海音寺潮五郎
列藩騒動録(三)
目 次
生駒騒動
檜山騒動
宇都宮騒動
阿波騒動
あとがき
[#改ページ]
生駒騒動
生駒《いこま》親正は美濃の生れである。はじめ織田信長につかえ、信長の死後豊臣秀吉につかえた。武功をかさねて累進し、天正十五年に讃岐《さぬき》一国十七万三千石を領し、中老職に任ぜられた。
中老職は三人で組織されていた。親正、堀尾吉晴、中村一氏の三人。だから、三人衆とも呼ばれていた。上に五大老があり、下に五奉行があって、その連絡役だったので、小年寄《こどしより》とも呼ばれていた。天下の機務に参与する役目といわれているが、五大老や五奉行ほどに歴史上の事件に名前の出ることが少ないのは、主たる任務が連絡にすぎなかったからであろう。
中老職としての生駒親正の名が歴史の上に出て来るのは、慶長四年正月から二度ほどある。秀吉の死後、徳川家康の専横がつのり、秀吉の定めおいた禁止条項をしきりに破って、諸大名と婚姻を結んだりなんぞしたので、家康以外の五大老と五奉行とが怒って、親正と豊光寺《ほうこうじ》の承兌《しようたい》とを伏見にいる家康の許につかわして、
「太閤様ご逝去の後、内府様のなされようは諸事まことに我儘しごくのように見受けられます。なかにも、諸大名の縁組は上聴に達してお許しを受けた上でいたすべしとの置目《おきめ》がありますのに、大老衆にも奉行らにもご相談なく、勝手に取結ばれたことは、奇怪であります。お申しひらきをうけたまわりとうござる。おことばにうろんな点あらば、大老方も、奉行らも、内府様を加判《かはん》から除き申すと言っておられます」
と、詰問させた。しかし、親正は利口ものだから、秀吉|亡《な》き後の第一の実力者で、早晩天下様になるであろうと予想される家康のきげんを損ずるようなことはしない。彼は行っただけで、承兌和尚が一切口上をのべた。(関原軍記大成)。
詰問されて、家康は恐れ入るどころか、居直った。
「わしが皆に相談せんで縁組したのは、手落にはちがいないが、そなたらの口上を聞いていると、どうやら、わしに逆心があると言いたげだの。そんなら、逆心の証拠を見せてもらいたい。また、わしの大老職を剥《は》ぐというたが、わしが大老の一人として秀頼様を補佐しているのは、太閤様の御意《ぎよい》によってのことだ。そのわしから大老職を剥いでは、それこそ太閤様の思召《おぼしめ》しにそむくことになるではないか。どうじゃ」
三百代言的論理であるが、家康という人は、相手が弱いと見ると、いつもこんな調子に出る癖がある。天下第一の実力を背景にして言うのだから、どうにも出来ない。親正らはすごすごと大坂に帰った。
この家康の回答は大老らや五奉行らを怒らせ、今にも戦さがおこりそうな険悪な形勢になったが、加藤清正と細川忠興が懸命に双方を駆けまわり、親正ら三人の中老らを動かして仲裁させ、無事におさめた。
もっとも、家康がわびを入れたのではない。家康から、
「縁組のことについてご忠告にあずかったが、承知した。おたがい介心をさらりと捨てて、これまで通り仲よくいたそう」
と、誓紙を入れたのにたいし、大老と五奉行側からは、
「縁組のことについて忠告申し上げましたところ、早速ご同心下され、ご介心なき旨を仰せ下され、一同感謝しています。仰せのごとく、従前通り仲よくいたしましょう」
と、感謝状を差出したのだから、家康の権威を一層重くしたにすぎない結果になってしまったのだ。
次は、それから間もなく、加藤清正・福島正則ら七人の若い武将らが、彼らの在韓中の功績を石田三成が秀吉に過小に報告したと憤って、石田に腹を切らせるとさわぎ立て、三成が窮して家康に救いをもとめたことがある。家康はこれを保護して、七人を説得して、事をおさめておいて、親正と中村一氏とを石田の許につかわして、
「内府様仰せには、一応これでおさまりはしたが、貴殿がそのままでは、またさわぎになる恐れがある故、貴殿は奉行の職を辞し、ご子息に身代をお譲りあって、佐和山にかえって隠居なされよとのことであります」
と伝えさせて、そうさせている。
こんな工合に、二度とも、親正は中老職の職分によって、連絡役で立働いているわけであるが、いずれも家康に悪意を持たれるようなことはしていない。家康にしてみれば、特に好意を持つようにはならないまでも、悪意を抱くようになったとは思われない。ともあれ、親正が中老職として歴史の表に名を出したのは、以上の二度だけである。
関ケ原役のあったのは、この翌年九月である。この戦さの時、親正の子の一正は会津の上杉征伐のために家康に従って関東に行っていたが、親正は大坂にいた。親正としては、石田方につきたくはなかったろうが、現に大坂にいるのだから、つかないわけには行かず、いやいやながら石田方に属して、丹後の田辺《たなべ》(今の舞鶴)城にこもる細川幽斎を攻めた。だから、戦後、家康にたいする申訳のために髪をおろして高野山に入って謹慎した。しかし、子の一正が東軍に属して関ケ原で戦ったので、讃岐の本領は安堵された。また親正の罪もゆるされて、帰国することが出来た。
もっとも、関ケ原役で東軍に所属した豊臣家恩顧の大名らは、大体所領が二倍ないしそれ以上にされているのに、本領安堵にとどまったのだから、不運と言ってよい。なまじ中老職なぞになっていたので、大坂にとどまっていなければならなかったのであろう。運というものはわからないものである。
慶長十五年に一正が死に、子の正俊が襲封した。一正は正俊のために伊勢の津の城主藤堂高虎の女《むすめ》をめとってくれていた。高虎もまた豊臣家取立ての大名で、秀吉の生きている間は信任が厚く、弟の秀長の家老に任ぜられたほどで、豊臣家の重々の恩義を受けているのであるが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様《とざま》大名の中では最も家康の気に入られていた。一正が正俊のためにその女をめとったのは、ここに考えるところがあったのであろう。当時の外様《とざま》大名の保身の苦心は大へんなものだったのである。
正俊は元和七年、三十六で死んだ。正俊は藤堂氏の生むところで、小法師とて、たった一人の男の子がいた。やっと十一であったが、本領相違なく相続することを許された。
徳川氏の天下になってからはその例がないが、秀吉時代には大名の知行は能力給的なものとの考えがあって、嗣子があまり若いと、領地を削減した。丹羽長秀の家、堀秀政の家、蒲生氏郷の家等、実例はいくらもある。この時代はそれからあまり遠くないだけに、その考え方が社会からなくなっていない。生駒家としてはさぞ不安であったろう。藤堂高虎が大いに奔走したに違いない。
幕府のこの頃の規制では、伊達家の場合もそうであったことを書いたが、幼年の大名の場合には、監督のために毎年|国目付《くにめつけ》をつかわすことになっていた。これはその歓迎の儀式やなんぞで、大名の家としては色々気づかいのあるもので、好もしいものではなかったので、高虎がうまく運動してくれて、
「外祖父高虎とその子高次において後見いたせよ」
と、いうことになった。高虎は家中から西島八兵衛|之友《ゆきとも》という者を選んで、諸事の目付として讃岐につかわした。
この時、高虎が生駒家家中に下した訓諭書がある。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
定《さだめ》 書《がき》
一、国中の政治は、先代讃岐守(正俊)の時と変るまじきこと。
付けたり。町人や百姓の困窮しないように注意して政治すべきこと。
一、小法師殿が幼少であるから、家中の者はとくに万事を注意して、下々に至るまで争いごとのないよう、常に気をつけるべきこと。
一、裁判に少しも依怙《えこ》ひいきすまじきこと。
但し、家老中にて処置にこまることは、わしに報告して、さしずを仰げ。
右の通り定めおく。
元和七年七月
[#地付き]和泉 判 (藤堂和泉守高虎)
生駒小法師殿
家老中
[#ここで字下げ終わり]
この高虎の訓諭書の第二条は心をつけて見る必要がある。生駒騒動とは、つまりは家中の士《さむらい》らの党派争いであり、それによって生駒家はほろびるのであるから。この時代は戦国の余習がまだ濃厚にのこっていて、武士が意気地を何よりも重んじた時代だから、高虎も特にこの条項を立てたのだが、生駒の家中はとくにその気風が強かったことは、物語が進むにつれて明らかになるであろう。世は恒久的太平の時代に入っている。あらあらしい意地張などは、不適当になり、おとなしやかな紳士道――武士道による武士が要求される時代となっているのだ。
さて、こうして、一応生駒家のことも済んで、高虎は心を安んじていると、ある日のこと、生駒家の家臣|前野《まえの》助左衛門、石崎|若狭《わかさ》の両人が、藤堂家の江戸屋敷に来て言う。
「内々にて太守様へ直々に申し上げたきことがあって参りました。何とぞお人ばらいの上、お目通り仰せつけられたく、お願い申し上げます」
この両人は、生駒家の譜代の者ではない。元来は豊臣家の臣で、殺生関白の異名をとった秀次の老臣であった前野但馬守長泰の一門であった。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて、両人も浪人した。両人はかねて前野家が生駒家と親しいなかであったので、生駒家を頼って讃岐に来た。生駒初代の親正はまだ年若な二人をあわれんで、子息一正付きの家臣とした。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったので、一正の気に入られ、その代になると、それぞれ千石の知行をあてがわれて、子の正俊付きとされた。
両人は正俊につかえても忠実であったので、その代になると、江戸参覲には必ず供をさせ、諸家への使者などを勤めさせた。豊臣秀次の老臣であった前野家といえば、当時の諸大名は皆知っており、親しくしていた因縁があるので、どこの家でも大事にしてくれて、いつも上首尾だ。ことに藤堂高虎は豊臣秀長の家老であったので、秀次の家老であった前野とは特に懇意にしていた因縁で、よく遇してくれた。
正俊の代には、高虎はその岳父というに過ぎなかったが、小法師の代となると外祖父として、藩政後見の役となったのだから、高虎にしてみれば、生駒家監督の必要からも、両人を手なずけておく必要があって、益々よく待遇するわけで、両人の羽ぶりはなかなかのものとなった。
その両人が、秘密の用で目通りしたいというのだから、高虎はすぐに前に呼び出した。近臣らを遠ざけたことは言うまでもない。
両人は高虎の前にかしこまって、言う。
「まかり出でましたのは、生駒の家中のことについて、申し上げたいことがあってでございます。家老首席の生駒将監は、生駒家の近い一門で、家中の尊敬格別でありますので、次第に権勢が強くなり、先代の頃から、何事も将監一人でとりさばくようになりまして、他の家老森出羽、上坂勘解由《かみさかかげゆ》などは、内心では将監を不快に思っているように見えます。先代の頃すらかようでありましたので、唯今幼君の世となりましては、なおもって威勢が強くなるであろうと、私共心配している次第でございます。何とぞ将監の威勢が募らぬよう、しかるべきご分別を願い奉りたいのでございます」
高虎は、自分の心配していた家中の争いがこんな形で出て来たので、それ来た、と思ったに相違ない。しばし打ち案じて、言う。
「その方共の心配はもっともである。しかしながら、唯今その方らが申した将監は一門にして家老である。よも主家の不為めをはかるはずはない。たとえ、これまでは威勢に募ってわがままな所行があったとしても、以後はわしに伺いを立てねばならんのじゃから、心配はいらん。それより、唯今のようなことは以後決して口外せず、忠勤を励むようにいたせ」
両人は恐れ入って、辞去した。
前野助左衛門・石崎若狭の両人が、高虎にこのように生駒将監のことを悪しざまに言ったのは、どう解釈すべきであろう。従来の説では両人が家老になるために将監を失脚させようとしたのだと解釈している。事実将監にわがままなところがあり、家柄をかさに着て、新参の両人にはもちろんのこと、他の家老らにたいしてさえ圧迫的なところがあったのであろう。調べてみればすぐわかることに、根も葉もない|うそ《ヽヽ》を言ったとは思えないからである。二人は高虎からそう言うことを告げる任務を負わされていたと思われるのである。
寛永元年に四国は大|干魃《かんばつ》であった。元来、讃岐国は水利の便の悪いところだ。この国に満濃《まんのう》の池という巨大な用水池がある。これは遠く平安朝の初め、この国の出身である弘法大師が、この国の百姓らをあわれんで、一国全部の用水池として築き立てたものだ。弘法大師の徳行は言うまでもないが、このような池を必要としたことをもっても、この国がいかに水利の悪い地勢であるかがわかる。
この時代にはこの満濃の池も荒廃して、かすかに形ばかりが隅の方にのこっている状態であったから、大干魃に見舞われては、一国さんたんたるものである。五穀すべてみのらず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に離散する者も出て来た。百姓の国ばなれを逃散《ちようさん》という。これをやられては封建大名はたまらないから、どこも厳禁してあるのだが、餓死に直面しているのだから、百姓としては留まるに留まれない。国内大騒動となった。
こうなると、よくあることだ、家中の武士らは批判精神が大いに盛んになって、
「当国の地勢で、干魃などがあれば、こうなることはわかっている。なぜその手当をしておかなかったのか。手当さえしてあれば、干魃に不作なしという。何事もなくすんだのだ。ひとえに藩政の局にある家老衆の怠慢である」
と、二三人集まれば、口々に言いののしる。昨年夏の東京都の水飢饉時と同じだ。
首席家老の生駒将監は、必死に救恤《きゆうじゆつ》につとめた。元来、上述のような地勢の国だから、十七万三千石といっても、年貢未進《ねんぐみしん》(未納)が多くて、実収はそうはないから、藩の財政も苦しいのだが、軍用金や兵粮米をはたきつくして、どうやら急を救った。
このことが、藤堂家から来ている目付の西島八兵衛から、高虎に報告された。高虎は驚いた。そして、先年前野助左衛門と石崎若狭とが来て、生駒将監の専横を訴えたことを思い出して、将監の人物に案外の感を抱いた。しかし、ともあれ、応急の方法を講じなければならないと思って、将監をはじめ生駒家の重臣らに、自筆で、こうさしずしてやった。
「今日第一の急務は、国の灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者《こうしや》の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
生駒家の重臣らは西島にこの差図書を見せて、委細を頼みこんだ。
自分の手腕を信頼しての主命でもあり、生駒家の重臣らの懇望でもあり、百姓らの困窮を眼前にしていることでもある。自信もあったのであろう、西島は、
「かしこまった。やってみましょう」
と答えて、国内を巡見した上で計画を立て、諸方に用水池を築き立てることにし、先ず満濃《まんのう》の池の修築からかかった。百姓らを集め、自ら鍬をとってはじめた。百姓らにとってはうれしいことだ、夫役《ふやく》の苦《く》もものかは、ごく短時日に昔のように立派な池となった。以後、各郷村に九十余カ所の用水池を築き立てた。
これらの用水池築造のはじまったのは寛永元年の末か二年のはじめであったが、その二年に藩主小法師は十五になったので、藤堂高虎の子の高次が烏帽子親《えぼしおや》となって元服させ、一字をあたえて高俊と名乗らせた。高俊はこの翌年従五位下壱岐守に叙任したが、高虎は生駒家にたいする幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女《むすめ》との婚約をとりもった。高虎の生駒家にたいする心づかいはまことに細やかであったと言えよう。
この年は生駒家に慶事が重なった。歳末あたりに領内各所の用水池がすっかり完成したのである。百姓のよろこびは言うまでもないが、生駒家も従来ずいぶんあった年貢未進等のことがなくなって、藩の経済も、藩士らのふところ工合も、大いに楽になった。
高虎は改めて藩財政の基準を立ててやった。十七万三千石のうち十万三千石を家臣らの知行地とし、のこる七万石を藩主の直轄地として、この土地を少しもへらしてならないことにしたのである。直轄地からの租入を蔵入《くらいり》といって、これで藩主とその家族の生活費、藩庁の費用、参覲交代の費用、その他非常準備費の積立等、一切のことを賄うのが、大名の家の正規のしきたりなのである。
武士ということばの本来は軍人という意味である。武士は戦うために発生し、七八百年の間、戦うことを生態として、徳川幕府の時代に入った。徳川幕府の時代は恒久的平和の時期である。途中島原の乱のあったことを例外として、二世紀半以上、日本には戦争というものがなかった。この二世紀半の間に、武士の生態は大変化し、維新時代になると、戦争に役に立つ武士群を持っているのは、薩摩と会津の二つだけになった。この両藩は二百七十余年の間、武士群に特殊な訓育をつづけて、武力の保持につとめて来たのである。これをのぞいては、日本の中心勢力である徳川家の武士群をはじめとして軒なみ戦う力を失っていた。維新運動の主勢力の一つであった長州藩だって、譜代の家臣群が役に立たないので、百姓町人、精々浪人や神主をもって奇兵隊をはじめとする諸隊をつくり、これを主力にしたのである。このほかに土佐と佐賀があるが、土佐の戦力は山内氏が最も大事にした譜代の臣は主力にはならず、長曽我部氏の遺臣の子孫である郷士らが主力であった。佐賀は鍋島|閑叟《かんそう》が少し前から洋式によって藩士らを訓練して、急ごしらえにこしらえ立てたものであった。
ともあれ、徳川幕府の時代に、武士の生態は大変化したが、この時代はまだ昔とそう変っていない。純然たる職業軍人|気質《かたぎ》である。強いことを最も誇りとし、戦うことだけを知っている。生駒家の武士らもそうであった。だから、西島八兵衛が生駒家のために諸方に用水池を築き立てつつあった時も、軍人的批評をする者が多かった。
曰く、
「百姓は飢え疲れているに、無用な工事をおこして、民を虐げる」
曰く、
「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」
もちろん、こんな阿呆なことばに西島は動かされはしない。一切かえりみず、工事に専念して、やりとげたのであるが、工事が完成し、国内の田地が美田となって、藩の経済も、自分らのふところ工合も、よくなって来ると、家中一般、次第にぜいたくになった。
西島はその無成算にあきれて、生駒将監らの家老に忠告したが、将監らは仰せの通りでござる、何とか引きしめ申そうというばかりで、格別なことはしない。
また、灌漑の便が新しくなったことによって、従来の下田が上田になり、上田が中田になるなどのこともおこったので、従来のままの田地の区画では、うんと得《とく》をする者や損をする者が出て来た。公平を期するためには、区画をやりなおす必要があるのだが、藩政府は一向|頓着《とんじやく》しない。
(こんな不公平ほど民心を憤らせるものはない。今のところは百姓らも、灌漑の便がよくなったことで大よろこびしているが、やがては必ず腹を立ててさわぎ出すに相違ない)
と、西島は考えて、家老らに早く区画をやり直すべきことを忠告したが、これも、その通りでござるというだけで、やるけはいは見えない。
西島はたまりかねて、高虎に訴えてやった。
高虎は、早速将監らに書面をもって、八兵衛の勧告はすべて道理であるのに、なぜ従わないのかと詰問し、同時に八兵衛に自筆をもって、こう書きよこした。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、田畑の区画のしなおしのことは、農事に支障のないように注意して行え。
一、生駒の家中は、万事道にはずれたことの多いところであるから、急に粛正することは困難であろう。自然とそろそろとよき道に入るようにすることが肝要である。
一、四人の家老(生駒将監・森出羽・浅田図書・佐藤|掃部《かもん》)の名で出すべき法度書《はつとがき》を送る故、このように相談して、しかるべく申しつけよ。
二月五日        [#地付き]和泉 判
西島八兵衛どのへ
[#ここで字下げ終わり]
第二条に生駒家の家中の気風のことを言っているのは、単に奢侈贅沢の風のことだけを言っているのではなく、意地を張って気があらく、威張りたがる古い武士気質のことをも言っているのであろう。
西島は田畑の区画直しはおわったが、士風粛正のことは成功おぼつかないとも思いもし、生駒家の武士らに厭気《いやけ》がさしもしたのであろう、病気を理由にして帰藩したいと、高虎に願い出た。
当時高虎は江戸に出ていたので、ともかくも江戸に出てくるようにと返答した。西島は江戸に出て、高虎に委細のことを言上した。
「ふうむ」
高虎は沈吟し、西島の願いを聴《ゆる》すとも聴さぬとも言わず、一先ず退らせた。
すると、ちょうどその頃、生駒家の江戸家老である上坂勘解由《かみさかかげゆ》が藤堂家に来て、言う。
「本日は生駒将監に頼まれて上りました。将監こと、嫡子帯刀が追々に成人し、すでに年頃になりましたので、配偶《つれあい》をもとめねばなりません。つきましては、水野日向守勝成様の妾腹の姫君に、似合の年頃の方がある由を、申す者がありましたので、日向守様のご内意を伺いましたところ、ご内諾をいただきました。なにとぞ、この縁談を、和泉守様にご承認いただいてくれと頼まれて、上った次第でございます」
水野日向守勝成は後に備後福山十万石になったが、この頃は大和郡山六万石であった。水野家は家康の生母お大《ひろ》の生家で、勝成の父の代までは徳川家と同列の大名であった。なお言えば、荒旗本水野十郎左衛門の祖父である。
上坂勘解由のことばを聞いて、高虎はおそろしく不機嫌になった。
「その方はそれを引受けてまいったのか」
と、先ず一喝した。勘解由はヘッと恐れ入った。高虎はつづける。
「一体、その方の国土は荒廃し、百姓離散して、何ともいたしようもなかったのを、わしが家来の西島八兵衛の骨折をもって、どうやら立直って間もないに、早くも昔の難儀を忘れて、陪臣の身として大名と縁組したいとは何ごとぞ。奢りの頂上というべし、以前からわしはその方の家中の様子を静かに見ていて、家老共をはじめ平士《ひらざむらい》らに至るまで、すべて遠い慮《おもんばかり》なく、奢りがましいことのみ好んでいるようであると思っていたが、眼前、こんどの将監の縁談がそうである。このようなことは、わしが後見をしている間は許すわけに行かん。わしは我慢しても、公儀に言上が出来ぬ。公儀においては、先年の讃岐の干魃も、百姓共の離散も、皆ご存じであるぞ」
諸藩の家老や三千石以上の家臣の縁組は、幕府に言上して許可を受けることに、当時はなっていたのである。
けんもほろろな高虎のことばに、勘解由は恐縮しきって辞去し、将監に報告した。将監もいたし方はない。この縁談は立消えとなった。
しかし、高虎の心はおさまらない。
(生駒家の先代正俊が死んで、今の高俊が幼年にしてあとをついだ時、前野助左衛門と石崎若狭とが来て、将監が血統の高貴を誇り、権勢にまかせて専横のふるまいのあることを告げたが、その目で見ていると、その疑いは十分にあるようである。西島からの度々の報告も、こんど彼が辞任して帰藩したいといっているのも、その証拠である。将監が大名と縁組したいと言い出したのも、その驕奢を物語っている。けしからんことかな)
と思った。
高虎は将監の権を殺《そ》ぐことを急務と考えた。
(やめさせるのが一番効果があるが、将監は将軍家にもお目見えしている者である故、公儀の諒解を得なければならん。面倒である。とすれば、将監に匹敵する家老をつくって、権力を分つ工夫をするよりほかはない。幸い壱岐守(高俊)の叔父で生駒左門というのがある。これを家老としよう。目付の役を持つ家老もつくろう。それには前野助左衛門と石崎若狭が適当であろう。二人は以前から将監の専横を憂えて、おれに訴えたこともある。おれを慕うてよく出入りしてもいる。目付役には最も適任であろう。両人とも知恵才覚相当にすぐれ、世なれて、人柄も悪くないように見える。二人を家老にすることは、気の荒い昔|気質《かたぎ》でややもすれば意地張って喧嘩などするあの家中の気風を矯《た》め直すことにもなろう。関白秀次公の家老であった前野家の一族である故、家柄の点も異議を言うものはあるまい)
と、高虎は考えた。
そこで、この旨を生駒家に通じた。後見役の希望である。生駒家では異議なく受入れる。
浅田図書と佐藤掃部はすでに病死していたので、これで、生駒家の家老|座《ざ》の構成は、将監・森出羽・上坂勘解由・生駒左門・前野助左衛門・石崎若狭の六人となった。
高虎はこの中の生駒左門・森出羽・上坂勘解由の三人は、幕府への人質として交代で江戸屋敷につとめることにし、前野と石崎は高俊の幼年の頃から側近くつかえていた者であるから、常に高俊に随従して、高俊が江戸にある時は江戸に、国許にある時は国許にいるようにと差図した。これも仔細なく受入れられた。
前野と石崎は、高虎のおかげでこうして家老に上り得たことを大いによろこんだが、それにつけても、一層高虎の心を取ることを工夫し、相談して、お礼言上のために藤堂家に出頭して、高虎に礼を言った後こう言った。
「私共がこの度家老職に仰せつけられましたにつきましては、定めし国ではいろいろと申す者があろうかと存じますれば、太守様から特にお使をつかわし下さるよう願い上げたいのでございますが、そのお使にはかねて生駒家のことをよく存じておられる西島八兵衛殿をおつかわし賜わりましょうなら、皆々合点いたすでありましょう故、私共|一入《ひとしお》ありがたく存じ上げます」
一体の気風が気風である上に、主|稚《わか》くして家中の士《さむらい》共の心が気随《きずい》になっている生駒家のことだから、譜代でない二人が家老に任ぜられることは、相当不平や議論が湧き、「新参者の家老などに頭をおさえられてなるか」などと肩肘はって、故意に反抗的に出る者があるかも知れないとは、高虎も案じていたことだ。
「よかろう。西島をつかわすことにしよう」
「ありがたき仕合せ。お礼申し上げます」
と、二人は言ってつづける。
「次に今一つのお願いがございます。唯今の西島殿のことでございます。西島殿が年ごろ讃岐に駐在あって、精を出して色々なことに働き下され、生駒家のためになった次第は、改めて申し上げるまでもなく、太守様にはよくご承知のことでございます。されば、西島殿に加増なりともいたしたいと、私共は考えているのでございますが、これはいかがでございましょうか。お許したまわりますなら、主人壱岐守へその旨仰せ達していただきたくお願い申し上げたいのでございます」
西島の功績は優に加増に値《あたい》する、西島は帰藩したがっているが、生駒家の様子を見ると、当分西島がいて目を光らせていた方がよさそうでもあると、高虎は考えた。
「よかろう」
と答え、高俊にあてて、その旨を勧告した。
[#ここから2字下げ]
西島八兵衛儀、讃岐国の用向きを申しつけ、帰します。八兵衛が精出したために、貴国もよくなったのです。この骨折にたいして、加増五百石とらせられるがよいと思います。ご同意ならば、貴殿から西島に折紙《おりがみ》をつかわされよ。くわしくは石崎若狭に言いふくめておいたれば、お聞取りあれよ。恐々謹言
卯月七月   [#地付き]藤 和泉 華押
生駒壱岐守殿
[#ここで字下げ終わり]
内実はわが家の新家老前野と石崎の発意であるが、そんなこととは高俊はもちろん、他の家老らも知らない。高虎の要求であると信じた。実際また西島にはそれだけの功績があるのだ。異議なく承諾した。
こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになった。
前野と石崎とは、このようにして大いに高虎のお気に入りになり、従って生駒家でもなかなかの羽ぶりになったが、寛永七年十月、高虎が病死した。高虎のあとは高次がつぎ、生駒家の後見もまた引きつぐことになった。高俊はこの時もう二十歳になっているのだから、後見なぞいらなかったと思われるのだが、どういうわけだったのだろう。幕府が気がつかなかったか、高俊があまり利口でなかったので、高俊の母が引続き兄の後見を希望したか、いずれかであろう。恐らく後者があたっていよう。高俊が利口でなかったことは、追々わかるはずである。
前野と石崎とは、これまでの関係上、高次にもよく取入っていたものの、新しく高次が後見役となると、一層とり入る必要を感じていると、恰好なことがおこった。
もと豊臣秀頼の臣で野々村伊予守幸成の一族で野々村九郎右衛門という者があった。豊臣家没落の後、福島正則につかえたが、福島家もまた没落したので、家光の弟駿河大納言忠長につかえた。しかし、忠長は寛永九年に兄家光の怒りに触れ蟄居の身の上になったので、また浪人して、尾州の付家老成瀬正成に頼んで、ありつき(仕官の口)をさがしていた。成瀬は高次にこれを依頼した。
前野と石崎とはこれを耳にして、藤堂家に行き、高次に目通りして言った。
「ご承知の通り、私共の家中がそれぞれに我意を張って一和いたしませんのは、主として譜代の者共が家柄自慢ばかりしているためでございます。これはもともとは家中の者共が井底《せいてい》の蛙ぞろいで時勢の変化を知らぬからであります。私共がご先代高虎公によって家老職に仰せつけられました一つの任務は、この気風を当世に適合するように直すためでありますので、いかにもして矯《た》め直したいと心をくだいていますが、思うにまかせません。しかし、ここに一つ思いついたことがございます。よき浪人でもありますなら、召抱え、その人柄を家中の者共に日常に見せて、当世の武士たる者のあるべきようを見習わせたらば、家中の気風も改まるかと存ずる次第でございます。太守様におかせられて、しかるべき人物のことをお耳にし給うことがあります節は、ご推薦たまわりましょうなら、ありがたく存じ上げます」
父が生駒家の士風を憂慮していたことは、高次もよく知っている。
「いかにもそれはよい分別である。ちょうど幸い、こういう人物がいる。尾州家の成瀬|隼人正《はやとのかみ》から話のある者故、間違いのない人物とは思うが、なおわしが会うて人柄を見定めた上で、取持ちするであろう」
「ああ、それはまた都合のよいことでございました。何分ともによろしくお願い申し上げます」
と、二人は喜びの色を見せて頼んだ後、
「壱岐守(高俊)は近々にお暇《いとま》をいただき帰国いたしますので、太守様が野々村氏の人柄をご覧の上、ご推薦下さるのは、多分帰国後になるかと存じます。その方が、私共も他の家老共に相談もいたしよくございます故、何とぞ国許へ仰せ下さるよう願い上げます」
と言った。これも二人の予定である。家中に反対がおこった場合――必ずおこるにきまっているから、高次の要求であるということを強調して押切るつもりなのである。
こうして、高俊が讃岐に帰った後、高次から野々村九郎右衛門を推薦して来た。よき士《さむらい》である上に、尾州家付家老成瀬隼人正の口ききであるから、七百石で召抱えよとの書面だ。
家老や番頭《ばんがしら》らの重臣らが集まって相談が行われたが、先ず問題になったのは、先年高虎の定めおいた経済基準であった。首席家老の生駒将監は、
「高虎公の定めおかれたところによって、お蔵入の地七万石、士《さむらい》共の知行地十万三千石、そのほかには寸分のあき地もない。召抱えるとすれば、七万石から出すよりほかはないが、これは一合の地も減らしてはならんと、高虎公のきびしいお定めである。いかがすべきであろうか」
と発言した。将監は召抱えたくないのである。何とかしてことわりたいのだ。
前野助左衛門と石崎若狭は、もちろん、
「高虎公のお定めが大切であることは申すまでもござらんが、御後見たる高次公のご推薦の名高き士《さむらい》を召抱えることでござる。あまり窮屈に考えてはなりますまい。その上、わずかに七百石でござる、お直《じき》領から減じても、さしたることはござるまい」
と、主張した。
この時、生駒左門は当番で江戸にとどまって、国許には森出羽と上坂勘解由とがいたが、かねて将監に圧せられているので、しぜん前野や石崎と親しくしていて、これに賛成した。
しかし、物頭らは、将監の説に同意する者もあれば、前野・石崎説に賛成する者もあって、なかなか決議に至らない。ついに、高次の差図を仰ぐことになった。
やがて高次の返書が来た。蔵入七万石のことにはまるで触れず、ただ、
「先書にて申した通り、召抱えあって然るべし」
とあるだけである。高次が腹を立てていることは明らかであった。
また評議がはじまったが、ことわることはもう出来ないのだから、何とかして七百石の土地を見つけるよりほかはない。将監は言う。
「もはや致し方はなければ、われら高禄の面面が、知行高によって按分して、七百石を拠出してはいかがでござろうか」
前野や石崎は反対した。
「それは高次公にたいしてあてつけがましくてよろしくござらぬ。また野々村にしても、それでは殿様に召抱えられるのではなく、朋輩に召抱えられることになる故、受けますまい」
当然の論だ。評議はまた行きづまったが、三野四郎左衛門とて勝手奉行で家老|並《なみ》の者がいて、列席していたが、発言した。
「気づいたことがござる。西島八兵衛殿の工夫で、先年来|荒蕪《こうぶ》地を開墾しています。これらの土地は開いた百姓共の作りどりにまかせていますが、これを検地しますなら、七百石くらいはあるのでござるまいか」
人々は手を打って感嘆した。
「なるほど、これはよいところに気がつかれた。早速、調べさせてみましょう」
と言って、郡《こおり》奉行や代官らに申しつけて、それぞれの管轄地内を調査させると、総高六千三百石もあった。ついに、野々村九郎右衛門はお召抱えになる。
野々村は当時立派な武士として名が高い上に、尾州家の付家老たる成瀬が口をきいたほどの人物であるから、実際すぐれた武士であったろうとは思われるが、こんないきさつで生駒家の家来になったのだから、前野・石崎・森・上坂らと親しくなるのは自然の情だ。四人は家老なのであるから、それと親しい野々村の羽ぶりもまたよくなる。そうなれば、譜代の連中の中に、
「新参者のくせして!」
と、腹を立てる者が出て来るのも、また自然の勢いである。
この翌年頃であろう、それは寛永十年であったというが、高俊は前から婚約のあった老中土井利勝の女と結婚した。高俊二十三である。
当時の大名としては晩婚である。なぜこの年になるまで結婚の運びにしなかったか、わからないが、このために高俊は男色に興味を持つようになったようである。それが数年の後にある事件を生むことになる。
やはりその頃、生駒将監が病気となり、つづいて死んだ。家督は子の帯刀《たてわき》がつぎ、家老にもなったが、まだ年若なので、森出羽が最古参として首席家老となった。森は以前から前野や石崎となかがよかったので、両人の意見をよく容れた。だから、両人の権勢は大いに増した。
一年ほどで、森も病死して、その子出雲が家老となったが、上坂勘解由が最古参として首席家老となり、前野と石崎とはそれにつぐ位置となった。両人はまた高俊の幼年から側近につかえ、気に入られている。両人の権勢は日の出の勢いであった。
この頃、諸家で風流おどりというのがはやった。多数の美少年を美装させて群舞させるのである。これは当時の将軍家光の美少年趣味からはじまった。家光という人は度はずれた男色趣味があって、三十の半ばまでほとんど女をかえりみず、これでは子供が出来ないと、春日局や老中らを心配させたという人である。
この頃はいくらか女にも目が向いたが、まだ美少年趣味の強い時代であった。この頃数カ月気分がすぐれず、やっと快気したので、慰みのために、側役の者共が小姓らに思い思いの服装をさせ、笛や鼓を伴奏にして群舞させて見せた。これが家光の気に入って、時々やらせては見物したので、
「さては、上様およろこびであるぞ」
とばかりに、老中らまで家中から美少年をえらんで踊りを仕立て、家光の前に連れて行っておどらせた。
戦国の男色は陣中、女に不自由なところから、代用品としておこり、盛行するようになったのだが、太平の世の男色は趣味であっただけに、中年までの家光のように美少年以外には全然興味を感じないという人間も多くあって、盛行をきわめた。誰がつけたか、「風流おどり」と名さえついて、諸大名の家でもならうものが多く、一世の流行となった。
元来男色の好みのある高俊は、この流行が気に入って、家老|座《ざ》に、わが家も風流おどりを取立てよと命じた。
家老座では詮議にかかったところ、前野と石崎とは、後でわかるが、どうやらご本人らもその好みがあったようで、
「これが女のおどりであれば、土井家にたいしてはばかりもござろうが、男の子のおどりである故、さしつかえはないと存ずる。将軍家も好んでおわすということであり、ご老中方のお家をはじめとして諸家でも取立てていることなれば、世の非難もござるまい」
と主張して、高俊の側近の少年らに踊衣裳を着せておどらせることにした。
高俊はよろこんで賞翫し、ついには側近の少年らだけでなく、家中からも集め、美少年だけをえらび、綾羅《りようら》錦繍をもって衣裳をこしらえてあてがった。
結婚以来男色から遠ざかっていた高俊の好みは再燃して、この少年らを寵愛し、今は夜も奥へは入らない。大名の屋敷は表《おもて》、中奥《なかおく》、奥《おく》の三つにわける。表は役所、中奥は主人の住所で共に女禁制、奥は夫人の住所で男禁制、入れるのは主人と広敷《ひろしき》役人だけということになっていた。高俊は中奥に居て美少年ばかりを愛して、夫人の許へは行かなくなったのである。
彼は片時もこの美少年らから離れることを厭《いと》って、参覲交代で参府したり帰国したりする時も、少年らを召し連れ、各々美衣をつけさせ、飾り立てた乗りかけ馬にのせた。街道筋の人々は目をそば立てて賞翫し、「生駒おどり」と言いはやした。
この頃、生駒家の江戸屋敷の奥で、わずかなことで女中同士が争って、懐剣をぬいてわたり合うという事件がおこった。女の刃傷事件というので、江戸中の評判となり、土井利勝の耳に入った。娘の縁づき先のことであるから、利勝は心配して、高俊を招いて、
「そこのお家に何か異変があったとうけたまわったが、いかなるわけでおこったのでござる」
とたずねた。
ところが、高俊はまるでそれを知らない。返答が出来ない。利勝は恐ろしく機嫌を悪くした。高俊は不首尾で帰邸した。
利勝は高俊夫人を招いて、しかじかの風聞がもっぱらであるので、壱岐守殿を招いて尋ねたが、まるで知らない様子である、まことに不審千万であると言った。夫人は飛んだことが父君の耳に入ったとおどろいたが、しかたがない、刃傷事件と申してもこれこれで、別段大したことではなく、根も至って浅いことでありますと答えた。
「なるほど、些細なことではあるが、それにしても女同士が刃物で斬合うとは、椿事《ちんじ》といわねばならん。世間の噂にもなっているものを主人たる壱岐守がまるで知らんとは、あるまじきことである」
と、利勝は問いつめた。
夫人にしてみれば、夫が自分に空閨を守らせておいて、男色に夢中になっていることに不満のなかろうはずがない。高俊の近年の行状を訴えた。
利勝は老中首席という職分からも、岳父という立場からも、高俊のこの行跡《ぎようせき》と生駒家の気風を安からず思って、生駒家の重臣らに自分の屋敷に出頭を命じた。生駒家では七条左京、四宮数馬の両重役がやって来た。
「しかじかのこと、けしからんことである。壱岐守は年若であるから、あるいは心得違いのことがあるかも知れんが、家老らをはじめその方らはなぜ諫めぬのか、屋敷内におこったあれほどの事件を、壱岐守が、主人の身としてまるで知らぬなど、あってしかるべきことではない。一国の仕置なども、心許なく思うぞ」
と、利勝は叱りつけた。
二人は恐れ入って、以後のことを堅く約束して帰り、家老らに報告し、家老らとともに高俊に告げた。
すると、高俊はかえって立腹して、
「余が後見は藤堂殿ゆえ、その意見は聞かねばならぬが、大炊頭《おおいのかみ》(利勝)殿は余が岳父《しゆうと》というに過ぎぬ。藤堂殿をさしおいての意見は筋違いであるぞ。聞く必要はない」
と、力《りき》み返って、行状はさらに改まらない。
利勝は単に高俊の岳父であるだけではない。老中筆頭なのだ。大名という大名にとっては最も畏憚《いたん》しなければならない人だ。家老らとしては極力高俊を諫めて、行跡を改めさせるべきだ。多分ある程度の諫言はしたであろうが、それは徹底したものではなかった。生駒家の家老・重臣らは世間知らずぞろいだったと言えるかも知れない。あるいは、ご老中はご老中でも、岳父であるから手ひどいことにはなるまいと、|たか《ヽヽ》をくくっていたのかも知れない。しかし、それにしても、世間知らずと考えの甘さは否定出来ない。
その家老らの中心になっていたのは、前野助左衛門と石崎若狭の二人で、家中のことはすべて彼らの意のままになったが、ただ一つ藩経済の面には力がおよばなかった。先代以来、三野四郎左衛門が家老|並《なみ》の格式をもって、その面のことをつかさどって、余人の介入を許さなかったからである。両人はこの三野をなかまに引入れて、この方面にも支配力をおよぼしたいと思い、前野に年頃の娘があり、三野に年頃のせがれ孫之丞というのがあるのを幸いに、縁組したいと、人をもって申し入れたところ、三野はかねてから両人をきらっている。
「存じもよらざること、おことわり申す」
と、ことわった。剣もほろろとも言うべきことわりようであったから、前野は、
「三野は拙者が譜代でないのを侮って、釣合わぬ縁と思っているのであろう。しかし、拙者は人に侮らるべきものではない。家柄は関白豊臣秀次公の家老であった前野但馬守の一族である。身分は当家の家老である。おとるべきところはいささかもない。憎い三野め、やがてどうするか、見ていよ!」
と、腹を立てて、娘は森出雲に縁づけた。よくわからないが、森が妻を先立てたので、後妻につかわしたのではないかと思う。
前野は三野をにくんで、報復の機会を待っていたが、寛永十二年に三野の弟庄左衛門が病死すると、前野は石崎や森などとひそかに相談して、
「藤堂公の内意である」
ということにして、庄左衛門の本知四百石を半減して、二百石を嗣子権十郎にとらせた。嗣子が幼少であれば、こんな処置をするのも時としてないことではないが、権十郎は十八になっているのだ。不当な処置である。しかし、お家のご後見藤堂高次公の内意であるというので、三野家としては不平の訴えようもない。三野四郎左衛門は家老並の身分なのだから、真に内意であるかと高次に伺いを立てればよさそうなものだが、高次との交渉は、以前からの関係で、一切前野と石崎の役目になっているので、それをさしおいての問合せは、当時の武家の習慣上、してはならないことであった。無念ながら、三野家は承服した。
前野の三野いじめはまだつづく。四郎左衛門の弟で、この前亡くなった庄左衛門の兄の理兵衛は、不具者であったが、親正が不愍《ふびん》して二百石の知行をあたえておいたのを、前野らはこれも高次公の内意であると言い立てて、二百石を没収して十人扶持をあてがうことにした。三野一族は無念がったが、こらえて承服した。
これを手はじめにして、以後、前野らは高次の内意をふりかざして、いろいろ非道なことをするのだが、あるいは案外口先うまく取入られて、ある程度高次も承認していた点があるかも知れない。たとえば三野庄左衛門の遺子権十郎は粗暴で知恵も人並でないなどと言って。この頃西島八兵衛はもう死んだか、藤堂家に帰るかしていたらしいが、それにしても、あまりなことであるからである。
三野一族は無念をこらえていたが、前野にたいしてうらみは大いにある。このうらみが勃発した。前野の屋敷と三野の屋敷とは隣り合っていたが、主人らの心を反映して、その下人らも悪意を抱き合っていたので、ある時わずかなことから双方入り乱れての大喧嘩となり、前野方は散々に打負け、半死半生の者さえ出る始末となった。隣近所の屋敷の人々が出て仲裁し、やっと取鎮めたが、屋敷が今のままではまた面倒がおこるおそれがあるというので、前野は高俊に生駒左門と屋敷を入れかわりたいと願い出た。高俊はこれを許したが、その際、前野の願いにまかせて、十分に屋敷を手入れしてくれた。
高俊としては、こんなことをしてはならないのだ。これでは前野の方をよしと判《はん》じたことになって、三野方に遺恨がのこるにきまっているからだ。しかし、ここが高俊の馬鹿殿様たるところだ。前野は幼少の頃からの側近であるので、ひいき心があり、そのひいき心をもって眺めると、喧嘩に負けた前野方がいかにもしおらしく思われたので、こんな、優遇ともいうべき処置をとったと解釈される。
三野は面目を失《しつ》して、病気と称して、職を辞して閑地についた。
三野の職務は前野がついだ。もはや、行政面も財政面も、前野一派の思うがままとなった。
前野と石崎の権勢は今や大へんなものとなった。こうなると、利欲のために両人に阿付《あふ》する者も多数出るが、苦々《にがにが》しく思って反抗的に出る者もまた大いに出たろうことは、生駒家の家中の気風から容易に推察がつく。これがやがて党派となって対立の形となり、そのせり合いがついに生駒家を滅ぼすことになるのだが、それは自然の勢いであったとも言える。
前野と石崎は、この形勢を激化するようなことを、わざとのようにした。遠い慮《おもんばかり》がなく、目前の利しか考えない小利口な人間の常というべきであろう。元来、両人は頑固古風な生駒家の士風を当世に適合するようにしつけ直して、家中に喧嘩沙汰や不和などがおこらないようにするために、藤堂高虎が特に家老に任命したのであるのに、二人のすることがかえって対立抗争の種子《たね》を蒔いたことになるのだから、皮肉である。運命的という感さえある。
その一
小野木重左衛門というものがあった。郡奉行の手代《てだい》で、微賤なものであったが、前野・石崎の羽ぶりのよいのを見て、これに取入るのが出世の早道と判断して、しきりに両家に出入りした。小野木は職掌がら、国内の村々の土地の肥瘠《ひせき》をよく知っている。これを利用して取入った。
「何村は上田の多いところであります。どこ村は水利がよくて、田という田が全部上田であります」
などと、生駒家の直轄領になっている村々のことを語り、二人の知行地をそれにくりかえることをすすめた。
両人はすすめに従って、自分らの知行地の悪いところは皆これにくりかえた。こんな工合で、小野木が気に入ること一方でない。しだいに取立て、やがて、ここでも高次公の差図であると言って、郡《こおり》奉行に任命し、三百石の知行をあたえ、ついには八百五十石にまでした。そのはじめはわずかに三十石の小身者だったのである。
