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海音寺潮五郎
史談と史論(上)
目 次
西郷南洲の悲劇
西南戦争遺聞
ぼくの見る西郷南洲
明治維新史管見
大西郷そのほか
乱世の英雄
森ノ石松
ボッケモン人国
殿様の限界
国定忠治
運命を操った男
お大名
玉の輿物語
田兵父子
チェスト関ケ原
仙女伝
秘剣示現流
武蔵の強さ
兵法家の異装
上泉伊勢守
兵法者
史談うらからおもてから
歴史随談
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[#見出し]  西郷南洲の悲劇
西南戦争はなぜ起こったかという問題は、史学上の謎になっている。密偵事件、暗殺嫌疑事件、火薬庫襲撃事件等々、こんなものは動機にすぎない。
大隅山《おおすみやま》の狩倉《かりくら》で、私学校壮士等暴発の報告に接した西郷が、
「ああ、大事去る。この上はもうしかたがない。おはん方にわしのいのちを上げよう」
と言ったことを、多くの人は一つの証拠として、西郷は愛する子弟に快心《かいしん》せしめて死ぬ決心をしたのだという。
それもほんとであろう。しかし、それだけであったろうか。
征韓論に破れて西郷が鹿児島に帰った翌年正月、征韓論の同志であった板垣退助、副島種臣《そえじまたねおみ》、後藤象二郎、江藤新平等が、民選議院設立の建白書を政府に提出するにあたって、彼等は林有造(十数年前に物故した自民党の林譲治代議士の父)を西郷の許《もと》につかわして、賛成連署をもとめた。それにたいして西郷は、
「趣旨においては賛成である。しかし、天下のことは議論ばかりではラチの行くものではごわはん。わしは先ず今の政府を改革することが先決であると思いますから、連署はしもはん」
と、答えている。これが一つ。
故山に帰って後、西郷は私学校を設立している。単に学問だけを授ける学校ではない。武力をも養成鍛練する学校だ。これが二つ。
この二つのことを結び合わせて考える時、胸中深く西郷の描いている意図がいかなるものであったか、よくわかると思う。
西郷はクーデターを意図していたとぼくは信じている。
ぼくの解釈では、西郷は飽くなき理想家だ。彼は理想家であったが故に、旧幕の政治にあき足らずして革命家となったが、またそれ故に自分等のこしらえた維新政府のありようにも不満であったのだ。
「こんなつもりでは、なかった」
という気持は、常に彼の心を去らなかったに違いない。
明治三年七月、薩藩士横山|安武《やすたけ》(後の文部大臣森有礼の実兄)が、時勢に慷慨《こうがい》して、時弊《じへい》十ヵ条を指摘した諫書を政府に提出して太政官正院の前で自殺したことがあったが、後に安武の碑が立つ時、西郷は身参議でありながら、自ら筆を取って、その激烈な慷慨の情に共鳴同感する意味の碑文を草《そう》している。安武の不満は西郷の不満であったのである。
板垣退助の談話としてこんな話も伝えられている。
西郷が一向|太政官《だじようかん》会議にも出勤しないので、板垣が病気と思って見舞に行くと、西郷は病気ではなかったが、ひどく憂欝げな顔をしている。
「どうなさったのです」
と、板垣が言うと、西郷は答えた。
「わしは近々に役目をひいて、北海道に行って百姓になろうと思うとります。今の世の中は、わしなどの言うことはまるで行われはしもはん。わしはもう精《せい》が切れました」
板垣は容《かたち》を正し、声をはげまして言った。
「これは心得んことを申される。一体、旧幕を倒して新政府を立てた中心人物は、あんたじゃありませんか。そのあんたが、そんなことを言って逃げようとなさるのは無責任でありますぞ。政府に悪いところがあるなら、なぜこれを正すことに努力なさらんのです」
すると、西郷は満面真赤になり、汗を流し、ガタガタふるえ出した。あの巨体だから家鳴り震動した。ポロポロと涙をこぼしながら、西郷は押し出すように言った。
「すまんことを申しもした。いかにもあんたの仰っしゃる通りでごわす。お互いしっかりやりもそ」
この話は、西郷の無比の誠実さを物語る話であるが、同時に、彼がいかに新政府のありように不満であったかを語るものである。
朝廷の高官等が、かつての革命時代の艱苦も、民の疾苦も、日本のおかれている危機も知らず、壮大な邸宅に住み、軽車肥馬に乗じて出入する中に、身、太政官参議でありながら、質素な邸宅に住み、薩摩絣に木綿袴をはき、一僕を従えて徒歩で太政官に通う西郷の生活態度の中には、一身を以て警世しようとの気持があったと、ぼくは思う。
維新前、薩藩を代表して天下に周旋している時代の西郷は、決してあの素朴|木強《ぼつきよう》な風采ではなかった。黒縮緬の紋付羽織に仙台平の袴、白足袋という堂々たる風姿であったというのだ。
事実、維新政府は、出来て幾年も立っていないのに、腐敗堕落の徴《しるし》歴然たるものがあった。山城屋和助事件における山県有朋、尾去沢《おさりざわ》銅山事件における井上馨《いのうえかおる》。旧幕の悪代官でもしないような醜怪な汚職をやり、司法当局がこれを摘発しようとするのを、政府は極力おさえつけて不問にしたのだ。
誠実な西郷にとっては身を切られるようにつらかったろうし、火のごとき憤激を感ぜずにおられなかったろう。
西郷が征韓論を唱えて、あれほど狂熱的になった心理は、この維新政府の腐敗に対する彼の憤激を考えないでは、解釈はつかない。この間のくわしいことは、ぼくの小説「明治太平記」を読んでいただきたい。
井上馨の汚職は、この後もあるらしい。西南戦争直後におこった藤田組の贋札事件に、井上が関係しているらしいことは、少しこの時代の歴史を調べた者は誰でも気づくことだ。ぼくは井上と西郷との関係を維新前後にわたってくわしく調べてみる必要を感じている。西南戦争の原因について、きっと意外な発見があると思う。
このような次第であるから、ぼくは西郷は征韓論に破れて故山に帰る時、すでにクーデターの意図を抱いていたと断ぜざるを得ない。ただ、それが明治十年のはじめに起たざるを得なくなったことは、彼としては意外であったろう。時期尚早であることを、西郷はよく知っていた。しかし、彼の知らない間に、矢は弦を離れていた。
「わしのいのちをおはん方に上げよう」
ということばになったわけだ。
西郷のこのクーデターのもとは、安政五年に、島津斉彬《しまづなりあきら》が計画して実行の直前に急死したために果たすことの出来なかった、あれにあると、ぼくは思う。
井伊直弼《いいなおすけ》が大老に就任して、天下の輿論、朝廷の意向を無視して、乱暴な反動政策をとりはじめた時、斉彬はクーデターを計画した。薩摩の精兵をひきいて京都に上り、朝廷に乞うて幕府に幕制改革の命を下してもらう、幕府もしきかずんば兵を用いんとおびやかして、無理にもきかせるという策だ。
不幸、斉彬は実行にうつすことが出来ないで死んだが、後四年、文久二年になって、島津久光によって踏襲されて、ある程度の効果を上げている。
西郷もまたこの策を踏襲しようと考えたのだと思う。斉彬は、西郷にとっては主君であると共に師であり、大恩人である。西郷は斉彬の薫陶《くんとう》によって天下のことに目ざめ、斉彬の引き立てによって天下の名士となったのだ。誠実な彼は終生斉彬にたいして神にたいするが如き崇敬《すうけい》と、親にたいするが如き愛情を捧げている。この人の立てた計画だ。彼にとって魅力でないはずはない。
しかし、もうクーデターの行われる時代ではなくなっていた。少なくとも南のはての薩摩から出かけて来て行える時代ではなくなっていた。旧幕府とちがって、政府は優秀にして多数の軍隊を持っていた。電信のある時代であった。多数の汽船のある時代であった。汽車さえ短距離ながらある時代であった。
西郷は、もともと悲劇的人物だ。彼の生涯はどの部分を切っても小説的だ。こんな人物は悲劇の人にきまっている。「無事これ貴しとなす」という諺《ことわざ》さえあるくらいだ。悲劇は彼の性格の中にあるのだ。絶対に満足することなき理想主義者的性格の中に、同時にまた、彼が斉彬から脱出することの出来なかったところにもある。あまりにも偉大な斉彬であったためであろうか。西郷の誠実すぎた性格のためであろうか。
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[#見出し]  西南戦争遺聞
ひえもんとり
里見ク氏の初期の作品に「ひえもんとり」というのがある。薩摩の武士であった氏の父上か祖父《じい》様かの経験談を材料にした小説である。
徳川幕府の首斬役《くびきりやく》であった山田浅右衛門がその手にかけて処刑した罪人の「胆《きも》」を取っておいて、所望の人に売り、それが山田家の少なからぬ収入になったことは、世に知られていることだ。その時代の人々は、人胆《じんたん》は起死回生の妙薬であると信じられていたのである。
「ひえもんとり」は、このキモ取り競争であった。
藩政時代、薩摩では、死罪人があると、藩の若い武士等が刑場のまわりに集まって、竹矢来にとりついて待機していて、罪人の首が落ちるや、一斉に、矢来を破って突入し、罪人のキモを切り取り、先ず取り得るのを手柄とした。
殺伐残酷、現代の我々からすると、よくもそんなことが出来たものと疑われるようなことだが、当時の薩摩の武士等には、武士として最も必要な資格である胆勇と敏捷さを鍛練するに最も適当した競技と信ぜられ、これに優勝することは大名誉とされたのだ。
里見氏の小説は、この事実を書いたもので、非情痛烈な味のある、いい作品であったように記憶している。
こうして取り得た胆は、陰干しにして干しかためて、その家に所蔵し、アサヤマ丸《がん》と称し(多分浅右衛門丸のサツマナマリであろう)、もう助からぬというほどの重病にかかった時、少しずつ削って服用した。
ぼくの少年時代までは、ぼくの家にもそれがあった。
ぼくはのまされた記憶はないが、弟や妹がのまされたのをおぼえている。
これはぼくの中学時代下宿していた家のおじさんに聞いた話。
ぼくの出た中学は、鹿児島の北方六里、鹿児島湾に沿った加治木《かじき》という町にあった。ぼくの少年時代は、中学校の数が非常に少なくて、ぼくの生れ在所《ざいしよ》には中学がなかったので、ぼくは数え年十三の時に親許をはなれて、十九里はなれたこの町に来て、この町の士族の家に下宿して中学に通った。
五年の時、下宿した家は、加治木の町はずれの岩原というところにある家で、下宿のおじさんはゼンソク病みで、いつもゴホンゴホンと咳をしている人であったが、いかにも薩摩士族らしく気性のはげしい人であった。
ある日、このおじさんが、西南戦争の時の思い出ばなしをしてくれた。
西南戦争の時、おじさんはやっと十で、したがって戦争には行かなかった。おじさんのお父さんは西郷軍の一人として出ていたのでおじさんは祖父母とお母さんと四人ぐらしで暮らしていた。戦さがはじまって四五ヵ月も経った頃のある日、官軍の密偵が捕えられて、近所の松並木で斬られることになった。
物見高い年頃だ。おじさんは、友達数人と見物に行った。
密偵は年頃二十二三の屈強な男で、旅商人に変装していた。薩軍の兵士等に曳かれて来て、並木の松の間に引きすえられて、罪状申し渡しの上斬られた。
こんな場合よくあることで、見物人の間から悪口雑言が投げつけられたが、男は始終おちつきはらって、微笑すらふくんでいたので、最後には皆黙ってしまった。
「あっぱれじゃ。男はあげんなかといかん」
処刑がすんだ後、人々はこう言って感心しながら帰った。今日においてもそうだが、薩摩人ほど男らしさと強さを珍重する人種はまれだ。
処刑のあったのは夕方だったので、帰るとすぐ食事であった。
おじさんは胸が悪くて、ほとんど食べ物がのどを通らなかった。
その頃、おじさんの家に訪ねて来た者があった。
知り合いの城下士族で、やはり西郷軍の一人として出陣している人であった。
隊の用事で鹿児島まで帰る途中だという。
おじさんの家では、食事をふるまったり、前線の景況を聞いたりしていたが、ふと、今日斬られた官軍の密偵の話になった。
「まだ若か男じゃったということでごわしたが、おちつきはらって少しも悪びれる様がなかったちゅうことで、敵ながらあっぱれなものじゃったと、皆な感心していもす」
と、おじさんの祖父《じい》さまは語った。
「ほう。そうでごわすか。あっぱれなものでごわすなあ」
と、客は感心していたが、ふと、
「そげん胆太《きもふと》か男、一見して、あやかりとうごわす。処刑の場所はどのへんでごわすか」
と、言い出した。
「そうでごわすか。案内させもそ。孫は見物に行ってよう知っとりもすから」
おじさんは狼狽した。行きたくなんぞなかったが、薩摩の少年として、こわいから行かんなど言うことは出来ない。半ベソの有様で、案内に立つことになった。
少し前から雨がショボショボ降り出している中を、蓑笠姿で、提灯をつけて出かけた。
その場に行きつくと、客はおじさんから提灯を受取って、死骸に近づいて行った。
おじさんはこわいから、そちらを見ないでいた。
客はしばらくモソモソしているようであったが、やがてひとりごとを言う。
「ホウ、もう誰《だい》か来て取って行ったな」
見ないではおれなかった。チラリとその方に目を向けると、客は斬口のところから手をさし入れて、しきりに胴体をかきさがしていた。
ショボショボと雨の降る深夜の並木道のことだ。
「あげんおそろしかったことは、生涯のうちにごわはん」
と、おじさんは話を結んだのである。
千石角力
西南戦争の時、ぼくの父は十四だった。この時薩軍は出陣の資格を十五歳以上ときめたので、出陣はしなかったが、戦禍はまざまざと経験している。
戦さは二月にはじまったのであるが、四月になると、薩軍は熊本城の囲みを解いてぼくの村から八里の地点にある人吉《ひとよし》にこもった。ここで備えを立てなおしてまた進出するつもりであったが、八代《やつしろ》の奪還に失敗すると、人吉は官軍の猛攻撃を受け、薩軍は四分五裂となって敗走した。
この時、ぼくの村に逃げて来たのは、逸見《へんみ》十郎太にひきいられた雷撃隊と、池辺吉十郎にひきいられた熊本士族隊とであった。
この両隊は、人吉から追撃して来る官軍を食いとめるために、村の北部の丘陵に陣地の構築をしたのであるが、その陣地構築の間のこと、村の子供らはよくこの山に遊びに行って、熊本隊の兵士等と仲良しになった。角力《すもう》をとって遊んだというのだ。ぼくの父は、子供の頃大へん角力が好きで、子供なかまでは一番強かったので、最もしげしげと出かけた。
熊本隊の兵士に、牛島なにがしというのがいた。色白の、よく肥った、角力とりのような体格の青年であった。一番角力が上手であり、気もやさしかったので、少年等に一番慕われていた。
「もんでやるばい。さあ、誰でもよか、おいで、おいで」
と、大きな腹をたたいては子供等に呼びかけて稽古をつけてやり、色々と手を教えてくれた。しかし、数日の後、官軍が南下して来ると、もうそんなことはしておられなかった。子供らは家族と共に逃げて、戦禍を避けた。山に穴を掘り、上に板をわたして雨覆《あまおお》いとし、その中にひそんでいたのだ。
その日一日、その夜一夜、砲声と銃声と喊声が終夜聞こえて来て、すさまじかった。皆、声をひそめて|ひっそり《ヽヽヽヽ》していたが、当時五つか三つであった父の弟が、砲声の轟く度に、大きな声ではしゃぎさわぐので、家族一同閉口したという。
陣地は、一日一夜の戦闘で奪取され、薩軍も熊本隊も村まで退《さが》って来た。
一時銃声がやんだので、父は両親の目をぬすんで村まで行ってみると、同じようにして家族共からのがれて来た子供等が沢山いた。
熊本隊の連中は、村の中ほどにある神社の境内に集結していた。全員酒に酔っている。鏡をぬいた焼酎樽からヒシャクで酌み出しては、グイグイとあおりつけて、歩行にたえないほどに酔っている。
少年らは、牛島さんを見つけて声をかけた。
「牛島さん。おはん達は戦《ゆ》っさに負けやったのか」
「ああ、負けた、負けた。しかし、戦さはこれからばい。これから行って、官の奴ば追っ散らして、陣地ばとりもどすとたい」
「焼酎なんど飲んで、そげん酔うて行ったら、また負けやるぞ」
「ハッハハハハ、ばってん、酔うてでも行かンば行けんたい」
といいながら、ヒョロヒョロしながら、牛島さんはなおグイグイとあおりつけた。
日が暮れかけたので、少年等はそれぞれのかくれがに帰った。父もかえった。
その夜、熊本隊は陣地を奪還すべく逆襲したらしく、一時はげしく銃声がつづいたが、間もなくばったりやんだ。
(熊本隊のおじさん達は、官を追いはろうて陣地を取りかえすことが出来やったじゃろうか)
シーンとなった夜気に耳をすましつつ父は心配して、長い間眠れなかった。
翌日になってわかった。熊本隊の計画は完全に失敗して、熊本隊も、逸見隊も、散々に撃退され、もう村にも踏みとどまることが出来ず、南へ南へと敗走をつづけたのであった。
この戦争がすんで十数年経って、父はもう壮年になっていた。その頃、角力取りの一団が、巡業して村に来た。今では地方巡業する角力団体といえば東京角力だけだが、当時は大阪角力もあったし、また地方地方の角力取り連が一団となって巡業して歩くこともよくあったのだ。村へ来たのは、熊本鹿児島両県の角力取りが合同しての巡業隊であった。父はこの中に牛島さんを見つけた。角力取りとしてはもう年を取りすぎていて、強くもなかったが、たしかにその人にちがいなかった。そこで、父は、
「ああた、牛島と仰っしゃらんですか」
と、たずねた。しかし、その男は、
「ちがいますばい。あたしは近藤といいますたい」と答えたという。
「武士であった身が角力取りなんぞになり下ったのを恥かしゅう思うたんじゃろうて」
と、父は、後年ぼくに話した。
この話を材料として、ぼくは戦前、「千石角力」という小説を書いた。
風塵帖
西南戦争後、軍事裁判があって、西郷軍に参加した者はそれぞれ裁判され、平兵士はかまいなし、役付であった者はその階級に応じて年限をきめて懲役となった。しかし、最初はこの標準がわからず、どんな罪に処せられるかと不安がって、逃げかくれする者が多かった。
ぼくの遠縁にあたる人は、はじめ平隊士として出陣したが、中途で小隊長に任命されたため、大へん捕縛を恐れて、親戚や縁故をたよって、しばらく逃避をつづけた。
ぼくの家の蔵の二階もそのかくれがになったのだが、その頃、隣村の者で官軍の諜者《ちようじや》になっている者があって、毎夜のようにやって来て、家の周囲を嗅ぎまわるのに、一族の者が気づいた。
「どうやら、あいつ、嗅ぎつけとるらしかぞ」
「うるさかことになったな。どうしよう」
「背に腹はかえられん。斬ってしまおう」
「斬る?」
「死骸は蔵ンうしろの里芋畑に埋めてしまえばよか」
「よかろう」
乱暴な話だ。忽ち相談がきまって、昼の間に里芋畑に深い穴を掘った。斬ったらすぐほうりこんで、サッと土をかけてしまおうという段取りだ。夜になると、一族の壮年の者共は手分けして邸の周囲の要所要所に身をひそめた。父は少年だから見張り役だ。その男の来るであろう道に沿った藪の中に潜伏した。姿を見かけたら、直ちに注進に及ぶというわけだ。
秋の最中《もなか》のこと、夜寒むがソクソクとしみる季節だ。父は寒さと恐ろしさのために、ふるえがとまらなかったという。
「あげんおとろかしかったことは、生涯の中に覚えん」
と、後年話して聞かせた。
ところが、双方にとって幸いであったことは、毎夜のように来ていたその男が、その夜から来なくなったのだ。
そのうち、処罪の標準もわかったので、おじは名乗って出て、長崎裁判所に送られ、刑の言い渡しを受け、三年の刑期をおえて帰って来た。
後年、父はその諜者であった男と会う度に、実に変な気がしていたが、ある時、酒の席で一緒になった時、酒興に乗じてその話をすると、相手は青くなって、
「人間には運ちゅうものがあるもんでごわすな。おはんの家が怪しか思うて、ずっとさぐっとったのでごわすが、あの晩から腹下しをわずらいもして、七八日も寝こんでしもうたのでごわす。わしは残念でたまらんじゃったのでごわすが、思えば、あの腹下しがわしを助けてくれたのでごわすな」と、言ったという。
犬ころし
ぼくの父は豪傑肌合いの性質で、その死んだ時、人々が「これで最後の薩摩隼人がなくなった」といったくらいの男であった。吏党民党のさわぎの時など、壮士団長としてあばれまわった武勇伝的逸話は、当時を知る古老に後年に至るまで語り伝えられたほどであったが、それでいて戦争が大きらいであった。おそらく、子供の時に経験した戦争の惨禍《さんか》と恐怖が身にしみていたのであろう。西南戦争の時は、ちょうど植付時に村が戦場になったので、その年は植付が出来ず、ずいぶんひどい年を送ったという。
父は太平洋戦争の勃発二月位前に死んだがその頃の軍人をこういって罵倒《ばとう》していた。
「近頃の軍人のカッコウはありゃなんじゃい。昔は犬殺しがあげんカッコウをしていたもんじゃ」
戦闘帽をかぶって軍刀をさげている姿が、父にはそう見えたのである。
今日なお好戦的言辞を吐く人がいるが、そういう人は、戦争中戦争の苦しみのない所にいた人にちがいない。まともにあの苦しみを味わった者は、前線と銃後を問わず、二度とあんな目に逢いたいと思うはずはない。
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[#見出し]  ぼくの見る西郷南洲
上野の西郷の銅像が建ったのは、明治何年だったのだろう。
その時のこととして、参議院議員の西郷吉之助(南洲の孫)さんから、西郷家に伝わる話として、こんなことを聞いたことがある。
銅像が出来て除幕式の時、南洲未亡人の糸子さんも薩摩から出京して列席したのであるが、幕が除かれて銅像の全貌があらわれた時、糸子夫人は、「アラヨウ、うちの人はこげん人じゃなかったこてぇ(主人はこんな人ではなかったのに)」とつぶやいた。すると、隣りにいた西郷従道(侯爵・南洲の弟)が糸子夫人の足をふんで、
「シッ!」
とたしなめ、式のおわったあと、家族だけが集まった時、
「あン銅像は世間の人々が故人の遺徳を慕うて、金を出し合って建てて下さったのでごわすから、西郷家のものからかれこれ批評がましいことを言うてはならんのです」
と言ったという。
「祖母としては自分のご亭主があんな粗末な身なりをしているのがいやで、ちゃんとした服装にさせたかったのでしょうね。女ですからね」
と吉之助さんは言って笑った。
こんなわけで、西郷家からは文句を言わなかったが、その後生前の南洲を知った人々の間に、どうもあれは真の姿を伝えていないようだという批評がおこり、薩摩出身の洋画家|床次正精《とこなみまさよし》(大正・昭和初年の政治家竹二郎の父)に頼んで、キヨツネの描いた南洲像を土台にして、南洲を知っている人々の記憶をモンタージュして、肖像画をつくった。これが今日最も真に近いとされている南洲の肖像で、紋服姿のものである。
銅像の方も、鹿児島県でその動きがあり、昭和の初年、彫刻家安藤照に頼んでつくり、現在鹿児島市の山下町に桜島を遠望している姿で建てられている。これは陸軍大将の軍服姿で、帽子はかぶらず、軍刀を杖づいている。
つまり、南洲の肖像は、画でキヨツネの描いた洋服姿のものが一つ、モンタージュした紋服姿のものが一つ、銅像で上野の山の高村光雲作が一つ、鹿児島市の安藤照作のが一つと、都合四種類あるわけだが、一般の人々に最も強く印象されているのは、上野の銅像だ。人の多い東京のしかも最も目立つところにあり、時間的にも長期にわたっているからでもあるがそれだけではない。一般庶民は、西郷の生前から西郷を自分たち庶民の味方であると思っていたのだ。西郷はあの形で具象化するのが最も庶民の感情に合うのであり、彼の本質もそこにあったとぼくは見ている。
西郷は生涯庶民の感情を失わない人であった。
彼は十七八の頃から藩の地方《じかた》役人となって、郡奉行の下で書役をつとめているが、農民の境遇に常に同情的で、貧しい百姓の窮迫を救ったことが一再でない。奉行に話をして、税をゆるめてもらってやったこともあり、自分の俸給をなげうって扶助したこともある。彼の家は貧しくて、彼が地方役人となったのも家計を助けるためであったので、その俸給は彼の家にとってはきわめて重要なものであったのだが、気の毒な境遇の人を見ては、彼はそれを忘れるのだ。彼が最初に島流しになったのは、罪人としてではなく、幕府の目から彼をかくすためだったので、藩は彼に扶持をつけた。だから、彼の奄美大島での生活は豊かとまではいえずとも、不自由なく行けるはずであった。ところが、彼は島人《しまびと》の貧しい老人や病弱なものを見ると忍びない。自分の食い扶持を割いてあたえるので、彼自身は薯で飢えをしのぐよりほかはないことがよくあった。彼は大島でアイカナという娘を島での妻にしているが、そのアイカナがなげくと、
「わしらは元気で若いのじゃ。薯を食うていてもいのちに別条はなかが、老人や病人は、そうは行かん。米を食わせてやらんとなあ」
と言ったという。大島地方で生産する黒砂糖は薩藩の重要な財源になっていたので、藩はこれに厳重な規則を設けて、百姓らが砂糖をたがいに売買することを禁ずるのはもちろんのこと、子供らが砂糖きびをかじっても処罰し、百姓の納むべき額も過重であった。西郷は藩庁に建白して、もう少し民の気持になってもらいたいと書きおくったり、権威をかさに着て威張りまくっている役人をこらしめたりしている。
この類の西郷の逸話は非常に多いが、最も彼の面目のあらわれている話がある。
征韓論で破れて彼が鹿児島にかえってからのことだ。鹿児島市から五里ほど離れた帖佐《ちようさ》という村で百姓一揆がおこった。県庁では事態を心配していると、西郷が来て、
「わしが行って話をつけて上げもそ」
という。当時の県令は大山綱良、西郷とは維新志士時代からの同志だが、さすがに、
「おはんが行って下さる?」
とおどろいた。
「行きもそ。しかし、これは県庁の役人の仕事じゃから、軍人であるわしでは工合が悪か。県雇いの辞令を出して下され」
といって、雇員の辞令を出してもらって出かけた。
おそらく、西郷としては、陸軍大将である自分が一揆鎮めに行けば、討伐ということになって、百姓らに工合のわるいことになると思ったのであろう。征韓論決裂のあと彼の提出した辞表は、参議の職を免ずることだけは受理されたが、陸軍大将の職を辞することは受理されていない。名義の上では依然たる現職の陸軍大将だったのだ。こういう筋道の立て方は現代の人にはよく理解出来ないかも知れないが、この時代の人は、神経質と思われるまでに立てたものである。
伊藤仁斎は江戸上期の儒者として、学識と徳行をもって世に重んぜられた人だが、ある時仁斎の堀川塾の玄関に、荒々しい相貌の浪人が来て、
「当家の先生は人に仁愛の道を説き教えていなさるという。門弟衆が多くて、くらし向きもきつう豊かであるという。拙者多年の浪人にて貧窮し、その日のたつきも立ちかねるによって、合力していただきたい」
と、脅迫半分に談じこんだ。
仁斎は門弟数人と談話している席で、とりつぎのことばを聞いた。門弟らは、拙者らが出てことわりましょうと言った。
仁斎はその顔を見て、
「そなたではいくまい」
といい、さらに一人一人門弟らを見て、こなたでもいかぬ、そなたもいかぬ、やはりわしが出るよりほかはない、といって玄関に出て、ぴたりとすわって、
「そなた様貧窮じゃによって合力してくれとのことじゃが、それはならぬことじゃ。人に合力するほどの金もござらぬが、たとえあっても、道というものがござるによって、わしがままにはならぬのでござる。わしの奉じている聖人の道は、すべて親より疎に、近くより遠くへ及ぼすのを順とすることになっている。そなた様より親しく近い人がわしにはたんとござる。その人をとびこえて、縁もゆかりもないそなた様にめぐむのは道ではござらぬ。されば、合力申すはならぬことでござる」
と、ていねいにことわったところ、浪人は一言もなく、わびを言ってかえって行ったという話がある。右翼団体からせびられて少しくらいのことはつき合った方がめんどうがなくてよいと、わけもなく金を出す現代の実業家や政治家とはちがうのである。
仁斎は江戸上期の学者だが、このようになにごとにも筋道を立てる行き方は、学者世界だけでなく一般武士の間にも行きわたっていたのである。
さて西郷が帖佐村に行ってみると、西郷先生がおいでになるといううわさを聞いただけで、一揆は静まっていた。西郷を迎えた戸長(村長)の黒江《くろえ》某は西郷に事情を話した後、こう言った。
「わたくし共の立場はまことにこまるのでごわす。お上に味方してよかのか百姓らに味方してよかのか、板ばさみになりもして」
西郷はきいた。
「おはんはどちらに味方したかのでごわす」
「そりゃ百姓共に味方しとうごわす」
すると、西郷は言ったというのだ。
「それでようごわす。常に百姓に接しとる者が百姓に味方せんで、どうして百姓が立ち行きもすか。常に百姓に接していながら、百姓の味方をせんでお上の言いなりになっとるようなものは姦吏でごわす」
西郷が常に庶民の側に立っている人であったことがよくわかるのである。同時に、ここが彼が明治政府の一員としてとどまっておられなかったところでもある。彼が政府から去ったのは征韓論のためではない。征韓論は動機であったに過ぎない。彼は官僚にはぜったいになれない性格であった。あまりにも庶民的である故に。
江戸城開城となった時、西郷は官軍大参謀として、勅使橋本|実梁《さねむね》、副使柳原|前光《さきみつ》に従って、江戸城を受取った。
この時のことだ。元来、江戸城本丸の大手の玄関は江戸時代は老中・御三家のほかは提げ刀では入れない規則になっていたのだが、今や勝利者としての城受取りであるから、官軍の幹部らは、大威張りで、胸をはり、肩をそびやかし、提げ刀で入った。田舎侍として幕臣らに軽蔑されること二百七十年にわたる屈辱感が一時に晴れる気がしたろう。ところが、事実上の司令官である西郷は、いかにもきまりわるげに、あの大きなからだの肩をすくめ、刀を胸に抱いて入った。
これを山県狂介(有朋)が、
「実によい風情であった」
と、あとでほめている。
奥羽戦争の時、庄内藩が降伏した時のことだ。藩主自ら西郷の本営に来て降伏したのであるが、これを迎える西郷の態度は実にうやうやしく、平伏して応対した。
この時、西郷に随従していた高島鞆之助(後の革丙・中将・子爵)は不平で、
「先生の唯今の応対ぶりはあまりでごわす。あれではこちらが降伏したようでごわす」
と言ったところ、西郷は笑って、
「あれでよかのじゃ。向うは戦さに負けて降伏するのじゃ。心中非常な恐れを抱いとる。それにたいして、こちらが尊大厳格にかまえていたら、言うことも言えんじゃろうが」
と言ったという。庄内藩の人々が話を伝え聞いて感激し、今日に至るまで庄内には西郷敬愛の気風が盛んであるという。
維新の事業がひと先ず片づいて、論功行賞が行なわれた時、西郷の功績は各藩諸士第一であるというので、正三位に叙せられたが、西郷は主君である島津忠義が従三位でしかないというのと、田舎侍には位階などいらないと、再三再四辞退して、ついに辞退しとおしている。
これらのことを、現代の歴史家は西郷の封建性だという。しかし、人間の性質に封建性などというものがあるだろうか。ぼくは西郷の庶民的誠実さだと思う。調子に乗って威張る人間をきらうのは庶民の感情である。西郷にはその庶民的誠実さがあふれるばかりにあったのだと解釈している。
西郷は明治政府のありように常に不満であった。彼が幕府をたおしたのは幕府政治の弊害が山積して、彼の抱いている理想政府とあまりに違いすぎていたからだ。
「たたきつぶして、理想の政府をこしらえよう。そして、道義行われ国民皆幸福で、国富み兵強く、列強の脅威の中にもびくともしない国をつくろう」
と考えたのだ。
だのに、出来た政府は彼の理想には、はるかに遠いものであった。民は重税に苦しみ、昨日までの革命の同志は高位高官にのぼったのはよいとしても、驕奢安逸にふけり、中には職権を利用して私腹を肥す者まで出て来た。尾去沢銅山事件における井上馨がそうだし、山城屋和助事件における山県有朋がそうだ。
「こんなつもりで、わしらは幕府をたおしたのではないはずだ。非命にして死んで行った同志の人達にもすまない」
と、誠実な西郷は身を切られるようにつらかったろう。
彼は太政官の首席参議でありながら粗末な住宅に住み、粗末なものを食べ、木綿の着物に小倉袴をはき、一僕を従えて、太政官に出仕したのであるが、必ずやそれは身をもって高官らを警醒しようとしたのであろう。
明治三年七月二十六日に、薩摩藩士横山安武(後の文部大臣森有礼の実兄)が、新政府の腐敗を慷慨して、時弊十ヵ条を指摘した諫書を政府に差し出し、太政官正院の前で切腹して死んだという事件がおこった。その十ヵ条を少し上げてみよう。
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一、旧幕府の悪弊が新政府にも移って、昨日非としていたことを今日では是としている。
一、官吏らその高下を問わず、から威張りして外見を飾り、内心は名利のとりこになっている。
一、政令朝に出でて夕べに改まり、民は疑惑して方向に迷っている。
一、駅毎に人馬の賃銭を増し、その五分の一を交通税として取っている。(鉄道運賃の値上げなどこれですな)
一、政府が心術正しき者を尊ばず、才を尊ぶがために、廉恥の気風は上下ともに地をはらっている。
一、愛憎によって賞罰する。
一、官吏が上下ともに利をこととし、大官連がわがままで勝手なことをすること目にあまる。
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この横山の碑が明治六年に東京に建てられた時、西郷はその碑文を書いているが、その中にこうある。
「この時にあたり、朝廷の百官、遊蕩驕奢にして事を誤るもの多く、時論|囂々《ごうごう》たり。安武すなはち慨然として自ら奮つて謂《いわ》く、王家衰弱の極ここに兆《きざ》す。いやしくも臣子たるもの、千里万慮、もつてこれを救はざるべからず、而も尋常の諫疏《かんそ》は、百口《ひやつこう》これを陳《の》べ力《つと》むといへども、矯正する能はざらん、寸益なきのみ、一死もつてこれを諫むるにしかず、もし感悟するところあらば、豈に小補なからんやと。すなはち諫書を作り、持ちて集議院に至り、これを門扉に挿みて退き、津軽邸の門前にて屠腹す」
西郷は横山の憤りに同感し、その行為に共鳴しているのだ。身参議でありながらだ。
西郷の評判は生前まことにすさまじいものがあり、それは征韓論の席上で中座しようとして西郷に一喝されて以後、生涯西郷に好意をもたなかった大隈重信まで認めている。
「西郷の評判は実にすごいものがあった。どういうわけだか知らんが」
といっている。
庶民は、西郷のうちに自分たちの味方を感知していたのだ。
「あの人は維新第一の功臣だ。政府で一番えらい人だ。それでありながら、自分らの味方をしてくれるんだ」
と思っており、これがその評判になったのだとぼくは解釈している。
この感情は、水戸黄門漫遊記をつくり出し、これを喝采する庶民の感情に通うものがある。政治がうまく行っていない時、庶民は必ずこういうスーパーマンにたいするあこがれを持つものである。
こういう西郷がどうして封建的なのか、学者というものは不思議な考え方をするものだ。思うに、論理でばかりものを考え、感情と魂でも考えることを忘れているからであろう。全身全霊をもってしない思考は、常に真相を逸するのである。
西郷は政治家として優秀な素質があったとはいえない。西郷のもとめる国家や社会は理想国家であり理想社会だ。常に最善をもとめるのだ。彼のあまりにも鋭い良心がこうさせるのだ。この点でも彼の希望は庶民的だ。庶民は常に理想社会をもとめ、理想国家をもとめるのだ。ところが、政治家の心中にあるものは常に条件だ。条件を勘定に入れる以上、そのもとめるものは理想ではない。次善であり、三善だ。
西郷は軍人として、戦さ上手であったとは言えない。政治家としては上述のような意味で失格だ。けれども、彼が英雄であったことは疑うべくもない。しかも最も良心的で、最も誠実で、最も清廉で、最も愛情深い英雄であった。こんな英雄は、宗教的英雄以外には、東西古今に例がない。彼が哲人的英雄であるといわれるゆえんだ。江戸時代三百年の、最もよき意味の儒教にあって陶冶された武士教育の産んだ、最も見事な花であると、ぼくは見ている。
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[#見出し]  明治維新史管見
世界の近世史は、十五世紀末にコロンブスがアメリカ大陸を発見した時にはじまる。
この時からしばらく、西欧諸国はいわゆる大航海時代に入って、新しい土地の発見がつづくが、これが西欧諸国が封建時代を脱して統一国家となる原因となった。
元来、ヨーロッパ諸国の王権はきわめて微弱なもので、いわばその国内に割拠《かつきよ》する諸侯の旗頭《はたがしら》くらいのものにすぎなかったのであるが、新しく発見した土地を植民地として富源を開発搾取することによって、王家の勢力は次第に強大となり、ついに封建諸侯を圧倒し、無力化して、強力な王権を確立し、十七世紀頃には、ヨーロッパの国々の多くは、政治的には完全に封建時代を脱して、統一国家の時代となりおえた。
さらに、この傾向を一層進めたのは、十八世紀の中頃から十九世紀の前半にかけて、ヨーロッパに行われた産業革命である。これによって、ヨーロッパにまだ残っていた封建的なものは一切整理されてしまった。国家の統一は益※[#二の字点、unicode303b]強固となり、国力は益※[#二の字点、unicode303b]盛んとなり、武力的に、経済的に、覇《は》をきそう、いわゆる帝国主義の時代となった。
各国間に植民地の争奪が行われ、産業方法の改革によって日に増大する生産品の市場の獲得競争が行われることになった。
幕末の鎖国日本には、北からロシア、南から英仏、東からアメリカの船が、実にひんぴんとあらわれて、開国通商をせまっているが、それは世界の各地をあさりつくした彼等にとって、日本がただ一つのこる未開拓な国であったからだ。せんずるところ、それらの船は欧米諸国の帝国主義の波頭《なみがしら》であったのだ。
維新史に、勤王思想や攘夷思想が大いに関係のあることは事実であるが、それらの面を余り強く考えては、維新史の本流を逸するおそれがある。
世界を挙げての国家統一の風潮、この潮に同調しての日本の国家統一運動、これが維新運動の本流であり、本質だ。この本流にくらべれば、攘夷も勤王も附帯的なものにすぎない。攘夷は欧米諸国の帝国主義の矛先に対する衝動的な自衛運動であり、独立の確認運動であり、勤王は統一の中心をもとめる動きであったと解釈すべきだ。
ついでに言っておきたい。維新時代における攘夷運動を単なる時代錯誤視するのは間違っている。現代の基地問題などを考え合わせるがよい。独立の確認運動があの形で出て来たのだ。
ヨーロッパ諸国の中で、この国家統一の気運におくれたのは、ドイツとイタリーであった。ドイツは西欧の東方の辺境にあって、東から来る異民族、たとえばマジャール人、たとえばスラブ人にたいする防波堤の役目をしなければならなかったので、この地方の諸大名は皆なかなか強力であった上に、その後の歴史の進行が諸大名の力を強化する方にばかり進んだ。一粒一粒が硬い砂はにぎりかためて団子にすることが困難だ。当然のこととして、ドイツの統一はおくれた。
イタリーもまたそうだ。地中海を利用しての東方貿易の根拠地として、多数の都市国家や国々が小さいながらに相当な強さで割拠していたので、なかなか統一の気運がおこらなかったのだ。
これらが統一国家となったのは、イタリーが一八七〇年(明治三年)、ドイツが一八七一年(明治四年)だ。日本とおッつかッつであるところ、よく考えるべきである。
この三国は世界の帝国主義競争に最もおくれて参加したわけで、これが第一次大戦の原因にもなれば、第二次大戦の原因にもなっている。第二次大戦中、「世界新秩序の確立」ということばが、枢軸国と称していたこの三国からしきりに叫ばれたのは、このためだ。寝坊して御馳走の分け前におくれた連中が、もう一度分配し直せと要求したようなものであった。
維新運動は日本の国家統一運動であると、ぼくは言ったが、それは自覚せられた統一運動ではなかったようだ。
最初は、外交の危機に臨んでの衝動的な国家強化運動となってあらわれた。ペリーの来航を機にして、まずおこったのは将軍|継嗣《けいし》問題であり、幕府の制度改革運動であった。政治の中心である幕府が弱体では日本は強力な国家になり得ないという所からおこったのであることは言うまでもない。だから、この時期には、皇室を尊敬する精神はあっても、勤王運動にまでは発展しない。すべて幕府強化運動だ。
この運動が、幕府なんぞたおしてしまえ、日本の中心には皇室を仰ぐべきだと変って来たのは、井伊大老の乱暴きわまる弾圧政治からだ。安政の大獄で迫害弾圧された志士達には、ただの一人も倒幕論者はいなかった。幕府を強化することが日本の危機を克服する最良の方法だと信じて、皆、その線に沿って運動していたのだが、井伊があまりにもひどい弾圧政治を強行したので、とうとう、幕府そのものに愛想をつかして、
「こんな風では、幕府は無益有害な存在だ、打倒すべし」
という気になったのだ。
皇室が日本人の精神上の権威の中心であるとの考え方は、ずっと昔からあったが、これが強化されたのは、江戸時代に入って盛んになった朱子学による。
朱子学において最も重んずるのは、「大義名分」だ。この倫理上の価値判断法には、必ず中心になる絶対善の主体がなければならない。朱子は司馬光《しばこう》の「資治通鑑《しじつがん》」を材料にして「通鑑綱目《つがんこうもく》」を編み、正統なる王者、非正統なる覇者を峻別《しゆんべつ》して、褒貶《ほうへん》の意をあらわしたが、歴史を縦につらぬいていつの世にも厳存《げんぞん》する王者のない支那では、これはまことに苦しい行き方であった。
しかし、この考え方は日本の朱子学者達に伝わった。彼等は日本の歴史を見渡して、「皇室」の存在が、一系相承けて続いているのを見て、小おどりして喜んだ。
「これこそ絶対善の主体でおわす。真の大義名分は日本においてこそ可能である」
とて、盛んに皇室の尊ぶべきことを説いた。この態度が最も強烈にあらわれたのは山崎闇斎《やまざきあんさい》にはじまる崎門学派《きもんがくは》の人々であり、水戸学の人々だ。あの浩瀚《こうかん》な「大日本史」が、南北朝の正閏《せいじゆん》をただす、ただそれだけのために述作されたものであることを以て見れば、それが大義名分を明らかにすることを目的としていたことは明らかである。
一方、儒学のこの盛行に刺戟されて、最初は歌学と古学の学問にすぎなかった国学は、江戸中期を少し下った頃から、思想と国粋的倫理の学問を加味して、皇室尊崇の精神の鼓吹に全力をあげるようになった。
このようにして、幕末になると、日本人中の知識人(武士、富農、富商)にして皇室尊重の念のない者は一人もないほどとなった。丁度、今日の知識人にして、主権の主体が国民にあることを、知らないものがないのと同じだ。
大衆小説や映画の大部分は、維新史を勤王佐幕の抗争とし、佐幕派の者には皇室尊重の念が更になかったようにあつかっているが、実際にはそうではなかった。佐幕派の者だって、それはりっぱにあったのだ。ある者は時の勢いや立場に制せられたのであり、ある者は政治の実務は幕府がうけたまわるべきであるとの考えから脱却することができなかったのである。
日本の支配階級の人全部の気持がこうである以上、幕府にかわって日本の政治の中心を皇室に持って来ようという考えが生じ、それが強力な運動となって来ることは、当然のなり行きである。国家強化運動はここに、「勤王倒幕」の旗ジルシをかかげ、ついに幕府をたおし、皇室を中心にした新政府を樹立し、次ぎに廃藩置県を断行して、日本は統一国家となったのだ。
この際、統一の中心を皇室にもとめる必要はなかった、なぜ民主制を採用しなかったかというのは、時代によって変る人間の気持を勘定に入れない論だ。バスチーユの牢獄が破れてからナポレオン三世の退位によってフランスが完全な共和国になるまで、八十一年も経っているのだ。
今日の目から見ると、維新運動はその進行途上において、いくつかの錯誤《さくご》を犯している。たとえば「王政復古」だ。これは当時としては看板としては非常に有利なものであったには相違ないが、これを根本的な目的として、その実現につとめ、神祇官と太政官の制度を復活したなど、大間違いであった。久しからずして、近代的の内閣制に切りかえねばならなかったのは、そのためだ。
しかし、最も根本的なもの――世界を挙げての統一国家運動の風潮、それには立派に乗っていた。明治の時代、日本の国運が上り坂をつづけ得たのは、そのためだ。
しかしながら、人間の営みで永遠なるものは何一つとしてない。かつては最も適合していたものも時代がかわれば不適当となる。賢明なる為政者は、世とともに推移して、これを適当なるものに切りかえて行く。今日の日本の非運は、その切りかえを忘れたためである。
ぼくの管見を以てすれば、第一次大戦後に世界を蔽うてデモクラシーの思潮が澎湃《ほうはい》としておこったが、あの時がその切りかえ時であった。しかるに、血迷った為政者や、軍部や、偏狭《へんきよう》な国粋家どもは、ロマノフ王朝のあの悲惨な最後も、ドイツ皇室の没落も、他山の石とすることを知らず、時勢おくれな絶対君主制に向って驀進し、ついには国は亡滅になんなんとし、皇室をもまた危殆に瀕せしめたのだ。
国家の盛衰存亡には、観念によって固定せられた正邪善悪などは無関係だ。適者生存の理法だけがきびしく支配するのである。
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[#見出し]  大西郷そのほか
なつかしき英雄
西郷隆盛が、最初に明治天皇に拝謁《はいえつ》したのは、慶応三年の歳末のある日であったろう。日ははっきりしない。
この年の十二月九日はいわゆる王政復古の大号令渙発の日で、諸藩の重立《おもだ》った家臣らも隣室に陪席《ばいせき》し、薩摩の家臣の小松|帯刀《たてわき》や大久保利通らもその中にいたのだから、あるいはこの日であったかも知れないが、西郷は藩兵をひきいて御所の諸門の警備にあたっていたようでもある。夜になって小御所会議の時は、確かに諸門の警備にあたっている。小御所会議は前将軍徳川慶喜をボイコットするための一種のクーデターであったから、武力をもってかためる必要があったのだ。
三日後の十二日に、西郷は尾州藩士丹羽淳太郎、田中国之輔、越前藩士中根|雪江《ゆきえ》、酒井十之丞、毛受《めんじゆ》鹿之助、土佐藩士後藤象二郎、神山佐多衛、福岡孝悌、芸州藩士辻将曹、桜井与四郎、久保田平司、薩摩藩士岩下左次右衛門、大久保利通らとともに参与に任ぜられているから、この日には拝謁したことが明らかである。
ともあれ、この月であったとすれば、天皇はおん年十六だ。嘉永五年九月二十二日(太陽暦に換算して十一月三日)のお生れであるから、今の数え方なら十五歳二ヵ月二十日、西郷は文政十年十二月七日の生れだから、四十一、満では四十歳五日であったという計算になる。
間もなく年が明けて、正月三日から伏見・鳥羽の戦いがあり、六日には慶喜前将軍は海路江戸に逃げかえり、西郷は二月中旬東征大総督参謀となって京都を出発するのだが、それまでの間に、しばしば拝謁したろう。しかし格別な話は何も伝わっていない。
西郷は江戸が開城し、上野の彰義隊が片づいたあと、帰国していたが、奥羽諸藩が連合して官軍に抵抗し、ずいぶん強勢であったので、また征討総督参謀に任ぜられ、藩兵をひきいて、海路から新潟に行き、秋田方面に進んだ。官軍が諸方面で勝ち、九月下旬には会津が開城し、内地が平穏に帰すると、西郷はまた国許《くにもと》へかえった。
このように、ともすれば西郷が帰国したがるのは、顕要《けんよう》の地位に長くとどまることを欲しない西郷の性質にもよるが、とどまっていにくい外部的原因もあったと、ぼくには思われる。西郷の武勲はすべて薩摩藩の武力の上に樹《た》てられたものだが、薩摩藩主の実父として藩の実権をにぎっていた島津久光が無類の西郷ぎらいなので、西郷としては長く中央にとどまっていることは痛くない腹をさぐられる恐れがあり、それは潔癖《けつぺき》な彼のたえるところではなかったからだと、ぼくは解釈している。
西郷は翌々年の明治三年まで、鹿児島に閑臥《かんが》していたが、三年の歳末に島津久光と西郷との上京を促すために、岩倉具視と大久保利通とが勅使と副使とになって、鹿児島に来た。
当時、中央の政界では早くも腐敗がはじまり、これを憤って、雲井竜雄事件をはじめ各種の反動の動きがあり、改新政治の気運は停頓していた。薩摩藩士で集議院の徴士である横山安武(森有礼の実兄)が慷慨《こうがい》のあまり、時弊《じへい》十ヵ条を列挙した諫書《かんしよ》を口に含んで、太政官正院の門前で切腹したほどだ。
西郷はこれらのことを賜暇によって帰省して来た弟の従道に聞いて、
「おいどんらはこげん世の中にするつもりで、旧幕を廃止したのではなかった。こげんことで、中途で死になさった同志諸君にどう申し訳が立つものか」
と、涙をこぼして悲憤したというのだ。
岩倉と大久保とが下って来たのは、西郷がこんな心境でいた時だ。いろいろと事情を問いただすと、両人は、
「あんたの考えで断然たる改革を行うことに決して、こうしてお使となって下って来た」
という。
西郷は袂をふるって立ち上る決心をきめた。
しかし、久光は病気を言い立てて、立ち上らなかった。当時、朝廷では廃藩置県をやる決心をきめていたので、久光を上京させるのもそのためだった。ところが、久光は廃藩置県には反対論を抱いている。頑固な保守主義者だが、ものすごく賢い人だ。ちゃんと新政府の内心を見抜いている。だから、病気を理由にことわったのだ。
こんな久光だから、西郷の上京も許したくはなかったろうが、勅命であってみれば、これまでことわることは出来ず、それは許したが、それでも、その出発にあたって、西郷と大久保に、
「こんどその方らが上京すれば、思うに政府には廃藩置県の説を打出す者があるじゃろうと思うが、わしは廃藩置県には反対じゃ。その方共が薩摩の家来である以上、わしはその方が廃藩置県などに賛成することを許さんぞ。さよう心得おくよう」
と、きびしく言いわたしたと伝えられている。新しく勅命に応じて上京する西郷はもちろんのこと、大久保も、当時の身分は薩摩藩士にして、朝廷に出向してつかえているのだったのだ。
西郷は上京にあたって、大久保に薩・長・土の三藩が強固な連合をして中心にならなければ、政府は弱体となり、とうてい反動のあらしの中を乗切ることは出来ないと説き、大久保の同意を得たので、上京の途中、山口に立寄って長州侯の上京を説きつけ、さらに土佐に行って容堂の上京を説いて承知させ、板垣退助を同伴して二月二日に東京についた。
着京すると、早速相談がはじまったのが、廃藩置県のことだ。西郷はこの時はじめて相談にあずかったのであり、国許《くにもと》出発の時久光に釘《くぎ》をさされていることではあるが、
「ようごわしょう。やりましょう」
と、言った。
すでに諸藩の版籍奉還は一昨年前半にあったことになっているが、実際にはこれは書類の上だけのことで、諸藩主は知藩事という名前で、昔の通り旧領と旧領民を支配している。こんどはじめて名実ともに土地と人民を取り上げるのだから、相当な抵抗と摩擦《まさつ》とが予想されるのだ。その用心のために、政府は強大な兵力を持つ必要があった。西郷は薩・長・土三藩から兵をさし出させて、これを御親兵とすることを主張して、木戸と板垣を賛成させ、それぞれ帰国して兵を連れて来た。
隆盛らはこの御親兵を中央におき、さらに全国四ヵ所に鎮台をおいた上で、廃藩置県を断行した。七月十四日であった。
この前日の十二日と十三日とに、西郷が参内した時、天皇は廃藩置県のことを大へんご心配になって、
「大丈夫か、さわぎにはなるまいか」
と下問された。天皇も二十《はたち》だ。もう子供ではあられない。いろいろと思慮深く思いめぐらされるお年頃になっていられる。無理はないのである。
このご下問にたいして、西郷が、
「恐れながら、吉之助が居りますれば」
と奉答したので、ご心配は忽ち消えて、ご安堵《あんど》の色があらわれたという。
廃藩置県は何の抵抗もなく行われ、世界の驚異になったが、島津久光は鹿児島で大いに不平で、終夜花火を打ち上げさせて、欝憤《うつぷん》を散じたといわれている。久光にしてみれば、文久二年以来、天下のことに乗り出し、ずいぶん金も使い、心身を労し、天下のことに尽したのだが、その結果は自分の家が土地・人民を取り上げられるだけのことになったと思うと、むしゃくしゃ腹が立ったのであろう。ことさらこの前ああまで釘をさしておいたのにこうなったとあっては、煮え湯をのまされた気がしたろう。彼は大名としては最も賢い人であったが、維新運動の終局は日本が統一国家になるよりほかのないことに思い至らなかったのであろう。大名などというものは、いくら賢くてもこの程度だったという好適例かも知れない。
西郷は上京すると、政府の参議らに、
「多頭政治では埒《らち》はあかん、木戸さん一人に参議になってもろうて、あとは皆参議をやめてその下についてやろうじゃありませんか」
と説いて、皆を承知させ、山県有朋と井上馨の二人に木戸を口説かせたが、木戸は、「西郷をおいて、おれが一人でそんなことが出来るか」
と言って、承知しない。二人はなおも口説いたので、ついに木戸は、
「西郷と二人でならやってもよい」
と言った。
二人はこれを大久保に告げた。大久保は西郷に告げ、口をつくしてすすめた。
「木戸さんが、わしと二人でなければやらんと言われるなら、しかたはない。二人でやってみましょう」
西郷は木戸とともに二人参議となり、他の人々は皆一格下って二人の下についた。
こうして、政府の最高首脳の一人として、西郷の骨折ったことが五つある。一つはすでに述べた廃藩置県、二つ目は宮中改革、三つ目は軍制の確立、四つ目は警察制度の施設、五つ目は銀行設立についての尽力だが、彼が明治天皇と直接関係のあるものは前三者だ。
宮中の改革については、先ず宮中・府中を峻別《しゆんべつ》したことだ。それまで、宮中の女官はなかなか政治力が強かった。つまり、天皇にたいする強い影響力を持っていた。
戦国時代、京都の公家らは京都にいては生活にもこまるところから、地方の大名を頼って都落ちする者が多かったし、京に残留していても衣服が整わなかったりなぞするので、出仕をさしひかえる者が多く、朝廷の事務も女官の仕事となることが多かった。
朝廷の事務といっても、朝廷が無力にひとしい存在になっているのだから、大した仕事はなかったが、それでもわずかにのこる御料地からの租税の受取や、地方大名に金品をねだる書状や、地方武人の位官や叙任《じよにん》の辞令やなんぞを書くしごとはあって、女官らがこれを代行した。女官のこうして書いた文書を女房奉書といったが、これは天皇の旨を奉じて書くので、勅書と同じ効力があった。
江戸時代は幕府の権力が強かったから、女房奉書が幕府の統制をみだすようなことはほとんどなかったが、明治維新は王政復古をスローガンとして達成されたのだ。天皇権はおそろしく強大なものになった。この強大な天皇権をかさに着て、女房奉書などを濫発《らんぱつ》されては、新政府の統制は木端《こつぱ》みじんだ。
西郷はこれを憂えて、女官の任務の分限を明らかにし、女官らが政治上のことについて裏口からくちばしを入れることが出来ないようにした。女房奉書なども言うまでもない。
同時に、天皇の側近に侍する者は堂上の出身でなければならない制度であったのを、武士階級からも任用する制度に改めた。こうして任用された人々は、宮内大丞には吉井友実、侍従には村田新八、山岡鉄舟、島|義勇《よしたけ》、高島|鞆《とも》之助、米田《こめだ》虎雄等だ。
吉井は西郷の少年時代からの親友で、終始国事に奔走した人であり、村田も若い時から国事に働いた人で、後に西郷に殉じて城山の秋風に屍をさらした。山岡鉄舟は幕臣ながら、清川八郎と親友で国事に働き、官軍東征の際は一身を挺して前将軍慶喜の身柄を救った人。島義勇は佐賀藩士で、後に江藤新平とともに佐賀の乱をおこして死んだ。高島鞆之助は薩摩藩士で、西郷の門下生で、後の陸軍中将子爵、米田虎雄は肥後藩の老臣の家の生れで、明治初年、藩の権大参事となった人だ。
この人々は山岡や島義勇を見てもわかるように、いずれも誠実で、硬骨で、豪傑肌合《ごうけつはだあい》の人ばかりだ。西郷は天皇を英雄・豪傑にしたてまつろうと考え、この人選をしたのであろう。当時の世界の大勢から見て、英雄的君主でなければ、日本は立ち行かないと見たからであろう。
蛤《はまぐり》御門の戦いは、明治四年から七年前、天皇は十三歳であられたが、塀一重のところで行われる激戦のひびきを聞き、銃弾がぴゅうぴゅう飛んで来、砲声また至近の距離でとどろくので、気絶されたという。後にあれほど英雄的帝王となられた天資の方ではあるが、柔弱な公家さん方と女官の中でだけ成長されたのであってみれば、ぜひないことであったろう。西郷は男の資格としては、強さを何よりも尊び、男の惰弱と怯懦《きようだ》は最大の罪悪であるとする薩摩人でもある。
「あんな風では、列強たがいに覇をきそう弱肉強食の今の世界で、日本の天子様としてはこまる」
と、考えたはずである。
従って、豪傑連にも、自分の意のあるところを説き、豪傑連も大いに共鳴したに相違ない。
西郷がえらんでつけたほどの連中だから、日常の会話なども、誠実さと英気が横溢していて、天皇は大変お気に召し、奥御殿にはほとんどお入りにならず、この人々のいる表御殿にばかりいらせられたという。それはこの頃、西郷が国許の母方の叔父|椎原与三次国幹《しいはらよそじくにもと》に出した手紙(「大西郷全集」第二巻、五五五頁)で明らかだ。
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(前略)士族からお召出しになった侍従らはとりわけご寵愛で、実にお盛んなことであります。奥御殿にお出でになることは至ってお嫌いで、いつも朝から晩まで表御殿にいらせられ、和・漢・洋の学問にお励みで、侍従らと会読を遊ばされることもあり、ご寸暇なくご修業におつとめであります。服装なども従来の大名などよりはるかにご質素で、修業にご勉励のご様子は、中流階級の子弟などより格別まさっておられます。三条公や岩倉公も、これまでのみかど方とはよほどにご日常がかわってお出であると申しておられます。元来のお気性が英邁、おからだもご壮健なお生れつきで、こんなみかどは近来はお出でなかったと、公家《くげ》衆が申しておられます。
このほか、天気さえよければ毎日お馬の稽古を遊ばされるのみか、両三日中にはご親兵を一小隊ずつ召寄せられ、調練を遊ばされる予定であります。これは隔日という予定になっています。なお陛下はやがてはぜひ大隊をご自身調練出来るようになり、大元帥はおんみずから遊ばすと仰せられています。なんとも恐れ入り候次第で、ありがたいことであります。
また、追っては政府へもお出でになり、諸省に臨幸遊ばされるご予定になっています。
いつも私共をご前にお召出しになり、同じ台で陪食を仰せつけられもします。
やがては一ヵ月に三度ずつ、政府や諸省の長官を召出して、政治の得失等を討論研究遊ばすことも内定しています。
以上のような次第でありますから、天皇が徒らに尊いものとして奥殿深くこもられ、臣下がめったにお顔も拝せられないような従来の習わしは全くなくなり、ついには君臣水魚の交りになることと、奉察されて、よろこばしいかぎりであります。(下略)
[#ここで字下げ終わり]
ともあれ、天皇にとって、このおん時期は「アルト・ハイデルベルヒ」ともいうべき時期で、後々までなつかしく思われたに違いない。後年、天皇は女官らに、
「わしは若い時鍛錬している。普通の者とはからだの出来が違う」
と、ご自慢なさったというが、その証拠であろう。
軍制の確立については、西郷は明治五年七月に陸軍元帥、近衛都督に任ぜられ、軍務全体を総管することになったので、山県有朋を陸軍大輔に、川村純義を海軍少輔に任じて、陸・海軍の基礎の確立と充実とにあたらせた。
この際、陸軍はフランス制にならい、海軍は英国制を採用することにしているが、これは陸軍はナポレオン以来フランスが世界の覇者であり、海軍はネルソン以来英国が覇者であったからであろう。もっとも、この前年フランスが普仏戦争でプロシアに負けて城下の盟《ちかい》をしているので、西郷はフランス陸軍にたいしていちじるしく批判的であり、
「フランスが三十万の兵、三ヵ月の糧食がありながら降伏したのは、あまり算盤《そろばん》にくわしいためだ」
と、言っている。
日本の陸軍がドイツに範を取るようになったのは、明治十八年からのことで、西郷の死後八年経っているが、日本の上下をあげて、フランス陸軍に批判的になったのであろう。
また、山県が大輔で、川村が少輔であるのは、当時は陸軍が主で、海軍は従の立場にあったからであろう。
さらにまた西郷の元帥は後に元帥府ができてからの元帥とはちがって、総大将という意味のようである。だから、ただ一人である。
ついでに書いておくが、天皇を大元帥として、天皇が兵馬の権一切を統《す》べるという制度は、この時代にはまだ確立していない。制度としての確立は明治十五年一月五日の軍人勅諭の発布の時であろう。
それはさておき、この勅諭の精神が「日本外史」であることを知っている人は、あまりないであろう。
「日本外史」の冒頭に、政権が武家に移り、武家政治が確立したことについての山陽の史論が展開されている。これは外史の抄本には大てい省いてあるので、あまり人に読まれていないのだが、軍人勅諭はその和訳にすぎないと言っても過言でないほど、内容的にはそっくりである。明治初年の軍の首脳部や学者諸先生は、日本の歴史書としては「日本外史」くらいしか読まず、またこれを恐ろしく信用していたのであろう。
話は少しあともどりする。
明治四年十一月に、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通等の政府の要人らが、欧米の制度・文物視察のために出発し、西郷らが留守をあずかることになったが、その留守中にこまった事件がおこった。島津久光の新政府にたいする不平が益※[#二の字点、unicode303b]昂じて、新政府の政治を非難攻撃した書を奉るに至った。
久光は骨髄からの保守主義者であり、その非難の多くはあたらないものであるが、何といっても維新の大功臣であり、西郷や大久保の主筋にあたる人だ。黙殺は出来ない。天皇は西郷らを連れて西国に巡幸し、ことのついでに鹿児島まで行って、久光を慰撫しようと思し召されて、明治五年五月二十二日、軍艦竜驤に召して品川を出港して、西に向われた。
参議院議員の西郷吉之助氏は南洲の嫡孫だが、その吉之助さんからこの時のこととして、ぼくはこんなことを聞いた。
西郷は鹿児島が軍艦の寄港地として設備がととのっていないことを知っていたので、前もって鹿児島県令の大山綱良に書を寄せて、港に木で桟橋を設け、陛下のご上陸に便利なようにしつらえておくように言ってやっておいたのだが、それがしてなかった。
西郷はむっとした顔になり、ともかくも陛下とともにハシケに乗りうつり上陸にかかったが、ハシケには季節のことで西瓜がおいてあった。西郷はそれを手許に引きよせると、拳をかためてグヮンとたたきわった。そして、顔から胸にかけてしずくが飛び散ったのを拭きもせずに、手づかみでむしゃむしゃと食べた。
このことを、天皇は後々までお側の者に、お話しになったという。
この話には後日談があるのだが、それは後のこととして、なぜ大山綱良は西郷のせっかくの依頼を無視したのであろう?
