあぐんだ海野口《うんのくち》城を、手勢《てぜい》わずかに三百人をもって時の間《ま》に攻めおとし、勇名|四隣《しりん》を圧した城将|平賀入道源心《ひらがにゆうどうげんしん》を討ちとったこと、父を追い出して自立したこと、諏訪《すわ》氏をほろぼして諏訪《すわ》郡を切り取ったことなどは、高いうわさとなって越後《えちご》にも聞こえていたのだ。
これらのことはよくは言われなかった。戦《いく》さ上手《じようず》であることにはみな舌《した》を巻いたが、父を追い出したこと、多年の厚誼《こうぎ》をふみにじって妹聟《いもうとむこ》である諏訪頼重《すわよりしげ》を討ち取ったことを、人々は問題にした。
人間は元来|善《ぜん》と秩序《ちつじよ》が好きである。自分に利害関係のある場合には、これが狂いがちであるが、その関係のない時にはかならず善に味方する。独特な見識によって、その反対の説をなす人もないではないが、それはきわめて少ないし、「ヘソ曲がり」といわれることを覚悟しなければならない。戦国|乱離《らんり》の世でも、人間の本性《ほんしよう》にはかわりはない。自分に関係のないことにたいしてはみな道義的であった。
「智将《ちしよう》ではあろう。稀代《きたい》の戦《いく》さ上手《じようず》でもあるようじゃ。しかし、心術はまことにおもしろうないな。不孝不信の武将じゃ」
と、みな言っていた。
この批判にたいして、景虎《かげとら》は懐疑《かいぎ》的であった。
(人のことはその身になってみねばわからぬ。父を追い出すというは容易ならんことじゃ。他人にはわからぬ複雑な事情があって、いたし方はなかったのではないか。諏訪《すわ》家をほろぼしたのも、たとえば、信虎《のぶとら》を追い出したのを、諏訪《すわ》家が舅《しゆうと》のかたきなど言い出して不穏《ふおん》な企《くわだ》てをしたりなどしたので、やむを得なかったのではなかろうか)
と、心ひそかに考えていた。
景虎《かげとら》がこう考えたのは、父の愛情薄く育ち、現在はまた兄|晴景《はるかげ》の長尾《ながお》家の当主としてのありように強い不満を持っている自分の身に引きくらべてのことであった。この気持ちの裏に、
(おれも弾正《だんじよう》様を追い出さねばならぬことになるかもしれぬ)
という気持ちがあったためでもあろう。
つまり、景虎《かげとら》は晴信《はるのぶ》にたいして、相当同情的であったのであるが、こうしてみずから信州路《しんしゆうじ》に入って、路《みち》すがら土地の人々の話を聞く間に、彼の心はしだいにきびしくなった。
このころ、松本平《まつもとだいら》は深志《ふかし》(今の松本《まつもと》)に居城《きよじよう》していた小笠原長時《おがさわらながとき》の支配しているところであった。二日ばかり、そのあたりを見て歩き、三日目に諏訪《すわ》へと志して、塩尻峠《しおじりとうげ》を越えた。ここからは諏訪《すわ》郡で、今では武田《たけだ》家の長臣板垣信形《いたがきのぶかた》が代官《だいかん》として支配している。峠《とうげ》には小笠原《おがさわら》家の寨《とりで》が構築され、街道《かいどう》には関所があって、通行の人を厳重にあらためていた。しかし、
「諸国|修行《しゆぎよう》の者であります。越後《えちご》を出て越中《えつちゆう》に越え、飛騨《ひだ》に入り、信州《しんしゆう》から甲州《こうしゆう》を通って相州鎌倉《そうしゆうかまくら》を志しているものでございます」
と名のって、仔細《しさい》なく通された。不思議なことに、武田《たけだ》家側では何の備えもなかった。
関所を出て少し行くと、一望に諏訪《すわ》湖の見渡される地点に出た。湖水は左右に急峻《きゆうしゆん》な緑の山がせまり、こちらと向こう岸とが平野になっている。そう広くはないが、初秋の緑金《りよくきん》の穂波《ほなみ》が打ってつづいている穣々《じようじよう》たる美田《びでん》だ。
一行は草をおりしいてしばらく休息した。
「武田《たけだ》家が諏訪《すわ》を切り取ったのは、信州《しんしゆう》手入れの第一歩にすぎぬ。信州《しんしゆう》全部を手に入れるための最初の箸《はし》づけよ。次ぎは松本平《まつもとだいら》じゃろうで、小笠原《おがさわら》も気が気でないはずよ。寨《とりで》を築いたも、関所を設けたも、そのためよ。しかし、この峠《とうげ》はさしてけわしい地勢ではない。わしはまもり通せはせんと見る」
と、新兵衛《しんべえ》は小声でささやいた。
「武田《たけだ》がやる気なら、それはそうでござろうが、武田《たけだ》家にその気がありましょうか。この峠《とうげ》は松本《まつもと》方面にたいする唯一《ゆいいつ》の関門でありましょうのに、武田《たけだ》方ではまるでその備えを立てておりませぬ。武田《たけだ》家は、松本平《まつもとだいら》よりも南方の伊奈《いな》方面に野心《やしん》を抱《いだ》いているのではありませんか。第一、伊奈《いな》は諏訪《すわ》一族の所領《しよりよう》であります。先年の諏訪崩《すわくず》れの時、本家を裏切った高遠《たかとお》の諏訪頼継《すわよりつぐ》は、その後、武田《たけだ》家にその所領をうばわれ、今では高遠《たかとお》に居すくんでいるというではありませんか。諏訪《すわ》一族の所領をのこらず手に入れること、それ以外には武田《たけだ》家当面の目的はない、と拙者《せつしや》は見ますがな」
と、戸倉与八郎《とくらよはちろう》が答えた。
賛成する者が多かった。
高遠《たかとお》の頼継《よりつぐ》は、本家を裏切って武田《たけだ》家に志を通じてその侵入を助勢した功によって、諏訪《すわ》本家の滅亡《めつぼう》した時、本家の遺領のうち宮《みや》川以西をもらったのであるが、この配分には彼は不満であった。彼は諏訪《すわ》家の本家になりたくて、裏切りしたのだ。所領の少しくらいもらったって引き合わないと思った。そこで、数十日の後に兵をおこして武田《たけだ》家の守兵《しゆへい》を追いはらい、上・下の両社を占領した。晴信《はるのぶ》は怒って、兵をくり出し、一戦に打ち破り、逃ぐるを追って高遠《たかとお》に入り、付近の村々をあらしまわったが、その後ひんぴんと伊奈《いな》方面に兵を出しているのだ。こんなふうだから、戸倉《とくら》の言うのは一理も二理もあるわけであった。
「そうかの、そう思うかの」
と、新兵衛《しんべえ》は笑って、
「では、喜平二《きへいじ》様のご意見をうかがってみようではないか」
と言った。
「よろしゅうござる」
みな賛成した。旅の間中、いたるところで示した景虎《かげとら》の軍事にたいする見識には、みな感心しきっているのだ。
景虎《かげとら》はおそろしくきびしい顔になっていた。にらむように人々を見て、口をひらいた。
「伊奈《いな》には現に攻めかかりつつある。やがて埒《らち》があくであろう。しかし、いつまでも埒《らち》があかぬ時には、ここを越えて松本平《まつもとだいら》に入ることにするであろう。この峠《とうげ》に、小笠原《おがさわら》方が厳重に備えを立てているのに、武田《たけだ》方が何の備えも立てぬのは、一つには急にかかる気がないためであり、一つには油断させて備えを怠らせるためと見る。思うに、小笠原《おがさわら》では平穏無事《へいおんぶじ》になれて、間もなく備えを怠るようになるに相違ないが、武田《たけだ》家はこれを待っているのじゃと、わしは見る。あわれなものよ。小笠原長時《おがさわらながとき》は勇将という評判の武将じゃが、甲斐《かい》のあの男の敵ではあるまいよ」
明快な推理だ。いつものことながら人々は感じ入って聞きながらも、景虎《かげとら》のことばの調子がいつもになくあらあらしいのをいぶかしがっていると、とつぜん、噛《か》んではき出すように言った。
「晴信《はるのぶ》という男、わしはきらいじゃ!」
人々はおどろいて、景虎《かげとら》を仰《あお》いだ。一人一人のその顔を見すえるように見まわして、重ねて言った。
「父を追い出すもよい。妹聟《いもうとむこ》をほろぼすもよい。戦国の習い、武将としてはそうせねばならぬこともあろう。が、その妹聟《いもうとむこ》の娘を侍妾《じしよう》にするとは何ごとだ。血こそつづいていぬが、姪《めい》ではないか。たとえそれが諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らを手なずける策であっても、不倫《ふりん》しごく、不潔千万《ふけつせんばん》の策じゃ。おれは好かぬ。たとえ晴信《はるのぶ》が天下取りになろうと、おれは決して尊敬せぬぞ!」
激烈《げきれつ》なことばに、一同は呼吸《いき》をのんだ。子供っぽくふっくらとした顔に、紅《あか》く興奮の色があがり、するどく目がかがやいていた。こうした潔癖《けつぺき》さは子供にはよくあり、それは成人とともに世の常となっていくのが普通なのであるが、人々は景虎《かげとら》のそれをそんなものだとは思わなかった。これまでも、この片鱗《へんりん》はちょいちょい見せてきたのだと、改めて思い出し、将来これがこの君と他の武将とをわかつもっとも鮮明なものとなるであろうと、思うのであった。
彼らのその時の気持ちは、頼もしいというより、一種の恐怖であった。もっとも澄み切った淵《ふち》を見たり、一点の汚点《しみ》もとどめない皚々《がいがい》の雪山を仰いだりする時に、時として人を襲うことのあるあの恐怖である。
三
坂を下って、まず下諏訪《しもすわ》に行き、下社《しもやしろ》に詣《まい》り、さらに上諏訪《かみすわ》をまわって上社《かみやしろ》に向かった。
激烈《げきれつ》な戦《いく》さの後、諏訪《すわ》氏のほろんだのは三年前のことだ。その時、両|諏訪《すわ》ともずいぶん荒らされたはずだが、今はいずれも回復して、おだやかな緑色の湖面を前に、町はしずかな湯の煙を上げていた。
「戦禍《せんか》にくずれはてた時には人間の営みのはかなさをしみじみと感ずるが、それが済んだあとの回復の速《すみ》やかさを見ると、人間はえらいものじゃと、またおどろくわ。いつもきまったことじゃがな」
と、だれやらが言った。みな同感であった。
やがて上社《かみやしろ》について参詣《さんけい》した。青黒く見えるほど杉の巨樹《きよじゆ》が陰森《いんしん》としげった山を背に金色に塗り立てた本宮《ほんぐう》は、不思議な景観をなしている。華麗《かれい》で、森厳《しんげん》で、そぞろに畏敬《いけい》の念が生じてくる。
ここの一の鳥居から東北に真っ直ぐに道路がついて、その真向かいの山上に上原城《うえはらじよう》が見える。諏訪《すわ》氏代々の居城《きよじよう》で、現在では板垣信形《いたがきのぶかた》が晴信《はるのぶ》の代官《だいかん》として居守している。
城を追いおとされて、城が敵の手に帰した経験は、この一行にもある。間近いことだ。長尾《ながお》家は日ならず春日山《かすがやま》城を回復することができたのだが、諏訪《すわ》家は三年もの間回復できず、この先とてその希望を持つことすらできないのだ。
(諏訪《すわ》家の遺臣《いしん》らは切《せつ》ないことであろうの)
と、みな思った。
その夜は、上社《かみやしろ》に参籠《さんろう》したが、夜に入って間もなく、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》が追いついて来た。
「よろこんだ段ではござらぬ。君が思《おぼ》し召《め》し立ち給うたなら、時をうつさず馳《は》せ参じてまいると、いやもうたいへんな意気ごみでありました」
と、松江《まつえ》のことを報告した。
「それで、夫婦《みようと》の契《ちぎ》りはどうした。結んだか」
と、だれやらがからかい面《づら》で言うと、弥太郎《やたろう》は昂然《こうぜん》として言った。
「それはまだじゃ。君のお許しを受けての上での夫婦《みようと》約束じゃ。自儘《じまま》なことはできぬわい」
「それはつらかったろうな。もだえもだえて、あちらにごろり、こちらにごろり、夜どおし眠れんでいたおぬしの様子が目に見えるようじゃぞ。どうじゃ、白状せい。そうであったに相違なかろうが」
と、まただれやらがからかった。
弥太郎《やたろう》は狼狽《ろうばい》し、また憤慨《ふんがい》した。
「なんとでもいえい! おれは男じゃ。うそは言わん」
「うそは言わんが、ほんとのことも白状せんというわけか」
「えい! くそ! 阿呆《あほう》ども、そねめ! そねめ! なんとも思わんぞ!」
と、弥太郎《やたろう》がどなり出したので、一同どっと吹き出した。
景虎《かげとら》だけ、その笑いに加わらない。背を向けて、肱《ひじ》をまくらに寝ていた。小柄《こがら》なからだがこちんとかたい線をえがいている。男女の愛欲の情は彼にはまだ漠《ばく》とした霧《きり》のかなたにある。ひたすらににがにがしいばかりであった。
四
甲州《こうしゆう》に入って甲府《こうふ》の館《やかた》を外から一見し、付近の寺々や社《やしろ》に参詣《さんけい》した後、鎌倉街道《かまくらかいどう》を取って御坂峠《みさかとうげ》を越えたのは、数日後のことであった。
下界はわずかに朝夕に涼風のそよぎかけた季節であるが、千五百二十五メートルの峠路《とうげじ》は真昼の風も秋の風であった。
「富士《ふじ》には月見草《つきみそう》が似合う」
というのは、この峠《とうげ》に建てられた太宰治《だざいおさむ》の文学|碑《ひ》の文句《もんく》であるが、この当時は月見草は日本にはない。この植物はアメリカ原産で、江戸末期にアメリカとの通商がはじまってから輸入され、七、八十年の間に野生化して日本全土にひろがったものだ。
首骨が苦しいほど仰向《あおむ》かなければならないつい間近の真前《まんまえ》に富士《ふじ》を見ながら急峻《きゆうしゆん》な坂道を下りて来て、ややゆるやかな地点に達した時、前方からくる一団の人があった。
馬に騎《の》った三、四人の女とそれを護衛する武士どもだ。よほどに高貴《こうき》な身分の婦人であろう、士《さむらい》だけでも五人もい、下人《げにん》は十二、三人もいる。
こんな奥山路《おくやまみち》にありそうもない華美《かび》な一団だ。女たちはみな被衣《かつぎ》の上に市女笠《いちめがさ》をかぶっているが、その被衣《かつぎ》も、その下の衣《きぬ》も、まことに美しく高雅《こうが》なものだ。とりわけ、一団の中心になって馬を打たせている婦人のよそおいはかがやくばかりである。
見えるものは高い高い裏富士《うらふじ》、満山の緑の色、聞こえるものは蕭々《しようしよう》たる初秋の風の音、どこやらで鳴くひぐらしの声ばかりの中に、それは白昼に見る|あやかし《ヽヽヽヽ》のようであった。
「だれじゃろう」
「どこからどこへ行くのじゃろう」
と、ささやき合っただけで、ぼうぜんとし、見とれたままで立っていると先追いの武士が走って来た。
「下におれ! 笠《かさ》をとれ! 高貴《こうき》な方のお通りであるぞ!」
と叱咤《しつた》した。
六人はせまい道の左手によってひざまずこうとしたが、
「もっと寄れ、もっと寄れ」
と武士はしかりつける。
「へえ、へえ、へえ」
といいながら、一同は道路をはずれた草むらの中に、いばらに引っかかれながらひざまずき、うずくまった。
粛々《しゆくしゆく》と近づいて来る一団は、やがて一同の前にさしかかった。一同は恐縮しきった様子をつくりながらも、上目《うわめ》をあげてあまさず見ていた。
一団の中心になっている女人《によにん》は、年ごろ十六、七と見えた。ふっくらとした顔には童女《どうじよ》のようなあどけなさが見えたが、富士《ふじ》を背景にして通りすぎていくその人の美しさはこの世のものとは思われないほどであった。とりわけ、その目が美しかった。軽く手綱《たづな》をつかんで、ゆるやかに馬の背にゆられて真っ直ぐに前を見つめているその人の目は長いまつ毛に蔽《おお》われて、半分閉じているようであったが、ふとこちらを見かえると、おどろいたように大きくみはられた。人にすぐれて大きかった。真っ黒で、みずみずしい光をもっていた。澄んだ、というより、びろーどのようにやわらかくやさしい感じの目であった。
一同はうたれたように、ひたいを草にうずめた。
五
「美しかったのう。だれじゃろう」
はるかに行き過ぎて、坂を曲がって見えなくなった行列のあとを見送って、だれやらが言う。嘆息《たんそく》するような言い方であった。みな同感であった。
だらだらの坂道を下って来ると、百姓《ひやくしよう》が三人、山畑のわきに立って、立ち話をしている。それぞれ鍬《くわ》を杖《つえ》づいたり、鎌《かま》を手にしたりしていた。どうやら今の女たちのことを話しているらしく見えた。
あの連中に聞いてみようと話がまとまって、戸倉与八郎《とくらよはちろう》が聞き役になって、ひょこひょこと近づいて行く。
「ちょっこりうかがいますだが、いんまのあの上臈女房《じようろうにようぼう》衆はどこの方々でごぜえましょうか。あんまり美しいお人だで、話の種に知っておきたいのでごぜえます」
「おお、お前様方も拝《おが》みやしただか、天人様みてえにお美しかったのう。ありゃ諏訪《すわ》ご料人《りようにん》と申し上げやしてのう、もと信州《しんしゆう》の諏訪《すわ》様の姫君《ひめぎみ》で、今は甲府《こうふ》のお館《やかた》様のご寵愛《ちようあい》の方ですだ。あんげにお美しい方だで、お館《やかた》様のご寵愛《ちようあい》も一方《ひとかた》でねえのでがしょう、お館《やかた》は三日ほど前からこのへんにお鷹野《たかの》に来て見えますだが、その間もお側を離すのがお厭《いや》らしゅうてお連れになっているのでがす。無理はねえだ。お館《やかた》様もまだお若く、水の出ばなのお二人だでのう」
「へえ、へえ、そうでごぜえますか。へえ。おありがとうごぜえましただ。ええみやげ話ができましただ」
戸倉《とくら》は適当に話を打ち切って帰って来て、人々に伝えた。
「あれがか?」
一同はおどろいて、今さらのように、また行列の消え去ったあとをふりかえった。
あの童女《どうじよ》のようなあどけない美しさの下に、どんなに深いかなしみが秘められていたのかと、あわれさが、一同の胸を灼《や》いていた。
「いやなやつだ!」
噛《か》んではき出すように、景虎《かげとら》が言った。
似た気持ちはひとしく一同の胸にもあったが、この激しさには皆おどろいて、景虎《かげとら》を見た。
景虎《かげとら》は前面の富士《ふじ》のてっぺんをにらむように見つめて、きびしく口を引き結んで歩いていた。
五、六|町《ちよう》も行ったころ、また前面から行列が来た。
これは男ばかりの集団だ。騎馬《きば》の者が十人、徒歩《かち》の者が二十人ばかり、騎馬《きば》の者も徒歩《かち》の者も、半数ほどは小具足《こぐそく》をつけている。午後二時ごろの日を受けて、具足《ぐそく》が光って、かたい外皮に蔽《おお》われた昆虫のようであった。
一行はその行列の中心になって馬を打たせる男が左の拳《こぶし》に鷹《たか》をすえているのを見てとった。
「やあ、来た。今の話のにちがいないわ」
要領《ようりよう》よく、道のわきに避《さ》けて、土下座《どげざ》した。
晴信《はるのぶ》は狩装束《かりしようぞく》で、拳《こぶし》に鷹《たか》をすえ、たくましい黒駒《くろこま》に貝鞍《かいぐら》をおいて乗っていた。この時二十四歳、綾藺笠《あやいがさ》の下の顔には、後年のあの赤ら顔の肥満したおもかげはない。色白く、おも長で、俊秀《しゆんしゆう》な美青年であった。路傍《ろぼう》にうずくまっている修行者《しゆぎようじや》の群によく光る慧敏《けいびん》な感じの目を向けながら近づいて来た。
近くにせまった時、一番|端《はし》にいた小柄《こがら》な修行者《しゆぎようじや》がふと顔を上げた。二人の目はぴたりと合った。
(おや)
と晴信《はるのぶ》は思った。それは修行者のあまりな若さにたいするおどろきであったか、ふっくらとした幼い顔立ちに似ずいかにも不敵な感じの鋭い目つきにたいするおどろきであったか、よくわからないうちに、少年の目は伏せられ、晴信《はるのぶ》は乗りすぎていた。
晴信《はるのぶ》はすぐ忘れた。
(鎌倉街道《かまくらかいどう》じゃから、いろいろなものが通るわ)
と、ぼんやり考えただけで、つい今し方、今夜の泊まりの場所へ先発させてやった諏訪《すわ》ご料人《りようにん》のことに思いは走った。
諏訪《すわ》家をほろぼす前から、晴信《はるのぶ》は諏訪頼重《すわよりしげ》に姫君《ひめぎみ》のいることは知っていたし、たいへん美しい姫君であることも聞いていないではなかったが、それにたいしてはべつだんな野心はなかった。ひたすらに、信州《しんしゆう》への道をひらきたい、そのためには諏訪口《すわぐち》を取るのが最良の策であるとだけ思いつめて、あたかも諏訪《すわ》家の一族の内通《ないつう》があったのを幸いに、諏訪《すわ》家を討滅《とうめつ》し、諏訪《すわ》を取ったにすぎない。
ところが、その後、諏訪《すわ》家の姫君を見ると、その美しさに心が動いた。そこで一夜の伽《とぎ》をさせた。一夜《ひとよ》か二夜《ふたよ》の伽《とぎ》で遠ざけるつもりであったが、そうはいかなかった。ますます心が引きつけられる。
(この女は敵の片割れだ。おれに家を亡《ほろ》ぼされ、父を殺されているのだ。おれにうらみを持たないはずはない。心をゆるしていつまでも側においておける女ではない)
とは、もちろん考えたが、しかもなお離しともない心をどうしようもない。
それで、不安がる重臣《じゆうしん》らを説得《せつとく》に説得を重ねて、ついに側室《そくしつ》にした。
それからまる二年、晴信《はるのぶ》は諏訪《すわ》ご料人《りようにん》にたいする愛情に溺《おぼ》れ切った。ご料人《りようにん》の方でも晴信《はるのぶ》を愛するようになった。はじめのほどは、人身御供《ひとみごくう》に上げられた敗者として、ひたすらに忍従《にんじゆう》するほかはないといったふうであったのだが、しだいに晴信《はるのぶ》を愛するばかりでなく、尊敬するようになった。晴信《はるのぶ》のかわらない愛情が胸の氷を解いたのか、姫の成人が男女の情愛を感得させるようにしたのかそのいずれでもあろう、姫は晴信《はるのぶ》の来るのをよろこび、その来訪が少しでもとだえるとかなしみさびしがった。
こうなると、晴信《はるのぶ》はいっそうかわゆくてならない。片時《かたとき》も側を離したくなく、こうして鷹野《たかの》にまで連れて出るようになったのだ。
今も修行者《しゆぎようじや》らにわかれて今夜の泊まりに急ぐ晴信《はるのぶ》の胸には、諏訪《すわ》ご料人《りようにん》の美しい姿がいっぱいにひろがっていた。夜ごとの睦言《むつごと》や、このごろやっとよろこびを知りはじめた姿や、そんなものが放恣《ほうし》なくらい思い出されて、きびしく引きむすんだ口もとに笑いが浮かんできそうであった。反省もあった。
(おれとおやじ殿とはまるでちがった性質だと、家来どもも領民らも見ているようだが、おれは自分で知っている。父と子だ。よく似ている。好むところに溺《おぼ》れる性質がそれだ。ただ、おれはおやじ殿よりかしこい。また、学問しているだけに、おやじ殿のように人のきらうような暴悪《ぼうあく》なことに溺《おぼ》れない。しかし、これは危険な性質だ。よいことにも、悪いことにも、度を越えて溺《おぼ》れることは、かならず不幸のもとになる……)