その二
以前高次の世話で召抱えた野々村九郎右衛門のことを、
「野々村は、高次公が家中の者の手本にもなれよとの思召しで、当家にお世話下された者である。当家中には譜代じゃの、家柄じゃのと、言い立てる気風が強いが、それは時勢に適しない。野々村の風儀をよく見習うがよい。さすれば、お上でもお用いになって役職なども仰せつけられるであろう」
と、家中に布告した。
時の勢いになびいて、大いに野々村を見習ったり、前野や石崎の家に出入りする者はもちろん多数あったが、譜代の者で古い武士|気質《かたぎ》をかたく守っている者に、これが快かろうはずがない。一層対立的な気になった。
その三
一方に媚びる連中があり、一方に対立的になる連中があるとすれば、よほどに出来た人間でないかぎり、前者を取立て、後者につらくあたるのは自然の人情だ。対立派の者には、ここでもまた高次の差図であるとて、役職をやめさせたり、格式をおとされたり、減知されたり、暇を出されたりする者が続出した。憤激して暇を取って立去る者もあった。後の計算になるが、寛永十四年までの間に、その数六十余人あったという。
国家老の一人として、また主家の一門として、生駒帯刀は前野らに、譜代の者共は当家創業の時の家臣共の子孫である故、多少の不調法はあっても、浪人さすべきではないと、不服を言ったが、前野は、
「それは拙者も十分考えているのでござるが、何分にも高次公より、不服従の者は暇をやってしかるべし、さなくば家中の風儀は決してよくならぬとお差図《さしず》をいただいていますので、いたし方はないのでござる」
と、言いぬけた。
十年前、藤堂高虎の差図によって西島八兵衛が立て直してくれた生駒家の財政は、この頃また苦しくなっていた。江戸時代の諸大名の財政困難は、根本的には幕府の故意の政策によるので、軒なみと言ってよいのであるが、生駒家の場合は高俊の放埒な生活態度をはじめとして、万事が弛《ゆる》んでいたことに最も大きな原因があろう。寛永十二年、幕府は江戸城の修築をすることになり、諸大名にその手伝いを命じた。生駒家も割当てられ、前野と石崎とが普請奉行となって事にあたったが、財政困難な時である。費用の出場所がない。奔走の末、江戸の木屋六右衛門という材木商から金を借りることに話がついた。
ともかくも、金策が出来、普請も翌年完成した。幕府は手伝いに出た諸大名と、その事にあたった諸大名の家老らと重立った者共に時服や金銀などを賞賜した。前野と石崎も、時服と白銀五十枚ずつをもらった。
ここまではよかったのだが、この直後、両人はなすまじきことをした。功績を自負して、たがいに、
「われらのこんどの働きは、なみ大抵なことではありませんぞ。普通に働いてさえ、公儀においてはこのようにご賞美でござる。われらはお家がひしと手詰《てづま》って、費用の出ようがなかったのを、才覚をもって木屋から借入れることを得て、首尾よく相済ませ、お家の面目を潰さずして済ませたのでござる。この手柄にたいしては、お家もお報いあるべきではござるまいか」
と、話し合った末、千石ずつの加増をとることにして、高俊の面前に出て、
「藤堂公からの内意であります」
と、いつもの手口で、説きつけて、承諾をもらい、たがいにかわり合って――すなわち、石崎へ加増をつかわすべき差図書《さしずがき》は前野が書き、前野へ加増をつかわすべき差図書は石崎が書いて、国許の藩庁へ送ったのだ。その上、その差図書には、それぞれ、この加増分の知行地の物成《ものなり》(年貢)は、家中一般のより五分増しにする旨を書き加えた。普通土地の生産高の四割を年貢として取立てるのだが、四割五分を取立てることにしたのだ。この一事を見ただけでも、両人が相当以上に貪欲な性質であったことがわかる。
ずいぶん奇ッ怪な差図書だ。たとえ藤堂高次の内意があってのはからいであるとしても、国許の家老らとしては不審して、何かの方法で高次に問合せるべきであると思われるのであるが、それをしなかったのは、よほどに愚物であるか、でなくば家中における両人の勢力が強く、従って与党の者も多くて、手の施しようがなかったのであろう。
さて、前野助左衛門・石崎若狭の両人は、どこやらの議員諸君のように、お手盛で千石ずつの、しかも年貢五分増しの知行地の加増をせしめたものの、木屋六右衛門へは返済の手だてがない。いろいろ相談の末、思いついたことがあった。高松城の南つづきの石清尾《いわしお》山に広大な松林がある。これは生駒第一世の親正がはじめて高松城を築いた時、高松の地は東方は沼、北と西は海で、この山の方だけが陸につづいているので、この山を最も要害として、伐採を禁じてこの時代におよんだのだ。親正築城の時からすでに四十数年になる。巨松の森々としげった山はなかなかの壮観であった。この山の松を伐採させて、返済にあてようというのであった。
木屋に話をすると、そこは商人だ。
「ともかくも、そのお山を拝見した上のことにいたしましょう」
と答えた。
その頃、前野助左衛門のせがれの治太夫は、重役の一人となり家老|並《なみ》の格でいたが、これが国許に帰る予定になっていたので、木屋と同道して讃岐に帰った。寛永十四年五月であったというから、島原の乱のおこる四月前である。
木屋は石清尾《いわしお》山の松林を見て、大いに気に入って、伐《き》り出しにかかることになったが、治太夫はそれが済むまでの慰みに、木屋に国内の見物をすすめた。
「それはありがたいこと、お国は弘法大師の生まれ故郷で、その由緒ある所や、金毘羅《こんぴら》様、多度津、屋島等の名所も多いことでありますれば、ぜひ遊覧させていただきとうございます」
と、木屋はよろこんだ。
治太夫は領内に、これはお上の大切な客人なれば、粗略なくもてなし申すべしと、触《ふ》れをまわした上、代官を案内につけて送り出した。
藩庁から特別に触れのあった人物だ。所々の代官や郡奉行らは言うまでもなく、領民らも足を空《そら》にしてもてなすこと、まるで公儀から出張して来た役人に対するようであった。
前野・石崎に対立する武士らは、なり行きから反動的なくらいきびしく武士気質を守っている連中だ。にがにがしくてならない。
「お城の要害として親正公以来大切にして参られた松山の木を、かくもおびただしく伐り出すさえあるに、町人風情を家中・国中総がかりでかくも法外なる丁重さをもってもてなすこと、お家の武威も堕ちたるものかな。かくてはお家はもう武家大名とは言われぬぞ」
と、慷慨していたが、いつか集まって、
「お家がこうまでだらしなくなったのは、前野と石崎の政道の責任でござる。譜代の臣として黙止《もだ》すべきではござらぬ。一命を捨てる覚悟をもって、両人の責任を追及いたそうではござらんか」
と相談をはじめた。つまり、場合によっては両人を斬ろうと相談したのだ。しかし、それはあまりにも手荒であるばかりでなく、役付の者ほとんど全部は彼の手下であるから、陥れられて犬死するにきまっているという意見が出て、結局、こうきまった。
「生駒帯刀殿は家中第一の名門であるのに、唯今は家老職というも名ばかり、前野・石崎らに威権をとられて、快からぬ日を送ってお出でである。われわれが一致して帯刀殿の尻押しして、前野と石崎の非違とわがままをくわしくご親類方へ訴え出ていただきたいと申したなら、帯刀殿も承諾なさるのではあるまいか」
代表の者が帯刀を訪問して、この話をすることになったところ、あたかもこの頃、誰が言い出したか、こんど石清尾《いわしお》山の木を伐り出すことになったのは、ご借銀のご返済のためではない、先年前野助左衛門が妻を先立てて後妻をもとめた時、木屋がその世話をした謝礼のためであるという噂が高くなった。憎しと思いこんでいる前野のことだから、真偽のせんさくもあったものでない、真向に信じこんで、一同の憤激はいやましに昂《たか》まって、もう代表者も何もない、思い思いに帯刀の屋敷に乗り込んで、説き立てた。
帯刀ははじめは煮え切らなかったが、ついに決心がついて、人々となお相談の上、訴状を作成して、家中にはご後見高次公へ伺うべきことがあって江戸へ出ると披露して、寛永十四年六月末、高松を出発し、七月江戸に着いた。わざと藩邸には入らず、町宿《まちやど》を取って、藤堂家に行き、持参の訴状を差出した。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
壱岐守(高俊)様のためについて、
恐れながら言上いたします数条
一、生駒家は近年勝手向困難になって、江戸や京都で借銀して、諸事を弁じているとの由を聞いていますが、元来、生駒家には先祖代々軍用金として相当な金銀がありましたのを、当代になって前野助左衛門・石崎若狭の両人が、私共には相談もなく勝手に使い捨てたのでこのように窮迫することになったのであります。不都合と存じます。
(この書きぶりを見てもわかるように、帯刀は財政上のことは全然知らされていないのである。家老とは名ばかりで、伴食《ばんしよく》家老であったことがわかる。なお、生駒家の軍用金が費消されたのは、帯刀の父将監の首席家老時代、大干魃の時の救恤につかってしまったのである。その頃には、前野も石崎もまだ家老ではない。これらのことを詮索もせず、同志の者共の言うことをそのまま信じて書きつけたのであろう。志は別として、あまり賢い人物とは思われない)
一、公儀へのご奉公も、今日のように財政困難では出来なくなるのではないかと、不安であります。先年の大坂夏の陣や福島家改易の際広島へ出陣しました時にも、家中の士《さむらい》共に陣支度の出来かねる者がありましたが、いずれも主人より銀や米などを配分して、支度が出来ました。このような先例もあることなれば、先代までは軍用金をたしなんでいましたのに、当代になっては費消しつくしていますので、いざやの際のご用に立ちかねるのではないかと不安であります。
一、初代親正以来先代に至るまで三代の間に召抱えました士《さむらい》共数十人が、助左衛門と若狭の舌頭にかかって浪人させられましたので、唯今では譜代の士はほとんどなくなりました。右両人の推挙で召抱えた新参の者が大勢いまして、これらには両人が高俊によく取りなして、多分の知行や扶持をあてがいますが、これらのことを代々の家老である私に、まるで知らせませんでした。たまに知らせても、それはすでに大学頭(藤堂高次)様に伺い済みの後でありました。
一、諸奉行は、和泉守(藤堂高虎)様ご存生の時に、お見定めあって仰せつけられた者共でありますのに、前野と石崎はこれを新参の者と更|迭《てつ》させました。彼は譜代の者を役つきにしない方針でいるのです。
一、新奉行の一人に、小野木重左衛門という者がいます。この者は、先年生駒家が大坂城のご普請手伝いを仰せつけられました時、生駒家の者と筑前黒田家の衆との間に喧嘩がおこりました際、第一番に逃げ出した者で、その時の証人も多数います。かかる腑甲斐なき者でありますのに、前野はこれを取りなし、郡奉行に任命したばかりか、十倍の知行とし、前任の奉行|尾池玄蕃《おいけげんば》という者の屋敷をとり上げ、これを小野木の屋敷としてあたえました。その際、一カ所の損所もないこの屋敷を、生駒家の費用をもって結構に造作し直してあたえました。生駒家の財政困難のおりからといい、依怙《えこ》の処置といい、不都合であります。
一、前野と石崎の両人は二千五百石ずつの知行を取っていましたが、去年千石ずつの加増を下されました。この千石は特に年貢五分増しにするようとの江戸よりの差図で、右小野木重左衛門が万事をとりはからって、その通りにいたしました。後に伺いますれば、年貢五分増しのことは壱岐守(高俊)は聞いていない由であります。きびしくご詮索を願います。
一、前野のせがれ治太夫は千石あてがわれて、家老|並《なみ》の職にありますが、自分屋敷を普請の時、藩の竹木を用い、藩の大工や鉄砲足軽まで使用して、分限にすぎたぜい沢な工事をいたしました。この公私混同に、家中の士共は納得していません。
一、前野と石崎は自分の知行所からの年貢収納を藩の代官にさせています。狙いは収納の費用を吝《おし》んでのことであります。両人はまた自分の年貢米を藩の蔵に納めおいて、小野木に申しつけて、相場を見合せて売払わせ、年々莫大な利を得ています。これもまた公私混同のはなはだしきものであります。
一、両人は常々自分に親しく出入りする士共に、何の功労もないのに、主人に伺いも立てず、金銀など取らせています。別紙のリストを差上げます。
一、森出羽のせがれ出雲は先年証人(人質)として江戸に詰めていましたが、前野の娘と結婚いたしました。前野はその娘も公儀の人質であると主張して、出雲同様に証人扶持米を生駒家から受取ることにしましたが、その後出雲は人質免除になって国許に引取りましたのに、前野は依然として娘の証人扶持米を受取っています。貪欲言語道断であります。
一、前野と石崎は江戸に詰めている間は、諸方への贈答品や薪炭・魚塩の類まで、藩の船方《ふなかた》へ申し付けて運ばせ、その賃銀から飯米まで、全部藩の費用にしています。わがまま勝手も極端であります。
一、高松城にさしつづきの石清尾山の松林は城の要害として親正以来伐採禁止となっていましたのを、前野は江戸の木屋六右衛門と申す者に大分伐らせました。これは前野が先年江戸で後妻をめとった時、六右衛門が世話をしたので、その謝礼のためということであります。また、この時、前野は領内にさしずして、六右衛門を駕乗物《かごのりもの》にのせ、領内を見物させましたので、百姓共は公儀の目付と心得て、奔走して待遇しました。
(石清尾山の伐採が後妻を世話してもらった謝礼のためとは、風聞を無詮索に取上げているのである)
一、去年壱岐守の帰国の際、前野は江戸を先発しましたが、京都において色々|遊山《ゆさん》したばかりか、公家《くげ》衆の屋敷に宿をとり、管絃を所望して見物しました。言語に絶する僭上《せんじよう》であります。
一、前野は将軍家ご不例の際、江戸屋敷の長屋で児《ちご》小姓を多数集めて、乱舞《らんぶ》や酒宴を催しました。日本国中の諸大名をはじめ一般庶民まで声をひそめるようにしている時に、不謹慎千万であります。
(前野に男色趣味があったらしいというのは、ここを見ての推察である)
一、讃岐国は近年百姓が疲労していますが、それは郡奉行や代官らが毛見《けみ》(作柄検分)に出張の際、その者共の従者らが百姓共をいろいろと搾取するからであります。ご吟味あれば、くわしくわかりましょう。
一、海浜の舟子らも疲弊しています。これも藩用に召使う節は扶持や適当な賃を取らすべきであるのに、厳命して召使うだけで償ってやらないためであります。
一、城下の町人らも疲弊していますが、これも使うだけ使って報いてやらないためであります。
一、江戸からでも、国許からでも、生駒家の台所奉行から決算書を取寄せてごらんあれば、前野と石崎の私曲がよくわかりましょう。
一、讃岐国に三年の干魃がつづいて、藩の収入が大激減しましたのに、両人は豊作の時と同じやり方をしましたので、今日のような窮迫した財政となったのであります。何とぞ皆様ご相談の上しかるべく仰せつけ下さるよう願い上げます。
[#ここで字下げ終わり]
[#この行2字下げ]右の通りにご披露頼みます。なおくわしくはご前へお召しになれば、口頭で申し上げます。
寛永十四年七月十一日
[#地付き]生駒帯刀 判
土井大炊頭様御内
本田与惣左衛門殿
大野仁兵衛殿
藤堂大学頭様御内
藤堂四郎右衛門殿
藤堂|監物《けんもつ》殿
藤堂|采女《うねめ》殿
脇坂淡路守様御内
脇坂忠兵衛殿
脇坂七郎右衛門殿
脇坂理右衛門殿
脇坂家と生駒家との続柄《つづきがら》はわからないが、姻戚の関係であったのであろう。
訴状は同文三通あった。
帯刀に応対した藤堂家の家老藤堂|采女《うねめ》は一通を受取って一見の上、高次に披露した。高次も一覧して、
「これは容易ならぬことである。先ず帯刀を当家にとどめ置け」
と差図して、帯刀主従を屋敷にとどめておいて、土井家と脇坂家へ使者を立てて連絡した。
日を定めて、両家から藤堂家へ出張する。
土井利勝は筆頭老中であるから、参会せず、代理に家老の大野仁兵衛をつかわし、脇坂家は当主淡路守安元が家老を連れて来た。その席に帯刀を召出して、訴状の各条について、一々尋問した。答弁によると、証拠明白のものもあるが、中には噂話に過ぎないようなものもある。全然その実のないものもある。軍用金費消など帯刀の父将監の時代のことだ。
その日は尋問だけでおわって、一両日後にまた集まって尋問した。答弁は先日の通りだ。帯刀は、
「上坂・前野・石崎・森・四宮等の家老や重臣らをお召出しあってご尋問願い上げます」
と言い張る。
人々は相談して、
「やがてその方の願い通りにいたすが、今のところは壱岐守殿在府にて、国許のことも心許なければ、一先ず帰国いたせ。ついては、こんどのことは決して人に口外せず、何事も穏便にいたしいるよう」
と申し渡した。
帯刀は九月讃岐に帰った。
その後、藤堂高次は生駒家の江戸屋敷に、
「前野助左衛門父子、石崎若狭、四宮数馬、七条左京の五人に言い聞かしたいことがある故、明日おつかわしありたし」
と、申してやった。
こんなことは時々あることなので、五人は別段気にもとめず、藤堂家へ出頭すると、いつもと変って、この日は高次の外に脇坂安元が席をならべているばかりか、土井家、脇坂家、藤堂家の家老らまで侍座している。はじめて緊張した。
高次は安元にあいさつして、口をひらく。
「その方共は、壱岐守殿幼少の頃より奉公して忠勤を励んでいる者共であるが、なおこの上も壱岐守殿を大切と心得、そのためになるよう忠勤を励むかどうか、誓言をもって、所存を聞きたい」
五人は答える。
「私共は生駒家代々の恩をこうむり、唯今は主人の口真似をするほどの身分に取立てられている者でありますれば、いかでか壱岐守の不為めを存じましょう。このことばは、仏神にかけて毛頭いつわりはございません。さりながら不肖の者共でございますから、あるいは従来も、今後も、不調法のことがあるかもわかりません。もしそうでありますなら、いく重にも仰せつけ願わしく存じます」
高次も安元もうなずいた。
「しおらしき申しようである。さらば、ここに一つ申し聞かすべきことがある。われら近年のその方共の家中の様子を見ているに、とかく家中一和を欠き、ややもすれば意地を立てて争っているようである。その上、譜代の者共の中に浪人する者多数あると聞いている。この有様では、遂には、家中乱離となり、ひょっとして公儀のお耳に達するようなことがあっては、家破滅にも及ぶであろう。蒲生、堀、最上《もがみ》等はそのようにして滅んだのである。家中不和の基は、家老や重臣らなどが威勢に誇って高ぶり、驕奢であるためであることが多い。生駒家中において、助左衛門と若狭とは、譜代でもないのに数年忠勤の功を愛《め》でられて、故高虎の見立てをもって家老となり、国の仕置をしているのであれば、とりわけ心を細かく用い、家中の者に礼をつくすのが壱岐守殿にたいする第一の忠義である。しかるに今日のような家中の姿となったのは、あるいはその心得に疎《おろそ》かであったためか。すんだことは申しても詮がない。向後のことをよくよく心掛けるように」
名ざしして言われて、前野と石崎とは、きっと顔を上げて、ことばを返した。
「これは思いもよらざることをうけたまわります。私共の家中がとかく一和を欠いでいますのを、私共が基をなしているように仰せられましたが、憚りながら何ものかが讒言を申し上げたのをご信用遊ばしてのことと存じます。生駒の家中が一和を欠いでいますのは、私共が家老職に仰せつけられる以前からであります。私共が家老職に仰せつけられたことの一半は、家中の気風を改めさせるにあると、高虎公に仰せ含められたほどでございます。それは大学頭様にはよくご承知のことでございます。されば、私共は今日までそれを努力してまいったのでございますが、力及ばなかったのでございます。近年譜代の者共を多数浪人させましたのも、その努力の一端でございます。この者共は譜代であることをとかく鼻にかけ、国の法度《はつと》をも用いず、勝手を働きますので、これを厳しく処分いたしませんでは、気風改善のことも成らず、また壱岐守の政道の妨《さまた》げになると存じまして、本来ならば切腹をも申しつくべきところを、譜代でありますので不愍《ふびん》を加え、知行・扶持取り上げにとどめたのでございます」
と、鋭く論駁した。あるいは、強情で意地張るやつは容赦なく処分せよと、大学頭様がおっしゃったではありませんかくらい言ったかも知れない。
せっかく誰にも傷つけず円く解決しようとしたのを、押し強く抗弁されて、高次は気を悪くした。
「わしはその方共二人が悪い政道を行ったと言っているのではない。譜代でないその方共を家老に申しつけたのであるから、その方共としては万事に気をつけて、壱岐守殿にたいする忠義を第一に心得よと言ったのだ。それをわしが讒言を信じているなどと、何たる申しようであるか」
と言って、うってかわって態度が厳しくなり、一先ず五人を退席させ、一人々々別室にひかえさせて、一人ずつ呼び出して、帯刀の訴状の条々によって尋問した。
前野と石崎の二人は、ことばたくみにあくまでも抗弁したが、四宮と七条の二人は、
「帯刀の申し条のすべてがいつわりではないようでありますから、いかようにもお裁きに従い申すでございましょう」
と言った。
そこで、高次、安元、三家の家老らの相談がはじまったが、あくまでも黒白の詮議にかかっては余程の日数がかかるであろうし、ひょっとして公儀に聞えては由々しい大事になろうという意見が出たので、撫《な》でつけで円くおさめることにして、また五人を呼び出し、高次から申し渡した。
「その方共の申し条は、わしも淡路守(脇坂)殿もよく聞きとどけた。本来ならば、これから黒白の裁きをいたすべきであるが、そうしては世間の評判になり、従って公儀にも聞えて、壱岐守殿のさわりとなることは必定である。されば、今はわれわれ両人が聞きおくだけで、裁きは追ってのことにいたす。その方共は先ほど仏神に誓って、壱岐守殿への忠誠を証言した。その心掛を忘れず、以後は万事に気をつけよ。万一にもわがままや奢りがましいことをしては、生駒家はどうなるかわからんことになるぞ。くれぐれも慎め」
と、訓戒して退出させた。
帯刀の方にも、このことを通達して、五人が誓言して主家のために以後を慎むと申した故、その方も争いをやめて、万事和熟するようにと言ってやった。
外様大名の家は出来るだけ取潰すというのが、当時の幕府の方針なのであるから、高次らもこんな不徹底な処理をしたのであるが、当時の武士気質がこれでおさまるはずがない。当時の武士はおそろしく意地ッぱりで、意地を張ることが最も武士らしい態度と信じている者が多かったのである。
だからこそ、家中不和で家を取潰された先例があるのに、懲りずに意地を張って、対立抗争して、取潰しになる家がつづいたのである。生駒家の武士らもそれだ。この家中は藤堂高虎のような老練な人物にすら、急には手がつけられないと嘆息させたほど、意地ッぱりの気まま者がそろっていたのである。
こんなわけだから、藤堂高次らの、解決方法は、双方ともに不満であった。帯刀方は、
「前野らの罪状がかくも明白である上は、きびしいご処断あるべきを、案外なるお裁きかな」
と、皆腹を立てた。しかし、帯刀が、ご縁家方のお差図がこうである以上、粗忽なことをしては、かえって前野方に乗ぜられ、悪名をつけられること必定である、よくよく慎むこそ上分別であると、熱心に説諭して、どうやらおさめたが、前野方は、
「帯刀らが訴え出たればこそ、こんどのこともおこったのだ。この上は一人でも多く味方をこしらえるべきである」
と、国許に連絡して、こんどしかじかのことがあったが、われわれの申し分が立って、末長く勤めよとのおことばであった故、讒言の者共にはいずれきびしいご処分があろうと説いて、家中の者共を説いて味方に引入れはじめた。これを知ると一旦静まっていた帯刀方もじっとしていられない。
「前野らの罪状は明白であるが、一時寛大なご処置にあずかったに過ぎない。そのうちには罪せられるのだ」
と言いののしり、対立の勢いは益々激化した。
もちろん、いずれの派にも属しない者もある。三派鼎立の姿であった。
翌十五年五月、高俊は参覲の期満ちて、讃岐に帰って来た。前野も石崎も供して帰って来たので、その派の者共の鼻息はさらに荒くなった。
帯刀は賢くはないが、人がらは篤実だ。ご親戚方の訓戒を守って、前野や石崎に会えば礼儀正しく挨拶する。これを見て前野派の者共は、帯刀はついにかなわぬと見て媚びはじめたと言い立てた。聞いて、帯刀方の者は腹を立てた。帯刀の許へおしかけ、
「くだらぬ礼儀や挨拶を丁重になさる故、かかる悪口も言われなさるのでござる。今後はやめさせられよ」
と、きびしく忠告するばかりか、もう一度訴え出よと責め立てる。なだめたがきかない。実際また前野・石崎らの専権は少しも改まっていないのである。
ついに帯刀は事情を訴え、断然たる裁きを請う書面を作って、十月また訴えた。その年は藤堂高次も脇坂安元も国許に帰っていて、土井利勝だけが老中として在府しているので、書面はそれぞれに使者をつかわして届けた。
高次は、帯刀を自分の城下の伊勢の津に召して、
「わしが一存でははかりかねるが、さりとて書面ではくわしい相談が出来ぬ。明年参府の上、大炊頭殿や淡路守殿と篤《とく》と相談の上のことにする。それまでは、主人のためと思って、何事もかんにんするよう。悪くさわぐと、生駒家は滅亡するぞ。万事わしにまかせよ」
と諭して帰した。
帯刀は帰国して、同志の者にこの話をして、なだめた。人々も得心して辛抱して明年を待つ気になった。
翌十六年四月、藤堂高次も、脇坂安元も参覲して江戸に出たので、土井家をまじえて、相談が行われた。土井利勝はこの前年の十一月大老に任ぜられているから、もちろん自分は相談の席には出ない。家老を参会させる。脇坂安元と土井家の家老とは、
「これは家中の党派争いでござれば、先例もあること、悪くすれば生駒家はお取潰しになる恐れがござる。藤堂家はご先代の時より後見のお家にて、あの家中のこともよくご承知のことでござる。大学頭殿のご裁断にまかせ申したい」
と言う。大役を投げかけられて、高次もいやであったろうが、しかたはない。引受けて、数日思案して、解決策を案じ出し、両家の了解をもとめた。
「本来ならば、この裁きは理非を明白にすべきでござるが、そうしては両派の遺恨やむ時がなく、互いに相手方に何か落度があれば、必ずまた訴え出て、いつまで立っても平穏になることはありますまい。それでは結局生駒家は滅亡することになります。されば、この裁きは喧嘩両成敗として、双方の頭《かしら》立った者共四五人ずつに切腹を申しつけたらばいかがと存ずる。そうすれば、その党派の者共も懲りて、おだやかになるでありましょう。いかが」
思い切って乱暴な裁きであるが、生駒家の安泰を第一に考えるとすれば、この政治的解決法によるのが一番であることは言うまでもない。両家は賛成した。
一体、生駒家をこんなに混乱させた責任の一端は、藤堂家にある。前野・石崎を家老に任命したのは高虎であり、二人を信頼して、二人の言うことを少なからず許して来たのは高次である。これらのことがあったればこそ、二人の威権が強くなったのだ。しかし、こうなっては、責任のとりようはない。高次としては頬《ほ》っかむりで行くよりほかはないのである。
翌五月、生駒高俊が参府した。前野も石崎も扈従《こじゆう》して出て来た。高次は生駒邸に使を立て、前野と石崎と、幕府への人質として江戸にとどまっていた生駒左門の三人と、在国の生駒帯刀、森出雲、上坂勘解由、四宮数馬、七条左京、前野治太夫(助左衛門の長男)の六人とを、至急にお遣わしありたしと申し入れた。
生駒邸から急報が国許に飛んで、六人は大急ぎで馳せ上り、六月中にそれぞれ江戸に到着した。
この報《しら》せを受けて、高次は先ず生駒左門と生駒帯刀の二人を呼んで、こう言った。
「こんどのその方共の家中の不和の根元が、前野助左衛門と石崎若狭との不届にあることは申すまでもないが、その方共の主人が不覚人であるにもよる。この際、正邪善悪を明白に裁いて前野と石崎とをきびしく処分することは至って容易であるが、それでは解決にならぬ。二人に一味の者共が遺恨を含んで、将来その方共の落度をひろっては訴え出でるであろう。そうなれば、その方共の同志の者は、それを遺恨にしてまた訴え出でるであろう。かくして訴訟絶えずば、遂には公儀の耳に達し、生駒家の滅亡は必至である。のみならず、壱岐守殿の不覚まで世に知れよう。武家としてこの上の恥辱があろうか。されば、今の場合としては、生駒家の安泰のためには、この度のことは喧嘩両成敗として、双方の頭《かしら》立った者が四五人ずつ切腹してもらいたい。忠義を守るその方共に不忠者と同じく切腹せよと言うは、忍びぬことであるが、主家の長久のために一命を捨ててくれい。戦場にて馬前に主人にかわって討死するに百倍の忠義であるぞ。その方側よりはその方共のほかに七条左京・四宮数馬の二人にも死んでもらいたい。前野側にては前野父子・石崎若狭・森出羽・上坂勘解由の五人に切腹させる。承引してもらいたい」
帯刀も左門もおどろいたに相違ないが、当時の武士はこんな時におどろくわけに行かないことになっている。
「不忠者にたいして道理を立て遂げることが出来ず、同じく死なねばならぬことは残念ではありますが、戦場の忠死に百倍する死であるとのおことば、身にあまってかたじけなく存じます。仰せの趣きかしこまってございます」
と、涼しく答えた。
高次は次に七条左京と四宮数馬を呼んで、同じように説諭した。二人もきれいに承服した。
次には前野派の五人を召して、説得した。五人も承服した。主家のために死ねと言われては、いやと言えないのが武士の約束なのである。
なお高次は、生駒帯刀はこんどの訴訟の発頭人であり、その背後には多数の血気な武士らがついているから異変を生ずる恐れがあると用心して、帯刀を藤堂家に呼んで、
「その方が生駒家にいては若い同志らが卒爾《そつじ》なことをする恐れがある。しばらくの間わしの領内の伊賀の上野に行き、切腹の期《とき》まで、わしが城代の藤堂仁右衛門方にいて休息いたしおれ。その方の子孫のことは、わしが引受けて、わしの家のあらんかぎりいささかも如才はすまいぞ。これはそのしるしに取らせる」
と、二字国俊の脇差を手ずからあたえた。
帯刀は涙をこぼして感動し、伊賀に向かった。
高次は用心に用心を重ねた。ひょっとして生駒家の士共がこの処置に不満を抱いてさわぐかも知れないと思ったので、家老の藤堂兵庫に士・足軽総勢三百人を授け、切腹人の中から四宮数馬を案内人として、讃岐につかわした。
一行は七月に江戸を出、八月に讃岐について、重立った役人らを集めて、江戸できめられたことを告げた。一同おどろいたが、ご親類方合議の上の決定であるから、納得するよりほかはなかった。
しかし、おさまらなかったのは、帯刀方の若士《わかざむらい》らだ。
「善悪・正邪、同罪ということがあろうか。元来、前野らがあれほどまで権威に募ってわがままとなったのは、高次公のご懇情をかさに着てのことである。察するところ、高次公はわれらが派を内心は憎み給うが故に、かような裁きになったのであろう。忠義を存する者を逆意の者と同じく切腹させるようなことをして、以後誰が忠義をなそう。天下にかかる不道理な処置があろうか!」
と、言い出して、諸所に集まって相談をはじめた。若い者としては当然なことだ。彼らには正邪・善悪しかわからない。世の複雑さはそう簡単明瞭には行かないということがわからないのである。
四宮数馬は、これを聞いて驚いた。こちらが騒げば、相手方も騒ぎ出し、由々しい大事になろうと、説諭した。これで一旦は静まったが、また、
「四宮殿はわが党の切腹人の一人である故、今かれこれ騒いでは、腹を切るのがいやであると思われそうで、ああ言いなさるのじゃ。内心はわれわれに百倍する無念さであろう。これはわれわれから今一度ご親類方に願い出て、忠義の方々のお命を助けねば、あれ見よ、生駒の者共はあたら忠義の人々を見殺しにした臆病者と言われ、世に顔向けの出来ぬことになろうぞ」
と、相談が盛り上って、一党の中で家老につぐ家柄である多賀《たが》源助という者を選んで、江戸に出発させた。
多賀は十二月に江戸について藩邸に入ったところ、高俊は国許から多賀が出て来たと聞いて、召し出して、何の用で出て来たのだと尋ねた。高俊は全然話を聞かされていないのである。よほどの馬鹿殿様だったことが、これでもわかる。
多賀は情なくなって、涙をこぼして、
「殿は何ごともお知りでないのでありますか」
と言った。
「何のことじゃ、それは」
多賀は、前野・石崎の横暴、悪事のことや、帯刀の忠義のこと、こんどの親類方の定められた処置のことなどをくわしく語った。
すべてがはじめて聞くことだ。高俊は驚いて、茫然としていたが、やがて火のついたようにどなり出した。
「わしは幼年にして家督したため、高虎ご父子が後見として万事を取りはからわれて今日まで来たが、年頃になってからは、公儀向きのことはひとり立ちでしている。後見ではあってもわが家のことは何事も相談あるべきじゃ! ことに、こんどのことは、多数の家老・重臣らを切腹させることである、一言の相談もないとは何たることじゃ! 人をふみつけにするにもほどがあるぞ!」
「ごもっともでございます。しかしながら、高次公のご後見は将軍家の思召しによるのであります故、たとえ一言のご相談なくとも、不服を仰せらるべきではございません。もし殿様が帯刀らを不愍《ふびん》と思召され給うならば、高次公に帯刀らの助命を仰せ入れ下さりますよう、さすれば、高次公もご思案を変えさせ給うであろうと存じます」
「むう」
「その時は、こう仰せられませ」
多賀はその時の口上を口うつしに教えた。
「よし!」
意気ごんだ高俊は、早速、使を藤堂家に立てて、申し上げたいことがある故、参上したく存じますが、いつがご都合がよくござろうと申し入れさせた。その頃、高次は不例で引籠っていたので、全快したらこちらから案内を申し入れると返答した。やがて、その年は暮れた。
高俊が高次に会ったのは、年が明けて寛永十七年になって間もなくであった。
高次は多賀が口うつしに授けてくれた口上によって、
「昨年夏貴邸へ呼び出されましたわれらの家の家老・重臣共数人が、あれ以後出仕もせず、外出もいたさず、長屋に籠居していますが、いかなるわけでありましょうか、定めて事情あることと存じます。ご説明をいただきたくござる」
と言った。
高次は、これまでのことを説明し、土井家や脇坂家とも相談の上、こうきめて、その家老らに納得させた次第を語った。
高俊は先ず礼を言ってから、
「さりながら、双方共に切腹というは得心がまいりません。内々聞きますれば、帯刀方の者共はわれらに対する忠義のためにいろいろと苦心いたした由でござれば、それを切腹させるのは不愍至極でござる。また他家の批判もいかがと存ずる。何とぞ今一応のご分別を願いたくござる」
と言った。
「それは一応ごもっともな仰せながら」
と、高次は両派の対立を根絶するには、これ以外に方法はないことをくわしく説明し、また家中の者共が党をつくって抗争したことが、幕府の乗ずるところとなり、家中不取締りの名目で取潰しになった大名のことも語ったが、高俊は納得しない。彼には高次の主張する解決法が正義の観念に反していることはわかるが、愚かである上に、万事後見まかせで、自分の判断で世に処したことがないので、外様大名にたいする幕府の陰険な方針がわからない。ひたすらに正義感にすがりついて、忠義な者も、不忠な者も、両成敗ということがござろうか、忠を賞し、不忠を罰してこそ、政道というものと心得申す、などと高次に説教する始末で、その言うことは納得しない。
高次はついに匙《さじ》を投げた。
「かくまで申してもご得心行かずば、ご随意になされよ。われらこの上は貴家のことには一切かまい申さぬ。親戚の対面も今日限りと思われよ」
と言いすてて、奥へ入った。
高俊は辞去したが、馬鹿というものはしかたのないものだ、はじめて高次をやりこめることが出来たと思い、意気揚々として帰邸して、多賀源助に、
「帯刀らの命は助かったぞ。わしはこう言うてやったぞ」
と、大得意で高次との問答の経過を語った。
高次が匙を投げて、以後生駒家のことは一切かまわぬと言ったと聞いて、多賀は「しまった!」と思ったが、帯刀が助命されれば、何とかまたつなぐ工夫もあろうと思って、
「よく遊ばされました」
と、高俊をほめて、やがて帰国の途についた。
喧嘩わかれの形になったものの、高次は高俊が思い直してわびを入れて来れば応ずるつもりでいたが、それきり何の音沙汰もない。
「阿呆につける薬はないとはこのことよ」
と、愛想をつかして、讃岐に行っている藤堂兵庫を呼びもどした。伊賀の上野の城代藤堂仁右衛門にも使を出して、生駒帯刀を至急出府させよと連絡した。
帯刀は急ぎに急いで江戸に出て、藤堂家に出頭すると、高次は迎えて、先日の高俊との問答の次第を語り、
「われらが苦心、全く無になった。今はせん方はない。早々に讃岐に帰るよう」
と言いわたした。
帯刀はおどろいて、壱岐守のことをわび、自分が諫めて思い直させる故、最初お定めのご処置通りにしていただきたいと嘆願したが、もう高次はきかない。生駒家を見はなす気になっていたのだ。
しかたはない。帯刀は帰国した。
讃岐では、帯刀方の若者らは、藤堂兵庫が急に手勢をひきいて国を立去ったのをいぶかしく思っていると、多賀源助が帰って来て、帯刀らの助命の嘆願が聞きとどけられたと報告し、つづいて帯刀も帰って来た。一同大よろこびだ。
「忠義はついに不忠に勝った!」
と、わき立った。
これを聞いて、前野と石崎は江戸で大衝撃だ。
「われらが切腹を承諾したのは、両成敗以外にはお家長久の途《みち》はないとのことであったからである。片手落ちの裁きに服して、むざと死んでなろうか」
と、話し合っていると、国許の与党の者共から、
「帯刀の帰国以来、彼の一味共はにわかに気勢が上り、近々にこちら側の者を討取る手だてをめぐらしているという噂がある」
と報告して来た。二人は、
「先方がその儀ならば、当方も覚悟がある。この始末を公儀に訴え出てお裁きを願おうぞ。しかしながら、われらも同志の者もこのまま藩邸や国許にいては、必ず彼らに害せられよう。国許も、江戸も、同志の者は、妻子までひきまとめて立退き、一先ず安全の場所に忍び、重立った者のみ江戸に集まって、心を合せて訴訟しよう」
と思案をまとめた。その頃、前野助左衛門は重い病気にかかっていたので、森出雲・石崎若狭・上坂勘解由・前野治太夫の四人の名で、訴状を書いて、月番老中稲葉正勝に差出した。
[#ここから2字下げ]
恐れながら申し上げ候口上の覚え
生駒壱岐守の家老生駒帯刀は、壱岐守と近い血続きの者であり、将軍家にまで知られ申している者でありますので、家中の者共が特別に尊敬していますところから、追々わがままが募って、藩政一切を自分一人で差図しようと思い立ったのでありましょうか、生駒左門などと申合せ、江戸でも、国許でも、他の家老らに対してしばしば争論を挑みかけますので、家老らと不和でいます。かようなことは、壱岐守の政道にも支障を及ぼしますので、私共は困っています。このことについて申し上げたい条々が多数ございます。お尋ね下さいますなら、委細口頭をもって申し上げます。なにとぞ帯刀を召寄せられて、きびしくご糺問《きゆうもん》下さるよう願い上げます。右の趣きよろしくご披露願い奉ります。
寛永十七年四月     [#地付き]生駒壱岐守家来
[#地付き]上記連名判
[#ここで字下げ終わり]
同時に国許の同志へも、このことを知らせ、家族を引連れて早く国許を立退くようにと差図してやった。国許の連中はこれを受取って、
「いかにもお差図の通りでござる。うかうかしていては危のうござる。急ぎ立退き申そう」
と、一決して、東はもう阿波に近い引田《ひくた》から、西は観音寺に至るまでの港々に、人を走らせて船を借り、その船を全部高松の港に集め、五月五日を期して立退いた。その派の者は、家老、番頭、奉行、物頭、目付から平士《ひらざむらい》に至るまで百五十八人、家族や家来共まで加えればすべてで二三千人もあったという。鉄砲に火縄をかけ、弓に矢を添え、槍・薙刀は皆鞘をはらって、五組にわかれて船に乗り、静々《しずしず》と立|退《の》いたというから、高松城下は大へんなさわぎだ。
帯刀派の若者らは憤激して、
「人もなげなるふるまい、追ッかけて踏みつぶそう!」
と猛り立ったが、帯刀が、
「それをやっては戦さになって、理が非に落ちる。立退きの奴ばらは公儀のきびしい制禁である徒党を結んだにあたる。やがて必ずお咎めがある。さわいではならん」
と、きびしく制止した。
讃岐を退去した者共は、追手もかからず無事に大坂に到着したので、それぞれにしかるべきところに落ちつき、重立った者六人――番|頭《がしら》安藤|蔵人《くらんど》、石崎八郎右衛門、物頭飯尾総兵衛、岡村又兵衛、郡奉行小野木重左衛門、市原総左衛門などという連中が、江戸に向かった。
江戸の方ではまた五月十日の夜、一味の者六十五人家族とともに屋敷を立退いて、あとには森出雲・石崎若狭・前野父子・上坂の五人だけがのこった。幕府への訴状の名義人であるから立退くわけに行かなかったのだ。しかし、彼らの家族は立退かせた。前野助左衛門は名義人には入っていないが、身動きも出来ない重態であったからのこったのだ。
この連中は、大坂から来た六人と会って相談して、帯刀の非違数条をしたためた追訴状を提出した。
やがて帯刀も、公儀からの召しで出府した。
二回の予審が行われた。この間に前野助左衛門は死去した。
七月二日に最初の対審が評定所で行われた。老中三人、若年寄三人、大目付、勘定奉行、町奉行、列座して、ずいぶん大がかりなものであった。双方ともに証人をそろえて出廷したが、この日は水掛論におわった。
この日の最後に、前野方の石崎若狭は、一旦双方切腹ときまっていた解決策が、帯刀方の策動によって歪曲され、帯刀らは助命になり、われわれだけ切腹になりそうであったので、残念に思って、公儀の裁きを願い出たのだと説明した。
この日、公儀からの申し渡しで、事件落着まで、関係人らは諸家預けとなった。
生駒帯刀と同左門は土井家へ
石崎若狭と前野治太夫は藤堂家へ
森出雲と上坂勘解由は加藤家(会津の加藤)へ
小野木重左衛門は相馬家へ
安藤蔵人は溝口家へ
七月十二日に二回目の対審が行われた。
帯刀は懐中から二通の手紙を出して、
「恐れながらこれを若狭と治太夫に見せて、若狭の自筆、治太夫の父助左衛門の自筆であるかを、お尋ね願います」と言った。
目付の宮城越前守が受取って二人に見せた。文面はいずれも若狭と助左衛門が江戸から讃岐に帰って来た時、帯刀が帰国祝として物を贈ったのにたいする礼状であった。
二人はいずれも自筆のものであると答えた。
ここで、帯刀は、四年前に助左衛門と若狭とが、たがいに書き合って国許におくった千石加増の通知書を出して、
「先刻の書状の筆跡とこの書付の筆跡とをお見くらべ願います」と言っておいて、
「両人は生駒家の政治は、江戸家老と国家老とが相談の上、ご後見の藤堂大学頭様のお差図を受けて、万事をはからっていると、申立てていますが、国家老と相談の上というは偽りでございます。万事大学頭様のお差図を受けているというも、偽りでございます。大方はお差図を受けたと称して、両人が勝手にいたしているのでございます。証拠はこの加増書であります。いかでか、大学頭様がかような差図をなさいましょうぞ」
これで、両人側にたいする幕府役人らの心証は一ぺんに悪化した。
「先ず今日はこれまで」
ということで帰されたが、第三回の二十二日の裁判では、役人らの前野・若狭派にたいする悪感情が露骨に見えた。
この日、帯刀はまた痛撃を加えた。前野・石崎派の連中が、国許でも、江戸でも、申し合せて大集団をなして立退いたこと、とりわけ国許では白昼に鉄砲に火縄をつけ、槍・薙刀の鞘をはらって立退いたことを訴えたのだ。
老中をはじめ、公儀役人らは顔色をかえた。目付兼松弥五左衛門が二人に、
「唯今帯刀の申し上げたことはまことか」
と、たずねた。その派の者は皆平伏した。返答は出来ない。
兼松は大喝した。
「その方共の非違は明白であるぞ! 一国の仕置《しおき》をもいたす身でありながら、常々大学頭差図といつわって自儘なはからいをいたすのみか、公儀のきびしきご制禁を破って、徒党を結んで不穏なることをいたしたとは、不届千万。しかも、無実なる訴状を差上げ、公儀を申しかすめんと企てた段、言おうようなき横着者共! いかに、申しひらきあるか!」
皆平伏しているばかりで、一言も出せない。
二十七日、判決申渡しがあった。
生駒帯刀は、早く問題を解決せず、大事に至らしめた段不都合であるが、主人にたいして忠心ある者であるという理由で、雲州松江の松平家へお預け、五十人扶持支給。
生駒左門も、同様理由で、作州津山の森家へお預け、五十人扶持支給。
三野四郎左衛門も、同様理由で、京極家へお預け、三十人扶持支給。
生駒河内、多賀源助は、呼ばれもしないのに出て来て弁論した段不届であるが、主人にたいする忠誠心のためであるから、助命して追放。
森出雲、上坂勘解由、石崎若狭、前野治太夫は切腹、子供らのうち男はのこらず死罪。
石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木重左衛門、市原総左衛門、飯尾総兵衛らは父子共に死罪。
同時に、この者共の主人である生駒高俊は、平生身持よろしからず、家中不取締りを理由として、城地没収、出羽国|由利《ゆり》へ遷され、かんにん分《ぶん》として一万石あたえられることになった。
いずれもばかばかしい結末である。
最も本格的なお家騒動は、継嗣問題を中心として、党派の抗争がからむのだが、実際にはそんな騒動は少ない。多くは変形だ。黒田騒動は主人と家老との抗争だし、加賀騒動は本当は新進の権力者と門閥重臣との争いであり、この騒動や、越前騒動や、越後騒動は、党派の抗争だ。越前騒動や、越後騒動は徳川家の親藩の家の事件だから、家が取潰されるまでには至らなかったが、外様大名ではこんなことになる。それは実例も多く、皆見ていることなのに、寛永頃までは次々にずいぶんこの種のお家騒動が多い。意地を重んずる戦国の武士気質が濃厚にのこっていて、それがさせたのだ。これは武士道の発達と関係がある。寛永末から元禄頃までに、儒者らによって武士道が確立すると、こんなばかげた抗争はしなくなるのである。
(この稿は主として古今史譚第四巻収録の生駒騒動によった)
[#改ページ]
檜山騒動
