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海音寺潮五郎
史談と史論(下)
目 次
北越の大豪・富田勢源
かくれ門徒の話
金と女
戦国英雄の性格解剖
利休と織部
物語武勇伝
正 宗
村 正
倭寇物語
義経と弁慶
武士と博徒
島津家物語
王朝時代の幽霊
源頼義
盗賊皇族と天皇の捕物
将門時代の服飾と刀剣
平将門
古文書いじり
武将雑感
※[#「奚+隹」、unicode96de]肋集
世相直言
古今逆臣転心考
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[#見出し] 北越の大豪・富田勢源
他流試合は避ける
中条流の剣法は、鎌倉寿福寺の僧慈音にはじまる。慈音が寿福寺の檀徒中条兵庫助長秀に伝え、はじめて流名がついた。兵庫助から甲斐豊前守某に伝わり、甲斐から大橋|勘解由《かげゆ》左衛門に伝わった。
甲斐も大橋もどこの人で、どんな経歴をもった人であるか不明である。
この大橋が諸国を周遊して、越前の朝倉家の城下である一乗浄教寺村に行った時、朝倉家の家臣、富田《とだ》九郎右衛門長家というものが弟子となり、ことごとく秘奥を伝えた。
九郎右衛門は、師伝の技術にみずからの工夫も加えたので、世間ではこれを富田《とだ》流と呼ぶようになった。いったい、剣法というものは技術であるから、師伝そのままということはない。ある流儀を学ぶ前に他の流儀を学んでいれば、多少なり折衷されたものとなるのはまぬかれない。また、技術というものは個性的なものであるから、その点でも師伝とちがう点が出て来ざるを得ない。このようにして生じた相違がある程度以上にあると、別な流名をもって呼ばれるようになるのは当然のことであろう。しかし、九郎右衛門も、その子らも、みずからは富田流とは言っていない。みずから言う時は、中条流とのみ言っている。
九郎右衛門に二子あった。長は五郎左衛門、次は治部左衛門、ともに父の技術を伝えて精妙をもって称せられたが、五郎左衛門は眼病をわずらったため、家を弟治部左衛門にゆずって、入道して勢源と称した。
家督を譲ったくらいだから、よほどに重い眼病で、視力がおとろえたのか、両眼がただれて容貌が見苦しくなったか、いずれかであろう。
永禄三年五月、ちょうど桶狭間で織田信長が今川義元を屠った時だ。勢源は美濃に遊びに行った。当時、美濃は、斎藤道三の子義竜の治めるところで、なかなかの勢いがあり、勢源の主家である朝倉家から、朝倉の一族である成就坊という人物が人質となって行っていた。勢源はその人のもとに遊びに行ったのである。
そのころ、美濃に常陸鹿島の住人で神道流(新当流か?)の剣客梅津某という者が来ていて、入門して学ぶ者が多かった。
この梅津が、勢源の来遊を聞くと、
「勢源の武名は、聞くこと久しい。彼は好んで小太刀を使うということだが、一試合してみたい」
と、弟子どもに言った。
「それは面白いこと、ぜひ試合して見せていただきたい」
弟子どもは、成就坊の屋敷に行き、勢源に会って、師のことばを伝えた。
勢源は迷惑げにこたえた。
「拙者は兵法《ひようほう》の家には生まれましたが、未熟者ゆえ、家をもつがず、こうして法体となっているほどの者です。御所望には応じかねます。強《た》って中条流の兵法を見たいとの思召しならば、越前の本家に行っていただきたい。しかし、当流では他流試合はせぬことになっております」
弟子は立ち帰って、梅津に復命した。
梅津は大口あいて、カラカラと笑った。
「拙者が兵法の卓絶は関東においてかくれなき高名なものだ。拙者には三十六人の相弟子があったが、皆拙者に及ばぬため、拙者に対して弟子の礼をとるようになったくらいだ。また先年拙者が当国に来遊した時、当国の吹原《すいはら》大書記、三橋貴伝は国内にて竜虎と称せられている兵法者で、一方ならず世に重んぜられていたが、拙者に向かっては、手も足も出ず、一合にして打ち破られてしまった。それはおぬしらも眼前に見たこと。勢源も北陸路ではずいぶん鳴らしているというが、拙者にはしょせん勝目ないと見たゆえ、そのような逃口上を言うのであろう」
ここまでの高言なら、まだよかったが、酒でも飲んでいたのだろう。つづけてこう言った。
「およそ兵法者が試合の場に臨んだら、相手がたとえ国主大名であっても、容赦すべきではない。当国の斎藤山城守義竜殿は、武勇絶倫と聞いているが、もし、拙者が試合するなら、ただ一撃に破ろうぞ。兵法とはそのようにきびしいものじゃ」
この高言が、義竜の耳に入ったからたまらない。家臣武藤淡路守、吉原伊豆守の二人を呼んで、
「その方ども、勢源が宿に行って、梅津と試合することを、おれがしきりに所望していると言うて来い」
二人はかしこまって、成就坊の屋敷に行って、主命を伝えた。
勢源は拒絶した。
「せっかくの御所望ながら、中条流では無益の勝負として、他流試合はせぬことになっています。流儀の禁ずるところでありますから平に御容赦ありたい」
二人は立ちかえって、義竜に報告する。
義竜はきかない。
「梅津が過言、他国への聞えもいかがと、おれは腹にすえかねている。ぜひに所望だ。必ずともに試合させい」
二人はまた勢源の宿へ引きかえして懇望する。
勢源も、この上の辞退はできなかった。
「このような勝負は怨恨を結ぶもととなり勝ちなものでありますから、心してこれまでは決していたさなかったことでありますが、国主の強《た》っての御命令でありますから、この上の辞退はいかが、いたしましょう」
義竜は大喜びだ。
場所は武藤淡路守の邸、時は七月二十三日辰ノ刻(午前八時)、検使は武藤淡路守と吉原伊豆守の二人と決めた。
薪を木刀に代えて
梅津は義竜の一族である大原家に止宿していたが、前夜から水垢離《みずごり》を取って、神に勝利を祈り、翌日定めの時刻はるか前に、大原はじめ弟子数十人を引きつれて出かける。弟子の一人が、梅津が秘蔵する木剣、長さ三尺四五寸にして八角に削りなしたのを錦の袋に入れて捧持していた。梅津はたけ六尺に近く、筋骨たくましく、顔相雄偉、生身《しようしん》の摩利支天を見るような男だ。琉璃紺の絹小袖に木綿ばかま、あたりをはらって堂々たる風姿だ。
これに対して、勢源は至って尋常だ。梅津が信心ぶりを聞いて告げた者があったが、
「神助によって勝とうとはわしは思うておらぬ。わしはわしの力を見てもらえばよいのだ」
と、いつもの通りの生活ぶりで、いつもの時刻に寝、いつもの時刻に起き、柳色の小袖に半袴をつけ、供人四、五人連れて武藤邸へ出向く。木剣も構えていなかったが、武藤家の門内に薪がうず高く積んであるのを見て、その中から一尺二、三寸の割木をぬき出し、手もとを皮で巻いて、それをぶら下げた。
気を負うている梅津は検使らに言った。
「真剣にていたしたく存ずるが、富田殿の御意向はいかがでありましょうか」
検使らは勢源に告げた。
勢源はボソボソと答えた。
「あちらは真剣でせられてもかまいませぬ。拙者はこの木剣で結構」
梅津はクヮッと怒った。
「拙者も木剣にてつかまつる!」
試合がはじまったが、まるで勝負にならなかった。
「ヤア!」
と大喝して、打ちおろした梅津の刀を、受けとめたと思うや、勢源はするりと近づき、一尺二寸の薪は梅津が真向をしたたかに打った。額は破れて、サッと血がほとばしったが、強情な梅津は参ったとは言わない。木剣をとり直して、また打ちおろした。勢源の技はそれより速かった。梅津が右腕を打った。
打撃の強さ、梅津はドウと前にたおれたが、たおれざまに、勢源の足をはらった。勢源は足を上げてかわしたが、同時にしっかと木剣を踏み、踏み折って飛び退った。
梅津はあくまでも強情だった。はね起きるや、決死の形相物凄く、ふところにかくし持った小脇差を引きぬきざまに、飛びかかって来た。
勢源は一足退って、また面を打った。
もういけない。目がくらんで、梅津はたおれた。
「勝負あった!」
検使らが飛びこんで来て、梅津を屋内にかつぎこんで介抱し、やがて大原の邸へ送りとどけた。
武藤と吉原とは、勢源を武藤邸にとどめておいて、勢源が薪木刀と踏み折られた梅津の木剣とをとりそろえ持って登城して、委細を言上した。
「あっぱれなものだな。胸がひらけたぞ」
義竜は勢源の薪木刀を記念のために手もとにとどめおき、永楽銭一万匹、小袖一かさねを勢源に下賜した。しかし、勢源は、
「流儀において禁ずるところでありますのを、国主の命もだしがたくいたしたのでありますから、かかる恩賜は受納いたしかねます。御恩情だけをありがたくお受けします」
と、答えて、どうすすめられても受けない。
義竜はますます感心して、対面せん、登城せよ、と言ったが、これも辞退して受けず、翌早朝発足して越前へ帰って行った。梅津の弟子どもが報復の企てをすることもあろうかと用心したのである。
勢源と梅津との試合には異説もある。
一つは、場所が京都黒谷であったという説。
一つは、試合後、梅津が、
「拙者の勝ちである。拙者の太刀が先に勢源にあたっている」と主張した。
「そんなことはない。貴殿の太刀は当方にとどいてはいない。拙者の十分の勝ちでござる」と、勢源は言いすてて、宿へかえって、湯浴みをしていると、検使が来た。
「梅津があくまでも勝ちを主張して、勢源のからだを改めてもらいたい、必ず打たれた痕《あと》があるはずだというから参った」という。
勢源は答えた。
「仰せの旨、うけたまわる。都合よく、拙者入浴中であります。これへ入って、お改め下さい」
検使らは入って、勢源のからだをくまなくしらべたが、どこにも痕はなかった。ついに、勢源の勝ちと判ぜられた。
ところが、実を言うと、勢源の左の手の甲にしたたかな打ち傷があって、黒ずんでいたが、勢源が謹慎の体をつくり、それを右の手でおさえてかしこまっていたので、つい検使は気づかなかったという説。
戸田清玄は別人
勢源は話の少ない人である。ぼくは寡聞にして、上述した話しか知らない。
勢源の弟治部左衛門は前田家に仕えて、武功があり、その養子六左衛門に至って一万三千石の大身となり、越後守に任官した。「名人越後」と呼ばれたのはこの人である。
治部左衛門にはほかに長谷川宗喜、鐘巻自斎の二人のすぐれた弟子があり、前者は長谷川流を創め、関白豊臣秀次の師範となり、後者は鐘巻流をはじめ、その門に伊藤一刀斎が出て一刀流をはじめた。
昔から勢源と混同される剣客に、戸田清玄(星眼)がある。名前の音が似ている上に、ともに小太刀を使ったところから間違えられるのであるが、清玄は福島正則の家臣で、長袴をつけ、ビワの木剣一尺九寸五分の長さのものをもって稽古させたという。太平の世に適した剣法をはじめたのである。
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[#見出し] かくれ門徒の話
藩政時代の薩摩では一向宗(浄土真宗)は禁断の教えであった。邪宗門としてキリスト教同様にきびしく禁止されていた。
なぜそうなったかについて、古来こう言われている。
豊臣秀吉が九州征伐の時、信仰の方から薩摩人の結束を破ろうとして、戦争開始前に本願寺の顕如上人を天草の獅子島につかわし、そこから盛んに薩摩の門徒に呼びかけさせたばかりか、いよいよ開戦となると、本願寺の旗を先頭に立てて攻めこんで行った。
効果のほどは歴史には伝わっていないが、相当色々なことがあったに相違ない。戦争がおわると、島津家は秀吉に、
「拙者領内においては一向宗を制禁させていただきたい。領主を裏切るような宗門の存在を許すわけにまいりませんから」
と願い出た。
秀吉だって封建君主としては島津と一つ穴のムジナだ。さんざん利用したくせに、一議におよばず聴許した。
「よかろう。許すぞ」
これが禁教のはじめで、豊臣家が亡びると徳川家に願い出て許してもらい、明治初年まで継続したというのである。
しかし、これについては疑問がある。
島津家は一向宗がきらいなのだ。当時の島津家の当主義久の祖父忠良は日新斎と号して薩摩聖人といわれているくらいの名君であったが、その作歌にこういうのがある。
世の中に無益なものが二つある
一向宗に数寄の小座敷
数寄の小座敷は茶の湯のことだ。朴実剛健を尊ぶ薩摩気質としては当然のこととしても、一向宗をきらったのはどういうわけであろう。恐らく、当時の一向宗は一頃の天理教や、近頃のある種の新興宗教のように無暗に信者から搾取したのではないだろうか。当時の本願寺の豪富はこの疑いを抱かせるに十分なものがある。今日新興宗教に眉をひそめる人の心理が、日新斎にはあったのではなかろうか。信長が本願寺をにくんだのにもこの心理があるかも知れない。
それはさておき、こんな風であったから、九州征伐以前から島津領内では、一向宗は相当圧迫されていたのではないか。であればこそ顕如上人の呼びかけも、本願寺の旗の効力もあるわけで、従って秀吉もこれを戦略に使ったのであろう、と思うのである。これはぼくの私見だ。
薩摩はこうして一向宗を禁断し、ずいぶん厳重にとりしまったのだが、なかなか根絶することは出来なかった。各時代を通じて、かくれ門徒の話が色々と伝わっている。ぼくの生れ故郷は薩摩北部の山村で、肥後境から四里という地点にあるので、とりわけこのかくれ門徒が多かった。何しろ山一つ越せば信仰自由な他領だ。たえずそこから坊さん達が潜入して来ては信仰を固めて行くのだ。多くなかったら不思議というべきであろう。
面白い話が色々ある。
明治の初年、信仰自由の法令が出て間もなくのことだ。潜入して来た肥後の坊さん達からこのことを聞いた門徒らは大喜びで時々集まっては説教を聞いたり礼拝をしたりしはじめた。
これが村の士族連に聞こえた。片田舎のこと、当時のことだ、士族連はそんな法令の出来たことを知らない。
「百姓共が一向宗を拝《おご》じょるちゅうぞ」
「けしからん」
大いに憤慨し、ふん縛って牢屋に叩きこみはじめた。
門徒らもまたおこった。ついに一揆をおこした。士族連はこれに大砲をぶッぱなして威嚇して解散させ、おも立った者数十人を逮捕して鹿児島に護送して行った。
当時の鹿児島の大参事(昔の家老に相当する)は西郷隆盛であったが、おどろき、また苦笑し、
「おはん方は出すぎたことをする。御一新となって信仰は自由になったのでごわすぞ。一向宗を拝もうが、ヤソ宗を拝もうが、一切自由なんでごわすぞ」
と、散々に叱りつけて、早速に釈放したという。
明治十年代頃から薩摩の村々にも本願寺の寺々が建ちはじめ、本山から坊さんがやって来た。何百年にわたるきびしい圧迫の後の春のこととて、それはまことに盛んなものであった。今日、薩摩に遊んだことのある人は気がつくはずだが、薩摩の村々にある本願寺系の寺は他府県では見られないくらいに大きい。ぼくの村にも片田舎にはめずらしいくらい壮大な寺が建った。
ところが、不思議なことに、門徒らはこの寺にも熱心に参詣するのだが、別に「村ぼとけ様」と称して、時々昔のように肥後からやってくる坊さんを請《しよう》じては多数集まって説教をきいたり、礼拝をしたりすることが、ぼくの少年時代までつづいた。これは多分、何百年の間秘密に信仰している間にはしぜん秘密信仰に適した特殊な色々な儀式が出来たのに、寺の儀式にはそれがないので、しっくりした気持になれなかったのではないだろうか。
長崎の大浦に天主堂が出来た時にも同様なことがあったという。天主堂が出来た時長崎近傍のかくれキリシタンの人々は大へんな喜びようで礼拝に集まったが、そこで行われる儀式が彼らが伝えて来た儀式と違うので、
「こりゃわしどんが拝んで来た宗門じゃありまっせんばい」
といって、相当長い間、行く者がなかったという。これらの話は、宗教の儀式は単なる形式ではなく、本質の一部をなすものであることを実証する話になるかも知れない。
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[#見出し] 金と女
徳川家康は駿府に隠居してからも、その権力は将軍より大きかった。諸大名は江戸にもごきげんをとったが、駿府へはいっそう骨をおった。彼らは盛んに家康の侍女(妾)に取り入った。侍女らは諸大名からの賄賂《わいろ》や進物によって、金銀財宝うなるがごとくなった。
そのころ駿府城の大奥や大名の奥向きに出入りして、婦人の間に信仰されている巫女《みこ》があった。この巫女がある時侍女らに言った。
「みなさまは大へん金銀をお持ちでございますが、これをそのまましまいこんでおかれるのは惜しゅうございます。利回りよくまわして上げましょうか。だんだん子を生んで、お楽しみでございますよ」
二、三人が承知していくらかを出資すると、巫女はそれを大名や旗本に融通した。大名や旗本の窮迫はまだはじまっていない時代だ。ほんの一時しのぎの借金だから、利子も確実に入れ、返金も確実だ。踏みたおされるようなことは全然ない。確実にもうかった。そこで、ほかの侍女らもわれもわれもと出資して、相当大きな金融機関となった。
ところがこれが意外な事件の発端になり、大名の家が一軒つぶれることになった。池田備後守知政(一に恒元)という大名があった。一説では池田輝政の孫で播州|宍粟《しそう》郡三万石の領主であったといい、一説では織田信長に謀反して領を追われた伊丹城主荒木摂津守村重の一族であるといい、はっきりしないが、大体三万石内外の小大名であったらしい。これがその巫女から度々金を借りた。もちろん、備後守自身が談じこんで借りるのではない。家老がことにあたる。
この金は池田家から返済する時は、いつもその金を革袋に入れて封印し、金額を表記して渡すと、巫女は封を切って中身をたしかめて受取った。しかし、いつ調べても間違いがないので、いつか巫女は中身を調べないで受取るようになった。しかるに、ある時、家へ帰ってから調べてみると、金子のかわりに石が入っていた。
巫女は驚きあわてて引っかえし、談じ込んだが、
「調べて受取らぬはその方の手落ちだ。言いがかりを申す。当方はたしかに金子これこれを入れて渡したに相違ない」
と、家老は言い張って相手にならない。
巫女は腹を立てて、駿府の決断所に訴え出た。双方対決して論争したが、何としても巫女方に手落ちがある。大いに分《ぶ》が悪い。池田家の家老は勝ちほこった。すると、巫女はくやしげに絶叫した。
「おのれ悪人め! おのれは主人たる備後守殿の奥方と密通しているではないか。そのような悪人の申すことがどうして正しかろう!」
それを聞くと、家老の顔は真青になった。
巫女は奉行に向って言った。
「ただいま申した通りの悪人でございます。この者の申すことを御信用なきよう願います」
奉行はことの意外な発展に驚きながら言う。
「由々しきことだぞ。証拠があるか」
「わたくしがなかだちしたのでございます。それが何よりの証拠でございます」
厳重な取調べがはじまった。家老は包みきれず白状した。金子のことも白状した。
そこで家康の裁決で、池田備後守父子三人は、家不取締りの罪名によって家取りつぶしの上、有馬玄蕃頭に永のお預けとなった。
以上は「老人雑話」「一話一言」「駿府記」「当代記」等の記載を綜合して書いたのだが、どの書にも家老と巫女をどう処置したかを書いていない。家老も巫女も死罪に処せられたのではなかろうか。あるいは、巫女は追放くらいのことですんだかも知れない。
この事件で、家康が出資者である侍女らに何の処罰もしていないのは、彼の鼻の下が長かったからではない。家康は金貸を正当なことと見ているのである。この時代にはまだ武士が金銭をいやしむ気風は、特殊な人以外にはない。信長だって、秀吉だって、大いに金を愛している。金をいやしむふうが武士に生じたのは、武士が生き生きとした活力を失って、体面と虚礼と形式にがんじがらめに縛られるようになってからのことだ。そしてそのころから彼らの貧乏がはじまる。皮肉であるが、当然のことでもある。
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[#見出し] 戦国英雄の性格解剖
――謙信・信玄・信長・秀吉・家康の解剖――
一
専門医家の説ではどういうことになっているか知らないが、ぼくの素人観察では、威勢のよい活動的な人には高血圧の人が多いようだし、内省的で用心深くて、しぜん非活動的な人々は低血圧の人が多いようだ。
戦争はるか前、近衛文麿氏が時局の上に大きく浮かび上って首相となった時、ぼくは近衛さんの日常生活――とりわけ、どんなに多忙な時でも日に一回は相当長時間の午睡をとらないではいられない人だという新聞記事を読んで、
「ああこの人は、きっと低血圧なんだな」
と、思ったことがある。ほんとはどうだったんだろう。近衛さんの主治医だった人に聞いてみたい。
二三年前、武田信玄と上杉謙信のことを相当くわしく知る必要があって調べている時、ふと、
「謙信は高血圧、信玄は低血圧だったのではないか」
という気がした。謙信は性急な活動家で、信玄は沈着で相当非活動的であるからだ。事実によって、両者を比較してみよう。
先ず、戦争のしぶり。
両者とも稀世の戦争上手だが、その戦いぶりはまるで正反対だ。兵を部署する方法からして違う。謙信は平生兵の訓練などしない。隊を分つにも、馬に鞭うって軍勢の中を疾駆して過ぎるだけだ。すると、将士等は彼の通過するにしたがって左右にわかれ、いくつかの隊となる。その際、主人がこちら側にあり、槍もちの家来があちら側にいるようなことがあっても、もう決して一つになってはならないことになっていた。グズグズしようものなら、軍令を乱すものとして一刀両断されてしまったという。
ところが、信玄の方は、平生の訓練を至って念入りにする。先ず軍令と陣法を懇々と教えさとした上で演習を重ね、十分に熟したところで戦場に出たので、その戦うや整々として一糸乱れなかったという。
第二に、二人の性質だ。
謙信は無鉄砲なくらい積極的であった。彼は戦争が好きで好きで、無暗に戦争ばかりしている。西は能登から加賀に向って兵を出し、東は関東に進出して、連年戦争から戦争に明けくれて、文字通り席のあたたまるひまのない有様であった。彼だって大いに領土慾はあったに違いないが、その戦争は領土の拡張にはあまり役に立っていない。一体何のために戦争をしているのかわからないような所がある。
いい例は彼の関東進出だ。彼が関東に進出したはじまりは、関東管領であった上杉憲政が小田原の北条氏によって関東を追われて越後にのがれ、彼に身を寄せ、上杉の苗字と管領職とを譲って復讐を頼んだところからだ。
「よろしい、引受けました」
と、うなずくや、
「関東は関東管領の支配に属すべき土地である。おれはその関東管領になったのだから、全関東はおれの支配下にあるべきである」
と宣言して、関東に進出した。
戦争にはものすごく強い彼だ。忽ちのうちに関東の大部分を斬り従えたが、肝心な北条氏に対してはどうすることも出来なかった。
北条氏は、武力戦では謙信の敵ではないことを知っているから、備えをかたくして小田原の本城にこもって出て来ないのだ。謙信はあせって色々と挑戦するが、北条氏は決して相手にならない。
そのうち、冬が近づいてくると、謙信は越後にかえらなければならない。雪のために本国との連絡がたえてしまうからだ。
ここが、北条氏のつけ目だ。謙信の旗が碓氷峠のかなたに消えるや否や、北条氏はノコノコと小田原を出て来て、謙信に従った諸大名の征伐にかかる。征伐されなくったって、長いものには巻かれろだ、諸大名共は風靡《ふうび》して北条氏に従い、全関東は北条氏のものとなってしまう。
報告は越後にとどくが、深い雪に閉ざされて、謙信は身動きが出来ない。
「卑怯な北条め! いくじなしの諸大名共め!」
歯がみをしつつ、毎日大酒でものんでいるよりほかはない。
やがて、春となる。
待ちに待っていた謙信は、雷霆《らいてい》の発するがごとき勢いで春日山城を出て関東に向い、旋風の吹きまくるような有様で、全関東を荒れまわる。
誰も抵抗などしない。旗を向けられれば、一も二もなく降伏してしまうが、冬になって謙信が引き上げると、ノコノコ小田原に伺候するのだ。
連年、このくりかえしであった。
これでは、何のために戦争するのか、わからない。普通、戦争というものは、領土をひろげるためとか、他の侵略を防ぐためとか、ある利益があってそれを得るためにするのだが、彼においては、戦争のための戦争、つまり敵をたたき破り、敵陣を蹂躙する痛快感のために戦ったのではないかとしか思われないような所がある。
一方、信玄の方はこれと正反対だ。戦争によって得た土地は必ず確実にかためる。善政をしき、民をなずけ、確実に自分の領土とした。彼は有功の臣を賞するにも、決して新附《しんぷ》の土地はあたえない。これは直轄領として、民政に熟練した者を代官としてつかわして治めさせた。へたな治め方をして民心を離反させてはならないと用心したからである。だから、新附の土地でも、彼一代の間は決して離反しなかったと伝えられている。
こんな具合に一歩一歩念入りに踏みかためて行くやり方は、先きへ先きへと走って行く、つまり積極的な性格の人のやり方ではない、消極的な性格の人の行き方である。
第三は、二人の生活態度だ。
謙信は生涯|不犯《ふぼん》であった。彼は軍神|毘沙門天《びしやもんてん》に、
「生涯戦さにおいて不覚あらしめ給うな、そのかわり拙者は一生女を禁《た》ちます」
と、誓いを立て、かたくこれを守り、酒こそ大いに飲んだが、食事なども魚肉を近づけず律僧のように引きしまった生活をした。
信玄はそうでない。文学風流におぼれて板垣|信形《のぶかた》に手きびしく諫言されたことがあり、女におぼれて家臣等に眉をひそめさせたことも一再ならずある。
つまり、謙信は緊張的性格で狂的なくらい仕事好きであり、信玄は相当享楽的性格で、本来はあまり仕事好きでないのを努力によってあれだけのことをやったのではないかと思われるのだ。
第四は用心深さの問題だ。
謙信は、あの戦国のさなか、わずかに数十騎の供をつれただけで京都に上り、足利将軍に謁したり、禁裡に詣《まい》って天盃をいただいたりしている。
天正二年に、北条氏三万の軍が、謙信方の将佐野政綱を佐野城に囲んだことがある。急報に接して、謙信は八千の兵をひきいて救援に向ったが、途中、
「急がんと城はおちるかも知れん。おれは先行して城にかけ入って城兵に力を添える。汝《わい》らはあとから来い」
と、諸将に言って、わずかに十三騎の兵をひきいてはせ向った。その粧《よそお》い、物の具も着ず、小袖の上に黒い木綿の道服を着、十文字槍を馬の平首《ひらくび》にひきつけただけであった。北条氏の本陣の前を、馬を走らせもせず、粛々と打たせて城に入った。勇気凜然、膚《はだえ》たゆまず、目まじろがずという有様であったので、北条氏の軍兵共は、
「あなおびただし、鬼神のふるまいとはこれなるべし」
と、目を見はり、舌をふるわせているだけで、敢て近づく者はなく、やがて囲みを解いて立ち去ったという。
有名な川中島の斬りこみなども、おそろしく冒険的だ。
これが信玄となると、その用心深さたるや大へんなものだ。七人の影武者をこしらえ、たえず左右においたというのもそのあらわれだが、あまりにも周囲の状況に気をくばりすぎて、上洛の決心がつかず、あれほどの力量をもちながら、あれくらいのことしか出来なかったのもそれだ。
この意味において、彼は悲劇的人物だといえるかも知れない。生涯用心ばかりしつづけて、いよいよその用心に見切りをつけて、上洛の決意をかためて一歩を踏み出した時、病気が重くなって(一説では銃創を負うて)、ついにそれが死の原因となったのであるから。
彼は瀕死の床で意識不明におち入りながらも、山県昌景の名を呼んで、
「明日は瀬田に旗を立てい!」
と、言ったと伝えられているが、限りなく悲痛である。
さて、以上のような比較から、謙信高血圧、信玄低血圧の見込みをつけて、文献さがしにかかったところ、きわめて容易に見つかった。
謙信は、天正六年三月に死んでいるが、その病名は中風だ。上杉家に伝わる謙信の伝記である「太祖一代軍記」に、
「……然る所に三月九日、昼より、謙信卒中風を煩いつかれ、色々医療いたし候えども、次第に重り、(中略)三月十三日に逝去……」
とあるから、疑う余地はない。中風になる人に高血圧の人の多いのは常識である。
信玄の方は、徳富蘇峰翁が、「近世日本国民史」の中で、御宿大堅物《みしゆくだいけんもつ》の書簡中に、
「元来、玄公望みを天下に懸け、胸に四海を呑み、舌を九河に巻き、家名を海内に振い、名を後代に胎《のこ》さるべく、襟懐骨髄に徹し、肺肝を苦しむるにより、病患忽ち萌《きざ》す。腹心安んぜざること切なればなり。(原漢文)」
とあるのを引いて、その病気は肺病であったらしいと考証している。
さしあたって、書名を思い出さないが、以前ぼくも信玄が喀血した記事を読んだ記憶がある。
肺病患者や、かつて病歴のある者には、低血圧の人が多い。この文章を書くにあたって、お医者さんに質《ただ》したのだから、これはたしかなことである。
現在普通に行われている信玄の肖像画は、大兵肥満、アゴは二重にくくれ、口ヒゲ頬ヒゲを生やし、赤ら顔らしく、いかにも高血圧患者的だ。これは松平楽翁の「集古十種」に収録されているものがもとで、さらにそのもとは高野山の成慶院《じようけいいん》所蔵の画像から出ているらしいのだが、果して信用出来るものであろうか。
赤ら顔で肥っている低血圧の患者もないことはないが、早稲田大学出版部から出ている「通俗日本全史」の「甲越軍記」の巻頭にかかげられた永井如雲氏所蔵の画像は、まるでこれと違う。痩せてシワ深く、いかにも胸でも病んでいる人らしく見える。
甲越両雄の争覇は、日本歴史上の偉観だ。ずっと書いて来たように、その性格といい、その戦争のしぶりといい、きわめて対照的で、名家の手になった大ロマンを読むような感があるが、体質的にもこうであったと知ると、さらに興味がある。
二
信玄は大永元年(一五二一)の生れ、謙信は享禄三年(一五三〇)の生れ、信長は天文三年(一五三四)の生れ。その活動の時期を同じくしている。
この三人は皆当時における一流中の一流の英雄共であったが、その実力は信玄と謙信が伯仲し、信長はやや劣ったのではないかと思う。
それ故であろう。信長がこの二人を恐れることは虎のようで、決して進んでこの二人と争おうとはしなかった。あるいは結婚政策をとり、あるいは贈りものを手厚くして見苦しいくらいごきげんをとりつづけ、せっぱつまってもう施すに手がなくなってから、はじめて決裂している。しかも、信玄が三方ケ原に打って出て、徳川家康と決戦した時、信長は家康の懇請もだしがたく援兵をつかわしているが、将士をいましめて決して戦ってはならないと言っている。この時、織田勢は徳川勢の苦戦を見ながら戦わずして逃げているのである。信長が越前を平定して加賀に兵を向けた時も柴田勝家を主将として諸将をつかわしただけで、自分は行っていない。当時の信長としてはあるまじきことだ。謙信が出て来るのをおそれたからである。
しかもなお、信長が天下とりとなり、二人に天下がとれなかったのは、どういうわけか?
二人が互いに掣肘し合って、信長に漁夫の利を占めさせた点もあろう。信長の年が若くて、二人の死後なお生きていた点もあろう。その本国が地理的に有利であったという点もあろう。
これらのことは、すべて無視出来ない条件ではあるが、最も大きな理由は、二人が旧時代の英雄であるのに、信長は新時代の英雄であったという点にあると思う。
その最も端的なあらわれは、二人は非常な迷信家であるが、信長にはそんなものは毛筋ほどにもなかったことだ。
謙信の迷信家であったことは、すでに言った。彼は戦場における武勇をおとさないために、信仰する軍神に不犯《ふぼん》を誓い、生涯かたく守りつづけた人だ。
信玄もこの点では同じだ。彼は享楽派だから女を禁《た》つようなことはしないが、高野山の成慶院には、大威徳明王に謙信の調伏《ちようぶく》を祈った、彼の自筆の願文がのこっている。
ところが、信長となると、まるでちがう。比叡山を焼討ちし、本願寺を攻め、高野山を征伐し、高野|聖《ひじり》数千人をとらえて一挙に殺してのけている。加持だの、祈祷だの、呪咀だの、調伏だのの力を、一切信じていないのである。彼が中世的迷妄から超脱して、著しく近世的であったことの明らかな証拠だと思う。
彼がキリスト教に好意を持ったのを、この新来の宗教によって、日本に跋扈している仏教の力を殺《そ》ごうとしたのだと説くのは歴史家の常識だが、ぼくにはそうとばかりは思われない。宣教師共が宗教とともに持って来た科学知識の合理性が彼を納得《なつとく》させ、従ってその説く宗教にもある程度の信を抱かせたからだと思う。
儒教にも、道教にも、仏教にも、それぞれ科学学説がある。たとえば儒教の陰陽説、道教の五行説、仏教の須弥山《しゆみせん》を中心とする地理説や地水火風の四大説等は、すべて一種の科学学説であったと見てよい。
古代人は観念的でもあるし、経験範囲も狭かったので、これらの理論で一応満足していたが、次第に時代が進んで人間の経験範囲が広くなると、これら古代の科学学説では矛盾と撞着《どうちやく》が多くて、納得行きかねるようになる。特に信長のように鋭い人間には、これが気になってならない。胡麻化しだらけのような気がして不満である。ところが、宣教師共の持って来た西洋の科学学説は、その点実に明快だ。地理の話をさせても、天文の話をさせても、物質の成りたちの話をさせても、一々納得が行く。
「なるほど、よくわかる。異国から来た、このノッポの和尚のいうことは、ほんとぞいの。たぶん、その宗旨もほんとじゃろうぞい」
というので、大いに好意を見せたのではないかと思う。
当時の宣教師がその本国におくった報告書中に、
「彼(信長)は地球儀を持って来させて、さらに種々のことについて質問し、ついに言った。余はバテレン等の答弁に満足した、バテレン等の博識は、到底、坊主共の及ぶところではない」
とあるが、これをその証拠の一つにしてよいと思う。
キリスト教は、かつて科学を迫害したが、それが東洋にひろがるには、支那においても、日本においても、科学を階梯としている。皮肉といえば皮肉だ。
さて、信長のこの新時代人的性格は、どこから来たのであろう? ぼくは、生来的なものであったように思う。彼は少年時代異風好みで、手のつけられないイタズラモノであったというが、この異風好みに一切の新時代の萌芽があったとは見られないだろうか。
異風好みとは、平凡を忌み、陳套《ちんとう》をきらい、旧習をきらう心だ。これは即ち保守をきらい、新奇をもとめ、進歩にひかれる心に通う。
新時代には新時代の精神を持つ者だけが栄える。旧時代の精神の者はどんなに他にすぐれた所を持っていても、亡びざるを得ない。適者生存の理法だ。信長が天下人《てんかびと》となり得たのは、当然のことであろう。
歴史を流れと見ることが出来ず、現代と対立するものとしか見ない人にとっては、信長が皇室中心主義をとった意味はわからないにちがいない。
皇室中心主義は、信長の時代には最も新しい日本統一の方法だったのだ。彼もはじめは足利将軍をかついで、それによって日本の統一をしようとしたのだが、それが時代おくれで役に立たない方法と気がついたので、皇室の方に乗りかえたのだ。この方法は当時としてはきわめて斬新だったから、彼の好みにもよく合ったわけだ。
信長の勤王を語る場合、歴史家は彼の父信秀が皇室に献金したことをあげて、織田家には伝統的に勤王の精神があったと論ずるが、ぼくはそうは思わない。当時の皇室の衰微はひどいもので、従って京都附近の大名は皆朝廷から無心を受け、皆それぞれに献金しているのではないかと思う。織田家にかぎったことではないのである。たまたま、信長があれほどえらくなり、皇室を以て日本統一の中心としようとし、皇居の修理をしたり、御領を定めたりしたので、先祖のこの世間並みなことまで特別なことのように考えられるのだと思う。
三
信長に狂気的素質のあったことは、古来よく言われている。普通世間に伝えられている彼の愛憎のはげしさや、猜疑《さいぎ》心の強さや、残虐さや、刻薄さ以外に、その狂気を物語る話が数々ある。
荒木村重が叛旗をひるがえして、伊丹《いたみ》城にこもった時、彼は自身これを征伐に行っているが、その間の出来ごととして、「信長記《しんちようき》」にこんな話が出ている。
天正七年の四月八日に、彼は戦陣のひまを見て、摂津の池田方面に鷹狩に行ったが、初夏の日に照らされた広々とした緑の池田野を見ると、供の者共を騎馬隊と徒歩隊とに分けて、騎馬隊は徒歩隊に駆け入ることにし、徒歩隊はこれを防ぎつつ逃げまわることにして、「しばらくおん狂い、お気を晴らされ候」て後、鷹狩をした云々。
この時、信長は四十六歳、右大臣であったのだ。この月の二十六日には、またここへ来て、同じような遊びをしている。
彼の年齢といい、身分といい、季節といい、何か物狂わしい感じがするのは、ぼくだけであろうか。
狂気といえば、上杉謙信もおかしい。彼がおそろしく戦争好きで、そのために女まで禁《た》っていたというのは、彼が戦争にたいして芸術家が芸術にたいするような執心《しゆうしん》と献身をしていたことの証拠で、一種の狂気の心理であるが、彼の日常の生活を見ても、余程普通人とかわっている。
彼は春日山城のいただきに毘沙門堂をいとなんで、いつもここに人を遠ざけて律僧のような生活をしていた。軍議はこの毘沙門堂でやるのだが、殆んど諸将にものを言わせない。軍神の啓示を受けたと称して、彼一人が申し渡すだけであった。出陣にあたっては、諸将をここに集め、護摩を焚き、軍令を言い渡し、それから出発した。
こんな所、ジンギスカンに似ている。ジンギスカンは、時々天の啓示を受けると称して、ただ一人山に上って三日くらい下りて来なかったという。古塔のいただきにこもって、菜食しながら政略や戦術を練ったというヒットラーにも似ている。ぼくはジンギスカンもヒットラーも狂人だと思うのだが、同じ意味で謙信も狂人だったと思っている。少なくともシャーマン的なところがあると思っている。
四
豊臣秀吉の前半生はまるでわかっていない。彼が信長に仕えたのすら、十八歳説と二十三歳説があって、確定していない。また、生年も、天文五年説と六年説があるくらいだ。信長に仕える前、遠州で今川氏の家臣であった松下嘉右衛門|之綱《ゆきつな》の家に奉公していたことだけは、秀吉がえらくなってから松下夫妻を招いて厚遇している記録があるから事実らしいが、それ以外のことはまるでわからない。
一体、ああいう異常な成功者というものは、その出世前のことを、それが悲惨であればあるほど、自慢話として語りたがるものであり、秀吉という人は陽気な大ボラ吹きで、大言壮語癖のあった人だ。大いに昔のことを語りそうなものであるのに、まるで語っていない。
思うに、信長に仕えるまでの秀吉の生活は、悲惨にすぎて、彼自身が思い出すのも不愉快だったのではなかろうかと思う。世は戦国だ。家を飛び出して放浪して歩く少年に、吹く風が温かろうはずはないのだ。掻ッぱらいもしたろうし、泥棒もしたろうし、カタリもしたろうし、乞食もしたろうし、つまり、放浪する戦災孤児のような生活だったのではなかろうか。
こんな判断を下すのは、信長に仕えてからの秀吉の奉公ぶりが勤勉にすぎるからだ。出来るだけ信長の目にふれようとして出シャバリもしており、気に入られようとして実に無理な奉公もしている。同輩や先輩をおしのけて口出しをするし、人が二の足も三の足もふむような困難な仕事を進んで引き受け、引き受けるや、遮二無二仕上げている。
こういう働きは、普通の人には出来ない。人生のドン底の経験をして来て、再びあのような境遇に転落したくないとかたく決心している人にして、はじめて出来ることだと思うのだ。
秀吉が社会の最下位から出発して、信長という伯楽を得るや、急坂を駆け上るような立身をなし得たのは、天稟《てんびん》もあり、運の好さもあり、努力もあったに違いないが、根本的には、この悲惨な経験から来た覚悟のすわりによると、ぼくは見ている。
秀吉伝を書くには、ここに焦点を合わせなければ真髄をつくことは出来ないと、ぼくは考えるのだが、日本の読者はついて来てくれるだろうか。盗みを働き、掻ッぱらいを働き、カタリを働く少年秀吉を書いたら夢を破るといって腹を立てるのではないかと不安である。石川五右衛門と盗賊仲間だったなど、面白い構想だと思うのだが。
さて、秀吉はこうして無理な勤勉によって、あれほどの出世をしたのだが、同時にその過労の故に老衰を早め、六十三、四歳で死んだのである。
五
秀吉の老衰は、その過度の漁色も原因をなしているらしい。
当時は、漁色といえば女色だけでなく、男色もあったわけだが、秀吉は男色はきらいで、専ら女色であったという。
こんな話が伝わっている。ある時、羽柴|長吉《ながよし》(本姓市橋)という少年がはじめてお目見得した。非常な美少年であったところ、秀吉がそれを閑所につれて行くので、人々はおどろいた。
「上様もあの少年の美しさにはお気が動いたのであろうか」と、ささやき合った。
間もなく少年がかえって来たので、聞いてみると、秀吉にこう聞かれただけであったという。
「その方に姉か妹かないか」
こんな風だから、石田三成が少年の頃秀吉の寵童だったという説があるのは、ウソであろう。
上淫、下淫ということばがある。身分の貴い女を犯すのが前者、その反対が後者である。
秀吉は上淫好みであった。正妻の寧々《ねね》はそう貴い身分の出生ではないが、それでも結婚当時においては、彼よりはるかに身分の高い家の娘であった。
その他の妾共は、先ず淀君だが、これは信長の妹お市と浅井長政の間の娘、加賀殿は前田利家の娘、三の丸殿は蒲生氏郷の妹、松の丸殿は京極高吉の娘、皆高貴な家の出だ。秀吉のこの上淫好みは、彼がその本質においてロマンチストである所から出ていると思われるが、ひょっとすると劣等感《インフエリオリテイ・コンプレツクス》が裏返しになって現われたのかも知れない。素姓の高貴な女性に対する卑賤者の憧れがこちらに権力が出来るにつれて征服慾となって来たと考えられるからである。
これらの美女共は、皆非常に若い。老齢な彼の御し得べき所ではなかった。彼の老衰は加速度的に加わらざるを得なかった。
日露戦争の時出た「征戦偉績」という書物がある。当時の史学会長重野|安繹《やすつぐ》博士が主宰して、蒙古襲来と秀吉の外征とについての、当時の史学者等の研究を集録して発刊したものであるが、この中の一文に、鍋島文書と吉川《きつかわ》家譜とをひいて、朝鮮役の時、秀吉が在韓の諸将に、薬用のために虎の肉をもとめたところ、諸将は争って虎狩をして肉を送って来たので、彼は虎の肉攻めにあって閉口し、もう虎の肉はいらんと通達したという記述がある。
薬用とはなんであるか。言うまでもない。補精強壮用なのである。虎は獣類中最も精悍強猛なものであるから、支那でも、朝鮮でも、南洋諸国でも、つまり虎の産地では皆これを神霊的に見て、その肉には補精の効があると信じている。多分、彼の侍医であった曲《まな》ケ瀬《せ》道三《どうさん》や、施薬院|全宗《ぜんそう》あたりの入れ知恵であろうが、虎の肉にその助け舟をもとめたのである。
西教史の記述によると、彼の死の直接原因となったのは痢病だというが、ひょっとすると虎の肉を食いすぎたための痢病であったかも知れない。
六
秀吉と反対に、家康は下淫のチャンピオンだ。正妻築山殿(関口氏)をのぞいては、彼の愛した女共は一人として上流階級の出身者はない。皆下層民の出身だ。下級武士や下級神職の娘であったり、百姓の後家であったりだ。
彼のこの好みは、まことに実質的で、いかにも現実主義者である彼にふさわしく思われて、人によっては全然精神的なものを感じないといって厭がるが、彼の結婚経歴を考えると、無理もないとも言えるのだ。
彼の正妻であった関口氏は、今川義元のいとこであった。義元は彼の幼少時代から二十歳頃まで、彼にとっては最もこわい人であった。従って関口氏も彼には憚らねばならない煙たい存在であった。しかも、年上で、おそろしく嫉妬深くて、気の強い女であった。
彼はものすごくこの人に苦しめられた。だから、今川氏がほろんで憚る所がなくなると、別居して夫婦の道を絶ってしまったが、そうすると姦通したり、叛逆を企てたり、ついには長男の信康を非業に死なせなければならない破目に追いこみまでした。
「もう懲り懲りだ。身分の高い女など妻にするものではない。また、いくら愛しても決して女に権力を持たせるようなことをしてはならない。ともあれ、下層民の出の女が一番無難だ」
と、考えるようになったのは、きわめて自然のことであろう。
この家康がまた大へんなヤキモチやきで、慶長十二年の冬、彼の隠居所である駿府城が焼けた時、大奥に走りこんで女中等を救け出した武士共全部を処罰している。英雄の心事というものは妙なものだ。
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[#見出し] 利休と織部
利休が豊太閤の怒りに触れて、京都から堺に放逐の命を受けると、利休の身辺は火の消えたようになった。この時まで利休は太閤の大へんなお気に入りで、利休に取り入ることは太閤の気に入られることだというので、利休の家はいつも諸大名自らの、あるいはその使者らの出入が絶えず、門前は市をなす賑わいであったのだが、
「すわこそ、殿下お憎しみの者ぞ」
と、誰一人として訪れる者がなくなった。今も昔も同じだ。権勢の襟許につく人の心のあさましさである。
このために、利休の京都出発は寂寥をきわめた。誰一人として見送ってくれる者もなく、川舟に乗って京を出たのであるが、この利休を途中の淀近くに待ちかまえていて、別れをおしんだ大名が二人ある。細川三斎(忠興)と古田織部だ。
利休もよほどにうれしかったと見えて、所持の茶杓に羽与様(羽柴与一郎の意)と書いて三斎にあたえ、茶入に古織様(古田織部正の意)と書いて織部にあたえた。
二人とも茶道|執心《しゆうしん》の人々で、利休七哲の中に数えられ、後に忠興は三斎流を、織部は織部流をひらいた人々であるが、単に茶道についてだけでなく、利休の人物にも心酔していたらしく思われる節がある。
こんな話がある。
ある時、福島正則が三斎に向って言った。
「貴殿は利休を大へんに御信仰になって、まるで神様ほどにあがめ仕えておられるが、あの者は身分を言えば堺の町人、技能を言えばたかが茶を上手に立てるだけのもの。貴殿ほどの名誉の大名が、さようなものをおそれかしこんで信仰なさっているのは、見苦しく存ずる。向後はおやめになるがよい」
名題の荒大名のこと、ツケツケとやった。
すると、三斎は、
「仰せごもっとものようでござるが、利休居士はただの人ではありません。一ぺん貴殿もお会いになってごらんなさい」
と答えて、連れ立って利休の家へ行った。
利休は二人を茶室に通して、茶をふるまったが、その帰途、正則は大息ついて、三斎に言った。
「なるほど、利休という男は大へんな人物でござるな。拙者これまで幾十度となく戦場にのぞみ、いかなる剛敵にあっても、ついぞ恐れを覚えたことはござらんが、本日茶室において利休を見ていると、恐れすくんで手も足も出ない思いでござった。貴殿が御信仰なさるのも、まことに無理ならぬことと、合点いたした」
利休の人間的威力、見事さ、そういうものに、正則はまいったのだ。
三斎のひきつけられたのも、多分これだったと思うのであるが、三斎だけでなく、織部もまたそうだったに違いない。
織部は鋭敏な人間であったに相違ない。
ある時、利休が、
「瀬田の唐橋の擬宝珠の中にすぐれて形のよいものがあるが、各※[#二の字点、unicode303b]御承知か」
と、語った。すると、忽ち織部の姿が見えなくなった。人々は小用にでも立ったのだろうかと思っていたが、中々帰って来ない。不思議に思っていると、夜に入ってから帰って来た。
「唯今、早駕で瀬田にまいり、擬宝珠を見てまいりました」
という。利休も驚き、人々も驚いた。
「さらば、どの擬宝珠をよいと思われた」
と、利休が問うと、織部はどれどれと答えた。それは皆利休の思っていたものと合致していた。人々は今更のように、織部の美に対する感覚の鋭さ、熱心さに感じ入ったという。
こうした織部の美に対する打ちこみが、きわめて新しい美の発見となった。
織部はよく古い器物をわざとこわしてこれをつぎ合わせたり、填めものをしたり、古代ぎれを切りくだいてほかのきれとはぎあわしたりした。これは利休によって発見された美をさらに一進展させたもので、新しい美の創造であり、発見であったわけであるが、この織部の態度を、後の知恵伊豆松平伊豆守信綱の実父大河内金兵衛がこう批評したという。
「織部はろくな死に様をしないだろう。およそ古くから伝っている器物というものは、神仏の厚い加護があればこそ、世の変遷の間におこる色々な災厄をくぐりながらも完全な形でのこり得たのだ。それをおのれのほしいままな量見にまかせて打ちくだき、おのれの好きな形にするなど、冥加をわきまえないふるまいである。かかる者には、きっと神仏の咎めがあるに相違ない」
後、果して、大坂の陣の時、織部の家に召使っている茶道坊主が大坂方と通謀して、東軍の後方攪乱を企てていたのが暴露したのに連坐して、家取りつぶしの上、織部も切腹という処分にあったと伝えられる。
ぼくは、伝承された古名器に対する大河内金兵衛の素朴で誠実な考え方を珍重に思う者だが、織部のひたむきな芸術家気質にもまた感心せざるを得ない。彼は実に美に殉ずる人であったのであろう。こういうひた向きな態度は天才にあらずんばない。
しかし、利休なら、殊更にそんなことはしないに違いない。利休ほどことさらめかすことをきらった人はない。
利休はいつも釜をかける時、同席の客に、
「真直ぐかかっていますかな」
と問うたという。
太閤がこれをいぶかって、どうしてそんなことを聞くのだと聞いたところ、利休は、
「何事も歪んでいるのは心の落ちつかないものでございます。しかし、掛ける私にはよくわかりませんから、お客様にたずねるのでございます。こんなことは、ちっともかまわないことでございます」
と、答えたという。
また、ある時、蓋のない茶入に蓋をつけようとして、古蓋を多数取り出して選んでいると、織田有楽斎が訪ねて来た。
そのうち、利休は頃合の蓋を見つけて、茶入にかぶせて見ると、少し大きいが、それがかえって面白い効果を出した。
「いかがです。面白うございましょう」
と、有楽斎に見せたところ、有楽斎は感心して、帰邸の後、所持の茶入に古蓋を取り合わせて利休に見せた。
「どうじゃな」
利休はにがにがしげに首を振った。
「人真似をなさってはいけません。あれはああするよりほかはなかったからああしたので、せっかく蓋のあるものを、わざとこんなことをなさるのは、御身分がらよくないことでございます」
利休のもとめたのは、オーソドックスな、健康な美であった。ただ、美は刺戟の一種であるから、たえず変化を要求する。利休の天才は随時随所に新しい美を発見し、創造したのであるが、それは飽くまでも本道的な健康な美であった。天才織部にしてこれを知らなかった。後世の凡百の茶人が茶の湯をへんに病的なものにしてしまったのは無理からぬこととも言える。
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[#見出し] 物語武勇伝
(その一)
剣豪誕生
一
日本で、剣術という組織立った剣の攻防法が出来たのは、いつ頃からであろう。
ぼくの知っているかぎりでは、文献的に一番古いのは、太平記の「将軍上洛の事、附けたり、阿保《あぼ》・秋山《あきやま》河原軍《かわらいくさ》の事」の条《くだり》だ。
南北朝というのはイヤな時代で、人々が利のために、あるいは南朝に属し、あるいは北朝に属して、敵味方けじめのつかないことが多かったのであるが、ある時期には、北朝方の中心勢力である足利氏が二つにわれて、尊氏《たかうじ》とその弟|直義《ただよし》とが敵味方にわかれ、直義が南朝方に帰服して、兄と戦っている。
ちょうど、その時である。観応二年正月直義方の桃《もも》ノ井《い》直常《ただつね》の軍と、尊氏の軍とが、京都の四条河原で戦ったことがある。
その時、桃ノ井方の中から、真黒なヒゲのサンサンとはえた、目の鋭い一人の武者が馬を乗り出して、尊氏方に呼ばわった。
緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》に五枚シコロの冑《かぶと》をかぶり、冑の鍬形の間に、紅地《あかじ》に金で日月を出した扇をひらいてあて、おそろしく派手でダテな姿である。白カワラ毛のたくましい馬に乗り、右の小脇に八角に削って両端に石突きを入れた一丈あまりの樫の棒をさしはさみ大音声《だいおんじよう》に呼ばわった。
「これは秋山新《あきやましん》蔵人《くらんど》光政《みつまさ》と申す者である。自分は幼少の頃から兵法《ひようほう》を嗜んで、今日までたえず鍛練をつづけて来た。もっとも、自分の学ぶ兵法は、軍勢を指揮する大きな兵法ではない。鞍馬の僧正《そうじよう》ケ谷《たに》おいて、愛宕《あたご》や高雄《たかお》の天狗共が、九郎判官義経に授《さず》けたという個人の戦闘法であるが、この兵法においては、自分はあます所なく会得《えとく》している。我と思わん人は、来って勝負を決せよ」
武者ぶりあたりをはらって、いかにも強げに見えたので、尊氏方の武者共は、互いに目を見合わせて、しばしの間は名乗り出る者がなかったが、やがて一人が馬を乗り出した。
連銭葦毛《れんせんあしげ》の馬にまたがり、唐綾《からあや》おどしの鎧に、竜頭《たつがしら》の冑をかぶっている。四尺六寸の大太刀と、三尺二寸の豹の皮の尻鞘《しりざや》をかけた黄金《こがね》づくりの太刀とを二本はいていたが、大太刀の鞘《さや》をぬくや、その鞘を鴨川に投げこんで、大音声に名乗った。
「えらそうなことを、人もなげに言われるものかな。自分は阿保肥前守忠実《あぼひぜんのかみただざね》と申す者だ。自分は兵法などいうものは、曾て知らない。その場その場の機転で、千軍万馬を往来して来たのだが、未だ不覚を取ったことはない。畠水練が勝つか、実地にきたえた水練が勝つか、いざ戦おう」
「よろしい。いざ戦おう」
両者は、互いにしずしずと馬を乗り進めた。両軍、これを見て、戦闘をやめ、声をひそめて見物にかかった。
のんきなものだ。戦争が一種のスポーツ視され、従って戦争にロマンチシズムのあった時代なのである。
両者は互いに馬を馳せちがえ、馳せちがえる度に攻撃し、防禦し合ったが、三度|馳突《ちとつ》し合う間に、秋山の棒は五尺ばかりも斬りおられて、手許一尺五六寸になり、阿保は太刀を鍔《つば》もとから打ちおられて、さしぞえだけがたのみとなった。
尊氏方では、
「忠実は打物とっては手利きであるが、剛力ではない。剛力の者に逢っては、所詮は負ける。討たすな、秋山を射落せ」
とて、散々に矢を射かけさせた。
秋山はニッコと笑って、雨の降るが如く射そそがれる矢を、一尺五六寸のこった棒を、目にもとまらぬ迅さで振って、二十本ばかりも打ちおとした。
阿保は、これほどの名人をムザムザと矢先にかけて殺すのはおしいと思って、秋山の矢面《やおもて》に立ちふさがり、味方の矢を制止したというのだ。
太平記のここの条《くだり》は、日本剣法史のきわめて重要な資料の一つだと思うが、その他に風俗史の上でも面白い資料を提供している。
それは、阿保忠実が刀を二|本佩《ほんは》いていることだ。この二本は共に太刀で、短刀は別なのだ。世間では、後世の太平な江戸時代の風俗から、武士は大刀と脇差の二本しか差さないものと思っているが、その以前の戦場では三本でも四本でも帯びたのだ。武器であり、道具にすぎないのだから、折れた時の用心のためには、そうするのに不思議はないのである。
二
この時代に、比叡山の僧兵の一人に、妙観院《みようかんいん》の因幡《いなば》竪者全村《りつしやぜんそん》という者がいた。三塔名誉《さんとうめいよ》の悪僧であったがこの坊主は不思議な武器をつかった。
三年竹の太く節近《ふしぢか》なのを少しおしけずって、長船鍛冶《おさふねかじ》の鍛えた五分ノミほどの大きなヤジリの矢筈《やはず》まで中子《なかご》のとおったのをすげ、ヤジリのはまった所を琴の糸ですき間なく巻き立てた矢だ。
これは、弓につがえて射るのではなく、手で投げうちにする、つまり投げ矢であった。彼は、これを三十六本えびらにさして背に負い、長船鍛えの菖蒲《しようぶ》づくりの大薙刀を右手にもって戦場に出た。何しろ大きい矢が三十六本もあるのだから、森を負うたようにすさまじく見えたという。離れて戦う時には、矢を投げて敵をたおし、近づいて戦う時には、大薙刀で斬りはらったわけだ。
京の神楽岡《かぐらおか》の戦いの時、全村は宮方に属して戦ったが、切岸《きりぎし》の上に仁王立ちに立って、城中に、
「三塔にかくれなき悪僧妙観院の因幡《いなば》全村《ぜんそん》というは自分のことである。城中の人々に、この矢一つまいらせる。受けて見たまえ」
と、呼ばわって、一筋をぬき出して、投げうったところ、その矢ははるかな距離を飛んで、あやまたず城壁の矢間を入り、そこに立っていた武者の胸板を背中までつきとおし、矢先が二寸あまりも出たので、見る人、
「あなおびただし、凡夫のわざにあらず」
と舌を巻いた。
時の人、全村を「手突きの因幡」と呼ぶようになったという。
僧兵の起源は、武士の起源とほぼ同時だ。
平安朝初期、日本は財政上の理由から正規軍をなくした。何十年に一度使うか使わないかわからない軍隊をおくのは不経済の至りであるという理由だ。ところが、軍備というものは、一面から言えば警察力でもある。小さな盗賊は検非違使などの警察制度でとりしまれるが、大きな集団をなした盗賊は、とても防げない。
そこで、大きな領地をもった地方の豪族や寺院や、神社等は、それぞれに私兵《しへい》を養って自ら防衛することになった。これが武士、僧兵、神人《しんじん》の起りだ。
つまり、僧兵といい、神人といっても、武士の一種なのだ。西洋にある寺武士に相当するものだ。
こんな起りのものであるから、僧兵は、形は坊主であるが、実質は全然の武人で、宗教上の修業につとめたり、学問に精出したりする学僧とは根本的に違って、武術の練磨ばかりしているのが普通だったのだ。
僧兵の武勇が、文献の上に目立って来るのは、源平時代から南北朝にかけてである。
「平家物語」の宇治橋の合戦に、三井寺《みいでら》の筒井ノ浄妙坊《じようみようぼう》、五智院の但馬《たじま》、一来法師等の奮戦ぶりが書いてあるが、大へんなものだ。
橋板をとり去って、橋ゲタばかりのこった上を、浄妙坊は一条二条の大路《おおじ》のようにさらさらとわたり、中ほどで大音声を上げて、
「三井寺にてかくれなき一人当千の兵、筒井ノ浄妙坊ぞ。われと思わん人々は寄りあえや、見参せん」
と、平家方に挑戦して、二十四さした矢をさしつめ引きつめ、散々に射て、矢庭《やにわ》に敵十二人を射殺し、十一人に傷を負わせ、あとは薙刀で向い寄ってくる敵五人をなぎ伏せ、六人目に薙刀がおれたので太刀をぬいてわたり合い、なお八人斬り、その刀も折れた。
「南無三! 今は死ぬばかりぞ」
と、さしぞえの腰刀《こしがたな》をぬいて、なお狂いまわっていると、浄妙のうしろにつづいて戦っていた一来法師は、サラサラと駆けよって、
「悪《あ》しゅう候(ごめんなさい)、浄妙坊」
というや、浄妙の冑のシコロに片手をかけヒラリとその上をおどりこえて、敵に立ち向った。一来は奮戦の後、討死にしたが、浄妙はおかげで助かった。
五智院の但馬は、緒戦の時、大薙刀の鞘をはずして、唯一人橋ゲタの上に進み出た所、平家方は、
「ただ射取れや、射取れ」
と、雨のように矢を射そそいだ。
但馬は少しもさわがず、上を来る矢はかいくぐり、下を来る矢はおどりこえ、真向《まつこう》さして来る矢は薙刀を舞わして切って落して目ざましく奮戦したので、時の人「矢切りの但馬」というアダ名をつけたという。
但馬は、何のために出て戦ったのであろう。ただ、見事に矢を斬りおとすだけのことをして見せたのだ。しかし、こういう所に、当時の僧兵なるものの性格の一端がうかがわれる。つまり、彼等は伊達者《だてしや》なのだ。損得利害は問うところでない。派手なことをして人目をおどろかすのが、彼等にとっては大へんいい気持だったのであろう。
この僧兵の代表者が弁慶なのだ。弁慶に関する記述は、平家物語に五六ヵ所「吾妻鑑《あずまかがみ》」に二三ヵ所あるきりで、そのいずれも彼の武勇を活写《かつしや》してはいない。ぼくは、実際の弁慶は、木曾義仲における大夫房《たゆうぼう》覚明《かくみよう》のように、義経の書記役だったのではないかと思っているくらいだが、僧兵の代表者として、いつか、ああいう超人的な武勇者にこしらえ上げられたのであろう。
三
新田義貞《につたよしさだ》の臣《しん》多田入道源了《ただにゆうどうげんりよう》の家来に、高木十郎という者と松山九郎という者があった。高木は非力ではあったが、心あくまで剛であった。松山は大力無双であったが、大へんな臆病ものであった。多田が男山八幡にこもって、はるかに北国の新田勢と呼応して、京都を攻めようとした時、ある夜、足利軍が先をこして、不意に襲撃して来た。
攻撃はなはだ急で、一ノ木戸は早や攻めおとされ、二ノ木戸もまた支えがたく見えた。
高木は直ちに飛び出して行って、奮戦していたが、ふと見ると、松山が大きなからだを隅っこにすくめて、ふるえおののいている。
高木は激怒した。飛んで行って、刀をふりかざしてどなりつけた。
「敵四方を取りかこんで、味方を一人も討ちもらすまいと攻めかけて来ている場だ。いのちがおしいなら、ここを先途と戦うよりほかないのに、おぬしのザマはなんだ。百人力、二百人力にあたると言われている平生の力はかかる時のためではないか。さあ、立って戦え。戦わんにおいては、たった今、叩っ切るぞ!」
松山は一層ふるえ上った。
「待ってくれ! 待ってくれ! 戦うから、戦うから」
と、ふるえながら立ち上り、そのへんにある岩石、普通の人間が五六人でやっとかかえ上げるほどなのを、軽々と引きおこし、敵の密集している所へ、ツブテを打つように打った。取っかけ、引っかけ、およそ十四五も、山のくずるるように投げつけたので、寄せ手はひるんで、パッと逃げ散ったという。
人間は、天性、誰でも恐怖感情というものがある。もし、ない人間がいたら、それはある種の白痴にちがいない。それが、剛臆が分れるのは、後天的の修養による理性によって恐怖感情をおさえることが出来るか出来ないかによるのだ。しかし、まれには、非常に強い恐怖感覚の人がいる。そういう人は理性では恐るべきでないことを十分に知っていても恐れずにおられない。松山のように大へんな剛力でありながら臆病だというのは、そういう人なのであろう。
四
この時代には、ずいぶん剛力な豪傑が出ている。五尺、六尺、七尺という大きな刀が戦場に出はじめたのは、この頃からのことだ。
足利方の細川清氏《ほそかわきようじ》の家来に、南部六郎という者があった。常に五尺六寸の大太刀をひっさげて戦場に出て、高名かくれなき者であったが、ある時の戦いに、その大太刀のために戦死した。敵が組みついて来たので、左手を以て引きはなし、刺し殺そうとしたが、刀が長過ぎるために出来ない。さげ斬りにしようとしたがそれも出来ない。
「エエイ、面倒くさい! おしつぶしてしまえ!」
とかたわらの築垣《ついじ》におしあてて、エイヤ、エイヤ、エイヤ、と、おしていると、それほどの剛力が懸命に気張ったので、乗っている馬がつぶれて、ドウとへたばった。
そこをめがけて、敵が駈け集まって来、おれ重なっておさえつけ、ついに殺してしまったというのである。
五
ずっと後世、明治維新の頃、鳥取藩に託間樊六《たくまはんろく》という志士があった。天稟《てんびん》の剣才があって、諸家について修業した後、自ら一流を創始して、「神風流《しんぷうりゆう》」と称していたほどの人物だ。常に五尺の大刀を帯び、コジリに小さな車輪をつけていたという。
勤皇運動のため、藩の重役を暗殺して、藩獄に投ぜられたが、同志等と共に脱獄して長州に向った。
藩の追手がかかった時、託間は座敷に坐っていたが、飛びこんで来た捕吏にむかって、その大太刀で抜き打ちに斬りつけた。ところが、あまり長かったために、切っ先が鴨居に斬りこんでしまった。そこを、よってたかって、取りおさえられてしまった。
刀は体力にさえ応ずれば長いほどよいと言われるが、それも程度があろう。この二つの話は、それを物語るのである。
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(その二)
幽霊将軍
一
前章で、大太刀のために身の破滅におちいった南部六郎《なんぶろくろう》と託間樊六《たくまはんろく》のことを書いたが、もう少し大太刀使いのことを書いてみたい。
やはり、太平記時代の勇士だ。
播磨国《はりまのくに》の住人|妻鹿《めが》ノ孫三郎長宗《まごさぶろうながむね》は、遠く平安朝時代に有名であった力士|薩摩氏長《さつまうじなが》の末孫《ばつそん》で、日本一の豪の者といわれた勇士であり、常に六尺の大太刀を佩いて戦場に出た。
彼は、宮方(南朝)に属していた武士で、戦さに出る度に抜群の功を立てた。ある時の戦さに、味方が破れたので、彼はただ一騎、殿《しんがり》して退却にかかると、敵が追いすがって来た。
「しおらしや、妻鹿ノ孫三郎と知っての挑戦か」
というや、馬をかえして、一あてに敵の刀をはね飛ばした。
「いざ組まん!」
敵は、すばやく内ぶところに飛びこんで、くみついて来た。
孫三郎は、カラカラと笑った。
「おれに組みついてくるとは、さてさて」
と、いうや、左の手を相手のあげまきにかけて、いとも手軽にむしりとり、小わきにはさんでしめつけながら、そのまま退却をつづけた。
これを見て、その武士の一族郎党の者は皆追いかけて来た。
孫三郎は、馬をとめ、ふりかえって、ハッタとにらんだ。
「この者がほしいというのか。本来ならば首ねじ切って捨つべきだが、ただ一騎おれに挑みかかったばかりか、組みついて来た勇気がしおらしいから生命は助けてやる。返してやるから受取れ……」
というや、右の手に持ちかえ、一ふり振って投げた。武者はツブテのように宙を飛んで、五六間向うの泥田の中に投げこまれたという。
これくらい強ければ、大太刀だってかまわない。
二
ずっとずっと後世、戦国末期から江戸時代の初期にかけて、薩摩に樺山安芸守善久《かばやまあきのかみよしひさ》という武士がいた。大力無双で、大太刀好みで、平生《へいぜい》から刃渡り五尺、柄《つか》の長さ一尺八寸という太刀を愛用していたが、ある時、下郎が不埒《ふらち》なことを働いたので、縁先きに出て、叱りつけると、下郎が何のかのと口ごたえばかりする。
善久は激怒した。
「不埒千万なる奴め! 手討ちにいたす!」
というや、例の大太刀を引きつけた。
その席に、善久の寵愛している茶坊主がいた。これを見て、あわてた。
「殿様! しばらくお待ちを!」
と、いいながら、刀のつかにしがみついた。
「黙れ!」
善久は、刀のつかに茶坊主をぶら下らせながら、サッと引きぬくや、ぬき打ちに下郎を斬ってすてたというのだ。
こんなことが、力学的に見て、出来ることかどうか、物理学者にきいてみないとわからないが、古伝にはたしかにこう書いてある。もし、出来たとしたなら、おそろしい力であり、おそろしい技倆といわねばならない。
三
薙刀《なぎなた》という武器は、持ち運びには不便だが、武器としては実に有利である。槍の働きをし、刀の働きをし、コジリが使えるし、今日でも薙刀にむかうと、剣道家は立会いにくくてこまるのであるが、これらの利点以外に薙刀はおそろしく切れるのである。これは力学のテコの理で説明が出来るのであるが、薙刀の柄の中程を持って普通に振っても、刃先きの速力はおそろしく迅速なものとなる。切れるはずである。
この薙刀と太刀との合ノ子のようなものに長巻《ながまき》という武器がある。つまり普通の刀のやや頑丈なのに、長いつかをつけたものと思えばよい。
これもなかなか有利な武器である。よく斬れるのである。元禄時代、江戸に堀内源太左衛門正春《ほりうちげんたざえもんまさはる》という剣道家がいた。当時最も高名な剣客で、赤穂浪士の中には、この人に入門している者が多かった。堀部親子、大高源吾等である。この人々は、その師の教えによって、特につかを長くこしらえた、寸のびの刀を持って、吉良邸に討入っている。
「長巻のこころなるべし」
と、当時の人が書きのこしている。
この長巻を最も上手に利用したのは、戦国時代末期における北九州の名将《めいしよう》立花道雪《たちばなどうせつ》である。
道雪という人は、若い時落雷に打たれて、いざりになったが、それでありながら、おそろしく戦争に強い人であった。
彼は、頑丈な輿《こし》をこしらえて、それにのり、くっきょうな壮漢等にかつがせ、周囲に数十人の勇士をしたがえ、これに各※[#二の字点、unicode303b]長巻を持たせた。
そして、戦闘がはじまって、いい潮時《しおどき》と見るや、輿の上から、
「それ行け!」
と大喝して、敵軍の最も堅固な所にしゃにむにかつぎこませた。周囲に従う長巻の壮士等は、主人を護衛しながら、トキの声を上げて斬りこみ、斬人斬馬《ざんじんざんば》、一歩も退かず、鋭い楔子《くさび》がものを裂くように、グイグイグイと敵中に食いこんで行った。
その間、道雪は、腕ぬきをつけた頑丈な棒をもって、はげしく輿の前後左右のふちを叩きながら、
「それ行け! それ行け! それ行け……」
と、どなりつづけているのだ。
どんな堅陣でも叩き破れなかったことはなかったと伝えられている。
四
一九〇〇年前後に生れた人々がその少年時代に豪傑とした人物と、その以後に生れた人々の考える豪傑とは違う。
前者が少年時代豪傑としたのは、鎮西《ちんぜい》八郎為朝、または加藤清正であった。
後者の豪傑は、立川文庫の影響によって、真田十勇士であり、後藤又兵衛であり、塙《ばん》団右衛門である。
さらにその以後の人になると、大衆文学と映画の影響によって、丹下左膳であり、鞍馬天狗であり、宮本武蔵であるようだ。
ぼくらは、鎮西八郎時代と立川文庫時代の両方を、少年時代に経過したが、最初に鎮西八郎や加藤清正の洗礼を受けているので、立川文庫には読みものとしての興味は感じても始終ウソであるとの観念がぬけなかった。
さて、その鎮西八郎だが、この人の伝記は、保元物語につきている。保元物語は、保元の乱のイキサツを記した書物だが、最も大きな重点は為朝の武勇を物語ることにある。
彼は体力にも、知恵にも、おそろしく早熟な天才的異常児であったのだろう。現在の警察署長くらいの官にある六条判官為義の八男に生れたが、異常なる体力にまかせて、乱暴ばかりする。父の制止も、諸兄の制止もきかない。何しろ、兄共より強いのだから始末にこまる。法律に触れるようなこともしたらしい。やっと十三の時であった。
そこで、為義も都におきがたくなって、九州に追いやった。源氏の勢力のある土地は東国なのだから、普通なら東国に追いやるべきだが、わが家の郎党や家人《けにん》共の多い土地にやっては、かえってためにならないと思ったのであろう。
ところが、その九州へつくや、為朝は阿曾ノ三郎|忠国《ただくに》の娘の聟になって、忠国を案内者として、
「おれは九州の総追捕使《そうついぶし》だ」
と称して、全九州の豪族共を征伐にかかった。
追捕使というのは警察権と軍事権とをあわせ持ったものであるから、九州の総追捕使といえば、九州師団長兼警視総監といったところだ。
かくして、十三の時の春から十五の年の初冬までの間に、全九州を討ち従えて、自分のものにしてしまった。一部の歴史家は、この時、彼は琉球まで行っているという。
当時、彼が郎党として連れていた者共の名が面白い。箭前払《やさきはら》いの須藤九郎|家季《いえすえ》、透間数《すきまかぞ》えの悪七別当、手取《てどり》の与次《よじ》、同じく与三郎、三町《さんちよう》つぶての紀平次《きへいじ》大夫《だゆう》、大矢の新三郎、越矢《こしや》の源太、打手《うつて》の紀八、高間《たかま》の三郎などという者共だ。みんなアダ名つきだ。こういうアダ名は、この時代にはまだ大へんめずらしい。由緒正しい武士にはありそうもないアダ名だ。思うに、この者共は山賊や海賊をしていた者や、硬派の不良少年や、ヨタモノだったのが、為朝の武勇にほれて、その家来になったのではないだろうか。
五
白河殿の夜討の時の条に、為朝の容貌が精写してある。
「為朝は七尺ばかりなる男の、目角二つに切れたるが、紺地に色々の糸をもって、獅子の丸を繍《ぬ》ったる直垂《ひたたれ》に、八竜《はちりよう》という鎧を似せて、白き唐糸を以ておどしたる大荒目《おおあらめ》の鎧、同じき獅子の金物打《かなものう》ったるを着るままに、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘《しりざや》入れ、五人張りの弓長さ七尺五寸にて、|※[#「金+丸」、unicode91fb]打《つくう》ったるに、三十六差したる黒羽の矢負い、冑をば郎党に持たせて歩み出でたる体《てい》、|樊※[#「口+會」、unicode5672]《はんかい》もかくやと覚えてゆゆしかりき」
体格雄偉、容貌魁偉《ようぼうかいい》であったことが、よくわかるのである。
この為朝の弓が常寸よりのびていたということについては、江戸時代の中期に肥前平戸の殿様であった松浦静山《まつらせいざん》が、その著「甲子夜話《かつしやわ》」で、疑問を提出している。
静山侯の説によるとこうだ。一体、弓というものはこれを長くつくればその緊張力は弱まるはずである。為朝の弓が七尺五寸もあったというのはウソであろう云々。
しかし、これはヘリクツであろう。身長七尺あまりもある為朝であり、おまけに弓手《ゆんで》(左手)が右手より四寸も長かったというのであるから、普通の長さの弓では引きにくいにちがいない。よろずに大ブリにこしらえてあったのが本当であろう。
また、|※[#「金+丸」、unicode91fb]《つく》というのは※[#「逆L字」]型の金具で、為朝の矢が大きく、三年竹の節近《ふしぢか》なるを少しおしけずって、鏃《やじり》は大ノミほどもあるのをすげていたので、これを弓のニギリのところに打って、それにのせて引いたというのであるが、ぼくの知っている弓術家は、これはあるまじきことで、そんなものがあっては弓《ゆ》がえりがうまく行かないために、矢の飛ぶ力が弱まるといっている。これはそうかも知れない。厳島神社所蔵の五人張の強弓《ごうきゆう》というのを見たことがある。たしかに、※[#「金+丸」、unicode91fb]が打ってあったが、実用されたものかどうか疑わしい。好事家が保元物語の記述によってこしらえて奉納したものだと、ぼくは思っている。
この時代の武士の表芸は、弓馬――騎射である。刀や薙刀による武勇はそうもてはやされていない。弓が最も重要な武器であったからであろう。
為朝の先祖の頼義《よりよし》の武勇にしても、その子の八幡太郎義家の武勇にしても、弓の技術を特にほめそやしてある。
為朝は強弓で、しかも矢つぎ早やの名手であったというから、今でいえば巨砲でしかも速射砲といった所であったのだ。
為朝の戦さぶりについては、保元物語に詳記してあるが、まことに胸がすくばかりに颯爽たる豪勇ぶりである。
六
加藤清正は、大へんな大男であった。鯨尺四尺三寸に仕立てた着物の裾が、三里(三里の灸をすえるところ)からほんの少し下ったところまでしかなく、常差しの脇差が備前兼光で三尺五寸あったというから、どう考えてみても、身長六尺三四寸はあったにちがいない。
彼の乗馬|帝釈栗毛《たいしやくくりげ》はたけ六尺三寸あった(普通の馬は五尺)。彼は常にこれに乗って、江戸市中を往来したので、当時の江戸人は讃歌して、こう言った。
江戸のもがりに
触りはすとも、避けて通しゃれ
帝釈栗毛
「もがり」は柵または矢来の意味であるから、この唄の意味は、もし清正が江戸市中にある柵にふれても、咎め立てしないで、そのまま通して上げろよ、でないと大へんなことになるぞくらいのところであろう。
彼はまた長いアゴヒゲをのばしていたので、いやが上にも長身に見えたにちがいない。
さらに、彼の長《なが》烏帽子の冑だ。六尺三四寸もある男が、長いアゴヒゲを生やし、あの長い冑をかぶっているとあっては、ものすごく丈高く、ものすごく堂々たる威容があったと思われる。
もともと甲冑《かつちゆう》というものは、敵の攻撃から自分の身を保護するだけのものでなく、敵を威嚇する目的も持っているのであるから、清正としてもそのへんの効果を考えて、あんな冑をこしらえたものであろう。
あの冑は、現在どうなっているか知らないが、この戦前までは熊本の本妙寺に宝物として所蔵されていた。大へんな重量であるという。
明治年代の政治家伊藤博文が熊本に行った時、冗談半分にかぶってみたところ、かぶりはかぶったものの、その重量のために歩けなかったという話がある。
ここで思い出すのは、清正が朝鮮陣の時、朝鮮人等に「鬼上官《きじようかん》」とアダ名されたということである。
普通には、これは「鬼将軍《おにしようぐん》」という意味で、彼が非常に勇猛であったからつけられたアダ名であると考えられているが、ぼくの説ではこれは違う。
支那芝居を気をつけて見ていると気のつくことであるが、支那芝居に出て来る幽霊は、必ず長烏帽子形の帽子をかぶっている。それに「鬼《き》」というのは、支那では「おに」ではない。幽霊のことをいうのだ。「おに」は「夜叉《やしや》」である。
つまり、清正のアダ名は「幽霊将軍」という意味で、それは彼のあの長烏帽子形の冑から来たものであると思う。
彼の武勇については、色々な書物に語られていて、一向めずらしくないから、ここには書かないが、それほどの彼でも初陣の時には、目先きが真っ暗で、何にもわからず、ただ無我夢中に暴れまわったところ、戦争がすんでみると、敵の勇士を何人か討ち取って、大へんな手がらを立てていたと、彼が語っている。
このことについては、山中鹿之助も、同じようなことを言っている。
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(その三)
示現《じげん》流の真面目
一
この前は、鎮西八郎為朝と加藤清正のことを書いたが、もう少し二人について語りたい。
八郎為朝の祖父に、義親という人があったが、これが為朝と同じことをしている。対馬守になって、九州に行っている間に、あぶれ者共を集めて、九州を暴ばれまわったので、朝廷では呼びかえしの使いを出されたが、義親はそれに応じないで、益※[#二の字点、unicode303b]狼藉をたくましくする。
義親の父八幡太郎義家は、当時病気になっていたが、心配のあまり、病勢がつのって死んでしまった。
その後、義親は捕えられて京に連れて来られ、隠岐《おき》に流されることになったが、送りつけられる途中、出雲で脱走して、またまた大暴ばれに暴ばれて、出雲地方を横行闊歩、人もなげにふるまったので、追討《ついとう》の宣旨《せんじ》が出て、間もなく殺されてしまった。
このように、義親の行状と、保元物語に伝える為朝の行状とは、符節を合するが如きものがある。
祖父と孫だから隔世遺伝の法則で似ているのだといえばそれまでのことだが、性格だけでなく、乱暴した土地まで同じであるというのは、少しおかしい。一応疑ってみる価値がある。
先ず考えられるのは、義親の行状が為朝に集約されているのではないかということだ。伝説や歴史上の人物にはよくそういうことがある。たとえば日本《やまと》武尊《たけるのみこと》の伝説は、特定の一人のことではなく、ヤマト国家(上古大和地方にあった部族国家の意味で使った)を代表して、他の地方に征伐に出かけて武勲を立てた多数の英雄達の勲功談が一人の英雄にまとまって、ここに日本武尊という一人の英雄が人々の心理の上に作り上げられたという考え方であるが、為朝の物語もそれではないかと思われるのである。
しかし、これはあくまでも一応の疑いである。遺伝によって同じ性格を持っている祖父と孫とが同じ土地で乱暴したって、あり得ないことではないのだから。
二
次にいぶかしいのは、義親も、為朝も、同じことをしているのに、古来の歴史家等の批判が、したがって一般の評判が、天と地ほどに違うことである。
為朝の方は、保元物語に、「末代あるまじき勇士」として特筆されて、ほめちぎってあり、したがって後世でも豪傑の代表者として讃美されているのに、義親の方は、平家物語も、太平記も、共に朝敵の中に入れ、大日本史は叛臣伝の中に入れている。
同じことをしながら、なぜだろう。
思うに、義親の時代は、まだ公卿政治が十分の力ある時代であったので、その政治の秩序を乱した義親の行為は大へんに罪悪視されたのであり、為朝の方は公卿政治が衰弱して武士の勢力が大伸長して、やがて次の時代の中心勢力とならんとしている時代であったので、最も武士らしい武士としてその武勇が讃美されるようになったのであろう。
二人の時代は、わずかに五六十年しかへだたっていないが、時代がかわれば、同じ行為に対する評価もこんなに違うのである。英雄といい、叛逆人というも、多くは確定的なものではない。所詮は時代という色眼鏡をかけて、赤といい、青というにすぎないものが多いのである。吾々は、歴史上の人物を見る場合はいうまでもなく、現存の人を見る場合にも、こうした色眼鏡を去って、その本質を見ることが肝心であろう。
三
加藤清正にこんな話が伝わっている。ある年、彼が参覲交代《さんきんこうたい》のために江戸へ出て来ての帰途、伊勢の桑名に泊まると、当時尾張の領主であった徳川|忠吉《ただよし》(家康の子の一人であるが、後に御三家の一つとなった徳川とは違う)の家来である稲留一夢《いなどめいちむ》が、旧知であるので、御機嫌うかがいに来た。
一夢は、稲留流または一夢流と名づける砲術を創めた、当時の有名な鉄砲の名人である。清正は喜んで面会して、しばらく閑談したが、間もなく自分の家来共の中から五人の若者を呼び出して、
「この者共をそなたの門人にしてくれ」
と頼んだ。
「かしこまりました。皆、よき若者衆でありますな」
一夢は承諾した。
清正はその場で、師弟の契約をさせ、多分の贈物を一夢にとらせて帰した。
翌日、清正は桑名を立って旅をつづけ、熊本にかえった。若者共も供をして一緒にかえった。
ところが、その後、いつまで経っても、清正は桑名の宿でのことを若者共に言わない。
若者共は不平でならない。
「折角、一夢先生の弟子になっても、これでは何にもならない。何一つ教えてもらってはいないのだからな」
「一つ、尾張に修業にやっていただくようお願い申し上げてみようではないか」
「よかろう」
相談一決して、打ちそろって清正の前に出て、願い出ると、清正は笑った。
「汝《わい》らは呆《ぼ》けたことを言う。尾張なんどに暇かけて行って鉄砲の修業などする必要がどこにある。鉄砲というものは、自分で独り稽古をすればちゃんと上達するものじゃ。おれが汝らを一夢の門人にしたのは、一夢のような芸者(武芸者の意。今使われている意味の芸者はずっと後世に転化したのである)は、名高い大名や、その家中の者を弟子にすると、自分の名をひろめるために、必ず世間に吹聴《ふいちよう》するのだ。やれ、何ノ守様は拙者の門人でござる。やれ何家の何ノ某と申す者は拙者の門人の一人でござるという工合に、汝らはすでに彼と師弟の約束をしたのじゃから、一夢の方では得意になって、加藤肥後守様の御家中で、何ノ某、何ノ某、何ノ某……以上五人は拙者の門人でござると、盛んに宣伝しているに相違ない。それで沢山じゃ。万一、戦争でもおこった時には、敵は加藤の陣中には、稲留一夢の高弟が五人もいると、戦わずしておじ気がつくのだ。おれの狙いはそこにあるのだ。汝ら、鉄砲の稽古がしたくば、よそに行くことはいらん。毎日|的場《まとば》に出て、いくらでも稽古せい」
この話には、清正の戦術家的面、また当時の武将の心掛けがうかがわれて面白いが、それ以外に当時の武芸者がいかに自己の技術の宣伝につとめたかがうかがわれるのである。
師岡一羽《もろおかいちう》をそむき去ったために同門の岩間小熊《いわまこぐま》に江戸城の前の常盤橋《ときわばし》で討たれた根岸兎角《ねぎしとかく》が、微塵流という一流を立て、いつも天狗のような山伏姿をしていたというのも、宣伝のためである。牛若丸伝説以後、天狗と武芸は切ってはなせない信仰になって、江戸初期までつづいている。剣術の流名に「正天狗流」というのがあるほどである。
吉川英治氏が、「宮本武蔵」において、佐々木小次郎にあの派手な服装を常住にさせたのは、佐々木小次郎を驕慢で売名家的な性格に設定して、それを効果的に表現するためにしたのであるが、いかにも当時の武芸者気質をよく語っている。
四
もう少し清正のことを書こう。
清正の有名な片鎌槍《かたかまやり》については、色々な伝説が伝わっている。天草の豪族木山弾正が一揆をおこした時、征伐して弾正と一騎討ちをした際、片鎌を折られたというのが一説。
朝鮮で虎狩をした時、虎に噛み折られたというのが一説。
しかし、これは両説ともウソだ。あれは最初から片鎌にこしらえたものである。去年(昭和二十九年)東京都内のデパート(三越本店)で、歴史遺物の展覧会があって、あの槍がそれに出品されていたから読者の中には見た人も相当あるであろう。
清正が朝鮮で虎狩をしたのは事実だが、この時清正は鉄砲で打ち取っている。
虎狩は清正だけでなく、他の大名もずいぶんやっていて、それに関した話は中々面白いが、あとで語る機会があろう。
清正が、秀吉の島津征伐の時、島津家の勇士|新納武蔵忠元《にいろむさしただもと》と一騎討ちしたという伝説は有名だが、これもウソだ。武蔵は当時もう六十二の老年であり、身分は島津家の重臣だ。采配をとって軍勢の指揮はしても、自ら武器をとって一騎討ちなぞはしない。
五
話が薩摩に入ったから、少し薩摩の話を書こう。
薩摩に古来行われている剣法に「示現《じげん》流」というのがある。
武術叢書に収録されている書物には、「自源《じげん》流」とあり、薩摩の士瀬戸口備前守が、薩州|伊王《いおう》ケ島《しま》で自源坊という天狗から伝授されたとあるが、これはウソ。備前守は肥前守、流名は「示現流」が本当である。
天正十六年に、東郷重位(本姓瀬戸口)が、主君の供をして京都に出ている間に、隣家の禅寺天寧寺の和尚について修得した剣法である。この重位が晩年になってからのことである。客と碁を打っていると、その客が重位に、
「ご子息の重方殿の剣法をこの前拝見しましたが、まことにすぐれたもので、感にたえました。岩にとまっている蜻蛉《とんぼ》を抜打ちにお斬りになりましたところ、きれいに両断され、しかも刀の刃を岩に触れさせられませんでした。お仕込みのほどさすがと感嘆しました」
といったところ、重位は顔色をかえて、
「さような小技は邪道でござる。人様の前でほこりかにいたすとは!」
といって、碁盤をすえなおし、ひざを立てたと見るや、抜打ちに碁盤を斬った。刀は碁盤を両断したばかりか、畳を斬り、さらにその下の床板まで斬っていた。おどろきあきれている客に、重位は、
「ごらんあれ。当流の太刀はかくのごときもの。斬るからには金輪地獄の底までとどけよと斬るのが、当流の心意気でござる。せがれの技《わざ》を当流の技と、決して思うて下さるな」
といったという。身の毛のよだつような、すさまじい話である。
重位に剣法を授けた天寧寺の和尚の名は善吉《ぜんきち》。世にある時の名は赤坂弥九郎。常陸の神職のなれの果てであったという。つまり、示現流も多くの剣法同様、その発祥を鹿島香取《かしまかとり》に持つのである。剣道史家の言う所によると、日本の剣法は二つの系統を持つ。一つは関東系で、鹿島香取の神人の工夫からはじまったものであり、一つは関西系で鞍馬の僧兵からはじまったとする。
しかし、ぼくはこの説に疑問を持っている。鞍馬の僧兵の武術だけを上げて、どうして、比叡や、三井寺や、興福寺の僧兵のを上げないのか、それが第一おかしい。強弱という点から言えば、上にあげた四つの寺院の中、比叡が一番強く、鞍馬が一番弱いのである。
一番弱いところから関西派の剣法が出ているというのは、信じられないことではないか。
おそらく、この説の出場所は、牛若丸伝説ではなかろうか。つまり成長して名将源九郎義経となった牛若丸が、幼少修業した所だから、鞍馬の僧兵の武術は優秀なものだった、従って京都派の剣法はここから発祥したに違いないという論法ではないかと疑われるのである。
もしそうだとすれば、ずいぶんおかしな考え方だ。牛若丸伝説が史実的には全然といってよいほど信用出来ないものであることは一先ずおくとしても、牛若丸は鞍馬僧兵の武芸が優れていたから鞍馬に行ったのではない。平家の命令によって鞍馬にあずけられたのである。もし、比叡山にあずけられれば比叡山に行ったはずである。
そうすれば、京流剣法の発祥地は比叡山になったろう。
次の疑問は、義経が名将であったことは論ないが、果して個人的武勇にもすぐれた人であったろうかという点だ。彼が個人的武勇にすぐれていたという話は「平家物語」には一ヵ所も記してない。有名な八艘飛びの話も、平家物語によれば、
「能登殿、判官(義経)の船に乗りあたり、あはやと目をかけて飛んでかかる。判官かなはじとや思はれけん。長刀《なぎなた》をば右手の脇にかい挟み、御方《みかた》の船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛び乗り給ひぬ」
と、こうある。
ぼくは、日本の剣法は、すべて鹿島香取の神人から出ていると思っている。剣法の草創期である南北朝時代に、関東の兵が幾度か大挙して京に上り、全国に出動して攻戦《こうせん》したが、この間に、京都をはじめ全国に伝えたのであると思っている。
鹿島香取が剣法に縁の深い神社であることには確証がある。
前述の赤坂弥九郎のことは置くとしても飯篠長威斎《いいざきちよういさい》、塚原卜伝等、この両宮の神職や神人からは、多数の天才的剣法家を出しているのである。
示現流が薩摩に伝えられる以前に、薩摩で専ら行われていたのは、体捨流であった(大捨、タイ捨とも書く)。体捨流は、肥後人吉《ひごひとよし》の住人、丸目《まるめ》蔵人《くらんど》を祖とする。
蔵人は上泉伊勢守の門人であった。相良氏と島津氏との戦いに、蔵人が勇に誇って軽率な突撃をしたので、相良勢は大敗した。その時まで相良氏は薩摩国内まで進出して中々の勢いであったが、以後まるで振わなくなった。蔵人が主家の不興を買ったことは言うまでもない。
そこで、武術修行のために人吉を出、京に出たところ、あたかも上泉伊勢守が武術修行のために来ていたので、仕合を申しこみ、負けて師弟となったのである。このことについては、ぼくは人吉に行って調べて来た。先ず間違いはないつもりである。
蔵人は強いことは強かったが、小々バカではなかったかと思われるほどお人よしであったようだ。柳生但馬守宗矩の剣名が高くなって、日本一という評判を聞くと、
「石舟斎の小セガレが日本一とはかたわら痛い」
と、江戸に乗りこみ、柳生家を訪れて仕合を申しこんだ。但馬守は利口ものだから、仕合などはしない。
「東日本では拙者が一、西日本では貴殿が一」
といって、下へもおかない待遇をしたので、すっかりいい気持になり、しばらくとどまって、代稽古などして帰国したというのである。
一説に、蔵人は禁裡北面の武士であったというが、当時は皇室の最も衰微していた時代だから、現実的には北面の武士などあるはずはない。献金して名義を買ったのであろう。上泉信綱の伊勢守も、斎藤伝鬼房の判官も、皆買ったのである。売官は当時の皇室や公家の主収入であった。
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(その四)
戦国気質
一
前章にちょいと出て来た鉄砲の名人稲留一夢のことを書いてみよう。そのうちにはほぐれて、色々な話が出て来るだろう。
稲留一夢は、はじめ丹波の一色《いつしき》氏に仕え、一色氏がほろんで細川忠興の家臣となった。鉄砲の技術に精通し、日本一の名があり、細川家としては自慢の家来であった。
慶長五年、上杉景勝が居城会津で不穏の様子があるというので、徳川家康が諸将をひきいて征伐におもむいた時、細川忠興も随従することになったが、当時石田三成の様子もまた不審で、どうやら家康の不在を狙って西で事をおこしそうな風がある。そこで、忠興は稲留一夢等を留守役として大坂の邸にのこして出発したところ、果せるかな、石田は兵を上げ、大坂の諸藩邸にいる諸大名の妻子を城内に強制収容しようとした。家康に従って東行している大名等の動きを掣肘《せいちゆう》しようとしたわけだ。
その最初の目標にえらばれたのが、忠興夫人お玉だ。お玉は明智光秀《あけちみつひで》の娘で、非常な美人で、熱心なクリスチャンで、キリシタン名をガラシヤと言った人だ。
お玉夫人は、忠興の心が早くから家康に向っていることをよく知っている。城中に収容されなどして、夫の心を乱してはならないと考え、頑強にこれを拒んだ。
石田等はあくまでも収容しようとして兵を向け、合戦となった。クリスチャンである夫人は自殺するわけには行かないので、家臣に自分を斬らせて死につき、留守居の将士はそれぞれに勇敢に戦い、戦死するものもあれば、自殺するものもあり、壮烈をきわめた。
ところが、この時、忠興に最も信任されてあとにのこされたはずである稲留一夢は、あろうことか、お玉夫人の壮烈な死、同僚等の殉忠を見すてて、逃亡したのである。
この報せに接して、忠興は激怒した。
「おのれ一夢め! 不忠にして臆病、武士の風上におけぬやつ!」
と、どなり、関ケ原の乱が平ぐとすぐ諸大名に、一夢の武家奉公構いを通告した。つまり「一夢を召しかかえて下さるな。もしお召しかかえあるにおいては、当家を敵と思っておられるものと合点いたしますぞ」
と、意志表示をしたのだ。
こういう通告がなくても、この一夢のふるまいは、勇ましく強いということを男の第一資格におく当時として、召しかかえる家のあろうはずはなかった。
ところが、家康の第四子である松平忠吉は一夢の技術をおしんで、
「一夢の心事はいやしむべきであるが、技術はおしいものである。あれほどの技術を、ムザムザとほろびさせてしまうのは、まことにおしい」
と言って、召しかかえ、細川家に諒解をもとめた。
忠興ははなはだ不快ではあったが、普通の大名とちがって、家康の四男である忠吉の所望だ。諒解しないわけに行かなかった。
この忠吉の家中にある間に、前章でのべた加藤清正との話があったわけだ。
一夢ほどの人間が、どうして、任務をすてて逃げたか?
