海音寺潮五郎
列藩騒動録(一)
目 次
島津騒動
伊達騒動
黒田騒動
加賀騒動
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島津騒動
江戸時代の大名の家は、早晩貧乏に陥らなければならない仕組になっていた。
元来、大名の家は軍団というのが建前になっている。一旦緩急の際は、幕府の命によって出陣しなければならず、軍役が禄高によってきまっている。慶安二年の定めによると、一万石につき、鉄砲二十挺、弓十張、旗三、槍三十、騎馬《うまのり》(将校)十人、人数二百三十五人となっている。十万石ならこの十倍、五十万石ならこの五十倍だ。これは最低限の軍備で、これだけは常備し、命令があればいつでも出せるようにしておかなければならない。つまり、いつもこれだけの人間には知行と扶持をあてがって無駄飯を食わせておかなければならないのだ。軍団であると同時に国家としての機能もあるから、公務員もおかなければならない。これは軍人と重複してもさしつかえはないが、両方の才のある人間は少ないから、そう経済的には行かない。
太平がつづけば、人間の生活が向上し、ぜい沢になるのは自然の勢いだ。大名の家は収入のふやしようがなく、あるいはふやしてもそう大はばにふやすことは出来ないから、貧乏になるよりほかはない。大名の主収入は領地の百姓から取り上げる田租だ。領地の広さはきまっている。新田の開墾をしたり、他の物産の生産を奨励したりしてみたところで、鎖国の時代では技術やなんぞの関係で、多きを望むことは出来ない。増収は年々にふえて行く失費をとうてい補うことは出来ない。
参覲交代の制度がまた拍車をかける。この制度はその主な目的が大名の財力をそぐにある。何年毎に参覲するかは家によって違うが、大体において一年おきに交代するのだから、毎年半分は江戸住いする計算になる。江戸住いはいわば旅住いだ。旅先は何層倍の金のかかるものだ。それに往復の費用を算入すると、一通りや二通りの失費ではない。
手伝い普請というのもある。江戸初期には、江戸城をはじめとして、名古屋城、駿府城、丹波の篠山《ささやま》城、姫路城等を外様の大名らに手伝い普請させて築いたり、修理したりしたが、その後は河川の堤防つくりだの、川ざらえだのがある。勅使饗応役というのもある。いずれも金のかかること一通りでないことだ。
大名は貧乏になるのが、必然の運命であった。
もっとも、貧乏で潰れた大名は筑後柳川の田中家以外はない。その田中家の滅亡も、貧乏が直接の原因にはなっていない。貧乏で大坂の陣に出陣するのが手間取っている間に豊臣家がほろんでしまったので出陣せず、にらまれているところに、当主が養子をせずあとつぎがなかったので、情状酌量されることなく取潰されたのだ。
さて、薩摩の島津家のお家騒動も、その大本にさかのぼれば、貧乏からはじまった。島津家の貧乏は、そのはじめは何が原因というほどの取りとめたものはない。江戸時代の大名の家の必然の運命によって、よほどに貧乏になって、八代将軍吉宗の頃にはもう七十余万両の藩債があったのだが、これに拍車をかけたのは、次の九代将軍家重の治世である宝暦年度に、木曾川の治水工事を命ぜられて果したことであった。
この工事にいくら金がかかったか、よくわからないが、四十万両を下ることはあるまいと言われている。この時代の藩主は重年という人だが、借金を苦にして、若くして死んでしまった。
次ぎの藩主は重年の子の重豪《しげひで》だ。これはなかなか豪邁《ごうまい》な人で、乱世の風雲時代に生まれ合わせたなら、英雄といわれるほどの働きをした人であろうが、碁盤の目のように秩序が定まり、鉄のワクのようにきびしい家格の規制のきまり切っている太平の世に生まれ合わせたために、英雄的気魄は鬱屈して、わがままとぜい沢になるよりほかはなかった。
重豪は金のかかることばかりした。藩黌《はんこう》造士館を建てた。天文学者を養い、天文館を建て、薩摩暦を出した。博物全書ともいうべき成形図説を出した。中国語辞典である南山俗語考を出した。長崎出島のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフや、商館つきの医者シーボルトと交りを結んで、さかんに西洋の品物を買いこんだ。薩摩の言語風俗は固陋であるとして鎖国策をやめて大いに他国人を入れ、ぜい沢や遊びを奨励した。自らの生活も豪奢をきわめた。彼は娘を十一代将軍家斉が一橋公である頃にその夫人として縁づけていたので、家斉が将軍になると将軍岳父となったが、十五代の将軍の中で一番ぜい沢であるといわれている家斉が、
「薩摩のしゅうと殿のようにやりたい」
と、うらやましがったといわれるくらい、その生活は豪奢であった。
前代までによほどの藩債があるのに、こうぜい沢し得たのは、借金政策をとりつづけたからであるが、重豪五十六の時には、借金はついに重畳する山のごとくなり、どうにもこうにもならなくなった。
そこで、隠居して、子の斉宣《なりのぶ》が当主となった。
斉宣はこの時三十七だ。こんな年まで部屋住みだっただけに、父の政治ぶりにひそかな批判もあり、おれならこうするという経綸もあったはずだ。家を嗣いで三年目に、秩父太郎という者を登用した。
秩父太郎は、この時までお咎めを受け、蟄居を命ぜられていること七八年におよんでいる人物だったのだ。
秩父がなぜお咎めを受ける身になったかは、こんな話がある。
重豪の当主であった時代の末期、藩の苦しい財政のやりくりのため、薩藩領内はきびしい苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》が行われ、百姓らの苦しみはひどいものになった。ぼくの生まれ在所は鹿児島県の穀倉といわれるくらい良質の米を多量に産出するところで、穣々たる美田のつづく地帯であるが、山一重で肥後に接しているところから、この時代には百姓らの逃散《ちようさん》する者が相つぎ、さしもの豊沃な美田が原野《げんや》化するものが多かったと伝えられている。
この百姓らの苦しんでいるという話が、重豪の耳に入った。重豪は大目付の新納久命《にいろひさのり》・島津久兼を召して、
「しかじかの由を聞く。調査して、報告するよう」
と、命じた。
「かしこまりました」
二人は郡奉行や目付らを召集して、
「近年ご領内の百姓らが、|たつき《ヽヽヽ》に苦しんでいる趣きを聞こし召し、どの程度に苦しんでいるか、くわしく知りたいと仰せある。急ぎ調査の上、報告いたすよう」
と申し渡した。
「かしこまりました」
と、皆答えたが、目付の中で、ただ一人かしこまらなかったのが、秩父太郎|季保《すえやす》だ。昂然として首をあげ、大目付らをにらんでいる。
「秩父、貴殿は?」
と、新納がとがめると、秩父は、
「百姓共は皆貧窮きわまり、今や餓《かつ》え死せんばかりでござる。今さら調査する必要はござらん」
と、あらあらしく答えた。秩父にしてみれば、領民にたいする苛斂誅求も、百姓らの苦しみも皆知っていることだ、調査じゃの何のといっていないで、重豪から下問があったら、即座に答申し、面《おもて》をおかして諫言すべきであり、それが臣たるの道であるという肚《はら》があるので、大目付らの生ぬるさや、郡奉行や同役の目付らの官僚根性が腹にすえかねたのであろう。
秩父の手荒な態度に、新納は気色《けしき》ばんだ。
「わしは君命によって申しつけている。調査の必要ないとは、貴殿は君命をなみするのか」
「調査とは実情を知るためのものでござる。このことは、すでに実状明らかでござる故、必要なしと申したのでござる。ご領内の百姓共は皆貧窮きわまり、餓死せんばかりでござる。一人のしからざる者なし。これが実状でござる。拙者はお目付でござる。知るところの実状を申し上ぐるは職分でござる」
新納は言いつめられてことばが出なくなったが、大目付の権威に関すると思ったのであろう、島津久兼が口を出した。やや皮肉な口調で、
「貴殿は郡奉行でもないのに、どうしてそんなことがわかるのだ」
秩父はぐいと向きなおり、はげしい目でにらみ、語気もあららかに言いはなった。
「近年お取立てのきびしいため、ご領内の百姓共の生活は難儀をきわめています。これは三歳の童児でも存じていること、お目付たる者が知らでなり申そうか。郡奉行に改めて調査させるなど、いらぬことでござる。早々にさよう申し上げられるがよろしゅうござる」
新納らは腹を立てたが、言いかえすことが出来ず、席は白けた。
秩父が退席した後、大目付らは相談して、秩父の同役の者を召して、秩父の言ったことは別として、上役にむかって態度不遜である、諭《さと》して進退伺いを出させるようにと、命じた。
同役がこれを伝えると、秩父は、
「拙者は職分をつくしたまででござる。何の罪あれば、さようなことをせねばならんのでござる」
と、はねつけた。
大目付らは益々怒り、家老に上申《じようしん》し、上長をしのぎ、秩序をみだしたという罪名で、秩父の職を免じ、蟄居を命じた。この時、秩父は二十七歳であった。
秩父の家は薄禄である。同時代の薩摩の学者で、造士館教授であった山本正|誼《よし》(通称伝蔵、秋水と号す)の「文化朋党録」に、「季保、家貧にして余蓄なし」とある。貯蓄もなかったのである。秩父が目付として受ける役俸は、彼の家の生活にとってきわめて大事なものだったのだ。免職になったのだから、忽ち生活に窮した。当時は社会の制度上、一族は共同責任体の形になっている。一族の連中らは、あと先き見ずの反抗などして、迷惑千万じゃなどと言いながら、援助の手をさしのばしたが、秩父ははねつけた。
「いらん」
「いらんというて……」
「いらんからいらんというのじゃ。おはん方の世話にはならん」
「世話にならんというて、どうしなさるのじゃ」
「世話にならんというのじゃ。かまわんでもらおう」
けんもほろろな態度に、皆腹を立てて手を引いた。
秩父は邸内の空地を全部たがやして畠とし、麦を作り、野菜を次ぎつぎに輪作《りんさく》し、食料にもすれば、売って現金にもして生活し、まるでへこたれる様子のないこと五年間であった。
これだけでも普通の者に出来ることでないのに、秩父は夜間や雨の日には、朱子説によって儒学を講究し、特に朱子の著書で、その学問の精髄とされている「近思録」と、朱子の先学である周敦頤《しゆうとんい》の「太極図説」についての研究は精到をきわめた。こんな節義の立て方は、いつの時代、どこであっても、最も見事なこととされる。まして、この時代の薩摩である。
「見事なもの!」
「あっぱれ武士!」
と、しだいに名声が高くなり、交りをもとめて来る者が出て来た。秩父はこの人々とともに、一層精をはげまして、学問を研究していた。
最も気節ある武士として尊敬されるようになっていたので、斉宣《なりのぶ》も家を嗣ぐ以前から秩父を慕わしく思っていたのだが、父の怒りに触れて免職されて蟄居中の者を、当主になったからとて、すぐには登用出来ない。父にたいするあてつけと見られる恐れがある。それで、家をついで三年待って、もうよかろうと、登用する。先ず蟄居の罪をゆるし、三日目に裁許掛《さいきよがかり》に任命し、以後異常なスピードで昇進させ、一年四カ月後には家老に任命した。
斉宣が父の怒りに触れて咎めを受けていた秩父をこれほどまで思い切った任用をしたのは、なみなみならん覚悟があったからである。彼は経済的には緊縮政策をとり、風俗的には古風の質実さに返すことを意図した。それよりほかに藩政の立直しの方策はないと計算したのだが、これはともに父の取って来た方策と正反対のものだ。隠居しているとは言え、父はからだも達者、気力も旺盛、頭脳も卓抜だ。あるいは反対の意を表して、文句をつけかねない。とうてい普通の家老ではやれはせん、秩父ならやり得ると見こんだからであった。
斉宣のこの信頼に、秩父は感激した。そこで、かねての儒学研究のメンバーをそれぞれ抜擢して藩政の要職につけた。反対派の連中に言わせれば、――さしずめ、さっき引用した「文化朋党録」の著者山本正誼がそれで、私情をもって任用して権勢をかためることを図ったと言っているが、秩父の心事はそうではなく、しっかとスクラムを組んでかからなければ、とうていやりぬけることではないと思って、学問をもって心魂を鍛えぬいていると信用している学友だから抜擢任用したのであろう。
ともかくも、スクラムの結成が出来ると、ばりばりやりはじめた。諸経費の節減、減税、諸門閥の権限制限、造士館の改革、諸役方の綱紀粛正、剛気な気風の復活等々々、法令雨のごとく下り、迅雷耳を蔽うにいとまなき改革ぶりであった。
重豪《しげひで》は江戸高輪の隠居邸にいたが、自分の施策を全面的に破棄し、まるで正反対のものを打ち出して行く、斉宣のやり方を、まるで知らないかのごとく悠々とうそぶいていた。もっとも、改革の手はまだ江戸屋敷には及ばなかった。
しかし、やがて、秩父らは江戸屋敷でも大いに緊縮してもらうことにしよう、もし太守様の参覲交代を二三回休ませてもらうことが出来れば、財政建て直し上、大いに効果があるから、将軍み台所にすがってその許しを得たいと決議して、この旨を重豪に相談してやった。
重豪は、可否は言わず、家老の一人である頴娃《えい》信濃を江戸に呼んだ。信濃は門閥出身の家老ではあるが、秩父らの改革方針に共鳴して、全面的に協力している人物であった。
信濃は心配しながらも上府し、重豪の前に出て、改革の趣旨を説明した。
「なるほど、ふん、もっともだ。いかさま……」
重豪は相槌を打ちながら、至ってきげんよく聞きおわり、その日は酒など飲ませて、退出させた。
国許でも、長の道中でも、一通りならぬ不安を抱いて来たのに、意外にも至って上首尾に聞きとどけてもらえたと思い、信濃は大喜びだ。旅館に帰ると、同道して来た諸役人を自分の座敷へ呼んで、
「今日はとんと安心した。一々お聞きわけ下されて、この上なくうるわしいごきげんであったよ」
などと語って、酒をふるまって祝った。
ところが、その翌日だ。重豪は信濃を呼び出し、いきなり、大喝した。
「昨日、その方は国許の家老座相談の結果、太守殿の江戸参覲を二三回休ませてもらうよう公儀に願い出たいと申したが、これは将軍家にたいして不忠である。またこの頃改革の条々、すべておれが政治を破壊するを目的としている。不孝である。これ皆秩父一味の方寸から出たことである。君に不忠不孝をすすむるとは、大悪無道の者共じゃ。その罪はたださんわけにまいらん。きっと心得おけ!」
昨日にがらりとかわって、怒りの形相ものすごく、座敷全体がびりびりと鳴りひびくばかりの声でどなりつけた。
信濃は平伏したきり、身動きも出来ない。やっと退出すると、旅館の玄関から、「酒のかんをつけろ!」とさけんで奥へ入り、やけ酒をあおって、「以てのほかに鬱懐の様子」であったと、秩父党の一人であった有馬義成(西郷南洲の師事した一人)が、後年覚書している。
重豪は新藩主の改革政治を一気にたたきつぶした。秩父太郎をはじめその党の重立った者を切腹、余を遠島に処したばかりか、斉宜には隠居させ、その子の斉興《なりおき》の十九になるのを立てて当主とし、自ら後見となって、藩政を見ることにした。政治の方針をもとに返したことは言うまでもない。頼山陽は、これから十年後に薩摩に来遊しているが、
「大隠居、院中の政にて、後白河もただならずと相聞え候」
と、菅茶山《かんさざん》あての手紙に記している。
この斉宣の改革政治の失敗、秩父一党の没落を、薩摩では「近思録くずれ」と言って、ずっと後年におこった島津・お由羅《ゆら》騒動のはじまりとしているのである。
重豪は息子の改革政治をたたきつぶし、孫を当主に立て、自ら後見となって藩政をとることにしたが、政策は経済的には昔のままの積極放漫政策、文教的には都会化政策、私生活は依然たる豪奢をつづけた。それがつづけられたのは、古川に水たえずで、七十七万石の大身代であったおかげであるが、近思録くずれから十六七年、文政七八年頃になると、さすがにもうどうにもならなくなった。
つもりつもった負債は五百万両――当時の小判は一枚の中に金分が一匁九五六一四五含有されているから、五百万両では九千七百八十貫七百二十五匁、ざっと一万貫だ。今日金の値段はいくらするか知らないが、仮に一匁三千円と見て、一万貫では三百億円だ。貨幣の流通量が今日の何百分の一、何千分の一の時代だから、使用価値は二、三千兆円にあたるだろう。
こんな大借金があるというのに、当時の薩藩には、重豪、斉宣の二隠居、当主斉興、若殿|斉彬《なりあきら》(文化八年に十七歳)と、殿様が四人いて、それぞれ屋敷を異にして大世帯をかかえて江戸住いしている。この費用だけでも大へんだ。藩の収入はこの殿様達の費用を弁ずるにも不足だったというから、借金の返済どころか、利息も払えない。どうせ借金でやりくりするほかはないが、これでは、もう貸してくれる先きもあろうはずがない。
参覲交代も、重豪の顔をきかせ、病気を理由に帰国を休ませてもらったが、江戸詰めの藩士らの手当の支給も出来ない。遅配が二カ月、三カ月、五カ月、六カ月と、しばしばあり、ついには十三カ月の遅配となり、結局一文も支給出来なかったこともあったという(海老原宗之丞家記抄)。
上記の海老原家記抄は、またこうも記録している。
「譜代の家来らは、衣服を売り、武器、武具を質入れしながらでも、歯を食いしばって辛抱したが、江戸で一期、半期で雇った中間や小者共は、給金もくれない家に居つこうはずがない。どんどん逃げ出してしまうので、朔望《さくぼう》の登城にもさしつかえる。徒士《かち》の連中が中間の服装をしてつとめた。金がないから、建物が破損しても修理が出来ない。中間・小者がいないから、草が生えても除草もせず、散らかっても掃除も出来ない。邸中にのび放題にのびた草は、秣《まぐさ》に出来るほどであった。あまり体裁が悪いので、表門から玄関の前まで、藩士らがほっかむり姿で草をぬき、掃除をし、ひと工面《くめん》して、門や玄関の屋根や扉だけを修理した云々」
こうも書いている。
「参覲交代の時、大坂の藩邸にお泊りあっては、借金とりが押しかけて来る恐れがあるので、用心して西の宮にお泊りになったところ、嗅ぎつけて大坂から町人共がおしかけて来て、大へんなご難儀になったこともあった」
こんな風であったから、国許の家来共は、知行持ちは献金し、扶持取りはお借り上げ。両者とも、佩刀の目貫《めぬき》をはずし、小束をはずして献納し、女は髪かざりを売って献金したが、そんなものは焼石に水だ。
さすがの豪傑隠居もあぐねた。ついに調所《ずしよ》笑左衛門という者を登用して、ことにあたらせることになった。
調所は笑悦という茶坊主上りだったということになっているが、薩摩藩では薄禄の藩士の家計を扶助する目的で、藩士の子弟のアルバイトとして、書のたくみな者を役所の書役、学問にすぐれた者を造士館の助教等に任用する制度があり、茶道方に任用することもよくあった。たとえば、大山綱良、有村俊斎、西郷従道等の人々が、若い時に茶道方に任用されているが、これはその意味の任用で、茶坊主の家に生まれたからではないのである。調所もまたそうであったのではないかと、ぼくには思われるのである。
しかし、彼は茶道方としても優秀だったのであろう、本物の茶道として重豪つきの奥茶道にされ、茶道|頭《がしら》となったが、つづいて本筋の役目に転じて、髪をたくわえてお小納戸《こなんど》となり、お小納戸|頭取《とうどり》、ご用取次見習となり、使番となり、四十七の時には町奉行となった。十五の時にアルバイト的に茶道方に任用されてからこの時まで三十二年、大出世をしたわけだが、もともと士分の出であれば、才能ある人物なら、この時代でも異数の出世というべきではない。
文政七年、調所四十九の時、重豪は彼を側用人兼隠居(重豪と斉宣)の続料《つづきりよう》掛を命じた。側用人は官房長官、続料掛は費用がかりだ。はじめて財政の一端にタッチさせられたわけだが、これで手腕を見こまれたのであろう、つづいて、勝手方重役に任ずる故、藩財政を建て直せと命ぜられた。
調所《ずしよ》はおどろき、狼狽して、
「もってのほかのことであります。拙者は財政のことなどまるで存じませぬ。その任にたえる者ではございませぬ。平にご容赦を。お家はお人多くございます。余人を」
と、辞退した。
重豪はきかない。
「その方ならきっと出来ると、おれは見ている。この目に狂いはないはずだ。辞退はゆるさん」
重豪のこの信頼の厚さに、調所はついに引受けた。
またしても海老原宗之丞家記抄を引くが、調所は、壮年の時は酒が大好き、角力が好き、財を軽んじて、人を集めて酒盛りなどすることが好きな男であったとある。薩摩人らしい豪快好みの性質だったのである。これを、この任命を受けた時からぴたりとやめ、質実一本槍なまじめな生活となった。
しかし、個人の心掛だけでどうなる事がらではない。調所は大坂に行き、金策にかかったが、大坂町人らは相手にならない。
「とてもとても、なる相談やおまへん。懲りましたさかいなあ、仏の顔も三度までいいますで」
というのはまだやさしい方だ。
「どの面さげて来やはりました。人間ならよう来いへんとこでっせ。路用使うて来やはりましたやろに、無駄なことでんね」
と、けんもほろろにはねつける者もあれば、
「どぶに捨てる金はあっても、薩摩様などにご用立てする金はありませんわ。けたくその悪い話聞くもんや。早う帰っておくんなはれ。――番頭どん、お帰りやで。あとは塩まけ!」
と、言い捨てて、奥へ入って行く者もある。
後年、調所が斉興にさし出した報告書の中に、「再応、ご趣意理解を頼み談じ仕り候処、種々ご難渋、或ひは聞き捨てがたきほどのことも承り、毎度短慮もさし起り候へども、その意にまかせ候へば、不都合さし見え候につき、残念ながら胸をおさへ、ひたぶるに出銀頼み入れ申せし次第にて云々」とある。斬って捨てよう、あるいは腹切ろうと決心したこともいく度かあったが、おさえおさえ、恥をしのんで、金を貸してくれるように懇願をつづけたというのである。
この熱誠と根気がついに一人を動かした。金主の一人浜村屋孫兵衛である。浜村屋はなかに立って、平野屋五兵衛外四人を説きつけ、組合をつくり、新藩債をいくらか引受けることに話をきめた。
浜村屋と平野屋は、調所とともに江戸に下り、高輪屋敷で重豪に目通りして、約束をかため、金をおさめて、大坂にかえった。
これで一応のしのぎはついたが、ほんの一時のしのぎにすぎない。五百万両の借金の利息だけでも、毎年五十万両以上はかかるのに、当時の薩藩は総石高七十七万石のうち、四十七万石は家来共の知行地で、公地は三十万石、それから上る租米、その他の物産を金にかえて十四万両しかなかった。藩の費用は毎年十九万両いった上に、五十万両の利息、しめて六十九万両必要なところに、十四万両ではどうそろばんをおいても、法はつかない。
調所も、重豪もあぐねて、当時経済学者として有名であった佐藤信淵に相談した。信淵は現代になって天才的経済学者として再認識されている人だ。薩摩に行って、実地を踏査した上で、「薩藩経緯記」を書いてくれた。立て直し方策だが、その他に言いそえてくれたことがあった。
要領はこうだ。
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一つ、五百万両などという途方もない借金を背負っていては、どうにもなるものではない。どうせまともに返せるはずはないし、貸している方でもあきらめるよりほかはないのだから、一切利子を切捨て、元金だけを二万両ずつ二百五十年賦で返すことに話をつけよ。話はつくはずだ。
二つ、以上で大口の流れ口をふさいだら、中口、小口にかかる。殿様方や役向一統、倹約を旨とし、前もって厳格に予算を立て、予算内ですますようにすれば、大体現在の蔵入十四万両で足りるはずだ。足らせなければならん。
三つ、次は積極的に収入をふやす法。
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イ、当家の物産は米や菜種等いずれも包装が粗悪で、ロスが多い。これを改めよ。
ロ、領内の物産の品質改良と多収穫をはかり、藩の一手販売とせよ。
ハ、ご隠居の小遣銭かせぎという名目で、公儀に琉球を通じての唐貿易を願い出よ。ほかならぬご隠居のお願いなら、公儀は許可してくれるはずである。許可をもらえばしめたものだ。制限量をこえても、品物に一々公儀の印判がおされるわけではないから、莫大な利がある。
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四つ、十年の間に積立金五十万両、その他非常の際に必要な金若干万両を積み立てること。こんどの改革は非常な改革である故、公儀の特別な許可や目こぼし等が必要であるから、おりおり公儀に献金するためである。
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以上が信淵の立ててくれた建直し策の大略だ。それは天保元年の春であったが、その年の暮から、いよいよ十年を期して取りかかることにした。その実行にあたって、最も頼もしい相棒になったは、これまでしばしばその家記を引用した海老原宗之丞であった。海老原は全力をあげて、協力した。
調所は、順序を少しかえて実行した。先ず、米その他の包装を厳重にすることからかかり、次に物産の品種改良と量産の奨励にかかり、藩の一手販売とした。次ぎに、琉球を通じての中国貿易を願い出た。
これは重豪のさしずであったろう。
「老人の達者はあてにならん。おれが生きているうちに許可をもらえ。死んでしもうては手品の種がないぞ。早うせい」
と言って願い出させたのではないかと思う。その方が重豪の性格にふさわしい。ともかくも、願い出た。要路に相当金も使ったろうが、年額銀子千七百二十貫、金子にして三万両を限度とするということで、許可がおりた。
天保四年正月に、重豪は江戸高輪の屋敷で八十九という高齢で死んだが、その頃には財政建直しの曙光が大いに見えはじめていた。
重豪が死んだので、斉興の親政となった。斉興は四十四であったが、彼もまた調所を全面的に信頼し、家老格に任命して、一切のことをまかせた。
天保六年にはいよいよ五百万両の藩債整理にかかった。こんな虫のよい相談においそれと応ずるはずがない。債権者らは色めき立って反対したが、調所は浜村屋を味方にして、ねばり強く折衝を重ね、ついに成功した。利子切捨て、二万両ずつ、二百五十年賦で償還という約束。
これが当時の日本経済にあたえた影響は大へんなもので、大坂では倒産者が続出した。これほど世間をさわがせ、安寧を乱せば、幕府も黙過するわけに行かない。浜村屋は入牢の後、大坂三郷を払われて堺に転居しなければならんことになり、藩は多額の献金をして、幕府の咎めの下りるのをもみ消した。佐藤信淵の見通しは神のようであったと言えよう。
大口の金の出口がふさがったので、建直しは益々順調に行き、天保十五年には、藩はついに百五十万両の非常準備金が出来、江戸、大坂、国許の三カ所に格納することが出来た。一説では百万両ずつともいう。
さて、いよいよ騒動の本題にかかることになった。
斉興《なりおき》には、三人の男の子があった。長男は斉彬《なりあきら》、次男は斉敏《なりとし》。この二人は鳥取池田家から来た正室|周子《かねこ》(弥《いや》姫)の所生。三男は久光、これはあとでくわしく説明するが、側室の所生であった。次男の斉敏は備前池田家に養子となって行ったから、家にのこるところは、斉彬と久光の二人であった。
斉彬が明治維新前期史の大立者であることは、皆知っている。最も賢明な人物で、その賢明さは単に維新時代において第一流であっただけでなく、江戸時代二百七十余年間を通じての第一等であったろうと、ほとんど全部の歴史家が言っている。維新時代に名君と言われた人々は、そのほとんど全部が補佐する賢臣がいたために名君の名を得たので、個人としてはさして偉くなかったと言われているが、斉彬は個人としてえらく、西郷隆盛や大久保利通をはじめとして維新時代に雲のごとく薩摩に輩出した英雄豪傑共は、皆直接間接に彼の薫陶によって玉成《ぎよくせい》したので、彼は西郷らの主人であると共に師であったと言われている。
斉彬の賢明は少年の頃から抜群であったので、曾祖父の重豪《しげひで》は可愛ゆくてならず、高輪の隠居屋敷に連れて来てはいく日も帰さず、入浴なども一緒にするほどであったという。大々名の隠居が曾孫と一緒に入浴するなど、異例中の異例だ。いかに愛していたかがわかろう。斉彬は重豪六十五の時の生まれで、重豪は八十九まで生きたから、斉彬が二十五になるまでは健在だったのだ。
こんなに重豪に可愛がられて育って、自然感化された点もあろうし、趣味の遺伝もまたあろうし、斉彬には重豪の新しいもの好みの積極進取の気性と西洋の文物にたいする濃厚な好尚があった。ただ、両者の時代が違うので、重豪のそれは趣味的なものにとどまったが、斉彬においては、西洋の文物を取り入れることは日本の自存と成長に欠くべからざる有用なものであるとの確信をともなっていた。
斉彬は世子の時代から日常生活には吝嗇と思われるくらい倹素であったが、彼が有用なものと信ずるものには、多くは西洋の品物であったが、たとえば洋書、たとえば兵器、たとえば器械・器具の類、たとえば薬品類にたいしては費用をおしまず買い入れ、洋書類はかねて知合っている洋学者らに翻訳させて読み、それによって器械類を組み立てて実験したり、ものを製作してみたり、兵器の改良をしたりした。そのために、当時の有名な洋学者のほとんど全部と親しく交際していた。高野長英などは幕府のお尋ね者になっている間も彼の庇護を受けている。
斉彬のこの賢明さ、重豪によく似た積極進取の性質、西洋の文物にたいする好みが、斉興を不安にし、調所を先頭とする老臣らを不安にした。長い間の苦難の末、やっと財政を建直すことの出来た、この人々にとっては、現在の身代にたいして最も愛着が深かったはずであり、あの苦しい時代をいやがることが最もはなはだしかったに違いない。斉興や老臣らだけでなく、家中の者の大方がそうであったはずである。
その彼らにとって、斉彬の性質や好みが重豪によく似ていることは、
「この君のご治世になったら、大隠居様の時代のようになるのではなかろうか」
と、不安であったはずだと、ぼくには思われるのだ。
斉彬は稀世の名君であったし、当主になってからの施政ぶりも立派であったし、彼によって薩藩は維新運動の中心勢力となるきっかけがつけられたし、それが成功して藩の名声が上ったし、藩出身者が多数栄達したしするので、最初から藩内のほとんど全部が斉彬を敬慕し、その襲封を望んでいたように考えられており、伝えられてもいるが、本当はそうではなかったと考えるのが合理的ではないだろうか。
ぼくは藩中の大部分は斉彬に不安の念を抱き、ごく少数の人々だけが斉彬を慕っていたに過ぎなかったろうと思っている。それはどんな人々かといえば、第一は斉彬に直接親近して、そのえらさを知っている人々、第二は直接には知らないが賢明であるとの評判を聞いている上に、道義の念によって嫡庶の分《ぶん》はみだるべからざるものと信じている人々。第三は青年であったろう。青年らはかつての藩の窮迫時代は幼かった上に、親が楯になって苦労を知らさないようにしたはずだから、骨身にこたえる苦労の記憶はないわけだ。また、青年は観念論の好きなものだから、斉彬の賢明の評判にあこがれ、藩の名誉などというものに心を引かれたに違いないからだ。
藩中の人心がこう両分している以上、一さわぎおこらなければならないはずであった。
斉彬の人物を不安に思う人々の望みをつないだのは、言うまでもなく、その異腹の弟久光である。
久光の生母由羅の素姓については、各説あってよくわからない。一説では江戸麹町番町の八百屋善平の娘であったといい、一説では高輪の船宿の娘であったといい、一説では三田四国町の大工藤左衛門の娘であったといい、一説では普通の大工ではなく船大工であったという。ともあれ、江戸の町家の生まれであったということはたしかであろう。
十五の時、つてをもとめて、薩摩の奥殿の中臈島野《ちゆうろうしまの》というものの許に奉公に出たが、間もなく斉興の寵愛を受けるようになった。斉興はよほどに気に入って、国許に連れて行った。その国許で、文化十四年、男の子を生んだ。久光だ。斉彬の八つ年下である。
大名の正夫人と世子は、幕府にたいする人質の意味があるから、江戸を離れられないのが原則になっている。しかし、それでは国許の奥殿の主宰者がなくてこまるから、衆妾の中から一人をえらんで、主婦の地位におく。これをお国ご前といって、国許では正夫人同様の待遇をされるのだ。斉興は由羅がとくべつ気に入っている上に、男の子まで生んだので、由羅をお国ご前とした。
上述のように、久光は薩摩で生まれて、薩摩で育っている。自由自在に薩摩語もしゃべれる。こんな点、江戸で生まれて江戸で育って、薩摩語など聞いてわかりはしても、自分ではしゃべれない斉彬とは大ちがいだ。斉彬の近臣が明治になって斉彬のことを語っているが、斉彬のことばは明晰な江戸弁であったと言っている。こんなことからも、一般の家中の者の親しみは久光の方にあったと推理してよいであろう。
久光はまた賢明な生まれつきでもあった。その上、薩摩のような片田舎で育ったためか、生来の性質のためか、その趣味や思想は保守的であった。学問の好みも、旧来の儒学と国学で、洋学はきらいであった。彼の保守的な思想や趣味は年をとるにつれて最も頑固の様相をおび、西郷や大久保をこまらせ、明治政府も閉口することになるのだが、若い頃の保守好みは、父の斉興や、老臣や、大多数の藩士らには着実で好もしい人がらと思われた。
お由羅騒動を史伝として最初に研究したのは、故三田村|鳶魚《えんぎよ》翁で、これを材料にして直木三十五が「南国太平記」という小説を書いた。鳶魚翁の著書の大方は、戦後に青蛙房が整理して、「鳶魚江戸ばなし」二十巻におさめて出し、今日でも容易に見ることが出来、「お由羅騒動」はその第十一巻「お家騒動」に収められているが、鳶魚翁は、騒動の原因を、斉興がお由羅の色香に迷い、お由羅また姦謀をめぐらして、姦悪な老臣共と通謀して、斉興をたぶらかして、斉彬をしりぞけ、おのれの生んだ久光を立てようとはかったと解釈しているが、旧歌舞伎芝居的なそんな単純なものではなく、全藩の心理が上述したようなものであったから、事件が発生したと見るべきであろう。
ともあれ、斉興はなかなか斉彬に世をゆずらず、いつか斉興は五十を越え、斉彬は三十の半ばを過ぎた。斉彬が世子の身ながらその賢名が天下に知られ、阿部伊勢守正弘に至っては、身は老中首席でありながら、斉彬の見識を尊敬すること一方でなく、兄事しているほどであったので、世間でもよくは言わず、
「薩摩はどうかしている」
と、いぶかしがった。
とくに説明しておく。維新時代も末期になると、老中の権威も大暴落して、反幕側の雄藩の有力な家臣、たとえば薩摩の大久保利通に面《めん》と向かって揶揄《やゆ》嘲弄されたりしているが、この時代は幕府の実力の失墜は世間もまだ知らないし、幕府自身も気がついていない。老中の権威は大へんなものであった。国持大名が老中にあいさつする時は両手を畳についておじぎしなければならず、それにたいして老中の方ではひざに手をおいたまま答礼するのが例であったというのだ。そのような時代に、筆頭老中の阿部伊勢守が、まだ部屋住みである斉彬を尊敬し、兄事するほどであるというのは、理由のあることであった。欧米諸国の船がしきりに日本近海に出没して、その圧力がひしひしと感ぜられるようになったので、外様大名中の実力第一の雄藩のあとつぎであり、世界の事情にもよく通じている斉彬がひとしお頼もしかったためと思われる。しかし、それ以外にも、かくれた理由があったと、ぼくには思われる。そして、それが薩摩のこのお家騒動の最大の原因だったとぼくは見ている。追い追いそれはわかって行くはずである。
弘化元年(一八四四)から三年までの間に、英国船とフランス軍艦とが数度にわたって琉球に来て、開国通商をせまった。
琉球は江戸初期の慶長十四年(一六〇九)に島津家が征服して以来、薩摩の属領になっていたが、ここを通じての中国貿易の利は莫大であったので、中国と縁を切らせるわけに行かなかった。中国は古来自国の属領としか貿易しないことにしている国である。相手国から朝貢という名目で品物を持って来、中国からは回賜という名目で品物を出すのだ。実質は貿易だが、こういう形式でなければ許さない建て前になって、紀元前の太古から清朝の末期までつづいた。人は足利義満が貿易のために明朝に、臣源道義と称したと、義満一人のことのように非難するが、中国と貿易した国はどこの国もそうで、日本の諸大名中にも、この意味で中国に臣称した人々は、江戸初期までいくらもある。空威張《からいばり》の中華思想こそ笑うべきで、目くじら立てて憤慨するほどのことはないのである。
それはさておき、琉球は薩摩の属領でもあれば、中国の属領でもあるという、両属の姿で、江戸時代を経過して来たのだが、これはもちろん中国側には秘密にされていた。
さて、英・仏両国とも、琉球に開国通商をせまったのだが、フランスはとりわけ強硬執拗で、こう口説いた。
「英国は最近阿片戦争によって中国に勝って、土地を割譲させ、償金まで取った。必ずや戦勝の余威を駆って貴国にせまり、悪くすると併呑《へいどん》しようとするであろう。貴国がわがフランスと開国通商し、条約を結ばれるなら、わが国は必ず貴国を保護し、英国の野心を制して上げるであろう」
薩摩では両国の船が琉球に来る毎に幕府に報告した。幕府では重大視して薩摩にきびしい警戒をするように命じたが、当時の薩藩当局は幕府への報告をとりつくろうだけで、実質的には大したことはやらなかった。もちろん、琉球政府に言いふくめて、フランスの要求を、
「わが国は絶海の小孤島で、地味|磽《こう》|※[#「石+角」]《かく》、天産乏しく、とうてい他国と貿易などする余力はない。貴国の船が飲料水や生鮮食料等を補給されるために立寄られた場合は、出来るだけ便宜をはからうが、貴国においては万やむを得ない時だけ寄港することにしていただきたい。しばしばは応ずる力がわが国にはないのだから。ご諒察願いたい」
と、いった工合に拒否させたが、フランスはひきさがらない。度々来ては要求を重ねた。
弘化三年夏になって、薩藩当局もようやくことの重大さに気づき、藩主斉興は自ら帰国して処理する気になり、幕府に帰国願いを出した。
すると、幕府では、阿部老中からの忠告の名目で、
「この問題はよほどに念を入れなければならないことのようである。ついてはお公儀にたいする報告や、届出や、許可を受けなければならないことが色々と出来《しゆつたい》するだろうと思われる。その際、藩の最高責任者が江戸にいないでは、色々支障の生ずる恐れがあろう。国許へは世子を帰して事にあたらせ、大隅守殿は在府されるがよいと存ずる」
と命令した。
読者はすでに見当をつけられたはずだ。阿部老中は斉興の手腕を心もとなく思い、世子|斉彬《なりあきら》の手腕を買って、この指図をしたのである。あるいは、もっと進んだ意図があったのかも知れない。「いいかげんに隠居して、斉彬殿に世を譲りなされ。あなたのような年寄ではどうにもならん世になっているのですぞ」という不信任の意思表示。この時、斉興は五十六という老年であり、斉彬は三十八という壮年である。斉彬ほどの人物をいつまでも部屋住みでおくのが、国家のために大損失であることは言うまでもない。天下のことを念としなければならない立場にある上に、斉彬となかのよい阿部に上述のような意図があったとしても、むしろ当然であろう。であるとするならば、もちろん、斉彬と相談の上のことであろう。これには二人となかのよい、伊達|宗城《むねなり》も一枚加わっていよう。
斉興は本質はずいぶん賢い人だから、もし阿部が謎をかけたのであったら、それのわからない人ではないが、単に自分が江戸にとどまり、斉彬を国許にかえして処理させることにしたところを見ると、わからんふりをしたのであろう。後年には益々その性質のはっきりして来る事実があるが、剛腹無類の人がらなのだ。
ともかくも、斉彬が任にあたることになったが、彼は江戸を出発する前に、解決策を案じて阿部に具申し、その諒解を得た。
その要領はこうだ。
「フランスが琉球に要求しているのは貿易、たがいの通信、キリスト教の布教を許可せよの三条だ。三条とも日本の国禁だが、全部拒絶しては、彼を激発させて戦争になる危険がある。琉球が彼に侵略されることになれば、当然日本は出兵して救わなければならない。しかし、現在の日本にはその力はない。軍備充実するまで、しばらく寛大な処置をとるべきだ。また、琉球は薩摩の属領とは言いながら、表面は中国の属国でもある。もしフランスが中国に要求して琉球と通信、交易する許可を得て琉球にせまったら、琉球王としては拒むことは出来ない道理でもある。かれこれ考え合せるに、通信と交易の二条を琉球王の名をもって許させ、キリスト教のことは拒絶させるがよかろう」
斉彬は薩摩に帰着すると、翌日には早船を出して、琉球在藩の者にこの線による指令を発して処置させ、その他必要な措置を講じて、翌年春、帰国して来る父と入れちがいに江戸に帰った。しかし、この時の斉彬の国許での生活は、決して愉快ではなかったようである。彼が隠密の任を負わせて国許に帰している山口|定救《さだすけ》にあてて、嘉永元年五月二十九日付で出した手紙に、
「去々年、自分は父君のご名代で国許へ下向したが、もうこんどはいやだ。調所《ずしよ》らのわがままのために、十分のことは出来ないからだ。ご名代など空名にすぎない。このことは阿部老中へも申して、諒解を得てある。阿部の話では朝廷でもご存知の由だ」
とあるからだ(吉川弘文館版島津斉彬文書上巻一〇九頁。以下単に斉彬文書と呼ぶ)。調所ら、藩の要路にある者共が、費用おしみして、斉彬に十分な手腕をふるわせなかったのであろう。