盛岡の南部家は甲斐源氏から出ている。今の山梨県南|巨摩《こま》郡|睦合《むつあい》村、富士川の峡谷にあって、静岡県に近い地点にある村だが、その村に南部という字《あざ》がある。富士川の右岸に接してある。新羅三郎義光の玄孫(四代の子孫)光行が、戦功によって源頼朝からここをもらって住むようになり、南部を名のった。その後、頼朝が奥州平泉の藤原氏を征伐した時、光行は出陣し、戦功があったので、奥州北部の九戸《くのへ》、閉伊《へい》、鹿角《かづの》、津軽、糠部《ぬかべ》の五郡をあたえられた。この地方が南部と称せられるようになったのは、領主の名字からである。
南部氏がいつ頃からこの地方に定住するようになったか、それはよくわからない。本貫から遠い領地には、一族の者を目代《もくだい》としてつかわして管理させるのが、鎌倉時代の武士らの慣習であった。たとえば薩摩の島津氏なども薩摩に定住するようになったのは蒙古襲来の頃からで、それまでは鎌倉に住んでいて、九州には一族の者が目代となって行っていたのだ。南部家と同じ奥州大名である芦名氏も平泉藤原氏征伐の功によって会津をもらったのだが、これもはじめの間は三浦半島の芦名(逗子の南方の西浦にあり)に定住して、会津には目代をやって管理させ、その会津に移ったのは鎌倉時代末期である。南部氏もこの通りで、奥州に定住するようになったのは、鎌倉時代末頃であろう。南北朝時代には、すでに奥州に定住していたことが南部記でわかる。
こうして南部家は奥州の東北部――今の岩手県の大部分、青森県の全部、秋田県の一部にわたる広大な地域の領主としてずっと来たが、戦国時代末期になって、青森県の西半分を津軽家に横領された。
この横領が、この時から二百三十年後の、この騒動の根本原因になるのだから、少しくわしく書きたい。
津軽家は、その家では近衛家の末流と称して藤原氏を名のっている。一に近衛家の一人が津軽の地に来てその家の女《むすめ》に生ませたのが始祖為信の祖父政信であるといい、一に政信が近衛尚通の猶子《ゆうし》となったので、藤原氏を称するようになったという。これらの所伝は大いに怪しいが、この以後いろいろと近衛家と関係が深くなったことは事実である。現に今の津軽家の当主は近衛家から養子に入り、その姫君華子様が昨年義宮妃になられた。
南部家側の記録では、津軽家は元来は南部家の庶流で、臣下となっていた者の末であると言っている。これが本当のようである。その所伝はこうだ。
南部氏初世の光行の三男友清は、はじめ七戸《しちのへ》を所領して七戸氏と言っていたが、後|久慈《くじ》に移って久慈氏と名乗った。十数代にして修理亮某になった。子がなかったので、南部本家十九世通継の弟信実を迎えて嗣がせた。以後、信政、治継、治義と相継いだ。治義に二子があった。兄は信義、弟は為信。
この兄弟は母を異にしたので、なかがわるかった。為信は津軽に走って、大浦(今の弘前市の西北郊)の豪族大浦平蔵(金《こん》氏の一類という。今東光・今日出海両氏の今も同族。今、金、相通ずるのである)に頼り、やがてその家をついで大浦右京亮為信と名のった。
天正八年、為信は三十一になった。なかなかの才人で、武勇にもたけていた。この年南部家の津軽目代であった南部高信が老病で死んだ。高信は二十四代の南部当主晴政の叔父であった。高信には信直・政信(前出の政信とはもちろん別人である)の二子があった。当然、兄の信直があとをついで津軽の目代になるべきであったが、当主晴政は年老いているのに、世子彦三郎晴継がまだ幼かったので、輔佐役として信直を引きとめ、政信を津軽につかわすことにした。
晴政は、政信を今の弘前市から東北方二十四五キロの浪岡《なみおか》城に居らせ、輔佐役として汗石《あせいし》(浅瀬石)政吉《まさよし》、大光寺正|親《ちか》、大浦為信の三人を任じた。汗石、大光寺共に今の弘前市の東方七キロから十キロの間にあり、大浦は前述の通り弘前の西北郊にある。いずれも隣り合って所領を持って居住していた豪族であったのだ。身代は汗石が八千石、大光寺が三千八百石、大浦が七百石であったという。
汗石は早く死に、大光寺と大浦とがのこったが、二人は実に不和であった。南部家側の記録では、大浦は津軽郡横領の心を抱いていたので、大光寺が邪魔になってならず、これを除こうとして不和になったことになっているが、津軽家側の記録では、死んだ汗石も大光寺も南部家の同族であるのに、大浦だけは他姓である、他姓の者に政務を執らせるということがあるものかと、大光寺が事毎に大浦をおさえようとしたのが、不和の原因であると言っている。
この両説については、ぼくは津軽家側の記録の方を買う。大浦為信は久慈氏の生まれだから、「南部氏にとっては他姓である」というところは、いささか引っかかるが、為信の実家は同姓でも、大浦氏は金《こん》姓であるから、これを主眼にしての大光寺のことばとすれば、別段不思議はない。この時代の古い大名の家では、その家老や重臣はほとんど全部一族の分れであるのが普通で、他姓の者をそれにあてた例はあまりない。新興大名の家でもこれに傚《なら》う傾向があったのだから(家老や重臣らに名字をくれるというのがそれだ)、当時の強い習慣であったことがわかる。大光寺正親の大浦為信にたいする気持が平らかでなかったのは、きわめて自然であると、ぼくには思われるのだ。これに反して、南部家側の所説は結果論である。
大浦は武勇にもすぐれ、才気も大いにあった人物だが、何といっても小身だ。ともすれば大光寺に押される。そこで一計を案じて、女《むすめ》の久子を奉って政信の妾とした。
父親の大浦がまだ若いのだから、久子もまだ若く十五六のものであったろう。従って可愛《かわゆ》くもあり、美しくもあったろう。政信は久子を寵愛すること一方でなく、それにつれて大浦の権勢も張って来た。
大浦為信は小型姦雄と言ってよいほどの人物だ。女縁によっておのれの羽ぶりがよくなったからとて、威張るような阿呆なことはしない。家中の者や百姓らに私恩を売って、おのれの地歩をかためることに努力し、その評判は大いによい。政信の信任は次第に大光寺正親から為信に移った。
大光寺にしてみれば、おもしろかろうはずがない。いつも不機嫌な顔をしていることになる。為信はこれを利用した。
「われら、殿のためにひそかに案じ申していることがござる。大光寺のこの頃の様子、ただならず見えます。ご用心を遊ばしますよう」
と政信に讒言した。
これが大光寺に聞えた。あるいは為信がわざと大光寺の耳に入るようにしたのかも知れないが、ともかくも聞えた。大光寺は身の危険を感じ、病気を言い立てて、浪岡城に出仕することもやめた。
この時代には中央に近い地方では、武士らが主人の居城の郭内や周辺に集まって居住し、その近くに町人や職人らが集まって市街をつくる城下町の方式がはじまりかけていたが、それはごく稀で、大ていは昔ながらに武士は知行地に住んでいた。奥州のような僻遠の地ではなおさらだ。だから大光寺も、もちろん老臣だから浪岡にも邸はあったろうが、大ていは在所に住んで、月に一回か二回浪岡に来て、主家の政務を執っていたはずであるが、その月に一二回の出仕もやめて、大光寺の館《やかた》に引きこもっていたのである。
為信はこれをまた利用した。
「大光寺はいつも何を考えているかわからない陰険な男でありますが、近頃世間では、大光寺がしきりに刀を砥《と》いでいると申しています。ご用心遊ばしますよう」
政信も大光寺のこの頃の様子が気になっている。その陰鬱な様子が何やら心中に含むところありげに見えもして、不愉快になってもいた。為信のことばはその心に火をつけた。
「不届なるやつめ! 討ち取れ!」
と、為信に兵二百を授けて、行き向かわせた。
大光寺も油断はない。さてこそ、と思いながら、家族や家来らに、
「わしには討手をこうむるべき覚えはない。すべて大浦右京の讒言によるのである。しかしながら、武士としておめおめと屈することは出来ぬ。一あてあてて追い散らした後、無実のお疑いであることを言上しようぞ」
と言い、具足を着て馬にまたがり、家来共をひきいて、門をひらいて突出《とつしゆつ》し、縦横に奮撃した。寄手は追い散らされて、逃げ走った。
政信は逃げかえった兵共から大光寺の強勢を聞き、三戸《さんのへ》城に急使を馳せて援軍を乞うた。この頃は南部本家は三戸にいたのである。三戸ではすぐ援軍をくり出すことにした。
大光寺はこれを聞くと、
「わしは君側の奸人を除こうとして、かえって賊名を負うことになった。まことに残念である。しばらく難を避けて、時運のめぐって来るのを待とう」
と人々に言って、秋田領にのがれ、かねてから親しいなかであった大館の城代五丁目兵庫に身を寄せた。
この頃、南部本家では幼君彦三郎晴継が病死した。もちろん、子はない。輔佐役であった信直が本家のあとをついだ。
さて、浪岡では、大光寺が大館に出奔してから数年の後、政信は大光寺異図のことは大浦為信の讒言であることを知って、腹を立てた。誅殺を計画し、ひそかに三戸城に使を出し、兄信直に相談した。
政信の側近には、為信の党与がうようよいる。すぐに知って、為信に知らせた。
「さてこそ難儀到来」
為信は腹心の者を集めて、対策を相談すると、一人が、
「何の案ずることがありましょう。政信公の命をちぢめるだけのことなら、拙者一人でも足りることでござる。しかし、急ぐことはござらぬ。唯今|九戸《くのへ》政実が南部家にたいして異心を抱き、大事を挙げようとしているところでござる。これと心を通じて事を謀るがよろしい。ご心配ご無用でござる」
と言った。
九戸《くのへ》政実は福岡城主だ。これも南部氏の一門だ。初世光行の五男行連の後で、代々九戸(今九戸郡九戸村)に居住し、政実の代になって、福岡に移った。南部家中ではなかなか重んぜられた家であった。政実は本家に人が絶えたので、自分こそ相続すべきであると思い、家中にもまたこれを推す者があって、大いに望みを抱いていたのだが、信直にさらわれたので、不平でたまらない。彼を推した家中の者もまた不平だ。いろいろと策謀しつつあったのである。
為信は一味の者共のことばを聞いて喜び、密使を九戸につかわして、策応する約束をかためさせた。
この時から、為信は病気と称して家にこもっていたが、数カ月を経て天正十六年三月のはじめになると、病気平癒したと称して登城し、政信の前に出て、
「久しき病気がようように平癒いたしましたについて、身祝いの宴を催し、殿にご臨席をお願いいたしたくござるが、それはあまりにも恐れ多くござれば、ご城内にて膳をたてまつりたいと存じます。お許したまわりますなら、この上のよろこびはございません」
と請うた。
政信は許し、相伴《しようばん》の者として四人を指名した。日は三月七日ときまった。
その日、為信は妻とともに家来共を連れて城に登り、夫婦みずから料理して、膳部をこしらえた。鬼役(毒試《どくみ》役)は夫婦の娘で政信の妾である久子がうけたまわった。
宴は無事におわったが、翌日になると、にわかに久子が病気になって死んだ。これは偶然のことと考えられて、誰も疑うものはなかったが、それから五日目の十三日には相伴の者四人と、為信の妻とが久子と同様な容態になって死んだ。人々はどよめいた。しかし、死者の一人は為信の妻だ。疑惑しながらも、食中《しよくあた》りかも知れないと思った。
ところが、それから三日目、政信に異変があらわれた。口がきけなくなり、やがてついに死んだ。
人々の疑惑は、為信に向かった。為信が毒を飼ったのではないかと思うようになったのだ。為信の女と為信の妻とが死んでいることも、もう人々の疑いを解かなかった。野心のためには妻子を犠牲にすることも避けない人がらだと思ったのだ。浪岡城のさわぎは一通りのものではなかった。
ことは三戸の南部本家に報告された。信直は家来をつかわしてさわぎを鎮めさせた後、大浦に使をつかわし、為信に、
「その方を津軽郡代に仰せつけるにつき、一応三戸に出頭するように」
と伝えさせた。呼び出して、来たら誅殺する計画であったが、為信はこんな浅はかな計略に引っかかるような甘い男ではない。重病でござる故、とうてい郡代の職務にたえられませんと言い立てて出頭しなかった。
そこで、信直は某々ら三人をえらんで代官として、津軽に赴任させた。
新たに郡代となった三人は暴悪で、百姓らをしいたげたので、百姓らは怒り、一揆がおこりそうな形勢になった。実際は為信が背後にあってひそかに煽動したのであろう。現に為信の腹心の一人楞尻(読み方不明)民部という者はこの形勢を見て、「大いによろしい」と言ったというのだ。
天正十八年春、為信はついに立って、
「百姓らの痛苦、見るに忍びない」
と声言して、兵をつかわして浪岡城におしよせさせた。
注進は三戸に飛んだ。信直は親《みずか》ら征伐することにしたが、先発隊として大光寺正親をつかわすことにした。
大光寺正親は、先年為信の讒言によって謀反の名を着せられ、秋田の大館に落ちたのであるが、大館に身を寄せている間に、大館城代の五丁目兵庫が主家の秋田家をうらんでいることを知ると、これを説得して南部家に帰服させた。この功がある上に、以前のことも潔白であることを信直は知り、帰参をゆるし、鹿角《かづの》郡花輪に千石の知行をあたえていたのである。
大光寺は怨恨重畳の為信を、主命を奉じて伐つこととて、勇み立って行き向かったが、着いてみると、城はすでに陥って敵が籠っている。それでも、きびしく攻めかかったが、為信勢はなかなか手ごわい。あるいはこの間に為信に好意を持つ百姓らが後方攪乱などやったのかも知れない。かえって戦いやぶれて、引上げた。
一方、信直の方。信直は大光寺に先発の命を下すと同時に、みずから兵をひきいて出陣し、七戸まで来ると、被官の諸豪族らに出兵を命じた。皆了承したが、ひとり九戸政実は病気を言い立てて応じない。九戸の叛形はまだあらわれてはいなかったが、心事は大いに疑われていたのである。これが虚病をかまえて出陣に応じない以上、後方が不安だ。進むわけに行かない。ぐずぐずしていると、津軽郡代らが逃げて来て、浪岡城が陥ったことがわかった。つづいて大光寺勢もまた敗れて引上げたことがわかった。信直は三戸に帰った。
新たに南部領となった秋田の大館にも、事がおこっていた。南部家の老臣北|信愛《のぶなる》は長男|愛一《なるかず》を大館につかわして守らせていたのだが、秋田氏はこれを奇襲して奪回したばかりか、余勢を駆って鹿角郡まで侵しそうな様子を見せた。
西北に大浦為信の反乱があり、西方に秋田氏の難があるという南部家の窮境に乗じて、九戸政実もまたはっきりと叛形をあらわした。しかもなかなかの強勢だ。大浦為信の実家の当主|久慈《くじ》直治(為信の甥)、櫛引《くしびき》、七戸《しちのへ》、大湯《おおゆ》、大里《おおさと》等の諸豪族が味方しているのである。
南部家は、いずれに向かって動いても、背後や側面を襲われそうで、動きが取れない。そこに、前田利家から書面がとどいた。
「豊臣関白殿下が、北条氏の不服従を攻めんとして、大軍を東下させ、おんみずからも、三月一日参内して節刀を拝受され、直ちに京をご出陣のご予定である。急ぎ関東のご本陣に参着してお目通りなされよ。遅れなされては、ご身柄のほども心許ないことになりましょう」
という文面だ。
これはまた大へんなことになった。動くに動けない時だ。まさしく南部家は厄難の上にも厄難に陥ったのであった。
新井白石の藩翰譜は、この時のこととして、おもしろい話を記録している。
南部家では、三方の国難に居すくみになって、中央の情勢などまるでわからなかったが、天正十八年の春の末に、京の三条のほとりに住む鷹商人《たかあきんど》の清蔵という者が、鷹を仕入れるために奥州に下って来て、信直の許に顔を出し、
「もう乱世ではなくなりました。豊臣秀吉というお人は、尾張の織田右大臣様のご家来でありましたが、右大臣様がなくなられた後、国々の大名方を打ち平らげ、関東から西はすっかりそのご分国になり、天子様から関白殿下となされなすったのでございますが、こんどは関東小田原の北条様をご征伐のため、大名方の軍勢を向けられ、ご自分もこの三月一日には京をご出陣なされて、唯今は相州にご本陣を設けて、夜を日についで、小田原城をお攻めになっているところでございます。北条様も五代の間お栄えでございましたが、ご滅亡は間のないことでございましょう。すでに北条様が平らぎなされた上は、奥州へもお馬をお向けになるお手筈とうけたまわっております。されば、殿様も早くご伺候あった方が、お家の繁昌、ご子孫のお行末もめでたくなることと存じます。遅れて参らるる方々は決してお赦しにならないことになっていると伺っています」
と語った。
信直はおどろいて、
「さては天下の争乱はもうやんだのか。さらば、その関白殿下へ参候せずば、家の行末も頼もしゅうないが、さりとて、今は動くに動けぬ場じゃ。国を不在《るす》にしたらば、すぐにも怨敵どもに国を奪われんこと必定、どうしたらよかろうぞ」
と言った。
「ご自分でご伺候かなわせられずば、ご家来衆の中からしかるべき方をおえらびなされて、お使としてつかわされ、おみずから伺候の出来させられぬわけをよく申し上げなされてはいかがでございます。このままでおいでになるべき時ではございませんぞ」
と、清蔵は知恵をつけた。
「では、そうするか」
信直は、家来共の中から使者たるにたえるべき人物をえらんでみたが、奥州育ちの無骨な武者共ばかりだ。鎧を着せ、馬にまたがらせては、あっぱれ一かどの勇士であるが、立居ふるまいは無骨、ことば遣いは純然たる奥州ことばでとうてい上方人にわかりそうもない。いずれをえらんでもそうだ。信直が弱り切っていると、清蔵がまたいう。
「この上はいたし方はございません。わたくしがお使と名のって参り、唯今のご事情をすっかり申し上げ、ご領地安堵の御教書《みぎようしよ》をいただいてまいりましょう」
そうするより外はない。
かくて、清蔵は南部家の使者となり、南部名産の逸物《いちもつ》の馬数頭を献上物として、曳かせて、小田原に馳せ上り、秀吉の本陣に伺候して、信直が自分で参候することの出来ないわけをくわしく述べて、帰服を言上した。秀吉は請を許し、
「神妙である。南部家が累代伝領の地を安堵のこと、許すぞ。家人共が逆威を振っているとのこと、甚だもって奇怪である。やがて余が下向して征伐してつかわすであろう。堅固に城を守って余を待っているよう」
と言って、帰したというのが、藩翰譜に一説として伝えるところだ。
多分前田利家から差図の書面が来たのは事実であろう。伊達政宗などもそうだから。しかし、信直がみずから小田原陣に出頭しなかったことは事実だ。あるいは利家から差図の書面が来ても動くに動けず困《こう》じ切っているところに、かねて知っている京|商人《あきんど》の清蔵が下って来たので、これ幸いと頼んで使者となって行ってもらったのが、こんな話になったのかも知れない。
ともあれ、南部家がこんなに難渋している時、大浦為信は身軽く津軽を旅立って小田原に行き、石垣山の本陣に出頭し、
「近衛関白家の流れを酌む者で、代々津軽を所領してまいった津軽右京亮為信と申すものでございます。ご被官の端にしていただきたく、山河を越えてまいりました」
と、服属の辞を述べた。自ら進んで早く服属して来る者は気前よく受入れるというのが、当時の秀吉の方針だ。仔細なく聴かれて、本領たる津軽は安堵するとの朱印状を下賜されて帰国し、大浦為信改めて津軽為信となり、弘前に城を築いて居城とした。狡猾ではあるが、なかなかの才気と隼敏さである。
当時は津軽一郡、現在は中、西、北、東、南にわかって五郡となっている。秀吉に帰服した後、豊臣家から役人が来て検地し、四万五千石に査定したが、これは為信が田畠をかくしたからである。江戸時代のこの物語の時代になって津軽家は十万石の格式になったが、明治初年の調査では二十九万六千余石もあったというのだ。江戸時代に新田を開発したにしても、それは最も多く見つもっても十万石くらいのものだ。二十万石程度は、為信の頃からあったろう。為信が垂涎《すいぜん》したはずである。
為信の要領のよさは、近衛家とも関係をつけたことだ。多分この時使者をつかわして、大いに金品を献上して、藤原姓を名のることを許してもらったようである。この頃の公家《くげ》は戦国乱離の世に食うや食わずの最も窮乏した生活を長い間送って来たあとなので、金品にはまことに弱いのである。この三年後の文禄二年には為信は上京のついで、近衛家に出頭して、大いにご機嫌をとり結んでいる。こういうさまざまなことの結果、徳川幕府が寛永年度に諸家の系譜を差出させた時、近衛家は、津軽家のために、「政信(為信の祖父)は竜山公(近衛尚通)の猶子《ゆうし》にして、藤氏たるべきなり」との証明書まで書いてくれている。
以上後年のことにまで触れたが、南部信直が秀吉に拝謁したのは、小田原が落城して、秀吉が奥州|士《さむらい》らに威を示すために会津まで来た時だ。信直は領内の要所要所に信頼の出来る部将らを配置してやっと国を出た。一体この時は、秀吉が天下の兵をひっさげて来るのであるから、よほどの阿呆でないかぎり、兵なぞ動かすはずはないのだ。それをこんな馬鹿用心をしたというのは、南部家が秀吉に服属を申しおくりながらも天下のことがまるでわかっていなかったからであると言うよりほかはない。あまりかしこい殿様ではなかったようである。
あるいは、南部家の本領安堵は使者との口約束だけで、朱印状をもらっているわけではない。ひょっとして、秀吉は違反して、取潰すつもりかも知れない、その際、国許が厳重に武装されていれば、秀吉はことめんどうと見るであろうから、かえってことはすらすらと運ぶかも知れない。――というのであったかとも思われる。もしそうなら、南部信直はなかなかの知恵者ということになるが、南部家の記録にはこれは全然ない。やはりあまりかしこい殿様ではなかったのであろう。
信直がどこで秀吉に拝謁したかわからないが、多分会津においてであろう。秀吉は本領安堵の朱印状をくれたが、それは津軽郡を除いたものであった。
「すでに津軽郡は津軽右京亮為信に安堵状をくれてしもうた。あきらめるがよい」
と言渡されたのである。
領地の中で最も膏腴《こうゆ》な津軽郡を横領されたのだから、その無念は言うまでもないが、南部家としては、それ以上に為信の不臣がにくい。誅伐してやりたい。しかしこれも、
「その方も右京亮もすでに殿下の家人となったのである。殿下は家人同士がいくさすることは断じてお許しにならぬ」
と言渡された。
南部家としては、無念の歯をかみしめるよりほかはない。九戸政実は秀吉が中央の諸将をつかわして、この翌年ほろぼしてくれた。
戦国の世にはあり勝ちなこととは言いながら、最も悪辣な手段をもって津軽郡を横領して独立した為信も、さすがに寝ざめがよくなかったと見えて、津軽家深秘録という書物に、こう書いてある。為信は死に臨んで、
「わが家にたいしては、南部家の怨霊のたたりはずいぶんひどいであろう。わしは死んでも心配である。天海僧正にお会いして、方法をうけたまわるように」
と遺言したので、為信の子|信枚《のぶかず》は天海に会い、事情を打明けたところ、天海は加持祈祷の師として、弟子|本祐《ほんゆう》を授けた。信枚は本祐の教えに従って、弘前城内に東照宮を勧請して津梁《しんりよう》院を建て、城外に叡平寺薬王院を建立したという。叡平寺薬王院は南部家の怨恨の祟りを避けるためであり、城内に東照宮を祀ったのはもし南部家から襲来して城内を攻襲すれば、それは徳川家を敵とすることになるからであるというのであった由。
津軽家でこんなに気にしているくらいであるから、南部家では主従ともに津軽家を怨むこと一方でなく、境を接していながら、深刻な憎悪を持ちつづけ、父から子に、子から孫に、孫から曽孫にと連綿と語り伝えた。今日、青森県は東半分が旧南部領、西半分が旧津軽領であるが、あるいは今日でもあまりなかがよくないのではないかと、ぼくは思っている。そうでなかったら、ごめんなさい。
こんな風であったので、津軽家は参覲交代の道筋も、南部領を通ることを避けて、秋田の佐竹領を通ることになっていた。
檜山《ひのきやま》騒動は、両藩のこの結んで解けない怨恨が二百数十年の後爆発した事件である。
檜山騒動という名で呼ばれている事件は、実を言うとお家騒動ではない。実際は赤穂浪士の討入や伊賀越えの仇討と同じ部類とすべき事件である。主家のうらみを晴らすためにやった事件である。それは追々と明らかになるはずである。
講談や俗説では、この事件の原因の一つに、南部藩がその所領である檜山《ひのきやま》を津軽藩に横領された事件があることにしている。この話のもとは、仙石騒動で参考書にした「浮世の有様」巻の一に出ている。こうだ。
南部家と津軽家とは、天正年間の最初の反目以来、ずっと反目をつづけて来たが、この時から百数十年経って享保の中頃、また憤りを重ねることがおこった。
津軽藩は膏腴《こうゆ》な平野を広大に領有しているから米穀にはこと欠かないが、山少なく海が近い土地柄であるため、木材に不足するので、策をもうけて南部領の檜山を詐取した。津軽藩はこの計略を久しい以前に立て、領分境から一山越えて南部領に入った谷間に、「これより津軽領」と刻んだ石を地中深く埋めておき、この頃になって境界争いをおこし、やがて幕府に訴訟した。
幕府ではそのへんの双方の百姓らを呼び出して審問した。津軽方はここにも一策立てておいた。八十余歳の老百姓に旨を含めて出廷させたのである。この百姓は幕府役人の尋問にたいして、こう答えた。
「こんど公事《くじ》になっています山は津軽領であるにまぎれございません。わたくしの幼かった頃には山の向うの谷間に、境目の石が確かに立ててございましたが、唯今は立っていません。ひょっとすると、南部方で悪心を抱く者があって取りのけたのかとも思います。しかし、いつ頃からなくなったか、子供の時のことでございますので、覚えておりません。右の石が立っていたことは確かでございます。公事《くじ》になっている山は津軽領に相違ございません」
そこで、老人の心覚えをたよりに、そのへんを掘って見ることになった。はじめから巧んでいることだから、石の出て来たことは言うまでもない。これが動かない証拠になって、山は津軽領に取られることになった。
それからさらに約百年、文政初年のこと、当時の将軍|家斉《いえなり》の実父一橋|治済《はるずみ》が、殿中で南部侯|利敬《としたか》に会って、普請をはじめるにつき、良材を無心したいと言った。将軍実父として当時第一の権勢ある人の所望だ。
「かしこまりました。ご用立て申すでございます」
と、利敬は承諾して、帰邸して重臣らに告げた。重臣らは諸役人を集めて評定した。すると、役人らは、
「ご領内には材木山が多数ござる故、易きことのようではござるが、運送がなかなかに困難、百両の木に三百両ほども運賃がかかるほどでござる。さればかれこれ二三千両余の費用がかかりましょう。お家は唯今勝手向難渋のおりからでござる。これは当時領内には伐りつくして材木がないと申しておことわり申すがよろしゅうござる」
と、言う。
言いにくいことだが、利敬《としたか》は殿中で一橋治済に会って、家来共の言った通りの口上で、ことわりを言った。
その席に津軽|寧親《やすちか》がいたが、即座に治済にむかって言った。
「材木ご用ならば、拙者がご用立ていたしましょう。拙者の領内には材木山が沢山あります。ご入用ほどいかほどでも献上いたしましょう」
治済はよろこんで感謝した。
寧親は帰邸して重役に告げ、重役は早速に国許に言ってやる。
ここで、津軽藩はまた姦策を弄する。百年前に南部藩から詐取した山から少しばかり伐り出し、あとはその山つづきの南部領の山からしたたかに伐り出した。
百姓らの注進によって、盛岡から役人らが駆けつけてとがめると、津軽家の役人らは、
「貴家の大膳太夫殿は殿中において、一橋卿に、領内の山々は伐りつくして良材となるべき木は一木もないと仰せられたのでござる。かように良材のある山が貴藩領である道理はござらん。これはわが藩の山でござる」
とはねつけておいて、なおもどしどし伐り出す。南部方では腹は立ちながらも、公儀同様の一橋卿に良材のある山はないと言ってことわっている以上、訴訟も出来ない。無念をこらえて沈黙するよりほかはなかったと、こういうのである。
ところが、こんな話は津軽側の記録には言うまでもなく、南部側の記録にも一切出て来ない。一橋|治済《はるずみ》が殿中で南部侯に材木の無心をするというのもおかしな話だし、三卿は将軍の家族という立前になっているから、その殿中における詰所はどの大名とも別にあった。もし治済と南部利敬とが会ったとすれば、そこに利敬が呼ばれて行って、無心されたことになり、これまた一層おかしいことになる。
さらに利敬が治済に会って無心を謝絶する際も、その場所はやはりそこでなければならないわけだが、そこに津軽|寧《やす》親が居合せたとなると、この上もないおかしなことになる。
友人中沢|抹v《みちお》君の説によると、南部領で檜山というのは、下北半島の田名部《たなぶ》の近くにあって、津軽領からまるでかけはなれたところにある、境界争いなど起ろうはずがないと言うのである。
この話は、あたかも相馬大作事件がおこって、南部家と津軽家とがクローズアップされたので、江戸の一好事家が、両家の長い反目と確執にからませて、秋田杉とならんで有名である南部檜を小道具にして創作した話が風評となって世に伝わったものに相違ない。
しかし、講談や演劇にするには好個の話なので、とり入れて全体を構成し、題名も「檜山騒動」とするようになったのであろう。実際の騒動には、檜山は全然関係はない。
事件の主人公は、通称相馬大作、本名は下斗米《しもとまい》秀之進|将真《まさざね》である。
下斗米氏は本姓は平氏、平将門の子孫相馬小次郎|師胤《もろたね》の末である。師胤八世の孫光胤の四男胤茂の子胤成が南北朝時代の正平(北朝年号延文)年間に、南部氏につかえて南部の家中になった。下斗米というのは、今の岩手県の北端に近い福岡(古名宮野)から七八キロ西北方にある村であるが、いつの頃からかここに住んで知行百石を領して、郷名をとって下斗米と名のるようになった。前にも書いたように、福岡は戦国末期に九戸政実の居城のあったところだが、政実が本家南部家に叛して乱を起し、豊臣秀吉にほろぼされたことはすでに書いた。その後、南部家は三戸からここに移り、しばらくここを本城とし、その後、今の盛岡、当時の名|不来方《こずかた》に移った。下斗米家は南部家が福岡を居城としている頃、下斗米村に知行所をもらい、そこに住んでいたのであろう。武士が主人の居城の周囲に集まるのは、江戸時代になると普通のこととなり、城下町の制度が急速に完成するのであるが、中央から遠い地方では、江戸時代の終るまで、知行地に定住して、必要に応じて城下に行くという古い習慣が相当のこった。下斗米氏もそれで、殿様が盛岡に行ってしまってからも、やはり下斗米村の知行地にのこったのであろう。
その後、下斗米氏は福岡に住いを移し、数代を経て宗兵衛将信に至った。福岡はこうした南部藩士の多いところで、これらは福岡お給人と言われていた。秀之進は宗兵衛の次男である。寛政元年二月二十一日に生まれた。母が雷が頭上に轟きわたると夢みてはらんだので、幼名を来助とつけられた。雷と音が通ずるからである。来助は小柄ではあるが、なかなかいたずらであったというから、利《き》かん気の、ヴァイタリティに満ちた子供であったのであろう。
六つの時、親戚に法事があって、父に連れられて行った。江戸時代を通じて、南部の家中では、武士らが集まると、必ず津軽家の第一世大浦為信が、南部家から津軽郡を横領し、姦計をもって自立した話が、憤りをこめて語られるのが常であった。多分、南部家は格式こそ高けれ、経済が苦しいのに、津軽家が富有であるので、藩士らの怨恨は常に研ぎすまされざるを得なかったからであろう。この時も、その話が出た。
来助は聞いていて、幼いながらも最も強烈に感動し、歯ぎしりして口惜しがり、大人らを驚かしたという。これが来助が津軽氏を百世の敵と思うようになった最初である。
来助は出来のよい少年であった。七歳の時から福岡の町の竜岩寺の和尚さんから読書と手習を学び、剣術は戸卜《こぼく》一心流の足沢定右衛門に、槍術は新刀流の下斗米与一右衛門に学んで、なかなかの上達を見せた。
十五で元服して、秀之進|将真《まさざね》と名のるようになった。
この年盛岡に出て、府川流の兵学者|戸来弓人《へらいゆみと》に入門したが、入門して間もなくのある日、戸来の高弟十数人が集まって兵書の輪講《りんこう》をした。秀之進は新入の門生として傍聴していたが、空論と屁理屈だらけの話しぶりに、覚えず吹き出してしまった。人々は腹を立てた。一人が、
「そなた何で笑う。この席は高弟衆が兵書の奥儀を研究しているのじゃ。新弟子のくせに、無礼じゃぞい」
というと、一人はまた、
「われはまだ子供じゃ。兵書のことなんど、わかりはせんのぞい。笑うということがあるか。つつしめ」
と叱った。
秀之進は恐れ入らない。
「それ、それ、それだ。あなた方は当家において、多年兵学を学んで、高弟だということですが、今のおことばで、一向兵学に通じておられないことが明瞭です。そもそも人には生まれながらにして賢愚があります。賢い者は幼くとも事理に明らかであり、愚者は百歳になってもことに昧《くら》いのです。年で賢愚のわけられるものではありません。このわかりやすい道理がわからず、無暗に人を新米あつかいになさるところは、兵学の根本がすでにわかっておられないと申すほかはありません……」
滔々と弁じ、なおつづけようとした。すると、わきで聞いていた戸来先生が、
「これこれ、下斗米《しもとまい》、長者にたいして何を言うのだ。礼をわきまえるがよい。あちらへ行っていなさい」
と、たしなめた。
秀之進は退席したが、心中、弟子が弟子なら、師匠も師匠だ、ぼんくら兵学者じゃわ、こんな師匠にいつまでついていても、なんにもなりはせん、貴重な月日を無益に費すだけのことじゃわと、思って、即座に師弟の契約を解消して、その夜盛岡を去り、七十数キロを夜通し歩いて福岡に帰りついた。年少客気の非難はまぬがれないが、この思い切りのよさと行動的なところは、彼の特性といってよい。
帰宅すると、兵学は田中館《たなかだて》丹左衛門と一条平作について謙信流を学び、剣術と槍術は前の通り足沢定右衛門と下斗米与一右衛門について修めることにして、大いに精出したので、日に日に技が進んだ。
そうなると、本場の江戸に行って修業したくてならない。行かせてくれと再三両親に請うたが、許してくれない。
文化三年、十八になった時、父宗兵衛は、長男の平九郎氏胤が病弱なので、秀之進に家を嗣がせようと思い立ち、妻とよりより相談しはじめた。ある日、秀之進はこの相談を漏れ聞いて、驚いた。
(弟の身で兄を越えて家を継ぐのは道にはずれている。そんなことをしてはならない)
五月十一日であったという。出奔して江戸に上り、二十六日に到着、日本橋室町の南部の物産を商《あきな》っている美濃屋宗三郎という者の家に身を寄せた。文化三年であったという。
美濃屋と秀之進の関係は、美濃屋の親戚で一戸で呉服屋を営んでいる槌《つち》屋という店があるが、これがかねがね大へん秀之進の父宗兵衛の世話になっているので、江戸の美濃屋も下斗米家を徳としているのであった。
美濃屋宗三郎は、秀之進から、いくら願っても両親が江戸に修業に出してくれないので、出奔して来たと聞いて、
「まあいいでしょう。文武修業、若いお武家にはお立派なお考えです。お国許の旦那様には、てまえからよく手紙を出しておきましょう」
と、快く泊めてくれたばかりか、四月ほども寄食させた後、かねて知合の西の丸お小納戸の青山三左衛門という旗本の家来本庄佐右衛門という者に相談して、本庄の紹介で、夏目長右衛門信平という旗本に入門させた。
夏目はその頃西の丸の徒頭《かちがしら》をつとめている七百石の旗本であるが、当時実用流の武術家として最も有名であった平山|行蔵《こうぞう》の高弟で、家に道場があり、門人数十人に教授していたのである。実用流というのは、兵学はもとより武芸十八般にわたる流派であるが、夏目は槍に最もすぐれていた。
秀之進はこれに内弟子として入門した。この時代の内弟子は、明治年代の書生というのが、そのなごりをとどめている。技術を学ぶだけではない。あらゆることが修業であるという建前から、掃除から来客の取次ぎ、応対、使い走りに至るまで、雇人同様につとめるのだ。秀之進もそうだったのである。
秀之進はこういう激務を忠実につとめる間に、主目的たる兵法・武術の修行にはもちろん怠りがなく、特に剣槍の修行には力を入れ、毎日木刀で打込むこと一万回、タンポ槍で刺撃すること一万回を、決して怠らなかったという。
秀之進のこの誠実さと精励ぶりに、夏目は気に入って、特に目をかけて指導していたが、夏目家に入門して一年少し経ったくらいの文化五年正月、夏目は西の丸書院番に昇進すると同時に、小姓頭山岡伝十郎とともに選ばれて、蝦夷地(北海道・千島・樺太)派遣を命ぜられた。
北方からのロシアの脅威がはじめて日本にせまったのは、この時から十五六年前の寛政四年のことであるが、以後しばしば北辺にあらわれ、時には上陸して掠奪放火をしたりする。とりわけ、一昨年と昨年は引続いて侵奪行為に出たので、こうして夏目らの蝦夷地派遣ということになったのである。
蝦夷地派遣といっても、単に視察して帰って来るのではない。この前年の末、幕府は南部、津軽、仙台、会津等の奥羽諸藩に、それぞれ兵を出して蝦夷地の警備にあたるように命じておいたので、二人はその藩兵らをひきいて、幕府の命ずる地点に行って、相当期間防備の任につかなければならないのである。だから、夏目の道場は閉鎖しなければならないことになった。
夏目は秀之進を自分の師である平山行蔵に紹介し、その内弟子にしてもらうことにして、江戸を出発した。
秀之進にも相当関係のあることだから書いておくが、夏目と山岡とは北海道につくと、夏目は仙台藩兵二千人をひきいて千島のエトロフ島へ、山岡は会津藩兵千六百人をひきいて樺太に渡った。徳川幕府は国防については後世いろいろ悪評されているが、当時としては出来るだけの努力をしているのである。
新しく秀之進が師と仰ぐことになった平山行蔵は、名は潜《ひそむ》、字は子竜、号は平原《へいげん》、幕府の伊賀同心で、五十石という薄禄の家に生まれたが、若い時から武術に志があって、刻苦して学び、兵学から武芸十八般全部を修めてすべてに通達し、実用流と名づけて、兵原《へいげん》道場と名づくる塾をひらいて教授した。
彼の武術は最も特色的であった。太平が久しくつづいて、世間一般の武術が見た目のはなやかさを主眼にする道場武術に堕してしまっているのに真正面から抵抗し、すべて実戦を主眼にして構成したもので、行蔵の日常の修行と生活態度とはすさまじいばかりであった。
毎朝水桶に張った冷水で水浴した。厳冬の季節もかわらず、氷を割ってざあざあとかぶった。平生の差料《さしりよう》は長さ三尺五寸、柄《つか》を加えて五尺にあまる剛刀であった。毎日未明に起きて七尺の巨棒をふるうこと五百回、長さ四尺、はば三寸の剛刀で居合をこころみること三百回、かくてほのぼのと明るくなる頃に食事を摂《と》るのだが、その飯は玄米に麦や粟や稗《ひえ》等の雑穀をまじえたものであった。食事がおわると、十八般の武芸を次々にこころみて、「循環端なし」とある。衣服は必ず木綿、厳冬にも綿入の着物一枚だけで、羽織は決して用いない。板の間に荒むしろをしいただけのへやで生活し、そこで客にも接し、夜寝もする。外出する時はわらじばきで、鉄棒を杖づいた。
武芸だけでなく、読書も大いにした。兵法武芸の書は言うまでもないが、その書いた文章を見ると、経書や史書も大いに読んでいることがわかる。読書の間手を遊ばせておくのはもったいないと言って、槻《つき》の厚板を座側におき、たえずとんとんと拳でつきながら読んだ。そのために両手の拳は鉄のように堅くなった。
「一拳よく人を殺す。刀なんぞいらんさ」
と言っていた。
松平定信は老中在任中稀世の賢宰相といわれた人だ。老中を退いた後、行蔵の名を聞いて、一ぺん屋敷に来てくれるように人をもって招いたところ、行蔵は|にべも《ヽヽヽ》なく拒絶した。
「孟子のことばに、人にものを聞くに呼びつけるものはないというのがござるな。辞退した方が白河侯をして礼を失わせないことになります」
定信はこれを聞き、自ら行蔵を訪ね、弟子の礼をとって交わるようになった。
ある時、行蔵が病臥していると聞いて、見舞に行くと、例によって粗末な破れ夜具にくるまって寝ている。定信は気の毒に思って、帰邸すると絹夜具を持って行かせた。
すると、行蔵は、
「大丈夫たるものは戦場に死して馬革《ばかく》をもって屍《しかばね》をつつむ覚悟を忘れてはならぬものでござる。かようなぜいたくなものを用いては、身志が惰弱になり、やがては士心を取り失うことになります」
と答えて、受けなかった。
その後、定信がまた衣服にするようにと、美しい絹の織物をおくると、そう突返すのも礼にはずれると思って、受けはしたが、
「わしは木綿以外のものは着けぬ。刀袋にしよう」
と、それで刀袋をこしらえてしまった。
まるで宗教の行者の生活態度であるが、これは平和ムードに浮かされ切ってひたすらに享楽的になっている社会の風潮に激するところから出たものであったろう。従って、その道場における弟子の鍛錬ぶりもおそろしく荒っぽいもので、すべてが戦陣がまえで、荒道場として、江戸で最も有名であった。
こんな行蔵であるから、北辺にロシアの脅威がせまって来たのを、黙視出来ない。文化三年に樺太、四年に千島のエトロフと、引きつづきロシアが侵攻し、番所の穀物を掠奪したり、番所を焼いたり、番人を捕え去ったり、箱館奉行が駐在させている役人や、守備の任を帯びて駐屯している兵に挑戦してこれを追いはらったりする事態がつづくと、慨然として奮い立ち、四年六月と七月の二回にわたって、幕府に上書した。
「伏して惟《おも》んみるに、我邦開闢《わがくにかいびやく》以来ここに千万有余年、未だ曽《か》つて外国の辱《はずかし》めを蒙《こう》むらず、国威宇宙に冠絶す。今や蝦夷の地、わが版図に帰し、強を益し威を|※[#「火+櫂のつくり」]《かがや》かすの功、遥かに神武にすぐ。豈《あに》計らんや、魯斉亜《ろしや》の醜虜北陸に出没し、蝦夷を鹵掠《ろりやく》し、また吾の吏士のその地にある者を殺し、貯蓄を攘奪《じようだつ》す。その猖獗《しようけつ》惨毒、悪《にく》むべく、悲しむべし……」
と言った調子の純粋の漢文で、慷慨の情あふれるものだが、要領は、純粋攘夷説で、自分にまかせてくれれば、国内のもてあましものになっている盗賊、ごろつき、博徒らを集めて蝦夷地にわたり、ロシア人を追いはらい、失地を回復してみせるというにあった。
この上書を幕府はかえりみなかったことになっているが、翌五年正月に、彼の高弟である夏目長右衛門が幕府の命によって蝦夷地に派遣され、仙台藩兵をひきいてエトロフに渡ったことを考えると、これは行蔵の上書の趣旨をこの形で取上げたと解釈してよいであろう。
秀之進が入門した時、行蔵は四十九であった。彼はきびしい鍛錬と、生涯婦女子を近づけなかったというほどの節制とで、晩年(七十で死ぬのだ)に至るまで、顔色桃花のごとく、身体軽爽であったというから、四十九では青年のように軽健であったろう。
ついでに秀之進の容貌と性格を書いておく。体は小柄であった。性質は直情で、思うことは直言してはばからなかった。古今の治乱興亡のあとや忠孝節義の人の話を聞くと、感動のあまり毛髪が立ち、眼が爛々とかがやいた。しかし、話上手で、しばしば座中の人が抱腹絶倒するようなユーモラスな話をした。酒は自分は飲まなかったが、人に飲ませるのは好きであったという。
秀之進は武芸に最も強い執心といかなる難修行にもたえる素質を持っている。これは最も行蔵に気に入られる性質だ。その上、南部藩士の家に生まれた秀之進は、ロシアが北辺の脅威になっていることには、最も強い関心があったはずである。元来蝦夷地は松前家の所領になっていたのを、幕府は文化四年春に松前家を他に移して蝦夷地全部を直轄領にし、南部家と津軽家から守備兵を出させることにした。だから、この年にロシア人がエトロフに襲来した時、ここを守備していたのは、南部兵と津軽兵だったのだ。これは秀之進が夏目家にいた時であり、行蔵の内弟子となる前年だ。彼は江戸の南部藩邸に時々は出入していたであろうし、ひょっとするとエトロフに駐屯して自ら経験した者の直話を聞いた可能性だってある。治乱興亡のあとや忠孝節義の人の話を聞けば、毛髪|森立《しんりつ》し、眼光異采を点じたというほどに感激性ある秀之進には、エトロフを守備していた南部藩兵がロシア人に敗退したということには最も強い衝撃があったはずである。蝦夷地に出張のきまった夏目長右衛門から話を聞くことだって、ずいぶんあったはずだから、なおさらのことである。
わが師の師でなくても、ロシアの患にたいする先覚者であるということだけでも、秀之進にとっては、行蔵は尊敬すべき人であったと考えてよい。
こんな弟子を愛さない師はいない。行蔵は心をこめて指導した。秀之進はまた師の指導によくこたえた。竜が水を得たと見てよいであろう。秀之進の業は駸々《しんしん》と進み、入門して足かけ四年目には、吉田藤右衛門(呑竜斎と号す)、小田武右衛門、松村伊三郎とともに、平山塾の四傑と称せられるほどになった。三傑は皆幕臣であった。この時、二十三であった。翌年は実用流師範免許をもらった。長足の進歩である。
秀之進はこの三傑とも親しかったが、特に親しくした同門生は細井|萱《けん》次郎であった。細井は元禄時代の大儒細井広沢の曽孫で、二人はついに義兄弟の契りまで結んだ。この他に大釜紋三郎や木村庄之助などという人々ともよほど親しかった。
話は少し返る。夏目長右衛門は行った年の十月エトロフから江戸にかえって来たが、なかなかの人物だったので、蝦夷地出張で働きを認められたのが機縁になって、西の丸御留守居番、本丸留守居番、御目付と、階段を上るように立身し、かたわら蝦夷地警備の機務に参与することになって、公務多忙をきわめる身となった。
それで、秀之進も師範免許を得たことではあり、一日秀之進を呼んで、また邸に来て用務を手伝ってくれないかと頼んだ。夏目は旧師であり、恩人だ。尊敬もしている。
「よろしゅうございます」
と答えた。帰塾して、行蔵の許可を請うと、行蔵にとっても、夏目は愛弟子だ。よろこんで退塾を許し、
「この機会に、奥許しをあたえよう」
と言って、兵学と武術の奥伝を授けた。
こうして再び夏目家の人となって、側用人としてつかえることになったが、元来南部藩士である身だ、主家に憚りがある。中山三保之助と変名した。これは文化九年、秀之進は二十四であった。
この翌年、秀之進は夏目夫妻の媒酌で、夏目家の用人松川紋左衛門の娘芳子と結婚し、浅草御蔵前の水野出雲守の長屋を借りて住み、そこから夏目家に通勤することにした。芳子は十九であったという。
これから間もなく、行蔵がまた幕府に対ロシア策について上書したが、それが当局の忌諱に触れた。表立っての処罰はなかったが、幕府の有力者中に行蔵を疑惑の目をもって見る人物が二三人あった。潔癖な行蔵は不愉快になり、武術を教授することをやめ、門人らの出入も許さないことにした。ただ四傑だけは例外であった。