この反省は、諏訪《すわ》ご料人《りようにん》にたいする現在のみずからの態度から呼びおこされたものではあったが、それをすぐに行為に移そうとは思わなかった。やがて、おりを見て、という気持ちであった。
六
今夜の泊まりに指定されたのは、御坂峠《みさかとうげ》を北にこえた黒駒《くろこま》の、金川《かねがわ》の渓流《けいりゆう》にのぞんだ村の寺院であった。
晴信《はるのぶ》がつくと、諏訪《すわ》ご料人《りようにん》は庫裏《くり》の奥座敷《おくざしき》の入り口まで出迎えた。化粧《けしよう》をなおし、着がえをして、終日|野外《やがい》にあった人の冴《さ》え冴《ざ》えとした美しい血色をしていた。
「お疲れであろう」
「いいえ」
ご料人《りようにん》は、晴信《はるのぶ》の解いてわたす太刀《たち》を重げに両袖《りようそで》にかかえて、にっこりと笑った。笑うと、片頬《かたほお》にえぐったようにかわいいえくぼが入る。
「今日は別して獲物《えもの》が多かったので、わしはおもしろかったが、おことはどうでありました。おなごにはたいしておもしろくもなかろうな」
「いいえ、おもしろうございました。ただかわいそうで……」
「はっはははは、かあいそうでとは、鷹《たか》にとられる獲物《えもの》どもがか……」
晴信《はるのぶ》はおもしろそうに笑っていたが、ふと顔を引きしめて縁側《えんがわ》に出た。午後四時ごろのよく晴れた青い空を凝視《ぎようし》していた。
諏訪《すわ》ご料人《りようにん》は、にわかにきびしくなった晴信《はるのぶ》の様子に、刀をかかえたまま声をのみ、おびえた目つきで見ていた。
晴信《はるのぶ》はそれに気づき、なだめるように微笑して見せたが、すぐに表に呼び立てた。
「たれかおらぬか。急ぎまいれ」
どこにひかえていたのだろう、小具足《こぐそく》の武士が庭に走りこんで来た。苔《こけ》の青い庭にひざまずいた。
「先刻、御坂峠《みさかとうげ》の向こうで、旅の修行者《しゆぎようじや》の群に逢《お》うたな」
「は」
「あの者ども、思う仔細《しさい》がある。連れてまいるよう。来ぬというなら、からめてまいれ。また、手にあまらば、討ち捨ててもよいぞ。かならずともに取り逃《のが》さぬようにせい」
「はっ」
武士は、具足《ぐそく》を鳴らして、庭を走り出て、朋輩《ほうばい》や下人《げにん》らを呼び立てた。戦国の武人だ。たちまち用意ができた。武士五人、馬に飛び乗り飛び乗り、山門《さんもん》を駆け出した。下人《げにん》十人ほどが徒歩《かち》であとにつづく。もみにもんで、疾風《しつぷう》のように谷川添いの道を御坂峠《みさかとうげ》に向かった。
一方、景虎《かげとら》一行の方――
晴信《はるのぶ》らが行きすぎ、その姿が見えなくなってしばらくすると、景虎《かげとら》は不意に、
「急ごう。悪くすると、あの好色男《こうしよくおとこ》め、こちらに追《お》っ手《て》をかけるぞ」
と言った。
「まさか。そのような様子は微塵《みじん》も見えませなんだものを」
と、鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》が言ったが、景虎《かげとら》はきかない。
「追っ手をかけねば幸い。しかし、かけられたら、とりかえしのつかぬことになる。ともかくも急げ!」
先に立って、走るような速度になった。
しかたがない。一同もまた急いだ。
どうやら河口湖《かわぐちこ》の岸にたどりつき、そこを過ぎて、富士《ふじ》の裾野《すその》にかかったが、景虎《かげとら》はまだ急ぐのをやめない。のみならず、
「この道はいかん。横へ反《そ》れよう」
と言い出した。
文句《もんく》を言わせない。左に切れて道もない茅山《かややま》の急峻《きゆうしゆん》な斜面を、しゃにむによじ登って行く。
こうして一時間ほども道のない山を横に切れて急いでいる間に、日が沈みかけてきた。それでも、景虎《かげとら》は歩度《ほど》をゆるめない。
「もう少しだ。日が落ちて暗くなるまでは安心できぬ」
と言い張って、ただ急ぎに急ぐ。やがて日は沈んだが、残照がよく晴れて全貌《ぜんぼう》を見せている富士に映えて、その照りかえしで、あたりはあさましいくらい明るい。
「こうなると、富士の晴れているのがうらめしいの」
とだれやらがぼやいた。その時であった。
「オーイ」
と呼ばわるかすかな声がうしろから聞こえた。
ふりかえって見ると、十五、六人の小具足《こぐそく》の一団が草山のいただきで手を振っている。
「それ見ろ、追っ手だ! ただ走れ! もう少しで暗くなる。暗くなれば大丈夫《だいじようぶ》だ!」
景虎《かげとら》が言うまでもなかった。みな青くなって、走り出した。
山の上では走りおりにかかる。
追う者と追われるものと、しばらく競走がつづいたが、富士の残照はしだいに巓《いただき》に片寄り、しだいに薄れ、それとともに下界は暗くなり、やがてとっぷりと暮れた。
七
小田原《おだわら》に行って北条《ほうじよう》氏の様子を見、北関東《かんとう》を見、出羽《でわ》を一見した景虎《かげとら》らの一行が琵琶島《びわじま》にかえりついたのは、秋ももう最中《もなか》のころであった。
宇佐美定行《うさみさだゆき》の忠言を聞き入れず、勝手に巡歴《じゆんれき》の旅に出たのだから、相当きびしく諌言《かんげん》をされることと、景虎《かげとら》は覚悟していたのだが、定行《さだゆき》は、
「こうなると、なまじお止めだてしたことが恥ずかしゅうござる。旅は学問になるものです。おためになったこと、一通りではありますまい。しかしながら、これは幸いにして事がなかったからのこと、いわば僥倖《ぎようこう》であります。僥倖《ぎようこう》を頼みにしてことを為《な》すは名将の恥ずるところ、今後はおつつしみくださるようにお願いしておきます」
といっただけであった。
その後、定行《さだゆき》はすぐ言う。
「お不在《るす》の間に、拙者《せつしや》、国内の形勢を観察して、つらつら思うたのでありますが、今日の越後《えちご》は四つの勢力が|せり持ち《ヽヽヽヽ》で一時の小康《しようこう》を保っている状態であります。つまり、春日山《かすがやま》の弾正《だんじよう》殿、かく申す琵琶島《びわじま》の拙者《せつしや》、三条《さんじよう》の俊景《としかげ》殿、蒲原《かんばら》の昭田《しようだ》常陸《ひたち》の四勢力であります。拙者《せつしや》は弾正《だんじよう》殿方に近いし、昭田《しようだ》は俊景《としかげ》殿に近いゆえ、大別すれば二勢力でござるが、今日の状態でいるかぎり、この四家はあくまでも独立した四勢力であります。ところが、賊徒征伐《ぞくとせいばつ》、越後《えちご》一統の役目を負うておられるはずの弾正《だんじよう》殿はこの小康に満足しきって、とうてい奮発のお気持ちはおわさぬように見えます。なんとかして、弾正《だんじよう》殿の尻骨《しりぼね》をたたいて踏み出させることが肝心《かんじん》と思うのでありますが、普通の諌言《かんげん》などではお動きになりそうにありません。今はもう、のこるところの策は、この小康の状態を破るよりほかはないと思うのでござる」
「破るとは?」
「君に義兵を挙げていただくこと。さすれば、三条《さんじよう》ではこれを黙って見てはいません。かならずや、兵をくり出してくる。微妙《びみよう》な力の均衡《きんこう》で保たれている小康であります。一波動けば万波|随《したが》って動きます。動けば弾正《だんじよう》殿とても、居すくんで色遊びばかりはしておられますまい。いかがでありましょう」
「よかろう。おれももうしびれが切れた」
細かな打ち合わせが行われた結果、栃尾《とちお》の本庄慶秀《ほんじようよしひで》を語らって、栃尾《とちお》の古城を修復してことを起こすことになった。
栃尾《とちお》は山にかこまれた小|盆地《ぼんち》だ。攻むるに難《かた》く、守るに易《やす》い。その上、三条《さんじよう》からわずかに五里の距離にある。
ここに兵を挙げられては、俊景《としかげ》にしてみれば鼻先に斬《き》りこまれたような気がするに相違ないのだ。冒険のようであるが、そうでなければ効果はない。
早速に本庄慶秀《ほんじようよしひで》を呼んで相談した。慶秀《よしひで》は涙を流して景虎《かげとら》の成人をよろこび、
「よろしゅうござる。微力《びりよく》ではござるが、身代も一族の身命を捧《ささ》げ申して、ご奉公いたすでござろう」
と、頼もしく誓った。
栃尾《とちお》の郊外の野中《のなか》に南北朝のころ、上野《こうずけ》宇都宮《うつのみや》氏の一族である芳賀某《はがぼう》の築いていた古城|址《あと》がある。二百年近くを経て、荒れはてて原野《げんや》にかえってはいるが、それでも濠《ほり》のあとや、塁壁《るいへき》のあとがたどればたどれる。刈谷田《かりやた》川から水を引く便もある。打ちひらいた原野の中にあるのだから、城としてはあまりいい場所とはいえないが、なにせ急がなければならない。できるだけ早く築城できるというので、これを修築にかかった。本庄《ほんじよう》一族やその領民らは言うまでもない。景虎《かげとら》も、新兵衛《しんべえ》らも、また琵琶島《びわじま》からも宇佐美《うさみ》家の家来や領民らが出むいて、必死になって働いた。濠《ほり》をさらい、土塁《どるい》をかき上げ、板葺《いたぶ》きの建物もしつらえ、日ならず城ができた。
挙兵のことがきまった時、弥太郎《やたろう》の朋輩《ほうばい》らは、弥太郎《やたろう》に、
「それ、待ちに待った時が来た。松江《まつえ》殿を迎えに行けい」
と、言い出した。
弥太郎《やたろう》は大いにてれた。
「その必要はない。うわさを聞いたら来るということになっとる」
と言ったが、人々はきかない。
「あの山奥にうわさが伝わるとは思われん。どうしても、おぬしが迎えに行かねばならんところじゃ」
と、言いはった。
「なんでおれが行かねばならんのじゃ。知らせをやるにしても、使いの者で沢山《たくさん》じゃ」
と、弥太郎《やたろう》はますます照れたが、景虎《かげとら》がこれをさばいた。
「松江《まつえ》ほどの者が味方の陣中にあるは、百騎二百騎の勢があるより、まだ頼みになる。行って連れてまいれ」
千万《せんばん》いたし方なく、弥太郎《やたろう》は旅立ったが、十日ほどの後には、連れ立って帰って来た。
祝言《しゆうげん》させることになったが、松江《まつえ》はいやだとすねた。
「おら、いやだによう。祝言ちゅうと、紅おしろいつけてめかさにゃならねえに、こげんな髪して、なに紅おしろいじゃ。もっと髪がのびて結《ゆ》えるようになってからにするすけ、今はかんべんしてくだっせえ」
といいながら、いが栗《ぐり》のようにのびた髪を両手で撫《な》でまわして、身をすくめる。まことに女らしかった。
旗上《はたあ》げ
一
はずかしがって言うことを聞かないのを、みなで寄ってたかって口説《くど》いた。
「戦《いく》さがはじまるのじゃ。相手はなかなかの強敵《きようてき》じゃ。あってはならぬことじゃが、武運つたなくば、どんなことになろうも知れぬ。それは弥太郎《やたろう》かも知れぬ。そなた様かも知れぬ。両方かも知れぬ。いくさのことじゃ。何ともはかられぬ。両方ともにということになれば、閻魔《えんま》の庁へ行って、そこで髪の生えそろうを待って、閻魔《えんま》大王どのなり、牛頭馬頭《ごずめず》の鬼どもなりを媒酌人《なこうど》として祝言《しゆうげん》するという手もあるが、同じくはこの世で晴れて夫婦《みようと》となった上で、思うさまの働きをしたがよいではないか。わしはそう思うがのう」
と言う者があり、
「おなご心としてはそげいな髪で祝言《しゆうげん》するのがいやなのも無理ではない。しかし、そなた様は器量がいいのじゃ。髪など無《の》うても、十分にあでやかじゃ。それに、祝言の際は綿帽子《わたぼうし》をふかぶかとかぶるのじゃすけ、髪は無《の》うてもちっともさしつかえはないと思いなさろ」
と言う者があり、みな懸命《けんめい》であった。おもしろがっている気味があった。
閻魔《えんま》の庁|云々《うんぬん》には、松江《まつえ》は動く模様はなかったが、綿帽子|云々《うんぬん》には、
「ほんとですのう、祝言の時には綿帽子をかぶるのが武家の法でしたのう」
と、いささか心を動かしたけはいが見えた。
戦陣において敵勢の色めき立ったのを見た時と同じであった。それッ! とばかりに、一同いっせいに躍進《やくしん》する。
「そうとも、そうとも、綿帽子をかぶるのじゃ」
「あれは鼻の頭のちょいと上のへんまでかぶることじゃすけ、そなた様の頭はちっとも見えぬ。見えるは美しい口もとと下頬《したほお》ばかりじゃ」
「あでやかな花嫁《はなよめ》ぶりであろうわい」
エイヤエイヤと槍《やり》ぶすまを叩《たた》きつけはねのけて槍《やり》を入れるに似ていた。
松江《まつえ》はついに揺《ゆ》りうごかされた。いがぐりあたまのてっぺんまで、染め上げたように赤くなり、
「そんだら、そうしますべえ。……ああ、はずかしや!」
と袂《たもと》を頭からかぶった。
「やれ、承知か!」
どっと一同わいた時、袂《たもと》のかげから松江《まつえ》は言った。
「綿帽子を忘れんでくだされや、おらは武家のおなごとして祝言《しゆうげん》するのじゃすけ」
「承知、承知」
またわいた。
大急ぎで、婚礼《こんれい》の支度《したく》が進められた。媒酌《ばいしやく》は本来なら宇佐美定行《うさみさだゆき》がつとむべきであるが、これは男やもめなので、本庄慶秀《ほんじようよしひで》が頼まれた。場所も本庄《ほんじよう》家の奥座敷ということになった。
祝宴には、景虎《かげとら》、宇佐美《うさみ》、新兵衛《しんべえ》以下のれいのなかまが列席して、とどこおりなくすんだ。綿帽子を深々とかぶって、本庄《ほんじよう》の妻女の若いころのうちかけを着た松江《まつえ》はなかなかあでやかであった。
うっとりとながめていた戸倉与八郎《とくらよはちろう》は、隣の秋山源蔵《あきやまげんぞう》にささやいた。
「おれも嫁がほしゅうなったわ」
「おれもじゃ」
「しかし、あの綿帽子の下にはイガ栗《ぐり》あたまがあるのじゃからな」
「それを言うな」
ともあれ、なかなかの花嫁ぶりであった。
引きとって、床入《とこい》りとなった。
「おらこれ脱《ぬ》ぐのいやじゃ、きっとお前様は笑わっしゃるすけ」
二人きりになった時、松江《まつえ》はそう言った。
無理のない女心だとは、弥太郎《やたろう》も思ったが、それではどうもぐあいが悪かった。おあずけを食った犬のように、歯を食いしばっていく月をこらえてきたのだ。愛する人であることを目でも十分に見て、しかる後に臥所《ふしど》を共にしたかった。
「笑いはいたさん。やはり脱《ぬ》いだがようござる。そうでなくば、拙者《せつしや》きっと余のものと寝ているような気がすると思う」
「余のものちゅうと、余のおなごですかえ」
「そういうことになる」
「おら、いやだによう!」
松江《まつえ》の声は悲鳴に近かった。いきなり、帽子をひきむしった。
綿帽子については、今日の若い読者には説明を要する。真綿《まわた》でつくって、ふのりをひいて形のくずれるのをとめてあった。防寒用として男女ともに相当な身分の者の寒い日の外出に普通は用いられたものだが、この時代から武家の婚礼《こんれい》には花嫁はかならず用いる習慣になった。余人《よじん》に顔を見せないためである。もっとも、そう身分の高い階級ではない。侍《さむらい》階級の武士であった。領地を手広く持って大名といわれるほどの階級の武士の新夫人は多くは公家《くげ》の姫君《ひめぎみ》から来たから、公卿《くげ》礼法を根底において足利《あしかが》幕府の定めた武家礼法を崩《くず》さず踏襲《とうしゆう》したのである。
元来が真綿《まわた》製だ、ふのりでかためてはあっても、イガ栗頭《ぐりあたま》にかぶっては引っかかるおそれがある。それを防ぐために、松江《まつえ》は下を白い絹でつつんでいた。
「これでよかるべ」
紅《あか》く上気《じようき》して、かすかに汗ばんでいる。雪のように真っ白な絹のきれで頭をつつんでいるのが、凛々《りり》しくさわやかな美しさであった。
にっこり笑っていう。
「ああ、さっぱりしただ。綿帽子ちゅうものは、おらは飛騨《ひだ》の山奥の寒さにもかぶったことはなかっただが、ぬくたいものですのう。ぬくたすぎて、むしむしして、汗が出てたまらなんだですぞい」
弥太郎《やたろう》は悩乱《のうらん》した。全身|筋骨《きんこつ》のかたまりのようなたくましい体躯《たいく》がわなわなとふるえてきた。ふるえは下腹からおこり、四肢《しし》の先、あたまのてっぺんまで走りすぎてやまない。
「……松江《まつえ》どの!」
蚊《か》の鳴くようなかぼそい声をわななかせ、ふっと灯《ひ》を吹き消し、もろ腕をひろげて抱きしめた。
「うれしい!」
松江《まつえ》もふるえている。女にしては筋骨ががっちりとしまっているが、それでもやわらかでしなやかな背中がたえ間なくふるえている。弥太郎《やたろう》はその背をまさぐり、首筋に腕をからんで、ぐいと引きよせた。ぼんのくぼのざらざらした髪が腕にふれた。毛虫かなんぞつかんだ気持ちであった。ぞっとした。たぎり切った情熱が一時にシュンとしぼむ気分であった。しかし、とっさに持ちこたえた。こんな際、一瞬時でもためらいのけはいを見せるのは愛する者にたいする礼儀でないと思った。彼は松江《まつえ》の頭のきれを荒々しくむしりすて、ざらざらの頭を両手でしっかりと抱きかかえ、唇《くちびる》を唇に重ね、唇ももげよ、呼吸《いき》の根もとまれよと吸いついた。
二
景虎《かげとら》が栃尾《とちお》で古城を修築して挙兵の支度《したく》をしていることは、日ならず三条《さんじよう》に聞こえた。
せっかく討《う》っ手《て》としてつかわした股野荒《またのあら》河内《かわち》が景虎《かげとら》の策略にかかって、まんまととり逃がしたのは一年前のことだ。年に似合わぬたくましい根性《こんじよう》とおどろきはしたが、こうも早く不敵な思い立ちをしようとは意外であった。しかし、まだ小童《こわつぱ》にはちがいない。
「生意気千万《なまいきせんばん》な企《くわだ》て。虎《とら》のひげをひねろうとするのか。一息にもみつぶせ」
とばかりに出陣の用意にかかった。
栃尾《とちお》の方でも用心は怠っていない。たえず諜者《ちようじや》をはなって動静を見ている。
「さあ、来るぞ」
三条《さんじよう》からの栃尾《とちお》盆地の入り口に、山を負うて寨《とりで》を構築にかかる一方、宇佐美定行《うさみさだゆき》にも諜《ちよう》じ合わせた。
数日の後、俊景《としかげ》は二人の将に二百五十人ずつを授けて先鋒《せんぽう》として押し寄せた。寄せ手も盆地の入り口に寨《とりで》が構築されつつあることは諜者《ちようじや》の報告で知っている。先鋒《せんぽう》隊は用心しながら押して来たのだが、その寨《とりで》の姿を見てあきれた。
みすぼらしいといってよいほどの寨《とりで》だ。前面の小川の内側に柵《さく》を結《ゆ》い、そのこちらに逆茂木《さかもぎ》をひき、そこからは自然の崖《がけ》を利用して塁壁《るいへき》になっている。高さ約五|丈《じよう》、上に大木を横たえ、その内側に小屋が建っている。板葺《いたぶ》きの小さな小屋だ。三十人も人数がこもったらいっぱいになりそうだ。
「こりゃまあ、えらいもんじゃな」
「勇気のほどは頼もしいわ。この寨《とりで》にこもって防ごうというのじゃからな」
「しおらしいわ」
笑いさざめいて、しばらく見物していたが、寨《とりで》の中はひそまりかえって人声一つしない。晩秋の風に二|旒《りゆう》おし立てた旗がのびたりちぢんだり、旗竿《はたざお》にまきついたりしてひるがえっている音だけがさびしく立っている。
先手《さきて》の大将二人は、いぶかしく思って、馬を寄せ合って相談した。
「この寨《とりで》の様態《ようたい》、まことにいぶかしいが、貴殿《きでん》どう思わっしゃるぞ」
「さればの、擬勢《ぎせい》ばかりで、こもる者がないのではござるまいか」
「貴殿もそう見られるか。拙者《せつしや》も同じじゃ。はじめはこもって防戦するつもりでいたのが、いよいよわれら寄せると聞いて、臆病風《おくびようかぜ》に吹かれて落ち失せたのではござるまいか」
「拙者《せつしや》の見るところも同じだ」
見込みは一致した。乗っ取ることになった。二人は鐙《あぶみ》をふんばって馬上にのび上がり、それぞれの手の者に大音にさけんだ。
「敵ははや落ち失せたと覚えるぞ。それ、乗っ取れ!」
古往今来、軍隊というものはたがいに競争するように組織されている。弊害《へいがい》はもちろん伴うが、何よりも大事な勝つという目的のためには、各隊たがいに競争するように組織した方がよいからである。現代になって弊害《へいがい》の面がクローズアップされて、横の連絡を緊密にすることが要望されながらも、どこの軍隊もなかなかそうならず、依然《いぜん》として割拠《かつきよ》的であるのは、このためだ。まして、この時代の軍隊だ。競争意識のかたまりである。
すさまじい喊声《かんせい》とともに、遅《おく》れるものかとばかりに、両隊は馬をとびおりるや、走り出した。小川にとびこんで柵《さく》を抜きすてにかかった。秋も末のことであるから、川は涸《か》れ、水は脛《すね》の半ばほどしかない。立ち働くには何の不自由もない。たちまち柵《さく》は抜きおわり、這《は》い上がって逆茂木《さかもぎ》を引きのける。
寨《とりで》の中では何の異変もおこらない。二|旒《りゆう》の旗がものさびしい音を立ててはためいているだけだ。兵士らは勇み立った。
「エイヤ、エイヤ、エイヤ」
と歓呼《かんこ》に似た声をあげながら逆茂木《さかもぎ》を引きのけて川に投げこみ投げこみ道をひらいて、塁壁《るいへき》にたどりつき、岩角に足をかけてよじのぼりにかかった。中にはどこかに寨《とりで》の出入り口があいていなければならないはずと、走りまわってさがしにかかる者もあったが、どうやらそれはこちらの方にはあいていないらしいと思われたので、これもよじのぼりにかかった。五百の兵のうち塁壁《るいへき》にとりついていないのは、両大将とその馬廻《うままわ》りの者二十人ばかりにすぎない。あとは全部とりついて、エイヤエイヤと掛け声を上げてのぼって行く。いろいろな縅毛《おどしげ》の具足《ぐそく》が晩秋の昼過ぎの日に照らされて、赤|蟻《あり》・黒|蟻《あり》・縞模様《しまもよう》の蟻《あり》がぎっしりたかって這《は》いのぼって行くように見えた。
その蟻《あり》どもの先頭がもう七、八尺で上りつめようとした時であった。突如《とつじよ》として上に横たえた巨木《きよぼく》の上におどり出して来た数人の武者《むしや》があった。みな小具足《こぐそく》めいた軽装をしている。こちらで見ていた両大将は、
「あっ!」
と悲鳴に似たおどろきの声をあげたが、とたんにその塁兵どもは手に手に大きな材木や石をかかえて投げおろしはじめた。
むざんなことがはじまった。色とりどりな蟻《あり》の群は、大石に打たれ、巨木にはらいおとされ、悲鳴をあげて顛落《てんらく》しはじめた。この高さからおちては、普通でも大怪我《おおけが》はまぬかれないのに、木石はあとからあとからと投げおとされて来るのだ。たまるものではない。血へどをはいて、ふみつぶされた蛙《かえる》のようになって即死する者が少なくなかった。
