海音寺潮五郎
列藩騒動録(二)
目 次
秋田騒動
越前騒動
越後騒動
仙石騒動
あとがき
[#改ページ]
秋田騒動
一
秋田佐竹家は古い家柄だ。名門という点から言えば、江戸時代の諸大名中の第一であろう。何せ、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光以来連綿として大豪族としてつづいて来た家だ。こんな家は他にはない。薩摩の島津家が古いの、仙台の伊達家が古いのと言っても、鎌倉時代初期からだ。佐竹家はこれより百年も古い。
これほど古い家であるから、代数《だいかず》も常陸にいた頃からだと大へんなことになるが、ここでは便宜上常陸から秋田へ移った時の当主義|宣《のぶ》を第一世として数えて行くことにする。
義宣は石田三成と大へんなかがよかったので、関ケ原役の時には石田に味方し、会津の上杉景勝と通謀して、徳川氏に反抗の態度を見せた。別段抗戦しはしなかったのだが、家康は怒り、役後、秋田へ転封を命じた。この時まで佐竹家は水戸を居城として、八十万石(一説五十四万五千石)の大封を領していたのだが、一挙に二十万五千石にたたきおとされ、秋田の久保田(今の秋田市)に移らねばならないことになったのである。
義宣の子は義隆、実は弟で岩城家を嗣いだ貞隆の子である。これを第二世とする。義隆に、義《よし》|※[#「ウかんむり/眞」]《おき》、義|処《ずみ》、義長の三子があった。義※[#「ウかんむり/眞」]は長子ではあったが、妾腹だったので家を嗣がず、一万石を分封してもらって別家した。義※[#「ウかんむり/眞」]以来代々式部少輔に任官するので、式部|家《け》という。家は二男の義|処《ずみ》がついだ。これを第三世とする。三男の義長は兄義処と同じく正室の出であったので、二万石を分封してもらった。この家は代々壱岐守に任官するので壱岐守|家《け》という。封地が湯沢の北方六七キロの秋田|新田《しんでん》であったから新田|家《け》ともいう。
この壱岐守家と式部家とは、徳川家における三家のような格式で、本家に人が絶えると、ここから入って嗣ぐことになっていたようである。はっきりした規定があったかどうかは明らかでないが、事実はそのようになっている。
この二家のほかに、佐竹家には一門のうちで特に四家ととなえて重んじていた家があった。これは佐竹家がまだ常陸にいた頃、本家を中心に東西南北の方角の在所に居住していた家々が、いつの頃からかそう呼ばれるようになったのが、秋田へ移ってからも名称がのこったのである。従って、秋田へ移ってからは、東西南北は名前だけで、知行所や居住地とは必ずしも一致しない。
この四家のことは後に大いに関係があるから、表につくってかかげておく。
さて、三世義|処《ずみ》に三子あった。長の義|苗《みつ》は早く死んで、二男|叙胤《のぶたね》は出でて相馬家を嗣いだ。家をついで四世となったのは、三男の義|格《ただ》であった。
義格には子がなかったので、急養子(末期《まつご》に臨んでする養子)として、壱岐守家から義|峰《みね》が入ってつぎ、第五世となった。義峰は壱岐守家の初世義長の子であるから、義格とはいとこ同士《どち》だったのである。
わかりやすいように、系図で示す。この系図は先きに行くとなお必要になって来る。ご面倒であろうが、参照しながらお読みいただきたい。
騒動のそもそもの発端は、壱岐守家から入って第五世となった義峰の時にはじまった。
義峰には女の子は四人もあったが、男の子がなかったので、式部家の義|堅《かた》を養子とした。三田村鳶魚老は、国書刊行会本の「列侯深秘録」中の「秋田杉直物語」の解説で、
「これが先ず間違いであった。義峰は壱岐守家から入って本家を嗣いだのだから、自分のあとつぎをもとめるにも壱岐守家からすべきであったのに、そうしなかったから、後にさわぎがおこったのだ」
と言っている。
あるいはそうであったかも知れない。しかし、義峰の去ったあとの壱岐守家は東家から義道を迎え、これに義峰の妹を配して、家を嗣がせていたが、この義道は一門とはいえ、血の遠くなっている東家から来た人で、本家のあとつぎとして適当でないことは言うまでもない。夫婦の間に求馬《もとめ》(後に義|局《ちか》、さらに改めて義|明《はる》)という子が生まれており、これは義峰の血のつづいた甥にあたるわけだが、義峰が養子を定めた時――それは享保十七年、義峰四十三の時であるが、求馬はまだ幼く、わずかに十歳であった。それに引きかえ、式部家の義堅は四十一になっていた。義峰がおのれの生家から養子を迎えず、式部家から迎えたのは、以上のような理由のためかも知れない。(以上の各人物の年齢の計算は寛政重修諸家譜によった)
しかし、この義峰の処置には、相当な不満が家中にあったに違いない。党派というほどに劃然たるものはなかったにしても、式部家に親しいもの、壱岐守家に親近しているもの、それぞれに相当な数があったろうことは、推察されるのである。
「秋田杉直物語」は、この時代の講釈師馬場文耕が、当時のトピックであった秋田騒動を調査して書き上げたもので、興味を目的としたものであるから、まるまる信ずるわけには行かないが、文耕という人が元来伊予の武家浪人で、相当学問もあった人であり、この書に出て来る人名などがほとんど誤りのないところを見るとその調べは相当綿密なようで、そう捨てたものではないようである。他の参考書と参照しながら読んで行けば、他書にないめずらしい材料もあって、なかなか参考になるのである。この書に、こんなことが出ている。
壱岐守家の当主義道は、本家のあとつぎには子の求馬を立てようと思っていたので、義堅にさらわれたのを無念に思って、義峰の寵臣那河忠左衛門にとり入った。
那河はなかなかの才人であった。「智恵才覚はなはだしく、殊に風流の人にて、十種香(香道)・茶の湯の達人」と、馬場文耕は記している。
那河が佐竹家の家中で羽ぶりがよくなった動機を文耕はこう書いている。ある時、義峰が殿中の大広間で相詰《あいづ》めの大名らに、お国名物の蕗《ふき》を自慢して、
「茎の太さは七年竹のまわりにひとしく、葉は各々方のさし給う長柄のからかさほどもござる」
と言ったところ、大名らは皆、
「それはまたあまりなこと、東照宮の仰せに、人はまことらしい嘘は言っても、嘘らしいまことは言うてはならんとある由でござるが、貴殿の今のお話はそのまことらしい嘘やら、嘘らしいまことやら」
と、笑った。
義峰は無念に思い、帰邸してこれを家来共に語ったところ、当時那河は年若くして近習であったが、義峰にすすめて、国許からとくべつ大きく育った蕗を取寄せ、相詰めの諸大名を呼んで、饗応し、その節蕗の茎を輪切にしたのを煮物にして平椀に入れ、人々に供して食べさせた後、那河は「上下衣類、きらをつくし、人品やさしく取りまわし」て出て、先般の大広間詰めの時のことから説きおこし、決して主人が嘘を言ったのでないことを皆様に知っていただきたいため、こうしたのであって、さらに遺恨をふくんでのことではないから、今後もよろしくおつき合いいただきたいと、情理をつくして説明したので、大名達は感心して帰った。義峰の満悦は言うまでもない。厚く那河に褒美し、以後家中第一の出頭となった、というのが文耕の述べるところだ。
これは恐らく、秋田名物の蕗と那河の才気とをからませた文耕の小説であろう。「秋田治乱記」というこの時代の秋田藩士の手に成ったと信じられている書物によれば、那河は元来大館の在給人《ざいきゆうにん》(給人とは給地即ち知行所を給せられている藩士のことだ。上に在がつくのだから、知行所または藩の指定する田舎に居住している藩士の意であろう)であったのが、那河家へ養子に来て、義峰の代に次第に取立てられ、用人にまで上って、家中腰をかがめないもののないほどの羽ぶりになったとある。才気抜群の男なので、いつの間にともなく頭角をぬきんでて、義峰に取立てられたのであろう。
さて、この那河に、壱岐守義道はとり入り、その心をつかんでから、ある日、
「わしはせがれの求馬をご本家のあとつぎにしたいと思ったのだが、式部家の義堅にさらわれてしまった。しかも、義堅には義真《よしまさ》という子もあることなれば、義堅が死んでも、義真が立つから、とうてい求馬の出る幕はない。まことに残念である」
と、涙とともにかきくどいた。すると、那河は笑って、
「これはお若きおことばであります。ご父子ともに失い申せば、自然と求馬様のお番になるではございませんか」
と言い、義道と相談してその結果、義道は伊予松山の城主松平(久松)隠岐守|定喬《さだたか》夫人にとり入り、これと堅く結ぶことにした。この夫人は義峰の長女であり、求馬の妻は三女で、二人は大へんなかがよかったのだ。
以上は「秋田杉直物語」に叙述するところだ。義堅・義真父子を殺す相談をしたなどのことは、たやすく信ずることは出来ないが、壱岐守義道が義峰の寵臣である那河のきげんを取って結託を心がけたことや、求馬の夫人の同母の長姉である松平(久松)隠岐守定喬夫人に取入ろうとしたことなどは、後のことと思い合わせて、事実と認めてよいようである。
もっとも、前述した通り、義堅が本家の養子になった時、求馬はわずかに十歳である。まだ結婚はしていなかったろう。
あるいは婚約だけが出来ていたのかも知れない。
あるいはまたこうも考えられる。
義|堅《かた》の子の義|真《まさ》は、幕府への届け出は享保十三年の生まれということになっているが、実際は享保十七年八月三日の生まれであると、羽陰史略にある。享保十七年といえば、義堅が本家の養子となった年だ。しかもそれは五月九日のことであるから、義真の誕生はそれから三カ月後のことである。この事実を胸において、ゆっくりと考察してみよう。
義堅はついに家督を相続せず、世子のまま五十一で死ぬのだが、その時義真は十八(公称二十二)であり、壱岐守家の求馬は二十だ。この二三年前あたりに、義道が那河に取入って親しくなって、胸中の野心を打ちあけて相談したところ、那河は義道に、
「そういうご所存なら、有力なお味方をおつくりになる必要があります。つきましては、太守様の三の姫が求馬様とお似合のお年頃でありますから、求馬様の奥方にお迎えしたいとお願い申し上げられましてはいかがでございましょうか。拙者も骨を折って、お聞きとどけになるよういたしましょう。こうして求馬様が三の姫とご夫婦となり給えば、三の姫の一番上の姉君である隠岐守様み台所は、大へん三の姫をお可愛がりであります故、そのお聟君として求馬様にも好意をお寄せになること、疑いございません。何よりも、太守様にとっても聟君となられるわけでありますから、おいとしくお思いになる道理であります」
と知恵をつけて、縁結びさせたという風に考えられないだろうか。
一体この壱岐守義道という人はなかなかの野心家で、こうであったと、馬場文耕は伝えている。
義道には求馬を長として四人の男の子があった。上三人は家付娘である義峰の妹の所生であるが、末の重喜《しげよし》は後妻の所生だ。義道は長男の求馬義|明《はる》(初名義|局《ちか》、後に義|明《はる》と改めたのだが、便宜上義明で通す)に本家を嗣がせ、末子重喜をまたどこぞの大名に養子にやりたいと思って、方々の神社仏閣に祈願をこめた。なかにも平居《ひらい》の燈明寺の聖天《しようてん》を信心して、浴油という修法をし、毎月六度ずつ出かけて熱心に修した。ある日のこと、いつもの通り平居村に出かけて修法し、帰って来る途中、両国橋上にさしかかると、突然馬がはね上り、義道は鞍から川へはね飛ばされようとしたが、とっさに橋のらんかんをつかんでぶら下り、水中に転落することをまぬかれた。それでも、腰を打ったり顔をすりむいたりして、散々な目にあって、やっと家来共に介抱されて帰邸した。
義道は信心の帰りに災難に遭ったこととて、とりわけいい気持はせず、燈明寺の住職を呼んで、この話をし、祈願のかなわないしるしではないだろうかとたずねたところ、住職は、
「いや、いや、それはめでたい|しるし《ヽヽヽ》でござる。殿はご落馬の時、両国橋をお手でおつかみになったのでござる。お祈願かなって、両国を手にし給うべき吉瑞として、聖天がおしめし給うたのでござる。ありがたや、ありがたや」
と、言った。義道は心をとり直し、厚く住職をねぎらって帰したが、間もなく果して、長男義|明《はる》は本家をつぎ、末子重喜は阿波徳島の蜂須賀家の養子に迎えられ、徳島二十五万六千石の当主となったというのである。
くわしい資料がのこっていないので、とぼしい材料によって推理するほかはないのだが、羽陰史略の記述や、この義道の性格などを参考すると、那河が参謀役になって、隠岐守夫人を味方にするために、義峰の三女と求馬との縁談をまとめ上げさせたとの見当は狂っていないと信ずるのである。
ついでだから、義峰の女《むすめ》四人の縁づき先きをひとまとめにして書いておく。長は松平(久松)隠岐守定喬夫人、次は信州松本の戸田丹波守光|雄《お》夫人、三は求馬義明夫人、四は肥前平戸の松浦家の世子|邦《くに》の夫人。
二
「秋田杉直物語」は、義|堅《かた》の死は良死ではない、甚暑《じんしよ》見舞に松平隠岐守家へ行った時、食膳に毒を盛られたので、帰宅後にわかに悩乱し、その夜頓死のごとく果てられたと書いている。つまり、義道と隠岐守夫人とが共謀して毒殺したと言っているのだ。
しかし、寛政重修諸家譜の記述では、義堅の死は真夏ではなく、寛保二年の二月四日である。しかも、正月二十六日には幕府から永井伊賀守|直陳《なおつら》という者が使者として佐竹邸へ見舞いにまで行っているから、急死でもない。羽陰史略によると、発病は前年十一月である。馬場文耕先生は興味本位に舞文曲筆していると断ぜざるを得ない。普通の病死だったのである。
義堅が死んだので、義峰は義堅の子の義|真《まさ》を世子に立てた。江戸時代の法規では祖父から孫へ直接譲ることは出来ないことになっていたから、義真を養子ということにしたのである。これで式部少輔家には人がいなくなったので、その領地一万石は本家にかえった。
七年立って、義峰が死んで、義真が相続して、当主となる。年十八、公称二十二である。ちょっと余談をする。加賀騒動で大槻と密通したというので殺された真如院の生んだ楊姫は、この義真に入輿したのである。
義真は年は若かったが、名君の資質のあった人のようだ。「秋田杉直物語」は、義真の賢明を語る話を二つのせている。
その一
ある時、殿中で寄合《よりあい》(三千石以上の非職の旗本。三千石以下は小普請という)の板倉修理|勝該《かつかぬ》が肥後藩主細川越中守宗|孝《たか》を刃傷した事件がおこり、人々が狼狽してさわぎ立った時、義|真《まさ》が人々を制し静めたというのだ。しかし、この話はあやしい。徳川実記を検すると、この事件のあったのは延享四年八月十五日のことだが、この頃は義真はまだ藩主になっていない。「羽陰史略」にも「秋田藩治編年の通霄《つうしよう》(義真)公紀――吉田東伍博士編秋田県史収録」にも、記載がない。松平|乗邑《のりむら》が浅野・吉良の喧嘩の時、年少の身で大音に叱咤して同席の諸大名の周章狼狽をとりしずめたという話を拝借して舞文したものであろう。
その二
佐竹家の殿中の詰所は大広間であるが、ある時、柳の間の廊下を通りかかると、かねて知る津軽越中守が、柳の間から、
「左兵衛殿、左兵衛殿」
と呼んだ。義真は左兵衛督《さひようえのかみ》に任官していたのである。義真は柳の間に入って、しばらく越中守と閑談したが、越中守はこの頃国許から参覲して来たので、義真が、
「こんどのご参覲の途次やご在国中に、何ぞ変ったおもしろいことはありませなんだか」
と、たずねた。越中守はふだんから軽率な人であったが、こう言われて、
「別段変ったこともござらなんだが、国許への往復の道中まことにこまることがござる。それは貴殿のご領地内の神谷川(所在不明、しかし、地理的に見て、多分|米代《よねしろ》川のことではないかと思う)を越えます時、川越人足共が金銀をむさぼり、色々と難題を申しかけるのが、まことに難渋」
と、言った。あたりはばからぬ高声《こうじよう》だ。義真は恥じ入った。
「さてさて、驚き入った下郎共のいたし方、申訳ござらぬ。日頃、領分の者共へは、隣国の大名方のお通りの節は、ずいぶん気をつけ、慮外がましきことのなきよう致せと、きびしく申しつけておくのでござるが、匹夫のこととて、利欲をむさぼり、さようなことをいたすのでござろう。憎きやつばらでござる。しかし、拙者に免じてご容赦下され」
とわびて、その日帰宅すると、すぐ家老らを呼び出して、殿中でのことを語り、
「越中守が余にだけひそかに申したのなら、穏便ないたしようもあるが、満座の中で高々と言われては、家の恥にもなること、きっとした方法を講ぜねばならぬ。津軽の往来の節慮外した人足共をのこらず召取り、取調べの上禁獄いたしおけ。仕置のことは追って余が直《じき》々に申しつける」
と、命じた。江戸屋敷の家老らは早速国許へ連絡し、命ぜられた通りにはかった。
一年経って、津軽越中守が参覲の期が満ちて帰国する時、義真は国許へ申しおくった。
「去年以来禁獄させておいた川越人足共、津軽越中守がその地を通る時、のこらず梟首申しつけて、わが政治の厳明なるを見せつくべし」
役人らは命令通りにはからい、人足共の重立った者十一人の首をはねて川ばたにさらし、「隣国のご領主へたいして失礼致した故、かくのごとくとり行う」と高札を立てた。津軽衆はこれを見て驚愕した。とりわけ、越中守は、余が無思慮のために、多数の人を死なしたと、後悔一通りではなかったという。
津軽氏を名のる大名は、後には弘前《ひろさき》の津軽氏のほかに分家の黒石津軽家が出来たが、この時代は弘前一軒だ。弘前津軽家の殿中における詰所は、後には大広間になったが、この頃はまだ柳の間である。この時代の津軽家の当主は信|寧《やす》という人だ。越中守がこの人であることは言うまでもない。
この事実は実際あったことのようである。「通霄公紀」に、宝暦二年に義真が自分の江戸往来の際の助郷《すけごう》や人足代等のことについて新しく規則を立てて触れ出し、訓戒しているが、その末段に「津軽様お通りの節も右と同断」と書き、「規定外の料金をむさぼったり、疑わしいことをしたりしたら、本人はもとより、肝煎《きもいり》、長《おさ》百姓等に至るまで、厳罰に処するぞ」とあるところを見ると、根のないことではなく、少なくとも似よりのことがあったにちがいないと思われるのである。
なお「通霄公紀」には、三つの逸話をのせている。
その一
鷹狩に出た時、路傍に盲人のかしこまっているのを見て、供の者に、
「盲人として、願わしいことは何であるか、問うてみよ」
と命じた。すると、盲人は、
「別段にこの世では願わしいこともございませんが、来世は大名に生まれかわりとうございます」
と答えた。義|真《まさ》は、
「その方は何にもわかっておらぬのう。世に大名ほど難儀なものはないぞ。なぜに大分限《だいぶげん》の町人の家に生まれたいと願わぬぞ」
と、言ったという。
義真は襲封後満四年にして死に、次代の義|明《はる》は終始財政逼迫に苦しみ、義真もまた色々と倹約して、自分の衣服の費用等を半分以下にしたりなどしているほどだ。豪富の町人が人間として最も幸福で、大名など比較にならないという嘆きは、衷心からのものであったろうと思われるのである。義真が最初に秋田に帰ったのは寛延四年の五月だ。数え年|二十《はたち》の時だ。二十の大名がこんな嘆きをするというはなまなかな貧乏ではなかったのであろう。
その二
秋田城内の林にいる|からす《ヽヽヽ》を鉄砲で撃ったところ、出櫓《だしやぐら》のところに落ちた、義真は膳番にひろって来るように命じた。膳番はかしこまって大小姓《おおごしよう》のところに行き、塀の錠を開けるようにと言ったが、大小姓は、
「ご支配のさしずなくば開けることは出来申さぬ。われらご支配のお番頭《ばんがしら》にそう申していただきましょう」
と言ってあけようとしない。
「その手続きをふんでいれば、時がのびすぎるのでござる。屋形はお待ちかねなのでござる。ともかくもお開けなされよ。貴殿方の落度とならぬように、あとで拙者からお番頭に申します」
とお膳番は言ったが、相手はどうしてもきかない。ついに大小姓番頭にしかじかのことで屋形の仰せつけでござれば、お塀の錠をひらくよう、お差図下されと手紙を書き、大小姓番頭から大小姓組頭への通知があり、大小姓組頭から大小姓へ差図があって、はじめて塀の錠をあけて行ってみると、からすの死骸は狐か狸が持って行ったのか、もうなかった。
しかし、義真は翌日家老をして、
「昨日その方共がしかじかであったのは、掟を守って堅固に城中を守護する、かねての訓練のいたすところで、余はよろこんでいるぞ」
と、大小姓らに賞美のことばを伝えさせたという。
その三
義真は、民情視察のために鷹狩の時など、よく近習の者二三人だけを連れて、下民の家に立寄り、田畑のことなどたずねた。ある時、ある家に入ると、腰の曲った老人が一人いて草鞋《わらじ》をつくっていた。義真は直接たずねた。
「こんど屋形がはじめて下ってまいられたが、評判はどうじゃの」
老人はこたえた。
「今のところは、ありがたいお人じゃというていますが、何せまだお若い方と聞きますれば、野返り(悪化、野性に返るの意であろう)せねばよいがと思うていますがのう」
義真は、野返りとはおもしろい言いようをすると、よろこぶこと一方でなく、その老人を大事にしていたわれよと、老人の家族にも村中にも命じ、その家を「野返りの爺《じじ》いの家」と称した。後代に至るまで、佐竹家では、その家の子孫が家の修理でもする時には、銀など下賜しているという。
またある時、楢山《ならやま》村(今の秋田市の東南地方)の百姓家に行った時、老婆が一人留守居していた。
「水を一杯くれよ」
と所望すると、欠け碗に酌んでくれようとする。ふと見ると、棚に新しい茶碗があった。
「あの茶碗でくれよ」
老婆は首をふり、腹を立てて言う。
「ばかこくでねえだ。この茶碗はお代官様のござった時にお茶あげるために嗜《たしの》うでいるのじゃわい。お前さまなぞに使わせてたまるべいや」
「おお、そうか、そうか。悪いことを言うたの。そんなら、その欠け碗でもよい。酌んでくれい」
義真はこころよく欠け碗で水を喫した後、老婆にたずねた。
「この村の代官の評判はどうじゃな。村の者はどう言うているかの」
「そうじゃのう、この前までのお代官はきびしいやかましいお人でござったが、こんどのお代官はよいお人じゃと、皆よろこんでいますわの」
「そりゃあいいの。それで、屋形も新しゅうなられたのじゃが、評判はどうかの」
「よいお人で、百姓共を皆かわいがって下さるというとりますわ」
「いいのう。そなたらも楽が出来ることじゃろうよ」
と言って、立ちかえろうとしている時、供廻りの者共が集まって来たので、老婆ははじめてこの若いお武家が屋形であることを知って、おどろきさわぎ恐縮した。義真はなだめて立ちかえり、その村の代官を呼び出して、
「その方の撫育が行きとどけばこそ、百姓らがよく服し、その方を大事に思うのである。奇特《きとく》であるぞ」
と、称美したという。
以上の話だけでは、義真が実際政治の面でどの程度まで善政を施したかはわからない。たとえ施したにしても、満四年という短い期間のことだ、何ほどのこともなかったろう。しかし、善政を施したいという熱意のある人であったことはわかるであろう。
彼は宝暦三年の五月に二度目の国帰りをしたが、その年の八月上旬から「御|鬱痰《うつたん》のところ、御|類癨《るいくわく》、十二日頃から御浮腫――羽陰史略」。それで、幕府に良医を拝借したいと願うために十九日夜中に家臣を早打で出発させたが、翌二十日にはもう死去した(羽陰史略)。年二十二、公称二十六であった。
鬱痰というのは、痰がからんで切れないことを言うのであろう。類癨の癨は癨乱《くわくらん》の癨で、暑気あたりして吐瀉《としや》することであるから、類癨とはこれに似た症状を言うのであろう。
相当急激な病状の進行模様である。
れいによって、「秋田杉直物語」は、毒殺説をとっている。那河忠左衛門が壱岐守義道と談合して、
「こんどのご帰国に、拙者も供することになりましたが、帰国の上は、拙者必ず一味の者をこしらえて、左兵衛殿を毒殺した後、おあとつぎには求馬様をと、総家中の輿論をまとめます」
と、誓って出発し、秋田へ到着すると、家中の者共の心をひそかに打診し、千石取りの家老山方助八郎、四百五十石の用人小野崎源太左衛門、三百石の大久保東市、百五十石の膳番|三枝仲《さえぐさちゆう》の四人を語らって一味に引き入れ連判した。そして、ある日、小野崎源太左衛門、大久保東市、三枝仲の三人と同席した時、三枝に、
「そなたの働きで、明日ご食事に調合してまいらせられよ」
と言って、懐中から毒薬|斑猫《はんみよう》を一包みとり出して、渡した。三枝は膳番だ。
「心得申した」
と、異議なく引き受け、翌朝の食膳に供した。義真は食傷のような形になり、苦悶の末、一夜のうちに頓死のようにして果てたと記述している。
一夜のうちではなく、二十日近くもいたついていたことは、前述した通りである。また那河はこの時義真の帰国に随従はしていない。彼は義峰には大いに寵用されて羽ぶりがよかったが、義真は彼を好まず(義真は重厚篤実好みで、才はじけた那河を好まなかったのであろう)、なんとなく疎外する風があったので、気合を見るに敏な那河は、松平(久松)隠岐守夫人の付家老にしていただきたいと夫人に頼んだ。夫人は那河が気に入っているので、すぐ承知して、義真に、
「那河をわたくしの付家老にしていただきたい」
と、所望した。
義真にしてみれば、夫人は先代義峰の長女だ。大いに義理がある。所望を聞かないわけに行かない。即座に承諾して、前の付家老と那河を交代させた。だから、那河はこの頃は佐竹家を去って愛宕下の久松松平家の上屋敷にいたのだ(秋田治乱記)。義真の帰国に随従するはずはないのである。
しかし、義真が病中癨乱に似た症状を呈して吐瀉《としや》がつづいたことは前述した通りだ。相当あやしいといえばあやしいのである。三田村鳶魚翁が「列侯深秘録」の解説で説くところによると、ぼくには未見の書だが、「秋田沿革史大成」は、義真の死が毒殺であることを認めている由である。しかし、ぼくにはまだいずれとも判断を下すことは出来ない。
三
「秋田杉直物語」は、那河が一味の家老山方助八郎、用人小野崎源太左衛門らと、近習小姓らだけで、義真の臨終を介抱して他に会わせず、しばらく死を秘して、家督は壱岐守家の義明に譲るべき旨の遺書を作成し、義真の袖判《そではん》(公文書に裁可の証として、文書の袖、即ちはじめの余白に判をおすこと。この場合は、この遺言状は家来共の手に成ったものであるが、自分の意志によって作成させたものである≠ニ義真が証明することになる)をおしてから、家中に死を発表したと書いている。前述した通り、那河はこの時秋田には来ていないし、山方助八郎が家老になったのはこの時から三年も後のことだ。しかし、なおしばらく「杉直物語」をたどって見よう。
秋田城内では、義真の葬送の準備や法事をすすめる一方、四家の人々、重役、諸士《しよざむらい》らが集まって、家督のことが相談された。那河一味の者共は、
「ご遺言状を拝読いたすに、太守様のご意志は壱岐守家の義|明君《はるぎみ》におわした趣きであります。義明君は先々君義峰公のお聟君として、ご夫婦の間にすでに秀丸(後の義|敦《あつ》)君がご誕生であります。この秀丸君は義峰公のまさしきお孫君であります。ご遺言状はこのへんのところをお含みになって、かく遊ばされたのではないかと、恐れながら拝察いたします。まことに行きとどかれた、お立派なご遺言と拝します。早々、江戸表へ申し達し、公儀へお願いあって、お許しをいただかれますよう」
と、主張した。
一同皆同意した中に、横手城主である戸村十大夫だけが、
「ご遺言状である以上、最も重く考えねばならんこと勿論でござるが、火急なことで直接御意をうけたまわることが出来なんだので、まことに不安でござる。あるいは、ご病苦のためにご本心を失い給うていたのではないかと疑われるふしもござる。その故は、太守様この度の江戸お暇《いとま》の節、仮御養子願にはどなたの名をお書きになられましたか、それについて何とも仰せられぬのが、何とも不安でござる。ひょっとして、相馬|福胤君《よしたねぎみ》のお名前をお書きになっているかも知れません。でありますれば、義明君に譲るとのご遺言であったと申し立てては工合の悪いことになるかも知れませぬ」
と、異議を申し立てた。
江戸幕府の習慣法として、大名の若い間は養子をとることを許さなかった。家というものは実子相続が本然のすがたであり、若い間は実子の生まれる可能性が多いからである。一方、武家法度は嗣なきは絶家して封土を没収すると定めている。江戸にいれば、病気危篤になった際でも、急養子の願いをして家断絶をまぬかれることが出来るが、国許に帰っている時は間に合わない。それで、大名らは参覲の期が満ちて国に帰る際は、仮養子願をして帰る。その願書はかたく封印して幕府にさし出すのだ。万一のことがあれば、幕府ではそれを開封して、願いの通り許可して、家を存続させるが、何事もなければ願書は密封のまま返すのである。そういう慣例になっていた。相馬|叙胤《のぶたね》は、前に掲げた系図を見れば明瞭だが、佐竹家から養子に行った人だ。福《よし》胤はその叙胤の弟である。もっとも、福胤は叙胤の養父昌胤の実子だから、佐竹家とは血のつながりはない。それでも、もし義真が仮養子願にはこの人の名を書いておきながら、遺言書では義明を名ざしているとすれば、当然幕閣の問題になるであろう。戸村十大夫の異議はそこを案ずればこそのことであったというのが、「杉直物語」の説くところである。
この場合、こんな形で論争が行われたろうとは思われないが、一方に義明を推す人々があれば、一方にはそれに反対する人々もいるはずだ。義明にたいしては、別段どうということはなくても、父の壱岐守義道を好かんという者もいよう。義明君も壱岐守殿もいやではないが、二人をとり巻いているやつらがいやじゃという者もいよう。その連中が相馬福胤をかつぎ出して、一応の反対をしたことは考えられる。
馬場文耕のいうようなはげしい論争はなかったが、この程度の反対意見は出たのではなかったか。
しかし、この反対意見はすぐ否決されたろう。何といっても相馬福胤は佐竹家と全然血のつながりがないのだ。有力な対立候補のない場合はそれでも済むだろうが、義明のような資格満点の対立候補者がいては、どうにもなりはせん。義明自身は先々代義峰の妹の生んだ子、その妻は義峰の娘、夫婦の間には秀丸という子まである。福胤派が歯の立つものではないのである。ごく短い間に国許の意見は一つになったに相違ないのである。
そこで、このことを江戸に急報して、幕閣への運動にかかる。
馬場文耕は壱岐守義道は謀略的な人であるから、かねてから幕府役人に賄賂などおくって懇親を結んでいるので、こんな時には至極都合がよく、老中堀田相模守正亮(下総佐倉十一万石)の宅に行って、ひそかに頼みこむと、堀田は仮養子願を封印のまま返して、
「左兵衛督末|期《ご》遺言の通り、秋田の家督は義明に下しおかる」
と、申し渡してくれたと叙述している。
壱岐守義道が野心家であり、それ故に幕府の役人と懇親を結んでいたろうことは、確かであろう。そのために堀田老中が特別の便宜をはかって、仮養子願を封印のまま返してくれたことも事実であろう。しかし、その願いの中に書かれている仮養子の名は義明であったに違いないとぼくは思う。義真は常に正しく、またよき大名であろうとつとめていた人だ。彼はあるいは壱岐守に好意を抱くことが出来なかったかも知れないが、それでも、本家と最も濃厚な血のつづいている義明をおいて、全然血のつながりのない相馬福胤の名を書こうとは考えられないからだ。
ともあれ、義明は佐竹七代目の当主となった。壱岐守義道のよろこびは言うまでもない。
秋田騒動と普通言われている事件を語る場合、古来必ず以上述べて来たことから入っている。しかし、すでにごらんの通り、フィクションの部分をのぞいては、別段おもしろい話ではない。つまるところは、壱岐守家と式部少輔家とが本家の相続を争ったらしいことがおぼろに考えられるだけのことだ。はっきりとつきとめようにも、たしかな資料はない。両家の争いに藩士らが加担して対立したというのも、証拠というほどのものはない。こんな場合にはそうなりがちなものだから、この家でもそうだったろうというぐらいの推量にすぎない。
はっきりした形をとって騒動がはじまるのは、これからである。
しかし、その騒動には普通のお家騒動につきものの家督相続をめぐっての争いはない。藩の経済政策をめぐっての党派争いと、下層藩士らの門閥層にたいする反抗運動とがからんで、巻きおこった怒濤である。だから、これまで叙述して来たお家相続をめぐっての争いとは、全然問題が別なのである。
昔の人はこれを一続きの事件として見たから、わけのわからない無理なこじつけをしなければならなかった。「秋田杉直物語」が矛盾と撞着に満ちたものになっているのはこのためである。
もっとも、昔の人が一続きの事件と見た気持がわからないではない。一つには前の事件にはお家騒動にはお定まりの継嗣争いが中心になっているからだ。二つにはこの両事件が時間的にうんと接近しておこっているからだ。昔の人は論理的な考え方がにが手なので、切って離して別件と見ることが出来なかったのであろう。
四
佐竹の家中に野尻忠三郎という者がいた。才人であり、軍学に長じ、一時は物頭に登庸されたが、家老にたいして不遜な行為があったというので、平大番《ひらおおばん》、兵具奉行に下げられて、以後常に不平満々でいた。
野尻の不平の原因は、佐竹家が古い家がらだけに、階級の制度があまりにも厳重に立ちすぎているところにあった(秋田治乱記)。
佐竹家の家中の階級と役職の制度はこうであった。
この家の一門に壱岐守家と式部少輔家との二支藩と東・西・南・北の四家のあったことは前にのべた。これらは藩侯の一門であるが、すでに支藩となっている二家をのぞいて、四家は外に対する場合は臣列の立場に立つ。この四家と家臣中のあるものとを家中の最高門閥とし引渡《ひきわたし》衆と名づける。全部で二十家あった。
この引渡衆の中で、とくに所預《ところあずかり》と呼ばれている家がある。前記の一門衆のほかに横手の戸村氏、院内の大山氏、檜山の多賀谷氏、十二所の茂木氏などがある。皆大邑を分領して、佐竹家内では大名のような格式でいる家だ。
次を廻座《まわりざ》衆という。すべてで六十家あった(一説では五十余家)。
以上の二階級をとくに大身といって、家老、御相手番、寺社奉行、大番頭、記録方頭取、儀式奉行などの職は、この二階級からしかつくことは出来ない。
この下を平士という。平士を上士と駄輩の二つにわける。上士は百五十石以上、駄輩は七十石以上。
この下を不肖という。三十石以上。
駄輩だの、不肖だの、ずいぶん失敬な名称である。不平も出るはずである。
三十石以下は徒士《かち》(以上秋田県史収録「秋田藩職官略篇」)。
ある日のこと、野尻は朋友数人と酒宴を催したが、その席上、人々に言った。
「わが佐竹のお家はお家柄の高きこと無比、従ってわれわれが江戸に出た時など、他藩の人々と応対しても、肩はばがひろうござる。それはうれしけれど、面白からぬこともござる。一門、四家、引渡衆、廻座衆等の階級のきびしいことでござる。この階級に生まれた人々は、何の力も働きもないくせに、家柄のよいを鼻にかけ、われら平士《ひらざむらい》を慮外とがめするを道楽としている。先年、拙者も小野岡市太夫殿ご家老の時、小野岡殿に直状《じきじよう》をつけたのが格をはずれているとて、折角昇進した番頭から平大番《ひらおおばん》におろされてしまったが、拙者だけのことではない。他にもずいぶんござる」
と、実例を上げ、
「お家にて平士と生まれては、運の尽きでござる。働いて働いて、勤めて勤めても、やっと奉行、御用人。せっかくそうなっても、すぐ無礼とがめされて、たたきおとされるのでござる。他藩にはこんなきびしい座《ざ》などはないそうでござる。勤功さえあれば、小姓から家老にでもなれるという。古いお家でご作法の堅すぎるのも、考えものでござるのう。なんとか工夫をしたいところ」
と、慨然たることばである。
朋輩らも階級の重圧、階級の鉄壁は強く感じている。
「仰せの通りでござる。何か工夫がござろうか」
と、うなずいた。
野尻はかねて考えている策を吐露した。
「一体、今の屋形はお人好しで、万事を家老、役人らにまかせ切ってしまってお出ででござる。しかし、それだけに不安や不満もあられるはず。この心を利用して、一門や引渡衆、廻座衆のことをことばを巧みにして悪しざまに言い立てるなら、屋形はきっと憤りが深くなられます。そうなれば、それが屋形のことばやそぶりの端々にあらわれます。一門――とりわけ東と北は、屋形の叔父にあたられる(壱岐守家の義道は元来東家の長男であったのを出でて壱岐守家を嗣いだのであり、北家のこの時の当主図書も東家から北家の養子になったのだ。二人とも義明には叔父にあたるわけだ)故、こんな仕打をされては、たまる道理がない。のぼせ上られるに違いない。思う壺でござる。一門の方々逆意と言い立て、一門衆をほろぼし、ついで引渡・廻座衆をほろぼすのでござる。門閥衆は腹を立てても、平士らはいずれも同じ気持のはず、皆味方になる。この計画が途中屋形に知れ、屋形がお怒りになったら、屋形には死んでいただき、若君(秀丸)をお取立てすることにいたそう。われらは国許を守り、江戸表のことは那河忠左衛門を味方に引き入れてまかせるものなら、うまくまいらん道理がござらん。そうなれば、ご当家はわれらが思うがままでござる。家老にでも、所預《ところあずかり》にでも、何にでもなれますぞ」
と、説き立てた(秋田治乱記)。
この野尻のことばは露骨でいやらしく、この頃の武士がまさかこんな言い方はすまいという気もするが、一面から考えれば、当時の武士だからこんな言い方しか出来なかったとも思われる。なぜなら、これが現代なら、階級打破と労働者の経営参加を要求するところだが、この時代の人にはそんな考え方は出来ない、相手をたおして取る方法しか考えられないのだから。
ともあれ、野尻のこの説に皆賛成し、加担した。彼らはよりより同志をもとめて、やがて相当な数となり、その一味には家老大越甚右衛門、梅津外記、山方助八郎、用人小野崎|造酒《みき》、大島左仲、鈴木平蔵、膳番|信太《しだ》弥右衛門、三枝《さえぐさ》仲、根岸市郎右衛門があり、江戸表は松平(久松)隠岐守夫人の付家老として久松家に行っている那河忠左衛門に担当させたと、秋田治乱記は書いている。
治乱記はいとも無造作な書きぶりをしているが、元来階級打破を目的として結成された徒党に、門閥出身の現職の家老が三人も加担しているというのは、ただごとではない。何か理由がなければならない。
宝暦四年の十二月十五日から、秋田藩ははじめて藩札を発行して、領内で行使しているが、色々な事情でこれがうまく行かないために、非職の門閥者らが現職の重臣らを非難排斥する運動がおこった。思うに、野尻らの運動がこのさわぎに巻きこまれたのを、治乱記の作者がああ書いてしまったのであろう。野尻は兵学者として家中に認められており、策士をもって自任している人物であったようだから、そのはじめは自分らの運動に利用しようとして、現職家老らに近づいて行ったのではなかったか。
(家老共ら、非難の的になっておろおろしている。おれが力になると言って行けば、よろこぶであろう。先ず今の藩政府と一つになって、非職の門閥共をたおし、あとでまた現重役の門閥共をたおすことにしようわい)
と、こんな風に心組んだのではなかったか。
一応、こう見当をつけておいて、事件を見て行くことにする。
佐竹家が藩札の発行を思い立ったのは、藩財政の窮乏に加えて、近年凶作その他の災難つづきで、領民は飢渇に苦しみ、藩士らも知行や扶持のお借上げが累年つづいて困苦し、二進《につち》も三進《さつち》も行かなくなったからである。