行蔵のように純真無垢な愛国者がどうして疑惑の目をもって見られたか、わからない話だが、世間には人を探偵眼でしか見ることの出来ない人間がいる。江戸時代の高級役人には、日本の国より徳川家の方を大事に考えている者が多かった。見識がせまいくせに小気のきいた者がその位置につくと、一層そうなる。行蔵の門人らは師の影響で憂国慨世の徒が多い上に、行蔵が先年奉った上書の趣旨は、自分に北方警備をまかせ、犯罪人やごろつき共を募集して兵にあてることを許してくれるなら、必ずロシア人共を追いはらい、失地を回復し、ロシア人共の野心を厳に封じてしまうというのであった。人の心に悪と私欲しか見ることの出来ない探偵眼の徒が、疑心暗鬼を画いて、行蔵が謀反心でも抱いて、それを遂げるためにかれこれしているとしか思わなかったことは、最もありそうなことである。
とにかく、行蔵がいや気がさして塾を閉鎖してしまったので、門人らは残念でならない。残念のあまり、秀之進を師匠と仰いで塾を継続したいという相談がもち上り、秀之進に申し出た。秀之進はおどろいてことわったが、きかない。
「それでは、一応先生のご意見をうかがってみましょう」
「先生のお許しがあれば、お引受けいただけるのでしょうな」
「そうなれば、いたし方はありません」
秀之進は行蔵を訪ねて委細を語った。
「そなたがそうしてくれるなら、わしはうれしい。わしは公儀に疑惑されるのがいやだから、門弟を取立てることをやめたのだ。わが志、わが流派のほろびるのをよろこんでいるわけではない」
そこで、夏目家に通勤するかたわら、門弟を取り立てて教授することにした。これは文化十年の春のことであった。
秀之進が行蔵の門弟らに頼まれても兵原道場を再興することを渋ったのは、単に謙遜のためではなかった。再興することの意義は大いに認めていたが、さらに意義ありと信ずることが胸中に芽ぐんでいたからである。彼は国許に兵原道場をおこし、国許の子弟を訓練したかったのだ。南部藩は蝦夷地警備の一班を担《にな》わされている。先年はロシア人に負けてエトロフから退去している。遺恨は骨髄に徹して忘れたことがない。この藩士らを訓練し、強化することは、今日の時勢では最も直截で、最も意義あることであると思っているのである。
しかし、夏目家にたいする義理で江戸にとどまらなければならず、江戸にとどまれば同門の後輩への義理で再興兵原道場主にもならねばならないという義理がらみで、身動きが出来ない。
この心を秀之進は誰にも語らなかった。どうにも出来ないことを語るのは未練になる。それは武士として恥ずべきことだと思ったのであろう。妻にも語らなかった。
ところが、この翌年八月、郷里の兄から、父が病気になり、しかも重態であると言って来た。
秀之進は早速夏目家から暇をもらい、行蔵や門弟らに別れを告げ、妻も連れて帰国した。
可愛い次男に会ったせいか、秀之進の顔を見た時から、父の病気は目に見えて好転して、日益しに軽快した。この頃、芳子は磯子と名を改めた。理由はわからない。秀之進夫妻はなおとどまって看病につとめていたが、秀之進の江戸における評判は国許にも聞えている。入門を請う者がつづいた。田中館《たなかだて》栄八、下斗米惣蔵、欠端《かけはな》浅右衛門、田中館連司(田中館愛橘博士の祖父)、一条小太郎というような人々数十人であった。この中の田中館栄八は秀之進の姉婿で、秀之進より四つの年長であった。
秀之進にしてみれば、宿志を遂げよと、天のあたえてくれた好機と思われた。そこで、家の裏の蔵を改造して道場として、実用流の兵学・武術を教授することにした。
道場の名は兵聖閣、規則はすべて兵原道場の規則をそのまま用いて、きびしく適用し、違反者は容赦なく処罰された。煙草禁止、頭巾足袋無用、弁当には柳行李を用い、副食物にいいものなど無用、政治の得失、官吏の善悪、天下の形勢、城堡等の利害を議することは許さん、神社仏閣の参詣や遊山等にたがいに誘い合って行くこと無用、などという条目があるのだから、全学連的行動はもちろんだめ、バカンスもだめ、喫茶店入りのようなこともだめ、現代の学生は一人として助かりっこない。きびしいものであった。しかし、それでも評判を聞いて入門する者があとを絶たず、ついには百数十人になった。秀之進はこれに昼は武芸を教え、夜は兵書を講じた。
これは帰国の翌十二年のことであったが、その年十一月、磯子は男の子を生んだ。秀蔵と名づけられた(後に勝之助)。
兵聖閣における教授ぶりも、実用流独特の実戦を主眼とする荒っぽいものであったことは言うまでもないが、無人の山川広野が近くにいくらでもある土地だ、江戸では出来ないことが出来た。たとえば弓場は陣場山という山のうしろの上野沢に設けて、山道を毎日門人らに往復させた。福岡の東方一里の横山|土海窪《どがいくぼ》に火術演習地を設けて、銃砲射撃や地雷火の練習をさせた。水泳の練習には、馬淵川の深い淵の上の岩上に門弟らを連れて行き、水泳の法を説いて、すきを見ていきなり突き落す。もし泳いで岸に達することが出来ない時には秀之進が飛びこんで助けた。深夜不時に呼集して、武装させて深山幽谷をひきいて駆けまわり、冬になって深い雪でも降れば訓練の好機会として、数里を疾走させた。甲冑着用で馬上で剣術や槍術をやらせることもあった。
福岡は南部家の直轄領なので、藩の代官が来て支配するのであるが、最初の代官の中野周右衛門も荒木田弘司も、秀之進の兵学と武芸のたしなみの深さ、教授法の行きとどいていることに感心して、いつも道場に出入して、兵学の講義を傍聴するようになった。
こうして次第に道場が盛んになる間に、江戸から親友の細井萱次郎と大釜紋三郎とが来遊して数カ月滞在したこともあった。
文化十四年の正月になると、益々門人は多くなって、道場が手狭になったので、福岡の北方三・四キロの金田一《きんだいち》村の前平という土地に道場の建築をした。
ちょうどその頃、秀之進の恩人夏目長右衛門が左近将監に任官し、松前奉行となり、小姓組の山岡伝十郎、使番小菅|正容《まさかた》、村上義雄らとともに正月二十八日に江戸表を出発したとの知らせを受け取った。秀之進は一日千秋の思いで待っていたが、二月十六日に盛岡に着き、十八日に一戸駅に到着との先触れが来たと聞いたので、十八日に一戸駅に行った。一戸は福岡の十キロほど南方、途中に有名な歌枕「末の松山」がある。夏目の旅館に伺候して、久しぶりに逢って、江戸の平山門下の人々の動静や、蝦夷地の形勢や、幕府の方針や、いろいろと聞いた。自分の現状を語ったことは言うまでもない。
夏目はその年の十月、江戸に帰る途中、また南部を経たので、秀之進は金田一の宿場に迎えて、前平に建築中の道場を見てもらい、その夜はおそくまで蝦夷地の事情を聞いた。翌日は一戸駅まで送って別れたが、別れに際して、夏目は自分の持槍をあたえた。槍は長さ二間一尺、天草樫の柄には中心《なかご》が石突まで通っているもので、現在でも田中館栄八の子孫の家に伝来されているという。
夏目から聞かされた蝦夷地の事情は、秀之進の遊心をそそってやまない。
「せっかくこうして弟子共を鍛錬していても、蝦夷という土地を踏んだことがないでは、その地に事があって派遣されても、頼りないことじゃ。思い切って行ってみようか」
と考えた。夏目は江戸に帰っても、松前奉行所には、夏目の用人の木村太左衛門がいていろいろ便宜をはかってもらえるということも遊心をそそる。
ちょうどその頃、細井萱次郎がまた訪ねて来た。
「どうだ。一緒に行こうでないか」
「よかろう。拙者も一度行きたいと思っていた。いい機会だ」
相談は即時にまとまって、津軽海峡を渡って、北海道に行った。厳冬十一月十三日であった。
北海道ではどこに行ったろう。確かな記録はないが、定めて南部藩兵が守備の任についているクナシリ、エトロフ両島に渡って労苦を実見して来たことと思われる。そうでなければ平山行蔵の高弟たるの面目が立つまいからだ。
二人が帰って来たのは、夏五月二十二日であった。その頃は、金田一の新道場も完成間近になっていた。
「九戸城址を去る北一里余、金田一駅字前平にあり。西は樹木鬱蒼たる高山を負い麓は南北より楕円形に延び、あたかも人造の土塁をめぐらしたるが如くして、中央は東に向き、自然に中断して門状をなし、周囲の塁上には松・杉・雑木繁生し、その内の面積五十余町歩、これを新田野という。東は国道と馬淵川とをへだてて遥かに折詰岳を望み、南は大平山をへだてて遠く末の松山山脈に連なる鳥越山、大方崖《おおほうがけ》の岩山の聳ゆるあり、北は三戸郡の名久井嶽中空に秀でて風景絶佳、空気清浄の地なり。門生ら自ら土石を運ぶあり、地をならすあり、鋸を取るもの、鏝《こて》をとるもの、壁を塗るもの、屋根を葺くもの等ありて、その職を仮《か》らずして、日ならず、講堂、演武場、勝手、物置、厩舎に至るまで悉く竣工せり」
と、下斗米与八郎の「下斗米大作実伝」にある。門弟の数は益々ふえて、二百数十名あり、道場に泊りこんでいる者がいつも六七十名はあった。
秀之進のこのやり方は、夏目左近将監に深い感動をあたえた。どちらから言い出したことかわからないが、遠州浜松にやはり実用流の道場をおこし、人材を養成し、一旦緩急の際に役立てようということになった。ちょうどその頃、細井萱次郎がまた来遊した。
秀之進は細井にこのことを語り、
「貴殿行って工事の奉行をしてくれんか。建築資材やなんぞは、もう用意出来ているはずだ」
と頼んだ。
「よろしい」
と、細井は言う。
秀之進はあたかも、これもまた江戸から来遊していた同門の木村庄之助にも語って、細井と一緒に出発させた。
二人が浜松についてみると、秀之進の言った通り、資材類はそろっている。早速建築にとりかかった。その竣工間際、細井は、
「これほどに有意義なことは、各藩にもどしどしひろめるべきものだ。下斗米殿と相談して来る。ここは貴殿一人でこと足りるだろう」
と、木村に言って、浜松を出発、南部に向かった。途中下総の松戸の山田という医家は親戚にあたるので、ここに泊まったが、そこで病気になり、数日にして死んでしまった。これは文政三年七月十四日のことであった。
この年は秀之進にとっては不幸の重なる年であった。この前月六月十五日に、南部侯|利敬《としたか》が病死しているのである。
この利敬の死が、秀之進の運命を大きく変えさせることになる。
利敬《としたか》は名君といわれた人だ。封をついだのが二歳、その襲封の当時、東北地方はいわゆる天明の飢饉で、餓死する者数万、死人の肉を食ったというさんたんたる状態であった。十四の時はじめて入部したが、その年に領内に一揆がおこって、城門近くまで法螺貝と莚旗がおしよせて来た。
この窮迫した藩の財政を立て直したばかりか、蝦夷地警備の大役も仔細なくつとめつつあったのだ。なかの悪い南部藩兵と津軽藩とが一緒にエトロフやクナシリに警備についているのに、兵らの間にさわぎが起らなかったのは、利敬が、藩中に、
「この度のご用は日本と異国とのことであるから、公儀役人衆らの取扱いの善悪や、隣藩との争いごとなどには、一切とんじゃくせず、ひとすじに天照大神への国恩のためのご奉公と考えて、皆々精出すように」
と、きびしく布告したからである。たしかに名君であったに相違ない。
秀之進は福岡給人の次男の身分であるから、利敬にお目見えしたこともないが、利敬は秀之進のことをよく知っていたはずである。天下に最も高名な平山行蔵の高弟で、その道場の後継者で、南部領内にその流の道場をひらいて、数百の門弟に特殊な鍛錬をしているとあっては、いやでもそのうわさは耳に入る。利敬は領内の神職らを直属のかくし目付役にして、役人の善悪、政治の利害、民間の情報など一切を報告させていたという人だ。秀之進のことが耳に入らないはずはないのである。蝦夷地防衛の任を負うている南部藩主として、秀之進のしていることは、最も頼もしく思われたに相違ない。それで、福岡の代官である中野周右衛門や荒木田弘司らを通じて、ことばをかけてくれたこともあったはずである。
秀之進にとって、利敬の死はずいぶん強い衝撃であったろう。これにつづいて細井萱次郎の死んだという報告だ。秀之進は胸の中で何かがポッキリと音を立てて折れたように感じたろう。
しかも、利敬の死には南部家と津軽家の先祖以来の怨恨がからんでいると伝わった。
一体、諸大名の柳営における席次は家格によって厳重に規定されている。
[#ここから2字下げ、折り返して6字下げ]
大廊下 上の間、三家、
下の間、越前(松平)、加賀(前田)、因州(池田)、薩摩(島津)、作州(松平)、上州館林(松平)、上州矢田(松平)、
大広間 仙台伊達、熊本細川、筑前黒田、芸州浅野、長州毛利、佐賀鍋島、伊勢藤堂、岡山池田、徳島蜂須賀、久留米有馬、秋田佐竹、土佐山内、盛岡南部、松江松平、米沢上杉、川越松平、二本松丹羽、富山前田、大聖寺前田、宇和島伊達、明石松平、長府毛利、美濃高須松平、伊予西条松平、陸奥守山松平、陸奥長沼松平、対馬宗、
溜の間 彦根井伊、会津松平、桑名松平、讃岐松平等の譜代の功臣十一家、
帝鑑間 譜代大名六十五家、
柳の間 外様大名八十家(津軽家はこれであった)、
雁の間 譜代大名四十一家、
菊の間 三万石以下の譜代大名、
[#ここで字下げ終わり]
と、こんな工合になっていた。
津軽家は柳の間詰であったが、当時の津軽|寧親《やすちか》は息子の信|順《より》の夫人に田安家の姫君を迎えたばかりか、要路に金銀をばらまいて運動した結果、四位の侍従、大広間詰に家格が昇進することが内定した。
これが南部利敬を強く刺戟した。元来、わが家の家臣であったのを、姦策をもって領地の最も膏|腴《ゆ》な部分を横領して自立して大名となったにくい家として、先祖以来にくみ切っていた家が、自分と同格になるというのだから、神経に病んだ。その頃、利敬は心臓病になっていたから、一層こたえた。ついにそのために死期が早まったのであった。少なくとも、そんな風に藩中には伝わった。
家格などということは、現代人には一向ぴんと来ないが、厳重に階級が立っていることで社会の平安が保たれていた封建社会においては、最も大事なことと思われていた。実際大事でもあったのだ。先祖以来怨恨を伝承していると来ては、なおさらのことだ。
南部家中一般が悲憤しつつも、さらに心配したのは、利敬のあとをついで立った吉次郎|利用《としもち》(利敬には子なし。妹の子を養子としていた)はわずかに十五の少年で、位階が低い、もし津軽家の家格昇進が実現すれば、津軽寧親よりも下座にすわらなければならなくなることであった。藩士らはよるとさわるとこの話をして、痛憤し憂慮したが、さりとてどうしようもなかった。
感激性に富む血性男子である秀之進は、これがもどかしくてならない。
(ともあれ、江戸に出て、江戸の様子を見て来たい。細井君の墓参りもせんければならん)
と思い立った。
十月、秀之進は江戸に向かった。
日本橋の美濃屋にわらじを脱いで、先ず麹町六番町の細井家を訪ねて、位牌に焼香し、墓参もした。平山行蔵もたずねた。行蔵はもう六十二だが、かくしゃくたるものであった。
数日して、萱次郎の弟知義が岩名昌山という者を帯同して訪ねて来た。岩名は初対面だが、名は知っている。萱次郎の生前、その友人としてしばしば聞いていたのである。一見旧知のごとく、たがいに萱次郎の思い出話をしながら酒を飲み、さん然として涙をこぼした(後、秀之進の伝記を最初に書いたのは、この昌山である)。
二三日して、秀之進は昌山を訪ねて、昌山の父にも会った。昌山の父昌言は医者で学者で、代代渡辺越中守につかえている。秀之進が大いに気に入って、自分の家に泊まってせがれに教えてくれるように頼んだ。秀之進は承諾したが、自分も昌言の学問上の弟子となる契約をし、引移って、昌言に学問(儒学)の教授を受けながら、昌山に兵学と剣術を教えた。
十二月になってからであった。ある日、秀之進は外から帰って来て、
「藩が来年正月、国許で講武の検閲をすることになりましたので、帰らんわけに行かなくなりました」
と言った。
二三日して、いよいよ出発の日、別盃を酌んだ時、
「津軽侯はついに四位の侍従となりました。南部譜代の臣として、決心せんければならん時です」
とささやき、
英雄の心事もし相聞かば、
すべて紅涙万行の中にあり
と朗誦して、出発した。
国へ帰りつくと間もなく、新年となる。
正月、門生中の武芸の進歩いちじるしい者、優秀なもの数人の階級を上げ、等級を審査して奥儀を伝授した。
ある夜、高弟で姉婿の田中館栄八を呼んで、いつになくしんみりと言った。
「津軽家の当主が四位の侍従となったことは知っているでしょうな」
「知っていますわい。殿様のご鬱念を考えますと、何とも申しようがないですのう」
と、栄八は憂わしげに言う。
「今年は津軽家の帰国の年にあたります。四月ですな」
大名が参覲交代で往復する時期はほぼ毎年きまっているのである。栄八はうなずいた。
「拙者は津軽家の行列を矢立峠に待ちかまえて、津軽侯に君臣の義を説いて、隠居してもらおうと思うのですが、どうでしょう」
辞任隠居をすすめると言っても、平和な手段をもってするのでないことは言うまでもない。しかし、南部譜代の臣として、津軽家にたいする怨恨は心魂に徹している。
「やりなさるか。しかし、その手段は?」
秀之進は矢立峠の地図を出してひろげた。
矢立峠というのは、出羽から津軽に入る道の国境の峠である。今の秋田県大館市から北行して、米代《よねしろ》川の支流|下内《しもない》川に沿った峡谷を二十キロほど、あえぎあえぎ上って行った地点にある。ここが現在でも秋田県と青森県の境になっているが、この時代にも佐竹領と津軽領の境になっていた。ここを越えれば、下りになって、二十五六キロで、弘前《ひろさき》に達するのである。
この道は今日では奥羽本線の鉄道が通って、寝ていても通れるが、昔はなかなかの嶮路であった。吉田松陰が維新時代の初めにここを通過した時、秀之進の故事を追懐して、こんな詩を詠じている。
両山屹立して屏風の如く、
一渓屈曲してその中を流る
山窮り水極まって路無からんとす
矢立の嶺、その衝に当る
杉檜《さんくわい》天を掩《お》うて昼また暗し
天 絶嶮を以て二邦を疆《さかひ》す
聞説《きくならく》、文政|辛巳《しんし》(文政四年)の歳
津軽、藩に就かんとしてこの際を過ぐ
南部の逋臣《ほしん》(逃げている臣)米将真《まいまさざね》
徒を糾《あつ》め、要して輿衛《よゑい》を遏《とど》めんとす
幾日徘徊して、人の視《し》を驚かす
敗露して、忽ち空し数年の計
地理人和、両《ふたつ》ながらこれを得《え》、
自ら謂《おも》へらく籌画《ちうくわく》まさに遺《のこ》るなしと。
言ふを休《や》めよ、奇変意外に出づと。
一たび恃《たの》めば毎《つね》に百禍と随ふなり
君聞かずや、
|韜※[#「金+今」]上乗《たうけんじやうじよう》(兵法の奥儀)は一句に存するを。
初めは処女の如くし、後は脱兎たれと。
元来山鹿流の兵学者である松陰は、秀之進の失敗は計画の万全を誇って用心を欠いだところにあると、大いに残念がっているわけだが、それはとりあえずのところ用事はない。歌い出しの部分にある矢立峠がいかに嶮難であったかを知ってもらえばよい。弘前から江戸に往来するには、弘前から南部領の野辺地へ出、三戸を経て、福岡、盛岡を通って仙台領に出るのが順路であるのに、津軽家がこの道を取らず、矢立の嶮を越えて秋田領を通過して山形に出る道を、代々取ったのは、南部家の怨みを恐れたのである。
さて、田中館栄八は、秀之進のひろげた地図を見て言った。
「われわれがこの嶮路にかまえたなら、津軽家に何千の供廻りがあろうと、恐るるには足らんぞ。必ず越中守を討取ることが出来ますわい」
秀之進は首を振った。
「拙者の目的は越中守を討取ることにはないのです。討取ることはきわめて容易です。しかし、わしが越中守を討取れば、当然、津軽の家臣らはこちらの殿様を討取ろうとするにきまっています。目的は越中守を退隠させるにあります。わしは越中守に書面を呈して、退隠を忠告するつもりです。しかしながら、聞き入れんかも知れんから、その時は討取る。その際のために、地雷火を矢立峠の要所に埋めたり、その他の用意をしたいと思っているのです」
「よかろう。地雷火はこのへんじゃろうな。大砲をこのへんとこのへんにおいて……」
栄八は地図の要所々々を指点して、それから、自分も連れて行っていただけるのでしょうなと言った。
「あんたにはほかに引受けてもらうことがあります。拙者は言うまでもなく死ぬ覚悟でいます。拙者が死んだら、あんたに実用流兵学をつぎ、兵聖閣を引受けてもらいたい。日本のために、この門人らは散らしてはなりません。益々道場を盛んにして、国難に当るべき人物を養成しなければなりません。こんどのことは、南部家譜代の臣としてしなければならんことではありますが、一人で沢山です。あんたは道場を引受けて下さい」
と言って、数日後に兵法、武術の奥儀を全部栄八に授け、巻物三巻を添え、誓書を書いて師範を譲った。平山行蔵からもらった兵学武書も全部あたえた。その中には唐本の武備志|顛《てん》注七十巻があり、秀之進が細かに書入れをしたものであった。
二月十二日、秀之進は門弟の関良助、下斗米惣蔵、一条小太郎の三人を連れて、入湯と称して、鹿角《かづの》郡大湯に出かけた。大湯につくと、花輪村から境小人《さかいこびと》(国境詰の小役人)の赤坂市兵衛を呼びよせた。これも門人で、関良助の実家によく出入して可愛がられていた。
秀之進は皆を自分の座敷に集め、志を告げ、計画を語り、同志となってくれよと言った。いずれも異論はない。誓書をつくり、神明に誓って血判した。これは二月十三日のことであった。
関良助の家は南部家の福岡給人の身分だが、彼は鹿角郡花輪に生まれた。身長六尺に近い巨漢で、石投げに妙を得、大男に似ず身が軽く、磊々たる岩石から岩石にはね飛んで川を渡ったりなぞする時は飛鳥のようであった。母の生家が福岡にあるので、時々福岡に来たが、十八の時兵聖閣に入門した。この時二十二であった。
下斗米惣蔵も福岡給人の家の生まれだ。兵聖閣で兵学武術を修めるかたわら、独学で易と天文を研究し、自分の家の土蔵の屋根に観測台をもうけて、毎夜天文を観測したという男だ。この時二十九、秀之進より四つ若かった。
一条小太郎も福岡給人の生まれ、わずかに十八の少年であった。
赤坂市兵衛は先祖代々国境守衛を命ぜられ、名字帯刀を許されていた。この二年前から門人となった。実直で、兵聖閣のために好んで労役に服したので、秀之進は特に目をかけてやった。拳術(唐手)に特に秀でていた。
秀之進らは大館から矢立峠に至るまでの道筋をよく踏査して、二月十八日に福岡に帰った。
翌日、秀之進は門人一同を召集して、
「わしが道場をひらいて諸君に教授しはじめてからほとんど七年になるが、火術砲術についてはまだ半分も教授していない。されば、主要な技術をえらんで伝授したい」
と言って、門人らを手分けして受持ちをきめ、それぞれに高弟らを監督に任じて、火薬、木砲、弾丸、真田幸村の発明した張貫砲《はりぬきづつ》の一貫目から三貫目(砲弾の重さだ)に至るものなどを製造することを命じ、天墜砲《てんついほう》、震天雷、連球玉転雷、旋転銃等は自ら製作を監督することにした。秀之進が自ら製作の監督にあたることにした武具は、皆|明《みん》代の中国人の発明になるもので、武備志等の唐本に記載されているものである。秀之進の師平山行蔵は書物によって研究し、それを造り出していたのである。
人々はよろこんで精出した。
兵聖閣付属の鍛冶がいた。鍛冶は元来仙台領の岩谷堂《いわやどう》(岩手県江刺郡。水沢の東北七八キロ)の者で、本名大吉、鍛冶名を万歳安国という刀鍛冶である。仙台の刀工七代目|安倫《やすとも》の弟子で、技倆は相当すぐれていたが、高慢で、心術もよくない男であったので、師匠に放逐され、各地を放浪して八戸領の葛巻《くずまき》村に来て、庖丁、鉈《なた》、鎌などをこしらえて、わずかに命をつないでいた。秀之進はこの話を聞き、あわれと思って呼んでみた。下賤な容貌ではないが、やつれがひどく、身にまとっているものもぼろにひとしい。貧窮は一目でわかった。元来、侠気のある秀之進は益々あわれになり、道場の裏手の空《あき》小屋に住まわせ、衣食を恵んだ。試みに鉄扇や、鉄鞭や、刀剣などを注文して鍛《う》たせてみると、なかなか出来がよい。秀之進は気に入って、人々にも推薦したので、注文する者が多く、次第に繁昌するようになった。とうてい一人では手がまわりかねるようになったので、岩谷堂から弟子の喜七と徳兵衛とを呼びよせて手伝わせることにした。こうして暮し向きがゆたかになったので、大吉は秀之進を大いに徳として、
「先生のご恩は死んでも忘れません。先生のためにはいつでもいのちを捨てます」
と、言っていた。
岩谷堂から呼びよせた二人の弟子のうち、喜七は性質のよくない男で、門人らにきらわれたので、大吉は喜七を三戸の鍛冶某のところへやって、徳兵衛と二人でしごとをつづけた。大吉と二人の弟子のことを詳述したのは、秀之進の密計の破綻にこの三人が最も直接な関係があるからのことである。
秀之進は、火術の実習伝授を宣言した時、大吉に、半頭《はつぶり》(ひたいから頬の半ばを蔽う鉄製のかぶと)四つ五つと、三匁五分と十匁の鉄丸五六十を作るように命じた。津軽家の行列と対決して、最後の手段に訴えなければならなくなった場合に使うためのものであることは言うまでもない。これがいずれもよく出来たので、秀之進は満足であった。
いよいよ火術実演の準備も出来たので、日を三月十二日、場所を陣場山と定めて、実演することになった。うわさは隣郡にまでひろがり、見物人が雲集し、非常なにぎわいとなった。秀之進は定めた部署に従って、順を追うて行わせたが、昼から夜におよぶ実演は、全部見事に成功して、人々を驚嘆させた。
秀之進はその夜、門弟らの労をねぎらうために、かねては禁じている酒を許して、門人らの父兄もまじえて、盛宴を張った。秀之進としては永訣の気持もあったのであろう。
翌々日、秀之進は関良助を従えて花輪に行き、ここで赤坂市兵衛を加えて、また大館に行き、津軽氏通行の道筋を踏査して、人員の配置や使う兵器などを定めて帰った。この際にかぎらず、この以前の実地踏査にもずいぶん傍若無人で、土地の人々に怪しまれたらしい。それが口碑となっているのを、吉田松陰はこの地を通過した時土地の人々に聞いて、「幾日徘徊して人の視《し》を驚かす」と前掲の詩中に詠じて、慎重を欠いでいたことを残念がったのである。
間もなく、ある日、秀之進は鍛冶の大吉を呼んで、
「津軽越中守の帰国の日が迫ったということだ。そちは越中守が秋田領に入ってから矢立峠を越えるまでの宿場々々の発着の日取を調べて来てくれんか」
と言って、路銀を出した。
大吉は他国者で、窮迫しながら諸所を放浪して歩いた男だ。カンは鋭い。以前から秀之進の最近の挙動に不審を抱いている。
「お易いことでございますが、どうなさいますので?」
とたずねた。
秀之進は大吉を信じている。自分の世話によって窮迫を救われ、不自由のない身の上になったのだし、心服し切っているから、自分を裏切ることなど絶対にないと思いこんでいた。兵学者ともあるものが甘い話ではあるが、ここが人の性格の微妙なところだ。人を信ずる人でなければ人にも信ぜられない。秀之進がよく人の信を得、上長にも門弟らにも信ぜられたというのは、この性質があったからなのであろう。過《あやま》ちを見てここに仁を知るだ。大吉を信じたのが大事の破れのもとになったのは、運命といってよいであろう。
秀之進は、大吉にたずねられて、南部家と津軽家の先祖以来の宿怨を語り、津軽寧親の官位昇進の話をし、
「わが南部家の幼君はまだお年若であるため、越中守殿より席次が下である。これではなくなられた殿様はご無念である。幼君も、家中の者も忍ぶことが出来ない。わしは津軽侯の国入りの行列をさえぎって、隠居をすすめようと心組んでいるのだ」
と言って、かねて草して浄書しておいた勧告状を渡した。
[#ここから2字下げ]
今般、貴所が侍従に任ぜられたことは、古を忘れた驕奢の至り、傍若無人の所為である。よって、我々同志は、狼藉の所業のようであるが、当地まで出張して、大砲を以て驚かし申した。要は他なし、貴所を改悛せしめんとするのである。自今、おとなびた心となられ、速やかに辞官して隠居されるなら、我々の武士としての道は立つ故、決して貴所に遺恨は存せぬであろう。もし狐疑して非道の位を貪り、なお出府なさるなら、あるいは道中、あるいは江戸、あるいはご領内、所をえらばず、侮辱を加えて怨みを報いるであろう。そのため合戦沙汰となっても、やむを得ない。こん度も貴所主従を砲術をもって主従のこらず打殺すことは、掌中にあったのだが、一まず寛宥して説得すること、以上の通りである。
[#ここで字下げ終わり]
というのが、勧告文の口語訳である。
「これはわれわれ同志が一通ずつ所持している。そなたにもやる。同志となったつもりで、心を入れて働くよう」
「かしこまりました。いのちがけで働きます」
大吉は心中おどろきながらも、こう答えて、勧告状の写しをふところにして、秀之進の前を退いた。
この時までは大吉は秀之進を裏切るつもりはなかったに相違ないが、不安と恐怖は大いにあったはずだ。秀之進がこんなことをしては、自分も巻きぞえを食って、縛り首にされるかも知れないと、恐ろしさに気の休まる間はなかったろう。
四月二日、大吉は福岡を立って大館に向かったが、途中三戸で弟子の喜七の家に泊まった時、不安のあまり、この話をした。裏切りの計画は喜七が発議したものに相違ない。喜七は元来貪欲で軽薄な男だ。秀之進の門人らにきらわれて福岡から立退かなければならなかった恨みもある。
「師匠、ここはよく考えなければならねえところだぜ。この企てはとうていうまく行きはしねえ。仮にも相手はお大名だ。三人や四人の痩ざむらいの力でどうなるものか。しくじって、おたずね者になり、非業な最期を遂げなさるにきまっている」
「おれもそう思う。しかし、おれは先生の厚いご恩になっている。きかないわけに行かねえ」
「一そのこと、津軽家に訴人して出なさったら、どうですい?」
「訴人じゃとオ?」
「まあ、聞きなさい。なるほど、師匠は先生のご恩を受けていなさる。しかし、どの道、先生方はしくじって、非業な最期を遂げなさるのだ。とすれば、師匠が訴人して出なさったとて、そのために先生がどうというわけではねえ。そういう理屈だろう。ここは一番訴人して、師匠一人だけでも褒美をもらった方が得じゃねえか。このままでは、師匠はおたずね者になって、三尺高い台で首をさらされることになるのだぜ」
理屈は|とりもち《ヽヽヽヽ》と同じだ、つけるところにつく。
「ううむ」
と、大吉はうなった。
とうとう裏切ることに話がきまった。二人は細かな相談をまとめて、訴人役は喜七が受持つことになり、証拠の品として、秀之進から渡された勧告書を受取った。
「こりゃ褒美の金どころじゃありませんぜ。またとない出世の運がまわって来たのですぜ」
と、喜七は勇み立った。
大吉はこれまで通り福岡にとどまり、こんどの大館行きも確実につとめることにする。訴人は早すぎてもおそすぎてもいけない。訴えた通りに秀之進らが矢立峠にいなければ、高く買ってもらえない。そのちょうどよい時に訴人するには、津軽家の行列の日程をよく調べて秀之進に報告し、秀之進らを矢立峠に行かせる必要があるからだ。
大吉は翌日大館に行き、数日滞在した。
一方、兵聖閣では、不思議なことがあった。ある夜、秀之進が津軽侯襲撃のために用意した武器を点検してみると、七挺の張抜砲《はりぬきづつ》の中の一挺が紙魚《しみ》に食われている。下斗米惣蔵と関良助とに見せると、不安な表情になった。
「張抜砲とは言え、材料は紙だ。紙魚《しみ》が食うに不思議はない。ほかのに付かんように、焼いてしまおう」
と言って、秀之進は火をはなって焼いてしまったが、下斗米惣蔵が念のため占筮《せんぜい》してみましょうと言うので、その意にまかせた。
惣蔵は筮竹を取り出し、丹誠を凝らしてさらさらともんでは数えつつ算木をならべていたが、やがて〓〓天風|※[#「女+后」]《こう》の〓〓天山|遯《とん》に之《ゆ》くの卦《か》を算出した。
惣蔵はこれをこう判断した。
「天風※[#「女+后」]は純陽の乾《けん》が下から一桁だけ陰におかされている象《すがた》の卦であります。女子や小人が勢いを益して家を乱したり君子を迫害したりする象でもあります。ものの蝕まれかけた象でもあります。我々の企てには女は関係していません。男だけの企てであります。とすれば小人であります。今張抜筒が紙魚《しみ》に蝕まれたのは、天が|※[#「女+后」]《こう》の卦を見せたと見るべきでありましょう。この※[#「女+后」]の卦が遯《とん》になったのは、一桁だけの陰であるのが、二桁に進むということを示しています。思うに、われわれの中に小人あって、姦悪の知計を弄して大事を破るでありましょう」
後から見ると、この易筮《えきぜい》は神中《しんちゆう》といってもよいほどに的中しているのである。
関良助は惣蔵のこの易断を聞いて言う。
「思いあたるところがあります。その小人というのはきっと大吉のことです。以前、先生は大吉という男は実直なように見えるが、内心はずるい悪党だ、わしは手討にしようと思ったことがあると、おっしゃったことがあります。やつはこの秘密を知っています。やつを斬りましょう」
秀之進は首をふった。
「今となっては、斬ってはかえって禍のもとだ。油断をせんで、やつをうまく使った方がよい」
これで、手荒なことはしないことになった。
やがて、大吉が大館から帰って来て、
「津軽様のお国入りの行列は二十四日に大館について、中食なさることになりました」
と、報告した。
この以前、秀之進の手許には、江戸の知人から、津軽家の国入りの旅程と日時とを知らせて来ていた。秀之進は念のために下僕の万太郎という者を、秋田の佐竹領の南部である六郷・院内のあたりに出して、調査させたのだが、大吉の報告はこれらと符合した。
あたかもこの頃、秀之進の姉で田中館栄八に嫁いでいたみわがかねて病床についていたが、危篤になった。秀之進は数日つききりで看護したが、十五日朝ついに空しくなった。情に厚い秀之進の悲嘆は人を驚かすほどであった。
秀之進の最も大きな災厄が、この間にうんと進行していた。訴人役を引受けた喜七は、四月五日に三戸を出て、津軽領と南部領との国境の番所のある狩場沢《かりばざわ》に行って、名前を嘉兵衛と名のって、
「津軽の殿様のおいのちにかかわる一大事が企《たくら》まれていることを存じています。ご重役方にお目通りして、くわしく申し上げたいと存じます」
と言った。
番人頭が取調べてみると、証拠品もある。仰天して、津軽家の黒石《くろいし》の分家(五千石、この翌年一万石となって大名に列す)に注進した。黒石から弘前に急使が飛ぶ。お家が南部家から怨まれていることは、津軽家ではよく知っている。こんどの藩主の官位昇進が南部家を大いに刺戟したろうことも察しがついている。南部の家中に不逞な企てをするものがあっても不思議とは思われない。驚愕して、人数をつかわして喜七を迎えとらせた。これは十四日、すなわち秀之進の姉の死んだ前日だ。津軽家の重臣らは喜七に会って、くわしく話を聞いた。
早速下向途中の津軽寧親に急使を走らせて報告するとともに、護衛のための藩士らを三々五々微行させて秋田領内に急行させるとともに、人数をくり出して領分境を警戒した。
こんなこととは、秀之進は露知らない。姉の葬儀を十六日にすませると、同志下斗米惣蔵、関良助、一条小太郎とともに、下僕徳平、万太郎、倉松らに兵器や弾薬をになわせて、福岡を出発し、大館の十二三キロ手前の大滝温泉にとどまって、人を花輪に走らせて赤坂市兵衛を呼んだ。市兵衛は境目役人として地理に通じているので、間道の案内をしてもらうためである。
この市兵衛が出発の支度をしている時、大吉の弟子の徳兵衛が来た。徳兵衛も師匠や相弟子と同腹の裏切なかまになっているのだが、彼がここに来たのは、下斗米惣蔵の父|右平治《うへいじ》に頼まれたためだ。惣蔵が無断で家を出ているので、右平治は徳兵衛に捜索を頼んだ。徳兵衛には惣蔵が秀之進とともに大事決行のために家を出たのであるとの見当がついている。それで、こちらに向かい、市兵衛の家に立寄ったのである。市兵衛も秀之進の同志だから、進行程度を知るためもあったろう。
「惣蔵さんはお前の見当通り、多分先生と一緒じゃろう。先生は今大滝にお出でで、わしに来るように言うてよこしなさった。わしは行く支度をしているところじゃ。いい都合じゃ。一緒に行こう」
と、市兵衛が言って、ちょっと座をはずした時、市兵衛の家の者が茶かなんぞ持って来てのことであろう、こんなことを言った。
「妙なうわさがありますで。お前の兄弟弟子の喜七が、津軽様に訴人したため、先生の企てがみんな津軽様にわかってしもうて、えらいさわぎになり、大吉鍛冶も津軽へ連れて行かれたというのですえ」
徳兵衛ははっとしたが、さりげなく同家を出て、大吉にあてて知らせの書面を書き、大急ぎで福岡に行って届けるように人に頼んでから、何食わぬ顔で市兵衛の家に帰って来た。
間もなく、市兵衛と徳兵衛は花輪を出発、大滝に向かった。
大滝につくと、徳兵衛は惣蔵に、右平治が案じて、自分を捜しにつかわしたことを告げ、わたくしと一緒に帰りなされよと説いた。
「それはご苦労であったな。おやじ殿には、わしから今日《きよう》にも手紙を出しておこう。居所がわかれば、心配はないはずじゃ。うわさによれば、津軽家はこんど四位の侍従になってはじめてのお国入りで、行列がなかなか見事じゃという。それを見物して帰ろうと思うのだ。われも一緒に見物して帰れ」
徳兵衛はこのことばを信じはしない。しかし、ふり切って帰っては、あやしまれてバッサリやられるかも知れない。秀之進らを矢立峠に行かせて、津軽家の探索方の目にかけさせる必要もある。恐怖をこらえて、信用したふりをしてとどまることにした。
秀之進らが大滝温泉に逗留している間に、大吉は徳兵衛からの手紙を受取った。もう福岡にはとどまってはおられない。母が病気であると知らせて来たと言って、岩谷堂に帰った。
大滝温泉に滞在をつづけていた秀之進らは、津軽家の行列の大館通過が明日にせまった二十三日、宿屋には、
「津軽様のお国入りの行列見物」
と言って、大滝を出たが、本道筋はひどく警戒がきびしくなっているので、案内人をやとって間道をとり、大館と矢立峠の中間の白沢村の橋桁《はしげた》というに出て、街道の要所に地雷を敷設《ふせつ》し、岩抜山の中腹に潜伏した。
数時間待っていると、粗末な切棒《きりぼう》(乗物をかつぐ棒の短いもの)の乗物を数十人が護衛して山下の道を通るものがある。秀之進は銃を取って狙い、一発した。弾丸はあやまたず乗物をつらぬき、護衛の人数はさっと乗物を取りかこんで走り去る。
「命中です。あの乗物の中はたしかに越中守に相違ありません。追いかけて行って首を上げましょう」
と、良助が叫んだが、秀之進は首をふった。
「あの乗物の中は空《から》だ。二三日前に人をつかわして越中守の通行の道筋を窺わせたところ、津軽から来る士《さむらい》共が間道から能代港《のしろみなと》に集まりつつある者が多いという。われらの計画を知って、越中守は道筋道筋をかえて帰国するのであろう。あの行列と乗物は様子を見るために、わざと出したものに相違ない。しかし、これでよいのだ。われわれの目的は越中守を討取ることにはない。越中守にわれわれの志のほどを知らせ、畏怖させ、隠居を出願させるにある。越中守が帰国の道筋をかえたのは、恐れた証拠だ」
と言って、敷設した地雷を爆発し、そこに竹にさしはさんだ勧告状をおし立てて、引き上げた。
秀之進の察した通り、津軽寧親は道をかえて間道から帰国の途につきつつあったのである。彼が佐竹領内の横手《よこて》に入ったのが四月十五日であった。その夜、恐らくもう夜明けであったろう、国許から急報があって、秀之進らの計画を知らせて来たので、道筋を変更することにして、秋田藩の諒解をもとめにかかった。諸大名の参覲交代の道筋は往復ともに厳重にきまっていて、公儀の許可なしに変更してはならないことになっている。秋田藩では諒解を渋った。寧親は風邪と称して横手に滞在をつづけて交渉を重ね、ずいぶん多額の金銀や物品を家老や重役らに賂《おく》った。その上、津軽家の世子信頼の夫人が田安中納言|斉匡《なりまさ》の女で、家斉将軍の実父一橋|治済《はるずみ》の孫であることもちらちらとひけらかした。
秋田藩はついに屈して、津軽家の、
「海防のことが重大である今日、領内の西海岸を検分する必要がある故、貴領の能代から岩館に行き、そこからわが領内の西海岸地帯を検分して、大間越えして帰りたい」
という要求を諒解した。
寧親は二十日に能代港に行き、ここでまた風邪という名目で二十三日まで滞在して、弘前から守衛の武士らの集まるのを待って、二十四日に能代を立ち、海岸沿いに北に向かったのである。つまり、岩抜山の中腹で秀之進が切棒の乗物を目がけて一発した日である。
大名はたてまえとしては一軍の将軍ということになっている。それがわずか三人や四人の匹夫の待伏せにおびえて、正規の道中の道筋を変更し、頭をかかえて迂回して逃げたというので、大館あたりでは嘲笑の的になり、
津軽様 力士になったか 西の関
(能代から岩館越の方面の海岸線を西の関という)
海辺を一|見《けん》などと願ひ出で 浦(裏)道逃げる臆病の守《かみ》
などという落首があった。
福岡に帰った秀之進は、田中館栄八を招いて、事の次第を語り、
「このまま国にとどまっていては、主家にも、両親にも迷惑を及ぼすことになる。江戸に出て、次第によっては幕府に名乗って出て、事の次第をくわしく陳述して、天下に津軽家の姦悪を明らかにして、罪せられるならば罪せられたい。この前の話通り、兵聖閣はあんた引受けて続けてもらいたい。あんたには改めて申すまでもないが、これは日本の国防のためにはじめたのであるから、決して絶やさんように願いたい」
と言った。
栄八は承諾した。
思うに、秀之進の江戸に出る目的はここに言っただけではなかったろう。津軽家が恐怖して辞任隠居に出るかどうかを見るのと、もしそうしなかったら、臆病風に吹かれて帰国の道筋をかえたことを問題にして、幕府の処分によって辞任隠居に追いこむつもりもあったに相違ない。
数日立って、門人らを集めて、国を去って江戸に上らなければならなくなった事情を説明し、
「この道場の師範は、今日以後、田中館栄八殿に譲った故、諸君は自分にたいしたごとく栄八殿に従って、修行につとめよ。自分がこの道場をひらいたのは、日本のためにロシアの侵略に備えるためであることは諸君はよく知っている。ロシアの患《うれ》いは今後益々深くなるであろう。諸君は決してこれを忘れず、益々修行鍛練につとめ、一旦変あらば、藩侯に願い出て、身を挺してこれが防禦の任にあたれよ。丈夫国難にあたる、進むあって退くことなかれ。これは自分が常に諸君に教えている士道の本義である。人生|古《いにしえ》より誰か死なからん、丹心を留守して汗青《かんせい》を照らさんとは、文天祥の詩に言うところ、忘れてはならん。他日棺を蓋《お》うて事定まるの時、師弟黄泉に相|見《まみ》えて、生前の報国のことを語り合うことを、自分は楽しみとしているぞ」
と、演舌して、別宴をひらき、五月十二日払暁、妻磯子、弟竜之助、子勝之助、門人関良助、下僕徳平、倉松らを連れて、江戸に向かった。二十六日、江戸について、岩名昌山の家に身を寄せた。
最初のうち秀之進はなるべく身をかくすようにしていたが、世間では矢立峠のことを早くも知って、津軽家の評判が恐ろしく悪い。堂々たる大名が三人か四人の田舎ざむらいにおどかされて、道を大まわりにまわって逃げた臆病を笑うやら、南部家との確執をおまけ沢山で言い立てるやらだ。反対に秀之進の評判は至極よい。武士中の武士と嘖《さく》々たるものだ。
秀之進の友人らは、主として兵原道場で同門だった人々だが、この人々が、
「津軽家としては、勝手に帰国の道筋を変えたという弱みがある。三四人におびえて鼠のように逃げたという弱みもある。ことを荒立てるのは藪蛇だ。何もようすまいと思われる。そう遠慮していなさることはない。堂々と門戸をかまえて、実用流の道場をひらきなさるがよい。あるいは、そのために恥じて、越中守は辞官隠居するかも知れませんぞ」
と説いた。
これも一理ある。自分が江戸で大いに門戸を張っていることを知ったら、越中守としては居たたまるまい。再び狙撃されるかも知れんと怯えて、隠居ということになるかも知れないと、秀之進も思った。
そこで、麹町の表三番町に平山流教授の道場をひらき、名も相馬大作と改めて、看板を上げた。
何せ大評判になっている時だ、入門して指導を仰ぐものが引きも切らない。
道場をひらいたのが六月十六日のことであったが、それから四月後の十月四日、日本橋室町の美濃屋宗三郎の隠居作兵衛のところから、使の者が作兵衛の手紙を持って来た。
[#ここから2字下げ]
取込中ゆえ代筆でごめん下さい。先日はご来訪下されてありがとうございました。さて、あなた様に直接お会いしてお話し申し上げたいことがおこりました。毎度ながら、明朝お出で下されたく願い上げます。お国許から紙包みの届物も来ていますから、これもお渡し申したく存じます。委細は拝顔の上申し上げたく。以上
[#ここで字下げ終わり]
という文面だ。
こんなことはこれまでもよくあった。秀之進は、承知した、と答えて帰した。
翌朝、秀之進は美濃屋に出かけた。朝だというのに美濃屋は、武士体のもの町人体のもの等でずいぶんにぎわっていた。秀之進は店内に入ると、大刀を脱してあいさつし、請《しよう》ぜられるままに店の間に上ってすわり、
「ご隠居から昨日お手紙をいただいて参ったのだが」
と言った。
「さようでございますか。すぐ呼びます」
隠居の作兵衛を呼んで来た。
「ようこそ、先生」
といいながら隠居はすわる。
「ゆうべあんたの手紙をもらったので来たのだが……」
「へえ? そうおっしゃってお出でだと聞きましたけど、手前は昨日は先生に手紙なんぞさし上げませんけど、何かの間違いでございませんか」
「ほう? これだが……」
ふところをさぐって手紙を取り出そうとした時であった。前から上りがまちに腰かけて、店の者に品物を出させて買物をするように見えていた商人体の男が、秀之進が膝のわきにおいた大刀をさらって、ぱっと外へ走り出した。あっという間もない。つづいて、やはり店内にいたもう一人が腰の小刀をうばい去ろうとした。秀之進はそいつを捕えて、
「こやつ、賊め!」
と、一喝した。
すると、客をよそおって店内にいた者共が一斉に立ち上り、秀之進にせまりながら、
「ご上意! ご上意!」
と、呼ばわった。
秀之進はわなにかかったことを知ったが、うろたえなかった。