こういうことのためにであろう、斉彬は調所を憎むようになり、調所をしりぞけ、早く家督して、思うままに手腕をふるいたい心が切になったようである。前記の斉彬文書上巻六八頁に、彼が薩摩から江戸に帰って二三カ月後の弘化四年六月二十二日付で、前出の山口定救にあてた手紙が出ている。山口は号を不阿弥という数寄屋頭《すきやがしら》で、この時国詰めになって帰国するにつき、斉彬は隠密の役を命じて、こう書いている。
「調所らのことは、風聞、実事にかまいなく、全部くわしく知らせよ。(中略)気は進むまいが、調所やその一味にうまく取入れよ」
七四頁には調所一味の城代家老島津豊後|久宝《ひさとみ》にあてた同年八月二十九日付の手紙が出ているが、その中で、いろいろなことでしきりに豊後をおどかすような書き方をしている。主なものをあげてみる。
その一つ。
「調所は秘事が伊達宗城から漏れたと考えている由だ。こちらの予想した通りに考えているわけだが、そうとばかり考えていては、これからも危険だぞ」
ここに言う秘事が何であるか、よくわからないが、どうやら、薩摩から琉球に守備兵をつかわすのを、幕府への届出より実数ははるかに少なかったことを言っているようである。伊達宗城とは伊予宇和島の藩主で、斉彬の親友だ。だから、つまり斉彬は、「調所はこの秘事が幕府に漏れたのは、わしが伊達に漏らし、伊達が阿部に漏らしたと思っているらしいが、そんな風に考えていると、かえって危険だぞ。幕府には幕府の探索ルートがあるのだから」と、おどしているのであろう。
その二。
「七月二十八日に自分が江戸城へ登城した節、幕府の表坊主星野久庵が、内々話してくれた。その要領はこうであった。この前、お庭番(将軍直属の隠密)が帰って来て、こんなことを申し上げた。琉球では昨年中国へ使者をつかわし、十万両ほどの品を薩摩から中国へ出して交易した云云。十万両などという巨額な品物を出したとは虚説であるが、制限を越えた貿易を行っていることは事実なので、自分はまことに恐ろしく思った。また、お庭番はこうも言った由、これは確説ではないが、琉球の島々に異国船が交易のために参っていると申す者がありますと。自分は、両条とも全く知らない、何も国から言って来ないところを見ると、大方虚説であろうと打消しておいた」
その三。
「去年、調所らが上府の節、幕府の駒場の薬草園のかかり役人共に莫大な賄賂をつかって拝観したことが露見して、役人らは慎みを仰せつけられ、調所以下その節同行の者は全部名前がわかり、きびしいご処置になろうとしたが、どうやらこの度は穏便にすんだ模様である。しかし、以後をよほど慎まないと、いろいろ重なって、どんなことになるかわからないぞ」
このように島津豊後にたいしておどかしの手紙を書いた日に、山口定救にも手紙を書いているが(八三頁)、中にこんな箇条がある。
「調所らが寺々を建立したり、自らの別荘を広げたりしている由、その方の手紙で知った。彼らの評判はいよいよよくないだろうと思う。城下郊外|草牟田《そむた》村丸山の精光寺の地蔵堂に由羅が参詣したとはどういうわけだ。さぐって見よ。こんどはじめての参詣か、これまでも内々にいく度も参詣しているのか、思うところがあるから、知りたい。この他にも由羅が信仰して祈祷等を頼んでいる寺社などがあるかどうか、急ぐにはおよばんが、調べて知らせよ」
この精光寺のことは、よほど気にしている模様で、翌月の二十九日に山口に書いた手紙(上巻九〇頁)にも、
「由羅が草牟田の精光寺に参詣人の茶屋を寄進した由、不似合なことだ。何か下心《したごころ》あってのことか、よく探索してみよ」
と、書いている。
十月末日付の同人あての手紙(上巻九三頁)には、
「由羅のことがよくわかった。とくに彼女が人形《ひとかた》を京都にあつらえ、それをどんな手続きで落手したかがよくわかった。しかし、由羅がそれを受取った後、どうしたか、それはわからない。少し調べてみたが、わからない。やはり当人の手許にあるようである。その方も気をつけているよう。人形は竹下伝(略名ナラン)が取りついで近衛家の簾中付となって京都にいる伊集院太郎右衛門に申しつけてあつらえさせたのであるという。これは去年まで京都藩邸留守居役であった山田一郎左衛門(斉彬党、この時町奉行格鉄砲奉行勤)が京都を出発する以前から、京都で色々とうわさの立っていたことである。島津将曹(家老・由羅党)も二階堂|主計《かずえ》(大目付・斉彬党)も知っていることであるという。虚説ではないのだ。その方もよく注意していよ」
という記事が見える。
人形というのは、人を呪咀したり、祈祷したりする時に必要なものなのだ。由羅がそれを京都に注文して取寄せたというので、斉彬は神経を尖らせているのである。
「精光寺のことは、まことに不似合至極のことだ。さらにくわしい様子を知りたい。調所の家に出入りする町人と懇意となり、くわしく様子を知ることは出来んか。返事聞きたい」
「調所の姦悪が増長したので、斬捨てよう、鉄砲で撃ち殺そうなどと、申す者共があるとの、ひそかな風評があると聞いたが、ついにそういうものが出て来たか、くわしく聞きたく思う」
「由羅が霧島神宮へ参詣したとのこと、何のための参詣かわからない。来年にでもなったら、それとなく聞き合せて知らせるよう」
などという記事も見える。
以上は弘化四年中の斉彬の手紙にあることで、このあとには嘉永元年の分がつづくが、これにも同様な記事がつづく。由羅の神仏信仰に神経を尖らせ、調所とその一味の者にたいする憎悪が益々尖鋭になって行くのだ。
煩を厭わず、ぼくがこのような記事を書きならべて来たのは、この騒動にからまる呪咀調伏説等のことが、実は斉彬のデッチ上げ臭いことを言いたいからである。
三田村鳶魚翁の研究では、斉彬の子女が皆幼少の時に次ぎ次ぎに死んだので、斉彬党の藩士らが、
「これは由羅党の者の呪咀による。由羅党は太守様をたらしこんで、いつまでも世子様に世を譲らせないようにすると同時に、呪咀によって、世子様のご血統を根絶やしにして、やがて世子様をも呪殺し、自然、久光様があとつぎに立たれるように計画しているのだ」
と考え、いきり立ち、探索をはじめ、ついに証跡をつかんだので、大騒ぎになったということになっており、その証拠の一つとして翁は斉彬の子女生死表を挙げている。翁の原著の表は数字にいく多の誤植があるので、これを正して左に上げる。
長男菊三郎 当歳 文政十二年八月三日生
同年九月十一日死
長女澄姫  四歳 天保八年八月一日生
同十一年八月六日死
二女邦姫  三歳 天保九年十一月二十四日生
同十一年五月二十三日死
二男寛之助 四歳 弘化二年七月二十八日生
嘉永元年五月十日死
三男盛之進 四歳 弘化四年十一月二十九日生
嘉永三年十月四日死
四男篤之助 二歳 嘉永元年十一月二十三日生
同二年六月二十日死
五男虎寿丸 六歳 嘉永二年四月二日生
安政元年七月二十四日死
六男哲丸  五歳 安政二年九月某日生
同六年正月二日死
卒然としてこの表を見れば、いかにも三田村翁の疑いは自然であるが、斉彬が由羅や調所らの神仏信仰を問題にしはじめたは、弘化四年の八月二十九日からである。しかし、その時まで、斉彬の子女で死んでいるのは、この時から十八年前の文政十二年にわずかに月余の短い命ではかなくなった長男と、七年前の天保十一年に三つと四つで相ついでなくなった二女と長女の、都合三人にすぎない。呪咀されて死んだと疑惑するには、少なすぎもし、昔すぎもすると思うが、どうであろう。
むしろ、ぼくはこれは、自党の武士らの憤激をあおるために斉彬が計略として言い出したことと見た方が自然のような気がする。
そう仮定して考えると、調所を斬り殺す、あるいは鉄砲で殺すと言って憤激している者があるそうだなど、あたかもそうした人間の出現を期待するかのごとき斉彬の心理がよくわかるのである。
同様の文句が嘉永元年七月二十九日の山口あての手紙(一一四頁)にはもっと露骨な形で出ている。
「調所こと勢い強いこと、まことににくむべきである。今後どういう勢いになるであろう。とてもおさえることが出来なくなった節は、誰でもよい、思い切った決断をしなければ、とても処置はつかんだろうと思う」
と書き、また、
「調所は藩内の武術をのこらず一流ずつに統制しようとしているとの評判がある。そうだろうか。そんなことをしては、とても藩中おさまるまい。調所は忽ち打ち殺されてしまうだろう。おめおめと打ち捨てておくようでは、武士とは言えない」
と、まで書いている。
斉彬の調所にたいする憎悪は増大するばかりであったことは事実だ。調所の党与の者、海老原宗之丞、二階堂志津馬、吉利仲、島津将曹、末川近江、由羅の兄岡田半七等にたいしてももちろん憎悪している。
それでは、調所やその党与の者がどんな悪いことをしているか。斉彬文書と三田村翁の研究から、少しひろい出してみる。
一つ。
鹿児島市中を貫流している甲突《こうつき》川にかかる五つの石橋は、調所が肥後の名工岩永三五郎を招いて架けさせたのだが、調所は工事に着手させる前に、技倆の試験をすると称して、平ノ馬場の自邸の石垣を築かせた。公私を混同して私利を営んだ一証拠である。(島津家お由羅騒動)
その二。
調所が最も信任して終始片腕として仕事を共にして来た海老原宗之丞は藩の費用で開墾した曾木、本城両郷の新田を一石二百文ずつの値段で払い下げて自分のものとした。このことは斉彬党の山田一郎左衛門清安から同志の吉井七郎右衛門泰諭へ出した手紙中にも見える。(斉彬文書上巻一六二頁)この両郷は川内川に沿った村で、ぼくの郷里にほど近い。
その三。
これは吉井七郎右衛門から斉彬へあてた手紙の中にあることだが、海老原は姦悪無類の人物で、田舎に出張したりした時はもちろんのこと、自分の屋敷においても、人の妻などを犯して、人面獣心の汚行あり、言語道断である(斉彬文書上巻一四五頁)。
その四。
海老原にひしと阿諛している目付の四本休左衛門は、貪欲で、町人共を朝夕にその家に出入りさせ、その者共から故なく金銀や大小などを貰い受けているのを、人々は皆知っている(斉彬文書上巻一四五頁)。
その五。
二階堂志津馬の公金三千両使いこみのこと暴露(斉彬文書上巻一四二頁)。
大体こんなものである。
嘉永元年度の斉彬の手紙には、由羅の信仰や人形《ひとかた》についても、時々書いてはいるが、ごく簡単である。あまり効果がないので、差しひかえ気味にしたのではないかと、ぼくは解釈したい。
不思議に思われるのは、久光にたいしては好意をもって書いていることだ。
「この人は随分よい人物と見ている。この人が事情が少しわかれば、きっと調所や二階堂の失脚の糸口をつけるだろうと思っている。書物も相当に読んでおり、調所や二階堂のように無学ではない。この人の思うところと、調所の思うところとの相違が、調所失脚の基《もとい》となると思う。柔和な人がらではあるが、本当は柔和なだけではなく、強いところのある人物とわしは見ている。この人が政治の事務についてくれれば、きっとよいと思う(上巻一〇八頁)」
とある。調所や生母の意図には関係していないと考えていたのであろう。
前掲の斉彬の弘化四年八月の島津豊後にあてた手紙は密貿易のことがお庭番から老中に報告されたことを報じているが、この薩摩の密貿易のことが、果然、嘉永元年の冬に至って、幕閣の問題になり、調所に呼び出しがあり、調所は出府して、厳重な査問を受けることになった。
念のために説明しておく。琉球を通じての薩摩の中国貿易は、幕府の認可している額までは公認貿易で、その額を越した分が密貿易になるのである。てんから貿易を禁止しているわけではないのである。だから、密貿易というより、密輸と言った方が、今の人にはわかりやすかろう。
さて、この密輸のことが――これまで十九年もつづけられて、薩摩の財政建て直しに大いに力となって来、世間でもよく知り、半ば公然の秘密のようになっていることを、この時になって今さらのように幕閣がとり上げ、法律を発動させるという事実を、どう解釈すべきか、ここにこのお家騒動の真相を知る重要な鍵がある。
ぼくは琉球問題処理にあたって、斉彬と阿部とがしめし合わせて、斉興を隠居に追いこもうと一芝居打ったらしく思われると述べたが、この密貿易の暴露一件もそうではないかと疑っている。
「貴藩の密貿易のことは天下にかくれない公然の秘密でござるが、これを問題にいたそうか」
「しかし、それでは悪くすると藩の存亡の大事になりましょう」
「いや、それは拙者が加減して、そこまでは拡大させません。おまかせ願いたい。情報を提供していただきましょう。決して貴殿の名の出るようなへたはいたさん。公儀の隠密共の報告によるということにいたせばよいのですから」
「そうなさるがよい。思い切った手でありませんと、ご尊父には歯が立ちません」
伊達宗城をまじえて、こんな問答があって、相談が出来たのではないかとぼくには思われるのだ。
そこで、どこかにその証跡はないかと、さがしにかかると、あった、あった! 斉彬文書上巻の嘉永二年正月二十九日付で、斉彬が吉井七郎右衛門泰諭へ出した手紙中に、こうある。
「かねて自分が美濃守(黒田|斉溥《なりひろ》、薩摩から筑前黒田家へ養子に行った人で、斉彬の大叔父)と相談してはからうところがあったので、調所や二階堂志津馬ら没落のこともおこったのである。父君ご隠居の一条は、すでに阿部から美濃守へ話もあったのだが、無理にそうしては、将来とかくごきげんが悪く、後のためによくないので、強《し》いないようにわしから頼んだ。来年になれば、自身思い立たれた形で、隠居していただけるであろう。もしそう遊ばされぬ時は、公儀から断乎たる手を打つ(上巻一四〇頁)」
黒田斉溥はこの時は江戸に居ないはずだし、斉溥はそのような時は伊達宗城に頼むことにしているから、これも恐らくはずれてはいまい。推理は的中したのである。
さて、調所は江戸表に召喚され、きびしい尋問を受けたが、とうてい言いぬけることが出来ないと見通しをつけると、十二月十八日、すべての責任は一切自分にある、主人は何も知らないのだと遺言して、藩邸内の長屋で、毒を仰いで死んでしまった。
斉彬の吉井七郎右衛門泰諭への手紙(斉彬文書の上巻一三九頁)によると、胃から吐血しての病死であるということになっているが、これは藩がそう発表したからで、実際は責任を一身で食いとめるための自殺だったと思われる。ともあれ、斉彬らの計画は来年待ちとなった。
それはともあれ、調所のこの死によって、調所の党与の連中の私曲が一時に暴露している。二階堂志津馬に公金三千両使いこみの私曲があったと前に述べたが、それが暴露し糺察《きゆうさつ》がはじまったのはこの時のことだ。二階堂の妾は目黒の料亭|橋和《はしわ》屋の娘で「そわ」という者であったが、きびしい取調べをされるのを恐れ、井戸に身を投げて死んだと、斉彬の手紙(斉彬文書上巻一三七頁、一三八頁)にある。
調所のような人間でも、多年権勢の地にあると、つい初心を取り落してしまったのであるから、その党与に至ってはなおさらのことだ。人間の弱さだ。
さて、こうして調所を中心とする経済官僚群は一斉に没落し、中にも調所は最高責任者であっただけに、幕府の手前、藩としては、その家を取りつぶし、遺族を追放処分くらいにはしなければならんのであったが、斉興は調所の功績を考えて忍びなかったのか、剛腹な人だけにかえって反対を行きたかったのか、多分両方だろうと思うが、調所の嫡子左門を稲留という名字に改めさせて国許にかえすことによって、家を取り潰したことにして幕府の手前をつくろったばかりか、間もなく番|頭《がしら》に取立て、公収した平ノ馬場の屋敷のかわりに屋敷をあたえた上、六百両という金を下賜した。
調所の遺族にたいする斉興のこの手厚い処置を見てもわかるように、斉興は調所をついに死に至らしめた幕府の処置をうらんでいる。ひょっとすると、鋭い人だけに、この処置が斉彬と阿部との共同謀議によるものであることを感知していたかも知れない。とすれば、
「にくい息子め!」
と、斉彬にたいする憎悪をつのらせ、いよいよ世を譲る心はなくなったであろう。
斉興がこうである以上、島津豊後久宝、島津将曹久徳、末川近江久平、吉利《よしとし》仲、伊集院平らの重臣らの多くは、もちろんアンチ斉彬派としてかたまる。重臣層にこの派が多ければ、下々にはもちろん多くなる。自然の勢いである。
この敵党――斉彬党側に言わせれば姦党とか、姦人派といいたいところだろうが、つまりアンチ斉彬党のしぶとい様子に、斉彬党の人々はいきどおり、結束を新たにした。町奉行兼物頭近藤隆左衛門、町奉行格兼鉄砲奉行勤山田一郎左衛門、船奉行高崎五郎右衛門(男爵正風の父)、馬預《うまあずかり》仙波小太郎、広敷書役八田《ひろしきかきやくはつた》喜左衛門(知紀《とものり》、有名な歌人)等の人々だ。一時も早く斉彬の襲封を実現すべきであると相談一決して、江戸家老島津壱岐、大目付二階堂主計、物頭|赤山靱負《あかやまゆきえ》、名越《なごえ》左源太などの重役や名門の人々をも説きつけた。下々にも同志が出来た。その中に大久保利通の父次右衛門がいる。
この人々が皆学問好きで、儒学や国学に通じていた点は見逃すことが出来ない。学問の通弊は現実無視の観念論に流れるところにあるが、現実に足をさらわれないで道を誤まらせない功用もまた学問にはある。もっとも、今日では学問というものの考え方が昔と大違いになったから、どうだかわからない。学業をつづけるために盗みをしたり、売春したり、そんな学問のしようは昔はなかった。
結束した、この人々はどんなことをしたか?
三田村翁の「お由羅騒動」では、
「お由羅派では、山伏の日高某(薩摩藩領の山伏の触れ頭《がしら》である日高|存竜《ぞんりよう》院、薩摩で俗に言う日高ヤンボシであろう。城下甲突川のほとりに、広大な邸をかまえていた)や、兵道家《ひようどうか》である牧仲太郎をお広敷番に任命し、しきりに斉彬とその子女らを呪咀調伏しているようであるので、その対策として、三つのことをやる計画を立てた。
一つ、こちらでも兵道家をなかに引き入れ、斉彬とその子女らの安泰をいのる修法をはじめること。
二つ、姦党の人々をたおす計画を立てること。
三つ、根本的解決策としては、久光をたおすべきであるとして、来春の吉野原(藩の牧場、毎年ここで馬追いの行事があり、藩公をはじめ、家老重役皆出席する)の馬追いの時、いたわしけれど、鉄砲をもって討取ることを決議した」
と、こうなっている。
ちょっと説明を加える。兵道家というのは、南九州特有のもので、武士にして山伏を兼ね、戦争の場合など、陣中にあって敵を呪咀調伏する修法を行うのがその職であった。ぼくは旧薩藩だけのものだとばかり思っていたら、数年前、滝川政次郎博士から、旧人吉藩内にもあると教示された。南九州地方一般のものだったのであろう。
牧仲太郎の実家牧家はぼくの調べたところでは、大隅国肝属郡吾平郷の郷士で、代々山伏を兼ねた家だ。奇験ある兵道家であったという。郷士から城下|士《ざむらい》になったり、城下士から郷士になったりすることは、薩藩では江戸初期にはよくあったが、末期になってはほとんど聞かない。その上、お広敷番といえば、奥御殿に関係のある役だ。それに任命したとあっては、この人々が大いに疑惑したのはもっともではある。
しかし、ぼくが斉彬文書によって仔細に検討したところでは大分三田村翁の結論と違う。三田村翁の研究した頃は、文献も不十分で、斉彬文書にしても――斉彬文書は昔三種類も出ているが、いずれも文書の数がひどく少ない。今の島津家は久光の系統なので、誤解を招きそうな文書は発表をさしひかえたからだ。だから、三田村翁のこの研究は文献との対照がないではないが、もともと文献が乏しいのだから、十分とは言えない。主として古老の加治木常樹氏からの聞書によっている。加治木氏は西南戦争の時、西郷軍の小隊長をつとめ、西南戦争に関する「薩南血涙史」の著述もあり、学問あり、文筆ある人ではあるが、この騒動を自ら経験した人ではない。これまた古老から聞いた話を語ったのだ。あやまりのあるのは、いたし方ないことであろう。
ぼくの調査を結論的に言えば、
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一つ、兵道家を同志に引入れ、斉彬とその子女らの安泰を祈った。(これだけが、三田村説と一致)
二つ、信賞必罰
調所の死後、その派の経済官僚共は職を退けられただけで、在職中の不正にたいしては処罰がない。また調所と一つ穴のむじなであった老職らは依然要路にある。断乎たる処分をしてもらわなければならない。
三つ、藩政改革
前条と関連して必要である。
四つ、斉興隠居、斉彬襲封。
五つ、以上を早急に実現するために、筑前侯黒田斉溥に訴え、幕閣に運動してもらう。
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と、相談をきめて、その実行にとりかかったぐらいにしか考えられない。
三田村説にあるようなクーデター計画や暗殺計画は相談されていない。しかし、この決議に至るまでの間に、激情に駆られて過激なことを言った者がないではなかった。近藤隆左衛門がそれだ。この人は狂気じみた激情家であったらしく、斉興が由羅を帯同して指宿《いぶすき》の島津家の別荘に入湯に行っていることを、こう同志に書きおくっている。
「鼻毛長の大愚州、相かはらずうろつきの体《てい》にて、この節は指宿|二月田《にがつでん》へうろつき居られ、風一つ引かせられる体もなく、さてさて困り入り申し候」
大愚州とは大隅守と大馬鹿とを引っかけて、斉興のことを罵っているのだ。しかも早く死ねばよいと言わんばかりの言い方をしている。この時代の武士が、仮りにもまさしき主君を、こんな言い方をするとは、正常な性質ではない。正常な性質でないので、臼砲で焼払おうなどと乱暴なことを口走って、若い吉井七之丞にたしなめられたりしている。
近藤のほかにも、下っぱの党員で、相談の席に列席もさせられない連中が、いいかげんなあて推量で、酒に酔って他に過激なことを放言した者もある。
実を言うと、こういう運動は、この時の斉彬にはもう不要であり、かえってめいわくであったはずだ。前にあげた嘉永二年正月二十九日付で、吉井泰諭に出した斉彬の手紙にあるように、斉興を隠居させて斉彬の襲封に持って行く手筈が幕閣でついていたのだから。斉彬はこの手紙で、決して過激なことをするな、おとなしく待っていよとなだめている。しかし、そう行かなかった。過激な企てこそしなかったが、いろいろ策動はつづけたのである。自分のつけた火であるからとて、たやすく消せるとはかぎらない。消せるどころか、ひろがる火の手にあぐねるのが普通だ。斉彬とその派の武士共の策動との関係はそれであったと言えよう。
さて、敵党でも油断はない。なんとなくキナ臭いものを感じて、スパイを潜入させていたので、すぐわかった。
「信賞必罰、藩政改革、斉興隠居、斉彬の襲封要求」というだけでも、現に藩政の要路にある連中にとっては、捨ておけない不穏な企てである。これを機会に根こそぎ処分してしまおうと決心をかためた。当主の斉興がその派なのだから、やるつもりならやれるのである。
この事件勃発の当時、斉興は在国中で、あたかもこの時は由羅を帯同して、指宿の二月田温泉の藩の別荘に入湯に行っていた。
ここへ、早速指揮を仰ぐべく駆けつける。島津将曹だったろうか、伊集院平だったろうか。ここは鹿児島の南四十四、五キロ、冬を知らない温かい土地だ。事件が勃発したのは、嘉永二年の十二月はじめだ。陽暦では正月中旬だ。菜の花畠の多いところで、この季節にはもう花が咲いている。梅も咲き、桃も咲いている。それらにはさまれた街道を、馬を飛ばして行ったろうか。駕籠を飛ばして行ったろうか。目立たないように舟で行ったろうか。小説ならいずれかにきめなければならないが、この作品は小説ではない。自由に想像してもらおう。
斉興は激怒した。
「けしからん奴ぱらじゃ。早速に厳重に取調べて、重き罪に仰せつけい。容赦するな!」
普通の人なら急ぎ帰城するところだが、剛腹な斉興はこれしきのことにばたつくことはないと、さしずしただけで、とどまっている。
使いは城下にかえり、報告する。その結果、近藤、山田、高崎の三首領と、村田平内左衛門、土持岱助《つちもちたいすけ》、国分猪十郎の六人が切腹を命ぜられた。
三首領は徒党の中心人物だからであり、あとの三人は身分低く、相談の席にも出ていないのだが、過激なことを世間で口走っているので、犯謀歴然というわけでだ。
この日十二月三日、鹿児島城下はめずらしく雪が降っていたという。
近藤の辞世。
白雪と消え行く身にも思ふぞよ
曇らぬ空の月は晴れよと
高崎の辞世。
思ふことまだ及ばぬに消《け》ぬるとも
心ばかりは今朝の白雪
この翌早朝、鹿児島諏訪神社の祠官《しかん》井上出雲守が鹿児島を出奔して、筑前に向かった。黒田斉溥または阿部老中に委細を訴える決心を立てていたのであった。
十四日に中村嘉右衛門と高木市助が謹慎を命ぜられ、十七日には赤山靱負、野村喜八郎、吉井七之丞が謹慎、十九日には肱岡《ひじおか》五郎太、山之内作次郎、松元一左衛門が座敷牢、二十九日、村田伝之丞謹慎。
これで一応焼けどまりと見えたが、年が明けて正月二十三日、藩庁を大狼狽におとし入れる事件がおこった。仙波小太郎の下僕の宇八という者が逐電《ちくてん》したという事件だ。
仙波は江戸|定府《じようふ》の士《さむらい》であったが、一二年前から国詰めとなって鹿児島に来ていたのだ。譜代の藩士ではなく、小太郎の代に召抱えられた者であった。こんな家だったから、下僕の宇八も他国者だったのだ。宇八については、吉井七之丞が兄への手紙に書いている(斉彬文書上巻一九三頁)。
「以前から今度の事件をいろいろと聞き合わせていたという噂です。逃げ去った後、仙波家では何一つなくなった品物はなく、当人の物も大きな品物はそのままに置きすてにしてあって、盗みを働いたのでないことは明らかです。かねてからお国に潜入していた公儀の隠密であることは疑いありません」
藩庁もまた公儀の隠密と見て、足軽をいく隊もくり出して探索追跡させたことは言うまでもない。
たしかに宇八は隠密であったろうと、ぼくは思う。ぼくはさらに思い切った想像もしている。これは阿部老中と斉彬とが談合の上で、仙波に申し含めて、その下僕として連れて下国させたのではなかったかと見ている。
宇八がつかまらなかったので、藩庁は益々狼狽し、公辺への諒解運動のため、島津石見を江戸に向けて出発させた。この運動のためにはすでに吉利仲を行かせているが、事重大と見て、さらに一門である石見を派遣したのだ。いかにあわてたか、わかるのである。
三月四日になると、さらに処分を拡大して、前に謹慎を命じておいた赤山靱負、中村嘉右衛門、野村喜八郎、吉井七之丞の四人に切腹を命じた。このうち赤山靱負の家は西郷隆盛の父吉兵衛と親しく、その介錯を吉兵衛がし、靱負の遺言で、かたみの肌着を隆盛に贈ったので、隆盛はそれを抱いて終夜|慟哭《どうこく》したと伝える。
この日はまた正月十日に病死した二階堂主計を追罰して士籍を削り、墓碑をとり去らせ、名越左源太、八田知紀を免職にした。
この日から四月末までずっと一党の処分がつづいているが、厳酷をきわめている。高木市助、仙波小太郎は切腹、村野伝之丞、山之内作次郎、肱岡五郎太、松元一左衛門、名越左源太、吉井泰諭、山口定救、新納弥太右衛門、近藤七郎右衛門、和田仁十郎、大久保次右衛門(利通の父)はいずれも遠島、島津清太夫は島津の称号と「久」の字取上げ、家格を小番におとし島住居、江戸家老島津壱岐は国許に帰して切腹、島津の称号と「久」字取上げ。壱岐は江戸から帰着してわが家の玄関に駕籠がついた時、駕籠の中で切腹したという。八田知紀、関勇助、有馬一郎は謹慎。関と有馬は近思録くずれの生きのこりで、西郷、大久保らが当時最も尊敬していた人物だ。名越右膳、これは左源太の父だが、免職。
最も酷烈をきわめたのは、三首領にたいする追罰だ。山田の妻歌子を種子ケ島に流し、近藤の子欽吉を遠島にした。高崎の子左太郎はまだ幼少であったので、十五になるのを待って遠島ということにした。この左太郎が後に維新志士となって活躍し、明治以後はお歌所長官などした男爵正風となる。山田の妻歌子はついに島から帰る期がなく、島で死んだ。島での述懐にこうある。
夢にだにまだ知らざりし荒磯の
浪を枕のもとに聞くかな
あわれというもおろかだ。
さらに酸鼻にたえないのは、三月二十七日、三人の墓をあばいて、死屍を鹿児島と谷山郷との中間の境瀬戸の刑場に運んで、はりつけにしたことだ。「屍は土中にあって五ケ月を経過して居りますから、十字架上の長槍も、竹鋸の逆歯も、もう血ぬらすべくもありません。ただ糜爛《びらん》した三個の腐団に過ぎぬのです。これをしも忍ぶべくば、人天何の能《あた》はざるものがありませう」と、三田村翁が慷慨しているが、まさしくそうである。
こうした処罰の進行中また一人が脱走した。さらに一応の焼けどまりを見せた頃、二人が脱走した。
前者は、木村仲之丞だ。外出禁止を命ぜられ、さらに座敷牢を命ぜられていたが、三月十九日、格子を破って脱走した。脱走を助けたのは、母のカヤと兄樺山喜兵衛であった。先きに脱走した井上出雲守は仲之丞と最も親交があって、その脱走の時、仲之丞に決心を語ったので、仲之丞は井上のことを案じつづけ、
「どうやら追手に捕まらんじゃったようじゃが、うまく斉溥公や阿部老中に連絡をとることが出来たろうか」
と、言いくらしているので、母と兄はあわれんで、鋸をあたえて、破って出奔せよとすすめた。
「それではお二人にお咎めがおよびもそ」
と、なかなか承知しなかったが、喜兵衛は無理にすすめて破牢させたと伝えられている。
しかし、ぼくはこう考えている。厳しい刑罰が次ぎつぎに行われ、同じ者でも次ぎ次ぎに罰が重くなるのを見て、母は不安にたえず、
「このままでは仲之丞どんもどげなことになるかわかりもさん。何とかする工夫はごわすまいか」
と、喜兵衛に泣き口説いてやまない。喜兵衛も思い切って決心をつけたのではないかと思うのだ。伝説の通りでは型通りの忠誠美談で、人情に遠い。カヤは無学な田舎女性だ。盲目的ともいうべき母性愛の発露と考えた方が真をうがっているに近い。
仲之丞は無事国外に去ることが出来たが、喜兵衛は監視怠慢の責任を取るという遺書をのこして自殺している。カヤは投獄され、ついで遠島に処せられた。
二人の脱走者は、加治木郷士岩崎千吉と竹内伴右衛門である。二人は一党が斉彬に捧げる護符《おまもり》をたずさえ、前年の八月末、江戸に上ったのだが、ついでに当時江戸詰めになっている敵党の兵道家牧仲太郎を斬る計画を立てた。上野山内に誘い出して斬ることにし、ある夕方、竹内が牧を誘う役になって藩邸に行った。
「ようごわす。参りもそ」
牧は承諾して、竹内と共に藩邸を出て、上野に向かった。
岩崎は大門前の茶店にいて、二人が門内に入るのを見て、別な道から先きまわりして、打ち合わせておいた稲荷堂近くの木立に身をひそめ、刀の目釘をしめして待っていたが、いつまで経っても二人が来ない。失望して深夜に宿屋に帰ると、竹内はもう帰っていた。腹を立てて、
「どうしやったのじゃ。おいは今まで待っとったのに!」
と、なじると、
「おはんこそどうしたのじゃ。一向出ておじゃらんじゃったじゃないか。臆されたのか!」
と、竹内はなじり返す。
たがいに言い合ったが、よくよく話し合ってみると、竹内はたしかに牧とともに稲荷堂の前を通り過ぎたのだが、それが岩崎の目には見えなかったのであることがわかり、二人とも茫然となったという。これは葛城彦一(竹内の後の名)伝に出ている話で、竹内の子孫の伝えるところであるという。
岩崎の子孫の伝承は少し違う。
牧は竹内と稲荷堂の近くまで行くと、とつぜん足をとめ、
「わしは晩夜、家の背戸で血を吐いた夢を見た。不吉な夢じゃ。よかかげんにしてもどりもそ」
といい、何といっても聞かず、足をめぐらしたので、竹内も致し方なく帰ることにしたというのだ。
ともかくも、二人は、
「牧は奇験のあるちゅう兵道家じゃから、こげん不思議もあるのじゃろう」
と語り合ったという。
二人はその後も牧を斬る計画を捨てなかったが、何としても牧が藩邸を出ようとしないので、どうすることも出来なかった。
そのうち、国もとで同志の大検挙がはじまったと聞えて来たので、帰国の途についた。加治木に帰りつくと、それぞれの宅に潜伏して人目につかないようにして、世間の様子をうかがっていたが、処分が酷烈をきわめ、身辺が危険になったので、ついに六月一日、同道して脱出した。
井上出雲守以下、これで四人の脱走者が筑前に来て、黒田斉溥の庇護をもとめたわけだが、斉溥は全部羽がいの下に抱いて、薩藩から厳重な引渡し交渉するのをはねつけた。くわしく事情を聴取したことは言うまでもない。
この四人は筑前ではそれぞれ変名した。井上は工藤左門と名のり、維新時代になると近衛家につかえて藤井良節と名のった。木村は北条右門と名のり、明治になって村山松根と名のった。岩崎は洋中藻平《わたなかもへい》、後相良藤次、竹内は竹内|五百都《いおつ》、後葛城彦一と名のった。皆維新時代にはそれぞれに活躍しているが、月照和尚の薩摩入りには大いに働いている。平野国臣を月照につけて薩摩に入らせたのは、この四人である。
これほどの大騒動があったにかかわらず、斉興は隠居などする気は全然おこさなかった。彼はその年嘉永三年の十二月出府して来た。隠居どころか、従三位に昇進したいと、その頃運動をしていたので、斉興は江戸につくとすぐ、かねて懇意でもあり、現在位階昇進の運動を頼んでいる西の丸留守居の筒井肥前守政憲のところへ、吉利仲をつかわして、様子をたずねさせると、
「島津家にはその先例がないとの老中方の仰せでござって、困《こ》うじ入っています」
という返事だ。
先例のないことはない。江戸初期に島津家久は従三位中納言になっており、重豪も従三位になっている。しかし、老中衆がそう言われたのであれば、それを持ち出して抗弁しても、きげんを損じて出来るものも出来なくするおそれがある。一応はかしこまるよりほかなく、そのまま帰った。
「不思議な返答を聞くものだ」
斉興は吉利の復命を聞いて、いぶかしく思った。
実は、江戸では黒田斉溥からの連絡によって、南部信順、奥平昌高などという島津家の近い親類と、斉彬の親友である伊達宗城とが、阿部老中と相談を凝らして、いよいよ斉興を隠居させ、斉彬を襲封させようと、材料をそろえ、手ぐすね引いて待っていたのだ。だから、筒井が吉利にあんなことを言ったのも、阿部の命を受けて、一発ガンと食らわしておくことが、この際効果的だというところから、わざと言ったのであった。
間もなく嘉永四年になる。斉興は新年の祝辞言上のために登城して、将軍に謁した。こんな場合は下賜品のあるのが例になっており、その下賜品の品目は家によってきまっていて、それがその家の格式になっている。ところが、その時斉興に下賜されたのは、いつものものではなく、茶入であった。
これは大名を隠居させたい時に、幕府のとる常例の手段だ。これは大名の常識だから、斉興もわからないはずはない。どきりとしたに違いない。が、ここが斉興の剛腹なところだ。知らん顔で通してしまった。
「おやおや、何という強情なおやじじゃろう」
と、幕府ではおどろいたが、次に斉興が登城した時、これは特別であると口上をそえて、朱《あけ》の衣――十徳だったというが、下賜した。十徳は世外のものの着るものである上に、朱色とあっては隠居以外のものには用いようのないものだ。最も露骨な諷諭であったわけだが、斉興の剛腹は底が知れない。これも頬っかむりで通した。
「これほど頑強に抵抗したのは、江戸三百年間にこの人ただ一人あるのみです」
と、三田村翁があきれているが、おどろくべき強情さである。
斉興のこの強情はもちろん普通ではないが、ぼくはこう考えることが出来るのではないかと思う。斉興は幕府は薩摩の金に目をつけている、斉彬を当主にしては、あの天下の政治好きの性質をうまく阿部に利用されて、金を使われてしまう、おれの目の黒い間は、そんなことはさせんぞと考えていたのではないか。
それはさておき、こうなると、幕府の面目問題でもある。筒井政憲は阿部の命をふくんで、島津将曹と吉利仲とを自宅に呼んで、人を遠ざけて二人に言った。
「両所を呼び出したは別儀ではない。かねて内願のある位階昇進のことについてでござる。拙者もかねて懇親のある大隅守殿の切願ゆえ、運動をおこたってはいないつもりでござるが、この前も吉利に申した通り、阿部様のごあいさつぶりがまことに思わしくない。昨日も登城してお伺い申したところ、昨年来、公辺において薩摩の風評がまことによくなく、きびしい沙汰に及ぼうとの議になっている。しかしながら、この際大隅守が直ちに隠居を願い出るなら、穏便にしておこうが、もし遅延するにおいては、公けの沙汰になる故、大隅守のこれまでの勤労もせんないことになるであろう≠ニ仰せられた。拙者もほとほと当惑しました。せっかくこれまで尽力してまいったことではござるが、この仕儀となっては、万策つき申した。今は位階昇進どころか、大隅守殿が早く隠居なさる以外にお家安泰の途はござらん。一刻の遅延があってもよろしくない。両所もよくよく分別をめぐらされ、帰邸の上、大隅守殿に決心をうながされることが肝要でござろう」
これはもう説諭というより威迫だ。一応の予想はして来た両人ではあるが、こうまで強くはっきりと言われようとは思っていなかったろう。当惑しながらも、
「仰せの趣き委細うけたまわりました。帰邸の上、ご沙汰の次第をとくと主人に申し聞けるでございましょう」
と答えると、筒井は、
「かようなことは拙者も申すのはつらい。まして両所はご主人に向かって申されねばならんのです。当惑さこそと察し申す。ついては、唯今拙者の申したことを、ここに自筆で書付にしておきました。これをもって、大隅守殿に申されるがようござる。さすれば言いやすいでござろう」
と言って、書付を渡した。もちろん、おためごかしだ。親切心からではない。逃げ道のないようにしたのだ。それがわかっていても、二人は礼を言って受取るよりほかはなかった。
筒井はまた言う。
「隠居願いは、ご親類方と談合して、一日も早く差し出されよ。その以前に公辺からご沙汰が出てしまっては、取返しのつかぬことになりましょう。両所が唯今こうして引受けなされたことは、明日拙者登城次第に伊勢守様に申し上げ、また親類方へもお急ぎになるように話しておきましょう」
こうも言った。
「たとえ大隅守殿が何と申されても、今となっては他に方法はないのでござる。両所において引受けて大隅守殿を説きつけ、隠居願いを出されるよう、しかとお引受けあれよ」
最後のダメ押しだ。
今は二人も、
「早々に仰せ下された通りにいたします」
と答えざるを得なかった。
がんじがらめだ。あらゆる逃げ口をふさいでおいて、追いこむように隠居願提出に持って行った。
斉興の隠居願いが提出されると、幕府は即座に聴許し、斉興隠居、斉彬襲封となった。時に斉興六十、斉彬四十二であった。
斉彬が襲封したので、藩中はこぞって信賞必罰を望んだが、斉彬はついにそれをやらなかった。それを諫める臣下がいると、斉彬は父の非を天下に示すことは子として慎まなければならないと言っている。しかし、あれほど姦悪であるとにくんでいた権臣らにほとんど処罰を加えないというのは、尋常ではない。気がとがめるところがあったのではないかと、ぼくには思われる。父を隠居させて自分が薩摩の当主となることは、藩のためでもあり、日本のためでもあるという大自信はあるにしても、それでも策略をもってしたという心のひけ目は消えようはずはないのである。
西郷隆盛が斉彬にその存在を知られ、寵用された動機は、斉彬の襲封をさまたげるために働いた連中を処分し、斉彬のために働いた連中を重く用いよと建白したところにあった。斉彬は上述したと同じことを言って、西郷に返答している。
斉彬が家督して三年目の安政元年七月に、斉彬の子虎寿丸がわずかに二十六時間の病気で急死したことから、西郷を中心とする青年らの間に呪咀説が再燃し、江戸と国許と呼応して起って、由羅をはじめとしてその派の人々をたおす計画を立てた。斉彬はこれを知り、西郷をきびしく叱責して、やめさせている。のみならず、これから間もなく、哲丸が生まれたにもかかわらず、斉彬は父の斉興に、
「自分のあとは久光の子又次郎(後の忠義)に嗣がせる」
といって、きげんを取りむすんでいる。
斉彬の心事は、彼は自分の栄華のために当主となることをあせったのではなく、日本のために抱懐する経綸を行うためであったのだから、強《し》いて自分の子にあとを譲る気はなく、従って、こう言って藩内のいがみ合いを封じたのであると、こう解釈すべきであろう。しかし、権謀術数を弄して、父や重臣らの反対をおしきって、無理に襲封したために、自分のあとつぎの点で譲歩したのだと解釈されないこともない。
さて、斉彬は襲封後、阿部と心を合せ、斉彬の養女を将軍家定の夫人として入輿させ、将軍の岳父となることによって、幕府への発言権を得、やがて幕制を改革し、大いに為すあろうとしたのだが、斉彬が養女を入輿させた半年後には阿部が病死し、さらにその翌年には斉彬自身が病死したので、一切の画策すべて空しいものになった。なんのためのもがきであったろう。人間の営みは、時として実に空しいのである。
今日の島津家は斉彬の血統は一人ものこらず、全部久光の系統である。
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伊達騒動
伊達政宗という人は子福者で、男の子十人、女の子四人あった。伊達騒動の悪玉の中心人物とされている伊達兵部宗勝は、その十番目の男の子である。彼の下には女の子が一人いるだけであるから、男女を通じても十三番目、政宗五十五歳の時の生まれである。年老いてからの子であり、慧敏な性質でもあったので、大へん気に入られ、政宗の晩年の愛を鍾《あつ》めて育った。
十二の年、父に連れられてはじめて江戸城に登り、将軍家光にお目見えした。十六の時、父が死んだが、次ぎに立った忠宗は、父の遺愛の子であるのでよく遇し、二十四になった時、所領一万石をわけあたえ、とくに将軍に乞うて、公儀直参の大名にしてやった。正保元年のことであった。翌年、従五位下兵部少輔(後兵部大輔)に叙任された。