秋田の郷土史家山崎真一郎氏の著述に、「秋田藩五難年表」という小冊子がある。慶長から慶応に至る二百六十余年間に、秋田藩領にあった五難(軍旅、飢饉、水難、火難、病難)を一々記録して年表にしたものである。これによって、義明の襲封する以前の十カ年を見ると、寛保二年の八月は大雨、大風雨しきり。翌三年二月には久保田(今の秋田市)大火、八月には洪水、九月は能代《のしろ》大火、米蔵、材木等多数焼失。翌延享元年三月は横手大火。翌二年五月はまた能代大火。翌々四年は凶作。翌寛延元年は不作、八月には山火事と、こんな工合である。ほとんど連年の災難である。
義明の襲封後も、災難はつづく。宝暦三年には度々洪水し、その上冷害で、稲がみのらないうちに雪が降り出す始末で、大凶害(これは五難表になく、羽陰史略所載)。四年も大凶作、五年も凶作、六年も凶作と、こうある。
藩札行使のことが藩庁の問題になったのは、宝暦三年の末あたりからであろうが、先ずこれを言い出したのは、真壁《まかべ》掃部助《かもんのすけ》、小田野又八郎の両家老と財用奉行川又善左衛門、白土奥右衛門等であったと、秋田治乱記は書いている。
こころみに宝暦三年の暮に、この藩で家老であった人物を、「秋田藩職官略篇」中の「歴代家老名譜」からひろい出してみる。山方内匠、真壁掃部助、小野寺伊右衛門、須田内記、小田野又八郎の五人である。この中には、野尻忠三郎の企てに加担したという三人の家老の名前は入っていない。三人は後に家老となるのである。五人のうちはじめの四人は先々代義峰の時の任命であり、最後の小田野は先代義真の任命である。この中で真壁と小田野の二人が藩札のことについて言い出したというのは、二人が国家老であったからであろう。
この両家老と財用奉行らに、藩札のことを吹きこんだのは、「秋田治乱記」と「恭温公紀」に名前の見える、森本小兵衛、「秋田杉直物語」に見える伊勢屋三郎右衛門、能登屋喜兵衛、福田七兵衛、加賀屋惣兵衛、中村三右衛門などという佐竹家の御用商人らであったろう。この者共には江戸人、秋田人の両方あったが、江戸人は秋田にも店屋敷を持ち、秋田人は江戸にも店屋敷をもって、いずれも佐竹家から年二百俵ずつもらっていたと、杉直物語は書いている。
この連中が、佐竹家の弱みに乗じて大もうけをたくらみ、こんな工合に説いたろう。
「藩札|遣《つか》いをお考えになってはいかがでございましょうか。方々のお家でお遣いになって、大へん助かってお出でです。今時藩札遣いはいたさんなどとおっしゃっているのは、ご当家くらいのもの、冥利をお知りでないというものでございますよ。お徳用であることは、申し上げるまでもございますまい。紙でございますからね。いくらでも出来るのでございます。ご領内での通用は全部これになさって、他領からものを買うとか、旅人にたいしてだけは、正銀《しようぎん》、正銭《しようせん》を使うのでございます。何よりも、民から正銀、正銭を吸い上げ、かわりには札をわたせばよいのでございますから、お家は大へん豊かになられます。その金・銀・銭で、上方や他領から米やその他の品物を買い入れて、値を安くして領民にお売り渡しになれば、ご仁政にもなる道理でございます」
経済に余裕があれば、そんなうまい話があるものかと、冷静に考えもしたろうが、逼迫《ひつぱく》し切って、金がほしい、何とかして民の飢渇を救わなければならないと、灼けつくように思いつめていたところであったので、わっとばかりに飛びついたのであろう。
だんだんそれが熟して来て、翌宝暦四年六月二十七日、佐竹家は月番老中堀田相模守正亮に、次のような伺書《うかがいしよ》を出した(羽陰史略)。
[#この行2字下げ]私儀、ずっと引続き不勝手(経済困難)であります上に、近年打ちつづいて国許が損亡して、領内が大へん困窮におよんでいますが、これを救助する余力が、私にはありません。よって、領内助成のために、藩札を行使したいと存じます。そうすれば、家中も、町方も、在方も、寛《くつろ》ぎになり、諸商売における金銭の融通がよくなります。過ぐる宝永・享保の頃、隣国仙台や白川で、藩札を用いた例がある由を聞いています。願わくは、当|戌《いぬ》年(宝暦四年甲戌)から二十五年間、藩札を遣《つか》いたいと存じますが、よろしいでございましょうか。以上
幕府では勘定奉行一色周防守|政《まさ》|※[#「さんずい+亢」]《ひろ》が、佐竹家の江戸の財用奉行関某と留守居とを呼んで、事情を聴取したが、七月末日付で、伺いの通り、今年から満二十五カ年、領内における藩札の行使を許すと回答した。
佐竹家では、堀田老中、一色周防守はもとよりのこと、堀田家の用人、幕府の奥右筆から、お使いをつとめたお坊主にいたるまで、それぞれにお礼をおくっている(羽陰史略)。この時の佐竹家の家老は、前記五人に、小野岡市太夫が、正月二十二日に任命されて加わっている。
五
佐竹領内では、宝暦四年の十二月十五日から藩札を行使することにしたが、その交換率は恭温公紀によると、こうであった。
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一、銭札と銀札との割合は、銀札一匁は銭札七十文とする。正銀《しようぎん》・正銭の交換比率はこれまで通り時の相場によること。(江戸時代は金・銀・銭の三貨の相場は時によって高低があったので、特にこの規定をしたのである)
一、正銀を銀札に引きかえる時は、正銀百匁は銀札百一匁とす。
銀札を正銀に引きかえる時は、銀札百二匁は銀百匁とする。
一、札座《さつざ》引替所において、銀札を正銀に引きかえる場合、三十匁以下は銭で支払う。その相場は銀一匁を銭七十文とする。
一、旅人や他領との取引きは、藩札をつかわず、正金・銀・銭をもってする。
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また、札を受取ることをきらうものは厳重に処罰するという布告も出した。
領民は不安であったが、しかたはない。渋々と従ったところ、忽ち支障が出て来た。民間における取引きで、札の値段がどしどし下りはじめて、一種のインフレ状態となって来た。領民が札を受取ることをきらうようになったことは言うまでもない。
原因の一つはもちろん、藩政府の要人らの経済知識の貧しさだ。この人々は貨幣は政府の権威によって通用するものだとしか考えていない。通貨の総額に見合うだけの物資と政府の信用とがなければ、貨幣は額面通りには通用せず、見合うところまでその値段が下るものだという知識はなかった。従っていくらでも印刷して出した。下落するのは当然であった。
この時の藩札は十種類あった。大きさはいずれも長さ五寸、はば一寸二、三分あって、大黒、えびす等の七福神や、猩々、高砂、浦島等の絵を印刷してあったという。
最も大きい原因は、札座引替所を引受けた町人共の貪欲であった。「杉直物語」は、このことをこう記述している。
最初、札座引替所の総元締を委任されたのは、伊勢屋三郎右衛門であった。領民は正銀や正銭の必要な時は、伊勢屋の店や、その出張所に行って、札と引きかえてもらったのだが、その引替えがてきぱきと行かなかった。民は不安となり、ついに|とりつけ《ヽヽヽヽ》さわぎのようになり、札にたいする信用がグンと落ちたというのだ。
「杉直物語」はこれを、伊勢屋の雇人らの事務不馴れによる不手際に帰しているが、不手際だけではなく、雇人らの商人的な貪欲心が正銀と紙幣とを取りかえることをいやがって、故意に事務を渋滞させた点があったはずと、ぼくは思う。
領民らがこれを奉行所へ訴えたので、藩庁では、能登屋喜兵衛、福田七兵衛、加賀屋惣兵衛などのご用商人らに言いつけて、引替所を増設した。これで藩札の信用の下落は一応とまったが、不安はなおつづいた。
これで、せめて豊年ででもあれば、うまく行ったかも知れないのだが、前述した通り、宝暦三年は冷害、四年は大凶作、五年も何となく凶作がまえとなったので、うまく行こうはずがない。吸い上げる金ももう領内にはあまりなかったろうから、藩政府がそう利益を得たわけでもなかったろうのに、民が飢餓に苦しんでいるとすれば、人々のうらみは先ず藩政府に向かう。
「藩府《おかみ》が悪いのじゃ。札《さつ》じゃなどと、紙ぎれに勝手に値段をつけてわたし、銭や銀を吸い上げしゃった。盗賊同然ではないかえ。じゃから、世上このざまじゃ」
と、百姓がいえば、武士らも、
「一体、お家が藩札遣いをはじめられたのは、ご領内から集めた正金銀銭をもって、他領や上方から米や雑穀やその他の品物を買入れて、ご領内の者に安価に売りわたし、士民をくつろがせるという趣意があったはず。しかるを、領民を苦しめるだけで、少しもご仁政にならんのは、いかなる次第であるか。家老ら、かかり役人らの責任である」
と、いきどおった。
「多額の金銭がからんでいるだけに、何をしているかわかったものではないぞ」
と、目を光らせる者も、もちろん出て来たろう。
宝暦五年五月、義明ははじめて国入りした。五月二日に江戸を立って、十六日に秋田についた。義明は江戸で生まれて江戸で育ったので、はじめて秋田を見るわけであった。大名が大名になってはじめて領国にかえるのを初入部といって、行装を特に美々しくするのがならわしになっている。もっとも、特に美々しくと言っても、それぞれの家に格式があって、格式以上のことはしてならないことになっているから、格式一ぱいのことをするわけである。佐竹家の格式は、鉄砲五十挺、弓二十張、槍三十筋ということになっている。先々代義峰もこれだけの道具をそろえて初入部している。先代の義真はうんと省略している。義明は義峰と同じ道具で初入部している(羽陰史略)。凶年つづきで領内は飢民が満ちているのだ。あまり賢い殿様とは言えないようである。
前年の九月に家老山方内匠が病気で辞職し、入部前の正月末に小野岡市太夫が病死し、二月二十日に小野寺伊右衛門が免職になっている。罪ありて免職というのだが、どんな罪かわからない。三人も家老が欠けたからであろう、二月二十四日に小瀬宇兵衛を家老にしている。
秋田に帰国して一月後に、大越甚右衛門と梅津外記の二人を家老とした。野尻忠三郎と関係の出来て来る三人の家老のうち二人が登場して来たわけである。大越は江戸家老、梅津は国家老である。
これで、家老は真壁掃部助、須田内記、小田野又八郎、小瀬宇兵衛、大越甚右衛門、梅津外記の六人になったわけである。
義明は一年在国したが、その年はまた凶年であった。しかし、義明の在国が領民に安心感をあたえもしたのであろうし、藩札方の役人や引替所の町人らも事務処理になれて来たのであろうし、領民らも藩札になれとあきらめが出て来たのであろうし、大した問題もおこらず、領内は貧窮ながら、飢渇がちながら、先ず先ず平穏が保たれた。
一年立って、宝暦六年三月半ば、義明は石塚|市正《いちのかみ》を家老に任命した。出府の時が近づいたので、江戸へ連れて行く家老として任命したのである。
義明は三月末、新家老石塚をつれて秋田を出発、四月九日江戸に着いた。あまり賢くない義明だが、さすがに自分の去った後の領内のことが心配で、家老らや重立った役人らを召して、領民らの飢渇のことや、藩札のことについて、質問した。
すると、真壁掃部助は、
「上意のように、この数年は凶年つづきでございます故、この際なすべきことは、御領内に穀物がどれほどあるかを取調べ、ご領民の数と比較して、不足の分を他領から買入れ、士民の飢えぬようにはからうべきでありますが、それにつけても、よくぞ藩札遣いをはじめたと思う次第でございます。米穀の買入れには、何と申しても金銀が必要なのでございますが、一昨年まではその金銀がございませんでした。しかし、藩札遣いをはじめましたために、唯今は必要な金銀があるのでございます。ありがたいことでございます。藩札のことにつきましては、札方|頭役《かしらやく》川又善左衛門が別して心をくだいて担任いたしていますれば、ご安心遊ばされたく存じます。このような次第でございますれば、明年のご帰国には、ご領内中一人の飢渇するものもなく、めでたくお迎えをいたすことが出来るでございましょう」
と言った。
家老にこう言われて、なお疑って念をおす大名は、よほどに賢いか、病的に疑い深いか、どちらかである。大名は大様《おおよう》に大様にと育てることになっているから、家老の言うことを疑ったりなどはしない。すっかり信じ切って、よろこんで、参府の旅に立った。
六
その後、秋田では城下の町人の家に足軽を連れた検使が行きむかい、家内や蔵を検査して、金貨・銀貨・銭をさがし出し、数をあらためて箱に入れ、封印した。あとで強制的に藩札と交換するためである。恐らく一日のうちに全市中をやってしまったのであろう。
また、城下、領内六郡の百姓の家はもちろんのこと、寺院や在郷住いの給人の家も、検使をつかわして、所蔵の米を検査し、一人あたり一日に三合ときめて端境期《はざかいき》までの量を計算してわたし、のこりは全部値段を安くして買取った。もちろん、支払は藩札だ。とり上げた米は領民に値を安くして配給する。一応の扶助にはなるが、これで米価が暴騰をはじめて、七月頃には白米一升九十文になった。これは闇米だから、藩札では売らない。正銭だ。九十文が現在の金のどれくらいに相当するかわからないが、「読史備要」の金銀銭米相場一覧によると、宝暦六年の米の値段――多分大坂の堂島の値段だと思うが、筑前米が百石で銭六十八貫六百文である。計算してみると、十文で一升五合弱の値段だ。広島米はもっと安い。一升九十文とは最も法外な高値である。普通の者には手は出ない。第一どこの家も正銭を持たんのだ。餓死者が続出した。
この春、真壁家老は家中全体の武士に、高百石に銀札百匁の割で藩札をくれると布告していたが、七月までなんの沙汰もなかったので、こんな落首をした者があった。
春すぎて夏にもなれど銀札を
くるるくるるで秋風ぞ吹く
かくて、秋になったが、前述した通り、その年も凶作だ。
藩政府は必死になって救|恤《じゆつ》につとめた。藩士には知行高に応じてそれぞれ米を貸してやった。細かな区分があるが、五例だけあげる。五千石以上の者には四十五石、千石以上には十石五斗、三百石以上には四石五斗、五十石以上には一石二斗、三十石以下には六斗だ(恭温公紀)。下にほど厚く、上にほど薄い。これはこうあるべきである。武士は石高に応じて家来を持っていなければならないたて前になっているから、食糧のようなものは上も下も同じ割合でいる道理であるが、収入の多いものは平生からたくわえがあるべき道理であるからだ。
一般庶民には施行《せぎよう》所を設けた。食を乞うものが一日に千二百余人もあったという。
しかし、これらのことのためにおびただしい費用がかかったので、藩札方の基金や準備金にもひびが入って、人々の藩札にたいする信用は崩壊した。
藩政府は何とかして切りぬけようとつとめた。凶作とは言っても、全然みのらないわけではないので、出来た米穀類の売買を禁じた。穀物類だけでなく、木材等の産物もだ。領内のとり引き、他領との交易も禁じた。すべて政府が買い上げ、政府が専売することを触れ出した。一方、民間のとり引きは全部藩札を使って、正貨を使うことを厳禁した。以上の禁を犯せば、厳罰されることは言うまでもない(恭温公紀)。
ここに能代奉行で平元茂助という人物がいた。藩政府のこの一律的方針に大反対で、きびしく抗議した(恭温公紀)。それはそうだろう。今日でもそうだが、能代は秋田では第一の経済都市だ。米の集散地であり、木材(いわゆる秋田杉だ)の集散地だ。生硬な新経済政策などを適用されては、町の繁栄はほろびる。ひいては秋田藩の経済にもひびく。
それでどうなったかは、恭温公紀は書いていないが、「秋田杉直物語」には能代を院内とあやまってはいるが、自分の支配所にだけは札つかいを受けつけずに、正金でも札でもかまわないことにした。役人らはこれを憎んだが、茂助は一命をかけて受けつけない。また謹直な人物なので、どうにも手がつけられなかったとある。政府の方針に従わない役人を処罰出来ないはずはないから、多分、能代の特殊事情を力説して、特別あつかいにさせたのであろう。
後のことと考え合わせると、茂助はこの時ひそかに四家のうちの北図書と東山城とに会って、藩の現在の経済策について批判をし、これを義明の実父の壱岐守義道を通じて太守様に申し上げていただきたいと頼んで、そうしたらしいのである。あるいは、上書くらい草《そう》して持って行ったかも知れない。
藩政府はいろいろとやり出しはしたが、何としても金がいる。そこで、金策のために銀札方頭役の川又善左衛門を大坂につかわすことになったが、これを江戸に報告して義明の許可を仰ぐと、義明は、
「平元茂助を副役《そえやく》として同道させるよう」
と、命令した。
川又は茂助とともに大坂に行ったが、茂助は川又の汚職を嗅ぎつけ、これを義明に報告した。
これとはまた別に、藩内には真壁政権をよろこばない者がある。この連中がさわぎ立てたので、ついに二人の国家老真壁掃部助と、小田野又八郎とは免職になった。真壁は知行二百石を削られ、永蟄居、小田野は遠慮を命ぜられた(恭温公紀)。
二人のかわりに、岡本又太郎と山方助八郎とが、新しく家老に任命された。この任免はいずれも宝暦六年十一月十七日の日付になっている。
新家老のひとり山方助八郎は、「秋田治乱記」が野尻忠三郎の一味の家老の一人と言っている人物である。これで一味の三家老、大越甚右衛門、梅津外記、山方助八郎がそろったわけだ。
この政変の記述は、「秋田治乱記」はよほどに具体的である。国許で米の専売制を布こうとしていることが、大目付から江戸屋敷に報告があったので、詮議がはじまり、
「米座をとり立てることはよろしからず、値段を高く買い上げて諸民の愁《うれ》えなきようにすべし」
と決定し、義明にも上申して裁可を得、刀番の赤石藤左衛門という者にこの命令を持たせて国許にかえした。(赤石は銀札――藩札のこと――奉行だったと、恭温公紀にあるから、ほかの者をつかわしたのであろう)
ところが、真壁はこの差図にとりあわない。
「なんとしてでも財用を弁じて、太守様のお勤めにさしつかえあられぬようにいたせば、それでよきはず。太守様のおいじりなさることではない。江戸お屋敷の人々が太守様をおだて申して、妙な入れ知恵をいたすようなら、われら考えがある」
とすごんで、「傍若無人の仕方」であったが、国許の家中の者共は、大身の者はわが身代がかわいいために、小身の者は権威におそれて、何にも言わず、真壁のするままにまかせていた。しかし、これが江戸に聞えたので、前述のきびしい処断が下されたのだとある。またこの際、赤石藤左衛門は表裏あるふるまいがあったのが不都合であるとて、改易を仰せつかった。家名断絶、士籍を削られるのだ。大へんな厳罰だ。これも藩札奉行として非違のあることがばれて、このきびしい処置になったのを誤ったのであろう。
ぼくは大目付から江戸屋敷に報告があったという点と、秋田在国の家中が無気力で、不平はありながら盲従していたという点から、次のように推理したい。
恐らく野尻忠三郎らの階級打破を目的とする運動の一味の結成は、こうした藩の財政々策の失敗によるごたごたに触発されておこったのであろうが、その後野尻は真壁の政治ぶりを観望しているうちに、今年あたりは真壁も成功するかも知れないと思った。凶作はもう四年もつづいている。凶作つづきのあとはよく大豊作であるものだが、来年は大豊作かも知れない。さすれば、新政策の成功する可能性は益々大きくなる。
(しかし、真壁を成功させてみたところで、われわれの抱いている目的にはなんの足しにもならない。それよりも、今の真壁政権は倒そうとすればすぐ倒せる。前の大失敗にも懲りず、また人情にうとい新奇なことをしようとは怪しからん、民の忍耐にも限度がある、一揆でもおこったら、お家にたいする公儀のお覚えはどうなりましょうと説き立てれば、江戸屋敷の重役らや太守の心はすぐ動くのだから。こうして真壁政権をたおして、新政権をもり立て、思うがままに操縦し、やがて機を見てこれをたおし、大目的達成と行こう)
と思案して、山方助八郎を訪問した。山方は廻座《まわりざ》衆で、先祖に二人も家老が出ている。彼の父内匠は先々代の義峰の時に家老をつとめ、なかなかの家がらであった。また彼は野尻の軍学の弟子だったという(秋田治乱記・歴代家老名譜)。
野尻は助八郎にむかって、真壁の政道の失敗を論じ、これをたおして、政道を改革しなければ、お家の運命はあぶない、かかる時、貴殿のようなお家がらの人が傍観しておられることはない、なぜたおす工夫をなさらないのだと説き立てたのではなかったか。あるいは、
「貴殿はご家老となりたいとは思われぬか。男子たるものは、その家がらに生まれたら、立って家老となり、経綸を実行すべきである。ろくろくとして首をたれて人の頤使《いし》に甘んずるのは、男子の所業ではない。もしその志があるなら、今こそその時機でござる。貴殿にご意志があるなら、拙者が引受けてそうして進ぜましょう」
くらいのことを言ったかも知れない。
山方も大いに乗気になったので、こんどは大目付に吹っこむ。大目付は役人らにたいする監察役だから、真壁以下の役人に非違があれば殿様に報告しなければならない職責がある。あるいは、大目付は、
「現政府の政治がうまく行かんのは、累年の凶作のためである。現政府の責任ではない。彼らは懸命につとめている。その努力は買ってやらねばならん。非違として報告するのは刻薄である」
と言ったかも知れないのを、野尻は弁舌にまかせて説きつけたのではなかったか。理屈は|とりもち《ヽヽヽヽ》と同じで、つけようと思えばどこへでもつけられる。才人で、多識で、雄弁家である野尻に説き立てられて、大目付はこの際これを報告しなければ、職務怠慢となるという気になり、江戸表へ報告をおくった。この報告が期せずして、平元茂助の上書と一致した。
一方、野尻は江戸の同志である那河忠左衛門に、こちらでかようかようにするから、そちらの方をしかるべく処理ありたいと通知した。那河は愛宕下の久松藩邸からよりより下谷の秋田邸に出かけ、家老の大越甚右衛門(すでに同志になっているかどうかは明らかでない。あるいはこの時から接近したのかも知れない)に会って、説得につとめたろう。真壁をたおせば、貴殿が主席家老になれるのですぞくらいのことは言ったかも知れない。また、義明夫人にも目見えして、真壁の政道のあやまりのために、領民が塗炭の苦しみにあるのに、また候《ぞろ》、新政策を実施しはじめた、こんなことをしていれば、今に公儀から察当《さつとう》が来はしないかと恐れざるを得ないなどと言って、夫人の不安をあおり立てたろう。那河が婦人連にとくべつ人気のある人物であることは、すでに述べた。
かくて、江戸屋敷から義明の命として、米の専売はまかりならず、米の買入れは百姓らのよろこぶよう値をよくして買取れという差図が下ることになったのだが、真壁は鼻息あらく拒否した。ここでも、ひょっとすると、野尻が手をまわして、真壁を自滅させるために煽動したのかも知れない。
以上は推理というより、小説家的の想像説にすぎないと言われそうであるが、野尻がその一味とまるでうらはらな門閥出身の家老らに結びついたことが事実である以上、こうとでも考えるよりほかはないのである。野尻は山方と軍学上の師弟関係があるのだから、これを手《た》ぐって工作しないはずはなかろう。
余談だが、真壁はこの時から二十五年後の天明元年、義明の子義敦の代に、「執政加談」――つまり家老座顧問であろうが、この名目で再起用されている。手腕はあった人物なのであろう。
かくて、前述した通り、真壁と小田野とが家老免職になり、かわりに山方助八郎と岡本又太郎とが新任された。全員で六人、小瀬宇兵衛、大越甚右衛門、梅津外記、石塚|市正《いちのかみ》、岡本又太郎、山方助八郎だ。このうち小瀬と大越が江戸詰めで、あとの四人は国詰めである。
なお、梅津外記は山方助八郎の妹聟、石塚市正は岡本又太郎と兄弟であったという(秋田治乱記)。
ちょっと余談する。真壁は秋田藩としては最も新奇な経済政策である藩札制度を実施した。やがてこれは領内で必要な諸式は、藩が上方や他領から仕入れて来て、安価に領内の者に売りわたすというところまで行くはずであったが、第一歩の藩札制度でつまずいてしまった。
しかし、くじけず、こんどは米の専売にふみ切った。これは米の専売だけにとどまらず、この方面から諸式専売の制度を実現して行くつもりだったのだ。
真壁の経済政策は、今なら統制経済といわるべきものである。遠く昔をたずねれば、中国で宋の王安石がもっと大規模に、もっと多方面にわたって試みている。あまりにも新奇すぎて人情に遠いとて、民衆にきらわれて、失敗している。しかし、この時から七十余年後に実行した薩摩藩はみごとに成功している。それは島津騒動で書いた。
薩摩藩にこの策を授けたのは佐藤信淵だったが、真壁掃部助に授けたのは誰であったろう。成敗は天である。同じ策でも、失敗することもあれば、成功することもある。ともあれ、日本では最も斬新なこの経済政策の発案者がわからないのは残念である。
佐藤信淵は秋田領の湯沢近くの西馬音内《にしまおない》村の人だという。この頃はまだ生まれていないが、佐藤家は代々ここに住んで医業を営み、代々特別な農政学と経済学とを家学としていたというから、あるいは信淵の祖父か父あたりの言ったことが、まわりまわって秋田領内の大町人共の耳に入ったのかも知れない。真壁がそのはじめ町人共に説得されたことはすでに書いた。
七
この政変は、真壁、小田野の両家老と赤石藤左衛門だけの処分にとどまらなかった。藩札がかりの諸役人は一人のこらず免職になったばかりか、川又善左衛門と白土奥右衛門とは、後に不正があったことがばれて切腹を命ぜられている。
政変は、藩札の信用をさらにおとした。銀一匁の藩札が銭十四、五文に下落したという。元来七十文のものがこうなったのだから、大へんである。
藩庁では、領内にかんでふくめるような告示をした。
「藩札は慣れれば正貨と少しも相違のないものだ。お上の方でも不馴れのため迷惑をかけたが、それは改めた。今後もまたいろいろと改善して行くつもりでいる。早くなれるように」
というのを書き出しにして、他領との交易のやり方も、関所をこえる荷物検査も、全部昔にかえす、物価騰貴はこまったものだが、売る方も買う方も、お互いによいようにと心がければ、やがて定まるところに定まるはずである、などというようなことを、懇切に説いたものである。
しかし、効果はほとんどなかったようである。
「秋田治乱記」には、この頃江戸では那河忠左衛門や、お側の者共が野尻の旨を受けて、義明に遊楽をすすめ、金の入用を秋田に言いおくったばかりか、御宝蔵の金の茶釜を取り出して売却して、一味でわけどりにしたなどとある。金の茶釜云々はどうかと思うが、後におこることと思い合わせると、義明が不行跡になったという宣伝を、それとなくしたことは事実のようである。
年が明けて、宝暦七年になった。その頃、秋田では北家の図書、東家の山城、いずれも太守の叔父にあたる人々だが、この二人が梅津・石塚・岡本・山方の四人の国家老と、能代奉行の平元茂助とを呼んで、藩政の立直しについて、いろいろと談合したが、その結果を書面にして、太守の実父壱岐守義道におくることになり、飛脚のさし立て方を、山方助八郎が引受けた。
野尻はその頃山方の参謀役になっていたと思われるのだが、そのすすめによるのであろう、山方は持って帰って来た書面を開封して、かわりに、
「太守のお身持よろしからずとの噂が、国許へも伝わって来ています。唯今のお国の状態をなんと思し召せば、さようでおわすのかと、人々の憤り一方でありません。されば、当夏は参覲満期にて御下国あるはずなれば、御下国あらば、四家、家老共、相談の上、御殿|囲《がこ》い(座敷牢)にし奉るよりほかはあるまじ、ご家中も太守様を少しも信じ上げていぬことなれば、いたし方はないであろうと、よりより相談中であります」
といったようなことを書き立てた書状を入れた。
飛脚はこの状を持って、江戸に向かった。
この相談には、梅津外記もあずかった。梅津は別に手紙を書いて、大越甚右衛門に送った。
「国許では、この夏下国される太守様にたいして、容易ならぬ趣向を催している。しかじかで、御殿囲いに入れ奉ろうというのだ。臣として黙視するに忍びないことであるから、お知らせする。ひそかに太守様に言上あって、御用心をうながし奉るよう」
義明が大越にこの手紙を見せられた時、十分に信ずるようにと考慮して書かれたものであった。
彼らの狙いは、義明を猜疑と恐怖と憎悪に追いこむことによって、四家や国家老らを処分させることにあったのだ。
こんな陰謀が進行しているとは、一味の者以外は、四家の人々も、石塚市正も、岡本又太郎も知らない。まして他の役人らが知ろうはずはない。四家の人々、石塚・岡本、その他の重立った役人らはしげしげと集まって、太守の下国があったら、藩札のこと、家中の武士らへの返し銀のこと(何年となく知行や扶持を借上げているのだ)、領民の救済等のことについて、裁断を仰ぐべきことを色々と工夫相談していた。
野尻はさらに一策をおこなう。典医の細川|元春《げんしゆん》という者を語らって、外診に行った際には、
「屋形様ご下国の期《とき》が追々に近づいてまいるが、御下国になれば、おしこめ申そうとの内談が、北様と東様とご家老方の間に進んでいますそうな。たしかな筋からうかがった話でござる。さてさて、大へんなこと」
と、ささやかせた。流言によって、世間を不安におとしいれようというのである。いかにも田舎兵学者らしい策だ。この事件を通じて観取されるのは、すべての画策に、いかにも太平の時代の田舎兵学者の立てそうな策の臭みがぷんぷんしていることだ。これから先きも、それはある。
しばらく立って、ある日、その日家老座には、梅津も山方も病気欠勤で、石塚と岡本だけが出勤していたところ、江戸表から御用箱(公用書を送る箱)が到着した。ひらいてみると、江戸家老の大越から梅津あての書状があった。佐竹家の規制として、御用箱に入れて家老から家老へ出す書面は、必ず家老全体の名あてにすべきで、単記の名宛はしていけないことになっている。徒党をつくることのないためであろう。
この大越の書状は、その規定に違反している。石塚と岡本とは、どちらから言い出したことかわからないが、
「拙者共連名にて来べきこのご用状が、梅津殿ご一名あてになっていること、妙でござるな」
「いかさま。披見してみるがようござろう」
と、問答があって、開封してみると、お国許で決定申された内談のこと、ご内報たまわり、お礼申し上げる、早速屋形様へ申し上げることにいたすという文面である。この前謀略の一端として梅津が大越へ出した手紙の返書なのである。二人はもとよりそんなこととは知らない。しかし、文面の模様から察して、家老座で相談決定したことを、ぬけ駆けに大越に知らせ、大越から義明へ言上させようとしているらしいことがわかった。大名と家老との関係には微妙なものがある。家老座で決定したことはやがては全部殿様の耳に入れ、大事なことは裁可を仰いでから施行するわけであるから、いつ耳に入れてもさしつかえのないようなものの、やはり時機がある。時機が適当でないと不必要に強い衝撃をあたえることがあったり、裁可をもらうのにこじれたりする。だから、その時機が来るまでは殿様にも秘密にしておくことが必要であり、従ってその上申は家老座全部の合意の上でなさるべきで、中の一人や二人がぬけ駆け的に上申してはならんことにしてあるのだ。これは諸藩といわず、幕府といわず、そうであった。
梅津が何を大越に言ってやったか、それはわからなかったが、二人は腹を立てた。
「けしからんことかな。梅津殿は掟を破って、ぬけがけに内申なされたのでござるぞ」
「いかにも、さように見受けられ申す」
「捨ておくべきではござるまい」
二人は先ず山方助八郎にも相談すべきであると思って、うちそろって山方の宅を訪れた。
病気欠勤といっても、大したことはなかったのであろう、山方は二人に対面した。
二人はことの次第を語った。
山方は、しまった、とは思ったが、二人に輪をかけて憤激の表情をつくった。
「外記殿のなされ方、以てのほかでござる。外記殿へ抗議すること、もっとも同意とするところでござる。先ず東様と北様へ申し上げべきでござろう。病中ながらご一緒にまいりましょう」
と言って、身支度し、三人同道して、東山城と北図書とを訪ねて、しかじかの理由で、梅津を同役の連名から除くことにいたしたいと言った。両家は内評してこれを許し、梅津の宅へ使者をつかわして、理由をのべ、以後出勤さしひかえらるべし、いずれは屋形御下国の上、屋形にも申し上げて詮議いたすべしと言いわたしたので、梅津は病気と称して出勤をやめ、家に閉じこもった。
山方が石塚と岡本とに同調したのは、一時の計略のためであるから、書簡をしたためてひそかに梅津にとどける。
「彼らの運命はもはや何ほどもなし。当夏屋形御下国までなり。拙者が江戸表同志と連絡を取りつつ、万事運び申すにつき、貴殿はそれまではゆるゆると休息してあられよ」
という文面だ。
江戸では、野尻忠三郎の謀略の筋書により、大越甚右衛門、那河忠左衛門、その他一味のお側の面々が、国許の山方助八郎との打合せに従って、義明にいろいろなことを言上しては、その証拠として、北・東両家と国家老四人が相談して決定したことを壱岐守あてに書きおくった書状や、梅津外記から大越へあてた書状や、また義明の運命を心痛して山方から大越へくれた書状など、いろいろさまざま見せた。
義明はまさかと思いはしたが、なんとなく不安になって来た。その家に生まれてその家を嗣いだ大名でも、門閥家老は煙たいものである。他家から入って嗣いだ大名ならなおさらのことだ。家老はこわいものである。その家老らと同じ腹になっているという北・東の当主は現在の叔父で、これまたこわい人々だ。その上、説き手は江戸家老の一人大越甚右衛門であり、久松家の奥家老那河忠左衛門だ。那河は家中にいる頃は家中随一の知恵者といわれていたほどの人物だ。証拠として示される書面は山方助八郎の書面であり、梅津外記の書面だ。いずれも国家老である。
その上、国許の連中が自分を押しこめて座敷囲いにしようというのは、自分を隠居させて、秀丸を当主としようということなのである。
(秀丸は先々代円明〈義峰〉公の孫だ。最も濃厚に本家の血を伝えている。わしを廃して秀丸を立てようというも、家中の者としては無理からぬことかも知れない)
と思うと、あまり賢い方でも、気の強い方でもない義明の胸には、ついに疑惑が根づいた。
壱岐守は息子の義明にくらべれば、数段かしこい人であるが、これも疑惑しはじめた。
「北と東は一門の上座であるばかりでなく、屋形の叔父にあたる。屋形にあやまちあらば、いく度たりとも諫言して改めさすべきに、不忠なる家老共と同心して、わしに屋形のことを悪しざまに言いよこすだけで、国許で陰謀のはからいするとは、悪逆千万。お下国の際は決してご油断なきよう」
と、義明に忠告するほどとなった。
以上は「秋田治乱記」の記述である。失敗の危険の多い謀略で、どうかと思うが、元来謀略というものは見ているに忍びないくらいに危ないものだ。まして、これは田舎兵学者の立てた謀略だ。ともあれ、相当大きな事件があり、多数の藩士が厳科に処せられていることは事実である。
八
夏になって、義明の帰国の期が来た。
四月二十五日、義明は江戸を出発して帰国の途についたが、あたかも雨期のことで途中で洪水に遭って意外に日数を費し、五月十九日にやっと秋田に帰着することが出来たが、それ以前、秋田に一日|程《てい》の戸島《としま》まで来た時、たまたま東家の山城義智に異図《いと》があると告げる者があって、上下騒動した。急に横手から戸村十大夫を召し、途中を警戒して秋田に着き、城に入り、二十六日十大夫と小野岡源四郎とを家老に任じ、用人や膳番らを全部遠慮仰せつけ、山方助八郎らを刑し、七月七日、藩札全廃、今年から十年の間に引きかえると触れ出したというのが、恭温公紀の記述である。秋田治乱記の記述も大要は違わないが、うんと詳細である。
義明の帰国には大越が供をした。その行列は洪水のため須賀川と本宮の両宿で八日も滞留しなければならなかった。その須賀川逗留の間に、一味の大島左仲が江戸から来て追いついて、義明のご前に出て、ひそかに、
「拙者江戸を立ちます前、壱岐守様よりお召しがありましたので、まかりましたところ、お国表の形勢まことに不安である。お着城以前に姦人ばらに処分を仰せつけ遊ばされるように申し上げよとのことでございました」
と言った。これは大島が那河忠左衛門と打合せた上でついた真赤なうそであることになっているが、果してそうであったかどうか、壱岐守も大いに疑惑しているのだから、ほんとに壱岐守がそう言ったのかも知れないとぼくは思っている。
大越甚右衛門らも、秋田から到着した飛脚(山方助八郎からの書面)を見せては、東山城、北図書、石塚市正、岡本又太郎らの険悪な陰謀が益々尖鋭化しつつあることを述べて、
「何よりもご到着以前に、お使者をつかわされて、退治あるが肝心。ご対面あっては、悪徒共に致されます」
と、説き立てる。使者をつかわして退治せよというのは、重きは切腹、中は閉門、あるいは改易などを命ぜよという意味だ。江戸初期の武士なら不当な命令には反抗し、ちょいとした戦争くらいのさわぎを持ちあげるのだが、この頃の武士はおとなしい。君命である以上、不当でも、無理でも、腹を切るのだ。
色々大越らが口説き立てたが、義明はなかなかそうしなかった。義明の賢明さがさせなかったというより、決断のなさのせいであったろう。
かくて、義明は五月十六日に横手の戸村十大夫の宅へ入った。一国一城の制度で城ではないことになっているが、実際は横手城だ。戸村は引渡衆の中でも特に所預《ところあずかり》と言われている大身中の大身だ。義明が不安を戸村に語ると、戸村は、
「拙者もお供つかまつりましょう」
と言って、ついて行くことにした。
横手に二泊して、十八日に戸島へついた。
ここで義明は戸村と相談して、信太《しだ》弥右衛門を早打ちをもって秋田にさし立て、山方助八郎に上意を伝えさせた。
「北、東、石塚、岡本を禁足させ、足軽数百人をもってご城中のご門をきびしく堅めよ」
との上意であった。
山方は計画成就とよろこんで、四人の屋敷へ上使を立て、ご不審の条あり、堅く遠慮あるべしと言いわたさせ、同時に諸役人を自宅へ呼んで、
「しかじかの次第にて、四人の衆は差控《さしひか》えを仰せつけられたれば、さしずを受けること禁止」
と言いわたし、また、その日当番の大番頭には、とくに、
「右四人夜中に登城しようとされるかも知れぬが、決してご門を通してはならん」
と申し渡した。
城中城下、最も厳重な警戒が行われたので、武士といわず、町人といわず、驚きは一方でなかった。
十九日、義明の行列は城下へ入って来たが、その行列は東家の門前でしばらく休息し、さらに北家の門前でも休息した。これは野尻忠三郎の謀略で、こうすれば不平にたえられなくなっている山城と図書とが嘆願のためか、抗議のために門外に飛び出して来るであろうから、逆意と言い立てて罪におとす計画だったというのである。しかし、両家ともに出て来なかった。
義明は城に入ると、四人の許へそれぞれ尋問の使者をつかわした。尋問の要項は、家老たる梅津外記をなかまはずしにした理由は如何、平元茂助を特別に信任しているのはいかなる理由によるか、との二カ条であった。
大越甚右衛門とその一味の者共は、自宅へも帰らず義明の側に詰め切りにしていた。真相を義明に告げるものがあって、何事もないことがわかるのを恐れたのである。だから、尋問の使者らが帰って来て、義明に報告したいからご都合をうかがってくれと要求すると、大越は、
「それは拙者共へまで申していただこう。拙者共から屋形へは申し上げます」
と言って、直接報告することを拒んだ。
たがいに言いつのっているのを、義明が聞いて、側小姓をつかわし、
「苦しからず、これへまいれ」
と言って、みずから聴取した。
これで義明の疑惑がかえって大越らに向けられかけた時、二十一日の家中の武士らのあいさつの儀式の時、以前財用奉行であった太田|内蔵允《くらのじよう》という者が、いきなり、義明に向かって、謹慎を命ぜられている四人の弁護をはじめた。
「恐れながら、当人共はお屋形のため、お国のためを、心から案じ申している者共でございます。一刻も早く、当人共を召出し、お尋ねなし下されますよう……」
大越はおどろき、うろたえて、おのが席からのび上りのび上り、
「大小姓筆頭、大小姓筆頭、内蔵允狂気と見ゆるぞ! 退《さ》げませい! 退げませい!」