一体、大山は西南戦役でも西郷党の人物だったと後世の歴史家らに見做《みな》されているが、かくれた西郷研究家である前鹿児島大学の英文学教授で、現写真大学の教授である坂元盛秋氏は、西郷党ではなく、久光党の人であったと言っている。くわしくその説を引くことはここではさしひかえたいが、ぼくも同感である。
久光は、大久保も、小松帯刀も、およそ中央政府に仕えている旧臣のほとんど全部が気に入らないが、西郷はとくべつ気に入らないのだ。
その理由の一つは、西郷の方にある。かつての薩摩のお家騒動の時、久光は西郷が神とも師父とも仰いでいる斉彬《なりあきら》排斥派がかつぎ上げようとした人物であったので、西郷は久光をきらい、それをかくそうとしなかったことだ。
その理由の二は、久光が斉彬の遺策をついで中央乗出しを決心した時、西郷は一度目の南島|流謫《るたく》から呼び返されて、いろいろ相談を受けたが、ニベもなく、
「久光公は地ゴロでごわす。斉彬公とは役者がちがい申す。この策成功いたし申さぬ。拙者はごめんこうむる」
とことわったことだ。
久光は怒って、西郷のちょっとした命令違反を辞として、二度目の流謫処分にし、ほとんど殺すばかりの厳格な処分にした。
久光が西郷をいかに深刻に含んでいたかは、それから満二年の後、薩摩の中央における運動が行きづまりになった時、薩摩の勤王派の人々が久光に西郷赦免のことを願い出た時の久光の態度でよくわかる。
人々は、こうなった以上、吉之助サアを呼びもどし、指導者と仰いでこの八方塞がりを打破するよりほかはないと相談をまとめ、久光の気に入りである高崎佐太郎と同五六とをして久光に西郷赦免のことを願い出でさせたところ、久光は返事もしないで、銀のきせるをかみしめたままでいる。
二人が、
「この願いをお聞届け賜らずば、同志一同割腹するとまで申しております」
と言って、やっと召還のことが実現したのだが、その時、久光のくわえていたきせるには深い歯のあとが刻まれたという。
大山綱良は久光の意を体して、桟橋をこしらえなかったのであろう。
ともかくも、天皇は久光にお会いになって、病気ではあっても、ぜひ国のために上京してくれるようにと、心をつくしてのお慰めであったので、久光のきげんも大いに解けたようであった。
鹿児島からの帰途、お召艦が四国の丸亀についた時、東京からの飛脚が来て、近衛兵のストライキを報じた。
西郷は天皇と引きわかれて、急遽帰京の途についた。
この時の近衛都督は山県有朋だったが、明治史で有名な山城屋和助事件がおこったのである。山城屋和助は前名野村三千三といって、旧奇兵隊士で、維新後実業家となり、大いに成功したのだが、昔の縁故で陸軍の金《かね》を山県から借り出して絹を買いしめてフランスに大量に輸出していたのだが、普仏戦争でフランスが負け、フランスの機業界が大打撃を受けたので、貸金の回収が出来ず、陸軍の金がこげつきになった。
和助はついにこの前年の十一月末に陸軍省で自殺してしまった。これをこの頃になって近衛の薩摩出身の将兵らがさぐり知って、藩閥意識も手伝ってさわぎ立て、ストライキに入るというさわぎになったのだ。
西郷は東京にかえると、一応山県に近衛都督をやめさせて、自ら近衛都督になり、営中に寝泊りして、さわぎをおさめた。
「唯今破裂弾中に昼寝をいたし居り申し候」
と、ヨーロッパ巡遊中の大久保利通に書きおくっている。
西郷は潔癖な性格だから、こんな間違いをおかした山県を依然陸軍にとどめておきたくはなかったろうが、当時薩長は政府を支える二本の柱だ。道義だけでことを決するわけに行かない。両藩の勢力の均衡を保つことが最も必要だ。間もなく山県を陸軍卿に任じている。
翌年の明治六年四月二十九日に、天皇は下総国大和田原に行幸され、ここで陸軍の演習を親閲された。
西郷は騎馬でお出でになる天皇のわきについて、七里の道をてくてくと歩いてお供した。元治元年の蛤御門の戦いの時は、西郷は騎馬で薩摩兵をひきいて出陣しているが、その前に沖ノ永良部《えらぶ》島での不衛生な生活中に、フィラリヤという、蚊によって感染するといわれる風土病に感染していたのであろう、睾丸がはれて来て、維新戦争の時にはもう馬に騎《の》ることも出来ず、徒歩または駕籠で出陣している。この駕籠には当時の大坂角力の大関陣幕の乗物を借りて用いたといわれている。
この下総の大和田原がこの時天皇によって「習志野《ならしの》」と名づけられ、長く陸軍の演習地になった。今鹿児島に建っている西郷の銅像は、この時の西郷の徒歩供奉の姿をうつしたものといわれている。
征韓論がおこり、政府の大問題になったのは、この明治六年の夏から秋にかけてのことだ。
西郷はついに冠を掛けて故山に帰臥したが、後年天皇は、
「一旦西郷に遣韓大使として行くことを許しながら、途中それを取り消したのは、わしのあやまちであった」
と、仰せられたとも聞いている。
西郷は西南戦役をおこし、ついに賊名を着て倒れた。彼が西南戦役をおこした原因や理由については、当時の人々や後世史家がいろいろと解釈をしているが、ぼくにはぼくの解釈がある。しかし、それはこの短紙幅では説明しつくせない。
西南役中から西郷は逆賊ということになって、政府また、西郷が国民的英雄として最も評判のよい人物であっただけに、その評判をたたきおとすことに懸命につとめ、悪口至らざるはなかったが、天皇は毎夜のように西郷のことを、ご晩酌の時、お側のものにお話しになったという。それは前述した軍艦竜驤で鹿児島にお出でになった時の、西郷のことであった。
「……西郷がおこってのう、むっとした顔になったが、西瓜を引きよせると、こぶしをかためて、グヮンとたたきわった。しずくが顔から、胸に飛び散ったが、拭きもせんで、手づかみでむしゃむしゃ食べとるのよ。こわい顔をして。おかしかったなあ……」
これが、明治二十二年二月十一日、憲法が発布せられた日、大赦令が出て、西郷の賊名がのぞかれ、正三位を贈られると、ぴたりとやんだというのである。
西郷は天皇にとって最もなつかしい人物であり、それが賊名を着て、悪評にさらされていることは、天皇にとって忍びがたいおんことであったのであろう。上野の銅像はこの時ご下賜になった金を基金として、人々から募金して建てられたのである。
天授の英雄
秦末・漢初の天才将軍であった韓信が、ある時高祖の前で、高祖の諸将軍の将才を論評した。誰は何万の兵に将たるの才がある、彼は五万、これは七万という工合《ぐあい》にだ。
「それでは、わしはどれくらいだ」
と、高祖がたずねると、
「せいぜい十万でございましょうな」
と、韓信は答えた。
「それでは、卿はどうだ」
「臣は多々益※[#二の字点、unicode303b]弁ず」
二十万でも、三十万でも、多ければ多いほどうまくこなしますと大言したのだ。
高祖は笑って、
「それはおかしいではないか。多々益※[#二の字点、unicode303b]弁ずる将才のある卿が、せいぜい十万の将才しかないわしに臣従する身となるとは」
と言うと、韓信は、
「陛下は兵に将たる才能はせいぜい十万ぐらいのものでありますが、将に将たるお力がございます。その上、陛下はいわゆる天授の天子たるべきお方でありまして、人力を絶しておいでです。これが臣ほどの将才をもってしても、陛下には臣従せざるを得ない理由であります」
と答えたという話が「史記」に出ている。
英雄にもいろいろある。大別して、A級英雄からC級英雄くらいまであるようだが、A級英雄中の第一等の人物には、必ずこの人力を絶した天授というべきものがある。
西郷隆盛が、軍人としては大村益次郎におよばず、政治家としては大久保利通におとり、政治運動家としては坂本竜馬におとり、政論家としては木戸孝允におよばず、世界の情勢を知り、将来を洞察《どうさつ》する見識において勝海舟におよばなかったにかかわらず、英雄であるという点においては、段ちがいに大きかったというのが、――この天授である。
これはその人物の上に立ちのぼっている香気のようなものである。本人の持っている何となきムードである。従って、本人の死とともに消滅し、あとは本人を知っている人の記憶の中、当時の人々の記憶の中だけにのこる。しかし、それもその人々の死によって消滅する。後世の人々は人々のその記憶の記録を信ずるよりほかに、すぐれた香気、英雄的ムードのある人物であったことを知ることはできない。
だから、実証的にしか歴史を見ることのできない人は、うかがい得ないのである。今の歴史学者らに西郷隆盛を評価すること低い人が多いのは、近代の歴史研究法に実証的傾向が強くなっていることの自然の結果で、不思議はないのである。
しかしながら、その評価が間違っていることもまた言うまでもない。林檎《りんご》を栄養分とビタミンの含有量だけで品評し、ウィスキーの等級をアルコールの度だけできめるような人物評価が正しかろうはずはないのである。
西郷を評価する場合、われわれは維新時代の人々の西郷観、明治時代の人々の西郷論を、信用して聞くべきである。そうする以外には、西郷の上に立ちのぼっていたであろう香気や、英雄的気分を、われわれは知るすべがないのである。
藤田東湖、勝海舟、坂本竜馬、中岡慎太郎、小河一敏、福沢諭吉、内村鑑三等の人々は、見識|高邁《こうまい》、心術|清爽《せいそう》で、十分に信用できる人々だと思うが、いずれも最も高く西郷を品等し、その稀世の英雄であることを認めている。
西郷が天授の英雄であることを認めるならば、維新史がその終末期の段階において、西郷を中心にして大きく回転し、大きく進展したことが、きわめて容易に理解できるのである。
西郷は安政の大獄のさなかに、幕府の目からかくすために、すでに死んだことにして、奄美大島に送りこまれ、満三年以上島住まいし、文久二年(一八六二)の春呼び返されたが、わずかに二月の後、島津久光の激怒に触れ、こんどは罪人として徳之島に流され、つづいて沖ノ永良部島にうつされた。西郷は満二年近く、南島に幽囚の生活を送っていたが、元治元年(一八六四)の春、罪をゆるされて、呼び返された。
西郷が南島にいる二年の間は、京都政界はイデオロギー的には公武合体派と勤王|攘夷《じようい》派との争いであり、具体的には薩・長両藩の勢力争いであった。はじめは両藩とも公武合体説をいだいていたが、薩摩の方が羽ぶりがよかった。藩意識の旺盛《おうせい》な時代だ、長州藩はくやしくてならない。公武合体説を揚棄し、最もラジカルな勤王攘夷論を唱道して、生きのよい若手の公卿《くぎよう》らを説得して、ついに朝議をリードするようになった。こんどは薩摩のくやしがる番だ。薩摩は会津と結び、クーデターをもって長州藩とその派の若手公卿らを京都から追い出した。
以後、京都政界は薩・会がリードすることになったが、同じ公武合体といっても、外様《とざま》藩である薩摩の公武合体と、親藩である会津の公武合体とは、微妙な相違がある。薩摩にしてみれば、
「これで肝心の維新運動の実があがるか」
という不安がある。親藩である会津と提携したことによって、天下の志士らの評判が大いに悪くなってきたのにも、弱った。
つまり、薩摩の維新運動は八方ふさがりになったのだ。
「なんとしたものか?」
若い藩士らはなやんだが、どうにも法がつかない。期せずして、人々の胸に動いたのは、
「吉之助サアなら、打開できやるはずじゃ」
という考えであった。
そこで、前述したように、皆で相談して、島津久光のお気に入りである高崎佐太郎と高崎五六の二人が代表となって、久光に情勢を説き、西郷の赦免願いをすることになった。
久光は西郷が大きらいだ。西郷もまた久光をきらっている。二人は終世打ちとけることができなかったのである。
こんななかだから、久光は両高崎の願いを聞いても、返事をしない。
二人は、これは同志一同の願いであり、もしお聞きとどけいただけずば、一同割腹する覚悟をきめていますとまで切言した。
こんなことで、やっと赦免召還が実現したのであるが、久光がいかに西郷を赦免召還するのが厭《いや》であったかがわかるのである。
こうして西郷が帰ってきたのは、元治元年(一八六四)の春であった。すぐ軍賦役(軍事司令官)に任ぜられて京都に上り、京都における薩藩の力の中心となった。
以後、幕府がほろび、江戸城あけ渡しまでの満四年間が、西郷の生涯中の最もはなやかなところであり、最も充実した美しさを発揮した期間である。
彼はまず会津との連携の責任者である連中を全部|国許《くにもと》にかえして会津と手を切り、藩の自由を確保した。
長州との間は、なおごたごたがつづいたが、第一次の長州征伐のころから、西郷は長州との接近をはじめた。征長総督の尾州公に説いて、武力征伐を中止して、最も寛大な条件で降伏和議させることにし、自ら岩国まで出かけまでして尽力した。
第二回の長州征伐のはじまるころには、坂本竜馬の仲介で、完全に長州と連合して、陰ながら援助し、ついに討幕まで持って行き、幕府はたおれた。
以上のように、元治元年以後四年間の西郷の活動は最もめざましいものがあり、維新運動は西郷を中心にして進行展開した感さえある。
もちろん、そこには、当時の最強藩であった薩摩の力、坂本竜馬と中岡慎太郎の薩・長両藩の間に立っての連合周旋の努力、第二次長州征伐の際における長州藩の強力勇敢な武力抵抗等のあったことは無視できないが、西郷の人格の魅力、天授の英雄的風格があったればこそ、それらは統合されて強い力となり得たのだ。
相手が西郷であればこそ、薩摩の壮士らは死を決して、西郷の召還を久光に願い出たのであり、西郷が薩摩の責任者であればこそ、坂本らの説を素直《すなお》に聞き入れて周旋させたのであり、長州側でも同意する気になったのであるとぼくは思う。
他の人では、こうはうまく行くまい。当時こうした任にあたるべき薩摩の人物としては、西郷についでは大久保だが、天成の英雄的魅力と信頼感という点になると、段ちがいにおとる。相当な摩擦と抵抗があったろうとしか思われない。大久保がこうなら、小松帯刀や岩下方平に至っては言うまでもない。
明治二年九月の論功行賞に、彼は賞典|禄《ろく》二千石を下賜され正三位に叙せられている。藩主忠義が従三位であり、木戸、大久保が従三位、千八百石であったことを思い合わせたい。当時においても、だれの目にも彼の功績は抜群であったのだ。
ぼくは西郷がいなければ、薩長の連合はできず、従って幕府はたおれなかったろうと言うつもりはない。いつかは連合もでき、幕府はたおれたに違いないが、それは何年かおくれたろう。おくれれば、当時は日本列島の上でイギリスとフランスの勢力争いが、片や薩長びいき、片や幕府びいきの形で行なわれつつあったのだから、悪くすると、日本は今の南北朝鮮や、ベトナムなどのようなことになったかも知れない。朝鮮やベトナムの悲劇は両国がその群雄豪傑共の心を統合するに足る西郷のような信望ある英雄を欠いているためであると言えよう。
西郷が天成の英雄であり最も魅力のある香気を発散する人物であったらしいというのは、このような歴史的事実があるからのことである。
こう考えてくると、維新史における西郷の存在は、実に大事だ。ある歴史学者が、西郷は岩倉や大久保に利用されたロボットにすぎないと放言したが、とうてい人間を知り、人生を知り、それゆえにこそ歴史を知っている人の言うべきこととは思われない。
西郷は不思議な英雄であった。一体、英雄というものは、古今東西を問わず、良心的ではないものである。アレキサンダー大王や、シーザーや、ピーター大帝や、ナポレオンや、ビスマルクが良心的であった話を聞いたことがない。漢の高祖、項羽、曹操、劉備等も同じだ。信長、秀吉、家康、またそうだ。英雄は常に自信に満ち、野心に燃え、最も自我心|旺盛《おうせい》であるから、良心は常に圧倒され萎縮《いしゆく》していると解釈してよいかも知れない。ところが、西郷は終生最も鋭い良心を持ちつづけた人だ。
若く、純真で、不遇な時代には、人は多く良心的だが、年|長《た》け、得意の境遇になって、なお良心的である人はめずらしい。西郷はそのめずらしい人だったのだ。
西郷は江戸城あけ渡しがあり、上野の彰義隊さわぎが片づき、会津が落城し、内地が平穏に帰すると、すぐ国許にかえり翌々年の明治三年まで閑臥《かんが》していたが、その間に日本の各地方に百姓|一揆《いつき》がひん発した。しかも中央政府は早くも腐敗の兆候を見せはじめ、これに乗じて、旧奇兵隊の暴動があり、雲井竜雄事件があり、その他北陸、静岡、九州等にも不穏な動きがあった。これらはすべて反動的なものであった。つまり、維新政治の気運は疲労と停頓《ていとん》のすがたを見せはじめたのだ。薩摩藩士横山安武(森有礼の実兄)は集議院の徴士となって東京に出ていたが、慷慨《こうがい》のあまり、時弊十ヵ条を列記した諫書《かんしよ》をふくみ、太政官正院の前で割腹したという事件がおこった。
ちょうどそのころ、ヨーロッパ視察の旅から、弟の従道が帰朝し、賜暇によって鹿児島に帰って来た。従道は前述のさまざまなことを、兄に語った。西郷は涙をこぼして、
「おいどんらはこげん世の中にするつもりで、幕府をたおしたのではなかった。こげんことで、中途で死になさった同志諸君に、どう申し訳が立つものか」
と、悲憤したというのだ。
当時西郷は四十四、維新第一の功臣として悠々《ゆうゆう》故山に閑臥している身でありながら、泣いて慷慨し、中途に非命にして死んだ同志に恥じるほどの純真な良心を持っていたのだ。
この翌四年、西郷は勅命によって東京に出、参議となり、明治六年秋に征韓論で破れて帰国するまで、東京にいるのだが、そのいつのことであったろう、西郷が病気と称して、太政官の定例会議にも出席しない日が重なったので、参議なかまの板垣退助が見舞いに行った。板垣は西郷となかがよかったのである。
西郷は寝てはいなかったが、憂欝《ゆううつ》な顔をしている。板垣が見舞いを言い、どこが悪いのだとたずねると、西郷は言った。
「わしは参議などという役職についていることがいやになりました。わしの意見なぞ、だれも聞いてはくれはしません。みんな勝手なことをして、政府は腐ってしまいました。わしは役をひいて、北海道へ行って、百姓になろうと考えているところです」
板垣はこれを聞いて、膝《ひざ》を正し、声をはげまして言った。
「西郷さん、あんたは何を言いなさるのです。新しい日本を意図して旧幕府をたおした張本人はあんたじゃありませんか。そのあんたが、そんなことを言って、世から遁《のが》れようなどと、そんな無責任なことがありますか。言うことを聞かんなら、聞かせるようにすればよいのです。政府が腐っているなら、浄化すればよいのです。なぜ、その努力をしなさらんのです」
すると、西郷は満面真っ赤になり、がたがたふるえ出した。
あの巨体でふるえたのだから、西郷の粗末な家は震動した。はらはらと涙をこぼして、
「板垣さん。すまんことを申しました。言われる通りでごわす。おたがいにしっかりやりましょう」
と、言ったというのだ。これは板垣の後年の思い出話である。
こんなに良心的な英雄が、他にあるだろうか。ぼくは西郷一人しか知らない。
こういう英雄が維新時代の日本に生まれたのは、どういうわけであろう。一応考察してみる価値がある。
まず考えられるのは、江戸二百七十年にわたる儒学の盛行だ。今日では儒学の弊害だけが強調されるが、すべて人間の営みに、弊害だけで利益のないものはない。まして儒学のような人間の善性を開発することを最も重大な目的としているものが、弊害だけしかないなどということがあるべきはずがない。弊害は偏重するところに生ずるのだ。これは儒学にかぎったことではない。すべてのことがそうだ。
それはさておき、約三世紀、儒学は日本の武士階級に盛行した。その気風が道徳尊重、良心鋭敏となるのは、当然の帰結であろう。
だから、維新時代の英雄・豪傑には、道義的にも立派な人、ないし欠点の少ない人が多い。
他の時代、他の国々と大へんちがうのである。
西郷は、その維新時代にもただ一人というほどめずらしい良心的な英雄だ。二百七十年儒教盛行の末に生まれた精華であったと言えよう。
西郷のするどい良心の例としてのべた二つの話――弟の従道を相手に涙をこぼして中道にして死んだ同志諸君に申し訳がないと悲憤したことも、板垣に諫《いさ》められてふるえ出して泣いたという話も、彼が良心的であったことを物語るとともに、彼は公のために憤る人であったことも語っている。
実際、西郷はその語録の中で「自らを愛するはよからぬことなり」と言っているように、自分のためには怒らぬ人であった。彼の怒りは、常に公のために発した。
奄美大島に潜居中のこととして、こんな話が島に伝えられている。
薩藩は大島諸島の砂糖生産には最も厳重|苛酷《かこく》な監督と誅求《ちゆうきゆう》をしていた。毎年一戸一戸に責任額を割り付け、それに達しなければ容赦しなかった。子供が砂糖キビをかじるのも禁じられており、見つかれば処罰された。
ある年、大凶年で、あらゆる農産物が不作で、砂糖も不できであったので、割り当て額に達しない島民が多かった。役人らはその農民らを捕え「うぬらは隠しているのじゃろう」と責めさいなんだため、苦痛にたえず自殺をくわだてる者まで出て来た。
西郷は憤って、その謫所《たくしよ》から名瀬の代官屋敷まで四里余の道を行き、島代官相良角兵衛に会って、本年の不作はまぎれなき事実であるからそれを認め、島民らを赦《ゆる》してもらいたいと頼んだ。
相良は、この島の砂糖製造のことは全部自分の権限にある、余計なことに口ばしを入れんでもらおうと、突っぱねた。西郷はむっとしながらもおさえて、なお頼んだが、どうしても相良がきかないので、
「この島の砂糖製造のことは、貴殿の権限内にあることでごわすが、今のようなことが行なわれていては、太守様のご徳望をおとし、ご体面にもかかわると存ずる。わしは島津家の家来として黙視していることはできんから、お願いに上がった。しかし、貴殿が職制を楯《たて》にしてそう言われるなら、わしは他の方法を考えねばならん。事の顛末《てんまつ》をくわしく書面にして、太守様に上申し、この非法を改めていただくことにします。そのつもりでいて下され」
と言って立ち去り、かねて仲のよい見聞役木場伝内をたずね、事情を語って、辞去した。伝内は相良を訪問して、
「西郷が上書すれば、西郷は先君(斉彬)の無二の寵臣《ちようしん》でごわしたゆえ、太守様はその上書をごらんになりましょう。太守様はご領内にむごいことが実行されていることはご存知ないゆえ、おどろきなされて、藩庁に下して審議させられましょう。貴殿のためによくありませんぞ」
とおどした。
一体、こんどのことは従来からのしきたりのままやったことで、相良の創始ではないのだが、それが太守のお声がかりで藩庁の問題になって来ると、振り合いがちがって来る。相良は処分されるであろうし、役人としての前途もふさがる。官僚機構とはそういうものだ。相良は古い役人だから、そのへんのことはよく知っている。大いに後悔して、島内各地の出張役場に急使を走らせて、拘束してある島民を釈放するよう達しておいて、木場とともに馬を走らせて西郷を追いかけた。
西郷は途中の民家に休んで、持参のむすびを食べていた。追いついて、相良が丁重にあいさつし、わびを言って、島民は釈放するようにはからったから上書はやめてほしいと言った。西郷は心解け、
「わかっていただけば何よりのことでごわす。わしも面倒なことはしとうはごわはん」
と、しばらく談笑して別れて帰宅してみると、彼の村の拘禁者らはすでに家に帰って働いていたという。
島ではまた、暴慢で島民に威張りちらしていたという中村某という役人を、酒席で一拳《いつけん》をくらわせて叱りつけたので、以後中村はおとなしくなったという話も伝えている。
ぼくは西郷の怒りは常に公のために発せられ、自らのために怒ったことはないと言ったが、それならば西南戦争はどうだ、西郷は警視庁が自分を暗殺するために巡査らを賜暇帰省の名目で薩摩に帰したことをいきどおり、兵をひきいて東上の途についたのではないか、これは自らのために怒りを発したのではないか、という人があるかも知れない。
この問題は短い紙幅では説明することはできないが、結論だけ言えば、ぼくはこれも公憤であったと信じている。
「堂々たる一国の政府が、こういう陰険なことをして、どう国が立つものぞ、一事が万事、今の政府は巨大な伏魔殿と化して、なすところすべて怪奇陰険になっている。大掃除する必要がある」
というので、引兵東上ということになったのだと解釈している。
現代の日本の国民は公のために憤ることを忘れている。自分の待遇改善のためには、争議もし、デモもするが、公のためにはまるで憤らない。電車の中で集団スリに逢《あ》って苦しめられている人を見ても、大ていは知らん顔で見過ごしている。せいぜい、全学連くらいが公のために憤っている。だからだ、結構な憲法があり、言論の自由があり、制度としては最も民主的な議会があるのに、戦後二十年にもなるのに、住宅問題さえ片づかず、重税のために倒産者続出という今日の状態なのだ。
公憤することを忘れている国は決して幸福にはなれないのである。
このようにして西郷の人にすぐれた特性を一々あげて説明して行っては、はてかぎりがない。簡単に項目だけ列記する。
彼は勇気たくましい人であった。それは敵を恐れず、戦陣においてだけでなく、権貴の人を少しも恐れなかったことだ。平生彼は実に礼儀正しく、現代の歴史学者の中には、それが彼の封建的であったことの証拠といっている人のあるくらい、上長者に恭敬であったが、重大問題の場合には、自らの信念を堂々と主張して少しも憚《はばか》るところがなかった。
島津斉彬の見いだしにあずかって間もないころ、斉彬から農村問題について諮問《しもん》された答申書の中に、彼はこう書いている。
「お国(島津領の意)ほど農政乱れるところ決してござあるまじく、いかにして百姓の伸び立ち候ときござあるべきや、離散つかまつり候ほかござなく候」
島津家の農政の苛酷《かこく》さを非難しているのである。
島津久光が西郷を終世にくんだのも、久光が斉彬の遺策を踏襲して、引兵上京することにし、大島から西郷を呼び返して諮問した時、西郷が猛烈に反対し、
「かような策は、先君(斉彬)のように、人望、実力ともに備わった人でなければ行われません。久光様はジゴロ(いなか者)でごわす。荷が勝ちすぎます」
と、面とむかって言ったからである。一大事の場合には、いかなる権貴者でも、彼は決して憚らないのだ。
このような勇気も、現代の日本人からは地をはらってしまった。戦前の重臣層にこの勇気があれば、無謀な戦争をはじめもしなかったろうし、戦後の大臣や役人にこの勇気があれば、占領時代にアメリカのおしつけをなんでもかんでも唯々諾々《いいだくだく》と受け入れもしなかったろう。われわれの生活は、今日とは大分ちがったものになっていたはずだ。
西郷は最も愛情深い人であった。
いろいろな実話があるが、一つだけ語ろう。西郷の最初の島生活は罪人として流されたのではなく、幕府の目からかくすためであったので、年六石の扶持米《ふちまい》がついた。西郷はこの中から病弱者や老人にはよく施与したので、しばしば自らの飯米がなくなった。島における彼の妻、アイカナがあまりなこととなげいたところ、西郷は、
「わしらは若くて元気なのじゃ。イモと塩だけでもりっぱに生きて行けるが、年寄りや病人、乳の出ん母親には、たとえ一合の米でも、お医者の薬同然じゃ。見殺しにはできんじゃろうが」
と、教えさとしたという。
彼は無欲、無私の人であった。
彼の語録に「自らを愛するはよからぬことなり」とあることを、前に書いたが、彼は実際無欲、無私の人であった。明治二年に彼の維新の際の功績にたいして賞典禄二千石を下賜されたことを前に書いたが、この二千石は後の私学校の年々の費用となった。だから私学校のほんとの名は賞典学校というのである。
無私、無欲であったため、その日常の生活は倹素をきわめた。鹿児島の武町にのこる彼の住宅あとを見ても、とうてい維新の第一の元勲の住んでいたところとは思われないほどの質素さである。東京における彼の邸宅は日本橋小網町にあった。旧大名屋敷のあとだったから、邸地そのものは広大であったが、彼はその中に三間か四間くらいの小さい家を五六棟建てて、一つを自分の住まいにし、他を国から出ている書生等の寄宿舎にしていた。
岩倉具視が訪問して来て、その粗末さにおどろいて、
「ご身分にふさわしい邸宅をかまえらるべきでありましょう」
と、忠告したところ、西郷は、
「国の家はもっときたのうごわす」
と笑ってとりあわなかったという。
かつての同志らが、今は政府の高官となって、宏大な邸宅をかまえ、美妾《びしよう》を擁し、肥馬・軽車を駆って出入するのに、彼はこの粗末な家に住み、太政官の会議日には木綿の着物に小倉の袴《はかま》をはき、草履《ぞうり》ばきで、一僕を従え、弁当持参で、てくてくと徒歩で出勤したのである。
代議士になれば家屋敷ができ、大臣になれば鉅万《きよまん》の財産ができ、派閥の長となれば数軒の別荘ができるという現代の政治家を見なれた目には、夢のような姿である。天性、無私無欲の性質だったからでもあろうが、いく多の先輩、同志を死なせ、いく万の生霊の犠牲の上に成り立った新時代だ、その政府に仕えながら奢侈《しやし》、贅沢《ぜいたく》などしては相済まないと、いつも戒心していたのであろう。
以上述べた特性のどの一つを取り上げても、彼が人にすぐれた人物であることはまぎれもないが、そのすべてを備え、しかもこれを落々たる英雄の風格をもって包括していたのだ。天授の英雄と言わざるを得ない。
西南戦争の時、日向の長井村で西郷軍が官軍に厳重に包囲された際、西郷軍は夜に乗じて可愛岳《えのたけ》の険峻《けんしゆん》をこえて脱出したのだが、鼻をつままれてもわからない暗夜を、声を殺し、足音をひそめて、全軍腹ばいになって進む時、西郷が、
「全《まつ》で、夜這《よべ》ンごツあツなあ」
と言ったので、人々はクスクス笑い出し、身の自由もきかなかったほどの緊張がすっととれたという。落々たる風格とはかくのごときを言う。
西郷隆盛の複雑性
小説中の人物は個性あざやかに書くことが要求される。そうでなければ、生き生きと読者に受けとられないからである。だから、史上実在の人物を登場させる場合にも、作者は大いに単純化を行わざるを得ない。つまり、その人の性質で一番目立つところだけを書いて、その人らしく見せかけるわけだが、現実の世界にはそんな人間はいっこない。現実の世界には生きるにたえないような半ぱな性格なのである。しかたはない。これが小説というものの宿命である。
しかし、こうして書いた人物でも、たいていは本質とそう違ったものにはならない。織田信長は織田信長であり、豊臣秀吉は豊臣秀吉であり、徳川家康は徳川家康だ。
ところが、この点で、西郷隆盛ほど書きにくい人物はいない。彼は茫洋《ぼうよう》として細事に拘泥せず、清濁あわせのむ底《てい》の人物であったと、一般には考えられている。しかし、彼は最も良心的な性質で、正は好んだが、不正や邪悪は蛇蝎《だかつ》のようにきらった。切所に臨んで最も大胆であったが、平生はまじめで、礼儀正しくて、謙譲で、相手が人夫のような者であっても、やさしく、丁重に接したという。最も勇気たくましく、必要な場合には相手がいかに権貴の人であっても決して恐れず、最も強いことばをもって堂々と主張し、論難したという。最も愛情ゆたかで、民の窮迫や苦痛を見ては心が痛んで救わずにいられなかったという。
これらの諸性質は、いずれも最も強烈で、普通の人にあるなら、優にその人の特性となり得るほどのものであった。彼はそれらを一身に具備して、西郷という人格を形成し、一世の徳望が集まり、明治維新の中心人物となったのである。
だから、西郷を小説に書くとすれば、以上のいずれの性質も省略することはできないのだが、万べんなく書いてはその性格の目がつぶれて得体《えたい》の知れないものになってしまう。といって、茫洋たるところだけを書いては、にぶい薄ノロになってしまう。正義好みの点だけ書けば神経質な人物になる。礼儀正しいところだけ書くと村夫子になってしまう。勇気ある点だけ書けば、単なる勇者になってしまう。愛情深い点だけ書けば、女じみた泣き虫になってしまう。実に書きにくいのである。こんな彼だから、そのことばでも誤解されているものがずいぶんある。
「いのちもいらず、金もいらず、名もいらぬ人は始末にこまるなり。されどこの始末にこまる人ならでは、廟堂に立ちて天下の政をなすことは出来ぬなり」
は最も有名だが、最も誤解されている。これは孟子に、
「天下の広居(仁)に居り、天下の正位(礼)に立ち、天下の大道(義)を行ひ、志を得れば民とこれに由り、志を得ざれば独りその道を行ひ、富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず、これをこれ大丈夫といふ」
とあるのが出典で、それを彼流の感悟によって言いかえているのである。これは彼と庄内藩士らとの問答によって明らかである(岩波文庫「西郷南洲遺訓」)。ところが、戦前の右翼の人々や、豪傑ぶった人々は、「始末にこまる者」を「世のもてあまし者」の意に解釈し、大いに愛用し、従ってまた一般の人にも西郷を誤解させるよすがにしてしまった。「始末にこまる者」とは、「誘惑の手だてなき者」の意だ。死をもっておびやかしても、名利をもって誘惑しても、心をゆり動かすことのできない者という意味だ。
複雑な性格である西郷を単に東洋風の豪傑と見るから、この誤解が生じたのである。
内村鑑三は「日本はグランドという特色のない国である。西郷はグランドであったから、日本人は西郷をしりぞけて国賊にした」と言っているが、実際、一言をもって彼を蓋《おお》うなら、「グランド」としか言いようがない。すべてがケタはずれに大きいのである。
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[#見出し]  乱世の英雄
許劭《きよしよう》、字《あざな》は子将は、後漢の平輿《へいよ》の人である。少《わか》くして名節を峻《たこ》うし、生涯《しようがい》仕えずしておわった人である。人物評論が好きで、従兄の許靖《きよせい》とともに常に郷党の人物を批評して、毎月|朔日《ついたち》に題目をかえては、これを発表していた。その地方の人はこれを「月旦評」と呼び、この地方の名物となっていた。
この許劭の評判を、曹操《そうそう》が聞いて出かけて行き、拙者を批評してもらいたいと頼んだ。許劭は答えなかった。曹操は剣をぬいておどかした。
「なんで黙っとるのか。拙者にかぎって批評せんのは、拙者を軽蔑《けいべつ》しとるのか。人に軽蔑されては拙者はがまんしても、この剣が承知せん」
そこで、許劭は言った。
「貴下は治世の能臣、乱世の姦雄である」
「なるほどな」
曹操はニコリと笑って立ち去ったという。
許劭の曹操評は、「治世の能臣、乱世の姦雄」だが、「乱世の英雄、治世の乱臣」というべき人物もある。日本の維新《いしん》時代には特に多かったようだ。
高杉晋作がその一人だ。
慶応二年の春、高杉は洋行を思い立って、藩政府の要職にある井上聞多と桂小五郎に話をして、運動してくれるように頼んだ。
高杉には大功がある。長州が英米仏蘭の四国の艦隊と戦争して大敗して、藩の重役連が周章狼狽《しゆうしようろうばい》、途方にくれていた時、媾和使節として乗り出して、見事な折衝ぶりを見せて、割の悪い賠償金《ばいしようきん》などはみんな幕府におしつけて、長州としては何一つ失わず、かえって得《とく》の行く条約を結んだことが一つ、その後、長州の藩論が俗論党に制圧されて、御無理御尤もと、幕府の命令に従ういくじない有様になった時、亡命先きから立ちかえって、一握りほどの兵を以て俗論党を征伐し、ついに藩論を回復したことが二つ。
こういう高杉ではある上に、彼の洋行は久しい前からの素望《そぼう》で、すでにこの前年にも英国留学の許可をもらっていたのを事情があって果さないでいたことでもあるので、二人は大いに運動して、許可を取ってくれ、費用も千五百両もらってくれた。
高杉はこの千五百両を持って、その頃彼が目をかけていた伊藤俊輔(後の博文)を連れて長崎へ向った。
伊藤は、先年井上聞多と共にほんのしばらくだが英国に留学していたので、ある程度英文も読めれば会話も出来るので、通訳兼従者として召連れたわけであった。
三月二十一日、高杉は、長崎について、便船を待つべく、宿屋についた。
江戸時代の長崎丸山の遊里は、京の島原、大坂の新町、江戸の吉原とならんで、遊びの面白いところであった。とりわけ、維新時代の長崎は、諸雄藩が争って兵器や汽船なんぞを買い入れるので、日本一の景気のよい町となり、従って遊里の繁昌《はんじよう》したこと話にならない。
元来が遊び好きの高杉だ。ふところには千五百両という大金がある。たまったものではない。フラリと一夜出かけて行ったが、面白いの面白くないの、持ち前の気ッぷにまかせて、それ行け、やれ行けと、向う見ずな遊びをつづけているうち、千五百両は日なたの薄雪のように、消えてしまった。
そこで、井上と桂にあてて金策を依頼する手紙を出した。
井上は、当時馬関にいたが、手紙を受取ると、
「こまったやつだ。もう費ってしまったのか」
と、さすがにあきれたが、ともかくも早速山口の城下へ行って、桂に手紙を見せた。桂もあきれた。
「何というやつだ。千五百両もう費ってしまったのか。こりゃ難儀だぞ。藩政府としては金はいくらあっても足りない時代だからの」
と愚痴《ぐち》を言ったが、見殺しにも出来ない。政府へ交渉にかかった。
ところが、案のじょうだ。政府ではきいてくれない。
「千五百両といえば大金だ。それを費ってしまったから、またくれとは、虫が好すぎるではないか。唯今の藩の立場を何と考えているのだ。金のやりくりに四苦八苦している時ではないか。そうそうは出せない」
と、けんもほろろだ。
このことが、井上から高杉のところに報告されると、高杉は、手紙ではラチがあかないと考えた。
「伊藤、お前かえって来い。イヤがオウでも金をつくらんことには、どうもならんぞ」
またまた井上にあてて手紙を書き、それを持たせて、帰してやった。
その手紙の中に、こういう文句がある。
「弟(小生)事も当分はラウダの処へ潜伏《せんぷく》の覚悟に御座候。しかしながら、政府その他へは上海へまかりこし候様、おん唱え下され候様、頼み奉り候」
つまり、高杉はもう上海へ渡ってしまっているのだ、旅先きにあるものを見殺しにして路頭にまよわせることは出来ないではないかと言って説いてくれという意味だ。
伊藤は手紙を持って馬関へかえった。井上はすでに山口から馬関へかえっていたが、高杉の手紙を見、伊藤の説明を聞いて、再び山口に出かけ、桂と共同して、猛運動をおこした。
こんどもなかなかうまく行かなかったが、どうにか漕ぎつけた。不日に金を下げ渡すから、それを持って伊藤は長崎へかえれということになった。しかし、中々その金が下らない。今日か明日かと待っているうちに、かなりな日数が経ってしまった。
話かわって高杉の方。
今の高杉は、洋行費もだが、それ以外に借金もずいぶんたまっている。どうしてもまとまった金が必要だ。首を長くして、伊藤の帰来を待っていたところ、意外なことがおこった。
それまでくすぶっていた幕府の長州再征の議が表面化して来たのだ。幕府では、すでに勅許を得て、諸藩に出兵を命じ、老中小笠原|壱岐守《いきのかみ》が広島まで出張して、最後の通牒を申し渡すキッカケをつくるために、長州に対して無理難題を吹っかけては盛んに恫喝《どうかつ》をはじめた。
これが、長崎あたりには、
「開戦はもう避けることは出来ない。一触即発の情勢である」
と伝わった。
こうなると、例の気性だ。
「もう洋行なんぞしている時ではない。帰ろう」
と、思った。
この前から、英国商人のグラバが汽船を売りに出していた。オテントサマ号という名の船だ。
このグラバという男は、この少し以前から長崎に居留していた貿易商で、この後もずっと長崎に居住して、その邸宅は、「|お蝶夫人《マダム・バタフライ》」の遺跡として、今日では長崎名所の一つになっているほどだ。
高杉は、このオテントサマ号を以前から見てほしいと思っていたが、とっさに買う決心をつけた。開戦となれば船は最も必要であると思ったのだ。
「グラバさん、あんたのあの船ですがね。あれをわしの藩に売って下さらんか」
「売物として出しているのです。よろこんで売りますよ。値段さえ合えば」
「それでは買います。しかし、今わしは一文もない。国許で支払うから、それでよろしいか」
「よろしい」
船の回送のためには、グラバが船員を貸してくれることになった。高杉はこの船に乗って、馬関にかえって来た。
後年グラバが、「井上伯伝」「東行先生略伝」の著者である中原邦平氏に、
「あの時には高杉さんは金が一文もなかったので、ただ売る約束をして、水夫その他の機械類も皆つけて、高杉さんに渡した」
と語っているから、高杉が一文もなかったのは事実であろう。
さて、高杉が帰国してみると、長幕の情勢は、長崎で想像したほどのこともないので、高杉のこの軍艦買入れは、政府部内をものすごくおこらせた。
「なんの権利があって、そんな専断《せんだん》な振舞いをするのだ」
「藩にはちゃんとした政府がある。また、海軍のことには海軍局というものがある。それを通さんで勝手なことをするにも程がある」
と、強硬の意見が出て、それが支配的になったばかりか、洋行費千五百両の問題までほじくり出され、
「高杉には洋行費として、これこれの金を渡してある。彼は洋行を中止したのだから、これも返納さすべきである」
という意見まで飛び出す始末だ。
それを大童《おおわらわ》になって説得に努力したのが井上だ。しかし、軍艦買入れの方は、桁ちがいの大口だから、手におえない。専ら千五百両の口の方をなだめる。
「まあまあ、そう言わんでいただきたい。なるほど、洋行費は渡した。しかし、高杉のこれまでの功績《こうせき》に対して、それくらいの金はくれてしまったことにしてもいいじゃござらんか」
といった工合に説きまわった。
けれども、なかなか解決がつかない。
そうこうしている間に、長幕の間は手切れとなってしまって、戦雲|漠々《ばくばく》として長防二州を蔽う有様となった。
こうなると、軍艦はどうしても必要だ。政府はオテントサマ号を買い入れることになって、代金を支払った。三万九千二百五両二分という金。
これは、高杉の性格や従来の行動から推《お》しての、ぼくの推察だが、この代金の中には、長崎における彼の借金もこめられていたに違いないと思う。いかがであろうか。
すでに四万両近い金を支払ってしまった以上、この切迫した時に、高杉のような有為な人材を苦しめるのは得策にあらずとなって、千五百両の洋行費も返納におよばんということになった。
高杉が長崎から長州へ帰って来たのは、四月下旬であったが、六月八日には、早くも戦闘が開始された。この日に、幕府の軍艦四隻が来て、周防の大島を砲撃して陸兵を上陸させたのである。大島は一島を以て一郡をなしているほどの大きな島で、土民を以て組織した軍隊があって守備していたが、艦砲射撃と幕府の陸軍兵の攻撃に防ぎかねて、海峡を渡って退却してしまった。
この二日前の六月六日、高杉は海軍総督に任命されていたが、大島の敗報を聞くと、
「よし!」
とばかり立ち上った。
彼は自分が買って来たオテントサマ号、この時は名前をかえて丙寅丸《へいいんまる》といっていた船に打ち乗って、馬関を出発して東に向った。
途中、三田尻に寄港して上陸した。この三田尻に、かねて知り合いの豪家で、貞永《さだなが》というのがある。そこへ行った。
「おや? 高杉先生ではございませんか」
貞永の妻女が、そう言って迎えた。
「よう。達者でいたか。ちょいと二階を貸してくれ」
「どなたかとお会いでも?」
「いや、ちょいと休息したいだけだ。かまってくれるな」
さっさと上り、勝手知った梯子段《はしごだん》の方へ行く。妻女はついて上って、座蒲団をすすめて、下りて来た。
「茶もなんにもいらんぞ」
高杉は追いかけるように言った。
下へ下りて来ると、貞永の主人が奥から出て来た。
「誰が来たのかね」
「高杉先生です。二階を貸してくれ言うて。茶もなんにもいらんのやそうです」
「フウン」
ずいぶん長い間、二階ではコトリとも音がしない。
主人は、大島が幕府の海軍に砲撃されて占領されていることも知っていれば、高杉がたった一隻の船でここの港に来たことも知っている。なにか不安になった。足音をしのばせて、梯子段を上って行った。
夏のことだ。二階はどの座敷も開けはなして、すずしい風が通っている。
主人は階段のところから頭だけ出して向うを見ると、その座敷の床の間の前に、高杉は寝そべっていた。
おそろしく不行儀で、不思議な姿であった。両足を高く床柱に上げ、両手を後頭部に組んで、仰向けに寝て、まじまじと天井を見つめていた。
主人はそっとおりて来た。
「どないしてはりました?」
と、妻女が聞いた。
「こんなかっこうして、寝ていなさった」
「おや、まあ」
「考えごとをしていなさるんだな」
それからまたしばらくして、トントンと足音がして、高杉は下りて来た。
「これは先生」
「ヤア、久しぶりだな。お邪魔していた。暑いのう」
「暑うございます。どうぞ、こちらへ」
奥の座敷へ案内しようとしたが、高杉は手を振った。
「いや、今日は急ぐ。また来る。世話になった」
言いすてて、さっさと立去った。
丙寅丸に帰船した高杉は、夜に入るのを待って出帆を命じ、東南に針路をとって十三里、夜明け近く、まだ暗いうちに室ノ津半島の突端にある長島の西海岸の港、上ノ関に入って投錨《とうびよう》して、終日|碇泊《ていはく》していたが、夜になると機関に火を入れさせ、十時頃出帆させた。
このあたりは島の多いところだが、折しも空には十二日の月がある。それを頼りに、島々の間を縫って、しだいに大島に接近して行った。幕府の軍艦四隻は、この大島の北岸久賀の港に碇泊しているはずだ。
月の沈む頃、港の西の岬にさしかかった。これをまわれば、敵の軍艦の碇泊しているのが見えるはずだ。
岬をまわった。果して、暗い海の上に点々として灯影が見えた。数えて見ると、八つ。船首と船尾に点《つ》けて、その船の位置をしめしているのだ。四つずつ二列にならんでいる。
高杉は、その真中めがけて舵《かじ》を取った。船は全速力でそこに突入して行った。
同時に、両舷四門の大砲は火を噴いた。
油断しきっていた敵は、夜半の夢を破られておどろいた。
「敵襲だ! 敵襲だ! 火を焚《た》け、砲門をひらけ!」
と、指揮者はどなり立てたが、それはかえって人々を狼狽《ろうばい》させるだけであった。
完全に度を失って、騒ぎに騒いでいる間に、高杉は十分の打撃をあたえておいて、引き上げた。風のような神速さであった。
ともかくも、このようにして、独断で軍艦を買って来た甲斐を、全藩に示したわけであった。
以上の話でも分る様に、高杉はある種の天才ではあるが、要するに乱世の英雄であって、秩序立った平和な時代には危険千万な人である。公私の区別がまるでつかないのだ。
この点から考えると、彼はいい時に死んだと言える。明治以後まで生きていたら、きっと汚職的なことをやって晩節をけがしたにちがいないと思う。
そのよい例は、彼の盟友であった井上聞多だ。彼は維新政府の大官になったが、その行為は、明治初年における貪官汚吏《どんかんおり》の代表者の観がある。尾去沢《おさりざわ》の銅山事件、藤田組の贋札事件等々、彼にかかっている疑惑の雲は、明治史を研究する者の心から拭《ぬぐ》い去ることが出来ないのである。高杉ももし生きていたら、同じようなことをしたのではないかと思わざるを得ない。
一体、こうした公私混同の生活態度はどうして生まれたのだろう?
高杉や井上が生れつき放縦《ほうじゆう》な性質を持っていたことも、もちろんあろうが、当時の長州藩の情勢がその気風を養成した点も大いにあったと、ぼくは思う。
長州の殿様は、藩主の慶親《よしちか》も、世子の元徳《もとのり》も、そうかしこいという人ではなかった。普通の殿様であった。家老にもまた大した人物はいなかった。馬関戦争のあと始末《しまつ》が出来ないで、座敷牢に入れられていた高杉を大急ぎで引っぱり出して局に当らせたことを以ても、それは明瞭《めいりよう》だ。
こんな藩の有様だ。気力あり気概ある若い連中の活溌な動きなど統制出来るはずはなかった。統制どころかその連中に鼻面をとって引きずりまわされる有様であった。満洲事変以後の日本軍部と同じく少壮将校跋扈の状態であったのだ。
この時代、長州の若い志士連は、何とかかんとか名目をつけては、藩から金を引き出しては、品川の土蔵相模その他で遊興しているが、それはこの表れの一つだ。
こんな時、藩の重役連に談じこんで金を引き出す役目に当ったのは井上聞多であった。
維新政府が出来た時、井上が大蔵大輔に任命せられて、維新政府の財政の局にあたったのは、このいんねんにちがいない。
「あいつは金をこしらえることが上手じゃった。あいつでなければ藩から金が引きずり出せんじゃったもんな。大蔵省は適任じゃ」
といった調子であったろう。草創期らしい大まかさである。
ともあれ、長州藩の幕末における少壮将校跋扈の空気が、高杉や井上のような金銭に対して放縦な性格を育てたに違いない。
山県有朋のような謹厳《きんげん》そのものの様な人物でさえ山城屋和助事件を引き起している。
一つの団体や国に下剋上《げこくじよう》の風習が盛んになるのは、上位の者に位にふさわしい実力がない所から出て来るのだが、こんな団体や国家は決して栄えない。必ず、どえらい所に突っ走って亡びてしまう。早い話が、満洲事変後の日本だ。見る通りの有様になってしまった。この時代の長州だってそうだ。禁門事変と四国艦隊との戦いを同時におっぱじめ、幕府の追討を受けた時など、普通ならつぶれていたはずだ。幸い征長軍の参謀長格に西郷がいて、後における両藩の提携を考えて、寛大な処置に出、実戦に至らずして兵をおさめたので亡びずにすんだのだ。老大な者が無気力不才で国をあやまる弊も大きいが、無経験無責任な年少気鋭な者の国をあやまる弊もまた大きいのである。
土佐藩の後藤象二郎も治世時代の英雄ではない。彼は土佐藩の参政として、維新時代の土佐の政治をとったが、これまた公私の区別がわからず、藩の金を湯水の如く濫費《らんぴ》して豪遊をきわめた。
明治の初年までは参議になったりなんぞして、一応羽ブリをきかしたが、次第に世の中に秩序が立ってくるにつれて、責任のある地位につくことが出来ないようになり、山のごとき負債の中に死んだのは、理由のないことではない。
坂本竜馬もまた乱世向きの人だ。今にのこる彼の語録を一読すれば、それは歴然たるものがある。数条を上げてみる。
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○人に対面せば、此奴はいかにせば打殺し得るぞと見取るべし。此奴を殺すはわけはないと思う位な者は智恵なしなり。少しむずかしいと思う位な者は智恵あり。智恵のある奴は早くだまして味方にすべし。
○人を殺すことを工夫すべし。刃にてはかようにして、毒類にてはかようにしてなどと、工夫すべし。乞食など二三人試みておくべし。
○薄情の道、不人情の道、忘るることなかれ。これをかえって人の喜ぶように行うを智という。
○涙というものは人情を示す色なり。愚人や婦女子には第一にききめあるものなり。
○衣食住財宝を人にあとうるに、智ある者はめったにだまされねど、度を重ねてあとうれば、ついにその親切にほださるるものなり。
○おのれの欲する所を人に知らしむるなかれ。おのれの短所もまたしかり。これに反して、他人のこの二つを知るを英明の器とす。
○偉い相手に対して、心臆《こころおく》する時は、こいつは女房とする時はどうしてするならんと想像して相手を見れば、ちっともこわくなくなるものなり。
[#ここで字下げ終わり]
読み来れば、姦雄的心事歴然である。
しかし、竜馬は自分自身をよく知っていた。かつて、竜馬が幕府が倒れた後の新政府の組織を考え、任命すべき人を書き出してみたことがある。
大体出来上って、それを示された同志の誰やらが、
「坂本さん、これにはあんたの名前が見えんようじゃが」
と言ったところ、竜馬は答えた。
「ああ、わしは世界の海援隊でもやりましょうわい」
竜馬は実におのれを知っていたのである。
[#改ページ]
[#見出し]  森ノ石松
清水ノ次郎長の子分森ノ石松もずいぶん美化されて話が伝わっている。
石松の話に出てくる都鳥ノ吉兵衛は実説では都田《みやこだ》ノ吉兵衛だ。浜松北方の三方ケ原の北に都田という土地がある。ここの出身であるから都田ノ吉兵衛といわれていた。天竜川にほど近い笠井町《かさいまち》の近く寺島に住んで、遠州ではいい顔の親分であった。弟が二人いた。常吉、梅太郎。事件はこの常吉からおこった。
今日一般に行われている伝説は神田伯山が講談として創作し、それを広沢虎造がなにわ節にしてから広く世に行われるようになったのだが、それによると、石松が次郎長からあずかった金を吉兵衛に貸したが、吉兵衛がなかなかそれを返さないので、石松がきびしく催促したのを根にもって、石松を殺したことになっている。
実説ではこれは反対だ。石松の方が都田に借金しているのだ。寺島村の吉兵衛の家の賭場に来てすってんてんにとられ五両の借金になった。これがなかなか返せない。吉兵衛の弟の常吉が、途中で逢ってのことか、石松の家に行ってのことか、とにかく、
「お前《め》エも渡世人だ。賭場の借りは長引いてはならねえことぐれえ知ってるだろう」
とさいそくした。
「ああ、わかってるよ。四五日待ってくれ。必ずかたをつけるから」
「じゃあ、五日待とう」
「よし来た」
「こんどこそ間違えるなよ」
「間違えるもんか。たかが五両だ。おれも次郎長の身うちでちったア人に知られた男だ」
「じゃアつがえたぜ」
「大丈夫だってことよ」
くれぐれも念をおして、常吉は帰って行った。
石松は金のくめんにかかったが、くめんのつかないうちに約束の日が来てしまった。
寺島から半里ばかり西北方に小松という土地がある。ここに石松の友達で七五郎という遊び人がいる。親分も子分もなしの一人だちのばくちうちだ。これを半可師《はんかし》というのだそうだが、もともとは半貸元の意味だろう。石松はこの七五郎のところへ行って、わけを話して、三両借り出した。
「ありがてえ。大ていおれも目の出る時分だ」
と、勢いこんで寺島村に行き、都田の賭場に入って、やりはじめた。うんと勝って、
「さあ、五両だ。たしかに返したぜ」
とやるつもりであったが、どうも形勢がよくない。石松は片目を血走らせるばかりに逆上したが、どう考えてもおかしいような気がしはじめた。イカサマをやっているんじゃないかと疑いはじめた。そう思うと、壺ふりの態度や手つきまであやしいものに思えてきた。ついに、イカサマと信じこんだ。とつぜん、
「やい!」
と、壺ふりの手をおさえて、
「この野郎! イカサマしやがって。賽ころを見せろ!」
とどなり出した。
ばくちにインチキはつきものだ。商売人がしろうと相手にやる場合には必ずといってよいくらいインチキするのだそうだ。そのために、この道の商売人は、花札でも、サイコロでも、たえずそれを研究し修練しているという。しかし、くろうと同士の勝負にはめったにやらない。やりにくくもあろうが、ばれたらちっとやそっとのことではすまないことになっているからだ。
腹を立てたのは、兄の代理で胴元をつとめていた常吉だ。
「この目ンかちめ! 因縁つけに来やがったな! その分にはすておかねえぞ!」
といって、脇差のさやをはらって立ち上った。
「何を! インチキのくせに、すておかねえがあるけえ!」
と、石松も刀を引っこぬいた。
斬り合いとなった。都田方の賭場だ。子分も沢山いる。石松大いに奮戦したが、とても敵しない。すきを見て逃げ出した。全身十余ヵ所の傷を負うていたという。都田方はもちろん追いかける。
暗夜であったのが、石松には幸いであった。どうにか追跡をのがれて、小松の七五郎の家へ逃げのびた。
七五郎はこれを裏の薯倉《いもぐら》にかくまったが、間もなく常吉・梅太郎の兄弟が子分らを引きつれて追って来た。石松と七五郎とが親しいことは皆知っていることであったので、見当をつけて来たのであろう。
七五郎はどうやらきれいにごまかして追いかえした。七五郎の女房はお園というのであったが、その女房の方が落ちついていたという。こんなときには、男は案外おちつきのないもので、女の方が沈着なものだ。
「かくし立てしたことがあとでわかったら、その分にはすておかねえから、そう思っていろ」
と、すごんで、常吉らはかえっていった。
石松はすぐ出て来て、とりあえず全身の傷を血どめし、ほうたいをして、医者の手当を受けるために、七五郎の家を出たが、常吉の方にもぬかりはない。ちゃんと見はりの者がおいてあった。すぐ連絡をとり、少し行ったところで、前後からとり巻いた。
「石松、待っていたぜ。この世のおさらばだ。覚悟しろ!」
「なにを!」
石松は刀をふりまわして、あれ狂ったが、全身十余ヵ所の傷を受けている身だ、どうにもならない。ズタズタに斬られて、たおれてしまった。常吉はその死骸を近くの用水池にほうりこんで、かえった。
以上が石松の最期である。勇敢さは別として、負け腹立てて、因縁をつけて、殺されたのだ。こんな因縁をつけては、殺されてもしかたがないのが、この社会の約束なのだ。いいところは少しもない。
今日伝えられる石松の性格は、伯山がこしらえたのだが、伯山はそれをどこから借りて来たかといえば、水滸伝からだ。水滸伝の黒旋風|李逵《りき》の性格をうつして石松に賦与したのだ。
李逵は梁山泊百八人の豪傑の中の人気ものだ。色が黒くて顔貌醜悪、阿呆で、短気で、純情で、喧嘩早くて、かけらほども思慮がなく、失敗ばかりしているが、剛勇無双、双つの斧を左右の手にふるって戦えば、敵をたおすこと草を薙ぐがごとしということになっている。
さらにこれをさかのぼれば、演義三国志の燕人張飛に達する。張飛も剛勇無双、丈八の蛇矛《じやぼう》を横たえて戦場に出れば、曹操の百万の大軍もためらって進むことが出来なかったと書いてある。そのくせ、顔貌醜悪、短気で、思慮めいたものは形ほどもなく、純情ではあるが、無暗に強がってばかりいる性格にしてある。
こういう性格は西洋ではあまり愛せられないが、東洋ではずいぶん人気があり、東洋の快男児の一典型をなしている。日本でも、講談にはやたらこの型の快男児が出てくる。弁慶、一心太助、堀部安兵衛、武林唯七等、皆そうだ。
こんな人物は文学の中で見てはおもしろいが、現実に、しかも自分の間近に生きていられては、たまらないにちがいない。快男子どころのことではない。文学と現実のちがい、自分に関係のあることと無関係なこととのちがいだ。
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[#見出し]  ボッケモン人国
肥前平戸《ひぜんひらと》の殿様であった松浦静山《まつらせいざん》の「甲子夜話《かつしやわ》」に、こんな記述がある。
薩摩に「野郎《やろう》」というのがある。暴勇血気、まことにおそるべきものである。彼等は奇怪戦慄すべき集会をもよおす。
一室に会して円座をつくって飲食する。その天井の真ん中から一筋の紐を垂れ、さきに弾薬を装填した銃をブラ下げる。銃身は水平に保ち、銃口は各自の胸の位置にあたるように装置する。
やがて酒|酣《たけなわ》なる頃、火縄に火を点じ、紐に一ぱいのよりをくれる。
銃は盛んに回転し、火縄の火は火皿に向って燃える。
やがて轟然と飛び出す弾丸は、誰の胸を貫くかわからないのであるが、彼等は顔色自若として談笑しつつ、盃を上げる。おびえさわぐ者は臆病未練として、これを卑しむのである、云々。
また、こんなことが書いてある。
ある時、薩摩の殿様が巻狩を催した所、若侍の連中が指揮によらずして鬨《とき》の声を上げて、狩の手筈が狂った。殿様は、
「勝手に鬨の声を上げてはならん。今後違反する者は切腹仰せつける」
と、戒告して、やりなおしたところ、前にもまさる鬨の声を上げた。
「先刻あれほど申しておいたのに、不届千万な者共だ。余の戒告を何と聞いたのだ」
と、殿様は激怒した。若侍等は答えた。
「してはならんということなら、してはならんとだけ仰せ下されば十分であります。然るに、犯す者は切腹仰せつけると申されました。ここで、もし、我々が鬨の声を上げねば切腹が恐しさにおとなしくしていたということになります。武士の一分立ちかねますによって、鬨の声を上げました。切腹もとより覚悟であります。早速に仰せつけ下さいますよう」
殿様は閉口したという。
薩摩人ほど、勇敢さと強さを喜ぶ人種を、自分は知らない。生命知らずの勇敢な人間を、薩摩語で「ボッケモン」という。こう呼ばれることは、薩摩では、少年にはもちろんのこと、青年、中年、老人にも、大へん名誉なことになっている。
この気風が最も手近に見られるのは、小学校の新入生だ。それぞれの地域で「ボッケモン」と呼ばれて、自信満々で入学して来た連中が一緒にカチ合ったのだ。明けても暮れても喧嘩だ。
クラスに平和が来るのは、一学期のおわり、夏休みの前だ。トーナメント式に行われる喧嘩によって、やっと順位が確定するからである。
ぼくの長男は、京都で生まれ東京で育った。その子が五つ六つの頃、国に連れて帰った時のこと。ある日、長女がその子を連れて村の親類に出かけると、方々の辻や、物蔭から同じ年頃の子供が、長男をめがけて、肩をそびやかし、目をいからせて、ジリジリとすり寄って来た。喧嘩を挑みかける訳だ。
「よそから来た犬に、犬がウーとうなって近づいて行くでしょう。あんな工合なのよ。びっくりしたわ」と、長女がかえって来ての報告であった。
一体、こういう気質は、どこから来たのであろう。薩摩人の先祖である隼人《はやと》族というのは(ぼくは南方から漂着したインドネシヤ族で、台湾の生蕃と系統を同じくしているものだと考えているが)、おそろしく慓悍勇武で、争闘好きだったと伝えられているが、その血がさせるのであろうか。偏武的であった島津家の長い藩政がはぐくんだものであろうか。多分、両方だろう。
この戦争中、南薩摩の海岸地帯は、米軍の上陸予定地であったとかで、メチャメチャに叩かれた。連日、空襲空襲で、町という町すべて灰燼に帰した。その頃、その地方から所用あって、ぼくの家に来た者がある。ぼくは話を聞き、そぞろ同情して尋ねた。
「ミンナ、何如《いけん》シツ居《お》ッカ」
「ハア、オジサン達ャ、鉄砲ヲ持ッ、山行《やめい》タッオジャンド。(ハイ、おじさん達は鉄砲を持って山に行っておいでです)」
「山《やめ》、何事《ないごつ》ヨ。(山になんの用事で)」
「アメリカン飛行機ヲ射イ落スト言《ゆ》テ。(アメリカの飛行機を撃ちおとすと言うて)」
壮《さか》んなるかな薩摩隼人《さつまはやと》! 猟銃を以てB29やグラマンを撃墜せんと意気ごんでいたのである。
こうした一面、薩摩隼人は、おそろしく楽天的で、享楽的で、ジョウダン好きだ。薩摩人ほどジョウダンを言い、薩摩人ほど大きな声で笑う人々を、ぼくは知らない。どんなことでも、薩摩人は遊楽化してしまう。戦争中のあのイヤナ防空演習が、薩摩では見事に遊楽化されていた。水かけ演習など、部落対抗の競技になって、それぞれ選手が出、応援団が組織され、応援歌をうたいながら、焼酎をのみながら、いとも楽しく、いとも盛大に行われたのだ。
終戦二三年後の初夏であった。町の理髪屋で髪を刈っていると、隣りの椅子の客と主人との対話が耳に入った。客が言う。
「俺《おい》げ家《え》ン|かぶちゃ《ヽヽヽヽ》(南瓜)は、今日《きゆ》花が咲《せ》たど」
「ほう、そらめでて事《こつ》じゃ。一升《いつしゆ》お買《け》やんせ。花見をしながら飲《や》い申《も》そや」
カボチャの花の咲いたことでも、薩摩人には、りっぱに一ぱいやるに値するのである。
こんな人のいる国、薩摩とは。
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[#見出し]  殿様の限界
島津|斉彬《なりあきら》が死んだのは、安政五年(一八五八)七月であった。彼はクーデター計画を抱いて上京すべく鋭意準備中、にわかに死んだのである。次の藩主には、弟久光の長男又次郎忠義(初名|茂久《もちひさ》)がなった。斉彬の遺言であると言われている。斉彬は死の床に久光を招き、
「わしのあとつぎにはご辺の長男又次郎を立てよ。わしのかねての志と精神とは、ご辺はよく知っていよう。又次郎を後見して、わしの志を紹述《しようじゆつ》してくれるなら、わしは死んでも遺憾はない」
と、遺言したと伝えられる。
しかし、久光はすぐには後見にはなれなかった。父の斉興《なりおき》が生きていて、これが後見になったからである。
斉興は頑固《がんこ》な保守主義者だ。わが子ながら、最も進歩的な斉彬が好きでなかった。斉彬に世を譲ったいきさつについても、その後のことについても、いろいろな話があるが、ここでは語っているひまがない。彼は斉彬を憎悪までしていた。いつぞやも、ぼくは書いたことだが、斉彬は斉興に毒殺されたと、ぼくは推断している。これもくわしく書いているスペースがない。当時少なからぬ薩摩人らが、その疑いを持っていたことだけを知っていただきたい。この文章に大関係があるから。
さて、こういう斉興であるから、斉彬が襲封以来、最も熱心に藩内に推進した進歩的施設が気に入らない。新藩主の後見になると、全部破壊して、もとにかえした。斉彬は鹿児島城下を最も近代的な一大工場都市と化して、造船所あり、銃砲工場あり、製鉄所あり、紡織工場あり、その他、さまざまな工場があったのだが、全部閉鎖破壊して、昔にかえしてしまったのである。もちろん、天下のことに関しても、万事幕府にまかせて、何にも発言しないという態度になった。
久光は藩主の実父であるというだけのことで、何の役職にもつかず、知行地に引っこんでいた。鹿児島城下から鹿児島湾沿いに五里ほど北方の海べの村、重富《しげとみ》というのが、その知行地であった。読書と囲碁だけを楽しんでいたという。
久光は性格から言っても、教養から言っても、保守的な人であることはまぎれがないが、単なる保守家ではない。ずいぶん賢くもあり、気力もあり、志もあり、野心もあった人だ。父をはばかって、猫をかぶっていたのである。
ただ、彼の評判は、西郷隆盛(当時西郷は奄美《あまみ》大島に流されていた)をトップとする、当時の薩摩の政治青年のグループ――これを精忠組という――には、ひどく評判が悪かった。斉彬は彼らの最も尊敬する主人であった。彼らは斉彬によって日本の国難が救われるであろうと信じ、斉彬の旗の下で日本の国のために死ぬ覚悟をきめていたのである。だのに、その斉彬は毒殺された。彼らはそう信じたのだ。彼らは斉興をうらんだ。主人であるから、うらんだとてどうしようもないが、それでもうらめしく思わないではいられない。その彼らも、久光がこの事件に関係があるとは思わなかったようであるが、好意は持てない。
「久光様のおふくろの由羅《ゆら》(斉興の側妾)は、順聖《じゆんしよう》公(斉彬)のご世子時代から、久光公を立てようとたくらみ、順聖公を呪詛調伏《じゆそちようぶく》していたのじゃ。こんどのことはその野望をついに遂げたわけじゃ。久光公はご存じなくても、かたきのかたわれであるに間違いない」
と思っている。
こんな彼らだから、もう藩の力に頼って日本の国難を解決しようとは思わない。彼らは藩を見はなして、水戸藩士と結んで浪人運動によって解決することを考え、大挙して脱藩する計画をしくしくと進めた。脱出用に鰹《かつお》船を二隻用意までしたのである。
その青年らの中で、大久保利通だけは違った。骨髄からの政治家である大久保は、浪人運動では無力であると思った。西国一の雄藩である藩の力を利用するに越したことはない、利用出来る手を打つべきだと思った。
彼は久光に目をつけた。
(久光様は賢明で、好学なお人じゃそうな。志もある人じゃろう。だからこそ、順聖公も末期《まつご》のご遺言に、又次郎様の後見となって、わしの志を成しとげてくれよと仰せられたのであろう。ご隠居もお年じゃ、何年かの後にはなくなられる。そうなれば、久光様が後見になられる。取り入って教育しておくべきじゃ)
大久保は、精忠組の幹部として、脱藩計画を進めながら、一方では久光への接近をはかった。
久光が碁が好きだと聞いて、久光の碁の相手にいつも召される乗願《じようがん》という坊さん(同志、税所《さいしよ》喜三左衛門の実兄)に近づいて碁を習ったり、乗願の手を通じて久光にひそかに上書して、天下の形勢、朝廷と幕府との現状、精忠組の同志の名前、組の精神や志等を知らせたのだ。
これはたしかに久光の教育になった。久光は薩摩で生まれて、薩摩で育ち、一歩も国外に出たことのない人だ。いくら賢くても、学問好きでも、現代のように新聞や雑誌や時事を解説した書物などはない時代なのだから、天下のことや時局のことがわかるはずはないのである。彼は大久保によって日本の直面している問題を知り、また頼もしい青年らが藩内にいることを知った。
大久保の見通しは見事に的中した。斉彬の死んだ翌年の安政六年九月、斉興が病死したのである。久光は後見となった。
忠義はこの時もう二十だ。もし気の強い人間なら、後見なぞ不要であるとはねつけたに違いないが、忠義は最もおとなしい性格だ。最も忠実な儒教道徳の信奉者でもある。はねつけるなど出来はしない。その上、久光は子供とまるでちがって、強烈な性格だ。父の圧力の下に、全然のロボットとなる。薩摩最後の藩主は忠義であるが、彼が自分の意志でしたことは何にもない。すべてが久光の意志である。彼がまるで霞んでしまって、久光だけが目立つのは、このためである。
久光が藩政後見となって最初にしたことは、精忠組と正式な関係を持ったことだ。
精忠組と水戸藩との相談はいよいよ熟して、
「薩・水両藩の有志で井伊大老をたおし、一方京都で幕府びいきの九条関白をしりぞけ、所司代をたおそう。そうすれば、人心激動し、天下の正気は振い立つ」
となって、いよいよ同志一同そろって脱出することになった。
ところが、これが忠義に知れた。忠義の近臣の谷村愛之助が知って、忠義に知らせたということになっているが、谷村は大久保の親しくしている男だ、忠義に告げるであろうことを計算の上で、大久保が谷村に漏らしたものと、ぼくは見ている。久光がすでに藩政後見になった以上、藩の力を大いに利用出来る可能性が出来たのだ、なにを苦しんで成功の可能性少い浪人運動をすることがあろうと、考えたに違いないのである。ともあれ、忠義は驚愕して、久光に相談した。久光もおどろいたが、忠義をして一党に諭告書を下賜させた。
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方今世上一統に動揺し、容易ならない時節であるが、万一時変到来するなら、余は順聖(斉彬)公の御深意を奉じて、全藩をひきいて忠勤をぬきんずる決心でいる。各※[#二の字点、unicode303b]有志の面々は余がこの決心を深く酌んで、藩の柱石となり、余が不肖を輔け、藩名を汚さず、誠忠を尽してくれるよう、ひとえに頼み思う。よってくだんの如し。
安政六年己未十一月五日[#地付き]茂久花押
誠忠士面々へ
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青年らは非常な衝撃を受けた。
「殿様はおいどんらの精神がようわかっておじゃる。時機さえくれば、全藩をひきいて、順聖公のご遺志をついで立つと仰せられるぞ。おいどんらを藩の柱石と仰せられとる。誠忠の士の面々とお書きになっとる。おいどんらの党名をご存じじゃ!」
と、泣いてよろこび、脱出をやめた。
二番目に藩政改革を断行した。
これも大久保が膳立てしている。大久保は藩の方針を勤王に定めるには、先ず藩政府の陣容を一新すべきであると論じ、斉彬の時に重用されていた島津下総(左衛門)一派を起用すべきであると上書したのだが、久光はこれに従って、斉興時代の家老要人らは閑地に移して、島津下総を主席家老にすえた。
以上の二つで、久光が天下のことに乗り出すという意志表示はなされたわけだが、なかなか実行にはかかれない。
その理由の一つは、せっかく改組した藩政府が彼の自由にならなかったことだ。久光は妾腹の子である上に、一時は臣列に下って、家老の列にあったり、地方の地頭《じとう》をつとめたりしている。子の忠義が藩主となったため、本家にかえったのだ。家老らとしてはそれほど尊敬しない。久光としても遠慮がある。
第二。久光は相当賢明な人物ではあるが、斉彬とくらべては大ちがいである。家老の島津下総らにしてみれば、順聖公であるから、何をなされようと、安心してお従い申したが、久光公にはそうは行かない、十分に吟味する必要があると思っている。
第三。久光は本性が保守的な人であるだけに、行儀がよく、何ごともきちんとしたことが好きだ。つまり統制好きなのだ。英雄・豪傑の気にとぼしい。革命的精神の横溢している精忠組の青年らとは本質的に合わないものがある。忠義の直書《じきしよ》をもらっての感激も、時が立つにつれて薄れる。しだいに久光から心を離して行った。
その最初が、桜田事変の時だ。桜田事変は、水戸と薩摩の志士らの合議の上になったものだ。だから、青年らは大久保をして、事前から久光にこのことを告げて、兵を出していただきたいと説かせたが、久光は、
「すでに争乱がおこっているならだが、未然の出兵は名目が立たない」
と、却下した。統制好きの彼は、この浪人的なやり方が気に入らなかったのである。
やがて、桜田事変はおこり、事変の報告は関係者の一人である有村雄助によって国許に伝えられた。
大久保は久光を説いたが、久光は出兵しないばかりか、雄助には即夜自殺を命じた。
青年らの憤激は絶頂に達した。
「久光様は頼みにならぬ。おいどんらはあざむかれたのだ」
と、また脱出計画がおこった。これを必死におしとどめたのは大久保だ。大久保は人々の前に、
「あくまでもやるというなら、先ずおいを斬ってやれ!」
とさけんで、やっとおさめたのだ。何としてでも、藩全体の力でやらねばならないというのが、彼のかたい信念であった。
この時期に大久保のこの働きがなければ、薩摩の有志らは皆国外に去って浪人志士となったであろうし、そうなっては西郷が島から帰って来ても、どうしようもなかったろう。大久保の功績はならびなく大きいのである。
翌文久元年の秋頃から、久光はいよいよ斉彬の遺志をつぎ、兵をひきいて上京する計画にとりかかった。
大体、久光は保守主義者であるから、急激な変革は好きでない。この頃では諸国の志士らの間には、幕府は日本のためには無用有害な長物であるから打倒すべきである、日本の中心には朝廷一つで沢山であるという思想が発生していた。薩摩でも精忠組の壮士らの中には、その考えの者がいた。有馬新七などがそれだ。全国の志士らをこの気持に追いこんだのは、安政の大獄であった。大獄までは、人々は幕府は日本の政治の局にあたっているものであるから、これと朝廷とを協調させることによって強化することが、国難を乗り切る道であると考えていたのであるが、大獄における酷烈な弾圧が人々の考えを、幕府は日本の存立に邪魔になると、かえさせたのである。しかし、こんな考えは、久光には受け付けられない。彼は依然たる幕府尊重主義だ。同時に尊王家でもあるから、
「公武一和して、日本の中心を強化し、それによって国難を解決するのだ」
と、考えている。斉彬のクーデター計画がそうだったから、一層のことだ。斉彬の考えは安政五年という時点においてのもので、その後の情勢ではどう変ったかわからないとは考えないのである。
ところで、幕府も桜田事変を境に考えがかわって来た。井伊は幕府の専制体制を確立する方向に進んでいたのだが、井伊の死を境に公武協和に方針をかえた。朝廷のきげんを損じては途は困難になるばかりであると気がついたのである。
そこで、将軍家茂の御台所に皇妹|和宮《かずのみや》の降嫁を請願する。朝廷ではなかなか許さなかったが、手をかえ品をかえ運動して、ついに降嫁の許可を得た。
この和宮ご降嫁許可が呼びおこしたといえる、公武合体による国論の統一を考える者が多数出て来た。その最初の人物が、長州の長井|雅楽《うた》だ。
長井は文久元年の春から、公武合体・開港遠略の策と名づける議論を唱え出して、長州藩の運動として、朝廷に説き、幕府に説き、両方に喜ばれて、非常な勢いであった。
薩摩でこれを聞いて、久光は、
「うかうかしとると、おれの出る幕はなくなる」
とあせった。藩の力をもって天下のことに乗り出すのは大久保の宿志であるから、あるいは大久保が巧みに煽動したのかも知れない。
ともかくも、久光は兵をひきいて上京する決心をした。
ところが、主席家老の島津下総が頑として承知しない。
(久光公では荷が勝ちすぎる。そんな危険なことをするより、この際は国許に割拠して力を養いながら、天下の変を待つべきだ)
と、下総は考えたのだ。
しかし、こんどは久光も強い決心をかためている。下総一派をやめさせて、自分の自由になる政府に改造する。家老首席に喜入摂津《きいれせつつ》をすえ、側役に小松帯刀、お小納戸に久光の寵臣中山|尚之介《なおのすけ》、大久保、堀次郎という陣容だ。堀も精忠組の幹部である。小松帯刀を見つけて来たのは大久保であった。
西郷も島から召還する。