一説によると、自分の死とともに多年苦心して発明した鉄砲の技術がほろんでしまうのをおしんだ為といい、一説によると女に心を引かれてだといい、また一説によると、特別な理由があるものか、臆病風に吹かれたのだという。
ぼくには、最後の説があたっているように思われる。
「明良洪範《めいりようこうはん》」に記載してある話によると、一夢は的に対しては百発百中であったが、水鳥など射つとよく射ちはずしたとある。小心な人間であったのであろう。ずっと前に書いた大力無双でありながら臆病であったという太平記の松山九郎と似たケースである。
二
前章に「武家奉公構い」のことが出たが、それについて思い出すのは、塙《ばん》団右衛門である。
塙団右衛門は、加藤嘉明《かとうよしあきら》の臣であったが、関ケ原の戦いで、軍令にそむいたという|かど《ヽヽ》で、嘉明から叱られたのを憤おって、勝手に加藤家を飛び出したため、嘉明から武家奉公を構われた人だ。
彼が豪傑であったことは、世間周知だ。豪傑の代表者くらいに考えられている。大酒のみで、カンラカンラと打ち笑い、ノッシノッシと歩きまわるということになっている。彼が、相当な酒豪であり、豪傑であったことは間違いないが、彼が中々の風流人で、当時の武士としては出色に文学的才能のあった人であったことは、知っている人がないようだ。
先ず、彼が加藤家を退去する時、松山城の壁に題したという詩句を見るがよい。
遂[#(ニ)]不[#レ]留[#(マラ)]江南[#(ノ)]|野水《ヤスイ》
高[#(ク)]飛[#(ブ)]天地[#(ノ)]一|閑鴎《カンオウ》
(遂ニ留マラズ江南ノ野水、高ク飛ブ天地ノ一閑鴎)
大してうまい詩句とはいえないが、あの時代の一般武士の気風を考えると、よくもこれだけの素養があったと感心せざるを得ないのだ。
戦国乱世のあとを受けて、文字を全然知らない武士が実に多数あったのだ。例を上げれば、立花宗茂《たちばなむねしげ》の名家老であった小野《おの》和泉《いずみ》だ。これは全然の文盲漢《もんもうかん》だった。朝鮮役の時、他から来た手紙を他家の人の前で読みかねて、大へん恥かしい思いをしたので、帰国後、女房に頼んで「いろは」を書いてもらい、やっと仮名文字だけおぼえたということを、晩年自ら述べている。戦場にのぞんでは、功名手柄数かぎりなく、立花家の家老となり「立花家の小野和泉」といえば、天下誰知らぬ者がなかったほどの人物がこうだったのだ。団右衛門の学問と文学的天稟は相当なものだったと言わなければならない。
加藤家の横槍で、どこへも召しかかえられることの出来なかった彼は、しまいには食うにこまって、入道して、京都妙心寺《きようとみようしんじ》の大竜和尚《だいりゆうおしよう》の弟子となって鉄牛《てつぎゆう》と名のり、托鉢によっていのちの糸をつないだ期間がある。
ある時、大竜和尚と、檀家で出会う約束をして、約束の時刻におくれて行ったところ、和尚はカンカンにおこっている。
「師と約束して遅参するとはなにごとだ」
と、どなりつけた。
すると、鉄牛坊主、少しもさわがず、こう答えた。
一鞭後[#(レ)]至[#(ルトモ)]君勿[#(レ)][#レ]怒[#(ル)]
君[#(ハ)]駕[#(シ)][#二]大竜[#(ニ)][#一]我[#(ハ)]鉄牛
(一鞭後レ至ルトモ君怒ル勿レ、君ハ大竜《ダイリユウ》ニ駕シ、我ハ鉄牛《テツギユウ》)
当意即妙さに、大竜和尚はニッコと笑って叱るのをやめたという。
厳島《いつくしま》の大経堂には、彼が若い時(加藤家に仕える以前らしい)豊臣秀吉の命によって普請奉行として、厳島の大修築をした時、柱に書きつけた和歌が、江戸中期まで消えずにのこっていたというが、それはこうだ。
また来んとえこそは言はじ厳島
心にかなふいのちならねば
再びこの厳島に来ようとは言うまい、いつなくなるか、人間のいのちははかられないものであるから、という意味である。決して上手な和歌ではないが、調子もととのっておれば、意味もわかる。今日あって明日をはかられない戦国武人の無常感も一応出ている。当時の武士の作としては、相当なものと言ってよいと思う。
団右衛門の生涯を考えてみる時、痛快淋漓《つうかいりんり》意気颯爽たるものがある。実にはでだ。若年の時|坂井久蔵《さかいきゆうぞう》の戦功の証明に立った話、朝鮮唐島の海戦における敵船乗っ取りの話、加藤家飛び出しのイキサツ、大坂の冬の陣における蜂須賀家の陣への夜討のかけかた、すべて功名手柄に対する慾からというより、男の意気を示すことを第一の目的としているように思われる。
彼のこうしたやり方は、ぼくには彼が本質において文学者であった所から出ているような気がする。彼はその文学者の根性によって自由人的心境、ニヒリスト的心境に達していたのではないかと思う。だから、つまり、ダテ者なのだ。ダテ者の行動は、功名富貴を目的としない。おのれの心意気を高らかに示し、人目をおどろかし、ヤンヤと喝采されたいというただそれだけが目的なのだ。
彼の行動の中で、それを最もよく示しているのは、大坂冬の陣におけるある日の彼の行動だ。
冬の陣において、彼は後に阿波橋《あわばし》と名づけられた橋の内側の陣所を守備した。彼と対して陣しているのは、阿波の蜂須賀家だ。
ある日、塙の陣中から、阿波橋の上に、牛の皮でこしらえた二枚の大楯《おおだて》がならべて押し出されて来て、橋の途中まで来ると、ピタリととまった。
蜂須賀家の方では、一体何であろうかと、いぶかりながら見ていると、その楯がしずしずと両方にわかれた。すると、そこに一人の武将が、床几に腰打ちかけ、悠然としてひかえている。黒糸おどしの鎧に、金襴の陣羽織《じんばおり》を着、乱髪に白綾をたたんで鉢巻をしている。これが団右衛門なのだ。
「何だ、塙団右衛門じゃないか」
と、蜂須賀家の陣営でも、知っている者が多数いる。
何をするのかと、見ていると、団右衛門は鎧の引き合わせから懐紙《かいし》を出して、小さく引き裂きはじめた。相当な時間かかって、余念もなく引裂いているが、蜂須賀勢の方ではまるでわけがわからない。|益※[#二の字点、unicode303b]《ますます》謎感《なぞかん》をつのらせながら見ていた。
とたんに、団右衛門は膝の上に引き裂きためた紙を、パッと宙に投げた。
落花の散るようなはなやかさだ。人々はアッと驚ろいた。
団右衛門はスックと立ち上り、左手に弓をとり、大音声に呼ばわった。
「これはこの手の大将、塙《ばん》団右衛門直之である。お退屈しのぎに、日頃手馴れの矢を進上する。受けてごろうぜよ」
そして、さしつめ引きつめ、散々に射こんで来た。忽ち数人が射たおされた。
蜂須賀家の方では、
「スワヤ、はかりごとにかかったぞ!」
と、おどろき、狼狽して、やっと応射にかかったが、もうその時には、牛の皮の楯が左右からしずしずとしまって、引っこんで行った。
この団右衛門の茶目《ちやめ》気沢山の、人を食ったしかも派手で豪快なやり方を、よくよく翫味していただきたい。シラノ・ド・ベルジュラック的伊達者と解釈するよりほかはないと思う。
三
伊達者といえば、桐野利秋《きりのとしあき》が大へんな伊達者であった。
桐野は、薩摩の鹿児島城下の郊外、吉野村|実方郷《さねかたごう》の郷士で、おそろしく貧乏な家に生まれたが、大へんな伊達者で、中村半次郎と名のって維新志士である時代には、朱鞘の大小をさして、京都の町々を闊歩し、佐幕派の連中から虎のようにおそれられた。彼には独特の抜き打ち法があって、こいつを斬るときめたら、行き交いざまに、足もとめず、身がまえもなく、サッ、と斬ったが、その迅速巧妙なこと、防禦のしようがなかったというので、「人斬半次郎」と呼ばれたという。
維新後、彼は陸軍少将にまでなったが、その頃の彼は、軍服の時には、綾小路定利《あやこうじさだとし》の名刀をしこんだ軍刀をつっていた。その軍刀のこしらえが、大へんなものであった。つかは金ムク、ハバキも金ムク、サヤは金と銀の筋を互いちがいにしたもので、燦然として目もあやな豪華なものであった。
和服の時は、細かなサツマ絣に白チリメンの帯をしめ、細身のステッキをついていた。
そして、いつもフランス香水をぷんぷんさせていたという。
彼の邸は、湯島の切通しにあった。越後高田十五万石の大名榊原家の屋敷を借りて、そこに、国から出て来た書生等と、女気なしの生活をしていた。
女がきらいであったわけではない。きらいどころか、大へん好きだった。下谷の同朋町《どうぼうちよう》あたりに妾がいたし、柳橋あたりでも盛んに遊んだ。
当時、柳橋から出ていた芸者が、後年、ぼくの国の先輩に、こう言ったという。
「あなたの国の人で、一番強い印象になってのこっているのは桐野さんです。あたしは生れてから今まで、桐野さんほど男らしい人を見たことがありません。男の中の男というのは、桐野さんのことを言うのだと思います。あの時分の東京中の芸者は一人のこらず桐野さんに岡惚れしたものです」
ぼくは、この話をその先輩から聞いた。
征韓論が決裂して、西郷に殉じて桐野も国にかえったのであるが、妾との訣別ぶりは、甚だ特色的である。
妾宅の前まで馬を乗りつけて、
「ナニガシ、ナニガシ」
と、大音に呼ばわった。
妾は、おどろいて走り出して行くと、桐野は馬上から言った。
「こんど都合があって、西郷先生と一緒に、職をやめて国に帰ることになった。お前には色々世話になったので、手当をやらねばならんのだが、このところ懐工合がまことに悪い。ついては、この短刀をやるから、これを売って、金にかえてくれるよう」
と、いって秘蔵の短刀をわたし、
「達者でくらせ。世話になったな」
と、言うや、一鞭あてて、疾駆し去ったというのである。
村上浪六氏は、桐野と同じく西南戦争の勇士であった中島健彦に育てられた人であるが、その中島のこの時の愛妾との別れぎわが、やはりこうであったと浪六氏が語っている。
当時、中島は堺県の警察部長で、愛妾を別宅に囲っていたが、辞職して帰国する時、家の前の道路まで呼び出しておいて、簡単に帰国のことを告げ、財布ぐるみ金をあたえて立去り、ふりかえりもしなかったという。
符節が合するように似ているこの訣別法を見ると、どうやらこれは古来薩摩藩に伝わる「公式」ではないかとも思われる。
「グズグズしとると女は泣き出すもんじゃ。しまツがつかんようなる。テキパキと、こげんやッのが一番よかのじゃ」
と、先輩から申しおくりに伝承された方法なのかも知れない。
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(その五)
隼人の精髄
一
桐野のことをもう少し書こう。
桐野は天性の雄弁家であったが、少年時代貧困のため学問が出来なかったので、時々途方もない滑稽な間違いをした。
維新志士としてあばれまわっていた頃、他藩の連中と応接する機会が度々あったが、彼は「尊藩《そんぱん》」と「弊藩《へいはん》」の区別がわからず、自藩のことを「尊藩」といい、相手の藩のことを「御弊藩《おんへいはん》」といい、禁闕《きんけつ》を「きんかん」と発音して、雄弁滔々と論じ立てるので、相手は目を白黒し、薩藩の者はおかしいやら、きまりが悪いやらであった。あとでこれを注意すると、桐野は、
「ホウ」
と、おどろき、
「そうか、すット、尊藩ちゅうのはあなたの藩ちゅうことで、弊藩ちゅうのは拙者の藩ちゅうことでごわすか。また、|きんかん《ヽヽヽヽ》じゃなくて、|きんけつ《ヽヽヽヽ》でごわすか。なるほどなあ。こら途方もなか間違いでごわすなあ。しかし、天子様のお住居を|きん《ヽヽ》と|けつ《ヽヽ》とは妙な言い方でごわすなあ。しかし、どちらも人間の急所じゃし、天子様は日本で一番大事な方じゃしすッから、そん居なさる場所はそげん言い方をすッのかも知れもはんなあ。ハッハハッハ。道理で、あン男妙な顔をしとりもしたわい。こりゃ大笑いじゃ」
と、呵々として大笑して、少しも悪びれる色がなかったという。
また、
「おいに日本外史が読めれば天下を取っとる」
と、言ったこともあるという。
その無学な彼がいよいよ会津が降伏して、城受取りとなった時、ぜひおいどんを受城使にしてもらいたいと所望した。城受取りには軍学上むずかしい方式がある。彼の無学を知っている官軍の諸将等は皆危ぶんだが、彼が言い張るのでいたし方なく、その役に任じた所、城方の者にたいするあいさつから検分の法に至るまで、すべて整々と方式にかなって、実に見事な受城使ぶりを示した。
人々は感嘆して、桐野を見る目を新たにして、どこでそんな修業を積んだかと問うたところ、桐野はカラカラと笑って言った。
「江戸開城以後、退屈まぎれに、毎日愛宕下の寄席に講釈を聞きに行っていもしたが、ある日忠臣蔵ン赤穂城の開け渡しの話がごわしてな。そいつを覚えとったんで、そン通りにやいもした」
人々はその度胸のよさと機転とにまた感心したという。
二
以上の話をもっても、彼が天性の快男子で、明朗、率直そのものであったことがわかるが、彼のそうした性格を語るに最も適切な話がある。
彼は少年時代を極貧《ごくひん》の中におくり、師について剣法を学ぶことが出来なかったので、最初ひとり稽古で、示現流の立木打ちと打ちまわりとを習練し、後年多少の余裕が出来てから鹿児島城下薬師町の薬丸派《やくまるは》示現流の師範伊集院鴨居に入門し、はじめから高弟の一人を以て遇せられた。
薬師町は城下の西のはずれにあり、彼の家は、城下の東北郊吉野村にある。彼は毎日城下の町々を横切って、師の家にかよった。生涯を通じて、威勢のよいこと無類であった彼の青少年時代のことであるから、その歩行ぶりはおそろしく颯爽たるものであった。肩をそびやかし、大手をふり、大道せましと闊歩して行く。
これを面にくく思ったのが、城下の二才衆《にせしゆう》(青年武士)だ。
「あいつ郷士のくせに、人もなげな奴じゃ。一つ言わせてやろじゃごわはんか」
と、甲突川《こうつきがわ》にかかった西田橋《にしだばし》の上に待ちかまえていた。
いつもの時刻となって、桐野が来た。ノッシノッシと近づいて、
「やあ! よか天気でごわすな」
と、あいさつして前を通りすぎようとする。
「何をこん和郎《わろ》が!」
二才衆は八方からおそいかかって引っとらえ、高いらんかんの上から、ザンブと川に投げこんだ。
桐野は濡れ鼠になって、対岸にはい上ったが、依然として肩をそびやかして、ノッシノッシと薬師町の方に去った。翌日、二才衆はまた橋上に待ちかまえていた。来るか、来ないか、来るとすればどんな態度で来るか、楽しみにしていた。
時刻になると、来た。一向かわらない態度だ。肩をいからし、大手をふって、ノッシノッシとやって来る。
「やあ、よか天気でごわすな」
と、朗らかにあいさつして通りぬけようとする。
また襲いかかって投げこんだが、今日も一向平気だ。ぬれ鼠となって這い上るや、ノッシノッシと行ってしまう。
その翌日も、またその翌日も、「やあ、よか天気でごわすな」ザンブ。ぬれ鼠。ノッシノッシ。
およそ五六日。二才衆は気味が悪くなった。感心もした。
「あいつ、底ン知れん男でごわすな。一ッちょ、ものを言うて見ようじゃごわはんか」
「よかろう」
相談が一決して、その翌日一同橋上に待ちかまえていて、そろって丁寧におじぎをした。
「こん間中は失礼でごわした」
「いやあ」
桐野は一向平気だ。ニコニコ笑いながら答礼する。
「実は、おいどん等は、おはんの人もなげな様子を見て、癪にさわってならんので、あんな無礼を働いたわけでごわすが、おはんが一向相手になさらんので、少しへこたれていもす。一体、おはんはどういう考えで相手になられんのか、伺いとうごわす」
桐野は大きな声で笑った。
「なかま喧嘩をしとる時じゃなかと思うからでごわすよ。日本は今大へんな秋《とき》に際会しとるそうじゃごわはんか。世界の列強が開国をせまって来て、今や日本は日本だけの日本でなく、世界の日本となったちゅうじゃごわはんか。しかも列強は互いに勢いを競い、領地を拓くことに一生懸命であるちゅうじゃごわはんか。日本人の全部が一つに団結せんければ、とても世界のこの優勝劣敗の競争場裡に立って行くことの出来ん時じゃと思いもす。そげん時に、同じ薩摩の家中の者が、屁のような原因で角づき合い喧嘩をすッなど、わしゃつまらんと思うているのでごわすよ」
あくまでも明るい威勢のよい態度と、朗々たる雄弁に、青年等は感心し、ひきつけられた。
「よかことを言やる。なるほど、お説の通りじゃ。どうか我々の不心得は水に流して、今後は水魚の交りを頼んもす」
「ようごわすとも。望む所でごわす」
となり、桐野の名は一時に城下の二才衆の間に高くなったというのだ。
三
明治年代の政治家|佐々《さつさ》友房《ともふさ》は、西南戦争の時池辺吉十郎等と熊本隊を組織して西郷軍に協力して戦った人で、その委細はその著「戦袍日記《せんぽうにつき》」にあるが、その中にこういうことが書いてある。西郷軍の主力が宮崎に駐屯している時、官軍の攻撃が猛烈をきわめ、薩軍はさんたんたる苦戦におちいり、しばしば大淀川の守備線を破られようとした。
佐々の隊は前線に出て戦い疲れ、予備隊と交代して戦線から少し退って休憩をとっていると、馬上桐野が意気昂然として前線に行くのが見えた。佐々は呼びとめた。
「桐野さん、どこへ行きなさる」
「ああ、佐々さんか。官兵どもがうるそうせッこんで来るちゅうから、ちょいと行って追ッぱらッて来もす。失礼」
答えて桐野はカッカッカッと馬蹄の音も軽く行ってしまった。
佐々はこのことを記して、こう嘆じている。
「その様《さま》、庭に侵入して来た隣家の犬でも追っぱらいに行くような調子であった。桐野の意気の屈撓しないこと常にこのようであった」
おそろしく威勢のよい男だったのだ。だから、どんな苦戦、どんな難局におちいっている時でも、彼のいる所、将士の意気は常に昂然たるものがあったという。
彼は若い時からよくこう言っていたという。
「男子たる者は絶対にへこたれてはならん。銃があれば銃で戦い、銃が破損したら刀で戦い、刀が折れたら素手で戦い、腕を失ったら歯で戦い、生命をとられたら魂で戦うのだ」
城山の落城に際して、彼は実にこの平生のことばを実行した。
西郷すでに死し、同志の諸将もあるいは戦死し、あるいは自殺した後、彼は岩崎谷の塁壁の上にドッカと大あぐらをかき、かたわらに大刀をおき、糸織の単衣の両袖を肩の上までまくり上げ、七連発銃をとって悠々と弾込めしつつ、せまって来る官軍を、狙撃《そげき》し、一発毎に、
「命中!」
「こんだ外れた」
「そら、命中だ」
と言いながら撃ちまくった。
そのうち、敵が間近かに殺到して、うしろ上から銃剣を以って刺そうとすると、刀を取って一太刀毎に斬りはらって追いしりぞけ、なお悠々と狙撃しつづけた。
ついに、一弾が彼の額に命中し、額の半ばをくだいて去った。彼は塁の上からころがりおちたが、なお屈せず、
「チェスト……」
と絶叫し刀をつかんで立った。しかしそのまま力つきてたおれた。脳漿《のうしよう》が半分流れ出ていたというのだ。
桐野こそは、薩摩隼人の精髄といってよいだろう。
西南戦争中における桐野の逸話にこんなのがある。薩軍が日向の可愛岳《えのたけ》の険《けん》を突破し、九州の脊梁《せきりよう》山岳地帯を縦走して鹿児島にかえった時数十日にわたる強行軍のために、人々の衣服は皆ボロボロになっていたので、帰着後の彼等の最初の仕事は、衣服を調達することだった。
桐野は、県庁の大書記官である渡辺千秋《わたなべちあき》(後の子爵)の官舎に飛びこんだ。西郷軍が帰って来たというので、県庁の役人等は皆避難して、その官舎はすべて不在であった。
桐野は官舎中をさがして衣服をもとめてこれを着こんだが、ふと見ると、「シルクハット」がある。
よろこんだ段ではない。
「こらよかもんがあった。ちょうだいしよう」
と、いうわけで、早速に着用した。
桐野は、和服の上にシルクハットをかぶって、城山では籠城していたのだ。愛嬌のある話である。彼の性格を描出するに点睛の感ある話である。
四
豪傑で快男子のことをもう少し語りたいが、紙幅がもうないから、槍術家のことを少し書いて、快男子談は次回にまわすことにしよう。
庄田喜左衛門というのは、吉川英治氏の「宮本武蔵」の中にも出て来る柳生但馬守宗矩の譜代の家来で、高弟である。後に一流を立てて庄田真流《しようだしんりゆう》という一派を立てた人であるが、この人の弟子に市輔《いちすけ》という者があった。
人間は少し足りない男だったが、剣術には大へん熱心で、昼夜習練の功を積んだので、庄田の門中でならぶ者のないほどとなった。
もともと足りない男なので、おそろしく高慢となり、師匠だっておれには敵わんだろうと思い、ある時、庄田に仕合を望んだ。
「ホウ、わしと仕合したい? よしよし、では十本勝負でやろうか」
庄田には、市輔の心がよくわかっている。こらしめてやろうという気があったわけだ。
「十本勝負でございますか」
「ああ十本だ。一本でもそなたにとれたらえらいぞ」
市輔は心中カッとなった。
仕合となったが、市輔君どうもいけない。手も足も出ず、十本が十本とも庄田にとられてしまった。
がまんの角のおれた市輔は、後悔もしたが、失望落胆の方が強かった。
「多年の間寝食を忘れて習練した甲斐もなく、こうまで惨敗するとは、われながら愛想がつきた。もう武術はもとより、武士をやめる」
と、決心して、その日のうちに髪を剃り、三夢と名前をあらためて、諸国行脚に出、数年の間、あまねく諸国をめぐり歩いて、奥州路に行った時、ある日ふと槍で人を突くコツを思いついた。
そこで、仙台の城下に行った時、槍の道場に行き、しばらく稽古を見物させてもらいたいと頼んだ。
「よろしい、ごらんになるがよい」
道場では快く許してくれた。
三夢は道場の片隅に坐ってしばらく見物した後、自分にも一手つかわせてもらいたいと所望した。
「お坊が槍を」
「はい」
「これまで修業なさったことがあるのか」
「ございませんが、やれそうな気がします」
生意気な、と、思ったのかも知れない。いいおもちゃと思ったのかも知れない。
「やってごらんなさい」
というので、防具をつけ、稽古槍を貸してもらって、門人等を相手にやってみると一人として前に立ち得る者がない。
槍を取って立ち上って一礼するや、「やあ!」と、唯一声、門人等はどこかを突かれてしまう。
道場の主も試みてみたが、これも敵しない。
大評判になって、伊達家の兵法者《ひようほうしや》等が、あるいは刀術、あるいは長刀、あるいは鍵槍《かぎやり》、あるいは十文字槍等で仕合ったが、一人として敵する者がない。一声の気合と共に電光の如くくり出して来る槍先につかれてしまうのだ。
これほどの妙術を持ちながら、この三夢さん、少し足りない人柄であり、また天然自然にフッとコツをさとったものなので、他人にはどうしても教えることが出来ず、ために一代でほろんでしまったというのだ。
以上は「撃剣叢談」にある話だが、武術にかぎらず、あらゆる技術にこういうことはありそうである。
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(その六)
皆朱《かいしゆ》の槍
一
織豊《しよくほう》時代から江戸初期にかけて、日本は英雄豪傑が輩出して、豪傑で快男子というのもうんとあるが、第一に指を屈せねばならんのは、前田慶次郎利太《まえだけいじろうとします》だろう。
慶次郎の素性については、三説ある。一説によると、加賀百二十万石の高祖前田利家の兄である蔵人《くらんど》利久《としひさ》の子であったといい、一説によると、滝川儀太夫の妻が滝川の胤をはらんで離別した後、利久に再縁して生んだのだといい、一説によると、子のなかった利久が滝川儀太夫の子をもらって養子にしたのだという。武芸、文学、茶の湯、その他の芸に通じて、当時一流の人物であったが、途方もないいたずらもので、世を屁とも思わず、生涯を奔放不羈自由闊達に送った。
若い頃、浪人して広く天下をまわって歩いた。石山軍記を見ると、信長が本願寺と抗争して、大坂の石山城(後の大坂城。本願寺の根拠地であった)を攻囲した時、浪人武者として戦さを見物に行っている間に、織田方が城方に奪われた大旗を奪いかえして、佐久間信盛に渡しておいて行く方知れずになったという話が出ている。石山軍記では、
「元来前田家の総領に生まれた自分をさしおいて、叔父利家に家を相続せしめられた信長公の仕打ちが、拙者は気に入らんのだ」
と、慶次郎が言ったことになっているが、以後の慶次郎の性行から見て、信ぜられないことだ。それに、利久はずっと後年まで生きていて、利家の扶助を受けて死んでいるから、この間の相続はきわめて平和に行ったのであろう。寛政重修諸家譜にも、藩翰譜《はんかんふ》にも、信長の命によって、利家が利久から家督をゆずられたとあるから、兄弟の間で相続があったには相違ないが、そこに無理強いはなかったのだと思う。慶次郎は、天性の自由奔放の性質から、勝手に家を飛び出したのであろう。
利家が加賀の太守となった頃、慶次郎は利家の許にかえって、しばらく利家の禄を食んでいたが、生来の性質は一向に改まらず、世を茶化して、へんなことばかりする。利家という人は、根が律義な人なので、甥のこの性行が心配でならない。おりにふれては、お説教をする。慶次郎にはそれがたまらない。
「どうも窮屈だなあ、呼吸がつまりそうだ。飛び出してやろう」
と決心したが、普通に出奔したのでは面白くない。何か奇抜なことをしてと、工夫をこらしたが、一策を案じつくと、利家の前に出た。
「かねて色々と御教訓にあずかりましたことについて、このほど、やっと合点がまいりました。なるほど、これまでは御心配ばかりおかけしていました。申訳ございません。つきましては、改心の記念に茶の湯をいたしたく存じます。明朝、拙宅までお出で下さいましょうか」
利家はよろこんだ。
「行こう。そちが心を入れかえる記念のための茶の湯とあっては、行かんわけにも行くまい」
「早速のお聞きとどけ、有難うございます。それではお待ち申しております」
慶次郎は帰宅すると、すぐ支度にかかる。自らさしずし、手を下して、茶室を掃除し、降りしきる雪の中におり立って、露地の落葉や蜘蛛の巣をはらい、夕方までは一切の準備を手落ちなくととのえた。
翌日早朝、利家はやって来た。
「これはこれは、この寒さにお早やばやと」
慶次郎は迎えて、待合に通して、
「お寒うございましたろう」
「寒かった。年だな」
「風呂をわかしておきました。おあたたまり下さい」
夏は涼しく、冬はあたたかに、というのが茶の湯の原則だ。寒い日には客に入浴させるのは茶の湯では普通のことだ。
「御案内いたします」
慶次郎は、湯殿につれて行った。
「加減を見ます」
脱衣所に利家をのこして、戸をあけて湯殿に入り、湯殿のフタをはらって、手をつけてかきまわしながら言う。
「おじ上は熱加減の風呂がお好きでありましたな。ちょうどよいようでございます」
利家は着物をぬぎ、ぬれた板の間をわたって近づく。顔は衰えているが、からだはまだたくましく、生涯の武功を語る全身の傷あとがすさまじい。けれども、早朝の寒気のために黄色くなった皮膚は鳥肌立って、羽をむしられたシャモを連想させる。ゆっくりと湯槽のそばにしゃがみ、寸時の後の入浴の快さを予想しつつ、手拭をしめしにかかったが、その湯は普通の湯と少し感覚がちがった。「はてな」といっては悠長にすぎ、「あ!」といっては速きにすぎる。その中間ぐらいの速さで(これは水だ)という判断が来て、頭のテッペンへつきぬけるような、おどろきとなった。同時に、なぜ水を? という疑問が、いたずらばかりする慶次郎の平生と結びついた。
「おのれ!」と、反射的に立ち上ったが、その途端に、強い力で足許をすくわれ、満々とたたえ、夜一夜くみおいて、冬の寒夜を冷やしに冷やしぬいた寒水の中に、真っさか様にたたきこまれた。すさまじい水音とともに天井まで上り、そこから滝になって落ちて来るシブキの中に、したたかに水をのみ、もがきにもがきながら、利家はやっと立ち上った。
「おのれ、しれ者!」
烈火の怒りを以て絶叫し、水をおどり出して捕えようとしたが、慶次郎はもうそこへはいなかった。湯殿の外に飛び出しガタンとはげしくしめた戸の向うから、爆発するような哄笑をおくりながらひやかす。
「年寄りの冷水の味わいはいかが」
「ばかめ! 開けろ!」
じだんだふんで、破れよと戸をたたくのをうしろに、慶次郎は裏門に飛び出した。そこには、前もって「谷風《たにかぜ》」と名づくる自慢の名馬を用意して立ててある。打ち乗って、加賀を出奔、京へ馳せ上って来た。
一説によるとこの「谷風」は、利家自慢の愛馬であったのを、この時盗んで逃げ去ったのだというが、話としては、その方が面白い。
二
京へ出て浪人ぐらしになった慶次郎は、夏になると、毎夕、谷風を馬丁に引かせて、鴨川に水浴にやる。見るからに名馬であるから人目をひく。中には馬丁を呼びとめて、
「すばらしい馬だの。誰の馬だ?」
と、聞く。すると、馬丁は腰にぶら下げた烏帽子をとって打ちかぶり、唄をうたいながら、足拍子をふみながら、幸若舞《こうわかまい》をする。
この鹿毛《かげ》と申すは
赤いちょっかい皮ばかま
茨《いばら》がくれの鉄冑
前田慶次が馬にて候
誰がたずねてもそうしたという。
関ケ原の戦争のおこる前年、上杉景勝に召しかかえられたが、最初のお目見得の時、畠から引きぬいて来た大根を三本、無造作に三宝にのせて、それを礼物として献上したという。
彼は、皆朱《かいしゆ》の槍《やり》をたずさえていた。皆朱の槍、玳瑁《たいまい》の槍は、むずかしい格式があって、武功が非常にすぐれた者でないと持つことの出来ないことになっている。上杉家ではこれを咎めたところ、慶次郎はすまして答えた。
「いやア、これは先祖代々のものでありましてな。つまり、前田の家にそなわる格式でありまして」
ほんとか、うそかわからないが、前田家は織田家でも名題の家柄、ことに加賀百二十万石を本家としている。こう言い切られると、納得するよりほかはない。そのままに黙認の姿になっていると、上杉家名題の勇士である水野藤兵衛、韮垣《にらがき》理右衛門、宇佐美《うさみ》弥五衛門、藤田森右衛門の四人が腹を立てて、景勝に訴え出た。
「我々四人はこれまで度々皆朱の槍をお許し下さるようお願い申しておりますのに、まだ許していただけません。然るに前田慶次郎は先祖よりの由緒と称して、皆朱の槍を持っております。これでは新参者の彼に、我等四人とも武勇が劣るかに見えます。はなはだ面白くありません。彼の皆朱の槍を制禁していただきたい。それが出来ないなら、我等にも持たせていただきたい」
強硬な願いであった。景勝は、勇士の心としては、さもあるべきことと思ったので、四人にもこれを持つことを許したという。
三
東西呼応して、景勝が領地会津において、反徳川の旗上げをした時の、慶次郎の出陣の装束《いでたち》こそ、人を食ったものであった。黒い具足に、猩々緋の陣羽織を着、金のイラ高の数珠の房に金の瓢箪をつけたのを肩にかけ、山伏頭巾をかぶり、十文字の槍をたずさえ、谷風にまたがっていたが、その谷風にも金パクをぬった山伏頭巾をかぶらせ、唐鞦《とうしりがい》をかけていた。もう一つおまけは、背中に負うた差物に、「大ふへん者」と筆太にしたためてあった。これを見て、例の四勇士はカンカンに腹を立て、馬を駆けよせ語気荒々しくどなり立てた。
「御辺の差物の文字は何だ。不識庵謙信公以来、武勇を以て許されたる当上杉家において新参者の分として人もなげなる文字、改めさっしゃい!」
慶次郎はおちつきはらって、ニヤニヤ笑いで迎えた。
「やあ、これはおそろいで。しかし、何をそう力んでいなさる」
「御辺のその差物の文字だ?」
「はあ? 差物の文字?」
「大武辺者とは何ごと! 不識庵謙信公以来武勇を以て天下に鳴る当上杉家に於て……」
おきまり文句がはじまった。
すると、慶次郎はカラカラと笑った。
「誤解、誤解、それはとんでもない誤解だ。拙者は、妻もなく、子もなき孤独の身の上、しかも落ちぶれはてて貧窮している故、不便この上もない。天下の大不便者だ。それで、かく差物に書いているのだ」
ストンと肩すかし食って、人々は、
「またしても慶次郎めにやられた」
と、苦笑して引きさがったという。
この戦争において、上杉方は直江山城守を主将として、山形に侵入して最上家《もがみけ》を攻め、ほどよく戦って退却にかかったが、最上義光が大兵を以って追撃をかけ、州川《すかわ》で追いついたので、上杉勢は苦戦におちいり、手ぎわよく退却が出来なくなった。
直江は歯ぎしりして残念がった。
「おれは、これまで度々の戦場に出て一度も不覚の名を取らず、上杉家の直江といえば、天下に名をとどろかしているのに、最上くらいの田舎武将と戦さして、この不覚をとるとは、実に無念だ。今は討死するまでのこと」
馬を立てなおして、敵中に突入しようとした。その馬前に、慶次郎はゆらりと馬を乗り出し、
「山城殿、そうのぼせなさるものではない。拙者引き受けて追い退けます」
というや、敵味方が槍ぶすまをつくってにらみ合っている最前線へトコトコと馬を乗り出して行った。それを見ていたのが、前線にあって鉄砲隊を指揮していた杉原常陸だ。慶次郎に呼びかけた。
「騎馬ではあぶない。馬を下りて、かかられよ」
「さようか」
ひらりと飛び下りて、常陸に言った。
「わしが槍を入れたら、潮時を見て、敵の後陣に鉄砲を打ちかけられたい」
「承知だ」
慶次郎は、名乗りを上げて、突っこんで行った。厳重な槍ぶすまだが、技倆のちがいはいたし方ないもので、忽ち最上勢は色めき乱れる。水野、韮垣、宇佐美、藤田等の皆朱槍の勇士連も、
「それ、慶次郎におくれたぞ!」
と、無二無三に突撃してきた。
潮時を見て、杉原常陸が後陣を目がけて、鉄砲二百挺、ドッと打ちこませたので、さしもの最上勢も裏くずれして、四分五裂となった。
一説によると、この時、慶次郎は敵の勇士を突っころがしておいて、頭から小便を引っかけたというが、これは後世の講釈師が張扇から叩き出した誇張にちがいない。
四
こんな話もある。
会津の林泉寺という禅寺の和尚某は、なかなかの傑僧で、景勝は深くこれを信仰していた。ところが、この和尚さん実に傲慢で、上杉家の勇士等を子供あつかいにする。
「クソ坊主め、我々を何と思っているのだ」
と、皆くやしがったが主君の尊崇浅からざる人なので、どうすることも出来ないでいた。
ある日、勇士連の詰所で、この話が出ると慶次郎が、
「わしがあの坊主をなぐりつけてみせよう」
と、言い出した。
そんなことが出来るもんか、と、皆相手にしない。
「出来んことはない。ちゃんとなぐってみせる」
と言って、慶次郎は即座に雲水坊主にばけて、寺に乗りこんだ。
学問はあり、風流の技にも達している慶次郎だ。和尚さんは大へん気に入って、滞在を許した。二三日すると、慶次郎は和尚と碁を打った。和尚の碁は弱い方ではないが、慶次郎にくらべると数段弱い。それをほどよくあしらって数番おわると、慶次郎は言った。
「素勝負も曲がありません。賭けようじゃありませんか」
「賭ける? それは卑しい」
「金品を賭けるのではありません。勝った方が負けた方の頭をなぐるというのはいかが」
「ハハ、面白いな。やろうか」
最初、慶次郎は、わざと負けた。
「さあ、お叩き下さい。約束ですから」
「ハハ、ハハ、さようか」
和尚は撫でるように軽くポンと打つ。
次ぎには慶次郎が勝った。
「ホウ、わしの負けか」
「はじめて勝たしていただきました。怪我ですな」
「さあ、お叩き」
和尚は頭をつき出した。
「いや、それは恐れ多い」
「いや、いや、約束だからな」
「いえ、もうようございます」
「いや、いや、約束じゃからな。ぜひお叩き。そうせんと、片手落ちだ」
「そうですか。やむを得ません。では」
慶次郎は、サザエのような拳骨をにぎりかため、グワン! と力まかせに叩きつけた。和尚は目をまわし、鼻血を出して気絶したという。
関ケ原の戦争の後、上杉家は会津百二十万石の身代から、米沢三十万石の身代におとされた。四分の一の身代になったのだ。家来等はいずれも減俸だ。直江山城が三十二万石から五万石、甘糟備後《あまかすびんご》が二万石から五千石という工合だ。それで名前の通った家臣等は、それぞれ各家から高禄を以て招かれるのを幸いとして、立退いた。慶次郎にも、諸家から口がかかった。しかし、彼は、
「おれはこの度の東西分け目の戦さで、諸大名の心の底がわかった。天下の大名中、男は景勝だけだ。当家以外には、おれの仕うべき家はない。何石でも結構、当家においていただく」
と言って、五百石もらって、生涯を上杉家でおわった。
「風月を楽しみ、歌学に心を寄せ、源氏物語を講じて世を終れり」
と、いうのだ。寛永二十年七月二十四日卒去。
前に塙団右衛門のことをのべたが、似たケースである。この人々の気慨を好み、自由を愛する心情は、彼等の文学者魂から出たものに違いない。
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(その七)
直情武士
一
前回に、杉原|常陸《ひたち》のことをちょっと書いたが、この人にはこういう話がある。
大坂冬の陣の時、鴫野《しぎの》口において、上杉家が手痛い戦さをしたことがあるが、この時、鉄砲隊を指揮しての杉原常陸の働きが実に見事であった。七百の銃手を引きまわすこと自由自在、左右の手を使うようである。この戦さに常陸は国許を出る時、あまり自分の具足が古びて見苦しいので、能衣裳を羽織って出て来たが、この日その服装で奮戦した。
これを遠くから見た家康が大変感心して、旗本の連中に言った。
「見ろ、あれは上杉家の杉原常陸だが、さすが上杉家は関東管領のあとをついだだけあって古雅な伝統がある。錦の陣羽織を着ているでないか」
「なるほど、さようでございますな。あれが錦の陣羽織と申すものでございますか」
皆、感心した。
翌日、家康はわざわざ常陸を本陣に召して昨日のことを語り、その陣羽織の由来を聞いた。杉原はおかしくてしようがなかったが、鹿爪らしい顔で答えた。
「由来のほどは存じません。ただ先祖代々伝えたものでございます」
「おお、そうか。由来もわからないほど古いものか」
と、家康は益※[#二の字点、unicode303b]感心したという。
ここで、家康がその陣羽織を見たいと言ったら、常陸としては困ったことになったろうが、それは言わなかった。ひょっとすると、どうもおかしいと、家康も気づいたのかも知れない。
一書によると、「杉原はおどけものであった」とあるが、どんな点がおどけものであったか、この一事以外にはおどけた話は伝わらない。
しかし、こんな場合、正直に言ってしまってはいけないこともある。全軍が神様ほどに貴いものとして仰いでいる総大将の鑑識眼の過ちをあらわすことになるから。
これは少しちがうが、こんな話がある。
宇喜多秀家の臣に花房助兵衛という大剛の士があった。関ケ原の戦争の前年、宇喜多家に御家騒動があったのに連坐して、公儀の罪人となり、常陸の佐竹家にあずけられていた。
その翌年、関ケ原の戦さのおこる直前、上杉景勝が会津で不穏な企てをしているというので、家康は諸将をひきいて征伐に出かけ、野州の小山まで来ると、西で石田三成が事をおこしたとの急報がとどいた。
家康は、会津にはおさえの勢をのこして、西に引きかえして石田と決戦することに心をきめたが、諸将は佐竹氏の向背を気にしてしきりに不安がった。当時の佐竹家の当主|義宣《よしのぶ》は石田と仲がよく、上杉家と合体して、追撃に出て来そうだとの噂がしきりだったのだ。
家康にしてみれば、佐竹氏なんぞどちらについたって、構う所ではなかったのだが、あまり諸将が不安がっているので、これを鎮める必要があった。
そこで、小山の陣営に、花房助兵衛を召して、諸将の居並ぶ前で、こう聞いた。
「そちは久しく常陸に居住しているから、定めて佐竹家の様子を存じているであろう。こんど、義宣が石田に一味しているとの風聞がしきりであるが、事実はどうなのだ」
助兵衛は答えた。
「いかにも、仰せの通り、当主義宣と石田とは懇意な仲でありますが、義宣の父義重が未だに健在であります。されば、あるいは義宣一人は味方したいと思うかも知れませんが、義重が反対するでありましょうから、この話は煮えますまい」
家康は喜んだ。
「さもあろう。さもあろう。よく見切った。さらば、その方、唯今のことを誓詞に書くよう」
これは家康の要求が無理だ。石田に味方するせんは佐竹家であって、助兵衛にはなんの関係のないことだ。彼は単に自分の推察を言っただけのことで、その推察に責任を持てというのは無理な話だ。しかし、また、家康としては、この際、そういう無理を言わずにおられない必要があったのだ。
助兵衛としては、そこまで考えなければならなかったわけだが、直情径行の真っ正直ものだから、そんな思案が出ない。
「誓詞してまでの請合はいたしかねます」
と、答えた。
家康は大へん不機嫌で再びもう声もかけなかったが、無事に、関ケ原の戦さがすんだ後、このことを近臣に語って、こう言ったという。
「ウソでもほんとでもよい。ああいう時には誓詞を書くものだ。それで人々の不安がのぞかれるのだ。助兵衛ほどの者ゆえ、それしきの心得はあるものと思ったのに、案外役に立たん男である」
これを伝え聞いて、助兵衛は、
「ああ、おれも不運な男だ。おれほどの男があの時の家康公の心中を見通すことが出来なかったとは。あの時の一言で、おれは大名になれたのじゃに」
と、歯がみして残念がったという。
二
しかし、助兵衛という男はこういう真正直で剛直な性質によって、天下に高名な人物になったのだ。
豊臣秀吉の小田原征伐の時だ。小田原城の守りが堅固で中々落ちないので、秀吉は長囲の計を立てた。自分もまた諸将にも半永久的な陣屋を営ませ、国許から妻妾を呼び寄させ、士卒等のためには遊女業者をして遊女屋を営ませ、商人をして商店街をひらかせ、日夜、茶の湯、能楽などを楽しんで、何年滞陣しても飽きの来ることのない仕掛けにした。
ある時、秀吉が本営の櫓《やぐら》の上に立って、諸方を眺めわたしていた。前を通る諸士は、秀吉の本陣であるので、一々馬から下り、冑を脱いで頭を下げて行く。ところが、やがて来かかった一人の武者は馬に乗ったまま、見向きもしないで通って行こうとする。
番卒は駈け出して、これをとがめた。
「御本営の前でござるぞ。下馬さっしゃい」
すると、その武者は、ハッタとにらみつけて、荒々しくどなった。
「戦さの最中に女にふざけたり、能楽乱舞にうつつをぬかしているようなたわけた大将に何で下馬する必要があろうか。ケッ! 胸糞の悪い!」
陣門に向って、唾をはきかけて行く。
番卒等は、追いかけつつ、問うた。
「無礼者、無礼者、名を名のれ」
「おお、おれは宇喜多家の花房助兵衛よ。殿下も御存じの者よ」
と、答えて、馬を飛ばして駈け去った。
櫓の上からいちぶしじゅうを見ていた秀吉はカンカンに立腹した。
「秀家を呼べい」
と、宇喜多秀家を呼んで、
「かくかくの次第、不埒千万。しばり首に仰せつけい!」
と、声も荒々しく命じた。秀家も、おしい家来とは思ったが、事が事だ、とりなしようもなく、御前を退出して陣所の方へ行きかけると、一町ほどのところで、秀吉の近臣が追いかけて来た。
「殿下のお仰せであります。急ぎおかえり下さるよう」
引きかえすと、
「先刻は腹立ちまぎれに縛り首にせよと申したが、助兵衛も天下に勇名を馳せた剛の者だ。縛り首は可哀そうなれば、切腹に仰せつけるよう」
「はッ、ありがたき仰せ」
御前を去ってまた行くこと一町ばかり、秀吉の使者が追いかけて来る。
「仰せであります。急ぎおかえり下さい」
かえると、秀吉は言う。
「おれに向って、あれほどのことを言うのは当今の天下では助兵衛ひとりだ。あっぱれなる大剛ぶりだ。殺すにはおしい。命を助けて加増してやれ」
時の人、秀吉の寛大にして士を愛するの深いことと、助兵衛の剛直に感心したというが、要するに助兵衛はこういう男なのだ。正直なところが身上なのだ。どうころんだって、自信のない誓詞なんぞ書ける性格ではないのである。
三
前回に、関ケ原戦争後、上杉家の身代が一挙に四分の一に減らされた時、前田慶次郎が他家からの高禄を以ての招きをことわって、
「こんどの戦さで諸大名の心を見限った。男は景勝一人だ。おれの主人はこの人以外にはいない。当家に置いてもらうのだ」
といって、五百石の薄禄を以て依然として上杉家に仕えて世を終ったことを書いたが、たしかに、上杉景勝は凜乎たる男性的意気の人であったようだ。
やはり大坂冬の陣の時だ。遠国のこととて上杉家はおくれて到着したが到着すると同時に戦さにかかり、鴫野口で手痛い合戦をして敵を追いはらい、なお進んで戦った。
家康はこれを見て、使番久世三四郎を呼んで、
「上杉家今朝到着すると直ちに手痛い合戦、定めて死傷多かるべし、後陣の堀尾勢とかわって休息するよう申せ」
と、命じた。
「かしこまる」
久世は、使番のしるしである黄母衣《きぼろ》をゆらめかして、上杉家の陣所にかけつけてみると、景勝の本陣は、上杉家名代の紺色に日の丸の旗と、毘《び》の字の旗の二本と、浅葱《あさぎ》の扇の馬じるしをおし立てた下に、三百ばかりの兵が槍を横たえてひざまずいたのを左右に居流れさした真中に、景勝は鎧下着の上に陣羽織を着ただけの姿で、青竹を杖づき、床几によって、敵陣をにらんでいる。陣中しわぶき一つする者もなく、ただ音を立てるのは風にはためく旗だけ。身の毛もよだつほどの森然《しんぜん》たる様子であった。
久世は、呼びかけて、上命を伝えたが、誰一人としてふりかえる者もないので、せんかたなく引きかえして、家康に復命したところ、
「不識庵《ふしきあん》(謙信)以来の陣法、さこそあるべきこと」
と、家康は感嘆したという。
景勝は寡黙な人であったという。平素は家臣共にたいしても、ほとんどものも言わなかったが、家臣等がこれになつき、また畏れていたことは大へんなものであったという。
いつの時であったか、景勝が東海道の大井川をこえたことがある。何十艘の渡船を仕立てて渡ったところ、一艘にあまり沢山のせたので、船がかたむきかけて、大騒ぎになった。景勝は、船ばたによりかかって、うつらうつらと居眠っていたが、さわぎに目ざめると、いきなり、
「それッ!」
と大喝した。すると、何十艘の船にのっていた家臣等は、身分の高下を問わず、一斉に水中に飛びこみ、エイヤ、エイヤの懸声雄々しく船をおして対岸に上ったという話がある。
ちょっと思いついたから書いておく。鴫野口の戦いに、景勝が青竹の杖をついていたというが、これは謙信以来のことで、謙信もまた常に青竹の杖をついていたという。謙信は小男で、微かに右の足を引きずり気味に歩く人であったという。
チンバだったのである。
四
景勝の実父は、謙信の姉聟《あねむこ》で、謙信にとっては従兄である長尾政景である。謙信は景勝を自分の養子にしたが、その父、政景を殺した。
それは、政景が謙信に対して叛逆を企てたからである。政景の叛逆計画を知った謙信はこのことを自分の謀臣である宇佐美駿河守定行に相談した。
定行は、自分におまかせ願いたい、といって、当時、自分の居城であった信州野尻に政景を招待して、数日歓待した後、野尻湖の船遊びにさそい、湖心に出た時、船底の栓をぬいておいて、いきなり立って政景を刺した。政景もまた定行を刺した。このようにして、二人とも死んでしまった。
定行は、あらかじめ、謙信に密書をのこして、
「この度のことは、拙者が政景様を恨むことがあってこれに喧嘩を吹っかけて、相共に死んだということにしていただきたい。つきましては、御一族の方を殺害したのでありますから、宇佐美の家は取り潰しにし、家族共は皆放逐して下さるよう。なまじいなお情をかけて下さると、秘計が漏れて、一大事がおこります」
と、認めておいたので、謙信もふびんとは思いながらも、宇佐美の一族を放逐してしまった。
後に至って、ことの真相を景勝は知ったが、どうしても宇佐美一族をゆるす気になれず、一生近づけなかったという。
この宇佐美定行《うさみさだゆき》の忠義のつくし方は、今日の人にとっては、色々と批判のあるべきことであるが、実をいうと定行は上杉家にとっては、創業の元勲ともいうべき人なのだ。長尾家が乱脈におちいって、越後の地が四分五裂の状態となっていた時、彼は少年謙信の大器を見ぬいて、これをもり立て、越後を統一させ、更に関東管領上杉家から、その苗字と職権をゆずり受けさせて、大上杉氏に仕立て上げたのだ。
それは単に封建的忠誠という以外に、生涯の努力をかたむけて築き上げたものを、安泰ならしめたい、という心であったと思われる。
五
景勝の一番信任したのは、直江山城守|兼続《かねつぐ》である。
景勝が百二十万石の身上であった頃には、三十万石を与えられ、諸家の陪臣中第一の高禄とりで、公儀においても特別の会釈があったというほどの人物だ。
兼続は、その先祖は木曾義仲の四天王の一人であった樋口兼光であるが、中頃微禄して百姓となっていたのを、非常な美少年であったので、謙信が呼び出して小姓として召しつかった。
謙信という人は、一生女を近づけず、男色だけを愛した人であった。
召し出して使ってみると、単に容貌が美しいだけでなく、知恵もあり、勇気もあり、なかなか末頼もしい少年なので、寵愛次第に深くなって、上杉家の重臣である直江家に子がなかったので、これを養子として、その家をつがせたのである。
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(その八)
戦国の快男子
一
直江山城《なおえやましろ》の逸話は多い。
ある時、上杉家の家中の者が家来を手討《てうち》にした。無理な手討であったので、その一族の者共がこれを直江に訴えた。直江は調べてみて、その言い分を理ありとしたので、白銀二十枚をあたえて補償したが、一族の者共は承知しない。
「本人を生かしてかえしていただきましょう」
と言い張る。
どう事をわけて話しても聞かない。
「そうか、しからば、その方共《ほうども》行って取りかえしてまいれ。わしが閻魔殿《えんまどの》に添《そ》え状《じよう》をつけるからな」
と、いって、一封の手紙をしたためた。
[#ここから2字下げ]
しかじかと申す者、あやまって貴地に送り申し候。迎えのため一族の者三人さしつかわし候間、早速におん返し賜わるべく候。恐惶謹言《きようこうきんげん》。
慶長二年二月七日
[#地付き]直江《なおえ》山城守《やましろのかみ》兼続《かねつぐ》
閻魔大王冥官《えんまだいおうめいかん》 披露《ひろう》
[#ここで字下げ終わり]
これを袋に入れて一人の首にかけさせ、三人共に首をはねてしまった。
乱暴至極な話だが、一種の爽快感《そうかいかん》なきわけに行かない。理窟ではないのである。快刀乱麻《かいとうらんま》を断つの気魄《きはく》である。ゴーデャン・ノットを断ち切ったアレキサンダー大王の決断を痛快とする心理である。
昔ギリシャにゴーデャスという賢王があった。車の|くびき《ヽヽヽ》に一種特別な方法で手綱《たづな》を結びつけ、
「これを解《と》き得た者はアジア全州の王となるであろう」
と言いおいた。その後、誰もこれを解き得る者はなかった。何百年か後、アレキサンダー大王が、これを解こうとしたが、どうしても解くことが出来ず、刀を抜いて一刀に断ち切ってしまったという話がある。
直江は快男子であったには相違ない。関ケ原戦争の直前、上杉景勝が会津でしきりに戦備をととのえているという報告が、上方にとどいたので、徳川家康は僧《そう》承兌《しようたい》に旨を含めて詰問書をおくったが、それに対する直江の返書は、痛快淋漓《つうかいりんり》をきわめた。長文にわたるから、ここには上げないが、関ケ原戦争を書いたものには大抵出ているから、それについて読んでいただきたい。
秀吉死し、前田利家死し、家康の勢威が日に日に昌《さか》んで、天下の諸侯皆その鼻息をうかがっておどおどびくびくしていた時、こんな大胆不敵な手紙を書けるとは、おどろいた人物である。
さすがの家康が、
「わしはこの年になるまで、こんな無礼な手紙をもらったことがない」
と、言ったと伝えられている。
しかし、誰が読んでも胸のすくような痛快さは感ずると見えて、将軍の勢威が徹底的に行きわたり、家康に至っては、「神君《しんくん》」または「権現様《ごんげんさま》」と称してほんとに神格視されていた江戸時代においてすら、稀世《きせい》の快文字《かいもんじ》と嘆称している学者が多いのである。
家康をこれほど怒らせた手紙を叩きつけたのだから、普通なら敗戦によって殺されるべきはずであるのに、何事もなく上杉家の家老をつとめて、天年《てんねん》を以ておわっている。政治的手腕がいかにすごかったかがわかる。
彼は豊臣時代にも、伏見城や聚落第《じゆらくだい》に出仕すると、陪臣でありながら陪臣のあつかいでなく、諸大名と膝ぐみで対談したというが、徳川時代になっても、江戸城中でのあしらいは別で、老中ですら、手を膝からおろしてあいさつしたといい「山城殿《やましろどの》」と殿づけで話しかけたという。身にそなわった貫禄があったのであろう。
こんな快男子で政治家であったが、文学の教養もまたあり、彼の作った詩句、
春雁吾《しゆんがんわ》れに似たり、吾れ雁《がん》に似たり
洛陽城裏花《らくようじようりはな》に背《そむ》いて帰る
というのは、当時大へん持てはやされたものである。
また、五臣註《ごしんちゆう》の「文選《もんぜん》」を出版している。当時の武人としては、こんな文化事業は最もめずらしいことで、彼以外にはない。
伏見城においてであったという。
諸大名列座している時、伊達政宗がふところから小判をとり出して、人々に披露した。
「これが、近頃つくり出された小判というものでござる」
天正十六年のことであろう。この年はじめて、大判、小判が出来たのであるから。
大名等は、めずらしがって、
「ホウ、どれどれ。なるほどこれが小判でござるか」
と、順々に手に取ってながめた。
やがて、末座にいた直江のところにまわって来た。直江は扇子をひらいてそれを受け、女の子が羽根をつくようにして、扇子の上でひっくりかえして眺めていた。
政宗は、直江は陪臣であるから遠慮してそうするのであろうと思って言った。
「苦しゅうござらぬ。手に取ってごらんあれよ」
すると、直江は、
「拙者のこの手は不識庵謙信《ふしきあんけんしん》の時よりゆるされて采配を取って先陣の下知をしております。誰の手にかかったか知れぬかかるいやしいものをとればけがれます故、こうして扇子で受けているのでござる」
といって、扇子をはねて、ポイと政宗の方に投げかえしたという。
さすがの政宗も一言もなく、にがり切っているだけであったという。
二
直江は金銭をいやしいものとしたが、上杉家の家中には、金銭に対して異常な愛着《あいちやく》をもち、しかも非常に立派な武士がいる。岡左内《おかさない》である。
左内は金銀が大へん好きで、甚しい質素と倹約によってせっせと金をためたばかりか、ひまさえあればそのたくわえの大判小判を座敷中にまき散らして、その上にごろりと寝そべるのを無上の楽しみとしていた。
直江のような武士のいる上杉家だ。こんな左内の評判がよかろうはずはない。
「あったら勇士が、何ということであろう」
「あれでは、どれほどの手柄をたてようと、町人乞食《ちようにんこじき》にもおとる心がけだ」
「いっそのこと、武士をやめて町人になるがよい」
と、散々であった。
しかし、左内は一向平気だ。自分が金ために熱心であるだけでなく、家来共にも奨励する。
「金をためろよ。金を。金はいいものだ」
と、おりにふれては言う。草履とりの小者が小判を一枚持っているということを聞いて、武士に取り立ててやったこともある。人々は笑った。
「金を持っているからといって武士に取り立てたそうだが、とすれば、町人という町人は皆武士にせねばならんて」
ある日のこと、左内は居間一ぱいに金をとり散らして、無上の楽しみをやっていた。はだかになって、金銀の上にころがっていたのだ。
すると、あわただしく家来が来て、近所の屋敷で、家中の者同士で喧嘩がはじまったと報告した。
「なに、喧嘩だ!」
ぱっと左内ははねおきた。自ら支度もそこそこに、その屋敷にかけつけた。
彼はこの仲裁に数日かかって、やっと和解させて帰宅したが、その間、彼の居間には出かけた時のまま、大判、小判が錯雑さんらんとして散らばっていたという。
上杉景勝が反徳川の兵を会津に上げた時、左内は軍用金として永楽銭一万貫を景勝に献上している。銭一万貫は金子に換算すると二万五千両、金地金で十貫目だ。今日、金は一匁二千五百八十七円だ。十貫目ではいくらになるか、おひまの方は計算してみられるがよかろう。そればかりでない。家中の者で出陣の支度にこまっている者には、かねてたくわえの金をおしげもなくあたえて支度させたので、家中の者はもう誰一人として左内の悪口を言う者はなくなった。
「なるほどな。左内がかねて金を大事にしていた心がはじめてわかった」
この時のことだ。阿武隈川《あぶくまがわ》の支流|松川《まつかわ》をこえて、上杉家の軍が伊達政宗の軍と戦ったことがある。この時、左内は角《つの》栄螺《さざえ》という南蛮冑《なんばんかぶと》をかぶり、猩々緋《しようじようひ》の陣羽織を着、鹿毛《かげ》なる馬にまたがって戦ったが、伊達政宗がこれを見、
「よき敵ぞ」
と、馬をかけよせ、横合からエイヤ、エイヤと懸声をかけて二太刀斬りつけた。身にはとどかない。陣羽織を切り裂いた。
左内はふりかえりざま、片手なぐりに切りかえした。政宗の冑の真向から鞍の前輪にかけて斬り、返す刀で冑のしころを半ばかけて切り飛ばした。
政宗の刀は打ちおれてしまった。
左内はすかさず、また切りつけて、政宗の右の膝口に切りつけたので、政宗は、馬を飛ばして逃げ出した。
この時、政宗の具足が大へん見苦しかったので、左内は大した敵と思わず、追いかけなかった。でなかったら、政宗の生命はあぶないところであった。
あとで、あれが政宗であったと聞いて、左内は、「もう一太刀であったのに」と、ひどく残念がったという。
左内はこの時政宗に斬り裂かれた陣羽織をその刀痕を金糸で縫い合わせて、家宝としていたがあとで、政宗と会った時、
「名将の刀のあとと存じてかくの如くにしております」
といって、陣羽織を見せたので、政宗は大喜びであったという。
戦後、上杉家が減封《げんぽう》されて多量の浪人を出した時、伊達家では左内を三万石で招こうとしたが、ことわって、蒲生家《がもうけ》に一万石を以てつかえた。
死ぬ時、彼は遺品《かたみ》献上《けんじよう》と称して、主君|忠郷《たださと》に黄金三万両と正宗の刀一ふり、忠郷の弟|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》に黄金千両と景光《かげみつ》の刀と貞光《さだみつ》の短刀を献上し、さらに家中の朋輩等に対しても、それぞれ数十両から数百両の金をおくり、生前貸しつけた金の借用証文は一つのこらず本人等に返してやった。
彼はキリシタン信者であったという。
三
金のことを言えば、男にもヘソクリが必要であるという例話がある。
殺生関白《せつしようかんぱく》の秀次《ひでつぐ》が秀吉のきげんを損じて、その処分がほぼ確実になった時、諸大名の間に大恐慌がおこった。かねて秀次から金を借用している大名等が多数あったが、早くこれを返しておかないと、秀次と懇意にしていた者として秀吉の心証を悪くするおそれがあったからだ。
細川忠興《ほそかわただおき》もその一人であった。二百両か三百両の金であったが、急なことで、国許から取りよせる間がない。こまっていると、家老の松井佐渡が、徳川様に御相談なさってみたらどうでしょうという。
「しかたはない。行ってみろ」
佐渡は、家康の邸に行ってこの話をした。
「そうか。それはおこまりじゃろう。よしよし、用立てて進ぜよう」
諸大名に恩をほどこして、将来の下地《したじ》をつくろうと考えている家康だ。即座に承知して侍臣を呼んで、
「何番の具足櫃を持って来い」
と命じて、持って来させ、手文庫から鍵を出してやって開けさせた。
具足櫃の具足の下に古びた奉書紙につつんだ数百両の金があった。家康はその中から佐渡の言った額だけ取り出させて、佐渡に渡した。そして、侍臣に言った。
「その包み紙の年号を見よ」
それには、三十年も前の年月日が書かれていた。
「大名というものは、勘定役人共に知らさない金の必要というものがあるものだ。そうした時のために、わしはこうして用意しておいたのだ」
と、家康が言ったので、佐渡は大へん感心したという。
細川家では、このおかげで秀次に返金が出来、秀吉の嫌疑を避けることが出来たので、忠興は大へん家康を徳とし、わざわざ自ら家康のところへ礼に行き、
「この恩義は終生忘れません。まさかの時には必ずお味方に馳せ参じます。しかし、世間の疑いを避けるため、それまではよそよそしくしていますから、その含みでいていただきます」
と、将来の忠誠を誓い、スパイ役をつとめることまで約束してしまった。これが、秀吉の死後細川家が家康に対する石田一派の計画を常に内報し、関ケ原以後徳川家に味方して、忠勤をぬきんでた原因であるという。つまり、家康はヘソクリによって、細川家という有力大名を腹心の味方にし得たわけだ。
四
黒田如水《くろだじよすい》と日根野備中《ひねのびつちゆう》の話がある。
朝鮮陣がはじまった時、備中は出陣の費用にさしつかえて、如水の所に借りに行った。
「御用立てしよう」
如水は快く貸してくれた。
そのあとで、備中は金が出来たので、お礼に大鯛《おおだい》を持って返しに行った。
如水は、家来を呼んで、
「お土産にもらった鯛を三枚におろし、頭と骨つきを以て吸物をつくり、肉はさしみにして、客人にもまいらせ、われにもくれよ」
と、いとも細《こま》かくさしずをするので、備中は心中如水のケチなのを軽蔑《けいべつ》した。これは一刻も早く返金しないといけないと思い、金子をとり出して前にならべ、礼をのべてさし出すと、如水は受取ろうとせず、
「あの金はさし上げたつもりであった。わしが平生倹約するのも、こういう時に人々の役に立ちたいと思うからのことだ」
といったので、備中は恥じまた感心したという。
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[#見出し] 正 宗
一
数ヵ月前、東京の某デパートで「正宗とその一門展」があった。ぼくは後援の某新聞社に頼まれて、博物館の佐藤貫一博士の説明によって見せてもらった。
正宗の作品が二十数|口《ふり》、正宗の父または師と伝えられる行光、師と伝える国光等の作が十数口、養子といわれる貞宗や十哲といわれる弟子達の作が数十口、総計では百口を越していた。なかなかの壮観であった。刀剣好きのぼくにはこの上ない楽しみをさせてもらったわけであった。
一体、正宗という刀工は実在しなかったのではないかという説が、明治年代に出て、その後それを踏襲している人が少なくない。
「正宗作と伝えるもので名刀をもって呼ぶべきほどのものに接したことがない。それに、正宗という名がクローズアップされたのは信長、秀吉時代以後のことだ。それまではそれほど持てはやされていない。まことに不思議である。だから、こう考えられはしないか。武功にたいしては、土地をもって賞賜とするのが古来の習わしであるが、土地には限りがある。むやみにくれていてはたまらんので、いろいろな手口が考えられた。茶の湯をさかんにして、その名器をつくり、これを領地のかわりにあたえるというのもその一手口だ。利休があんなに信長や秀吉に大事にされたのは、利休が|きわめ《ヽヽヽ》をつけて、名器でござる≠ニいえば名器になったからだ。二人にとって、利休は土地がわりの名器をつくり出す魔術師だったという次第だ。この方法はなかなか効果があった。柴田勝家がある時の戦功に信長が秘蔵している姥口《うばぐち》≠ニ名づくる釜をもらって、思いもかけぬ賜ものをいただいた。一国をたまわったよりもうれしい≠ニよろこんだという話がある。正宗などもその手である。正宗という神人的名工がいたことにして、本阿弥家に命じて大体作風の似た刀を集めて、銘を切ったり、上げて(中子を切って短くすること)無銘にしたりして、もっともらしい顔をして、武功ある者にあたえたのではないかと思われる」
というのが、正宗抹殺論者の説であった。
実は、ぼくも三分の一くらいこの説にかたむいていた。
室鳩巣の「駿台雑話」と加賀藩の青地礼幹の「可観小説」とに、正宗に関する同じような記事が出ている。
鳩巣ははじめ加賀藩につかえていて、加賀の家中にはその門弟が非常に多かった。礼幹もその一人であった、この話は加賀家の殿様と正宗の話だから、礼幹から鳩巣に伝わったものであろう。
余談だが、赤穂浪士の挙が最初に書物になったのは鳩巣の「義人録」である。一挙のあった年に出ている。当時鳩巣は加賀にいたので、勤番で江戸に出ている礼幹ら加賀藩士らが資料を集めて加賀におくったのである。
もう一つ余談をしておこう。講談の加賀騒動に、正義派の重要人物として、前田家の客分で織田大炊という痛快な老人が出てくるが、そのモデルはこの礼幹であるという。
さて、ぼくが正宗不実在説にかたむいたのは、この両書にこんなことが出ているからである。
二
加賀で微妙公とおくり名しているのは前田利常のことである。わざと鼻毛をのばして阿呆面をつくり、徳川家の嫌疑を避けて加賀百万石をつなぎとめたというあの有名な人である。
この利常がある時、出入りの刀剣手入師の本阿弥某を召して、一口の刀を示し、
「この刀は一見したところでは貞宗(可観小説では当麻――大和鍛冶の一類)であるが、おれの見るところでは正宗である。その方はどう見るか」
と言った。本阿弥某はつくづくと見たが、どう見ても貞宗だ。とうてい正宗とは見えない。
「おそれながら、それは殿様のおめがねがちがいます。これは貞宗にまぎれございません」
と答えると、利常は、
「その方の目がとどかぬ。正宗に相違ないはずである。その方にあずけおく故、十分に手入れし、正宗となったらかえせ」
と言った。
本阿弥は無理な命令とは思ったが、出入り先きといっても、代々少なからぬ俸禄をもらって主家にひとしい家の旦那の言うことだ。ともかくも持って帰って、時々|研《と》いではながめていた。研げば研ぐほど貞宗の特徴は出てくるが、正宗らしいところは出て来ない。あぐねていた。
何年か経って、利常は死んだが、その何回忌かの時、本阿弥は、その刀をたずさえて、前田家に来て、老臣に会って、刀をさし出して言った。
「先年しかじかのことがあって、しかじかでありました。ところが、このほど、それが本当に正宗になったのでございます。先君のお目がねのたしかなこと、感じ入りました」
「ほう、そんなことがあったのか。われら少しも知らなんだ。しかし、貞宗の刀が正宗になるなど、そんなことがあるものなのかのう。不思議なこと」
と老臣が疑惑すると、本阿弥は言う。
「あるのでございます。最初のほど、いくら研ぎましても、正宗らしいところが出てまいりませんので、ほとほと困《こ》うじて、そのまま捨ておきましたところ、わたくしの宅に常々出入りしています篤信な仏教信者がございますが、この者がある日まいって、わたくし、このほど感ずるところがあって、後生《ごしよう》願いの方法をかえました。これまでは仏になろう仏になろうと念じて修業してまいりましたが、われら凡人が最初から仏になろうと思うのは恐れを知らぬこと。先ずよき人になろうとつとめ、よき人になり得てから仏になろうとつとめるべきである、とこう心づきましたので、今ではよき人になろうと、一心につとめている次第でございます≠ニ、かように申します。聞いていて、わたくし、ハッと心づきました。ああ、あのお刀も最初から正宗にしようと思うて研いだのがいけないのだ、最上の貞宗に研ぎ上げようと考えて研ぎ、その後正宗にしようと考えるべきであると。そこで、そのようにしてみましたところ、ついにごらんの通りほんとに正宗になってしまったのでございます」
鳩巣にしても、礼幹にしても、朱子学者であるから、朱子の説く気質変易の説――人間の性質は修養と鍛練によって変えることが出来るものであるという説を信奉している。その変易の方法として、この実話を興深く思って、この話を記録しているのであるが、ぼくには別な意味で面白く考えられた。