とさけんで、ついに退げさせてしまった。
これで益々義明は大越一味を疑う心が出た。
そのうち、お側小姓の連中が、義明の髪を結いながら、江戸表の朋輩から、大越一派の人々は真の忠臣ではなく、逆意を抱いていると知らせて来たと、ささやいた。
義明は大越に心を合わせている側役の者七八人を、二人ずつひそかに呼んで、尋問したところ、他愛もなく全部白状してしまった。「主命にや恐れけん、かねてたくみ置き、とや言はん、かくや陳ぜんと思ひしも」その場となっては言えなかったと、ある。この頃の人間は悪人と言われる連中でも純情である。
義明は戸村十大夫と小野岡源四郎を急ぎ家老に任じ一網打尽に一味を捕えさせ、六月六日にはそれぞれ処分を命じさせた。
ずいぶん多勢だが、おも立った者だけあげる。家老山方助八郎、用人小野崎源太左衛門、同大久保東市、膳番三枝仲、同信太弥右衛門、同大島左仲、以上は切腹、兵具奉行野尻忠三郎斬罪、家老梅津外記は役儀召放ち、蟄居、知行三分一召上、家老大越甚右衛門、役儀召放し、生涯親類預け。この他、半知召上や追放や、改易や、預けになった者が多数である。なかなかの大事件だったのだ。そうだ、お側医者の細川元春も追放になっている。
秋田治乱記によると、この一味はまさかの際には、義明を毒殺する計画で、用人の小野崎源太左衛門が江戸からずっとその毒薬をふところにしつづけて来たとか、火をはなって火事をおこし、そのまぎれに義明を殺し、その罪を北・東両家に着せることを計画し、両家の紋のついた提灯を多数用意していたとかいうのだが、さてどんなものか。しかし、毒殺を計画していたというのは、案外相当な真実性があるかも知れない。膳番が三人も加担していて、しかもそれが皆切腹を命ぜられているのだから。
九
那河忠左衛門ははるかにおくれて八月中旬頃に処刑されている。
こういうわけだ。
この一味の計画は、今日われわれの見るところでは、弱い接着剤を使ってこしらえた家具のように頼りなく感ぜられるのだが、一味にはよほど自信があったようだ。那河忠左衛門は大方もう秋田では北・東両家も、石塚・岡本の二家老も処分されたはずと、久松家からちょっとひまをもらって、六月になって、秋田藩の財用方の役人で、一味でもある川井七左衛門と同道して江戸を立ち、十二日に湯沢についたが、その翌日、ふと物騒なうわさを聞きこんだ。野尻ともども皆殺しというのだ。慧《さと》い男だけに、はっと胸にこたえた。そこで、川井に、
「わしは院内の大山因幡(佐竹一族)殿におうかがいせねばならぬご用がある故、ちょっと行ってまいる」
と、言って、早駕を雇ってどしどし引き返して、院内に来た。秋田領と新庄領の境はここから坂を二里上った杉峠であるが、関所はこの院内にある。七八年ほど前にぼくは行ったことがあるが、院内の町はずれに、雄物川《おものがわ》の上流を左に、右に丘をひかえたところに、関所|址《あと》の碑が立っていた。那河は関所役人に、
「拙者は昨日ここを通った那河忠左衛門でござる。湯沢までまいったところ、秋田のお城からお使いあって急御用をうけたまわって、江戸に引返さねばならぬことになりました。右のようなわけなれば関手形はあとで久保田から差しこされるはずでござる」
と言った。
那河がなかなかの羽ぶりの人物であることを役人は知っているが、関手形のないのは少し不安で、ぐずついていると、那河は、
「拙者が不時のご用をつとめることは、今にはじめぬことでござる」
と、悠然と言いはなった。
これで、役人はまいって、通した。
那河が湯沢を立ってから半日くらいして、物頭の某という者が足軽を連れて早打ちで来たが、もう院内の関所を出ているというので、くっきょうの足軽五人に命じて早馬で追いかけさせたが、行けども行けども追いつかない。那河は菊の紋のついた提灯を駕籠につけさせ、中川宮内と名のり、賃銭をおしまず、飛ぶがごとくに駆け去ったというのであった。
ついに那河は江戸へ入り、愛宕下の久松邸へ逃げこんだ。秋田からの追手は下谷三味線堀の佐竹屋敷へ入り、江戸家老の小瀬宇兵衛に訴えた。宇兵衛は久松家へ那河の引渡しを要求したが、隠岐守夫人は那河のために弁護し、ついには那河をくれとまで言った。那河は久松夫人の付家老として久松家の奥につとめてはいるが、本来の藩籍は佐竹家にあるのだ、夫人はそれをもらって純然たる久松家の家来にしたいと要求するわけであった。
ここから、秋田杉直物語と、秋田治乱記の叙述が少し違う。秋田治乱記は、あたかも他の用事で江戸へ出て来た佐竹の重臣今宮又三郎が夫人を説得し、夫人もついに折れて那河を佐竹家の役人に引渡したというのだが、杉直物語では、どうしても久松家では引渡さず、ついに隠岐守と義明との直接の文書交渉になり、義明はこう隠岐守に言ってやった。
「忠左衛門をご所望の趣きは承知していますが、国の政治のことについて、どうしても彼に尋ねなければならないことがあります。一度お返し下さい。彼の身の上については、貴殿から格別のお話をうけたまわっていることです。用がすみましたら、必ずお返しします」
という文面であった。
これで、那河は安心して、下谷の屋敷へ行ったが、玄関にさしかかるや、忽ち大勢が飛び出して来て、高手小手に縄をかけたというのである。
那河は秋田へ連れて行かれ、八月六日秋田到着、しばらく獄舎に入れられ、草生津《くさうづ》で斬罪に処せられた。草生津がどこであるかはわからない。草生津は臭水《くさうず》と同義で、臭い水、すなわち石油のことだ。今の秋田市郊外の石油の湧く草原に、そう名づけられていた場所があったのであろう。那河が武士としての名誉を全然認められない縛り首に処せられたのは、関所破りの罪を加算されたからである。
那河の妾は妲己《だつき》のお百という異名を取った女である。京の九条の貧家に生まれたが、天成の美貌であったので、十二の時に祇園の山村屋という家に買われ、十四の春から白人となった。白人とは|しろう《ヽヽヽ》との意味だ。公娼ではないというところからつけられた名で、つまりは岡場所の私娼の一種だ。美しい上にこの上なく怜悧な女であったので、大へんなはやりっこになった。
これを大坂の富豪鴻ノ池善右衛門が身請けして妾にした。その鴻ノ池がお百を身請けしたいとまで心を動かしたのは、お百が星の運行を見て時刻を知ったのに感心したからであった。その後、お百は江戸の歌舞伎役者津山友蔵の妻になったり、新吉原の揚屋尾張屋清三郎の妻になったりしたが、この事件の頃は那河の妾になっていた。
妾とは言っても、実際は正妻として待遇していたようである。那河の許へ来てからは、名を律《りつ》と改めていた。
彼女がなぜ妲己などという恐ろしい異名を取ったかといえば、こうだ。お百は育ちが育ちであるから、とても厳格な武家女房などにはなれまいと思われていたのに、那河の家に来ると、「昨日までの風俗に引きかえ、武家の妻の行儀をたしなみ、まことに気高く、いみじきこと言うばかりなし」とある。つまり、その変化があまりにも鮮やかであるのがばけものじみているというところからの異名なのである。毒婦的であるということからではない。毒婦どころか、お百は生涯津山友蔵の墓参りをしたり、友蔵と夫婦である間にもらった男の子を最も深い愛情で愛しつづけたり、最も女らしいこまやかな愛情の女であったように、ぼくには見える。こんな女であり、茶の湯・生花・香道、何一つとしておろそかなものがなかったので、久松夫人にも、佐竹夫人にも気に入られて、いつも両家の奥へ出入りして女中らに慕われていたという。ぼくは七八年前、この女が昔からあまりにも悪く言われているのをいきどおって、「哀婉一代女」という長篇小説を書いて、新潮社から出したことがある。主人が秋田騒動の関係者だというので、連れ添う女房まで毒婦あつかいにされてはかなわない。
この騒動は大へんな犠牲者が出ているくせに、本質がはっきりしない事件である。しかし、藩札仕法をめぐっての争いであることは確かであろう。今日のこっている資料や物語からは一向はっきりしたことはうかがわれないが(恐らく意識的に佐竹家が湮《いん》滅したものであろう)、那河忠左衛門、大越甚右衛門、山方助八郎、梅津外記らは藩札仕法の存続論者であり、北図書、東山城、石塚市正、岡本又太郎は廃止論者であったのであろう。つまり、廃止論者が勝った争いであった。前述した通り、藩札制度がすぐ廃止になっているのをもっても、そう思われるのである。階級打破の陰謀ももちろんあったであろうが、この争いにくらべれば、それは言うに足りないものであったろう。野尻忠三郎の抱負と気概とは別として。
全藩の全経済にたいする根本的争いであるから、ずいぶん辛辣な戦いぶりをしたはずである。しかし、この争いには善悪の位づけをすべきではあるまい。経済政策の争いに善悪はない。あるのは適不適だけである。
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越前騒動
一
越前福井の松平氏は家康の次男秀康にはじまる。
家康の長男信康は天正七年九月に、信長の意にさからうことがあり、その強制で腹を切らされているから、普通ならば秀康があとつぎに立てらるべきはずであったが、その三年後の天正十年、本能寺の事変直後、家康は三男の秀忠を相続人と定めている(三田村鳶魚著「徳川家のお家騒動」)。
家康の秀康にたいする愛情ははじめはずいぶん薄かったようである。なぜ家康の愛情が薄かったかについては、古来両説ある。
その一説。秀康の幼名は於義《おぎ》丸というが、それは彼の幼時の容貌から来ているという。ギギという淡水魚がいる。ナマズに似てトゲのある魚だ。これに似ていたので、於義丸と名づけられたという。ギギに「お」の字をつけたわけである。可愛らしい顔の子供ではなかったので、家康の愛情が薄かったというのだ。
その二説。秀康の母お万は尻軽な女で、家康の妬心をそそるような行動がしばしばあったので、家康は秀康が自分の子であるかどうかを疑っていた期間がある。そのためにある期間には愛情が薄かったのであろう。このことについては、拙著「悪人列伝」巻三の「松平忠直伝」に詳述してある。なお知りたい方はついてごらんありたい。
ともあれ、それか、あらぬか、家康は天正十二年十二月、秀康十一歳の時、豊臣秀吉の請いにまかせて、その養子につかわした(福井県郷土叢書中の国事叢記)。天正十二年といえば、その年の四月に家康は秀吉と小牧・長久手で戦っているのだから、その年末といえば、やっと講和出来たとはいえ、両者の間は決して打ちとけてはいない。家康が秀吉の許に出頭して、臣礼をとるようになったのは、この翌々年の天正十四年十月のことだ。それまでいく度秀吉が使をおくっても、家康が動かないので、秀吉は他家に嫁《か》している妹、しかも年四十を越えている大姥桜《おおうばざくら》の妹朝日に離縁をとらせ、これを家康に縁づけた。それでも家康は動かない。ついに秀吉は母の大政所《おおまんどころ》を朝日のところへ見舞にやるという名目で人質として送り、やっと家康を招きよせることが出来たのだ。こんな風に家康がしぶとくかまえて、一向秀吉の命を奉じないので、秀康が大坂で殺されるといううわさすら立って、三河・遠江にも聞えて来た。けれども、家康は眉一つ動かさず、
「秀康は昔はわしの子であったが、今は秀吉にやって、秀吉の子になっている。親が子を殺すのだ。何ともいたし方はない」
といっていたと伝える。家康の愛情が薄かったためとしか解釈のしようがない。彼が弟の秀忠に越えられて、徳川家のあとつぎになることが出来なかったのも、このためと見てよいであろう。
秀康にはこれが生涯の不平となった。
関ケ原役以前のことであろう。その頃、何代目かの出雲のお国が念仏おどりをたずさえて国から京に出て来て、勧進《かんじん》興行し、大評判になっていた。秀康はお国を自邸に呼んで演じさせて見物したが、おどりなかばに|※[#「さんずい+玄」]《げん》然として泣き、
「お国はかよわい女でありながら、名を天下に馳せている。おれは堂々たる男子で、二十の半ばに達しながら、ろくろくとしてこのざまだ」
と、嘆いたという。鬱屈するものが胸裡にあったのだ。
彼は秀吉の命令で、南北朝時代以来関東の名族となっている結城家をつがされ、結城を名のっていたが、関ケ原役の後、松平に復し、越前の北ノ庄(今の福井市)に移り、七十五万石(一説六十七万石)の大封を領するようになったが、その翌々年のこと、こんなことがあった。秀康が江戸に出る途中、碓氷《うすい》の関所にさしかかった。すると、その頃定められた掟《おきて》で、諸大名といえども鉄砲をたずさえて関東に入ることを禁止してあるので、関所役人はこれをとがめた。
「越前家でござる」
と、秀康の家臣らが言ったが、役人は聞かない。
「越前家でござろうと、何様でござろうと、おきてはおきて」
と、言い張った。
秀康は激怒した。
「うぬら、おれが誰であるか、知らぬのか。それとも、おれをあなどって、さような高言をはくのか。捨ておかぬぞ!」
と、叱咤し、家来共に命じて、役人共に銃口を向けさせ、すわといわばぶっぱなさんばかりの勢いを見せておし通った。
関守《せきもり》らはふるえ上ったが、早速江戸に使を立て、家康に訴えた。すると、家康は笑って、
「汝《わい》ら、秀康にうち殺されなんだのを幸いに思え」
と、言ったという。
以上は国事叢記に出ている。他でも読んだ記憶があるが、書名を失念した。この秀康の所行も、弟に越えられて家を嗣ぐことが出来なかったことにたいする不平が、この形であらわれたと見てよかろう。だからこそ、家康にしても、こんなことで済ませたのであろう。この秀康の不平が次代の忠直に伝承され、家臣らにも影響して、忠直の気質や藩風を一種特別なものにしてしまい、それが騒動のおこる素地をなしていると考えることが出来る。記憶の端にとどめておいていただきたい。
秀康は豪気濶達で、太平の世の大名としてより、戦国乱世の時期にふさわしい気風の人であった。彼は越前に初入部《はつにゆうぶ》した時、早速久世但馬守(この騒動では最も重要な人物であるが、諸書、名を伝えていない)という者を一万石(後に一万一千石――続|片聾《へんろう》記)の大禄で召しかかえ、人々にこう言ったという。
「わしは当国に入部してうれしいことが二つある。一つは越前は北陸道から京都への出口で、最も枢要な地であるが、それを所領するようになったこと。第二は久世但馬を召しかかえることが出来たことだ。久世は佐々成政麾下の猛将で、佐々が越中を領していた頃は鳥越《とりごえ》城をあずかっており、佐々が家中の者は皆久世を標的《めじるし》とした。佐々が故太閤に抗して、越中にこもり、反太閤の軍をおこすために徳川家と連絡すべく、厳寒の雪中に立山連峰中のざら峠をこえて信州に出、さらに遠州に出て浜松に来たことを、その方共も話に聞いているであろうが、その時、佐々の家臣らは国許にのこされることを心細く思い、われもわれもと随従を望んだ。しかし、佐々が、留守居の将として久世但馬を残すと触れ出すと、皆安心して、強いては供を望まなかったと聞いている。これほど威望ある者を、わが家来とすることが出来て、まことに満足である」――(古老茶話・山鹿語類)
秀康が戦国の乱世にふさわしい大名であったことは明瞭である。彼は当時のことばでいわゆる「人好きの大名」であった。人好きとは人物好きの意味である。もっとしぼると武勇にたけた人物を好くことだ。つまり軍備拡張主義者だ。しかし、そんな人物だけに、家来の統御にはたけていて、一癖ある武士共を好んで家中に集め、その者共が皆心服していたと見て、先ず間違いはあるまい。しかし、このことも、秀康の死後には、また騒動の素地になる。
さて、久世但馬がどんな人物であったかは、古老茶話と山鹿語類とに伝える秀康のことばで一応わかるが、国事叢記にはこんな話も伝えている。久世が高禄をもって秀康に召しかかえられると、その以前から秀康に仕えていた石川助左衛門(三河生まれで、千石で仕えていた)、大井田監物(越後生まれ、もと上杉家臣、佐渡郡代として二万石を食《は》んでいたが、この頃は秀康に四百石で仕えていた)などという連中は、大いに不平だ。
「われらのように度々戦場に出て、武功を立てた者さえ、小身であるのに、但馬というやつは首一つ取った話も聞かぬ。一万石とは心得ぬ高知かな。いざ様子聞こう」
と、話し合って登城し、久世の登城を玄関で待っていて、
「われらにはしかじかの武功が度々ござるが、わずかにこれこれの知行でござる。貴殿は何の武功あれば、一万石という大禄にて召出されなされたのか」
と、問いかけた。すると、久世は言ったという。
「貴殿方ご不審の通り、われら自ら手を下《くだ》して武へん働きしたることは一度もなし。貴殿方のことはわれら前よりうけたまわっています。まことに見事でござる。今後も、万一のことあらば、貴殿方に手柄させ申し、われらは見物していましょう」
拙者の働きは一人武者としての働きではない、采配とって将としての働きであるという意味である。人々はことばなくして退出したという。久世が相当以上の人物であったことがよくわかるのである。
秀康は慶長十二年、三十四で死に、長男の忠直が家督を相続した。忠直はまだ十三の少年であった。
前述した通り、越前家の武士らは秀康が豪放の気性にまかせて、武功ある者とさえ聞けば、禄をおしまず召抱えた豪骨《ごうこつ》の人物が多く、これの統制にはなかなかの手腕を要するのに、主人がこう年少では、うまく行こうはずがない。忠直の代になると、角《つの》づき合いがおこった。その最も大きなのが、慶長十六年、忠直十七の時におこった事件だ。
ことの動機は、前述の久世但馬にからんでおこったのだが、そのおこり方がまことに奇妙だ。佐渡のゴールド・ラッシュに関係があるのである。
二
佐渡に黄金を産することは、平安朝末期には、もう京都人の耳に入っていた。「今昔物語」にその話が見えるからだ。もっとも、この頃までは砂金で採集したのであろう。いつ頃から山金《さんきん》を発掘するようになったものか、戦国の時代にはもうずいぶんさかんであったようだ。上杉謙信は大いに佐渡の黄金を利用している。彼が永禄二年に上洛した時の行列の壮麗さと将軍や公家《くげ》らにたいする贈遣の結構さとは、当時の京都人の評判になったが、それは全部佐渡産の金銀でまかなわれたのだと言われる。
この上杉氏が、次の景勝の代に、会津に転封になったのは、秀吉が佐渡の黄金に目をつけたからである。秀吉は国々の金銀山は皆自分のものにする計画を立てたが、一時にそうしては諸大名を刺戟することを恐れて、大方の鉱山は旧によって大名らにあずけるという便法を用いた。いずれ数年後にはすっかり取上げるつもりなのである。佐渡も、会津転封後、上杉氏のあずかりになり、代官が行って経営していた。
その後、関ケ原役がおこった。上杉氏は石田三成とともに反徳川の主謀者である。負けたのだから、処罰的に大減封された。会津百二十万石は没収、新たに米沢三十万石をあたえられた。佐渡はもちろんお召上げだ。
豊臣秀吉も黄金には異常に執着した人であったが、家康もまたそうだ。佐渡金山は家康の黄金にたいするこの異常な欲望と、西欧輸入の新しい採鉱術と冶《や》金術とによって、飛躍的に生産が増加した。ついでに書いておく、麓三郎氏の「佐渡金銀山史話」によると、十六世紀中葉から十七世紀初頭(つまり秀吉・家康の頃だ)にかけては、世界をあげて金銀の生産の増大した時期で、十七世紀初頭における平均一カ年の世界の金産額は約二千二百貫、銀は約十一万貫と推定されるが、佐渡は金は一カ年約百貫、銀は一万貫であったろうと推定されている。金において世界の総産額の二十二分の一、銀において十一分の一である。なかなかの数字である。
こんなわけだったから、佐渡の繁昌は大へんなものであった。その極盛期には、相川《あいかわ》は人口二十万もあったろうと推定している人もある(佐渡金銀山史話)。この時代、二十万という人口を持つ都会は、日本では数えるほどしかない。京、大坂、江戸の三都は二十万どころか、三十万、四十万もあったろうが、うんと甘く見て、長崎は二十万くらいあったかも知れない。相川の二十万は誇張であったとしても、長崎に匹敵し、三都につぐ賑わいであったことは間違いあるまい。
この多数の人口は、根幹をなすのは言うまでもなく鉱山労務者だが、そのほかに鉱山労務者目あての商人、遊楽機関――つまり飲食物業者、遊女屋、演劇人等々々があった。この時代の女歌舞伎の大夫の名前に、佐渡島隼人とか出来島佐渡吉とかいうような、「佐渡」という文字を名前にした者が輩出しているのも、当時の人の心理に、佐渡という文字が、明るく、豊富で、はなやかで、何ともいえず快楽的な気分を感じさせたからであろう。
「佐渡へ佐渡へと草木もなびく云々」
という唄は、この時代に出来たものであり、この時代の実状をうたったものなのである。
佐渡というところは、こういうところであったので、諸国から我も我もと出稼人が集まって来た。一体、封建時代には、民は自由にその本籍地を動くことは出来なかった。民が自由に移動しては、田畑の生産がへり、領主の収入に影響して来るから、移動は厳重に禁止されていたのだが、佐渡の鉱山は幕府の直轄であるから、佐渡への出稼ぎだけはあまりきびしく取締るわけに行かなかったのかも知れない。ともあれ、ゴールド・ラッシュに引きつけられて、おびただしい人間が佐渡に流入した。
これらの人々の多くは何年かを佐渡で働き、まとまった金を手にして国に帰ったにちがいないが、バクチ、酒、女等の歓楽施設にうつつをぬかして、百姓の純真朴実な習慣を忘れ、身をもちくずして、帰るに帰れず、音《いん》信不通になった者も、また少なくなかった。
それで、いつか北陸道の国々では次のような不文律が出来た(古老茶話)。
「近年、佐渡の金山繁昌し、京大坂の遊女歌舞伎入りこみ、これによって山先《やまさき》(坑内請負者)をはじめ金掘等に至るまで、色遊びに金を費し、故郷に帰ることを得ざるによって、必ず佐渡に行く者は本国にてわが宿を出づる時、三年限りに帰るべし、その期を過ぎたらば、死没すと思ふべし、妻は新夫に嫁すべしときめ出づること、定法《じようほう》のごとくになりにけり」
つまり、佐渡へ出稼ぎに行くことが滔々として制止しがたい勢いであったので、国々では出稼ぎ期間を三年とし、その期限内に帰国しないものは、死亡したと見なして、妻は自由に再婚してよいという習慣が出来、いつかそれが法的の力を持つようになったというのである。もちろん、期限の来る前に便りがあれば、少しくらいおくれてもかまわなかったのであろう。
同じ事件を伝えたものだが、話は「古老茶話」の所伝、「続片聾記」の所伝、「国事叢記」の所伝と、三様あって、いずれが真であるか、今ではわからなくなっている。ぼくは以前「悪人列伝」で「松平忠直」を書いた時、「古老茶話」の説を主として「続片聾記」の説を参酌して書いたが、その後「国事叢記」の説を得たから、ここではこれを本筋にして記すことにする。もちろん、他の二説も概略紹介はする。
久世但馬の所領する村の百姓の娘が、九頭《くず》竜川の北岸の石森という村の百姓に縁づいていた。石森村はやはり北ノ庄の家中で、町奉行の岡部伊予入道自休斎という千七百五十石の武士の所領であった。この百姓が佐渡に出稼ぎに出かけたが、三年の期限がすぎても帰って来ない。妻は実家にかえり、やがて同じ村の百姓に再縁した。何ごともなくいく年か立った。
すると、出て行ってから六年目、前夫が帰って来て、妻の再縁したことを怒り、ずいぶん苦情を言った。相当乱暴な口をきいたらしい。間もなく、今の亭主が殺されるという事件がおこった。
誰が殺したか、わからないが、この前の言い争いがあるので、世間では先夫のしわざであろうとうわさした。
殺されたのが、自領の民なので、久世は立腹した。
「佐渡に出稼ぎに行って三年帰らぬものは死没と見なして、妻は他に嫁してよいとは、ご定法にひとしいものとなっている。便りでもすれば知らず、六年も帰らんでいながら、なんの不服を言うことがあろう。その上、嫉妬に狂って人を殺すとは、けしからぬやっこめ!」
とて、自分の家老の木村八右衛門にひそかに言いふくめた。木村は了承して、久世の家臣の組《くみ》大将野々村十右衛門というものに言いふくめて、佐渡がえりの百姓を暗殺させた。
これはもちろん厳重に秘密にしておいたのだが、木村の馬丁でかねてから但馬にうらみを含んでいるものがあった。これが二千四百石の武士牧野|主殿《とのも》という者に、これを密告した。
これを岡部自休がふと小耳にはさんだ。岡部は領民を殺され、大いに腹を立てている。早速、牧野を訪問して、
「しかじかの由聞きおよぶ。その訴人が誰であるか、教えていただきたい」
と、頼んだ。
「そんなことはござらん。聞いたことはござらん。まるで覚えのないことでござる」
と、牧野はかたく否認した。
岡部はすごすごと辞去した。
その後、牧野はひそかに家老の竹島周防守(四千百七十石)を訪問して、このことを語り、なんとかうまく処理しないと、久世に傷がつくと言った。竹島も同感であった。二人は先君秀康があれほど自慢にしていた久世であるので、大いにこれを守ってやりたいのであった。尊敬もしていた。
人によって法の適用を別にすることの不可は言うまでもない。そうしてならないのは鉄則である。しかし、これは現代の四民平等の世においてのことで、社会がこうなるまでの歴史時代には、そうではなかった。階級の制度がきびしく定まっていることによって社会の秩序が保たれていた時代においては、人の階級によって法の適用が別になるのが普通であった。すなわち下に重く、上に軽かったのである。封建制度をたたきつぶし、四民平等の社会としたはずの明治初年においてすら、多分過渡期の臨時措置であろうが、士族|閏刑《じゆんけい》とて、士族の刑罰は平民の刑罰よりいくらか軽くしてあった。まして、これは江戸幕府がはじまって九年目、慶長十六年のことだ。先君があれほど大事にしておられたのを目の前に見た記憶をまざまざとのこしている竹島と牧野にしてみれば、久世をそんな事件の被告にして泥水をかけたくないという気持に駆られたのも無理のないことであったろう。
二人はいろいろと相談した結果、その馬丁を呼んで、散々におどかしつけ、決して他言しないとの誓紙を取った上で、ひそかに出奔させた。金も多少はあたえたろう。
このことを久世は聞きつけ(竹島と牧野から連絡があったのかも知れない)、馬丁を追いかけさせ、殺害させて、死骸は文殊山(足羽《あすは》郡大村、あるいは角原村ともいう)の麓にうずめ、その上に薪を積み重ねておいた。
これを岡部自休は聞き出し、死骸を掘り出させ、家老らに訴え出た。
「古老茶話」の所説。
この書では、岡部自休の所領内の百姓の娘が久世但馬の所領内の百姓に縁づき、その男が佐渡に出稼ぎに行って、期におくれて帰って来て、妻が他に再縁しているので、苦情を言った後、かねて知るなかである久世の鷹匠に頼んで、舅を暗殺してもらったことになっている。岡部自休は領民を殺されて立腹し、しきりに犯人を探索していると、村人らの間に、どうやら久世の家来がやったようであるとのうわさが立ったので、なお厳重に探索した。家老の竹島周防にもいろいろ訴えた。竹島は久世に好意を持っている。こんな問題で岡部などと対決して恥をかかせたくなかったので、ひそかに久世に指示した。久世は鷹匠を呼び出し、人知れず殺して埋めかくした。
岡部は竹島と久世とが何やら臭いと感じ、属託金《ぞくたくきん》(懸賞金)をかけて、訴人をもとめた。すると、久世の臣で、久世の妾であった女をもらっている堀内新三郎という者が、金に目がくれたか、他に久世をうらむことがあったのか、岡部の宅へ行き、岡部の領民を殺したのは久世の鷹匠の所為であることを訴えた。
「続片聾記」の説。
この書物では、はじめの聟と妻の父とは共に久世の所領内の百姓で、新しい婿は岡部の所領内の百姓となっている。そして、先ず殺されたのは最初の夫(久世の領民)で、これを殺したのは、後夫である岡部自休領石森村の百姓ということになっている。理不尽なことをうるさく言いつのるので、殺してしまったという想定であろう。報告を受けて、久世は怒ったが、間もなく、加害者である石森村の百姓が、ある夜、その家を外から釘づけにされて、夫婦はもとより、その家族から猫や鶏の類まで全部焼き殺されるという事件がおこった。「火事よと言ひて、出合ふ者までも当るのを幸ひに切り殺しけるとぞ」とあるから、火を救いに来た村人まで殺したのだ。
そこで、藩の役所では、北ノ庄の高札場に賞を懸けて、「この犯人を訴人する者は、たとえ同類であっても罪をゆるし、褒美の金子をあたえる」と告示した。
久世但馬の家来の一人が、金に目がくれて、岡部自休の家に来て、
「くわしいことは存じませんが、石森村のことは、拙者の主人久世但馬家中の組大将野々村十右衛門が組下の者を引きつれ行って、焼籠《やきごめ》にしたのです」
と訴えた。岡部は大いに喜んでその訴人を引きとめておいたが、訴人は、
「すぐもどってまいりますが、ほんのしばらくお暇をいただきたい。実は妻にも知らさずここへまいりましたので、心にかかります。知らせてすぐもどります」
と、暇をもらって、久世の邸内の長屋に帰ろうとして、久世の門内に入った。その時、訴人の妻は久世の家老木村八右衛門の許に行って、夫のことを告げ知らせていたので、木村は人々に命じて玄関に引きとめさせた。訴人はことの露見したことを知って、厠へ行きたいとて厠へ行き、用を足した後、門を駆け出し、向かいの牧野|主殿《とのも》の屋敷に駆けこんだ。
久世方では牧野家へ使いを立て、引渡しを要求したが、牧野は、
「武家に駆けこんで庇護を頼む者を引渡さぬは定法でござる」
と言って、渡さなかった。
この時代から寛永頃まで、武士が男の意気地で罪を犯してある家に駆けこんで庇護をもとめた場合、これを庇護し通すのはしなければならない武家の心意気になっていた。このために生じた事件もいろいろとある。伊賀越の仇討事件は発端から結末に至るまで、それだ。上州高崎の安藤家の武士河合半左衛門が同僚と喧嘩してこれを斬り、備前侯池田忠雄の行列に駆けこんで庇護をもとめた。安藤家では引渡しを要求したが、池田家では武家の作法を楯にとって応じない。安藤家では無念の胸をさすってこらえるよりほかはなかった。池田家では河合半左衛門を家来として召しかかえ、国許に送ったが、その後二十年ほど立って、半左衛門の子又五郎が男色のことが原因で、池田忠雄の寵童渡辺源太夫を殺害した。半左衛門は又五郎に言いふくめて、江戸の旗本安藤治右衛門の邸に駆けこませた。この安藤家は高崎の安藤家の分家だ。先年の意地があるだけに、かえって庇護し通してくれると、半左衛門は計算したのだ。計算あやまたず、旗本安藤家は全力をあげて又五郎を庇護しただけでなく、旗本全部が手を貸して庇護した。これがいわば不良少年の刃傷事件にすぎない事件に、老中まで調停に乗り出すという大事件となった次第なのである。駆けこみ者を庇護することは、この時代においては武家としてしなければならない面目になっていたのである。
さて、ごらんの通り三書三様、同じ事件が伝える人によってこんなにも違って来るものかと、おどろかされるが、要するに、領民らの争いから、それぞれの領主である久世と岡部との争いとなって行ったのであり、さらにこれが越前松平家の老臣ら全部が両派にわかれての大騒動に発展して行くのである。
これまでの所は、それぞれに取捨して筋を通すことが出来ないほど違っていたので、三説共に紹介したが、以後は参照統合して記述したい。
三
岡部自休は家老座に訴え出た。
家老座では、林伊賀守(勝山城代、九千百三十石)、由木西菴《ゆきせいあん》(勘定奉行、二千石)、広沢兵庫(二千八百石)、上田隼人(右筆、六百石)の四人に命じて、岡部と久世との間を調停しようとしたが、岡部がきかない。
この岡部の頑強さを見て、家老の今村|掃部《かもんの》助と同じく家老の清水丹後守とは、これを利用して、かねて蹴落したいと思っていた一番家老の本多伊豆守富正を滅亡に追込もうと思い立った。
本多伊豆守は、徳川家康の創業の名臣の一人である本多作左衛門重次(岡崎三奉行、仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛と謳われたあの鬼作左だ)の養子だ。本多作左衛門は秀康の母お万が秀康を妊娠している身で家康の許を飛び出したりなんぞした時から、これを世話して、秀康を出産させ、家康のきげんを取りむすんだといわれている人物だ。伊豆守富正は少年の時から秀康の小姓として、一緒に豊臣家に行って、秀康と苦楽を共にして来たのだ。つまり、越前家創業の功臣だ。こんな伊豆守だから、家康の奉書によって越前家の一老となっていたのに、今村掃部助はこれを無視して、公儀にたいする請書《うけしよ》、制札、家老らの連判署名の場合等に、自ら一老の位置に署名し、伊豆守を二老あつかいにしたと、伊豆守が家康に差出した密書中にあるから、今村らはかねてから本多伊豆守を敵視していたのである。この密書は、国事叢記にも、続片聾記にも収録されている。
また国事叢記には、当主忠直の生母清涼院の兄弟中川出雲守一元は家老の一人になっていたが、清涼院は本多伊豆守から一老職をとり上げ、中川出雲守を一老にしたいと心組んでいた、今村掃部助はひそかにこのことを耳にして、「悦ぶこと限りなし」とある。
今村掃部助らが本多伊豆守をたおして、取ってかわろうと心組んでいたことは、いろいろ証拠のあることのようである。
掃部助の同役の清水丹後守は「軍配者の由」と、国事叢記にあるから、兵法に通じ、策略の立つ男だったと思われるが、彼らの事の運びざまはいかにも謀略的だ。こうだ。
この頃、佐渡帰りの百姓の殺された時のことについて、石森村の百姓中から訴状を差出した者があったので、このことについて使を本多伊豆守の居城府中(今の武生《たけふ》)に出した。
「岡部・久世の紛争について、こんどこれこれの訴状を出したものがある。お考えをうかがいたい」
という口上だ。
本多はすぐ参って談合いたすと返答し、翌日北ノ庄へ行き、敦賀町奉行の広沢兵庫を同道して、今村掃部助の屋敷へ行った。
評定が行われ、その結果、
「この訴状だけでは心許ない。その百姓を呼び出して、くわしく問いただした上で、久世を呼び出すなり、なんなりしよう」
ときまった。
本多伊豆守は、秀康の久世にたいする深い信頼を覚えているので、ずいぶん久世びいきであった。だから、評定の席上、相当久世にたいする同情的な言辞があったらしく思われる。
伊豆守を陥れようと絶えず心ぐんでいる掃部助一派にとって、これは利用すべき好材料であった。彼らは家老座の名前で久世に手紙をしたためた。すなわち、本多の久世にたいする同情的な言説を書き、今日の評定での決議を書いたのだ。
久世からはもちろん返事が来る。当然のこととして、その書には本多の好意にたいする感謝の文句があった。
掃部助らは、この久世の返書を、人もあろうに、岡部自休に見せたのだ。結果は容易に推察がつく。本多にたいする感謝の文句があり、つづいて、「百姓の訴状だけを信用して事を運ぶもいかが、その者をよく尋問した上で、なお吟味をいたし下さるとのおんこと、ありがたいことでござる。よろしく願い申す」などという文句があれば、会議の決定は一老たる本多のリードによると、岡部が思いこむのは必然といってよい。
岡部はかんかんに腹を立てて、
「急《きつ》と(きびしくの意)申し入れ候」
という書き出しで、
「久世但馬にひいきなさって、裁判の延引をはかりなさる上は、一老たる貴殿が相手である。忠直卿のご前でご直裁《じきさい》を仰ぎ申そう」
というはげしい手紙を書いて、本多にたたきつけた。これは八月二十七日のことであった。
本多は、この前の家老座の評定は、拙者一人できめたのではなく、今村掃部助、広沢兵庫との合議できめたのであるのに、拙者一人のはからいのように申さるること、了解に苦しむと返事して、以後、今村掃部助や中川出雲守(前出、家老、忠直の生母清涼院の弟)が、このごたごたについて談合したいから来てくれと言って来ても、出て行かなかった。岡部の背後に今村掃部助らがいて、いろいろと策謀しているらしいとさとったのである。
こんなことで、越前家の重臣らは両派にわかれて、たがいににらみ合った。
岡部方
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岡部自休入道(北ノ庄町奉行、千七百五十石)
広沢兵庫 (敦賀町奉行、二千八百石)
今村|掃部助《かもんのすけ》 (家老、丸岡城主、三万五千五百石)
中川出雲守 (家老、忠直の生母清涼院の弟、一万五千八百石)
谷 伯耆守 (家老、三千石)
清水丹後守 (敦賀城代、一万二千二十石)
林 伊賀守 (勝山城代、九千百三十石)
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久世方
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久世但馬守 (一万千石)
竹島周防守 (家老、四千百七十石)
牧野|主殿《とのも》 (二千四百石)
本多伊豆守 (家老、府中城主、三万六千七百五十石)
由木西菴《ゆきせいあん》 (二千石)
上田隼人 (右筆、六百石)
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大体、こんな風であった。
岡部自休は、一向らちがあかないのでいらいらしていると、今村掃部助らが指示したので、駿府に行って直接大御所(家康)に訴える気になった。掃部助らが指示したことについては、確証があるわけではないが、九月六日に忠直の直《じき》裁を仰ぐ訴状を提出しながら、十一日にはもう出発していることと、この後の掃部助らの岡部にたいする態度とをもって、そう判断するのである。
岡部が江州|小谷《おたに》(長浜のことであろう。小谷は街道に沿っていない)まで行った時、林伊賀守が今村掃部助らの命を受けて追いかけて来て、
「美濃の大垣まで行ったら、何分の連絡をするまで、とどまっているよう」
と申しふくめて、帰って行った。
間もなく、掃部助と清水丹後守とは二人の使者をつかわして、岡部を越前に連れもどした。
月がかわって十月になった。すると、その十三日、岡部はまたもや駿府に向かって旅立ったが、掃部助はこれに使番の稲垣某という者をつけて出した。これを聞いて、牧野|主殿《とのも》も北ノ庄を出発したが、これは決して急がず、せかず、国許の様子をたえず聞き合わせながら、ごくゆっくりと旅をつづけた。
(古老茶話では、牧野は岡部と同じ党派で、同道して北ノ庄を出発し、江州彦根まで行った時、越前からの使が追いつき、
「これしきのことで、大御所様のお裁きをわずらわすことはない。立帰れよ。すぐに直裁してやる」
と忠直の命令を伝えたところ、岡部は立ち帰ることにした。しかし、牧野は、
「帰ったとて、ろくなことがあろうはずはない。拙者はいやだ」
と言って、京都に行き、つづいて高野山に登って身をかくしたとしている。
しかし、牧野は岡部党ではないと見るのが正しいようだ。また、高野山登りも、もう少ししてからのことであろう)
この二人が北ノ庄を旅立った頃から、今村掃部助は、夜毎にひそかに自分の居城のある丸岡から五騎、十騎ずつ、兵を北ノ庄へ呼びよせはじめた。一方、多賀谷左近(柿原城主、三万二千石)、永見右衛門(一万五千三百五十石)の家来共も集めて、これも番と称して自分の屋敷へ入れた。
一体、掃部助の屋敷と本多伊豆守の屋敷とは隣り合っている。だのに、こんなに兵力を集めたのは、伊豆守が攻撃的に出ることを恐れたのか、こうして武力を示せば、伊豆守が恐れて府中に引上げるだろうと思ったか、どちらかであろうと、続片聾記は書いている。
しかし、伊豆守は自邸を動かなかった。
十月十七日に、掃部助らは竹島周防守を城内で捕え、大小を奪い、櫓《やぐら》に幽閉し、同時に城内への出入を厳重にして、掃部助か清水丹後守の判をおした手形のない者は、一切諸門を通行することを禁じた。
[#1字下げ](前述の牧野主殿が高野山にのぼったのは、この報告が入ってからであろう。ぐずぐずしていては、自分にも追手がかかって、危ういことになると判断したのだと、ぼくは思う。牧野はよほどにかしこい人間だったにちがいない)
一体、掃部助らは何をしようと計画しているのか?