「返せ、敵にははかりごとがあるぞ!」
大将らは身をもんで絶叫《ぜつきよう》した。
さしずがなくても塁壁《るいへき》の兵士らは退却したいのだが、高みにやっとの思いでしがみついている上に、あとからあとから木石が投げおとされてくるのだ。急にそうできる道理がない。わずかに出っぱった岩かげに身をすくめて肝《きも》をひやしているのがやっとのことであった。
寨方《とりでがた》としては、霞《かす》み網《あみ》にかかった小鳥を狙《ねら》いうちにするようなものだ。おもしろからぬはずがない。
「あんげなところに一人とまっとるわ。それ! 食らえ!」
と木材を投げおろす。
「はずれたでねえか。こんどはおれが」
と石を投げつけるという有様《ありさま》だ。
この守兵らの中に、目立って働きのすさまじい兵が一人いた。緋縅《ひおどし》の小具足に白地の陣羽織《じんばおり》を着、白いきれで頭をつつんでの立ち働きが群をぬいている。普通の人が三、四人もかかるほどの大木巨石をいとも軽々と持ち上げては投げおろす。剛力《ごうりき》のせいであろう、狙《ねら》いもいたって正確だ。はるかにへだたった斜めの位置の岩角にからくもしがみついている者を目がけても、かならずあてる。からだはそれほど大兵《たいひよう》とは見えない。普通の体格のようだ。そのせいであろう、身のこなしも軽い。さしも高い崖《がけ》の上にわたした巨木の上を飛鳥のように軽々と走りまわりながら立ち働くのだ。
やがて、小川のほとりに馬を立てて気をもみながら見ている大将らに気がついて、片手をあげて呼ばわった。
「やあ、やあ、そこにおじゃる寄せ手の大将方、石か木か、ご所望《しよもう》次第に進上しますけ、好みなさろ!」
働きのすごさに似ず、やさしい女の声であった。
「や、女じゃぞ!」
と、大将らはおどろいた。そういえば、その武者の顔の色がたいへん白いのであった。人々は舌を巻いた。
「これやい! 早く好みなさろ! そちらから言いなさらんなら、こっちで見つくろうて進上すべい!」
女はまた大音声《だいおんじよう》に呼ばわり、同時に大石・大木のきらいなく、ぶんぶんと投げうちはじめた。石も木材もすさまじい勢いで飛んで来て、おどりはずみ、大地にめりこむ。
大将らはかろうじて退《ひ》いて来た兵士らをとりまとめて、小川をこえて、少しあわいをとった。
崖《がけ》には身をすくめてからくもしがみついている兵士らが相当のこっており、崖《がけ》の下には死者や重傷者がいる。どうにか引き上げて来た兵士らも、手足をくじいている者が少なくない。これほどの損害を、この小さい寨《とりで》の守兵にあたえられて、おめおめと退却などできるものではない。いやいや、崖《がけ》にしがみついて身動きもできずにいる兵士らを捨て殺しになんぞしては、これまで築き上げた武名は泥《どろ》にまみれてしもう。
二人はひたいを寄せて、相談にかかった。
越後《えちご》の国は日本女|豪傑《ごうけつ》史上特筆すべきものを持っている。鎌倉《かまくら》時代の板額《はんがく》がこの国の出身だ。板額《はんがく》は王朝時代からこの国の名族として知られていた城《じよう》家の出身であった。鎌倉二代の将軍|頼家《よりいえ》の時、城《じよう》家の当時の当主|資盛《すけもり》が幕府をうらむことがあって反旗をひるがえした。その時、板額《はんがく》は大いに働いて、櫓《やぐら》の上から強弓《ごうきゆう》に長箭《ちようせん》をつがえて対手《あいて》の勢に射放《いはな》つのに空矢《あだや》がなかった。寄せ手は板額《はんがく》一人に射白《いしら》まされて攻めあぐんだが、一人が城のうしろの山によじのぼり、狙《ねら》い定めて射た。その矢が板額《はんがく》の足にあたって、立つことができなくなった。それで、城がついにおちいった。板額《はんがく》は捕《と》らえられて鎌倉《かまくら》に曳《ひ》かれたが、将軍の面前に出ても強剛不屈《きようごうふくつ》、少しもおじけた色を見せなかった。容貌醜怪《ようぼうしゆうかい》、鬼か般若《はんにや》のようであり、人々興をさましたが、甲斐源氏《かいげんじ》では当時一流の剛勇《ごうゆう》の士であった浅利《あさり》ノ与一義道《よいちよしみち》は頂戴《ちようだい》して妻としたいと願った。(実際は美人であった。伝説がこうなっているのだ)
「無双《むそう》の勇士を生ませて、君のおんためにならせたいのでござる」
「さてさて、タデ食う虫もすきずきとはよう言うたものじゃな」
と、頼家《よりいえ》は笑って許したと伝えられているのだ。
この話は伝承されて、越後《えちご》ではだれ知らないもののない民話になっている。この記憶からにちがいない。
「城のうしろの山によじのぼって射よう」
ということになって、両将の馬廻《うままわ》りの中から、精兵《せいびよう》(弓の上手《じようず》なこと)の者を六人えらび出して、さしまわそうとしていると、俊景《としかげ》のひきいる本隊が到着した。
俊景《としかげ》は戦《いく》さ上手《じようず》だ。両人の報告を聞いて、眉《まゆ》をひそめた。
「これほどの小さい寨《とりで》は、うち捨てておし通ってもさしつかえはなかったのだ。栃尾《とちお》の城を踏みつぶしさえすれば、なんのふみしめもなく落ち散るにきまっていたのじゃ。しかし、攻めかけたからは、その上これほどの痛手をこうむった上は、踏みつぶさずば、味方の勇気のさまたげ、敵に勢いをつけることになる。いたし方はない。その策《て》でやれい」
と、旗本の勢からも射手をえらび出した。すべてで十五人が射手となった。
三
選ばれた射手十五人は、裏山によじのぼるべくどこかへ消えた。
同時に、俊景《としかげ》は全軍に命じて、寨《とりで》を目がけて矢を射かけさせた。守兵らの注意をそらすためであった。
薄赤い午後の日ざしに、矢は矢竹を光らせて、羽虫《はむし》の群のように寨《とりで》に集中した。顔を出せるものではない。守兵らはいったん姿をひそめたが、たちまち楯《たて》を立てならべて、その陰から応射しはじめた。兵数が少ないので、はかない抵抗に見えた。こちらの矢は楯《たて》や木材につきささって、またたく間に針鼠《はりねずみ》のようにしてしまった。気負い立った。
「ウワーッ!」
と、時々|威嚇《いかく》するような喊声《かんせい》をあげては、いっそう矢を集中した。
その時、寄せ手の背後の山にドッと鬨《とき》の声があがった。おどろいてふりかえると、さして高くもなく、また急峻《きゆうしゆん》でもなく、ただこんもりと樹木が生いしげっている山だが、その樹木の梢《こずえ》をぬいて、いつの間にか赤い旗と青い旗とが二、三百|旒《りゆう》も乱立していた。あっ、と重ねておどろいた。高みにはかなり強い風があるのであろう、入り乱れてひるがえるのが目のさめるような美しさだ。
「油断はならぬ」
俊景《としかげ》は軍勢を二手《ふたて》にわけ、一手をそれに備えさせたが、またしても驚かされた。入り乱れて乱立していた旗が、青旗は右方に、赤旗は左方に、整々としてわかれはじめたのだ。
疑いまどわざるを得ない。
目もはなたず見ているうちに、旗はすっかりわかれて二組となり、小半町《こはんちよう》の距離をおいて、ぴたりととまった。
敵が十分な意図《いと》をもってやっていることは明らかだが、どんな策に出るつもりか、それがわからない。こんな奇妙な戦術に出逢《であ》うのははじめてだ。俊景《としかげ》は口びるをかみしめてただうなった。
俊景《としかげ》が心をまどわせたくらいだから、部将や兵士はなおさらのことだ。疑惑《ぎわく》と故《ゆえ》知らぬ恐怖とにおそわれて寨《とりで》への攻撃も忘れて、ぼうぜんとして目をみはっていると、突如《とつじよ》として栃尾《とちお》道の方に喊声《かんせい》がおこり、一隊の人馬が湧《わ》き出すように奔出《ほんしゆつ》して来た。
せまい狭間《はざま》道を土煙《つちけむり》をあげ、刀槍《とうそう》をきらめかせ、すさまじい喊声《かんせい》とともに押し出して来、そのまままっしぐらに飛んで来る。一騎一騎が鉄のつぶてかなんぞのようだ。おそろしい勢いであり、おそろしい速さだ。
三条《さんじよう》勢は色めき立った。
俊景《としかげ》ははっとわれに返った。おそろしい場に立っていることを知った。ここでいささかでも恐れる色を見せては、全軍がくずれ立つことは明らかであった。
「退《ひ》くな! 敵は小勢《こぜい》だぞ! 五百騎はないぞ! 弓で射取れい! 弓だ! 弓だ! 弓だ!……」
叫《さけ》び立て、叱咤《しつた》し、必死になって浮き足をとめにかかった。範を示すために、みずから弓をとりなおし、よっ引いて射放った。あやまたず、先頭に立った一騎が、どこにあたったのか、転落した。
「そら! 鬨《とき》の声!」
ウワーッと、全軍が喊声《かんせい》をあげ、浮き足は一時にとまった。弓をたずさえた者は、腰をすえ、矢つがえをはじめたが、その時、寨《とりで》の上にまた守兵らがあらわれた。楯《たて》をはねのけて木材の上におどり出、手《て》ン手《で》に弓を引きしぼり、拳《こぶし》さがりに射送りはじめた。兵が少ないから飛んで来る矢数は少ないが、高みから射おろす矢だ。まことに効果的だ。あたればかならず篦深《のぶか》くささって重傷を負わせる。やにわに五、六人がたおされた。
「うるさいやっぱら、かもうな! ただ向かう敵を射取れ!」
と、俊景《としかげ》はさけんだ。
兵士らは突撃して来る敵兵に矢を集めたが、右側の上方から飛んで来る矢はうるさいくらいではおさまらない。容赦《ようしや》なくあたり、あたれば深傷《ふかで》を負わせる。
その上、前面の敵がおそろしく勇敢だ。一矢の射返しもせず、冑《かぶと》の鉢《はち》をかたむけ、鎧《よろい》の袖《そで》をかざして矢ふせぎしながら、狂人のような喊声《かんせい》をあげながら、ただ飛んで来る。
兵士らの胸はまたゆらいだ。
その時であった。わかれて山上にかたまっていた右側の青旗が、急に山を下りかけた。退路を絶つつもりのようだ。しかも動きが急速度だ。
戦場の兵士にとって、退路を絶たれると感ずることほどおそろしいことはない。先刻から驚かされ疑惑させられ、恐怖させられ通しで、やっとの思いでこらえて来た三条《さんじよう》勢は、もうたまらなかった。
「あとを取り切られるぞ!」
と、どこやらで臆病《おくびよう》げなさけびが上がると、そのへんが動揺し、それがおそろしい速さでひろがって、全軍たちまちドッとくずれ立った。
突撃隊が突入して来たのは、それと同時であった。ドッと馬首をあおって乗りかけ、刀をふりおろし、槍《やり》でたたきつけた。
これを見て、寨《とりで》の守兵らは小おどりした。中にも、女|武者《むしや》は手にした弓を投げすてるや、腰にわがねてぶら下げていた腰縄《こしなわ》をくり出し、端を木材に打った|かすがい《ヽヽヽヽ》にからみつけ、薙刀《なぎなた》をかかえてさらさらとたぐりおりた。他の守兵らもこれにならって下り立ったが、もうその時には、女武者は川をこえてこちら側に来、まっしぐらに戦闘におどりこんだ。
「退《の》かっしゃれ、退《の》かっしゃれ! おらは殿御《とのご》のそばに行かにゃならねえすけ、これ、退《の》かっしゃれちゅうに!」
敵味方のきらいなく、おしのけ、はね飛ばしして、先頭に立った鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》のそばに走りついた。
「おらが殿御《とのご》! しっかり働かっしゃれ! おらが来たぞい!」
弥太郎《やたろう》は栗毛馬《くりげうま》に黒革《くろかわ》を紺糸《こんいと》でおどした鎧《よろい》を着、鹿《しか》の角《つの》の前立《まえだて》打った冑《かぶと》をかぶり、握《にぎ》り太《ぶと》な大槍《おおやり》を打ちふり打ちふり、敵を叩《たた》きつけ、薙《な》ぎ散らし、槍玉《やりだま》にあげてははね飛ばしていたが、ただ一言、
「おお、来たか!」
とどなった。
「おお来たぞい!」
松江《まつえ》は馬上の夫とならんで、一歩もおくれず、薙刀《なぎなた》をまわして先頭を切った。
退《ひ》き足立った軍勢は不思議だ。実力的には数倍の力を持っていても、まるでもろい。この時の三条《さんじよう》勢も二千という大軍でありながら、わずかに五百の栃尾《とちお》勢にまくり立てられ、しどろになって潰走《かいそう》また潰走《かいそう》した。
こうなっては、俊景《としかげ》がいかに猛将《もうしよう》でも、戦《いく》さ上手《じようず》でも、手のほどこしようはない。味方の勢にひかれて、ひたすらな退却をつづけた。
栃尾《とちお》勢は追いすがり追いすがり、斬人斬馬《ざんじんざんば》、斬《き》って斬って斬りまくったが、山上にあって形勢を見ていた景虎《かげとら》は時をはかって、退鉦《ひきがね》を鳴らして、器用に引き上げさせた。
四
最初の合戦《かつせん》に打ち負けて、ほうほうのていで三条《さんじよう》に逃げ帰った俊景《としかげ》は無念であった。しかし、やっと十五の景虎《かげとら》にあれほどみごとな手腕があるとは思われない。
「くるくると小智恵《こぢえ》のまわるところ、宇佐美《うさみ》が軍配に相違なし。あなどり切ってそぞろに寄せたのは不覚であったわ」
早速に与党の豪族《ごうぞく》らにふれをまわして軍勢を催促《さいそく》した。とりわけ蒲原《かんばら》郡の昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》には腹心の家来を使者としてつかわした。軍勢は続々として三条《さんじよう》に集まった。昭田《しようだ》のところからは息子《むすこ》の黒田《くろだ》和泉守国忠《いずみのかみくにただ》と金津《かなづ》伊豆守国吉《いずのかみくによし》とがそれぞれ千人ずつの兵をひきいて着到した。
「父もやがて馳《は》せ参ずる手はずになっております」
と、二人は言った。
景虎《かげとら》方は、いずれも景虎《かげとら》の智略《ちりやく》と奇策に驚嘆しながらも、意気大いに上がって、おこたりなく敵の再襲にそなえて、寨《とりで》を盆地へのすべての入り口に設けた。宇佐美定行《うさみさだゆき》に緒戦《しよせん》の勝利を報告するかたがた助勢を乞《こ》うたことももちろんだ。春日山《かすがやま》へも使者を出して助勢を頼んだ。これはこの頼みが素直《すなお》に聴かれようとは思われず、かならずや、なまけ者で懦弱《だじやく》な晴景《はるかげ》は「余計なことをして、めんどうの種を蒔《ま》く」と腹を立てるくらいが関《せき》の山《やま》だと思われたので、府内館《ふないやかた》の上杉定実《うえすぎさだざね》のもとにも使者を出し、くわしく志を訴えた書面を持って行かせた。書面は姉の定実《さだざね》夫人にも書いた。すべて晴景《はるかげ》を説得してもらうためであった。
志を寄せそうな豪族らにも触れ状をまわした。
まず宇佐美《うさみ》が五百余の兵をひきいて到着した。
次ぎにはかねてから俊景《としかげ》をにくんではいるが、形勢を観望していた豪族らが、緒戦《しよせん》のみごとな勝利を見て、心を決して馳《は》せ参ずる者が数人あったが、いずれも百人から二百人、せいぜい三百人くらいしか引きつれていないから、兵数としては知れたものであった。
一方、利にさそわれての加担だけに、俊景《としかげ》方の着到はなかなかのものであった。ときどき諜者《ちようじや》が馳《は》せかえって来て報告するのだが、それによると加速度的に兵数が増加しつつある。ほどなく一万五千を突破するにちがいなかった。人々の気をもむことは一通りでなかった。たまりかねて、新兵衛《しんべえ》らはうちそろって目通りに出て、
「この有様《ありさま》で進めば、せっかくのお味方にまいっている者も、どう心を変ずるか知れませぬ。弾正《だんじよう》様へ今一度のお使いを立てられとうござる。拙者《せつしや》らのうちからお使者にお立てください」
と、願い出たが、景虎《かげとら》はゆるさず、
「春日山《かすがやま》の加勢がなくば、戦《いく》さはせられんものかな。負けたとて、死ぬ以上のことはない。あまり案ぜんがよいぞ。日ごろの武名が泣こう」
と、不敵にからかった。
新兵衛《しんべえ》らは腹を立てて引きさがり、宇佐美定行《うさみさだゆき》の陣所に行って訴えた。
定行《さだゆき》は笑って、
「貴殿《きでん》方に戦《いく》さのことを申すのは釈迦《しやか》に説法という下世話《げせわ》通りであるが、景虎《かげとら》様の戦さぶりのみごとさに、わしはただ驚いている。戦さは人数で戦うものでなく、智略《ちりやく》と勇気で戦うものであることを、まざまざと見せてくださったではないか。なんの不安があろう。安心しきって、おさしずの通りに働けばよいのでござる」
と、相手にならない。
それでも、新兵衛《しんべえ》らは安心できなかった。この前はあの奇策にみごと引っかかって、意外なほどの大勝を得ることができたが、俊景《としかげ》はものなれた大将だ、こんどは十分に用心し、その上、雪辱《せつじよく》の意気に燃えて寄せて来るのだ、そう失敗をくりかえすはずはないと、考えずにおられない。
しかし間もなく、晴景《はるかげ》が後詰《ごづ》めに行き向かうとの知らせがついた。人々は生きかえったようにわいたが、ひきいている兵がわずかに五百と聞くと、おどろき、また失望した。
景虎《かげとら》が予想した通りこの出陣には一もんちゃくあったのだ。晴景《はるかげ》は、
「しゃッ! 小せがれめ、途方《とほう》もないことを! おれに相談もなく、勝手なことをしおって、これで敵に負けでもしたら、敵に勢いをつけることになるは必定《ひつじよう》ではないか。さような不埒《ふらち》なやつは、どうなろうとまま、後詰《ごづ》めなど思いもよらぬ」
と立腹して、兵を出そうとしなかったのだが、上杉定実《うえすぎさだざね》が懇々《こんこん》とさとした。定実《さだざね》は、
「肉親の弟を見殺しにしては、そなたの武名にかかわろう」
と説き、また、
「ともかくも最初の合戦《かつせん》には打ち勝っているのだ。わずかに十五歳でだ。人はみな舌を巻いているぞ。それをそなたが兄であり、守護代《しゆごだい》であるのに、後詰《ごづ》めせなんだら、そなたの名はどうなると思う。人はそなたを喜平二《きへいじ》に思いかえはせぬかな」
とも言った。
これがきいた。
晴景《はるかげ》はしぶしぶながら、五百人をひきいて、春日山《かすがやま》を出たのであった。
「敵は一万五千、やがては二万にもなろうというのに、守護代《しゆごだい》の殿のご出陣というに、五百人とはあまりな寡勢《かぜい》、ご存念のほどがわかりかねます」
と、新兵衛《しんべえ》らは不服を言ったが、景虎《かげとら》に、「弾正《だんじよう》様がおいでくださるなら、五百人どころか、一兵もいらぬ。弾正《だんじよう》様おんみずからのご出陣という名だけでよいのだ。兵はいくらでも集まるぞ」と言われて、
「ははん」
と、はじめて合点《がてん》した。
それにしても、景虎《かげとら》の成長には、一同おどろくばかりであった。近国遊歴の旅の間も、するどい軍事眼にしばしば驚かされたが、この前の合戦の時の、敵の心理を手のひらにのせて手玉にとるように自由自在にあやつった奇抜《きばつ》きわまる戦法といい、こんどのこの逞《たく》ましい機略といい、驚嘆するほかない、
(この君は生まれながらの武将におわす。天授だ)
と一様《いちよう》に感じた。
この感激には一種の宗教的なものがある。彼らは景虎《かげとら》の前をさがって後、しばらくの間、その感激を追った。
「おどろいたのう、あのお智恵《ちえ》、われら|はしご《ヽヽヽ》かけてもおよばぬぞ」
「あれでやっと十五になられただけなのじゃ」
「後来《こうらい》、どれほどの方になられよう」
「楽しみじゃのう」
法悦《ほうえつ》に似ている。うきうきと話しつづけていたが、ふと新兵衛《しんべえ》は思いついたことがあって、
「そなたら、君が春日《かすが》村の毘沙門天《びしやもんてん》の申し子であられることを知っていやるか」
と言うとみな思い出して、
「おお、おお、そうであった。奥方様が春日《かすが》村の毘沙門《びしやもん》堂に百日|参詣《さんけい》の祈誓《きせい》を立てて、雨の日も風の日も、一日も怠らずにお参りなされてみごもられたのでありましたなあ」
と応じた。
毘沙門天《びしやもんてん》の権化《ごんげ》(うまれかわり)でおわすかもしれない、ということばが、一同の舌の先まで出かかったが、だれもそれをことばにはしなかった。全身がしびれるような敬虔《けいけん》なものに打たれ、それぞれの思いを追いながら、ひっそりとしずまっていた。
五
晴景《はるかげ》の栃尾《とちお》に着く日は、朝から寒い風が吹きすさび、今年はじめての雪のちらつく日であった。
景虎《かげとら》は風呂《ふろ》をわかし、酒をあたため、さかんな焚火《たきび》をして、晴景《はるかげ》の到着を待った。道筋の要所要所にもの見の兵を出し、その地点にかかるごとに注進するようにしておいたので、到着はほぼ午後の二時ごろになると目算《もくさん》された。そこで、その少し前から城門に出て床几《しようぎ》に腰をおろして待ったが、なかなか来ない。おりしも来た、もの見のものに聞くと、途中で休んでは暖をとりとり来るのだという。
「ご寵愛《ちようあい》のお小姓《こしよう》がまことにひ弱《よわ》でございまして、すぐ凍《こご》えてしまいますので、お休みになってあたたまらせながらお出《いで》になるのでございます」
景虎《かげとら》はかっとしたが、おさえて聞いた。
「源三郎《げんざぶろう》とやらいう京生まれの小姓《こしよう》か」
「いかがでございますやら、存じません。ただえらい美しい小姓《こしよう》衆でございます。女に見まほしいとはあげいな小人《しようじん》を申しますのでございましょう」
「余計《よけい》なことを言うな!」
どなりつけてから、景虎《かげとら》は後悔した。兄にたいする不服な様子をみじんも下々《しもじも》の者に見せてはならないのだと反省した。しかし腹の立つのをどうしようもない。床几《しようぎ》を立って、あたりを歩きまわって、やっとしずめた。
日暮れ、日没少し前に、春日山《かすがやま》勢は到着した。途中でいくども休息して来たからであろう、疲れた色は見えなかったが、何かだらけた様子であった。主将のだらしない態度を見せつけられて腹を立てているのだと、景虎《かげとら》は判断した。
晴景《はるかげ》は軍勢の中ほどに、ひたいに星が流れ後足の白い栗毛《くりげ》の馬にまたがり、歯朶革《しだがわ》おどしの鎧《よろい》の上に袖《そで》つきの黄羅紗《きラシヤ》の陣羽織《じんばおり》を着、黒く染めた大きな綿帽子をかぶっていた。
源三郎《げんざぶろう》はと見ると、そのすぐうしろに白い馬に小桜《こざくら》おどしの鎧《よろい》を着、猩々緋《しようじようひ》に金糸で長尾《ながお》家の九曜巴《くようともえ》の紋《もん》をぬった陣羽織《じんばおり》を着、黄金《こがね》づくりの太刀《たち》を佩《は》き、これも綿帽子をかぶっている。これは美しい紫に染めてある。見るからに皮膚《ひふ》の薄そうな顔が蒼白《そうはく》になり、頬《ほお》のあたりが紫色になっている。
景虎《かげとら》は鄭重《ていちよう》に式代《しきたい》して、迎えた。
「これは弾正《だんじよう》様、おりあしくかような天気になりまして、おたいへんでございました」