「世に正宗作として伝えられている刀は、ある種の刀を研ぎようによってこしらえ出したものではなかろうか」
重大なことだから、断定的に考えたわけではないが、正宗不実在説に三分の一くらい傾いたのである。
三
しかし、それは展覧会を見るまでであった。展覧会を見て、ぼくの疑惑は雲散霧消した。正宗の師父の作品、正宗の作品、その子や十哲の作品と、時代順に陳列されてあるのを見て行くと、その間の作風の変遷のあとが実に自然にたどれる。この序列から正宗の作品を除くと、そこにものすごく大きな断層が出来る。正宗の実在を否定するなら、かわるべき刀工を想定してその断層をうずめなければならないが、そんなことをするより正宗の実在を認めた方が自然である。
これまでの鑑定家はこんなに多数の正宗の作品を一時に見る機会を恵まれなかった上に、正宗ほどニセものの多い刀はめずらしく、諸名家に伝わっているものにも実にニセものが多いのである。その理由はやがて説明するが、とにかく多いのである。見ること少なく、またその少ないものの多くがニセものと来ては、正宗の実在を否定したくなるのも無理はないのである。
四
以上、明治年代に出た正宗不実在説の概略を紹介したが、正宗が実在しなかったという結論はあやまちでも、理由として上げられている事実はあったのである。すなわち、秀吉が本阿弥に命じて似た作風の刀を集め、正宗の折紙をつけて諸大名に下賜して土地の賞賜にかえたという事実。
今日旧大名家や諸名家に疑うべからざる由緒書や本阿弥家の折紙と共に正宗として伝わっている刀に、ニセモノが多いという事実は、こうとでも解釈しなければ解釈がつかないのである。
このことを、博物館の佐藤貫一博士は、
「正宗の刀を賞賜されることは、金鵄勲章をもらうようなもので、当時の武士の無上の名誉としたところである。だから、武士達にとっては、勲功の賞として正宗をもらったということが大事なのであって、もらった刀の真贋は問うところでなかったのである」
と、いう意味のことを、その著「日本の刀剣」の中で書いておられる。
そんな心理もあったろうことは考えられないことはないが、ニセモノをもらうより本モノをもらった方がよいにきまっている。ぼくはニセモノを最高勲章としてもっともらしい顔で下賜した秀吉のインチキをにくいと思う。こういうことも秀吉びいきの人には、
「ニセモノだっておれが手をふれれば本モノになるさ」
との豪放な自信を示すものと考えられるかも知れないが、ぼくにはこのことにかぎらず、秀吉はインチキ性のあった人のような気がする。
さて、こんな風であるから、正宗にはまことにニセモノが多く、上述の通り、疑うべからざる由緒書や本阿弥家の鑑定書のついている名家の伝来品でも、うっかり信用するわけに行かんのである。
正宗という名の鍛冶は、今日わかっているだけでも十三人ある。神人的名工といわれた人と同じ名を名のるなど、現代人にはわからない心理であるが、好意をもって考えればあやかるために同名を名のったのかも知れない。もちろん、はじめからニセモノをつくるつもりのものもあったろう。ともあれ、現代とちがって名前にパテントがあるわけではないから、多数の正宗が出た。
この人々の作品を五郎入道正宗作といえばもちろんニセモノだが、単に正宗作と呼ぶなら、ちっともかまわないわけである。ぼくも備後三原の正宗作の短刀をもっている。この短刀など、不動尊の像を彫刻してあり、五郎入道正宗の特徴である金筋が入っており、稲妻が走っており、有名な不動正宗そっくりである。なかなかの名刀だ。ただ、切っ先きの返りがやや深い。それさえなければ五郎入道正宗で通る刀である。
まるで名前のちがう人の作刀すら五郎入道正宗にしたのだから、正宗を名のる人のものがそれにされたことはいうまでもない。
五
昔の中学の漢文の教科書に、明治年代の漢学者河田甕江の「名刀正宗記」という文章が出ていた。徳川家に伝わる正宗の名刀が維新の時の功によって山岡鉄舟に賞賜され、鉄舟これを岩倉具視に贈った次第を書いたものであった。この刀が「正宗とその一門展」に出陳されていた。こしらえはおそろしく豪放なものであった。鉄の大角つば、さやは先きに行くにつれて大きくひらき、こじりは三番叟《さんばそう》の烏帽子のてっぺんの形に切ってある。歌舞伎の「暫《しばらく》」の主人公の刀のようなこしらえだ。しかし、中身は近頃の鑑定によると、あやしいといわれているそうである。伝来がそれほどたしかでありながら、こうなのだ。これなど、正宗は正宗でも、場ちがいの正宗というわけであろう。
六
仙台伊達家に「振分け髪」と名づける正宗の脇差がある。
由来はこうだ。
江戸初期、伊達政宗が江戸城内で、ある大名に、
「お腰のものはさだめし正宗でございましょうな」
と問われた。
「いかにも正宗でござる」
政宗は答えはしたものの、実は正宗ではなかった。しかし、こう答えた以上、正宗の脇差を帯びなければならないと考えた。
そこで、帰邸すると、刀奉行を呼び出して、
「今日殿中でしかじかであった。正宗の脇差を差さんければならん。早速に用意するよう」
と命じた。
「はっ」
奉行は退って調査したが、伊達家には正宗の刀はあるが、脇差はなかった。その旨を言上すると、
「やむを得ん。しからばその刀を上げて、脇差にいたすよう」
刀は在銘のものであったというから、刀奉行としては天下に稀な名器をおしいと思って、一応は「お考えなおしを」と諫めたろうと思うが、政宗がきかなかったのであろう、すり上げて脇差にした。
政宗は、それに「振分け髪」と名づけて、いつもさして登城した。
くらべこし振分け髪も肩すぎぬ
君ならずして誰か上ぐべき
という伊勢物語にある歌がその出典である。これは恋歌だ。幼ななじみの少女が少年におくった歌だ。あなたと同じように育ってせいくらべなどして来たあたしの童髪も、この頃は肩をすぐるほどのびました。あたしももう女にならなければならない年頃なのです。あなた以外にはあたしを女にして下さる方はありませんという意味だ。古い時代には女にしてやった男がその髪をかき上げて結んでやる習慣があったのだ。
万葉集にも、
たけばぬれたかねば長し妹が髪
この頃見ぬにかかげつらんか
(恋人よ、お前の髪は結い上げるには短かすぎてこぼれおち、そのまま垂らしておくには長すぎたが、しばらく見ないうちにうんとのびたろう、誰かに結い上げてもらったかね)
その返し、
人皆は今は長しとたけといへど
君が見し髪乱れたりとも
(世間の人はお前の髪は長くなりすぎた、もう結い上げてもらうべき時だといいますが、あなたのごらんになった髪ですもの、長すぎて乱れても、このままでいますわ。つまり、誰が何と言いよろうとも、あなた以外にはあたしを女にして下さる方はないのですとの濃厚てんめんたる意味だ)
というのがある。古代の習慣を知ることが出来るのである。
政宗は豪傑であったが、文学のたしなみの豊かな人で、その作詩や和歌にはなかなかりっぱなものが多い。刀の名前の出典を伊勢物語の恋歌にしたなど、なかなか洒落ている。政宗ならではである。
しかし、政宗が「振分け髪」と名づけたのは、「君ならずして誰か上ぐべき」の下の句からだ。正宗ほどの、しかも在銘の刀を上げて脇差にするなど、おれほどの豪快な気宇ある者でなくては出来ることではなかろうとの自負の気持からである。
この刀がこの戦後、伊達家から出たので、鑑定家らは非常な期待をもち、意気ごんで見たのであるが、おどろくべし、それは五郎入道正宗ではなく、またその出来た年代も政宗とほぼ同時代の新刀であった。途中ですりかわったのではないかと思ったが、切りおとした茎《なかご》も大事にしまってあったので、それをしらべてみると、これまたひどいニセ銘であったので、人々は唖然となったというのだ。
この事実はどう解釈すべきであろう。政宗は本モノと思いこんでいたのであろうか。
七
伊達政宗は戦国の武将らの中で最も横着な部類に属する人であり、演出の名人だ。ニセの正宗の刀を上げて脇差にし、「振分け髪」などと名づけて大いにもったいをつけたというのは、百も承知の上ではなかったかと、ぼくは見ている。
こういうことも、正宗が当時うんと珍重されなければ効果はないわけだ。その珍重の実例を少し。
豊臣秀吉の在世の頃、美濃に沢田《さわだ》常長という人物があった。刀剣の鑑定に長じ、秀吉からも愛せられている人であった。ある時、伊勢の松阪に遊びに行き、民家に泊まった。何せ高名な刀剣鑑定家なので、その頃松阪近くの松ケ崎の城主であった蒲生氏郷の家中の者は、刀剣の鑑定を乞いに来る者がひきもきらなかった。
すると、ある日のこと、宿の主人が沢田の座敷に来ていう。
「おり入ってお願い申したいことがございます。実は手前の懇意な浪人衆があります。この人《じん》は先祖から伝来した刀を一|口《ふり》お持ちでありますが、先程まいられて、長い浪人ぐらしで貧苦きわまり、一人の親を養いかねるほどとなった故、その刀を売りたいと思う、そなたの家にお泊まりの方は今の世にかくれない刀剣の相者《そうじや》でおわす由、お買い上げ下さるよう頼んでくれぬか、値段はいかほどでもかまわぬ、適当とお見立ての額でよろしいと、かように言われます。その刀ごらんの上、相当なものなら、お買い上げ下さるなり、しかるべき先きへお口添え下さるなりしていただきたいのでございます。またもし、取るに足らぬものでございますなら、その旨、お諭したまわりたいのでございます。本人もそう申しております」
と、まことに余儀なきていだ。
世話になっている家の主人の頼みであるから、素気《すげ》なくも出来ない。承知の旨をこたえると、その浪人を連れてきた。そぼろな、いかにも貧しげな風体だ。それを見ただけでも、およそどのくらいの刀との見当はつくとは思ったが、
「さあお出しなさい。見て進ぜましょう」
といった。
浪人はおずおずと包みをといて、刀をさし出した。
受けとってみると、つか糸は切れ、さやは塗りがはげ、ずいぶんみすぼらしいものだ。沢田はすらりとぬきはなってみたが、はっとした。手入れが悪いから薄曇りしてはいるが、相州ものの上作のようだ。
(はてな?)
拭いをかけて、目をすえて、打ちかえし打ちかえしみると、五郎入道正宗のようでもある。目釘をぬいて、茎《なかご》を見た。無銘ではあるが、うぶ茎《なかご》だ。正宗にまぎれがない。
「うーむ」
おぼえずうなった。
さやにおさめて、主人と浪人を見ると、心配げな顔をしている。
「いかがでありましょうか」
と浪人は問いかけた。
「久方ぶりに目の正月をさせていただきました。このお刀は五郎入道正宗にまぎれござらぬ。しかも、うぶ茎《なかご》であります。まことに天下にまれな名器でござる。いかほどの値段でもよいと仰せられた故、おだまし申すにわけはないのでござるが、かかる名器にたいして、さようなことをしては冥利《みようり》がつき申す。拙者、しかるべき買い手をさがして進ぜましょう」
といって、蒲生氏郷に目通りを願い出、この話をしたところ、氏郷は千金を出して購《あがな》ったばかりか、浪人まで家来に召しかかえたというのである。
八
夏目|舎人助《とねりのすけ》は徳川家の臣であるが、これが正宗の短刀をもっていた。ひどくとぎべりして、刃もなくなっているくらいであったが、家康の臣の本多利長は、大金を出して夏目からゆずり受けて、
「この短刀はもう実用にはならぬが、それでも正宗である以上、やはり天下の名宝よ」
といって、秘蔵したという。
徳川家康秘蔵の刀に「本庄正宗」というのがある。後に家康が晩年の最愛の子であった紀州|頼宣《よりのぶ》にくれ、紀州家の第一の重宝となったのであるが、その由来はこうだ。
本庄越前守繁長は越後の豪族だ。後に上杉謙信・景勝二代につかえて鬼神のようにその剛勇をうたわれた勇将である。
天正の末年、景勝の代になってからのことだ。上杉家と出羽の最上氏とが、出羽の庄内を争ったことがある。最上家では上杉方に所属していた庄内城主某を殺し、東禅寺右馬頭という者をつかわして庄内の領主とした。
上杉方では本庄繁長を大将として、奪回におしよせた。最上勢はかなわじと見て、山形方面へ引き上げにかかった。繁長は追撃して、敵の副将草岡虎之助という勇将を討取り、
「この上は東禅寺が首を見ることも疑いないわ。者共励め!」
と、一層猛追撃した。
あまりにも急な追撃に、東禅寺右馬頭はとうていのがれることが出来ないと思ったのであろう、袖じるしをかなぐりすて、首を一つひっさげ、血刀をかついで、上杉勢へ馬をまぎれこませた。繁長へ近づいて討ちとるつもりであった。
「高名《こうみよう》つかまつった。おん大将の実検にそなえ申したい。おん大将はいずこぞ!」
と呼ばわり呼ばわり走って来た。
上杉方の兵が怪しんで、何者ぞ、とまれ! ととがめると、おちつきはらって、
「これ見給え。よき敵を討ち取り申したれば、おん大将のご実検にそなえべえと思うているのでござる。われら黒川の者でござる」
とこたえた。
黒川は北蒲原郡の胎内《たいない》川の北にある土地だ。とがめた者共は疑いを解いた。
「繁長殿は、あれにおられる。あれ、あそこに馬上にて空色《そらいろ》の扇ひらいて使うておられる方がおわそう。あの人よ」
「やあ、まこと! あれにおられるわ!」
東禅寺は馬をしずかに歩ませて近づきながら、
「敵の大将、東禅寺右馬頭の首を討ち取りました。ご実検下され」
と呼びかけた。
「おお、そうか。あっぱれ手柄」
繁長はふりかえった。
その時には、東禅寺はすぐ傍に寄っている。繁長の顔を目がけて首を投げつけ、
「われこそ東禅寺よ! 見参!」
と叫ぶや、かついでいた刀で斬りつけた。
繁長が首をふってさけたので、刀は繁長の冑の筋を三条《みすじ》切りそぎ、余勢に吹きかえしを斬りわり、左の小耳に切りつけた。薄傷《うすで》は負うたが、さすがに猛将繁長だ。
「心得たり!」
と抜き合わせて斬り結んだ。
越後勢の将士らはおどろきあわてて駆けつけたが、繁長は、
「手出しするな。おれが討ち取る!」
と呼ばわって、手出しを禁止し、ついに討ち取り、首を上げ、刀を分捕った。この刀が正宗であった。名ある敵を討取った時は、首にそえて、それが当人にまぎれないと証明するものを、刀なり、冑なり、何なりとも一緒にとって、実検にそなえるのが作法になっているのである。
繁長は東禅寺の首にその正宗をそえて景勝に献上すると、景勝は刀は繁長にかえしてくれた。大わざものであった。繁長は刀に「右馬頭」と名をつけて秘蔵していたが、文禄の末年、ちょうど朝鮮役の半ばだ、秀吉が伏見城を築くにあたって、景勝も手伝いを命ぜられた。景勝は家臣数人を普請奉行として伏見に上げた。その中に繁長もあった。
長の旅住いに、繁長は金にこまり、この正宗を売りに出したところ、その頃の本阿弥家の当主が見て、
「まぎれもない正宗、しかも最上作、天下第一の名刀でござる」
と激賞し、徳川家康に話し、大判二十五枚で買わせたというのである。
当時の正宗の珍重されかげんがわかるのである。
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[#見出し] 村 正
一
古来の伝えによると、正宗は彼の生きていた時代――鎌倉時代末期から南北朝初期までの刀剣の鍛練法を集大成した名工ということになっている。この集大成のために、彼は天下を巡遊して諸国の名ある刀工をたずね、各流各派の技法をさぐり、未曾有の名工となったので、全国各地の刀工は争って彼の指導を受け、その中にはすでに名工の名のある人もあり、十哲と言われている人々は皆こうして彼の門下生となったのであると伝えられている。つまり、正宗は鍛刀大学の学長といった格だったというのである。
正宗が諸国漫遊をしたかどうか、したというたしかな証拠はない。しかし、正宗の出現によって日本の鍛刀界が非常な影響を受けたことは、残存する諸国の名工の作品によってほぼうなずける。だから、正宗が漫遊して行って影響したと考えてもよかろうし、刀工達の方から慕って鎌倉に行ったと考えてもよかろうし、両方ともあったと考えてもよかろう。
この漫遊中のこととして、さまざまな話が講談などに作為されている。
たとえば村正が正宗に弟子入りしたいきさつなどなかなかおもしろく出来ている。
村正は伊勢の桑名在千子村の人である。正宗が巡歴中この千子村に泊まった時、宿舎があたかも村正の家の隣りであった。早朝、正宗が出発の支度をしていると、村正の家でしごとをはじめた。テンカン、テンカンと、鎚打つ音を聞いて、正宗は聞きほれた。中々の技倆のようである。
感心して、出発を忘れて聞いているうち、最後の「上げ鎚」に達した。カーンとひびく音を聞いて、正宗は、
「あっ!」
とさけんだ。そして、太息とともに、
「おしい、おしい。これほど上手な男がどうしてこんな間違いをしたのか、この上げ鎚で、せっかくの名刀がものうちに折れきずが出来たわ。おしいおしい」
と、つぶやいて、出発した。
宿の主人はこれを聞いていたので、早速隣りに行って、村正にこれを告げた。
「なにいッ! わしの刀に折れ傷が出来たやと? 阿呆なことを言いくさる。こんどの刀はとくべつよう出来たつもりや」
と、村正は腹を立てて、その刀をためしてみると、いわれた通り、ものうちのところからぽっきとおれた。
村正はおどろき、あわて、
「そのご老人、どちらに行かはった。その人こそわしの師と仰ぐべき人や」
と、あとを追いかけ、弟子入りの約束をし、鎌倉に行き、熱心に指導を受けた。
二
数年努力の甲斐あって、村正の技術は大いに進んだ。満々たる自信が出来たが、正宗はなかなかよいと言わない。村正は不平であった。
その不平の色を見て、正宗は村正に精一ぱいの力をもって刀を鍛えさせ、それをとぎ上げさせた後、村正をともなって小川のほとりに行き、村正の刀を川上に向って刃を向けて立て、川上からいく本かのわらしべを流した。すると、おどろくべし、全部のわらしべが刀のそばに来ると、吸いつけられるように流れよって触れたかと見ると、サッと両断される。身の毛のよだつばかりの切れ味だ。
村正は自得の色があった。
正宗は村正の刀をとりおさめ、別にたずさえて来た刀を同じようにして立てた。
「これはわしの鍛えたものだ」
同様に川上からわらしべを流したところ、わらしべどもは全部その刀をさけて流れ去った。
「刀というものは、鋭いばかりが能でない。刀は身をまもるためのものだ。斬ることだけが刀の役目ではない。そなたの刀はするどすぎる。いやいや、殺気がありすぎる。斬れよ斬れよとそなたは念じて鍛《う》っているにちがいない。その心が去らぬかぎり、そなたはこの道の奥に達することは出来ぬ」
と正宗は訓戒した。
村正はこれに服しない。
「刀は斬れればこそ値打ちがある。斬れればこそ、身をまもることも出来る。鍛える者が斬れよと念じて鍛つのはあたり前のこと。それが悪いとはわからぬ話」
と言い張ってきかず、ついに破門となって伊勢にかえったという話。
よく出来ている話である。刀の斬れる斬れないの問答は別として、老師と若い弟子との意見の相違など、いつの時代、どの世界にもあることで、技術の世界は昔から現代に至るまでこの争いをくりかえしつつ変化して来たのだから、永遠の問題をふくんでいるとさえ言えよう。
が、これが大ウソだ。村正は四代まであるが、初代でもその時代は足利時代中期をさかのぼることは出来ない。正宗のはるか後の時代の人なのである。
やがて述べるが、村正は江戸時代になって、徳川家に大へんきらわれて、「妖刀」ということになったので、こういう伝説が出来たのであるが、その伝説に正宗を一枚加えたのは、作風が似ているからである。
事実、江戸時代には、村正はきらわれ、正宗がひどく珍重されたので、村正の出来のよいものは、銘の上の「村」の字をたたきつぶし「正」の字の下に宗を加えて、正宗にばけさせたというのである。それくらい似ている。よほどに正宗が好きで研究したのであろう。
三
斬れることはおそろしく斬れる。それはぼく自身がためしてみた。二三年前のこと、出入りの刀屋が村正を持って来た。太刀づくりになっているが、おかしなことに、さやに「三つ葉葵」の紋を金蒔絵してある。
「妙なとり合わせだな。村正と三葉葵とは敵同士じゃないか」
とは思ったが、中身はまぎれもない村正だ。うんととぎべりしてわずかに刃がのこっているだけであるが、もう一分刃があったら、大のたれの豪壮さといい、茎《なかご》の特色のある形といい、銘がらといい、村正にまぎれがないと思った。
そこで、ためし切りしてみた。机の上に厚さ一寸ほどの古雑誌をおき、はじを机のはしから四五寸出して、すわったまま垂直に斬りおろすのだ。この方法で時々ぼくは試みるのであるが、こちらの腕がなまくらである上に、横向きにすわったまま片手斬りに斬るのだから、いつもそう見事には斬れない。孫六兼元でこころみた時が一番よく斬れたが、それでも三分の一ほどはのこった。
ところが、村正でこころみると、その厚い雑誌がスパッと全部斬れるのだ。三度こころみたが、三度とも斬れた。舌を巻いた。
こうなると、さやの三つ葉葵の紋所にも、早速胸に解釈がくみ上った。
「思うに、この刀のあるじは徳川家の旗本で、徳川家と同じ紋所を使っている家の者で、松平なにがしというのであったろう。村正の刀が徳川家にいみきらわれ、たたるという伝説のあることは知っていたが、この刀が好きで好きでたまらない。そこで、わざとこの紋所を打ち、村正の刀をさしてはいるが、主家にたいしていささかも二心のあるものではないとの気持をあらわしたのであろう云々」
こちらは小説家だ。こういう解釈は即座である。
四
村正が徳川家にたたった第一回目は、家康の祖父松平清康の時だ。清康は天才児であった。元来松平氏は三河の松平郷の庄屋であったのを、次第に勢力をひろげて三河の四分の一位の領主になったのだが、清康の父の代になってまた勢い微弱となり、わずかに安祥《あんじよう》一城の主となった。清康は十五六の頃に家をついだのであるが、二十歳頃までにほぼ西三河全域を手中におさめ、余勢を駆って尾張に侵入し、しきりに織田氏に勝った。
この出陣にあたって、彼の叔父で三河桜井の領主であった松平内膳正信定は同行しなかった。内膳正は織田氏に心を通じて、松平の本家を乗りとろうとしているといううわさが立った。根のないうわさではなかった。相当根拠があった。清康は出陣の血祭りに内膳正を踏みつぶしてくれると言い出したが、老臣の阿部大蔵が、
「お大事な時、親しい同族でお争いになってはよろしくございません」
と諫めたので、そのままにして出陣したが、尾張の森山に滞陣している時、陣中に阿部大蔵が逆意を抱き、桜井の内膳殿にくみし、織田家に心を通じているといううわさが立った。清康は、
「敵の放った流言よ。こんな浅はかな策におれが乗ると思うか」
と気にしなかった。大蔵に問いただしもしなかった。信用しきっていたからであるが、結果的にはこれが悪かった。大蔵は気に病《や》んで、せがれの弥七郎というのを呼び、
「しかじかの流言がとんでいる。おれには露おぼえのないことであるが、衆口金を鑠《と》かすともいう、ひょっとして、おれは無実の罪で誅殺されることがあるかも知れん。しかし、そうなっても、そなたは決して殿を怨み奉るような心をおこしてはならんぞ。必ずともに忠誠を忘れんように。そして殿にわしが身の潔白を申しひらきしてくれるよう」
と訓戒し、身の潔白を申し立てた起誓文を書いて、弥七郎に渡しておいた。父子ともに涙にくれたと改正三河後風土記にある。
その後、間もなくのある日の早暁、陣中で馬が放れて大騒ぎになった。清康は外に立ち出で、
「木戸を立てい! 逃すな! そちらにまわれ!」
などと、自らさしずして捕えようとした。弥七郎は寝起きの耳にこれを聞いて、かっと逆上した。
「すわや、父の危難!」
と思った。いつぞやの訓戒を忘れた。まっしぐらに駆けつけ、清康の背後に走りより、一刀のもとに斬り殺した。
弥七郎は当時清康の小姓であった植村新六郎氏明がその場を去らせず討ち取ったが、怒りにたえかねた人々はさらにずたずたに斬り、ついに小便つぼに蹴こんだと、大久保彦左衛門の三河物語にある。人々は阿部大蔵の小屋におしかけ、大蔵を捕えて責め問うたが、先夜渡しておいた起誓文が弥七郎のふところから出たので、申訳が立って助命された。この時の弥七郎の刀が村正だったのである。
五
二回目は清康の子の広忠の時である。
岩松八弥(一説では浅井某、また一説では蜂屋某)という広忠の家臣があった。片目だったので、片目片目と人に呼ばれていたので、
「その方が通りがよいわ。片目と名字を改めようわい」
と、片目八弥と自ら名のるようになったともいう。おもしろい風格だけに剛の者でもあったという。
この男がある日、大酔して登城したが、突然発狂して、刀をぬいて広忠を刺し、太股を傷つけた。これは発狂ではなく、広忠と妻とのなかを疑ってのことという説があるが、情況によって判断すると、その方が正しいようだ。
とにかく八弥は広忠の太股をつき、人々が狼狽している間に城門を出、濠の橋の半ばまで走り出たところ、その時登城のために橋にさしかかったのが、植村新六郎であった。
「君を刃傷したてまつった逆臣ぞ! 討ちとめよ!」
と呼ばわる追手の声を聞いて、引っくんで濠におち、首を上げた。主君に刃傷した逆臣を二代ともに即座に討ち取った植村の武運を、
「よくよく冥加にかなった武士である」
と、人々はたたえたというが、それはそうだろう。
この時の八弥の刀がまた村正であった。
三度目は家康の長男岡崎三郎信康が信長の怒りに触れて切腹した時だ。信康は信長の女婿であった。信康の生母築山殿は今川氏の一族関口氏の女で、家康が今川家に人質となっている時代に結婚させられたのだが、今川義元が死んで、家康が自立した頃から、家康はこの妻にひどく冷たくなった。義元の生きている間は家康にとって最もおそろしい存在であった今川家の一族であるということも、家康には心理的圧迫があったであろうし、家康より十も年上の姉女房だったから大いに飽きも来ていたのであろう。
築山殿はこれを怒って、甲州の武田勝頼に通謀して、信長と家康は必ず自分の手で除くから、徳川家の遺領は信康につかわしてもらいたいと約束した。これが信康の妻から信長に通報されたので、信長は家康にせまって信康を切腹させよと要求したのだ。
家康は妻は愛していなかったが、信康には非常に愛情を持っていた。悲しみなげきながらも、せん方なく切腹を命ずることにし、検視役として、服部半蔵正成と天方山城守通綱をつかわした。信康は、
「自分は神明に誓って潔白であるが、家のためには死なねばならぬ立場だ。半蔵、そなたとは古いなじみだ。なじみ甲斐に介錯頼むぞ」
といって腹を切ったが、服部は累代の主君に刃を向けられないと泣いて、介錯しようとしない。そこで、天方が、
「ご苦痛見るに忍びませぬ。代って拙者つかまつります」
と立ち上って、介錯した。その刀がまた村正であった。
六
四度目は関ケ原役の時だ。戦いがすんで、諸将が戦勝の賀詞を言上に来ている時、織田|有楽斎《うらくさい》の二男織田河内守長孝、これは後に加賀の前田家に三千石でつかえた人だが、これが有楽斎とともに来て今日の戦いに自分の槍が敵の冑を泥をつらぬくよりもたやすくつらぬいたという話をした。
家康は大いに興味を覚え、
「よほどのものだな。見たい」
と所望して、とりよせさせた。
家康はさやをはらって千段巻のあたりをつかんで、打ちかえし打ちかえし見ているうち、ふととりおとしたところ、鋭い穂先が膝においていた左手の指を傷つけた。家康は顔色をかえて、この槍は村正ではないかと問うた。
「いかにも、村正でございます」
と、河内守がこたえると、家康は嘆息して、
「村正はわしの家にたたる」
と言ったという。
以上清康以来四代にわたってこんなことがあったので、村正は徳川家に不祥な刀であるというジンクスが出来た。
真田幸村が大坂役でいつも村正を帯びて出陣したということを聞いて、水戸光圀が、
「武士の心掛としてはまさにかくあるべきものである」
とほめたという話が伝わっている。
維新時代になっても、勤王党の志士らが好んで村正をもとめて差していたという話もある。
七
村正の刀は徳川家にたたっただけで、その他の人にはなにごともない。だから、世間でも妖刀などといってきらいはしなかった。豊臣秀吉などは村正が好きで、いくふりも持っており、諸大名にもよく下賜したといわれている。
しかし、徳川家が天下とりになると、
「ご当家にあだをなす刀」というので、一般も敬遠するようになり、ついには徳川家の人だけでなく、それを持っている者には誰によらずたたるというジンクスが出来て来た。
その第一号は、竹中|采女正《うねめのしよう》重義だ。これは藩翰譜では重次になっているが、寛政重修諸家譜では重義になっている。諸家譜によると重次は重義の|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》(半兵衛の次男)で、筑前黒田家の家臣だ。
重義は織豊時代の有名な戦術家竹中半兵衛重治のいとこの子で、早くから徳川家に従って、九州豊後府内二万石を領し、幕府の目付兼長崎奉行をつとめていた人物である。黒田騒動の発端に、栗山大膳が主人|忠之《ただゆき》の非違を幕府に訴えたのは、この重義を通じてであった。忠之が大膳を処分出来なかったのは、重義を通じて幕府に訴状がとどいていたからである。重義が幕府の九州探題的役目にあり、その威勢が中々のものであったことがよくわかるのである。
この重義が、黒田騒動の決審した翌年、寛永十一年二月二十二日に、家名断絶、その身切腹という処分にあっているが、それが村正のためであった。藩翰譜によると、そのいきさつはこうだ。
泉州堺の富商で平野屋三郎右衛門という者があって、長崎に移住していた。当時長崎は新興の貿易港として将来があり、古い貿易港である堺は凋落しつつあったからであろう。この平野屋に美貌の妾がいた。ある時重義はその女を見て、恋慕の情を燃やし、人を介して譲ってくれと交渉した。平野屋にしてみれば、愛しきっている女だ。もちろんことわった。重義はまた人をつかわした。
「前の使いの者は譲ってくれと申した由であるが、それはその者がわしのことばをとり違えたのである。近く人を招待して饗応《ふるまい》をせねばならんので、席のとりもち役に貸してくれとわしは申したのだ。饗応がすんだらすぐ返す故、曲げて承諾してもらいたい」
土地では王侯のような権力のあるお奉行様の頼みだ。拒めない。平野屋は妾をつかわしたが、重義は何日経っても帰そうとしない。妾はすきを見て逃げ帰った。平野屋は後のたたりを恐れて、妾とともに堺に逃げかえった。
重義は激怒した。
「けしからん素町人め! おれが許しも待たず当家をほしいままに脱出したものをとがめ立てもせいで、手に手をとって駆けおちするとは、公儀を恐れざる所行」
理窟というものは膏薬と同じで、つけようと思えばどんなところにでもつく。公儀役人である自分を無視するのは公儀を無視すると同じであると言えば言えないことはない。ともあれ、重義は平野屋を闕所にし財産を公収したばかりか、平野屋の兄の市郎兵衛を平野屋の身代りと称して入牢させた。平野屋の親類共は親族会議をひらいて善後策を相談したが、公儀を恐れること虎のごとき当時の町人共だ、結束してこの圧制と戦うなどということは考えない。
「こんなことになるのも、つまりはあの妾ひとりのためじゃ。捕えてお奉行様にさし上げればそれで四方まるくおさまるのじゃ」と相談一決して、追手をかけて捕え、重義にさし出した。
「神妙であるぞ」
重義は早速市郎兵衛を釈放した。
おさまらないのは平野屋だ。財産は没収されるし、身にかえてもとまで寵愛していた妾は奪われるし、憤懣やる方がない。ついに江戸に出て、幕府に訴え出た。
八
平野屋は幕府の取調べにたいして、重義が自分にしたしうちを述べたばかりか、洗いざらい重義の非道をぶちまけた。
「竹中様の好色と貪欲のために非道な目にあったのは、手前だけではございません。お取調べになれば、すぐ明白になることでございます。人の妻妾に横恋慕して無理非道にこれを奪われたこと、無理難題を言いかけて人の財物をおさえ奪われたこと、賄賂をむさぼって裁判に不公平のあったこと、数限りもありません。竹中様の貪欲の例にはこういうこともございます。今からしかじかの前の年、異国から大へん上質の鮫皮《さめがわ》(刀のつかを装するに使う)が入ってまいりました。これほど上品《じようぼん》な鮫皮はそれまで入って来たことがございませんので、町人共はこれは江戸の将軍様に献上したいと相談しまして、これを竹中様に申し上げましたところ、竹中様は鮫皮をごらん遊ばされて、こう仰せられました。その方共が将軍家へ献上したいという志はまことに神妙ではあるが、ひょっとすると、江戸の諸役人方は、これまでもこんな鮫皮は渡来したのであろうが、町人共がかくしてわきへ高直《こうじき》にさばいていたのであろうと、こうご不審あるかも知れぬ。もしその疑いをもって厳重にご糺問になったら、その方共はどう申しひらきするつもりだ。申しひらき立たんにおいては罪科は重いぞ。その方共が何かと公儀にかくして私利を営んでいることは、わしにはよくわかっているぞ£ャ人共はおびえまして、どうしたらよろしゅうございましょうかと申し上げましたところ、竹中様は、このことは内聞《ないぶん》にしておく。その方共も口外いたすでないぞ≠ニ堅く約束させ、その鮫皮は全部ご自分のところへおとり上げになったのでございます」
幕府は早速重義を召喚して検問すると、ことごとく事実であったので、家名断絶、その身は禁錮の判決を下したが、その家財を公収して調査してみると、二十四ふりの村正が出て来た。そこでさらに検察にかかった。
「お家に不祥な刀を、いかなる所存なれば、かくも多数に所蔵しているぞ。叛逆のたくらみでもあるのではないか」
「そのようなつもりは毛頭ございません」
「何の所存なくしてかくも多数たくわえているはずがない。きりきり自状いたせ」
厳重に責め問われて、ついに重義は白状する。
「村正の刀は名刀でござる、ご当家にたいしてこそ不祥の刀となっていますが、世うつり代がかわりましたなら、必ず世の宝器となるに相違ないと存じまして、集めていたものでございます」
「世うつり、代がかわったならばとは、ゆゆしきことを申す。ご当家の滅亡を予期していたのじゃな」
「いや、それは……」
「だまれ! 不祥な刀を集め、不祥なことを予期し、一身の利得をもくろむ。それがご当家の禄を食《は》む者のなすわざか! 叛逆の罪にひとしい」
というので、切腹を命ぜられてしまった。
この事件は徹頭徹尾重義が悪いのである。職権を乱用して人の妻妾を奪い、汚職し、詐偽し、武士らしくもなく投機を目的として主家のいやがる刀を買いもとめておくなど、どれ一つとっても、よいことはない。彼の罪死は自らもとめたところだ。当然の報いと言ってよいのである。が、その死の直接の原因が村正であるので、世間では村正がたたったと言うようになった。
すなわち、徳川家以外の人に村正がたたった第一号である。
九
村正が徳川家の人以外にたたった実例第一号を書いたが、実をいうと、実例第二号以下は信用の出来るものがないのである。
芝居の「吉原百人斬」の佐野次郎左衛門は、村正の妖刀であの大殺傷をやったことになっているが、これは芝居である。史実そのままではない。
この事件は故三田村鳶魚氏が「史実と芝居と」という著書の中で精密に考証している。
事件は元禄九年十二月十四日におこっている。次郎左衛門は野州(栃木県)佐野の炭問屋または大百姓である。大百姓で炭問屋であってもかまわない。江戸町二丁目兵庫屋のかかえ八橋《やつはし》という格子《こうし》女郎を買いなじんだ。つとめ女の常で、八橋は起誓を書いたりなどして、ほどよく次郎左衛門をよろこばしていた。田舎ものだけに、男は血道を上げて通いつめ、ついに家産蕩尽した。それでも忘れかねて、吉原に出かけて行っては、八橋の道中姿をながめては心を慰めていた。あわれな心情である。
愛嬌が商売の女だから、時々はやさしい目つきをくれ、ことばもかけていたが、度重なると、あわれみより軽蔑感が先きに立ってくる。男の女にたいする魅力は力だ。その力をまるで失って、うろうろしおしおとものほしげに自分のまわりをうろついているような男には、女は軽蔑感しか持つことは出来ないのが普通だ。強い種族をのこそうとするのは神の意志だ。女は強い男に最も魅力を感ずるという本性を神から賦与されているのである。薄情といえば薄情だが、女の罪ではない。八橋も次第に次郎左衛門につめたいそぶりを見せるようになった。
次郎左衛門はこれを怒って、中の町の茶屋橘屋長兵衛の家に八橋が入ったあとを追いかけて二階に駆け上り、腰におびた刀、水もたまらぬ切れ味というところから「籠つるべ」と名づける刀で、一刀に腰から放した。
大さわぎになった中を、次郎左衛門は二階から物干に出、軒の上を大門の方に進んだが、人々が二階や物干へ水を打った。踏みすべらせるためだ。そのうち次郎左衛門は物干に薪を積んである場所に行きあたり、あともどりしようとした時、足をふみすべらして大地におちた。
「それ!」
とばかりに人々がよってたかって取りおさえた。
一説では、八橋を斬った直後、孫兵衛という者が二階に駈け上って組みついたが、ふりほどかれ、逃げるところを肩先を斬られ、這々のていで逃げかえった。その後、次郎左衛門は二階にこもって出て来ないので、人々は屋根をはがして天井を突きおとし、外から格子をつき破って棒でとりすくめようとした。次郎左衛門はたまらず庇へ斬って出たが、足をふみすべらして転落した。そこを梯子どりにしておさえたともいう。
信用の出来る記録の所伝は以上につきるが、芝居の作者|並木五瓶《なみきごへい》は、次郎左衛門を大黒《おおくろ》あばたの男にし、八橋に恋人をこしらえ、百人近い人間が斬られたことにし、刀を村正にしている。しかし、この時の刀は、宝暦年度の馬場文耕の「近世江都著聞集」に、備前国光の作であったとある。並木五瓶は当時の迷信を利用して、村正としたのであろう。
十
根岸肥前守守信(一に鎮衛《しずえ》)は天明、寛政、文化という長い間、勘定奉行や江戸町奉行をつとめた人だが、この人の著書に「耳嚢《みみぶくろ》」というのがある。この中に村正の刀を持っていると、怪我すると述べ、その実例としてこう書いている。
「いつの頃であったか、ある刀屋が在銘の村正の短刀を仕入れたが、この銘ではきらわれて売れぬと、銘をたたきつぶして、これで正宗になった≠ニよろこんだ。刀屋と懇意な者が話を聞き、そんな不正直なことをしてはよくない≠ニ意見した。刀屋はあきんどにはこれくらいなことはあたり前のこと、馬鹿正直では商売はなり立ちません≠ニ笑って相手にしなかった。その後、どうしたわけか、刀屋の妻がその村正で自殺するという事件がおこった。刀屋はおどろいて、その刀を捨てたという。また、右とは別に、先年自分が佐渡に勤務していた時、ある家の払いものがあったが、家来のものがその中から村正の刀を見つけ、よい刀でございます。おもとめなさりませ≠ニすすめた。見ると、まことに見事な出来ばえで、大いに気には入ったが、自分はいろいろこれまで世間から聞いているので、もとめること無用と言って、早々に返却させた」
しかし、この記述は、肥前守自身のことは単に用心して買わなかったというだけのことであり、刀屋の話は時も場所も人もまるで不明なことだ。何の証拠にもなることではない。
十一
文政六年四月二十三日、江戸城西の丸で、ご書院番の松平|外記《げき》という青年が、同僚三人を殺し、二人を負傷させた後、腹を切ったという事件がおこった。
「古今史譚」という書物によると、いきさつはこうだ。外記は家康の六男忠輝の子孫だ。なかなかの名家である。まじめで、武術好きの青年であったが、そのために古参の連中にきらわれた。文化・文政といえば、江戸の爛熟期で、旗本の士風の頽廃しきった時だ。まじめ過ぎては他と調子が合わない。その上、当時の古参役人は新入りの役人をいじめること、旧軍隊のようなものがあった。
旧人が新人をいじめる風は、大昔から日本にはある。三代実録の清和天皇の条に、「焼尾《しようび》・荒鎮《こうちん》を禁ず」という文章が見える。焼尾は焦尾とも書いて、元来は漢語で、進士の試験に及第した者が祝宴をひらくことを言うのだ。いろいろ説があるが、魚が竜門をおどり上るとすなわち竜となるのだが、その時には必ず雷電が閃いて尾を焼いてくれる。そこではじめて竜となれるというのが一番おもしろい。荒鎮は荒沈で、大酒をのむことだ。すなわち、平安朝の清和天皇の頃、古参の役人どもが新入りの役人に強要して宴をひらかせ、大酒をのんだり、贈物をさせたりして、弊害が大きかったので、ついに法令を出して禁じたのである。
江戸時代にも芸者寄合《げいしやよりあい》というのがあって、新任の同役があると、その家で祝宴を開かせ、名妓をもって酒間を助けさせ、それに使用する食品や器物類は皆一流のものを要求し、そうでなければ乱暴狼藉したという。この習わしが連綿旧軍隊にまでおよんだのだからおどろく。
さて、外記だが、古参の連中からこと毎にいじめられているところに、駒場野のお鳥狩で古参をこえて拍子木役を命ぜられたので、嫉妬されて、一層いじめられるようになった。
鬱憤昂じて、この日三人を斬り、二人を傷つけ、自殺してはてたのであるが、この時の刀が、数日前に刀屋でもとめた村正であったとある。これは蜀山人の「半日閑話」にも、
「差料は無銘なりとうけたまはり候ところ、村正の由たしかの説なり。一尺八寸といふ」
とある。平戸の殿様松浦静山の「甲子夜話」にも、
「外記が脇差は村正にてありしと世伝ふ。この鍛冶はご当家に不吉なりと。しかるにまたかかることの生ぜしも不思議なり」
とある。しかし、また別説もかかげて、
「外記の脇差は村正にあらず、関打《せきう》ち平造《ひらづく》りのものにして一尺三寸なりしといふ」
ともある。
別説が正しかろう。幕臣でお城づとめするほどの者が村正の刀をさして登城する道理がないと思われるからだ。
つまり、村正は一般の人には全然たたっていないのである。
十二
村正が一般の人にたたっている実例が全然見つからないことはこれまで書いた通りだが、反対に珍重された実例はきわめて容易にさがし出せる。
甫菴《ほあん》太閤記に、天正十年六月二十四日、つまり本能寺の事変があって織田信長が殺され、山崎合戦があって明智光秀が亡びた直後だ。能登の豪族|温井《ぬるい》備前守・三宅備後守らが、同国|石動《いするぎ》山の衆徒を語らって、織田信長から能登領主としてつかわされていた前田利家に反抗の色を立てたことが出ている。信長が死に、明智が死に、天下のことはどうなるかわからないと見たので、この挙に出たのであろう。
当時、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》盛政は加賀の尾山《おやま》(金沢)城主であったが、直ちに出動して石動山を猛攻し、温井、三宅、その他衆徒のおも立った連中を討ち取り、それらの首を家臣野村勘兵衛尉という者に持たせて、前田利家のところへとどけさせた。利家は大いによろこび、秘蔵の刀村正を引出ものとして野村にあたえたとある。村正珍重の第一例だ。
この書には秀吉の死後のかたみわけの表が出ているが、刀百ふりのうち村正が三ふりもある。第二例だ。これをもらったのは、紀州新宮城主堀内阿波守氏善、播州小塩城主赤松上総介則房、美濃|加賀野井《かがのい》領主加賀野井弥八郎|秀望《ひでもち》の三人だ。最後の加賀野井弥八郎は関ケ原役の頃は浪人しているが、石田三成に家康を暗殺すれば本領を安堵してやるといわれ、東に下る途中、知立《ちりゆう》(池鯉鮒)で、家康方の三州|刈屋《かりや》の城主水野忠重を斬り殺し、堀尾秀晴を傷つけ、水野の家来らに殺されている。この時の刀が村正ならちょいとおもしろいのだが、ちがうらしいのである。
水戸藩の支藩で、陸奥|守山《もりやま》(福島県田村郡)二万石の領主であった松平子爵家の頼平という人は村正の刀を愛蔵していたが、その刀には、
「この刀は秀吉公から長束正家が拝領したものである。正家の子孫は佐野と名字を改め、泉州岸和田の岡部家につかえたが、村正の刀が徳川家によって佩用を停止されることになったので、大井関《おおいぜき》大明神(和泉にあり)に奉納した。時に寛永十九年八月十五日である」
という意味の鞘書《さやがき》がついていた。第三例である。神社の奉納刀がいろいろな理由で他に流出するのはよくあることであった。それはさておき、徳川家はついに三代家光の頃あたりに一般の人にも村正を佩用することを禁じたことがわかる。もっとも、この禁令は間もなく忘れられて、単に迷信としてきらわれたにすぎないようである。
「甲子夜話」に、松浦静山は、摂津|三田《さんた》の領主九鬼長門守隆国が静山を訪問した時に語ったという話を書いている。
「拙者の家来に福島正則の家が潰れた時、来てつかえた家四五軒ござるが、いずれも村正の刀を伝来しています。皆正則からもろうたものというていますが、どういうわけでありましょうな」
第四例である。正則は村正が好きで多数集めていたのであろうが、それについて、一二年前尾崎士郎氏が栃木県の佐野に行った時のことをある新聞に書いていた文章が思い出された。吉原百人斬の佐野次郎左衛門の実家は今日でものこっており、村正の刀を伝えていた。これは福島正則が家康に従って会津征伐に行く途中、同家に泊って、礼としてくれたものであると、同家では伝えている。おしいことに、アメリカ占領軍の一人が持って行ってしまったといっている云々――という意味の文章であった。
この刀が次郎左衛門が吉原で兇器として使ったものだとすると、公収されるはずで、同家に伝わる道理はないが、福島正則がくれて行ったという点は大いに信用感が持てる。並木五瓶はそれを知っていて、わざと備前国光を村正にしたのだろうか。
十三
以上のほか、土佐藩や佐賀藩などでは、村正は実に珍重されたが、江戸へは差して行くなといわれていたという。何か罪でも犯した場合、上役人の心証を悪くするからであろう。
大体以上の通りで、徳川家がいくらきらっても、またそのために出来た迷信に同調する者が多くても、見た目も見事で、切れ味またすごいとあっては、愛蔵する者がたえないのは道理だ。まして、商売人がほっておくわけがない。正宗にばけさせる話はすでに書いたが、正宗の末子といわれる相州正広にばけさせることもあったという。無銘のものは平安城|長吉《ながよし》、あるいは直江志津《なおえしず》と鑑定するのが、本阿弥家のしきたりであったともいう。
四代にわたって徳川家にたたった理由については、日本刀の研究家で、東京工大出の工学士で東大出の文学士である岩崎航介氏が、かつてぼくにこう説明した。
「昔は交通が不便だったので、武士達の差料は大てい自分の住所に近い土地の鍛冶の作だったのです。伊勢桑名は三河から海一重、ひとまたぎのところです。そこで無類の切れ味の刀が出来るとあっては、三河武士らは争ってもとめたに違いありません。三河で刃傷事件が起これば大ていその兇器は村正ということになります。確率の問題ですよ。織田長孝の槍だって、そうです。尾張武士でしょう。これはもっと近い。木曽川一重です。徳川家の事件だけを抽出して考えるから、因縁話めいたことになりますが、こう考えればなんの不思議もないことです。あれほどの名刀を、妖刀なんて気の毒です。ぼくは大好きです。正宗より好きですよ」
明快な説明だ。ぼくは大いに同意した。
十四
ところが、ぼくにはこういう経験がある。前にぼくの家に持ちこまれた村正の話を書いたが、あれをぼくは買うことにしたのだが、それをあつかっていると、ともすると、鞘走る。とぎべりがひどい関係上重心がつかに移っている上に鯉口が甘いからのことと判断して、十分気をつけてあつかうのだが、それでも鞘走ってひやりとさせられたことが幾度もあった。
中沢抹v君が遊びに来た時もだ。
「今度買うことにしました。気をつけて見て下さい、鯉口が甘くて鞘走りますから」
と言ってわたし、ぼくはちょっとわきに行って帰ってみたら、中沢君がまことにへんな顔をしている。
「鞘走ったでしょう。けがしたんじゃありませんか」
「けがはしないけど、鞘走りますね。ずいぶん気をつけたんだけど」
こんなことがあったので、ぼくは、もしぼくがこれでけがでもすると、刀が刀だけに刀に妙な履歴がつく、それでは刀に申訳ないと思って、女房に返しにやった。やがて女房が帰って来た。
「ちゃんと説明したろうね。刀屋は何と言った?」
「ちょうどお客さんがあったので、くわしく言ってはいけないと思って、これは気に入らないそうですとだけ言って返しました。刀屋さんは、へえ、そうですか≠ニ言っていましたが、覚悟していたような顔でしたよ」
その後しばらく経って、刀屋が家に来た時、ぼくはくわしい説明をした。すると、刀屋は笑って言ったのだ。
「お宅からかえって来てから、すぐほしいとおっしゃる方があって、お納めしたのですが、すぐまた返されて来たんですよ。それからまたほしいとおっしゃる方があるので、お納めしたのですが、また帰って来ましてね。今もあるお宅へ参っていますが、また帰って来るでしょう」
「やはり鞘走るのだろうか」
「そうはおっしゃいません。奥さまが気味悪がるのでいけないとおっしゃるのです」
あの刀はどうなっているだろう。今ぼくは無暗におしくなっている。鯉口を直しさえすればよかったのだ、なぜ返したろうと思っているのである。
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[#見出し] 倭寇物語
倭寇《わこう》か和寇か
倭寇というのは元来は名詞ではない。倭|寇《アダ》[#(ス)][#二]……[#(ニ)][#一]と支那や朝鮮の記録にあることから、いつか倭寇という名詞が出来たのである。支那や朝鮮では、日本のことを昔は倭《わ》と言った。和と言った例はない。従って倭寇と書くのが正しい。和寇と書くのは誤りである。
八幡船《ばはんせん》ということ
倭寇は八幡大菩薩という旗をかかげて支那朝鮮の沿岸を剽掠して歩いたと一般に信ぜられているが、近頃の歴史家は、そうでないといっている。
いろいろ面倒な考証があるが、つまり、支那側の記録に一つも「八幡」という語のないこと、日本海賊の信仰の対象であった伊予の大三島の大三島神社に「八幡大菩薩」の旗が一本も遺存していないこと、「ばはん」という言葉の日本側の用例などから考えて、どうしてもそう考えられないというのである。一説によると、海賊という意味の安南語だという。安南語では、海のことを「把《バア》」と発音し、偸《ぬすむ》ことを「幹《カン》」と発音する。だから、海偸――海賊はバアカンとなる。このバアカンが転訛してバハンとなったらしい、というのである。
倭寇はどうして起ったか
倭寇の起ったことについては、三つの原因がある。
一つの原因として、経済生活の変化に伴う武士階級の貧困が挙げられる。王朝末期、日本には支那から宋銭が盛んに輸入せられて、日本の経済社会は、武士時代になると、物々交換から貨幣経済に移った。そのため、土地を唯一の資本としていた武士階級は次第に貧困となって、領地を質入れして、金持から銭を借り、それが抵当流れになって、領地を持たない武士が出来て来た。
この状勢を幕府では黙視していなかった、一種のモラトリアムである徳政令をしきりに出して、武士階級に対する債権放棄を命令したが、この幕府の努力も滔々たる時勢の進行の前には何の力もなく、所領のない武士は年毎に増加して行った。
勇敢で、腕力がすぐれて、そして、収入のない武士がどんなものになって行くか、想像は容易につく。切取強盗は武士の習いという言葉はこの時代に出来たものではなかろうか。彼等は山賊野盗となって天下を横行した。熊坂長範とか、あとで義経に仕えた伊勢三郎とか言う連中は多分こうした経路で山賊になったのであろう。
勿論、幕府では追捕につとめた。そして、追捕された連中は遠く西国、九州に放逐せられた。この連中が後に倭寇となったのである。歴史はくりかえすというが、明治のはじめの征韓論は、世禄を失った武士のやるせない力を外征に向けようとしたのが一つの原因であったことが思い合わせられる。
第二の原因としては、支那朝鮮の貿易拒否が上げられる。この時代、支那でも朝鮮でも、北方に起った金や元に圧迫せられて、国力日に衰退の勢にあったし、貿易は日本に利があって、彼に利が少なかったために、貿易拒否の態度を取った。これは、当時漸く勃興の気運に向っていた日本の貿易商(この中には、豪族あり、神社あり、寺院ありであった)にとって、伸びんとする進路を塞がれたようなものだ。貿易商等は、浪人武士を己れの輩下に収めて、武力を以て貿易の利を収めようと計画するに至った。
鎌倉三代将軍実朝の死後六年目の嘉禄元年から三年間、毎年のように、肥前の松浦党の武士等と対馬《つしま》島民の聯合軍が、朝鮮の南部沿岸を荒らしたのは、その適例である。
嘉禄元年の前々年、朝鮮では高麗朝の高宗の十年、日本では後堀河天皇の貞応二年秋七月、わが九州の貿易船を海賊船と認定して、これを拿捕《だほ》したので、九州の商人団は、
「怪《け》しからん高麗人共め」
と怒り立って、報復のために、兵備を整えて朝鮮に押し渡った。この時は、地理に通じなかったために、失敗に帰したが、翌年正月、対馬の島人を案内者として慶尚道沿海に押し渡り、敵の水軍と戦って勝利を得、思うがままに掠奪して引き上げた。その翌年は、金州から熊津県を荒らした。
高麗朝では、取締りに困り果てて、わが太宰府に報じて、その取締りを請うた。当時、太宰府の長官は少弐資頼《しようにすけより》であったが、
「よろしい」
と一議に及ばず承知して、松浦党の武士九十人を捕えて、高麗使節の面前で斬った。
ところが、この資頼の処置は、朝廷への上奏を経ない専断の処置であったので、朝廷では厳しく資頼を詰責なされて、以後、かかることがあった際には、必ず奏聞勅許を経て処理すべしと仰せ下された。
第三の原因は元寇である。この未曾有の国難は、先ず日本人に盛んな敵愾心を与えた。次に、己れの力に対する自覚を与えた。次に、武士階級の貧困に拍車を加えた。
日本人の敵愾心は、敵の来襲を待ってこれを撃退するだけでなく、進んで、異国征伐を計画するまでに至った。文永の役から弘安の役までの間に、幕府は進んで元を征伐しようと計画して、西国の武士にその準備を命じているほどである。日本人はこの両役によって、己れの力を自覚した。元来、日本人は支那を先進国として、その国号を呼ぶにも大唐、大宋、大元などと、大という美称を冠して呼んだほどであったのだが、実際に戦ってみて、それほど強さをもっていないことを知った。また、当時の武士は出陣するについて皆自弁である。自分の費用によって、武器、武具、糧食等一切をまかなわなければならないので、何十年にわたる戦時体制によってひどく貧乏になった。王朝末期から漸進的に進んで来た傾向が、ここで拍車をかけられた形となった。
以上書いて来た三条件だけでも、倭寇は起らずにおられないところにもって来て、日本国内の戦乱という条件が加わった。南北朝の対立だ。宮方と武家方とが対立して、国家の統治が行き届かない時代となった。山賊、野盗、海賊、時を得顔に跳梁したのである。
倭寇にはどんな人々がなったか
さて、以上のようなわけで、倭寇が起ったのだが、では、どんな人々が倭寇となったか。言うまでもなく、所領を持たない浪人武士が主であるが、中には豪族もおり、商人もおった。国別にすれば、薩摩、大隅、日向、肥後、肥前、筑後、筑前、豊後、豊前、長門、石見、伊予、播磨、摂津、紀伊、伊予の能島《のじま》、来島《くるしま》、因島《いんのしま》等、つまり九州一帯と瀬戸内海を囲む国々、島々がそれであった。中にも、伊予の能島、来島、因島地方の名族である、能島《のじま》、村上、来島、河野などという家々は、推古天皇の時に船司《ふなづかさ》と定められているほど海軍に関係の深い家々であるから、恐らくその中心地であったろうと考えられる。元寇の役で名高い河野通有はこの河野の一族である。
以上は真の倭寇、即ち真倭《しんわ》であるが、後には支那人にして日本人の真似をして、月代《さかやき》を剃り、日本服を着て掠奪して歩いた偽倭寇《にせわこう》、即ち偽倭《ぎわ》というものが出来た。偽倭には二種ある。日本人の団隊に加わってやるものと、支那人だけのものと、この二つである。偽倭については、後でまた述べる。
倭寇の中には黒人も入っていた。明人|茅元儀《ぼうげんぎ》の著書、武備志に、「倭国の西南に鬼国《きこく》あり。利鉄を出し、人は闘を好む。倭人の入寇するや、多く其人を募る。白鬼蕃あり、黒鬼蕃あり、即ち古の崑崙奴《こんろんど》(黒奴)にして、面深黒、善く闘って死を忘る」とある。
鬼国というのは、多分、南洋諸島のことを言ったのであろう。そこの蕃人を使役していたわけである。
また、西洋人も加わっていたという説を出した人もいるが、これは怪しい。証拠のないことだというのである。
倭寇の掠奪品は何か
初期に於ては、米と人間であった。南北朝の戦乱が打ち続いて、労働力の不足のために田地が荒廃したために、日本として最も不足を感じていたものは、米と労働力であった。従って、倭寇の目的も、多くこの二点に向って注がれたわけである。倭寇はその初期に於ては、専ら朝鮮方面に向ったが、その頃の彼等の獲物は殆ど全部がこれである。
連れて来た朝鮮人や支那人に対して、日本人は、西洋人が黒人奴隷に対するような苛酷な取扱いはしなかった。自由に家を持たせ、相手があれば結婚もさせた。これは、倭寇の最も盛んだった室町時代に出来た文学である謡曲や狂言の中に鮮やかに描き出されている。謡曲の「唐船」、狂言の「唐人子宝」「茶盞拝」は、共に倭寇に連れて来られた唐人の生活を写したものだが、帰国を禁ぜられているだけで、日本の女性と結婚して平和に暮らしている様子が物語られている。
勿論、例外はあった。奴隷として遠く南洋から印度方面に売られた者もあったということである。
末期に至っては、金銀、貴重品を掠めた。これは、当時の船が狭小であったために、穀物のような体積重量の大きいものは多量に積みこむことが出来なかったからである。
不思議なことに、倭寇の掠奪品は、現在では何一つとして遺っていないそうである。恐らく、倭寇を祖先とする諸侯や豪族が、盗賊行為の結果得たものであることを恥じて子孫に語らず、ただ、明から舶来した貴重品として語り伝えたため、後世にも普通の貿易品として語り伝えたためでもあろうし、一方、倭寇の獲物が、金や銀や銭などの類を主としたからではなかったろうかと考えられている。
倭寇の侵略範囲
倭寇は、はじめの間は、専ら朝鮮半島に向った。当時、朝鮮は高麗《こうらい》朝の時代であったが、その防禦に非常に苦しんで、礼を厚くして、あるいはわが対馬の宗氏に、あるいは足利将軍に取締りを請うたが、宗氏は一孤島の守護に過ぎないし、足利将軍は初代の尊氏からして実力のない将軍だし、滔々たるこの天下の勢をどうすることも出来ず、倭寇の勢は、年を追うて激烈となって行った。後のことになるが、高麗朝が亡んで、李王朝が起ったのは、この倭寇の害のためであるという。
後の李王家の祖は李成桂《りせいけい》といって、高麗朝に仕えた人であるが、なかなかの名将で、倭寇を破って功があり、民心がこれに帰したために、高麗朝を亡ぼして、自ら王位についたのである。
李成桂の倭寇討伐の中で、最も華々しい勝利を得たのは、黄山の戦である。
この時の倭寇の大将は阿只抜都《アキバツ》という者であったと朝鮮側の記録では伝えている。安芸八郎とか何とか言う名の音を写したものに相違ないが、本名が伝わっていないのが残念である。
阿只抜都は年わずかに十五六、容貌端麗な美少年で、白馬に打跨って、槍を携え、常に陣頭に立って馳突《ちとつ》した。勇猛無比、高麗の軍はいつも阿只抜都の出《い》ずるを見れば、戦わずして走るという有様であったので、李成桂は、この少年武将を討ち取らないかぎり勝利を得ることは出来ないと考えて、部将の豆蘭《とうらん》という者を呼んで相談した。
「あの少年一人のために、味方は戦わずして敗れ走る有様である。どうにかして討取りたいものだが、策はないか」
豆蘭はしばし打ち案じて答えた。
「駆け合ってはとても勝目がありません故、遠矢にかけて射落すより外はありませんが、御覧の通り、身に堅甲を鎧い、顔にはまた銅面の具を被っておりますから、それもむずかしゅうございます」
「よし、考えがついた。わしがあの兜を射落すから、お前はその隙に乗じて射よ」
と命じて李成桂は馬を乗り出して、阿只抜都を射て、その兜に中《あ》てた。そのために、兜の紐が切れて、兜は傾いた。阿只抜都は驚いてこれをかぶり直そうとしたが、成桂は二の矢にまた兜に射中てたので兜は地に落ちた。そこに豆蘭の矢が飛んで来て、阿只抜都の眉間に中たって落馬して死んだ。こうして大将が討たれたので、倭寇軍の意気は阻喪して、遂に全軍敗滅した。
この時から、朝鮮半島に於ける倭寇は次第に勢力を失って、転じて支那沿岸に向った。
阿只抜都は多分、日本の相当な大名の世嗣であったろうということである。
朝鮮に於ける倭寇は、最初のうちは、物資を剽掠するだけで、人を殺すことをしなかったが、後には人を殺すようになった。これは、わが長慶天皇の天授元年からのことである。この年五月、藤原|経光《つねみつ》という者が、一族の衆を率いて、朝鮮に帰化し、順天|燕岐《えんき》の地方にいたところ、七月になって、高麗政府では、全羅道の元帥|金先致《きんせんち》という者に命じて、これを誘い出して、毒殺せんと企てた。経光等はこれをさぐり知り、大いに怒って、掠奪、殺戮をほしいままにして立ち去った。朝鮮の記録、東国通鑑に、
「初め、倭の州郡に寇するや、人物を殺さず。これより怨怒し、入寇毎に婦女嬰児を屠殺して遺《のこ》すなし。全羅、揚黄の浜海州(海に面した州)、粛然として一空す、云々……」
とあるのがその証拠である。
朝鮮半島に於ける倭寇の勢力が衰えたのは、九州|探題《たんだい》の今川了俊が、朝鮮からの依頼を受けて鎮圧につとめたことも原因の一つであるが、とにかく倭寇は朝鮮半島を去って、支那に向った。
支那に於ける倭寇の侵略範囲は、北は遼東から、南は福州、広州のあたりに至るまで、その蹂躙にまかせた。海辺の地が主であったが、中には深く内地に入って、南京城門まで行っている者もある。これについては後段で詳しく述べる。今の上海は、はじめ一寒漁村に過ぎなかったが、倭寇がややもすれば揚子江を遡って内地に侵入しようとするので、その防備のために城壁をきずいたのが、その殷盛をなすはじめだという。
支那ばかりでない、遠く印度地方まで行っている連中がある。一六〇四年、英国の有名な航海家ジョン・ダヴィスはボルネオ沖で、倭寇に襲われて死んだ。この時、ダヴィスは、自分の船の巨大にして、武器の優秀なのを恃んで、甚だしく不用心だったので、七十噸の小舟に乗った九十人の倭寇は、ダヴィスの舟を見せて貰いたいと頼んで、英船に乗りこむや、英人等を追い出して船を奪わんと企てたが、衆寡敵せず悉く殺された。
九十人のうち、一人捕われただけで、皆、一歩も退かずに奮闘して死んだので、英人は日本人の勇敢さに驚嘆したということである。
倭寇の船と航海法
船は七百石積以下とした。これ以上になると、船脚が深くて、水先不案内の他国に行っては浅瀬に乗上げる危険があるが、七百石ほどであれば、大抵の浅い川港にも入ることが自在であるからである。
甲板には厚く松脂《まつやに》を塗って、波が打ちかけても水の入らぬようにした。帆は木綿を使わずに、笹の葉を編んでこしらえた。雨天の時にも航海出来るようにしたのである。船上には矢倉を設け、矢倉の外には柱を立て、その柱には、楯を懸け並べるように折釘を打った貫《ぬき》を並べ、更にその外には、畳床《たたみどこ》十四五枚を重ねた厚蔀《あつじとみ》を二枚重ねにして綴じつけた。こうすると、百匁|鉄砲《づつ》で打っても弾丸が通らないというのである。この蔀には所々に狭間《はざま》をあけて、こちらから弓鉄砲を放つことの出来るようにしてあった。
後には、西洋諸国から船を買入れたり、その造船法に習ったりして、二重底にして、舳《へさき》の尖った船が出来た。門司の和泉丸という船など、二千五百石もあったということだ。
乗組員は、大なるものには三百人、中なるものには一二百人、小なるものには七八十人、極小なるものには四五十人だったという。
次に彼等の渡海の方法であるが、何と言っても風力だけを便りにしたのであるから、万事、風まかせである。
東北風の猛烈な日に、薩摩または五島《ごとう》から出帆して、先ず琉球に渡り、ここで風の変るのを待つ。ここから、北風の多い時は広東に向い、東風の多い時には福建に向う。福建を襲う場合には澎湖島で手分けして、一部は泉州に入り、一部は梅花処、長楽県等を犯した。
正東風の強い時には、五島から天堂官、渡水に到って風の変るのを待って、東北風が多ければ鳥砂門で舟を分って、韮山《きゆうざん》・海闡門《かいせんもん》を過ぎて温州《うんしゆう》を犯し、あるいは東西|厨《ちゆう》から潮頭渡《ちようとうと》に入って昌国を犯し、また石浦関に入って台州を犯すのである。もし、正東風が多い時には、李西鹵《りせいろ》、壁下《へきか》、陳銭等に至って舟を分ち、あるいは洋山の南から臨靦《りんめん》を犯し、銭塘《せんとう》を犯し、あるいは洋山の北から青村、|南※[#「さんずい+(匚<ふるとり」、unicode6ed9]《なんわい》等を犯し、太倉を突き、あるいは、南州を過ぎて揚子江に入った。しかし、洋上に於て風向が変って東南風となった時には、淮陽《わいよう》、登莱《とうらい》を犯し、また五島から舟を出して南風に逢った時には遼陽を衝き、天津を窺った。
五島、琉球を発してから、凡そ五六日ほどで大陸に達した。
季節は、春秋二季、春は清明節後、秋は重陽《ちようよう》節後が多かった。この頃は、大体風向きが一定していたからである。
こういう具合に、倭寇の渡海法は専ら迅風《じんぷう》の利用なのだから、支那側では、あらかじめこの風を知れば、防禦の策も講ぜられるはずだと考えた。武備志にこういう意味のことが書いてある。
「大抵、倭船の来るのは、清明の後にある。これより前であれば、風候が不定であるが、清明後は東北風が多く、且つその風向きが変じない。しかし五月を過ぎてしまうと、南風が多くなって航海に不利となる。
重陽後は東北風が吹くことが多いが、それも十月を過ぎてしまうと、西北風が多くなって、航海に不利となる。
こういうわけだから、倭寇の来るのは、春は三四五月、秋は九十月が多い。この時期を警戒すればいいわけである。
この時期に、常に風向きに注意して、彼等の着岸する所を推知して、これが備えをなせば、まず撃退することが出来るであろう」
海洋の航行に最も必要なのは飲料水であるが彼等はあらかじめ一人について四百斤を用意し、これを八百椀に分けて、毎日六椀ずつを用いた。内地を出る時用意した水は五島《ごとう》で入れかえ、更に、支那に近づくと、八山島、陳銭島等の島々で入れかえた。夏季は腐敗し易いので、それを防ぐために、煮沸して瓶に貯えて密封したという。
倭寇の戦法
日本の戦術は元寇の役を境にして革命的の変化が行われた。それまでは、騎兵を主力とする一騎討ち式の戦闘法であったが、元寇の役に於て大陸の戦闘法の洗礼を受けた結果、歩兵を主力とする集団的戦闘法と変った。その上、南北朝の抗争以来、日本の国内は戦乱の連続であったために、用兵の術は精妙となったし、武士はまた精悍無比となった。倭寇は、この勇猛なる戦士をこの精妙なる戦術によって行動させたのである。
倭寇と言っても、いろいろある。最初から戦闘行為に出るのが主であるが、中には本来は貿易を目的として行くのであるが、それが拒否されたり、明人が詐欺行為に出たり、あるいはいろいろな事情で怒りを挑発されたりすると、忽ち変じて武力行為に出るというのもあった。