クーデター計画としか考えられない。つまり、本多伊豆守をトップとする反対派の重臣らを一挙にたおして、越前の藩政を自分らの党派で独占しようという計画。藩主たる忠直が自党のとりこになっている上に、忠直の外戚《がいせき》たる中川出雲守もその党の人だ。こんな手荒なことをしなくても、うまく行きそうなものだが、そう行かないのは、家柄家老の重みによるのだ。
この十月十七日という日には、またこんなことがあった。忠直の使者、福岡伊織と森川内蔵允とが本多家に来て、
「久世但馬守を伊豆守へ預ける」
と言い渡した。忠直は掃部助らの傀儡《かいらい》だ。従ってこの使者らは忠直の使者には違いないが、実質は掃部助らの差金《さしがね》による使者である。
四
「久世を預ける」
といっても、久世を連れて来て、さあこれを預けるというのではない。久世は自邸にいて、しかも形勢の険悪化を知って、ひしひしと武備をかためつつあるのである。つまりは、久世と戦って討取れということになるのだ。
伊豆守は、とりあえずお請けしたが、言った。
「久世は武備をかためつつござる。現に久世のせがれ半兵衛も、加賀から駆けつけて来たほどでござる。お目付をおそえ下されたい」
久世の嫡子の半兵衛は加賀の前田家に三千石をもってつかえていたが、父の厄難のうわさを聞くと、駆けつけて来たのである。目付を添えてくれとは、久世が素直に命を奉ずるとは思われず、もし闘いとなれば、半兵衛が他藩人であるからとて討取らないわけに行くまい、そうなれば、面倒になるであろうから、その時の用心のために、目付がほしいというのであったろう。
両使は一旦引上げたが、すぐ帰って来て、
「伊豆守一人に預けるのである。従って目付は添えられず」
と、言い渡した。一人では手にあまるというのかとの皮肉が裏にある。伊豆守を激発させようとのたくらみが感ぜられる。
こんな腹黒く、意地の悪い命令が忠直の心から出るはずはない。掃部助らのさしがねであることは言うまでもない。
武士がこう言われては、いたし方はない。伊豆守は居合わせた家来共をもって、久世の屋敷を見張らせておいて、家来共を呼び寄せるべく、大急ぎで府中に使を出した。
府中では家来らは早速に打ち立ち、思い思いに駆けつけたが、掃部助党の者共が足羽《あすは》川に架した大橋をきびしく守って、人を通さない。本多家の士《さむらい》らは橋の袂にたまるばかりで、越えることが出来ない。色々と交渉して、やっと通行は出来ることになったが、武具――甲冑、鉄砲類は持って入ることはならないと言いはる。また押し問答だ。
先きに来て、問答をつづけている武士らは、使を後方に走らせて、続く人々にこのことを教えたので、人々は甲冑や鉄砲を俵につめ、毛屋川越えに本多家の屋敷に送りつけておいて、からだは本道を通って本多家にたどりついた。
二十日、林久助と岡部治部という者が、本多伊豆守の許につかわされた。忠直からの使ということになっているが、これもまた今村掃部助が巧みに忠直を説いてつかわしたのであることは言うまでもない。
「久世の屋敷に行って、但馬に岡部自休の訴状を読み聞かせ、但馬が責任をのがれることの出来ないことを説明して、但馬一人屋敷を出てお城に出頭し、切腹するように申し渡せよ」
というのがその口上であった。
以上のように、さまざまな難題を本多に言いつけるばかりか、その難題を解決するために本多がいろいろと苦心するのを、意地悪くじゃまするところを見ると、今村掃部助の心事は明瞭だ。本多を苦しめ殺すつもりなのである。
この命令も、もし本多が引受けて、久世の屋敷に行けば、久世は怒って本多を殺してしまうであろうと、計算して出したものであった。
掃部助らのこのような計略がわからないわけではなかったが、本多は、
「かしこまってござる」
と、いさぎよく引受け、わずかの供まわりだけで、久世の屋敷に向かい、上使をうけたまわってまいったと申し入れた。
久世は門をひらいて通した。
本多は案内に連れて通り、玄関で久世に迎えられ、客間に通された。
本多は昔から久世とは気の合ったなかであった。
「この度は妙なことになり行《ゆ》いて、何とも申し上げようなき仕儀」
と、本多は言って、さらにつづける。
「今日はつらい役目でまいりました」
「なるほど、で?」
「先ず、岡部自休斎が訴状に言うところをお聞きとりあれ」
本多は、懐中から岡部の訴状の写しを出して読み上げ、岡部方の証人として石森村の百姓のさし出した書付の趣旨を説明した上で、
「右の通りである上、貴殿一人お城へ出頭あって、切腹なさるようにとの、殿様の御意《ぎよい》でござる」
と、結論した。
久世は両手をついたまま委細を聞いていたが、むくりと起き直って言った。
「たとえわれらに罪ありとしても、一応二応の対決は仰せつけらるべきに、片口《かたくち》を聞いて、われら一人を罪ありとして切腹せよとの段は、納得いたしかねます。恐れながら、お恨みに存ずる。切腹など思いもより申さぬ。以上が但馬が口上であると、申し上げていただきとうござる。この口上、文書にもしてお渡し申す」
久世は筆紙を取りよせ、今言った返答を書付にし、本多に見せた後、封をして渡して言いそえた。
「掃部と丹後にもこの口上をお伝え願いましょう」
この間に、久世の小姓が御所《ごしよ》柿を盆に盛って、持って出、伊豆守に供した。伊豆守は柿をとり上げ、小柄をはずして、きれいにむいてから食べた。悠揚として落ちつきはらった態度であった。
[#1字下げ](これは国事叢記の所説だが、続片聾記には蜜柑と記している)
本多伊豆守は、久世に、
「こうなれば、決裂ということになり申せば、定めて貴殿を攻め滅すことになり申し、討手は大方われらが仰せつかることになるでござろう。たがいに親しくいたしたなかではござるが、かかることとなり行くも、武士の身としてはいたし方なきことでござる」
と言って、暇を告げた。
この時、久世のせがれの半兵衛と家老の木村八右衛門とは薙刀の鞘をはずして、隣のへやに待ち受け、伊豆守を唯一撃ちにせんと待ちかまえていた。久世はこんなことがあるかも知れないと予想していたので、伊豆守を引きとめておいて、自分が先に出た。そして、二人を見ると、
「伊豆守殿になんの遺恨があろう。今日伊豆守殿が参られたのは、伊豆守殿をねたんでいる者共が、おれが手を借りて伊豆守殿を殺させようとの腹黒いたくらみのためだ。その手に乗ってなろうか。伊豆守殿こそ、おれが亡き後、おれがために申しひらきして給うお人じゃ。わいら、心得ちがいしてはならんぞ」
と、叱りつけて、制止した。
久世は伊豆守を玄関まで送って出た。ここで、伊豆守は久世の家来らにむかって、
「やがてわしが討手としてまいることになろうが、皆々ずいぶん粉骨されよ」
と、あいさつして、門を出た。門はすぐに閉ざされた。
五
伊豆守は自邸に引き上げて来ると、待っていた両使に会い、但馬の返答を伝えた後、但馬の書付を林久助にわたした。
両使は辞去して城にかえったが、間もなく、石川助左衛門、大井田監物という両人の者を上使としてつかわした。
「久世但馬が上意を奉ぜぬ上は、容赦すべきにあらず、直ちに攻めかかり、ふみつぶしてしかるべし」
これも今村掃部助らの差金《さしがね》であることは明らかであるが、伊豆守としてはいたし方はない。
「かしこまりました」
と、請けて、もの見の者を出す一方、鉄《くろがね》御門(北ノ庄城の門の一つ)の前で士卒の部署にかかった。
すると、伊豆守の家来で近藤九郎兵衛という者が、伊豆守の前に出て来た。この者は以前久世の家来で、故あって久世家を去って本多家につかえるようになった者であった。
「お願いがござる」
と、伊豆守の前に平伏して、言う。
「拙者は以前但馬守の重々の恩義を受けた者であります。近年当家に奉公いたし、ご恩を受けながら、かかることをお願い申すは申訳なきことながら、但馬守には重々の恩があります。願わくは、お暇をいただきたし。久世家へまいり、但馬守とともに討死いたしたく存じます」
伊豆守は感動して、
「武士の義理を重んずるの条、あっぱれである」
と、聞きとどけて、引出《ひきで》ものまでつかわして、ひまをやった。近藤は人々に別れをつげ、久世家へ行った。
そのうち、物見の者が帰って来た。久世の屋敷では、大工が七八人いて、何か工事していたが、物見の者共を見て、あわてて道具をしまい、屋敷を出てどこかへ消えた。あとでわかったことだが、この大工らは塀の内側に竹を立てならべて柵をつくっていたのだ。この柵に畳・遣戸《やりど》等を立てかけ、その陰から槍・薙刀・鉄砲・弓等をもって防戦するしかけであった。しかし、今打ち見たところでは、人影はまるで見えず、しんとして、いかにも取りしずめた様子であった。
やがて、伊豆守のさし図によって、出動にかかった時、城内から鉄砲をはなった者があって、高木太郎八という少年武士にあたり、即座に死んだ。太郎八の父は武へん者として名の高い男であったが、大いに怒り、組下の者を引きつれて城の下に迫り、城をにらみ、大音声をあげて、
「唯今出動の人数は本多伊豆守富正の家臣共なり。ご城中より鉄砲を撃ちかけられるとは|うろん《ヽヽヽ》なり。重ねて撃ちかけなさるにおいては、押入って是非を決し申さん」
と、どなった。返答を聞くため、しばらく馬をひかえていたが、城中|寂《せき》として声がなかったという。城内からのこの鉄砲は好意的に見れば、あやまって暴発したものと思われるが、あるいは伊豆守に敵意を抱く者が放ったのかも知れない。なお辛辣な見方をすれば、伊豆守を激発させて久世に一味して反撃に出させ、反逆の名を負わせて討取るための、今村掃部助らの謀略であったかも知れない。
伊豆守の人数は次第にくり出し、久世家にせまった。矢頃に入ると、久世方ではきびしく弓・鉄砲を放った。中にも久世の嫡子半兵衛は弓の達人だ。門の楼上にかまえて、さんざんに射放つ矢が鋭く、寄手《よせて》は多数死傷した。
このせり合いのつづく時、意外なことがおこった。伊豆守の背後に、その後備えとして布陣していた多賀谷左近の隊から、伊豆守の本陣目がけてドッと鉄砲を撃ちかけたのである。大将たる多賀谷左近自ら鉄砲をとって撃ち立てたというのだから、おどろいたものである。
弾丸は伊豆守にもあたったが、怪我はなかった。この日は伊豆守は甲冑をつけないで出陣するつもりであったところ、伊豆守の家老の井上|内匠《たくみ》という者が諫めて、甲冑を着けさせたので、高股に弾丸があたったが、弾丸は裏をかかず、傷は受けなかったというのである。
伊豆守の隊が、前後から撃ち立てられ、狼狽していると、伊豆守の近習の磯野茂之助という勇士がまっしぐらに多賀谷勢に駆け入り、馬上にある多賀谷左近を捕え、刀をぬいて胸にさしあて、
「後陣より味方の軍勢へ鉄砲を撃ちかけるとは、何を血迷い召されたぞ! 不届千万なり。同士打ちの罪を何と心得召さるぞ! なおも撃ち申されるや、否や!」
と、おそろしい勢いで問いかけた。けんまくにおそれて、多賀谷の家来らはあきれているばかりだ。多賀谷は、
「以後は決してせぬ」
と答えた。磯野は自陣に帰った。
一方またこんなこともあった。
ちょうどこの頃、長州の毛利家から粟屋《あわや》丹後という者が使者となって来て、城下に滞在していたが、お手伝いのためと称して、甲冑をつけて本町まで出て来たところ、伊豆守は、
「たかの知れたる家来の成敗でござる。他家の方の助けなどいただいては、面目が立ち申さぬ」
と言って、引きとらせたという。こんな際に他家の使者などがこんな出しゃばったことをすることはないと、現代人の常識では考えられるが、武士はこんな時に傍観していては臆病と見なされる恐れがあるので、手伝って戦った実例が多数ある。
久世がいかに勇猛であっても、わずかな屋敷であり、人数も少ない、ついに寄手は塀を乗り入った。久世は屋敷に火をかけ、炎の中に父子ともに切腹した。
敵味方とも、多数の戦死者が出た。前述の近藤九郎兵衛も念願の通り戦死した。九郎兵衛は弓を放って防戦したが、その弓には鏃《やじり》がなく、箭竹《やだけ》に「近藤九郎兵衛」と名をしるしてあったという。伊豆守は益々感動して、養子を以て、九郎兵衛のあとを立て、近藤の家をのこしてやったという。
以上記述したことを以て、この日の事件をふり返ってみても、当主忠直を取りまいている今村掃部助・清水丹後守らが、本多伊豆守に悪意をもって、すきあらば斃《たお》そうとしたことがはっきりとうかがわれるであろう。
この翌日の十月二十一日、今村掃部助らは、青木新兵衛入道芳斎、永井善左衛門安盛――二人とも戦国時代末期の勇士として、名高い人々だ。いろいろな武勇談がある。方々の家につかえた後、越前家につかえたのである――の二人を、忠直の使者ということにして、由木西菴の許につかわした。切腹を命ずるという命令を持ってだ。
この由木西菴という人物は、山鹿語類によると算法学者で、関東から召しかかえられ、勘定奉行をしていたという。
西菴は二人を見ると、自ら門外に出て来て、何の口上も聞かない前に、自分の方から発言した。
「今日各々のお出でなされたのは、ご口上を聞くまでもなし、必定、拙者に切腹せよとのご上意をご持参あったのでござろう。拙者は五日以前、当家の老臣らの非違の条々を書付にいたし、江戸お公儀へ訴え申したれば、やがて正当のお裁きあって、今度の讒人らは皆罪をこうむるでござろう。死後、拙者の罪はそれによってすすがれるでござろう」
言いすてて、そのまま門内に入り、ぴたりと扉を閉ざした。
使者両人は手勢をさし図して、鉄砲を撃ちかけさせた。由木の家来共は斬って出てはげしく戦い、皆斬死にしたが、寄手も十人の死者があった。由木は自殺した。
上田隼人のところにも、切腹を命ずる使者が行き向かった。隼人は、
「かしこまってござるが、家来共を立ちのかせてからにいたしたい」
と答えて、家来共にわけを言い聞かせて立退くよう命じていると、寄手の方では抗戦の用意をしていると疑って、しゃにむに攻撃しかけて来た。人々は怒って反撃し、多く寄手を討取って、全員戦死した。隼人も自殺した。
竹島周防は城内に呼ばれて出頭したところを捕えられ、大小を奪われ、城内の櫓《やぐら》に幽閉された。これは十月十七日のことであると、続片聾記にはあるが、国事叢記は二十七日のこととしている。いずれが正しいかわからないが、十七日といえば、忠直が久世但馬を本多伊豆守にあずけると命じた日だ。少し早いようである。掃部助らも竹島を殺しはしなかったのだし、家老という職にある人物でもあるから、敵党一切をやっつけた後の二十七日というのがあたっているかも知れない。
六
越前家としては、以上のことを頬っかむりで過すことは出来ない。事件が大きすぎる。重臣が数人殺され、小規模の戦争ほどのさわぎを三度もやっているのだ。幕府だってほっておきはしない。そこで、あらましのことを幕府へ報告した。
この以前、幕府には岡部自休の訴えも来ているし、その派を敵とする由木西菴の訴えも来ている。また忠直の夫人は秀忠将軍の女勝姫で、去年入輿して来たのだ。後になると、大名の夫人と世子は人質の意味で、江戸に定住しなければならないことになるが、この時代は夫人も世子も国許にいるのが普通であった。だから、越前に来ている。勝姫は十一で嫁して来たのだから、まだ十二歳の幼さだが、お付きの者がいる。女中はもちろんいるが、男も付人《つけびと》となって来ている。この連中は幕府のスパイ役でもあるから、越前家のいろいろな秘事を幕府に知らせるのだ。こんどの事件など、もちろん報告する。
それやこれやで、幕府には全部が筒抜けにわかっていた。だから、やがて、幕府から関係人物の重立ったものに召喚命令が来た。
この年は十月に閏《うるう》があるから、命令は閏《うるう》十月の中旬頃についたと思われる。
十一月はじめ、召喚を受けた人々は江戸に到着した。本多伊豆守、今村掃部助、清水丹後守、林伊賀守の四人と、竹島周防だ。竹島は囚われの身なので、青木新兵衛入道芳斎が護送役をうけたまわって、駕籠に乗せて送って行く。中川出雲守は留守居として、北ノ庄にのこった。
本多伊豆守は江戸につくと、忠直の生母清涼院から、
「少将殿の身の上心許なし。いろいろ話を聞きたければお会いしたい」
との使があったので、ごきげん伺いかたがた出頭すると、清涼院はいろいろと忠直のことや、事件のことを聞いた後、
「そなたはこの度の公事《くじ》に、公儀に目安書《めやすがき》を奉られたであろうが、苦しからずば、見せていただきたい」
と言った。清涼院は自分の兄弟(兄とあり弟とあり、一定した記述がない)である中川出雲守一元を伊豆守にかえて一番家老にしたくてならず、従って今村掃部助らには好意的なのである。だから、掃部助らに頼まれて、伊豆守の手の内を見ようとしたのであろう。
伊豆守にも、それはわかっていたであろうが、
「かしこまりました」
と言って、目安書を渡した。
清涼院はこれを書き写して、掃部助や清水丹後守にあたえたので、両人は取調べられる時にあたっての策を色々と練ったと、国事叢記にある。
家康は先月半ば頃から駿府から江戸に出て来て、しきりに忍《おし》方面へ泊りがけの鷹狩に出かけていたが十二日に、越前から出て来た関係者一同を、忍に呼んだ。
(この日時については、徳川実記の記載は前月の閏十月二十七日のことにしている)
人々は忍に出かけて行った。
家康は土井|大炊頭《おおいのかみ》利勝を呼んで、越前の家臣らの宿所に行き、双方の言い分を聞き取って来るように命じた。利勝はこの時三十九であった。
利勝は今村掃部助の宿所に行き、そこに本多伊豆守を呼んで、先ず両人に言いわたした。
「その方共、いずれも事実をありのままに述べるだけで、是非を言い争ってはならぬ。もし争論におよぶなら、その者を負公事《まけくじ》(敗訴)とするぞ」
そして、二人を相|背《そむ》いてすわらせた。つまり、たがいに反対の方に向いてすわるのだ。利勝は両人の間にすわり、二人の言うことをくわしく書きとめた。
ずいぶん長時間にわたり、深夜におよんだので、家康からの使がしばしば来て、まだかまだかと催促したが、利勝は少しもあせらず、おちつきはらって、二人に質問し、筆録してから帰って行った。
家康はその調書をくりかえして二三べん読んで、
「これは急には行かぬ。あとで将軍殿と一緒に裁かねばならんことじゃ」
と言った。
同月二十八日に、西の丸に関係者らを呼び、家康、秀忠ともに出て、裁判を行った。「諸大名以下陪臣におよぶまで庭上になみ居る――国事叢記」とある。晴れの場所である。また、掃部助は大男で白髪、人目をおどろかす容貌であり、伊豆守は尋常な風体であったともある。
本多佐渡守正信が尋問役になって、掃部助を尋問した。掃部助は清涼院から伊豆守の手のうちを示され、答弁の用意をして来ていることだけに、流れるように言いひらく。伊豆守は憮然たる様子であった。
本多正信は、伊豆守に言った。
「目安《めやす》に書き立てたことのほかに、何ぞ申し上ぐることはないか。この場で申し上げねば、あとで申し出たとて、証文の出しおくれとなるぞ」
本多佐渡は最も鋭い知恵者である上に、世間の機微や人情の機微に通暁している人物だ。そんな逸話が多数ある。掃部助のあまりにも心得切った滔々たる答弁ぶりに、かえって臭さをかぎつけたのかも知れない。
「ありがたき仰せ」
と、伊豆守は言って、腰にさげた巾着から一通の書きつけを出して捧げた。
この書付には次の三カ条が書きつけてあったと、国事叢記も続片聾記も記述している。もっとも、国事叢記には「その実否を知らず、然れども、かく説くにまかせて記す」と割り書きして注してある。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、臣の在所府中は北国街道の要衝で、人々の往来繁く、失費が多いので、秀康卿によって三千石のまかない料を賜わって今日に至っています。今村掃部助の在所である丸岡は臣の在所のような失費のないところでありますので、特別なまかない料など賜わっていなかったのですが、近頃忠直卿のご年少であるのに乗じて、かれこれ言いつくろい、三千石をまかない料としてもらうようになりました。
一、掃部助は、この度久世但馬成敗の時、若輩の多賀谷左近を以て臣の後備えとしたばかりか、臣の備えに向かって銃撃を加えさせました。そして、自身は父子ともに天守上から見物していました。掃部助のせがれは二十余歳の壮齢なのです。
一、臣は高禄を賜わって前代より一番家老に任ぜられています。公儀においてもまたご奉書を以て、それを認めて下さっています。しかるに、掃部助は公儀に差し出す請書《うけしよ》、制札、その他の書類に家老ら連判すべき際、自ら一番家老の場所に署名し、臣を二番家老の位置に署名させます。先代から深く憎まれて追放されたやからを、わが一族、あるいは懇親の者は、皆帰参させたり、させる計画をめぐらしています。
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また、この対決の時、なぜ久世但馬に対して庇護的であったかと聞かれると、
「先中納言(秀康)が常々申していたことがございます。わしに三つの悦びがある。一つは大御所様が関ケ原でご勝利を得られたことについて、わしに、これはひとえにその方が関東にあって景勝(上杉)をおさえてくれたからであると、ご自筆の御書を賜わったことだ。おん父君の尊書なれば、一しおありがたく思われるぞ。二つは結城十二万石の身代から七十万石余を拝領する身になったことだ。三つは久世但馬を召しかかえたことである。万卒は得やすく、一将は得がたい。これは前の二つよりも満足に思っているぞと、いつも申していたのでございます。かほどまで中納言の気に入っていた者でございますから、何とかして久世を助けたく、いろいろと苦心したのでございますが、ぜひもなきことになり行きました」
と、言って涙をこぼしたところ、家康もまた落涙したという。
ここに伊豆守が述べた、秀康が越前の太守となってうれしきこと三つありと常に言っていたということは、ずっと前に書いた「うれしきこと二つあり」というのと違うし、内容も久世但馬のこと以外は違うが、伊豆守としては、家康の面前のこととて、このように言ってそのごきげんを取り結ぶのを必要と考えたのであると解釈すべきであろう。
家康は、伊豆守が巾着からとり出して本多佐渡にわたした密書を受取って披見すると、かっと腹を立てた様子で、掃部助らに向かって、
「おのれら、いかに陳じても、少将(忠直)が若輩なる上は、かかる騒動がおこったのは、その方共の責任であるぞ」
と、どなりつけた。
掃部助は、
「少将は若年とは申しながら、今は十七であります。その上、ことのほかに発明の生まれつきでありまして、何ごともじきじきに言いつけますので、われわれは少しも関与することが出来ません。それで、このようなことになったのでございます」
と、万事を忠直の責任にして答弁した。
家康は益々怒り、
「大臆病、不忠の曲者、追い立つべし」
と言って、即座に判決を言いわたしたと、国事叢記は記しているが、徳川実記は、対決が二十七日、判決言渡しが翌二十八日としている。この方がよいであろう。
その判決はこうであった。
家 老 本多伊豆 かまいなし
〃 竹島周防 かまいなし
〃 今村掃部助 岩城に配流し、鳥居忠政に預け
〃 清水丹後守 仙台へ配流し、伊達政宗に預け
〃 林伊賀守 信州へ配流し、真田信之に預け
北ノ庄町奉行 岡部自休 事件発頭人につき、能登へ配流
牧野主殿 高野山より呼びもどし、越前へ帰参
家 老 中川出雲守 遠流《おんる》
敦賀町奉行 広沢兵庫 遠流
つまり、久世をひいきした本多伊豆守、竹島周防、牧野主殿の三人は無罪となり、岡部自休にくみした連中は全部有罪とされたのである。百姓の命より猛将久世の方を尊しと家康は考えたのであろう。また、今村掃部助らが家中のこの紛争を取りしずめようともせず、自らの党与の利益のためにさわぎの火の手をあおり立て、本多を窮地におとしいれて殺そうとした姦謀を怒りもしたのであろう。
しかし、徳川実記にこんな記述がある。
「そもそも越前の国は故《こ》中納言秀康卿が、人物を好み、勇士を愛することが一方でなく、およそ勇名ある者にして牢人して片田舎にわび住いしていると聞けば、必ず礼儀をつくし、高禄を以て招いたので、諸家を退身した勇士らは山のごとく北ノ庄に集まった。やがて中納言がなくなられると、この勇士らは皆おのれの武勇をほこって権勢を争い、国の平穏が失われた。大御所は以前からこうなるであろうと予想され、もしこの者共が大坂(豊臣氏。秀康が一時秀吉の養子となり、秀吉の恩義を感じていただけに、越前家中には豊臣家にたいする好意的ムードがあったのであろう)に内通でもしたら、ゆゆしいことになろうと思われて、江州長浜の旧城を修築して、内藤豊前守信成を城主としておかれた。大御所のご先見《せんけん》あやまたず、果せるかな、こんなさわぎがおこった」
要するに、家康の恐れるところは、越前家中の不和が嵩《こう》じて来ると、敵党にたいする憎悪や敵党をやっつけたいあまりには、豊臣家に内通する者が出て来るかも知れないというところにあったわけだ。とすれば、その判決が政治性をおびて来るのはまぬかれないところであろう。
本多伊豆守の派を勝ちとしたのは、伊豆守が自分の大忠臣であった本多作左の養子で、骨髄からの徳川党であるためと見てよい。この直後、家康のしたことが、一層この解釈の的中を語る。
この翌年、家康は本多作左の実子成重が三千石の幕臣であるのを、越前家にやって家老にし、四万石を所領させ、丸岡城主とした。丸岡は今村掃部助の居城だったのである。
こんなわけだから、家康の下した判決は善悪を証明するものとは言えないようである。もっとも、掃部助一派のやり方が陰険で明朗さを欠いていることは蔽《おお》いがたいものがある。
気の毒なのは、竹島周防であった。判決では無罪かまいなしとなったが、武士たるものが両刀を奪われて、櫓《やぐら》に閉じこめられ、罪人あつかいで江戸に連れて来られたのを恥じて、判決のあった翌日、腹を切って死んだ。
七
以上が越前騒動と言われているものであるが、越前家がほろんだのは、この時から十二年後の元和九年である。
ほろんだのは、周知のように忠直の狂気じみた殺戮乱行のためである。彼は大坂陣に出陣して、真田勢と真向から衝突してこれを全滅させて幸村の首を上げて茶臼山の一番乗りをしたばかりか、城の一番乗りもした。敵の首を打取ったのも、三千六百五十と、諸勢の中でズバぬけて多いのである。しかし、夏の陣の豊臣氏は全然力尽きて、大したことはない。これを相手の手柄など、気のきいたものなら誇りはしないのだが、世間知らずの忠直は大した手柄を立てた気で、恐ろしく荒い鼻息になっていた。
その上、家康と秀忠とが、衆人のいる前で大いにほめて、家康に至っては、
「その方一人の働きをもって天下平均に治まったこと、満足である。いずれ恩賞の沙汰におよぶであろう」
とまで言ったので、忠直はもう有頂天だ。大いに期待したのだが、くれたものは、家康からは「初花の茶入」、秀忠からは「落雁の懸《かけ》物」、そして従三位宰相叙任とこれだけである。
家康や秀忠にしてみれば、朽ち切った縄切れ同様になっている豊臣氏を相手の戦さの手柄だ、そう恩賞を期待すべきではない、大てい悟るはずだくらい思っていたのかも知れない。
が、秀康以来、本来ならばわが家こそ徳川の家督をついで、天下の将軍職となるべきであったという観念のある家だ。
「こんなもので済まそうとは、おれを阿呆あつかいにしているのだ」
と、腹を立てた。
不平満々でいるところに、夫人勝姫は将軍の娘だから、いろいろと遠慮しなければならない。元来、男は強く勇ましくあるべきものという性質と観念を父から伝えられている忠直だ。かえって反撥的にならざるを得ない。ことさらに乱暴なことをしたのは、そのためもあると、ぼくは思っている。世間知らずの、強がりの男にはよくある心理である。
証明になるような話もある。忠直は常々こう言っていたという。
「大坂の秀頼はいくじのない男であった。女房(千姫、勝姫の長姉だ)を敵方にとりかえされ、自分はたたきつぶされて死んだ。おれに万一のことがあったら、おれは女房と子供を胴切りにして馬じるしの先きにおし立てて、思うままに戦うぞ! ――続片聾記」
忠直の最も寵愛していた「おむに」という妾が、恐るべき嗜虐性をもった女で、これが忠直を嗜虐に駆り立てて行った。
この女の素姓については、片聾記や続片聾記にいろいろな説を伝えている。
ある夏の一日、忠直が城の天守に上って涼んでいると、風に吹き上げられた紙ぎれが窓からひらめきこんで来た。拾ってみると、美しい女の絵姿であった。忠直はその絵姿が気に入ってならず、こんな女がほしいと思うようになり、家臣らにさがし出すように命じた。家臣らは領内の三国《みくに》・金津・敦賀等の遊女屋をくまなくさがし、大坂や京まで出張してさがしたが、ついに美濃の関ケ原でそっくりな女をさがし出した。その地の問屋の娘であった。金にあかして召しかかえ、北ノ庄に連れて来たというのが一説。
大坂陣からの帰途、関ケ原で見染めて召しかかえたのである。髪の長さ一丈余、うるしのごとく黒かったというのが、また一説。
後の説が本当であろう。勝姫にはばかって、第一説のような小説的な因縁話を作為したのであろうと、ぼくは解釈している。
忠直はこの女を愛すること一方でなく、「一国にもかえがたい」というところから「一国」と名づけた。
この女が人の殺されるのを見ることを喜んで、その時は美貌益々冴えて来たというから、変質者に違いない。忠直はこの女をよろこばせるために、次から次にと新しくめずらしい殺戮の方法を工夫しては、人を殺した。
斬首。大量殺人。平たい大石をすえてその上に犠牲者を寝かして、大鉄槌で頭をくだいて殺す。妊婦の腹を裂いて胎児の成長程度を見る。盲人を捕えて藤蔓で耳を通してさいなみ殺す。庭にはりつけ柱を立てならべ、鷹狩の獲物を竹竿にかけならべるように人をつるして殺す。角櫓《すみやぐら》の窓から小姓をつきおとし石垣の角にあたって頭をくだいて死なせる。等々々だ。
小山田多門という姦佞な家来が、またその悪業を助けた。元来この者は徒士《かち》で、忠直の前に出る資格のない者であったが、こんなことから取立てられるようになった。
ある時、忠直が鷹狩に行く途中、城下の米橋の上を通りながらふと見ると、鴨が水に浮かんでいた。忠直はすばやく鷹を合わせた。鷹はまっしぐらに飛んで行ったが、間一髪に、鴨は水にもぐった。襲いかかった鷹は勢いあまって水におちた。すると、とたんに水中から大きな亀が首をさし出し、鷹を引きずりこんだ。
意外ななり行きに、忠直をはじめ供の者らはおどろきあわてて度を失っていると、ざんぶと水中に飛びこみ、亀をとらえ、鷹を引きはなし、鷹を左のこぶしにすえ、亀を右手に捕えて上って来た者があった。これが徒士として供まわりの一人となっていた小山田多門であった。忠直は小山田のこの働きが気に入り、その場で千石の知行をあたえて、近臣に召し出したというのである。
この小山田が、忠直の意を迎えるためにはどんなことでもして、その悪業の膳立てをした。
この時期には、忠直の機嫌がいつかわって手打ちにされるかわからないので、越前の家来らは毎朝家族と水盃《みずさかずき》して出仕したという。そのくせ、諫言などする者はなかった。
「武将たるものが人を殺すのは、つまりは勇武|敢為《かんい》の気性のいたすところであるから、たとえそれが乱気酒乱のためであっても、家臣の身としてかれこれ言うべきではない。諫言するのは、自分が殺されるのを恐れているようで、武士らしくない」
というのであったというから、戦国の風気のまだ濃厚な時代の武士共の心理は奇怪千万である。
しかし、これは平士《ひらざむらい》のことで、本多伊豆守や本多成重の両家来が、さまざま諫言したところ、忠直は、
「その方共は自分自分の領地にかえって、そこの政治をせい。当地のことは万事おれの量見でする。その方共はかまうな。この上、四の五の申さば、その分にはおかぬぞ」
と、どなりつけたので、両家老ともすごすごと引取った(続片聾記)。
こんな風で、忠直の暴悪はつのるばかりであったが、ついに勝姫を激怒させる事件がおこった。
よくわからないが、元和八年の冬頃のことであろう。来年、忠直は参覲のため江戸に出なければならないので、一国をはじめ愛妾ら十六人を弟の大和守|直基《ただもと》にあずけて、
「おれは近年将軍家のきげんを損じている故、江戸に行ったらば遠国に配流を申しつけられるかも知れぬ。その時は、この中の七八人を早速にその土地に送りとどけてほしい。のこりの女共の処置は重ねてさしずする。最悪の場合は切腹を仰せつけられるかも知れんが、その時は一人のこらず刺し殺してもらいたい」
と言った。
直基は一旦は引受けたものの、恐ろしくなって、
(拙者の母の許へは、いつも北の方(勝姫)の許から女中らがお使者としてしげしげと参ります。さればご愛妾衆をおあずかりしていることは忽ち北の方に知れて、北の方は拙者を不快にお思いになるでありましょう。それからまた万一の際のことを仰せつけでありますが、これもよく考えてみますと、実行不可能なことでございます。お約束申したことはご宥免いただきたく存じます)
という書付を差出した。
忠直は激怒して、小山田の弟でやはり取立てて寵用している忠源坊という者を呼んで、
「直基に知恵をつけた者を手討ちにし、直基も手討ちにする。直基の母はいのちは助けるが、耳と鼻を削《そ》いで長きなげきをさせる。寵愛の妾らは残らず刺し殺した上で本丸に入り、勝姫と仙千代丸(忠直と勝姫との間に生まれた嫡子)とを刺し殺し、本丸に火をかけ、炎の中に自害する」
という意味の起誓文を二通書かせ、一通は守袋に入れて首にかけ、一通は焼いて灰として水で飲んだ。
かほどまで忠直が怒ったのは、直基が勝姫のことを持ち出したからであろう。「うぬらは勝姫のことを持ち出しさえすれば、おれが恐れ入るとでも思っているのか! おれは決して恐れてはおらんぞ!」と、怒りを燃え立たせたのであろう。忠直には勝姫のことがいつも意識されていたと思われるのである。
忠源坊からこの忠直の怒りを聞くと、直基はふるえ上って、約束をむしかえすことにした。
これで忠直のきげんは直ったが、勝姫は知ってきげんを悪くした。
「大和守殿は大名であるに、人の妾の奉行役をつとめられるのかや」
と、悪口を言ったという。もちろん、直基がなぜまた引受けたかを調べたろう。調べれば、当然、忠直が忠源坊に書かせた起誓文の中に、「勝姫と仙千代とを刺し殺す」という文句のあったことを知るはずだ。
勝姫は怒って、早打ちをもって、これまでの忠直の悪行の段々、こんどのことを、江戸に訴えた。
ついに忠直は豊後の萩原というところに配流され、越前家は忠直の次弟の忠昌が新しく立てることになった。忠昌は越後高田で二十八万石の身代であったのだ。
その忠昌が越前に来たあとの越後高田に、仙千代丸が行って、光長という名になり、二十五万石の身代となった。秀忠将軍の外孫であるからのことである。他の大名ならたたきつぶされるところだ。
ところで、この光長の晩年、高田藩にまた騒動がおこる。越後騒動というのだ。よほどに騒動に縁のある家である。
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越後騒動
一
前回の越前騒動の末尾で述べたように、越前宰相|忠直《ただなお》の狂気的乱行が募り、幕府の怒りに触れて、豊後萩原に配流されたのは、元和九年のことであった。越前家のあとは、忠直の弟|忠昌《ただまさ》が立てることになり、忠昌は越後高田から越前に入った。同時に、忠直の子仙千代が高田に行くことになった。これは元和九年の翌年、寛永元年の春のことであった。
こう書くと、万事すらすらと運んだようであるが、実は相当な|もんちゃく《ヽヽヽヽヽ》があった。仙千代の生母が将軍秀忠の女《むすめ》勝姫であったことも前回で述べた。この人は忠直が配流《はいる》処分になった時、わずかに二十四という若さであったが、ずいぶん気の強い性質であったようで、幕府がそっくりそのままに仙千代に相続させず、削封して越後に転封を命じたのに立腹し、家中に命じて武装させた。幕府の役人らはおどろきあわて、いろいろとなだめて、やっと警戒を解かせたというのである。
他の大名ならこんなことをしては、どんなえらい目に逢うか知れないのだが、前将軍の女《むすめ》、当将軍の同母妹のすることなので、腫物にさわるようにあつかったのである。
この人には、仙千代のほかに亀子、鶴子の二人の女《むすめ》があり、後に亀子は後陽成天皇の皇子高松宮好仁親王に嫁《か》したが、親王と死別すると、王女二の宮とともに高田に帰り、高田に住むようになる。鶴姫は京の九条通房に嫁ぐ。
高田転封の命の下った寛永元年には、仙千代はわずかに十歳であった。それで、高田へは家老の小栗五郎左衛門と荻田主馬《おぎたしゆめ》とが、藩士らをひきいて行き、仙千代は母とともに江戸に出て、藩邸に入った。
一年のうち四、五カ月を雪に閉ざされていなければならない北陸道より江戸住いの方が好もしかったのであろう、仙千代母子の江戸住いはずいぶん長く、十年にもおよんでいる。
江戸住いの六年目、寛永六年の初夏、仙千代は元服して、将軍家光から一字をもらって光長と名のり、官位も授けられた。従四位下、左近衛|権《ごんの》少将、兼越後守。時に光長は十五。ずっと後年、従三位権中将となるので、歴史的には越後中将という名で呼ばれている。
それからさらに五年、寛永十一年になった。光長はちょうど二十《はたち》である。いつまでも江戸にいるわけには行かないというので、その二月、高田に入部《にゆうぶ》した。領地をもらってから十年も立って初入部するなど、他にはないことだ。家康の次男秀康の嫡孫光長にたいする特典というよりも、勝姫にたいする特典であったのであろう。
家格も、三家に准ずるものであったので、世間では四家と称したという。石高は二十六万石余あったが、後に開墾して内高は三十六万石にあまるようになったという。
十万石もの土地を拓《ひら》くのは容易なことではないが、高田近くには開墾に適した土地がずいぶんあったのだ。上杉謙信の時代には、今の高田市の東北方一帯の広漠たる土地は、大瀁《おおぶけ》という地名が示すように、沼沢に蔽われた一面の湿地帯であったことは記録で明らかだが、今日行ってみると、最も肥沃な美田地帯となっている。完全にこのようになったのは、長い年月によるのであろうが、うち十万石分はこの時代に干拓されたに相違ない。
どこの藩にも共通する苦しみは、領地の生産高がきまっているのに、出費が年々に増加して行くことであったが、高田藩は上述の通り、容易に開墾し得る土地が領内に広々とあった。最も恵まれていたといってよかった。だから、お家繁昌でずっといたのであるが、ここに転封になってから四十一年目の寛文五年十二月二十七日、冬の最中《もなか》、積雪一丈四尺(四メートル二四センチ)もあったというが、その日の午後から夜にかけて、大地震が数回あって、高田の町は恐ろしい被害を受けた。城も建物や城壁が相当くずれたが、武家屋敷の倒壊するもの七百余戸であった。火事もおこった。屋外に飛び出して、屋根をなだれ落ちて来た雪で死傷するものも多数あった。