「西郷は順聖公の引兵ご上洛の計画の時、腹心として事にあたった者で事情通でございます。諸藩の名士とも交際があります」
と説いて、召還の運びにしたのである。
西郷が島から帰って来て、久光の上洛計画を聞き、大反対して、久光の機嫌を損じたことは有名だ。
西郷は久光の人物をまるで買わない。順聖公にくらべては月の前のスッポンのような分際で順聖公の真似をしようとは笑止千万と思っている。その上、彼は久光を順聖公を殺したかたきの片割れだとにくみ切ってもいる。西郷にとって斉彬は主君であり、師であり、世間におし出してくれた大恩人である。父母よりも、神よりもありがたい人と思っている。斉彬の真似などさせる気はしないのである。
「公は地《じ》ゴロ(田舎者)でごわす。とうてい順聖公のようにはまいりません」
と、面と向って久光に言ったのである。
久光もまた西郷にいい感情を持たなくなった。
これが、やがて両者の衝突となり、西郷はまた島に追いやられる原因となる。
勝田孫弥の「大久保利通伝」には、二人の衝突の原因の一つとして、久光の寵臣である中山尚之介が、西郷の藩士間における声望があまりに高いのを嫉《ねた》んで、久光にかれこれと悪しざまに告げたと書いている。また徳富蘇峰は、「国民日本史」の中で、当時の西郷は臣下でありながら久光に匹敵するほどの勢力があったと書いている。たしかに久光とその近臣らの間には、西郷にたいする嫉妬心――というのが言いすぎなら、警戒心があったに相違ない。前にも言った通り、久光は三年前までは臣籍に下っていた人だ。藩政後見になってからまだ二年にしかならない。藩士らが忠誠心をもって自分を主君と仰ぐだろうかと、不安がったに相違ない。この劣性コンプレックスのある身が、士分最下級の身分でありながら、全藩の輿望《よぼう》を集めている西郷を見る時、嫉妬もしくは警戒心を感じたのは、最も自然であろう。
さて、ともかくも、久光は上京の途につき、京の藩邸に入った。彼が天下の政治の檜舞台への初登場である。時に久光四十六。文久二年四月である。
京都朝廷の首尾は至ってよく、「京に滞在して鎮護に任ぜよ」との勅諚《ちよくじよう》が下ったが、その一週間後に寺田屋事変が起こったのだ。
久光の公武合体論を生ぬるしとする有馬新七ら精忠組の激派は、真木和泉守保臣、田中河内介らの浪人志士の連中や、久坂玄瑞らの長州藩士らと共謀して、九条関白をしりぞけ、所司代をたおして、討幕の第一声を挙げようとし、伏見の寺田屋に集まった。
久光は京都藩邸でこの報告を聞いて、驚愕した。持ち前の統制好きから、国を出発前から、また道中でも、粗暴なことをしてはならない、他藩人や浪人ものと交際してはならないなどと訓戒をくり返して来ただけに、激怒もした。すぐ鎮撫使を組織して、
「早速に行って取り鎮めよ。手にあまらば、討って捨てい」
と命じた。
鎮撫使は九人であったが、うち八人まで精忠組の同志なのだから、豆を煮るに豆がらをもってするのだ。非情をきわめている。
ついに乱闘となって、死者八人、負傷者七人、翌日切腹させられた者二人という惨劇となった。
しかし、これは自藩士だけのことだからまだしもだが、この時朝廷からあずけられた浪人志士の田中河内介とその子|嵯磨介《さまのすけ》、青木|頼母《たのも》、海賀宮門《かいがくもん》、中村|主計《かずえ》、千葉|郁太郎《いくたろう》の六人を国許に護送して行く船中、斬殺して海に沈めてしまったのは、あまりなことだ。久光は知らないことで、中山尚之介らの命令であったということになっているが、つまりはその命令も久光の統制好きと浪人ぎらいに迎合してのことである。久光も責任の一半はある。しかも、斬る役目にあたらされたのは寺田屋の同志だという。残忍酷薄をきわめている。どう考えても、これは薩藩維新史上の一大汚点である。
久光は間もなく、幕政改革の勅諚を請い受け、勅使大原重徳を奉じて江戸に下った。
勅諚の要目は、
「一橋慶喜を将軍の後見とし、松平春嶽を大老として幕政を改革して、公武一和の政治を行え」
というのであった。大体において、安政年度に兄斉彬が意図したことと同じである。久光は得意であったが、斉彬ならば今の時点ではこんなことでは決して満足しないであろうということは考えて見もしなかった。
久光は強引《ごういん》に幕府におしつけ、勅諚を実行させたが、それが何の効果もなかったことは、歴史が語っている。
この江戸からの帰途、武州|生麦《なまむぎ》村で、生麦事件がおこった。行列を乱した英人を、久光の従者が斬って、一人を殺し、二人を負傷させたのである。その後、久光は程ガ谷宿に泊った。外国問題のやかましい時で、横浜居留地から英国軍隊が襲撃して来るなどのうわさがあり、従士らの心配は一通りでなかったが、久光は鼾声雷のごとく、少しも動ずる様子がなかったので、大久保利通が感心したという話がある。剛胆な人ではあったのである。
この生麦事件が、この翌年夏の薩英戦争となる。英国は幕府に死傷者にたいする償金を要求したが、幕府はそれは直接薩摩に要求してもらいたいと答えた。そこで、英国公使ニールは軍艦七隻をひきいて、鹿児島湾に入った。
「大名の行列を犯す者を斬るのは、日本の国法である。抗議を受くべきいわれはない」
と、薩摩側では回答した。
ついに開戦になるのだが、その以前、薩摩側では、敵軍艦の見事なのを見て、ほしくなった。
「分捕《ぶんど》るがよか」
となって、計画が立てられ、決死隊九十八人が選ばれた。旗艦に向う者三十二人、他の六隻には十一人ずつが向うこととなる。それぞれ小舟に西瓜や野菜をつみこんで分乗し、物売りにばけ、艦上に上げさせ、一斉に斬りこむ。同時に陸上の諸砲台から大砲を撃ちかける。敵の狼狽に乗じて、敵兵を降伏させ、分捕るというのである。
「よかじゃろ、チェストー!」
と、九十八人は意気軒昂だ。
久光は忠義とともに、九十八人をおのれの住いである二の丸に呼んで、盃をくれ、激励した。壮士らの意気は益※[#二の字点、unicode303b]上り、海岸に出て、ハシケに分乗しようとする時、久光の使が来て、
「わしは無疵のままの軍艦がほしい。されば大砲は撃ちかけぬ。首尾よくつかまつれ」
という命令を伝えた。
「ようごわすとも! 無疵で分捕りもす!」
と答えて、壮士はそれぞれ受持ちの軍艦に漕ぎつけたが、英国側では警戒して艦上に上げてくれない。壮図ついに空しくなったという次第。久光も壮士らも、無邪気なくらい勇敢であったのだ。
戦争はこの翌日はじまったのだが、アメリカとの戦争を経験したわれわれが、この戦争の記録を読んで感心するのは、薩摩側では味方のやられることを十分に覚悟し、市民は疎開させ、役所とか寺院とか神社とかいうような建物はあとで復原できるように図面を引き、取りはずしの出来る戸や金具の類は全部疎開しておいて、戦ったことだ。自分は安全で敵だけをやっつけるとは考えないのである。皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を斬るという剣術の心掛けを生かしているのである。大東亜戦争の時の指導者とは、最初から根性のすわりが違うのである。
すさまじい風雨の中で、戦闘は行われた。こちらは市街をあらかた焼かれ、砲台にも大きな損害があったが、ともかくも、敵は撤退した。敵が撤退したのだから、勝ったと発表はしたが、心の底では負けたと思っていた。実は英国側にも相当な損害があり、死傷者はこちらの三倍にも上り、旗艦の艦長も戦死したのだが、それはこちらにはわからない。負けたと思い、攘夷など実際は出来ることではないと、心に徹してわかったのである。
薩摩は藩論としては、斉彬以来攘夷には反対であったが、藩士には攘夷思想を抱いている者が少くなかったのだ。久光自身だって、そうだった。その不可能が、この戦争でよくわかったのである。薩摩では後に七万両を幕府から借りて、英国に支払ったが、これが機会になって、大いに英国と親しくなり、英国は維新の達成まで、陰に陽に薩摩の味方をするのである。
さて、久光の公武合体論だが、天皇と高級公家らには喜ばれた。すべて上位者は急激な改革を喜ばないからである。また何といっても、薩摩の実力は大いに頼りになると思われたからである。しかし、幕府側には喜ばれない。実力にまかせる強引なやり方が、気に入らないのである。
それに久光には単に薩藩主の実父にすぎないという身分についての劣性コンプレックスが常にあったようである。伝説的に語り伝えられているところでは、忠義を隠居させて、自分が藩主になる工夫をしたこともあるという。また、五大老の制度をしくことを提唱したともいう。これは松平春嶽の書きのこしたものに見えるのであるが、春嶽は、
「これは久光の野望である。豊臣家の五大老の中で、家康公がやがて天下取りになった故智にならって、自ら天下を掌握しようと考えたのだ」
と、言っている。これは春嶽のひがみかも知れないが、久光が自らの身分に劣性コンプレックスを抱いてあせっていたことは事実であろう。同時にまたこの春嶽のことばは、春嶽が久光に好感を持たなかったことを語っている。久光は中央政界では決して愉快ではなかったろう。
そこにもって来て、薩摩と長州との勢力争いがはじまった。
長州藩内は以前から長井雅楽の公武合体論に批判的な分子がいた。吉田松陰の門下生らがそれだが、政府の有力者にもそれがいた。周布政之助らがそれだ。この人々は久光が公武合体論をひっさげて京に出て来、朝廷の人気を集めると、長井を国許に引っこめ、さっと藩論を切りかえた。尊王攘夷に切りかえたのだ。長井の論は公武合体・開港遠略というのだったから、百八十度の転換だ。
ここでちょっと、長井の公武合体論と久光の公武合体論の違いを説明したい。
長井の論はこうだ。
「鎖国は日本古来の風ではない。三代将軍の寛永年度からはじまったごく新しいものにすぎない。それまでは日本は神代以来自由に諸外国と交通していた。寛永以来の風になずんで、古来の風を忘れるとは本末を知らないもはなはだしい。日本は大いに外国と交通貿易して、国を富まし、兵を強くし、世界に雄飛すべきである。今日、朝廷は幕府が勅許を待たずして米国をはじめ諸外国と通商条約を結んだことを怒り、攘夷鎖国を幕府に強要しておられるが、考えなおして、幕府の罪をゆるし、条約締結を認可なさるべきである。また幕府の方では前非を悔い、朝廷に謝罪の実を示すべきである。かくて、公武合体して、国論は一に定まる」
こんな議論だから、当時これを非難する者は、これは幕主朝従の論である、幕府のために朝廷を瞞着《まんちやく》しようとするものだと言った。
久光の論はこうだ。
「今日幕府と朝廷との間がしっくりと行かないのは、井伊が朝命を無視して勝手なことをしたからだ。幕府は先ずそれをわび、すべて朝廷の命を奉じて行うようにせよ。その手はじめは、朝命によって幕政を改革することだ。こうすれば公武の間はしっくりと行き、国論は定まる」
薩摩側では、これこそ朝主幕従の論である、公武合体という名は同じでも、長井の論とは大ちがいであると自賛していたのだ。しかし、時代はもういかなる形の公武合体論も陳腐《ちんぷ》としている。一般にはまるで魅力はないのである。
はげしい時代には、ラジカルな論であればあるほど人気がある。天下の志士らの人気は長州の尊王攘夷論に集まった。朝廷でも、若手の生きのよい公家らは皆これに同調した。長州には策士がそろっている。彼らは三条実美や姉小路|公知《きんとも》らの若手公家を橋頭堡《きようとうほ》にして、朝議をリードし、一切が長州の意図のままに動くようになった。長州の評判は上る一方だ。世の中のことは台秤《だいばかり》と同じだ。一方が上れば一方が下る。長州の人気が高くなるにつれて、薩摩の人気は下った。
久光にはおもしろくない日がつづいた。彼はいく度もすねて、国に帰ろうとし、ついに帰ってしまった。
この長州の全盛時代が、最も殺伐な空気が日本中に横溢《おういつ》して、天誅と称する暗殺がしきりに行われた時期である。
文久三年の秋、長州は朝廷に、天皇の大和行幸を建議した。攘夷親征のご祈願のために、神武天皇陵や春日神社にご参拝あって、しばらくのご逗留あって、親征の軍議をされた後伊勢神宮に行幸されたいというのである。朝議はこれを容れて、八月十三日にこれを発表した。
ところが、この長州の建議の裏に、重大な目的が秘められていることを、薩摩藩士の高崎佐太郎、同五六、奈良原繁らが聞きこんだ。長州の真の意志は、これを討幕第一挙にするつもりでいるという。そう聞いて、さぐって見ると、土佐の吉村虎太郎、那須信吾らが、三条実美らと志を同じくしている前侍従中山忠光を擁して、戦《いくさ》支度をととのえて、すでに十四日の夜、大和に下ったということがわかった。高崎らはおどろきもしたが、これで長州を排斥出来る機会が来たとよろこびもした。長州の羽ぶりのよさを苦にやんでいるのはほかにもいた。会津藩である。幕府の親藩である上に、京都守護職の任を帯びて滞京している会津としては、長州の人もなげな反幕的言論や運動はにがにがしい限りのものであった。高崎らは会津藩側に打ち明け、共同謀議して、天皇のご信任の厚い中川宮(後の久邇宮朝彦親王)に参上して、
「長州藩のこの度の建議には裏面にしかじかの陰謀がございます。せき止めずば、国の危難目前でございます」
と申し上げた。
中川宮も驚愕され、深夜、参内して、天皇に奏上される。天皇も驚かれた。天皇には幕府を倒す心などさらにない。かねてからややもすれば過激に流れがちな長州のやり方、長州の手先になって激越な論で朝議を引きずっている若手公家らをおもしろくなく思ってもおいでだ。
ついに、薩摩の兵力と会津の兵力をもってのクーデターが行われる。二藩の兵を主力として宮門をかため、長州人とその派の公家らをしめ出した。これが維新史にいわゆる八月十八日政変だ。長州兵国許退去、その派の公家七卿の長州落ちとなる。
これで京都政界は公武合体派の天下になり、薩摩と会津とが仲よく勢力を張ることとなる。
久光はこのさわぎの後、国許から出て来た。一応愉快であったようだ。
在京の薩藩士らは、長州憎さに、会津と結んだものの、だんだん時が経ってくると、薩摩の評判がひどく悪くなったことに気づいた。天下の有志者らは、
「薩賊会奸」
と、薩摩をののしる。皆弱った。これにつれて、反省心も出て来る。
「おいどんらは本来は勤王を目的としていたはずじゃが、今のようでは幕府の力になるばかりで、本来の志はどこやらへ行ってしまいそうだぞ」
と、皆考えはじめた。
しかし、どうにも方《ほう》がつかない。八方ふさがりの気持だ。期せずして、皆の心が一致したのが、
「吉之助サアなら、きっと打開しやるぞ」
であった。
しかし、西郷の呼びかえしには非常な困難があった。久光が西郷を憎み切っているのだ。昨年の春、西郷を大坂から国許に追い返す時、久光は西郷のことを、
「やつは薬鍋《くすりなべ》かけて死ねるやつでない」
と言ったという。畳の上で往生は出来ん男の意味だ。尋常な死はさせはせんぞの意志表示でもある。その後、西郷を徳之島に流し、さらに沖ノ永良部《えらぶ》島に流したが、沖ノ永良部でのあつかいは酷烈をきわめた。雨ざらし、風ざらしのせまい牢に閉じこめて、死ねよと言わんばかりのあつかいをしたのだ。実際、殺すつもりであったとしか思われないのである。
西郷が死ななかったのは、西郷をあわれみ、西郷の人物に感動した島の富豪土持政照が、自分の費用でするからといって役人を説得して、待遇を改めたからである。
こんな風であるから、久光がゆるしてくれそうもないと皆不安だったのだ。彼らは東山の料亭翠紅亭に集まって、相談をこらし、
「何としてでも吉之助サアにかえって来てもらわんことには、どうにもならん。お願い申そう。もしお聞入れ下さらんにおいては、おいどんら一同、久光公のご前に出て腹を切ろう」
と決議して、久光の気に入りである高崎佐太郎(正風)と高崎五六とが代表者となって、久光の前に出て、現在の藩の窮状を語り、西郷の赦免召還のことを嘆願した。
久光は返事しない。実ににがにがしげな顔をして、銀のきせるをくわえたままだ。
「もし、おゆるしいただけずとあらば、拙者共一同、ご前に出て切腹いたすことをおゆるし願い上げます」
と、二人は言った。すると、久光は、はじめてきせるを取り、
「孟子に、人を登庸するのは最も念を入るべきことである、左右皆賢なりと言っても、自らこれを確かめないかぎり、等をこえて抜擢してはならないとある。しかしながら、その方共がそうまで言うものを、愚昧なわしが許さんというはよくないことである。太守様に申し上げてみるがよい。もし太守様がよいと言われたら、わしも異存は言うまい」
と言った。あとで、久光のそのきせるをしらべて見たところ、吸口に前歯できびしく噛んだあとが深くついていたという。いかにくやしかったか、わかるのである。
二人はお礼を言って退り、一同にも告げた。一同は天にも昇る喜びであった。
忠義は国許にいる。早速国許に使が立って、忠義に乞うた。久光としては、忠義は孝行ものだから、おれの心をよく知っていて、ゆるさないと言うであろうと思ったのかも知れないが、忠義はちゅうちょなく赦免の許可をあたえた。あるいは、この一事だけが父の意に反すると知りながらも敢てしたことかも知れない。
赦免の使には、幼年の頃から西郷と仲のよかった吉井幸輔がえらばれて行った。
西郷は元治元年の二月二十八日に薩摩に帰り、すぐ上京して、軍賦役となった。「賦」はくばると訓ずる。軍をくばる役、すなわち軍事司令官だ。
西郷と入れかわりに、久光は国許にかえる。顔を見るのもいやなのである。
西郷の活躍がはじまる。彼は会津との連繋の責任者であった高崎佐太郎、五六、奈良原繁らを国許にかえして、会津と手を切り、藩論を純粋勤王論に切りかえて、バリバリやり出した。さまざまな出来ごとがあったが、最後には仇敵の間となっていた長州と連合して、ついに幕府をたおし、維新の仕事は一応出来上った。しかし、この期間、久光はほとんど国許にいて、中央には出て来ない。西郷と顔を合わせるのがいやだったのである。
大観すると、久光を中央の舞台に押し出したのは、大久保だが、その運動の基本方針は公武合体の線を出なかった。大久保は鋭い男だから、公武合体がすでに時代おくれであることは知っていたであろうが、これをはずしては久光のきげんを損ねそうで、徐々に久光の量見をかえて行こうと思ったのが、つい間に合わず行きづまったのであろう。骨髄からの政治家であるための大久保の失策であろう。
薩摩を維新運動の中心動力として、ついにこれを成功させたのは西郷の力であるが、それは久光の意図していた形ではなかった。久光は幕府も存続する形で、事をおさめたかったのだ。
こんな次第であるから、久光は西郷の手によって維新運動がびしびしと片づいて行くのがおもしろくなかったに相違ない。彼は次第に一層保守的となり、維新政府が出来上ると、反動的にすらなった。
明治三年の暮、維新政府は極秘裡に廃藩置県のことを決定したが、当時久光も西郷も国許にいたので、岩倉具視が勅使となり大久保を帯同して二人を東京に呼びに来た。何といっても、久光は事実上の薩藩主であり、西郷は天下の衆望を集めている人物だ。二人を除外しては、廃藩置県のような一大事は行なえないと思ったからだ。
久光は病気と称して――実際病気でないことはなかったが、行く意志があれば行けないほどではなかった――、ことわったが、西郷は上京することになった。
この頃は、天下の有識者の間で、日本のこれからの国家体制は封建か、郡県かということがひんぴんとして論議されていたので、久光にはぴんと来るものがあった。
西郷と大久保は明治四年の正月はじめ、薩摩を出発したが、その直前、久光のところに暇乞いに行くと、久光は鋭く言った。
「この頃、封建、郡県の両制度について、世上しきりに議論があるが、わしは郡県制度など大きらいじゃからな。廃藩置県などしてはならんぞ」
二人ははっと胸にこたえたが、
「かしこまりました」
と応答して、辞去した。
しかし、その年七月、廃藩置県は断行された。
この報せが鹿児島にとどくと、久光は憤激やまず、自分の子供らに命じて、終夜海上で花火を上げさせ、欝憤を散じた。これは事実である。当時の久光の家令市来四郎が記録しているのである。
明治維新の歴史的意義は、国家的には日本が統一国家となり、社会的には市民社会となったところにある。こうならなければ、日本は国際場裡に伍して独立を保って行くことは出来なかったはずであり、世界の歴史と歩調もそろわなかったはずである。
維新の志士らは、恐らくはじめはこの到達点はわからなかったであろう。ただ外国勢力の切迫にたいして、日本を強化しなければならないということしか考えなかったろう。しかし、いろいろと歴史の中を生きて来る間に、次第にわかり、封建制度を揚棄するところに達したのであろう。
久光にはそれが最後までわからなかった。はじめは幕藩体制を保持しながら皇室を尊重する国がらになろうと努力し、幕府がたおれると、せめて藩はのこして封建制をとりとめようとした。結局、彼には尊王だけがわかって、維新運動の真の目的は、最後までわからなかったのである。封建大名の限界といってよかろう。
彼にとって、藩主の身分は、よほどのあこがれであったのであろう。廃藩置県の後、鹿児島県令に任じてもらうように運動せよと大久保と西郷に命じて、二人は弱り切っている。これは西郷の手紙で明らかだ。遂げられなかった恋がいつまでも忘れられないようなものであろうか。
明治六年、久光にまた勅使が下ったので、久光は上京したが、明治七年には左大臣に任ぜられた。彼が時勢を快く思わないでいるので、なだめるためであったろう。彼は左大臣として、意見書を奉ったが、それは恐ろしく反動的なものであった。たとえば官服に洋服を用いるのはよくない、太陽暦の使用は外国の正朔を用いるものだ、学校の規則を洋風にしたのもよくない、兵制の洋式もいかん、キリスト教を禁断せんのはけしからん、結髪、帯刀の国風をいやしむのはよくない等々々だ。政府ではこまってしまって、返答しないでいると、なぜ返答しないのかと、食ってかかる始末だ。
彼は明治二十年十二月に死んだ。七十一であった。死ぬまでちょんまげを切らず、医師も洋方医にかからなかった。
忠義は明治三十年に死んだが、この人もちょんまげを切らず、洋方医にかからなかった。
「子孫までのことは知らんが、そなたまではおれと同じように、和風を守ってくれるよう」
と、久光が遺言したからであるという。これは島津家の現当主忠重氏に聞いたことだから、確かなことである。純粋に儒教道徳の人だったのである。
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[#見出し]  国定忠治
国定忠治の裁判をして処刑した勘定奉行池田播磨守頼方の申渡書(判決書)と、この当時の江戸北町奉行であった鍋島内匠頭直孝の著「近世百物語」の記事を材料にして、国定忠治の実伝を書いてみよう。
忠治の名は池田播磨守の申渡書には忠次郎とあり、百物語には忠二とある。昔は文字の読み書きの出来る人が少なかったせいで、宛字を書いて平気なこと、近頃の国語審議会の人々のようなものであった。通じさえすればよいというわけであったのだろう。だから、今日ではどれが本当だかわからなくなっている。
忠治は上州(群馬県)佐位《さい》郡国定村の百姓五右衛門の子だ。伊勢崎市から東北方七キロくらいにある村だ。相当ゆたかな農家の子であったようである。彼は嘉永三年処刑されて死ぬ時四十一であるから文化七年の生れだ。少年の頃から放蕩無頼で物に拘《かかわ》らずというから、大胆でたくましい性質であったのであろう。上州は、養蚕や機業がさかんで、女がよく働き、経済力がある。男がせっせと働いて金を家に入れなくても、女房のかせぎでどうやら生活が成り立つところから、しぜん男はばくちを打つということになる。赤城おろしの空っ風と共に、かかあ天下と長脇差が名物になるわけである。
忠治は年少にして博徒のなかま入りをしたが、十七の時、ばくちのもつれかなにかで人を殺して、国許を逐電して、下野(栃木県)に行き、河越|頴五郎《えいごろう》という親分のところに身を寄せた。
この頴五郎という男は、昔罪せられて佐渡に水かえ人足として送られていた履歴がある。これは無宿の者を捕えた時の刑罰として科せられるのだから、頴五郎もそのために佐渡送りになったにちがいない。
頴五郎は一夜漁船をぬすんで、島ぬけして内地にかえり、下野の山中に住んだが、大胆でもあれば気風《きつぷ》もよい男だったので、しだいに売り出して、野州の博徒らはみな頴五郎の子分となっていた。
忠治がどんなことからこの男と知り合いになったかわからないが、この男と兄弟分の約束をしていたという。忠治より二十くらい年長であったという。
一年ほど頴五郎の宅にいるうちに、
「もういくらかほとぼりもさめたろう」
と思うと、上州にかえりたくなった。頴五郎に相談すると、
「そうかい。そんなら帰んなよ。おれが添状をつけてやる」
と手紙をしたため、上州の親分|百々《どど》紋二という者の許へさし向けた。
紋二は忠治が気に入ったらしい。間もなく重病にかかって死ぬにあたり、子分ら全部を忠治にゆずった。
これまで、忠治は親分も子分もなしのひとり立ちであったが、この時から親分になった。天保の初年、忠治の二十二三の頃であろう。
彼の縄張りは国定村を中心にした付近一帯であったらしい。その縄張り内の人家や山林などで賭場をひらいて寺銭をとり、無断で賭場をひらいたりする者があると、首代と名づけて金を差し出させたりしたことが、後に処罰の罪状の一つになっている。
天保五年の春、子分の三木《みつぎ》(境町にあった。元の世良田《せらだ》村の大字)ノ文蔵――これは手裏剣の名人であったという――が、島村(伊勢崎の東南方、利根川左岸の地にこの村があった。現境町)ノ伊三郎という者と賭場の借金のことで口論した。おそらく伊三郎が借金を返さないので、催促したのが原因であろう。伊三郎は短気で剛気な男だったというが、
「何を!」
と腹を立て、文蔵をなぐりつけた。一つ二つではなく、蹴たおして、したたかになぐりつけたらしい。
これを文蔵が忠治に語った。
親分というものは、こんな場合に子分の味方をして恥をすすいでやらなければならないものなのだ。
昔の武士にもこんなことがある。八幡太郎義家の郎党が、ある時美濃源氏の源国房のためにはずかしめを受けた。国房は義家の|ふたいとこ《ヽヽヽヽヽ》にあたるなかであるので、郎党は義家にこのことを告げないでいた。父の頼義の邸で営まれている法事中に、ひそかにささやいて教えてくれる者があった。義家は即座に席を立って、自宅にかえり、美濃へ出発した。従う郎党わずかに三騎、逢坂山に達した時やっと十五騎が追いつき、美濃につく頃には二十五騎となった。
義家はこの人数で突如として国房の館に火をかけて斬りこんだ。国房は紅染めのふだん着を着て、烏帽子《えぼし》もかぶらず、鷹をこぶしにすえて遊んでいたが、不意を打たれ、そのままの姿で、鷹をこぶしにすえたまま、裏山に逃げこんだ。
「お逃げになった先を見ています。追いかけて行って討ち取りましょう」
と、義家の郎党の一人が言ったが、義家は、
「いや、いや、これでよい。ここまでこらしめれば十分」
と言って引き上げたという。家来のために報復してやり、同時に一族としてのよしみも重んじたという次第だ。
さて、忠治だが、文蔵の訴えを聞くと、伊三郎を伊勢崎の東南七・八キロの境村(今の境町)におびき出し、助太刀して、文蔵に討ち取らせてしまった。百物語の異説によると、鉄砲で撃ちころしたとある。
人を殺せばそのままではおられない。二人は長いわらじをはいて、信州松本に行き、土地の親分勝太郎という者のうちに厄介になった。
わらじをはくについて、忠治も相当金の用意はして来たろうが、いい旅の衆といわれるためには、切ればなれがよくなくてはならない。そのためにも金がいる。まして、勝負場に出て遊ぶとなると、負けがこめば、百両や二百両の金はすぐなくなる。忠治も文蔵も金に窮して来た。
二人は夜は街道に出て強盗・追剥ぎをはたらくようになった。
これを知ったのが、中野の博徒共だ。この中野がどこであるか、ぼくにはわからない。今の長野市の東北方数里に同名の地があるが、離れすぎている。いずれ松本の近くであると思われる。
「ひっとらまえて、こらしめてやろうじゃねえか。こう街道が無用心じゃ、旦那衆も来て下さらねえぜ」
「やるべ、やるべ」
となった。
前に書いたように、賭場には素人が遊びに来てくれなければ、商売にならないのである。
相談一決して、二十余人が捕手役人に変装して、多分夜、忠治の賭場がえりかなんぞをおっとり巻いて、
「ご用、ご用」
と十手をひらめかせた。
忠治ははっとしたにちがいない。立木かなんぞを小楯にとり、気をしずめて様子をうかがうと、どうも様子がおかしい。そのうち、賭場で見たことのある者のいるのに気がつきもしたろう。
忽ち気力を回復した。
「何を! この贋役人共め! おれが何をしたというのだ! てめえら、お上役人の名をかたるのが、どんな重い罪になるか、知ってやがるか! ご用はこちらの方だ。さあ、片っぱしから死人の山をきずいてくれる! 来い!」
とどなりつけ、刀をぬいて、まっしぐらにおどりこんで行った。
相手はおどしていじめるだけのつもりだったのだから、こうなるといくじがない。上役人の名をかたったという弱みもある。やみくもに逃げ散った。
しかし、土地の渡世人とこういうなかになっては、旅人《たびにん》はそのままとどまってはいられない。忠治は上州へ帰り、以後は赤城山にこもることになる。
忠治が赤城山にかえって来たと聞いて、子分共は皆集まって来た。彼は山麓の村々を自分の縄張りにして、子分共に方々に賭場をひらかせて寺銭をとっていたが、威勢は日ましに上り、子分となる者が多かった。なかにも日光ノ円蔵が子分になってからは、その勢力が飛躍的に増大した。
日光ノ円蔵は、野州(栃木県)都賀《つが》郡の板橋(今市《いまいち》から二里ほど南方)の生れで、幼い時から僧になって晃円と名のっていたが、十四の時寺を逃げ出して博徒となり、日光ノ円蔵と名のった。晃円の字を分解して蔵をつけたわけだ。この名前が日光山の近くの、日光|例幣使《れいへいし》街道に沿った宿駅の生れであることを示しているからでもあろう。からだは小柄であったが、渾身知恵のかたまりのような男で、忠治の勢力が拡大したのは多くその画策によったところから、一家では軍師といっていたという。
儒者くずれで直介《なおすけ》という者も子分となって、孫子《そんし》の講義をして皆に聞かせていたというが、どんな講義をしていたか、普通の儒者や軍学者のするような講義では、博徒なんぞは聞くはずはないから、実例のひき方や、ことば遣いなど、ずいぶんくだけて、おもしろいものであったろう。今日なら速記して出版すれば、ベストセラー請合いであろう。
そのほか、八寸《はちす》ノ犀乙《さいいち》(才一)、山王ノ民五郎、三木《みつぎ》ノ文蔵、武井ノ浅二、秀吉《ひできち》、桐長《きりちよう》、鹿安《しかやす》、お辰婆アなどという連中がいて、かしら株であったという。
忠治はこれらの者を手下とし、赤城山の麓一帯(おそらく南麓地方であろう)を縄張りにして、方々の賭場をひらいて寺銭をおもな収入にしていた。現代のわれわれがアメリカ映画で見る都市のギャングのボスみたいなものだ。しかし、これだけが商売ではない。時々刀槍その他の武器をたずさえて一隊となって縄張りから遠くはなれた地方に盗賊ばたらきに出かけたという。こんなところもアメリカ映画のギャングのボスが現金輸送をねらったり、銀行の金庫破りをしたりするのに似ている。東西古今、こんな連中の生態はみな似ている。忠治のために弁護してやるなら、子分が多数になったので寺銭だけでは養い切れなかったのだといえるかも知れない。
こんな話も伝わっている。忠治は酒は好きだったが、酒量はそうなかった。二本か三本の酒をゆっくりと時間をかけて飲んで、十時頃になるとほろ酔いのいい気持で、ふらりとどこかへ出て行き、夜明けまでには帰って来るのが例であった。誰にも行く先きを言わないし、ついて来ることも許さなかった。
「どこへ行きなさるのかねえ。女かね」
と子分らは好奇心をつのらせていたが、ある日、子分の一人が、
「おれ、今夜そっと尾《つ》けて見るよ」
と言い出した。皆とめたが、なあに、でえじょうぶ、気づかれるようなヘマはしねえよと、言い張る。好奇心は皆同じだから、それ以上はとめなかった。
その夜、いつもの時刻になると、忠治は出て行く。あとを尾けるといっていた子分もそっと家を出た。
夜が明けるまでに、いつもの通り忠治はかえって来たが、子分はかえらない。どこへ行きゃがったのかね、やつこそ女のところへでもしけこみゃがったのじゃねえかえ、と皆はささやき合っていたが、夜が明けてしばらくして、子分の一人が何か用があって外へ出て行くと、昨夜の男が忠治の家から百歩とははなれていないところで、二つになって死んでいたので、一同身の毛をよだたせたというのである。
おそらく、忠治は賊を働きに行きつつあったのではないだろうか。しかし、これは赤城にこもってからのことではなく、その以前のことであろう。とすれば、彼が盗賊ばたらきをするようになったのは、信州へ逃げる以前からのことであろう。
忠治の一党が普通の山賊夜盗団とちがったのは、自分の縄張りとその付近一帯は一切荒さず、婦女を犯すことなく、放火せず、貧困者には衣食を恵み、また豪家の子弟などが賭場に来ると、
「若旦那なんぞのお出でになる場所じゃありません。これからも決してお出でになってはなりません」
ときびしく訓戒して送りかえしたことだ。
義賊を気どっていたのであろうが、それが自己保全の途《みち》でもあったのだ。かつて盛んであった満洲の馬賊は決して農民、とりわけ巣窟付近の村々の農村は犯さず、むしろ物を恵んだりなどしていたので、農民らは馬賊団に好意をもち、諜報網となり、討伐隊の動きなど一々知らせ、場合によっては官憲に追われているのをかくまってやったりしていたというが、忠治一党もそこを考えてのことであったろう。
赤城という山はものすごく裾野がひろく、数郡にわたっているが、従来は山の各所に山賊が住んで、麓の村々は苦しめられていた。忠治一党のような大ものが来てから、それらは皆退散してしまった。あるいは吸収されてしまったのかも知れないが、ともかくも被害がなくなった。
「されば諸民夜半に戸ざさず、忠二を敬愛すること君父のごとく、臥す時必ず赤城の方を枕とす」
と、百物語にある。治安を維持し、貧困者には恵んでくれるのだ。そのはずである。
こんな風であったので、上州一国は官憲の力が入りかねて、一時は国定王国の観を呈したという。
天保六年の秋というから、信州から上州にかえって来て赤城へこもってから数ヵ月後のことであろう、忠治の子分山王ノ民五郎が、博徒の親分の京蔵という者と喧嘩してなぐりたおされるという事件がおこった。いずればくち場のもつれが原因であろう。
れいによって、忠治は仕返しをしてやろうと思い立ったが、ちょいと手軽くそれが出来かねた。京蔵の弟の主馬というのが二刀流の達人なのだ。忠治は剣術使いを二人やとって、民五郎にそえて、京蔵の家につかわした。
三人が京蔵の家に行った時、京蔵は不在であったが、留守居していた主馬は、
「心得た!」とばかりに、双刀をふるっておどり出して来た。二刀流の使いぶりを見たことのある人なら容易にイメージを描くことが出来るはずだが、左剣・右剣、飛ぶがごとく、うるさいものである。民五郎は忽ち斬り立てられ、重傷を負うた。しかし、専門の剣術使いが二人もついているのだ。主馬も総身に負傷してたおれた。
そのうち、さわぎを聞きつけて村中の者が競い立って駆けつけて来たので、とどめをさしているひまがない。そのままにして、民五郎を肩にかけて立ちのいた。
赤城に逃げかえって、このことを忠治に報告すると、忠治は眉をひそめて、
「人を殺して首をとらないという法があるものか。主馬はなかなかの男だ。生きかえったら、うるさいことになるぞ」
と言ったが、後にはたしてその通りになる。
京蔵は出先きでこの変報を聞き、そのまま甲州へ逃げ出した。主馬は治療につとめ、どうやらいのちは助かったが、かたわになってしまった。しかし、復讐の念は捨てない。すきをうかがっていた。
忠治が主馬を襲撃させた年の翌年は天保七年である。この年は大|旱魃《かんばつ》で、全国的に飢饉であったが、関東地方はわけてひどく、餓死する者が多かった。今日では水稲の品種が改良されて、強健で、収穫量の多いものになっているし、肥料や害虫駆除薬も強力なのが出来ているし、めったに凶作などないし、あってもごく局地的になっているし、救助が迅速だしするから、餓死者が出るなどということはないが、昔は実にひどかった。何十万という餓死者の出ることがめずらしくなかった。われわれは学問のあたえてくれた恩恵と、日本が封建国家から脱皮して統一国家となった明治維新とを、この点からも感謝しなければならないであろう。
さて、忠治だ。彼はこの大飢饉に際して私財をなげうって救助につとめたので、彼の縄張りである赤城の山麓地方は一人の餓死者も出なかったという。上州の緑野《みどりの》郡(今はなし)は天領――幕府の直轄領であるが、制度上無制限に救助の手をさしのべるわけに行かず、相当に餓死者が出たところ、代官は忠治のことを聞いて、大いに恥じたという。この代官が後年人に、
「赧然《たんぜん》として面《おもて》熱し、背汗流れて、地にも入りたき心地せし」
と語ったと百物語に記してある。幕府は民治においては諸藩の手本にならなければならない立場にあり、その覚悟をもっていたので、この時代になると、代官には多く幕臣中の儒者としても通用するほどの学問のある人物を任用している。普通の官僚より良心的であったはずである。さぞかしそうであったろうと思われる。
この翌年天保八年正月、忠治は国定村に隣接している田部井《ためがい》村で大ばくちの会をもよおした。目的は、これによって得た寺銭で、去年のようなことがないように、田部井村の磯沼という池を浚渫《しゆんせつ》修理して貯水量を多くし、付近の村々の灌漑用水にしようというのであった。実はこのためばかりではなく、彼自身やその子分らの生活費や酒色費にも流用されはしたであろうが、とにかくも彼は見事にこの用水池を完成している。
現代日本には、競輪の寺銭で学校の校舎をこしらえたり消防設備をととのえたりしている都市や町村がいくらもあるが、忠治はその先駆者であるといえよう。
今日でも、競輪の寺銭による公共施設の整備を悪いことと思わない人が少なくないのだから、この時代忠治を悪く言う人がこの地方にあろう道理がない。彼の評判は高くなる一方であった。この用水池の修理と、前年の飢饉年に私財をなげうっての救助とが、今日においても上州地方で忠治崇拝熱をおとろえさせない原因をなしているのであろう。
この年三月、忠治はこんどは利根川べりの世良田《せらだ》で大ばくちの会をもよおした。用水池修理の費用が足りなかったのか、足りないという理由にしたのか、どちらかであろう。
ばくち場には子分らを代貸《だいがし》にしてつかわしていたのだが、同月二十八日になって、
「今日はおれも行ってみよう」
と、言って、出かけようとしていると、日光ノ円蔵が聞きつけて出て来た。
「どこへお出でになるので?」
「世良田へ景気を見に行こうと思うのだ」
「それはよした方がようがす。近頃あのへんの様子がおかしいのです」
「おかしいとは?」
「へんなやつがうろうろしていると聞いています。この頃ちっとやりすぎているので、八州さん、捨ておけねえって気になっているんじゃありませんかねえ」
たしかにやりすぎている。いくら民百姓のためになることをやるのだとはいえ、正月に田部井で連日大ばくちを開帳し、今また世良田で連日開帳しているとあっては、お上を無視しすぎている。腹を立てないわけはあるまい。
「そうか。じゃアやめよう。そのへんなやつらというのを、よく調べてくれ」
「ようがす」
忠治は赤城山を出なかったが、あたかもその日、円蔵の危惧したことが実現した。世良田の賭場に不意に大勢の捕吏がおしかけて来たのだ。
その日賭場に出張って代貸していたのは三木《みつぎ》ノ文蔵であった。文蔵は集まっている客人らを逃がす間、得意の手裏剣を飛ばして食いとめ、客人らが無事に逃げてから自分も逃げにかかったが、ついに捕えられてしまった。
報せが赤城にとどくと、忠治は、
「しまった!」
とさけび、歯がみし、忽ち奪い返す決心をした。
前にも書いた通り、子分の恥辱は必ず雪《すす》ぎ、子分の危難は必ず救い、そのためにはことの理非を問わないのは、親分たるの要諦《ようたい》第一条だ。つまり、子分のためにはいつでも死ぬ覚悟を持つ者でなければ、子分も親分のために身命をなげうつ心になれないのだ。要諦第二条は、金をおしまないことだ。この二条|目《もく》がそろえば、親分になれる。知識や、見識や、技術や、度胸やらは、親分たるの必須条件ではない。これらの点がどんなに優れていても、それはひとり武者として優秀になる必須条件にすぎない。このことはひとりばくち打ちやヨタモノの社会だけでなく、政界でも、実業界でも、官界でも、その他の世界でも同じだ。自らかえりみて、この二条目に自信のない人間は、親分たるをあきらめるべきである。
この点において、忠治は理想的であった。金のきればなれもよかったが、子分の恥辱を雪ぎ、危難を救うという点においては、実に勇敢で、決断が早かった。
忠治は文蔵を役人の手から奪いかえすために、その夜、大勢の手下を引きつれ、刀、槍、鉄砲まで持って、山を下った。おそらく、円蔵が戦術を立てたのであろうが、世良田近くの木崎《きざき》村で奪還する計画で、間道を通って木崎の隣村三木山まで行くと、八州役人の方でもこのことあるを予想して、十分に用意し、物見のものを出していたので、忽ち忠治らの動静を知った。号令一下、各所に待機していた人数は、貝の音、鐘の音を鳴りひびかせ、至るところの山々、村々の林の蔭から無数のたい松をたずさえてあらわれた。湧くようだ。おそらく、これは八州役人らが村々の百姓らを動員したのであろう。
さすがの忠治も仰天した。
「こりゃいかん。敵には備えがあるぞ」
と、早々に人数を引きまとめて、赤城山にかえったが、子分共の心がひどく動揺している。おそらく、円蔵あたりが言い出したことであろうが、百姓らがたぶんおどかされてのことではあろうけれども、こんどのように上役人側についた以上、ここも安全ではない、しばらく他国へ行ってほとぼりをさまそうということになった。
そこで集団を解いて、大部分の子分共は山を下らせ、重立った連中だけつれて、一先ず上方を志した。浅間の北方の間道である大篠《おおしの》道から信州に出、木曾路を経て江州(滋賀県)まで上ったが、早くも人相書きが畿内の各国にまわっていることがわかった。
「こいつはいけねえ。当分皆別れよう」
持っている金を子分どもにわけあたえて、思い思いに落ち行かせ、自分は商人姿になって会津に向った。なぜ会津を志したかわからない。博徒なかまで知っている男でもいたのであろうか。
忠治は会津に数年とどまっていたが、江州で忠治にわかれた子分らは多くご用弁になった。友五郎は紀州で捕えられ、三木ノ文蔵も捕えられて獄門になり、犀乙《さいいち》(才一)も捕えられて死罪となるという有様であった。
山王ノ民五郎は旅人《たびにん》として諸国を歩いていたが、故郷さすがに忘《ぼう》じがたく、天保十二年の冬になると、
「もう四年も立つ、大ていほとぼりもさめた頃」
と、ひそかに上州にもどったが、先年民五郎のなぐりこみにあって生れもつかない|かたわ《ヽヽヽ》になった二刀流の主馬に、このことを告げる者があった。
主馬は大いによろこんだ。怨恨が新たな勢いをもって燃え上った。策をもうけて、ある夜、民五郎を利根川の堤防におびき出し、ぬっとその前にあらわれた。
「しばらくだったな」
「えッ! 誰だ!」
「見忘れたのも無理はねえ。このからだになってしもうたものな。――おれよ」
と顔をつき出す。
民五郎は一足さがって逃げようとすると、堤防の下にかくれていた主馬の子分三人がとび出して来て退路をおさえた。
こうなっては、不具になっているとはいえ、民五郎の腕では主馬にかないっこない。なぶり殺し同様になって殺されてしまった。
主馬はよほどに深刻な憎悪を持っていたのであろう、民五郎のからだを三段に切りはなした。先ず首を切り、次に胴体から二つにしたが、その首を桐油紙につつんで、網島村(不明)の有福な町人なにがしの家に持って行って、
「こいつを|かた《ヽヽ》に三十両貸して下せえまし」
と申しこんだ。町家ではおどろきおそれて、十五両でごかんべん願って、首はお持ちかえり願ったという。
主馬はどうしてこんなことをしたのであろう。なにがしが民五郎と親しくてこれを庇護していたので、因縁をつけたのであろうか。あるいはまた、首にしてみたら、急にこいつをおどかしの材料にすれば二三十両にはなると思いついただけであろうか。ともあれ、いやなことをする手あいである。
十一
この一二ヵ月後の天保十三年正月、忠治は赤城にかえって来た。日光ノ円蔵、武井ノ浅二(板割ノ浅太郎)、秀吉、鹿安《しかやす》等のうまく当局の目をくぐっていた子分らが、忽ちまた集まった。
忠治は民五郎の最期を聞いて、れいによって敵《かたき》を打ってやらなければならないと思った。民五郎の子分二人に敵討を命じたが、二人は主馬がなかなかの手ききである上に、その子分が多いのを恐れて返事をしぶった。
「てめえらそれで男か! 助太刀をつけてやるから、立派に討て!」
と叱りつけた。つけた助太刀が子分十八人、それぞれに西洋製のピストルを持たせたというから思い切っている。主馬がどんなに手利《てきき》であったか、また忠治の財力がどんなに大きかったかわかる。足かけ六年もの間旅をかけていながらこれほどの財力を持っていたのは、どういうわけであろう。旅先きで荒かせぎをつづけていたのではなかろうか。また西洋製のピストルをこんなにも多数に集めていた意図も、大体想像がつくであろう。
多分、日光ノ円蔵の計略であろうが、助太刀十八人にそれぞれこんな武器を持たせたことを、うわさとして世間に流したので、彼らがなぐりこむと、主馬の子分らは皆われ先きにと逃げ散り、出合う者がない。二刀流の達人でも、十八挺のピストルにはかなわない。全身蜂の巣のようになって討ち取られてしまった。
「民五郎の供養のためだ。あいつの殺されたところに捨ててしまえ」
忠治は持ちかえられた首を利根川に投げこませたという。
この年の秋、忠治が再び田部井《ためがい》村で大ばくちの会を連日開いたところ、一夜捕吏が多数襲撃し、これが八寸《はちす》村のばくち打ちの親分勘介の密告によるとの疑いから、板割ノ浅太郎事件となったことは、ずっと前に書いた。
十二
このように主馬をたおし、勘介をたおしたことは、いろいろな理由のためであるが、結果的には忠治の縄張りをひろめ強化することになった。従来とて彼は上州一の親分であるには相違なかったが、それでも主馬と勘介とは独立した親分としてそれぞれの縄張りを持って、忠治に張合い気味であり、そのために山王ノ民五郎との事件もおこり、密告事件もおこったのである。こうして二人が殺されると、もはや張合う者はない。上州全体が忠治の縄張りとなった。つまり国定王国なのである。
ひとりの人間、ひとつの団体がこれほど強力なものになれば、ただでさえ弊害の生ずるものだ。
西南戦争直前、鹿児島県は私学校党でなければ夜も日も明けない状態であったので、私学校党の横暴は目にあまるものがあり、これに憤慨して私学校を退いて東京に出た者さえあったと、ぼくは国の古老に聞いている。西郷南洲の大人格と、校徒にたいする威望と、感化力をもってしてすら、そうだったのだ。
忠治の子分らは盗賊兼業の連中だ。いろいろなことがあったろう。もっとも、忠治は盗賊行為やばくちは本業だから別として、その他のことでは子分らをとりしまること至って厳格であったと伝える。
ある時、佐世松《さよまつ》という猟師で子分であった者が、熊を獲ったことがあり、その熊ノ胆《い》を売ったが、もとめる人のあるままにいくらでも売った。
「佐世松ツぁん、もうねえだろうな」
「あるよ。熊ノ胆ってやつはな、北向きのつめてえ風の吹くところに掛けておくと、いくらでも大きくなるものでな。三日立つと、切りとっただけはちゃんとふえてもとの大きさにけえるんだ。不思議なものよ。もっとも、ちょいと秘法があるがね」
という調子であった。
もちろん、大うそだ。犬のきもか、牛のきもかを陰ぼしにしては、大事そうに鋏で切っては、目方をはかって高々と売っていたのだろうから、世間もそういつまでもだまされているわけがない。
「ひでえことをしやがる」
と、高いうわさになり、忠治の耳にも入った。忠治はおそろしく立腹した。佐世松を呼び出して散々に叱りつけ、親分子分の縁を切って追い出し、にせものをつかまされて金をかたりとられた人々を一人一人歴訪して、ていねいにわびを言っては金を返したというのだ。
しかし、いくら厳格にしても、そう統制が行きとどくものではない。こまった事件がいくらも起ったろう。
でなくても、政府としてこんな状態をいつまでも放置しておけるものではない。いつか幕府に聞こえた。勘定奉行|公事方《くじかた》から八州取締出役――八州役人に忠治、日光ノ円蔵をはじめとして十人の者の召捕指令が出た。それは天保十三年の九月であったが、その年冬、八州役人は百姓共を駆り催し、また近くの諸藩へも出兵を頼んで、全部の街道や要所をかためておいて捕縛にかかった。そのため円蔵、浅二、秀吉、鹿安の四人が捕えられた。円蔵と浅二は獄門となり、秀吉と鹿安とはその以前に牢死した。忠治だけは百姓らを買収して逃げ出し、奥州へ向った。
十三
話が前後したが、忠治の威勢の最も張った頃、以前信州にいた頃に兄弟分の約束をしたものであろうか、それとも子分の一人であろうか、長兵衛という者が、信州で、同国中野の平七という者に殺された事件がおこった。
忠治はれいによって、
「かたき討ちだ」
と、数十人の子分をひきい、それぞれに槍や鉄砲をたずさえて信州に向ったが、高崎から入って烏川の渓谷沿いに榛名《はるな》の西側を通り、吾妻《あがつま》川に沿った長野原道に出、鳥居峠をこえて信州に入ることにした。その途中、榛名の西側道に大戸《おおど》がある。ここに幕府の関所がある。これを避けるために、一行は山越えした。関所破りだ。
忠治が平七を討ちとったかどうか、記録でははっきりしない。多分討ちとったことと思うが、それよりも関所破りが問題になった。
大体、関所というものは立てまえは厳重なものになっていたが、この時代には実際はそう厳重にはしていない。ずいぶんお目こぼしがあったのだ。しかし、槍・鉄砲をたずさえて抜け道したとなると大問題だ。法は死んでいるのではない。必要な場合にはいつでも発動させるようになっている。ついにそれが「お名差《なざし》」として、幕府から忠治一党に逮捕命令が出、大がかりな捕りものが行われた直接原因になった。
さて、忠治は奥州へ逃げて旅にいること四年、弘化三年の冬、また上州へ帰って来て、赤城に入った。
「親分のお帰りだ」
子分共は集まって来たが、目ぼしい子分はほとんど全部いなくなっている。中にも日光ノ円蔵が刑死していることは大損害であった。以前の威勢には返りようがない。
この時忠治は三十七だ。そろそろ分別も出る頃だ。盗賊ばたらきはやめ、ばくちの寺銭だけをとりおさめることにした。
この頃女房も持った。鶴という女であったという。ほかに妾が二人いた。一人は名は町、なかなかの美人であったという。一人は徳、今の伊勢崎市の北一里にある五目牛《ごめうし》の女で、後家だったが、男まさりの気丈ものだったという。忠治はこの三人を別居させ、意のおもむくままにあちらに行きこちらに行きしていた。
この時代は欧米諸国との関係がうるさくなった頃で、忠治が帰って来た弘化三年の五月にはアメリカの軍艦が浦賀に来て通商を乞うており、その他長崎に来るものがあり、対馬《つしま》に来るものがあり、三年後の嘉永二年にはまた英国船が浦賀に来るという有様だったが、忠治は浦賀に外国船が来たと聞くと、必ず子分をつかわして偵察させたという。どういうつもりであったか、「国のために功を立てて罪をつぐなわんと欲せしか、また騒乱に乗じて為すことあらんと思えるか、その意を知るものなしとぞ」と、百物語は書いている。
その頃、忠治は、
「おれが兵を募れば、一日に四百人は集まる。十日募れば四千人になる」
と言っていたという。
大名だって当時四千人の兵をくり出せるのは少ない。大した自信だ。かねてからそれだけの徳をまいているとの自信があったのであろう。
十四
嘉永二年に、彼は子分らを境川《さかいがわ》(境町の近くの川であろうか)の安五郎という者にゆずって、妻妾だけを連れて奥州へ行って余生を送ろうと思い立ち、よりより支度をしていたが、翌年の七月二十一日、妾の町の家へ行く途中、町と逢ったので、町の兄の嘉藤次という男の家へ行った。酒になって、ほどよく酔って、町とともに寝たが、夜中ににわかに発作がおこり、中風となった。大さわぎになった。
忠治の弟の友蔵や境川の安五郎も駆けつけ、介抱につとめていると、やがて昏睡からさめたが、半身不随になっている。
人々は相談して、五目牛の徳の家へ送りつけることにした。徳の家は豊かで、下男や下女も多いので、介抱もとどくであろうと考えたわけであった。ところが、徳は気丈な性質だけあって、おそろしく嫉妬深い。とりわけ、自分より美しい町が気に入らない。事情をかくして送りつけた。
「お前さんとこへ出かける途中でひっくり返りなさったんだ」
徳はおどろきながら引きとり、まめまめしく介抱していたが、世の中にはおせっかいなやつがいる。発病が町と同衾中であったことを告げた者があった。
「何だって? 町の小女郎《こめろう》と寝ているさなかに萎《な》えたんだってえ? こん畜生! よくもうめえことを言って、おらにおしつけやがったな! てめえが病気にしたんだ。てめえが介抱しやがれ!」
大腹立てて、寝たままで動けない忠治を、町の家へ送りつけた。国定王国の王者も、こうなるとみじめなものであった。
町は美しいばかりで、働きはない女であったらしく、どうすることも出来ない。おろおろしていると、田部井《ためがい》村の名主で宇右衛門という者が、自分の家に引きとり、町をつけて介抱させることにした。先年の用水池のこともあって、宇右衛門は忠治を徳としていたのであろう。
発病のことを、忠治の兄分である野州の河越の頴五郎《えいごろう》に知らせてやると、頴五郎は気の鋭い男だけに、手紙で、
「中風は医薬のとどかねえ病気だ。やがて捕手が向ったら、半身不随では、きっと恥を見る。国定忠治と天下に名を知られた者が、それでは残念だ。腹を切るがよい」
とすすめて来た。子分や妻妾がとめたのか、いざとなると思い切れないものか、そうすることが出来ずにいる間に、捕手がおしかけて来て、捕縛された。
八月二十四日であったというから、発病から一月と二三日立った時である。
十五
その年の暮、判決が下った。彼の罪状は多々あるが、公儀が一番重く見たのは、大戸の関所を破ったことである。そこで、大戸の関所の前ではりつけにかけることになった。
刑が確定すると、忠治の子分らは皆で百両という金をこしらえ、つてをもとめて、さし入れたので、忠治はこれで衣服をととのえて、それを着て大戸に送られた。「浅葱無垢《あさぎむく》の三つ重ねの着物をまとひ、美々しきしとね三重をしきて坐し、厳として神人のごとく見えしとぞ」と百物語にある。色白く、小でっぷりとした容貌であったというから、さぞそうであったろうと思われる。
田部井村から大戸まで十六七里ある。三日はかかったろうが、その間、彼は泰然自若、「眠食平生に異らず」であったという。大戸について、明日は処刑という夜、役人に、
「この村の壁屋という酒屋の酒はいい酒でしてね。あたしはここへ来るたんびに飲みました。一ぱい飲ましていただきてえですな」
と頼んだ。死刑囚の最後の願いはきいてやることになっている。とり寄せて飲ませると、ほろ酔うほどに飲んで、その夜は寝た。
翌日、刑場でまた乞うて一碗を傾け、
「ああ、いい気持だ。生国の酒を飲んで、生国の土となる。本望だ」
といった。
もう一ぱいどうだと、すすめると、
「もう沢山。酔って死んじゃア、臆病だといわれますからね」
といって、はりつけ柱にかかった。槍を受けること十四本で絶息したという。年四十一。嘉永三年十二月二十一日であったという。
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[#見出し]  運命を操った男
浮世の夢を見つくした人・田中半蔵
関ケ原戦争から三年目、徳川家康は征夷大将軍となった。彼の天下|人《びと》たるの実は関ケ原戦によって確立していたのだから、三年も待って将軍|宣下《せんげ》を受けたのは、ずいぶん遠慮深いことであった。
さて、こうして徳川家康が名実共に天下人となると、諸大名は争って徳川家のごきげんを取りはじめた。とりわけ、外様大名、その中でも関ケ原役で西軍に属しながらもどうやら家の命脈だけは取りとめている大名共のごきげん取りは凄まじいものがあった。
献金だ、土産の献上だと、やたらやったが、ある時、肥後人吉の相良家が、――相良家は関ケ原役でははじめ西軍に属して大垣城を守っていたが、中途で東軍に寝返ったのだ。その相良家がこう願い出た。
「母を江戸に住まわせたく存じます。お許し下さいますよう」
言うまでもなく人質の意味だ。徳川家康が喜ばないはずがない。
「忠誠のほど見えて、まことに殊勝である」
と、大へんにほめた。
諸大名は色めき立った。
「それ! 人質を差し出せば、お喜びであるぞ!」
と、我も我もと人質をさし出した。
次のごきげん取りは、島津家が工夫した。これは伏見城攻めにも、合渡《ごうど》川でも、関ケ原でも、終始一貫西軍方として戦った家。それでいながら巧妙な外交交渉によって一合も削封されていないのだから、尻こそばゆさはひとしおだ。
「拙者の本国は遠国でござる。せっせと出府も出来かねますから、出てまいったら長期滞在いたしたくござる。つきましては、邸を営みたいと存じますれば、お許し下さって、敷地を御下賜願いたく」
と、申し出た。
これも末永く忠誠を捧げる心があればこそ邸を営もうというのだと、幕府はほめて、邸地を下げ渡す。
「それ! 邸を営むとお喜びになるぞ!」
と、諸大名はこぞって敷地下附を願い出て邸を営んだ。しかも、出来るだけ贅沢豪奢に営んだ。
加藤清正の屋敷は、戦前参謀本部のあった三宅坂の上にあったが、その門の楼上に小馬ほどの黄金の犀の彫物五匹をかかげてあったため、朝日にさんぜんとかがやく光が品川の海に反射して魚が寄りつかなくなり、漁師らがこまったという話が伝わっているが、それもこのように贅沢豪奢に営むことが徳川家にたいする永久的忠誠を表明することになるからである。
余談にわたるが、江戸の大名屋敷は後世になるほど貧相になっている。やたらに火事が多かったのと、時代が進むにつれて大名共が貧乏になったからである。江戸初期の建築にくらべると、後世のはバラックにひとしい。
幕府が参覲交代の制度によって諸大名を控制《こうせい》すると共に、諸大名の財力を殺《そ》いでこれを統制し易くしたことは、世間周知のことであるが、その最初はこのようにして大名共の方から土台をつくったのである。
権力者の権威が出来上って行く過程は様々で、一を以て律することは出来ない。
権力者自身が厳重な礼法を制定して、これを人々に強制する方法もある。
中国で、前漢の高祖が天下を統一して天子の位に昇った後しばらく、王宮において儀式でもあると、戦場往来の豪傑であった諸侯群臣が乱酔しては剣を抜いて闘諍《とうじよう》し、狼藉をきわめた。
「やれ、やれ、どうすればよいぞいの」
高祖という人もなかなかの乱暴もので、若い頃には不良少年の隊長で、老年になるまでその気を失わなかった人だが、さすがに閉口していると、叔孫通《しゆくそんとう》という儒者が謁見をもとめ、一策を献じた。
「よかろう。やってみい」
そこで叔孫通はこれまでの各王朝の礼法を取捨按配して漢の礼法を制定し、諸侯群臣をしてこれを講習せしめたところ、効果てきめん、儀式に際すると、豪傑連はとんと骨抜きとなり、整斉厳粛、式はまことに荘厳に行われた。
高祖はよろこび嘆じて、
「我、今にして天子の尊きことを知った」
と、言ったと伝えられている。
この真似をしたのか、それとも似た場合には似た知慧が出るものか、日本でも足利幕府がこれと同じことをしている。南北朝の争乱を経験して来たこの時代の諸大名や幕臣共が、高祖時代の諸侯群臣と同じように乱暴であったことは、太平記を読むとよくわかる。高ノ師直の漁色ぶり、土岐頼遠が上皇の行幸の御車を取りまいて追物射《おうものい》に矢を射かけた話、伊勢神宮の神苑内で狩をしたり漁《すなど》りをしたりした仁木義長の話、ずいぶんすごいのが揃っている。これを殿中において制御するために、足利幕府は伊勢氏と小笠原氏に命じて武家礼法をつくらせ、殿中の作法は一切これに準拠することにした。何がわずらわしいといっても、小笠原流や伊勢流の礼法ほどわずらわしいものはない。一杯の飯のどの部分から箸をつけてどの部分に食べ進むかまで規定があるのだ。長袴などという進退に不自由なことこの上なき衣服も、この礼法によって出来たものだ。すべてが、武士共の乱暴を制禁し、将軍の権威を立てるというだけの目的をもって制定された礼法であることがわかるであろう。
以上は、権力者が自らの手で権威をこしらえ立てて行く例であるが、反対に、わきがこしらえ立てて行く例も少くない。徳川時代における大名共の参覲交代がその例である。ごきげん取りにこちらからいろいろしたことが、権力者の権威を次第に高め、強化し、ついにはそれが大へんな重圧となり、青息吐息、泣いても追いつかなくなったのだ。
二・二六事件以後の軍部に対する政治家やジャーナリズムの態度もそうであったことを、当時を知る人なら思い出すであろう。
話が妙な所にそれてしまった。ぼくは「権威」について語るつもりなど更になかったのだ。
さて、諸大名が争って人質を江戸に差し出した時、筑後一国三十二万五千石の大名で、田中兵部少輔吉政という男がいた。元来、豊臣秀吉取立ての大名であったが、関ケ原陣に東軍に属して武功があった上、役後石田三成をその手に捕えて差出したりしたので、この大封を得たのである。
吉政には、四人の子があった。吉次、吉信、吉興、忠政。このうち長男の吉次は父と不和で早く家を出て京都で僧となり、三男の吉興は徳川家に召出されて二万石の大名になったから、家には次男と四男だけがのこっていた。
世間の空気上、吉政も人質を出さなければならない気になったが、吉信は大事なあととりだ。人質にして差出す気にはなれない。
「しようがない。忠政を差し出すことにするか」
と末子を差し出したのであるが、急速な徳川家の権威の確立によって、思いもかけないことになった。忠政をあとつぎにしなければならないことになったのだ。末子ではあるが、兄より先きに将軍家にお目見得しているからであった。
江戸時代を通じて、一度でも将軍に謁見していると、大へんな資格になっている。たとえば何かの機会にある大名の家臣が将軍のお目通りに出て、ことばでもかけてもらったことがあれば、
「将軍家ごぞんじのもの」ということになって、その家臣は生涯身分を保証される。罪があっても、気に食わなくても、大名はこれを勝手に処罰するわけに行かんのである。幕府に上申して許可を受ければ、事の次第では出来ないこともないが、そんな面倒な、そして自家の不取締を公儀にさらけ出すようなことは、どこの大名だってしない。我慢してしまうのである。
また、ある大名に多数の子供がいたとする。全部にそれぞれに領地を分けあたえて分家もさせきれんから、上の一人か二人を分家させて、あとは二百俵か三百俵のあてがい扶持をやって一生部屋住みでおわらせるつもりでいたところ、何かの機会でその子供らが将軍家にお目見得すれば、もうそのままではおけない。苦しくても、相当な分知をして、家を立てさせねばならない。
八代将軍の吉宗は、紀州家の三男で、あたり前なら一生部屋住みでおわらなければならなかった人であるが、五代将軍の綱吉が紀州家に来た時、
「紀州殿は子福者と聞く。お子達を皆見たい」
と言ったので、お目見得することになった。
こうなると、紀州家では捨てておけない。越前大野郡で三万石の領地をあたえ、独立した大名としたのである。これが出世のはじまりで、やがて本家で人が死にたえたので本家をつぎ、さらにまた江戸の総本家で人が死にたえたので、総本家に入って将軍家となったのである。吉宗は、綱吉とまるで正反対の性格の人であり、その施政ぶりもまた正反対であったが、終始綱吉に好意を持ち、綱吉の愛妾やその子女らを好遇している。この恩義を感じていたためとより解釈のしようがない。
このような次第で、末子の忠政があとつぎとなり、兄の吉信は家臣となった。知行五千石。三十二万石のあとつぎと、五千石の陪臣では大へんな違いだ。吉信は大いに不平であった。
「人の運ははかられぬものだ。おやじ殿の意志はたしかにおれにあったのだ。だからこそおれを手許にとめて、忠政を質人《しちじん》として送りなされたのだ。だのに、そのためにこんなことになろうとは!」
この不平が昂じて、吉信はおそろしく暴悪な男となって、家来に斬られてしまった。それは「田兵父子」ですでにのべた。
吉信が死んで四年目に父吉政が死に、忠政が三十二万石の主となったが、忠政には子がなかったので、元和六年八月、江戸で急死すると、武家諸法度の条文によって、田中家は断絶した。
柳川の家臣らはいろいろと努力したが、どうしようもない。後の時代なら運動の次第では所領半減くらいのことで断絶だけはまぬかれたかも知れないが、立法以来満五年しかならない頃だ。法度の条文は厳格に励行されていた。百方の運動すべて効果なかった。家中はばらばらになった。
この田中家の重臣で田中主馬という者があった。関ケ原役で大功を立てて五千石という高知《こうち》となり、主家の姓をもらったほどの男であった。にわか浪人となったので、家族をつれて京都に出た。当時主馬には三郎右衛門という子供だけがあった。主馬自身はもう仕官の意志はなく、牢人で生涯をおわるつもりでいたが、三郎右衛門のためにはつてをもとめて、彦根の井伊家に仕官させた。
主馬の年は記録にないから正確にはわからないが、四十歳位であったのではないかと思う。
この見当はめくら滅法につけたのではない。いくつかの条件を考え合わせてつけたのだが、ちょっと面倒な考証になるから説明は略したい。
これ以後、主馬はずっと京都にいたが、老年におよんで男の子をこしらえた。大体八十一二の頃の子としなければ辻つまが合わないから、なかなか達者なものだ。若い侍女かなんかに手をつけて生ませたのだろう。
子供は半蔵と名づけられた。半という文字は拆《くだ》けば八十一となる。八十一の時生まれたからこう名づけたものではないかと、ぼくは想像しているが、附会にすぎるであろうか。しかし、色々な条件を考え合わせると、八十一以下には下げられない。といってそれ以上にすると、子供を生ませ得る能力があろうとは思われない。八十一だってその点は怪しいものではあるが、稀にはそんな人もあろうではないか。
半蔵は間もなく父に死別し、兄三郎右衛門に引き取られて彦根に移ったが、十二の時、世話する人があって、当時大和郡山城主であった本多|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》政長の家へ児《ちご》小姓として召しかかえられた。非常な美少年である上に、利発な性質であり、家系も立派であったので、政長の寵愛は一通りでなかった。
児小姓というのは、男色を以て召し抱えられているもので、花のさかりが過ぐれば暇を出されるのが普通であるが、中には成人の後も仕えて立身する者もある。その点半蔵は家柄といい才気といい、末長く本多家へのこる可能性が多かった。
その翌年の春、本多政長は参覲交代のため江戸へ下ることになり、半蔵も供して下ったが、その途中で、半蔵の運命を狂わせる事件がおこった。
郡山を出て数日目、半蔵は急に腹が痛み出し、行列におくれて宿場を出た。余程におくれたので、乗掛馬をやとって急いで行くと、前の方から十二三人の供を連れ、馬上で来る武士に逢った。大身の旗本か、大藩の重臣と見受けられる行装だ。そのままにすれちがったが、半蔵の馬の馬子が馬子唄を口ずさみながらふりまわしていた口綱の端が、最後から来る供侍のからだに触れた。
「無礼者!」
供侍はどなりつけた。
その時、馬子が素直にあやまればよかったのだが、二言三言口返答したので、相手は激怒した。
「ふらち者が!」
なぐりつけ、蹴たおし、ふみにじり、さんざんにこらしめた。
半蔵は馬子を気の毒とは思ったが、もともと馬子の方が悪いのだし、また相手の様子があまりにも荒々しいので、気をのまれていた。そのうち、相手は行ってしまった。
馬子には怪我はなかった。
「ああ、えれえ目にあった」
と、起き上り、また口綱をとり、馬子唄をうたいながら歩き出す。けろりとしている。半蔵は安心した。
ところが、このことが、旅人の口からでも伝わったものであろうか、家中の武士らの耳に入り、その夜泊まった宿場で評判になった。本多家は徳川四天王の一人平八郎忠勝の後裔である。武張った家柄だ。人々の批判はこうなった。
「たとえ乗掛馬にしても、駄賃を出して雇っている間は、馬は自分の馬、馬子は家来と見るべきである。その家来が人に手ごめにされるのを眼の前に見ながらそのままにしておいたのは、たとえ幼少の者であっても、武士の心掛において欠けている」
半蔵はおどろいた。なるほど、と思った。そして、この事件に決着をつけなければ、武士としての前途はふさがってしまうと思った。
その夜、半蔵は置手紙して脱走し、道を逆にとって西に向った。
馬子を打擲した武士は、旗本平野権平長政の家来であることは、途中その宿泊したはたごやに聞いてわかった。
平野家は交代寄合(大名格の旗本)五千石の家である。三河以来の徳川家の家来ではないが、初代は賤ケ岳七本槍の一人権平長泰で、代々の当主は権平を襲名する規格になっている名門である上に、今の権平長政は三代目で四代将軍家綱の生母お楽の方の一族だったのが養子に入ったので、その頃おそろしく羽ぶりがよいのであった。
家綱将軍の生母お楽の方は、本名をおらんといって、野州の百姓の娘だ。その父庄左衛門は、水呑百姓であったばかりでなく、禁鳥である鶴を度々密猟したのがばれて死罪となり、その妻子は|あがりもの《ヽヽヽヽヽ》(一生奉公の奴隷)となって、下総古河の永井信濃守の家に召しつかわれていたのであるが、人間の運命ほどはかられないものはない。色々なイキサツの末、身分を解放されて、江戸城の大奥に端下女奉公に出ている間に、家光将軍の手がつき、家綱を生み、その家綱が次代の将軍となったので、縁につらなる一族共の栄達がはじまった。
権平長政もその一人だ。彼はおらんのいとこ(一説では叔父)で、奥州街道筋へ出て馬子をしてやっとくらしを立てている男だったのを召し出されて、当時平野家に嗣子がなく、娘ばかりだったので、将軍の権威を以て無理養子に入れ、丹波守に任官させた。
時の人、これを唄につくって、一世の流行となった。
与作丹波の馬追いなれど
今はお江戸の刀さしじゃ
しゃんとさせ、ササエ
大近松の「丹波与作待夜小室節」は、空によって想をかまえたものではない。この事実を土台にしているのだ。ぼくは馬方三吉の母重ノ井への慕情は、おらんとこの馬方男とのいとこ同士の幼い恋情の換骨奪胎だと思っているが、どんなものだろうか。
さて、半蔵はこれを追いかけて行くうちに、次第に気持も落ちついて来た。思案した。
「とても、今の自分の小腕では討てない」
そこで、彦根に行き、兄に事情を語り、修業の出来る間自分を養ってくれるように頼んだ。
「よろしい。しっかりと修業せい」
三郎右衛門は快く引き受ける。
兄の家にとどまること数年、熱心に剣槍を学ぶ。十八の時、自信が出来たので、江戸へ向った。しかし、相手は二三年前に平野家を去って行くえ知れずになっている。
半蔵は熱心に諸国をめぐり歩いて捜索し、彦根を出てから六年目、やっと相手にめぐり会いこれを討ち取った。この時半蔵二十四歳、はじめの事件の時から十三年目だ。
馬鹿な話だと、現代の我々には思われる。おそらく名乗りかけられても、相手は記憶していなかったのではないかと思う。しかし、半蔵としては討たねばならなかった。討たなければ、彼の武士としての途がひらけないのだから。討たれた方はもちろん、討った方も、当時の武家社会の習慣の犠牲者というべきであろう。
このことは忽ち大評判になった。
「十二の時から二十四まで、足かけ十三年もかかって恥辱をすすいだのだ。剛毅不屈なる武士魂の見事なる発露である」
と、言いはやしたのだ。
早速、旧主の本多家から召還の交渉がある。この頃、本多家は播州姫路に転封になり、政長の子政武の代になっていたが、前述した通り武張ったことの好きな家柄である上に、この政武という人が大名中名うての伊達者だったから、旧臣のこの武勇談を見のがすはずはなかった。
半蔵は再び本多家に仕えて、三百石を給せられ、江戸留守居役に任命された。留守居役は外交官で、風采がりっぱで、応対弁舌がさわやかであることを必要とするのだが、半蔵はそれに打ってつけであった。
本多家の江戸留守居役をつとめること数年、また半蔵の運命を狂わせる事件がおこった。
諸家の留守居役なかまは、彼らだけの社交団体をつくってたがいに親しく交際しているが、ある時、伊勢亀山五万石の石川|主殿頭《とのものかみ》の留守居役池田七郎右衛門から、こんなことを頼まれた。
「拙者の弟の久保伝兵衛は、貴藩の家風を慕って、貴藩に仕えたがっているのですが、御推挙願えますまいか」
伝兵衛には半蔵も何回か会っている。兄とはちがって小男で、醜男《ぶおとこ》で、風采まことにあがらないが、男性的ないい性質だ。剣槍の嗜みも深い。
「ずいぶん骨を折りましょう」
快く引き受けた。
当時、本多家では、松下又左衛門という用人が主人の気に入りで、そういうことを一手に取りさばいていたので、それに頼んだ。
松下は承諾して、
「一度、当人に会ってみましょうかな」
という。半蔵は連れて行って会わせた。
「いずれ、折を見て御推挙申す。気長にお待ちなされよ」
と、松下はあいさつした。
半蔵も伝兵衛もよろこんで辞去した。
ところが、一年立っても、何の沙汰がない。そのくせ、伝兵衛より後から申しこんだ者が三四人も召しかかえられた。
半蔵が気にしていると、伝兵衛から、一度様子を聞き合わせてほしいと言って来た。半蔵は松下を訪問した。
「ああ、あの男でござるか。あれは小男で、醜男で、お家の家来には向きません。召しかかえぬことにしました。しかるべく言ってことわっていただきましょう」
あまりなあいさつに、半蔵はあきれながらも、本人の立派さや武芸について申し立てたが、松下はケンもホロロだ。
「そうかも知れんが、あれはこまる。当世向きではない」
五代将軍綱吉の治世に入って七年目だ。幕初の剛健活溌な気風はようやく忘れられて、浮華な気風が盛んになり、どこの藩でも見た目の美しさとはなやかさを競い、武芸の腕や人物のよさより、容貌風采の立派なのを喜ぶ気風になっている。
「明良洪範」に、赤穂義士の一人堀部弥兵衛が浅野家に仕えた時のいきさつが出ている。
堀部弥兵衛は肥前島原の松平家の浪人で、就職口をさがしに江戸に出て来たが、中々見つからず、数年を経過した。
すると、ある日、赤穂の浅野家で祐筆をもとめていると聞いて、応募した。推薦者が相当な人でもあったのだろうか、別段に試験らしいこともなく、採用された。
数日祐筆部屋で見習いだ。なんにもしないで、人々の仕事ぶりを見ているだけ。その期間が過ぎると、祐筆|頭《がしら》が、
「さあ、大体様子もわかったであろう。これを書くように」
と案文《あんもん》(草稿)を渡した。
弥兵衛はそれを受取らない。威儀を正すと、うやうやしく拝礼して言った。
「拙者は無筆に等しき悪筆でござる。書くことは出来ません」
「悪筆? そなた筆道を申し立てて御採用になったのではないか」
と、祐筆頭はおどろき怒った。
「いつわりを申し立てた段は、重々恐れ入りますが、拙者はごらんの通り無器量ものでござるので、これまで数年、どこの家でも召抱えてくれません。この分では生涯浪人もので終り、人々にあれ見よ、堀部は醜男故、生涯を浪人でおわった≠ニ言われることは必定であります。まことに残念でありますので、詐術を以て当家へ召し抱えていただきました。いかようなる罪にでも仰せつけていただきたい。切腹でもよろしい。打首でもよろしい。こうなれば、浪人堀部として死ぬのではありません。浅野家の家来堀部として死ぬのですから、本望であります」
と、おちつきはらった堀部の態度だ。
祐筆頭は青くなり、このことを浅野長直に言上すると、長直は笑い出して言った。
「その者、見所あり。飼うて取らせい」
これが弥兵衛が浅野家に仕えたはじめだというのだ。
この話は、福本日南氏が、「堀内覚書」の中に、弥兵衛が、
「自分の家は三代前から浅野家に仕えている」
と言ったという記述があるのを証拠にして、ウソであると断じて、名著「元禄快挙録」に書いてからは、世間では信じないことになっているが、これは福本氏の早合点である。この三代前は、堀部家三代前ではなく、浅野家三代前である。長直なら長矩から数えてたしかに三代前である。また、「堀内覚書」の他のところに、もと浅野家の家来で、大石内蔵助の一族で、後に津軽家に仕えた大石無人の言葉を記録している。