忠宗は、よほどにこの弟を愛したようである。忠宗は自分の長女|鍋《なべ》姫を筑後柳川の城主立花左近将監忠茂(宗茂の子)に縁づけているのだが、その忠茂の妹を宗勝の嫁にもらってやっているからである。
忠宗は万治元年、年七十の時、国許で病気になり、次第に重態となった。
彼もまた子供に恵まれ、男子九人、女子一人あった。もっとも、長男と次男は早世し、三男の宗良は祖母(政宗夫人)の生家を再興して田村氏を名のり、四男は早世し、五男|宗倫《むねとも》は家臣白石伊達氏の養子となり、七男宗規は岩城《いわき》伊達氏を、八男宗房は田手伊達氏を、九男宗章は飯坂伊達氏を、ついだり、つぐことになっていたりで、純粋に家にのこっているのは六男の綱宗一人であった。忠宗はこれにあとをつがせるつもりで、名乗りも時の将軍家綱から一字をもらって綱宗としたのであった。だから、忠宗に万一のことがあれば、当然綱宗がつぐべきであったのだが、簡単にそう行かない事情がこの頃生じていた。
というのは、第一は、綱宗が豪気闊達な人がらであったことだ。これはいつもの時なら人君として美徳の一つであるが、徳川家の威勢をかしこんで、一毫もその統制からはずれじと戦々兢々としていなければならない時代の外様大名にとっては、相当危険な素質である。
第二に、大酒であった。記録にのこるところは、単に酒を嗜んだとあるだけだが、つまりは酒癖《しゆへき》があって、酒をこうむっては大言壮語し、重臣やなんぞを罵倒することがよくあったのではないかと思う。
第三に、以上の二つがある以上、一門や重臣らに好かれる道理はない。綱宗はきらわれていたのではないかと思う。
忠宗は綱宗のこの性質をずいぶん心配して、直接訓戒したこともあり、弟の宗勝や女婿の立花忠茂に頼んで意見してもらったこともあったという。
こんなわけで、忠宗は他家を嗣ぐことになっている他の子供から新しくえらび直そうか、やはり綱宗に嗣がせようかと、心を迷わせていたのであろう、よほどに重態になるまで、あとつぎを決定しなかった。しかし、いよいよ危篤がせまって来たので、家老(伊達家では本当は家老といわず、奉行というのだが、この文章ではわかり易いよう家老で通す)の一人|茂庭《もにわ》周防定元が忠宗の枕許に近寄り、
「ご家督にはやはり綱宗様をお立てになるのでございましょうな。それならば、ご遺言を遊ばしますように」
と言ったところ、忠宗は、
「その通りにはからうよう」
と言った。
そこで、大急ぎで片倉小十郎景長が江戸に急行し、幕府へ手続きして、綱宗相続のことが決定した。
以上は、綱宗襲封に至るまでのことを、ぼくの解釈を加えて略述したのであるが、なおいささか説明を加えたい。
忠宗が綱宗を家督に立てることをためらったのは、綱宗自身の性格にたいする不安より、老臣らが綱宗をきらっている点を不安に思ったのではないかと思う。後のことを考え合わせると、綱宗は一門衆や老臣らに畏怖されていたとしか思われないところがあるからである。「心をつくして輔佐してくれんかも知れん」という不安が、忠宗にはあったのではなかろうか。
ともあれ、このようにして、綱宗は父の死とともに、家督を相続し、伊達家六十余万石の太守となった。時に万治元年九月、綱宗の年十九。
綱宗が弱年であったので、自然、叔父たる兵部宗勝が後見的地位に立つことになった。後見的地位と、ややこしい言い方をしたのは、正式の後見人ではなく、一応相談をしなければならない人という意味からである。宗勝の当時の年は三十八。
家老は茂庭周防定元、奥山大学常|辰《とき》、古内肥後重安の三人であったが、家督後すぐこれまで若殿づきの家老であった大条《おおえだ》兵庫宗頼を加えて四人とした。このうち、大条は新参、古内も去年四月の任命であるから、これまた新参といってよく、勢力のあったのは、のこる二人であったが、これが和熟しているとはいえなかった。茂庭が名家であり、一万千二百石という高禄であり、綱宗の家督たるを決定したこと等によって勢いを張れば、奥山は年長であることと辛辣な政治的手腕とをもって対抗して、威を競い合っていた。
国老が四人になって間もなく、兵部宗勝は綱宗に自分の所領を加増してもらいたいと要求した。綱宗はこれを茂庭と奥山に相談した。
「諸式騰貴のおりからでございます。ご加増あってしかるべしと存じます」
と、二人は賛成した。
綱宗は重ねて諮問した。
「しからば、いかほど加増したらよかろうか。見込のほどを申すよう」
これにたいして、奥山は七千石と答え、茂庭は数字ははっきりしないが、はるかに少なく答えた。綱宗は奥山の意見をいれて、七千石の領地から上る租米の代銀を兵部に給することにした。
この時から、兵部が茂庭に遺恨をふくみ、奥山を徳とするようになり、それが後に兵部が伊達家の正式の後見になった時、茂庭が国老の座を追われ、奥山一人が威権をふるうようになる、そもそもの原因であると、「治家記録」は記述している。
家督した翌年(万治二年)五月、綱宗は初入部して、その年を国許で送り、春を迎えていると、二月一日、幕府は小石川の濠《ほり》ざらえと土手修復とを、伊達家に命じた。
この頃は大名の代がわりには、よくこんな手伝普請を命じた。大名の襲封は、代がわり毎に将軍から朱印状をくれたので、形式としては新しく領地をもらうことになる、それで、そのお礼をさせるという意味だったのであろう。
さて、命ぜられた普請は、今の外濠、当時の神田川を、筋違《すじかい》橋(今の万世橋)から今のお茶の水、水道橋、小石川橋をへて、牛込門の土橋まで六百六十間(一二〇〇メートル)の間に、これまで形ばかりの濠のあったのを浚《さら》い、ひろげ、深さ二間半、はば三十間のものとし、船の往来の出来るようにした上、掘り上げた土で土手を築くという作業であった。大工事だ。綱宗は参覲の期をくり上げて国許を出発、三月二十八日に江戸につき、浜屋敷(今の新橋駅が当時の屋敷の中心あたりになるという)に入った。
普請は五月末日に鍬はじめがあり、綱宗は毎日普請小屋に出て、工事現場を見まわった。
普請小屋は今の水道橋の北にあった。ここは一昨昨年の正月まで吉祥寺という寺のあったところなので、当時は水道橋のことを元吉祥寺橋と呼んでいた。吉祥寺は一昨昨年正月の、いわゆる明暦の大火で焼けて、駒込に移転したのである。
この毎日の工事見まわりの間に、綱宗はさかんに吉原通いをした。吉原通いがいつ頃からはじまったかは明らかでないが、茂庭家記録によると、六月以前に茂庭周防定元が度々綱宗を諫め、ある時などは夜途中に待ちかまえていて連れもどして諫言したこともあるとあるから、こんど江戸へ出て来てからはじまったものであろう。
近習の者共が悪かったということになっているが、こうした地位にある人のあやまちは皆お側の者の責任にするのが例であるから、実際はどうだかわかりはしない。
その近習の者の名は坂本八郎左衛門、渡辺九郎左衛門、畑与五右衛門、宮本又市の四人だ。坂本は浪人から召しかかえられ、この頃目付になっていて、六百石の知行取りであったというから、一応の才物だったのであろう。渡辺は匹田《ひつた》流の槍術と剣術の名手で、その頃江戸で名高い男であったので、新しく二十両二十人扶持で召抱えたのだという。後に出て来る伊達家名代の勇士伊東七十郎がこの男と仕合してかなわなかった(伊東伝記)というのだから、よほどの強さである。あとの二人は譜代である。
この四人を連れて、吉原通いをはじめ、普請場通いをするようになってからはずいぶんひんぱんになったらしいが、それでは何町何屋の誰に通ったのかといえば、一番普通に行われているのは、三浦屋の高尾という説であり、これについでは湯女《ゆな》の勝山であったという説、さらについでは吉原京町二丁目の山本屋の「かほる」という説がある。
これについては、大槻文彦博士がその著「伊達騒動実録」の付録、弁妄の三で、くわしく考証している。その大要はこうだ。
「高尾は万治三年にはいない。二代目高尾は前年十二月に死に、三代目高尾はこの四五年後から出ている。勝山説も時代が合わない。勝山は風呂屋女から吉原の遊女になった女であるが、湯女が廃止になったのは慶安年中であり、それから吉原の遊女になったのだから、万治三年にはすでに三十くらいになっていたはずである。後世の規則だが、吉原では二十五になれば遊女をやめた。この時代だって遊女が三十までも勤めたろうとは思われない。最後にのこるところの山本屋の薫説が最も難がない」
この説は吉原の開祖庄司甚左衛門五世の孫又左衛門勝富の著「洞房語園」下にあるのである。
工事がはじまって十二日目、すなわち六月十二日のことだ。綱宗の姉の夫である立花忠茂が、大条《おおえだ》兵庫、片倉小十郎、茂庭周防の三人にあてて、綱宗の吉原通いについて、こんな手紙をつかわした。
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昨日、酒井|雅楽頭《うたのかみ》殿から、兵部(宗勝)殿と共に参るように仰せ越《こ》されたので、参上したところ、この頃陸奥守殿(綱宗)へ意見をしたと、くわしくお話しであった。ご大老たる雅楽頭殿がそれほどにして下さるのは、まことにありがたい思召しであると思った。
しかしながら、そのありがたいご意見のしるしもなく、陸奥守殿の行状は少しも改まらないとうけたまわり、案外に思った。とりわけ、ご普請場へ出られての行状についての世間の評判が一方でないことは自分もよく知っている。自分の意見などは、陸奥守殿は一向お聞き入れでないから、重ねて申したくはないが、これまでもしばしば申した通り、故忠宗公とご約束申したことが忘れがたい上に、他人のように無情に傍観することも本意ではないので、おして言うのである。
雅楽頭殿のご意見を無視されることは、公儀にたいしてそむくと同然と思う。そんな心掛ではもはや絶望である。お家滅亡は必至だ。残念である。参上して申し上げたいが、毎日普請場へお出かけの由、さすればお小屋には人が多数いるであろうと思われるので、書面をもって、各各へまで申し進める。陸奥守殿のお目にかけてもらいたい。
昨日は兵部殿と同座して、雅楽頭殿から伺ったのだ。兵部殿にもよく伺ってもらいたい。
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この手紙は、色々なことをわれわれに教える。
その一
綱宗の吉原通いが人目に立つほどはでであったらしいこと。
単にひんぱんなだけでは、毎日通ったところで、十二回だ、こんど江戸へ出て来てすぐからとしても、二カ月しかない。多くて三日に一ぺん、四日に一ぺんだろうから、目立つはずがない。服装その他が、人目をそば立たせるものがあったとしか思われないのである。
この頃の江戸の風俗はまことに武張って、荒々しかった。今日江戸趣味だと考えられている、粋《いき》とか、渋いとか、いうのはずっとずっと後世の感覚だ。この時代は芝居でも市川流の荒事が最も人々の好みに投じたといわれている。その頃の江戸人の好尚を知ることが出来よう。綱宗はきっと、ずいぶんはでで、豪奢で、しかも荒っぽい感じのいで立ちで、吉原通いしたのではなかったかと思う。つまり、歌舞伎芝居の朝日奈や曾我五郎や金時や鎌倉権五郎景政などの持つ感じだ。形がそうだというのではない。感じである。
もちろん、金使いなどもあらかったろう。「洞房語園」下に、綱宗が中の町で冷水売《ひやみずうり》に水を飲ませてもらって、代として袂から銀十匁を出してあたえたところ、町中のさわぎとなり、大評判となったことを記している。三田村鳶魚翁は、こんなことをしたから、綱宗の廓通いが目立ち、従って幕府の咎めを受けるようにもなったのだと、「吉原についての話」の中でいっている。金使いのあらさだけを目立つ原因と見ることは出来ないが、目立つ原因の一つではあったろう。
その二
たとえ目立ったにしても、酒井老中はなぜ気にして意見をしたり、綱宗の後見的立場にある兵部宗勝や立花忠茂を呼びつけて、
「こまったものじゃ、せっかくわしが意見したのに、少しも改悛の様子が見えないばかりか、一層ひどくなっている」
と不服を言ったか、考えようでは不思議である。
というのは――
当時の吉原通いは、明治中期以後の女郎買いとは、社会的通念が違う。明治中期以後は女郎買いは度数に関係なく悪行であるが、昔は過度にわたれば悪行だが、そうでないかぎりは悪いとはされなかった。江戸初期にはむしろ一種の世間学とまで考えられている点があった。
この時代の遊女の高級な部類は、売春婦であるには相違ないが、その教養はずいぶん高いものであった。婦人の教養が一般に低かったのに、高級な遊女は、茶の湯、生花、和歌、俳諧、音曲、なかには漢詩を作ったり、周易《しゆうえき》に通じたりしていた者もあったという。そんなさまざまなものを嗜んでいたというのだから、最高教養婦人といってよい。これに通うのが世間学と思われたはずである。
江戸中の遊女屋を元吉原にまとめたのは、元和二年三月からで、その以前には江戸城の周へんの三カ所に十軒から二十軒ばかりずつかたまって散在していたが、その頃には老中衆が寄合って評定する席に遊女らが輪番で上って茶の給仕をすることになっていたというのである。社会の倫理観念も今日とはちがう。決して卑しいものとは思われていなかったのだ。
また、この時代の高級遊女は大へん高価なものであった。大名、少なくともよほど大身の武家でなければ、買えなかった。町人もしだいに経済力が大きくなり、大町人らはさかんに遊里に出入りするようになるが、それは元禄年度からで、この時代にはまだはじまっていない。少なくとも、町人の買うのは端下《はした》女郎で、高級遊女は武家、しかも大名しか買えないものであった。三田村鳶魚翁の「吉原についての話」によると、寛永の頃までは旗本らも大いに吉原で羽をのばしたが、この時代になると、貧乏になって高級遊女は手のとどかないものになったとある。つまり、この時代の吉原の高級遊女は大名によって商売が成立っていたのである。相当多数の大名が遊びに行っていたはずである。水戸光圀のような人も、若い頃はさかんに吉原通いしている。
こんな時代に、酒井老中はなぜ綱宗の吉原通いを悪行として、わざわざ意見しなければならなかったか、不思議である。
従来、伊達騒動について語るものは、兵部は長男|市正《いちのかみ》宗興の妻として、酒井老中の娘をもらっているので、老中は兵部の姦謀に同意し、宗興を伊達本家の相続者たらしめるために、綱宗を失脚させようとしたと説くのが多い。
しかしながら、宗興はこの時わずかに十二歳で、「治家記録」によると、彼と老中の娘との婚約が出来たのは、この時から四年後の寛文四年七月のことだ。この時はまだ赤の他人である。
ついでに書いておく。この娘は酒井老中の実の娘ではなく、妻|姉小路《あねがこうじ》氏の妹で、老中の養女となっていたのだという。また、宗興はこの頃はまだ市正に任官していず、通称の八十郎をもって呼ばれていたのである。
以上のような次第であるから、酒井老中が綱宗の吉原通いに目くじらを立てたのは、私心あってのことではあるまい。
ぼくはこう考えている。
一つには老中の性格だ。酒井忠清という人は、賄賂とりの親玉のように言われて、歴史上大へん評判の悪い人であるが、この評判の悪さは、次の将軍となった綱吉が憎悪して大いに宣伝したことによる点が大いにある。綱吉という人は愛憎ともに激烈で、常に極端に行く人であったことは、歴史に明らかな徴証がある。その人物評価が必ずしも正しかろうとは思われないのである。案外、ばか正直なくらい重厚な人がらだったのではないかと思われる点がある。少なくとも、婦人関係では大へんものがたい人であった。
寛政重修諸家譜によると、彼には十五人の子女があるが、上の三人が先妻松平氏の出《しゆつ》、下の十一人が後妻姉小路氏の出、中の一人が某氏出となっている。中間の一人だけが某氏出となっているところが意味深長である。すなわち、先妻が亡くなって、後妻を迎えるまでの中間に、ちょっと手をつけて生ませたのであって、正配がありさえすれば決してあだし女に触れはしないという、まことに律義な人であったことを示していると、ぼくには思われるのである。こういう人であるから、当時の常識では大したことではない吉原通いのことが、強くひびきもしたろうし、ずいぶん悪行に感ぜられもしたはずである。
しかし、これとても、老中に告げる者がなければ、知ろうはずのないことである。幕閣から放っているスパイがあって、こうした市中の出来ごとの目ぼしいものは大てい報告したであろうが、他にも大名で吉原に通っている者があるはずなのに、綱宗だけが特に老中に知られたのだから、他に原因をもとめなければならない。
ぼくはある目的をもって、誇大に酒井老中に告げたものがあったと思う。そのものは、女性関係については特に律義な老中の性格を計算に入れ、きっと相当強い嫌悪感を持つようになるにちがいないと推算《すいさん》した上で、そうしたに違いなかろう。
それは誰であるか?
最も考えられ易いのは、兵部宗勝であるが、案外家老連や一門の人々の中にも、それに同意の者がいたかも知れない。そう思って、さがしてみると、あんのじょう、見つかった。
この年の六月二十七日付で、兵部が政宗の四男宗泰の子で玉造郡岩出山の領主である伊達弾正宗敏にあてた手紙があるが、その中に、「綱宗を隠居させることを、この春中に貴殿が申されたが云々」という文句が見えるのである。綱宗が豪傑の気ある人物で、家老や一門共の手に負えないならば、出来るだけ早く隠居させたいと考えるのは当然のことである。
ともあれ、内実はどうあろうとも、老中からこう言われたばかりでなく、幕閣内で伊達家の処置について色々と談合されているという情報も入ったので、兵部と立花忠茂とは、酒井老中の内意もうかがった上で、江戸詰の家老の茂庭周防らとも談合、
「公儀よりお咎めのない前に、こちらからお屋形のご隠居を願い出た方がよかろう」
と意見をまとめて、国許へ使いを出した。
使いをうけたまわった小姓|頭《がしら》里見十左衛門は、仙台につくと、一門衆と国詰の家老らに集まってもらって、事情を説明し、兵部らの意見を述べ、
「以上のように、江戸表では考えているのでありますが、果してお公儀においてお聞きとどけ下さるかどうか、あるいはご領地半減、または三分の二減ということになるかもはかられませんが、それでもご名跡《みようせき》が立つならば、皆様はご服従なさるや、いなや、おうかがいしてまいれとの仰せを受けて、まいってござる」
と、質《たず》ねた。
最も重大なことであるので、急には返答する者はない。座中水を打ったように静まりかえっていた。家老の奥山大学が、
「お家の運命に関する大事なことでござる。思われるところを存分にお答えあってしかるべし」
と、うながしたが、それでも答える者はない。
奥山はひざを進めた。
「しからば、拙者皮切りとして、存じよりを申しましょう。兵部様と飛騨守(忠茂)様とが、太守様のご隠居を願おうと申されるのも、お家を無事に存続させんとしてでありましょう。お屋形は公儀にたいしてご不忠なおふるまいがあったわけではなく、ただ不行跡《ふぎようせき》であられるというだけのことでござる。政宗公のお公儀にたいするご忠節は、お公儀においてはよもお忘れではござるまい。削封《さくほう》などのことがあろう道理はないと存ずる。しかしながら、ひょっとして、さようなことになるのであれば、ご隠居願いなど以てのほかのこと、存亡を天にまかせて、われら一同覚悟あるべきでござる」
強い調子だ。人々はこの意見に同意し、これを国許の意見として、里見に告げた。
里見が江戸へ帰った後、江戸の茂庭《もにわ》周防から書面があった。太守様のご隠居願いが聴許されたら、誰をご家督に願ったらよかろうかというのだ。
大学はかっと怒って、いともきびしく言った。
「お屋形には亀千代丸様と申す若君がお出でになるではないか。亀千代丸様のほかにご家督なさるべき人があろう道理はない。余の人をお立てせねばお家を立ておくことならぬという公儀の思召しなら、滅亡甘んじて受けようぞ」
その後、江戸からまた里見が使者として下って来て、一門と国家老らに集まってもらい、綱宗の隠居後の家督相続者を入札《いれふだ》(投票)させようとした。
その時も大学は腹を立て、
「おぬしほどの男が、そんな用事をうけたまわって下って来るということがあるものか。亀千代丸様がいらせらるるのじゃ。なに迷うことがあろう。なぜ、そう言うて人々の根性をかためなんだのじゃ。お小姓頭という役目にも恥じるがよい。わしはそんな入札などはせんぞ!」
と、里見をどなりつけた(奥山大学覚書)。
追々わかって来るはずだが、この里見十左衛門という人物は硬骨でもあれば、智恵もあり、なかなかの男であった。腹を立てたが、理の当然に返すことばもなく言いまくられた。
入札はそれでも行われた。各家持ちまわりで行われたのだ。開票は江戸に持ちかえって行われた。いろいろな札が出た。綱宗の兄にあたる田村宗良や白石伊達の宗倫《むねとも》を入れた者があり、綱宗の弟である宗規や宗房を入れた者があり、兵部を入れた者もあった。もっとも、この結果は江戸の両後見が知っただけで、発表はされなかった。
茂庭家記録によれば、伊達家の方で以上のようにしている間に、幕閣では酒井老中の考えで、伊達家の領地を分割し、三十万石を兵部宗勝に、十五万石を立花台八(大助の誤りだろう。忠茂の子|鑑虎《あきとら》は伊達氏の所生、幼名大助)に、その他を田村宗良に、うち三万石を片倉小十郎にあたえて幕府直属の大名にしようという密議が進められつつあったところ、側用人の久世大和守広之が伊達家のためにこれを憂え、あたかも小石川の普請小屋に出ていた茂庭周防をひそかに呼んで、早く綱宗の隠居願いと亀千代丸の相続願いとを出せと指示した。
茂庭は兵部、立花忠茂、大条《おおえだ》兵庫、片倉小十郎らに集まってもらって、相談をまとめ、また里見を使者として早打で仙台に下し、綱宗隠居、亀千代丸家督の願書に一門・国老・宿老らの連判をもとめ、さらに一門の伊達安芸宗重、同弾正宗敏の二人に江戸に来てもらってなお相談をした上で、願書を幕府に提出したということになっている。
幕閣で伊達家の分割が議せられたというのは、茂庭家記録以外にはないことで、大いに疑わしくもあるが、否定も出来ない。あるいはあったかも知れない。よくわからないのである。
幕府では、七月十八日、酒井老中の宅へ立花忠茂、伊達兵部宗勝、大条兵庫宗頼、片倉小十郎景長、茂庭周防定元、原田甲斐宗輔らを呼び、阿部忠秋、稲葉正則の二老中列座の上で、
「陸奥守、常々不作法のこと、上聞に達し、不届に思し召さる。よって先ず逼塞《ひつそく》してまかりあるべし。跡式《あとしき》のことは追って仰せ出されるであろう。但し、普請は引きつづき相勤めるよう」
と、老中口ずから達した。
人々皆恐れ入って平伏した。立花忠茂と兵部とが、お受けの旨を答えた上、
「しからば、陸奥守の許へ、お上使をたまわりたい」
といった。幕府ではゆるして、太田摂津守資次がその役をうけたまわることになった。太田氏はこの時代遠州浜松三万五千石の領主である。この家から出たお勝という女性が家康の寵妾になった。綱宗の嫡母お振《ふり》(池田輝政と家康の女おふうの間に生まる)は、このお勝の養女ということになっていたから、太田家と伊達家とは姻戚の関係があるのだ。だから、太田資次をつかわすことにしたのだ。ついでに書いておく、水戸の頼房もお勝の養子ということになっていたから、伊達家と水戸家も縁者になっていたのだ。
むごいのは、こんな工合に自分を隠居させる計画が重臣や一門の人々の間でめぐらされ、ついに幕閣で決議され、家への申渡しのあったその時も、綱宗には全然知らされなかったことだ。だから、この日も綱宗は普請場に出て工事現場を見まわり、夕景近く屋敷に帰って来ると、太田資次が上使として来て、逼塞すべしとの厳命を伝えたのだ。
綱宗にしてみれば、寝耳に水であったろう。こんな厳命を、しかもいきなり言い渡すこと故、姻戚である資次がこの役をうけたまわったのだが、誰が言いわたし役であろうと、厳命は厳命だ、不意打ちは不意打ちだ。綱宗のこの時の気持は察するにあまりがある。
この時の伊達家の一門や重臣らの主人にたいする心は最も暗いというべきだ。なぜこんな残酷なことをしなければならなかったか、わけがわからない。ここになるまで一言の諫めもしていないのはなぜだろう。
かんじんな点を明らかにすべき史料がのこっていないから、確言することは出来ないが、綱宗はよほどにこの人々に恐れられていたのではなかろうか。
さて、綱宗はしかたはない。
「恐れ入り奉ります。つつしんで仰せの通りにいたすでありましょう」
と、お受けして、資次をかえした。
この翌日、近習の者四人は斬られた。渡辺九郎左衛門をのぞく三人は造作なく斬られたが、渡辺は剣槍の達人だけにずいぶん骨を折らせた。渡辺七兵衛と渡辺金兵衛の二人、ともに家中で剛勇を以て称せられていたが、上意を受けて行きむかい、声もかけず、いきなり斬りつけた。
「心得たり!」
渡辺九郎左衛門は抜き合わせて勇敢に戦い、渡辺七兵衛に傷を負わせて、なお狂い戦った。二人の供をして来た小人《こびと》の万右衛門という者も剛勇の評判のある者であったから、飛びこんで来て、渡辺九郎左衛門に斬りかかった。九郎左衛門はついに討取られた。
数日立って、二十六日に、綱宗は品川の南、大井村の屋敷に移った。この時二十一であったが、以後七十二まで、この屋敷から一歩も出ることを許されず、生涯をおわるのである。
伊達家の人々は亀千代丸の相続の許可がまだないので不安ではあったが、手伝普請は続行せよということなので、先ずは安心していいだろうと、強いて心をおちつけて、後の沙汰を待った。何せ、亀千代丸はこの時わずかに二歳だ。あまりに幼なすぎる。果して聞きとどけられるかと、江戸、国かけて、家中一統の心配は一方ではなかった。
八月に入って間もなく、酒井老中は、兵部宗勝、伊達安芸宗重、伊達弾正宗敏、茂庭周防定元、大条兵庫宗頼、片倉小十郎景長、原田甲斐宗輔等を自宅に招き、阿部忠秋、稲葉正則の二老中と、側用人久世広之との列座の前で、自ら尋問した。
「陸奥守は不行跡であったので逼塞を仰せつかった。その家督に幼い亀千代丸を願い出たのは、いかなる所存あってのことか。政宗の血統にして十七歳以上のものを改めて願うべきであると思うぞ」
人々はしばらく平伏したままであったが、やがて茂庭周防が答えた。
「綱宗が病身であります故、隠居を願い出たのであります。亀千代丸が綱宗の実子であります故、家督に願い奉ったのであります。政宗の正統の子孫はこの者以外にはございません。幼少である故、家督に立てられぬというのでありますなら、伊達家はお潰しいただきましょう。亀千代丸のほかに家督に願い申すべき者はございません」
きっぱりとしたことばだ。悲壮な決意のほどがうかがわれた。酒井老中はしばらく無言であった。
阿部忠秋がわきから口を出した。
「周防の申し条、もっともである。先ずは退出して、しばらく次の座敷にひかえているよう」
一同退出して、隣りの表座敷に待っていると、間もなく再び召出され、願いの趣きについては、公儀において吟味してみようと、申渡された。
数日の後、阿部老中は普請小屋に出ている茂庭周防を自邸に呼びよせ、
「亀千代丸の家督の件は、聞きとどけることに決定したれば、安堵するがよかろう」
と、申し渡した。茂庭はよろこんで、お礼として、酒肴と毛歃間を阿部に贈った。この毛氈は、濠をさらった土を水戸家の所望によってその下屋敷に運んでやった礼として、水戸頼房がくれたので、作事小屋に格納してあったのであるという(茂庭家記録)。
果してこの通りであったかどうか、家の記録だけに茂庭周防をほめて書きすぎているのではないかとの疑いがないでもないが、もしこの通りであったのなら、われわれの感ぜずにいられないことは、酒井老中は野心ある誰か――後のことを考え合わせれば伊達兵部宗勝だ――に動かされているのではないかという疑いだ。しかし、前に述べたように、綱宗の兄弟が五人もおり、政宗の子も兵部宗勝以外に何人かあり、その子供らに至ってはさらに多数いる。その中から兵部が選ばれるという確率はきわめて低い。兵部の家は兵部自身と子供の宗興二人が相続資格があるわけだが、宗興はこの時十二歳だから、酒井老中の主張する資格をはずれている。しからば、兵部はどうかといえば、当時四十歳だ。資格がないわけではないが、老《ふ》けすぎている。適格者の少ない場合は、老けていても難はあるまいが、多数の適格者がある場合には、大へん弱いと見るべきであろう。
だから、ぼくは、酒井が十七歳以上説を持ち出したのは、兵部に籠絡されてのことではなく、天下の政治をあずかっている老中として、大藩の主があまりに幼年なのは望ましくない、せめて十七歳以上の者を立てるべきが常識であるという考えからのことであると、考えるのである。老中が強硬に自説を固守しなかったのは、伊達家の人々の固い決心を見て、
「そういうことなら、それでもよい。主人の血統を大事にするのは、立派なことだ」
くらいに考えたからであろう。この時代の幕府の老中らは、天下の政治家であると同時に封建君主でもあるから、君臣の間の道義や情誼には容易に感動するのである。
また数日立って、八月二十五日、また一同、酒井老中の宅に召されて、亀千代丸の家督相続を聴許する旨が正式に言い渡された。同時に、こんなことを申し渡された。
「伊達兵部宗勝の本知は一万石だが、なお二万石分知して、本知三万石にせよ。田村宗良にも三万石分知せよ。爾今、兵部同様公儀直参とする。右両人は、今後は本家の後見をいたすよう」
人々はつつしんでお請けした。
これまで兵部は、伊達家の連枝として、本家の後見的立場にあって、いろいろと藩政の相談にあずかってはいたが、この時から幕命による正式な後見として、田村宗良とともに藩政全部にタッチ出来ることになったのである。なお、立花忠茂も後見するように幕府から命ぜられた。
「奥山大学覚書」にこんな話が出ている。
この時からしばらく立ってからのことであろう、大学は手伝普請のことも気になったし、亀千代丸のごきげん伺いもしたくなったので、国許から江戸に上って来たが、一日、兵部の許に顔を出したところ、話のはずむうち、兵部はこの前の家督適当者入札の時のことを語り、入札に上った人の名を言い、最後に、
「われらを入れた人もある」
と言った。大学はたずねた。
「それを入れたは誰でござるか」
「誰でもいいではないか。今となっては必要のないことだ」
兵部は突ッぱねたが、大学は、
「必要ないということなら、こんなことを言い出されたことが、すでに必要のないことでござる。言い出された以上、すんだことであろうと、うけたまわりたくござる」
と、鋭く追究した。兵部もやむを得ない。
「さようならば、われらを入れた者の名だけ申そう。伊達弾正(宗敏、政宗の四子宗泰の子)であったよ。やれやれ、アハハ」
前に兵部がこの弾正に出した手紙の一節について書いたが、弾正と兵部とはよほどに仲がよかったのであろう。芝居の仁木弾正の弾正という名はここからとったのかも知れない。
大学は他の人のこともたずねたが、兵部は答えなかった云々。
この話には何やら気になるものがあるが、兵部に本家横領の野心があるなら、こんな話をしはしないとも考えられる。この問答の調子でもわかるように、大学の剛直さは兵部の籠絡などがきこうとは思われないのである。
伊達家ではしばらく平和がつづいて、万治四年(四月二十五日寛文と改元)の春を迎えた。三月には、手伝普請もおわった。総費用は一分判で十六万三千八百十六|切《きれ》かかったというから、一両判に直すと、四万九百五十四両だ。この時代の金貨は慶長判だから、大へんな費用である。将軍はみずから検分し、伊達家の老臣らや工事関係の家来の重立った者を江戸城に召して、賞賜して労をねぎらった。伊達の全家中重荷をおろした気持であったが、翌月の四月十九日に、国老の一人茂庭周防定元が、病気を理由に辞職した。
実はこの辞職は、奥山大学にいびり出されたのであるという。両人が権勢を争ってなかが悪かったことはずっと前に書いた。二人は、奥山は国許勤め、茂庭は江戸勤めと、勤務するところが違っていたのだから、不和も緩和されそうなものであったが、なかなかそう行かなかった。
「田村家記録」の中に、こんな記事がある。
いつぞや、立花忠茂、兵部宗勝、田村宗良の三人が一座しているところに、奥山大学が来て、
「役目のことについて、お三人様に訴えたいことがあります。余の儀ではありません。ご隠居様(綱宗)のご不行跡は、ご自身のご責任であることは申すまでもありませんが、それを別にしては茂庭周防が悪いのでござる。周防は悪いやつでござる。色々と悪事をすすめ申した故に、あのようになられたのでござる。今さらかようなことを申したとて、せんないことではござるが、亀千代丸様ご幼少でおわすところに、この大悪人の周防とともに国老としてお家の政務を執《と》ること、拙者は不安でござる。辞職いたしたくござる。お聞届けいただきたい。もし拙者にこれまで通りご用をつとめさせたいということでござるなら、周防の罪をただして職を免じ、拙者に万事を打ちまかせて、国の仕置を申しつけていただきたくござる」
と、要求した。
これにたいして、田村宗良は気が進まなかったが、兵部と立花忠茂とは、大学の要求を聴き入れようと言った。ずっと前に兵部が知行をふやしてくれと綱宗に要求した時、大学の方が周防よりはるかに多く査定したので、兵部は大学を徳とし、周防をうらんだことを書いた。そして、これが後に周防が家老の座を逐われた遠因といわれていることも書いた。果してそうであるか、わからないことだが、当時の人々の中にこのような疑いを持った人もいたことは確かであろう。
田村宗良が強硬に反対すれば、そうも行かなかったであろうが、この人は気の弱い人である。兵部と忠茂の言うことが通って、周防を退職させることにきまった。
しかしながら、周防は当時手伝普請の総奉行となっている。幕府にたいする手前、やめさせるわけに行かない。そこで工事のおわるまで待って、それから、何とかしようということになった。
周防の運命は気の毒にもこうしてきわまったわけであるが、一体、大学の言う「周防は悪人で、綱宗に悪事をすすめた」というのは、具体的にどんなことを指しているのか、わからない。しかし、後見人三人のうちの二人まで大学の言い分を認めているところを見ると、何かあったことはあったのであろう。思うに、綱宗の最初の吉原行きは周防がすすめたのであり、その時渡辺九郎左衛門らをボディ・ガードとしてつけたのが、この連中を綱宗が近習として寵用するもととなったのではないかと思う。資料がほとんどないのだから、これくらいの見当しかつかない。
このようないきさつで、他に家老はいても、仙台の藩政は奥山の独擅《どくせん》場となった。それはこの時から寛文三年七月まで、およそ二年三カ月つづいた。
奥山は、家がらのよさだけで重職にあげられている凡庸な老臣ばかりの中では、出色におもしろい風格の男であった。
こんな話がある。
大学がまだ若い時、ある裁判事件に、大学は評定役の一人としてその裁判をすることになった。裁判のはじまる前、家老の古内志摩が、関係人一同に、
「今日は奥山大学殿が、評定役の一人としておさばきになる。つつしんでお受けいたすよう」
と言ったところ、大学は古内にいともあらあらしく、
「拙者はそこ許のさしずによって職を執《と》るものではござらぬ。余計なあいさつは無用になされい!」
と言いはなち、一切独断で、ぴしぴしと裁きをつけてしまった。
しかし、さすがに古内は度量がひろく、怒る色もなく、かえって当時の藩主忠宗に、
「奥山大学はなかなかの才物であります。あのような若者の出て来たのは、お家のため慶賀すべきことであります」
と、ほめて報告したので、さすがの大学も古内には推服したという。
この挿話でもわかるように、この男は鋭い才気があり、性格的には独裁者に生まれついたようなところがあった。山路愛山は、その著「伊達騒動記」で、こう説明している。
「人のすることの欠点がすぐ目につく男で、それを黙っておられない性質だから、人にも悪く言われるが、決して陰険ではない。善にもせよ、悪にもせよ、生地《きじ》のままのまる出しで、少しも蔽《お》おうとしない面白さがあった。鼻ッ柱が強く、大身や一門にたいしても決して屈しない。それで頑固かといえば、酒も飲めば、女も好き、碁、将棋、茶、花、なんでもやれる多芸な洒落ものだ。その心術はどうかといえば、当人は始終真直ぐなことをしているつもりでいる。決して悪人ではなかった。常に白無垢の衣服を着、はでな風をして、大いばりにいばっている。彼が悪いことをしたにしても、人にかくれてうまい汁を吸うようなやり方はしない。堂々とやるという男性的なところのある人物であった」
こんな大学であったから、お家の後見役だからといって、恐れ入ってばかりはいない。こんなことがあった。
兵部宗勝の家や田村家は、公儀直参の大名であるといっても、その所領は伊達本家の領地から分与されたのであって、伊達本家の総石高はこの両家の領地の高も含めて呼ばれているのだ。だから、完全に本家から独立している大名とはいえなかった。いろいろな点で、本家の統制の下にいなければならなかった。たとえば、街道に高札を建てるのでも、本家の家老の名で出すべきであり、他藩から罪人が領内に逃げこんで来て、その引渡しをもとめられたりする場合は、引渡すにしても、拒否するにしても、本家が処置すべきで、分家が勝手に処置してはならないのがきまりであった。
しかし、公儀直参の大名である以上、家の体面上、本則通りにはやりたくない。自領内の街道に建てる高札は自分の家の家老の名をもってしたいし、逃げこんで来た罪人は自分の家で捕え、自分の家の判断で引渡すなり拒否するなりしたい。格式と体面を最も大事なことにした時代であるから、最も自然なことである。
寛文二年の春、罪人引渡しに関した事件が田村家におこった。山形の最上《もがみ》家の領内から犯罪人が田村家の領内に逃げこんで来た。それを最上家からの依頼で田村家が捕え、最上家から来た役人に引渡した。最上家の役人は罪人を引立てて山形にかえった後、礼状を田村家によこした。それにたいして、田村家では、
「このようなことはこれからもしばしばあるでござろうから、お互いに心易く願いたい」
と返事した。
このことが仙台に聞えると、奥山大学は腹を立て、きびしく田村家へ抗議を申しこんで、ぎゅうぎゅうとっちめた。
また、キリシタン宗禁制は江戸時代を通じて、幕府が最も重大にしたことで、これは村々から提出する宗門改めの書付を藩でまとめて幕府の奉行所に提出する規定で、仙台領は兵部宗勝の所領の分も、田村家の所領の分も、本家でまとめて提出していたのであるが、兵部の家でも、田村家でも、自領内のは勝手に出してしまうことにした。
また、奥州大名は毎年、初鮭と初雁を将軍に献上することになっていた。兵部の家も、田村家でも、公儀直参となるとすぐそれぞれに献上することにした。こんなことは現代人の観念から考えると、滑稽としか思われないが、献上するのが奥州大名の格式の一つとなっているのであれば、それをしてならないとあっては、劣性コンプレックスを持たざるを得なくなる道理である。
伊達本家では、両分家のこういうやり方に腹を立て、いろいろ言う者もあったが、ご後見役のなさること、いたし方はないと、皆あきらめることにすると、奥山大学は、
「かかることを黙って見すごすべきではござらぬ。わしが江戸に出て、ねじこもう」
と主張した。他の家老らが一緒にまいろうといったが、大学は、
「貴殿方はおやめなされ。失敗した場合がこまる。拙者一人なら、一人の責任で、拙者が坊主になればすむが、各々方と一緒に行っては、皆が責任を負うことになって、あとのお家がこまる。また、老臣一同が後見方に反対したことになって、折れ合いが悪くなる恐れもござる」
と、言って、一人で江戸に出た。
先ず立花忠茂に語る。忠茂は純粋に独立している大名だ。かりに立花家に分家があって、兵部の家や田村家のようなことをしてはこまる。伊達本家側に同情的であるのは当然だ。
「そなたの申す通りである」
と、同意した。
そこで、大学は忠茂をさそって、酒井老中のところへ行き、二人で説き立てた。老中は、
「いかにも、その通りである。われらもかねてそう考えている故、この前も兵部少輔から初雁を献上した際、これはせっかくながら従来の通り本藩から差上げた方がよいであろうと申しておいた。また、いつぞや鶴を献上した時も、鶴などは大藩でなくては献上するものでないとたしなめておいたくらいである」
と答えた。
大学は、両後見役に会って、老中のことばを告げ、きびしく釘をさした。
このように奥山大学は相手が後見役であるからとて、ご連枝であるからとて、決して盲従しない骨の硬さがあったし、手腕もまた敏《びん》であったので、幼主をいただきながらも、藩政が後見役らに引ッかきまわされることもなく、一応よく治まっていたが、大学が独裁的な人がらで、癖の多い男であるので、おのずから敵も出来た。先ず一門衆がそうなる。大身衆もそうなる。士衆《さむらいしゆう》のなかでも硬骨な連中がそうなる。つまり、誇り高くして、人に圧制されることにたえられない人人は皆そうなったのである。
これらの人々の中で、前にも出た里見十左衛門重勝など、とりわけ大学をきらった。ついに寛文三年二月二十日付で、奥山の罪悪を一々箇条書にした弾劾状を、兵部に差出すに至った。
弾劾状に記載されていることの中には、やれ酒好きだの、不断に白小袖を着ているの、食べものに贅沢だの、鷹狩好きだのというようなくだらん項目もあるが、次にあげるようなのは、相当重大である。
その一
主家の上米を四百石、自分の米として江戸へ運送して売って、主家の蔵には下米を返しておいた。
その二