死者は武士にして圧死したり焼死したりしたものが三十五人、その家族や奉公人にして死んだ者が百二十人あった。町人は千五百人もあったという。
藩にとって最も痛かったのは、就封以来、懸命にお家のために努力を傾けて、お家を繁昌させた家老の小栗五郎左衛門と荻田隼人(主馬の子)とが圧死し、岡島壱岐が負傷したことであったろう。
小栗は知行一万七千石、主席家老で、将軍にも見知られている人物であった。荻田隼人は一万五千石、糸魚川《いといがわ》城代をつとめ、岡島壱岐は一万石の身代であった。
二
この地震は、いろいろな点において、松平高田藩のエポックとなった。最も順調に繁栄をつづけつつあった藩の勢いが、いきなり挫折したことが一つ、藩政の中心をなす家老座の構成がかわったことが一つだ。すなわち、小栗五郎左衛門にかわって、その子美作、荻田隼人にかわって、その子主馬(祖父と同名)が家老となったのである。
小栗美作はこの時四十、男ざかりであった。国書刊行会本の列侯深秘録の中に「天和聚訟記」というのがある。これは越後騒動に関する古文書を集録したものだが、この中に高田家中の人々が美作のことを書いているくだりが所々にある。大方は悪意をもって書かれているのだが、それでも美作がなかなかの知恵者であったことは否定出来ない。度胸もあったらしい。きれい好きで、相当ぜいたくであり、威容を重んじたというから、貴族的な性格だったのであろう。また後に幕府の直裁を受ける際にあたっては、美作の弁論は流れるようであったというから、雄弁でもあったのである。
このような人物が、壮齢四十にして、はじめて藩政の局にあたることになったのであるから、相当活発にびしびしとやったことは、容易に想像出来る。
彼は先ず災害復興資金として、幕府から五万両を借りうけ、その半分を城下の復興にあて、町家の間口一軒につき、表通りは金一両、裏町は半額の二分ずつ貸しあたえたと高田市史にある。
この時美作は、城の復興をするはもちろん、市区改正も断行したので、現在の高田市街の形態は大体この時に出来たと、これも高田市史の言うところである。
このほか、同書に美作の業績として説くところが、数条ある。
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一、直江津の築港
この時代有名な土木事業者で、幕府にも召出されていた河村瑞軒を江戸から招いて、その設計によって、旧い港の改善をした。
一、関川の浚泄《しゆんせつ》
関川は信・越の境の妙高、黒姫《くろひめ》の両高山の間に発源して、諸川を合せながら北流し、高田の東郊を経て、直江津で海に入る川だ。美作はそれを深くさらったので、川口から十二、三キロも上流の田井、板倉(いずれも高田市の六、七キロ東南方にある村)あたりまで大きな船が上るようになり、米・薪炭・材木等を運びおろすに大いに便利になったという。
一、用水の開さく
中江用水、西中江用水、三カ村用水等。
一、開墾
美作の父の代から開墾には努力していたが、美作はこれを継続して、六万石余の新田をひらいた。
一、たばこの改良増産
中頸城《なかくびき》郡大鹿村では、「大鹿たばこ」とて、前からつくり出して、百姓らが自家用にしていた。美作はこの品種を改良させ、増産させて売り出した。このたばこは、特に江戸吉原の遊女らにもてはやされたという。吉原の遊女には越後の女が多かった。故郷の味をなつかしんだのであろう。
一、銀の発掘
魚沼郡八海山に銀山をひらいた。五、六年の間は産出がごく豊富で、最も多い時は年間七十駄もあり、家中の士らに配給したほどであった。魚沼郡の上田にも銀山をひらいた。高田藩ではこれらの銀をもって、貨幣を私鋳した。
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大体、以上のような次第である。美作の政治の手腕は卓抜したものであったことがわかる。
こんな風であったので、治績大いにあがり、高田の町は商工業がさかんになり、景気がよくなり、町の体裁も整い、この時代が高田の町の最盛期であったと、今に至るまで高田では言っている(高田市史)。
三
人間はその顔形がちがうように、心も、好みも千差万別だ。ある問題について、新聞の投書欄などに見られる人々の意見が、実に多種多様、全然正反対のものすら少なくないことに、われわれは驚かされるのである。だからこそ、昔の達人がこう言っている。
「千人の人間ことごとくに気に入られるのは姦佞の徒である。五百人に好かれ、五百人にきらわれるのが正しい立派な人間である」
小栗美作は家柄家老ではあったが、政治の手腕は最もすぐれたものである。家中の評判は大いによかりそうなものであったが、そうは行かなかった。
その原因の一つは、前記の、人間の好き不好きだ。聖賢でも迫害されることをまぬがれないのである。
第二は、美作がいろいろな点において、最も恵まれた境遇にあったことだ。家中第一の家柄であり、一万七千石という第一の高禄の家である。主家の小栗家にたいする寵遇も格別なものがあった。たとえば、美作は家督以前に別に二千石の知行をもらい、彼の弟二人もそれぞれ千石の知行を受けて家を立てていた。
知行ほど武士を刺戟するものはない。戦国時代の武士らさえ、知行のためにいつもいのち知らずな働きをしたのだ。武士の面目とか、武名とかいわれているものでも、せんじつめれば知行につらなるために、大事にされたのである。小栗家を見る家中の武士らの目には嫉妬と憤りがあったはずである。
正高にむすめが二人あったが、長女は九千八百石の片山|主水《もんど》に嫁し、次女は三千五百石の本多監物に嫁した。二人とも家老ではないが、片山は家中四番目、本多は六番目の高禄の家である。この姻戚らによって、小栗家の権勢がさらに高まったことは言うまでもなかろう。これはまた自然に人の嫉妬と憎みを招く。
美作は生まれつきの美男子である上に、相当なおしゃれ(当時の古文書には「きれい好き」とある)で、常に美衣をまとい、供まわりを立派にし、堂々とかまえていた。当時の武士の気風は朴実剛健を愛したから、気に入らなかったろう。「奢《おご》り者」と文書に書きのこされている。
才気煥発で、弁舌滔々たるものがあるから、人々のもさもさしているのがもどかしい。ついきめつけたり、独断的にことを運ぶことが多かったはずだ。人の憎みを集めたことは当然と言ってよい。
第三に、美作が寛文三年、三十八の時、藩主光長の異母妹お勘《かん》と結婚したことだ。光長の父忠直は豊後の配流地で、妾に二男一女を生ませた。お勘はその一女である。美作は三十八にもなっているのだから、初婚ではあるまい。妻に死なれて再婚したのであろう。これは美作の父五郎左衛門が死ぬ前々年のことである。父の許可を得ての上であるはずだ。従って、美作に別段な野心があったろうとは思われないのだが、美作にたいする憎悪がつのって来ると、美作が最初から野望を抱いてこうしたと考えられるようになった。お勘《かん》に化粧料として三千石の知行がついたのも、嫉妬の材料になったろう。武士には物質欲のまるでないまことにさわやかな人物が多くいたことも事実だが、知行のこととなるとおそろしく神経質になる者もまた少なくなかったのである。今日のサラリーマンは、それほど同僚の昇給を気にしないと思うが、どんなものであろう。
以上のようなことで、家中の人々が美作にたいしてあまり好意を持っていないところに、決定的な事件がおこった。
美作は家老になってしばらくすると、大震災によって打撃を受けたお家の経済を立てなおすという名目で、知行制を廃して蔵米《くらまい》の制度にした。
あまりわかり切ったことを説明することになるので気が引けるが、読者の中には歴史時代のことは知らない人が意外に多いから、がまんしてもらいたい。知っている人は飛ばしてお読みありたい。
知行というのは本来は支配するという意味のことばである。従って千石の知行というのは、千石の総生産高(これを草高《くさだか》という)のある土地を支配することである。知行主は百姓に課税して取上げ、それを自分の収入とする。千石全部とりあげては、百姓の生活がなり立たないから、その分だけをのこしていく割かを取上げるのだ。いく割にするかは、土地の肥瘠《ひせき》にもより、知行主のやり方でも違うが、一番多く行われたのは四公六民であった。つまり千石の知行地なら四割の四百石が知行主の収入になり、六百石が百姓の取り分になるのだ。これにかぎったことはない。五公五民、六公四民、ひどいのになると七公三民などというのもあった。
これに対して蔵米取りというのは、藩の米蔵から現米をもって支給されるのだ。めんどうがないだけ、この方がよさそうだが、実際はそうでない。蔵米取りでは定額以上は一升一合の融通もきかないが、知行はうんと弾力がある。千石の知行地というのは、何年間の平均をとって千石という生産高をきめたのだから、豊作の時には千二三百石もとれる。だから、毎年の収穫期の直前に行う毛見《けみ》の時、その年の収穫高を多く査定すれば、例年の通りの四公六民の率であっても、それに比例して知行主の収入は増えるのである。
この他にもうんと利点がある。知行地の民に夫役を課していろいろ労役させることが出来る。百姓の二三男を中間、小者に召使うのは普通のことだ。薪炭や秣《まぐさ》などをわりあてて持って来させることも出来る。いよいよ窮した時には金を課することだって出来ないわけではない。
こんな次第だから、美作のこの新給与制が家中に歓迎されようはずはなかった。
美作はこの点を考えて、藩士らが自発的に申出る形をとらせることにしたが、それは明治初年の版籍奉還や、この大戦直後の農地改革と同じだ、実際は絶対命令だ、藩士らはいたし方なく、新給与制によりたいと願い出たが、心中の不平は燃えるようであった。
「うらめしいは美作殿」
と、美作にたいする悪感情は最も深刻なものとなった。
四
延宝二年、光長の嫡子下野守|綱賢《つなかた》が四十二歳で死んだ。光長には女の子は三人もあって、それぞれに大名の家に縁づいているが、男の子としては綱賢一人であった。しかも、その綱賢には一人も男の子がない。光長はこの時六十歳、この上子供の生まれることは考えられなかった。
「嗣なきは絶つ」
というのは、幕府の厳制だ。これはだんだん甘くなって、うまく工作すれば家断絶は免がれるようになったが、この頃まではまだ額面通りに励行されていた。高田家の重臣らは養君を立てることにして、よりより集まっては相談した。
光長に血の近いものが、当時高田に三人いた。
一人は永見|大蔵長良《おおくらながよし》だ。これは忠直が豊後の謫地で妾に生ませた二番目の子だ。光長には異母弟である。高田に来て二千石もらい、永見を名字としていた。
「永見」とは、高祖秀康の生母お万の親もとになっている家の名字である。お万は村田という氏も素姓もない藪医者の家の生まれであったので、秀康を生んで家康の正式の妾となると、三河の池鯉鮒《ちりふ》(今の知立)明神の神職永見志摩守吉|英《ひで》という人物を仮親に立てたので、「永見」はこの家ではなかなかの由緒ある名字になっていて、忠直の豊後で生んだ子供ら二男一女は、高田に来ると皆永見姓を名のった。
次の一人は前項の大蔵長良の兄、永見|市正《いちのかみ》長頼の遺子|万徳《まんとく》丸。市正は高田に来て三千石もらっていたが、狂人に近い変質者であったという。この七年前に三十八歳で病死していたので、その遺子の万徳丸が光長に血縁の近いものとしてのこっていたのである。すなわち光長から見れば甥である。
三人目は、美作の二男の大六だ。美作にはこの上に右衛門という長男があったのだが、四つで死んだので、大六は次男とはいいながら、美作のあとつぎであった。これは忠直の娘お勘の子であるから、光長にとっては甥にあたる。
この他に、尾州二代目の光友の次男義行、後に美濃海津郡|高須《たかす》の領主となって三万石を食《は》んだ人であるが、この人を養子に迎えようという意見も出た。この人は光長と同じく家康の曽孫だから、二人は二いとこにあたるわけだが、いきなり尾州家の二男殿のことが出て来るのは、相当異様である。あるいは、これは幕府の役人らが参考までに持ち出したものかも知れない。しかし、家の継嗣定めで最も重んぜらるべきは血の親疎であるから、この人のことはほとんど問題にならず、一応議題に上ったというだけですぐ消えたろう。
次は小栗美作の子供の大六であるが、このことについては、後にこの家の騒動が幕閣の問題になった時、美作は幕府役人にたいして、こう弁解している。
「永見市正・大蔵・私の妻のお勘の三人は一伯(忠直)殿の実子であります。それ故、私がまだ家督せずへや住みの頃にも、太守様ご父子がしばしば私のところに参られました。その後、私の妻が病死しましたので、太守様御父子は大六を不愍《ふびん》に思われ、しげしげとお城へお呼びでありました。かかることから、大六を養子にされるのであろうかというような風聞も立ったようであります。その後、大蔵殿の娘に大六をめあわして聟に迎えようとの話がありましたが、私は長男右衛門が病死し、今は大六ひとりが子でありますので、ことわりました。大六を太守様の養子云々のうわさも、こんなことから立ったものと存じます」
この弁解はこのままには聞けないが、この時までは大六を養君にしようという説はそれほどのものではなかったとぼくは思う。たとえ、美作が内心ではそう思っていたとしても(その可能性はかなりにありそうだが)、知恵者のことだ、自分の評判が悪くなっている時、強力にそれを押出す道理はなかろう。他の老臣らにしても、さなきだに権勢ある美作に一層権勢をつけるようなことに賛成するはずもない。かれこれ総合して、大六のことはほとんど議題にものぼらないほどであったと考えてよいのではないかと思う。
そうなれば、のこるところは、永見大蔵と永見万徳丸の二人だけが候補者だ。血の親疎をもってすれば、大蔵の方に歩《ぶ》があるが、大蔵はすでに五十を越えている。もはや老人といってよい。これに反して万徳丸は十五の少年だ。
「万徳丸様こそ、しかるべし」
と、決議され、光長もまた了承した。
幕府の許可ももらい、正式に養子となり、元服して、四代将軍家綱の名の一字をもらって、綱国という名になり、三河守に任官した。
五
こうして主家の養君がきまると、美作は最も鄭重に万徳丸をもり立てる一方、家中の人気を回復することに努力した。光長にとりなして荻田主馬を大老に昇進させ、片山主水の子の式部に加増をくれるなどのことをして、重臣層の心を攬《と》ると共に、家中一般にも、
「給与方法を蔵米制に改めたためにお家の経済は大いに余裕が出来た」
という理由で、高百石につき大豆二石、役金二両の割で配給した。また、自身|士町《さむらいまち》を見まわって、破損のはなはだしい家に住んでいる者を見つけると、新築の屋敷に移転させるなど、大いに心を用いた。
これらのことで、一時極度に悪化していた美作にたいする家中の感情も大いに緩和されたと、高田市史は「頸城《くびき》郡誌稿」を引いて書いている。
この美作の人気回復策は、給与制度の改革やなんぞで藩士らの機嫌が悪くなっているので、藩政の機略として必要だったのであろうが、ある面では、かえって家中の人々の心の底に、
「美作殿は何をもくろんでいなさるのじゃろう」
という疑惑を吹きこんだようである。
この疑惑は当座は大したことはなかったが、後に美作にとって大へん不利なことになる。
家中の人々の疑惑をさらに募らせたのは、美作のわが子大六の育てようが、あまりにも鄭重なことであった。
その育てようについては、後年、幕府からの質問に応じて、岡島壱岐がこう答えているくらいだ。
「美作は、せがれ大六を幼少の頃から諸事ぜいたくに育て上げて、自分のせがれにたいする態度ではありませんでした。たとえば、若殿三河守(万徳丸、綱国)が国許にお出での頃も、これにお目見えさせませんでした。家中の者が大六に面会する時は、皆お目見えの格式で、進物や、太刀目録などをもって行きました。その様子は朋輩の対面の作法ではなく、主従の作法でありました。かくて、日を追って様子が重々しくなり、「大六様」と「様」をつけて呼び、「様」をつけて書かねばならない空気になり、大六が家中を往来する場合は、供廻りを美々しくし、供槍まで持たせるようになりました。家中の往来に供槍を持たせることは、前の若殿綱賢様でさえなさらなかったことであります。また、大六は家中の士分の者と路上で行きあった場合、相手が歩立《かちだ》ちであれば、おのれは乗物を出て答礼すべきが礼でありますのに、すべて乗打ちであります。如何存候哉、私共には出合不申候様に仕り、近付にも不罷成候事」
末尾は「大六はどう思ったのでしょうか、拙者とは出逢わないようにしていましたので、知合にもなりませんでした」と、直訳するのだが、この言い方には、もし自分が路上で行逢うようなことがあったら、たしなめてやるのだったのに、先方がその意をさとり、避けて出逢わないようにしたので、どうにも出来なかった、まことに残念である、という気持が見える。
こんな風なのであるから、家中の人々から、やがては大六を主家の後嗣にするために、今のうちから主従の別を立てておくのだと、疑惑されたのも当然である。
これは家中の人々の単なる疑心暗鬼ではなく、実際、美作はそう考えていたかも知れない。養君綱国はまだ少年ではあるが、これに万一のことがあれば、また継嗣問題がおこり、その際は大六が唯一の候補者となることは確かなのだから。しかし、それにしても、美作ほどの知恵者にしては、やり方が浅薄である。もし彼に将来のために計るつもりがあるなら、かえって質実恭敬にしていなければならないところだ。美作は知恵者であるとともに、天性の貴族主義者だ。その貴族的性質がついこんなことにしてしまったのであろうか。
しかし、前述したように、この当座は、このためにどうということはなかった。疑惑は疑惑だけにとどまった。
それはさておき、藩の経済状態は実際には決して好転していなかったのだ。いろいろと金のかかることが多かったからである。
第一は、光長に金がかかり過ぎた。光長はほとんど江戸でばかり生活していた。十歳の時から二十《はたち》まで江戸で暮した光長にとっては、一年のうちの少なからぬ期間を雪に埋もれていなければならない寒国の生活は好もしいものではなかった。普通の大名なら交代の期になっても帰国しないで江戸にとどまっているなどというわがままは許されないが、家柄が家柄で、光長にはそれが出来たので、めったに国許にかえらず、江戸住いしていた。
そうでなくても、大名の江戸住いは金のかかるものなのに、光長の場合は一層金のかかる事情があった。彼の前半生は母の勝姫が全権をにぎって采配をふっていた。女はつましいものだというが、それはつましくするよりほかのない場合のことで、ぜいたくの出来る立場にいる時、女性はものすごくぜいたくになる。徳川幕府の大奥の女中はそのよい例である。政治上緊縮節約が必要で、表《おもて》では皆が必死の努力をつづけている時、奥女中らはこの方針にいつも大反対で、どんな老中もここの費用を削減することが出来なかった。
勝姫は、高田藩全部――藩主光長をもこめて――の支配権を持って、しかもぜいたく好きな奥女中群にとりまかれているのだ。生活全体が際限もなくぜいたく奢侈になって、金のかかることが一通りではなかった。
勝姫は寛文十二年、七十二で死に、光長は五十七にしてはじめて母の支配から脱することが出来たわけだが、母の定めおいた生活が身についたものになって、改めることが出来ず、ずるずるとぜいたくをつづけていた。
第二に、開墾や、築港や、用水溝の開墾や、河川浚泄等の事もずいぶん金がかかった。これらはいずれも設備投資だから、やがては大利をもたらすのだが、当座はなかなか大へんだ。
こんなわけで、給与制度を改めたくらいでは、どうにもなりはしなかったのである。
元来、高田はそのはじめに家康の第六子忠輝が封ぜられたところで、城も忠輝が築いたのである。忠輝はここと信州川中島四郡とを領有し、その高七十五万石もあって、城付金を十万両もこしらえた。忠輝は大坂落城の直後に家康の怒りに触れ、家断絶、その身は伊勢の朝熊《あさま》山その他に転々と移されて幽せられ、悲惨な生涯を終るのであるが、城付金はあとにのこされ、次に来た酒井家も、光長の叔父の忠昌も、全然これに手をつけず、光長に至った。光長の時代も、美作の父の五郎左衛門が首席家老の間は手をつけなかったが、美作は手をつけ、この頃にはもうほとんどなくなっていたと、高田市史は「頸城郡誌稿」を引いて述べている。
美作としては、藩財政の立直しは焦眉の急で、前述の給与制度の改革のほかに、京都や堺から経済や算法に明るい町人らを呼びよせ、これを経済関係の役人にとり立て、自ら収納司の大元締となって、大いに努力した。上方から町人を呼びよせたのは、この者共が京や大坂や堺等の富商からの金融の便を持っていたからでもあろう。
美作はこの町人出身の財務官らの知恵で、藩の収入をふやす方法をいろいろ工夫した。一体、高田はここに城下がはじまって以来、郷村の豪農や城下の大町人らから御用金を徴収したことはなかったのだが、この時はじめてこれを徴収した。
「よそではどこでもやっていることでございます」
と、町人出の財務官共が知恵をつけたのであろう。
城下の市場の商人から冥加《みようが》金、婚礼や養子をとる場合も税、小前《こまえ》の家からは「かまどがかり」という税を取った。窓《まど》役(窓税)、鍵《かぎ》役、箸《はし》役、漆《うるし》役等まで定めて、それぞれ徴収した。その新しい税目が三十三種目にもおよんだ(聚訟記の本多七左衛門覚)。
民には普通の税さえ負担に感ぜられるものであるのに、こんなに新しい税を課せられてはたまったものでない。一挙手一投足に税がかかると同じである。民が藩をうらむことは一通りでなくなった。
ここまで来ると、さわぎのおこるべき要因は全部そろったのだ。しかも、それは徐々に熟して行った。
六
美作は知恵者であり、貴族的性格であり、藩中第一の門閥家であり、主席家老だ。どうしても独裁的になる。重臣らとしては、それがにくい。荻田主馬、岡島壱岐などの重臣らはしぜん相結んだ。この人々が、美作憎しという気持で、美作のやっていることを見ると、何から何まで気に入らない。彼らは、
「美作は太守様の側室と結び、太守様を隠居させ申す計画をめぐらす一方、若殿綱国様を遊興に誘《いざな》い、ふけらせ申している。これは綱国様を廃して、かわりに大六を養君に立てんためである」
と考えた。以前はそれほどには考えなかった大六のことが、だんだん疑惑の色を濃くして来たという次第。
こうなると、美作は不忠の臣だ。除かなければならないと、思い立った。
永見大蔵もこの派の一人となった。彼は光長に最も近い血縁者でありながら、年をとりすぎているという理由で、継嗣たることをはずされたのが残念で、不平満々でいたのだ。
やがて、この人々は同志の糾合にかかる。
一体、独裁者は、気に入った者だと思い切った抜擢をするものであり、抜擢された者にすれば恩義を感じて、益々よく働いて、益々気に入られ、親分子分の関係になり、このような関係の人が多ければ、それが閥となるわけだが、これは閥外の者にとってはよい気持のものではない。
「人を用いるに私情をもってし、おのれに媚びる者を依怙《えこ》ひいきする」
と解釈するのだ。
美作にも、抜擢して子分のようにしている者が相当あった。安藤太郎左衛門、岡島図書、林内蔵助の三人には五百石の加増をくれて小納戸《こなんど》役としたというし、安藤治左衛門などという人物は四十石取りの小身者だったのを次第に引き上げ、ついには千五百石の大身とし、年寄役(家老)としたという(花見朔己「越後騒動」)。
こんな風であったから、美作をおもしろくなく思っている者は多数いる。これらは荻田主馬や岡島壱岐らの説くところを、きわめて容易に納得した。
自分の欲得を離れて、純粋にお家のためを思う忠誠派も賛成する者が多い。この人々は、
「ご領内の民は悪政のために生色がない。聞いたこともないような新税を立て、誅求するとはなにごとであるか。これは皆美作の責任である」
と、激論した。
美作がかねてから、おしゃれでぜいたくであるのも、もちろん論難の的《まと》になる。
「上の好むところ、下これに習うという。美作がおしゃれでぜいたくで、いつも美衣、美食するので、家中の者が全部|分限《ぶんげん》不相応なことばかりして、皆困窮するようになったのだ」
と言い立てる。
美作が別荘を営むにあたって、田畑を潰し、寺院を移転させ、周囲に高い土手を築き、堀をうがったことがあったが、このことなどは最も強く非難された。
こうして、糾合された藩士らは八百九十名もあったという。彼らは自らの党を「お為《ため》方」と称し、美作派を「逆意方」と言った。「お為《ため》」とは、殿様のおための意である。それが幕末あたりなら、誠忠党、あるいは正義党と名のり、敵党は姦党などと貶称《へんしよう》するところであるが、この時代までは武家社会に漢文学の影響がまだそう浸《し》みていなかったのであろう。
美作派は百三十余人あり、その中には美作の妹聟である本多監物、渥美《あつみ》久兵衛、小須賀藤兵衛、林内蔵助、安藤治左衛門、野本右近等がいた。
世に伝えられるところによると、美作は先ず幕府当局の手入れにかかって、大老酒井忠清を買収したという。当時の将軍は四代将軍家綱、至って凡庸な人であったので、万事を酒井大老にうちまかせ、大老の言うことなら、何でも「そうせい」と裁可するというので、下々では「そうせい公」とあだ名していたという。だから、酒井大老の権勢は飛ぶ鳥も落すばかり、その邸が江戸城大手の下馬先にあったところから「下馬将軍」とあだ名されていた。|わいろ《ヽヽヽ》が大好きで、
「金銀は人の貴重するものだ。これを人に贈るのは、真心あればこそのことである。自分は上様の名代である。その自分に人々が金、銀をくれるのは、上様にたいする忠誠心のあらわれである。そういう人が多ければ多いほど、徳川家のために慶祝すべきだ」
と言ったという話さえ伝わっていて、当時も、また後世でも、大悪人のように言っているが、こんな工合に考えられはすまいか。
この時代の賄賂|盛行《せいこう》は、自然の風潮である。徳川幕府のような強力な独裁政権がはじまって、七十余年もつづき、しかも、永久に衰えそうもないとあっては、その政権の要路にあるものに取り入ってごきげんを取結び、利得したいとの考えをおこす者の多数出て来るのは、自然の勢いだ。酒井忠清は大老としてその要路の頂点にいたのだから、これに賄賂の集中したのも、これまた自然である。
ぼくは「伊達騒動」の中で、彼の多数の子女が一人をのぞいて皆正妻の所生であり、その一人は彼が妻を失って後妻を迎えるまでの、正配のない期間であったことを述べて、ことに女に関してはまことに律義な人であったと書いたが、実は婦人関係だけでなく、諸事に愚直なくらい律義な人ではなかったかと思われるのだ。そう仮定して、眺めて行くと、彼の生涯のことも、またこの越後騒動も、すらりと解釈がつくのである。
だから、賄賂にたいする、彼の奇異な哲学も、あたかも徳川家の勢威が隆々と張って万代不易の概を見せている時ではあり、自分の許に雲集して来る賄賂を見るにつけても、
「これはお家のご威勢が盛んなればこそのこと、もしご威勢が思わしくないなら、誰がこんなにくれよう。ありがたいこと、ありがたいこと」
と考えるところから出たと、解釈されるのである。
ともあれ、酒井忠清という人は、家綱将軍時代の後半、大老として最も権勢のあった人であるが、才のある人ではなかった。才のない悪人はない。取り立てて言うほどの悪いことはしていない。天性愚直な人が、家柄によって権勢の位置に上ったに過ぎないと解釈していいかと思う。
さて、美作はどんな手段で酒井大老にとり入ったかといえば、高田藩の江戸|聞《きき》番で高梨加兵衛という者がいた。美作党であった。役目がら、幕府の重職の家に出入りし、重職の家の重臣や用人らと懇意になっていたが、酒井家の出頭人で勅使河原《てしがわら》三郎兵衛という者が勝手元不如意でこまっていることをさぐり知って、美作に告げた。
美作は、得たりと、高梨に命じて、金銀をおしまず贈らせて、勅使河原の気を攬《と》り、大老に取りなしてもらった。大老へ贈賄したことは言うまでもない。
こうして、幕府方面を工作した後、美作は小身者から引上げて家老の一人にした安藤治左衛門に旨をふくめた。
「この上は、大六をお家の家門|並《なみ》に取立ててもらい、家中一統の崇敬を集めるようにする必要がある。そうしておけば、他日大六を養君にする時、人々の心の抵抗が少ない」
「かしこまりました。よいご思案でございます」
治左衛門は引受けて、光長のごく機嫌のよい時を見はからい、このことをすすめた。光長は大六は美作の子ではあるが、その母は自分の異母妹お勘であり、早くお勘に死別したのを不愍に思って、その幼時一しおいとおしがったこともあって、かねてから好意を持っている。血縁上から言っても、愛情から言っても、家門並に取立てるのはさしつかえないと思った。
「よきにはからえ」
と言った。
早速に手続きをすませて、大六は越後家の家門|並《なみ》となった。
このことは美作の権勢をさらに上げたが、安藤治左衛門は美作のために一計を案じて、大六様が家門並に仰せつけられたについて、家中一統のお目見えを仰せつけられると発表させ、家中の士《さむらい》らに謁見を許した。それぞれに礼物をそなえて拝謁するのである。
美作の権勢は上るばかりで、追従《ついしよう》の徒が相ひきいて進物をたてまつり、門前常に市《いち》をなすの有様となった。
美作は、安藤治左衛門とはかって、光長の奥殿で最も勢力のある、いなか、野村の二上臈を招請して、
「太守様もご老齢のことでありますれば、数年ならずしてご隠居遊ばされるでありましょう。そうなれば、おあとは若君綱国様の世となるわけでありますが、失礼ながら、お二人はその世となってもご安心であるとの保障がおありでしょうか」
というようなことを言って、二人を不安におとしいれた後、
「拙者のせがれの大六は、このほどご家門並に仰せつけられましたが、大六を太守様ご隠居後の養君となし下されば、大六はお二人を御養母と仰ぎ、お二人のご老後を安全に送らせ申すことを約束させましょう。太守様にはすでにご養君がお出でではありますが、万一の場合を考えれば、もう一人ご養君があられた方がお家のためにも安心であります。そのもう一人のご養君に大六をと考えるわけです」
と説いて、二上臈の同意を得た。
こういう工作の結果が、寛文七年正月五日、光長の大六邸へのお成りとなり、その宴半ばに二上臈が愁訴して、光長は大六を隠居後の養子とすることを承諾した云々。
以上は世に伝える越後騒動の語るところであるが、話が出来過ぎているようである。
前にも引いたが、「天和聚訟記」は、越後騒動の予審調書的もので、この事件の関係者らの口書《くちがき》や目安《めやす》を全部集めたもので、敵味方の口供が集まっているのだが、その誰の口供にも、以上のようなことは書いてない。
酒井大老籠絡の件は、こと幕閣の中心人物に関係したことだから、触れてないのが当然としても、大六を家門並にしたということもなければ、二上臈のこともない。わずかに似たこととしては、大六の養子云々のことと、大六に対する家中の士のお目見え云々のこととがある。
大六の養子云々のことについては、前に美作の弁解の辞を書いた。思い出していただきたい。美作は光長が大六を養子にしたとは言っていない。大六は独り子だから他家の養子にやるつもりはない、しかし、かくかくの理由で、養子説が家中に立ったのは理解出来るといっているに過ぎない。
これについては岡島壱岐も、幕府当局からの問いに応じて、こう答えていることが、聚訟記に出ている。
「大六の兄右衛門は十年以前に死去しましたが、その存命の頃に、下野守(綱賢、光長の実子)殿の養子にしようと、美作は工作しました。しかし、これは故出羽守(松江藩主松平直政、秀康の三男)と相談の結果、調いませんでした。こんなことを考え合わせれば、その後も美作には大六を養君にしたい気持があったように考えられます」
というのだ。要するに、想像である。ひがみと考えてもよい。岡島は美作の敵党の首領株の人物なのだが、それすら、この程度にしか言えないのである。
大六にたいする家中の士のお目見え云々のことについては、これまた美作の敵党の首領株である荻田主馬の文書があって、これも前に掲げた。これとても、大六が家門並になったから、お目見えの格式で謁見をはじめたとは書いていない。幼少の頃から貴重して育て上げ、その儀式でなければ人に会わせなかったと書いているのだ。
かれこれ考え合わせるに、以上のことは後の物語作者らによって作為されたものと思われるのである。もっとも、ぼくは美作に全然野心がなかったとは思っていない。大六は光長のまさしき甥なんだから、時運際会してそうなることは最も望ましいことと考えていたに相違ないとは思う。しかし、積極的に立入った工作をしたとは思われない。何かあれば、「聚訟記」に出て来ないはずはないと思われるからである。
七
お為派の連中の美作にたいする憎悪は、次第に激烈なものとなり、ついに延宝七年の正月はじめ、荻田主馬、永見大蔵等の、その派の幹部らが光長に目通りして、
「近年、お国の仕置がよろしきを得ぬことは、家中の士《さむらい》共は申すまでもなく、ご領内の民百姓に至るまで、皆痛嘆しまかりあることであります。ご登用の人物はいずれも姦曲の小人のみにて、秕政《ひせい》百出、民は皆お家をうらんでおります。申すまでもなく、これはすべて小栗美作の政道の過《あやま》ちによるのであります。願わくは、美作に隠居を仰せつけられたく願い上げます」
と、いとも強硬に上申した。この際、彼らは、これは全家中の輿望《よぼう》であると称して、同志八百九十名の誓書を光長に見せた。
光長はおどろいた。彼が美作を信じ、美作の人物を買っていたことは、聚訟記にある彼の文書によって明らかだが、知恵も機略もない人なので、おろおろするばかりで、ついに押切られ、美作を隠居させてよいという許可をあたえた。
永見と主馬は、御意のかわらぬうちにと、美作の弟の兵庫と十蔵とを呼んで、兄を説いて隠居させよと厳談し、ここでもまた八百九十名の起誓文を見せた。通説では連判状ということになっているが、あとでこの誓書を返してもらった者がいるから、起誓文であろう。きずきの和紙八百九十名分の起誓文というとおびただしいものだ、厚さ十センチくらいはあったろう。
二人は圧倒されて、承諾した。
美作は弟らから話を聞くと、正月八日に隠居を願い出たが、その夜、かねて藩の金蔵に保管を頼んである金子を引渡してくれるように、金奉行に申し入れた。
金奉行は、年のはじめでまだ蔵開きの儀式も済んでいず、また夜中のことでもあるので、
「しかじかで、お渡し出来かねます」
と返答したが、美作がせっせと使をよこすので、困《こう》じはて、家老の一人安藤治左衛門(前出、美作の党与《なかま》だ)へ、しかじかと美作様から仰せ越されますが、いかがいたすべきでござろうと伺いを立てると、安藤は、渡すがよいとさしずした。それで、金奉行は金蔵をあけ、あずかっていた金を美作の使にわたした。金額は千両だった(聚訟記中の岡島壱岐の答弁書と美作の答弁書)。
翌九日の夕方には、美作の家来で、旅支度して、町中で旅用意のものを買い求める者があり、また、美作の与力の長谷川曽右衛門という者が、実兄の尾崎五郎兵衛の家へ来て、
「美作殿が当地を立退かれることになりまして、拙者もついてまいりますので、お暇乞いにまいりました」
と、あいさつして帰った。
これらのことが、ぱっとうわさになった。
「美作め、さては逃げ出すのか!」
と、お為派の者は興奮して、美作の屋敷におしかけ、城の大手の広場までその人々で埋まるというさわぎになった。正月九日といえば、高田はまだ雪があったろうのに、激情にかられた人々には何のブレーキにもならなかったのであろう。
越後騒動を忠姦正邪の争いとして、小栗美作をあくまでも姦悪な人間であったことにしたい人々は、夜中の金受取りも、小栗の家来や与力の者が今夜にも旅立ちそうなふりを見せたのも、皆相手方をさわぎ立たせることによって非《ひ》におとす、小栗の腹黒い謀略であったとする。
しかし、ぼくはたとえこれらが小栗の謀略であったとしても、これを小栗の姦悪の証拠とは思わない。もし小栗が自分には非はないと信じているのに、情勢に押されていたし方なく隠居を願い出たのであるとすれば、公の裁判に持って行く工夫をするのは当然のことだ。その手段として幕府の注意を引きつけるために敵党の連中がさわぎをおこすように手を打ったのもまた当然のことだと思う。その不屈な魂と知謀とには感心さえさせられる。
ともかくも、さわぎはおこった。しかし、美作はまるで相手にならなかった。彼自身も奥座敷に引っこんでいたが、家来共もかたく戒めて、門の扉をとざして、引っこませておいた。屋敷外に居住している与力や家来共が、急を聞いて駆けつけて来る者があったが、それらは皆すぐ引取らせた(美作の答弁書)。
こういう騒ぎが美作の門外と大手前の広場との間におこっている時、荻田主馬が登城して光長の前にまかり出、
「美作が逐電しようとしています。長い間の姦悪が暴露するのを恐れてのことと存じます。討ちとめ申すべきであると存じます。お許しをたまわりたく」
と要求したところ、光長は、
「美作はその方の申すようなものではない。たとえ立退いても、引きとめたり、討ちとめたり、いたしてはならぬ。そのままに捨ておくがよい」
と、答えた(聚訟記中の光長書上)。
光長の命令があれば直ちにおしかけようと犇《ひしめ》いていたお為派の連中だが、それは得られない。また美作の屋敷が反抗的にでも出れば、それをきっかけにしてワッと攻撃に出ることも出来るのだが、ぴったりと門を閉ざし、唖のように静まり返っているのだ。どうすることも出来ない。わいわいひしめいている間に、夜が白んで来た。人々は引取るよりほかなかった。
光長は美作の隠居願を聞きとどけて、後任には美作の姉聟の片山主水をつけて家老職としたが、美作にたいしてはまた出来るだけの好意を示した。
すなわち、大六を家督させたが、それは美作が予期した以上の優遇であったと、岡島図書が答弁書中に記しているほどである。
正月十七日には、家中の士《さむらい》らにじきじきに、「美作のことについてさまざまな流説があり、大六を余の養子にしたなどとも言いふらされているが、右は根も葉もない虚説である」と言い聞かせ、人々の興奮をしずめることにつとめた(光長書上)。
これで一般の士らは一応しずまったが、頭《かしら》立った連中はそう簡単に行かない。益々ひそかに誓紙を取り集めて決心を堅める。国許のこの風を聞いて、江戸屋敷でもそうなった。この者共は、越後家の一門や姻戚の大名らにも事情を告げて、いよいよ騒ぎを大きくする。