「堀部弥兵衛という男は若い頃から心掛のよい男で、浪人|分《ぶん》として召しかかえられて五十石の身代の頃に、早くも馬を飼っていた」
とあるのだ。浅野家に仕えるまで弥兵衛が浪人であったことは明瞭である。こんな考証はどうでもよい。世が華美になり、容貌風采のよいものでなくては就職が困難になったこの時代をわかってもらえばよいのである。
半蔵は怜悧な男だから、時代のこの気風がわからないはずはない。松下のことばを一応道理ときいた。帰って、このことを池田七郎右衛門まで告げてやった。
池田はこれを弟に告げた。
「かような次第だ。あきらめろ」
伝兵衛はカンカンになっておこった。朝八時頃に、松下の家に出かけて、松下に面会を申しこんだ。もちろん、松下は会わない。
伝兵衛は玄関に坐りこんで言う。
「拙者はお家に仕官するのが望みで、松下殿に|おきもいり《ヽヽヽヽヽ》をお願い申したところ、松下殿は一旦承知なさりながら、一年間も沙汰がないのでこのほど様子をうかがったところ、久保は小男の無器量者故、お家には向かんと仰せられた由、たしかに承まわった。一体武士の値打を定めるにあたって、槍の一手、刀の一わざも見ず、たんに容貌風采を以てするとは何ごとでござる。妾選びするのではなく、武士をお選びになるのでござろう。松下殿は大男でござるが、小男である拙者と、武士としての優劣いずれでござろうか。一勝負所望いたす」
なんとなだめても聞かない。玄関に真四角に坐って、時々、
「一勝負所望! 武士なれば出てまいられよ!」
と、叫び立てている。色黒のあばただらけの小男だが、火を噴くばかりにすさまじい殺気をみなぎらせている。
知らせによって、半蔵やその他の者も馳せつけて、色々なだめたが、伝兵衛は頑として動かない。
あぐね果てて、池田七郎右衛門の家へ使いを立て、事情を告げ、引き取っていただきたいと頼んでやったが、七郎右衛門は、
「御迷惑とは存ずるが、弟は武士の意気地でやっているのでござる。兄であればとていたしようはござらん」
と、返答して、かまわない。
そのうち、日が暮れて来た。噂は家中にひろまった。思慮ある連中は動かなかったが、徒士《かち》の中の血気な連中が腹を立てた。
大体、江戸時代の武士の身分で、士分というのは、殿様に謁見の資格を持つ者で、つまり将校、徒士は謁見の資格のない者、つまり下士官だ。この徒士|気質《かたぎ》というのは、一種特別なものがあって、血気粗暴な者が多かったのである。
「生意気千万な素浪人め! 平八郎忠勝公以来、武勇を以て鳴る御当家を何と心得えて、人もなげないことをいたす」
と、総がかりで襲いかかり、縛り上げ、駕籠にのせてかつぎ出し、途中で追いはなした。
伝兵衛は無念やる方ない。兄の七郎右衛門と相談して、無念ばらしの計画をめぐらす。
その頃、本多家は江戸城の大手の門の門番にあたって、その人数は神田の元誓願寺前の中屋敷に泊まっていて、組毎にかわり番こに行くことになっていたが、ある夜、この前伝兵衛を取りすくめた徒《かち》目附の川崎半六、大西六左衛門らが人数の中にまじって出かけると、暗中からおどり出した者があって、
「先夜のうらみ覚えたか! 久保伝兵衛ぞ!」
と叫ぶや、一刀に川崎の眉間を切り割ってたおした。つづく大西はあわてて刀を抜いたが、これまた二三合で重傷を負うてたおれた。
人々は狼狽しながらも抜刀して戦ったが、暗さは暗し、伝兵衛の働きは飛鳥のようで、見る見る多数の負傷者が出た。
何せ、中屋敷の正門前のことだ。応援の人数がくり出して来る。伝兵衛の方にも兄の七郎右衛門が総領の七十郎を連れて助勢に来ている。さわぎは益※[#二の字点、unicode303b]大きくなった。
そのうち、伝兵衛らは本多家の隣屋敷松平輝貞の屋敷の表門の塀を乗りこえて、いずこへともなく逃走した。
このさわぎは、結局、本多家の黒星であった。多数の人数をくり出しながら、わずかに三人に斬り立てられ、即死者二人、負傷者そくばくを出した上に、まんまと逃げられてしまったのだ。
本多家としては、よほど巧みに始末をつけないと、恥の上塗りになる。重臣らの相談が行われた結果、事件の原因をつくった松下又左衛門を処分して、武士道の理明らかなる家であることを示すことにした。
「その方儀、役目がらをもはばからず、武士にあるまじき浮きたる雑言を吐き、お家の迷惑となるべき騒ぎを引きおこしたる段、不届につき、切腹申しつける」
という申渡しと共に、あわれ又左衛門は切腹させられた。
半蔵に対しては、別段なお咎めはなかったが、伝兵衛を紹介したことによって、事件の最も根本的な原因を作った身だ。居心地のよかろうはずはない。その上、考えようによっては、松下の遺族からも、殺された徒士らの遺族からも、伝兵衛兄弟からも恨みを持たれる恐れがあった。
ついに、半蔵は責任を引いて浪人するという一書をのこして、本多家を立ちのき、暫く身をかくした。
半蔵は京都に行って手習師匠をして生計を立てていた。彼はなかなかの能書家で、後にはその能書を名として幕府に祐筆として召出されるのであるが、その能書がなか立ちになったのであろう、水無瀬中納言氏信の家に出入りするようになった。
水無瀬中納言家に姫君があった。女官として宮中に入り、当今《とうぎん》(霊元天皇)の中宮新上西門院に仕えて常盤井ノ局といっていたが、美貌と才学を以て宮中第一の才媛の名があった。
当時、江戸の綱吉将軍の御台所《みだいどころ》は新上西門院と姉妹(一説によると叔母姪)だったが、江戸から京へ、
「才学ある女を見立てて送ってもらいたい。自分の遊び相手にするのだから」
と、頼んでよこした。
新上西門院は、色々せんぎをしたが、常盤井ノ局にまさる女はいない。そこで、水無瀬家とも相談の上、これをおくることにした。
中納言は半蔵に、道中の宰領役として、ついて行ってくれまいかと頼んだ。
「心得ました」
半蔵は常盤井ノ局について、江戸へ下った。
半蔵の江戸下向は局を送りつけるだけのことで、すぐ京へかえるべきであったのに、どういう都合であったのか、そのまま江戸にとどまり、浅草の今戸のあたりに家をかまえて、住みついてしまった。
一方、常盤井ノ局は、大奥に入るや右衛門佐《うえもんのすけ》ノ局と名をいただき、御台所の相手をして作歌、物語の読み合せをするかたわら、大奥総女中の取締り兼行儀師範となった。美貌である上に、学問がある。
綱吉将軍はこれを見てゾッコンほれこんだ。御台所にねだってもらい受け、お附|中臈《ちゆうろう》とした。
お附中臈というのは枕席に侍する中臈だ。その用をうけたまわらないのは、特に「お清」という。総女中取締りと行儀師範はもとの通り。お妾が女中頭でお作法師範なのだから、現代人の常識には合わない。
右衛門佐ノ局に対する将軍の寵愛はなかなかのもので、休息屋敷までもらった。半蔵はその休息屋敷の隣家に居をうつしたが、その頃、右衛門佐ノ局の部屋子を妻にし、宮川常観と改名した。上野の宮様|一品《いつぽん》公弁法親王の許へも出入りして信用せられた。右衛門佐ノ局の縁によるものだ。
「田兵父子」に書いたように宮川という苗字は柳川田中家の祖兵部少輔吉政が給分三石の若党奉公している時召しかかえた伊勢宮川生れの少年宮蔵が、後に士分となってからの名のった苗字だ。主馬は宮川土佐の子あるいは一族であったのであろうか。
間もなく妻が死んだので、京へ行って、一人の女を連れて来たが、これは妻ではなく妾と披露する。京の本阿弥家の手代の妹であった。
この妾の妹で遊女になっていた者があったが、これが東山の永観堂の行者田中賀純に身受けされ、その間に娘が一人生まれていた。すばらしい美女であったので、半蔵改め常観はこれを養女として江戸に連れて来て当時出頭第一の権勢家であった柳沢吉保に献上した。
吉保は大いに鼻毛をのばして寵愛し、後にこの女に二人の子を生ませる。保道、時睦《ときしげ》の二人。
常観の保護者である右衛門佐ノ局は大奥の権勢者だ。将軍の寵愛も一方でない。柳沢としては、何をもらわなくても、常観のためをはかってやらなければならない所だのに、美しい妾までもらったのだ。大いに働いてやらなければならない。将軍に言上して、常観を召出すことにする。御祐筆、二百石。時に元禄六年十二月二十六日。
ここで、名を昔にかえして田中半蔵となる。
七年立って、元禄十三年七月、柳沢の世話で右衛門佐ノ局の養子となる。養子の方が養母よりうんと年長なのだからおかしい。同時にお小姓組、禄千石となり、名を桃井内蔵助と改める。
何年か立って、田中賀純の子を養子として、自らは隠居して晩山と号し、悠々自適の境涯に入ったが、養子の内蔵助は若死にし、その子の仙太郎が相続したが、これまた若死にして桃井家は断絶した。その頃、半蔵はまだ生きていたらしいが、どうすることが出来よう。浮世の夢を見つくした人の凄然たる感慨を以て余生をおくったことであろう。
証拠は何もない。ぼくのカンだけであるが、右衛門佐ノ局と半蔵とは恋愛関係があったのではないかという気がする。右衛門佐ノ局の休息屋敷の隣りに住み、最初の妻が死ぬやすぐ京へ行って妾をさがして来たところなど、世の疑惑を避けるためだったのではなかろうか。小説なら、そう書くところである。
小説なら、空想は色々と動く。二人が恋におちたのはいつであろうか。在京中であろうか。宿下りして来た女官が実家に出入りする美貌独身の武士と恋におちるのは最も自然なことであろう。あるいは、江戸下向の途中かも知れない。
休息屋敷と隣りの半蔵の家との門に秘密な出入口はなかったであろうか。秘密にしなくてもよい。柴折戸があっても別段おかしくはない。そこを通って男の方から通って行ったであろう。
右衛門佐ノ局の侍女で、半蔵の最初の妻になった女は嫉妬と義理に苛《さいな》まれて早死したのかも知れない。とすれば、その次ぎの女を半蔵が妻とせず妾とした気持がわかるではないか。妾には嫉妬の権利はないはずだ。
等々、いくらでも空想が動く。
[#改ページ]
[#見出し]  お大名
徳川八代将軍吉宗の治世であった。
薩摩の世子島津|宗信《むねのぶ》は六歳になったので、先例によって、吉宗将軍にお目見得した。
吉宗は二万石ほどの小藩主であった経歴もあるさばけた人柄だ。
「おお、おお、これはよいお子だ。|まめ《ヽヽ》で成人して、よい国主になりなされや」
と、愛想よくことばをかけて、こうした場合のきまりになっている太刀を下賜したが、宗信はこれを受けようとしない。ハッキリした声で言った。
「刀は大きいのも、小さいのも、家にたくさん持っていますから、いりません」
将軍にたいしてこんなことを言って、せっかくの下賜品をことわった者は、この以前にもなければ、この以後にもない。
座にあった幕府の役人共がおどろいたのはもちろんだが、宗信につきそって来ていた薩摩の家来共もおどろき、狼狽し、度を失った。
宗信は一向平気だ。キチンと膝に手をおいて、すんだ眼で吉宗を見上げ、ふっくらした頬に微笑を浮かべている。
吉宗将軍は、その可愛らしさが大へん気に入った。からからと笑って、
「さて、さて、さすがに薩摩守の家は大家だ。お子達の生《お》おし立てようの大様《おおよう》なこと、御家風のほどゆかしく思うぞ」
と言って、
「ここへ来られよ。ここへ来られよ」
と手招きした。
宗信はおそれげもなくスッと立って、上段の間に上って行った。
「おお、おお、可愛ゆいことの」
吉宗は抱き上げて奥へ入り、菓子など取りよせて、一しきり宗信の相手になって遊んだのである。
年頃になると、宗信は尾張家の姫君と婚約がととのった。
彼はいつも尾張家に遊びに行った。一体、尾張家は御三家の筆頭なので、どこの大名でも玄関から乗りこむことはしないのだが、彼はいつも玄関から堂々とのりこんだ。
尾張の家臣等は、
「お国風かな。えらい乱暴な若殿だの」
と、眉をひそめていたが、彼は至っておおよう闊達で、饗応《きようおう》がはじまると、いつも、
「大納言殿は謡いが好きでありますから、謡いをいたしましょう」
といって、朗々とうたった。ちっとも上手ではなかったが、おめず臆せぬ態度であり、発声であったので、尾張家では君臣ともに感じ入ったという。
ある日のこと、いつもの通り尾張家へ行っての帰りがけ、玄関まで出ると送りに出た尾張家の家老|成瀬隼人正《なるせはやとのかみ》が、宗信の足袋の紐のとけているのに気づいて、
「お足袋の紐が」
と注意した。
宗信はその鼻先きにひょいと足をつき出した。気合であった。隼人正は反射的にひざまずいて結んでやったものの、だんだん腹が立って来た。
一体、幕府の規定では、御三家の家来は陪臣でないことになっている。とりわけ成瀬家は付家老といって、徳川本家からつかわされている家柄だ。柳営においては譜代大名の待遇を受けているほどだ。いくら主家の聟《むこ》君になる人であっても、足袋の紐を結ばせるとはあまりなことだと思った。
そこで尾張侯の前に出て、ぐちをこぼした。
「唯今、お玄関先でしかじかのことがありました。薩摩の御世子は、拙者を何と見ておいでなのでありましょうか。まことに残念であります。拙者の残念は我慢するとしましても、譜代大名の格式である拙者があんなあしらいをされては、公儀の御威光にも関することと存じます」
すると、尾張侯は呵々と笑いながら言った。
「そのような気性であるお人故、おれは聟にえらんだのだ。がまんせい、がまんせい」
延享二年春、宗信十八の時、増上寺が火事になったことがある。
当時、島津家は増上寺の救火使であったので、宗信は父継豊にかわって出役《しゆつやく》すべく表門から出ようとすると、家臣の者が馬首をひかえてとめた。
「表御門の外にはお公儀の火消衆が一ぱいにむらがっていますから、御通行むずかしく思われます。西の御門からお出ましになりますように」
宗信はきかない。
「薩摩の世子たるおれが、父君にかわって公儀の御用に出役するというのに、脇門からなんど出てよいものか。路がふさがっているなら、蹴破って通るまでのこと。続けよ、者共……」
と叫ぶや、一鞭あてて、サッと乗り出した。
主人がこうだ。家来共も元気一ぱいにならざるを得ない。
「エイヤ、エイヤ、エイヤ」
と、喊声を上げながら猛然な勢いでくり出したので、さしも道路一ぱいにふさがっていた群集がサッと道をひらいた。
直ちに増上寺に入って、床几をすえ、采配を取って士卒をさしずし、忽ち消しとめた。
この火は火元の増上寺は消えたが、四方に燃えひろがって、大へんな火事になったので、宗信は士卒をはげまして増上寺以外七十余ヵ所の火を消した。あまりの働きのすごさに、出役していた幕府の役人等は気の毒になり、火のない方に連れて行って休息させようとしたところ、宗信はこれを拒絶して、こう豪語した。
「われらは火のある方を消し申す。火のない方は各※[#二の字点、unicode303b]で消されよ」
宗信は十九の時、島津の当主になったが、その頃、柳営において諸大名の狂言を演じさせて、将軍家重が上覧したことがあった。
大名等は、それぞれ出入りの狂言師を呼んで指導を受け、日夜熱心に稽古したが宗信は一向それをしない。
家臣等は心配でならない。
「狂言などというものは、小技ではございますが、それでも、将軍家が仰せ出させて催されるのでありますから、あまりへたに遊ばしては、上意を軽んずるに似てよくないと存じます。どうか、少しは御稽古遊ばすように」
と、諫めるが、
「捨ておけ、捨ておけ」
と、全然とり上げない。
次第に日が立ち、ついにいよいよ明日という日になった。宗信は家臣に命じた。
「鷺《さぎ》ノ長二郎を呼べい」
島津家出入りの狂言師で、当時名人と称せられていた人物だ。
長二郎が来ると、宗信は言った。
「明日、柳営において、狂言をして上覧に供せねばならん。おれがシテ、そちがワキ、さように心得るよう」
狂言師なかまでは有名になっていることで、いつ薩摩は呼びに来るつもりだろうと心待ちにしていた長二郎だが、こうさしせまってはまことにこまった。出来るだけ易い曲をえらばなければ稽古が間に合わないと思いながら、聞いた。
「曲は何を遊ばされるのでありましょうか」
「何でもよい、そちにまかせよう」
「ハア、それでは、○○はいかがでしょうか」
「よかろう」
「御稽古は? 明日にせまったことでございますから、よほどに熱心に遊ばされませんと……」
「稽古はいらぬ。明日は何時までに参って、余が供をして登城するよう。大儀であった。退れ」
まるで腑に落ちず、小首を傾けつつ、長二郎は帰宅した。
翌日、柳営においてだ。
大名等は、入れかわり立ちかわり舞台に出て演技した。上手であるはずはないが、熱心に稽古を積んだものであることはわかった。
ついに、宗信の番になった。
宗信は型の如く大名に扮して舞台に出、ほどよい位置においた床几に腰を下ろすや、大音声にセリフを言った。
「これは日本にかくれもない大名、薩摩守宗信でござる。狂言をして見せよとの上意につき、これから狂言をいたそうと存ずる。――ヤイ、ヤイ、太郎|冠者《かじや》あるか」
長二郎の扮する太郎冠者が出て来て、宗信の前にかしこまった。
「おん前に」
「ヤア、太郎冠者か。念のう早かった。今日は、上様のお好みによって、狂言をすることになったれば、その方よろしくつかまつれ」
と言って、宗信は大手を振って悠々と引っこんでしまった。
この人を食った大胆不敵なやり方に、人々はあっけに取られていたが、やがて哄笑と喝采がドッと沸き上って、しばらくやまなかったという。
おしいことに、宗信は二十二で死んでいる。しかし、これは宗信のためにはかえって幸福であったかも知れない。江戸中期のように平和で、そして、社会の秩序が整備しきっている時代には、ケタはずれてえらい人物は不幸になるよりほかはないからだ。
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[#見出し]  玉《たま》の輿《こし》物語
「女は氏なくして玉《たま》の輿《こし》」
という諺がある。支那ではやたらそんな事実がある。帝王の権力が絶対であるためだろうか、それとも腹は借物という考えが徹底しているためだろうか、随分下賤な生れでありながら后妃《こうき》となり、母后となりして、権勢を振った者が、歴史上少くない。
ヨーロッパでも、そういう例は多少なりあるようだ。
ところが、日本の皇室では、ぼくの知っている所ではないようだ。もちろん、一時の寵を得た例はあるが、これが后妃に直されたり、その所生が皇位をついだという例は知らない。日本という所は、女の血統もまた余程に重んじたのであろうか。それとも、天皇に群臣や一般庶民の思わくなど一顧もしないでよいほどの強い権力がなかったのであろうか。
所で、この血統だが、高貴な血統の家系の間だけで結婚をくりかえしていると、その家族はだんだん生気が乏しくなり、素質も悪くなり、血統が絶えるという事実があるそうだ。セパードなど、名犬と称せられるものになると、ずいぶん血統を大事にして、いい血すじのものだけでかけ合わせるが、はじめはよくても次第にいけなくなるので、そんな時には狼とかけ合わせると、血がシャンとして来るという。フランスの園芸家が葡萄の品種改良をやる時にも、この要領で行くという。優秀な品種だけの交配ではうまく行かないので、時々野生の葡萄と交配して、野の生気をつぎこむのだという。
徳富蘇峰氏が、その著近世日本国民史の第何巻かの序文に、この事実に触れてこう言っている。
「蓄妾《ちくしよう》の制度は、江戸幕府という特殊な制度から生れたもので、倫理的に見ていけないものであることは言うまでもないが、この制度があるために、江戸三百年を通じて、大名という最高貴族階級の血統が老衰せずして続くことが出来た」
大体、こんな意味のことであった。
ところで、下賤の、従って野性の血が貴族階級に入って行く経路について、いつか考察して見たことがある。
江戸時代には、天皇の側近に上る女には、平民の女はいない。全部|公家《くげ》の女だ。だから、直接には野性の血は入らない。公家の領民の女《むすめ》が主家に奉公に上っている間に手がついて生まれた娘が、女官として御所に奉公に上って皇子を生むという順序になる。つまり、間接に野性の血が入るわけだ。
大名の場合も、多くはそうだ。例外ももちろんあるが、大名の側室の多くは、その家臣の女だ。だから、百姓の血が入るといっても、百姓の女が家臣の家に奉公して、主人の手がついて生まれた女が大名の奥に入って大名の子を生むので、これも間接的だ。
ところが、将軍家だけはそうでなかった。直接に百姓の女に将軍の手がついて生まれた子が次代の将軍となっている例が少くない。
その例を少し挙げてみる。
四代将軍家綱の母おらんは、単に百姓の娘であっただけでなく、奴隷であり、その父は死罪人であった。
おらんの父は下野国幸島郡鹿麻村《しもつけのくにさしまごおりかまむら》の百姓であったが、小才の利いた男で、江戸へ出て五百石の旗本朝倉才三郎の家に奉公した。はじめは仲間《ちゆうげん》かなんかだったらしいが、気の利いた男だったので、次第に重用され、侍にとり立てられ、主家の苗字までもらって朝倉宗兵衛と名乗り、後には用人にまでなって、家政をあずけられた。
この間何年間経ったか、主人の才三郎が死んだので、朝倉家の一族の者が集まって家政の検査をしてみたところ、宗兵衛が余程の費《つか》いこみをしていることがわかった。
一族の者共は大いに怒って、宗兵衛に切腹させるとまで猛り立ったが、
「才三郎が多年あれほど信用して、苗字までくれて召使っていたほどの者を、そうまでするのはあまりにむごい」
と言い出す者があって、ついに死罪を宥《なだ》め、
「再び江戸へ来ることならぬ。もし江戸で見つけたら斬り捨てるから、左様心得よ」
と言い渡して、追放にした。
この時、宗兵衛には妻、男子一人、女子二人の家族があった。宗兵衛はこの家族共をつれて、故郷に引きこもって、名を一色庄左衛門と改めたが、田地一段持っているわけでない。狩人をしながら暮しを立てることになったが、何しろ貧窮だ。毎日の煙の立てかねるような生活がつづいた。
ある日のこと、宗兵衛は間違えて鶴を撃ってしまった。鶴は禁鳥だ。将軍以外は獲ってならないことになっている。青くなったが、捨ててしまうのもおしい。こわごわ江戸の小田原町へ持って出て問屋に話をしてみると、こうしたものにはいつもほしがる人がいるもので、存外にいい値段で売れた。
その日の糧《かて》にもこまっている者に、これ以上の誘惑はない。困ると鶴を撃って、江戸へ持って出てさばいていたが、阿漕《あこぎ》ケ浦《うら》のたとえもある。ついに露見して召捕られた。
法は厳重である。本人は死罪となり、遺族等は、土地の領主である古河《こが》の城主永井信濃守尚政の家に「あがりもの」となった。あがりものとは、罪による一生奉公の奴隷のことだ。
しかるに、この宗兵衛の妻はなかなかの才女で、女としての作法や芸能にもよく通じていたので、永井家では重宝がって奥で召使っていたが、何年か立って、永井家の姫君が筑後柳川の立花家へ縁づくことになった。
「あの女はあがりものながらなかなかの才女ゆえ、あれをつけてやろう」
ということになった。
そこで、宗兵衛の遺族等ははじめて奴隷の身分を解放され、妻は紫《むらさき》と名づけておつき女中となり、長女おらんは腰元となって、姫君について立花家へ行った。
この時、次女は永井家にのこって奥女中となったが、息子の斉之助はお暇を賜わったので、江戸へ出て旗本の家へ渡り奉公の児《ちご》小姓となった。
さて、おらん母子は立花家の奥に奉公していたが、間もなく永井家から来た姫君が病死したので、母子は暇を出された。
母子は困ってしまった。奉公の間にもらいためたものを売ったり、手内職をしたりして、江戸で心細い町住居をしていると、母の紫に縁談がおこった。
古着屋の七左衛門(一説によると傘屋、また一説では永井家の家来で百五十石とっていた七沢作右衛門)というものが、紫を妻にほしいと申しこんできた。
よるべない母子にとっては渡りに舟だ。早速承諾して、七左衛門に嫁いだ。
それから間もなく、春日局が寺詣りの時、娘のおらんを乗物の中から見つけて、城中に召し出し、ついに三代将軍家光の目にかかり、手がついて四代将軍家綱を生んだという。
一説によると、おらんを見つけたのは春日局ではなく、当時大奥で春日局についで権勢のあった疎心尼とお年寄の|おこわ《ヽヽヽ》であったという。
おらんが家光の注意を引いたいきさつにも、面白い話がある。
大奥では、女中等が新参のお端下《はした》をからかって唄などうたわせることがよくあったというが、おらんも唄をうたわされた。
「そなたはもと野州のお百姓じゃという。お百姓唄を歌いやれ」
といわれて、おらんは麦搗唄《むぎつきうた》をうたっていた。そこに、ふと家光が来て、あまりの無邪気さに心がうつったのだと伝えられている。
おらんは、家光の側室になってから「お楽の方」と名前が改まり、家光の胤をはらんだので、春日局の口ききで、永井信濃守の娘分ということになった。
家光が死に、おらんの生んだ家綱が四代の将軍となると、おらんの一族の栄達がはじまった。
おらんの母の夫である古着やさんは七沢作右衛門清宗という旗本となり、おらんの妹は高家《こうけ》の品川式部大夫高安に嫁ぎ(品川高安は今川氏実の子だ。つまり、義元の孫だ。足利時代には足利将軍家につぐ家柄といわれていたほどの名門だから皮肉な話だ)、兄の斉之助は名を増山弾正忠《ますやまだんじようのじよう》と改めて二万石の大名となった。その他、一族で取り立てられる者が多く、中にもおらんの従兄弟(一説では叔父)であった与作というのは、野州で、馬方などしているしがない男であったが、召し出されて、五千石の旗本平野家の養子にされ、平野丹波守長政と名乗る。
平野家は、賤ケ岳七本槍の一人平野権平長泰の末で、代々権平を襲名する規格の、旗本中の名家であるが、将軍の権威で無理やりに馬方男を養子にさせられたのである。
時の人、これを唄につくって、一世の流行となった。
与作
丹波の馬追いなれど
今はお江戸の刀さしじゃ
しゃんとさせ、ササエ
近松門左衛門の「丹波与作待夜小室節」は、この事実を踏まえて作ったものだ。馬方三吉が御殿女中となっている母重の井への慕情は、ひょっとすると与作とおらんとのいとこ同士の幼い恋情の換骨奪胎かも知れないのである。
五代将軍綱吉の生母桂昌院お玉は、微賤から成り上って、生前従一位に叙せられ、古来日本の婦人中第一の出世頭《しゆつせがしら》と言われているが、「柳営《りゆうえい》婦女伝系」という書物によるとこうだ。
お玉の母は、最初、京都堀川通西藪屋町《きようとほりかわどおりにしやぶやまち》の八百屋仁左衛門に縁づき、女二人を生んだ。その妹娘がお玉である。仁左衛門が死んだので、母は娘二人を連れて、二条関白家の諸大夫本庄家へ下女奉公に上っているうち、主人|宗利《むねとし》の手がついて、男子一人生まれた。
その後、お玉は六条宰相家の姫君お万の方が三代将軍家光の大奥に仕えて側室となっているのを頼って江戸へ出て来て奉公しているうちに、春日局の目にとまり、局の手から三代将軍家光の許へ差し出されて、綱吉を生んだという。
しかし、この時代、芸州藩の儒医であった黒川|道祐《どうゆう》の著である「遠碧軒記」という書物によると、大分違う。
お玉の母親は朝鮮人であったとある。
京都堀川に酒屋太郎右衛門というのがあった。怠けもののグウタラだったので、妻は男の子供を一人生むと、摂関家二条家へ乳母に上ってしまった。太郎右衛門は女房におん出られてこまったが、間もなく、その家に久しく召しつかっていた朝鮮女に手をつけ、これを女房にして娘が二人生まれた。その妹娘がお玉である。二条家へ上った先妻は感心な女で、朝鮮人の生んだ二人の娘をも自分の娘として育て、ツテを求めて妹娘の方は江戸の大奥へ奉公に差し出したのである云々。
ことさらに奇を好むわけではないが、ぼくには「遠碧軒記」の記述の方が正しいような気がする。とにかくも、「柳営婦女伝系」は後世の書物だが、こちらはその時代の著述なのである。
綱吉が五代将軍となって以後、お玉の一族が立身したことは言うまでもない。
徳川将軍代々の母親のセンサクをすれば、この他にも色々と面白いことが出て来るが、こんな工合に平民の野性の血が直接に入っている例が少くないのである。
以上の二つは、江戸幕府を舞台にしての日本シンデレラ姫だが、皇室を舞台にしてのシンデレラ姫を一つ。
王朝時代、文徳天皇の御代のこと。
閑院の大臣《おとど》といわれた藤原冬嗣の子、内《う》舎人《どねり》良門《よしかど》の子、高藤は、ある年の秋の日|山科野《やましなの》に鷹狩に行き俄か雨にあって、土地の大領《たいりよう》(郡司で、土着の豪族を任命する慣習になっていた)宮道弥益《みやじいやます》の家に泊まったが、その夜、弥益の娘|列子《れつこ》を夜伽に召した。
翌日、高藤は心をのこして家へ帰ったが、父良門が無断外泊を大へん怒ったので、再び行くことが出来ない。そのうち、良門が死ぬと、何かと多忙にもなり、またその日召し連れて行った下人共もそれぞれ交代して田舎にかえってしまって地理を知った者がなくなったので、益※[#二の字点、unicode303b]行くことが出来なくなった。
ところが、列子の方では、たった一夜の契りで妊娠して、娘を生みおとしていた。その娘は胤子と名づけられた。
大領夫婦は、再びたずねて来もしない高藤をうらみつつも、胤子は可愛ゆく、掌中の珠といつくしみ育てた。
しかし、それはそれとして、縁談のあるにまかせて、列子にも他家に縁づくように言ったが、列子はぜったいに聞き入れなかった。
「あの方はきっとまたお出でになります」
と、かたく言い張っていた。
果して、胤子が、四つ五つになった頃、高藤は、丁度その頃、あの時供に連れていた下人の一人が田舎から上って来たので、それを案内者にして、宮道家にやって来た。
列子のよろこび、宮道家の喜びは言うまでもない。
この時、高藤は中納言になっていたが、列子を京都の邸に迎えて、これを正妻とし、古書によると、「他の方へは目も見やらず住み給いしほどに」男子二人が次々に誕生した。定国、定方の二人である。
胤子が年頃になった頃、恋人が出来た。三代前の帝《みかど》、仁明天皇の皇子時康親王の御子|定省《さだみ》がその恋人であった。定省は血統的には皇孫であるが、すでに源姓を賜って臣籍に下り、侍従の官にあった。
胤子と定省との間に男の子が生まれたが、その頃、偶然のことから時康親王が五十五という老年で帝位を践《ふ》まれることになった。光孝天皇である。すると、定省も臣籍から皇族に復籍して定省親王となり、間もなく光孝天皇が崩御されると、定省親王が帝位につかれた。宇多天皇である。次の醍醐天皇は胤子の所生であった。
田舎郡司の娘列子は帝王の姑《しゆうとめ》となり、帝王の外祖母となったのである。
山科の勧修寺は、山科の宮道家の邸あとを、定国・定方の二人が寺としたのであり、二人のあとが勧修寺家となったのである。
シンデレラ伝説は、不幸な女性のはかない夢を描いたお伽話であるが、現実の世界にも折々はあることである。
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[#見出し]  田兵父子
田中兵部少輔長政(別名吉政)の素姓については、新井白石の「藩翰譜」には、伯耆守宗弘の子で、累代江州高島郡田中に住んでいたとあるが、山鹿素行の「山鹿語類」には、初名久兵衛、農民の出身とある。
若い時、畠に出て耕作し、くたびれて鍬を杖にして一息入れていると、近くの道を五六人の従者を連れ、美々しく装った武士が馬上で通りすぎた。久兵衛はつくづくと見て、感慨一方でない。
「人の生涯にも色々とあるものや。今の世では武士で無うては人間でないわい。年から年中汗水たらして苦労しても、腹一ぱい飯も食えんような百姓なんぞ、人間とはいえん。おらもう真平じゃい!」
と、心機一転して、武士となる決心をした。
いくら戦国の世でも、一足飛びには武士になれない。先ず武家に下人奉公して追々取り立てられて武士になるのが順序だが、馬ひき仲間や槍持仲間からつとめ上げるのではまどろっこくてならない。なんとかして若党奉公したいと思った。こんなことを考えたところを見ると、久兵衛はこの時もう相当な年、二十三四にもなっていたのではないかと思われる。
ともかくも、いろいろと知り合いの者にも話をして、心当りの先があるなら世話してくれるように頼んでいると、同じ村に住んでいる伯母がやって来た。
「汝《われ》、百姓をやめて武家奉公する気になったとの」
「うん、おら、百姓は割に合わんと思うて、その決心した。とめて下さるなや。考えぬいた上で決心したことやで、とめたとて思いとどまりはせんぞい」
「とめはせん。ようその気になったとほめに来たぞい。汝が言う通り、ほんに百姓は割に合わんものや。年百年中ぼろ着て働いても、不作の年には粥もすすれんし、作柄のええ年でもあらかた領主様に召し上げられて、自分では腹一ぱい飯《まま》食うことも出来へん。そればかりか、やれ川普請や、やれ戦さや小荷駄やいうては、駆り出されて、骨の休まるひまもない。人の皮着た牛馬とかわることはない。ところが、これがお武家じゃと、戦さに出て命を的に働かねばならんが、戦さのない時は安気なものや。いい衣《べべ》着て、威張りかえって百姓をしぼり上げ、百姓を追い使うておればええのや。ようこそその気になった。おらはうれしゅうてならんぞい」
よほどに気の強い、利口な伯母であったと見えて、こう言って、持って来た麻布一反をあたえた。
「武家奉公に出るとすれば、早速に袴がいる。これはおらが苧《お》をうんで織ったのじゃ。進ぜるよって、紺屋にやって好きな色に染めてもろうがええ。染め上って来たら、おらが仕立ててやろうゆえ、持って来なされ。おお、そうじゃ。紋をつけてもろうのを忘れるなや」
久兵衛はおしいただいて受け、紺屋に持って行った。
「褐色《かちいろ》に染めてくれや。縁起がええよって。それから、紋をつけるのを忘れんでくれや」
「紋はなんじゃい」
「なんでもええ、そっちで見つくろってくれや」
「そうかい。そんなら三つ巴にしようわい。日野の蒲生様の紋所や。あやかるようにな」
数日の後、麻布は褐色に染め上った。腰板につけるべき紋所には当国日野の領主蒲生家の紋所左三つ巴が染め出されていた。伯母のところへ持って行くと、早速に仕立ててくれた。
こうして、袴は出来た。刀も手に入れて、自ら研ぎ立てた。
すっかり支度が出来た時、おりよく、かねて頼んでおいた者が、
「宮部善祥房様のところで若党をさがしていなさるが、行くかえ」
と、言って来た。
宮部善祥房は元来は比叡山の僧兵の一人で、江州にあった延暦寺の領地の支配人であったが、自立して武士となり、当時は小谷の浅井家に所属していた。その頃江州では武名の高い人物であった。
「よいとも、行くぞえ」
早速に善祥房のところへ行った。幸い善祥房のめがねにかなって、若党として召しかかえられた。給分は年三石ときめられた。善祥房は当時浅井郡宮部村にいて砦をかまえ、浅井家の属城|虎御前《とらごぜ》山城の外郭をなしていたのである。
善祥房に奉公してしばらくの後、久兵衛は主人の使いで京に行ったが、その帰途、茶店で休んでいると、みすぼらしい旅姿の十二三の少年が通りかかった。ふと店に入ると、ならべてあった餅に目をつけ、茶店のおやじに聞く。
「この餅なんぼや」
「二つ一文や」
「ほなら二つおくれ」
久兵衛から少しはなれた床几に腰をかけ、茶をもらって餅を食べはじめたが、忽ち食べおわって、あとは茶ばかりがぶがぶと飲んでいる。時々目の前にならんでいる餅に目をやってはあわてて反らし、あわてて茶をのむ。
見ていて、久兵衛は、もっと食べたいのだが、金がないらしいと合点した。あわれになって、おやじに言いつけて、盆に餅を山ほど盛り上げさせ、少年の前においた。
「この餅そなたに寄進する。食え」
「へえ?」
少年はあきれたように餅と久兵衛を見くらべていたが、さらにすすめると、ぺこんと頭を下げて食べはじめた。
純粋に食欲になり切っている少年の様子は、見ていてむしろ快いほどであった。久兵衛は茶をすすりながらそれを見ていたが、やがて聞いた。
「そなたはどこの者で、どこへ行くのだ」
伊勢の小俣《おばた》郷宮川の者で、しばらく京に行っていたが、国へかえる途中だという。
「ひとりでか?」
「へえ」
「えらいのう。そなたいくつになる?」
「十二でございます」
旅の空で人の温い心に逢うことがなかったのであろうか、ふと少年は涙ぐんだ。
いろいろ聞いてみると、伊勢神宮の夫役《ふやく》のために京に上っているうちに病気になったので、ただ一人京にとりのこされたが、どうやら癒ったので、国にかえるのだという。
「夫役といって、そなたの村ではそなたのような子供でもよいのか」
「いえ、おらは父親も母親もない孤児ですよって、村の走り使いして飯《まま》食わせてもろうています。おらは夫役の衆の飯焚きや走り使いのために京に上ったのでござります」
「国にかえっても頼りない身の上なんじゃな」
「へえ。天にも地にもたんだ一人の身の上でござりますだ」
久兵衛は大いに同情した。
「おれはこの国小谷の城主浅井様の御家来宮部善祥房様に若党奉公している者じゃが、おれが家来にならんかえ。おれがたった三石という給分じゃから、今のところ定まった給銀はとらせることは出来んが、飯だけは食わせられる。また、夏冬の着物ぐらいはやれる」
「村にかえっても、村ではそれほどのことはしてくれまへん。旦那様が家来にして下さるなら、よろこんで御家来になりますだ」
「早速に承知してくれて、重畳だ。おれもいつまでも今の身分ではおらん。やがては立派な身分になる。そうしたら、そなたはおれが最初の家来じゃによって、必ず家老にする。しっかりと働いてくれい」
「働くには慣れていますだ。出世なされたらきっと御家老にして下されや」
主従の契約が出来て、久兵衛は少年を連れて宮部にかえった。少年の名は勢州宮川の生まれであるというところから、宮蔵とつけられた。
わずかに三石しかとらない久兵衛が家来を召しかかえて来たので、善祥房の家中ではもの笑いのたねになった。
「どうかしとるぞ久兵衛のやつ。小気の利いた男に似ず、まるで勘定がわからん」
「若党に家来がいるものか」
と、皆言い合った。
これは笑うのが当然だ。当時は人間一日の食い扶持は玄米五合と定められている。月に一斗五升、二人なら三斗だ。十ヵ月で三石食ってしまう計算になる。
しかし、久兵衛は考えるところがあったのであろう、評判を聞いても怒る色もなくいたが、半年立つや立たずのうちに、戦功を立てて給分五石になったので、先きに笑った人々は、
「なるほど」
と、感心した。
久兵衛も奉公に骨身をおしまなかったが、少年もまたおとりなく働いた。
「この冠者かいがいしくつかわれければ、久兵衛もこれをたのもしくもてなす。小冠者(中略)朝夕のいとなみ聊かも怠らず。事足らぬことまでにて年月を送り、あるいは水くみ、飯かしぎ、あるいは自ら米をしらげ、臼杵をのみこととして月日をくらす」
と「山鹿語類」にある。
久兵衛が若党奉公に出てから二三年後、元亀二年、善祥房は羽柴秀吉に口説かれて、浅井家を離反して織田信長の家来となった。信長は三千石を給して秀吉の寄騎《よりき》とした。その頃、久兵衛も若党から武士にとり立てられたが、俸禄がどれほどであったかわからない。せいぜい二三十石のものであったろう。
しかし、善祥房が秀吉の寄騎として各地に転戦し戦功を積んでその身代を太らせるにつれて、久兵衛の身代もまた太った。秀吉が弟の秀長をして但馬地方を経略させた時、善祥房は秀長に従っているが、久兵衛は善祥房手廻り十八騎の一人となって母衣《ほろ》をかける身分となっている。高級将校である。しかし、主人の身代が大したことはないから、身代は二三百石のものであったろう。
この但馬経略の時の話に、こんなことが伝えられている。
但馬はこの頃山名祐豊のもので、羽柴秀長はこの山名勢と戦ったのであるが、ある時、山名家の老臣垣屋駿河守が三千の兵をひきいて、高地に陣取っていた。善祥房はわずかに五六百の兵をひきいて行き向ったが、衆寡の勢いが懸絶しているので、普通に戦っては勝利おぼつかないと見た。そこで、一策を案じて、夜、手廻り十八騎をひきいて急に襲ってこれを乱し、ついで本隊を以てこれを潰走させようと計画した。
久兵衛は十八騎の一人として奇襲に参加した。彼は紙子《かみこ》の陣羽織を着、薙刀をひっさげ、黒馬にまたがって、真先きに垣屋が陣営に突入し、あたるを幸い斬りまくったのであるが、度を失って狼狽しきっている敵の中から、いきなりおどり出して走り寄って来る者があった。
「垣屋駿河が内、なにがし」
と名のったが、名はよく聞きとれなかった。
この混乱の中からこうして立直って来るのは、よほどの剛の者にちがいない。久兵衛は勇み立って、馬をあおって駆けよると、敵はこんどはじりじりと退りながら、
「但馬丹波両国にてかくれなき弓とうたわれている者ぞ。受けてみよ!」
とさけぶ。
はっとした。四五間の距離しかない。戦場の心得として、弓鉄砲の敵には決して左からかかるものではない、必ず右からかかれとしてある。名乗りを上げる余裕もなければ、馬首を敵の右側に転じさせる余裕もない。頭から馬足で踏みくだく勢いで乗りかけ、風を切って薙刀をうならせた。とたんに、弦音は聞こえなかったが、異様な衝撃を右胸部に感じたと思うと、渾身の力をこめてふりおろした薙刀の刃先はふわりと風に流れた。はげしくからだがぐらつき、馬からふりおとされそうになった。
(しまった!)
歯ぎしりして乗りこらえ、行きすぎた馬首をめぐらすと、敵はもうこちらに向きなおっていた。夜目だが、満月のように二の矢をつがえてふりしぼっているのが見えた。こんどは弦音が聞こえ、左の胸の上部に衝撃を受けた。
久兵衛は薙刀をふりおろした。斬り得た手ごたえはあったが、また落馬しそうになった。しかし、これも乗りこらえ、馬をのりかえした。
相手はたおれていたが、久兵衛の近づくまでにごろごろと二三間向うにころがったかと思うと、はねおきた。弓はもう持っていない。よろめいている。たしかに相当な手傷を負っているにちがいないのだが、しぶとい敵だ、刀を抜きはなつや、さけんだ。
「あっぱれ剛の者や! しかし、おれはまだまいらんぞ!」
「おれもまいらんぞ!」
二三合したが、その時、味方の本隊がどっとおめいて殺到して来たので、かけへだてられて、ものわかれとなってしまった。
この夜襲は大成功で、垣屋勢の潰走におわったばかりか、山名方衰頽のきっかけになったので、善祥房の功績はならびないものになったが、一人の働きとしては久兵衛の剛勇ぶりが最も高く評価された。当夜久兵衛にあたった矢は、初矢《しよや》は右の胸板から右脇に鏃白く射ぬいており、二の矢もまた左の胸の上部を射ぬいたのであった。これほどの重傷を負いながら、落馬もせず、屈する色もなく、なお敵とわたりあったのは、比類なき剛勇であるとうたわれたのであった。
ほどなく、山名祐豊が降伏して、但馬は平定した。秀吉は但馬全部を秀長にあたえたが、善祥房にだけは豊岡二万石の地を割いてあたえたばかりか、新たに降伏した垣屋を寄騎としてあずけた。
善祥房と垣屋がはじめて会った時、この戦さの話が出た。垣屋は、
「あの夜、真先きにわれらが陣へ乗りこんで来られたのは、御家中のどなたでありましたろうか、白い羽織着て、黒い馬にまたがり、得物は薙刀でござったが。その人につづいて、他の衆は突き入って来られたのであります」
と言った。
「それはわれら取り立ての田中久兵衛という者である。さては、久兵衛はあの夜は一番槍もしたのであるな」
といって、当夜久兵衛の相手になった者のことを聞いた。
「その者は大阪新右衛門と申して、手だれの精兵《せいびよう》(弓の上手な者)でござったが、当夜負うた傷がもとで、あの数日の後死にました」
と、垣屋はこたえた。
善祥房は久兵衛を呼んで、垣屋の物語ったことを伝えて、垣屋と盃をとりかわさせた上、改めて一番槍を賞して加増をとらせた。
この時の加増によって久兵衛がどれほどの身代になったか、明らかでないが、五百石くらいのものではなかったろうか。というのは、この翌年、秀吉は鳥取城をおとすと、善祥房にこれをあたえ、六万石の領地をとらせているが、この時久兵衛は千五百石となっているからである。この時代、主立った家来の知行は主人の封地の増減の割合で増減するのが普通だ。この時から二十年の後、関ケ原合戦の後、上杉家が会津百二十万石から米沢三十万石に減封された時、上杉家の重臣等の知行が大体四分の一から五分の一くらいの見当にへらされており、加藤家や黒田家はほぼ二倍になっているが、重臣等の知行もまた二倍になっている。
久兵衛が出世すればその家老になるはずであった宮蔵はどうなったか。久兵衛は約束を履んで、士分にし、家政をゆだね、自分が千五百石になると、三百石をあたえた。士分にとり立てられた頃から、宮蔵は生地の邑名をとって苗字を宮川とした。
秀吉と善祥房の間はまことに円満であった。後年の殺生関白秀次はこの頃は善祥房の養子になっているほどだ。これはその頃まだ実子のなかった秀吉が最も愛している甥であることを知った善祥房が、秀吉の意を迎えるために所望したものかも知れない。
この翌年、天正十年に本能寺の変があり、つづいて山崎合戦があり、その翌年の四月には賤ケ岳合戦があり、秀吉の勢威は隆々として、天下がその手に帰する形勢が明らかになった。
秀吉は自分に味方してくれた諸大名や自分の家来共の戦功に報いて、大はばに加増したが、善祥房には一挙十四万石を加封して二十万石とした。同時に秀次はとりかえして、阿波の名族三好笑岸の養子として独立の大名とし、久兵衛を宮部からもらい受けて秀次の家臣として、五千石をあたえた。
この時秀次のもらったのは、尼ケ崎とそれまで池田信輝入道勝入斎の居城の一つであった摂津の池田であった。
勝入斎は織田信長の乳兄弟として育った人だが、この摂津池田の豪族池田氏の血筋を引いている。父の代に池田を離れて尾張に移ったのである。信長はそれを知っているので、この地方がその手に帰すると、特に勝入斎にあたえたのである。
このように、池田は池田家にとっては由緒の深い土地であったが、秀吉は勝入斎に以前信長の居城であった岐阜城と大垣城をあたえ、領地もうんとはずんだので、勝入斎も異議なく引きはらったのであった。
ところが、この新旧の領主の交代にあたって、思いもよらない事件がおこった。
池田家の足軽の一人で、国うつりの時女房が病気になった者があって、女房を連れて行くことが出来ないところから、池田の町の知るべの家に女房を頼んで、自分だけ主家について美濃にうつった。
女の病気は一時のことであったので、日ならず本復したのであるが、これがかなりな美人なので、忽ち三好家の足軽共の間で評判になった。
「ちょいと行けるのう」
「顔もじゃが、うまそうな腰つきをしとるわ」
「白歯でないのが残念じゃのう」
これが戦さ最中なら、人の妻であろうと、生娘であろうと、見境のある連中ではないが、平穏無事の時、しかも主君の御領地内とあっては、いたし方はない。わずかにじょうだんを言いかけるぐらいのことで気をまぎらしていたが、一人あくまでもあきらめない男がいた。足軽なかまで生命知らずの|かぶいた《ヽヽヽヽ》男(勇敢にして異風好みの男)として知られている男であったが、朋輩等にむかって、
「おれは人の能うせぬということは、かえってしたい男じゃ」
と、宣言して、何かとおりを見つけては言いよっていたが、とうとう本望を達してしまった。
天性多情な女であったのか、数十日の空閨のさびしさに負けたのか、気が弱くて情にほだされたのか、威勢のよい男の様子に心引かれたのか、わからないが、とにかく、許してしまったのである。
こうなると、女は弱い。逢う瀬を拒むことが出来ない。いく度か逢っているうちには相手がいとしくもなって来る。いつかこれが人々の高いうわさとなった。
女をあずかっている家では、もちろん女に意見した。女は悪いこととは重々知っている。手を切ろうと思いもしたし、努力もするのだが、ついまたずるずると引きずられてしまう。
男の方にも、朋輩共が心配して忠告する。
「やめたがよい。いずれはあの女の亭主が迎えに来る。迎えに来ればきっと亭主にわかろう。わかればお役人方に訴え出るであろう。お家としては、汝《われ》を首にせんわけに行きなさらん。その時になって後悔しても追いつくことではないぞ」
しかし、男はもともとほれた女だ。かぶいた性質でもある。
「首を斬られるからやめよとは意見のしようがちごうた。そう聞いてはかえってやめるわけには行かんわい」
と、腕まくりし、肩そびやかし、ばかな気※[#「火+啗のつくり」、unicode7130]を上げるしまつ。
かれこれしているうちに、女の亭主が迎えとるためにやって来た。女をあずかっている家では、きもを冷やしながらも、ともかくも送り出してしまえば無事にすむと思って、一語もそれに触れなかったのだが、女がそうは行かなかった。良心の呵責にたえなかったのか、恐ろしくなったのか、亭主の顔を見て今さらのように男にたいする愛情が切なくなったのか、男の家に逃げて行ったから、万事が暴露した。
亭主は男の家に乗りこんで不義者共を成敗しようとしたが、相手が三好家の足軽なので、後の面倒を考えて、役人に事情を訴えて、成敗の許しを乞うた。
三好家ではおどろいて調査してみると、事実はかくれもない。
「当方で召捕って渡す。その上の成敗は随意である」
足軽共に命じて召捕りにつかわした。
姦通者共はまさに駆落ちしようとしているところであったが、手強く抵抗して、忽ち数人に手を負わして屋内に引っこみ、すべての戸と窓をしめて釘づけにし、わずかに入口の戸一枚だけをあけて、しんとしずまりかえった。かねてから剛力と手利きを以て称せられている男の働きを眼の前に見て、足軽らは踏みこんで行く勇気がなくなった。
亭主は腹を立てた。名乗りを上げて走りこんで行ったが、これまた数瞬の後には血だらけになって這い出して来て気を失った。右の高股を骨まで斬られていた。
ほどなく、家中の士分の連中が続々と駆けつけて来た。当時のことばで、こういうのを「家《や》ごもりもの」というのだが、こんなものや喧嘩の場合、当時の武士は聞くや否や駆けつけたものという。加賀藩の寛永末年のことを記したものの中に、ある老人が、
「この前家中に喧嘩さわぎがあった時、駆けつけて来た人々の様子を見ると、皆袴をはき、中には鎖《くさり》まで着て、身支度厳重にしている者があった。昔はこんな時には、大抵着流しで、中には草履と木履を片々にはいた人もいたものだ。近頃の人は身支度をととのえてから来るらしい。それだけ、武士の気性がなまくらになったのだ」
と嘆いたという記述がある。この時代の武士のはげしさがよくわかるのである。
武士達は駆けつけるや否や、屋内に飛びこんだが、すぐことごとく斬られて敗退して来た。家ごもりものはすっぱだかになり、つかまえられてもすべり抜けられるように全身に油をぬり、数本の刀をさやをはらってつづらの上にならべて入口に待ちかまえていてはたと斬り、刀に脂がまわって切味が鈍ればとりかえ引きかえ斬りつけるのだという。すでに女は殺してしまったようであるともいう。逃れられないところと覚悟して、出来るだけ勇敢に抵抗して死ぬつもりになっているものと思われた。
このようにあまりにも手ごわいので、あとは飛びこんで行く者もなく時間が経ち、ついに日が暮れた。人々は家の周囲にかがり火を焚いて、逃走を警戒した。
その日、久兵衛は主家の用事で大阪に行って、夜に入ってかえって来たが、家ごもりものがあると聞くと、旅装のまま馬を飛ばして駆けつけた。
「どうした、まだ生きているのか」
「へい」
久兵衛は松明《たいまつ》をとって家の周囲を二回まわって入るべき場所をさがしたが、入口以外にはないことを知ると、片手に松明、片手に刀をふりかざして飛びこんだ。忽ち前面から風のように飛んで来た者があった、久兵衛は顔を斬られたが、一歩も退かない。松明を投げつけざまに踏みこんで斬った。手ごたえがあって、相手はたじたじとさがる。たたみかけて踏みこんでまた斬り、ついに斬り伏せた。
こうしてともかくも首尾よくしとめたし、不義の妻はすでに死んでいたので、池田家の足軽は満足し、傷養生をして本復の後、岐阜にかえって行ったが、久兵衛がこの時受けた顔の傷は相当深いものであった。なおって後も左の頬から上唇にかけて深い傷あとになり、生まれもつかない兎唇《みつくち》となった。
この傷には後日談がある。秀次の供をして秀吉に拝謁した時、秀吉は傷の由来を聞いて、
「ハハ、そうか。そなたはそなたほどの剛の者に似ず、面が生ぬるかったが、それでよい男ぶりになったわ」
と笑って、千石の加増をしたという。
秀次の身代がふとると共に久兵衛の身代もふとり、二三年の後には江州甲賀郡八幡山城主(これは藩翰譜の記述。しかし、甲賀郡にはこの地名はない。蒲生郡の八幡であろう。ここは豊臣秀次の城であった。久兵衛が城代として守っていたのが誤伝されたのであろうか)となって三万石を領する身分となり、従五位下兵部少輔に叙せられた。以後、彼は親しい人々からは田兵《たひよう》と呼ばれる。
さらに数年の後、小田原落城の直後、三河の岡崎と西尾両城の主となり、六万石を領した。この時、久兵衛四十三。
やはりこの頃のことであろう。宮川宮蔵は宮川土佐と名のるようになり、家老たること以前のごとく、身代は五千石となる。この宮川の紋が面白い。主人と共に貧しかった時、臼で米を精《しら》げてばかりいた頃の苦労を忘れないためと言って、臼と杵とを紋にしていたというのだ。
久兵衛は百姓の出に似ず勇猛果敢な人物ではあったが、大名となり、田兵と呼ばれるようになった頃から、保身の術にたけたぬけ目のない人物になったようだ。朝鮮の役のはじまる少し前、秀次は秀吉の養子となり、つづいて関白となったのであるが、秀吉に秀頼という実子が出来、秀次に対する秀吉の愛の衰えが目立って来ると、久兵衛はつとめて外まわりの仕事をして秀次の前に出る機会を少くし、同時に秀吉に接触する機会を多くするようにつとめた。
この保身術は見事に成功した。秀次は関白となって四年目には秀吉の怒りに触れて切腹させられた。秀吉の怒りは当時の人誰もが驚いたほど猛烈で、秀次の妻妾三十余人皆殺され、遺臣も主立った者は皆誅殺されたのであるが、久兵衛にだけは何のとがめもなかったのである。
関ケ原の戦いのはじまったのは、これから五年の後だ。久兵衛はかねてから石田三成にとり入り、ずいぶん親しくしていたのであるが、東軍に味方して戦った。
久兵衛のこの時の戦いは、相当にめざましいものであった。
彼は先ず緒戦の合渡《ごうど》川の渡河戦で先陣の功を立てた。「石田軍記」によると、こうある。
この時、合渡には敵の石田、宇喜多、島津、織田の諸軍勢数万が犇《ひし》とつめかけていた。東軍の黒田、藤堂、田中、戸川らは川の東岸におしかけてはみたものの、朝霧深くこめて敵勢のほどもわからず、川の浅深もわからないので、渡河にためらって、火戦ばかりで時をうつした。
久兵衛は、この有様を見て、家臣野村某を召してささやいた。
「どんな大河にも浅瀬は必ずあるものだ。このあたりの郷民共に金子を取らせて味方させ、浅瀬の案内をさせよ」
「かしこまりました」
野村は加賀島という村里に行ってみたが、村人らはすべて避難して、村は空になっている。あちらこちらと駆けまわっているうちに、「梅ケ寺」という寺があったので、入ってみると、坊さんが一人いた。相談をかけて金をあたえると、承知してくれた。案内させて浅瀬を知った後、郎党を久兵衛の許に走らせた。
「でかした!」
久兵衛は手勢をひきいて加賀島村へ向い、野村と落ち合って、浅瀬を渡したという。
これが、「関ケ原軍記大成」になると、もっと勇ましいことになる。
東軍の先鋒部隊が合渡川の線に到着した時、西軍は濃霧のために知らなかった。先鋒部隊は本隊の到着を待つために堤に腰をおろして兵糧を使っていた。久兵衛は諸軍にも手勢にも先き立って、馬まわりの者十八騎をひきいて先鋒につづいて川に到着し、
「いくさは敵の不意を討つをよしとする。敵の知らざるこそ幸いなれ。いざ渡らん」
と、勇み立った。
家臣宮川土佐(かつての宮蔵)は、かたくこれを諫めた。
「向うに待ちかまえている敵は数万に及ぶとの物見の者の報告であります。この小勢を以てあたり給わんこと、危のうござる。同勢の到着を待ってのことに遊ばしますよう」
老臣の言うことなので、無下にもしりぞけかねて、しばらく猶予しているうちに二三騎追いついて、二十一騎となった。
久兵衛は、自分の馬の口を取っている下人三郎右衛門という者にきいた。
「汝《われ》は水練は功者か」
「ずいぶん功者でござります」
「さらば汝瀬踏みせい」
三郎右衛門は首をふった。
「尋常の川ならなんでもなく歩行《かち》わたりもいたしますが、このような大きな川は案内知らぬ者には瀬ぶみなど出来るものではありませぬ」
久兵衛は腹を立て、刀のつかに手をかけてどなりつけた。
「川の瀬ぶみなどということは、その方共下人には最も相応したことじゃ。ぜひ渡れ。四の五の申すにおいては、斬って捨ててくれるぞ!」
すると、三郎右衛門はおどろいた色もなく、
「わたり損じては見苦しくもあり、味方の弱りにもなることと存じて一応のことわりを申したまでのこと。さほどまで仰せられる上は、心易うござる!」
と、言いもあえず、飛び入って瀬をさぐりはじめた。そのあとについて、久兵衛ともに二十二騎、馬の鼻をならべて駆けわたしたというのだ。
おそろしく勇ましい話になっているが、こう記述しながら、久兵衛はこの以前このへんの郷民十七八人に金子をあたえて川の浅瀬にしるしの竹をたてさせておいたので、三郎右衛門はその竹をたどって先導したのだとある。前後矛盾している。第一、戦場になることがわかっている場所で十七八人も郷民をもとめ得たというのからしていぶかしいことだ。「石田軍記」の記述の方が自然なようである。が、いずれにしても、先陣したのは久兵衛の部隊であったのである。
この後、久兵衛は岐阜城攻めにも参加したし、大会戦の日には黒田勢と共に西軍の中心部隊である石田勢と熱戦したし、戦い果てては石田の本城佐和山城攻めにも参加したし、それぞれに功があったが、最後に石田三成をその手勢で捕えるという大手柄を立てた。
石田は大会戦に敗れた後、山中に逃げこんで逃げまわっている間に痢病に犯され、農家に潜伏していたが、久兵衛が当国生まれで土地の事情にくわしいというので特に家康の命を受けて探索につとめていると聞くと、とてものがれられぬ所と覚悟して、宿主に命じて訴人させた。
久兵衛の探索はずいぶん行きとどいたもので、
「治部少は身だしなみよい男じゃ故、特に路に散らばっている鼻紙に気をつけい。香《こう》をしめた鼻紙があったら、治部少のものにちがいないぞ」
と、士卒に下知したという。
宿主の訴えを受けて、久兵衛は大いに喜び、心きいた家臣らをつかわして陣所に迎え、手厚い治療を加えて、大津の家康の本陣へ送った。
この間における三成の久兵衛に対する態度が、昔威勢のよかった時と少しもかわらず、
「田兵、田兵」
と久兵衛を呼びすてにしたので、人々は三成の豪邁《ごうまい》さに感心したという。
また、これに対する久兵衛の態度が昔通りに実にうやうやしく、鄭重懇切をきわめたので、これまたその誠実に、時の人が感じ入ったという。
これらの功によって、戦後の行賞で、久兵衛は筑後一国三十二万五千石の太守として、柳川、久留米両城の主となり、従四位下筑後守侍従に叙せられた。
「寛政重修諸家譜」には、久兵衛には、吉次、吉信、吉興、忠政と四人の子があり、長男吉次は父と不和で家を出て京都南禅寺に閑居し、元和三年に死んだとある。(「藩翰譜」には長顕という名になっていて、都に上り飢寒だに堪えずして空しくなるとある)次男吉信は通称主膳、家臣となり、三男吉興は関ケ原陣直後に徳川家へ召し出されて二万石を賜わって別に家を立て、家を嗣いだのは四男忠政で、元和六年に年三十六で死んだが、嗣子がなかったので絶家となったとある。
「旧柳川藩志料」によると、忠政は奢りものの浪費家であったので、大坂の陣の時費用がなくて出陣が出来なかったので、徳川家の怒りにふれ、家をとりつぶされたとある。
「藩翰譜」にも、冬の陣には参加したが夏の陣には、「軍終って後に参る。元和六年八月七日に卒して、子なければ家絶えぬ」とある。
夏の陣に出陣しなかったことは確かに徳川家のきげんをそこねたには相違ないが、五年以上も処分されていないところを見ると、これは絶家の原因ではあるまい。この時代は武家諸法度が発布されて間がなく、厳格に法規通りに励行され、嗣子のない家は譜代外様を問わずびしびしと取り潰されている。特に徳川家のきげんを損じていなくても、嗣子のない以上とりつぶされたはずである。
「山鹿語類」には、主膳吉信のことについて、こんな話を伝えている。
筑後の太守となると、久兵衛は柳川をおのれの居城とし、主膳をして久留米城を守らせた。主膳は勇猛剛強一点ばりの男で、平生の差料にしている刀が三尺四寸もあり、近習百人を選んで皆三尺の長刀を帯びさせていた。ある時、鷹狩に出かけたが、鷹野で一人の下人がきげんにふれた。主膳が抜き打ちに斬りすてようとすると、引きはずして逃げた。
「不埒者! 逃げるとはなにごと!」
追いかけたが、下人はふりかえりもしない。近くの百姓家に逃げこみ、さらに物置の隅に身をすくめながらも、刀をぬきはなって抵抗の気勢を見せている。
「無礼者め! 手向うとは!」
激怒して、すえものを斬るように斬りつけたが、三尺四寸という長さだ。したたかに屋根裏の|たるき《ヽヽヽ》に切りこんだ。
一層激怒してもぎはなそうとした時、下人はおどり出して来て斬りつけ、主膳の高股を斬りわった。
「不都合な!」
火のようになった主膳は、下人を素手で引っとらえ、小屋の外に引きずり出し、めった斬りに斬って斬り殺した後、塩をとりよせ、自分の高股の傷に、
「ここは肉の多いところじゃ。腐らんようにこうする」
といって、すりこんだという。
また、時々、家臣多数を引きつれて柳川の城外におしよせて行き、空鉄砲を一斉射撃して、父をおどろかせては楽しみにしたという。功成り名遂げて、現在の幸福の境涯を失うまいと小心翼々としている父の生活態度を揶揄したのであろう。
このように手荒いことばかりしていたが、ある時また下人を手討にすると、下人が斬られてたおれながら横にはらった刀に|ふくらはぎ《ヽヽヽヽヽ》を斬られた。
治療して、あらかた傷口はふさがったが、痛みがいつまでもなくならないので、かんしゃくをおこした。
「これしきの傷がこんなに痛むことはないはず」
と立上って、エイヤエイヤと力足をふんだところ、傷口がパッとはじけて血が奔出してとまらず、ついにそのために死んだという。「藩翰譜」には、やはりこの主膳のことを「創業記を考うるに、慶長十年正月二十日の頃、兵部少輔長政の子主膳二十歳なり。近く召使う小童を斬らんとして、それがために斬られて死す。この人心荒々しくして、人を斬ることを好み、すでに五十三人まで斬りしと記せり」とある。
田中家が末子の忠政によって相続されたのは、この主膳吉信が早く暴死したからであろう。あるいは、忠政は幼時から人質となって江戸に行っていて、兄弟中誰よりも先きに家康と秀忠のお目見えに入っているから、
「両御所様御存知の者」
というので、主膳をさしおいて嫡子とされたのかとも思われる。最もありそうなこととぼくには思われる。であるなら、主膳の暴悪はこれを怒っての反抗であったかも知れない。
久兵衛は慶長十四年二月十八日、江戸参覲の途中、伏見で病死した。行年六十二であった。忠政が江戸で死んで田中家が絶えたのは、これから十一年目である。
[#改ページ]
[#見出し]  チェスト関ケ原
薩摩《さつま》の武士道を説くにあたって、まずあげなければならないのは、新納武蔵守忠元《にいろむさしのかみただもと》である。忠元は島津の疎族に生まれて、島津義久、義弘、家久三代につかえて、土豪《どごう》中のやや有力なものにすぎなかった島津家を、一時は九州一円を切りなびけるほどの大島津氏にしたてあげた功臣であるが、文武兼備の武士として、長く薩摩武士の理想となった人である。
彼の豪勇と忠誠については、こういう話が伝わっている。豊臣秀吉が九州を征伐した時、秀吉は先ずいくども勧降使《かんこうし》をおくったが、世間知らずの薩摩人等はてんで相手にしない。
「土百姓の小せがれだというでないか。へろへろの上方《かみがた》武士を相手にしたればこそ、あれほどになったが、薩摩鍛冶《さつまかじ》のうった刀や鏃《やじり》はお歯にあうまいぞ」
といった調子で、主戦論の勢いはなはだ盛んだ。そのなかで、義久、義弘の弟である歳久と忠元だけが和議説をとなえた。中央の形勢にも通じていて、秀吉がいかにおそるべき人物であるかを知っているふたりだったのである。けれども、はやりきっている人々の耳には、それがはいらない。
「金吾様も武蔵殿も腰がぬけたそうな」
といい出した。ついに開戦となったが、専門棋士と素人棋客の手合せみたいなものだ。北九州まで出かけてやりあったのであるが、他愛もなくやぶられて、日向《ひゆうが》路と肥後路の両道から潮のごとく攻めくだる秀吉の軍に追われて、敗北に敗北を重ねて、本国に逃げこんで、降伏ということになった。
ここにいたって承知しないのは、歳久と忠元である。
「今にいたって降伏とはなにごとぞ! すでに戦いをはじめた以上、薩隅二州の人種《ひとだね》のつくるまでなぜ戦わぬ。武士の意気地をどこにすてた」
と頑《がん》として降伏を肯《がえん》じない。兵をひいて、各※[#二の字点、unicode303b]その居城にかえり、抗戦|一途《いちず》の覚悟をしめした。義久も義弘も弱りきって、百方|慰諭《いゆ》して、戦意だけは捨てさせたが、歳久は病いと称して、秀吉に謁《えつ》せず、忠元は、秀吉がその居城大口の近くを通過して帰洛《きらく》するにあたって、やっと拝謁にまかり出た。
英雄の心を攬《と》るに秀吉は天成の才がある。
「よくまいった。当座の引出ものとしてとらせる」
といって、うしろに立てた薙刀《なぎなた》の身の方を持ち、柄の方を忠元にむけてあたえた。荒胆《あらぎも》をひしごうという秀吉一流のやりかたである。忠元は平然としてこれを受けた。秀吉は、
「そちは最後までわしにはむかおうとした者じゃが、かくなっても戦う勇気があるか」
と問いかけた。すると、忠元はにこりとわらって、
「主人義久思い立ちましょうなら、今日唯今からなりとも、唯今頂戴つかまつりました薙刀をふるって、御首頂戴つかまつりたく存じます」
とこたえた。秀吉は快《こころよ》げにわらって、あっぱれなる者、と賞して、島津を去ってわしが身うちになれば二十万石あてがおうが、その気はないかとさそいかけた。
「おなじくは、その領地、主人義久にたまわりましょうならありがたきしあわせ。拙者儀は薩摩を去ること思いもよらず」
虚々実々《きよきよじつじつ》、談笑につつみながらも魂と魂との火花の散るようなたたかいであった。
忠元、当時、七十余歳、鬚髯《しゆぜん》雪のごとくさんさんと胸に垂れていた。御酒《ごしゆ》くだされの時、秀吉のそばに細川幽斎が侍していたが、かねて忠元に歌道のたしなみがあると聞いていたので、口ずさんだ。
くちのあたりに鈴虫ぞなく
すると忠元は盃から顔をあげて、にことほほえんで、
上《うわ》ひげをちんちろりんとひねりあげ
と応じた。
満座、どっと湧いたという。
忠元の歌道の造詣は相当に深いものがあった。秀吉の朝鮮陣の時、義弘が出陣するに際して、彼がこれを送って詠じた「あぢきなや唐国《からくに》までもおくれじと思ひしことも昔なりけり」という歌は、戦時中愛国百人一首にとられている。
故山本元帥が、陣中万葉集をたずさえて兵馬こうそうの間にひもどいていたことは、日本武人の風懐《ふうかい》をかたるものであるが、忠元にもそれと同じことがある。
ある戦さの時、義久が陣中を見廻っていると、灯影《ほかげ》がもれて、まだ起きているらしい陣所がある。
義久は家臣をつかわしてこれを検分させたところ、それは忠元の陣所だった。
「なにをしていなさります」
「いや、いま、ほととぎすの声を聞いた故、急に古今集が見たくなって読んでいるところじゃ」
と余念もなげなていに見えたという。
朝鮮陣の時である。中堅となるべき壮年の男子が多数外征にしたがったので、薩摩の国には士風|頽廃《たいはい》の兆があった。忠元はこれをうれえて諸老臣と合議《ごうぎ》して二才衆《にせしゆう》(青年)をして、各部落毎に、「咄《はなし》」という組合をこしらえさした。二才衆が時々あつまって、いろいろな話をしながら武士道を練磨する一種の談話組合である。その規約綱領が、忠元手書のものと伝えられて、現在のこっているが、こういうのである。
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二才咄格式
一、第一武道(武士道の意)を嗜《たしな》むべきこと。
一、かねて、士の格式油断なく詮議《せんぎ》いたすべきこと。
一、万一、用事につき咄外の人に参会いたし候はば、用事すみしだい早速にまかりかへり、長座いたすまじきこと。
一、咄相手、何色によらず入魂《じつこん》に申しあはせ候儀、肝要たるべきこと。
一、朋輩中、無作法《ぶさほう》の過言互ひに申しかけず、もつぱら古風を守るべきこと。
一、咄相手、誰人にても他所にさしこし候節、その場において勘忍《かんにん》しがたき儀到来いたし候節は、幾度も相手ととくと詮議いたし、落度《おちど》これなきやう相働くべきこと。
一、第一は虚言など申さざる儀、士の本意に候条、もつぱらその旨を相守るべきこと。
一、忠孝の道、大形(おろそかに)これなきやう相心がくべく候。さりながらのがれがたき儀到来いたし候節は、その場おくれを取らざるやう相働くべきこと、武士の本意たるべきこと。
一、山坂の達者、心がくべきこと。
一、二才と申すは、落髪(おくれ毛)を剃り、大りは(さかやき)をとり候ことにてはこれなく候。諸事武辺を心がけ、心底忠孝の道に背かざること、第一二才と申す者にて候。この儀は咄外の人のたえて知らざることにて候こと。
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右の条々堅固に相守るべく、もしこの旨相背き候はば、二才といふべからず。軍神、摩利支天《まりしてん》南無八幡大菩薩、武運の冥加《みようが》、尽きはつべき儀、疑ひなきなり。
慶長元年正月[#地付き]二 才 頭
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実を言うとこれは贋物《にせもの》だ。先ず第一条にある「武道」という言葉は、慶長度にはない。これは元禄以後の言葉だ。第二に慶長元年には正月はない。文禄五年が十月二十七日に改元せられて慶長となるのだから。多分、この格式に権威づけるため武道の名をかりたのだろう。しかし「咄」が江戸初期にはすでにあったことは確実だ。それは他の色々な記録によって明らかだ。
武士道にかなった健兵をつくることが「咄」の目的だったわけである。十ヵ条のうち、三番目から五番目までの綱目は割拠《かつきよ》主義の鼓吹《こすい》のようであるが、これは「咄」相互の間に競争心をおこさせて効果をあげようという意図からなのだから、せんじつめると武士道の修練と健兵主義の鼓吹に帰着するのである。
この「咄」の訓育方針に新たな要素を加えたのは、関ケ原の戦争である。この戦によって、薩摩は一千五百の兵が生きてかえる者わずかに八十人というほどの大難戦を経験したために、薩摩人の痛恨は骨に徹した。関ケ原戦のあった九月十四日は薩摩の国恥《こくち》記念日となった。現在でも行われている妙円寺詣で――薩軍の主将として関ケ原に出陣した島津義弘入道維新を祀った妙円寺に、鹿児島の青少年が甲冑《かつちゆう》姿で参詣して当時を偲ぶ行事は、かなり後世になっておこったものだが、当時からすでに一種の行事《ぎようじ》が行われて、年々にそのうらみを新たにし、年々に徳川氏にたいする怨恨《えんこん》をとぎすまして行くことに努力したのである。
この頃のこととして、こういう話がつたわっている。出水《いすみ》の郷士、中馬大蔵《ちゆうまんおおくら》は武勇絶倫の武士で、関ケ原の実戦者であるというので、実歴談を聞こうと相談して、城下の二才衆が、麻上下《あさがみしも》姿で二十余里の道を出かけた。
「よろしい物語って進ぜよう」
大蔵当時八十余歳、二才衆を座敷に通し、自らも麻上下姿となって、床の間を背に端座《たんざ》して、
「さて、関ケ原と申すは」
といったかと思うと、ただほろほろと泣くのみで、なんとしてもあとをつづけることができない。二才衆も感涙にくれて、黙々として頭を垂れているのみであった、というのである。
「チェスト関ケ原」
というかけ声が、薩摩にはある。関ケ原の戦争に関係なき場合でも、意気が昂揚《こうよう》し、または昂揚させなければならない切所《せつしよ》にさいしては、薩摩人はこのかけ声を絶叫して奮躍《ふんやく》事にあたるのである。
地下の潜熱のごとく、神殿の聖火のごとく、薩南の一隅にうけつぎ、燃えつづけてきたこの怨恨が、どうして徒爾《とじ》におわろう。星霜二百幾十年の後、徳川氏を打倒した中心勢力が薩摩であったことは、決して偶然《ぐうぜん》ではないのである。
「咄」の制度は、幾変遷して、徳川中期頃から、「郷中《ごうちゆう》」の制度とかわった。しかし、組織も、規則も、精神も変るところはない。ただ、「咄」の時代には、二才衆だけであったが、「郷中」となっては、稚児《ちご》衆(少年)もそのなかにはいることになった。郷中においては、読書や武術の練習はもちろんのこと、遊戯まで――つまり、あらゆる日常の生活が武士道の修養と健兵たるの練磨とにささげられた。
この訓育機関には、青少年等の家庭でも全幅的に協力した。今でもそうだが、薩摩では、洗濯盥《せんたくだらい》でも物ほし竿でも、男用のものと女用のものとが区別してある。入浴でも、男がすんで、それから女がはいる。主人、長男、次男、三男、下男、それから、主婦、娘、下女という順序になるのだ。また、男の子供の寝ている枕許《まくらもと》は、たとえ母親たりとも通ることをしない。はなはだしい男尊女卑であるが、男は戦場に出て、その首は敵将の見参《けんざん》にもいるべき尊いものであるから、婦人のけがれを受けさせては武運がけがれるという信仰からである。
九代将軍家重の宝暦四年に、薩摩がさらに徳川家にたいする怨恨《えんこん》を新たにする事件がおこった。木曾川の治水工事である。惨澹《さんたん》たるこの工事によって、任にあたった薩摩武士にして、病死したり、幕吏の無礼酷虐に痛憤して切腹した者(当時の記録では腰のもので怪我したとある)が無数にあり、費用は予定の三倍をこえ、進んで工事奉行の任にあたった家老平田|靱負《ゆきえ》は、工事完成とともに自殺してその責任をとった。堂々七十余万石、実際の琉球王《りゆうきゆうおう》たる薩摩は貧乏になり、藩公の重年は心痛のあまりに翌年には死んだ。関ケ原の怨恨は、新しい火を得て燃え立った。
「今に見ろ! 今に見ろ!」
隼人《はやと》等はみな切歯《せつし》して、江戸の空をにらんだ。
ところが、重年の次に立った重豪《しげひで》という殿様は、おそろしく英邁《えいまい》な人だったが、こうした文化爛熟期に名君の素質《そしつ》をもって生まれた人は不幸である。鉄壁のごとく堅固な社会の組織は、有為《ゆうい》な才を持っていればいるほど、その人をいらだたせる。その人は、かんしゃくもちとなり、我儘となり、ぜいたくとなり、幕吏をいびり立てて家来をはらはらさせたりするくらいのことでわずかに鬱《うつ》を散ずるようになるのである。こういう時代には、こういう型の名君が多い。尾張の徳川宗春、下っては備前の池田|治政《はるまさ》、雲州《うんしゆう》の松平南海、同|不昧《ふまい》、みなそれである。土佐の山内容堂などはこの型の最後の人である。薩摩の重豪もまたそれであった。将軍|家斉《いえなり》に娘をくれて岳父になったはよいが、
「江戸の聟にまけてたまるか」
とばかりに大へんなぜいたくをした。徳川十五代の将軍のなかで、最もぜいたくだったという家斉と競争したのである。
こういう人だったので、薩摩の、いわゆるお国風《くにふう》というのが気にいらない。固陋《ころう》で、時代に適せんと思って、極端なる積極策、開化策をとった。
古来、薩摩の国は他国人をいれない国として有名であったが、その禁を撤廃した。色町もないところだったが、これも開くことをゆるした。藩士にたいしては、薩摩語をつかってはならない、無骨な服装をしてはならない、少々のお洒落《しやれ》はたしなみというものだといいわたした。
質実剛健《しつじつごうけん》、ひたすらに尚武的に尚武的にと養成されてきた薩摩武士にとっては、この開化策は大へんな混乱をまきおこした。おとなしく訓令にしたがって日に日ににやけて行く者、「かような暴令《ぼうれい》にしたがうことは真っ平」と、反抗的に出る者、薩摩武士道史上、空前絶後の混乱時代だった。
頼山陽は、この頃、西遊《さいゆう》して薩摩に来たのであるが、前兵児謡《ぜんへこのうた》を作って薩摩の古風を讃美し、後兵児謡をつくって、その改革を皮肉った。
衣ハ骭《かん》ニ至リ 袖腕ニ至ル
腰間ノ秋水 鉄ヲモ断ツベシ
人触ルレバ人ヲ斬リ 馬触ルレバ馬ヲ斬ル
十八交ヲ結ブ健児ノ社
北客 能《よ》ク来ラバ何ヲ以テカ酬《むく》ヒン
弾丸硝薬 コレ膳羞《ぜんしゆう》