足利義政の時代に、日本の朝貢使が――支那という国は昔から尊大な国で、外国にして自国に通商を求める者は、貢という名目でなければこれを許さなかったので、名は朝貢使といっても、実際は貿易者なのである――北京に行って、貿易をすまして帰って来る時、港までの銭の運搬を南京、浙江地方の商人に委託したところ、言を左右に託して銭を返さない。日本人は大いに怒って、刀を揮ってその家に侵入し、家屋を破壊し、相手を殺したために、土地の人々は数千人集まって、日本人の宿舎を攻撃して、大騒ぎとなったことがある。
また、足利十二代将軍の義晴の時代、大永七年六月、支那では明の嘉靖《かせい》六年のことだ、大内義興の使者、僧宗設が寧波《にんぽう》に着いた。数日の後、細川高国の使者、僧|瑞佐《ずいさ》と、明人で日本に帰化している宋素卿《そうそけい》が到着した。勿論、両者とも貿易のために行ったのである。先例によれば、到着順によって貨物を検査し、また歓迎の宴席の席次も定めることになっているのだが、宋素卿は元来が明人のこととて、よく彼地の事情に通じていたので、市舶太監《しはくたいかん》に賄賂を贈って、先ず自己の貨物の検査をさせ、宴席の席次も自分等の方を上位に置かせた。宗設は大いに怒って、太監等を殺し、寧波、紹興を掠め、その城を占領して、日本国の名によって府庫を封じ、寧波から帆を上げて去った。宗設等の率いるところは、わずかに百十余人、前後十日間、よくこれを防ぐ者なく、思うがままに抄掠《しようりやく》したのである。徳川時代の中頃出た短篇小説集、繁々野話《しげしげやわ》にはこの帰化人宋素卿を主人公として、この時のことをくわしく書いてある。これは、たしかに好個の歴史小説となるに相違ないと思う。
簡単に史実を書くとこうだ。細川氏と大内氏とは、仲の悪い家である。高国と義興とは、高国の養父政元に対する関係から一時同盟していたこともあるが、家と家とは仲が悪かった。普通には、足利将軍の継嗣問題だとか、義興は管領になりたいのだが管領になる家柄でないのでどうだとか、と言われているが、これは貿易の利を競ったためと解釈することが出来る。なぜなら、当時日本の貿易港として最も盛んであったのは、堺と博多であるが、堺は細川氏の領地、博多は大内氏の領地で、つまり、両家は日本の二大貿易王だったわけだから。も一つ因縁をたどれば、堺もはじめは大内氏の領地だったのだが、将軍の怒りにふれて取上げられ、細川氏に与えられたのである。倭寇――将軍の継嗣問題――日支貿易――堺――博多――寧波――と、こう書き並べてみると、日支両国にまたがる雄大な構想がもやもやと浮かんで来るのである。
本題にかえる。
つまり、こういうわけで、貿易船と雖も、いつ何時、武力行為に出るかわからないという恐ろしい連中なのだ。明の方でも甚だその取扱いに困った。拒絶してしまえば、大っぴらに倭寇として来るし、といって際限もなく貿易していたんではやり切れない。前にも書いたが、日支貿易は、日本側にだけ有利で、支那側には利益どころか、損だったのだから。一二の例を挙げよう。絹と黄金の例をとる。絹は日本が彼から輸入し、黄金は日本が彼に輸出したのであるが、絹糸の値段は、彼地に於ては、一斤につき五貫文というのが普通だったが、日本の貿易船が買う場合には、五貫文の銭を以て二十斤から二十五斤を買った。また黄金|一棹《ひとさお》即ち四十匁のものは、わが国では銭三十貫であったが、支那に持って行くと百二三十貫に売れた。糸に於て二十倍乃至二十五倍の利益を得、黄金に於て四倍強の利益があったわけである。
こんな不権衡な貿易をのべつにやられてはたまったものでない。それで、明の方では、倭寇取締りを条件として、足利義満と約束して、「十年一貢、船二隻に人二百にとどむ」ということに制限したが、間もなく、船は三隻、人は三百に増やした。最後には、貿易船たることを公認する勘合符におす勘合印章を日本に送って自由に勘合符をこしらえて乞う者に与えることを許した。この勘合印章をつかさどっていたのが大内氏で、その大内氏が、倭寇の大元締であったなど、随分皮肉に出来ている。大内氏は義弘、義興の時、海賊を糾合して、頻々として朝鮮地方を侵したので、朝鮮王は屈伏して、全羅道から毎年、期を定めて、一定の貢物を大内氏に捧げることとして、その侵略をまぬがれたという記録が遺っている。
さて、いよいよ倭寇の戦闘の様子を書くことにするが、何しろ倭寇の記録は日本側には殆どなく、殆ど全部が支那側、朝鮮側の記録である上に、それが、恐怖を以て観察しているのであるから、誇大の記述が多く、感じだけはうかがわれるが、はっきりと正体がつかまれないのである。
倭寇はよく、長蛇の陣、胡蝶陣をなしたと伝えられている。
長蛇の陣というのは、長蛇の如く蜿々《えんえん》として列《つらな》って行く陣形であろう。「長蛇の陣をなし、前に百脚の旗を輝かし、次《じ》を以て魚貫(魚を串にさしたようにならんで)して行く。最強は鋒たり、最強は殿《でん》たり、中は勇怯相|参《まじ》ゆ」とある。旗鼓堂々として、勇者を先鋒と殿《しんがり》とにそなえ、粛々として縦隊を作って行軍する有様が見えるではないか。
胡蝶陣というのは、三四人の小部隊に分散して、互に連絡をとって離合聚散する様を胡蝶の翩飜《へんぼん》として飛ぶ様にたとえたものであろう。「其兵を用うるや善く埋伏し、しばしばめぐって我軍の後ろに出で、両面を撃ち、つねに寡を以て衆に勝ち、塁を劫かし、華人たやすくその術中に堕つ。その未だ戦わざるや、団結分散、三三五五にして、一人扇を揮うや伏兵四方に起る。これを胡蝶陣という」とあるのが、その証拠である。
また、彼等の行軍の有様をこんな具合に記述している。「毎日鶏鳴に起き、地に蟠りて会食し、食し畢《おわ》れば、隊長は高座に拠り、皆これを囲んでその命令を聴く。隊長は書付を見ながら命令を下す。今日はどこどこを劫かす予定であるとか、誰々は将となれとか、誰と誰と誰とが組み合って隊を作れとか。一隊は三十人ぐらいずつに過ぎない。隊と隊との距離は一二里(支那里)、法螺貝を吹いて合図となし、合図によって互に救援する。また、二三人で隊をつくっている者もある。刀を舞わして横行するに、人これを望みて股慄《こりつ》して遠く避け、領《えり》を延ばして首を授く。薄暮にして即ち返りて、各※[#二の字点、unicode303b]その掠奪した財物を献じて、敢て私匿《しとく》するようなことはない。劫掠将《ごうりやくまさ》に終らんとするや、火をかけて焼き払う。人その酷烈を畏る」というのである。領《えり》を延ばして首を授くなどという所、当時の日本武士の刀術の精妙さと、その精悍さがわかるのである。
倭寇の刀術については、こう書いてある。
「刀の長さ五尺、双刀を用うるものがあるが、これに至っては丈余の範囲を斬ることが出来るわけで、手をのばせば凡そ一丈八尺、舞動すれば上下四方、悉く白く、まるで白虹の渦巻くようで、その人の姿は見えない」
上下四方悉く白くしてその人を見ずなど、どうかと思う形容だが、恐怖の目からはそう見えるかも知れない。また、この記述によれば、二刀流は宮本武蔵より倭寇の方が先輩のわけだ。
また言う。「衆皆刀を舞わして起《た》ち、空に向って揮霍《きかく》す。我兵、倉皇《そうこう》として首を仰げば、即ち下より斫《き》り来る」
遅鈍な支那兵の様子、隼敏な日本人の刀法の精妙、髣髴たるものがあるではないか。
また、倭寇の弓を非常に畏れている。
「その遠く戦うや弓を用う。倭の弓は竹製、長さ八尺。足を以て其|弭《はず》を踏んで張り、立って発す。矢は海蘆(竹の誤りであろう)を以て幹となし、鏃は鉄製、長さ二寸、燕尾の形をなす。重さ二三両。発するに中らざるなし。中れば則ち人立ちどころに倒る」
その服装は――
「戦士は身に甲なく、冬夏ともに一の花布衫《かふさん》あるのみにして、下に短袴を著く。軽捷飛ぶが如し。頭領は間々《まま》、鎖子甲《くさりかたびら》を着くるものあり、尤も精堅にして、製また巧緻」
鉄砲は支那の方がすぐれていたが、その鉄砲を以てしても、倭寇の日本刀の前にはどうすることも出来ないと嘆じている。
「倭、性、殺を好み、一家一人刀を蓄えざる者なく、童にしてこれを習い、壮にしてこれに精《くわ》し。故に短兵相接するは乃ち倭奴の長ずる所、中国の民の敵し難き所なり。その嫌う所のものは火器のみ。然るに、多くの鳥銃手を擁していながら、我々が勝つことが出来ないのは、どういうわけであろうか。外でもない、倭人は戦いに臨んでは命を忘れるが、我兵はこれを望んで輙《すなわ》ち懼《おそ》れ走るために、その鉛子《たま》は地に墜《お》ち、あるいは薬線《やくせん》が法なく、手ふるえ、目くらみ、天を仰いで空しく発するからである」と、大変な悲観ぶりである。
異説もある。
「刀法鳥銃に精にして、槍弓に疎なり」
という記述もある。この説に従えば、鉄砲は上手だが、槍と弓が下手だということになる。
大敵に出会って戦い不利となって退却する場合には、劫掠した金銀財宝を遺棄して、支那兵がそれに目がくれて先を争って拾っている間に、安全な地点まで引上げたり、場合によっては逆撃して破りもした。敵の貪慾を利用したもので、巧妙な戦術である。
以上は、陸戦に於ける場合であるが、水戦ではどうだったか。
水戦は下手だったと言われている。これは、船が狭小であったことが最大の原因であろう。然し、これも、後では大船をつくって立派に戦った。「倭の大船は艪三十六枚、次は二十枚、近ごろ|※[#「門<虫」、unicode95a9]《びん》人あり教えて|※[#「門<虫」、unicode95a9]舟《びんしゆう》を作らしむ」と武備志にある。※[#「門<虫」、unicode95a9]というのは、今の福建地方のことで、この地方の船は、「福船高くして城の如し、人力の駆るべきにあらず」と称せられていたほどで、支那に於て最も堅牢、宏大なものであった。
水戦に拙だと言われながらも、如何にも日本人らしい奇智縦横な戦法を以てしばしば彼を苦しめた。あるいは簾を張った虚舟《からぶね》をつらねて、敵を誘ってその横を撃ったり、潮時を計って戦ったり、竹梯を作って舷側の高い敵船に乗り込んだり――そのために、倭寇は水戦も上手だと支那人に嘆息せしめた。唐詩選を編纂したと言われている李攀龍《りはんりゆう》の詩がある。
胡児|平《たいら》ぐに、倭奴何ぞ平がざる
倭奴水戦に[#「倭奴水戦に」に白丸傍点]利《さと》し[#「し」に白丸傍点]
海を塹《ほり》とし船を城となす
諸軍の|※[#「(士/冖/一/弓)+殳」、unicode5f40]《こう》騎士
馳射、縦横し難し
北虜南倭と言って、明は、建国以来北方からの蛮人の侵入と、南方の倭寇に苦しんでいたのである。この詩は北方の蛮人は平いだのに倭寇は益※[#二の字点、unicode303b]猖獗となって行くと嘆じたものである。もっともこの詩は、倭寇が※[#「門<虫」、unicode95a9]人から造船術を習った後のものかも知れない。
倭寇の前期後期
倭寇は嘉禄元年(一二二五)に肥前の松浦党の武士が朝鮮半島を侵してから、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代を経て、慶長十四年(一六〇九)に至るまで、四百年に近い間続いているが、足利義満が明王の依頼を受けて禁圧につとめた時を境として、大体二期に分けることが出来る。
前期の特徴としては、倭寇と南朝との結びつきが挙げられるし、後期の特徴としては、倭寇に支那人が加入しての、即ち偽倭の横行が挙げられる。
南朝の勢力範囲は、奥州、近畿の一部である、伊賀、伊勢、紀伊、大和、河内、摂津、和泉等の地方、肥後を中心とする九州の一部だ。互に相へだって、途中を北朝方の地盤で断ち切られている。この連絡はどうしても海路に待つより外はない。そこで、北畠|親房《ちかふさ》は、紀州や瀬戸内海の海賊を幕下に招いて、南朝方の諸国の連絡にあたらせると同時に、北朝方の貢米船を襲わせたりなどして、これを苦しめた。海賊である以上、勿論支那にも出かけてバハン働きをしたに相違ない。
親房の招きがなくても、当時の海賊には南朝方の武士が多かったろうことは十分に考えられる。なぜなら、北朝方と南朝方とくらべれば、南朝方は日に日に勢がちぢまって行く形勢だったから、南朝方の武士には所領を失った武士が多かったはずである。
前に伊予の海賊衆村上氏のことについて少し述べたが、村上氏は海賊大将軍と名乗って瀬戸内海の海賊を統率していた。この村上氏に山城守|師清《もろきよ》という男があるが、これは元来、北畠親房の長男、顕家《あきいえ》の子で、村上家に養子に入ったのであるということだ。
征西将軍の懐良《かねなが》親王が九州の太宰府にいられた頃、わが正平二十四年のこと、支那では元が亡びて明の太祖が位についた翌年であった。明から親王の御許へ使者をつかわして、即位を報じ、また、倭寇を取りしまってほしいと頼んで来た。懐良親王はその書辞が甚だ尊大不遜であるのをお怒りになって、その請を容れずに追い帰された、ということが伝わっているが、一面の理由は倭寇の中には多く南朝方の者がいるので、これをお退《しりぞ》けになったものであろう。
懐良親王には、またこんな話が伝わっている。
日本の天授六年、明では洪武十三年、明の宰相|胡惟庸《こいよう》という者がひそかに叛をはかり、日本の力を借って事を遂げようとした。胡は先ず寧波《にんぼう》の衛指揮林賢と深く交りを結んで、わざと賢に罪名を附して日本に放逐した。賢に日本の九州にわたって、懐良親王の幕下の人々と親しく交りを結ばせた。間もなく、胡惟庸は明主に奏請して、賢の罪を許し、その官職を復して、ひそかに書を日本に出させて、日本の援兵を借らせるようにした。懐良親王は、これを承諾し僧|如瑶《じよよう》という者をつかわし、兵四百人を率いて、詐って入貢と称して、大燈台を献じ、その蝋燭の中に火薬や刀剣をかくして置いて、明王の前に於て取出して事を挙げようと約束なされて、兵をつかわされたが、兵が彼地についた時には事すでに露見して、胡惟庸が捕えられて斬られていたので、事は未遂に終った。
以上は、明史藁《みんしごう》に記すところであるが、この時、懐良親王は薨後、已《すで》に四年を経ているのだから、多分、御子の良成王であったろうと考えられる。とかく、この話は、南朝と倭寇との密接な関係を雄弁に物語るものであろう。
倭寇の中に支那人が入っていることは、支那側の記録に、「賊中皆華人、倭奴は十の一二に直《あた》る」とか、「大抵真倭は十の三、倭に従う者十の七」とかあるのを見ると、日本人より支那人の方が多かったのだ。支那人ばかりの団隊もあった。これを土倭子と言った。皆、月代《さかやき》を置いて、日本流に結髪し、日本人の服装をしていたのである。倭寇は随分残酷な行為をしているが、その大部分はこの偽倭や土倭子の連中がやったらしいといわれている。その証拠となるべき真倭の颯爽たる行為は後段で説明する。
偽倭の中で最も有名なのは王直と鄭成功の父鄭芝龍である。
王直は明の海賊で、本国を逐われて、わが五島《ごとう》を巣窟として、部下千余人を養って、倭寇の許二という者と結んで、海賊と貿易とを行《おこな》っていたが、後に平戸の松浦隆信に招請せられて平戸に移った。天文十年のことだ。隆信は王直を待つに貴賓の礼を以てして、宮の町の勝尾岳に居らせた。今では印山寺屋敷と言っているそうだ。王直はここに宏壮な城郭を築き、出入に威儀を整えて宛として王侯のような生活をして、自ら徽《き》王と称していた。明の歴史に、王直三十六島を領し倭人悉くその命令を奉ずとあるのは、つまり三十六の倭寇団隊と関係を持っていたと解釈すべきであろう。王直はわが国の弘治二年、嘉靖《かせい》三十五年、|浙※[#「門<虫」、unicode95a9]《せつびん》総督の胡宗憲という者にあざむかれて帰国し、捕えられて獄中に殺された。王直の死については、王直をだまして連れて帰った蒋州という男が、いろいろな行き違いから賞を貰うどころか、却って投獄されたり、胡宗憲が失脚せんとしたり、その他いろいろと面白い話があるが、長くなるから割愛する。王直は五峰舶主とも号していたが、それは、はじめ五島を本拠地としていたからである。
鄭芝龍は王直が殺された頃、平戸に来た。芝龍は福建泉州の庫吏の子で、十八歳の時、父の妾と恋に落ちたので、逐われて日本に渡り、平戸に居住していたのである。この頃は志も小さく、仕立屋を営んでいたが、やがて、倭寇団と結託して、海賊の大首領となった。日本人田川氏をめとって、その間に生れたのが、国姓爺《こくせんや》と呼ばれる鄭成功である。芝龍の終りのよくなかったことは、人のよく知るところである。
有名ではないが、李馬鴻という男がいる。この男は、シオコ(恐らく庄五ならんという)という日本人と組んで、六十二隻の大海賊艦隊を率いて、南洋地方を荒し廻って、盛んに西洋人と戦った。その艦隊には、水夫二千人、兵士二千人、女子千五百人の外、多数の工芸職人を乗せていたという。わが天正年代の頃のことである。
其の他、徐海、陳東、葉宗満、徐惟学、王汝賢、王傲など、皆倭寇と結んで自分の国を荒した兄貴《あにい》連である。
倭寇の奮戦
挙げて行けば数限りないから、四つだけ挙げる。
嘉靖三十三年はわが天文二十三年だが、この時の倭寇は最も大仕掛であった。これには前述の王直が関係している。先ず船が大袈裟だ。方一百二十歩、二千人を容れ、船上、城と楼とを立て、船上、馬を走らせることが出来たというのだ。真倭としては、後門太郎次郎、四助四郎などという人々が関係している。兵数凡そ七千人。
四月に崑山《こんざん》県を攻め、蘇州府を囲み、常熟《じようじゆく》に向って去り、五月にはまた来て蘇州府を攻めたが、守りが固いので、去って二手に分れて、一番手は張家橋から、二番手は北新橋から水陸並び進んで、滸墅《こしよ》を焼劫し、三番手は花園村から、横塘《おうとう》、横山《おうざん》等の村々を焼劫した。
この時、蘇州の太守は出でて救おうともせず、ローマの焼けるのを見て竪琴《たてごと》を弾じて詩を作ったというネロ帝気どりで、城壁上に上って酒を飲んで、炎々として天を焦す火を眺めて楽しんだので、当時の人は詩を作ってこれをそしった。
城頭坐擁肉食の人
火に対して杯を銜《ふく》んで春を賞するが如し
というのが、その一節である。
倭寇はここから石湖に入り、太湖に入り、洞庭山を襲ってから引上げた。
この時、こんな美談が伝えられている。
「嘉靖甲寅、倭、洞庭の、東山周湾に至り、喪服の一少婦を見て、之を駆らんと欲す。婦懇ろに曰う、人皆奔り避く、我れ夫の喪に在るの故を以て独り死守す。刃もとよりこれを甘んず。ただ嬰児あり、また、姑《はは》ありて老病にして養う者なしと。倭、義として之を許す」
盗みはすれど非道はせずといった心意気が、真倭らしい。
翌年、三十四年初秋に、杭州に上陸した倭寇はわずかに六七十人の小部隊だったが、最も深く内地に侵入して、南京城まで行っている。彼等は銭塘江を遡って会稽に到って焚掠《ふんりやく》を逞しゅうし、浙江省から安徽省に入り、到る所の関門を破り、守兵を蹴散らして、二ヵ月ばかりかかって南京城に到着した。南京では、この小人数に対して恐れをなし、十六の城門を堅く鎖ざして、出でて戦おうとする者がなかった。倭寇の隊長は南京城の正門の前でしきりに示威運動をやった。紅衣を着、蓋馬(よろいを着せた馬)に騎《の》り、衆を率いて、東より西へ、西より東へと横行闊歩したが、城中寂然として指目しているだけであった。
彼等は、城の守備の堅固なのを見て、立去ったが、土人の案内者に欺かれて道を迷って沢中に陥った所を、明の大軍に攻撃せられ、奮戦十五日間を経て、一人残らず壮烈なる最期を遂げた。
支那側ではこう記録している。
「この賊、六七十人に過ぎず、杭、厳、徽、寧を流劫して太平に至り、南京を犯し、数千里を行き、殺戮及び戦傷するもの無慮四五千人、八十余日を経て始めて滅す」
こうも言っている。
「嗚呼《ああ》、この賊五十三人を以て、八郡を馳突《ちとつ》し、転戦三千余里、過ぐる所、皆焚掠せず、婦女を淫せず、ただ敵するもののみこれを殺す。これ、その志、知るべきなり」
多分、軍事探偵だろうというのであるが、それはどんなものだか。ここに賊五十三人とあるのは前の記録の六七十人というのと矛盾するが、恐らく、次第次第に討たれて、最後に囲まれた時の人数であろう。
この倭寇は勿論、一人残らず真倭であったに相違ない。無謀なくらいの勇敢さ、最後のいさぎよさ、規律の厳正さ、断じて偽倭ではない。
その翌年の三十五年に倭寇は浙江省の桐郷を囲んだ。この時の倭寇には、支那人としては徐海が大将株の一人として関係しているし、防ぎ手の方には王直を誘殺した胡宗憲が討倭都督となっている。
包囲は一月の二十二日にはじまった。
この桐郷城は、周囲千二百丈、高さ二丈八尺、厚さ二丈六尺、濠は広さ六丈、深さ一丈五尺あった。
二十三日、倭寇は先ず一舟を濠に浮かべ、更に一舟を覆してその上にのせ、その中に入って矢石を避けて、中から弓砲を連発した。こんな船の数、数十。城では巨石を投げ下してこれを破った。
二十四日、倭寇は車仕掛の撞木《しゆもく》のようなものをこしらえて、城壁を突き破ろうと試み、城壁殆んど破れたが、城中では、大綱で|わな《ヽヽ》をこしらえて撞木をからめつけてこれをこわして、危く破壊を免れた。
二十五日、寄手は大船を濠に浮かべ、その上に小楼をこしらえ、城壁をこえるばかりの高さとして、この上に登って城に入ろうとしたので、城中では急に鉄を熔かした汁をそそぎかけてこれを焼いた。
二十六日、寄手は銅将軍というものを曳いて来たので、城内では仏郎機《フランク》(大砲)を以てこれを撃ち破った。銅将軍というのは、今の戦車のようなものではなかろうか。
こういう具合に、先ず千早城の攻守と同じようなことが行われたが、なかなかうまく守るので寄手では攻めあぐんで、長囲の計を取った。ここで、胡宗憲は例の奥の手を出した。王直をだました手で、徐海をだまして帰服させて殺したので、囲みは月余にして解けた。この胡宗憲の誘殺の手は、王直の方が一年後口である。
四十一年には温州に入って、興化府城を囲んでこれを陥れた。この城は福建州中の重鎮で延袤《えんぼう》十一里、周囲千八百三十丈、天険に拠って、塁壁高く、濠深い要害な城であったが、倭寇は攻囲すること月余、たまたま、南京の都督劉顕から城中につかわした密使を捕えたので、その衣服を剥ぎとって味方の者に着せ、偽手紙を作って、「某日某夜某時、劉将軍は兵を率いて潜かに城に入るであろう」と申し送って、その期に至って、まんまと城中に乗りこんで、これを陥れた。
この時まで、衛所城が倭寇のために陥ったのは何百というほどあったが、府城の陥ったのはこれがはじめてだったので、報を聞いて、遠近震恐した。
これほど、猛烈であった倭寇が次第に衰えたのは、明《みん》に、戚継光《せきけいこう》とか兪大猷《ゆたいゆう》とか言うような名将が出て、よく撃退したにもよるが、日本内地における統一事業が信長や秀吉の手によって着々と進められて、不逞の徒の介在を許さなくなったのが大いに原因している。秀吉は度々ばはん禁制をふれ出している。然し、慶長年代までは、微弱ながら倭寇があったことは、記録によって明らかだ。
皮肉は秀吉の征明事業だ。秀吉が明を征伐しようとしたのは、通交を求めたのに、それを拒否されたのを怒ったのである。倭寇が貿易拒否によって起ったのと、その原因は同じだ。秀吉の征明は最も大仕掛な倭寇ということが出来るであろう。
倭寇と文学
倭寇によって掠奪せられて来た支那人の生活が、謡曲や狂言に記述されていることは前に述べたが、四百年に近い長年月、毎年多くは七八回も倭寇は侵入しつづけて来たのだし、倭寇の中には支那内地に定住した者もあったし、日本の歌が長く彼地に遺《のこ》って、そのままに、あるいは漢訳されて歌われたという。
いとしの殿や
おいとしの殿や
とまれ弓楯《ゆだて》よ
箭筒《やづつ》は戴かうに
十五夜の月は宵に曇れ
暁 冴えよ
殿御 戻そよや
十七八と寝て別るるは
ただ浮草の
水離れよの
十七八は再び候《そろ》か
枯木に花が咲き候《そろ》かよの
嶺の松山
さざら浪
博多まで
君と我とは
千世をふるまで
荒々しい倭寇どもが、酒気を被《こうむ》って一たび往けば還らざる気を以て歌うのである。悲壮、悽※[#「りっしんべん+宛」、unicode60cb]、腸を断つの響きがあったろう。
嘉靖年間に、倭寇が紹興府から曹娥《そうが》江に赴く途中に作った詩がある。
渺々茫々、浪、天に溌す
霏々払々、雨、煙に和す
蒼々翠々、山、寺を遮る
白々紅々、花、川に満つ
整々斉々、沙上の雁
来々往々、渡頭の船
行々坐々、尽くるなきを看る
世々生々、話伝を作《な》す
天は泗水に連つて、水は天に連る
煙は孤村を鎖《とざ》して、村は煙を鎖す
樹は藤蘿《とうら》を繞《めぐ》つて、蘿は樹を繞る
川は巫峡《ふきよう》に通じて、峡は川に通ず
酒は酔客を迷はして、客は酒に迷ふ
船は行人を送つて、人は船を送る
支那音で歌えば、音調の面白さがあるのだろうが、漢文読みして意味だけとってみると、一向面白くない詩である。しかし、戦国乱離の時代、これほどの文字の操れるのは珍重すべきだ。もとより武士ではない。恐らく、倭寇の中に入っている僧侶の作であろうということだが、そうに違いない。
倭寇を詠じた支那人の詩は汗牛充棟、箕《み》ではかるほどあるから、言わない。
結 び
倭寇は、詮ずる所、戦国のあぶれものに過ぎない。決して、日本にとって名誉とすべきものではない。しかし、ただ一点、日本国王臣源道義などと名乗って明に臣称して、堂々たる室町《むろまち》将軍が国威を損ずること甚だ大であった時代にあたって、剽悍勁烈、男性的意気を発揮した点は買ってやるべきであろう。
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[#見出し] 義経と弁慶
一
民衆は自分らの愛している英雄を死なせたがらない。生きていさせたいという気持、生きていてほしいと思う気持が、いつか生きているということになる。義経はその代表者である。
義経以前には鎮西八郎為朝が伊豆の大島で死なずして琉球にわたって尚《しよう》王家の祖舜天王の父となったという伝説があり、以後には朝日奈三郎が和田合戦に死せずして朝鮮に渡ったという説があり、豊臣秀頼が大坂落城の時、木村重成、真田幸村らとともに薩摩にのがれて残生を全うしたとの伝説があり、大塩平八郎が大陸にわたって太平天国の主|洪秀全《こうしゆうぜん》となったという説があり、河口雪蓬と名をかえて沖ノ永良部《えらぶ》島に潜伏しているうち、ここに流謫《るたく》せられて来た西郷南洲と知り合い、後年西郷家に寄食して、西郷の子供らの家庭教師となり、明治になってから鹿児島で死んだという説があり、最近では米大陸にわたってそこで天寿を以て終ったという説まで出て来た。
西郷南洲もまたそうだ。城山に死せずしてロシアにのがれたという説が出来、明治二十四年にロシアの皇太子が日本に来る時同行して来るとのうわさが立って日本中大騒ぎしたことがある。
最も真近くは、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースだ。彼はこの大戦争中日本の援助のもとに印度独立軍を組織し大いに奮戦したが、日本軍の敗戦直後、日本を経てソ連に潜入するため、サイゴンを飛び立った。しかし途中、台北飛行場で飛行機の事故のために死んだのであるが、今日に至るまで印度の民衆は彼の死を認めようとせず、いつかボースがかえって来るとかたく信じきっているので、インド政府は決してこのことに触れようとしないと聞いている。
山下奉文が軍事裁判によって処刑された当時、山下大将ほどの人をアメリカがむざむざと殺すはずはない、死刑にしたことにしてどこかにかくまっているのであろうとの説をなす人々の少なくなかったことは、人々の記憶に新しいことであろう。
非命にして死んだ英雄を愛惜し悲しむ民衆の感情がそうさせるのだ。これを「英雄不死伝説」といって、いつの時代にも、またどこの国にもある現象である。これらの諸伝説はほとんど全部が信ずべからざるものであるが、二・二六事件の時の岡田首相のように、殺されたとばかり報道され、またそう思われていた人が、女中部屋の押入れかなんぞで熱かんで一ぱいやっていた事例もあるのだから、正統派の歴史家の説くところだけを信ずるわけに行かないのは、当然の感情であろう。
二
「判官びいき」ということばさえあるくらいで、義経ほど日本の民衆に愛せられた英雄はない。その数奇《さつき》な生い立ち、成年後のはなやかな戦闘ぶり、末路の悲惨さ、その生涯はさながらに大ドラマだ、いやがおうでも人の涙をしぼらずにおかないように出来ている。そのため民衆はくりかえしまきかえし、彼の最後の運命を創作した。大抵の英雄の末路ブームは一回でおわるが、彼には今日まで少なくとも五回おこっている。
最初は江戸中期だ。この時代には、義経衣川に死せずして蝦夷地(北海道)にのがれたという説であり、第二次は中期の末で北海道から北海をこえて大陸に入り、その子が金《きん》の将軍となったという説になり、第三次の幕末から明治にかけては清朝の祖となったという説になり、第四次は大正年代にジンギス汗即ち義経の後身であるという説になり、川端竜子画伯などはこの大戦中これにモチーフを得て、日本の甲冑をつけて駱駝にまたがるジンギス汗をえがいて発表した。第五次はつい近頃だ。推理小説家の高木彬光氏が「成吉思汗の秘密」という題名の小説を書いて発表してから、また一部に再燃した。
おどろくべきことだ。義経がいかに日本人に好まれ、愛惜されている英雄であるかがわかるのである。
高木氏の「成吉思汗の秘密」は小説ではあるが、天才的な推理力を持つ法医学者神津恭介がジンギス汗義経説を持して、東大史学科の助教授井村梅吉博士とわたり合う議論の応酬が興味の中心をなしているだけ、古来の説を実に丹念に集めている。全然漏らすところがない。作者としての用意のほどを感心させられるのであるが、この問題については神津氏の天才を以てしても推理力だけでは解決がつかず、神秘的な輪廻《りんね》説を以て結末をつけている。
ずいぶん苦しい結末のつけ方だが、正統史学の人々に言わせれば、これはしかたがない、神津恭介君ははじめっから無理な仮説の上に立っている、というであろう。
三
義経が兄頼朝の怒りに触れて追捕《ついほ》をこうむるようになったので、諸所にかくれ忍んだ後、身のおき所ないままに北陸路を経て奥州平泉を志し、藤原秀衡に身を寄せたのは、文治三年の二月であった。
秀衡は、義経が少年の頃鞍馬の僧院を脱して自分をたよって来た時から頼朝挙兵の報を得て馳せ参ずるまでの間、これを保護した因縁があるだけでなく、近頃では平家討滅後頼朝の勢威が隆々と上って来て、やがては自分の王国である奥羽の独立もおびやかされそうな予感がしていたので、義経の来投を大いに喜んだ。鎌倉との間の平和が破れた場合、義経の軍事的天才が大いに役に立つであろうと思ったのだ。
秀衡は義経を衣川の館におき、心をつくして待遇した。
ところが、その年の冬十月二十九日、秀衡は病死した。死にのぞんで、彼は長子泰衡らに、
「伊予守(義経)殿に疎略を存してはならんぞ。われ亡きあとは、この殿を大将軍と仰ぎ、戦さのことはもとよりのこと、政治上のこともさしずを受けるようにするがよい。この殿がおわすかぎり、わが家は安泰でいることが出来ると思え」
と、くれぐれも遺言した。
泰衡はじめ遺子らは、皆この遺言を奉じて、よく義経につかえた。
一方、頼朝は義経が平泉藤原氏に身を寄せていると知った時から、京都朝廷をつついては、早く義経を討ち取ってさし出せ、叛逆人義経を庇護するにおいてはその方も叛逆人と見なすぞというような院宣や庁宣を平泉に送らせたのであるが、秀衡が死んだと聞くと、一層馬力をかけた。吾妻鑑によると文治四年だけでも三度院宣が泰衡につきつけられている。頼朝自身も直接の使者をさし立てている。泰衡の心はようやく動揺しはじめる。
泰衡のこの動揺は、頼朝の威嚇におびえたためでもあるが、一つには義経の勢威があまり大きくなったので、
「うかうかしていると、ひさしを貸しておも屋をとられる阿呆なことになりかねないぞ」
と、泰衡が不安になったためでもあるようだ。
「義経記」はずっと後世に出来たもので、あてにはならない書物だが、全部がウソというわけではない、他書にないいい材料もあると、「大日本史」でも言っているが、その「義経記」の中に泰衡の郎党が、義経が泰衡の弟である泉ノ三郎忠衡と心を合わせて謀反をくわだてているとの風評があると告げたので、泰衡は安からぬことに思って、泉ノ三郎を夜討ちして殺したと書いてある。
泉ノ三郎が泰衡に殺されたのはこの時ではなく、義経が殺されてからのことではあるが、吾妻鑑にも「忠衡は義経にくみしていた」とあるから、多少なり泰衡を不安がらせるようなところが、義経の行動にあったと思われる。
とにかくも、文治五年閏四月三十日、泰衡は兵数百をひきいて、衣川の館におしよせた。義経は郎党を指揮し奮戦したが、衆寡の勢いはついに敵せず、戦いやぶれたので、持仏堂に入り、二十二歳になる妻と四歳になる娘とを刺し殺した後、三十一歳を一期《いちご》として自殺した。
この妻は坂東武士川越重頼の女で、頼朝の世話でもらった、義経の正妻であった。義経はこれを京都から陸奥まで連れて来たのだ。にせ山伏になってのこの旅の間、妻は稚児に変装していたのだが、妊娠中であった。娘はその時の子だ。
泰衡は義経の首を頼朝の許におくることにしたが、ちょうどこの時、頼朝は鶴ガ[#カナ小書き]岡八幡宮内に亡き母の供養のために塔を建て、その祭典の日を六月九日に予定し、一切の準備がととのっていたので、使いを出して、首は塔の供養がすんでから鎌倉に到着するよう持って来いと言ってやった。そのため、首は、討たれてから四十三日目の六月十三日に、泰衡の使者新田ノ冠者高平がたずさえて、腰越に到着した。
頼朝は和田義盛と梶原景時とを検分役としてつかわした。二人は鎧直垂をつけ、甲冑した従者二十騎ずつ従えて腰越におもむいた。
首は黒漆塗りの櫃《ひつ》に美酒をみたして浸してあった。
二人は検分して、
「たしかに前伊予守殿のみしるしに相違なし」
と認めて、頼朝に報告した。
これが正統派の歴史家の説く所であるが、義経の死をおしみいたむのあまり死なしたくない人々が先ず目をつけたのは、首の運搬に暑熱の候四十三日もかかっているという点であった。
「いくら美酒に浸してあったにしても、腐爛してくずれないはずはない。どうして義経の首であると誤らず認定することが出来ようか」
というのである。当然のこととして、
「義経衣川に死せずして、蝦夷地へのがれた」
という説が出て来た。
この説が最初に中央にあらわれたのは、徳川四代の将軍家綱の半ばから八代吉宗の治世の半ば頃までの人である馬場|信意《のぶのり》(京都の人、武田家の名将馬場美濃守信房六世の孫で、町学者だ)の「義経勲功記」と、同じ時代の加藤謙斎(京都の町医者で町学者)の「鎌倉実記」からである。
この両書は史書というより小説と見た方が適当な書であるが、最もまじめな史書である大日本史にも、義経列伝の末尾にワリガキして、
「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或はその故あるなり」
と記している。
しかし、現代の正統派の歴史家達は、こう反駁するのだ。
「梶原景時を検分役の一人としたところに、頼朝の用意がいかに周到であったかを見るべきである。頼朝麾下の東国武士の中で、景時ほど義経となかの悪かった者はない。その景時が義経の首と認めて復命したのだ。見あやまりのあろうはずはない」
ぼくもそう思う。首は腐敗していたかも知れないが、識別のつかないほどではなかったろうと思うのだ。景時と義経との間には深い怨恨と憎悪がからんでいる。一点でも怪しい点があったら景時がそれを頼朝に報告しないはずはないのである。
少なくとも、義経偽死説は、首が識別出来ないほど腐爛壊損していたろうという仮定の上に立っての推理だが、こちらは景時の義経にたいする憎悪という既定事実の上に立っている推理だ。
また、義経偽死説の人々は、義経の首が到着した十一日後には、早くも頼朝が平泉征伐の計を立てて、将士を会して軍議し、追討の院宣を乞い、朝廷が「泰衡すでに義経を討ってその首を頼朝に献じた以上、頼朝に降伏したのであるから、これを討つの理なし」とて、院宣を下さなかったところ、「兵事に将軍の命を聞いて詔を聞かざるは古来例あることである」と、京都には届け捨てにして大軍をくり出して陸奥に向ったことを挙げて、これは義経の首と称して届けて来たのが贋首らしかったので、頼朝は不安を感じて征伐を急いだのであるという。
これにたいして、今の正統派は言う。
「平泉征伐は頼朝の意志であった。当時の奥羽地方は平泉藤原氏によって統治されている独立王国ともいうべき地域であった。天下統一を以て念としている頼朝にとって、その存在は許容しておけるものではなかった。いずれはこれを討平《うちたいら》げようと思っていたのだ。ただ義経がその軍事的天才を以て藤原氏の大軍をひきいて戦うことをおそれて、猶予していたのである。その義経がなくなった以上、もはやためらわねばならない理由はない。時をうつさず討伐にとりかかったのは、最も当然なことである」
ぼくにはこの両説の当否如何より、同じ材料からまるで正反対の結論が出て来るところに興味がある。
かつてぼくはある人が大石良雄をダラ幹であるときめつけて、その論拠を色々と示している史論を読んで、
「ぼくはここに使われている同じ材料を使って、大石良雄は最も見事な忠臣であったという結論を導き出すことが出来るな」
と、笑って友人に語ったことがある。歴史上の議論にはそんなことが少なくない。この問題などもそれだ。
歴史上のことは物理や化学とちがって、同一条件をそなえておいての実験が出来ない。推理だけに頼らなければならない場合が多いのであるが、この推理というやつほど頼りないものはない。仮説の立て方で白にも黒にもなるのだ。つまり、史論の結論は最初から論者の胸中にきまっている。論理はあとからさがされるのである。
だから、史学は科学より文学に近いのであり、文学より哲学に近いものだとぼくは思っている。
四
青森県や岩手県の各地には、義経の遺跡と称する土地が多く、それぞれにおもしろい伝説がのこっていて、これがまたその土地土地の人や、義経不死説の人々に、義経衣川に死せずして蝦夷地にのがれたとの信念を強くさせている。
前章で引いた大日本史の義経伝の末尾にアイヌ人が今に至るまで義経を神として祀っているとあるのもその一つだ。
やはり元禄時代を中心にして、その前後にかけて生きていた人である新井白石の「蝦夷志」に、
「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミといい、飲食する毎にいのりをささげている。(原漢文)」
とあるのも、先ず先ずそのことが心中にあるのであろう。
しかし、この反駁は高木彬光氏が「成吉思汗の秘密」の中で、井村梅吉博士に語らせているところが、最も要を得ているから、要約して左にかかげる。この説はたしか言語学者の金田一京助博士の説だったと記憶している。
「戦国時代から江戸時代の初期にかけて、奥羽地方には吟遊詩人ともいうべき人々が存在していた。この人々は義経の一代記を、たとえば平家物語を語り歩くめくら法師の如く、拍子に合せて各地を語り歩いた。今日『仙台浄瑠璃』とか『奥浄瑠璃』とかいわれているもののもとだ。
この人々の語る物語と、民衆の心の底にある英雄不死の信仰とがあいまって、各地に義経の史蹟を生み出した。ちょうど熱海にお宮の松があり、逗子に浪子不動があるようなものだ。しかも、この奥浄瑠璃は津軽海峡をこえて北海道に入り、アイヌ人の間にもひろまった。アイヌがオキクルミを義経様であるというのは、彼等の本来の神であるオキクルミと義経とが、いつの間にか習合したのである云々」
というのである。
要するに、義経衣川に死せずの説を持する人々が、その議論を発展させて、
「義経は北海道に渡った。その証拠には奥州の各地に衣川の戦い後の義経の史蹟がのこり、北海道のアイヌの間に義経の英雄談がのこり、神として尊崇されているではないか」
と主張するのにたいして、反対者側では、史蹟も、伝説も、アイヌ人の間にのこる信仰も、すべて奥浄瑠璃によって生じたとするのだ。
ぼくは奥浄瑠璃説に軍配を上げたい。伝説というものは多くの場合、こうして発生する。たとえば小野小町や和泉式部にまつわる伝説の土地が全国に多いが、それらは小町物語や式部物語を語って歩いたゴゼのような人々によってまき散らされ、植えつけられたのだと考えられている。
しかしながら、これとても推理にすぎない。動かない証拠があるわけではない。義経衣川に死せずして北海道にのがれたという説には、一〇パーセント位の可能性は認めてよいかも知れない。
現に、吾妻鑑に、平泉藤原氏が頼朝に亡ぼされた後、泰衡の部将であった大河兼任という者は、泰衡の亡ぼされた年の冬から、あるいは伊予守義経、あるいは木曾義仲の子旭ノ冠者義高であると称して兵を募って、数ヵ月の間幕府の軍勢に反抗していることが出ているのだ。ひょっとすると、義経は生きのびて蝦夷地へのがれたのかも知れない。肯定にも否定にも決定的なキメ手はない。否定説の推理の方がやや巧妙に見えるというだけのことである。
五
前章に引いた新井白石の文章のつづきに、またこうある。
「蝦夷地の西部の地名に弁慶崎というのがある。一説によると、義経はここから北海を越えて去ったと。寛永年間に、越前の新保の人が難船して韃靼《だつたん》の地に漂着した。その年は癸未寛永二十年であった。清の皇帝はその人を連れて北京に入り、一年余とどまらせてから、勅して朝鮮におくり、朝鮮から日本に送りかえさせた。その者がこう言った。『奴児干部《ヌルカンブ》(満洲吉林の東部から露領沿海州に至る地方)の人家の門戸には神像をかかげてあったが、それは北海道で見る義経の画像に似ていた』と。なんとめずらしい話ではないか。(原漢文)」
さすがに白石ほどの大学者であってみれば、軽率に断定はしないが、一応の色気は見せている。
前にあげた「義経勲功記」や「鎌倉実記」はこの時代のもので、やはり義経が蝦夷地から大陸にわたり、その子孫が清朝の祖となったという説であるが、その他にもそう主張しているものはある。それは経済雑誌社の「大日本人名辞書」の源義経の項に、手際よくまとめてあるから、それを布衍《ふえん》しながら述べよう。
その一つはこうだ。
ある古老の談に、徳川時代の初め、鄭成功が支那の南方に拠って明朝を護《まも》って大いに清朝を苦しめた頃、清朝では成功の母は日本人なので、その縁によって日本政府が鄭氏を援助するかも知れないと心配した。事実、鄭成功は幕府に援助を乞い、三代将軍家光は諸大名を集めてそのことについて相談までしているのだ。
清朝では心配のあまり日本に使者をつかわし、わが清朝の皇帝は貴国人の末裔であるから、親しく隣交を結びたいと、文書礼物をそなえて幕府に贈り、これはわが祖先の着用したもので伝家の重宝であるが、前言を証するために贈るとて、古い日本製の鎧の草摺一ひらを添えてよこしたという。この草ズリと文書は久しく幕府の庫に秘めてあったが、明治になってから徳川家から宮内省へ献納したという。
その二つはこうだ。
森助右衛門という人の「国学忘貝」という書の中にこうある。
「清国で編纂した『図書集成』という叢書は全部で一万巻ある。宝暦十年に清人|汪縄武《おうじようぶ》なる者が持って来たのを、明治元年に幕府の文庫におさめた。その叢書の中に『図書輯勘』なる書が三十巻ある。それに清の乾隆帝の序文がついている。その文はこういうのだ。
『朕ノ姓ハ源、義経ノ裔ナリ。ソノ先ハ清和ヨリ出ヅ。故ニ清国ト号ス』」
ところが、ここのことを桂川中良(十代家治、十一代家斉の頃の人。蘭医)がその著「桂林漫録」の中でこう言っている。
「自分はかねてから、『国学忘貝』に言う所の『図書集成』中の『図書輯勘』なる書を見たいと思っていたところ、この頃兄桂川甫周が幕医であるお陰で見ることが出来たが、『図書集成』の中には『図書輯勘』なる書はない。総目録を検しても見当らない。従って、乾隆帝自筆の序文などあろうはずなし」
その三はこうだ。
沢田源内という人物が、「別本金史外伝」なる書を見つけ出したと言い出した。その書中に、
「範車大将軍源光録ハ、日東ノ陸華山ノ権冠者源義経ノ子ナリ。其ノ先《せん》義経蝦夷ニ奔リ、土人ヲ領シ、金ニ至リテ帝宗ニ事フ。帝宗詔シテ光録太夫ニ命ズ。大将軍ニ累任シ、久シク範車城ヲ守リ、北方ヲ鎮ス云々」
とあるので、世間はさわぎ出したが、これは享保頃の学者である篠崎東海が偽書であることを看破して、沢田源内を面責屈服させたということが、東海の著書「東海談」にある。
その四は明治になってからのことだ。
ある者が、伊藤|蘭嵎《らんぐう》(仁斎の第五子、紀州藩儒)と智景耀という坊さんの書いたものの中に、
「明和三丙戌五月、新渡ノ図書集成第六百套九千九百九十六巻中ニ輯勘録三十巻有リ。第三十ノ序ニ云フ、乾隆皇帝述ブ、我ガ姓ハ源、義経ノ裔、其ノ先ハ清和、姓ハ源、故ニ国ヲ清ト号ス(原漢文)」
とあるのを写して、当時の儒者の団体であった斯文《しぶん》会に提出して、
「清国と善隣の交りを結ぶようになった今日、この点が明らかになれば、まことに工合がよい。よろしくお調査を請う」
と頼んだ。斯文会の蒲生重章、大学の漢学教授であった人であるが、早速に当時の清国公使黎庶昌に質したところ、その返事はこうであった。
「わが皇上の先祖は金源の後に出ている。貴邦の源氏とは関係ない」
大体以上でつきるのであるが、いずれも何よりも信じたい、そうあってほしいといった心持があふれていることが感ぜられる。
六
以上述べて来た通り、明治年代までは、義経は清朝の祖となったという説だけで、まだジンギス汗説は出て来ないが、大正年代になって、小谷部全一郎という人が、「成吉思汗は源義経也」という書物を出した。
この書物の説く所は、当時の史学者から総攻撃を受けたが世間では大好評で、天皇もごらんになったということである。
小谷部氏は自ら蒙古地方に行って何年か調査した後、この説をなしたのであった。その説の詳細は、今手許にその書物がないのではっきりとは述べられないが、昔読んだ記憶をたどると、蒙古の人情風俗が日本の鎌倉時代と似たものがあること、蒙古の伝説ではジンギス汗は外国人であったと言われていること。彼の性格が非常に鎌倉武士的であること等を上げて、そういう結論に達していたようであった。
たとえば、ヤブサメなども蒙古ではこれをヤブサメルといって、騎射の術のことを言うとか、笹竜胆《ささりんどう》の文様があるとか、というようなことをあげていたように記憶している。
蒙古の習俗が日本の習俗に似ていることは、多少なり蒙古のことを調べたものにはよくわかる。ドーソンの蒙古史によると、蒙古人は衣服の色は白を最貴とするとある。これは東洋民族の中で、日本人と蒙古人だけである。中国なぞでは白は凶色として、喪服以外にはつかわない。またシメナワ類似のものを祭時には使うという。即ち紐の所々に羊毛をはさんで垂らし、これをはりめぐらすのであるという。新年には各部族の長が白馬を大首長に献上するというが、これは江戸時代まで京都御所で正月七日に行われていた白馬の節会(アオウマのセチエとよむ)に似ている。まだ色々とあるが、これは日本人と蒙古人とが系統を同じくする民族であるという旁証にはなっても、ジンギス汗と義経とが同一人であるという証拠にはなるまい。
日本人が蒙古人と系統を同じくしている人種であることは、日本人に蒙古斑(赤んぼのおしりの青い斑点)や蒙古襞(目頭のしわ)のあることや、日本語と蒙古語とが酷似したくみ立てをもっていることからも言われていることで、べつだん新しい発見ではない。
現在の蒙古の人情風俗が日本の鎌倉時代のそれに似ているというのも、共に騎馬を主として武張ったことばかりしているところから出たことで、何の不思議もないのである。ジンギス汗一人の力で全蒙古人の人情風俗をかえられると思うのは、個人の力を大きく見過ぎることになろう。
蒙古人はジンギス汗の後約百年にわたって中国本土に君臨し支配していたのだ。たとえジンギス汗によって人情風俗が一変したとしても、その後の中国の人情風俗の影響によってそれは消えたはずである。現代蒙古のそれらと鎌倉時代の日本武士のそれらとが似ているのは、生活の目的と生活環境が似ているための自然の結果で、どちらかの影響でそうなったと考えるのは、生物の順応本能を考えない論である。
笹竜胆の文様は源氏は源氏でも村上源氏の紋章で、清和源氏の紋章ではない。したがって、清和源氏の嫡家に生まれた義経には何の関係もない。今日鎌倉市が市の紋章として笹竜胆を用いているのは意味のないことである。
何よりも決定的なことは、ジンギス汗は生まれ落ちた時から死に至るまで、はっきりとその生涯がわかっている点だ、それどころか、彼の父のことも、母のこともわかっている。現代の蒙古人の伝説でどういわれていようと、外国人であるという説など入りこむすきは一分もない。
高木氏の小説の中で神津恭介は、このジンギス汗に義経が入れかわったのだと主張している。即ち、ジンギス汗が殺されたか病死したかした後に、義経が入れかわってジンギス汗と名のったのだというのだ。
小説としては面白いが、現実の世の中では出来そうもないことだ。ジンギス汗の家族や家臣共がそれを承認するだろうか。ある程度の数の者は承認させ得ても、大多数は承認しないにきまっている。権力者の地位ならなおさらのことだ。小説の世界だけで可能なことで、現実の世界ではとうてい不可能なことだ。
仮に百歩をゆずって、ジンギス汗が義経であったとしても、彼らを彼らたらしめた戦術にはなんらの共通点がないのをどうしよう。義経の戦術は常に寡を以て衆を奇襲する戦術であり、兵員個々は一騎討ちしたのだ。これに反してジンギス汗の戦術は大軍をもって堂々とおして行く集団戦術であった。
当時の戦闘法は、蒙古をのぞいては、日本も、中国も、ペルシャも、アラビヤも、ヨーロッパ諸国も、一騎討ちの戦法であった。蒙古だけが集団戦法であった。この戦法によって、蒙古軍は無敵だったのだ。この極端にちがう戦術を、どうして同一人の方寸の中にもとめることが出来よう。
一体、戦術というものは、どんな天才でも、種類のちがう戦術の案出は出来ないものだ。テーべのエパミノンダスは斜陣しか出来なかった。ナポレオンは敵の最強部に集中砲火を浴びせかけてこれを動揺させ、騎兵を以て突破させるという戦術しか出来なかった。だから、堂々の陣をそなえないパルチザン戦術にかかると、スペインでもロシアでもみじめな敗れ方をしたのだ。
さらに両者の性格だ。小谷部氏は似ているというが、ぼくには二人が勇敢で剛毅であったという以外には、更に似たところを見ることが出来ない。義経は戦争には勇敢でも、源平盛衰記の諸所に、「情ある人にて」とあるが、ジンギス汗には野蛮人特有の残虐さが強いのである。
ドーソンの蒙古史によると、ペルシャのホラズム国のタルメッド市を陥れた時、彼は住民の全部を城外に出し、諸隊に分配して虐殺させたが、一人の老婆が、
「いのちを助けて下さるなら、美しい真珠を献上します」と言った。
「その真珠はどこにあるのだ」
「のみこんでしまって腹に入っています」
兵士はいきなり老婆を殺し、腹を剖《さ》いて真珠をさぐり出した。すると、このことを聞いたジンギス汗は、
「そんなものがほかにもあるかも知れんな」
といって、全部の死者の腹を剖かせたという。
彼がホラズムの首都オルカンジュを陥れた時には、兵一人につき二十四人を殺したが、兵数は五万であったから、百二十万を虐殺したのである。
サマルカンドを征服してしばらく滞陣の後、進軍するにあたって、サマルカンドのサルタン・モハメットの母后とその寡婦らを捕虜として連れ去ったが、その際、ジンギス汗は母后らに、
「国に訣別の礼じゃ。そこに立って泣け」
と命じて路傍に立たしてワアワア泣かせたという。
ある日、ジンギス汗は諸将にその方共は人生で何が一番楽しいことと思うかと聞いて、それぞれ答えさせた後、言ったという。
「人生最大の快楽は、仇敵を撃破し、これを追いはらい、その所有の財宝を奪い、その者と親しかった人々が悲しげな顔で泣くのを見、その馬をわがものとし、その妻とその娘を納《い》れて後宮に備うるにある」
あげて行けば、はてかぎりなくある。このジンギス汗のどこに「情ある人」らしいところがあろう。二人の性質は最も根本的なところで正反対なのである。
二人ともあまり酒を嗜まず、相当以上に好色であったという点は、とくに二人の特性として取り上げるほどのことではあるまい。そんな人間はあまりにも多いのである。
更に宗教だ。義経は当時の日本人らしく、神仏に対する信仰が深い。とりわけ鞍馬にいた関係もあって、仏に対する信仰は強烈であったが、ジンギス汗は自分自身を神なりとすると同時に太陽を礼拝し、シャーマン教の粗野な儀式を遵奉していたというのだ。これらは蒙古人特有の宗教を土台にした信仰だ。当時の人々にとっては宗教はきわめて重大なものだ。小谷部氏は義経は仏教を棄てて蒙古人の信仰に帰依したというのであろうか。
詮ずるところ、義経が衣川で死せずして北海道にわたったというのは、一〇パーセント程度の可能性があるが、そこから更に大陸にわたったということには○・五パーセントくらいの可能性しかなく、更にそれがジンギス汗になったという説にはまるで可能性がない、といわざるを得ない。小説は別だ。小説は現実の世界を描くのではない。その小説だけの世界を描けばいいのだから。
七
最後に弁慶のことを少し書こう。
弁慶は実在の人物である。源平盛衰記にも平家物語にも、吾妻鑑にも名が出て来る。
しかし、どんな素姓の人間であったかはわからない。熊野別当|湛《たん》しょうが子で鬼若といったのが、比叡山に入って西塔に住んで修業しているうちに、乱暴者なので皆にきらわれて自ら髪を剃って西塔の武蔵坊弁慶と名をつけて比叡山を出、播州書写山に入り、またここで喧嘩して寺に火をつけて焼きはらい、京に出て来て、千腰の太刀をそろえようと、夜な夜な辻に立って人の太刀を奪い、九百九十九腰そろえて、千腰目に牛若丸に逢って、うちまけて家来になったとは、義経記の記述だ。しかし、義経記は小説だからあてにはならない。
せめて西塔の武蔵坊弁慶という名のりが信用の出来る書物に出ていてくれれば、比叡山の西塔にいたことがあるというだけでもわかるのだが、吾妻鑑には単に「弁慶法師」と出ているだけだし、源平盛衰記と平家物語には「武蔵坊弁慶」としか出ていない。つまり、比叡山にいたということもあやしいのである。
今日考えられているほど強かったかどうかも疑わしい。盛衰記にも平家にも、いつも義経の郎党の名前を連記した中に、それも末尾に武蔵坊弁慶とあるにすぎない。
「……等という一騎当千の者共」とあるから、相当強かったには相違ないが、特別な働きはしていない。義経が三草《みくさ》越えしてひよどり越えに赴く途中、鷲尾ノ三郎経春という猟師の息子を案内者としてさがして来たことだけが、特別な手柄といえば手柄だ。
今日伝わっている弁慶の武勇談や忠誠談は、すべて義経記以後に出来たお伽草紙と謡曲がもとになっている。思うに弁慶の時代は寺院の勢力の大きい時代であり、僧兵の武勇の目立つ時代なので、僧兵の代表者として、後世の文学者らが弁慶の武勇談を創作したのであろう。
ぼくの友人の中沢抹v君は、弁慶は出羽羽黒の修験者上りではなかろうかと言っている。
これはまことに卓見である。
弁慶の名がはじめて文献に出てくるのは、盛衰記の宇治川合戦の数日前の伊勢における源氏勢ぞろえの場であるから、弁慶が義経の家来になったのはそれ以前でなければならないが、もし比叡山の坊主上りで京住いしていたとすれば、その時期がない。
義経がまだ鞍馬にいた頃だとすれば、奥州下りについて行かないのが不思議であり、平治物語に全然出ていないのもいぶかしい話である。
義経記では苦しまぎれに、義経は奥州に下ってから、学問武芸の稽古をするためにすぐまた京上りして、鬼一法眼なる人物について兵法を学んだが、その間に、刀とりの弁慶に出逢って家来にしたとしている。
しかし、弁慶を羽黒の山伏とすれば、そんな無理な細工はいらない。義経が奥羽にいる間に随身したことになって、まことにすらりと行く。
当時山伏が国名を坊名とするのは、ごく普通のことであった。山伏でも武蔵坊と名のって少しも不思議はないのである。
また、後に義経が頼朝の怒りを受けてから、ニセ山伏となって北陸道を経て平泉へ落ちたことは、吾妻鑑にもあって事実であるが、それにも都合がよかったはずである。
しかし、これとても、確言は出来ない。確証はないのである。推理に過ぎないのである。
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[#見出し] 武士と博徒
一
発生当時から源平時代頃までの武士とばくち打ちとは、いろいろな点で実に似ている。
先ず名前の呼び方だ。国定ノ忠治、笹川ノ繁蔵、大前田ノ英五郎、清水ノ次郎長、黒駒ノ勝蔵という呼び方だ。必ず住所を冠して呼んでいる。これは武士の名字《みようじ》とその起原において全然同じだ。藤原秀郷は下野(栃木県)田原に居住していたから田原ノ藤太(藤太は藤原ノ太郎の意)と呼ばれていたし、平将門は常陸(茨城県)豊田郡に住んでいる頃は豊田ノ小次郎と呼ばれており、相馬郡にいる頃は相馬ノ小次郎といわれていた。熊谷(埼玉県)ノ次郎直実、海老名(神奈川県にあり。厚木の近く)ノ源八季定、秦野《はたの》(神奈川県)ノ次郎延景、金子(東京都)ノ十郎家忠、千葉ノ常胤、三浦ノ荒次郎義澄、和田(三浦半島にあり)ノ小太郎義盛、等々、みなそうだ。つまり住所を示すために呼んだのが、やがて固定して名字《みようじ》になったのだ。だから、本当は必ず「ノ」の字をつけて呼ぶべきであろう。
名字を持つのは民の特別な資格の一つで、一般には持てないことになっていた時代であったので、ばくち打ちのは、名字として固定しなかったのであろう。
だから、講談では、ばくち打ちがたがいに呼び合うのを、
「国定の」
「おお、大前田の」
といった工合にやらせているが源平時代頃までの武士も、
「やあ、熊谷の」
「おお、三浦の」
といった調子で呼び合っていたと思われるのである。彼らはそれぞれ本来の姓がある。熊谷氏は丹治《たじ》姓(普通には単に丹という。平姓という説もある)であり、三浦氏は平姓だから、正式には丹ノ直実、平ノ義澄などと呼ぶわけであるが、こんな呼び方は朝廷から官位でも授けられる時以外には使わなかったのである。
二
第二には縄張り争いだ。ばくち打ちが、それぞれの勢力範囲をきめて、これを縄張りとして、その範囲内に他の者が入って来てばくち場をひらくことを禁止し、これをおかす者は力をきわめて排撃し、そのためには武力をもって戦い、これを「でいり」と呼んだことは皆知っているが、武士にもそれがあった。
武士の出入りは合戦と称せられ、後世にはこれが領地の争奪戦となって、何千何万という大軍が動くようになったが、その初期においては十騎二十騎の、ばくちうちの出入りとかわりのない規模のものであった。保元の乱の時、新院(崇徳上皇)側に馳せ参じた鎮西八郎為朝が、夜討の策を献上した時、右大臣藤原頼長が、
「夜討などいうこと、汝らが同士《どし》戦さ、十騎二十騎の私事《わたくしごと》なり」
といって献策をしりぞけたことが保元物語に出ているが、当時の地方武士の合戦沙汰が、多くはごく小規模のものであったことがわかるのである。
規模がこうであっただけでなく、本質もまた縄張り争いにすぎなかったようである。
今昔物語には、それを立証するような話がいくつか出ている。平維衡と同|致頼《むねより》の合戦、藤原|致忠《むねただ》と橘輔政の争い、平|維茂《これもち》と藤原|諸任《もろとう》との合戦、皆そのもとは領地の訴訟であるが、それがたがいの威勢争い、意地争いになり、ついに合戦さわぎになったのである。
おもしろい話を一つ書こう。
これも今昔にある話だが、今の埼玉県に源|宛《あつ》・平良文という二人の武士がいた。宛は今の熊谷市の東南方二里半の箕田《みた》にいて二男だったので箕田ノ源二といわれ、良文は今は熊谷市に編入されているが、以前はその南方一里の地点であった村岡にいて、五男だったので、村岡ノ五郎と呼ばれていた。近所ではあるし、ともに男性的な性格で仲がよかったのであるが、郎党共の主人自慢から不和になった。
「おらが旦那は東国一の武者《むさ》じゃ」
「おらが旦那は日本一の武者じゃ」
「東国は日本のうちでねえだか」
「そうよ」
「するつうと、汝《われ》が旦那は東国一でもあるつうのか」
「そういう勘定になるのう」
「ばかをこけ! 箕田ノ源二ともある武者が、村岡ノ五郎ごときに負けようか!」
「五郎様といえ! 汝《われ》が旦那なんど、おらが旦那の小指にもあたろうか!」
といった工合の自慢が昂《こう》じ、世間でも二人の優劣をかれこれ評判するようになったので、二人はついに戦って優劣をきめなければならないような立場になってしまった。
二人は約束して、日をきめ、野に出て戦うことになる。
その日になると、たがいに兵をひきいて野に出た。今昔では各※[#二の字点、unicode303b]五六百人とあるが、せいぜい五六十人のものであろう。
三
たがいに陣をかまえ、楯をつきならべ、矢合せをしようとする時、良文の方から宛に使いをつかわし、
「こんどのことは、どちらの武勇がすぐれているかがわかればよいのであるから、兵士共を戦わせては面白うない。おたがい一騎討ちの勝負をしたいと思うがいかが」
「仰せの通りだ。そういたそう」
双方ともに、手出し無用、われ死せば死骸をとりおさめて引きとるよう、と郎党らに言いふくめ、ただ一騎、楯をはなれて駆け出した。
双方ともに雁股《かりまた》の矢をつがえ、敵に先ず射させ、射損ずるところを射落そうと心組んで、放たない。たがいに弓を引きしぼりながら馳せちがい馳せちがいした。いくどか馳せちがって、すきありと見て良文は矢を放った。宛が身をよじり伏せて避けたので、矢は太刀のこじり近い金具にあたってからりと落ちた。宛はサッと馬をかえしざま射放ったが、良文も身をひねって避けた。矢は|えびら《ヽヽヽ》の腰あてにあたっておちた。二人はさらに矢つがえして、すきをはかりながら馬を馳せちがわしたが、間もなく、良文がいう。
「待たれよ。たがいに今射た矢はあたり前ならはずるべきものではない。ともに真中を射ぬくべき矢だ。それがはずれたのは、二人がうまくかわしたからである。矢を射るすべ、避けるすべ、ともにたしかなものだ。われらは深い怨恨のあるなかではない。双方の武勇に優劣のないことがわかりさえすればよいのだ。この上の戦いは無益であると思うがいかが」
「いかにも仰せの通りだ。たがいの武勇のほどは見えた。ではやめることにいたそう」
と宛も答えた。
以後、二人は昔のように仲よくなって、「露へだつる心なく思ひ通はしてぞ」、くらしたというのである。
これは意地争いが昂じて合戦沙汰になったのであるが、単に意地だけのことと思うべきではあるまい。勢力争いであり、縄張り争いでもあると考えるべきである。
日本の武士は、朝廷が平安朝初期に軍備を全廃したところから、在地地主らが自警のために武装したのが起りであり、やがてこれは自然にその地域一帯の治安維持の機関になったはずである。そうなれば、その地域は縄張りだ。二人の力が平均していれば、仲よく縄張りをわけ合って共存出来るが、そうでなければ弱は強に制せられ、子分になるよりほかはないこと、ばくち打ちの世界と同じである。
四
源頼朝の長兄悪源太義平は二十という若さで死んだ人だが、剽悍無類、炎のような勇士であった。この人が生涯のほこりにしたのは、十五の時、叔父|帯刀《たてわき》先生《せんじよう》義賢《よしかた》と戦ってこれを討ち取ったことであった。
義平は関東で生まれ、関東で育った。鎌倉にいたので、鎌倉ノ源太義平といわれていた。源太は源氏の太郎(長男)の意だ。
久寿二年というから、今から八百余年前だ。その八月十六日に、義平は鎌倉から今の埼玉県|比企郡《ひきぐん》菅谷《すがや》村の大蔵《おおくら》にあった義賢の館《やかた》におしよせて行き、義賢とその舅秩父ノ二郎重隆(畠山重忠の大叔父)とを討ち取った。多数の軍勢を連れて行ったのではなく、せいぜい二三十騎で押しかけ、火をするようにはげしく攻め立てて討ち取ったらしい。
義賢は若い頃に東宮の帯刀《たてわき》舎人《とねり》の長であったので、帯刀《たてわき》先生《せんじよう》と呼ばれるようになった人だ。帯刀舎人は東宮の親衛兵で、家柄よく、また武勇すぐれた者を選任する規定になっていた。その長に任ぜられたのだから、なかなかの勇士であったのだ。秩父ノ重隆も坂東屈指の剛勇であった。この二人をまだ少年でありながら時の間に討ち取ったのだから、世間はあっとおどろき、高いうわさとなり、義平を悪源太と呼ぶようになった。この「悪」が非難の意味ではなく、強烈・勇猛を驚嘆讃美したものであることは言うまでもない。義平もまた大いに誇りにしている。平治の乱の時、彼が平家の嫡子重盛と、右近の橘、左近の桜をめぐりながら一騎討ちの戦いをした時、彼はこう名乗ったと平治物語にある。
「この手の大将は誰人《たれびと》ぞ。名のれ。聞かん。かく申すは、清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉の悪源太義平なり。生年十五歳にして武蔵の国大蔵の戦さに叔父帯刀先生義賢を討ってよりこの方、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず、年積もって十九歳、見参《げんざん》せん!」
誇りにしていることが判るのである。
五
ところが、この大蔵合戦の原因がさっぱりわからないのだ。元来が同族、しかも最も親しかるべき叔父・甥なのだから、よほどのことがあったろうと思われるのだが、原因を記載した書物が全然ない。
ただ長門本源平盛衰記に、こんな意味のことが出ている。
「義賢は都から関東に下って来て、上州|大胡《おおご》郡に住んでいたが、仁平三年(久寿二年の二年前)の夏頃、秩父ノ重隆の聟になって、武蔵の国に移り住んだので、武蔵の武士共だけでなく、近隣の国々の武士共まで随従するようになった」
原因はおそらくこれだ。一体、関東の武士共は一軒のこらず、源頼信・頼義・義家の三代の間に、清和源氏の嫡流家と主従の関係が出来ている。頼信が上野・常陸の国司をつとめて勢力の扶植にかかったのがはじめで、頼義また相模守として武士共と親しさを深めた上に、前九年の役でその武士共をひきいて奥州に出かけて九年間も苦楽をともにし、次の義家も前九年の役で父とともに奥州で戦ったし、彼の代になってからも後三年の役があって、これまた武士らと寝食をともにして戦ったので、関東の武士らは一人のこらず源氏に臣従を誓うようになったのである。その上朝廷が、後三年の役は義家の私闘であると裁断して、武士らの勲功を賞しようとしなかったので、義家は私財を割いて報いた。武士らの感激は一方でなく、
「七世のお末に至るまで、われらはこの家にそむくことはないであろう」
と言い合ったという。
六
ところで、当時の武士の主従関係はどんなものであったかといえば、戦国時代末期以降の主従関係とはまるで違う。後世の主従は、主人が家来に知行地や扶持をくれ、その代償として家来は主人に忠誠をつくすという、つまり財物給付と反対給付の関係の上になり立っているが、この時代の家来の領地は主人からもらったものではない。先祖が自分で開墾したり、一族縁者からもらったり、買いとったり、横領強奪したりしたものを伝承したり、先祖同様のことをして自分が獲得したりしたもので、主人から給付されたものではない。
もちろん、これは原則だ。主家からもらったり、主家の領地の管理をまかせられたりしている者も全然ないわけではなかったが、それはごくまれであった。