光長は怒って、重立った者共を呼んで、きびしく叱りつけた。その者共が恐れ入って、わびごとを言うので、
「しからば、重々申訳なし、以後一切余の下知にそむかぬとの一同の誓紙をさし出せ」
と、要求した。誓紙は提出された。しかし、一向態度はかわらない。
ついに、光長はかんにん袋の緒を切り、幕府の老中に訴え出た(光長書上)。この時、光長の使をうけたまわったのは、片山外記と渡辺九十郎という者であった(花見朔己「越後騒動」)。
大老酒井忠清は、大目付渡辺大隅守綱貞に命じて吟味させた。渡辺大隅守は、事情を聴取した後、越後家の一門である松平大和守直矩や同上総介近|栄《ひで》の意見も聞いた上で、和解せよと申渡した(高田市史)。
片山外記と渡辺九十郎とは、この申渡しの覚書をたずさえて高田に帰り、美作の屋敷に重立った関係者らに集まってもらって、読み聞かせた。
お為派の者としては、単に和解せよとだけでは、内心は不服であったにちがいないが、公儀の裁きとあっては、了承するよりほかはない。
「かしこまり申した」
と、一先ずおちついた。
ところが、お為派の小野里庄助という者が、
「この前江戸から持って帰って来た公儀申渡しの覚書というのは、実は美作の偽作したものである」
と言い触らした。
この小野里庄助は覚書を持って帰って来た渡辺九十郎の兄であったから、皆これを信じた。この渡辺九十郎という男は、金奉行渡辺金右衛門の子で、光長に側小姓としてつかえたが、才気のある男だったので、この頃は立身して三百石の知行をあてがわれ、大横目《おおよこめ》になっていた。自らの才能をうぬぼれて、美作をたおして代ろうとの野心をおこし、兄と相談してこういう流言をはなったのだと、高田市史は「御城主略年譜」等の書を引用して書いている。
ともあれ、高田家中には騒ぎが再燃して、四月十八日にはまたお為派の連中が集まって、不穏の色を見せた。
この日、美作の家の下女が町へ来て、
「えらいことじゃ。今夜、お屋敷で火事がおこる。どうしよう」
と、泣きながら言う。
人々がおどろいて、
「そらまたどういうわけじゃ」
と聞いたがはっきりしたことは言わない。
「おれこまる、おれこまる」
というだけだ。
このうわさがぱっとひろがった。
お為派の連中は聞きつけ、
「これは、美作の屋敷で、失火をこしらえることになっているに相違なし」
と判断した。
美作がなんのために失火をこしらえるか、そんなことは誰も考えない。油紙に火がついたように、わっとばかりにさわぎ立ったのだという(聚訟記の岡島壱岐の答弁書)。
光長は鎮撫につとめ、やっと一応の静まりを見たが、そのうち、参覲の期が来たので、荻田主馬、片山外記などというお為派の首領株の者を連れて江戸へ出た。この連中を連れて行けば、あとは首のない蛇のようなもので、自然に静まると思ったのであろうが、そうは行かなかった。さわぎは大きくなるばかりであった。そのはずである。渡辺九十郎が永見大蔵をそそのかしては、さわぎをあおり立てていたのだから。
江戸に出た光長は、国許のさわぎが一向おさまらないのでこまっていたが、そのうち、さわぎの震源地が渡辺九十郎と永見大蔵であることを知って、両人に江戸に出て来るように命じた。
二人は江戸に向かったが、途中、九十郎は大蔵に、
「江戸へ到着して、すぐお屋敷にまいっては、われら自由を奪われ、何にも出来んことになってしまいますぞ」
と言った。
「それはそうだ。どうしたらよかろう」
大蔵は片目の不具者だったというから、その片目で九十郎をふりかえったことであろう。
「越前家の上屋敷に入り、一味の者共を呼びましょう。このようにして、味方とのしめし合わせが済んだ上は、お家の屋敷にまいってもかまいません」
「よし、そういたそう」
相談がまとまっていたので、江戸に到着すると、真直ぐに越前家の上屋敷に入り、味方の者を越後屋敷から呼びよせ、密議を凝らした。
このことが幕閣に聞えたので、幕閣では大いに怒った。この春幕府は和解を命じている。それが遵奉《じゆんぽう》されないとあっては、幕府の権威に関する。
十月十九日、幕府では永見大蔵、荻田主馬、片山外記、中根長左衛門、渡辺九十郎の五人を評定所に呼び出し、取調べの上、
「雑説を流布し、家中の人心を惑乱した罪」によって、お為派であるこの五人にたいする処分を申渡した。
永見大蔵は長州萩の毛利大膳大夫広綱におあずけ。毛利家は光長夫人の実家で、越後家とは姻戚の関係があるのである。
荻田主馬は、雲州松江の松平出羽守綱近に同断。この家は秀康の系統で、一門である。
片山外記は伊予宇和島の伊達遠江守利宗に同断。光長の三女がここに嫁している。
中根長左衛門は越前福井の松平越前守綱昌に同断。これは一門である。中根は江戸留守居役であるが、永見大蔵に同意して、江戸屋敷の人々を説きつけ、血書を集めて大蔵に送ったという罪状である。
渡辺九十郎は播州姫路の松平大和守直|矩《のり》に同断。これも一門。
歳暮には、岡島将監、同図書、同治部、同杢太夫や小野里庄助らが追放処分になった。
このように、お為派はさんたんたる状態になったが、これに反して美作の方はなかなかの好運だ。美作は隠居の身であるが、大六の方は翌八年の二月十五日、将軍に謁見を許され、元服した。この時まで、彼は掃部《かもん》という名であったのを、この時将軍の命で大六と改めたのだという。大六は小栗家の先祖代々の名であるから、そう改めさしたのであろう。
天地の差のあるこのあつかいに、お為派に不平がなかろうはずがない。
「必定、これは美作が酒井大老をはじめ公儀の諸役人に賄賂進物などして、その心を攬《と》ったために、このような片手落ちの裁判になったのだ」
と、皆いきどおり、このように腐り切ったるお家にはとどまっておられぬ、処分された同志の人々のことを思えば、これまた便々ととどまってはおられぬと、暇を乞うて立去る者がつづいた。士分の者で五六十人、足軽などまで加えれば二百人近くにもなった(岡島壱岐の答弁書)。
この形勢におそれをなしたか、美作に引立てられて、四十石という小身から千五百石の大身となり、年寄役(家老)の一人となって、無二の美作方であった安藤治左衛門が、正月十日(延宝八年)の夜、逐電《ちくてん》した。(岡島壱岐の答弁書)。正邪善悪は別として、こんな形勢になった以上、お為派の連中の怒りが、今に自分に向かって発動するに相違ないと思ったのであろう。
高田城下はてんやわんやのさわぎであった。
そうこうしているうちに、思いもかけないことから、この事件が正反対の展開を見せることになった。
八
延宝八年五月八日というから、小栗大六が将軍の謁見を許され、その面前で元服した日から三カ月は立っていない時だ、将軍家綱が病死した。その危篤の時だ、家綱には子がなかったので、当然継嗣問題がおこり、幕閣で論議された。
この時、酒井大老はかねて家綱の寵を受けている大奥の女中のなかに妊娠中のものがあったので、その生まれるのを待とう、その間のつなぎには、
「鎌倉将軍の先例にならって、京から宮様を申し下して将軍と仰ぐことにいたしたらばいかがでござろうか。当将軍家にはおん弟君|館林《たてばやし》宰相(綱吉)様も、またおん甥君甲府宰相(家宣)様もあらせられるが、この方々を将軍家となし奉っては、若君がお生まれになったからとて、御退職を願うわけにまいらぬ。宮将軍なら、その点はたやすうござる」
と、主張した。
酒井はなお候補者として有栖川《ありすがわ》宮|幸仁《ゆきひと》親王をあげたが、これは光長の妹聟である高松宮故好仁親王の末であった。好仁親王の次は後水尾《ごみずのお》天皇の皇子良仁親王がつぎ、幸仁親王はその子であられ、この方から高松宮というのを有栖川宮と改められるのである。現代の高松宮様が有栖川宮家の御先祖の祀りと財産とを相続されたのも、こういう古い因縁があるからでもあろう。
さて、酒井大老の主張は、家綱将軍にたいする情誼の上から言えば無理からぬ臣子の情であるが、徳川将軍家の系統という大義名分の上に立つと、たとえ短い期間にしても、血統外の人が立つことになるから、大いに問題になることである。
しかしながら、時めく大老の発言であるから、異議をさしはさむ者はなく、評定はすんで、老中らは退出した。
その時、退出しないで、あとにのこっていた老中がいた。この前年の七月に老中になったばかりの堀田正|俊《とし》である。同時に補せられた土井利房と共に最新参の老中である。
堀田は使を立てて、館林宰相綱吉を呼び、将軍の病室に案内し、そこで将軍の遺言であるということにして、綱吉を次代の将軍に指定した。将軍はすでに意識朦朧、死んでいるも同然だから、これは堀田の独断である。
堀田はなぜこういうことをしたのか? 酒井の意見には大いに不賛成であったが、新参の身の正面切って異議することが出来なかったため、こんな手を打ったのか、新将軍擁立の功によって次代の権勢の座を得ようと、ばくちを打つ心であったのか、ともかくも、この思い切った手を打った。
こうして、館林宰相綱吉が五代の将軍になったわけだが、こうなると、酒井大老はみじめなものだ。大老職を辞して、家に引きこもった。
綱吉は後に生類あわれみ令や愛犬令を出して励行し、東西古今に比類のない悪政を行った人であるが、学問好きで、一応学者として通るほどの儒学の素養のあった人である。性質としては、感情的で愛憎ともに極端であった。気に入ればどこまでも気に入り、きらいとなったら徹底的にきらった。
だから、酒井忠清にたいしては、実に悪意を抱いた。
「やつ、おれという最も前将軍に近い血統の者がいるのに、宮将軍を申し下そうとは、北条氏の故知《こち》にならって、天下を私するつもりであったに相違ない」
と、思った。
けしからん姦悪漢だと思って眺めると、酒井のしたことは何から何まで気に入らない。とりわけ、越後騒動にたいする酒井の判決は、その当時から綱吉はよくないと言っていたという。お為派にたいする処置は厳刻《げんこく》にすぎ、小栗派は恵まれすぎているのだから、綱吉ならずとも、当時の人は皆この感懐はあったろうが、酒井が自分を将軍にすることを避けて宮将軍を立てようとしたことを聞いてから、綱吉はこの判決に特別な感懐を持つようになった。
「酒井め、小栗に買われたのだ」
と、思ったのである。
こんな風に綱吉が思っている時、お為派の人々は時節到来とばかりに、堀田正俊を頼って再審を願い出た。
すると、ちょうどその頃、高田で、岡島壱岐と本多七左衛門とが、光長に暇を願い出た。
「われら、同じ意見であった永見大蔵殿ら五人が諸家預けとなっていなさるのに、こうして無事にお家にまかりあること、忍びませぬ。願わくはお暇をたまわり、浪人いたしたくござる」
というのが、そのことばであった。
光長はなだめて引きとめようとしたが、二人の決心はかたい。光長も腹が立って、勝手にしろという気にもなったろう。そこで、暇をやることにしたが、二人は将軍に謁見したことがあって、「将軍家お見知りの者」となっている。こんな家来は、主人でも勝手に処分は出来ず、必ず幕府に届け出て意向をうかがった上にすべききまりになっている。
それで、江戸へうかがいを立てた。
ちょうどお為派の連中が堀田正俊を通じて再審を願い出ている時であったので、ぱっと問題がクローズアップされて、綱吉は再審の許可を出した(花見朔己「越後騒動」)。こんなところを見ると、岡島と本多とが暇を願い出たのも、戦術的狙いがあったのかも知れない。
再審査は十二月からはじめられた。前の酒井大老の時は関係者について調査するといっても、ごく限られたもので、大方は書類審査であったが、こんどは徹底的であった。美作・岡島・本多の三人に出府を命じたばかりか、大名預けになっている五人の者も呼び出して、取調べた。
お為派である岡島・本多の言い分と、美作の言い分とを対比すれば、左のようになる。
岡島・本多――
「光長は近年老衰して国政を美作にまかせ切った。美作の政治は言語道断な虐政で、収税等のことに憐愍の情さらになく、税のすまない百姓共を多数放逐した。新しい税目をいくつも立てて誅求した。すべて独断専行して、他の家老共は口を出すことも出来ない。しかも、その身は美麗を好み、倹約などはさらに心になかった。彼の好みにならって、家中一統ぜいたくになり、皆貧乏するようになった。美作が下屋敷(別荘)を営んだことがあったが、その時は田畑をずいぶん潰し、寺院を移転させ、四方に高い塀を築き、堀をうがち、並木を植えた。この別邸の近くに彼の与力共の屋敷があるが、そこでは在々からの通路に三カ所も柵をつけて往還をさしふさぎ一方口にした」
これに対する美作の答え。
「拙者は好んで家老職をつとめているのではない。諸般の事情いたし方なくつとめているのである。拙者は病身でもあり、また不才であるので、お役ご免を殿様に直々に何度か申し出、家老なかまにも二三度申し出た。林内蔵助もそれは覚えていると申している。拙者は政治上のことは全部同役中で相談した上、光長へ申し達して、それから行った。拙者は独断専行した覚えはさらにない。また拙者をぜいたくだというが、拙者は少しも奢《おご》りがましいことはしていない。次に下屋敷を営んだことについて申し上げる。元来、拙者の家は父以来山屋敷とて二万坪ほどの下屋敷を持っていたが、光長が城外に屋敷を取り立てたいと申したので、その下屋敷を献上した。それで、光長は代々の拙者の家の与力屋敷の近くに下屋敷としての地所をくれた。五六千坪の敷地で、光長が普請してくれたのである。家は二間梁で二十五間ほどである。三方道をふさいだのは、与力町とその屋敷との間に古い道があって、先年火事の時、拙者が下屋敷に避難した時、用心のために番をつけ夜中は塞いだのであるが、その後光長がこの道を塞いでくれたのである」
岡島・本多が、美作のせがれの大六のことについて、いろいろと言ったことは、ずっと前に書いたが、それはこの時の幕府役人の問いに応じて陳述したのである。それにたいする美作の答弁もまた前に書いた。
岡島・本多は、去年正月九日の騒動は、美作がかねて藩の金蔵にあずけている金を引出したり、家来や与力共にいかにも今夜立退くかのような風をさせて、お為派を刺戟し、誘発したのであると言い立てた。
これにたいして、美作はこう答弁している。
「藩の金蔵にあずけておいた金子千両を引出したのは、拙者は参覲のお供をして江戸に上る予定になっていたからである。拙者は例年二月中に家来共の切米を渡すことにしているが、去年は光長の供をして上府することになっていたので、正月に切米を渡して、金が入用であった。残った金は江戸での用途にあてようと思っていた。岡島や本多は蔵開きもない前に無理に蔵を開けさせて金を引出したといっているが、越後家で蔵開きと申す行事のあることは、拙者は聞いたことがない。たとえあるにしても、金子が入用であれば、いつも渡すことになっている」
審理は翌年もつづけられ、高田の家中で召喚されて江戸に上って来る者が相ついだ。
この幕府のやり方を、酒井前大老は大いに気にやんでいたが、五月十九日に死んだ。これを届けられると、綱吉は、
「見届けてまいれ」
と、使者を出した。酒井邸では忠清の聟の藤堂高次が応対して、ていよく使者を追いかえした。
使者はかえって、検視をすませて来たことを報告すると、綱吉は、
「死骸をよく改めてまいったか」
と畳みかけた。
「いえ、それは……」
「何のための検視だ。すぐ引きかえして改めてまいれ!」
使者は大急ぎで引きかえして見ると、ちょうど棺が門を出るところだ。しかたがないと、城にかえって報告すると、綱吉は色をなしてどなった。
「墓所へ行って、棺をひらいて調べてまいれ!」
「へッ!」
使者は横ッ飛びに、寺に行ってみると、もう荼毘《だび》に付して一堆の灰になっていた。
かえって、綱吉に報告すると、綱吉は歯ぎしりしたという。綱吉は自分が越後騒動のことを改めて厳重に審理しなおしているので、忠清は居たたまらず、自殺したのではないかと疑い、もし自殺であったら、三河以来の由緒ある酒井家であってもかまわない、取潰してくれようと思っていたものと思われる。愛憎ともに極端にまで行かなければ承知出来ない綱吉なのである。
六月になって、大体審理もすんだので、六月二十一日の辰の刻(午前八時)に、永見大蔵、荻田主馬、小栗美作の三人を江戸城に召して、広書院で綱吉の親裁によって、裁判をひらくことになった。
綱吉の尋問のことばは、堀田正俊がとりついで三人に伝え、三人の返答は大目付がとりついで将軍に伝えるのである。
綱吉は先ず大蔵にたいして、美作の奢侈について質問した。大蔵は色々とのべた。綱吉はこれについて美作の答弁をもとめた。美作は弁解したが、彼自身はぜいたくでないと思っていても、世間の目から見ればぜいたくをしているのだから、答弁のしようがない。追っかけ追っかけせめつけられて、言葉につまって黙りこんだ。
綱吉はこんどは荻田主馬にたいして、美作の姦曲の次第をたずねた。主馬は答えた。
綱吉は美作に、
「その方、家中の者八百余人の怨みを買ったのだが、なぜであると思うか」
とたずねた。美作は、
「これは大蔵らの私にたいする嫉妬からおこったものであります。彼らは拙者が藩政全部を独断をもって取り行い、他の家老らの意見を聞かなんだと申していますが、これはすでに先般のお取調べの際にも申し上げたことであります。拙者は何事でも必ず同役中で相談の上、光長に上申し、その許可を得てとり行いました。一事たりとも独断で行ったことはござりません」
と、申述べた。
綱吉はまた大蔵と主馬とに、こう尋問した。
「その方共は、しきりに美作のわがままと秕政とを申し立てるが、なぜ平生これに意見を加えなかったのか」
二人は、
「美作は主人光長のことばすら用いぬ者でござる。何とてわれらごときものの申すことを聞き入れましょう」
と答えた。
すると、綱吉は大音に、
「これにて相わかった! 皆々退れ!」
と呼ばわった。その声殿中にひびきわたって、皆はっとおびえたほどであったという。
この間わずかに三十分であったともいう。
翌日、判決が下った。
美作党
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美作と大六は切腹。
美作の弟兵庫と十蔵は伊豆大島へ流刑。ただし家来一人ずつ従えることを許す。
安藤治左衛門は大島へ流刑。
兵庫の子七人、十蔵の子二人は松平陸奥守(伊達)、細川越中守、南部大膳太夫、秋田信濃守へ預け。
美作の異父兄戸川主水は南部遠江守へ、同本多不白は秋田信濃守へ預け。
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大蔵党
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永見大蔵・荻田主馬は八丈島へ流刑。但し家来を一人ずつ従えることを許す。
岡島壱岐・本多七左衛門は三宅島へ流刑。
渡辺九十郎・伊東出雲守祐実は日向|飫肥《おび》へお預け。
中根長左衛門・本多八太夫(七左衛門嫡子)・同少膳(同二男)・安藤治郎兵衛・片山外記・小栗杢左衛門・荻田民部・同粂之助(主馬の子)等は諸家へ預け。
渥美《あつみ》久兵衛・林内蔵助・小栗右衛門・安藤平六・野本右近は江戸で追放。
本田源太左衛門・本多伊織(監物の嫡男)・片山式部(主水の子)は高田で追放。
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原告・被告ともに処罰したのである。こうしなければおさまらなかったのでもあろうが、乱暴な裁判ということも出来よう。何が「これにて相わかった」なのか、かんしゃく持ちが糸のもつれを解くのにあぐねて、いきなり鋏でジョキジョキと切ってしまったような裁判である。
しかしこの裁判は、綱吉の新将軍としての最初のしごとで、その峻厳なやり方が、家綱将軍時代のなごりの、なにか生|温《ぬる》く、なにかはがゆいような空気を、一種の鮮烈にして爽快なものでスパリと切断したような感じを世にあたえ、世間は歓呼して、この新将軍を仰いだのであるが、綱吉の心の底にはにくい酒井大老のした裁判をくつがえしたいという気持が強くあったことも事実であるから、われわれとしてはその目でも眺めなければならない。
小栗美作は判決言い渡しの日、越前家の屋敷で切腹した。
五十余年の夢
覚め来って一元に帰す
截断《せつだん》す離弦の時
清響、乾坤を包む
というのが、その辞世である。五十六であった。
大六は岡山藩主池田綱政の邸で切腹した。十八であった。
この四日後の二十六日、光長は井伊|掃部頭《かもんのかみ》直|該《よし》の邸に呼ばれ、家国を統御することが出来ず、騒動をおこしたのは大名たるの資格がないという理由で、
「城地をとり上げ、伊予松山の松平隠岐守定直にあずける。但し合力米一万俵をあたえる」
と言い渡された。光長はこの時六十七であった。
この日、嗣子の綱国は酒井修理大夫忠直の屋敷に呼ばれ、
「備後福山の水野美作守勝種にあずける。但し合力米三千俵をあたえる」
と、申し渡された。
翌二十七日、綱吉は前に越後騒動の裁判に関係した幕府役人の処罰を発表した。
主として事にあたった大目附渡辺大隅守綱貞と相馬権五郎とは、八丈島に流され、権五郎の子供ら三人はそれぞれ大名あずけになった。
幕府役人だけでなく、越後家の一門である松平大和守直|矩《のり》と同上総介近|栄《ひで》にもとがめがおよんだ。両人ともに閉門を命ぜられたばかりか、前者は八万石を削られて姫路から豊後の日田七万石に移され、近栄は三万石から一万五千石を削られた。綱吉の忠清にくさも極まれりというべきである。
さて、こうして、一旦越後家はほろび、城地は公収され、家臣らは四散したのであるが、一門の越前家その他に召抱えられたものも相当あったにちがいない。
光長は松山に謹慎すること七年、貞享四年十月に許されて江戸にかえり、改めて三万俵もらい、官位も旧に復した。綱国も赦免されたが、江戸にはかえらなかった。
光長はいとこの松平大和守直矩の三男長矩を養子としてあとをつがせたが、これが元禄十一年に津山(岡山県)十万石に封ぜられて、越後家は再興した。この時、綱国は岡山から津山に移り、後僧となって、七十四でここで死んでいる。
九
美作は欠点の多い人物ではあったが、政治家としては相当優秀な手腕があり、今日の高田市は美作の計画によって成ったというので、今日でも高田人は美作を慕い、たしか高田市にはその頌徳碑が立っていたと思う。
当時でも、お為方より美作の方が評判がよく、こんな風に落首したという。
お供数 には入らぬお為方
逆にはおとる身為《みため》運動
お為方と言って忠義ぶっていた連中を、光長は四国におあずけになる時、供には連れて行かなかった。その連中は就職運動に懸命である、彼らが逆意方とおとしめていた小栗派より悪いではないかの意だ。
お為ぞといふは身為か片目方
つぶしてくやむ永見大蔵
永見大蔵は片目だったのでこう歌ったのだ。騒いで主家をつぶしてしまったのをののしったのだ。
為は逆 逆はお為のものと知れ
つぶすは身為 死ぬは忠節
智仁勇 忠義に死する小栗方
今さかしやとなほ人はいふ
両首とも美作こそ忠義の人ではないかと言っているのだ。
前回で書いた越前騒動といい、この越後騒動といい、せんずるところは、重臣同士の反目によっておこっている。前者は忠直が弱年で統制力がなかったところに根本原因があり、これは光長が阿呆である上にほとんど江戸住いして統制を放棄していたところに原因がある。
阿呆は苦労が身につかないせいか、長生きするものらしい。戦国時代の今川氏真も土岐|頼芸《よりあき》も、家をほろぼされてずいぶん難儀をしたくせに、いずれも八十余の長命を保っている。光長も九十三という長命で死んでいる。
[#改ページ]
仙石騒動
一
但馬(兵庫県)出石《いずし》の仙石家は権兵衛秀久の後である。権兵衛は美濃の人、驍勇をもって名があり、しきりに武功を積んで、豊臣秀吉に愛せられた。秀吉の九州征伐の時、長曽我部元親、十《そ》河存保《ごうまさやす》らの四国大名らが先発隊となって豊後に向かい、権兵衛はその軍目付《いくさめつけ》となって行ったのだが、はからずも大味噌をつけてしまった。
先発隊は豊後に上陸すると、薩摩方に帰属している城々を鎮圧したりなどしていたが、そのうち薩摩勢が北上して来て、臼杵《うすき》近くの利光《としみつ》城にとりかけ、城の危ういこと累卵のようであるとの報告が入った。
元気者の権兵衛は、すぐ行き向かって有無《うむ》の一戦を遂《と》げようと言い出した。長曽我部元親も、十河|存保《まさやす》も、
「それはようござらぬ。間もなく本軍がまいる故、それを待つがよろしい。聊爾《りようじ》なことをしてはならぬと、関白殿下もくれぐれも仰せられている」
と、反対したが、権兵衛はきかず、
「敵は利光城を攻め立て、城衆《しろしゆう》は必死の血戦をつづけている。見すぐしにしては男とは申せぬ。貴殿方同意なくば、拙者の一手をもって後詰《ごづめ》いたす」
と言い張る。
軍監自身がこうなのだから、長曽我部も十河もしようがない。ついに総勢利光城の救援に行くことになって、戸次《へつぎ》川に到着した。
薩摩軍はこれを知ると、利光城の囲みを解いて退却した。
権兵衛は意気昂揚して主張する。
「さては、薩摩人共、臆病風に吹かれたぞ。戦さは機に乗ずるをよしとする。川を渡って追い駆けよう」
「それはよろしくござらぬ。当地の地勢は守るにはまことによい地勢。ここを守って弱を示し、敵を誘い、川を渡るを待って撃ち、浮足立つところを追いくずすがようござる。われよりかかるは危のうござる」
と、元親は反対し、存保もこれに同意したが、権兵衛はきかない。
「貴殿らが同意なくば、われら一人で渡り申す」
と、その隊二千人をひきいて川を渡ってしまった。
しかたがない。元親隊も存保《まさやす》隊も渡った。
薩摩勢は岸の竹藪の中に埋伏して、これを待っていたのだ。一斉に起《た》ち上って、猛烈な攻撃に出た。
ついに四国勢惨敗、十河存保は戦死、元親の嫡子信親も、元親の老臣桑名太郎左衛門も戦死、元親は辛《かろ》うじて伊予の日振《ひぶり》島に退却した。
これを戸次川の戦いといい、秀吉の九州征伐先発豊後|口《ぐち》軍はここに瓦解したのである。この不首尾はひとえに権兵衛さんが勇に誇って慎重を欠いたためなのであるが、その権兵衛さんは所領の讃岐の高松まで逃げた。
秀吉は怒って、所領十万石を没収し、勘当した。権兵衛は謹慎の意を表して高野山に入っていたが、三年の後、秀吉が小田原征伐を起すと、旧臣らをひきいて無断で従軍した。朱の大きな丸を紋に打った白練《しろねり》(一説|紙子《かみこ》)の陣羽織を着、紺地に「無」の字を白く抜いた馬じるしを真先におし立て、馬上に傲然としてそりくり返って行く姿が、まことに勇壮で、まことに濶達で、九州陣の時の失敗など屁とも思っていない風情であった。
これが秀吉の気に入って、勘気をゆるした上、戦後、信州|小諸《こもろ》で五万石をあたえた。
権兵衛の話として、世に最も知られているのは、伏見城で石川五右衛門を捕えたことで、芝居や小説などによく脚色されているが、これは彼の四十半ば頃のことである。生涯壮士の気分を失わなかった人といえるであろう。
しかし、彼は剛強一てんばりの荒武者のようでありながら、世渡りにはぬけ目がない。秀吉が死ぬとさっさと家康に乗りかえ、大いに徳川家のために働いている。関ケ原役の時には秀忠に従って中山道を上り、信州上田で真田|昌幸《まさゆき》に食いとめられ、秀忠は関ケ原戦に間に合わなかった。家康は大へんな不機嫌であった。権兵衛は秀忠のために大いに弁解して、家康のきげんをとりむすび、同時に秀忠の心を攬《と》った。全くうまいものである。
こんなわけで、豊臣氏がほろんでも、仙石家は安泰で、小諸から同国上田に移り、さらに但馬《たじま》の出石《いずし》に移され、この騒動の頃には五万八千余石であった。
二
文政七年の夏、江戸屋敷から、出石に急報がとどいた。
「殿様ご危篤」
という知らせである。
殿様とは十代目の仙石美濃守政|美《よし》のことである。
重臣らは色を失い、大急ぎで集まって、あとつぎの相談にかかった。政美には娘の子は二人もいたが、男の子はいなかったのである。
政美には弟が多数あったが、のこっているのは二人しかなかった。しかし、その一人は奥州白河の城主阿部家に養子に行き、すでに家をついで能登守(名前不明)に任官しているから、問題にならない。一人は妾腹の子で、道之助といい、この時出石にいた。年は数え年五つであった。
当然のこととして、老臣らは、
「道之助様こそ立たるべきである」
と主張したが、首席家老の仙石左京久|寿《とし》がこう言った。左京の名は左京の弟久健の子孫で、名古屋市在住の土岐英夫氏より借覧の系図によった。諸書にはしるすところがないのである。
「筋目から申せば、そうあるべきでござるが、お公儀がそれを許して下さるかどうか、拙者は不安なのでござる」
左京は仙石家の一族で臣列に下っている家の生まれで、身代は千五百石、年は三十八であった。左京の本家との続柄《つづきがら》は、土岐英夫氏の家に伝わる系図によると、初代権兵衛秀久の長男久忠から出ている。久忠が盲目になったので、家をつぐことが出来なかったというのだ。仙石家では最も貴重される一門であったのだ。
「しかし、筋目でござるぞ」
と、老臣の一人が言うと、左京は言う。
「筋目はわかっている。およそ家の継統は筋目を第一とすべきは、天下の公理でござる。しかしながら、大名の家の家督相続は、公儀の許可がいただけるかどうかが第一のことでござる。道之助様は殿様のまさしきおん弟君ではおわすが、ご妾腹であり、またやっと数え年五つというおん幼さでござる。公儀のお許しをいただくは、相当骨がおれるのではないかと、拙者は心配なのでござる」
「そう言われればそうでござるなあ」
と、老臣らは嘆息をついた。
伊達騒動篇でも書いたが、伊達家の老臣らが綱宗のあとつぎとして、わずか二歳の亀千代丸を立てたいと嘆願した時、老中酒井忠清は、亀千代はあまりに幼い、政宗の血統で十七歳以上の者を立てるよう願い直せと言って一旦ははねつけている。あまり幼くては、子であっても、幕府はよろこばないのである。まして、道之助は父の妾腹の子で、弟である。
いろいろと、話が出た末、左京は、
「ともかくも、ことは急を要する。拙者が江戸に出て、ご隠居ともご相談し、ご一族方にも頼み申した上、道之助様を許していただくようしかるべく働きましょう」
と、言い出した。隠居というのは先代の播磨守久道で、当時五十三、まだ健在だったのである。
ほかに手はない。同意せざるを得ない。
「それではそうしていただきましょうか。遠路のところ、ことには炎暑のみぎり、ご苦労でござる」
と、皆言った。
このように相談がもつれたのは、もう政美は死んでいるのを、重態ということにして時をかせぎ、その間に急養子を立てようという場合であったからではなかったかと思う。
左京は出石を出発、江戸に向かった。老臣らはこれを見送りに出たのだが、左京がせがれの小太郎を同道しているのを見て、おどろいた。小太郎はやっと数え年十になる少年である。
「可愛くて、片時も側を離して置けないのでござるよ。これもまた江戸というところへ行ってみたいと申すので。ハハ」
と、左京は笑いながら説明したが、老臣らはなにか異様であるという感じからぬけることが出来なかった。
左京一行は出石を去り、老臣らは城内に帰ったが、どうにも不安の感がしてならない。談合がはじまる。
「左京殿が子息を連れて参られたのを、どうお考えなさる?」
「されば、拙者も奇妙に思っています」
「左京殿はご隠居のお気に入りでござる。あるいは、ゆゆしい大望を抱いていなさるのかも知れませんぞ」
「そのこと」
期せずして、老臣らの胸中に生じた疑惑は、――つまり、左京はかねて自分を気に入ってくれるご隠居久道にうまく取入り、自分の子の小太郎を仙石家のあとつぎにする野望を抱いて江戸へ行くのではないかということ。
「万一にもさようなこととなっては一大事。油断はなりませんぞ」
熟議して、きまったのは、一刻も早く道之助様を江戸にお連れして、公儀からご養子の許可をもらい受けることにしなければならないが、その以前に左京の画策が成功して小太郎がご養子に立つようなことがあっては取返しはつかない、左京の運動が成功しないように邪魔をすることが必要だということであった。
そこで、老臣の一人|酒匂《さこう》清兵衛(系図によれば、左京の姉の夫である)という者が選ばれて、翌日――つまり、左京出発の翌日だ、出石を立って江戸に向かった。
この時の老臣とは、荒木|玄蕃《げんば》、仙石|主計《かずえ》、原市郎右衛門、酒匂清兵衛の四人であった。
四人がこんな談合をし、こんな結論を出し、こんな方法に出たのは、血統論以外の理由があったのかも知れない。つまり、仙石家の一門で首席家老である上に、千五百石という知行を持って、家中第一の権勢家となっている左京を、かねてから嫉ましく思っていたので、もしその子が藩主となるようなことがあっては、左京は上通《かみどお》り(主人なみ)となるわけと、恐ろしく不安になったのかも知れない。
ともかくも、酒匂清兵衛は急ぎに急ぎ、途中で左京を追いこして、江戸に到着したが、すぐ仙石家の分家である旗本らを訪問した。それは四軒ある。それぞれ、当主に会って、言った。
「両三日の中に、左京が着府いたしますが、しかじかの理由で、その心底まことにいぶかしいものがあります。その心して、その申すことをお聞きとり下さいますように」
左京はそんなこととは知らない。江戸へつくと、隠居の播磨守久道に目通りし、小太郎を目見えさせたりなどした。
左京のこの時の行動については、くわしく書いたものは全然ないが、後に幕府の裁判になった時、幕府は、この時左京が小太郎を連れて出府して、全藩を疑惑させたことを罪状の一つにしている。これから察するに、この時の左京の行動は相当含みの多いものであったに相違ない。多分真綿で首をしめるように、じりじりと本望にむかって進みつつあったのであろう。
ところが、間もなく、左京にとっては思いもかけずだ、道之助が国許から出て来たのである。こうなれば、なんといっても首席家老なのだから、左京も道之助のために努力しなければならない。また、酒匂清兵衛の前もっての運動もあったこととて、道之助は七月十三日には兄の養子となることが許可された。つづいて、当主の死が届けられ、閏《うるう》八月六日、家督相違なく相続を仰せつけられた。
ここまでのところは、老臣側の勝利だ。左京の野心を封じこめ、道之助を十一代の主とすることが出来たのだ。手ぎわとほめてよかろう。
しかし、これからはとんといけない。見事に左京にしてやられるのである。
三
道之助は仙石家の当主になったが、数え年五歳の幼児だ。実権は先々代であり、道之助にとっては実父である播磨守久道にある。左京はこの隠居のお気に入りであり、首席家老だ。江戸藩邸における実権が久道にあるとすれば、国許における実権は左京にあった。
左京は四人の老臣らを怨み、復讐を決心した。彼は先ず家中の者を物色して、さかんに味方をつくった。岩田静馬、山村貢、宇野甚助の三人は、最も左京が頼りにした党与であるが、これは老臣級の者で、その以下の者もまた実に多数あった。
反対党であった老臣らにたいする復讐は、こんな風にして行われた。
仙石|主計《かずえ》は勝手がかりの年寄としての手腕がないとの理由で、役儀ごめんになって、政務の当局から去った。
幕府の裁判になった時、仙石家から幕府に差出した主計等についての目安書が「手続書」という名目でのこっているが、その中にこうある。
仙石家も財政困難で、文政十年にはとりわけひどく、どうすることも出来ないので、家中の者共の扶持米として所蔵していた米も全部売りはらったが、江戸屋敷の費用は言うまでもなく、家中の者へ渡すべき米もない。扶持の方は、その年の収納米をあてにして、青田のうちに一人々々扶持高の七分だけ、百姓から受取ることにしてすませたが、他の融通がつかない。その財政の局に当時あたっていたのが、仙石主計だ。彼は左京に相役の者をつけてほしいと要求したが、左京は相役があったら意見が区々になってかえって働きにくかろうと言って、拒否した。
しかたがないから、主計は一人で局にあたり、工夫の末、策を案出して、こう左京らに相談した。
「もはや、普通の手段ではどうすることも出来かねる。こうしたらば、いかがと存ずる。領内の用達や他領でも近隣の在々《ざいざい》の富人らに、収納米その他のもの一切をまかせるということにして、頼みこみましたなら、話がつくと存ずる。実は内々数人の者にあたってみましたところ、いずれも、それならばまとまりましょうと申した次第。ご詮考を願います。これ以外には、もはや一日のやりくりも出来ません」
左京らは隠居の許しを得てこれを許した。
主計はよろこんで、その策をおし進めたが、話がこわれてしまった。おどろき、あわて、泣かんばかりになって、富豪共を頼みまわったが、駄目だ。藩の財政はひしと手づまった。
主計は無念の涙をのんで、
「かく相成りましては、片時も勤めがたくござる。お役をご免下さいますよう、切にお願い申し上げます」
と願い出た。左京は待っていましたとばかりに、年寄役を免じて、閑位においこんだ。
せっかく半分出来ていた金談が、どたん場になって破れたのはなぜか。人手不足で手がまわりかねたのが原因かも知れないが、あるいは裏面から左京の手が働いたのかも知れない。小説ならそうしたいところである。
荒木玄蕃のことは、手続書にこうある。
江戸勤役中に、不品行で遊蕩にふけり、多分の金子を散財し、なお他から借りたが、その際、定府《じようふ》の者共に頼んでその者共の名で借りた。多数の人を借主にし、多数の人から借りて、その金高もずいぶん巨額となった。返金しないので、訴訟事件にまでなった。そのほかお家の法度《はつと》をそむいて、勝手に夜間外出をした。玄蕃の江戸勤役中に、上野の御霊屋のご普請お手伝いの公命をこうむったので、国許の勝手掛りの役人らが、財政困難の中を、かれこれ苦心してやっと金をこしらえて送ったところ、玄蕃はこれを取りこんで、自分の遊興に使いすて、今に至るまで返済していない。重役の身として、あるまじき不都合であるから、役儀を免じたというのである。
玄蕃は天保六年に三十四だったというから、これから七、八、九年前といえば、二十五、六、七の頃だ。相当道楽はしたろうから、そこをほじくり立てれば、いくらでも免職の理由は出て来る。
酒匂清兵衛は、同役の者の内に不和の者が出来て、役職上不似合拙劣であるから、免職にしたと、至って簡単である。不和の相手は左京、あるいはその党与の者であろう。
原市郎右衛門は、江戸詰の間に荒木玄蕃同様の不届があって、免職にしたとあるから、遊蕩であろう。この男は幕府の裁判に呼び出されていないから、年齢がわからない。その以前に病死したのである。
老職ではないが、河野瀬兵衛という人物も、この頃に免職になった。勝手(勘定)奉行くらいの役目であったようだ。この男は仙石主計が勝手がかり重役であった時、その部下として働いていたが、金融のため京・大坂等に出張させたところ、何の功もなく帰って来た上、不届なことが多くあったから、文政九年に隠居・蟄居を申しつけたと、手続書にある。悪意をもって書いているのだから、このままには受取れない。相当割引いて考えるべきである。この河野が、後年このお家騒動暴露の導火線となる。