晴景《はるかげ》は弟の顔を見もしない。心配げに源三郎《げんざぶろう》の方を見て、何か目で言った後、
「やれやれ、大儀《たいぎ》」
と言いながら、馬をおりた。
雪|来《きた》る
一
きげんの悪かった晴景《はるかげ》も、風呂《ふろ》に入ってあたたまり、直垂姿《ひたたれすがた》にくつろぎ、その間にもうけられた酒席について数盃《すうはい》をかたむけると、いくらかなごんだ顔になった。
そのうしろに晴景《はるかげ》の太刀《たち》を持ってひかえている源三郎《げんざぶろう》も、いつもの血色をとりかえした。これは白小袖《しろこそで》に緋《ひ》の中着《なかぎ》をかさね、上に紫地に乱れ散る桜の花びらを色糸で繍《ぬいと》った小袖《こそで》を着、花桐《はなぎり》を金銀の糸で繍《ぬいと》ったはかまをはき、目のさめるようなあざやかないでたちだ。女よりもまだ華麗《かれい》で艶冶《えんや》であった。
晴景《はるかげ》といい、源三郎《げんざぶろう》といい、合戦の場に来ているという自覚がまるでないようだ。過重な荷駄《にだ》は機動力をにぶらせ、戦闘力を殺《そ》ぐゆえ、行軍には戦闘に必要欠くべからざるもの以外はたずさえてならないというのは陣法の鉄則だ。
(弾正《だんじよう》様とこの寵童《ちようどう》とのだて衣裳《いしよう》を運ぶため、小荷駄《こにだ》がかりはずいぶん苦労をしたにちがいない。ものの性質上、弾正《だんじよう》様からとくべつきびしい仰《おお》せつけがあったろうから、一両人が専心にあたったと見てよい。五百人の勢のなかの一両人だ、相当な犠牲だ)
と景虎《かげとら》は不愉快だったが、今はそんなことを口にしてはならない時だ。おさえて、接待に気をくばった。彼は具足《ぐそく》の上に陣羽織《じんばおり》を着たままだ。戦陣の法として、これでなければならないと信じていた。
よいほどに酒のまわったころ、宇佐美定行《うさみさだゆき》が膳《ぜん》をはなれて、晴景《はるかげ》の前に出て来た。
「喜平二《きへいじ》様へ盃《さかずき》をたまわりとうございます」
晴景《はるかげ》は無言で盃をとりあげ、のこっていた酒をすてて、景虎《かげとら》にさし出した。やはり無言だ。あたり前なら、兵を挙げた決断と緒戦《しよせん》の勝利とにたいして褒詞《ほうじ》があるべきところだ。
景虎《かげとら》は怒りに顔が熱くなったが、定行《さだゆき》がみずから瓶子《へいし》をとり、うながすように顔を見たので、おさえて、いざり出た。
「ありがたきしあわせ」
両手で受けると、定行《さだゆき》が瓶子《へいし》をかたむけてとくとくとついでくれた。仰いで、しずくものこさずのみほした。定行《さだゆき》はまた言う。
「お流れはてまえにいただかせていただきます」
定行《さだゆき》にさし、酌《しやく》をしてやった。
「頂戴《ちようだい》いたします」
定行《さだゆき》はおしいただき、しずかにのみほし、懐紙《かいし》を出して盃《さかずき》をくるんで鎧《よろい》の引き合わせにおさめ、ひげを拭《ふ》いた後、晴景《はるかげ》を仰いだ。
「雪中の陣押し、お疲れのこととは存じますが、敵の襲来が今明日《こんみようにち》をはかられぬ時でございますれば、さしあたっての戦《いく》さ立てをしていただきとうございます」
「うむ」
晴景《はるかげ》はうなずいたが、ふと出たあくびをおさえて、ハハと笑った。ごまかすような笑いであった。
「今日は少しくたびれた。あくびなどして、ゆるしてくれい。――ところで、戦さ立てじゃが、それはもう立っているのじゃろう。これほどのことを企てるからには、前もってそれは立っているはずじゃ。ましてや、喜平二《きへいじ》は弱年でも、そなたほどの軍法者がついているのじゃ。立っていぬ道理はあるまい。今このきわになって、戦さ立てのどうのとあわてることはなかろうでないか」
最初の言い出しはおだやかというより、めんどうを避けて早く休息したい気持ちの露骨に出た、投げやりなものであったが、しだいに皮肉《ひにく》な調子を帯びたものになってきた。
定行《さだゆき》はあいそよく笑った。
「戦《いく》さと申すものは一瞬ごとに形勢の変化していくものでございますから、戦さ立てもそれに応じて変える必要のあることは、殿もよくご承知のことでございます。それに、この戦さの大将軍は殿なのでございますから、殿の思《おぼ》し召《め》しをうかがいませんでは……」
ことばの途中を晴景《はるかげ》は容赦《ようしや》なくさえぎった。
「この戦さは、おれに何のことわりもなくはじめられたものだ。これほどの大事をその方ども勝手におこしておいて、今さらおれを大将軍などに祭り上げても、おれは引き受けんぞ。おれはただこの戦さにその方どもが負けては、せっかくここまで保ってきた春日山長尾《かすがやまながお》家の浮沈《ふちん》の大事となると思うたればこそ、出て来たのじゃ。よろこんで出て来たと思うでないぞ! 守護代《しゆごだい》を守護代とも思わず、兄を兄とも思わず、利用だけしようとの根性《こんじよう》、おれは不快じゃ!」
言っているうちに情が激してきて、しまいにはたたきつけるようなはげしいことばとなった。
景虎《かげとら》には言いぶんがある。兄が時機を待つというを名として、小康《しようこう》に安んじ、酒色にふけってばかりいたればこそ、自分はせん方なくこの挙におよんだのだ。この夏にもわざわざ敵地を通過して春日山《かすがやま》に行って諌言《かんげん》までしたのに、言いぬけばかりしてまるで聴いてくれなかったではないか、こうして起《た》ったのは、やむなきことではないかという言いぶん。その上、兄を城門に迎えた時からおさえにおさえている不満がある。怒りは一時に心頭《しんとう》につき上げてきた。キッと兄をにらんで、言い出そうとした時、定行《さだゆき》が言った。
「お叱《しか》りまことに恐れ入りました。おさしずをいただかず事をおこしましたこと、お怒りまことに道理でございます。いく重にもおわび申し上げます。しかしながら、これは手順が狂いましたため、かようなことになったのでございます。拙者《せつしや》どもはじめの所存は、当城の修築をいたしました上で、おさしずを仰いで旗上げするつもりであったのでございますが、三条《さんじよう》の早耳に聞きつけられ、まず押し寄せられましたので、次第があと先になってしまったのでございます。決して言いぬけを申しているのではございません。ことのはじめからご相談相手となっている拙者《せつしや》が、この前の合戦に間に合わなんだことをもっても、ご推察いただきとうございます」
論理的でありながら、やわらかで、鄭重《ていちよう》で、ふわりふわりと軽くくるみこむような調子だ。晴景《はるかげ》もきげんをなおしたが、景虎《かげとら》の怒りもおし伏せられた。
すかさず、定行《さだゆき》は景虎《かげとら》をふりかえった。
「喜平二《きへいじ》様、おわび申されませい」
景虎《かげとら》は両手をついた。
「申しわけございません。いたし方なかったのでございます」
無念ではあったが、はっきりとわびた。
晴景《はるかげ》はしぶい顔で、だまっている。機略もなければ、淡泊《たんぱく》でもない晴景《はるかげ》は、手のひらを返すように打ちとけたことは言えないのだ。
「わびごと、お聞き入れいただけましょうか。ゆるすと、ひとことたまわりとうございます」
定行《さだゆき》はうやうやしく言ったが、気合いというものであろう、晴景《はるかげ》はついうなずいた。
「聞けば道理でもある。このたびはゆるそう」
礼を言ったあと、定行《さだゆき》はまた戦さ立てのことを持ち出し、その結果、晴景《はるかげ》が大手の主将となり、景虎《かげとら》が搦手《からめて》の主将となって、城を守備することになった。三条《さんじよう》から栃尾《とちお》盆地への入り口に構築した諸寨《しよとりで》にはそれぞれ二、三十人ずつをこめたが、これは一防ぎしたらすぐ間道を通って本城へ引き上げて来る手はずにした。
計定まった後、晴景《はるかげ》の名で、さらに付近の豪族らに催促《さいそく》状を出したことは言うまでもない。
二
晴景《はるかげ》の人望はなくなっているとはいえ、守護代《しゆごだい》という名前にはまだまだ権威があった。催促《さいそく》に応じて馳《は》せ参ずる豪族《ごうぞく》らが相ついだ。中にも上田《うえだ》の城主|長尾房景《ながおふさかげ》が宗徒《むねと》の勇将四人に千人の兵を授けてつかわしてくれたのが、人々の意《こころ》を強くした。
しかしながら、三条《さんじよう》方も手をこまぬいて傍観はしていない。利をもって豪族らをさそったから、これに応じて三条《さんじよう》方に馳《は》せ参ずる者もまた少なくなかった。
四勢力の保《も》ち合いで小康《しようこう》を保っていた越後《えちご》の国は、今や栃尾《とちお》と三条《さんじよう》を中心にして真二つにわれ、風雲の場となった。一波動けば万波したがって動くとの宇佐美《うさみ》の策謀《さくぼう》通りになったのであった。
味方する豪族らの多いのに気をよくした晴景《はるかげ》は、
「この小城《こじろ》に居すくんで敵の寄せて来るのを待つより、こちらからさか寄せして行こう」
と主張し、同意する豪族らも少なくなかった。
「守護代《しゆごだい》の殿のご意見、しごくと存じます。仔細《しさい》は、間もなく根雪《ねゆき》が来て、両軍ともに動けぬようになりますが、冬を越させては、勝ちを両端にかけて形勢を観望している者どものうち敵に味方する者が多くなり、味方不利となりましょう。とかく、根雪の来るまでに敵の息の根をとめるがようござる」
と、その連中は言うのだ。
この主張にたいして、定行《さだゆき》は反対したが、決して真《ま》っ向《こう》から論破するようなことはしない。
「弾正《だんじよう》の殿の仰《おお》せ、おのおののご意見、いちいちもっともしごくでござる。仰《おお》せの通り、冬を越させては敵に勢いをつけてゆゆしきことになります。しかしながら、敵味方の勢をはかりくらべてみますと、残念ながら味方ははるかにおとります。おのおのにむかって兵を説くは釈迦《しやか》に説法《せつぽう》のきらいがあって、おもはゆいのでござるが、一応お聞きとり願います。およそ戦いの法として城にこもる勢《せい》を攻むるには十倍の兵がなければならぬとは、おのおののすでによくご承知のことでありますが、無念ながら味方は敵の四が一にも足りませぬ。これではたとえ寄せて行ったとてはかばかしい勝利の得られることはまずござるまい。しかしながら、味方も寄せず、敵も寄せずして、冬を越してはおのおのが今|仰《おお》せられた通り、敵に力を添えることになります。しょせんは、近日中に敵をして押し寄せさせればいいわけでありますが、それについては、また策があろうではござらんか。おたがい工夫《くふう》してみることにしてはいかがでありましょう」
といったぐあいに説いた。
その説得《せつとく》のたくみさに、景虎《かげとら》は心中驚嘆していた。
この豪族らは表面の名義は守護代《しゆごだい》の催促《さいそく》に応じて集まったのだが、内実は勝敗利害の打算《ださん》によって馳《は》せ参じたにすぎない。彼らが打算の観点をかえれば、きわめて容易に反対の算出をし、敵に寝返りを打つこともあり得る。結合の紐帯《ちゆうたい》はいたって弱いといわねばならない。つまりは烏合《うごう》の衆だ。
しかも、この烏合《うごう》の衆に強力な命令権を持つ者はだれもいない。名義上では守護代《しゆごだい》たる晴景《はるかげ》が持っているはずだが、守護代《しゆごだい》という名目だけではその力のなくなっている時代だ。実力者でもあった為景《ためかげ》の時代すら、ややもすれば反抗する者があったのだ。為景《ためかげ》の四半分の実力もなくなっている晴景《はるかげ》ではおぼつかないことは言うまでもない。
こんな連中を説得《せつとく》するには、決して高圧的な態度に出てはならない。もどかしくとも、歯がゆくとも、彼らの自尊心を満足させながら引きまわしていくよりほかはないのであるが、その点、定行《さだゆき》の説得ぶりは巧妙《こうみよう》をきわめている。
定行《さだゆき》は「おたがい工夫《くふう》してみることにしてはいかがでありましょう」と言っているが、景虎《かげとら》の見るところでは、定行《さだゆき》にはもうその工夫《くふう》はついており、彼の現在の努力は皆に共同の謀議《ぼうぎ》によってそこに達したと信じさせることと、誇りと責任とを持たせることとにあると思われた。
自分の生来《せいらい》の性質が性急で、相当かんしゃく持ちであることを自覚しているだけに、景虎《かげとら》には定行《さだゆき》のこのやり方がひとしお感心され、心をすまして見ていた。
「敵をさそい寄せるとすれば、弱きを示す必要があると存ずる」
と一人が言った。
定行《さだゆき》は丁《ちよう》とひざをたたいて、
「それそれ、そこが計略の中心でござるな。さなきだに優勢に心驕《こころおご》っている敵、当方弱しと見ては、かさにかかって来ずにはおられますまい。よいご工夫《くふう》」
と、ほめた。
「三条《さんじよう》の領内に多少の兵をくり出して一合戦し、いつわり負けて逃げかえるというはいかがでござろう」
と、また一人が発言した。
定行《さだゆき》は軍扇《ぐんせん》でハタと手のひらをたたいた。
「妙案! 弱きを示し、さらにこれを激発させる。だんだん形をなしてきましたな。しかし、いつわりにしても負けるというのはいかがでござろう。世間にほんとの負けと思われては、形勢観望のやからを敵につかせることになりましょう。いま一工夫《ひとくふう》をわずらわしとうござる」
たとえば老練な教師が子供らと一問一答をくりかえしながら、正しい解答に導いていくように、定行《さだゆき》はみずからの工夫《くふう》を豪族らから引き出した。これは、三条《さんじよう》領内に小部隊の兵をくり出して村落を焼き、財物をうばい、三条《さんじよう》勢が駆けつけぬ間に迅速《じんそく》に引き上げることをくりかえすという策である。
定行《さだゆき》は晴景《はるかげ》の方に向きなおって、うやうやしく言った。
「ご一同のご工夫《くふう》にて、やっとここに達しました。これならば、気早の俊景《としかげ》殿のこと、激昂《げつこう》して寄せまいられること必定《ひつじよう》と存じます。ただいまのところ、これ以上の策はないと存じます。衆智《しゆうち》の一致しましたところ、何とぞご決定のほど、お願い申し上げます」
「よかろう。衆目の一致したところじゃ。おれになんの異存があろう。皆々はげみくれるよう」
と、晴景《はるかげ》は言った。
三
当時のことばで「焼きばたらき」という。敵の領内に攻め入って、民家を焼きはらい、田畑の作物を焼きあらすことだ。季節が季節だし寒国のことだから、田畑には作物はないが、村落は徹底的に焼きはらった。二十人か三十人が騎馬で来て、二集落か三集落を焼き立てては引き上げた。おりしも寒気日にます季節だ、住居を焼かれた百姓《ひやくしよう》らの迷惑は一通りではなかった。訴えは日々|櫛《くし》の歯をひくように三条《さんじよう》城にとどく。そのたびに三条《さんじよう》の方では討っ手の兵をくり出したが、風のように襲来して風のように去る騎馬隊だ。姿さえ見ることができない。素速《すばや》い蚤《のみ》にせせり立てられる気持ちであった。
戦《いく》さ上手《じようず》の俊景《としかげ》はこれが敵の誘いの手であることは十分に知っていたが、がまんできなくなった。
「なにほどのことがあろう、ただひともみにもみつぶしてくれん」
と激怒《げきど》して、栃尾《とちお》進発を決定した。総勢一万三千、両隊にわかって、七千をみずからひきい、六千を黒田《くろだ》和泉守国忠《いずみのかみくにただ》にひきいさせる。
三条《さんじよう》領内に放っている諜者《ちようじや》や、盆地の諸入り口に構築した諸寨《しよとりで》から、急報は続々と栃尾《とちお》城にとどいた。
城ではかねての部署にしたがって、それぞれの持ち場をかためた。それぞれ城を少し出て、逆茂木《さかもぎ》をひいたり、柵《さく》を結ったり、土俵を積んだりした。
景虎《かげとら》は、その持ち場である搦手《からめて》の門を出て四、五丁行ったところに刈谷田《かりやた》川があって、敵がこの川を渡って来ることが必定《ひつじよう》と思われたので、いささか城を離れすぎるが、川を前にあてて陣所を構築した。冬のかかりにはよくあるおだやかであたたかい日がつづいて、工事はおもしろいほどはかどったが、まだすっかり出来上がらないうちに、三条《さんじよう》勢が三条《さんじよう》を出発したという報《しら》せが入った。
「さあことだ、急げ急げ!」
それまでは番の者だけを泊まらせて、あとは夜になると城に引きとっていたのだが、その夜は幕舎《ばくしや》を張って全員泊まりこみで、交替《こうたい》で夜どおし働き、翌日の昼を少し過ぎたころにやっとおわった。
「もう大丈夫《だいじようぶ》、いつでも来い」
一同手ぐすねひいて待ったが、その日はついに敵影を見ずにおわった。
「気を張りつめたあとにはかならずゆるみが来る。そこを狙《ねら》って奇襲されて不覚《ふかく》をとったためしは、古来の戦さに少なくない。油断は禁物《きんもつ》だぞ」
宇佐美《うさみ》は三条《さんじよう》からのすべての道筋にいく重にも見張りを出し、陣地にはさかんなかがり火を焚《た》き、不寝番《ねずばん》をおいて交替できびしい警戒をさせたが、その夜の夜明けに近いころから、烈風《れつぷう》とともに、乾いた雪が降り出して、おそろしい寒さになってきた。
景虎《かげとら》は幕舎《ばくしや》の屋根に立つ風の音と寒さのために目をさましたが、すぐ起き上がって外に出た。
悲鳴のようにひゅうひゅう鳴りながら吹きつける烈風に、雪が横なぐりになぐりつけてくる。刺《さ》すような冷たさだ。たちまち頬《ほお》も手もこごえてしまった。その頬《ほお》と手を強くこすりながら、景虎《かげとら》は空を仰いだ。まだ日の出には遠い空は低く真っ暗だ。雪にはまるで湿気がない。細かで灰のようにさらさらして、強い風に吹かれては吹きだまりに吹きやられ、見る間にそこに積もっていく。根雪《ねゆき》になる雪と見てよかった。
隣の幕舎から定行《さだゆき》がしわぶきながら出て来て、これも空を仰いで立った。真っ白なひげがなびき、近年いっそうやせの目立つかぼそいからだは風に吹き飛ばされそうに見えた。
「駿河《するが》、この風、いつまでつづくと思うか」
と、景虎《かげとら》は聞いた。
「根雪《ねゆき》になりましょう」
と、定行《さだゆき》は言った。声が風に吹きちぎられてよく聞こえなかったらしい。
景虎《かげとら》は風にさからって歩き寄った。
「この風、いつまでつづくと思うか」
「さあ、今日一日はつづきましょう。雪は二、三日つづきましょう」
「おれの聞きたいのは風だ。風は今日一日つづくな」
「つづきましょう」
「よし! では、兵どもを皆おこしてもらおう。そして、酒をあたためて一ぱいずつあてがい、柵《さく》と逆茂木《さかもぎ》をとりのけさせてくれい」
「何と仰《おお》せでございます」
定行《さだゆき》は目をみはり、耳に手をあててさらに聞こうとした。
「しかと申しつけたぞ。柵《さく》と逆茂木《さかもぎ》をとりのけるのだ!」
一語の異議もゆるすまじき断乎《だんこ》たる調子であった。異様なほどに光る目が暗《やみ》の底にかがやいていた。
四
「思う仔細《しさい》がある」
と言って、頑《がん》としてきかないからしかたがない。せっかく数日かかって結った柵《さく》や逆茂木《さかもぎ》は撤去《てつきよ》された。夜の明けるころであった。
雪はますます降りつのり、風もまた少しもおとろえた様子はない。明るくなった中にあるいは流れるように、あるいは渦巻《うずま》くように降りしきる雪は視界を閉ざし、天地はただ白一色の荒れ狂う中に閉じこめられたようであった。
景虎《かげとら》が兵士らに兵糧《ひようろう》をつかわせ、休息を命じて気力を養わせていると、二時間ほどの後、諜者《ちようじや》が馳《は》せかえり、敵が盆地の入り口の寨《とりで》の前を素通《すどお》りしてこちらに向かいつつあると報告してきた。用意しておいた温かい粥《かゆ》を兵士らにあてがって、戦闘準備にかからせた。十分に休息した上に温かいものを腹に入れ、兵士らの気力は充実した。
景虎《かげとら》は宇佐美《うさみ》の手勢《てぜい》五百人と本庄慶秀《ほんじようよしひで》に三百人をあたえて先手とし、みずからは五百人をひきいて十|間《けん》ほど退《さが》ってひかえた。
雪は少し小降りになったが、風はなお烈《はげ》しい。吹きざらしの川べりのこととて、こごえるばかりの寒さだ。
「焚火《たきび》してあたたまって待て。柵《さく》の木も、逆茂木《さかもぎ》も、陣屋の木も焚《た》いてよいぞ」
と命じて、さかんな焚火をさせて煖《だん》をとらせた。
また報告が入る。
「敵は栃尾《とちお》盆地に入ると二手にわかれ、俊景《としかげ》にひきいられた七千余人の本隊は真っ直ぐに大手口《おおてぐち》にむかい、黒田国忠《くろだくにただ》にひきいられた六千余人は刈谷田《かりやた》川の浅瀬《あさせ》をわたり、栃尾《とちお》の村を迂回《うかい》してこちらに向かいつつある」
という。両軍しめし合わせて、同時に攻撃をはじめるつもりに相違ないと判断された。
景虎《かげとら》は使い番を大手《おおて》につかわして、これを告げ、熱くした酒を湯呑《ゆのみ》一ぱいずつ兵士らにあたえた。
刈谷田《かりやた》川の向こう岸に沿った路上に敵の先鋒《せんぽう》隊があらわれたのは、三十分ほどの後であった。このころには雪はいっそう少なくなって、はっきりとその姿が見えた。しかし、風はなお強い。斜めうしろから吹きつける西北風にまくり立てられるようにして進んで来る。少し間をおいて、いく隊もの兵が次から次へとくり出してくる。いずれも数十|旒《りゆう》の旗を立てているが、風向きが風向きなので、それらの旗はみな前になびいて、なんとなく威勢《いせい》なげに見える。それを補うためであろう、貝を吹き鳴らし、鼓《こ》を打ちながら押してくる。
こちらのかまえている前面まで来ると、諸隊すべてぴたりととまって、整々《せいせい》と布陣《ふじん》し、ドッと鬨《とき》の声を上げ、同時にいっせいに貝と太鼓《たいこ》を鳴らした。味方の八倍に近い軍勢だ。これを目にし、このすさまじい音を聞き、味方は色を失った。
この時、はるかに後方の大手口の方から喊声《かんせい》がおこり、風に乗って聞こえて来た。そちらでも戦闘がはじまったにちがいなかった。味方はますます動揺した。
その気合いを見て取ったのであろう、寄せ手の先鋒《せんぽう》隊がサッと川へ打ち入るとほとんど同時に、諸隊先を争って徒渉《としよう》にかかった。勢いに乗ってひともみにもみつぶしてしまうつもりに相違なかった。
味方の動揺を見て、宇佐美《うさみ》も本庄慶秀《ほんじようよしひで》もあせった。兵は気だ、このおじけ立った心で敵を引き受けては、かねての十が一の力も出ない、こちらからも攻撃に出て士気をふるい立たせるべきだと思い、しきりに景虎《かげとら》の本陣を見かえったが、景虎《かげとら》は袖《そで》つきの羽織《はおり》の襟《えり》を胸深くかき合わせ、大綿帽子を眉深《まぶか》にかぶった姿で床几《しようぎ》に深ぶかと腰をおろしたまま、敵を凝視しているだけだ。身動き一つしない。