こんな工合に財物的には何の得《とく》も行かないことなのに、なぜ武士が主人を持ったかといえば、主人によって生命・財産・名誉等を保護してもらうためであった。宮家や公卿や大寺院等――つまり権勢ある者が所領を奪おうとする場合(よくあったのだ)には、主人が出て話をつけてやる、場合によっては武力に訴えても保護する。家来が強勢な敵と戦わねばならん場合には力を貸してやる、恥辱を加える者があれば、報復してやるといった工合だ。正当な理由があろうがなかろうが、かまわない。主人たるものは常に家来にひいきし、善悪ともにかばい通す心意気と強さが必要であり、そうでなければ家来になりてはなかった。以上が当時の武士の主従関係であったが、こんなのは現代人の観念では主従ではない。親分子分の関係である。
七
話を大蔵合戦にもどす。
当時の清和源氏の当主は義平の父義朝だ。当時義朝は下野守《しもつけのかみ》であったが、その頃は国の守《かみ》は自分は京にとどまって、任地には目代《もくだい》をつかわして吏務をとらせる習慣になっていて、義朝も京都にいることが多かった。関東は彼の根拠地であるが、宮廷方面との関係を密接にすることは栄達の途《みち》であったから、そのためにも出来るだけ京都にいる必要があったのであろう。
だから、義平が鎌倉に住んでいたのは、父の代理として、全関東の武士共を統轄するにあったのだ。
しかるに、義賢が関東に下って来たばかりか、関東武士中の屈指の豪族である秩父ノ重隆の聟となり、上州|大胡《おおご》から武蔵に居をうつし、そのために、「当国にかぎらず、隣国までも随いけり」となって来た。つまり、義平の統轄権がおかされたのだ。
武士どもにしてみれば、義賢だって八幡殿の御子孫で、嫡流の一人だ、従ったとて不忠というわけではないと思ったろうし、まして、まだ子供である義平よりまさかの場合には頼りになると思ったのに違いないのだ。
しかし、義平の心が平らかでないのは当然だ。
ここまで書いてくれば、大蔵合戦の原因は明瞭に推察出来よう。義平は義賢が彼の関東武士にたいする統轄権を侵害したのを怒ったのだ。
関東の武士らは皆源氏の家人ではあるが、上述した通り、そのそれぞれの領地は源氏の領地ではない。だから、源氏が武士らにたいして持っていた統轄権とは、命令権にほかならない。つまり、形なきものだ。博徒の縄張りとかわるところなきものだ。大蔵合戦は、せんずるところ、縄張り争いからの|でいり《ヽヽヽ》にすぎないのである。当時の武士がいかに後世の博徒と似ているか、よくわかるであろう。
武士の起源は国家が軍備を放棄したところからおこった自警的なものであると前に書いたが、この大戦後の大都会の無警察状態の期間に、何組、何組と称するヤクザ団体がおこって、さかり場の治安がそれによって保たれた時期があった。こんなところも似ていると言えよう。
八
太平洋戦争の初期、報道班員に徴用されて、満一年マレーに行っている間、所在ないままにマレー華僑史を少し調べたが、最もおもしろかったのは華僑の秘密結社のことであった。
この秘密結社は天地会・三合会・三点会・三星会・洪門会などといろいろな名称で呼ばれる。そのはじめは明《みん》末|清《しん》初に鄭成功の遺臣らのはじめたもので、滅清興漢(満洲人の天下をくつがえして漢民族の天下にする)がその目的であるということであるが、いつかそんな高邁な目的は忘れられて、単なる暴力・賭博・窃盗・殺人・脅迫・騒擾《そうじよう》等の、つまりヤクザの団体になりはててしまっていた。
この秘密結社は出身地別にいく団体もあったので、相互の勢力争いによる闘擾《とうじよう》や、一般良民にたいする威迫や、さまざまなことがあって、治安を害することがひどかったので、英国植民地政府は一八九〇年(明治二十三年)にこれを禁止し、今日では絶滅したことになっているが、実際にはなくなっていない。ぼくはこれを調べるに、華僑らが結社員の報復を恐れて答えてくれないので、まことに難渋したのである。
この秘密結社がどうして植民地政府をてこずらせるほど強盛なものになったかといえば、そのはじめはマレー地方における植民地政府の警察力が不十分であった時代に、この結社が一種の自警団的な役割をはたしていたからである。シンガポールですら、一八二〇年代から三〇年代の間は非常に治安が悪く、ヨーロッパ人もその住宅が郊外にあるものは、天地会に加入していることによって、やっと安全であり得たといわれている。
こんな風に加入者が多くなって盛んになって来ると、結社の潜勢力はすさまじいものとなり、やがてはこれに加入していないものにたいして圧迫迫害を加えることになってくる。多数の営みというものは必ずこうなるのが、人の世のすがただ。一八四〇年代になると、結社に加入して会費を納入していないものは、商人でも、農夫でも、工人でも、皆迫害され、時には生命の危険さえあるようになった。商人にたいしてはとりわけひどかった。加入していても、商品の仕入れなどの時には、あらかじめ多額の金を納入して諒解を得ておかないと、忽ち掠奪される有様であった。だから、禁止もされたのである。
この知識があるので、ぼくは戦後の警察虚脱時代、都会のさかり場の治安の維持に功のあったヤクザ団体がどんな変化を見せて行くか、少なからず不安を持っていた。幸いにして、思ったより早く警察が立直ったため、さほどのことなくおわったが、それでも目にあまるものが実にしばしばあった。記憶している方が多いであろう。
博徒やヤクザの団体でも、最初から人にきらわれるようでは育たない。そのはじめにおいては、世のため人のためにもなり、その時代としては必要でもあるものとして育って行き、やがて強力になると、こんどは世のわずらいにしかならないものとなって、良民を苦しめるのである。ヒットラーとドイツ国民との関係もこの通りであった。
だから、この知恵はいつの時代にも、また何事にも必要なものであるといえよう。われわれは銘記しておく必要がある。
九
博徒のことを書こうと思っていたのに、話がひどくへんなところにそれてしまった。
ばくち打ちの子分の親分にたいする義理と、武士の忠義とは、まことに似ている。
赤穂浪士の仇討の時。
はじめ大石内蔵助は家を断絶させるのを最大の悪とする儒教の精神(これが当時の最も進歩した武士道であった)によって、内匠頭長矩の弟大学によって浅野家の名跡《みようせき》をのこそうとして、熱心に幕府に運動をつづけ、なかなか仇討にふみ切らなかった。
堀部安兵衛は最初から仇討一本槍だ。
「君父の讎《あだ》は倶《とも》に天を戴かず。吉良討つべし。討たねば武士が立たぬ」
と、一筋に思いつめているから、内蔵助のやり方が気に入らない。彼はこう内蔵助に書きおくっている。
「大学様によってお家の名跡を立てようとなさるお心はわからないではないが、大学様は主筋の方ではあっても、主君ではござらん。もし先君が生きておわして、大学儀存ずる旨あり、討ち取れと仰せられるなら、いたわしけれど、われわれは直ちに命を奉ぜねばならぬのでござる。それが武士の道でござる。拙者は公儀が大学様に唐《から》に天竺をそえて賜わろうと、吉良を見すぐしにする量見はござらぬ。必ず討ちますぞ」
問題にしたいのは、安兵衛の淋漓たる気概ではない。主君の命あらば、主君の弟君たりとも討ち取らねばならないのが武士の道であるという点だ。まことに人情に遠いのである。自然ではないのである。無理なのである。が、これが武士の忠義なのである。
ばくち打ちの親分にたいする義理もまるで同じだ。
講談や、なにわ節や、芝居や、映画でやる国定忠次と板割の浅太郎の話など、その好適例だ。
あの話はずいぶん口あたりのよいものに美化されているが、実話は惨烈で殺伐で、いやらしき至りのものだ。
江戸北町奉行であった鍋島内匠頭直孝の退職後の著書に「近世百物語」というのがあるが、それによると、忠次は盗賊とばくち打ちを兼業していた男だというのだが、これはまたいつかのことにして、ここでは触れるまい。
十
天保十三年の秋八月中旬、忠次は赤城山を出て、生れ在所の国定村と隣接している田部井《ためがい》村で賭場を開帳していると、十九日の夜、多数の捕吏が襲って来た。忠次は一の子分の日光ノ円蔵とともにそれを切りはらって脱出したが、子分共が多数捕縛された。
忠次が無念に思っていると、これがばくち打ちなかまの八寸《はちす》村の勘介の密告によると聞いて激怒した。勘介の甥浅二郎(本名はこれだ)は忠次の子分だ。忠次は浅二郎があの夜賭場に居合わせなかったので、てっきり|ぐる《ヽヽ》と疑って、手討ちにしようとしたところ、円蔵がとめた。
「浅二のことは証拠のねえことです。浅二に勘介を討つよう言いつけなさるがよい。見事討って首にして来たら、浅二の潔白のあかしは立ちやしょう」
それもそうだと、忠次は手下八人をそえて、浅二郎を出してやった。
一行は夜中に八寸村について勘介の家をうかがうと、勘介は大酔して、二つになる子供を抱いて寝ている。浅二郎は持って来た手槍で、寝ている勘介の胸をつきとおした。
「あっ!」
急所のいたでだが、気丈な勘介は枕もとの火鉢をとって投げつけた。濛と灰かぐらが立ち、行灯の灯が消えた。赤城から来た連中は一旦外へ飛び出したが、浅二郎はまた入り、勘介の首をかき切り、二つになる子供を殺した。目をさまして泣きでもしたのだろう。下女もさわいだので一太刀あびせた。
赤城山にかえりついた頃は夜明けであった。忠次は住んでいる洞穴の前で、熊の皮の敷皮をしいた上にすわり、左右に子分どもを居流れさせて、首実検をしたというのだ。
いたいけな子供まで殺し、女に傷を負わせ、いやらしい話である。しかし、これがばくち打ちの義理なのだ。武士道とよく似ていよう。
「父は子のためにかくし、子は父のためにかくす。直きことおのづからその中にあり」
という孔子の教えの方がずっと人間的だ。
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[#見出し] 島津家物語
一
日本の皇室はおどろくべき速さで民主化しつつある。世間には戦後大いに民主化の動きを見せた皇室がこの頃また昔にかえりつつあるなどといっている人もあるが、皇太子妃が封建時代なら名主か庄屋程度の家柄から選ばれたかと思うと、引きつづき清宮様がたった三万石の旧大名家の次男坊に降嫁されることになったのだから、その人々の逆コース呼ばわりは杞憂だったわけだ。
皇太子妃が庶民から立たれたという先例も歴史上ないが、内親王が三万石程度の小大名の家に隆嫁されたという先例もない。
大体武家というものは、武家全盛の時代でも公家《くげ》から軽蔑されていた。京都朝廷では徳川将軍のことを「あずまの代官」といっていたくらいだ。したがって、内親王様が武家に降嫁されたのは、維新時代孝明天皇のお妹君和子内親王(静寛院宮)が十四代将軍|家茂《いえもち》に降嫁されたのが最初だ。この以前の織豊時代はもとよりのこと、足利時代にも、鎌倉時代にもない。二番目はこの戦後、厚子内親王が備前の池田家に降嫁されたことであり、こんどが三番目ということになる。
和子内親王の時は、相手が将軍だが、それでも当時は政治上の理由もあって、世論大いに沸騰した。ふさわしい縁だとは、幕府の当事者以外誰も思わなかった。いやいや、藩の当事者だって、政略結婚以上の意味は認めなかったにちがいない。厚子様の時は戦後の混乱のまだのこっている頃だったし、世間も公家と武家の区別にたいする認識がおぼろになっているし、何といっても旧備前太守、提封三十一万五千石の大大名、元侯爵家のあとつぎだというし、世間もおどろかなかったのだが、歴史を知っている者には相当おどろくべきことだったのである。こんどの清宮様の場合はさらにまた大はばな格下りの三万石の小大名で、しかも次男坊に降嫁されるというのだから、歴史を知っていて、しかも保守的な人なら、目をむいて仰天するかも知れない。
もっとも、池田家には今の皇后様の伯母君久邇宮安喜子女王が縁づいておられ、皇后様の母君|俔子《ちかこ》様は島津家から来ておられ、共に姻戚のつながりがあるところから、こういうことになったのであろうが、戦前なら絶対にないことである。内親王の格式として、皇族か旧摂関家かに縁づかれたに相違ない。
二
さて、清宮様の聟君である久永氏の家である島津家は日向佐土原の旧藩主家であるが、これは薩摩の島津家の分家で、江戸時代の初期にわかれた。
佐土原島津家を知るには、本家の薩摩島津家を知る必要がある。
薩摩の島津家は、その家の伝えるところでは、源頼朝の妾腹の子から出ているという。頼朝の乳母に比企《ひき》ノ禅尼というのがいた。累代源氏の家人《けにん》である武蔵比企郡(埼玉県)の豪族比企掃部允某の妻で、頼朝の幼少の頃乳母となってはぐくんだが、平治ノ乱に源氏が大敗して、頼朝が平家の捕われ人となり、伊豆の蛭ガ[#「カナ小書き]小島に流され、艱苦にみちた境遇となった時、その二十余年の間、主従の義を忘れず、たえず生活物資をみつぎつづけたという感心な婆さまだ。この婆さまの娘に丹後局というのがいた。頼朝から見れば乳兄妹だったわけであるが、美しい娘だったのであろう、頼朝がこれに手をつけ、子供をはらましてしまった。
頼朝の正室政子は、歴史に特筆されて、今に至るまで日本妬婦伝中の大立物になっているほどの女性だ。人をつかわして殺そうとした。頼朝は大あやまりにあやまって、局を日向に流すといって、局の兄比企|能員《よしかず》に渡した。能員は従者をつけて、これを旅立たした。
局は臨月に近い身を西に向ったが、途中悪心をおこした従者らに路用を持ち逃げされ、艱難辛苦して、やっと難波の浦にたどりついた。おりしも、日暮れである。民家に宿を借ろうとしたが、どこもかしてくれない。とぼとぼと住吉宮の境内に入り、石に腰をおろしているうち、にわかに産気づいて男の子を生んだ。住吉の宮司はこれをあわれんで、邸に入れて介抱した。この子が、島津家で始祖と仰がれている忠久である。時に治承三年であったと島津国史は伝える。
ところが、その翌日、時の関白近衛基久が住吉に神詣でに来て、宮司の家に入って休息していると、嬰児《あかご》の啼き声が聞こえる。
「ほう、嬰児の声だが、そなたの子か」
宮司は、丹後局から聞いている委細のことを話した。
「それはあわれなもの。まろが羽がいの下に入れてはぐくみ育てた後、父子の名乗りをさせてやろう」
基久は母子を連れて京にかえり、このことを鎌倉に知らせてやった。頼朝は使者を京につかわして三郎と名づけ、なお養育を依頼した。
かくて数年、丹後局は下級公家で、近衛家の子分である民部大輔|惟宗広言《これむねひろのり》に嫁したので、三郎は連子として惟宗家に入り、惟宗氏を称した。頼朝との対面は、三郎が七つの時、鶴ガ[#カナ小書き]岡八幡の社殿で行われ、畠山重忠が烏帽子親となって、忠久と命名し、二三ヵ月の後島津ノ庄の下司《げす》職に任ぜられ、さらに翌年島津ノ庄の総地頭職に任ぜられ、その翌年にはさらに薩・隅・日三州の守護職に任ぜられた。
以上が島津家に伝えられるその家の起りであり、通説にもなっているが、小説的にすぎる話であり、いろいろとおかしな点もある。たとえば、忠久の生まれたという治承三年はまだ平家の全盛時代で、九州は平家の地盤だ。一介の流人にすぎない頼朝がここへ人を流すなどということがあり得るはずがない。そこで、江戸時代から疑問を抱く学者があり、新井白石など、「おぼつかなきことどもなり」と言っている。現代の学者は一層信じない。現代の歴史家の支配的説では、忠久は惟宗広言の実子であるとしている。
惟宗氏は本姓は中国系の帰化人秦氏で、代々朝廷につかえて法律文書のことをつかさどっていた下級|公家《くげ》だ。この時代の公家社会も今日の政治家社会や官僚社会と同じだ。今日の政治家や官僚に親分子分の結びつきがあるように、この時代の下級廷臣らもそれぞれ有力な上流公卿を親分と仰いで利便を得ていたのである。惟宗氏と近衛家とはこの関係であった。
島津ノ庄とは、薩摩・大隅・日向の三国における近衛家の庄園全部を言う。はじめは今の宮崎県都城市附近だけの名称であったが、後にはこの三国における近衛家の全庄園の総称となった。下司職とは、その支配人だ。したがって、その任命権は近衛家にある。頼朝には授ける権限はない。忠久が島津ノ庄の下司職となったのは、近衛家の任命によるのであり、それは子分たる惟宗家の者であったからだと考える方が素直である。しかし、島津ノ庄の地頭職任命は頼朝によるのであろう。これは昔からあった職であるが、頼朝によって全国的におかれることになったのであるから。つまり、この頃の島津家は近衛家の家来であると同時に幕府の御家人でもあったのであろう。
実際島津家が源氏であると言い出したのは、江戸時代の寛永年度からのことで、その以前には藤原氏を名のっている。日光東照宮に島津家久の献上した燈籠があるが、それには「島津修理大夫藤原家久」と銘してある。藤原氏を名のったのは親方の近衛家からもらったか僣称したか、どちらかであろう。藤原氏の前には秦氏を名のっている。惟宗氏の本姓が秦であるからだ。
ばかなことだとは思うが、氏素姓をやかましく言った時代としてはいたし方ないことであったのであろう。
三
島津家の本姓がどうであろうとも、鎌倉時代の初期以来、島津家は九州の名族として、各時代にそれぞれ相当な働きをしている。蒙古襲来の時にも中々の働きをしており、南北朝時代にも武家方について武功を立てているが、戦国末期まではそれほど勢力ある大名ではない。島津家自身がいくつにも分裂して相争っており、薩・隅・日の三州の地には他にいくつも豪族があって、それぞれに威を張っていた。
島津家の勢力が伸張しはじめたのは、十五代目の貴久《たかひさ》からだ。貴久は分家の伊作《いさく》家の忠良《ただよし》の子だ。この忠良はなかなかの人物で、薩摩では日新公といい、薩摩聖人と称せられているほど学徳ある人であったが、武勇にもまた卓越している。本家にあとつぎがなかったので、三男の貴久を本家に養子として入れた。
貴久は父の忠良、弟|忠将《ただまさ》(佐土原家はこの後だ)とともに、鋭意経営、近隣の豪族らを攻伐して、相当にその領地をひろげたが、一代に獲得したところは、薩摩半国にもおよばなかった。
大いにひろがったのは、貴久の子の時代だ。貴久には、義久・義弘・歳久・家久と四人の子があったが、皆それぞれにすぐれた素質があり、兄弟かたく結束して働いたので、忽ちの間に薩隅二州の諸豪をたおし、日向に入って伊東と戦ってこれを破り、その全領土をうばった。伊東義祐は豊後の大友氏にはしって救助を乞うた。
大友氏もまた頼朝の落胤の末であると言い立てているが、もちろんあてにはならない。嫉妬深い女房を持ったおかげで、頼朝には落胤説が多いのである。大友氏が頼朝の落胤であったかどうかはあやしい話であるが、その最初から九州第一の名族であったことは事実であり、しかも当時の大友氏は豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の六ヵ国を領有し、九州探題と称して、中々の勢いであった。
当時の当主は、キリシタン大名として有名な宗麟《そうりん》だ。伊東氏の頼みを受けると、
「よろしい!」
とばかりに引受けて日向に出陣した。そして前哨戦に勝ったので大いに気をよくしていると、翌々日の耳川の大会戦に大敗北して、いのちからがら豊後に逃げかえった。
耳川の大会戦は、南方新進の覇者たる島津家と北方の旧覇者大友家との大決戦であったわけだから、この結果は全九州の形勢に大変化をもたらした。島津家の勢力は旭日昇天の勢いとなり、肥後に入り、肥前に入り、筑後に入り、筑前に入り、全九州を傘下《さんか》におさめる大勢力となった。耳川の会戦からわずかに六年間である。
この六年の間の数々の戦いに最も壮烈をきわめたのは島原における竜造寺隆信との決戦であった。この戦いの直接の原因は、竜造寺隆信が六万の大軍を以て、肥前島原城の有馬義純を攻めたところにある。義純は援を島津家に乞うた。島津家では承諾し、家久をえらんで援軍の大将とした。
家久は兵三千をひきいて島原に向った。すぐに到着すると、義純は使者をつかわし、入城して戦ってくれと言った。家久は、
「城に入って大軍に包囲されてはかえって悪しかるべし。明日|手詰《てづめ》の一戦いたすべし」
と答えて、部下の将士に軍令をくだした。
「明日の合戦、下知なきに鉄砲を撃ってはならぬ。必ず下知あって放つべし。ただし、玉は二つ、ほかに用心のために一つをかぎりとする」
と言って、のこる弾薬は全部とりおさめて舟に入れ、また、
「明日の合戦には、一番槍一番首の高名は問わぬ。左右をかえりみず、真一文字に突進せよ。必ず一隊となって行動し、分散してはならない。敵を一太刀斬って敵たおれたらば次にかかれ。敵を一槍突いて敵たおれたらば次にかかれ。すべて討ちすてにして首を取ってはならぬ。組討ちすべからず。一人たりとも多く敵をたおせ」
と令して、船の櫓櫂は全部一まとめにして山に入れ、自ら退路を絶った。
翌日、家久は三千を三隊に分ち、両隊は左右にわかれて埋伏し、自ら一隊をひきいて正面から立ちむかった。隆信は島津勢が意外に寡勢なのを見て心驕った。
「ほ、一つまみにも足りぬあの小勢で、この大軍にかけ合おうというのか」
と、あざ笑いながら兵を進めた。
家久は敵の近づくのを待って令を下し、鉄砲二発を放たせるや、隆信の旗本目がけてまっしぐらに斬りかかった。同時に左右の伏兵もおこり立ち、これまた無二無三に旗本へ斬りこむ。
隆信の旗本は動揺し、右往左往して乱れ立ち、ついに島津方の川上左京の手によって、隆信の首はあげられた。
家久は勝って驕らず、人数をまとめて陣をととのえていると、隆信の臣|江里口《えりぐち》藤兵衛という者が首一つに血に染んだ刀を持ちそえ、
「おん大将はいずくにおわす。功名のしるし、実検にそなえとうござる」
と呼ばわりつつ走りこんで来て、馬上の家久に近づくや、首を投げ捨て、斬りつけた。家久はすばやく飛びおりたが、刀は左の草摺を切って、余勢がひざにおよんで負傷した。
人々はおどろき狼狽しながら、江里口を取りこめて討ちとろうとした。家久は、
「可惜、勇士、討ちとるな! 生捕れ!」
と下知したが、江里口がここを最期と死物狂いに斬ってまわるので、手捕りにすることが出来ず、ついに討ち取ってしまった。
家久は江里口の首をおのれのひざにのせ、
「ならびなき剛の者、義勇の武士とはそなたのことじゃ。生捕って竜造寺に送りかえそうと思うたのだが、思い切ったる働きに、ぜひもなきことであった」
と言い、近村の僧を請《しよう》じて、江里口が弔いのことをねんごろに頼み、またその討死の様子をくわしく書いて、その僧に頼んで竜造寺方へ送った。
この合戦の朝、家久は、陣所で、当時十五歳であった子の又七郎豊久を側近く呼んで、
「あっぱれ、武者ぶりよ。ただ、上帯《うわおび》の結びようは、かかる時にはこうするものよ」
と言って結びなおし、脇差をぬいてその端を切りすて、
「よく聞けよ。今日の戦さに打ち勝って討死せなんだら、この上帯は父が解いてつかわそう。また、もし、今日の戦さに討死したら、敵もそなたの死骸を見、この上帯を見て、さすがに島津の家に生まれたるもの、今日の討死を覚悟していたことよと、感心するであろう。さすれば、父もあの世でうれしいぞよ」
と、言いもあえず、馬に打ちのって陣所を立ち出でたのであるが、戦さすんで後、豊久を呼んで、朝の約束のように上帯を解いてやったという。
ぼくが、この戦争の話をくわしく書いたのは、単に島津家久の武勇を語るためではない。佐土原島津家がこの家久からはじまっているからである。前に貴久の弟忠将から出ているといい、今また家久から出ていると言えば、読者は迷われるであろうが、その事情は後章で明らかになるはずである。
四
さて、このようにして島津家の勢力は全九州におよび、わずかにのこるところは、豊後の大友氏だけとなった。宗麟はこの圧迫をささえきれず、急遽大坂に上って、豊臣秀吉に訴えた。日本統一は秀吉の本来の志だ。訴えがなくても征伐しなければならない九州だ。
「よくぞ訟えた」
とばかりに、先ず島津家に使者をつかわし、降服を命じた。その条件は、
「島津家には大隅・薩摩の両国と日向・肥後・筑後の各半国をあたえる。他はすべてこれを没収する」
というのであった。これにたいして、島津家は九州全土の守護職たることを要求したのだから、折れ合うはずがない。ついに、秀吉の九州征伐となる。
気の荒いこと無類の薩摩隼人が、この数年間トントン拍子の勝ち戦さをつづけているのだ。威望四海を圧する秀吉でも、屁とも思わない。
「土民上りの猿に似た面つきの小男じゃというじゃなかか。へろへろ腰の上方武士が相手であったればこそ、調子よくも行ったろうが、おいどんらはちがうぞ。来るなら来てみろ。目にもの見せてくるる」
とばかりに主戦派がほとんど全部で、ここに手切れとなる。
結果は周知のごとしだ。田舎戦術は秀吉戦術の敵ではなかった。薩摩勢は北九州まで出張って抗戦したが、散々にたたき破られ、肥後路、日向路の両方から南下する潮のような秀吉勢にひたおしにおされて、薩・隅二州に逃げこもり、義久自ら秀吉の本陣に出頭して降伏を乞うた。
秀吉はこれをゆるし、薩摩・大隅の両国と日向の一部を本領として認めた。当時のこの所領は、五十五万石を少し切れるくらいしかなかった。
この当時、家久は日向口の守将として防戦したのであるが、いよいよ降伏にきまった時、秀吉方の日向口の大将軍秀長(秀吉の弟)の本陣に招待されて行ったところ、帰陣して間もなく急死した。
場合が場合であるので、薩摩人は秀長に毒殺されたのであると信じ、島津家の正史である「島津国史」にもそう書いてあるが、秀長は寛厚の長者として聞こえた人物だ。秀吉の特命でもあれば知らず、独断で人を毒殺しようとは考えられない。秀吉にしても、島津本家をのこした以上、家久がいかに猛将であるにしても、一人の彼を恐れなければならない理由はない。家久をおしむあまりの薩摩人の邪推であろう。
この家久は、島津家が日向を征服した頃から、佐土原の領主となっていたが、これは秀吉からも認められて、本家の所領以外三万石は彼の家のものとなったので、家久の死後はその子豊久が相続した。島原合戦におけるあの少年公子である。
島津家は五十五万石を少し切れるくらいの身代で豊臣時代を経過したが、秀吉が死んだ直後、朝鮮で大手柄を立てた。秀吉の死は、朝鮮出征の日本軍よりも朝鮮側に早く伝わった。いつの戦争でも同じだ。こんなことは敵側の方が早く知るものだ。朝鮮軍と明軍とは大いに元気づいて、執拗に日本軍に攻撃をかけるので、日本軍は引き上げ命令が来ているのに、手ぎわよく引き上げることが出来ない。各家大いに弱った。
この形勢をひっくりかえしたのが、島津義弘だ。義弘がわずかに五千の兵をひきいて、慶尚南道|泗川《しせん》の新塞にいるところに、明軍二十万がおしよせた。義弘はこれを痛烈に撃破潰走させ、討ち取るところの首三万八千余級というほどの大戦果をあげたのだ。以後、明軍も朝鮮軍も恐れて勢いが弱まり、日本軍の引上げもスムーズに行くようになった。
一体、秀吉の末期の遺言の中に、諸大名にたいする加増は、秀頼が成人して自ら政務をとるようになるまでしてならないという条目があったのであるが、義弘の泗川における勲功は格別であるというので五大老相談の上で、五万石を加増された。これで島津家はほぼ六十万石となった。
ここで特に言っておかなければならないのは、引上げの後、島津家は高野山に敵味方供養の塔を建てて、盛大な供養を行っていることだ。これは昔から島津家の行い来たったことで、この時にはじまるのではない。前に家久が島原合戦で敵方の勇士江里口某の供養を行ったことを書いたが、やはりこの頃家久が大友家の部将高橋紹運(立花宗茂の実父)を筑前筑紫郡の岩屋城で攻めほろぼした時も、
「世にもまれなる勇将を殺してしまったことよ。助けおいてこの人を友として交ることが出来たなら、いかばかり嬉しかったろうに、おしいこと。弓矢取る身ほどうらめしきはない」
となげいて、僧を請じて供養し、みずから香を焚いて礼拝したところ、部下の将兵らも皆焼香して落涙したというのだ。
江戸時代になってからも、毎年、七月一日、二日、三日の三日間、「武者引導」とて、鹿児島城下の福昌寺で、陣歿の敵兵の供養を行っている。
「戦陣においては最も勇猛果敢に敵にあたるが、戦いおわれば一切の怨みを忘れて仁愛の情あるべきである」
との心意気からであろう。
五
数年にして、関ケ原役がある。この役に島津家は西軍に属した。一体、島津家は豊臣家にたいしては格別な恩はない。反抗の罪を宥められて本領を安堵されたのが恩といえば恩だが、世は戦国だ。反抗し戦うことは罪ではないはずだ。しかも、せっかく切取った数ヵ国をとり上げられている。恩義を受けたという気持はなかったに相違ない。
ところが、家康にはあるのだ。泗川の勲功で五万石を加増されたのは、家康の発議によるのだ。秀吉の遺言にそむくことだから、五大老五奉行の間には相当強い反対があったのを、家康が極力主張して、その運びにしたのである。もちろん、これは諸大名の心を引きつけるための家康の政治工作の一環にすぎないのであり、人のふんどしで角力を取ったのではあるが、五万石もらえたのは家康のおかげであるにはちがいない。たしかに恩義があるのだ。
島津義弘はこの少し前から大坂に来ていた。実をいうと、はじめは家康側につくつもりだった。家康もまた味方してくれることを予想して、上杉征伐のために東するにあたって、義弘に、
「万一の時には伏見城に入って鳥居元忠に力を添えてくれよ」
と言っている。
そこで、いよいよ東西手切れになった時、義弘は鳥居に入城したいと申し出たところ、鳥居はこれを拒否した。裏切られるおそれがあると用心したのである。
義弘という人は、戦争は猛烈に強い人であるが、性質が篤実にすぎて、政治的の機略にはとぼしい人だ。戦争のことなど考えもしないで上坂している旅先のことで、兵力もあまりない。うろうろしているうちに、うまく石田に抱きこまれてしまったのである。
関ケ原では、うわさを聞いて国許から一騎がけで馳せのぼって来る兵士らもあって、どうやら千五百人くらいの兵力となりながらも、肝心の時に戦っていないのは、以上のようないきさつがあったからに相違ない。
島津勢が猛烈に戦ったのは、西軍の敗北が確定した後、自らの退路をひらく時になってからであった。この戦いは壮烈をきわめて、後に至るまで「島津の退口《のきぐち》」といって、日本戦史上の偉観になっている。
この退き口にあたって、佐土原藩主豊久は伯父義弘をおとすために殿軍を買って出て戦死している。東軍の重囲の中で、数条の槍につき上げられて、文字通りに槍玉にあがっての凄壮な戦死であった。
関ケ原戦における西軍加担はへたなことこの上もないが、戦後の外交交渉はまことに見事だ。西軍加担の大名らがあるいは斬罪、あるいは封地没収、あるいは封地削減と、それぞれの処罰を受け、毛利家など百二三十万石から三十六万九千石にされるという大削減を受けているのに、一合も減らされていない。西南の僻地にあるので、悪く手間取ると日本全国の乱れになるかも知れないと考えた家康があっさり手を打ったとも考えられるが、家康にやるつもりがあるなら案外たやすくやれたとも言えるのだ。肥後には猛将加藤清正がおり、豊後には細川忠興がおり、豊前には稀代の智将黒田如水がいる。これらの大名に命ずればやれないことではない。それを平和裡に、しかも一合の領地も削られることなくすんだのは、島津家の外交手腕によるといわざるを得ない。これは義弘の兄義久のすぐれた機略による。
これらの外交交渉が行われている間、佐土原は領主が戦死したので守るものがなくなり、公領となって、徳川家の代官が来て治めていたが、和平成った後、家康はこれを島津家にかえし、
「その方一門の者を封ぜよ」
といったので、島津家では島津|以久《もちひさ》(初名|征久《ゆきひさ》)を領主とした。これが清宮様の降嫁される今の佐土原島津家の祖である。
以久は、前にちょっと触れた忠将の子である。忠将は義久や義弘らの父貴久の弟であるから、
[#系図1(fig1.jpg、横168×縦390)]
以久は義久、義弘のいとこにあたるわけだ。
島津本家が七十余万石の大領主となったのは、慶長十四年から十五年にかけて、奄美《あまみ》大島群島と琉球を征服してからだ。この南島地方を約十三万石と計算して、従来の石高に加算して七十三万石弱となった。その後、新田の開発やら何やらで、七十七万石となり、幕末には八十八万石になっていたといわれている。
これだけでも、加賀につぐ大大名である上に、江戸時代を通じて、島津の殿様には英主が多い。阿呆な殿様は一人もいない。
「薩摩に馬鹿殿なく、彦根に馬鹿家老なし」
ということわざがあったほどだという。
これはまことにめずらしいことだ。大体、江戸時代のように太平無事で、あらゆることが碁盤の目のようにキッチリと規制され、それからはずれることは秩序をみだる悪とされている時期には、大名のような境遇にある者は阿呆になりやすかったのだ。どこの家でも阿呆殿様が出ている。あまり阿呆でもこまるが、ある程度阿呆であった方が具合のよい点もあった。なまじかしこいと、型にはまった生活にいや気がさして、型外れなことをやり出し、始末にこまるのである。悪くすると、幕府のきげんを損ねて、家の存亡にもかかわるようなことにもなりかねない。
そんな時代に、一人の馬鹿殿も出ないばかりか、江戸時代十二人の殿様中、家久(前出の家久と別人。義弘の子)、綱貴《つなたか》、宗信、重豪《しげひで》、斉興《なりおき》、斉彬《なりあきら》の六人は、器局卓抜|豪邁《ごうまい》不群ともいうべき英主だ。
こころみに、この人達の逸話をあげてみる。
六
家久は二代秀忠将軍から三代家光将軍にかけての頃の人である。家光の弟駿河大納言忠長は当時最も権勢盛んで、幕府でも別格あつかいにし、諸大名皆畏伏していた人であるが、薩摩の武士がこの人の愛養している唐犬を斬り殺したことがある。吠えかかり、噛みつこうとしたので、やむなく斬り捨てたのだ。忠長は激怒して、その武士をさし出すように、島津家に要求した。
「駿河様御愛犬であっても、畜生は畜生だ。吠えかかり、噛みつこうとした以上、斬るは当然のこと。差し出すこと思いもよらぬ」
と、家久は頑として応じない。
権勢に驕っている忠長は怒った。
「外様《とざま》大名の分際で、余にたてつこうというのか! 弓矢にかけてもこの言い分は通すぞ」
と猛り立って、戦さ支度をはじめる。
「面白い。好むところではないが、こうなれば武士の意気地じゃ。おめおめと屈服しようか」
と家久も戦さ支度を命じた。
うわさは乱れとんで、江戸中大さわぎとなった。幕府ではおどろいて、ついに当時の老中主席土井利勝が仲裁役を買って出て、薩摩屋敷に来て、家久に言った。
「理は貴殿の方にある。畜生と武士とつりかえになるものではない。しかしながら、駿河様はほかならぬ方。どうでござろう、貴殿、何となく駿河様へまかり出で、お玄関先きにて、『薩摩守参上』とだけ申して下さらぬか」
「わびを言うのではござらぬな」
「わびではござらぬ。ただそう申されるだけでよろしい」
「申しきりで、そのまま帰って来ていいのでござるな」
「そのままお帰りになってよろしい」
「さらば、そういたしましょう」
で、翌日、駿河家の玄関まで行って、「薩摩守参上」とだけ言ってかえったが、駿河家ではこれを家久が自身わびに来たと解釈して、事おさまったという。理を非にまげて権勢に屈するようなことはしないのである。
水戸光圀が後楽園をつくった時、諸大名を招待した。家久も招かれて行ったが、いきなり裸かになり、ザブザブと池に入って行き、同行の大名らがおどろいている中を、一しきり泳ぎまわってから上って来て、光圀に言った。
「結構なお池でござる」
さすがの光圀もあいさつに窮した。
帰邸の後、供の家来らからこの報告を聞いた重臣はおどろいて、家久を諫めた。
「お客先きであのようなことをされてはなりません。とりわけ、水戸様ではございませぬか」
家久は呵々と笑って言ったという。
「水戸殿のようなコーサク(小癪)な人にたいしては、あげんした方がよかのじゃ」
光圀の儒学かぶれ、名君きどりが気にくわなかったのである。
綱貴は四代将軍家綱、五代将軍綱吉の頃の人だ。元禄の貨幣改鋳があってからのことだ。何しろ金銀の含有量を半減しての改鋳であるので、民間に贋金をつくるものが多かったのであるが、ある時、ある大名の家に祝いごとがあって、大名らが参集した席上、この贋金つくりのことが話題になった。
すると、綱貴が言った。
「民の間の贋金つくりなど知れたものでござる。一番大きな贋金つくりは公方様でござるよ。何百万両という金を二倍につくり直さっしゃるのだからのう。ハッハハハ」
あたりはばからぬ大声で言い、大声で笑ったので、諸大名みな青くなって口をつぐんだという。五代将軍綱吉の時代は幕府の威勢が最も張り、生類あわれみ令や愛犬令のような暴令が数十年も励行され、諸大名誰一人としてこれを諫言し得る者がなかったという時代だ。この時代にこれほどのことを高言するのだ。豪邁な気性がうかがわれるのである。
宗信はわずかに二十二で死んだ。彼は学問が好きであったが、豪邁不群の本性は去勢されず、数々な面白い逸話をのこしているが、その一つ、九代将軍家重が諸大名に狂言を演じさせて上覧したことがある。大名らはそれぞれ出入りの狂言師を呼んで指導を受け、日夜熱心に稽古したが、宗信は一向それをしない。家臣らは心配して諫めたが、宗信は、
「すておけ、すておけ」
と、全然とり上げない。
次第に日が立ち、ついにいよいよ明日という日になった。宗信は家臣に命じて、出入りの狂言師を呼んだ。
「明日、柳営において狂言をして上覧に供せねばならん。おれがシテ、そちがワキ、さように心得るよう」
狂言師なかまでは評判になっていることなので、いつ薩摩では呼びに来るつもりであろうと心配していた狂言師だが、こうさしせまってはこまった。出来るだけやさしい曲をえらばなければ稽古が間に合わないと思いながら、聞いた。
「曲は何を遊ばされるのでございましょうか」
「何でもよい。そちにまかせる」
「それでは、○○はいかがでございましょう」
「よかろう」
「御稽古は? 明日にせまったことでございますから、よほど熱心に遊ばされませんと」
「稽古はいらぬ。明日は何時までにまいって、おれが供をして登城するよう。大儀であった。さがれ」
狂言師はまるで腑《ふ》におちず、首をひねりながら帰宅した。
翌日、柳営においてだ。大名らは入れかわり立ちかわり舞台に出て演技した。上手ではないが、熱心に稽古を積んだものであることはわかった。
ついに宗信の番になる。宗信は型のごとく大名に扮して舞台に出、ほどよい位置においた床几に腰をおろすや、大音声に呼ばわった。
「これは日本にかくれもない大名、薩摩守宗信でござる。狂言をして見せよとの上意につき、これから狂言をいたそうと存ずる。――ヤイヤイ、太郎冠者あるか」
狂言師の扮する太郎冠者が出て来て、宗信の前にかしこまった。
「おん前に」
「ヤア、太郎冠者か。念のう早やかった。今日《こんにツ》た、上様のお好みによって、狂言をすることになったれば、その方よろしくつかまつれ」
と宗信は言って、大手を振り、ノッシノッシと引っこんでしまった。
この人を食った大胆不敵なやり方に、人々はあっけにとられていたが、やがて哄笑と喝采がどっとわきおこって、しばらくやまなかったと伝える。胸のすくような豪快さだ。
重豪《しげひで》は十二歳で襲封して四十二まで当主であり、その後九十近くまで生きて、隠居の身ながら藩政を見た人だが、器宇雄大、性豪邁、現代に似た人をもとむれば大谷光瑞師のような人柄であったと言えば近かろうか。光瑞氏が金使いがあらくて本願寺当局を弱らせたように、重豪も金つかいがあらく、おかげで島津家は破産しかけたほどだ。私生活もぜいたくであったが、有用な事業もまた大いにしている。鹿児島に藩黌《はんこう》造士館を建てたし、成形図説(博物図説)を編纂させたし、南山俗語考(中国語辞典)をつくったし、西洋の文物を愛して長崎駐在の蘭人と親交があった。薩摩が日本の片田舎にありながら次の時代に国家改造の指導権をとって新日本をきずき上げたのは、この殿様の時代に清新溌剌の世界的気運を導入する気風を涵養したによるところが多い。
重豪は自分の娘を十一代将軍家斉がまだ一橋家にいる頃に縁づけたのであるが、家斉が将軍となったので、将軍の岳父になった。家斉もまた将軍をやめて大御所になってから政務を見て、その治世はおそろしく長いのであるが、その長い治世中、重豪の威勢は三百諸侯中ならぶものがなかった。十五代の江戸将軍中、家斉は最もぜいたくをした人だが、重豪は、むこ殿に負けるものかとばかりに、ぜいたくしたというのだから途方もない話だ。
斉興《なりおき》は重豪の孫だ。重豪が破産寸前にまで追いつめた藩の財政を、その当主である間に見事に立てなおし、江戸・大坂・国許にそれぞれ五十万両(一説では百万両)ずつの用意金を積み上げ、これが次の時代に薩摩が維新運動に乗り出した時の費用になっている。
ペリーにひきいられた米国艦隊が浦賀に来て、開国を威嚇強要した時、江戸では今にも戦さがはじまるかと、上は幕府から、中は大名・旗本、下は庶民に至るまで、右往左往して立ちさわいだが、薩摩屋敷だけは少しもさわぐ色なく、邸内からお能の囃子が終日終夜のどかにきこえていた。さわぎがしずまった後、誰がしたのか、門の扉に大きな膏薬がはりつけてあった。はがしてみると、下に白紙がはりつけてあって、墨黒々と書いてあった。
「大できもの」
斉興の沈着大度にたいする江戸ッ子らしい称讃であったのだ。
斉彬《なりあきら》は斉興の子。この人の名君ぶりは維新史を研究する者が一人のこらず認めるところだから多説はしないが、当時においてすぐれていただけでなく、江戸時代を通じて、第一の名君であろうとまで言っている学者もある。西郷・大久保を先頭とする薩摩出身の維新の傑士らは、一人のこらず斉彬の直接あるいは間接の薫陶によって人となったのだ。
上にあげたのは特に傑出した人々であるが、ここにあげなかった人々だって、決して凡庸ではない。それぞれに立派な素質を持っている。
七十七万石という大封である上に、このように英邁な殿様ばかりであったのだから、江戸時代を通じて薩摩が雄藩として幕府におそれられたのも当然であろう。
七
以久《もちひさ》が佐土原藩主となって数代の間は、佐土原島津家は格式は城主ではなかったが、以久から四代目の惟久の時五代将軍綱吉の命によって城主となった。大名には格式があって、国主・准国主・城主・城主格・領主とわかれていて、江戸城内における待遇がちがうのだ。体面と格式が最も重大なことになっている太平の時代の大名にとって、これは大事件であったにちがいない。家譜に特筆してある。
江戸時代を通じて、ずっと本家と親しくして来ており、すべて本家に従って行動している。幕末維新の物さわがしい時にも、本家について活動している。薩英戦争の時、当時の佐土原の藩主であった忠寛《ただひろ》は兵をひきいてはるばる佐土原から鹿児島に駆けつけて働いている、つづく維新運動にもすべて本家と行動を共にしている。明治十七年爵位が制定された時、はじめ子爵を授けられたが、間もなく維新の際の功を参酌して伯爵に昇叙されている。三万石で伯爵になれたのはこの家くらいのものであろう。
藩主の家同士が仲がよかっただけでなく、藩士や領民も仲がよく、明治十年の西南戦争には佐土原の士族らは佐土原隊を編成して西郷軍に投じて奮戦している。もっとも、ぼくの父は、
「佐土原ン奴どんな弱かったわい」
と言っていた。当時まだ濃厚にのこっていた藩意識が言わせたことで、事実ではないのかも知れない。
明治維新において、薩摩島津家は大功があった。維新運動の中心をなしたといってもよかった。それで、公爵家が二軒出来た、一軒は本家島津家、一軒は当時の藩主忠義の実父として藩政の実権をにぎっていた久光の家。忠義の子が今の本家島津家当主である忠重氏、久光の子が忠済、その子が今の日赤社長の忠承氏だ。これを鹿児島では玉里島津家といっている。
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久光という人はかしこくて頑固な人で、維新革命の大元老であるが、それでいて、版籍奉還に大反対で、自分の家来筋にあたる西郷や大久保がこれを断行したのをいきどおり、終夜花火を上げて鬱憤を散じたという人だ。
版籍奉還に反対だったとは面白い。維新運動は国家統一運動であったところに歴史的大意義があるので、従来最も重大視されていた勤王はその統一の中心をもとめる動きにすぎなかった。すでに国家統一運動である以上、全国を渾一する版籍奉還、廃藩置県まで行かなければ意味はないのであるが、久光には単なる勤王運動として把握されていたのであろう。勤王運動なら、幕府をたおして天皇を政治の中心にしただけで完結するわけだから、彼はそこで踏みとどまろうとしたのだ。久光という人は大変かしこい人だし、学問もあった人だが、大大名の家に生まれて世間知らずで育った人だけに、ものごとを観念的にしか見ることが出来なかったのであろう。
忠義は久光の実子であるわけだが、やはり頑固な血を受けていたのだろう、明治三十年に死ぬまで、チョンマゲを切らなかったと伝えられている。
忠重氏はその子だが、忠重氏のことを故有馬頼寧氏が、
「島津は十二三頃に鹿児島から東京に出て来たのですが、その頃まだチョンマゲを結っていましてねえ」
と、ぼくに話したことがある。しかし、県出身の古老に聞いてみたところでは、
「それは有馬さんの記憶ちがいではないかな、お父さんの忠義公は結っておられましたが」
ということであった。その後、忠重氏にお会いしたので、お尋ねしてみたところ、これはある程度事実であった。忠重氏は鹿児島におられた間はチョンマゲに結っておられ、明治三十一年出京されるにあたって断髪された由である。チョンマゲは父忠義公の好みであったという。
島津本家は多年の維新運動で、ずいぶん金をつかった。今日大名華族の中で経済的にシャンとしているのは、大大名で、維新の時活動しなかった家だけといってよい。肥後の細川家、肥前の鍋島家(鍋島家は伏見鳥羽役があって大勢定まってから乗り出して来たので、骨の折れる時代には働いていない)、備前の池田家、加賀の前田家、皆そうだ。
しかし、それでも八十八万石の余勢はなかなかのもので、大正末年までは華族中の富有な家として聞こえていた、大崎の袖ガ[#「カナ小書き]崎の邸宅は日比谷公園の半分ほどの面積を持っていたという。大打撃をこうむったのは、昭和初年のパニックで十五銀行が破産した時だ。預金何百万円かがフイになったばかりか、大株主でもあったので、損害は大へんなものであった。袖ガ[#「カナ小書き]崎の邸を売りはらい、刀剣その他の什物を売り立てた。
「殿様が刀をお売りになる」
と、その頃ぼくの父が涙ぐんで言ったのを覚えている。
さらに大きかった打撃は、こんどの戦災と戦後の財産税だ。一時は大へんなことだったらしいが、今日ではややもち直したと聞いている。しかし、雪ガ[#「カナ小書き]谷にある邸は二百坪ほどのいたってつつましいものであるという。
玉里の忠承氏の方は日赤社長として活動していること、皆様御承知の通り。
八
島津家は明治初年まで皇室との姻戚関係はない。これはそのはずで、諸大名が皇室とこんな関係を結ぶことは幕府が禁止していたのだ。将軍家や御三家には皇族方から奥方が来ているが、これは別格だ。
徳川本家には二度島津家から姫君が縁づいている。一番目は島津重豪の娘が十一代将軍家斉の簾中となっている。しかし、これは家斉がまだ一橋家にいる頃に、しかも、近衛|経熙《つねひろ》の養女にして入輿させている。
次は維新時代になって、斉彬の養女が、これまた近衛家の養女ということになって、十三代将軍家定に入輿している。後に天璋院といった人だ。これは純然たる政略結婚で、幕府の大奥を抱きこむことによって、もつれにもつれた将軍継嗣問題、幕制改革問題をスムーズに運ぼうとの斉彬の政策の一環として行われたのだが、かんじんの政策は井伊直弼の出現と斉彬の急死によって実現しなかった。
この入輿にあたって、斉彬の命を受けて最も精力的に働いたのは西郷南洲であった。後年西郷が人がらに似合ず織物や漆器やべっこう細工などの鑑別に長じているのを、人が不審に思ってたずねたところ、西郷は、
「天璋院様のお輿入れの時、ずいぶん骨をおりもしたでなあ」
と、笑って答えたという。
しかし、皇室とはこの意味の結びつきはなかった。近衛家ともなかったようだ。島津家の系図をしらべてみても、嫁のやりとりをしたという事実は出て来ない。近衛家は最高公卿で准皇族のようなものだから、これと縁ぐみすることは幕府の禁忌になっていたのであろう。
しかし、ずいぶん親しくはしており、皇室にも近衛家を通じて接近している。維新時代になっての皇室にたいする政治運動も、すべて最初は近衛家を通じてやっている。
西郷南洲と僧月照が相抱いて鹿児島湾に投じたことは維新史上最も劇的な事件の一つだが、これもそのはじめは西郷が近衛家から月照の身柄の保護を委託されたところからはじまっている。
近衛家と島津家の関係は、そのはじめは前述した通り主従の関係で、物質的にも近衛家の方が保護者であったわけだが、鎌倉時代の中期から公家が経済力を失ない、戦国に至って底をついてくると、島津家の方が保護者になったようだ。
豊臣時代、近衛|信尹《のぶただ》は秀吉の怒りに触れて薩摩に流されたが、赦免帰京になるまでの三年間、島津義久は信尹を風光明媚で当時日本有数の貿易港であった坊ノ津において、厚遇いたらざるなかった。
今日、坊ノ津にはその旧棲のあとが保存され、彼が愛したという藤が老木になってのこっているが、彼はここにいて、土地の美女を妾にして、まことにのんきな流人生活を送ったのである。
江戸時代になって、近衛家の生活も昔ほど苦しくなくなったが、それでも公家の位だおれはまぬかれなかったので、島津家から相当みついだと思われる。
皇室と島津家との姻戚関係が出来たのは、明治の中頃、久邇宮邦彦王が最後の薩摩藩主であった島津忠義の女|俔子《ちかこ》様と結婚されてからのことだ。この二人の間に現皇后様がお生まれになった。これは本家島津家との関係であるが、佐土原島津家の前主久範氏は忠義の実子で、佐土原家をついだのであるから、皇后様の母方の叔父になるわけであり、こんど清宮様と結婚する久永氏は久範氏の二男だから、皇后様とはいとこにあたり、清宮様とはいとこ半の間柄というわけだ。
九
これから、なぜ島津家と久邇宮家とが姻戚となるほどの親しさが出来たかを語りたい。最初のおこりは維新時代にある。
文久二年から三年にかけて、京都政界は長州藩によって指導されていた。長州藩の激烈な勤王攘夷論が支配的で、朝議はこれによって動いていた。これにたいしておだやかでなかったのが薩摩である。
「長州の政策は過激にすぎる。日本をあやまるであろう」
と考えたわけだ。藩意識の強い時代だ。純理の上からだけの反対ではなく、嫉妬感情も大いにあったに相違ない。
文久三年の秋、長州は、
「大和行幸、神武陵と春日神社に御親拝、終って伊勢神宮御拝謁、その後大坂に駐輦あって天下兵馬の権を回復されて攘夷御親征」
あらんことを建白した。
現実には、天下兵馬の権は幕府にある。それを御回収というのであるから、これは当然幕府無視、幕府否認、幕府討伐ということになる。当時としては信ぜられないくらい思い切った計画だ。
朝廷はこれを受入れて、発表した。
幕府側である会津藩が仰天したのはいうまでもないが、薩摩もまたゆゆしい大事であると思った。この当時まで薩摩は幕府を倒すべきものとは思っていない。外国の脅威のせまっている時、朝幕相争うべきではない、むしろ公武一致して国難にあたるべきである、と、考えている。会津と薩摩の接近がはじまり、両藩は一致して、長州の排斥を企てる。彼等は秘密裡に会議して、主上(孝明天皇)の御信任厚い中川宮(後の久邇宮朝彦親王)の許に行き、
「長州の方策は国基を危くする愚策であります」
と説いた。中川宮もかねてから同じ憂えを抱いておられる。一夜、参内して、天皇に説かれた。
天皇もまた長州の献策を一旦嘉納にはなったものの、少なからぬ危惧をもっておられた。密議が行なわれ、一夜にして朝議がかわった。長州藩は宮門警備の任を解かれ、長州と同調していた三条|実美《さねとみ》以下の公卿七人は参内を禁止された。
長州人らは悲憤しながらも、七卿を奉じて国許へ落ちた。朝廷はこれに追討ちをかけた。七卿の官爵を削り、長州藩主父子を勅勘にし、長州人の在京を禁止した。
これが維新史上有名な八月十八日政変、七卿落ちだ。
以後、長州藩は言語に絶する苦難の途を歩かなければならなくなった。この翌年、蛤御門の戦いをおこして一敗地にまみれて、朝敵の汚名を着ることになったばかりか、ちょうどその時、英・米・仏・蘭の四国艦隊と下関戦争をおこして、それまた惨敗して国威をおとし、幕府から二度にわたって征伐をこうむるし、目もあてられない苦難の連続であった。薩長の連合が出来、伏見鳥羽の一戦に幕軍を撃破してから、運命はやっと長州藩にほおえみかけるようになったものの、八月十八日政変にたいする長州人のうらみは消しがたいものがある。したがって、最も中川宮を恨んだ。
明治元年八月、宮が新政府の手によって、親王の身分、位階等をうばわれて、芸州藩におあずけの身となられ、幽閉二年の生活をお送りにならねばならなかったのは、このためである。
長州藩が久邇宮家をうらむにいたった原因が、薩摩藩には反対の作用をした。島津家と久邇宮家とはごく親しくなって、ついに明治中期、両家の間に婚儀が行われるに至った。前述の島津忠義の女俔子様が朝彦親王の御子邦彦王に嫁がれたことだ。
大正中期に、今の皇后様が久邇宮家から皇太子妃となられるについて、長州出身の当時の元老山県が、
「良子女王の母系たる島津家には色盲の遣伝がある」
と言い立てて、猛烈に反対した。当時はこれを薩長藩閥の争いである、長州閥の頭領として、山県は薩摩の力が宮中に入るのを阻止しようとしているのだと言われたものであり、現在でもそう信じている人がある。しかし、ぼくは山県が維新時代の恨みを久邇宮家にたいして忘れかねていたためだと見ている。
山県は維新当時奇兵隊の大幹部の一人として、ひとしお深刻な恨みを抱いていたはずだ。とくに彼の陰深《いんしん》な性格からしても、忘れるはずがない。
ぼくはこの文章を書くにあたって、当時の事情にくわしい薩摩出身の古老に会って、
「あの事件の時、薩摩側ではどういう防衛運動をしたのです」と聞いてみた。
「何にもしなかった。当時は松方老侯なども生きておられたのだが、島津家に色盲の素質があることは事実なんで、どうにもしようがなく、なり行きにまかせて静観の態度であった。ただ、木場貞長さん(鹿児島出身、法学博士、貴族院議員、維新史料編纂委員)が山県さんのところへ行って苦諫したという話であったが、松方侯をはじめ諸先輩は余計なことをすると、きげんが悪かった。山県さんの阻止運動が破れて、御婚儀に決定したのは杉浦重剛さん方の働きであったようだ」
という答えであった。
この説明を聞いて、ぼくは自説を訂正する必要を認めたが、しかしそれは一部訂正だ。山県が色盲の素質が天皇家に入る危険を憂えた衷情は疑うことは出来ないが、その底に久邇宮家にたいする怨恨があったという信念は益※[#二の字点、unicode303b]強くなった。木場貞長は何といって山県に苦諫したのであろう。彼が維新史料編纂委員であるだけに、その説くところは山県には痛かったはずである。
縷々述べて来た通り、佐土原島津家は薩摩島津家の分家であるが、江戸三百年の間に本家から奥方が来たこと三度、明治になって本家の忠義の子久範が養子に来、その二男が久永氏だ。清宮様はこの人に嫁がれるのである。久永氏が清宮様といとこはんにあたることも、またすでに述べた。
十
皇太子妃が庶民から選ばれたことは、庶民の野の血が天皇家に入って行くわけで、天皇家の血に生気をあたえるという点から、大へん結構であるが、清宮様のこの御結婚は相当近い血族結婚だから、久永さんが最も庶民的なサラリーマンとなっているということだけでは祝福しきれないという人もあろう。しかしながら、くわしく調査してみると、それほど心配することはいらないようだ。
清宮様の外祖母にあたる俔子様は島津忠義の妾腹で、その生母は家臣山崎氏の女である。家格の高い家ではない。平士《ひらざむらい》の家だ。
また、佐土原家に養子に行った久範氏も妾腹で、その生母は家臣菱刈氏の出身だ。故陸軍大将菱刈隆氏の実家。菱刈氏は戦国時代には島津家に相当執拗勇敢な抗争をつづけた家だ。後家臣となり、その家系には家老などつとめている人物も出ているが、江戸末期には相当微禄して、庶民の血が濃厚になっている。
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つまり、清宮様と久永氏とはいとこはんではあるが、母系を異にしている。普通のいとこはんほど血のつながりは濃厚ではないのだ。また、両統とも母方から庶民の強健な血が入っている。相当安心してよいのである。
明治初年以前には、天皇家・皇族・公卿・大名らの最高貴族階級では妾をおくことが普通の習慣になっていたので、しぜん、野の血が血統に入って血を衰弱させなかったのであるが、その後、蓄妾は人倫上の罪悪とされ、今日ではほとんどあとを絶っている。貴族同士の結婚をくりかえしていては、血の強化される機会がない。天皇家もこの点をよほど考えて、出来るだけ庶民と結婚される必要があろう。
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[#見出し] 王朝時代の幽霊
日本の幽霊に足がなくなったのは、一説によると円山応挙、一説によると狩野派の誰とかの絵からとか、いろいろな説があるが、つまりは江戸中期以後からであるのは確実で、その以前の幽霊は、立派に足がある。足があるばかりでない。西洋の幽霊と全然同じだ。
西洋の幽霊には、全身のはもちろん、頭も胴体もなく片足だけというのがあり、首だけというのがあり、音声だけというのがあり、音響だけというのがあり、家具等の道具類というのがあり、多種多様であるが、日本の幽霊も古いところではそうだ。
西の宮の左大臣源高明の邸の寝殿の東南の母屋《もや》の柱に節《ふし》があって、それが穴になっていた。夜になると、その穴から子供の手が出てひらひらと人を招いた。穴の上に経文を結びつけたり、仏像をかけたりしたが、何の効果もなく、二三日目毎には、人の寝静まる頃になると、必ずニョッキリと出て、ひらひらと招いた。これは「今昔物語《こんじやくものがたり》」にある話だが、人体の一局部の例である。
やはり「今昔物語」にある話だが、ある公卿の家の膳部《かしわで》(料理人)が、夜十時頃、御用がすんで人々の寝しずまったあと、裏門から出て帰宅しようとすると、門の上に赤い袍を着、冠をかぶって、威儀儼然たる容儀の人が立っていた。
どなたであるかわからないが、見るからに高位の人と思われたので、平伏していると、声をかけた。
「そちはまろを知っているか」
「存じません」
「まろは昔この国で大納言であった伴善雄《とものよしお》である。罪を犯して伊豆の国に流されて、早く死んだが、今では咳《せき》の病の神になっている。唯今世間に咳の病が流行しているのは、まろのなすわざである」
と言って、掻き消すように見えなくなった。これは全身の例。
これも同書にある話。夏の夜のこと、公卿の家で宿直にあたった侍二人が、寝殿の南面の放出《はなちで》の間に寝そべって世間話をしていた。夜更けになって、ふと一人が東の対《たい》の屋の棟に、一枚の板がニュッと突き出したのを見つけた。
「おい、見ろよ」
「何だろう」
「盗賊が火でも放《つ》けようとするのではないかな」
「火つけなら床下だろう。屋根に放けるはずはない」
「それはそうだ」
ひそひそとささやき合いながら見ていると、板は次第に大きく出て来て、ついに七八尺ほどにもなったが、忽ちスッと屋根をはなれて、ひらひら、ひらひら、とひらめきつつこちらに飛んで来る。鳥より蝶の飛びざまに近いが、それとも違う。しかし、命あっておのれの意志で飛んでいることはたしかだ。二人はぞっとした。
板は二人のいる放出の間に来て二人に近づこうとする。
「しゃ! もののけ!」
二人は、太刀をとりなおし、寄らば切らんと身がまえた。
板はなお側へ寄ろうとして、そのあたりをひらめき飛んでいたが、どうしても近づけないらしく、ひらひらとうしろに飛び、隣りのへやとをへだてている戸の細いすき間に片端が入ったかと思うと、ことッことッことッと音を立てて入って行ってしまった。
そこの部屋には、二人の上役である諸大夫が寝ていたのであるが、にわかにものに魘《おそ》われたようなうめき声を二三度あげた。
二人は仰天して声を上げて走りまわり、人々をおこして事の次第を話した。人々もまた驚いて、火をともしてそこへ行って見ると、諸大夫は仰向けに寝たまま板のように平たくおしつぶされて死んでいた。先刻の板はどこへ行ったか、影も形もなかった。これは器物の例。
小野ノ宮右大臣藤原|実資《さねすけ》が夜、禁裡《きんり》から退出して来る途中、大宮通りを下って来ると、車の前に小さい油壺が出て来て、ヒョコリヒョコリとおどりながら行く。
「これは不思議、物の怪《け》だな」
と思いながらついて行くと、ある家の前にヒョコリヒョコリと近づいた。そして、ぴったり閉まっている戸の前で、おどり上りおどり上りしていたが、ついに鍵の穴からスーッと入ってしまった。
実資は家にかえったが、不思議でならない。家来にその家に行ってそれとなく聞いて来るように命じた。家来は出かけて行ったが、やがてかえって来て報告した。
「あの家の若い娘が、この頃病気になって臥《ふ》せっていましたが、今日の昼頃、亡くなったそうです」
これも器物の例だ。
讃岐守|源是輔《みなもとこれすけ》の隣邸はまことに恐ろしいところで、住む人もなく空邸になっていた。そこの東北の隅に大きな榎《えのき》があった。たそがれ時になると、その邸の寝殿の前にいずくからともなく赤い単衣《ひとえ》があらわれ、榎の方へ飛んで行って、梢に上って行くので、人々は恐れて近所に近づく人もなかった。
ある夕方、讃岐守の家の家臣で武者立ったことの好きな男が、その単衣が飛んで行くのを見て、朋輩に、
「射落してみようかの。射よげに見ゆるぞ」
と言った。
「相手はもののけだ。つまらんことを言うものでない」
「なんの。そう言うなら射落して見しょうわい」
翌日の夜、男は弓矢をたずさえて隣邸に出かけて行き、寝殿の南面《みなみおもて》の縁側に上って待っていると、南庭の東の竹の疎林の中から、赤い単衣が飛び出して来て、ひらひらと榎の方へ飛んで行く。
男は雁股《かりまた》の矢をつがえて、十分に引きしぼって射放った。矢は単衣の只中を射つらぬいたが、単衣は矢をたてながらひらひらと飛んで榎にたどりつき、そのまま梢にのぼった。
矢のあたったあたりから榎までの間の庭を見ると、したたかに血がこぼれていた。
「さてこそ、見つることよ(ザマ見ロ)」
男は大得意で邸にかえって、朋輩等に報告し、鼻高々としていたが、その夜寝ている間に死んでしまった。何の傷所もなく。この話は、吉川英治氏がその作「袴垂保輔《はかまだれやすすけ》」の中に利用して、三四年前映画にもなったが、これも器物の例だ。
一体、世間にはいろいろな不思議に逢う人もあれば、全然逢わない人もある。ぼくはその全然不思議を経験しない側に属するが、ぼくの友人に実にひんぴんとして不思議を経験している人がいるので、ぼくは幽霊の存在を否定しきれないでいる。
「存在するのかも知れない。おれの持ち合わせの感覚ではそれが認識出来ないのかも知れない。おれの友人は別に特殊な感覚があるために、ああしていろいろな不思議に出逢うのかも知れない」と、思っているのだ。
こういう人は大抵おそろしく臆病だ。ぼくの友人も柔道三段の猛者のくせに、夜十時以後になると、ひとりで外を歩くことが出来ない。不思議を常に見るから臆病になるのであろうか。あるいは、臆病な性質の人には不思議を見得る特別な感覚のある人が多いのであろうか。
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[#見出し] 源頼義
一
源頼義は清和天皇から五世の孫になる。六孫王経基、源姓を賜わって臣籍に降下したが、その子満仲から歴代武勇の名がある。満仲は摂津の多田に所領があってここにいることが多かったから多田ノ満仲と呼ばれていたが、江戸時代に「いろはがるた」で「多田ノ満仲武士のはじめ」と言われていたくらい高名の武人であった。その子が頼信、大江山の鬼退治で有名な頼光の弟で、なかなか武勇で、乱暴な点は頼光にまさっている。
この頼信が、ある宮仕えの女房に通って生ませたのが、頼義である。幼名王代丸。武人の子に似あわず画才があり、幼時それでよく人を驚かしたという。代々武勇ばかり励んで来た父方にはそんな血はあるまいから、母方の遺伝かも知れない。
頼義の少年期から青年期に移ろうとする頃のことだ。当時三条天皇の皇子で敦明《あつあきら》親王という人がいた。この人は一度後一条天皇の皇太子に立てられた人であるが、その頃朝廷の権力を一手に集めていた御堂関白道長がおのれの女《むすめ》が一条天皇の中宮となって生んだ皇子敦良親王(後の後朱雀天皇)を太子に立てようとして、ひどく敦明親王につらくあたったので、自ら太子の地位を去られた。そうなると道長も気の毒になり、上皇に準ずる待遇をしたてまつることにして、小一条院と申し上げた。
この小一条院は大へん狩猟の好きな方で、そのお供にはいつも頼義が従った。頼義は好んで弱弓をもって射たが、飛禽走獣もその矢をのがれることが出来ず、百発百中、しかもあたった矢は矢羽までつらぬいたと伝える。技神妙に入っていたのである。
上野介平直方は、当時有名な武人であったが、頼義の射芸に驚嘆して、聟になってくれと懇願して、女をめあわした。
射芸に達しているというだけで、これほどまでの打ちこみようは現代の我々には不思議な気がするが、弓が最も有利な武器であり、戦争のあり方が単純であったのだから、当時は弓馬の芸は武人第一の資格であったのだ。
小一条院と頼義との関係はきわめて深く、君臣の間柄であったようである。この時代、白河天皇がこんなことを言われたと、古今著聞集に出ている。
「小一条院は阿呆なお人であったが、源頼義という武勇の者をいつも従えておられたので、大へん立派に見えた。身分高き者は武勇の名のある者を信頼して従えているべきである」
やはりこの頃のことであろう。東国から頼信のところに名馬を献上した者があった。頼義はこの話を聞くと、自分の邸から父の邸に行って一見を乞うた。すばらしい馬だ。頼義がほしいと思っていると、頼信は笑った。
「ほしそうだな。そなたにやろう。明朝ひいて帰るがよい」
頼義はよろこび、感謝し、その夜は父の邸に泊った。
その日は雨であったが、夜なかにふと目をさますと、雨の音の中に邸中がなんとなくさわがしい。耳をそば立てると、下人共の声で、「馬盗人が入って、東国から来た馬を盗んで行った」といっている。ハッと思った時、隣室に寝ていた頼信の起きるけはいがし、弓矢を取る音がし、しとしとと外へ出て行く。
頼義も起き上り、真暗な中に身支度し、弓矢をさぐりとって外へ出た。厩に行って自ら馬を引き出し、鞍をおいて、邸を出、東に向かった。盗まれたのが昨夕東国から来た馬だとすれば、盗賊はそれを東国からつけ狙ってきたに相違ないと見込みをつけたのだ。
やがて頼信に追いついた。頼信も頼義と同じ見当をつけていたのである。父も口をきかなければ、子も口をきかない。黙って馬首を雁行させて、ただ駆けさせた。
鴨の河原を越える頃、雨がやみ、雲が切れ、いくらか明るくなった。東山を越えて、関山《せきやま》(逢坂山)にかかると、真暗な前方に、ぬかるみの中を行く音がかすかに聞こえた。頼義は弓に矢をつがえた。とたんに、頼信は一喝した。
「それ!」
その語がおわらないうちに頼義は切ってはなった。
同時に、人の乗っていないあぶみの音がからからと聞こえた。
「射落したな。馬を取ってまいれ」
