海音寺潮五郎
天と地と(一)
目 次
疑いの雲
好色豪傑《こうしよくごうけつ》
三《み》ツ瓶子《へいし》の紋章《もんしよう》
美女|鑑定《かんてい》
ばくち
返《かえ》り忠《ちゆう》
枯《か》れた血
幼年の嫉妬《しつと》
米山薬師堂《よねやまやくしどう》
花野に死す
かげろう
あとがき
「天と地と」年表 (一)
疑いの雲
一
起きて洗面するとすぐ、弓をたずさえて|あずち《ヽヽヽ》に行った。北国の正月|下旬《げじゆん》は、暦《こよみ》の上だけの春だ。石のようにかたい根雪《ねゆき》があり、木々の芽はかたく閉じ、見るかぎりのものがまだきびしい冬のすがただ。
為景《ためかげ》は、刺すような早朝の寒気の中を、もちまえの、骨ぶとな、せいの高い体躯《たいく》の胸をそらせて、あずちに急ぐ。これが毎朝の日課になっていた。
為景《ためかげ》のうしろには十三、四の小姓《こしよう》が二人、一人は為景《ためかげ》の刀を持ち、一人は矢筒《やづつ》を持って従っていた。少年らのほおは寒気に赤らみ、はく息が白かった。二人とも十分に寝足りて、いきいきとかがやく目をしていた。
やがてあずちにつく。
為景《ためかげ》はみずから的《まと》をしつらえた。数年前まではこれは小姓《こしよう》らの役であったが、六十の声を聞いた時から、的《まと》を立てることはいうまでもなく、矢をひろいに行くことも、自分ですることにしている。
「この方がからだのためによい。年をとると、からだの節々《ふしぶし》がかたくなって、身のこなしが自由にならぬようになる。こうして一日に一度か二度は、はいかがみしてからだをこなすと、ぐあいがよいのじゃ」
と言うのであった。
きまりにしている五十|立《たて》をさしつめ引きつめ射て、その間に五度も矢をひろいに行った。白いもののまじった小びんのあたりに、いつかほうほうと湯気が立ってきた。いい気持ちであった。ハッシと的《まと》にあたる音も、一夜のねむりによどみきっていた血が早い流れになっていきいきと全身の血管をめぐりはじめるのも、からだ中がぽかぽかとあたたかくなってうすく汗ばんでくるのも、いいようのないほどのさわやかさだ。
わけて、この朝はあたりがよいので、もう十立《とおたて》引くつもりで矢をひろいに行ったついでに、的《まと》を新しく立てかえてきたが、その時、小姓《こしよう》の一人が、
「あ、玄庵《げんあん》どのがまいります」
と言った。
医師の玄庵《げんあん》が、一葉もとどめず枯れ木林のようになった木立ちの間を来るのが見えた。小柄《こがら》の五十男の玄庵《げんあん》は着ぶくれた黒い道服姿《どうふくすがた》に黒い頭巾《ずきん》をかぶり、すこし前かがみで、せかせかと急ぎ足だ。
為景《ためかげ》は一目見ただけで、すぐ的《まと》にむかって身がまえ、矢をつがえてはなった。こころよい音を立てて、矢はみごとに星のまんなかにあたった。為景《ためかげ》はまた矢をつがえて、ゆっくりと引きしぼった。なんのためにいまごろ玄庵《げんあん》がこんなにいそいで来るか、だいたいわかっている。
(そうか、今日《きよう》か)
と思いながら、またはなった。はずれた。思いもかけず一尺もはなれてつきささった。
これまでのゆかいさが一時に去って、気がいらだってきた。
「やめる。あれを取ってまいれ」
と、小姓《こしよう》に命じて、為景《ためかげ》はむきなおった。
玄庵《げんあん》が冬の烏《からす》のように着ぶくれて、そのくせやせとがった寒そうな顔で立っていた。腰をかがめておじぎした。
「用か」
ふきげんを見せないように努力して言った。
「奥方《おくがた》様、さだめて今日がそれと……」
と、玄庵《げんあん》は答えた。自分のもたらす報告がよろこばれないはずはないと信じきっている表情が、目もとにも口もとにもあった。
「今日か? よし」
為景《ためかげ》はぬいでいた肌《はだ》をいれて、居間のある建物の方へ歩き出す。
ひょこひょこと玄庵《げんあん》がついてくる。
為景《ためかげ》としては何か言わなければならない。このことを自分がよろこんでいないとは、だれにも知らせたくはなかった。
「それで、何時《なんどき》ごろになる見こみか」
玄庵《げんあん》は、今日の潮時《しおどき》はどうやらこうやらでございますゆえ、必定《ひつじよう》、どうやらこうやらでございましょう、と言った。
為景《ためかげ》は聞いていない。熱心に聞いているような顔をしているだけだ。おりよく建物の入口まで来た。
「うむ、そうか、なにぶんともに、よろしくたのむぞ」
と言って、そのまま居間の方へ去った。
二
居間はきれいに掃除《そうじ》されて、中央に熊《くま》の皮のしきものをしき、火桶《ひおけ》にまっかにおこった炭火をうんと入れてすえてある。
為景《ためかげ》は長い毛のふかぶかとしたしき皮にすわって、真綿《まわた》の入った絹《きぬ》のひざおおいでひざをつつみ、火桶《ひおけ》に手をかざし、うちかえしうちかえしあたためた。いくどもこすり合わせた。こすり合わせると、かさかさとかわいた音が立った。老年のわびしい音だ。
(六十三、六十三で、新しく父親になるのか)
と、胸の奥でつぶやいた。
小姓《こしよう》が薬湯《やくとう》を持ってきた。別段どこが悪いというのではない。養生のために玄庵《げんあん》が調合してくれたせんじ薬で、毎朝のむことにしているものだ。やや熱いめにせんじて、量もたっぷりとあるのを、ゆっくりと喫《きつ》しおわると、食膳《しよくぜん》が来た。
いっしょに猫が来た。膳《ぜん》をはこんできた小姓《こしよう》の足もとにまつわりつくようにして入ってきたが、すぐ為景《ためかげ》のひざの上にのった。三毛《みけ》の大きな、みにくい老猫《ろうびよう》だが、為景《ためかげ》はそれの背中をなでながら、食膳《しよくぜん》のすえられるのを待った。
溜塗《ためぬ》りの小さな膳《ぜん》の上は、玄米《げんまい》の飯と、汁と、干物《ひもの》にした小さないわし二|尾《び》と、香《こう》のものだけの、いたって質素なものであった。
為景《ためかげ》は猫をひざからおろして食べにかかった。山もりに玄米《げんまい》の飯をもり上げた黒塗りの大きな御器《ごき》をとり上げ、はしをとってつきそろえて食べようとした時、猫がぬっと首をつきだして、いわしの方に鼻づらを持っていった。
「行儀《ぎようぎ》のわるいやつめ!」
為景《ためかげ》はいわしを二尾いっしょにはしではさんで、簀子《すのこ》(後世《こうせい》の縁側《えんがわ》にあたる)へ投げた。猫はのそりと立ってそちらへ行き、二尾ともくわえて為景《ためかげ》のそばにかえってきて寝そべりながら食べはじめた。美しくつややかな熊《くま》の皮の上に、ぽろぽろと魚のくずがこぼれ散った。
「横着《おうちやく》ものめ!」
と、また言いはしたが、そのうえはしかりもせず、為景《ためかげ》も食べつづける。ずいぶん健啖《けんたん》であった。ぽろぽろするほどかたい飯を山もり二ぜん、汁と香《こう》のものだけで、いかにもうまそうに食べおわった。
膳《ぜん》がひかれると、為景《ためかげ》はまた物思いにふける。火桶《ひおけ》につきたてた火ばしに右手をのせ、左の手はふところにし、しゃんと腰を立てた姿で、目はあけはなした庭にむかっている。ひざに猫がまるくなって寝ていたが、寒くなったのだろう、どこかへ行ってしまった。
為景《ためかげ》は今年六十三になる。それでありながら、去年四度目の妻をめとった。一昨昨年、三度目の妻が女の子を生み、産後の肥立《ひだ》ちがわるくてなくなったからであった。
新しい妻は同族で、古志郡栖吉《こしごおりすよし》の城主|長尾《ながお》肥前守顕吉《ひぜんのかみあきよし》の娘で、年はやっとはたちであった。
この結婚は、こちらは袈裟《けさ》というその娘の美しさにひかれたのであるが、先方では政略《せいりやく》のためであった。同族といっても遠い先祖の代にわかれて、いまでは他氏族《たしぞく》同様だし、こちらは越後守護代《えちごしゆごだい》としてこの国第一の豪族《ごうぞく》であるのに、先方は所領《しよりよう》も少ない小城《こじろ》の主《あるじ》にすぎない。婚姻《こんいん》によって結びつくことは、先方にはたいへんな利益であるに相違ないのだ。話はこちらからもちかけたが、なんのためらいもなく乗ってきたのは、先方にその下心《したごころ》があったからだと、為景《ためかげ》は思っている。
三
そもそものおこりは、家中《かちゆう》の若者らの雑談からであった。一昨年の秋、古志郡《こしごおり》の栃尾《とちお》に謀反《むほん》の色を立てる者があって討伐《とうばつ》に行った。こちらの出動が迅速《じんそく》だったので、反乱軍にはまだ勢《せい》がつかず、たちまちけちらして、首魁《しゆかい》はうちとり梟首《きようしゆ》したのであるが、その帰途《きと》、ある村で野陣《やじん》を張って宿営《しゆくえい》した時のことだ。夜なかにふと目がさめて、寝つけないままに陣所《じんしよ》を見まわっていると、さかんな焚《た》き火《び》をしながら笑い興じている一団があった。
気づかれないように近づいていき、聞くと、女話《おんなばなし》だ。敵の城を乗取《のつと》った時に女を引きさらった話、宿営《しゆくえい》の間に近くの山に避難《ひなん》している女どもを見つけておさえつけた話、敵との長い対陣《たいじん》にはいつでもどこからともなくただよいついてくる遊《あそ》び女《め》とのいきさつ話、いろいろと出てくる。ある話は哀怨《あいえん》であり、ある話は残酷《ざんこく》であり、ある話はこっけいであり、それぞれに興趣《きようしゆ》がある。物陰《ものかげ》に立ったまま、為景《ためかげ》は聞いていたが、そのうち、一人が、
「おれもこれまで美しい女もずいぶん見たが、栖吉《すよし》の肥前守《ひぜんのかみ》殿の姫君《ひめぎみ》ほどの人は見たことがない。去年の秋のことよ。おりゃ自分用で栖吉《すよし》に行ったが、あの村の普済寺《ふさいじ》の前を通りかかった時よ。ちょうど山門《さんもん》から侍《さむらい》・下人《げにん》・小者《こもの》を従えて出てきた四人づれの女があったが、中のひとり主人と見えるがとほうもなく美しい。先方はおれのいるのに気づいて、ハッとばかりに被衣《かつぎ》のえりを深うして顔をかくしたが、おれは最初の一目でのこるところなく見てとっていた。年ごろ十七、八、細《ほそ》おもてでぬけるように色が白く、すらりとした姿は若い柳を見るようであった。おりゃその時、あゆむ姿は百合《ゆり》の花という文句を思い出した。まこと、深い谷間に人知れず咲いているあのまっしろな花を見る思いであった。気をうばわれ、茫然《ぼうぜん》として見送っているなかを、その人は行ってしまったが、おりよく通りかかった百姓女《ひやくしようおんな》に、ありゃどこの姫君《ひめぎみ》じゃ≠ニ聞いてみたところ、肥前守《ひぜんのかみ》殿のご息女《そくじよ》でお袈裟《けさ》様と申すという。肥前守《ひぜんのかみ》殿ご息女とあっては、およばぬ高根《たかね》の花とあきらめるよりほかはなかったが、それでも、おりゃ一月がほどはなやましくてならなんだぞよ」
と語って笑ったのだ。
為景《ためかげ》は侍《さむらい》どもに知られないようにして、そっと引きかえしたが、その時から肥前守《ひぜんのかみ》の息女が忘れられない人になった、
「名は袈裟《けさ》というたな。……高雄《たかお》の文覚上人《もんがくしようにん》が恋した人妻が袈裟《けさ》というたな。生まれる時|ほぞ《ヽヽ》の緒《お》を首にかけている子に袈裟《けさ》という名をつけると聞いたことがあるが、文覚上人《もんがくしようにん》の恋した人妻もそうであったであろうか。いや、肥前守《ひぜんのかみ》が娘もそうであったろうか……」
などとよく思ったが、その思いがつのってきたことを感ずると、心きいた家臣《かしん》を使者に立てて、妻に申しうけたいと申しこんだ。
年が孫ほどにちごうので、不安がないわけではなかったが、それほどむずかしい縁だとは思わなかった。小豪族《しようごうぞく》が大豪族《だいごうぞく》によりつき、忠誠の証《あかし》に人質《ひとじち》をさしだすのはふつうのことだ。その人質《ひとじち》のふくみで娘を相手方の妻妾《さいしよう》としてさしだすこともまたすくなくないのだ。
実際、話はすらすらと運んで、袈裟《けさ》は一月の後、去年の三月はじめ、府中《ふちゆう》の春日山《かすがやま》城に輿入《こしい》れしてきた。その時、為景《ためかげ》は六十二、袈裟《けさ》は二十であった。
袈裟《けさ》は想像した以上に美しかった。気だてもやさしく、年老《としお》いた夫に心からつかえてくれるようであった。
為景《ためかげ》はおおいに満足であったが、嫁《か》してきて三月目に、はやみごもって三月になるとうちあけられた時、はっとした。
(早すぎる)
と、思った。しかし、
「それはうれしい。しかし、わしは前の奥《おく》を産でしくじらせて死なせてしもうたので、きつう心配になる。くれぐれも気をつけてくれい」
と、その時は言った。こう言った心にうそもかざりもなかったが、日をへるうちに、
(これはおれの子ではないのかもしれない)
という不快きわまる疑惑《ぎわく》が出てきた。
六十以上になっても妊娠《にんしん》させうる力のある男のいることは事実だが、それが相当まれであることも事実と思わざるをえないのだ。
(奥はおれのところへ来る前に、すでに子を腹にもっていたのではなかろうか)
と思った。
この疑いには証拠になるようなものは何もない。すべてが年のちがいすぎることからくる自分の劣等感《れつとうかん》から生じたものであることを、為景《ためかげ》は十分に知っている。不当な疑惑《ぎわく》であると反省もする。しかし、どうすることもできないのだ。
疑いだせばきりはない。この婚姻《こんいん》の申しこみがなんの抵抗もなくすらすらと受けいれられたことまで疑いの種になってくる。
(家中《かちゆう》の若い侍《さむらい》かなにかと事があったので、よい機会《しお》にしておれにくれたのではないか)
と思うのだ。
若いうちなら徹底的《てつていてき》にせんさくのできるものを、この年になってはそれをつつしまなければならないことが――それどころか、疑惑《ぎわく》をもっていることを人にさとられることすらあってならないと思うと、いっそう不愉快で、いっそうみじめであった。
(生まれる子は女の子であってくれい。女の子ならいずれは人にくれてしもうのだ。おれの胤《たね》でなくてもかまわぬ)
と思うようになった。しかし、それは袈裟《けさ》には言えない。
「わしには男の子も女の子も、それぞれ三人ずつもいる。男の子であっても、女の子であってもよいぞ」
と言っていた。
袈裟《けさ》はそんな夫の心とはつゆ知らない。
「男の子を生みたい」
と、ひとすじに思っていた。
「勇ましく強くかしこい子を生みたい」
とも思った。
春日山《かすがやま》城の下の春日《かすが》村に毘沙門堂《びしやもんどう》がある。袈裟《けさ》はここに祈願をこめて、百日参詣《ひやくにちさんけい》のちかいを立て、雨の日も、風の日も、一日もおこたらず、このちかいをはたした。
楠木正成《くすのきまさしげ》の母は大和信貴山《やまとしぎさん》の毘沙門天《びしやもんてん》に祈願《きがん》をこめて、正成《まさしげ》を生んだと伝える。正成《まさしげ》の有名になったのは江戸時代に入ってからで、この時代はそれほど有名でもないし、この時代の将軍家である足利《あしかが》氏の敵であったというところから逆賊視《ぎやくぞくし》されているから、越後《えちご》の片《かた》田舎《いなか》の小大名《こだいみよう》の娘である袈裟《けさ》がこの故事《こじ》を知っていたとは思われないが、毘沙門天《びしやもんてん》が一名を多聞天《たもんてん》といって、仏法守護《ぶつぽうしゆご》の武神《ぶしん》であることは知っていたろう。とりわけ、この時代は武勇を男第一の資格とする戦国の時代であっただけに、愛宕権現《あたごごんげん》(勝軍地蔵《しようぐんじぞう》)や毘沙門天《びしやもんてん》の信仰のさかんであった時代だ。
「戦場に出ては不覚《ふかく》なく、家にあってはかしこく正しい武将となる子を、生ませたまえ」
と袈裟《けさ》の祈願には必死な情熱がこめられた。
「よくないことをする」
と思いながらも、為景《ためかげ》はそれについては何も言わなかった。
四
何時間そうして為景《ためかげ》はすわっていたろう。火桶《ひおけ》の炭が白い灰になり、為景《ためかげ》のわずかな身じろぎにおこる風にさえゆらゆらとゆれて乱れるほどになった。
とつぜん、朝日が横雲を破って出て、一時に庭中が明かりわたった。ふみかためてほこりをかぶって薄鼠色《うすねずいろ》になっている根雪《ねゆき》が美しく光り、木々の枝にさがっている氷柱《つらら》がきらきらとかがやいた。
為景《ためかげ》はその光に春を感じた。
春になると、また戦《いく》さだ。為景《ためかげ》の武力によっていちおうの静平は得ているものの、けっして安心のできる越後《えちご》ではないのである。春になって雪がとけると、為景《ためかげ》に不平な分子がもそもそとうごきはじめるのが、毎年の例になっている。
「こんなくだらんことにこだわってはおれんのだ」
と思って、大きなのびをした時、急ぎ足に廊下を近づいてくる足音が聞こえた。
「申し上げます」
と、ふすまのむこうで言う。
為景《ためかげ》のうしろに、退屈《たいくつ》げに、また寒げにひかえていた小姓《こしよう》四人の中から、一人が立っていってふすまを開けた。
玄庵《げんあん》が両手をついて、しみだらけなはげ頭を見せてうずくまっていた。
「はじまったか」
身をねじってその方を見ながら、為景《ためかげ》がきいた。
「ただいま、はやご誕生でございます」
「おお、そうか」
「若君《わかぎみ》でございます」
やれやれと思った。
「そうか」
正直に力ない声になったが、すぐ気づいて言いなおした。
「それはよかった。それはよかったな。うむ、男の子か」
「いいあんばいにたいへんお軽く。それで、奥方《おくがた》様もいたってお元気でございます」
「そうか、それはよかった」
玄庵《げんあん》は得意げだ。彼が生ませたのではない。生ませたのは出入りの取りあげ老婆《ばばア》だ。玄庵《げんあん》は産室の次の間《ま》でうろうろしていただけだったにきまっているが、自分が生ましたもののように、にこにこしている。為景《ためかげ》が、案内《あない》せ、若を見がてら見舞ってやると言いだすにちがいないと、待ちかまえている表情であった。
しかたはない。為景《ためかげ》はひざおおいをはらって立ちあがった。
「案内《あない》せい」
五
生まれたての赤んぼはみな似ている。これくらい個性のないものはない。鱈子《たらこ》をゆであげて皿につみ重ねたような顔をしている。しわだらけで目もあかずにうごめいているところは、かえりたての雀《すずめ》の子や生まれたての鼠《ねずみ》の子とほとんどちがうところはない。他人の目にはただ生きものとしか思われないのだが、母親というものはありがたい。そのひたすらにぶよぶよとやわらかく、赤く、しわだらけな顔に、早くも個性を見つける。
初産《ういざん》直後の疲労と衰弱のなかにありながら、袈裟《けさ》はあかずに赤んぼを見つめていた。赤んぼの寝床は、彼女の寝床にならべてある。真綿《まわた》の入った鬱金《うこん》の絹《きぬ》の夜具《やぐ》にくるまれ、すそに湯たんぽを入れ細くうすい髪を汗ばんだ頭の地肌《じはだ》にべったりとへばりつかせて、ねむっている。いや、たんに目をつぶっているだけで、起きているのかもしれない。ときどき口もとをゆがめたり、もぐつかせたりしているから。なんというちっちゃさ。なんというやわらかさ。これでちゃんと生きているのだ。なんという精妙《せいみよう》さだろう。
「かわいいこと! この子は殿《との》にもあたしにも、よく似ている。小鼻の形など、殿《との》そっくり。目じりからほおにかけてはあたしに似ている……」
と思っていた。
だれがそれがわかろう? 母親の愛情だけがわからせるのだ。
やがて、袈裟《けさ》は疲れて、目をつぶったが、すぐそれは眠りにかわった。衰弱からくる深い眠りであったが、その口もとにはなお微笑のかげがのこっていた。
為景《ためかげ》が来たのは、それからすぐであった。
栖吉《すよし》からついてきた女中の一人がそっと立って迎えた。
「若君《わかぎみ》も奥方《おくがた》様もようやくおやすみでございます」
と、声を殺して言う。
無言でうなずいて、為景《ためかげ》はへやに入った。玄庵《げんあん》もつづく。腰をかがめて、恐れいった様子だ。為景《ためかげ》は赤んぼのそばにすわって、のぞきこんだ。
やせて、しわだらけで、そのくせまっかだ。猿のようだと思った。なによりもおそろしく小さくて、ひよわそうだ。これまでのどの子にも似ていないように思われた。どこか、自分にか、自分の両親にか似ているところを見つけだしたいと熱心に観察したが、見つけることができなかった。
為景《ためかげ》は袈裟《けさ》の方を見た。衰弱していっそう繊細《せんさい》になった袈裟《けさ》の顔は一抹《いちまつ》の血の色もなく、日のささないところにはえている草の茎《くき》のようだ。その顔色と同じ色になった唇《くちびる》がすこしあいて、白い歯がかすかに見えていた。鼻すじがけずりたてたようにやせとがっている。呼吸をしていないようだ。為景《ためかげ》は不安になって、口もとに耳を近づけた。かすかな呼気《こき》が耳たぶにあたった。
袈裟《けさ》はぽかりと目をあけた。よわよわしく微笑した。
「生みました、あたし。男の嬰児《やや》を」
得意げであった。
「うむ、うむ」
為景《ためかげ》はうなずいて、
「……手柄《てがら》であったな」
とつけくわえたが、こんな簡単なことばを出すのに、努力しなければならなかった。
「いい子でございましょう。殿様によく似ています。小鼻のあたり、そっくり。殿様に似た、強く、勇ましく、かしこい武将になるでございましょう……」
「うむ、うむ……」
為景《ためかげ》はまた赤んぼを見た。とくに小鼻のへんを注意してみた。こんなひくい、こんな赤い、ぶよぶよの鼻のどこにおれに似たところがあるのだろうと思った。
「殿もご承知でございます。わたくし、この子のために毘沙門天《びしやもんてん》様に百日のお参りをしたのでございます。きっとりっぱな武将になりましょう」
青白かった袈裟《けさ》のほおは赤らみ、目にいきいきとしたかがやきが出てきた。昂奮《こうふん》のためであることは明らかであった。
「うむ、うむ」
と為景《ためかげ》が言うと、袈裟《けさ》はなお言いつごうとしたが、玄庵《げんあん》がわきからひざをすすめた。
「おそれながら、お脈拝見」
袈裟《けさ》は夜具《やぐ》の下から手をさしだした。これもいっそうきゃしゃになっていて、つめたそうな手だ。玄庵《げんあん》はものなれた器用な手つきで手首をおさえて、小首《こくび》をかたむける。
「よい名前をおつけくださいましな。今年は寅年《とらどし》でございますから、虎千代《とらちよ》などはいかがでございましょうか。りりしくて、強そうでございますから……」
玄庵《げんあん》は脈診《みやくしん》をやめて、おしとどめた。
「お静かにお静かに。そう口をおききになってはなりません。産後はできるだけ静かにおやすみにならなければなりません。血があたまに上がりますと、とりかえしのつかないことになります」
そして、為景《ためかげ》に、
「このへんでお引きとりねがいます。殿がおいでになっていては、奥方様はお休みになれません」
と言った。
為景《ためかげ》の心には解放感があった。うなずいて、袈裟《けさ》に、
「わしはあちらに行く。静かに眠るがよい。名前のことはよく考えておく」
と、やさしく立ちあがった。
(おれが子であろうとなかろうと、いまさらなんともできはせん。やがて愛情も出よう。なんといっても、袈裟《けさ》はわしにとってはいとしい妻だ。その生んだ子であれば、愛情のわかぬはずはあるまい)
と、胸の奥深いところでつぶやいた。
六
子供の生まれた翌日、為景《ためかげ》は府中《ふちゆう》の館《やかた》に出仕《しゆつし》した。
越後府中《えちごふちゆう》は、いまの直江津《なおえつ》の西南郊安国寺《せいなんこうあんこくじ》のあたりにあった。為景《ためかげ》の居城《きよじよう》である春日山《かすがやま》城から半里すこし、ここに守護館《しゆごやかた》があり、上杉定実《うえすぎさだざね》がいたのである。
定実《さだざね》はおとなしい性質であるうえに、上杉家の一族とはいいながら末家《まつけ》の生まれである身が守護《しゆご》になれたのは、すべて為景《ためかげ》の力による。おまけに、その北《きた》の方《かた》は為景《ためかげ》の二女だ。為景《ためかげ》にたいしてはまるで頭の上がらない、名前だけの主人であった。
「信濃《しなの》、そちは男子が誕生したというでないか。めでたいな。老いてもさかんなものだ。たのもしいぞ」
と為景《ためかげ》を見るとすぐ祝いを言った。
「さっそくのご祝辞《しゆくじ》、かたじけなく存じます。はやお耳に達しましたか」
「今朝《けさ》聞いたぞ。御前《ごぜん》もよろこんでいる。あとで奥へ行って顔を見せてやってくれい。――これは祝儀《しゆうぎ》につかわす」
定実《さだざね》はちゃんと用意しておいたらしく、座側《ざそく》の三方《さんぼう》を引きよせてさずけた。筆ぶとにしたためた檀紙《だんし》の目録があり、その上に鞘巻《さやまき》が一|口《ふり》のっている。おしいただいて、目録を見ると、「三原住正家《みはらのじゆうまさいえ》」とある。
礼を言ってさがった。
守護職《しゆごしよく》といっても、かざり雛的存在《びなてきそんざい》にすぎない。実務はいっさい春日山《かすがやま》城でとりおこなっている。ただごきげんうかがいに出仕《しゆつし》したにすぎないから、すぐ奥へ通って夫人に会った。為景《ためかげ》にとっては二女だ。二十五、六、薹《とう》は立っているが、まだなかなか美しい。これも祝いを言って、巻絹《まきぎぬ》を数巻くれた。
「かわいいですか」
と笑いながら聞いた。
「ああ、かわいいな。裾子《すそご》じゃからな。いくらわしが元気でも、もうできまいでな」
と、為景《ためかげ》も笑って答えた。かわいいということにしておかねばならぬのだと、また思った。
名前はお七夜《しちや》につけた。袈裟《けさ》の希望どおりに、虎千代《とらちよ》とつけた。
この命名には、ちょっといきさつがあった。じつをいうと、為景《ためかげ》は「猿松《さるまつ》」とつけたかった。猿に似ていたから。それで、なに食わぬ顔で、それを提議してみた。
「猿はりこうですばやい生きものじゃし、松は千年の寿《じゆ》をたもち、冬のきびしい雪霜《ゆきしも》にも色をかえぬめでたい木じゃ。いい名じゃと思うがの」
「虎千代《とらちよ》というのはいけないのでございましょうか」
と、袈裟《けさ》はおろおろして言った。
「いかんとは言わんが、猿松《さるまつ》は悪い名ではないぞ」
「殿のおぼしめししだいでございますが、猿より虎《とら》が強うございますもの」
と涙ぐんだ。幼い言い方であった。為景《ためかげ》にはそれがかわいかった。
「いや、よしよし、虎千代《とらちよ》にしようわい。しかし、猿松《さるまつ》もおしいと思うゆえ、わしだけがときどきそう呼ぶことにしよう。それはかまわんじゃろうな」
「はい」
と、こんなぐあいにしてきまったのであった。
虎千代《とらちよ》の顔はしだいにととのってきた。しわはなくなり、目もあいた。大きなまっくろなよく光る目であった。じつに丈夫《じようぶ》な生まれつきであった。乳を飲む力がグイグイと強烈《きようれつ》で、
「こんな飲み方をなさる子たちを、わしは知りませぬだ」
と、領内の農家からつれてきてつけた頑丈《がんじよう》な乳母《うば》がおどろいて言うほどであった。
めったに泣かないが、なにかのことで腹を立てて泣くと、おそろしく大きく強い声で泣いて、どうなだめてもやまず、泣きつかれてしぜんに寝てしもうのを待つよりほかはなかった。
こうしている間も、為景《ためかげ》は人知れぬ注意をとぎすまして、子供を観察しつづけていたが、いぜんとして自分に似ているところはさらにないように思われた。家臣《かしん》らもまた、似ていると言った者がない。袈裟《けさ》ももう似ているとは言わない。
(やはり、おれの子ではないのだ)
と、思うよりほかはなかった。
袈裟《けさ》が嫁《か》してくるまでのことを調べたいと思ったが、それは人の助けなしにやれることではなかった。しかし、そんなことの調査を家来どもに命ずる気にはなれなかった。日常のなんでもないことばのやりとりの間に、袈裟《けさ》のことばからかぎとろうとつとめたが、すぐいやになった。あまりにもそれはみじめであった。
はきつかない日がつづいたが、まもなく、そんなことにはかまっておられなくなった。ためらいがちであった北国の春が来て、雪が消えると、国内の形勢がおだやかでなくなってきたのだが、どう不穏《ふおん》であったかを知っていただくためには、当時の越後《えちご》がどんなところであったかを、簡単に説明する必要がある。
七
がんらい、越後《えちご》は関東管領《かんとうかんれい》の一つである山内上杉氏《やまのうちうえすぎし》の分国《ぶんこく》で、山内上杉氏《やまのうちうえすぎし》の者が代々の守護《しゆご》となり、国人《くにびと》らにお屋形《やかた》様とあおがれている国で、長尾《ながお》家はその家老《かろう》の家柄《いえがら》であった。
いまから二十年ほど前、当時の守護《しゆご》は上杉|房能《ふさよし》であったが、気のあらい殿様で、いろいろと失政が多く、国内の豪族《ごうぞく》らにも、庶民《しよみん》にも、いたって評判が悪かった。為景《ためかげ》は家老だから、おりにふれては手ごわい諫言《かんげん》をした。これが房能《ふさよし》にはうるさくてならない。ついには殺そうとまでした。
殺されてはたまらんから、為景《ためかげ》は越中《えつちゆう》の西浜《にしはま》にのがれ、病気によって養生のため転地していると称して出仕《しゆつし》しなかった。房能《ふさよし》は怒った。
「無礼なやつめ、虚病《けびよう》をかまえおって! 容赦《ようしや》ならん」
暴悪《ぼうあく》な君主のくせだ、かえっていい名義ができたとばかりに、みずから兵をひきいて討伐《とうばつ》にむかった。
儒教《じゆきよう》思想によって根性《こんじよう》を矯《た》めなおされた後世《こうせい》の武士とはちごう。目には目を、歯には歯を、武力をもってせまられたら、理であろうと非であろうと、あくまでも抵抗して武勇のほどを見せるのが、もっとも武士らしい態度とされている時代だ。房能勢《ふさよしぜい》がおしよせると聞くと、
「心得《こころえ》たり」
とばかりに、大急ぎで、かねて懇親《こんしん》を結んでいる地侍《じざむらい》らに助勢《じよせい》を乞《こ》い、このかきあつめ勢《ぜい》をもって手ごわく抗戦《こうせん》して、みごとに撃退《げきたい》したばかりか、さらに積極的に出て、越後《えちご》国内の豪族《ごうぞく》らに呼びかけた。
「お屋形《やかた》はこのたびしかじかのことで、拙者《せつしや》を征伐《せいばつ》なされた。お屋形《やかた》がどんなお人であるか、おのおのよくご承知のことである。このような人を主《しゆう》とあおいでいては、領内の民どもの苦しみは申すまでもなく、われら所侍《しよざむらい》もいつどんな目にあわされるか、安心なりがたいものがある。なんとか方法を講《こう》ずる必要がござる」
房能《ふさよし》の暴悪《ぼうあく》にはみな苦しんでいる。参集してくる豪族《ごうぞく》らが多数あって、相談がおこなわれた結果、上杉家の末の一族である上条《じようじよう》の城主|定実《さだざね》はさいわい房能《ふさよし》の養子となっており、またおだやかな人物であるから、これを屋形《やかた》にあおごうということになり、諸豪族《しよごうぞく》いっしょになって、府中《ふちゆう》の守護館《しゆごやかた》におしよせた。
「逆賊《ぎやくぞく》めら!」
暴悪《ぼうあく》なだけに、なかなかの勇将である房能《ふさよし》は激怒《げきど》して出て戦ったが、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》だ、さんざんにやぶれた。
越後《えちご》の豪族《ごうぞく》のなかで柏崎《かしわざき》の近く琵琶島《びわじま》の城主|宇佐美定行《うさみさだゆき》は若年《じやくねん》ながら智勇兼備《ちゆうけんび》の人物とうたわれ、なかなかの学者でもあるためであろう、房能《ふさよし》の政治ぶりをにがにがしいと思いながらも、なお忠心を失わず、為景《ためかげ》らのこんどの挙《きよ》に一味《いちみ》していない。房能《ふさよし》としてはかねては煙《けむ》たいやつと思っていたろうが、背に腹はかえられない。宇佐美《うさみ》の持ち城の一つである東頸城郡《ひがしくびき》の松之山《まつのやま》城をめざして落ちていったが、為景《ためかげ》は猛追撃《もうついげき》して、松之山郷《まつのやまごう》へいまひといきという天水越《あまみずご》えで追いついて、ついにうちとってしまった。
当時は主殺《しゆうごろ》しはめずらしい時代ではない。京の将軍家や関東公方家《かんとうくぼうけ》をはじめとして全国の大名小名《しようみよう》の家に数えきれないほどにある時代ではあったが、なんとしても主殺《しゆうごろ》しだ、幕府が承認しそうもないことであったのに、為景《ためかげ》はさすがに辣腕《らつわん》であった。当時の関東公方家《かんとうくぼうけ》はずっと幕府と仲が悪い。越後《えちご》は関東公方家《かんとうくぼうけ》の家来筋《けらいすじ》上杉家の分国《ぶんこく》だ。うまくもちかければ幕府としては承認するはずと見こんだ。また当時の幕府は貧乏で苦しんでいる。莫大《ばくだい》な献金《けんきん》をして嘆願《たんがん》すると、見こみどおりであった。多少のいきさつはあったが、まずすらすらといって、当時の将軍|義稙《よしたね》は、越後守護職《えちごしゆごしよく》には彼らのかついだ定実《さだざね》を任ずる、為景《ためかげ》よくこれを補佐《ほさ》せよとの旨《むね》の御教書《みぎようしよ》をくだしたのである。
幕府はもう実力を失墜《しつつい》してはいたが、なお権威の象徴《しようちよう》としてありがたがられてはいる。御教書《みぎようしよ》によって正式に承認されたのだから、越後《えちご》国内の豪族《ごうぞく》らは風のなびくように為景《ためかげ》に従った。
為景《ためかげ》は定実《さだざね》を府中《ふちゆう》の守護館《しゆごやかた》において屋形《やかた》とあおぎ、みずからはその近くの春日山《かすがやま》に城をきずいて居城とし、守護代《しゆごだい》として国内の政治いっさいを見た。守護代《しゆごだい》というのは、守護《しゆご》がその国にいず、他に居住している場合の代官というのが本来のものだが、この時代にはそんな規則はもう乱れている。
ところで、宇佐美定行《うさみさだゆき》だ。国内の豪族《ごうぞく》のほとんど全部がこの新しい権威になびいたのに、節《せつ》を守って屈しない。
「父父《ちちちち》たらずとも子は子たれ、君君《きみきみ》たらずとも臣《しん》は臣《しん》たれとは、古聖賢《こせいけん》の教えだ。弑逆《しいぎやく》とはなにごと! かような不孝不忠《ふこうふちゆう》の徒《と》の前にひざをおり、お屋形《やかた》様よ、守護代《しゆごだい》様よと、あおぎつかえること思いもよらぬ」
と宣言して独立を守り、豪族《ごうぞく》らに呼びかけて同志をつのり、歴然《れきぜん》たる反抗の色を立てたばかりか、殺された房能《ふさよし》の兄である関東管領《かんとうかんれい》上杉|顕定《あきさだ》にも働きかけた。顕定《あきさだ》は弟を殺され、先祖伝来の越後《えちご》をうばわれて、腹を立てているところだ。
「よし!」
と応答して、一万五千の兵をひきい、みずから乗りだしてきたので、アンチ為景《ためかげ》方はなかなかの勢いとなった。
こうなると、これまで為景《ためかげ》になびいていた連中の間にも動揺がおこって、離反《りはん》して投ずる者が多く出て、為景《ためかげ》方はまことに心細いことになった。
かくて合戦《かつせん》がはじまったが、為景《ためかげ》は惨敗《ざんぱい》して、定実《さだざね》を奉《ほう》じてまた越中《えつちゆう》ににげた。
人間の運の傾いている時はしかたのないものだ。為景《ためかげ》は前回同様に越中《えつちゆう》の地侍《じざむらい》らの援助をたのむつもりであったのだが、はやくも宇佐美《うさみ》の手がまわっていて助勢《じよせい》してくれないばかりか襲撃《しゆうげき》してくるしまつだ。おまけに運の末と見かぎったのであろう、重臣級の者が三人まで裏切って、攻めたててきた。腹を立てたとてどうしようがあろう、いのちからがら、定実《さだざね》と海べにのがれ、やっと小舟をさがしもとめて佐渡《さど》へにげた。
これで、一時|越後《えちご》は上杉|顕定《あきさだ》のものになり、顕定《あきさだ》は府中《ふちゆう》の館《やかた》にいて、つぎつぎに為景党《ためかげとう》の豪族《ごうぞく》らを征伐《せいばつ》して屈服《くつぷく》させたり、招降《しようこう》したりして、なかなかの勢いであった。
まさに為景《ためかげ》一代のドン底の運命であったが、為景《ためかげ》はよくたえた。わずかに本土にのこる同志を指揮して土民を煽動《せんどう》して一揆《いつき》をおこさせて越後《えちご》を混乱|動揺《どうよう》させておいて、とつじょとして七百人のかきあつめ勢《ぜい》をひきいて越後《えちご》にかえり、顕定《あきさだ》と決戦してこれを痛破《つうは》し、にぐるを追うて信州《しんしゆう》境で顕定《あきさだ》をうちとり、また、越後《えちご》を回復した。
彼は縦横《じゆうおう》の手腕《しゆわん》をふるった。二女を定実《さだざね》の北《きた》の方《かた》とすることによって新屋形《しんやかた》と自分との親しみがなみなみならぬものであることを示して、豪族《ごうぞく》らの心をつなぎとめる一方、上州白井《じようしゆうしらい》城にいる顕定《あきさだ》の養子|憲房《のりふさ》に働きかけ、これを顕定《あきさだ》のあとに立て管領職《かんれいしよく》をつがせることに努力するという条件で和睦《わぼく》した。また、宇佐美定行《うさみさだゆき》にも妥協《だきよう》の手をのばした。
しかし、宇佐美《うさみ》は、
「拙者《せつしや》はまっぴらでござる」
と、がんとして応ぜず、居城琵琶島《きよじようびわじま》、その持ち城である柏崎《かしわざき》・松之山《まつのやま》の両城をかためて、敵対の態度をすてなかった。
こうして数年、また、宇佐美《うさみ》の動きが活発になったのである。
好色豪傑《こうしよくごうけつ》
一
直江津《なおえつ》から海ぞいに北に四里ほど行ったところに柿崎《かきざき》という土地がある。ここは柿崎弥二郎《かきざきやじろう》の居城《きよじよう》のある土地であった。
柿崎《かきざき》は一類《いちるい》も多く、越後《えちご》では屈指《くつし》の大族《たいぞく》であったが、当主の弥二郎《やじろう》がなかなかの武辺者《ぶへんしや》で、その点でも名が高かった。
弥二郎《やじろう》は当時二十五歳、縦も横も大きな体躯《たいく》は仁王像《におうぞう》のようなたくましさであり、容貌《ようぼう》は魁偉《かいい》であり、音吐《おんと》は朗々《ろうろう》としており、一見しただけでただものでないという感じを人にあたえた。事実、十六歳の初陣《ういじん》から十年の間に十数度の合戦《かつせん》に出ているが、すぐれた手柄《てがら》を立てなかったことがない。
「合戦場《かつせんば》での働きなど、なんのぞうさもないことよ。敵が斬《き》ってこようが、突いてこようが、薙《な》いでこようが、いっさいかまわず、からだと槍《やり》をいっしょにしてたたきつけるつもりで突いていけばよいのじゃ。あやまたず敵の胴中《どうなか》を突きぬいているわの。あとは首を掻《か》くだけのこと、ぞうさのないものよ。こちらはけがせんで、敵だけ殺そうなどとずるいことを考えるゆえ、うまくいかんのよ」
と、いつも言っているのだが、それはほんとであったに相違ない。
背中まで黒い毛におおわれている、たくましいからだには、手足といわず、胴体《どうたい》といわず、二十にあまる大小の傷あとがあって、まことにすさまじいものであった。
武者《むしや》としての働きもこのようにすぐれていたが、采配《さいはい》とって軍勢《ぐんぜい》を指揮《しき》しての働きもまたみごとであった。彼の戦法は一手きりだ。一隊をして正面からあたらせ、みずから一隊をひきいて横あいから突撃するという戦法。この時、彼はかならずまっさきをかけ、無二無三《むにむさん》、わき目もふらず突進して斬《き》りくずした。
いつの戦いにも、この手しか使わなかったので、敵方《てきがた》では十分にそれを承知して、その備《そな》えをしてかかるのだが、それでありながらかならずやぶれた。
「すわや、いつもの横入りよ!」
という声が味方の陣中《じんちゆう》に上がると、かえっておじけがついてくるようであった。
このように、戦国武士としてはほぼ理想的ともいえる人物であったが、欠点がないわけではなかった。おそろしく色好《いろごの》みであったことだ。
美しい女にたいして、彼はまるで制御《せいぎよ》ができなかった。領内《りようない》の百姓《ひやくしよう》の娘どもはもちろんのこと、戦場付近の女どもも、もしそれが美しかったら、見かけた以上、ぜったいにのがさなかった。
家臣《かしん》や朋輩《ほうばい》らがいさめでもすると、
「この楽しみがあればこそ、おれは生きてもいれば、戦場で働きもする。戦場の働きなど、本心を言うと、おれはきらいなのじゃ。味気《あじき》ないかぎりのものよ」
と、いつも答えるので、近ごろではもうだれもなんとも言わなくなった。
好きなだけによほどはげしいのであろうか、彼に寵愛《ちようあい》された女は早ければ二月、よほどもちのよいのでも半年もすると、かならず衰弱して病気になってしもう。
「やれ、もうか。なごりはおしいが、使いものにならんではしかたがないわ」
弥二郎《やじろう》はこれを城外の下屋敷《しもやしき》に移し、医者にかけて療治《りようじ》して元気になったところで一夜だけ共臥《ともぶ》しして、家臣《かしん》どもなり、領内《りようない》の有徳《うとく》な百姓《ひやくしよう》どもなりに縁《えん》づけてやるのであった。
「あの一夜|召《め》されるのは、つくろいがあんじょういったかどうかをためしてみなさるのであろうよ。傷《いた》みがのこっているのをくれてはあいすまんと思いなさるのだな。お義理のかたいことだて」
と、家臣《かしん》らは笑っていた。
この弥二郎《やじろう》のところへ、ある日、来客があった。ここから海ぞいにさらに五里ほど北に行くと柏崎《かしわざき》だが、その柏崎《かしわざき》から十四、五|町《ちよう》奥へ入ったところにある琵琶島《びわじま》城の主《あるじ》、宇佐美《うさみ》駿河守定行《するがのかみさだゆき》であった。
定行《さだゆき》は反|長尾為景《ながおためかげ》の中心人物だ。為景《ためかげ》の巧妙周到《こうみようしゆうとう》な施策《しさく》によって、越後《えちご》国内の豪族《ごうぞく》らのほとんど全部が為景《ためかげ》に帰服《きふく》した後も、けっして屈服しないばかりか、このごろではまたはっきりと反抗の色を立て、柏崎《かしわざき》以北の豪族《ごうぞく》らを味方に引きいれつつある。
「おれにもなかまになれ、というのであろうて」
と、すぐ推察はついた。
弥二郎《やじろう》は、いまのところ為景《ためかげ》方に属し、ときどき府内《ふない》の館《やかた》に出仕《しゆつし》もしているが、といってお屋形《やかた》に忠誠心をもっているわけでもなければ、為景《ためかげ》に心服《しんぷく》しているわけでもない。為景《ためかげ》の策謀《さくぼう》によってのことではあるが、お屋形《やかた》は守護《しゆご》、為景《ためかげ》は守護代《しゆごだい》と将軍が御教書《みぎようしよ》によって任命した以上、国侍《くにざむらい》としては承認し、それにふさわしい礼儀をささげるべきだというだけの気持ちであった。
だから、定行《さだゆき》にたいしても特別な敵意はもっていない。むしろ、意地からか道義からか知らないが、あくまでも反抗しぬいて屈しない堅剛《けんごう》さに、一種の敬意さえ抱いている。そういう意志の強さは、弥二郎《やじろう》のもっていないものであった。
「せっかく見えたのだ、会わんというわけにはいくまい」
と思案して、会うことにした。
二
宇佐美定行《うさみさだゆき》は、この時四十二であった。やせぎすの中背《ちゆうぜい》の体格だ。色白で面長《おもなが》の顔立ちで、どこか繊弱《せんじやく》な感じは、武士というより神主《かんぬし》か公家《くげ》のような風貌《ふうぼう》があった。あごひげをはやしている。まばらで、すこし赤みをおびたひげで、それがいっそう長袖《ながそで》じみたものに見えさせた。
小具足《こぐそく》をつけ、袖《そで》のある青地錦《あおじにしき》の陣羽織《じんばおり》を着て、客殿《きやくでん》に入ってきた。
隣境《りんきよう》の領主《りようしゆ》だ。面識《めんしき》はもちろんある。
「ようこそ。このところ、しばらくお会いしませなんだが、ご壮健《そうけん》のおもむき、恐悦《きようえつ》であります」
と、弥二郎《やじろう》は型どおりのあいさつで迎えた。
「ご同様でござる」
と、定行《さだゆき》は答礼し、すぐ用件に入った。
「拙者《せつしや》がこのほどの思い立ち、貴殿《きでん》もちろんご承知でござろうな」
「知っております」
「それでは、拙者《せつしや》がこうしておうかがいしたわけも、ほぼご推察がおつきでござろうな」
と、定行《さだゆき》は微笑した。
「それはつきます」
と、弥二郎《やじろう》も笑った。
「しからば、ご意向《いこう》はいかが。お聞きいれくださろうか」
と、いぜんとして笑いをのこして定行《さだゆき》は言う。
弥二郎《やじろう》も笑ってはいたが、返事はしなかった。
「こんどの思い立ちに、拙者《せつしや》はなかなかの自信をもっています。すでに柏崎《かしわざき》から北新潟《きたにいがた》にいたるまでの諸領主《しよりようしゆ》は、みな、味方にはせ参ずることになっておりますゆえ、拙者所領《せつしやしよりよう》の柏崎《かしわざき》から北、信濃《しなの》川以西は、みな、一味《いちみ》していることになります。すなわち、越後《えちご》の国の半分以上はすでに味方であります。そのうえ、いま、為景《ためかげ》がお屋形《やかた》とあおいでいる定実君《さだざねぎみ》のご舎弟定憲君《しやていさだのりぎみ》は、当時|上条《じようじよう》のお城を留守《るす》しておられますが、これもお味方たまわることに話がついています。定憲君《さだのりぎみ》のこのご決心はおひとりでつけられたのではござらぬ。定実君《さだざねぎみ》と気息相通《きそくあいつう》ずるものがあってのこと。ここ数日の間には定憲君《さだのりぎみ》は旗あげをなさることになっていますが、そうなればいま為景《ためかげ》方に属している豪族《ごうぞく》らのおおかたはこれに応じましょう。為景《ためかげ》の勢いはますますちぢまり、やがては孤立無援《こりつむえん》となるは火を見るより明らかであります。さらにまた、拙者《せつしや》は下総古河《しもうさこが》の公方《くぼう》、足利高基《あしかがたかもと》公の若君竜王丸君《わかぎみたつおうまるぎみ》と申すを乞《こ》いうけ、武州鉢形《ぶしゆうはちがた》城に奉《ほう》じ申しています。竜王丸《たつおうまる》様は、不日《ふじつ》に上杉四郎顕実《うえすぎしろうあきざね》と名のって、山内《やまのうち》上杉家のあとつぎとなられ、管領職《かんれいしよく》におつきになることになっています。関東管領《かんとうかんれい》は関東御公方《かんとうごくぼう》より任命あるのが正当、関東御公方《かんとうごくぼう》を飛びこえて京の将軍家《しようぐんけ》から任命あるのは不当であることは申すまでもないこと。さればいま関東管領《かんとうかんれい》と為景《ためかげ》方であおいで上州白井《じようしゆうしらい》にあられる上杉|憲房君《のりふさぎみ》はニセ|管領《かんれい》でござる。
せんずるところ、勢いの上から申しても、名分《めいぶん》の上から申しても、味方に利《り》のあること幾層倍《いくそうばい》であります。されば、貴殿《きでん》もお味方いただきたいのでござる。貴殿《きでん》ほどの勇武の将が、名分不正《めいぶんふせい》、また勢い非なる為景《ためかげ》方にくみしてむざむざと亡滅《ぼうめつ》をおとりになること、かえすがえすも口おしく存ずるゆえ、拙者《せつしや》わざわざこうしてまいりました」
定行《さだゆき》の語調はいたって平静だ。にこやかな微笑を終始絶たず、噛《か》んでふくめるようにじゅんじゅんと説いたのだが、その内容は驚くべきものであった。その企図《きと》については相当程度以上に知っているつもりの弥二郎《やじろう》ではあったが、弥二郎《やじろう》の知っていることはほんの序《じよ》の口《くち》にすぎなかった。周到緻密《しゆうとうちみつ》、水ももらさぬとはこのことだ。よくもこうまではかりすましたと、驚嘆するよりほかはなかった。
このやさしくおだやかな顔をして、どこにそれほどのたくましさを秘《ひ》めているかと、弥二郎《やじろう》はあらためてしみじみと定行《さだゆき》を見ずにはいられなかった。
しばらくの沈黙の後、定行《さだゆき》は言う。
「ご存念《ぞんねん》、いかが」
かわらぬしずかな調子であったが、とどめを刺すに似た気味があった。弥二郎《やじろう》はぎくりとした。心はもうきまっていた。義理といってはなにひとつない為景《ためかげ》の運命に殉《じゆん》じようなどとはゆめにも思っていない。
(よろこんでお味方したい)
と言おうと口をひらきかけたが、とっさに、あわてることはない、案外これは割り引きして聞くべきことかもしれない、うかうか乗ってはとりかえしのつかないことになろう、あるいはその言うことにウソはないにしても、交換条件なくして味方を約束することはないと思案した。
大きくうなずいた。
「段々《だんだん》のおんさとし、よくわかりました。ご承知のとおり、拙者《せつしや》は別段、府中《ふちゆう》にも春日山《かすがやま》にもなんの負うところのない者ではござるが、さりとて、この数年間、お屋形《やかた》様、守護代《しゆごだい》殿とあおぎつかえたのでござれば、まんざら義理のないこともござらぬ。なおよく考えましたうえで、去就《きよしゆう》を定めたいと存ずる」