不安に駆られているのは、宇佐美《うさみ》と本庄《ほんじよう》だけではなかった。金津新兵衛《かなづしんべえ》をはじめ、景虎《かげとら》の左右に槍《やり》を膝《ひざ》にのせて折り敷いている勇士らも、同じだ。うながし立てるように、しきりに景虎《かげとら》の方を見やったが、ふりかえりもしない。彫《きざ》みつけたようにひっそりとした姿をつづけている。
宇佐美《うさみ》の使い番と本庄《ほんじよう》の使い番とが同時に走って来た。
「川を渡れば、兵は気力倍するものでございます。渡りの半《なか》ばを撃《う》つは兵の常法、弓で射しらまし、ただようところを味方からも打ち入って槍《やり》を入れてしかるべしと存じます」
という口上だ。
景虎《かげとら》は依然《いぜん》として綿帽子の下から敵の方を凝視しながらふりかえりもせず言う。
「おれが大将だ。思う仔細《しさい》があると今朝方《けさがた》申したはず、さしずするまで、矢一筋《やひとすじ》射かけてはならぬと申せ」
「ハッ」
不服であったには相違ないが、いたし方なく、使い番らは走りかえって行く。
敵はこのころからまた募《つの》ってきた雪と烈風《れつぷう》の中をえいえい声を上げながら、早くも流れの半ばを越した。
たまりかねて、金津新兵衛《かなづしんべえ》が、
「恐れながら、時分よろしきかと存じます」
と言ったが、やはり返事もしない。
左右の勇士らに見えないほどの動揺がおこった。これは恐怖ではない。若君ほどの方でも、お年の若さのために、かけへだった敵の大軍に不安となって、接戦をためらっておられるのであろうかと疑惑が生じたのだ。
左の端に夫とならんで薙刀《なぎなた》をつかんで折り敷いていた松江《まつえ》が発言した。
「喜平二《きへいじ》様いのう。寒うてかないませんすけ、早く敵とせり合うて煖《あたた》まらせてくださろ」
いつもの百姓《ひやくしよう》ことばのうっそりとした調子であったが、今日《きよう》はだれも笑う者がない。
景虎《かげとら》はやはり見かえりもしなかったが、少し笑いをふくんだ声で答えた。
「戦《いく》さはやがてさせる。寒くば酒をのむなり、焚火《たきび》にあたっているかせい」
沈着で、余裕《よゆう》にみちた声だ。勇士らの不安はぴたりとおさまった。
五
敵はますます進んで、早くも先頭の者数人は流れを渡り切り、河原《かわら》へ達したが、この寒さに深い川をわたして来たこととて、手足が凍《こご》え切ったのであろう、動作がひどくにぶくなっている。一人など持っている槍《やり》をとりおとしさえした。
はっきりとそれをみていた景虎《かげとら》の様子がにわかにかわった。あらあらしく綿帽子をむしり取ってたたきつけるや、
「かかれ! かかれ! かかれ!」
絶叫《ぜつきよう》して、采配《さいはい》をふった。
敵と本陣とを当分に見やって、待ちに待っていた宇佐美《うさみ》と本庄《ほんじよう》はおどり上がった。
「かかれ! かかれ!」
とちぎれるばかりに采配《さいはい》をふるって連呼《れんこ》し、貝の者に貝を吹き立てさせた。
総立ちになった両隊の兵は寨《とりで》をおどりこえて河原に走り下り、真一文字《まいちもんじ》に突進した。
この時、敵勢は三分の一ばかりが河原に達し、あとはまだ流れの中にあったが、いずれも骨の髄《ずい》まで冷えきって、手足の自由がきかない。ドッと突進して来た宇佐美《うさみ》と本庄《ほんじよう》の勢《せい》に突き立てられ、しどろになって、あるいは手もなく討ち取られ、大半は川におい落とされて混乱した。
景虎《かげとら》は近習《きんじゆう》の者のすすめる冑《かぶと》を取ってかぶり、忍びの緒《お》をしめるや、本隊を前線すれすれの場において督戦《とくせん》した。勇士らははやり立ち、自分らも戦うことを願ったが、
「しばらく待てい。やがていやでも戦わねばならぬ時が来る」
と、おさえてゆるさなかった。
寄せ手は混乱はしていたが、恥を知る勇敢な者もいる。中にもまだ河中にあって接戦にいたらない者の中で武勇の名ある者は、歯がみしていきどおった。
「懦弱者《だじやくもの》ども! あの小勢《こぜい》に、この有様《ありさま》はなにごとだ! 返せ、もどせ!」
と罵《ののし》りながら、押し返そうとした。しかし退《ひ》き色立った大軍の常だ。ますます混乱するばかりであった。
けれども、その中で百余人、一団となって凝集した一隊があった。前に立ち迷ってうろたえさわぐ味方の兵を、味方とは言わせず撃ちはらい、切りはらって喊声《かんせい》を上げて流れをおしわたり、サッと河原に上がった。
これは松尾八郎兵衛《まつおはちろうべえ》とて蒲原《かんばら》郡で武名の高い武士であった。
「死ねや、者ども!」
と、どなり立てどなり立て、本庄《ほんじよう》勢へ突入した。おそろしく強い。おそろしく兇猛《きようもう》だ。あしらいかねて、本庄《ほんじよう》勢は乱れかけた。
宇佐美《うさみ》は采配《さいはい》をふって、横合いから松尾《まつお》隊に撃ちかからせた。松尾《まつお》勢は左右に敵を受けて苦戦に陥ったが、一歩も退《ひ》かない。その上、松尾《まつお》の軍配は巧妙をきわめている。左右の手をふるうように、右を突き、左を撃って、自由自在にくりまわす。
寒風に吹きさらされた石ころだらけの河原はつるつるにこおって、ともすれば足をふみすべらすのだが、その氷の河原でややしばらく血戦がつづいた。おそるべき松尾《まつお》勢の強さであった。次ぎ次ぎに討たれてしだいに減少しながらも、本庄《ほんじよう》勢と宇佐美《うさみ》勢を少しずつ圧迫しはじめたのだ。
それでも、景虎《かげとら》は本隊を動かさない。勇士らはあせった。
「若君、若君」
と、口々に呼びかけたが、景虎《かげとら》は、
「まだまだ、あとがある」
とだけ言って、凝視しつづけた。
松尾《まつお》勢が奮戦して敵を圧迫しはじめたのを見て、まだ川の向こうに手勢《てぜい》一千を擁《よう》してかまえていた黒田国忠《くろだくにただ》は、
「戦《いく》さは勝ったぞ! 松尾《まつお》を殺すな!」
とさけんで、真っ先かけて、ドッと川に馬を乗り入れた。兵士らもためらわない。実際この新手《あらて》一千が馳《は》せ加われば、戦いつかれた敵は一気に蹴散《けち》らされるのは必定《ひつじよう》だと思われた。気力をもりかえし、さかんな掛け声をあげながら、骨を刺すばかりにつめたい流れをおしわたった。
その黒田《くろだ》勢が岸におし上がり、水ぶるいして立った時、景虎《かげとら》はおどり上がった。
「それ行け!」
槍《やり》を取って、真っ先かけて走り出した。
待ちに待った五百人だ。おくれじとおどり立って突進して行った。
寄せ手は寒風と雪の中を長い行軍をして来た上に、今また切れるばかりに冷えきった流れをおし渡った直後だ。勇気の点ではおとらずとも、からだが言うことをきかない。それにたいして味方は焚火《たきび》して身をあたため、熱酒をのんで腹をあたため、気力と体力を養って待ったのだ。兵法にいわゆる「逸《いつ》をもって労を待つ」だ。勝負になるものではなかった。四分五裂《しぶんごれつ》して、討ち取られて、河中においおとされた。
こうなると、松尾《まつお》隊もまた気力がつき、生きのこった十数人は逃げにかかった。八郎兵衛《はちろうべえ》は歯がみしていきどおった。
「退《ひ》くということがあるか! なぜ死なぬ、ええい! なぜ死なぬ!」
とののしりながら、ただ一人ふみとどまって、縦横に馬を馳《は》せめぐらせて奮戦した。
この日の松尾《まつお》のよそおいは小桜《こざくら》おどしの鎧《よろい》に、黒地の袖《そで》なしの陣羽織《じんばおり》を着、銀の半月をつけたさしものをさしていた。槍《やり》は突きおり、三尺二寸の大太刀《おおだち》をふりかざして斬《き》ってまわる。吹きつける川風に羽織《はおり》がひるがえり、半月のさしものがなびききらめき、壮美をきわめた武者《むしや》ぶりであった。彼の前にまわって、無事なものはなかった。十三人まで斬《き》り伏せられたが、一人の雑兵《ぞうひよう》がさらさらと走りかかって行ったと思うと、太刀《たち》ふりかざして名乗りかけた。
「この手の大将、長尾喜平二景虎《ながおきへいじかげとら》が郎党《ろうどう》、奈弥辰蔵《なやたつぞう》だ、見参《げんざん》!」
袖《そで》なしの具足《ぐそく》に熊《くま》の皮のチャンチャンコ、この寒さにひざから下はむき出しのはだしだ。下郎《げろう》ながら体格面魂《つらだましい》、雄偉《ゆうい》をきわめている。
「推参《すいさん》なり! 下郎《げろう》!」
松尾《まつお》はののしって、馬を乗りかけざまに斬《き》って捨てようとしたが、その太刀の下をどうくぐったか、柳の下蔭《したかげ》をくぐるつばめのように馬前をななめに駆けぬけたかと思うと、松尾《まつお》の馬は脚を斬りおとされて、どうと前にのめりたおれた。
松尾《まつお》はもんどり打ってはねおとされた。
辰蔵《たつぞう》は刀を投げすてておどりかかった。
二人は凍りついた石ころの上を、上になり下になり、しばしもみ合っていたが、ついに辰蔵《たつぞう》はおさえつけて、馬手差《めてざし》をぬいて首をかこうとしたが、もみ合っている間にどこかに飛ばしてしまったと見えて、なくなっている。
「こいつ、ぶちころしてくれべい!」
手のかかるところにあった石ころをつかみ取り、鼻ばしらをなぐりつけた。剛力《ごうりき》にまかせてなぐられて、あわれ松尾《まつお》ほどの勇士も、鼻をたたきつぶされ、鼻血を出して気を失った。
「ざまァ、見ろい!」
辰蔵《たつぞう》は相手の馬手差《めてざし》をぬいて首を掻《か》き切り、ついでに鎧冑《よろいかぶと》をはぎ、太刀《たち》までぶん捕った。もっとも、大将分の者の首を上げた場合はそれがその人であることを証明するためにもっとも重要であると思われるものをとって、それを添えて首実検にそなえるのが故実になっているから、辰蔵《たつぞう》の下郎《げろう》らしい貪欲《どんよく》からのためばかりではない。
松尾《まつお》の討ち死にに、川の向こう岸まで逃げのびた黒田《くろだ》勢にははっきりした動揺の色が見えた。すかさず、景虎《かげとら》は全軍にときの声を上げさせた。黒田《くろだ》勢の動揺はいっそうはげしくなり、城方《しろかた》が二度三度とときの声を上げるうちに、ドッと崩《くず》れ立ち、つづいて総くずれになって敗走に移った。
六
景虎《かげとら》は兵を引きまとめ、大手口《おおてぐち》にかけつけた。
大手口に向かった俊景《としかげ》は猛将《もうしよう》だ。緒戦《しよせん》の寨合戦《とりでがつせん》に苦盃《くはい》を喫《きつ》した上に、たびたび領内を焼きばたらきされて、うらみは骨髄《こつずい》に徹している。ぜが非でも城をふみつぶして勝利を得ねば、武将としての面目《めんぼく》も立たず、将来の自分の立場もなくなると思いこんでいるから、勢いは猛烈であった。
これを予期したればこそ、景虎《かげとら》も、宇佐美《うさみ》も、上田《うえだ》からの助勢をこの手に所属させたのだが、指揮者の器局の相違はいたし方ないもので、城方《しろかた》は苦戦におちいっていた。俊景《としかげ》が新手《あらて》を入れかえ入れかえ猛攻撃を加えたので、城方は新しく設けた寨《とりで》を追いおとされ、しだいに圧迫されて城に逃げ入り、城門を閉じてやっと防いだ。
「乗り入れ、乗り入れ、手をゆるめるな……」
烈風と雪の中に漆黒《しつこく》の馬を乗りめぐらし乗りめぐらし、左手に槍《やり》をたずさえ、右手に采配《さいはい》をふってさけび立てる俊景《としかげ》の火のような声に応じて、いのち知らずの勇士らは濠《ほり》をこえて土居《どい》にとりついてよじのぼろうとしたり、門扉《もんぴ》をおし破ろうとしたりする。城内ではそれを突きおとしたり、射取ったりして必死に防いだが、勝ちに乗って意気上がっている敵の攻撃は執拗果敢《しつようかかん》をきわめ、暴勇の者はあとを絶たない。あぐねて見えた。
景虎《かげとら》勢の駆けつけたのは、この時であった。
城外をまわって来た景虎《かげとら》勢は敵勢の横に出た。
「本陣をつけい! よそ目をくれな!」
とさけぶ景虎《かげとら》の声に、全軍密集した一団となり、真一文字《まいちもんじ》に俊景《としかげ》の本陣めがけて突進した。
不意のことに、動揺するのを見てとって、城内の上田《うえだ》勢は城門をひらいて突出して、これまた俊景《としかげ》の本陣に無二無三《むにむさん》に斬《き》りこんだ。
俊景《としかげ》の本陣は混乱し、くずれ立った。
俊景《としかげ》は激怒《げきど》して、馬廻《うままわ》りの勇士百人ばかりを左右に立てて奮戦し、頽勢《たいせい》を立てなおそうとしたが、気を得た城内からさらに新手《あらて》が突出して来ると、もうふんばりがきかなくなった。味方の将蔵王堂式部《ざおうどうしきぶ》を殿軍《しんがり》させ、生きのこった二十騎をひきいて血路《けつろ》をひらいて三条《さんじよう》へ退去しようとしたが、その気を早くも知った宇佐美《うさみ》は退路に先まわりして、貝を吹き立て、太鼓を鳴らして威嚇《いかく》した。
もう退《ひ》くにも退けない。
「弾正《だんじよう》がような阿呆《あほう》な柔弱《にゆうじやく》もの、喜平二《きへいじ》がような小わっぱにうち負けて死ぬというのも、前世の約束ごとででもあろうわ。どう算用しても負くべき相手ではないのじゃが……」
と苦笑して、左手の丘にのぼり、しばらく休息しながら蔵王堂式部《ざおうどうしきぶ》の血戦を見ていたが、その式部《しきぶ》の勢《せい》が潰《つい》え、式部《しきぶ》も戦死したのを見ると、二十騎とともに丘をおり、勝ちほこった城方にまっしぐらに突撃した。勢い猛烈、疾風《しつぷう》の枯葉《こよう》を巻くような風情《ふぜい》だ。むらむらと競《きそ》い立って駆けふさがるのだが、たちまちパッと蹴散《けち》らされる。
死ぬ覚悟でいた俊景《としかげ》も、これを見て、ひょっとすると三条《さんじよう》へ帰れるかも知れないと思いなおしたらしい。しだいに討たれて、今は十二、三騎になった手勢《てぜい》をさしずして、三条《さんじよう》道の方へ馬首を向ける。
見ていて、景虎《かげとら》は気をもんだ。とりにがしては、また同じことのくりかえしだ。
「逃すな。討ち取れ! 弥太郎《やたろう》はおらぬか? 戸倉与八郎《とくらよはちろう》はおらぬか? 曾根《そね》はどこだ! 秋山源蔵《あきやまげんぞう》はおらぬか!」
身をもんで、馬廻《うままわ》りの勇士らを一人一人呼び立てると、少しはなれた藪《やぶ》かげから鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》が走り出し、
「弥太郎《やたろう》、うけたまわる」
とどなっておいて、馬をあおって飛んで行く。
すると、景虎《かげとら》のずっとうしろの方から、
「うらも行くべい!」
と、さけぶ声が上がったかと思うと、景虎《かげとら》の横をかすめて、緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》に白地の陣羽織《じんばおり》、かぶとはかぶらず白いきれで頭をつつんだ武者《むしや》が、薙刀《なぎなた》をわきにかいこみ、栗毛《くりげ》の駒《こま》をあおって駆けすぎた。
仁王《におう》おどり
一
弥太郎《やたろう》が駆けつけた時、俊景《としかげ》は前をさえぎる宇佐美《うさみ》勢を突破しつつあった。倫《りん》を絶した強さだ。前をさえぎり、左右から競《きそ》いかかって来る宇佐美《うさみ》勢を馬をあおって蹴散《けち》らし、槍《やり》をふるってはたたきなびけ、槍玉《やりだま》にあげてはね飛ばし、真一文字《まいちもんじ》に進む。大象の波をひらいて水をわたるようだ。その引き連れた手勢《てぜい》もまたおどろくべき強さだ。わずかに十二、三騎にすぎないが、槍《やり》・棒《ぼう》・太刀《たち》等の手なれた得道具《えどうぐ》をふるって、一団となって俊景《としかげ》につづいて進んで行くのが、さながらに鉄人の集団だ。
「おし包め! のがすな!」
声をからし、身をもんで、宇佐美《うさみ》はさしずした。さすがに彼ほどの名将が手塩《てしお》をかけて丹誠《たんせい》した兵だけあって、ひるまずおし包み引き包みしたがどうにもならない。怒濤《どとう》の中の大きな岩石のような俊景《としかげ》であり、その手勢《てぜい》であった。激する怒濤《どとう》のおしよせるように宇佐美《うさみ》勢が競いかかると、しばしその姿は見えなくなるが、間もなく前と少しもかわらない姿を見せてくる。白い泡《あわ》をのこして波のひいたあと、黒い岩が何の変化を見せず屹立《きつりつ》していると同じであった。
今はもう取り逃がすよりほかはないかに見えた。
弥太郎《やたろう》の馳《は》せつけたのは、その時であった。
「のけのけ、のけい!」
立ち迷う宇佐美《うさみ》勢の中を真っ直ぐに乗り切って、名乗りを上げた。
「喜平二景虎《きへいじかげとら》が家来にて鬼と異名《いみよう》をとった小島弥太郎《こじまやたろう》でござる。平六郎俊景《へいろくろうとしかげ》殿と見奉《みたてまつ》る。見参《げんざん》! 見参《げんざん》!」
俊景《としかげ》は弥太郎《やたろう》を知っている。手綱《たづな》をしぼって馬をひかえ、ニコリとわらった。
「久しいな、弥太郎《やたろう》」
態度にも、ことばにも、家来筋の者にたいする主人筋の者の傲慢《ごうまん》さと親しげなところがあった。実直な弥太郎《やたろう》はドキッとしてしまった。たしかに、俊景《としかげ》は数多い長尾《ながお》一族の中でも、春日山長尾《かすがやまながお》家とならんでもっとも家格ある三条長尾《さんじようながお》家の当主であった。覚えず、
「ハッ」
と答え、手綱《たづな》をしぼって馬をひかえてしまった。水をぶっかけられた火のように、闘志がしぼんだ。瞬間、彼はなんのために自分がここに駆けつけて来たか、忘れた。
「達者《たつしや》でめでたいな。また会おう」
俊景《としかげ》はふたたびニコリと笑うと、馬をおどらせて、サッと駆けぬけようとした。
あわてた。
「あ! そうじゃ! 待った! 待った! 見参《げんざん》! 見参《げんざん》!」
馬をあおり、槍《やり》を引きそばめて、追いかけようとすると、その前に俊景《としかげ》の従騎《じゆうき》が槍《やり》を横たえて立ちふさがり、
「合うお人か! 推参《すいさん》な! われらが相手だ!」
と叫《さけ》びながら、突っかけて来た。
弥太郎《やたろう》は敵にも、自分にも腹を立てた。
「じゃまだ!」
槍《やり》をふるって一薙《ひとな》ぎし、敵が身をひねり馬をおどらせて避ける間に駆けぬけようとしたが、敵はそうさせない。執拗《しつよう》に挑《いど》みかける。一人だけでない、さらに二騎まで挑《いど》みかけて来た。こうしてさえぎりとめている間に俊景《としかげ》を落とすつもりに相違なかった。軽くあしらえる相手ではない。弥太郎《やたろう》があせりながら戦っていると、松江《まつえ》が追いついて来た。
「このションベたれども、うらにかかれ! お前様は大将を追わっしゃれ!」
とさけびざま、薙刀《なぎなた》を水車にまわして、一人の槍《やり》の穂先《ほさき》を切りおるや、その武者《むしや》の右の綿がみから左の胸にかけて水もたまらず切り下げた。血しぶき上げて、馬上から転落し、馬は狂ったように奔《はし》り去る。
松江《まつえ》はふりかえりもしない。かわり合ってあくまでも弥太郎《やたろう》をやるまいとして槍《やり》をひねって突いてかかっている武者《むしや》をめがけて、薙刀《なぎなた》をひらめかした。
「うぬも、斬《き》られてえだか!」
こじりをつかんで茎長《くきなが》にとり、片手なぐりにビューッとふりこむ薙刀《なぎなた》の動きは目にもとまらない。顔を火に吹かれる思いで、武者は危うく身をそらして避けた。
「頼むぞ!」
弥太郎《やたろう》は駆け出そうとしたが、次の一人がまたへばりついて来た。しかし、こいつも松江《まつえ》に馬のしりを斬《き》られ、馬がおどり上がり、馬からはね落とされそうになった。どうやら馬上にとどまることはできたが、その時にはもう弥太郎《やたろう》はそこを駆けはなれ、
「お返しあれ! 平六郎《へいろくろう》殿! きたなし、お返しあれ!」
と呼ばわり、呼ばわり、追いかけ、追いつくや、槍《やり》を上げて力まかせにふりおろした。ねらいははずれて、小わきにかいこんだ槍《やり》のこじりをはらい、余勢《よせい》は三頭《さんず》(馬のしりの中心の脊梁部《せきりようぶ》)にあたった。馬はおどり、槍《やり》はこぼれ落ちた。
「無礼者《ぶれいもの》!」
カッと怒って、俊景《としかげ》はふりかえり、太刀《たち》をぬいて払った。それと弥太郎《やたろう》がさらに突っかけるのとは同時であった。刃わたり三尺二寸、柄《つか》の長さを二尺につくり、長巻にまごうばかりの大太刀は、したたかに弥太郎《やたろう》の槍《やり》を引っぱらった。おそろしい衝撃《しようげき》であった。槍《やり》は流れ、力にひかれて弥太郎《やたろう》の馬もおどった。
俊景《としかげ》の従騎《じゆうき》らはおどろいて駆けへだてようとしたが、はげしい一騎討ちはもうはじまっていた。馬を馳《は》せちがえ馳《は》せちがえ、火花を散らしていどみ戦い、駆け入るすきがない。
「弥太郎《やたろう》に働かせい! 敵を寄せるな!」
声をからしてさけび立てる宇佐美《うさみ》のさしずに、蹴散《けち》らされてひらいていた宇佐美《うさみ》勢は集結して、従騎《じゆうき》らを引ッつつんだ。
松江《まつえ》が駆けつけた。
「しっかり働きなさろ! おらは三人とも斬《き》り捨てて来たどーッ! なに手間食うていなさるのじゃッ!」
きおい立ってさけびざま、薙刀《なぎなた》をひらめかせて、俊景《としかげ》におそいかかる。
恥じしめられて、弥太郎《やたろう》かっと激して、
「のけい! これはおれがものじゃワ!」
とさけびざま、馬ごみ、からだごみ、槍《やり》をぶっつける。
人間わざとは思われない俊景《としかげ》の強さであった。弥太郎《やたろう》夫婦ほどの剛勇《ごうゆう》な者を相手に、すこしもひるまず、自在に馬をあやつって、右にひらき、左にひらいて、攻防する。弥太郎《やたろう》夫婦の働きもみごとであった。弥太郎《やたろう》が危うくなれば松江《まつえ》が救い、松江《まつえ》の危機には弥太郎《やたろう》が助勢し、ぴたりと呼吸《いき》が合って、寸分《すんぶん》のすきもなくかけ引く。
おりからまた降りしきってきた雪の中に、巴《ともえ》になっての三騎のはげしい戦いはしばしつづいたが、やがて松江《まつえ》の斬《き》りおろした薙刀《なぎなた》をかわしそこね、俊景《としかげ》は乗馬の平頸《ひらくび》をズンと斬《き》りおとされた。馬は屏風《びようぶ》をたおすようにたおれ、俊景《としかげ》ははねおとされた。
おそろしい声をあげて、俊景《としかげ》ははね起きようとしたが、起こしも立てず、弥太郎《やたろう》の槍《やり》の穂先は胴をさしつらぬいた。
「無念!」
さされながら俊景《としかげ》は横にはらい、松江《まつえ》の馬の前足を斬《き》り、松江《まつえ》はたおれる馬からまりのように投げおとされた。