客モシ|属※[#「厭/食」、unicode995c]《しよくえん》セズンバ
好《よ》シ、宝刀ヲ以テ渠《かれ》ガ頭ニ加ヘン
蕉衫《しようさん》 雪ノ如ク 塵ヲトドメズ
長袖緩帯 都人ヲ学ブ
怪シミ来ル 健児語音ノ好キヲ
一タビ南音ヲ操レバ官長|瞋《いか》ル
蜂黄落チ 蝶夢|褪《き》メタリ
倡優《しようゆう》巧ミニシテ 鉄剣鈍シ
馬ヲ以テ妾ニカヘテ、髀《ひ》肉ヲ生ズ
眉斧《びふ》 解剖ス 壮士ノ腹
さすがに山陽外史の詞華《しか》である。風俗変遷のすがた、髣髴《ほうふつ》たるものがある。「官長瞋ル」と山陽はいっているが、実際だった。徳田|※[#「巛/口/巴」、unicode9095]興《ゆうこう》、久保平内左衛門などという人々は、固有の醇風《じゆんぷう》美俗を破壊するものとして、猛烈にこの改革に反対論をとなえたので、藩の怒りにふれ、流罪に処せられている。
この混乱にかてて加えて、財政上の危機がせまってきた。重豪のぜいたくは、家斉将軍のように純粋消費ではなかった。殖産興業《しよくさんこうぎよう》の土台として、科学方面――東洋科学はもとよりのこと、新しくはいってきた西洋科学の研究に投じた費用も多かったのであるが、それにしても、急に金になることではない。木曾川工事でいいかげん疲弊《ひへい》していた財政は、ほとんど破産に瀕した。
そこで、重豪は隠居して、子の斉宣《なりのぶ》が立って、秩父太郎を登庸《とうよう》して、藩政改革にかかった。秩父太郎は剛直《ごうちよく》の士である。重豪の時代、目附役《めつけやく》だったが、ある時大目附新納内蔵介が、郡奉行《こおりぶぎよう》や目附をよんで、
「在方《ざいかた》の百姓共の貧富の模様を見てまいるようとの御意であれば、さっそくにそれぞれの在方をまわり、何日までに報告いたすよう」
と命じた。皆、かしこまりましたとこたえたが、太郎ひとりがかしこまらない。
「とくにまいるまでのことはござらぬ。百姓共皆貧乏でござる」
という。内蔵介は怒って、
「わしは殿様の御命令をそのままお伝えしているのだ。それをきかぬというのか」
と叱りつけたが、太郎は屈しない。
「御命令をきかぬとは申しませぬ。拙者《せつしや》は目附でござる故、拙者の承知していることを申しあげたまででござる」
さすがの内蔵介も口がきけずにいると、同役の島津久兼がきのどくになって助け舟に出て、
「そちは郡奉行でもないくせに、どうしてそのようなことを知っているのだ。ふしぎなこともあるの」
と皮肉まじりにいうと、太郎はにらむような眼で見て、声をはげまして抗言《こうげん》した。
「御領内はおとりたて年々にきびしく、百姓共はもう餓死《がし》をせんばかりでござる。これはもう三尺の童子等もよく知っているところ、郡奉行の調査をまつまでもござらぬ」
これが、重豪の怒りにふれて、ひっそくを命ぜられること五年に及んだ。こういう男なので、たくわえなぞない。刺すような貧苦がせまってきたが、太郎は少しも閉口しない。屋敷内の空地を全部畑にして一生懸命にたがやして、野菜をつくり、麦をつくり、それを売って生活を立てていた、という男である。
登庸せらるるや、風俗的には古風にかえすことに努力し、財政的には緊縮《きんしゆく》政策をとった。つまり、全面的に重豪の政策をひっくりかえして、毫も仮借しなかったわけである。
我儘一杯の重豪である。嚇怒《かくど》した。隠居の身でありながら乗り出して来て、太郎には腹を切らせ、斉宣には隠居を命じ、斉宣の子の斉興《なりおき》を島津の当主として、自らその後見役《こうけんやく》となったが、なんとしても財政にはこまる。
ある時、重豪は金二分入用なことがあって、江戸の上中下の三屋敷中をたずねたが、どこにもなかったので、さすがの重豪も、
「わしは、今はもう、のたれ死にせんばかりの身となった」
と嘆じたという。
この財政の立て直しに登庸されたのが、調所笑左衛門《じゆしよしようざえもん》である。茶坊主の出身であったが、財政家としてはすばらしい手腕家で、緊縮策と積極策をたくみにないあわせて、重豪の機嫌《きげん》を損じないようにしながら藩政をとること三十年、みごとに財政を立て直したのみならず、五十万両のたくわえまで打ち出した。
歴史の変遷《へんせん》ほどおもしろいものはない。
重豪の乱暴至極な開化主義は都会的軽浮な風俗を薩摩にもたらしたと同時に、清新|溌剌《はつらつ》の世界的気運もまた輸入して、勤皇思想、国家統一の思想の受け入れらるべき素地をつくった。
また、調所笑左衛門のこしらえた五十万両のたくわえは、斉興の子|斉彬《なりあきら》、久光、その子忠義の時代に、勤皇討幕の費用となったのである。
この種子は誰がまいたか? 徳川氏自身がまいたのである。
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[#見出し]  仙女伝
「大橋|玄蕃《げんば》をお召しかかえになるとよ」
「やあ、木村常陸介が家中であった大橋玄蕃か」
「そうじゃ」
「聞こえた勇士じゃ。とうとうお家に来ることになったか。いかほどおくれになるのじゃろう」
「三千石と聞いた」
「三千石? いかさまのう。三千石のねうちはずんとある玄蕃じゃ」
慶長四年の初冬のこと、尾州清洲の領主福島正則の侍屋敷での会話であった。この前年、秀吉が死んで、外戦が中止になって福島正則は朝鮮から引き上げて来たが、今年七月、伊予|今治《いまはる》からこの清洲に国|替《が》えになった。今治では十万石の身代であったが、清洲では一躍二十万石となった。二倍の身代になったのだ。軍役《ぐんやく》の上からも家来の数をふやす必要があったし、いい家来が多数いて一旦緩急ある場合手柄をはげんでくれれば、福島家の身代も太るわけだし、正則は武名ある武士には禄をおしまず召しかかえていたのであるが、大橋玄蕃を召しかかえたと聞いて、家中一同どよめいた。
それほど玄蕃の武勇の名は高かったのである。一番乗り、一番槍等の個人的武勇の卓越していることは言うまでもなく、軍勢の使いようの巧みなことは名人とまで言われていたのだ。
玄蕃の前の主人は関白豊臣秀次の老臣木村常陸介|重※[#「玄+玄」、unicode7386]《しげとし》であった。数年前、秀吉の怒りに触れて秀次が自殺を命ぜられた時、常陸介も死を命ぜられ、木村家が断絶したので、浪人の身となっていた。玄蕃ほどの武士だから、召しかかえようという大名が多数あったが、彼はどこの招きにも応じないで来た。それを口説きおとしたのだから、正則は得意であったし、家中の武士らも大喜びであった。
「お家繁昌のきざしだて」
と、人々は首を長くして、玄蕃の来着を待った。ところが、どうしたものか、なかなか来ない。
「どうしたのかのう。病気でもしていなさるのではなかろうか」
と、皆不審がったり、心配したりした。
すると、二ヵ月ほども立って、おしつまった年の暮、やっと来た。
まことに変った現れ方であった。
玄蕃は大男である。身の丈六尺をこえる。筋骨たくましく、造りそこねた仁王のようだ。容貌まことに魁偉だ。藪のように濃い眉の下に鷹のように鋭い目が光り、鼻高く、口大きく、顔の下半分は濃い無精ひげがギッシリと生えている。当時、年は三十二三であった。
その玄蕃が、木綿|布子《ぬのこ》に膝の出るくらい短い袴、素足に足半《あしなか》草履をはき、背に具足|櫃《ひつ》を負い、太く長い両刀を帯び、九尺柄のにぎり太な青貝《あおがい》ずりの槍を杖づいたきりで、他には何の荷物もなく、供人もなく、ただ一人、清洲城の大手《おおて》の門にあらわれ、ものめずらしげに城の様子をながめていたのだ。
おそろしく大きな、おそろしく強そうな、けどまたおそろしく貧しげな男なので、門番らはあっけに取られていたが、あまりにも不敵で人もなげな態度だったので、腹を立ててバラバラと駆け出してどなりつけた。
「何やつなれば、恐れげもなくお城を眺めているぞ!」
「やあ」
玄蕃は無精ひげの中の血色のよい唇をニコリとほころばして、自分の名を言って、
「唯今到着いたした。殿へおとりつぎ願いたい」
と言った。
門番はおどろきあわてた。
「大橋……玄蕃……殿? こなた様が?」
「さよう、大橋玄蕃だ」
「大橋殿は三千石というお知行で……?」
「ああ、三千石いただく約束になっている」
三千石といえば、福島家では屈指の高禄者だ。門番らは信じかねる風であったが、互いに顔を見合わせると、
「しばらくお待ち下さい」
と言って、門内に駆けこみ、門番|頭《がしら》にこの旨を告げた。
門番頭も駆け出して来る。二つ三つ問答して、たしかに本人であることがわかったので、大さわぎになった。
ざっとこんな風で玄蕃は清洲にあらわれたのであるが、それからの生活ぶりも至って変っていた。
身分が身分だから、屋敷も立派なのをもらったし、家来共も相当召しかかえた。武士にはその知行高に応じて軍役というものがある。いざ戦さという時には規定数だけの家来を連れて出なければならないのだ。三千石なら、士分の者(将校)と下人合して数十人を連れて出る定めになっている。だから、玄蕃も多数の家来共を召しかかえたわけだが、生活ぶりは簡素――単に簡素といっただけでは足りない。簡素を通りこして殺風景をきわめたものであった。
先ず女気が全然ない。炊事も、掃除も、洗濯も、みんな下人共がやる。縫物は外に出した。そして、主人公たる玄蕃は何をしているかと思えば、公務の余暇には酒ばかりのんでいる。家の経済のことなど、まるで関心がない。人に借金を申しこまれれば、金のあるかぎりことわったことがない。返金されずとも、さいそくなどはさらにしない。いくらあったって、こんな風では足りるはずがない。時々好きな酒を買うことも出来なくなったが、そんな時には無理に飲もうとあせらない。何日でも飲まないですませた。
妻をめとるように、正則もすすめたし、朋輩の老臣らもすすめたが、いつも、
「今日あって明日《あす》ないのが武士の常でござる。女房になる者がふびんでござる」
と、笑ってことわった。
清洲に来て半年ほども立った夏のある日のことである。
玄蕃の家に遊びに来た家中の武士の一人が、酒をのみながらこんな話をした。
「この頃、木曾の山奥から婢女《はしため》奉公をのぞんで出て来た女がござる。年は二十七八ということでござるが、まことに無器量者でござるによって、どこの家でも雇うてくれませぬ。それで、近頃では在郷《ざいごう》の百姓家を、あるいは一日、あるいは二日三日と、働かせてもらいながらまわり歩いていますとか。無器量者ながら、働きはなかなかで、りっぱに男の三人分四人分はいたします由」
「おぬし、そいつを見られたのか」
「見ました。大女でござる。筋骨あくまでもたくましく、先ず身のたけ五尺七八寸もござろうか。あれほどの大女は見たことがござらぬ」
「ほう、それはまた見事なものだな。女で五尺七八寸もあるとは」
相手は苦笑した。
「見事というのでござろうかな。しかし、その先きを聞いていただきましょう。髪赤くしてちぢれ、色あくまでも黒く、顔相《がんそう》荒れて、そうさな、不動明王のごとしとでもいいましょうか。男ならばあっぱれ勇士の相貌とも申せようが、女でござるでな。ハハ、ハハ、ハハ」
「なるほど、女の不動明王はいかんな」
と、玄蕃も笑った。
その時はそれですんだが、その客がかえってしばらくの後、玄蕃はなおひとりで盃を上げていたが、急に下人|頭《がしら》を呼んだ。
「汝《われ》は先刻おれがなにがし殿と話していたことを聞いていたな」
「うけたまわっておりました」
「しからばよくわかっているはず。あの話の女を連れて来るよう」
「どうなさるのでございます」
「おれが屋敷で雇おう。男ばかりで殺風景でならぬ。それに、あの話のような女なら、若い男共が多勢いても、風儀の点は大丈夫であろうでな」
下人頭は笑い出した。
「殿様もお物好きなことを仰せられます。てまえもその女なら二三度見たことがございますが、あれは人間ではござりませぬ。鬼でござります。あの女なら、なるほど、風儀の悪うなる気づかいはさらにござりませぬが、一層殺風景になるにきまっております。あれはおやめになるがよろしゅうございます。女手が御入用なら、てまえが恰好なのをさがしてまいります。人並みな顔で心の堅い女はいくらもおります」
玄蕃はきかない。
「ともかくも連れてまいれ。不動明王に似ている女など、めったにあるものでない。おれはぜひとも見たい」
しかたがない。
「さようでございますか。それでは連れてまいります」
下人頭は出て行った。
間もなく玄蕃は酔が深くなって、肱《ひじ》を曲げて午睡に入ったが、二時間ほどの後、下人頭に起こされた。
「連れてまいりました」
長い夏の日がようやく西山に傾いている頃だ。夕日が庭にさしている。
「どれどれ、どこへ?」
「お台所口にひかえさせてござります」
「連れてまいれ」
下人頭は退って行ったが、すぐかえって来た。そのあとから、のそりのそりとついて来る者がある。下人頭よりはるかにたけが高い。話は十分に聞いていたことだが、はじめのうち、玄蕃はこれが当の女であろうとは気がつかなかった。男だとばかり思っていたが、ややあって、あっ! とおどろいた。
なるほど、これは奇怪至極なものであった。からだつきから顔形に至るまで、正身《しようしん》の不動明王だ。ノッシ、ノッシ、と歩いて来るところなど、男なら豪勇無双といった感じがある。
「先づ以て女とは言はれず、さてまた男にてはなしと見ゆるくらゐなり」
と、原典にあるから、大体の推察がつくであろう。
それでも、礼儀は一応心得ていて、庭に土下座してうずくまった。
(まことに奇妙な女もあればあるもの)
さすがに玄蕃もあきれて、しばらく無言で凝視していたが、やがて言った。
「そなた、大力そうだな」
「へーい」
女はへんじしたかと思うと、そのまま立ち上って、庭を走り出す。
「これ! どこへ行く?」
と、下人頭があわてて呼びとめると、
「殿様に力を見せて上げべいと思いますだ。ちょっくら待ってくんなさろ!」
と、言いすてて走り去ったが、すぐかえって来た。米俵を左右の手に一俵ずつ下げている。台所に積んであったものの中から持って来たのであろう。当時の米俵は三斗入りであるが、それを軽々とひっさげて、庭を数回まわって見せた。
「うむ、こりゃすごいの」
玄蕃は舌を巻いた。
すると、女はこんどはその米俵を拍子木を打つように、パッシパッシと打ち合わせて見せる。
なんともはやおどろいた力だ。
「わかりましただか」
という。顔一つ赤らめず、息一つはずんでいない。
「うむ、わかった。大したものだ。おどろいたぞよ」
「角力も取りますだ。うらが生れ在所では、うらに勝つ若い衆はいましなんだ」
「とってみせろ」
玄蕃は面白がった。
「そんだら、|まわし《ヽヽヽ》を貸してくんなさろ」
「それ、貸してやれ」
女は下人頭に連れられて一旦姿を消したが、再び現れて来た時には、まわしをしめていた。裸かになったところを見ると、筋骨隆々とは行かない。女らしいまるみとふくらみをもっている。ことに乳房がふくらんでいる。しかし、全身赤黒く日焼けして、ピカピカと光っているから、強壮そのものの感じだ。元気一ぱいに四股をふんでみせた。大きな乳房がブルルンブルルンとゆれる。
下人頭のさしずで、下人共も裸かになった。迷惑そうでもあり、面白がっているようでもあった。
角力がはじまった。角力に土俵が出来たのは、この時代から数十年後のこと、この時代は投げたおすか、蹴たおすかして勝負をきめたのだが、荒男どもがまるで女の敵ではなかった。
女は敏捷でもあれば、技《わざ》もたくみであった。近づくと見るや、下人共は一蹴りで蹴たおされてしまった。あるいはまわしのどこかに手がかかると、そのまま無造作に引きよせられてふり飛ばされてしまった。忽ち十四人が投げ飛ばされ、蹴たおされた。
「よしよし、もうよい」
玄蕃は勝負をやめさせた。
「名は何という?」
「おりゅうといいますだ」
「竜《たつ》か」
「いんえ、やなぎでござる由」
さすがに恥かしげであった。
「やなぎ?」
これはまたとほうもない柳もあったものだ。玄蕃はすっかり面白くなった。からからと笑って言った。
「いい名だ。いい名だ。当家に召しかかえて取らそうわい。なにも縁じゃて。ハハ、ハハ、ハハ……」
お柳はこうして玄蕃の家に雇われることになったが、からだは強健であり、仕事は出来るし、とりわけ実直な性質であったので、大いに玄蕃の気に入られ、家政全部を打ちまかせられるようになった。
玄蕃が福島家に仕えた翌年、関ケ原の戦争があり、功によって正則は安芸備後の両国四十九万八千石の大大名となって、広島に移った。このため、家臣らもそれぞれに加増されたが、玄蕃は特に大功があったために、二万石の身上《しんしよう》となり、備後|鞆《とも》の城代となった。
玄蕃は依然として妻帯はしなかったが、そうなると男ばかりの所帯ではおられないので、女中らも多数雇い入れた。しかし、家政は旧によってすべてお柳にまかせられていた。
お柳はかしこい女であった。木曾の奥山生れの山賤《やまがつ》の娘ではあったが、いつの間にか色々な修業をして、二万石の家政を処理してさらに手落ちがなかった。
それからさらに十九年、元和五年の六月、福島正則は無届けで居城広島城の修理をしたことを名目として、城地を没収されることになった。
その時、正則は江戸にいたので、国許に留守している家臣らのさわぎは一方でなかった。彼らは城受取りの上使らに向って、
「われらは主人正則の命によって留守している者でござる。公儀の仰せを直ちに奉ぜぬは恐れ多いことではござるが、主人の直書《じきしよ》なきかぎりは、お渡し申すことは出来申さぬ」
と言いはって城にこもり、一戦あえて辞せない覚悟を見せた。
これは広島本城のことであるが、鞆城でも中々のさわぎであった。
玄蕃の組下の番頭《ばんがしら》に秋田下総という者がいたがこれが中々名誉心の強い男で、自分が主将となって鞆城を守り、公儀の軍勢を相手に目ざましい合戦をして名を揚げようと計画し、玄蕃に、
「広島の本城を受取るための公儀の軍勢は十万におよぶ大軍とうけたまわる。されば、三原や東条らの支城《えだじろ》の面々も皆広島へ集まって、本城の面々と力を合わせて花々しき一戦をとげんとしておられる由、貴殿はお家の長臣のお一人でござれば、広島へまいられるがよろしくはござるまいか。人々の勇気づくこと格別と存ずる。この城はわれら必ず固く守りますれば、御念にはおよび申さぬ」
と説いた。
秋田の心中は、玄蕃には見通しだ。
「いや、いや、われらこの城は、殿よりおあずかりのものでござる。殿の御意なき以上、立ち去ること思いもよらず」
と答えて動かない。
そのうち、鞆城にも城受取りの軍勢が迫まって来るとの報が伝わると、秋田は血眼《ちまなこ》になって、籠城の準備をはじめた。
ところが、玄蕃は一向にさわがない。覚えの甲冑を取り出して側においたきり、城の大広間に坐って居眠りばかりしている。家中の大評定の場合もそうだ。昂奮しきった武士らが高談激論する時も同じだ。
人々は腹を立て、
「さてさて麒麟《きりん》も老いぬれば駑馬《どば》にもおとると申しますが、玄蕃殿ほどの大剛でも、あの年となれば、老いぼれて臆病にならしゃったらしいわ」
と、ののしった。
玄蕃は聞かないふりでいたが、ある者が直接めんと向って言うと、笑って答えた。
「下総殿は若うて元気故、籠城のしたくなさるのじゃが、わしはわしでまた分別があるでの」
「その分別とは?」
「天下の将軍家を敵としては、どんな名城に立てこもったとて、どんな手だてがあればとて、所詮利運をひらくことはないわ。籠城など無用のことよ。そんなことをして罪もない士卒を殺して罪つくりしようより、上使がござったら、わしは城を出て、これは大橋玄蕃と申す者でござる。城はおだやかに渡します故、われら一人だけの腹で、城中の士卒男女はのこらず助命なし下さいますよう≠ニ、嘆願した上で、腹切ってはてる所存。じゃから、籠城の用意はいらんのよ」
人々は深く感じて、さわぎは忽ちやんだ。
間もなく、広島の本城へも、鞆の城へも、正則の手書がとどき、子細なく開けわたすように言って来たので、両城とも無事に開城して、ことはすんだ。
鞆城のあけ渡しがすんですぐのことである。
玄蕃は自分の屋敷で男女の家臣共を集めて、
「その方共知っての次第で、おれは浪人になった故、その方共を扶持して行くこと出来ぬ身となった。されば、皆々立去ってくれい。当家にあり合うもの、屋敷つきのものはお公儀のものゆえそのままにおかねばならぬが、その他のものは何でもよい。皆持って行ってよいぞ」
と言って、居間に閉じこもった。
人々は名ごりをおしみながらも、こうなれば慾が出て、それぞれに手あたり次第のものを持って立ち去った。
一しきりのさわぎの後、玄蕃が居間を立ち出でてみると、屋敷内は空屋のようにがらんどうになっている。お柳と他に男の家来が三人のこっているばかりだ。玄蕃は四人に向って、笑いながら言った。
「二万石の身上こうなったわ」
すると、お柳が言った。
「殿様、御足労ながら、ちょいとお庭先までお出まし下さいませ」
「庭へ何の用じゃ」
「ほんのちょいとでございます。お手間は取らせません」
お柳は|はきもの《ヽヽヽヽ》を持って来て沓脱石《くつぬぎ》にそろえた。
「はて、厄介なことを申す」
なにか知らないが、庭に出ると、お柳は先きに立って、築山のほとりまで行き、そこにあった二抱えほどもある巨きな岩に抱きついて、
「エイヤ!」
と声を上げ、軽々とわきにころがした。
妙なことをすると見ている玄蕃に言う。
「ごらん下さいまし」
岩をのけたあとを指さした。そこには平たい石がおいてある。お柳はそれをのけた。すると、その下は穴ぐらのようになって奥深い。
「ほう?」
こちらがおどろいている間に、お柳は両手をさし入れると、次ぎ次ぎに大きな壺を二つとり出した。
ことの意外に、玄蕃はおどろいているばかりだ。
「お座敷におかえり願います」
玄蕃を座敷にかえらせておいて、一つずつ壺を運んで来た。それほど大きな壺とも思われないのに、さしも強力のお柳がいとも重げに持って来るのだ。
二つとも運びおえると、|ふた《ヽヽ》をはらってさかさまにした。おどろいたことに、ざらざらとそこに出て来たのは、板銀《ばんぎん》だ。二三千枚もあろうか。板銀というのは、秀吉が造って江戸時代の初期まで通用していた銀貨である。
さらにもう一つの方をさかさまにすると、小判が出て来た。これもおびただしい数量で、五六千枚もあろうか。金と銀の二つの山になって、見事な眺めであった。
玄蕃はもうものは言えない。目をみはっているだけであった。
お柳は言う。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清洲からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事をまかせていただいていますのを幸いに、殿様にかわりまして、御費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。されば、これは皆殿様のものでございます」
玄蕃は大いきをついた。
「はてさて、塵も積もれば山となるとはよう申したものだな。おびただしい金銀だ。おれはこの年になるまでこれほど沢山の金銀を見たことがないぞ」
と笑って、かたちを改めた。
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
しかし、お柳はとろうとしない。
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
押問答して決しない。
玄蕃はいきなり金銀の山をごちゃごちゃにかきまぜて一つの山にして、それから言った。
「見よ。こうして金銀を一つにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取って行くことにしようではないか。おれが先ず一つかみ取る、次にそちが一つかみ取る、次にまたおれが取る、次にそちが取る、という工合にしてじゃ。一つかみにいくらつかめるか知らんが、多くつかんだ方が得《とく》よ。しっかりつかめい。よいか、そら、一つかみ!」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、自分も小船にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠将軍の命で、紀州家へ召抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、またお柳を呼ぼうとしたが、その行くえはまるでわからなかった。
このお柳の話は少しおかしい。この話は岡谷繁実の「名将言行録」に出ているのであるが、玄蕃の収入全部をたくわえても、こんな大金にはならない。思うに「英《はなぶさ》草紙」や「繁野話」のような書に、中国の仙女伝か何かの話を、玄蕃に附会したものがあったのを、儒者的馬鹿正直で、実説と信じて、岡谷氏が採用したのであろう。
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[#見出し]  秘剣示現流
中里介山氏の「大菩薩峠」の中に、机龍之助と、人斬り新兵衛とあだ名をとった暗殺名人田中新兵衛とが、京都近くの街道筋で衝突《しようとつ》して、あわや血の雨を降らそうとするところに、新選組の隊士の一人で神伝鹿島流《しんでんかしまりゆう》の達人である、山崎|蒸《のぼる》が仲裁に入っておさまる場面がある。
龍之助はれいの音無しの構え、田中新兵衛は履いていた足駄をぬぎはなつや、二間ばかりも飛びのいて、三尺|無反《むそり》の剛刀を引きぬきざま上段にとって、「ヤァー」と大喝《だいかつ》する。そのへんの息づまる描写の巧みさは、さすがに介山氏の筆である。これが現代文学で示現流《じげんりゆう》がとりあつかわれた最初であろう。
次には、直木三十五氏が「南国太平記」であつかった。これは薩摩《さつま》のお家騒動を材料とした小説なので、立廻りの時には必ずといってよいくらい示現流が出てくる。
直木氏はこの小説を書くにあたって、わざわざ薩摩に行って、この剣法を実見して来ただけに、形《かたち》も意気も実によくこの剣法を活写していたが、介山居士は実見はしていないらしく、意気は別として、形は違ったものとなっていた。
示現流には、普通の剣法のように、上段、中段、下段等の構えはない。八相のかまえ一つである。しかも、その八相も、普通の剣法の八相のように、ゆるやかな構えではない。グンと腕を上げて、天に冲《ちゆう》せよと剣尖《けんせん》を高く上げ、そこから、裂帛の絶叫と共に左右交互に斬撃《ざんげき》して行く。常に袈裟がけに斬って行くわけだ。稽古の凄烈果敢さは、見ていて胸がゆらいでくるほどだ。
この剣法は、現存する諸剣法の中では、古流《こりゆう》に属するものであろう。防具をつけて、二人相むかって竹刀《しない》で叩き合うやり方ではない。稽古はすべて独り稽古である。したがって、防具はつけない。木剣《ぼつけん》でやる。その木剣も刀の形に削《けず》りなしたあの普通のものではない。「ユス」という木があるが、その丸太を適当な長さに切ったものを用いる。木質が緻密《ちみつ》で、ねばりがあり、相当に重い木だ。
基本的稽古は、立木《たてき》打ちである。本流では柱大の直立した丸太を袈裟がけに左右から、支流の薬丸派では一間ほどの距離をおいて高さ二尺ほどの台を左右に立て、その上に長さ二間くらいの栂指《おやゆび》ほどの太さの木を無数にわたして、これを絶叫と共に打って打って打ちまくるのだ。初心の間は手にひびいて痛いから束ねないでグサグサにしておくが、熟達して来ると堅く束ねたやつを打つ。これは実際には横木打ちというべきだが、やはり立木打ちといっている。本流でも薬丸派でも、つまりは太刀行きの迅速さを訓練する作業である。
古流の剣法では、剣法の奥儀は相打ちにあるという。無住心剣流《むじゆうしんけんりゆう》の開祖針ケ谷|夕雲《せきうん》は、こう言っている。
「上古より近代までの軍記共を見るに、相討ちを心安く思ひこめ、いつも相討ちよと心得たる武士は、一代運さへ尽きぬほどなれば、無類の勇を働きたることかぎりもなし。自分を全うして勝ちを取らんと思ひ打ちたる者、思ふままに勝ちを得たるは一人も見えず云々」
宮本《みやもと》武蔵《むさし》と佐々木小次郎との仕合いは、この理をよく語っている。二人は相寄るや同時に攻撃に出ている。もし、二人の武器が同じ長さを持っていたら、相打ちになっていたはずであった。武蔵が小次郎愛用の長剣物干竿より四寸か五寸長い木剣をたずさえていたたあ、小次郎の剣の切ッ先きが武蔵の鉢巻を二つに切って飛ばすと同時に、武蔵の木剣は小次郎の頭蓋骨《ずがいこつ》をくだいたのである。
これは武蔵の仕合《しあい》上手のいたす所だ。剣の奥儀が相打ちであるが故に、武蔵は特に長い木剣をこしらえ、この工夫によって小次郎をたおしたのである。
柳生《やぎゆう》十兵衛《じゆうべえ》が尾張侯の所望によって、ある浪人と仕合した時、十兵衛は相手の面を打ち、浪人は十兵衛の胴をはらった。誰の目にも相打ちと見えたが、十兵衛は、
「拙者《せつしや》の勝ちでござる」
と、主張した。
「相打ちでございます」
と、浪人は腹を立てて、異議を申し立てた。
「ばかを申せ。木剣の勝負ゆえ、相打ちなどとそなたのんきなことを言っているが、真剣ならばそなたは死んでいる」
浪人は益※[#二の字点、unicode303b]腹を立てた。
「それでは真剣で願いましょう」
ついに真剣で勝負することになったが、相近づき、双方共に気合を発したと見るや、浪人は唐竹割になってたおれ、十兵衛は自若《じじやく》として立っていた。
十兵衛は微笑して、自分の右のわきの下を、尾張侯に見せた。すると、その上着は切り裂かれていたが、下の肌着《はだぎ》には及んでいなかった。
「剣法とはこのようなものであります」
と説明したという。
剣法において太刀行きの迅速《じんそく》さの重要なことはこのようなものがある。一秒の何千分の一何万分の一だけ、敵の太刀行きよりこちらの太刀行きが迅ければ、こちらが勝つのである。敵が攻撃に出て来るのを、受けたり、かわしたり、飛びすさったりして、それから攻撃に転ずるより、太刀行きの迅速ささえあれば、受けもかわしもせず、攻撃に出て、皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を斬る方が、確実にきまっている。
示現流《じげんりゆう》の立木打ちは、この習練のためである。はでで、巧緻《こうち》で、見た目の見事な剣法ではない。あくまでも実戦の剣法だ。
立木打ちは、最も基礎的な稽古であるから終生を通じて怠ってならないが、ある程度それが出来るようになると、打ちまわりというのをやる。
高さ四尺から五尺くらいの丸太を何十本となく、不規則に立て、その間を縦横に走りまわり、駆けぬけながら、一つ一つ打つのである。狙《ねら》いを正確にする習練をするわけだが、これも、あくまでも実戦の剣法であるからである。これも基礎訓練の一つであるから、終生続けなければならない。
以上の二つが相当に出来るようになると、各種の武器に対するあしらいようを教える。槍にはどう、薙刀にはどう、刺又《さすまた》にはどう、袖がらみにはどうと、これらをあしらい、制圧して、攻撃に転位して行く法を教えるのである。
その他、様々な型のあることは、他の流派の剣法と同じであるが、それらの型は、思うにさほど重要なものではなく、要は立木打ち打ちまわりの二つに尽きるようである。これが当流のアルファでありオメガァである。
こんな剣法なので、師匠につかなくても、見よう見真似《みまね》で、相当程度までは行ける。
前章の冒頭に書いた田中新兵衛がそれだ。新兵衛は、元来武士ではない。その前身は鹿児島城下の「前《まえ》の浜《はま》」の船頭だったという説があり、一説によると薬種問屋の伜《せがれ》だともいう。桜田事変の少し前、水戸藩の志士連中と薩藩の志士連中の間に密約が結ばれた。即ち、水戸の連中が東で井伊大老を暗殺《あんさつ》し、薩摩の連中が京阪地方で挙兵するという密約だ。
そこで、薩藩の連中は、国許を脱出する計画を立てたが、陸路をとっては、藩の追手がかかるので、海路をとることにして、鰹釣舟《かつおつりぶね》二艘を用意した。その時、その船の指揮を依頼されたのが新兵衛だ。こういう所を見ると、船頭説の方がよいようだ。
この計画は、藩侯に知られて、懇切《こんせつ》な諭告書が下ったため実現に至らなかったが、新兵衛にとっては、彼が身分をこえて志士連中のなかま入りをするキッカケとなった。彼は二三年後には、京都に出て大いに活躍し、人斬り新兵衛の異名をとるほどの暗殺名人となって、反対派の人々をして戦慄《せんりつ》させる存在となるのであるが、元来武士でない彼がそんなに人斬りが巧みであるというのは、見様見真似で示現流《じげんりゆう》をやっていたからである。
ぼくの父の話だが、父の少年時代、即ち明治初年頃までは、薩摩《さつま》の村の辻々には立木打ちの設備と木剣がそなえてあって、誰でも通りすがりに稽古出来るようになっていたというから、師伝によらなくても、ある程度使えるようになることは不思議ではなかったのである。
桐野利秋《きりのとしあき》(前名中村半次郎)がまたそうだ。桐野は鹿児島城下の郊外、吉野村|実方《さねかた》郷の郷士《ごうし》だ。吉野村というところは、高原地帯の山間部落で、耕地が至って少ない。郷士等は山畠を耕して薯《いも》をつくり、蕎麦《そば》を蒔《ま》き、雑穀をつくり、谷川に楮《こうぞ》をさらして紙をすくという風で生活している。桐野の家は、この中でも貧しかった。とても、城下の武士連中のように、師匠をとって剣術の修業なんぞ出来ない。
そこで、彼はもっぱら独り稽古にはげんで、後年いくらか余裕《よゆう》が出来て、城下の示現流薬丸派の伊集院|鴨居《かもい》に弟子入りした時には、はじめから高弟の一人を以て遇せられたという。
桐野も、若い頃には「人斬り半次郎」といわれたくらい人を斬るのが巧みで、特に抜き打ちにすぐれていた。
「こいつを斬る」
と、きめたら、行き交《か》いにサッと抜き打ちに斬って、決して斬りはずすことがなかった、という。
薩摩人の抜き打ちは、維新当時、諸藩の人々に恐れられたものだという。特に居合にでも熟練している人は別として、相当使える人でも、抜き打ちする場合は、ちょっと足をとめなければならないものだそうだが、示現流には特殊なわざがあって、全然歩調を変えないでそれが出来るので、防ぎがつかなかったというのだ。
桐野は、軒の雨だれが大地におちるまでの間に、三べん抜き打ちが出来たというから、その迅速精妙さは神業《かみわざ》に類する。おそらく、これを演ずる時、彼の周囲には白い風が電光のようにめぐるとしか見えなかったであろう。
西南戦争の時、鹿児島県令でありながら、全面的に西郷軍に協力したため、後に死刑に処せられた大山綱良もまた示現流の達人で、軒の雨だれが地におちるまでの間に三度抜き打ちが出来たという。
前述の通り、示現流の基本訓練は、専ら太刀行きの迅速さと正確さの訓練であるから、きまればその斬れることむごたらしいほどであったという。彰義隊が上野の山にこもっている頃、夜になるとしきりに辻斬が行われた。官軍と見れば彰義隊側が斬り、彰義隊と見れば官軍側が斬って、競争の形であったが、薩摩人の斬ったのは一目でわかった。袈裟《けさ》がけにヘソの下まで斬り下げてあって、その斬り口の徹底的なことは目を蔽《おお》わせるほどであったという。
伏見鳥羽の戦いでも、薩軍が抜きつれて、絶叫しながら斬りこんで来ると、宛《えん》として死の旋風であったという。
西南戦争の時、官軍側の主計官として従軍した川口武定という人の著述に、「従征日記」というのがあるが、その中にしばしば、薩軍の斬込み隊のすさまじさについての記述がある。
[#ここから1字下げ]
「コヽニ一艱事アリ。賊ノ抜刀隊ト為ス。賊ヤヽモスレバ若干相伍シ、抜刀シテ吶喊斫入《とつかんしやくにゆう》ス。飄忽、風雨ノ如シ。ワガ兵、銃ニ剣シテコレヲ防グモ、支《ささ》フル能ハズ。毎《つね》ニソノ兇鋒《きようほう》ノ敗《やぶ》ルトコロトナル云々」
「時ニ賊ハ四方ノ潰兵ヲアツメ、又|吉次《きちじ》(地名)ノ守兵ニ牒シテ、我軍ノ進路ノ側面ニ出デ、ワガ退線ヲ絶チ、截《た》チテ三段トナシ、砲射スコブル猛烈、アルヒハ猿叫ノ吶喊ヲ発シ(薩人ノ吶喊ハ猿ノ叫ブニ似タルヲ以テ故ニ云フ)抜刀以テ斫入セントス。ワガ軍、賊ノ後面ニ迫ルヲ見テ、皆ナ色動キ、回《かえ》リ走ラントス。士官等剣ヲ揮《ふる》ヒテ叱巣V、コレヲ制スト雖モ能ハズ、遂ニ死傷ヲ棄テテ退《しりぞ》ク云々」
[#ここで字下げ終わり]
大体、こんな風だ。「猿叫ノ吶喊」というのが、示現流の気合だ。それはあらんかぎりの絶叫である。
示現流は、薩摩固有の剣法で、藩政時代にはお家流儀《いえりゆうぎ》といわれていたが、元来は新陰流など多くの剣法と同じく関東から出ている。
鹿島、香取両神宮は武神であるという信仰からか、この両宮の神人《しんじん》等は、昔からひどく兵法《ひようほう》の研究に熱心で、兵法上の名人、巨擘《きよはく》が輩出して、ぼくなんぞ日本のあらゆる兵法は皆その源流をここに持っているのではないかと思っているくらいであるが、示現流もまたここの神人であった飯篠長威斎《いいざさちよういさい》家直の流派から出ている。
薩摩に伝わる説によると、こうなる。
飯篠長威斎によって神道流がはじまり、その子|威近《たけちか》へ、威近からその子|威信《たけのぶ》と再伝して、威信から同国(常陸)の住人で、やはり鹿島の神人である十瀬《ととせ》与三左衛門長宗に伝わった。長宗はこれに自らの工夫を加えて天真正自顕《てんしんしようじげん》流と名づけ、同国の住人金子新九郎|威貞《たけさだ》に伝え、威貞はこれを同国の住人赤坂弥九郎に伝えた。
弥九郎も、鹿島の神人の家に生れたが、十三の時、威貞の門に入って、およそ十八九位までの間に皆伝《かいでん》を受けた。十九の年の十二月、ある事情によって人を斬ったので、国に居がたくなって陸奥《むつ》に行き、後、出家して、曹洞宗の僧となり、法名を善吉《ぜんきち》と名のり、京都天寧寺の住職となった。
薩摩に伝わったのは、この善吉和尚からである。
天正十六年といえば、豊臣秀吉が島津家征伐をした翌年、小田原征伐の前々年、北野の大茶の湯の行われた年である。
この年、薩摩の武士で東郷藤兵衛|重位《しげかた》という者が、京に上って来た。(はじめ瀬戸口姓。この時代は瀬戸口であったか、東郷姓になっていたか不明)
薩摩における一般の所伝では、蒔絵《まきえ》の法、一説によると金工《きんこう》の法を習得のための上洛《じようらく》であるといい、東郷家の所伝では、御奉公のための上洛であるといっている。
これはいずれも可能性がある。重位という人は、後年薩摩坊ノ津の代官に任命されて治蹟《じせき》大いに上ったという履歴があるから、元来この地方の郷士《ごうし》ではないかと思われるのだが、この地方は地味|磽※[#「石+角」、unicode786e]《こうかく》で、耕地の至って少ないところである。従って、この地方の郷士は、後世に至るまで、色々な副業を営んで、生活の足しにしている。たとえば家大工、舟大工、左官、桶屋《おけや》等々、他国はもとよりのこと、薩摩内においてもめずらしい武士の生態を持っている。だから、重位《しげかた》が蒔絵や金工の修業のため京都に上ったとしても、説明はつくのである。
また、奉公のためというのも、この前年に島津家は豊臣秀吉の征伐を受けて降伏し、島津義久は秀吉に従って上洛しており、この年夏五月、また義久の弟義弘が上洛し、十七年の秋まで滞京しているから、重位がこの人々の供をして上洛したとしても不思議はないからである。
思うに、両説ともに認むべきであろう。即ち、重位は義久か義弘のいずれかに随従して京都に上っている間に、京都の蒔絵か金工の技術の精妙さを見て、帰国後の生活の足しにするために、公務の余暇を利用して、これを修業することをはじめたと解釈してよいと思う。
重位の宿舎は東山へんにあって、その隣りは天寧寺という曹洞宗の禅寺であった。重位の借りているへやから、寺内の庭が見えたというから、大して大きな寺ではなかったろう。京は寺や社を大事にするところで、ちょいとした寺は皆|練塀《ねりべい》をめぐらしているが、この寺は竹の四ツ目垣かなんぞめぐらした、ごく小さな寺であったろう。
ある日、重位が自分の居間に坐っていると、その天寧寺の和尚さんが庭掃除しているのが見えた。年は老《と》っているが坊さんにはめずらしく逞ましい骨格だ。サッサッサッと掃いて、やがて塵塚《ちりづか》に掃きこんでしまうと、坊さんは不思議なことをはじめた。箒を両手にとって、ふり上げては、サッ、サッ、と、ふりおろす。どうやら、剣法の型をつかっているように思える。
「ホウ……」
重位は目を澄まして凝視していた。
きっと重位は、この時まで相当この道に修業を積んでいたのであろう。この坊さんの使う剣法の型にほれこんでしまった。古書には、「ソノ法モットモ奇ナリ」とある。
そこで、坊さんの所に行って、弟子入りをし、伝授を受けた。
この坊さんが、前述の、天真正自顕流《てんしんしようじげんりゆう》の正系を伝えている赤坂弥九郎、当時|善吉《ぜんきち》と名のる人であった。
一説によると、こうある。
この宿舎に逗留中《とうりゆうちゆう》、重位は毎日庭に出て立ち木をたたいて刀術をこころみていたが、ある時、いつも遊びに来て懇意《こんい》になっている天寧寺の小僧が、こう言う。
「藤兵衛さん、うちの和尚さんがなあ、こう言わはったえ。となりに泊まっとる薩摩のお武家はえらい兵法執心《ひようほうしゆうしん》やが、あんまり上手やないなあ、立ち木をたたく音聞いててもわかるわいと」
「ホウ。そなたの寺の和尚は兵法がわかるのか」
「どうやか知らん。しかし、そう言わはったとこみると、わかるのやろな。和尚さんは、もと関東のお武家やちゅうことやさかい」
そこで、重位は寺に行って、善吉和尚に会い、辞をひくくして兵法の伝授を乞うたが、和尚はウンといわない。
「わしは仏道修業の者、仏道のことなら、いくらか知らんこともないが、兵法などさらに心得がござらん」
重位は根気よく毎日出かけたが、いくら頼んでも駄目だ。
数ヵ月、空しくたって、天正十六年も暮れかけた頃のある夜、いつものごとく出かけて、また願ったが、善吉は依然として言を左右にたくして教えようといわない。
やむなく帰りかけて、縁側に出ると、折しもさし上《のぼ》った二十三夜の月が、障子に照りわたっている。重位はそれを見て、
濁り江にうつらぬ月の光かな
と、高声に詠んで、すたすたと行きかけると、サラリと障子があいて、善吉は声をかけた。
「客人!」
「なんです」
「ちょともどられよ」
かえると、善吉の態度がこれまでとまるで違う。
「かねてからの懇望《こんもう》、もだしがたし。存じおるかぎりは教え申すべし」
その夜から、教えはじめて、翌年の夏までの間にすっかり伝授したというのである。
この時、重位は二十九歳であった。
このようにして、天真正自顕流の剣法が薩摩に入る機縁《きえん》を得たわけだが、この以前、薩摩で盛行《せいこう》していた剣法は、肥後|人吉《ひとよし》の人、丸目《まるめ》蔵人《くらんど》を流祖とする体捨流《たいしやりゆう》の剣法であった。
体捨流の剣法は、「撃剣叢談」によると、こうある。
「この流のつかい方は、前後縦横に飛びめぐり、切り立て、薙《な》ぎ立てするやり方なり。甚だ奇なり」
おそらく、重位はこの体捨流を相当なところまでこなしていたので、わずかに半年くらいの修業で、天真正自顕流を皆伝《かいでん》することが出来たのであろう。また、彼においてこの両流が折衷《せつちゆう》せられたことも考えられる。ここにあげた体捨流のつかい方は、今日の示現流の方法と実によく似ている。しかし、この時までは、彼はまだ新しい流派を名のらない。天真正自顕流の名を墨守《ぼくしゆ》している。彼が示現流と名のったのは、ずっと後年のことに属する。
重位は、帰国後、新しく会得した剣法の修練につとめたが、もっぱら独りの稽古であったらしく、まだ世に聞こえないこと数年にわたる。
彼が三十二の時、豊太閤の朝鮮役がおこった。薩摩からも義弘、その子|久保《ひさやす》が渡鮮しているから、定めて重位も従軍したろうと思うが、格別聞こえた功名《こうみよう》はない。
三十八の時、太閤の死亡とともにその遺命によって、在鮮の諸将は皆引上げることとなり、その引上げぎわに、有名な泗川《しせん》の役があり、島津軍は五千の寡勢を以て明軍二十万を撃破潰走させた快勝を博《はく》したが、この時も別段の勲功はない。あるいは、従軍しなかったのかも知れない。島津家は、この朝鮮役にははなはだ気乗り薄《うす》で、軍勢の繰り出し方など、出来るだけ少なくしているから。
重位が四十になった時、関ケ原の戦争がおこっているが、これには従軍していない。
この戦さに、西軍に加担《かたん》した責任を問われて、義弘は隠居し、子家久が島津家の当主となった。
重位の名が高くなったのは、この頃からである。従って学ぶ者が多く、剣名はようやく薩摩全土にひろがった。
島津家の重臣に、頴娃《えい》主水《もんど》、仁礼《にれい》佐渡守|忠頼《ただより》という者が、この時代にあった。かねて体捨流を学んで奥儀を得、朝鮮陣にも従軍して抜群の勲功があり、勇名の高い人々であった。この頴娃主水が、重位の剣名を聞き、重位の家に出かけた。
門前で馬を下りて、入って重位に会うや、言う。
「藤兵衛、そなたは天真正自顕流とかいう上方《かみがた》下りの兵法《ひようほう》をようつかうそうなが、おいと仕合しよう」
重位はかしこまって答えた。
「未熟ものでごわす。お前様のようなお方と仕合うなど、思いもよらぬこと。平に御容赦《ごようしや》を」
「芸の道に何の身分のへだてがあろうか。切に所望じゃ。立合ってくれるよう」
しかたがなかった。
「それでは、未熟ながら、ごらんいただきもす」
二人は身支度して、庭先におり立った。
「ヤァー」
主水は、すさまじい気合と共に打ちこもうとしたが、重位の八相に取った構えには寸分のすきがない。いや、すきがないのではない。すきは至るところにあるが、天に冲《ちゆう》せよと高く剣尖をそびえ立たせた刀が、異常な圧力を以て犇《ひし》とおさえつけている。
主水は残念でならない。なにほどのことがあろう、と、はねかえそうとすると、こんどは剣だけでなく、重位のからだ全体が巨大な巌《いわお》となって眼前に立ちふさがっているようで、手も足も出ない。呼吸がはずみ、全身に汗が浮き、気が遠くなるようであった。
「ヤァー」
と、重位が一喝《いつかつ》した時、こらえこらえた主水はへたへたと居すわり、
「まいった」
と、叫んだ。
「これほどまでそなたが上手であろうとは思わなんだ。今日唯今より、そなたの弟子にしてくれ」
と言って、即座に誓書《せいしよ》を入れて、弟子となった。
主水が有名な人物であるだけに、このうわさは忽ち藩中にひろがって、仁礼佐渡守の耳に入った。
佐渡守は嚇怒《かくど》して、直ちに主水の屋敷に出かけた。佐渡守の屋敷は加世田《かせだ》だ。鹿児島城下を去る九里である。とっぷりくれてから城下についたが、そのまま主水を訪問した。
「おはんは、東郷藤兵衛と兵法《ひようほう》の仕合して打ち負け、その弟子となられたという噂でごわすが、本当でごわすか」
「おお、聞かれたか。本当でごわすよ。藤兵衛という男、稀代《きたい》の使い手で……」
「黙らっしゃい! おはんは体捨流の中でも、おいどんと並んで最も頼みとされておわす人ではごわはんか。東郷藤兵衛ごとき者に打ち負けるのみか、多年の師伝を捨ててその弟子になるなど、無念至極《むねんしごく》なお人じゃ。そげな軽薄《けいはく》な人とは思い申さんじゃったぞ!」
主水は微笑した。
「芸の道のこと、上には上がごわす。おいどんは負けもしたし、藤兵衛が芸にほれもしたから、弟子にもなりもした」
「そいが軽薄じゃと申すのじゃ。おいどん、こいから行って、立合い申そう。藤兵衛がいかなる上手であッたか知れんが、よもやおいどんが負けようとは思わん。もし負けたら、藤兵衛を刺し殺してのけるわ」
聞くと、主水はキッとなった。
「佐渡殿」
「なんでごわす」
「おはんは心得ちがいなことを申さるる。兵法の遺恨《いこん》をさしはさんで、相手を殺そうとはなにごとでごわす。おはんほどのお人に似合わんことを仰せなさる」
言われて、佐渡もハッとした。
「なるほど、それはそうでごわす。よく心づけて下された。尋常に立合いたすでごわす」
翌日、佐渡は東郷家へ行って、仕合を申しこんだ。
重位はその時あいにく不在で、高弟の児玉筑後《こだまちくご》がいて、不在の由を言った。
「ホウ、それは残念。時に、おはんも藤兵衛のお弟子だな」
「そうでごわす」
「そいじゃ、おはんと仕合おう。せっかく遠い所から来たのじゃから」
「そうでごわすか。おいどんでよければ、一手教えてもらいもそ」
筑後にしてみれば、十分な自信があったのだろう、さっそく仕合となった。
裂帛《れつぱく》の掛声と共に、佐渡は仕かけた。同時に筑後は、一歩ふみこむや、ハッシとその剣をたたいた。
「まいった!」
と、佐渡は叫んだ。
「まだまだ」
と、筑後が言うと、佐渡は一足さがって一礼した。
「いや、いや、恐れ入った。たしかにまいった。おはんの打つ太刀の鋭さ、わしの手に強くひびいて、わしは覚えず左の手を|つか《ヽヽ》から離した。驚き入った腕だ。弟子であるおはんですらこげん強かとすれば、藤兵衛の強さは底が知れん。この上藤兵衛と仕合うなぞ、恐れを知らぬことでごわす。本日はこれにてまかりかえるが、不日《ふじつ》改めて弟子入りにまいる。この旨、藤兵衛まかりかえったら、お伝えおき下され」
こうして、佐渡も師弟の礼をとった。
やがて、重位《しげかた》の評判が藩主家久に聞こえた。家久は体捨流《たいしやりゆう》の東《ひがし》新之丞を自らの師範役としていたが、重位のことを聞くと、早速に召し出して、新之丞と立合を命じた。
新之丞も、なかなかの達人ではあったが、重位に対しては手も足も出なかった。
「新之丞、太刀少しも出で申さず、重位、打ちかちなされ候」
と、古書にある。
この勝利によって、重位は家久の師範役を命ぜられた。太刀を与えられ、また千石の知行《ちぎよう》をあたえられたが、重位は四百石だけ頂戴して六百石を返上したということになっている。
しかし、これは疑わしい。島津家はケチな家柄で(ケチにしなければならない理由があった。おそろしく家来の数が多いのである)、どんなに名人であろうと、兵法者などに千石もくれるはずはない。あるいは六百石返上ということをはじめから話し合いの上のことかも知れない。
重位の剣法の流名が「示現流《じげんりゆう》」となったのは、この少し後からである。家久の命令によって、当時薩摩の儒僧《じゆそう》として天下に有名であった文之《ぶんし》和尚が、この文字を選んだのである。
重位は家久にとってお気に入りの家来であったらしい。江戸|参覲《さんきん》にもしばしば連れて来ているが、この間に彼の剣名は江戸でも有名になった。
柳生家の高弟で、旗本で、常に秀忠将軍の剣術の相手をうけたまわっていた福町七郎右衛門、寺田少助の二人から、重位に仕合を望んで来た。元和元年の春の頃である。
直参衆である上に将軍の剣術の相手をうけたまわっている人々だ。こちらが勝っては工合が悪かろうし、といって負けるのは兵法者としていやだ。主人の名にもかかわる。重位は再三辞退したが、二人は所望《しよもう》してやまない。
重位は、家老伊勢兵部へ訴えて、指揮を仰いだ。兵部はこれを家久へ告げた。
「やらせてみい。遠慮はいらんから勝てと言え」
家久は剛強な人である。この後のことになるが、薩摩の家来が三代将軍家光の弟である駿河大納言|忠長《ただなが》の愛犬が食いつきかかったのを殺して、大納言から下手人を引渡せと厳重な掛合いがあったことがある。家久は、
「人に食いかかって来るような犬を斬りすてるのは当然のことでござる。それが大納言の御愛犬であろうと、町方の者の飼犬であろうと、同断である。引きわたすこと、思いもよらぬ」
と、返答した。
将軍|連枝《れんし》をかさに着ている忠長は激怒して、使者数回に及んだが、家久は聞かなかった。
ついに、あわや戦ささわぎになろうとしたので、幕閣の土井大炊頭利勝《どいおおいのかみとしかつ》が仲裁に入って、家久に忠告した。
「世上、おだやかならぬうわさしきり。将軍家お膝許で、あるべからぬことと存ずる」
「恐れ入る。しかし、人を犬にかえること、思いもより申さぬ」
「ごもっともな仰せ。御家来をお出しなされとは申さぬ。そなた様、駿河家へお出でなされよ」
「わびにでござるか」
「いや、わびられよとは申さぬ。ただなんとなく駿河家へ行かれ、お玄関先にて、島津中納言参上仕った、と、仰せられればそれで結構でござる」
「わびるのではありませんな」
「もちろん」
「さらばまいりましょう」
そこで、一日、家久は駿河家へ行き、玄関先まで、島津中納言罷り出で申した、と、名のってそのままかえり、それでさしものさわぎがおさまった。
家久という人は、こういう人だ。
「やらせろ、負けるなと言え」
と言ったのは、当然のことであった。
かくて、島津家の江戸屋敷で、仕合が行われたが、福町も、寺田も、まるで歯が立たず、誓書を入れて、重位の門人となった。
「右の衆両人、重位弟子に相成り候、右の衆は、重位家に格護《かくご》(恪勤《かくご》の宛字《あてじ》)なされ候」
とあるから、二人は重位の許に通って稽古を積んだのである。
その頃のことであろう、国許で、家久が重位に上意討ちの仕手《して》を命じたことがある。
討ち場所は、城の角櫓《すみやぐら》の下である。そこを討たれる人が通るようにしかけて、家久は櫓の上からこれを見物しようというのであった。
「かしこまりました」
重位はお受けして、角櫓の下に出かけ、家久も櫓の上にかまえた。
こちらから重位が来かかると、討たれる相手は向うから来た。古伝にはどんな人物であったか、どんな罪があったか、一切書いてないが、重位ほどの人に討たせようというのだから、相当以上に手利きの武士であったに相違ない。
両者の間がしだいに接近して、頃合になると、相手はハッとさとり、刀のつかに手をかけて飛びのいた。と同時に、
「御上意!」
と重位が叫んだ。
「心得た!」
と、いう間もなかった。ピカッと白い光が閃いたと思うと、相手はのけぞり、やがてどうとたおれた。真二つに、アゴのあたりまで切りわられているのであった。
重位は、そのまま、家久の前に出た。
「見事であったぞ」
と、家久がほめると、重位は首を振った。
「おほめ、かたじけなくはございますが、不覚でございました、実は拙者、あの者の首をはねようと思ったのでございますが、君のごらんのこと故、格別すぐれたる所をいたそうと存じたのでございましょう、斬りわってしまいました。心に垢があるのでございます。まだまだ至りませぬ」
と、悄然としていたので、家久をはじめ、なみいる人々は一入感じ入ったという。
重位の心境は老年に至っていよいよ深くなった。
こんな話がある。
藤井四郎兵衛という陪臣《ばいしん》があって、重位の門に入って、多年習練して、門弟中一二を争う上手となった。ある時、重位の高弟である篠崎覚右衛門が、重位に向ってこう言った。
「拙者は御弟子中の先輩として、多年何百人という御門弟と組《くみ》太刀をつかまつりましたが、最もすさまじい打ち出しをいたされるのは御子息重方殿でごわす。さすがおあとつぎだけごわして、これに並ぶものはごわはんが、藤井四郎兵衛は、おりおり重方殿のような打ちを見せることがござる」
すると、重位が言った。
「なるほど、四郎兵衛は上手にするよ。しかし、品《ひん》が悪いな。いや、品は悪うてもかまわんがな」
またある時、彼の甥で高弟の一人である東郷与助にむかって、不意に問いかけた。
「与助、そなた示現流の本意はいかなるものと心得るか」
与助はしばし打ち案じて答えた。
「牧出《まきで》の春駒が気を得て、千仞の断崖に片脚ふみかけて、空に向って嘶《いば》えるがごときものと心得ます」
重位は首を振った。
「いやいや、そうでない。馬が道草を食うているようなものよ」
与助がこう答えたのも一応の理がある。示現流には、このような猛々しい面があるのだ。しかし、それは表面のことで、その底に流れるものは、重位の言葉に示された悠々としてせまらないものなのであろう。
また。
重位の門人に稲津亀助《いなづかめすけ》という人物があった。元気もので、剣法においてもなかなか上達していたので、
「亀が兵法を見れば、目がさめるわ」
と、重位は愛していた。
この亀助が、山路《やまじ》次郎兵衛という者のために、あることについて大へん世話をしてやったことがある。
どうやら、山路は、関ケ原戦争後薩摩におちて来て、薩摩にかくまわれていた宇喜多秀家の家来ではなかったかと思われる。人の知るごとく、秀家は島津家のいのち乞いによって生命だけは助けられ、八丈島に流されたのであるが、随従して来た家来共の大部分はそのまま島津家に仕えたのである。
さて、この山路が、亀助に向って、
「この度は一方ならぬ御恩になりまして、何がなお礼のしるしを差し上げたく存じますが、御承知のごとき身の上、心にまかせませぬ。つきましては、かねて拙者が習いおぼえています兵法の奥儀を伝授いたしましょう」
と言った。
「それはかたじけのうごわす。ぜひに御伝授にあずかりとうごわす」
兵法|執心《しゆうしん》の亀助はよろこんで、伝授を受けた。何流であったかわからない。たぶん、当時薩摩ではまだ誰も知らない流儀であったろう。
その後、亀助が重位の宅に行った。
「おお、来たか。しばらくぶりであったのう」
重位は喜んで迎えたが、ややあって言う。
「久方ぶりじゃ、そなたの兵法見てやろう。庭へ出て使え」
「かしこまりました」
亀助は身支度をして、木剣をひっさげて庭に出て、身がまえたが、重位は一目見ると叫んだ。
「やあ、亀が兵法は役せんぞ。どこかへ行って勝ち口を習うて来たぞ。もう役せん」
勝ち口というのは勝つ方法という意味である。一目でそれを見破った鋭さは身の毛のよだつほどの恐ろしさではないか。
また、ある時、家久に、兵法の極意を和歌に詠めといわれて、こう詠じている。
天地《あめつち》を吹きかへす風におく露の色かへぬ間ぞわが姿なる
「諸行無常」といってもよし、「色即是空」といってもよし、「花は紅柳は緑」といってもよし、「無即有《むそくう》」といってもよし、「絶対無であり絶対|有《う》である」といってもよいのであろう。
重位は、後に薩摩半島の西南岸にある坊ノ津の代官となった。寛永十四年十五年の島原の乱によって幕府が鎖国策をとるまで、坊ノ津は、博多、伊勢ノ阿濃津《あのつ》とならんで、日本の三津《さんしん》といわれていた日支貿易の要津《ようしん》であったから、重位がここの代官に任命されたことは、彼が剣法以外になかなかの人物であったことの証拠となるであろう。肥前守に任官したのは、この頃であろう。
老年に及んで致仕して家を嫡子重方にゆずると、家久はその功を賞して隠居料百石を給した。
寛永二十年六月二十七日、彼は死んだ。享年八十三であった。法名は能学俊芸庵主。
二代目の重方も、肥前守を名のった。彼もまた兵法にすぐれ、家久の子光久の兵法指南役をつとめたが、中年以後は坊ノ津その他の代官に任ぜられて治績大いに上った。中にも新田《しんでん》二万四千石を拓《ひら》いて、二百石の増俸にあずかっている。
三代目は重利《しげとし》である。重利が江戸参覲の藩主光久の供をして江戸屋敷にいた時、彼のことが家光将軍の耳に達して、
「音に聞く東郷重位の子孫であろう。家に伝うる兵法を見たい」
と、島津家へ沙汰があった。島津家では、
「重利儀は仰せられる通り重位の孫でございまして、流儀は相伝しておりますが、まだ若年であります。幸い重位の子がまだ存命いたしております。国許から呼びよせて上覧に供えます」
と、返答したが、家光は、
「それは重畳《ちようじよう》。しかし、それは追ってのこととして、とりあえず重利とやらのを見たい」と、いう。
そこで、島津家では、その日をきめ、準備を進めていると、急に家光が病気となり、つづいて死去したので、事はついに行われないでしまった。
間もなく、島津家では、東郷家に、早川という苗字《みようじ》をあたえて、こう申しわたしている。
「重位子孫の者共の名があまりに有名である故、他国往来の節、色々とさしつかえることもあろう。されば、他国においては、この苗字を名乗るよう」
家光上覧の仰せ出されに対する島津家の態度、またこのことを考え合わせると、この三代目の重利という人は父祖にはずいぶんその技倆が劣っていたのではないだろうか。
今日、示現流は東郷派と薬丸《やくまる》派とにわかれている。いつの頃から岐れたか、不聞にしてぼくは知らない。
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(附記)国書刊行会本の「武術叢書」中におさめられた諸書に、瀬戸口備前守とあるのは、肥前守の誤りである。東郷家は初代から三代まで肥前守に任官している。薩摩では初代重位を特に大肥前殿と称している。
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[#見出し]  武蔵の強さ
宮本武蔵は大して強くなかったと言い出したのは故直木三十五だ。
「われ若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳の時から二十八九までに、諸流の兵法者に行きあい、六十余度の勝負をしたが、一度も利を失わなかった、自分こそは兵法無双の名人である、というのが武蔵の口上だが、彼が相手にしたのは一流の連中ではなく、また関東の剣豪とは勝負せず、もっぱら西日本で活躍した。彼が自ら言うほど強かったとは言えない」
というのが、直木の言い分であった。
この頃ある書物を読んだら、こんなことが出ていた。直木はこれをある席上で菊池寛と論争して、その席上に吉川英治氏がいたので、
「吉川君、君はどう思う?」
と鋒を向けた。吉川氏は、
「ぼくは菊池さんの説に共鳴するところが多い」
と言ったところ、その後、直木は文芸春秋誌上で、武蔵論をやり、
「さあ、吉川、出て来い」
といどみかけた。
吉川氏はそれには答えず、数年経って、「小説宮本武蔵」を書いた。これが「小説宮本武蔵」の誕生由来だというのである。
直木の生きている頃、ぼくはまだ専門作家になっていなかったから、こんなくわしいいきさつはわからなかった。ただ、直木がそんな議論を雑誌に書いて、吉川さんに論戦をいどみかけたことはおぼろに記憶している。また、その後しばらく色々な人が直木式議論を展開して、宮本武蔵強からずと論じていたこともおぼえている。
吉川さんの小説が出て、一世の好評を博してから、こういう議論は姿を消したが、この近年またそんな議論を立てる人があって、時々そんな文章を見かける。
歴史上のことは実験が出来ないのだから、解釈で行くことが多いし、解釈は論理だから、白を黒といいくるめることだって出来ないわけではない。
ところで、ぼくは武蔵を、彼自身が公言したように天下一の名人だったにちがいないと見ている。直木の論理は、彼の提出した材料のかぎりでは正しいが、材料の不足しているところに致命的な欠陥がある。当時の兵法家の習性を全然勘定にいれていないのがそれである。
一体、あの頃の兵法家はめったに他流仕合をしなかったのだ。当時の仕合は今日の仕合のようにスポーツのマッチではない。実質的には果し合いだ。負ければかたわになるのだ。最悪の場合は死んでしまうのだ。さらにそれより痛いのは、流派の名おれとなって、世間がその剣法を相手にしなくなるのだ。
江戸城大手前の常盤橋の仕合に岩間小熊に敗れた根岸兎角はあれほどの剣客でありながらその後|杳《よう》として名前が聞こえないようになり、その剣法微塵流はあるかなきかのかすかな存在となった。佐々木小次郎は西国の麒麟児といわれ、その剣法巌流は西日本で最も盛行していたのに、身は死に、巌流は影も形もなくなっている。めったに他流仕合など出来ることではないのである。
だから、当時の兵法家は弟子をとる時、必ず師の許可なくして他流仕合などしないという誓紙を入れさせたものだ。兵法者――つまり、専門の武術家だが、この連中はこれで身を立てる――すなわち、飯の種にしているのだから、弟子の不覚で流名がすたってはたまらないのである。
それでも、仕合を全然しないでは、自分の強さや流派の優秀さが立証出来ず、したがって飯の種にもならないから、条件のよい時にはやる。相手が自分より弱いと見きわめがついた時にやるのだ。相手が高名であれば一層工合がよい。天下に高名というほどではなくても、その地方だけで名の知れた兵法者であってもよい。勝てることは請合いだし、勝てば名声の上ること請合いだから、最上の好餌になるわけだ。
だから、仕合するにあたっての、当時の兵法者らの敵手にたいする研究ぶりたるや大変なものだ。いろいろと情報を集めて研究し、研究の結果勝てるとの見込が立つと、こんどはその勝利を確実にするための工作をやる。
塚原卜伝にこんな話が伝わっている。ある時、卜伝がある兵法者と仕合することになった。その兵法者は三尺余の大刀を持っており、かねては佩用しないが、他流仕合の時にはそれを用いて勝利を得ていた。
卜伝はこの話を聞くと門人をつかわして、
「念のためにおたずねいたすが、貴殿はこの度もあの大刀をお使いになるのでござろうな」
と聞かせた。
「もとよりのこと」
と相手は答える。
卜伝の門人は帰って来て報告した。
「そうか。そう申したか」
と卜伝はうなずいていたが、仕合の前日、また門人をつかわした。
「くどいようでござるが、明日の仕合には、この前のご返事通り、あの大刀をお用いになるのでござろうな」
「もとよりのこと! くどいぞ!」
相手は腹立たしげに答えてかえしたものの、疑惑がむらむらとおこって来た。卜伝が大刀に恐れているようにも思われるし、大刀にたいして特別な工夫をこらしているようにも思われる。
終夜なやんだが、とにかくもこれまでこの刀で利を得て来たのだと考え、夜が明けると、その長い刀をさして仕合場に出た。
いよいよ仕合となって、双方刀をぬきはなち、じりじりと寄ると見えたが、一瞬火を発したかとはげしく触れ合ったと思うと、兵法者は唐竹割に斬られ、血煙あげてたおれた。
卜伝が二度も得物のことを聞きにやったのは、相手の心を乱すためだったというのである。
当時の一流の兵法者は、勝てると見きわめのついた相手にたいしても、これくらい用心し、万全の地歩をしめて仕合場にのぞんだのだ。相手の技倆もはからず、功名にあせって、冒険ばかりするような者は、一流になる前に殺されてしまうのである。前述した通り、当時の仕合はスポーツのマッチではない。死生の場である。果し合いである。戦争である。相手の力もはからないで戦争などするのは、かつての日本軍部くらいのものだ。一流の剣客として後世に名をのこすほどの者が、そんなに無思慮であろうはずはないのである。
直木や近頃のある人々の議論は、当時の心ある兵法家のこの習慣を無視している。浅薄の論をまぬかれないのである。
一流の兵法家と仕合しなかった一流の兵法家は武蔵にかぎらない。一流といわれるほどになった人は皆そうだ。一人一人数えあげて考察してみるがよいのである。上泉伊勢守信綱だけだ、一流の兵法家らと仕合しているのは。しかし、その兵法家らが信綱と仕合した時にはまだ一流ではなかった。彼に薫陶されて一流になったのである。
武蔵が兵法天下無双と自称するようになってから、彼にたいして一人の他流仕合を申しこむ者がなかったことも考えるべきである。互角には行けると思っても、勝てる自信のある者はいなかった証拠ではないか。
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[#見出し]  兵法家の異装
兵法家は兵法で衣食している。つまりは兵法屋だ。江戸初期まではこれを芸者といった。武芸者の略称ではなく、芸をもって衣食している者の意であろう。
商人が宣伝につとめるのは古今同じだ。こんな話がある。織豊時代から江戸初期にかけて天下一の鉄砲名人といわれていた稲富伊賀入道一夢、これは屋根にとまっている小鳥を鳴声をたよりに屋内から射撃して決してはずさなかったほどの神技があったという男だ。晩年、彼は家康の第四子で尾張の領主であった松平忠吉につかえた。ある時、加藤清正が江戸から肥後にかえる途中桑名にとまったところ、ごきげん伺いに行った。昔から知合いだったのである。清正はよろこび迎えて、何くれとなく歓談しているうち、
「わしが家の若い者共をその方の門人にしてくれるよう」
と頼んで、物頭《ものがしら》格の者の子弟七八人を呼び出し、師弟の契約をさせた。
九州へ帰った後、青年らはいずれ尾張へ遊学させられることと、心待ちしていたが、一向にその沙汰がない。しびれを切らし、一同清正の前に出て、訴えた。すると、清正は、
「汝《わい》らは何を阿呆なことを言う。鉄砲などというものは、ひとり稽古で十分なものじゃ。一発でも余計に撃てば、しぜんに上達する。一体、一夢がような芸者は、名聞《みようもん》を好むものじゃ故、弟子入りの約束だけしておけば、おりにふれては、加藤肥後守殿の家中のしかじかと申す者共は拙者門人でござると触れるにきまっている。おれが狙いはそこにある。万一戦さでもはじまった時、敵は必ずこの手には稲富一夢が高弟なにがしがいるとおそれる。敵が恐れれば、これすなわち味方の利じゃ。阿呆な量見はすて、一発でも多く撃ちならえ」
といったというのだ。
こんな点、剣法だってかわりはない。甲陽軍鑑に、小幡上総守信貞の言ったこととして、
「つか原ぼくでんは兵法修業つかまつるに、大鷹三もとすえさせ、乗換馬三匹ひかせ、上下八十人ばかり召し連れ歩き、兵法修業いたし、諸侍上下共に貴むようにしなす」
と、その宣伝ぶりを記している。
卜伝ほどに資力のない連中だって、出来るだけ身なりを飾り、目立つようにしている。
根岸兎角がそうだ。兎角は飯篠《いいざさ》長威斎の創めた天真正伝神道流を伝える師岡《もろおか》一羽斎の門人であった。一羽は常陸の江戸崎に住んでいたが、晩年癩を病み、身体不自由になった。当時彼に三人の門人があった。兎角、岩間小熊、土子泥之助《つちこどろのすけ》。三人は師を介抱しながら兵法の研究をつづけていたが、兎角はやがて飽きが来た。兵法を学ぶのもこれによって身を立てるにある、いつまでも片田舎にとどまってレプラ患者の看病しているのでは、何のための今までの努力ぞや、とでも思うようになったのであろう、逐電《ちくてん》して、相州小田原に出た。
当時、小田原は北条氏の城下で、ひとり関東一の大都会であるだけでなく日本屈指の大都会であった。彼は自分の兵法を微塵流と名づけ、道場をひらいた。
「拙者は天下無双の兵法の名人だ」
と宣言したが、その服装がものものしい。髪を総髪にし、山伏のように広袖の着物を着ていた。骨格たくましい大男で、「眼に角《かど》あってものすごく」とあるから、眼光けいけいとして天狗のようだったのだ。
「拙者のところへは、夜な夜な愛宕《あたご》の天狗が来て、兵法の秘術を伝えてくれる」
とも言いふらしていた。
この宣伝を裏書きするように、彼は日常の生活に秘密な部分をつくり、「夜の臥所《ふしど》を見たる者なし」とある。誰にも寝室をのぞかせなかったのだ。神秘感をあたえるためだ。至れりつくせりの商法といえよう。世間はまんまと引っかかり、
「あれは常に魔法を行うている。天狗の化身《けしん》じゃ」
というようになった。
大あたりだ。もちろん、実際に兵法の達人でもあるから、入門する者が多く、大繁昌となった。
北条氏がほろんで、新たに関東の主となった徳川氏が江戸を居城とすると、彼は江戸に出て来た。「大名小名に弟子多くあって」とあるから、ここでも繁昌をつづけたのだ。
江戸崎にのこった小熊と泥之助は兎角の忘恩、不信義を憤り、膺懲を決心していたが、数年の後一羽斎が死ぬと、くじ引きで番をきめ、小熊が江戸に出て来て、仕合を申しこんだ。場所は江戸城大手前の常盤橋、徳川家の役人の検視の前で仕合は行われた。
兎角は大男である上にはでに着かざり、得物も六角に削りなした長大な棒で、角々には筋金をふせ、先きの方にはイボ金をうえてあるというすさまじいものだ。一方、小熊はひげこそ濃かったが、むくむくとした小男で、色黒く、かぶろな髪がひたいにかぶさり、小熊そっくりという容貌、多年の貧乏ぐらしで服装もみすぼらしい。得物も普通の木剣であった。
東西の橋袂からつかつかと出るや、小熊は片手でひたいに垂れる髪をかき上げ、
「いかに兎角」
とさけんだ。兎角は、
「されば」
といって、ほほひげを撫でた。
忽ち両者走り寄り、エイヤと打ち合ったが、木剣はそのままからみ合って動かない。小熊はじりじりと兎角を圧迫し、らんかんにおしつめたと見えたが、兎角の片足をとってサッとはね上げた。はずみ上るようであった。兎角の巨躯はらんかんをこえ、ザンブとばかりに河中に投げこまれた。
さすがの宣伝屋ももういけない。「ぬれ鼠の姿にてそれより逐電す」とあり、その後のその名は何の書にも出て来ないのである。
これまで度々出て来た斎藤伝鬼房も異風な服装をしていた人だ。「羽毛をもって衣服を為《つく》り、その体《てい》ほとんど天狗の如し」とある。
佐々木小次郎がはでな服装をしていたことは、吉川さんの宮本武蔵で皆さんご承知であろう。記録にあらわれたところでは、小次郎のあの服装は最後の仕合の際のもので、吉川さんがそれを常住着せたわけだが、当時の兵法家の気風から考えて、いつもあのようなはでな服装をしていた可能性は大いに多い。
撃剣叢談には、武蔵が細川家に召しかかえられるはるか前、武蔵と称する男が熊本に来て、郊外の松原に露営し、金箔《きんぱく》で紋を打っただてなかたびらを着た人目に立つ服装で、夜な夜な兵法のひとり稽古をし、熊本中の高い評判になったことを記録している。
はでな服装も、異装も、すべて宣伝のためである。とくに山伏や天狗まがいの服装をするのは、牛若丸伝説以来、天狗と武術とが最も密接な関係があると、信仰的に思われるようになっていたからである。
この宣伝方法が江戸中期を過ぎる頃になると、神社に掲額したり、大藩の捨扶持をもらったりすることになる。千葉周作が水戸家から、斎藤弥九郎が毛利家から、雀の涙ほどの捨扶持をもらってよろこんでいるのがそれだ。ご三家たる水戸家、大藩たる毛利家から認められているという名が、彼らの狙いだったのだ。名声につながり、利得にもつながるからである。
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[#見出し]  上泉伊勢守
上泉伊勢守信綱、この人こそ文句なしに無双の兵法者といえよう。おそらく、空前にして絶後なのではないかと思う。武蔵が無双であることを説明するにはあれだけの口上を必要としたが、彼にはその必要がない。彼の門弟であった神後《じんご》伊豆、疋田《ひつた》文五郎、柳生|宗巌《むねとし》、丸目蔵人、奥山久賀斎、小笠原玄信斎らは皆当時の一流の兵法者である。彼が無双の剣客であったことは疑うべくもない。
上泉氏は元来は信州下諏訪の社家|金刺《かなざし》氏の分れである。この家は欽明天皇の時の皇居金刺宮に舎人《とねり》として仕えた金刺氏が信濃|国造《くにのみやつこ》として信州へ来、いつの頃からか諏訪の下の宮の社家となったのであるという。
金刺氏には各時代にわたって勇士が出ている。源平時代に木曾義仲に従い、北陸篠原の合戦で斎藤実盛を討ちとった手塚ノ太郎光盛が金刺氏である。諏訪氏もそうだ(もっとも諏訪氏に両系統あって、祭神|建御名方命《たけみなかたのみこと》の子孫と、金刺氏の系統とがあり、前者は上社の社家だという)。奥州伊達家の重臣片倉小十郎景綱の家が金刺氏で、もともとは信州から出たのである。今日信州に製糸会社で片倉というのがあるが、これと系統を同じくしているのである。
上泉氏も金刺の分れで、いつの頃からか今の前橋市の東方四キロほどの上泉《かみいずみ》に土着して、上泉氏と名のるようになり、さらにその東北方六キロほどの大胡《おおご》に移って大胡氏と名のるようになった。この土地にはすでに源平時代頃に大胡氏を名のる豪族がいるが、これは田原藤太秀郷の系統で、もちろん別氏である。もともと名字《みようじ》は名田《みようでん》(私領の田)または居住地から出たものが大部分なのだから、系統のちがう家でも同じ名字をとなえることはめずらしくないのである。源平時代の勇士足利又太郎忠綱は田原藤太系で藤原氏の人だが、同じく足利又太郎と名のる足利尊氏は清和源氏系であるようなものだ。
余談だが、この名田を多く所有している者が大名、少ししか持っていない者が小名、名田を領主にかわって支配する者を名主職《みようしゆしよく》また名主《みようしゆ》といった。後世では封建領主を大名といい、名主はナヌシと訓じて部落会長くらいの格の百姓になって、おそろしく身分がへだたって来たが、そのはじめは主人と主人の領地の管理人のちがいでしかなかったのだ。