どんな反応を見せるか、それによってなお言い、ついには思うところにおびきおとす心ぐみで、ずっと相手の表情に気をくばりながら言ったのだが、定行《さだゆき》は別段な様子は見せなかった。
「拙者《せつしや》にはこのうえご思案の必要はないように存ずるが、それは拙者《せつしや》の立場からのこと、押しつけがましいことはいたしますまい。ご熟考《じゆつこう》のうえ、ご決定ねがいましょう。それでは、今日のところは、拙者《せつしや》はまかり帰ります。これから、拙者《せつしや》は多忙《たぼう》になりますゆえ、ふたたびこうして参上《さんじよう》することはかなわぬかと存じますれば、ご決定のうえは、お手数ながら、お使いをもってお知らせいただきたい。また、念のため申しそえておきますが、事はさしせまっています。できるだけ早くご決定なされて、お知らせいただきたい……」
定行《さだゆき》はここでことばを切って、年に似合わず澄んだ目で弥二郎《やじろう》の目を見つめ、それから、
「では、これにて」
と言って、立ちあがった。唐突《とうとつ》な感じであった。弥二郎《やじろう》も立ちあがり、しずかな足どりで玄関に出ていく相手のあとに従ったが、なぜか、定行《さだゆき》の凝視《ぎようし》が気になっていた。
(あれはなんの意味であったのだろう? この男はあの時何を考えていたのだろう?……)
と、思いつづけた。
城門まで送って出たが、その城門のついまぢかまで来た時、弥二郎《やじろう》の胸をあやしい思念がかすめた。
(この男は、先刻《せんこく》まことに自信にあふれて弁じたてたが、それはこの男が達者《たつしや》でいればこそおこなわれること。この男はなんの用心もなく、わずかに五人の従者《じゆうしや》をつれてここにいる。おれが剛力《ごうりき》にまかせて抱きすくめたら手捕《てど》りにするになんのぞうさもない。討《う》ち取るのはもっとたやすい。腰の大兼光《おおかねみつ》、抜きはなってまっこうから斬《き》りおろしたら、|へそ《ヽヽ》の下まで斬《き》りさげられるわ)
実行する気はないが、つめたい微笑がほおをゆるませた。
その時、定行《さだゆき》が弥二郎《やじろう》をふりかえった。微笑していた。やさしい微笑であったが、弥二郎《やじろう》はおびえた。胸の奥底が見ぬかれたに相違ないと思った。
門を出た。
「では、これにて。お見送り、恐縮《きようしゆく》でござった」
むきなおって、定行《さだゆき》がおじぎをした時、むこうの方から定行《さだゆき》の供《とも》まわりの者が数十人、小走りに集まってきた。みな、厳重に武装していた。
弥二郎《やじろう》はのこりおしさと安堵《あんど》とを同時に感じた。
三
風のない、おだやかな日だ。雪の消えた野には青いものが見え、ゆるやかに波のうねっている海には、かがやかしい日がきらめいていた。ついこの前まで野は雪にうずめられ、吹きすさぶ寒風の中に横なぐりの吹雪《ふぶき》が飛び、鉛色《なまりいろ》の海には山のような大波が荒れくるっていたのだが、ウソのようだ。
海べにつづく道を馬を打たせていた定行《さだゆき》は、柿崎《かきざき》城を出て二里ほど行くと、馬を下り、従者《じゆうしや》らに、
「その方ども、しばらくここにいよ。わしはすこし考えごとがある」
と言って、従者《じゆうしや》らを小松林《こまつばやし》の中にのこし、なぎさの方に行った。歩けばさくりさくりと音の立つ砂丘《さきゆう》だ。一歩一歩、拾《ひろ》うように歩いて、なぎさに立った。
ひとみを北方にはなつと、佐渡《さど》ガ島《しま》が見える。島の高い山のいただきにはまだ雪がのこっている。その雪を凝視《ぎようし》しながら、定行《さだゆき》はいま会ってきた柿崎弥二郎《かきざきやじろう》のことを思っていた。
(柿崎《かきざき》の心はゆれている)
と、彼は思った。
弥二郎《やじろう》が考えた以上に、定行《さだゆき》は弥二郎《やじろう》の心理の動きを見とおしていた。弥二郎《やじろう》が味方する気になったことも、とたんに疑いを生じてためらったことも、利得《りとく》の念を生じたことも、さらに殺意に似たものをもったことも、いっさい見とおしていた。
それをべつだん気にしたわけではない。こんなことは弥二郎《やじろう》にかぎったことではなく、いまの世ではそれはふつうのことだと思っている。もしそんな迷いや欲のない人物がいたら、それこそ特別な人間だと思っている。
また、どんなに迷っても、動揺《どうよう》しても、弥二郎《やじろう》はかならず味方となるにちがいないと見とおしてもいる。自分が弥二郎《やじろう》に言ったことには、誇張《こちよう》もなければウソもない。全部がほんとのことだ。数日中には、これは形となって出てくる。弥二郎《やじろう》としてはいても立ってもおられず、味方となることを申しおくるにきまっていると、見きっている。
ただ心配なのは、その後のことだ。定行《さだゆき》の見るところによると、若いに似ず、また絶倫《ぜつりん》といってよいほどの勇士に似ず、弥二郎《やじろう》は物欲が強い。物欲のない人間は、いまの世には暁天《ぎようてん》の星よりもまれだが、弥二郎《やじろう》はそれが強烈にすぎる。彼がもうすこし名誉心が強いか、年をとって人生の荒波にもまれているか、学問があるかすれば、本性《ほんしよう》を制御《せいぎよ》することができるが、彼にはそのいずれもない。
戦場における武勇の名はおしむが、その他の名誉心はいたってうすい。二十五という年の若さであるうえに、勝ち戦《いく》さばかりをつづけている。これではいくど合戦《かつせん》を経験していても、心性《しんせい》の上になんの得るところもない。学問にいたってはなおさらのことだ。まんざらの文盲《もんもう》ではないが、せいぜい書簡を書けるくらいの文字力しかない。
つまりは、本性《ほんしよう》のままの、もっとも危険な人間ということになる。
ほんとを言えば、このような危険な人物は、味方に組みいれるべきではないのだが、弥二郎《やじろう》の武勇はなんとしてもほしい。だからこそ、かねてから知りぬいているのに、わざわざ説得に行ったのだ。
「しかたはない。用心を十分にすることだ。それよりほかはないわ」
結論は平凡だったが、これで満足して、定行《さだゆき》はしばらく歩きまわった後、供人《ともびと》らの待っているところに引きかえした。
つい目の前に米山《よねやま》がそびえている。高い急峻《きゆうしゆん》な山だ。いただきには雪がのこり、まっしろにかがやいている。ふもとは陽春の景色《けしき》になっているのに、そこだけは、まだきびしくおごそかで清らかな冬山の姿であった。感にたえて、むちで軽く足をたたきながら、定行《さだゆき》はしばらく見とれていた。
四
宇佐美定行《うさみさだゆき》の言ったことを、柿崎弥二郎《かきざきやじろう》は全面的には信用しなかった。
(敵はもちろんのこと、味方をはかることもめずらしくない戦国の世だ、ぎりぎりの時まではほどほどに聞いておこうよ。ましてや、駿河《するが》があの智略《ちりやく》。ま、しばらく様子を見ていよう)
と、いちおう思い定めた。
だのに、どういうことか、しきりに気になる。食事している時も、女と寝ている時も、それが、しこりのように心のどこかにあって、たえず考えつづけている。
(駿河《するが》めの術策《じゆつさく》にひっかかったような)
と、すこしいまいましかった。
すると、四、五日すると、北越後《きたえちご》の形勢が聞こえてきた。弥彦《やひこ》山のふもとに観音寺《かんのんじ》という村があるが、そこに定行《さだゆき》が来て、為景討伐《ためかげとうばつ》を名として豪族《ごうぞく》どもを召募《しようぼ》にかかったところ、はせ参ずる者が引きも切らないというのだ。
(なるほど、駿河《するが》の申したことはまんざらいつわりではなかったのだな)
と、弥二郎《やじろう》の心はかなり動揺したが、まだまだと思った。これだけのことでは、定行《さだゆき》の言ったことの三分の一にもあたらない、守護代《しゆごだい》たる為景《ためかげ》の勢力はなかなかのものがあるはず、と、思った。
しかし、そうは思いながらも、弥二郎《やじろう》は、上条《じようじよう》の上杉定憲《うえすぎさだのり》からの使者を心待ちする心理になっていた。
(いまいましいが、おれの心は|とりもち《ヽヽヽヽ》に片足とられている蠅《はえ》に似ているわ。みごと、駿河《するが》めの術策《じゆつさく》にかかっているわい)
と苦笑しながらも、これで上条《じようじよう》が動きだしたら、定行《さだゆき》の言ったとおり、為景《ためかげ》の運命はきわまったのだと思っていた。
その上条《じようじよう》からの使者が来たのは、二、三日後のことであった。
定憲《さだのり》の家老|毛蓑四郎左衛門《けみのしろうざえもん》の家来と名のる男が、毛蓑《けみの》の書面をもってきたのだ。
「このたび、播磨守《はりまのかみ》(定憲《さだのり》)様、宇佐美《うさみ》駿河守《するがのかみ》殿と牒《ちよう》じ合わせて逆臣討伐《ぎやくしんとうばつ》の兵をおこされるについて、上杉家|旧功《きゆうこう》の軍兵《ぐんぴよう》を招《まね》きたもう。柿崎《かきざき》家は累代《るいだい》別して上杉家に忠功《ちゆうこう》ある家なれば、まっさきにはせ参じてくれるであろうと信じている。首尾《しゆび》よく逆臣征伐《ぎやくしんせいばつ》のあかつきは、厚き恩賞《おんしよう》あるであろう」
という文面だ。
弥二郎《やじろう》はおしいただいてわきにおいて、口をひらいた。
「じつは、先般《せんぱん》駿河守《するがのかみ》殿からご内意のほどうけたまわっていたので、お使いのまいらるるを、心待ちしていた……」
こう言った時まで、弥二郎《やじろう》は承諾の返答をするつもりでいたのだが、ふと、待てよ、と思った。
(おれほどの者がお味方すれば、播磨守《はりまのかみ》様にとってはたいへんな強みになるはず。そこらの有象無象《うぞうむぞう》と同じように恩賞《おんしよう》はそちら様まかせ、というあほうな話があるべきではないわ。前もってのかたい約束があってよいはず)
弥二郎《やじろう》はつめたい表情になって、書面をひろい上げて、念入りに読みかえすふうをして言った。
「四郎左《しろうざ》殿のこのご書面には、恩賞《おんしよう》のことについては、はきとした記載《きさい》がないな」
相手はにこりと笑って、
「恩賞《おんしよう》のことについては、ご承諾のご返答をうけたまわったうえで、くわしく申し上げる所存《しよぞん》でありました。すなわち、事成《ことな》ったあかつきには頸城《くびき》郡内にて十カ郷《ごう》をあてがうとのお墨付《すみつ》きを、こうして持参しています」
と言いながら、ふところから一封《いつぷう》の書き付けを出して見せた。
弥二郎《やじろう》は、フン、おれが言いださなんだら、そのままにもちかえるつもりであったろう、あぶないところであったわ、念には念を入れよ、とはよう言ったものじゃ、と思いながらも、ぶあつく広い肩をゆすって、大きく笑った。
「まことに|ばつ《ヽヽ》の悪いことになったな。これでは、恩賞《おんしよう》によってはお味方すると申したようになるのう。しかし、おれはさようなつもりで申したのではない。――まずおうけして、しかる後に言うべきであったな。ちと順序がちごうたわ。ハッハッハハハハ」
「それでは、おうけくださるのでございますな」
「申すまでもない。おうけせんなどということがあろうか。先祖以来、重畳《ちようじよう》の御恩《ごおん》をこうむっている当家じゃわ」
「ああ、祝着《しゆうちやく》。――それでは、お墨付《すみつ》きはそちらに」
おしいただいて、ひろげると、たしかにいま言ったとおりのことが書いてあり、定憲《さだのり》の署名《しよめい》と花押《かおう》がある。
「たしかに」
弥二郎《やじろう》は筆紙《ひつし》を呼んで、請《う》け書《しよ》をしたためてわたした。
五
上条《じようじよう》からの使者がかえるとすぐ、弥二郎《やじろう》は弟の弥三郎《やさぶろう》を呼びにやった。弥三郎《やさぶろう》はここから一里半ほどの山の手に入った米山寺《よねやまでら》の近くの城にいる。
使いは夕方近くかえってきた。
「弥三郎《やさぶろう》様は鷹野《たかの》にお出かけで、ご不在でございました。しばらくお待ちしていましたが、なかなかお帰りがないので、かえってまいりました。おことばの旨《むね》はよく申しておいてございます」
「そうか。よし」
来るのは明日になるな、と思ったので、日が暮れると、このごろ召《め》しかかえた女を引きつけて、いつものとおり晩酌《ばんしやく》にかかった。
暑からず寒からず、まことによい陽気だ。地上は百花一時に咲きそろう雪国の春だ。空にはおぼろな月がある。酒がうまい。いつもよりかなりにすごし、ほろりと酔ったところで、女のひざを枕《まくら》に横になった。弾力のあるまるいひざの感触がえもいわれずこころよい。毛ずねをふみのばし、女のやさしく小さい手をとってまさぐっているうちに、ついうとうととしてしまったが、とつぜん、
「兄者《あんじや》、兄者《あんじや》」
と、呼びおこされた。
弥三郎《やさぶろう》が来ていた。
いつはずしていったか、女はいず、木の枕《まくら》をあてがわれ、足に小袖《こそで》がかけてあった。
「やあ、来たのか。いずれ明日のことであろうと思っていた」
と言いながら、むくりと起きた。酒はもうさめていた。
「そうも思ったが、なにやら大事な用のような口ぶりじゃったというので、馬を飛ばしてきた。なに、この陽気じゃ。いい気色《きしよく》であった」
弥三郎《やさぶろう》は弥二郎《やじろう》と三つちがいだ。兄にはおとるが、これもまた大男だ。
「なるほどな。おぼろ月夜の遠乗りか」
明けはなした障子《しようじ》の外には、真珠色《しんじゆいろ》のやわらかな光がひろがっている。庭の木々やむこうの建物の陰《かげ》は薄墨色《うすずみいろ》にくらいが、木々のもつ花が、その薄墨色《うすずみいろ》の中にぼとりぼとりと胡粉《ごふん》をおとしたように白くにじんで、なんともいえず艶《えん》でしずかだ。見とれていると、
「さて、どんな用件じゃな」
と、弥三郎《やさぶろう》はうながした。
「うむ」
弥二郎《やじろう》はすわりなおして、宇佐美定行《うさみさだゆき》が来たこと、今日|上条《じようじよう》から使いが来たこと、応ずる約束をしたこと、恩賞《おんしよう》として頸城《くびき》郡内で十カ|郷《ごう》をもらう約束になっていること、のこらず語った。
弥三郎《やさぶろう》はうなずきうなずき聞いていたが、言う。
「それはよかった。そういうことなら、いい思い切り時じゃ」
「そう言うてくれれば、わしもうれしい。そこでだな……」
と言いかけると、弥三郎《やさぶろう》はさえぎった。
「わかった。つまり、一族の者どもを説きつけよ、というのじゃろう」
「そうじゃ。ばかがたいやつが多いので、なかなか言うことを聞かんのではないかとも思われるのでのう。そちはどう思う。みなすなおに言うことを聞くじゃろうか」
「話してみんことにはわからんが、たいていだいじょうぶじゃろうと思う。為景《ためかげ》はすこしやりすぎる。当国の武士どもはお屋形《やかた》に従っているつもりなのじゃが、お屋形《やかた》がいまのようにまるっきりのダシにつかわれていなさるのでは、実際は為景《ためかげ》に奉公《ほうこう》していることになるので、みなおもしろいとは思っておらん。ともあれ、話してみよう」
弥二郎《やじろう》は弥三郎《やさぶろう》のことばなかばからあいづちを打つのをやめて、鷹《たか》のように鋭いかがやきをもった目をすえて外を凝視《ぎようし》していた。
「どうぞしたのか」
弥三郎《やさぶろう》が言うと、
「いや、なに。酒を言おう。どうせ今夜は泊まるのじゃろう」
と言って立ちあがり、廊下に出て、ポンポンと手をたたいておいてかえってきたが、これまですわっていた位置を通りすぎて簀子《すのこ》に出たかと思うと、いきなり脇差《わきざし》をぬいて、声もなく、庭の木立ちにむかって手裏剣《しゆりけん》に打った。脇差《わきざし》は真珠色《しんじゆいろ》の明るさの中を光りながら飛んでいって、暗い陰《かげ》に消えた。
「どうしたのじゃ!」
おどろいて、弥三郎《やさぶろう》が立ってきたが、それにはかまわず、
「くせもの!」
大喝《だいかつ》しながら、弥二郎《やじろう》は簀子《すのこ》をとびおり、木立ちにむかって突進した。
「兄者《あんじや》!」
弥三郎《やさぶろう》はとびおりてきた。
弥二郎《やじろう》は地面におち散っていた脇差《わきざし》をひろいあげ、左手の拇指《おやゆび》と人差し指とで切っ先をしごき、鼻にあてた。
「どうしたのじゃ、だれかいたのか?」
弟はまたたずねた。
弥二郎《やじろう》は右手に脇差《わきざし》のつかをつかんで、鋭い目を八方に向けながら、左手の指先を弟の鼻先に近づけた。
「あっ、血!」
「ここにいたのだ」
弥二郎《やじろう》の呼吸はあらあらしくはずんでいた。
兄弟は家来どもを呼んで、さがすように命じた。
いたことはまぎれもないのに、どこへどう消えたか、まるで見当たらないので、弥二郎《やじろう》はかんしゃくをおこしていた。
「この庭から出るはずはない。たしかにいるのだ。さがせ!」
六
同じ夜の明け方であった。
春日山《かすがやま》城内の寝室で、目ざめ前の浅い眠りの中にいた為景《ためかげ》は、ハッとして目をさました。
へやの入口に、一人の男が両手をついてうずくまっていた。渋染《しぶぞ》めの着物に、同じ染めの伊賀袴《いがばかま》をはいて、かしこまった姿であった。
「ああ、そちか」
「は、玄鬼《げんき》でございます」
顔を上げると、ニコリと笑った。色の黒い鼻の大きな男である。ふしぎなくらい目が細い。くちばしの大きい鴉《からす》に似ている。
為景《ためかげ》はゆっくり起きて、寝床の上にすわった。
「近うよれい」
「は」
いざりよってくる。その様子がすこしぎごちない。
「どうした? 傷《て》を負《お》うたのではないか」
「は、いささか」
苦笑して、またをおさえた。
「どこでだ」
「柿崎弥二郎《かきざきやじろう》殿のお城」
「弥二郎《やじろう》にか」
「はい」
「さすがなものだな、やつは。そちほどの者に」
男はまた苦笑した。
これは、為景《ためかげ》が国の内外にいく人となくはなっている忍《しの》びの者の中で、一番の巧者《こうしや》と信頼している服部玄鬼《はつとりげんき》という男だ。数年前、伊賀《いが》の国から来て、奉公《ほうこう》をねがいでた。
試験のため、そのころ気に入らぬ家来がいたのを暗殺することを命じたところ、その家来はその翌朝《よくあさ》にはつめたいむくろとなって、自宅の床《とこ》の中で死んでいた。しかも、斬《き》ったのでもなければ、絞殺《こうさつ》したのでもない。といって、毒飼《どくが》いした形跡《けいせき》もない。
「頓死《とんし》でござる。奇病と申すよりほかはござらぬ」
と、首をひねりながら、医者は診断したという。
「どうした手段をつかったのじゃ」
と、為景《ためかげ》はたずねたが、玄鬼《げんき》は、
「それは……」
とにやにやしているだけで、答えようとはしなかった。
しかし、これで十分に役に立つとわかったので、召しかかえて、いろいろなことに使っているがこんど自分にたいする宇佐美定行《うさみさだゆき》一派の動きが、なんとやらおかしげになったので、国内の豪族《ごうぞく》らの動向《どうこう》をさぐることを命じているのであった。
「それで、柿崎《かきざき》の動きはどうなのじゃ」
「ゆゆしいことがおこなわれています」
玄鬼《げんき》は、柿崎《かきざき》のところに宇佐美《うさみ》の来たことから、上条《じようじよう》の毛蓑四郎左衛門《けみのしろうざえもん》の使者の来たこと、恩賞《おんしよう》の約束のこと、今夜の柿崎《かきざき》兄弟の問答にいたるまで、のこらず語った。いつものくせの、つぶやくようにぼそぼそとした調子だ。為景《ためかげ》は身をのりだして、耳をかたむけた。
柿崎弥二郎《かきざきやじろう》の武勇を、為景《ためかげ》はだれよりも買っているつもりだ。だから、できるだけの優遇をしてきた。功があれば所領《しよりよう》をおしまなかったし、時々の音物《いんもつ》もおこたらなかったし、府中《ふちゆう》の館《やかた》に出仕《しゆつし》した時はかならずここに招待して鄭重《ていちよう》な饗応《きようおう》をおこたらなかった。これはすべてその心をつなぎとめるためであった。その柿崎《かきざき》が敵がわについたのは、かなりな衝撃《しようげき》であった。
しかし、為景《ためかげ》はけぶりにもそれを出さない。
「そうか。よしよし、よくわかった。――これは当座のほうびだ。とらせるぞ」
手文庫《てぶんこ》から銀子《ぎんす》を出して、紙にくるんで投げあたえた。
「さがってよいぞ」
相手はおしいただいて、ふところにして立ち去りかけた。
「ちょっと待て、一両日《いちりようじつ》、どこにも出んで、自宅にいるよう。新しく言いつけることがあるかもしれんから」
「かしこまりました」
玄鬼《げんき》はあとずさりして唐紙《からかみ》をあけて立ち去った。気のせいだとは思うが、地べたをはう煙のような感じであった。
あとにのこった為景《ためかげ》は、腕を組んでしばらく思案していた。
徹底《てつてい》した現実主義者である為景《ためかげ》は、人と人とを結ぶ|きずな《ヽヽヽ》は利得《りとく》だけであると割り切っている。彼は自分自身の本心をのぞいてみて、利害の念をはなれての純粋な忠誠心や誠実心のないことを知っているので、人間はだれでもこんなものと思っている。だから、人にもそんなものをもとめる気はない。
(忠義も、義理がたさも、利得心《りとくしん》の上に生ずる。適当に利得《りとく》させておきさえすれば、人はおれにつきしたがっている)
と思っている。
当然の発展として、これは力にたいする信仰《しんこう》になる。
「おれに力がありさえすれば、人はおれにそむくことはない。なぜなら、そむくことが損になるからだ」
これが彼のかたい信念になっている。
こんな彼だけに、彼は柿崎《かきざき》の離反に衝撃《しようげき》は感じたが、腹を立てはしなかった。ただこちらが打つべき手を敵に打たれてしまったのが残念であった。
為景《ためかげ》は床《とこ》を出、洗面し、いつもどおり|あずち《ヽヽヽ》に出て弓をひいた。いつもとかわりなくおちついたものであった。
きまりの五十立《たて》を引いてかえってくると、侍臣《じしん》を玄鬼《げんき》の家にやって呼んでこさせた。
玄鬼《げんき》はすぐ来て、庭先にかしこまった。他に人のいる時はいつもこうだ。けっして上にはあげない。
「おお、来たか」
為景《ためかげ》は沓《くつ》脱石《ぬぎ》のはきものをはいて先に立ち、うららかな朝の日のさしている庭の飛び石づたいに、奥庭の方に行った。むっつりした鴉《からす》のような横顔を見せて、玄鬼《げんき》はあとに従う。
まっかな木瓜《ぼけ》の花の咲いている四阿《あずまや》のこしかけに腰をおろした。玄鬼《げんき》はその前にひざまずいた。
「まず聞く。またの傷はどうだ。すこし遠くに旅してもらわねばならんが、行けるか」
「たいしたことはございません。だいじょうぶでございます」
「では、耳をかせ」
のびあがってくる玄鬼《げんき》の耳に口をつけて、ややしばらくささやいた。玄鬼《げんき》はいちいちうなずきながら聞いた。
「わかったな」
「はい」
為景《ためかげ》はふところから紙包みを出して、卓《たく》においた。
「これがその費用。砂金《さきん》で百両ある」
さらにもう一つ出して、
「これがそちの費用、十両ある」
「…………」
「わかったらすぐ行け。早ければ早いほどよいぞ。おれが気に入るほどのものを手に入れてくれば、ほうびを百両やる」
立ちあがって、さっさとかえっていった。
三《み》ツ瓶子《へいし》の紋章《もんしよう》
一
玄鬼《げんき》が旅立った翌日、為景《ためかげ》は一族で三条《さんじよう》の城主である平六郎俊景《たいらのろくろうとしかげ》ほか二人を北越後《きたえちご》の討伐《とうばつ》につかわした。じつをいえば人まかせにはしたくなかったが、上条《じようじよう》の上杉定憲《うえすぎさだのり》がどう動くかわからないので、みずから行くわけにゆかなかった。
「手のびすれば勢《せい》がついてやりにくくなる。はやはや行きむかって、蹴《け》ちらしてくれい」
と命じた。
「かしこまりました」
総勢千五百、北へむかった。
やがて報告が来たが、おもしろくない報告だ。敵が優勢であるばかりでなく、百姓《ひやくしよう》どもまでこちらに敵意を抱き、ややもすれば後方を攪乱《かくらん》しようとするので、不安で深く進むことができない、ついては、もう二、三千、兵をおくってもらいたいというのだ。
兵はおくるわけにいかない。つぎつぎに集まってくる情報によると、上条《じようじよう》の動きは日を追うて活発になりつつある。こちらが空虚になっては、一挙におしよせてくることが目に見えている。しかし、なんとか方法を講ずる必要がある。
魚沼《うおぬま》郡に上田《うえだ》というところがある。いま、塩沢《しおざわ》お召《めし》の産地として有名な塩沢《しおざわ》から、やや東寄りに北に一里ほど行った地点だ。ここに為景《ためかげ》の弟越前守房景《えちぜんのかみふさかげ》が居住している。稀代《きたい》の猛将《もうしよう》として付近の豪族《ごうぞく》らに恐れられていたが、その子の五郎政景《ごろうまさかげ》も、まだ少年といってもよいほどの年なのに、早くも数度の武功《ぶこう》を立てて、父におとらぬ猛将《もうしよう》となるであろうと取りざたされていた。為景《ためかげ》はここに急使を派して、北越後《きたえちご》へ後詰《ごづ》めとして行くようにさしずした。もちろん、恩賞《おんしよう》を約束した。味方勝利のうえは宇佐美《うさみ》の所領《しよりよう》である松之山《まつのやま》をあてがうという約束。
「かしこまった。不日《ふじつ》に行きむかうであろう。しかしながら、ただの後詰《ごづ》めではおもしろくない。魚野川《うおの》と信濃川《しなの》を舟でくだり、いっきに観音寺《かんのんじ》の宇佐美《うさみ》の本営《ほんえい》をつくことにする。支度《したく》にすこし手間取《てまど》るかもしれないが、楽しみにして見ていてもらいたい」
と、房景《ふさかげ》はたのもしく返答してよこした。
為景《ためかげ》はおおいに安心し、こちらは上条《じようじよう》にそなえて、いつでも兵をくりだせるように味方の豪族《ごうぞく》らに支度《したく》させていると、ほどなく軍勢《ぐんぜい》が上条《じようじよう》にはせ集まりはじめたとの報告が入ってきた。ずいぶん多数の豪族《ごうぞく》どもだ。柿崎《かきざき》兄弟はいうまでもなく、その一族である風間《かざま》河内守《かわちのかみ》、五十嵐小文四《いがらしこぶんし》らも入っている。
為景《ためかげ》はいまさらのように、宇佐美《うさみ》の計略の深さと、自分の人望のなさとを思い知らされたが、気落ちなどはしない。
「やれ、とうとう立ったな」
待ちかねていたとばかりに、味方の豪族《ごうぞく》らに|ふれ《ヽヽ》をまわし、至急に兵をひきいて府中《ふちゆう》に集まるように要求したが、その人々がまだ集まらない前、上条《じようじよう》の敵勢《てきぜい》が上田《うえだ》にむかったという報告が入った。どうやら、観音寺《かんのんじ》の本営《ほんえい》を奇襲しようとの房景《ふさかげ》の密謀《みつぽう》がさぐり知られたらしいふうであった。
つづいて、上田城から報告がある。
「いっさいの支度《したく》がととのって、明日は観音寺《かんのんじ》へ発向《はつこう》しようとしているところに、上条《じようじよう》勢がよせてきた。敵の勢いは強いが、つまりはにわかの寄せ集め勢である。もしそちらが後詰《ごづ》めしてくださるなら、計略を合わせてこれを挟撃《きようげき》しよう。うちやぶって味方勝利を得んこと、案のうちである」
という口上《こうじよう》。
いかにも房景《ふさかげ》らしい強気なことばだ。
「さすがは房景《ふさかげ》。胸のすくような剛強《ごうきよう》さじゃわ」
為景《ためかげ》は、
「さっそくに行きむかうであろう。いずれ途中から連絡するであろう」
と申しおくっておいて、即座《そくざ》に出陣《しゆつじん》した。豪族《ごうぞく》では加地《かじ》安芸守《あきのかみ》、塚尾《つかお》佐渡守《さどのかみ》、家臣《かしん》では家老の昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》をひきいていた。
兄からの返事を得て、房景《ふさかげ》が元気づいているところに、途中から為景《ためかげ》が出した使いも到着《とうちやく》した。明日正午ごろまでには上田表《おもて》に到着するであろうという口上《こうじよう》。
房景《ふさかげ》は当時五十歳になっていたが、意気おおいに上がった。おもだった家臣《かしん》らを呼んで、
「城に居すくんでいては、うしろ巻きの勢に救いだされたと世間に取りざたされて、おれの武名がすたる。城を出はなれた場所で戦い、一合戦《ひとかつせん》していちおう敵をたたきつけたところに、春日山《かすがやま》勢が来て|とどめ《ヽヽヽ》をさす、というぐあいにいきたい。されば、おれは明日の戦いは六日町《むいかまち》でするつもりであるが、夜が明けては川を越えにくいであろう。今夜のうちに川を越えておきたい。そのつもりで兵どもに支度《したく》させて、つぎのさしずを待っているよう。城の留守居《るすい》は政景《まさかげ》に命ずる」
と言いわたして、二千余人の兵をひきいて、夜半を過ぎたころから、ひそかに城を出た。おりから空は春のうす曇りして、星の光もおぼろな暗夜《あんや》であった。
二
上田《うえだ》の城は狭長《きようちよう》な上田|盆地《ぼんち》の東方にそびえる六百三十四メートルの坂戸山《さかとやま》に拠《よ》っていて、城を出て、段々畑《だんだんばたけ》や段々田《だんだんだ》の間をつづくだらだら道を二、三|町《ちよう》さがると魚野《うおの》川の川原に達し、川を渡れば六日町《むいかまち》である。
上条《じようじよう》勢は、六日町《むいかまち》に陣取《じんど》っていて、昼の間はこの川を越えて寄せてくるが、夜になると夜襲を警戒して、六日町《むいかまち》に引きあげているのであった。
房景《ふさかげ》は全軍に命じて馬の|みずき《ヽヽヽ》(くつわの一部・手綱《たづな》をつけるところ)を巻き、あぶみをしばって音を殺し、川原をはるかに迂回《うかい》して上流に出て魚野《うおの》川を渡り、森に入って停止させた。
「夜明けには間がある。適当な時刻には起こすゆえ、各隊ともに見張りを立て、眠りをとって気力を養え。物音を立てたり、耳に立つほどの声を出すものは斬《き》る。一言の言いわけもゆるさん」
ときびしく命じて眠りをとらせた。
兵らは暁《あかつき》の露にぬれた下草《したくさ》の上に浅い眠りを結んだ。
やがて夜が明ける。
房景《ふさかげ》は、士《さむらい》二人に足軽《あしがる》数人をつけて物見《ものみ》に出しておいて、全軍を起こし、各人それぞれ腰につけてきた二食分の兵糧《ひようろう》から一食分を摂《と》るように命じた。おわるころ、物見《ものみ》がかえってきた。
「敵はいま、朝の炊飯中《すいはんちゆう》で、ぜんぜんこちらの様子に気づいていない。また六日町《むいかまち》まではまるで敵影《てきえい》を見ない。まっすぐにおそいかかったら、味方の勝利疑いない」
と、物見《ものみ》らは勇みたっている。
房景《ふさかげ》は見かけはきゃしゃで小柄《こがら》な体格だが、顔はひきしまっていた。とりわけ眼《め》の光の強くするどいのが目立った。それは精気にあふれ、いつも寸分の気のゆるみのないことをあらわしていた。年に似ず、まゆも髪もまっくろであった。黒革《くろかわ》を紺糸《こんいと》で縅《おど》した具足《ぐそく》を着、冑《かぶと》はかぶらず、床几《しようぎ》に腰かけていた。きびしく口を一文字《いちもんじ》にむすび、そのするどい眼《まなこ》をしずめて報告を聞いた。思案をめぐらしているようであったが、
「よし!」
と短く言って立ちあがり、侍臣《じしん》のささげもっていた鹿《しか》の角《つの》の前立《まえだて》を打った冑《かぶと》をかぶり、きりりと忍《しの》びの緒《お》をしめた。見ちがえるほど威厳《いげん》がそなわった。
彼は林の外に出て、勢を二手にわけたが、その時、前方にあたって敵の騎馬《きば》の物見《ものみ》が三騎あらわれた。
「討《う》ち取れ!」
その声より早く、馬まわりの若者五騎が先を争ってはせむかった。鉄砲の伝来はこの時から十三年後である。飛び道具としては弓以外にはない。若者らのうち三騎は弓をもち、二騎は槍《やり》をかかえていた。
物見《ものみ》らは不敵《ふてき》な様子で馬をとめてこちらを見ていたが、弓をもった若者らが矢ごろに入ったと見て矢を射はなちはじめると、馬首《ばしゆ》をかえしてにげだした。馬を吟味《ぎんみ》してきたのであろう、速い速い、けんめいに追いかける若者らを引きはなして、みるみる小さくなっていった。
若者らはあきらめて引きかえしてきた。
すでに敵に発見された以上、奇襲はあきらめなければならない。房景《ふさかげ》は二手にわけた勢を二段に備《そな》え、一手を老臣大堀《ろうしんおおほり》壱岐守《いきのかみ》にさずけて先鋒《せんぽう》とし、みずから二段目をひきいて、整々《せいせい》と押した。
三
六日町《むいかまち》は東に上田《うえだ》城の拠《よ》っている坂戸《さかと》山がそびえ、西に笠置《かさぎ》山・中城《ちゆうじよう》岳・樽《たる》山などの山々がつらなり、その間を魚野《うおの》川が北流してひらく細長い上田|盆地《ぼんち》の中ほどにある村だ。村の東を広い川原をもった魚野《うおの》川が流れ、西は平地が五、六町《ちよう》つづいた後、ゆるやかに傾斜した段々田《だんだんだ》になり、それが上るにしたがって畑とかわり、樹林《じゆりん》となり、山となるという地形だ。
戦場にえらばれたのは、村のはずれ、魚野《うおの》川の川原であった。ひろい川原に点々と散らばっている緑の草むらには、さまざまな色の春の花が可憐《かれん》に咲いて、おりからの朝日に照らされて、目のさめるような美しさであった。
上杉《うえすぎ》方では、にげもどってきた物見《ものみ》の兵の報告を受けると、ここまで出て布陣《ふじん》した。先陣《せんじん》に柿崎一党《かきざきいつとう》の風間《かざま》河内守《かわちのかみ》、二陣に柿崎弥三郎《かきざきやさぶろう》、三陣に弥二郎《やじろう》その他、四陣が本陣《ほんじん》となって、上杉|定憲《さだのり》を擁《よう》して八条左衛門《はちじようさえもん》大夫《だゆう》その他の豪族《ごうぞく》らがひかえた。
やがて川原のはしにあらわれた長尾《ながお》勢はしばらく停止して観察した後、また行進をはじめた。
矢ごろに近づいたところで、しばらく矢戦《やいく》さがあって、それから接戦に入るのが当時の野戦《やせん》の法なので、上杉方でもそのつもりで近づいてくる長尾勢を見ていたのであるが、長尾勢はそのきまりの法をふまなかった。矢ごろに入るや、いきなり突撃に出たのだ。
上杉方の先陣風間《せんじんかざま》勢は狼狽《ろうばい》しながらも、雨のように矢を射そそいだが、長尾勢はひるまない。冑《かぶと》の|しころ《ヽヽヽ》をかたむけ、肩をすくめ、鎧《よろい》をゆりあわせてすきまをちぢめ、歯がみをしながら、しだいに速度を上げる。射落とされる者や、傷を負う者もいたが、すこしもひるまない。一足に五|間《けん》、十間、すさまじい勢いで殺到《さつとう》する。
無謀《むぼう》で、狂的《きようてき》で、型はずれな戦法に、風間《かざま》勢は心をゆるがした。こんな場合には、しょせん無法は法にかないはしないのだから、あくまでも沈着《ちんちやく》にかまえて弓で射とればよいものを、弓をすて、刀をぬき、槍《やり》をとって、迎え戦うかたちになった。そのうえ、気をうばわれているので、どうしても浮き足立っている、ドッと突入してきた長尾勢の猛烈な攻撃に、たちまち蹴《け》ちらされた。
「こらえよ! こらえよ! それで風間《かざま》が手の者といえるか! 死ねや、者ども!」
風間《かざま》河内守《かわちのかみ》は激怒《げきど》して、宗徒《むねと》の家臣《かしん》らをはげまして敗勢《はいせい》を食いとめようとしたが、こうなってはどうにもならない。こらえているつもりで、いつかしどろとなってしりぞいていた。
「得《え》たりや! 戦《いく》さは勝ったぞ!」
長尾勢は気力百倍して、二|陣《じん》の柿崎弥三郎《かきざきやさぶろう》の備《そな》えに突入した。弥三郎《やさぶろう》の備《そな》えも色めいた。
三陣にひかえた弥二郎《やじろう》はこれを見て腹を立てた。
「弥三郎《やさぶろう》が備《そな》えをやぶられては、柿崎《かきざき》党の名はすたるぞ! かかれ!」
と絶叫《ぜつきよう》して、まっさきかけて馬をおどらせた。一党千騎《いつとうせんき》、ドッとおめいて津波《つなみ》のようにこれにつづいた。
弥二郎《やじろう》の働きはれいによって絶倫《ぜつりん》であった。いつものいでたち――黒の鎧下《よろいした》に黒革縅《くろかわおど》しの大鎧《おおよろい》、|しころ《ヽヽヽ》から鉢金《はちがね》までまっくろで、鍬形《くわがた》だけがさんぜんとして金色《こんじき》にかがやく冑《かぶと》をかぶり、黒漆《こくしつ》の鞍《くら》をおいた烏黒《からすぐろ》の駿馬《しゆんめ》にまたがり、刃《は》わたり四尺、鉄棒《てつぼう》を打ちひらめたような厚重《あつがさ》ねの剛刀《ごうとう》をふりかざし、縦横無尽《じゆうおうむじん》に馬を乗りまわして、あたるをさいわいに斬《き》っておとした。
およそ彼に立ちむかって助かる者はなかった。一合《いちごう》した者もない。大喝《だいかつ》とともに刀がふりおろされると、あるいは首をはねとばされ、あるいは腕を打ちおとされ、あるいは高ももから足を斬《き》りおとされ、あるいは冑《かぶと》のてっぺんから頭を打ちくだかれ、石のように馬上から転落した。札《さね》を吟味《ぎんみ》しない具足《ぐそく》をまとった雑兵《ぞうひよう》など、具足《ぐそく》の上から西瓜《すいか》をきるように、あるいはまっこうから唐竹割《からたけわ》りに、あるいは|わたがみ《ヽヽヽヽ》から大袈裟《おおげさ》にはなされて、悲鳴もあげえず絶息《ぜつそく》した。
勝ちほこっていた長尾方の先陣《せんじん》はたちまち乱れたち、右往左往《うおうさおう》してにげまどった。
これを見て、二|陣《じん》にひかえた房景《ふさかげ》は、
「ふがいない者どもめ! 柿崎《かきざき》ごときに!」
と歯がみしながら、これまたまっさきかけて突進してきた。
弥二郎《やじろう》は小おどりせんばかりによろこんだ。
「越前守《えちぜんのかみ》殿ならば、相手にとって不足はない」
と言うと、刀をさやにおさめ、従騎《じゆうき》にもたせていた愛槍《あいそう》――穂《ほ》の長さ四尺、柄《え》の長さ二|間《けん》の、青貝《あおがい》を摺《す》った大槍《おおやり》をとって、
「見参《げんざん》! 柿崎弥二郎景家《かきざきやじろうかげいえ》ぞ!」
とたけだけしいさけびをあげながら、房景《ふさかげ》めがけて突進した。
あまりのすさまじさに、人々はさっと道をひらいたが、房景《ふさかげ》はおそれない。
「しおらしや、おれにいどみかけるほどの者は、弥二郎《やじろう》のほかにはないわ」
と言いながら、これも従騎《じゆうき》にもたせた槍《やり》をとってはせむかう。
二人はあたりをはらって、人まぜもせず、縦横《じゆうおう》に馬を乗りまわし、はせちがえはせちがえ、突こう、薙《な》ぎふせようと、死力をしぼっていどみ戦ったが、いずれもたくみにかわし、たくみに防いで、勝負は決しなかった。この時、定憲《さだのり》を擁《よう》していた八条左衛門《はちじようさえもん》大夫《だゆう》以下の上杉方|本陣《ほんじん》の勢がどっとおめいて殺到《さつとう》してきたので、さしもの長尾勢もくずれたち、房景《ふさかげ》も勢にひかれて退《ひ》かざるをえなくなった。
しかし大くずれはしない。戦《いく》さじょうずの房景《ふさかげ》は、みずから宗徒《むねと》の勇士らを指揮《しき》してしんがりし、追いせまってくる上杉勢を、槍《やり》をふるってひしひしと突きふせ薙《な》ぎふせ追いしりぞけて、その間に備《そな》えを立てなおさせた。
四
戦いは激烈《げきれつ》ではあったが、時間にしては半刻《はんとき》(いまの一時間)そこそこのものであった。日はまえよりさらにうららかになって、川原に照りそそいでいた。戦場になった地域|方《ほう》二|町《ちよう》ほどは、美しかった草むらは踏みにじられ、ところどころ死傷者が横たわり、惨烈《さんれつ》な様子になっていたが、そのほかはいささかもそこなわれない駘蕩《たいとう》たる春の景色《けしき》であった。それは自然の偉大と悠久《ゆうきゆう》にくらべる時、人間のいとなみがいかにはかなく、いかにおろかであるかを思い知らせるものであったが、両軍ともそんなことを考える者は一人もいない。たがいに軍使《ぐんし》をかわしあって相談して、味方の死傷者を引きとったあとは、七町ばかりはなれて備《そな》えを立てなおし、たがいににらみあっていた。
房景《ふさかげ》としては、どうしても為景《ためかげ》の来る正午までは待っていなければならなかった。時間がありすぎるが、城に引きあげてまた出てくるほどの時間はない。
「柿崎弥二郎《かきざきやじろう》がいないのなら、もう一合戦《ひとかつせん》いどみかけてみるのだが」
と思った。
彼は弥二郎《やじろう》が大剛《たいごう》の者であることは知っていたが、実際にこれと戦ってみて、驚嘆《きようたん》した。これほどの勇者《ゆうしや》は、他国は知らず、越後《えちご》にはいないと思った。もうすこしあの戦いがつづいたら、自分はあぶなかったろうとも思った。
房景《ふさかげ》は旗をしっかりと立てさせ陣容《じんよう》を張ったうえで、兵士らに交代で眠りをとるように命じた。昨夜もろくろく寝ていないのに、このあたたかい日の照るところで、これから二刻《ふたとき》も起こしたてておいては気力がなくなると、思案したのであった。
上杉《うえすぎ》勢もまた動かず、こちらと同じように兵士らを交代に眠らせているようであった。
「あほうなやつめら、おれがこうしているのを、やつらはまるで、なぜかと疑ってみる気がおこらぬらしいな。すこし思慮あるものならば、かならずいぶかしいと思わねばならんはずであり、さらに深く思いめぐらせば、後詰《ごづ》めが来るのを待っているのだと気がつかねばならんはずじゃに。その思案がないとは、どれもこれもたいしたことはないわ。弥二郎《やじろう》も武者働《むしやばたら》きはあっぱれなものであるが、将としての機略《きりやく》はないらしいわい」
房景《ふさかげ》は心中|嘲笑《ちようしよう》し、また安心していた。
正午かなりまえに兵士らを起こし、のこっている腰兵糧《こしひようろう》をつかわせ、それがすむと、支度《したく》を命じた。
そのころから、房景《ふさかげ》は眼《め》もはなたず春日山《かすがやま》勢のあらわれて来《く》べき六日町《むいかまち》のむこうを凝視《ぎようし》していると、ほどなく、そちらの方に黄色い煙のような砂塵《さじん》がもうもうと上がるのが見えた。正午にはまだ四半刻《しはんとき》も間のある時であった。
房景《ふさかげ》は全員に騎乗《きじよう》を命じた。
砂煙《すなけむり》はしだいに高く上がる。それはそれをかきおこしている軍勢《ぐんぜい》がこちらに近づいてきつつあることを示すのだ。房景《ふさかげ》は上杉方がどんな反応を見せるかと視線を転じた。
上杉方も気づいているらしく、色めきたって騎乗《きじよう》するのが見えたが、狼狽《ろうばい》の様子や恐怖の様子はないようであった。
とつぜん、おそろしい疑惑《ぎわく》が房景《ふさかげ》の胸におちた。
(ひょっとして、これは敵の後詰《ごづ》めではないか……)
ためしに、螺《かい》をとって吹きたててみた。勁烈《けいれつ》な螺《かい》の音は、明るい川原の空気をゆるがせてひろがっていったが、こたえて吹く音はおこらず、砂煙はついに六日町《むいかまち》の集落に入った。
房景《ふさかげ》が自分の顔から血の引くのを感じた時、集落のはずれに騎馬《きば》の兵があらわれ、それは蟻《あり》が穴をはいだしてくるようにあとからあとからつづいた。数旒《すうりゆう》の旗がひるがえっていて、旗には三《み》ツ瓶子《へいし》のしるしがついていた。
房景《ふさかげ》はおぼえずうめいた。三《み》ツ瓶子《へいし》は宇佐美《うさみ》家の紋章《もんしよう》である。
五
房景《ふさかげ》は味方の将士《しようし》らをかえりみた。みな、蒼白《そうはく》になって、必死の目を自分にむけている。約束がちがうではござらんかとなじる目であり、房景《ふさかげ》の態度しだいでは、そのまま潰走《かいそう》にうつるに相違ない表情であった。
房景《ふさかげ》は動揺《どうよう》の色などさらに見せない無表情な顔をしながら、とっさの思案をめぐらした。
(兄者《あんじや》の勢もまもなく来ることは来る。四半刻《しはんとき》〈三十分〉か、おそくも半刻《はんとき》の後には到着するであろう。それまでもちこたえさえすれば、互角《ごかく》どころか、予定のとおり、挟撃《きようげき》の戦《いく》さができる。この際、いちばん望ましいのは、にらみあったまま戦わんで時をうつすことじゃが、相手が宇佐美《うさみ》ではそうはさせまい。といって、ここで退却《たいきやく》すれば、さなきだにおじけづいている味方じゃ、そのままくずれたつに相違ない。よしよし、こちらから突っかけてくれよう。上杉勢の手並みのほどは先刻《せんこく》見た。心にくからぬ敵だ。死にものぐるいに突きたてたらば、突きくずせぬこともあるまい。突きくずして、宇佐美《うさみ》が勢になだれかからせるなら、宇佐美《うさみ》ほどの者でも、急にはどうすることもできぬであろう。そのうちには、兄者《あんじや》が勢も到着しよう)
あぶみに突ったちあがって、高らかに全軍にさけんだ。
「敵の新手《あらて》をおそれてはならぬ。あの新手《あらて》のうしろに、やがて春日山《かすがやま》勢が後詰《ごづ》めとしてあらわれるゆえ、味方は敵をはさみうちする陣形《じんけい》となる。長くも四半刻《しはんとき》こらえればよいのじゃ。しかし、居すくんでいては、上田《うえだ》武士の恥《はじ》じゃ! 敵に一塩《ひとしお》つけてくれよう。ただし、この戦《いく》さ、首を取るを功《こう》とせぬ。一足《ひとあし》たりとも深く敵に入り、敵を追いのけるを功《こう》とするぞ。されば、一槍《ひとやり》ついて敵たおれたらばつぎにかかれ。一太刀斬《ひとたちき》って敵たおれたらばまたつぎにかかれ。かならずともに首をとるでないぞ。心得《こころえ》たか。みなはげめ!」
声はりんりんとひびきわたって、将士《しようし》らの動揺《どうよう》はたちまちしずまった。全軍さっと引きしまって、黒みわたってさえ見えた。
房景《ふさかげ》は、使い番を呼んで、城内にはせかえって、政景《まさかげ》に、城をはらって出撃してくるように言えと命じておいて、全軍を密集した一団とし、きっと敵の方を見た。宇佐美《うさみ》勢はまだ村を出つくしてはいなかった。蟻《あり》のはいだしてくるように村を出てくるにしたがって、上杉勢の右がわに布陣《ふじん》しようとするのだが、その右がわは川原が尽きて段々田《だんだんだ》になっている。おりしも苗代《なわしろ》に仕立てたり、すきかえしたりして水を張っている田だ。宇佐美《うさみ》勢を入れるためには、上杉勢は左方に移動しなければならない。いくらかの混乱がおこっていた。
乗ずべき機会であった。
房景《ふさかげ》は突撃の命令をくだそうとして、右手に槍《やり》を上げたが、その時、ふと柿崎弥二郎《かきざきやじろう》のことが胸をかすめた。
(やつは、いどみかけて出てくるであろうか……)
それは不安に似ていた。
けれども、こうなってのためらいは、百害あって一利ない! そのまま、
「かかれッ!」
と大声にさけんで、馬をおどらせた。
全軍、あらんかぎりの喊声《かんせい》をあげてつづき、山のくずれるように、まっしぐらに押していった。房景《ふさかげ》ほどの猛将《もうしよう》が、死にもの狂《ぐる》いにおそいかかってきたすさまじさに、上杉勢はしばしもみあったかと思うと、どっとくずれたち、左右の宇佐美《うさみ》勢と柿崎《かきざき》党になだれかかった。
「しめた!」
はかったとおりにいったので、房景《ふさかげ》は気を得た。阿修羅《あしゆら》の狂うようであった。槍《やり》をふるって、たたきたて、追いたて、いっそう、宇佐美《うさみ》勢になだれかからせた。
十分に布陣《ふじん》のできていない宇佐美《うさみ》勢は、足場がまだ定《さだ》まらない。たちまち混乱におちいった。
(うまくいった。ひょっとすると、兄者《あんじや》の来る前に、おれが手一つでたたきちらすことができるかもしれんぞ)
房景《ふさかげ》の意気はますますあがり、
「それ行け! それ行け! それ行け!」
と兵士らを激励しながらやりすごし、柿崎《かきざき》党を警戒するために後陣《ごじん》にまわった。
長尾勢はなおも敵中深く食い入っていったが、竹をさくようなその進撃の勢いが、とつぜんガッチと、とまった。堅剛《けんごう》な岩石にでもあたったようであった。
「どうしたッ! ここで手をゆるめるということがあるかッ!」
房景《ふさかげ》は血をそそいだような目を見はって先鋒《せんぽう》を見たが、みずからの目を疑った。いましがたまで混乱しきっていた宇佐美《うさみ》勢の間から、新手《あらて》の宇佐美《うさみ》勢が粛々《しゆくしゆく》として徒歩《かち》でくりだしてきつつあった。この新手《あらて》の勢は前線に出るや、整々《せいせい》として左右にわかれて両隊となり、しかも、その両隊は到着するにしたがって、密集した方陣《ほうじん》をつくり、各人みな腰をすえて折敷《おりしき》の姿勢をとり、気おいたった長尾勢が馬をおどらせて頭上《ずじよう》から乗りかかろうとすると、サッと槍《やり》の穂先《ほさき》を上げて馬の胸を突こうとするのだ。そのため、馬はおどろいて棹立《さおだ》ちになったり、横にそれたりして、味方の先陣《せんじん》は乱れたっていた。
(はかられた!)