「ご上意という以上、手向いはいたさぬ。しかしながら、武士を捕えるには、たとえ浪人であればとて、作法と礼がある。刀を盗むなど、卑怯この上もない。拙者はその方共ごとき鼠賊にひとしき者共が五十人いようと、六十人いようと、素手でもひしぎ殺せる。しかし、公儀の命という以上、手むかいはいたさん。さあ縛れ」
といって、落着きはらって縛られた。
美濃屋はことの意外に驚きながらも、表三番町に使を走らせた。関良助はおどり上った。
「くそめ! 先生だけをやりはせん!」
と、刀をつかみ、歯ぎしりして疾走して美濃屋に向かった。すると、途中に捕方役人共が待ちかまえていて、呼びとめた。
「あなた、関さんでしょう。相馬先生はお召捕になられましたが、あなたと逢いたがっておられます。会わせて上げますから、一緒においでなさい」
「そうか、頼む」
と答えて、しばらく一緒に行くうち、捕吏の一人が言う。
「囚人と面会する場合は、誰も帯刀は許さないことになっています。あずけて下さい」
「もっともだ」
良助が大小を脱して渡すと、捕手共が二三十人方々から立ちあらわれ、良助に迫った。
良助は笑って、
「拙者は先生と一緒に入牢するために来たのだ。さわぐことはないぞ。汝《わい》らを踏みたおして逃げるのは造作のないことだが、お公儀に手向かうようなことはせんわな」
と言って、縛についた。
事は秀之進の現在の江戸の門人にも、平山塾の旧同門の人々にも、すぐ伝わった。いずれの人々にも直参の者が多い。この人々は、秀之進は逃げかくれしていたのではなく、町奉行から差紙《さしがみ》が来れば自ら出頭するはずであるのに、いきなり路上で捕縛するとは、無法であると話し合って、月番の北町奉行榊原|主計頭忠之《かずえのかみただゆき》を訪問して、理由をたずねた。
ところが、榊原はまるで知らないのだ。与力を呼んで調べてみると、加役《かやく》(火付盗賊改役)の長井五右衛門のさしずであることがわかった。
榊原は長井を呼んで、事情を聞いた。
「津軽家よりの依頼によりまして」
と、長井は答えた。
榊原は立腹した。
「いずれからの頼みであろうと、ご朱引内《しゆびきない》の者を捕えるのに、町奉行の差図を受けず、勝手なことをしてよいものか。これはわしが職権を侵し、お上をないがしろにしたことになるとは思わんか」
長井は何にも言えず、赤面して平伏した。
このことは長井五右衛門が津軽家からうんと賄賂をもらってしたことには相違ないが、津軽家の手はもっと高く深いところまでおよんでいた。世子夫人の実家である田安家をはじめとして、その縁をたぐって一橋家にも、その他縁辺を頼みにして老中水野出羽守にも、老中阿部正精にも、お側衆の林肥後守にも、土岐丹後守にも、箱館奉行の高橋越中守にも、百方運動して、高い所から内沙汰が出ていたのだ。榊原に職を賭し、将来の官途を犠牲にする決心があれば、この違法の捕縛を解消出来たろうが、そこまでの決心はない。いやいやながらでも認める外はなかった。
かくて裁判が行われた。秀之進は裁判の時、南部・津軽両家の家筋のことから説きおこし、天正以来の確執の次第を述べ、こんどの狙撃のことをくわしく語った。天下に黒白を明らかにするのは、その素志だったのである。関良助の申立ても寸分たがわず同じであった。
判決は翌文政五年八月二十九日であった。
判決文はこうであった。
[#ここから2字下げ]
[#地付き]下斗米秀之進事
[#地付き]浪人 相馬 大作
その方、津軽越中守の家筋は元来は南部家の臣下であるのに、当越中守の代となって家格も官位も昇進し、さらにまた昇進するであろうということを、故南部大膳太夫が聞き、両家同格となるのを残念に思い、鬱気して発病して死んだことを承り、また当大膳太夫はその頃はまだ無官であったので、越中守より遥かに末座にならねばならないことを心外に思い、父祖累代の主人の鬱憤を晴らさんと決心し、関良助ら二人にも申し勤め、越中守帰国の道筋に待ち受け遺恨の次第を申し述べ、もし越中守が承服して隠居すると言えばよし、然らずんば鉄砲を伏せおいて撃ちとめる計画を立て、羽州秋田領白沢宿まで出向いたところ、越中守が道をかえて帰城したので、本意を遂げなかった。しかしながら、右の計画は露見するであろうと、妻子その他を召連れて出奔したこと、公儀を恐れざる行為、不届至極である故、青山下野守殿の差図により、獄門を申しつける。
[#ここで字下げ終わり]
関良助の分も、ほとんど同文である。しかし刑罰は単に死罪である。
この判決文はおそろしく同情的である。大作らの申立てを全部認めている。津軽家が南部家の家来筋であるということも認めている。この前文と、「公儀を恐れざる行為、不届至極云々」という断罪の部分とは、木に竹をついだように不調和だ。榊原奉行は、憤懣やる方ない気持で、この判決文を草したに相違ない。またこの裁判中に、南部利用は四位侍従に叙任されたので、津軽寧親の下位ではなくなった。かれこれ、秀之進の志は遂げたと言えよう。
判決文の中の青山下野守とは、当時の老中の一人青山忠裕のことである。これが家斉将軍の側近から将軍の内意として、南部・津軽両家とは無関係に、犯人らだけを極刑に処するように指示されたのであり、家斉将軍はまた実父の一橋治済や田安斉匡からやいのやいのとつつかれたのである。
処刑はこの日小塚原で行われた。秀之進の年三十四、良助二十三。
この騒動は、ずっと前に書いたように、厳格な意味ではお家騒動ではない。強いていうなら、津軽騒動というべきであろう。前にかかげた「浮世の有様」の文章には、「文政五年津軽騒動」と標題してある。
この事件が当時の人心を聳動したことは非常なものであった。藤田東湖は、酔えば刀を撫して、
「士道の衰えたるや久し。頼《さいわ》いに下斗米将真あり、以て綱常を維持し、人心を振起するに足る」
と言って、声涙ともに下ったという。ついに「下斗米将真伝」を書いた。
元来ロシアの侵略を憂えて、防禦の士を養う教育機関を経営していた彼が、一藩の名誉問題などに挺身して立ったことを、現代の人は笑うかも知れない。しかし、これは当時の人になったつもりで考えてみなければわからない。秀之進にとってはいずれも優劣なく大事なことだったのであろう。だから、彼はこれを自分の仕事とし、かれを田中館栄八の仕事として、共に成しとげようとしたのであろう。
裏切者の大吉、喜七、徳兵衛らは、津軽家に武士として召抱えられ、大吉は名字を佐々木、喜七は小島とつけ、各々二百石を給せられ、徳兵衛は菊地という名字になり百石を給せられたという。世間では、
「こんなやつらには金をやっておけばよいのに、武士にとり立てるとは」
と、もの笑いにしたという。
秀之進が幕府の手に捕えられたのも、極刑に処せられたのも、すべて津軽家の百方の運動請託によることは、当時すでに世間は知っていた。これにたいして、南部家が何一つ救解の手を打たなかったのは、いぶかしいことである。当時の大名は、そういうものではなかったのである。秀之進は世間の評判が最もよいのだから、なおさらである。南部家が強硬に抗議すれば、助かった可能性は大いにある。
これには理由があった。
「南部史要」という書物がある。原敬が費用を出して、南部藩出身の学者らに依嘱して編纂させ、明治四十四年に発行し、知人や学校関係に配布した非売品の南部藩史であるが、この書にその理由となるべき事実が記載されている。
文化四年五月といえば、矢立峠のことがあって、秀之進が江戸に出た月であるが、この月のある日、南部侯吉次郎|利用《としもち》は江戸屋敷の庭の樹に登って遊んでいるうちに、足を踏みはずして転落した。利用は十六だったのだが、当時の十六は現代の十六とは違う。早い者は妻帯した。だのに樹に登って遊んだというのだから、よほど幼な気の失せない人であったのだろう。もちろん、あまり利口な人ではなかったろう。
それはかまわないとして、以後足部に異状があり、八月半ば頃には脚気の症状を呈して来た。しかし重症というほどではなかったので、それほど大事にも考えられていなかったが、二十一日に急に衝心《しようしん》して、あっという間もなく死んでしまった。
家中皆色を失った。利用はまだ将軍に初謁見をしていない。従って正式には家督相続、本領安堵を許されていない。少年のことだから、子供ももちろんない。嗣なきは断《た》つというは幕府の大法である。この頃ではそれほど厳重ではなくなっているが、それにはそれだけの形式をととのえなければならない。正式には当主でないのだから、どうしようもない。折も折だ。てっきり、領地没収、家中離散を覚悟しなければならない。
狼狽しながらも、家老、重役、その他の役人らが鳩《きゆう》首密議して、ともかくも死んだことを厳秘にして、遺骸を国許に送りかえすと同時に、国許から替玉になるべき一族の者を送らせることにした。
最も厳重な秘密裡に、利用の遺骸は棺に納められ、長持に入れられた。この長持を、前太守利敬夫人光樹院が盛岡にある利敬の廟所のある聖寿寺への奉納品を納めたものということにして送り出すのである。
八月二十五日夜、長持は十名の家臣らが護衛して、江戸屋敷を出た。
江戸を出てすぐあるのは、栗橋《くりはし》の関所である。関所役人が、
「長持一つに、あまりにも仰々《ぎようぎよう》しい人数だ」
と、怪んだので、一同色を失ったという。
百方言いつくろい、やっと検査をまぬかれた。ずいぶん金もつかったことだろう。
九月八日夜、無事に盛岡についた。かねて知らせが来ているので、支度はととのっている。すぐ聖寿寺にかつぎこんで、利敬の廟所の近くに埋葬したが、墓にすればどんなことから暴露するかわからない。埋葬した上に地蔵尊を安置し、翌年さりげなくお堂をこしらえ、延命地蔵尊と名づけた。
替玉の殿様は、遺骸の到着する前日に、江戸に向って出発していた。南部一門の家の駒五郎という少年が、似よりの年頃であるというので、国許の家老や重役らにえらばれ、花輪喜太郎という名で、供廻りもごく少く、ほんの数人にして送り出されたのである。
この替玉策はうまく行って、十一月十五日に、家斉将軍に初謁見して、無事家督相続、本領安堵を許された。秀之進師弟が捕えられた翌月である。
ついでに書いておく。この替玉殿様は文政八年七月に年二十三で死んだのであるが、その後も幕府の亡びるまでばれなかったのである。
こんな事実があるので、南部家としては、秀之進の救解など、もってのほかのことだったのだ。公儀の目を引くまいと懸命だったのだから、秀之進があんなことをして、南部家が天下の耳目の前にクローズ・アップされたことを、むしろうらめしく思っていたろうと思われる。秀之進はもちろん、主家にそんな大事がおこっているとは知らない。
昔の人は口がかたい。当時の南部家の江戸屋敷の者は、家老・重役・その他の関係者以外にも、知っている者がずいぶんあったはずだが、かたく口を閉じて、暗から暗に葬り、家中の者も大方は知らなかった。領民はなおさらのことだ。世間はもちろん知らない。ぼくも、南部史要を読んではじめて知った。
大名の家には色々なことがあるものだ。きっと他の家にも相当こんなことがあるに違いない。こうなると、小説の世界にしかないようなことも、現実の世界にはあるのである。
雑誌に発表されたあと、地名のあやまり、読み方、地理上の誤り等について、主人公秀之進の叔父英司の末孫下斗米重房氏から、懇切な訂正があったので、本書では正確であることを得た。厚く謝意を表したい。
[#ここから2字下げ]
(参考書は、下斗米与八郎編の下斗米大作伝が最もよい。編者自身の著になる伝記のほか、岩名昌山、藤田東湖、芳野金陵、蒲生|※[#「(耳+火)/衣」]亨《けいこう》等の諸名家の秀之進の伝記を収録しているほか、いろいろなものを集めている。現代の人の伝記では、友人中沢抹v君の幕末剣豪伝中の相馬大作が最も親切に出来ている。部分部分の参考書はあまり多くて挙げ切れない)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
宇都宮騒動
本多佐渡守正信・上野介《こうずけのすけ》正純父子の家は、本多平八郎忠勝の家と同祖から出て、ずっと以前にわかれたということになっている。平八郎忠勝の家は、徳川家ではなかなかの家で、忠勝の父平八郎忠高という人などは、近国に鳴りひびいた勇士であったというが、正信の家にはそれほどの人は出ていない。正信・正純父子と、正信の弟の三弥正重の三人をもって、はじめて世に語ることの出来る家となった。
正信の弟の三弥正重は、剛勇無双の荒武者であったばかりでなく、権貴をはばからず直言するというので、有名であった男だ。彼は後述のように兄正信が浪人して三河を去った時、同じ事情で三河を立去り、諸家を渡り歩いた期間があるが、天性のわがまま者で、戦場に臨むごとに抜群の武功を立てながらも、どこにも尻がすわらなかった。こんなことがあった。
蒲生氏郷の家中であった頃のこと、豊臣秀吉の九州征伐の時、氏郷に従って九州に行った。この時、氏郷は豊前の巌石《がんじやく》城をわが一手をもって攻取することを秀吉に願い出て許された。
攻撃たけなわとなった時、氏郷は味方の気勢を添えるため、みずから螺《かい》を取って吹き鳴らそうとしたが、鳴らなかった。ちょうど本陣に居合せた三弥は、じろりと氏郷を見て言った。
「総《そう》じて腰ぬけの吹く螺は鳴らぬものじゃ」
氏郷は聞きとがめ、
「われらを腰ぬけと言うのか! 推参なることを申す。おのれ吹いてみよ! 鳴らずば生《い》けておかぬぞ!」
と、怒った。
「吹き申すとも!」
三弥は螺を受取り、高々と三度吹き鳴らして、
「剛の者の吹く螺《かい》の音、しかとお聞きか!」
と言いすてるや、槍をおっ取り、そのまま城を目がけて突進し、一番乗りをしたというのだ。
この蒲生家も、城の濠で魚鳥を捕ってならないという禁令をわざと犯して、氏郷と大喧嘩して飛び出した。おのれの自由をしばる禁令などをきびしく立てられると、むずむずして、破らないではいられない性質だったのである。
後年、徳川家に帰参した。関ケ原役の時、彼はもう五十六という年になっていたのに、持って生まれた性質は一向あらたまらず、こんなことがあったと伝える。
この戦さでは、家康の本陣は桃配《ももくばり》山というところにあった。三弥は家康に、
「ご本陣がはなれ過ぎています。もっと近くに寄せらるべきでありましょう」
と進言した。家康は、
「わいらが何を知って」
と叱りつけた。三弥は黙ったが、しばらく家康のうしろに立って見ているうちに、こんどはつぶやいた。
「やっぱり遠いわい!」
人々はひやりとし、家康は苦笑したという。
こんな男であったので、数々の武功がありながらも、生涯の最後に到達したところは、わずかに一万石の身代にすぎなかった。
三弥の兄正信は、有名な本多佐渡守だ。初めの名は弥八郎。正信の家は昔は小さいながら一城の主であったが、父俊正の代からおとろえて、相当ひどい貧乏であった。大久保彦左衛門の「三河物語」によると、彦左衛門の兄七郎右衛門忠世が、正信の貧窮をあわれんで、娘の着物から塩・味噌・薪に至るまでみついでやったとある。思うにこれは家康が今川家に人質にとられていた頃から、家康が岡崎に帰って来た当座の間のことであろう。この頃の徳川家の武士らは、正信の家にかぎらず大抵ひどい貧乏であったのだ。その中で大久保家などはさすが徳川家の家老の家柄だったから、比較的に身上もよく、生活も楽で、恵む余裕があったのであろう。
正信二十六の時、三河に一向一揆が起った。一揆には百姓共だけでなく、家康の家中の者も多く加担し、この連中が主力となって、恐ろしく強かった。正信も弟の三弥も、一揆側に加担した。加担したどころか、正信は幹部の一人であった。正信は三弥と違って、少年の頃から攻城野戦の功はなかったが、知略に長《た》けていたらしく、その面の才能を買われて幹部の一人にされたのであろう。
この一揆さわぎは、家康の生涯四度の大危難の一つに数えられているほどで、家康は鎮定にずいぶん苦しんだのであるが、まる半年の後、年をこえて永禄七年三月、どうやら一揆側との和議が出来た。
その和議の条件は、
一、一揆にくみした者の本領は安堵せらるべきこと
二、寺々の僧俗はともにもとのように立ておかるべきこと
三、一揆の張本人の一命は助けらるべきこと
の三カ条であった。
家康の家臣らで一揆側となって戦った連中は、安心してことわりを言って帰参したのであるが、正信兄弟は他国に去った。おそらく、これは正信の発議であろう。鋭い男だけに、家康に契約履行の誠意がないことを見ぬいたのであろう。後年になると、その性格がもっとはっきり出て来るが、家康は相手が強大な間は実に信義を重んじ、篤実でもあるが、相手が弱いと見ると、これほどの人がなぜこんなことをするのだろうと疑われるくらい狡猾になる。三百代言でも言いそうなことを言って、横車をおすのだ。ずっと後年豊臣氏をほろぼした時の鐘銘問題がその好適例だ。この一揆の時も、帰参した家臣らにたいしては、それは彼の武力である連中であったからであろう、契約通りにしたが、二条も三条も履行しなかった。張本人は殺したし、寺々は全部破壊した。門徒らはおどろいて、
「それは約束が違い申す。寺々は前々のごとくなしおかるべしとのご誓詞でござる」
と、抗議したところ、
「そうとも、前々は寺のあったところは皆野原であった故、寺々を破りすてて前々のように野原にしているのじゃ」
とうそぶいたのである。大衆一たび散ずれば、もう力はない、一揆が結束を解いた以上、再びもう集まりはしない、たとえ少々集まっても大した力にはなり得ないと、たかをくくったのである。
これに類する家康のやり方はほかにもあるが、とりあえずのところ、この一揆の際のやり口と、後年の方広寺の鐘銘問題とを考え合せる時、家康の性格の一面がはっきりとうかがわれる。当時家康は二十三、性格のこの面ははっきりとは出ていないはずである。それを二十七の若さでありながら洞察したのだから、いかに正信が鋭敏であったか、よくわかるのである。
三河を去ってすぐかどうかわからないが、京に上って松永久秀に身を寄せた期間がある。その頃、久秀が正信のことをこう批評したと、藩翰譜にある。
「自分は徳川家から来る侍を多数見ているが、多くは武辺一点張りの連中である。しかし正信だけは強からず、柔らからず、また卑しからず、必ず世の常の人ではないであろうと思っている」
久秀は姦雄といわれたほどの男だが、卑賤から身をおこして三好家の家宰となって京畿の政治を掌上にめぐらしたり、大国の主となったりしたほどの人物だ。またこの時代の屈指の人傑たるを失わない。それがこれほどまで正信を買っていたのだから、三十に満たずして正信のすぐれた人物であったことは明らかである。
この後、加賀に行き加賀の一向一揆を指揮した。加賀の一向宗門徒が一揆をおこして国主の富樫氏を攻めほろぼし、一向宗王国を建ててから、この時まで約八十年になって、加賀一国には別段それほどの問題はなかったのだが、加賀にあふれる一向宗のエネルギーは隣国越前に向かって突出しようとする。それには越前地方に多い一向宗門徒の希望も大いにあったのであろう、しばしば越前に侵入して、国主の朝倉氏と抗戦した。正信は本願寺から頼まれて、その指揮者の一員として、加賀に入ったのであろう。しかし、あたかもこの頃越前に流落して来た足利義昭の仲介で、永禄十年冬、加賀の門徒と朝倉氏の間に和議が結ばれたので、正信は用のないことになった。しかし、なお加賀にとどまっていた。山中という所にいたという。温泉のある山中であろう。
徳川家に帰参したのは、それから十五年目の天正十年である。この間に織田信長は天下人となり、越前も加賀もその所領となり、武田信玄も上杉謙信も死んでしまった。この年の三月には武田氏もほろんだ。すさまじいばかりの世の変遷である。この武田のほろんだ直後に、家康から召還の使者が加賀の正信の許に来た。これは、大久保忠世のとりなしであった。大久保彦左衛門老人が、三河物語で、忠世は正信が三河に置きざりにした娘を養育したばかりか、この時も取りなして帰参出来るようにしてやったと書いているからだ。
この時の使者の口上では、家康は信長と同道して京都に上る予定になっているとのことであったので、正信は加賀を出発して、江州大津まで来た。すると、家康はすでに京に上り、泉州堺見物に出発したというので、追っかけて行こうとしているところに、本能寺の変がおこった。
正信はそれでも追いかけ、堺を引上げて来る家康に逢った。家康は途中で本能寺のことを聞いて、途方に暮れているところであった。正信は帰参の手はじめに、その知恵を出す。宇治の町人|上林《かんばやし》喜庵と相談して、伊賀路を通って帰国する計略を立て、見事に成功した(藩翰譜)。この説は普通伝えるところと違うが、白石は証人をあげて、以上のように書いている。
三河物語によると、帰参してからの正信の役目は鷹匠で、知行は四十石であったという。彼は隼《はやぶさ》を使うことが若い時から上手であったというから、大久保忠世もその技能を言い立てて取りなしたのであろうし、家康も敵対して自分の許を立去った者であるから、一先ず賤役につけて微禄をあてがったものであろう。
家康の許に帰参した時、正信は四十五という年になっていたが、参謀役として最も練《ね》れた人がらになっていたようである。彼は決して家康の前で滔々と事を論ずるようなことはなかったという。後に土井利勝が石谷《いしがや》将監貞勝(三代家光・四代家綱時代の江戸町奉行)に語ったこととして、こんな話が伝えられている。
慶長四年の春、加藤清正・福島正則・黒田長政等の七人の武将らが、石田三成が彼らの在韓中の武功を正しく故太閤に報告しなかったと怒り、三成を殺そうとしたことがある。三成は窮して、大坂を逃れて伏見に行き、家康の庇護をもとめた。家康は石田を庇護し、七将らに最も強いことばで訓戒して、ことをおさめたのであるが、石田が庇護をもとめて来た夜、正信は夜更け家康の屋敷に行き、咳をしながら寝室のとなりの間まで来て、宿直《とのい》の者共に、
「今夜はえらい早うお寝《やす》みになられたな」
と言った。家康は聞きつけて、寝間から、
「今時何の用で来たのじゃ」
と声をかけた。
「別のことではございません。石田がことどうご思案かと存じまして」
「そうよ。わしもそれを考えていたところじゃ」
すると、正信は、
「ご思案になっているとあれば、安心であります。申し上ぐべきことはございません。お暇いただきます」
と言って、そのまま帰って行ったというのである。
石川丈山は若い頃は石川嘉右衛門とて家康に近侍していた者であるが、こう言っていたと、やはり藩翰譜にある。
「正信は大御所の申されることが気に入らぬ時には、居眠りしている様《さま》をして、何にも言わなかった。わが意に合うと思う時には、うんとほめ申した。自分が大御所に多年つかえている間に、大御所が正信とことを謀り給うたと見えたことはたった二度しかない。一度は大御所が正信のすわっているところをお通りがかりに立ちどまって、何ごとか二言三言仰せられたところ、正信は大へん誉めて、ようござる、ようござると言った。もう一度は、大坂冬の陣がおこって和議になり、大御所が京に引上げられた時、ある者を召して、『汝《われ》は大坂に行って将軍(秀忠)に、わしは何日に駿河に帰ろうと思うていると申せ』と仰せられたが、仰せられながら正信の方をごらんになって、『佐渡はどう思う』と仰せられたところ、正信は例の通り居眠りしていて、返事をしない。大御所は大きな声で、『やあ、佐渡守!』と呼びおこされた。正信は眼をひらいたが、ものは言わず、右の手を上げて、物を数えるように指を一つ一つ折っていたが、やがて言う。『大殿よ、大殿よ、何年か前に伏見のお館で、正信が申し上げましたことを忘れ給うな』大御所はしばらく思案される風であったが、使者を命じた者の方を向いて、『先ず今日は使はつかわすまい』と仰せられて、奥へお入りになった」
正信の参謀ぶりが、目に見えるようである。決して目立つようなことはしないのである。日常に家康とことを謀り定めておいて、切所ではごく暗示的にしか言わないのである。理想的な策士ぶりと言ってよいであろう。
正信が、家康の近臣らが家康の機嫌を損じた際のとりなしぶりがおもしろい。家康が激怒して叱りつけていると、正信もまたおそろしい剣幕《けんまく》で叱りつける。ガミガミ、ガミガミとやるので、当の家康は気をのまれて、いささか気の毒になる。ここで、正信の態度がひらりとかわる。
「その方の祖父はどこどこの戦さでしかじかの武功があり、しかじかの見事な性質であった。その方の父はしかじか、このようにその方の家は代々忠節をつくして、お家には大事な家じゃ。その方もまた若年ながらしかじか、りっぱに家を立てることの出来る人がらじゃ。かかる過ちをしでかすということがあるものか。わしがお詫びを申してやる故、よくお詫び申し、以後はあやまることのないよう気をつけよ」
と言って、家康に詫びてやって、ことを治めたというのである。老練、おどろくべきものである。
正信の参謀ぶりは以上のようであったので、どんなことにどんな手柄があったか、大方は世には知れない。しかし、家康が終世最も信頼して、老臣の首席としていたのだから、本能寺事変以後、豊臣家が滅亡するまでの四十数年の間の家康の事業は皆正信の画策によるものであると考えてよい。
彼はかほどの功績がありながら、わずかに三万石の身代でおわった。さすがにケチな家康も気の毒になったのであろう、所領を増してやろうと言ったところ、正信は、
「拙者は大殿のお恵みによって、そう富んでもいませんが、貧しくもなく、ちょうどよいかげんのところでございます。その上、天下の政にたずさわらせていただいていますために、諸家から毎々《まいまい》進物がございます。今朝なども何々家から名物の壺に金銀を一ぱいつめたものをもらいました。二三日前は何々家から古名画をもらいました。このような風で、何の不自由もございません。されば、ご加増はご無用にしていただきたく、同じことならそのご加増分は他の武勇の者におあてがい下さいますように」
と、かたくことわった。
その死んだのは、元和二年六月七日、家康の死を去ることわずかに五十日であった。行年七十九。
正純は永禄八年の生まれである。三河の生まれであるというから、父正信が三河を立去ってから生まれたのであろう。幼名は千徳、後に弥八郎と称した。系図を見ると、弥八郎は本多家の通称であったことがわかる。
正純は幼少から家康につかえ日夜に近侍し、天正十年の頃にはもう奉行の一人として政治に参与したと、高柳光寿博士が新撰大人名辞典に記述している。天正十年といえば、彼は十八歳だ。父正信の帰参した年だ。夙成《しゆくせい》の才人だったのであろう。父の不在中に小姓として呼び出して召使われたのである。
家康は正純の才を愛して、若年の時から重く用いたが、慶長十年四月に隠居して大御所と称せられ、駿府に住むようになると、正純を自分づきの老中とし、正信を秀忠将軍の老中首席として江戸におらせることにした。この時、正純は四十一であった。
正純は正信のように多難な人生行路を送らなかったためであろう、才気が鋭く出過ぎて、ふくらみのない人がらであったようだ。その一例話として、新井白石はこんな話を書きのこしている。
ある時、正信が正純にこんな話をした。
「昔、大殿がまだ浜松のお城にお出でになった頃のことよ。ある日、大殿が外勤《そとづと》めの侍を三人召されて、ご用を仰せつけられたことがあったが、中の一人が後にのこって、ふところから一封の書面を取出し、自ら封を切って差上げた。
『それは何を書いたものか』
と、大殿がおたずねになると、
『これはわれら年来、お諫め申したいと思うことを書きつらねたものであります。今日はよいついでと存じますので奉るのでございます』
と答え申した。
大殿はいともごきげんよく、
『ああ、それはぜひ聞きたい。そこで読め』
と仰せられた。
その侍はよろこび勇んで読みはじめた。大御所は一条がおわる毎に、
『もっともだ。よいことを申してくれる』
とおほめになった。かくて、十数条読みおわると、大御所は、
『その方が今読み上げたことは皆一々もっともなことである。まことにためになった。今後とも、気づいたことは、必ず遠慮なく申してくれるよう。わしがためを思ってくれる忠志のほど神妙の至りであるぞ』
とねんごろなるご感賞のおことばを賜わったので、その者はまことによろこんで退出した。
わしは折ふし御前にいて聞いていたので、大殿は、唯今のなにがしの申条をどう思うかとお尋ねであった。わしは一条として感心していなかったので、正直に申上げた。
『すべてどうでもよいような枝葉末節のことばかりで、お取上げになるほどのことは一条もないと聞きました』
とする、大殿はお手を振って仰せられた。
『いやいや、そう申してはならぬ。これはすべてあの者が知恵のかぎりをしぼって考えたことじゃ。知恵のおよばぬはいたしかたがない。わしは、あの者が年頃考えつづけて、わしを諫めようと思いつづけて来た志がうれしいのじゃ。人間というものは自分の過ちはわかりにくいのじゃ。わかっていれば、誰も過ちはしない。これでよいと自足しているところに過ちに陥る|わな《ヽヽ》がある。下々の者は親族や朋友というものがあって、互いに忠告し合う故、自らの過ちを知って改むる便りもあるが、身分|貴《たか》くなると親戚があっても遠慮して言うてくれぬ。朋友もまたない。朝夕仕える者は主人の心に逆《さから》わぬようにとばかり思っている。たまたま諫めるにしても、小さいことは言わず、大きい過ちしか申すまい。大きい過ちとなれば、もう気づいても手遅れになっていることが多いものだ。小さいことを諫めてくれるのは、まことにありがたいのじゃ。わしはそれがうれしく、また人々の諫言の路をひらくためと思うて、ほめてやったのじゃ』
と、かように仰せられた。
まことにありがたいお心である」
と語って、正信は涙をこぼした。
正純は聞いていて、
「それは誰でございました。またいかなることを申上げたのです」
と、たずねた。
すると、正信はおそろしく不機嫌になって、
「その人の名を聞き、そのことを聞いて、何の益があるぞ。くだらぬことを知りたがるものでない」
と、言ったという。
白石は、「この問答にて父子のあひ(間、距離)遠きこと量り知るべきにや」と評語しているが、同感である。急所だけ知れば、用なきことは知る必要はなしとする正信と、何でも知らずにはいられない正純とは、人間としての鍛練の差があると見てよいであろう。
正純の鋭きにすぎる話を物語るに恰当《こうとう》な話がある。関ケ原役の時、家康は東海道を上り、秀忠は中山道を上った。秀忠には正信が補佐役としてついていた。
この秀忠の軍勢が信州上田で真田昌幸の軍勢にせきとめられ、ついに関ケ原の大合戦に間に合わず、秀忠は家康の不興をこうむり、数日家康は父子の対面もゆるさなかったことは、有名な話である。
この時、正純はこう言ったという。
「若殿が上田で手間取られて遅参いたされましたのは、付添い申していた父の責任でございます。父の罪を正し給うて、若殿とご対面あるように」
正純の説は純理論としては正しい。昔から優秀な官僚にはこういう説をなす者が多い。秦の商鞅《しようおう》、李斯《りし》、漢の晁錯《ちようそ》、わが国では伴大納言善男、梶原景時、などというのがその例だ。しかし、人の子として言うべきことではない。人情に遠いのである。それを敢て発言したところに、正純のいかにも優秀官僚らしいところがあり、同時に人間としてのふくらみに乏しかった点がうかがわれるのである。当時の人も、
「正純は必ず終りを全うしないであろう」
と言ったという。
正純の大功としてはっきりとわかっているのは、大坂冬の陣和議にあたっての働きだ。
徳川方から出した講和条件の一つに、城の惣構え破却というのがあった。和議の交渉にあたったのは正純であったが、彼は、
「惣構えとは、城全体をとり巻いている外濠の意でござる」
と説明した。それで、大坂方も承諾して、和議が成立した。
この条件実行の任にあたったのが、また正純だ。彼は徳川方に属して出陣した諸家から多数の人数を出させ、民家をこわして、その材木を濠に投げこみ投げこみ埋め立て、城壁をこぼち、忽ちの間に外濠と外壁を破壊し、さらに息をもつがず、三の丸、二の丸にかからせ、これまた濠から石垣、建物に至るまで、全部破壊にかかった。
城内で、淀君はおどろいて、お玉という女中を使者としてつかわし、正純を詰問させた。正純ははじめて承知したおももちで、
「それはけしからぬことでござる。どうしてさような間違いをしでかしたものか。拙者は全然知らぬことでござる。早速に差しとめます」
と言って、お玉をともなって現場に行き、現場の奉行をしている成瀬|隼人正《はやとのかみ》と安藤|帯刀《たてわき》とに、中止を命じ、同時にそっと目くばせした。
二人はかしこまったという。
正純はお玉に、
「ごらんの通りに申しつけましたれば、ご安心あれよ」
とあいさつして、立去る。
お玉は一先ず安心しながらも、なおとどまって検分していると、成瀬と安藤とは、
「上野め、推参なることを申す奴じゃ」
と言って、人々をさしずしてエイヤエイヤと破壊を続行しはじめた。
この間、成瀬はお玉に、
「さてもそなたは眉目《みめ》といい、姿といい、美しいお人でござるな」
などとからかったが、安藤は血眼《ちまなこ》になって、人夫らを叱咤激励して、破却を急がせたというのだ。
城内では、お玉が帰って泣く泣く報告したので、また抗議の使者をつかわしたが、破壊工事はすでにすみ、正純はもういない。そこで、京にいる家康に抗議したが、これは父の正信がうまくさばいて、もうどうにもならない。かくて、さしも堅固であった大坂城は、本丸だけをのこして、丸裸の姿となり、数カ月後におこった夏の陣に、わずかに数日の戦さで陥落したのである。
正純の取ったこの辛辣な術策は、もとより家康に言いふくめられたものであるには違いないが、見事にしとげたのは正純の功績だ。徳川家にとって大功であることは論を待たない。
本多父子は、父子ともに老中となり、とりわけ家康が駿府に隠居してからは、父は江戸で幕府の老中筆頭となり、子は駿府で大御所づきの老中となったので、その威勢はなかなかのものであった。
大坂の役のおわった翌年元和二年四月、家康が駿府で死んだ。家康は秀忠に将軍職を譲った時、ずいぶん多くの金銀財宝も譲ったのだが、なお相当なものを隠居|金《がね》として保持していたばかりか、大坂落城の時大坂から持って来たものや、諸大名からの献上もおびただしかったので、刀剣や道具類を別にして金銀だけでも数十百万両という巨額であった。
正純はこの遺産を一人で始末したのだが、ご三家と、その生母らと、家康の侍妾であったお茶の局とには、お遺金《かたみきん》という名目でそれぞれに分配した。しかし、秀忠には一文も渡さず、全部久能山の宝蔵に格納した。
この処理は、正純としては信念にもとづいたものであったろう。
「ご三家は特別なるご格式のご分家である。従ってその母君方も特別なご格式のある方々である。これにお遺金《かたみきん》をご分配申すのは当然である。お茶の局は家康公のご側室方中最もご信頼が厚かったばかりでなく、政治上にもなかなかのご功績があった(大坂陣途中の和議に淀君に大いに働きかけている)方であるから、これにご分配申すのは、これまた当然である。将軍家は徳川家の御当主である。御分配するまでもなく、大御所様の御遺産は当然全部将軍家のものである。久能山の御宝蔵におこうと、江戸に運び下して紅葉山の御宝庫におこうと、かわりはない。しかし、これは特別なものとして、不時の御用に立てられるために、久能山に納めおいた方が適当である」
というのが、その理論であったろう。
まことに整々として一糸乱れないのであるが、複雑な人間構成の唯中《ただなか》では、理論的に正しいからといって、そのままに実行してよいことはきわめて稀である。そこに工夫がなければならない。もし、これが父正信ならば、理屈は理屈として、実行にあたっては、角《かど》立たないようにいろいろと工夫して、多分、秀忠に言上し、江戸の老中らとも相談し、その了解を得た上で、ことを運んだと思われるのだが、正純は一切独断で、テキパキと実行し、江戸には事後に報告したに過ぎなかった。
秀忠にしてみれば、自分のものであると言われただけで、久能山におあずけを食ったのだから、心がおだやかであろうはずがない。必ずや、
「いやなやつ。出過ぎたやつ。かかることを、一人の量見で勝手に処理して、事後の報告だけということがあるものか、僭越である」
と、思ったに相違ない。
秀忠はおそろしく父を恐れ、遠慮ばかりしていた人だ。その父の生前、父付きの老中として父の命をもっていろいろと臨んで来る正純にたいしては、常に圧迫者の感があり、「いやなやつ」という気持があったろうことも考えられる。
秀忠がこうなら、秀忠付きの老中らも似た感情を抱いていたであろう。首席老中である正信は父子のことだから、そう思おうはずはないが、正信以外の老中らは正純によい感情を持たなかったと見ても見当ちがいではあるまい。この遺産処理についても同断だ。
正信は家康にわずかに五十日おくれて死んだのであるから、それ以後は幕閣の空気は、将軍をはじめとして全老中皆、正純にはいい感情を持っていなかったと見てよい。
こういう空気の幕閣に帰って来て、正純は老中となったのである。その頃、おこったのが、坂崎出羽守事件だ。
一体、あの事件は、家康が千姫を坂崎にくれると約束したという説があり、千姫の再縁先の周旋を坂崎に依頼したという説があり、定説がないのであるが、ぼくはいろいろな点から考えて後説がよかろうと思っている。この説に従えば、坂崎は熱心に千姫の再縁先をさがして、京のさる堂上家と約束をかためたところ、千姫は本多忠勝の孫の忠|刻《とき》に思いをかけ、これに秀忠夫妻も動かされ、本多家に入輿させることにきめ、坂崎にこれを通じた。この頃は家康もまだ生きていて、家康も承知していたのである。しかし、坂崎は納得しない。
「それでは拙者の男が立ち申さぬ。本多家の方こそ破談にして、姫君は拙者の取りきめたる先へご縁づけ遊ばすようなされたく、強《た》ってお願い申す」
と、言い張る。
幕閣では様々に説得につとめたが、強情な武士の多かったこの時代でも、坂崎は強情を以て鳴り、それを誇りにさえしている男だ、納得出来申さぬと突ッぱねる。
その間に家康は死んだが、本多家との縁談はどしどし進行して、入輿の日取りも決定した。坂崎の怒りは絶頂に達した。
「お公儀がそのおつもりなら、拙者にも覚悟がある。ご入輿の行列を道に要して、姫君を奪いとり、京へお供申すだけ」
と、公言して、その用意をはじめた。
これを聞いて、在府の大名らは、すわこそ合戦がはじまると、それぞれ用意をはじめたので、江戸中騒然となった。
あぐねはてた幕閣では、老中らが相談したところ、坂崎家の家老にたいして、
「その方共の主人の公儀の命に違反するの罪は許しがたい。しかし、もしその方共が主家の存続を願うなら、主人をすすめて自害させよ。さすれば、出羽守が子を以てあとを立ててつかわすであろう」
との奉書をつかわそうという意見が出て、同意する者が多かった。しかし、正純はこう質問した。
「坂崎家の家老らが、奉書の旨を奉じて主人に腹を切らせたなら、確かに坂崎家をお立てになりますか」
なぜ正純がこう質問したかと言えば、奉書の表面はすすめて自殺させよであるが、家老の諫言くらいで切腹する出羽守なら、こんなになるまで意地を張りはしないのだから、つまりは殺せという含みがあるからなのだ。
老中らは、
「出羽守ごとき謀反人のお家を立つること、以てのほか。これは計略でござる」
と言った。
正純は容《かたち》を正して、
「しからば、拙者は反対でござる。天下の将軍家として、大名共の不臣を罪するために、その大名の家来に不臣をすすめ給うなど、あってしかるべきこととは存ぜぬ。すべて天下の政治は信義の上に立つべきものと、拙者は心得ます。出羽守が不臣の罪を正さんとならば、堂々と罪を鳴らして軍勢を差向け、蹈みつぶしてしかるべし。堂々たる天下の府が偽りを行い、天下の風俗を乱すなど、あってしかるべきこととは存ぜぬ」
と主張したが、他の老中らは聞入れず、衆議一決したので、
「しからば、拙者はこの御奉書には連署いたさぬ」
と、連署をしなかった。
これは藩翰譜にあることで、新井白石は、「この一言、天下の名言なりというべしと、当時大目付であった柳生但馬守宗矩が常に感嘆していた」と、ほめているが、また、「彼が他の老中らとなかの悪かったことも推察される」と論評している。確かに他の老中らと融和しないところがあったようである。
正純は家康の老中をつとめ、さらに江戸の老中となった頃までは、野州|小山《おやま》で五万石を領していたが、家康の遺言があったので、元和五年に一挙に宇都宮で十五万五千石の大封を領することになった。家康のこの遺言は、宇都宮が関東北部の要地で、とりわけ江戸防衛上大事なところで、忠誠心あり、手腕ある人物に守らせるべきであるというところから出たものであろうが、報いることあまりに薄かった父正信にたいする報いを、子の正純に報いるためもあったろう。もちろん、正純自身がよほどに家康に気に入られていたからであり、世に知られていない正純の功績もずいぶんあったろうことも推察される。
前に書いた通り、正信は三万石になったのを自らの限度として満足し、せっかく家康が加増してやろうといったのをことわったほどの人であるから、正純にたいしても、
「身代の大きくなるのを望むな。現在の身代で満足するのが、長久に幸福を保つ道である」
と、いつも教訓していたというが、父ほど複雑な人生行路を経ていない正純には、この処世哲学は理屈としてはわかっても、衷心《ちゆうしん》からの同感は出来ない。大御所様のご遺言であると言いわたされると、よろこんでお受けした。
これも老中らの胸に正純にたいする嫌悪《けんお》をつのらせた。一体、徳川家の方針として、譜代大名は多くは二三万石、せいぜい七八万石、十万石以上は三四軒にとどめ、なかにも老中となる家は、七八万石以下二三万石の家ときめてある。権力と財力とを併せ持つことが出来ないようにしたのだ。十五万石以上の家となると、井伊家と千姫をもらって加封された本多家以外にはない。正純は現職の老中にして、この大封の主となったのだから、老中らの嫉妬心が挑発されたのも道理だ。たとえ大御所の遺言であっても、宇都宮が重要な土地であることがわかっていてもだ。それどころか、かえって強く挑発されたろう。武士というものは、今日の我々が概念的に考えるよりはるかに嫉妬深かったのである。これが正信なら、もちろん、何とか辞をもうけて辞退したであろうし、どうしても辞退が出来ないなら、老中の方は辞職して、同僚の嫉妬をやわらげる工夫をしたにちがいない。しかし、多年権力の座にすわりつづけて来た正純は、権力にたいしても強い執着があって、辞職など思いもよらない。正純が没落しなければならない運命は、ほぼこの時に定まったのである。
正純の宇都宮移封をよろこばない人間が、老中以外にもいた。前の宇都宮城主であった奥平家の人々である。
当時の奥平家の当主は奥平忠昌であった。忠昌の父は家昌、その父は信昌。この人は長篠合戦の時、長篠城を堅守して、武田勝頼の猛攻に屈しなかった武功の人だ。徳川家にたいしてこのような大功績があるので、家康はひとしお目をかけて、自分の長女の亀姫をこれに縁づかせた。亀姫はつまり秀忠将軍の姉であるから、大へん威勢があった。奥平家は信昌とこの亀姫の間に生まれた家昌の代に、宇都宮十万石の領主となったのだが、家昌が慶長十九年冬、二十八歳で死んだので、忠昌があとをついだ。ところが、忠昌はこの時やっと七つという幼さだ。宇都宮は東北大名がもし不軌《ふき》の心を抱いて南下して来るようなことがあった際は、先ずここで食いとめなければならないのだが、そこの城主がこんな子供では、不安だ、というので、家康も正純をここに封ぜよと遺言したわけだ。
この国替えに、何しろ亀姫という将軍家の姉君が忠昌の祖母としてにらみをきかしているので、幕府ではずいぶん気をつかい、一万石加封して十一万石として下総古河に移すことを申渡した。
しかし、宇都宮は関東北部の要鎮であるばかりでなく、美地なのである。ここでの奥平家の所領も、表高は十万石であるが、実収は十四五万石の土地に匹敵するほどであった。一万石くらい加封されたって、うめ合せのつくものではないのである。皆、不平であった。とりわけ、亀姫ばあ様は腹を立てた。
一体、戦国時代から江戸初期にかけての女性は、上流階級の人でもほとんど無学で、学問によって心魂を陶冶される機会がないので、女性特有の量見の狭さ、強い我執、偏狭な感情性、生地《きじ》のままである人が多かった。継《まま》子いじめの事実なども、この時代が一番多い。とりわけ、家康の女《むすめ》は、天下人の子として世間から大事にされることが一方でなく、大ていな要求が遂げられるところから、とくに強烈であった。池田輝政に嫁いだ督《こう》姫(おふう)などという人は、自分の生んだ子に池田家の身代を全部相続させたくて、先妻の生んだ子を毒殺しようとまでしている。亀姫もまた一通りならず気の強いわがままな人だった。孫の忠昌の可愛さに、目がくらんでもいる。
家康の真実の遺言ではなかったと思っている。
(上野めが、病みおとろえて、半ばぼけていなさった父君をだまくらかして遺言させ申したのじゃろう。知れたことじゃわい。将軍殿も将軍殿、他の老中衆も老中衆じゃわ。そこの分別もつかいで、上野めの舌先にまるめられて、何たることじゃ。|きも《ヽヽ》の煮えることじゃわ)
と思いこんで、江戸城に乗りこみ、秀忠に会い、
「奥平の家は九八郎信昌以来、ご当家にとっては重々の忠功のあるお家でござる。こと新しくわしが申さいでも、わかってござろ。それを、当代の忠昌が幼いというだけのことで、取上げて他に移れとはあまりではござらぬか。主人は幼うても、九八郎以来の武勇の家でござる、戦さ馴れた家来共がたんと居申す。どんなことがあっても、立派に敵を食いとめる覚えがござる。聞えぬなさり方でござる。たとえ、父君の御遺言にもせよ、わしは合点の行き申さぬことがござる。上野という男は、知恵者でござるそうな、弁口も達者でござるそうな。しかし、いつの戦さに高名したことがござるかや。わしはこの年まで、ついぞ聞いたことがござらぬ。武勇の家であるとの名のかくれのない奥平家から取上げて、てんで武功を立てたとは聞いたこともない上野にくれなさろうとは、聞えぬご遺言でござる。たとえご遺言でござろうと、ここは御当主たるお前様の分別どころでござるぞ。どうぞや、とくとご分別下され」
と、口説き立てた。秀忠も正純を好きではないが、すでに発令したことだ、いくら姉さまの嘆願でも、聞くことは出来ない。
亀姫ばあ様は不平満々で帰ったが、こうなると、将軍家は正純に巻かれ切っていると思って、一層正純がにくい。
(あの腹黒男め! ようも、ようも! それにつけても、かわいそうなは、孫殿じゃ。大御所様の曽孫《ひまご》じゃというに、宇都宮のようなよいところを取上げられて、古河なぞに移されて。胴欲な上野め! にくい上野め!)