しかし、これが猛将|俊景《としかげ》の最後の抵抗であった。弥太郎《やたろう》はつきさした槍《やり》をそのまま、背中までつきとおし、ギリギリと力まかせに大地に縫いつけて動かさなかった。
わっと、喊声《かんせい》を上げて、宇佐美《うさみ》勢が八方からおそいかかって首を上げようとしたが、もうその時には松江《まつえ》がおどりかかっていた。抱きついて、
「おらが殿御《とのご》の手作りじゃ! うぬら、なにを争うだ!」
と声をかぎりにののしりわめきながら、腰の馬手差《めてざし》をぬきはなって首をかき切った。
二
大勝利であった。
景虎《かげとら》はこの勢いに乗って三条《さんじよう》へ押し寄せれば、敗戦に気を奪われている黒田《くろだ》・金津《かなづ》らの誅滅《ちゆうめつ》は立ちどころであると主張し、宇佐美《うさみ》の意見もそうであったが、晴景《はるかげ》はきかない。
「張本《ちようほん》の大将平六郎《へいろくろう》が討ち取られた以上、敵は捨ておいても四散する。だれが黒田《くろだ》や金津《かなづ》を助けよう。この上のことは無益であるばかりでなく、苦しまぎれに手痛く反抗させることになる。窮寇《きゆうこう》は追わずというはこのことよ」
と言って、集まった諸将に感状をくれてそれぞれに引きとらせ、自分もさっさと春日山《かすがやま》へ帰ってしまった。
「この合戦がお身様の働きによって勝ちを得たのが、弾正《だんじよう》様には嫉《ねた》いのでござる。だれの働きで勝とうと、それはみな大将軍たる人の手柄《てがら》とするのが戦さの法でありますに、そのご分別《ふんべつ》がおわさぬのでござる。こまったこと、お胸がせまいのですな。あるいは、春日山《かすがやま》にのこしおかれた藤紫《ふじむらさき》とやらが恋しくなられたのかも知れませぬな。ハハ、ハハ。とかく、時運まだ至らぬのでござろう。ご辛抱《しんぼう》あって、しばらくお待ちありますよう。時運を待つことも武将には大事な心得でありますぞ」
といって、宇佐美《うさみ》も琵琶島《びわじま》に引き上げたが、これは万一を案じて、兵だけはおいて行ってくれた。
栃尾《とちお》城内で論功行賞《ろんこうこうしよう》が行われたのは、間もなくのことであった。この行賞でもっとも重く賞せられ、もっとも面目《めんぼく》をほどこしたのは、弥太郎《やたろう》夫婦と奈弥辰蔵《なやたつぞう》であった。
弥太郎《やたろう》夫婦には、
「その方ども夫婦がいねば、俊景《としかげ》を取りにがすこと必定《ひつじよう》であった。ならびなき高名《こうみよう》じゃ。千貫でも二千貫でもくれたいところじゃが、無念なこと、おれには所領《しよりよう》がない。いつかは今度の手柄《てがら》に報いてやることもあろうが、とりあえず、心ばかりのものをくれるゆえ、受けてくれるよう」
と言って、太刀《たち》と具足《ぐそく》をそれぞれにあたえた。
奈弥辰蔵《なやたつぞう》には、
「搦手《からめて》の戦さが大勝利を得たのは、ひとえにそちが松尾八郎兵衛《まつおはちろうべえ》を討ち取りくれたによる。搦手《からめて》の戦さが勝ったればこそ、大手《おおて》の戦さも勝つことができた。われらが大手口にまわって来た時には、大手は今やおし破られる寸前であったのじゃからの。されば、そちの手柄《てがら》ゆえに、こんどの合戦は打ち勝ったともいえる。いくらほめてもほめ足りぬ高名《こうみよう》と思うぞ。しかしながら、これまたおれに身代《しんだい》がないため、知行《ちぎよう》では報いてやることができぬが、これほどのそちを下人《げにん》でおくは人を知らぬに似ている。今日より士《さむらい》にとり立て、馬廻《うままわ》りを仰《おお》せつける。それについて、太刀《たち》一口、具足《ぐそく》一領とらせる」
と申し渡した。
奈弥辰蔵《なやたつぞう》はこの時十九歳、元来は磐船《いわふね》郡西奈弥《にしなや》村の百姓《ひやくしよう》の子だ。武士になりたくて、このほどの景虎《かげとら》の募兵《ぼへい》に応じて馳《は》せ参じたのである。胴と草ずりだけの粗末な具足《ぐそく》を着、毛脛《けずね》をむき出しにした姿で、景虎《かげとら》の前に出て引き出ものを受けたが、二ひざ三ひざ退《さが》ると、何を思ったか、今もらったばかりの冑《かぶと》をかぶり、左に具足《ぐそく》を抱《いだ》き、右に刀をつかんで、すっくと立ち上がり、朗々とうたいながら舞いはじめた。
おらが村さの辰蔵《たつぞう》どん
鉄《くろがね》づくりの仁王《におう》さまじゃ
槍《やり》も刀も身に立たぬ
そいで士《さむれ》になったげな。
エイハァ、トゥハァ、
コーズッチャ、ソーズッチャ
洪鐘《こうしよう》をつき鳴らすような声でうたいながら、毛脛《けずね》をふみとどろかし、うれしさにたえぬもののような舞いぶりだ。顔相獰猛《がんそうどうもう》、体格また雄偉《ゆうい》、ほんとに仁王《におう》様が舞い出したようであった。
一同はどっと笑い出し、いっせいに手をたたきながら、
「エイハァ、トゥハァ、コーズッチャ、ソーズッチャ」
と、囃子《はやし》をとった。
景虎《かげとら》も興に入って、皆とともに囃子《はやし》をとっていたが、舞いおわった辰蔵《たつぞう》が一礼して退《さが》ろうとすると、呼びとめた。
「待て」
「ハッ」
「そちが今の唄《うた》のコーズッチャ、ソーズッチャという囃子《はやし》は、どういう意味じゃ。そんな囃子《はやし》をおれははじめて聞くぞ」
「コーズッチャ、ソーズッチャと申したのではござりませぬ。コーダッチャ、ソーダッチャと申したのでございます。てまえの村|奈弥《なや》は磐船《いわふね》郡にござりますので、やがてもう出羽《でわ》なのでござりまして、ことばも出羽《でわ》のことばがたんとはいっているのでございます。されば、『こうだとよ、そうだとよ』というところを、『コーダッチャ、ソーダッチャ』と申すのでございます」
「おもしろい、おもしろい」
景虎《かげとら》は笑い出して、
「ところで、おれはそちにつけるべき名を思い出した。奈弥辰蔵《なやたつぞう》では下人臭《げにんくそ》うていかんによって、以後は鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》と名のれ。鉄《くろがね》づくりの仁王《におう》様という文句があったゆえ、鉄《くろがね》じゃ。コーズッチャとわれら一同が聞いたゆえ、上野介《こうずけのすけ》じゃ。鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》――こりゃよほどの豪傑《ごうけつ》に聞こえるぞ。名前に恥じぬよう、働け」
ドッと皆どよめいて、
「よい名」
「あっぱれ、うらやましい」
と言いそやす中に、辰蔵《たつぞう》は平伏《へいふく》し、ほろほろとこぼれる大粒の涙に両手をぬらしていた。
三
雪が深くなったので、兵は動かせない。しかし、三条《さんじよう》城には新たに昭田《しようだ》常陸《ひたち》が蒲原《かんばら》郡から入って来て守備をかためた。
やがて春になり、兵を動かすべき時が来たが、そのころ、京都から勧修寺大納言尚顕《かんじゆじだいなごんひさあき》が、時のみかど(後奈良《ごなら》天皇)の勅使として、越後《えちご》に下向《げこう》するとの報が府内《ふない》の上杉定実《うえすぎさだざね》の許《もと》に入った。
「越後《えちご》の国、兵乱さしおこって静平ならざること数年におよぶと聞く。これによって、主上宸憂《しゆじようしんゆう》あって、おんみずから般若心経《はんにやしんぎよう》一軸を書写あらせられ、おん下賜《かし》あらんとの勅旨《ちよくし》である。国内|静穏《せいおん》のご祈願のためであれば、謹《つつし》んで拝受し奉るよう」
という通達であった。
この宸筆《しんぴつ》の心経《しんぎよう》は、今日でも米沢《よねざわ》にあって、上杉《うえすぎ》神社の歴史博物館に納めてある。紺紙に金泥《きんでい》をもって書かれた、まことにみごとなものである。
実をいうと、これは朝廷のおし売りであった。この時代は皇室の衰微《すいび》きわまり、時のみかど後奈良《ごなら》天皇は御染筆《ごせんぴつ》を売ってやっといのちをつないでおられたと伝える。天皇のおん日記である後奈良院宸記《ごならいんしんき》や老人雑話等にそうした記事が散見しているのである。宸筆《しんぴつ》のお色紙《しきし》や書物がほしい時には色紙《しきし》なら色紙《しきし》に相当な鳥目《ちようもく》をそえ、伊勢《いせ》物語や古今集《こきんしゆう》のようなものがほしい時にはその書物と用紙に鳥目《ちようもく》をそえ、御所《ごしよ》の縁側にさしおいて、日を経て行ってみると、ちゃんとできておいてあったというのだ。めずらしくご料所から奉った鳥目《ちようもく》を天皇のおん弟なにがし親王が御所の庭に待ち伏せしていて横取りして行かれたので、いくらも手に入らなかったという記事も後奈良院宸記《ごならいんしんき》にある。無念やるかたなき思いのにじみ出ているお書きぶりである。
こんな時代であるから、この宸筆《しんぴつ》の心経《しんぎよう》も、奉謝金をあてにしてのおし売りであったのであるが、もちろん、おことわりすることはできない。衰微の極にある皇室ではあるが、皇室にたいする宗教的な崇拝観念は当時の日本人の胸の奥に根強くのこっている。僻遠《へきえん》の地ではいっそうのことだ。
その上、上杉定実《うえすぎさだざね》にしても、晴景《はるかげ》にしても、これは大いに利用価値のあることであった。皇室の権威をもって、ばらばらになった国内の豪族《ごうぞく》らの心を一つに結集しようと考えたのだ。
定実《さだざね》は晴景《はるかげ》とともに、
「つつしんでお迎え申し上げます」
と答えておいて、国内の一門や豪族らにふれを出した。
「しかじかのことにて、みかど宸襟《しんきん》をなやまし給い、かしこくもご宸筆《しんぴつ》をもって聖経一巻を書写して下賜《かし》さる。皆々その旨相心得《むねあいこころえ》てお待ちし、追って沙汰《さた》あるの日には、遅滞《ちたい》なく参集してお迎え申すよう」
狡猾《こうかつ》でも、貪欲《どんよく》でも、暴戻《ぼうれい》でも、当時の人心はまだうぶい。ふれを受けた人々は、かしこまって諒承《りようしよう》の旨を答え、それぞれにその日のために支度《したく》をしただけでなく、合戦のことは先におしやられた。勅使がいらせられるというのに、合戦さわぎなどしては相済まないというのであった。
勧修寺大納言《かんじゆじだいなごん》が到着したのは、四月二十日のことであった。上下およそ三十人。大納言《だいなごん》は直衣《のうし》・立烏帽子《たてえぼし》で馬に乗り、随従《ずいじゆう》の人々は狩衣《かりぎぬ》・烏帽子《えぼし》、下人《げにん》は白丁《はくちよう》を着、経巻は白木《しらき》の唐櫃《からびつ》におさめ、肩輿《かたごし》にのせ、八人の白丁《はくちよう》姿の下人《げにん》どもがかついでいた。
定実《さだざね》と晴景《はるかげ》は狩衣《かりぎぬ》姿で、直垂《ひたたれ》姿の一門や豪族らをひきいて、春日山《かすがやま》城外に迎えた。
四
般若心経《はんにやしんぎよう》の勅賜《ちよくし》と勅使の下向《げこう》は、春日山長尾《かすがやまながお》家の立場をずいぶん有利にした。
「当国の騒乱《そうらん》が主上のお心をなやまし申しているとは、相済まぬこと」
と、人々は恐縮した。
春日山長尾《かすがやまながお》家も、この機運を利用することにぬけ目はなかった。勅使勧修寺大納言《かんじゆじだいなごん》を鄭重《ていちよう》に饗応《きようおう》した上で手厚い贈り物をして送りかえすとすぐ、使者をたて、数々の献上品を持たせて京に上せた。使者の使命は心経勅賜《しんぎようちよくし》のお礼言上と国内の逆徒追討の綸旨《りんじ》を乞《こ》うためであった。
夏の末、使者は綸旨《りんじ》を受けて帰って来た。晴景《はるかげ》はよろこんで、いく通も写しをつくって、国内の諸豪《しよごう》に送りつけた。
ききめはあざやかであった。従来味方していた豪族らはますます志をかたくしたし、両端を持して形勢を観望していた豪族らで帰服を申し送る者もまた少なくなかった。
この形勢が晴景《はるかげ》をよろこばしたのはもちろんのことだが、元来が惰弱《だじやく》な性質だ、機運に乗じてさらに奮発しようという気にはならない。理の上では大いにそれが必要であることはわかっていても、根性《こんじよう》の弱いものには、つい、
「もう少し情勢が有利になってからのことにしようぞ。機運はこちらにぐあいよく行きつつあるのだ。急ぐことはない」
と、手のびするのはよくあることだ。晴景《はるかげ》は好転した形勢の上に腰をおろしてしまった。
栃尾《とちお》にいて、景虎《かげとら》は肝《きも》が煎《い》れてならない。敵の本拠である三条《さんじよう》は、五里の間近にある。手に取るようにその動きがわかる。昭田《しようだ》常陸《ひたち》らは春日山《かすがやま》の動きを手をつかねて傍観してはいない。しきりに利をくらわして味方の結束をかため、形勢観望の者を誘いこんで、着実に勢力をのばしつつあるのだ。
「しかじかで、油断なりがたき情勢となりつつあります。片時《へんじ》も早く追討《ついとう》のことにかかり給わずば、ゆゆしいことになりましょう」
と、しばしば申し送ったが、晴景《はるかげ》はさらに耳をかたむけない。
「時が立てば立つほど味方は利運《りうん》となっていきつつあるではないか。こんな時に何をあわてるのじゃ」
の一点ばりだ。
それでも言ってやると、ついには、
「それほど戦いたくば、その方の手勢《てぜい》だけで戦うがよかろう。その方は先度《せんど》もわしにことわりなく合戦をはじめたのじゃから、大いに自信があろう。しかし、こんどはわしは後詰《ごづ》めせんゆえ、そう心得るがよい」
と、答えた。
前回のことは、すでにわびを言い、晴景《はるかげ》も諒解《りようかい》したはずなのに、むしかえしてこんな皮肉《ひにく》を言う。皮肉だけでなく、このことばには憎悪《ぞうお》さえあると感ぜられた。
「弾正《だんじよう》殿はおれが逆賊どもに殺されてしまえばよいと思うておられるらしいわ。もうどうなろうとおれの知ったことか!」
と、景虎《かげとら》は腹を立てたが、また、
「じかにお目にかかって説いたら」
と思いかえした。
そこで、出かけることにしたが、不用意には行けない。自分の不在が知れたら、三条《さんじよう》方でどう出るかわからない。本庄慶秀《ほんじようよしひで》や金津新兵衛《かなづしんべえ》以下の勇士らに、用心をかたくして決して不在がわからないように、また敵を挑発《ちようはつ》してはならないと言いふくめて、こんども六十六部に身をやつして、栃尾《とちお》を出た。従者には鬼小島弥太郎《おにこじまやたろう》と鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》とが立った。結婚してはじめて松江《まつえ》にわかれての旅であった。弥太郎《やたろう》は選にあたったことを光栄として勇み立ったが、夫婦の別離はちょいと見物《みもの》であった。
「おお、おお、お前様がお供で行かっしゃるなら、気づかいなことはござらぬわい。お前様一人が千騎にも万騎にもあたろうすけのう。さすがは喜平二《きへいじ》様じゃ。お目が高うござるだ」
と人々の前もはばからず亭主をほめそやす。手ばなしだ。
この時代の武士は、こと武勇の詮議《せんぎ》に関しては、ひたむきだ。現代なら五つ六つの子供のようにそのひたむきなこと滑稽《こつけい》なくらいだ。おのれ一人を武へんものとしてこちらの武へんを認めないようなことばは決して聞きずてにせず、そのための口論、ひいては決闘などという血なまぐさいこともめずらしくなかった。しかし、この場合は別だ。人々は松江《まつえ》の弥太郎《やたろう》にたいする打ちこみぶりを知っている。ただおかしがるばかりであった。
それはまあそれでよかったが、松江《まつえ》はとつぜん血相をかえ、胸ぐらをとらんばかりの勢いで、
「お前様、おらが見とらんと思うて、よそのきれいなおなご衆など見て、ひょんな気をおこすでねえぞ。おらがことばかり思うていなされや、いいかえ。わかりましたかえ。おらもお前様のことばかり思うているすけのう」
と、弥太郎《やたろう》にいい、さらに景虎《かげとら》に頼む。
「喜平二《きへいじ》様、よう見張っていてくださりませや。なんぞあったら、かえってござってから、みんな教えてくださりませや。みっしりとっちめてやらにゃならねえすけ」
弥太郎《やたろう》は大弱りだ。
「やめんかい。阿呆《あほ》なことばかり言いくさる」
ととめたが、きこうか!
「なにが阿呆《あほ》なことですぞい。いちばん大事なことですがな!」
と大喝《だいかつ》した。
皆、腹をかかえて笑った。
秋の最中《もなか》、山々に薄《すすき》の穂波《ほなみ》が白く光る日、三人はこっそりと出発した。
五
真っ直ぐに春日山《かすがやま》に急行するつもりであったが、途中で宇佐美《うさみ》の意見を聞いてみる気になって、柏崎《かしわざき》道へ曲がった。
途中で一宿して、次の日の昼を少しまわったころ、琵琶島《びわじま》についた。
定行《さだゆき》はみずから城門まで迎えに出た。
「これはまたおめずらしや。ようこそ」
おどろいているであろうのに、いつものいたってものしずかな様子であった。主従の表情から、さしあたって変事がおこったのではないことを悟ったのかもしれない。
定行《さだゆき》は弥太郎《やたろう》には声をかけたが、上野介《こうずけのすけ》には微笑を見せただけで、その目を景虎《かげとら》にうつした。紹介をうながす表情であった。
「ああ、これは前名を奈弥辰蔵《なやたつぞう》と申した下人《げにん》であったが、去年の暮《くれ》の合戦の後、鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》と名前をくれて侍《さむらい》にとり立てた者だ」
と景虎《かげとら》が言うと、定行《さだゆき》は微笑して、
「松尾八郎兵衛《まつおはちろうべえ》を討ち取った者でございますな。よく覚えております。――そなたもよい名をいただいてめでたい。その若さで、その名誉、うらやましゅう思うぞ」
とことばをかけた。
「おことば、うれしゅうござりますだ。これからも力限り働きますだ。なりてえなりてえと子供のころから念願かけていた武士《さむれえ》にしていただいたのですけ、もう思うことはねえす」
百姓《ひやくしよう》なまりのことばは鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》といういかめしい名にそぐわなかったが、素朴《そぼく》な上に涙のにじんだ調子は人を打つものがあった。
「結構結構。その初心を終生《しゆうせい》忘れぬが、りっぱな勇士というものじゃ」
赤松の葉をすかして秋の日の閑《しず》かにさしている道を、なにくれとなく語りながら、定行《さだゆき》は本丸《ほんまる》へ導いた。
客殿《きやくでん》に通して衣服を改めさせた後、定行《さだゆき》は来訪の用件を聞いた。
「これこれしかじかだ。あまりわからんことを仰《おお》せられるので、人伝《ひとづ》てではいくまい、おれがみずから行って説くよりほかはないと思うて、出かけて来たのじゃが、一応そなたの意見も聞いてみようと思うたので、途《みち》をまげて来たわけだ」
口に出せば腹が立ってくる。激し上がる心をおさえながら話した。
定行《さだゆき》はまばらなあごひげを指先でときどきもみながら、終始黙って聞いていたが、にこりと笑った。
「無駄なことでございます。このまま栃尾《とちお》へおかえりあるがよろしい」
「なんという?」
「そうお気をいら立てなさらぬよう。この前の合戦のあと、お止め申したのをふり切って弾正《だんじよう》様が春日山《かすがやま》へお帰りになった時、拙者《せつしや》はお身様に申しましたな、弾正《だんじよう》様はお身様が嫉《ねた》いのでござると……」
「待て!」
景虎《かげとら》はさえぎった。彼とても考えなかったことではなかった。晴景《はるかげ》のことばに憎悪《ぞうお》を読みとってはいた。しかし、他人からそう言われたくなかった。
「弾正《だんじよう》殿とおれは、今ではたった二人の兄弟だ。そのつもりで口をきいてくれい」
定行《さだゆき》は軽く会釈《えしやく》したが、依然《いぜん》として微笑して、
「ご兄弟なればこそ嫉《ねた》いのでござる。これが他氏の者や被官《ひかん》ならばいかに武勇に長《た》けていようと、弾正《だんじよう》様の地位をおびやかすものにはなれませんが、たった一人の弟君でおわすお身様が武勇|長《た》けていなさるということになりますと、豪族どもや被官《ひかん》らの思いつきが違ってまいります。弾正《だんじよう》様としては気になさらんわけにまいりますまい。そうはお思いになりませんか」
おだやかな調子で、おそろしいことを言う。景虎《かげとら》は首をふった。
「おれはそうは思いとうない。弾正《だんじよう》殿はまぬるいお人だ。ご宸筆《しんぴつ》の般若心経《はんにやしんぎよう》を拝受され、引きつづいてご綸旨《りんじ》をいただかれて、お味方する者がふえたので、持ち前の怠け心が出て、つい気をゆるしていなさるのじゃと見るのだ」
景虎《かげとら》は苦しかった。ことばが、口を離れると同時に自信のないものになっていくのだ。
「ご兄弟の情として、ごもっともでござる。仰《おお》せられる通り、これには弾正《だんじよう》様の怠け心も大いにあるに相違ござらぬ。しかし、拙者《せつしや》の申し上げたことも決してはずれてはおらぬと信じています。さればお行きになるは無駄なことでござる。無駄どころか、とりかえしのつかぬことになるは必定《ひつじよう》と存じます。せつにおとどめします。いつぞやの時は、弾正《だんじよう》様にとってお身様はまだ海のものとも山のものとも知れぬ子供でおわしましたが、今はお年若ながら得やすからぬ卓抜《たくばつ》な武将たるの実をお見せになっているのでござる。どうして弾正《だんじよう》様が将来を恐れなさらぬことがありましょう。あるいは、弾正《だんじよう》様にはご兄弟の情がおわしても、こんな時には得て|さかしら《ヽヽヽヽ》ぶって焚《た》きつけるものがあるものでござる。春日山《かすがやま》へいらせられることは、せつに思いとどまっていただきとうござる」
かわらずおだやかであった定行《さだゆき》のことばは、しだいに熱を帯びてきた。
ついに、景虎《かげとら》は定行《さだゆき》の諌言《かんげん》に従って栃尾《とちお》に引きかえすことにして、その夜は琵琶島《びわじま》城に泊まったが、その夕方のことだ。
気が鬱《うつ》してならないままに庭に出てそぞろ歩きしていると、いつか見覚えのある場所に出た。この城内で兵書を学んでいたころ、毎日|通《とお》った定行《さだゆき》の末娘|乃美《なみ》の住まいの横であった。
そのころとちっともかわっていない。乃美《なみ》の住まいの白壁もそのまま、青く苔《こけ》むした径《みち》もそのまま、薄くもみじした木々もそのままだ。今にもその白壁のうちから糸車の音が聞こえてきそうであった。なつかしさに胸が熱くなって、壁をまわってその庭に入って行こうかと思ったが、何か恥がましく、何かためらわれる。
(どうしよう?)