房景《ふさかげ》は恐怖と激怒《げきど》を同時に感じ、馬を飛ばしたが、そこまで行きつかないうちに、両|方陣《ほうじん》の間からこんどは騎馬《きば》の集団が喊声《かんせい》とともに突きだしてきて、まっしぐらにこちらの先鋒《せんぽう》におそいかかった。突進の勢いをくじかれて乱れかけているところだ。たちまちしどろとなった。
「こらえろ! こらえろ! いましばらくの辛抱《しんぼう》だ! 春日山《かすがやま》からのうしろ巻きがもう来るのだぞ! こらえろ!」
房景《ふさかげ》は必死にさけびつづけた。みずから槍《やり》をふるって、突進してくる敵を突きふせ、薙《な》ぎふせ、けんめいにはたらきながら、みずからしんがりして、川原をななめに西にひき、背後にすきかえして水を張った段々田《だんだんだ》のある高みまで行って兵をまとめた。
宇佐美《うさみ》勢の進撃は執拗《しつよう》ではなかった。ほんのすこし慕《した》っただけで、本陣《ほんじん》から陣鉦《じんがね》の音がおこると、未練なく引きあげた。
房景《ふさかげ》は、ふたつの方陣《ほうじん》の間に、歯朶革縅《しだがわおど》しの鎧《よろい》に白星の冑《かぶと》を着、白綾《しらあや》に雲竜《うんりゆう》をえがいた陣羽織《じんばおり》を着た武将《ぶしよう》が床几《しようぎ》に腰をおろし、采配《さいはい》をひざにつきたてているのを見て、
「宇佐美《うさみ》め!」
とうめくようにつぶやいた。このいでたちが宇佐美定行《うさみさだゆき》のものであることを、房景《ふさかげ》はよく知っていた。
六
春日山《かすがやま》勢の来たのは、正午を一時間以上も過ぎたころであった。
それまでに、房景《ふさかげ》はまた柿崎《かきざき》党と上杉《うえすぎ》勢とを相手にはげしい接戦をした。政景《まさかげ》が城から千余|騎《き》をひきいてきて、はせくわわっていたのでだいたいにおいて互角《ごかく》の勝負であったが、損害はずいぶん手いたいものであった。合して三千の兵が、どうやら働ける兵は二千に減じ、それも傷を負《お》うたり、疲労したりしていた。
もう十分も春日山《かすがやま》勢の到着がおそければ、勇気のおとろえた長尾《ながお》勢は潰走《かいそう》するよりほかはなかったであろう。
春日山《かすがやま》勢は、宇佐美《うさみ》勢と同じく、黄色い土煙《つちけむり》を高々と上げながら、六日町《むいかまち》のむこうから押してきて、集落を通って、宇佐美《うさみ》勢の背後にあらわれた。
宇佐美定行《うさみさだゆき》は、二千の兵を二段にかまえ、一手は春日山《かすがやま》勢にむかわせ、一手は房景《ふさかげ》勢にむかって備《そな》えさせ、みずからは、その中間に馬まわりの武士三十人ほどを左右にしたがえて床几《しようぎ》により、敵の出ようをおちつきはらってながめていたが、春日山《かすがやま》勢がすっかり布陣《ふじん》しおわったと見るや、サッと采配《さいはい》を振って、
「それ!」
と号令した。
春日山《かすがやま》勢にむかっていた隊は、鏃《やじり》をそろえていっせいに射だした。春日山《かすがやま》勢の先陣《せんじん》は金津《かなづ》伊豆守《いずのかみ》であったが、ただちに応射《おうしや》し、両陣《りようじん》の間を征矢《そや》がするどい羽音を立てて繽紛《ひんぷん》と飛びかった。
金津《かなづ》の勢は五百しかない。たちまち射白《いしろ》まされて、乱れたつ色が見えた。
定行《さだゆき》はみずから螺《かい》をとって吹き鳴らした。山々にこだまして、殷々《いんいん》と鳴りひびく螺《かい》の音とともに、宇佐美《うさみ》勢は突撃にうつった。兵数において二倍もあり、最初の合戦《かつせん》以後は戦いを柿崎《かきざき》勢と上杉勢とにうちまかせて休養していた宇佐美《うさみ》勢は鋭気《えいき》にみちていた。金津《かなづ》勢はひとあてに蹴《け》ちらされた。宇佐美《うさみ》勢は二陣《じん》にひかえた野本大膳《のもとだいぜん》の備《そな》えに殺到《さつとう》した。
房景《ふさかげ》はこれを望見《ぼうけん》して、
「いくじなし者どもめ! まるで戦《いく》さのしようを知らぬ!」
といきどおり、二千の兵を二手にわけ、一手を政景《まさかげ》にさずけ、
「おれはこれから宇佐美《うさみ》が勢にあたる。必定《ひつじよう》、柿崎《かきざき》が横からかかるにちがいないゆえ、その時は、そちは、この勢をもって柿崎《かきざき》が横をつけ」
と命じておいて、一手をひきいて宇佐美《うさみ》勢めがけて突進した。
宇佐美定行《うさみさだゆき》は床几《しようぎ》を立ちあがりもしない。采配《さいはい》を上げてサッと振ると、その勢から矢が雨のように射出《いだ》された。
房景《ふさかげ》の兵は、おおかた疲労したり傷を負《お》うたりして、行動が敏速を欠いている。射すくめられて、右になびいた。
右になびけば柿崎《かきざき》党の前に側面《そくめん》を見せることになる。柿崎《かきざき》党にとっては、それは猟犬《りようけん》の前にさまよい出た獲物《えもの》さながらに見えた。猛然としておそいかかった。
宇佐美《うさみ》勢に接触するまえに柿崎《かきざき》党に側面《そくめん》をつかれたことは手痛い手ちがいであった。
「しまった!」
こちらから見ていた政景《まさかげ》は、おぼえずうめいた。猶予《ゆうよ》はならなかった。
「すくえ!」
と絶叫《ぜつきよう》して、真一文字《まいちもんじ》にかけつけ、一千の勢をたたきつけるように柿崎《かきざき》党の側面《そくめん》におどりかからせた。
長尾勢にとって、いちおうこれは挟撃《きようげき》のかたちといえないことはなかったが、挟撃《きようげき》されているがわがはるかに強かったので、たちまち混戦状態におちいった。はげしい人馬の動きによってかきたてられた砂塵《さじん》はあたりをとざして、濃い煙の中の動きを見るように、人馬の姿は時に濃く、時にうすく、時に見えなくなり、ときどき白刃《はくじん》が目を射るような光を走らせた。はるかに見ると、天上には浅みどりに澄《す》みわたった空があり、うららかにかがやく日があり、地上には草も木も土もいのちのよろこびを讃歌《さんか》するかのように美しくにおやかにいろどられているこの陽春の大観《たいかん》の中では、そこだけが赤褐色《せきかつしよく》の汚点《しみ》のようにきたならしいものに見えた。
けれども、人々はそれに気づかない。そのきたならしい汚点《しみ》の中で、あらんかぎりの力をつくして死闘《しとう》をつづけた。
宇佐美定行《うさみさだゆき》の軍配《ぐんばい》はさすがであった。房景《ふさかげ》勢を柿崎《かきざき》党が引きうけたと見るや、それに備《そな》えていた勢を引きあげて春日山《かすがやま》勢に向けて投入し、まっしぐらに為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》めがけて斬《き》りこませた。
炎《ほのお》のようなその攻撃に、為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》はたちまち斬《き》りくずされ、為景《ためかげ》はわずかに数騎《すうき》にまもられて六日町《むいかまち》の村落に逃げこみ、敗兵を収容してやっと備《そな》えを立てなおしたが、もう戦闘を継続する気力はなくなっていた。
房景《ふさかげ》と政景《まさかげ》とは、柿崎《かきざき》党と上杉勢とに圧迫されながらもなおこらえてはいたが、為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》がやぶられ、春日山《かすがやま》勢が七花八裂《しちかはちれつ》の状態となると、後陣《ごじん》からくずれたった。もうささえられない。父子は川をわたって城にかえろうとしたが、柿崎弥二郎《かきざきやじろう》は執拗《しつよう》に追撃して、城下まで攻めつけた。
城に留守《るす》していた兵らは、主人父子を城へ収容しようとつとめ、父子もまた入ろうとするのだが、柿崎《かきざき》の追撃が急で、つけ入りされそうで、城門をあけることができない。
ついに、大堀《おおほり》壱岐守《いきのかみ》以下五人の勇士らが死を決して逆襲して、まっしぐらに弥二郎《やじろう》につっかけた。
「じゃまだ! のけい!」
鎧《よろい》から馬、馬具《ばぐ》にいたるまでまっくろにいでたった弥二郎《やじろう》は、わざと冑《かぶと》をかぶらず、乱髪《らんぱつ》をくさり鉢巻《はちまき》でとめ、鉄棒《てつぼう》をうちひらめたような厚重《あつがさ》ね四尺のあの剛刀《ごうとう》を苧《お》がらをふるうよりもかるがるとうちふり、たちまちのうちに五人を斬《き》りふせ、馬を飛ばせて城門に乗りつけたが、もうその時には房景《ふさかげ》も政景《まさかげ》も門内に入っていた。
弥二郎《やじろう》はくやしがった。
「鬼神《きじん》と呼ばれた越前守《えちぜんのかみ》殿にもあるまじききたないふるまい。柿崎弥二郎《かきざきやじろう》に追われて、いのちからがら頭かかえ城ににげこまれたことは実正《じつしよう》でござるぞ。後日《ごじつ》のために、このこと、はっきりと申しおく」
と、ののしって馬をかえした。
城内からは矢を射かけたが、一すじもあたらなかった。
「おくびょうもののへろへろ矢は、剛《ごう》の者にはたたぬものよ」
と、弥二郎《やじろう》は不敵《ふてき》に立ちどまり、むきなおって、またののしった。
七
一夜をあかして、どうやら気力を回復して、翌日はまた戦ったが、その日も長尾《ながお》方は不利であった。
その翌日は終日の雨であったので、休戦を約束して、両軍とも終日休養した。
翌日は早朝はまだ雨がつづいていたが、ひる近くなって霽《は》れたので、また戦いになったが、この日も長尾方は勝つことができなかった。
こうなれば、出なおすよりほかはない。為景《ためかげ》は陣《じん》ばらいして春日山《かすがやま》に引きあげた。さいわい敵が追撃に出なかったが、追撃されれば苦戦はまぬかれないところであった。
当時の小豪族《しようごうぞく》は、こうした形勢の変化にはおそろしく敏感だ。そうでなくてはみずからの存立《そんりつ》がたもてなかったからではあるが、向背《こうはい》がまことにあざとい。上田合戦《うえだがつせん》の不首尾《ふしゆび》の影響は早くもあらわれ、為景《ためかげ》のはなっている諜者《ちようじや》らはひんぴんとして豪族《ごうぞく》らの向背《こうはい》のあやしくなったことを告げてきた。
なかにも、富山隼人《とやまはやと》・林権七《はやしごんしち》・丹羽半兵衛《にうはんべえ》の三人がひそかに上条《じようじよう》の上杉定憲《うえすぎさだのり》に降伏《こうふく》を申しおくったばかりでなく、上条《じようじよう》に出頭《しゆつとう》までしたという知らせは、為景《ためかげ》に強い衝撃《しようげき》をあたえた。三人とも上田|合戦《がつせん》に有力な味方として出陣《しゆつじん》し、それぞれにみごとな働きをしたのだ。
為景《ためかげ》は怒《いか》りはしない。こんなはめになれば、自分だってどうするかわかったものではないと思うのであるが、力はおとした。
「どうにかしてこの頽勢《たいせい》をめぐらす法を考え出さねばならん。でなければ、いくらでも裏切り者が出てくる」
と、心をなやませた。
しかも、もっとも早急《さつきゆう》に講ずることが必要となってきた。上田|合戦《がつせん》に勝利を得、また帰服《きふく》を申しおくる豪族《ごうぞく》らの多いのに気を得た宇佐美《うさみ》が、上杉|定憲《さだのり》をおしたてて、こんどは春日山《かすがやま》めざして進撃してくる計画を進めているという情報が入ったのだ。
「せめて柿崎《かきざき》を味方につけることができれば」
と思い、それにつけても、玄鬼《げんき》のかえりが待たれた。
しかし、この焦心《しようしん》の間にも、為景《ためかげ》の日常の生活はかわりなく、規則正しくおこなわれた。毎朝|未明《みめい》に起きて弓を引き、食事をおわると、袈裟《けさ》の居間に行く。
袈裟《けさ》はもう産後の衰弱から回復して、すっかり元気になっている。まえよりも健康そうになった。まえはあまりにもきゃしゃで、なよやかで、皮膚の色などすきとおるようで、どこか日陰《ひかげ》の草を見るような繊弱《せんじやく》な感じがあったが、いまは肉づきがよくなり、血色がさえ、なめらかな乳色《ちちいろ》の皮膚には血の色がすけて、華麗《かれい》でさえある。子をもつ女のおちつきと威厳《いげん》とがあった。
虎千代《とらちよ》の肥立《ひだ》ちもまたまことによい。あかんぼ特有のあの気味わるい赤みはとれて、むっちりとした皮膚がさえざえとして白く、黒く大きくよく光る目をしている。よく笑うようになった。ものも言う。おとなが顔を見せると、何を言うつもりか、
「ウックーン、ウックーン、ウックーン……」
と、つばきをとばして熱心に話しかける。
袈裟《けさ》はかわゆくてたまらないふうであるが、為景《ためかげ》はいぜんとしてかわゆいという気がおこらない。しかし、かわゆいような顔をして、行けばかならずしばらくあやすことにしている。
「猿松《さるまつ》どの、どうじゃな、ごきげんは。ほ、ご満悦《まんえつ》そうじゃな。なにがそううれしいのじゃな。よしよし、わかったぞよ、猿松《さるまつ》どの」
というようなことを言って、やわらかなほおをつついてやるのだ。
為景《ためかげ》が猿松《さるまつ》と呼ぶと、袈裟《けさ》はいやそうな顔をする。それが為景《ためかげ》にわかっているのだが、けっしてあらためなかった。たった一つの腹いせのような気がしていた。
(これがまるっきり他人の子であれば、かえって愛情もわくであろうのに、ふしぎなものじゃな、人間の気持ちというものは)
と、にがい心で思うのであった。
玄鬼《げんき》がかえってきたのは、四月末のことであった。
美女|鑑定《かんてい》
一
玄鬼《げんき》はいつものとおり、為景《ためかげ》の寝室にあらわれた。寝《しん》についてうとうとしかけている時、せきばらいの声がしたので、見ると、入口につくねんと端座《たんざ》して、首をたれていたのだ。
「そちはかえったのか」
と、為景《ためかげ》は起きあがった。
「まだ当地にはついておりません。この夕方、名立《なだち》まで帰ってきたのでございますが、お待ちかねであろうと存じまして、ひと走りお知らせだけにまいりました」
名立《なだち》は春日山《かすがやま》から三里半、海ぞいの村である。
「もとめ出してきたのだな」
「へい。明日のひるごろまでには当地に運びこんでまいりますが、かならずお気に召すであろうと、安心しております」
「よしよし、それはよかった。では、明日また会おう。気に入れば、約束のほうびはかならずつかわすぞ」
「ありがとうございます。ところで、お城にまっすぐに運んでまいってようございましょうか」
「ああ、そうか。それがあった」
為景《ためかげ》はちょっと思案した後、
「そうだ、昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》が宅に運んでおけ。できるだけ人に知れぬがよい。夜になってから運びこんでくれい。常陸介《ひたちのすけ》には、それまでにおれから言うておく」
「かしこまりました。それではごめんくださりまして」
玄鬼《げんき》はあとしざりして、唐紙《からかみ》をしめ、足音もなく立ち去った。
翌朝、為景《ためかげ》は昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》を呼んだ。
昭田《しようだ》は元来《がんらい》は越前《えちぜん》の朝倉《あさくら》家の家臣《かしん》であったが、朝倉《あさくら》家を浪人《ろうにん》して越後《えちご》に流浪《るろう》してきた。彼には久三郎《きゆうざぶろう》・ 久五郎《きゆうごろう》という二人の子供があった。兄弟ともに非常な美少年であるうえに、目から鼻にぬけるように利発《りはつ》であったので、当時まだ若かった為景《ためかげ》は気に入って、親である常陸介《ひたちのすけ》ともども召しかかえた。
こんなぐあいに、常陸介《ひたちのすけ》は子供らのおかげで仕官《しかん》ができたのであるが、本人自身もなかなかの人物であった。武勇にもすぐれており、智略《ちりやく》もあり、たびたび武功《ぶこう》を立てたので、為景《ためかげ》は抜擢《ばつてき》に抜擢《ばつてき》を重ねて、いまでは家老の一人にしているのであった。
二人の子供らもまた成長するにつれて、ますます才気がさえ、数々の武功《ぶこう》を積んだので、越後《えちご》の名家で当主があとつぎなくして戦死したため断絶していた家の名跡《みようせき》をつがせ、兄は黒田《くろだ》和泉守国忠《いずみのかみくにただ》、弟は金津《かなづ》伊豆守国吉《いずのかみくによし》と名のらせ、いつの合戦《かつせん》にも一手の将に任じているのであった。つまり、昭田《しようだ》一族は、現在|為景《ためかげ》の家中《かちゆう》ではもっとも羽ぶりのよい一族であった。
常陸介《ひたちのすけ》はこの時五十四、五歳、しわだらけな顔をしていたが、髪もひげもまだまっくろであった。たけの高いからだは肉が枯れていたが、立ち居ふるまいはいたってすこやかな感じであった。くぼんだ眼窩《がんか》の底の目はいつも眠たげに細められていたが、なにかのひょうしに見ひらかれると、きらりと鋭い光を走らせ、すぐまたまぶたのかげにかくれた。それがなにか陰険《いんけん》な感じであったが、これまでのところはすこしもそういうことはなく、いちずに忠誠をぬきんでていた。ずっとまえ為景《ためかげ》が上杉顕定《うえすぎあきさだ》と宇佐美定行《うさみさだゆき》に追われて佐渡《さど》へ落ちた時にも随従《ずいじゆう》してはなれなかった者の一人である。
為景《ためかげ》は常陸介《ひたちのすけ》が出仕《しゆつし》すると、人を遠ざけてそば近く召した。
「今日、夜に入って、そなたの宅に服部玄鬼《はつとりげんき》が女を二人連れていく。できるだけ人に知らせぬようにして、その方の宅にかくまっておいてくれ。いずれ、そのころおれが行く。あらためての相談もある」
「かしこまりました」
常陸介《ひたちのすけ》はしばらく閑談《かんだん》した後、かえっていった。
その後、為景《ためかげ》は筆紙《ひつし》とそろばんを取って、なにやら計算しては書きつけていたが、午後になるとそれをしまい、茶をのみながら休息していた。すると、なんとなく小姓《こしよう》らの様子がざわついているように感ぜられた。
「何があったのじゃ」
と聞いた。
「は」
聞かれた少年は答えをためらったが、為景《ためかげ》が黙って凝視《ぎようし》していると、せんかたなげに語った。
つい先刻《せんこく》、為景《ためかげ》の長男|晴景《はるかげ》の二の丸の御殿《ごてん》で、小姓《こしよう》のけんかがあったのだという。
この二人の小姓《こしよう》はかねてから晴景《はるかげ》の寵《ちよう》を争ってなかが悪かったのだが、この昼に、一人が晴景《はるかげ》の食膳《しよくぜん》を下げるとて、廊下を台所の方にさがってくると、途中の部屋の舞良戸《まいらど》の陰《かげ》にかくれていた一人が、いきなりおどり出して、うしろから、
「このほどの遺恨《いこん》おぼえたか」
と、絶叫《ぜつきよう》しながら、刀をぬいておそいかかった。
おどりかかられた小姓《こしよう》は、
「心得《こころえ》たり!」
とさけんでひざまずきざまに、身をよじって膳部《ぜんぶ》を投げかけた。しかけた小姓《こしよう》は皿小鉢《さらこばち》をまっこうから顔にたたきつけられ、刀をふりかざしたまま、ほんの一瞬立ちすくんだが、それがいのちとりになった。相手は投げかけると同時に脇差《わきざし》をぬいておどりかかり、つかも通れと腹をつきさしていたのだ。
しかけた小姓《こしよう》はつかれながら斬《き》りおろしたが、わずかに相手の肩に薄手《うすで》を負《お》わせたにすぎなかった。相手は敵の胴《どう》を左手で抱いて、ダニのようにしがみつき、つき刺したままの脇差《わきざし》で、えぐりまたえぐって、ついにしとめたという。
(あほうめが!)
為景《ためかげ》は心中|晴景《はるかげ》をののしりながら、まゆ毛一すじ動かさなかった。
また聞いた。
「最初にしかけた小姓《こしよう》は古参《こさん》で、しかけられた小姓《こしよう》は新参《しんざん》だな」
「さようでございます」
あんのじょう、男色《だんしよく》のもつれだと思った。よくあることだ、新参《しんざん》の小姓《こしよう》に晴景《はるかげ》の愛がうつって、古参《こさん》の小姓《こしよう》を疎略《そりやく》――あるいは侮辱《ぶじよく》さえ加えるようになったので、嫉妬《しつと》に意地がからんで、このさわぎになったものに相違なかった。
(あほうなやつめ、いい年をして、男色《だんしよく》がもとでこんなさわぎをおこさせるということがあるものか)
と思った。
「それで斬《き》った方の小姓《こしよう》はどうなったのだ」
「うしろからの不意討《ふいう》ちにおうたにかかわらず、みごと返り討《う》ちにしたこと、あっぱれであるとて、玄庵《げんあん》殿に傷手当てさせられたうえ、引き出ものなどたまわって、御殿《ごてん》で休息させられているとうけたまわりました」
やれやれ、どこまであほうか、底が知れぬわ、と為景《ためかげ》はうんざりしながらも、
「供《とも》せ」
と言って立ちあがった。
二
晴景《はるかげ》はこの時二十八歳であった。父に似てたけが高く、胸が厚く、いかにもいい体格ではあったが、体質はいくらか弱そうであった。それは彼が女によくあるような色白で肌《はだ》の薄い、いささか下ぶくれの顔をし、眉《まゆ》が薄いためにそう見えたのかもしれない。目も澄んではいたが、りりしさはなかった。いったいに、体格は男性的であったが、顔の感じは女性的であった。
同じ城内ではあるが、本丸と二の丸に別れて住んでいる。父子が顔を合わせるのは、三日に一度もないくらいである。用があれば、為景《ためかげ》は侍臣《じしん》をよこして呼びつけて会う習慣になっている。それがみずから足を運んできたので、晴景《はるかげ》はおどろきあわてて、出て迎えた。さわぎのあったあとだけに、どんな用事で来たか、あらましの見当はついていた。
為景《ためかげ》は、玄関まで出迎えて式台《しきだい》に手をつかえておじぎする長男をじろりと見ただけで、声はかけず、晴景《はるかげ》の居間に通った。
晴景《はるかげ》はおどおどしながらついてきた。
「みなのもの、しばらく遠慮せい」
自分の連れてきた者、晴景《はるかげ》つきの者、ともに遠ざけて、為景《ためかげ》はのっけから言った。
「斬《き》り勝ったという小姓《こしよう》、ふびんじゃが、腹を切らせい」
晴景《はるかげ》ははっと息をのんだ。色白な顔が赤くなり、すぐ青くなり、わくわくした表情で、
「おそれながら父上、その者はひきょうにもうしろから斬《き》りつけられましたのを、かえってみごとにしとめたのでございます。罪はないのでございます」
いきをきりながら言った。
為景《ためかげ》は晴景《はるかげ》をまっすぐに見て言った。
「元来《がんらい》の罪をただせばそちにある。しかし、そちは主人であり、わしの総領《そうりよう》じゃ、腹を切らせるわけにはいかん。これはけんかじゃ。けんかは双方に言いぶんがあり、双方に罪がある。他家《たけ》の者や家中《かちゆう》以外の者が相手の場合は別じゃが。家中《かちゆう》の者どうしのけんか、とりわけ城中におけるけんかは、両成敗《りようせいばい》とすること、古今《ここん》の法じゃ。そうせねば、死んだ者の家族が不平を抱き、家中不和《かちゆうふわ》のもととなる。小さな理非《りひ》や、色情《しきじよう》の愛におぼれてはならん」
晴景《はるかげ》は返答しない。不服げな顔だ。なんと言おうかと考えているふうであった。
「申しつけたぞ」
立ちあがった。
「しばらく、しばらく、しばらくお待ちください。それでは、その者はいかがいたせばよかったのでございましょうか。不意討《ふいう》ちされた時、なんの働きもせずに斬《き》られるにまかせれば、それでよかったのでございましょうか」
とりすがりまではしなかったが、とりすがらんばかりのけんめいな形相《ぎようそう》であった。しかし、為景《ためかげ》は、
「申しつけたぞ」
と、ひややかにくりかえして、立ち去った。
本丸にかえって居間に入ると、為景《ためかげ》はおとなの近習《きんじゆう》の者を召して、晴景《はるかげ》の御殿《ごてん》に行って検視《けんし》してくるように命じてつかわした。
(根性がひよわいわ。あれではこのはげしい世に、家をたもっていけそうもない。長尾《ながお》の家も、おれかぎりかもしれぬ)
と、居間に端座《たんざ》して考えつづけた。
彼には晴景《はるかげ》のすぐ下に景康《かげやす》という子がいて、二十四になる。その下にはまた景房《かげふさ》というのがいて、これはまだ七つだ。その下が虎千代《とらちよ》だ。彼は景房《かげふさ》まで順々に吟味《ぎんみ》してみた。どの子もみなひよわい根性にしか思われない。
(弱い弱い。晴景《はるかげ》を廃してとりかえたところで、とりかえがいもない……)
いまいましげに心中につぶやいた。
そのくせ、虎千代《とらちよ》のことはまるで考えようとはしなかった。これは別ものである。
もう夏といってよい。戸外の木々は濃緑《こみどり》になり、日の光が強い。為景《ためかげ》はそれを見つめている。庭を猫が通っていく。みにくい、あの老猫《ろうびよう》だ。だるそうに尾を下げて、大きな腹を波打たせながら、のそのそと通っていく。為景《ためかげ》はそれに気づいているのか気づかないのか、水のようなしずかな表情であった。
検視《けんし》につかわした家来は、一時間余もたってからかえってきた。
「たしかに見とどけてまいりました。器量のよい少年でございましたし、気性もよほどにすぐれている者であったのでございましょう、みごとな死にざまでございました。まことにあわれでございました」
家来は、為景《ためかげ》の処置が気に入らないらしく、くどくどと報告した。
「あわれはわかっている。しかし、これが古今《ここん》の法だ」
しずかに、ひややかな為景《ためかげ》のことばは、とどめをさすようであった。
三
夜に入ってかなりたってから、為景《ためかげ》は本丸を出た。面体《めんてい》をつつんで、しのび姿だが、用心は堅固《けんご》であった。着物の下に|くさり《ヽヽヽ》を着こんで、腹心《ふくしん》の馬まわりの者を五人従えていた。この者どもは身には小具足《こぐそく》をつけ、弓矢やなぎなたをたずさえていた。
昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》の屋敷《やしき》は、他の重臣《じゆうしん》らの屋敷《やしき》と同じように、三の丸にあった。月は夜明けになって出るはずで、暗い夜であった。五人は松明《たいまつ》もつけず、一言も口をきかず、しとしとと歩いて昭田《しようだ》の屋敷《やしき》についた。
常陸介《ひたちのすけ》は玄関に出迎えた。
「玄鬼《げんき》は来ておろうな」
「まいっております」
奥の常陸介《ひたちのすけ》の居間に通ると、すっかり為景《ためかげ》を迎える支度《したく》がととのっていた。
燭台《しよくだい》をともしつらね、為景《ためかげ》のすわるべき位置にはしきものがしいてあり、庭先には玄鬼《げんき》が鴉《からす》のような顔をややうつむけて、うずくまっていた。
席につくとすぐ、為景《ためかげ》は常陸介《ひたちのすけ》に目くばせした。すぐ見たいという意志表示であった。
常陸介《ひたちのすけ》のしわだらけなやせた顔に微笑が浮かんだ。
「いますぐあらわれます」
為景《ためかげ》はいつものしゃんと腰骨を立てた座容《ざよう》で、外の闇《やみ》を見ていたが、ふと、唐紙《からかみ》のむこうからやわらかな衣《きぬ》ずれの音が近づいてくるのを聞きつけると、そちらに目をむけた。
唐紙《からかみ》がしずかにあくと、若い女が三方《さんぼう》を高くささげて出てきた。大小さまざまに切った金箔《きんぱく》を摺《す》った白絹《しらぎぬ》に紅絹《もみ》の裏をつけた|かいどり《ヽヽヽヽ》を着ている。たっぷりと量のある髪は下《さ》げ髪だ。ぼーっとかすんだようなまゆで、やや大きな紅《あか》い口唇《こうしん》が花のようで、すくすくとのびた大柄《おおがら》なからだだ。目のさめるように豊麗《ほうれい》な感じであった。年ごろは十七、八と見えた。
(ああ、これは美しい)
と、為景《ためかげ》が見ていると、女は為景《ためかげ》の前に三方《さんぼう》をすえた。熨斗《のし》あわびをのせた三方《さんぼう》だ。為景《ためかげ》はそんなものには目はくれない。鑑定家《かんていか》のように冷静で熱心な目で、女の立ち居ふるまいから、指のつけねにえくぼの入る白く美しい手、まっしろな胸もと、首すじにいたるまで、のこさず見ていた。まなじりがふかぶかと切れこんでいる大きな目がビロードのようなやわらかな美しさをもっているのが、ゾクリとするほどであった。
(これはいい)
と、為景《ためかげ》はうなずいたが、その時、また一人あらわれた。杯《さかずき》をのせた台をささげている。ぜんぜん同じ服装をしているが、これは趣《おもむき》をことにして、中背《ちゆうぜい》で引きしまったからだつきだ。顔もかっきりと輪郭《りんかく》があざやかに引きしまって、やや浅黒い皮膚には健康そうな血色がにおいたって、美しいという点ではまさりおとりはなかった。年は同じ十七、八。
(これもいい)
と、うなずいた。
また一人あらわれた。しかし、これは常陸介《ひたちのすけ》の妻女《さいじよ》であった。もう四十をこしている老女だ。もってきた長柄《ながえ》の銚子《ちようし》を女どもにわたして、うやうやしく為景《ためかげ》におじぎしてさがっていった。
為景《ためかげ》は女どもにそれぞれ酌《しやく》をさせて酒をのんで、名前と年をきいた。大柄《おおがら》な女は春《はる》、中背《ちゆうぜい》の女は秋《あき》、年は二人とも十七であるという。京ことばはやさしくこびるようであった。
「よろしい。さげてくれい」
常陸介《ひたちのすけ》に言ってさがらせておいて、為景《ためかげ》ははじめてにこりと笑って、玄鬼《げんき》に声をかけた。
「気に入ったぞ。よくぞあれほどのものをもとめてきた。それ約束のものだ」
ふところから出したずっしりと重い金包みを常陸介《ひたちのすけ》に手わたして、玄鬼《げんき》にあたえさせた。玄鬼《げんき》はおしいただいて、ふところに入れた。
為景《ためかげ》は席を簀子《すのこ》にうつして、声をひくめて玄鬼《げんき》にきく。
「あの女ども、まんざら下賤《げせん》の生まれとも見えぬが、素姓《すじよう》はなにものだ」
「へえ」
鴉《からす》のくちばしのような大きな鼻の下の口がもそもそとうごいて、つぶやくような返事が聞こえる。
「てまえもよくは存じませぬ。京にはあのような女を世話するゼゲンというものがございますので、それに百両で無類《むるい》とびきりの女を二人ほしいと申しましたところ、尻《しり》に帆《ほ》をかけてほうぼうはせまわり、とりかえ引きかえ、いくらでも連れてまいりました。てまえはそれらを吟味《ぎんみ》に吟味《ぎんみ》を重ね、いくどもダメをおしてえらびました。それがあの二人でございます」
為景《ためかげ》は、玄鬼《げんき》のこのことばが本当でもあればウソでもあることをよく知っている。玄鬼《げんき》には妙なくせがあって、ときどきつまらないことをムキになってかくすのである。
「堂上《どうじよう》の出ではないか」
「さあ……、かもしれません。いまの京の堂《どう》上《じよう》方《がた》は粥《かゆ》もすすりかねるようなお家が軒《のき》なみでございます。金子《きんす》の二十両も積めば、郷《ごう》ざむらいほどの者にもおしげものう姫君《ひめぎみ》をたまわるとも聞いています。こんどの話など悪くない話でございますから、堂上方《どうじようがた》の姫君であっても、不思議はございませんな。しかし、てまえその点はべつだんにせんさくいたしませんので、存じません。へい」
おかしな男だ。ここまで言うくせに、そしてまた知っているであろうに、こんなあいまいな言い方しかしない。
為景《ためかげ》は苦笑した。
「そちの用事はすんだ。行ってよいぞ」
「へい」
玄鬼《げんき》はあとしざりして、闇《やみ》に消えた。
四
したたかに飲んで、したたかにたわむれて寝たのだ。いっきに深い眠りに入ったが、夜明けにまだずいぶん間のある時刻に目をさました。ひどくのどがかわいていた。
起きなおって、枕《まくら》もとの水をとろうとすると、女も目をさました。
「お水で?」
「うむ」
土瓶《どびん》からコトコトと金鋺《かなまり》にくんでくれた。
「ああ、うまい、もっとくれい」
舌を鳴らして、三杯のんで、廁《かわや》に立った。
女は手早く手燭《てしよく》に火をうつして、先に立つ。白綾《しらあや》のひとえに赤い帯を、きりきりと腰細く巻きつけている姿がなまめかしかった。
弥二郎《やじろう》は脇差《わきざし》をつかみざしにして、女に足もとを照らさせて、長い廊下をのしのしと歩いていった。
廁《かわや》について用を足していると、城外の遠い田で鳴いている蛙《かわず》の声が聞こえる。さかんな鳴き声だ。一夜をずっと鳴きつづけてきたのであろうに、すこしも疲れたところのない鳴き方だ。
(あれは雌雄《しゆう》がひき合って鳴いているのだ。いまがやつらのさかり時だが、さかんなものだわ)
ながながと、こころよくすませて、廊下を引きかえしてきたが、途中、廊下の高い欄間《らんま》から、大きな蛾《が》か蝙蝠《こうもり》のようなものが、ひらひらと舞いおりてくるのが見えた。
「あれッ!」
女が小さく悲鳴して立ちどまった時、ふッと手燭《てしよく》の灯《あか》りが消えた。
なにか異様であった。弥二郎《やじろう》はふるえ立ちすくんでいる女をかばい、脇差《わきざし》のつかに手をかけて、まっくらな中に油断なくかまえた。
そよりとでも空気が動いたら、容赦《ようしや》なく斬《き》りつけるつもりであった。
なんのけはいもなく、まっくらな闇《やみ》が呼吸《いき》ぐるしいくらい厚ぼったくこめているばかりであったが、弥二郎《やじろう》には何かがそのへんにいそうに感じられる。じりじりと身をかがめながら、前後をすかして見た。
いた! 五、六|間《けん》むこうに。
息を内《うち》に引いて、飛びかかろうとした時、煙か靄《もや》のようにおぼろなその影が言った。
「お待ちくだされ、柿崎《かきざき》の殿様《とのさま》。申し上げたいことがございます」
しわがれて、低く、つぶやくような声であった。
「うぬはなにものだ?」
つとめて平静な調子で言いながら、弥二郎《やじろう》はそろりと脇差《わきざし》をぬいた。手裏剣《しゆりけん》に打つつもりであったが、とたんに言われた。
「それはいけませぬ」
その声ははるかに遠くなり、ついいままで煙かなんぞのように、おぼろに見えていた影はなくなっていた。
「なにものだ、うぬは? うろんなやつめ」
いまいましかった。
「お脇差《わきざし》をおおさめくださいまし。殿《との》のおためになるものをもってまいりましたのに、お手打ちになっては引きあいませんでな」
遠いつぶやくような声は含《ふく》み笑いをしている。
「なにものだ、うぬは!」
「お脇差《わきざし》を」
舌打《したう》ちして脇差《わきざし》をさやにかえした。
「てまえ、金津《かなづ》伊豆守《いずのかみ》様からつかわされてまいりました」
声はずっと近くになっていた。
「金津《かなづ》が?……」
弥二郎《やじろう》はなお油断なくかまえてはいたが、殺意はなくしていた。すると、それが鏡にうつしたようにわかったのであろう。相手はつい目の前にせまって立っていた。忍《しの》び装束《しようぞく》をしているようであった。
「金津《かなづ》がなんのためにおのれをつかわしたのだ」
「用件はこの書状にしたためてございます。てまえ、明夜また参上《さんじよう》いたして、ご返事をいただきます」
白い書状をさしだした。
受け取ると、
「それではおいとま、いずれ明夜……」
といううちに声が遠くなり、姿は暗《やみ》にとけこんだ。
女は恐怖しきっている。歩けそうにもない。
「こわがることはない。もう行ってしまった」
弥二郎《やじろう》はひっかかえるようにして、寝室につれてかえったが、自分も終始おどろかされて、相手の顔をたしかめることもできなかったのが、にがい気持ちであった。
「灯《あか》りをかきたてよ」
女にはそれができない。まだあの驚きと恐怖から自分をとりかえしていない。
「チェッ! やつはもう行ってしもうたではないか」
と言いながら、自分で灯《あか》りをかき立てた。褥《しとね》の上に大あぐらかいて、書状の封を切った。
(こういう使いの者をもって、こういう届けさせようをすることの礼にかなわないことは重々《じゆうじゆう》承知である。さだめて奇怪《きつかい》と思われるであろうが、われらと貴殿《きでん》はいま敵対《てきたい》の陣営《じんえい》に所属している。文書を往復していることが人目にふれては、おたがい迷惑なことになるは必定《ひつじよう》であるゆえ、いたしかたがないのである。ご諒解《りようかい》をねがいたい。用件というのは、直接にお会いして談合《だんごう》いたしたいことがあるのである。われら屋敷《やしき》までお運びねがうか、われらが貴城《きじよう》まで行くかすれば、もっとも簡単なのであるが、それも当今の形勢では避けねばならない。どこかしかるべき場所を指定していただきたい。さすれば、われらはそこまで出張《でば》って、おいでを待つであろう)
という文面であった。
弥二郎《やじろう》はけもののように黒々とはえたすねの毛をむしりながら、首をひねった。
何を相談するつもりか、だいたいの見当はついた。金津《かなづ》伊豆守《いずのかみ》は前名を昭田久五郎《しようだきゆうごろう》といって、昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》の二男だ。少年のころからひとかたならぬ為景《ためかげ》の寵愛《ちようあい》を受けている男だ。為景《ためかげ》の意を受けてのことであることはまずまちがいない。
(おれを味方にした方が勝ちというわけで、双方心をくだかっしゃるわ)
弥二郎《やじろう》はおおいにゆかいであった。さらさらと巻きおさめて、枕《まくら》の下におしこんで、
「このこと、だれにも他言無用《たごんむよう》だぞ」
と女に言った。
「は、はい」
女は夢見ごこちのようだ。先刻《せんこく》からのことが事実であったかどうか、よくわからないようなおももちであった。
弥二郎《やじろう》はごろりと寝て、
「おい、寝ろよ」
と言って、女を引きずりこんだ。女のからだは夜明けの冷気のためにつめたくなっていた。それが新鮮なくだもののようにさわやかなものに感じられて、弥二郎《やじろう》はきゃしゃなからだを、ぶあつくたくましく毛のはえた胸にグイと引きよせた。
「あれ!」
いつものことだが、女はおびえたような顔になる。
「おお、おお、すまん。ついはやるわ。そちがいとしいからじゃて」
どこか遠いところで、鶏《とり》の声が聞こえた。
五
夜が明けると、弥二郎《やじろう》は弥三郎《やさぶろう》の城に出かけて、
「金津《かなづ》から妙なことを言うてきた」
と、あの手紙をわたした。
弥三郎《やさぶろう》は披見《ひけん》して、
「なるほど。引っぱりだこというところだな」
と笑った。
「まあな」
弥二郎《やじろう》も笑った。
「どうする。会うか」
「会ってもよし、会わずともよし。まだきめておらん。それで来た」
「危険はないであろうか」
「まずないじゃろうと思う。ゆうべのやつも害意《がいい》はなかったようじゃ。しかし、なんとも言えん」
「おれがかわりに行こうか」
「それでもよいが……」
弥二郎《やじろう》の返事は歯ぎれが悪い。弥三郎《やさぶろう》ではヘマなことをしでかしそうな気がする。
弥三郎《やさぶろう》は気を悪くしたような顔になった。
「おれはべつだん行きたいわけではない。しかし、兄者《あんじや》は一族の首長《しゆちよう》だ。万一のことがあっては一族全部がこまる。おれならば、何かあっても、おれ一人のことですむ。じゃから、かわって行こうというのじゃ」
「うむ、うむ、そなたの心はよくわかっている。しかし、先方はおれを名ざしてきている。おれでなくては、ほんとの話をするかどうか」
「そんなら兄者《あんじや》行くがよいわさ。兄者《あんじや》はさっき、会うか会わぬかきめておらんと言うたが、その言い方は会うにきめている言い方ぞ」
と、弥三郎《やさぶろう》のきげんはますますわるい。
「そうおこるな、会うても会わんでもよしというのも本心、会うて何を言いだすか聞いてみたいというのも本心。いずれもウソではない。――どうじゃろう。二人そろって出かけては」
「よかろう」
弥三郎《やさぶろう》はきげんをなおしたが、なお言った。
「われら兄弟ほどのものが二人そろって行ったらば、たとえ先方に手はずがあっても、左右《さう》なくしかけることはできるまいが、用心するにこしたことはない。近くまで家来どもを百人ばかり連れて行っておいてはいかがであろう」
「それはぜひそうしたい。いつぞや宇佐美《うさみ》も、そうしておれが城に来たわ」
「では、それはきまった。次には、先方が何を言いだすか、だいたいの見当はつけておく必要がある。何を言いだすと思う」
「それは知れきったことじゃ、上条《じようじよう》をはなれて、こちらに味方してくれと言うにきまっている」
「そんなわかりきったことを、おれは言うているのではない。恩賞《おんしよう》のことじゃ。上条《じようじよう》とは事成《ことな》ったあかつきには、頸城《くびき》郡内で十カ郷《ごう》をくれるとの約束ができている。春日山《かすがやま》はどれほどくれると言いだすであろうか。抜け目のない春日山《かすがやま》がこと、十カ郷《ごう》しかじかのことくらい、もうさぐり知っているに相違ないと思うのだ」
「ま、そうであろうの」
「上田合戦《うえだがつせん》の勝利は、半分は宇佐美《うさみ》が力、半分は兄者《あんじや》の力による。これはだれに聞かせても通る言いぶんじゃ」
「そりゃそうじゃ、おれは剛兵《ごうひよう》をもって鳴る上田衆の備《そな》えを枯れた葦《あし》がらのようにたたきやぶり、大堀《おおほり》壱岐守《いきのかみ》以下の剛《ごう》の者を七人も討《う》ち取り、鬼神《きじん》と呼ばれた越前守《えちぜんのかみ》(房景《ふさかげ》)殿を城まで追いつめてくれた。おれの働きがなくば、たとえ宇佐美《うさみ》が軍配《ぐんばい》でも、ああは調子よくはいかなんだはずじゃ」
「そのとおり。いつものことながら、兄者《あんじや》の剛勇《ごうゆう》にはわしも舌《した》を巻いている。ところで、上田|合戦《がつせん》の首尾《しゆび》によって、春日山《かすがやま》の重みはグンとへった。上条《じようじよう》へ尾をふって帰服《きふく》してくる者が引きも切らず、秤《はかり》の横棒《よこぼう》は上条《じようじよう》へグンとかたむいてきている。春日山《かすがやま》としては苦しく切《せつ》ないところじゃ。この形勢《けいせい》を回復するためには、兄者《あんじや》を味方に引きこむのが一番、とこう考えたわけだな」
「まず、そうじゃろうな」
「とすれば、なまなかな恩賞《おんしよう》の約束では承知してはならんぞ。このままでいくかぎり、春日山《かすがやま》の沈落《ちんらく》は目に見えているのじゃから、じっとしていても十カ郷《ごう》は手に入るのじゃからの」
「越後《えちご》半分とでも所望《しよもう》しようか。さすれば、わしらも兄弟二人|出張《でば》って会ったかいがある」
「よかろう、兄者《あんじや》が味方してやらぬかぎり、春日山《かすがやま》の沈落《ちんらく》は必定《ひつじよう》なのじゃ。半国くれても、さして重賞《ちようしよう》とは言えん」
ニコリともせず弥三郎《やさぶろう》は言った。
兄弟はなお相談して、場所は春日山《かすがやま》と柿崎《かきざき》とのほぼ中間にあたる大瀁《おおぶけ》の真言宗寺《しんごんしゆうでら》、日時は三日後の正午ときめた。
自分の城にかえった弥二郎《やじろう》は、弟と相談してきたことに従って返書をしたため、手文庫《てぶんこ》におさめた。昨夜の忍《しの》びの者が、今夜いつどんなところで出てくるかと、かなりに興味があった。
為景《ためかげ》の手飼《てが》いの忍《しの》び者にちがいないとの見当はつけている。一種の陰謀《いんぼう》政治家である為景《ためかげ》が多数の密偵《みつてい》を養っていて、たえず越後《えちご》国内はもとよりのこと、隣国までもはなっていて、その中には人間わざとは思われないくらい、すぐれたわざをもった者がいるといううわさは、いつも聞いていることであった。
(今夜はどんなやつか、顔を見てやる。顔を見ないかぎり返書はわたさぬのだ)
と思って待った。
しかし、その夜はついにあらわれなかった。
「なんたることだ!」
弥二郎《やじろう》は腹を立てたが、狼狽《ろうばい》もした。ひょっとして、宇佐美定行《うさみさだゆき》がこちらの心をためすためにした細工《さいく》かもしれないと思ったのだ。
金津《かなづ》の書状をしらべてみるために手文庫《てぶんこ》をあけてみたが、アッとおどろいた。
昨日したためた返書はなくなって、かわりにへたくそな字で、
ごへんしょ、いただきてまいりそろ
かなずいずつかい
と書いた紙きれが入っていたのだ。
「油断もすきもならぬ。それでは湯茶《ゆちや》もうかつには飲めぬ」
と思って、背すじのあたりにつめたいものが走った。
六
定《さだ》めの日の定《さだ》めの時刻に一時間ほども先だって、柿崎《かきざき》兄弟は大瀁《おおぶけ》村に到着した。兄弟とその近習《きんじゆう》の者十人ばかりは烏帽子直垂《えぼしひたたれ》姿であったが、百余人の従者《じゆうしや》らはみな、小具足《こぐそく》をつけ、弓矢をもつ者、槍《やり》をもつ者、長巻《ながまき》をかついだ者、まことに殺伐《さつばつ》ないでたちであった。
村の入口までつくと、金津《かなづ》伊豆守《いずのかみ》が数人の従者《じゆうしや》らと待っていた。みな、直垂《ひたたれ》姿。
「これはお早いご到着」
金津《かなづ》は愛嬌《あいきよう》よく笑いながら迎えた。三十二、三、色白の風采《ふうさい》のよい男である。児小姓《ちごこしよう》立ちの男だけに、ガサツ者の多いこの時代の武士の中では礼儀作法《れいぎさほう》もよく心得《こころえ》、人あたりもいたってやわらかい。
弥二郎《やじろう》は、半武装した従者《じゆうしや》をこんなに多数連れてきたことも、時刻よりはるかに先だって来たことも、ともに心理を見ぬかれたようで、かなりてれくさかったが、すぐ、いや、用心していることを知らせた方がかえってよいのだと、思いかえした。
「お出迎え、恐縮《きようしゆく》でござる」
兄弟ともそう言いながら馬をおりようとすると、金津《かなづ》は、
「そのまま、そのまま。拙者《せつしや》も騎乗《きじよう》します」
と、馬を呼んで乗って、
「ご家来衆もごいっしょに寺へ行っていただきましょうか。このへんは何もないところで、ご退屈でござろう。寺へまいれば、酒ぐらいは用意してござる」
と、まことにきさくで愛想がよい。
三人は馬首をならべて、かわいたせまい村の通りを寺へむかった。ぞろぞろと柿崎《かきざき》の勢がそのあとにつづく。
大瀁《おおぶけ》はいまでこそ穣々《じようじよう》たる美田《びでん》地帯になっているが、この時代は字義のとおり、沼沢《しようたく》の多いじめじめした土地で、雨が降れば満々たる湖水となり、平日でも足をふみこめば底なしに沈んだので、長い間うちすてられてかえりみられなかった。けれども、いつの時代か、耕地のないもっとも貧しい農民らが、瓦礫《がれき》の山から宝石をさがすような根気と熱心さをもって、この広漠《こうばく》たる湿地帯《しつちたい》をくまなくたずね歩いたすえ、やっと耕作可能な土地をさぐりあてて居つき、ついに村ができた。こんな村だから、耕地はいたってすくない。集落の周囲にほんのすこしあるきりだ。だから、まことにまずしい村だ。しかし、村の中央にある寺だけはなかなかりっぱであった。信仰のあつい村人らは自分らの食をつめても寺への奉仕はおこたりがないのである。
床《ゆか》の高い、大きな本堂の裏にある方丈《ほうじよう》が、会見の場所として支度《したく》してあった。総檜《そうひのき》づくりのまあたらしい書院づくりの座敷の前には、泉石《せんせき》をあしらった庭まであり、もう新緑とはいえないほど濃い緑になった樹木《じゆもく》の間から、早い蝉《せみ》が鳴いていた。
席が定《さだ》まると、金津《かなづ》は、
「まずあのような使者のつかわしようをしたご無礼をおわび申します。つぎに、にもかかわらず、ねがいをお聞きとどけたまわったことをお礼申し上げる」
と言った。
「いやいや」
言っているうちに、膳部《ぜんぶ》が運ばれてきた。これは金津《かなづ》の家来どもが運んできたが、つづいて柄長《えなが》の銚子《ちようし》をささげもって出てきたのは二人の女であった。二人とも金銀を摺《す》り箔《はく》した雪白《ゆきじろ》の綾《あや》の|かいどり《ヽヽヽヽ》を着、真紅《しんく》の帯をしめ、下《さ》げ髪にしたひたいには金の天冠《てんかん》をつけている。われわれのすでになじみである春《はる》と秋《あき》の両女であった。
ばくち
一
二人の女を見た時の弥二郎《やじろう》の様子こそ見ものであった。茫然自失《ぼうぜんじしつ》とはこんな顔を言うのであろう。力と精気にあふれたたけだけしい顔がいきなりグニャグニャになったようにだらしなくなり、目はまぼろしを見ているようにうっとりとなって、一人の女から一人の女へと往復しているのであった。こわくて濃くてピンとした口ひげとそりあとの青々とした下あごとにかこまれた、ぶあつく赤い口はかすかにあいて、白い歯が見えた。
お春《はる》が銚子《ちようし》を横にささえていざりよった。
「お酒《ささ》を」
京なまりのやわらかなことばが、やや大弁《おおびら》の花びらをふくんだような口から漏《も》れたが、弥二郎《やじろう》には聞こえなかったようだ。たくましいのどに高くはり出して黒い毛のはえているのどぼとけがはっきりと上下して、ゴクリとからつばをのみこむ音が聞こえただけで、女を見つめたまま動かなかった。
「どうぞ」
お春はうながした。
「おッ!」
やっと気づいて、杯《さかずき》をとり上げた。
女は作法《さほう》正しくついだ。
弥三郎《やさぶろう》の方も、女たちの美しさにはおどろいたようだが、兄のようなことはない。お秋が銚子《ちようし》をささげて進むと、おちつきはらって受けた。
金津《かなづ》はやや伏し目がちに端然《たんぜん》としてすわっていたが、あまさず兄弟の様子を見ていた。
(まず成功だわい。弥二郎《やじろう》はもうこちらのもの。弥三郎《やさぶろう》も半分ほどはとりこになったと見てよかろう)
と、心中ほくそえんでいた。
金津《かなづ》の杯《さかずき》は両女の銚子《ちようし》から満たされた。彼はそれをささげて、
「なんの風情《ふぜい》もござらぬが、お過ごしねがいとうござる。まず毒見《どくみ》つかまつる」
と言って、あまさずのみほした。
二人ものんだ。
女らは三人の杯《さかずき》にまた酒を満たしておいて、さわやかな衣《きぬ》ずれの音を立てながら、室外に去った。
「さて、さっそくでござるが、用談にかかります。すでにご見当はおつきになっていることと存ずるが、今日の儀は春日山《かすがやま》の旨《むね》を受けてのことであります」
と金津《かなづ》は正直に言ってから、兄弟が上条《じようじよう》を去ってもともとのように味方してくれることを、為景《ためかげ》が切望していると述べた。
弥二郎《やじろう》は女たちの消えていった先に気をとられて、金津《かなづ》の言ったことが聞こえたとは見えない。
その弥二郎《やじろう》を、金津《かなづ》はそしらぬふりで見て、
「いろいろご都合《つごう》はおありでござろうが、まげてご承服ねがいたい。当国《とうごく》は京の公方《くぼう》様のおゆるしによって、定実君《さだざねぎみ》お守護《しゆご》と定《さだ》まり、為景守護代《ためかげしゆごだい》と定《さだ》まって、すでに久《ひさ》しい間国内|静謐《せいひつ》に帰していましたものを、一人の野心によって、また今日のさわぎとなり、民を塗炭《とたん》におちいらせていますこと、あってしかるべきこととは存ぜぬ……」
とつづけた。
弥二郎《やじろう》は答えない。心はよそに遊んでいる。
こちらから弥三郎《やさぶろう》は腹立たしげに目で兄をにらんでいたが、いきなり金津《かなづ》の方を見てたたきつけるようなはげしい調子で言った。
「見えすいた術策《じゆつさく》をおもちいだな。あの女どもはなんでござる。兄が女にかけては目のない者と知って、その心をとろかそうとなされるのだな」
ズバリと手もとに切りこむようなはげしさであった。
金津《かなづ》はわざとあわて、微笑をこしらえた。
「これはしたり。さようなことがござろうか。当方より話をかけておいでをねがったのでござるゆえ、いささかなりとも興《きよう》をそえたいと存じ、このほど為景《ためかげ》が京より召しかかえましたものどもに酒の酌《しやく》をとらせたいと存じて召しつれただけのものであります。お気先に悖《もと》りますなら、さっそくにかえしましょう。――これよ」
と、座にある家来をふりかえると、弥二郎《やじろう》がさけんだ。
「あ、待たっしゃい!」
あわてたふうだ。
腰を浮かしていた家来は、主人と弥二郎《やじろう》を見くらべて迷っているふうだ。さぞおかしくてたまらないであろうのに、謹直《きんちよく》な顔であった。
にたにた笑いながら、弥二郎《やじろう》は言う。
「それにはおよばぬ。美女は目の保養だ。またこの席へ召しだしていただきたい」
弥三郎《やさぶろう》はいっそう腹を立てた。
「なんたることだ。みすみす術策《じゆつさく》にのるとは」
と、また兄をにらんでいきまいた。
「なにを量見《りようけん》のせまいことを!」
と、弥二郎《やじろう》もけしきばんだ。
金津《かなづ》はわざとあわてたふうをつくった。
「ま、お二人とも、これはなんとしたことでござる。話は話、これはこれ、ごく軽く考えていただきたい。そう重々《おもおも》しくおとりになって、ご兄弟がお争いなされては、拙者《せつしや》の立つ瀬《せ》がござらん」
と言って、ふと思い出したていで、
「おお、これは拙者《せつしや》としたことが、うっかりしていたわの」
と言って、家来に言った。
「それ、あのものをもってまいるよう」
家来はさがっていったが、すぐ男四人でつり台をはこび入れてきて、柿崎《かきざき》兄弟の前においた。かけてある油単《ゆたん》を金津《かなづ》がのけると、台にはおびただしい財宝がもられていた。黄金《こがね》の香炉《こうろ》、銀の壺《つぼ》、金銀の象眼《ぞうがん》した花筒《はなづつ》、いく包みかの砂金《さきん》が、目を射るきらびやかさでならんでいた。
家来らはさらにまたもう一台はこびこんできた。それには数百巻の巻絹《まきぎぬ》が四つの杉《すぎ》なりの山になってのせられていた。
最後に、またもう一台来た。金の熨斗《のし》つけ(丸さや)の陣太刀《じんだち》と黄金《こがね》づくりの鞘巻《さやまき》がのっていた。
弥二郎《やじろう》も、弥三郎《やさぶろう》も、おびただしさに、もう口もきけない。どぎもをぬかれて、金津《かなづ》を見つめていた。
金津《かなづ》は家来が広ぶたにのせてもってきた目録を、兄弟の中ほどにおき、うやうやしく言う。
「これは本日のご祝儀《しゆうぎ》に、お館《やかた》と為景《ためかげ》よりまいらせるのでござる。おおさめたまわりたく存ずる」
二
弥三郎《やさぶろう》は兄を見た。先刻《せんこく》のあの腹立たしげなものはもうない。なにかおどおどした表情であった。それにたいして、弥二郎《やじろう》の目つきにはつっぱなすような色がある。これまでと反対に、弥三郎《やさぶろう》のだらしなさに腹を立てているようであった。
女らが入ってきたのは、その時であった。
故意か、偶然か、三つの台は弥三郎《やさぶろう》の席に近くおかれ、いくらかあいているのは弥二郎《やじろう》の前だけだ。女らは二人とも弥二郎《やじろう》のそばにすわり、左右から銚子《ちようし》をさしだして酒をすすめる。
「ああ、うん、二人いっしょに酌《しやく》してくりゃれ」
たちまち弥二郎《やじろう》の顔はゆるんで、杯《さかずき》をつきだして二人に酌《しやく》をしてもらい、一息にほして、
「重ねてたのむ」
とつがせて、舌《した》を鳴らしてまたのみほして、
「そなたら、京から来やったそうなが、越後《えちご》は気に入りやったかや。名は? 年は?」
などと、きげんよく聞きはじめた。
金津《かなづ》は獲物《えもの》を|わな《ヽヽ》の近くに引きよせることのできた猟師《りようし》の気持ちであった。そしらぬふりで様子をうかがっていると、とつぜん、弥二郎《やじろう》が、
「伊豆《いず》殿、失礼ながら、ひとつ献上《けんじよう》いたす」
と言って、杯《さかずき》をさした。
「や、これは」
金津《かなづ》はうやうやしく受けた。
弥二郎《やじろう》は、女が酒をつぎおわるのを待って言う。
「所望《しよもう》がござる」
「ほ、なんでござろう。身にかのうことならば、なんなりともおおせ聞けくだされ」
「ちと申しあげにくいな。おあてくださらんか」
弥二郎《やじろう》はてれている。しきりにひげをひねりはじめた。
金津《かなづ》には、弥二郎《やじろう》が何を所望《しよもう》するつもりか、見当がついていたが、しらばくれた。
「はて、なんでござろう。まるっきりわかりませぬが、とまれ、おおせだしていただきましょう、ただいまも申しあげたとおり、身にかのうことならば、なんなりとも応じ申すでありましょう」
弥二郎《やじろう》は言おうとして、ためらい、
「はは、はは、はは、……どうも言いにくいわ」
と言ってひげをひねる。いまにも引きぬきはしないかと思われるほどの猛烈さだ。どうやらすこし赤くなっている様子である。
金津《かなづ》はおかしくてならない。