頼信は言いすてて、そのまま馬首をかえして引き上げた。
頼義が馬を進めてみると、盗まれた馬がしょんぼりと路の真中に立っていた。盗人は谷にでも転げこんだのであろう、見えなかった。
京にかえる途中、郎党らが一二騎ずつ思い思いに追って来るのに逢い、ついには三十騎ほどになった。
父子は前後して帰りついたが、まだ夜が深かったので、また寝についた。夜が明けると、頼信は頼義に昨夜の馬によき鞍をおいてあたえたという。
これは今昔物語に出ている話であるが、当時の武人の心掛けと訓練のきびしさをよく語っている。同時に、東国からずっとつけ狙って来て盗み出したという点、当時の盗賊共の執拗不敵な魂、当時の人が駿馬をどんなに珍重したかも語っている。
二
頼義が相模守になったのは何歳の時であったろうか、正確にはわからないが、前後の関係から三十を少し越えたくらいであったと推定される。当時の坂東人の気風は、武将たるものは個人的武勇にもすぐれていなければ尊敬しなかったが、頼義はこの点にも遺憾がなかったし、仁心もあり、大度であったので、坂東の武士(つまり在地地主ら)は争ってその家に出入りし、威風八州を風靡した。
四年の任期のおわる頃、陸奥の国に戦乱がおこった。
大体、奥羽地方が厳密な意味で日本の領土となったのは、この時代から百三十余年後の十二世紀末に源頼朝が平泉の藤原氏を亡ぼしてからで、それまでは白河ノ関以北は蝦夷人の国であった。もちろん、多数の日本人が入って行っているし、京都朝廷から国司や鎮守府将軍も行ってはいたが、実際にはこの地方では中央の政権はきわめて微弱で、土地の豪族と協調してやっと任務を遂行している有様であった。
この時代、この地方で第一の豪族は安倍ノ頼時で、強勢を恃んで国司の命に従わず、甚だ強悍であった。
安倍氏は、新撰姓氏録によると、第八代孝元天皇の皇子で、十代崇神天皇の時、四道将軍の一人として北陸道につかわされた大彦命の子孫ということになっているが、安倍系図では長脛彦《ながすねひこ》の兄|安日《あび》の末とある。日本人でなく異民族の酋長の末とある所、かえって真を伝えているかも知れない。
吾妻鑑は後世の記述であるが、その文治五年九月の条に、この頃の安倍氏の勢力の壮大さを書いている。それによると、西は白河ノ関を境とし、東は外ガ[#「カナ小書き]浜(今の青森海岸)に至るまで、行程十余日の間の土地をしめ、中間に衣川の関を設け、三十余里(坂東里だから六町一里である)の間に大道をひらき、両側には桜を植えて並木としていたというのだ。しかも、今昔物語の記述によれば、大陸と交通していたらしい点もある。強大なる一王国といってよい。
当時の陸奥守は藤原|登任《のりとう》という人物であったが、安倍頼時と衝突し、陸奥・出羽の兵をひきいて討伐したが、かえって散々に叩き破られた。この報告が京都につくと、朝廷では頼義を陸奥守に任じ、安倍氏の討伐にあたらせることにした。頼義はこれまでの任地である相模で、関東一帯から兵を募集して陸奥に向ったが、時たまたま天下に大赦令が発せられた。
頼時は関東の精兵を以て組織された新国司の軍隊を見て畏怖していたので、大赦令の出たことを聞くと、直ちに降伏し、頼義に臣従することを誓った。
頼義は鎮守府将軍を兼ねていた。つまり、満洲総督兼関東軍司令官といったところであった。威令よく行われて、頼時もひたすらに恭順の意を表し、駿馬を献上し、黄金を献上し、頼義の将士らへも厚く贈物した。頼義は滞留すること数十日の後、国府(今の仙台市の東北方三里の多賀城)への帰途についたが、その途中、阿久利《あくり》川(現在のどこにあたるかはっきりしない。岩手県磐井郡赤萩であろうという説がある)に宿営したところ、その夜、何者とも知れぬ一隊の兵が頼義の部将で陸奥ノ権ノ守藤原光貞の陣営を襲撃して数人を殺すという事件がおこった。
頼義は夜が明けてから光貞を呼んで、心当りはないかとたずねたところ、光貞は、
「先年安倍ノ頼時の子|貞任《さだとう》がてまえの妹を妻にほしいと申しこんで来ましたが、てまえは彼が異民族であるので、これを許しませんでした。それに意趣を含んでのことではありますまいか。その他には思い当るところはありません」と答えた。
頼義は激怒した。
「いかに怨みがあろうとて、報ずべき場所がある。まろが大将軍としてひきいている軍勢に夜討をかけるとは、まろに夜討をかけるにひとしい所業だ」
と、貞任を召して処罰しようとした。
この報が頼時の方に伝わると、頼時は肝をつぶしたが、貞任を呼び、
「人の世にあるは皆妻子がいとしければこそのことだ。ましてやおれは武人だ。子の難儀を見すぐしにしていては再び世に立つことは出来ぬ。なに、しばらくがまんしているうちには、守《かみ》は任期が来て京へ帰りなさる」
と、言って、一族郎党を召集して館にとじこもり、衣川ノ柵をかため、諸所に砦をきずいて、人々の通行を制禁した。衣川は今の岩手県|胆沢《いさわ》郡衣川町、平泉の西北方二里半の地点にある。
この歴然たる叛形を見ながら、頼義は討伐の兵を出すことが出来なかった。朝廷から追討の命を受ける必要があったのだ。
当時の朝廷は、実力もないくせにばかばかしく権威を重んじた。この時から四十年ほど前に、朝鮮の北方沿海州あたりにいた蛮族|刀伊《とい》が北九州に大挙入寇したことがある。太宰ノ権帥《ごんのそつ》藤原隆家は急を京都に報ずると共に、九州の豪族を召集して奮戦してこれを撃退し、朝廷にたいして戦功のあった武士らに恩賞を賜わりたいと願ったところ、朝廷では、朝廷の差図が到着しないうちの戦闘であるから賞するに及ばずという議論が主張せられ、なかなか有力であった。これを主張したのは、権大納言藤原|公任《きんとう》、権中納言藤原行成らで、二人とも当時の朝廷では最も賢明な人物といわれている人々であったのだから驚くではないか。さらに驚くべきは、朝議はこれを根本法則とし、しかしながら、それでは将来地方武人らの励みにならないから少し賞しておこうということになって、ごく軽く賞しただけであったことだ。
さらに、頼義の子義家の時に至っては、後三年の役に艱難辛苦して清原氏の乱を平定したのに、朝廷の差図を受けずに勝手に行った私闘であるとして、全然賞していない。ばかばかしいかぎりの政治であったのだ。
三
さて、頼義は急使を都へ馳せて、朝廷のさしずを乞うと、やっと翌天喜五年七月に、討伐すべしとの命令がとどいた。
頼義軍の堂々たる威容に心を傾けて、国内の豪族らは争って馳せ参じた。その中に、頼時の女婿平ノ永衡《ながひら》と、同じく頼時の女婿で頼義の父頼信が鎮守府将軍であった頃に源氏の家人になった藤原経清がいたが、この平ノ永衡がまことに見事な銀の兜をかぶっていた。日に照りはえ、おそろしく人目を引く。人々は見事といっていたが、一人の者がひそかに頼義に言った。
「永衡は以前前司|登任《のりとう》殿に仕えて厚遇されていましたのに、頼時の婿となってからは妻の愛にひかされて、頼時に心を運び、この前登任殿が頼時を討たれた時には登任殿にそむいて頼時に味方しています。この度君のお味方に馳せ参じてはいますが、案外本心は頼時に通わし、お味方の内情を偵察して内報するつもりかも知れません。御用心を怠られてはなりますまい」
頼義は道理と聞いて、永衡とその腹心の郎党四人を捕えて首をはねた。
この処置に肝をひやしたのは、藤原経清だ。いつ自分の身に同じ運命が落下するかも知れないと思い、離反の心をきめ、
「頼時は駿足の騎馬隊を以て間道から国府の襲撃に向いつつある」
と流言を放った。
頼義の麾下の将士らの妻子は多く国府にいる。皆おどろきさわいだ。そのまぎれに、経清は手兵八百をひきまとめて、頼時方に逃げ去った。
この時、頼義の任期がおわって、新しい国司|高階《たかしな》経重が任命されたのだが、戦乱がおこったと聞いて、辞して下って来ない。朝廷では頼義を重任させることとした。
頼義は一策を案じ、罪あって陸奥に流されている者や蝦夷人を語らって味方につける計を立て、朝廷の許可を得たので、気仙《けせん》郡司|金《こん》ノ為時、下野守|毛野《けぬ》ノ興重《おきしげ》らに命じてこの計を行わせたところ、うまく行って、蝦夷人の酋長安倍ノ富忠が中心となって多くの酋長を糾合し、七月、鳥ノ海《み》の柵にこもる頼時を攻め、激戦二日、頼時が流矢にあたって戦死したので、柵はおちた。鳥ノ海は今の岩手県胆沢郡金沢村にある。
しかし、貞任の軍勢はなお盛んで、なかなか平定が出来なかった。その上、その年は奥羽は大饑饉で、軍糧が不足を告げたので、せっかく集まった軍勢も逃散する者が多く、兵数は日に日に細って行った。
八月、頼義は書を朝廷にたてまつって、官符を東山、東海の諸国に下し、食糧を徴発して輸送してほしいと願い出、さらに九月には敵状を奏上すると共に、諸国から兵を徴集して食糧と共に送りつけてほしいと重ねて嘆願、十一月にはまた軍勢と兵糧の補給を催促したが、はかばかしく到着しない。
こんな場合に京都朝廷の埒のあかないことは当時の史書を読む者をして驚きあきれ、ついに苦笑させるのである。京都朝廷の公卿らは自らが政治の中心であったこの時代においてすら、儀式典礼を支障なくとり行うことだけを最も重要な政治と心得、実際の政治には情熱もなく、また全然無能であったのだ。この時から百三十年の後武家政治がおこったのは当然である。
頼義としては、そういつまでも攻撃を延引するわけには行かない。味方の勢いは日ましに細るのに、敵は益※[#二の字点、unicode303b]強勢になりつつあるのだ。意を決して、兵一千六百余人をひきいて、貞任の拠る河碕《かわさき》ノ柵を襲撃した。貞任の勢は四千余、はるかに優勢だ。
激戦四日にわたり、さすがに貞任の陣営に動揺が見えたが、夜に入ると寒風きびしく、猛吹雪となった。官軍は人馬ともに凍え、その上糧食はなし、士気大いに衰えた。これに乗じて、貞任が精兵を以て逆襲して来たので、官軍は大敗し、戦死する者が相ついだ。賊の矢は雨の降りそそぐごとく、官軍は頼義を中心にわずか六騎に打ちなされた。長子八幡太郎義家、藤原ノ景通、大宅ノ光任、清原ノ貞広、藤原ノ範季、藤原ノ則明の面々で、四面敵に包囲されてしまった。
しかし、一騎当千の勇者ぞろいだ。ひんぷんたる吹雪の中に、鬼神をあざむく勇をふるって奮戦した。中にも義家の射芸は神のようで、その矢の前に立って助かった者はなかったと伝える。
賊は二百余騎で取りかこんで、矢種をおしまず射そそぐ。ついに頼義の愛馬は敵矢三筋を受けて倒れた。藤原ノ景通はこれを見ると、
「今景通が馬を奉ります」
というや、賊中で一きわすぐれた駿足にまたがって指揮している武者を一矢に射おとし、すかさず駆けよった。その武者の郎党らは主人の首を渡さじと駆けふさがってかばった。景通はからからと打笑い、
「今日は首には用事はない。この馬が所望だ」
と言いざま、轡《くつわ》を取って引いてもどり、鞍の雪をはらって、頼義にすすめた。
この馬がまた射落された。
すると、こんどは藤原ノ則明がまた敵中から馬を奪って来てすすめた。
六人以外の人々の働きも目ざましかった。景通の長男景季は年二十の若武者であったが、単騎敵中に斬りこんで、敵将数騎をたおして壮烈な斬り死を遂げ、和気ノ致輔《むねすけ》、紀ノ為清もまた力戦して討死した。
相模の主人|佐伯《さえき》ノ経範は年こそ七十をこえていたが、坂東武者の精髄のような人物で、頼義の信任があつく、一手の将をうけたまわっていたが、重囲を脱出、頼義の所在をたずねて縦横に馳せまわっているうち、逃げまどっていた雑兵から、
「大将軍は賊兵にかこまれ給い、従う人々もわずかに数騎、御脱出はむずかしかろうと思われます」
と聞くと、天を仰いで浩嘆した。
「おれは年七旬にあまる身、お仕え申して三十年にもなる、今日こそ多年の御恩情に死を以てお報いすべき時ぞ」
馬首をかえして敵陣に突入した。郎党三騎も、
「われらも御主のお供して死に、坂東者の骨法を見しょうぞ」
と絶叫してつづき、相ついで討死した。
こうした官軍の勇戦ぶりに、賊軍もようやく退き、やっと頼義は危機を脱することが出来た。
十二月、頼義はまた朝廷に上書した。
「諸国の兵と兵糧とはすでに輸送の途についたとのことでありますが、まだ到着していません。糧食欠乏のため兵はみな逃散し、民は兵役につこうとしません。また出羽守源兼長は安逸をむさぼって賊を討つ心がありません。今は再び朝廷から断乎たる命令を出していただかないかぎり、賊をたおす手だては立ちません」
朝廷では源兼長を免じ、当時屈指の武人であった源|斉頼《なりより》を任命したが、その斉頼も賊勢におじけて出陣しない。糧食も到着しない。この新出羽守斉頼については面白い話がある。斉頼は鷹が好きでいつも都の邸に二十羽ばかり、田舎の領地にも何十羽となく飼っていたが、老年になると、目に鷹の爪のようなものがあらわれ(角膜が角質化したのであろう)、両眼とも盲《し》いてしまったが、それでも鷹好きはやまず、なお数羽飼養して、いつも手にすえて掻き撫でて楽しみとしていた。ある時、ある人が信濃産の鷹を手に入れ、斉頼のところへ来て言った。
「この頃、西国の者から鷹を贈られました。お目が不自由でありますので、御覧に入れることが出来ず、残念でありますが、ともかく携えてはまいりました」
斉頼は病気で寝ていたが、起き上って、
「それは興あることかな。西国の鷹でも、よきものは信濃鷹や奥州鷹に劣りはせぬものでおざる。見せていただこう」
と言い、麻の直垂に小袴をはき、寝乱れた白髪をかきつけて烏帽子をかぶり、九寸ばかりの糸巻の刀を前半《まえはん》に帯びて坐り、鷹を左の拳にのせ、いとも快げな顔になり、右手で鷹の背をさぐり、股をさぐり、爪をさぐり、
「ふむ、ふむ、ふむ」
とうなずいていたが、やがて言った。
「残念なことよ。わしが目が盲《し》いたればとて、おだましなさる。これは信濃産の巣鷹にて、羽色は腹が白いのでござるわ。西国の鷹はかような毛ざし、骨置《ほねおき》はしておらぬ。よもやあやまりはござるまいぞ」
彼はついには全身に鷹の羽が生えて死んだという。体毛が黒白まだらになったのが鷹の羽のようであったのだろう。
四
さて、貞任の勢いはさらに強大になり、賊将藤原経清のごときはすっかり頼義を見くびって、兵をひきいて衣川ノ柵を出て、民に、
「白符を用いよ。赤符を用いることはならん」
といって、国守たる頼義の徴収書によって民が租税その他の賦課物をおさめることを禁止し、自ら勝手に徴収書を出して課税し、労役させた。赤というのは官印が朱肉でおしてあるからであり、白というのは印がおしてないからである。
康平五年春、頼義の任期がおわった。朝議はまた高階経重を後任に任命したが、陸奥の民は頼義を慕って経重の指揮を受けようとしない。経重はやむなく、空しく京に引き上げた。
国司が重任すると、因縁がからんで公平な政治が行われなくなるおそれがあり、国司の勢力が大きくなりすぎ、中央の威令が行われなくなる弊害があるので、国司の重任は法で禁じてあり、情勢上やむを得ず重任をさせるにしても、せいぜい二期で、三期も重任することはない習慣になっている。しかしこの場合新国司を任命してよこしたのは、杓子定規にすぎる。朝廷が地方の事情にまるで盲目であるからなのだ。頼義が情勢やむを得ず隠忍しているのを見て、陸奥は平和になったと見たのである。頼義からの報告書は時々行っているはずであるが、それを信じなかったのであろう。心の弱い者の常で、希望と現実を混同していたのだ。陸奥が平和であることは廷臣らの希望であったから、平和であると考えたかったのである。
頼義は使者を出羽の俘囚の長清原光頼におくって、その弟武則の助力を得ようと、さまざまの珍宝をおくった。
俘囚というのは蝦夷にして日本に帰服している者、即ち熟蕃をいう。又夷俘という語もこの時代にあるが、これは帰服していない蝦夷、即ち生蕃にあたる。色々な解釈があるが、用例から見て以上のように解釈するのが最もあたっていると思う。
七月、武則は一万余の兵をひきいて出陣することになった。頼義も兵三千余をひきいて出た。両者の落ち合う場所は、栗原郡|営岡《たむらがおか》ときめた。営岡は今の宮城県栗原郡尾松村にあり、往昔坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した時、軍を整えた場所で、以来この名があった。吉祥の土地であり、また西方からの順路でもあるので、この地を選んだのであった。
頼義は武則と貞任攻撃の方法を協議した後、勢揃いして進発に移ろうとした時、いずくからともなく白鳩|一番《ひとつがい》が飛んで来て、兵らの上をかけめぐった後、旗竿に羽をやすめた。
「八幡大神の御守護ある瑞祥ぞ!」
と、将士らの士気は大いにあがり、鳩を仰いで礼拝した。
進んで、磐井郡萩ノ馬場につく、ここから貞任の叔父僧良照の籠っている小松の柵が近いが、攻撃するには日はすでに暮に近く、殊にこの日は凶日だ。戦いは明朝ときめた。この時代は陰陽五行説による日の吉凶が大へんやかましく言われ、すべての人がそれを信じ切っていたのである。
清原ノ武貞と橘ノ頼貞とは、小松の柵の様子をさぐるために、しめし合わせてひそかに陣を出た。従う兵十余人、柵に近づくと郎党どもは、
「ひとつ敵をおどかしてみましょう。敵がさわぎ立ったら、ほぼ様子がわかりましょう」
といって、柵外の民家に火を放った。おりからの風にあおられて火は忽ち八方にひろがる。
「すわや、敵の夜討ぞ!」
柵内ではあわてふためき、あてどもなく八方に矢を放ち、石を投げつける。
このさわぎを見て、頼義は武則に言った。
「戦いは機に乗ずるを貴しとする。必ずしも日の吉凶を選ばぬ。やろうかの」
「ようござりましょう。味方の勇気は烈火よりも盛んであります」
大軍は一斉に鬨《とき》の声を上げて突進したが、この柵は小城ながら東南に河がめぐり、西北は苔むした巌山で、さしもの精兵も容易に近づけない。すると、深江ノ是則・大伴ノ員秀が、すぐった勇士二十余人をひきい、岸壁に足場をきざみ、巌山によじのぼり、逆茂木《さかもぎ》を引きのけ、喊声をあげて突入したので、城内は益※[#二の字点、unicode303b]混乱に陥った。
貞任の弟宗任は八百余騎を従え、門をひらいて出撃した。頼義麾下の将平ノ真平・菅原ノ行基、これを迎えて奮戦、ついに宗任を走らせた。
官軍の部将清原ノ武道は搦手の要害に向かったが、宗任はここにも三十騎をひきいて駆け向かった。武道は名だたる勇将だ。宗任の一隊を包囲して、大半を打ち取った。
ついに賊兵は小松の柵をすてて走った。官軍はこれに火を放って焼きはらった。諸軍勝つに乗って追撃しようとしたが、頼義は、
「夜戦さに長居は無用」
と、おさえて追わせず、かたく軍を整えた。
たまたま翌日から連日の雨となり、滞留すること十八日に及んだ。この時も頼義の陣営は食糧の不足になやんだが、このへん一帯は宗任の領地なので安心して徴発も出来ない。頼義は兵一千をして不意の襲撃にそなえさせ、一方三千余の兵を村々に分遣して稲を刈りおさめて糧食とした。しかし、それでも兵糧は不足がちで、逃散者続出、ついにはのこる兵わずかに六千五百余人となった。
五
九月、貞任は頼義の軍勢が減少したのを偵知すると、兵八千を以て来襲した。頼義は長蛇の陣をしいて迎え戦った。正午から夕刻に及ぶ激戦となったが、ついに貞任の軍を撃破して、勝つに乗って追い、磐井川に至った。賊兵百余名を殺し、馬三百余頭を捕獲した。
頼義は武則に、
「この勝機を逸すべからず、明日になれば敵はさらに勢《せい》がかさみ、反撃に出て来ること必定である。今をはずすべからず」
と、さとし、精兵八百の将として、夜陰を利用して追撃させた。
武則は間道伝いに貞任を襲って攻め破った。敵の死傷ははなはだ多く、貞任は退いて衣川ノ柵によった。
衣川への道はせまく嶮岨である上に、連日の雨のために河川は氾濫し、道路は水びたしになり、まことに難儀であった。
武則は賊の一将藤原ノ業近《なりちか》の守備する砦に近づき、馬をおりてひそかに堀際まで忍びより、連れて来た郎党の久清という者に言った。
「見ろ、こちらの岸のあの木、向うの岸のあの木、共に堀の方に梢をかがめ、枝が近づき合っているの。汝《われ》は日頃から身の軽いことを自慢にしている男だ。こちらの枝から向うの枝に飛びうつり、敵の館に忍びこんで火をつけろ。火が燃え立って敵がさわぎ出したら、おれが攻めこむ故」
「かしこまりました」
久清はこの夜、木から木に綱をはりわたして、おのれのみか三十余人のなかまを渡し、敵中に忍びこんで放火して、さわぎ立てた。業近の兵らは混乱し、戦わずして走った。
貞任はこの火を望見して、衣川ノ柵をすてて退却、鳥ノ海ノ柵に拠った。
官軍は進撃をつづけ、大麻生野《おおまふの》及び瀬原の二柵をおとし入れ、ついに鳥ノ海ノ柵に進んだ。貞任はここも支えきれず、また退却して厨川《くりやがわ》ノ柵によった。
官軍が鳥ノ海ノ柵に入ってみると、酒瓶が数十のこされていた。兵卒らは争って飲もうとした。
「毒を投じておいて我々を殺す計略かも知れん。飲むことはならん」
と、頼義は制止したが、こっそり飲む者が両三人いた。何ごともなかったので、総勢みなのんだ。豊太閤の朝鮮役の時、黒田家の軍勢に同じようなことがある。その時は後藤又兵衛が、死んでもええわいといって飲んでいる。古今を問わず酒のみは意地きたないものらしい。
破竹の進撃をつづけた官軍は、黒沢尻、鶴脛《つるはぎ》、比与登利《ひよどり》の柵を撃破、ついに厨川ノ柵、嫗戸《うばど》ノ柵を包囲した。
厨川ノ柵は今の盛岡市の西北郊一里の地点にあった。その構えは西方は深い堀をめぐらし、東南は北上の大河が滔々と流れ、そのなかに柵をむすび、高い櫓を数ヵ所に上げ、精兵数千をこめていたのだ。官軍が攻撃を開始すると、柵中からは矢や石を雨のごとくそそぎかけ、官軍の死者は忽ち数百人に達した。
頼義は一先ず軍をおさめ、兵らに附近の民家十数軒をこぼたせ、その木材で堀をうめさせ、萱草を刈って山のごとく積み重ね、馬を下りて、はるかに南西京都の方を拝し、石清水八幡に祈念をこらして、
「これ神火ぞ!」
とさけんで、火を萱草の中に投げた。
この時にも鳩が出て来て陣兵の上を翔《か》けめぐったと今昔物語は伝えるが、ウソだろう。ひょっとすると、頼義が鳩をひそかに飼育していて、将士の心を勇ませるために飛びかけらせたとも疑われるが、そこまで考えてはうがちすぎよう。
暴風たちまち起こって、火は萱草に燃えうつり、黒煙天に漲り、高楼も高櫓も一瞬に火に包まれた。官軍はこれに乗じて攻めたてた。逃れようのない敵は、死にもの狂いで戦ったが、武則がわざと囲みの一角をあけると、そこから逃走にかかった。官軍はこれを追撃して殲滅し、貞任・弟重任・藤原ノ経清皆捕えられた。貞任は年四十四、身長六尺余、腰囲七尺四寸、しかも色白く美しき威丈夫であったという。捕えられた時、重傷を負うていた。貞任・重任・経清、皆頼義自らこれを斬ったが、経清にたいしては特に憎悪が深く、
「汝《われ》はまろが家の累代の家人でありながら、よくもおれに叛き、おれを見くびったな。その身になって白符が使えるか!」
と罵り、わざと鈍刀を以て斬ったという。
柵中には美女が数十人いた。いずれも綾羅錦繍をまとい、美しく化粧していた。頼義はこの女共をことごとく将士に分けあたえた。勝利者は美女財宝ともに取る。古代の戦争は皆そうだ。自らは一人も取らず将士に分ち与えたというので、頼義の徳行はたたえられたわけだ。誰にもあたえず解き放ったら将士は離反したろう。現代は解き放つことが普通だ。道徳変遷のすがただ。
間もなく貞任の伯父為元・弟家任・宗任などがそれぞれかくれがから出て来て降伏したので、九年にわたる陸奥の争乱がやっと完全に平いだ。
六
次の年三月、頼義は貞任・重任・経清の首を京都におくった。その途中、近江国字賀郡で筥をひらいて首を出して髪を洗わせたところ、その筥をかついで来た人夫共は貞任の家来で降伏したもの共であったが、髪をすくべき櫛がないと言った。宰領役の頼義の家来は言った。
「汝らが櫛でけずれよ」
人夫らはおのれの櫛で貞任らの首の髪をすきながらほろほろと泣いたという。
首は検非違使にわたし、河原にこれを梟した。
この乱鎮定の功によって頼義は正四位下伊予守となり、清原武則は従五位上鎮守府将軍となり、頼義の長子義家は従五位下出羽守となり、諸将にもそれぞれ恩賞があった。清原武則にたいする恩賞にくらべれば、九年の間辛労した頼義父子の恩賞は軽いといわねばならないが、父子は無形のより大なるものを得た。多年辛苦を共にしたため坂東の武士らとの関係が深くなり、坂東の武士らの多くが源氏の家人となり、坂東地方は源氏の強固な地盤となったのである。
七
この八月、頼義は鎌倉の由比ガ[#「カナ小書き]浜に石清水八幡を勧請して社祠を建てた。鶴ガ[#「カナ小書き]岡八幡宮のおこりだ。後に源氏が坂東を地盤にしておこり、鎌倉に幕府をひらいたところを見ると、坂東を子々孫々にわたる根拠地にしようとの考えがあったのではないかと思われるほどである。
頼義は晩年篤く仏道を信仰し、入道し、六条坊門の北に堂を建て、朝廷の実検にそなえる首のかわりに斬ってきた片耳一万五千を納めて耳納堂と名づけ、厚く供養したという。
彼の仏道信仰については、古事談にこう出ている。
伊予入道頼義は、壮年の頃から狩猟にふけり殺生を事としていた上に奥州征伐の間に人を殺したこと数うるにたえず、因果の理の推すところ、地獄に堕ちること必定であった。然しながら、出家遁世の後、堂を建て、仏を造り、罪障消滅のことにつとめた。彼がその堂の内にあって、過ぎし日の悪業を後悔するや、涙小川の如く板敷にこぼれ、流れて縁におよび、たらたらと大地にしたたりつづけたという。男性的にして壮大なるなげきぶりだ。
その後、言った。
「わしゃ極楽往生の望みを必ず果すであろう!」
その勇猛にして熾烈なる様子は、彼が壮年の時陸奥において衣川ノ柵をおとさんとする時の概があった云々。当時の武人の熱烈にしてひたむきな信仰ぶりのよくわかる話である。
八
古事談には、さらにこんな話を伝えている。
頼義の生母がある宮仕えをしていた女房であったことはすでに書いたが、頼義を生んだあと、頼信はその女房に秋風を立てて通わなくなった。女房は閨《ねや》さびしく思っていたところ、自分の召しつかっている端下女《はしため》のところに通って来る男がいるのを知って、端下女に、
「われが夫をまろに借せよ」
と言って、その男をおのれのへやに引き入れて枕をかわし、やがて子供を生んだ。この子は後に生長して相当な人物になったのであるが、頼義は母のこの淫奔をにくんで、一切交際をしなかった。晩年には深く仏道に帰依していたので、戦場に騎《の》って出ること七度におよんで、大葦毛と名づけていた愛馬が死ぬと、その供養をいとなみ、毎年その忌日に法会することを生涯つづけたのであるが、母のためには一度の法会もいとなまなかったという。
頼義の本質はあくまでも勇猛な武士である。その厭世も、その極楽|欣求《ごんぐ》も、その憎悪も、その悲しみも、その涙も、猛烈剛強をきわめている。
[#改ページ]
[#見出し] 盗賊皇族と天皇の捕物
終戦直後のこと、出雲の大社線の列車で、窃盗を働いたものがあって、捕えられて、皇族であると名乗ったので、当時の新聞をにぎわしたことがあった。これは、もちろんウソだったが、歴史上、皇族の盗賊がないわけではない。
古事談に、こんな記事がある。
天徳四年五月十日夜、武蔵の権ノ守|源満仲《みなもとのみつなか》の邸に強盗団がおし入った。満仲はその中の一人倉橋|弘重《ひろしげ》を射とめて、これを訊問したところ、弘重は、中務卿《なかつかさきよう》親王の第二男|親繁《ちかしげ》王と、宮内丞《くないのじよう》中臣良村《なかとみのよしむら》、土佐の権《ごん》ノ守|伴基男《ばんもとお》等が同類であることを白状した。この時の中務卿親王とは、醍醐天皇の皇子式明親王である。
検非違使《けびいし》右衛門志錦文明は参内して、この由を奏聞して、許しをこうむり、親王家に赴いて親王家の家人等に向って、
「今暁、親繁王が当家へ入られたはずだ。また、その同類である紀近輔《きのちかすけ》、中臣良村も当家にいるはずだ。召捕りたい」と、いった。
家人等は、入って親王に告げたところ、親王の返事はこうであった。
「親繁はこの頃痢病をわずらっている。当家にいることはいるが、起居も自由にまかせない重態である。平癒したら、差出すであろう。宣旨《せんじ》であるから同類をおさがしになるのは拒まない」
そこで、検非違使等は、打入って、親王家を捜索したが、早くも逃亡していて、捕えることが出来なかった。
後に、成子内親王の邸内で、紀近輔を捕えた。その近輔が、
「親繁王が首魁となって満仲の邸に押入ったことは事実である。その時、奪い取った財物は、皆親繁王のところにあるはずである」
と白状したので、勅《みことのり》が下った。
「盗賊を働いた親繁王をかれこれ申して差出さないのは怪しからん。親王は罪科に処するであろう。又、親繁王はその外出をうかがって、これを捕えよ」
と。
今昔物語には、またこんな記述がある。
西ノ市《いち》の蔵に盗賊が入っているとの訴えに接して、検非違使等が馳せ向って、これを包囲して、
「とても逃れぬところであるから、速かに出て縛《ばく》につけ」
と、呼ばわったところ、賊は内側から戸を細くひらいて、
「少し話がある。長《おさ》検非違使だけ、ちょっとここに来てもらいたい」
という。なにごとかと、長検非違使はそこへ行って、ボソボソとささやく賊の言葉を聞いていたが、忽ちおどろいた顔になって、検非違使共に、
「このトリモノしばらく待った。奏上をとげて来なければならないことがある」
と、言って、大急ぎで馬に乗って御所の方へ行ったが、間もなくかえって来て、このトリモノは中止する、と、言っておいて、蔵の戸口に近づき、何やらささやいた。
すると、中の賊は、オイオイと声をはり上げて泣いた。そのまま検非違使共は立去った。
「なんともいぶかしいことである」
と、今昔物語の筆者は書いている。これも、近い皇族の一人であったのではないだろうか。
天皇のトリモノをなされた話が、古今著聞集にある。
後鳥羽上皇の頃、交野《かたの》ノ八郎という大盗賊がいた。屈竟の強力、早業で、いく度捕手が向っても、捕えることが出来ない。この者が、摂津の今津にいるということを聞いて、上皇は西面《さいめん》の武士共をおつかわしになったが、あとで自分も行ってごらんになった。西面の武士というのは、上皇が、武勇すぐれたる者をと、特に鎌倉に仰せて、置かせられた者共だから、皆、抜群の勇者共であるのに、八郎一人を捕りかねてあぐねていた。
上皇は気をいらち、船上から自らさしずして、これを捕えさせられた。
上皇は淀河をさかのぼって水無瀬《みなせ》の離宮まで帰られ、ここで八郎を御前に召しすえて、自ら訊問された。
「そちは無双の強盗で、これまでなかなか捕えられなんだが、こんどはまた言い甲斐なきことであったな」
八郎はこたえた。
「年ごろ、トリ手共に合ったこと数限りありませんが、山にこもり、水にくぐり、いつもきれいに逃げました。こんども、西面の武士等だけの間は、十分に自信があったのでありますが、陛下がおいでになって、おんみずからさしずをなさっているのを見ますと、さしも重い船の櫂《かい》を、扇子なんどでもあつかうように、いとも軽々とあつかっておられます。これを拝しました途端、スッカリ気力がおちて、捕縛されてしまいました」
上皇は、大へんごきげんで、
「おのれは召しつかうべき奴だ」と仰せられ、御仲間《おちゆうげん》になされた。
この後、八郎は、上皇御幸の時などには、烏帽子をかぶり、袴の括《くく》りを高く上げて、甲斐甲斐しく走りまわっていた。
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[#見出し] 将門時代の服飾と刀剣
服飾のこと
拙作「平将門」について、読者諸賢からいろいろ手紙をいただくが、時々、服飾や刀剣のことについての注意がある。それについて書いてみたい。
白状するとこの時代の服飾はよく判らない。ぼくが判らないだけでなく、誰にもわからないはずである。
普通の人の概念にある平安朝の風俗は、衣服は糊をつけてピンと張り、冠は漆で塗りかため、いわゆる強《こわ》装束であるが、これは平安末期のもので、鳥羽上皇から起ったといわれている。上皇はゼイタクヤで、オシャレで、後三条天皇の孫の内大臣源有仁というオシャレ公卿と、服飾のことばかり話しておられたという方で、あんな服装を作り出されたのだという。
上皇が死なれてすぐ保元の乱がおこっているのだから、末期も末期、やがて平家時代が始まろうという頃からのものである。その前は萎《なえ》装束の時代である。この時代のものも、いろいろと絵巻物などがあって、それでよくわかる。
平安初期もわかる。奈良朝の続きであるから、唐風であったことは勿論だが特に嵯峨天皇の、諸臣の常服は男女を問わず唐服を用いよとの詔が出ている位だ。従って、この時から二、三十年後の人である小野小町や在原業平は唐風の服装をしていたわけで、我々のよく見る小町像や業平像は考証的には間違っているわけだ。
将門の時代は、嵯峨の頃から百十余年後である。相当な変化があったには違いないが、参考にすべきものが何にもない。遺物もなければ、絵巻物もない。わずかに、唐風から和風の萎装束にこなれて行く過程であったろうとの見当がつくだけだ。
学者は、わからないことはわからないで済ましておけるが、作家や画家はそうは行かない。何とか具体性をあたえて表現しなければならない。そこで、サシエ画家と相談して、唐風と萎装束の合ノ子で行こうときめて、それでやっているわけだ。御諒解を願いたい。
刀剣のこと
刀剣史家の所説では、日本に曲刀の現れたのは将門の乱からで、この乱は騎馬戦であったから、突くより斬る方が多く、従って、曲刀に利があって、世皆直刀をやめて曲刀を用いるようになったという。
しかし、ぼくはこの説を認めない。騎馬戦の流行が曲刀を流行させるということに異存はないが、騎馬戦が将門の乱からはじまったという考え方に先ず疑問を持つ。馬の産地である坂東や奥羽で、日本人は常に蝦夷と対峙《たいじ》しているのだ。騎馬戦は常住に行われていたと見るのが自然である。史書に散見する夷囚、俘囚の乱に騎馬の戦闘が行われなかったとは思えないのである。
ぼくは、この以前から曲刀があり、しかも、坂東や奥羽地方では、盛行していたと見る。更に又、日本人はこれを蝦夷人から学んだと見ている。さらに、蝦夷人はこれを大陸から将来したと見ている。
支那の西方や北方の蛮族である突厥《とつけつ》や匈奴《きようど》は騎馬でのみ戦闘し、その刀は彎月刀《わんげつとう》である。突厥はトルコ種で、匈奴はフンヌで、フィン人の原種である。彼らの彎月刀は今日西洋映画に見るトルコやアラビヤの彎月刀に系統を引くのである。これらのことは、小説家たるぼくのカンによる推察説ではあるが、決して間違ってはいないと信じている。
奥羽と大陸との間に交通のあったことは今昔物語の安倍頼時の説話でもわかるが、ぼくは、一口に蝦夷といわれている種族は単一でなく、大陸から渡来して来たツングース系やトルコ系もあったろうとも見ている。
今日でも奥羽の裏日本の人と、表日本の人とは、人相骨骼がまるでちがうが、史書にも、裏にいるを北|狄《てき》、表にいるを東夷と区別している。
とにかくも、ぼくは曲刀の日本における存在と流行は、将門の乱のはるかに以前までさかのぼるべきであるとの説を持している。
平治物語に、源氏重代の宝刀「ヒゲ切り」は陸奥の刀工|文寿《もんじゆ》の作であり、源頼義がこしらえさせたものとある。頼義は将門よりかなり後の人であるが、奥羽が平安中期以前における利刀の産地であったことは間違いなかろう。これもまた、ぼくの説の傍証にはなるであろう。
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[#見出し] 平将門
一
桓武天皇の皇子|葛原《かつらばら》親王の孫高望王は臣籍に下って平姓を賜わり、上総介《かずさのすけ》となって関東に下って来た。大日本史の「表」の国郡司上総の部に、これは寛平二年(八九〇)五月のことであったとある。すなわち宇多天皇の治世であり、藤原|基経《もとつね》が最初の関白として威権朝廷を圧していた頃である。高望王はこの任命をかちとるために、基経の許《もと》にお百度をふみ、さんざんきげんをとり、多分|名簿《みようぶ》をいれて家人《けにん》となりまでしたことであろう。藤原北家でも良房の系統に権威が集まり、皇族でもこの系統と関係のない人は運命のひらけようのなかった時代なのである。
高望王は上総介に在任中に相当な私領地をこしらえた。大体この時代から、中央では芽の出そうにない下級|公卿《くげ》が地方官となって地方に下って私領地を営み、任期がおわるとそこに土着して地方豪族となることがはやっているが、高望王もこのはやりに従ったのである。これらの私領地作りにはさまざまな方法がある。荒蕪地《こうぶち》や原野の開墾が最も普通だが、買収、受贈、婿《むこ》入りによる取得などはノーマルな方法で、荒っぽいのもある。公地のごまかし、官権をかさに着ての横奪等々だ。高望王もきっといろいろな方法を活用して手に入れたであろう。彼の子供らが散らばっているところを見ると、その私領地は上総・下総・常陸・武蔵等の諸国に散在していたのであろう。
こうして高望王は関東の在地地主となったわけだが、こういう在地地主を、当時のことばでは住人または武士といった。
ここに武士ということばが出て来たが、日本における武士の発生、発生の原因、発生当時の武士がどんなものであったか等については、読者はすでに十分に承知のことであろうが、初心の読者のために簡単に説明しておきたい。
大宝令には軍団の規定があって、常備の軍隊がおかれることになっていたが、平安朝の初期、桓武天皇の延暦年間(元年七八二)に経済上の理由で廃止され、日本には常備軍はないことになった。しかし、軍備は一面では警察力である。微力な盗賊の追捕《ついぶ》なら検非違使《けびいし》で十分に間に合うが、武装した大集団の強盗は手におえない。国民は必要上から、自警手段を講じなければならなくなった。寺院の僧兵、神社の武装神人はこうして出来たが、同時に在地地主らは一族の末家の者を家ノ子とし、私領地の民の中で強健多力の者をえらんで郎党とし、武技を習わせて従えた。これが武士の起原である。つまり、この時代の武士とは、在地地主とその家ノ子・郎党らとを、武力具有の面から呼んでいる名にすぎない。だから、その本質は地主、自作農、小作農で、りっぱに生産人だったのである。後世の戦国中期から以後江戸終末期に至るまでの武士が純然たる消費人であったのとは大違いなのである。
武士の発生はどこが先ということはなく、大体全国一斉であったが、それでも坂東はその本場とされた。これは天皇国家の発展史に関係がある。天皇国家の勢力は近畿地方から、先ず西にひろがり、東国の征服はずいぶんおくれた。白河関以北は鎌倉時代初期に平泉《ひらいずみ》藤原氏がほろぼされるまでは、厳格には天皇国家の版図にはなっていず、蝦夷《えぞ》人の王国であった。平安朝初期に坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》の征伐などがあって、一応圧服したようではあるが、その後も叛服常なく、ついには平泉藤原氏のような強大な支配者が出て三代にわたって栄えたりなどしているのだから、この大戦前の満洲ほどにも行っていなかったといえる。さしずめ、陸奥守《むつのかみ》は満洲総督、鎮守府将軍は関東軍司令官くらいのものであったろう。
坂東地方はこの地と境を接している辺境地帯である。蝦夷人との絶えざる紛擾《ふんじよう》交戦の状態があったろう。また当時の陸奥や出羽にはひんぴんとして叛乱がおこった。前九年役《ぜんくねんのえき》や後三年役《ごさんねんのえき》などは特に大きいもので、記録にも載らないさわぎは無数にあったに違いない。さわぎがおこれば、朝廷では征夷将軍を派遣することになるが、軍隊のない政府だから、将軍は従者数名をひきいただけで坂東に来て、兵を徴募し、これをひきいて現地に乗りこむのである。坂東人はここでも戦闘馴れして来るわけである。
このようにして坂東人は勇健となり、武技に秀で、最も理想的な武人に鍛え上げられ、平安朝末期から鎌倉時代を通じて、南北朝の初期頃まで、関八州の兵をもって天下の兵に敵することが出来るとまで言われた。
われわれは西部劇映画で、西部のカウ・ボーイらに、馬術の名手で、ピストルの名手で、勇敢で男を磨く気性の者の多いことを見るが、平安朝時代の坂東の男らはあれと同じであったと考えてよい。屈指の荒馬乗りで、矢つぎ早やの強弓引きで、廉恥《れんち》心旺盛で、勇敢な男らがうじゃうじゃといるところ、それが坂東だったのである。
開拓時代の西部には牧場が多かったのだが、平安朝初期から中期頃までの坂東にも牧場が多かった。もっとも馬の牧場である。一体、牧場は人間のあまりいない片田舎に営むよりほかのないものだ。日本でも聖徳太子の頃は今の京都の伏見あたりが聖徳太子の牧場になっている。中央のひらけ方が地方にひろがって行くにつれて、牧場の位置は遠くなり、この時代には坂東に移った。さらに進むと、奥羽に移り、今日では北海道が本場だ。この時代は坂東が本場だったのである。この点もこの時代の坂東が開拓時代の西部に似ていてまことに興味が深いが、この事実は当時の坂東人が馬とともに生活し、従って恐ろしく馬術が巧みであった原因となるものであろう。
最近の歴史学者らは、将門の乱のおこる数十年前に関東に|※[#「にんべん+就」、unicode50e6]馬《しゆうま》の党というのがあって猖獗《しようけつ》をきわめたといっている。※[#「にんべん+就」、unicode50e6]馬は読んで字のごとく「馬をやとう」である。その頃、関東の豪族らには官道往来用として馬を貸す業をいとなんでいる者が少なくなかったが、この者共がいつか官馬を盗むことをはじめ、たがいに連絡をとって、東山道《とうさんどう》で盗んだ馬は東海道で使い、東海道で盗んだ馬は東山道で使うという具合にしたので、官では取りおさえる証拠がなくて弱ったというのである。これは将門の乱のはじまる以前の関東豪族らの一生態であったが、これが将門の乱のおこる一背景をなしているというのが歴史学者らの推察である。ここでも、われわれは西部劇における馬盗人や牛泥棒、あるいは駅馬車強盗と同じ現象を見るのである。この時代の関東はいろいろな点において、開拓時代の西部に実によく似ているのである。
二
さて、高望王は地方官としての任期満ちた後も京に帰らず、関東に土着し、その子供らもそれぞれの場所におちついた。高望王の子は六人いたようである。国香、良兼《よしかね》、良将、|良※[#「徭のつくり+系」、unicode7e47]《よしより》、良文、良正。国香は常陸《ひたち》大掾《だいじよう》となって常陸の石田(今の茨城県真壁郡明野村東石田)に住み、良兼は上総介(「将門記」には下総介とあるが、記事全体から判断して上総介の誤りのようだ)となって今の千葉県山武郡蓮沼村屋形に住み、良将は鎮守府将軍、下総守となって下総国豊田郡国生(今の向石下《むこういしげ》)に住み、良※[#「徭のつくり+系」、unicode7e47]は不明、良文は村岡五郎と称し、武蔵大掾となって今の熊谷市村岡に住み、良正は常陸六郎と称して筑波郡水守に住み、いずれも土地の豪族として威勢があった。桓武四世の孫とはいえ、北家藤原氏と血縁の関係がないのだから、京にいてはまるで冴えないのだが、草深い地方に落ちてくれば、帝系を去ること遠からぬ高貴な血統というので、十分に重んぜられたのである。
将門は三男良将の子である。通称は小次郎。小次郎というのは、太郎、次郎などと同様に兄弟の順序を示す名称だ。小次郎とは三男でありながら次男のあつかいをする子という意味だ。だから、彼には二人の兄がいたはずであるが、これは早く死んだのであろう、聞こえるところがない。いつ生まれたかも不明である。幸田露伴翁は何によられたか知らないが、菅公の死んだ年である延喜三年(九〇三)に生まれたと、その著「平将門」に書いておられるが、これは早すぎるようにぼくには思われる。延喜三年では高望王が上総介となって関東に来てから十三年しか経っていない。三男である良将が三人目の子を生むには、早すぎる。ぼくは十年くらい引下げたいのである。十年引きさげると、延喜十三年の生まれとなる。
彼は早く父に死別したらしい。これも見当だけのことだが、十五、六の頃だったのではないだろうか。この頃の彼の住所は、父譲りの豊田である。豊田の名称は現在では茨城県結城郡|石下《いしげ》町の一字に局限されてしまったが、この時代には一郡の名称である。現在の鬼怒《きぬ》川の西岸向石下に、将門の邸址がのこっている。今では何とやらいう寺になっているが、この寺をとり巻く杉林の中に濠の痕跡が歴々としてのこっている。秋になると銀杏《ぎんなん》の実の累々となる巨大な公孫樹《いちよう》が庭にある寺である。父が死んで当主となって間もなく、京に上ったらしい。官位をもらうためである。地方の住人らがこの年頃になると京上りして、羽ぶりのよい公家の家に家人《けにん》として奉公し、その推薦で六衛府や馬寮《めりよう》に仕官し、数年して左・右衛門|尉《じよう》、左・右兵衛尉、左・右馬允などの官とそれに付随する正七位上くらいの位階をもらって帰国するのは、当時は普通の習慣であった。このような官位を持っていると、国で住人らの間で羽ぶりがきいた。国府の役人らも鄭重《ていちよう》に待遇した。もしその官位が同族中で最高のものであれば、同族の上に立つ長者ともなれた。
京では、北家藤原氏の長者忠平の家人となった。この時代、忠平は左大臣であり、二、三年後には摂政となり、最後には太政大臣となった人である。祖父高望王は忠平の父基経の家人となって勤仕《ごんし》したと思われるのだが、基経は高望王の関東下国の翌年に死亡しているから、将門の父良将は基経の長男時平あたりに家人奉公して、六衛府の官人となり、だんだんごきげんを取って、鎮守府将軍を射あてたのではなかろうか。こうした猟官運動なくしては、地方の武士らが官職にありつくことはなかった時代なのである。
将門が何年滞京したか、わからないが、多分三、四年のものであったろう。平氏系図に「滝口小次郎」とあるから、在京中に滝口|伺候《しこう》の侍になったようである。滝口というのは清涼殿《せいりようでん》の東北方、御溝水《みかわみず》の落ちるところで、ここに禁中の警備や雑役に従う者の詰所があり、これを滝口|所《どころ》といった。滝口の侍とはここに詰める侍のことだ。微かな役だが、単に宮中に勤仕するというだけでもありがたいこととした時代だから、この時代の地方武人は名誉として、よく誇らしげに「滝口ノなにがし」と自ら名のっている。
ずっと後世の書物だが「神皇正統記《じんのうしようとうき》」に、将門が検非違使たらんことを希望したのに、忠平が推薦してくれなかったので、怨みをふくんで帰国し、ついに叛逆したとある。ここの検非違使は検非違使尉であるから、旧軍隊なら少尉か大尉、警察官なら署長くらいの格だ。それにしてもらえなかったからとて、関東独立国をつくろうと考えたとは、ずいぶん不釣合な話だが、これが朝廷に愛想をつかす動機となったというなら、うなずけないことはない。
将門が後年叛逆に踏切ってから、旧主忠平に出した手紙が「将門記」に出ているが、その中にこうある。
「将門、天の与ふるところ、既に武芸にあり。思惟《しい》するに、等輩誰か将門に比せんや」
彼は万人に卓越する武芸の持主であるとの自信を持っていたのだ。おそらく、忠平の邸に家人として来ている地方の住人らと騎射の芸を競ったこともあったろうが、負けたことはなかったのであろう。これほどのおれに、検非違使尉くらいの官職を吝《おし》んで与えないと思えば、こんな朝廷クソくらえという心理になったとしても不思議はない。
諸書に、将門と藤原純友とが比叡山《ひえいざん》に登って、はるかに大|内裏《だいり》の壮観を見おろして、叛逆を共同謀議し、
「まろは桓武五世の孫である故、天子となろう。おことは北家藤原氏の人故、関白となり給え」
と約束したという伝説が記してある。これは後に将門の叛乱と純友の叛乱とが時を同じくして起こったので、当時から共同謀議の疑いを抱くものがあり、「外記日記」の天慶二年(九三九)十二月二十九日の条にも、「平将門と謀を合せ心を通じ、このことを行ふに似たり」とあるので、先ず「大鏡」がこれを採用し、ついにこれを演義して比叡山上の場面を創作するものまで出来て来たのであろう。頼山陽がこれを信用して「日本外史」に書きこんでから最も広く世に知られ、今ではぬきがたい国民伝説の一つとなった。共同謀議はしたかも知れないが、その痕跡はつきとめられない。まして比叡山上のことなど証拠のあろうはずはない。ぼくの見当を言えば、純友は将門が叛乱したとのうわさを聞いたので、自分も叛乱をおこしたので、両者の間に前もっての打合せなどはなかったのであろう。なお言えば、将門の方は情勢におされて叛逆に踏切ったのであり、純友の方は後からおこったとはいえ、自発的であり、計画的である。将門は坂東の野人で、従って朴実でもあり、既成権威にたいする従順さがあるが、純友はインテリであって、当時の朝廷や社会の腐朽、行きづまり等がよくわかっていて、これにたいする革新の必要を感じていた人物のように観取されるのである。
三
何年か京にとどまっていた後、将門は帰国したが、間もなく伯父良兼と所領についての紛擾をおこした。これは「今昔物語」の説である。この書ははるかに後世の書だから、史料価値はひくいが、孤児となった少年の所領にたいして、一族の長者らがかれこれ我欲の所業におよぶことは、いつの時代にもよくあることである。紛擾の相手は良兼だけではなく、後のいきさつを見れば、良正もそうであったろう。
この争いをつづけているうちに、将門は前常陸大掾源護の子息らと争いをおこした。源護は系統不明の人だが、一字名だから嵯峨源氏の人であろう。これも常陸大掾として坂東に来、任はてても帰京せず、坂東の住人となったのだ。その館は石田にあったというから、国香と同じ村に住んでいるのだ。将門と源護の子息らとの争いは女のことが原因であった。
史料が乏しいので、色々に推理されているが、ぼくはこう推理している。源護には三人の男子がいた。扶《たすく》・隆・繁。扶はある豪族の女に恋慕し、これを妻に迎えたいと思っていた。同じ女を将門も恋慕した。いろいろとあったが、ついに将門の方が恋の勝利者となって、女は将門の妻となった。
この女の素性を、ぼくは将門の伯父良兼の女、あるいは良兼に与力する豪族の女であったろうとまで考えている。もちろん、理由はある。後に将門が良兼と戦って敗れた時、この女は良兼に捕えられて連れ去られるのだが、間もなく将門の許に逃げ帰っており、その経過を「将門記」がこう書いているからだ。
「然る間、妻の舎弟ら謀をなし、竊《ひそか》に豊田郡に還向せしむ。既に|同気の中を《ヽヽヽヽヽ》背《そむ》|いて本夫の家に《ヽヽヽヽヽヽヽ》属《つ》く《ヽ》。譬《たと》へば遼東の女の如く、夫に随《したが》ひて父の国を討たしめんとす。件《くだん》の妻、|同気の中を背いて夫の家に逃げ帰る《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
傍点を施した部分を読みかえしていただきたい。良兼の女あるいは良兼方の豪族の女であることは明らかであろう。
「将門記」の冒頭の部分は大きく欠落して、戦争場面の中ほどからはじまる。
「扶《たすく》ら陣を張りて将門を相待つ。遥かに彼(扶ら)の軍体を見れば、いわゆる纛崛《とうくつ》の神《しん》に向ひ(纛は旗、崛はそば立つ様、高く旗をおし立てているのが、勢いがよくて、軍神の宿るがごとく見えることを言うのであろう)、旗を靡《なび》かせ、鉦《かね》を撃つ。ここに将門|罷《や》めんと欲するも能はず、進まんと擬すれども由なし」
とある。想像ないし推理で補うよりほかはない。
この日、将門はごく少数の郎党らをひきいて、豊田の館を立ち出で、今の下妻近くまで行ったところ、将門に恋する女を奪われて怨みをふくんでいた源扶は弟らを語らい、多数の兵をひきいて、山か林の陰にかくれて、将門の来るのを待ちかまえていたが、将門の来かかるのを見ると、旗をひるがえし、鉦を鳴らし、整々と押出して来て、道をさえぎり、挑戦した。
衆寡《しゆうか》の勢いが懸絶しているので、将門は応戦するのを不安に思ったが、進退ともに困難であると見て、決然として全力をあげて戦い、ついに勝ちを得、潰走する敵を追い、勢いに乗じて道筋にあたる野本、大串、取木《とりき》、石田(今日のこっている地名は大串と石田だけだが、これによって下妻近くであったことがわかる)等の敵方の村々を焼きはらい、さらに手分けして筑波、真壁、新治《にいばり》三郡における敵方の者共の家百余家を焼いた。
この間に、源家の三人むすこは全部討取られた。また石田では伯父国香の館が火にかかり、国香も死んだ。この死は、源家のむすこらに助勢するために出陣しての戦死であるか、仲裁のために出て行って流矢にあたって死んだのか、石田の館にいたのに戦火が及んで来て、火に巻かれて死んだのか、「将門記」の記述ではよくわからない。しかし、ぼくの見当を言えば、戦死である。国香の長男貞盛は源護の三女を妻にしている。武人である国香としては、長男の嫁の兄達が剛敵に攻めつけられているのを見ては助勢に出ずにはいられなかったろうと思うのだ。だからこそ、自分も殺され、その館も焼きはらわれたのだと思うのである。
これが、将門が実戦において武勇の将たることを関東の人々に示した最初である。時に承平五年(九三五)二月、将門の年推定二十三、四、五。
四
国香の長男貞盛はこの以前から京に上って左馬允《さまのじよう》となっていたが、父の横死の報を受け、関東に帰って来たが、「将門記」の記述によれば、その心理はかなりに奇妙である。「貞盛、つらつら案内を検するに、およそ将門は本意の敵にあらず。ここに源氏の縁坐あるも、苟《いやし》くも貞盛守器の職にあり、すべからく都に帰官して官爵《かんしやく》を増すべし。而して孀母《そうぼ》(やもめになった母)堂にあり、子にあらずんば誰か養はん。田地数あり、我にあらずんば誰か領せん。将門に睦《むつ》み、芳操を華夷《かい》に通じ、比翼を国家に流《つた》へむ」と述懐したとある。現代語訳すればこうなろう。
「将門は自分の心からの敵ではない。三人の子を殺されて将門を怨敵としている源護は自分の姻戚ではあるが、自分は朝廷の官人である。姻戚の縁にひかれて弔《とむらい》合戦などとさわぐより、京に帰って役目を守り、官途で運命をひらくことを考えるべきである。その上、自分には新しく父に死別した母があって、これを養う義務もある。父の遺領の田畑も多数あって、これも管理しなければならない。将門と仲よくして、都と地方で心を通じ合って、ともに朝廷のお役に立ちたい」
つまり、貞盛には将門を父の深讐《しんしゆう》として憎む心はないのである。この述懐には領地の管理を将門に頼もうという意味もありそうである。貞盛には繁盛という弟がいるのだが、この頃はまだ子供で、とうてい管理などは出来なかったのであろう。叔父らがこんなことに頼りにならない人々であることは、将門の場合でよくわかっている。その点、将門はこういうことで人の指弾を受けるようなことは生涯していない。頼みになると思ったとしても、不思議はないのである。こんなことを考えると、貞盛と将門は少年の頃から仲のよい友達であったのではないかという気がしてならない。石田と豊田とはそう遠い距離ではない。わずかに十七、八キロのものである。
貞盛は以上考えたことを実行にうつして、将門に会い、和親の約束をしたようである。不確かな言い方をするようだが、「将門記」に明記するところがないのである。ただ後の記述によって、こんな工合に推察されるのである。しかし、源護の方はそうは行かない。男の子を三人ながら一日に討取られた怨みは深刻である。彼の二番目の娘は水守の常陸六郎良正に嫁いでいたので、良正にたいしてしきりになげきくどいた。
良正はかなりな年輩であるのに、その妻はまだ若くて美しかったろう。多分後妻であったろう。これが父の意を受けて、涙ながらに口説《くど》く。しかも、相手は田地の相続問題で執拗《しつよう》に食いさがって来る憎い将門だ。良正は心を動かし、
「よろしい。必ず敵《かたき》を討って進ぜますぞ」
と引受けて、戦《いくさ》支度にかかり、準備なって、挑戦状をおくった。当時の合戦は後世の個人同士の決闘と同じく、双方で日時と場所をとりきめた上で行うのが原則であった。この時もそうであったろう。かくて、時は承平五年十月二十一日、場所は小貝川の近くの川曲《かわわ》、両軍出張って合戦したが、結果は良正方惨敗であった。六十四人を射取られ、逃げかくれる者無数というのである。
青二才と見くびっていた将門に手きびしい痛棒を食らわされ、良正は無念千万だ。多年売りこんだ常陸六郎の名も泥土にまみれるとあせった。しかし、一人ではとうていかなわないので、上総の良兼に助勢をもとめた。
良兼は源護の長女をめとっている。これも後妻で、年も大分はなれていたろう。良兼の妻は兄弟らを殺されて、もちろん、心は平らかでない。大いに良兼を口説き立てた。若い、美しい妻にこう出られては、老年の良兼は抵抗出来ない。しかも、相手はにくい将門だ。
「承知した。やがて行く。待っていよ」
と、良正に返答してやる。
良正は元気づき、また戦支度にかかる。
良兼が支度なって上総の屋形を出発したのは、承平六年六月二十六日であった。川曲の合戦があってから八ヵ月目である。「雲の如くに上・下の国(上総・下総の意)に湧出す」と「将門記」は叙している。非常な大軍であったことがわかる。良兼は現職の上総介だから、その点でも勢力があったはずである。しかし、私に兵を動かすことなので、間道を通って香取郡の神崎《こうざき》に出、河を渡って常陸の江戸崎につき、水守についた。出発翌日の早暁|鶏鳴時《けいめいどき》であったという。
この水守に、昨夜から貞盛が来て泊まっていた。彼は共同して戦うために来ていたのではない。先年上京の時以来良兼に会っていないので、あいさつのために来ていたのである。この貞盛に、良兼は、
「そちは将門と仲よくしているそうだな。それでは武士とは言えんぞ。武士にとっても最も大事なのは名だ。自らの父や親戚を殺し、自らの財物を略取した敵とどうして仲よくする気になれるのだ。世の人は何と言おう。わしらと一つになって将門を伐て」
と、説諭した。
これにたいして、貞盛は、「人口の甘きによって、本意にあらずといへども、暗に同類となる」とある。言葉をつくして懇切に言われたので、ことわり切れず、本心ではなかったが、仮になかまとなったのである。こういう首鼠《しゆそ》両端を持する態度が、後に将門をして最も深刻な怨みを貞盛に抱かせることになったと、思われるのである。
連合軍は先ず下野国《しもつけのくに》に向った。ここから豊田に向って南下しようというのであった。
将門の方も油断なく、かねてから細作《さいさく》を出していたろうから、敵が下野方面に向ったと知ると、先発隊百余騎を出した。国境を越えるのは公《おおやけ》にはばかりがあるので、境上にとどまって自分の来るのを待てと申し含めて出したようである。先発隊が国境線のところに待っていると、敵がせまって来た。数千という大軍である。しかも新手である。こちらは二度の合戦にいためられて、兵具もとぼしく、人数も少ない。とうてい敵対出来そうになかったと書いてある。
ためらっていると、敵はきおい立ち、楯をつきならべ、猛烈な攻撃に出た。将門方は主人がまだ到着しないのだが、しかたなく相手になり、「歩兵を寄せて、人馬八十余人を射取る」とある。溝や堤の陰を巧みに利用して近づき、横矢を射かけて狙い討ちにでもしたのであろう。
良兼方はおどろき恐れ、楯を退けて少しさがって陣をかまえようとした。その時、将門が到着した。将門は天性の武人だ。どうしてこの勝機を見のがそう。鞭《むち》をあげて馬を疾駆させ、大音声《だいおんじよう》に名のりをあげて突撃に出た。連合軍はしどろになって潰走し、下野国府に逃げこんだ。
将門は一旦これを包囲したが、一族のよしみを思って、西の一面を解いて、逃げるにまかせた。そのために良兼以下の将士らは逃走した。こういうところが、将門の心の美しさで、彼が坂東の武士らの心を得たゆえんでもあるが、同時に欠点でもある。大事業をやりとげる人間は、切所においてはおそろしく非人間的な酷薄さのあるものである。
将門は下野国府の日記に、良兼が無道に合戦をしかけたために、国境を越えて当国に入らざるを得なかったことを書きとめさせて、翌日、豊田に引取った。
将門の武名は上り、伯叔父らは一時屏息してしまったが、源護がことのはじめに京都に告訴していたので、それにたいして去年の暮出された官符を、左近衛番長|英保純行《あなほともゆき》・同氏立・宇自加支興《うじかもちおき》らが、事件関係者らの国の国府に持参して来た。
「護・将門・佗田真樹《わびたのまき》(国香の郎党)の三人、至急上京して太政官に出頭せよ」
という意味のものである。
将門はしかけられた喧嘩を受けて立って相手をたたきつけただけだ。十分な自信がある。十月十七日に出発して上京し、公《おおやけ》の法廷に出て一切の事情をのべた。朝廷は将門の陳述を理ありとして、兵を動かして世をおどろかせたことは譴責したが、罰はごく軽かったばかりでなく、その武勇の名が京中に高くなった。
間もなく年が改まったが、この時朝廷に慶事があり、大赦《たいしや》が行われることになったので、将門も恩典にあずかり、四月七日に恩赦の詔が出て、五月十一日離京して帰途についた。この時の朝廷の慶事というのは、この年正月四日に天皇が元服されていることが「扶桑略記」に見えるから、それであろう。
豊田に帰りついて間もなく、また良兼が合戦を挑みかけて来た。八月六日に下総と常陸の境である養蚕《こかい》(小貝)の渡しに押寄せて来たのである。この時、良兼方は思いもかけぬ奇手をつかった。平家の太祖である高望王と将門の父良将の像を陣頭に押立てて来たのだ。これに向っては将門は弓が引けない。その上、「その日明神|忿《いか》るあり。□事を行ふに非、随兵少なく、用意皆下る」と「将門記」は叙している。欠字は「軍」か「兵」であろう。くわしくはわからないが、陣中に何か怪異があって、兵らの士気が沮喪したらしい。兵数も少なく、また兵具も劣弱だ。将門方は楯を負うてひたすらに退却した。「将門記」は詳記していないが、相当な敗戦であったようである。良兼方が勝つに乗ってずいぶん手ひどいことをしているからだ。豊田郡に侵入して、将門の所領内の民家は言うまでもなく、将門に味方する豪族の支配している栗栖院《くるすいん》(荘園の名)、常羽《いくは》の御厩《みうまや》(官の牧場の厩舎《きゆうしや》)まで焼きはらい、狼藉の限りをつくして、翌日早朝に引揚げている。
生まれてはじめての敗戦だ。将門の無念は骨髄に徹した。挑戦状をおくり、その月十七日、いつもに倍する兵を集め、楯をたずさえること三百七十枚、豊田郡大方郷の堀越の渡しに出た。
定めの時刻、敵は来た。「雲の如く立ち出て、雷の如く響き至る」とある。むくむくと大軍が群がり至る有様が目に見えるようである。
ところが、この日将門は「急に脚病を労《わずら》ひ、毎事|朦《もう》々たり」であった。急に脚気になって脚がしびれ、意識が朦朧となったのだ、熱でも出たのであろう。
この頃の戦争は後世とちがって、主将の個人的武勇が重大な要素となっている。この以前の坂上田村麻呂でも、この以後の源頼光、頼信、頼義、義家らにしても、個人的武勇が抜群であったため、将士に心服され、大功を奏し、名将と称せられたのだ。後世のように床几《しようぎ》に腰をかけて采配を振っていたのではない。将門もそうだったのだ。勇猛絶倫で、騎射に巧みで、打物わざにすぐれ、常に陣頭に立って奮戦したので、いつも寡をもって衆を破ることが出来たのである。それがこんな風では、士気の上りようはない、一戦に撃破され、算木を打ち散らしたようにちりぢりになって乱れ走った。
良兼軍は前回以上の乱暴を働き、この前の侵略では助かった民家も一軒のこらず焼かれ、徹底的に掠奪され、惨烈をきわめた。
将門はやっと館に逃げかえり、一旦妻子とともに幸島《さしま》郡の芦津江《あしずえ》に逃げたが、やがて妻子を船にのせて広河《ひろかわ》の江の芦の間にかくし、自らは降間木《ふるまぎ》の沼に潜んだ。芦津江は今の芦谷《あしや》新田のあたりで、この頃は大きな沼であった。広河の江は飯沼だ。これも当時は大きな沼であった。しかし、数日の後、妻子らは発見され、雑物、資具三千余端とともに、上総に連れ去られた。
将門は悲嘆し、憤ったが、病気の身ではどうすることも出来ない。歯がみするばかりであったが、ここで前に述べたようなことがあって、妻の舎弟らが計略をめぐらし、妻子らを送りかえしてくれた。
九月十九日にはまた合戦があった。良兼は筑波山麓の服織《はとり》(今の羽鳥)に営所を持っているのだが、何か用事でここに来ていることがわかった。病気ようやく療《い》えた将門は、直ちに押寄せて行ったのだ。十分に打勝ち、服織の営所はもとより、付近一帯の敵方与力の者の家を全部焼きはらった。良兼らが筑波山に逃げこんだので、露営して探索したが、良兼がかたく山にこもって出て来ないので、ついに豊田に引揚げた。
五
十二月五日に、太政官符が関東諸国に下った。こんな文言。「国々は、良兼・護・貞盛・公雅・公連(この二人は良兼の子供らである)らに力を合せて、将門を追捕せよ」
将門はいつも受身で、しかけられたから立って戦ったに過ぎないのだから、太政官符は逆というべきなのだが、相手方は現官僚であり、前官僚だ、公辺への運動の筋道、方法などを熟知している。手筋をたどり、うんと賄賂《わいろ》をつかって、この運びにしたのであろう。
将門としては、対抗策を講ずる必要がある。気力をふるって味方を集めた。彼が豊田から石井《いわい》(今の茨城県猿島郡岩井町)に移ったのはこの時であろう。場合によっては全関東を敵としなければならない立場になったので、湖沼に取巻かれたような地形で、要害のよい石井に移ったのであろう。
将門追捕の官符は下ったが、国守らはいずれもまじめに奉行しない。朝廷がだまされていることは皆知っている。争いの本質が同族内の喧嘩にすぎないことも知っている。いいかげんにしておくにかぎると思ったのであろう。
良兼はあせって心を砕いていると、将門の駈使(走り使いの小者)の丈部子春丸《はせつかべのこはるまる》という者が、源護と貞盛の館のある石田に情婦がいて、ちょこちょこ通っていることを知った。早速につかまえて、将門の館の要害を尋問した。東絹《あずまぎぬ》一匹をあたえた上に、事成就の上は、馬に乗れる郎党頭に取立ててやると誘惑した。子春丸は他愛なく落ちて、良兼方の間者を連れて行き、石井の営所をくまなく見せてまわった。
間者の報告によって、良兼は夜襲計画を立て、十二月十四日の夜、精騎八十余をもって向ったが、その道筋に将門の郎党の家があってこれに気づき、途中まで尾《び》してよく様子を見定めた後、別路から石井に駆けぬけて報告した。
この夜、石井の館には十人くらいしか兵がいず、館中大さわぎになり、女子供らは泣き出す始末であったが、将門はこれを落ちつかせ、郎党らを励まして部署し、敵が押寄せて来たと見るや、かえって突出して逆襲した。夜襲勢はおどろきおそれ、楯を捨てて逃げ走った。将門は追撃して、良兼の上兵|多治良利《たじのよしとし》をはじめとして四十余人を討取った。将門の武名が上ったことは言うまでもなかろう。
子春丸は年が明けて正月三日、裏切りのことが露見して、捕えられて殺されている。
ところで、貞盛だ。彼のことは最初良兼に口説かれて心ならずも味方した場面以外、どこにも「将門記」に出ないのだが、ここに出て来る。彼は、