もみじした木々の葉の間からのぞいている薄い茜色《あかねいろ》に染まった夕空を仰いで思案していると、鉄《くろがね》上野介《こうずけのすけ》が向こうの木立ちのかげからあらわれたかと思うと、小走りに走り寄って来て、黒いこわい毛の密生したたくましい足をおってひざまずいた。
「ここにおいででござりましただか。よっぽどさがしましただ」
「何か用か」
「へえ」
あたりを見まわして、
「ここで申してもよござりますだか」
という。内密な話のようだ。
「こちらに来い」
薄もみじの下道《したみち》をずっと上の山の方へ連れて行って、岩に腰をおろした。
「ここならよい。話せ」
上野介《こうずけのすけ》はうずくまるように膝《ひざ》をついて、声をひくめた。
「春日山《かすがやま》の殿様のことでござりますだが、わしの聞いた話が本当だら、ありゃとんでもねえ殿様でござりますだで」
「だれに何を聞いたのだ」
「このお城の侍衆の詰所で、たった今聞いて参りましただ。あんまりひでえことだすけ、わしは言いとうねえが、お聞きになりてえだか。もし聞きとうねえと言わっしゃるんだら、申し上げねえですましますべ」
「言え」
「そうだか。そんだら申し上げるべ。――この前の戦さの時、春日山《かすがやま》の殿様は何とやら言うお小姓《こしよう》を連れて見えましただが、あのお小姓《こしよう》の姉ちゅうのも、ご寵愛《ちようあい》をいただいているそうでござりますな。何とやら言いましたわの。おお、そうそう藤紫《ふじむらさき》じゃ。その藤紫《ふじむらさき》というおなごは京の上臈衆《じようろうしゆ》の生まれで、花のように美しいそうにござりますだが、心は鬼か蛇のようにおそろしいおなごで、殿様をたぶらかして悪いことばかりしているそうでござりますだ。聞くも耳のけがれ、言うも口のけがれ、わしも言いとうねえが、喜平二《きへいじ》様も聞きとうねえずらが……」
ひとりで腹を立てている。言いにくいことでもあるのだろう。なかなか本題に入っていかない。気は決して長くない景虎《かげとら》はじりじりしながら、辛抱《しんぼう》して待った。
「こんなことがありましただと。ある時、春日山《かすがやま》の殿様がそのおなごを連れて遊山《ゆさん》に出なされた時、行列に逢《お》うて道ばたに平伏していた百姓《ひやくしよう》が、ふと顔を上げましたところ、その目が運悪う藤紫《ふじむらさき》の目と合いますと、おなごめ、『この百姓《ひやくしよう》め、わしが顔を見上げて、好色《こうしよく》らしゅう笑いましただ』と殿様に申し上げましたすけ、殿様は大腹立てて、ご家来衆に言いつけてつかまえさせ、『不都合《ふつごう》なやつめ、この目で見たか』と言うて、両眼ともにくじり出させてしまいなされたということでござりますだ」
ついこの間まで土民であった上野介《こうずけのすけ》には、ひとしお腹の立つことなのであろう、音の立つほど歯ぎしりして、
「まだござるだ。わずかな無礼《ぶれい》をとがめ立てして引き立てて立ち木に縛《しば》りつけ、殿様にすすめて弓の的《まと》にしたこともありますげな。まだまだござりますだ。ある時など、馬をひいて川に洗いに行くおなごを見て、殿様にすすめて、おなごを捕らえ、赤裸《あかはだか》にして、その馬につがわせたと……」
ここまで聞けばたくさんだ。
「もうよい!」
おそろしい声でさけんで、景虎《かげとら》は立ち上がった。ひたいに汗が浮いてぬるぬると流れ、胸がはげしい動悸《どうき》を打っていた。あたり一面、何か得体《えたい》の知れない妖《あや》しくどろどろしたものがあるようで、呼吸《いき》がつまりそうであった。きたならしくて、どこを踏みようもない。爪先《つまさき》立って歩きまわって、やっと気をしずめた。ふりかえると、上野介《こうずけのすけ》は前のままの姿で不安げにこちらを見ている。
「そなた、その話をだれにもするでないぞ」
「へい」
「きっと申しつけたぞ」
「わしはしましねえが、みんなが知っていることですけ、すんぐに皆知りますべ」
「そなたの口からするなというのだ!」
きびしい声になった。
「へい。しましねえ」
景虎《かげとら》は走って山を下った。
六
上野介《こうずけのすけ》に聞いた話が胸につかえて、景虎《かげとら》は心が重苦しい。嘔気《はきけ》に似たものが去らない。
信ぜられないほどのことだが、嘘《うそ》だとは思わなかった。源三郎《げんざぶろう》とやらいったあの小姓《こしよう》にたいする晴景《はるかげ》の溺愛《できあい》ぶりを思うと、その姉にどんなに迷いこんでいるか、容易に推察がつくのである。
夕食には、定行《さだゆき》が相手に出て、酒をすすめた。
「うまい! もそっとくれい」
景虎《かげとら》はいくらでも飲んだ。
「お身様がこんなにお酒がお強いとは存じませなんだ」
と定行《さだゆき》はおどろいた。
「おれも知らなんだ」
景虎《かげとら》はにこりともせず言った。飲んでいればいくらか気分がよかった。
しかし、それがすんで、あてがわれた座敷にかえると、また胸が悪くなった。彼は熊《くま》の皮のしきものから幾度も立って縁《えん》に出て、つばをはいた。
空には月が出ている。中秋《ちゆうしゆう》の名月に近い月だ。氷のように真っ白な月明かりの中をつばは白く光りながら飛んだ。
「女め!」
ふと、うめいた。胸を悪くしてやまない、その得体《えたい》の知れないどろどろしたものの上に、彼は女を感じた。縁《えん》に立ったまま、きびしい目で、月光の行きわたっている空を凝視《ぎようし》しつづけた。彼はそこに女を見ていた。藤紫《ふじむらさき》という一人の特定な女ではない。女というもの一般を見ていた。
「女め! 不潔なやつめ! 魔ものめ!」
憎悪《ぞうお》をこめて、またつぶやいたが、その時、美しい笛の音《ね》が聞こえて来た。
どこで吹いているのであろう、そして何の曲なのであろう、月の明るい空をわたって、軽やかで、気楽《きらく》げで、玲瓏《れいろう》としたひびきを伝えてくる。
浅《あさ》 緑《みどり》
一
景虎《かげとら》は縁《えん》に腰をすえて耳をすました。
嫋々《じようじよう》というような重い響きの曲ではない。たとえば道化《どうけ》た、それも無数の小さい小さい人形のようなお神楽師《かぐらし》か狂言師《きようげんし》が、ひょこりひょこりと首をふっておどりながら、あとからあとからと宙を飛んで来、おどりながら飛び去って行くような感じの曲であった。見る見る胸のいらだちが消えて、胸がさわやかになった。
(だれがどこで吹いているのだろう。旅のお神楽師《かぐらし》か狂言師《きようげんし》でも泊まっているのだろうか)
と思っていたが、間もなく、どんな男か見たくなった。
景虎《かげとら》はくつぬぎの履物《はきもの》をつっかけて庭を出て行ったが、やがてつきとめたところは、意外にも乃美《なみ》の住まいであった。しかし乃美《なみ》が吹いているとは思わなかった。乃美《なみ》の琴《こと》は聞いたことがあるが、笛を吹くのは見たことも聞いたこともない。その後はじめたにしても、自分がこの城を立ち去ってからまだ一年と少ししかたたない、そんな短い間にこんなにうまくなれるはずがない。なによりも、この道化《どうけ》た曲はまるで乃美《なみ》には不似合いだ。
(旅の楽人《がくじん》に吹かせて聞いているのだ)
と思った。
この時代には地方の豪族らが、旅の連歌師《れんがし》や盲目の楽人《がくじん》らが巡遊してくると、数か月、時によると数年も城にとどめてその芸を鑑賞する習わしがあったのだ。
景虎《かげとら》は乃美《なみ》の居間の庭に入った。すると、笛の音《ね》はぴたりとやんだ。
「だれ?」
灯《ひ》のない暗い屋内から言う。縁《えん》が明るいだけに、月のさしこまない屋内は真っ暗だ。乃美《なみ》の声であった。
「そなた、乃美《なみ》だな?」
と、こちらは言った。
「おや、まあ、喜平二《きへいじ》様ではございませんか」
すらりとした姿が、縁側《えんがわ》に出て来て、ひざまずいた。白い顔がこちらをすかして見ている。
「笛はだれが吹いていたのだ。もっと吹かせて聞かせい。さそわれて来た」
といいながら歩きよった。
「お上がりくださいまし。すぐに灯《あか》りをつけます」
乃美《なみ》は座敷に入ろうとする。
「灯《あか》りはいらん。縁に腰かけて聞く。つづけて吹かせい」
乃美《なみ》は袂《たもと》を口にあてておかしげに笑った。
「おやまあ、つまらないすさびがお耳に入りました。わたしが吹いたのでございますよ」
「えっ!」
景虎《かげとら》はおどろき、まじまじと相手を見つめた。景虎《かげとら》は乃美《なみ》を美しいと思った。以前にはなかった女らしさが全身をあたたかい霧のように包んでいるのが感ぜられた。しかし、その女らしさにはつい今し方まで彼の心理を圧して不快がらせていた不潔感はなかった。不快どころか、そのまわりにただよっている、あたたかで、やわらかで、ふわふわした霧のようなものが、なんともいえず快かった。
「いかがでございます。相当聞けますかしら」
小首《こくび》をかしげて、乃美《なみ》はいう。
「そなた、前には笛など吹かなかったではないか」
景虎《かげとら》は不服げに言う。だまされていたような気持ちがしていた。
「おかけあそばしまして。今しきものを持って参じます」
円座《えんざ》を持って来た。
「どうぞ」
景虎《かげとら》は腰をおろした。
「前から習っていたのか。どうして前には吹かなかったのだ?」
何か心がときめいている。話したいことが山ほどあるような気がするが、笛のこと以外にはさしあたって話題はない。
「前には心得がございませんでした。あれから稽古《けいこ》したのでございます。喜平二《きへいじ》様がお立ち去りになって間もなく、禁裡《きんり》の伶人《れいじん》であったという狛《こま》ノ行成《ゆきなり》というご老人が、父の知る人の添書《てんしよ》を持ってまいられましたので、その方について習ったのでございます」
「ふうん。いく月くらい、その者に習った?」
「さあ、七、八か月習いましたろうか」
「それくらいで、あんなにうまくなれるのかなあ。笛を見せてくれい」
笛のことなど、もうそれほどの興味はなくなっているが、ここに居るかぎりは、この話題を追究するほかはない。
持って来て、わたした。仔細《しさい》に見たが、わかろうはずはない。ただ軽いのにおどろいた。糸を巻き立てた上に厚く漆《うるし》をかけてあるものものしさに似ず、羽根かなんぞのように軽い。
「軽いものだな」
「何百年という古いものでございますので、枯れきっているのでございます。行成《ゆきなり》様のお家に伝わった名笛《めいてき》であるということでございます。行成《ゆきなり》様は去年の春、ここを去って上州路《じようしゆうじ》へ参られましたが、その時、賜《たまわ》ったのでございます」
「そんな笛なら、名がついていよう? なんというのだ」
「浅緑《あさみどり》と申すのでございます。こじりに朱の漆《うるし》で書いてございます。灯《あか》りをつけて持ってまいりましょうか。手ずれて消え消えではございますが、たどれないことはございません。仮名であさみどりと……」
「灯《あか》りはいらん」
月光に照らしてみた。もとより読めなかったが、五文字書いてあることはたしかであった。
「吹いてよいか」
「どうぞ」
かまえて、息を吹きいれた。ためしのためだから強くは吹かない。吹くか吹かぬかに、ごく軽く吹き入れた。だのに、おどろくほど清喨《せいりよう》な音が出た。
「ああ、これは名笛《めいてき》だ」
「笛もでございますが、喜平二《きへいじ》様も初心とは思われないほどでございます。はじめの人はだれでも力いっぱいに吹き入れるものでございますが、あなた様はごく普通に、軽くお吹きでございましたもの」
「おれも習おうかな。むずかしいものか」
「むずかしくないとは申しませんが、わたくしくらいにはすぐなれます」
「教えてくれるか」
「お暇がございますまい」
といいかけて、乃美《なみ》は笑い出した。
「わたくしとしたことが、まだごあいさつも申し上げていませんでした」
といって、少しさがって両手をつかえた。
「お久しゅうございました。お手柄《てがら》のほどは、父にも聞き、家中《かちゆう》の者の話にもうかがって、うれしく存じていました」
ほめられて、景虎《かげとら》はうれしかった。
「家来どもがよく働いてくれた。そなたのおやじ殿にもまた一通りならぬ世話になった。おれが力ではない。もっとも、敵は意外に弱かった。戦さというものがあのくらいのものなら、おれは今後も決して負けはせんと思うぞ」
覚えずきおった調子になっていた。
「父はあなた様の軍配のたくみさに、感心しきっていました。わしが何十年かかっても達し得られぬところへ、喜平二《きへいじ》様は達してしまわれた。お虎《とら》様と呼んで兵書を教えて差し上げたは、つい数か月前のことじゃったにと申して涙をこぼしてよろこんでいたのでございます」
乃美《なみ》のことばは景虎《かげとら》の心に快く媚《こ》びた。長い冬の後、根雪《ねゆき》の上にしとしとと降るあたたかい春の雨のようだ。もっと聞きたいと思った。
「おれは戦さが好きだ」
と言ったが、言ったとたん、幼い言いぶりであったと気づいた。気をひきしめ、肩をそびやかして、言いなおした。
「戦さは生き死にの場だ。髪の根がギリギリと引きしまり、呼吸《いき》がはずんでくるように、魂が張り切ってくる。その気持ちがおれは好きだ」
気ばれば気ばるほど幼い言いぶりになるようで、景虎《かげとら》はあせった。乃美《なみ》は何か言おうとしたが、思いかえしたようにひかえた。そのかわり、微笑した。月の光をまともに受けているその顔に、景虎《かげとら》は子供の自慢話を聞いているおとなの表情を感じた。顔が熱くなった。
「そなたはなにを言おうとしたのだ。言いたいことがあるなら言え!」
と、突っかかる調子になった。
「父の話を聞いてわたくしの心配していたことがあたっていたので、おどろいているのでございます。喜平二《きへいじ》様は今、戦さは生き死にの場とおっしゃいましたが、であるなら、そんなものをお好きになってはいけません。運が悪ければ、どんなことになるかわからないではございませんか。できるだけ戦さにならないように骨を折って、どうしても戦わなければならないようになって、はじめて戦うということになさらないと……」
「おれが負けるというのか!」
かっとしてどなった。
乃美《なみ》は笑顔を消したが、明るい月はなおその目もとにとめた余裕《よゆう》のある笑いを照らし出している。その余裕がおとなぶっているもののように、景虎《かげとら》には感じられた。猛烈に腹が立った。立ち上がった。
「お負けになるとは申しません。運不運はどんな名将にもあるものでございますから……」
「生意気なことを申すな! 戦さを見たこともない者に、なにがわかる! 女のくせにさかしらぶったことを言うやつは、きらいだ!」
急にかわった景虎《かげとら》の様子に、乃美《なみ》はいぶかしげに見上げている。
「なんだ、こんな笛! 返す!」
ポイと乃美《なみ》の膝《ひざ》に笛を投げて、どんどん庭を出た。
あてがわれた座敷にかえると、床《とこ》をのべてあった。着がえもそこそこにもぐりこんで灯《ひ》を吹き消した時、また笛の音《ね》が聞こえて来た。陽気で、道化《どうけ》た、あの曲だ。いまいましかった。
「ばかにしている。あいつ、なんとも思っておらんのだ……」
つぶやいて、そのおもかげをまぶたの裏にえがき、その曲を聞きながら、眠りに入った。
二
景虎《かげとら》は栃尾《とちお》にかえって、いよいよ武備を厳重にして、三条《さんじよう》勢の来襲にそなえた。しかし、景虎《かげとら》方も自重《じちよう》したが、三条《さんじよう》方も自重して、はかばかしい合戦《かつせん》はなく、二年たって、天文《てんぶん》十六年になった。もちろん、この間に小ぜり合いはときどき行われた。三条《さんじよう》方に歩《ぶ》のある時もあり、栃尾《とちお》方に歩《ぶ》のある時もあったが、負けたのはかならず景虎《かげとら》がみずから戦わなかった時で、みずから出て戦った時には決して負けなかった。
景虎《かげとら》は十八歳になった。依然として小柄《こがら》ではあったが、五尺をわずかにこしたくらいの体躯《たいく》には無敵の信念がみなぎっていた。相貌《そうぼう》もまたそれにふさわしいものになった。匂《にお》うように血色のよい浅黒い顔には、数年の後にはこわい濃いひげになるにちがいない、やわらかいひげが密生し、濃くなった眉《まゆ》は強い調子にまなじりがはね上がり、鼻梁《びりよう》は隆《たか》くなり、眼裂の大きい真っ黒な目は深く澄んで射るばかりに強いかがやきをおびてきた。やや厚い口は意志の強さを見せてひきしまっていた。
要するに、もっとも俊秀《しゆんしゆう》な武将らしい相貌《そうぼう》となってきたわけだが、彼には普通の武将とひどくかわったところがいくつかあった。
まず、毘沙門天《びしやもんてん》にたいする熱心な信仰だ。
「おれは毘沙門天《びしやもんてん》の申し子だ」
といって、城内にその堂を営んで尊像を安置して礼拝をおこたらなかった。神仏にたいする信仰の篤《あつ》さは当時の人にはめずらしくないことではあったが、彼の熱心さはかなりに異常であった。毎日朝夕二回の礼拝をかかさないだけでなく、礼拝後その前で長時間|結跏趺坐《けつかふざ》して禅定《ぜんじよう》に入るのだ。
次はまるで女を近づけなかったことだ。十七、八といえば、当時はもう成人だ。特別の理由のないかぎりは結婚し、でなければ側室《そくしつ》をおくのが普通であるのに、彼は全然女を近づけなかった。興味がないようであった。本庄慶秀《ほんじようよしひで》をはじめとして家臣《かしん》らは案じて、そのことを言ったが、
「おれにはいらん」
と言った。さして強い言い方ではなく、いたってものしずかな調子であったが、二の句をつがせないきびしさがあって、皆すごすごとひきさがった。
食べものも、魚鳥の類は全然食べないではなかったが、好きではないようであった。
酒は非常に好きなようで、興に乗ずると、大杯で二升も三升も飲むことがあったが、それもほとんどものを食わず、小量の味噌《みそ》をなめながら飲んだ。そして、決して酔わなかった。自若《じじやく》としていくらでも飲みつづけた。
要するに、清らかで、きびしくて、引きしまって、律僧《りつそう》のような日常であった。
決して負けず、戦えばかならず勝ったので、景虎《かげとら》の名声は大いに上がった。
「稀代《きたい》なお人。やっと子供離れされたばかりというのに」
と評判して、心を寄せて来る者が多い。両端を持して中立を守っていた豪族《ごうぞく》もあれば、晴景《はるかげ》に味方していた者もある。春日山長尾《かすがやまながお》家の譜代《ふだい》の家来は言うまでもない。この連中は、
「弾正《だんじよう》の殿ではしょせん埒《らち》はあかぬ。この殿によって越後《えちご》は静謐《せいひつ》になるのではないか」
と、よりよりささやき合っていた。
忠義|面《づら》して、これを晴景《はるかげ》に密告する者がある。
「けしからぬことかな。喜平二《きへいじ》めが利をもってさそったに違いなし。必定《ひつじよう》やつはおれにかわって、家を奪おうとしているのだ。おやじ様はよう見ぬいておられた。裾子《すそご》であるのに、決してやつを甘えさせられなかったのは、やつの根性《こんじよう》を知っておられたからじゃ」
と、晴景《はるかげ》の心はますます平らかでない。
こんな場合、智恵《ちえ》と気力のある人間なら、反省し、悔悟《かいご》し、行状を改めて評判の回復に努力するところだし、気力はなくても智恵《ちえ》があれば景虎《かげとら》と仲良くして動揺する人心を鎮《しず》めたであろうし、智恵はなくても気力があれば、景虎《かげとら》をのぞく工夫《くふう》をしたであろうが、晴景《はるかげ》には、そのいずれもない。腹を立てたり心配したりするだけで、いっそう酒色におぼれこんでいった。しかし、やがてそうしておられない事態が発生した。
ことの原因は寵童源三郎《ちようどうげんざぶろう》からおこった。
三
天文《てんぶん》十六年に、源三郎《げんざぶろう》は十九歳になった。普通なら、もうとうに元服《げんぷく》しなければならないのであったが、本人もしたがらないし、姉の藤紫《ふじむらさき》もさせたがらないし、もちろん、晴景《はるかげ》もさせたくない。女にもないほどのなまめかしさが、前髪《まえがみ》を払うことによってなくなるのをおしんだのである。
その年の春、源三郎《げんざぶろう》は春日山《かすがやま》から一里半ほどの金谷《かなや》に花見に行った。
雪国の春はあわただしい。あたたかい雨が降って雪が消え、うららかな日が数日つづいたかと思うと、梅も、桃も、桜も、野の花も一時にひらいて、一足《いつそく》とびに陽春になる。それだけに、人々の春をよろこぶことが一通りでない。老いも若きもくり出し、そよ吹く風に吹かれながら、明るく暖かい日を満身に浴びて、長い冬の間の鬱屈《うつくつ》を散ずるのだ。
金谷《かなや》は今日では、日本におけるスキー発祥《はつしよう》のスキー場として知られているが、江戸時代には高田《たかだ》城下の人々の、その前には春日山《かすがやま》城下の人々の、春は花見の、夏は納涼《のうりよう》の、秋は観楓《かんぷう》の遊楽地《ゆうらくち》となっていた。
源三郎《げんざぶろう》は人々の雑踏《ざつとう》の中を、若党四人、槍持《やりも》ち奴《やつこ》一人を従えて、しずしずと歩いた。白|小袖《こそで》に朽《く》ち葉《ば》色の内着《うちぎ》を重ね、紫染めに銀糸で桐《きり》の花をぬった袴《はかま》をうがち、赤地錦《あかじにしき》の襟《えり》をつけた牡丹色《ぼたんいろ》の袖無羽織《そでなしばおり》に黄金《こがね》づくりの大小といういでたちだ。真ん中からわかれた緑の前髪《まえがみ》が匂《にお》うように血の色のさした左右の頬《ほお》にかかっている抜群《ばつぐん》の美貌《びぼう》だ。いやでも人目をひく。人々は花を見ることも忘れて、源三郎《げんざぶろう》を見迎え、また見送った。