(がらになくうぶいところもあるのじゃな。よほどに気に入ったらしいわ。獲物《えもの》はたしかにわなの香餌《こうじ》に目がくらみつつあるわ)
と思いながらも、神妙《しんみよう》な様子をつくっていたが、
(ところで、舎弟《しやてい》の方はどうであろう)
と、弥三郎《やさぶろう》の方を観察した。これはこれで、血走らんばかりに逆上した貪欲《どんよく》な目を、三つの財宝の山にうろうろと走らせている。もうまわりのなにものも見えないようなふうであった。
(ははあ、存外にこちらの方がもろいような)
人の性質の急所をつかんで手を打つ為景《ためかげ》の術策《じゆつさく》の鋭さに、いまさらのように驚嘆せずにおられなかった。
とつぜん、弥二郎《やじろう》がどなりだした。
「やいこら! 女ども!」
耳がガンと鳴るほどにおそろしい声であった。金津《かなづ》は肝《きも》をつぶした。てっきり、弥二郎《やじろう》がこちらの策謀《さくぼう》に腹を立ててあばれだすのだと思った。
つづいて、弥二郎《やじろう》は、
「女ども! しばらくむこうをむいておれ! おれが方を見るな!」
と言った。
女らはおびえて、青くなったが、それに気づくと、弥二郎《やじろう》はどこからそんな声が出るかと思われるほどにやさしい声で、
「すまぬ、すまぬ。おどかしたのう。しかし、しばらくこちらを見んでいてくれや」
となだめておいて、まっすぐに金津《かなづ》を見た。
「所望《しよもう》というのは、ほかでもござらぬ。とてものことに、この女らをわれらにたまわりたいのでござる」
思いつめた目であった。ことわったら、そのままおどりかかってつかみひしぎそうであった。
|たか《ヽヽ》をくくっていながらも、金津《かなづ》はおぼえず胸がふるえた。とりあえず、微笑した。
「なにかと思えば、そんなことでござったか。いかにも、ご所望《しよもう》に応じ申そう」
弥二郎《やじろう》の顔にはパッと喜色があふれた。
「くださるか! ありがたや!」
と合掌《がつしよう》でもしそうに見えた。
金津《かなづ》はなお微笑をつづけながら言った。
「お待ちなさい。ご所望《しよもう》にまかせはいたすが、ただというわけにはまいらんことはご承知でありましょうな。この女どもは、為景《ためかげ》がわざわざ京に人を派して、千人の美女からえらんで召しかかえた秘蔵のものであります。拙者《せつしや》は今日は酒の酌《しやく》とりとして借りてまいったにすぎません。されば、これを貴殿《きでん》に進上《しんじよう》いたすのは、拙者《せつしや》の一存でいたすのでありますゆえ、貴殿《きでん》の方でも拙者《せつしや》の顔を立てていただかねばなりません。すなわち、お味方のことを承引《しよういん》していただきたい。でなくば、拙者《せつしや》は春日山《かすがやま》にかえって為景《ためかげ》に言い解くことばがござらぬ」
弥二郎《やじろう》はもう酔ったような顔になっている。
「ご念にはおよばぬ。もとより、われらはそのつもりでいた。これほどの宝をただでいただこうと思うほど、拙者《せつしや》は義理知らずではござらぬ」
と言って女らを引きよせようとして、ふといささか正気がかえってきたのであろうか、また金津《かなづ》を凝視《ぎようし》して、
「これはお味方申すことにたいする恩賞《おんしよう》ではなく、つまりは引き出ものでござるな」
「もとより」
「しからば、戦《いく》さ勝った恩賞《おんしよう》には、どこでもようござるが、十カ郷《ごう》たまわりたい。拙者《せつしや》は上条《じようじよう》から頸城《くびき》郡内において十カ郷《ごう》たまわる約束になっています。不当な要求ではないと存ずる。ご異存ござるまいな」
色欲《しきよく》にも物欲《ぶつよく》にも、人間わざとは思われないたくましさだ。金津《かなづ》は舌《した》を巻いた。しかし、為景《ためかげ》はこれ以上の餌《えさ》をあたえるつもりでいる。こちらが後手《ごて》にまわっているうえに、やつのこと、ずいぶん欲をかくであろうが、十五カ郷《ごう》くらいの約束ですますことができれば、そちの使命は大成功じゃ、と言ったのである。
「よろしゅうござる。為景《ためかげ》もそれほど進上《しんじよう》申さずばなるまいと申していました。これはお味方くださることにたいしての恩賞《おんしよう》でござれば、お手柄《てがら》のしだいでは、なお加増《かぞう》して進上《しんじよう》いたすであろうと存じます」
「けっこうけっこう」
「誓紙《せいし》をお書きくだされようか」
「おお、書きますぞ」
筆紙《ひつし》がとりよせられ、誓紙《せいし》の交換がすむと、
「さあすんだ。近うよれ!」
と言うや、弥二郎《やじろう》は右手にお春を、左手にお秋をつかんで、左右のひざにかるがると抱き上げた。
「二人とも、おれがものじゃ、おれがものじゃ」
二人の顔をかわるがわる、ほれぼれと見ては、玉をみがいたようになめらかなほおに、自分の顔をすりつける。
弥三郎《やさぶろう》がほえるようにさけんだ。
「兄者《あんじや》、おれはどうなるのじゃ。兄者《あんじや》ばかりよいことをして」
「そちにはその引き出ものをみなやるわい。この美しい花はおれがものじゃ。ほしいというまいぞ。手をふれるまいぞ」
一時に酔いが出たのであろうか、情が激してきたのであろうか、愛撫《あいぶ》はさらにあらあらしさを加えてくる。二人の美女は狂風にもまれる二輪の花のように、弥二郎《やじろう》のひざの上で苦しげにゆれうごいていた。
金津《かなづ》は弥三郎《やさぶろう》にも誓紙《せいし》を書かせた。
三
大瀁《おおぶけ》村での会見があってから十数日の後、為景《ためかげ》は宇佐美《うさみ》勢を主力とする反|為景《ためかげ》軍が上条《じようじよう》に集結しつつあって、国内の豪族《ごうぞく》らのはせ参ずる者があとを絶たず、日を追うてその勢が増大しつつあるとの報告を受けた。
為景《ためかげ》は自党の豪族《ごうぞく》らを召集したが、思うように集まらない。即座にはせ参じたのは上田《うえだ》の房景《ふさかげ》父子だけであった。
かれこれ計算してみると、敵勢は一万二、三千は軽く集まるであろうのに、味方はせいぜい七千くらいのものと思われた。
たのみとするのは、敵中に加わっている柿崎一党《かきざきいつとう》が合戦《かつせん》なかばに裏切りしてくれる約束になっていることだが、これも誓紙《せいし》を受け取っているだけだし、利にさとい弥二郎《やじろう》兄弟のことだし、形勢がこうでは、どうなるかわかったものではない。
しかし、為景《ためかげ》は誓紙《せいし》以上のことを弥二郎《やじろう》兄弟に要求しなかったことを不覚とは思っていない。じつをいうと、昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》が、
「あの兄弟は信義の心のうすい者どもであります。人質《ひとじち》を徴《め》しておかるべきでございましょう」
と言ったのだが、為景《ためかげ》は、
「信じて疑わねば、人はかえって裏切ったりなどせぬものだ」
としりぞけたのだ。
ほんとはそんなあまい考えからではない。人質《ひとじち》などとっては、敵方《てきがた》も秋の野のバッタかなんぞのように多数の密偵《みつてい》をはなっているのだ、感づかれて、せっかくの秘策が無駄《むだ》になってしもうと考えたのである。
「せめて、柿崎《かきざき》へ玄鬼《げんき》でもつかわされて念をお押しになりましては」
と常陸介《ひたちのすけ》はまた言ったが、これも、
「それは悪あがきよ。自信のなさをさらけだすようなもの。人はかえって背信をそそられるものよ」
としりぞけた。
(大ばくちだが、この際はしかたないわ。運がよければ、弥二郎《やじろう》が約束どおりにしてくれようし、運が悪ければ、これでおれは破滅する。それもよかろうて)
と、すずしく|きも《ヽヽ》をすえた。
やがて、敵勢は五十公野《いきみの》に押しだしてきた。
府中《ふちゆう》からも、春日山《かすがやま》からも、四里ほどの地点だ。
「さらば出かけよう」
為景《ためかげ》は迎えうつべく、春日山《かすがやま》を出た。房景《ふさかげ》と政景《まさかげ》の勢が三千、為景《ためかげ》は自分の兵と諸豪族《しよごうぞく》の兵を合《ごう》して四千をひきいていた。
四
先陣《せんじん》をうけたまわった房景《ふさかげ》は先度《せんど》の敗戦があるだけに期するところがあった。春日山《かすがやま》を出るにあたって、むすこの政景《まさかげ》を呼んで、物見《ものみ》のために出発することを命じた。当時のことばで、これを「大物見《おおものみ》」という。将校斥候《しようこうせつこう》だ。
政景《まさかげ》は当時やっと十八であったが、十四の時を初陣《ういじん》に大小の合戦《かつせん》に七度も出て、「父子とはいえ、よく似た戦《いく》さぶり。猛将《もうしよう》だな」と言われている。父に似て鋭い目をしていたが、顔にはまだ少年のやわらかさがのこり、鼻下にうっすらと黒いものがはえているのがわかわかしかった。父は小柄《こがら》だったが、彼は長身であった。ぜい肉のまるでない、やせ肉《じし》にすら見えるすらりとした長身には、若さとはがねのような弾力があった。
小桜縅《こざくらおど》しの鎧《よろい》を着て、父の前にかしこまって命《めい》を受けると、二十|騎《き》ほどの兵をひきい、栗毛《くりげ》の馬にのって先行した。道の両がわは一望の水田地帯だ。たいていは植えつけをすましているが、まだの田もある。いずれも水を満々《まんまん》と張って、初夏の早朝の日を照りかえしていた。
三里行くと、飯田《いいだ》川だ。この川をわたったあたりから五十公野《いきみの》になるのだが、見わたすかぎり水田がつづいているだけで、敵の姿は見えない。四、五|町《ちよう》むこうに村落が三つ四つ散在して、そのうちの二つは近くに森がある。鳥居《とりい》が見えるから、鎮守《ちんじゆ》の杜《もり》にちがいない。
とりあえず、川を渡って、用心しながらそれらの森に行ってみたが、いずれも朝の日が樹幹《じゆかん》をわけてななめにさしこんでいるそこは、小鳥の鳴き声と蝉《せみ》の声だけがして、閑静《かんせい》をきわめている。
村落へ入ってみると、村人らがのんびりといつもの生活をいとなんでいた。ふいに入ってきた騎馬武者《きばむしや》らを見て、おびえたようにこそこそと家ににげこんだ。
政景《まさかげ》は追いかけて、手ぢかの一軒に入った。
「この村に、上条《じようじよう》から軍勢が押しだしてきているはずだが、どのへんにいるか知らぬか」
いくつになるか年もわからないほどに老いぼれた、赤く目のただれた老爺《おやじ》は、囲炉裏《いろり》のへりから土間にとんでおり、さかとんぼ打たんばかりのおじぎをした。政景《まさかげ》は腰のきんちゃくから青銅銭《せいどうせん》を三枚出して投げあたえた。
「へい、へい、へい、へい」
老爺《おやじ》はおしいただいて、おどおどしながら言う。
「どこにいなさるだか、この目で見たわけではござりましねえよって、しかとは知りましねえが、ゆんべのことでござりました。上条《じようじよう》の武者衆《むしやしゆう》が村にお見えになりまして、このへんで戦《いく》さしては百姓《ひやくしよう》のわずらいになるよって、戦《いく》さは岡田《おかだ》でとりおこのうことにすべい、さればどこへもにげずともよい、上条《じようじよう》の殿様《とのさま》はおなさけ深い、忘れるな、とかようにおおせわたされましただ。なあに、百姓《ひやくしよう》どものわずらいになるからではなかんべ。水田ばかりで、戦《いく》さしようにもされねえところだからでござりますべ。上条《じようじよう》の衆《しゆう》はおためごかしなことばかり言いなさりますだによ」
永楽銭《えいらくせん》三枚のききめもあろうが、もともとおしゃべりな老爺《おやじ》なのだろう。おべっかまじりにぺらぺらとしゃべりたてた。
政景《まさかげ》は岡田にむかった。
老爺《おやじ》の言ったことはうそではなかった。上条《じようじよう》軍は岡田に布陣《ふじん》していた。
この時代の五十公野《いきみの》は飯田川《いいだ》上流の右岸一帯の地方だ。今日|中頸城《なかくびき》郡内に里《さと》五十公野《いきみの》という村があるが(昭和六十一年現在三和《さんわ》村の一部)、これはその一部分で、この時代にはその北方の上杉《うえすぎ》村から東北方にある東頸城《ひがしくびび》郡の安塚《やすづか》村のへんにかけて、みな五十公野《いきみの》といっていたのである。北部から東部・東南部にかけては一帯の丘陵《きゆうりよう》地帯で、西方からのびてくる平野を抱きすくめるような地形になっている。岡田はその平野がもっとも奥まって尽きる地点にあり、上条《じようじよう》から中頸城《なかくびき》郡の平原地帯への出口にあたる。
上条《じようじよう》勢は谷を出たところから、山ぞいに南方に展開して、布陣《ふじん》していた。もっとも北の奥まったところに上杉定憲《うえすぎさだのり》の勢四千。竹に雀《すずめ》の紋所《もんどころ》を打った旗が緑の山を背景に、朝の風にひるがえっている。その前方から南方にかけて、国内の諸豪族《しよごうぞく》が陣《じん》をしき、それぞれの家の旗じるしが立てられていた。その勢合して五千もあろうか。そこからややかけはなれた南方に宇佐美定行《うさみさだゆき》の三《み》ツ瓶子《へいし》の旗じるしが立っている。兵数三千ほど。高みによって、円石を坂上にまろばしかけるように敵にあたらんとする気勢であった。
上条《じようじよう》勢がとくにここをえらんで布陣《ふじん》したのは、このあたりが畑地と原野だけで、騎馬《きば》の戦闘にもっとも適した地勢であるからに相違ないが、さらに重要なのは、この高みによって敵をおしまくることができる地勢のためと判断された。
政景《まさかげ》は従騎《じゆうき》らが危険であるととめるのもきかず、つい二、三|町《ちよう》のあたりまで接近して、十分に見きわめてから引きとった。
敵はこちらに気づいているに相違ないのに、攻撃に出ようとはしなかった。
房景《ふさかげ》は、飯田《いいだ》川にあと半里ほどの地点で政景《まさかげ》の報告を受け取った。
「飯田川のあたりには敵の姿はまるでないのじゃな」
「一人も見あたりません。もっとも、水田ばかりで戦《いく》さのできるところではございません」
「なるほど」
房景《ふさかげ》は敵の計略の深さを読みえたと思っていた。
彼はこう読んだ。川を要して敵のなかば渡るをうつは合戦《かつせん》の定石《じようせき》だ。飯田《いいだ》川の渡河点《とかてん》付近は水田ばかりではあろうが、くふうしだいではやれないことはない。足場の悪さは敵味方同じだ。だのに、それをやらずして、はるかにはなれた岡田に布陣《ふじん》しているのは、高みによってこちらをうつ利便のために相違ない。しかし、それだけではない。思うに、こちらが猶予《ゆうよ》して決戦しかけぬようにと考えているのであろうか。長びけば長びくほど情勢は敵に有利に展開するはずである。
(つまり、いっきに手詰《てづ》めの合戦《かつせん》になってもよし、長びいてもよし、いずれにころんでも損はせぬという構えだな)
にがいものをかみしめるように房景《ふさかげ》は思案していたが、すぐ決心がついた。
「五郎《ごろう》、そなた信濃守《しなののかみ》殿まで行ってまいれ」
と政景《まさかげ》に言った。
「ご口上《こうじよう》は?」
「その方がいま見てきたことをのこらず申し上げたうえ、こう申せ。父|房景《ふさかげ》はこれを、手詰《てづ》めの合戦《かつせん》もよし、両軍|対峙《たいじ》して長陣《ながじん》になるもよし、いずれにころんでも、利こそあれ、損することはないと、敵が目算《もくさん》しているものと見ました。敵の利は味方の不利ではありますが、両者をくらべ考えますに、長陣《ながじん》となるはもっとも悪いと思いますし、先度《せんど》の敗戦の恥をすすぎたくもござれば、おしすすんで有無《うむ》の一戦をいどみかけたいと存ずる。ご諒解《りようかい》ありたい≠ニ、かように申せ」
先日の敗戦は、年若い政景《まさかげ》にはいっそう強くこたえている。わかわかしいほおをさっと染めると、
「かしこまりました」
と答えて、立ちあがった。
為景《ためかげ》はこの口上《こうじよう》を半里ほど房景《ふさかげ》におくれた地点で受け取った。房景《ふさかげ》の見切りは正しいと思われた。なによりも、手のびして敵に加担《かたん》する者が多くなれば、柿崎《かきざき》兄弟だって、またどう心がわりするかわかるものではなかった。
「よろしい。見こみどおりにするように言えい」
「さぞかし、父はよろこぶことでございましょう。それでは、これにておいとま」
政景《まさかげ》はさかしく答えて、一礼して馬を引きよせた。それを見ると、為景《ためかげ》はおぼえず呼びとめて、腰の鞘巻《さやまき》をぬいてさしだした。
「これを取らせる。よい敵の首を取れい」
「かならず血をつけて、ご実検《じつけん》にそなえるでございましょう」
りりしく答え、おしいただいて、立ち去った。水田の中にうねりながらつづいている白い道を、数騎《すうき》をひきいてまっしぐらに駆け去る。
そのうしろ姿を見て、為景《ためかげ》は不出来《ふでき》な自分のむすこらのことを考えていた。晴景《はるかげ》は春日山《かすがやま》に留守《るす》させ、景康《かげやす》は連れてきているが、とても重要な任務をまかせられそうにない。
(あの半分もないわ、おれがせがれどもは……)
胸の奥深いところでためいきをついた。
五
ひるすこし前、房景《ふさかげ》は岡田に到着《とうちやく》した。
数町こちらから見ると、なんとなく上条《じようじよう》方の布陣《ふじん》のしようがいぶかしい。戦闘を直前にしたふつうの布陣《ふじん》のしようではない。どうやら、陣地《じんち》を構築《こうちく》しているのではないかと思われた。
戦《いく》さなれた家臣《かしん》を呼んだ。
「あれをどう見るぞ」
と指さすと、家臣はしばらく凝視《ぎようし》してから答えた。
「ほどへだたっていますゆえ、よくは見えませぬが、どうやら空濠《からぼり》を掘り、逆茂木《さかもぎ》を引いているように見うけられます」
「おれもそう見る」
「急には戦わぬ算段《さんだん》のようでございますな」
「じゃろうな」
予想が的中《てきちゆう》したと思いながらも、房景《ふさかげ》はじりじりしてくるものを感じていた。
(宇佐美《うさみ》め、やりおるわ)
と思った。
前敗の恥をすすぎたい心は切だが、軍勢《ぐんぜい》がこう懸絶《けんぜつ》していてはどうしようもない。にわかごしらえでも寨《とりで》に倚《よ》っている敵を攻めるのは城攻《しろぜ》めに類する。兵書にも、十倍以上の兵数のないかぎり、城攻《しろぜ》めはしてはならないと言ってあるくらいだ。
兄の到着を待つよりほかはないと思ったが、いちおうまぢかく敵の様子を見ておくべく、みずから物見《ものみ》に出ることにした。
(よくあることじゃが、こちらの小人数《こにんずう》をあなどって敵中から攻撃をかけてくる者があれば、それを糸口にして糸をたぐるように決戦にもちこむこともできるかもしれない)
とも思った。そのことを政景《まさかげ》に言いふくめた。
「敵が追って出たら、すこしばかり兵を出せ。多数はいかんぞ。敵よりやや多数というほどでよい。敵がさらに新手《あらて》をくり出したら、またこちらからも出せ。これも多数ではいかん。同じくらいか、やや多数出せ。こうして順ぐりにすこしずつ出して、大決戦にみちびくのだ。よいか、これがつり出しの法というのだ」
すぐって精兵《せいびよう》(弓のじょうずなこと)の武者《むしや》六|騎《き》をひきいて敵陣《てきじん》にむかった。しかし、宇佐美《うさみ》はけっしてこんな手だてにはひっかからないことをよく知っているので、宇佐美《うさみ》の陣《じん》にはかまわず、かなり迂回《うかい》して、豪族《ごうぞく》らの陣《じん》の二|町《ちよう》ほどの地点まで近づいて、馬をおりて悠々《ゆうゆう》と偵察《ていさつ》した。
敵はその手にはのらなかった。どの陣《じん》も静まりかえって見ている。
房景《ふさかげ》はまた馬に乗り、軍扇《ぐんせん》をひらいて、大きくさしまねきながら、
「これは上田《うえだ》の城主、越前守房景《えちぜんのかみふさかげ》ぞ! 柿崎弥二郎《かきざきやじろう》はいぬか。来たってわれとこころよく戦えい!」
と呼ばった。
その声がとどいたかとどかないかに、なみいる軍勢《ぐんぜい》の中から、馬をおどらしてはせ出してきた者があった。
鍬形《くわがた》だけが金色《こんじき》にかがやくまっくろな甲冑《かつちゆう》に、漆《うるし》を塗《ぬ》ったように黒い馬の、燃えたつばかりにあざやかな緋《ひ》の|むながい《ヽヽヽヽ》と|しりがい《ヽヽヽヽ》をかけたのにまたがり、大身《おおみ》の槍《やり》をこわきにかいこみ、左右に弓をたずさえた武者《むしや》四騎を立てている。あぶみをふんばり、
「柿崎弥二郎《かきざきやじろう》これにあり。先度《せんど》の合戦《かつせん》におれに追われて、あたまかかえて、鼠《ねずみ》のように城ににげこまれたことは、万人のひとしく見ていたところ。忘れられたか? 老い忘れならずば、先度《せんど》の敗《ま》けの恥をすすごうとであろう。殊勝《しゆしよう》の志《こころざし》なれば、合わぬ敵とは思うが、相手いたすぞ!」
と、とどろく声で、あくまでも高言《こうげん》するや、くつわをならべて、射る速さで飛んでくる。
「それッ!」
房景《ふさかげ》は自分の左右につきそっている武者《むしや》らにさしずした。
武者《むしや》らは弓を引きしぼって切ってはなった。矢つぎばやの射手《いて》どもばかりだ。矢は一すじの糸を引くようにつぎつぎに射送《いおく》られ、柿崎《かきざき》ら五騎に集中した。
五騎は冑《かぶと》をかたむけ、鎧《よろい》の袖《そで》をゆり合わせて、矢をふせぎつつ、なお突き進んできた。たちまち、二騎は馬を射られ、前あしをあげて狂う馬上からふりおとされ、土煙をあげて転落したが、むくむくと起きあがると、矢を射送《いおく》りはじめた。
柿崎《かきざき》は猛烈に腹を立てた。
「ひきょう! 名のりかけての勝負に、飛び道具を使うとはなにごと!」
とどなりたてた。
房景《ふさかげ》はせせらわらった。
「世間《せけん》通用の武器を使うているのに、ひきょうとは血まようたか。使わぬそちが不覚《ふかく》よ!」
とどなりかえして、従騎《じゆうき》にもたせた弓を取り、鴻《こうのとり》の霜降羽《しもふりば》をはぎ、ドギドギするほどに、とぎみがいた直鏃《すぐやじり》をすげた矢をつがえ、しばし引きかためて射はなった。矢はかたむきかけた陽《ひ》に光りながらとんでいき、弥二郎《やじろう》の射向《いむ》けの袖《そで》にあたった。房景《ふさかげ》の手練《しゆれん》だ、わずかに裏をかいたくらいではおさまらない。ザクッと射通して、左の二の腕に深くささった。
弥二郎《やじろう》は馬上によろめいたが、虎《とら》のほえるようにたけった。槍《やり》を投げすて、矢をかなぐりすてると、あの剛刀《ごうとう》を引きぬいた。
「かさねがさね、のがさぬぞ!」
と、腰をすえなおし、馬を駆りはじめた。手負《てお》いの猛獣のあれくるうようだ。まともにはあたりがたい。
房景《ふさかげ》はすばやく馬をかえして、おりから言いふくめておいた味方の勢が押しだしてきた中に駆け入った。
「それ射よ!」
二十騎ほどの武者《むしや》は、鏃《やじり》をそろえてさんざんに射る。
弥二郎《やじろう》は射すくめられて進むことができない。馬をおりて、すこし高みになっている畑地の陰に、松が二、三本はえている下に入り、歯がみしていきどおった。
これで上条《じようじよう》方がさそいだされて兵をくりだしてくれば、房景《ふさかげ》の目算《もくさん》どおりにいくのであったが、上条《じようじよう》方は目をすまして見ているだけで、一兵もくりださない。かえって、引き鉦《がね》の音がひびいてきた。弥二郎《やじろう》は引きあげた。
「宇佐美《うさみ》が軍配《ぐんばい》じゃな。どうにもならぬわ」
つぶやきながら、房景《ふさかげ》も引きとった。
六
為景《ためかげ》が到着したのは、それからまもなくのことであった。
房景《ふさかげ》はさっそくみずから出むいて兄に会い、委細《いさい》を報告した。
弥二郎《やじろう》が挑戦に応じて出てきたとは、為景《ためかげ》には強い打撃であった。けぶりにはいささかも見せはしなかったが、
(やつ約束をたがえるつもりではないか)
と不安になった。
(しかし、名をさして挑戦されたのであれば、出てくるのも無理からぬとも言えるかもしれぬ。これは約束とは別だ)
と、しいて思いなおした。
しかし、不安はやはりのかない。
「ちょっと敵陣《てきじん》を見たい。敵が長陣《ながじん》にもちこむつもりであるとすれば、厄介《やつかい》だの。そなたもいっしょに来てくれい」
と、房景《ふさかげ》をさそいだし、馬をならべて前線に出た。
うんとかたむいた日は彼らのうしろにある。馬を立てて敵陣《てきじん》を凝視《ぎようし》している前に、彼らの影は長々とのびていた。
「なるほどな。敵は寨《とりで》をきずいているわ。長陣《ながじん》にもちこむつもりにまぎれない」
為景《ためかげ》は言ったが、ふとうしろに従っている近習《きんじゆう》の者どもに、
「その方ども、しばらくはなれていよ」
と遠ざけておいて、房景《ふさかげ》の方はむかず、いぜん敵陣《てきじん》に目をむけたまま、
「おれの方を見んで、返事だけせい」
と言って、柿崎《かきざき》兄弟との密約のことを打ちあけた。
房景《ふさかげ》はおどろいたが、兄の方は見ず、言った。
「そうまで手が打ってあるとは知り申さなんだ。挑《いど》みかけたりなどして、悪うござったな」
「よいとは言えぬが、それでどうということはあるまい。やつはかえって約束の念をおされたと受け取ったかもしれぬ」
「その念でござるが、やつのもとにだれかつかわす必要がありましょう」
「おれもそう思う。どうせ今夜はここで夜陣《やじん》だ。夜に入ったらだれかつかわすことにしよう」
二人はそれぞれの陣《じん》にかえった。
やがて、敵味方とも、その陣営《じんえい》に炊煙《すいえん》が立ちのぼり、夜に入るとさかんにかがり火を焚《た》き、夜陣《やじん》に入った。
返《かえ》り忠《ちゆう》
一
その夜、上杉《うえすぎ》方では、大将軍|定憲《さだのり》の本陣《ほんじん》に諸将《しよしよう》が集まって軍議がひらかれた。
宇佐美《うさみ》の最初に定《さだ》めた方針は、敵方《てきがた》の房景《ふさかげ》や為景《ためかげ》が見ぬいていたように、当分決戦を避けて長陣《ながじん》にもちこむにあったのだが、諸将《しよしよう》は味方の人数が圧倒的に優勢であるのを見て、決戦を主張してやまない。そこでこの軍議となったのであった。
宇佐美《うさみ》も最初の方針を固執《こしつ》はしなかった。彼が長陣《ながじん》の策をとったのは、長尾勢《ながおぜい》がもっと多く兵を集めることだろうと思ったのだが、今日の様子では案外にすくない。はやくも豪族《ごうぞく》らに見はなされて、没落の時が来ていると見てよいと思ったのだ。
とにかく、明日は決戦に出ることに一決した。
つぎにだれが先陣《せんじん》をうけたまわるかが議せられた。みな先陣《せんじん》を希望して、相当もめた。しかし、柿崎《かきざき》が、
「だれかれと言おうより、拙者《せつしや》がうけたまわろう」
と言いだすと、論争はぴたりとおさまった。なみの者の口から出ればひどい高言《こうげん》になるところだが、弥二郎《やじろう》の口から出るとそうではなかった。実績を積んでいる。
弥二郎《やじろう》が今日|房景《ふさかげ》から受けた左腕の矢傷《やきず》は意外に深く、繃帯《ほうたい》し、きれで胸につっていたが、すこしも弱っている様子はなかった。
「柿崎《かきざき》殿は傷《て》を負《お》うておられるが、さしつかえはござらんか」
と、宇佐美《うさみ》は言った。
弥二郎《やじろう》は豪放《ごうほう》に笑った。
「これしきの傷。掠傷《かすで》でござるわ」
これできまった。
明朝|卯《う》の刻(六時)までに戦闘準備をととのえておくこと、戦闘開始は宇佐美《うさみ》の陣《じん》で吹く螺《かい》の音によること、それによって柿崎《かきざき》勢から行動をおこすこと、二番|螺《がい》もまた宇佐美陣《うさみじん》で吹き鳴らすから、それを聞いたら諸隊いっせいに立って掩撃《えんげき》にうつること、全軍の戦闘がはじまった後は、各隊それぞれみずからの判断によって戦ってよいが、もし宇佐美陣《うさみじん》で鉦《かね》が鳴りひびいたら、さっそくに後退してそれぞれの陣所《じんしよ》につぼむこと、などが決議されて散会になった。
弥二郎《やじろう》は為景《ためかげ》との密約を忘れてはいない。しかし、両軍の人数の相違、戦場の地形、布陣《ふじん》のしよう、すべてがかけへだたって上杉方が有利だ。ちがいすぎる。考えざるをえない。なるほど、女はもらった。二人ともまことに艶美《えんび》だ。使いごこちもしごくよろしい。これほどの贈り物を受けたのだから、違約は相当気がとがめるが、こうなにもかも懸絶《けんぜつ》すると、約束にしたがって裏切ったところで、長尾勢が勝てるかどうかおぼつかないと思うのだ。
(競《くら》べ馬で、てんからの負け馬に賭《か》けるという手はない。明日のぐあいを見てからのことだ。たとえ負け戦《いく》さでも、どうにかもちこたえるようじゃったら、約束をふむことにしようぞ)
という料簡《りようけん》であった。なによりも女はもらってしまってある、返せといったところで返さなければそれまでのことだ、という腹がある。
弥三郎《やさぶろう》は軍議の席に出なかったので、弥二郎《やじろう》が帰陣《きじん》すると、すぐ来た。人をはらって、
「どんな相談であった?」
と問いかけた。
「しかじかじゃ。おれが先陣《せんじん》ということになった」
弥三郎《やさぶろう》はとほうにくれた顔になった。
「それはしかし、あの約束はどうしたぞ? だいたい、わしは今日|兄者《あんじや》がわざわざ出て越前守《えちぜんのかみ》と戦ったことからして気に入らんのだ。名ざしでいどまれたからとて、陣《じん》を堅く守ってけっして出て戦うな、との軍令が出ているのじゃから、出なんだところで、だれも不審する者もなければ、兄者《あんじや》を怯《おく》れたという者もいやせんのだ。金津《かなづ》との約束は破るつもりか。それではあまりであろうぞ」
と、おししずめた声でこごとを言う。
いっそう声をひくめて、弥二郎《やじろう》は答える。
「そう言うな。あの際、ああいどまれては、引っこんでおれるものではない。それから、あすの先陣《せんじん》のことだが、おれはこう考えているのだ」
と、心のうちをうちあけた。
「あざとすぎるのう、それは」
と、さすがの弥三郎《やさぶろう》もおどろいた。
「あざといかな。おれはせねばならぬ用心だと思うているぞ。形勢はどうなるか見当がつかんのじゃ。せねばならん用心ではないか」
「一理はあるが……」
「明日のなりゆきを見てきめるのだ。違約するときめこんだわけではない」
「そういうことなら、いたしかたはない。それもよかろう」
ついに弥三郎《やさぶろう》はなっとくした。
なおしばらく雑談してから、弥三郎《やさぶろう》は自分の幕舎《ばくしや》にかえっていった。
二
弥二郎《やじろう》は、城にのこしてきた春《はる》女と秋《あき》女の二人のことに思いをはせながら、ひとり寝酒を酌《く》みはじめたが、ふとそばに人がすわっているような気がしたので、その方を見ると、妙な男がひざをそろえて、へんにかしこまった姿ですわっていたのでおどろいた。
(なにものだ!)
と叫ぼうとすると、
「おしずかに、おしずかに」
と言う。ひくい声が、奇妙に圧迫的だ。声を出しては悪いことがおこりそうな気にさせる。出かけた声をついのみこんだ。
(斬《き》ってやる)
と思ったが、弥二郎《やじろう》は左手がきかない。相手をにらみつけながら、じりじりと位置を転じ、サッと佩刀《はかせ》をおいてある位置に手をのばしたが、そこには手にふれるものがなかった。狼狽《ろうばい》してかきさがしたが、ない。
くちばしの大きな鴉《からす》のような顔をした男は、いっそう恐縮《きようしゆく》した様子を見せ、
「お佩刀《はかせ》をおさがしで? でございましたら、あちらで」
と、目を幕舎《ばくしや》のすみにむけた。弥二郎《やじろう》が自慢の豪刀《ごうとう》はそこに立てかけてあった。
げっそりと、いっぺんに力がぬけた。
「なにものだ、その方は?」
低い、おだやかな声になっていた。
「てまえのこの声音《こわね》にお聞きおぼえはござりませぬか」
ああ、そうか、と、いつぞやの暗中《あんちゆう》の声を思い出した。
「てまえ、信濃守《しなののかみ》のところからまいりました」
と、相手はますますつつしんだ様子だ。こいつがうやうやしい様子をすればするほど気味がわるい。だいいち、ばかにされているようでいらいらしてくる。しかし、気にしないことにした。
「いつ来たのじゃ」
「へい。先刻弟御《せんこくおとうとご》様がおいでになりました時に、おあとについてまいったのでございます。ご用心がおきびしゅうございますので、そうするよりほかはなかったのでございます。へい。まことに恐れいりましてございます」
しまったと思った。弥三郎《やさぶろう》に話したことを全部聞かれてしまったのである。殺したいと思ったが、片手の不自由ないま、腰の鞘巻《さやまき》だけではどうしようもない。
すると、その心が鏡にうつしたようにわかったのであろうか、
「お佩刀《はかせ》をもってまいりましょう。やはりおそばにございませんと、ご不自由でございましょうで」
と言って、刀をもってきて、うやうやしくささげた。
弥二郎《やじろう》はまたげっそりした。殺すことなんぞできるものではないと思った。
「てまえ、ここに信濃守《しなののかみ》の書状をもってまいりました。委細《いさい》のことはなかに書いてある由《よし》でございますが、つまりはいつぞやの約定《やくじよう》を明日の合戦《かつせん》においてふんでいただきたいとのこと。なお、この書状ご披見《ひけん》のうえ、おわかりにならぬことがございますなら、なんなりともご説明つかまつります。さようにいたすよう、申しつかってまいっていますれば」
と言って、そいつはふところからとりだした書状をわたす。ごていねいに、腰の扇子《せんす》をぬきだし、ひろげた上にのせて進めたのだ。気にするときりがない。無視して、書状をひらいた。
まず今日の負傷にたいする見舞いがあり、つぎにそれを利用しての明日の裏切りのしようを書き、なにぶんともたのむとあり、最後に事成《ことな》ったあかつきには、かねて約束の頸城《くびき》郡内の十カ郷《ごう》はもとよりのこと、柏崎《かしわざき》を中心とする刈羽《かりは》郡内における宇佐美定行《うさみさだゆき》の領地全部を仔細《しさい》なく宛行《あてご》うとある。
弥二郎《やじろう》はどう答えよう、と思案にくれた。決心が定《さだ》まらなかったからであり、決心が定《さだ》まらないのは、いずれかたが究極の勝者となるかがわからないためであった。為景《ためかげ》は巧妙な策を指示してよこしているが、それがおこなわれるためにはまず宇佐美《うさみ》をあざむかねばならんが、宇佐美《うさみ》があざむかれるかどうかだ。
「返事をもらってくるように言われているのであろうな」
「へい」
やはり答えなければならんかと、心の底でためいきをついたが、ふとうまいことばを考えついた。
「それでは、かように申してくれい。御状《ごじよう》たしかに拝見いたした。万事《ばんじ》は明日の合戦《かつせん》でごらんいただくでござろう、と」
「かしこまりました。しかしながら、ごく手みじかでけっこうでございますが、書面にしていただけぬでございましょうか」
「筆《て》はにがてじゃがのう」
「どういたしまして。いつぞやのご書面などまことにおみごとなものでございました」
「からかうな」
とにがにがしく言ったが、同時に、ああ、そうだった、こいつは待ちぼうけをくわせたと見せて、手紙を盗みだしていったのだった、と思い出した。先手先手《せんてせんて》ととられているのがいまいましかった。にがてというのはこんなやつのことを言うのだと思った。
相手はにこりともしない。
「けっして、けっして。では、どうぞ、これにて」
自分の矢立てと紙をさしだした。
しかたはなかった。受け取って、いま言ったことをしたためた。
「ご無礼をいたしました。かたじけのうございました。それでは」
うしろしざりに幕のきわまでさがっていき、そこでおそろしく鄭重《ていちよう》なおじぎをし、幕をかかげてちょろりとくぐって消えた。
弥二郎《やじろう》はあとを追うようにして幕をかかげてみたが、もうどこにもその姿はなかった。
「うすきみわるいやつめ!」
つぶやいて、顔をひっこめ席にかえろうとしてむきかえると、そいつはあのつつしんだ姿で、以前の位置にすわっている。あっとおどろいた。
「……そなた……まだ……いたのか……」
きれぎれなことばになった。
「へい。ちょっと外の様子がいぶかしゅうございましたので、引きかえしてまいったのでございます。しかし、もうよろしゅうございますようで。それでは」
まえのようにうしろしざりにいざり去って、幕をくぐって消えた。
あとに弥二郎《やじろう》は、相当な時間、身動きも、周囲を見まわすことも、ひとりごとを言うこともできないような気がしていた。この幕舎《ばくしや》内のどこかにいて見ているかもしれないと思うのであった。
三
翌日の早暁《そうぎよう》、まだ暗いうちに、弥二郎《やじろう》は宇佐美定行《うさみさだゆき》の陣《じん》へ使いをたてた。
「昨日の矢傷がにわかに夜半より痛みだして、たえがたい。本日の先鋒《せんぽう》は余《よ》の人にくりかえていただきたい。所望《しよもう》して先鋒《せんぽう》となりながら、こうなったこと、もうしわけなく、また無念でござる。お察しありたい」
宇佐美《うさみ》はおどろいて、容態《ようだい》をきいて、
「破傷風《はしようふう》になどなってはならぬ。お見舞いに上がるべきだが、戦いを前にひかえてできかねる。合戦《かつせん》おわってから上がるであろう。大事になさるよう申してもらいたい」
と、ていねいな口上《こうじよう》でおくりかえした。
宇佐美《うさみ》は諸将《しよしよう》にふれをまわし、
「しかじかのことで、先鋒《せんぽう》をくりかえねばならぬが、戦いを目前にひかえて相談している間がない。拙者《せつしや》の一部隊をもって先鋒《せんぽう》といたすにより、ご諒承《りようしよう》ありたい。その余《よ》の儀は昨夜の定《さだ》めどおり」
と告げた。諸将《しよしよう》みな諒解《りようかい》した。
戦いは卯《う》の正刻《こく》(六時)を半刻《はんとき》(一時間)ほど過ぎたころからはじまった。
長尾《ながお》方の先陣《せんじん》は上田《うえだ》勢だ。三千余を二隊にわかち、第一隊は政景《まさかげ》がひきい、第二隊は房景《ふさかげ》がひきい、整々《せいせい》と押してくる。そのあとに為景《ためかげ》は四千余を五段にわかってそなえ、これはほんのすこし進んだだけで動かない。
矢ごろまで近づくと、政景《まさかげ》隊は楯《たて》をつきすえ、その陰に立ちならび、小手《こて》をそろえて矢を射送《いおく》ったが、上杉方は応射《おうしや》しない。陣所陣所《じんしよじんしよ》にこもって、楯《たて》の陰や濠《ほり》のうちにひそんで、しずまりかえっている。
政景《まさかげ》隊はすこしずつじりじりと進んできた。
「時分はよし」
と見た宇佐美定行《うさみさだゆき》は、螺《かい》をとってそばにひざまずいている兵に吹くように命じた。その勁烈《けいれつ》な音が鳴りはじめたかと思うと、新しく先鋒《せんぽう》をうけたまわった宇佐美《うさみ》の一部隊千人は、それぞれの地物《じもの》のかげからおどり出し、木戸をおしひらいて突き出し、まっしぐらに政景《まさかげ》隊に突進した。
岩石と岩石とがぶっつかりあうように接触して、槍《やり》ぜりあいになった。槍《やり》ぜりあいでは、あおむくかたちになっては踏みしめのきかぬものとしてある。ゆるやかではあるが、傾斜している地形だ。政景《まさかげ》隊にとってはのぼりであり、宇佐美《うさみ》勢にとっては下りだ。しばらくはげしいたたきあいがつづくと、政景《まさかげ》隊はあおむくかたちになり、ドッとくずれたった。
見すましていた宇佐美《うさみ》は第二の螺《かい》を吹かせた。上杉方の諸勢《しよぜい》はいっせいに木戸をひらいて打って出て突進した。宇佐美《うさみ》も打って出、大将軍たる定憲《さだのり》も打って出た。勢い猛烈、もみ立て、もみ立て、攻め立てたので、猛将房景《もうしようふさかげ》の第二隊もたちまち混乱におちいり、四分五裂《しぶんごれつ》して、八方に散乱した。
「得《え》たりや!」
上杉勢は勢いに乗って、為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》をもみくずせとばかりに殺到《さつとう》する。
為景《ためかげ》は備えを引きしめながらじりじりと後退した。
話は陣中《じんちゆう》にのこった弥二郎《やじろう》に移る。
弥二郎《やじろう》は弟や家来どもにも、矢傷が痛むと言って寝ていたのだが、戦《いく》さがはじまったころ、のそりとおきあがり、物《もの》の具《ぐ》をつけ、弥三郎《やさぶろう》を呼んだ。傷所《きずしよ》が痛むどころか、強壮《きようそう》な彼は一夜のうちにさしつかえないほどになおっていたのだ。
先刻《せんこく》までうんうんうなりながら寝ていた兄が、そんな姿で起きているので、弥三郎《やさぶろう》は目をまるくした。
「どうしたのじゃ。もうなおったのか」
「金津《かなづ》との約束を、おりゃふむぞ」
「えッ!」
「すべては計略よ。陣所陣所《じんしよじんしよ》に火をかけさせい」
「そうか! 合点《がつてん》だ!」
弥三郎《やさぶろう》は兵士らをさしずして、上杉方の諸寨《しよさい》に火をかけさせた。少々の守兵がいたが、みな殺されたり、逃げだしたりした。
為景《ためかげ》は敵との接触をさけながら後退をつづけていたが、敵の陣所陣所《じんしよじんしよ》に煙の上がるのを望見《ぼうけん》すると、ぴたりと後退をやめた。
「あれ見よ、あの煙を! あれこそ柿崎弥二郎《かきざきやじろう》が当家《とうけ》に返《かえ》り忠《ちゆう》して敵陣《てきじん》を焼きたてているのだ。戦《いく》さは勝ったぞ! はげみ戦えい! このことをみなみな大音《だいおん》に呼ばわれい!」
とさけんだ。
為景《ためかげ》勢は気力百倍だ。
「柿崎《かきざき》が返《かえ》り忠《ちゆう》したぞ! 柿崎《かきざき》が返《かえ》り忠《ちゆう》したぞ!」
と呼ばわりながら、猛然として逆襲に転じた。
上杉勢は意気くだけ、しどろとなったところに、柿崎《かきざき》がうしろから襲撃してきたので、いっそうの混乱におちいった。
柿崎《かきざき》の一門である柿崎七左衛門《かきざきしちざえもん》・須磨《すま》靱負《ゆきえ》・園久蔵《そのきゆうぞう》・牟礼覚之進《むれかくのしん》らにたいしては、弥二郎《やじろう》から前もっての連絡がなかったので、諸勢《しよぜい》とともに出撃して戦闘していた。弥二郎《やじろう》にしてみれば、まえに為景《ためかげ》を離反して上杉方に味方し、いままた上杉を裏切って為景《ためかげ》に味方する無節操《むせつそう》が恥じられたのであろう。これらの人々は、弥二郎《やじろう》の裏切りに赫怒《かくど》した。
「言おうようなき人非人《にんぴにん》め! もはや一族の統領《とうりよう》とは言わさぬぞ。弥二郎《やじろう》を討《う》ち取れい! 討《う》ち取らずば、われら柿崎《かきざき》一門は一人のこらず人非人《にんぴにん》となるぞ!」
と呼びかわし、叫びかわし、弥二郎《やじろう》勢をめがけて斬《き》りこんできた。
「おのれ、うじ虫めら、一族の統領《とうりよう》たるおれにむかうとは!」
弥二郎《やじろう》は激怒《げきど》した。激怒《げきど》するほかのない弥二郎《やじろう》でもある。狂気したようにたけりたち、むらがり集まって一歩もしりぞかず攻撃してくる同族らを、斬《き》りふせ薙《な》ぎふせた。惨烈《さんれつ》な戦いであった。
四
上杉《うえすぎ》勢はしどろになって散乱した。宇佐美定行《うさみさだゆき》の勢だけが、どうやらもちこたえていたが、他隊を救うほどの余力はなく、みずからの隊の防ぎをつけるのがせいいっぱいであった。
上杉定憲《うえすぎさだのり》の旗本《はたもと》もくずれたった。定憲《さだのり》の家老八条左衛門《はちじようさえもん》大夫《だゆう》は、ともすればにげちりたがる勢を引きまとめ引きまとめ、敵の攻撃をささえていたが、もういかんと見て、定憲《さだのり》の前に出て、
「はやこの場を落ちさせたまえ」
とうながした。定憲《さだのり》は敗戦に、心が弱くなっている。
「千万《せんばん》やぶれるはずのないこの合戦《かつせん》がこの仕儀《しぎ》になること、ただごととは思われぬ。ひとえに余《よ》の運命のきわまるところと思う。きたなくにげかくれはすまい。この場でその方どもともろとも、ともかくもなろう」
とこばんだ。
左衛門《さえもん》大夫《だゆう》は声をはげまし、
「お気の弱いことをおおせられます! 勝敗は武士の常でござる。ましてやことは柿崎《かきざき》が裏切りからおこったこと、形勢逆転したはあたりまえのこと、なんのふしぎがござろう。いったんの敗戦はいかなる武将《ぶしよう》にもあること、心弱くそれに屈し、かかわりもないことをかれこれ引いて、わが運命をちぢめるを愚将《ぐしよう》、剛毅《ごうき》に心たわまず、再挙《さいきよ》、三挙《さんきよ》してついに敵を討《う》ちほろぼすを名将と申す。とにかくもこの場を落ちさせられ、ふたたび兵を駆りもよおし、逆賊征伐《ぎやくぞくせいばつ》のこと、たのみいり申す」
と、訓戒し、激励して、定憲《さだのり》の従騎《じゆうき》らに、
「はやお供《とも》して落ちられよ。いまこの場のおことらにとっては、これにまさる忠節はないぞ。はやお供《とも》して行け、はや!」
とうながした。
そこで、定憲《さだのり》を中につつんで三十騎、まんまるになって離脱にかかった。
ドッと長尾《ながお》勢が追いかける。左衛門《さえもん》大夫《だゆう》はその中におどり入った。
「おのれ逆賊《ぎやくぞく》ども! どこまで執念深いぞ! これは上条《じようじよう》の家老、八条左衛門《はちじようさえもん》大夫《だゆう》ぞ! おれにかかれい!」
とさけび、縦横《じゆうおう》に馬を乗りめぐらして戦い、ついに乱戦の中に討《う》ち死にした。
柿崎《かきざき》兄弟は、兄弟の裏切りをいきどおって襲いかかってくる同族の軍勢と惨烈《さんれつ》な戦いをつづけていた。同族の者どもにしてみれば、かねて知り合っている仲だけに、一歩も退《ひ》かず、ふみこみふみこみ攻撃してきて、ついに一人のこらず討《う》ち死にしてしまった。
兄弟は全身に返り血を浴び、血だるまのようになって、為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》に伺候《しこう》した。
為景《ためかげ》の軍勢も、房景《ふさかげ》の軍勢も、いまはのこる敵は宇佐美《うさみ》勢ばかりとなったが、さすがに宇佐美《うさみ》の軍勢は冴《さ》えていた。戦いながらじょじょに高みにかえり、整々《せいせい》と旗をおし立てた。戦い疲れて休息しているのだが、嵎《ぐう》を負《お》う虎《とら》のようなその陣形《じんけい》は、どう変化を見せてくるかわからない。為景《ためかげ》も房景《ふさかげ》もたやすく手を出しかね、これを両面からなかばはさむようなかたちに陣《じん》をしき、ただにらんでいた。
弥二郎《やじろう》兄弟の来たのは、その時であった。
為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》は、三尺ほどの高みになっている半反《はんたん》ばかりの麻畑《あさばたけ》のわきにあったが、その畑をまわって兄弟が姿をあらわすと、為景《ためかげ》は、
「やあ、これは弥二郎《やじろう》、おお、弥三郎《やさぶろう》もか!」
とうれしげに言いながら床几《しようぎ》を立ちあがり、数歩迎えに出た。
兄弟はひざまずこうとした。為景《ためかげ》は、
「待て待て。いま席をしつらえる」
と言って、すわらせず、近習《きんじゆう》の者どもに命じて楯《たて》をしかせ、敷き皮までしかせた上ですわらせ、右に弥二郎《やじろう》の手をとり、左に弥三郎《やさぶろう》の手をとり、おしいただいた。
「この合戦《かつせん》の勝利、ひとえにおことら兄弟のおかげじゃ。礼を言うぞ、礼を言うぞ」
いかにも感謝にたえぬような調子であった。
「約束の恩賞《おんしよう》はかならずあたえるであろう」
とも言い、
「子々孫々《ししそんそん》、七代の末《すえ》にいたるまでも今日の奉公《ほうこう》を忘れぬであろう」
とも言った。
好色《こうしよく》で貪欲《どんよく》で、信義の観念などさらにない弥二郎《やじろう》ではあるが、あんがい単純なところもあって、為景《ためかげ》のこの態度《たいど》に感激した。感激ではなく、単に得意になったのかもしれないが、ともかくも、
「お役に立って、拙者《せつしや》もうれしいことでござる。なおこの上の忠勤《ちゆうきん》をはげみ申すであろう。拙者《せつしや》がかくしてお味方にあるかぎり、春日山《かすがやま》の殿《との》のお家は磐石《ばんじやく》とおぼしめしくだされい」
と大言《たいげん》した。
為景《ためかげ》は、この荒武者《あらむしや》を、あぐねている宇佐美《うさみ》にさしむけようと思い、床几《しようぎ》にかえって弥二郎《やじろう》のたくましいひげづらを見ながら、どう説こうかとくふうをはじめた。
すると、その時、汗馬《かんば》にむちを上げた武者《むしや》が駆けてきて、本陣《ほんじん》の外で馬を下りたが、はるかに遠く片ひざついた。
「申しあげます」
「なんじゃ。これへよれい」
武者《むしや》は近づいてきて、ひざまずいた。全身に泥《どろ》をはね上げ、それが白くかわいていた。呼吸《いき》せききって、上杉定憲《うえすぎさだのり》が戦場を離脱して西北方ににげつつあると報告した。
上杉定憲《うえすぎさだのり》は宇佐美定行《うさみさだゆき》の手品の種だ。定憲《さだのり》を旗じるしとして豪族《ごうぞく》らを糾合《きゆうごう》したのだ。これをたおさない以上、宇佐美《うさみ》の生きているかぎり、また有力な反対勢力を結集するであろうことは目に見えている。宇佐美《うさみ》ほどの者であれば、定憲《さだのり》がいなくなればいなくなったで、またしかるべき人物をさがしてくるにはちがいないが、それにしても定憲《さだのり》を討《う》ち取ることにこしたことはない。すくなくとも、豪族《ごうぞく》どもの向背《こうはい》はだいぶちがってくる。
「なぜ追わぬのだ。敵はこの敗戦によって、気落ち魂《たましい》死んでいるはず。追いつめて討《う》ち取れい!」
と、為景《ためかげ》はあらあらしく叱咤《しつた》した。
「おおせまでもなく、追手《おつて》はかかっているのでござるが、上条《じようじよう》様につきそうている者どもは、思いのほかの精兵《せいびよう》どもでござりまして、矢ごろに近づく者はたちまち射落とされてしもうのでござります。それで、みなみな近づきかね、矢ごろに入らぬようにして追うているのでござりますが、この分にては必定《ひつじよう》とりにがすことと存じますので、かく注進《ちゆうしん》にまかりかえったしだいでござります」
主従《しゆじゆう》の問答を、弥二郎《やじろう》は口ひげをひねりひねり、微笑を浮かべて聞いていたが、ひねる手をおさめて、
「卒爾《そつじ》ながら、春日山《かすがやま》の殿《との》」
と口を出した。為景《ためかげ》のむきなおるを待って言う。
「上条《じようじよう》の殿《との》のことは、拙者《せつしや》におまかせたまわりましょうか」
「おことが?……」
「いかにも、時の間にみしるし頂戴《ちようだい》して、まかりかえってくるでござろう」
と言って、返事を待たず立ちあがり、のそのそと出ていく。
弥三郎《やさぶろう》も一礼してつづいた。
五
みずからの陣所《じんしよ》にかえった弥二郎《やじろう》は、弥三郎《やさぶろう》に留守居《るすい》を命じ、数騎《すうき》をよりすぐり、弓と楯《たて》をもたせ、一同|騎乗《きじよう》させたうえ、それぞれに乗りかえの馬をひかせて陣所《じんしよ》を飛びだした。
時刻はいまの午前十時ごろ、うす曇りした空ながら、むしたてるように暑くなっている。水田にはさまれて屈曲しながらつづいている道を、弥二郎《やじろう》は無二無三《むにむさん》に疾駆《しつく》した。岡田《おかだ》から約三里、途中で馬を二度も乗りかえて駆けに駆け、大瀁《おおぶけ》村の三分一《さんぶいち》原まで行くと、前方に一団の軍兵《ぐんびよう》を見、さらにそのむこう三、四|町《ちよう》に二、三十人の一団を見た。長尾方《ながおがた》の追手《おつて》と上杉定憲《うえすぎさだのり》の一団であることは明らかであった。
「あれだぞ! ぬかるな……」
武者《むしや》ぶるいして、弥二郎《やじろう》はいっそう馬足を速めた。
この時代の武士には、一種特別な、人間ばなれした性質の者が多かった。武勇を最上の男の資格として、生まれ落ちた時から、いやいや、先祖代々、特別な空気のなかに特別な育てられかたをしたためであろうか、おのれの武力によって手がらを立つべき機会に出会うと、人情も道徳も忘れてしまい、狂気の情熱をもって突進する者がめずらしくなかったのであるが、弥二郎《やじろう》はとりわけそうであった。色情《しきじよう》と利得《りとく》のために味方を裏切るさえあるに、同族を殺しつくし、そのうえ、主筋《しゆうすじ》にあたる定憲《さだのり》を討《う》ち取ろうとして、にげゆく野獣を追跡し、ついに発見した猟犬《りようけん》のように勇みたったのであった。
たちまち味方の追手《おつて》に追いついた。
「のけ、のけ、のけ、のけい! じゃまだ!」
どなりたてながら、疾風《しつぷう》のかたまりのように駆けすぎる。追手《おつて》の将士《しようし》らは馬足にかけられまいとして、左右の水田の中に飛びのいた。落馬する者があり、深田《ふかだ》に足をとられてもがきあわてる者があったりしたが、弥二郎《やじろう》はふりかえりもしない。さっと駆けぬけ、大音声《だいおんじよう》に呼ばわった。
「そこへ落ちさせたもうは、上条《じようじよう》の定憲君《さだのりぎみ》と見たてまつる。柿崎弥二郎《かきざきやじろう》おあとを慕《した》ってまいったり。返しあわせて勝負したまえ。見参《げんざん》! 見参《げんざん》!」
呼ばれて、定憲《さだのり》らはきっとふりかえった。とてものがれぬところと思ったのであろうか、もっとも憎《にく》しと思う柿崎弥二郎《かきざきやじろう》と聞いて、憎悪《ぞうお》と敵愾心《てきがいしん》にわれを忘れたのであろうか、一同くるりと馬首《ばしゆ》をめぐらした。
「不義非道《ふぎひどう》、人非人《にんぴにん》の柿崎弥二郎《かきざきやじろう》、どのつらさげて来たぞ! ねごうてもなきさいわい、討《う》ち取りくれん! これくらえ……」
と叫びかえすと、弓に矢をつがえする。
弥二郎《やじろう》は従騎《じゆうき》らに左右の水田の中の畔道《あぜみち》に散開して矢を射送るように命じておいて、みずからは左手にかるがると楯《たて》をとり、右手に槍《やり》を引きそばめ、一すじ道をまっしぐらに馬を駆った。
狂暴で、突飛なこの戦法に、上杉《うえすぎ》方は狼狽《ろうばい》しながらも、弥二郎《やじろう》一人に矢を集めた。矢は音を立てて楯《たて》につきささり、たちまちはりねずみのようになったが、弥二郎《やじろう》は楯《たて》の陰に身をすくめながら両《もろ》あぶみ入れて突進しつづけた。
「馬を射よ、馬だ」
上杉方は馬をねらいにかかったが、もうその時は畔道《あぜみち》に散開した弥二郎《やじろう》の従騎《じゆうき》らのはなつ矢がひんぷんと飛んできて、思うにまかせない。
上杉方は混乱した。とても防ぎのつかないことは明らかであった。人々は死ぬ覚悟をしたが、定憲《さだのり》だけは落としたいと思った。定憲《さだのり》が承知しないので、二人が馬を飛びおり、一人が定憲《さだのり》の馬のくつわを取って馬首《ばしゆ》をめぐらし、一人が思いきり馬の三頭《さんず》をたたいた。馬は狂ったように駆けだした。
狂奔《きようほん》する馬上に、定憲《さだのり》は名ごりをおしもうと、ふりかえったが、その時、弥二郎《やじろう》方のだれが射《い》た矢であったか、鋭い音を立てて飛んできた矢が、冑《かぶと》の眉庇《まびさし》の下に入り、グサと眉間《みけん》につきささった。
定憲《さだのり》は目がくらみ、気が遠くなり、そのまま転落した。腰から下は水田の中に、上体は路上に、あおむけにたおれた。
上杉方はこれに気がつかなかったが、
「射たりや、射たり、上条《じようじよう》の殿《との》はご最期《さいご》ぞ……」
と、柿崎《かきざき》方の兵士らがわめきたて、鬨《とき》をつくったので、はじめて気がついた。
絶望的勇気をふるいおこした。ドッとおめいて、弓をすて、弥二郎《やじろう》めがけて突進してきた。せまい道だ。具足《ぐそく》をつけ、武器をたずさえては、二騎はならんで戦えない。一騎ずつの縦隊《じゆうたい》となった。弥二郎《やじろう》にとっては、好餌《こうじ》でしかない。
「しゃらくさい! 虎《とら》のひげをひねることと知らぬか!」
楯《たて》を投げすて、右手にかかえていた穂《ほ》の長さ四尺、柄《え》の長さ二|間《けん》、青貝《あおがい》を摺《す》った握《にぎ》り太《ぶと》の槍《やり》をまっこうにふり上げ、まっさきに突進してくる武者《むしや》に横なぐりに打ちおろした。すさまじい力だ。武者《むしや》は馬ごみ水田にふっとんだ。
次の一騎もまた水田にはね飛ばされた。
一合《いちごう》として受けとめることのできた者はない。二十数騎、一人のこらずはね飛ばされ、なぐり飛ばされ、腰を没する深田《ふかだ》に自由をうばわれてもがいた。そこを、駆けつけてきた弥二郎《やじろう》の従騎《じゆうき》らが馬をとびおり、槍《やり》をとりのべて、芋《いも》を刺すように刺し殺した。