仙台領内では、不作でない年は、作物を自由に江戸へ運送して売ってよいことになっていたのに、大学は去年から一切領外へ搬出することを禁止した。つまり、そうなれば安くなることが必然であるから、安くなったところでこれを買い入れ、江戸へ上せて売るためである。藩の収入をふやすためであるとはいえ、民百姓は言うまでもなく、諸士《しよざむらい》にまで、殿様をお怨み申す心をおこさせるようなことをするとは、けしからんことである。
その三
藩庫の増収をはかるためと称して新田開発をするはよいが、そのために堤防が切れたり、水利が悪くなったりして、従来の田が荒廃に帰するもの少なくない。何のための新田開発だ。
以上の三カ条などは、相当大学には痛い非難であったろうが、気の強い大学はうんとこらえて、びくともしない態度でいた。ところが、五月になって、こんな事件がおこった。
伊達家も近年は次第に経済が苦しくなって、明暦の大火の時は家中一統に二年引きつづいて手伝金を課したが、手伝普請の時もまた知行や扶持のうちからいく割かを出させた。その後、また藩の経済が苦しくなったので、大学は後見役三人に、一門をはじめ総家中に加役を申しつけたいと許可をもとめた。
そこで、兵部と田村宗良の二人から、このことについて、一門衆や大身衆へ下問したところ、一門の伊達安芸宗重が次のような意見書を奉った。
「財用不足ならば、加役仰せつけられるもいたし方ないことではござるが、こんどは前の場合とちがって、災禍があったわけでもなく、公儀から手伝普請など仰せつけられたわけでもござらん。家中の者共がどう思いましょうか。ひるがえって藩政を顧みますに、近年さしたる功労もない者にして禄を増さるる者が数え切れぬほど多数でござる。これらはすべて政道の依怙《えこ》なるによります。国老に責任あるは当然のことながら、両ご後見役においてお気づきでないは、必ずしも責任なしとは申せぬ。かかるご政道のありさまでありながら、加役のご沙汰などあっては、公儀の目付衆の思召しもいかがでござろうか。かれこれ、家中の者共の心が、ご本家を離反するようなことがあっては、いざと申す一大事の際、ものの役に立つべしとも思われません。拙者が二万二千六百石の領地、当年分の取箇《とりか》全部を献納いたしますれば、これをもって一時をささえていただきとうござる。拙者の家族や家中の者は、一両年の間はなんとしてでも生活出来ましょうから、ご案じ下さるまじく。拙者の心配いたすは、ご家中の者の心の離反でござる。伊達左兵衛殿も、富塚内蔵丞(重信)殿も、中島伊勢殿も、皆拙者と同じ心で、知行一年分の取箇《とりか》を献上したいと申しておられます」
伊達安芸がこんな意見書を提出したのは、単に知行地一年間の取箇を献上するというだけのことではない。深い思案があってのことであった。
一体、伊達家は、家中の格式が特に厳重な家であった。その格式は、
一門、一家、準一家、一族
永代着座(一番座、二番座)
永代|太刀上《たちあげ》盃頂戴(一番座、二番座)
代々|召出《めしだし》(一番座、二番座)
大番組
組士《くみし》
と、このようにこまかく別れていた。このうち、一門、一家、準一家、一族は、公族と準公族である。最上の家格ではあるが、政務の座にはつけないことになっている。政務の座につけるのは、永代着座以下の家格の家で、家老には永代着座の一番座の者だけがつく規定になっていた。
安芸の家は一門であるから、政務の座につけない家がらである。従って藩政について発言することも好もしからずとされている。しかし、安芸としてはこの際発言したい。そのやむにやまれない心が、この意見具申となった。つまり、この形で、藩政の局にあたっている奥山大学と、大学を任用しその為すところを拱手して眺めている後見方とにたいして、不信任の意を表明したのであり、弾劾したのだ。もちろん、その書中にある伊達左兵衛、富塚内蔵丞、中島伊勢らとも談合の上でだ。
間もなく、三人も同様の意見書を提出した。こうなると、奥山は伊達の一門と大身衆の総攻撃を食った形になる。ついに、後見役らは、奥山を退職させて、茂庭周防を返り咲かせることにした。
この政変によって、後見役らは目付役の中から、渡辺金兵衛、今村善太夫、里見正兵衛の三人を、特に指命して、後見役直属ともいうべき重い任務をもたせることにした。奥山大学にまかせ切って、監督が行きとどかなかったために、この前のようなことが起ったのだから、再びそのようなことのないように備えるところがなければならないとの考えからであった。だから、三人の任務もこの目的にそったものであった。
一つ、家中総体に気を配って、一門、一族、一家の人々でも、その他のいかなる人でも、悪いことがあったら、くわしく両後見役に届け出ること。
二つ、両後見役に悪いことがあっても、同じく申し出ること。
三つ、家老の裁判に曲ったことがあった場合にはよく忠告し、それでも聴かない時は厳談におよんで、裁判を公平ならしめること。
目付は監察官だから、そうでなくても恐れはばかられるものであるのに、この三人は家老に忠告、厳談して、その公務を規正し得る権限をもっているのだから、大へんな権力者となったわけだ。前に懲りたからとはいえ、こんなことをしてはいけないのである。政治は人体を養うと同じく普通のものを普通に食べることを本則とするがよいので、病気に懲りて劇薬を常用するようなことをしてはいけないのである。伊達家にあれほどの騒ぎがおこったのも、その直接の原因は、この三人の目付に過大な職権を持たせるようにしたことにあると言えるのである。三人のうち、渡辺金兵衛は前にも出た。綱宗の近習で匹田流の剣・槍の達人であった渡辺九郎左衛門を上意討ちにした時の討手の一人だ。剛勇でもあり、才気もある人物であったので、ひとしお権勢をふるった。伊達騒動のさわぎの原因の第一人物と言ってよいほどである。
ひるがえって、家老座を見ると――
奥山が退職させられ、茂庭《もにわ》が返り咲いたことは、前述の通りだが、その頃の家老は、茂庭、柴田外記朝義、古内志摩|義知《よしとも》、原田甲斐宗輔、伊東新左衛門重義、富塚内蔵丞重信、大条《おおえだ》監物|宗快《むねよし》などという人々であったが、伊東はすぐ死に、つづいて茂庭もまた死んだ。あまり人物はいないのである。原田甲斐などは、大へんなやり手だったように言う人が昔からあるが、実は大した人物ではない。要するに、凡庸人の揃いであった。家老になることの出来る家柄がきまっていて、その中からしか任命が出来ないから、こういうことになるのである。大ていな藩が、家柄家老と実際にしごとをする仕置《しおき》家老とをわけ、仕置家老は相当な抜擢制度をもって任用することによって、人物の凡庸化を救っていたのに、仙台藩では、この時までその方法がほとんど採られていなかったようである。
後見職の方にも、変化があった。立花忠茂は奥山大学を信任し、奥山びいきがとくに強い人だったので、こんどのことで懲りて、あまり伊達家のことには触れたがらなくなり、間もなく隠居して好雪《こうせつ》と名のるようになると、一層冷淡になった。田村宗良はおとなしい人で、以前から強く自説を主張する方ではなかったが、この頃は病気勝ちで一層おとなしくなった。つまり、兵部宗勝の独擅の姿となったのである。
新たに強い職権を与えられた三目付は、この兵部に直属して、藩内一切のことを鵜の目鷹の目で監視しては、兵部に報告するのだから、藩内みなおびえて、三人を恐れること虎のようになった。
この三人は、兵部の気に入られさえすればよいのだから、当然のこととして、兵部には実によくつかえ、諸事兵部の気に入るようにする。しぜん、藩内における兵部の威勢は大へんなものになった。その上、翌寛文四年七月末、兵部の子宗興と酒井老中の娘とが、将軍の命という形で結婚した。この娘が実は老中の妻姉小路氏の妹であることは、前に説明した。この時、宗興は年十六、昨年末従五位下|市正《いちのかみ》に叙任していた。このようにして老中と姻戚となったのだ。しかも、酒井老中は寛文六年三月には大老となった。兵部の権勢は上る一方であった。
このような兵部の権勢に、伊達家の全家中は屏息して屈服していたが、屈服しない連中もいた。それは公族や準公族にもあり、家老の中にもあり、それ以下の士《さむらい》の中にもあった。家老の中で、原田甲斐は兵部に全面的に協力し、従って羽ぶりはよかったが、他の家老らとは対立していた。せんずるところ、いつかは一荒れ来ずにはすまないような気圧配置であったと言えよう。
最初の荒れ模様は、寛文五年暮から翌六年にかけてあらわれた。
里見十左衛門という人物が前に出て来たことを記憶しておられるであろう。綱宗が隠居させられる直前、江戸邸の政事座の使者となって、しきりに国許に行き、また奥山大学を家老の座から追う時にも一役買った男だ。この男は剛直でもあり、学問もあり、腕も立ち、年も老《た》けているので、家中の人々に尊敬されていたが、寛文五年春、眼病によって小姓頭を退職した。
権勢に屈しないのを男子の真骨頂と心得ている男が、ひまな身になり、つくづくと藩のありさまを眺めると、憂憤にたえないことばかりだ。そこで、あたかも江戸から帰国して、その陣屋のある一ノ関にいた兵部に、仙台から手紙を呈した。寛文五年の十二月も、あますところわずかに二日という二十八日のことであった。手紙の内容はこうだ。
「お家のために申し上げたいことがある。ついては来月ご上府の際、仙台のお屋敷で人払いをされた上、心を許される者一人だけを側において、お会いの上、お聞取り願いたい」
十左衛門の人物を十分に知っている兵部は、うるさいと思ったらしい。正月六日付で返書を出しているが、こうだ。
「役職についている者が公務上のことについて意見を具申したいというのは別として、しからざる者が密談したいというのを許すことは、公儀に憚りがあって、常に避けている。しかしながら、お家のためというのを拒絶すべきではない故、書面にして送ってもらいたい」
手紙の往復はなおくり返されたが、兵部がどうしても会うことを承知しないので、十左衛門は書面にして差出した。
兵部の失政を十一カ条にわたって書きつらねた上、
「右の条々に答弁してもらいたい。その上で拙者の考えをまた申し上げよう。兵部様の出様次第では、家老衆に委細のことを申し上げておいて、拙者は浪人する。ご領内の片隅に居住して、亀千代丸様のご成長まで生きていたら、右の次第を申し上げるつもりである。こんなことを兵部様に申し上げ、兵部様のごきげんを損じ、成敗を仰せつけられようと、忠義のために死ぬのは勇士の本望である。少しも恐れるところはない。拙者はこれまでもお家のため命がけのご奉公を数度しています。それは兵部様もご記憶のはずであるが、どうやらご失念のようだから、一々申述べておく」
と前置きして、これまでの自分の思い切った奉公ぶり五つを書きつらねた。その五つとも、兵部の後見役としての過ちを是正したいきさつであった。ずいぶんはげしいものである。
兵部はこれに返書を出して、一々答弁したが、十左衛門は納得しない。執拗に追究して、原田甲斐をお側においてなりと、会ってくれと、申しおくった。
ついに兵部も、
「会おう。しかしながら甲斐一人の立会いではいけない。家老のこらず列席させるべきであるが、大条監物と富塚内蔵丞とは病気であるから出席出来ない。結局甲斐と柴田外記の二人だけの立会いとなろう」
と、返事した。
十左衛門は大いに喜び、礼を申しのべ、いつでも召され次第に出頭つかまつると申しおくり、手ぐすねひいて、通知のあるのを待っていると、正月二十八日、兵部の家の家老から、手紙が来た。
「主人は病気で面会出来ない。また明日早朝に出発して上府の途につかねばならないことになっている。だから、貴殿は原田甲斐殿に会って、くわしく申してもらいたい。主人は甲斐殿が上府して来られた時、江戸において聞きとるであろう」
兵部がことさらに避けたのであることは明らかであった。十左衛門は歯ぎしりして無念がったが、しかたはない。
「らちのあかぬことであるが、やむを得ない。一応甲斐殿に申し上げておく。その上のご返答次第によっては、江戸に上ってお会いして申し上げる存念である」
と、返書して、二月四日、原田甲斐に覚書と神文とを差出し、なお口上をもって説明を加えた。
覚書はこの前兵部に差出した諫書の条々をさらにくわしく書いたものであり、神文はこの諫書を差出すのは、兵部に恨みがあるためでもなく、自分の立身のためでもない、自分は以前両ご後見に加増を下されようとも決してお受けしないと誓紙を差出しているが、その心は今もって変らない、また色々な役につけようとされても、たとえ家老に仰せつけようとの仰せがあっても、決してお受けはしないと、心底の無私を誓ったものである。
原田はこれを受取って上府し、兵部に差出し、十左衛門の口上も伝えたが、兵部は返事しないで打ちすてておいた。兵部が十左衛門に大いにきげんを悪くし、その言うところを虚言悪口であると見たことは、この年の八月二十四日付の伊達安芸への返書で明らかだ。
「甲斐から口上の旨趣を聞いたが、あるいは諸朋輩にたいする嫉みであり、あるいは悪意をもっての虚言悪口である。士《さむらい》に似合わぬしかた、前代未聞である」
と、書いているのである。
後年、伊達家の騒ぎが幕府の公裁になった時、伊達安芸が老中衆からの質問に答えた口談覚書によると、兵部は十左衛門を死罪にしようとしたとある。また寛文八年七月十四日に、十左衛門の実兄で紀州家の臣である里見勘四郎が伊達家の古内|造酒助《みきのすけ》へ出した手紙に、「先年、同姓十左衛門が、亀千代丸様や兵部様のおんためを思って、思うところを書面をもって申し上げたところ、兵部様のお気に入らず、非分のように思し召されたところ、田村右京様は正しいことにお聞きになり、お蔭をもって十左衛門は今に至るまで無事でいます」とあるところを見ると、死罪に処せられんとする十左衛門を救ったのは田村宗良であったことがわかる。
兵部を思いとどまらせたのは、この里見勘四郎が紀州家の家臣であったことも、大いに力があったろう。
元来、里見家は伊達家の譜代の家来であったが、先代の勘四郎が人を斬って脱走して江戸に出奔して、紀州の初代頼宣に召抱えられた。この勘四郎に二人の子があり、長男は勘四郎を襲名して紀州家にあり、十左衛門は次男であった。これも紀州家につかえるはずであったが、若い時に喧嘩して人を斬り、出奔した。しかし、その喧嘩から出奔までの行動がいかにも男らしく堂々としていて、武士道にはずれるところがさらになかったので、頼宣はかえって賞美して、追捕しないことにした。それで、十左衛門は伊達家につかえ、忠宗に愛せられ、次第に立身して小姓頭にまでなったのであった。
こんなわけで、紀州家には十左衛門の実の兄がいる。悪く処分すると、この兄が紀州公に吹っこんで、幕閣に働きかけでもしたらことめんどうになると、兵部は考えたのであろう。
ともあれ、伊達の家中では、十左衛門が諫書を提出し、兵部の怒りに触れ、死罪に処せられそうであるとのうわさが立った。
家老の一人であった故伊東新左衛門重義の養子|采女《うねめ》重門は、元来は古内主膳重広の弟で、まだ少年ながら、かねてから忠義の念が厚く、十左衛門と親しい交際があり、ともにお家のことを憂えている間柄であったので、前もって十左衛門に諫書を示されていたのであろう、その写しをこしらえていたが、十左衛門が危ないといううわさを聞くと、実兄の遠藤平太夫と一族の伊東七十郎とに、この諫書の写しを、伊達安芸の在所|涌谷《わくや》に持って行かせ、安芸に見せ、事情を説明して、意見を問うた。(記録ではこんな風になっているが、実際は七十郎が主動者で、采女を引きずったのであろう)
安芸は書面をしたためて兵部におくり、十左衛門、采女、七十郎らの志をとりなし説明して、寛大な処置を乞うた。この手紙にたいする兵部の返書の一節が、前述の十左衛門にたいする悪口だ。兵部は、
「人の言うことは表面だけではわからない。よくよく吟味して取上ぐべきである」
と、安芸が人の言うことを軽々しく取上げすぎると言わんばかりの返事をしている。
伊東采女はまた七十郎と相談して、兵部に意見書を差出して、十左衛門のために取りなした。采女はこの時わずかに十八であるから、この意見書が七十郎の手に成ったものであることは、推察がつく。
ここで、七十郎の人物を素描する必要があろう。
七十郎は伊東の分家の二男で、兄善右衛門重頼のかかりうどであった。しかし、その姉は伊東新左衛門の妻であるから、采女にとっては母方の叔父にあたるわけであった。七十郎は少年の頃は瀟洒たる美少年であったが、十六七の頃疱瘡をわずらい、おそろしい容貌となった。以後性質もたけだけしくなり、最も男性的な人物となった。寝るにも帯を解かず、夏の夜も手拭を顔にかけるだけで蚊帳を用いず、武を講じ、学問にはげんだ。その学問は京で熊沢蕃山に入門して、陽明学であった。彼はすばらしい速足で、仙台江戸間九十五里を二日半で歩いたという。文武両道の達人として、その頃江戸でも有名であったというから、仙台の名物男だったのである。この時三十四であった。俗説の伊達騒動に出て来る松前鉄之助や、芝居の「伽羅《めいぼく》先代萩」に出て来る荒獅子男之助は、この七十郎をモデルにして創作されたものではないかと思う。
さて、このような人物である七十郎の書いた意見書であるから、悲痛激切をきわめ、そのため、兵部はかえって怒りをあおられた。それはこの翌々年にあらわれた。
この寛文六年という年には、仙台藩の医者の河野道円という者が罪あって父子三人斬首の刑に処せられた。それは十一月末頃であったようであるが、事件のいきさつははっきりしない。当時からはっきりしないのである。
一説では、十一月二十七日に、亀千代丸の近習の者が亀千代丸の食膳の毒味をしたところ、忽ち死んだ。人々はおどろき恐れて、中間《ちゆうげん》と二匹の犬に食べさせてみたところ、これも忽ち死んだ。そこで、両後見役へ注進した。兵部はその夜人をつかわして医師河野道円を殺させ、同時に料理人も殺させた。なぜであるかわからないとある。
その他、なおいくつかの毒殺未遂説があるが、いずれも兵部があやしいことになっている。
ところが、この河野道円の女婿に三沢頼母というのがいるが、これは亀千代丸の生母の実兄である。亀千代丸が無事に成長することは、道円の利益であったはずだから、亀千代丸殺害に加担する道理はありそうにないのである。その上、道円とその男の子二人は斬首されているが、妻と娘は助命されて茂庭主水にあずけられている。助命は女のことだから当然としても、伊達藩の「寛文知行牒」の寛文十年の部に「河野道円の妻に小判十両、お扶持十二人分を、その身一代下さる」と出ている。主君毒殺に加担して刑死した者の妻をこんなに優遇するとは考えられないのである。
一説では、道円が亀千代丸のお守役であった奥女中|鳥羽《とば》その他の女中を船遊びに誘い、若い武士らを乗りこませ、船中で大酒宴をもよおし、すこぶる狼藉におよんだので、その罪をただされたのだという。
ところが、伊達世臣家譜によると、鳥羽は寛文六年に仙台に下され、津田玄蕃にあずけられ、切米二十両、扶持十人分を賜わり、亀千代丸成長して綱村となると、帰国の度に召出され、いろいろと下賜があったとある。
つまりいずれの説も、辻褄が合わないのである。全然の推察説だが、河野道円にしても、鳥羽にしても、この時処罰されたが、後年亀千代が独立してから遺族や当人を厚遇しているところを見ると、亀千代のために兵部の不利益をはかったかとも思われる。とすれば、身分と役がらから言って、鳥羽を政岡のモデルと見てよいかも知れない。
ともあれ、河野道円父子が成敗されたことは事実なのだが、それについてはっきりした説明がなされなかったので、伊達家中の者が、いろいろと取沙汰して不安がったことは、当時の藩士らの往復文書でうかがわれる。
いろいろな取沙汰とは、もちろん置毒説であるが、ずっと前にも説明したように、たとえ亀千代丸が早世しても、兵部父子に相続順位はなかなかめぐって来ないのである。とくに、この頃は蟄居中の綱宗に六歳の次男、二歳の三男が出来ているから、兵部父子の相続順位は益々遠くなったのである。
だから、もし兵部が亀千代丸をのぞく工夫をしたとするならば、亀千代丸の死を機会にして、伊達家の分割論を相続権のある人々の間にまきおこし、一方酒井大老を説いて幕閣内にそれの受入れられる態勢をととのえ、分割にもって行き、自家を十万石か十五万石の身代にしようというのであったはずだ。伊達家をまるまる乗取ろうなど、可能性のほとんどないことである。
幼君の毒殺未遂事件は、先代萩の見せ場で、あの一幕によってあの芝居は成り立っているようなものだが、実説としてはなかったようだとしか言いようがない。
翌年の寛文七年四月に、幕府から神尾若狭守|元珍《もとはる》と安部主膳信秀とが仙台目付として下向して来たので、二十二日に青葉城の二の丸で饗応が行われたが、これに関係して、はからずも事件がおこった。
饗応に際して家中の者が目付衆に謁見して盃を受けるのが、毎度のきまりになっていて、それには順序があった。第一に家老、第二に評定役、第三に着座衆、第四に大番|頭《がしら》、第五に出入司《しゆつにゆうづかさ》(藩会計の総監。この下に勘定奉行等あり)、第六に小姓頭、第七に目付、という順序である。この順序はそれぞれの家の格式になっていた。
ところが、原田甲斐は目付の渡辺金兵衛と今村善太夫のすすめに従って、着座である伊東采女と古内源太郎とを目付の次に出すことにした。
家の格式がおそろしく大事なものにされている時代に、なぜ二人がこんなことを原田にすすめ、原田がまたこれを容易に受入れたか、不審千万なことだが、伊東采女は去年激越な意見書を兵部に提出した人物だし、古内家は伊東采女の実家で、源太郎は采女の甥だ、兵部のきげん取りに二人に恥をかかせてやろうと考えたのではなかったかとしか思いようがない。渡辺も、今村も、原田も、兵部に密着している者共であることは前にも言った。
ともあれ、渡辺と今村のすすめた順序で謁見の儀が運ばれたので、伊東采女と古内源太郎は腹を立て、家老の柴田外記に、
「なぜ先規に違うはからいして、われらを目付の後にされたのでござる」
となじった。柴田は、
「貴殿らはお二人とも無役である。役目についている者を先きにした方が、お目付衆にもまぎれがなくてよかろうと、甲斐が申すので、そうしたまでである」
と答えた。
「いやいや、そのご説明では納得出来申さぬ。無役故、われらをあとにまわしたと仰せあるが、甲斐殿の子息|主殿《とのも》は無役の身でありながら、着座衆としていつもの順にて出られましたぞ」
と、突っこんだ。
柴田は答えることが出来ない。憮然として、
「ああ、そうでござったな。それはわれらも不審に存ずる。甲斐にお尋ねあれよ」
と答えた。
二人は原田甲斐のところに行って、追究した。原田は答える。
「外記の言う通り、役目のものを先きにすることにしたまでのことで、他意はない。それに、こんどの儀は元旦の礼などと違って、臨時の儀であるので、そう厳格にすることもいるまいと、到着の順に従ったので、われらせがれはいつもの通りのことになってしまったのでござる。かような例は往々にしてあることで、われらなども、よくわれらの下の者に先立たれることがある。あまり堅苦しく考えるもいかがなもの」
軽くいなそうとしたのだが、二人は、
「しからば、儀式の順序など、その時の都合で勝手にかえさせてもさしつかえないと仰せられるのでござるか」
と切りこんだ。
「一概にも言えないことながら、まあそういってもよいでござろう。折角の申出でである故、今後は家老座でもよく気をつけるでござろう」
と、原田は答えた。
古内源太郎はまだ少年のことだし、これだけ釘をさしておいたことだからと、その上追究する気はなくなったが、伊東采女の方は、これもまだ少年といってもよい年頃ではあるが、叔父の七十郎がついている。学問鍛えの剛直な男だから、筋道の立たんことは承知出来ない。かねてから藩政にたいして鋭い批判もある。これを機会にやっつけてやろうと、七十郎自身、采女の使となって、氏家伝次という者と同道して原田邸に行き、原田を詰問した。巨砲を連発するように、次から次にと論難した。江戸の士人の間にすら名声の響いている七十郎の論難だ、家柄家老の甲斐などが受けとめられるものではない。木ッ端みじん、完膚なきまでにやっつけられた。
甲斐は残念でならない。同僚の家老らとも相談し、
「われわれの処置をこうまで悪口し、家老たるものを口をきわめて誹謗嘲弄した以上、捨ておくべきではない」
と意見をまとめ、ひそかに江戸の家老らと連絡をとり、処分の方法を考究した。
この頃、兵部は一ノ関に帰っていたが、もとより厳罰説だ。江戸にいる田村宗良は寛大説だが、家老共にも峻烈な意見を持っている者が多く、厳罰説に押切られそうになったので、老中の稲葉正則に相談したところ、稲葉老中は、そう厳しい処分にせんでもよかろうという。力を得て、それで皆を説いて、やっと寛大にすることに決定させた。
その予定では、
「伊東采女は閉門、親類との往来も許さないことにする。氏家伝次も同断。伊東七十郎は浪人の身でありながら不遜な振舞に及んだのであるから、本来なら死罪にすべきであるが、特別をもって伊達式部に預け、牢屋をつくって入れ、他との往来は一切許さぬ」
ということにきまった。
評定役の茂庭主水が、この意志をふくんで、江戸から仙台にかえったのが、寛文八年の三月二十一日であった。
茂庭はその日のうちに伊東采女の在所である桃生《もものふ》郡小野に使を出し、七十郎と同道して急ぎ仙台に出てまいられよと言ってやった。采女は「かしこまった」と答えて、翌日仙台に出たが、多分小野で七十郎と相談の上であったろう、主水の許へ使いを出し、
「途中から病気になって、出頭いたしがたい。ご用の趣きを書面にてうかがいたい」
と言いつかわした。主水は、ただ、
「七十郎が出てまいったら、差出されよ」
とだけ言いおくった。采女は、
「七十郎は拙者出発の折は湯治にまいっていたれば、同道することが出来ませなんだ。しかし、ご用の旨を申し送っておきました故、明日昼頃には到着いたすでありましょう。されば、明日その時刻に拙者も病いをおして同道してまかり出ましょう」
と答えた。
その日の夕方、七十郎は仙台に出て来て、采女とともに里見十左衛門を訪ね、召されて出て来たことを告げた。里見老人ははっと顔色を曇らせ、
「それは定めて切腹を申し渡すためでござろうぞ」
と、言った。老人に言われるまでもなく、その不安を感じていた二人であった。神ならぬ身の、ごく寛大な判決が用意されていようとは思いおよばなかった。
帰邸すると、七十郎は采女に言う。
「われらの先祖肥前重信殿は、天正十六年に安積《あさか》郡本宮においての戦いに、政宗公のために奮戦、討死された。われらも重信殿の忠烈をついで、お家に忠烈をいたそうと思うが、いかが」
「どうすればよいのです」
と、采女は純真だ。
「兵部殿がああしておられるかぎり、お家は闇、今のぶんでは滅びんこと必至である。されば、今の忠節としては、兵部殿を刺すよりまさるはないと存ずる」
「その方法は?」
「以前、そなたの父君新左衛門殿が両後見役にもとめられて家老になられる時、両後見役から政治に依怙《えこ》をせぬという誓書を取ってから、家老になられた。新左衛門殿が卒去されたあと、兵部殿がその誓書を返すよう度々申されたが、われら存ずる仔細があって、そなたに申して返させずして今日に至った。されば、あれを返すと兵部殿に沙汰するなら、兵部殿は必ずそなたを引見されるであろう。両後見役の前に出る時は、脇差類を帯びることを許さぬ定めであるが、誓書を入れた筥《はこ》の底に短刀を秘めおくのだ。そなたはそれを持って一ノ関に行き、大切なものなれば人|伝《づ》てには奉りがたし、手ずから奉ろうと言い、兵部殿に近づき、一刀に刺し殺すのだ。その際、われらはそなたの僕《しもべ》に変装し、玄関にひかえていて、さわぎが起ったらば、そのままに切り入り、同じ枕に切り死にいたそう」
と、七十郎は秘計を明かした。
七十郎のこの計略は、燕の太子|丹《たん》の依頼を受けて、秦王政(後の始皇帝)を暗殺しに行った|※[#「くさかんむり/刑」]軻《けいか》の工夫した計略だ。この時代の儒学書生らしい計画である。
采女は承諾した。悲壮な感慨に胸をしめつけられていたろう。
二人はひそかに用意をととのえた。七十郎は老中板倉内膳正の家老池田新兵衛とは学問上の友達でもあったので、それにあてて委細を書面にしたため、采女の兄遠藤平太夫にひそかに江戸に持って行き、名あての人にとどけるようにと頼み、夜ふけてから、采女と同道して仙台を出発、小野に引きかえした。
こんなこととは知らない茂庭主水は、翌日伊東家に使をつかわして、七十郎が来たなら、一人だけでよいからすぐに出頭させるようにと言ってよこした。伊東の留守宅では、七十郎が来ないので采女は迎えにまいったと、とりつくろって答えた。
小野につくと、七十郎は伊東家の家来共を集めて、計画を打ちあけ、
「やがて仙台から討手がまいるであろう。皆覚悟せよ。われわれは一ノ関に行き、一働きする」
と言った。家来共は仰天して、思いとどまるように再三諫めたが、七十郎は聴かない。
「主の命にそむき、主に忠義をさせぬとは、けしからぬ者共め! 手討にするぞ」
と、叱りつけた。
家来共は伊達家から与力として伊東家に付属させてある武士らと相談して何事か計画した。
二十三日のことであったというから、夜通し仙台から帰り、家来共に計画を打ちあけ、すぐその運びにしたのであろう、七十郎と采女は一ノ関に出かける支度をととのえた。下僕に変装した七十郎は、采女に先立って玄関に出、式台に腰をかけ、うつ向いてわらじをはいていると、いきなり、八方から人数が出て飛びかかり、おさえつけた。ふりかえってみると、皆伊東家の譜代の者共だ。
「うぬら! 何をする!」
と、大喝すると、
「伊東のお家が大切でございます。いたわしくはござれど、いたし方はございませぬ。おゆるし下され」
と言って、益々おさえつける。
さわぎを聞いて、采女が飛び出して来て、
「おのれら、推参な!」
と、刀を抜いて斬ろうとした。七十郎はとめた。
「譜代の家来共が心を一つにして、このように主にそむくのは、われわれの大望がついに遂げられぬ運命を示しているのじゃ。もはや何事も無駄、さわがれな」
このさわぎに、内海貞安という医者が、兵部の誓書をぬすんで逃亡したという。もはや伊東家の運命も先きが見えたので、これを兵部にさし出して、一身の取立を頼むためであったろう。不潔で、変り身の早いやつは、いつの時代、どこにもいるものだ。
以上のようなことがあったので、用意されていた判決は、全部詮議し直すことになった。
伊東采女は、家来共の忠義によって、一等を減じて、伊達式部へ預け。
七十郎は斬罪。
七十郎の父は切腹、母は死罪、七十郎の兄重頼は切腹、重頼の子三人は流罪、重頼の孫二人は仙台から十里外に追放。
氏家伝次は流罪、その子大造は仙台から十里外に追放。
以上、一度も糺問することなく、罪科を決定した。七十郎の父母はいずれも八十余歳であったというから、惨烈をきわめている。
壮烈であったのは、七十郎の死であった。七十郎が伊東家の家来共から仙台に引渡された時、これを受取ったのは藩の足軽頭の青木|弥三右衛門《やさうえもん》という者であった。身がらとともに渡された七十郎の刀を抜いてしらべてみると、ねた刃が合わせてない。青木は、七十郎に、
「あなたは一ノ関の陣屋に踏みこんで、兵部様を討取る企てであった由でござるが、お刀を見ますに、ねた刃も合わせてござらぬ。かねて聞いたほどにもないお人でござる」
と、冷笑した。すると、七十郎はにこりと笑って、
「それはおぬしなどにはわからぬことよ。なるほど、一人や二人を相手に戦うおりには、ねた刃を合わせる作法もあるが、多勢を相手の斬合いには、それではすぐ役立たずになる。わしは刀のつづく限り、腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくり、かばねの山を築くつもりでいたのだ。かかる作法のあることを、よく覚えておくがよい」
と答えた。青木は汗を流して恥じたという。
入獄の日から、七十郎は食を絶った。牢番|頭《がしら》は、昔渡辺九郎左衛門が上意討ちにされた時、飛びこんで行って討手二人に力を添えたあの小者の万右衛門の後身であったが、卑賤の者ながら剛勇な男だけに七十郎を尊敬し、
「そう食べなさらんでは、心臆して食気《くいけ》がなくなられたと取沙汰されぬものではありませぬ。あなた様ほどのお方が、残念ではございませんか」
と言って、無理に食べさせようとした。
七十郎はからからと笑って、
「そちの気持はよくわかっているが、おれは食を絶つことすでに三十日に近いが、少しも気力がおとろえはせんぞ」
と言って、立ち上り、力をこめて足ぶみすると、床がとうとうと鳴って震動したという。
入獄して三十四五日目に、誓願寺川の河原で斬られることになった。七十郎は牢を出て引かれて行く時、
「いざ、拙者が最後の力を見せようぞ。しっかとついて来い」
と、縄取共にさけぶや、疾走した。繩取共は引きたおされそうになって、やっとついて走ったという。
いよいよ刑場について、首の座になおると、見物人らに、
「首を斬られて死ぬ時、男のむくろはうつ向き、女のむくろは仰向くと、昔から申しているが、拙者はむくろを仰向かせてみせる。もしそうして死んだら、拙者に神霊があり、兵部殿を三年のうちに取り殺すと知りなされよ」
と言った。
斬手は万右衛門だ。剛胆な男だが、あまりにもすさまじい七十郎の様子に、ついおびえたのであろう。斬りかねて、半分ほどしか斬れなかった。
七十郎はおちつきはらっておきなおり、万右衛門をにらんで、
「心をしずめて、よく斬れ」
と言って、首をうんとのばした。
万右衛門はさっと斬りおろし、こんどは見事に斬った。その首がおちると共に、七十郎の足は前にふみ出され、胴体はうしろにたおれてあお向けになった。
見ている人々はぞっとしてふるえ上ったという。
伊東一家の惨烈な処罰には、全藩ふるえ上った。十一月末日には里見十左衛門老人も、憂憤のあまり病気になって死んだ。今はもう伊達家には一人として兵部のなすところに非を打つ者はなくなったように見えた。兵部とそれに密着している人々の全盛時代が到来したかに見えた。
しかし、こんなに見える時は、すでにその衰亡が用意されているものだ。伊達安芸が隣り領との境目《さかいめ》問題をひっさげて立ち上ったのだ。
安芸が表面問題にしているのは、先代忠宗の五男で、白石伊達家をついだ式部宗倫との領分境目の争いであるが、その本当の狙いはここにはない。これを手がかりにして、兵部一派の力をゆすぶり、藩政を粛正するにある。政治干与を封ぜられている公族である安芸としては、これよりほかに方法がないのである。
安芸の家は本姓は亘理《わたり》氏で、藤原秀衡の末裔だ。政宗から三代の祖伊達|稙宗《たねむね》の十二男の元宗が亘理氏の養子になってから、伊達の血統になって、亘理郡から遠田郡|涌谷《わくや》に所がえになり、その孫定宗の時から伊達氏を名のるようになった。安芸宗重はこの定宗の二男で、若い頃には天童家に養子に行って天童甲斐と名のっていたが、兄が死んだので、帰って来て実家をつぎ、伊達安芸と名のるようになったのだ。
若い頃はなかなかの乱暴者であった。こんな話が伝わっている。まだ天童家にいる頃、伊達本家の狩場で猟をしたことがわかり、当時の藩主政宗に叱責された。安芸は宮城郡の国分寺に入って謹慎し、謝罪の意を表した。寺に和尚の寵愛している美少年がいた。安芸はこれに恋着し、罪をゆるされて帰宅することになった時、連れて去ったというのだ。
青年時代にはこんなに乱暴であったが、年とともに学問が好きになり、なかなかの人物に自らを練成して行った。禅学をやって悟道に達している上に、この時代の武士にはめずらしく漢詩をつくった。
一堤、垂柳緑なり。両岸、落花|紅《くれない》なり。
この時に及んで楽しまずんば、
何ぞ能く世豊を識らん。
舟は行く春月の下。人は語る水烟の中。
瓢酒、傾けて猶《なお》好し。
箇《こ》の情、誰か同じきを得ん。
というのが、その一つだ。文武兼備の人であったのである。
ついに安芸はこれを幕府の公裁にまで持って行き、寛文十一年三月二十七日、酒井大老の宅における原田甲斐との対決まで漕ぎつけた。
安芸はその家中全員死を決し、二百五六十人の壮士をひきいて江戸に出た。
その出発にあたって、安芸は涌谷の菩提寺の円洞寺という妙心寺派の寺に行き、住職の石水和尚に会うと、和尚は安芸に、
「いかんか、これ刃上の事」
と大喝した。
安芸は直ちに、
「法戦場中に勝旗を立てん」
と答えた。すかさず和尚はまた問う。
「意思は如何に」
「無二無三!」
「いかんかこれ生死《しようし》の大事?」
「一|超《ちよう》直ちに如来の地に入らん!」
安芸の悟達の深さもだが、彼が死を決して、江戸に上ったことがわかるのである。
これほどの人物であり、これほどの覚悟をきめている安芸だ。ただの家柄家老にすぎない原田甲斐などがかなうものではない。安芸の弁舌が堂々として少しも渋滞がなかったのに、甲斐はしどろもどろであった。
しかし、甲斐は決して悪い男ではない。兵部に密着して藩政の局にあたり、ほとんど一手に政務を切りまわしていたが、自らの利を貪りなどはしていない。
「兵部様は公儀から仰せつけられたご後見だし、ご一門中の最も高いお方だから、その思召しにそむいてはならない。兵部様に由々しいご野心があるようなことを言う者があるが、それは事情をよく知らない者のひがみだ」
と思いこんでいる。その甲斐から安芸のしわざを見ると、
「たかが少しばかりの領分のことに欲を掻いて、お公儀まで持ち出して、お家の恥をさらすということがあるものか」
としか考えられない。
この心が、酒井邸内における刃傷になる。
甲斐は安芸を斬り、自分も柴田外記とやはり伊達家の家来の蜂屋六左衛門とに殺され、柴田と蜂屋は事情を知らない酒井の家来らに斬られるという大惨劇となった。
この惨劇のあったのは、寛文十一年の三月二十七日のことであったが、幕府では四月三日、判決を言いわたした。
「家中の仕置よろしからず、年々刑罰の族《やから》がたえず、家中の者共が不安にかられているばかりでなく、こんどは原田甲斐が不届なことをしでかした。ひっきょう、これは後見役たる兵部と田村とが不和で、家中の統制が取れぬためである。とりわけ、兵部は先代綱宗の不都合をよく知っていながら、このようであること、一しお不届である。松平土佐守へ預ける」
と、兵部に申しわたし、土佐の山内家に預けた。兵部は土佐にあること九年、延宝七年、五十九を一期として病死した。
兵部の子の市正宗興は、
「父の咎により、小笠原遠江守に預ける」
と申し渡され、豊前小倉の小笠原家に預けられた。市正は三十二年の長い間小倉にあり、元禄十五年に病死した。
田村宗良にもお咎めがあったが、これは病身で領地にもかえれず、ずっと江戸にいたため、兵部の言うことに従うよりほかはなかったのだから、情状酌量の余地があるとて、閉門だけを申し渡された。
四月六日には、亀千代丸、当時元服して陸奥守綱基(十三歳、後に綱村)となっているのを呼び出し、
「本来ならば領地を公収さるべきであるが、若年故、後見人ならびに家老らに責任のあることである。されば宥免する」
と、申し渡し、なお、
「すでに元服して、礼日等には登城もしていること故、もはや後見は必要なかろう。家老共、よろしく申し合わせて藩政をとるよう」
と、言い添えた。
兵部の所領は本家にかえされ、その家来共も本家に帰参した。
この幕府の判決を見てもわかるように峻烈な処罰は全然ない。兵部はわがままではあったかも知れないが、不軌の企てがあったろうとは思われない。だから、原田甲斐があんな乱暴なことをしなければ、兵部にしても、甲斐にしても、大した罪には処せられなかったのではないかと、ぼくは思っている。
要するに、この騒動は伊達家の老臣らに人物がいず、目付ごときに引きまわされて、家中を和熟して統制することが出来ず、藩中の不平不満をおさえつけようとして無暗に権力と刑罰を使ったというケースだ。言ってみれば、当時の伊達家中は、敗色濃くなった頃からの東条内閣下の日本のようなものだったのだ。
そこでその目付、渡辺金兵衛、今村善太夫、横山弥次右衛門(里見正兵衛は早くやめてこの男になっていた)らの始末だが、伊達家の一族である宇和島の伊達家へあずけられ、それぞれ五人扶持を給せられることになったが、渡辺は絶食して自殺し、あとの二人だけ宇和島へ下った。今村は元禄四年宇和島で病死し、横山は元禄六年に赦免になって仙台に呼び返され、親類共はその世話をするよう言いつけられた。
こういう仙台藩の態度を見ても、俗説や芝居で言うような悪人はいなかったとしか思われない。
[#改ページ]
黒田騒動
前おき
大名の家に家柄家老のあるのを、今日的常識で悪くばかり解釈してはならない。大名の家にはそういうものが必要な面もあったのである。家柄家老は漢語では「社稷の臣」というのが一番あたる。当代の主君につかえるのではなく、その家につかえるのだ。お家が安泰なように、お家の名誉をおとさないようにとたえず気をくばり、心をくだくのである。江戸時代の諺に、「殿は一代、お家は末代」というのがあるが、それはこの心持を言ったものである。
家柄家老とはこんなものであったから、それは一族の子孫か、しからずば創業の功臣の末であった。また殿様にとっては、相当煙たい存在であった。諸家における家老はなかなか重いもので、殿様でも家老の出仕を迎えるには敷物をおりたものであるなどと言うが、それは家柄家老のことなのである。
家柄家老はこんなものであったから、殿様としては使いにくい、親しみも持てない。あるいはまた手腕のないものもいる。いずれであっても、殿様としては別に家老をこしらえる必要がある。それは単に気安く使う者がほしいための場合もあり、利口で切れる人物がほしいための場合もありだが、いずれにしても、こうして出来た家老が日常の藩政の局にあたる。これを仕置家老という。