こんな工合にして、二三年の間に敵党を全部要路から追いはらった左京派の権勢はすさまじいものになった。
左京をはじめとして、岩田静馬、山村貢等の重役らの生活は、家中一統貧乏にあえいでいるというのに、ぜい沢をきわめ、一万石以上の生活ぶりであった。
たとえば、左京の子の小太郎の前髪祝いや、具足の着初め式の時などには、礼式師範を京都から招聘《しようへい》して烏帽子・大《だい》紋で行った。
鷹狩は、昔は陪臣でも大身の者は行ったが、この時代になると、大名以上の人の遊びとなり、陪臣ではいかに大身でもやらないことになっていたが、左京は浪人の鷹匠を連れて来て、鷹を使った。野外でもやり、城内でもやった。
こういうぜいたくを、国許で左京らがやっている時、江戸の道之助はどうであったかといえば、手習用の紙がないので、お側の者が差上げている有様であった。
やがて、左京の子の小太郎のために妻をもとめることになると、当時の老中松平周防守|康任《やすとう》の実弟で五千石の旗本である松平|主税《ちから》の娘をもらうことにして、費用一切をこちらから差出して迎えたが、その儀式は大袈裟をきわめた。途中まで多数の出迎えの人数をつかわし、その行列は女中の駕籠だけでも六挺もあった。長持の上にはお多福の面《めん》をかざり、傘鉾《かさぼこ》を立て、大手の門に達すると、祝儀謡をうたわせ、しずしずと練りこんで来るという賑やかさであった。
勢いになびくのは人の常だ。左京に媚びる者が続出した。実際、媚びただけのことはあるのだ。媚びる者は必ず役付になり、昇進した。左京派の重役はついに、
「昇進を望む者は賄賂を使うがよい。そんなものが昇進するのだ」
と放言する有様であった。
勢いは党を呼び、党は勢いを呼ぶ。左京の権勢はすさまじいものになった。
しかしながら、藩の財政は、どう左京が威勢をふるったとて、どうにもなりはしない。それについて、こんなことがあった。
その一
藩の金儲けのために、宇野甚助が京都に出て、勧進元になって、角力興行をやったが、興行のようなことが、武士にやれるはずがない。大損《おおぞん》をして、出石に帰るにかえれなくなったので、病気ということにして、京都に滞在しつづけていた。色々悪いうわさが立って、国許にも聞えて来たので、左京は医師の鷹取|已伯《いはく》夫婦と、藩の用達《ようたし》の江原村の茂右衛門とを上京させて、連れかえらせた。
武家に似合わないことをして、大損をし、苦しい上にも苦しい藩の財政を一層苦しくしたのだから、相当な処分のあるべきところを、全然それがない。帰着したのはおしつまった暮であったが、その家を度々左京と岩田静馬が見舞ったばかりか、年頭にはもう出勤出来る運びにした。
その二
左京は江戸藩邸の費用を極度に切りつめた。もちろん、ご隠居の久道の費用は、潤沢にあてがったが、その他はたとえば先代の政美の夫人常真院の住い(つまり、この時代の仙石家の奥だ)の費用さえ切りつめていたので、なかなか苦しかった。これを女中らが常真院に告げたので、院はご隠居にこのことを告げた。
久道は自分の暮しが楽なので、そうまで奥が切りつめられているとは知らない。おどろいて、国許から左京を呼び出し、いろいろと詰問した。
左京はぬからぬ顔で、
「これはお国許の勘定奉行らが、こちらのお屋敷のことがわからないために、かようなことになっていると存じます。よも、さようなことがあろうとは思いもよらず、念を入れなんだのは、拙者も手落でございました。早速に申し聞け、改めさせるでございましょう」
と答えたが、久道はきっと叱りおかねばならぬ、その者を呼び寄せよと言う。
しかたはない。勘定奉行は但馬から呼び出されて、江戸をさして上って来た。
江戸屋敷の費用を切りつめるように命じたのは、左京なのである。もし勘定奉行が、久道の詰責にたいして、拙者はご家老のお差図によって取りはからっただけでありますと、ぶちまけられては、左京は大いにこまる。
そこで、途中まで人を出しておいて、事情を打ち明け、
「悪いようには決してせぬから、お叱りを受けて恐れ入ってくれるように」
と頼みこみ、承知させた。
勘定奉行は大いにご隠居に叱られたが、恐縮の姿を示して叱られていた。左京は役人共(役人という役人は皆左京の子分共だ)に指示して、四五日の慎みを命じさせたが、その謹慎中は、毎日左京と岩田静馬から酒肴を届けて慰問したのである。
四
以上のような藩の様子を見て、腹を立てたのは、数年前に隠居・蟄居を命ぜられて、家に閉居していた河野瀬兵衛である。
ついに、道之助の家督相続があってから七年目の天保二年の、後のことから考えると、暮あたりだろう、年寄という職をはなれて、無聊をかこち、また不平でもある四人、――荒木玄蕃、仙石主計、原市郎右衛門、酒匂清兵衛らの宅を、ひそかに訪問して、藩政の非違を論じ、左京を攻撃し、
「貴殿方はご一門なり、ご重役なりとして、お代々お家につかえて来られた方々ではござらんか。なぜ、これを正すことをお考えにならん。幸いにして、ご隠居様があらせられる。左京らがその聡明を蔽い奉っているので、何にもお気づきでありませんが、貴殿方が打ちそろって上書なさり、呼出していただき、くわしく言上なさったなら、ご隠居様は必ず、ご了解になりましょう。それで粛正は出来るではござらんか」
と、あおり立てた。あとで引用するが、瀬兵衛の上書を見ても、相当学問もあり、知恵もある人物であったようである。
はじめは歴訪、次には誰かの家に集まって、瀬兵衛の煽動を受けたに違いない。
ついに、四人は決心して、久道に上書することにした。
上書は、年が明け天保三年正月十六日付で、四人の連署で差出された。久道は江戸住まいのはずであるから、誰かが一人江戸へ出て差出したのか、何かの都合で久道が出石に帰って来たのを機にして差出したのか、飛脚便でおくったのか、はっきりしない。多分、飛脚便であろう。
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私共、ただ今は無職の身で、かかることを申上げるのは不遜とは存じますが、世禄の臣下として、黙止《もだ》しているは不忠と存じますので、おし切って言上いたします。
一、殿様はご幼年のこと故、明君となり給うように、重職中よりきびしく人を選んで出府させ、輔佐役となさるべきを、きびしい倹約のために、それどころか、殿様も、ご養母様(常真院)も、大へんなご難渋であります。
大名たるべき人は、こんな風にして生《おお》し立つべきものではありません。先《せん》殿様のご幼年の頃には、老職が二人毎日ついていて、夜は老職か用人が必ず一人ずつ泊ることになっていました。お外出の時には、上《かみ》のお目ざわりにならないように護衛の者が三人ずつ、ひそかにお供したものです。ご用心のためでありました。
しかるに、ただ今は、大へんなお手薄なお供で外出なさっています。ご幼年の殿様は、保養のためにも、また世間にお馴れになるためにも、外出なさらねばならないのでありますが、只今のようではまことに不安であります。近火の際のお立退きなどの時は、別して不安であります。
(この項目は、左京が手をまわして幼君を暗殺するかも知れないことを匂わせているのである)
一、仙石左京と岩田静馬の両人は分限不相応にぜいたくな生活ぶりで、まるで一万石以上の者の暮しであります。これは世間一統が皆見ていることですから、一々くわしくは書きますまい。
一、左京らは自分の党与でない者は、策を設けて、辞職しなければならないような立場に追いこみます。
たとえば、文政九年に弘道館(藩校であろう)の取締役|造酒《みき》源太左衛門が職を辞したのがそれです。造酒はかねがね桜井良三と不和でありましたが、左京らは造酒が短気な性質であるのを利用したのです。すなわち、学館の上下役人から諸生(学生)らにまで手をまわして、桜井の尻押しをさせたので、造酒は腹を立て、つい辞表を出したのです。
一、われわれの一人である仙石主計が文政十年に、金銀調達がかなわなかったことを理由として辞表を出しましたのも、実を申すとその以前勝手方の役人を全部免職して、主計ひとりを勝手方として、相役を立てることを所望しても応ぜず、ついに手がまわりかねて、ふつつかな結果となり、辞表を呈出せざるを得なくなったのです。
一、江戸詰の藩士らのわずかな失策を大層に言いなして処罰するのも、謀略なのです。
(この条は次の次の条に関係がある)
一、左京は自分に熱心に心を運んで服従する者を私意によって昇進させ、もっぱら賄賂をもって決し、わが党派をこしらえることにまことに熱心であります。必ずや深いたくらみがあるのでありましょう。だからでありましょう、只今ご家中は皆々困窮、倹約を強いられているのに、音物《いんもつ》、贈答等を禁止するとの触出しは全然ないのです。
一、去る文政十年、十一年の両年に、江戸詰の藩士らはわずかなことを言い立てられて、きびしく処罰されました(荒木玄蕃と原市郎右衛門のことを言っているのである)。しかるに、岩田静馬にたいしては何のご処置がないのです。彼は捨ておかるべき人物ではありません。彼は江戸詰の間は毎日のように外出しました。ご用人が見かねて注意しましたが、一向に用いなかった由です。彼はお屋敷外で放蕩するだけでなく、お屋敷内でもいろいろと悪行をほしいままにしていると評判されています。目こぼしさるべき者ではないのです。
一、重役中でこう言った者があります由、「昇進を望む者はもっぱら賄賂をするがよい。そんな者こそ昇進するのだ」と。証人があります。古語にも、官のために人を択《えら》ぶ者は治まり、人のために官を択ぶ者は乱るとあります。重役がこのようなことを言うようで、どうして政道が立ち、お家のためになりましょう。藩政の乱れお察し下さい。
一、仙石左京、岩田静馬、山村貢の三人は格別仲がよくて、万事なれ合って種々手をつくし、上を欺いています。彼らが何を企図しているか、はかりがたきものがあります。事最も重大と思っています。
一、山村貢は大欲心の性質なので、左京は山村の心を攬《と》るために、山村の妻子共にたいしてまで賄賂を贈っています。元来、山村はご隠居様のお側役であった者で、格別なご懇情を賜わり、忠愛切でなければならぬはずの者でありますのに、それを忘れ、左京にくみして、お上を欺き申しているのです。
一、旧年(天保二年?)、宇野甚助が京都で角力興行の勧進元と富くじをして、損をしました。当時彼はなかなかのぜいたくぶりで、彼が角力取七八人と芸者などを供につれて度々往来している姿を、ご領内の袴座村の者が主従京都に参った節実見した由であります。この時の宇野の損失は莫大なものでありましたので、帰国をはばかり、病気と言い立てて京都滞在をつづけました。その病気について、色々悪いうわさも立ちましたので、お医者の鷹取已伯夫婦と御用達の江原村茂右衛門とを上京させ、ようやく連れ帰らせました。このようにお家に莫大なご損失をかけたのですから、きびしいご処分あるべきでありますのに、左京と岩田静馬とはかえって宇野をいたわり、極月二十八、九日頃まで度々その宅に見舞に行ったばかりか、年頭にはもう宇野を出勤させました。それというのも、宇野は左京が大望の相談相手にしている股肱《ここう》の者であるからであります。左京は、宇野の京・大坂での失敗のこと、病気のことを、どう申上げているのでしょうか。いずれはお家のご難儀になることと、案じ上げています。
(宇野の病気は、医者を迎いにやったり、病気についての久道への報告を濁しているところから見て、性病のようなものであったのではないかと思う)
以上申上げたことについて、お疑問がありますなら、しかるべき人物をえらんで、役人共へお尋ね下さい。あるいは、左京を中心とする現在の藩政府の権威におじて、容易には実を申上げないでありましょうが、強《た》ってお尋ねあれば、真直ぐに申上げるであろうと存じます。右のように私共の申上げることをご採用給わるなら、まことに正当なご政道でありますが、万々が一、ご採用かなわずとならば、直ぐお返し下さるよう願い上げます。またこの上書を御用部屋(重役部屋)へ示して意見を徴し給うことも、やめていただきたくございます。必ずやお家の不為、全家中の騒ぎとなるであろうと察せられるからでございます。くれぐれも、ご用部屋へは決してお見せ遊ばされず、直接私共にお返し下さるよう願います。
以上すべて、及ばずながら、お上大切と存じ奉って申上げたので、いささかも私意はさしはさんでいません。ご了察いただきたくお願い申上げます。[#地付き]以上
[#地付き]仙石主計
辰(天保三年)正月十六日 [#地付き]荒木玄蕃
[#地付き]酒匂清兵衛
[#地付き]原市郎右衛門
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要するに、左京が主家横領の野心を包蔵して、味方を集めて徒党を組んでいること、藩政を紊乱させて、依怙《えこ》ひいきをしていること、藩公や家中一般には倹約を強いながら、自分らは奢侈していること、上の聡明を蔽《おお》うていること、の四つについて、具体的に実例を上げて書きつらねているのである。言っていることにうそはないとは思うが、末尾の、「ご用部屋の者には見せるな。採用しないのなら、すぐそのまま返してくれ」というところに、姿勢の弱さが見える。四人がたしかに腰をすえているならば、
「疑わしいと思し召さば、左京らと対決を仰せつけ下さい。申すところが偽りでないことをお目にかけるでありましょう」
と、書かねばならないところである。
家柄で老臣の職にあるだけで、才も度胸もなかったのであろうが、何よりもこの上書が、河野瀬兵衛の煽動によっておこされたことなので、対決によって相手を説破出来る自信がなかったのであろう。
五
久道はこの上書を受けて、もちろん左京に見せた。彼は左京を信頼してはいたが、多少の疑いは抱いたかも知れない。左京はたくみに言いぬけて、これは四人が政局から離れた閑地にあるための嫉妬にすぎないと説明した。久道はこれを信じた。もともと、器量の点から見ても、左京の方が段ちがいに立ちまさっていたのであろう。
久道は四人にたいして、あとなきことを讒言して、けしからんことかなと思った。処罰しようと言い出した。左京は、この上書を理由にして処分するとなれば、色々面倒であるばかりでなく、かれこれ押問答しているうちには、こちらのボロの出る危険もあると思ったので、久道に言った。
「このことを、筋道立てて詮議すれば、四人は重科に処せねばならんことになります。四人はお家久しくして家柄あるものであります。そうなってはあわれであります。また、譜代の重臣を四人も一時に重きご処分あっては、公儀の思召し、世間の聞えもいかがと存じます。格別のご仁心を以て、ただなんとなく隠居・逼塞《ひつそく》を仰せつけられ、あとつぎの者に繋《つな》ぎ扶持を下さるようなされたらばいかがかと存じます」
元来かしこくない久道だ。
「それもそうじゃな。よきにはからえ」
と言った。
左京は早速、そのようにはからった。理由は説明しない。「思召さるるところこれあり候につき」とだけである。現代人には思いもおよばぬ横暴なやり方だが、現代だって少し前までは「明日より出社に及ばず」とだけの通達で職を奪われることは普通だったのである。
かくて、荒木玄蕃の家は家禄千八百石をとり上げ、玄蕃には隠居蟄居を命じ、子信太郎に二十人扶持をあたえることにした。仙石主計の家は仙石の名字を取り上げて生駒《いこま》という名字にし、千石を取り上げ、子富太郎に二十人扶持をあたえた。酒匂清兵衛の家も家禄(高不明)取上げ、隠居蟄居。清兵衛の子薫はすでに三十半ばであったので、これまた隠居蟄居。その子久太郎に十人扶持をあたえた。原市郎右衛門は処分発表前の三月に病死したが、その家は家禄を召上げられて十人扶持にされ、小禄の者の屋敷町に移転を命ぜられた。
この他、右四人の兄弟やその他で、同志と見なされた者であろう、隠居や、減俸や、お役ご免に処せられている者が六人もいる。
左京の手が河野瀬兵衛におよんだことは言うまでもない。かねてから疑惑をもって探索させていたところこの結果となったからか、これほどのことを仕出来《しでか》すのは、とうてい四人の器量ではおよばない、裏面に河野があやつっていると見たのか、わからないが、瀬兵衛にたいして永のいとまをくれ、同時に、こう言いわたした。
「京・大坂・江戸・丹波・丹後・美作(一説に江戸・京都・但馬・丹後・美作)には立入ってはならない」
これを土地構いといって、土地を指定し、その土地に立入ることを禁止するのは、当時の処刑にはよくあったことである。この土地構いに指定した地方を見ても、河野瀬兵衛が四人を動かしている中心人物であることを、左京が知っていたことがわかるのである。しかし、解雇にしただけで、切腹とか死罪とかに処せなかったところを見ると、証拠をおさえているのではなかったのであろう。
河野瀬兵衛は長のお暇を言いわたされると、姉聟の渡辺角太夫というものが、生野銀山の地役人をしているので、生野に行って頼った。
渡辺はこれをよく世話し、別宅において、子供相手の漢籍の素読や手習師匠をさせることにした。一説によると、この別宅というのは渡辺の妾宅だったという。
河野はここに約一年ほどいたが、何としても残念でならないので、天保四年六月に江戸に出て、左京一派の悪事を二十二条に書きつらねた文書を、前藩主政美夫人の常真院をはじめ、道之助の兄で阿部家をついでいる阿部能登守や、仙石家の分家四人へさし出した。
六
河野の上書は長文にわたるが、左にかかげる。
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一、仙石家ご先祖より重代の箱というがお城内の宝蔵にあります。これは首席家老になった者が御城内で内見して、そのままご宝蔵に返しおくべき慣例のものでありますのに、左京は役人に命じて自宅に持って来させ、しばらくとどめおいた後、封印してお城内の宝蔵にかえしました。なかの品が無事であるか、疑わしく存じます。
一、左京の居屋敷《いやしき》はご城内にありますが、彼はその屋敷からお堀へ板を渡して往来自由として、子供や下女などを市中の町医者の宅へ遊行させました。これではお城の守りはないにひとしい。第一お公儀へ憚りがあります。
一、先年拙者がご勝手方(勘定方)の職務にありました時、家中の武士ら、町方《まちかた》のもの、在方《ざいかた》のものらに五万両のご用金を申しつけ、また大坂から三万両ほど借用し、その後、領内からの借金も大坂からの借金も、ご返金断わり切り(つまり踏みたおしたのであろう)に仕上げました。だのに、仙石家の経済状態は少しもよくなりません。これに引きかえ、左京は万石以上の生活ぶりであり、岩田静馬、山村貢をはじめ、そのなかまの役人らは皆格段のぜいたくをしています。
(藩の金銀をくすねているようだと疑っているのである)
一、お家の経済が苦しいというので、ご家中の面々は知行扶持お借上げで、わずかずつの扶持をあてがわれているのでありますが、小役人や徒士《かち》以下の者共は三度の食事もしかねる有様でいます。また、藩政府は在方や町方へ不時のご用金を申しつけていますが、元来ご用金はお公儀のお手伝い普請とか、ご家督相続とか、江戸お屋敷やお城が火災にあったとか、というような場合に仰せつけるべきものであります。今日、お家にはそういう不時なことはなく、藩政の局にあたっている左京や静馬らは、名馬や鷹を養ったり、はなはだしきは京都から妾を取寄せ、しかもそれを度々とりかえたりなどの奢ったことをしながら、民の困窮しているのを顧みずして、ご用金を言いつけるのですから、まるで道理に合いません。
一、左京は堺から十匁|鉄砲《づつ》十|挺《ちよう》を購入したばかりか、そのほかの兵具類を新規に注文して、自らのものとして備えつけました。具足も同断です。また自分の差料としての大小を、百両、百五十両以上の品を三、四腰注文しました。家財道具も右に準ず。
(左京の贅沢を攻撃しているわけだが、特に銃器、兵具類をはじめに書いているのは、これは幕府の最も神経を尖らすところであり、従って仙石家の分家の主人らに強い衝撃をあたえることであるからである)
一、美濃守(先代政美)様がご在国の時、左京は自分の屋敷へ美濃守様をご招待しましたが、その際自分の妾をその席に出し、三味線をひかせたりして興をそえました。こんなやり方は茶屋同然のやり方で、武家のやり方ではありません。君臣の礼を失い、上を侮り申していると申してよいかと存じます。
一、江戸表は殿様のお勤先で、至って大切な場所でありますのに、藩邸は大破しています。ご幼君をはじめ上々様方のお手許のことや、飲食、衣服等のことなどは一先ずおくとしましても、ご幼君の毎日のお手習のお清書の紙さえ不足していますので、お側の者が内々で紙を差上げているほどの由であります。しかるに、左京の邸宅は綺羅をつくし、一万石以上の生活ぶりであります。
一、江戸表お屋敷の奥(常真院を中心としているわけだ)から、経費不足で格別に難儀してこまっているとの旨を、ご隠居様(先々代播磨守久道)へ訴えられたところ、ご隠居様は左京を呼出し、いろいろとお尋ねになりました。左京は、「それは国許の勘定奉行らが江戸お屋敷のお暮しについてよくわからないからであります」と答えました。ご隠居様は勘定奉行を江戸に呼んでお取調べになることになりましたところ、左京は途中に人を派し、江戸をさして上って来る勘定奉行に、「しかじかの旨をお答えしておいた故、抗言しないで罪に服してほしい。悪いようには決してしないから」と言い含めさせました。かくて、奉行が江戸に到着しますと、お役所で役人らが立合って吟味し、勘定奉行の不行届として四五日の謹慎を仰せつけましたが、その謹慎中に、左京と静馬から、内々に日々酒肴をおくりました。罪あって謹慎中のものに重役から贈物をするのは理にはずれています。つまり、頼んで自分の罪を着てもらったからであります。上を欺いたと言ってよろしい。
一、江戸勤番交代の諸士《しよざむらい》にたいして途中で命令を変更して、混乱させたこと。
一、左京はお城にご所蔵の刀を、かかり役人に命じてそっと取出させ、町方へ出して|こしらえ《ヽヽヽヽ》をつけさせて横領しようとしたところ、これが露見したので、お側頭取に頼みこんで、美濃守(先代政美)様を自分の宅に招請した時、お土産として下賜されるようにして、拝領しました。不届至極ないたし方です。
一、お城御所蔵の槍の穂先を、かかり役人に命じてひそかに取出させ、自分の槍にしました。
一、左京は家中の者がお貸下げ金の抵当として、お勘定方に差出していた井上|真改《しんかい》の脇差を、自分の差料にしました。
一、右と同じ理由でお勘定方にあった具足二領も紛失しました。
(左京があやしいというわけだ)
一、左京は射術検分と称して、自宅の的場で、物頭をはじめ家中の者に射芸を行わせましたが、その節彼の家の下女等にも、内々見物させました。一体、家老が諸芸の検分をするのは殿様のご名代として行うのですから、場所はいつも必ずご殿ということにきまっているのです。自らの威光にまかせて、かようなことをやったわけです。不届至極であります。
一、左京は忰《せがれ》小太郎の前髪祝いに、礼法師範を京都から招請して、烏帽子・大紋で、身分不相応な大げさな礼を行いました。
一、彼はまた小太郎の具足着用初めに、京都から礼法師範と兵学師範とを招き、この際も烏帽子・大紋で身分超過の礼を行い、親類中を招待して盛大をきわめました。お家倹約のおりから、不相当であります。これまでご家中の誰もしたことのない大袈裟な礼式は、奢りの骨頂であります。
一、小太郎婚姻の節、途中の出迎え、下女の駕籠が六挺もあり、長持などには福面を飾り、傘鉾を立て、大手のご門から祝儀謡を高らかに歌わせてねりこませました。先年両姫君様が京都へご入輿遊ばされた時の五層倍のやり方であります。奢りの最上というべし。郡中の者が皆目前に見たことであります。
一、美濃守(先代政美)様のおん忌日に、左京と静馬とは在方に行って、ご用達らに饗応をしたが、魚鳥の料理を取りそろえていたしました。お家の重職として、不謹慎至極であります。
一、他国浪人の鷹匠をしばらくとどめおいて、野外に連れて行って鷹使いをしました。ご城内においても使いました由。陪臣の野遊びに鷹合せは僭上の沙汰であります。
一、大坂で吟味の上、馬術の上手を召抱えました。お家倹約のおりから不適当であります。
一、お家経済は次第に逼迫《ひつぱく》しつつあります。先年、ご隠居様は銀札の出高が多すぎる故、工夫して回収して焼捨てるようにと仰せ出されたほどでありますが、現在は新銀札を莫大に発行して当座しのぎをしています。しかも、ご隠居様へは追々回収して少なくすると欺き申しています。このおびただしい銀札は後年必ず大変なことになります。
一、左京がせがれ小太郎の嫁をもとむるにあたって、左京は江戸表の懇意の人々にこう頼みました。「出来るなら、現職の御老中方の姫君がほしいが、適当な人がない場合は御老中方の御一族の家の姫君がほしい」と。かくして、ご老中松平周防守康任様のおん弟松平主税様の姫君をもらうことにして、左京方から入費全部をさし出したのであります。
このようにしてまで御老中方の親戚になることを思い立ったのは深いたくらみがあってのことと存じます。美濃守(先代政美)様御逝去のおりの思惑《おもわく》がはずれたので、恐れながら追々御隠居様ご逝去にでもなったらと、何か大望を抱いているのでありましょう。
江戸でも、出石でも、藩政府の役人は小役の者まで、皆左京へ随順していますが、先手《さきて》、物頭《ものがしら》、馬廻《うままわり》の面々や外様《とざま》(ここでは役つきでないものや中枢部外に勤務しているものの意であろう)の者は決して左京に心服していません。されば、万一のことがありましたなら、総家中は二つか三つに割れて、ご親類方か、公儀へ、願いを出すことになりましょう。深く考えれば、まことに不安であります。
一、先年、美濃守様のご大病の急使が国許へまいりました節、左京は七八歳(実は十歳)のせがれを連れて江戸に出ましたが、何のためにこの際せがれなどを連れて出るのか、合点がまいりませんでしたので、年寄の酒匂清兵衛がその翌日出石を出発、途中で左京を追いこして江戸に到着、ご分家様方へ、左京の心事不審でござれば、万事ご注意あるべき旨を申上げました。そのうち出石のご妾腹の道之助様がご参府あり、公儀より、その家督相続を聴許ありましたので、一先無事に済んだのでありましたが、その頃からの左京の大望は未だに消滅せぬかに推察されるのであります。
右申上げました条々の趣きは、荒木玄蕃、仙石主計、酒匂清兵衛をお呼び出しになって、その席に拙者をお召しになり、ご隠居様が陰にいらせられて、拙者共の申すことをお聞き下さるなら、万事明白となります。その節に、拙者は左京をはじめその党派の不届な行為の証拠になる品を差出して、ごらんに入れます。拙者共が出席しませんでは、証拠の品が知れません。ともあれ、玄蕃をはじめとして拙者に至るまでをご隠居の前に召出され、ご尋問賜われば、明白になりますが、現在の年寄・用人らでは、左京の内意を受けていますから、決してわかりません。
なおまた、玄蕃をはじめ拙者ごときまで、蟄居、隠居、追放などに処せられていますが、その理由については罪状の指定がなく、ただ「思召しこれあり」とあるだけであります。あるいは、皆様方においては、拙者共を不忠不義の徒と思召しあるかも知れませんが、拙者共には露覚えのなきことであります。糾明さえ仰せつけられますなら、双方の善悪はその場で明白になるでありましょう。
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この書面を向き向きに差出すにあたって、瀬兵衛は最もよき同志を得た。神谷転《かみやうたた》という人物だ。
転《うたた》は仙石家譜代の臣で、兄を神谷|七五三《しめぞう》といった。若い時、転は同藩の清水家に養子となり、先代美濃守の在世中は側役をつとめていたが、美濃守の死後、側近勤めから外勤《そとづとめ》にされたので、重役らの私意による人事《じんじ》であると、常に不平でいた。そのうち、養家を出て、兄七五三の家にかえったが、この頃は仙石家の分家である旗本仙石弥三郎の家に奉公していた(以上は、後に仙石家の騒ぎが幕府の裁判になった時、左京らが公儀に差出した転に関する目安書によって書いたが、大へん悪意をもって書いているので、事柄だけを摘記し、評語めいたものは一切除いた)。転はこの時四十であった。
瀬兵衛は転と以前からの知合であったが、自分の知っている左京一派の政道の非違、非道の野望等についてくわしく語った。転は深く感奮して、兄七五三をもさそって同志となり、上書の差出しや説明等について、河野を助けて大いに働いた。
七
上書提出後、河野瀬兵衛はしばらく江戸にとどまって、書面を受取った人々から呼出しのあるのを待ったが、格別なこともなかったので、失望して西に向かい、八月頃生野銀山にかえった。
ところが、上書は反応がないどころか、まるで予期の反対の作用をしつつあったのだ。上書を受取った人々は、上書の文面を全面的には信じなかったが、あるいは多少の実があるのかも知れないと思い、隠居の久道にその書面を渡して、善処するように言った。
この以前、年寄の杉原官兵衛というものが、久道に、この話をしていたので、久道としてはそう驚きはしなかった。この杉原も左京の姉聟である(系図)。
久道は左京を信任しているが、瀬兵衛の書付を見て少しはあやしんで、左京を呼び出して、これを見せた。左京は巧妙に言いつくろった後、老臣らの意見を河野逮捕にまとめ、久道の許可をもらった。
この間に左京は杉原官兵衛が久道に河野の書付について前知らせをしたことを怒った。
「いらんことを申されんでもよい。不届である」
と、ぎゅうぎゅうしぼって、わび証文を取り上げたという。
河野のいる生野銀山は天領(幕府の直轄領)である。踏みこんで捕縛しては、幕府の権威をおかすことになり、ゆゆしい問題になるにきまっていたが、左京はこれを敢てさせた。息子の嫁の縁をたぐって松平康任老中に深く取入っているので、頼んでうまくつくろってもらえると|たか《ヽヽ》をくくっていたのであろう。
左京の命を受けた下目付は、生野に潜入して嗅ぎまわったが、十二月中旬に入ると、帰って来て、
「たしかに銀山にいる」
と報告した。
そこで、十二月十六日、横目付の良八という老練な男が出石を出発して生野に行き、なおくわしく探索にかかった。
たしかに河野は生野にいる。その住所も突きとめた。しかし、幕府直轄領だ、踏みこんで召捕ることは、法の上からは出来ないのだ。召捕ろうと思ったら、代官に頼んで捕えて引渡してもらうのだ。代官もすぐには応じられない。先ず幕府に報告して指示を仰ぎ、引渡してよいとの指示があったら、捕えて引渡すのである。これが正規の手続きである。
良八は一策を工夫して、それを出石に申し送った。
この良八の策によって、出石藩では郡方《こおりかた》所属の忠次・門平・喜平・準太夫の四人が生野近くの森垣・山口などというところに潜伏して、良八からの連絡を待った。
二十五日、良八から連絡があったので、四人は人足に変装し、空駕籠をかついで生野に向かった。銀山の門にさしかかると、
「飛脚につかわした者が、井筒屋勘助方で急病となりましたので、迎えのためにまかり越しました」
と、門番にことわって通り、目的の渡辺角太夫の別宅にふみこんで、河野を捕縛にかかった。
「当地は天領であり、ここはお公儀銀山屋敷の構内、理不尽千万、狼藉であるぞ!」
と、河野は大音に罵って抵抗したが、耳にもかけず、縄を打った。
隣家は櫛橋《くしはし》丈助という人物の宅であった。櫛橋父子はさわぎを聞きつけて出て来、色々と説得につとめた。しかし、捕手らは少しも耳に入れず、しゃにむに、河野を駕籠にのせ、外から縄でからげ、夜五つ(八時)過ぎ、銀山屋敷の門に来た。門限少し前だ。「病人でござる」と番所にことわり、足早に立出でた。森垣村まで来ると角兵衛・源吉という者らの家に入り、河野を手錠、腰縄に改めた。
そこに、銀山から渡辺角太夫父子が駆けつけて、
「河野を渡せ」
とかけ合いをはじめた。
もちろん、渡さない。
押問答をしているところに、銀山代官の西村貞太郎が役人を派して、河野をさしおさえた。
そうこうしているうちに、あまり手間取るので、出石《いずし》から小役人がつかわされて来た。これが委細を報告したので、左京は山本耕兵衛、永井喜右衛門など、相当な身分の者を行き向かわせて、西村代官に交渉させたが、西村は頑として聞き入れない。
ついに出石藩は幕府へ運動することにして、山本耕兵衛が大晦日《おおみそか》の、しかも日暮時に出発して、江戸に向かった。同時に西村代官の方も、直属上官である勘定奉行曽我豊後守|助弼《すけまさ》と同内藤|隼人正矩佳《はやとのかみのりよし》との連名|宛《あて》に、事の次第を報告し、出石藩の非を鳴らし、今後の差図を仰いだ。
左京の運動はもちろんせがれ小太郎の妻の父松平主税の手をたぐって、その兄で老中の松平周防守|康任《やすとう》に働きかけるのを本筋としたが、月の当番奉行であった曽我豊後守にも松平主税の手を通じて、相当な賄賂を贈ったと思われる。
その結果、曽我豊後守は、生野代官の西村貞太郎に、こう差図してやった。
「仙石家の家来共が御領内に踏みこんで、ほしいままに人を逮捕したことは、重々仙石家の家来共が悪い。仙石家の方でもすでに認めて、家来共の心得違いであったと自分に詫びて来ているほどである。しかしながら、これを公沙汰にすれば、多数の人間を遠路江戸に呼び下して吟味しなければならないことになって、皆々迷惑するであろう。されば、仙石家の家来が御領内に踏みこんで河野某を逮捕云々のことはないこととして、渡辺角太夫方へ居住の河野某なる者について、仙石家より、仙石家にとって問題ある者の由申して来た故、自分が出向いて吟味したいと思うが、吟味をおわった上は、河野は仙石家へ引渡してよいであろうかという意味の伺書を差出すよう」
直属長官の命令である。西村代官は差図通りの伺書を書いておくった。曽我豊後守はこの伺書をもって、松平周防守の指揮を仰いだところ、松平老中は河野を仙石家へ引渡せと差図した。
以上はあとで幕府の公裁になった時の、曽我豊後守への処罰申渡書の記述によって書いたのだが、実際はこれは松平周防守が発意《ほつい》して、豊後守にそうはからわせたのであろう。周防守も、豊後守も、西村代官の最初の伺書は、豊後守と内藤隼人正との連名宛になっているのに、全然、隼人正には見せていないのである。後にこれも豊後守の処罰理由の一つになるのであるが、こんな勝手なことを豊後守が独断でするはずがない。上にそれを指示する者があったから出来たと考えるべきであろう。
しかし、これは一時にこうなったのではなく、ずいぶんひまがかかり、いよいよ河野瀬兵衛を仙石家へ引きわたしたのは、翌年の四月半ばだ。その以前に、出石ではこんなことが行われた。
八
年が明けて天保五年になると、仙石左京は、すでに河野のことで藩内の様々のことが世間にもわかり、公辺にもわかった以上、断乎たる処置をして敵党を非におとし、息の根をとめることが必要であると見た。あたかも帰国中の隠居久道は老病になって、少しぼけている。これにこうすすめた。
「先年四老臣らがご隠居様に上書し、昨年はまた河野瀬兵衛が常真院様をはじめ阿部能登守様、ご分家の方々にまで、あと形もなき偽りを書きつらねた書付を奉りまして、世上ではそれを多少は信ずる向きもありまして、まことにおもしろくございません。世上のこの疑惑を一掃するには、三人(原市郎右衛門は前々年三月病死)を呼び出し、あの時の上書に書きのせてある条々について一々吟味して、それが真赤ないつわりであることをはっきりさせ、三人に断然たる処分をいたすのが一番であります」
「それはそうだ。ではそうしよう」
久道は左京のことばには一も二もない。
正月十六日、久道は三人を西の御殿に呼び出し、彼らが上書に書きつらねた条目を追って、一々尋問したところ、元来そう賢くない三人だ。何か答えればわきから左京が論じかけて論争の形とした。ついに三人は論じ負かされて、
「恐れ入りました。この上はお慈悲を願い上げ奉ります」
と、あやまり入る仕儀となってしまった。いくじのない話だが、論争というものは、正しいものが勝つとはかぎっていない。口達者で頭のよい者が勝つのである。
久道は三人をきびしく叱りつけ、いずれ処置を申しつけるにより、帰宅して謹しみおれと申渡した。
左京は神谷|転《うたた》が河野瀬兵衛と親しくし、その上書提出の時には、兄|七五三《しめぞう》をもさそって、大いに働いたことを聞いて、兄弟共に糾明《きゆうめい》することにして、転を現在の主家から呼びもどすよう七五三に命じた。転は兄からの知らせを受けると、すぐ左京の意図を察した。
そこで、その日、二月二十五日、いずれかへ出奔した。
虚無僧寺一月寺に入って、虚無僧となったのである。その時|受人《うけにん》に立ったのは通説では麻布六軒町に道場をひらいていた柔術家渋川伴五郎(一説渋川伊太郎)であったというが、裁判の時の申渡書を見ると、三浦甚太郎という旗本の家来高橋久左衛門という人物が受人であったとある。渋川が先ず世話をして話をきめたが、受人は浪人では工合が悪いので、高橋久左衛門になってもらったのかも知れない。
どうしてこれがわかったか、左京はこれを知った。そこで江戸留守居役らに言いつけて、町奉行の筒井伊賀守政憲の用人らに取入って、伊賀守にとりなしてもらって、転を捕縛して、仙石家へ引渡してもらいたいと頼みこんだ。ここにも松平康任老中の息がかかったかも知れない。筒井政憲といえば、幕末維新史上なかなかの人物となるのだ。それが仙石家の依頼を、しかも虚無僧といえば寺社奉行の管轄であるをかまわず、闇雲《やみくも》にのみこんでしまったのだから、こうとでも解釈するよりほかはない。これは三月十七日のことであった。
翌四月十五日、生野代官西村貞太郎は、直属長官曽我豊後守|助弼《すけまさ》の差図に従って、河野瀬兵衛を仙石家に引きわたした。
今や左京の手許には、三老臣と河野がある。極刑に処して、敵党の気をくじき、味方の結束をかため、同時にわが党にたいする世間の悪評を消滅させようと、刑罰をこうきめた。
河野瀬兵衛 引きまわしの上獄門、または打首
三 重 臣 切腹、または永座敷牢
こうきめて、岩田静馬ともう一人を使として、松平康任老中に差図を仰いだ。
松平主税は、可愛い娘の舅父《しゆうと》の頼みではあり、何かしてやる度に結構な進物をもらうことでもありするので、万事のみこんで、岩田の持って来た書付をもって兄の屋敷を訪れ、康任老中に見せて、意見をたたいた。
「瀬兵衛とやらは軽死罪、三人も軽き方にして、永蟄居というがよかろう」
と、老中は述べた。