その間に、弥二郎《やじろう》は定憲《さだのり》のたおれているところに駆《か》けつけ、首をあげた。
六
弥二郎《やじろう》が定憲《さだのり》の首を従騎《じゆうき》にもたせ、意気揚々《いきようよう》、岡田《おかだ》にはせもどったのは、午後の二時ごろであった。
その時、長尾《ながお》勢は宇佐美《うさみ》勢とまだにらみあったままであった。
「上条《じようじよう》の殿《との》のみしるし、かくのとおり」
弥二郎《やじろう》は為景《ためかげ》の前にさしだした。
「おお、まさしく」
為景《ためかげ》はしみじみと首を見て、
「おん兄定実君《さだざねぎみ》、府内《ふない》のおん館《やかた》におわし、為景《ためかげ》が奉公《ほうこう》を二なきものと満足しておわしますに、君《きみ》は乱をこのむ者どものさかしら言《ごと》に迷わされたまい、静平の国に風波を立てさせたまいました。そのおん報《むく》いでござる。さりながら、かくならせたもううえは、為景《ためかげ》にはうらみ申すことはつゆござらぬ。君《きみ》もいまこそおんみずからのお心浅かりしを悔《く》いおぼしめし、うらみを忘れ、頓証菩提《とんしようぼだい》を念じたまいそうらえ」
と、つぶやくように言い、念仏数へんとなえた後、家臣《かしん》にさずけて、近くの寺僧《じそう》をたずねて葬り申すようはからえと命じた。
こうした為景《ためかげ》の様子に、弥二郎《やじろう》は不安になったらしい。そわそわとおちつかない様子でいたが、為景《ためかげ》が、
「またしてもおことの働きのおかげになったのう。先刻《せんこく》、おことが上条《じようじよう》の殿《との》のことはわれらにまかせよと申して去った時、おことをあなどるではないが、いかにおことが剛勇であればとて、こうまで手早くいこうとは思わなんだぞ。まことにおどろきいったわ。鬼神《きじん》の勇とはそなたのことじゃな」
と、口をきわめてほめると、
「落ち武者《むしや》を討《う》ち取ったまでのことでござる。そうおほめいただくほどのことではござらぬわ」
と、たちまちきげんがよくなった。
為景《ためかげ》は定憲《さだのり》を討《う》ち取ったことを無駄《むだ》にはしなかった。兵士らに命じて、宇佐美《うさみ》の陣《じん》にむかって、高々と呼ばわらせた。
「おことらが大将軍とあおぎつかえた上杉定憲君《うえすぎさだのりぎみ》は、大瀁《おおぶけ》の三分一《さんぶいち》原において、われらが手において討《う》ち取ったり、いまはたれがために戦うぞ。弓切りおり、旗切りふせて、すみやかに降参《こうさん》せい……」
さすがに宇佐美《うさみ》の陣《じん》も動揺《どうよう》したが、それはほんのしばらくのことであった。たちまちおししずまったかと思うと、退陣《たいじん》にかかった。
両隊にわかれて、一隊がしりぞく間、一隊はとどまってきびしく備《そな》えを立て、かわるがわるに岡田のはざま道にくり引いていく。そのありさま、二すじの糸を引くように整々《せいせい》として一毫《いちごう》の乱れも見せない。
「すわや、敵は退《ひ》くぞ!」
長尾勢は色めきたったが、追撃に出ることはできなかった。
「あれよ、あれよ」
と、感嘆して見ているうちに、常《じよう》山《ざん》両《りよう》頭《とう》の蛇《へび》が穴にこもるようにしだいに遠ざかり、ついに山と山との間に姿を消した。この道は上条《じようじよう》へ通ずるのだが、途中右に折れれば宇佐美《うさみ》の一方の根拠地である松之山《まつのやま》へ行くのである。
為景《ためかげ》はひとまず春日山《かすがやま》に凱旋《がいせん》し、将士《しようし》らに行賞《こうしよう》したが、柿崎弥二郎《かきざきやじろう》を功績《こうせき》第一として、弥二郎《やじろう》が岡田で殺しつくした同族の領地をのこらずあたえた。これがちょうど約束の十|郷《ごう》あったが、為景《ためかげ》はさらに五|郷《ごう》をおのれの領分から割いてあたえ、また和泉守《いずみのかみ》に任官《にんかん》させ、名のりの一字をあたえ、景家《かげいえ》と名のらせた。弥二郎《やじろう》は、ここに柿崎《かきざき》和泉守景家《いずみのかみかげいえ》となる。
宇佐美定行《うさみさだゆき》は松之山《まつのやま》に引きあげたが、琵琶島《びわじま》の本城と連絡をとり、今日《こんにち》の戦術用語でいうゲリラ戦に出た。小部隊の兵を為景《ためかげ》の領分《りようぶん》内に出して、夜討《よう》ち、朝駆《あさが》けして、放火し、掠奪《りやくだつ》した。
為景《ためかげ》は将士《しようし》を督励《とくれい》して、急報に接すると即時に出動させたが、宇佐美《うさみ》方は相手が小勢《こぜい》と見れば正面から立ちむかって打ちやぶり、大軍と見ればひそんで出ず、千変万化《せんぺんばんか》、出没自在《しゆつぼつじざい》をきわめた。
「どうにもならぬわ。やつを敵にしては、いつまでも苦しまねばならぬわ。ここは思案のしどころじゃて」
ついに、為景《ためかげ》は関東管領《かんとうかんれい》の上杉憲房《うえすぎのりふさ》を利用することを考え、重聘《じゆうへい》をそなえて使者をおくり、和議《わぎ》をはからってくれるようたのんだ。もちろん憲房《のりふさ》に直接説くばかりでなく、管領家《かんれいけ》の重臣《じゆうしん》らに厚く賂《まいない》してたのみもした。
ことはうまく運んで、管領家《かんれいけ》から使者が宇佐美《うさみ》のもとに立った。管領《かんれい》の仲裁《ちゆうさい》とあっては、定行《さだゆき》もこばむことができなかった。
和議《わぎ》はついに成った。
枯《か》れた血
一
国内が静謐《せいひつ》に帰すると、為景《ためかげ》の関心は家庭にかえってくる。袈裟《けさ》はますます美しく、虎千代《とらちよ》もしだいに成育していく。おどろくばかりに発育がよい。生まれてやっと七月というのに、達者《たつしや》にはいまわるようになっている。
けれども、為景《ためかげ》の胸からはにがい疑惑《ぎわく》が消えない。生き生きした皮膚の色と、かがやきの強い目をして、ひっきりなしにはいまわって、傅役《もりやく》の女中らに精を切らせている虎千代《とらちよ》を見るたびに、為景《ためかげ》は考える。
(おれにはどこにも似たところがない、他の子供らにも似ていない。おれの血族《けつぞく》のだれにも似ていない。だれかにすこしでも似たところがあれば、おれはどんなにうれしく思うかしれないのだが……)
判でおしたように、いつも同じことを考えなければならないのは苦しい。ある時刻になればかならず痛みの襲ってくる持病《じびよう》をもっているように心気《しんき》がつかれる。業《ごう》のようだと思う。
あまりの苦しさに、
(いっそのこと、袈裟《けさ》がおれのところへ来るまでのことを、玄鬼《げんき》に調べさせてみようか)
と思うこともあった。実際ある日呼びまでしたのだが、鴉《からす》に似た玄鬼《げんき》の顔を見たとたん、この心の秘密をこんな男に打ちあけるのが不安になって、ほかの用事を言いつけてかえした。
(だれにも知らせてはならない。知ってみたとて、どうしようもないこと。これはおれ一人の心に包んでおくべきことだ)
と、暗い決心をあらたにした。
けれども、母親の心ほど敏感なものはない。為景《ためかげ》がこれほど注意深くふるまったにもかかわらず、いつか袈裟《けさ》は夫が虎千代《とらちよ》を愛していないことを知った。
ある日、袈裟《けさ》は言った。
「殿様はお虎《とら》殿をいとしいと思っておいででございますか」
ドキリとしながらも、為景《ためかげ》は笑ってみせた。
「どうしてそんなことをお言いなのだ」
とっさには、いとしく思っているとは言えなかった。
「どうしてって……いとしく思っていらっしゃるようには見えないのでございますもの」
せいいっぱいの勇気をふるいおこしているのだろう、袈裟《けさ》は青ざめていた。
「わが子をいとしいと思わぬものがあろうか」
はっきりと愛しているとは言えず、こんな言い方しかできなかったのだが、これでも熱鉄を飲むほどの苦しい思いがあった。
「世間では下の子ほど親はふびんがかかって、いとしいと申しますものを」
袈裟《けさ》はまた踏みこんでくる。いまにも泣かんばかりの顔であった。あわれと思いながらも、またこんな答えではけっして袈裟《けさ》が満足しないとわかっていながらも、為景《ためかげ》にはこうしか言えない。
「わしは老いた。いとしいと思う心はあっても、昔のようにはかわいがれぬ。疲れるのでのう」
為景《ためかげ》はわれながらわが心がわからない。彼は自分を相当以上に狡猾《こうかつ》な人間だと思っている。必要によってはずいぶん人をあざむきもし、おとしいれもし、裏切りもし、利用もするのだが、それを心苦しいと思ったことはない。心苦しく思うようなひよわい根性では、いまの世では人の餌食《えじき》となってしもうと思っている。だのに、このことだけは、心にもないことを言うのが苦しくてならない。それがふしぎだ。
(おれが袈裟《けさ》を愛しているからだ)
と思うのだが、それにしてもいぶかしい。愛する者にたいしては、その親、その兄弟、その召し使う者までいとしくなるのが常であるのに、その生んだ子に、愛情どころか憎悪《ぞうお》に近いものまでもつのは、ケタがはずれていると思わざるをえない。
考えに考えたすえ、これは嫉妬《しつと》だと気づいた。
(おれは虎千代《とらちよ》の父をにくんでいるのだ)
と思って、苦笑した。
(おるかいぬかわかりもせぬものを。たとえおるとしても、それは袈裟《けさ》がおれのところへ来る前のことだ。また、だれもこれに気づいているものはないのだ。てんからいないものとして、ちっともさしつかえはない。努力して、そう信ずるようになるのが一番よいのだ)
と思ってもみるのだが、にがく、重く、苦しいものはすこしもうすらがない。
たった一度きりで、袈裟《けさ》は虎千代《とらちよ》のことについて不服がましいことを言うのをやめた。彼女には、夫の心がまるでわからない。
(この人は天性《てんせい》肉親の愛情がうすいのだ)
と解釈して、やっと理解できた気でいる。
彼女の見るところでは、晴景《はるかげ》以下のどの子供らにたいしても、為景《ためかげ》はそう愛情が深いようには見えない。子供らがどんなことをしても、為景《ためかげ》はほとんどしからない。晴景《はるかげ》には相当よくない性質があって、気よわなくせに感情に制御《せいぎよ》がなく、愛憎《あいぞう》ともに極端から極端に行くことが多いのだが、為景《ためかげ》はたいていの場合放置しておく。ごくたまにそれをおさえることがあるが、その場合も事理《じり》を明らかにしてじゅんじゅんと教えさとすことはなく、命令するだけだ。
(冷淡なのだ。たまにおさえるのは、ひいては、自分のためにならないと思うからにすぎない)
と、袈裟《けさ》には思われるのであった。
これはあきらめであった。
(かあいそうに、あんな父親をもって)
と思うにつけても、虎千代《とらちよ》がいとしくてならない。
袈裟《けさ》は虎千代《とらちよ》を溺愛《できあい》した。
二
虎千代《とらちよ》が四つになった春、袈裟《けさ》は風邪《かぜ》をこじらせて、燃えるような高熱が三日ほどつづいた後、玄庵《げんあん》の必死の手当てのかいなく、急死した。いまの肺炎《はいえん》、当時の医学用語で肺体発炎《はいたいはつえん》であった。
母の病気中、虎千代《とらちよ》は病室からはなれようとしなかった。小柄《こがら》ながら、からだも丈夫《じようぶ》であれば、知恵づきも早く、いつもみなが舌《した》を巻くほどにかしこい子供なので、玄庵《げんあん》は十二、三の少年にむかって言うように、
「この病《やま》いはうつるのでございます。若君《わかぎみ》が風邪《かぜ》でもおひきになったら、即座に若君《わかぎみ》もこうおなりになります。それでは、かえってお母様にご心配をおかけになることになります。病《やま》いには気苦労が一番毒でございます。五日で、おなおりになるものなら十日、十日でよくなるものなら二十日と、かえって長びくことになります。でございますから、お居間におかえりになりますように」
と、ことをわけて説き、袈裟《けさ》も苦しい呼吸《いき》を刻みながら教えさとし、傅役《もりやく》の女中らもことばを添えた。
虎千代《とらちよ》はムッとした顔になって居間に引きとり、ものも言わずにすわっていた。傅役《もりやく》の女中らがどんなにきげんをとってあやしても、よく光る目を一点にすえたままふりかえりもしない。ふっくらと下ぶくれしたかわいい顔に、沈鬱《ちんうつ》な表情が異様であった。
あぐねた女中らは、しばらくこのままにしておいた方がよいと相談して、座をはずしたが、やがて来てみると、虎千代《とらちよ》の姿が見えなかった。あわててさがしにかかると、袈裟《けさ》の病室の外の廊下にきちんと端座《たんざ》している小さな姿があった。
おどろいて、みな、はせ集まった。
「お虎《とら》はここにいて、中へは入らぬ。ここならうつりはせんじゃろう」
と言いはって、どう言いきかせても、引きとると言わない。
一人が力ずくで連れてかえろうとて近づいたが、たちまち「あれッ!」と悲鳴を上げて飛びのいた。
虎千代《とらちよ》は右手に短刀のさやをはらい、ひざの上に切っ先を上にむけてもち、子供らしくもなくすごい目でにらみつけているのであった。子供の不動明王《ふどうみようおう》があるならそんな感じ、白い歯をむき出して抵抗しようとする鼠《ねずみ》を見るようなぶきみさであった。
春とはいえ、日陰には根雪《ねゆき》がのこり、余寒のまだ去らない季節だ。火の気のない廊下は、しばらくいる間にはこごえるようであった。いつまでもいては風邪《かぜ》をひくにきまっている。女中らは為景《ためかげ》にうったえた。
為景《ためかげ》は仏間にこもって、ひたすらに袈裟《けさ》の平癒《へいゆ》を祈っていたが、おどろいて立ちあがった。
なるほど、子供ながらすさまじい形相《ぎようそう》だ。
子供心に母の容態《ようだい》を案じているのをあわれとは思ったが、それよりも、聞きわけのなさを情けないと思う気持ちの方が強かった。しかりつけたかったが、おさえて、やさしく言った。
「これこれお虎《とら》、なにをしている。みなを困らせてはならぬ。おとなしゅうかえるがよい」
虎千代《とらちよ》は返事はせず、白い目で見上げただけであった。動く様子はない。
「わかったじゃろう。さあ、おとなしくかえるのじゃ。どれどれ、抱いてやろうかな」
近づいて、抱きあげようとすると、
「いやじゃ!」
とさけんだ。すさまじい殺気が小さいからだにみなぎって、いまにも鋭い切っ先を突きかけてきそうだ。
為景《ためかげ》はカッとした。兇暴《きようぼう》な小さい野獣のようにしぶといこの末子《ばつし》に、一人前の大人にたいするような憎悪《ぞうお》がむらむらとわきおこった。
にらみつけたかったが、それはしてはならないことであった。他人にこの子をにくんでいることを知らせてはならない。
「手がつけられぬのう」
苦笑をつくって、やさしげな目で見つめながら、どうしてくれようと思案したが、すぐ傅役《もりやく》の女中らをふりかえった。
「ここでさわぎをおこしては、病人にわるい。いたしかたないわ。病間に入れい」
と言って、立ち去った。いまいましかった。
(なんという子であろう。おれにまではむかいおった)
またしても、いつもの疑いが胸をおおうてきた。
虎千代《とらちよ》は母の病室に入ることを許された。袈裟《けさ》は短い切迫した呼吸《いき》を刻みながらも、よく寝ているようであったが、虎千代《とらちよ》が入ってくると、目をあいた。熱のために赤くなっているやせた顔に、ものうげな微笑を浮かべた。
「ようござったのう。ここへおじゃ、ここへおじゃ」
と、低いしわがれた声で言った。廊下でおこったことをみな知っているようであった。虎千代《とらちよ》が近づくと、その顔を凝視《ぎようし》していたが、
「あわれや、わたしが死んだら、どうなることであろう」
と言うと、ほろほろと泣きだした。
「死んではいやじゃぞ、お虎《とら》はいやじゃぞ。お虎《とら》はいやじゃぞ」
ギリギリと歯ぎしりしながら虎千代《とらちよ》は言った。大きな目から、湯玉《ゆだま》のような涙をほとばしらせていた。
それから三日の後、春の雪が降りだした朝、袈裟《けさ》は死んだ。
「お虎《とら》をたのみます」
と、苦しい呼吸《いき》の下でくりかえした。
「案ずるまい、けっして案ずるまい」
くりかえし、為景《ためかげ》もちかった。
しかし、その虎千代《とらちよ》は、母が瞑目《めいもく》する時には、その場にいなかった。霏々《ひひ》として降りしきる雪の庭を、びしょびしょにぬれながら、ぐるりぐるりと歩きまわっていた。きびしい目で眼前の空《くう》をにらんでいた。涙はこぼさない。かわききった燃えるような目であった。かなしみはなく、怒《いか》りが小さなからだじゅうにみなぎり渦巻《うずま》いていた。愛する母をうばい去ったもの、神であるか、仏であるか、悪魔であるか、そのものにたいして歯がみしていきどおっていた。
袈裟《けさ》は長尾《ながお》家の菩提寺林泉寺《ぼだいじりんせんじ》に葬られた。花のさかりの二十五という若さであった。
この時から、虎千代《とらちよ》は性質が一変したように見えた。寡黙《かもく》で、いつも、もの思いにふけっているような憂鬱《ゆううつ》げな少年になった。
三
袈裟《けさ》の死んだ翌年の春、為景《ためかげ》は春日山《かすがやま》から四、五里南の新井野《あらいの》に鷹狩《たかがり》に行った。百花一時に咲きそろっている緑の野を終日馳駆《しゆうじつちく》して、こころよい疲れごこち、夕方近く帰路についたが、新井《あらい》の村落を出はずれたところに、いい水のわく井戸のある農家があるので、そこで一休みした。
景色《けしき》もよいところである。街道の左にそって、澄んだ水の流れている川があるが、川のむこう岸に青々と芽ぶいた柳の列があって微風にそよぎ、その上にひとむらの赤松山《あかまつやま》があり、松にまじって桜が咲き、なんともいえず風情《ふぜい》がよい。
川原に床几《しようぎ》をおかせ、のみのこした瓢《ひさご》の酒をかたむけながら、のどかに風景を愛《め》でた。
若い従騎《じゆうき》らは、そんな年寄りの興味についてはいけない。すこしはなれた場所にたむろして、かわるがわるに騎馬して、馬術のけいこをして楽しんでいた。失敗の時だろうか、妙技を見せた時だろうか、ときどき「わーッ」とはやしたてては笑いくずれる。嬉々《きき》として、まるで子供の群れのようだ。
「やりおるわ」
これも楽しい。為景《ためかげ》はほおをゆるませて、ときどきそちらをふりかえったり、景色《けしき》をながめたりして時をすごしたが、やがて従騎《じゆうき》らの間におこったさわぎが、異様であったので、おどろいてふりかえった。
馬が川原を狂奔《きようほん》し、そのあとにふりおとされてしたたかにたたきつけられたらしい若者が、打ちどころでもわるかったのか、失敗にてれたのか、長々とのびている。人々は二手にわかれ、一手はその若者にむかい、一手は馬を追いかけている。
「あまりほたえおるからじゃ」
為景《ためかげ》はずっとそばを去らずについている小姓《こしよう》に言い、瓢《ひさご》をわたして、落馬した若者の方へむかったが、ふと目を上げて、すでに街道に出て砂塵《さじん》をまきおこしながら狂奔《きようほん》している馬の方を見て、はっとして呼吸《いき》をのんだ。
街道のわきの草むらの中から、いきなり、黒い人影がおどり出して馬首にとびついたのだ。馬はたてがみをふり、前あしを上げてもがき、ふりおとそうとして狂ったが、ふりおとしきれないとさとると、人影を首にからませたまま、こんどは川原へむかって走りおりてきた。たえず狂ったように首をふりながら走る。人影はしがみついたまま、およそ十|間《けん》ほども引きずられたが、ふと馬足がゆるんだげに見えたかと思うと、ひらりと身をひるがえして、馬上にまたがった。
手綱《たづな》をさぐり取って、腰をすえなおし、さばきをつけなおす様子が、まことにあざやかであった。
あまりのみごとさに、為景《ためかげ》は感嘆して見とれていたが、しだいにこちらに近づいてくるのを見て、おや、と思った。
どうやら、それは百姓《ひやくしよう》の女であるように見えた。
老いた目がもどかしかった。
「あれは女のように見えるが、そうではないか」
と小姓《こしよう》に聞いた。
「女でございます。若い百《ひやく》姓《しよう》娘《むすめ》でございます」
「これは奇妙な」
その間に、乗りつけてきた。
いまはもうまごうかたもない。粗末な野良着《のらぎ》をまとってはいるが、美しくさえあるようだ。
女は供侍《ともざむらい》らのところまで来ると、ひらりととびおりた。
「おわたししますけ、受けとってくださろ。おとなしい馬でござりますけんど、いまはちょうどさかり時でござりますすけ、おとなしい馬でも、癇《かん》が立って狂いますだ」
朗々《ろうろう》とひびく美しい声であった。
落馬した男は、このころになって、やっと正気にかえった。どこにもけがはないようだ。
女は人々が相手になってくれないので、そのまま行きかけた。
なにか心せく気持ちで、為景《ためかげ》は小姓《こしよう》に耳うちした。
「あれをつれてまいれ」
「は」
小姓《こしよう》は走っていって呼びとめた。
押し問答の後、しぶしぶとうなずいて、女は来た。すらりとのびたひきしまったからだつきだ。足どりがかるがるとして、しかも猫のようにしなやかであった。
女はまっすぐに為景《ためかげ》を見た。おそれを知らない大胆な光をした、大きな茶色の目であった。雪国の女らしく色白な顔には、健康そうな血色がすみずみまで行きわたり、やや大きな唇《くちびる》は朱《しゆ》のようにあざやかな色をしていた。背に負った草刈《くさか》りかごをおろして、ひざまずいた。
「礼を言うぞ」
「いんえ、礼など言われるほどのことはありましねえ」
「名はなんと言う」
「松江《まつえ》と言いますだ。新井《あらい》村の郷右衛門《ごうえもん》の娘ですだ」
「年は」
「十八ですだ」
にこりと笑った顔に素朴《そぼく》なこびがはしって、六十七の、枯れよどんだ為景《ためかげ》の血がうずいた。
四
松江《まつえ》はふしぎな女であった。馬術にたけており美しくもあったので、為景《ためかげ》はすずろ心をうごかして城中に召したのだが、まるで上臈《じようろう》生活に自分を合わせようとしないのである。ことばづかいも土民の時のままであらためないし、立ち居ふるまいもそうだ。化粧などしたこともない。
美しい着物だけはうれしいらしく、あたえられたものを喜んで着ているが、それでいながら、野の道を歩くように裾《すそ》を蹴《け》ひらき、蹴《け》ひらき、大またに闊歩《かつぽ》する。
見かねて、老女が口やかましくしかったし、為景《ためかげ》もしばしば訓戒したが、いっこうあらたまらない。あらためる気がないようでさえあった。ついには、
「そげいにむずかしいことを言わっしゃるなら、わしは村へかえりますべ。かえしてくださろ」
と言いだした。
こんなことでは、とても定《さだ》まった側室《そくしつ》にはできない。為景《ためかげ》は二、三夕|添《そ》いぶしさせただけで、平《ひら》の女中におとした。
松江《まつえ》はそれをいやがりもしなければ恥じもせず、かえって気楽になったのをよろこんでいるようであった。
為景《ためかげ》にも未練はない。老いて、いろいろな場合に心気のおとろえを感じさせられている為景《ためかげ》には、野の精気にみちているこの女は刺戟《しげき》が強すぎて、一種の圧迫感がある。
「野の花はやはり野におくべきものか」
と、思うのであった。
ところが、まもなく、この松江《まつえ》を虎千代《とらちよ》がひどく気に入っているようであるのに気づいた。
袈裟《けさ》が死んでからこのかた、虎千代《とらちよ》は日にましあつかいにくい子になっている。袈裟《けさ》の生きている間は、気力がありすぎて付き添いの者を疲れさせることはあったが、そのほかは手のかからない子であった。食べ物に好ききらいはないし、着るものにもこごとを言ったことがない。長男の晴景《はるかげ》など、この点では女中らがこまったのだ。寝つきもよければ、目ざめのきげんもよい。泣いたり、無理を言ったりすることもなく、風邪《かぜ》一つひいたことがない。
それが、母の死を境にして、まるでちがってきた。いつもきげんが悪いようだ。なにか思いつめているようにいつも陰気で、おそろしく強情になった。なんでも言いだしたら、けっしてあとへ引かない。泣いたりわめいたりはしないが、言いだしたことが通るまで、ムッツリとその場にすわったまま動かないのだ。
「なんという子じゃろう」
為景《ためかげ》は、いまでは憎悪《ぞうお》さえ感ずるようになっている。
(だれの子かわかりもせんこのいやな子の行く末のことまで考えてやらねばならんのか)
と思うと、いつも気が重くなる。
為景《ためかげ》の目には、自分だけでなく、城内の家臣《かしん》らが、男も女も虎千代《とらちよ》をきらうようになっていると見えるのだが、その虎千代《とらちよ》が松江《まつえ》にたいしてだけはじつに従順だ。なにか気に食わないことがあって、白い目を光らせてふくれかえってすわっている時でも、松江《まつえ》が来て、
「無理なことを言うもんではねえ。さあ、きげんをなおして、あつへ行くべ。子供は人まかせでねえと、かわいがられねえだよ」
と言って抱きあげると、おとなしく抱きあげられて、連れていかれる。
ほかの者では、こうはいかない。
「さわるな!」
と、子供らしくもない鋭い声で一喝《いつかつ》してずりおりてしまい、しつこくすると、腰の鞘巻《さやまき》に手をかけて、いまにも引っこぬいてつッかけそうな気勢《きせい》を見せる。
虎千代《とらちよ》には、袈裟《けさ》の生きていたころから、三人の女中が傅役《もりやく》としてついていたのだが、このごろではみなあぐねていたので、いつか虎千代《とらちよ》のかかりは松江《まつえ》一人のようなかたちになってしまった。
「どういうわけじゃろうな。両方とも変わりものだけに、気が合うというのであろうか」
苦笑しながら、為景《ためかげ》は思った。
虎千代《とらちよ》ももう五つだ。本来なら男の傅役《もりやく》をつけねばならないのだが、為景《ためかげ》にはその選定をすることすらおっくうだ。年のせいもあるが、虎千代《とらちよ》に愛情をもっていないためでもあると、自分でちゃんとわかっている。
その点、松江《まつえ》はなまじっか男の傅役《もりやく》より適任だったかもしれない。
「男ちゅうものは、なんでもシャキシャキするもんじゃ。ウジウジとハキつかんのは、おなごでも見よいもんじゃありませんぞい」
と、あらあらしいことばでしかりつけるように言っては、|あずち《ヽヽヽ》に連れだして半弓をひかせたり、木馬にのせて乗馬のけいこをさせたりした。
自分が得意なためだろう。乗馬にはとりわけ熱心で、手綱《たづな》を口にくわえて、四つんばいになって、背中に虎千代《とらちよ》をのせ、ゴソゴソと室内をはいまわっていることがよくあった。
そんな時は、ときどき手綱《たづな》を口からはずして、ガミガミとどなっていた。
「手綱《たづな》は軽うとらっしゃれ。お虎《とら》さまみてえにきつうとっては、馬はたまらん。――ハハア、わかった! おまえさま、落ちはせんかとおそろしいのでござるべ。なにがおそろしゅうござる。おちたところで、二尺とはありはせん床《ゆか》じゃ。せいぜいおでこに|こぶ《ヽヽ》をこしらえるくらいのもんじゃ。――ひざをしめなさろ! 馬は尻《しり》で乗るものではござらん。ひざで乗るものでござる。――さあ、やってみなさろ」
と、また手綱《たづな》を口にくわえて、ゴソゴソとはいまわっているかと思うと、いきなり、
「ヒヒン!」
とさけんで、ぱっと足をはねる。虎千代《とらちよ》はたまらずストンとおちる。
「あれほどひざをしめなさろというたに、しめていなさらんすけこうなる。さあ、もう一度!」
といったぐあいだ。
「まあよかろう。どうやら男のかわりがつとまる。変わった女じゃて」
為景《ためかげ》はいいさいわいにして、男の傅役《もりやく》を定《さだ》めなかった。
五
虎千代《とらちよ》の傅役《もりやく》だけが松江《まつえ》のしごとではなかった。
この時代の地方の豪族《ごうぞく》の家は、江戸時代の大名の家とはまるでちがう。江戸時代の大名の家の女中は純然《じゆんぜん》たる遊閑徒食者《ゆうかんとしよくしや》で、自分の着るものさえ自分では縫わず、それ専門の奉公人《ほうこうにん》にさせたものだが、この時代の田舎《いなか》の武家の女中はずいぶん勤勉であった。養蚕《ようさん》をし、糸をとり、麻《あさ》をつむぎ、機《はた》を織り、縫い物をし、米つきをし、洗濯をし、鎧《よろい》の縅《おど》し毛のほつれをなおし、戦《いく》さの場合には討《う》ち取られてきた敵の首の処理までした。大将分の者の首であれば、洗って髪をすいてまげを結いなおし、おしろいをつけ、唇《くちびる》に紅《べに》をさした。だから、必要があれば、松江《まつえ》もいろいろな役に追いつかわれた。
松江《まつえ》は容姿の美しさに似ず、気性が男じみて荒っぽかったせいであろう、手先でする仕事は不得手《ふえて》であったが、薪《まき》割り、米つき、水くみなどの、力ですることはちっとも苦にしなかった。
「ヨイショ、ヨイショ、ヨイショ……」
と陽気なかけ声を上げながら、時の間にやってしもうのであった。
そんな時、虎千代《とらちよ》はいつもそのそばについて手伝った。
薪《まき》割りの時には、割るべき大きな薪《まき》をもってきて松江《まつえ》にわたし、割れた薪《まき》を積み上ぐべき位置にもっていってきれいに積み上げた。米つきの時には、俵からくろ米をはかり出して渡し、つき上げた米を松江《まつえ》が箕《み》で簸《ひ》わけると、すかさず俵の口をあけて入れやすいようにした。また糠《ぬか》をかき集めて入れものにおさめた。水くみの時も同じだ。子供の力でできることは先に立ってちょこちょことやった。
薪《まき》割りには汗びっしょりになったし、米つきには頭から糠《ぬか》を浴びて石灰倉《せつかいぐら》の小鼠《こねずみ》のようになったし、水くみには着物をびしょびしょにしたが、ちっともかまわない。松江《まつえ》といっしょに働いているのがうれしくてならないふうであった。孝行なむすこがせいいっぱいに母親に手伝っているようにも、親鼠《おやねずみ》と小鼠《こねずみ》がせっせと巣をつくったり食糧を集めたりしているようにも見えた。
「あまりなこと。ご末子《ばつし》とはいえ、まさしい殿のお子がたに、さようないやしいわざをおさせ申すということがあるものか」
見かねて、女中らも侍《さむらい》どもも松江《まつえ》をしかったが、松江《まつえ》は、
「いけんですかいな。わしァ悪いこととは思いませんがな。わしが在所《ざいしよ》の子は、あの年になれば草も刈《か》れば、田も植える。稲もこぐ。よっぽどあほうな子でも、子守りのかたわら、時分時《じぶんどき》になれば湯を沸《わか》いて野良《のら》に出ている父母《ととはは》がところへもってくるぐらいのことはしますで。よい衆《しゆう》の子たちじゃとて、働いてわるいことはなかんべ。お虎《とら》さまはもともと丈夫《じようぶ》な子たちではござるが、いっそう丈夫《じようぶ》にならしゃったのは、わしが仕事を手伝いなさるすけだによ」
と、ぜんぜんわるいこととは思っていないのであった。
「土民の子供らといっしょになろうか。以後はなりませんぞ」
と、きびしく言いわたしたが、いっこうにあらためない。またしかると、
「わしに言わしゃっても、どうにもしようはありましねえ。お虎《とら》さまに申しあげてくだされ。わしはいつも申しあげるのじゃが、お虎《とら》さまがきいてくださらぬのでござるすけ」
と言う。そこで虎千代《とらちよ》に言ったが、虎千代《とらちよ》はいつものとおり白い目でにらんで、ふくれかえって、返事もしない。
あぐねて、為景《ためかげ》に告げると、為景《ためかげ》は、
「すておけ。どこの家にも一人くらいは変わった子がいるものじゃ」
とだけ言った。
六
こんなことから、為景《ためかげ》は、松江《まつえ》がたいていな男には負けないほどに力が強いことを知ったが、その力がとほうもないほど強いことを知ったのは、その年の初秋のことであった。
例年この季節には、山から矢竹《やだけ》を切り出してくる。竹はたけのこを生んだ衰弱から回復し、来春のたけのこの芽はまだ生ぜず、精気がもっとも充実していて、この季節に切ったのが一番強いのである。これを矢につくるのは矢作師《やはぎし》のすることだが、それにわたす前に適当な長さに切りそろえ、いちおうのみがきをかけるのは女らのしごとになっている。
女らは、切る組、みがく組、それをほす組にわかれて働く。竹は大広間《おおひろま》の簀子《すのこ》近くにいくつにもわけて小山のように積み上げてある。切る組はそれぞれに切り台にする板と小刀《こがたな》をもって簀子《すのこ》にならんですわり、左手で竹をぬきとって、節《ふし》のぐあい、太さ、曲がりなどを一目で見てとり、台におくや、右手の小刀《こがたな》をあてがい、左手で竹をまわし、二、三度ぐりぐりところがすと、それで切れる。切った竹は左わきに積んでおく。それを一本ずつぬいては、庭にひかえたみがき組がみがいていく。これは|たらい《ヽヽヽ》を庭にすえ、水ともみがらをまぜて入れ、手にわらだわしをつかんでいる。矢竹《やだけ》をとり上げるや、ザブリとたらいにつけ、たっぷりもみがらをつけて、ギュッギュッとしごくようにして丹念《たんねん》にみがくのだ。みがかれた矢竹《やだけ》は前にすえられた台の上におかれるが、それが適当にたまると、ほし役がかかえていって、風通しのよい日陰に設備されたはしご形の長いわくの上に、簀子《すのこ》のようにならべられる。まだ強い初秋の日光に直射させては反るから、日陰で風で乾かすのである。
女らは多いし、よくなれてもいるので、仕事はよくはかどるが、それでもたっぷり十日はかかる。それほど多量な矢竹《やだけ》であった。
袈裟《けさ》の生きている間は、これを見まわってねぎらうのは袈裟《けさ》の役目であったが、いまでは為景《ためかげ》がしなければならない。大儀《たいぎ》ではあったが、日に一度はかならず、餅《もち》や団子《だんご》を山のように盛った大広蓋《おおひろぶた》をもたせた小姓《こしよう》らを従えて、やってきた。
「みなよう精を出してくれる。さあ、しばらく休んで餅《もち》でも食うて、また働いてくれい」
といったぐあいだ。女らもそれを楽しみにしていた。
はじまってから四、五日目であった。いつものとおり為景《ためかげ》は小姓《こしよう》らに餅《もち》をもたせてそこに行くと、一人の女中がきびしく老女にしかられていた。二人の横に立って、しかっている老女を見上げているのは虎千代《とらちよ》だ。しかられているのが松江《まつえ》であることはすぐわかった。
悪いところに来たと思いながら、為景《ためかげ》は近づいていった。
老女は一束《ひとたば》の矢竹《やだけ》を左手につかみ、右手の指でその部分部分を示して、口ぎたなくしかっている。
「……そなたの目は人より大きいようじゃが、このゆがみがわからぬとはどうしたものじゃ。これは矢作師《やはぎし》が火入れして矯《た》めてもなおりようのないゆがみじゃ。なぜここを切りすててほかをのこさなんだのじゃ。子供でもそれくらいの分別《ふんべつ》はありますぞや。これを見や。虫が食うているのではないか。よりによって虫の食うているところをのこすということがあるものか。そういうところを切りすてて、よいところだけのこすためにするしごとでないかえ。なんでもかでも長さをそろえて切ればよいというのではない。一すじや二すじではない。いまそこにあるだけからでも、こんなにたくさんひろい出したぞえ。これまでどれだけあったやら……」
などと言っている。
その老女を見上げている虎千代《とらちよ》の様子が尋常《じんじよう》でない。下ぶくれのほおがぎゅっとしまり、目が怒《いか》りにもえ、小さなこぶしがかたくにぎりしめられている。それはふるえているようでさえあった。
「これ、これ、どうしたのじゃ」
為景《ためかげ》は声をかけた。
怒《いか》りに夢中になって、為景《ためかげ》の来たのに気がつかなかった老女は、おどろいてひざまずいた。
「せっかくの竹を役に立たぬようにばかりしてしまいますので……」
老女は左手につかんだ竹束《たけたば》を、為景《ためかげ》に示して説明しようとする。滔々《とうとう》とまくしたてそうなけはいだ。
「わかった、わかった。不なれなのであろう。許してやれい。わしからもよく言うておく」
と、すばやくさえぎった。
「はい」
とは答えたが、説明のできなかったのが残念であったのであろう、老女はにぎりしめていた竹束《たけたば》を、よく見て考えるがよいと言わぬばかりに、松江《まつえ》のひざに投げるようにバラリとおいて立ちあがった。
「餅《もち》をもたせてきた。みなにふるまえ」
と言って、為景《ためかげ》は老女の立ち去るのを待って、松江《まつえ》に言った。
「そちは今年から奉公《ほうこう》に上がった者ゆえ、不なれであるは無理はないが、いくつも同じまちがいをするのはよくないの。念を入れてとっくりとしらべて、それから切るがよい。なれた人なみにしごとのはかをいかせようとするのがいかんのじゃ」
とさとした。
松江《まつえ》はうなだれていた。黒い布で髪をつつんでいた。みがき上げたようにまっしろでつややかな首すじがなよやかな曲線をえがいて背につづき、黒い布のはしからこぼれた髪がその上にもじゃもじゃと乱れかかっていた。ゾッとするほど艶《えん》であった。
意外なものを見たように、ドキリとして為景《ためかげ》は目をうつしたが、松江《まつえ》のしていることを見ておどろいた。松江《まつえ》は老女のつきつけていった矢竹《やだけ》を一すじずつひきだして簀子《すのこ》においては、右手の薬指で節《ふし》を押している。すると、押すにしたがって、節はかすかな音を立ててくだけるのだ。たいした力をこめているとも見えないが、うす赤いつめの先にぽっと白みがさすかと見ると、青々として生色あざやかな竹の節《ふし》は、ピシッという音とともに、枯れた葦《あし》がらかなんぞのようにつぶれしまう。考えられないほどのおそろしい力だ。
(粗野ではあっても、この美しい女が)
と思うと、白昼にあやかしを見る気持ちであった。茫然《ぼうぜん》として見ていた。
やがて、われにかえった。何か言わなければならない。
「わかったかの」
「わかりましただ」
こっくりうなずき、ふりあおいで、ニッと笑った。はにかんでいるようであった。
虎千代《とらちよ》は前の場所に立って、なにかふしぎげな目で、二人を見ていた。
その夜、為景《ためかげ》は松江《まつえ》を召した。松江《まつえ》は老女に連れられてきた。きまりわるげに、あいまいな微笑を浮かべていた。
老女のさがっていったあと、為景《ためかげ》は、
「そなたの力を見せてくれい」
と言った。
「力?」
腑《ふ》におちないような顔だ。
「ああ、力だ。そなた、えらい強力《ごうりき》ではないか」
「へえ、力ですだか」
朱《しゆ》をさしたような唇《くちびる》がニッと笑った。
「そこに碁盤《ごばん》がある、それを片手でもち上げてみい。そなたの力なら上がるはずだ」
前もって室のすみに用意しておいた碁盤《ごばん》を指さした。榧《かや》の四方|柾《まさ》六寸という碁盤《ごばん》だ。
「碁盤《ごばん》ちゅうものはもったことがねえす。しかしもてねえことはなかんべ」
長い裾《すそ》をぱっと蹴《け》ひらいて大またに歩みより、袖《そで》をまくり上げ、底とふちに指をかけたかと思うと、軽々ともち上げた。うすっぺらな書物一冊もち上げたような感じであった。あくまでも白い腕にはとくに筋肉のもり上がるようなことはなく、いたってなだらかだ。為景《ためかげ》は呼吸《いき》をのんだ。
「こんどは左でもって見ますべ」
と、左手にもちかえて見せた。同じだ。
「灯《ひ》を消してみますべ」
右手にもちかえて、結び灯台《とうだい》にむかって、うちわのように動かした。灯《ひ》は風にあおられて吹きなびきながらも、消えなかった。
「消えましねえ。ああ、手がなまりました。やっぱり碁盤《ごばん》ちゅうものは重いす」
笑いながら腕をさすっていた。あどけない感じであった。
この時から、松江《まつえ》はまた侍妾《じしよう》となった。色を愛したというより、身辺を守らせるためであった。国内はどうやら静穏《せいおん》に帰してはいるものの、いつ破れるかもしれない静穏《せいおん》だ。敵の多い自分であることを寸時《すんじ》も忘れてはいないのである。
しぜん、虎千代《とらちよ》には男の傅役《もりやく》をつけることになった。
幼年の嫉妬《しつと》
一
為景《ためかげ》が虎千代《とらちよ》のためにえらんだ傅役《もりやく》は金津新兵衛《かなづしんべえ》といった。
金津《かなづ》氏は新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》の子で、信濃源氏平賀《しなのげんじひらが》氏の祖|平賀《ひらが》ノ冠者盛義《かじやもりよし》の孫|有資《ありすけ》が当国|中蒲原《なかかんばら》郡金津郷《かなづごう》に居住《きよじゆう》して以後、郷名《ごうめい》をもって氏の名とするようになったのだ。越後《えちご》では屈指《くつし》の名族であったが、この時代になって本家が絶えて、為景《ためかげ》の命《めい》によって昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》の二男国吉《くによし》がついで金津《かなづ》伊豆守《いずのかみ》となっていることは、すでに書いた。
新兵衛《しんべえ》は金津末家《かなづまつけ》の生まれで、したがって知行《ちぎよう》もたいしたことはなく、わずかに五百|貫《かん》の所領《しよりよう》しかなかった。彼は年ごろ三十ばかりの、まゆの太い、ほおひげあごひげのいかめしい、きびしい容貌《ようぼう》の大男であったが、性質はいたって誠実であった。為景《ためかげ》から傅役《もりやく》の任命を受けると、新しく虎千代《とらちよ》の住まいとして本丸《ほんまる》の一隅《いちぐう》に建てられた御殿《ごてん》に泊まりきりのすがたとなって世話をやきはじめた。
虎千代《とらちよ》は、父が松江《まつえ》をうばって、かわりにこのおそろしい顔をした大男をあてがったことに、瞞着《まんちやく》されたような気がしていた。彼は父をにくんだ。それは嫉妬《しつと》であったかもしれない。
こんなことがあった。
松江《まつえ》が為景《ためかげ》の侍妾《じしよう》となって二月ばかりの後、重陽《ちようよう》の節句《せつく》の日。この日、為景《ためかげ》は午前中本丸の表御殿《おもてごてん》で男の家臣《かしん》一同と酒宴《しゆえん》し、午後はまた女中らと奥殿《おくでん》で酒宴《しゆえん》した。午前の宴《えん》には幼年の虎千代《とらちよ》は出席を許されなかったが、午後の宴《えん》には許されて、兄弟の末席《まつせき》にすわっていた。彼は目もはなさず、上段の間の父の位置からもっとも近い下段の間《ま》に席をしめている松江《まつえ》を見ていた。化粧《けしよう》して盛装《せいそう》している今日の松江《まつえ》は別して美しかった。彼はほとんど恍惚《こうこつ》として見とれていた。
酒宴《しゆえん》がたけなわになり、これから女中らの遊芸《ゆうげい》がはじまろうとする時、ふと為景《ためかげ》は虎千代《とらちよ》に声をかけた。
「お虎《とら》、ここへ来い」
ひたすらに松江《まつえ》を凝視《ぎようし》している虎千代《とらちよ》にはこれが聞こえなかった。となりにすわっている兄の左平二《さへいじ》(景房《かげふさ》)が腰をつついた。
「ほら、父上が呼んでおいでだ」
虎千代《とらちよ》はしぶしぶと立って父の前に出た。
「おもしろいか」
と為景《ためかげ》は言った。きげんよさそうに微笑していた。
「おもしろうございます」
と、虎千代《とらちよ》は答えた。
為景《ためかげ》はまた笑って、
「それはよかったな。しかし、そなたはまだ子供であるゆえ、おとなの酒の席にいつまでもいてはならぬ。これをつかわすゆえ、住まいにかえるよう」
と言って、自分の前にあった高坏《たかつき》から焼き栗《ぐり》をとりわけ、紙につつんでさしだした。
虎千代《とらちよ》はもっといたかった。不服げな目で、だまって父を見ていた。
「つかわす。手を出せ」
とつぜん、虎千代《とらちよ》は怒《いか》りがこみ上げてきた。やっとおさえて、両手を出したが、その小さい手はふるえていた。受けて、ふところに入れてさがりかけた時、松江《まつえ》が言った。
「うらもあげますべ」
松江《まつえ》の位置は虎千代《とらちよ》のつい横になる。呼吸《いき》づかいが聞こえるほどまぢかだ。虎千代《とらちよ》はムッとしたふくれた顔で、聞こえなかったもののように、ふりむきもせずさがろうとした。
「待たっしゃれ。これ」
松江《まつえ》は片手に三方《さんぼう》の熨斗《のし》あわびをつかみ、片手に虎千代《とらちよ》の手首をつかんで、ぐいと引きとめた。持ち前の怪力《かいりき》だ。小さなからだはたあいもなく引きつけられた。
「ほら、あげますべ。もっていきなされや」
と、松江《まつえ》は虎千代《とらちよ》のふところに熨斗《のし》あわびをおしこんだ。
おさえにおさえていた虎千代《とらちよ》の怒《いか》りは一時に爆発した。
「無礼者《ぶれいもの》!」
とかんだかく絶叫《ぜつきよう》すると、とられた手を振り切り、ふところにおしこまれた熨斗《のし》あわびをつかみ出し、松江《まつえ》の顔を目がけて投げつけた。熨斗《のし》あわびは松江《まつえ》の美しく化粧《けしよう》した髪から顔にだらりとかかった。
「はれまあ、お虎《とら》さま、うらにそんげなことをなさるだか」
と松江《まつえ》は仰天《ぎようてん》した。
「きらいだ! おれは汝《われ》が!」
虎千代《とらちよ》はさけんで、そのまま座敷から庭に飛び出した。晩秋の午後のうす赤い陽《ひ》のあたっている庭には、まっ盛りの菊の鉢《はち》が、今日の祝儀のためにしつらえられた台に、いく十鉢《じつぱち》もならべられて、それぞれに妍《けん》をきそっていた。虎千代《とらちよ》は兇暴《きようぼう》な小さな野獣のようにその鉢《はち》に突進し、いく鉢《はち》かをたたきおとし、花をひきむしった後、走り去った。
「追え! 狼藉《ろうぜき》!」
為景《ためかげ》は激怒《げきど》してさけび、小姓《こしよう》のささげもった刀を引きもぎって立ちあがったが、松江《まつえ》がとめた。
「疳《かん》の強いお子でござりますだ。殿がわしを取り上げなされたで、腹を立てていなさるのですだ。子供はこらえ性《しよう》のねえものだ。かんべんしてあげてくださろ。そうでなければ、わしがつらいだ。ほんにお虎《とら》さまはわしになついていなさりましたでのう。腹が立ちなさるのも無理はねえだ」
為景《ためかげ》の袴《はかま》のすそをとらえ、かきくどく。粗野でとつとつとした調子ながら真情のあふれていることばもだが、グイとひかえた力は、ちっとやそっとでは振りもぎれそうにない。見苦しいもがきをしなければならないと思うと、あきらめた方がよさそうだ。
「はなせ、すわる」
苦笑して言った。
「だいじょうぶでござるだか。だましなさるのではなかんべいな」
「だましはせん。すわる。はなせ」
やっとはなさして、すわった。
一方、虎千代《とらちよ》は疾風《しつぷう》のように庭を走ったが、建物をまわったところに泉石《せんせき》のあるつくり庭があり、その泉水《せんすい》につきあたった。悲しみと、怒《いか》りと、悔恨《かいこん》が、小さなからだに渦《うず》を巻いている。思いきり乱暴なことをするか、自分をいじめつけるか、しないかぎり、切なくてならない。なんのためらいもなく、泉水《せんすい》にとびこんだ。
水はぞっとするほどつめたかった。虎千代《とらちよ》はおりとってきた菊の枝でめちゃめちゃに水をたたき、狂的なさけびを上げながら、水中を狂いまわった。涙がとめどもなくあふれてきた。それが恥ずかしかった。だから、いっそう狂気じみたさけびを上げて狂いまわった。
まもなく、知らせを受けて、金津新兵衛《かなづしんべえ》がかけつけてきたが、もうその時は、虎千代《とらちよ》は岸に上がっていた。
「お虎《とら》さま」
新兵衛《しんべえ》はきびしい声で呼びかけた。ひげづらがいかめしく引きしまり、目が沈鬱《ちんうつ》に光っていた。虎千代《とらちよ》はてれたように微笑を浮かべて迎えた。
「はだかになる。つめたかった」
ぽとぽとしずくのしたたる着物をぬぎにかかった。ぬれた紙にくるまっている焼き栗《ぐり》がばたりと足もとにおちた。虎千代《とらちよ》はひろい上げた。包みをひらいて一つ口に入れ、新兵衛《しんべえ》にもさしだした。
「父上がくださった。これをやるからかえれと言うて」
余憤《よふん》がこのことばになったのだが、事情をよく知らない新兵衛《しんべえ》には、それはわからない。てれてすることだと思った。
「ちょうだいいたします」
と一つつまんでおしいただき、袂《たもと》にしまって、着物をぬがせ、からだをよくふいてやってから、背負《せお》って住まいにむかった。かえりついたら、みっしりと意見するつもりであった。
二
為景《ためかげ》はこの事件を不問にはしなかった。傅役《もりやく》の新兵衛《しんべえ》を呼んで、くわしく事情を説明して、十日間|窮命《きゆうめい》させよと命じた。
この前に、新兵衛《しんべえ》は人々から事情を聞いていた。素朴木強《そぼくもつきよう》な戦国武士である彼には、少年の複雑な心理はわからない。彼は彼の解釈で、虎千代《とらちよ》の怒《いか》りを当然なことと判断した。松江《まつえ》は為景《ためかげ》の侍妾《じしよう》にすぎない。虎千代《とらちよ》にとっては家来筋《けらいすじ》のものである。その者が心安だてとはいいながら、為景《ためかげ》のあとについて物をくれるなど、礼にかなったこととはいえない。虎千代《とらちよ》が腹を立てて無礼《ぶれい》とがめしたのは、当然しごくのことで、幼少とはいいながらあっぱれであると、むしろほめたいところであった。虎千代《とらちよ》によくないところがあるとすれば、それ以後のことだ。しかりつけ、熨斗《のし》あわびを投げつけてそのまま静かに退出すればよいものを、はだしで庭にとびおり、菊の鉢《はち》をひっくりかえし、引きむしったばかりか、泉水《せんすい》にとびこんであばれまわるなどのことをしたのは、まことに理に合わない。根性の懦弱《だじやく》さからくる狂気じみたふるまいであると思った。
だから、この点について、新兵衛《しんべえ》はみっしりと意見した。
「申したいことがおわすなら、はっきりと申されるがよろしい。血の道をおこしたおなごのように、あのような狂乱をなさるということがござるか。弱虫のすることでござるぞ」
虎千代《とらちよ》は一言も言いわけめいたことはしなかった。かわききった、火のような光を大きな目にきらめかして、むっつりした顔をしていた。
こんなわけだから、新兵衛《しんべえ》は為景《ためかげ》に言われた時、一応の弁明をした。
「お虎《とら》さまのなされたことは、そのはじめは道理から出たのでござるが、途中でそれが行き過ぎになったにすぎませぬ。しかしながら、ご幼少のこと、さしてとがめだてすることではないと存じます。すでに拙者《せつしや》から十分に申し上げて、ご後悔もひとかたならず見えますれば、窮命《きゆうめい》のことはおゆるしいただけますまいか」
為景《ためかげ》はきかなかった。
「おさない者ではあるが、こらしめるべき時にこらしめておかねば、本人のためにならぬ」
口に出すことはかならず十分な思案を経《へ》ている為景《ためかげ》は、言いだした以上、けっして引っこめない。いたしかたなく、新兵衛《しんべえ》は引きさがった。
十日の窮命《きゆうめい》がよほどにこたえたのであろうか、虎千代《とらちよ》はいっそう陰鬱《いんうつ》になった。ぴたりと心のふたをしめたようにだれにも心をゆるさないようであった。いくらか心をゆるして気安く口をきくのは新兵衛《しんべえ》にたいしてだけであった。新兵衛《しんべえ》の木訥《ぼくとつ》で誠実な心がしだいにわかってきたのであろう。
その年が暮れ、翌年の春、雪が消えて、毎日のように小雨の降りつづくころのある夜であった。為景《ためかげ》は子供らと侍臣《じしん》数人を相手に酒宴《しゆえん》をひらいたが、席上、侍臣《じしん》らが、その日処刑のおこなわれた盗賊のことを話しだした。
この盗賊は府内《ふない》のお館《やかた》に忍び入って金銭を盗みとって築地《ついじ》の外にとびおりたところを夜まわりの番士《ばんし》に捕らえられたのであるが、たいへんな手ききで、刀をふるって頑強《がんきよう》に抵抗し、番士《ばんし》三人を即死させ、数人を負傷させて、やっと捕縛《ほばく》された。取り調べの結果では、信州《しんしゆう》の者で、国許《くにもと》で数々の悪事を重ねて、追われてこの国ににげてきたということがわかった。
為景《ためかげ》は奉行《ぶぎよう》の上申《じようしん》どおりに死罪を命じ、今日それが城外のはずれの仕置《しお》き場でおこなわれたのである。侍臣《じしん》らの話は、その盗賊の不敵な死にざまのことであった。
「首の座になおりましてから末期《まつご》の所望《しよもう》じゃ。酒をもらいたい≠ニ申しましたので、かかりの者が、ぜいたくを申すな≠ニしかりつけましたところ、末期《まつご》のねがいを聞かぬということがあろうか。天下どこへ行っても、末期《まつご》のねがいはきいてくれることになっている。もしきいてくれずば、怨霊《おんりよう》となって、そなたを取り殺すぞ≠ニ、おそろしいことを申しました由《よし》。それでかかりの者もおじけがついて、近くの民家に人を走らせ、すこしばかりの酒をとりよせて飲ませますと、こころよく一息にのんで、ああ、よい気持ち。小唄《こうた》一つ歌いたい。唄《うた》のおわったところで、スッパリやってくだされ≠ニ言って、にくさげな顔に似合わず、それはそれはよい声で歌って斬《き》られました由《よし》。斬《き》られた後の顔もニッコリと笑《え》みをふくんで、まことに楽しげでありますので、日の落ちるころまで梟首台《さらしだい》の前には取りかえ引きかえ人々が群集《ぐんしゆう》していたと申します」
為景《ためかげ》は興味深く聞きながら杯《さかずき》をあげていたが、ふとその目が兄たちの末座《まつざ》にすわって、いつものとおりムッツリした顔をしている虎千代《とらちよ》にむくと、ふしぎないらだたしさをおぼえた。
「お虎《とら》」
と呼びかけた。
「はい」
虎千代《とらちよ》は両手をついてこちらを見た。
「そなた、いまの話を聞いていたか」
「聞いていました」
「その首を見たいとは思わぬか。首を斬《き》られても笑顔でいるというぞ」
「見たいと思います」
と虎千代《とらちよ》は答えたが、見たいと思っている顔ではなかった。為景《ためかげ》のいらだちはいじわるさにかわった。
「ほう、見たいか。わしも見たいのだが、そなた行って、もってきて見せてくれぬか」
行かせるまでの気持ちは、為景《ためかげ》にはなかった。こまらせてやろうというからかいだけの気持ちであったのだが、虎千代《とらちよ》は、
「かしこまりました」
と言うや、スッと立ちあがって、座敷を出ていきかけた。
「待て待て、そなたおそろしくないか」
為景《ためかげ》はすこし狼狽《ろうばい》していた。
おそろしくないことはなかった。しかし、微笑をふくんで自分を見ている父の顔や、あきれたような侍臣《じしん》らの顔を見ると、あやうくくずれかけていた心はすぐ立ちなおった。
「死んだものが、なんでおそろしいことがありましょう」
と言うと、だっと走り出した。
三
別室にひかえていた金津新兵衛《かなづしんべえ》が話を聞いて、玄関で追いついてきた。
「お待ちなされよ。笠《かさ》をさしあげます」
はやりたって、暗い雨の戸外に走り出そうとする虎千代《とらちよ》をおさえ、下僕《げぼく》を呼んで竹《たけ》ノ子笠《こがさ》をとりよせて渡した。
「首尾《しゆび》よく遊ばされよ。足もとに気をつけて、けがなどなさらぬよう」
新兵衛《しんべえ》は、虎千代《とらちよ》の小さいからだを抱くようにしてささやいた。彼は為景《ためかげ》に腹を立てていた。もし為景《ためかげ》がかねてから虎千代《とらちよ》を愛しているなら、器量を見るために、あるいは鍛練のためにするのだと思ったであろうが、自分が傅役《もりやく》になってみると、どんなに為景《ためかげ》が人前をつくろっていても、虎千代《とらちよ》にはほとんど親としての愛情をもっていないことに気づかないではいられない。
(こんなおさないお子を)
と、腹が立つのだ。
大手《おおて》の門まで五、六|町《ちよう》はある。仕置《しお》き場は、そこからさらに十|町《ちよう》はある。大手《おおて》の門まで送って行こうかと、新兵衛《しんべえ》が思案していると、虎千代《とらちよ》は、
「はなせ!」
とさけぶと、ぱっとふりきって、外へとび出した。
玄関口からさしだす灯《ほ》あかりに、まっくろな闇《やみ》をほの白い雨の線がややななめに引いたり消えたりしている中に、大きな笠《かさ》をかぶった虎千代《とらちよ》の小さいからだは、ほんのしばらく見えて、すぐ溶けこんでしまった。ぬかるみを踏む足音だけが聞こえていたが、それもすぐ聞こえなくなった。
新兵衛《しんべえ》はいても立ってもおられない気持ちであったが、それをおさえて式台《しきだい》の上に座していた。
(なぜ殿《との》は、お虎《とら》さまにはあんなにご愛情がうすいのであろう……)
この疑いはいきどおりになって、いまにも歯ぎしりさせそうだ。これもこらえた。
つめたい夜風が吹きこんできて、新兵衛《しんべえ》の着物をしめらせたが、ほとんどそれを感じなかった。
ずいぶん長い時間のような気がした。不安になって、許しをもらって迎えに行こうかと、いくどか腰を浮かしては思いかえし思いかえししたが、ついに決心して立ちあがろうとした時、ぴちゃぴちゃとぬかるみを踏む小さい足音が聞こえてきた。
(帰ってみえた!)