黒田騒動は、殿様が家柄家老をきらうあまりに仕置家老を信任しすぎたために、家柄家老が腹を立てたという騒ぎである。栗山大膳のとった手段にたいしては、ぼくは大正年代以後の学者諸先生方のように非難ばかりはしない。相当同情もし、敬意をはらいもするが、せんじつめたところは、今書いた通りである。講談や芝居では黒田家に亡ぼされた家の怨霊がたたったり、若い美男の悪家老が淫奔な美しいお部屋様と密通したり、色々とうるさい道具立てがあるが、実説は殺風景なくらい単純をきわめている。
黒田騒動の中心人物は、栗山大膳である。栗山家は、黒田家の柱石、家柄家老の筆頭であった。大膳の父は備後、なかなかの人物であったが、黒田家の譜代の臣というではなかった。黒田家は江州の守護大名佐々木氏の一族で、北江州の木之本《きのもと》近くの黒田郷に住んでいたので黒田を名のるようになったのだが、本国を去って数代貧苦のうちに中国地方を流浪した末、如水|孝高《よしたか》の父|職隆《もとたか》の時に播州|御着《ごちやく》の城主小寺家の家老となり、姫山《ひめやま》(後の姫路)城代となったのが、新たに黒田家のおこるもととなっているから、この家には譜代の臣などありはせんのである。
備後は幼名を善助、後に四郎右衛門、また備後、名は利安。「栗山大膳記」によると、代々播磨の守護大名赤松氏に仕え、天文二十年、同国|淡河《おおご》城で生まれたとあり、森鴎外の「栗山大膳」はこれに従っている。貝原益軒の「黒田家家臣伝」の記述は少し違う。先祖は赤松家の世臣で、姫路に近き所にありし栗山何某が子として天文二十年に生まれたとある。
ぼくの見当を言えば、貝原説をとりたい。姫路市の南方に、あるいは現在では姫路市に編入されているかも知れんが、栗山という土地がある。ここに住んで在名をとって栗山なにがしと名のっていた、百姓だか士《さむらい》だかわからないような身分の者の子として生まれたと解したい。いかにもこの時代にありそうな話に思えるからである。あるいは淡河の城主淡河氏は赤松氏の庶流であるから、善助少年の父は一時淡河氏につかえて淡河城にあり、その頃善助を生んだのかも知れない。
善助は十五の時、当時二十歳で、小寺官兵衛孝高といっていた如水の許に奉公にまかり出た。
「ご当家のご様子を見ていますと、事につけまことにすぐれて、世間でもやがては大国の主となられるであろうと風説していますので、お慕い申して、主君に頼み奉りたく存じて、まかり出でました」
というのが、その口上であった。
からだは小柄だが、顔つき引きしまり、ものの言いぶり、身のこなし、きびきびと気がきいていて、しかも誠実そうだ。官兵衛は気に入って、善助の親許へも話を通じて召しかかえ、小姓として召し使った。
これから四年立って、母里《もり》万助――後の母里太兵衛が奉公に上り小姓に召しかかえられた。万助はすでに黒田家の家来となっている家の子供であった。これもこの国の加古《かこ》郡に母里という土地があるが、ここを在所としていた郷士《ごうざむらい》の出であろう。この万助が後に福島正則から日本号の名槍を飲みとり、今に至るまで黒田節に歌われる豪傑に生長して行ったことは皆様ご承知であろう。万助はこの時十四であったというから、善助は万助より五つ上の兄であった。さらに善助より五つ上が孝高。三人はそれぞれ五つ違いであった。
つまり、栗山も母里も、黒田家の譜代の臣ではないが、草創の臣なのである。
栗山の黒田家にたいする勲功は数えきれないほどであるが、最も大きなのが二つある。その一つは、栗山二十八から二十九にかけてのことである。
天正六年の冬、荒木村重が突如として信長に叛旗をひるがえし、伊丹の有岡城にこもった時、小寺官兵衛が荒木に忠告するために有岡城に行き、荒木にとらえられ、満一年間、有岡城内に幽閉された話は有名であるが、この幽閉中、栗山、母里、井上九郎二郎(後の周防)の三人は、かわるがわる商人すがたに身をやつして伊丹に行き、様子をさぐった。荒木は官兵衛は志を変じて味方となったと言いふらしていたが、実際は一切消息がわからなかったのだ。生死のほどさえわからなかったのだ。やっとのことで、いのちだけは助かって、城内の牢に入れられていることがわかった。
三人は手をとり合って泣いてよろこんだが、こうなると、一目でも会いたくなる。なおさぐり、その牢が城内の西北隅にあることをつきとめた。そこは後ろに深い溜池があり、三方を大竹藪にかこまれ、日の光もささず、いつも陰湿な気がじけじけと立てこめているところであるという。栗山は、一夜ついにこの溜池をおよぎわたって牢にたどりつき、官兵衛に会った。
当時、官兵衛は肉落ち、骨枯れ、全身しらみと蚊に食われ、あとが瘡《かさ》となって全身を蔽い、見るもむざんな姿となっていたというから、相見た時の主従の悲喜のほどが想察出来る。
栗山はきてんのきいた男だ。かねて知っている伊丹の町の金銀細工人|銀《しろがね》屋新七という者に頼みこんで、番の者に|わいろ《ヽヽヽ》をおくって取入り、後にはほぼ自由に会えるようになった。
城は満一年の後、滝川一益の手で落ちた。栗山は主人のことが気になるままに、寄手《よせて》の勢中の知人の陣に身を寄せていたので、城に火のおこるを見るや、かねて知った忍び口から駆け入り、牢を破って主人を救い出した。
官兵衛は前述のように満身に瘡を病んでいる上に、長い間の牢舎住いのために足がすくんで萎《な》えている。栗山は背負い出し、有馬温泉に連れて行って湯治させ、ようやく癒《なお》したが、それでも頭はジャリはげになり、片足の膝は曲ったままついにのびず、軽いちんばとなった。
官兵衛は稀世の才人であるばかりでなく、気性もすぐれて強い人であったから、栗山の助けがなくとも生きのびたであろうが、それでも時々栗山が来てくれたことによって、大いに気力づけられたことは疑いない。沈着で、才気があり、この忠誠心があれば、後来老臣とされることは疑いないのである。
もう一つは、関ケ原役のおこる直前のことである。これは栗山が五十の時のことである。関ケ原戦のはじまりは、上杉景勝が居城会津で旗上げし、それを征伐のために家康が諸大名をひきいて東に向かったすきに、西で石田が徳川打倒を名として西国大名らを糾合して、事をおこしたのである。
しかし、この段取りは、当時の心ある大名らには、皆予測出来ていた。だから、当時の黒田家の当主長政は、家康に従って東征するにあたって、最も信任する栗山と母里とを大坂天満の屋敷にのこして留守居させた。この時黒田家は、如水は国許の豊前中津におり、大坂藩邸に、如水夫人と長政夫人とがいたのである。
長政は二人に見通しを語って、
「ことが起ったらば、両ご前《ぜん》を国もとへお連れ申せ」
と、言った。
長政は石田が大きらいなのだ。加藤清正・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・福島正則・細川忠興・加藤嘉明等、七人の大名は石田ぎらいで当時最も有名な人々で、この前年の春には七人申し合わせて石田を討取ろうとして大さわぎとなり、石田は徳川家康のところへ逃げこんで、やっと助かったのである。この七人は秀吉の子飼い、あるいは子飼いといってもよいほどに恩顧を受けて生い立った人々だが、そろいもそろってそれにきらわれたというところに、石田の性格上の欠点が考えられ、従って関ケ原役における彼の悲運も解釈出来るのである。
さて、はたせるかな、石田の乱はおこり、大坂中大さわぎとなった。
「さあ。はじまった。早く両ご前をお国許へお連れ申さねばならんな」
と、栗山と母里が相談していると、一夜、かねて黒田家と懇意である大坂城七手組の将|郡主馬《こおりしゆめ》がひそかに来て、石田らが諸大名の心を家康から引きはなすために、その夫人らを人質として城中に引きとる決議をしたと知らせてくれた。
もはや一刻の猶予も出来んと、早速にその準備にかかる。藩邸出入りの町人納屋小左衛門に相談をかけると、小左衛門は、お引受けします、ともあれ、てまえ宅までお連れなされよ、と答えて、自分の寝所の床下に畳じきのかくれがまでこしらえてくれた。しかし、早くも城中から見はりの兵をつかわしたので、屋敷から出すことが出来ない。
ここから、所伝が二つにわかれる。
「黒田家譜」では、監視の目が一番とどかないのは、屋敷の裏手にある湯殿のへんなので、夜にまぎれてそこの壁の下をうがち、両夫人を俵につめて穴の外に持って出、そこで籠に入れ、母里が身に粗麻《あらあさ》の古かたびらをまとって商人すがたとなり、天秤棒でになって、川ばた沿いの葦原の中を小左衛門の家に運んだと記述している。
もう一つは「古郷物語」だが、これには、母里がにせ病人となって、夜着をうしろにかけて乗物に乗って門を出て、番所の前を通るとき、
「病人にて医者にまいる。これから毎日通るによって、この旨心得られたい」
「さらば乗物の戸をあけて通られよ」
「かしこまった」
あけると、ひげ蓬々の男が髪ふり乱し、大鉢巻で、暑熱の季節なのに、夜着を打ちかけてうんうんとうなっている。大熱往来の大病人のていだ。気の毒がって、お通りあれと通してくれる。
数日これをつづけると、番人らは馴れっこになって、のぞかなくなった。母里は夜着の下に如水夫人をかくして連れて出、翌日また長政夫人を連れて出たとある。
この二三日あと、城中から軍勢が来て、両ご前はご在邸かと聞いた。
「ご在邸でござる」
「たしかに?」
「たしかにご在邸でござる」
兵らは番の者だけのこし引き上げたが、間もなく城中から使が来て言う。
「両ご前を見知った女をつかわす故、顔あらためをさせてもらいたい」
「さむらいの女房のおもて吟味をさせること思いもよらぬ」
と、栗山はことわったが、相手は、他の大名衆の奥方も皆そうすることになっている、物かげからでもゆるしていただきたいと言う。
「主人帰陣いたしたらば、いかなる科《とが》に処せられようかわかり申さぬことながら、余儀なき場合なれば、物かげから見せ申そう」
と、答えた。
やがて二人の女が来た。一人は如水夫人の若かった頃を知っている女であり、一人は長政夫人の十二の時に見たことのある女だ。この時、如水夫人は四十八、長政夫人は十六であったという。
栗山は如水夫人と年かっこうの似た侍女を蚊帳の中に寝かせ、その娘を蚊帳の外にすわらせ、母娘でのどかに物語している様を、見知人《みしりにん》どもを一|間《ま》へだてたところに案内してのぞかせた。幸いにして見知人らはごまかされて、おふたりに相違ないと証言したという一幕もあった。
船の手筈は、黒田家の運漕用達をしている播州の船頭梶原太郎左衛門という者を説きつけて、木津川沖に用意させたが、そこまでどうして運びこむかが問題であった。石田らは木津川と伝法川との分れるところに、舟番所をおいて、脱出を警戒しているのだ。
黒田家譜では、城中から人数を出し、先ず城近い細川屋敷に行き、忠興夫人ガラシャ玉子を城内に引き取ろうとしたところ、細川邸ではこれを拒み、戦争になり、やがて細川方は屋敷に火を放ち、夫人も武士らも炎の中に自殺した。これに懲りて、石田らは大名の夫人を城中に引取ることは断念したのであるが、この火事の時だ、舟番所に詰めていた兵士らは、
「すわこそ、敵がお城におしよせた!」
とばかりに、それぞれに小舟に打ちのって城に向かい、番所の人数が少なくなった。母里はこのすきを見て、かねて用意の大きな箱に二夫人をひそませ、小舟にのせ、納屋小左衛門の家の裏の川から、大川筋に乗り出した。川口の番所にかかると、番所頭は母里のかねて親しく交際している菅《すが》右衛門八という男だ。
母里は穂の長さ二尺六寸、七尺五寸二分の青貝の柄がつき、熊の皮の杉なりの鞘をはめた日本号の槍を持ち、すぐって強壮な若党十五人を連れていた。万一の場合は破っておし通るつもりだ。
母里は船から番所に飛びおりると、槍をつきしめた。若党らも飛びおり、太兵衛のうしろにおしならぶ。
「やあ、右衛門八殿、久しや。われら在所に用事あってまかり下るところでござる。舟の中|心許《こころもと》なくば、改められよ」
菅はことめんどうと見て、
「ごへんの船がなんで心許ないことがござろう。改めるまでもなし、お通りあれ」
と言って通してくれた。
「古郷物語」では、菅との問答が播磨船に乗りうつってからのことになっていて、細かな部分にかなり相違がある。
母里は播磨船に乗り移ると、水槽の底を破って両夫人をそれに入れたところ、番船が漕ぎ寄せて来た。その番船の長が菅であった。母里はひらりと飛んで番船にうつった。
「いかに右衛門八殿、しばらくぶりじゃの」
「太兵衛殿か。さてさて、不慮の乱がさしおこったのう。わしは如水様にも、甲斐守(長政)様にもおねんごろな心入れをたまわって、ご恩のほどは忘れたことがないに、こんどはひょっとすればおん敵となって戦わねばならぬこととなった。まことに心苦しいことじゃ。とかく士《さむらい》の身ほど不思議なものはないのう」
「いかにも、いかにも」
たがいにしみじみと語って、
「当大坂には如水様と甲斐守のご前がおられるが、それには栗山がついている故、わしは国許へ下ろうとて、こうして出てまいった。治部少(石田)めが無用なことを企てたため、われらも親しいごへんなどと敵味方になって戦わねばならん羽目にもなりそうな。にくいやつとは思うが、これがさむらい共が身をおこす便りになると思えば、口ばしの黄《き》な若年者にしては奇特と思わんでもない。ハハ、ハハ、ハハ、さらば潮時もちょうどようなった。船を出すわ」
存分にしゃべり散らして、播磨船に乗り移る。菅はあわてて、
「太兵衛殿、われら役目にて出入りの船を改めている。船を改めますぞ」
と言って、番卒らにさしずした。三十人ほどの番卒らはばらばらと乗りうつろうとする。すると、母里は、
「いかに右衛門八殿、大切なことじゃ。人まかせにすることではない。ごへんみずから改められよ。われらがことじゃ。船底のへんになにをかくしているかわかりはせんぞ」
と言って、からからと笑った。菅は、
「それもそうか。なるほど、太兵衛殿はいたずらものであったわ。その方共はこれにおれい。おれが自身改める」
と言って、船に乗りうつり、船底をしらべ、また水槽を槍の石突きで二つ三つついて、
「ああ、これにも水がだぶだぶというているわ。なにも怪しいものはないぞ」
と、高々と言って、
「さらば太兵衛殿、縁次第に」
とあいさつして、番船にかえったというのが、古郷物語の記述である。
こうして母里に両夫人を守護させて大坂を脱出させた後、栗山も大坂を出て、陸路を先ず播州の飾磨《しかま》の港まで行った。ここは姫路の南五六キロで、栗山にとっては故郷といってよいところだ。いろいろと便宜もある。たやすく便船を得て、豊前中津へ帰りついた。
もちろん、両夫人は先着している。如水は大いに喜び、安心して、おりしも在国中であった肥後の加藤清正と連絡をとって、西軍所属の九州大名らの征伐にかかり、およそ十日あまりで、半数以上を平げ、のこるところは小倉の毛利吉成、久留米の小早川秀|包《かね》、柳川の立花、薩摩の島津だけとなった。トントン拍子の勝ち戦さに、五十五歳の如水の夢はしだいにふくれ上った。如水は当代一の智者である。秀吉が織田家の一将領として中国経営にかかる頃から、そのブレーンとなり、天下統一に至るまでの間の、その献策の功はならびなきものがあるのに、報いられることあまりに薄く、わずかに中津十二万石をあたえられたにすぎなかったのである。
「九州を平げたら、勢に乗って上方に馳せのぼり、東西いずれかが勝つか知らんが、勝った方と天下を争おう」
と、決心して、最も精力的に働きつづけた。これが如水をえらくするためのつくり話ではなく、事実であったことは、この年の十月四日付で、如水が吉川広家に贈った手紙に、「美濃口の御取合ひ(合戦)、当月までござ候はば、中国へ切りのぼり、花々しく一合戦つかまつるべくと存じ候に、はやくも内府ご勝利にまかりなり、残り多く候」とあるによってもわかる。
さて、如水が関ケ原役の報を受けとったのは、九月末のことであった。かねて大坂、鞆《とも》、上《かみ》ノ関の三カ所に配置しておいた早船が知らせてくれたのである。間もなく、長政からの手紙もとどいた。
長政はこの合戦には、徳川家のために大功績がある。先ず福島正則を説きつけて家康に味方することに踏み切らせたことだ。福島は秀吉のいとこで、豊臣家とは浅からぬ血縁があり、豊臣家の恩義を負うこと最も深いものがある。それが家康に味方することになったので、秀吉の恩を負うこと深い他の大名らも、家康に味方しやすくなって、多数味方することになったのだ、さらにまた、長政は小早川秀秋を口説いて、裏切りを約束させた。これは最大の功績であった。この合戦において、西軍中の毛利隊、吉川隊、長曾我部隊、安国寺|恵瓊《えけい》隊などは一戦もしないで見物しているにすぎなかったのだが、それでも東軍はおそろしく苦戦した。勝敗容易に決せず、ややもすれば押され気味で、家康は自分の拳を血の出るほどに噛んでいら立った。やっと小早川秀秋隊が約束によって裏切りし、松尾山上からさか落しに西軍に襲いかかったので、それから東軍に勝色《かちいろ》が出、西軍は惨敗したのである。
以上のほか、長政は吉川広家と毛利家の重臣福原式部とを口説いて、東軍に味方することを約束させている。この二家の軍勢が西軍として戦場に出ながら終始見物だけしていて一戦もしなかったのは、このためである。つまり、家康の関ケ原役の勝利は、長政の働きによるものと言ってよいのである。
だから、戦争直後、長政が桃配《ももくばり》の家康の本陣に祝いを言いに行くと、家康は長政の手をとり、
「この度の利運はひとえに貴様《きさま》のおかげでござる。末代まで忘れませぬぞ」
と感謝し、数日後には感状を贈っている。
[#この行1字下げ] 今度、ご計略をもって、誰彼あまた味方に属せられ、賊徒ことごとく一戦に突き崩され、敗北のこと、ひとえにご粉骨・お手柄ともに比類なく候。今天下平均の儀、まことにご忠節故と存じ候。ご領国の儀はお望みにまかすべく候。この儀子孫に至って忘却あるべからず候。ご子孫に永く永く疎略の儀これあるまじく候。よってくだんの如し。なお井伊兵部少輔申し入るべく候。以上。
慶長五年九月十九日
家康(判)
[#地付き]黒田甲斐守殿
というのだ。鄭重をきわめた感状だ。純情皆無の家康がこんなにまで書いたのだから、よほどうれしかったのであろうが、これがあるために黒田騒動はおこったともいえる。
さて、長政は関ケ原役では、こんな調略的な働きだけでなく、純粋の武功も立てている。合渡《ごうど》川の先陣をしたのは黒田隊であり、西軍中で最も強かった石田の先鋒である島左近の隊を撃破したのも黒田隊である。一体、猛将なのである。
だから、長政はこういう調略や武功を書きつらねて手紙として、如水の許に送った。この手紙を見て、如水はしたたかに腹を立て、
「さてさて、甲斐守、若き者とはいいながら、あまりにも知恵もなきことなり。天下分目の合戦、さように捗《はか》やる(はかどらせる)ものにてなきぞ。日本一の大たわけは甲斐守なり。何ぞや忠節立てをして、あれをくりわけ、これに裏切りをさせ、それほど急ぎて、家康に勝たせて、何の益はあるぞ。さりとは残り多きことかな」
と言ったと、古郷物語にはある。
また、間もなく長政がこの功によって筑前一国五十二万三千石の大封を賞賜され、筑前守に任官し、大得意で中津にかえって来て、如水に、家康がどんなに感謝したかを語り、
「内府様は拙者の手をとり、この勝利ひとえにごへんのおかげでござる、子々孫々に至るまでごへんの家に疎略はあるまじいぞ、と仰せられて、三度までおしいただかれました」
と言ったところ、如水はにこりともしないで、
「フウン、内府がいただいた手は、左手であったか、右手であったか」
と、言った。不思議な問いなので、まごつきながらも、長政が、
「右手でございました」
というと、如水は、
「フウン、その時そなたの左手は何をしてたのだ」
といったので、長政は言うべきことばがなかったという。
如水と長政の気宇と器量の差がうかがわれるのであるが、如水は十二万石にしかなれず、長政は五十二万三千石、栗山大膳の晩年の話によると実際は百万石もあった大封の主となったのだから、力量と福運は別なものと見える。
長政は関ケ原戦のあった慶長五年の暮に、豊前から筑前に入部し、博多湾の東岸にある名島《なじま》城に入った。この城は小早川隆景の築いたもので、長政の入城するまでは隆景の養子秀秋が居た。秀秋が隆景の譲りを受けた時は五十二万石余あったのだが、朝鮮役での不首尾によって秀吉の怒りに触れ十五万石に減ぜられたのであった。しかし、こんどの関ケ原の裏切りの功によって、備前、美作五十万石に封ぜられて岡山城に移ったそのあとに長政が入って来たのである。
如水も長政も、名島城が気に入らなかった。要害はよいが、城下が狭いので、近世の城下町としては不適当であるというのだ。そこで、新たに博多の町の西隣那珂郡|警固《けご》村の福崎の地を相して新しく城をきずき、福崎を福岡と改めた。黒田家の先祖が備前|邑久《おおく》郡の福岡にいたことがあるので、それを記念するためであったという。
福岡城は、名島城をこぼってその古材木を利用してこしらえにかかったのだが、何といっても城だ。完成までにはまる二年かかったという。その普請半ばの七年十一月に、長政夫人が産気づいたが、本丸には産室にあてるようなへやもないので、一の家老の、往年の栗山善助、四郎右衛門、備後利安に、その頃あずけていた東の丸に入って出産した。生まれたのは男の子であった。長男だ。万徳丸と名づけられた。後に忠之《ただゆき》となる人だ。
栗山備後は黒田家が中津にいる時は六千石で、福岡に移ってからは一万五千石であった。彼の長男は大吉、万徳丸の生まれた時十二であった。これが後に大膳|利章《としあきら》となる。
福岡城が完成すると、およそ五年間に領内に六つの城をきずいた。嘉摩《かま》郡大隈城、ここの城代は後藤又兵衛、鞍手《くらで》郡|鷹取《たかとり》城、これは母里但馬、上座《じようざ》郡|左右良《まてら》城、これは栗山備後、遠賀《おんが》郡黒崎城、これは井上周防、同郡若松城、これは三宅三太夫、上座郡|小石原《こいしはら》城、これは黒田六郎右衛門。
この人々はもちろんあずかっている城に行ききりではない。城に行ったり、福岡の邸に来たりしていたのだ。とりわけ、栗山、母里、井上の三人は家老職でもあるので、福岡にいて国政を沙汰する時の方が多かったろう。
ここで栗山備後の人物を説明しておく必要があろう。備後が善助と言った少年時から、誠実でありながら機転がきき、物静かな性質であったことはすでに説明したが、年をとるにつれて、一層誠実になった。貝原益軒は、「黒田家家臣伝」の中で、こう書いている。
「すべて利安は謙退の心が深く、主君を大切に思い、家中の者にはその身分の高下によらず慇懃《いんぎん》であった。道で家中の者に行き逢えば、必ず下馬して鄭重にあいさつ答礼した。華美ぜいたくを好まず、常に倹約を守った。家中の者で、平日に美服をまとっている者を見ると、呼びつけて強くいましめ、衣服には公の場合、私用の場合、晴れの場合、常の場合の差別があるべきであると教えた。家中の者が何かのために値段の高い馬を買ったと聞けば、どんなよい馬でも二頭分の用には立たないと意見を加えた。こんな風で、いつもこせこせとして、吝嗇《りんしよく》なように見えたが、大事な場合にはおしげもなく金銀をつかった。小身な士《さむらい》らが貧しいために殿の江戸出府にお供する支度がととのいかねる時や、普請役などを仰せつけられて金策にこまっている場合などには、よく金を貸したが、後で返済すれば受取るが、返済しないからとて催促はしなかった。その死後、調べてみると、黒田家が筑前に入国して以後、彼が家中の者に用立てて未返済の分だけでも銀百貫目におよんだという」
備後は慶長九年三月、五十四の時、如水の死を葬《おく》った。その時、如水は備後に、自分が九州合戦の時に着た合子《ごうす》の冑と唐革縅《からかわおどし》の鎧とをあたえて、
「筑前守(長政)がこと、くれぐれも頼むぞ」
と、とくに遺言した。
元和三年、六十九となった備後は、家督を子供の大膳利章にゆずって隠居し、卜庵昭占《ぼくあんしようせん》と号した。長政は隠居料三千石をあたえた。この時、大膳は二十七であった。
こうして大膳が黒田家の首席家老となって七年目の元和九年、長政は忠之をつれて、秀忠将軍父子の供をして京に上っている間に、病気となり、次第に重態となったので、八月二日、大膳と小河内《おごうくら》蔵允《のじよう》とを呼んで、ねんごろに遺言した。小河は創業の臣でも、門閥の生まれでもなかったが、経済のことが明るく、また至ってきまじめな性質であったので、長政がとり立てて、家老の一人となっていたのである。つまり、大膳は家柄家老、小河は仕置家老である。
長政がどんな遺言をしたかについては、明治年代に春陽堂から出た「古今史譚」第一巻の「黒田騒動の顛末」中に、「遺言覚」と称するものの全文が出ている。この時の長政の遺言を筆録した体裁のもので、ずっと栗山家に伝承されたものだという。ずいぶん長いものだが、要は如水と自分との徳川家にたいする奉公ぶりを述べ、関ケ原役の勝利は自分の力で得られたもので、家康公は自分に感謝されること一方でなかった、だから、もし子孫に不覚者があって公儀のきげんを損じ、取潰しなどの処分に逢う|はめ《ヽヽ》になったら、所縁の公儀の老中方のところへ参り、二代の功を申し述べて嘆願せよ、謀叛以外の罪なら、きっと宥免《ゆうめん》され、筑前一国は取りとめることが出来るはずである、しかし、このことはその方共だけの胸中に秘めて、他には漏らすな、みだりに聞かせると、安心して懈怠《けたい》心が出て来るおそれがあるからだと、大体こんな意味のものである。
しかし、これは特に大切に思われた遺言の一部分だけを書きとめたので、全体の遺言はこのほかのことにも触れていたはずと、ぼくは思う。果してそうなら、それはこの後のことの推移から考えて、次のような要領のものではなかったかと思う。
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一、忠之を家督とするから、自分にたいしたようによく補佐してくれるように。
二、忠之は弟らを可愛がれよ。(忠之の次弟に妾腹の政冬、同腹の三男長興、四男高政がある。長興と高政とは、この年の十月に、前者は秋月五万石、後者は鞍手郡東蓮寺で四万石を分封されている。政冬はこの翌々年二十一で病死している)
三、国政はすべて大膳・内蔵允・黒田一成の三家老で相談して行い、重大なことは隠居している卜庵(備後)と道柏(井上周防)とに告げてとりきめよ。
四、徳川家が天下取りになれたのは、ひとえに如水様と予の功績による。証拠として、家康公から賜わった感状を渡しおく。万一の際にはこれをもって家の安泰を保つことが出来よう。(遺言覚はこの個条だけを筆記したのであろう)
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遺言をおわると、長政は安心したらしく、中一日おいて八月四日、亡くなった。五十六であった。
遺骸は国許へ運んで、箱崎の松原で荼毘《だび》に付したが、その柩《ひつぎ》の先には大膳が手を添え、後へは忠之が手をそえた。
父の死によって忠之が五十二万三千石の太守となったのは二十二歳であり、首席家老の大膳は三十三歳であった。
一体、この二人は主従とはいいながら、兄弟のようにして育っている。先ず忠之は大膳の家で生まれたのである。当時大膳は十二歳だ。弟の誕生に似た気持があったにちがいない。忠之も長男、大膳も長男であるから、よほどのことがないかぎり、忠之が黒田の当主となり、大膳がその首席家老たる栗山家の当主となるにきまっている。親しみを持ったはずであり、うちとけたはずである。
後に大膳が忠之を訴えて、幕府の老中らの裁判となった時、大膳がこう言っていることが、「栗山大膳記」にある。
「忠之は若い時から不心得な人物だったので、筑前守(長政)はこれをあと目に立てることを不安がって、三男の長興に譲るようにしたいと申しまして、家老らも同意し、すでに決定におよぶところを、拙者がたって、嫡子をさしおいて弟に嗣がせるのは感心しません。何としてでも右衛門佐《うえもんのすけ》(忠之)様をおあと目にお立て申したくござる≠ニ、一人で言い張って、忠之の家督に決定したのであります。またこんなこともございました。筑前守は忠之が短命であった方が家のためと思ったのでしょうか、ある年の夏、水練の稽古とて、自らの前で忠之に川をわたらせ、水練者に忠之の手を引いて深みに導き、溺れさせよと申しつけたのであります。しかし、拙者が救い上げましたので、命が助かったのであります」
どの程度までこの話を信ずべきか。いくら子の不肖をなげき、家を大事に思ったにしても、親が子を殺す気をおこすとは、現代人にはわからない心理である。しかし、封建時代は今日の常識でははかることの出来ないものが多い。一概に否定も出来ない。もし、本当であったとすれば、後の話はもとよりのこと、前の話も、大膳が忠之にたいしてずいぶん深い愛情を持っていたことを語るものであろう。
さて、こういう二人の間柄であったが、忠之の家督後、しだいになかが悪くなった。
その原因は、双方にあったと思われる。
先ず大膳の方から語ろう。
大膳は父の備後とまるでちがう性質であった。かしこくないのではない。大へんかしこかったが、おそろしく癖のある性質であった。彼が忠之にたてまつったという諫書が、国書刊行会本の列侯深秘録中の「盤井物語」というのにあるが、諸子百家経書等の文句を引用した、恐ろしく衒学《げんがく》的なものである。二三節をあげてみよう。
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一、(尚書)罪疑惟軽、功疑惟重(罪の疑はしきはこれ軽くし、功の疑はしきはこれ重くす)
かくの如くさへこれあり候に、毛利左近手前なども、ごせんさくを遂《と》げられず、知行召上げられ候こと。
一、(貞観政要)喜則濫賞無功、怒則濫殺無罪、愛而不知其悪、憎而遂亡其善(喜べば則ち濫りに功無きを賞し、怒れば則ち濫りに罪無きを殺し、愛してはその悪を知らず、憎んでは遂にその善を亡《なみ》す)
かくの如くなるは闇君のわざと申し候事。しかるにお目をかけられて召使はれ候ものも、ほどなくご勘気を蒙り、一円定まり申さざる体《てい》に相見え申し候こと。
一、(呂氏春秋)令苛則不聴、禁多則不行(令苛なれば則ち聴かれず、禁多ければ則ち行はれず)
この度お鷹場のご法度《はつと》、俄にきびしくまかりなり、他国の者まで往還つかまつらせず候間、追つつけ天下に風聞つかまつるべくや、笑止千万に存じ奉り候事。
[#ここで字下げ終わり]
ざっとこんな風だ。漢学、儒学は当時の新流行で、現代の人がデモクラシーや、コンミニズムや、実存《じつそん》哲学をやたらふりまわすようなものと思えばそれまでのことであるが、法というものは人を見て説くものだ。格別漢学に興味も素養もない忠之に、こんな説き方をして、どれほどの効果があろう。コケおどかしとしか思われないのである。ぼくはこの諫書の全文に目を通して、なにやらテレくさいような気さえおこって来る。大膳がてらいの強い、高飛車な態度の人であったことは、この諫書一通を見ただけでもわかるが、後年の裁判の際には一層それがはっきりして来る。つつましやかで、誠実で、謙虚であった父にはまるで似ていないのである。
そこで、忠之の方だ。忠之もおろかではなかった。祖父にははるかにおとり、父にもまたおとったが、それでも相当かしこくもあれば、気力もある人であったようである。欠点は苦労せずに生長した人であることだ。
長政が苦労が足りないと言って、母里太兵衛にきびしく諫言されたことがある。実際、後藤又兵衛との喧嘩のしぶりなど考えると、苦労足らずの我儘ぶりがよく見える。それでも、長政はその育った時期が時期で、いく度も戦場の苦労をなめているし、一流の名将で苦労人である如水の薫陶を受けて、あれほどの人物に成長したが、忠之は太平の時代に大大名の子として、何の苦労もなく生長したのだ。相当にかしこくて、相当に気力があれば、わが儘な性質になるのは当然のことである。忠之は相当にわが儘な性質であった。
このわが儘な忠之が、なにごとにも高飛車におしつけて来る大膳にたいして、しだいに不快な気持を持つようになるのは最も自然である。大膳は家柄による首席家老であるから大膳が普通の性質の人間であっても、忠之としては相当遠慮しなければならないのだ。大膳を圧迫者と見るようになったのはこれまた自然だ。
忠之は自分の自由になる重臣がほしくなった。普通、抜擢によって仕置家老をつくるのは、家柄家老が無能であるためなのだが、忠之の場合は家柄家老は皆有能な人々であるが、皆ごつくて、気軽に使うことが出来ず、自分の考えを政治に反映するにもいろいろ支障があるというところから、自由になる重臣をほしいと思いはじめた。
ここに、倉八《くらはち》十太夫正俊という人物が登場して来る。
黒田家が前封地の豊前中津からこの国に来た時、二百石で召しかかえて足軽頭とした倉八長四郎という者がある。十太夫はこの者の子で、はじめ忠之の小姓として召出された。「盤井物語」によると、十太夫は寺者《じしや》であったという。寺人とは中国では宦官のことを言うのだが、日本には宦官はないから、男色をもって仕える者のことだ。この時代は武家社会に男色大盛行であるから、最もあり得ることだ。後の彼の異常な立身ぶりも、首肯《しゆこう》出来るのである。
書名を忘れたが、昔読んだ書物の中に、十太夫がとくに忠之に気に入られた動機を書いたものがあった。大略こうだ。博多は上代以来の貿易港で、大町人が多く、中世以来、武家に定まった献金をすることによって、町の行政、司法等、一切自治して来ていた。だから、川一筋へだてたところに黒田家が来て城を築き、武家町を営んだところで、町民らには一向尊敬する気はおこらない。むしろ白眼視している風であった。
「おどんらは、高麗、唐土《もろこし》、安南、シャムロを股にかけて商売しとる博多町人ばい。何《な》してさむらい衆なんどおとろしかろたい」
という気持だ。
これが黒田家の武士らを刺戟し、忠之の癇もまた刺戟された。
ある時、忠之が那珂川の橋をこえて博多の町に入って行った時、半裸の男がいて、路上に足を立てた姿で腰をすえ、忠之の一行の来るのを見ていた。微行であったから、忠之であるとはもちろん知ろう道理はないが、それでも数人の供侍を連れているのだから、相当な身分の武家であることは知らなければならない。だのに、傲然として少しも敬意を払う色のないその町人を見て、忠之はかっと腹を立てた。すると、供をしていた者のなかから、さっと駆けぬけて行く少年があり、その町人に走りよるや、
「無礼者!」
と、一喝したかと思うと、立てていた足をぬき打ちに払い斬った。両足ともきれいに脛の半ばから斬れた。この少年が十太夫であった。以来忠之は十太夫を頼もしい者と思い、寵愛日に深くなった――というのである。
書名を逸したので、真偽を検討するよすががないが、つくり話にしてもよく出来た話だ。いかにもこの頃の博多にあったらしい話になっている。この通りではないにしても、何かしかるべきことがあって、それが動機で忠之の愛が急速に深くなって行ったことは間違いあるまい。男色の寵があるにしても、それだけではそう取り立てられもすまい。
列侯深秘録中の「栗山大膳記」によると、十太夫の父長四郎は二百石取りであったが、十太夫は加増を重ね、ついには九千石の高知取りとなった。この知行地は表高は九千石だが、実は三万石もあるほどの土地であるとある。
もっとも、ここまでなるのは後のことだ。はじめは十太夫をしきりに取り立て、しきりに俸禄を加増して行くのが目立つだけであった。
それでも、大膳は安からぬことに思った。
長政の末期の遺言の一条に、「国政はすべて三家老で相談して行い、大事は隠居の備後と周防に告げて取りきめる」というのがある。この遺言があるので、大膳ら三人は長政の死んだ翌年四月、連署して、起誓文を忠之に差し出している。この全文は「盤井物語」に出ているが、要領はこうだ。
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一、三人は忠之様にたいして毛頭逆意を抱かない。
二、たとえ親子兄弟であっても、忠之様の不ためになったり、家中の邪魔になる者があったら、えこ贔屓《ひいき》なく言上して、処分する。
三、もし姦侫な人物が出て来て、讒言によって三人を離間するようなことがあったら、互いに包みかくしなく早々に相談して、理非を糺明して、心へだてないようにする。
四、長政公のご遺言によって、国政万事をわれら三人に仰せつけられたのであるから、三人は兄弟同然に心得よう。
五、三人のうちから悪逆の志の者が出来た場合はいたし方はないが、讒言によるものである場合は、三人がそろって忠之様に申しひらきする。
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大膳は、十太夫はこの二条目にあたるものではないかと、きびしく目をつけたが、別段それらしい尻ッぽもつかめない。
しかし、なんとなく政治にゆるみが出て来たようだ。何よりも、先君の遺言に背いて、三家老に相談なしに政治が行われる。どんな風にゆるんで来たか、具体的に書いたものはのこっていないが、寛永三年十一月十二日付で、大膳が忠之に呈すべき諫書として起草して、周防と備後に見せて意見を問うたものが、「盤井物語」に出ていて、これを見れば大体見当がつく。前に一部分をあげたあの諫書だ。
一条々々についている漢籍からの引用文をはぶいて、事実だけを挙げて行ってみる。
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一、みだりに好色のわざにふけり、能楽を好みすぎる。江戸からの帰途兵庫でクグツ(以下虫が食って文字なし。いずれ身分いやしい遊女でも召したのだろう)
二、婚姻は慎重の上にも慎重にすべきことなのに、家中の者の婚姻を軽忽に申しつけられる。(家中の門閥家に、その娘を気に入りの臣、たとえば十太夫に縁づけよなどと命じたようなことがあったのかも知れない)
三、家中一般ぜい沢になっている。太守様の毎日の食膳も結構にすぎる。
四、賞罰がみだりである。(これには割註が入っていて、十太夫に関することが二つ挙げてある。一つは、博多の町人に古筆の名画の屏風を持っている者があった。十太夫がしきりに所望したが、くれなかったので、怒って成敗した。もう一つは志摩郡に盗みを働いた者があったが、これは十太夫の知行所の百姓で、十太夫の妾の兄なので、罪をゆるされた)
五、毛利左近という士はよく事情を調査もせず、知行召上げ浪人仰せつけられた。
六、喜怒常ならず、お気に入りのように思われていた者にして、忽ちご勘気をこうむる者が多い。
七、お鷹野の規則がにわかにきびしくなり、鷹野にお出かけの節は、天下の街道まで通行を禁止される。暴悪あるまじきことである。
八、にわかの思い立ちで、時ならず田舎に出かけられる。民は迷惑である。
九、月の十七日は家康公の忌日である。またこの九月十五日(寛永三年)には、秀忠公み台所がなくなられた。家康公の忌日は天下の精進日である上に、忠之様の母君は家康公のご養女として当家に入輿してまいられたのである故、忠之様にとっては家康公は外祖父にあたられるわけである。また忠之様の奥方は秀忠公の養女として入輿してまいられたのだから、秀忠公み台所は忠之様の姑《しゆうとめ》にあたられる。いずれの命日も最も大事に考えて、ご精進あるべきに、鷹野に行かれた。不謹慎にもほどがある。
十、月の二十日は如水様の忌日であるのに、これも無視して鷹野に行かれた。久しぶりに帰国されたのに、如水様のや長政公のみ霊屋《たまや》まいりもなさらない。
十一、家中一般の気風が刹那的となり、長久の計がないようである。末長く栄ゆべき姿とは思われない。
十二、能楽の者共を迎える船は時をうつさずつかわされるが、江戸や豊後(全九州の目付役、豊後府内の竹中氏)への使者は延引がちである。本末顛倒である。
十三、以上のごとく忠之様ご自身が公儀を大事に思っておられないのだから、下々の者も法度を重んずるはずがない。かくては亡国は期して待つべきものがある。
十四、江戸への弔問の使者は、最初大膳をつかわすと仰せ出されたのに、一日のうちに変更されて森正左衛門ということになった。森がその用意をしていると、また変更になり、月瀬右馬允をやることとなり、月瀬があまりに急な命令に当惑していると、森正左衛門に逆もどりし、さらに坪田正右衛門にかわって、やっと落ちついた。このようにご命令がふらふらと動揺するようでは、家中一統どうして安堵出来よう。
十五、一体にご生活がだらしなくなっている。江戸でも、また今年は将軍家のお供をして京に上られたがその京でも、ご登城に遅刻したり、あるいは出仕の途中から気がかわって帰ってしまったり、また時刻もかまわず能役者などのところへ行って馳走になったりされたとかで、世間の評判が悪いですぞ。
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大体以上のようなことだ。
大膳はこれを例の漢籍からの引用文句沢山の重々しい諫言書十九条に草して、同役の黒田美作に見せて同意させた上で、両元老に示して意見を問うた。小河内蔵允の名前は見えないが、それはこの後書《あとがき》のところでこう説明してある。
「右の条々のうち十中八九は内蔵允がお側にいながら行われたことです。内蔵允は自己の安全ばかり考えて、諫言しないのです。彼は拙者と共に長政公の最期のきわのご遺言をうけたまわった者でありながら、このようであること、ご寄託にそむく不忠者です」
と、大いに非難しているから、除外して相談しなかったのであることがわかる。
内蔵允はおもてを冒してガンガンガンと諫争する硬派の忠臣ではない。さからわず、ものやわらかにしていながら、しくしくとしみて行って、甚だしきに至らしめない、老巧な忠臣なのである。それはだんだん明らかになる。
さて、両元老はこの諫書の草案を見て、大いに賛成した。