さて、伊勢守だ。彼は関東管領山内上杉氏に臣従し、上州|箕輪《みのわ》の長野家の与力衆となっていたが、当時の関東管領上杉憲政は小田原北条氏の圧迫にたえきれなくなって越後に走り、長尾景虎に身を寄せ、上杉の名跡《みようせき》と管理職を景虎にゆずってしまった。長野氏は新たに管領となった上杉景虎(謙信)の指揮に従って、滔々として北侵して来る北条勢、東侵して来る武田勢と戦った。当時の長野家の当主|業正《なりまさ》は中々の豪傑で、この両強豪にたいしてよく戦い、寸毫も地を奪われなかったのであるが、業正が病死するともういけない、武田信玄のためにほろぼされてしまった。
伊勢守はこの時から所領を失って牢人になったが、後しばらく武田家につかえていた。彼の名はこの頃までは秀綱であったが、信玄が自分の名のり晴信の一字をくれたので、信綱と改めたという説がある。事実なら、相当信玄に愛重されていたのであろう。間もなく兵法修業を理由にして武田を牢人した。信玄はおしんで手離そうとしなかったが、信綱は、
「それがしは若年の頃から兵法を執心《しゆうしん》しておこたりなく修行をつづけてまいりましたが、近頃執心|一入《ひとしお》につのってまいりました。お家を退散しましても他家につかえて身の栄えをもとめる量見は露ございません。一筋に兵法を修行したいだけであります。もし他家に奉公する場合には、必ずお許しを得てからにいたします」と言って、やっとゆるされたという。
彼は九州日向の住人|愛洲惟孝《あいすいこう》が日向の鵜戸神宮に参籠し、神示によって開眼《かいげん》したという陰流の兵法を父から受け、さらに鹿島神宮の神職杉本備前守尚勝にはじまる鹿島神流を学び、両流を打って一丸とした新流を創始したと伝えられる。両方の名をとって神陰流と名づけたという説があり、新派の陰流という意味から新陰流と名づけたという説があり、定説がないが、ぼくは後説に賛成である。こういう命名法が当時の人らしいと思うからだ。宗教でも今浄土真宗といっているものは、明治以前には一向宗または浄土宗の新派という意味から浄土新宗といっていたのだ。
信綱の兵法修業の旅には、最初から同伴者があった。子秀胤、疋田文五郎、神後伊豆守らである。疋田は信綱の甥、神後は長野家の遺臣で、ともに彼の弟子であった。
彼はこの旅において、大和で柳生宗巌を門弟として、京で丸目|蔵人《くらんど》を門弟としている。
この時代、柳生家は大和柳生の庄二千石ほどの領主だが、元来はこの地は宇治の鳳凰堂をこしらえた関白頼通によって春日神杜に寄進された神領で、柳生家はそこの奉行職(支配人)だったというから、つまり春日神社の神人《しんじん》だ。支配をまかせられていた土地を横領したわけだ。しかし、戦国時代を経過してなお地方豪族としてのこり得た家は一つのこらずこんなものだ。悪いにはちがいないが、あんまり多くて非難しつくせるものではない。
宗巌は兵法熱心で中条流に達していたので、信綱が奈良見物かなんぞで大和に来たことを聞いて、柳生に招いて仕合を申しこんだ。
「お安いこと。先ず文五郎とお立合い下され」
と信綱は疋田を出した。
疋田は宗巌の構えを見て、
「それでは悪うござる」
というや、ハタと打った。あっという間もなく打たれて、宗巌は負けたような気がしない。
「今一度」
と言って立合うと、
「それも悪うござる」
と言ってまた打つ。
三度まで試みたが、三度とも打たれた。
宗巌はぼうぜんとなった。
次に信綱との仕合になる。
「その太刀では、取り申しますぞ」
というや、信綱はさっと飛びこんで、宗巌の木刀をもぎとってしまった。
宗巌はすっかり我《が》をおり、弟子となり、三年の間信綱を柳生に引きとめて教えを受けたというのである。
信綱の剣名は当時の正親町《おおぎまち》天皇にも聞こえ、勅諚あってお召しになったので、信綱は柳生から上洛し、従四位下に叙せられて昇殿し、技法を天覧に入れたと伝える。
伝説では、天皇の方からお召しになったことになっているが、これはちょいと用心してかかりたい。ことは元亀二年七月だったという。当時は織田信長が皇室のために相当つくし、皇室も一頃のような窮迫はなくなっているが、それでも衰微時代の名ごりで、献金する者には官位をあたえたりなんぞしている。信綱も献金によって、この名誉を獲得したのではないかとも考えられるのだ。この名誉によって流名を天下に宣伝しようというわけだ。
他にも例がある。この時代の常陸真壁郡井手村の斎藤伝鬼房がそうだ。天流を創始し、その兵法を天覧に供し、左衛門尉に任ぜられ、井手ノ判官と名乗っている。伝鬼房くらいの技倆でこういう名誉にあずかり得るなら、ある程度の剣名があれば、献金し、よきつてをもって請願することによって、なんとかなったのではないかと思われるのである。
三年の間、柳生にとどまった伊勢守はまた諸国修行の旅に出たが、その際疋田文五郎を柳生にとどめた。宗巌《むねとし》は疋田について研鑽を積んだが、何年かの後伊勢守がまた柳生に来た時、宗巌は師匠の留守の間に工夫した無刀取りの技術を披露したところ、伊勢守は大へん感心して、
「あっぱれである。今は自分もおよばない。以後は新流を立てて、柳生新陰流と申されてよろしい」
と、允可《いんか》をあたえたという。
伊勢守がその剣技を天覧に供する栄誉を得たのも、この宗巌のはたらきではないかと、ぼくは思っている。都近く住いして、公卿衆にも多数の知り合いがあり、朝廷の内情にも通じてい、どうすれば天覧の栄を得ることが出来るかを、宗巌は知っていたにちがいない。彼が師匠の名誉のため、またわが学ぶ新陰流の宣伝のために、術策をつくして、天覧ということに漕ぎつけたであろうことは、最もありそうなことだと思うのだ。
丸目蔵人も、伊勢守のこの京都近くに滞在中に弟子となったことは前に書いた。
彼は九州肥後人吉の相良家の家来である。少年の頃から兵法を好み、ついに一流をひらいて体捨《たいしや》流と名づけ、その兵法は九州一円に盛行した。豊後の太守大友宗麟も若い頃にこの流を学んで中々上手であったというし、示現流が東郷|重位《しげかた》によって創められるまでは、薩摩でももっぱらこの流が行われたというから、その盛行のほどがわかる。
彼は兵法には長じていたが、智恵はある方ではなかったようだ。薩摩の大口というところは、肥後境から四里しかないところで、ぼくの在所だが、ここは戦国の時代、薩摩の島津家と人吉の相良家との争地になっていて、いく年にもわたって激戦の行われたところだ。はじめここは故陸軍大将菱刈隆氏の先祖菱刈家の領地であったが、菱刈家は島津家の北進の勢いにたえきれず、相良家に助勢をもとめた。
「よし来た」
相良家では二つ返事で承諾して、兵を送って来た。相良家の領地である肥後の球磨《くま》郡、葦北《あしきた》郡は山岳地帯だ。山また山が重畳して、水田地帯が至って少ない。ところが、大口は山間の盆地ではあるが、かなりに広く、また穣々たる美田地帯だ。相良家としてはよだれのたれるほどほしい土地だったに相違ない。まさに渡りに舟であったわけだ。
いくどかの攻防戦がくり返されたが、永禄十二年に行われた戦闘に、丸目蔵人が参加している。蔵人は部将の一人として人吉から来て大口城にこもった。相良家側では守備をかたくして戦わずに時をかせぐ策で、守将らにもその旨をかたく申しふくめておいた。島津家側では何とかして誘《おび》き出して戦おうとして挑みかけたが、相手はその手に乗らない。いよいよ守備をかためる一方だ。
ついに島津側では一計を案じた。すなわち、少数の兵をもって護衛して小荷駄を移動させた。多数の小荷駄だし、護衛の兵は少ない。城から望見して、丸目蔵人はむずむずし、打って出て、あの小荷駄をうばおうと主張した。
「それはよろしゅうなかばい。白昼、しかも当城からまる見えのところば、あぎゃんして移動するのは、当方ば釣ろうとするのばい。貴殿にはあん底に釣針がちらついとるのがお見えにならんのか。ことさら、おどんらは守りば固うして戦うなとの殿のご命令ば受けて来とるとばい」
と、諸将はとめたが、
「ご命令を守るも時によるたい。この敵の有様ば見て手を組んどるのは武士の所業とはいわれんばい。おどんはなんちゅわれようと出るばい」
と言い張り、手兵をひきいて打って出て、まっしぐらに襲撃した。
島津方はほどよく戦い、小荷駄を打ちすてて逃げた。丸目勢は分捕り思うがままだ。大よろこびでいると、敵は逆襲して来て、丸目勢を中につつんで攻め立てた。
「なまいきな! 丸目蔵人を知らんか!」
阿修羅の勢いで丸目は奮戦したが、島津勢ははかりにはかっていることだ。斬れどもはらえども、あとからあとからとつめかけて来る。
城内の相良勢は、丸目勢が全滅になろうとするのを見て、たまらなくなった。城門をひらいて斬って出て救いにかかる。島津方でも兵を増派して助ける。はしなくも大戦さになった。
そこをほどよく戦って島津勢は逃げた。勢いに乗じた相良勢は追撃にかかる。とめたものもいたろうが、調子づいている兵というものは器用に引きまとめは出来ないものだ。追って追って追いまくる。
ところが、ある地点まで逃げると、島津勢は立ちどまり、猛烈な反撃にかかった。同時に、左右の山上から島津の伏兵がおこり立って、相良勢のうしろをとり切ったため、相良勢は散々に打ちなされ、死者百三十六、生捕り一人という損害をこうむって潰走したという。
すべてこれ、丸目蔵人の浅慮とはやり気から出たことである。
この翌年から元亀と年号が改まり、その二年に伊勢守が兵法を天覧に供しているから、大口城の敗戦間もなく、蔵人は京上りしたのであろう。昔から丸目蔵人が禁裡北面の武士であったという説があるが、恐らくこれも前に述べた天流の斎藤伝鬼房と同じく、自分の兵法の名誉のために献金して北面の武士の名義を買ったのであろう。北面の武士の制度などなくなって久しい時代なのである。とすれば、彼の京上りも、北面の武士の名を買うのが目的であったかも知れない。
あるいはまた、彼は本職は神職で、神祇大伯の吉田家あたりに用事があって来たのかも知れない。このへんのこと、人吉の郷土史家あたりには調べがついているのか知れない。ご存知の方があったら、ご教示願いたい。
彼は在京中、伊勢守の剣名を聞き、仕合を申しこんだ。伊勢守は申込みを受け、三度立合って三度とも蔵人を打ちこんだので、蔵人は伊勢守の門下生となったと伝える。
伊勢守がよく他流仕合をしたのは、よほどの自信があったからでもあろうが、一つには彼は「しない」の発明者で、これをもって仕合したからだ。おそらく、当時のこととて、
「しないなどでは力がこもらぬ。木剣でなくばいやでござる」
という者もいたろうから、そんな時には相手には木剣を持たせ、彼自身はしないを用いたろう。よほどに自信がなければ出来ることではない。彼がしないを発明したのは、この方が稽古に便利なためであるが、一つには敵を傷つけないためであったろう。彼の人格の立派さがしのばれるのである。
当時のしないは竹を裂いて袋に入れたもので、今日のしないはそれが変化したのだ。
江戸時代になって、丸目は柳生宗巌の子の但馬守宗矩が将軍家の師範として天下一の剣名を謳われているのを心外とした。
「石舟斎の小セガレごときが天下一とはかたはらいたい。あれが天下一ならおれは何だ」
と、はるばる江戸へ出て、宗矩に仕合を申しこんだところ、かしこい宗矩は下へもおかぬ鄭重な待遇をしたので、すっかり丸められ、しばらくとどまって代稽古をしていたというのだ。どう考えてもかしこくないが、この木強一点ばりの単純さがぼくには魅力である。
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[#見出し]  兵法者
剣術の流派はやたら多数ある。いくつあるかあたって見たこともないが、二百や三百ではきくまい。ぼくらのようにそういう書物に触れる機会の多いものでも時々はじめて見る流名に逢っておどろくのだから、いくつあるかわからない。とうていあたりつくせるものではない。
それでは、この無数の流派のなかでどれが一番すぐれているかというと、どれもこれも大体似たりよったりのものではないかと思う。ある流派にすぐれた天才が出て来れば、その流派が名高くなって、従って後々まで栄える。何人もの天才が出て来ればなおさらのことだ。
剣術のようなものには、基本的な型より、天才――つまり、持って生れた鋭い気性や、鋭敏な運動神経や、軽捷《けいしよう》強健な体力が大切であるから、流派などなんでもかまわないとも言えるのだ。何流がすぐれ、何流がおとるなど言うのは、この最も肝要な天才を、考慮に入れない阿呆の見《けん》だ。第一、流派それ自体に優劣があるなら、今日多数の流派がのこっているはずがない。どこのバカが劣っている流派を学ぶものがあろう。
しかし、こう言い切ってしまうと、剣術家は飯が食えない。したがって、互いに自派の優秀であることを主張してやまない。彼等も商売なのだ。自派の流名を大事にしたことは驚くほどである。積極的には宣伝に、消極的には自流の名をおとさないように、その努力と神経質なほどの気のくばりようは大変なものだ。
証拠を挙げよう。
先ず、その宣伝ぶり。
ある年、加藤清正が参覲交代《さんきんこうたい》の帰途、伊勢の桑名に泊まったことがある。当時、尾張の領主であった松平忠吉《まつだいらただよし》(家康の第四子)の家来稲留一夢は、清正と旧知の仲であったので、御機嫌うかがいにまかり出た。
一夢は、当時の一流の砲術家である。彼の閲歴は面白い。以前|細川忠興《ほそかわただおき》に仕えていた。上杉景勝《うえすぎかげかつ》が会津で兵を挙げ、家康は諸将をひきいて討伐におもむいた。忠興もこれに随行した。人も知る如く、この虚をねらって、石田三成は西で兵をおこしたのであるが、その手はじめに、大坂にある諸藩邸にいる諸大名の夫人等を人質として城内に強制収容しようとし、最初にねらわれたのが、細川家であった。細川家ではこれを峻拒《しゆんきよ》し、討手をさし向けられ、忠興夫人|明智氏《あけちし》、本名お玉、キリシタン名ガラシヤは、壮烈な自殺をとげ、留守居の将士は善戦健闘して戦死したり、自殺したりした。有名な話である。
ところが、稲富一夢は、留守居の将の一人でありながら、逃亡してしまった。工夫になる砲術が自分の死と共に絶えるのを惜しんだためであるという説があり、女に心を引かれたためという説があり、臆病風に吹かれたのだという説があり、確定しないが、とにかくも逃亡した。
忠興は激怒した。
「臆病未練、武士の風上《かざかみ》にもおけぬやつ」
天下の諸侯に通告を発して、一夢を召しかかえてくれるな、もしもお召抱えこれあるにおいては、当方を敵と思し召され候ものと量見いたすべく候、と、申しおくった。武家奉公を構《かま》ったのだ。
しかし、松平忠吉は、一夢の技術を惜しんで、これを召しかかえたいと思って細川家の諒解をもとめた。他の大名ならだが、忠吉は家康の四男だ、欲せざる所ではあったが忠興も諒解しないわけには行かなかった。
さて、清正はきげんよく一夢に逢って、よもやま話をしていたが、その席にふだんから将来を嘱望していた若者五人を呼び出して、
「一夢、頼みがある。この者共は皆わしの家の物頭格の者の伜《せがれ》共だが、これをその方の門人にしてくれまいか」
と頼んで、その場で師弟の契約をさせた。しかし、若者共をおいて行くわけではなかった。皆連れて帰国した。
若者共は、いずれ修業のために尾張に行くように仰せ出されるのだろうと、心待ちにしていたが、清正は一向にそのけはいを見せない。一夢のことを言い出しもしない。忘れ果てたもののようだ。
若者共は不平でならない。
「師弟の契約をしたというだけで、一手教えてもらったわけでもない。これではなんのために入門したのかわけがわからない。忘れておいでなのかも知れない。打ちそろって、お願いしてみようじゃないか」
「よかろう」
相談一決して、清正の前に出た。話を聞いて、清正は微笑した。
「汝《わい》ら、何を呆《ぼ》けたことを言う? 鉄砲なんどというものは、独り稽古で沢山のものじゃ。練習の功を積みさえすれば、自然に技は熟達するのだ。手間暇かけて尾張なんぞに行くことはさらにない。おれが汝《わい》らを一夢と師弟の約束をさせたのは、ほかに思う所があったのだ。一夢のような武芸者は、名聞《みようもん》を好む故、名ある家中の相当な身分の者を弟子にすると、必ずこれを言いふらすものだ。おれの狙いはそこにある。戦争でもあって、おれが籠城でもすれば、この城には稲富一夢が高弟ナニガシ等が五人もこもっていると、敵はおそれるにちがいないからな」
この清正の言葉の中に、当時の武芸者がいかに自己宣伝につとめたかがわかるのである。
一羽流《いちうりゆう》の流祖|諸岡一羽《もろおかいちう》に、三人の弟子があった。根岸兎角《ねぎしとかく》、土子泥之助《つちこどろのすけ》、岩間小熊《いわまこぐま》。老年になって一羽が癩《らい》を病んだのをきらって、兎角は一羽の許を去り、自らの剣法を微塵流《みじんりゆう》と名づけ、はじめ小田原で、次に江戸で門弟をとり立て、大へん栄えた。
この間における兎角の宣伝こそすさまじいものであった。「兵法天下無双」と称し、日常の服装は山伏姿で、天狗に兵法を習ったと言いふらしていた。牛若丸伝説以後、天狗と武術とは切ってはなせないものとの信仰が日本には出来ているからだ。
兎角はあとで、その不実を憤った岩間小熊と仕合して負け、行くえをくらましてしまっているが、戦国末期から江戸初期までの武術家がどんなに自己宣伝につとめたかを知ってもらいたいのである。
兎角などという男は特別だというなら、塚原卜伝はどうだ。彼は旅行中、いつも、
「大鷹《おおたか》三もとすえさせ、乗換馬三匹ひかせ、上下七八十人ばかり召し連れ歩き、兵法修業いたし、諸侍《しよざむらい》上下共に貴むようにしなす」
という仰々《ぎようぎよう》しい旅装《たびよそおい》であったというではないか。
吉川英治氏はその著「宮本武蔵」の中で、佐々木小次郎に常住華麗豪奢な服装をさせている。一体小次郎という人はほとんど伝記のわからない人である。生国もわからない。生年もわからない。だから、死んだ時がいくつであったかもわからない。わかっているのは、年少にして西国の麒麟児《きりんじ》といわれるほどの剣名をはせたということと、舟島で武蔵と仕合して殺された時のことだけだ。彼のあの華美な服装はその最後の時の服装なので、常住ああだったかは実を言うとわからないのである。
吉川氏は、小次郎を傲慢にして驕気にあふれ出世欲の強い性格の人物に設定したので、その効果上、常住あの派手な装束《しようぞく》をさせたわけだが、あの頃の武芸者の一般的風俗をよく表現しているのである。
次に流名をおとさないための努力の例。宮本武蔵が、その取り立ての門人、青木丈右衛門(鉄人流の祖・吉川英治氏の宮本武蔵に出て来る丈太郎少年のモデルはこれだ)が他流仕合用の木剣を持っているのを見て、顔色を変えて怒り、
「その方ごとき未熟な腕で他流仕合とは何事。他流仕合など申し込まれたら、人知れず立ちのけばいいのだ。おれほどの腕になっても、めったにはしないのだ」
と散々に叱りつけたという話は有名だが、武蔵のこの訓戒は、当時の仕合がいのちがけであったからではない。負ければ自流の名をおとすからである。
彼等が他流仕合をきらい、出来るだけ避けたことは以上の通りだ。しかし、勝ってみせなければ名声を上げることが出来ないから、相手をたおせば大いに名声が上るという時にはやった。だが、それも勝てるという自信のある時だけであった。つまり、戦わない前に勝っている時だけ戦ったのだ。この自信のない時には逃げた。
この考慮がなく、名声をあせって向う見ずな冒険ばかりした者は敗死した。一流の人々にたおされている連中は、皆それである。
柳生十兵衛の話だという。十兵衛が尾張家に遊びに行くと、尾張侯の前に尾張侯の知合いの浪人が来ていた。来客が十兵衛であると聞くと、一手教えてくれと言ってやまない。教えてくれというのは辞令で、仕合してくれという意味だ。
「無用なことだ」
と、十兵衛はことわったが、尾張侯まですすめるので、やむなく承諾した。
双方共、木剣をとって庭に下り立って、相寄ると見えるや、浪人の剣は十兵衛の胴にあたり、十兵衛の剣は浪人の面にあたった。
「おわかりか」
と、十兵衛は言った。
「相打ちでございますな」
と、浪人は言う。高名な十兵衛ほどの人と相打ちになったので、うれしげであった。しかし、十兵衛は首を振った。
「拙者の勝ちだ」
浪人は怒った。
そこで、再びやることになったが、こんども、十兵衛は面を打ち、浪人は胴を払うこと、前と同じであった。
「拙者の勝ちだ」
と、十兵衛は言う。
浪人はいきり立った。
「真剣ならば、そなたは死んでいる」
と、十兵衛は説明した。
「さらば真剣にて願いましょう」
と、浪人は意地になった。
「可惜《あつたら》、命を。無用のことだ」
と、十兵衛は言ったが、浪人はきかない。見ていた尾張侯も、十兵衛の説明がわからないので、すすめた。
「さらば、いたしかたありません」
剣をぬいて立ち上ったかと思うと、浪人は真向を口まで斬られてたおれた。十兵衛は、尾張侯に自分の胴を見せた。小袖のわきが切り裂かれていたが、下の襦袢には及んでいなかったので、尾張侯は舌を巻いたという。
この浪人だって、柳生十兵衛ほどの人に勝負をいどむくらいだから、相当な兵法者《ひようほうしや》であったには相違ないが、あせって冒険したために、非業の最期をとげなければならなかったのだ。ひょっとすると、この浪人も一流を発明していたのかも知れないが、こうして敗死すれば、流名もまたほろんでしまう。
そんな例は少なくない。
佐々木小次郎の敗死によって、西日本においてあれほど盛行していた巌流はほろんだのだ。微塵流も根岸兎角の敗けによって、あとはあるかなきかのはかない存在になっている。めったに他流仕合などされることではないのである。
武蔵など生涯六十余度の立合に一度も敗れていないというが、そのはずだ、勝てると見きわめのつく相手とでなければ立合わなかったのだから。しかし、これを以て武蔵の技倆を割引きして考えてはならない。一流中の一流の剣客は皆そうだったのだから。
ついでに、思いつきを書いておく。「仕合《しあい》」という言葉は「はたし合い」という言葉の上が切れて出来たのではなかろうか。江戸初期までの「仕合」が、実質的には「はたし合い」と少しも違わなかったことは人の知る通りである。果してそうなら、語原的には「仕合」又は「為合」と書くべきで、「試合」と書くのは間違いであろう。
要するに兵法者は兵法屋なのである。商売なのである。積極消極、宣伝につとめること、観音教や草月流と少しも違いはしないのである。
数年前、親戚の家で剣術の伝書を見たことがある。他人が見ても、さっぱりわからないのである。わざの名を一つ一つ書いて、口伝《くでん》、口伝、とだけ書いてある。
シノギ
口伝
浮舟
口伝
カツギ
口伝
と、こんな調子で書きならべてある。講談や小説に伝書盗みのことがよくあるが、こんな伝書を盗んだって、何にもなりはしない。伝書というものを知らないで作為《さくい》したものであろう。
剣術の技術はつまる所は心《しん》・意《い》・体《たい》の一致だ。習練の功を積んでその境地に達した者にしてはじめて技術のカン所がわかるので、そこに至らないものは、たとえくわしく教えてもらったってわかるはずはない。だから、一生その流派を学んでいても、ついに秘奥に達し得ない者もあるわけだ。また、他流の人でもその流の秘奥に達しておれば、数日あるいは数分の伝授で、他流の秘奥を会《え》し得るわけだ。
武術にかぎらないが、すべて、技術というものは、一心不乱、その道に打ちこんで狂気の状態になる期間がないと、深い所までは行き得ない。スポーツぐらいのつもりで、過度にならないように、衛生的にやっていては、決してある程度以上には伸びない。
山岡鉄舟の道場「春風館」は有名な荒道場で、途方もなく荒い稽古をさせた。入門者は満三年、一日も怠りなく稽古を積むと、終日立ち切り二百面の仕合をする。これを無事におわると、初級免状だ。さらに数年の稽古を積むと、三日間立ち切り六百面の仕合をやる。無事におわれば、十二ヵ条目録の許しを受ける。つまり、中級免状だ。さらにまた稽古を積むと、今度は七日間立ち切り千四百面の仕合だ。かくてはじめて目録皆伝を許され、青垂《あおだれ》の稽古道具一組を授けられる。奥許し、春風館卒業生というわけだ。
この立ち切り仕合の間は、外出一切禁止、三食は粥と梅干とにかぎられ、仕合の相手には血気な猛者、あるいは飛び入りの新手《あらて》を選抜してあてたというから、無茶な話だ。だから立切者《たちきりしや》は五体はれ上り、血尿が出たという。
身心を鍛えるためではない。これでは精神力は別として、からだはかえって損じてしまう。思うに、身体疲労困ぱい、精神も|もうろう《ヽヽヽヽ》となって、反射運動だけで受けつ流しつ斬りこみつしている間に、自然に妙手が出る、それを会得させるためであったろう。鉄舟は禅で大へん苦労した人だ。この方法は禅家の修業方法から来たものに相違ない。
昔の人は精神偏重論者で、精神力には限界があって最大限に働かしても、物質力を最大限に活用し得るだけであるということがわからなかった。精神力で何でも出来ると思いこんでいた。だから、こんな乱暴な稽古法を案出したわけだが、そのためだろう鉄舟は短命だ。五十三で死んでいる。
鉄舟の義兄である山岡静山もまた荒稽古をした人である。この人は槍術の妙手で、その方では日本一といわれた人であるが、門人に教授する以外、自ら撃刺《げきし》を試みること日に数千回、往々三万回に及んだという。彼は二十七の若さで死んでいるが、その死は彼の精神主義者であったことをよく物語っている。
その頃、彼は脚気をわずらって臥床していたが、彼が昔就いて水泳を学んだ人の技能をねたんで、水中で殺そうという密謀がめぐらされていると聞いて、即座に起き上って救いに行こうとした。静山の母はおどろいて、
「なんという無茶なことをするのです。衝心《しようしん》でもしたらどうするのです」
と、いましめたが、静山は、
「病気は気からと申します。精神さえしっかりしていれば大丈夫です」
と、言張って出かけ、師のそばにあって泳いでいるうちに衝心をおこして、あえなくなったのだ。
精神力の無限を信じて無茶稽古をしなければ、あらゆる技術は神妙の境地には至り得ない。芸というものの業《ごう》であろう。
幕末の武芸者についてだけ述べたが、ずっと以前の兵法家だって、その点は同じだ。伊藤一刀斎の「夢想剣《むそうけん》」は、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に三七二十一日の参籠をして、その満願の日、神前を退ろうとした時、無意識にはらった刀に、おのれに迫る敵を両断していた所で発明したものだという。
春風館の立ち切り稽古は、この無意識の境地をつくり出すためなのである。
鉄舟、柳生但馬守、宮本武蔵等、古来の剣客が禅に引かれる者が多いのは、この無意識の境地のためであろう。禅が分別心を排撃することは、皆さん御承知であろう。
一流の剣客には人を斬ったことのない人が多い。戦国から江戸の初期にかけては、戦さに出たり、また仕合が果し合いなんだから、斬っている人が多いが、以後はほとんどない。
太平の時代には、人を斬る場合は四つしかない。
一、上意討ちの場合
二、敵討ちの場合
三、喧嘩の場合
四、賊に逢った場合
喧嘩は問題にならない。一流の剣客はこちらから喧嘩などはしない。吹っかけられたら体《てい》よく逃げるだろう。賊に逢う場合も考えられない。逢ったって、賊なんぞ働くやつは大した腕ではないにきまっているから斬らないでやっつけるだろう。
敵討ちの場合は、一流の剣客がそれをしたという例はない。荒木又右衛門が伊賀越えで助太刀したくらいのものだが、荒木は一流の剣客ではあるまい。
のこる所は上意討ちだ。これは江戸初期には往々あるが、その以後にはない。
元禄時代日本一の剣客といわれて、堀部安兵衛の師であった堀内源太左衛門正春も斬ったという話を聞かない。片桐|空鈍《くうどん》、針ケ谷|夕雲《せきうん》、下って戸ケ崎熊太郎、平山行蔵、皆斬っていない。幕末維新のさわがしい時代となっても、斎藤弥九郎、千葉周作、桃井《もものい》春蔵、いずれも斬っていない。
斬らないといえば、維新志士も、一流の連中は斬っていない。西郷、大久保、木戸、高杉、真木《まき》和泉守、武市半平太、坂本竜馬、中岡慎太郎、皆斬っていない。木戸は斎藤弥九郎の練兵館の塾頭までつとめたという剣客であり、武市半平太も桃井春蔵の塾で塾頭をつとめたほどの人であり、坂本竜馬は桶町《おけちよう》千葉の高弟であるが、三人とも斬っていない。斬っているのは二流に少し、大ていは三流以下の連中である。
人を斬るのは、剣術以外の特別なコツがあるらしい。近藤勇は道場剣術はヘタで、江戸で道場を開いている頃には、他流仕合の者が来ると、練兵館に使いを走らせ、その頃練兵館の塾頭をしていた大村藩士で、明治になって子爵になった渡辺登に来てもらって、撃退したという。そのお礼が酒一升とか、鰻飯一人前とかにきまっていて、渡辺はそれを楽しみに呼ばれれば喜んで出かけたという話が伝わっているくらいだ。
佐久間象山を暗殺した肥後藩士、河上彦斎《かわかみげんさい》は人斬り彦斎と異名されたほどの人斬りの名人であったが、そう剣術が上手であったわけではない。彼には独特の人斬り術があった。
「踏み出した右の膝頭を屈し、左足をうしろにのばして斬れば斬りはずすことはない」
と、言っていたそうだが、誰でもがやったってやれるものではなかろう。そこには説明し難いコツがあったに相違ない。
やはり人斬りの異名を取った薩摩の田中新兵衛は、元来が船頭で、(一説には薬屋)これも特に剣術が上手であったとは聞かない。土佐の人斬り伊蔵、岡田伊蔵は、武市半平太の門下生だが、多少使えたというくらいのものだろう。
兵法者が刻苦勉励して兵法を習練したのは、兵法が好きで好きでたまらなかったからであることは言うまでもないが、それによって禄位をもとめるためでもあった。
しかし、兵法者が兵法によって高禄を得たという例はない。柳生家は一万二千何百石の大名であるが、これは兵法で得たのではない。最初は、豊臣家によって没収された本領二千石ほどを、働きの次第によってはかえしてやると徳川家に言われて、徳川家のために豊臣家や石田三成に対する隠密をつとめ、関ケ原の戦いにも従軍して武功を立て、関ケ原役後本領を安堵したのが手はじめで、その後、度々の武功や政治上の功績があって、あの身代《しんだい》になったのである。兵法の技術を買われてのことではないのである。
富田《とだ》越後守重政は中条流の兵法者で「名人越後」といわれたほどの人で、前田家に仕えて一万三千石取っていたというが、これは親の代からの前田家の家臣で、度々武功を立て、前田家の身代が太ると共に越後の身代も太って行ったので、これも兵法の技術だけで得たものではない。
純粋に兵法の技術だけで得た禄は、田宮流居合の田宮長勝が紀州家で八百石、槍の梅田杢之丞が島津家で七百石というあたりが最高ではないだろうか。
神子上典膳《みこがみてんぜん》(後の小野次郎右衛門)は、最初三百石で徳川家に召しかかえられている。
宮本武蔵も、仕官をあせって、幕府に仕えようと運動したり、尾張家に仕えようと運動したりしたが、いずれも不調で、老年になってから細川家に客分として仕え、格式は大番頭《おおばんがしら》格、俸禄は稟米《りんまい》三百石受けている。
稟米三百石というのは、知行地をもらって、そこから租米として取り上げるものではなく、藩の米蔵から三百石もらうのだ。従って、七百五十石位の知行取と同じ程度の収入になる。
やはり、兵法の技術だけでは、七八百石が最高というのが動かない所だろう。
しかし、一応ありつくには工合がよいし、ありついてしまえば戦功次第ではずいぶん出世も出来るわけだから、兵法修業はなかなか盛んだったが、太平になってしまうと、もういけない。最初ありついた時の禄から上れない。出世の糸口としては役に立たなくなった。
そこで、野心ある有為な青少年の目は儒学に向う。
儒学は、家康が、生来の好学の性質と、太平の気風を馴致したいとの政治上の目的とによって、大いに奨励したのであるが、その奨励がああまで効果があったのは、当時の大名等によって儒学が政治学だと思われたからである。
当時の大名は、多くは出来星《できぼし》大名だ。無学文盲といってよい。彼等の政治のとりぶりは、主人であった人のやり方や、先輩のやり方の見様見真似であるか、自己のカンでやっているに過ぎない。
いかに彼等が無学であったかは、本多平八郎忠勝の話でわかる。林羅山が家康に召抱えられた時、平八郎は羅山に問うた。
「そなたは学者じゃということじゃが、天神様とくらべればどうじゃ」
羅山は笑って答えなかった。
そこで平八郎は家康の前に出て聞いた。
「かようかように羅山に聞きましたが、羅山は笑ってばかりいて答えてくれません。一体、どちらの方が学者でありましょうか」
家康もまた笑って答えなかったというのだ。
平八郎ほどの名将でも、学者といえば天神様だけしか思いつかなかったのだ。可愛ゆくなるほどの無学ぶりではないか。
こんな調子だから、政治を取っていても、不安でならない。なにかよるべき権威ある法則がほしいと考えたのは無理からぬことだ。
ところが、儒学は経世済民の学であるという。大名等は飛びついて、その学問をやる者を争って高禄で召しかかえたのだ。
有為な若者等が争って儒学に走ったのは当然のことだ。寛永以後、大儒者が輩出して、儒学の黄金時代が現出したのはこのためだ。
実際、儒学を政治上に活用して政治大いに行われた大名もいくつかある。尾張の義直しかり、水戸の光圀しかり、熊沢蕃山《くまざわばんざん》を執政たらしめた備前の池田光政しかり、野中兼山を執政たらしめた土佐の山内忠義しかり、安東省菴《あんどうしようあん》を用いた筑後柳川藩しかり。
しかし、この儒学も実際学んでみると、そう右から左に実際政治に役立つものではなく、要するに大体の原則を示すだけのもので、この原則を現実の政治に適用するとなると、普通の儒者では駄目で、経世家的手腕をもった儒者でなければならないということがわかった。
そこで、諸大名も、儒者であるからといって、最初から高禄をくれては召しかかえなくなった。学問と政治的手腕とを兼ねている人物はそういるものではない。
野心ある若者等は、他に出世の途をさがしはじめた。そこにあらわれたのが軍学だ。
一体、江戸時代における諸大名の家は、万事が軍隊組織になっていて、いつ戦争がはじまっても即応出来る体制でいなければならんことになっていた。だから、平時には必要もない武士を多数抱えこんでいなければならなかったわけだが、太平の時代になると、実戦の経験ある古老は次第に死にたえ、戦争のしぶりがわからなくなった。これでは、万一の場合、不覚を取るかも知れないと皆不安だ。
この要求に応じて出て来たものが「軍学」だ。兵器の使いよう、軍隊の編成法、陣の布きよう、駆け引き、築城法、陣地の構築法、皆教えてくれるというのだ。諸大名は争って飛びついた。青年等も争って学んだ。たしかに出世には有利な階段であった。
この間の事情が、最もハッキリとあらわれているのは、山鹿素行の生涯だ。彼は出世欲満々たる人であったが、そのはじめは儒学を学び後に軍学に転向して、赤穂に仕えて千石食み、最後には一万石でなければどこへも仕えないといって、浪人軍学者として、世を終っている。
ところが、この時代の軍学なるものが、実をいうと大インチキなのだ。
日本の軍学の始祖は、小幡勘兵衛景憲で、これが、武田信玄の戦法を祖述し整理したと称して「甲州流」と名づくるものをはじめ、これに対抗して「越後流」または「謙信流」がはじまり、「甲州流」から「北条流」が出、これから「山鹿流」が出た。その外、「長沼流」というのがあり、由井正雪などという男は「楠流」をはじめた。
これらの軍学が大インチキであるという理由は、これら軍学者共はすべて甲陽軍鑑であるとか、甲越軍記であるとか、太平記であるとか、いわば小説にすぎない軍記類を材料にして戦術を構成しているからだ。実際に戦争のある時代なら、現実に使ってみれば、役に立つ法か、立たない法か、即座にわかるわけだが、実験する機会がないのだから、どんなウソを言ってもばれる気づかいはない。小才がきいて、弁舌がさわやかで、風采がよければ、大軍学者として通るわけだ。由井正雪がその好適例である。
したがって、心ある人はまるで買わない。荻生徂徠は、今の世の兵学は全部インチキだ、「孫子」一部だけで十分だ、と、言っている。
薩摩の島津家久も、おれの家にはおれの家の陣法がある、甲州流じゃの、越後流じゃの、やくたいもない、と、言っている。
徳川家康が、小幡勘兵衛に軍配団扇のことを聞いた所、信玄公の故実によって調進して献上します、と言って、十数日の後、こしらえ立てて献上した。
表に日月を金銀で出し、裏に北斗七星を銀で象眼《ぞうがん》して、大へん美しいものであるが、全部が鉄でこしらえてある上に形が大きく、おそろしく重かった。
家康は、ちょっと持って見るや、グワンと投げ出して、
「こんな重いものを持って、どうして兵の指揮が出来るものか」
と、どなりつけたという。
「甲子夜話」の著者、松浦静山侯はずっと後世の人で、その家の軍学である山鹿流を信奉していたが、その静山侯が、山鹿流の秘伝書の中に、山をへだてた向うの谷川から山越しにこちらに水を引く法があるのを発見して、実験して見たことが、甲子夜話に出ている。
節《ふし》をぬいた竹をつなぎ合わせて、片端を谷川につけ、片端をこちらにおいて、こちらの筒口で火をドンドン焚けば、水が吸いよせられて来るというのが秘伝だ。それをやってみた。三日三晩焚いたが、駄目であったというのだ。
「まことにいぶかしいことだが、秘伝書に書きのこしてあること以外に、口伝があるのかも知れない」
山鹿流の堅い信奉者である静山侯は、まだこんな未練がましいことを書いている。
最後に刀のことを少し書く。
刀を武士の魂などと言ってもったいをつけ出したのは、太平の時代になってからのことだろう。大事にはしたに違いないが、要するに道具なんだ。宮本武蔵は、舟島へ渡る途中、脇差で櫂の折れをけずって木剣をこしらえている。ナタやカンナがわりに使っているのだ。後世の武士の刀に対する観念から見れば思いもよらないことだ。
一体、武器というものは実用を遠ざかってはじめて、神聖視されるものらしい。日本には銅器時代はないのだそうだが、それでも銅鉾や銅剣が発掘される。古代の豪族共がもう実用には供されなくなったこれらのものを、大陸から輸入したり模造したりして、おのれの権威の象徴として飾り立てたからである。鉄砲が伝来して、弓があまり使われなくなると、戦術のことを「弓矢の道」といい、立派な武将(家康)のことを「海道一の弓取り」などといい、江戸時代に入って、槍が日用の武器から遠ざかると、「槍一筋の家柄」などという。鉄砲なぞ、終始有利な実用武器だったので、ついに神聖視されることなくしておわった。
武器にはかぎらない。あらゆる礼服は前時代的なものだ。神職、僧侶の服装などその代表的なものだ。
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[#見出し]  史談うらからおもてから
アイヒマンと沢野忠庵
ヒットラーの輩下として、大戦中ユダヤ人虐殺をやったアドルフ・アイヒマンが捕えられ、死刑にされたので、ちょっとトピックになっていますね。ぼくはあの男は本当はユダヤ人じゃないかという気がしているんですがね。非常にヘブライ語がうまかったんだそうですね。学生時代からユダヤ問題に関心を持って、ヘブライ語を始めたんだと本人が言っていたそうですが……。それからもう一つ、彼を執拗に探索したユダヤ人がいるでしょう――いじめられた奴で、これは写真もなにもなかったのを、苦心さんたんして、アイヒマンの若い時代の恋人をさがし出し、そこで写真を盗み出したんだそうですがね。その眼の形がユダヤ人特有の形をしていたのだそうですね。ユダヤ人特有の眼の形といいますと巴旦杏《はたんきよう》の形ですね。オスカー・ワイルドの「サロメ」の中にたしかそうありましたね。
彼は裁判の結果、死刑になったのですが、ユダヤ人であることが明らかになったのであっても、おそらくイスラエル政府は発表しなかったのかも知れませんね。ヨーロッパ各国の人々がユダヤ人をきらうことは、われわれ日本人には想像がつかないほどだそうですから、アイヒマンがユダヤ人だということがわかっては、それ見ろ、やはりユダヤ人というやつは悪いっていうことになるというので、かくしたでしょうからね。結局永久の謎ということになりましょうね。
人間の心理の中には、自分の罪や欠点を隠すために、他人の罪や欠点をあばき立てるといういやなものがあるのですよ。これは誰にでもある心理です。普通の人間はそれを抑制して、その心理に支配されないのですが、悪いやつはその抑制心がない。何とかいう共産党の大立物がいましたね。戦後一時大へん羽ぶりのよかった。ちょっと名前を忘れたんですが、自分がアメリカのスパイだったのに、人をスパイだスパイだと攻撃して葬ることを常套手段にしていた男が、あれなどその好適例です。
それで、ぼくは歴史時代にもそういうやつがいやしないかと、ちょっと考えてみたんですがね。急には思いつかないけど、かつてのキリシタン弾圧の頃、そういう奴はずいぶんいたような気がしますね。
弾圧が峻烈になって、きびしい検挙がつづけられると、恐怖にかられて同宗の連中を密告して、当局に忠勤をはげみ、自分に向けられる嫌疑をそらしたというやつがね。つまりキリシタン検挙の目明しになるわけですね。
沢野忠庵などという男は本来はポルトガル人で名をクリストファン・フェレイラといって、向うから来た神父《バテレン》で、ずいぶん熱心に布教に努力して、キリシタンの間で尊敬されていたのですが、捕えられて拷問され、苦しさにたえられず、仏教徒に転宗し、沢野忠庵という日本名に改め、幕府のキリシタン弾圧を大いに手伝ったのです。キリスト教が邪宗であることを論じた日本語の書物まで書いているのです。日本人を妻にもらって、幕府から扶持をもらって、気楽な生活をしていましたが、キリシタンにかえっていることがわかって、死刑に処せられていますから、キリスト教にはたえず引かれるものがあったのですね。
それなのに残酷な上にも残酷にキリシタンを弾圧し、キリスト教の偽妄を証明するような書物まで書いているのです。そうしなければ不安だったのでしょうね。自分の心もこわいが、幕府もこわかったのでしょうよ。
普通の人間はそういうことをみずから恥じて、それを抑制するのですが、人間は悪い奴ほど現実派で、現世的欲望が強烈で、その欲望の情熱の前には抵抗が弱いので、そういうことになってしまうのですね。ころび切支丹沢野忠庵以外にも、歴史上似た人物がいくらもありそうな気がしますがね。つまりアイヒマンもナチのユダヤ人迫害の惨烈さを見て、この沢野忠庵的な心理に駆られたのじゃないですかね。
目明し・諜者・放免
沢野忠庵は切支丹探索の目明し兼通訳になったのですが、この目明しというやつが、元来は罪人なんですよ。法律にふれるようなことをいつもしている小悪党が、お上に自分の罪をお目こぼししてもらうために、いろいろと悪いやつのことを密告するのです。悪い奴だから悪いやつらの内情をよく知っています。蛇の道はへびといいますからね。目明しというのはそれなんですよ。良民は一人もいない。皆罪余のやつか、小悪党で密告するかわりに、日常のちょいとした悪事をお目こぼしをしてもらっているやつなんです。地方のバクチ打ちで目明しを兼業しているやつを二足のわらじを履くといって、バクチ打ちなかまできらったというのは、そのためですよ。なかまを売るのですからね。
近頃の捕物帳に書かれているようなあんなりっぱな目明しはいやしません。目明しには人を捕縛する権力なんぞないものなんです。彼等は密告し、案内するだけのことで、捕縛は同心がするのです。大捕物になると与力が指揮するのですが。彼等は刑事ではないのです。刑事は同心ですよ。明治以後になって警視庁に諜者というのがいまして、いろんな犯罪を嗅ぎまわって来ては、これを密告しました。これが江戸時代の目明しです。皆脛に傷のあるやつらで、なかまの秘密を売ることによってお目こぼししてもらったり、少しばかりのお手当をもらっていました。警視庁の職員ではない。刑事の一人一人がそれぞれ手なずけていたのです。諜者に人を捕縛する権力があろうはずはない。江戸時代の目明しも、もとより奉行所の職員ではない。同心が手飼いしていたのです。
明治時代の諜者、江戸時代の目明しの起源をたずねると、平安朝時代にあります。ホウメンというやつがそれです。無罪放免の放免です。これはもともと罪人です。軽罪を犯したやつもいれば、重い罪を犯したやつもいるが、役に立つと当局が見込んで、その罪をゆるして放免し、それを検非違使《けびいし》庁の奴隷に使った。これが目明しの起こりですね。毒を以て毒を制するという方法です。弊害はもちろんありますが、即効のあることは確実ですから、つい使っているうちに習慣になり、やがては制度的なものにまでなって、連綿と警視庁時代までつづいたのですがね。
そうです。放免にはなかなか大泥棒だったやつもいるんですよ。たしか十訓抄《じつきんしよう》だったと思いますが、ちょっと記憶がはっきりしませんが、とにかく鎌倉時代に出来た書物です。短篇の説話をたくさん集めた書物ですが、その中に交野《かたの》八郎という盗賊の話が出ています。大変なやつでしてね。力強く、武勇すぐれ、身が軽く飛鳥のようで、足が速く、水泳が達者、水中をくぐること魚のようなやつと書いてあります。
こいつを後鳥羽上皇が大へん可愛がって、自分の召使いにされたというのですが、上皇がこれを可愛がられた動機というのが、面白いです。
後鳥羽は今の京都府と大阪府の境の大山崎、あすこからちょっと南寄りに水無瀬《みなせ》というところがありますが、そこに離宮をお営みになって、いつもいっておられた。現在ではそこは水無瀬宮という神社になっています。増鏡に、「見わたせば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」という後鳥羽の歌が出ていますが、ここでの御詠《ぎよえい》であることは言うまでもありません。
さて、交野八郎が摂津の今津を巣窟にしているということがわかったので、いく度か捕手が向ったが、強くて強くて捕えることが出来ない。後鳥羽は水無瀬宮に行っておられる時、この話をお聞きになった。
後鳥羽上皇と交野八郎
後鳥羽上皇は何分北条氏征伐を企てたり、御番鍛冶の制をこしらえたりして、天皇様にめずらしく武勇好みの方なので、西面の武士を捕縛に向わされ、そのあとでご自分も行ってごらんになりました。淀川を船でお下りになって、今津につかれると、今や捕物の真最中だ。ところが、交野八郎、おそろしく強い。元来西面の武士というのは、上皇がとくに武勇すぐれた者をと鎌倉幕府に命ぜられて進上させ、上皇ご自身の親衛兵とされた連中ですから、いずれも抜群の勇士であるのに、八郎一人にかけなやまされてあぐねている。
上皇は気をいら立て、船上から自ら指揮して捕えさせられました。
上皇は淀川を水無瀬の離宮までお帰りになって、ご前に八郎を召しすえ、
「おのれは無双の強盗で、これまでなかなか捕えられなかったのに、今日はまた言いがいなきことであったな」
と言われますと、八郎は、
「年頃捕手どもと戦ったことは数限りありませんが、山にこもり、水にくぐって、いつもきれいに逃げました。今日も西面の武士衆だけの間は十分に自信があったのですが、陛下がおいでになって、おんみずからさしずをなさるのを見ましたところ、さしも重い櫂を扇子かなんぞをあつかうようにいとも軽々と振ってさしずしておられます。これを拝しましたら、とたんに気力がくじけて、捕縛されてしまいました」
と、申し上げたところ、上皇は大へんなごきげんで、
「おのれは召使うべきやつだ」
と仰せられて、お仲間《ちゆうげん》になさいました。この後、八郎は上皇が御幸《ごこう》される時には、烏帽子をかぶり、袴のくくりを高くかかげて、かいがいしく走りまわっていたとあるのです。
放免の一例ですね。
後鳥羽は北条氏討滅の計画を立て、不幸それは失敗に帰して、隠岐の島に流されて、そこで生をおわられねばならないことになった方ですが、そのご密謀の期間この八郎はずいぶん諜者的の働きをしたでしょうね。もし承久の乱を小説化するのだったら、この男など逸してならない人物ですよ。
日本の歴史小説は戦国時代以前に材料をえらぶと、へんにかたくるしくなって、みずみずしいおもしろさがなくなるが、みずみずしくしようとすると、アナクロニズムが目立って真実感がなくなってついて行けませんが、それは調べが足りないからですよ。調べればいろいろおもしろいわきの人物が出てくるし、しかも時代の雰囲気も十分に出てみずみずしさのあるおもしろい小説が書けるのですがね。
後鳥羽は和歌の達人で、「新古今和歌集」を勅撰なさり、ご愛子の順徳天皇は「八雲|御抄《みしよう》」という書物をお書きになり、日本歌学史の上では重要な文献になっているほどですが、これは皆後鳥羽の薫陶によるのです。こんな方ですがお力も強かったのですね。文武両道の達人というわけです。
一体天皇家ではこんな方がお生れになると、あまりいいことにはならない。後鳥羽がそう、後鳥羽のお祖父さまの後白河がそう、ご子孫の後醍醐がそう。天皇家は必ず悲惨な運命におちいられます。英雄は自らの力にたいする自信がありますから、つい時勢逆行のことをやるのですね。英明な天皇様でうまく行ったのは、時代の要求と天皇の要求とが合致した時だけですよ。明治天皇がそうですね。しかし、こんな方はまことに少ないのです。
このことは天皇制を考える上に、よく考えなければならないことです。天皇家はこの敗戦前のような専制権をお持ちになってはいけないのです。それは日本国のためにもならなければ、天皇家のためにもならない。右翼の人たちはこんなことを考えたことはないのでしょうかねえ。
江戸目明しの草分け
『――目明しは伊賀や甲賀の忍者の系統につながるということはなかったのでしょうか』
特別につながるということはありませんね。伊賀や甲賀の忍者は非常に有名だし、一番数も多いのですが、ぼくは忍者の系統は全国にいくつもあったのではないかと思っています。
忍者というやつは、戦争でスパイ行為をして敵情をさぐったり、敵の後方攪乱をしたり、陣中の攪乱をしたりするのが仕事です。陣中攪乱の方法として最も使われたのは、放火ももちろんありますが、忍者らが最も多くやったのは、馬の手綱を切ってしまって、しりっぺたのあたりをちょいと切る。馬というやつは大へん神経質で、おどろきやすい動物です。何しろ「驚」という文字は上の敬は音《おん》を、下の馬は意味のおこりを示したのであるのをもって見ても、いかに馬がおどろきやすい動物であるかがわかります。というわけで、馬がワアッと騒ぎ出す。陣中では何が起ったのかと動揺するという次第です。
こういうことをやるやつを「忍び」というのは一番普通の呼び方ですが、ほかにも名称がある。関東では、乱波《らつぱ》、関西では素破《すつぱ》、それから草《くさ》という呼び方もあります。カマリと呼ぶ場合もあります。こういう具合に全国で呼び方が違うところをみますと、全国方々に各種の忍者の系統があったのではないかと思います。
関東においては、小田原近くの風魔《ふうま》一党ですね。こわい名前ですが、これは小田原北条氏に使われて、忍者的役目をしていたんです。小田原北条氏のさかんな時代には捨扶持をもらっていたのでしょうから、北条氏の家臣といってもよいでしょう。北条氏の滅亡後この連中が食うに困りまして、――小田原の遺臣は全部こまったわけで、江戸のはじめ、つまり天正十八年に徳川家康が豊臣秀吉から関八州をもらって江戸に入って来た時から江戸時代の初期にかけて、北条氏の遺臣らが大分江戸の治安を乱していますが、その中でも風魔一党は最もひどかったのです。主領を風魔小太郎といいましてね。たけが七尺もあって、口の両わきに牙《きば》が生えていたと伝えられている。鬼みたいですな。もともとが忍びの術の名人どもですから、泥棒はお手のもので、非常に治安を乱したのです。
風魔一党ではないが、小田原の遺臣の中で江戸初期で有名なのは三甚内という連中です。神崎《こうざき》甚内、庄司甚内、鳶沢甚内の三人。年は同じ位です。これが三人とも泥棒です。
このうち処刑になったのは神崎甚内です。向坂甚内、向崎甚内、匂坂甚内とも伝えられていて、有名な武田二十四将の中の向坂弾正の遺子だという伝説まで出来ていますが、本当の姓は何といったかわからない。小田原の遺臣で何とか甚内といったとしかわかっていない。下総の香取神宮のところから利根川をさかのぼること三里ばかりの地に神崎《こうざき》という町が今日でもあります。香取神宮の前《さき》にあるところからこういう地名がついたのです。この甚内はそこにいたので、神崎甚内と呼ばれるようになったのです。
これも伝説ですから本当のことはわかりませんが、若い時に宮本武蔵の門人になって、彼について武者修業をして諸国を歩いたが、そのうちに遊びを覚えて、金の欲しさに辻斬をするようになった。それで破門になってしまったので、純然たる泥棒になって、神崎に居を定め、手下をたくさん集めて、泥棒の大親分になったということになっています。
江戸慶長録という書物によると、風魔小太郎を訴人したのは、この神崎甚内であるとあります。徳川家が江戸の治安をみだす風魔一党に手こずっていると、この甚内が訴人して出て、あいつらの住所も様子も自分はよく知っている。案内しますからお召捕りなさるようと言って出て、召取らせたというのです。泥棒のボス同志の争いが昂じてのことか、自分の罪をお目こぼし願うつもりか、そこのところははっきりしませんが、とにかくも、これで風魔小太郎が召捕られて処刑になり、その一党も瓦解しました。
その後神崎甚内は目明しの役もつとめていたのでしょうが、やはり泥棒はやめない。窃盗などというケチなものではない。おしこみ強盗、放火、辻斬などのあらっぽいことばかりやる。そこでこれを密告するやつが出て来ました。かねて親しい友達である鳶沢甚内。
鳶沢甚内も泥棒でくらしを立てていたのですが、目はしの利くやつで、徳川家の政治がだんだんととのって来て、治安の取りしまりも行きとどいて来ましたので、このしょうばいももういけないと見切りをつけて、当局へ出頭して、
「風魔一党がお召取りになったあと、依然として強盗、放火、辻斬などがやまないのは、神崎甚内一党のしわざでございます。この者共の内情にてまえはよく通じております。てまえの罪をおゆるし下されば、手引きしてさし上げましょう」
と、訴え出ました。因果はめぐる小車というが、神崎甚内が風魔を訴えた時とそっくりの口上。あるいは自分が捕えられたので、苦しまぎれに友を売る気になったのかも知れませんね。
とにかく、鳶沢の手引きで、神崎甚内は捕えられて殺されました。殺されたのが浅草の鳥越です。ここは徳川家が江戸へ来た当時の仕置場であったらしいのです。
あそこに神崎甚内を祀った石像があるんです。甚内様というのがそれで。捕手が向った時、甚内はちょうどオコリ――マラリヤの発作がおこっていた時で、身の自由がきかず、さしもの剛勇が簡単に捕えられてしまった。それを無念に思って、
「後世オコリをわずらう者は自分をいのれば癒してやる」
と誓ったというので、ずいぶん江戸時代には信仰されたのです。
神崎をさした鳶沢甚内――泥棒よりほかにできないやつだから、罪を助けてもらっても生活の方法がない。それで古着の一手販売の権利をもらいました。つまり、これは彼が目明しになったからなのです。どろぼうの盗んだ衣類はほとんど全部が古着屋にもって来られる。従って泥棒の探索にも便利であるというところからこんな権利をもらったのです。神崎甚内は一時的の目明しであったようにも思われますが、これは恒久的な目明しとなったわけです。
こうして鳶沢甚内は江戸の古着屋の元締めになりました。日本橋の古着屋ばかりでできた富沢町をこの甚内が取り締っていたのです。それが富沢町の起りだそうです。最初は鳶沢町といっていたのが、今の名前に変化したのだということです。
もう一人の甚内の庄司甚内ですが、これも小田原浪人で泥棒だったのですが、これは吉原の女郎屋の元祖になりました。こいつもつまりは、目明しです。江戸の遊女屋は江戸城の周辺に数軒ずつかたまってあったのですが、この甚内が当局に、
「参覲交代で上府して来る地方の武士共が女なしではすまされないし、女なしでおいたら治安上にも困りましょう。公娼をおく必要があります。また、遊女屋には犯罪人や謀反人などがよく出入りするものですからそういうものを探索するにも、これら遊女屋を一まとめにしておいた方が工合がよろしいでしょう。ご許可を願いたい。ご許可下されば、あやしい者は訴人いたします」
といって、遊廓設置を願い出て許可されたのですから、目明しといってよい。
幕府ではこれを許可しまして、今の芳町から浪花町のあたりに地所をくれました。葭葦の繁った湿地帯であったのを埋め立てて遊廓をこしらえた。それでよし原というのです。本来は葭原、美字にかえて吉原としたのです。これが明暦の大火で焼けたので、今の場所|山谷《さんや》に移されました。最初のを元吉原といい、今のを新吉原というのはこのためです。
明暦の頃になりますと、江戸も膨脹して、かつては郊外のとびはなれた土地であった元吉原も市中になって来て、風俗上にも困っていたので、火事を機会に遠い市外へ持って行ったのです。現在の吉原は市中のどまん中ですが、当時は市外も市外、大変な市外でした。たんぼの土手が八町つづいているところを馬に乗って行ったのだそうですから、へんぴなところだったのです。馬に乗って行ったから馬道というのです。少し前まではあのへんにその名がのこっていました。
ま、こんなことで、庄司甚内は吉原の名主になりまして、その家は一種の名家として長くつづきました。「洞房語園」という吉原の来歴や古い時代の吉原に関する話を書いた書物があって、吉原のことを研究するには逸することの出来ない書物ですが、これは庄司甚内の孫の著作です。甚内は後に甚右衛門と改名しています。
小田原の遺臣である三甚内がともに目明しになったというのも、自分の犯跡をかくすために、或いは見逃がしてもらうために、そういうことをしたので、人間にはそういう心理がめずらしくない証拠になりましょう。
忍術の起源を尋ねると……
『――風魔一族と三甚内の関係は?』
これはよくわかりません。同じく小田原の遺臣であったということ、神崎《こうざき》甚内――これは三甚内の中で一番腕も立ち、手下もたく山あったようですが、これと風魔小太郎とが関東盗賊の二大ボスで、勢力争いの状態があったことは想像出来ますね。
開府当時の江戸、もちろん大坂にまだ豊臣氏がいるわけですが、徳川家と豊臣氏のにらみ合いとこの両大盗賊の勢力争いをかみ合わせて、当時の江戸が浮かび上るように描写すれば、ちょいと異色のある小説が書けますね。もっとも、そのためにはちょっとやそっとの調べではだめです。いいかげんな調べ方で、従来の時代小説の発想法や手法でやっては、新鮮な味は出ません。現在の小説がおもしろくなくなっているのは、作家が不勉強で、手なれた手法と型にはまった空想力に頼りすぎるせいだとぼくは思っていますよ。
ぼくは関東における忍者は風魔一族が家元だと想像しています。おそらく、これはもともとは異民族だとも思っています。
ぼくは忍術と音曲とはきわめて密接な関係があると思っているのです。というのは、大体、日本の音曲中、元来の、固有の音曲は知れたものでしてね。太鼓すらなかった。打楽器としては空き樽を伏せてたたき、絃楽器としても琴は弓をならべておいてビンビンとひいたのがおこりだというのですから、知れています。進歩した音曲も楽器も、みんな大陸から来たものですよ。
すべて文化というものは孤立しては決して発達進歩しない。異種の文化が接触し、交流し、刺戟し合って発達と進歩が生ずる。この点日本は太古は絶海の孤島ですから、音楽なども幼稚きわまるものだったのです。いつの時代からか大陸との交通がはじまって、音楽にかぎらず、すべての文化が発達して来たのです。
日本に固有の音楽があったにしても、それはないにひとしいものでありましたから、日本はあらゆる音楽をきわめて素直に受入れています。真空は何でも吸いこみます。それと同じです。今日のこっている宮内庁の雅楽の中には、シナの音楽もあれば、朝鮮の音楽もあれば、安南の音楽もあるし、ペルシャあたりの音楽だってあります。こんなわけですから、初期に向うから日本に渡って来た楽人は朝廷がみんな収容しました。東儀《とうぎ》・狛《こま》・林・薗・岡等の朝廷の伶人の家があるでしょう。皆帰化人の子孫です。朝廷に収容されたので、後世長い間には下級公卿になっているほど優遇されましたが、遅れて来たやつは、もうそうはいらないというので、召しかかえられない。しかたがないので、その連中は賤民になりました。貴族階級の中に入りこめば別として、それが出来ないで生産的な仕事を持たないものを良民にしないのは、古代はどこの国だって同じで、これを雑戸といって賤民にしたのです。シナだって、朝鮮だって、日本だって同じです。このなごりはずいぶん後世までつづきまして、江戸末期に江戸の賤民頭の団左衛門が、歌舞伎役者は自分の支配に属すべきものだと、幕府に訴え出て、ずいぶんもめたことがあります。五代将軍の綱吉が能楽が好きであったため、能役者を旗本にとり立て、桐の間詰めにしたところ、それまで桐の間詰めであった旗本連が、「賤民と肩を伍することは真っ平だ」と言い立て、綱吉の怒りに触れて処分されたこともあります。わたくしの少年時代、今から四五十年前ですが、その頃でも一部には役者を河原モンといって良民視しない頑固な人々がありました。
この遅れて渡来したために朝廷に収容されなかった連中が、音楽とともに忍びの術をもって来たのではないかと思うのです。忍術といっても、その頃のものは観客相手の奇術だったでしょう。それなら音楽とともに持ってきても不思議はないでしょう。
日本のジプシー・傀儡子《くぐつ》
忍術と音楽、この二つの技術が最も密接な関係のあることの顕著な現れは傀儡子《くぐつ》です。これは一所不住の流浪民で、平安朝時代には非常に盛んで、常に大集団をなして全国を流浪して歩いていたことは、大江匡房の「傀儡子記」や「今昔物語」その他の書物でよくわかります。この連中は女は売色をし、男は手品使いをやり、まじないをやり、うらないをやり、音楽をやり、狩りをやり、すなどりをやる。一般日本人と全然生態が違う。異民族であることは明瞭です。ヨーロッパのジプシーと生態はそっくりです。同じものかも知れません。
『――定住しないわけですね』
定住しない。今あげました大江匡房の「傀儡子記」によりますと、テントを張り、そのテントは穹廬《きゆうろ》(丸天井)、水草を逐うて以て移徙《いし》し、すこぶる北狄《ほくてき》の俗に類すとあります。女は非常に美しく、売色をやるが、父母も夫も知りながら禁じない、と書いてあります。男は皆弓馬を使い、狩りをする。また剣とりをやる。現在でも手品使いがよくやるでしょう。数本の剣を宙に飛ばして取る、あれですよ。あるいは人形を使って生きている人の様子をうつし、ほとんど奇術に類する。また奇術をやる。あるいは沙石を変じて金銭とし、草木を化して鳥獣となす、とあります。一畝の田も耕さず、一枝の桑もつまず、一切生産的なことをしないので、役人の支配は受けない漂泊の民であるとある。どういうものを信仰するかというと、百神を信仰して、それを拝む時には終夜音楽を奏して喧噪をきわめるとかいてあります。百神の百は本当は|※[#「こざと」、unicode961d]《こざと》へんをつけて陌《はく》とすべきです。陌は町の中のみちという意味ですから、陌神とは巷の神です。塞《さい》の神です。道祖神ですよ。これは旅の神でもあるし、男性性器を神格化したものでもありますね。大阪西宮のえびすさんに人形芝居の連中の崇拝している百太夫という神様がありますが、これはつまり陌神ですね。だから、文楽の人形芝居や淡路人形、阿波人形、これらはもともとクグツの流れをくむものです。
このクグツの人形つかいには色々な芸がありましてねえ。平安上期から中期にうつる頃、つまり菅公時代のあと、平将門が東国であばれる頃までの時代に、京都の辻々で男神と女神の人形をかざり、それが各※[#二の字点、unicode303b]性器をそなえていて、やることが卑猥をきわめたが、人々がこれを尊崇すること大へんなもので、そなえものやささげものをしたと扶桑略記に書いてあります。男神・女神の人形に何をやらせたか想像がつきますね。扶桑略記にはクグツとは書いてないが、クグツの連中がこんなことをして無智な民衆の迷信をあおり立ててかせいだことは明らかでしょう。
これはまあ彼らの表芸でありますが、彼らの他の芸である奇術――品玉、弄剣、目くらまし、つまり催眠術応用の奇術等は、はじめはお客さん相手の芸能だったのでしょうが、生活の根柢のない流浪の民である彼らは、しばしば餓えにせまられたこともあったろうし、ついその技術を応用して人家に忍びこんで窃盗するということがあったろうし、そんなことからしだいに忍びの術に変形して行ったのではないかと思うのです。ぼくはこのクグツが居つきになったのが文楽人形のもとである西の宮の人形つかいであり、淡路の人形つかいになると見ているのですが、ずっと現代まで流浪民たることをつづけて来たのは山窩といわれるものになったと、見ています。山窩のテント(セブリ)は板を少しななめにおいたように平面的に張るが、クグツのは「傀儡子記」によると丸天井形に張るでないかという異議もありましょうが、匡房は当時の文人らしく「水草を逐うて移徙す、その俗すこぶる北狄に類す」といわんがために穹廬と書いたのであって、本当は単に幕舎の意味にとってよいのではないかと思うのです。支那風の文字づかいを当時の文人はしたかったのですから。
傀儡子《くぐつ》の生んだ日本の芸能
ぼくの友人の中沢抹v君は「木地屋《きじや》」ももとはクグツだろうと言っています。クグツは音楽民族であったから、太鼓をつくる技術を持っていたろう。太鼓の胴はロクロがなければ出来ない。クグツはロクロを持ち、ロクロ技術を持っていたにちがいない。そのロクロ技術を生かして木地をつくる方に転向して行った分子が木地屋になったにちがいないと、彼は説くのです。聞くべき説でありましょう。
もう一つ傍証をあげれば、お能ですね。お能の能楽師の観世氏らはもとは興福寺の奴隷で、本姓は服部ですよ。新撰姓氏録によると、服部氏は蕃別(異民族の子孫)です。また次にのべる服部半蔵の話でもわかるように、伊賀は服部姓が多いところです。もう一つ証拠をあげましょう。二代将軍秀忠と松平忠吉の生母西郷局お昌の実父は玉輿記という書物によれば、服部平太夫といって家康につかえていた伊賀者(忍者)でありましたが、その前身は申楽《さるがく》師(能役者)だったというのです。お昌は家康の臣西郷義勝に嫁したが、義勝の戦死後家康に見そめられてその寵を受け、秀忠と忠吉を生んだのです。お昌の果報はここでは用事がない、お昌の実父がかつて能楽師であり、忍びの術で家康に召抱えられていたことをお考え下さい。
以上いろいろと述べたてましたが、音楽と隠身術との間に密接な関係のあるらしいことはご納得を得たと思います。それ以上のことは、専門の学者でないわたしにはさぐれません。小説も書かねばならず、伝記も書かねばならないぼくにはひまがありません。専門の学者がぼくのこれまで上げたことを頭においてせっせと探ったら、何か動かせない証拠が出てくると思います。ぼくの言っているのは作家的なカンだけですからね。
『――いままで、そういう考え方をした人はいませんね』
だれもいないでしょう。一見とっぴにすぎますからね。しかし思考の経過をたどれば、一応なるほどとうなずけるでしょう。
お能と傀儡子との関係――これは藤沢遊行寺の開祖である一遍上人智真に結び付くのですがね。この上人は「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えさえすれば、信ずる信じないにかかわらず極楽に往生できるという教えを説いた人です。念仏諸宗の中で一番最後にできたものだけに、最も徹底した他力本願の教えです。時宗《じしゆう》といいます。平生を常に臨終の時と思って念仏するを本義とするというところからこう名づけたのだそうです。一遍は遊行上人ともいわれた人で、全国を遊行して歩いて、いたる所で踊り念仏というものをやらせました、念仏をやりながら踊る。踊る宗教みたいなものです。この人が全国を遊行して歩く時には信徒が数百人から、時によると千人余もついて歩いたといわれています。その随従の信徒を時衆《じしゆう》というのですが、その中にはクグツがいたに違いないのです。流浪といい、おどるといい、彼らの生態にぴったりしているのですから。そうそう、山窩は死ぬことを「お六字になる」というそうですね。お六字は六字の名号南無阿弥陀仏ですよ。これも彼らと念仏宗との関係を語るといえはしませんか。一遍の時代は鎌倉中期、しかも蒙古襲来の時期です。
遊行寺の門徒――時衆は「阿弥陀仏」というのを名前につけるのです。たとえば、多左衛門という男だと多阿弥陀仏、それを略して多阿弥というのです。そうすると、次の足利時代に能楽を大成した観阿弥、世阿弥、これが時衆と関係ありそうであり、さらにクグツと関係ありそうであると、ぼくは思っているのです。
『――そうすると、能と踊り念仏とは何か関係があるのですか』
踊り念仏は、初めは今の踊る宗教みたいに、勝手に何の技巧もなく踊っていたものだったでしょう。法悦によるエクスタシーによっておどるんですから、技巧などあろうはずがない。しかし、踊りや音楽を本職にしているクグツが加わったのですから、いつまでも無茶なものでおわるはずはありません。いろいろな芸術的な工夫が加わったに相違ない。それがだんだん昇華されて能楽になった、とぼくは見ているんですがね。
一体、能楽はもと申楽から出て、申楽能といった期間が相当あり、この期間には田楽《でんがく》の方にも田楽能と称するものがあり、たがいに影響し合って、その間にさして相違はなかったというのが、今の学者の言うところです。どちらも大して上品なものではない。もともと民間の雑芸で、滑稽を主とし、手品や奇術なども入っていたといいますから、元来は同じもので、クグツの芸能で、一遍のおどり念仏の影響を強く受けているのにちがいないとぼくはまあ見当をつけているのです。
足利時代の初期までは田楽の方が盛んであったことは、太平記の記述でわかります。鎌倉幕府の執権北条高時が田楽ファンであった記述、四条河原で田楽の大興行が行われ、あまり見物が多くて棧敷がおちて死傷者が出たという記事などが見えるのです。
申楽能の方が盛んになって、能といえばこちらの方を言うようになったのは、足利三代の将軍義満がこれを保護したからです。観阿弥清次その子世阿弥元清などという天才が出て、申楽能を芸術的に洗練昇華させたからです。この二人の阿弥号がくさいというわけですよ。
もう一つ能楽が隆盛になった有力な原因はこの世阿弥元清が大へんな美少年で、足利義満に男色をもって寵せられたからです。この時から能楽は武家の式楽になって連綿とつづいたのですが、能と男色との切ってはなせない関係もまた連綿つづいて、年若い能役者は皆高級武士らの男色対象だったのです。徳川三代将軍家光も能役者をその意味で愛したといいますし、五代将軍の綱吉に至ってはついに何人かを旗本にとり立てたことはすでに申しましたね。芸にほれたのではない。男色によって寵愛したから旗本にとり立てたのです。綱吉という人は女色も大好きでしたが、男色も大好きの両刀使いでした。
話がひどく遠いところへそれてしまいましたが、大陸渡来の音楽舞踊等の芸能が、それをもって渡来して来た異民族らとともに日本全国に散らばり、それぞれの土地に定着したことは、各地に各種の田楽や申楽が伝承されていたことから推察出来るわけですから、その者どもが舞踊音楽の芸能とともにもっていた奇術も伝わったはずで、従ってその奇術から変化進行して行った忍びの術も全国に系統があるのではないでしょうかね。九州には九州の、関西には関西の、中部地方には中部地方の、関東には関東のという具合にね。
現に、甲賀、伊賀などは大仕掛けにやっていたし、有名でもありますが、山窩の方では丹波が有名で、丹波のやぞうというと、大変なものだったそうですよ。丹波地方は素破《すつぱ》の本場ですよ。
『――やはり、連関があるのですか?』
あるだろうと思いますよ。ないといったら、その方がおかしかないですか。
『――あれは、ちょうど新潟あたりの杜氏《とうじ》が酒を仕込む季節になると、出稼ぎに出るようなもので、申し込みがあると……』
伊賀や甲賀の忍者には全国の大名から注文があったらしいですね。ぼくはその方面のことはよく知らんけれども、上忍、下忍というのがあって、上忍というのは資本家で、下忍というのが労働者で、実際に忍術を使うのはこの下忍で、上忍は下忍をたくさん飼っていて、注文に応じて配給したというんですがね。
服部半蔵の名は今の宮城の半蔵門の名で伝わっています。別にこの門を彼がこしらえたわけでもなければ、番を受持ったわけでもない。江戸のはじめ、この門の外一帯に彼の屋敷とその組下である伊賀衆二百人の組屋敷があったのでそのへんを半蔵町と言い、門を半蔵町門といっていた。それが略せられて半蔵門となったのです。この服部半蔵が上忍だったというのですが、ぼくは疑っています。
彼の組下である伊賀衆が徳川家につかえるようになったのは比較的新しいのです。本能寺の変以後です。
徳川家と伊賀同心
本能寺の変の時、家康は信長から招かれて――甲州の武田家が亡んだのが、この年三月ですが、その時、信長は家康に、もう東の方も安全になったから、京都見物に出て来なさいよといって別れたのです。それで家康は上方見物に出かけて行った。その接待役になったのが明智光秀です。接待半ばに、信長の中国方面軍司令官として行っている羽柴秀吉から、信長の親征を要求して来たので、信長は先発隊として明智に中国出兵を命じた。光秀は接待をやめて、自分の持城《もちしろ》である江州坂本城に行き、さらにもう一つの持城である丹波の亀山城に行って、出陣の準備をする。この間に謀反の決心をしたわけです。
ところで、家康はその間に安土を去って京都に出て見物し、さらに堺見物にいった。堺は当時の日本屈指の外国貿易港です。外来文化が花と咲きにおっている。また戦国時代を通じて、ここは武家権力の入らない自治都市で、他の戦乱にわずらわされない平和がつづき、――それどころか、他の地域に戦乱がつづけばつづくほど鉄砲その他の武器を売って儲ける商人共の都市ですから、一層の繁栄があったわけで、京都の文化人らは皆ここに疎開したから、在来の日本文化もまたここで栄えていました。見物のしがいのあるところです。とりわけ有能な武将である家康にはこの地の鉄砲工場には津々たる興味があったはずです。
その堺見物の最中に、本能寺の事変があった。彼は見物をおわって京都に引きかえすべく途中まで来た時、本能寺の変報に接して、帰るに帰れなくなりました。彼には同伴者がありました。穴山道雪。武田家の一族ですが、武田氏滅亡の時、本家を裏切って織田、徳川連合軍の道案内をしたというので助かって、こんどの上方見物にも、家康と同伴して出かけて来たんですよ。堺にも一緒に行っているんです。
「さあどうしよう。道は逆徒でふさがっている」
と、困《こう》じはてていると、信長から接待役として家康につけておいた長谷川藤五郎が、
「このへんの地侍《じざむらい》共は日頃拙者のとりつぎで織田殿のごきげんをうかがっている者ばかりでござれば、拙者の申すことにはよもそむきはいたしますまい。拙者が案内をいたしましょう」
と言いました。ほかに方法はありません。万事長谷川を頼むことになりました。この時家康は穴山に、そなたもついてござれと言ったのですが、穴山はへんに猜疑心が深くなっていまして、離れて単独行動をとりましたところ、間もなく落武者がりの野伏《のぶし》どもに襲撃されて主従一人ものこらず殺されてしまいました。京都の宇治の近くだったそうです。
家康は長谷川の世話で案内人を得ましたが、中にも宇治の町人、といっても、町人と武士との区別がまだはっきりしない時代ですから、郷士でしょうね、上林喜庵という者が忠実に案内をつとめてくれた。今日でもその家は宇治橋のたもとに葉茶屋をひらいています。文芸春秋新社の上林吾郎君は分家ではありますが、この喜庵の末孫の一人です。
喜庵は伊賀の郷士連中とちゃんと連絡をとりましたので、伊賀郷士らは寄ってたかって家康を守護してくれまして、伊勢の白子という海岸まで送りつけてくれました。そこで、そこから舟に乗って無事に三河にかえったのです。上林家はこの功で徳川家の天下になりますと、町人ながら宇治代官になりまして、これを世襲しております。喜庵は関ケ原戦争の時、伏見城に入って鳥居元忠とともに籠城し、落城とともに戦死しています。「町人の似気なきこと」と元忠がとめたのですが、きかずに籠城して死んだのです。家康のこの伊賀越を案内して以後、よほど家康にほれたのでありましょう。
ざっとこういうことから、伊賀郷士は徳川家と関係がつきまして、徳川家に召し抱えられて伊賀同心というやつになったのです。