と、うらむことが一方でない。
ご隠居様がこうなので、奥平の家中全部がそうなった。
ばあ様が正純をうらむことが、さらに重なった。
亀姫はいやいやながら宇都宮を立ちのかなければならないのだから、古河での普請用と称して、城中の竹や木を全部伐りとったばかりか、城中から家中の侍屋敷の畳・建具まで、運び去ることを命令し、それをやらせた。
このことを検分に行っていた正純の家来が正純のところへ報告した。この時幕閣の出した、城の受渡しの差図書には、
「城中の諸具中の城付きのもの、城内の竹木、また城についている士《さむらい》屋敷の、その屋敷についている諸道具、竹木等は、そのままにさしおいて、伐取ったり、持去ったりしないこと」
と、明記してある。だのに奥平家がこんなことをしたのは、この差図書は正純が幕閣内にいてさしくって決定したのだと、亀姫が判断したからである。ばあ様は意地にからんで来たのだ。
報告を受取って、正純はもちろん腹を立てた。早速人数をつけて使者をつかわし、厳重に抗議し、押収して取りもどした。
とくに差図書がなくても、城付きのものを持去っていけないくらいのことはわからなければならないのだが、そこが身分は高くても無学で、その上わがままな生活に心おごっている女だ、かえって腹を立てた。
「上野め! お手盛で勝手にきめた差図書を楯にとって!」
と、益々腹を立てた。
このばあ様にこうまでうらまれては、こわい。何しろ、将軍の姉君として、将軍と打ちとけて対談の出来る人なのだから。正純は知らずして、没落への道をさらに数里進んだことになったといえるであろう。
奥平家に数年前からお預けになっている堀伊賀守利重という人物がいた。もとは下総の香取で一万二千石の大名だった男である。この男は故あって、本多家――正信と正純とに深いうらみを抱いていた。
話は少しさかのぼる。
慶長十九年――大坂冬の陣のはじまったのは、この年の十月だが、その十九年の正月、幕府は京都のキリシタン弾圧のために、相州小田原の城主で、老中でもある大久保|忠隣《ただちか》を上京させた。忠隣は十七日に着京して、藤堂高虎の屋敷を旅館として、当時四条通りにあった二つの教会を破壊し、バテレンを追放し、教徒逮捕にかかっていると、その翌々日十九日だ、江戸から所司代板倉勝重の許に急使が到着して、
「忠隣の城地を没収し、忠隣は江州|栗太《くりもと》郡中村郷に蟄居させよ」
という上意を伝えた。
板倉はおどろいた。大久保家は徳川家の譜代の家来であるばかりでなく、酒井家とならんで代代徳川家の家老をつとめ、徳川家が亡国になんなんとした艱難の時期にも、決して忠誠の念を忘れず尽して来て、徳川家にとっては最も大事な家だ、しかも、当の忠隣は本多正信とならんで老中の最上席にある人だ。正信は手腕をもって家康の信任を得、忠隣は家がらと父祖代々の忠誠をもって信任されていたのだ。かほどの家、かほどの人を、はっきりした理由も示さず、改易を命ずるとは、どうしたことであろうと、大いにいぶかしく思ったが、主命である、板倉もつらいことであったが、翌二十日、忠隣を呼んで、上意を伝達した。
忠隣はおどろいたが、当時の主従の道は、主命にたいしては納得《なつとく》出来ずとも従わなければならないことになっている。お請けして、近江に立退いた。幕府は中村郷で五千石の所領をあてがった。
つまり、幕府が忠隣をキリシタン処分の総裁として上京させたのは、抵抗を封じて、処分をスムーズに運ぶための術策だったのである。
大久保家にたいする、この突然の処分の理由については、各説あって、今日でもはっきりしたことはわからない。
一説では、大久保|石見《いわみ》守|長安《ながやす》事件に関係があるという。大久保長安は、本名を大蔵藤十郎といって、甲州武田家の猿楽《さるがく》(能楽)師であった。武田家の亡んだ後、猿楽師として徳川家につかえていたが、金銀山のことにくわしかったので、やがてその方で家康に用いられ、諸国の金銀山を開発し、家康に気に入られること一方でなかった。ついに家康は大久保忠隣に命じて、藤十郎に大久保の名字をあたえさせ、石見守に任官し、武州八王子で三万石の領地をあたえた。かくて、藤十郎は大久保石見守長安という大名となった。一体、日本では能楽の徒は、江戸中期までは賤民だったのだから、大出世したわけである。
長安は石見銀山、佐渡金山、伊豆金山等の奉行をかね、全日本の鉱山を総管し、自ら日本の総代官と称して、相当僭越なふるまいもあったのだが、なにせ、金銀をもうけてくれることに大手腕があって、家康の気に入られていること一方でない上に、権勢家である大久保老中の一族ということにもなったので、さすがの正信すら一目おかざるを得ないほどの勢いであった。
この長安が、慶長十八年四月に死んだ。長安は稀代の好色漢で、数十人の妾があった。その好色ぶり、その驕奢ぶりについて、当代記にこうある。
彼は佐渡や石見等の金銀山に年に一度ずつ出張したが、その道中の行列は、妾七八十人を召連れ、その他の女中二百五十人、花やかに出で立たせ、男の家来らが供をして、ぜいたくの限りをつくして往来したというのである。
彼はかねてこの妾共に、自分が死んだらそれぞれに金銀をかたみとしてあたえるという書付を渡しておいた。妾らは旦那が死んだので、長安の長男の藤十郎に書付を見せて、金銀を要求したところ、よくあることで、藤十郎はケチをかまえて、なんのかのと言って応じない。妾らはこれを訴え出た。幕府では受理して取調べにかかってみると、石見守の所蔵している金銀財宝はおびただしいものがある。金銀子それぞれ五千余貫、その他金・銀でこしらえた道具類が無数にあって、役人らは仰天した。これらのものが正当な収入からの貯蓄でなく、ピンはねしたものであることは言うまでもない。幕閣はどよめいた。
そのうち、妾の一人が言う。
「石見守様のお寝間の床下に穴蔵がありますが、大事なものは皆大きな石の箱をつくり、それに納めて、そこにおいてございます。石見守様は誰にもそれを知らさず、鍵をご自分でお持ちで、ご自分で出し入れなさっていました」
それ! とばかりに調べてみると、言った通り、穴蔵があり、頑丈な箱があった。ひらいてみると、中には数通の書類がある。それは皆異国と取りかわした文書、謀反の連判状、ヤソ教の伝法書等であったので、幕府では長安の家を改易し、その子供ら、弟ら等は切腹させ、一族根絶やしにした。
大久保忠隣は家康の命によって、長安を一門に列しさせたのだが、長安の生きている間は、ずいぶん豪奢な生活をしていた。たとえば、彼は茶の湯好きで、千金をおしまず、凝った数寄屋《すきや》や庭園などをこしらえ立て、諸大名やその使者らにふるまい、引出物として名馬をくれるなど常のことであった。そのために、彼は奥州から名馬を多数買いこんで、江戸屋敷と小田原城とに用意していたという(聞見集)。忠隣の所領は息子の忠常の分と合しても六万五千石しかない。長安からの援助があったから、こんなことが出来たのだと断定して誤りはないであろう。
その上、忠隣は家柄と多年の奉公を自負して、奉公ぶりにわがままな点があった。たとえば嫡子の忠常が小田原で病気になった時に、看病と称して小田原へ行って三年も江戸に出て来なかったりして、家康のきげんを損じたことがあった。
このような風であるところへもって来て、忠隣は両雄ならび立たずで、本多正信と折合が悪かったので、長安事件がおこると、正信が忠隣のことを家康にざん言したので、家康も心動き、忠隣処断に踏切ったのであるというのである。
一説によると、忠隣は大坂の豊臣氏に同情的であった。彼は千姫が秀頼の許に入輿した時、付添って大坂に行ったので、秀頼夫妻の円満長久を願って、常に大坂にたいして同情的であったが、家康は老境に入ってわが余命いくばくもないと思うにつけても、豊臣氏の処分にあせって来たので、忠隣の存在が邪魔になって、正信と相談して、この処断をしたというのである。
また一説によると、大久保長安事件には最も恐るべき意外な事実が伏在していたらしいというのだ。長安は佐渡金山の奉行を兼ねていたから、いつも江戸と佐渡との間を往復していた。その往復には高田を通る。当時高田の領主は家康の六男忠輝であった。長安は家康に忠輝の後見役を仰せつかっていると言って――これは長安がウソを言ったのだということになっているが、長安が死後追罰されたのでウソということにしたので、実際に命ぜられていたと思われる。生きている間は、家康の長安にたいする信任寵遇は一通りのものではなかったのである。ともあれ、長安は越後家の顧問となって、いろいろ口ばしを入れ、自由に藩政を処理し、権勢をふるったが、忠輝にも気に入られていた。
忠輝の妻は伊達政宗の女《むすめ》である。政宗は稀世の野心家だ。晩年にはとてもどうにもならない世の中とあきらめたが、この頃はまだ五十前、脈々たる壮心がある。
ついに、三人の間に天下取りの陰謀がめぐらされる。忠輝を将軍としようというのだ。もっとも、長安は忠輝を将軍に立てて自分は執権になる計画だったろうが、政宗は忠輝も長安も天下を取るまでのダシに使い、成就の暁は自分が取ってかわるつもりであったろう。
以上はもちろん推理説で、はっきりした証拠のあるわけではないが、政宗がこの頃|支倉《はぜくら》六右衛門常長をローマ法王庁に使に出した事実、政宗の築いた仙台青葉城に帝座の間と称する書院の間があったこと、長安事件の際、長安の地下室から出た秘密の箱の中に異国交通の文書や、謀反の連判状があったと伝えられること、大坂役の時のわずかな失策を理由に忠輝が家康の勘当を受け、何とわびても赦されず、家康の病気篤しと聞いて忠輝が駿府まで駆けつけたのに決して面会を許されず、ついに死に目にも会えなかったばかりか、すぐに家を取潰され、伊勢の朝熊山その他に転々として移され、再び世に出ることを許されず、悲惨な余世を送らねばならなかったこと、子孫さえもつくることを禁じられたこと、等々々を考え合わせると、何か最も重大な原因がなければならない。単に素行がおさまらなかったとか、戦争の間に合わなかったとかでは、釣合がとれない。三人は外国の力を借りて秀忠をたおす陰謀をしていたのではないかと考えざるを得ないのである。
もしこれが事実であったなら、その首謀者の一人である長安と一族の縁を結び、経済的な援助まで受けて、最も親しくしている大久保忠隣に|しぶき《ヽヽヽ》がかかるのは当然のことである。その処断の相談に本多正信が大いにあずかったのは、正信の地位としては当然のことである。正信の好むと好まざるとにかかわらずだ。
以上の各説、いずれが真であるか、決定はほとんど不可能であるが、単に宇都宮騒動の真相を究明するためなら、それをつきとめなければならない必要はない。ただ、大久保忠隣処断にあたって、どの説の場合にも、本多正信が関係していると考えられていることを知れば十分である。
当時の正信の地位と、正信にたいする家康の信任から言って、正信が家康の相談相手になったのは当然のことで、正信としては避けることは出来なかったのであるが、大久保一族が正信をうらみ憎んだことは一通りのものではなかった。彼らは正信が忠隣の権勢をねたんで、故意に家康に讒言《ざんげん》したと思いこんだ。
大久保彦左衛門は忠隣の父忠世の弟で、忠隣の叔父であるが、彼は「三河物語」にこう書いている。
「忠隣がにわかに改易になったことについて、その頃、妙な風評が立った。犬打つ童《わらべ》共まで、本多佐渡が忠隣をざん言したと言い出したのだ。それについて、自分はそんなことがあろうはずはない、佐渡は忠隣の父忠世には重恩を受けている、その恩を忘れて、どうしてそんなことをしよう、それは事情を知らない世間の人のひが目だ、自分は何にも知らないが、きっと忠隣に深い罪があったのだろう、佐渡のざん言など決してありはしなかったろうと、今に至るまで信じているが、町人、百姓共までそんな風評を立てたのはどういうわけだろう、ひょっとすると根のあることかも知れないと思いもする。たしかなことはわからない」
彦左衛門老、くねくねと言いまわしている。武士の品位に関することだから、わしは信用しないがと言いながらも、大いに信じているのである。
さらにこう書き進める。
「佐渡は若い頃は冷酷な人間であると世間で言われていたが、老年になってからは多分それはやわらいで来たであろう。昔佐渡の微賤の頃、わしが兄の忠世があわれがって、佐渡が女《むすめ》の衣類から、塩、味噌、薪の類に至るまでめぐんでやった。一向宗のさわぎの時、佐渡は家康公のおん敵となり、他国へ脱走したが、その不在中も忠世は佐渡がのこしおいた女《むすめ》を養育し、その後家康公におわびしてやって帰国させ、先ず鷹匠にして、その後いろいろとりなして、四十石の知行をもらえるようにしてやった。その後もいろいろ世話してやったので、佐渡はありがたがって、毎年|大《おお》晦日《みそか》と元旦には、大久保家で飯を食うことを例としていた(これは家来格、子分格の者の礼である)。お家が江戸にお移りになって以後も、恒例としてつづけられていた。これほど忠世の恩を受けた佐渡であるから、どうしてその恩を忘れるはずがあろう。忠世が死ぬ頃には、佐渡は家康公の信任を受けてなかなかの羽ぶりになっていたので、忠世は佐渡を呼んで、
『せがれの忠隣をよろしく頼む』
と遺言したところ、佐渡は、
『何とて悪くはかろうべき。ご安心あれ』
と、かたく誓ったほどである。
あるいはこの誓いにそむいて、ざん言したのであろうか。昔は因果の応報は皿のふちをまわるようにゆっくりと来るものだと言ったものだが、今はそんな悠長なことなしに、真直ぐに飛びわたって来ると言う話だ。本多父子が佐渡は梅毒で面相くずれて死に、上野は改易になったことを思えば、ざん言したのは本当だろう。天に口なし、人をもって言わしむということばもある故、昔立ったあのうわさは本当だったのであろう云々」
大久保一族の怨恨の深刻さがわかるのである。忠隣の処分にともなって、一族親戚もまた改易される者が多かったから、一層である。彦左衛門老も一旦改易されて二千石の家がほろんだのであるが、その後すぐ家康に呼び出され、新しく千石の知行をもらった。それから二千石に復するまで、彦左衛門は十九年かかっているのである。腹の立ったはずである。
奥平家におあずけになっていた堀伊賀守利重も、大久保家の親戚であったので、一万二千石の知行を召上げられて、奥平家にお預けになっていたのだ。本多家にたいして、最も深刻なうらみを抱いていたわけだ。
堀がなぜ奥平家にあずけられたかといえば、奥平家が大久保家と姻戚の関係があったからであろう。忠隣の長男忠常の夫人は、亀姫と奥平信昌の間に生まれた人であった。忠常は慶長十九年に死んだが、奥平氏との間に一男三女がある。その一男は仙丸(後に忠|職《もと》)といって、大久保家がほろんだ時やっと十一であった。亀姫ばあ様にしてみれば、せっかく大名の嫡孫に生まれた可愛い外孫《そとまご》が、罪人の孫となり、その未来もどうなるかはかられない不運に転落したことがあわれで、本多家がにくかった。その上、こんどは国替えについて、内孫《うちまご》の忠昌まで大損をすることになったという次第。遺恨重畳だ。
毎日ぷりぷりしているのを見て、ある日、堀利重が拝謁を申し出て、こう説いた。
「本多上野のこんどのいたしようまことにまことに憎むべきものでございます。本多家にたいしては、拙者も深い遺恨があります。拙者の勘では、きゃつはきっと何か悪いことをしているに相違ございません。一つさぐって見たいと思いますが、もしさぐり出してまいったらば、将軍家へ申し上げていただけましょうか」
亀姫ばあ様はよろこんだ。
「よいとも、さぐってくだされ。何ぞあったら、必ず将軍家へ申し上げ、上野めにきつい塩をつけてやります」
と、飛びつくように同意した。
かくて、堀が探索にかかって、先ずさぐり出したのは、正純が堺の鉄砲商にひそかに鉄砲を注文してつくらせ、ひそかに運び下したことであった。
一体、大名というものは、禄高によって軍役がきめられている。島津騒動編で、慶安二年の幕府の定めでは、一万石につき、鉄砲二十挺、弓十張、旗三、槍三十、将校十人、人数二百三十五人であったことを述べたが、これは天下がすっかり太平になった三代将軍家光の晩年の時代の規定だから、大分少なくなっている。慶長・元和の頃は戦国を去ること遠くないから、もっと多かったはずである。
正純はそれまで野州小山で五万石の身代であったのが、一挙に十五万五千石になったのだから、これまでの三倍以上の軍備がどうしても必要だ。家来も多数召しかかえなければならないし、武器もうんと補給しなければならない。家来は当時はうんと浪人のいる頃だから、わけもなく召抱えられる。槍や弓も、調達に困難はない。むずかしいのは鉄砲だ。これは当時は堺以外では出来ない。のみならず、幕府の掟《おきて》として「入り鉄砲に出女《でおんな》」とて、関所をこえて関東に鉄砲を持ちこむことと女が関所をこえて関東から出て行くことをきびしく取締っている。言うまでもなく、入り鉄砲禁止は幕府にたいする謀反を警戒したのであり、出女禁止は諸大名の人質として江戸住いしている女が逃亡することを防ぐためである。
正純の場合は、大名の義務である軍役上どうしても必要なものなのだから、正式に願い出れば、確実に許可をもらえたろうが、現職の老中だけに、思案が政治家的に走った。
(おれが公許をもらって公然と鉄砲を買入れたら、他の大名にも願い出るものが続くであろう。すでにおれに許した以上は、お公儀としては許さんわけには行くまい。新しく掟が出て、励行しているところに、そうなってはこまる。掟が空文になる恐れがある。秘密にことを運ぶべきである)
と、考えて、秘密に堺にあつらえ、出来上ったのを、普通の品物として荷造りさせて、中山道から運びこませた。碓氷の関所をはじめとして方々に関所があるが、現職の老中の荷物である、どこの関所もフリーパスで、宇都宮へついた。
堀はこれを探知した。正純は二つの罪を犯しているわけだ。鉄砲密造と、関所をいつわって鉄砲を関東に運びこんだことの二つ。いずれも大罪科である。
「しめた!」
と、堀はこおどりせんばかりであった。
元和七年になった。この年の十二月末、秀忠将軍は、明年は家康公の七年忌にあたる故、ご祭礼日に日光に社参すると触れ出した。こういう時には沿道の大名の居城が将軍の旅館にあてられるのが習わしだ。正純は新しく大封を授けられたお礼心に、出来るだけ手をつくして歓待申し上げたいと張り切って、そのために宇都宮城の二の丸、三の丸の普請をしたいと願い出て、許されて、普請にかかったが、ついでに願いの外の本丸の石垣をきれいに築き直した。
城普請は幕府が神経質なまでにきびしく掟を定めて、必ず前もって精密な願いを出し、許可があってはじめてすべきことになっていた、無断でやっては厳罰に処せられることになっている。福島正則が無断で広島城を修理したという罪を名目にして改易されたのは、つい三年前のことである。正純は二の丸と三の丸の普請願は出して許可を得ているが、本丸は願いさえ出していない。無断修理の禁を犯しているのだ。当然改易にあたる大罪である。
これも探り知って、堀のよろこびは一方でない。
「うまいぞ、うまいぞ」
と、わくわくする気持であったろう。
正純は将軍を泊めるご殿を新造するために、数千人の人夫や職人を入れて働かせたが、遅くとも四月上旬までには完成しなければならないので、工事を急ぎに急ぎ、全部の職人やかかりの家来らを全部、城内の作事小屋に泊めきりで、一人も帰宅を許さなかった。そのため、妙な風評が立った。
「職人や武士共を一人もお帰しにならんのは、人に知られては悪い造作をしていなさるので、その秘密を守りなさるためではないじゃろか」
と、世間でささやき合っていたが、いつかこれが、
「お湯殿の床下にどぎどぎと研ぎすました抜身の刃物をさかさまに立てならべてあって、ふめば床が落ちるようにしかけてあるそうな」
とか、
「将軍家のお泊りになるご殿の雨戸にしかけがしてあって、内からあかぬようにしてあるげな。それは中にとじこめ申して焼き殺し申すしかけではござるまいか」
とかいうささやきになった。
これも堀は聞きこんだ。得たりと書きつける。うそでも本当でもかまわない。センセイショナルであればあるほどおとし入れるにはよい材料になるのである。
正純は本丸の工事をするにあたって、幕府から預けられている根来《ねごろ》同心百人にこれを命じた。根来同心というのは、鉄砲足軽で、幕府の家来なのだが、本多家にあずけてあったのだ。この連中は、正純から工事を命ぜられると、
「わたくし共は、公儀のご家来でござる故、公儀ご用のためなら知らず、ご当家の私用にお使いになることは出来ぬはずでござる」
と抗言した。正純は、
「城の狭間《はざま》(銃眼)をこしらえるのは軍役である故、わが家の私用ではない。公用である。ことにこの度の普請は、将軍家をお迎えするためにいたすのである。しかれば、公用である。その方共が相勤めてもさしつかえのないことである」
と説明した。
根来同心らは承服しない。
「まだまだ納得出来申さぬ」
と、言いつのって、強硬をきわめた。
正純はついに激怒して、同心らの重立った者数人を殺してしまった。徳川実記には、百人全部を一日のうちに斬ったとあるが、三田村鳶魚翁は、全部ではない、重立った者数人を斬ったのだと書いている。いずれが正しいかわからないから、両説ともに書いておく。
いくら言うことを聞かないからとて、この者共は正純の家来ではない。幕府の家来で、合戦の際に正純の指揮のもとに戦うのがその任務である。罪があるなら、幕府に訴えて許可を得てから処断すべきで、勝手に殺すのは越権のことである。殺された者共の妻子は言うまでもなく、生きのこった同心らも、皆正純をうらんだ。
これももちろん、堀はさぐり知って、全部亀姫ばあ様に報告した。
材料はすべて揃ったのである。しかし、ばあ様はまだ訴えない。満《まん》を持して、時機を待ったのである。
年が明けて四月になり、日光の祭礼が近づいて来た。正純は大張り切りだ。一体正純が大がかりな普請までしたのは、一挙に三倍以上の身代にしてもらったことにたいする感謝の心を表明するためなのだ。そのため、いよいよその日が近づくと、家中から城下一般をいましめ、お泊まりの前日から城下は火気を厳禁し、将軍がご到着になってお夜食がすんだら、解禁すると触れ出した。せっかく準備したのに、ひょっとして火災などおこっては、場合が場合だけにたとえ小火《ぼや》でも人々の心が不安になり、お泊まりが取止めになるかも知れないと思ったのであろう。お夜食後は解禁するというのだから、単なる火の用心ではなく、宿泊を取止めにされるのを恐れたのであると解釈すべきであろう。
また、不時の変にそなえるために、家中の者は家老以下いずれも家を出て野陣を張り、馬には鞍をつけたままにおくこととも触れ出した。
あれと言い、これといい、正純がいかに将軍を歓待しようと張り切っていたかがわかるのである。
十二日、秀忠は江戸を出発し、その夜は岩槻城に泊まった。城主は青山伯耆守忠俊だ。翌十三日は奥平氏の古河城。姉様の亀姫ばあ様にも対面したのだろうが、ばあ様は探知していることは言わなかった。時機はまだ適当でないと思ったのであろう。十四日はいよいよ宇都宮城。
その日、老中土井利勝は先発隊として、まだ日のあるうちに宇都宮に到着して、わりあててあった城下の宿舎に入ったところ、供廻りの家来の中から病人が出たので、薬を煎ずるために火を焚いた。すると、早速、本多家の家来が来た。
「将軍家お成りにつき、昨夜より城下では火気を禁じています。将軍家が城にお入りになり、お夜食がおすみになりましたら、禁を解きますから、それまではお焚きにならぬように願います」
という。
これでは病人に薬もやれないので、土井の人数はずっと郊外へ出て、野陣をすることにした。
やがて秀忠が到着し、その夜泊まって、翌日出発、その夜は今市《いまいち》の町に泊まり、翌十六日、日光についた。
十七日、祭礼。
十八日、中禅寺参詣。正午日光参拝。
十九日、山をおりて今市につき、しばらく休息して出発しようとしている時、江戸の御台所《みだいどころ》(浅井氏。淀君の妹|小督《おごう》)から急使が来て、亀姫ばあ様の自筆の封書を送って来た。中には、もちろん、堀利重に探索させた正純の秘事が全部書いてあり、
「ご用心なされよ。上野はなにをたくらんでいるか、わかりませんぞ」
とある。
秀忠はおどろき、随従して来た老中らにも見せる。老中らもおどろいた。
こうなると、疑心暗鬼だ。この前泊まった時、本多家の家来らが家老以下全員野陣を張り、馬に鞍をおいたままであったこともあやしく思われて来る。秀忠が夜寝室から庭に出ようとしたところ、戸につけてあった「サル」が落ちて戸をあけることが出来なかったことも不審された。寝殿の雨戸の一つ毎にひらき戸をつけてあったのも疑われた。これはひょっとして地震などで家が傾いて雨戸があかなくなった場合、そこから出られるようにと工夫してしつらえたのであるが、ここから軍兵を乱れ入らせるためではないかと考えられたのだ。
疑い出すときりがない。度はずれた火の用心まで嫌疑された。
相談の結果、宇都宮へお立寄りにならない方が安全であると決定し、
「江戸から御台所ご急病のよしを告げてまいった故、宇都宮へはお立寄りにならず、急ぎ江戸にお帰りになる」
と触れ出しておいて急行し、その夜は壬生《みぶ》に泊まり、翌日は岩槻、翌二十一日に江戸城に帰着した。急行に急行したので、おくれず従うことが出来たのは、石谷《いしがや》十蔵貞清、志村加兵衛|資只《すけただ》、小栗平吉|久玄《ひさはる》の三人だけであったと、徳川実記にある。
今市を出発するにあたって、秀忠は老中井上河内守|正就《まさなり》を宇都宮につかわして、
「今日はまた当お城にお泊まりのご予定であられたのでござるが、今市まで参られた時、御台所ご急病の急使がまいったので、急ぎお帰りにならねばならぬことになりました。そこ許にはせっかくお心をこめさせられてお支度のところ、まことにお力落しのことでござろうが、上様にも本意《ほい》なく思召してお帰りでござった」
と告げて、なお言った。
「上様にはおねんごろに、こう仰せられました。この度のご社参について、いろいろ骨折であった故、すぐに江戸に出てまいるにおよばぬ、このままに休息いたしているようにと。かたじけなくお請けあるよう」
正純は感謝しながらも、力をおとした。
井上はそれとなく城内の様子をしらべ、また家来共に言いふくめて正純の掟《おきて》違反のことなども調べさせて、江戸に帰って来て、報告した。
「鉄砲密輸入、関所破りのこと、根来同心をほしいままに殺したこと、本丸の無断修理をして石垣などを改築したこと、お成り間近に外濠へ菱《ひし》を入れたこと、お着きの日の夜火を焚かなかったこと等は、皆実があります。しかし、これとて、鉄砲に関する事がら、根来同心の事件、本丸の無断修理のこと以外は、問題になりません。また、建物の構造についてはあやしいところはありません。ただ、縁が高うござった。駿府で上野が家康公の普請御用をつとめた時、家康公は縁を高くしてはならぬ、扇子の高さでよろしいと申されましたが、宇都宮城の普請ではそれが大へん高うござる。上様のお泊りになった御殿など、縁の下が人が立って往来出来るくらいの高さがござった。これだけが怪しいといえば、怪しゅうござる。お湯殿の下に刃を植《た》ててどうこうなどは、あとかたもないことでござった」
縁を低くせよと家康が言ったのは、縁の下で刀をぬいて床ごしに突き上げる暗殺法があるからのことだ。床下が低ければ、刀を立てることさえ出来ないのである。
幕閣では正純の処分について、ひそかに相談が行われた。前にも書いた通り、正純は他の老中らにきらわれている。秀忠からもきらわれている。正純の父正信のために大久保忠隣が改易になって、江州の片田舎でわびしい生活を送っているのを気の毒に思っている。大久保一族が悲運におちいっているのにも同情している。これらの処置は正信の専断ではなく、家康の高等政策によるもので、正信はその相談相手になったに過ぎないと思われるのだが、正純を葬るためには、そこまで触れる必要はない。正信が権勢欲によって競争者を蹴落したことにした方が都合がよい。ついに正純を失脚させることに方針が決定した。
しかし、実行は慎重を期して、時機をえらぶことにする。
この頃、山形の最上《もがみ》家が取潰されることになった。お定まりのお家騒動によってだ。最上の当主義俊が年がまだ若く(十七歳)、酒色に耽って、政道がでたらめであるので、家老重臣らの多くがこれを隠居させ、義俊の叔父の山野辺《やまのべ》義忠を立てる相談をしたところ、家老の一人松根光広というものが反対説をとなえて、相談がまとまらなかった。
もみにもんだ。
この時から五年前の元和三年に、義俊の父で先代の当主であった家親が鷹狩に行っての帰り、家老の楯岡《たておか》甲斐の家に立寄って酒宴したが、その席で病気になり、その病気のため死んだことがある。松根光広はこの事実をもって、これは楯岡が山野辺と共謀して、山野辺に最上家を嗣がせるために毒殺したのだと言い立て、幕府に訴えた。
幕府では原告・被告を呼び出して審理したところ、松根の訴えが無実であることが判明した。そこで、松根は筑後柳川の立花宗茂にお預けとし、最上家の家老らにたいして、
「山形は東国の要地である。唯今のように義俊が弱年で、素行治らず、政道また乱れて、家中を一致させることが出来ないのでは、まかせるわけにまいらぬ。しばらく公収して、義俊には新たに六万石をあたえよう。家老共が心を合せて補佐し、国政がうまく行ったら、義俊が成人するのを待って本領を返しつかわそう。山野辺はじめ家老共、明日柳営に登り、お礼申上げよ」
と申渡したところ、山野辺をはじめ家老らは、
「厳命の趣きつつしんでお受けいたすべきでありますが、松根のごときウソつきの悪人をきびしく御処分なく、助命して大名あずけぐらいでおき給うては、必ずや同じようなるウソつき者が出て、あとかたもなきことを訴えるは知れたことであります。わたくし共、安心して政務を取ることは出来ません。また、たとえ一時のことにしても、最上家の本領を公収なされるというのも、合点いたしかねます。公収遊ばすのでありますなら、我々は唯今から浪人いたし、出家遁世して高野山に上りましょう。義俊のような愚昧な者を補佐するなど、われらはいやでございます」
と、言い張って、命を奉じようとしない。
幕閣では、これ幸いと、
「不届なる申し条、奇怪である。義俊は幼弱にして愚昧、その方共はまた主を輔けようとせぬ。さような家にどうして国政がまかせられよう。望みにまかせて公収する」
と、山形城以下二十五カ所の城地五十七万石を没収し、近江と三河で一万石を義俊にあたえ、家老らは全部大名あずけにしてしまった。これもばかばかしいお家騒動だ。
幕閣はこの山形の城地受取りを、正純を追落しの道具に利用することにして、正純と永井右近大夫直勝とを受城使に任命した。蒲生、伊達、内藤、丹羽、戸沢等の東北地方の大名らはそれぞれに兵をくり出す。最上家は出来星の大名ではない。足利氏の一族斯波家兼が延元元年に奥州・出羽両国の管領として下って来てから、三百年近くもつづいている大豪族だ。士《さむらい》共とも領民らとも結びつきの強いものがあろうから、抵抗する可能性が大いにあるというところから、こんなに多数の大名らに命じて兵をくり出させたのである。もっとも、抵抗は全然なかった。
正純は永井直勝に先発して山形に向かい、八月二十三日に山形城を受取った。二日おくれて、永井が到着した。正純は本丸を永井に引渡し、自分は外|郭《ぐるわ》の上山兵部(最上家の家臣)の旧宅に引移ったが、翌日永井を現在の宿所に招待し饗応をした。最も鋭い才人である正純がこの直後にせまっている悲運を全然気がつかなかったのだから、人間はかなしいものに出来ている。
この饗応がすんだ頃、伊丹《いたみ》康勝と高木正次とが上使として到着し、
「ご糾問の筋あって、上使をうけたまわってまいりました」
と、言った。
おどろきながらも、正純は服装を改めて、下座《しもざ》に平伏した。不審の個条は十一条(今伝わらず)あったが、正純は全部すらすらと言いひらいた。
正純がほっと安心する間もなく、伊丹はまたふところから書付を取り出し、三カ条にわたって尋問した。
一、鉄砲をひそかに注文して造らせ、関所破りして通過させたこと。
一、根来同心を恣《ほしいまま》に殺したこと。
一、無断で本丸の石垣を改築したこと。
の三カ条だ。
さすがに、正純が一カ条も言いひらくことが出来なかった。
恐れ入って平伏している正純に、伊丹は処分命令を伝えた。
「下野国宇都宮城十五万五千石は没収、出羽の由利に配流して、まかない料として五万五千石を賜う」
正純は心中激怒した。正面切ってこうして糾問されれば、言いひらきようのないことだが、老中として職にあるものなら、自分がなぜこんなことをしたか、三カ条ともわからないはずがないと思うと、憤懣が胸に渦を巻いた。
(一条と三条とは、天下の政務にあずかるものの一人として、公然とお願いせずしてやった方が公儀の政道のためであると考えたからのことだ。二条の根来同心のことは、公事であると信じて手伝うことを命令したのに、不従順であったから、軍令に照らして処断したのだ。いずれも皆がわかっているくせに、わからないふりをして、言いひらくことの出来ないように、正面切って尋問して来る。悪意に満ちている。けしからんことかな)
歯がみをしたい気持だ。
この憤りが言わせた。
「思うところがござれば、お請けはいたしかねます!」
何といっても承知しない。
上使らは江戸にかえり、正純は上山の旧宅に屏去《へいきよ》して、後命を待った。正純の子の出羽守正勝も父と一緒に山形に来ていたが、これも一緒に屏居していた。
伊丹らは江戸に帰って、正純のことを報告した。幕閣は不従順を怒って、秋田の佐竹義宣におあずけとし、千石のまかない料をあたえて、大沢に屏居するよう命じた。子の正勝も同断。
この月、宇都宮城はまた奥平家にあたえられた。十一万石もとのごとしというから、前に宇都宮にいた時より一万石ふえたわけだ。
堀利重も勘気をゆるされて、常陸の土浦で一万石あたえられ、奥平忠昌が成人するまで輔佐せよと命ぜられ、宇都宮に移り住んだ。
一体、宇都宮に正純を封じたのは、家康の遺言によるのである。それを思うなら、どんなに亀姫ばあ様がさわいでも、せめて遺言の精神だけは生かすことにつとめるべきである。すなわち正純には罪があるのだから、その改易はやむを得ずとしても、宇都宮には年も相当にたけ、手腕も力量も心術もたしかな人物をおくのが本当ではないかと思う。だのに、そうしなかったのは、秀忠やその老中らが、必ずしも家康にほんとうは心服していなかったからではないだろうか。
正純は翌々年の寛永元年|横手《よこて》に移され、寛永十四年三月十日、横手で死んだ。七十三の高齢であった。
以上が、俗に釣天井事件といわれている宇都宮騒動の実説の概略である。
俗説では、徳川家の継嗣争いにからむ事件になっているから、秀忠将軍では都合が悪いので、三代家光と駿河大納言忠長との争いにからんだこととして構成されている。
本多正純は忠長を擁立しようとして、日光社参をする家光を暗殺する計画を立て、城内に秘密のしかけのある御殿の工事にかかり、格別な工賃を支払うという約束で、十人の大工を雇う。その大工らは機密保持のために城内に監禁して、帰宅も外出も一切許さない。大工の一人与四郎という者は、自分の村の庄屋の娘おはやと恋仲であったので、恋慕の情つのってたえがたくなり、門番に鼻薬《はなぐすり》をきかして、そっと出してもらい、村にかえって来ておはやに逢ったが、その夜城内では大工の不時点呼をしたため、与四郎のいないことが正純にわかった。
正純はこんな風では大工らの口から秘密が暴露するおそれがあると考え、与四郎の帰って来るのを待って、十人の大工全部を捕えて、斬ってしまった。
これが犠牲者らの家族らにわかったので、家族らは城門の前におしよせて、さわぎ立てた。
本多家では、工事中にご宝蔵の金子がなくなった、これは十人のしわざであるが、将軍家ご社参の日がせまっていることとて、正式の裁判をして処分するわけに行かんので、内内に処分したのである、聞きわけなく、さわぎ立てるにおいては、その方共も重き罪科に行うぞと、おさえつけた。
これを聞いて、おはやは諸人が災厄に陥ったのは、自分が与四郎さんに会って長く引きとめたからである、申訳ない故、死ぬと書置して自殺した。その書置の中に、前に与四郎から聞いたということが書いてある。
「与四郎殿は、いつぞや、こんどのご普請は奇妙なご普請じゃ、お湯殿の天井が上から紐で釣ってあって、その紐を切れば一時におちて、湯に入っている人が圧《お》し殺されるしかけになっている、こんな普請じゃによって、わきに知れてはならんと思うて、わしらをちっとも外へ出して下さらず、閉じこめておかれるのであろうと申されました。由々《ゆゆ》しいことのようです。お上へ訴えて下さい」
おはやの父親藤左衛門はおどろいて、大老井伊直孝へ訴え出た。それで、正純の将軍家暗殺の陰謀はことごとく暴露したということになっている。
家光は正純の陰謀を知ると、大急ぎで江戸に帰ることにしたが、あまり急がせるので、駕籠かきの息がつづかない。石川八左衛門という大力の旗本が一人でかついで走って、深夜に江戸城についたが、門番はあやしんで開門しない。石川は駕籠のかつぎ棒で門をつき破って、家光を城内に入れた。石川の功績はさることながら、城門を突破ったのは落度《おちど》まぬかれないので、石川島をあたえ、ここに住ませて、流罪にしたことにして、辻褄を合わせた云々。
まあこんな工合に、ごてごてとしたストーリーになっているが、作り話であることは、説明するまでもない。
大久保忠隣失脚事件と宇都宮騒動とは同じケースの騒動である。気に入らない重臣を、主人が他の重臣と共謀して追い落したというのが両事件の正味《しようみ》である。
前者においては、すぐにも豊臣氏をつぶしにかかりたいと決意している家康にとって、豊臣家にたいして好意を抱いている忠隣の存在は、まことに邪魔になった。そこで、本多正信と相談して、忠隣をキリシタン弾圧の総奉行として上京させることによって根拠地から引離しておいて、改易を申しつけたのだ。改易の理由はどうにでもつく。あたかも前年に長安《ながやす》事件がおこっているので、長安から財政的援助を受けていたことを言い立てたのだ。
宇都宮騒動では――本多正純は家康の晩年最も信頼されて、駿府の老中として、常に江戸の幕閣に圧迫的態度で出て、将軍をはじめ江戸の老中らに忌《い》み憚《はばか》られ、好意を持たれていなかった。だから家康の没後、正純が江戸に帰って来て幕閣の一人となっても、人々との間がしっくり融和しない。正純は水に浮いた一滴の油の気持がしていただろうし、人々は一滴の油を浮かべている水の気がしていたであろう。将軍からしてそうであった。そこで、あたかも亀姫ばあ様の密告があったのを機会としてはじき出したという次第だ。この場合も山形に受城使として出張させておき、根拠地を離れた出先で、処分を言渡しているが、抵抗を排除して面倒を避けようとすれば、こうなるのは当然である。
将軍の旨をふくみ、中心になって事を計画したのは、当時の上席老中土井利勝であろう。
三田村鳶魚翁は、この問題には、家康が昔、二男の秀康と三男の秀忠のいずれをあとつぎとして立てるべきかと、老臣らに質《たず》ねた時、父正信は秀忠を推したのに、正純が秀康説を主張したので、秀忠は含んでおり、土井またこの秀忠の心を知っていて、このようにはからったのであろうと説いているが、寛政重修諸家譜の大久保忠隣伝には、秀康を推したのは正信であると書いてある。ぼくはここまでさかのぼって考えることはなく、家康の生きている間に正純の加えた隠然たる圧迫にたいして、江戸派は相当根強い反発心を抱いていたと知るだけで十分であると思う。それは坂崎出羽守事件の際に正純一人が説を異にしたことと、宇都宮事件がおこると忽ち家康の遺言はもちろん、その精神までさらりと捨て去ったことを以て、十分にわかると思う。
翁は土井利勝の手勢が、火気を禁じていることを十分に知っているくせに、火を焚いて薬を煎じてみて、どう反応するかを見たのであろうとまで言っているが、これもそこまで考えることはあるまい。
正純の没落を最もよろこんだのは、大久保一族であった。彦左衛門老はこう書いている。
「よい因果応報のしるしはあってもよくはわかりにくいものだが、悪い因果応報はわかりやすいものだ。佐渡は讒言によって忠隣を陥れてから三年立たない間に、梅毒が顔に出て、片顔がくずれ、奥歯が見えるほどになって死に、その子上野介(正純)は改易されて、出羽国由利に流され、その後秋田に移されて佐竹殿にあずけられた。その住いは四方に柵を結《ゆ》い、濠をうがち、番人をつけられ、囚屋《ひとや》のすがたである。世間の人が因果応報というが、本当である。忠隣が改易される時もヤソ退治のお仕置のためとて京都に派遣され、その出先で改易を仰せつけられたが、上野介が改易された時も山形城受取のためとて使者をうけたまわって行っている時、使者先で改易を仰せつけられた。符節を合するごときものがある。こういうところを見ると、やはり忠隣の失脚は正信の讒言によるのであろう、因果の応報というものであろうと、またこの頃世間で犬打つ童まで言いならわしている」
大いに溜飲を下げている様子がうかがわれる。
しかし、大久保本家の復活はなかなかであった。
この時から三年目の寛永二年に、忠隣の嫡孫忠職が赦免になって、二万石を復活したが、これが五万石になったのは、寛永九年正月であった。忠隣は寛永五年夏、江州で果てた。ついに再び江州を出ることをゆるされなかったのである。年七十六。
[#この行2字下げ](三田村鳶魚著「徳川の家督争ひ」、藩翰譜、徳川実記、寛政重修諸家譜、三河物語、当代記、聞見集)
[#改ページ]
阿波騒動
前おき
「阿淡《あたん》夢物語」全十二巻、「泡《あわ》夢物語」全四巻という書物がある。いずれも刊本はない。写本でだけ行われたらしい。後者は前者の後篇として書いたという序文がついているが、読んでみると単なる後篇ではない。前者をダイジェストした部分があり、補遺の部分があり、後篇の部分もある。著者はそれぞれに別人なのである。いずれも阿波藩士であったらしいが、名前はわからない。最初からわざと名前をかくしていたもののようである。
この書物は故三田村鳶魚翁が、国書刊行会本中の「列侯深秘録」を校訂編集した時、収録しようと思ったが、どこをさがしても入手出来なかったという由緒のものである。稀覯《きこう》本になっているのであろう。これを友人中沢抹v君が、この戦後、東京で焼けのこった蜂須賀家の書物庫の書籍が売立てられた時、手に入れて、
「ひょっとすると、日本で唯一のものかも知れない」
と言って、秘蔵している。本稿を書くにあたって、借覧した。
小説ではあるが、ウソ話ばかりではない。ウソもあるが、それは作者の誤解によるウソのようだ。大部分は本当の話だ。ただある目的があって、その目的に工合の悪いことは除いている点がある。
ところが、そのある目的というのを除くと、この事件はお家騒動にならず、単なる藩政改革の失敗譚になってしまう。しかも、後の学者の研究は、「ある目的」に触れていない。この小説をまるまる信用することの出来ないのは言うまでもないが、無視するわけにも行かないのである。真偽を鑑別しつつ一資料として利用しながら、書いて行きたい。
阿波徳島の蜂須賀家の第一世小六正勝(後に彦右衛門と改称)は、夜討強盗を業とする野武士であったという伝承が、古来ある。
蜂須賀家ではこれを心外として、大正末年、渡辺世裕博士に家に伝わる史料を提供して、伝承の誤っていることを証明してくれるように委嘱した。この委嘱に応じて書かれたのが、「蜂須賀小六正勝」という伝記だ。
この書によると、蜂須賀家は足利氏系統の清和源氏で、尾州海東郡蜂須賀村に、鎌倉時代から土着している豪族であり、小六は最初美濃の斎藤道三につかえ、道三の死後岩倉の織田氏につかえ、岩倉織田氏の滅亡後、犬山織田氏につかえ、犬山織田氏の滅亡後しばらく牢人の後、やがて木下藤吉郎に口説かれて織田信長につかえ、ずっと藤吉郎の寄騎《よりき》となり、信長が死んで藤吉郎が独立すると臣従して、藤吉郎の栄達とともに自分も栄達したのだから、強盗働きなどする必要もなく、期間もなかったと説いている。
ところが、ぼくは必要もあり、期間もあったはずと思っている。蜂須賀家はわずかに一郷村を領有する小豪族だ。弱肉強食、最も辛辣な生存競争の行われた戦国の乱世に、独立して自存を保って行くのはまことに困難であったはずだ。近くの大きな勢力の被官となって庇護してもらうか、同じような小豪族同士が連合して大勢力の侵犯を共同防衛するか、どちらかの方法をとるよりほかはないのである。小六が斎藤道三や両織田に次々につかえたというのは、この意味の被官となったのであろう。でなければ主家がほろんだあとも蜂須賀村の所領を安全に持ちつづけられたはずがない。
他の群小豪族――太閤記に出て来る稲田|大炊《おおい》、青山新七、同小助、河口久助、長江半之丞、加治田隼人兄弟、日比野六太夫、松原|内匠《たくみ》などと連合体、当時これを党というが、これをつくって、共同防衛の組織を持っていたに相違ない。でなければ、道三につかえる以前の、また次々の牢人期間における自存の方法はなかったはずだから。
この、同じような豪族らとの連合体をつくって自存自衛していた期間は、せっかくの武力を遊ばしてはいなかったはずだ。近隣の大名らが戦さをする時には、頼まれれば礼金をもらって雇兵として出て行ったろう。それがこの時代のこの程度の小豪族の生態だったのだから。
その際、雇主は、もし戦略上必要ならば、敵地の放火や掠奪などを依頼する。落武者狩は言うまでもない。そのような用に最も立てようとして雇うのだから。引受けてそれらの仕事をやるとなると、習い性となって、自発的にもちょいちょいと用いたろうと考えた方が自然であろう。
渡辺博士ほどの学者が、ここに気づかないはずはない。気づいてはいたのであろうが、蜂須賀家の依頼もだしがたく、そこを無視したものに違いない。
一体、戦国時代以前の武士を律するに、江戸時代の武士の観念をもってすべきではないのである。大名といわれるほどの武家でも、強盗行為を常習にやっていたものは少なくないのである。実例はいくらでもある。立ちどころに四つや五つはあげられる。厳格な意味では片っぱしからそうであったと言ってもよい。
蜂須賀家も小さなことを気にしすぎるのであるが、よほどに気になったらしく、渡辺博士に依頼した頃、村上浪六にも依頼して、小説にしてもらい、その頃講談社から出ていた、発行部数百万という雑誌に連載小説として掲載している。蜂須賀家は渡辺博士にも、浪六にも、よほど多額な礼金を出したと聞いている。
話をわかり易くするために、先ず系図をかかげる。
[#この行2字下げ]1正勝―2家政―3至鎮《よししげ》―4忠英《ただてる》―5光隆―6綱通―7綱矩《つなのり》―8宗員《むねかず》=9宗英《むねてる》(一門から入る=10宗鎮《むねしげ》(讃岐松平家から入る)=11至央《よしひさ》(〃)=12重喜《しげよし》(佐竹分家から入る)―13治昭《はるあき》……
九代の宗|英《てる》は養子ではあるが、蜂須賀の一門である。しかし、宗|鎮《しげ》以後は血の続きなくして、現代に至っている。
蜂須賀第一世の正勝は、秀吉から播州竜野を所領としてもらっていたが、何万石であったか、高はわからない。彼は秀吉の参謀的役目で、常に大坂にいたので、その手当として丹波・河内で五千石あたえられていたことだけがわかっている。そのかわり、子の家政は秀吉から阿波一国十八万六千石をあたえられた。
関ケ原戦争で、家政ははじめ西軍に属していたが、後に東軍に寝返ったし、子の至鎮《よししげ》ははじめから東軍に味方していたので、加封《かほう》はなかったが、本領は安堵された。家政は一時高野山に上って謹慎の意を表した。蜂須賀|蓬《ほう》庵とはこの人のことである。