迎えに飛び出したいのを、やっとこらえた。目をすまして見つめている玄関口に、竹《たけ》ノ子笠《こがさ》をかぶった小さな姿が見えて来て、しだいに近づき、ついに玄関に入ってきた。
新兵衛《しんべえ》のはばひろくぶあつい胸に熱いものがこみ上げ、涙がほおを伝ってひげの中に流れこんだ時、虎千代《とらちよ》はさけんだ。
「ああ、重かった。首は重いものじゃなあ、新兵衛《しんべえ》。あんまり重かったので、こうしてもってきた」
これまで聞いたことのないほどに明るいはればれとした声であった。
首は耳から耳に蔓《かずら》をとおされていた。ぬかるみをひきずられて来たこととて、泥《どろ》だらけになり、とうてい首とは見えなかった。
「鞘巻《さやまき》で穴をあけて、蔓《かずら》を切りとって、つないで、引きずってきた。重かった。手がだるうなった」
びしょびしょにぬれた全身から、ぽっぽと湯気が立ち、汗に赤らんだ顔に目がきらきらと光っていた。
「お虎《とら》さま、お虎《とら》さま、あっぱれでございますぞ」
声をつまらせて言いながら新兵衛《しんべえ》は、小さなからだを、力いっぱい抱きしめた。
四
金津新兵衛《かなづしんべえ》は、奥へ走りこんで、虎千代《とらちよ》がみごとに首をもちかえってきたことを報告した。
座中みなどよめいたが、為景《ためかげ》だけはしらじらとつめたい顔で聞いた。人々はどよめいてはわるいような気がして静まった。
為景《ためかげ》は安心もしたが、やれやれと思った。途中から泣きかえった方がずっと子供らしくしおらしいのにと思った。おさないくせに意地が強すぎると思った。見返されたようで、不快でもあった。
しかし、人々が自分がどんな態度に出るかと気をはかっていることに気づくと、すぐうれしげな表情をとった。
「不敵な者、あっぱれじゃ。連れてまいれ。なぜすぐ来ぬのだ」
新兵衛《しんべえ》の胸は一時に明るくなった。彼は為景《ためかげ》をうらんでいたことを忘れた。幼年にしてこんなにも剛毅《ごうき》な魂をもった子を愛さない父があるはずはないと思った。
「ぬかるみの暗い道をまいられましたこととて、全身|泥《どろ》にまみれておいででありますので、そのままではいかがと、お住まいの方にお着がえを取りに走らせておりますれば、しばらくご猶予《ゆうよ》を」
「そうか。しかし、一刻《いつこく》も早く会いたい。そのままでよい。庭に連れてまいれ」
為景《ためかげ》はすこしせきこんだ調子で言った。ほんとうを言うと、見たくなどなかった。得意になっているにちがいないと思うと、いまいましくさえあった。しかし、この際はこう言わないと、座中の者に心中の機微《きび》をかぎとられてしもう。
「かしこまりました。さっそくにお連れいたします」
新兵衛《しんべえ》は飛びたつようにさがっていった。うれしさが全身にあふれていた。
侍臣《じしん》らが総立ちになって席をつくりはじめた。簀子《すのこ》に燭台《しよくだい》をもちだしたり、庭にむかった位置に為景《ためかげ》の席をうつしたりする。
為景《ためかげ》はきげんよげに立って、人々の立ちはたらくのを見ていたが、心にもない芝居《しばい》をしていることに、急に疲れが出てきていた。
席ができて、すわっていると、松明《たいまつ》をもった下人《げにん》二人を先に立てて、虎千代《とらちよ》の小さい姿があらわれた。重たげに何か引きずってくる。そのあとに、新兵衛《しんべえ》が小腰《こごし》をかがめながら従っていた。
火の粉《こ》のこぼれる松明《たいまつ》の間に虎千代《とらちよ》は立って、父をあおいだ。
「おおせつけの首、もってまいりました」
「あっぱれであったな。どれどれ見せい」
為景《ためかげ》は努力して微笑をつくった。
新兵衛《しんべえ》が進みより、しゃがんで、地上からもち上げたものを、左のてのひらにのせ、右手を上にそえてさしだした。
泥《どろ》にまみれたそれは急には首とは見わけがつかなかった。新兵衛《しんべえ》は右手を袂《たもと》につっこみ、ゴシゴシと二、三度首の顔をふいた。目鼻の位置があらわれて、首とわかった。鼻は欠け損じ、皮膚はすりむけ、無残なすがたであった。
「あまりに重うございましたので、こうして蔓《かずら》で耳を通して引きずってまいられた由《よし》でございます」
新兵衛《しんべえ》は微笑して、両耳を通してある蔓《かずら》をゆり動かしてみせた。
首実検《くびじつけん》は常のことである為景《ためかげ》ではあったが、つめたいものがゾッとからだを走るのをおぼえた。無残《むざん》とも残酷《ざんこく》ともいいようのないやり方だと思った。だのに、虎千代《とらちよ》は、この近年見たこともないほど明るい、いかにも自足した顔をしている。
(この子は、このおさなさで、こんなことができるのか!)
またつめたいものが背すじを走りすぎた。
だが武将《ぶしよう》としてこんな気持ちを他人にのぞかせることはできない。むしろ、うんとほめてやらなければならない。それが武将《ぶしよう》たるものの愛児にたいするやり方というものだ。
為景《ためかげ》はまず微笑した。そして、ほめるために口をひらいたが、すべり出たことばはわれながら思いもかけないものであった。言いながら、為景《ためかげ》は狼狽《ろうばい》した。こんなことを言ってはならないと思うのに、舌《した》はよどみなく動いて、こう言ったのだ。
「わしがこの首を見たいと言うたのは、この首が楽しげに笑《え》みをふくんでいると聞いたからであった。おぼえているであろうな、お虎《とら》」
「おぼえています」
はっきりと、虎千代《とらちよ》は答える。
ふいに、為景《ためかげ》はカッとしたが、おさえて、しずかな語調でつづけた。
「ところが、この首は、そちが泥道《どろみち》を引きずってきたので、めちゃめちゃになって、笑っているやらどうやら、わからなくなってしもうたの」
これも言ってはいけないと思いながらも、言わずにおられなかったのであった。
意外なことになったので、侍臣《じしん》らも子供らもおどろいていた。呼吸《いき》をひそめて、為景《ためかげ》と虎千代《とらちよ》とを見くらべていた。
虎千代《とらちよ》の顔から明るく誇らしげなものが消えて、いつものムッツリとした表情になった。小さな音を立ててパチパチとはじけながら長い炎《ほのお》を上げている松明《たいまつ》の間にはさまれている虎千代《とらちよ》の目は、しだいに白く陰鬱《いんうつ》にしずんでいった。
「どうだな。返事はできんのか」
為景《ためかげ》は努力して微笑をつづけた。その微笑がぎごちないものであることを意識していたが、やめるわけにはいかなかった。
新兵衛《しんべえ》は動顛《どうてん》していた。為景《ためかげ》を見上げて、なにか言おうとした。
「そちは口を出すな。お虎《とら》に聞きたいのだ」
と制した。
虎千代《とらちよ》の顔には、にぶい、強情そうな表情があらわれた。
「どうだな」
と為景《ためかげ》はうながした。
虎千代《とらちよ》は白い目を上げて父を見た。ほとんど唇《くちびる》を動かさないで言った。
「重うて、手がだるうなりました。顔がすりつぶれるとは思うておりませんでした」
子供らしくない、にぶい、重い声であった。言いおわると、くるりと背を向け、スタスタと歩き出した。小さな肩をそびやかしていた。
反抗的なその様子に、一人前のおとなにたいするよりもまだ強い憎悪《ぞうお》が、為景《ためかげ》の胸に燃えた。しかし、呼びとめなかった。その姿が闇《やみ》に消えるまで見送ってから、庭にひざまずいたまま強い目で自分を見上げている新兵衛《しんべえ》を見た。ハハと笑った。
「きつい子だ。たのもしい子だ。それだけに育てるにむずかしい子だのう。腹を立てて行きおったわ」
きげんよげな軽い調子であった。新兵衛《しんべえ》は為景《ためかげ》の心をはかりかねて、ただ見上げていた。
五
また一年たって、虎千代《とらちよ》は七つになった。
その年の春の一日、為景《ためかげ》がなんの前ぶれもなく、本丸《ほんまる》の一隅《いちぐう》にある虎千代《とらちよ》の住まいに来た。ついぞないことだ。虎千代《とらちよ》も新兵衛《しんべえ》もおどろいて出迎えた。
「呼びよせて言おうと思うたが、ここにはわしは一ぺんも来たことがないので、ついでに見ておこうと思ってな」
為景《ためかげ》はきさくに言いながら、奥へ通った。
新兵衛《しんべえ》は為景《ためかげ》を書院《しよいん》の間《ま》に案内してすわらせておいて、もてなしの支度《したく》を言いつけるためにさがろうとした。為景《ためかげ》は、
「待て待て。なにもいらんぞ。すぐかえるぞ。そこへ来い」
と呼びとめて、虎千代《とらちよ》のそばにすわらせた。
不安な予感があって、新兵衛《しんべえ》は胸がさわいだ。
為景《ためかげ》は話しだした。
「早いもので、お虎《とら》の母が死んでから三年になる。わしも寄る年波で、昔のような気力がないためであろうか、このごろは死んだ人のことばかりが思い出されてならぬ。何か袈裟《けさ》のためにしてやらねばならぬと思うているが、このほど思いついたことがある」
まことに軽い調子だが、いつもにないことだ、ますます警戒する気になって、新兵衛《しんべえ》が心をひきしめていると、思いもかけないことばがつづいた。
「お虎《とら》に出家《しゆつけ》になってもらいたいと思いついたのだ」
新兵衛《しんべえ》はおどろいた。自分の耳をうたぐった。虎千代《とらちよ》もきっとなって父を見た。
そしらぬふりで、為景《ためかげ》はいっそう軽くことばを走らせる。
「わしも当年六十九になる。いつこの世にさらばをせねばならぬかわからぬので、おさないお虎《とら》の行《ゆ》く末《すえ》がまことに心もとない。お虎《とら》は末子《ばつし》のことゆえ、所領《しよりよう》もそうはやれぬが、よしんば無理してかなりなものをやっても、この乱世《らんせ》ではそのおさなさではどうなるかわからぬ。まことに不安だ。しかし、思いきって出家《しゆつけ》になれば、安心だ。亡《な》き母の菩提《ぼだい》のためにも、また近く行かねばならぬわしが菩提《ぼだい》のためにもなる。出家《しゆつけ》というものはよいものだ。一人|出家《しゆつけ》すれば、九族《きゆうぞく》天に生《しよう》ずと言われているほど、功徳《くどく》のあるものと聞く。すでに、林泉寺《りんせんじ》の和尚《おしよう》には話しておいた。明日にもまいるように」
さらさら、さらさらと、ことばは流れるように軽いが、意味はもっとも重大だ。
「おそれながら」
新兵衛《しんべえ》はおそろしい勢いで呼びかけた。
為景《ためかげ》は無言で新兵衛《しんべえ》を見た。あの軽い様子は消えて、いつもよく見せる重いひややかな顔になっていた。為景《ためかげ》がこんな顔になっている時、何を言っても絶対に聞き入れないことを新兵衛《しんべえ》は知っている。ひるんだが、気力をふるいおこした。
「奥方《おくがた》様ご菩提《ぼだい》のためとおおせられますが、はたして奥方《おくがた》様はおよろこびになりましょうか。てまえは、さようには……」
「思わぬと申すか。しかし、わしはよろこぶと思うている。わしはあれの夫《おつと》として、よくその心を知っているつもりだ」
ぴたりと口にふたをされた気持ちであった。しかし、ふりもぎって、新兵衛《しんべえ》は言った。
「ではござりましょうが、お虎《とら》さまはあまりにもご幼少。いますこし年もいかれて、おみずからのご判断もつかれるようになってからのことにいたされては、いかがでございましょうか」
「それはわしも考えたのだが、わしの年がゆるさん。わしはわしの目の玉の黒いうちに、お虎《とら》の身のおさまりを見たいのだ。もう話はきまっている。お虎《とら》は明日行けばよいのだ」
圧制にもほどがあると、新兵衛《しんべえ》は猛烈に腹が立ったが、達者《たつしや》なうちに虎千代《とらちよ》のおちつき先を見ておきたいということばには、臣下《しんか》としては反駁《はんばく》のしようがない。これに異議を申し立てうるのは、虎千代《とらちよ》自身だけだ。新兵衛《しんべえ》は虎千代《とらちよ》を見た。目くばせするつもりであったが、虎千代《とらちよ》は父の胸のあたりを凝視《ぎようし》したままこちらを見ない。口をぎゅっと結んでいた。きびしく奥歯をかみしめているのであろう、子供らしくふっくらとしたほおのうしろのあごが強く角ばっている。かなしみ、また腹を立てながらも、なんにも言うまいと決意している顔であった。
「話はわかったな。では、わしは帰る。先刻《せんこく》も申したが、重ねて言うておく。明日、まいるよう」
新兵衛《しんべえ》と虎千代《とらちよ》は玄関まで送って出て、太刀《たち》持ちとぞうり取りだけを従えた為景《ためかげ》が塀《へい》をまわって姿を消すまで見送って、奥に入った。
「お虎《とら》様、なぜ、お虎《とら》様は、お虎《とら》様は、出家《しゆつけ》はいやじゃと、おおせられなんだのでござる!」
新兵衛《しんべえ》の声はさけぶようであった。ぽたぽたと涙をこぼしていた。
「おれは言いとうなかった。言うたとて無駄《むだ》なのじゃ。父上はもう何もかもきめてしまってからおいでたのじゃ。おれは無駄《むだ》とわかったことはせんのだ」
一息に言ってしもうと、口をつぐんだ。涙一滴《なみだいつてき》こぼさない。怒《いか》りに燃える目を一点にしずめて、心にえがくなにものかをにらんでいた。
翌日、ひるをすこしまわったころ、虎千代《とらちよ》は新兵衛《しんべえ》にともなわれて城をたち、林泉寺《りんせんじ》に入った。
林泉寺《りんせんじ》は正確には春日山林泉寺《しゆんにちざんりんせんじ》という。春日山《かすがやま》の麓《ふもと》にある。宗旨《しゆうし》は曹洞禅《そうとうぜん》。府中長尾家《ふちゆうながおけ》の先祖が建立《こんりゆう》し、代々の菩提寺《ぼだいじ》になっていた。当時の住職《じゆうしよく》は天室《てんしつ》、白いまゆの長い、柔和《にゆうわ》な顔の老僧《ろうそう》であった。役僧《やくそう》から虎千代主従《とらちよしゆじゆう》の来たことをとりつがれると、みずから玄関に出て迎えた。
「おお、おお、見えられたの。こちらへござれ」
と、客殿《きやくでん》にみちびいた。午後の日があたたかく明るく照りわたる庭に満開の桜がたわわに咲いて、風もないのにしきりに花びらの散っている書院《しよいん》の間《ま》であった。
座が定《さだ》まると、新兵衛《しんべえ》は言った。
「まことに急なことで、昨日はじめて殿よりお申し渡しがあったのであります」
いまさらここで言ってみたところでなんの役にも立たないことはわかっているのだが、つい、ぐちとも不平ともつかない調子になった。
「わしの方もそのとおり。昨日朝の間に、殿からお呼び出しをこうむって登城《とじよう》いたしたところ、虎千代《とらちよ》様おふくろ様菩提《ぼだい》のために、虎千代《とらちよ》様を寺に入れたいと、こうおおせられる。わしは出家《しゆつけ》のことであるゆえ、人間世界で出家《しゆつけ》ほどりっぱなものはないと思うているが、弓取りの家に生まれた人にとっては、また別な好みがあろう。ことさら、虎千代《とらちよ》様はまだご幼年のことでもあれば、いましばらくご成人なさるまで待ったがよいと思うたので、その旨《むね》を申しあげたところ、いやいや、わしはもう七十を目の前にひかえている老人じゃ、老人のいのちほどはかられぬものはない、どうやらいまのところ息災《そくさい》ではいるが、明日が日にもどうなろうもしれぬ、おさない子をそのままにのこしては冥途《めいど》の迷《まよ》いになる、一日も早くそのおちつく先を見たいと、かようにおおせられてな。こうまで大檀那《おおだんな》に申されては、こばむことはできん。承知してしまいましたじゃ」
やさしく、ことをわけて、和尚《おしよう》は語る。
新兵衛《しんべえ》は嘆息とともにうなずかないわけにいかなかった。
役僧《やくそう》が茶と菓子をもってきた。和尚《おしよう》はそれを虎千代《とらちよ》にすすめておいて、言った。
「そなた様はまだお小さくござるゆえ、坊主《ぼうず》などお気に召さぬかもしれぬが、もうすこしお年を召せばおわかりになる。出家《しゆつけ》は尊いものであります。宮家《みやけ》や公方家《くぼうけ》のお生まれでさえ、ずいぶんお若くしてこの門に入られるくらいのものであります。しんぼうなさりませや」
虎千代《とらちよ》は小さなひざをそろえ、そのひざに両手をおき、ひじを張って端座《たんざ》していたが、和尚《おしよう》を見てはいなかった。その目は庭にむいて、たえず散りつづけている桜を見つめていたが、いきなりその目を和尚《おしよう》に向け、ちりちりとふるえる長いまゆの下の目を、燃えるような目で凝視《ぎようし》したかと思うと、
「坊主《ぼうず》はきらいだ!」
と言った。ひくい声であったが、はげしい気魄《きはく》があった。
天室和尚《てんしつおしよう》はわらった。
「はは、おきらいか。そうでありましょうの。しかし、こうなればいたしかたはござらぬ。当分、当山においでるのでございますな」
ふわりとくるみこむような調子であった。
虎千代《とらちよ》の視線は前にむかって、横顔を見せていた。紅《あか》い小さな唇《くちびる》がひくひくとふるえていた。何かまた言いたげに見えた。和尚《おしよう》も新兵衛《しんべえ》もそれを待った。すると、その顔が真っ赤になった。なにか叫びだしそうに見えたが、そうではなかった。きびしく、せいいっぱいに見ひらいている目に、みるみる涙がわきこぼれてきた。それを見られるのがいやだったのであろう、つと立つと、簀子《すのこ》に出ていった。
六
和尚《おしよう》は新兵衛《しんべえ》と顔を見合わせた。二人とも胸が熱くなり、目がぬれてきた。
天室和尚《てんしつおしよう》と新兵衛《しんべえ》との間にひそかな相談がおこなわれた。
和尚《おしよう》は言う。
「わしはこれまで新しく出家《しゆつけ》する者を何十人となく見てきている。幼少のころから寺入りした者も二、三十人は見ている。それで、出家《しゆつけ》となってめでたく末遂《すえと》げる者と末遂《すえと》げぬ者とは、だいたいわかるつもりでいるが、虎千代《とらちよ》様はとうてい末遂《すえと》げるお人ではないように見える。しかしながら、殿のお心がああであるかぎり、いますぐにお返し申すこともできぬ。されば、わしはいちおうこのままおあずかりはするが、是《ぜ》が非《ひ》でも出家《しゆつけ》なさるようにとはつとめまい。学問手習いのために寺入りした者のつもりで、そうしたことをお仕込み申そう。もちろん、仏縁《ぶつえん》あって、ご本人の心が動けば、それはそれでけっこうなことゆえ、よろこんで得度《とくど》しようが」
新兵衛《しんべえ》にとってはねがってもないことであった。
「そうしていただけば、この上のよろこびはござらぬ。拙者《せつしや》はお虎《とら》様の傅役《もりやく》となって、今日まで一年七、八月にしかなりませぬが、日夜におそばにいますので、ご性質はよく存じているつもりでござる。拙者《せつしや》の見るところでも、武士としては得がたいものがあらせられるようでござるが、出家《しゆつけ》にはおむきにならぬように存ずる。早くおふくろ様にお別れになったため、口にすることのできぬいろいろなことがあるのでござる」
と、涙ながらにたのんだ。
天室和尚《てんしつおしよう》はこの約束に忠実であった。仏の道などはさらに説かず、四書《ししよ》の素読《そどく》と手習いだけをきびしく仕込《しこ》んだ。物おぼえも、理解力もズバ抜けていた。わずかに二か月で四書《ししよ》を暗誦《あんしよう》するほどになった。
この上の学問は、武将《ぶしよう》には不要な時代だ。
夏のおわり、和尚《おしよう》は虎千代《とらちよ》を城におくりかえした。
「このちごは仏縁《ぶつえん》にうすい方でござる。とうてい世すてびととなっておわるお人ではござりませぬ」
というのが、口上《こうじよう》であった。
米山薬師堂《よねやまやくしどう》
一
虎千代《とらちよ》が寺から送りかえされたので、為景《ためかげ》はきげんを悪くした。
「仏縁《ぶつえん》にうすいとはどういうことでござるか。狗子《くし》にすら仏性《ぶつしよう》があるとは、貴僧《きそう》がた常《つね》の文句ではござらぬか」
と、為景《ためかげ》は天室和尚《てんしつおしよう》をなじった。和尚《おしよう》は、
「拙僧《せつそう》のここに申す仏縁《ぶつえん》とは、僧となるの縁《えん》という意味でござる。人には因縁《いんねん》と申すものがござる。少年のころからまっすぐに出家《しゆつけ》する者もあれば、俗世間《ぞくせけん》にあっていろいろなことをして相当な年になってから発心《ほつしん》して出家《しゆつけ》する者もあり、いったん出家《しゆつけ》しても末遂《すえと》げずして還俗《げんぞく》する者もござるが、これはすべて因縁《いんねん》の糸にひかれてのことでござる。虎千代《とらちよ》様は、おさなくして出家《しゆつけ》なさるご性質ではないと、拙僧《せつそう》には見える。つまりその因縁《いんねん》がないのでござる。無理をしてはなりません。無理をすればかならずわざわいがござる」
と答えた。
為景《ためかげ》は不快ながら虎千代《とらちよ》を城内にとどめたが、虎千代《とらちよ》にたいするふきげんはことごとにあらわれた。これまでは世間体《せけんてい》をはばかって、外見《そとみ》だけでも愛情ありげによそおっていたが、いまはもうそれすらかなぐりすてた。
長尾《ながお》家の家来らの中には虎千代《とらちよ》を気の毒に思う者もないではなかったが、為景《ためかげ》に諫言《かんげん》しようと思う者はなかった。末子《ばつし》である虎千代《とらちよ》に好意を見せたところで将来の利になるとは思われなかったのだ。松江《まつえ》だけが言った。
「殿様《とのさま》は虎千代《とらちよ》様をかわいがっておいででねえす。どうにもそう見えますだ。なんでかわいがらっしゃりませぬ。同じお子様ではねえすか」
ズバリと一矢に核心をつらぬいていることばに、為景《ためかげ》は狼狽《ろうばい》しながら、こう言った。
「どうしてそんなことを申す。わしはわけへだてはしていぬぞ」
「そうすかな」
短い、皮肉なことばだ。
為景《ためかげ》はいっそう狼狽《ろうばい》せざるをえない。
「もし、そなたの目にそう見えるとすれば、あの子がすなおでなく、いつも腹に一物《いちもつ》ありげにふくれつらしているので、わしがそれを矯《た》めようとしているからであろう。わしはきびしくはあっても、むごくしているつもりはないぞ。そなたはまだ自分の子をもったことがないゆえわかるまいが、親というものはどんな子でもかわいいのだ。おろかであろうと、世の人の目にどんなたちの悪いものにうつろうと、むしろそれゆえに、親にはかえってかわいいものなのだ」
とけんめいに言いつくろったが、松江《まつえ》はなっとくした様子はない。
「そうすかな」
と、一言でかたづけてしもう。
為景《ためかげ》はなんとかして愛情のあるところを見せてやらなければならないような気になった。いつまでたっても野性のとれない、かしこいのかあほうなのかわからない、こんな女の気をかねるなど、ばかげてもいるし、おれらしくもない気の弱さだと思いながらも、思うままを真《まつ》正直に言って、ぐいぐいと押してくる態度には、抵抗できない気がするのだ。
彼はまず虎千代《とらちよ》を元服《げんぷく》させて、喜平二景虎《きへいじかげとら》と名のらせた。この時代、平侍《ひらざむらい》の子供は十四、五で元服《げんぷく》するのがふつうであったが、大名の子供は七、八歳の元服《げんぷく》がふつうであった、だから、為景《ためかげ》が虎千代《とらちよ》を七歳で元服《げんぷく》させたことは、虎千代《とらちよ》にたいする為景《ためかげ》の愛情が特別うすいわけではないという証明になるわけであった。
しかし、松江《まつえ》の鋭い目は為景《ためかげ》の心の底を見ている。まだまだと言いたげな顔をしていた。為景《ためかげ》は苦笑して、次の手を打たざるをえない。
新発田《しばた》市の東北方一里ほどの位置に加治《かじ》という村がある。この地名は加地と書いたのであるが、この物語のころ、この村に加地《かじ》安芸守春綱《あきのかみはるつな》という豪族《ごうぞく》がいた。加地《かじ》氏は近江源氏佐々木《おうみげんじささき》の一族で、鎌倉《かまくら》時代以来|越後《えちご》の名族の一つとなっていた。
春綱《はるつな》には子がなかった。為景《ためかげ》はこれに目をつけて、景虎《かげとら》が八歳の時の春、お屋形《やかた》の上杉定実《うえすぎさだざね》に、この家に虎千代《とらちよ》あらため景虎《かげとら》を養子にやりたいゆえ、お口添えをねがえまいかと乞《こ》うた。かざり雛《びな》にすぎない定実《さだざね》は為景《ためかげ》の依頼にはなにひとつとしてこばむことができない。ことさら、これはどちらの家にとってもよいことと思われた。
「よいところに気がついた。安芸《あき》もよろこぶことであろう」
快諾《かいだく》して、使者を下越後《しもえちご》につかわして申しこませると、春綱《はるつな》は、
「われらこの歳《とし》になるまで実子がござらぬので、養子をしたいと存じて、この数年ずっとさがしていましたが、似合いの者なく、今日にいたっていたのでござる。今日お屋形《やかた》様よりのこのお話をいただき、よろこびこのうえもござらぬ。守護代《しゆごだい》の殿のお子たちなら、ねがってもないこと。なにぶんともよろしくおねがいたてまつる」
と、大満悦で承諾した。
こうして下相談ができたので、為景《ためかげ》は景虎《かげとら》を呼んでこの話をした。
ところが、景虎《かげとら》の返事は思いもかけないものであった。
「わたくし、人の家の子になるのはいやでございます」
と、にべもなく言いきったのだ。
為景《ためかげ》はおどろいて、さとしもし、しかりつけもしたが、
「いやでございます」
の一点ばりだ。
くどく言うと、いつものむっつりした顔になり、白い目を一点にすえたまま返事をしなくなった。
「おれの面目《めんもく》にもかかわることだ」
と、ことわけて説いたが、同じだ。
あぐねて、金津新兵衛《かなづしんべえ》に命じて説かせたが、やはりうんと言わない。
ついには松江《まつえ》に頼んでみたが、これは、
「わしはそんげなことをお虎《とら》さまに言うのはいやでござりますだ。お虎《とら》さまがいやじゃと言いなさるお心は、わしには無理ではねえように思われますすけな。お虎《とら》様は、殿様がお虎《とら》様を厄介ものにしていなさるのをよく知っていなさるのだべし。わがことにして考えてみなさろ、そんげな心で他家《よそ》へやられるのは、殿様じゃていやでござるべ。わしはよう申しませぬだ」
と、けんもほろろにことわったばかりか、かえって、
「お虎《とら》さまじゃて、殿様のお子でござるべ。わけへだてせんで、お城で育てなさるがよござるだ。わしのめがねでは、殿様のお子たちのなかでは、お虎《とら》さまが一番出来がよござりまするだによ。他家にくれてしもうてはおしゅうござるだ」
と諫言《かんげん》する始末だ。
この女は頑固《がんこ》で、思いこんだらけっしてかえない性質であることを、為景《ためかげ》はよく知っている。苦笑して、もうその上はたのまなかった。しかし、景虎《かげとら》にたいする怒《いか》りはつのる一方だ。こらしめのため、
「親の言うことをきかぬような不孝者は城におくことはできぬ」
と城を追いだして、金津新兵衛《かなづしんべえ》の屋敷《やしき》にあずけ、
「お虎《とら》が不孝の心をあらためぬかぎり、わしは子とは思わぬ。したがってわしの子としてのあつかいをすることならぬ。その方|朋輩《ほうばい》の子供同然にあつかえい」
と、きびしいことばを添えた。
景虎《かげとら》八歳の時のことであった。
二
為景《ためかげ》は景虎《かげとら》を加地《かじ》家の養子にやることをあきらめたわけではなかった。新兵衛《しんべえ》の家にいて平侍《ひらざむらい》の小せがれと、かわらないあつかいをされているうちには、強情の角《つの》もおれて加地《かじ》家に行く気になるであろうと思ったのであった。だから、新兵衛《しんべえ》にもこのことを申しふくめて、よりより説得につとめさせたのだが、いく月たっても、景虎《かげとら》の態度はすこしもかわらない。
為景《ためかげ》がますます腹を立てたことはいうまでもないが、それを別にしても、景虎《かげとら》にたいして断然たる処置をして世に示さないかぎり、上杉定実《うえすぎさだざね》にも、加地《かじ》家にも面目《めんもく》が立たないことになった。
そこで、一日、新兵衛《しんべえ》を呼んで申し渡した。
「お虎《とら》のことじゃがな。幼年とはいいながら、父の面目《めんもく》も思わず、強情を張り通していること、不埒千万《ふらちせんばん》じゃ。このような不孝者を、わしはわしの居城《きよじよう》近くにおきたくない。勘当《かんどう》おおせつける。ついては、その方に命ずる。いずれへなりとも連れていき、追放してまいるよう」
為景《ためかげ》が面目上《めんもくじよう》の窮地《きゆうち》に立っていることは十分に知っており、景虎《かげとら》の強情には自分もこまりはてている新兵衛《しんべえ》ではあったが、これには胸がふさがった。
「お怒《いか》り、ごもっともとは存じますが、ご幼少のこと、家を去って他家の人となるをおむずがりなさるのは無理からぬことでもあります。いましばらくいまのままでおおきくださりますよう。一両年の間にはかならずお聞きわけもつくことと存じますれば」
と、ことばをつくしてとりなしたが、為景《ためかげ》はきかない。
「ただいま申したことは考えに考えたすえの思案だ。こうせぬかぎり、お屋形《やかた》にも、加地《かじ》にも、おれの言いわけが立たぬのだ。その方とてそれはわかるはずだ」
こう言われては、新兵衛《しんべえ》も返すことばがない。しかし、それでもあきらめかねて、二の丸に行って、為景《ためかげ》の長子晴景《ちようしはるかげ》に目通りしてとりなしをたのんだが、晴景《はるかげ》は末弟《まつてい》になんの愛情もなかった。
「父上のお立場としては、そうなさるよりほかはない。幼少とはいいながら、お虎《とら》の思慮のなさにもほどがある。おれが申しあげたところで、お聞きいれになろうはずはない」
とはねつけた。
いまはもう為景《ためかげ》の言いつけどおりにするよりほかはなかったが、どこに連れていくかが問題であった。新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》の母|袈裟《けさ》の実家である栖吉《すよし》の長尾《ながお》家に出かけて相談した。袈裟《けさ》の父|顕吉《あきよし》は数年前に死んでいたが、ついで当主となった袈裟《けさ》の兄は、
「お虎《とら》殿が父御《ててご》のきげんを損じているとのうわさはわしも聞いて、よそながら案じていた。情《じよう》のこわい|ちご《ヽヽ》じゃのう。守護代《しゆごだい》の殿《との》のお怒《いか》りも道理じゃ。お虎《とら》殿が折れてくれればそれが一番よいのじゃが……。といって、わしがあずかるわけにもいかん。これはなかば以上、お屋形《やかた》と加地《かじ》家にたいする言いわけのためのご勘当《かんどう》じゃから、折り目ははきと立てんければならんのだ。しかし、なんとかくふうしてみよう」
と、心から案じて、いろいろと考えたすえ、こう言った。
「栃尾《とちお》に本庄慶秀《ほんじようよしひで》という者がいる。岩船郡小泉本庄《いわふねごおりこいずみほんじよう》の本庄《ほんじよう》家の末家《まつけ》で、さして豊かというでもなく、また名ある者でもないが、心剛《ごう》で、実意のある人物ゆえ、わしはかねてから親しくしている。この者にわしから手紙をつける。行ってみぬか」
新兵衛《しんべえ》は添《そ》え手紙をもらって、栃尾《とちお》に行った。栃尾《とちお》は栖吉《すよし》から三里しかない。すぐついて、慶秀《よしひで》を訪《たず》ね、添《そ》え状を渡して話をした。
「ほかならぬ栖吉《すよし》様からのおたのみ、よろしゅうござる。お引き受けします。いつでもお連れなされてくだされ」
慶秀《よしひで》はまだ三十になるやならずであったが、たのもしく引きうけてくれた。
話はついた。新兵衛《しんべえ》は栖吉《すよし》に寄って報告したうえで、春日山《かすがやま》に帰った。為景《ためかげ》にこのことを告げると、
「あれはすてた子だ。その方にまかせる。大儀《たいぎ》であった」
とだけ言った。
殿は義理のためだけでなく、ほんとにお虎《とら》様がおきらいなのだと、新兵衛《しんべえ》は思わないではいられなかった。
新兵衛《しんべえ》が景虎《かげとら》を背負《せお》って、供《とも》にはわずかに四人の下人《げにん》を従えて、心細く、またみすぼらしい旅立ちであった。おりから季節は秋のすえ、万《ばん》物《ぶつ》蕭《しよう》条《じよう》とうら枯《が》れるころである。春日山《かすがやま》をあとにして北にむかう新兵衛《しんべえ》の胸には無限の寂寥《せきりよう》があった。
春日山《かすがやま》から米山《よねやま》まで約八里、早暁《そうぎよう》まだ暗いうちに春日山《かすがやま》を出たので、日暮れすこしまえに山頂の薬師堂《やくしどう》についた。今夜はここの坊《ぼう》に泊めてもろうつもりである。
米山《よねやま》は標高九百九十三メートル、海べりからおこり立って越後《えちご》平野を両分しているので、この山を境にして南部を上越後《かみえちご》、北部を下越後《しもえちご》と呼ぶならわしになっている。秀麗《しゆうれい》な山容と山頂の薬師堂《やくしどう》のために、日本でも屈指《くつし》の名山になっている。
おりから紅葉の季節だ。快晴の空の夕陽《ゆうひ》を受けた山々は燃えたつばかりの美しさであった。薬師堂《やくしどう》の縁ばたに立った一行は、われを忘れて見とれた。
そのうち、新兵衛《しんべえ》は景虎《かげとら》の視線が紅葉にはむいていず、はるかに南方の夕日に明《あか》りわたっている平原地帯にむかっていることに気づいた。平野の中に屹立《きつりつ》している山だから、おそろしく遠くまで展望がきく。府内《ふない》も春日山《かすがやま》もかすかながら野のはてに指点できるのである。景虎《かげとら》はそこを凝視《ぎようし》している。景虎《かげとら》は小柄《こがら》な子供だ。丈夫《じようぶ》でもあり、力も強いが、なみの子の六つくらいの大きさしかない。その小さいからだをまっすぐに保って、子供らしくもなくきびしく唇《くちびる》をひきしめ、鋭い視線をはるかな野のはてに射つけるように凝《こ》らしている。
(涙一つおこぼしにならず、春日山《かすがやま》をお立ち退《の》きになったが、さすがになごりがおしまれ、かなしくおなりなのであろうか)
と、新兵衛《しんべえ》が胸を熱くした時、くるりと景虎《かげとら》はふりかえった。
「新兵衛《しんべえ》」
と呼んだ。
「はい」
そばによってひざまずくと、景虎《かげとら》はにこりと笑って、
「この山に陣場《じんば》をかまえて戦《いく》さした大将の話は知らんか」
ときいた。
感傷《かんしよう》などかげりほどもない態度だし、ことばだ。新兵衛《しんべえ》はうろたえに似たものを感じた。
「え? なんと仰《おお》せられます?」
「いつの世でもよい。この山に陣場《じんば》をかまえて合戦《かつせん》した大将の話が聞きたいのだ」
「ここが合戦《かつせん》の場になったという話は聞いたことがございません」
「聞いたことがない? そうか。ないか。世の中はあほうばかりそろうているのじゃな。ここを陣場《じんば》にすれば、府内《ふない》も春日山《かすがやま》もひともみじゃになあ。おれははようおとなになりたいぞ」
双《そう》のほおにえぐったようなかわいいえくぼを見せながら、不敵なことを言う。新兵衛《しんべえ》は背すじにつめたいものの走るのを感じたが、たちまちそれは消えて、うれし涙がつき上げてきた。両手をつかえて言った。
「お虎《とら》様がえらい武将《ぶしよう》におなりになれば、ただいまのおことばはあっぱれ金言《きんげん》と、世の末まで語り伝えられますぞ。えらくなってくださりませや、えらくなってくださりませや……」
ほろほろと泣いていた。
「うん、うん」
とうなずいている景虎《かげとら》の目は、また平原に返っている。日が横雲に入って、蒼茫《そうぼう》たる暮色《ぼしよく》のせまっている平野を見つめているその目はうすく涙ぐんでいた。
三
景虎《かげとら》が栃尾《とちお》に追放された翌年春、為景《ためかげ》は宇佐美定行《うさみさだゆき》とともに兵をひきいて越中《えつちゆう》へ入った。この近年、越後《えちご》国内の一向《いつこう》宗門徒《もんと》らが領主《りようしゆ》の命《めい》に従わず、ややもすれば団結して反抗の色を立てるのだが、背後にあってその糸を引いているのが、門徒《もんと》なかまの越中《えつちゆう》の豪族《ごうぞく》らであることが明らかになったので、これを征伐《せいばつ》するためであった。
越中《えつちゆう》と能登《のと》は足利幕府《あしかがばくふ》の初期以来、足利《あしかが》氏の一族で三管領《さんかんれい》の一つである畠山《はたけやま》氏の管国《かんこく》であったが、この時代は古い名門|閥族《ばつぞく》の勢いがおとろえ、権力が下へ下へと移っていく時代で、畠山《はたけやま》氏の勢いも微弱になり、国侍《くにざむらい》らが割拠《かつきよ》して威《い》を張りあっていた。
越後《えちご》勢は侵入《しんにゆう》するや、宇佐美定行《うさみさだゆき》の軍が下新川《しもにいかわ》郡の松倉《まつくら》城をおとしいれたので、為景《ためかげ》はさらに進んで射水《いみず》郡の放生津《ほうしようづ》城を攻めた。
放生津《ほうしようづ》はいまの新湊《しんみなと》町、富山市の西北方五里、富山|湾《わん》に注《そそ》ぐ庄《しよう》川の河口右岸にある町だ(昭和六十一年現在新湊市)。遠く平安朝のはじめごろには亘理《わたり》の港と呼ばれて、そのころから交易の利の豊かなところと言われている。こういう所だったので畠山《はたけやま》氏もここははなさず握りしめていた。
為景《ためかげ》が放生津《ほうしようづ》城に攻めかけた時、放生津《ほうしようづ》城の守りはいたって手うすであった。当主の畠山稙長《はたけやまたねなが》は河内《かわち》の高屋《たかや》が本城《ほんじよう》なのでここにおり、家臣《かしん》らが在番《ざいばん》しているだけであった。そのほかに京の公家徳大寺大納言実矩《くげとくだいじだいなごんさねのり》ら九人が女連れで滞在《たいざい》していた。徳大寺実矩《とくだいじさねのり》は畠山稙長《はたけやまたねなが》の妹の子であるが、うちつづく戦乱のために諸国にある所領《しよりよう》が武士どもに横領されて年貢《ねんぐ》の途《みち》が絶えたうえに、京都の戦乱で邸宅《ていたく》も焼けたので、叔父《おじ》の稙長《たねなが》にたのんで、豊かであるとのうわさを聞いている放生津《ほうしようづ》に、同族の公家《くげ》八人をさそってきて、二、三年前から厄介になっているのであった。
この公家《くげ》さんたちがなんの戦力もないことはいうまでもない。かえって足手まといになるくらいのものだ。
火矢《ひや》を射かけて攻めのぼってくる越後《えちご》勢に、たちまちのうちに城はおとされ、徳大寺大納言《とくだいじだいなごん》以下の公家《くげ》さん方は猛火《もうか》の中に自殺して果てた。
四
放生津《ほうしようづ》城が落ちたのは、未《ひつじ》の刻(午後の二時ごろ)であった。為景《ためかげ》はすぐ城内に入ったが、城は余燼《よじん》がまだ燃えさかって急には消えそうもないので、勝鬨《かちどき》の儀式だけすませて、これまで本営のあった郊外の寺に引きかえした。
為景《ためかげ》には、出陣《しゆつじん》以来、松江《まつえ》がつきそっていた。史書《ししよ》は、松江《まつえ》の従軍《じゆうぐん》姿を、中二段を紫革《むらさきがわ》で縅《おど》した緋縅《ひおど》しの鎧《よろい》を着、半月《はんげつ》を打った冑《かぶと》の緒《お》をしめ、片鎌《かたかま》の槍《やり》をたずさえていたと記述している。男装の美女には一種異様な美しさと色気のあるものであるが、武装した松江《まつえ》にもそれがあったにちがいない。
彼女は為景《ためかげ》にひきそって、城外の本営まで来たが、夕方、着がえにかかった時、城内のある場所に忘れものをしたことを思い出した。勝鬨《かちどき》の儀式のはじまるすこし前、人気《ひとけ》のない城壁《じようへき》のすみに行って化粧《けしよう》をなおし、ついでに用を足したのであるが、その際ふところ鏡を城壁《じようへき》の上においたのをそのまま来てしまったのであった。
「はァれ、とんでもねえことをしてしもうたぞい。あれは銅《かね》の性《しよう》のよい鏡じゃ。あってくれればよいが」
つぶやきながら、馬をひき出してとりにいった。
腹巻《はらまき》の上に陣羽織《じんばおり》だけ、冑《かぶと》はかぶらず、黄金《きん》の天冠《てんかん》をひたいにあてた姿で、馬を走らせて城内に入り、その場所に行ってみると、鏡は置かれたままの姿でひっそりと城壁《じようへき》にのこっていた。
「やれ、うれしや、あってくれたかや」
腹巻《はらまき》の引き合わせに、しっかりとおさめて引きかえした。
大手の門から広い通りに出て馬を走らせて庄《しよう》川の堤《つつみ》に出た。おりから川には潮が上げ、まだ明るい空に上弦の月が出ていた。季節は百花一時にひらく雪国の春だ。風流気《ふうりゆうぎ》などみじんもない松江《まつえ》であったが、
「はァれ、なんちゅういい景色《けしき》だべ。なんちゅういい気持ちだべ」
と、手綱《たづな》をゆるめて、ゆったりと馬を打たせていたが、まもなく、どこやらに女の悲鳴を聞きつけると、はげしく舌打《したう》ちした。
「あァりゃ、ド畜生《ちくしよう》めら、またいたずらしていくさる」
現代でも、戦場にえらばれた土地の迷惑と難儀とはひととおりのものではないが、昔はもっとひどい。戦争のはじまる前には敵味方|双方《そうほう》から糧食や設営《せつえい》の道具を徴発《ちようはつ》され、戦闘中は家を焼かれ生業を蹂躪《じゆうりん》され、戦闘がすめば勝ったがわの兵士らの掠奪《りやくだつ》・暴行にまかせられたのだ。戦《いく》さは生き死にの場だ。いま死ぬかいま死ぬかと、魂をすりへらす恐怖の連続の後に、九死に一生を得た兵士らが、生きていることのもっとも確かな実証をもとめたがるのはもっとも自然な衝動《しようどう》だ。また、戦《いく》さとは人間と人間とが殺し合うことだ。人間のもつ神性が封じこめられ、もっとも野蛮な獣性がフルに発揮されることによってのみ可能なことだ。その獣性は、戦闘がすんだからとて即座に引っこみはしない。相当な期間、兵士らは獣性のままにいることになる。かくて、掠奪《りやくだつ》と暴行は起こらざるをえない条件がそろっているのだ。善悪は論ずるまでもない。悪いことにきまっているのだが、これはもっとも自然な発展である。この自然な発展は、名将といえども阻止《そし》することはできない。厳罰《げんばつ》をもって臨《のぞ》めば禁止できないことではなかろうが、あまりきびしくしては士気が不振になるおそれがある。士気が振るわんでは、将としての機能は喪失《そうしつ》する。結局、せいぜい極端《きよくたん》にならないように制御《せいぎよ》するくらいのことしかできないのがふつうであった。
まして、この時代は、軍規《ぐんき》などということには無頓着《むとんじやく》であるのがふつうであった。それはこの時代の軍隊の編制法《へんせいほう》から来ている。この次の時代になると、大名と部下の諸豪族《しよごうぞく》とは純然たる君臣《くんしん》の関係になるので、大名の統制力《とうせいりよく》も強力なものになったが、この時代の守護大名《しゆごだいみよう》は単にその地方の豪族《ごうぞく》の旗頭的《はたがしらてき》なもので、いわばその関係は組合長と組合員にすぎない。事あって軍隊を組織してくり出しても、その軍隊は豪族《ごうぞく》らの軍勢《ぐんぜい》のよせ集めにすぎなかった。守護大名《しゆごだいみよう》が大将軍(総司令官)であることはいうまでもないが、その命令権や統制力はいたって微弱なものであり、したがって軍規《ぐんき》にたいしても無頓着《むとんじやく》となるよりほかはなかったのだ。
もし軍規《ぐんき》にたいして特別な関心があっても、厳命《げんめい》のできるのは直属の自分の兵にたいしてだけで、豪族《ごうぞく》らの軍勢《ぐんぜい》にたいしては命令権がないのだ。せいぜい、豪族《ごうぞく》らに依頼半分に要求するくらいのものであった。
こんな次第で、松江《まつえ》もここへ来るまでの間には、ずいぶんむごいことを見てきたのだが、彼女はそれになれることができなかった。誠実な――あるいは頑固《がんこ》な彼女は、為景《ためかげ》の侍妾《じしよう》として、もう何年か上臈女房《じようろうにようぼう》の生活をつづけてきたのだが、その魂《たましい》は昔ながらの庶民のそれであった。だから、こんなことにたいしては腹の底から怒《いか》りが煮えたぎり、乱暴者どもをこらしめずにはおられなかった。これまでだって、いく人の乱暴兵士どもが半殺しの目にあわされたか知れないのであった。
この時もそうであった。彼女は怒《いか》りに燃える目を、暮色《ぼしよく》のせまっているあたりにくばったが、やがて小一町《こいつちよう》むこうの木立ちに包まれて二、三軒農家のあるあたりから走りだしてきた一団の人影を見た。およそ十五、六人。よく見ると、二組にわかれて、それぞれに何かおみこしのようにかついでいる。
「……わっしょい、わっしょい、わっしょい! ご法楽《ほうらく》じゃい! 甘露《かんろ》じゃい! お祭りじゃい! 念仏講《ねんぶつこう》じゃい!」
と、声をそろえてわめきながら、堤《つつみ》の方に来る。勝ち戦《いく》さの祝い酒にくらい酔ったのであろう、濁《だ》みた狂暴な声だ。
松江《まつえ》はそのかつがれているものは女であるにちがいないと見た。手綱《たづな》をひかえて、視線を凝《こ》らしたが、その時そこからまた悲鳴が上がった。呼吸《いき》もたえだえに、よわよわしくかすれた悲鳴であった。
「ド畜生《ちくしよう》!」
松江《まつえ》はカッと逆上した。堤《つつみ》の上をまっしぐらに馬を飛ばし、人々のいる上まで乗りつけると、馬を飛びおりて、そこへ走りくだった。
兵士らは、去年の枯《か》れ葦《あし》が焼かれたあとに若い葦《あし》がツンツン芽立《めだ》って五、六寸のびているそこに、河岸《かし》のまぐろのように二人をならべてころがし、円陣《えんじん》をつくってすわりこみ、聞くにたえないような猥雑《わいざつ》なことを言い合っていた。
よほどに酔っているのであろう、松江《まつえ》を見たくせに、それがだれであるかわからなかったらしい。円陣《えんじん》の中にあって宰領役《さいりようやく》をつとめていたヒゲだらけな兵が、
「あとから来たもんはクジには入れんぞい。ご法楽《ほうらく》にあずかるなら、みんながすんだあとじゃと思えい!」
と、どなった。
松江《まつえ》は、胸のむかつくようないやな臭気を立てている兵士らと、もう息が絶えているのではないかと思われるほど力ない姿で横たわったまま身動き一つしない女とを見くらべて、しばらく突っ立っていたが、いきなり兵士らの上をおどりこえて円陣《えんじん》の中に入り、手にしたむちをヒゲ男目がけてうならせた。
ヒューッと風を切ってきたむちに、したたかに横ッつらをなぐられた兵士は、悲鳴をあげておどりあがった。
「何さらす! こいつ!」
左手でほおをおさえ、右手を腰刀《こしがたな》のつかにかけてどなった。
一同もまたあわてふためいて飛びひらいた。薄暮《はくぼ》である。宵月《よいづき》は空にあるが、何がおこなわれたか、だれもはっきりとは見ていない。邪魔《じやま》が入ったとだけ合点《がてん》して、刀を鞘走《さやばし》らせてわめいた。
「うぬァだれじゃい? 敵か味方か? なぜ邪魔《じやま》しくさる!」
てんでにふりかざす刀に宵月《よいづき》が白い光になって走って目を射た。
松江《まつえ》はさわがない。ぬうッと突っ立ったまま、一人一人ゆっくりと見まわしておいて言った。
「うらァ守護代《しゆごだい》の殿《との》のおそばにいる松江《まつえ》つう女武者《おんなむしや》じゃ。わるさばかりして民百姓《たみひやくしよう》をいじめくさるやつばらはかんべんできねえだ。きりきりと立ち去りやがれ。悪あがきしやがると、ふとりふとり踏んつぶしてくれべい」
松江《まつえ》の存在、その勇力、ともに越後《えちご》勢の間ではかなり知れわたっていたのだが、不運にもこの連中は知らなかったらしい。
「なんじゃとオ? 女武者《おんなむしや》じゃア?」
「信濃守《しなののかみ》様のおそばに仕《つか》える者が、そげいな怪体《けつたい》なことばを使うかい」
などと言いながら、みなじりじりとせまりつつ、身をかがめて視線を凝《こ》らした。
「ほう! こりゃよいおなご衆《しゆう》じゃわ。てんとたまらんわい」
中にもむちでほっぺたをたたかれたヒゲ男は、ニタリと笑った。刀のつかにかけた手をはなし、ノサノサと近づいてきた。むぞうさにひっ捕《と》らえようとした。
「このド畜生《ちくしよう》!」