伊賀同心の組頭である服部半蔵|正成《まさなり》は、この遥か以前、家康の家来になっていて、度々の合戦に出て武功を立てて、鬼半蔵と異名をうたわれるくらいの勇士となっています。槍半蔵という異名もあります。槍が上手であったのでしょうが、槍そのものがすごかった。彼の持槍というのが、この大戦前まで彼の菩提寺である四谷の西念寺にありましたが、穂の長さが一間もあったのです。たぶん戦災で焼けてしまったでしょう。
家康の長男の信康、このおふくろは今川義元の姪で、家康十五の時結婚しました。家康は当時今川家に人質となって行っていたのです。女房の方が十も年上であったといいます。
政略結婚であったにはちがいないが、男が少年期から青年期に移る頃には年上の女に興味を感ずる時期がある上に、家康という人は三つの時生母に生別しています。母性を思慕する気持が大いにあったにちがいないですから、最初のうちは夫婦の仲も非常によく、信康が生まれ、その妹の亀姫が生まれるまでの間は日数にして三百六十五日しかない。太陽暦の満一年間に二人生まれた勘定になる。なかがよくなくてはこうは行かんでしょう。
が、今川義元が桶狭間で戦死した頃から、夫婦なかにひびが入って来た。家康が今川家に従っていたのは好きで従っていたのではありません。情勢上やむなく屈服していたのですから、常に圧迫感があったに相違ない。女房はその今川家の一門ですから、女房に対しても圧迫感があったはずです。ですから、義元が戦死して今川家の勢いのおとろえたことは、家康には解放感があったに相違ありません。この解放感は女房からの解放感でもあります。女房との間が冷ややかになったのは当然でしょう。その上、桶狭間の戦いの時、家康は十九歳でした。女房は二十九歳です。その頃まで女房に感じていた母性愛も、もう魅力とはなりますまい。家康は女房と子供を駿府におきっぱなしにして、自分だけ岡崎にいること満二年におよんでいます。その間には家康も他の若い女を寵愛する。十も上の女房より若い女がよいにきまっています。家康の愛情は冷却するばかりでありました。
二十一になった時、今川家と話合いがついて、女房と子供の竹千代(後の信康)を迎えとっていますが、この時女房は三十一です。今の婦人の三十一とちがって当時の婦人の三十一は大へんです。家康にとって魅力は益※[#二の字点、unicode303b]乏しくなっている。家康はこれを城内にもおかず築山というところにおきました。以後この人は築山殿と呼ばれる。
家康がめったによりつかないので、築山殿はヒステリックな大へん嫉妬深い女になりました。七年後、家康は浜松に本拠をうつしましたが、家康は連れて行かず、子の信康とともに岡崎にのこしました。築山殿のヒステリーはつのる一方です。たまに逢えば仏頂づら、手紙をくれれば、いやみと怨恨のことばに満ちた文面ときては、家康の愛情は薄れる一方です。
夫婦の間というものは、肉親愛とちがって、反射し合う度が強いので、ひびが入るとどうにもならなくなることが多いものです。築山殿のヒステリーは息子である信康夫婦のなかのよさまで嫉妬するようになりました。信康の妻は織田信長の女徳姫です。この徳姫が二人つづけて女の子を生んだので、築山殿は、
「武将たるものは男の子を持たねば頼もしゅうない。国大名が妻一人を大事に守っていることはありません。めかけ手かけもおいて、出来るだけ沢山男の子をもうけるようになされよ」
とんでもないことをすすめたものです。
その上、築山殿は甲州侍の妾腹の女で本妻から追い出されて岡崎に出ている女が美人であると聞いて、それを買いとって信康にすすめました。血気さかんな信康にとっては猫に鰹節です。ありがたく頂戴する。これが徳姫に知れる。こんどは徳姫が嫉妬するという段取り。
その上、築山殿は甲州からスパイとして来ていた減敬《げんけい》という医者――これは唐人だったということです。この時代は日本と中国との交通はずいぶんさかんで、良港を持った海沿いの大名らは皆中国と直接に貿易したもので、東国では相州小田原の北条氏は三浦三崎を貿易港にして、小田原城下には唐人町とて中国人の居留地まであったといいますから、いずれそこあたりから入って甲州に行き、武田家に語らわれて軍事スパイとなって岡崎に来ていたのでしょう――この減敬と築山殿とが密通してしまった。
築山殿は減敬のすすめによって、武田家に裏切りを申しおくった。
「織田・徳川の二人は自分が手をつくして暗殺するから、徳川家の領地は息子の信康にやってほしい。自分には武田家のしかるべき身分の武士を夫にしてほしい」
よっぽど男に餓えていたのですな。あさましいというより、あわれになりますね。
この密事が、徳姫に知れたからたまらない。すぐに信長の許へ申し送られる。信長は怒って、処分を家康に要求した。しかたはない。家康は家来に命じて築山殿を殺させ、また信康に切腹を命じた。その使者に立ったのが、服部半蔵と天方山城守通綱です。
自分の嫡子に切腹の命を達する使者に選ぶくらいですから、新参者であろうはずがない。これまで相当長い間家康に仕えていたと思わなければなりません。
信康は、
「自分には露覚えのないことだが、父君のお立場を思って、仰せをかしこんで切腹する。この旨、父君に申し上げてくれ。半蔵とは古いなじみなれば、そなたなじみ甲斐に介錯してくれ」
と言って切腹しましたが、半蔵は主に刃を立てるにしのびないとて、ただむせび泣くばかりであったので、天方が立ち上って、
「手間どってはお苦しみがますばかり。拙者ごめんをこうむります」
といって介錯した。信康は二十一だったといいます。
二人が浜松へ立ちかえって報告しますと、家康は涙を流して、
「鬼といわれた半蔵も、主の首は討てなかったか、さもあろう」
と言ったので、天方はぎょっとして、おれは信康君のお苦しみを見るにしのびず介錯申し上げたのであったが、それでも殿はおれのしたことをよろこんではおられないようだ、こうしていてはいつどんな形でこのご不満があらわれるかも知れないと思案して、家康のもとを逃げ出し、高野山にこもりました。何十年か立って、家康の次男の越前の秀康に仕えています。
こんな具合に、服部半蔵が家康に仕えたのはずいぶん古く、それは伊賀衆が明智の乱の時に家康を世話した縁故によって徳川家に召抱えられるよりはるかに以前のことです。
一体、この時伊賀衆が召し抱えられたのは忍術という技術によってではないでしょう。家康の伊賀越えの難儀をよく保護したという恩義を買われてのことでしょう。家康としては普通の足軽やお徒士《かち》くらいの意味で召し抱えたので、忍者として使うつもりがあったろうとは思いませんね。第一伊賀の地侍《じざむらい》なら皆上忍のはずで、下忍ではないでしょう。忍術の実技を持った連中ではないはずでしょう。服部半蔵が彼らの組頭だったからという理由で、彼を上忍とする説はぼくには納得出来ませんね。伊賀衆にしても、甲賀衆にしても、単なる同心だとぼくは見ています。したがって、服部半蔵もきっと単なる組頭ですよ。つまり、一ぺんに多数の伊賀侍を召し抱えたので、組頭をきめねばならない、さて誰にしようか、「おお、半蔵がいたわい、やつは古くからわが家に仕え、度々武功もある者だ、やつを組頭にしよう」というくらいのことで、きまったのであると思う。
幕府の庭方・薩摩の庭方
徳川幕府に、諸大名の謀反の企てなどをさぐる秘密の情報機関があったろうことは考えられますが、何がそれを受持っていたか、わかりませんね。またあったにしても、幕府初政当時だけで、あとはないのではないですかね。三代将軍の家光は閣老らの家の内情に通じていて、――たとえば、今日そちのうちに何々家から使者が来て、進物に何を持って来たであろうなどと言って、閣老らを恐れさせたという話がありますが、これは別段伊賀ものを使ってさぐり知ったわけではなく、近臣らに申しふくめてさぐらせていたようです。しかし、あとの四代家綱、五代綱吉、六代家宣、七代家継には全然そんな話は伝わっていません。
八代吉宗の時になって、お庭方という直属の探偵をおきました。これは吉宗が紀州から入って本家をつぐにあたって、紀州から連れて来たものだそうです。藪田助八というものだったといいます。吉宗は分家から入ってはじめて本家をついだだけに、いろいろ気をまわす必要があったのでしょう。ことに尾張家は彼の有力な競争者で、いろいろな事件もありますからね。吉宗のお庭方は尾州家の動向をさぐるためのものだったかも知れません。しかし、吉宗以後にはこれまた聞きませんね。使いこなせるほどの力量のある将軍がいないのです。
『――薩摩のお庭方というのはこれとは違いますか』
それは違いますね。三田村鳶魚さんなどは、薩摩のお庭方も八代将軍のお庭方と同じで、西郷隆盛は若い時に島津斉彬にお庭方を命ぜられた、だから、あの男は元来探偵根性があるんだといっていました。あの人は薩摩がきらい、長州がきらい、土佐がきらい、水戸がきらい、勤王諸藩は皆きらいで、大へん悪口をいうのです。
武家の役名は名前は同じでも、家によって内容のちがうものが多いのです。譜代大名は江戸幕府と共に、あるいはその以後に出来た家ですから、旦那の家にならって藩の組織もきめていますが、外様大名、とりわけ戦国以来、あるいはそれ以前の古い家は、それぞれ独自な沿革をもっていますから、何から何までずいぶん違います。例えば小姓組というのを一つとって考えてみても、そうです。同じ名前のものが薩摩にも幕府にもありますが、幕府の小姓組は将軍の親衛兵の将校で、高級将校です。維新戦争の時北海道五稜廓にこもって戦死した心形《しんぎよう》刀流の天才的剣士であった伊庭八郎など、この小姓組です。ところが薩摩の小姓組は、お目見えの格式はもっていますから、将校にはちがいないが、いつもは殿様の側になんぞよれはしません。下級将校ですよ。西郷も大久保も、この小姓組の家の出身です。
西郷が斉彬によってお庭方に任命されたのは、薩摩のお庭方は読んで字のごとく庭がかりの役人で、いつも庭を見まわっている役目です。従って特別な手続きを要せずして西郷を引見することが出来たからなのです。斉彬は西郷の人物を見込んで、これを仕込もうと思って、この措置をとったのです。
斉彬の西郷にたいする愛情は一通りや二通りのものではありません。斉彬が水戸家に行って水戸斉昭に会った時、接待役に出て来た藤田東湖と戸田蓬軒にむかって、
「わしは近頃天下の至宝ともいうべき者を見つけ出した。西郷吉之助というわしが家の若い者であるが、しこみようでなかなかのものになるだろうと思う。いずれそなたらのところにもつかわす故、よろしく指導してくれい。この者は英気あまりある人物である故、ややもすれば手綱を切って思うままに奔駛する恐れがある。わしでなくば使いこなせまい」
と言ったところ、二人は、
「薩摩守様ほどの方がそれほどまでに買うていらせられる人物、よほどの人物と存じます。逢うのを楽しみにしております」
とあいさつしたと伝わっています。これほどまでに買っている人物を、むざむざと隠密などに使うはずはありますまい。
信州金刺氏の末裔たち
『――きょうは、夏向きに美しい人の話、武将の話、戦争のはなしなどもおもしろいですね。例の真田幸村が大坂陣で槍ぶすまを組んで敵を撃退したとか……』
美人の話は不得手だな。それに日本の歴史には女の側から観察したものも記述したものもないので、いきなり美人といわれても出て来ようがありません。だんだん話しているうちに出て来るかも知れません。出て来たらお慰み、出て来なかったらかんにんして下さい。
先ず、大坂の陣の真田幸村に関連して片倉小十郎から行きましょう。片倉家は伊達家の重臣ですが、元来からいえば信州侍の出なんですね。諏訪の下社、あそこの神主の一族ですよ。諏訪神社の神主は、上社、下杜ともに諏訪氏を名乗っていますが、元来これは別氏です。
上社の方は祭神の建御名方命《たけみなかたのみこと》、大国主命のご次男ということに日本神話ではなっていますが、あれの子孫ですね。下社の諏訪氏は本姓|金刺《かなざし》氏です。
欽明天皇、はじめて仏教が渡来した時の天皇ということになっている方ですが、この欽明天皇の宮殿は磯城島《しきしま》の金刺ノ宮といいまして、今の奈良県磯城郡の城島《しきしま》村にありました。この金刺宮には全国の豪族の子弟が舎人《とねり》として来て奉仕していたわけですが、その連中が国に帰って行くときに皆金刺という姓をもらいました。諏訪の金刺は元来は肥後の阿蘇家から出たものだといいますから、阿蘇の大宮司家の者が金刺宮に舎人として上ってい、金刺の姓をもらって帰国してからか、帰国の時かわかりませんが、信州に来て、信州の豪族になった。その後下社に入って社家になったか、下社の社家になるについて信州に来たか、そこのところはわかりませんが。とにかくも信州に来たのです。
一体、ずっと昔の国は日本を六十六ヵ国にわけてからの国にくらべるとまことに小さい。もと「くに」ということばは「郡(Gun)」という文字の支那音が日本なまりしたものだというのですが、ずっと昔の国は後世の郡くらいの大きさしかないのは事実です。とりわけ信州は山の多いところで、山また山がたたんでいます。平地といえば千曲川、犀川、木曾川、天竜川その他の川の流域と諏訪湖の周辺だけにわずかにあるだけで、地勢そのものが割拠的に出来ています。その割拠している平地は皆独立した国だったろうと思います。ですから、金刺氏もスワの国のとなりの国あたりの国造《くにのみやつこ》かなんかに任ぜられて下って来たのかも知れません。
とにかく、こうして信州に来て、いつの時代からか、下社に入って下社の神主になったのです。
この金刺氏には昔からずいぶん有名な人が出ています。木曾義仲につかえて、北陸加賀の篠原の合戦で斎藤実盛を討ち取った手塚太郎光盛が金刺氏です。手塚ノ太郎金刺ノ光盛と名のっていることが源平盛衰記に出ています。それから新陰流の上泉伊勢守信綱が金刺氏です。
伊勢守の弟で上泉|主水祐《もんどのじよう》通治という人がいます。兄におとらない勇士で、常に浅黄じないのさしものをさしていました。浅黄というのは旗の色、しないというのは旗を竹につけるそのつけ方の一つです。タテのはじを袋縫いにしてそれに竹を通すのです。竹が袋に入って「しない」の形になるからしないといったのでしょう。当時の「しない」は今のしないとちがいまして、皮の袋に割った竹を何本か入れたものだったのです。しなしなとよくしなうから「しない」といったものでしょう。主水がこれをさして武勇をふるいましたので、関東地方では武士達が浅黄じないのさしものをさすのを遠慮したというほどの人です。武蔵深谷の上杉氏につかえましたが、上杉氏のほろんだ後しばらく浪人して、上杉景勝に二万石で仕えた人です。
硬骨の豪傑だった在原業平
ご承知の通り、関ケ原役は上杉景勝が会津でことを挙げ、これを徳川家康が諸将をひきいて征伐に下って来た不在に乗じて、西で石田三成が西国大名を糾合してことを起したのですが、石田がことをおこしたとの報告に接して、家康が会津にはおさえの兵をのこして西に向ったそのあと、上杉家では直江山城守兼続が主将となって山形方面に出動して、さかんに徳川方与力の城を攻めおとしました。
上泉主水祐も直江について出陣しました。山形城を攻めようということになった時、主水祐は、
「この城をお攻めになるのはおやめになるがよい。この城は東北一の堅城でちっとやそっとで落ちる城ではござらん。攻めて落ちなければ、味方の気力をおとし、敵に気勢をそえることになりますから」
と申しましたところ、直江は大いに怒って、
「大体こちらに出陣したのは、この山形城と東根《ひがしね》城とが目あてである。それを攻めていけないとは何たる申し条。貴殿は若年のみぎりより関東一の勇士といわれ、浅黄じないのさしものといえば誰知らぬものがなく、武士らがさすのを遠慮したというほどの人であるのに、しきりに敵の城の堅固さをほめたたえ、味方の勇気のたわむような言い方をなさるは心得ぬ」
臆したかと言わないばかりの言い方をしました。
主水祐はそれがグッと来たのですね。十日ほど後、長谷堂《はせどう》城を攻める時、味方が退いても一寸も退かずついに討死にしました。その冑の真向に上泉主水祐金刺通治(憲元という説もある)と金で象眼してあったといいます。
主水祐は臆したのでないことを証明するために討死にしたのでしょうが、この頃の武士の臆病といわれることを恥じること、現代人の想像を絶するものがありますね。
戦争前上泉秀信という人がありましてね、今の東京新聞、当時の都新聞の文芸部長などして、後に作家になって、戦争中か戦後間もなくの頃に死にましたが、都新聞の文芸部長時代に尾崎士郎氏に「人生劇場」を書かした人です。最初はそう評判のよい小説ではなかったので、いいかげんに終らせた方がよいなどと社内でもいう人があったのを、おしきって書かせているうちにしだいに評判がよくなり、ついに熱狂的な歓迎を受け、昭和初年の傑作小説として後世まで古典としてのこるほどのものが出来上がりました。後に作家になったほどの人ですから、小説を見る目もすぐれていたのでしょうが、腰のすえ方が立派だったのですね。人生劇場という青春傑作小説は、上泉さんのこのりっぱな度胸から生れたのだといってもよいでしょう。
上泉さんは米沢の人で、上杉家の旧藩士の家の出でありました。おそらくこの主水祐の子孫でありましょう。
話がひどく遠いところへそれてしまいましたが、上泉家の先祖――おそらく伊勢守や主水祐から三四代前だろうと思いますが、上州の今の前橋近くの上泉というところ、そこへ信州から来ました。多分そこの神社の神主さんかなにかだったのでしょう。それがいつの間にか土地の豪族になりまして、――もっとも戦国以前の相当大きな神社の神主は皆豪族ですがね。それから関東管領の上杉家――上州の平井にいました――に仕えましたところ、やはり上州の箕輪の長野家の与力衆とされました。与力は寄騎とも書きまして、家来ではないが、その統制を受けて働く任務を持つものです。
上泉家が与力となった長野家は在原業平の末孫です。業平は後世色男の代表者になりまして、柔弱な男であったように伝えられていますが、実際は中々の硬骨漢で、力も強かったといいます。宇多天皇はお若い時に一時臣籍に下って源|定省《さだみ》と名のっていた人ですが、その時代侍従の官にありましたので、王侍従といわれていました。業平がこの方と殿上で角力《すもう》をとってしたたかに椅子に投げつけたところ椅子のひじかけがおれ、そのおれたところを修理した椅子が長く宮中にのこっていたということが、大鏡に書いてあります。
上泉伊勢守のこと
業平があんなに有名になったのは、彼が清和天皇の皇太子時代の皇太子妃藤原高子を誘惑して駆けおちしたからです。これも当時は藤原氏の全盛時代で、業平はもともと平城天皇の孫で皇族ですから、何とかして藤原氏の専権体制を破ろうと考えていました。当時は藤原北家には天皇家に上るべき姫君としては高子しかいなかった。これを誘惑してきずものにしてしまえば、藤原氏からきさきを立てることが出来ず、したがって藤原氏所生の皇子のご誕生もなく、またしたがって藤原氏が外戚の威をふるうことも出来なくなると計算したのだという解釈が、昔からあります。あり得ないことではありません。当時の情勢を考え合わせますと、この説には大いに可能性があります。
もう一つわき道をゆるして下さい。この高子という人は業平とかけおちしましたが、うばい返され、その生んだ皇子が陽成天皇になりましたので皇后に冊立されたのです。ところが五十五という年になってから、善祐律師という坊さんとおかしい関係になり、醜声大いに聞こえましたので、皇后の礼遇を停止されています。
五十五にもなってそんなことをするなど、若い頃のことを考え合わせて、天性多淫な人であったろうとも思われますが、ぼくはそうは思いません。彼女は清和天皇より八つ年長です。彼女が十八九の立派に成熟した女になった頃、清和はまだ十か十一、そんな男女関係に満足されるものではありません。彼女が業平の誘惑を受け入れたのはむしろ当然といえましょう。しかし、彼女のその恋は生木を引き裂くように引き裂かれてしまいました。遂げられなかった恋は一種の飢餓感として彼女の深層心理にのこって、それが五十五という人生のたそがれになって、一時に火をふいたと見てもよいのではないかと思います。
伊勢物語には業平と彼女との恋愛が和歌を中心にしてごく簡潔に、断片的に書かれていますが、彼女は美しくまたたおやかで、心もいかにも女らしくやさしい人であったかのように想像されます。同じ時代に親しく生きていたら、好意のもてる人だったにちがいありません。家の政略のために結婚させられたために悲劇の主人公になった人と言えましょう。あわれです。
さて、業平は実際は硬骨の豪傑でありましたが、その子孫である長野家の業正《なりまさ》――この人がちょうど伊勢守信綱と時代を同じくしているんです――は先祖業平に恥じぬ豪傑でありまして、おそろしく強い。彼の主人である上杉憲政は南よりする小田原北条氏の圧迫にたえられず、関東を逃げ出して越後に行き、家来筋にあたる長尾景虎に身を寄せ、上杉の名跡と関東管領の職とをゆずりました。ここで景虎が上杉謙信となるわけでありますが、長野業正は箕輪城にいて、小田原北条氏の圧力の中に敢然と抵抗する。ほどなく西から武田信玄が上州方面に手をのばして来て、その圧力も加わって来ました。しかし、これにも業正は屈しない。北条氏康といい、武田信玄といい一流中の一流の武将だが、その二人にたいして一坪の土地もうばわれず抵抗したのですから、業正という人がいかにすぐれた武将であったかがわかります。
伊勢守信綱はこの業正の与力衆として数々の武功をあらわしていたのですが、そのうち業正が病死すると、長野家ももういけない。ついに武田信玄にほろぼされてしまった。伊勢守はその力量をおしまれて、信玄にくどかれ、しばらく武田家につかえました。彼はその時まで秀綱という名だったのに、信玄の本名晴信の一字をもらって信綱と改名したというのですから、信玄がどんなに愛していたかがわかる。
間もなく信綱は、
「拙者は少年の時から兵法に執心《しゆうしん》があり、陰《かげ》流を学び、また鹿島神流を学びましたが、なお一層この道をきわめたくございますれば、お暇をたまわりたし」
と願い出た。信玄は他国に仕えるつもりではないかと、なかなかゆるそうとはしなかったので信綱は、
「決して禄位を貪るつもりはありません。もし、今後心がかわって奉公する気になった時には、必ず、お屋形に申し上げ、おゆるしをいただいてからいたします」
と誓って、やっと暇をもらい、諸国修行の旅に出たと、甲陽軍鑑に出ています。
片倉小十郎と政宗
片倉小十郎の話をするつもりでかかったのが、とんだわき道へそれてしまいましたが、いよいよ小十郎にかかります。片倉家ははじめ申した通り諏訪の下社の神主の出ですが、奥州に行ったのはいつのことでありますか。信州の製糸会社に片倉というのがありましょう。この頃では生命保険会社もやっていますね。あの片倉も、もとを正せば伊達家の片倉氏と同族なのです。奥州では最初は米沢在の八幡様の神主だったそうであります。それが小十郎景綱に至って伊達家に仕えました。伊達家はその本貫《ほんかん》は米沢の領主なのですからね。仕える段取りは容易につくはずであります。
小十郎景綱にはずいぶんおもしろい話があります。これは多分講談でしょうが、主人の伊達政宗が自分の片目であるのを気にしていると、小十郎は、
「大体、白くなったそんな目が飛び出しているのがいけないのです。えぐり出して捨てなさるがよいのです」
といった。
「そうか、ではえぐり出そう」
政宗は自ら短刀をもって悪い方の目をえぐり出そうとして突っこんだが、あまりの痛さに気絶してしまった。小十郎はドンと政宗の背中をたたいて、正気にかえらせ、
「武将たるものが、それしきのことにそのざまはなんでござる! わが主人ながら見下げはてたお人だ」
とののしったので、政宗は気をとりなおし、グイとえぐり取って手のひらにのせ、
「見ろ!」
とつき出すと、小十郎は口をさし出してペロリと食ってしまった。
「あッ、なにをする?」
「殿のお目玉を粗相には出来ません。よって拙者の腹中におさめておくことにしました」
といったという話。もちろん、実説ではありますまいが、いかにもおもしろく出来ている話です。
豊臣秀吉が小田原攻めに関東に乗り込んで来た時のこと、ここが平定すれば、秀吉の鋒先は当然奥州に向けられるというので、奥羽の諸大名らは争って小田原へ出かけて、秀吉に臣服を誓い、本領を安堵してもらいました。
伊達家は父の輝宗の時代から要領のよい家で、織田信長の全盛時代には信長に、秀吉の時代になっては秀吉におつかいものなどして、ごきげんをとり結んでいたのですが、秀吉が関白として会津の芦名家の本領を安堵してやったのに、政宗はこれを攻めやぶって会津を奪い、秀吉が返還せよとさしずしてやったのに応じないばかりか、周囲の豪族らを片っぱしから攻めつぶして領地かせぎをしているので、ちょっと気軽に行けない。それでも周囲の豪族らがほとんど全部しッぽをふって行ったので、こりゃやはり行かんければならん、やつらが何を吹っこんで、秀吉の怒りをあおり立てるかわからんと考えました。そこで重臣らを集めて評議をしました。
「小田原が落ちてしまえば大へんなことになる。落ちん前に関白にお目見えする必要がある。おれは早速行こう」
とこう申しますと、原田宗時――原田甲斐の先祖です。これは、
「よいご思案。一刻も早くお出でになるがよろしゅうござる」
と賛成しましたが、一族の伊達成実は――成実日記というこの時代の伊達家のことを調べるには欠くことの出来ないものですが、それを書きのこした人です。これは、
「もう遅うござる。行くならば、関白と小田原とが手切れになった去年の冬でありました。今頃になって行くのは、とりこになりに行くようなもの。それよりも当国にこもって戦うがよい。敵は大軍とはいえ、国許を遠く離れて戦うのでありますから、味方が一生懸命戦ったら、勝たんもんでもござるまい」
と主張しました。
この時、片倉小十郎ははじめからおわりまで一言もいわない。ねむたげな顔ですわっているだけでしたが、政宗は片倉が何か考えていることがぴんと来ましたので、その夜ひそかに片倉の邸に行きますと、片倉は待ち受けていた風情で早速に迎える。
「そなた今日の評定ではなんにも言わなかった故、こうしてやって来た。その方の意見を聞きたい」
と政宗が言いますと、片倉は団扇で蠅を追いはらう身ぶりをして、
「蠅というものはうるさいものでございましてなあ」
といいました。一時は勝つことが出来ても、また来るであろう、結局は勝てませんぞという意味ですな。
伊達家の騎馬鉄砲
とにかく、片倉小十郎景綱という男はなかなかの人物です。豊臣秀吉が彼の人物を見こみまして、直参にしようと思って、三春五万石をあたえようといったところ、
「拙者は伊達家の家臣で、伊達家から知行所をもらっています」
とことわったという話があります。
秀吉という人は微賤からのなり上りものだったので、あんなに豪快に見えながら本心では心細がっているところがありましてね。有力な腹心の家臣をつくりたがって、こんな風に諸大名の目ぼしい家臣を直参にしようとよくしています。
薩摩の新納武蔵守忠元にも誘惑の手をのばして、二十万石あたえるがおれに奉公せんかと言って、
「同じくはその領地主人義久にたまわらばこの上のよろこびはございません。拙者儀は薩摩を離れること思いもよらず」
とことわられています。
堀久太郎秀政の家老堀監物直政や上杉景勝の臣直江山城、細川忠興の臣松井康秀などに口添えして何万石かの高知行とりにして、大名なみの待遇をしていますが、これもまさかの場合に味方させようと考えたからなのでしょう。薩摩の家老伊集院|幸侃《こうかん》、その子忠真はこういう秀吉の方針によって日向都城で二十万石くらいの大禄をあたえられていたのですが、秀吉が死ぬとすぐ島津家にほろぼされてしまいました。秀吉の政策によって厚遇されているということに気がつかず、いい気になって傲慢であったので、島津家は内心むかむかしていたのでしょうね。
また話がそれました。
片倉小十郎にかえりましょう。唯今まで話して来た小十郎は景綱でありますが、小十郎という名は片倉家では代々襲名することになっていたようで、景綱のむすこの種綱も小十郎といいます。この種綱の妻君が真田幸村の娘なのです。
これはちょっと考えると不思議な話で、実を申しますと、大坂夏の陣の時、伊達家と真田家とは道明寺で戦っているのです。道明寺の戦は夏の陣においては最大の激戦で、大坂方では後藤又兵衛、薄田隼人正の二人が戦死しているくらいで、東軍の勢いがまことに猛烈でありました。とりわけ、伊達家の騎馬鉄砲というのがすごい。
これは伊達家特有の隊でありまして、家中の二男三男で力たくましく勇気あるものをえらんで駿足の馬にのせて組織してある。戦う時には馬上から鉄砲を打ちかけ打ちかけ進み、ほどよい距離まで敵に近づくや、ダダンと一斉射撃し、あとは鉄砲を打ち捨て、煙の下から突進にうつり、乗りかけ乗りかけ蹴散らし、斬りくずすのです。八百騎をもって組織したといいますが、伊達家の騎馬鉄砲といって、当時無敵を誇っていたのです。
この時も伊達家はこれを先陣に立て、そのあとに数千の歩兵部隊を配置して押して行きました。幸村はこれを見事に撃退しています。彼は先ず兵士らに冑と槍を従者にわたすように命じておいて、次第に近づき、敵合《てきあい》十町ばかりになった時、使い番に下知をふれさせる。
「冑を着よ」
皆冑を着用する。さらに進んで二三町ほどに迫ると、
「槍をとれい」
兵士らは槍をとる。冑をかぶり、槍をとると人々は勇気百倍します。戦争ではこんなものだそうです。
幸村の遺児、片倉に嫁ぐ
この戦争中高見順君は報道班員に徴用されてビルマ派遣軍に配属され、戦場にも出たのですが、鉄冑をどこにか失ってしまい、帽子もどこへかやってしまい、おそろしく心細かった。やがて思いついて鉢巻したが、それで少しばかり気強くなったというのです。
「鉢巻なぞが鉄砲玉に何の効果があるものかねえ。理窟では十分わかっているのだが、それでもやはりいくらか安心感があるのだ。戦場の心理っておかしなものだよ」
と高見君は笑って数年前ぼくに話してくれました。
またわきへそれました。さて、幸村です。兵士らに冑をかぶらせ、槍をひざにおかせて地べたにすわらせました。それを目がけて騎馬鉄砲隊は八百梃の鉄砲を打ちかけ打ちかけ進んで来る。幸村勢は死傷続出しましたが、幸村は、
「こらえろ、こらえろ。大事な場であるぞ。もし一足でもひく心があれば、ここは助からんぞ」
とさけんで、銃の発射のつづいている間は歯を食いしばってこらえさせ、銃声の合間合間に十四五間ずつ走って行って伏せさせ、次第に近づきました。
頃合の位置まで迫ったので、騎馬鉄砲隊は一発はなち、煙の下からどっと突進にかかった。
幸村は全員におりしかせ、槍の穂先を上げて敵に向けさせ、今にも騎馬鉄砲隊が頭から乗りくだくかとのしかかって来た時、さっと采配をふり、
「かかれ!」
と大喝した。
全軍さっと立ち上り、突いてかかったので馬はおどろき、前足をあげてもがき、総くずれとなり、七八町も追いくずされたというのです。
この時の戦争には小十郎景綱は国にあって行かず、その子の小十郎種綱が行っているわけですから、伊達家の兵の指揮は多分種綱がしたのでしょう。
幸村は城の運命がきわまって、落城間近になった時、種綱に自分の娘のことを頼み、種綱はこれを引き受けたが、これが後に種綱の妻になったというのです。
敵に頼むということは昔はよくあったことで、武士道美談にもなっているのですが、この場合は同じ信州の豪族の出であったところから、ふだんから交際があったのではないでしょうか。昔の人は家の筋目というものを重んじますから、先祖の由縁があれば、子孫に至るまで、たとえ住所はへだっていても親しく交際したものです。
これは真田家と片倉家とが同族という意味ではない。真田家は滋野《しげの》氏です。滋野氏は小県《ちいさがた》郡一帯にひろがって、望月だとか、常田《ときた》だとか、海野だとかという氏になるのですが、真田家もその一つです。
「紅葉狩」の英雄維茂
『――信州の名族金刺氏のお話の次は北に上って越後、あすこの豪族で城氏というのがありますね』
あれは平家です。平家の平|維茂《これもち》の子孫です。平清盛の直系の先祖貞盛の弟に繁盛というのがいるのですが、維茂はその子供です。貞盛という人はいとこの平将門を討滅してから大へん威勢がよくなりまして、後の平家繁栄の基礎をきずいた人ですが、なかなかの才人でして、多分一族の繁栄のためでしょう、一族の子弟を自分の子にしてたくさん養いました。維茂はその多数の子供の中で十五番の年順だったので余五の君といわれていました。奈須ノ余一が十一番目の息子だったので余一といったのと同じです。与一と書くのはあて字です。
この維茂という人は面白い人で後に鎮守府将軍になるんですが、なる前から将軍を名乗っていた人です。余五将軍というのがこの人です。そうそう、「紅葉狩」、能にも歌舞伎十八番にもありますが、戸隠山の鬼女を退治する主人公が維茂になっていますね。
この人のことについては今昔物語におもしろい話が出ています。この人は若い頃|陸奥《むつ》に住んでいましたが、同じ頃に陸奥に沢胯《さわまた》ノ四郎|諸任《もろとう》という人物がいました。これは田原藤太秀郷の孫にあたります。つまりこの二人は共同して平将門を討ちとった人々の子孫というわけです。
二人はともに武勇にすぐれて、陸奥では双璧といわれるほどの武者で、おたがいのなかもよかったのですが、領地の境界争いのことからなかがわるくなりました。何せひろい陸奥に二人といわれている武者でありますから、ごきげんとりに中傷するやつもある道理で、なかは益※[#二の字点、unicode303b]険悪になって行き、ついに合戦ということになりました。
この当時の戦争は後世のはたし合いやばくち打ちの出入りのようなもので、双方日時と場所をきめてやるのが普通だったので、それもきめられました。ところが維茂の方では三千も兵士が集まったのに、諸任の方は千しか集まらない。とても勝負になったものではない。諸任は、
「合戦は中止したい」
と申しおくったばかりか、白河関をこえて陸奥を逃げてしまいました。
「なる勝負ではないと思うていたが、あんのじょうよ」
と維茂は笑った。しかし、敵の計略かも知れないと思ったので、なおしばらくは軍勢を手許にとどめておきましたが、いつまで待っても諸任方にそのけはいが見えないし、兵士らも家にかえりたがって来ます。当時の兵は武士という名は同じでも、後世の武士とはちがって、本職は農民なのです。必要に応じて武装して兵となるのです。だから農事上のことやなんぞで自宅に用事も出来るわけです。その連中は帰りたい一心から希望的観測をします。
「沢胯の君は軍兵の数もかけへだたっているし、もともとささいなことからおこった争いじゃから、今後もこちに手出しするようなことはしないで、おとなしく関東にいるといっていなさるそうでございます」
などと言います。そこで維茂も用心する気がなくなり、兵士らを帰しました。
それからしばらくして、十月一日の夜中の二時頃、維茂の館の前に大きな池がありましたが、その池でにわかに水鳥の飛び立つ音がしました。
維茂は有能な武将ですから、これが何を意味するか、ぱっとわかった。ただちに郎党らを呼んで命令を下す。
「敵が寄せて来たのじゃ。男共をおこして弓矢を持たせい。馬共に鞍おけ。櫓にのぼって様子を見、防ぎ矢射る支度せい」
斥候ももちろん出されます。その斥候がかえって来て報告する。
「暗くて兵数のほどはよくわかりませんが、この南の野に、多数の兵が真黒に散開して四五町ばかりにひろがっています」
「そうか。見事に不意をつかれたわ。今はもう助かるすべはない。しかしながら防ぎ矢の一筋二筋射ぬは武士の恥じゃ」
と、維茂は言って、路筋に兵を配置などして迎撃の手くばりをしましたが、邸内には武装した兵は二十人くらいしかない。これではいくら戦っても知れている。彼は妻子に女房どもをつけて裏山におとした。
間もなく敵は路筋にそなえておいた味方の兵士らを蹴散らして館にせまり、十重二十重にとりまいて矢を射かけます。こちらも応射しましたが、何せ数がちがいます。射すくめられて、多くもあらぬ兵士らは次ぎつぎに射たおされる……。
生きていた平維茂
敵は館に火をかけました。ついに維茂方は全滅となった。
寄せ手は火勢のおとろえるのを待って屋敷内に入って来ました。維茂方の死体は男女子供合わせて八十余体あります。寄せ手は維茂をもとめて一々にとりしらべましたが、皆黒こげに焼けただれてわかりません。しかし一人も漏らさず討ち取ったという自信がありますので、勝ちどきをあげて引き上げました。諸任方にも犠牲者があります。郎党二三十人が死傷していました。それを馬にのせて、諸任は帰途、妻の兄|大君《おおきみ》という者の館のそばを通ったので立ち寄りました。夜もすがらの戦いにくたびれ切っていますので、ここで兵士らに酒食をふるまってもらおうと思ったのです。
大君はもう老年でしたが、奥州ではやはりよい武者といわれている人でありました。出迎えていう。
「余五ほどの者を見事討ち取られたとはあっぱれな。余五の首はたしかに持ってまいられたであろうな」
「いや、館中の者皆炎で真黒にこげて、いずれが余五であるかわからぬので打ちすててまいりました。しかしわれらはこの目で余五が馬を乗りまわして大音声に下知するのを見たのでありますし、一人も館から出さずに弓で射とり、火で焼いたのでござるから、討ちもらしてはいませぬ。討ちとったにまぎれはござらぬ」
しかし、大君は承知しません。
「仰せはもっともじゃが、わしは考えがちがう。余五は心たくましいこと魔人のような武者でござる。わしは余五の首がそなたの鞍の|とりつけ《ヽヽヽヽ》(前輪と後輪《しりわ》につけた紐。馬の胸がい、しりがいをとめるのである)に結びつけてあるのを見ないかぎりは安心が出来ぬ。和殿ここに長居は無用、とく立去りなされ。それが和殿の身の安全のためでもあり、わしのためでもある。わしはこの老年になって、人の喧嘩のまきぞえなど食いとうはござらぬ」
と追い立てました。年が大へんへだたって、かねてから父親のように仰ぎつかえていた大君なので、こう言われても諸任は腹を立てるわけに行きません。しぶしぶと立上ります。大君は、
「戦いつかれて腹が空いておわそう。やがて酒食を持たせてやります故、とにかくも一刻も早くここを立去ってもらいたい」
とせき立てた。諸任は、「あわれ、どこまでもかしこいご老人じゃが、死んだものが生き返ろうか」と心ひそかにあざわらって、馬に乗って館を出ました。
五六十町進むと、低い丘があり、小川が流れている場所がありました。諸任はここで兵士らを休息させました。
そこに大君が酒を大樽十、魚鮨五六桶、その他鯉、鳥、酢、塩に至るまで下僕共に荷わせてとどけてくれました。馬の飼料もまぐさや大豆など多量によこしました。兵士らはよろこんで、武装を解き、馬も鞍やくつわをはずし、さし縄ばかりにしてくつろがせて、飲食にかかりますと、終夜の戦いに皆腹が空ききっているので、忽ちに酔いと疲れが出て、死んだようになって寝てしまいました。
ところがだ、維茂は死んでいなかったのです。彼は館に火がかかったと見るや、戦いを切り上げ、着ていた着物をぬぎ捨て、女の着ていた襖《あお》という着物を着、髪のもとどりを切ってふり乱して女装し、刀をふところに抱き、煙にまぎれて飛ぶがごとくに館を出、西の方を流れている川の深みに下り、川中の葦の生いしげったところに泳ぎつき、横生している楊《やなぎ》の根をつかんでひそんだのです。
意表つく維茂の作戦
やがて敵は焼けおちた館に入って、こちらの死体を検査して、「余五の首はどれじゃ」「これがそうでないかな」などと話している。それをだまって聞いていたのです。陰暦の十月一日といえば、太陽暦では十一月初旬から年によっては十二月にかかることもあります。所が奥州なのですからもうずいぶん寒い。それを水中にあって身動き一つせず数時間いて、こんな話を聞いていたのですから、超人的の忍耐ですね。たしかに魔人ですよ。
そのうち諸任方は引き上げて行きましたが、それが四五十町も行ったろうと思われる頃に、急をききつけたのでしょう、味方の郎党らが三四十人駆けつけて来て、味方の惨害を見てなげき悲しみはじめました。それでも維茂は出ません。五六十人の騎馬の者が集まったところで、はじめて呼ばわりました。
「おれはここにおるぞ!」
郎党らはおどろきよろこび、ころがるように馬からとびおりて泣いたといいます。維茂はかくれがから出て、ざぶざぶと水をわたって岸に上ります。郎党らはそれぞれ自分の家人を走らせて着物を持って来させたり、食物を取りよせたり、弓矢その他の武器武具も持って来させました。定めし焚き火をしてからだを温めてやりもしましたろう。維茂は乾いた着物を着、あたたかい食べものを食べると、
「おれは今夜の敵襲にはじめから逃げれば逃げられたのだ。現に妻子は裏山に逃げさせた。それを逃げずにこんな目に逢ったのは、敵に寄せられて一防ぎもせず逃げたといわれるのを恥じたからである。さあ、これからどうしよう」
郎党共は、敵は四五百人も人数があるのに、味方はここにいる五六十人ばかりであります。どうにも出来はしません。後日を期せらるべきでありましょうと申しました。維茂はうちうなずきながら、
「その方共の申すこと道理だ。しかし、おれは本来なら昨夜死んだ者だ。希有《けう》にして助かったのじゃから、もうけものじゃ。ちっともおしくないぞ。その上、復讐を一日のばせば恥を一日のばす道理だ。わいらはあとで人数を集めて戦え。おれはただ一人でよい。彼が家に行きむかって、おれを焼き殺したと思いこんでいる敵に今一矢射かけて死のうと思うのだ。さなくば子孫の末に至るまでの恥じゃ。後日の復讐では成功しても追付かぬ。命のおしいものは来るな。おれは一人で沢山だ」
と、言いすてざま馬に飛び乗ろうとする。こうなりますと、郎党もためらいません。
「仰せられる趣き道理であります。もう何ごとも申しません。お供いたします。疾《と》く出で立ちなさりませ」
維茂は馬にとびのり、手綱をひかえて、郎党らに、
「おれの見る目はちがわぬはずだ。敵は終夜の戦いに疲労しはて、どこかの川原や山陰や林の中で死んだようになって寝ているであろう。おそらく馬なども鞍をおろし、くつわをはずしてくつろぎ、弓も弦をゆるめて油断しきっていよう。味方が鬨の声をあげておしかかったらば、千人の軍勢でも何が出来よう。好機は今日ぞ。それでもいのちの惜しい者は来るな」
と呼ばわりましたので、人々の勇気は百倍します。
この時の維茂のいで立ち、紺色の襖《あお》に山吹の衣《きぬ》を着、夏毛《なつげ》のむかばきをはき、綾藺笠《あやいがさ》をかぶり、征矢《そや》三十、雁股《かりまた》の上差しを二筋さしたえびらを負い、手太い弓の所々に革を巻いたのを持って、金銀をちりばめた太刀を佩き、葦毛の馬|七寸《ななき》、長さもまた長いに打ちのっていたとあります。従う者は騎馬の者七十余人、歩《かち》立ちの者三十余人、合わせて百余人、飛ぶがごとく追いかけました。
フェミニストだった維茂
大君の家の前を通るとき、郎党をつかわして申し入れさせました。
「平維茂、昨夜敵に討たれて逃げるところでござる」
大君はこれを聞いて、こんなことがあろうかと予期して、郎党を二三十人家におき、そのうちの数人を櫓に上げて、門はきびしくしめ切らせていました。
「答えてはならん。だまっておれ」
と命じたので、誰も答えません。維茂の郎党は言いすてにしてかえって行きました。そのあとで、大君は櫓の郎党を呼んでききます。
「どんな風であったか。よく見たか」
「見ました。彼らの通る大路はここから一町も向うにありますので、たしかには見えませんでしたが、およそ百人ばかりもいましたろうか。皆逸物に乗って、飛ぶが如くに通過して行きました。その中に大きな葦毛の馬に乗って、紺の襖《あお》に山吹きの衣《きぬ》、綾藺笠《あやいがさ》に夏毛のむかばきを着たのがいましたが、これこそ余五の君でありましたろう」
「その通りじゃ。その馬こそ彼が自慢の大葦毛よ。すごい馬じゃぞ。余五がその馬に乗っておしかけた以上、誰が敵し得よう。沢胯は気の毒な死に方をするであろう。わしがあれほど注意してやったのを、阿呆なことを言うと思うている風情であったが、定めてそのへんの山陰あたりで寝ているであろう。一人ものこらず皆殺しよ。こちらは門をきびしくとざし、音を立てるな。ただ櫓に上って物見はいたせ」
維茂は途々斥候をはなって前途を見きわめながら兵を進めつづけましたが、間もなく諸任らのいぎたなく寝ているところをつきとめ、どっとおめいて攻撃をかけました。諸任はおどろき目ざめ、狼狽して防戦にかかろうとしましたが、油断しきっていたこととて、混乱また混乱、ついに一人ものこらず討ちとられてしまいました。
維茂は諸任の首を切り、直ちに諸任の家におしかけました。諸任の家では戦さに勝って帰って来るとの知らせが来ていますので、諸任の妻は酒食の用意などして待っていたのですが、思いもかけず維茂の軍勢がおしかけて来、放火し、反抗する者を射取りましたので、狼狽し悲しむばかりです。維茂は、
「女は上下によらず手にかけるな。男は一人ものがさず射取れ」
とさしずし、男を皆殺しにし、女らは皆助けました。彼は諸任の妻に女房一人だけをつけて、馬にのせ、市女笠をかぶせ、凱陣の時連れて去り、大君の家の門前にかかると、使の者をして、
「沢胯の君の妻には少しも恥は見せませんでした。それはお妹にあたられるからであります。お連れして来ましたから、お渡しします」
と申しこませて、引き渡したので大君は大へんよろこんだとあります。無益に敵をつくらない用心なのですね。名将といってよいでしょう。
朝潮より大きかった城|長茂《ながもち》
城氏はこの維茂の系統なんです。維茂の息子繁茂というのが秋田城介になりまして――日本の国境は、そのころは確実には今の秋田市のあたりだったんですね。その以北は蝦夷の土地だったと見るべきでしょうね。今の秋田市の近くに秋田城というのがありました。ここが出羽の鎮守府でね、出羽介、つまり秋田の副知事がそこの大将というきまりだったのです。正式の名称は秋田城介ですが、普通には城介とだけ言います。
城介といえば、秋田城介のことです。陸奥の方ははじめ多賀城に鎮守府があり、後に胆沢《いさわ》城にこれが移ったのですが、多賀城介という官もなければ胆沢城介という官もない。秋田城だけにあって、まぎれることがないので、こういうことになったのでしょう。
織田信長の息子信忠、あれが城介と名乗っています。もっとも秋田城介などという官はずいぶん早くなくなっていますから、信忠の場合は単に名称だけです。織田家は平氏ですから、遠い先祖に由緒があるというので、この官職名を名のったんでしょう。信長は若い時上総介を名のっていますが、これも平氏の始祖高望王が平姓を賜わって臣籍に降下し、最初に任ぜられたのが上総介だったから、その由緒でこう名のったのです。昔の人はよくこんなことをしたのです。また話がそれました。
城介は大して高い官じゃありませんよ。つまり出羽の副知事が兼務することになっていた国境の要塞司令官ですから知れています。
出羽は国の等級から申しますと上国です。大国、上国、中国、下国と、国は四階級に分れているのですから、二番目の階級の国ですね。上国の介は従六位上ですから、中央の官庁なら、左右衛門府や、左右兵衛府の大尉《たいじよう》ですね。知れたものですよ。繁茂がそれになりましてね。二三代続いて任官したんでしょう。
それで城という名字になった。のち越後に土着したのですが繁茂から何代目の子孫か、諸書によって説くところがちがって一定しませんが、長茂という人物が出て来ました。木曾義仲が信濃に起こった時、越後から討伐に行って打ち負けたのです。本人もなかなかの豪傑ですし、越後の城といえば聞こえた豪族で、清盛も越後にはわが家の同族である城がいるから、義仲などいくらあばれてもやがて攻めつぶすことわけはないと、大いに力にしていたほどなのですが、これを一戦にたたき破ったので、義仲の勢力は飛躍的に増大したのです。城氏がどんなに大族であったかがわかるでしょう。この長茂という男は身のたけが七尺あったといいます。七尺というと朝潮より大きいでしょう。一体、日本人は江戸時代からすごく小さくなっていますからね。それはおそらくたべものの関係でしょう。米なんかは真白にしてたべますし、宗教の関係で獣肉類はたべないし、その関係でしょう。
長茂鎌倉に送らる
人類学者達が昔の人の遺骨をしらべて、江戸時代以前の日本人はもっと大きかった、江戸時代が一番小さいと口をそろえて言っています。平安朝以前は相当大きかったに違いありません。
『――上野の動物園に純粋の日本馬というのがいますね。小さな馬ですが、あんなのにまたがって当時の身のたけ抜群の武士たちが戦場をかけ廻ったんでしょうか。維茂の愛馬大葦毛のお話がありましたが、どうもイメージがぴったりしないんですが……』
いまの馬は人為的にいろいろと交配して競走用につくってあるでしょう。だから、体格も一応りっぱだし、短距離は非常に早いけれども、おそらく耐久力、重いものを負担する力、これは昔の馬の方がよかったんじゃないですか。
名馬に関する昔の書物の記述を読むと、名馬はちょいと猛獣みたいな感じに描写してありますよ。平家物語の生食《いけずき》の記述は、
「佐々木四郎の賜わりける御馬は、黒栗毛なる馬の、極めて太くたくましきが、馬をも人をもあたりをはらって食いければ、生食とは名づけられたり」
とありますし、源平盛衰記にはもっと直截に、
「馬をも人をも食いければいけずきと名づけたり」
とあります。
小栗判官物語の鬼鹿毛など人を食べものにする馬ということになっているのですからね。昔の人の持つ名馬の概念がわかるじゃありませんか。きついきつい馬ですよ。現在のサラブレットやアラブの感じじゃありませんね。それから昔の武士は戦場に出る場合、乗りかえを何匹もひいて行きました。一頭だけつれて行くのではないのです。それでも、馬を大へんいたわったのです。
源平盛衰記には、畠山重忠が一ノ谷の逆落しの時、
「いつもお前が背負うんだから、きょうはおれが背負おう」
と言って、馬を背負い、しずしずと下ったという話があります。盛衰記にしかない話なので、本当かうそかわかりませんが、当時の武士が馬を大事にしたことがわかりましょう。
さて、城長茂は義仲に打ち破られた後、会津に逃げました。平泉の藤原氏は彼と姻戚の関係があるので、これに頼ろうとしたのでしょう。ところが当時の藤原氏の当主秀衡はかえって兵をつかわして討とうとしましたので、また越後に逃げかえり、佐渡にわたってここに潜伏していたそうです。そのうち木曾義仲は越中に出、有名なクリカラ峠の戦さ、つづいて加賀の篠原合戦に打ちかち、長駆して京にのぼりましたので、長茂はまた越後にかえって、平家勢力の回復に力をつくしたのですが、何せご本家の平家が西海の波に浮かんでいるのですから、どうにもなりはしません。間もなく平家は壇の浦に亡びまして、長茂は天地間に身を容れるところがなくなり、鎌倉に召捕られて、梶原景時にあずけられました。
一年ほど立って、頼朝は奥州征伐をいたしましたが、そのとき、長茂のあずかり主である梶原景時が、
「わたくしに召しあずけられている城長茂は無双の勇士でございますから、こういうときにおつれになってはいかがでございましょうか」
ととりなしました。
「なるほど、それはそうだ」
と頼朝はゆるしてくれました。ゆるすときのことが吾妻鏡に出ています。
頼朝、長茂を赦す
そこで、頼朝の御前に呼ばれました。頼朝のすわっているところは前にすだれでもかかっていたんでしょう。城は呼ばれて入って来ると、つかつかと上座の方に行き、頼朝のすわっているところを背にして正面にすわってしまった。多分ここにいるのは頼朝の家臣どもの中では重臣の連中ではあるが、おれの方が家柄も上なら官位も上だという腹があったのでしょう。城は木曾義仲と戦う前に越後守に任ぜられています。当時頼朝の家臣中には国の守に任ぜられている者はない。せいぜい次官たる介です。頼朝の弟の範頼が三河守、義経が伊予守でしかなかったことをもっても、国の守という官職が当時の武士にはどんなに高いものであったかわかります。後世になるとちがいます。皆おどろきました。そこで、
「ごへんのうしろには頼朝卿がいらせられるんだ」
と注意しますと、さすがに非常に恐縮して、
「少しも存じなかったので、こういう無礼をいたしました」
と言って、席を退いたという話があります。
それから従軍するについて、
「わたくしは罪余の身でありますから、わたくしの家の旗をかかげお供するということは、恐れ多くございますれば、君のおん旗をお貸し下げいただきとうございます」
と申しますと、頼朝は、
「遠慮のほど神妙であるが、その方の家の旗をかかげてよろしい」
城は非常によろこんで退出しましたが、人々に、
「わが家の旗をかかげれば、家来どもがときの間に集って来るでござろう」
と語りました。その通りだったのです。頼朝が鎌倉を出発して、白河の関の手前まで行きますと、城は家の旗をかかげ、二百余人の勢を引き連れて頼朝を迎えました。士馬皆精強、きわ立って勇ましげです。頼朝は驚嘆した。猜疑心の強い人だけに恐怖すらしました。そのときも景時がとりなしてくれています。
「あれほどの豪族でありますから、主人が罪をゆるされ、出陣するとあっては、今まで散っていた家来どもが集って来るのはあたり前のことでございます。これらは皆君の爪牙となるのでございますから、およろこびになるべきで、ご心配にはおよばぬことでございます」
と言ったという話があります。とにかくそれぐらいの豪族だったのです。
こういう関係がありますので、城は梶原景時を大へん徳としまして、後に景時がほろぼされた時、城は京都で乱をおこしています。
長茂、京都で反乱を起す
梶原景時のほろぼされたのは正治二年正月のことです。景時という男は当時の鎌倉武士のにくまれ者で、そのために総スカンを食ってほろぼされるはめに陥ったのですが、知恵も勇気もすぐれていましたので、おめおめと手をつかねて殺されるつもりはなかった。彼は幕府の有力者だったのですから、彼の子分になっている武士は全国に相当いる。城氏などもその一つですが、そのほかにもいる。関東にもいる。とりわけ九州方面には多かった。これは吾妻鏡を気をつけて読めばわかるのです。
梶原はこの連中を糾合し、京都朝廷に宣旨を仰いで、一旗上げてやろうともくろんで、関東を出発して京へ向う途中、駿河でその地方の武士共に討ち取られたのです。彼を討ち取ったのは吉香《きつこう》小次郎らです。この人は駿河国第一の勇士で、景時も「吉香の家の前を通りぬけることが出来さえすれば無事に京都まで行きつける」といっていたそうですが、その吉香らが清見潟あたりでヤブサメかなんぞして終日遊んで帰る途中出会ったのです。おそらく最も用心しなければならない吉香とばったり出会ったので、さすがの景時らも態度がかたくなったのでしょう。吉香らは怪しんで、矢を射かけ、ついに合戦となって、梶原一族は討ち取られてしまったのです。
この吉香小二郎――友兼という名だったそうですが、この人の孫の経光が安芸国の地頭職になったのが、安芸吉川家のもとで、この吉川家に戦国時代になって毛利元就が自分の子元春を養子にやりました。すなわち知恵の小早川隆景とともに車の両輪となって毛利家を大ならしめた猛将吉川元春です。
やれ、また話がそれてしまいました。そういう次第でありましたので、城長茂は梶原が空しく殺されてしまったのが残念でならない。
「よしよし、おれが一人で鎌倉幕府に一泡吹かしてやる。元来鎌倉はおれの敵なんじゃ」
と思い立ちまして、一族の者共や郎党らをひきいて京都に潜入して、梶原の亡ぼされた翌年の二月三日のこと、ちょうどその日は土御門天皇が後鳥羽上皇の御所にお出でになり、大番役で上京している関東の武士らもその供奉をして上皇御所に行っている時、関東武士の小山朝政の宿所におしよせました。
小山朝政はその時在京の関東武士中の最有力者だったので、これを先ず討ち取ってしまえば、あとはしごとがしやすいと思ったのでしょう。
ところが、朝政は今も申しましたように天皇の上皇御所行幸の供奉をして不在である。留守居の郎党らが奮戦しまして、どうやら撃退した。
城は退却はしたものの、そのまま引退りはしない。上皇御所におしかけました。その時天皇は上皇御所からご退出になったが、まだ禁裡へお帰りになっておられなかったようです。城は上皇御所に入り、四門を閉じてきびしくかためておいて、後鳥羽上皇に関東追討の院宣を乞いました。後年になりますと後鳥羽は関東征伐を思い立たれ、承久の乱などおこるのですが、この当時はまだそんな気になっておられなかったのでしょう。お許しがない。城も相当にがんばったことでしょうが、在京の関東武士らがおしよせて来そうな形勢になったので立去りました。
小山朝政らは城がこんなことをしたと聞いておどろいていますと、清水坂へんにいるとの報告が入りましたので直ちに馳せ向いましたが、城はもうどこへ行ったかわからなくなっておりました。
その後二十日ばかり立って、吉野の奥にいるということがわかりましたので、馳せ向って討ち取ってしまいました。この時には郎党らの大部分は散じて、一族の者くらいしかのこっていなかったようです。長茂の首は京都に持って来られて大路をわたして梟首されました。
勇婦板額女史の登場
この知らせが越後にとどくと、越後にのこっている城一族の者が叛乱をおこしました。長茂の甥の小太郎資盛というのが総大将だったといいます。北国一帯の武士共にふれをまわしてことをおこしたのですが、応ずる者が多くてなかなかの勢いとなりました。越後と佐渡両国の幕府方の武士らが力を合わせて追討に乗り出しましたが、叛乱軍の勢いが強くてあぐねました。
幕府では当時上野国|磯部《いそべ》郷にいた佐々木三郎兵衛尉盛綱入道西念に命を下して、これを追討させることにしました。この佐々木盛綱は宇治川の先陣をした四郎高綱の兄で、なかなかの勇士です。この頃はもう年老いていたでしょうが、幕府のみ教書がとどいた時、あたかも門前に出ていたので、そこで立ちながら披見すると、門のかたわらの駒つなぎにつないであった馬にとびのり、そのまま鞭を上げて越後に馳せ向ったといいます。郎党らは大急ぎで追いかけるのです。年は老いても、鎌倉武士のりんりんたる気魄は胸のすくものがありますね。
城の本城は鳥坂というところにあった。これを佐々木は北陸や信州の武士共をさしずして攻めたわけでありますが、城軍の勢いがおそろしく強くて手こずりました。とりでの要害も堅固だったのでしょうが、別にまた理由があった。
小太郎資盛のおばというのですから、長茂からすれば妹ですね。これが有名な板額《はんがく》なのですが、猛烈に強い。吾妻鏡には「女の身たりといえども、百発百中の芸ありて、ほとんど父兄を越ゆ。人みな奇特という」とあります。この板額女史が髪を童形にしてくくり上げ、腹巻を着、櫓《やぐら》の上にいて、さしつめ引きつめ寄せ手を射る。「あたるもの死せざるなし」とあります。佐々木盛綱の郎党もこのため多数死んでしまった。
攻めあぐんでいますと、信濃国の住人藤沢四郎清親という者が、城のうしろの山に上って、そこから板額を目がけて矢を放った。その矢が板額の左右の太股を射つらぬいて、どうとたおれる。そこを藤沢の郎党らが櫓によじのぼっておさえつけたというわけです。
板額がこんなわけで捕えられてしまいましたので、さすがの城一族も戦闘力はガタおちにおちて、ついに敗北しました。
しかし、城氏はこの時ほろんでしまったのではないようです。依然として越後の豪族としてのこり、子孫が上杉謙信につかえていますから。もっとも、謙信につかえた城資家は謙信を裏切って武田信玄に志を通じ、それがばれましたので、一族郎党をひきいて越後を逃亡しています。
この城氏のこもった鳥坂城がどこであるか、よくわかっていません。越後の郷土史家の間にいろいろな説があって、吾妻鏡に、佐々木盛綱入道西念が上州磯部から三日間に馳けつけたと幕府に報告している記事のあるところから、魚沼郡の富坂であるという説があり、北蒲原郡の鳥坂であろうという説があるが、戦国時代の城氏が中頸城郡の鳥坂を所領してここに居住していたところから察しますと、これがよいのではないかとぼくは思っています。
さて、板額御前は矢傷がまだよくなおらないうちに鎌倉に連れて来られて、頼家将軍の前に連れ出されました。鬼をもひしぐ坂東武者らの居ならぶ中を板額は連れ出されて、頼家のすだれの前にすえられましたが、少しも恐れる色がなく、またこびへつらう態度がなかったので、吾妻鏡は感心して書きとめています。
雄々しく美しかった板額
この有様を見、またその武勇のほどを聞いて、浅利与一義遠――これは甲斐源氏で武田氏とは同族ですが、これが頼家将軍側近の女房に頼んで、
「越後のあの女を配流《はいる》なさるなら、拙者があずかりとうござる」
と願い出ました。頼家は、
「あれは無双の朝敵である。しかるにそれをあずかることをことさらに望むのは何か所存あってのことか」
とたずねますと、与一は、
「とくべつな所存はありませんが、口説きおとして夫婦となり、無双の勇士を生み、朝廷と幕府のために忠勤をぬきんでさせたいと思うのです」
と答えました。頼家は、
「あの女は顔は美しいが心はまことに猛々しい。それを思えば、愛欲の念など起ろうはずはないのに、義遠は異なやつだの。よほどのいかもの食いだな」
と、しきりに嘲弄して、これを許してくれましたので、与一はよろこんで甲斐の国に連れて帰りました。
古来板額を醜婦と解釈して、古い書物にもそう書いたものがありますが、最も古くて最も信用すべき吾妻鏡に「顔色に於てはほとんど陵園の妾に配すべし」とあります。この陵園というのがぼくにはわからないのですが、いずれは中国人の名で、その人の妾で武勇たけて、しかも美貌な女がいた故事を引いたものと思われるのです。もっと端的には、頼家が与一をからかったことばの中に「くだんの女が面貌は宜しきに似たりといえども、心の武《たけ》きを思えば誰か愛念あらんや」とあるのをもっても、相当美しい女性だったことがわかります。板額女史のために一言弁解しておきます。
資盛のおばで、長茂の妹だとすれば相当年が行っていたかとも思われますが、当時は一夫多妻が普通でありますから、年老いた男で若い妾をもって子供をこしらえた例が多い。男は年をとっていても、女が若ければいくらでも子は生ませられるそうですからね。したがって、おばとかおじとか言っても、本人より若い事例がめずらしくなかったのです。板額女史も資盛の若いおばだったのでしょう。
『――巴板額といわれますけれど……』
巴の方は名実ともに美人ですね。板額女史は相当な美人であるのに、後世醜婦とあやまり伝えられましたが、巴の方はそんなことはない。平家物語にも「色白く髪長くして」と書いてある。
ちょっと思いついたことですが、巴が誤解されることがなく伝わり、板額が誤解されたのは伝えられた書物の文体によるのではないでしょうか。平家物語にしても、源平盛衰記にしてもわかりやすい和文なのに、吾妻鏡の文体は日本式漢文で、ゴツゴツとしてまことによみにくい。いいかげんな読み方をして早のみこみするとつい誤解してしまう。このために正反対の意味にとられてしまったのではないでしょうかね。一々原典にあたってみることは、よほどに特別な人間でなければせず、大抵は書いた人のものをうのみにしてしまうのですからね。最初の人が間違えて、その間違いをわかり易い文章で書いてしまうと、あとは皆そうなってしまうのですね。
巴、山吹と義仲の妻の座
さて、巴は平家物語には巴、山吹とならべて書いて、木曾義仲が信州を出るときに、二人の美女をつれていたことにしてあります。源平盛衰記にはもうひとり葵という女がでてきます。
葵はまるで素性がわかりません。山吹もはっきりとはわからんですが、大体見当がつきます。
ずっと前、信濃の金刺氏のことを話した時、手塚太郎光盛が金刺氏の一人だと申しましたね。この光盛の兄貴盛澄のいた城が山吹城というんですよ。それからまた諏訪大明神絵詞に「盛澄は木曾義仲を聟にとって、女子ひとり出生して、親子の契約浅からず」とあるのです。だから、ぼくは義仲が巴と一緒に京へ連れて行った山吹は、この女だろうと思っているのです。
ところで巴は中原兼遠の娘で、樋口兼光や今井兼平の妹にあたるわけでしょう。盛澄の家は中原家におとる家柄ではない。あるいは家格の点から言えば、手塚家の方が上かも知れません。とすれば、これはどっちが正妻なのか妾《めかけ》なのかわかりませんね。むかしは相当な豪族の娘をもらうとみんな正妻にしたんですから、それも考えてみなければなりません。どちらも妾ではなくて、いずれも妻であったのではないかとね。
妾は妻とくらべますと、ずいぶん格がおちたものなのです。主従と考えてよろしい。妻が主人、妾は家来ですね。
一夫多妻は豪族では普通のことだったんです。妻といっても、嫡妻と普通の妻との両種あります、嫡妻は「むかいめ」といいましてこれは一人、妻は何人いてもよろしい。皆正妻です。嫡妻が一番上、次は妻。妾は別格のもので、これは家来です。そういう具合になっていた。もっとも、嫡妻が一人といいましても、絶対の規定ではない。平安朝中期の関白藤原兼家は嫡妻が三人もあったので、当時の人が「三目錐《みめぎり》」とあだ名したといいます。三人の妻《め》に穴をあける錐という意味。わいせつなあだ名ですね。
よく世間では淀君は秀吉の妾だったと言っていますが、ほんとうは妾じゃありません。正妻なのです。嫡妻でないことは申すまでもありません。禰々《ねね》がいますからね。共産中国になるまでの中国人の家庭を考えれば一番よくわかります。第一夫人、第二夫人、第三夫人とあったといいますが、あれなんですよ。
中国人の第一夫人、第二夫人というのは、第二夫人以下は現代日本人の概念では妾という感じになりますね。二号という言葉もあるくらいですから。しかし、あれは妾じゃなくてやっぱり正妻なんです。妾は婢妾とつらねて熟語になるくらいで、召使いなのですよ。織豊時代以前の日本もそうだったのです。
さて、巴も義仲の戦死後、信濃に帰っていたのを鎌倉に呼び出したら和田義盛が無双の勇士を生ませたいと所望して妻とし、生まれたのが朝夷《あさひな》三朗義秀だという伝説がありますが、うそですね。朝夷三郎は吾妻鏡によると、建保元年に父和田義盛の乱の時三十八歳です。逆算すると安元二年の生れです。義仲が江州粟津で戦死した元暦元年に先立つこと九年です。浅利与一と板額女史のことが、後世の人をまぎれさせたのでしょう。
「天と地と」うらばなし
『――「天と地と」に松江さんという勇婦が出てきますね。長尾為景の妾で、あとで鬼小島弥太郎の妻になる……』
ああ、あれは出ている古い書物はあるのです。甲越軍記なんですがね。史実的には全然信用の出来ない書物ですが、小説の眼目は史実にはない。ある事件なり人物なりの上に燃え上っている炎を読者に感じさせるにある。つまり、ぼくがある感銘をある事実、ある人物から受ける。それをぼくの感じているように読者が感じてくれるように書く。それが小説というものだと、ぼくは思うのですよ。そのためにはつくり話もしなければならない。うそだとわかっている話をとりこむこともある。ただ上手にうそをついて、読者に不自然さを感じさせてはならないことはいうまでもありません。小説というものはそういうものですよ。もちろん、つかんでもよいうそをつく必要はない。事実のままを書いてそれで目的を達せられるなら、それでもよい。しかし、原則として、小説とはウソ話を書いて真実を伝え、作者の感じている精神を伝えるものなのです。
さて、ところで、その甲越軍記では、あの松江という美人で武勇すぐれた女は、為景が越中せんだん野で戦死するところにだけ出て来るのです。為景が戦死しましたので、大奮戦してあれ狂うのですが、ついに虜《とりこ》になりましたところ、虜にしたやつが自分の女房にしようとしたので、自殺しているのです。
面白いからこの松江さんを使うことにしたのですが、近代小説では、いきなり人を出すなどしません。必ず前から伏線としてぼつぼつ出して行かなければなりませんから、ずっと前から出したわけですが、美人で武勇にたけた女でも、普通の女丈夫ではおもしろくない。美人で女丈夫でありながらうんと田舎びた性格にしたら、そのアンバランスが生彩をそえるにちがいないと考えて、そういう工合に性格をきずき上げて行ったのです。するとね、こちらもだんだん愛情が出ましてね、むざむざ殺すに、しのびなくなって、つい、ああいうことになりました。アハハハ。
しかし、年をとったんで、今はひどく使いにくくなっています。小説の中ではよくそういうことがあるんです。読者に愛されている人物が年をとっちゃうんで、不便になるんですよ。
『――銭形平次みたいに、いつまでも若いというわけには歴史小説の場合は……』
いかんですよ。
『――板額の再来といった感じ、やはり板額にヒントを得て?』
そういうわけでもありませんが全然なかったわけでもないでしょう。あの作品の中で、板額について、作者が顔を出して一席ぶっていますからね。
あっちの方の人は、日本海沿岸の地域は一県おきに美人県があるんだと言いますね。秋田が美人県で、山形がでなく、新潟が美人県で、富山がでなく、石川県――加賀ですね、そういう具合に一県おきになっていると言いますね。しかしぼくは山形に行ったとき、山形の人をきれいだと思いましたよ。山形の駅だったかな。売店にいた娘さんだか、おかみさんだか、一見非常に美人に見えましてね。つくづく見ますとね。顔形はそうでもないんです。ただ眉がきれいで色が白い。だから一見して非常に美人に見えました。
それから気をつけて見ていましたら、町で会う女の人など非常にきれいだと思いました。山形美人ということも言うでしょう。
名にし負う越後では一人も美しい人を見なかったな。現在では女の美貌は最も有力な蓄財や出世の機能ですからね。その機能が最もよく生きる大都会に美人は集まるのです。越後は昔から出かせぎのさかんなところだから、美貌を利用して成功するよりほかない家の生まれの娘さん達は皆大都会へ出てしまうのではないでしょうか。美貌を利用する必要のないほど豊かな家の子女は旅の者の目につくところにひょこひょこ出て来はしない。越後に三度も行ったのに、美しい女を見ることが出来なかったのは、以上のようなことからであろうと、ぼくは解釈していますよ。ハハ、ハハ、ハハ。
『――加賀の千代さんなどどうですか』
千代女は「ひとかかへあれど柳は柳かな」と、自分のことを詠んだといいますから、もの凄く大きい女だったという説がありますよ。ともあれ、美人だったという説はないようですよ。
日本の辺境だった「越」と「陸奥」
越後の国は新潟県になって一国一県ですが、ものすごく大きいですね。ぼくは上杉謙信を書くについて、しょっちゅうあすこの地図をにらんでいたんですが、大きいですね。あそこは今でも上越後、下越後といいますが、米山ね、あそこで二つに切ってちょうどいいくらいになりますね。上越後、中越後、下越後と三つに切ってもいいかも知れません。
上というのはもちろん京都に近い方、つまり高田の方ですが。今でも汽車は上り列車下り列車と首府を標準にしていますが、昔は京都が首府なので、ここを標準にして国の名前などつけました。
吉備の国を三つにわけて都の方から備前、備中、備後、越《こし》の国を三つにわけて越前、越中、越後、火の国を二つに切って肥前、肥後、豊《とよ》の国を二つに切って豊前、豊後、前というのは京都に近い方です。関東の上野、下野は毛野《けぬ》の国を二つに切りました。これは山道《せんどう》の国々ですから上野の方が京に近いわけです。
これらの国は上古は大和朝廷に対立するほどの大豪族がそれぞれ独立国を営んでいたところです。毛野氏、吉備氏、越氏等ね。火の国の王者磐井の叛乱などは上古史の大事件です。
さてどうして越後はあんなに大きいんだろうと考えてみたんですがね。つまりね。越の国は今の越前からはじまって、越後までの日本海に面した国はみんな越の国だったのですね。その越の国のうち、越中の辺までは大分早く大和朝廷に服属したのですが、越後はだいぶ後になったんじゃないかという気がしたんです。
大化の改新のころに、大和朝廷の支配下にある領土の北方の国境が、ちょうど今の新潟市近くですからね。ずいぶん長い間、ちょうどこの大戦前の日本における満洲みたいな形だったのですね。そのために小さく区切られないで、大きいままで治められていたのだろうと思うのですよ。越後守とはつまり越後総督というわけ。
陸奥は越後よりはるかにあとからですから一層大きい。白河関から北、恐山のある下北半島、あすこまでずいぶん広いですよ。
明治以後、府県の制度がはじまる前、あれをいくつかに切って、陸前だとか陸中だとか分けましたが、それ以前は全体が陸奥ですからね。
それから出羽が今の山形県から秋田県全部。これもあとからですからね。もっとも陸奥よりは早い。だから陸奥にくらべれば、いくらか小さいです。太平洋岸側より日本海沿岸側の方が大和朝廷に早く服属しています。
陸奥に中央政府の威令が行われるようになったのは、源頼朝からですよ。彼が平泉の藤原氏を滅ぼしてからです。それ以前にもあそこには陸奥守もいるし、鎮守府将軍もいるのですが、大和朝廷国家、京都朝廷国家とはちょっと言えない面があります。
平泉の藤原氏などは鎮守府将軍を世襲することにはなっていますから、一応名前だけは京都朝廷に属しているわけですけれども、実際は陸奥独立国ですな。陸奥王国ですよ。頼朝がその王である藤原氏を滅ぼして、関東の豪族をたくさん入れたんです。つまり豪族共に所領をわけてやったんです。そうすると、豪族連中はそのもらった所領に一族の者や家来を支配人格にしてやって管理させるんです。これは居つきになりますから、関東の豪族らの移住ということになるのです。後世戦国時代にあの地方で名前のあらわれている大名は大ていその時行った関東武士の子孫です。大名というほどの者でなくても、知名の武士は大ていそうです。支倉六右衛門の支倉氏もそうだし、今の仙台の近くに国府という所があって、陸奥国府のあったところですが、そこにいた国分氏などもそうですし、会津の葦名氏、これも関東の三浦一族の末です。
南朝の皇子公卿の子孫たち
『――北畠顕家の陸奥守は、前からの縁故か何か……』
いや、あれは陸奥方面を南朝方に確保するために行ったんです。陸奥の北畠家は戦国時代まであの地方の大豪族としてつづいています。作家の北畠八穂さんは青森の人だそうですが、この子孫でしょうね。
顕家の場合は、南北朝の対立がはじまってから陸奥守になって行ったのですけど、そのほかに後醍醐天皇は武家政治を全廃して、王朝政治に返そうとされた方ですから、地方の国司なども朝廷から直接に公卿をやっている場合があるんです。飛騨の姉小路、それは戦国時代まで飛騨国司で続いているのですが、これがその一つです。伊勢の北畠氏もやはり南北朝対立で伊勢国司になったんです。土佐の一条家も国司ですが、これは応仁の乱の時の疎開組です。応仁の乱の時土佐の所領地に疎開したきり戦国時代まであの地方の大名でいました。
この飛騨の姉小路、伊勢の北畠、土佐の一条家、これを三国司といいまして、地方にいても官位の昇進は公卿なみということになっていました。
このほかに伊予の西園寺家があります。これも足利末期に伊予の所領を武家の押領から守って収入を確保するために、京都から一族の者が行って管理していたのです。戦国時代まであの地方の大名として続きました。元プロ野球の選手の西園寺君は伊予の出身ではないでしょうか。だったら、その子孫ですね。
九州方面では後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍として行っていましたね。親王は吉野を出られてから、四国の伊予にしばらくおられて、海路日向に上陸し、それから鹿児島に入られました。今の鹿児島市の少し南に谷山というところがありますが、ここに最初の征西将軍府があったのです。薩摩大隅地方を征服して、海路肥後に入られた。熊本市の南に宇土というところがあります。後に小西行長の居城のあったところです。ここに上陸されますと、肥後は骨髄からの南朝方である菊池氏の根拠地ですから、その菊池氏に迎えられて菊池城に入り、そこを征西将軍府にされました。
一時は大へんな勢いで、全九州がその統制下に属していたほどですが、もうその頃には吉野の方がまるで勢いがふるわないばかりでなく、全国の南朝方の勢いがおとろえていたので、九州を去って東上することが出来ない。去ると反勢力が頭をもち上げてくるおそれがあるからです。その頃は征西将軍府は太宰府に移っております。そのうち、足利氏は駿河の今川了俊を九州探題として下してやった。了俊は文武兼備の名将で、だんだん勢力を回復して来たので、宮方は次第に圧迫されて、親王は肥後に退られた。最後は肥後の八代におられた。
親王の子孫はずっと八代にいて高橋と名のっていましたが、朝鮮役のすんだ頃、ここの高橋喜兵衛という人物が島津義弘に仕えることになりました。
島津家では、
「お前は後醍醐天皇の子孫だから後醍院と名のれ」
と言いまして、後醍院と改姓しました。
島津の関ケ原退陣と後醍院
この後醍院喜兵衛はなかなかの豪傑でしてね。