「どうして暮すも一生だ。おれは多年朝廷に勤仕して左馬允という官についている。京に行って出世の道を心掛けるが上分別だ」
と、初心に立返り、承平八年春二月中旬、山道《せんどう》をとって上京の途についた。
これが将門にわかった。人間は羽ぶりがよくなると、親類がふえると言うが、味方がふえることは確かだ。誰かが知らせてくれたのであろう。将門は百余騎をひきいて急追した。
「京に上らせては、弁口にまかせて讒言《ざんげん》をかまえるであろう」と考えたのだと「将門記」にある。京都朝廷は地方の実情にはまるで盲目のくせに、権式ばった観念論だけでことを判断するところであり、賄賂のききめのよいところだ。賄賂と弁口とがそろえば、白を黒にするくらいわけはない。しかし、それだけではなかったろう。貞盛が最初和解を約束しながら、たちまち心がわりして良兼方に一味した背信を腹にすえかねてもいたのであろう。将門は生《き》一本で荒けずりな正直者であったようだから、このような背信には人一倍腹を立てたはずである。
追い追って、信州|小県《ちいさがた》郡国分寺の近く、千曲《ちくま》川のほとりで追いついた。今の上田市近くだ。激戦が行われた。貞盛方では上兵|佗田《わびた》真樹が矢にあたって戦死し、将門方でも上兵|文屋好立《ふんやのよしたつ》が矢傷を負うた。貞盛はいのちからがら逃げて山中にかくれた。あのへんの地勢から考えると、どうしても千曲川を渡って西南方に逃げなければ、京都への順路にならない。ぼくには暮色のせまっている川を馬を泳がせて逃げる貞盛の姿が思い浮かぶ。さらに河原の水際に馬をならべて気負い立って矢を射かける将門の郎党らの姿が思い浮かぶ。そしてさらに、にわかに昔の友情を思い出し、あわれになって手をあげて矢を制止する将門の姿が思い浮かぶ。将門が窮地に立った敵にとどめをさし得ない、やさしい心の持主であることは、先年の下野国府での良兼にたいする態度でうかがわれるのである。
貞盛は旅費のほとんど全部を失って、困難な旅をつづけて京に入り、太政官に、
「関東諸国の国司らは官符を受けながらも全然奉行しようとはせず、従って自分らの努力は顧みられない。だから、将門は益※[#二の字点、unicode303b]逆心を抱き、益※[#二の字点、unicode303b]暴悪をたくましくしている」
と、訴え出た。旅費もなく京へたどりついたのだから、賄賂は使えなかったとも思われるが、案外知合から融通してもらって大いに散じたかも知れない。しかし、そうでなくても、権威主義の朝廷としては、官符が無視されているという事実には大いに立腹するはずである。この年は五月二十二日に天慶《てんぎよう》と改元されるのだが、その翌月、朝廷は貞盛に将門の召喚状をあたえた。貞盛はこれをもって関東にかえり、常陸介藤原|維幾《これちか》にわたした。この男は貞盛の母方の叔母婿である。
維幾は貞盛から受取った召喚の官符を将門に送りつけたが、将門は上京しなかった。口先と賄賂でくるりくるりとかわる朝廷のやり方がばかばかしかったのであろう。あとで事実によって説明するが、この頃、将門の威勢は大へんなものとなっていたらしく、どうやら関東の大親分といった気味合であったようだ。最も尚武的で、最も男性的気概を尊重する土地柄だから、彼のかがやかしい戦歴と誠実で男性的な性質とが、関東人の人気に投じたことは最も自然であろう。
将門は召命に応じないし、諸国の国司らは依然としてこの問題に不熱心だし、将門の威勢は朝日の昇るようであるし、貞盛はつくづくと内地がいやになった。そこで、その年の初冬、一族の平|維扶《これすけ》(高望王の子孫ではなく公家《くげ》系統の平氏の人かと思われる)が、新しく陸奥守となって赴任の途中、下野国府に到着したので、これに会って、陸奥に連れて行ってくれるように頼んだ。維扶が承諾したので、随従して陸奥に向ったが、これがまた将門にわかった。これも将門に好意を持つ者が注進してくれたのであろう。将門は兵をひきいて追って来た。貞盛は山にかくれた。将門は山狩してさがす。かれこれうるさくなったので、維扶は貞盛を打捨てて白河の関を越えてしまった。
その後の貞盛は悲惨であった。風のそよぎ、鳥のさえずりにも心をおいて、逃避をつづけることになった。
六
この翌年二月、武蔵の国に大事件がおこった。その頃、武蔵に新しく権守《ごんのかみ》として興世《おきよ》王、介として源経基が赴任して来た。興世王は桓武五世の孫、経基は清和二世の孫、経基の父貞純親王が清和の第六皇子なので、経基は六孫王と異称されていた。清和源氏の始祖となった人だ。
桓武―伊予親王―継枝王―三隈王―村田王―興世王
清和―貞純親王―経基
一体、この時代、中央から地方官となって地方に来る連中は、大いに儲けたいと思っていたのだ。猛運動し、費用も大分使って、やっと得た地位だから、赴任したらうめ合わせをつけなければやり切れないと思っていた。今の悪徳代議士みたい。そこで、この二人も着任すると、早速に管内巡視すると言い出した。こんな巡視には管内の豪族らがうんと献上ものをするのが習わしになっていたからだ。
ところが、これに異議を申し立てる者がいた。足立郡の大領(郡長)で武蔵《むさしの》武芝《たけしば》という男だ。これは武蔵の国造《くにのみやつこ》の末であるから、元来の武蔵人としては第一の名家の当主だ。大領としてすぐれた手腕があり、公事に精励して、上にも下にも受けのよい人物であったが、これが、
「新任の権守や介の管内巡視は、正任の守《かみ》が赴任されてからという先例になっています」
と言ったのだ。二人は立腹した。
「大領風情で、無礼なことを申すな」
とはねつけ、武装した兵をひきいて、推して巡視した。武芝は衝突を恐れ、家族らを連れて山野に身をかくした。二人は足立郡に入ると、武芝の所有になっている所々の屋敷や、その一族や郎党らの家を、不審ありという理由で検封したり、品物を持去ったりした。随従の者共が盗窃《とうせつ》掠奪したことは言うまでもない。武芝は抗議して、持去った品物の返還をもとめたが、新国司らは筋道立った返事はせず、かえってひたすらに合戦の用意をする。
風聞は関東一円にひろがり、将門の耳にも入った。将門は、
「おれはいずれにも関係はないが、このさわぎはただごとではない。仲裁してやらねばなるまい」
と、仲裁に乗り出した。これは大親分でなければ考えないことである。前に彼が大へんな威勢になり、大親分的存在となっていたらしいと書いたのは、この事実があるからである。
将門は三人に会って話をすると、いずれもまかせる故、よろしく頼むという。そこで、三人そろって国府に行き、ここで和解の盃をする相談が出来たが、経基はあとで行くと言って、狭服《さふく》山の営所にのこっていた。狭服山が現在のどこであるかについては、各説あるが、大森金五郎氏は狭山《さやま》であろうと言っている。ぼくも賛成である。武蔵の府中からあまり遠くては、「将門記」に伝える史実が符合しない。
将門は武芝と興世王とを連れて国府に行き、和解の盃をさせたが、その頃、狭服山では大へんなことがおこっていた。武芝の従兵らが経基の営所を包囲したのである。思うに、山に待たされて、退屈しのぎに酒を飲んでいるうちに酔を発し、自分らの郡での、この前の経基の従兵らの乱暴狼藉を思い出し、むらむらと腹が立ったのであろうか。「将門記」には武芝の従兵だけのことにしてあるが、将門の従兵もまじっていたかも知れない。とすれば、これは制止のためであったろう。あるいは、和解をご承諾されたとは祝着でござると、酔ったきげんで祝いを言いに行ったのかも知れない。
ところが、経基はいきなり営所を取巻かれたので、驚き恐れた。清和源氏の太祖となる経基もこの頃はまだ都育ちの物馴れない、少年といってもよいほどの若さだ。てっきり、武芝と将門とが興世王を抱きこんで、自分に危害を加えるために兵をつかわしたと判断し、あわてふためいて、都をさして逃げのぼった。経基がこんな妄想を抱いたところを見ると、彼は平生から興世王と|そり《ヽヽ》が合わなかったのかも知れない。
経基は京に到着すると、朝廷に三人が謀叛をおこしたと報告した。朝廷もおどろいたが、うわさが市中に漏れると、京都中のさわぎになったという。
しかし、謀叛というのは容易ならぬことだ、にわかには信じがたいとて、将門の主人である太政大臣忠平が調べてみることになって、事情を調査して報告せよとの教書を、中宮少進多治助直に下した。助直は中宮|職《しき》の官人ではあるが、中宮御領の支配人として関東に住んでいる人物なのであろう。もちろん、これも忠平の家人であろう。
教書は三月二十五日に京を差し立てたが、二十八日にはもうとどいている。最大限に急がせたのである。助直は早速将門に通達した。
将門は驚いたが、謀叛などとはあとかたもないこと、事の次第はしかじかと上書をしたため、常陸・下総・下野・武蔵・上野《こうずけ》等五ヵ国の国府の証明書を書いてもらい、これをそえて送った。五月二日のことである。
この翌月上旬、良兼が上総の屋形で病死した。少し前から病気だったのである。
七
五ヵ国の証明までつけて、無実を訴えた将門の上書を見て、朝廷は疑いを解いたばかりでなく、それらの証明書に将門の武勇や人望の厚いことなども書いてあったので、将門に官位をあたえて朝廷の役に立たせたいという議まで出たのであるが、人間の運命はとかく曲りやすい。この直後から、将門の運命が狂いはじめるのである。
狂いの原因の一つは、彼の家に興世王がころがりこんで来たところにはじまる。この頃、武蔵の正任の国守《くにのかみ》百済《くだらの》貞連《さだつら》が着任したが、貞連は興世王と妻同士が姉妹だというのに、興世王と気が合わず、役所内での興世王のポストもあたえない。面白くないので、任地をはなれて将門の家に来て寄食の身となったのである。
二は、常陸の住人藤原|玄明《はるあき》という人物を将門が庇護《ひご》しなければならなくなったことだ。この男は相当な名家の生まれで、その兄弟と覚しき玄茂《はるしげ》という人物は常陸掾であるくらいなのだが、玄明はおそろしく素質の悪い男である。民をしいたげては劫略《ごうりやく》し、納税はせず、国府から督促に来れば乱暴して追い返し、世のもてあまし者になっていた。これが常陸の官物を強奪したので、常陸国府の長官藤原|維幾《これちか》は度々弁済するよう督促したが、れいによって追い返してよせつけない。維幾は怒って、太政官に訴えて追捕状を下してもらい、追捕にかかった。これに抵抗すれば叛逆だ。さすがにこまって当時威勢隆々たる将門にかくまってもらおうと、そのついでに行方《なめかた》、河内両郡の不動倉に格納してあった穀物と糒《ほしい》とを掠奪して、将門の許に逃げて来た。行きがけの駄賃、手|土産《みやげ》のつもりであったろう。
これを将門は抱きとった。「将門|素《もと》より侘人《わびびと》(不幸者)を済《すく》ひて気をのべ、無便者《むびんしや》(ふびんな者)を顧みて力を託《つ》く」と「将門記」は書いている。不幸な者やふびんな者を見ては助けてやらずにいられない義侠的性格であったというのだ。
もちろん、維幾は引渡しを要求する。将門は言を左右にして応じない。交渉をくりかえしている間に、双方激情的になって、つい合戦ということになる。世の中にたいして不平満々、事あれかしと思っていたであろう興世王があおり立てたことは間違いないであろう。
将門のこれまでの合戦は、すべて同族との私闘だったのだが、ここにはじめて官軍との戦いとなったわけだ。
将門は千余人の兵をひきいて常陸に押出した。維幾方は数千の兵を用意し、維幾の長男為憲が将となって迎え戦ったが、将門は一戦に粉砕し、三千余人を討取り、進んで国府を包囲した。維幾は降伏し、印鎰《いんやく》を献上し、一家は捕虜となった。
将門軍が相当以上に乱暴狼藉を働いたことは、「将門記」で明らかだ。掠奪、暴行、放火、凌辱、等々、手ひどいものであった。しかし、これが当時の戦争の実相である。将門軍にかぎったことではない。
将門は一応豊田郡の鎌輪(今の鎌庭)に引揚げ、将来のことを議したところ、興世王は、
「案内を検するに一国を討つといへども公責軽からず、同じくは坂東を虜掠して暫く気色を聞かん」
と主張した。一国を取るも誅せられ、八州を取るも誅せらる、誅は一のみ、同じくは八州を取らんの意味だ。将門もその気になり、ついに謀叛に踏切った。
将門は下野国府に向い、さらに上野国府に向った。いずれも国司らは戦わずして降伏して将門を迎え、再拝して印鎰を捧げる。
将門は関東独立国を立て、帝王たることを宣言したのは、上野国府においてであった。ここで諸弟や諸将を関東諸国の国司に任ずる除目《じもく》を行っている時、国府に隣接している惣社の巫女《みこ》の一人がとつぜんに神がかりして、
「まろは八幡大菩薩の使わしめ! まろの位をまろが蔭子《おんし》将門に授けん! この位記(辞令)に連署するは右大臣正二位菅原朝臣道真の霊なるぞ! はやはや三十二相の音楽をもって迎え奉れ!」
と絶叫したのである。
これを将門の幕僚中の、たとえば興世王が演出したのであろうと言うのは、後世的な合理主義的解釈である。この時代のシャーマニズムにたいする信仰がいかに強く深いものであったかも考うべきである。ぼくは演出説にはくみしない。将門の血統の尊貴さを知っている巫女が、この頃の将門の武勇と威勢のすさまじさを見、さらに目前に除目の盛儀を見て、興奮のあまりに発揚状態となって無意識のうちに口走ったのであると思う。もちろん、人々は皆これを神のことばとして聞いたはずである。
こうして、将門は関東独立国の新皇となった。時に天慶二年十二月十五日。
この少し前、伊予で藤原純友の乱がはじまっている。将門が常陸国府を占領して叛逆に踏切ったということを聞いて、おこしたのである。
しかし、二人の叛乱は長くはつづかなかった。二月後の天慶三年二月十四日に、みじめな逃避行をつづけていた貞盛が、下野の豪族藤原|秀郷《ひでさと》(田原藤太)を語らい、常陸介維幾の長男為憲と心を合せ、兵をおこして、将門を伐ち、ついに石井の北山で討取ったのである。純友もまた京に攻め上ろうとして淀川尻まで船を進めた時、将門の敗報を受取り、船を返したが、後は次第に勢いが窮し、天慶四年六月、伊予で官軍に討取られたのである。
死んだ時の将門の年齢は、二十八、九か三十くらいであったろうと、ぼくは推定している。
[#改ページ]
[#見出し] 古文書いじり
涙の日
小説を書くために古文書を読んだことは全然ない。学生時代に学校で古文書を教わったが、全部忘れてしまった。専門の学者では、古文書によって調べることが絶対に必要だが、小説家には全然――といってよいだろう――必要でない。小説は事実を書くものではない。せんじつめたところは、気分、空気、精神、作者の主観を具象的に書くものだから。第一、一々古文書など読みくだいて行く時間もない。その力のないことも、言うまでもない。
ある程度古文書によって調べるようになったのは、史伝を書くようになってからだ。最もひんぱんに古文書によって調べたのは、朝日新聞に連載した「西郷隆盛」である。しかし、これとても古文書の現物によったことはたった一度だけで、あとは全部、すでに解読されて活字になっているものだけであった。その点では、便利な書物が出来ている。日本歴史全体については、史料編纂所から「大日本史料」「大日本古文書」という書物が出来ており、維新史については、大日本史籍協会から「維新史料」が出ている。
今日、日本の歴史学者達に経済史的史書や、左翼史観的史書を書く人が多いのは、あるいはこのへんにも理由があるのかも知れない。普通、歴史の研究は、皆が同じ資料をもち、同じスタート・ラインにならんでの競走のようなもので、情熱の燃やしようがなかろうから。
さて、こんな次第だから、ぼくの古文書の解読力はまことに貧しいものだ。活字本の場合は別として、たまたま現物に行きあたった場合は、最初は歯も立たないという感じさえある。第一、草体文字というやつが読めない。ぼくは数え年六十六だから、五十未満の人よりは草体文字を知っているはずだが、それでも明治末から大正の終る年までに学校教育を受けた身には、知らない文字の方が多い。
幸い、昔の人は我流の草書を書かない。必ず法によって崩している。多分、文字は他人に意志を伝達するものだから勝手な崩し方をしては文字の用をなさなくなると、親や師匠にきびしく教えられたものに相違ない。だから、字数の多い草書字典を備えておけば、先ず支障がない。しかし、文字というものは、各人の手癖があって、同じ筆法で書いても、それぞれに個性があって、なかなか検出しにくいところがある。
作家の和田芳恵氏は樋口一葉の研究家で、その著「一葉の日記」は芸術院賞となった人だが、その受賞はるか以前のことだ、ある日一葉の日記の原本をもって、ぼくの家に来て、ここは何と読むのだろうと、ある場所を示した。
見ると「○の日」とあって、和歌が数首書いてある。○の部分がわからないのだ。早速、草書字典で調べたが、わからない。和田君は帰って行ったが、ぼくは気になってならない。字の形はよく覚えていたので、夜、書斎でしきりに紙上にその字を書いては考え、考えては字典をくったが、わからない。あぐねはててやめた時、忽然《こつぜん》としてわかった。「涙」であった。「涙の日」なのである。一葉が父か母に死別した日の悲しみの歌をつらねたものだったのである。
一葉は我流の崩し方をしているのではない。ちゃんと正式な書き方をしているのであるが、濃厚に個性が出ているので、標準の形のものとまるで似ないものになっていたのだ。
草体文字は形で覚えるものではなく、筆法で覚えるべきものと知った。しかし、理屈はわかっていても、実地に読むには馴《な》れなければ身につかない。昔の人は往復の手紙にしても、書物にしても、草体文字のものが多かったから、自然に習熟の機会が多かったわけだが、現代人は手紙といえば楷書《かいしよ》・平仮名であり、新聞・雑誌、その他の書籍も楷書体に近い活字体だ。自然の機会はないのである。古文書読みが特殊技術になったのも無理はないのである。
ぼくはとうていすらすらとは読めない。だから現物の古文書を読む時には、全文を楷書体にうつしてみる。判読出来ない文字はあけておくのだ。それを時々引出しては、考えたり、字典をくったりする。日が立つ間に、一字読め、二字読めして、何日かたつと、どうやら全部が埋まる。熟達した人から見れば滑稽《こつけい》であろうが、いたし方はないのである。
方 言
古文書の文体は現代人にはまことにわかりにくい。発想法が違うからである。とりわけ、江戸時代の人の文章がわかりにくい。
「何々候条、何々候へば、何々いたし候間、何々いたし候へ共、何々となり候段……」
と、全くきれ目なしに、いくらでもつづいて行く。どこに要点があるのか、よほどに気をつけて読んでも、わかりにくいのである。これでちゃんと用が足りたのだから、昔の人の頭は特別に出来ていたと言わなければならない。
久しい太平にふやけ切っている人の、ああでもない、こうでもないと、煮え切らない性格や生活態度の反映のようにぼくには思われる。あるいは、文章のきれ目のあるのは不吉である。出来るだけ切らないでつづけるべきだというジンクスがあったのかも知れない。
締切りにせまられてものを書いている時など、ジリジリして、腹が立って、引裂いて捨てたくなるほど、要領がつかみにくい。しかたがないから、一々現代文に直してみることにした。条だの、段だの、出来るだけのぞいて短く切り、現代文に近い文脈にしてみるのだ。こうすると、まことによくわかる。
最初の間は、一応習熟するまでの段階と考えていたので、書損じの原稿用紙の裏に書き、用がすめば捨てていたが、いつまでたっても慣れないので、このごろではノートに書くことにしている。あとでまた役に立つこともあろうという欲からである。
昔の人の消息文は現代人にはわかりにくいと言っても、人によっては実に明快な文章を書く。学者といわれるほどの人のものは皆わかりやすいが、とりわけ漢学者のが明快だ。頭もよいのであろうが、漢文という文体が簡潔で歯切れがよいので、平生それに浸潤しているだけ、日本式消息文を書いても、明快になるのであろう。
日本語は漢文の骨格を借りなければ、散文として成立し得ない宿命があるのかも知れない。江戸時代の国学者より、儒者である、たとえば新井白石、たとえば室鳩巣などの方が、はるかに見事な和文を書いている事実をもってみても、こういえるかも知れない。漢文を中学校で教えることをやめたのは、大失敗であったと思う。
閑話休題。
消息文の中に方言の入る場合がある。たとえば、西郷南洲や大久保利通の手紙の中に、「尾《び》がとれる」という文句がある。これは薩摩方言である。尾は首尾の尾である。それがとれるとは成就するの意味だ。
「江戸|様《さま》行き申候処」という文句がある。「江戸へ行きましたところ」の意で使っているのだ。この「様」は、薩摩方言で方向を示す接尾語なのである。方言ではあるが、元来は日本古語だ。たしか「今昔物語」だったと思うが、こんな話が出ている。ある人が菅公の詩中の「東行西行雲縹緲」という句を何と訓《よ》むかわからないので、北野の天満宮に参籠《さんろう》して神示をいのったところ、その夜の夢に菅公があらわれて、
「とざまに行き、こうざまに行き、雲はるばる」
とよむのだと教えてくれたという話。「さま」が方向を示す古い接尾語であることがわかる。これが人の尊称になったのも、元来は方向から来たのだ。古い時代日本ではその人を直接に指して言うのは憚《はばか》るべきことという観念があった。だから、その人のいる方向をさして、「あなた様」「こなた様」、あるいは住所の方向をさして、「東様」「西様」「山下様」「川辺様」などと呼んだ。それがいつか尊称として定着し、名字につけて「徳川様」、「本間様」と呼ぶようになったのである。
これは手紙ではなく、大久保利通の日記で、えらい読み違いをしたことがある。文久二年に、島津久光が最初に京都に出た時だ。西郷が、下関にとどまって余の来るのを待てという久光の命令を無視して、京坂に飛出したため、久光は激怒した。大久保は京坂の状況視察と西郷に子細を聞くために、久光の許しを受けて京坂に出、伏見の藩邸で西郷と会った。この時のことを、大久保はこう日記に書いている。
「かれこれ京地の模様を承る。別して大機会にて候。且つ大島(西郷)へ少々議論これあり候処、|一盃振たまり故《ヽヽヽヽヽヽヽ》、先ず先ず安心いたし、鶏鳴に及び候」
傍点を施した部分がわからないのだ。一盃とあるので、「酒をのんで話しているうちに了解が行って、先ず安心した」と解釈して、朝日新聞連載の「西郷隆盛」にもそう書いたのだが、このごろやっとわかった。これは史籍協会本の読みちがいなのだ。原文は「一盃振|は《ヽ》まり故」であったはずである。薩摩語のいわゆる「いッペ踏んはまり」なのだ。全身的にふみこんで努力することだ。西郷が全身的にふみこんで努力しているので、安心したというのだ。
方言と歴史の解釈
もう少し方言のことを書きたい。
西郷の手紙の中に、「世話らしきこと」という語が出て来る。明治五年に、西郷が中国本土と満洲地方視察のために派遣した池上四郎に、十月十五日付で出した手紙に、
「当地には魯(露)国公子(アレキシス)参り候て、段々|世話等敷事《ヽヽヽヽヽ》に御座候」
とある。傍点を施したところはせわらしきことと訓《よ》むのだ。せわしいの意味である。本来は「忙」という漢字をあてるべきであろう。薩摩では「せわしい」を「せわらしか」というのである。
古文書を離れるが、薩摩では古い書物にも方言が出て来て、他国の人はこまることであろう。「薩摩旧伝集」という書物がある。戦国時代から江戸初期にかけての薩摩の武士らの逸話などを多く集録してあって、なかなかおもしろい書物だが、その中にこんな話が出ている。
指宿清左衛門という武士がいた。島津義弘の臣山田昌巌の家来だったから、義弘から見れば陪臣であるが、武勇にすぐれ、関ケ原役の時に太刀初め(真先に立って敵陣に斬りこむ役)をつとめたほどの勇士で、義弘は大へん可愛がっていた。この男がある時、義弘の許にごきげん伺いに来た。義弘はいろいろと冗談を言ってからかったところ、「清左衛門殿|せき《ヽヽ》なされ候」。清左衛門が辞去した後、義弘の若い近臣らが、義弘に、
「清左衛門殿は勇士と聞いていましたのに、|せき《ヽヽ》なされました。案外でありました」
と、言ったところ、義弘はきげんを悪くして、
「清左衛門は心篤実なものである。だから|せい《ヽヽ》たのだ。勇士で篤実なら最上の武士だぞ。その方共、わからんか!」
と、しかりつけたというのだ。
「せく」とは、原義は心|急《せ》くの意だが、薩摩ではこれが転じて、興奮する、逆上する、赤面するの意になっている。ここでは赤面の意だ。
同時に、義弘が晩年茶の湯を好んで、茶の湯の招待なら、誰の家にも出かけたことを記している。ある時、ある家臣の家に行って茶の湯の接待にあずかったところ、その家臣が「せき候」てうまく行かなかったのでそれをわびると、
「おお、茶の湯というものは|せける《ヽヽヽ》ものよ。おれもせけるわ」
と慰めたとある。
さらに同書に、義弘の孫の光久のことを記録している。水戸光圀が小石川の上屋敷に後楽園をつくり、大名らを接待した時、光久も招かれて行った。光圀は庭園に連出して「後楽」の意味を説明した。すると、光久はいきなりはだかになって池に入り、さんざんに泳ぎまわった後、上がって来て、
「よう出来た池でござる」
と、あいさつしたので、さすがの光圀が急には返事出来なかった。
帰邸の後、このことを供衆から聞いた老臣がおどろいて、光久の前に出、諫めたところ、光久は、
「水戸殿のようなコウサクな人には、あげんした方がよかのじゃ」
と、うそぶいたという。
このコウサクを、近ごろの鹿児島の人は、「高作」という文字をあて、禅語の「高上」の意味に解し、趣の高い意味にするが、そうではあるまい。「小癪《こしやく》」であろう。光久は光圀が学問仕立ての論を喋々《ちようちよう》と弁じたのが小癪にさわって、わざと乱暴なことをしたのであろう。今も薩摩では小癪をコサクというのである。「コサッな男じゃ」といった具合に。
方言の知識も、歴史を解釈する上ではバカにならないことがある。明治四年の冬、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの人々が遣欧米使節となって横浜を出帆した時、西郷は他の大官らと横浜に見送ったが、遠ざかる船を見て、大官らに、
「日本で一番やかましか人々が行ってしまいもした。当分世間は静かになりますぞ。あの船が沈めば、一層静かになりもすぞ」と言って大笑したという有名な話がある。
これを現代の史学者の中には、これは西郷の本心が不覚にあらわれたので、彼がいかに大使一行の人々と合わなかったかを語るものだと解釈している人があるが、薩摩語を知らないための見当違いである。薩摩語では「やかましか人」とは、厳格、方正な人、転じてえらい人、賢い人の意も含んで、喧騒《けんそう》な人、小むずかしい人の意ではあまり使わない。つまり、西郷は、
「日本で一番厳格賢明な人々が行ってしまったから、当分のんきになまけておられる。船が沈めば一生のんきでおられる」
と、冗談を言ったのである。薩摩人には諧謔《かいぎやく》好きが多い。わけて西郷は諧謔好きで、いつも冗談を言って人を笑わしていたという人である。本気に思っているなら、口に出すはずはない。そんな軽はずみな人間ではないのである。方言を知らないため、間違った歴史解釈をしているのである。
ニセモノ
この前、ある県の人から手紙をもらった。自分の家に家宝として伝わっている西郷南洲の手紙がある。西南戦争中、鹿児島県令の大山綱良に出したもので、県の文化委員会でも珍重して、県の特別文化財に指定する予定になっている。一度見てもらいたい、お前の西郷研究の資料にもなるだろうと書き、その西郷の手紙の本文の写しを添えてある。
西郷の手紙の内容は、政府に尋問の筋あって東上するため、鹿児島を出発、熊本城下にさしかかったところ、鎮台兵が遮《さえぎ》りとどめたために戦さになり、城を包囲攻撃にかからなければならないこととなった、政府の援軍が北方から来るから、これを田原坂あたりで防ぐ手当てもしなければならない。ついては兵を徴募して送ってもらいたい、という意味のものだ。日付は二月十五日になっている。
なかなかたくみな文章だ。いかにもその時代の人の文章らしくもなっている。しかし、ぼくは即座にニセモノと判断した。
理由はごく簡単だ。手紙の日付の二月十五日は、西郷はまだ鹿児島にいる。彼は二月十七日に出発しているのである。
当時は公には太陽暦が用いられていたが、民間ではなお陰暦を襲用している者が多かったから西郷もあるいは陰暦で書いたものかも知れない(西郷の他の手紙は皆陽暦の日付だ)と思って、「三正総覧」を参照して計算してみると、明治十年の陰暦二月十五日は陽暦では三月二十五日にあたる。田原坂が官軍の手に落ちてから六日目である。
ぼくは以上のことを説明して、
「ご家宝にしていられるものを、拝見もしないで、失礼を申上げるが、残念ながらほんとのものではないと判断せざるを得ない」
と、書きおくった。
これはこの人の曾祖父《そうそふ》にあたる人が大金を出して手に入れたのだというが、最初に作り出した人はどんなつもりだったのだろう。めずらしいものを持っていると人に自慢したいためか、そんな人に売って金にするためか、いずれかであろう。
この時期の西郷のニセ手紙は実に多いのである。しかもそれが全部大山綱良あてのものだ。大山は西南戦争の巻添えをくって処刑された人であり、また維新志士時代からの西郷の同志であるので、二人の結びつきはよほどに深いものと、当時の人には思われていたのであろう。しかし、実際は、西郷は少しも大山を信用していなかったのである。明治六年六月二十九日付で、西郷が母方の叔父椎原与右衛門に出した手紙には、大山のことを、
「この格州(格之助。大山のこと)の振舞、実に驚き入り候仕合せ、銭の金のと申すことばかり、全くの商人肌合になり切り居られ云々」
と、罵倒《ばとう》している。あまり人の悪口を手紙に書くことをしない西郷が痛罵しているのであるから、心を許して交っていた人物ではなかったのである。
ニセ古文書については、昔からずいぶんおもしろい話がある。一番有名なのは、虚無僧文書の話だ。
虚無僧らは、慶長年度に家康から特別な保護を約束された掟《おきて》が立っており、それはさらに四代将軍家綱の延宝年間に、時の老中小笠原山城守、板倉石見守、太田摂津守列席の上で、確認されたと称して、幕末まで来ている。
彼らがその権利をフルに使ったのは、仙石騒動においてだ。虚無僧らは仙石家の浪人神谷|転《うたた》を後援して、仙石騒動のいきさつを幕府に訴え、ついに幕府の裁判に持ちこみ、転の勝訴にこぎつけているが、その過程において、本山一月寺に代々持ち伝えている古文書をふりまわし、大いに威力を発揮させている。
この古文書は、実を言えば真赤なニセモノであった。家康が虚無僧掟を立てたという事実もなければ、延宝年度に老中らが確認したという事実もないのである。第一延宝年度には小笠原姓、板倉姓、太田姓の老中はいない。
ところが、仙石騒動の時には、これがニセモノであることを誰も気づかなかった。幕府側でも気づかず、当の一月寺の方でも知らなかった。本モノと信じ切って伝来していたのである。ニセモノとわかったのは十二年後の弘化四年である。
昔は由緒を重んじたので、自己権利の由来を証明する古文書がずいぶん偽造されたのである。江戸末期に近いころ、江戸の賤民頭弾左衛門が、歌舞伎俳優は自分の支配を受くべきものであると主張して、訴え出たことがある。弾左衛門の主張の根拠となったのは、源頼朝から下付されたという古文書であった。彼はそれをホンモノと信じ切っていたのであるが、実はいつのころかに偽造され、ホンモノとして伝承されて来たものだったのである。
ウソを書く
前回はニセの古文書のことについて書いたが、今回はホンモノの古文書のウソについて書きたい。
現代の史学では、本モノの古文書は疑ってならないことが常識になっているが、そうとばかりもいえないことがある。
現代でも、永井荷風氏の日記は、出版公表用のものと秘密のものとの両種があったというので、文壇の問題になったが、これなども秘密のものが発見されないで、出版用のものだけが世に行われたら、後世をまどわしたに相違ないのである。
古文書にも、政治上の必要その他の事情で、わざとウソを書いている例はずいぶんあるはずである。
たとえば、豊臣秀吉が天下統一前に、各地の大名らにあてておくった手紙には、この類のものが実に多い。
天正十三年十月といえば、秀吉は徳川家康を何とかして帰服させたいと苦心さんたんしている時期だが、その十月二日付で、島津家に出した手紙には、
「勅諚について筆を染め候。さて関東はのこらず、奥州は果まで、綸命にまかせて天下静謐のところ、九州こと今も鉾楯《むじゆん》の儀、しかるべからず候条云々……」
と書き出している。日本全国すでに平定しているのに、九州だけがまだ合戦沙汰をくりかえしているのはけしからんと言っているのである。ハッタリをかけているのである。
秀吉は史上最も有名な人物であり、その事業については歴史家の詮索《せんさく》が行きとどいているから、この手紙が政治上の必要からハッタリとして書かれたものであることは、よくわかるのだが、無名に近い地方大名などが地方のことについてこんなウソを書いたとしたらどうだろう。参照すべきくわしい研究もないのであるから、こまるであろう。古文書であるからといって、必ずしも信用してはならないのである。むしろ、戦国乱世の世は権謀術数が常であるから、この時代の古文書は大いに眉《まゆ》につばをつけて見る用心が肝要であろう。
古文書は史実をつきとめる上にごく重要なものではあるが、要するに材料だ。判断は人にあることは言うまでもない。だから、同じ古文書でも、人によって全然違う判断を下される場合もある。
建治二年といえば、第一回の蒙古襲来があった二年目、二回目の襲来のあった弘安四年の五年前であるが、そのころ鎌倉幕府は敵の襲来を待たず、こちらから逆襲して行こうとの計画を立て、九州の武士らに、所領の持高、領内の船舶の数、引率して出陣し得る一族の氏名、年齢、従者の数、武器の種類、数量などを届けさせた。
これにつれて、肥後国の御家人|井芹《いぜり》弥二郎藤原秀重入道西向の書上げと、北山室の地頭尼真阿の書上げとがのこっている。この戦争中に士気|昂揚《こうよう》のためによく使われた古文書だから、記憶している人もあるだろう。
前者はこうだ。
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「自分の家の元来の田数は二十六町六段三丈であるが、闕所に召されたり、人のものになったり、人に横領されたりして、現在では自分の分が十一町三段二丈、孫の二郎の分が三町八段しかない。以上は庄園の名寄帳に照して偽りなきものである。
人数、弓箭、兵仗、乗馬の事
西向 年八十五、よって行歩出来ない。
嫡子越前房永秀 年六十五、弓箭、兵仗。
同子息弥五郎経秀 年三十八、弓箭、兵仗、腹巻一領、乗馬一疋。
親類又二郎秀南 年十九、弓箭、兵仗、所従二人。
孫二郎高秀 年満四十、弓箭、兵杖、腹巻一領、乗馬一疋、所従一人。
右下知状にまかせて忠勤いたすべきなり。よってあらあら注進状言上くだんの如し」
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後者はこうだ。
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「建治二年三月二十五日付の御書、昨日閏三月二日到来、かしこまって拝見いたしました。仰せ下されます異国征伐のための人数、名前、並びに乗馬、物具等の員数などのことは、子息二郎光重、婿久保二郎公保らが、夜をもって日についで参上を企てていますから、かれらから申上げます。この旨をもって、御披露下さい。恐惶謹言」
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この文書の文面からぼくの受ける感じは、国難に遭遇してひたすらに奉公の念に燃えている小豪族のすがたであるが、現代の史学者の中には、過重な負担を課せられることにたいする武士達の抵抗の姿が読みとれると言っている人がある。理由とするところは、井芹入道の書上げであるが、幕府はリストを提出することを命じているのである。これを提出し、理由を説明することがどうして抵抗になるのか、ぼくにはわからないのである。入道がウソを書いている証拠はどこにもないのである。
同じ古文書でも、人によって判断の違うことこのようなものがあるという好適例である。
今をもって昔を読む
作家の古文書談義は、詮《せん》ずるところ床屋政談の域を出ない。このへんで切上げて、作家としてのぼくの歴史勉強法を披露したい。
史書を読んだり、考察すること以外に、ときどき現代の事象によってはっと目をさまさせられるような思いをすることがあり、それが一番楽しい。つまり、今をもって歴史を読むのだ。
その一例。
織田信長が当時の新兵器であった鉄砲を大量に用いることによって、甲州武田の精鋭を長篠で痛破、ほとんど殲滅《せんめつ》したのは、日本歴史上最も有名な事件だ。
信長は戦場に三段の柵《さく》を結い、その内側に三千人の銃手をおき、殺到する武田勢が柵に行きあたってたゆとうところを、千|梃《ちよう》ずつかわるがわるに射撃させて、武田勢と接触することなくして殲滅した。
このことは、武田勢が従来の歩騎戦では最も精強であるので、これを避けて、新戦術をもってあたったのだと説明されている。
実際、武田勢の主力をなす甲・信の兵は強かった。気候寒冷、地味|磽※[#「石+角」、unicode786e]《こうかく》、自然環境の最も苛烈《かれつ》な地に生い立ち、名将信玄以来練りに練られた甲信兵は、上杉氏にひきいられる越後兵とともに天下一の精兵であった。
これに反して、信長の兵ははるかに劣弱であった。土地|広闊《こうかつ》にして豊沃《ほうよく》、気候温暖、古くから京都文化の影響を強く受けている美濃・尾張地方に育ったのだから、兵として強かろうはずがない。信長は本願寺と十一年にわたって戦いながら、ついに大坂石山城を奪取することが出来ず、朝廷の力を借りて、やっと開城退却させている。兵が弱かったからである。
この劣弱な兵をもって、精強天下に冠たる武田兵にあたらなければならないのだから、信長としては大いに工夫せざるを得なかったわけだ。
以上のことは、知識としては十分に持っていたが、それが実感をもって納得出来たのは、ベトナムにおけるアメリカ兵の状態を、ある日のニュースで知ってからであった。ベトコンのテロに出あって、アメリカ兵の少なからぬ数が周章のあまり逆上し、錯乱状態になり、サイゴン市内が一時パニックに陥ったというのだ。ぼくは何という弱い兵だろうとあきれながらも、長篠合戦のことを思い出し、心の底から信長の心理が納得出来たのである。
「こんな弱兵でも、豊富な物量をもって補えば、世界最強の兵であった日本軍を破ることが出来た。信長が鉄砲の力によって弱兵をカバーしたのは、長篠合戦だけでなく、全部そうだったのだろう」と。
こうなると、秀吉の戦術もその目で見なければならない。鳥取城、高松城、小田原城等々、秀吉は実に大がかりな攻囲をし、おしげもなく物量を投入しているが、これは兵の劣弱をカバーするアメリカ流戦法だったのだ。
その二例。
斎藤道三、松永久秀、信長の三人が峻刻《しゆんこく》な刑罰を用いたことは有名だ。道三は罪人を釜うでにし、その妻子らに火を焚かしたといい、久秀は百姓らを処刑する際、蓑を着せて火をはなち、もがき苦しんで死ぬのを蓑虫おどりと名づけて見物したといい、信長は一銭切りとて一銭を盗む者も斬罪《ざんざい》にしたという。
三人に共通するところは、三人とも異常な立身者であるという点だ。道三と久秀とは微賤《びせん》な旅人から身をおこして大国の主となり、信長は尾州の守護大名斯波氏の陪臣の家からおこって天下取りとなった。このことと、三人がそろって重刑主義者であったこととは、相当深い関係があるのではないか。
こんなことをぼくに考えさせたのは、この戦後の世の乱れである。敗戦降伏占領という日本はじまって以来の大変にあったのだから、多少のことはやむを得ない。やがておさまるであろうと思っていたが、おさまるどころか、ますますはげしく、このごろではあまりなことに驚きも出来ないほどのことが続出する。郵便局員が常習的に封書から金やカワセを抜取る、刑務所の看守が服役者に女や酒や煙草を供給する、女囚を姦淫《かんいん》する看守も出た。鉄道公安官が車内で常習的にスリを働く、学校の先生が強盗をする、大学生が強盗し、高校生が輪姦する、等々。
このような事象にたいして、世間には、「刑罰が生ぬるすぎる。少年犯罪者などはそれを計算に入れている。もっと刑罰を重くすべきだ」という声が高い。
思うに、三人の時代もそうで、諸悪横行し、従って普通の刑罰では生ぬるいと考える者が多かったので、社会のこの要求に応じて、重刑主義を取ったのではないかと、ぼくは考えるわけだ。
この重刑主義政治の効果については、道三と久秀についてはよくわからないが、信長が大いに効果を上げているところを見ると、二人も成功していると見るべきだ。信長が尾張一国の主であったころ、その領内は夜戸を閉ざさず、道に遺《お》ちている財物を私する者なく、大いに治り、他国の民がうらやんだという。
もっとも、三人が三人、そろって非業にして死んでいるのも、大いに関係があろう。
道三、久秀、信長のことを、こう考えて来ると、さらに思考が馳せる。
周知の通り、道三は信長の舅《しゆうと》である。道三の娘の帰蝶(「美濃国諸旧記」)というのが、信長にとついだのである。
この娘のことを、世間では皆「濃姫」と書いたり、「お濃」と書いたりしているが、これは名前ではない。濃姫とは漢文的表現で斉から来た夫人を斉姫と呼び、越から来た夫人を越姫といったと同じ言い方で、美濃から来た奥方の意味だ。実際には美濃御前と言っていたはずである。この時代、大名の夫人はこんな風に呼んだのである。もっとくわしく言うと、婚家の織田家では美濃御前と呼び、実家の斎藤家では尾張御前と呼んだのである。濃姫とは美濃御前の漢訳である。
さて、信長は道三から娘をもらったが、その政治方法も道三から学びとって、重刑主義を採用したのではなかったか。
「美濃国諸旧記」という書物に、この時代から三間半という長い槍《やり》が戦場ではやりはじめたが、それは道三からはじまったとあり、「武将感状記」には、彼は先鋒《せんぽう》の兵士らに三間の槍を持たせたとある。「美濃国諸旧記」には、彼が鉄砲に習熟して下ゲ針を射るほどの精妙な技術があったともある。
信長が足軽らに長槍を持たせ、鉄砲を大いに利用したことは有名だ。戦術もまた舅から学びとったかとも思われる。信長の道三に負うところはまことに大きいと言わなければならない。
道三は京の西の岡の出身である。今の京都西南郊の向日町のあたりだ。久秀は素姓のわからない人物だが、やはり西の岡の出身という説がある。これが真なら、久秀は同郷の先輩である道三の出世ぶりを見て、大いに奮発し、政治ぶりも真似をしたのかも知れない。
三人の精神の系譜を作れば、こうなろう。
[#系図4(fig4.jpg、横73×縦130)]
道三は信長の父、久秀は叔父ということになる。信長は久秀からも学びとっている。
信長の安土城は近世の城のはじめと言われているが、彼はこれを久秀の大和の多聞城から学んでいるのだ。近世の城の塀《へい》を多聞塀といい、櫓《やぐら》を多聞櫓というが、それは多聞城にはじまったものだからである。天守閣は多聞櫓の大がかりなるものに過ぎない。
その三例。
ベトナムのゴ政権から今日のキ政権に至るまでベトナム人の常住的不満、ガーナのエンクルマの失脚、インドネシアのスカルノの失脚等を見ていて、ぼくは明治初年における西郷の人気の秘密がわかったと思った。西郷と同時に参議であった大隈重信は、
「西郷の人気は絶大なものがあった。なぜだかわが輩にはよくわからないが」
と、後年言っているが、大隈にはわからなくても、上記の人々の失脚の次第を見れば、まことによくわかるようにぼくには思われる。
一体、一般庶民の関心は、常に日常の生活のことにある。自分らの生活が楽で、社会に平安があれば、それで満足なのである。革命の思想とか、独立の意義・確保、などというような高邁《こうまい》なことには、大して関心はない。政権担当者としては、そういうことにも民が関心を持つように努力はしなければならないが、それよりも十倍も二十倍も必要なのは、前記の民の要求を充たす努力をすることだ。そのためには、為政者は、私生活は倹素であり、心術は方正・清廉であり、常に民とともに苦楽する心掛がなければならない。権力を悪用して私利をむさぼったり、驕奢《きようしや》な生活をしたり、行状が乱れたりしてはならないのである。
明治の初年、かつての革命の志士であった高官らの生活は驕奢、行状は乱れ、権力を悪用して私利を営む者が少なくなかった。西郷は当時の高官らの中で懸絶して功業が高く、段違いの英雄であったのに、質素で、清廉で、方正で、常に民を憂える人であった。庶民の敬慕が集ったはずである。
これは大隈にはわからない。このころの大隈は生活は驕奢であり、行状も心術も清潔とは言えず、策と手腕だけの人であったのだから。
以上は今を以て歴史を読むのだが、歴史を以て今を読むことも、もちろんある。昔から「鑑」とか、「鏡」とかいう名前をつけている歴史書が多いのは、歴史のこの機能を認めてのことである。
この意味で、今一番強く感じているのは、中共の整風運動だ。中共としては最も切実な理由があってのことではあろうが、その切実な理由というのがおそろしい。ともかくも、歴史はこんなことをする国は長続きしないことを示しているのだ。秦は始皇帝が「焚書坑儒」してから四年にしてほろんでおり、焚書したナチ・ドイツも、強い言論弾圧をした軍閥日本も、十年未満で崩壊した。ぼくは中共のために憂うるのである。
歴史家と作家
ぼくは小説も書き、史伝も書いている。いずれの場合も出来るだけよく調べることにしているが、史伝の場合の方が綿密・厳格だ。この両者の本質の違いによる。史伝は史実の上に成り立っているものであり、小説はフィクションが本道である。小説の世界はその小説だけの世界であり、現実世界とは別個のものだ。だから、人物の名前(特に女の)や年齢など、一応手をつくして調べてもわからなければ、適当に創作する。読者に現実感をあたえるためだ。しかし、史伝の場合は調べてわからなければ、わからないと書く。年など大体の推定何歳と書く。作為は一切しない。
しかし、人物によっては、史伝では真の風貌《ふうぼう》を伝えることが出来ず、小説でなければならない場合も少なくない。
秀吉の軍師的立場にあった竹中半兵衛などそれだ。この人は当時の人の筆になったものにも、大へんな智略の人であったということになっているが、現実にはどんな智略の働きをしたか、くわしく伝わっていない。だからその髣髴《ほうふつ》を伝えるのは、史伝では出来ない。小説によった方がよいのである。
松永久秀も、記述として伝わっているかぎりは、極悪非道、愛すべきところは全然ない人物だが、卑賤《ひせん》からあれほどの身分に成りあがったのだから、愛嬌《あいきよう》のない人物であったはずはない。特に若いころは、必ずなんともいえず愛嬌ある人物であったはずだ。それを表現するには、小説によらざるを得ないのである。
西郷南洲は冗談好きで、平生は冗談ばかり言って人を笑わせていたといい、下々に接する時は何ともいえず愛嬌のあった人だというが、歴史の記述の上ではそれらのことはほとんど出て来ない。そういう風格の西郷を書こうとするなら、これまた小説によらざるを得ない。史伝では説明だけしか出来ない。
ことばというものは本質において抽象的である上に、東洋の歴史記述は実に抽象的であるから人物の上にただよっている匂《にお》いは伝わらないことが多い。小説的手法による人物描写が歴史上の人物にも必要な理由である。
とりとめもないことばかり書いて来たが、最後に、ぼくが史伝執筆で一番苦しんだことを語って、この稿をおわりたい。
拙著「悪人列伝」に収録している「伴大納言」を執筆の時のことだ。伴大納言善男の生涯には二つの山がある。後期の山は有名な応天門を焼いた事件だが、前期の山は彼が同僚である弁官五人をその地位から追い落した事件だ。五人とは、左大弁参議正躬王、右大弁参議和気真綱、左中弁伴成益、右中弁藤原豊嗣、左少弁藤原岳雄である。
善男は最下位の右少弁でありながら、五人の上官を相手に訴訟をおこし、論難|駁撃《ばくげき》した。弁官を無事につとめ上げたものが順次に大・中納言に昇進することになっているので、出世をあせる善男は、一挙に先進者五人を葬り去ろうとしたわけである。
当時の明法博士五人のうち四人まで弁官らに味方した。善男はこれと論戦し、ついに勝った。その応答の議論が、「続日本後紀」にくわしく出ているのだが、これは実に読みにくい。この事件については、現代の学者の研究があるので、それを手がかりにして読みくだきにかかったのだが、どうにもうまく行かない。この人は読み違いをしているのではないかという気さえして来た。
この時ぼくは湯河原に避寒中であったが、旅館の一室にこもって外出一つせず、ひたすらにつとめた。月刊雑誌の連載ものなので、締切もせまっていた。三日の間、寝食を忘れる思いで苦心していたところ、三日目の深夜、便所で放尿中、忽然《こつぜん》として考えたのは、
「これは問答体になっているはずだから、そのつもりで読むべきである」
ということであった。あたり前のことなのに、逆上している時というものはしようのないものだ。まるで頭が働かないのである。
大急ぎでへやにかえり、そのつもりで、「」をかけながら読んで行くと、竹が刃を迎えて裂けるようだ。さーッと一気に読めた。
漢文には会話であることを示す記号がなく、「曰」がそれの代用になっているのだが、今日伝わっている「続日本後紀」のこの部分には、伝写の間に脱落したのだろう、それがないのである。
善男の伝記の中で、この部分はいわば法廷の法理論争であるから、読者にとっては面白くないところであったろうが、ぼくにはこれほど苦心したことはかつてないのである。
歴史としての研究なら、こんなに細かく見る必要はない。善男がその法知識を悪用して、競争者らを全部|蹴落《けおと》して、自らの出世の途を拓《ひら》いたことだけ知ればよいのだが、作家が伝記を書く場合にはそれではいけない。善男のシャープな頭脳と辛辣《しんらつ》な性格とを、読者に共感してもらわなければならない。細かにわかるまで、手をゆるめるわけに行かないのである。
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[#見出し] 武将雑感
北条時宗
十三世紀前半、全世界の恐怖は蒙古のあらしであった。朔北《さくほく》の草原の中からおこり立った野蛮人どもは、西はオーストリアから東は日本、南はインダス河までの地域を鮮血に染めて狂いまわった。どこの国もその侵略を食いとめることはできなかった。日本だけができた。われわれはわれわれの祖先の働きを、ナポレオンやヒトラーの侵略を撃退したロシヤ人や、日本軍の侵略に九年にわたって頑強《がんきよう》に抵抗した中国人の働きと同じように、英雄的偉業であると誇ってよいのである。
戦後、一部の史学者らが、この時の日本の抵抗に否定的な説を立てているが、史学者ならば、蒙古に服属した国々の運命がどうなったかを知っていなければならない。奴隷《どれい》国になることなのだ。独立や正義や真理が確立するのは、勇気と抵抗による以外はないのである。
周知の通り、日本人が再度にわたる蒙古人の侵略を食いとめることができたのは、暴風雨の助けがあったからである。これについては、気象庁の荒川秀俊博士が戦後異説を立てた。文永の役のあった文永十一年十月二十日は現行暦では十一月二十六日になるが、この季節になると西日本には台風は襲来しない。それは最近五十年間の気象台の台風資料で明らかである。したがって文永の役における大風雨は信ぜられない。蒙古の退却は疫病による死傷者が多かったからだというのが、その説の要約である。しかし、この役の大風雨のことは、日本側の記録にも、向こうの記録にも明記してある。彼我の記録が合致すれば、信ずるのが史学の約束である。台風ではなくても、相当な風雨があったと考えるのが穏当であろう。
暴風雨の助けがあったとしても、それが蒙古軍にたいする決定的な打撃となったのは、あたかも暴風の襲来した時、蒙古軍が海上にいたからであり、蒙古軍をしてそうせざるを得ざらしめたのは、日本武士らの勇戦による。文永の役には、蒙古軍は上陸して日本軍を圧迫し、日本軍を博多から太宰府に退却させながらも、その夜を陸上に過ごすことを不安がって海上にかえり、その夜暴風にあっている。二度目の弘安の役には、一歩も上陸することができず、二ヵ月にわたって海上生活をし、台風のえじきとなって覆没したのだ。もしこれらの暴風を神風というなら、日本人の勇敢な抵抗が、単なる自然現象を神風たらしめたと言えるであろう。
この日本武士らを結集し、断乎《だんこ》抗戦に踏み切り、その中心になったのが、相模太郎時宗である。時宗は蒙古問題処理のために生まれてきた人の感がある。執権になったのが十八、すでに蒙古問題がおこっている。二十四の時に文永の役、三十一の時に弘安の役、死んだのは三十四だ。一体北条家は短命の家系で、父時頼が三十七、子貞時が四十一で死んでいるのだが、時宗はあまりにも若い。心身をすりへらしたのであろう。その画像がいかにも若々しく、ふっくらと描かれているのは、ほんとに若かったからである。僧形にしてあるのは、入道して死ぬのがこのころの北条家のしきたりだからである。実際には病み衰えて死期が迫ってからの入道だから、これは仮に壮健なころの姿にしたのであろう。法名道杲。
この像のある満願寺のある熊本県阿蘇郡小国郷は、阿蘇の外輪山の外側にある村で、この時代から北条氏の領地の一つになっており、満願寺は九州探題として下向した時宗の叔父時定が敵国降伏の祈願のため勅諚《ちよくじよう》を奉じて建てた寺だ。画像が最も信ずべきものであることは言うまでもない。
毛利元就
毛利元就の肖像画として世間によく知られているのは、だいぶ年をとってからのものである。ひげも真っ白で、顔立ちもふっくらとして、いかにも円満な人がらに描かれたものだ。たとえて言えば、田舎の代々の素封家で、庄屋でもつとめる家がらの人によく見る人相になっている。歴史の教科書などに出ていたのはそれであった。元就は七十五で死んだ人だが、おそらくそれは最晩年のものであろう。このほかに、永禄五年の寿像というから、六十六の時の肖像がある。これは油断のならない顔つきをしている。田舎には、適当に利口で、適当にはしっこくて、適当にずるくて、適当にまじめで、いかにも均整のとれた人がらの人物がいる。こんな人間は必ずといってよいくらい、なかなか勤勉な働き手でもあるが、それ以外に結婚政策やなんぞで他家の財産を合わせ、いつの間にか部落で屈指の財産家になる。そういう人は、大体こんな人相をしている。平凡な顔立ちであるが、いかにも生気に満ちている。元就の生涯を考える時、この肖像画はいかにも彼の人がらを鮮やかに描き出しているように、ぼくには見える。
元就の家は本家が芸州高田郡吉田三千貫、一説によると三百貫の身代であったという。三千貫にしても石高にすれば大体五、六千石だから、知れたものだ。三百貫なら五、六百石だ。彼は二男に生まれたからその中から多治比七十五貫の領地をわけてもらって分家した。小さい小さい郷士《ごうざむらい》だ。
それを、彼の甥《おい》で、本家の当主である幸松丸というのが九歳で病死したので、本家の当主となった。この幸松丸の死と彼の本家入りについては、何か暗い翳《かげ》がある。幸松丸の外祖父高橋大九郎は石州豪族で、幸松丸の父興元の死後、元就とともに幸松丸の後見役となっていたのだが、元就はこれを毛利家横領の野心があるという名目で、いきなり攻めつけて滅ぼしている。幸松丸の死も、元就が後見して共に出陣している間に病気となり、帰陣して間もなく死んだのだ。疑雲は相当に濃いのである。
彼はまた、二男の元春に近所の豪族で彼の妻の実家である吉川家を、三男の隆景に同じ芸州豪族で彼の親友であった小早川正平の後を嗣《つ》がせているが、この養子縁組にも暗い翳がある。吉川家にも、小早川家にも、この縁組を不満として自殺したり、殺されたりした譜代の家臣が出ているのだ。
ともあれ、こんなことによって、彼の身代は飛躍的に大きくなった。
彼はまたはじめは尼子家に、途中で大内家に、大内家が陶晴賢に滅ぼされた後は陶に服属し、最後に陶と手を切って陶を滅ぼし、大内家の身代を全部自分のものにし、さらに尼子家を滅ぼして尼子の身代を自分のものにし、備後、備中、美作を切り従え、その死ぬ時は、山陰・山陽十ヵ国、九州の豊前、筑前、合して十二ヵ国の大領主となっていた。
彼はなかなかの戦争上手であったが、とくに戦闘にはいる以前のスパイ使いに最も巧妙な手腕があった。正間・反間ともに水ぎわ立っている。陶に勝ったのも、尼子に勝ったのも、主としてそれによるとさえいえる。
最も辛辣《しんらつ》なマキァベリアンでありながら、人にそんな印象をあたえず、最も篤実な人がらと受け取らせるところ、そのマキァベリズムが最も巧妙であったためとも言えるが、ほんとに篤実で人を信頼させるに足る面も大いにあったのであろう。マキァベリズムだけではその事業は長続きしないものである。
彼が死に際して、矢を子どもらにあたえて折らせ、一族の結束を訓戒したという話は有名だが、毛利家関係の古い史籍には見えない。しかし、一族の結束を訓諭した事実は「毛利記」に出ている。こんな事実があるので、シナの故事に仮託して、江戸中期以後の人が作為したのであろう。
毛利一族はこの訓諭をずっと忠実に遵奉《じゆんぼう》して、幕末維新のころまで、結束を乱さず、常に本家と行動を共にしている。この点は薩摩の島津と日向佐土原の島津との間も同じだ。
豊臣秀吉
今の若い世代の間ではどうか知らないが、この大戦前まで、日本の歴史上の人物中第一の人気ものは秀吉であった。徳川幕府が二百七十年の間、その人気をたたきおとすことにつとめたのに、さらにおとろえなかったのだから、えらいものである。公式の場の発言や学者と称せられる人々の著述では、相当秀吉をけなしつけているが、一般はまるでそれを受け入れない。浮気な人気ではなかったのである。
こんなに人気がありながら、二十歳前後、織田信長に仕えるまでの秀吉の経歴はほとんどわからない。生年月日すらはっきりしない。わかっているのは、尾張中村の土民の小せがれとして、天文四年か五年に生まれ、サルとあだ名をつけられた少年であったこと、継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪して歩き、そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売っていのちをつなぎ、「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、十四、五のころ、縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主松下之綱に拾われて、はじめて武家奉公して数年いたが、何か事情があって暇をとって尾張にかえり、二十前後のころに信長の家に小者奉公したというくらいのことで、その間のこまかなことは一切わからない。
尾州蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六に飼われて、放火、強盗、落武者狩り等の野武士働きをしたことがあるという伝説は有名であるが、歴史学者らは否定的である。ぼくはある解釈があって、小六との矢作《やはぎ》橋上の出合いなどは当時はまだこの橋がないのだからあろう道理はないが、小六あるいは小六のような小豪族で野武士かせぎしていた者の家で飯を食わされていた期間があったろうと推察している。
一体、微賤《びせん》からたたき上げて大成功した人は、その微賤時代のことを自慢話として好んで語りたがるものだ。とりわけ、秀吉は陽気で、大言壮語癖のあった人だ。それが、昔のことを一切語っていないのは、あまりにも悲惨で、自ら思い出すのもいやであったのではないかと思うのだ。野武士の下働きとして強盗放火などの山見などしたことなど、中でもいやな記憶であったろう。
秀吉が信長につかえるや、実に誠実に、実に勤勉に、人のいやがるような仕事、最も危険な仕事等を、進んで引き受け、引き受けるや常にいのちがけであたって、必ず迅速《じんそく》に達成しているのは、再び昔の悲惨な境遇に転落したくないとの、最もきびしい覚悟のすわりがあったからであろう。小者時代の便所掃除、中間時代の清洲城の塀普請、士分となっての墨股城建築と城番、越前攻めから信長が退却する時の殿《しんがり》軍、江州小谷の浅井氏に対する最前線である横山城主となったこと等、すべて人のいやがること、最も危険なことを、進んで引き受けているのである。
これらのことの積み重ねが、信長の信頼をかためていったのだ。単に才だけではこうはいかない。才にプラス誠実といのちがけの勤勉がそうさせたのであり、ひいては未曾有《みぞう》の大成功者たらしめたのである。
秀吉には終生劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小《わいしよう》、容貌《ようぼう》の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためであったに違いない。大がかりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためであろう。おそらく外征もそうであろう。これについては、一応の議論をぼくは持っているが、今は紙幅がない。
ともあれ、彼の劣性コンプレックスは、彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を天下とりに仕上げたのだが、やがてはその家の滅亡の原因を作らせた。人間というものの面白さだ。
その肖像画を見ると、容貌必ずしも醜悪でないが、相当美化して描いてあるのであろう。朝鮮の使者の書いたものがのこっているが「色が真っ黒で、醜悪下品な相貌である。ただ眼光に異彩がある」という意味の文章だ。秀吉は肖像を描かせるに、体躯が貧弱矮小なので、衣紋の下に竹籠《たけかご》をはめ、大きく見せかけて描かしたという。体躯に比較して、顔や手が小さいのはそのためだ。注文主たる秀吉の気持がこうである以上、画家としては、顔も相当美化しなければならなかったはずである。
秀吉四十の時
秀吉の生年を通説に従って天文五年正月一日であるとすれば、彼が数え年四十になったのは、天正三年ということになる。
彼はこの前々年、江州小谷の浅井家の旧領地から十八万石ほどをもらい、織田家中屈指の大身となり、琵琶湖畔の長浜に城を築き、これを居城とした。
さて、天正三年に彼の遭遇した出来ごととしては、先ず長篠合戦を上げなければなるまい。周知の通り、これは信長が鉄砲の威力を最大限に利用した新戦術で、精鋭無比を誇っていた甲州武田軍を痛破した戦争だ。秀吉はこの戦いに参加し、多少の功を立てているが、特筆しなければならないほどではない。
この合戦のあったのは五月であるが、翌々七月、信長が家臣らのために官位を奏請した時、秀吉は従五位下筑前守に叙任された。以後、羽柴筑前守秀吉。これまでは織田家中で最も有能な武将ではあったが、無位無官、羽柴藤吉郎だったのである。秀吉は最も微賤な階層から成り上がった人だから、別してありがたがり、恐ろしくよろこんで、長浜に帰っていると、後の黒田如水、当時の名、小寺官兵衛が訪問して来た。
官兵衛は播州|御着《ごちやく》の小寺|政職《まさもと》の家老の一人であった。彼は早くから主家に、信長に服属する以外に小大名の保身の途はないと説いていたのだが、主人や他の家老らに異論があって、なかなか決定しなかった。しかし、今度長篠の大勝利があったので、ついに主人らも官兵衛の説に服した。
官兵衛は大急ぎで岐阜に来て、信長に謁して帰服を申しこみ、なお中国経略の法を説いた。信長は大いに気に入って傾聴した後、
「中国方面は羽柴に受持たせるつもりでいる。帰りに長浜に立寄って、筑前に会って行くよう」
と言ったので、訪ねて来たのであった。
この頃、秀吉には竹中半兵衛というブレーンがあったが、この時から官兵衛もブレーンとなり、二人は秀吉の張良、陳平といわれるようになる。つまり、両翼成った年である。
秀吉はさびしい人
秀吉は他人の優秀な家来をよくスカウトした人である。
歴史にあらわれているその最初は徳川家の重臣石川数正である。数正は徳川家では酒井忠次とならんで、家康の信任が最も厚く、数々の武功があり、忠誠無二で、それを証明するような数々の逸話のある人物だ。この数正が秀吉の巧妙な収攬術《しゆうらんじゆつ》に引っかかって、譜代の主人を捨てて、秀吉の許に走り、十万石の大名にされた。家康は彼の憂鬱になった時のくせで、手の爪ばかり噛んでいたという。徳川家が従来の陣法をすてて武田氏の陣法を採用したのは、この時からであるという。数正が秀吉の家来となれば、わが家の陣法が筒《つつ》抜けに秀吉にわかるからである。
次は立花宗茂とその実父高橋|紹雲《しよううん》だ。これは二人の主人である大友宗麟が、島津氏の圧迫にたえず、自ら大坂に行って秀吉に援けを乞うた時、二人を秀吉に推薦してその旗本にしてもらったことになっているが、実際は秀吉から所望があったので、ことわり切れず譲ったものと解釈してよい。この父子は宗麟の家臣中最も優秀であり、最も忠誠であり、最も剛勇な武将だ。進んでむざむざと譲るはずがない。
三番目はこの少し後あたりであろう。同じく大友家から大谷吉継をスカウトしている。大谷が終生豊臣家に忠誠をつくし、ついに関ケ原で最も劇的な最期をとげたことは誰も知る通りである。
四番目は、薩摩島津家の重臣、新納《にいろ》武蔵守忠元である。忠元は島津家が秀吉に降伏して後も抵抗の覚悟をきめて、なかなか秀吉の許に謁見に行かなかったのだが、主人義久の熱心な説諭でやっと思いかえして、その居城近くを通過して北帰する秀吉の陣に行って、謁見した。秀吉は忠元の剛勇と主人にたいする忠誠心をみて、しみじみとほしくなり、十五万石をもって誘ったところ、忠元は、
「同じくはその知行、主人義久にたまわりたくござる。拙者は島津が譜代のものでござる。国を出ずること思いもよらず」
と、ことわった。
五番目は、徳川家の本多平八郎忠勝である。小田原が落城して、秀吉は奥州に兵威を示すため、会津まで行ったのだが、その途中、宇都宮で、源義経の忠臣佐藤忠信の冑を献上した者があった。秀吉は、
「今の武士でこの冑を着用する資格のある者は、徳川殿の家中本多平八郎の外にはない」
と言って、諸大名列席の場に平八郎を呼び出し、冑を授けた。当時の武士としては大へんな名誉だ。その夜、秀吉は平八郎を呼んで、人を遠ざけ、
「おれほどそちを買っているものは天下にない。それをありがたいと思うなら、おれに随身せよ。十五万石をあてがおう」
と口説いたが、平八郎は、
「ご諚ありがたくはござるが、相伝の主家を去ることは出来申さぬ」
と、ことわった。
六番目は、伊達政宗の臣片倉小十郎だ。伊達家を去っておれにつかえるなら、三春六万石をあたえようと口説いたが、これもことわられた。
丹念にさがせば、まだあると思うが、ちょっと思い出したところでも、以上の通りである。
秀吉はなぜこんなことをしたのだろう?