至鎮《よししげ》は大坂冬の陣で薄田《すすきだ》隼人正兼|相《すけ》の守る穢多ケ崎の砦を自家の手だけで落すという武功があったので、家中の重立ったものは家康の感状をもらい、彼自身は淡路一国を加封されて、両国の太守となり、総石数二十五万七千石の大々名となった。
蜂須賀家は代々徳川家の覚えがよく、四代忠|英《てる》の時から、世子となるとともに松平の称号を許される家格となったほどである上に、その土地は気候温暖、降霜を知らず、地味豊沃で、二十五万七千石は表高で、実際には三十万石どころか、四十万石もあるほどの富国であったのだが、八代宗|員《かず》にはあとつぎがなく、一門ではあるが臣籍に下って家老職をつとめていた宗|英《てる》が入って、九代の当主となった。この宗英にもあとつぎがなかった。一門にもまたその頃年齢その他で適当な人がなかった。
そこで、讃岐高松の松平家から宗|鎮《しげ》を迎えて、第十代の藩主とした。これ以後、小六正勝の血を伝える者は誰も嗣《つ》がず、蜂須賀家は他家の血になるのである。
話はこの宗鎮の代にはじまる。
宗鎮ははじめ二代前の藩主であった宗|員《かず》の二男重|規《のり》を世子に立てた。
阿淡《あたん》夢物語によると、話はこんな工合に展開して行く。
最初の登場人物は、秋田佐竹家の分家で、秋田|新田《しんでん》二万石を領する佐竹壱岐守義道だ。この人のことは、秋田騒動の時に書いた。佐竹本家の当主・義真《よしまさ》を毒殺して、自分の長男義|明《はる》に嗣がせたという評判のあった人だ。
あの際にも、多少触れておいたが、長男義|明《はる》に本家を嗣がせ、四男の重|喜《よし》をどこぞの大名に養子にやりたいと思い、江戸深川|平井《ひらい》の燈明寺の聖天を信仰して、浴油《よくゆ》という修法をし、毎月六度ずつ出かけて熱心に修法していたが、ある日、平井からの帰途、両国橋上にさしかかると、突然馬がおどろいてはね上り、落馬して川にはね飛ばされようとした。とっさにらん干をつかんでぶら下がって水中に顛落することはまぬがれたが、方々に怪我をして、はなはだ無興でいたところ、平井の住職が来て、「それはめでたいしるし、ご落馬の際両国橋をお手につかまれて顛落をまぬがれられたのでござる故、ご祈願成就して、若君方お二人とも国守お大名になられること疑いなし」と言ったという、あの人だ。思い出していただきたい。
このような野心家であったので、義道は長男に本家を相続させた後、のこる重喜をどこかの大名の養子にやりたいと日夜に思っていた。養子を必要とする大名は相当にあるが、どこの家にも話を持って行くべき便りがない。
あぐねていると、折々|客先《きやくさき》で阿波の家老|賀島《かしま》出雲に会う機会があった。
賀島は大藩の家老に似ず、欲が強くて、利のためにはどんなことでもしそうな人物に見えた。
(阿・淡二州の大守、二十五万七千石なら、不足はない。こいつを何とか誑《たら》しこんで……)
と、賀島のことを子細に調査してみると、元来賀島家は一万石の知行であったのが、祖父の代に失策によって五千石に減《へ》らされていることがわかった。知行は武士の最も関心あることだ、半減されているとあっては、不平がなかろうはずがない、ここにたぐるべき口があるはずと、以後は賀島と会えばつとめてへりくだって親しくものを言い、何かと理由をつけては音物《いんもつ》を贈った。
親切にされ、いつも耳ざわりのよいことを言われる上に、ものまでせっせとくれるとあっては、うれしからぬはずがない。賀島は義道の屋敷に出入りするようになった。義道は下へもおかないもてなしだ。いつも丁重に饗応する。とうてい大名と陪臣との交際のようではない。大名同士のようだ。賀島はごく打ちとけたなかとなった。
こうして、十分に賀島の気を攬《と》った後、ある日、賀島が来た時、さりげなく言った。
「戦国の世には、武士が武功を立つる機会も多く、小身から大身になる者も少なくござらなんだが、こう太平の世となっては、先祖より譲られた身代を守り通すのがせい一杯で、ひょっとして減らされでもしたら、もう昔に返すことは出来ぬ。大名にもそんな家が随分ござるなあ」
と言った。
賀島はすぐ言う。
「大名方だけではござらぬ。われらしきの家にもたんとござる。早い話が、拙者の家でござる。先祖が武功あって一万石とっていたのが、拙者が祖父の代に五千石に減らされたのでござる。まことに残念でござる故、高名を立て、本知にかえること、先祖への孝道にもかなうべけれとの念はやむことはないのでござるが、時世時節で、何ともいたしがたくござる」
「ほう、ほう、一万石が五千石に? それはご無念でござろう。ご同情申す。しかし、貴殿などは大藩のご家老でござる。大名がもとの高にかえることはなかなか出来ぬことでござるが、大藩の家老衆なら、あながち出来ぬことではないと思いますがの」
「耳よりなことをうかがいます。法とは、どうするのでございましょう」
「擁立の臣となるだけのこと」
「……」
「貴殿の働きによって、次代の主を立つれば、その主は貴殿に大恩を負うのでござる。そのお陰によって阿・淡両国の太守となって、報いることを思わないものがござろうか」
阿淡夢物語は、その頃の田舎侍の書いた小説であるから、毒薬を投じて水鉢の中の魚を殺して見せたりなんぞ、当時の歌舞伎芝居によくあるうるさい筋立があるから、そのままではいやらしくて書く気になれない。しかし、要領は上述の通りだ。ともあれ、賀島は義道の毒気を十二分に吹きこまれて、ついに、
「義道の四男重喜を迎えて世子に立てるために、先ず世子の重|規《のり》を毒殺する」
という約束が出来、度々会って策をねる。
世子民部大輔重規は、その頃深川の下屋敷にいた。これには文武にすぐれた傅《もり》役がいて、なかなか手が出せなかったが、蜂須賀家が日光の修理の手伝普請を命ぜられた時、この傅役を現地派遣の用人に任命して江戸を遠ざけた後、ある日、太守の宗|鎮《しげ》の前に出て、こう言った。
「民部大輔様は深川のお屋敷にて、日夜に文武の道にお励みであります。大へん結構なことではございますが、絶えて外出も遊ばされず、気をつめていらせられるのでありますから、おからだにさわりはせぬかと、気がかりでございます。折々は太守様からお上屋敷へお招き遊ばされ、ご酒宴など遊ばされましたなら、ご鬱散にもなり、太守様においてもお慰みになるかと存じます」
「それはそうじゃ、呼ぼう」
「早速のお聞き届け、ありがたく存じ上げます。それでは明後日はいかがでございましょうか」
「よかろう」
かくて、重規を鍛冶橋の上屋敷に招いて、酒宴が催されたが、宴後、父子が歓談している時、その以前次の間に台子をしかけておいた賀島は、
「お酔いざましに薄茶一つ召上られよ」
と茶を点《た》ててすすめた。|なつめ《ヽヽヽ》の中を区分して、片方には毒薬をまぜた茶が入れてある。宗鎮と自分の服した分は無毒の方で点て、重規にすすめた分には毒が入っている。そのため、重規は深川へ帰って一両日立つと違和を覚え、数日の後、死んだ。典医は脚気衝心と診断した。蜂須賀の血を伝えている若君で、一面では太守より皆が大事がっていた人だ、一藩の悲嘆は言うもおろかだ。
ここで、阿淡夢物語は重規に和十郎という弟があったので、これを世子に立てたことになっているが、これは小説として単純化するための作為《フイクシヨン》、あるいは誤りで、事実は三代前の綱|矩《のり》の子隆|寿《ひさ》の子で、分家飛騨守家のあとつぎであったのを、世子に立てたのである。名は重隆。世子に立てられるとともに内匠頭《たくみのかみ》に任官した。
せっかく重規を毒殺したのに、この結果になって賀島は失望したが、不敵な計画をまためぐらす。こんどは当主も世子も共に殺そうという計画。当主を生かしておいては、またどこぞから世子をさがして来るだろうと思ったのだ。しかし、急ぎはしなかった。急いでは前のこともあり、怪しまれると思った。
二三年立って、もうよかろうと思った。
重隆は前の重規とちがって、よく上屋敷へ遊びに来て、来れば饗宴となり、父と歓談した。ある時、訪問すると前知らせがあったので、こんどこそと、賀島は用意をした。
その日、賀島ははじめからまかり出て、父子の話相手をし、酒宴のとりもちをしたが、酒間みずから銚子を取りに立ち、その途中で銚子に毒薬を投じた。
「そちも相《あい》をせよ」
宗鎮は賀島にも盃をあたえた。
「忝なくございます」
受けて、ずっと乾した。あとで解毒薬を服するつもりなのである。
父子は心ゆくまで飲んで、きげんよく酔い、重隆は深川屋敷に帰った。
毒は徐々にきいて、父子ともに不例となった。死にはしない。「ただ空言をのたまひ、茫然たるおんありさまにて、ご乱心のごとく見えさせ給ひ……」とある。治療につとめたが、二人ともなかなか快方におもむかない。
これでは公儀向きがつとまらないので、一門の家中のおも立った者とが集まって、養君の相談がはじまった。賀島は佐竹義道の四男重|喜《よし》を推薦した。重喜は凡庸な人ではない。なかなか賢いのだ。それももちろん言う。
「よいとは思うが、国許の家老らの意見も聞かねば」
と人々は言う。賀島は、
「それは常例の時のことでござる。一時も早く定めずば公辺のご意向もはかりがたき火急の場でござる。せん方なき仕儀、こんどだけは拙者の一存におまかせいただきとうござる」
と言って、皆を承諾させ、幕府に願い出で等の一切の手続きをしたところ、幕府は許可して、重喜は太守になった。ここに、佐竹壱岐守義道の多年の野望は成就し、賀島も五千石の加増にあずかり、宿願の一万石の身代に復することが出来た、というのである。
しかし、史実では、佐竹重喜が蜂須賀重喜になるまでには、少し間がある。宗鎮の実弟|至央《よしひさ》が讃岐松平家から迎えられて、十一代の当主となったのだ。この至央がわずかに二カ月そこそこで死んだので、重喜が急養子として迎えられるのである。
どうして阿淡夢物語の作者がこの事実を無視したかわからない。泡夢物語の作者もまた訂正していない。至央《よしひさ》は二カ月そこそこの太守であり、しかも国侍らは全然見てもいない。印象きわめて薄かったのであろうとでも解釈するほかはない。
これではすっかり賀島出雲(名は政良)が、一万石の知行に復するために、主君や世子を毒殺または毒飼いして廃人にしたことになっているが、蜂須賀家記によって子細に検討してみると、大分違う。
年表をつくってみる。
宝暦元年閏六月十三日 最初の世子重規死す。
〃 二年 五月    賀島政良四千石加増。
十月    重隆を二度目の世子とす。
〃 三年 八月    重隆病を以て世子を辞す。
〃 四年 二月    松平至央三度目の養子となる。
四月    至央世子となる。
五月    宗鎮病を以て隠居、至央藩主となる。
七月十二日 至央病死す。
佐竹重喜急養子となる。
八月    重喜藩主となる。
この年表を子細に見て、ご検討ありたい。
なるほど、賀島出雲は五千石には千石欠けるが、加増になっている。しかし、それは重喜が蜂須賀藩主になる二年三カ月前のことだ。重喜を迎え入れた功績によって、重喜からあたえられたものでないことは明らかである。
また、二度目の養子重隆が病気によって世子たることをやめたのは三年八月であり、宗鎮が病気をもって辞官隠居したのは、その翌年五月である。世子よりも当主の方が朔望その他で公儀に出なければならないのはずっと多いのである。同じ日に同じ毒を飼われながら、世子の方が九ケ月も早く世子を辞したとは受取れないことである。宗鎮の方が毒を契する分量が少なかったのだという理屈も立てられようが、すでに四千石の加増を得ている賀島が、どうして危険を冒して主君父子を毒殺しなければならないか、考えられないことである。そんな事実はなかった、二人の発病は偶然であったとした方が素直に通ると思うが、いかがであろうか。
しかし、阿淡夢物語と泡夢物語とは、確かにこの時代、あるいはこの時代を遠からぬ時代(後者は明和七年――宝暦四年から十五年後に書かれたものであることは、作者の自序にある)に書かれたものだ。いくら小説であるとは言え、こうまで書いたのは、必ず理由があろう。
おそらく、賀島出雲は家中の評判のあまりよくない家老であったのであろう。また佐竹壱岐守とかねてから親密に交際していたのであろう。その賀島が四千石という大禄を加増されたので、嫉妬も手伝って、評判は一層悪くなったろう。またしても言うが、知行ほど武士らをよきにも悪しきにも興奮させるものはなかったのである。悪意をもって見ているところに、三年立たないうちに、二度目の世子が世子を辞さねばならぬ病気となり、大殿が病気で辞官隠居したと思ったら、新しく太守になった至央《よしひさ》も二カ月にして死ぬというような、お家にとっては大へんなことがばたばたとおこり、賀島の主張で、彼がかねて最も親しくしている佐竹壱岐守の四男を急養子に立て、太守にした。おそらく、物語の中で賀島の言う通り、事は至急を要して、とうてい国許の老臣や一門などに相談するひまはなかったのが事実であろうが、国許の侍らは相当疑惑を抱いたに違いない。
それでも、迎えられた重喜が家中の者の心や領民の心を得る君であれば、こんな疑惑はいつか雲散したであろうが、これから書く通り、重喜はおそろしく評判の悪い殿様であった。家中からも、領民からも総好かんを食った。阿波侍らの胸にあった疑惑は、ついに最も濃厚な形をなし、一般にも信ぜられ、この小説となったと思われるのである。
重喜が阿波守となった時、先々代宗|鎮《しげ》はまだ三十四歳の壮年であった。彼は隠居するとすぐ、芝の中屋敷に移ったが、至央《よしひさ》が死に、重喜が末期《まつご》養子となることが決定して鍛冶橋の邸に入ると、重喜の襲封の許可の出る前に、幕府から国許静養の許可を得て、阿波に帰った。重喜には会わないのである。長途の旅にたえられるのだから、からだの丈夫であることは明らかだ。しかし、重喜に会わなかったのは理由があろう。多分狂気に似た症状で、会わせられる容態ではなかったのではないかと、推察されるのである。
宗鎮は阿波に帰ると、徳島郊外の富田《とだ》の下屋敷に入り、十月には木工頭《もくのかみ》と称することにした。
廃世子の重隆も、この頃か、少しおくれてであろう、国に帰って、徳島城の西の丸にいることになった。世子を辞した時、松平の称号と官位とを返還したいと幕府に願ったが、それにはおよばぬとのことで、従前通り松平内匠頭と呼ばれることになる。まだ若く、わずかに二十二であった。
この二人は次第に病気も癒えて、木工頭は六十まで、内匠頭は五十五まで生きるのである。
重喜は襲封の翌宝暦五年五月に、はじめて阿波に入部した。家記には、先々代の宗鎮にまだ会っていないから、これに会うために幕府の許しを得たとある。しかし、これは許可をもらうための名目で、本心は他にあったと思われる。どんな本心か、それは追々と説いて行く。
大名の初入部《はつにゆうぶ》の行列が、格式一ぱいに綺羅をかざるならわしになっていたことは、秋田騒動で書いた。この時の行列もずいぶん花やかなものであった。阿淡夢物語によれば、佐竹壱岐守は道筋の町家に行って、そっと見物して、
「老いの楽しみこの上なし」
と涙を流してよろこんだとある。
佐竹ほどの名家の流れの大名でありながら、けしからんことだと、作者は批評しているが、聖天詣でして修法までして遂げたことだ。壱岐守にしてみれば、大名の品格などと言っていられなかったのであろう。
東海道を上りつくして伏見につくと、大坂の蔵屋敷から川舟が数十艘迎えに来ている。これで淀河を下って大坂について蔵屋敷に三日滞在する。代々のしきたりだ。その間に、出入りの商人らがお目見えに来る。これは金蔓だから、疎略には出来ない。大いに饗応して、丁重にあしらう。これらが済んで、四日目に海船《うみぶね》に乗りうつり、船上で日和を見合せる。日なみがよければ、その日出船だ。
徳島につくまでの間に、こんな話があったと、阿波国最近文明史料でも、阿淡夢物語でも、言っている。
船が淡路灘にさしかかった時、侍臣が、淡路島を指さし、
「あれからご領内でございます」
と言ったところ、重喜は、
「そうか」
とうなずいたが、しばらくして、
「もはや城下は近いか」
と聞いた。
「まだまだでございます」
と、侍臣は答えながら、小大名の家から来られたお人じゃによって、大方国境から二三里で城下と思われるのであろう、やどかりはおのれのからだに合せて貝がらを選ぶというが、ほんとじゃわと、心ひそかに軽蔑したという。
淡路の南方を通れば、洲本《すもと》の城が見える。小説なら、
「おお、城が見えるわ。あれがおれの城か。よい城じゃのう」
と言って、家来共に軽蔑されることにしたいところである。
重喜にたいする蜂須賀家の侍らの心には、常に、
「二万石の小大名の家から来られたお人」
という観念のぬきがたいものがあり、重喜の方でも、軽蔑されまい、実家は小身でも、おれは大気だぞというコンプレックスがいつもあった。これが騒動を生む最も根本的な原因である。初入部の時、重喜は十八であった。今日の数え方では十七歳と三カ月だ。当時としても、まだ少年といってよいのである。
重喜は決して凡庸な人ではなかった。こんな話がある。まだ佐竹家にいる頃、江戸で友達である小大名の二三男といつも往来していたが、ある時、数人集まった時、女話が出て、一人が、
「諸大名の姫君の中で、一番の美人はどこの誰であろう」
と言った。
「それは筑後柳川の立花家の姫君であると聞いている。高雅にして艶麗、嬋娟《せんけん》楚々たるものであるといいますぞ」
と、一人が答えた。
すると、重喜は、
「その姫君、われらがもらった! 必ず奥にしますぞ!」
と、言った。
立花家は十一万九千六百石の身代、重喜は付庸《ふよう》大名二万石の家の四男だ。皆本当とは思わない。冗談だと思った。腹をかかえて、どっと笑い出した。しかし、重喜は本気だったのだ。この年、江戸を出発する以前に、ちゃんと婚約をして、来年もらうことにして来たのだ。
また、実父壱岐守義道の両国橋上のことも、重喜の逸話であると、文明史料は伝えている。両国橋畔を徒歩で散歩している時、ふとものにつまずいてたおれ、袴を泥だらけにした。お供の仲間がおどろいてひざまずいて泥をはらいながら、
「おけがはございませんか、飛んだことで」
というと、重喜は笑って、
「心配するな、おれに両国の土がついたのだ。近々におれが両国の太守となるという兆《しら》せかも知れんぞ」
と言ったというのである。豪|邁《まい》で鋭敏な気性の人であったには違いないようである。
やがて徳島に着き、行列をそなえ、馬上城に向かった。重喜はしきりに四方を見まわしつつ進む。重喜にしてみれば、わが城下をとくと検分するという気持であったろうが、阿淡夢物語には、「井の内の魚を大川へ放ちしごとく、ただ四方をきよろきよろと見廻し、不行儀なる馬上の有様、両国の太守には似合はざるふるまひなり。領内の老若男女貴賤、袖をつらねて見物に出でけるが、殿の振りの軽率なるを見て、目引き袖引き、笑ひしとなり」と記述している。最初から軽蔑心を抱いて見れば、こう考えたはずである。一体、大名というものは威儀品格を最も重んじたのであるから、当時の常識からすれば、重喜の挙動はそれを逸しているわけだが、重喜は一年近く江戸屋敷にあって蜂須賀家の様相を見て、心中ある決意があったのだ。それで先々代の宗鎮に対面したいという名目で幕府の許可をもらって帰国したのであり、城下の様子をとくと見ようとして見廻しもしたのである。重喜には重喜で事情があったのだ。
重喜は鋭敏な人間だから、家来らの心理がよくわかる。度胆《どぎも》をぬいてくれんと、城門に近づくや、馬をとめて、侍臣をかえりみて、
「大名が城に入るのじゃ。武備を検査いたす。先ず武器蔵に案内せい」
と言った。
太平久しく、武器蔵など、どこの大名でもいいかげんにしてある。人々はうろたえて、返答も出来なかったと、阿波国最近文明史料にある。このおさまりがどうであったかは、書いてないが、たぶん大喝して、叱責し、家来共は、
(こわい殿様じゃ)
と、はじめて恐怖を感じたろうが、一面では、小大名の家から来られたので、わざと威を張っておいでじゃとも思ったであろう。
こうして徳島城に入った重喜は国内の様子を見ていて、江戸でかためた決意が益々かたくなった。
重喜の決意とは、独裁制にしようというのであった。一体、一国の政治組織でも、会社の経営組織でも、創業当時は創業者の独裁であるものだ。創業者にはそれだけの力量威望がある。事業そのものも複雑でない。しかし、二代目になると、自然にかわって来る。二代目の主人は多く創業者ほどの力量がない。威望もまた不足である。従って、創業の功臣とその子等の比重が大きくなる。事業そのものも独裁では追いつかないほど複雑になる。独裁制はくずれて、重役が合議して事を行う形に移って行かざるを得ない。
これがある程度進むと、弊害も生じて来る。主人は空《から》あがめされるだけで棚上げになり、実権も権勢も重役層に帰することにもなる。
この弊を救うには、主人の独裁制を回復して、時の移る間に自然に出来上った官僚組織を主人が直接に掌握する形に持って行くより、昔の人には工夫がつかなかった。五代将軍綱吉がそれまで幕府の最高政治機関であった老中らを単なる諮問機関にし、側用人を任用して自らの独裁制にしたのも、六代家宣がこれを踏襲したのも、八代吉宗が一層これを強固にしたのも、このためである。
ルイ十四世が宰相リシュリーを死の床に見舞った時、リシュリーは十四世の耳に口をつけて、
「陛下よ、最後のご忠言を申し上げます。――宰相をお置きなさいますな」
とささやいたという話がある。ルイ十四世が最も強力な独裁制をつくり上げ、フランスを全ヨーロッパ第一の強国としたことは周知のことである。
江戸時代の大名の家でも、加賀家の前田綱紀が独裁制を回復して、将軍吉宗が手本にしたほどの善政をしいたことは、加賀騒動でのべた。
独裁制は、暗愚な君主では行えない。行ったら、国も会社も破滅だ。重喜は自らを傑出した人物であると信じている。だから、そうしようと決意したのである。
蜂須賀家記にも、こうある。
「蜂須賀家は六代の綱通までは、家老らの専制にはならなかったが、次の綱矩が一切家老まかせにしたので、家老らの権力が、次第に重くなった。九代の宗|英《てる》は臣籍に下って以前家老職をつとめていた人であるから、家老らは以前の同僚だ、勢い威権重からず、家老らにまかせざるを得なかった。次の宗|鎮《しげ》は他家から入った人で、諸事遠慮がある。家老ら専制の組織が確立してしまった。それでも善政が行われているならよいが、無暗に家老らが威張っているだけで、その頃は連年凶歳がつづいて、上下困窮していたのに、ろくな救済策も立たない有様であったので、公は慨然として改正の志を立てた」
家老らの失政がなくても、重喜は、実権なき主人でおさまっておられる性格ではない。やる決心を立てたのである。
その第一手としてやったのは、第一の家柄家老である稲田九郎兵衛|植久《たてひさ》の洲本仕置を免職したことだ。
稲田家は、蜂須賀の始祖正勝の朋友であった稲田|大炊《おおい》の子孫だ。稲田大炊は犬山織田家の家老であったというから、その頃は正勝より身分がよかったのだ。主家が織田信長に滅ぼされた後、正勝と党をくんで、野武士働きなどしていたが、正勝が秀吉につかえて次第に立身して大名になった時、懇望されて家来になったというのである。こんな家だから、蜂須賀家でも代々大事にして、淡路洲本の城代に任じ、淡路一国はその支配にまかせたのである。この家は始祖の大炊の通称九郎兵衛を世襲する規模になっていた。
これほどの稲田家に城代と淡路一国の支配権を返せと命じたのだから、重喜の決意も強いが、気も強い。
不平であったろうが、稲田は病気という名目で辞職した。
阿淡夢物語は、重喜が、
「自分は小身の家から来たので、家中の者共は自分を侮っているであろう、やつらの度胆《どぎも》ぬいてやろう」
と、いろいろぜい沢を申しつけた。武具、馬具、その他の器物を、うんとぜいたくにこしらえさせた。ご殿の天井を金銀はくをはりつけて、極彩色で雲竜をえがかせたとある。
武器、馬具のこしらえや絵などは、江戸でなければいい職人はいないから、初入部前に江戸屋敷でしたことであると思うが、これも重喜としては、単にぜいたくや、家中の者をおどろかして胆《きも》を奪うためではなく、反対を圧伏して、自ら権威を立てるための機略でもあったのであろう。年相応に方法が幼く、家中のひんしゅくを買う結果になったのは、いたし方はないが、それでも、ある程度の効果はあったろう。
重喜はその年を阿波で送り、翌宝暦六年の三月、参覲のために江戸に行くことになったが、十カ月の国許滞在の間に、独裁制への第一歩の段階を研究している。それを条制として、出立間際に、仕置家老の賀島出雲政良と池田山城長甫に申渡した。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一 士民の訴訟や、山川の境目等の争いは、それぞれの奉行と本卜《ほんぼく》(阿波藩独特の職名である。他藩の勘定奉行のことか? 大目付か?)や目付と相談して処理せよ。
一 この際もし奉行にいささかなりとも私曲ある場合は、一切をくわしく調べて、江戸に報告し、おれが差図を待て。
一 士民にして大罪を犯したもの、藩士にして国を離れて遊学せんとするもの、上方に出て病気治療せんとするもの等の処置は、一切江戸に上申して、おれが決裁を仰げ。至急やむを得ないものはこの限りでない。(至急やむを得ないものとは、病勢さし迫ったものだけであることは明らかだ)
一 すべて庶務の決しがたいものは、稲田|植久《たてひさ》、山田織部|直恒《まつね》に相談せよ。
[#ここで字下げ終わり]
独裁制への第一歩であることは、第二条と第三条を見ても明らかである。第四条で去年洲本仕置を免職にした稲田植久を立てたのは、去年のことで自らの権威を立てることは一応すんだから、顧問役としての役目くらいはさせる方がよかろうというのであったろう。
この条制をつきつけられて、家老らははっとおどろいたか、鈍感でこれが独裁への第一歩であるとは気がつかなかったのかどうか、かしこまりましたと、お受けした。
重喜は江戸に出て行った。
この年十一月上旬、阿波で百姓一揆がおこった。阿波は百姓一揆の多いところで、蜂須賀家が領主となってから、すでに七度おこっていて、これが八度目である。
この一揆は、藩の藍の専売制と、藍玉製造業者との暴利とをいきどおっておこされたものだ。
阿波の藍製造は今日でも有名である。藍の栽培をこの地に持ちこんだのは、蜂須賀氏だ。前の領地である播州竜野から藍種を持って来て、栽培させたのである。藍は暖地性の植物で、阿波にはよく適していたので、よく育ち、ほとんどこの国の特産のようになり、農民らの利益も大きかった。藩にも大いに利益となった。だから、蜂須賀家では藍種の移出を厳禁して、犯すものは厳罰に処した。藍の栽培法や藍玉の製造法を知っている者が国外に立去ると、役人をつかわし、追いかけて捕えさせ、入牢させたというのだ。江戸城中などで、藩主が他藩主から藍種をねだられたりすると、社交上ことわることが出来ないから、贈ることは贈るが、種を蒸したり焙《ほう》じたりして、発芽しないようにして贈ったという。
利益の多い産業だから、こんなに大事にもしたのだが、時代が進むにつれて、阿波藩も経済難に陥ると、自然に入って来る利益ばかりではやり切れなくなり、享保十八年に藍の専売制をしき、藍の耕作者から収穫高の四十パーセントを税として取上げ、藍玉製造業者(これを藍玉師《あいだまし》という)の移出高から二パーセントの移出税を取り立て、藍商には移出する藍玉一俵につき銀十匁を藩札で両替しなければならない義務を負わせた。
このやり方は耕作者にも、藍玉製造業にも、藍商にも、新たな負担になったが、特に耕作者にはずいぶん痛いものになった。彼らの利益は激減したが、利益がないわけではなかったので、こらえていた。
それから二十一年目が、この文章で書いている年の前々年の宝暦四年である。この年、藩は玉師株の制度をきめ、藍玉製造業者を一定の数に限った。藩としては多額な冥加金《みようがきん》を課して藩財政を助けることに目的があったわけだが、葉藍《はあい》を買う業者が減れば、買いたたく結果になる。藍玉製造業者にしても、冥加金で取上げられる分は葉藍の購買値段を安くすることによって補おうとするのは、自然の勢いである。耕作者は大いに苦しむ結果になった。
その上、今年は不作で収穫激減したので、満々たる不平がついに爆発したのであった。彼らは三通の檄文をつくって、村々の寺を通して回送させた。
[#ここから2字下げ]
この度藍の件について願い出ることについての回章。
藍の収穫に四十パーセントの税がかけられるようになって、二十四五年にもなるが、一昨年からは玉師株を制定、数を限定されたために、耕作者一同困窮するようになった。その上、今年は作柄が悪く、お年貢等も調《ととの》えがたくなり、両親、妻子、牛馬等まで養えなくなった。されば、来る二十八日鮎食村で耕作者一同の集会を開くことにした。村々の耕作者らは貝、鐘、ツク棒を用意し、村々の集団毎にシルシを立て、名簿を持って集まれよ。
この回章は村々の寺から寺へ伝達し、寺々から人々へ読み聞かせられたい。もしとどめおいて伝達を怠るにおいては、その寺は焼打しますぞ。以上
子(宝暦六年)閏《うるう》十一月
麻植《おえ》、名西《みようさい》、名東、板野《いたの》諸郡の全耕作者へ
[#ここで字下げ終わり]
檄文は一コースは麻植《おえ》郡三ツ島村(今の学島村の一部)の蓮光寺が藩に届けたために中絶したが、他の二コースは藩のきびしい追跡を受けながらも、次々に伝達されて、十五日頃には吉野川の中流以下の両岸地帯全体に行きわたり、各地で集会や、梵鐘、太鼓、法螺貝等を鳴らしての農民のデモが行われた。藩では必死になって取りしまり、二十八日までには五人の指導者をふくむ十人を逮捕した。
これで四郡一斉蜂起の計画は挫折し、翌年三月に五人の首謀者をはりつけにし、その家族らは郡外追放にした。
このように藩は首謀者を極刑に処しはしたが、これは法によって藩の権威を保つための処置で、農民の要求は漸《ぜん》を追って全部いれた。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、この年は藍の売行きが悪かったのに、葉藍一万俵を買上げた。
一、翌々八年五月には、藍耕作税の徴収法を改めて、延滞金は年賦上納をゆるし、今後の耕作税は藍玉製造業者が納めることにした。
一、十年八月には、耕作税を廃止し、藍玉製造業者の株制も廃止した。
[#ここで字下げ終わり]
一揆のおこった翌月の十八日、重喜は江戸で待従に任官し、その八日後の二十六日、去年から婚約中の立花家の姫君をめとった。名は傳《つて》、立花飛騨守貞|淑《よし》の女である。この時二十、重喜より一つ年上であった。
宝暦七年中は重喜はずっと江戸にいたが、六月、本卜《ほんぼく》に、
「米五十石、銭三千貫以上の出入は、一々余が直接の差図を仰げ。勝手にはからってはならない」
と、命じた。藩の財政が苦しくなっていたからでもあろうが、独裁制への置石《おきいし》の一つと考えられないこともない。
七月には林建部貞興というものを、近習にした。夢物語ではきげんとりのうまい悪人のように記述しているが、実際はそうではなかったようである。重喜の気に入りであったには相違ないが、手腕も、才気も、勇気も、忠心もあった人物のようである。
十一月に夫人が男の子を生んだ。千松丸と名づけられた。
翌年の宝暦八年五月に、重喜はまた国に帰ったが、帰った直後に稲田植久をまた洲本仕置に任命した。この頃から、重喜は家中に勤倹するようしばしばいましめた。藩の財政が窮迫し、諸士《しよざむらい》の家計も苦しいのに、見栄張って華奢を競っているからである。それでも、一向ききめがなかったので、九年正月には家中ばかりでなく、領内一般にきびしい節倹令を出した。
しかし、これくらいのことでは、藩財政の建直しには大効果はのぞまれない。根本的な対策が必要だ。今日でもこれに最も効果のあるのは、行政整理であるが、大名の家は行政整理は行えないしくみになっている。家臣らに世禄をあたえるのは、封建制度の根本で、この制度がくずれるものなら、大名それ自身の存在も抹殺される恐れがあるからだ。
重喜は行政整理にかわる方法を案出した。職班官禄の制だ。従来の制度では、家柄によって職制の上でも席次がきまっていて、実際に仕事をする者でも、家柄が低ければ無職の者の下位に列しなければならない。役目によって俸禄を加増されることがあるが、一旦加増されたものは役目をやめても減ぜられなかった。重喜の案は家柄による席次を廃止し、実際に仕事をする者を上位におこうとするのだ。すなわち、家老座なら、従来は稲田家が首席になるわけだが、重喜の案では仕置家老に任ぜられた者が首席になる。中老では近習の者が首席になる。裁許《さいきよ》奉行、組頭がこれにつぐ。物頭では本卜《ほんぼく》と目付とが首席となり、郡奉行、町奉行、単なる物頭がこれにつぐ。もちろん、これは在職している間だけのことで、職をやめれば本来の順位にかえる。
当然のこととして、文官が優位におかれる結果になる。武家大名は本来武職なのだから、軍団の組織になっているが、戦争のない世となっては、武官は閑職となる。しかし、表立ってそれを言い立てると、うるさいことになるから、自然のうちに劣位になるようにしたのであろう。巧妙といってよいであろう。
職による俸禄の加増は在職中だけで、職をやめればそれは減ぜられて、原禄だけになる。
以上であった。この俸禄の件だけは、八代将軍吉宗のはじめた足高《たしだか》の制度の踏襲である。諸藩ならうものが多かったのだから、阿波藩がこれまで取入れなかったのは、藩政が重臣まかせにしてあったので、重臣らが自分らの損になることはしなかったからであろう。
重喜は書付を以て、家老らに以上のことを説明して、こう諭《さと》した。
「従来の職制は、藩祖以来の制度であるが、因襲久しく弊害もあり、また世の変遷に適合しないものもある。古今を斟酌《しんしやく》して、善なるはのこし、弊あるものは除かねば、政治は行われない。それで、余は新たに班禄の制度を行うのである。余が意を体して、力をつくして余を輔けてくれるよう」
家老らは皆かしこまりましたとお請けしたが、ただ一人山田織部|真恒《まつね》は承服せず、諫書を奉った。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
恐れながらご教訓申上げます。
一、御先祖代々定めおかれましたいろいろな制度をご改革あって、この度新格の制度を仰せつけられましたが、恐れながらこれはお考え違いのように、拙者には思われます。従来の制度でご家中も百姓町人らもよく治まっているのでございますから、多少の支障はあっても、この馴れた制度をお改めになるべきではないと存ずるのであります。民というものは変化を好まないものでありますから、帰服しない恐れもございます。上下一致、協和してこそ、政治は行われるものでありますのに、もし新制度が支障生じて行われがたいとなれば、太守様のご瑕瑾《かきん》ともなりましょう。
一、太守様は他家よりまいられてご当家をご相続になったのでありますから、ご当家にてこれまで十代百六十年も行い来って、阿・淡両国よく治まってまいりました制度をお改めになりましては、ご先祖にたいしてご不孝にもあたりましょう。
論語にも、父の道は三年改めずとあり、孟子にも、天の時は地の理(利の誤り)にしかずともあります。かれこれご思案はさることながら、当国にてしなれたる旧式にお従いあるがよろしいと存じます。
以上恐れ多い申し様でございますが、お家のため、また太守様のご瑕瑾にも相成り申すべきことと存じますため、なげかわしく存じて、お怒りをも顧みず、申し上げるのでございます。万事に慎重を専一として、ご政治を取行い給うよう、願い奉ります。以上
[#ここで字下げ終わり]
養子の分際で出過ぎたことをするなと言わんばかりのこの諫書に、重喜は怒った。すぐ付紙《つけがみ》して返した。付紙するとは返書や説明書を相手の手紙にはりつけることだ。家来の諫書や建白書に返事する際はこうするのが江戸時代にはしきたりになっている。
[#ここから2字下げ]
当家踏襲の旧制度を、今度新格の制度に改めるよう申しつけたのにたいして、反対の旨の書面、一々披見した。左に余の意見をしたためる。
余は養子であるから、よろしきに従って新制度を立てることは、先祖に対し不孝となるとは、不審千万なる申条である。父の道三年改めずというは、原則としては大いにもっともなことである。しかし、父祖のなし来ったことであるからとて、悪いことも改めないで、父祖の恥を永く世にさらしてよいかどうか。
天の時は地の理にしかずの条は、あまり滑稽だから返答しない(文字も間違っていれば、この際の引用としても適当でないの意であろう)。
その方は心中に、先ず余が養子の分際でという考えがあるから、万事そのように考えて、余の申すことがわからないのだ。余は、他家の生まれではあるが、すでに相続して当家の主人となった以上は、政道万端、従来踏襲の制度であってもよろしきに随って改革し、家を繁昌させることが、先祖への孝道になると信じている。他家の生まれじゃの、養子じゃのと、さような差別は毛頭考うべきではないぞ。余の存念はかくのごとし。熟思三考せよ。以上
[#ここで字下げ終わり]
返書をたたきつけておいて、家老・近臣に山田の諫書について審議させた。皆、山田の意見をよしとしない。重喜は山田の家老職を免じ、閉門を命じた。
しかし、班禄の法は引っこめた。一人でも反対の者がいるようでは、成功しないと思ったのであろう。養子のつらいところだ。こういう所にも、重喜がやりにくかったろうことがわかる。
九年の春参覲して江戸に出、翌十年の初夏、帰国すると、八月に藍場局を廃止した。これは前に述べた藍の耕作税全廃、藍玉製造業者の株制廃止のためだ。この時、西尾弥一衛門|由則《よしのり》、生田|弁《べん》左衛門を本卜にした。二人とも、重喜の気に入りの者であったようである。
明けて十一年のはじめ、この両人が会計検査をして、その結果、藩の歳入は十万六千貫しかないのに、歳出はこれを上廻《うわまわ》り、負債が三十万両もあることを発見して、仕置家老の賀島上総政良(出雲のことだ。上総と改名していた)に報告した。
「このような状態になっています。まことに不健全千万なお家の経済状態であります。一時も早く対策を講ぜずば、前途まことに不安であります」
賀島もおどろいたが、いい思案も浮かばない。ともあれ、重喜に報告した。
重喜は不機嫌になった。
「さようなことは、かねて注意していれば、必ず気づくべきことだ。気づけば防ぎもついたはずだ。今日まで気づきもしなかったというのが怠慢である。それで執政の職といえるか」
と、叱りつけ、西尾と生田とに意見をたずねた。二人は二十余条を書きつらねて答申した。その意見は諸侯との交際をやめるというに尽きて、将来のことにはまるで目がとどいていない。
「それしきのことが何の足しになるものか。諸侯との交際費を全部借金返しにまわすはよいとしても、現実に歳入が経費に足りないのをどうしようというのか。新しく借金してあてるよりほかはないではないか。それに蜂須賀氏がつづく以上、諸侯との交際を絶つことは出来んことだ。余は金が足らん原因は、国政が粛正されないため、家中の者共が主人の利を奪っているからだと思うぞ。亡国の政治とはこのようなのを言うのだ」
叱咤する重喜の前に、二人はすくんだ。返答出来ないで退出した。
二人は重喜の腹心だ。重喜の怒りも、二人の恐懼も、あらかじめしめし合せての演出であろう。
蜂須賀家の習わしでは、家老の嫡子で役付きすれば二千石、二男以下は千石、中老の嫡子は二百五十石、物頭の嫡子は二百石を支給されることになっていた。しかも、当時蜂須賀家の年々の用途にあてられるのは、わずかに五万石だ。これで江戸国許全部の生活から、政治上の賞罰、参覲交代の費用までまかなわなければならなかった。重喜が、「家中の者が主人の利を奪っている」といったのは、もちろんこのことを指しているのだ。だから、これを廃止することも、重喜の狙いではあったが、真の狙いはさらに奥にあった。以前一旦出して引っこめた職班官禄の制をまた出して、ついにそれを通す下地をつくるにあった。
重喜はストライキに入る。普通の食膳をしりぞけて、白粥《しらがゆ》に梅干以外は一切食べず、あたかも寒中なのに袷一枚着ただけという生活を数日つづけてから、家老らを召して、言いわたした。
「わしはせっかく迎えられて当家をついだこと故、よく阿・淡両国を治め、当家のためにも、両国の民のためにも立派な政治をいたそうというつもりであったが、藩の財政困難のために、公家《こうけ》の費用は五万石しかない。これではわしには出来ぬ。それを知りながら、当主の地位にとどまってはいられぬ。わしは隠居することにした。千松丸はまだ幼いゆえ、立てるわけには行かん。誰ぞしかるべき人を迎えて、わしについで立てよ。わしは二州の太守などという身分には、少しも未練はない。すぐにも捨てたい。しかし、わしが急に隠居を願い出ては、蜂須賀の家は断絶を申付けられるであろうから、その方共が世子をさがして来るまではとどまって、公儀向きのつとめはいたそう。しかし、国政はとらぬ。その方共合議していたすよう」
家老らは恐れうろたえて、わびを言い、
「政治をあそばして下さいますよう。わたくし共、何事によらず、仰せつけられる通りにいたすでありましょうから」
と嘆願したが、きかない。
「わしは愚かで、当家の政治のような、むずかしいことは出来ない。その方共でいたせ」
賀島は三日三晩、懇願したが、どうしてもきかない。そこで退出して、相談して、藩士の知行地を均一にして、のこった知行地を献上して公地にしようとの決議をした。以上は蜂須賀家記に書いてあるのだが、意味がはっきりしない。多分、泡夢物語に、藩士らの知行地を測量し直して、縄延びの部分は全部公地にしたとある、そのことを言っているのであろう。夢物語では重喜の思い立ちのようになっているが、家記によって家老らの合議による決定であったことがわかる。
賀島らは重喜の前に出て、決議したことを上申して、決裁を仰いだ。
「その方共がよいと思うなら、やるがよかろう。わしはやれともやるなとも申さんぞ。しかし、心付きを一つ申しておく。制度の改革の方が先ではないかの、これまでの制度ではやって行けないことは、今日の結果になったことで明らかだ。それをそのままにしておいて、一時給禄を平均した(検地をしていくらかの公地を打ち出した)くらいでは、当分の急は救われても、やがてはまた今日のようなことになろう。制度を改めんことには、同じことのくりかえしだ。膏薬ばりでは行くまいぞ。よく考えよ」
賀島らはかしこまって退出し、生田|弁《べん》左衛門と斎藤貞右衛門|利寛《としひろ》という者とをその役にあてて、とりあえず均禄のことをつかさどらせた。二人は重喜の気に入りの経済通だ。家老らがこれをえらんで任命したのは、いくらかでも重喜のきげんをなおしてもらおうと思ったからである。
家老らの合議による決定であっても、検地して縄のびを公収することが、家中の士《さむらい》らに好意をもって迎えられようはずがない。百姓はまた検地はほとんどの場合、増税の前提として行われることなので、必ずきらったものだ。
家中と領内の民とが、これをどう解釈したかは、阿淡夢物語にこうある。
「もとより阿波守殿は大欲の生まれつきなれば、つくづく思召《おぼしめ》すには、一家中には無益の者共多かるべし、この者共を追ひ退けなば、あてがふところの地方《ぢかた》、わが蔵地《くらち》になるべし、さすれば実父佐竹の家へ、今までよりも金銀の助勢を多くし、我も一代こと潤沢に栄耀《ええう》をきはむることも不足あるまじと、しきりに思ひ立ち云々」
小身の佐竹家から来た人だから、かれこれと実家に仕送るはずであるという、意地悪い姑《しゆうとめ》が若い嫁を見るような心で、重喜を考えていたことがわかる。減俸や増税はいつの時代でも、よろこばれないところに、平生からこういう目で見ているのだから、均禄の法なども、重喜の欲心から出たものと見ていたのである。
さて、重喜は、胸に蔵する真の抱負が達せられたわけではないが、心理的には数歩の勝利を得たと思ったので、平常の生活にかえった。しかし、鷹狩などの遊楽は病気であると言い立ててせず、
「わしの隠居の決心は動かないのだ。大名の楽しみをしたいとは思わん」
と、言っていた。そして、政治上のことについても、役人らが報告して指揮を仰ぐと、必ず、
「その方共、それは皆と相談してきめたことか」
と反問し、そうであると言えば、「よかろう」と言い、まだと言えば、「相談してまいれ」と答えて、決して自分だけの判断では決裁しなかった。
こうした重喜のふるまいは、無言の強い圧迫となって、家老らも重役らも恐れはばかり、決してさからうものはなくなった。
この頃、ある問題がおこった。
一体、阿波は戦国時代、はじめ細川氏の、後にその家宰《かさい》の三好氏の根拠地で、ここに足利十代の将軍義植の子義冬が事情あって下って来て、住みついた。阿波の国主は、細川家から三好氏に、三好氏から長曽我部氏に、という工合に変ったが、どの国主もこの足利氏を那賀郡の平島におき、「平島|公方《くぼう》」ととなえて、相当な敬意を表しつづけた。蜂須賀氏の代となって、所領を百石に削った。しかし、依然平島にいて、平島公方と自らも名のり、人も称していた。
この時の平島公方は義|根《もと》という人物であった。相当学問があり、詩に巧みで、時々京都に遊んだが、血統が血統であるので、京の公家《くげ》衆も尊敬して交際した。こうなると、百石ぐらいの知行所からの年貢では、いろいろ不足なので、蜂須賀に知行地の加増を要求した。
義根の親しく交わる人々には、京の公家が多い。無下《むげ》にもあしらいかねて、家老らは承諾する気になって、重喜に取りついだ。
重喜が普通の経歴の大名なら、どうせ百石も加増してやればいいのだから、聴き入れてやったであろうが、彼ほどの人間でも、二万石の小大名から来たというコンプレックスがまだ消失せず、公方を名乗っている男を家来にするのも面白かろうと思ったのか、家中に威を示す一端にもなると思ったのか。
「きびしく節約をしなければならんところだ。聞き入れるわけに行かんな。しかし、公方の格式を捨てて、城下に住み、家来になるなら、加増してつかわそう。さらずば、ことわれ」
と言った。
間もなく、三月になり、江戸参覲の時が来た。
家老らは義根からくどく嘆願されているので、また重喜に願い出た。
「その返答はもういたした。公方たる格式を捨てて、城下住いして、当家の家来となれば聞き入れようと申したはず」
言いすてて、江戸へ立った。
江戸で、重喜は腹心の林建部貞興、中村主馬助長徳、佐山市十郎高|徳《とみ》の三人を召して、節倹の新令を定めることを相談させて、
「内外の冗費を全部省く。たとえば、自分の一年間の費用は千両余(四千両という説もあり)であるが、二百両とする。衣服も破れない以上は新調しない。食膳の皿数はうんとへらして、一汁二菜くらいにする。奥や若らの歳費も十分の一二にする。若らの衣服は自分の古着をつくりなおしたものにする。乳母も世子には三人、他には二人ずつつけているが、すべて一人ずつにする。この節約の期限は七年間とする。もし、法に違反する者は、幕府に請うて、蝦夷・八丈島に流す」
と声言した。
若君らの傅《もり》役らは相談して、
「これはあまりなることでございます。若君方は乳だけでご生育でございますのに、乳母をお減らしになっては、お乳不足で、ご病気になられましょう。乳母だけは前々の通りにしていただきとうございます」
と、願い出た。重喜は反問した。
「その方らは子供が生まれたら、乳母を何人つけるか」
「わたくし共は乳母など置く身分ではございません」