声より早く、ヒゲ男のからだは宙《ちゆう》に舞い、とり巻いている男どもの間にぶん投げられていた。
兵士らがおどろく間もない。松江《まつえ》はむちをすてて刀を引きぬいた。
「うぬら、一人のこらずブチ殺してくれるべい!」
苧殻《おがら》よりもまだ軽く、目にもとまらない速さでふりまわした。棟《むね》を返しているが、おそろしい剛力《ごうりき》だ、たちまち三、四人が、肩の骨を打ちくだかれ、腕をたたきおられ、肋骨《あばら》をへし折られ、悲鳴を上げて飛びすざった。みるみるくずれたち、やがてさんざんに悪態《あくたい》をつきながらにげだした。
五
「ドあほうのド畜生《ちくしよう》めら、ひとりまえの力もねえくせしやがって」
松江《まつえ》は刀をさやにおさめ、むちをひろって、それから女たちに近づいた。
「生きているのかよう。死んどるじゃアあんめいな」
と呼びかけながらしゃがんだが、すぐ、
「おォら、こりゃアこのへんのおなごではねえど!」
と、さけんだ。
ならんでころがされているのにも目をうつした。
「こっちもだア!」
二人とも年のころは三十四、五から七、八と思われた。気絶して、紙のように血の気のない色をしているが、目を近づけてよく見ると、細面《ほそおもて》の、よわよわしくはあるが、なんともいえず上品な顔をしており、自然のまゆを落としてつけまゆをしている。着ているものも、やわらかでまっしろな絹《きぬ》の小袖《こそで》だ。
「公家衆《くげしゆう》の連衆《つれしゆう》かもしんねえな。ここの城には公家衆《くげしゆう》がこもっていなさったちゅうことじゃったすけ」
とつぶやいた。
抱きおこし、ドンと背中をたたいてどなった。
「これやい、しっかりしなさろ!」
女はよわよわしい悲鳴をヒーッと引いて、にげようとするかのように、かすかに身もだえした。抱きとめて、
「にげるこたねえだ。安心してじっとしていなさろ。ドあほうのド畜生《ちくしよう》めらは追っぱらってしもうたすけ」
といたわった。
女はうつつ心がまだ返らないようで、恐怖にみちた目で松江《まつえ》を凝視《ぎようし》した。
「ほら、よう見なさろ、先刻《せんこく》のけだものどもではねえだろ」
と顔をつき出すと、相手は、「ああ」と長いためいきをつき、安心のあまりだろう、また気を失いかけた。松江《まつえ》はそのほおをパンとなぐりつけ、
「ええかげん世話ア焼かしなさろ! おめえ様だけにかかりきってはいられねえだ」
とどなっておいて、次の介抱《かいほう》にかかった。
これも世話を焼かせることは同じであったので、なぐりつけて正気づかせた。
「ふんとに、世話ばかりかける衆《しゆう》じゃ。そう弱うて、どうなるものぞ。おおかた、おめえ様方、京方《みやこ》の公家衆《くげしゆう》だべ」
男か女かわからないほどに美しい若武者《わかむしや》のくせに、粗野な田舎《いなか》ことばでしゃべりたてる相手を見つめる二人のよわよわしい目はとまどいしていた。
「そうですじゃろ?」
と、きめつけられ、あわててうなずいた。悲しみがかえってきたのか、しくしくと泣きだした。
「泣きなさるな! 泣いたとて、どうにもなりゃせんのじゃて。うらが助けてあげるすけ、立ちなさろ。さあ、歩《あゆ》びなさろ」
たすけおこして、左右にかかえるようにして堤《つつみ》をあがり、二人とも馬にのせた。
「しっかりつかまって、おちんようにしなさろ」
手綱《たづな》をとって歩きだした。
六
二人は徳大寺大納言《とくだいじだいなごん》とともに城中で死んだ梅《うめ》ガ小路中納言《こうじちゆうなごん》と唐橋少将《からはしのしようしよう》の北《きた》の方《かた》であった。なにせ、主上《しゆじよう》(後奈良《ごなら》)が生活にこまって、宸筆《しんぴつ》を売って鳥目《ちようもく》を得て、やっと暮らしをたてておられたという時代だ。堂上一統言句《どうじよういつとうごんく》に絶する生活苦にあった。
梅《うめ》ガ小路《こうじ》家と唐橋《からはし》家は徳大寺《とくだいじ》家と遠い姻戚《いんせき》にあたっていた。最初|徳大寺大納言《とくだいじだいなごん》が畠山《はたけやま》家をたよって放生津《ほうしようづ》に行った時にはさそわれもしなかったので、両家は同道しなかったが、その後やりきれなくなって、つい去年の秋、都を落ちてたよってきたのであった。
以上のことを、松江《まつえ》は二人を陣所《じんしよ》に連れて帰った後、自分の居間としてあてがわれているせまいへやで、二人に聞いた。
気が強くて男のように粗剛《そごう》な松江《まつえ》だが、情にはもろい。大つぶな涙をぽろぽろとこぼして、
「そんだら、来なさって、半年たつやたたずで、あんげな目におうて、ご亭主《ていしゆ》さん方は死んでしまいなされたのですわいなあ」
と、もらい泣きした。
もらい泣きされて、二人はいっそうはげしく泣きむせんだ。
この二人はよく似ている。ともにきゃしゃだ。手も、足も、顔も、なよなよとして、どこか血の足りないような、あるいは血の色がうすいのではないかと思われるような、繊弱《せんじやく》な美しさがある。年が年だから、しおれかけた花のような美しさだが、いかにも京の上臈女房衆《じようろうにようぼうしゆう》という感じだ。あまり似ているので、聞くと、姉妹で、梅《うめ》ガ小路卿《こうじきよう》の北《きた》の方《かた》が姉で四十一、唐橋卿《からはしきよう》の北《きた》の方《かた》が四十であるという。
「ご姉妹《きようだい》ながらねえ」
と、松江《まつえ》がまた涙をこぼした時、梅《うめ》ガ小路卿《こうじきよう》の北《きた》の方《かた》が、なんのつぎほもなく言った。
「越後《えちご》の柿崎《かきざき》というに、わたくしどもを送っていただけましょうか」
これからずっと二人を世話する心をきめてはりきっていた松江《まつえ》は、ちょいと気をわるくした。
「柿崎《かきざき》になんの用事がござるだ? 知るべでもあるのですかえ?」
と、すこしあらっぽい調子になった。
二人はすくみあがったが、ぼそぼそと言う。
「柿崎《かきざき》の領主《りようしゆ》の和泉守景家《いずみのかみかげいえ》というに、わたくしの姫も、こちらの姫も、行っていますので」
意外のことばであった。
「へえ? そうですかい。そういうことだら、送ってあげますべ。しかし……」
松江《まつえ》は、姫君《ひめぎみ》たちは柿崎弥二郎《かきざきやじろう》のところで何をしているのだと問いかけようとしたのだが、ふと思い出したことがあって、口をつぐんだ。
もう七、八年にもなることだから、いまでは人が思い出すこともまれになっているが、為景《ためかげ》が京から美女を二人買ってきて柿崎《かきざき》に贈って合戦《かつせん》に裏切りさせ、大勝利を得たことは、当時大評判になっていたことだ。――ああ、あの時の美しい京おなごというのが、この人々の姫君《ひめぎみ》であったのかと、松江《まつえ》はまじまじと二人を見ていた。めぐりあわせのふしぎさもだが、あわれさが胸にせまった。
梅《うめ》ガ小路卿《こうじきよう》の北《きた》の方《かた》は、
「わたくしども、夫ともども、放生津《ほうしようづ》は一時《いつとき》のことにして、やがて柿崎《かきざき》へ行くつもりで京を出たのでございますが、うかうかと日を過ごしているうちに、こんなことになってしまいました。早く行っていれば……」
と言って、また泣き沈んだ。
「わたくしども、姫らに申しわけないことをしていますので、合わせる顔もないのでございますが、ひと目会うてわびを言いたいと思いますので、夫とともども死ぬべき身であるのを、きたなく生きながらえて、城をぬけ出したのでございます」
といって、唐橋卿《からはしきよう》の北《きた》の方《かた》も泣きむせんだ。
「よござります。柿崎《かきざき》へ送りとどけて進ぜますべ。ちょっくら待っていてくださろ」
松江《まつえ》は為景《ためかげ》の居間に行き、委細《いさい》の話をした。為景《ためかげ》も話のふしぎさにおどろいた。
「会うてやってくださりませ。わしはもうあわれであわれでなりましねえだ」
と言って、返事も待たず引きさがり、二人を連れてかえってきた。
花野に死す
一
二人の公家《くげ》の北《きた》の方《かた》は、為景《ためかげ》にとっても奇縁《きえん》の人ではあるが、会いたくはなかった。一つには玉石《ぎよくせき》ともに焚《た》いてその夫らを攻め殺している。二つには玄鬼《げんき》が勝手にやったこととはいえ、その娘らを買いとって柿崎誘惑《かきざきゆうわく》の餌《えさ》にしている。自分が二人にこころよく思われていようとは思われないのだ。が、松江《まつえ》が連れてきた以上、しかたはない。
会う以上、堂上《どうじよう》の未亡人《みぼうじん》方だ。粗末にあしらえない。上座《じようざ》に請《しよう》じて、いろいろと慰めた。あたかも柿崎弥二郎《かきざきやじろう》も出陣《しゆつじん》の軍勢《ぐんぜい》中にいるので、その話もした。
「姫君《ひめぎみ》方が素姓《すじよう》をおおせられませんので、高貴なお生まれであるとは、拙者《せつしや》はつゆ存じませんでした。柿崎《かきざき》も知りますまい。知ったら、さぞ驚くでありましょう。恐縮《きようしゆく》もするでありましょう。さっそくに呼びます」
と、すぐ使いを出した。
「引き合わせたい人がある。すぐまいるよう」
という口上《こうじよう》であった。
柿崎《かきざき》の本陣《ほんじん》は、為景《ためかげ》の本陣《ほんじん》のある川口《かわぐち》村から十七、八|町《ちよう》離れた曾根《そね》村にあった。
為景《ためかげ》の使いが来た時、柿崎《かきざき》は猛烈に腹を立てていた。
ついいましがたのことだ。彼は部下の兵どもから報告を受けた。
「わたくしども、城外の川のほとりで、二人の女を捕らえました。その器量といい、その風俗といい、城中にこもっておられました堂上方《どうじようがた》おつきの上臈女房衆《じようろうにようぼうしゆう》にまぎれないと思われました。しかるに、ご本陣《ほんじん》に引っ立ててまいる途中、にわかに一隊の人馬が立ちあらわれ、理不尽《りふじん》にも女方を奪いにかかったのでございます。わたくしども、手痛《ていた》く防ぎ戦ったのでございますが、ほどなく相手方が守護代《しゆごだい》の殿の近習衆《きんじゆうしゆう》であるとわかりましたので、めんどうなことになってはならぬと思い、引き渡しました」
という報告。
勃然《ぼつぜん》として、弥二郎《やじろう》は怒《いか》り、
「けしからんことじゃわ。せっかくの獲物《えもの》を、敵が取りかえしに来るならば話はわかるが、味方が横取りするということがあるものか。そういうことで、どうして兵どものはげみが出よう。ことさら、それは京方《きようがた》の上臈女房衆《じようろうにようぼうしゆう》で、おれにくれようとて連れてくる途中であったとあっては、聞きすぐしにはできぬ。ねじこまいでおこうか」
と、たけりたっていたのであった。
「なんじゃと? おれに引き合わせたい人がある? だれじゃ? 来てみればわかる? おお、行かいでか! ことのついでに、殿に言いたいことがある。取り返さいでおこうか!」
ひげ食いそらし、勢いこんで陣所《じんしよ》を出た。
為景《ためかげ》は座をもちかねていた。両|上臈《じようろう》は涙のたえ間がなく、陰々滅々《いんいんめつめつ》として、こちらから話しかけないかぎり、自分らの方からはけっして口をきかない。女相手にそう話題があろうはずはない。両女の現在の悲境にはこちらが責任があるとはいっても、一応のわびをいえば、それでおしまいだ。あぐねはてて、弥二郎《やじろう》の来るのを待ちわびていた。
その弥二郎《やじろう》がついに来た。為景《ためかげ》はほっとして迎えた。
「これが柿崎《かきざき》和泉《いずみ》でござる。こちらは中納言梅《ちゆうなごんうめ》ガ小路卿《こうじきよう》と、少将唐橋卿《しようしようからはしきよう》の北《きた》のおん方《かた》」
と、為景《ためかげ》は引き合わせた。
姿形のあらあらしさに似ず、カンはよい弥二郎《やじろう》ではあるが、でなくても、それほどのカンを必要とすることではない。どうやら兵士どもが話していたのは、この上臈《じようろう》方らしいと思いながら、拝礼した。なるほど、残《のこ》んの色香《いろか》はまだ十分なものがあるが、年がいきすぎていると思った。うば桜には興味がないのである。この二人なら、そうおしいことはないわと、大いに気がなごんだ。
弥二郎《やじろう》にとっては、興味のない女は存在しないにひとしい。ひととおりのあいさつがすむと、為景《ためかげ》の方をむいて、
「さてお使いの口上《こうじよう》では、拙者《せつしや》にひき合わせたい人物があるとのことでござったが」
と言った。
松江《まつえ》が横から口を出した。
「柿崎《かきざき》の殿様《とのさま》、お前様は武勇にはたけていなさっても、カンはにぶいようでござりますの。このお二方《ふたかた》は、お前様が信濃守《しなののかみ》様からおもらいなされて、両手の花とご寵愛《ちようあい》なされている京下りのおなご方お二人の母御《ははご》様でござるといいますだに」
「なんじゃと?」
弥二郎《やじろう》は大きな目をむいて、まじまじと二人を見た。一人から一人へ、またもとへ、いくども視線を往復させた。
「あのお二人にお会いになろうとて、お前様のお城にまいらるる途中、ここの城にご滞在《たいざい》になったがご不運で、こんどのかなしい目におあいなされたということですけ、お前様大事にして、お城へ送りとどけなさるがよござるだ。ついでに、わしにもお礼を言うてもらいますべ。だれの手の者じゃか知んねえども、大勢でお二人をとらまえて、悪いいたずらしようとしていくさったのを、わしが追っぱらってお連れしたのですけ」
柿崎《かきざき》も侍妾《じしよう》らの素姓《すじよう》については聞くところがない。はじめて知ることだ。あきれた目で、なお見ているだけであった。
翌日、柿崎《かきざき》は心きいた家臣《かしん》らをつけて、居城《きよじよう》へ送った。
越後《えちご》勢はなお一月ほど越中《えつちゆう》にとどまって、占領地域の残敵を掃蕩《そうとう》し、放生津《ほうしようづ》城と松倉《まつくら》城に守将をおいて、本国に凱旋《がいせん》した。
二
話はこの時から四年飛ぶ。
満四年の間、越中《えつちゆう》の占領地区は平穏無事であった。越後守護上杉定実《えちごしゆごうえすぎさだざね》の力は――実際は守護代為景《しゆごだいためかげ》の統制力だが、完全に占領《せんりよう》地区をおさえきっているようであったが、天文《てんぶん》十一年の春になると、いきなり不穏になった。神保《じんぼ》・江波《えなみ》・松岡《まつおか》・椎名《しいな》などという越中《えつちゆう》の豪族《ごうぞく》らが、失地回復のために、この地方に多い一向《いつこう》宗門徒《もんと》らを煽動《せんどう》して、一揆《いつき》をおこしたのだ。
四年前の越中《えつちゆう》入りも春であり、こんども春であるが、それは雪のためだ。雪が深くて軍勢《ぐんぜい》の行動ができないので、この期間はもっぱら計略と準備についやされる。しんしんと降りつづけてやまない深い雪の下で、陰謀《いんぼう》はねりかえしねりかえし丹念《たんねん》にめぐらされ、水も漏《も》らさぬ緊密《きんみつ》な連絡がとられ、それが陽春の雪どけとともに行動化してくるのである。
用心深い為景《ためかげ》がこの陰謀《いんぼう》につゆ気づかなかった。思うに、信仰にこりかたまって、結束もかたく、口もかたい一向《いつこう》宗門徒《もんと》が土台になっていたからであろう。晩春《ばんしゆん》、一揆《いつき》勢が放生津《ほうしようづ》城に攻めかけたとの注進《ちゆうしん》があってはじめて知った。
為景《ためかげ》はおどろきはしたが、十分な自信をもっている。宇佐美定行《うさみさだゆき》に連絡して、さっそくに出動した。
越後《えちご》勢がむかうと聞いて、一揆《いつき》勢は放生津《ほうしようづ》の攻囲《こうい》をやめて遠く加賀境《かがざかい》ににげた。
為景《ためかげ》は宇佐美定行《うさみさだゆき》に松倉《まつくら》城を守らせ、みずからは放生津《ほうしようづ》にむかった。
放生津《ほうしようづ》に入って数日の後、一揆《いつき》勢は放生津《ほうしようづ》から南方四里半の栴檀野《せんだんの》に出てきた。一揆《いつき》とはいえ、一向《いつこう》宗門徒《もんと》の百姓兵《ひやくしようへい》と越中《えつちゆう》の豪族《ごうぞく》らの連合勢だ。単なる百姓兵《ひやくしようへい》ではなかった。
栴檀野《せんだんの》はいまの礪波《となみ》市の権正寺《ごんしようじ》・頼成《らんじよう》・徳万《とくまん》・安川《やすかわ》あたりの地域で、西は庄《しよう》川にかぎられ、東は山地にかぎられた東西十七、八|町《ちよう》、南北二十五、六|町《ちよう》という平野である。今日では坦々《たんたん》たる水田地帯であるが、この小説の時代は一帯の草原地帯であったようである。一揆《いつき》勢はここまで押しだしてきたが、そこにとどまって進んでこようとはしない。
疑い深いくらい用心深い為景《ためかげ》だ。こうした敵の態度には一応も二応も思慮をめぐらしてみなければならなかったのに、この時にかぎって考えられないくらい不用意であった。
それは彼が敵を見くびりきっていたためだ。彼は一揆《いつき》勢が放生津《ほうしようづ》城まで寄せてこないのは、その臆病《おくびよう》のせいであると解釈して、
「土民まじりの勢だ。そこまで出てきたものの、おじけづいて足が出なかったのじゃろうて」
とたかをくくった。
多少の物見《ものみ》はさせたが、いつもほど念入りではなかった。物見《ものみ》につかわした者どももまた為景《ためかげ》と同じ心理になっている。彼らはみな、一揆《いつき》勢がおびえたって不安に駆られ、豪族《ごうぞく》らはそれをおししずめるのにけんめいであるとのみ見てきて報告した。
「さもあろう」
と為景《ためかげ》はほくそえんだ。
「あほうなやつばら、野戦の方がこちらにとっては都合がよいという見きわめもつかんのか。やつらの方からすれば、無二無三《むにむさん》に城を攻めかけて、こちらを城に封じこめれば、風向きを見ていた者どもも味方にはせ参じてくるから有利になるわけじゃが、それもわからんらしいわ。いやいや、わかってはいても、兵どもが言うことをきかんからしかたがないのかもしれん。百姓兵《ひやくしようへい》どもなどを抱きこむから、こんなことにもなるのじゃわ」
とにかくも、十分な自信をもって、栴檀野《せんだんの》へくり出した。兵数は四千であった。
合戦《かつせん》は四月十一日の早朝からはじまった。当時の暦《こよみ》で四月といえば初夏であるが、春のおそいこの北国《ほつこく》では、まだ陽春といってよい。梅も、桃も、桜も、野の花もいっせいに咲きそろっている季節である。
為景《ためかげ》は同族で三条《さんじよう》の城主である長尾俊景《ながおとしかげ》を先鋒《せんぽう》にした。俊景《としかげ》勢五百はさまざまな花の散らばり咲いている美しい緑の野を整々《せいせい》と押して出た。
越中《えつちゆう》勢の先手《さきて》は松岡《まつおか》長門守《ながとのかみ》の勢五百余人であった。
両軍は南北からときどき鬨《とき》の声を合わせながらじりじりと出て、矢ごろに入ると楯《たて》をつきならべ、矢戦《やいく》さにかかった。
楯《たて》の陰から射はなつ矢は両陣《りようじん》の間の、朝露のきらめきとさまざまな花によって飾られている緑の野の上を羽虫のように飛びかっては、鋭い音を立てて楯《たて》につきささった。あたればたいへんだが、容易にはあたらない。
この矢戦《やいく》さを相当長くつづけた後、突撃に移り、白兵戦《はくへいせん》となるのが、当時の合戦《かつせん》の型であった。鉄砲渡来前であるから、のんびりしたものである。
第二陣にひかえたのは柿崎《かきざき》和泉《いずみ》の手勢《てぜい》であった。柿崎《かきざき》は手勢《てぜい》三百人をみな馬からおり立たせ、それぞれに口綱《くちづな》を短くとらせて、またたきもせず先陣《せんじん》の戦《いく》さぶりを見ていたが、そのあまりにも正統派的な合戦《かつせん》ぶりが気に入らなかった。
(戦《いく》さには定《さだ》まった方式なんぞない。勝てばよいのだ。戦機を逸《いつ》しさえしなければかならず勝てるのだ)
といつも思っている弥二郎《やじろう》の目から見ると、俊景《としかげ》はいくどもその戦機を見のがしているとしか思えないのだ。敵が射つづけるからといって、味方もつき合って射つづけなければならない義理はないのだ。
とうとう、たまりきれなくなった。
「乗れい!」
とさけんだ。ザワッと物《もの》の具《ぐ》が鳴って、一隊は騎乗《きじよう》した。
「つづけ!」
まっさきかけて飛びだす弥二郎《やじろう》につづいて一隊三百人、一かたまりになって疾駆《しつく》にうつった。弥二郎《やじろう》は先鋒《せんぽう》隊のわきを迂回《うかい》して、ななめ横から敵の先陣《せんじん》部隊をめがけて突進した。
これを見て、俊景《としかげ》は腹を立てた。
「ご陣法《じんぽう》わきまえぬにもほどがあるぞ! 狼藉《ろうぜき》なり」
とどなったが、柿崎《かきざき》勢がきき入れるはずがない。俊景《としかげ》も突撃に出るよりほかはなかった。
「おくれるな! それ行け!」
馬を引きよせて飛びのって駆けだした。部隊もあわてながらつづく。
みるみる、越中《えつちゆう》勢は色めいた。先陣《せんじん》が敗走《はいそう》にかかると、二|陣《じん》・三陣がかわりあって出てきたが、出てきただけであった。たちまち駆けやぶられ、しどろとなって混乱した。
後陣《ごじん》にひかえていた為景《ためかげ》は、いまぞ勝機到来《しようきとうらい》と見た。馬に飛びのるや、
「かかれ! かかれ! かかれ!」
とちぎれるばかりに采配《さいはい》をふりながら疾駆《しつく》した。為景《ためかげ》はこの時すでに七十五であったが、鍛練《たんれん》をおこたらず、摂生《せつせい》につとめているだけに、おどろくべき老健《ろうけん》さをもっている。勝機をつかんで昂揚《こうよう》しきっているうえに、馬がすばらしい。つぎつぎに兵士らをぬきつつ進んだ。
越中《えつちゆう》勢は立つ腰もないふうで、いのちからがら見苦しい潰走《かいそう》ぶりであったが、なだれを打ってひとおしにはにげない。いくつかのかたまりになって、わかれわかれににげていく。ふだんの為景《ためかげ》なら、この逃走ぶりには疑念《ぎねん》を抱かなければならないところであったが、人の運命のきわまる時はしかたのないもので、その思慮を欠いた。
「にがすな! 一人ものこさず討《う》ち取れい!」
と、たえず絶叫《ぜつきよう》しながら、疾駆《しつく》しつづけた。
越後《えちご》勢が、越中《えつちゆう》勢のしかけたおとし穴におちいったのは、瞬時《しゆんじ》の後であった。
この前夜、越中《えつちゆう》勢はこの原に深いおとし穴を数十か所掘り、簀子《すのこ》をおき、その上に芝《しば》を伏せておいたのだ。
勝つに乗り勢いこんで追いかけてきた越後《えちご》勢は、人馬もろとも、驚きと絶望の叫びを上げ、あとからあとからとおれ重なっておちいった。
為景《ためかげ》は先頭に近いところを走っていた。彼は自分の前に立った武者《むしや》らが、悲鳴とともに土煙《つちけむり》を上げて眼前から消え、目の前におとし穴のあるのを見た時、はっとしながらも馬上に身を伏せた。瞬間、馬は心得《こころえ》て、蛇体《じやたい》のように身をうねらせたかと思うと、はば二十尺にもおよぶ穴の口をかるがるとおどりこえた。
馬の走るままになお十|間《けん》ほど行って、為景《ためかげ》は馬首《ばしゆ》をかえしたが、見るも惨烈《さんれつ》な情景がそこには展開していた。数十か所のおとし穴には後方から勢いこんで押してくる人数におされて、なお人馬が転落しつつあり、阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄図絵《じごくずえ》そのままであった。
「返せ返せ、敵にははかりごとがあるぞ!」
と呼ばわりながら引きかえし、混乱しきった陣形《じんけい》を立てなおそうと狂奔《きようほん》していると、野のいたるところに鬨《とき》の声がおこり、濠《ほり》をうがって潜伏していたのであろうか、鬨《とき》の声のおこったところに、サッと旗や吹貫《ふきぬき》が上がり、蟻《あり》のはい出すように兵がおこりたち、矢をそそぎかけ、白刃《はくじん》をきらめかして突進してきた。旗には、あるものには「厭離穢土《おんりえど》、欣求浄土《ごんぐじようど》」と書き、あるものには「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と書いてある。
戦《いく》さは気のものだ。つぎつぎに二度も虚をつかれては立ちなおれない。越後《えちご》勢は七花八裂《しちかはちれつ》、かねて名を得た勇士らさえ、もっとも見苦しい様子を見せてにげまどった。
三
いまはもう為景《ためかげ》も死を決した。わずかにかき集めた数人を左右に立てて血戦したが、すでに完全な勝利を得て、十分な余裕をもっている越中《えつちゆう》勢の戦法は辛辣《しんらつ》をきわめた。遠巻きにして矢を雨のように射かけておいては、さっと四方からせまっていどみかけて刃《は》まぜし、またさっとひらいては矢を射かける。なぶり殺しするつもりかと思われるほどのいじわるさであった。
為景《ためかげ》は全身の鎧《よろい》にはりねずみのように矢を射立てられ、うちいくすじかは箆深《のぶか》く身にとおっていた。自殺したいと思ったが、そのひまがない。
「情けを知らぬやつばらめ!」
と怒《いか》りながらも、さすがに年だ。いまはもう戦う余力はない。呼吸《いき》が切れ、目がかすみ、刀をさかさまに大地につき、ぼうと意識が遠くなっている時、敵勢《てきぜい》の中から駆けよってきた者があった。
「神保《じんぼ》左京進《さきようのしん》が郎党江崎《ろうどうえざき》但馬《たじま》、見参《げんざん》!」
と名のって、槍《やり》をひねってつっかけた。
為景《ためかげ》は刀を上げまではしたが、受け止める気力はない。胸板をつきぬかれ、よろめきながらたおれた。
江崎《えざき》但馬《たじま》と名のる武者《むしや》は走りより、馬乗りになって首を上げ、為景《ためかげ》の刀にした佩刀《はかせ》と鞘《さや》をはずし、また腰の環《わ》におさめた采配《さいはい》をとりおさめた。大将の首を上げた時には、これらのものを添えて実検《じつけん》に供《きよう》するきまりになっているのである。
江崎《えざき》が立ちあがった時であった。馬を飛ばしてはせよってきた武者《むしや》があった。中二段を紫革《むらさきがわ》で縅《おど》した鎧《よろい》に半月《はんげつ》の前立《まえだて》を打った冑《かぶと》を着ていた。片鎌《かたかま》の槍《やり》をひねって、
「うぬア、殿様を討ち取りくさったな!」
と絶叫《ぜつきよう》しながら、江崎《えざき》についてかかった。
松江《まつえ》であった。彼女は為景《ためかげ》とならんで突撃にうつったのであるが、馬足がおとったため、はるかにおくれたので、おとし穴におちいる災厄《さいやく》はまぬかれることができたが、すきまもなく攻撃に出てくる越中《えつちゆう》勢の伏兵《ふくへい》にさえぎられて、いままで為景《ためかげ》のそばに来ることができなかったのであった。
為景《ためかげ》を討ち取られて、松江《まつえ》は激怒《げきど》していた。彼女は為景《ためかげ》にたいして特別に深い愛情をもっているわけではないが、夫婦にひとしい関係を結んだからには、これに忠誠をつくすべきものと、素朴《そぼく》に、単純に、かたく信じていた。怒《いか》りに燃えた彼女の槍法《そうほう》ははげしかった。突いてきたかと思うと、はね上げ、まっこうから打ちおろし、横にはらい、目にもとまらない迅速《じんそく》さだ、勇士の名のある江崎《えざき》であったが、敵せず、たじたじとなった。
これを見て、新しい一人が走りよって突いてかかったが、一槍《ひとやり》に突きふせられて即死し、なお数人がつぎつぎにかかったが、めったに三合《さんごう》とこらえるものはなかった。たちまち四人が即死し、五、六人が手傷《てきず》を負《お》うた。
敵はこの若武者《わかむしや》が女であるとは知らない。美しい少年|武者《むしや》とばかり思っている。強さに舌《した》を巻いた。
「手ごわいぞ! 総がかりだ!」
とさけびかわし、おっとり巻いてかかった。
「この腰ぬけのションベンたれども!」
と松江《まつえ》はいっそう腹を立て、槍《やり》の根元をつかんでたたきたて、薙《な》ぎたて、阿修羅《あしゆら》のように狂ったが、一人がすきをはかって突きだした槍《やり》に冑《かぶと》を突かれた。したたかな衝撃《しようげき》であった。松江《まつえ》はあっとのけぞったが、とたんに忍《しの》びの緒《お》が切れ、冑《かぶと》がぬげた。馬上に立ちなおろうとして、はげしく上体をゆすった。すると、髪をつつんだきれが飛び、たばねた髪がほどけて、サッとなびいた。
「ヤ、女だぞ!」
人々はいっせいにさけんだ。
四
女ということがわかると、一揆《いつき》方はにわかに気勢《きせい》があがった。
「生けどれ!」
「殺すな!」
「傷《て》も負《お》わせるな!」
さけびかわしながら、八方から襲いかかった。
「こしゃくな!」
松江《まつえ》はまゆをさかだて、片鎌《かたかま》の槍《やり》をふるって一人を薙《な》ぎふせ、さらに一人を薙《な》ぎたてたが、その男は身を沈めるや、むんずと槍《やり》の柄《え》をつかんだ。
もぎとろうとし、もぎとられまいとして、もみあうはずみに、松江《まつえ》の髪ははばひろいむちのように宙《ちゆう》になびいた。その髪のただなかに一人の武者《むしや》が鉤槍《かぎやり》をからませて、グンとうしろにひいた。松江《まつえ》は槍《やり》をはなし、身を弓のようにそらしざま、刀を抜いてうしろをはらい、鉤槍《かぎやり》の柄《え》を切りはらった。髪をふって、からみついた鉤槍《かぎやり》をからりとふりおとし、乱れた腰を鞍《くら》にすえなおそうとしたが、そのわずかなすきに、一人の武者《むしや》が刀をもった手にしがみつき、いっきに馬から引きずりおとした。
馬が狂奔《きようほん》して去るあとに、武者《むしや》は松江《まつえ》にのしかかっておさえつけようとしたが、松江《まつえ》の剛力《ごうりき》はそうさせない。
「このいやらしいさかりつきめ!」
とののしったかと思うと、エイヤと大喝《だいかつ》してはねとばした。
しかし、そこまでの抵抗であった。はねとばして起きあがった刹那《せつな》の体勢がまだ定《さだ》まらないところを、うしろからいなごのように飛びついた武者《むしや》が、足をからんでうつ伏せにおしたおし、おしたおすや、折れよとばかり腕をうしろにねじあげた。
はげしくもがけば、腕がおれる。
「……この、この、このくそやろう!……」
と、無念の歯がみをした。
他の武者どもはぜんぜん手出しをしない。一騎討《いつきう》ちの作法《さほう》を重んじてのことではない。朋輩《ほうばい》が失敗したら、かわりあって自分が生け捕るためだ。
こうしてみながニヤニヤと笑いながら見ている前で、その武者《むしや》は背にねじあげた松江《まつえ》の両手のはたらきをひざと右手でころし、左手と口で腰のさし縄《なわ》をくり出して、ひしひしとしばりあげた。
松江《まつえ》はしばられて大地にうつぶしたまま、
「うらァ討ち死にしたかったに、とりこになってしもうた。うらァ残念だァ! うらァ残念だァ!……」
とさけびながら、声を上げ、身をゆすって泣いた。
妙齢《みようれい》の美女が悲嘆しているのだ。ふつうなら武士どもも感動したにちがいないのだが、田舎《いなか》ことばまるだしのわめきと、あまりにも大がかりな悲嘆ぶりとに、おかしくなったらしい。みなニヤニヤ笑い出した。
松江《まつえ》を捕《と》らえた武者《むしや》も笑いをおさえかねたふうであったが、やがて、
「立たっしゃい」
と、引きおこした。
松江《まつえ》はハタと泣きやんで、むくむくと起きあがった。涙と汗にぬれた顔に、泥《どろ》や草のきれッぱしがついていた。人々はドッと笑った。松江《まつえ》は腹を立て、自分を捕《と》らえた武者《むしや》の顔を目がけてツバを吐《は》きかけた。
「うぬ! 女と思うてやさしくすれば!」
相手は腹を立て、刀のつかに手をかけてにらんだ。
「斬《き》るがいいだ! 斬《き》ってくれるなら、本望《ほんもう》じゃわい!」
はげしい目でにらんで、また悪態《あくたい》をついた。相手は肩で二、三度|呼吸《いき》をして気を静め、それから言った。
「そなたは拙者《せつしや》が生け捕ったものだ。むざむざ切ってなろうか。歩きなさい」
五
松江《まつえ》を生け捕ったのは、神保《じんぼ》左京進《さきようのしん》の家臣蒔田《かしんまきた》主計《かずえ》という若い勇士であった。他の捕虜《ほりよ》に松江《まつえ》の身分を聞いた後、神保《じんぼ》の見参《げんざん》にそなえた。神保《じんぼ》は松江《まつえ》の身分を聞き、働きを聞き、つくづくと容貌《ようぼう》を見て、すくなからず興味をおぼえたふうであった。
「その方にあずけおく。いたわってとらせるよう」
蒔田《まきた》は当時の武士としては情ある者であった。宿舎《しゆくしや》にしている民家につれかえると、縄《なわ》をといた。
「勝敗は時の運、武士には常のことでござる。武運《ぶうん》つたなければ敗《ま》けもするし、捕《と》らえられもします。いささかもお恥じになることではござらぬ。ただ、いったん捕らえられた後、悪あがきしては、見苦しゅうござる。のどやかに、おとなしやかにあるこそ、日ごろのたしなみのほども思われてゆかしく存ずる。こうしていましめを解きまいらせた以上、この心がけをお忘れなく、自由にくつろぎくださるよう。しかしながら、申すまでもないことながら、この家から外へはお出にならぬようにねがいとうござる。お身のまわりのことには、小者《こもの》一人つけておきますゆえ、なにごともご自由におおせつけくださいますよう」
と、教訓し、いたわって、十五、六の小童《こわらわ》を一人つけた。
松江《まつえ》は打ってかわっておとなしくなっていた。やたらに爆ぜる炭火のようなあつかいにくさはすっかり消え、悲しみに打ちひしがれたように、涙ぐんだ目をしてうなだれてばかりいた。蒔田《まきた》の情あることばにあうと、ほろほろと涙をこぼしながらうなずいていた。
口をきかないでこうしてうちしおれていると、まれに見る美貌《びぼう》だけに、鎧《よろい》の重さにたえぬかのようにいじらしく、またたおやかな風情《ふぜい》であった。
蒔田《まきた》は別室にさがって鎧《よろい》をぬぎ、酒をのんでいたが、まもなくふたたび武装すると、本陣《ほんじん》に行き、神保《じんぼ》の目通りに出た。
「お願いがあってまかり出ました」
「なんだ」
「拙者《せつしや》が生け捕りましたあの女を、拙者《せつしや》に賜《たま》わりとうござる。拙者《せつしや》はまだ定《さだ》まる妻のない身でござれば、宿の妻としたいのであります」
神保《じんぼ》は笑った。
「あれは顔は美しいが、全然の百姓女《ひやくしようおんな》で、すでに信濃守《しなののかみ》の侍妾《じしよう》となって数年もたつというのに、ことばづかいすらあらたまらぬというでないか。ほしくばやるが、妻にすることはあるまい。奴婢《ぬひ》なり、妾《しよう》なりにして、ほしい時に抱くがよい」
「おことばではありますが、やはり妻にいたします。仰《おお》せられるとおりの粗野しごくの田舎女《いなかおんな》ではありますが、その勇力は比類《ひるい》がありませぬ。子を生ませて、あっぱれ勇士と育てたいのでござる」
蒔田《まきた》は一すじの熱心さであった。武勇が男たるものの第一の資格とされている時代だ。神保《じんぼ》はすぐ了解した。
「なるほどの。和田《わだ》ノ小太郎義盛《こたろうよしもり》が木曾《きそ》殿の寵妾巴《おもいものともえ》を乞《こ》うて妻とし、その間に生まれたのが勇士|朝比奈三郎《あさひなさぶろう》であると聞いたことがある。勇士の心がけとしてあっぱれである。ゆるす。今夜から妻にしてもよいぞ」
と、神保《じんぼ》は上きげんであった。
蒔田《まきた》は礼を言って退出し、宿舎にかえったが、そこには思いもかけないことがおこなわれていた。屋内では松江《まつえ》につけておいた少年が胸を一さしにさされて死んでおり、庭では郎党《ろうどう》二人が一太刀《ひとたち》ずつの、むざんなほどにさえた切り口で袈裟《けさ》がけに斬《き》られて死んでおり、松江《まつえ》は蒔田《まきた》の乗りかえの馬とともに消えていたのだ。
「おのれ、下司女《げすおんな》め!」
心からの厚情を木《こ》ッ端微塵《ぱみじん》にふみにじられたのだ。こうなっては、武士の情けなど、笑いものにしかならない。
火のようになった蒔田《まきた》は、付近の民家にいる朋輩《ほうばい》らに、ことを神保《じんぼ》に報告してくれるようにたのんでおいて、にげたろうと思われる方に馬を飛ばした。神保《じんぼ》もおどろいて手勢《てぜい》をくり出したが、四月十一日の月の下の野のどこにも、その姿は見つけることができなかった。
六
松倉《まつくら》にいた宇佐美定行《うさみさだゆき》が、栴檀野《せんだんの》の敗戦を知ったのは、その日の夜に入ってからであった。
松倉《まつくら》はいまの魚津《うおづ》市の東南方一里半の地点、松倉《まつくら》村字桝形《あざますがた》にあった。早月《はやつき》川の右岸の小山にあった。栴檀野《せんだんの》から十三里ある。
宇佐美《うさみ》はおどろきはしたが、狼狽《ろうばい》はしなかった。彼は敵軍の寄せてくるのは、早くても明日のひるごろになると目算した。
老臣《ろうしん》らの中には、即座《そくざ》に立ちのいた方がよいと主張する者もあったが、宇佐美《うさみ》はこれを退《しりぞ》けた。
「第一には、味方の敗兵《はいへい》を収容せねばならぬ。わしがここを去ったら、敗兵どもはのがれるに所なく、敵地でみじめなことになろう。第二には、このような時、退却《たいきやく》を急げば、兵どもはかならず臆病神《おくびようがみ》にとりつかれるものだ。かなりの剛《ごう》の者でもそうなる。そうなったところに敵の追撃を受けては、踏みしめのきくものではない。四分五裂《しぶんごれつ》についえ去って、損害ははかり知ることのできぬほどのものとなるのだ。かような時には、一《ひと》あてあてて敵をうちやぶるべきものだ。そうすれば、敵はおじけがついてあとを追うをはばかり、味方は勇気が百倍する。もっとも安全に退却《たいきやく》ができるのだ」
と説き聞かせ、まず斥候《せつこう》をいく立ても出した。
夜半にかかるころから、敗兵《はいへい》どもがひっきりなしににげてきた。宇佐美《うさみ》はそれを城内に収容して休息させたが、夜が明けてしばらくすると、兵をひきいて城外に出、早月《はやつき》川を前に布陣《ふじん》し、手ぐすね引いて敵の来襲を待った。
斥候《せつこう》はたえずはせかえって、敵の動静を報告したが、それによると、敵勢はしだいに近づいてきつつあった。ひるごろには城から三里ほどの地点まで迫ったが、どうしたものか、その後は進もうとしないという。
宇佐美《うさみ》は油断なく兵をいましめて待った。するとまもなく、二、三百の兵からなる部隊が早月《はやつき》川の対岸にあらわれたが、宇佐美《うさみ》が味方の兵に鬨《とき》をつくらせると、あわてふためいて退却《たいきやく》していった。
それっきりで、まるで敵はあらわれない。斥候《せつこう》の報告では、敵の主力はいぜんとして前の地点にとどまっているという。
「なるほど、おれほどの者が整々《せいせい》と一糸乱れず待ちうけていると聞いて、おじけがついたのじゃな」
と思った。
「よしよし、その儀ならば、引きあげようまで」
宇佐美《うさみ》はまず城内に貯蔵してある兵糧《ひようろう》や器物を持ちだして、城の付近の住民らに分かちあたえた。
軍勢《ぐんぜい》にとって、百姓《ひやくしよう》ほど油断のならないものはない。平素|軍勢《ぐんぜい》から手ひどい目にあっているだけに、百姓《ひやくしよう》の軍勢《ぐんぜい》にたいする憎悪《ぞうお》は深刻きわまるものがある。相手の威勢のさかんな間はご無理ごもっともで屈服《くつぷく》してまるで無気力に見えるが、どちらでもよい、軍勢《ぐんぜい》が合戦《かつせん》に打ち負けたとなると、たちまちおそるべきものとなる。錆刀《さびがたな》や錆槍《さびやり》を床下《ゆかした》や天井裏《てんじよううら》からかつぎ出し、それのないものは裏の藪《やぶ》から竹をきって鋭く切りそぎ、斧《おの》や鉈《なた》をひっさげ、切所切所《せつしよせつしよ》に待ち伏せて落武者《おちむしや》を襲撃し、物《もの》の具《ぐ》をはぎとり、大将分の者の首を狙《ねら》う。飢《う》えた狼《おおかみ》が歩きつかれた羊の群れを襲うよりまだ思いきったことをする。
とくにこんどの敵勢《てきぜい》の半分は一向《いつこう》宗門徒《もんと》の土民らだ。このあたりの土民とも緊密な連絡をもっていると思わなければならない。いっそうの用心が必要だ。宇佐美《うさみ》がこの運びにしたのはそのためであった。放棄すれば敵のものになるにきまっている兵糧《ひようろう》、器物だ。敵に渡すまいとすれば焼いていくよりほかはないのだ。それよりも土民らにあたえて、その心をとろうと思ったのであった。
彼は百姓《ひやくしよう》らを集めて、
「しかじかのことで、われらは国もとへ引きあげる。これまでのなじみがいにすておいてあとを追うてくれねば、うれしいと思う。しかし、承知できぬとあらば、ずいぶん追いかけてくるもよかろう、待ち伏せするのもよかろう。手なみのほど堪能《たんのう》するまで見せてつかわそう」
と言い渡して、引きはらいにかかった。いつもの常山両頭《じようざんりようとう》の蛇《へび》が穴に引きこもるようなくり引きの法。一人として追おうとする者はなかった。
七
宇佐美《うさみ》は越後《えちご》にかえって、春日山《かすがやま》に立ち寄って、為景《ためかげ》の長男|晴景《はるかげ》に会って委細《いさい》を報告したが、この報告よりはるかまえに、敗戦の報は春日山《かすがやま》に伝わっていた。
悪いことの場合にはよくあるものだが、だれ言うとなく、合戦不運《かつせんふうん》で、殿は討ち死にされたといううわさが立ったのである。どこからだれが聞いてきたかわからないことなので、人々は、流言《りゆうげん》にすぎないと思いながらも不安でいると、敗兵らがにげかえってきて、いっさいが明らかになった。
事は府内《ふない》の守護館《しゆごやかた》にも報告された。上杉定実《うえすぎさだざね》にとって、為景《ためかげ》は忠誠な臣とはいえなかった。定実《さだざね》を主君としておし立てているだけで、一切の権力はにぎりづめにしている。圧迫は常のことだ。定実《さだざね》はおとなしい性質ではあったが、時には腹にすえかねるほど憎いと思うこともあった。しかし、その為景《ためかげ》が死んでみると、心細さが一時にせまった。この乱離の世に、名義だけでも越後守護《えちごしゆご》と仰《あお》がれていることのできたのは、為景《ためかげ》のおかげであったと、いまさらのように思った。館《やかた》は大さわぎとなった。
春日山《かすがやま》城のさわぎはいうまでもない。越後《えちご》内の長尾《ながお》一族はみな兵をひきいて春日山《かすがやま》に集まった。
ともかくも、為景《ためかげ》の葬儀をいとなまなければならない。長男|晴景《はるかげ》を喪主《もしゆ》としてとりおこなった。遺骸《いがい》はなく、何か遺品のようなものを林泉寺《りんせんじ》に葬ったのではないかと思われる。栴檀野《せんだんの》に為景《ためかげ》の塚《つか》といわれているものが現存しているからである。が、いつ越中《えつちゆう》勢がおし寄せてくるかわからない形勢だ。葬列につらなるものはみな甲冑《かつちゆう》し弓矢をたずさえたと伝えられる。
虎千代《とらちよ》あらため景虎《かげとら》はこの時十三歳で、栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》家にいたが、晴景《はるかげ》は金津新兵衛《かなづしんべえ》が切願《せつがん》したのを、
「あれは不孝者じゃ。勘当《かんどう》されたものじゃ。列席させることはできぬ」
ときびしく言い張って、ついに参列をゆるさなかったのである。
葬儀がすむと、長尾《ながお》一族と国内の豪族《ごうぞく》らは集まって評定《ひようじよう》をひらいた。
第一の議題は、ほどなく押し寄せてくるであろう越中《えつちゆう》勢にたいする防戦をいかにすべきかというのであったが、一人が、
「その防戦じゃが、大将軍をだれにするかを決めんでは、戦《いく》さの相談はならぬ。じゃから、まず守護代《しゆごだい》を決めようではないか」
と言いだすと、みな同意してその相談になった。
晴景《はるかげ》という年も中年に達している総領《そうりよう》がいるのに、こういうことが議題になったのは、越後《えちご》の守護代《しゆごだい》は長尾《ながお》一族が任ずる格式《かくしき》になっていたが、為景《ためかげ》の家の世襲《せしゆう》ではなかったのだ。長尾《ながお》一族の中の、力量・才幹・徳望のある者をえらんで、守護《しゆご》たる上杉《うえすぎ》氏が任命するたてまえになっていた。為景《ためかげ》はその実力と働きをもって、国内の諸豪族《しよごうぞく》の旗頭《はたがしら》的地位にのぼり、自分に好意をもたない守護《しゆご》をたたきつぶして、自分に好意をもつ定実《さだざね》を守護《しゆご》と立て、その守護代《しゆごだい》となったのだから、いわば守護代《しゆごだい》の地位をもぎとったのであるが、それは彼一代のことで、世襲権《せしゆうけん》が彼の家に生じたわけではない。
もし晴景《はるかげ》が実力あり、徳望のある人物であったなら、「先守護代《せんしゆごだい》の殿のご総領《そうりよう》だ。晴景《はるかげ》殿をお立てしようでないか」と、うちそろって定実《さだざね》に推薦《すいせん》することになったであろうが、晴景《はるかげ》は年こそ四十になっていたが、きわめて凡庸《ぼんよう》な人物であった。守護代《しゆごだい》となりうる資格のある長尾《ながお》一門の者はみなわれこそはの気持ちがある。晴景《はるかげ》のことなどけぶりにも出さなかった。
腹に一物《いちもつ》のある人々のそろっている会議だ。煮《に》えきらない。ついに、家老の昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》が末座《まつざ》から口を出した。
「ご一門様方おそろいの席にて、末座《まつざ》よりさしでがましくはござりますが、みな様にこの人というお心あておわさぬ模様、だれかれと申そうより、弾正左衛門《だんじようざえもん》様(晴景)をご推挙《すいきよ》たまわらば、恐悦《きようえつ》に存じます。弾正左衛門《だんじようざえもん》様はおん年も四十という分別ざかりではおわしまするし、守護《しゆご》の殿の北《きた》の方《かた》のおん弟君《おとうとぎみ》でもおわします。先殿《せんとの》がご総領《そうりよう》と立ておかれました方でもおわせば、もしみな様がご推挙《すいきよ》くださるならば、さだめて先殿《せんとの》も地下におよろこびのことと存じます」
一座は黙然《もくねん》として答える者がなかった。
昭田《しようだ》はまた何か言おうとしたが、とたんに最上席から口をひらいた者があった。
「守護代《しゆごだい》は器量をもって任ずるのが先規《せんき》である。守護《しゆご》の殿と姻戚《いんせき》の関係があるとか、先守護代《せんしゆごだい》の嫡子《ちやくし》であるとかいうようなことは、選任の条目《じようもく》ではない。そのうえ、弾正《だんじよう》殿が守護代《しゆごだい》になられると、父子二代続くことになる。そういうことからいつとはなしに世襲《せしゆう》の格ができるものだ。わしは同意できんな」
長尾俊景《ながおとしかげ》であった。俊景《としかげ》は春日山長尾《かすがやまながお》家と同じく長尾高景入道魯山《ながおたかかげにゆうどうろざん》から出ているが、春日山長尾《かすがやまながお》家が魯山入道《ろざんにゆうどう》の二男|頼景《よりかげ》の後《のち》であるのに、俊景《としかげ》は長男|邦景《くにかげ》の後《のち》である。嫡庶《てきしよ》の分を論ずれば、俊景《としかげ》の家の方が格式が高いのである。代々三条《さんじよう》にいて、三条長尾《さんじようながお》家といわれている。この時俊景《としかげ》は四十五、体躯壮大《たいくそうだい》で、容貌魁偉《ようぼうかいい》、武勇の名もまた高いのである。
かげろう
一
俊景《としかげ》ほどの者に正面きってこう言われると、昭田《しようだ》もおしては言えない。列座の長尾《ながお》一門の人々も黙っていた。
晴景《はるかげ》もこの席にいたのだが、一言もいえない。言わないだけでなく、赤くなり、青くなりして、もじもじと、席にたえないようであった。それをじろりと横目に見て、俊景《としかげ》はまた口をひらいた。