「一々もっともなことである。われわれもそう感じていたが、隠居の身として出過ぎたように各各に思われてはならんと、さしひかえて、朝夕ひたすらにお家の安泰を祈念しているよりほかはなかった。各々がかような諫書を忠之様に奉られるについても思い出すのは、先年江戸でわれわれが大御所様(秀忠)に拝謁した時のことである。その時、大御所様は、忠之様は年若であるから、その方共が万事容赦なく意見するようにと、重ね重ね仰せ出されたのである。また土井大炊頭様はわれら両人を呼び寄せて、大御所様のご諚の趣きを忘れるなと、再三仰せ聞《き》けられた。この度各々がこの諫書を差し出されるのは、このご諚にかなったことと思う。忠之様がこの諫言を素直に聞きなさらんようでは、亡国の基成るものと思う」
というのが、両元老の返書の文面であった。
大膳の諫書にも、両元老の返書にも、「亡国」ということばを使っている。大袈裟にすぎるようであるが、そうではない。これは当時の大名の地位が至って不安定であったことの反映だ。大坂の豊臣氏がほろんでからここに至るまで足かけ十一年の間に、大名の家のほろびるもの十八家、その中には外様大名中の大大名福島正則があり、田中忠政があり、最上家があるが、譜代大名では老中であった本多上野がある。親藩では家康の子である越後高田の松平忠輝、家康の孫である越前福井の松平忠直がある。外様、譜代、親藩を問わず幕府の気に入らぬものは容赦なくとりつぶすのだ。大名の家では戦々兢々として幕府の鼻息をうかがわざるを得ない。「亡国」の強迫観念から離れられない道理である。
忠之は年若で、父譲りの勇ましいことの大好きな性質だ。亡国の強迫観念なぞはない。さし出された諫書を読んで、きげんを悪くしたことは言うまでもない。一条|目《もく》毎に漢籍からの引用文句を頭にしての高飛車なものの言いぶりであることは、とりわけ腹が立ったろう。こんな書き方をするのは、大膳にきまっている。
大膳をにくいと思った。しかし、大膳は筆頭家老だし、諫書は次席家老の黒田美作と連名の形になっている。二元老の同意も得てあって、その奥書がついている。どうすることも出来ない。知らんふりで、頬っかむりで通すことにした。
首席家老と次席家老とが相談して書き、両元老の同意を得て差し出された諫書であるのに、何の反応もない。にぎりつぶされ、無視されたのだ。他の人々もおもしろくなかったろうが、わけて大膳は安からず思ったろう。
忠之は諫書にたいしてはことばでは返事しなかったが、行為ではやがて最も活溌な返事をしはじめた。益々十太夫の身分を引き上げ、益々知行を増し、ついには家老にし、九千石の知行地をあたえるほどになった。前に書いたように、実高は三万石もある土地だ。つまり、忠之は面あてをはじめたのである。しかし、大膳はもう黙っていた。
無気味な、対立が二年つづいて、寛永五年になった。この年、忠之は江戸参覲用のためという名目で、鳳凰丸という大船を建造させた。また十太夫の組下につけるために足軽三百人を召抱えた。こういう軍備拡張に類することは、幕府の許可を得てからすべきであるのに、全然無断なのである。
大膳は病気を理由に家老職辞任の願いを出した。諫めたところで、きかないどころか、一層つらあて的に何をやり出すかわからないと思ったからである。願いは即座に聞きとどけられた。大膳は福岡の屋敷を引きはらって、左右良《まてら》の屋敷にかえった。左右良は、大坂が落城して豊臣氏がほろんだ直後、幕府の出した一国一城令(一大名一城)によって城がこぼたれて、栗山家の別邸があるだけになっていたのだ。
大大名の家の門閥家老にたいしては幕府は相当鄭重な目で見ているし、平生の注意もおこたらない。大膳辞職のことはすぐ幕府にわかったので、翌寛永六年、幕府は大膳を江戸に召し、顛末を取調べた。その直後、老中土井大炊頭利勝は紀州家の付家老安藤帯刀直次に旨をふくめて、忠之に大膳を復職させるようにと勧告した。権力者の勧告は命令だ。忠之は大膳を復職させた。
忠之はいたし方なく大膳を復職させたのだ。大膳には家老としての仕事をさせない。家老としての仕事はすべて十太夫がする。君臣ともにおもしろからぬ心を抱きつづけた。
また二年立って、寛永八年八月十四日に大膳の父備後が左右良の邸で、八十一を一期として病死した。
すると、それから間もなくのことだ。忠之は、如水が末期の際、備後にあたえた合子《ごうす》の冑と唐革おどしの鎧とを返還するよう、大膳に命じた。
「黒田家にとって由緒ある宝器である。卜庵(備後)すでに亡き今日となっては、他家にとどめおくべきものではない」
という口上だ。大膳はおかしいと思ったが、返還した。
ところがだ、忠之はこれを十太夫に下賜したのだ。十太夫も今は九千石の大身であり、家老でもある故、それにふさわしい家宝があるべきであるというところであろう。
大膳は怒った。早速自ら十太夫の屋敷に乗りこんで行って取りかえし、福岡城内本丸の宝物庫に入れてしまったのだが、これだけのことをするのに、大膳は一言も忠之にことわらず、忠之もまた大膳に何にも言わなかった。双方だんまりでいるだけに、心は一層険悪になったはずである。
これが俗説黒田騒動の長政公ご着用の大水牛の冑事件となっている話の真相である。
この翌年正月二十四日に、大御所秀忠が亡くなった。忠之は葬儀に列し、遺物《かたみ》の木丸《このまる》の茶入(これは長政の愛器であったのを、長政の死んだ時、遺品として秀忠に献上したものである――寛政重修諸家譜)をもらい、三月十一日に江戸を立ち、四月に入ってから国に入った。
その日、博多の東郊箱崎には在国の家老や諸士《しよざむらい》らが迎えに出ていた。井上道柏、小河内蔵允、黒田監物、毛利左近、井上主馬などいうところがおも立った人々だ。黒田美作はこの頃は江戸の留守居として出府中で、この中にはいない。忠之は馬から下りて、その人々にことばを掛けたが、大膳の姿が見えないので、道柏に聞いた。
「大膳の姿が見えんが、どうしたのか」
「大膳はこの頃からだの工合が悪く、臥せっておりますので、今日はまいりませんでしたが、もしお尋ね下さったら、よろしく申し上げてくれよと、今朝方拙者方へ使いをもって申しこしてございます」
忠之はなおくわしくたずねる。道柏はほどよく返答した。
忠之は一応納得して、馬を進めて城に入ったが、大膳の屋敷の前を過ぎる時、山下平兵衛という者を大膳邸につかわして、
「気分はいかがであるか、養生怠らずして、快気次第出仕いたすよう。直接に会って、いろいろと相談したい」
と述べさせ、その後も度々見舞の使者をつかわしたり、大膳の主治医である鷹取長松庵にくわしく容態をたずねたりした。(栗山大膳記)
ところが、どうも大膳の容態はそれほど重いものではないらしく、忠之には感ぜられた。忠之がこれまでとまるで態度を一変して、このように出たのは、いくらか前非を悔いる気が出て、妥協しようと考えたらしく、ぼくには思われるのだが、大膳には――後に幕府の裁判に際しての彼の陳述と考え合わせると、この手のひらを返すような忠之の態度が、毒殺をたくらんでいるものと思われたのだ。
忠之は大膳がそんな疑いを抱いているとは知らない。虚病をかまえているとひたすらに思いこみ、大いにきげんを悪くした。(栗山大膳記)
忠之が帰国したこの寛永九年四月は、肥後の加藤家に大事件のおこった日だ。どんな事件であるのか、各説あって定説がないが、ともかくもこれによって加藤家は潰されるのだ。
一説では、土井大炊頭が謀叛の企てを書いたにせの書面をつくり、回状にして諸大名の家にまわしたところ、いずれも幕府に届け出たが、加藤家は届けなかったのが幕府の乗ずるすきとなったといい、一説では加藤家の世子光広が自分の碁|敵《がたき》の代官井上某をからかい驚かすために、謀叛の趣意書をつくり、家来をして井上の家に届けさせたのが問題になったのだといい、一説では当主の忠広が臆病な茶坊主をからかうために謀叛の計画を立てた故、そちを一手の大将とする、必ずともに他言するなとおどかしたので、その茶道から話に尾ひれがつき、幕府に乗ぜられることになったという。
こんな風に一向他愛もない説ばかりなのだが、幕府としては大名という大名は皆でも取りつぶしたいのだから、何とか潰す名目がありさえすればよいのだ。他愛ない話だからといって、事実でなかったとは言えないのである。
ともかくも、加藤家は取潰されることになり、上使として、老中稲葉丹後守正勝が熊本へ行くことになり、それが黒田家の領内|遠賀《おんが》郡|山鹿《やまが》を通過するのが五月下旬であった。何しろ、この稲葉正勝は老中である上に、当代の将軍家光に最も支配力を持っている春日局の子だ、黒田家としては大いにごきげんを取らなければならない人だ。忠之は接待の使者を出すことにして、十太夫を正使に、黒田市兵衛を副使に任命した。十太夫も今は家老であるから、大いに気張って、足軽二百人に徒士《かち》衆・鉄砲衆合して、総勢三百五十人という人数を供に召連れた。市兵衛の方は上下わずかに三十八人という小人数であった。ともかくも山鹿について、稲葉老中の旅館に伺候すると、稲葉は、
「黒田家中にて倉八十太夫という名字は聞きもおよばぬ。しかし、黒田市兵衛は筋目の者と聞いている。市兵衛だけを通せ」
と言って、市兵衛にだけ会い、十太夫には会いもしなかった。
正使でありながら、会ってもらえもせず、すごすごとかえる十太夫の面目はまるつぶれだ。花花しい供揃いで行っただけに一層である。
ふだんから快く思っていない福岡・博多の町人らは、よるとさわるとこの話だ。一体博多人は明るくて享楽的で、笑うことが大好きだ。ずいぶんおもしろがって笑い話にしたことであろう。
忠之にしてみれば、十太夫の面目にもなれと命じたことである。自分が笑いものになったように激怒して、このことを評判する者は見当り次第に討取れと家中に触れを出した。方々で犠牲者が出た。博多の網場町で二人の町人が立話していたのを、杉原平助という者が斬って、一人を殺し、一人を取り逃がした。福岡の呉服町で三人で話しているのを見つけて、坂田加左衛門が一人を斬り、二人をとり逃がした。唐人町で志賀島《しかのしま》から来た魚売り二人が話しているのを、浜田太左衛門が斬って、一人を殺し、一人を取り逃がした。こんな風であったので、町人らはもうこの話をするものはなくなった。(栗山大膳記)
加藤家の取潰しが言いわたされたのは、六月一日のことであるが、何せ近いところだ、うわさは数日にして福岡に達し、人々を驚かしたろう。
忠之はいろいろなことで昂奮が高まったのであろう、十三日、焚火の間に出て、黒田市兵衛と岡田善右衛門の二人を召して、口ずから命じた。
「その方共は、これから直ぐ大膳の家へ行け。口上は、この間中からその方が容態をいろいろと聞き合わせたるところ、歩行なりかねるというほどではない由、直接会って話さねば|らち《ヽヽ》のあかぬ用がある故、人に手を引かれてでもまいるよう≠ニ、こうだ」
二人は大膳の屋敷へ急いだが、間もなく帰って来る。忠之は焚火の間に出て、返答を聞いた。大膳は二人の口上を聞いて、委細かしこまって早々にまかり出ずべきでござるが、ごらんの通り臥床している、中々登城は出来ない、精々治療を加え、歩行かなうようになったら、まかり出ずるでござろうと答えたというのだ。
忠之は納得しない。
「もう一度行けい。たとい途中で目まいがおこっても、登城いたすよう。もし、それでも登城が出来んというのなら、余の方からその方宅へまいると、かように申せい」
忠之はもう意地になっている。眉をつり上げ、眼を血走らせていたろう。
やがて二人が帰って来る。忠之はまた焚火の間に出た。この二三日は別して容態が悪くて、どうしても出て行けない、少しでも歩けるようになったら、必ず登城いたすでござろうと言ったという。
「大膳の気色《けしき》はどう見えた」
「寝ていまして、顔色も悪く、少しやつれているようでございました」
「大膳の屋敷内は用心の体《てい》はなかったか。その方共が会った時、大膳の身辺には家来共が何人くらいいたか。その者共がいかようにして応対したか、包まず申せよ」
二人は思案している風で、急には答えない。忠之はまた言う。
「市兵衛は当家の一族、善右衛門は長政公お取立ての者である故、この大切な使者にえらんだのである。偽らず、包まず申すであろうと信じているぞ」
こう釘をさされては、封建大名の家来は真ッ正直に言うよりほかはない。
「わたくし共が奥へ通りました節は家来共が二十人ばかり出てまいりまして、わたくし共の前後左右にいました。その節大紋のついた羽織(陣羽織のことであろう)を着ている者も少しいました」
「武具等は少しも見えなかったか」
「出してございましたが、わたくし共が帰ってまいります時には、納《しま》う風に見えました」
忠之の逆上は頂点に達した。
「おれはこれから大膳が屋敷へおしかけて行く。皆々用意せい!」
とさけんで、奥へ入った。
諸士《しよざむらい》はそれぞれに武具を家に取りにやる者もあり、親類へ使を走らせる者もあり、忽ちうわさが武家町にも町人町にもひろがって、大さわぎとなった。諸|番頭《ばんがしら》や、組の者や、若侍らは、事がはじまったら即座に斬って入ろうと、大膳の屋敷の前につめかけた。
さわぎを聞きつけて、生きのこりのただ一人の元老道柏と小河内蔵允とが登城して来て、忠之の袖にすがって、
「ご自身押掛けなされようとは、あまりにも軽々しくござる。お公儀への聞えもいかがなもの。それはご無用に遊ばされますよう。大膳はわれらうけたまわりまして、御意次第に切腹なりと何なりといたさせましょう」
と、くり返し諫めたので、忠之も少し静まった。
そこで、二人は次の間に出て、
「ご人数はつかわされぬぞ。一人もまいるな。静まれ、静まれ」
と、呼ばわって、城中を静め、さらに大膳の屋敷の前に詰めかけている者共を、黒田美作の屋敷とその向う側の評定所へ引き上げさせた。
両人は大膳のところへ使を出した。大膳は、「いかようとも、御意次第にいたすでござろう」と返答した。
翌十四日、両人の要求によって、大膳はすぐに剃髪し、人質として妻と次男の吉次郎とを差し出した。二人の人質は如水の弟利高の子黒田兵庫にあずけられた。
この翌日の六月十五日、大膳の邸を飛脚体の者が出て来たのを、目付の者が見つけ、博多の辻の堂まで尾行して、召捕った。検《しら》べてみると、ふところに豊後府内城主、竹中|采女正《うねめのかみ》にあてた大膳の書状を持っていた。
竹中采女正(重次、あるいは重義)は豊後府内の城主で、寛永六年冬以後は長崎奉行に補せられ、全九州の目付役として、九州探題的地位にある人物である。
目付らは、すわこそと色めき立って、その手紙を忠之に差出した。披見すると、最もおどろくべきことが書いてあった。
「先だって申し上げました通り、右衛門佐(忠之)が公儀にたいして謀叛を思い立っていますので、諫言いたしましたところ、不届であるとて、理不尽に拙者を成敗しようとしています。拙者は公儀に対して厚く忠義を存じ奉って、訴人申し上げる次第であります」
といった意味のものだ。
そこで、飛脚を尋問する。
「先だっての飛脚はいつ頃差し立てたか」
「昨日人質を差し出しました時でございます」
こうなれば、大膳を成敗することは出来ない。成敗しては、公儀の疑惑をつのらせるばかりだ(栗山大膳記)。実はこれが大膳の狙いで、従ってこの飛脚はわざと見つかるようにして出したものであろう。
大膳が無実な密告をするという、この思い切った手段に出たのは、肥後の加藤家のことがある上に、四月以来の忠之とのごたごたが一昨日のようなあのさわぎにまで発展したので、深く考えるところがあったのであろう。
「このままでは、おれも殺されるであろうし、お家も亡びるであろう。幕府はすきあらば諸大名をとり潰そうと考えているのだ。加藤家はあんなばかばかしいことでとり潰されたではないか。大いに工夫する必要がある」
とて、この手を考え出したのではなかったか。
黒田家の君臣は、おどろき、あきれ、怒った。
「いくらけわしいなかでも、主従である。その主従も、太守様と首席家老というなかである。たとえその実があるにしても、いたしようもあろうものを、真赤な嘘を言って、謀叛の企てがあるなどと、あろうことか、人非人め! あの学者|面《づら》はどうしたぞ。何のための学問ぞ!」
と、皆罵った。
前掲「古今史譚」中の黒田騒動の記事の中に、後に江戸町奉行をつとめた石谷貞清の語ったことを筆記したものを引用してあるが、それによると黒田家では、先手を打って竹中采女正の許に使いを立て、事情を訴え、来て取調べてくれるように言ってやったという。
最もありそうなことだ。黒田家には井上道柏以下戦場往来の古つわものがまだずいぶんいる。こんなのは定石的戦略といってよい。ぬかりのあろうはずがない。
ともあれ、竹中采女正は、七月一日に福岡にやって来て、三日までいて、井上道柏、小河内蔵允らと度々話し合って帰って行った。
四日の午前四時頃、大膳は福岡を立ちのいた。その有様を、小倉の細川家の家臣|藪内匠《やぶたくみ》が、わざわざ見に行って実見の上、誰かに(名宛なし)書き送った手紙がのこっていて、古今史譚に採録してある。それによると、その行列は、一番に下々の者の荷物、二番に火縄に火をつけて玉ごめした鉄砲二十挺、三番に女共十人ばかりが騎馬、四番に女乗物五挺、五番に竹中采女正の人数が二十人ばかり、六番に大膳が乗物でつづき、そのまわりには侍五六十人、いずれも棒をつき、そのほかに弓、鉄砲二百ばかり、鉄砲はいずれも玉ごめ火をつけた火縄、槍百本ばかりでとり巻き、七番に金銀道具の類をつけた馬二十匹、そのあとにまた火をつけた火縄つきの鉄砲二十挺という、ものものしいものであった。この中には大膳の老母や長男の大吉|利周《としちか》のほかに、二人の幼い娘もいたはずである。大膳の妻と次男吉次郎は黒田兵庫にあずけたままだ。
大膳の屋敷には大膳の家来一人と竹中の家来一人、いずれも士分《さむらいぶん》のものがのこっていて、引渡しをしたとある。
どうなることかと、黒田家では上下皆心をさわがせていた。ついこの前の加藤家の取潰しが、幕府の意志の前にはどんなに大名の家がもろいものであるかを語りかけてやまないのである。
月がかわって、八月二十五日、徳川家の使者が来て、参府せよとの命を伝えた。忠之は黒田美作(四月以後に帰国したのであろう)と小河内蔵允の二人を連れて出発した。急ぎに急ぎ、箱根の山中宿《やまなかしゆく》まで来ると、江戸屋敷から出した飛脚に逢った。あまりお急ぎにならんでもよいという文面だったので、そこからは普通の道中とした。江戸近くまで来ると、忠之を真ッすぐに江戸へは入れず、一先ず品川の東海寺に入れてとめておく公儀の意向で、品川口に歴々の旗本らや鉄砲頭ら数十人が待ちかまえているという知らせが入った。忠之は、
「所詮破滅の身となるにせよ、囚われ同然の身となるはいやじゃ。同じくは本邸で果てたい」
という。そこで、内蔵允が工夫して、忠之を乗掛《のりかけ》の駄馬にのせ、ほんの数人が供をし、素槍《すやり》一本持たせて、神奈川を夜なか立ちし、夜のうちに品川を通りぬけて、桜田の上屋敷に入った。夜が明けてから、美作と内蔵允は正式の行列を立てて神奈川を出発、品川口にさしかかると、詰めていた番所の者が来て、阿部対馬守の申しつけでござる、ご用あれば、一先ず東海寺へお立寄りなされるようと言う。
内蔵允が出て、
「ああ、そうでありますか。お役目ご苦労に存じます。しかし、主人右衛門佐はお召しをかしこみまして、急ぎに急ぎ、諸事につつしんで供まわりも少なく、すでに昨夜のうちに入府いたしてござる」
と、言ったので、番衆はあきれたという。
桜田の屋敷へ老中の使が来て、忠之に渋谷の長谷寺《ちようこくじ》に入るようにと伝えた。忠之が、
「長谷寺へはまいりたくござらぬ。いかなるお疑いを受けているか存じませぬが、この屋敷にていかようともなりたく存ずる」
と、言いはっていると、尾州家の付家老成瀬|隼人正《はやとのかみ》正虎と紀州の付家老安藤帯刀直次と滝川豊前守の三人が来た。三人とも長政以来黒田家と昵懇《じつこん》な間柄だ。忠之を説得して、長谷寺にうつらせることにした。
以上のことが早打ちをもって福岡へ知らされると、福岡城では留守の家老、物頭、諸侍《しよざむらい》らが集まって、評定がひらかれ、いよいよお家取り潰しときまったら籠城しようと決議された。
組頭らは、組下の武士らを集めて、
「籠城拒戦と相談はきまった。ついては落ちたいものは落ちよ。一戦せんと思う者はとどまれよ。心にまかせて、強いはせぬ」
と申し渡したが、一人も立去る者はいない。そこで、いよいよの際は妻子も城内に入れて、籠城拒戦していさぎよく討死することになり、それぞれに防戦の受持をきめ、かかりのものや人数もきめた。栗山大膳記にその詳細が出ている。
江戸では十一月十七日に、老中から奉書が長谷寺《ちようこくじ》に来て、忠之に明日西ノ丸へ出頭するようにと達した。翌日出頭すると、取調べの任にあたった大目付が、
「御家中之出入、肥後表之事指合御越度と被二(下付文字)思召上一(下付文字)候、追附可レ(下付文字)被レ(下付文字)遂二(下付文字)御穿鑿一(下付文字)」
と言ったと、栗山大膳記にある。難解な文章なので、諸説まちまちである。森鴎外のような人すら、
「家来の任用、肥後表へ差し向けた使者の件等は、公儀において越度《おちど》と認める」
と訳述しているが、ここで前にのべた、「古今史譚」に引用されている石谷貞清の話を記録した文章が役に立つ。
「その方家中の紛擾において、その方は兵を動かそうとした由、近国の加藤家の滅亡したのを眼前に見ながら、何たる不心得であるか。由々しき落度であるぞ。追ってせんさくいたすであろう」
と、こんな気味合に解釈しなければならないのである。
これにたいして、忠之は、
「ご上意の趣はわかりました。しかしながら、わたくしが家人《けにん》栗山に閉門を申しつけましたのは、六月十三日でありますが、六月十六日に加藤家のことを聞きましたので、早速怒りをおさえ、竹中采女正方へ使を立て、采女正に頼んで仲裁してもらい、栗山を豊後に立ち退かせることにしたのであります。家来の不臣をこらしめることが出来ず、かかるゆるやかなあつかいをいたしますこと、無念ではありましたが、公儀への忠節にはかえがたきため、かくいたしたのであります」
と答弁した。
忠之は日をごまかしている。大名の家が潰れるのは大へんなことだ。熊本でおこったそれが半月以上もかかってやっと福岡に聞えるなどあろうはずはない。答弁のために日をくり合わせたのである。
しかし、老中らも感心し、将軍も感心したと、これは井伊直孝朝臣から聞いた話である。(石谷将監物語)
一応|幸先《さいさき》はよかったわけである。忠之はこの日、長谷寺を引払って桜田屋敷に帰り、家来共に西ノ丸での話などしていると、暮方になって、安藤帯刀が見舞に来て、いろいろ親切に内談してくれた。多分、将軍や老中らが感心している話もしたであろう。成瀬隼人正も見舞に来てくれるべきはずであったが、使が病気がさしおこって行くことが出来ないとことわりを言って来たので、忠之は夜の八時頃、自分の方から成瀬の見舞に出かけた。
安藤や成瀬から、嫌疑を受けている身で上屋敷にいるのはよくあるまいといわれたのであろう、一夜泊っただけで、翌日麻布の下屋敷に移った。この屋敷は、弟の高政(鞍手郡東蓮寺城主)が二年前に普請して住むようになったのだが、兄にゆずって、自分は下の段長屋へ移り住んだ。
その年中はこれだけで何にもなく、寛永十年の春が来て、忠之は三十二になった。正月中は公儀は儀礼が多端であるから、何事もない。
しかし、大膳が竹中采女正に連れられて江戸に出て来たのは、この正月であった。彼は三十余条を列ねた訴状を正式に幕府に提出した。(黒田家家史編修中島利一郎著「黒田騒動と栗山大膳」)
二月上旬に、忠之は西ノ丸へ一両日の間をおいて、三度呼び出されて尋問を受けたが、忠之の答弁はなかなか見事であった。
幕府が最も問題にしているのは、大膳の訴状の第一条にある「忠之は駿河大納言様のご陰謀に同意し、内々思い立つ所がある」という項目だ。家光将軍の弟忠長は、当時の幕府にとっては頭痛の種であった。家光にたいして不従順であるというので、昨年の十月から上州高崎の安藤家に預けて幽閉してあるのだが、本来忠長にはそれほどの罪はない。生かしておいては幕府のためにならないという政治上の必要から、いずれ殺すつもりで(この年の十二月ほんとに殺すのである)、迫害しているのであるから、幕府としては色々気をまわして、忠長と親しかった大名の中には忠長に同情して、何かはじめはしないかと考えもするのである。
「古今史譚」引用の「黒田家家臣覚書」によれば、この尋問をする時、役にあたった大目付が、その方答弁のしようでは、大膳と対決申しつける故、それを心得て申しひらけ、と言ったところ、忠之は、
「申しひらきようでは、大膳と対決仰せつけるとのご上意は、近頃お情なき仰せでござる。いかにあろうとも家人《けにん》と対決するような不面目なことは、男として忍びがたくござる。もし、さような羽目《はめ》となりましたなら、筑前を差し上げ、切腹いたすよりほかはござらぬ」
と言った。
慨然たるその様子に、老中らも、
「もっともな申し条である。それではそれは取消す故、答えるよう」
と言ったのである。
栗山大膳記は、忠之が大膳と対決の場になって、両刀を投げ出し、家来と対決して公事《くじ》しては勝っても負けてもせんなしと言ったところ、黒田美作がなだめて自ら大膳と対決問答したとて、その有様を記述しているが、それはこの話がまぎれたのであろう。忠之と大膳との対決は、行われる時間的余裕もないのである。それは先きに行って明らかになるであろう。
さて、忠之は尋問にたいして、こう答えた。
「黒田の家が如水以来、お公儀にたいし奉り誠心をつくしてご奉公いたしていることは、上《かみ》にもご存じのことでございましょう。わたくしは、駿河大納言様は将軍家のおん弟君でおわしますれば、何か天下にことがあります節は、将軍家のご名代《みようだい》として行き向かわれること必定なれば、その節は黒田家代々の先例によって、ご先陣をつとめんものと、常にかたく思いつめていました。されば、先年大納言様がまだ駿河にご在城ありました頃、わたくし帰国の途次、ごきげん奉伺にまいりましたところ、いろいろとおねんごろなお言葉を賜わりまして、余が一身に何か一大事のおこった際は、そなたを格別頼みに思うぞと、お口ずから仰せられました。わたくしは、これは万一謀叛人などが出て、将軍家には力およばず、せめてはおん弟君なる大納言様を危《あや》ぶめ申そうとすることがあるかも知れぬと存ぜられて、かようなお言葉があるのであろうと心得、わたくしごときものを士《さむらい》らしく思し召しての仰せ、かたじけなく存じ奉るとご返答申して退りました。かくのごとく、武士の誇りと存じつめていましたので、その後このことを家来共にも、心得のためにおりおり申し聞かせました。わたくしはこれは将軍家へのご奉公となることと思いこんでいたのでありますに、かえってかくご不審を蒙りますこと、武士の冥加も今はこれまでかと、残念至極に存じます」
と言って、涙をこぼした。
このように、悪びれる色なく、堂々と申しひらいたので、老中らは皆感心し、井伊直孝などは、
「さすがに長政の子息ほどのことはある。もしこんどのことで国を召上げられるようなことがあっては、おしい大名をなくすることになる」
と、他の老中らに言ったと、「栗山大膳記」にある。
忠之はこうしてまた取調べを受けるようになってから、遠慮のためにまた長谷寺に移った。
大膳の方は、三月五日に土井大炊頭利勝の屋敷に出頭を命ぜられ、井伊、酒井忠勝、稲葉正勝等の老中ら列座の席で、告訴の趣旨を尋ねられた。大膳は、
「この度はいささか存ずる仔細あって訴え申しました。先年拙者が諫書に認めて出した件々、その後に生じた似よりの件々を、しかと調べていただきとうござる。そうすれば、この度のことのはじまりがわかるでありましょう」
と言っただけで、あまり多くを語らなかった。
三月十一日、はじめて原告・被告の対審が行われた。場所はまた土井邸だ。この日の列席者は、老中では土井、井伊、酒井忠世、酒井忠勝、永井|尚政《ひさまさ》、稲葉正勝、お側出頭人としては青山幸成、板倉重宗、大目付では柳生宗矩、秋元泰朝、加賀爪《かがづめ》忠澄、尾州付家老成瀬隼人正、紀州付家老安藤帯刀、等々々だ。
大目付席から一間へだたった位置に、大膳は竹中采女正につきそわれて着席する。その向う席に黒田美作を上席として次席に十太夫がすわり、勝手の間に井上|道柏《どうはく》と小河内蔵允がひかえていた。これは召されないのだが、主家の一大事の裁判だから出て来たのである。
大目付柳生宗矩は大膳の訴状を読み上げて、美作と十太夫に答弁させた。十太夫は、主人に逆意があるなどとはあとかたもないことであります、なぜ大膳がこのような訴えをしたかわけがわかりませぬと言った。
しかし、大膳は十太夫をまるで相手にしなかった。傲然とかまえて、眼中においていない様子を示した。美作は、
「こと改めて申しひらきいたすにもおよばぬことであります。右衛門佐は年若でござれば、もし政道の足らぬところがあるなら、大膳は後見の役目でござれば、たとえ三年、五年、十年かかっても、何とでもして、非を諫めて改めさせ申すべきでござる。しかるを、かえって謀叛などと、あと形もなき訴えをいたすなど、不忠者でござる」
と言った。美作は大膳の長姉をめとっているから、大膳からすれば義兄にあたるのである。大膳はいきなり、
「美作は近年江戸在勤していて、仔細を存じません。われらが姉聟ではござるが、律義一ぺん、文盲《もんもう》第一の者でござれば、何にもわかるはずはござらぬ」
と罵倒した。
すると、美作は言った。
「いかにも、われらはその方が申すように文盲で、仮名書きのものすらよう読めぬ。その方は学者にて多識、よう古語を引いてくどくどとしゃべりやるが、一つ聞きたい。孟子とか、論語とかいう書物に、君君たらずとも、臣臣たらずばあるべからずとあるげなが、その方この文句をどう思やる。主人と公事《くじ》(裁判)するようなことで、何が学問じゃ」
さすがに大膳も窮した風であったが、すぐ立直って、
「君君たらずにもほどがござる。われらは右衛門佐には家来でござれば、気に入らずば暇をくれるなり、切腹を申しつけるなり、するがよいに、あろうことか、われらに毒を飼おうとされた。沙汰のかぎりないたし方でござる」
というと、美作は、
「その方は毒のあたらぬ男じゃ。毒害にあわぬ証拠には、今に息災でそこにいるではないか、いわれなきことを申す男じゃ」
と、きめつけた。
老中らは、黒田監物を呼び出した。大膳は監物を見て、その方は仕置(政治)にたずさわっておらぬ故、なにごとも存じおるまいと言って、無視しようとしたが、老中らはかまわず、鳳凰丸造船のことを尋ねた。すると、大膳はすかさず、
「鳳凰丸は寛永五年に出来たが、その節、公儀のお川口奉行小浜民部様がご検視になったところ、その方が工夫して、船ににわかに道具類や碇などをずいぶんと積みこんだ上に、水樽まで多数積みこみ、荷足《にあし》をそえて、軍船でないように見せたな。そうであったろう」
と、言った。監物は返答が出来なかった。
しかし、幕府はこれを問題にしていない。「古今史譚」引用の井伊家記録によると、この船は長政の時から建造にかかったのが、たまたま忠之の時に完成したのだ、小浜民部の検視を受けた時証文をもらっておくべきであったのに、不案内でそうしなかったまでのことであると、不問にすることにしたとある。幕府は黒田家にたいしては大いに好意を持ち、潰すつもりなどはなかったようである。
次に明石四郎兵衛と大音安太夫が呼び出されて来た。大膳はその方共のまかり出ずべき場ではない、退りおろうと大喝したが、公儀の命令で出て来たのだから、大膳が叱ってもききめはない。
二人は足軽二百人を新規取立てた件について聞かれた。二人は、
「何の仔細もないことでございます。公儀より長崎表警備のおん役を仰せつけられましたにより、それにつかわすためでございます。委細は、小河内蔵允が存じております。小河は今日はお召しはいただきませぬが、お勝手へまかり出で申しておりますれば、お呼び出しあって、お尋ね下されたく存じます」
と、答えた。
内蔵允が呼び出された。大膳は、
「この小河内蔵允と申すは、台所へ掛けおき申す笊《ざる》の如き男にて、かかるところへ出すべきものではござらぬ。常々百姓共と会うて、米や銭や田畑などの沙汰ばかりしていまして、武士の争いごとは知ろうはずのない者でござる。何を申し上げようとて、恐れげもなく、ここに出てまいりましたか。早々にまかり退れい」
と、罵倒してきめつけた。
内蔵允は一切かまわず、老中らの問いに応じて、足軽召しかかえのことについて申しひらきをした後、大膳の方を向き、
「大膳殿、そなた様、なんであと形もないことを訴え、お公儀にも、ご主《しゆう》にも、迷惑をかけなさるぞ。そなた様、父《てて》ごの卜庵様のことをお考えではないか」
と言い、老中らの方に向き直って、
「この大膳が誕生いたしました時、故筑前守より守脇差《まもりわきざし》、産着《うぶぎ》、樽肴《たるざかな》等をつかわしましたが、その使いには拙者立ちました。大膳の父備後はありがたがり、拙者が帰ります時には、はだしにて門外まで送って出て、涙を流して礼を申しました。備後はかように篤実な者でございました。大膳はこのように、誕生の時から筑前守が不愍《ふびん》をかけ、そのお陰で成人した者でありますのに、右衛門佐へ無実の罪を申しかけましたこと、どのような天罰が下りましょうか。備後も定めて草葉の陰でなげいていることでございましょう」
と、涙を流して言った。
大膳もことばなく、苦笑してうつ向いていたという。
内蔵允は調子をかえて言いつづける。
「さて、もし右衛門佐の謀叛の思い立ちが真実ならば、老功の井上周防が存ぜぬことはありますまい。周防は唯今は隠居して道柏と申しています。今日お召しはございませんが、お勝手にまかり出てひかえております。お召し寄せあって、お尋ね下さるよう願い奉ります」
と言って立ち上り、座敷の入口から、
「道柏、お召しでござるぞ」
といい、勝手に行って、道柏をつれて来た。
道柏は大膳の前に来て、つくばって、
「大膳、わしがすわるのじゃ。少し退《さが》らっしゃれ」
と言った。大膳は動かず、
「早くおすわりあれ」
と言った。道柏は泰然として、
「おぬしがそのままでは、わしはご歴々様方にあまりに間近くすわらねばならぬ故に、少し退らっしゃれというのじゃよ。退らっしゃい」
大膳はしぶしぶと三尺ほど退った。道柏は大膳のすわっていた位置、つまり上座にすわって、老中らにむかって両手をついた。土井大炊、井伊直孝等をはじめ、道柏と顔見知の老中らは、道柏久しゅうござると、ことばをかける。酒井忠世は道柏と面識はなかったが、道柏の息子の淡路|之良《ゆきよし》を知っているので、井上淡州がご親父でござるかと言う。皆、道柏が今大膳に示した古武士的な剛強な態度に大いに好意を抱いたのだ。
大膳との問答がはじまる。
「そなたはわが命おしさに、無実なことをもって、譜代の主人を訴人して、人非人じゃ。そなたの父備後とは、わしは幼少からの友じゃ。備後はいのちおしさのために、虚言など申す男ではなかった。そなたは親に生まれおとっているぞ」
と、道柏が言うと、大膳は、
「貴殿は隠居故、近年のことはお知りでないはず。忠之様謀叛の思い立ち、われらに毒を飼おうとしなされたこと、皆事実でござるぞ」
と、滔々と論証をはじめた。道柏は大膳が何としゃべろうとも、耳に入れもしない風で、空うそぶいていたが、大膳が口を閉じると、老中にむかって言った。
「右衛門佐が謀叛を思い立ったなんどということは、申訳する必要もないことでござる。うそにきまっており申す。謀叛というは大軍をおこして世を乱すことでござるが、父祖の苦労と功によって、若くして大国を受け、太平を楽しんでいる右衛門佐が、何の不足あって、むほんなど企て申そう。時節と申し、本人の年と申し、そのはずのないことは明らかでござる。もし真に陰謀を企てているのでござれば、美作も、監物も、内蔵允も、皆戦場に出て、覚えのある者共でござる、われらも同じく少々は場《ば》(戦場)に出合うた者でござる、何とて相談せずして、戦さの|におい《ヽヽヽ》もかいだことのない大膳一人に申し談ずることがござろう。へたなウソを申していること、よくよくご量見下されたくござる」
老中らは皆うなずきながら、大膳が何というかと、その方を見る。
大膳はしばし思案して、道柏が武功者|面《づら》してかれこれのことを申したが、われら道柏のそれほどの武功を聞いたことがない、それで武功者面はおこがましいと罵倒し、父の備後の武功を称揚し、
「これほどの父であった故、如水も、長政も、ご信任あったのでござる。しかるに、その子であるわれらを、右衛門佐は疎《うと》んじたのでござる。三年父の道を改めざるを孝というべしという古語もあるに、長政みまかられて一年も立たぬうちに、行状わがままとなり、氏素姓も、才もなき倉八十太夫ごときに高禄をあたえ、国政を執らせるのみか、その讒言を信じて、家久しきものを疎んじしりぞけ、無道のふるまい重畳である故、われら社稷の臣として諫言すれば、かえってわれらを憎み、毒殺せんとはかること、再々でござった。まことに無道人でござる」
と、罵った。
道柏はこんどもしゃべるだけしゃべらせながらも相手にならず、老中らの方をむいて、
「もし、お上《かみ》が、右衛門佐若輩者にして、国の治め方よろしからず、領地召上げんとならば、右衛門佐はいささかも上意にそむき申す者ではございません。しかしながら東照大権現様、関ケ原の時、恐れ多くも長政の手をお取り遊ばされ、今日の利運はひたすらにその方の粉骨の忠節による、その方の子孫の末に至るまで、決して疎略にはせまいぞと仰せられましたこと、恐れながら皆々様ごぞんじのことと存じ上げます。長政も一生の間、度々このことを思い出しては、涙を流してありがたがり申しました。この上はもはや大膳と問答いたすにおよびますまい。いかようとも、ご沙汰をお待ち申すことでござる」
と言った。すると、美作をはじめ皆々、口をそろえて言った。
「唯今道柏の申し上げましたこと、よくよくお聞き取り下されとうございます」
老中らは返答しない。道柏は、
「この上は別に申し上げることもありませねば、退出いたしてよろしゅうございましょうか」
と言った。老中らはうなずいた。そこで、一同退出した。
この翌日、大膳一人が井伊家へ呼ばれた。老中ら列席の上で、大目付からこう尋ねられた。
「その方が右衛門佐を諫めた段は、上《かみ》にも道理と思し召されているが、謀叛と訴えたは偽りと判定する。何故に無根のことを申し立てたか」
大膳は昨日とまるでかわった素直さで答えた。
「これは全く拙者の計略でございました。むほんと申し上げますれば、右衛門佐は拙者を殺すことが出来ませぬ。一命をおしむわけではありませぬが、犬死はしたくござらぬ。拙者が殺されたあと、右衛門佐の悪政つのりついにお咎めにあって国亡びては残念と存じて、工夫いたしたのでございます」
「しからば、なぜ裁判のはじめに、委細のことを申し上げなかったのか。昨日まで偽りを言い通したはいかなる仔細であるか」
「ここまでいたさねば効はないのでござる。生《なま》はんじゃくなことでは、右衛門佐はさまでの苦労もなく勝公事《かちくじ》となって帰国すること故、心は改まらず、帰国後は拙者に切腹申しつけるでござろう。昨日対決にまかり出た者共は、これまで右衛門佐に一言の諫めもいたさぬ不忠の者共でござる。それが無事で、忠義を存じている拙者が殺されること、犬死と思いました故、昨日まで言い張ったのでございます」
大膳がこう言った以上、忠之と対決させられるはずはないのである。
三月十六日、忠之は西ノ丸の酒井雅楽頭の屋敷へ出頭を命ぜられた。美作も、監物も、内蔵允も、出頭せよとのことであったので、忠之の供をして行った。
申し渡しはこうであった。
「かねがね仕置《しおき》方(政治)よろしからず、あまつさえ、こんど君臣違却におよんだ段、重々無調法しごくにつき、領地召上げる。さりながら、代々忠節の家柄であることを思し召され、筑前国を新規に下さる。以後、諸事念を入れて仕置いたすよう」
この日、大膳はまた井伊家に呼ばれて、井伊、松平の両老中列席の上で、大目付柳生宗矩からこう申し渡された。
「右衛門佐事、かねがね仕置方よろしからざること、無調法しごくに思し召され、領地召上げられたが、代々忠節の家柄なるを思し召され、新たに本国を下さる。大膳儀は、南部山城守へお預けなされ、百五十人扶持を下さる。但し居所三里以内は徘徊苦しからず」
大膳は畳を三枚ほど退《さが》り、涙をこぼしてお礼を言上した。(栗山大膳記)
翌日あたりのことであろうか、栗山大膳記にあることだが、麻布の下屋敷に成瀬隼人正と安藤帯刀が来て、道柏、美作、内蔵允、監物等に面会した。隼人正が、裁判に勝った祝いを言った後、
「万一、負公事《まけくじ》となり、右衛門佐殿が配所におもむかねばならぬことになったら、各々はなんとなさる所存であったか、伺っておきとうござる」
と言うと、帯刀も、
「さよう。しかとうかがっておきとうござる」
と、ものものしく言う。皆急には答えられなかった。用心して答うべきことのようである。やがて、道柏が答えた。
「さればのう、さようなことになりましたら、家老一同、遁世いたしたでございましょう」
すると、他の者共も、
「道柏の申す通りでござる」
と言った。隼人正と帯刀はよろこんで、
「さすがに長政殿お仕込みの方々でござる。黒田家はよきお人をお持ちでござる」
とほめたという。これは両人の親切なのである。国許の連中が籠城さわぎをおこしていることを聞いて、後に目くじら立ててうるさいことを言う者が出た時の防ぎをつけておいてくれたのである。