社会の最下層からスタートした彼には、もちろん譜代の重臣などあろうはずがない。一体武家大名の家というものは、一族門葉が広く、その中から出た重臣や譜代の重臣らが藩屏となって、一つの運命共同体としてかたく結束しているのが普通であるのに、秀吉には全然そんなものがない。わずかに弟の秀長が一人いるだけだ。甥に秀次がいるが、これは出来がよくない。しかたがないから、妻のねねの叔父である杉原家次であるとか、ねねの妹婿である浅野長政を家老にしていたが、この二人も平々凡々の人がらだ。この点では、彼は実にさびしい人だったのである。他人のよい家来をみれば、スカウトして、わが家の基礎をかためたかったわけである。
しかし、そのスカウトが成功した例は至って少ないこと、上述の通りだ。しかたがないから、彼は苦しい工夫をした。有力な諸大名に命じて、その有力な家老にうんと知行をあてがわせることによって、その家老の心を引きつけ、万一の際には主家を引きずって豊臣家に味方させるという方法。たとえば島津家の家老伊集院|幸侃《こうかん》が日向都城十五万石を主家からあたえられたのも、たとえば細川家の家老松井康之が丹後半国を知行としてあたえられたのも、たとえば堀秀政の家老堀監物が十万石取ったのも、たとえば上杉景勝の臣直江山城守が三十万石を所領したのも、皆それである。これも結果としては分止《ぶどま》りが悪かったが、それでも関ケ原役に直江が上杉を引きずって西軍に味方した根元は、このためと考えてよい。
秀吉は実にさびしい人であった。彼が生涯をにぎやかに、そして、壮大にくらし、人の想像も及ばぬ、思い切った大きな仕事――聚楽第の構築、北野の大茶湯、奈良の大仏に三倍する大仏の建造、二度にわたる金銀くばり、吉野や醍醐の大観桜会、等々を、次ぎ次ぎに案出し、実行して行ったのは、一身のえらさ以外には、人心を得てわが家の長久を保つべきものを持たなかったため、これを誇示する必要からであったと解釈することが出来よう。
こうなると、外征もこの目で見ることが出来るかも知れない。もはや国内では自分のえらさを証明することのなくなった秀吉にのこされた途は、外征以外にはないからである。
上杉謙信の単騎斬込み
五、六年前の晩春初夏の季節であった。川中島の戦蹟を見に行った。その頃、ある週刊誌に上杉謙信を主人公とする小説を書いていたからである。現地には信濃毎日新聞の人が待っていて、親切に案内していただいた。信毎社は「信濃史料」という大部な史書をずっと昔から出しつづけている。信州の歴史を調べるには大へん便利な書物だ。その人々はそれによって川中島合戦のことをよく調べていて、要領のよい案内ぶりであった。
その夜、上山田温泉に泊り、その人々と一緒にのんだが、席上その人々が言う。
「上杉謙信が信玄の本陣に単騎斬りこんだというのはウソだそうですね」
「歴史学者の大方はウソだと言いますね。しかし、ぼくは斬り込ませますよ。斬り込まんでは、この小説は龍を画いて点睛を欠くことになりますからな」
と、ぼくは笑った。
「それでは、先生は単騎斬込みがあったという説ですか」
「史実とは別ですよ。ぼくはこの問題についてまだ十分な考察をしていませんから、斬り込んだか、斬り込まなかったか、意見がない。しかし、ぼくの書きつづけて来たこの小説では、斬り込ませなければならんのです。ぼくは歴史を書いているのではない。小説を書いているのですからね」
小説はフィクションが本体であり、歴史とは次元が違うものであるという説ものべた。
「それはまあ、そうでしょうけど」
信毎の人々は割切れないような顔をした。
何十日かたって、いよいよ川中島合戦を書くことになって、ぼくは子細に史実を検討したが、その結果、歴史学者達が何と言おうと、謙信の単騎斬込みはあったに違いないと信ずるようになった。
川中島合戦は前後十一年、五回にわたって行われているが、単騎斬込みのあったといわれているのは、第四回目、永禄四年九月のものである。この合戦の次第は最も有名であるが、説明の必要上、一応略述させてもらいたい。
謙信は、気短かで、火のように気性のはげしい男だ。この時まで年にして八年、度数にして四回も合戦をくり返したのに、勝敗が決しないのをいきどおり、
「こんどこそ、いやが応でも雌雄を決する!」
と、きびしい覚悟をきめ、この年八月十四日、一万三千の兵をひきいて春日山城を出、北国街道を南下して善光寺についた。
当時は、善光寺の南方を流れる犀川が、この地方の上杉、武田の勢力分野の境界線になっていて、この川の以南のいわゆる川中島は武田氏の勢力圏になっていた。この川は善光寺から少し下流で千曲川と合流して越後川となるのだが、この両川の間のデルタだから、川中島と呼ばれているのである。この千曲川右岸の地に、今地震で名高い松代、当時の海津《かいづ》があり、ここに城が築かれ、信玄|麾下《きか》の名将|高坂《こうざか》弾正昌信が守備していた。
謙信は善光寺につくと、大荷駄《おおにだ》(兵站)と五千の兵をとどめ、のこる八千をひきい、海津城を左に見て川中島をおし通り、雨宮《あめのみや》の渡しで千曲川をわたり、妻女山《さいじよさん》に上り、ここに陣どった。妻女山は高さ五四六米、海津城を東方二・六キロの地点に見下ろす位置にあるが、深く敵地に入っているのだから、死地といえば死地、思い切った布陣だ。謙信の覚悟のほどが見えるのである。
数日にして、信玄が二万の兵をひきいて到着し、妻女山の西北方二・六キロの茶臼山に陣取った。これで妻女山は善光寺との連絡線を茶臼山と海津城とを結ぶ線で断ち切られたことになった。
上杉方の将士らは心細くなって、
「この有様で長く滞陣すれば、武田方は必ず雨宮の渡しを切取るであろう。そうなれば、糧道絶え、味方は餓死するよりほかはなくなる」
とかなしみ、ささやき合ったが、謙信は悠々として小鼓を打って楽しんでいたという。これも、あくまでも雌雄を決せんとの謙信の強い覚悟を語るものであろう。こうして自分が死地にいることを見たら、信玄は必ず仕掛けてくる、そこで有無《うむ》の決戦をしてくれようという心。
信玄は、謙信のこの恐ろしい心を読みとった。冒険はしない男である。数日の後には、夜陰を利用して茶臼山を引きはらい、海津城に入った。
両軍の動かないことまた数日。
九月一日のこと、信玄は一策を立てた。一手の兵に妻女山を奇襲させ、自らは本隊をひきいて川中島の中ほどに待ちかまえている、謙信は勝っても負けても、山をおりて善光寺に向かうであろうから、それを川中島で掩撃《えんげき》しようという策。啄木鳥《きつつき》が口ばしで木の幹をつついて、驚いて穴からはい出して来る虫を、ぱくりと食ってしまうに似た戦法というところから、その名をもって甲州流の兵法では呼ばれているという。
ところが、謙信だ。夕方、海津城の様子を見ていて、これを読みとってしまった。腰兵糧を用意しなければならないので、炊煙がいつもより多かったのでそう感じたのか、何となきざわめきで予知したのか、ともかくも、夜半、全軍に命令して、山を下り、雨宮の渡しをわたって、善光寺に向かった。
甲州の奇襲隊は海津城を出て、ひたひたと妻女山に忍びより、攻めかかろうとしてみると、意外にもそこには敵は一兵もなく、篝火だけが赤々と焚きすててあった。
「しまった! スポぬけたぞ!」
と、地団駄ふんでいると、ほのぼのと明るくなる空の下、漠々たる暁の霧に閉ざされた眼下の川中島で、すさまじい戦いのひびきがおこった。
それは、善光寺をさして行く謙信の兵と、信玄の兵とが、川中島の八幡原というところで、ばったり逢って、即座に戦闘に入って立てた音であった。
甲州方は、越後兵は山上で奇襲をくらってから来るはずだから、それは山上からの戦闘のひびきがあって相当してからのことと思って、相当油断があった。越後方はこれに乗じた。摺鉢の中の胡麻か何ぞをすりつぶすような勢いで、猛烈に攻め立てた。甲州方は非常な苦戦に陥り、信玄の弟の信繁が戦死したほどであったが、さすがに信玄だ、ふみこたえ、備えを立てなおし、立てなおし、戦った。
ここで、謙信の信玄の本陣への単騎斬込みが行われたというのが古来の説だ。それを近頃の歴史学者らは、証拠がないという理由で、否定する。
この当時、前関白の近衛|前久《さきひさ》は謙信を頼って越後に来、この頃は関東上州の厩橋(今の前橋)にいて、謙信の保護を受けていたが、この合戦のことを聞き、十月五日、謙信に祝いの手紙を出している。
「今度、信州表において、晴信(信玄)と一戦をとげ、大利を得られ、八千余を討ちとり申され候こと、珍重大慶に候。珍らしからざる儀に候といえども、自身太刀打ちに及ばれし段、比類なき次第、天下の名誉に候云々」
というのだ。この手紙も、歴史学者達は証拠としては認めない。謙信が自身太刀打ちしたことはわかるが、信玄の本陣に斬り込んだと書いてあるわけではないというのである。
しかし、ぼくは、この時謙信は、いずれ妻女山に向かった奇襲部隊が駆けつけて来るはずだから、それまでに勝ってしまわなければ、味方の不利となると、あせり切っていたに違いないし、そのあせりは当然単騎斬込みという思い切ったことをさせる可能性が大いにあると思うのである。
世の中のことすべてについて言えることだが、直接証拠というやつはなかなかないものだ。歴史もまたしかり。情況判断を認めなければ、まるでおもしろくないものになってしまう。
東風西風
「五十にして天命を知る」
という孔子のことばがある。儒学の方ではこの命を「天に受けた使命」と解釈しているのだが、ぼくは五十前後のころから、そんなむずかしいものではなく、人間には運命というものがあるというだけの意味ではないだろうかと考えるようになった。
五十年も生きて、色々な目にあえば、人間の才能や努力ではどうしようもない「運命」があると実感をもってせまって来るものがある。もしそれを感じない人があったら、それは逆境に沈んだことのない稀有《けう》な幸運児――あるいは不幸な人かも知れないが――にちがいない。そういう感慨をいだき始めたころに、ぼくは歴史上の人物の伝記を書くことに興味を持ち始めて、色々な書物を読んで書き、今日ではほぼ五十人におよんでいるが、ますますその感慨は切になっている。
人間にはたしかに運のよい時期と運の悪い時期がある。運のよい時期は大ていなことがうまく行き、運の悪い時期は十分な用意をもってかかったことでも、思いもかけないことから失敗しがちだ。最もそれを痛切に感じた実例を少し書いてみよう。
長篠《ながしの》合戦は織田信長が鉄砲という新兵器を多量に用いて大勝利を得、日本の戦術を一変させたというので、戦術史の歴史の上でも有名であり、人のよく知っていることであるが、あれは信長の知恵だけで勝った戦いではない。信長の運のよさもまた逸してならない勝因になっている。
信長は長篠城西方の有海ケ原の中間を北から南に流れる小川を前に三重に柵《さく》を結い、柵の内側に一万人の銃手から選抜した三千人の銃手を千人ずつ三段に配置し、かわるがわるに千|梃《ちよう》ずつの銃を間断なく撃てるようにして、殺到する甲州の精騎が柵にせきとめられ、柵を破ろうとしてひしめくところを、霞網にかかったツグミを撃ち取るようにして撃ちとって、ついに甲州勢に全滅にひとしい打撃をあたえたので、以後の歴史家や戦術家の激賞するところになっているのだが、この戦術の行われた季節を調べてみると、戦術に感心するとともに、信長の運の好さも考えないわけにゆかない。
当時の鉄砲は先込めの火縄銃だから、雨が降っては使えないのであるが、長篠合戦のあった日は天正三年五月二十一日だ。太陽暦では七月九日だ。梅雨が明けるか明かないかの時だ。現にこの前夜、織田・徳川の連合軍支隊が長篠城の東方にある鳶ケ巣山の砦《とりで》を奇襲しておとしいれたのはしのつく豪雨を冒してであった。それがその翌日は梅雨が上がって、思うがままに火器を活用することができたというのは信長の幸運である。
こう考えてくると、この戦争のはじまる前、家康がいく度か信長に援軍をもとめてやったのに、信長が生返事して一向腰を上げなかったので、家康は最後に使者としてつかわした小栗大六に言いふくめて、わざと信長の家来矢部善七郎に、
「われらが主人はこれまで信長公との約束を重んじ、江州の佐々木征伐にも、越前の朝倉攻めにも、姉川合戦にも自ら出て、いのちがけの合戦をしていますのに、かねての約束に違うてご加勢下さらぬなら、両家の親しみもこれまで。徳川家は武田に一味して、共におん敵となることになりましょう」
と言わせたので、矢部はおどろいて信長に告げ、信長またおどろいて出陣することになった。信長はこのように、甲州軍を恐れていたのだという昔からの説は、大いに考え直す必要がある。信長の出陣が遅々としていたのは、梅雨のあがるのを待っていたのであり、生返事していたのは戦術の秘密のために味方まであざむいていたということになろう。
しかしながら、信長が長篠に到着した時は梅雨はまだ上がり切っていない。それは合戦の前夜が大豪雨であったことによってもわかる。十分に計算しても、なおこの違算があったのだ。しかも、合戦の日は雨は降らなかった。信長の幸運といわなければならない。
「事をはかるは人にあるが、事を成すは天にある」
ということばがあるが、長篠合戦はその好個な実証といえよう。
石田三成は実戦の雄ではない。実戦の功績のなかったところが、関ケ原役において西軍の諸将が三成の実戦における指揮能力を認めず、従って統制を欠き、あれほどの大軍であり、あれほどの布陣をしながら大敗北し、その身刑死しなければならなかった最も大きな原因の一つであると思われるのであるが、彼とて最初はその時代の人らしく実戦でも功を立てようとつとめている。彼は生まれつきの体力が孱弱《せんじやく》であったらしいから、同じ秀吉子飼いの武将である加藤・福島などのように武者としての働きはしようとはしなかったようだが、武将として采配《さいはい》をふっての働きを心掛けている。それは秀吉の小田原征伐の時だ。
三成は秀吉の命によって、大谷吉継・長束正家の二人とともに関東新付の諸大名をひきいて館林城を攻めているが、力攻めでは犠牲ばかり多くて効果が上がらないと見ると、
「この城の守りが堅いのは、城の東南に大沼があって、その方面は防がんでいいので、三面に守りを集中しているからだ。もし沼の方からも攻めることができれば、敵の防ぎは分散するはずだ」
と発議して、近くの山から大木を伐り出し、近在の民家をこぼって十分に材木を準備してから、三面からはげしく攻撃をかけ、工事の妨害を封じておいて、材木を投げこみ投げこみ足場をつくって、たちまちのうちに八、九間の道を二筋城壁までつけた。
日暮れになったので、総攻撃は明朝のことにしたが、その夜中、せっかくこしらえた桟道《かけはし》は沼に沈んでしまった。この城には最初できる時から神怪談がからんでいるので、人々は身の毛をよだたせたという。
城は降伏勧告で開城させはしたが、三成にとって名誉あるいくさでなかったことは言うまでもない。
つぎは忍《おし》城攻めの時だ。三成は時勢を見て、一城の四方に高い堤を築き、利根川の水をせき入れたが、すでに梅雨が上がって炎天つづきの季節なので、なかなか水がたまらない。やっと相当にたまったかと思うと、一夜大豪雨が襲来し、見る見る堤のうちは一ぱいになったので、よろこんでいると、夜半に堤の方々が決潰《けつかい》して奔出する洪水は寄せ手の陣を襲って溺死《できし》する者数百人という損害、おまけに水の引き去ったあとの城の周囲は泥田のようになって攻撃に出るにも不便で、遠巻きにして地面のかわくのを待つよりほかはない結果だ。忍城は最後まで抵抗し、小田原城がおちた後十日もしてからやっと開城した。
打ちつづき二度の失敗だ。しかもこの二つの戦術がいかにも秀吉式で、秀吉の真似であることがはっきりしているだけに、世間は一層よく言わない。
「サルの人真似」
いやいや「サルのサルまね」
といったろうか。
秀吉の場合は見事に成功したのに、三成の場合はどうして失敗したのだろう。せんずるところ三成の不運というよりほかはない。この不運によって、彼はついに武将としては最も重要な資格において欠けるものとの観念を世間の人に持たれるようになったのだ。
こんなことから、ぼくは、
「運勢否な時は雌伏しているにかぎる。いつまでも西風ばかりは吹かないのだからいつかは東風になろう。その時立ち上がって大いにやるべきだ」
という処世哲学――マージャンの要領がそれだということで、一向めずらしくない哲学だが――をいだくようになったし、これを適用して、指導し、長らく不運に沈んでいた友人を開運させたことも一度ある。もっとも一度だけだ。
強盗大名
渡辺世祐博士の著述に「蜂須賀小六正勝」という伝説がある。うわさによると、これは蜂須賀侯爵家の依頼によって著述されたものであるという。蜂須賀小六は夜討強盗を業とした野武士であるという伝説があるので、侯爵家では心外として、家に伝わる史料を博士に提供して、伝説のあやまっていることを証明してもらったのだという。
蜂須賀家では、よほどこの伝説を気にしたらしく、同じ頃に村上浪六にも依頼して、小説化してもらっている。大正末年か、昭和初年頃、その頃講談社から出ていた雑誌「キング」に連載小説として出ていたことを、ぼくは記憶している。
蜂須賀家はいずれの場合もよほど多額な礼金を出したと聞いている。ある新聞の学芸記者で、講談社の初代社長野間清治氏に信任されていたぼくの亡友から聞いたところでは、浪六が蜂須賀家から受けた礼金が十万円とか二十万円とかいうことであった。今日の金なら一億円か二億円だ。それくらい蜂須賀家では気にしていたのだが、ぼくの目で見ると、渡辺博士の証明書もすきだらけである。博士は古文書など上げて、蜂須賀家は足利氏系統の清和源氏で、尾州海東郡蜂須賀村に鎌倉時代から土着している豪族であり、小六は最初、美濃の斎藤道三につかえ、道三の死後、岩倉の織田氏につかえ、岩倉織田氏の滅亡後犬山の織田氏につかえ、犬山織田氏の滅亡後はしばらく牢人の後、やがて木下藤吉郎に口説かれて織田信長につかえ、ずっと藤吉郎の与力となり、藤吉郎が独立すると臣従して、藤吉郎の栄達とともに自分も栄達したのであるから、強盗ばたらきなどする必要もなく、期間もなかったと説いている。
ところが、ぼくは必要も期間もあったはずだと思うのだ。蜂須賀家はわずかに一郷村を領有する小豪族だ。戦国の乱世に、独立して自存を保って行くのはまことに困難だ。大きな勢力の被官となって庇護してもらうか、同じような小豪族同士が連合して大勢力の侵犯を共同防衛するか、どちらかの方法をとるよりほかはない。小六が斎藤道三や両織田家に次ぎ次ぎにつかえたというのは、この意味の被官となったのであろう。でなければ、主家がほろんだあとも蜂須賀村の所領を安全に持ちつづけられたはずがない。
他の群小豪族との連合体――党をつくっていたに相違ない。でなければ、道三につかえる以前の、また次ぎ次ぎの牢人期間における自存の方法はなかったはずだから。
この、同じような豪族らとの連合体をつくって自存自衛していた期間は、せっかくの武力を無駄に遊ばしてはいなかったはずだ。近くの大名らが戦さをする時には、頼まれれば礼金をもらって雇兵として出て行ったろう。それがこの時代のこういう小豪族の生態だったのだから。
その際、もし雇主が戦略上必要であれば、敵地の放火や掠奪などを依頼する。落武者狩はいうまでもない。そのような用に最も立てようとして雇うのだから。引き受けて、それらのことをやるとなると、習い性となるので、自発的にもちょいちょいと用いたろうと考えた方が自然であろう。
渡辺博士ほどの学者が、ここに気づかないはずはない。気づいてはいたが、蜂須賀家の依頼もだしがたく、そこを無視したものに違いない。
蜂須賀家も神経質にすぎる。
一体、戦国時代以前の武士を律するのに、江戸時代の武士の観念をもってしてはいけないのである。大名といわれるほどの武家でも、強盗行為を常習にやっていたものは少なくないのである。厳格な意味では片ッぱしそうであったと言ってもよいのではないかとまでぼくは考えている。
長門本の「源平盛衰記」には、源行家がそうであったことを記述している。行家は以仁王の平家追討の令旨を奉じて諸国の源氏に配布して歩き、その点では第一の功労者であったが、戦争運には恵まれず、頼朝のところに身を寄せていた。ところが頼朝が全然所領をくれないので、夜討強盗を業として家来共を養っていたとある。
「奥羽永慶軍記」には、今の秋田市に近い羽川《はねかわ》にいた羽川|義稙《よしたね》という大名は、領地が狭小で家来を養い切れない、といって家来をへらせば他に亡ぼされるというので、これまた夜盗・山賊を行って家来共を養っていたとある。
「陰徳太平記」には、備前の宇喜多直家の家中では家来共にたいする給与が十分でないので、家老らがしばしば夜盗・強盗して食いつないだとある。
「北条五代記」には安房の里見氏が時々船隊を仕立てて相州沿岸に襲来して掠奪したことを記述している。
そのつもりでさがせば、まだいくらも見つかるだろう。
蜂須賀家もそう気にすることはなかったのである。
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[#見出し] ※[#「奚+隹」、unicode96de]肋集
女郎蜘蛛
この前、「サンデー毎日」を見ていたら、グラビヤに、鹿児島県|加治木町《かじきちよう》の女郎蜘蛛競技大会のことが出ていた。山から女郎蜘蛛を採って来る場面、丹誠こらして飼育し、訓練する場面、晴れの大会に出して競技させる場面、一々並べてあった。
その説明書に、「江戸時代にはじまって、何百年の伝統ある競技会である」と、いった意味のことがあった。
この説明はウソだ。この競技が相当昔からあったことは事実だが、このような大会まで催されるようになったのは、大正年代以降のことだ。この土地にある地方新聞の支局が思いついて催したのが例になって、今日までつづいているにすぎない。僕は、その頃、この土地にある中学の生徒だったから、よく知っている。
ムキになって訂正しておくほどのことではないようだが、古い随筆類や、古い新聞記事などに取材して小説を書くことの多いぼくにしてみれば、後の作家達を誤りはしないかと、気になるのである。
さて――。
この女郎蜘蛛を、鹿児島県では、山蜘蛛(ヤマコッ)というのだが、その喧嘩は、実に面白い。
箸より少し太く長い目の一本の棒が、蜘蛛共の競技場だ。両端から登場させると、互いに歩きよって、出逢ったところではじめる。いきなり噛みつくやつがいる。尻から幅ひろいネバネバした糸をたぐり出して相手をからむやつがいる。戦意がなくて逃げようとするやつがいる。いろいろだ。
いきなり噛みつくやつは、勝負には強いが、見ていてあまり面白くはない。面白いのは、糸をからみかけるやつだ。両方から負けず劣らず、からもうとするのだから、なかなか派手である。
赤い尻から、あとからあとからと、かぎりなく出て来るはばひろい白繻子《しろしゆす》のような糸を二本の後肢でたぐりひろげてはパッ、パッと、敵に投げかける手際の巧みさはおどろくべきものだ。
帝政時代のローマの闘技士の中に、片手に三叉戟を、片手に網をもって戦うやつがあったそうだが、それを思わせる。
「クォ・ヴァディス」の競技場の場面に、この網の武士と、ゴール人の剣士との果し合いが、きわめて生き生きと描かれているが、女郎蜘蛛の喧嘩の花々しさが、あの通りである。
はじめっから戦意がなくて、逃げようとするやつがいる。これもいろいろだ。箸の上をモソモソ這って後退するやつ、サッと糸を出してぶら下って逃げようとするやつ。前者に対しては、これをつついて、戦場に向わせる。後者に対しては前もって、水を張った盥《たらい》を下においておく。一本の綱に身を託して、オリオン号のマスト上のジャン・バルジャンもどきに逃亡を企てるその蜘蛛は、水にふれると大急ぎで糸をたどって戦場に舞いもどり、絶望的な勇気をふりしぼって戦うのだ。
季節的変化と地方的性格
現在加治木町の大会では、大人の遊戯になっているが、元来は、これは子供の遊戯であった。ぼくらの少年時代まではそうであった。
季節は、晩春から夏。この頃は、蜘蛛の精気が最も冴えて、争闘性が横溢している。
この季節になると、少年達は、山や竹藪を、目を皿にしてさがし歩いて、捕えて来る。ぼくにも覚えがある。人通りの少ない藪陰や灌木林に、大きな巣を張ったこの蜘蛛が傲然と手足を張っているのを見ると、呼吸のとまるほどの興奮を覚えた。子供達は手にした笹の小枝でサッと掬いとって、わが家へ持ちかえり、庭の木にうつす。
翌朝になると、その蜘蛛は、庭木と庭木の間に見事な巣を張っている。朝露に濡れた放射状の巣の真ん中に、四隅に洒落た横文字模様を入れ、すっくりのびた肢をそろえて、おさまりかえっているのだ。
逸物と称せられるやつの巣になると、信ぜられないほど強靱である。昆虫という昆虫はすべて他愛なくからまれるが、飛んで来た雀が、からまれて、ややしばらくバタバタしていたのを、僕は見たことがある。
この遊戯を僕は、戦争はるか以前、小説の中に使った。「柚木父子《ゆのきふし》」という西南戦争中の一挿話を小説化したもので、「サンデー毎日」に発表した。
夏を過ぎると、女郎蜘蛛は、その体形も、その体色も変ってしまう。形は細長くなり、色は褐色になり、似もつかないものに変る。争闘性も全然なくなる。冬をこして、どうなるかは知らない。一年ぎりのものなのかも知れない。
三十歳前後、僕は京都の郊外に住んでいた。裏の山に女郎蜘蛛が多い。僕は子供の頃を思い出して、採って来て、喧嘩させてみたが、全然喧嘩しようとしなかった。何べんとって来ても同じであった。
蜘蛛にも、地方的性格があって、京都の人間のようにおとなしいのかも知れない。とすれば、薩摩人の気が荒くて喧嘩っ早いのも隼人族的天性や、島津藩の訓育方針によるのではなく、気候風土のせいかも知れない。
座敷鷹
ある書物で、読んだ。
時代は貞享か、元禄か、大体そんな頃だ。江戸でハイトリグモを飼うことが、大へんはやった。ハイトリグモにハイを取らせて、楽しむのである。クモがハイをめがけて、サッとおどりかかってとる有様が、鷹狩の鷹のふるまいに髣髴《ほうふつ》としているというところから、座敷鷹と名づけられ、その流行、一世を風靡したという。ために、逸物と称せられるやつになると、金一分だの二分だのという高値を呼び、人々は、蒔絵や唐木の筒に入れて愛蔵し、競技会もあったという。
聞くからに、太平洋々の感ある、いかにも元禄の盛世にふさわしい話だ。
このことを、僕は、随筆大成中のある書物に読んだと思うが、西鶴の作品中にも、これを使ったのがあるように記憶している。
僕も使った。ずっと昔、赤穂浪士の列伝を書いた時、「堀部弥兵衛」の浪人時代、同じ浪人仲間で、ハイトリグモを捕えて売ることによって生活の資をかせいでいる人物を描出した。
闘 ※[#「奚+隹」、unicode96de]
|闘※[#「奚+隹」、unicode96de]《とうけい》は、現在では専らシャモで行われる。他所《よそ》ではどうなっているか知らないが、薩摩では、負けた※[#「奚+隹」、unicode96de]は殺されて、互いの主人同士で食ってしまうことになっている由。
このシャモの喧嘩のほかに、薩摩では薩摩※[#「奚+隹」、unicode96de](薩摩の在来種)の喧嘩がある。
その道の人に言わせると、シャモの喧嘩はゴロツキ同士の喧嘩に似て、いたずらに凄惨なだけであるが、薩摩※[#「奚+隹」、unicode96de]の喧嘩は、勇敢で華麗で、色彩美しい鎧《よろい》を着た騎馬武者が馳《は》せちがい馳せちがい戦うようであるという。
闘※[#「奚+隹」、unicode96de]を小説に使ったものを、僕は多く知らない。戦後第三回目のサンデー毎日の懸賞当選作にそれがあって、作品としても、よいものであったという記憶、故国枝史郎氏の作品の王朝ものに一つあった記憶くらいしかない。
支那にはある。たしか、水滸伝《すいこでん》の原典になっている「宣和遺事《せんわいじ》」の書き出しのところだったと思う。姦悪《かんあく》宰相|高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゆう》は、はじめ無頼《ぶらい》の悪少年であったが、闘※[#「奚+隹」、unicode96de]の技にすぐれていたことから、皇太子時代の徽宗《きそう》皇帝の取立てを蒙り、次第に立身し、ついに、宰相にまでなった、と、その次第が書いてあったように記憶している。(清書させて、読みかえしてみると、この記憶甚だあやしい。他の時代の他の宰相だったかも知れない)
闘※[#「奚+隹」、unicode96de]は、大抵の場合、バクチをともなっていて、今日の日本でも、まともな人はあまりしないことになっているが、支那でもそうだったらしいのである。
しかし、ある書で、唐の玄宗皇帝に愛せられた闘※[#「奚+隹」、unicode96de]師のことを読んだ。この闘※[#「奚+隹」、unicode96de]師は、なかなか誠実で、安禄山《あんろくざん》の事変によって遠く蜀に蒙塵《もうじん》した玄宗を思慕泣血《しぼきゆうけつ》してやまなかったとある。
日本書紀|雄略記《ゆうりやくき》に|闘※[#「奚+隹」、unicode96de]《ツゲノ》御田《ミタ》という大工の名人のことが出ている。天皇の命によって、はじめて楼閣を造ったが、高い屋根の上を走ること飛ぶようであった。ある時、天皇が、その工事を見物しておられると、伊勢の国から上っていた采女《うねめ》が、天皇に食事を持って来たところ、御田が高い所を走り廻るのを見て、おどろきおそれ、地にたおれ、膳部をくつがえしてしまった。
「この采女は、大工と私通している故、大工の身を不安に思い、そのあまりに、ころんだのだ」
と、天皇は激怒して、二人を殺そうとした。
折から、秦酒公《はたのさけぎみ》、天皇に侍していたが、琴を取って歌をうたった。二人の冤《むじつ》を諷した歌であった。これを聞いて、天皇は疑いをはらし、二人の生命はたすかった、という話だ。
雄略天皇という人は、恐ろしく専制的であり、従って嫉妬深い性質であったらしく、これに類する話がいろいろと伝わっているのだが、それはそれとして、この大工の闘※[#「奚+隹」、unicode96de]という姓である。
今日でも伊賀に柘植《つげ》という地名があるから、このへん出身の者で、その地名を音写したものかも知れないが、一方、この時代の姓には、その職分に関係のあるものも多いのだから、あるいは朝廷の闘※[#「奚+隹」、unicode96de]を司《つかさど》る家から出て大工になったのであるかもしれない。
闘※[#「奚+隹」、unicode96de]のことについては、荘子《そうじ》の達生篇《たつせいへん》に|木※[#「奚+隹」、unicode96de]《もつけい》のことがある。紀省子《きせいし》という闘※[#「奚+隹」、unicode96de]師が、斉王《せいおう》のために※[#「奚+隹」、unicode96de]の訓練を受け合った。訓育すること十日、
「どうだね、もうそろそろ」
「まだまだ、昂然として頭を上げ、気を恃《たの》んでいます」
さらに十日、
「どうだね、まだかね」
「まだまだ、他の※[#「奚+隹」、unicode96de]を見ると、すぐ身がまえします」
さらに十日、
「どうだね、もう一月も立ったぞ」
「まだまだ、敵を見ると、勇気凜然として来ます。勝とう勝とうとする気がのきません」
さらに十日、
「どうだね」
「よろしいです。他の※[#「奚+隹」、unicode96de]が鳴いても、一向平気でいます。ちょいと見たところ木でつくった※[#「奚+隹」、unicode96de]のようです。これで完全に強くなったのです」
そこで、他の※[#「奚+隹」、unicode96de]と闘わしてみると、※[#「奚+隹」、unicode96de]共は一見しただけで逃げ出した、というのである。
この話は、古来、精神の修養の方でも、武術の修業の方でも、よく引かれる説話である。
鶉とコオロギ
鶉《うずら》は、日本では、鳴声を愛するために飼うが、支那では闘わせるために飼っている。「聊斎志異《りようさいしい》」の「王成」の話はこれだ。貧乏な王成が、先祖と夫婦関係のあった狐仙《こせん》に助力せられて都に行商に行き、怠惰な性質のため、儲けの時期を失して、困窮に陥るが、最後に強い鶉を手に入れて、大金を儲けて、家産を興したというのである。
この闘鶉の場面は、荘子の木※[#「奚+隹」、unicode96de]の気組みをつかって描出してある。
「王成」に似た話は、同じく聊斎志異の「促織《そくしよく》」である。これはコオロギの話。明の宣宗宣徳年間のことである。この頃、宮中でコオロギの喧嘩をさせる遊戯がはやったところ、華陰《かいん》の貧乏な村学究が強いコオロギを手に入れて献上したのがもととなって、豪富の身分となったという話。このコオロギの戦いぶりには、ハッキリと、「|蠢如[#二]木※[#「奚+隹」、unicode96de][#一]《しゆんとしてもつけいのごとし》」と、書いてある。
鶉といい、コオロギといい、日本では鳴き声を愛するのに、支那では争闘性を珍重するのは、どういうものであろう。
もっとも、コオロギは知らず、鶉の鳴声は普通考えられているように雌を呼ぶ声ではなく、
「この一廓は、わが王国ぞ、侵す者は、許さないぞ」との宣言の叫びであるという。事実、鶉の鳴声は、あの童画的な形に似合わず、猛々しいひびきがある。よく晴れたさわやかな日に、あの高鳴きを聞くと、凜《りん》として身のひきしまる思いがする。
鶉にかぎらず、ウグイスも、メジロも、その高鳴きは、自己の領土の宣言の叫びであって、恋の唄ではないそうだ。彼等は声や形のやさしさに似ず、おそろしく争闘的で、自己の領分内に他人の踏み入ることを決して許さない。オトリで捕える方法は、この争闘性を利用したものであるという。要するに小鳥の世界も、人間界と同じように世智辛く、移民排斥や白豪主義が行われているという次第だ。鶉のことについては、「窓のすさみ」に、二つ話が出ている。
徳川三代将軍の頃の老中|阿部忠秋《あべただあき》は、鶉が好きで、沢山飼養していた。その頃の豪富某が、日本一という評判の鶉を飼っていたが、ある時、阿部家出入の旗本某を介して、献上したい由を申入れた。忠秋はそれにたいしては、返事せず、話をそらして、しばらく四方山話《よもやまばなし》をした後、近侍の者を呼んで飼育の鶉全部を並べさせ、籠の戸を開けて、飛び放《はな》たせ、さて、言った。
「天下の政《まつりごと》にたずさわる者が、物好みをするのは、大へんな過《あやま》ちであることを、今はじめて知った。向後、鶉にかぎらず、わしは物好みをやめる。ここに気づいたのは、その町人のお蔭だ。よろしく礼を申してもらいたい」
旗本某は、言うべき言葉を知らずに辞去したというのが一つ。
これは、五代将軍綱吉の頃のこと。小石川三百坂のあたりに住んでいた旗本某がよい鶉を持っていた。水戸の分家の松平播磨守頼明は、登城の度に、その屋敷の前を通って、聞きほれていたが、ある時、城中で、かねて私邸へ出入りする小役人某にこの話をしてほしいものだと言った。
「ああ、それは、何某の邸です。拙者もかねて面識があります。さほどに御執心でありますなら、話して献上させましょう」
「おお、それは、好い都合。頼む。礼金はいくらでもつかわそう」
小役人は、下城の途、三百坂の何某の邸に立ち寄った。
「貴殿の鶉が、松平播磨守様のお気に召している。御献上になってはいかが。礼儀に二十金を贈ると申される。具足の修理の料になるでしょう。たかの知れた鶉一匹、はるかにお得《とく》と存ずる」
「ああ、さようか、まずまず」
何某は、酒を出し、肴を出した。焼鳥である。
「これはこれは、珍らしいものがあり合わせましたな」
と、いいながらウマウマと食うと、何某は言った。
「先刻の鶉でござる。二十金で買おうと仰せあったが、武士が商売いたそうより、酒の肴にした方がようござる」
小役人は赤面して、キリキリ舞いして立ち去ったというのが二。
この後の話は、ずっと昔、使った。「千石鶉」という三十枚ほどの短篇に書いた。映画にもなった。しかし、その映画は原作者は見なかった。
陰陽五行説
古代人にとっては、宗教が全生活であった。政治も、道徳も、法律も、宗教の儀式であり、宗教の禁律《タブー》であるにすぎなかった。
スサノオノ尊《みこと》の高天ケ原における罪悪を、一々検討してみるがよい。農事上の妨害と、宗教上の冒涜《ぼうとく》に尽きることを見るであろう。
日本書紀|允恭紀《いんぎようき》に、皇太子|木梨軽皇子《きなしのかるのみこ》と、同母妹|軽大《かるのおお》郎姫《いらつめ》との悲恋が書いてあるが、その発覚の動機は、夏六月に天皇の膳部の羹汁《あつもの》がこおった所にあった。盛夏にかかることのあるべきはずがないとて、卜者をしてうらなわせたところ、
「位高きものが親々相姦している疑あり」
と、判じた。
親々相姦が、人倫上の罪であるという考えより、宗教上のタブーであるという、この時代の人々の気持が読みとれると思う。
いつぞや、ある雑誌に、垂仁天皇の皇后、狭穂姫《さおひめ》とその同母兄|狭穂彦《さおひこ》との親々相姦、それからの叛逆をあつかった作品の載っているのを読んだが、このへんの考察がなく、単に人倫上の罪にたいする悩みとして描出されているのが、僕には不満であった。
歴史文学において、現代人の常識で、歴史時代を解釈して書く行き方は、日本では芥川、菊池、吉川氏等で、おわっている。こうした行き方では、もう何にも出て来ない。現代人としての常識を具えながら、歴史時代を歴史時代として書く行き方が、一つの新しい途と、僕は思う。
この点、同じ作者が、現在某紙に連載している「伴大納言絵巻《ばんだいなごんえまき》」にも、その憾《うら》みがある。
この作者はよく史実を調べている。不勉強な作家の多い近頃、異とすべきだ。また、作品としての出来ばえも、悪くない。これまでの歴史文学を見る目で見れば、立派なものだ。
しかし、それでありながら、僕には魅力が感ぜられない。それは、その勉強の成果の使い方が、これまでの作家のやり方から一歩も出ていないからである。
作者は、この小説の時代に、陰陽道《おんようどう》や仏法の修法が日本に入って来て、方違えや加持祈祷《かじきとう》が行われるようになったことを書いて、当時の最高文化人である橘逸勢《たちばなのはやなり》、小野篁《おののたかむら》等をして、現代の科学常識による疑惑を抱かしている。しかし、こうした疑惑は、現代の読者には意味がない。作者に教えられなくても、これは、現代人の常識なのだから。さらにまた、こうした扱い方をしているために、折角のこれらが、単なる時世粧《じせいしよう》の景物にしか働いていない。
支那漢代にはじまった陰陽五行説は、当時における最も進んだ科学学説(理論物理学)であった。物質の生成、現象の変化、天文、暦学、医学、数学、あらゆる科学がこれによって説明され、演繹《えんえき》されては、政治学や、吉凶禍福の占術となっている。文化人であればあるほど、信奉したはずだ。今日の科学知識に照らして、間違いであろうとあるまいと、当時の人々には、信奉するだけの合理性を持っていたはずだ。現代人とて、つい数十年前までは、分子説や原素説を信じていたのだ。
この点では、仏教の修法も同じだ。当時の人は信じ切っていたはずである。
ぼくならば、その解釈の下に書く。そうすることによって、新らしい歴史文学の途の一つが開けて行くと思うのだ。
伴大納言《ばんだいなごん》が、応天門を焼いたのは、彼の出世欲以外に、古代の信仰によるやみ難きものがあったはずである(応天門は伴氏の本氏である大伴《おおとも》氏が資材と労力を献上して建てた門であることを考えなければならない)。ここに性根《しようね》をすえれば当時の新らしい信仰である修法や、陰陽道なども、単なる時世粧としての道具を脱して、ヌキサシならぬ有機的なものとなるはずである。
氏長者と外来植物
若い人の作品ばかりあげつらっては、気がひける。超大家の作品についても、考察してみよう。
谷崎潤一郎氏の「少将滋幹《しようしようしげもと》の母」に、大納言|藤原国親《ふじわらくにちか》が、その甥である左大臣|時平《ときひら》が、自分の邸を訪問してくれるのを、大光栄として喜び、その準備に大へんに骨を折る場面がある。
これは「今昔物語」の説話を採用しているわけだが、ここを書く時、谷崎氏は、実に骨折っている。ぼくの記憶では、新聞小説三日分を費している。谷崎氏の現代人としての常識では、伯父が甥の来訪をそれほど光栄とするのが、納得出来なかったのであろう。
しかし、これは、当時の「氏長者《うじのちようじや》」と「氏人《うじびと》」との関係を知れば、きわめて容易に納得されることである。氏長者と氏人との関係は、後世の君臣よりまだ厳しかった。宗教的なものがあったからである。伯父なればとて、光栄とし、よろこびとしたはずで、少しも不思議はないのである。
谷崎氏ほどの作家が、そして、国文学に対しては、あれほどの造詣《ぞうけい》のある人が、ここに気づかないのは、古典を、文学や、普通史学の目では読んでも、社会史または民俗学的に読むことをしないからである。
また、この小説の中に、好色公卿として有名な平仲《へいちゆう》(平好文《たいらのよしぶみ》)が、菊を栽培しているのを、宮中の女房達が見に行く場面があるが、ここも、現代の菊作りのようにしか描いていない。菊という植物はこの時代、あるいは、少し以前に、中国から渡来して来たもので、現代なら、ダリヤとか、ヒヤシンスとか、チューリップとか言った感じの、きわめてモダンなものだった。支那音で「キク」とのみ言って、訓《よみ》がないのはそのためだ。平安朝初期までの歌の集まっている万葉集に、菊の歌のないのもそのためだ。従って、平仲の菊作りは、現代のチューリップ作り、ダリヤ作り、バラ作りの気持で見るべきである。
もし、谷崎氏が、このことに気づいたら、あの人らしいエキゾチズムのあふれた面白い場面が出来たであろうと、おしまれるのである。
梅も、外来植物だ。「ウメ」という呼称が、支那音の「メイ」の日本化である点でもわかる。万葉集には、盛んに梅を詠じているが、僕の知る限りでは、いい歌はないようだ。おそらく、当時の人は、梅を詠ずるということだけで、一種の新鮮な詩情を感じたので、それ以上の工夫をしなかったのではあるまいか。丁度、明治大正の人が、ダリヤや、ヒヤシンスや、チューリップを詠ずるというだけで、詩情を感じたように。
馬も、支那輸入だ。「ウマ」は支那音「マ」の変化だ。しかし、これはずいぶん古い。すでに埴輪《はにわ》にある。
竹も、そうだ。「タケ」は「チク」の変化だ。竹は現代支那語ではチュだが、福建語ではティエクだ。ローマ字で書いてみれば、一目瞭然である。万葉には、笹はあっても、竹はなかったように思う。おそらく平安朝に入ってから来たものであろう。
本来の日本語とばかり思われているものが、ほんとは外来語であること驚くべきものが多い。たとえば国(KUNI)は郡(GUN)の、君(KIMI)はKUNの、これは蒙古語の汗(カンまたはハン。ジンギス汗の汗)とも関係があろう。カ・キ・ク・ケ・コが喉音である場合は、ハ・ヒ・フ・へ・ホとなることが多い。上海の海は現代支那音ではハイとなり、香港はホンコンとなる。
ぼくは、魚(ウオ)も支那音からの転訛だと思っている。旧仮名遣いでは、これは、ウヲ、古くはイヲだが、現代支那語ではユで、我々の耳にはヨと聞こえるような発音をしている。魚は日本の古語では「ナ」だ。魚屋《なや》はその名ごり。菜と同じだ。動物と植物の区別もつけないで、同じ名前をつけているなど、日本語もずいぶん貧しいものだったのだろう。遠近(オチコチ、旧仮名遣いではヲチコチ)もあやしい。ヲンコンに、アチラ、コチラ、アッチ、ソチのチ――場所や方向を示す語であるチをつけたのだと思う。
神 託
話がそれたが――。
古代人にとっては、神の「託宣《たくせん》」は、神聖侵すべからざるものであった。人々は、託宣のままに動いた。
ところが、この託宣だが、実際を言うと、これは、神がかりの状態になったミコが、無意識の中に口走る言葉で、つまりは、一時的精神錯乱者《いちじてきせいしんさくらんしや》の躁狂状態《そうきようじようたい》におけるウワゴトにすぎない。
日本霊異記《にほんりよういき》であったか、元亨釈書《げんこうしやくしよ》だったかに、ある僧の伯母に、春日《かすが》明神《みようじん》が憑《つ》いた有様を書いてある。伯母は、座敷からイキナリ庭に飛び出し、さらに屋根におどり上り、棟《むね》にまたがって、託宣をのべるのであるが、その時、伯母の口からは青白く光る涎《よだれ》がタラタラとしたたり、涎の薫《こう》ばしいこと限りなかった、と、ある。
すっかり発狂者の行為だ。口から涎をたらしたなど、テンカンの症状そのままだ。ただ、涎に芳香があったというのがおかしいようだが、匂いなんてものは、主観的なものだから、春日明神が乗りうつっていると信ずれば、悪臭も芳香に感ずるようになるだろう。
ここで考えられるのは、神託によって引きおこされた歴史上の大きな事件の解釈だ。
先ず、道鏡事件における宇佐八幡の神託。
宇佐八幡の神託が、歴史の上に現れてきたのは、奈良朝以来のことで、その最初は、聖武天皇《しようむてんのう》の大仏造営の時である。続日本紀《しよくにほんぎ》によると、天平勝宝《てんぴようしようほう》元年に、八幡の託宣があった。曰く、
「天神地祇《てんしんちぎ》と共に、大仏を造る大願を遂げられるよう守護しよう」
何分にも金のかかることで、民の疾苦《しつく》にもなり、有力な豪族達にも、相当反対のあることを、無理して強行している時だったので、天皇は大喜びで、八幡宮の禰宜《ねぎ》等に朝臣《あそん》の姓《かばね》(爵)を賜わり、大神のお供をして上洛するよう命ぜられた。かくて、八幡大神は都に迎えられ、大へんな優遇を受けた。
この後、しばしば、託宣があって、その度に朝廷では、これに報いているが、ニセ神託であったということがバレて、あとでお叱りを蒙っていることもある。
この時代の宇佐の神職に、目ハシの利いたやつがいて、中央政府の気に入りそうなことを言っては、恩賞をむさぼったと、疑えば疑われる。しかし、そうでなくても、もともと一時的に狂気状態になって、ペラペラとしゃべるのだ。ふだん見聞きしていることや、無意識に考えていることが、言葉となって出て来ることは争われない。
さて、道鏡の場合の神託だが、当時の天皇の道鏡にたいする寵愛ぶりや、法王となって群臣の拝賀を受けるほどの道鏡の威勢のよさを知っている宇佐八幡のミコが、神《かみ》がかりとなって発言した場合、ああした言葉となって出て来るのは、むしろ当然なことではなかろうか。これは、神託というものの本来の性質から来る必然の結果である。
ところで、この神託を伺い直しに行った和気清麻呂は、なかなかの文化人だ。大部な著書もある。血統的にも、文化人的である。彼の子|広世《ひろよ》は文章生《もんじようせい》となり、大学頭《だいがくのかみ》となり、弘文院《こうぶんいん》なる日本最初の私立学校を立て、その子孫は朝廷の医官和気氏となっている。
このような人であったので、彼は神託なるものの本質をよく知っていた。彼は最初の通りの神託が下ったのに対して、「そんなはずはありません」と、押しかえし、最後には剣を抜いて脅かして、欲する神託を受けて帰京している。
清麻呂は、神託などというものを信じていないのである。彼は、文化人としての自己の判断に従い、文化人の勇気を以て、あの大使命を果したのである。
敗戦後の国民思想の変化から清麻呂の相場は大分下落しているが、僕はやはり、清麻呂を尊敬している。その知性とその勇気によって。こうした知性、こうした勇気は、どんな時代にだって、立派であることにかわりはないのである。
清麻呂を、藤原百川《ふじわらももかわ》のロボットにすぎなかったという解釈が昔からあり、ほとんど全部の歴史家が賛成しているが、僕は賛成しない。百川が敏腕な政治家であり、陰に陽に清麻呂を庇護したことを疑いはしないが、もし百川が姦悪《かんあく》な人間であったら、清麻呂はこれの支配下に属しはしなかったろう。彼は、彼の知性の判断によって、百川と手を組んだのだと思う。
下って、平将門《たいらのまさかど》の叛逆も、託宣に対するこの解釈がなければ、解けない。将門は、桓武五世の皇胤だ。その血統の高貴さは、当時の坂東の人々の悉《ことごと》く知っている所だ。勢力もある。同族を力を以て圧服し、領地は広く、財富み、兵強く、中央派遣の地方長官の争いを仲裁したりして、正に坂東一の大親分となっていた。
この将門を見ている田舎神社の、無智蒙昧なミコだ。坂東にて帝位につくべし、と、託宣することは、むしろ当然のことだ。恐らく、当時の坂東人は、皆この託宣を信じたにちがいない。
短い神託
神託には随分短いものがある。
ギリシャのデルフィの神託は、その短いこと謎のようであったというが、日本でも葛城山《かつらぎやま》の一言主神《ひとことぬしのかみ》の神託は「よきにも一言、悪しきにも一言」といって、なんでも一言であった由。易経の文句も、きわめて短い。謎のようである。
短くて、謎めいていた方がよいのである。第一、有難そうである。第二、中不中がハッキリしないという特点がある。
未来など予言してもらう場合、謎めいた短いものであれば、受ける方でこれを解釈しなければならないわけだが、解釈の通りになれば勿論的中したことになり、反対になれば、解釈のあやまりということになって、まことに都合がよい。
論文の秘訣
短くて、謎めいた方が有難そうだということは、文章の上にも言われる。論文など、特にそうだ。一読してわかる明快な論文は、あまり有難がられない。同じことを言うにも、シネクネと晦渋《かいじゆう》に書いた方が有難がられる。
故矢崎弾君が、その時代の文学青年等に神様のように有難がられていたある評論家の文章作成の秘術がわかった、と、僕に言ったことがある。
「あいつ、所々、三四行ずつ消すんだよ。消したって、もともと一貫した文章だから、裏の脈絡はあるが、表面的には断層が出来るだろう。だから読者は、そこまで読むと、途惑いする。考える。そして切られた脈絡を発見する。難解を乗りこえたよろこびが、感ぜられるやね。自分が進歩したような気もするやね。一篇の文章の中に五六回もそれがあってみろ。読者にしてみれば、十分に楽しいやね。これが、あいつの秘術さ」
※[#「奚+隹」、unicode96de]肋の弁
曹操、漢中ヲ攻ム。勝ツアタハズ。令ヲ出シテ曰ク「|※[#「奚+隹」、unicode96de]肋《ケイロク》ナリ」ト。楊修《ヤウシウ》(人名)、スナハチ自ラ厳ニ装《ヨソホ》フ(旅支度したの意)。人、之ヲ問フ。修、曰ク、「夫レ|※[#「奚+隹」、unicode96de]肋《ケイロク》ハ、之ヲ棄ツルニハ惜シムベキガ如キモ、食ヘバ則チ得ル所ナシ。コレヲ以テ漢中ニ比ス。王ノ還《カヘ》ラント欲スルヲ知ルナリ」ト。(三国史註)
曹操はこの楊修を殺している。胸中の機微をこともなく看破した才を末恐しく思ったのである。
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[#見出し] 世相直言
英雄待望
今日の日本には憂うべきことがずいぶんあるが、最も大きなものが二つある。
一つは、国民に公のために憤る気概がなくなったことである。人間は幸福をもとめて生きるものであるから、一身の幸福を追求するのは当然のことだ。しかし、そのためにも自分の住む社会を住みよくすることも肝心であり、悪を見ては憤り、不正を見ては排除する努力があるべきであるが、それがはなはだ稀薄《きはく》になっている。
思うに、これは苦難に満ちた長い長い戦時生活の反動であろう。日中事変、太平洋戦争を通じて、日本人は滅私奉公を最も暴力的に強制されつづけて来た上に、その滅私奉公も慷慨《こうがい》悲憤も、何にもならないことになった。何にもならないどころか、悪徳であったと烙印《らくいん》をおされた。公のために死んだり、負傷したり、家族を死なせたりした者は、最も世間から冷遇された。卑怯《ひきよう》なことをしたり、狡猾《こうかつ》なことをしたりしても、生きのびた者が大いに利益を得た。これでは反動がおこらないのが不思議である。
「国家のためだの、社会のためだの、そんな努力は阿呆《あほう》の骨頂だ。損するだけだ。お手本が山とある」と、日本人全体がなった。
電車の中で集団スリにあって人が苦しめられていようと、街頭でグレン隊にいじめられている良民を見ようと、人は空気を見るような目で見て過ごしてしまう現象も、かくて最も日常的なことになった。
家庭のしつけも、学校の道徳教育も、放棄された。おとならが自信を失い、自分の利益しか考えないことになったのだから、これは当然のことである。
今日、日本ではテレビの西部劇映画だけが、子供らに人間は公のために憤り、また悪と戦う勇気を持たなければならないものであることを教えているのだ。
こんな情けない国になったので、今の日本は、政治は圧力団体と献金によって行われ、賄賂《わいろ》公行の腐敗を現出し、官僚は自己の保全と栄達のために煩瑣《はんさ》な規則と手続きをこしらえて、民の迷惑になることばかりし、巷《ちまた》には不良の徒が横行し、非行少年少女が満ちあふれる状態になった。まことに憂うべき事態であるが、さらに憂うべきはこの状態を救うべき方法が全然ないことである。
故池田首相は口をひらけば、戦後の日本経済の発展を賛美して「日本は大国である」と言ったが、物質的繁栄だけあって、精神の清冽《せいれつ》さを失った大国がどんな運命をたどったかは、西欧の歴史でも東洋の歴史でも、歴々たるものがある。日本はこの意味での大国難に逢着《ほうちやく》しているのである。
もう一つの憂えは現代日本には英雄がないことである。
日本の英雄は、明治のはじめに木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通がわずかに満一年の間に相ついで死んで以後、種切れになった。以後、日本には英雄をもって呼ぶことのできる人物は出てこない。
思うに、これは天皇制の確立に原因があろう。英雄の効用は、国民の志を奮起させ、意志を結集し、理想にむかって邁進《まいしん》させるところにある。西郷という人物がいなかったら、明治維新の成就は数年おくれたにちがいない。クレマンソーがいなかったら、前大戦でフランスが最後まで抗戦したかどうかあやしい。こんどの大戦におけるチャーチル、スターリン、蒋介石等の存在の効用もここにある。
ところが、明治政府によって確立された天皇制では、天皇がこの英雄の持つ機能を持つことになった。天皇の命であり、天皇の意志であるとさえ言えば、日本国民は最もすなおに志を奮起し、意志を結集し、天皇のさす方にむかって邁進することになった。英雄の働きによる必要はなくなったのだ。必要のないところには、ものは生じないのである。明治の初年以来、政治家にも、官僚にも、軍人にも、一人の英雄なく、最も優秀なものでも、事務屋に過ぎなかったのは、このためにちがいない。また事務屋で十分間にあったのである。
しかし天皇制を捨て去った今となっては、もうこれではいけない。英雄の出現に待たなければ処理できないものがうんとある。さしずめ、上述した日本の国難の解決だ。
国民に説いてその同意をもとめ、その意志を結集することのできる説得力と根気と人望を持つ人が出、卓抜な統率力と卓抜な手腕とをもって処理する以外に、解決の道はないとぼくは思うのだ。
しかし、その英雄はどこにいるのだろう。今日の国会議員諸君の中にいるとは、ぼくには思われない。議員諸君は激烈な選挙戦で多数の票を得てなった人々ではあるが、ぼくの管見では立候補する人々が、国民中の優秀分子だけではないように見える。官僚から転進した人は、官僚として青雲の階梯《かいてい》の断えた人、つまり官僚落第生が多く、民間から立候補する人は昔のことばでいわゆる羽織ゴロのような人が多い。全部がそうでないことは言うまでもないが、そのような人々の多くいるなかから選ばれたのだから、格別選良という気はしない。われわれのもとめる英雄がいようとは思われないのである。
紀元節復活について
日本紀元に約六百年の水増しがあるらしいことは、今から四十四年前、伊勢の神宮皇学館に在学しているころ、歴史教室で教わった。ほぼこんな意味のことだ。
「日本書紀の紀年にのびのあることは、すでに本居宣長や藤井貞幹が気づいていた。書紀の記事自身にも矛盾と撞着が相当あるし、中国や朝鮮の史書と照合するとくいちがうところがあるからである。明治になって、那珂通世博士がくわしく研究して、こんな説を立てた。
平安朝時代の一条天皇の朝の惟宗允亮の『政治要略』に、推古天皇の時、日本で最初に暦をこしらえたことを暦元を推し、蔀首を定めて、暦本を制す≠ニ記述しているが、ここに謎を解く鍵がある。
前漢から後漢にかけて、中国では陰陽五行説から発展した讖緯学《しんいがく》がさかんであったが、これが日本にも渡ってきた。この学派では甲子革命、辛酉革命ということを言う。甲子《きのえね》と辛酉《かのととり》の年は変革の機運のさかんになる年で、甲子の年には法令を改めることがよくあり、辛酉の年には革命が起こりやすいという意味だ。また讖緯学では年代を甲・元・蔀の三階段とする。すなわち、十年を甲とし、六甲を元とし、二十一元を蔀とするのだ。
推古朝は、聖徳太子の摂政した時代であるが、太子をはじめ当時の学問ある廷臣らは讖緯学を信じていたから、日本の国のはじまりは必ず辛酉の年であるべきであると考えた。そこで、最初に暦をこしらえた推古十三年から四年前の推古九年がちょうど辛酉の年にあたるので、ここから一蔀一二六〇年をさかのぼった年を日本国のはじまりとした。
またこの時代には日本ではじめて国史が編纂されたので、この年の一月一日を神武天皇の橿原即位の時とし、それが後世の日本書紀編纂の時に踏襲されたのであろう。
こんな風にして、日本書紀の紀年はできたと思われるのだが、書紀の記述を朝鮮や中国の史書の記述と照合してみると、大体六百年くらいのびているようである。
以上は那珂博士の推理説であって、証拠というほどのものがあるわけでもなく、反対説もないわけではないが、いかにも見事にできている推理なので、現在のところではこれを信ずる学者が最も多い。なお、この年の一月一日は、現行の太陽暦に換算すると、二月十一日にあたるので、明治七年以後、二月十一日を紀元節とし、国の誕生日として祝うことになったのである」
日本紀元に六百年もの掛け値のあることを、一般の人々はこの戦後に聞いて、大分ショックを受けたようであるが、上述のように歴史学者の間や、その道の学校では、はばからず論ぜられたり、講義されたりしていたことだから、その道の人は別段どうということはなかったはずである。少なくとも、ぼくには何の感慨もなかった。だから、歴史学者の中にさわぎ立てる人が出て来たのが、不思議であった。この人々は戦前、戦中、ずいぶんがまんして鳴りをひそめていたのだろうかと。
那珂博士のこの推理を、ぼくは九〇パーセントくらいは信じているが、たとえ一〇〇パーセント信じているにしても、そのためにこれまでずっと世間に踏襲されて来た儀式や行事を廃止したり改革したりしてよいとは思えない。前人未発の推理をこころみたり、解釈を下したりすることは、大いにおもしろくもあり、意義もあることだが、いずれもそれは学問としてのことで、現実の生活の改変など、できるだけやらん方がよい。
明治初年の排仏棄釈の暴挙なども、こんなオッチョコチョイ精神から行われ、いろいろな面に取り返しのつかない大損失をのこしている。
史学が、われわれの現実の生活にたいして、それほどの強制力を持つものなら、先祖の祀《まつ》りなどどういうことになるだろう。源頼朝は清和源氏ということになっているが、明治年代に星野恒博士は陽成源氏であるとの説を立てた。証拠とするところは男山八幡の旧別当家田中氏所蔵の古文書で、十分に信ずべきものだという。頼朝がそうなら、足利家もそうであるべきである。
織田氏は平重盛の子資盛を先祖ということにしているが、最も疑うべきであることはほぼ確実だ。徳川氏が新田の一族の末であると称しているのも信じている学者は一人もいまい。江戸時代をずっと大名として経過し、明治になって華族になった家のうちで、その伝承する系図の信ぜられるものがいく軒あるだろうか。しかし、どの家も系図に記されている先祖を先祖と信じて崇敬奉祀して来たのだ。
武家にかぎったことでない。公家だってそうだ。五摂家といえば最高名門だが、藤原鎌足まではさかのぼることができても、鎌足を天児屋根命につなぐことには大いに疑問がある。しかもなお、藤原氏は天児屋根命を祖神とし、ずっと信仰奉祀して来ているのだ。
「日本書紀」という書物が、古来どの程度に読まれたものか知らないが、平安時代には朝廷の行事として朝廷で読むことになっていたから、公家らは多分みな傍聴したろう。その後は時代によって極端に増減があったろうが、江戸中期以後は国学の隆盛につれて、各階層にずいぶん増加したはずだ。以上の人々はほとんど全部が神武天皇の存在を信じ、天皇が辛酉の年正月朔に皇位につき、それが日本の誕生となったことを信じて来たはずと思う。
われわれはその儀式を受けついで少しもさしつかえはなく、目くじら立てて小うるさいことを言うことはないと、ぼくは思っている。
那珂博士は学問として研究し、学問として発表したのであり、それに賛成した学者も、反対した学者も、また同じ気持であり、紀元節の存廃にまで論をおよぼすつもりは、だれ一人としてなかった。明治、大正の学者はそれほど大らかであった。今の学者は自分の研究成果でもないのに、なぜ鬼の首を取ったようにふりまわし、せせこましいことを言うのであろう。
日の丸の旗
太陽信仰は古代においては世界共通の事象であったが、日本は世界の東の端にあると自らも認めていたし、他からも見られていたので、とりわけ強い信仰があった。天皇家の祖神である天照大神が太陽の人格神化であることは、天の岩戸の神話でも明らかだ。日本は独立国であるとの自覚と誇りをもってはじめて中国に対した聖徳太子(この以前の日本の天皇方は仁徳でも、雄略でも、中国に臣称していたのである)が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」という国書を隋の煬帝につかわしたというのは有名な話だが、ここにも太陽の出ずる国であることを誇っている気味合がある。
日の丸の旗が、この太陽信仰にもとづいていることは言うまでもないが、これが日本の国を象徴するものとして使われるようになったのは、ごく近い時代のことである。
天皇家の旗、天皇家の軍隊の旗、武家大名の軍旗などには、ずいぶん昔から使われている。朝廷の儀式の際、日月の旗を立てた例は上代からある。南北朝時代には南朝方の錦のみ旗には必ず金銀をもって日月を打ってあったというし、戦国時代には武田信玄、上杉謙信、共に日の丸の旗を使っている場合がある。
一説によると、弘安四年の蒙古襲来の時、時の鎌倉将軍惟康親王は、日蓮上人に頼んで、日の丸をかこんで四天王・八大竜王をえがき、日の丸の中に南無妙法蓮華経と書いてもらった旗を、筑前の今津の浜の陣頭にひるがえさせたとある。これは平凡社版の大百科事典に記載してあることで、これが事実なら、法華経信仰の威力をもって、四天王・八大竜王をして日の丸を守護させる形になっているから、日の丸はとりもなおさず日本国の象徴として使われているわけだが、この話は信ずるわけには行かない。
日蓮は外敵侵略の必至であることを予言し、最も強いことばでこれを警告したが、これを攘《はら》う祈祷や修法は全然しなかったのだ。彼は他宗の坊主共にやらせることをやめて、拙僧一人にやらせよ、でなければ効果はないと言い張って、身延山にこもってしまったのだ。大百科事典は何によってこの記載をしたか、不せんさくの至りである。
日の丸を日本を象徴する旗にしようという考えが出たのは、幕末になって、外国船の渡来がひんぱんになり、外交問題がやかましくなってからのことだ。それはそのはずだ。旗というものは他と自らを区別するためのものだ。強力に鎖国が行われて、日本だけを全世界と考えていてもさして支障のない時代に必要のないのは当然のことだ。
最初は、諸外国の船と日本の船とを弁別するための旗じるしとして、その必要が感ぜられた。嘉永六年十一月に、薩摩藩主島津斉彬が、こう幕府にうかがいを立てた。
「こんど大船建造禁止令をご解除になったにつき、弊藩においては、洋風の大船十二隻蒸汽船三隻を建造するつもりでいますが、それらの船には異国船にまぎれないように、白地に朱の日の丸の旗をかかげたいと思います。いかがでありましょうか」
幕府では追ってせんぎの上で返答するであろうと答えて、相談にかかり、翌安政元年七月に、斉彬の考案したものを日本の総船じるしとすることに決定した。日本国籍の船全体の旗じるしだから、正式の国旗ではないが、国旗的なものではあったのだ。
この翌年の安政二年二月、薩摩では出来上った船昇平丸を――設計から工事一切、日本人だけで完成した最初の洋式帆船であったのだが、これに日章旗をかかげて、江戸湾に回航させた。これが日本船が日章旗をかかげた最初である。この船は幕府の所望によって、幕府に献上した。
この時から五年後、万延元年正月に、勝海舟らが咸臨丸に乗って、日本人だけで操船して太平洋を横断してアメリカを訪問したが、その檣頭にはもちろん日章旗がひらめいていた。これが外国を訪問する日本船に最初にひらめいた日章旗である。
この日本総船じるしである日章旗が、正式に国旗と定められたのは、明治三年正月だ。縦横の寸法の割合、日の丸の位置、直径の寸法の割合も規定された。
今日、日本人の一部に、日の丸の旗にともなう記憶には不愉快なものが多いから、新しく国旗を制定すべきであるという声があるが、了見のせまい話だ。
国の長い歴史の間にいろいろなことのあるのは、個人の成長過程と同じだ。放蕩したこともあるだろうし、親兄弟をなげかせたり、友人知己に迷惑をかけたりしたこともあるだろう。顧みて恥じるところの全然ない人もあるだろうが、そんな人はごく少なかろう。反省と後悔は忘れてはならないが、こだわってはならない。国の場合も同じだ。顧みて恥じるところのない国がどこにあろう。どこの国もいろいろな時期を経験して来ている。日本だけが悪かった時期にこだわるべきではない。
日章旗が日本人の誇りであり、全世界の有色人種の誇りであり、希望の光であった時代もあったのだ。国旗をかえようなどというせまい了見は捨てて、これを美しくて、かがやきに満ちて、さわやかで、誇りあるものにすることを考えるがよい。そのたくましさのない国民の後悔から、なんのよきものが生まれて来よう。こんな国民は、国旗をかえても、二十年後にはまたかえようというだろう。
東京城
江戸城が戦国時代にかかるころの太田道灌の居城であったのは周知のことだが、道灌がはじめてこしらえたのではなく、ここは王朝時代末期から鎌倉時代にかけてこの地方の豪族であった江戸氏が館をかまえていた場所だという。
江戸氏は関東八平氏の一つである秩父氏の流れだというから、畠山重忠と同族である。この江戸氏の子孫が今の小田急線の成城町近くの喜多見に移り住んで喜多見氏となる。この喜多見氏が徳川家康が江戸転封となって駿府から移って来た時、徳川氏の家臣となった。五代将軍綱吉のころ、喜多見氏に重政という人物が出て、綱吉のお気に入りとなり、若狭守に任官し、二万三千石の大名にまでなったが、後に綱吉の怒りに触れて身は桑名の松平家にあずけられ、家は改易されてしまった。
太田道灌はこの江戸氏の居館のあったあとに城を営んだのである。戦国にかかりかけている時代であるから、攻防のことを十分に念頭において築いたであろう。道灌は当時の軍法者といわれ、その築いた城が関東に九つもあったというから、江戸城は当時としては最も堅固な名城であったろう。もちろん、道灌の身代から考えて、大きな城であろうはずはない。至って小体《こてい》なものであったろう。
道灌は主人である扇谷《おうぎがやつ》上杉定正に殺され、城は上杉氏のものになった。
道灌四代の子孫重正が家康入部の後つかえた。はじめの知行は五百石であったというが、その妹のお梶(後にお勝)というのが家康の側に奉公に上がっているうち、家康の手がついた。お梶当時十三、家康は四十九だったというから、家康も相当なものだ。
家康はこの女を非常に愛し、後に末子の水戸頼房の養母にしている。家康の没後は尼になって英勝院となる。
重正の子の資宗は相当すぐれた人物でもあったし、叔母の寵愛《ちようあい》があるので一万五千石の大名になり、ついに三万五千石、その子の資次に至って五万二千石となり、その家からは、いく人も老中を出している。
いったん上杉氏のものになった江戸城は、小田原北条氏に奪われた。北条氏は家臣遠山氏にあたえた。この遠山氏も北条氏がほろび、家康が入部して来ると、家康につかえた。入墨《いれずみ》奉行こと遠山の金さんがこの子孫だとばかり思っていたが、くわしく調べてみたら、そうではなかった。幕臣の遠山家には二系統あり、一系統は北条氏の家来筋、一系統は美濃士である。金さんは美濃士の系統だ。しかし、北条氏の家来筋の系統もずっと後までつかえている。ともに二、三百石の家だ。
以上書いて来たとおり、徳川氏以前に江戸城主だった家は全部徳川氏の家来となって家を全うしている。不思議といえば不思議な因縁だが、徳川氏ぐらい大きな家になってしまうと、しぜんこんなことになるのかもしれない。
ぼくの生まれた在所に金山がある。この金山は第一次世界大戦のころには、ぼくの家の所有であったが、こんどの大戦当時は、うんと大仕掛けになって、中央のある大会社のものであった。ぼくの娘らは徴用のがれに、この金山の事務員になった。ぼくには一種の感慨があった。
「栄枯盛衰じゃねえ、前大戦の時にはわが家の持ち山じゃった山に、二人も雇われ人となって通うのか」
と、笑ったものだが、かつての江戸城の所有者らの子孫には、何の感慨もなかったであろうか。
江戸城が徳川氏以前に小城であったことは言うまでもない。大きくなったのは家康からだ。その後、秀忠がさらに拡張し、家光また拡張整備して、その間三十数年かかり、日本一の大きな城になった。大坂夏の陣以前の大坂城はよほど大きなものであったらしいが、完成した江戸城はそれにまさるともおとらないものであったのではないかと思う。大坂城も秀吉自身はほとんど金をつかわず、諸大名の手伝い普請でやったのだが、それは江戸城も同じだ。信長の安土城もまた然りだ。昔の天下様とはそういうものだったのである。
江戸城の完成したのは、寛永十四年九月であるが、この城造りに関連して、徳川家は江戸の地形まで改造している。
今の駿河台から湯島にかけては高い台地になっていて、神田台または神田山といっていた。これが江戸城の安全の脅威になっていた。道灌のころは鉄砲の伝来はるか以前だから、その配慮をする必要がなかったのだが、家康の来たころは鉄砲もあれば大砲もある。ここの上に据えつけて、城内に向けて発射すれば容易にとどくのである。
そこで、この山を掘り崩し、その土は海岸の埋め立てにつかった。慶長十年前後というから家康が来てから十五年ほどもたったころまで、江戸城の大手前、今の皇居前広場のあたりはジケジケといつもぬかっている海べの湿地帯であった。登城退城の武士らは舟板をしいて往来したという。こんな風だから、もちろん、今の西銀座から向こうは海であった。葭葦《かい》が茫々《ぼうぼう》としげり、潮の干満するところであったろう。ここを神田山の土で埋め立てたのだ。京橋川から新橋川の間はこうして陸地となり、やがて人家がぼつぼつと建ち、江戸の繁栄につれてにぎやかな町になったのだという。
埋め立ては江戸時代を通じてさかんに行われた。江戸は火事や大地震の多いところで、江戸時代だけでも十回は見舞われていよう。その度に、大量にできる瓦礫《がれき》や焼土が埋め立てにつかわれて、海へ海へと江戸はひろがって行った。現代でもそれがつづき、東京湾を房総半島に至るまで埋め立てようとまで論議されているところを見ると、埋め立ては東京の宿命ではないかと思われるほどである。切り削った神田台を駿河台と呼ぶようになったのは、駿河からついて来た武士どもの屋敷町をここに営ませたからであるという。
そのころまで、湯島とこことの間はつづいていて、今のように川はなかった。ここを掘り割って川を通じ、江戸城の外濠《そとぼり》にしたのは、四代家綱の明暦の大火後である。この普請《ふしん》を命ぜられたのが、伊達綱宗で、この普請場に監督に行く間に吉原に通うようになり、伊達騒動の動機となったのである。
江戸城はこの明暦の火事で、本丸、二の丸、三の丸等、おもな建て物は全部焼けた。天守閣も焼けた。外から見た所では五重、内側は七階か八階はあって雄大|雄渾《ゆうこん》、この日本一の大城の景観の中心をなしていたのであるが、この時焼けて以後、再建されない。
江戸城は江戸時代を通じて、九回火災にあっている。最後は慶応三年の十二月、おしつまった二十三日の夜だ。二の丸が焼けたのだが、時節がら薩摩屋敷にこもっている浪士連のしわざではないかと疑って、幕臣らの興奮は一方でなかった。
次の火災はこの時から六年目、明治六年五月五日であった。このころはもちろんもう皇城となっている。すっかり焼けたので、明治天皇は旧紀州藩邸である赤坂離宮にお移りになった。
この時から明治二十二年までこの離宮が皇居となっている。宮城の建築ができて、かえられたのは、この年の正月十一日だ。翌月の二月十一日に憲法が発布されるので、その儀式に間に合わせるように建築されたのであり、その儀式に間に合うようにかえられたのであることは明らかだ。
この時できた御所がこんどの戦災で焼けたことは周知である。
江戸城の名ごりをとどめるものは、濠と石垣と土居と森と、わずかにのこる櫓ぐらいしかない。上に建つものは絶滅してしまったと言ってよい。しかしながら、のこっているこれらのものだけでも、江戸城がいかに壮大でみごとな城であったか、容易に想像がつく。これが特別史跡に指定されたのは当然の措置である。
終戦後、皇居を他に移してここを開放せよなどという議論が出ているが、ぼくにはとんでもないことだと思われる。東京には目を楽しませてくれる美しい景色のところはないのだから、これくらいは大事にのこしておくべきだ。首都としての美観の上からも必要である。
開放などしては、東京人はたちまち踏みあらし、見る影もないものにしてしまうであろう。公共のものとして確保されるならまだしものこと、薄ぎたない根性の者の多い今日、長い間には必ずいろいろな手をつくして、払い下げ運動が行われ、全部ではないまでも一部には、金もうけを目的としたへんな娯楽設備ができることが目に見えている。思いやるだにぞっとする。特別史跡になったことは、その防止にもなろう。うれしいことである。
お留守居料理
今日、江戸時代から東京に伝わっていて、江戸時代からの匂いを残していると思われている食べものは、「にぎりずし」「てんぷら」「おでん」「そば」くらいである。このうち、そばは江戸ではじまったものではないが、これが町で売られる食べものとなったのは江戸であるから、一応江戸の食べものとしておいてよかろう。
これらは全部街頭料理であった。屋台につんで曳き歩いて売ったのである。従って、今日すしやが客の目の前でにぎって食わせたり、お座敷てんぷらとて座敷に鍋を持ちこんで客の前で揚げて食べさせるのは、こしらえ立てが一番うまいからであるが、本来の姿を復原しているのである。
街頭料理であるから、昔は上流の人々の食べるものではなかった。町人でも、表通りに家や店を持っているような人々は屋台などには立寄らないから食べない。職人や人足のような連中だけのものだったのである。
そんなら、上流の人々の食べる高級料理はなんであったかと言えば、八百膳などで食べさせる料理で、元来これは諸藩のお留守居連中を相手に発達したものである。
お留守居は諸藩の外交官だ。諸藩相互の交際はもちろんその職分のうちだが、最も重要なのは幕府にたいする仕事であった。
将軍家や役人ら――上は老中から下は坊主に至るまでに対する、定期や臨時の献上品、わいろ、進物、付届、心付等を手落なく、かつ効果的にする。中にも大事なのは、幕府が時々諸藩に命ずる手伝普請や饗応《きようおう》役などをかねて諸役人と取結んでいる因縁や情実を利用して、自藩に来るのをかわすことであった。
手伝普請も、饗応役も、金がおそろしくかかるものであり、大へん気骨の折れるものだった。宝暦年度の薩摩藩の木曾川の治水工事の話や、元禄年度の赤穂藩のことを考えても、大へんなことであったことがわかる。こんな役目は敬遠するにかぎる。賄賂、進物、付届、なんでもよろしい、それを使うことによって回避出来れば、最も望ましいことであった。
お留守居はこんな役目の者だから、何をするにも金に糸目をつけない。たとえば幕府の役人を饗応するにも、必ず一流の料亭に招待し、最も精選した食品を出し、一流の名妓に酒間をあっせんさせた。こんなことは各家それぞれ競うようになるから、精は益※[#二の字点、unicode303b]精に、美は益※[#二の字点、unicode303b]美に、贅《ぜい》は益※[#二の字点、unicode303b]贅に、ついには一日の饗宴に数百千金を費すのも普通のこととなった。
勤めを離れて、お留守居連中が懇親のために一緒になって遊ぶこともあるわけだが、これは回りもちで一人が他の人々を招待する形で行われるから、これまた諸藩の見栄くらべの形になって途方もないぜいたくが行われる。各藩はそれぞれ独立国で、藩意識が強烈であるから、何をするにも競争になるのである。
江戸の高級料亭はこの人々によって栄え、その料理はこの人々によって発達し、この人々の気にかなうよう工夫されたのだ。従って、料亭がこの人々から金を絞りとる工夫を凝らしたことは非常なもので、ずいぶん滑稽《こつけい》な話もある。
よく例にひかれるのに、鯛の眼肉の料理の話がある。あるお留守居が八百膳に、明日はそちらに昼食に行く故、少しかわったものを食べさせてもらいたいと、前日に注文しておいて、翌日時分どきに行った。
出された膳部はさして変りばえのするものはなかったが、吸物だけがいくらか変っている。魚の肉をつくねにして入れてあるのだが、それがなかなか乙《おつ》な味だ。
「これだけだの。ちょっといける」
などと、女中に言いながら、食べおわり、今日は私用であるから代をはらって帰りたい、勘定書を持ってまいれといって、持って来られた勘定書を見ると、十両と書いてあった。
さすがにおどろいて、
「いい値だの」
というと、亭主が出て来て、板場に連れて行って、土間の片隅を指さした。そこには目下一尺ほどの鯛が数十尾投げ出してあって、皆目玉をえぐり抜いてあった。
「旦那がさっきおほめ下さいました吸物の身のつくねは、この鯛の眼肉だけでこしらえたものです。大きさが大体きまっていまして、尺鯛でないといけないのです。眼肉というやつはたんとありませんので、旦那に差上げた分だけとるのに、こんなに沢山つぶしました。とくべつに魚河岸でさがして来たのでございますから、十両いただいても、手前どもはそうもうけさせていただいているわけではございません」
「ああ、そうか、なるほどなるほど。拙者がおいしい目をした以上、そちらに損をかけてはならん」
といって、お留守居は十両支払った上、なお数両を心付けとしてあたえたという話。
今日なら、鯛の眼肉をとったあとの魚をそのままにはしない。刺身にしたり、焼肴にしたりして、他の客に出しもするであろうが、当時のことだから、せいぜい煮つけて雇人らの惣菜にしたくらいで、ひょっとすると全部ほんとうに捨てたかも知れない。物資にも、金にも、ずいぶんばかげた浪費だ。
こんなばかげた料亭であり、料理であるから、明治になると忽ち料亭はつぶれてしまい、料理はほろんでしまった。今は、江戸料理と言ったって、最初に上げた街頭料理以外はなんにものこっていないのである。
しかし、同一条件のもとには同一結果がおこり、似た条件のもとには似た現象が発生する。戦時中の統制経済は、民間の会社にかつてのお留守居的働きをせざるを得なくした。お留守居は負担を回避するために働いたが、これは多く発注してもらったり、資材をうんともらったり、製品の納入期を延期してもらったり、早く支払を受けたり、金ぐりを頼んだり、いろいろとあったわけだ。ともかくも、善良誠実な国民が栄養失調するくらい食べもののなかった時代に、闇料理屋があり、そこでお留守居らが役人や軍人を饗応したのである。
そのなごりが、戦後もあり、今日に至っては一層隆盛である。今日東京の高級料理店、とりわけ高級バーと称する酒場の高いこと、目の玉が飛び出すほどであるという。とうてい、汗水たらして自分で得た金では行く気にはならないと言っている人が多い。だから、そこの客のほとんど全部は、いわゆる社用族である。税制がまたそれに都合のよいようになっているのだ。このような形勢にあおられて、一般料理屋や諸物価に至るまで他の諸都市と比較にならないほど高くなっている。善良誠実な一般都民は、ここでも戦争中と同じように割《わり》を食っているのである。
今日の日本人は個人主義に徹しようとしている。東京の高級料亭、高級バーの経営者や従業員は、大蔵省当局の頌徳碑を建つべきであろうし、一般都民は大蔵省当局を弾劾すべきであろう。
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[#見出し] 古今逆臣転心考
気軽く引受けはしたものの、さて書きはじめてみると、すっかり当惑してしまった。運がよいのか悪いのか、今まで自分の出会った人々のうちには、自分をして「悪人」と感ぜしめるような人がいないのである。従って、「悪人」なるものが、心に生きて働かないのである。
よく考えてみると、どうも、自分は、「悪人というものは世の中にいない」と考えているらしいのである。
で、この文、あるいは標題にそぐわなくなりはしないかと惧《おそ》れている。
今日逆臣として伝えられている者でも、よく調べてみると、政争にまけた方が姦臣逆臣の汚名を着せられている場合が少なくないし、当時としては普通のことが、後世の進んだ道徳標準で乱臣賊子にしてしまわれた者があるし、少なくとも日本には、同情の余地なき悪逆人はない、と言えそうである。
日本最初の、そして唯一の弑逆者である眉輪王のことは言うまい。
蘇我入鹿父子は、新旧思想の衝突の犠牲者であって、叛逆者を以て目すべきではないと思う。大陸輸入の中央集権公地公民の制度を樹立せんとする進歩主義の中大兄皇子と藤原鎌足とが、在来の氏族制度保守の代表者蘇我氏の勢力を打倒した革命が、あの時の事変である。
弓削道鏡の大逆事件も、現今の歴史家中には、藤原百川との政争に敗れて誣いられた形跡がある、と説く人が多いから、果してそうだとすれば、後世の菅原道真と立場を同じくするものと言うべきで、思えば気の毒な男ではある。
降って、平清盛《たいらのきよもり》を伝えられるが如き悪逆無道の入道にしてしまったのは、平家物語の作者の創作であって、現に、彼の悪逆として伝えられるものの中には、寧ろ忠臣孝子の名を恣にしている重盛の行為が混入している。
摂政藤原基房(松殿)の行列と重盛の次男|資盛《すけもり》の行列とが衝突して、基房の侍に資盛が打擲《ちようちやく》されたので、清盛は怒って、侍共に命じて復讐した。重盛はこれを知って、資盛を勘当して暫く伊勢に追下した、というのが平家物語(殿下乗合の事)の伝える所であるが、事実は反対で、清盛が重盛を諫めたというのである。(明月記)
もし、清盛が伝えられるが如き不覚人《ふかくじん》で、我意一遍の驕慢《きようまん》な男であったなら、あの短い年月の間に、あれほどの栄達をしよう筈はない。彼の悪逆が今に伝えられるのは、勢力失墜した藤原氏の嫉妬――鹿《しし》ケ谷《たに》事件《じけん》などその一つの表われである――からの讒誣と、源氏に憚《はばか》って、人が平氏の徳を頌えなかったからであろう。こういうことの最もよい例は、「太平記」に楠正成を朝敵と書いてあることである。太平記の作者は、楠氏に対しては最も深い好意をよせているにもかかわらず、足利氏《あしかがし》に憚ってこう書かざるを得なかったのである。
北条氏は、高時に至るまで、幾多の逆臣を出しているが、朝廷に対しても源氏に対しても、自衛のために、ああした行為に出たのであって、無学な当時の武士としては,誰しもあの立場に立たせればああしたであろう。
南北朝の時代になると、足利|尊氏《たかうじ》が最もにくまれているが、これは直木三十五氏の「足利尊氏」に明らかなように、建武新政《けんむしんせい》の仕置に不平な武士共に擁立された形跡があって、恰も宋の高祖趙匡胤と立場を同じくするもので、その勢《せい》も宋と同じく尾大掉はなかった。成立のはじめが同じなので、結果も同じような経路をとるのであろう。
どんなに、当時の武士が建武新政の仕置振《しおきぶり》に不平であったかは、護良親王に従って村上義光、平賀三郎と共に三傑と称せられた程の赤松則祐が、後に尊氏に従って朝廷に叛いているのを見ても解る。
足利の季、戦国の時代は、朝廷の最も式微せられた時代であるから、朝廷に対する叛逆人は一人も出ていない。つまり、叛逆人が出るほどの膏味が朝廷におわさなかったのである。かくまでも朝廷を衰微に至らしめた責は誰が負うべきであろうか。人は足利氏を責める。尊氏の罪を鳴らす。しかし、自分は尊氏よりももっと罪の大なる者があると思う。では、幕府政治を創めた頼朝が負うべきであろうか。しかし、自分は、武家政治は起るべくして起ったもので、頼朝一個の野心から出たものではないと思う。では、誰が負うべきか。新らしき政治形態なくしては、万民堵に安んずることの出来なかったほど堕落し切った藤原氏一門の遊戯政治こそ、すべての罪を負うべきであると思う。自分は、平安朝中期から徳川の末に至るまでの朝廷御困窮の源は、平安朝貴族の逸楽堕落に在りと断じて憚らぬものである。
話は横にそれたが、この時代は、朝廷が衰微し切っていらせられたのと、封建の形式が次第にかたまりかけていたのとの為に、この時代の叛逆のすべては家来が大名に対して起しているのである。道義地を払っている時代のことだから、一々数え切れないほどであるが、美濃《みの》の斎藤道三を除くの外は、心の底からの悪逆人と見るべき者は殆《ほとん》どない。これは直木氏が「道三殺生伝」に詳しく書いているから、ここには言うまい。
叛逆人の典型のように言われている明智光秀にしてからが、とても忍ぶことの出来ない度々の凌辱を被った結果であって、現代の人にしても忍び得ぬ所であろうのに、戦国の時子は父を疑い、父は子を疑い、君臣迭に利を以て合うの時である。後世の進んだ道徳を以て逆臣とのみ論じ去るのは、徳川時代の大名が妾を持っているのは怪《け》しからん、というのと一般である。
松永久秀にしても陶晴賢にしても、自衛上から先手を打ったに過ぎない。戦国の武士は、戦場に於てこそ死を顧みず忠戦したが、後世の儒者などが考えるように、主君から誅せられる時、手を束ねて死を待つのが臣としての礼である、などと考える者は、殆ど一人もなかった。あれば、怯懦の謗《そしり》をまぬかれなかった。戦国武士にとっては、怯懦ということが第一等の悪だったので、必ずあらんかぎりの反抗をしたものである。だからこそ、放討《ほうとう》などには最も大剛の士が選ばれたのである。だから、この時代の逆臣の殆ど全部は、受けて立つところを、機敏に先手を打ったに過ぎないのである。
この時代には、運よくも、臣としては逆臣、子としては不孝の子、兄弟としては不仁《ふじん》の兄弟でありながら、名将として称せられている人も珍らしくない。第一に織田信長がそうである。――弟を殺し、一度主と仰いだ将軍足利義昭を逐うて江湖に窮死せしめておる――北条早雲がそうであり、徳川家康がそうである。秀吉など、光秀が膳立をしてくれたからよかったようなものの、いつまでも織田氏の下に驥足を屈していたであろうか、小牧や長久手あたりで信雄と戦ったことなど考え合わせると、怪《あや》しいものである。武田信玄は実父を駿河《するが》に逐うて身を終るまで国に入れなかったし、戦国武将に進んだ道徳標準を以て臨むなど、凡《およ》そこれくらい無意味なことはないのである。
春秋に善戦なしと言う言葉があるが、これは、我戦国時代にも言わるべき言葉で、当時の武士にとっては、ただ「強い」ということと「意地」ということが、最高の道徳で、たまに仁慈を施す武将があっても、呉起が疽を吮《す》うの類で、後で利用するための投資に過ぎなかった。
徳川時代の御家騒動《おいえそうどう》に入る。
この時代に多くあった御家騒動も、よく調べてみると他愛のないもので、真に悪人と称すべき者は一人もない。
将軍の直裁にまで発展した越後《えちご》騒動は、最も大きなものであったが、単なる家督争いに過ぎなかった。大老酒井忠清の判決を将軍綱吉がくつがえしたのは、自分の就任をさまたげた酒井大老に対する綱吉の犬糞的報復と見られないこともないし、伊達《だて》騒動は、伊達安芸と伊達式部との領地争いのもつれに過ぎない。
黒田騒動は倉八十大夫に対する栗山大膳の排斥運動に過ぎない。黒田騒動を調べて感ずることは、倉八もとより小才子《こざいし》に過ぎないが、大膳の態度も大人気を欠いていることである。事毎に忠之《ただゆき》を激発させて十大夫を兇暴に赴《おもむ》かせるように仕向けているのだ。彼の諫書など、一条毎に経史の句を引いて衒学臭《げんがくしゆう》芬々《ふんぷん》たるものがある。あれほどの思い切った権道を用うる大膳であれば、倉八ぐらいすっかり薬籠中《やくろうちゆう》のものとして、自分の思うがままに引廻すことが出来そうなものと思うのだが。
加賀騒動は、御家騒動としては最も複雑なもので、継嗣《けいし》問題もあり、真如院と大槻伝蔵との密通事件もあり、中毒事件などもあるが、一番大きな原因は伝蔵に対する重臣等の嫉妬、成上者に対する社会の反感のあらわれである。
社会の階級制度が整頓し切ってくると、下級の者は立身の路が杜されてくるので、才器のある者は上級の者を白眼で視、多少の権謀は用いても擡頭の機会を得ようとするし、そうした者が抜擢《ばつてき》されて羽振がよくなると、上級の者は自分の地位勢力に危惧《きぐ》を抱いて反感を持ちはじめるし、互に党を立てて抗争するようになると、そこに御家騒動が起る。――これは徳川時代にかぎったことでない。平安朝時代の平将門の叛乱がそれである――最後は、幕府の手で裁かれることになるが、幕府政治というものは、階級制度の上に築かれているものであるから、新人の擡頭など危険極まるものである。だから、きまって新人側に敗訴の判決を下す。すると、世間というものは不見識なもので、この鉄のような階級制度が自分達の生活を圧迫していることも知らずに、すぐその判決を受入れて、勝った方には正義の、敗けた方には悪逆の、いろいろな事件を創作して積重ねて、動かぬものにしてしまう。
この階級制度の固定――従って経済組織の固定もこれに附随する――から生ずる病弊は独り御家騒動のみではない。大盗転心の動機は多くここにあって存する。最も明瞭《めいりよう》な例は、鋳掛松《いかけまつ》の両国橋上の転心である。鼠小僧次郎吉が義賊を気取っていたというのもその証左とすべきではあるまいか。平安朝の中期に盗賊|横行《おうこう》したというのも同じ理由からである。
石川五右衛門など、もし夜盗《やとう》を業としていたというのが事実なら、これは徳川の初期に至るまでも遺っていた戦国の「切取強盗《きりとりごうとう》は武士の習」の遺風で、当時の浪人武士としては普通のことではなかったろうか。
本電子文庫版は、講談社文庫『史談と史論(下)』(一九七七年四月刊)を底本としました。
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作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、作品の時代背景および著者(故人)が差別助長の意図で使用していないこと等をかんがみ、そのままとしました。読者のご理解を賜わりますよう、お願い申し上げます。