島津義弘が関ケ原で敗れて退却にかかる時、この時の島津の退却は、東軍の前を斜めに横切って退却したのです。つまり敗走する味方の軍と反対に進行するのですから、進むがごとくにして退き、退くがごとくにして進むという形になる。東軍でも敵か味方かと迷ったというのです。意表をついたわけでしょうね。
この時、後醍院喜兵衛は、
「敵の本陣に一応あいさつしていくべきである」
と主張しました。
「そんなことをする必要はない、そんな喧嘩買いみたいなことをするのはこの際危険だ」
と、皆反対したのですが、喜兵衛が頑強に主張するものですから、そうすることになった。川上四郎兵衛という勇士がその役をうけたまわり、家康の本陣の前に行って、大音声に、
「島津惟新入道、戦い利あらずして、今日ただいまから退去して国もとへまかり帰ります。念のためごあいさつ申し上げる」
と呼ばわったのであります。この川上四郎兵衛のことを薩摩では川上シロンペロンサアといい伝えています。親しみをもった尊称なんですよ。
東軍ではおこりましてね。
「人もなげなる振舞いかな」
と家康の四番目の子供の松平忠吉――二代将軍の秀忠と同母の弟です。後に尾張の領主になったのですが、若くして死にました。子供がなかったので、家はたえました。後の尾州家は家康の七番目の子義直が始祖です。
さて、この忠吉のもり役は井伊直政だったのですが、これが忠吉とともに追撃にかかりました。自分のもりしている若君に手がらを立てさせたかったのです。家康四天王の一人井伊直政ですから猛烈ですよ。
ところが島津家には独特の退却法があるのです。道の左右に鉄砲をもった侍を二、三人ずつ組ませて、伏せておくんです。追って来る敵があると、目ぼしい奴をねらいうちに撃つのです。そして敵がひるむ間にさっと引く。又追っかけてくると、次に伏せていたやつが狙撃して、ひるむとさっと退く。また追っかけると最初のやつがもう伏せていて狙撃する。これを順ぐりにつづけて行くのです。二筋の糸をかわり番こに引くようにやる。「捨てかまりの法」というのだそうです。「かまり」というのは忍者の別称で、それから転じて、忍びの斥候のことも言うのですがね。ここの用法もやはり忍び伏すところから来ているのでしょう。
この方法に引っかかって、井伊がやられて、どうと馬から落ちた。左の腕を縫うようにしてあたったといいます。直政を撃ったのは前に出た川上シロンペロンの郎党柏木源蔵という者であったそうです。
こうして薩摩勢は戦場を離脱し、近江の山路に入って伊賀に出て、大和を通って泉州堺に出て、堺から船にのって、無事に国へ帰ることができました。
こんな具合にして無事に帰国することが出来たので、家康の本陣にあいさつに行くべきだという後醍院喜兵衛の主張は、薩摩武士らしい壮快放胆なことだといわれることになったのですが、考えてみると、無鉄砲な話ですよねえ。しかしね、後醍院喜兵衛にしてみれば、これから遠路何百里と帰らなきゃならないのだから、最初からおじけていては、とても息がつづかない、大いに気張ったところを見せなきゃ、味方の気力がふるわないと、そういう考えだったのでしょうね。ふるつわものらしい計算の立て方ですよ。
禄高の低かった薩摩武士
この後醍院喜兵衛の息子に、高橋少三郎というのがいまして、これが島津義弘の鷹狩のお伴をして行っていますと、向こうから年寄りの侍がやせた馬にのってとぼとぼとやって来る。それが義弘のそばへ来ますと、馬を下りて、ていねいにあいさつしました。義弘もまたていねいにあいさつをかえして、非常にいたわっています。
それであれは誰ですと朋輩にききますと、浜田民部左衛門入道栄臨殿であると答えました。
これは薩摩ではなかなかの勇士で、島津家が九州のほとんど全部を切り平げた数々の戦さに出て、いつも手がらを立て、秀吉さえその名を知っていた勇士だったのです。少三郎はすっかり考えこんでしまった。
「太閤様さえ知っていらっしゃるほどの勇士があの年になるまであんなにまずしげにしているのでは、当家ではとうてい出世出来ない。いくら殿様が可愛がって下さったって、禄を沢山もらわんではどうもならん。ここは一番考えものだ」
と、いうので、父の喜兵衛に、他国へ出て主取りをしたいと相談しますと、喜兵衛は、
「それはその方の量見次第じゃ」
と許してくれました。少三郎は薩摩を出て、鳥取の池田家につかえたそうであります。
これは薩藩旧伝集という書物にある話です。この書物は江戸中期頃の人が書き残したのですが、その頃までは池田家に高橋家というのがあって、薩摩の後醍院家と一族のつき合いをし、文通などもしていると書いてあります。
こういう点からいいますと、島津家はけちな家柄でね、七十七万石という大大名、幕末には八十八万石あったといいますから、大大名中の大大名です。加賀の前田家にはおよばないが、ほんのちょっと足りないだけです。その加賀家は万石以上の家来がずい分います。お隣りの細川家でも万石以上とる家来が松井をはじめ二三あるはずです。黒田家だってそうです。ところが、薩摩には万石以上の家来は一人もいません。島津一族で、直宮《じきみや》みたいな人たちにはいるんですが、家来にはないんですよ。
貴子さんの嫁いだ島津さん、あれは分家ですが、あれも大したことはない。二万七千七十石ですよ。小大名ですよ。あそこは伯爵でしたが、格式から行けば子爵であるべきだったのです。それが伯爵だったのは、維新の時に本家とともに働いた功績を買われて一階上を授けられたのです。
一体旧大名の爵位は子爵が一番下で、石高十万石まで、十万石から二十万石の間が伯爵、二十万石以上が侯爵、これに維新の時の功罪を加味して、一格上げたり下げたりしたのです。罪によって一格下げられたのは彦根の井伊、これは二十五万石ですから当然侯爵であるべきを伯爵にされた。直弼さんの罪でそうなったのですね。仙台の伊達家も六十二万五千石ですから侯爵であるべきを奥羽諸藩連合をつくって官軍に反抗の色を立てたというので伯爵です。島津、毛利の公爵は功を買われて一格上げられた側です。島津家には両《ふた》つ公爵が出来ました。本家と久光のあとです。久光は島津の分家ですけど、その子の忠義が維新当時の本家の当主で、久光はその父として島津家の全権をにぎって大いに功績があったというので、別に公爵家を立てました。そのあとが日赤の島津忠承さんの家です。本家は忠重さんです。忠義の子です。水戸の徳川家は公爵でしたが、最初はこれも侯爵で、たしか大正時代になってから光圀以来の尊王の功を買われて公爵にされたと記憶しています。紀州も、尾州も侯爵です。本家徳川家だけは公爵をもらいました。男爵は大藩の万石以上の家老の家です。
妙な方に話がそれてしまいました。島津家に大身の家臣がいないというのは古い家柄で、それほどのことをしなくても家来共が慕いついてくるということもあったでしょうが、それよりも有力な原因は薩摩というところはものすごく武士が多かったのです。半分以上が武士なんです。そんなに多い武士群に一々高禄をやっていた日には、殿様は飯が食えませんや。
だから、薩摩の動員力は大へんなものです。おそらくあれほどの動員力をもった藩はどこにもなかったでしょう。徳川家につぐ動員力をもっていたといえましょう。
西南戦争の戦略
『――西南の役で西郷さんがつれていったのはたしか一万……』
一万三千ですが、あれは最初にひきいて出た分で、あれからどれくらい送りましたか、おそらく総数では三万をこすでしょう。最初の一万三千は厳重に選抜して、志願しても素行の悪いものや体力の劣弱な者は採用しなかった。素質優秀で、おそろしく強かった。当時官軍側に主計官で従軍した川口武定という人、中尉くらいの格ですね。この人が「従征日記」という書物を書いていますが、その中に「戦争の初期においては、こんな強い兵隊がどこにいるだろう、おそらく世界無敵だろうと思った。それが中盤戦をすぎた頃から次第に弱くなり、末期においては、同じ薩軍だとは思われないくらいである。ほとんど別人の観がある」と書きのこしています。
実際別人にもなっているのです。はじめの素質優秀な兵は戦死したり負傷したりして、あとは補充兵みたいなのが大部分である。士族でなければ採用しなかったのですから、みんな武士にはちがいないんですが、負けがこんで来るといくらでも兵隊がいるので、志願さえすれば、身体が弱かったり、精神が惰弱だったり、素行が少々くらい悪かったりでも、かまわずとって送ったのです。実際において別人なのですよ。弱くなったはずです。
西郷の引兵上京は戦争になってしまったのですけど、本当に戦争するつもりで鹿児島を出たのですかねえ。ぼくは疑っているのですよ。薩摩は遠いところですからね。日本の片隅ですよ。どんなに薩摩の兵が強くても、また動員力が大きくても、戦争しながら中央に出て行くことは出来ませんよ。やるとすれば戦国末期に島津家がほとんど全九州を平らげたように、南から順々に攻めつぶしていく形をとるよりほかはないのですが、これは時間がかかってとてもだめです。戦国の時代だったから島津氏は全九州を制することが出来たのですが、平和な時代になってはとうてい出来ることではない。維新運動が、薩摩を主勢力とした西国諸藩によって成功したのは、維新当時には汽船があり、汽船を利用したからです。
ロバート・フルトンが汽船クラーモント号をつくってハドソン河を百五十マイルさかのぼったのは一八〇七年日本の文化四年のことですが、維新時代になると日本にもさかんに輸入され、島津家などおそらく幕府についで沢山汽船をもっていたでしょう。その汽船で兵員を容易に輸送できるようになったので、伏見鳥羽の戦争も出来たのです。ですから、維新運動においては、新式鉄砲の輸入も大勢を決するには力があったのですが、ぼくは汽船のほうをより大きく買いますね。
ですからね、どの点から見ても、明治維新はイギリス人ゼームス・ワットが一七七四年(安永三年)に蒸気機関を発明した時に運命が決せられたと言ってよいのです。蒸気機関の発明があったから欧米諸国には産業革命がおこって工業製品が過剰になってどうしても市場を開拓する必要がおこったところに蒸気船の発明があったので、東洋のはての日本にしげしげと来て開国をせまり、そのために外交問題が当時の日本の問題になり、それに対処する方法として、将軍継嗣問題もおこり、開国攘夷の問題もおこり、これらのことがもつれてアンチ幕府諸藩が天皇をかついで幕府と対立することになったのですが、最後の仕上げまで汽船と新式輸入銃とによってなされたのですからね。機械学者の頭脳力も偉大なものですよ。
話がまたそれてしまいましたが、ぼくは西郷は戦う気持はなくて薩摩を出たと思うんですよ。
おそらく自分が向かえば、戦わずして東京まで行きつけると思っていたと想像するのです。西郷のうぬぼれといってしまえばそれっきりですが、当時の西郷の人気は大へんなもので、全国に西郷党の者がいたので、政府としてもうっかり西郷と戦うと、その連中が蜂起すると思われていた。現に西郷が立ち上ったという報告が政府に届いた時、政府部内で、道を清めて西郷を迎え、その意見を聞こうじゃないかという意見が出たくらいですからね。あながち西郷のうぬぼれと言ってしまえない点があるのです。
ほんとに、もし、西郷軍が関門をこえたということになれば全国の西郷党は意気激揚しますから、政府が拒戦策に出れば蜂起して全国めちゃめちゃになります。政府としてはこわいですからね。西郷はそれを知っていますから、戦うつもりなく出たのだと思うのです。もし戦うつもりなら、南のはてからノソノソと東京まで歩いて出て来るなんてそんな下手な戦術はない。政府側にはうんと汽船があるのだから、まごまごしていては一挙に多量の兵を九州に持って来られるから、最も困難な戦争になる。そんなことをしているうちには兵力が消耗されて次第に弱るばかりです。行けないことはわかっているじゃありませんか。実際にそうなってしまったのですが、いくら薩摩人がばかでも、それくらいの予想のつかないはずはない。戦う気なくして鹿児島を出たのだと、ぼくは見ているのです。
『――あれは、熊本城におさえの部隊でもおいて、直進するのが本当だったのでしょうね』
そうですとも。あそこで戦うべきではなかったのですが、谷干城が寵城作戦に出たので、
「生意気な! 蹴散らせ。ここでやっておかんとこれから先きの鎮台もやるにちがいない」
ということになったんでしょうね。
その当時、板垣退助が――板垣という人は明治以後政治家になってしまいましたが、この人のほんとうの素質は軍人です。若い頃は学問ぎらいで、書物なんぞまるで読まないでチゴさんばかり追っかけている。まあ硬派の不良少年だったといいますが、「孫子」だけは大好きで、明けても暮れても「孫子」を読んでいたという人です。だから戦術についてはなかなかの見識がある。会津城を落したのは板垣の戦術なんですよ。そのときは会津だけが孤立しているわけではなく、奥羽地方には会津に共鳴する諸藩があって、奥羽諸藩連合が結成されていた。この連合に入らなかったのは秋田の佐竹だけで、庄内の酒井も、米沢の上杉も、二本松の丹羽も、仙台の伊達も、盛岡の南部も、越後長岡の牧野も、皆反新政府だったのです。それに対して、はじめ官軍は、片っぱしからそれを落していって、最後に一番堅そうな会津をと考えていたのですが、板垣がそんなばかな戦術がどこにあるのだ、もうそろそろ秋じゃないか――会津城が落ちたのが旧暦の九月二十二日です。新暦では十、十一月ですよ――そろそろ雪が降ってくる、雪になると、ことは一層困難になる、手間どって冬を越したら、天下の形勢はどうなるかわからんぞ、すでに帰服しているところも動揺しますからね、一筋に会津を目ざし、これをおとすべきだ。会津さえ落ちれば、他は戦わずして風靡する、とこう主張しましてね、猪苗代のほうから、まっすぐ行ったんですね。会津側は国境線のほうぼうに砦をこしらえ、兵隊を配置していたので、その兵隊が帰って来るのが間に合わなかったんです。それくらい猛攻猛攻、また猛攻で、開城ということになった。それでも一月はもちこたえています。会津武士の強さですね。板垣という人はこれくらい優秀な戦術家だったのです。
その板垣が、薩軍が熊本城にひっかかったときいたとき、「西郷、兵を知らず」と言ったというんです。
板垣ならずとも、孫子なんぞ読まなくても、昔からの戦記類なんか読んでいる人間なら、必ずわかることですがねえ。三方ケ原の合戦のときに、武田信玄は最初浜松城など相手にする気はなかった。浜松の北の平野三方ケ原の北端を、浜松城にかまわず西のほうに向かいつつあったのを、家康が、
「人が枕許をドサドサ通るのを、武士として手をつかねて居すくんでおれるか。者共、しかけろ!」
と、ばかりに部下を叱曹オて、しゃにむにやりかけたんです。こうなれば信玄だってしかたはない、相手になって三方ケ原の合戦が起こったのです。
関ケ原役の時もそうですよ。西軍は大垣城で家康を食いとめようとして、大垣城に大軍をこめていた。家康はそれを知らんふりして、わきを通って進んだ。相手になられんではしかたがないので、西軍は大垣城を出て、関ケ原まで退き、ここで戦うことになったのです。野戦というやつは一日で片づきますが、城攻めというのは長くかかるから、名将はなるべくしない工夫をするんです。向こうに大目的があるのに、その手前で戦って戦力を消耗するなど、そんな阿呆な戦術はないですよ。
長曽我部元親が阿波の勝瑞城にこもる十河存保《そごうまさやす》を攻めに行く途中、一ノ宮城と夷山《えびすやま》城の間を通ったところ、両城からはげしく鉄砲を打ちかけたので、将士らは腹を立て、踏みつぶせと猛り立ったが、元親は、
「この両城を攻めること無用、勝瑞城さえおとせば、両城とも戦わずして屈する」
と制してかまわず押し通り、勝瑞城を攻めてこれをおとすと、はじめの両城の守兵らは夜の間に四散したという話もあります。
こんな実例が山とあるのに、西郷軍の幹部連中は最もへたな戦術をとったのです。おれがいたらと思いますよ。ハハ、ハハ、ハハ。
何しろ桐野利秋が参謀総長でしたからな。桐野という男は、これは元来智将じゃない。快男子なんですからね、おさえの兵をおいてゆくなんて、みみっちい、蹴散らして通れ、先き先きのためもあるというわけだったでしょうよ。もっとも、西郷の弟の小兵衛などはおさえの兵をおいて、ともかく関門を渡るのが先決だと主張したそうですがね。桐野より篠原|国幹《くにもと》あたりが参謀長だった方がよかったかも知れません。あの人は桐野のような陽性の快男子ではないが、深沈で、誠実で、読書を好む人だったといいますから、ましな戦術を立てたろうと思います。しかし、この人は熊本城でガッと食いとめられて、戦争は避けられない、とても東京まで無血進軍は出来ないとわかったとき、死ぬ覚悟をきめているようです。吉次峠における彼の戦死は自殺的戦死ですよ。
篠原は別として、あのとき智将といった人たちは中央から帰っていなかった。大山巌などという人は茫洋たる風貌で、智略などさらにないような人で、日露戦争に満洲軍総司令官でいっていたとき「きょうも戦争がごわすか」などと参謀にきいてとぼけていたというのですが、それは参謀長の児玉源太郎に精一ぱいの働きをさせるための機略で、なかなかの知恵者だったのですよ。戦争をどの線で終結させるかということなど、はじめから計算している。満洲軍総司令官として東京を出発する時、新橋駅(当時は東京駅はない。新橋駅が東海道線の始発駅であった)のプラットホームで、見送りに来ている政府の大官達に、
「戦争には勝ちます。軍配の上げどきをあやまらんように頼みます」
と言ったというのですからね。計算を綿密に立てていたことは明瞭です。太平洋戦争の時の将軍連とは大分ちがいます。あの連中は日露戦争の時の将軍連にくらべれば中隊長くらいの価値しかない。東条軍曹という悪口があの頃ひそかに通用していましたがね。ハハ。
攻撃兵器の進歩と築城術
さて大山はこんな人だから、児玉源太郎が「山県が司令官になるのなら、おれはいやだが、ガマどん(大山のアダ名)がなるのなら、おれが参謀長になる」といって、参謀長になったといいます。児玉は同郷でも山県をきらったのですね。きらったというより、山県のように神経質で人まかせできない性格では自由に働けないと思ったのでしょうよ。大山が茫洋として無神経なようでありながら綿密な頭脳の持主であったことは、若い頃自分で大砲を設計して作り出していることをもってもわかります。弥助砲というのです。弥助は彼の通称です。彼は江川太郎左衛門坦庵の門人で、江川塾で砲術は学んだんですよ。こんな智将型の参謀が薩軍にはいなかったのです。
近世の城で、力攻めされて落ちた例は一つもないですよ。会津城は落ちたんではなく、降伏開城したのだし、五稜郭もそうです。大坂城は家康の計略で外濠をうずめられたから落ちたのです。これは戦国以後築城技術が進歩したのにくらべて攻撃兵器の進歩がともなわなかったからですね。攻撃力が防禦力をこえないと落ちないわけですからね。大砲は江戸時代はもちろん、維新時代だってその威力は知れたものですよ。蛤御門の戦いの時、長州方の隊長来島又兵衛が至近の距離から蛤御門に向かって大砲を二発打ちかけさせていますが、木の扉がビクともせんのですよ。明治の初年にはアームストロング砲が輸入されているのですが、城壁を破壊出来るほどの威力はなかったのです。
現代は科学兵器が進歩して、熊本城だって、会津城だって、五稜郭だって、一コロですがね。
現代は攻撃兵器の力に防禦兵器の追いつかない時代です。こんな時代には戦争など意味ないですよ。まして原爆まであるときたら、無意味どころの話ではない。いかなる理由も、戦争を正当化することは出来ません。大罪悪ですよ。狂気の沙汰ですよ。ほんとに、ソ連の指導者も、アメリカの指導者も、何年か立ってみたら気ちがいだったということになるのではないですかね。
大砲を日本で一番はじめに輸入したのは大友宗麟です。彼はこれに「国崩し」と名づけて大変ご自慢だったのですが、「不吉な名だ、自分の国を崩すに通ずる」と、家来の心ある者共が言っていたそうですが、間もなく、薩摩との戦のときに分捕られてしまいましたし、その家もその子の代ですが、時間的には数年の後秀吉によってとりつぶされてしまったので、人々はやはり不吉な名であったと言ったといいます。この大砲は今でも残っています。鹿児島の島津家の博物館(集成館)にあります。先年元公爵の島津忠重さんにお会いした時、
「大友家から分捕った大砲はこういう由緒のもので、日本最初の大砲ですから、説明文を書いた札をつけてよくわかるところに陳列なさった方がよいですよ」
と申し上げましたら、そうしようということでしたから、多分今ではそうなっていることと思います。
大坂陣のときにも、東軍は大砲を作らせて撃っています。元来この頃の大砲は鉄製ではなく、青銅製だったのですが、この時の大砲は鉄製で、弾丸も鉛の玉でなく鉄の玉だったそうです。当時としてはおどろくべき威力をもっていたでしょうが、それにしてもこの大砲で天守閣を撃ちつぶすことは出来なかったのですからね。知れたものです。
『――講談に、真田幸村の張抜筒というのがありますが、あれも大砲の一種でしょう』
あれは本当にあったようですね。張抜筒の作り方は甲子夜話に出ています。薄い桐で筒をこしらえその外に紙を張り、渋をぬり、また紙を張って渋を塗るという工合にして重ねて行くのだそうです。しかし、これは弱い火薬の時にはよいが、強力な火薬にはたえられないし、内側に火のつくうれえもあるとあります。このほかにこんな法もある。紙を水につけて十分にしめらせて引き上げ、たたいて、針を植えたブラシのようなもので引っかいてスサにして丸太にねりつける。厚さは丸太の直径の倍ほどにもする。乾いたところで紙を張って渋をぬる。いく重も重ねる。丸太を引きぬいて、銅板を中にはりつける。銅板は必ずあとからはりつける。これだと強い火薬にもたえられるし、火のつく心配もないとあります。四五発くらいは行けるのでしょうね。しかし、四五発でも昔は威力だったでしょう。
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(付記) この文章は大系社の需めに応じ、大系社編集部員佐藤氏に質問者となってもらい、興の趣くままに放談したものを速記にとってもらい、それに加筆訂正したものである。
なおこの文章の中の越後の女豪板額のことを記した吾妻鏡の文章中の「陵園の妾」については、新潟市の臨応文庫の方――老僕としてあったが、思うにご主人ではあるまいか――から教示があった。白氏文集の中にあり、意味は小生の推察した通りであるという。疎懶にしてまだ白氏文集を検するに至らないが、厚く感謝します。
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[#見出し]  歴史随談
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この春、家に遊びに来る若い人達から日本歴史上の色々な人物や事件について質問を受けてそれに答えたものの速記が数十枚になった。読みかえしてみて、慾目かも知れないが面白いとも思うし、今の世には有用なものであるような気もするので、多少手を入れて発表することにする。中には他の篇と重複するものもあるが、話の運び上はぶくわけには行かない。がまん願いたい。
[#ここで字下げ終わり]
第一話
いつぞやある雑誌に、K大の教授であるT博士の文章がのっていました。その文章の中に、
「西郷南洲はよく明治天皇をそんなことをなさると、昔にかえしますぞ≠ニおどかした云々」
「伏見鳥羽の戦争の前、大久保利通が岩倉具視に出した手紙に、玉≠敵にとられてはおしまいだ、玉は気をつけて確保するようにという文句がある云々」
「こんな具合に、維新時代の一流の志士らは、天皇を道具としか思っていなかった」
という意味のことがありました。
しかし、これはT博士の誤解です。西郷南洲がそんなことを言ったという記録が何にあるのでしょう。資料をしめさないで、いきなりそんなことを言っても、信用するわけには行きません。南洲は誠実無比の人柄の人です。南洲をいくらかでも研究した人なら、絶対に信ぜられることではありません。あるいは、諫言をたてまつる時、
「いつまでもお心が改まらないようでは、また昔のようになってしまいますぞ」
くらいのことは言ったかも知れない。しかし、この言い方とT博士のような言い方とでは、西郷の心術の上に天地の差があります。南洲は不遜、傲慢、無礼、軽薄を最もきらった人であります。
大久保甲東の手紙の中に「玉」とあるのを、T博士は、「タマ」と読んで、品物、道具の意味に解釈していますが、これは「王」の意味で、「王」と正しく書くのが恐れ多いので、一点を加えて「玉」としたのです。これはこの時代の人の習わしであります。T博士の解釈と逆な解釈をすべきものです。
一体、この時代の人の皇室にたいする観念は、今日の人とは余程違います。それは朱子学の感化です。
皇室が日本人の精神上の中心であるという考え方は昔からあったのですが、江戸時代になって特に盛んになりました。江戸時代に最も栄えた学問――儒学は朱子学であります。
朱子学は徳川幕府が特に保護を加えた学問でありましたから、世間では尊皇思想と背馳する学問で、陽明学の方が尊皇や勤皇運動の脊骨になっていると思っているようです。一般人だけではありません。相当な学者までそう思っています。大久保利通伝としては勝田孫弥氏のものが最も完備していますが、その中に利通や南洲が陽明学の書物である近思録を輪講して研究したとあります。彼らが陽明学を学んだという先入観念があるため、近思録を陽明学の書物にしてしまったのです。ところが、近思録は朱子の著述であり、朱子学派で大へん大事にしている書物なのであります。
西郷南洲や高杉晋作はたしかに陽明学を修めたにちがいありませんが、彼らの学問の根底になっているのは陽明学でなく朱子学です。これにはずいぶん骨を折っています。これにくらべると陽明学の方は師匠にもつかず、陽明学者の二三の著述を読んでいるにすぎません。むしろ、彼らは思想的根底は朱子学、実行方面において陽明学から啓発されたと見るべきであります。朱子学がその学問の傾向が帰納的であるのに対して、陽明学には演繹的傾向がありますから、行動の理論を構成する上には便利であったに違いありません。
朱子学において最も重んずるのは「大義名分」であります。これは儒学の大宗である孔子にはじまっています。孔子の「春秋」は史書でありますが、単なる史書ではありません。大義名分を明らかにするための倫理の書でもあるのです。
大義名分という倫理上の価値判断法には、必ず中心になる絶対善の主体がなければなりません。この主体を標準として、善悪を分つのであります。孔子の春秋は周王朝のある期間だけを書いた史書でありますから、周の王室が絶対善の主体となっておりますが、朱子は支那の歴史全体を書いた司馬光(司馬温公)の著述「資治通鑑」によって「通鑑綱目」という書物をこしらえたのでありますから、特定の王朝を主体にするわけには行きません。正統なる王者、非正統なる覇者という抽象的な標準を立て、王覇を峻別して褒貶の意を明らかにしました。
これはまことに苦しい行き方であります。正統なる王者といいましても、はじめは前王朝をほろぼして立った非正統なる覇者であったのでありますから、むずかしく言えば正統も非正統もないのです。しかしながら朱子としてはそうしなければならない必要があったのです。孔子の道を祖述しようとの内心のやみ難きものも、もちろんあったに違いありませんが、時代の要求もあったのです。朱子の時代、支那は北方に蛮夷の国金がおこって、漢民族の危機感の痛切な時代でありました。大義名分を高唱して、漢民族の民族精神を鼓舞昂揚しなければならなかったのであります。
さて、ともかく、このようにして、朱子は大義名分の論を高調したのでありますが、この考え方が日本の朱子学者らにも伝わりました。日本の朱子学者らは日本歴史を見渡して、「皇室」の存在が一系相承けて国初以来ずっとつづいているのを見て、小躍りして喜びました。
「これこそ絶対善の主体でおわす。真の大義名分は日本においてこそ可能である」
と、盛んに皇室の尊ぶべきことを説きました。即ち、皇室尊重は朱子学者らによって、哲学を持ち得たのであります。
この態度が最も強烈にあらわれたのは、山崎闇斎にはじまる崎門学派の人々であり、水戸学の人々です。
あの浩瀚尨大な「大日本史」が、南北朝の正閏を正す、ただそれだけのために述作されたものであることを以て見ても、それが大義名分を明らかにすることを目的としていたことは明らかであります。
一方、儒学のこの盛行に刺戟されて、最初は歌学と神道の学問にすぎなかった国学は、江戸中期を少し下った頃から思想と国粋的倫理の学問を加味して皇室尊崇の精神の鼓吹に全力をあげるようになりました。
このようにして、幕末になると、日本人中の知識人(武士、富農、富商)にして皇室尊重の念のない者は一人もないほどになりました。明治維新の時代、地方農村の庄屋階級の人々や都市の大町人の中に勤皇志士やそのシンパを多く見るのはこのためであります。
従来の大衆小説や映画の大部分は、維新史を勤皇佐幕の抗争として、佐幕派の者には皇室尊重の念が更になかったように扱かっていますが実際にはそうでありません。佐幕派の者にだって、尊皇精神はりっぱにあったのです。ある者は時の勢いや立場に制せられたのであり、ある者は政治の実務は幕府がうけたまわるべきであるとの考え方から脱却することが出来なかったのです。
明治維新は大改革であります。大事変であります。徳川将軍をはじめ諸大名は、政権を朝廷に献上しただけでなく、今日の考え方を以てすれば先祖以来の私有財産といってもよい領土まで献上したのであります。多少のさわぎはあったに違いありませんが、あれくらいのさわぎであの運びに行ったのです。とてもよその国ではあり得ることではありません。ヨーロッパの封建諸侯が国王に対してどんなに抵抗したか、支那でも秦が天下を統一するまでにはあれほどのさわぎがあり、前漢においても呉楚七国の乱があったのです。
英国公使のアダムスが、廃藩置県が実にスムーズに行ったのを見て、
「一通の詔書をもってこれほどのことが出来たのは世界に類例のないことである。日本皇帝の威力、驚嘆すべきものがある」
と嘆じたと伝えられていますが、それは江戸時代二百七十年間に大義名分の思想が武士階級の者にしみとおっていたからであります。こんな時代西郷や大久保や岩倉に、天皇に対してT博士の言うような不遜な考え方があったろうとは、ぼくには思われません。
第二話
こんどの敗戦によって歴史上の人物で世間の評価が大分ちがって来た人が多いですね。
和気の清麻呂などは大へん値段が下りましたね。しかし、ぼくは依然として清麻呂を尊敬していますよ。
清麻呂を論ずるには、「神託」というものを現代の科学常識で究明してみることが、先ず必要です。
神託は巫女が神憑りとなって、つまり一時的の精神錯乱状態に陥った無意識のうちに口走ることば、それなのです。古代の人はこの狂気を神聖なものとし、その譫言《たわごと》を神のことばとしたのです。
神託というものがこういうものである以上、特に道鏡に媚びる気持はなくても、当時道鏡の威勢は大へんなもので、法王として天皇と同格に待遇され、法王宮に群臣の慶賀を天皇同様に受けるという有様でいたのですから、その威勢のよさをうわさに聞き伝えている宇佐八幡の巫女には、道鏡をえらいものだ、天皇様同様だという観念が出来ていたに違いありませんから、無意識の中にそれが口に出て来ることは最も考えられることだろうと思います。
それに天皇制が出来上ってからまだいくらも経っていない。天皇制の確立は(確立ですよ)大化の改新以後のことですからね。この時の天皇――称徳天皇まで、百二十年くらいしか経っていません。天皇家の血統の人でなければ皇位につけないという観念も後世ほど強固ではなかったのではないかと思われるふしもある。
思い切った言い方だが、天皇のお気に召した人なら天皇になり得るという考えが一般庶民にあったのではないか。現にこの天皇は淳仁天皇をお気に召さないというので廃位して御自分で重祚されているのですが、その時のことばの中に「天皇を奴《やつこ》とするも、奴《やつこ》を天皇とするも、自分の意のままにしてよいのだ」という文句があります。つまり、次代の天皇をきめるのは天皇の御意のままだというのです。
こうなれば、道鏡に媚びる気持はなくても、ああいうことを巫女が口走るのも、それほど不思議なことではないと思う。精神錯乱者が潜在意識として持っていることを口走るのは最もあり得ることですからね。
ところで清麻呂という人は、知識人なのです。清麻呂の息子に和気広世という人がいますが、この人は日本で初めて私立学校をつくった人です。弘文院といって、和気氏の子弟を教育する学校です。これにならって、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院、源氏の淳和院、弘法大師の綜芸種智院などという私立学校が出来たのです。あの時代に、そういうものをはじめてこしらえたのですから、和気氏の家風というものが、大体想像がつくじゃありませんか。好学な家風であったのです。清麻呂には大部な著書(民部省例二十巻)もあります。そういう人ですから、普通の人とはよほど違って、神託というものの本質を知っていたんじゃないかと思うのです。
もう一つは、宇佐八幡の神託というものは、歴史上怪しむべきフシが大分ある。この神様の託宣が初めて歴史の上に出て来たのは、奈良の大仏の造営のときです。大仏造営は当時の日本としては大事業です。国力を越える仕事です。だから、財政的にもたいへん困るし、民の苦しみにもなって、豪族の間に相当強い反対の空気が出て来て、天皇は非常に困られた。そういう時に宇佐の神主共が、天皇に奏上した。曰く、八幡から神託が下った。
「今度の大仏造営は非常にいいことで、自分はよろこんでいる、だから、自分は天神地祇をひきいて、この聖なる大事業をお助けするであろう」
聖武天皇は大喜びです。それ見ろ、その方共は何のかんのと言うが、神も嘉みし給うことなんだ、大いにつづけよう、ということになった。天皇は宇佐の神主共を賞し、なお神霊を奉じて都に来るように命ぜられましたので、そうすることになりました。朝廷では難波の津まで百人以上の護衛兵を出してこれを迎え、都内に神殿をつくって安置して盛んなお祭りを行い、神様に従一位、神主に従四位を授けられたのです。
これをはじめとして、たびたび宇佐の神託が歴史の表に出て来ます。時によるとニセ神託であったことがバレてお叱りを蒙っていることもある。かれこれ考え合わせると、宇佐八幡の神託には臭いところがある。中央政府に気に入られるようなことを神託であると奏上しては利益を得ていたのではないかとも思われるのです。清麻呂はこれを知っていたんだと思います。少なくとも疑惑を持っていたに違いない。好学な知識人ですからね、頭は鋭いはずです。
そのような清麻呂に神託を伺い直しに行く使命が下った。彼は期する所があって出かけたのですが、先ず下った神託は前と同じものです。
「道鏡を帝位につけたら、五穀豊穣、天下安穏であるぞ」
清麻呂はこれを押しかえした。
「そんなはずはありません。もう一度」
三度押し返し、最後には剣を引き抜いて床に突き立て、巫女を強迫して、自分の欲する神託を引き出して帰って来たのです。こんなわけだから、ぼくは彼の知性とインテリ的勇気、その意味において彼を買うんです。
歴史家は神託事件は道鏡排斥のための藤原百川のカラクリで、清麻呂は百川の手先きにすぎないと言っていて、これがほぼ定説になっています。ぼくもこの説をある程度には買いますが、全面的には買えません。清麻呂はやはりこの事件においては大立物だと思うのです。
足利尊氏も戦後値段の上った方でしょう。度量広闊、政治的手腕も卓越していたと、ほめる人は言いますが、ぼくにはそう手ばなしではほめられません。
あの当時尊氏の評判がよかったのは、あの時代がまだ武家政治の存続を欲していたことと、彼の家柄と、彼の物惜みなくいくらでも褒美をやったところにあるのです。ところが、あの時代は、物惜みなくどんどん領地をやらなければならない情勢でもあったのです。何しろ、南朝という大敵がある。ややもすればそっちへ行ってしまうおそれがあるのです。当時の武士は、私利私欲の権化みたいな連中ばかりで、道徳の乱れたこと、かつてないほどの時代です。そういう状勢の時代に、自分の天下を打立てるには、どうしても気前よく褒美をやって、人の心を引きつけなければならない。余ほどの阿呆か欲ばりでないかぎり、そうあるはずです。
もちろん天性物惜みのない人だったのでしょうが、この場合天性は関係ありませんね。しかし、そんな工合にやたらに領地を大名共にやったので、足利幕府の根底はひどく薄弱なものになりました。広大な領地を持った大名が多数あって、将軍の家はそれほど大きくない。いわゆる「尾大|掉《ふる》わず」というやつで、統制が行きとどかないのです。日本の武家時代で足利幕府ほど無気力な幕府はない。しかし、これははじめっからこうであったので、それは尊氏にはじまるのです。彼に卓抜な政治力があったなら、こんな馬鹿な角力は取らないはずです。気前よくふるまいながらも、しめる所はしめて、中央部が小さくて末端部がバカデカク、おさえがきかないというような形にはしなかったはずと思います。
ただ武家政治がまだエネルギーを失っていず、必要である時代であり、彼がそれに乗ったということは言えましょう。武家政治は何べんも揺り返し揺り返しして整頓されながらも、慶応三年まで続いたんですからね。しかし、社会の必要とか、歴史の見通しとか、いろんなものがどれほど彼に意識されていたでしょう。つまりは我欲から出たことが偶然に合致したというにすぎないのではないでしょうか。戦前まで不当に貶《おと》されていたことは事実ですが、大きく値上げするのもどんなものでしょう。反動だと思いますよ。
正成は戦後大はばに値下げされた人で、近ごろの歴史家は、その勤王も、単なる所領関係から後醍醐天皇に忠誠をぬきんでたにすぎないと言っている人が多いけれども、ぼくはそうとばかりは思いません。やはり彼は彼としての倫理と哲学をもって、それに殉じた人であると考えています。ぼくは見事だと思っています。
ぼくは正成の哲学は朱子学流の観念哲学であったに違いないと思いますが、あの当時の世相はそうした観念哲学が必要な時代であったと思います。私利私欲の角づき合いで濁りかえっている時代であったことはちょいと太平記をひろげただけでもわかります。絶対善という標準をおいて、それによって規正する以外には方法がなかったと思うのです。倫理というものは、往々にして社会の流れと逆行しますが、逆行しても十分に社会のためになっている場合が少なくない。韓退之は「伯夷頌」において、伯夷叔斉をたたえて、この人々は時勢に逆行した人々であるが、もし中国の史上この両人がいなかったら、後世乱臣賊子が踵を接して出て来たにちがいないと言っています。司馬遷が史記の列伝のトップに伯夷叔斉の伝を書いているのも、韓退之と同じ考えからだと思います。正成は日本歴史における伯夷叔斉だとぼくは見ています。
明治以後の日本の学校歴史のあり方が、皇室中心主義で皇室にたいする忠誠如何だけで人物の価値を決定していたため、彼を高く値段づけすぎている点はあります。明らかにこれは間違っています。しかし、今のような値下りは不当です。反動ですよ。
言い落しましたが、楠公崇拝はすでに江戸時代初期に起っています。朱子学の影響です。湊川の楠正成の碑、あの裏に朱舜水の碑文がありますが、あの文章は湊川の碑のためにかかれたものではありません。あれは加賀家のために書かれたものです。あの以前に、加賀家に楠公崇拝熱が起りまして、楠公の画像を前田家の殿様が描かした。その時画像の上に、朱舜水に頼んで賛をしてもらった。その文章を、水戸光圀がそっくり拝借して湊川で使ったのです。このように楠公崇拝が江戸初期に起っていることを以ても、日本の勤王思想が朱子学と切って離せないものであることがわかるのです。
赤穂浪士も値段が下っていますね。彼らは単に主君の仇討を大仕掛にやったにすぎないのだから、封建道徳の必要とされた封建時代においてこそ讃美すべきだろうが、時代のかわった今日、何を讃美する必要があろう、復讐などは野蛮人の道徳だ、というのが、近頃の評価ですよ。
しかし、本当を言うと、赤穂浪士の挙を単なる復讐行為とするのは間違っているのですよ。彼らの行為は将軍綱吉によってふみにじられた正義を立て直すこと、つまり、喧嘩両成敗という幕府の典則を破って、無暗に吉良をひいきし、浅野方に苛酷であった綱吉のあの裁判を是正しようというのだったのです。
赤穂浪士のことをよく調べてみますと、彼らははじめお家再興と吉良に対して何らかの形で処罰してもらいたいとの運動を実に熱心につづけて、あらんかぎりの手をつくしています。
しかし、それが合法的手段によっては達成できないことが、はっきりしたので、はじめて、吉良を討つという方向に転換しています。法律的にふむべき順序をふんで、陳情をつづけたが、それがどうしても聞かれないので、しからば自らの手によって正義を立てようという考え方になっているのです。事実ですよ。彼らの目的は単なる復讐にはない。権力によってふみにじられた正義を立てなおすことにあったのです。だからぼくはずい分高く買うのです。初めから吉良を討つということだけに専心したのなら、そう高く買う価値なんぞありません。恩義を忘れないこと、誠実であることはいつの時代だって美徳でないことはないのですから、一応の値段には買いますが。
赤穂浪士の事件が、あれほどあの当時から評判になり皆がほめ讃えたのは、ほかにもう一つ重大な原因があります。
五代将軍綱吉の政治は東西古今に比類なき悪政です。動物愛護令、愛犬令、あれが代表しています。
子供が雀を吹矢で殺したため、親子共に死罪になった者があります。犬の喧嘩を引分けなかったために遠島になったものがあります。吠えかかり食いついて来る犬を家来に斬らせたために、堂々たる旗本が家は断絶、本人は遠島、家来は死罪になっています。綱吉の小姓ですが、宿直の日に、蚊が頬にとまったので、思わず叩いて殺しましたが、やがてお召しがあったので綱吉の前に出ましたところ、顔に食ッついている蚊の死骸を綱吉に見つかった。
「それは何だ、あんなに俺が生物を憐れめと言っているのに、死骸をくっつけたまま俺の前に出るとは、俺をないがしろにしている」
と、猛烈におこって遠島にしてしまったという話もあります。当時の記録にあるのです。
孟子に獣をひきいて民を食ましむという文句がありますが、そっくりそのままです。こういう情勢ですから、みんな非常にこまって怨嗟の声が満ちていました。もちろん大きな声では言えない。信じ合っている者の間だけでヒソヒソ囁いているという次第。ところが、これほどの暴政を諫言した者が、ただの一人もいない。何十年も続きました。わずかに水戸の光圀が、当時隠居していましたが、領内で野犬狩りを行いまして、その中で大きいやつの皮をはいでなめし、十枚でしたか二十枚でしたか、綱吉に献上した。
「大へん寒くなった。ついては上様もだいぶお年をとられてお寒いでしょうから、防寒の具にこれを献上します」
という口上をそえて。いわゆる諷諫ですが、これが唯一つのレジスタンスです。暴政何十年にもわたることに対するたった一つのレジスタンスです。
これは徳川将軍の威光が張り切っていたからです。徳川十五代を通じて、あの時代の将軍が一番威張っています。赤穂浪士の挙はこうした暴政に対する痛烈なレジスタンスでもあったのです。将軍の裁判の不当を指摘し、これを自らの手で訂正したのだからレジスタンスにちがいない。だから、世の人が歓呼してほめたたえたのです。
赤穂浪士の挙の四十年か五十年前に浄瑠璃坂の仇討が行われています。これは親の仇ですが、実に大仕掛です。敵味方にそれぞれ一族の者が加担して数十人という団体となり、しかも敵味方共に壮烈に戦っています。それでありながら、それほど評判になっていない。当時の人がしたくてウズウズしていたことをやってくれた、だから赤穂浪士はああまで人々を熱狂させたのです。
吉良上野という人は気の毒な人です。運が悪かったのですね。悪い人ではありません。三河の領地では今日でも彼の善政を思慕して、中々人気があるほどです。あの事件で誰が一番悪いかといえば、ぼくは浅野長矩だと思う。癇癪もちの腹のできていない人物だったから、ああいうことになったのです。大体大名というのは、むやみに人を殺したり刃傷したりできないはずのものです。大名の家がつぶれると、その家来及びその家族がみんな路頭に迷うんですからね。浅野家は五万石の小大名ですが、それでも家中の侍とその家族と合わせたら、二千人や三千人はあるでしょう、それがみんな路頭に迷うんですからね。それを考えれば、無暗なことはできないはずのものです。
世間ではよく、
「豊臣家恩顧の大名らが、秀吉が死んだ後、関ケ原の戦いでも東軍に所属し、大坂の役でも一向豊臣方に味方しない。加藤清正など、秀頼様秀頼様と、しょっちゅう言って、大へん忠義のように思われているが、阿呆かいな、肝心な時には味方もせんで」
と言う人もいますが、ああいう大きな大名になると自分一個の判断では動けないのです。家が亡んだら、加藤家などは大大名ですから、家来とその家族の総数は何万人に及ぶでしょう。これが路頭に迷うことになるのですから、簡単明瞭に割り切って義に殉ずるわけには行かない。別にほめるわけではないが、同情を以て見ることは必要でしょう。
自分のことにして考えてみるがよいのです。もし家族がなかったら、ずいぶん言いたいこともあるし、喧嘩したいこともある。しかし、家族何人かが自分によって生きているのだと思うと、そう欲するがままにはふるまえないじゃありませんか。自分に出来ないことを以て人を責めるのはよくないことです。
第三話
講談などに出て来る人物のことは、ほとんど史実に相違していますね。ほとんど全部と言っていいくらい。
たとえば、岩見重太郎という人物。これは講談によると、あとで薄田隼人正となって、豊臣家の家来となって、大坂の夏の陣に戦死したということになっています。
ところが、大坂の陣における薄田隼人正は勇士であるということは間違いないけれども実に人間のできていない人物です。冬の陣にはエタガ崎の砦を守っていたんですが、夜女郎買いに行っていて不在中に東軍に夜襲されて、砦を攻め落されているんです。それから夏の陣にはえらい大きな刀を持ち出して敵中に突撃していますが、あっけなくやられています。だのに、講談によると、岩見重太郎は、なかなか見事なものです。薄田隼人正になってからとたんに人物がダメになっているのです。性格が一変している。考えられないことです。つまり、薄田隼人正という人物は実在したが、岩見重太郎は実在しないのですね。
講談にも色々ありますが大ていは全部ウソ、実在の人物も大部分が作り話になっている。しかし、ウソだからといって、捨てたものじゃありません。水戸黄門漫遊記という講談はウソなんです。光圀という人は漫遊なんぞしていません。彼の行動範囲は江戸と国許だけで、ひょっとすると鎌倉や箱根の温泉場位には行ったことがあるかも知れないが、箱根の関所を西にこえていないことは確かです。
しかし、ああいう講談が出来たのは、当時の政治がうまく行っていなかったからです。悪政になやんでいる民衆の夢として、無上の権力を持って悪政を正して歩く人があってほしいと民衆が望んでいた、それがあの講談となったのです。あの講談は大坂種です。だから黄門さんも、助さんも、格さんも関西弁をつかいます。大坂は町人の町です。武家の悪政の重圧に苦しみ憤っていたことが深刻だったのでしょう。
史学の専門家に近い歴史知識の所有者でないかぎり、人は史学から人物像をつくらない。講談や、せいぜい歴史文学作品からつくり上げています。
「平家物語」によって清盛という人物、重盛という人物、義経、頼朝という人物を考えているのです。ところが「平家物語」は史書ではない。歴史を豊富に材料としてはいるが、文学書です。重点は史実の正確を期するということよりも、文学としての効果の上に置かれています。つまり、効果を狙うためには史実の歪曲も辞していない。
たとえば「平家物語」の中に、「殿下乗合の事」という章があります。重盛の子の資盛が鷹狩の帰りに、当時の関白藤原基房、松殿のおとどといっていた人ですが、その人の行列に会った。当時の習いとして、下馬して礼をしなければならないのですが、面倒くさがってそのまま駆け通ろうとした。
それで関白の家人どもが非常に怒りまして、馬から引きずり下して、相当恥辱を加えた。それを清盛が聞いて、いかに関白でも、おれの可愛い孫にそんな恥を加えることがあるものかと大へん怒って、家来共に言いふくめて、天皇元服の儀式があるについて関白が出かける途中に待ちかまえさせた。そして、関白に対しては危害を加えることはできないから、乗っている車の簾を引きちぎり、ついている家来どもを捕えて、モトドリを切ってしまった。そのため、関白は出仕が出来ず、天皇の元服は延期になるというさわぎになった。
それを重盛が聞いて、大へん資盛を怒って、こういうことになるのも、もとはといえば、お前が悪いのだ、暫く都を遠慮しておれといって、伊勢の方に追いやった、とあります。ところが、史実では反対なのです。襲撃を命じたのは重盛で、恐縮して、資盛を伊勢へ追いやったのは清盛なのです。
「平家物語」は文学としての構成上、清盛と重盛の性格を対照的に書いています。それで、それを鮮やかに対立させて効果を上げるためには、史実を曲げて反対にせざるを得なかったのです。
歴史文学を書く場合にわれわれでもよくやることですが、後世の人はその方を本当だと思って、清盛は強情我儘な暴悪な性格の人、重盛は沈毅にして紳士的な人物という人物像を作り上げているのです。
これが小説や講談だけならよいのですが、戦前の歴史の教科書までそうなっていたので、益※[#二の字点、unicode303b]そう思わせました。また、歴史家はそういうことは十分に知っているはずなのに、結論としては、平家物語に語られているような性格にしている人があった。皆が皆ではありませんが、そういう人が少なくない。専門歴史家を動員して作ったはずの人名辞典を引いてごらんなさい。思い当る所があるはずです。いい文学によって作り上げられた人物像というものは、歴史家がさか立ちしてもひっくり返せないのですね。
保元、平治、平家などによれば、平清盛は、実にくだらん人物に書かれています。戦さに出れば臆病、地位が進むと強情我儘な暴悪政治家です。あんなくだらん人物なのにどうして源氏の義朝のような偉い武将がやっつけられたんだと不思議にたえないのですが、これらの戦記物語は鎌倉時代、つまり源氏が権力者になってから書かれたのだから、源氏をほめ、平家をけなしているのです。本当の清盛はなかなかえらいですよ。政治家としての手腕に至ってはあの時代の第一人者ですよ。それにくらべれば義朝なんぞ単に強いだけの武弁ですよ。
楠正成も、「太平記」によって民衆のイメージが作られています。桜井駅の訣別は史実的にはないのです。文学としての効果上、あの場面を創作したのです。文学ですからね、史実よりも情緒や精神に重点がおかれているのです。桜井駅の訣別はあった方が正成の精神や人がらがよく表現されはしませんか。
それから「太平記」にありましょう。後醍醐天皇が笠置に行幸になって、敵軍に包囲されているときに、夢をごらんになった。大きな木があって、その南の方に坐っておられたら、ミズラを結うた童児が二人天から降りて来て、「心配なさいますな」と告げたという夢。天皇は夢さめて木扁に南という字は楠だ、この辺に楠という者がいて、それが自分を助けて皇運を恢弘するであろうと判断され、人にたずねて正成をお召しになったという、あれも「太平記」の作者のフィクションです。今日の小説から見るとまずい工夫だが、当時の小説にしてみれば中々巧いものです。ああいう神霊談、神異談は昔の小説にはつきものですから。
川中島の合戦は、昔は五度合戦といっていましたが、現代になって研究されて、本当は三度しかないということになっていました。ところが、さらにその後、戦争前ですが、渡辺世祐博士が考証して、やはり五度が本当だと言い出されて、今は五度ということになっています。歴史というやつは、実験が出来ないのですから、一応証拠が上って理窟さえ立てば正しいとしなければならないのです。その点、科学より哲学や文学に近いものだと思います。
仁徳天皇の仁徳ぶりなどもウソでしょう。日本書紀と古事記の記述を信ずれば、相当仁慈の行いのあった天皇のようだが、今にのこる天皇の御陵の壮大さを見ると、信じかねます。あの墓は世界一ですよ。ピラミッドより大きいし、秦の始皇帝の墓よりも大きい。あんな大きな墓は世界中にない。それを在世中につくられたのです。あの墓をこしらえる前に、もう一つこしらえられた。これはお気に召さなかったと見えて、そのままに捨ておかれ、荒れはてた末、普通の丘となった。茶臼山です。大坂の陣の時徳川家康の本陣がおかれた茶臼山です。これもまた随分大きいもので、当時の人が「なにわの大墓」と言ったくらい。
今にのこる御陵は、今日の推定では少なくとも延人員六百万人かかったろうという。日に何千人かを使って、何年もかかってこしらえられたものでしょう。当時の日本の人口から考えてみると、それはもう想像もおよばないほどの大事業ですよ。そういう墓を営まれるような君主に仁徳があったとは思われません。
仁徳天皇は弟の菟道稚郎子《うじのわきいらつこ》との間に、国を継ぐ継がぬで、互いにゆずり合われて、その間三年であった、という話があり、ついに稚郎子は仁徳天皇を位につけるために自殺され、やむなく仁徳が皇位につかれたという話がありますが、伴信友、江戸時代の国学者ですが、この人は、死なざるを得ないような立場に仁徳天皇が稚郎子を追い込まれたのではないかといっています。
大体古代人の間では、後世の意味で仁徳ある、情深い王は、そう偉くは思われなかったのではないかと思います。古代英雄の型は、みんな非常に荒っぽいのです。生命力の権化みたいな形で出て来ます。
スサノオノミコトとか、雄略天皇とかいうような、身体も大きければ、個人的武勇にもすぐれている。従って、いくらか乱暴である、朗々堂々として闊歩して行く、そういう人を偉いと古代人は思っていたのではないかと思うのです。だから日本のあの時代に、儒教思想の影響を受けたような名君がいたとは思われない。そういう人間に対しては却って心服しなかったのではないかと思うのです。
こういう意味から見ますと、仁徳天皇にはたしかに古代英雄的なところがあります。淀川(当時は山城川または北河という)に茨田《まんだ》の堤をきずき、大和川当時は河内川(又は南水)に難波の堀江をうがって治水事業をやったり、広大な新田をひらいたり、橋をかけたり、道路をひらいたり、当時としては着眼非凡で計画壮大なことを色々とやっておられる。たしかに古代英雄としては風格満点です。とりわけ、やたらに女をこしらえられたところ、りっぱなものです。
第四話
由井正雪に限らず、もともと兵学というものはインチキなのです。日本では、兵学は戦争がひんぱんにあった時代には出来ていない。太平になってから出来たのです。
一体、江戸時代における大名の家は軍隊組織になっていて、一旦緩急ある場合にはいつでも出動出来ることにしておかなければならなかった。原則的にですよ。
ところが、太平になりますと、戦争の経験のある人は次第に死にたえて行きます。これでは、非常に不安です。何か起った場合に、どういう工合にして軍隊を編成したらいいのか、どうして陣を布いたらいいのか、どうして防禦したらよいのか、どうして攻撃したらよいのか、まるでわからない。戦さのひんぱんにある時代なら戦場において、先輩に実地について教えられもすれば、鍛えられもしたので、自然に熟達したのですが、太平になるとそれがない。そこで兵学というものがあったらよかろうなということになり、これを創める男が出て来た。小幡勘兵衛という男。
この男は、徳川家の臣ですが、もとは甲州の武田家の遺臣で、武田信玄の兵法を研究し整理したと称して、甲州流と名づけて教授しました。この甲州流から北条流が出て来る。北条新蔵氏長、これは小田原北条の一族の流れで、幕臣ですが、これが小幡勘兵衛から学んだことに自分の工夫を加えて北条流となる。この小幡勘兵衛と北条新蔵両人の弟子が山鹿素行です。素行から山鹿流が創まる。これらに刺激されて、越後流、謙信流、長沼流というようなものが創まったのです。由井正雪は楠流です。
なぜ兵学がインチキであるかといえば、これらはいわば文学作品にすぎない甲陽軍鑑(これは小幡勘兵衛の著)だとか、甲越軍記であるとか、太平記であるとか、平家物語であるとか、そういうものの記述を土台にして兵法を組み上げているからです。インチキであるという面白い証拠があります。
山鹿流に、山をへだてて水を呼ぶ法というのがあるそうです。向うの谷間に川が流れている。山をへだてて、こっちの谷間に城がある。その城へ谷川の水を呼ぶことが出来るというのです。竹の節を抜いてつなぎ、一方の口を谷川につけ、こっちの口の前でドンドン焚火をすると、水が吸い出されて来るという。江戸の中期に、肥前平戸の殿様で松浦静山という人がありました。松浦家は山鹿流を信奉している家です。松浦鎮信という殿様が素行の高弟である上に、素行の子弟が仕えまして、その子孫がずっと兵学師範をつとめている。
「松浦の太鼓」という芝居があるでしょう。先代吉右衛門のあたり芸でしたね。赤穂浪士の仇討の夜、松浦の殿様が山鹿流の陣太鼓の音を聞き分けて、赤穂浪士の討入を知るという筋。松浦家が山鹿流信奉の家だから、あんな芝居が出来たのです。こういう家だから静山公も山鹿流を信奉していたのですが、一日秘伝書を読んで、この法のあることを実験してみた。三日三晩火を焚いたけれども、水が出て来なかった。それでも信者というものは有難いもので、
「水は出なかったが、ひょっとすると、秘伝書に書いてない口伝《くでん》があるのかも知れない」
と、彼の著「甲子夜話」に書いてあります。
大体兵学というものはずっと述べて来たようなことから出来たものですから、空理空論やインチキが非常に多い。うまい手を考えたものです。実際に役に立つものであるかどうか、戦争があれば実験してみてすぐわかるのだが、太平無事の世ですから、ぜったいに実験されることがない。どんなインチキをしゃべっても、ばれる気づかいはないのです。それで風采が堂々として、弁舌さわやかで、一応小理屈が言えれば、りっぱな兵学者で通ったのです。由井正雪なんかもそんなものだったのではないかと思います。
日本の兵学は実際の戦争に使われたことは一ぺんもない。幕末維新の戦争には、西洋式の兵学が入って来てそれでやっています。
正雪は駿河あたりの百姓の息子です。少年時代寺小姓か何かして江戸に出て来ても、町家――菓子屋か何かに奉公して、後に浪人暮しに入って、手習い師匠かなんかしているうちに楠流という兵学を言い立てたというんですから、深い研究をする時期なんかなかったはずです。相当インチキだったに違いありません。
心ある人は兵学というものをちっとも信用していない。荻生徂徠は江戸時代を通じて儒者としても第一人者で、ものすごく博学な人ですが、
「何流何流とやたら兵学があるけれども、どれ一つとして役に立つものはない。みんなインチキだ。『孫子』一冊あれば十分だ」
と、言っています。
徂徠という人は儒者でありながら、兵学の家元でもあります。孫子流といいますが、「孫子」は彼の愛読書の一つで、ひまがあれば「孫子」をよんでいたといいます。あれほどの学者で物識りですから、「孫子」の理を以て日本と支那の戦争を研究して行けば、立派な兵学が出来るのは当然です。恐らく各派の兵学中一番見事なものだったでしょう。漢籍国字解の中の「孫子」は彼の講義を集めたものですが、中々いい書物ですよ。
おかしいのは、山鹿素行が小幡勘兵衛と北条氏長のところに入門したのは、十六か十七の時ですが、二人とも「孫子」がよめなかった。ところが素行の方は林羅山門下の秀才ですから、「孫子」なんぞペラペラです。それで弟子である素行に、「孫子」の講義を受けているんです。研究心旺盛で見栄なんぞかまっていない所立派でありますが、「孫子」を読めんでは兵学者としての力量もうかがわれましょう。
勘兵衛さんがこうでは、由井正雪なんか、どの程度の実力があったか、大へん疑問です。あの時分は物凄く浪人が出て、浪人の就職難のすごい時代ですから、由井が大名や旗本の家に兵学の講義に招かれて行って顔が売れているので、その子分になっておれば就職口にありつく機会も多いというので彼のところに浪人がだいぶ集ったことは考えられます。あまり集りすぎて、どうにもこうにも|あがき《ヽヽヽ》がつかなくなった。みな当時の不平分子ですから、その不平を見ているうちに、彼自身も、政治を慷慨し、乱を思う気持がおこって来たのでしょう。それは想像つきますね。
あの時、彼は江戸の方は丸橋忠弥にまかせ、自分は駿府に向っていますが、あれは久能山の東照宮の宝庫にある金が目的だったのです。家康は駿府に隠居したのですが大へんケチンボの貯蓄家ですから、金もたくさん貯め込んでいた。何百万両、何千万両という金です。それが久能山に納めてあるという伝説が当時あった。本当は、その金は、江戸に持って来て、久能山の宝庫は空だったのですが、民間ではそんなことを知る道理がない。そこで、正雪も事を起すには何といっても金だから、あそこに行ってあれを押えてやろうという考えだったんです。
しかし、ああいうことでは徳川の基礎は動かない。徳川家の勢いはまだまだ上り坂を続けている時ですからね。あれは家光が死んだ時ですが、次の四代将軍の治世を通じ、更に五代将軍綱吉があれほど乱暴なことをやっても、天下の人はグーともスーとも言えなかったのですからね。権勢の上り坂にあることは明瞭です。ヤセ浪人の百人や二百人の力では揺り動かせはしませんよ。それが見抜けなかったのですから、すぐれた兵学者とは言えますまい。
臣下で栄耀栄華を極めた人といえば、王朝時代では御堂関白道長でしょう。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と歌い切れたのですからね。
けれども今から考えてみると、道長だって、食べものは知れたものでしょう。アイスクリームも知らない。砂糖さえ知らない。住宅だって、見た目は美しくても、冬どんなに寒くったって、炭櫃《すびつ》――つまり火鉢ですが、それに炭火をおこしてふるえながらあたっているくらいのもの、とてもストーブを焚いて、部屋全体を温めるなんてことは出来ない。
今のような御飯は粥です。強粥《こわがゆ》というんです。あの時分の飯はみな蒸飯です。今でも田舎ではお葬式など、たくさんの人に御飯を出さなければならぬ時には、むしてこしらえますがね、あれです。そうして盛りきりなんです。絵を見ますと、仏様にあげる時のように細長く高く盛ってある。ゴキという木製の椀です。大きいものです。
仏教が盛んになりましたから、獣肉は一切食わない。せいぜい鶏、野鳥、魚だけ、海藻類はずいぶん食ったらしい。それと瓜などの漬物。今のような畑に作る野菜の大部分は元禄時代あたりからのもので、それまでは文字通り、山野に自生しているのを採って来て食うのが普通であった。百人一首にあるでしょう。「君がため春の野に出て若菜つむ我が衣手に雪はふりつつ」あれですよ。大根はオオネといって大体室町時代あたりから作られているようです。
王朝時代――鎌倉頃もそうらしいが、身分の卑しい者は身分高い人の前では箸を使うことを許されなかった。手づかみで食べたのだそうです。それも顔など上げて食べてはいけない。うずくまり、うつ伏して、モソモソと食べたのだそうです。おそらく箸は、元来は大陸からわたって来たもので、舶来品だから、目上の人の前で使うのは生意気だと禁止したことが、礼となったのでしょうね。
世界に箸文化圏というのが考えられそうですね。東は日本、南はベトナム、ラオス、カンボジア、タイあたりまで、西はチベット、北は蒙古へんまででしょう。つまり中国文化の影響を受けている地域ですよ。
それから下っては、秀吉が一番ゼイタクでしょうね。しかし秀吉だって、食べ物の点を見ると、一向うらやましくありませんね。当時の茶の湯の時の懐石料理の献立表が残っていますが、それを見ると、こんな物しか食わなかったのかと可哀そうになりますよ。
あの当時の懐石の献立表の中に|てんぽうら《ヽヽヽヽヽ》というのがある。テンプラの語源については、昔からだいぶやかましいのです。山東京伝(江戸中期)の弟の京山が、テンプラというのは兄貴が名前をつけたのだと言っている。大坂から兄貴を頼って江戸へ来た人間がある。これは小料理ができて、ああいう揚げ物を作りだして、売り出したが、兄貴に名前をつけてくれと言うと、兄貴は、お前さんは天竺浪人でブラリと江戸にやって来て、そういうものをこしらえたんだから、テンプラがよかろうと言ったのが初まりだと、京山が随筆の中に書き残しています。その通りだという説もある。
ところが、そんなことはない。もっと早い。たとえば徳川家康は、テンプラの食い過ぎが死因です。茶屋四郎次郎という人、これは徳川家の家来で、小笠原某という侍だったのが、徳川家の命令を受けて、情報係みたいな役目を帯びて京都に行って大町人になったんです。この二代目が、家康が隠居しているときに、京都から駿河にごきげん伺いに来たところ、家康が、色々な話の末、近ごろ京都で面白いことはないかと聞いたら、四郎次郎が、
「近頃都では鯛の切身を胡麻油で揚げて食べるのが大へん流行しています。おいしいものです」
と答えた。
「それはうまそうだ。おれもやってみよう」
あの辺は、興津あたりは鯛がとれますから、それでテンプラをこしらえて食った。当時家康は七十五歳、したたかに油こいものを食ったので、腹をこわしてしまった。それがどうしても治らないで、遂に死の転機をとったのです。だから、テンプラは文化文政頃になってはじまったものではない。テンプラという名称は、英語のテンプルと関係がある、西洋人の宣教師の連中がこしらえた料理から出たんだろうという説もある。
ところが、前に言ったように、秀吉時代の献立表に、|てんぽうら《ヽヽヽヽヽ》とあるのですから、これが訛ってテンプラになったのだと、ぼくは思っています。まあ秀吉もテンプラぐらいは食ったでしょうな。
それから砂糖はあの頃は、もっぱら薬用として使われていた。日本では足利の末期あたり、すでに文献の中に出てきます。薩摩の島津家が足利将軍に砂糖を献上したという記録がある。非常に貴重品視されたもので、江戸時代を通じて薬屋で売られた。薬味ですね。だからふんだんに砂糖菓子など食べられなかった。菓子というのは文字通り木の実という意味です。砂糖を使った菓子は特に砂糖菓子といったのです。だから、秀吉のぜいたくといったって、食べものの上から言えば、そこが知れています。
第五話
これから妻妾のことを話しますが、秀吉はやたら女が好きで、しかも、高貴の生れの女が好きでした。これは自分が卑賤な生れですから、身分の高い女に幼い時から憧れていたので、出世の後、その憧れを充たしたのでしょうね。
朝鮮役のとき、日本の大名連が向うで盛んに虎狩をやったでしょう。有名なのは加藤清正ですが、清正だけでなく、みんな虎狩をやりました。あれは、一つは秀吉がやらしたんです。
最初秀吉に虎の皮を献上したのは、亀井武蔵守|茲矩《これのり》です。講談では槍の名人として有名な人になっています。この虎の皮を見て秀吉は考えた。
「虎というものはこんなに強いんだから、この肉は効くだろう」
そこで侍医連中にきいてみますと、
「それは効きます」という返事。
そこで秀吉の軍命令が在韓の諸大名に発せられる。
「今後は、虎を捕ったら、皮だけでなく、肉や内臓も送ってよこせ」
鍋島家文書に出ているのですから、本当ですよ。薩摩の古い記録にも出ているのをこの頃発見しました。
こういうわけで、諸大名は争って虎狩をやって、四斗樽みたいなものに入れて塩漬にして送った。それで大坂城内は虎の肉だらけ。
虎は、支那でも、満洲でも、朝鮮でも、マレーあたりでも、つまり、虎の棲息している所では、非常に神霊的なものに考えられています。虎の牙を持っていると魔除けになるとか、肉を食えば強壮薬になるとか、いう工合に信ぜられているのです。
秀吉も虎の肉を食って精力をつけようと考えたのですな。何しろ若い妾が沢山いるんだから、普通では追っつかないのですよ。しかし遂に及ばずして死んだ。
「西教史」によりますと、秀吉の死因を痢病(下痢)だと書いてある。痢病を起して、一時軽快したけれども、また悪化して死の転機をとったと記述してある。だからぼくは虎の肉を食いすぎたんじゃないかと思っているのです。
家康のテンプラなんかも、一つの強壮食的な意味があったのかもしれません。家康も女にうるさい人で、かなりたくさんの女があります。しかし、これは秀吉と対照的で、身分の低い女がほとんど全部。百姓の後家とか、田舎神職の娘とか、そんなのがやたら多い。ちゃんとした身分の家のものはやっと二、三人くらい。
大奥で一番派手にやったのは綱吉です。人数において多かったのは、十一代将軍の家斉。これは正式の妾になっているのが十二、三人、そのほかチョコチョコ手をつけたのが三十五、六人いて、五十何人の子供を生ませています。これらの、女の子の縁づけ先、男の子の始末、これは大名の家に嫁にやったり養子にやったりするわけですが、大へんな数ですから、一通りや二通りの面倒ではない。幕府は連年忙殺されています。
一番それがなかったのは、二代将軍秀忠です。これは一人もない。秀忠が駿府に行ったとき、滞在二ヵ月におよんだので、家康が気をきかせて、わざわざ花という美人の女中に菓子を持たせて慰めにやった。
秀忠は父君のお使者というので、上下かなんかつけちゃって、謹直に応対して全然手をつけないで帰した。家康は感心して曰く、
「おれはハシゴかけても及ばない」
秀忠はほんとに非常に謹直な人だったのですが、一つには細君がこわかったんです。この細君は淀君の妹です。しかも二度も結婚したのを秀吉が、一度は無理別れに別れさせ、一度は後家になったのを政略結婚で秀忠におしつけたのです。淀君の妹で、有名な美人系の家の娘ですから、美しくもあったので、秀忠も愛していたのでしょうが、これが非常に嫉妬深い。それで秀忠は女房こわさに、全然女をつくらなかったのです。たった一ぺん女に手をつけた。お静という大奥の|はしため《ヽヽヽヽ》ですよ。ところが、これが腹が大きくなった。秀忠は青くなって、おやじ家康のメカケの一人に事情を話して女をあずけ、そこで身二つにならせた。そして生れた子は、家来の保科正光に頼んで、絶対秘密だぞといってあずけた。
保科はこの子を自分の子供として育てた。この子が生長して保科正之となる。会津松平家の先祖です。
秀忠一代の間は正之と親子の名乗りもしないで秀忠は死んでしまった。三代将軍家光の時、家光が目黒の方に鷹狩に行って、家来とはぐれて、二、三の家来と共に成就院という寺に休息に入った。見るからに貧しい寺です。和尚さんが茶を出して接待してくれて、色々な話をしていたが、そのあげくこんなことを言った。
「当院は江戸の旗本の保科という人の菩提寺になっている。檀那が貧しいため、寺もこんなに貧しいのだが、ついては面白い話がある、大体身分貴い人々というものは、親子兄弟の親しみのないものらしい。当院の檀那保科家の当主は、現将軍の弟さんなんだが」
家光はハッと顔色をかえた、初めて自分に弟があることを知ったのです。それで帰って、保科正之を呼び出して、二十万石の大名にしたという話。
たった一人の女がそういう状態です。恐妻家列伝中の巨擘《きよはく》ですな。
その息子の家光。この人は若いころは男色ばかりに興味をもっていた。相手はたくさんいるんですが、一番有名なのは、旗本奴として幡随院長兵衛と争ったといわれている水野十郎左衛門の親父の水野成貞、これが家光のお稚児さんだった。そのうちに堀田正盛――春日局の義孫になりますが、これがまた美少年なものですから、これに家光の愛が移った。それで成貞が嫉妬しましてね。その嫉妬のしぶりが当時の武士らしい。家光が二人を呼んで茶を立ててやった。そのとき正盛の方に先に茶を出した。それで成貞はムッと怒って、席を蹴立てて御殿を退り、それきり全然出仕しない。そういう話がある。
こんな工合に男色にばかり熱心なので、春日局が心配した。あれではあとつぎが出来ないと。
春日局は色々苦心して、彼女の親戚にあたる者で、蒲生家の家老であった町野長門守に縁づいている者がいる。後に尼となって疎心と名乗った人ですが、この疎心尼の娘がやはり蒲生家の家中で岡吉右衛門という者に縁づいてうんだ娘に、おふりというのがいた。岡吉右衛門は、戦国時代天下に名の知れた勇士岡左内貞綱の息子です。中々の名家であります。そのおふりが、岡家が滅んだために町野家に厄介になっていました。これに春日局が目をつけ、疎心尼に話して大奥に奉公に出させ、家光におしつけたのです。家光は初めて女を知ったわけですが、味わってみると悪くないので、男色の方は卒業ということにして、専ら女に専心する。
その次に家光の妾になったのは、これは尼さんです。尼さんといっても、元来は京都の公卿の姫君です。六条宰相有純の姫君です。これが、伊勢の内宮付属の尼寺で慶光院というのがある。今でもあります。そこの住職になった。これはなかなか寺格の高い寺です。住職といっても、この姫君住職、まだ十六歳か十七歳、これが住職になったについて、将軍家にあいさつのために江戸に出て来て、家光に拝謁した。ものすごく美しい。家光は恍惚となった。忘れられない。それで春日局に相談した。
「あれを何とかしろ」
そこで、春日局が尼さんを呼んで、因果をふくめた。伊勢へは帰さない。こっちに留めておいて、髪が相当伸びるのを待って、家光に差出した。これが第二号です。家光はおそろしくこの女を可愛がりましたが、この女にとって非常に気の毒なことは、後になりますと、京都の公卿からだいぶ妾も来るし、正夫人なども摂関家や宮様から迎えるようになりましたが、この頃までは非常に警戒して、子供ができないようにと、春日局のはからいで、絶えずダタイ薬を服用させたというのです。
まことに気の毒なものです。それでこの女は、子供は産めなかったけれども、後に大奥における大へんな勢力家になりました。お万ノ方というのがこの女、五代将軍綱吉の生母お玉(後の桂昌院)は、このお万ノ方をたよって出て来て、お端下奉公をしている間に、家光の手がついて、綱吉を生んだのです。
江戸城の大奥の制度では、将軍の侍妾は三十歳になると、「お褥《しとね》辞退」といって、将軍の枕席に侍することをやめなければならないことになっていました。そのために、侍妾連は若く美しい女を部屋子として養っておき、この者共に将軍の愛をつなぎとめさせ、自らの権勢を保とうとしたのです。女郎屋みたいなところがあって、いやらしい習慣ですけど、人間の権勢慾のしからしむる所ですね。
お玉は京の卑賤な町家の生まれでした。これは世間周知のことです。
四代将軍家綱の生母おらくも野州の水呑百姓の娘です。しかも、その百姓は死罪人で、彼女とその兄妹、母親は奴隷になっていたのですから、人間の運命ほどわからないものはありません。
七代将軍の家継の生母月光院も卑賤な生まれです。これははやらない町医者の娘で、後の六代将軍家宣が甲府宰相といっていた頃に、甲府家に女中奉公に上っている間に家宣の手がついて妊娠したのですが、甲府家に仕える前は赤穂の浅野家の奥に仕えていました。真山青果氏の「元禄忠臣蔵」の「お浜御殿」の場は、この史実を踏まえて構想されたものです。
徳川十五代の将軍中、母親の素姓がたしかなのは初代家康と三代家光だけで、あとは皆卑賤な母親の所生です。腹は借物の考えが徹底しています。
もっとも、高貴な家の出身の女性は体質が繊弱で、妊娠分娩などということにたえなかったのかも知れません。江戸時代の三代家光頃から以後は風俗が奢侈になって、高級武家や公卿の家の婦女子はいつもうんと厚化粧する習慣になりましたが、当時のお白粉は原料が鉛ですから、体質虚弱な者はその毒におかされることがひどい。従って妊娠もしにくいし、せっかく妊娠しても流産しやすい。出産しても子供の体質が弱い上に、乳母もまた厚化粧しているので、その毒をうけて育ちにくいということも考えられます。
幕末に、薩摩にあったお家騒動で、島津斉彬の子女らが相ついで夭死したのを、斉彬方の壮士ら(西郷、大久保ら)が相手方の呪咀によるのだとさわいだことがあります。この騒動中呪咀の修法が行われたことはたしかですが、夭死した子女らの症状から見て、鉛毒による脳膜炎と見るべきであると、薩摩出身の医学博士で小児科医である鮫島近二氏が鑑定しています。
あるいは、高貴な家の出の女の所生が次代の将軍となると、その生家の権勢が強大になりすぎるので、生まさないようにしたのかも知れません。
本電子文庫版は、講談社文庫『史談と史論(上)』(一九七七年三月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、作品の時代背景および著者(故人)が差別助長の意図で使用していないこと等をかんがみ、そのままとしました。読者のご理解を賜わりますよう、お願い申し上げます。