倉八十太夫は、西ノ丸の酒井屋敷から長谷寺へ帰る途中、忠之から暇を出された。それは老中からの内旨であるといい(古今史譚中の黒田家家臣覚書)、盤井物語には、安藤帯刀と成瀬隼人正が指図して高野山に上せたとし、その後、島原一揆がおこると、ひそかに筑前に来、やがて島原へも赴きしとかや、と書いている。鴎外は盤井物語の説を信じて書いているばかりか、「島原へも赴きしとかや」というところを敷衍《ふえん》して、ヤソ教徒群に加わり、原城の落ちた時乱軍の中で討たれとまで書いている。しかし、ぼくはそうは考えない。十太夫が高野山から出て筑前に来、島原に行ったのが事実であるならば、それは浪人ものの|ありつき《ヽヽヽヽ》(職)をもとめるためのことであったと思う。筑前に来たのは、昔の縁で黒田家の島原出陣の供をして採用されたいと考えたのであろうし、島原行きは一手がら立てて、黒田家でも他の大名でもよい、力量を認めてもらって召抱えてもらいたいと思ったのであると思う。十太夫は姦悪というほどの人間ではないようにぼくには思われる。
大膳は裁判のすんだ満一年後の三月末、南部の盛岡にうつり、南部家の優待を受けて、承応元年三月一日になくなっている。つまり四十四から六十二までである。彼が生涯傲然たる風格を持し、決して人に下らなかったことは、国書刊行会本列侯深秘録中の「西木子紀事」で明らかだ。鴎外はこれを材料にして、その史伝「栗山大膳」の末章を書いている。
大膳は大正年代以後、大へん評判が悪くなった。彼があまりにも傲慢であり、ペダンチックであり、その取った手段が冒険矯激にすぎるというところからだ。ぼくは彼の傲慢なところや、ペダンチックなところは好きになれないが、その取った手段はあれでよかったと思っている。当時の幕府の大名取潰し政策を見ていると、必ずやがて忠之はそのワナに陥り、とりつぶされたに相違ないと思われるからだ。大膳は「西木子紀事」の中で、幕府の代官井上某に「武士には見切というものが大事だ」と教えている。鴎外はこれを「権道《けんどう》」と解釈しているが、そうではあるまい。未然を察して早く手を打つことを言うのであろう。大膳はその見切をおこなったのである。
忘れるところであった。家康が関ケ原の時に黒田長政にあたえた感状は、ついに使う機会なくして事件は落着したのだが、大膳は福岡を立|退《の》く時、この感状を如水の落胤である黒田家の家来梶原平十郎景尚にあずけ、
「もしこんどの裁判の結果、お家が潰れそうになったら、これを持って急ぎ江戸表へ馳せ上り、酒井雅楽頭、土井大炊頭、井伊掃部頭のお三方にこれを差し出せよ。必ず改易《かいえき》は免かれる」
と言いおいたのであった。
ところが、必要がなかったままに、梶原家ではこれの存在を忘れてしまい、寛永十年から百三十五年も経った明和五年八月、ふとしたことから梶原の分家から発見され、おどろいて当時の黒田家の当主継高に献上した。継高はおどろきよろこび、梶原の本家には刀をくれ、感状を発見した分家はこれまで扶持米とりだったのを、百三十石の知行取りにしてやったというのである。これは盤井物語にある話である。従って、感状は今でも黒田家にあるのであろう。
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加賀騒動
加賀藩五代の太守|綱紀《つなのり》は、加賀家で松雲公とおくり名する人で、なかなかの英主であった。三歳にして父の死によって百二万二千余石(俗に百二十万石というのは、富山、大聖寺等の支藩の石高を含めて言うのである)の太守となってから八十一で隠居(この翌年歿)するまで、藩政をとること七十八年、治績大いにあがった。綱紀の太守時代は三代将軍家光の晩年から八代将軍吉宗の初政時代におよび、ちょうど大名の貧乏がはじまって、次第に深刻になって行く頃にあたるが、綱紀の経済手腕は卓抜で、余裕|綽々《しやくしやく》たるものがあり、吉宗将軍が「運用の秘伝を教わりたい」と言ったくらいであると、徳川実記の有徳公伝の付録にある。
経済の余裕は、単に倹約だけのよくするところではなく、殖産興業もともなわなければならないが、今日加賀名産として名を得ている工芸品の多くが、綱紀の奨励と誘掖《ゆうえき》とによってはじまったのである。たとえば加賀絹、加賀友禅、加賀|象眼《ぞうがん》、加賀蒔絵、等々々。
今日、前田家の旧蔵書は尊経閣文庫に所蔵され、その種目の多種多様と数量はおどろくべきものがあり、この方面の日本文化の一大宝庫であるが、その蔵書の大部分は綱紀の時に集められたものである。
書籍を貴重することを知っていただけに、綱紀はなかなかの学問好きで、水戸光圀と常に相往来して、学問に励んだと言われている。今の東京大学のあるところが加賀の本邸、同農学部(前は旧一高)のある場所が水戸の中屋敷、せまい道一筋で隣り合っていたのだから、たがいに往来し合って勉学したというのも、うなずけるのである。
二人の相互影響は、二人が世間からその賢名をたたえられるようになってからもある。光圀が湊川の楠木正成の墓を修して石碑を立て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と題したことは有名であり、その石碑の裏に明の亡命客朱舜水の作った楠公を賛する文章が刻せられていることもよく知られているが、元来あの文章は朱舜水が綱紀のもとめに応じて作ったものなのである。綱紀が狩野探幽に依頼して、楠公父子の桜井駅の訣別を描かせ、朱舜水に頼んで賛してもらったのを、光圀が湊川の建碑をする時、流用させてもらったのである。
楠木正成については、現代の学者の中には否定的な評価をする人々もあるが、ぼくは最も見事な人物であったと思っている。また、この時代に、綱紀や、光圀や、学者では浅見|絅斎《けいさい》のような、最も熱心な求道の人々が、理想的人間像を正成に見たことを、大いに意義のあることと思ってもいる。この時代は戦国の乱世が去って永続性ある平和な時代に入ったことが確実になった時期だ。こんな時代には、まじめな人は道義を考えるにも根本的に考えざるを得なくなって来る。その抱く哲学の行者として最もきびしく生き、最も美しく死んで行った正成を景慕したはずと思うのである。
綱紀の学問の功用は、民政の面にも大いにあらわれた。全国各地から名医を招いて士民の病気を治療させたり、各種の薬を調剤して士民にわかったり、撫育所を設けて貧民を収容したりしたというのだ。
徳川実記の「有徳院殿御実記附録巻七」に、吉宗将軍が綱紀を尊敬して、幕府の儒官室鳩巣は以前加賀家につかえていた縁故があるので、鳩巣を時々加賀家につかわして、政治上のことを諮問したとあり、またある時、老中らと語った時、
「加賀守は家がらと言い、年といい、ならぶべき人もない上に、八十歳の今日まで公私ともにまるであやまちのなかった人である。わしがあの人をとくべつ鄭重にもてなすのは、内々は幕府の後見にもと思うからである。三家の方々も、今は皆年若である故、加賀守の言行を見習いなさるがよかろう」
と言ったと記録している。
この時代は会津の保科正之、水戸の光圀、尾州の義宣、備前の池田光政、土佐の山内忠義と、儒教を政道の根本とする名君が輩出したのであるが、綱紀は一般にはあまり知られていないが、ひょっとすると一番えらい殿様だったかも知れない。
こんな名君だったから、儒教がための四角四面の殿様だったのかと思うと、こんな話も伝わっている。
ある人が綱紀にむかって、
「加賀守殿はそのご高齢で大へんご壮健であられますが、いかなるご養生を遊ばしてお出でであれば、そうなのでありますか」
と、尋ねたところ、綱紀は、
「それは女色を遠ざけるに限ります。あれほど寿命に毒なものはござらぬ」
と答えた。
「いかにもごもっともなる仰せ。それで、加賀守殿にはいつ頃からお遠ざけ遊ばしましたか」
「さよう。七十から遠ざけました」
と、いとも澄まして答えたので、人々は二の句がつげなかったという(三田村鳶魚「加賀騒動実記」)。
いわゆる加賀騒動は、この綱紀の子吉徳の時からはじまるのである。
吉徳は、元禄三年、父四十八の時の子である。上に男子二人、女子五人あるが、男子は二人とも夭死したので、吉徳が長男とされた。
綱紀は八十一の年の五月九日に、吉徳に家督を譲って隠居したが、満一年後の五月九日に死んで(寛政重修諸家譜)、吉徳は名実共に加賀藩の主となった。この時、吉徳三十五歳である。
吉徳は大槻伝蔵を寵用して、家の騒動の基をつくった人であるというので、暗君であったように言っている向きが昔からあるが、そうとばかりは言えない点がある。
前に徳川実記の記述を引いて、吉宗将軍が綱紀を一方ならず敬重していたことを述べたが、実記のあのくだりに、吉宗が吉徳のことを「よき人となりに見ゆ」とほめたとあり、享保十六年に幕府が万石以上の者に献金を命じた時、吉徳は二十五万両(寛政重修諸家譜によれば、十五万両である。この方がよいようである)を用立てたので、吉宗は吉徳を召して、「父の時より国政よくととのひ、士民安堵の思ひをなすと聞こし召され、喜び思《おぼ》し召すなど、ねもごろに仰せかうぶりける」とある。
三田村鳶魚翁は「加賀騒動実記」の中で、吉徳の賢明ぶりを語る逸話を数条上げている。二つ三つひろってみよう。
吉徳がまだ十四の時だったという。染井《そめい》の中屋敷に住んでいたが、ある日、本郷の上屋敷が火事だという。吉徳は馬に飛び乗って馳せ出でたが、門前で馬をとめてややしばらく時間をつぶしてから、馬に鞭をくれて駆け出した。本邸についてみると、火事は大したこともなくおさまっていたので、吉徳は染井へ帰ったが、数日後、近習頭が、
「先日のお上屋敷火事のおりは、若君には大へんおせきの様子でお馬を乗り出されましたのに、ご門前でしばらくお馬をおとどめになっていましたのは、いかなるわけでございましょうか」
と、たずねると、吉徳は、
「急いではいたが、わしがかまわず駆けて行ってしまっては、人数がそろわぬ。しかし、人数がそろうのを待ってから乗り出しては、人数の揃うのにひまがかかる。わしが門前まで出ていれば、皆の集まるのが早い。だから、門前へ出て、大体の時間をはかって、それから駆け出した。皆はつづいて追いかけて来て、本郷につくまでには人数がそろっていた」
と答えたので、近習頭は大へん感心したという。これは織田信長の一騎がけという兵法である。加賀の第一世利家は信長の軍法を崇拝敬重して、臨終の際にも子供らに、「信長公はご一生の間、籠城戦どころか、ご自分の領内でも戦争されたことはなかった。必ず他領に踏み出してされた。わが家に万一のことがあったら、必ず一歩でも踏み出して戦え」と、遺言したほどであるが、信長戦法は代々加賀前田家の一子相伝の法にでもなっているのであろうか、吉徳はよく信長の一騎がけの法を会得している。十四の少年の所作にしては、見事である。たしかに凡庸な人ではないようである。
日常の生活ぶりが至って倹素で、木綿の衣服を着、琴三味線などの音曲も好まず、めずらしい鳥獣類を飼って愛翫することもなかったという。
享保十七年秋に、西国地方に暴風雨があり、九州地方では米が不作で苦しんだ。前田家では前述した通り、この前に十五万両幕府に用立てたが、うち七万両は返してもらって、なお八万両のこっていた。吉徳は幕府に、
「拙者へご返金下さるべき分を、九州大名らにお貸し渡しになりますれば、いくらか救恤にもなって、上下の者が助かると存じます」
と建言した。吉宗将軍はこれを嘉納してその通りにはからい、吉徳を召して褒美のことばを加えたという。この褒詞したというは、寛政重修諸家譜の記述では、どうやら前掲の徳川実記の事実と同じであるようだ。
このほか、加賀家中で、門閥の家の当主や当主であった人が死んだ場合、遺物《かたみ》献上といって、故人の遺品中の目ぼしいものを藩主に献上する慣例があったのをやめたとか、貸金奉行なるものをこしらえて、家中の貧しい者に安い利息で手許金を貸付けたとか、家中の目見え以上の者だけでなく、徒士並《かちなみ》の者等の由緒帳をつくったとか、加賀藩では、以前は鉄砲や弓組の者で稽古にはげむ者には、弓の者には五十石、鉄砲の者には三十石の芸術料(技術奨励費)をあたえることになっていたが、それが一時廃止されていたのを、復活したとか、いろいろなことが書いてある。
このように、三田村翁はひたすらに吉徳が相当な名君であったことを立証しようとつとめているが、前田家編修所に多年勤務して加賀藩史の権威であった近藤磐雄氏は「加賀騒動」の中で、こう評価している。
「吉徳は純良柔和な人であったが、父のような英邁果断さはなかった。綱紀は自分が心がけながら達成出来なかったことを、吉徳に継承させるつもりでいたが、吉徳が温良一方の性質で、剛毅なところのないのに、時々失望の声をはなった。吉徳より孫の宗辰《むねとき》に望みをつないで、わしの遺志は孫によって達成されるかも知れないと言ったこともあったほどである。しかしながら、ともかくも長男のことではあり、取り立てて言うほどの失態もなかったので、家督を譲ったのである」
ずいぶん手きびしいようではあるが、前後の事情を考えると、一番妥当なところかも知れない。人間としては美質を持っていた人であろうが、いろいろな事情を総合すると、君主としては欠けるところがあったと思われるのだ。いわゆる君徳において欠けるという人。
これから、この騒動の元凶ということになっている大槻伝蔵のことについてのべたい。
伝説になっている加賀騒動はいく種類もある。「野狐物語」「越路加賀見《こしじのかがみ》」「見語」の三種類は加賀で出来たもので、大槻の死後七年目に「野狐物語」が出来、以下年を追うて新趣向が加わった。最後に「北雪美談金沢実記」となってかたまり、講談になって、広く世に伝わった。これは金沢製ではなく、江戸製のようである。
ぼくには「金沢実記」はまぜもの沢山で小うるさい。作り話としての骨組は「見語」に全部ある。繁簡よろしきを得て、最もおもしろく感ずる。「見語」によって描出された大槻伝蔵の素姓を、一応披露しよう。
加賀石川郡久安寺村の百姓長兵衛は、鉄砲が好きで、山野を駆けまわって鹿や兎を撃って、猟師同様な暮らしをしていたが、その鉄砲の技を買われて、加賀家の鉄砲足軽に召出された。ある時、太守の鹿狩の時、太守のごらんになっているところで、大鹿を一頭撃取った。つづいて小鹿が二匹出て来た。お側の人々が、
「あれも撃ちとめよ」
と、さしずしたところ、長兵衛は、
「その儀はごめん下され」
と辞退した。
押問答の間に、小鹿は逃げ去ってしまった。
太守は長兵衛のふるまいを不審に思い、近習頭に仔細をたずねさせた。
「おとがめはごもっともにございますが、わたくしの親共が生前、わたくしに、鳥けだものは畜生ではあるが、親子ともに殺すはよからず、親を撃たば子を助けよ、子を殺さば親を見のがせよ、親子ともに殺すはその種属を絶やすことで、この上ない罪つくりであると、申し聞かしました。わたくしは狩好きにて、若年の頃から殺生をいたしますが、親共のこの教えだけはかたく守っているのでございます」
と、長兵衛は答えた。
近習頭からこのことを聞いた太守は、
「下郎に似合わぬ心底、親子の恩愛を思うこと感心である。褒美せよ」
と、銀子をあたえたばかりか、子供はいないかとたずねた。
「男子一人、十三にまかりなるがあります」
と、答えると、その子を呼び出した。
子供は大槻長玄と名乗って、お側づかえをするようになったというのである。
もともと小説としてうんと脚色して書かれたものを、史実上から詮議立てするのは野暮なことではあるが、小説を小説として読まず、史実として信じている人も多いから、一応詮議もしなければならない。
大槻の家系は、加賀の百姓ではない。加賀地方に伝わっている大槻家の由緒書によると、奥州黒川(会津)の芦名氏の被官に、安達《あだち》郡|四本松《しおのまつ》(今の小浜)の城主四本松右馬頭という人物があり、その被官に伊藤備前守というがあって、安積《あさか》郡大槻の城を守っていた、これが大槻家の先祖である、伊藤家には三人の子があったが、伊藤家が伊達政宗にほろぼされた時、次男は佐竹家につかえ、三男は相馬家につかえ、皆伊藤を称した、長男の玄徹は医者となって越前に流寓し、大槻と名のった、この玄徹が晩年加賀に来て、金沢に住むようになったというのである。
この所伝の玄徹以後のことは、別に疑わしいところはないが、その以前のことは相当あやしい。二三年前、ぼくは伊達政宗を小説に書いたので、ある程度政宗とその周辺を調べてみたが、四本松(小浜ともいう)の城主で四本松右馬頭という人物はこの時代にはいない。この時代の四本松の城主は大内備前守定綱といって、後年は政宗に帰服しているが、政宗が伊達家をついだ当座はずいぶん政宗を苦しめた人である。政宗はついに四本松を攻め落し、定綱は会津をさして逃げるのだが、この戦いが政宗の器量を世に示す最初のしごととなったのだ。しかし、政宗と定綱との合戦には、ぼくの見た範囲では大槻城主伊藤備前などという人物は見当らなかった。大槻の名は、この頃政宗にほろぼされた二本松城主畠山右京大夫義継の老臣中にある。大槻|中務《なかつかさ》という者がいて、義継とともに政宗に討取られている。おそらくこれが加賀の大槻の先祖ではないかと思う。
さて、玄徹は金沢で浪人医者としておわったが、その子は半右衛門、これも一生浪人でおわった。その子長左衛門は加賀三世利常の時に鉄砲足軽として召しかかえられ、後に弓組にかわり、弓組足軽小頭にまで進んだ。長左衛門に七左衛門、六郎左衛門、長兵衛の三子があった。長の七左衛門は父のあとをついで弓組足軽小頭となり、仲の六郎左衛門は持弓足軽(殿様の持弓をあずかるかかりの足軽)となり、季《すえ》の長兵衛は割場《わりば》足軽(遊軍の足軽)となり小頭にまで進んだ。六郎左衛門と長兵衛には女の子しかなく、七左衛門には女子一人、男子三人が生まれた。七郎左衛門、長左衛門、伝蔵の三人である。七郎左衛門が父のあとをつぎ、長左衛門は叔父六郎左衛門のあとをついで従妹と結婚し、伝蔵も叔父長兵衛の娘と結婚した。わかりやすいように、系図にして示す。
伝蔵は元禄十五年正月一日の出生であった。当時室鳩巣が加賀藩に召抱えられていて、多数の藩士らがその門下生となっていたが、大槻七左衛門もその一人であったので、師に命名を請うたところ、「朝元」という名をえらんでくれたという。元朝をひっくり返したのではなく、朝のはじめ、つまり一年三百六十朝の第一の朝に生まれたものという意味であろうか。もっとも、これを「チョウゲン」と音読するにしても、「トモチカ」と訓読するにしても、生まれたての子供にこんなむずかしい名前をつけるはずがない、後に前田家にお坊主として奉公をするようになってからの坊主名に過ぎまい、彼の生まれた頃にはまだ鳩巣が加賀家のお抱え儒者として金沢に在住していたので、附会してつくり上げた伝説にちがいないと考える人がないでもない。ぼくにも、この説の方がのどにつかえない。
朝元が、生まれてすぐつけられた名前でなかったとすれば、本名は何と言ったか、多分伝蔵と言ったろうと思われるが、確かにはわからない。しかし、便宜上、伝蔵であったことにして、話をすすめたい。
伝蔵は怜悧で、容貌玉のように美しく、おまけに学問が好きで、手習などまことに上手であった。近藤磐雄氏は、「近頃ふとしたことから伝蔵の自筆の手紙を見たが、文章といい、筆蹟といい、なかなか見事なものであった」と、「加賀騒動」の中で書いている。幼少の頃もしのばれるのである。
父の七左衛門にしてみれば、これほどの子ではあるが、弓組足軽小頭の三男では、普通では行先が知れていると思ったのであろう、金沢郊外の小立野の波着寺という真言宗の寺に奉公に出した。和尚さんの草履取りなどするのが仕事であったが、やがては出家させるという約束になっていたと思われる。出家の世界も俗界と同じで、家柄のよい生まれの者が出世しやすくはあるが、それでもこの世界では門地がなくても出世の出来る途がひろいので、才能がすぐれていながら門地のない者はよく出家したのである。伝蔵を波着寺に奉公させた七左衛門の心もそれであったのであろう。
波着寺には何年くらい居たのであろうか、後のことと考え合わせて推察するよりほかはないが、およそ十くらいから二三年のものであったろう。伝蔵の十二か三の時、叔父の長兵衛が、自分には女の子だけで、男の子がないので、
「兄さんよ。伝蔵をむざむざと出家させてしまうのもかわいそうじゃ。おれにくれよ。おれが養子にして、娘にめあわしてあとつぎにしたい」
と、七左衛門に相談して承諾させ、自分の家に引きとった。
長兵衛の養子になって二年か三年立って、享保元年四月四日(これは近藤磐雄説、三田村鳶魚翁は七月四日であったという)、お坊主に召し出されて、二人扶持小判二両をあてがわれることになった。時に伝蔵十五。念のために言っておく、この時代はまだ綱紀の治世である。従って、伝蔵を召出したのは綱紀であり、吉徳ではない。
お坊主に召し出されてからの名は伝蔵ではなく、朝元であることも、ことわっておきたい。
朝元はお召出しになるとすぐ、世子吉徳のお居間付きとなった。
朝元は人の気を見る鋭いはたらきがあり、弁口がさわやかであり、目から鼻にぬけるような怜悧さがある。彼の頭のよさを語る話を、近藤磐雄氏が伝えている。
昔の行燈は左から右に開くようになっていたが、加賀の行燈は右から左にあくしかけになっていた。これは朝元の発明である。このしかけにすれば、右手に油壺を持ちながらあけて、油をつぐことが出来るので、彼がそうこしらえさせたのを、人々が見て、便利であるとてならったのであるというのだ。あるいは、この発明はこの頃のことかも知れない。
彼はまた玉のような美少年だ。時代の風習で、吉徳は男色に趣味がある。この点でも大いに気に入って、寵愛するようになった。吉徳二十七、朝元十五である。
「見語」と「金沢実記」とは、朝元がこのお居間付き坊主時代に、
「当前田家も、元来は小身な武家であったのを、日本一の大大名になられたのだが、それは戦国の時代であったればこそのことだ。今日のような太平の時代となっては、足軽の子である自分などは、いくら出世したところで、百石か二百石の身代にしかなれないであろう。しかし、何とかして大いに出世し、当家の政治を手のひらの上にめぐらすほどの身になりたいもの」
と、心をくだきながらも、熱心に奉公していると、十七の年の夏の土用ぼしの時、薬品類のほし場の番にあたったので、ふと思いついて、猛毒|斑猫《はんみよう》を少し盗みとっておいた。
やがて、年の暮となり、江戸屋敷で重役らが召されて年忘れの宴がひらかれた時、長玄(両書はこの二字にかえている)は給仕役で、お座敷の次の間で立働いている間に、吉徳(両書ともこの時代が綱紀の世であるとせず、吉徳の当主時代としている)の膳部に供すべき汁椀の中に斑猫を投げこんでおいて、ふとおどろいた様子をつくり、わざと大声で、配膳役であるお小姓間宮藤十郎に言う。
「このお膳部はこのままでは差しあげられませぬ。お汁椀の泡立ちようがただならず見えます。不審でございます。お改め願います」
間宮はおどろいた。このお膳はご膳番・毒味役らが検《あらた》めた上で差し出したもの故、間違いはあるはずはないが、今一応吟味をしようと、ご膳番や台所役を呼び出した。この人々は腹を立てた。
「新しい塗椀に熱い汁をつげば泡の立つものでござる。われらがそれぞれに十分のあらためをいたしたこのお膳部なれば、不都合なことのあろう道理はござらぬ。定めし、長玄はわれらに不調法をつけんとたくらんでいるのでござろう。さりながら、身の潔白を証せんため、今一応のお毒味をいたします。その上にて別条なくば、長玄の身がらをわれらにいただきたし。そのぶんには捨ておきがたくござる」
と、言って、取調べ役の人々の許しを得て、四人のものは膳部のものを一物ものこさず食べたが、しばらく立つと顔色がかわり、はげしく五体をふるわせて悩乱し、血へどをはいて即死した。
大へんなさわぎとなり、重立った台所役人六人を捕縛し、国許の家老らにも連絡して詮議させることになった。しかし、それはともあれ、吉徳は長玄の働きでいのちが助かったというので、新知五百石をあたえ、近習格とし、髪をのばさせて大槻伝蔵と名のらせることにしたと、述べている。
もちろん、これは全然のフィクションである。綱紀が当主として藩政の一切の権をにぎり、吉徳は世子たるにとどまっているのだから、朝元が最も姦悪な野心家であり、いかに出世をあせっていたとしても、こんな危険な手を打つはずはない。たとえ誰一人疑うものなく、朝元の注意の周密さが感心されたとしても、この頃の吉徳には朝元を取立てて加増してやる権力はない。もし、そうしてやりたいと思うなら、父の綱紀に頼んでそうしてもらうほかはないのだ。父の賢明を畏憚している吉徳としては、朝元と男色の契りのあることは父には出来るだけかくしておきたいことであったに違いない。
だからであろう、享保八年五月九日に、綱紀が隠居して、自分が家督を相続するまで、朝元の身分もかわらず、食禄も全然加増がない。
綱紀の隠居は老病によるのであるから、すでに隠居してしまうと、もう全然藩政には関与しなくなった。それで吉徳は家督を相続した一月後の六月九日には、朝元の食禄を十俵三人扶持としてやっている。二人扶持金二両から十俵三人扶持にしてやったというのだから、つつましいと言ってよいほどの加増であるが、八年間もがまんをして来て、大いに加増してやりたいのだが、こわいおやじ様にたいする気がねがまだあるし、この程度なら目立つことはあるまいという、吉徳の心がおしはかられて、いっそいじらしいくらいである。
もっとも、この時、吉徳は三十四、朝元は二十二であるから、もう男色の関係はなかったろう。
翌享保九年五月九日、綱紀が死んだ。吉徳としては最もはばからなければならない人がなくなったわけだが、急にはそうも出来なかったと見えて、やっと十一年の正月十六日に、二十俵の加増をして、都合三十俵三人扶持とした(政隣記《まさちかき》抄本)。
ちょっとここで言っておく。三田村鳶魚翁が「加賀騒動実記」の十頁に記述しているところでは、江戸の一俵は三斗五升だが、加賀は五斗俵だとある。つまり加賀家の三十俵は江戸の四十三俵弱にあたったのである。
吉徳はせきを切ったように伝蔵の取立てをはじめた。七月十八日には五十俵に直して、徒士並《かちなみ》に仰せつけ、蓄髪を命じ、大槻伝蔵と名のらせて、奥小姓番|頭《がしら》支配で、お居間方の御用をつとむべしと命じた。これで武士として本筋の勤めになったわけである。伝蔵という名が幼時からの本名であるのか、この時吉徳がくれたものであるのか、はっきりしない。名乗は朝元を訓読してトモチカとする。
さらに吉徳は年末には、新知百三十石をあたえた上に、毎年役料として銀二貫目を給することにして、新番組に編入した。武士は扶持その他の現物で給与されるより、領地たる知行所をもらっている者の方が上位とされるのだから、この点でも大いに優遇したわけだ。
前にも引用したが、加賀騒動に関する参考書の中に「政隣記《まさちかき》抄本」というのがあって、国書刊行会本の「列侯深秘録」の中におさまっている。原本の政隣記はこの時代の加賀藩士で小姓組であった津田左近右衛門政隣が当時のことを記録したもので、この中から大槻伝蔵に関係したものだけを書きぬいたのが、この抄本である。伝蔵が吉徳に取り立てられて行く次第は本書が最もくわしいのであるが、この書の中にこんな記事がある。
「十三年五月二十五日に、吉徳は泉野に鷹狩に行っての帰途、伝蔵の屋敷に立寄った。伝蔵は新番組のお徒士並百三十石のお近習である」
と、政隣はびっくりした様子で書いている。そのはずである。どこの藩でも、藩主が時に臣下の家に行くことはないことではなかったが、それはほとんど全部門地の高い大身の家老の屋敷で、徒士並《かちなみ》などという身分低い者の家に行くことは絶対といってもよいくらいないことなのである。いかに吉徳の伝蔵にたいする寵遇が厚かったか、よくわかるのである。吉徳はこの後も度々伝蔵の家を訪問している。
近藤磐雄氏の説では、この最初の時の伝蔵の家は仙石町にあった。現今第四高等学校のグラウンドのある辺で、邸内にあった松樹二三株がまだのこっていると、大正十四年頃作の氏の文章にある。だから、今では金沢大学の構内になっているのであろう。
政隣記によると、この一月後の六月二十二日には、吉徳はこの伝蔵の屋敷から城内に来るに、表通をまわっては相当遠いというので、特に命を下して、伝蔵邸から城内に直接来られる新道を開かせたとある。藩中みな目をそば立て、目ひき袖ひきしたことと思われる。こんなに権力者に可愛がられては、嫉み、憎む者の出て来るのは、必然といってよい。しかし、この頃まではそれはまだ表面にあらわれなかった。
伝蔵は十一年の歳末に百三十石になったまま十四年の閏九月二十四日まで、全然加増がなかったが、この日百石加増されて二百三十石となった。それからはもううなぎのぼりだ。寛保三年まで十五年間に十五回の加増を受け、三千八百石の知行取りとなり、身分は家老になり得る家柄である人持《ひともち》組になった。
加賀藩の身分制度は、八家、人持組、知行取りと三つにわかれる。
八家は、他藩の門閥家老に相当する。万石以上の大身で、本多、横山、長、村井、前田が二軒、奥村が二軒、全部で八軒、皆一門や創業の元勲の子孫で、最高の政務機関としてその合議によって重大事件が決定される。
この下に家老がいる。他藩の仕置家老だ。これになり得る家は人持組とて約七十家あって、身代は千石以上万石以下。それぞれ八家に分属して、八家を組頭と仰いでいる。家老のほかに奉行にもなる家柄である。
人持組の下が、一般知行取りの士分で、大小将《おおごしよう》、馬廻《うままわり》、定番《じようばん》馬廻、組外《くみがい》等の組々に分属して、この中から定番|頭《がしら》、馬廻頭、大小将頭等に選任される。また寺社奉行、公事場《くじば》奉行、算用場奉行(勘定奉行)等に選任されるものもある。以上の三組頭、三奉行はいずれも行政の衝にあたる。
伝蔵は生涯家老にはなれなかったが、家老になり得る家柄である人持組にはなったのである。この伝蔵の栄達につれて、彼の父兄や一門の者もみな取り立てられ、加増をたまわった。
伝蔵が内蔵允《くらのじよう》と改名したのは、享保十九年五月十三日、彼が知行五百八十石、役料百五十石、物頭並《ものがしらなみ》となった、三十三歳の時であった。
伝蔵が、階級制度の厳重な時代に、最も微賤な身分からスタートしながら、こうも栄達し得た原因を、昔の男色関係だけにもとめるわけには行かない。最も大きな原因は当時の加賀の藩情にあった。
一体、加賀家の政治組織は、上述したようなきびしい階級によって規制されていたので、八家の勢いが強大で、政治上のことで、藩主の意見と八家の意見とが食いちがう場合は、藩主の方が折れなければならないことが、往々にしてあった。
綱紀は三歳という幼少な時に家をついだ人であるから、幼少の頃はもちろん、藩政は八家の人人の欲するままであったろう。次第に長じて来て、青年になっても、この習慣があるから、八家の人々は依然その意見をおしつけて来たろう。賢明な人であり、すぐれた気性の人であり、学問もあり、手腕に自信もあり、経綸もある人だけに、八家の人々のこの態度にはがまん出来なくなった。
綱紀は藩政を自分の独裁にかえて行く工夫をし、ついにこれに成功した。一体この時代は独裁制がはやった時期だ。たとえば徳川家だ。五代将軍の綱吉がそうであったし、八代将軍の吉宗がそうであった。二人は老中や大老の力を出来るだけ削って、ついに独裁政治を確立した。
二人はそのために二つのことをおこなった。一つは側用人の権限を大にして、命令はこれを通じて老中らに伝え、老中らから言上することはこれを通じさせることにしたので、老中は職制の上では幕府の最高の政治機関でありながら、実質的には諮問機関にすぎないものになった。
一つはスパイ政策を採用したことだ。綱吉の場合には、目付や伊賀者なども使ったろうが、それより牧野成貞や柳沢吉保等の側用人の手によってさかんにスパイをはなって情報を集めていたようである。吉宗の方はお庭番の制度をはじめて、将軍直属のスパイとしたことは最も有名だ。
スパイ使用は、ちょっと考えるとまことにいやらしい方法だが、独裁政治には必要欠くべからざるものだ。臣下や官僚を制圧するためにはその者共の秘事を知っている必要がある。また独裁者のよって立っているところは、民と直結しているという自信にある。独裁者はこの自信をもって、大官、群臣、官僚らに対立して、これを制圧するのである。吉宗将軍のはじめた目安箱《めやすばこ》の制度なども、その真の存在価値はここにあったのかも知れない。
この二つの方法は、独裁政治に欠くことの出来ない条件だから、綱紀は別段綱吉の真似をしたわけでもなく、吉宗の真似をしたわけでもない。綱紀は二人が将軍職になるよりはるか以前に加賀の太守になっている。綱吉が将軍になった延宝八年においてすら、綱紀はすでに三十九歳だ。とうの昔に独裁体制を完成していたのである。むしろ、時間の関係から言えば、二人の方が綱紀の真似をしたと考えるべきであろう。
綱紀の側用人的の人物としては、横山志摩、多賀信濃の二人がいる。横山は元来五百石、多賀は四百石という身代であったが、最後には前者は一万石、後者は六千石という大身になったという(近藤氏著加賀松雲公)。
スパイ使用については、やはり近藤氏が、綱紀は大横目、徒士横目、足軽横目等、いろいろな横目をおき、藩士に不都合があれば、自分に直接報告する権限をあたえていたと書いている。それ故に、綱紀は藩中のことは細大もらさず知っていたので、室鳩巣らの儒臣をはじめとして、心ある藩士の中には、「殿様は厳明にすぎる」と諫書をたてまつった者があるという。苛察は人君の徳望を害する点があるが、政治にはある程度は苛察が必要である。韓非子が政治の書として奇験ある理由である。ただ、そのかねあいがむずかしいのである。
綱紀は死んだが、その樹立した独裁制はのこっている。吉徳としては、側用人としての役をなす人物が必要なわけで、内蔵允がそれにあてられたのであった。
もう一つは、当時の加賀藩の財政が、機転のきく人物を必要とした。それについて、近藤氏はこう書いている。さしも富有であった加賀藩も、幕府に十五万両を用立てた享保十六七年が峠であった。その後いろいろと不時の入費が重なって、次第にひっぱくして来て、どうしても財政整理をやらなければならなくなって来たのだが、これがなかなかめんどうであった。
第一には下々の情況に精通していなければならない。第二には京阪方面の金ご用達らとの折衝がなかなかの手腕を要する。第三には一々これを家老らに相談していては、時間ばかり食って、埒があかない。かかりの奉行ぐらいに命じたのでは専断が出来ないから、これまた埒があかない。吉徳としては側近く召しつかって最も信任している大槻に相談することになるのは、きわめて自然なことであった。
大槻は才人であるばかりでなく、度胸も相当あった人物である。また平生からいろいろと気をくばって必要と思われることを調べていたので、相談されれば渋滞なく答えたし、策もまた立った。
また、老臣らは大てい金沢に常住しているが、大槻は吉徳の参覲交代にはいつも随従して、いつも吉徳の側にいた。信任は厚くなるばかりだ。
大槻はまた吉徳のスパイ組織の中心をもつとめていたようだ。三田村翁は「加賀騒動実記」の中で、大槻の一族に横目をつとめている者の多い点を指摘して、「このようにその一族がいずれも密告御用をうけたまわっているところを見ると、この方面に皆一種の才幹があったから取立てられたので、大槻にたいする寵愛だけが一族の繁栄の原因であるとは言えないようだ」という意味のことを言っているが、ぼくは吉徳が父の代に引きつづいて独裁体制を維持するためには、スパイ組織が絶対必要だと考えた大槻が、吉徳と相談して、自分の一族の者を諸横目にしてもらい、自分がその中心となって、組織をつくったのであろうと思っている。
さて、このようにして、加賀藩のすべての政務は大槻によって処理されるようになり、家中の者の任免まで彼のとりなしによって決定されるようになった。組織の中で人事権を握るほど強いものはない。大槻の権力は加わる一方であった。
大槻は、このように権勢の人となったわけだが、しからば彼の行った政治上のしごととしてはどんなことがあるのかといえば、これがはっきりしない。大槻は後に姦人として処罰され、彼の最も強力な反対者が藩政の局にすわったので、彼の功績を湮滅《いんめつ》するために力をつくしたからだという説を立てる者が昔からある。それは加賀の郷土史家の中にもあり、中央の史家にもある。三田村翁などはその一人であった。しかし、その消え消えな中から、二三ひろい出されないこともない。
その一
財政上のはたらき。これについては、近藤磐雄氏の説を前に述べたが、三田村翁はこれを具体的に書いている。ある時、八家の人々の合議で、八千貫目の銀をつくることになり、京阪地方へ使を出して、いろいろと運動させたが、どうしても出来ない。ところが、大槻のつかわした笠間安右衛門(近藤氏は源左衛門としている)は着々として金策を達成したというのだ。
その二
やはり経済に関係したことであるが、藩の費用を節約するために、弓・鉄砲の足軽らに式日の門番をつとめさせた。するとその日は弓や鉄砲の練習をしないですむから、矢や弾薬の節約になった。
割場奉行というのは、どこにどれだけの人数の足軽を配るかということを、時にあたってきめて配置する役目で、手持の足軽(これを割場足軽という。足軽の遊軍だ)を相当数持っているのであるが、大槻はこれが老朽しても不足しても補給することをやめ、定番組の足軽をまわして用立てることにした。
金沢城内の枯木、枯葉、下草などをとることを、厩方《うまやかた》の飼葉《かいば》を引受けている百姓にゆるし、そのかわり城内の庭の掃除をさせることにしたので、庭方掃除の小者らは不要になった。
江戸でも、国許でも、費用節約のために、城内や屋敷の日傭取《ひようとり》をやめて、非番の小者をくり合わせて使うことにした。この小者らには昼飯は給しないが、働いた日は鳥目三十文ずつをくれた。遊びに出る以外は退屈していなければならないのを、三十文ずつもらえるので、小者らもよろこんだ。
以上は全部、三田村翁の述べていることである。こせついているところ、百万石の大大名のお家としてはいかがという気がしないでもないが、大名の家の経済のくつろぎは、倹約によってつけるよりほかはないのである。殖産、興業といっても、鎖国の時代では知れたものなのである。二宮尊徳の経済法が詮ずるところは勤倹貯蓄につきるのは、あの時代としてはいたし方がなかったからである。それを考えないで、現代のつもりで批評してはいけないのである。薩摩藩が密貿易をもって経済の建直しをしたのは、異例中の異例である。標準になることではないのである。
その三
ある時、加賀に百姓一揆がおこったが、大槻がこれを一身の機略をもっておさめたという話がある。
大槻の息のかかっている者で吉田宅右衛門という改作奉行がいた。この者は石川郡の大庄屋村井与三右衛門という者と結託していた。この年加州は不作で、とりわけ石川郡はひどかったので、百姓らは困窮して、減税を嘆願したが、二人は減税どころか一層きびしく取立てた。百姓らは相談の上、当時藩中第一の権勢家である大槻に嘆願することにして、村々の代表者十余人が連署の訴状をしたため、金沢に持って来て、大槻の乗物に投げこんだ。
大槻は訴状をとりあげ、百姓らを退散させておいて、自宅にかえると、吉田奉行を呼んで訴状をわたした。
「わしじゃからよかったようなものの、他の老臣《としより》衆へかようなものがわたっては、きびしい詮議となり、その方共の落度《おちど》となるぞ。よくよく処理して、無事におさめるようにいたせ」
吉田は恐れ入って帰り、村井大庄屋と会って、善後策を相談した。大庄屋は腹を立てた。手前におまかせ下されよと言って帰宅すると、訴状に名前を連ねている百姓らを呼びよせ、火の出るばかりに叱りつけて自宅の裏長屋におしこめ、食事もろくろくあたえなかった。百姓らの一家親類らがわびを言っても聞きいれない。
村々の百姓らは激昂し、ある夜数十人が大庄屋の家に乱入し、囚《とら》えられている者共を奪い返した上に、手あたり次第、さんざんに屋敷を破壊した。
大庄屋は家族を連れて、いのちからがら逃げ出し、これを宅右衛門奉行に訴えた。
役所では、捕吏を大庄屋を案内者として村々の百姓らの捕縛につかわしたが、それと知った百姓らは五十人、百人と集団をなして抵抗した。役人らはほうほうのていで逃げ帰った。
こうなれば、もう純然たる百姓一揆だ。百姓共が大挙して城下におしよせてくるという流言が立ち、城内では評議がはじまった。
硬論、軟論、いろいろな議論が紛糾した時、大槻は、
「これしきのことに、ご人数を向けられるはいかがと存じます。さればとて捨ておき給うもご威光にかかわります。拙者一人まかりむかって、善悪の詮議をいたしましょう」
と発言した。吉徳はよろこんで許した。
大槻は平服で、草履とり一人をつれて、いとものどかな顔で村方に向かった。村々ではもはや逃れぬところ、さりながらおめおめとは死なぬ、さむらい衆に一泡吹かして死のうと、待ちかまえている。加賀の百姓は戦国の昔、一向宗にこりかたまって一揆をおこし、守護大名である富樫氏をほろぼした経験を持っている。その頃から持ち伝えた具足、槍、薙刀などをとり出し、ごしごしと錆をおとし、悲壮な覚悟で、目をつり上げていた。そこに、大槻が、思いもかけず平服で、一僕だけを従えて悠々とやって来たので、気をのまれた。
大槻は百姓らに会って、
「その方共が立腹はもっともである。その方共の願いは、わしがすでに聞きとどけて、年貢減免の沙汰を申しつけておいたのに、役人や庄屋のやり方が悪かったために、このさわぎとなったのである。この上は村々の願いを聞きとどけて、役人や庄屋を処分することにする。しかしながら、その方共がお上へ手向かいしたのもよろしくない。いのちは別条のないようにはからうが、吟味の間入牢を仰せつける。それでなくばご政道が立たん故、いたし方がない。|くじとり《ヽヽヽヽ》にして、一村から三人ずつさし出せ」
と、申渡した。