主税はこれを岩田静馬らに告げるにあたって、自らの思いつきで、
「三人は髪を剃らせた上、囲《かこ》い場《ば》に入れておくがよかろう」
と言った。
静馬は、念を入れて、
「この者共の仕置のことについては、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、江戸町奉行)に問合せるべきでありましょうか」
ときいた。
「いやいや、それには及ばぬ。これは内々ながら周防守(康任)よりの差図である故、間違いはない。他へ問合せるはいらぬことだ」
と、主税は答えた。あまり賢くない弟が、兄の威勢を肩に着ている様子がよく見えるでないか。
ちょうどこの頃、隠居の久道が病死した。左京は主人の喪中でも刑罰を行ってよいものかどうか、また主税を頼んで、康任老中に聞いてもらった。康任老中は、服喪と刑罰の関係については、宝暦年度に将軍の決裁をもってきめられた規則があると、それを書写させて、主税にわたした。主税はその書付を仙石家の使者に渡した。
こうして、三重臣は髪を剃《おろ》された上、藩で決定した囲い場に入れられた。賤民部落に続きあっているあき屋敷があったのに台所をつけ、囲い場にしたという。
これは三月のことであったが、翌四月二十日、神谷|転《うたた》が筒井町奉行の手先らに捕縛された。場所は日本橋の横山町であったという。
転は一月寺に入ると、法名を友鵞とつけられた。虚無僧は武家浪人でなければなれない規定になっている半俗の僧で、還俗もまたきわめて容易に出来るところから、その気質は純然たる武士のものであった。一月寺の虚無僧らは、転から仙石家の事情を聞き、転を忠誠無二の者として、皆同情的であった。転に実はどの程度に忠心があったか、ぼくはそんなに買ってはいない、河野瀬兵衛から話を聞いて、感奮して、兄をさそってまで河野の仕事を手伝ったのだから、もとより、相当程度の忠心はあったろうが、河野から話を聞くまで左京一派の秕政や不逞の野望に気がつかなかったところを見ると、それほどの人物とは思われない。しかし、これは現代のぼくの見解だ。この時代の虚無僧諸君としては、仙石家のことを歌舞伎芝居的の善玉・悪玉、忠姦の抗争と見て、左京一派が極悪人と大不忠漢の集まりなら、片方は大忠臣の集団でなければならないと考えていたろうから、転がその大忠臣の一人として、極悪人・姦臣どもに迫害されていると見たのは、最も普通なことであった。
転はこの前月(三月)に一月寺の末寺である上総国(千葉県)三黒村の松見寺の住職代に任ぜられたが、この日、一月寺からの京都の虚無僧寺の本山である明暗《みようあん》寺(妙安寺とも書く)に、宗義上の用事があって出張の途中、書状を飛脚屋作左衛門方に頼みに行こうとして横山町に来た時、町奉行所の組同心、その他の者が、不意に、「御用!」とさけんで襲いかかって来た。
この宗義上の用事で京都へ行くというのは、実は名目で、ほんとは転に同情した一月寺の幹部らが、転に国許の同志と連絡をとるための旅をさせるべく、寺用出張の命を出したのかも知れない。おそらく、そうであろう。
転は同心や手先らを、防ぎながら、
「これは一月寺の役僧代でござる。お召捕りになるべき覚えは少しもござらぬぞ! たとえあればとて、お町奉行のご同心方では、筋違いでありましょうぞ! われらは寺社ご奉行ご支配の者でありますぞ!」
と必死にさけんだが、相手は耳にもかけず襲いかかるばかりでなく、捕手の数はふえる一方である。
転は尺八をふるって打ち返してなおも防ぎながら、
「ご用あらば、一月寺役所まで同道の上、うけたまわりたし。かくまで申すを、理不尽でござろうぞ!」
とさけんだが、ついに押しつけられ、縄をかけられた。もうしかたがないから、転はおとなしくなった。辻番所へ連れて行って、頭立った者が言う。
「その方の主家仙石家の頼みによって、召捕ったのである故、仙石家へ引渡す。さよう心得るよう」
「拙者、以前は仙石家中でござったが、唯今は一月寺に入って虚無僧となり、役僧代をつとめるもの、ことに寺命によって寺務を帯びて京の明暗寺に参る途中であります。寺法もあることでござれば、一先ず一月寺役所までご同道いただきたい。その上にて、いかようにもなり申そう」
と、転は抗弁した。
役人の方も、所管違いの違法を働いている弱みがある。無理強いも出来なかったのであろう、町奉行筒井伊賀守の役所へ連れて行き、牢へ入れた。
九
転が町奉行所に捕えられたことは、すぐ一月寺にわかった。一月寺では役僧の愛《あい》|※[#「王+睿」]《せん》の名で、町奉行所にたいして、転を召捕ったのは筋違いであることを抗議し、五月九日には筒井伊賀守政憲あてに嘆願書を差出したが、何の返答もなかった。
一月寺では方針をかえ、町奉行所内のものに、ひそかに、
「神谷転こと当寺の門弟友鵞は、仙石家においてどれほどの罪があったのでしょうか」
と、伺いを立てたところ、
「一通りの吟味の必要があるので召捕ったのであるが、格別、罪というほどのものはないようである」
との回答があった。
愛《あい》|※[#「王+睿」]《せん》は仙石家あての願書をしたため、自ら仙石家へ持って行って提出した。
「神谷転の貴藩にたいす罪科について、町奉行所に伺ってみたところ、しかじかの回答でありました。転は一旦当寺の弟子となったものでありますから、一通りのお吟味がすみましたら、ぜひ当寺にかえしていただきたい。寺にてもらい受け、剃髪させ、長く役僧をつとめさせたいのであります。ぜひともさようにおはからいいただきたい」
愛※[#「王+睿」]はこの願いが聞き入れられるとは、もとより思っていなかったろう。しかし、こう申込んでおけば、一月寺が全力をあげて転の後援をしていることを仙石家に知らせることになり、従って仙石家の動きは掣|肘《ちゆう》されるはずと計算したのであろう。また、町奉行所では捕縛はしたものの罪というほどのものはないと言っているぞと、町奉行所の見解を仙石家に知らせておけば、万一転が仙石家へ引渡されても、重い刑罰に処することは出来ないはずとの狙いもあったろう。
仙石家ではしばらく待たした後、家来が出て来て、
「主人道之助、ご書面を拝見しましたが、一存では答え難《がた》いにより、これより国許へ申しつかわしました上で、ご返答に及ぶでござろうと、申しております」
と、答えて、引取ってもらった。
この年道之助は十六になっている。当時としては半おとなである。実際に願書を見たであろう。
おそらく、これは五月下旬あたりのことであったろうが、月がかわって六月七日、出石ではついに河野瀬兵衛を死罪にした。
当時のことだから、瀬兵衛が出石で殺されたことは、一月寺ではまだ知らなかったが、六月十九日、愛※[#「王+睿」]は仙石家に行って、
「お願い申上げてから余程日数が立ちますが、ご返答に接しないので、失礼ながらお伺いに上りました」
と、申込んだ。
仙石家では、留守居の河野丹次という者が応対に出て、
「出石表の意見を参酌しますと、ご所望に応ずることは出来申さぬと申せとの、道之助のことばでござる」
と、返答した。
ここで、一月寺は取っておきの手段に出る。翌々日の六月二十一日、一月寺番所役僧愛|※[#「王+睿」]《せん》の名で、寺社奉行井上河内守正春に訴状を差出した。
愛※[#「王+睿」]は六月二十一日から七月二十一日に至るまで、つまり満一月の間に三回訴状を出している。
これらの訴状の内容はこれまで叙述して来たことと重複する点もあるが、あまり省《はぶ》いては興をそぐ恐れがある。あまり省かないで出来るだけ簡潔を期して、口訳する。
[#ここから2字下げ]
恐れながら書付を以て願い奉り候
仙石道之助のもと家来、神谷転は、現在は一月寺の末寺である上総国三黒村松見寺の看主《かんす》(監寺《かんす》のあて字である。住職代理である)友鵞となっています。この者、本年四月二十日に、京都明暗寺に宗用にて出張申しつけて、途中書状を飛脚屋作左衛門方へ託しに立寄らせましたところ、途中、町奉行組同心らが多勢で、突然に差しおさえようとしました。友鵞は、一月寺役僧代であると名乗り、再三申しひらきましたが、一向に聞き入れず、益々不法に打ちかかりました。新しく馳せ集まる者もあります。いたし方なく、しばらく抵抗しました。友鵞は度々、「拙僧に御用があるのなら、一月寺の番所(役所)にご一緒に参り、そこで伺いましょう」と申しましたが、耳にもかけず、ついに理不尽に押倒して縄をかけた上、「仙石家へ引渡す」と申します。友鵞は、「拙僧共は俗人と違って宗法を適用さるべきでありますから、一先一月寺番所へ同道していただきたい、そこでご相談の上、いか様にもなりましょう」と申しましたが、聞入れられず、そのままに筒井伊賀守(政憲)様の御番所へ引連れられ、直ちに入牢させられまして、目下御吟味中になっています。
一体、普化《ふけ》宗のことは、慶長年中に東照大権現によって新しく掟が立てられたのでありますが、その後延宝年間(四代将軍家綱の治世晩年)に、ご老中小笠原山城守様、板倉石見守様、太田摂津守様、ご列座の席において、
「当宗は武門の不幸の士が門弟となって修業の後、武門に帰参させる習わしの由である、また当宗の徒には昔からの由緒がある血筋の武士もいる由。これは武士の血脈の断絶を救うもので、天下の武門の助けとなる。つまり、その子孫の中で天下の御用に立つ者も出て来ようから、ご奉公にもなるわけである。されば、一層宗法正しくするように」
とのお書付をいただきましたので、当宗においてはいよいよ宗令を厳重にし、油断なく修業につとめ、武門不幸の士を助け、再仕官や帰参をするようにつとめてまいった次第でございます。
さて、右の神谷転こと友鵞は、主家の安危を憂え、心中に忠志を含んで計画するところがありましたが、はからずも姦臣共の姦計に陥り、計画もむなしくなり行きそうになりましたので、主家の行末おぼつかなく存じ、一先ず退身して、昨年四月中、入寺を願い出ましたので、十分に取調べた上、古法の儀式を踏ませて、門弟にいたしました。
その後、人が少ないので、役僧見習をさせていましたが、今年三月中に松見寺の看主《かんす》に任命しました。
神谷転とはかくの如き人物であります。一体、諸藩において姦悪の臣のさかんなる際は、一筋に忠誠を持している士《さむらい》は、かえって無実の罪におとされるものであります故、人々の義気薄らぎ、忠烈の志《こころざし》は忘れられ、不道邪曲の藩風となり、ついには一藩の大事におよび勝ちであることは、古より数々語り伝えられるところであります。我々はかかる際の忠臣の孤志をあわれに思うものであります。友鵞はこの孤忠の臣であります。なにとぞ、ご慈悲を以て御奉行所においてご吟味の上、お裁き下さるよう、去る五月九日にお町奉行筒井伊賀守(政憲)様お番所へ願書を差出しましたが、ご採用下さいませんでした。
いたし方なく、思慮をめぐらしましたところ、ふと思いついて、お町奉行所へ、仙石家に対する友鵞の罪はどれほどのものであるかと、ひそかにお伺いしてみましたところ、
「格別の罪科はない。一通り吟味の必要があるという程度のものである」
との回答に接しましたので、仙石家へこのことを申しやり、転とは法縁あるなかなれば、吟味が相済んだなら、その身がらは一月寺へいただきたい、剃髪させて長く一月寺の僧としたいと願いましたところ、仙石家ではわれらが書面を道之助殿ご内見あって、出石表へ申しつかわして後、返答に及ぶであろうと仰せられたとの挨拶でありました。
しかし、仙石家からなかなか沙汰がありませんので、一昨十九日に仙石家へ参りましたところ、留守居河野丹次と申す者が出てまいり、
「出石表からの返答の趣きもあれば、聞き入れ難いとの、道之助のことばでござる」
と申しました。何とも致し方なき次第でございます。
私共が友鵞を救おうとしますのは、武士の危窮を救うのは宗門の本意であるからであります。公儀においてかねがね宗門に仰せ下されているご趣意も、恐れながらここにあるのだと解釈しています。
しかるに、前述しました通り、理不尽なる取りおさえよう、ことに一月寺番所へ同道するよう、再応三応願いましたのに少しも聞き入れず、縄を打って引致しましたのは、虚無僧を全然下賤同様にあつかったのであります。これを黙止し、これが先例となり、次第におし移って行きましては、恐れながら東照公お立ておき給うた掟の趣旨も相立たぬこととなり、宗門一統深く恐れ入り奉る次第でございます。また、かくして追い追いと宗門は滅亡と相成る兆《きざし》かと、深嘆痛心している次第でございます。何とぞ、格別のご慈悲を以て、私共の宗法が古来の通りに相立つようしていただきたく、またかの友鵞の孤忠の志も通るようになりましたなら、一層ありがたきことに存じます。この段いく重にもご慈悲のおん沙汰願い奉ります。以上
天保六|未《ひつじ》年六月二十一日
[#地付き]一月寺番所役僧
[#地付き]愛 ※[#「王+睿」] ※[#「○に印」]
寺社御奉行所
[#ここで字下げ終わり]
なかなか馴れた書きぶりだ。神谷転の災厄と普化宗の危急存亡とをからみ合わせて、転を見殺しにすることは、東照公が立ておかれ、幕府が代々それを奨励して来た普化宗の精神が破滅することである故、われわれは一月寺の存亡を賭けてあくまでも闘うぞと暗に脅迫しているのである。練達の文章と言ってよかろう。
余談だが、この文章の中で愛※[#「王+睿」]がしきりに引いている、慶長年度に家康が定めたという虚無僧掟は、真ッ赤な贋物なのである。しかし、これが贋物とわかったのは、この時から十二年後の弘化四年のことで、この時代は当の愛※[#「王+睿」]も、幕府の役人らも寺社奉行まで、東照公が立てて虚無僧寺に下付したものと信じていたのである。
また、同じく愛※[#「王+睿」]が引いている延宝年中に老中小笠原山城守、板倉石見守、太田摂津守が同座の席で云々というのも、あやしい。延宝年中の老中には、小笠原姓、板倉姓、太田姓の人はいないからである。しかし、これも一月寺の人々も、幕府の人々にも、信じられていることであったろう。
二度目は、七月九日に差出している。この頃には、河野瀬兵衛の処刑のうわさが江戸にも流れて来ていたらしく、それに触れている。
二度目の嘆願書も最初のと要領は同じだが、かなりに切迫して書いている。前半は最初の時のを簡潔にしたに過ぎないから、後半だけかかげる。
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(前略)
この前くわしく申上げておきましたが、唯今に至るまで当ご役所からご沙汰がありません。その上、仙石家においては、姦邪の逆臣のとりはからいで、譜代の老臣にして忠志の者四五人を、減知・蟄居等に処していたところ、先月はまた死罪に処した由、風聞があります(河野瀬兵衛のこと)。このように姦臣時を得、忠臣非道に死する上は、必ず暴悪増長し、邪曲長成し、国乱がはじまるに相違ありません。東照公の掟により、虚無僧は直参の旗本や諸侯の臣と同列の者と立ておかれていますので、表は僧形でありながら、内は武事を忘れず、日本国中往来の自由を許され、諸国修行には秘密の心得方(公儀の目付の意)もあって、諸藩の邪正や風儀をよく見分《けんぶん》して、場合によっては公儀へ報告することになっています。すなわち、天下のおん大事と見たら、身命をなげうってお尽し申し上げるのが、わが宗門の極意であります。
されば、神谷転こと友鵞を、忠誠の者と観察しましたので、お慈悲を賜わるべき願書を差上げたのであります。万々一にも仙石家へお引渡しになりましては、慶長以来下しおかれたるおん掟のご趣旨も全然立たず、普化一宗を立ておかれることも詮《せん》なきことと、一宗の者共は一筋に覚悟をきめております。
わが宗門は公儀ご武威のお助けとなるべき宗意であることをお考え下され、格別のご仁慈をもって、転こと友鵞の身がらは、お奉行所において、お吟味下さるよう願い奉ります。以上
未(天保六年)七月九日
[#地付き]一月寺番所役僧
[#地付き]愛 ※[#「王+睿」] ※[#「○に印」]
寺社御奉行所
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三番目は七月二十一日に提出した。
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(前略)
転こと友鵞の身の上が不安になりましたので、その持物を調べてみましたところ、かねて転の書きおいた書面、仙石左京の不届の箇条を書いたものが見つかりました。封印がついていましたが、友鵞のために当御奉行所(寺社奉行所)へ願書を奉ることでありますので、参考のため開封して一見いたしましたところ、容易ならざることが記してありました。私は出石表のことが心配で、実際のことを知りたく、かねて人を派遣していましたので、多少知っていますが、友鵞が書面に記してあることとぴったりと符号することも、相当あります。
たとえば、仙石家の旧家老荒木玄蕃、仙石主計、酒匂清兵衛、原市郎右衛門の四人が、去る辰(天保三年)正月中に、家老仙石左京のあやまった政治ぶり等のことについて、隠居久道に諫書を差出しましたところ、四人は同月二十二日に減知の上、隠居を仰せつけられた上に、慎み、逼塞《ひつそく》、蟄居等を申しつけられ、門毎《まごと》々々を釘で打ちつけ、番人をつけおくという峻厳さでありましたので、その年の三月には病死した者(原)もありました。
たとえばまた、奥《おく》役人の麻見四郎右衛門というは、巳《み》(天保四年)九月(六月がほんとである)中に、河野瀬兵衛という者が出府の上、先代政美殿の奥方(常真院)や道之助殿の実兄阿部能登守殿等へ諫書を差出したことに同感の意を表しましたが、それを左京は含んで、麻見を国許に使者として帰しておいて、国許において役儀取りはなし、隠居を申しつけ、知行を取上げ、相続のせがれには扶持米をつかわすことにしました。
三たびたとえば、年寄の本間佐仲と申すも、二度使者をつとめさせて、わずかな失策を理由に役儀を取上げました。
四たびたとえば、河野瀬兵衛もいろいろなことがあって、仙石で牢舎させていましたが、この六月に死罪に処してしまいました。
友鵞も仙石家へ引渡されては、非道の死をいたすこと必然で、ふびんの至りであります。
このように、忠誠の士がいく人も無実の罪におちいり、中には落命する者もあること、慨嘆の至りにたえません。
一体、私共の宗門では、心得として、国々の虚実その他見聞したことで、いぶかしく思うことは、公儀へ報告することとなっています上に、友鵞の忠志をよく存じていますから、同人の書きおいた書面一通と左京の不心得を箇条書にしたもの一通とを、捨ておくことが出来ませんので、ご内覧に入れます。(後略)
未(天保六年)七月二十一日
[#地付き]一月寺番所役僧
[#地付き]愛 ※[#「王+睿」] ※[#「○に印」]
寺社御奉行所
[#ここで字下げ終わり]
十
当時の寺社奉行は脇坂中務大輔|安董《やすただ》と井上河内守正春の二人であったが、一月寺の熱心で執拗な願書は、いつも井上に差出された。
井上は仙石家の親類であった。井上の母が、この前死んだ仙石家の隠居久道の妻の姪だったのだ。つまり、仙石道之助と井上とはいとこ同士《どち》なのだ。道之助は妾腹だから、もちろん血はつづいていないが、この頃はこんな親戚でもずいぶん親しくしたものなのだ。だから、一月寺の虚無僧らは、河内守は仙石家のことを大へん心配しているはずだから、大いに友鵞のことに骨折ってくれると思ったのであろう。
この見当は相当あたった。井上は一月寺の願書を受けつけ、月番老中へ伺いを立て、老中またこれを受理して、評定所一座へ評議するよう命じた。評定所の構成は、町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三者だ。ところが、町奉行と勘定奉行の意見が、寺社奉行方の意見と合わない。町奉行は仙石家の頼みを受けて管轄外の虚無僧である友鵞を召捕っており、勘定奉行は河野瀬兵衛引渡しのことで、生野代官に妙な差図をしているのだから、仙石家の事件が表面化して来ると、自分らの足もとに火がつく。極力寺社奉行側の意見に反対したはずである。ついに、両方の意見を老中に述べることになった。
ちょうどこのように紛糾している時に、愛※[#「王+睿」]の三回目の願書が、転の荷物の中から発見したと称する転自筆の書類とともに、河内守に提出された。
井上は脇坂に相談した。
この相談の次第と脇坂の気持は、脇坂が御用部屋に差出した上書中に明らかである。
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仙石道之助の元家来神谷転こと友鵞の
取りはからい方についての所見
[#地付き]脇坂中務大輔
このことについての評定所各員の意見は不一致でありましたので、各自の意見を昨日呈上いたしましたが、この二十一日に一月寺から、友鵞の所持品の中にあったという書類を、河内守方へ差出しました。
河内守は私へ、この書類によれば仙石家の家政がはなはだ混乱していることは歴然であるが、評定所の人々の意見も区々であり、お上のご意向がいかがなるや不明でもある現段階においては、かくのごとき書類をご用部屋のご覧にいれるのはいかがであろうかと、内談いたしました。私は、
「その心配はもっともであるが、この事件を取上げよとお差図のあった場合は、これは有力なご参考資料になるべきものである。今お目にかけておかなければ、かえって大なる手落となるであろう。お目にかけるがよろしかろう」
と、答えました。
それで、その書類は今日、河内守の伺書《うかがいしよ》とともに進達いたしました。
友鵞の問題については、私も深く考慮いたしましたが、ただ今一月寺の役僧らは一筋に友鵞を精忠の者と信じこみ、強い決心をもって庇護し、この悲願顧みられずば、普化宗《ふけしゆう》の精神は地に委《い》し、やがて宗門の破滅となるべしと申立て、公儀の吟味を願っています。されば友鵞を直ぐ仙石家へ引渡しましては、よろしからずと存じます。たとえ友鵞が忠誠の者でなく、実は不届者であるとしましても、その弁別は容易につくものではありませんから、虚無僧共は決して承服しないであろうからであります。
下々の者共の承服・不承服で、お上のお取りはからいが変更さるべきものではありませんが、彼らは忠義と掟《おきて》とを基礎として、わが言うところ正論なりと信じて申立てているのであります。邪正の弁別をつけず取りはからいましては、公儀の大法も行われないことになります。
何にしても、友鵞のことは私共がかかりとなって吟味するつもりになりませんでは、処置がつくまいと見ています。
もっとも、そうなれば、仙石家の政治向きのことも検察しなければならないことになる恐れもあります。友鵞だけを吟味して、それで同人の不埒が判明すれば、それで済みということになりますが、左京も吟味しなければ事がはっきりしないということになりましたら、改めてまたお差図をお伺いしましょう。その結果、一月寺の満足しない結果となって、虚無僧共が騒ぎ立てるようなことになりましたら、増上寺の間近い例にならって、処置の方法はありましょう。
公儀で、仙石家の家中全部を引き出して吟味することは、もちろんよい方法ではありませんから、左京に非があることがわかりましたら、左京派の者は仙石家で処罰を申渡し、友鵞が家中を逃げ出したのが非《ひ》ならば、公儀で内仕置《ないしおき》を申しつけるということにいたしましょう。そうすれば、自然家中の混乱も静まるでありましょう。
もちろん、いずれも推察だけのことで、吟味の結果が、友鵞の不埒となるか、左京の意外なる不届となるかは、わからないことであります。
以上のような次第で、取止めたことは申上げられないのでありますが、先は以上申上げた趣きにとりはからった上で、仙石家の政治上のことはその親戚らが相談してしかるべき方法を講じますなら、今日のさわぎは静|謐《ひつ》になるであろうと存じます。(下略)
七月二十三日
[#ここで字下げ終わり]
この上書を読んで、感ぜられるのは、脇坂がこの事件を公裁に持って行きたくてうずうずしていることである。
やがて、河内守は親類として担当しにくいというので、脇坂がかわって担当するのだが、それについて、この事件が落着してから、江戸ではやった「ちょんがれ」の中に、脇坂の心理をこううたっている。
「段々|糺《ただ》して、よいこと聞いたぞ、おいらが周防《すおう》にお金を取られて、ねっから今までお役も来ないでつまらぬところだ、一番りきんで周防に泡をば吹かせて、拙者がお役になろうと、きびしき詮議で云々」
脇坂は老中になりたくて、老中の松平周防守康任にしきりに賄賂したが、一向老中にしてくれないので、この問題を裁き、康任の非違を暴露しよう、そうすれば康任は失脚し、その椅子には功績を認められた自分がすわることになると心組んだと、言っているのである。
結果がそうなったから、こんな辛辣な推察もしたのであろうが、幕府中期末から幕末にかけての幕府役人は立身出世のためには現代人には思いもおよばないような悪辣な手段をとったものが少なくない。まるまる否定も出来ないのである。ともかくも、脇坂はこの問題を取上げて公裁にすべきであると考えたのである。
さて、脇坂の上書と河内守の伺書とを受けて、ご用部屋は河内守にこの問題を裁くよう命じたが、河内守は仙石家とは親戚にあたるので裁きにくいと言い立てて、脇坂に担当をゆずった。脇坂は勇躍して、とりかかった。
脇坂は当時最も有能な下僚を持っていた。川路弥吉である。すなわち、後に川路左衛門尉|聖謨《としあきら》という名になって、幕末維新期の外交・経済の面で縦横の才腕をふるって、最も有能にして有名な人物となった人。この時三十四という若さであった。
川路は元来豊後日田代官の手代の家に生まれ、普通ならその出世はごく限られたものだったのだが、少年の頃、父に連れられて江戸に出て来、小普請《こぶしん》の旗本川路家の養子となった。立身し得る資格をつくったのだ。父が代官手代としてせっせと貯めこんだ金を養子持参金という名で贈って、川路家の株を買ったのであろう。
二十九の時、支配勘定出役に任ぜられ、勘定奉行所|留役《とめやく》(書記)を経て、この頃は寺社奉行|調《しらべ》役であった。
卓抜な才器を抱きながら微賤に生まれた者は、一人のこらず出世欲旺盛となる。川路は脇坂の命で仙石家のことを調べることになったが、事件がお家横領にからみ、時の老中も一枚噛んでいることを知ると、この裁判はきわめて危険ではあるが、うまく処理すると、自らの手腕の冴えを世に示すことになって、得がたい出世の好機であると思い、脇坂以上に熱心になった。
かくて、八月十日、寺社奉行所から、仙石家の江戸屋敷に、仙石左京、荒木玄蕃、仙石主計、酒匂清兵衛、岩田静馬、大塚甚太夫、宇野甚助、久保吉九郎、麻見四郎右衛門、西村門平、鷹取已伯、渡辺清助、西岡斧七の十三人を役所に出頭させるよう命を下した。仙石屋敷からは即日飛脚が国許に飛んだ。
そのほか、寺社奉行所は次々に呼び立てたので、仙石屋敷から国許への飛脚が切れめがなかった。呼び出された人数は江戸国かけて、総計三十七人におよんだ。
九月五日が、最初の召喚日で、十月十九日まで十六回にわたって、尋問が行われ、左京一味の罪状が明らかになったので、十二月九日判決言渡しがあった。
左京獄門、宇野甚助と岩田静馬は死罪、左京の子小太郎は遠島、その他、その派の者で重追放、中追放、軽追放になった者六人、仙石家で相当な罪を申しつけよと判決された者二人、うち一人は医師の鷹取已伯である。
左京の反対派の人々は全部構いなしと申渡されたが、年寄役の杉原官兵衛だけは遠島になった。理由は後に説明する。
この日、仙石家は家政不取締の理由で、五万八千八十八石余のうちから、二万八千八十八石余を公収され、三万石とされ、当主道之助は閉門を仰せつけられた。お家騒動のばからしさである。
十一
仙石左京は即日鈴ケ森で死罪になり、梟首された。
彼の罪状については、当時から世間には、先代美濃守政美を毒殺し、その後当主の道之助を毒殺してわが子小太郎を藩主にしようと企てていたと伝わり、当時の風聞書にもそうあり、その後の小説や講談などは皆それを踏襲しているが、これは寃罪のようである。鈴ケ森の梟首の傍に立てられた捨札で、それは明らかである。
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十二月九日鈴ケ森捨札の写し
[#地付き]武家々来
[#地付き]仙 石 左 京 当四十九歳
この者を吟味したところ、先代の主人美濃守(政美)が危篤になった時、跡目相続の嫡子が無かったので、この者が火急に出府することになったところ、わずか十歳のせがれ小太郎を、愛子にて離し難しとて召連れて、隠居播磨守(久道)や家中や領民らに疑惑された。主家にたいして不謹慎である。
年寄生駒(仙石)主計が勘定がかり年寄となって、一人では手にあまる故相役をおきくれるよう望んだ時、一人で差支《さしつか》えなし、相役があっては意見区々でかえってやりにくかろうと言って受付けず、いよいよ主計が職務に行きづまると、これを科《とが》として年寄役を取上げ、減知して、以後は自分と気に入りの者だけで経済のことを取りあつかった。
このことは、たとえ隠居播磨守の差図であっても、幼年の主人を輔佐して一人をもって政治をしている身分としては、不都合である。前もって計略を設けて陥れたとしか思われない。
また一藩倹約中であるのに、鷹を養って鷹狩をしたり、せがれの嫁取りにはなはだしき奢りをしたりした故、このことを右生駒主計ほか三人が隠居播磨守へ上書したので、播磨守から尋ねられた時、あとかたもなき偽りであると言いくるめたばかりか、宇野甚助に頼んで年寄共の意見をまとめさせ、無実の上書をしたとの理由で、四人に減知・蟄居等を申付けた。
以上のような不届きな行為があったので、仙石家の旧臣河野瀬兵衛が旧主の分家の主人らに、この者の不埒の段々を訴えたところ、これを讒訴と言い立て、御領地(天領)内に足軽を差しつかわして召捕ったばかりか、すでに処罰のすんでいる主計らを、河野のしわざに関係ありとて、当時病勢募って精神|虚耗《きよこう》していた播磨守をごまかして、再吟味することにした。
瀬兵衛が分家の主人らに訴えた条々は、こんど奉行所で吟味したところ、左京が認めて申訳なしと恐れ入ったことが多数あった。しかるに、当時においてはすべて讒訴であることにして吟味を詰めさせた。またこの以前、年寄杉原官兵衛が播磨守へ、瀬兵衛が分家の者共へ書付を提出したことを申しつかわしたのを不都合であると談じこみ、詫証文を差出させた。
右のごとく事実は全然反対であるのに、「瀬兵衛のいつわりの罪は大で、死刑以下には処せられない」などと言いふらして、他の年寄共から各自の量見として、瀬兵衛を死刑にすべしと申し出させ、その刑罰を決定した。
また主計ほか三人の者が、瀬兵衛が分家の主人らに書付を差出すにあたっては、前もって瀬兵衛と談合などはしていないと申し立てたのを、共同謀議したように文章を書き綴って、播磨守を欺いたばかりか、重きお役人(松平老中のこと)の内慮まで伺って、瀬兵衛を死罪、主計らは切腹より一段軽き心持で、剃髪の上、賤民部落続きのあき屋敷に囲いを補修して入れた。
本人は主家を奪おうとの深望はない由を申し立てているが、わが身の不忠の露見するをきらって、主人に忠義を存して申立てた者共を重科におとしいれたことはまぎれがない。不届至極につき、獄門に行う。
[#ここで字下げ終わり]
この捨札の文中に出て来る杉原官兵衛は、左京の党与ではなかったのに、こんな際、詫証文など出して、老職にあるまじきことというのであろう、遠島に処せられている。七十八という老年であったのだから、気の毒でもあるが、武士は惰弱であるというだけで罪悪なのだ。いたし方ないことであろう。杉原が左京の姉聟であることは前に書いた。
この事件は、仙石家だけでおさまりはつかなかった。
老中松平康任が処罰された。老中免職、隠居を命ぜられたばかりか、翌年三月には、上州館林から奥州|棚倉《たなくら》に国替えを命ぜられた。棚倉は有名な悪地で、ここに移されるのは懲罰の意があるのだ。
康任の弟の松平主税は隠居・謹慎を仰せつかった。
勘定奉行曽我豊後守は、免職の上、差控えを仰せつかった。左京の頼みを受けて、生野代官にさしずして天領踏込の罪をいいかげんにつくろった罪を問われたのである。松平老中の内意を受けてのことに違いないのだが、それは判決文では触れていない。
町奉行所筒井伊賀守は、君前に出ること差控え。
寺社奉行脇坂|中務《なかつかさ》大輔は、将軍から骨折りを賞せられて、お持ちの印籠を下賜された。
この翌々年の天保八年九月、脇坂は待望の老中になっているが、これはもちろん、この事件で手腕を示したためであろう。
井上河内守は、松平老中の前領地である館林に国替えをさせられている。彼のこれまでの領地は棚倉であり、館林は美地であるから、これは褒賞である。
川路弥吉は巻物五つ下賜された。彼の才器であることが、これによって世に認められたことは言うまでもない。彼はこれを機縁にして、益々手腕を発揮して、栄達して行くのである。
仙石左京は、手荒い手段をもって主家を横領する気はなかったろう。しかし、自然の運がまわって来れば、小太郎を藩主にするつもりであったろう。先代の死に際してまだ幼い小太郎を江戸に連れて行ったり、小太郎の妻に現職の老中の一族の女《むすめ》をめとったりしたことをもっても、そう推察される、しかし、それにしてはやり方が拙劣だ。権勢をかさに着て横暴なことをしたり、汚職的なことをしたり、人目を側《そばだ》たせるような贅沢をしたりなぞ、すべきではない。人望を集めることに専念すべきなのだ。あまり賢い人間ではなかったようである。
四人の老臣も、河野瀬兵衛も、神谷転も、その心事は別として、器量は左京ほどもなさそうである。一月寺の愛※[#「王+睿」]のねばり強い援助がなかったら、どうにもなりはしなかったろう。
十二月十一日、愛※[#「王+睿」]は虚無僧の正装で、乗物にのり、お礼の文言を書きつけた手札を持って、寺社奉行へ礼に来た。おかげをもって一宗の面目が立ったという趣意の文面だ。一体江戸近くでは虚無僧寺の本山としては一月寺と青梅の鈴法寺の二つがあって、ともに勢力を競い合っていたのだが、この事件で一月寺の勢力がぐんとのび、鈴法寺は敵でなくなった。
脇坂安董といい、井上正春といい、川路聖謨といい、またこの一月寺といい、この事件は他人を大いに利得させた事件である。仙石家は領地を半減されているのにだ。皮肉ななり行きである。
[#2字下げ](この稿には出典をあげなかった。国書刊行会本「列侯深秘録」中の「出石侯内乱記之事」と、国史叢書の「浮世の有様二」に所載の公文書、目安書、聞書等を、使った。両書には資料が重複して出ているのもあるが、脱落、誤記、誤植等が多くて、両書を参照しなければ意味のとれない個所が少なくない)
[#改ページ]
あとがき
講談や演劇になっているお家騒動は型がきまっている。主家の家督《かとく》をめぐって、美貌のお部屋様と姦悪な家老とが結託し、家中に党与をつくり、殿様をたぶらかして、お家のためを思う忠臣を迫害するという設定になっている。その間、お部屋様と悪家老とが姦通したり、秕政《ひせい》百出したり、忠臣側の武勇談がからんだり、時には妖怪談が挿入されたりして、興味をそえるが、大筋は前述のことの外に出ない。
しかし、現実のお家騒動は、こんなにマンネリズムではない。たとえば江戸初期なら江戸初期の時勢、その時代の武士の気質《かたぎ》、その藩独自の事情、関係諸人物の個性、等々々、いずれもぬきさしならない要素となって、いずれを欠いても事件は成立たなかったと思われるほどである。だから、事件はすべて生き生きと個性的である。正邪善悪も、一刀両断して下すことは出来ない。姦党とされている者必ずしも悪からず、正義党とされている者必ずしも正しくない。中には幕府の裁判によって正邪を判決されているものもあるが、その判決は必ずしも今日の我々を承服させない。
これらのさわぎでは、正党とか姦党とか、お為《ため》派とか逆意派とか名づけて、正邪善悪の争いとしているのが常であるが、それは昔の人はなんでも倫理的にしか分類出来なかったからで、実際は単なる党派争いであったり、政策の相違による抗争であったりだったのだ。倫理的価値判断を持ちこむのは筋違いであるものが多い。政党の政策を批判するのに、正邪善悪をもってするのは阿呆の所為だ。適不適、利害、得失こそ、その価値判断の基準となるべきものだ。
こんな風であるから、もし読者が講談的興味をもとめて、この書にむかわれるなら、失望されるに相違ない。しかし、もし人間というものを知ることをもとめられるなら、多分満足していただけるであろう。ひょっとすると、世に処する知恵も酌みとられるかも知れない。
ここにある事件は、江戸時代という特殊な時代、大名の家という特殊な組織の中であったことであるが、現代といえども歴史の一時期と見る時は特殊であり、現代の会社・役所・組合・政党等もまたそれぞれに個性があるという点では特殊であり、そこにはほとんど必ず党派の争い、政策や方針についての抗争がある。この書を子細に読んで、自らの周辺を見まわされるなら、必ずや首肯されるところがあるはずである。従って、この書に記されたことは遠い昔のことではなく、読者の現前のことであるとも言えよう。
お家騒動として伝えられるもののなかには、名だけあって実《じつ》のないものもある。有馬騒動は怪猫が出たり、力士小野川喜三郎が出たりして、大へんにぎやかな話になっているが、全然実のない話である。鍋島騒動もそうである。鍋島家が主家であった竜造寺家の所領を奪ったことは事実であるが、それは豊臣時代のことで、その後騒動というほどのことはない。小笠原騒動もそうだ。野狐三次などという小笠原家の落胤で、霊狐の加護のある人物が活躍して、にぎやかな話になっているが、講釈師が張扇からたたき出したものにすぎない。
ぼくはこの書で十二だけえらんで、すでに十一篇書いた。あと一篇である。一冊に四篇ずつ収録して、これが二冊目である。三冊目も大体来年二月頃には出ることになっている。なおずいぶんあるが、もうくたびれた。一応お家騒動のすべての型を紹介したことになるようでもあるから、このへんでごめんこうむりたい。
ぼくがこんな書物を書いた一つの目的は、歴史文学の一つの礎石にもなれよと思ってのことである。どう潤色脚色するも、書く人の自由ではあるが、一応根本の姿を知っておくことは必要であろうと思うからである。一々参考書や出典をあげたのは、そのためである。なおくわしく調べたい人には、柴折《しおり》になるはずである。
お家騒動を史実的に見直してまとめておきたいと考えたのは久しい以前であったが、生活があるので、なかなか着手出来なかった。急にそれが出来、一年の間に書き上げ、こんな書物にすることまで出来たのは、小説新潮と新潮社出版部のおかげである。厚くお礼申したい。
昭和四十年十月十五日夜 [#地付き]著 者