「わしの子供らも、その方らの子供らも、人間の子であるに変りはない。その方らの子供らが乳母がいずとも丈夫に育つ以上、わしが子供らが丈夫に育たぬはずはない」
と言って、はねつけた。
この頃、国許の家老らから、平島公方のことについて、
「平島公方のことについて、京の堂上方からもいろいろと取りなしてまいりますので、お家将来のためにも打捨てがたく、家老一同合議の上、加増を申しつけました」
という報告がとどいた。
重喜は怒った。
「余が意志は、国許出発の時に申し聞《き》けておいた。それにそむいて、ほしいままなあつかい、余は認めぬぞ」
と返答してやった。
国許の家老らは困惑した。相談の結果、賀島上総と長谷川越前貞雄とが、馳せ上って来たが、重喜は、
「わしの意見はすでに申してある、会う必要はない」
と言って、会わない。
二人は困《こう》じはて、こう相談した。
「国許にかえって事情を報告して、稲田殿に来ていただこう。稲田殿にたいしては、われらにたいするようなあしらいはなされるまい。しかしながら、殿をご実家からお迎え申すに骨を折った拙者にたいしてすら、かようであるとすれば、あるいは稲田殿にたいしても、どうであるかはかれぬ。そうなった際の、覚悟をいたしておく必要がござるぞ。つまりは、そうすれば、政事をなさらぬ太守様ということになります。政事をなさらぬ太守様など、意味なきものでござる。仕儀によっては隠居させ申して、どこからか次の太守様をお迎え申すよりほかはござらぬな、この儀、いかがでござろう」
「よろしかろう。やむを得ぬことでござる。君よりお家の方が大事でござる」
と、相談が出来、蜂須賀家の一族や親類である大名や旗本を歴訪して、了解をもとめた。重喜の実家である佐竹家や夫人の実家である立花家を除外したことは言うまでもない。了解してもらったので、二人は国許に向かった。家柄家老は時としてこんな働きをしなければならないものであることは、これまでおりおり書いた。
国許の家老らも、皆二人の意見に同調した。ともかくも、稲田九郎兵衛が江戸に向かった。
稲田が江戸についたのは、八月末か、九月初旬であったようだ。早速に目通りを願い出ると、重喜は、
「家老一同を代表してまいったのであるなら、会うも詮なきことだ。わしのさしずをことわりもなく踏みにじる家老らにとっては、わしは用なき者であるはずだ。しかしながら、それを離れての九郎兵衛一個としてなら、親しいなかでもある。遠路をまいったことでもあり、久方ぶりに会ってもよい」
と取次の者に伝えさせた。
九郎兵衛としては、そんならこちらもお目通りしても詮なきことですとは言えない。
「ごもっともなる仰せでございます。九郎兵衛一人としてお目通りおゆるし下さいますよう」
と言った。
会うと、重喜はきげんよく応対して、やがて機をはかって、その頃にもうすっかり案の出来上っている勤倹令のことを、じゅんじゅんと説いた。
藩の現在の経済状態から、家中の武士らの貧窮ぶり、貧窮なくせにぜい沢ばかりしている気風のこと、すべて説いて、その救済策としてこれは考えたのだと、熱心に語り、
「七年だ。七年で打ちぬくことが出来るのだ。蜂須賀家万代の栄えのために、わしを助けてほしい。いや、助けてくれい」
と、熱情をこめて口説いた。稲田はゆり動かされた。国許での同僚との打合せより、重喜の言うことが正しいと思ったのである。
阿淡夢物語でも、泡夢物語でも、両家老の上府も、稲田の上府も、平島公方に関したことのためではなく、重喜が自分の実子をして蜂須賀家の相続権を独占させるために、国許にかえってから先々代宗鎮と先世子内匠頭重隆とに、それぞれに数人の子供が出来ているので、その男の子らは臣籍に下して中老に、女の子らは中老クラスの家に縁づけることにしたいと言ってよこしたので、
「当主となった人や世子となった人の子女が中老となったり、中老クラスの家に縁づかれた先例は当家にはない。お考え直しを願いたい」
と、諫言するために上府したのだが、稲田は少し足りない人物である上に、気の弱い性質なので、重喜にうまくたらされて、家老一同の打合せを裏切って、重喜側についてしまったのであると書いている。
重隆の子の伊豆|喜憲《よしのり》が中老千五百石となったのは事実であるが、それは後年のことで、この時はまだ二つである。そんなことのあるべき道理はない。
さて、一番家老の稲田が味方についたので、重喜は力を得て、勤倹令を家中に発表した。宝暦十一年の九月であった。
[#ここから2字下げ]
連年、藩経済の窮迫のため、費用が足りないのであるが、救うべき策が全然ない。今は国政も行えない状態である。家中の者はもちろんのこと、領民一統もひとしく窮迫している。これで凶年・飢饉でもあったらと思うと、寒心せざるを得ない。人の君たる者がじっとしていられようか。
それ故に、冗費を省《はぶ》き、節約して、両国を豊かにしたいと思い立った。今後は、公儀のことに無関係なものは、元日の祝儀から、参覲交代や江戸城出仕の行列も、すべての礼式も、一切やめたり、格式を下げたりして、費用を節する。家中の者共もこれにならって、出来るだけ倹約質素にし、美衣美食をつつしめ。一生懸命精を出して仕事し、少しなりとも金を得て、貯えよ。
借金している者は、債権者と談合して、七年間を期限として完済せよ。お上から借りている者は張消しにしてやるから、他の借金を返すようにつとめよ。
皆々、わしの心をよく体して、必ず令に違《たご》うてはならない。
[#ここで字下げ終わり]
各郡に一つずつ備荒倉《びこうそう》をつくらせ、年々に米を積んで七年間に二十五万石にし、そのあとは少しずつ新穀と入れかえて腐敗させないようにすることにして、先ずこれらの費用のために自分と夫人の歳費から出してあたえた。
また国内にふれを出して、各戸の間口の間数によって、献金させた。藩士にもその義務があった。邸地一坪につき銀一厘八毛を納め、十二年納めつづける。十三年目には藩から二十匁返す。しかし、民にして非常に貧しいもの、藩士で借金を返済しきれないでいる者には免除した。領内全部の田地は一反につき一升を十二年間納める。十三年目には二斗五升藩から返す。大坂から輸入する商品には、価格銀百匁につき一パーセントの輸入税を取る。この税金は町人百姓に薄利をもって融通する。三千石の米を大坂から江戸に二年送って、それを売って得た金を藩士らに禄高に応じて、十二パーセントの利率で貸し、十二年間で年賦で償還させる。これまではかけなかった水産物に税を課することにした。家中の者に最低十二文以上の銭を随意上納させる。等々々のことをきめて、かかりの役人をおいてつかさどらせた。
これらのことは、最初声明したように、幕府にこう請願して、了解をもとめた。
[#ここから2字下げ]
私、阿・淡両国を治めることになって以来、つくづくとその風俗を観察しますに、士《さむらい》共の気風は遊惰で、しまりなく、華麗を競っています。これにならって、城下の民も都会風俗で、士民ともに困窮に陥っています。今のうちに矯正しませんでは、必ず亡滅に至るに相違ありません。私は深く心痛しています。されば、私はしばらく旧来の慣例故式をやめ、厳重に奢侈を禁じ、両国の風俗を粛正し、国政を建て直したいと存じます。家老以下もし私の命をきかぬ者があったら、きびしくこれを処罰したいと思います。もちろん、お公儀のお掟に関しないものだけのことでございます。お許しいただきたく願い上げます。
[#ここで字下げ終わり]
幕府は了解して、許してくれた。
重喜はまた、あまり倹約を言い立てては、乗馬を畜《か》う者がなくなり、武士らの馬術の技術がおとろえることを案じて、馬術指南役二人に馬十頭ずつをあずけて、家中の青年らに教習させた。
重喜の計画では、七年間のきびしい節倹で多年の借金を完済し得ることになるが、その後の歳費の不足は、鷹場《たかば》を開墾すれば十万石の耕地となるから、これで補うことにして、これもぽつぽつと取りかからせることにした。
また、勤倹令のために、景気が萎縮することも考え、その対策も講じた。
一つは淡路の由良港をひらくことだ。阿波と大坂との海路は、夏は東南風が多いので泉州近くを通り、冬は西北風が強いので淡路近くを通るのであるが、冬はよく海がしけるので、淡路に避難港のある方が便利だ。不景気対策の一つとして、由良に港をひらくことを計画し、幕府に請願して、許可をもらった。
一つは、これまで下屋敷がなかったので、農業を阻害しない場所に下屋敷を営むことにした。それは大谷という所であった。阿波には大谷という土地が二カ所ある。一つは今の板野《いたの》郡堀江村の大字だ。鳴戸市の西方にある。一つは勝浦郡|勝占《かつうら》町の大字になっている。ここの大谷は後者で、徳島市から四キロほど南方である。
もっとも、これらの工事の開始は、この翌々年以後からである。
ともあれ、勤倹令は励行された。役人の常で、直接取締りにあたる末端の役人らが、千篇一律に杓子定規を適用して厳刻《げんこく》をきわめて民の疾苦となったことは、もちろんあったろう。役人というものは、責任を恐れ、功績を競うので、必ずそうなるものなのである。
さなきだに、重喜に好意を持たない家中一般の武士らの、このことにたいする気持が、泡夢物語にこう表現されている。
「さても松平阿波守殿には、日に増し、夜にまし、奢り栄華身にあまりて、心のままに楽しみをきはめ給ふぞ、ひたすらに天魔の所為とこそ見えにける。まづ我の心にかなひし者には加増して高禄をあたへ、少しにても心にそむく者は科《とが》なき者にも科をこしらへ、あるひは切腹、あるひは永の暇をつかはし、知行を没収《もつしゆ》し、人によりては闕所して家財を取上げられしかば、家中の上下一人として安き心もなく、ただ薄氷を踏むがごとくにぞありける。またまた在々の百姓には課役をかけ、非道のみありける。町人も課役・用金を申しつけ。家中へは厳しく倹約を申しつけ、少しにてもその掟にそむくことあれば、科《とが》を申しつけ、自分の奢りには無益の金銀を費し、昼夜の歓楽のみにて、昼をも夜となし、多くの女中を抱へ、酒宴遊興に耽り暮されける」
さらにつづけて、娘狩というのを行い、
「町人百姓、家中にも小身の末々の娘の少しにても眉目《みめ》よきあれば、無理に呼びよせ、自分はいふに及ばず、出頭の近習・小姓に至るまで姦淫をゆるし、邪行を行はせられける。誠に昔の無礼講と聞えしも、かくやと思ふばかりなり云々」
とある。娘狩に飽きると、後家狩をやったともある。
罪人が多数出たというのは、法令励行の際には、よくあることだから、相当あったろう。従って家中の者はいつも不安であったろう。百姓や町人に課役をかけたというのは、間口税や、一反に一升の米の借上げや、輸入税や海産物税や、そんなもののことであろう。わが心にかなった者には加増して高禄をあたえたというのは、改革政治にはどうしても腹心のものが必要だから、その者共を相当待遇したことを言うのであろう。
しかし、重喜が遊楽ぜい沢に耽ったというのは別荘つくりのことを言っているのだろうが、目的は不景気対策だ、ぜいたくというほどのことがあったろうとは思われない。娘狩や後家狩などなおさらのことだ。けれども、そういう流言が飛んでいたのかも知れない。他家から来た上に、好きでない殿様だから、悪い噂ほどよろこび、無詮策に信じたのかも知れない。あるいは、一人くらい下々の娘を召したのが、誇大なうわさとなったのかも知れない。もっとも、この時はまだ重喜は江戸在府中だ。いずれにしても、重喜の善意による改革の意志は全家中には信ぜられていないのである。
年が明けて宝暦十二年四月、重喜は帰国したが、その翌月、最も意外な事件がおこった。一昨昨年、重喜が職班・官禄の新制度を案出して家老重臣らに示した時、諫書を差出してただ一人反対の意向を表明した山田織部真恒が、修験者に依頼して、重喜を呪咀調伏する法を修していたことが暴露したのだ。
山田はあのことで重喜の怒りに触れ、家老を免職され閉門に処せられたが、その後閉門はゆるされた。しかし、重喜にたいする不平はやみがたいものがあった。他家から養子に来た分際で、一個の浅知恵で軽薄な新制度を案出して、祖法を破り、お家を危うくするお人、譜代の老臣の家に生まれた者として、拱手して見すごすことは出来ないが、他の家老らが同調しないどころか、自分を非にする以上、自分一人で存念を立てるより外ないという公憤もあったろう。
山田の妻には流産の癖があって、懐胎七八カ月におよんで流産したことがしばしばあった。ある時、また妊娠した。山田は今度こそめでたい出産でありたいと切願していると、その頃徳島城下の南郊の沖ノ島という土地に、歓喜院という山伏がいた。歓喜天を祀って修法祈祷して、いやちこな効験があるというので、人々の信仰をあつめていた。これを山田にすすめる者があったので、屋敷に呼んで、安産の祈祷を頼んだ。
山田は家中で一流の名門である上に、その頃家老でもある。そんな人に信仰されることは、歓喜院には宣伝にもなることだ、勇み立って、
「かしこまりました。丹誠こめてつとめるでございましょう」
と引受けて沖ノ島にかえり、精心こめて七日間の加持を修法し、なお時々祈祷をつづけていたが、やがて臨月になってのある日、山田の屋敷に来て、
「ご出産は明日の七つ時(午後四時を中心にして前後二時間)、お子様は男子にて、ご安産、おん母子《おやこ》ともにご安泰でございます」
と言って、祈祷の札《ふだ》と安産加持の守りとを渡して帰って行った。
山田は喜びながらも、多少の疑いを抱いて待っていると、翌日の午後三時頃にめでたく安々と出産した。男子誕生、母子ともに至ってすこやかだ。
山田は歓喜院の信仰者になり、しげしげと参詣したので、歓喜院もまた山田の屋敷に遊びに来るようになり、親しいなかとなった。
重喜をにくしと思っている山田の心に、歓喜院の霊験ある法力のことが思い出された。
歓喜院に呪咀調伏させて重喜を死なせ、あとには徳島城の西の丸に隠居している内匠頭重隆を擁立すればよいと思った。
内匠頭重隆はもうこの頃には病気もなおり、子供も出来ている。それに、彼が病気によって隠居したいと願い出た時、松平の名字と内匠頭の官とを返上しようとうかがいを立てた時、幕府はそれにはおよばないと返答した。このことが、蜂須賀家の士らにも、領民らにも、これは内匠頭様は蜂須賀家の血筋を伝えて一旦ご世子にもお立ちになったお方であるから、お公儀としてはそれとなくご世子のあしらいをしていなさるからであろうというように受取られていた。だから、山田も重喜の死後には、この人をお願いすれば、公儀は必ず許可するであろうと考えたのであった。
山田は歓喜院をよんで、重喜を行力《ぎようりき》で失ってくれるように頼んだ。山田が重喜の政道のあやまちを語って、これを失うことは蜂須賀家のためであると説いたことは言うまでもないが、説かれるまでもなく、重喜の評判は家中でも一般でも悪いのだ。
「よろしゅうございます」
と、受合って、調伏壇を設けて、日夜に凄まじい修法をはじめた。
これが、この時暴露したのだ。
暴露の動機は、夢物語によると、薄々わかったので、賀島上総の計略で、五人の侍らを信者をよそわせて歓喜院の家に出入りさせ、いろいろと歓喜院に取入らせ、詐術にかけて聞き出したことになっており、蜂須賀家記では家中の侍の加藤丈左衛門、若山源左衛門などが、歓喜院の秘法を学ぶために弟子となって出入りしているうちに偶然知って届け出たことになっている。忠義立てして訴人したこの連中は、
「妖術を学んでいたとはけしからん。武士のすることではない」
という理由で、放逐されている。蜂須賀家記の説が正しいであろう。
山田は捕えられ、城中で取調べられ、逐一白状したので、他家預けとなり、預け先で切腹させられた。
歓喜院は捕えられて死罪に処せられることになったが、歓喜院の本山である京の聖護院門跡からあつかいが入ったので、阿・淡両国を追放して、大坂の阿州問屋である油屋某に命じて天満に小さい家を借らせ、これに住まわせることにしたという。その家を借りて居宅とする費用として、金子十両藩から油屋につかわしたというのだから、これは現代人には少し合点の行かない処置のつけ方である。聖護院門跡のとりなしはそんなにききめのあったものなのであろうか。あるいはまた、歓喜院は歓喜天を信仰し、浴油《よくゆ》の法を秘法として祈祷修法していたというのだが、重喜の実父佐竹壱岐守が子供二人をそれぞれ大名の家に養子にやって太守にすることが出来たのも、江戸深川平井の燈明寺で歓喜天を祀る僧に浴油の秘法を修しさせて祈願をこめたによるというのだから、重喜にしてみれば歓喜院の怨恨を買うことに恐怖があったのかも知れない。この時代の人は、口や文章では強そうなことを述べているが、ほとんどの人が内心では呪咀や調伏の修法の功力《くりき》を信じていたのだから。ぼくの知っているかぎりでは、この時代で迷信的迷妄のない人は、林述斎と司馬江漢だけである。この二人は徹底した合理主義者だ。
重喜は蜂須賀家にとって由緒ある山田の家の亡びるのを惜しんで、分家の八左衛門武|雅《まさ》をもって本家として立てて先祖の祀りを存することにして、従来六百石であった八左衛門の知行を千石とし、中老として、山田の家の武器、武具、家財、家具等一切をあたえた。阿淡夢物語にその目録が出ているが、おびただしい品目と数量だ。五千石で代々つづいて来た武家の富がどんなにすさまじいものであったか、よくわかるのである。
後日譚だが、山田の家族は八左衛門が養っていたが、山田未亡人はなかなかの美人であった。八左衛門は自分が本家を立てることになった上に加増までいただき、家宝家具も一切相続させられたのは、山田の遺族をねんごろにいたわり養えよとの太守の無言の意志表示であると考え、その心得であしらっていたところ、八左衛門の妻がこれを嫉妬して、出入りの者にあられもないことを語ったりなどした。今日でもありそうなことである。世間は無責任に評判を立て、ついに重喜の耳に入った。重喜は怒って、その知行を没収し、隠居田舎住いを命じ、悴の八十郎に二百五十石をあたえて平侍《ひらざむらい》にしてしまったという。このことも、阿淡夢物語は、重喜のはじめの情ありげな処置は、真の仁心からのことではなく、世間の目をごまかすためであったから、無責任な風評を聞くと、これ幸いと知行地を没収したのである。重喜の本心は貪欲にして一つも大名らしい所がないと、非難している。重喜の志はついに家中の者にも、領民にもわからなかったのである。
宝暦十二年の翌年は明和元年である。
八月、暴風雨で、稲作に相当な被害があった。
十二月七日、重喜の実父佐竹壱岐守義道が江戸で病死した。
この年に由良港をつくりはじめた。
明和二年
四月、洪水して諸川あふれ、あたかも麦秋の頃であったので、皆水びたしになって収穫皆無となった。
六月、長谷川越前貞雄を仕置家老とした。
〃  暴風雨。作物に相当な被害があった。
八月、雨つづきで、諸川あふる。
十二月、賀島上総政良と長谷川越前貞雄の仕置を免じて閉門を申しつけ、稲田九郎兵衛植久を仕置とした。
この処置は、一昨年の平島公方事件で、家老らが勝手なあつかいをしたとて、重喜が怒り、弁明のために江戸に上って来た賀島と長谷川とを会いもせずに追い返し、そのあとで上って来た稲田には会って、勤倹令のことについて了解させた、あのことの帰結である。
重喜はあの時は勤倹令によって藩財政と家中の者共の家計とを立て直すことだけを説いて、稲田を了解同意させたのだが、その後度々親しく会っているうちに、真の抱負である藩制改革にも同意させることが出来たので、この家老座の更迭改組になったのであった。
改革は年が明けて明和三年の初頭から行われた。
先ず上士階級の職制を定めて、第一班を家老として定員五名、この時の人々の知行は五千石から一万四千五百石までであった。最高が稲田九郎兵衛であることは言うまでもない。
第二班は中老(若年寄)で、定員三十七名、近習、裁許、散官、組頭等がこれだ。知行は四百石から三千石までの人々であった。
第三班は物頭。目付、郡奉行、町奉行、物頭(これはちょっとまぎらわしい。班の名も物頭というのだから)。定員十二名。五百石から千石までの人々であった。
つづいて中・下の階級の人々の職制を定めた。組頭を大番組頭と改称し、その組士は小普請組と名称する。中小姓、日帳格もこれに入れた。原士《はらし》(阿波特有の名称、郷士である)も、この時中小姓に編入した。阿淡夢物語に、銀十貫目献上すれば名字帯刀をゆるしたとあるが、これに相当するのかも知れない。
次には門閥打破のために、抜擢を行った。林建部貞興、樋口内蔵助正|恭《やす》は中老であったのを、家老に抜擢して、それぞれ四千石を加増した。前者は五千三百石、後者は六千五百石となった。
寺沢式部|利知《としとも》と柏木忠兵衛友|郷《さと》とを物頭から中老に引上げ、三千石を加増した。前者は三千七百石、後者は三千八百石となった。
四月には、賀島上総政良と長谷川越前貞雄の知行を没収して、改めて政良の子備前政孝、貞雄の子郡之丞卓|幹《もと》にあたえた。それぞれ父のとっていただけの知行高なのであるから、厳重処罰の意を示しただけのことである。罪状は先年の平島公方加増事件の時、廃立《はいりゆう》をはかったというのであったろう。
ついでに書いておく。平島義|根《もと》は加増要求がもつれてさわぎになったので、厭気がさしたのか、腹が立ったのか、阿波を飛び出してしまったが、その後の消息はまるでわからないという。
この年は六月から八月まで、日照りつづきで降雨がなく、作物皆枯れた。
連年のように風水害、旱魃の災に遭って、年貢が入らず、どうにもやりくりがつかなくなったので、重喜は幕府に借金を申しこんだが、幕府は貸さなかった。十代将軍家治の初政の頃で、幕府も経済に苦しんでいるのだ。無い袖は振られなかったのであろう。
十一月に由良港が竣功した。
明和四年になった。
八月、柴野|栗山《りつざん》を百五十石で召抱え、世子千松丸の侍読《じどく》とした。栗山は後の寛政の三博士の一人で、松平定信が老中となった時、幕府の儒官に聘せられた人である。当時の大学者だ。もっとも栗山は京都に住んでいて、時をきめて江戸に行って世子に講義したのである。元来讃岐の生まれの人だから、多分阿波へも来たことがあるだろうとは思うが、はっきりとはわからない。
江戸時代にはこんな風にして学者を召抱えることが多かった。古くは山崎闇斎が井上河内守に召抱えられた時も、京都住いしていて、時々江戸に行っては教えていたのだ。最も新しいところでは作家の藤沢|桓《たけ》夫氏の祖父君である藤沢南岳だ。南岳は讃岐高松の松平家の抱え儒者であったが、大坂を動かないでもよいという条件でつかえたのである。
この年も夏から秋にかけ大旱魃で、作物が不作であった。おまけに、倹約励行だ。阿淡二州火の消えたようで、金融の途もはたとたえた。あまり景気が悪いので、重喜は江戸から出入りの町人菱屋某を呼び下し、景気回復の策をたずねたところ、菱屋は徳島の町を二三度見てまわってから、意見を立てた。
「一体、商人《あきんど》という者は百の元手があれば、二百三百の商売をするものでございますが、ご当地の商人衆は元手の幾分で商売し、幾分を貸金にして、鼠算(複利)で勘定してもうけていなさります。その上、商人衆は品物の仕入れに行くと言って京・大坂に出ては、遊所や芝居でずいぶん金銀をつかいなさりますが、その金銀は仕入|値《ね》に入れこんで、ご当地で売りなさる品物の代金で取りかえしなさるのでございます。ご当地の諸式(物価)がお高いはずでございますよ。皆様が上方の値段をご存じでないので、それでも通るのでございますがねえ。さしあたって、景気をよくする方法としては、ご当地は遊所も芝居もないお城下でございますから、しぜん人気がくすんで、景気が立ちません。この人気をぱっと発揚させるのが、先ず大事でございます。芝居でもご興行になってみてはいかがでございましょうか」
この意見に従って、大坂から芝居をよんで興行したところ、一回目は損失が出たが、二回目はもうけて、最初の損失もとり返したという。
この菱屋の景気発揚策は、この翌々年に老中格となって権勢をふるった、田沼|意次《おきつぐ》が好んでやった策と同じである。芝居、角力、遊里、富クジ、何でも人のわっと熱狂するものをやって、人気を浮き立たせ、景気をあおろうという方法だ。
これを当時は江戸仕掛と名づけて、方々の藩が真似をした。水戸藩や薩摩藩のような物堅いこと無類のところまでやったのだから、一時の効はたしかにあったのであろう。国内の生産は頭打ちとなり、しかも鎖国でこの上の発展はどうしようもないのだから、やむを得ないことではあったろうが、飯を食わずにヒロポンを打って元気を出すに似た方法だから、忽ちいけなくなり、あとに来る害悪は一通りでない。人気が悪くなり、勤労の習慣がなくなり、軽薄になり、享楽的になり、いずれもひどいことになったのだ。
敗戦以来の日本の歴代内閣の経済策もこの気味がある。富クジだ、競輪だ、観光だ、レジャーだ、バカンスだ、ついには消費は美徳だなどとあおり立て、経済のことはわたしにまかせておきなさい、わたしはウソは言いませんなどと言っていたかと思うと、今日のような結果になってしまった。日本人は江戸時代にこのような経済政策の失敗をすでに経験して来ているのである。
景気回復策の一つとして、前から計画だけ持っていて、まだとりかからなかった大谷の下屋敷の経営にとりかかったのは、この頃からのことであったようである。
内匠頭重隆の長男伊豆が中老に任ぜられ、千五百石を給せられるようになったのは、この年である。伊豆はやっと八つであった。
これが家中の者や領民らの重喜にたいする心証をいやが上にも悪くしたことは、前に触れた。伊豆の家督相続権を根こそぎなくしてしまおうという考えが重喜になかったとは言えまい。しかし、それは藩士や領民の心にいつまでも自分を他家から来て間《あい》のつなぎに藩主となっているに過ぎない男と見る観念がのかず、改革政治をやるに非常な支障となっていたからではないかと思う。重喜はそんなケチな根性はなかった人のように、ぼくには思われる。
十一
重喜が阿波藩主となってから、この時まで十三年間、あるいは暴風雨、あるいは洪水、あるいは霖雨《ながあめ》、あるいは旱魃に遭《あ》うこと六年、うち近年は四年ぶっつづけだ。彼の改革も、この天災がなかったら、多分成功したと思われるのだが、難航をきわめた。凶年による苦しい生活のために士民の不平が高まる一方なので、それは一層であった。
あえぎあえぎ、苦しいやりくりをしながら、明和四年を送り、五年を迎えると、四月、幕府は尾張、伊勢、美濃の堤防工事の手伝いを命じた。木曽川、揖斐《いび》川の治水工事だ。この工事は、この数年前に薩摩藩が破産しかけるほどに費用をつかってやったのだから、もうそれほど大きな工事はのこっていないはずだが、それでも金を食うことは一通りではないはずだ。今の阿波藩としては一万両でもこまる。
一体、幕府から命ずるこういう金のかかる仕事をうまくかわすために、諸藩は留守居と名づける役人を江戸においているのだ。だから、留守居はたえず老中その他の幕府の重職の家に出入りし、その用人共と親しく交際し、進物や饗応によって秘密情報を機敏にキャッチして、手伝い普請などのお鉢がまわって来ないようにするのが第一の仕事になっているのだ。
それがこうして阿波藩に命ぜられたというのは、きびしい倹約政治のために、活動資金が不足して、進物や饗応が十分でなかったからに違いない。
重喜としては、泣きッ面に蜂の思いであったろう。しかたがないから、苦しい工面をして、ともかくもやりおえた。
幸い、この年は天候が順調で、作柄がよかった。でなければ、どうにもならないところであった。
六年になった。
職制の改革はどうやらやってのけたが、官禄制の改革がまだのこっている。これをやらなければ、経済建直しに最も効果のあることを捨てていることになる。
重喜の考えている制度は、藩士の基本給は均一にして、役につけば役料をあたえるという方法だ。譜代の臣は無能だからといって召放すわけには行かない。しかし、無能なものに高禄を支給していればこそ、藩の経済は年々に逼迫して行くのだ。だから、生活給として一律に基本給をあたえ、あとは役付になれば、役料としてあたえようというのだ。能力ある者が能力のない者より上の生活の出来る制度であり、封建制度の給与体系と官僚制度の給与体系との複合体系といってよいであろう。
しかし、度々言う通り、今も昔も給与のことは重大だ、迂濶にはじめては、大さわぎが起り、何もかもぶちこわしになると思ったので、試行することにした。
三月、大口牛五郎|軌達《のりさと》という武士の禄を五十石削ってみた。大口がどんな人間だったかわからないが、阿呆といってもよいほどの人物だったのではないだろうか。あるいは行状のおさまらない人物だったのかも知れない。減俸されても人々があまり不思議としない人物でなくては工合が悪かろう。
泡夢物語に、重喜が若侍共に戦陣の稽古と称して、船戦さを行わせたり、鳴戸の沖から撫養《むや》・四軒屋・別宮《べつく》をつらぬる道を、海といわず、川といわず、山坂といわず馬で乗り切らせたりして、失敗した者は家名を潰したり、領地を取り上げたりしたとあるが、それが大口だったのかも知れない。この話はあまりにも乱暴で、信ぜられないが、遠乗りかなにかの供をしてひどい不覚を取って、そのために減知されたことを、このように誇張して書いたのかも知れない。
ともかくも、家中の反応を見るために、大口の知行を五十石削ったのである。
皆相当おどろいてはいるが、別段なことはないようである。しかし、慎重を期して、あとは手びかえた。今年は江戸参覲の年にあたる、どしどし進めては、国を不在《るす》にしたあとでさわぎがおこる恐れがあるからである。
六月に、大谷の下屋敷が完成した。阿淡夢物語と泡夢物語では、前者は場所を津田山とし、後者は鳴戸の沖大磯の鼻のあたりとして、眺望のよい場所に豪奢の限りをつくして建てられ、八十万両もかかったように書いているが、そんな金が当時の阿波藩にあったはずはない。阿波国最近文明史料には精々一万両くらいの費用であったと書いている。誇張は昔の小説にはつきものだが、いささか吹きすぎですね。
九月、江戸参覲の途につき、十月はじめ、江戸についてみると、大へんなことが待っていた。
幕府から使者が立って、ご不審に思し召さるることあり、次の条々に答えよと、要求されたのである。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
一、代々の家法をなぜ取乱したか。
一、国政を取乱し、国民が難儀に及んでいる由、上聴に達しているが、これは新法とて筋なき政を行ったためである。
一、家中の譜代の者らを、念を入れたる糾明もなく処罰したこと。
一、自分の遊興にほこり、家中国民共を難儀に及ばせたこと。
[#ここで字下げ終わり]
重喜は一言の申開きもしなかった。恐らく、彼は幕閣にも、家中の者にも、名状しがたい強い不満と憤りを感じていたのであろう。
幕閣へのそれは、重喜は改革政治の前提である勤倹令触れ出しの時、幕府の了解を得ているのだ。それを了解しながら、四年も続いて天災に見舞われ、凶年つづきで困窮しきって金を借用させてくれと頼んだのに、拒絶したばかりか、金のかかる治水工事を命じた、そして今、なぜそんな変った政治をするのかと咎める、それが天下の政府のすることか、と思ったからであろう。
家中へのそれは、こんなことを幕府が知って、悪意をもって取上げたのは、家中の者共があることないこと取りまぜて讒訴したに違いないと思ったからであろう。泡夢物語には賀島上総の子備前が重喜に浪人を命ぜられ、憤りのあまり、江戸に出て、|つて《ヽヽ》をたぐって幕府に訴えたとあるが、これはフィクションである。備前は浪人したことはない。しかし、誰かが密告したのである。備前が書面をもって密告したことも考えられる。一筋に阿波藩全体のことを考え、将来のためにあらんかぎりの精根をしぼって努力している自分を、無知無慚な姑《しゆうとめ》が嫁いびりすると同じ心で、することなすことにひがみをもって見、余計なことをすると憎み立てるだけの家中の者共だ。しかも、彼らのその心のもとをたずぬれば、すべて知行を減らされるのがいやだというだけのことから出ている。何が譜代の臣だ。主家を食いつぶすことしか考えていない白蟻ざむらい共め! と思ったに違いないのである。
(もういやだ! 勝手にするがよい。おれはもう知らんぞ)
と、最も深刻な絶望感に襲われていたに違いない。
報せを聞いて、稲田九郎兵衛と林建部とが国許から馳せ下って来て、幕府に、
「新法は阿波守一人の了見によるのではございません。わたくし共執政の老臣共も協議の上できめたことでございます」
と言った。
「不審な申し条である。お上を言いかすめんとするか!」
と幕府は怒って、藩邸を閉門に処した。
阿波の家老らにとっては、少なくとも家中の上士階級は皆重喜の新法を支持しているという事実を見せて、幕府をあざむいていないことを証明しなければならない。
それで、林建部が国許に馳せ帰り、家老、中老、物頭らを城中に集めて、
「ご不審のかかっているのは、ご新法でござる。さりながら、われら一統が皆これをよしとしていることになれば、お公儀のご不審は晴れるのでござる。各々はご新法をいかがとごらんになっているでござろうか。申していただきたい」
と言った。林は重喜の第一の腹心だ。必死であった。
しかし、誰一人として、新法をよいという者はいない。
「蓬庵公以来の旧法がよろしゅうござる。新法には一つもよいところはござらぬ」
と言った。
もうしかたはない。林は恐らく泣いたろう。集まった人々の中には、重喜によって引立てられた人々も多かったはずだ。樋口内蔵助などは、家老に抜擢されまでした。しかし、こうなのだ。
この時代の養子大名が家来らから、ロボット、あるいは主家の種馬としか見られていなかったことが、よくわかるのである。
十月三十日、重喜は隠居を命ぜられた。
[#この行2字下げ]政治の儀よろしからず候につき、家中国民難儀に及び候取沙汰あり。養子のことに候へば、養家へたいし、かたがた慎みあらざる儀に思し召され候。これによつて隠居仰せつけられ候
というのが、申渡書の本文であった。家督は世子の千松丸の相続がゆるされた。千松丸は十三歳であった。
同時に、家老らにも申渡しがあって、新法は全部廃止、旧来の家法によれと指示された。重喜の多年の苦心さんたんはすべて空《くう》に帰したのである。
重喜は隠居した翌年五月、小名木沢《おなぎざわ》(深川)の下屋敷に移り、大炊頭《おおいのかみ》と改称して、蟄居同然の生活を送ること三年、安永二年に、千松丸改めて治昭《はるあき》が父のために幕府の許しを得てくれたので、阿波に帰り、大谷の下屋敷に入った。
ここでの生活は恐ろしく驕奢であったという。蜂須賀家には、長さ六十間、はば十八間の猩々緋が三枚、家宝として伝来していたが、彼はそれを切裂いて縁側にしきつめたり、畳のへりや褥《しとね》の裏にしたりしたと、阿淡夢物語にあるが、それが事実なら、ここに隠居してからのことであろう。
ずっと前に書いた娘狩や後家狩等も、ここでのことかも知れない。彼が江戸から連れて来た五匹の愛犬(秋田犬だろう)が、徳島の犬にいじめられるのを怒って、犬狩をさせて、会釈もなく鉄砲で打殺させたとか、愛妾の一人が猫ぎらいなので、猫狩をしたので、諸人迷惑したとかも、夢物語にあるが、もしそんなことがあったとすれば、それもこの時のことであろう。
重喜はやけになって、この世を思うがままに暮し、歓楽をきわめつくそうという気になっていたのであろう。阿波へ帰ったのが三十七だ。気性のたけた人だけに、そんな気になるのも、無理はないと言えよう。
阿波へ帰ってから十五年目、重喜の行状が幕府に聞えた。当時の老中は松平定信だ。阿波の江戸屋敷の役人を自宅に呼んで、用人に言いつけて、重喜の近状を問わせた。
「知っているぞ」
という意志表示だ。
蜂須賀家では仰天して、対策を工夫していると、幕府では重喜を江戸に呼んで、蟄居を申しつけようとしているという噂が聞えて来た。
治昭は父のために憂えて、幕閣に、
「これは皆わたくしが諫めなんだためでございます。罪はわたくしにございます。これからは諫めて、決して再びかようなことのないようにいたします」
と、涙を流して嘆願して、やっとゆるされた。
このことを江戸から言ってやると、重喜は聞くなり、すっと立って粛々と歩いて富田屋敷に移り、以後は至っておとなしやかな行状となった。子の治昭がかわいそうだったのであろう。この時五十三であった。
十一年立って、享和元年十月二十日、富田屋敷で死んだ。行年六十四。
重喜は失敗した上杉鷹山である。鷹山は重喜と時代を同じくして、ほんの少しおくれている。重喜が隠居した年の前々年に上杉氏を嗣いでいる。実家が小大名であったのも似ている。秋月家は三万石だ。上杉家の家臣らが、家老らもふくめて、小大名の家から来た人と、鷹山を侮ったのも似ている。主人の改革政策に反抗的であったのも似ている。しかし、鷹山は成功した。今日米沢では謙信とは同じく、景勝にはまさって尊敬され、神に祀られている。重喜は阿波では、一部の郷土史家がその志をあわれんで同情しているだけで、一般の人々は暴悪な殿様であったとしか考えていないようである。
鷹山に器局がおとっていたのであろうか。
ぼくはそうは思わない。同じようにすぐれた知恵と志を持っていた人ではあったが、鷹山には柔軟性があったのに、重喜は鋭敏剛強に過ぎた。鷹山は説得し、籠絡したが、重喜は強圧した。成否の原因は恐らくここにあろう。鷹山が重喜の失敗を他山の石としたことも考えられる。後進の前人にまさる利点だ。もちろん、阿波・淡路の連年の凶荒も、大きい原因になる。不運な人であり、気の毒な人である。
[#この行2字下げ](蜂須賀家記、阿波国最近文明史料、堀江英一編「藩政改革の研究」、阿淡夢物語、泡夢物語、蜂須賀小六正勝、寛政重修諸家譜)
[#改ページ]
あとがき
史伝は小説と違って研究であるから、これで十分ということはない。このシリーズにも、早速それがあらわれた。第一巻冒頭の「島津騒動」だ。
島津騒動をぼくは斉彬が薩摩藩主になったところで終りとし、余波として、その三年後に斉彬のただ一人のこる男子虎寿丸がまた夭死したので、西郷隆盛らがこれも姦人ばらの呪殺によるものとして、斬姦を決意、江戸と国許とで同時に決行しようと計画したが、斉彬の知るところとなり、きびしく訓戒されて中止したことを、ごく手短かに書いておいた。
ところが、実はこの騒動はその後もえんえんと継続していたことが、この頃わかったのである。
斉彬は襲封して七年目に急死するのであるが、これは暗殺されたのだと、ぼくは推定している。
誰に暗殺されたか?
もちろん、父斉興が主犯だ。斉興は当時江戸にいたが、腹心の家臣に旨を含めて、国許で何らかの方法で毒を盛らせたと推理される。
では、なんのために? それは追い追い説く。
斉興が幕府の威迫と強制によって、詰腹を切らされる思いで隠居したことは、「島津騒動」で書いた。彼は斉彬を当主とすることに、非常な不安があったのだ。
父の不満は、斉彬にはよくわかっている。また彼は策謀を弄して襲封しているので、この上父を刺戟しないように、家老や重役らは父の時代のままとして、ほとんど動かさなかったが、他のことについてはバリバリやりはじめた。
造船所を設けて軍艦をつくる。これも一隻ではない、数隻だ。洋式の帆船もあれば、蒸汽船もある。兵器廠を設けて最新の洋式銃砲を多量につくる。西洋式の紡織機をすえつけた紡織工場をおこす。機械水雷を研究してつくり出す。電信機をつくって、城内に電線をはりめぐらして連絡はこれによる。ガス灯をつくって磯の別邸の石灯籠は皆これを点じ、やがては鹿児島城下全部の灯火もこれにするつもりで、各戸の灯油の消費量を調査する。軍制の大改革を行い、すべて歩・騎・砲三兵の洋式にする等々々、息もつかずにやり出した。
いずれも金のかかること一方でないことだ。
斉興はたまらない。
「思うた通りよ。薩摩の身代はめちゃめちゃだ」
と、はらはらしていると、こんどは幕府の老中阿部伊勢守正弘と相談して、一族の姫君を養女として、将軍家定に入輿させ、将軍岳父となった。
斉彬も、阿部も、当時の大活眼者だ。幕府の政治組織が老中以下の重職は譜代大名と幕臣に限り、老中に至っては譜代大名中のさらに限られた家柄のものしか任ぜられないことになっているのが、時勢に適合しなくなっていることを知っている。幕府は日本の中央政府なのであるから、広く天下に人材をもとめて、力量才幹あるものなら、外様大名でも大政に参与出来る形にすべきであると考えていたようである。だから、この入輿は、将軍岳父となることによって斉彬の威権を重くし、幕府にたいする発言力を持たせ、彼らの意図する組織改革の階梯をつくることに狙いがあったと推理してよい。
しかし、こんなことの意義は、斉興には理解出来ない。彼は斉彬が以前から世子の身でありながら、阿部老中と親しくするばかりか、水戸斉昭、伊達宗城、越前慶永(春嶽)、山内|豊信《とよしげ》(容堂)などの、当時の賢諸侯といわれて、政治づいている人々と、日本の危機にたいする憂えを同じくして、親しく往来交際していることが気に入らなかった。
「天下のことは幕府にまかせておけばよい。外様大名は外様大名たるの分を守っているのがよいのじゃ。それが長久安泰の道じゃ。余計なことを心配することはない」
と、にがにがしく思い、これも斉彬に世を譲りたくなかった理由の一つであった。彼は自分が二十年の苦心惨澹でやっと築き直した身代がいとしくてならないのだ。天下の政治などに関係しては、半生の苦労の塊りが湯水のように消費されてしまうと思ったのだ。
ところが、あろうことか、斉彬は養女してまで入輿させ、将軍岳父となった。斉興は、胸もつぶれる思いだ。
斉興からすれば祖父、斉彬からすれば曽祖父の重豪は、気性の豪邁にまかせて大へんな浪費家で、薩摩を破産寸前に追いこんだ当人であるが、斉彬はこの曽祖父に大へん可愛がられた。この人は八十九という長寿を保ち、その死は斉彬の二十六の時だ。相当強い影響を斉彬にあたえている。西洋の文物好きもその影響である。
「ご気性といい、お好みといい、栄翁(重豪)様にまことによく似ておいでだ」
と、皆言っていた。
これも斉興には気に入らない。身代をめちゃめちゃにした祖父《じい》様に似ているのだ、斉興にしてみればそのはずである。ところが、この重豪は十一代将軍家斉の岳父だった人だ。
「こうも栄翁様に似るものか! 将軍の舅《しゆうと》になるところまで同じことをしおる。身代の潰れることは、もう見えた」
と、不安は募る一方だ。
すると、その翌々年だ。
斉彬は新たに大老になった井伊直弼の最も専制的な暴圧政治によって物情騒然となったのを見て、クーデターをもって幕政改革を断行する決意をかため、引兵東上の策を立て、急速にその準備をすすめた。西郷隆盛を京に出して朝廷方面への運動や兵の宿泊所の用意をさせると共に、国許では連日練兵場で兵を猛訓練した。
出発日取も、八月二十九日あるいは九月一日ときまった。
斉興は当時江戸在住であったが、家老、重臣の大部分は自分の時代と同じであるから、情報は筒抜けに聞えて来る。まのあたり井伊のすさまじいばかりの政治ぶりを見てもいる。不安は絶頂に達せざるを得ない。
「これはまた途方もないことをはじめた。まるで狂気の沙汰じゃ。身代を潰されるどころではない。家そのものが取潰されてしもう。こうなれば、家のためにはかえられない」
と決意して、呼吸のかかっている国許の重臣らに、非常の処置を指令した。
そのために、斉彬は七月八日発病、十六日の暁方に死んだ。
侍医坪井芳洲の綿密な症状書がのこっている。当時はコレラが全国的に大流行していたので、芳洲は「当時流行性のコレラ病状でいらせらるるかと存じ奉り候」と結論しているが、「コレラと思う」とは、ずいぶんあいまいな診断である。ぼくの知人である医学博士鮫島近二氏はこの症状書を見て、
「これでコレラと診断するのは藪たるをまぬかれない。赤痢と診《み》た方がまだよい」
と言っている。
明治初年に外務卿であった寺島宗則伯爵は薩摩人で、元来は蘭法医で松木弘庵といって、斉彬に親近してつかえた人である。この当時は藩用で長崎に行っていた。後に人の話を聞いて、
「コレラではない。公は自分で釣った魚を鮨にして食べることがお好きであった。この時もお釣りになった魚を鮨に漬《つ》けて一日おいて召上り、それにお中《あた》りになったということである。単なる食中りによる下痢を救うことの出来なかったのは残念であった」
と言っている。斉彬は自分で釣った魚を小さな桶に鮨につけ、居間の違い棚などにおき、熟したところで食べるのが好きであったというから、すきをはかってこれに毒を投ずることは容易であったはずである。
坪井のあいまいな診断は、斉興の密旨をふりかざして臨む家老らの指示と医者の良心との板挟みがさせたものと見てよい。ごく綿密な症状書をのこしているところを見れば、後人これによって真相を察せよの微旨があったのかも知れない。昔の歴史家の記述にはよくそれがある。
つまり、ぼくは斉彬は毒殺されたと推断しているのだ。推断の材料としては、事がらの性質上からであろう、書いたものなどは全然のこっていない。すべてが情況判断であるが、この判断は最も自然であろう。
ぼくがこの判断に達したのは、現在読売新聞に連載中の小説「西郷と大久保」を書いているうちであった。ぼくには西郷が島津久光と終世融和せず、感情的にまで久光を嫌い、久光またこれを反射して西郷を憎悪し、西郷を牢獄的座敷牢に入れて窮死させようとまでしたことが、納得出来なくなり、斉彬の死に至るまでの事情を考え直してみて、この判断に達し、やっと納得が出来た。
小説は書くべきものだ。小説はフィクションを主にするものであるが、作者は常に作中の人物と同じ呼吸をし、同じ哀歓をする。しなければならないのだ。西郷の史伝を書くこと一再でないぼくが、はじめてこの判断に達したのは、小説のおかげである。史伝は客観的でなければならないので、勢いよそよそしくなり勝ちで、つい前人の定説をそのまま飲みこんでしまう。小説の方が真相に達することのあることをしみじみと知った。
ぼくはこの判断をたしかめるために、昨年末、鹿児島にかえり、鹿児島郷土史に最もくわしい前鹿児島市長勝目清氏を訪れ、
「書いたものなどのこっているはずはないと思いますが、うわさくらいはあったはずです。どうでしょう」
と質《たず》ねたところ、勝目氏の答えはこうであった。
「そんなうわさがあったということは、故老に聞いている。書いたものには見たことはない」
つまり、島津騒動は、安政五年七月十六日の島津斉彬の死までつづき、余波は西郷と久光の不和となって、維新史の進行にも影響があり、さらに明治十年の西南役にもおよぶのである。
もっとも、久光は暗殺事件には関係はなかったろう。彼の知らないところで行われたのであろう。これは相当強い確信をもって言える。だからこそ、西郷がいつまでも根にもって自分を怨んでいるのを、久光はああも怒ったのであろう。しかし、西郷の方は、関係あり、あるいは斉彬公の敵《かたき》の片われという観念を終生脱することは出来なかったと思われる。
もう一つおことわりしておきたい。本書の第一巻が出た時、評論家らによって書評されたが、その中に、島津騒動は筆者によって新しい様相を帯びて来たが、本書から受ける印象では、呪咀調伏などの事実はなかったように思われる、しかし、それはやはりあったのではないか、というのがあった。もし、そんな印象を読者にあたえたとすれば、それはぼくの書き方が至らなかったからである。新発見に心がおどりすぎた勇み足である。呪咀調伏の事実はある程度あったろう。斉彬は西洋科学の信奉者であり、合理主義の人であったから、その効果は信じていなかったろう。しかし、思う旨があって、ことさらに取上げ、騒ぎ立てさせたという意味に、ぼくは書きたかったのだ。不器用のほど、読者におわびしたい。どうかそういう意味にお読みとり願いたい。
以上、島津騒動の補遺をもって、あとがきにかえる。
昭和四十一年正月二十八日未明
[#地付き]著 者