「この乱世、しかも、いまや戦《いく》さやぶれて、勝ちほこった越中《えつちゆう》勢はすきあらば当国へ乱入しようとしている時、守護代《しゆごだい》たるものはますます器量人《きりようじん》でなければならぬ。次の守護代《しゆごだい》たる者をえらぶべき条件はここにおいて明白じゃ。一つ、長尾《ながお》一族であること、二つ、器量人《きりようじん》であること、三つ、世襲《せしゆう》の格式のできぬよう、父子二代にわたるを避けること。この三か条にしぼられる。なんと、そうでござろうが」
正論ではあるが、俊景《としかげ》の本心は明瞭《めいりよう》だ。自分がなりたいのだ。人々は黙っていた。同意の意を表すことはみずからの権利を放棄することになるが、といって不同意をとなえるには理由がない。
俊景《としかげ》は一人一人に問いかけるつもりになったらしく、まぢかの一人の方をむいて、口をひらこうとしたが、その時、長尾《ながお》一門以外の豪族《ごうぞく》の席から声がかかった。
「しばらく」
宇佐美定行《うさみさだゆき》であった。集中される視線をすなおに受けて、ゆったりと口をひらいた。
「拙者《せつしや》どもは長尾《ながお》ご一族ではござらんゆえ、守護代《しゆごだい》となるの資格はござらん。しかしながら、守護代《しゆごだい》は国内の武士の旗頭《はたがしら》の職でもござるゆえ、当国の武士の一人として選ぶ資格はもっているはず。それで一言させていただきとうござる。いま、三条《さんじよう》の殿のおおせられたことは、いちおう道理とは聞きましたが、拙者《せつしや》は常陸介《ひたちのすけ》が推《お》された弾正《だんじよう》殿でよいのではないかと考えています。その理由、いかにも三条《さんじよう》の殿がおおせられるとおり、器量人《きりようじん》であるにこしたことはないが、そうきめてしもうと、長尾《ながお》ご一門に器量人《きりようじん》がおわさなんだ時はどうなりましょう。ご一門にかぎられているのでござるから、ないことではないと思うてよいかと存ずる。さような時には他氏の者が立ってよろしいのか。他氏である拙者《せつしや》らにはその方が都合がようござるが、それは長尾《ながお》ご一門衆としてはお認めになりたくはござるまい。いかが」
冷静そのもの、柔和そのもののような顔で、思いきったことを言う。人々は驚いていた。
宇佐美《うさみ》はつづける。
「誤解なさらぬように。拙者《せつしや》はものの道理がそうなると申したまでで、みずからなりたいと申しているのではござらぬ。ここは弾正《だんじよう》殿をお立てになった方が、ご一門のおためになりはしませんかな。りっぱな族人《ぞくじん》方がおそろいではあり、よいご家来衆も多数あることでござれば、弾正《だんじよう》殿でりっぱにつとまっていくのではないかと、拙者《せつしや》は思うのでござる。三条《さんじよう》の殿は世襲云々《せしゆううんぬん》のことを申されましたが、二代つづいた先例がないわけではござらぬ。それはおのおの方よくご承知のはず。べつだんにとりたてて案ずることはないと存じます。愚存《ぐぞん》まででござる」
俊景《としかげ》はにがい顔になっていた。何か言おうとしながらも言うべき理窟《りくつ》が見つけ出せないので、いらだたしげに口ひげばかりひねっていた。
宇佐美《うさみ》は一言も晴景《はるかげ》の人物をほめていない。ずいぶんばかにした話ではあるが、この際こう言ってくれたことは、昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》にはなによりもありがたかった。感謝の会釈《えしやく》をおくったが、気がつかないのか、宇佐美《うさみ》は答礼しなかった。
昭田《しようだ》は豪族《ごうぞく》らの席にむかって呼びかけた。
「いかがでございましょうか」
この席の人たちには守護代《しゆごだい》になれる資格がないから欲がないはず、したがって味方してくれるにちがいないと、はじめて気づいたのであった。
「駿河守《するがのかみ》(宇佐美《うさみ》)殿のご意見に同意でござる」
と言う者が多かった。
昭田《しようだ》は一門の席に言った。
「ご一門以外の方々の意見は、ただいまお聞きのとおりでございますが」
返事はなかった。あるものは互いの気をかね、あるものは俊景《としかげ》の気をかねていた。
一門のなかには房景《ふさかげ》もいた。彼は最初から居睡《いねむ》りでもしているように、小柄《こがら》なからだを前にかたむけ、小首をかしげて目をつぶっていたが、ふと目をみひらくと、
「弾正《だんじよう》でいかんという理窟《りくつ》はないの」
と言った。淵《ふち》に小石を投げこんだような短いことばであったし、低い声であったが、おそろしく効果的であった。
「そうでござる。弾正《だんじよう》殿でいかんという理窟《りくつ》はござらぬ。弾正《だんじよう》殿でよいではござらんか」
という声がほうぼうからおこった。
「弾正《だんじよう》はおやじに似ぬ子で、かしこくもなければ、武勇にたけてもいぬ。しかし、あほうではない。われら一族がこうしているかぎり、十分にやっていける。弾正《だんじよう》に決めようて」
房景《ふさかげ》はこう言うと、また前の姿にかえった。中断した眠りを追いかけるようであった。
大勢《たいせい》はこれで決まった。
俊景《としかげ》はふゆかいであったに相違ないが、笑いながら、
「わしも道理と思うことを言ったまで。他意《たい》はない。みなが弾正《だんじよう》殿をおすというなら、のけものにはなるまい。いっしょにおすぞ」
と言って、晴景《はるかげ》に、
「弾正《だんじよう》殿、悪う思うてくださるなや。心にあることを包んでおけぬ性分《しようぶん》ゆえ、こんなことになったと思いすててくだされい」
と、磊落《らいらく》な調子であった。
晴景《はるかげ》は湯気立つように赤い顔になっていた。もみにもんで、絶望かと思われていたのが、たちまち風向きがかわってこんなことになったのが、急には信ぜられないような気がしているところに、もっとも憎いと思っていた俊景《としかげ》からこう出られて、とっさに答えが出ない。
「なにしにさような、いや、ありがとうござる。みなみな様、ありがとうござる。お礼を……」
不明瞭《ふめいりよう》に、きれぎれに、つぶやきながら、あたまばかり下げていた。
つめたい目で、宇佐美《うさみ》はそれを見ていた。
(このままではおさまりそうもないわ)
とひそかなためいきをついた。この一門の中では、器量という点から言えば、房景《ふさかげ》と俊景《としかげ》だ。房景《ふさかげ》はもう老年だから、はずすとすれば俊景《としかげ》だけであるが、これは権勢の地位にすえてならない人物だ。かならずや、暴悪《ぼうあく》な性質となって、屋形《やかた》にも豪族一統《ごうぞくいつとう》にも、ためにならないことをしでかすにちがいないと思うのであった。
とにかくも、これで新守護代《しんしゆごだい》は晴景《はるかげ》と決定し、定実《さだざね》もこの決定を認めて、任命した。
一族や豪族《ごうぞく》らはなおしばらく春日山《かすがやま》近くに滞陣《たいじん》したが越中《えつちゆう》勢も急にはどうということもないようであったので、多少の兵をのこして、それぞれに在所《ざいしよ》に引きあげた。
二
事なく一年たって、天文《てんぶん》十二年春、長尾俊景《ながおとしかげ》が三条《さんじよう》で兵をあげた。
「守護代弾正左衛門晴景《しゆごだいだんじようざえもんはるかげ》は暗弱《あんじやく》なる大将である。われらはかかる愚将《ぐしよう》の支配を受けるわけにはいかん」
というのが、その挙兵《きよへい》の理由であった。
ことはとつぜんのようであったが、俊景《としかげ》にとっては、冬の間に十分に準備したことであった。
その旗あげの朝、俊景《としかげ》の郎党《ろうどう》のある者が、こう言った。
「栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》が家に、弾正《だんじよう》殿のご末弟喜平二景虎《まつていきへいじかげとら》殿と申すがおられますが、ご存じでございましょうか」
言われて、俊景《としかげ》も思い出した。
「そうじゃった。思い出したわ。信濃守《しなののかみ》殿が栖吉《すよし》からもろうた若い女房《にようぼう》に生ませた子であったな。あれは信濃守《しなののかみ》殿の気に悖《もと》って栃尾《とちお》に追いやられたのじゃと、あのころ聞いたぞ」
「栃尾《とちお》に参られてからはや五、六年になりまして、いまではからだこそ小柄《こがら》でござるが、末たのもしい子たちと、あのへんでは申しております」
まるでそそのかすようなことを言う。人に使われる者には、おうおうにして主人の一時の気をとるために、言わでものことを言って人の禍害《かがい》をかえりみない者がある。
「そうじゃ!」
とつぜん、俊景《としかげ》は丁《ちよう》と手をたたいた。
「股野《またの》を呼べい」
股野《またの》河内《かわち》はその猛勇果敢《もうゆうかかん》なところから荒《あら》河内《かわち》と呼ばれている郎党《ろうどう》である。黒革縅《くろかわおど》しの鎧《よろい》、筋金《すじがね》入りの鉢巻《はちまき》をしめて、俊景《としかげ》の前にかしこまった。色の浅黒い、目つきのたけだけしい男である。濃いひげをあごだけに一にぎりのこして、あとはきれいにそっている。
俊景《としかげ》は言った。
「しかじかのことで、弾正《だんじよう》が末弟《まつてい》が栃尾《とちお》の本庄《ほんじよう》が家にいる。その方これから参って、首取ってまいれ。めでたい旗あげの血祭《ちまつ》りにしようと思うのだ。年は十三、四じゃが、小柄《こがら》であるという」
「かしこまりました」
股野《またの》はさがって、手の者に支度《したく》を命じて出発したが、その股野《またの》よりすこしまえに馬を駆って三条《さんじよう》を出た武者《むしや》があった。
武者《むしや》はうしろをふりかえりふりかえり、馬足のかぎりに飛ばせた。二十七、八のひきしまった顔とからだをもったその男は、景虎《かげとら》の傅役金津新兵衛《もりやくかなづしんべえ》の弟新八《しんぱち》という者であった。彼は俊景《としかげ》に仕《つか》えて馬廻《うままわ》り(親衛兵《しんえいへい》)をつとめていたが、兄がどんなに景虎《かげとら》を愛しているかを知っている。景虎《かげとら》の器量が抜群《ばつぐん》であることも、おりおり会う兄から聞いている。だから、城内で俊景《としかげ》が景虎討《かげとらう》ち取りを股野《またの》に命ずるのを聞いて、知らせて難を避けさせるためにとびだしてきたのであった。
この時代の武士は江戸期に入ってからの武士のように儒教《じゆきよう》仕立ての武士道徳にしばられてはいない。はるかに自然人的だ。その点、道徳観念が低いともいえるが、考えようでは人間自然のすなおな、つまりもっとも高い道徳観をもっていたともいえる。儒教《じゆきよう》仕立ての武士道徳――武士道には、主君のためには場合によっては父母兄弟友人を殺すことも、避けてはならないとするような非人間的なものがあり、それが数々の武士道の悲劇を生んでいるのであるが、この時代の武士にはそんなかたくなな道徳観はない。すなおに感情で受けとめる。
「兄になげきをかけたくない」
とまず考えた。次には、
「むごい。|年は《ヽヽ》もゆかぬものを」
と思った。さらに、
「いくら敵の片割《かたわ》れだとて、子供にすぎぬものを殺したとてなんになろう」
と思った時、いてもたってもいられなくなったのである。
三条《さんじよう》から栃尾《とちお》まで五里ある。駆けつづけでは馬がつぶれてしもう。いらだつ心をおさえて、早駆《はやが》けさせては緩歩《かんぽ》し、緩歩《かんぽ》させては早駆《はやが》けさせ、道の悪いところや坂道はおりて急いだ。二時間ほどで、栃尾《とちお》についた。
本庄《ほんじよう》家に行くと慶秀《よしひで》が出て応対した。慶秀《よしひで》は三十をすこし出たくらいの年配ではあるが、沈着で用心深い人物だ。このへんにはまだ俊景挙兵《としかげきよへい》のうわさは伝わっていなかったが、新八《しんぱち》が戦《いく》さ支度《じたく》で来たので、警戒したのであった。
「喜平二《きへいじ》様になに御用でござる」
と、玄関にすわって問いかえした。
新八《しんぱち》は自分が金津新兵衛《かなづしんべえ》の実弟であること、俊景《としかげ》が今朝方《けさがた》旗あげしたこと、景虎《かげとら》を斬《き》って血祭《ちまつ》りにするために股野荒《またのあら》河内《かわち》をつかわすこと、股野《またの》にひきいられる一隊は騎馬《きば》半分、徒歩半分であるから、かなりおくれて着くであろうが、もし股野《またの》が途中で気が変わって騎馬《きば》の者だけで駆けぬけてくるとなれば、まもなく到着するはずであること、すべてをいそがしく伝えた。
新八《しんぱち》の顔を凝視《ぎようし》しながら、慶秀《よしひで》はじょじょに顔色をかえた。
「かたじけのうござる。それでは貴殿《きでん》はお引きとりください。股野《またの》に見つかってはゆゆしいことになり申そう。喜平二《きへいじ》様は拙者《せつしや》ちかっておにがし申します」
と言って、新八《しんぱち》を立ち去らした後、慶秀《よしひで》が奥に入ると、そこの引き戸の陰のうす暗いところに景虎《かげとら》が立っていた。
今年景虎《かげとら》は数え年十四になった。敏捷《びんしよう》で気力にみちてはいるが、おさない時からの小柄《こがら》なからだはいまでも小さい。いきいきと血色のよい顔に目を光らせていたが、ふと白い歯を見せてニタリと笑った。
「おれを旗あげの血祭《ちまつ》りにするのじゃとな」
「はっ」
慶秀《よしひで》はそう言ったきり、とっさにことばが出ない。
「おれはにげるぞ、首を斬《き》られてはたまらん」
と言うと、すたすたと玄関に出ていく。
「喜平二《きへいじ》様、しばらくお待ちを」
呼んでおいて、奥へ走りこみ、銭《ぜに》を一さしつかんで追って出たが、もうその時ははだしで門を走り出ていきつつあった。
慶秀《よしひで》もはだしで追いかけて、野道にかかるところで追いついた。
「なぜ来た」
景虎《かげとら》は走る足をとめず言う。
「お供《とも》します」
「いらぬ。迷惑だ」
「えッ?」
「おとながいてはかえって目立つ。子供一人なら、どうとでもできる。かえれ」
こういう口のきき方はいつものことだが、今日は別してぶっきらぼうで鋭い。しかし、言うことは筋道が立っている。一人の方がよいかもしれない。そう思いながらも、慶秀《よしひで》はなお走りつづけた。
「銭《ぜに》をもっておろう。それをおれにくれい。春日山《かすがやま》まで食わず飲まずでは行かれん」
手を出した。汗にぬれているその手に慶秀《よしひで》はふところから引き出した銭《ぜに》をわたした。
「これでよい。そちは帰れ。はよう帰って、追っ手を言いくるめて、すこしでも引きとめい。どこか北の方の山にわらび取りに行ったとでも言うがよい」
言ってしもうと、いっそう足を速めて走り出した。
慶秀《よしひで》は小走りに引きかえした。村に入るところでふりかえってみると、真昼の日光がみなぎり、かげろうのゆらめいている緑の野のはてに、景虎《かげとら》の姿は小さくなっていた。
「ご無事で……」
ひたいに流れる汗をなであげて、つぶやいた。
三
栃尾《とちお》から南へ走る道は刈谷田《かりやた》川の支流にそっている。道は川の左岸にそって、緑の山にはさまれてひょろひょろと長い平野を、流れと逆に走っている。栃尾《とちお》から小一里《こいちり》で、栖吉《すよし》への分かれ道があるのだが、そこへ行きつくはるか前から、景虎《かげとら》はどの道をとるかに迷っていた。
追っ手が追いつくまでに栖吉《すよし》の城に入ることができればそれが一番よいのだが、追っ手はそれを見こしているであろうから栖吉道《すよしどう》を追ってくるものと思わなければならない。追っ手がうまく慶秀《よしひで》の口車にのせられて栃尾《とちお》近くの山々でもさがして暇どってくれれば栖吉道《すよしどう》をとってもだいじょうぶだが、それはわからないことだ。しかし、まっすぐ行っても安全ではない。追っ手が裏をかくつもりでその道を来れば、みじめなことになる。
疑いだせばきりはない。
「早く決めなければ、もうすぐ追分《おいわけ》だ」
と思いながら走っているうちに、ふと見ると左手の刈谷田《かりやた》川の岸に乞食《こじき》のセブリがいくつか見えた。ぼろぼろな着物を着た子供らが四、五人、男の子女の子まじりで、日の照りわたっている川原にすわって竹細工《たけざいく》をしている。小刀《こがたな》の刃《は》をきらりと光らせながら竹を裂いているものもあれば、それをざるに編んでいるものもある。かげろうがそのまわりに立ちのぼっていた。
ひらめくように景虎《かげとら》の胸におちてきた思案があった。
景虎《かげとら》はそこに走りおりていった。
「おい」
と呼びかけた。
その以前、乞食《こじき》の子供らは仕事の手を休め、ぽかんとして、景虎《かげとら》に目をむけていた。
「汝《われ》だ」
景虎《かげとら》は十一、二の男の子を指さした。
「ここへ来い。これをやる」
銭《ぜに》を一枚さし出した。
「へえ、くださるのけえ」
その子は疑わしさとうれしさの半々にまじった笑顔になって腰を浮かした。
「たのまれてくれんか。使いに行ってほしいのだ」
「へえ、どこへですけえ」
「そう遠いところではない。しかし、ちょっと一口には言えん。行ってくれれば、礼はたんとする」
ふところから|さし《ヽヽ》につないだ銭《ぜに》を出してみせた。
子供は立ってきた。
「行ってくれるか」
「行きますだ」
「では来てくれ」
うらやましげに他の子供らの見送っているなかを、景虎《かげとら》はその子をつれて道にかえり、道に張り出してきた山の鼻をまわって、セブリの見えないところまで来ると、
「われのそのきもの、よい着物だな。おれは山に狩りに行く時に着るのに、そんな着物がほしいと思うていた。よい着物だ」
「へえ、このボロがですけえ」
「ボロなところがいいのだ。それだったら、どんなやぶの中にも入っていける。どうだ。おれの着物ととりかえんか」
「と、とりかえるって、お前さま、そ、そんなことしたら、お、親御《おやご》様にしかられなさるだべ」
どもって、目をまるくしている。
「しかられはせん。こんな着物はいくらもあるから。かえてくれい」
「そりゃかえてあげねえこともないけど、悪いでさあ。それに、お使いって、どこへ行くのですかえ」
「栖吉《すよし》のお城まで行ってほしいのだが、しかし、その着物では門番が受けつけんかもしれん。やはり、着物をかえよう。おれのこの着物なら、門番も受けつけてくれる。おれもほしい着物が手に入ってうれしい。そうしよう」
袴《はかま》をぬぎ、帯を解きはじめた。
相手はあきれて、ぼんやりつっ立ったままだ。
「さあ、ぬげ。おれにだけぬがして、ずるいぞ」
相手はのろのろとぬぎはじめた。
四
着物をぬぎかえてしまうと、景虎《かげとら》は乞食《こじき》の子に、
「さあ、行け。栖吉《すよし》のお城に行ったら、門番に、『三条《さんじよう》から軍勢《ぐんぜい》がまいります』と言うてくれ。それだけでよい」
と言って、銭《ぜに》を二、三十枚、|さし《ヽヽ》からぬきとってあたえた。
「礼だ」
「へい。ありがとうございますだ。『三条から軍勢《ぐんぜい》がまいります』と言うのでござりますな。それだけでよいのでござりますな」
「それだけでよい。急いで行ってくれ」
乞食《こじき》の子は歩き出した。
景虎《かげとら》もそのあとから行く。
まもなく、道は追分《おいわけ》にかかる。街道ぞいに生垣《いけがき》にかこまれた小さな農家が数軒あって、栖吉道《すよしどう》の右側にそって、水の豊富な小溝《こみぞ》が真昼の日にきらめきながら早く流れている。生垣《いけがき》の下から街道にかけて、鶏が数羽散らばって、いそがしそうに餌《えさ》をあさっていた。どこからか、糸車の音がブウーン、ブウーンと聞こえていた。
乞食《こじき》の子は道を右にとった。栖吉道《すよしどう》だ。
景虎《かげとら》はそれが一|町《ちよう》ほども行ってしもうのを見定めてから、道を左にとり、おりから白い蝶《ちよう》がひらひらと舞っていくのを捕らえようとするかのように、追いながら進んだ。
乞食《こじき》の子の姿も、景虎《かげとら》の姿も、ともに見えなくなってしばらくすると、栃尾《とちお》の方から砂塵《さじん》をまき上げて疾駆《しつく》してきた武者《むしや》の一団があった。十二、三|騎《き》だ。鶏どもはけたたましい悲鳴を上げてにげまどい、一羽など、生垣《いけがき》の上に飛び上がったほどであった。
武者《むしや》どものまっさきに立ったのは股野荒《またのあら》河内《かわち》だ。黒革縅《くろかわおど》しの具足《ぐそく》、ふり乱した髪を筋金《すじがね》入りの鉢巻《はちまき》でとめ、三尺ほどの太く長い太刀《たち》を佩《は》いている。はげしく手綱《たづな》をしぼったので、馬は前足を上げてもがいた。乗りしずめながら、民家にむかってどなった。
「百姓《ひやくしよう》! 百姓《ひやくしよう》! だれかいぬか!」
よくひびく、強い声である。
武者《むしや》どもの蹄《ひづめ》の音が聞こえてきたころから糸車の音はたえていたが、やがて、一軒の家の軒下《のきした》に老婆《ろうば》がよろぼいながらあらわれ、生垣《いけがき》の外に出てきた。
「へーい」
と言って、ひざまずいた。
「ばばア、ついいましがた、武家《ぶけ》の子供が通らなんだか。年は十二、三だ」
「へーい」
と答えて、老婆《ろうば》はふるえる手で、栖吉道《すよしどう》の方を指した。
「こちらに行ったのだな」
「へーい」
「どれくらい前だ」
「かれこれ三、四|町《ちよう》も行きなさりましたずら」
鶏がわめきたてていて、よく聞こえない。
「三、四|町《ちよう》か」
と言いながら、荒《あら》河内《かわち》は指を三本立て、また四本立てて見せた。
「へーい」
老婆《ろうば》はうなずいた。
「それ! 追いついたぞ!」
荒《あら》河内《かわち》は馬をおどらせ、従騎《じゆうき》もまたつづいた。せまい谷々にやや傾斜してつづく道をもみにもんで疾駆《しつく》していくうちに、前方に少年の姿が見えた。
「しめた! あれだぞ!」
いっそう馬足をあげた。
少年は馬蹄《ばてい》の音を聞きつけ、迫ってくる武者《むしや》どもの姿を見て、ふりかえりふりかえり、道を急いでいたが、やり過ごそうと思ったらしく、道のかたわらに寄ってたたずんだ。
荒《あら》河内《かわち》には、少年がふりかえったのは恐れたのだと思われ、路傍《みちばた》に片よったのは居すくんだと思われた。疾風《しつぷう》のように馬をはせよせながら刀を抜きはなち、ふりかぶった。
少年は身にせまる危険がはじめてわかったが、恐怖に居すくんだ。声を上げることもできない。まっさおになり、目をみはり、口をすこしあき、やせた左手をよわよわしくひたいの上にかざした。荒《あら》河内《かわち》は駆け抜けざまに、長鳴りして太刀《たち》をふりおろし、あやまたず首を斬《き》り、宙《ちゆう》にはね上げた。
従騎《じゆうき》らが馬から飛びおり、首のない|むくろ《ヽヽヽ》の着ている着物の袖《そで》をちぎって、首をつつんだ。
五
荒《あら》河内《かわち》らが追分《おいわけ》を通って引きかえしていったあとしばらくして、景虎《かげとら》は追分《おいわけ》に引きかえした。道に百姓《ひやくしよう》らが男女まじり五、六人いて立ち話していた。景虎《かげとら》はすこしはなれた場所にたたずんで、百姓《ひやくしよう》らのことばに耳をかたむけていたが、
「かわいそうにのう、どこの稚児方《ちごがた》じゃか知らんが、殺されなさったにちがいなかるべ、家来が槍《やり》のケラ首につけていたのは、袖《そで》に包《つつ》んで見えはしなんだが、たしかに首じゃったすけ」
と言うのを聞くと、ぶらぶらと栖吉道《すよしどう》に曲がった。百姓《ひやくしよう》の一人が見つけて、
「われ、そっちへ行くと、こわいもの見るずら。人が殺されて死んどるで。首がのうなって」
と言った。
「いいだ。おら、使いをたのまれたすけ、栖吉《すよし》まで行かにゃアならねえだ」
景虎《かげとら》は答えた。
やがて、少年の殺されている場所についた。死骸《しがい》には、鴉《からす》の群れが集まって、いやな鳴き声を上げてさわいでいた。鴉《からす》にとっては思いがけない饗宴《きようえん》にありついての歓喜の声にちがいないが、身の毛のよだつほどいやな声だ。景虎《かげとら》は鴉《からす》を追いはらい、のこっていた銭《ぜに》を死骸《しがい》の上においた。見つけた人が埋葬《まいそう》してくれるようにとのつもりであった。しかし、すぐ、にせ首であると知って荒《あら》河内《かわち》らが引きかえしてくるかもしれんと思ったので、銭《ぜに》は死骸《しがい》のふところ深く入れた。死骸《しがい》の肌《はだ》のぶきみなつめたさが、わずかにふれた指先からからだじゅうにしみわたり、全身の汗が一時にひいた。
「南無頓証菩提《なむとんしようぼだい》。やがておれが世に出たら、かならず厚く弔《とむろ》うてやるぞ」
と合掌《がつしよう》して去ったと、古書は伝える。一身の危難をまぬかれるために、人を犠牲《ぎせい》にしたのだ。ヒューマニスチックな考え方がふつうになっている現代では、景虎《かげとら》のこの処置は大いに問題になることであるが、当時の常識では、大名の子が乞食《こじき》を犠牲《ぎせい》にすることは、さして気のとがめることではなかった。また、ある意味では宗教が道徳や、政治以上に人の心を支配している時代でもあるから、後生《ごしよう》をよく弔《とむら》って仏果《ぶつか》を得させれば、乞食《こじき》のままでこの世をおわらせるより、はるかに功徳《くどく》になると考えられていたのかもしれない。さらにまた、英雄といわれるほどのものには多かれ少なかれ、こうしたエゴイズムがある。小を忍びて大をなすといわれている根性で、そのゆえにこそ大業をなしとげて英雄といわれるようになるのだ。英雄のいやらしさも、魅力もここにある。
景虎《かげとら》はいったん栖吉《すよし》に行き、伯父《おじ》に会った後、人数をつけられて、春日山《かすがやま》にかえった。まず金津新兵衛《かなづしんべえ》に会った。
このころにはもう春日山《かすがやま》にも、長尾俊景《ながおとしかげ》の挙兵《きよへい》の報がとどいていたので、春日山《かすがやま》も大さわぎだったが、新兵衛《しんべえ》は別して景虎《かげとら》の身を案じて、迎えに行こうとまで思っていたので、泣いてよろこんだ。
「お屋形《やかた》におすがりしましょう」
新兵衛《しんべえ》はもう計画を立てていたらしい。府内館《ふないやかた》に景虎《かげとら》をつれていき、晴景《はるかげ》にとりなしてくれるよう嘆願《たんがん》した。
「よいとも、そなたのことは、わしはいつも気になっていた。みごとに成人したのう」
と定実《さだざね》は快諾した。
定実《さだざね》の北《きた》の方《かた》である景虎《かげとら》の姉は、四十を越している。おろおろと泣きながら、
「いくつになりやった? 十四? おお、おお、おお、親はなくとも子は育つというが、ほんとうに育ちやった。まゆのかかり、まなざしのあたり、父君《ちちぎみ》のお若いころにそっくりじゃ。かならずともに、案じやるな。きっと弾正《だんじよう》殿にとりなして進ぜるよってな。もし、どうしても弾正《だんじよう》殿がお聞き入れなくば、この館《やかた》にいやるがよい。身にとっては末の弟じゃ、世話するになんのふしぎもない。弾正《だんじよう》殿もさしとめることはできぬはずじゃ」
と、なつかしがり、また力んだ。
定実《さだざね》も北《きた》の方《かた》も、かなりな覚悟をして晴景《はるかげ》にあたったが、案外であった。すぐ聞きいれて、春日山《かすがやま》城内に迎えた。どうした心境の変化であったか、三条《さんじよう》の変報《へんぽう》に狼狽《ろうばい》して、余事《よじ》を考える余裕《よゆう》がなかったのかもしれない。
六
長尾俊景《ながおとしかげ》の挙兵《きよへい》は、越後《えちご》全土に非常な衝撃《しようげき》をあたえた。応ずる者が多かった。柿崎《かきざき》和泉守《いずみのかみ》(弥二郎《やじろう》)・同弥三郎《やさぶろう》・篠塚宗左衛門《しのづかそうざえもん》・森《もり》備前守《びぜんのかみ》などという諸豪族《しよごうぞく》が応じて起《た》ち上がったのだ。重賞をもって誘引《ゆういん》されたのではあるが、その誘惑《ゆうわく》が成功したのは、かねてからの晴景《はるかげ》の器局《ききよく》のなさをあなどっていたからであった。
叛乱《はんらん》軍はある者は三条《さんじよう》に行って俊景《としかげ》に合流し、あるものはその居所《きよしよ》にいて威《い》を張った。彼らは国内の諸豪《しよごう》に檄《げき》を飛ばして参加を要請し、応じない者があればあるいはこれをうち、あるいはその領内《りようない》に侵入して、放火し、掠奪《りやくだつ》し、婦女を捕らえて暴行した。このテロリズムは相当な功《こう》を奏《そう》した。やむなく参加する者があり、また天下晴れて暴悪《ぼうあく》のおこなえることをよろこんで郷村《ごうそん》のあぶれ者どもがはせ加わり、日を追うて勢いがふるった。
春日山《かすがやま》では軍議《ぐんぎ》がひらかれ、とりあえず三条《さんじよう》にむけて軍勢《ぐんぜい》をくり出し、不日《ふじつ》に晴景《はるかげ》も出陣《しゆつじん》することになった。
晴景《はるかげ》はこの決議にしたがって、国内の豪族《ごうぞく》らに、おのおのその居所《きよしよ》から三条《さんじよう》にむかうように催促状《さいそくじよう》を送り、春日山《かすがやま》の兵も次第を追うて出陣《しゆつじん》させたが、そのころのある夜、三の丸内の昭田《しようだ》常陸介《ひたちのすけ》の屋敷《やしき》の門番が寝酒のどぶろくをすこしばかりのんで、いい気持ちで寝《しん》につこうとしている時、曰窓《いわくまど》の横木をコツコツとたたく音が聞こえた。
晩春《ばんしゆん》初夏の季節にはよくあることだが、へんにむし暑い夜であったので、窓の障子《しようじ》は明けはなしたままであった。門番はゲップをしながら、そちらを見ると、太い横木の間にピカリと白い目が光っていた。
「どなた? なんの用でござる」
結び灯台《とうだい》にのせた欠《か》け皿《ざら》をもって、窓に近づいた。
黒いきれで顔をつつんでいる五十年配の男だとだけわかった。しわの深い顔に目が愛嬌《あいきよう》づくって笑っていた。
「拙者《せつしや》は当家《とうけ》の常陸介《ひたちのすけ》殿と同国越前浅倉《えちぜんあさくら》家の浪人《ろうにん》、松野小左衛門《まつのこざえもん》と申す者であります。常陸介《ひたちのすけ》殿とは故朋輩《こほうばい》のことなれば、よくご承知のはず。数日前から当三の丸内の飯野《いいの》殿の屋敷《やしき》に滞在《たいざい》していますが、いそぎ申し上げたいことがあって、夜陰《やいん》ながら参上《さんじよう》いたしました。おとりつぎください」
「ああ、さようか。しばらくお待ちください」
門番は奥へ入って、小侍《こざむらい》にとりついだ。
常陸介《ひたちのすけ》は、三条出陣《さんじようしゆつじん》についての兵糧《ひようろう》の見積《みつも》り書を前に、手びかえの帳簿類《ちようぼるい》とひきあわせながらしきりに計算をしていたが、小侍《こざむらい》のとりつぎのことばを聞くと、
「ほう」
とおどろいた声を出した。
「松野《まつの》がだと? 飯野《いいの》家に滞在《たいざい》していると?」
「門番はさよう申しました」
「客間に通せ、その者はわしが若い時に懇意《こんい》にしていた者だ」
常陸介《ひたちのすけ》は見積《みつも》り書や帳簿類《ちようぼるい》を手箱におさめた後、衣服をあらためて客間に出た。
松野《まつの》は端然《たんぜん》としてともし灯《び》のわきにすわっていた。髪がまっしろだ。ほんとの年は五十を三つ四つ越えたくらいのはずなのに、八十の老翁《ろうおう》のようであった。
「やあ、これは久しや」
と快活に言いながら、昭田《しようだ》は入った。
「まことにお久しゅうござる」
松野《まつの》は折り目正しくあいさつする。昭田《しようだ》も折り目正しく受けた。
「そなた、えらい年をとったなあ。髪がまっしろでないか」
と昭田《しようだ》が言うと、
「そなた様はまたつやつやとお黒い。いったい、おいくつになられました?」
「もう七十にそう間がない。髪だけは黒いが、見い、この顔、しわだらけじゃ」
「ご同様でござる」
顔をつき合わせたまま、二人はからからと笑った。
「何年ぶりかな」
「もうやがて三十年になりましょう」
「ほう、ほう、歳月《としつき》の過ぐるのは早いものじゃのう」
昭田《しようだ》は感嘆したが、ふとあらたまって、
「時に、そなた飯野《いいの》家に滞在《たいざい》しているということだが、どうして飯野《いいの》を知っているのだ」
「あれはいつわりでござる」
「いつわり?」
どきりとした。
「今日、越中《えつちゆう》から当地へまいったのでござる」
松野《まつの》は微笑した。すましている。
「どうしてそんないつわりを。だいいち、お城の門をこの時刻にどうして入ることができたのだ」
「夕方、灯《ひ》ともしごろ、ご門番衆がちょっとわきへ行っていなさるすきにチョロリと入って、ただいままで、お馬場のわきの木立ちの中にいたのでござる」
ますます昭田《しようだ》があきれていると、松野《まつの》はきっとあたりに目をくばって、ささやくように低い声で言った。
「密談《みつだん》申してさしつかえはござりませぬな」
昭田《しようだ》はひやりとしたものを感じた。
「それはかまわぬが、いったい何を密談《みつだん》しようというのじゃ」
われにもあらず、こちらもささやくような声になっていた。
松野《まつの》はずいと席を進めた。
「拙者《せつしや》は、貴殿《きでん》のおためを思って、こうしてまいったのです」
「拙者《せつしや》のため?」
「そうでござる。貴殿《きでん》のおためにまいりました。貴殿《きでん》はいま守護代長尾《しゆごだいながお》家の家老であり、ご子息《しそく》お二人も名家のあとを嗣《つ》がれ、なかなかのご威勢《いせい》でござるが、ご滅亡《めつぼう》が目前に迫っていることを、お気づきでござるか」
ことばを切って、松野《まつの》は昭田《しようだ》をきっと見すえた。異常な迫力があって、昭田《しようだ》は顔色をかえた。
「貴殿《きでん》は元来長尾《がんらいながお》家譜代《ふだい》の臣《しん》ではおわさぬ。当国のご出生《しゆつしよう》でもない。旅人として当国にまいられ、故《こ》信濃守《しなののかみ》殿のお目がねにかない、その寵愛《ちようあい》によって、今日の栄えを得られたのであります。貴殿《きでん》がふつうの身分のご家来であれば、なんの憂《うれ》えもないのでござるが、幸か不幸か、貴殿《きでん》は当ご家中《かちゆう》では比肩《ひけん》する者なきご身分となられ、ご子息《しそく》もそれぞれにご栄達であります。そのゆえに、譜代《ふだい》の老臣《ろうしん》らや当国の豪族《ごうぞく》どもは、貴殿《きでん》を憎むこと一様《いちよう》や二様《によう》のものではござらぬ。立場をかえて、ご自分のこととしてお考えになってみるがよい。どこの者とも知らぬ旅の者が来て、みずからの上に立ってならびなき権勢《けんせい》をふるうのをこころよいとおぼされるか。いかが」
そうにちがいなかった。うなずくまいとしても、うなずくかたちになった。
松野《まつの》は語をつぐ。
「故《こ》信濃守《しなののかみ》殿は名将でもおわしましたうえに、貴殿《きでん》らご父子にご寵愛《ちようあい》が深うござったゆえ、そのご生存の間は、人々も心をおさえていたのでござるが、それがご逝去《せいきよ》あった今日となっては、貴殿《きでん》らご父子のご運命はまことにあやういこととなっています。すべて先代の世に威《い》をふるった権臣《けんしん》は次の代になれば、威《い》を失って羽ぬけ鶏《どり》のようになってしもうことは世の常でござる。うわさによれば、弾正《だんじよう》殿が守護代《しゆごだい》となられたのは、貴殿《きでん》のご発議《はつぎ》によりますとか。思うに、ただいま拙者《せつしや》の申したようなことをお考えになってのことでござろう。聞いて、さすがに智者《ちしや》の名ある貴殿《きでん》ほどのことはあると、拙者《せつしや》は感じいりましたが、その貴殿《きでん》も一を知って二をお考えでない」
たしかに松野《まつの》の言うとおりである。昭田《しようだ》が晴景《はるかげ》をおしたのは、晴景《はるかげ》の代にも権威《けんい》を保つためであった。うまくいったと思っている。だのに、松野《まつの》はそれが一知半解《いつちはんかい》の策《さく》であるという。耳をすました。
「弾正《だんじよう》殿は愚将《ぐしよう》であるということを忘れておられることでござる。長尾《ながお》一門の人々は申すまでもなく国内の諸豪《しよごう》一人として心服《しんぷく》している者なく、ひとたび三条《さんじよう》の俊景《としかげ》殿が反旗《はんき》をひるがえされるや、国内の諸豪《しよごう》は、響きのものに応ずるがごとく立ち上がったではござらんか。とうてい、弾正《だんじよう》殿の器量をもってしては、これをしずめんことは思いもよらぬこと。敗戦《はいせん》重なれば、ただいまはまだお味方となっている豪族《ごうぞく》らも、家臣《かしん》らも、戈《ほこ》をさかさまにして晴景《はるかげ》殿にはむかうであろうことは火を見るよりも明らかでござる。晴景《はるかげ》殿がそうなった後、貴殿《きでん》らご父子はどうなりましょう。衆怨《しゆうえん》の集まるところ、嫉《そね》みの集まるところ、やわかご安泰ではありますまいぞ」
するどい論理とたくみな弁舌に説きたてられて、昭田《しようだ》は自失したようになった。松野《まつの》の声はおそろしく低く、それが効果的であった。昭田《しようだ》はいまにも豪族《ごうぞく》や長尾《ながお》家の老臣らがおし寄せてくるような気さえして、まっさおになった。
あとがき
ぼくは源平争覇《げんぺいそうは》のあと、楠正成《くすのきまさしげ》を中心にした物語、川中島合戦《かわなかじまかつせん》を中心にした甲越《こうえつ》両雄の争戦、織田《おだ》・豊臣《とよとみ》・徳川《とくがわ》の権力交代の物語、赤穂浪士《あこうろうし》の物語、明治|維新《いしん》の話、この六つを日本民族のもつ六大ロマンスであると思っている。ロマンスの宝庫といってよいかもしれない。源平盛衰記《げんぺいせいすいき》、平家物語《へいけものがたり》、太平記《たいへいき》、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》、絵本太閤記《えほんたいこうき》、義人録《ぎじんろく》等の古典から、古来どれほどの演劇や小説ができたろう。丹念《たんねん》に数え上げたら、びっくりするほどの数にのぼるにちがいない。この事実は、これらの話は日本人としては教養の一つとしていちおう知っていなければならないことだという証明になっていると思うのだが、近ごろは学校の歴史教育が戦前とちがって、社会|変遷《へんせん》の過程《かてい》を抽象的《ちゆうしようてき》な理論として教えることになっているから、若い国民の大部分はほとんど知っていない。直接に古典を読めば、それが一番よいのだが、これまた国語教育の変化で、今日では大学の国文科の学生でも、これらをすらすらと読みこなせる力がない。昔は中学の二年になれば、ちょいと読書力のすぐれた子供は、平家物語《へいけものがたり》や太平記《たいへいき》は現代語の小説を読むとさして変わらず読めたものだが。
しかし、よくしたもので、こういう時代にはそれをおぎなうような書物が出る。吉川英治《よしかわえいじ》氏が新《しん》・平家物語《へいけものがたり》、私本太平記《しほんたいへいき》、太閤記《たいこうき》を書き、大佛次郎《おさらぎじろう》氏が赤穂浪士《あこうろうし》を書き、立野信之《たつののぶゆき》氏が明治大帝を書き、山岡荘八《やまおかそうはち》氏が織田信長《おだのぶなが》、徳川家康《とくがわいえやす》を書いているのがそれだ。これらは小説だから、史実のとおりではないが、史実のとおりを知らなければならないことはない。もちろん、史実を知り、そのうえでフィクションを楽しむのが最上にはちがいないが、専門家なら知らず、一般の人の教養としては、だいたいのことを知っていればまずよいとしなければならない。以上の書は今日ではみなたいへん有用なものと言ってよい。
ところで、どうしたものか、武田《たけだ》・上杉両雄《うえすぎりようゆう》の抗争《こうそう》の物語だけは、今日の作家の手になっていない。井上靖《いのうえやすし》氏が短編小説や、その一場面を長編小説の一部分に使って書いてはいるが、真正面からとり組んだものはないようである。少なくとも、ぼくの管見《かんけん》のおよぶところではない。
いつか書きたいと思いはじめた。そのうち、ぼくは史伝に興味をもちはじめて、今日まで四十人以上の歴史上の人物の伝記を書いてきたが、その何十何人目かに武田信玄《たけだしんげん》を書いた。当然のこととして、上杉謙信《うえすぎけんしん》のことも調べなければならない。ぼくは当面書いている信玄《しんげん》よりも、謙信《けんしん》に引きつけられた。小説に書きたい意欲がはげしくかきたてられた。
人物を器局《ききよく》の大きさや、事業の大小からだけで比較するなら、謙信《けんしん》より信玄《しんげん》の方がまさっている。しかし、魅力という点になると、ぼくには謙信《けんしん》の方がはるかに強かった。信玄《しんげん》はそつがなさすぎる。十分なる計算と用意をもって、コンスタントに成功をおさめていった人だ。彼の最大の欠点は用心がよすぎたことだ。時代を同じくして生まれ合わせ、どちらかを主人と選ばなければならないものなら、信玄《しんげん》をえらんだ方が得であろう。これに反して謙信《けんしん》は生涯冒険《しようがいぼうけん》ばかりしていた人だが、颯爽《さつそう》たる男性的|気概《きがい》は胸をわき立たせるものがある。ぼくはわがままで、人にあたまをおさえられることが大きらいな人間だから、どんな時代に生まれ合わせても人の家来になぞならないで、細々《ほそぼそ》と百姓《ひやくしよう》でもして暮らしたろうと思うが、どちらかへつかえなければならない羽目《はめ》になったら、やはり謙信《けんしん》の家来になったにちがいない。還暦《かんれき》を去年過ぎた年になっても、ぼくは男性的気概《きがい》というやつに弱く、グッと胸に来ていっぱいになってしもうのである。そんな空気の充満《じゆうまん》している薩摩《さつま》というところで育ったせいもあろうし、精神年齢が幼稚なせいでもあろうが、この年になってはいたしかたはない。
さて、こんなわけで、謙信《けんしん》を書きたいと思っているうちに気づいたことは、甲陽軍鑑《こうようぐんかん》はもとよりのこと、それを土台にした甲越軍記《こうえつぐんき》も、信玄《しんげん》がわから書かれたもので、謙信《けんしん》がわから書かれたものが古来ないことであった。いよいよ意欲をそそられているうちに、週刊朝日から連載小説の依頼《いらい》を受けたので、よろこんで応諾《おうだく》し、とりかかった。昭和三十四年の秋であった。
連載二年三か月だから、執筆期間にいたっては二年半になる。長い間である。編集長も田中利一氏、木村庸太郎氏、松島雄一郎氏と三代かわった。最初の田中さんは両三月前、不慮《ふりよ》の災厄《さいやく》でなくなられた。無量の感慨がある。木村、松島のお二人に深くお礼を申し上げるが、田中さんには別してお礼を申して、冥福《めいふく》を祈りたい。
なつかしい思い出もある。かかりの小林幹太郎氏、写真部の秋元氏と越後《えちご》地方に史蹟踏査《しせきとうさ》に行き、高田《たかだ》市の郊外で、釣《つ》りをしていた子供の釣《つ》り竿《ざお》を借りて大きなドジョウを釣《つ》ったことなど、なつかしい記憶としていつまでものこるであろう。この小説の時代大瀁《おおぶけ》といって沼地であった広い広いまっ平らな田圃《たんぼ》の中の小溝《こみぞ》であった。田圃《たんぼ》には稲穂が出かかっていたっけ。
(昭和三七・三・二三)
「天と地と」年表(一)
永正四年(一五〇七)
越後|守護《しゆご》上杉|房能《ふさよし》、失政が多く、長尾|為景《ためかげ》らに退けられる。上条《じようじよう》の城主|定実《さだざね》を守護に押したてる。為景、天水越えで房能を討ち取る。
将軍|義稙《よしたね》、越後守護職に定実を任ずる。為景、これを補佐せよとの教書。そしてこれに不満を持った琵琶島《びわじま》の城主|宇佐美定行《うさみさだゆき》、為景に合戦を挑む。為景惨敗、定実を奉じて越中、佐渡へ逃れた。
二月、甲斐《かい》武田|信直《のぶなお》(信虎)家督を嗣ぐ。
大内|義興《よしおき》、前将軍足利義稙を擁して東上、上京して十一代|義隆《よしたか》に代わり将軍職に復させる。
永正七年(一五一〇)
四月、為景、土民を煽動《せんどう》して、一揆《いつき》を起こし、七百人の兵力を掻《か》き集め信州境で上杉|顕定《あきさだ》を討ち取る。
為景、顕定の養子|憲房《のりふさ》に働きかけ、管領《かんれい》職をつがせるという条件で和睦《わぼく》。この時、宇佐美は妥協せず、敵対の態度を守る。
大永元年(一五二一)
足利|義澄《よしずみ》の子|義晴《よしはる》、細川|高国《たかくに》に擁されて十二代将軍となる。
武田|信玄《しんげん》生まれる。
享禄二年(一五二九)
為景六十二歳の時、四度目の妻をめとる。相手は、同族の長尾|顕吉《あきよし》の娘|袈裟《けさ》二十歳。
享禄三年(一五三〇)
一月二十一日、袈裟、男児を生む。
虎年に因んで虎千代《とらちよ》と名づける。
宇佐美定行、定実の弟|定憲《さだのり》を奉じて反為景の兵を挙げ、越後の豪族柿崎|弥二郎《やじろう》を味方に引き入れる。
為景、上田の城主、弟|房景《ふさかげ》の報で、上条に軍勢が集まっていると聞き、魚野川の河原で合戦、互角の勝負。
長尾方と上条勢、五十公野《いきみの》で合戦。為景、政略を使って、柿崎兄弟を味方に誘い込む。兄弥二郎、上杉定憲の首をあげる。
為景、管領の上杉|憲房《のりふさ》を利用し、憲房の仲裁で懸案の宇佐美と和議をする。
六月、武蔵川越の上杉|朝興《ともおき》、北条|氏綱《うじつな》を攻めようとして、同国小沢原に敗れる。
十二月、幕府徳政令を定める。
享禄四年(一五三一)
加賀の一向宗徒、大一揆と小一揆に分かれて戦う。
天文二年(一五三三)
虎千代四つの春、袈裟風邪をこじらせて急死。長尾家の菩提寺《ぼだいじ》に葬る。
天文三年(一五三四)
為景、新井野《あらいの》の鷹狩りの折、新井村の郷右衛門《ごうえもん》の娘、松江《まつえ》に会う。松江のち虎千代の守り役になる。
松江、為景の侍妾《じしよう》となり、金津新《かなづしん》兵衛《べえ》が守り役になる。
織田信長生まれる。
天文四年(一五三五)
七月、北条氏綱、上杉|朝定《ともさだ》と武蔵川越などで戦う。
天文五年(一五三六)
虎千代、父に出家を命ぜられ、春日山林泉寺《しゆんにちざんりんせんじ》に入る。住職の天室《てんしつ》和尚、のちに虎千代を城に送りかえす。
豊臣秀吉生まれる。
天文六年(一五三七)
武田|信虎《のぶとら》、兵を信州|佐久口《さくぐち》に向けたが、大雪のために難渋、長男|晴信《はるのぶ》(十七歳)しんがりを引き受ける。
景虎、八歳の春、為景、景虎を加地《かじ》氏の養子にしようとし、ことわる景虎を金津新兵衛の屋敷に預ける。ついで勘当。新兵衛、景虎の母の実家に相談。栃尾《とちお》にいる本庄|慶秀《よしひで》が景虎の身を引き取る。
天文七年(一五三八)
為景、宇佐美定行と兵を率いて越中に入る。一向宗門徒と仲間の越中の豪族が相手。松江、為影に付き添う。
天文九年(一五四〇)
武田信虎、諏訪《すわ》氏の当主|頼重《よりしげ》に六女の禰々《ねね》を与える。
五月、武田信虎、信濃佐久郡に攻め入り、諸城を陥す。
天文十年(一五四一)
晴信、父信虎を駿河《するが》に追い出し、武田家の当主となる。信晴二十一歳。
六月、晴信二万の大軍を率い、信州諏訪郡に打ち入り、頼重降伏。頼重の妾腹《しようふく》の女子、当時十四歳を側室の一人とする。「諏訪の御料人」と呼ばれる。
武田信虎、子晴信に追放されて、駿河今川義元を頼る。
天文十一年(一五四二)
春、越中豪族|神保《じんぼ》らが失地回復のため、一向宗門徒らを煽動、一揆を起こす。為景、四千の兵を率いて出陣、栴檀野《せんだんの》の合戦で、越中勢の仕掛けに計られ、討ち取られる。松江、敵方に捕られるが逃亡。
長尾一族、長男晴景を喪主とし、為景の遺品を林泉寺に葬る。景虎参列できず。
新守護代晴景に決定。
徳川家康生まれる。
七月、武田晴信、諏訪頼重を自殺させる。
九月、武田晴信、諏訪|頼継《よりつぐ》を破り、諏訪氏の全所領を支配。
天文十二年(一五四三)
守護代晴景に不満を持つ長尾|俊景《としかげ》、三条で兵を挙げる。景虎、俊景の追手から一人抜け出し、春日山城に戻る。
俊景の挙兵、越後全土に衝撃を与える。柿崎ら諸豪族、春日山に向けて立ち上がる。
角川文庫『天と地と(一)』昭和61年9月10日初版刊行