多年の生活から性質も女じみてきている源三郎《げんざぶろう》には、こうした人々の感嘆の表情がうれしくてならない。銀地に紅梅をえがいた扇を半びらきにしてあごのあたりにおしあて、しなしなと歩いたが、そのうち、らんまんと咲きこぼれた桜樹から桜樹へ、二つ雁《かりがね》の定紋《じようもん》を打った幔幕《まんまく》とさまざまな模様の小袖《こそで》をつらねた幕を張りめぐらした女ばかりの一団のいる場に行きあわせた。若く美しい女ばかりで、さざめき合っている。
こんな人々に見られるのが、源三郎《げんざぶろう》にはいちばんうれしい。彼は役が役だから、まだ女を知らない。しかし、男よりも女の方が自分に感嘆することは知っている。いつも自分を見なれているはずの春日山《かすがやま》城の奥殿に奉公している女中たちでさえ、奥殿の庭やお廊下での出会いがしらには、呼吸《いき》のとまったような顔になって立ちすくむことをよく見るのだ。そんな時には、彼もまたほのぼのと顔が熱くなり、胸がどきどきし、なんともいえず快い気持ちになる。
彼が近づいて行くにつれて、幕のうちのさざめきはしずかになり、そこに行きついた時にはしわぶきの声一つ聞こえず、ひっそりとなった。すると、意識したわけではなく、ごく自然に彼の足どりはゆるやかになり、ついに立ちどまり、もっとも優美な形で、そこの花を仰ぐ姿勢をとっていた。
彼は幔幕《まんまく》のかげ、小袖《こそで》幕のかげから、女らが呼吸《いき》をこらし、うっとりと自分をのぞき見していることを知っていた。そちらを見はしなかったが。
四
十分に女らをたんのうさせたと見たので、源三郎《げんざぶろう》はまたしなしなとした足どりで立ち去った。
女らはしがみついていた幕から離れた。目はさめたが、見果てなかった楽しく美しい夢を追っているような茫然《ぼうぜん》とした気持ちだ。ほっとつく|といき《ヽヽヽ》には悩ましいなま温かさがあった。
「わたくし、夢を見ているようでございました」
と、一人が言うと、たちまちあちらからもこちらからも声がおこった。
「わたくしはまたからだ中がしびれて、呼吸《いき》がとまるようでございました」
「うっとりするほど美しいお人というのを、生まれてはじめて見ました」
「殿方《とのがた》でも、あんなにお美しい方があるのでございますね」
「あれはどなたでございましょう」
「さあ」
「府内《ふない》のお館《やかた》におつかえの方でございましょうか。それとも春日山《かすがやま》のご家来でございましょうか」
「わかりません、わかりません、わかりません……」
「お年は?」
「わかりません、わかりません、わかりません……」
「なんにもわからない!」
「ああ」
竹藪《たけやぶ》の中の雀《すずめ》の群のようだ。
若いその女中らの昂奮《こうふん》とさわぎを、微笑して上座《かみざ》から見ているのは、この女中らの主人である奥方であった。年ごろ二十七、八、美しい人であった。銀の提子《ひさげ》から朱《あか》い盃《さかずき》に自分でついで、ゆっくりと口もとにはこんでいる。朱《あか》い盃《さかずき》が、手も顔もぬけるように白くこまやかな膚《はだえ》とよくうつって、なんともいえず艶美《えんび》であった。ふと盃《さかずき》をおくと、
「どうしたのだえ、そんなに美しいお人がお通りであったのかえ」
と、だれにともなくきいた。目もとにかすかに酔がのぼって、黒い目がうるんでいた。
「あれまあ、お方《かた》様、ごらんにならなかったのでございますか? ああそうでございますねえ。ご身分がら、そんなことはおできになれないのでございますねえ。お気の毒なこと!」
酔っているからだ。こんなことを言う。
奥方はただほほえんでいた。本心を言いあてられて、今さらのようにさびしくなったのかもしれない。
「年のころは十八、九でございました……」
「美しいのなんのと、おなごでもあんなに色の白い方はございません。目がどうで……、鼻筋がどうで……、口もとがどうで……、ああもうじれったい!……」
「こんなお召し物でございました……」
「銀の扇を半びらきにして口もとにおしあてなされて……」
女中らはがやがやと、われ先に説明する。いずれも昂奮《こうふん》が先に立って、とりとめたことは言えないのだが、それでも気分だけは受け取れる。優婉《ゆうえん》で典雅《てんが》な美少年の立ち姿が、形が定まらないながらに、奥方の胸裡《きようり》にゆれて立ちあらわれた。
「それはよかったこと。そなたがた、今日は人の花も見たことになりますのう」
と笑ったが、なにかときめくものが胸を走りすぎ、胸がどきどきした。
「ああ、酔いました」
奥方は盃《さかずき》をすて、白い指で眉根《まゆね》をおさえた。
この奥方は、北|蒲原《かんばら》郡|新発田《しばた》の城主|新発田《しばた》尾張守長敦《おわりのかみながあつ》の内室《ないしつ》であった。新発田《しばた》家は為景《ためかげ》の代から春日山長尾《かすがやまながお》家に心を寄せることが深く、昭田《しようだ》常陸《ひたち》の乱がおこって蒲原《かんばら》郡内の諸豪《しよごう》の多くが昭田《しようだ》に徒党《ととう》して以後も、少しも心を変えず春日山《かすがやま》党であることを続けている家であった。
これまで長々と書いてきたところによって、読者|諸賢《しよけん》は感じ取っておられるであろうが、春日山長尾《かすがやまながお》家は――長尾《ながお》家にかぎらず、この時代には、どこの国の大名でもそうだが、越後《えちご》の主《あるじ》ではなく、国内の豪族《ごうぞく》らの旗がしらにすぎなかった。したがって、豪族《ごうぞく》らはその臣下ではなかった。組合長と組合員の関係であったといえば、もっとも近いかもしれない。
だから、春日山《かすがやま》城下あるいは付近に屋敷を持たなければならないことはなかったが、長尾《ながお》家に心寄せ深い豪族《ごうぞく》らは屋敷を営むことが多かった。江戸時代に外様大名《とざまだいみよう》らが江戸に藩邸《はんてい》を持っていたようなものである。そしてまた、この屋敷に妻子をおくことが少なくなかった。人質《ひとじち》の意味だ。この点も江戸時代の江戸|藩邸《はんてい》に似ている。
無二《むに》の春日山《かすがやま》党をもって自任している新発田《しばた》家ももちろん屋敷を営んだ。それは府内にあり、内室もまたここにおいていた。
このころ、尾張守《おわりのかみ》は長い間|新発田《しばた》に帰りきりになっていた。中|蒲原《かんばら》の新山《にいやま》に昭田《しようだ》常陸《ひたち》の二男の金津伊豆《かなづいず》が城をきずいてこもり、ややもすれば新発田《しばた》領をおかすからであった。
主人が長期に不在では家の気風はゆるみがちになる上に、奥女中|気質《かたぎ》というものは特別なものだ。日本の大名や将軍の家では奥女中だが、宮廷や外国の王家や諸侯の家ではこれは女官《によかん》だ。その気風には、時代を問わず、国を問わず、特別なものがある。女ばかりで、不自然な禁欲生活をしているためであろう。嫉妬《しつと》深くもあれば、意地悪くもあれば好色《こうしよく》でもあれば、遊楽好きでもある。新発田《しばた》家の奥女中らにしても同じだ。春になって、人々がわっとばかりに遊山《ゆさん》にくり出すのを見て、たまらなくなった。
「奥方様のおさびしさを慰め申そうではございませんか」
と言い立て、相談即座に一決して、
「金谷《かなや》の花が美しいそうでございます、たいへんなにぎわいでございますとか。一度おいでになってはいかがでございましょう。お館《やかた》にばかりこもってばかりいらせられては、おからだにもよろしくございません」
と、奥方をすすめて、くり出して来たのであった。
五
日暮れに近くなって、新発田《しばた》家の奥女中らは引き上げにかかった。
当時のことで、婦人も馬に乗る。奥方と身分の高い女中らだけは馬に横乗りに乗り、その他は徒歩《かち》で、ぞろぞろと山を下って来た。美しくはなやかな行列であるから、やや小寒くなった風に吹かれながら、遊山《ゆさん》の人々は路傍《ろぼう》によって見ていた。
奥方はかなり酔ってはいたが、人々の目にさらされることをおそれた。きびしく被衣《かつぎ》の襟《えり》をひきしめ、わずかにひたいだけをのぞかせて、目を伏せて馬上にゆられていた。すると、ふと側に馬を寄せて来た女中がささやいた。
「ごらんあそばせ、さっきの美しい若衆がいます。右手の大きな桜の下に」
奥方はその方を見た。
たわわに咲いた花の下に、その人は立っていた。燃え立つような緋《ひ》の|むながい《ヽヽヽヽ》をした連銭葦毛《れんぜんあしげ》の馬の口を片手におさえ、緋房《ひぶさ》のついた黒塗りの鞭《むち》を左手にとり、女人《によにん》らの行列を仰ぎ迎えていた。黒絹のようなしなやかな前髪《まえがみ》が白いひたいにかかっている。なんという紅《あか》い唇《くちびる》、花のような、と思った時、少年の目は奥方に向いた。
ぴたりと目があった。
男にしてはやわらかすぎる美しい目が大きくみはられた。おどろき、注視して見直そうとする目であった。
その時、女中がまた耳もとでささやいた。
「ほんに美しいお人。ああ……」
ふるえる声はやるせない心を伝えて、ズキリと奥方の胸にひびくものがあった。異様な戦慄《せんりつ》が奥方の背筋《せすじ》を走った。
奥方はまた被衣《かつぎ》の襟《えり》をかたくひきしめ、目を伏せたが、今見た美しい人のおもかげがいつまでも目の前にちらついて、あまくせつないときめきに胸が波立ってしずまらない。
「あたしは酔っている。酒《ささ》が過ぎたような……」
とつぶやいた。
山をおり切って街道《かいどう》に出た時、さっきの女中がまた馬を寄せて来た。
「あの方のお名前がわかりました。春日山《かすがやま》の弾正《だんじよう》の殿のご寵愛《ちようあい》、源三郎《げんざぶろう》様でございました。さすがにうわさに高いお人だけに……」
いつまでもしゃべっている。ひくいささやきだが、熱っぽさがたまらない。奥方はそちらを見はしなかったが、薄い唇《くちびる》がぺらぺらとひるがえるのが見えるようで、いとわしかった。
「そなたはなぜそんなことをわたしに教えてくれるのです。わたしがよろこぶとでも思うていやるのかえ」
と言った。きびしい声になった。はじめてそちらに向けた顔は青ざめていた。
女中はあっけにとられて目をみはり、やがてさっと青くなった。
「あの、わたくし、あの……失礼いたしました」
ぺこりとあたまを下げると、すごすごと乗りさがった。
奥方はまた被衣《かつぎ》の襟《えり》をひきしめて、目を伏せた。泣きたいようなものがおそってきた。
「あたしは酔っている……」
とつぶやいて、ほろほろと涙をこぼした。
その夜、府内《ふない》の館《やかた》でのことだ。
奥方は夜半《よなか》に眼《め》をさました。ずっとのこっていた酔いはすっかりさめて、頭は水のように冴《さ》えていた。細めた灯《ともしび》をまじまじと見つめているうちに、彼女は源三郎《げんざぶろう》のことを思い出した。いや、そう言っては適当でない。あの時からずっと心のどこかで考えつづけていることを知ったというべきであろう。
(あたしはあの人を好きになったのであろうか)
二十八という年だ。直截《ちよくせつ》であった。うぶい娘のようにまどいはしない。
(あんな子供を)
と、打ち消した。
源三郎姉弟《げんざぶろうきようだい》のことについては、奥方もうわさを聞いている。京の上臈衆《じようろうしゆ》の生まれで、弾正《だんじよう》の殿の色好みから人をつかわして買ってこさせられたのだということも、姉の藤紫《ふじむらさき》とやらが姿かたちの優美|高雅《こうが》さに似ず、心のよくない女で、弾正《だんじよう》の殿によくないことばかりおすすめするので、下々《しもじも》に憎まれていることも、弾正《だんじよう》の殿は時々姉弟《きようだい》ながら寝室に召してたわむれなさるといううわさも、みな聞いている。
(そんな人を!)
強い調子で、断ち切るように、心につぶやいた。
「ああ、暑い!」
不意にたまらなく暑くなって、夜着からもろ腕をぬき出して、夜着の襟《えり》にのせた。ひえびえとしていい気持ちであった。その腕がきわ立って白く見える。まじまじと見ているうちに、こんどは背中が暑くなった。
「どうしてこんなに暑いのかしら。あすは雨かもしれない」
またつぶやいて、寝がえりを打った。
(あの姉弟《きようだい》はにくまれている。わるいお人たちだ)
と、また考えた。不思議なことに、自分が人妻《ひとづま》であることは、まるで考えないのであった。
六
新発田《しばた》尾張守《おわりのかみ》がこれから間もなく府内《ふない》に来たら、奥方の心の迷いは朝風に吹きはらわれる狭霧《さぎり》のように消えて、あとには何の曇りものこさなかっただろうと思われるのだが、蒲原《かんばら》郡の情勢はいつまでも尾張守《おわりのかみ》を居城《きよじよう》に釘《くぎ》づけにした。
尾張守《おわりのかみ》にとっても、奥方にとっても、運が悪かったといえよう。ふとかかって奥方の心の表面を曇らせたものは、日を追って影を濃くし、ついには錆《さび》のようにかたいものとなり、しだいに内部にくいこんでいった。その人のおもかげはひねもす心のどこやらに影をおとし、夜ごとの夢に入った。
年は長《た》けていても、強い性質でもなければ、かしこいというほどのこともない、普通のやさしい女性《によしよう》でしかない奥方は、心の秘密を深くつつんでおくことが出来なかった。おりにふれては、その人の名を口にした。慕《した》わしいと言ったわけでもなければ、逢《あ》いたいと言ったわけでもない。
「藤紫《ふじむらさき》殿ご姉弟《きようだい》のご実家は堂上《どうじよう》方ということですが、どのくらいの格式のお家でありましょうの」
とか、
「柿崎《かきざき》和泉守《いずみのかみ》殿のご側室《そくしつ》方も堂上《どうじよう》家のお生まれですが、藤紫《ふじむらさき》殿ご姉弟《きようだい》のご実家とはおつき合いはなかったのでしょうかの」
とか、
「お気の毒なことの。世が世であれば、源三郎《げんざぶろう》殿は堂上《どうじよう》のお一人となられ、この国の者など、一人としてお側によってことばをかわすことのできぬほどでありましょうにの」
というぐあいに口にしたにすぎない。恋する人のあわれさは、その人の名を言うだけで心がうれしくなるのである。
もちろん、こんなことで、人に心の底をのぞかれるとは思っていない。たくみにつつんでいるつもりであったが、少し鋭い人の目には、黒い布の上を走る白い糸の縫い目のようにはっきりとたどられる。そんなことには異常な興味を持っている女中らは造作《ぞうさ》もなく奥方の心の秘密を見ぬいた。
人間にはいろんな欲望の充足法がある。自分が望んでは遂げられないのがわかっている時、他人を助けてこれを遂げさせ、自分も満足するという方法。それは政治的功業の場合にもあれば、恋愛の場合にもある。漢の高祖《こうそ》をたすけて天下を統一した張良《ちようりよう》の心理や、鳩山一郎《はとやまいちろう》をたすけて、自由党と民主党を合流させ、ついに鳩山《はとやま》を首相たらしめた三木武吉《みきぶきち》の心理は前者であり、シラノ・ド・ベルジュラックの心理や、「槍《やり》ノ権三重《ごんざかさ》ね帷子《かたびら》」のお種《たね》のはじめのうちの心理は後者である。
奥方の心の奥底をのぞいた新発田《しばた》家の奥女中らは、いつかこの心理になった。源三郎《げんざぶろう》にたいする奥方の恋慕《れんぼ》を遂げさせることによって、自分らの慕情《ぼじよう》を満足させたいと思いはじめたのだ。それと意識していないことは言うまでもない。一途《いちず》に忠義をつくしていると思いこんでのことだ。彼女らは目をつり上げんばかりの熱心さで、奥方の恋慕《れんぼ》をあおり立てた。
このころ、府内《ふない》城下や春日山《かすがやま》城下の諸家《しよけ》に出入りする瞽女《ごぜ》がいた。越後《えちご》は瞽女《ごぜ》の本場であるが、その一人だ。年ごろ三十七、八、箏曲《そうきよく》に長《た》けている上に盲目ながら器量も清らかなので、諸家の奥はもとよりのこと、府内|館《やかた》の奥殿や春日山《かすがやま》城の奥殿にもひいきにされて出入りしていた。女中らはこの女を恋のかけはしにすることを思いついた。
「いかがでございましょう」
「ああ、あれなれば春日山《かすがやま》の奥にも上がりますねえ」
「よい工夫《くふう》ですこと」
と、おも立った女中らは相談して、奥方の前に出、艶書《えんしよ》を書くことをすすめた。
奥方はおびえもし、ためらいもしたが、すすめにも負けたし、自分の心にも負けた。
女中らは瞽女《ごぜ》を招いて、艶書《えんしよ》をわたし、源三郎《げんざぶろう》に手渡してくれるように頼んだ。もちろん、すなおに引き受けるはずはない。青くなって拒《こば》んだ。それをおどしたり、すかしたり、利をもってさそったり、さんざんに口説《くど》いて、とうとう、
「それでは、ともかくも、おあずかりはしておきましょう」
と受け取らせた。
瞽女《ごぜ》は、源三郎《げんざぶろう》が一日に一度は姉のところにごきげん伺いに来ることを知っている。翌日|春日山《かすがやま》城に上がり、藤紫《ふじむらさき》の住まいに顔を出し、女中らのきげんをとりとり待っていると、源三郎《げんざぶろう》が来た。
瞽女《ごぜ》はとなりのへやで、見えない目を宙に向け、心気をとぎすましてすわっていたが、源三郎《げんざぶろう》がしばらく姉と話をした後立ち去るのを聞きつけると、よろぼいながら追いかけて、廊下で追いついた。
「もうし、ちとお願い申したいことがございます。ほんのしばらくで。お願いでございます」
「願い? わしに?」
思いもかけない人に呼びとめられて、源三郎《げんざぶろう》はいぶかる様子だ。
「はい。ほんのしばらく……」
「何だ?」
「ここでは少し……」
瞽女《ごぜ》は、全身の勘《かん》をはたらかしてあたりをうかがいながら、声をひそめる。その懸命な様子が、源三郎《げんざぶろう》の心を打ったのであろうか、好奇心をそそったのであろうか、女のようにやわらかな口もとに笑《え》みを浮かべた。
「よしよし。ではこちらに来い」
廊下を行きつくして書院の間の縁《えん》に出て、くつぬぎの履物《はきもの》を突っかけた。
「そちもおりよ。そこに草履《ぞうり》がある。どれ、手をひいてやろう」
手をひいて、足もとを注意してやりながら、庭の隅《すみ》の木立ちの中に連れて行った。
「さあ、ここなら人はいない。申すがよい」
瞽女《ごぜ》はあたりに聞き耳を立てて、
「ほんとにこのへんには人はいないのでございますね」
と念をおしてから、いっそう声をひくめて、
「わたくし、さるお方から、あなた様へのお文《ふみ》をおあずかりしてまいりました。そのお方は、この春あなた様を金谷《かなや》のお花見でお見染めになったのでございます。その後……」
と、こまやかにかきくどいた。
巧妙な口説《くど》きであった。源三郎《げんざぶろう》ははげしく胸がおどった。見かけるかぎりの女に恋慕《れんぼ》される自分とは知っていても、まだ女は知らないのだ。美しい夕映えの空を仰ぐようなあこがれがあった。
「さるお方とはだれだ?……」
しぜんに声が低くなり、ふるえた。
「大家の奥方様でございます」
「どこのだ……」
声はさらにひくく、聞こえるか聞こえないかになった。
「新発田《しばた》尾張守《おわりのかみ》様の……」
「その文《ふみ》よこせ」
さし出す文を、さっとさらって、ふところにねじ入れた。
「天と地と」年表(二)
天文十二年(一五四三)
長尾|晴景《はるかげ》の春日山《かすがやま》勢、三条に向て出発中、三条に内通していた長尾家の家老|昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》、反旗をひるがえす。反乱勢が本丸へ攻めかけ、景虎《かげとら》の兄|景康《かげやす》、景房《かげふさ》討ち取られる。夜陰に晴景、城を脱出。景虎初陣。新兵衛、景虎に城を脱出させる。林泉寺、さらに栃尾《とちお》の常安寺にかくまわれる。
景虎、琵琶島《びわじま》の宇佐美|定行《さだゆき》のもとに身を寄せ、兵法を学ぶ。この間、定行の娘|乃美《なみ》に会う。
天文十三年(一五四四)
昭和は蒲原《かんばら》郡に退き、晴景春日山に帰るが酒色にふけり、京から求めた藤紫《ふじむらさき》・源三郎《げんざぶろう》姉弟にうつつを抜かす。景虎、諫言《かんげん》するがいれられず。
景虎、近国の形勢を見るため豪傑連とともに巡歴に出る。途中|飛越《ひえつ》国境の尼寺で行方不明だった松江に会う。松江、従者の小島弥太郎に恋する。
高山から信濃《しなの》・甲州を回る間、御坂峠《みさかとうげ》で武田|晴信《はるのぶ》と妻|諏訪御料人《すわごりようにん》を見る。さらに小田原北条氏の様子をうかがい、北関東・出羽を一見して帰る。
定行の勧めに従い、景虎、越後一統の義兵をあげることを決意。栃尾《とちお》の古城を修復する。
弥太郎、松江を迎え、本庄|慶秀《よしひで》の媒酌《ばいしやく》で祝言。
景虎、栃尾に挙兵。三条|俊景《としかげ》討伐に向かうが景虎の好戦法に敗退。逃げ帰って軍勢を集める。景虎また対抗の助勢を各方面に求める。晴景ようやく五百の手勢をもって参陣。守護代《しゆごだい》の名で兵を募る。刈谷田《かりやた》川に会戦、景虎側大勝利。弥太郎三条俊景を討ち取る。晴景、あえて残敵を追わず兵を引く。
天文十四年(一五四五)
朝廷より般若心経《はんにゃしんぎよう》の勅賜《ちよくし》あり、晴景さらに逆徒追討の綸旨《りんじ》を乞うて写しを国内諸豪に送る。
八月、今川義元、北条氏康と駿河狐橋で戦う。武田晴信、義元を援ける。
天文十五年(一五四六)
北条氏康、河越城に来援し、足利晴氏、上杉憲政、同朝定の軍を破る。朝定、戦死。
天文十六年(一五四七)
景虎十八歳、毘沙門天にたいする熱心な信仰、朝夕二回の礼拝をかかさず、女を近付けず、律僧のような日常を送る。
戦えば必ず勝ち、名声大いに上がる。晴景、それを快く思わず。
六月、武田晴信、「甲州法度之次第」を定める。
八月、毛利元就、家督を隆元に譲る。
角川文庫『天と地と(二)』昭和61年9月10日初版刊行