百姓らは納得して、一村から三人ずつ、十五人の人間をさし出す。大槻は、「大法なれば」といって、十五人に縄をかけて城下に連れかえり、入牢させた。
大槻のこの働きに、家中一同感心した。
大槻は吉田奉行と与三右衛門大庄屋を追放にし、代官三人を免職したが、同時に十五人の百姓は一揆の張本人であるとて、全部死罪にした。村々の百姓らは約束が違うとおどろいたが、役人の方でも罰せられているので、泣寝入りするよりほかはなかった。
この話は「見語」に出ているのだから、小説にすぎないと言ってしまえばそれっきりだが、加賀では享保二十年九月に百姓一揆がおこっている、相当よりどころのある話だと、ぼくは思っている。「見語」の記述は方々にずいぶん悪意のある評語がちりばめられ、大槻の姦悪ぶりを示そうと大わらわになっているが、常にものごとの真髄を見ようとつとめて、ことばの表面にまぎらわされることを用心する読者には、それらの評語がからまわりして、大槻の水ぎわ立った人物像が生き生きと立って来べきはずである。
その四
金沢の兼六公園は、高い丘にある金沢城の一隅にあって、水の手の便などさらにありそうにないところだそうだが、そこの池には満々と水がたたえ、滝までおちているという。この水は公園の一角に忽然としてあらわれ、はば四五尺、七八寸の深さをもつ川となってこんこんと流れてやまないと聞いているが、これは昔から大槻伝蔵の秘密工事によるかくれ水と言い伝えられているという。
その五
大槻は寛保二年に、金沢城下を流れる犀川の橋を架けかえた。これまで長さ四十間、はば三間あったのを、橋台をおし出して石垣を築き、長さもはばもちぢめた。
翌年にはやはり城下を流れる浅野川の橋も架けかえたが、これもそれまで長さ五十間、はば三間あったのを、犀川と同じようにちぢめた。
以上二つのことは、一部の保守的な藩士らの気に入らず、
「橋の長さを詰めるのは不吉きわまることである。必ず国主の上にたたりがあるとされている。川に橋を架けたり、堤防をきずいたりすることは、国君の仁徳第一のことであるが、ご倹約のためとて縮めるのは天理にそむいている。大槻はこんど橋を短くするために橋台の石垣をおし出したが、ああいうことをしては、必ず殿様のお身の上によからぬことが起って来る。大槻はくせ者である故、それを喜ぶかも知れないと思っていたら、果して殿様のお上に凶事が引続きおこった」
と、加賀藩のお作事方書類に書いてあると、三田村翁が言っている。このことばは、後年、加賀の殿様が引続き短命でなくなってからの記述であるに相違ないが、大槻が橋台を押し出して築き立てた石垣は今日ものこっていて、いかなる洪水にも傷まないと、三田村翁が昭和十四五年頃に書いている。
この石垣は明治年代の末までは百間ばかりあったのが、今日では四十間ぐらいしかのこっていない。それは明治の末に一部を改修したら、そこに水が突っこんで来て決潰し、今日のこっている分だけになったのだという。
その六
これは口碑としてのこっていることだというが、大槻は犀川をさらって深くし、浅野川の水と合流させて水量を増し、宮ノ腰の港から船を入れて金沢城下に引きつける水利の便をひらくとともに、浅野川の川床と浅野川の注ぐ八田潟(河北潟のことか?)とを干拓して新田をひらく計画を立てていたという。
大槻は才人ではあるが、これらの思いつきや、計画や、技術が、一身で出来る道理はない。彼は自分の地位が上り、収入が増し、権勢が加わって来るにつれて、ブレーンを集めていたと、近藤氏が書いている。前に金融の面で働いた笠間源左衛門もそれだが、そのほか井口五郎左衛門、関屋長太夫、河島吉左衛門、三浦左京などという人々があった。これらはいずれも才気に富み、会計上の融通にたけ、整理の案なども巧みに立てて、富貴のうちに生長した苦労知らずの門閥家らのとうてい及ぶところではなかったと、氏は述べている。
そうなれば、大槻は益々仕事がよく出来、吉徳の信任は厚くなり、羽ぶりもよくなる道理だ。ついには歴々の重臣、たとえば八家の人々や人持《ひともち》組の人々まで、なにか欲する時には大槻にとり入って達するという工合になった。
氏素姓がやかましく言われる時代には、微賤からスタートした男が、身分高い家の生まれの女性を妻妾にしたがるのは、最もありそうな感情であろう。最も実力がものを言った時代であり、そのために人臣としての最高位にまで昇り得た豊臣秀吉のような人すら、高貴な家の生まれの女には目がなかった。とりわけ、彼の主筋にあたる織田家の血を受けた女性には最も心を引かれている。若い頃の劣性コンプレックスが裏返されて征服欲になったのであろうか、高嶺《たかね》の花を見上げるに似た若い頃のあこがれを充たしたかったのであろうか。
大槻にも、この心理があったようである。彼の最初の妻は叔父長兵衛の娘で、彼は長兵衛の聟養子だったわけだが、その妻は享保十九年二月に死んだ。大槻はこの年の五月十三日に物頭並になって、本知のほかに百五十石の役料がつき、内蔵允《くらのじよう》と改名するのだから、そのよろこびも知らないで死んで行ったのだ。不運な女と言ってよかろう。
そこで、翌年十一月に、再婚することになる。相手は浅井源右衛門の姉の穎《えい》という者だ。浅井家は江州小谷の浅井の一族で、淀君が浅井長政の娘である関係上、豊臣家につかえていたのだが、大坂落城の後、前田家につかえたという由緒ある家で、前田家ではずいぶん大事にされ、知行千五百石をあたえられていた。
この穎という女は、相当問題のある女であった。以前定番組で三百石の伊崎|所《しよ》左衛門の嫡子彦右衛門と縁談がおこって、親戚の人々がなかに立って、家と家との話はほとんどまとまったのだが、穎の心持を聞くと、穎はおそろしく立腹し、
「わたくしは女ではあっても、浅井家の惣領娘です。江州の浅井といえば、戦国時代には名家で通った家、その血統の者です。唯今は両親もなく、弟や妹らと一緒に暮らしているので、親戚の方々は伊崎のような小身者、しかも家筋も確かでない者の許へ嫁《ゆ》けと言われるのでありましょう。父が生きていましたら、あなた方も、よもこんな取りはからいはなさるまい。わたくしは何も他へ縁づくにはおよばないのです」
といって、髪をぞっくり切ってしまった。当時の習わしで、婚姻は家と家とがとりきめるものとして、当人らの意志にはほとんど重きをおいていない。だから、穎のような気の強い女が出て来ると、ことが面倒になって来る。伊崎家でもこまったが、浅井家でもこまった。仲に立った親戚らはもとよりこまった。いろいろ相談の上、穎のかわりに妹を嫁入らせることにして、やっとすませた。
こんな穎だから、浅井家でも難物にし、家中でも貰おうという家はない。これを大槻が聞きつけて、家柄にほれてであろうが、人を頼んで申しこんだ。
浅井家の方では、家の者も、親戚も、前のことがあるので、今こそ物頭並であるが、元来は足軽の子である大槻などに、よもや嫁《ゆ》くとは言うまいと思い、ことわった。
すると、近習頭の遠山勘右衛門という者が、浅井家に来て、
「この縁談は、内蔵允殿の存念だけのものではなく、殿様の思し召しでもあるようでござる。なるべく取纏めるようなさるがよろしいと存ずる」
と言った。吉徳の意志でもあるというのは、うそではなかったろう。大槻からそう嘆願されれば、吉徳としては口をそえたはずである。
しかし、浅井家はよほどに前に懲りている。いろいろ言訳してことわったが、再び遠山が来て、
「先日の話でござるが、伊崎との一埒は内蔵允殿は十分に承知しておられる。どうぞ、内蔵允殿へやっていただきたい」
という。
しかたはない。浅井家では、こわごわ穎に話をすると、穎は嫁《ゆ》くといった。大槻はすでになかなかの羽ぶりになりつつある。容貌風采も立派である。こんなところから、心が動いたのかも知れない。
話はまとまって、穎は大槻の妻となった。
それから間もなく、年が明けて享保二十一年(四月改元して元文)となり、三月十一日のことだ。この日吉徳は栗野のあたりに鷹野に行った。大槻も供して行ったが、吉徳が帰りに大槻の家に立寄るというので、先きに帰って迎える準備をした。
穎は自分が嫁して来てからの最初の殿様のお入りだというので、献上品などの支度をして、お目通りするつもりでいた。大槻の先妻は足軽の娘だったが、前に殿様が大槻の家へお出でになった時には、お座敷に召されてお目通りしている、自分は歴々の家の出であるから、当然お目通りが出来るはずと信じていたのだ。
ところが、間もなく吉徳は来て、およそ二時間ほどいたが、ついに呼んでくれなかった。穎は失望し、夫が何のとりなしもしてくれなかったことを恨めしく思った。
その上、吉徳が帰ったあと、大槻はいつまでも自分の居間に帰らない。十時頃になって、穎は老女とともに煎茶をもって大槻のところへ行ってみた。大槻はその茶を飲みはするが、そのままで動かない。穎は奥へ帰って来て、夫の帰って来るのを待ったが、午前二時になってももどって来ない。
穎は酒肴の用意をして、それをたずさえて行ってみた。すると、大槻は二人の妾とともに庭の泉水に、舟を浮かべていた。穎はその舟に乗って、持って行った酒肴をすすめたが、大槻は宵から過ごしているから、飲みたくないとことわった。妾らにすすめると、これも大槻の方を見て、飲もうとはいわない。穎は、
「せっかく持って来たものです。それではわたくしが一つ飲んでからあげましょう」
といって、自ら飲んで、妾にさした。
こうまでされては妾らもことわれない。一ぱいもらって飲んだが、なお穎がすすめると、大槻は、
「飲みたくないというものに無理にすすめるのは、毒飼するようなものだ。やめるがよい」
と、とめた。
おさえにおさえていた穎は、これでかっととりのぼせた。
「毒飼とはなにごとでございますか、今もごらんの通り、わたくしが先ず飲《た》べてから、彼らにつかわしました。お情なきことを仰せられます」
と、食ってかかった。
「わしは毒飼といったのではない。たとえで言ったのだ。いやがるものに無理にすすめるのは、毒をすすめるようなものといったにすぎない」
と、大槻は弁解したが、こうなっては女は聞きわけるものではない。
「わたくしを、人を毒飼するような者と思し召されては、生きているわけにはまいりません。覚悟いたしました」
と、言ったかと思うと、泉水に飛びこんだ。妾はおいおい泣き出す。
大槻はとりあえず、穎を引き上げはしたが、そのまま居間に引っこんでしまった。
穎は、吉徳のお出でがあるというので来ていた園田理左衛門――大槻の姉の夫が介抱して、水を吐かせるやら、薬をあたえるやらした。
かくて、夜が明けて朝になると、穎につきそって浅井家から来ていた乳母が、奥様はお気先《きさき》がすぐれなさらないようでございますから、お里へ帰ってご養生なさったらよろしいと思いますが、いかがでございましょうと、大槻に申し出た。穎の意志から出たものであることは言うまでもない。
「よかろう」
と、大槻は答えて、浅井家に帰した。
こういういきさつがあって、これは離婚となった。
妻の人権なぞ、今日のような意味では全然認められていない時代であるとは思っても、大槻のこの夜の態度はずいぶんひどいように思われる。しかし、この時代よりはるかに後の時代に成った梅暦などにあらわれた男の妻と妾とにたいする態度から見ると、そう責めらるべきではないようでもある。当時としては、穎の態度は身分ある武家の妻にあるまじきはしたなきふるまいとされたのであろう。三田村翁はこれを、大槻が自分の身分に|はく《ヽヽ》をつけようとして、見境もなく札つきの女をもらったから、こんなことになったのだと、きめつけている。翁は大槻にはずいぶん同情的であるが、彼の結婚には、最初の結婚をのぞいては、いずれにたいしても、手きびしい批判をしている。
やがて、大槻は三度目の結婚をする。
その相手は、加賀で三前田と呼ばれているほどの名門の一つである前田修理の娘である。三前田とは前田土佐守一万一千石、前田図書七千石、前田修理六千石の三家である。当時の修理は小松の城代で、その役料が三千石もあり、歴々中の歴々の家でもあり、豊かでもあったのだ。
この人の娘、「廉《れん》」というのが、相手だ。廉は結婚運の悪い姫君で、はじめは小塚新左衛門という人と婚約が出来かけていた時、相手が死んだ。次に浅井源右衛門――大槻の妻であった穎の弟だが、これと婚約が成立して、すでに藩庁の許可ももらってあったのに、源右衛門が死んでしまった。大槻が穎を離縁してから三カ月後の六月二十日だったという。
こんな結婚運の悪い娘だったので、大槻は申しこんだと思われる。この頃の大槻は組頭並、千八百石でお側ご用人をつとめて、羽ぶりはきくが、門地はないのだ。三前田の一つである前田修理の娘が普通なら、くれと申しこんだら、十中八九はことわられる。大槻は利口ものだから、そんなことをして、恥をかいては損だということを知っている。しかし、こんなに運の悪い娘なら、くれる可能性が大いにあると思ったので、申しこむことにしたのであろう。もっとも、修理の息子の大学は、大槻の力量手腕に推服して、好意を持っていたそうである。
縁談はごく急速にまとまった。七月四日には吉徳の許可もおりた。これは吉徳の参覲上府の期がせまり、大槻もお供して出発するので、急にこの運びになったのである。しかし、婚約だけで、江戸に上り、婚礼は翌年帰国の後、十一月十五日に行われた。
この結婚は、家中の評判が悪かった。異数の栄達をした大槻にたいする嫉妬もあったろう。また家柄や格式や血統を重んずるのは、当時では一般の気風だったから、不釣合の婚姻と思ったのである。大槻の屋敷の長屋の腰板にこう落書した者があったという。
やれも味噌 とるはなお味噌 やるも味噌
これも三々九《さんざんく》され味噌なり
前田家に 修理を加えん 老いの身の
など娘には 恥を大学
前田家から送り人に頼まれて花嫁を送って来た松平左京という人の屋敷の長屋の腰板には、こう落書があった。
あと乗りで 今や加増を 松平
座興でもなく 無興なりけり
ずいぶん評判が悪かったことがわかるのである。「やれも味噌」というのは、やれと命じた吉徳をもくさしているのである。
しかし、吉徳は大へん満足で、婚儀に先き立つ十一月六日、豆田へんに鷹野に行っての帰途、午後五時頃大槻の家に立寄り、六時過ぎまでいて、大槻の老母を目通りさせ、杯をくれ、金百両を下賜した。大槻にも三百両下賜したが、婚礼後にはまた、大槻にも、老母にも、新婦にも、前田修理父子にも、いろいろと下賜があったという。この時、大槻は三十五だが、廉の年はわからない。しかし、この前年死んだ廉の婚約者の浅井源右衛門は十七歳だったというから、廉は十六か十七くらいのものだったのではないかと思う。
廉はこの翌々元文四年に女子を生んだが、その二三カ月後の八月には亡くなったので、大槻は四度目の妻を迎えなければならないことになった。
相手は馬廻組三百石の前田善左衛門という者の妹である。大槻は人を介して、善左衛門に申し込ませた。善左衛門が承諾の色を見せると、
「ついては、相談がござる。はなはだ勝手ながら、表向きは奉公人として迎えたいのでござる。ご諒解いただきたい」
といった。奉公人分として迎えたいとは、妾として迎えたいという意味だ。中に立った者は、これは飽くまでも表向きだけのことで、実際は妻として待遇するのであると力説した。
善左衛門は大槻と縁辺になることを大いに欲してはいたが、体面もあり、藩の掟にお目見え以上の者の子供は妾などに出してはならないという条目もあること故、難渋の色を見せ、さりとてきっぱりとことわることもせず、返事をあいまいにして、帰ってもらった。
そのあと、ともあれ、本家に相談してみようと、本家の前田源兵衛、これは馬廻組頭であるが、この者の家に行って、大槻からの申し込みの話をした。源兵衛は、
「妹を人のめかけにするなど、おぬし忍びんであろう。幸い掟の条目もある。ことわり易いはずである。ことわるがよい」
と言った。
それで、善左衛門は一応ことわってやった。
すると、仲介の者はこんどは源兵衛の家に来て、
「大槻殿に頼まれ、しかじかのことをご分家の善左衛門殿に申し入れましたところ、善左衛門殿から、一家のうちに、掟の条目を持《じ》して強硬な意見を言い張って何としても動かぬ者がある故、おことわり申すほかはないというご返答でありました。大槻殿は掟の条目はもちろん知っておられます。またその異議をとなえる人が誰であるかもご承知でありまして、何とか相談のしようがあろうと、拙者に言われました。それで、善左衛門殿のご本家である貴殿のところへ、こうしてまかったわけでござる」
と、言った。この口ぶりは、相談というより少々脅迫じみている。多分大槻にも、仲介の者にも、その心持があったろう。源兵衛はいい返事はしなかった。
一方、善左衛門の組頭である丹羽武兵衛――馬廻組というのは一組ではない。いく組もある。源兵衛とはちがう組の組頭だ――という者が、お城に出仕した時、大槻がお次の間で、丹羽武兵衛にむかって、こう言った。
「拙者が貴殿の組下である前田善左衛門殿の妹を、正式に妻として迎えようとしないのは、そうすれば前田修理殿との姻戚関係が切れてしまうからでござる。拙者は修理殿の家とはずっと姻戚でいたいのでござるが、そのためには、どこ家《け》からも正妻を迎えてはならぬのでござる。妾として迎えたいという当方のことばを、善左衛門殿はどうとったか存ぜぬが、真意はかくのごとし。決して善左衛門殿の家を軽く見ているわけではござらぬ。この拙者の考えを、殿様にも内々申し上げたところ、もっともなことだと仰せられた。これが善左衛門殿とその一家の人々にどうしてわからんのでござろうかのう」
ならびなき権勢家である大槻にこう言われると、丹羽武兵衛としては聞き流しには出来ない。善左衛門を説得してくれという謎なのであるから。丹羽は帰宅すると、善左衛門を自宅に呼んで、大槻の言ったことを告げ、
「大槻殿はすでに殿様のご内意を得ていなさるのでござれば、貴殿もそのつもりで考えられるところがなければならん。どうでござろう、先年組下の堀弥左衛門の娘が、三田村主計の家へ、子供介抱人という名目で行ったことがござる。奉公人分という名目では妾のようで外聞がよくござらんが、子供介抱人という名目ではいかがでござろう。先例もあること、さしつかえはないと存ずるが」
と、意見をのべた。
善左衛門は妹をやりたいのだ。やって大槻と親密な関係を結びたいのである。
「それでは、そうつかまつろう」
と答えた。丹羽は、
「本家の源兵衛殿に今一応相談なさって諒解をもとめられてはいかが。はじめ相談してその意見でことわっていながら、こんど黙って承諾なさっては、源兵衛殿が気を悪くなされよう」
と、注意したが、善左衛門は、
「お頭である貴殿からかくお話があったのでござるから、それで十分と存ずる。妾にやるのでないことはよくわかりましたし、貴殿のおことばがあります以上、本家に聞かせる必要はござるまい。こうなっては、本家としても別段異議のあるはずはござらん」
と、答えた。
元文五年二月二十九日、善左衛門の妹は大槻の許に引取られた。善左衛門は妾奉公ではないことを形の上で示そうとして、薙刀を持たせたり、挟箱《はさみばこ》を持たせたりして、ずいぶん仰々しい支度をつけたという。
本家の源兵衛は腹を立てたが、善左衛門にも、大槻にも文句はつけられず、青地藤太夫の家に行って、さんざん愚痴をのべた。
青地藤太夫は、名は礼幹。貞淑・浚深《しゆんしん》・仁知楼等の号があって、加賀の名臣として、当時天下に名の聞こえていた人物である。彼は好学で、若い頃は山崎闇斎門下の羽黒養潜について崎門《きもん》朱子学を学んだ。後に室鳩巣が加賀家につかえるようになると、鳩巣の門下生となり、その縁故で鳩巣の師の木下順庵の教えも受けて、中々の学者となり、当時室門の七哲の第一人者と言われていた。その著書に「浚深秘策」「可観小説」等がある。前者は加賀騒動の根本史料の一つになっており、後者は随筆集だが、加賀藩の歴史を研究するには必読の書である。ずいぶんおもしろい話が集められており、ぼくはこの書から材料をひろって、いくつかの小説いく篇かの随筆を書いた。
この人は、学者ではあったが、儒者としてつかえた人ではない。普通の武士として綱紀の時代にはたらいて、大小将《おおごしよう》、表《おもて》小将、使番、足軽頭、徒士頭、新番頭を歴任して、大小将頭にまでなったが、吉徳の時代になって間もなく隠居したようである。大槻が前田善左衛門の妹と結婚した元文五年には、六十八であった。
青地は大槻がきらいであった。一体、儒学を修めた者は、大槻のような経歴の人間がきらいである。中国の歴史の列伝には、佞倖伝というのがあるのが普通だ。男色その他の寵愛によって帝王の信任を受けて栄達した人物の列伝であって、その書きぶりは普通の人を叙するのと比すれば、常に一二格下に見下げてある。ほめたことではないという気分がはっきりと見えるのである。この気分が、日本の儒者にもある。青地が大槻をきらった第一の原因は、これであると思う。
第二は、儒者と実際政治家との、社会観の相違であろう。儒者は人間の心魂を究明し、これを陶冶することによって、政治の姿勢を正し、ついには道義的世界をこの世に実現することを目的としている。従って、尋《じん》を直《なお》くするために尺を曲げるもよからずとする。目的のためには手段をえらばずなどいう考えは絶対に許容しない。勢い、その社会観は道義的偏狭に陥りがちである。これに対して、政治家は社会は道義だけで成り立っているほど単純なものではないと思っている。従って、必要悪を認める。権謀術数も認める。しばしば道義より権謀の方を重んじさえする。両者が合うはずがない。儒者が法家を酷薄《こくはく》にして詭険と罵れば、法家は儒者を迂愚にして時務に適せずと罵ることが、昔から絶えないのは、このためである。青地の目から見る時、大槻は単に軽薄な小才子でしかなかったのであろう。
第三、儒学鍛えの青地は、士大夫たるものは、貧にして諂《へつら》うことなく、富みて驕るなく、貧にして楽しみ、富みて礼を好むべき(論語)であり、富貴の身となっては礼を知りて驕らず淫ならざるべし(礼記)と思っていたであろうから、大槻の栄達してからの生活態度は一々気にさわったろう。藩法を破って前田善左衛門の妹を妾として迎えた行為に至っては驕恣《きようし》もきわまると思われたに違いない。もし殿様にお願いしてお口添えをいただいたのが本当なら、君をして悪を行い不義をおかさせたのであって、一層けしからんと思ったであろう。
一体、儒者は苦労性である。それは昔は儒学には史学をやって、古今の治乱興亡のあとを研究するのがつきものであったせいかも知れない。天下の憂えに先立って憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむというのが、その徒の心意気である。青地は大槻のなすところを気をつけて見ていると、先き行きがどうも不安である。増長に増長を重ねて行くうちには、ついにはお家に仇なすことをしでかすに違いないと思った。
青地は、八家の首席である本多安房守と縁引きになっているので、本多を説いて大槻を除かせようとしたが、本多はおとなしい人がらで勇断の気にとぼしく、日の出の勢いである大槻に手がつけられない。
ここに八家の一つに前田土佐守というのがあった。初代利家の次男利政の末で一万一千石という家である。当時の土佐守は直躬《なおみ》という人で、青地の弟子分で、直躬という名も青地につけてもらったくらい青地を尊敬していた。青地はこれに大槻が警戒すべき姦物であることを吹きこんだ。しかし、土佐守はまだ若年で、とうてい大槻にあたりがたい。
人間は、人を疑いかけたり、世の行く末を心配しかけたりすると、際限もなく疑惑がつのり、不安がつのって行くものだ。まして、少年の頃から世を憂えるようにと仕立てられて来た青地だ。わが余命は今やいくばくもないと思うにつけても、大槻のふるまいを見、お家の行く末を考えると、不安でならない。ついに、寛保三年、大槻の弾劾状を草して、お付頭の青木新兵衛にたのんで、世子|宗辰《むねとき》にたてまつったが、間もなく病死した。七十歳であった。
俗説の加賀騒動に織田大炊という人物が出て来て、前田家の客分として優待されているが、大槻の姦悪と大いに戦って、前田家のためにつくすということになっている。それはこの青地をモデルにして作為したのであろうと言われている。この時代、織田大炊倶秀という人物が加賀藩にいたことはいた。織田有楽斎の二男河内守長孝の末で、三千石取りの家である。しかし、この人は大槻事件にはなんの関係もない。
さて、宗辰は青地の上書を見て、強く感銘するところがあった。この以前、宗辰は大槻に含むところがあったのだ。ある年の春、宗辰は加賀から江戸に出て行くにあたって、おりあしく大雪になった。人馬の通行も困難である。宗辰は、早飛脚をもって、江戸の吉徳に事情を訴え、出発延期のはからいをしていただきたいと願った。この書状を受取った大槻は自分の一存で、
「若君のご出発の日取については、すでにお公儀に届け済みのことである故、今さら変更は出来申さぬ」
と、返答してよこした。
宗辰はこの返答を受取ったが、大雪は現前の事実だ、そこで在国の家老らに相談したところ、家老らは、
「内蔵允がさように申し出した上は、ご違背しかるべからず。ご予定に従ってご出立あるべきでござろう」
と言う。いたし方なく、宗辰は大雪をおかして出府した。
宗辰にしてみれば、おれは太守様にお願いしたのに、太守様へは通じもせず、一存でことわってよこしたのは専断と思わないではおられない。国許の家老らが職制の上ではずっと下位にある側用人である大槻を恐れはばかり、内蔵允がそう言い出したのでござればいたし方はござらぬと、絶対のもののごとく言って盲従したのは、今や大槻は太守様以上の権力者になってしまったと断定しないわけに行かなかった。
(将来、わが家にわざわいをひきおこすべきやつではないか)
と、思った。はげしい風雪の中に難儀な旅をつづけなければならなかったことが、一層憎悪をつのらせた。
そこへ青地の上書を見たのであるから、心中大いにうなずくところがあったはずである。
以上は近藤磐雄氏の説くところであるが、三田村翁は、またこんな風に説いている。
この間に前田土佐守直躬が次第に宗辰に接近しはじめた。その理由はこうだ。土佐守の家は前述した通り、利家の次男利政の末であるので、前田家では最も尊貴な家とされていた上に、直躬は我の強い性質だったので、家柄自慢が鼻について、問題をおこしたことが一再でない。
その一
ある時、土佐守は吉徳に、
「拙者の姉を多賀宇兵衛に縁づけたいと存じますが、いかがでございましょうか」
と伺いを立てた。こんな場合には、すでに老臣らにも話して諒解を得、相手方とも話をつけた上で、太守に申し出るのが慣例なのだが、土佐守はその手続を経ず、まだ自分一存だけのことであった。そんなこととは吉徳は知らない。慣例通りに順序をふんで来たことと思ったから、言った。
「結構な縁談である。聞きとどけたぞ」
土佐守は、殿のおことばをいただいたと言って、多賀家に申し込んだ。多賀家では殿様のお声がかりであると思って、承諾し、縁をとりむすんだ。目的のためには手段をえらばないがむしゃらな性質なのである。
その二
前田家の紋章は梅鉢だが、輪のない剣梅鉢は本家の加賀前田家と富山前田家と大聖寺前田家の三家にかぎり、他は瓜形、角、円などをつけた剣梅鉢であったり、単なる梅鉢であったりである。土佐守の家は瓜形の中に梅鉢なのであるが、ある年、土佐守は吉徳の供をして江戸参覲の途に上るにあたって、衣服から諸道具に至るまで本家と同じ紋をつけた。これを吉徳が知ってとがめたところ、言い返して態度まことに不遜であったので、吉徳の怒りを買ったという。
三田村翁はなお数例の話を引いて、
「家がら自慢が頭に来て、おれの家だけは違うのだという心が常にあるのだ」
と、説明している。
こんなことが度重なって、吉徳の気受けが悪くなったので、しぜん世子の宗辰に近づいて行った。今の太守様の時代はしかたがない、若君の代となったら、大いに勢いをふるわせてもらおうという肚《はら》だったのであろう。
青地の上書を受取った寛保三年には、宗辰は十九になっている。父の施政ぶりにたいする批判もある。自分の大きらいな大槻を父は最も信任重用しているのだから、なおさらのことだ。土佐守は宗辰のこの心理をたくみに利用した。家臣としては吉徳の政治をはっきりと批判することは出来ないから、大槻を批判し、こきおろすという形をとったのだ。三田村翁は、土佐守は四度まで大槻のことを宗辰に讒言しているといっている。四番目のは吉徳の死後であるが、前三回は宗辰の世子時代のことで、その内容は、いずれも、
「大槻が権勢をほしいままにして太守様の明を蔽うているため、全家中大槻に媚びざるものはない。八家や家老の中にまでそんなものがいる」
というのであったという。
宗辰は大槻がさらにさらににくくなるにつれて、土佐守が気に入りになった。土佐守はまた、そのはじめから、大槻は好きな人物ではない。青地からいろいろ聞いているし、自分を気に入ってくれない吉徳の気に入りでもある。相当ねたましく、また憎い人物であったろうのに、悪口は常に言いつづけていれば、その人にたいする憎悪が益々募るものだ。土佐守にとっても、大槻は最も憎い人物になったに違いない。
青地が死んだ翌々年、延享二年六月十二日、吉徳が金沢城中で死んだ。
吉徳はこの四月二十一日に、参覲満期で江戸を立って帰国の途についたが、途中洪水などのために少し長く日数を費して、五月六日に金沢に帰着した。
旅の間から不快であったので、侍医の薬を服したり、鍼《はり》をしたりしながら道中して来たのだが、帰りついた頃から次第に悪化したので、藩中の医者全部、八家筆頭の本多家や横山家の抱え医者にも診察させ、ついには京都から辻法眼祐安という医師を呼び下しまでして、全力をつくして治療につとめたのだが、効験なかったのである。五十六であった。
この事実をもとにして、「見語」や「金沢実記」などでは、帰国の途中、吉徳が騎馬で大きな川を渡る時、大槻はかねて手飼いしていた水練の上手で河童又助と異名のある鳥井又助という者に旨をふくめ、水中をくぐって吉徳の馬の脚を刺させ、吉徳を水中に転落させた。吉徳は自らの刀のつかで胸部を強打した上に、したたかに濁水をのんでひどく衰弱し、それがもとで金沢にかえってから死んだと書いている。
しかし、これは純然たるフィクションである。「政隣記抄本」にも、
「御帰国ご道中より、御浮腫にて御病気重らせられ、衆臣御詮議つくさせられしも、御養生かなはせられず、つひに本日、金沢において御逝去なり云々」
とある。また前述の通りこの時京都から招いた医師辻法眼の診断書にも、脾胃の衰弱から来た水腫であるとある。
一体、大槻は吉徳の信任によって栄えている男である。吉徳がいつまでも堅固で藩主であることをこそ望むべきで、そのいのちをちぢめようとするなど、あるべきことではない。それは自らの根を絶つにひとしいのである。
大槻自らがしたことではないが、ともかくも大槻の根は絶たれた。結果は一月後にはもうあらわれた。
家督相続をして加賀の新藩主となった宗辰《むねとき》は、八月三日には、これまで奥向きの勤めであった大槻を表向きの出仕になおし、彼の保管していた政務上の重要書類をおさめてある箪笥等を取り上げたのだ。さらに、その翌年、吉徳の一周忌がすんで二十日目の七月二日には、大槻の組頭である本多安房守政昌の宅に召し出されて、月番年寄の横山大和守から、
「お手前儀、先代様ご病中、ご介抱不行届きにて、多年のご高恩を忘れたる段、不届きに思し召さるによって、蟄居仰せつけらる」
と申し渡された。吉徳にたいする看病が不行届きであったというのは、土佐守から宗辰に申し上げたのだという。三田村翁はこれを土佐守の大うそであると論断している。
さて、大槻がはっとおどろいていると、本多安房守が申し添えた。
「右の通りの仰せ出されではござるが、これを普通の蟄居と考えられてはならぬ。閉門同様に心得、万端慎しまれるよう」
蟄居は閉門より少し軽く、外出をひかえるだけであるから、この申し添えがあったわけだ。
大槻は、ご処分はうけたまわるが、ご先代のご病中に介抱不行届きであったとの仰せは承服出来ない。
「拙者はご病気以来、昼夜お側に侍し、大小便の始末まで相勤めました。時々はご癇癪をおこされ、頭をお打ちになることもござったが、ひたすらにご介抱をいたしました。このことは当時同じくご看病申した不破|丹下《たんげ》らも知っているところでござる。お聞合せ願います。いかなる証拠によって、不行届きと仰せられるのでござろうか。しかとご詮議ありたい。それまではたとえ身を八ツ裂にさるるとも、この席を去りませぬ」
と、くりかえし抗弁した。
大槻は君寵によって権勢の人となってから、驕慢であったこともあろうし、権力をもてあそんだこともあろうし、あるいはまた私利をはかったこともあったかも知れないが、吉徳にたいしては最も忠実につかえたという自信があったろう。病中に至ってはなおさらのことだ。この人が死んでは自分が根無し草になるのだ。あらんかぎりの力を尽して看病したという強い自信があったはずである。こんな罪状で処罰されるのにがまん出来なかったのは道理だ。
安房守と大和守はあぐねたが、やがて、それはあとで書面をさし出して言いひらいてもよいではないか、ともかくも君命である。一応はお請けなさるべきである。われらも必ず骨をおりましょうとなだめた。追々時刻もうつったので、ついに、大槻も折れて、
「讒者のためにかくなり行くは残念でござるが、これも護国院(吉徳)様へのご奉公と思って、かんにんいたすでござろう」
と言って退出し、帰宅してから願書をしたためて差出した。
大槻が金沢の屋敷に蟄居してから五カ月目、十二月八日に、宗辰が江戸屋敷で死んだ。この月の初めから下痢気味であったが、それでも三日には下谷の広徳寺に参詣した。七日朝になって腹痛がひどくなって、病勢つのり、嘔気《はきけ》があり、金沢から医者も来着したが、午後二時頃痰水一升余を嘔いて、翌八日の朝の六時過ぎに死んだ。急な死であったので、当時から一部の人は毒死の疑いを持っていたというが、誰がなんのためにと考えると、心当りは全然ない。第一、こんなに巧妙な毒薬がその時代に実在したかどうか。
次ぎに立って前田家の主となったのは、宗辰の次弟の重熈《しげひろ》であったが、宗辰の一周忌から十日目の延享四年十二月十八日、また大槻を本多安房の屋敷に呼ばせ、奥村助右衛門を立合せた上で、こう申し渡させた。
「その方は護国院様ご三回忌もすまぬうち故、蟄居ということになっていたが、今度越中国五箇山に配流申しつける。万端支度中、人持《ひともち》成瀬内蔵助方にあずける。なお五箇山到着の上は三人扶持下され、しまり小屋入り仰せつける」
しまり小屋とは牢小屋のことである。
大槻はこんどは抗言せず、
「拙者は昨年申し上げました通りの次第にて、表向きのお裁きを待っていたのでござるが、宗辰公ご早世され、今の太守様も宗辰公と同じお考えというのでござれば、もはやいたし方はござらぬ。拙者も今はこのままくちはつる覚悟をしています」
と、おとなしく答えた。
大槻は五箇山の配所の普請が出来るまで、成瀬家にあずけられ、大槻の屋敷へは役人が出張して、諸道具は没収、家族はそれぞれに親戚に引取られた。
嫡子直之助・娘まつ   大槻七郎左衛門へ
三男伊三郎       大槻長太夫へ
養母恵山院・二男栄次郎 大槻長左衛門へ
実母光涼院       中村喜三太夫へ
娘でん(縁組出願中)  深美吉郎へ
娘ひさ(同)      庄田舎人へ
娘すぎ         前田修理へ
娘きよ         園田兵太夫へ
このほか|いとこ《ヽヽヽ》以上の親類はのこらず差しひかえを命ぜられている。
明治年代の法学博士で、東京帝国大学の教授であった戸水寛人《とみずひろんど》氏は旧金沢藩士の家に生まれた人だが、この人に聞いたこととして、三田村翁はこんな話を書きのこしている。大槻が本多邸へ呼び出されて、越中五箇山流しのことを申渡された日、大槻は乗物に乗り、家来共を従えて本多邸に来たのであるが、申渡しがあった後、本多家の家来が、大槻の供方に、
「内蔵允殿はしかじかのことで成瀬内蔵助殿方へお預けになられた故、これよりお引取りあるよう」
と達したが、大槻の供頭は、
「それはどなたよりのお申し付けであるか存じませんが、わたくし共は大槻内蔵允の家来でござれば、主人よりの申し聞けなくば、引きとるわけにはまいりません」
と言い切って動かない。本多家ではこれを大槻に通じて、大槻のことばとして、引取るように家来共に言い渡させた。すると、供頭はやっと得心して、心静かにあいさつし、空駕をかつがせて、粛々として引取ったというのだ。この大槻の供頭の名はわからないが、応対した本多家の家来が式台取次|河地内《こうちうち》右衛門であったとちゃんとわかっているところを見ると、金沢地方ではよほど感心な話として伝えられたのであろう。いい家来をもっていれば、主人もゆかしく思われる。相当欠点はあったにしても、美質もまた相当あった大槻なのであろう。
年が明けて延享五年(七月に寛延と改元)四月十八日、五箇山|祖山《そやま》村にしまり小屋が出来たので、この日金沢を護送されて出発、翌十九日についた。九尺四方の牢小屋である。五箇山は射水《いみず》川の上流庄川のずっと上流の峡谷地帯の村々の総称だが、牢小屋のあるのはその祖山村であった。今は平村といっている村の大字になっている由である。
この年の六月二十五日、奇怪にして不快な事件が江戸本郷の上屋敷でおこった。先代宗辰の生母浄珠院の居間に付属している台子《だいす》をあずかっているお菊という女中が、昼頃交代して来て、きまりになっている毒味としてお湯を一口のむと、鼻をつくような異様な臭気がする。それで年寄女中の森田というものに、報告した。森田も汲んでこころみてみると、同様だ。すぐに浄珠院に報告した。院はお広敷《ひろしき》頭の富田治太夫に言いつけ、医者の中村正白を召して釜の湯を吟味させた。
「たしかにおかしい。毒物様のものが混入されているようである」
と正白は言ったが、はっきりとはわからない。しばらく極秘にして、ことのなり行きを見ることにした。相当強い毒なのであろう、お菊は一口のんだだけなのにひどい腹痛で、引きこもって服薬して二日半も寝ていなければならなかった。森田は欠勤にはおよばず、おして勤務したが、非常に気分が悪かった。
八日立って、七月四日、奥向きで能の催しがあった。加賀は加賀宝生の名さえあるくらいで、今日でも能のさかんなところで、中学生が謡いをうなっているほどの土地がらである。この時代の奥女中らはもちろん嗜みがあったろうし、皆大いに楽しんだろう。この日はまた浄珠院から女中一同にお料理を下された。そのお礼言上を頼みに女中らが皆浄珠院の老女のところへ行き、台子の間も一時無人になったが、やがてかかりの者がかえって来ると、また変な臭気がする。しらべてみると、この前と同じだ。湯を捨て、釜をくだいて、かわりの釜をかけさせた。
こんどは飲んだものがいないから、被害者はないが、二度もこんなことが起るようではもう捨ておくわけには行かないと、厳重な詮議がはじまった。女中らをいろいろ調べている間に、楊《よう》姫様つきの中老浅尾という者がこのへんを通ったという者が一人や二人ではない。そこで、年寄の森田と幾田の二人がかかりになって、浅尾を尋問したが、浅尾はそこを通った覚えはないと言い張る。
三田村翁の説によると、この時代、大名の奥向きに奇妙な尚武の風がおこって、女武芸者を女中として召抱えて、別式と呼んだという。翁は「黒甜瑣語《こくてんさご》」という寛政頃に書かれた書物の中から、「諸大名の内に別式といって、大小をさした女がいる。風俗も眉を払っただけで眉墨をしないで、眉のあとが青くのこっている。着物も対《つい》ッ丈《たけ》に着て、引きずっていない。まことに軟弱なところのない勇ましい恰好で、きかぬ気の顔をしている。御三家をはじめ、加州、薩摩などには別して多い」という意味を摘記している。浅尾はこの別式女だったというのである。
浅尾は否定しつづけていたが、そのうち、ふと、
「あなた方がそれほどまでわたくしを疑いなさるのは、わたしがなにか真如院様からでも頼まれたろうと仰っしゃるのですか」
と口走った。真如院というのは、浅尾のつかえている楊姫の生母である。真如院は吉徳の衆妾の中で、吉徳の寵愛が最も深かった女性で、総姫、勢之佐《せいのすけ》(現世子)、楊姫、益《ます》姫、八十五郎の三女二男を生んでいる。この人はこの六月二十一日、つまり最初の置毒事件のおこった四日前に、末子の八十五郎が家臣の村井主膳の家に養子に行くことになったので、一緒に金沢に向かって旅立っていたのである。
さて、二人の老女らは、はじめて手がかりをつかんだ思いで、手《た》ぐろうとしたが、浅尾はもう何にも言わない。吟味は前記お広敷番頭の富田治太夫と、その組下の牧彦左衛門と大場三左衛門とに引渡されて、厳重に続行されたが、浅尾は知らぬ存ぜぬの一点張りだ。
牧はふと思いついて、こう言った。
「この上はもう仕方はござらん。お身《み》儀金沢におくって、真如院様と対決させるよりほかはござらんが、そうなれば公事場《くじば》奉行のしごととなって、吟味のふり合いがちがってまいる。事がらの次第が一々世間に公けにされるのでござれば、真如院様お腹の若君達や姫君達のお行末もいかがなるかと、まことに不安でござる。お身がここで白状なされば、内済ですむ。よくご思案なさるがよい」
浅尾はわっと泣き伏し、やがて言う。
「お子様方のおためとあれば、ぜひもない次第でございます。実は真如院様から頼まれて、浄珠院様と太守様とを害し申すことをはかりました」
浅尾はお広敷の長屋に続いて|しまり《ヽヽヽ》小屋をこしらえ、そこに入れておいて(政隣記抄本)、太守|重熈《しげひろ》直筆の書面を、在金沢の八家の面々へ、早飛脚でおくった。真如院を取調べよという文面だ。
飛脚は七月十七日に金沢についた。早速城内の金谷御殿のお広敷に座敷牢をこしらえて、真如院を入れ、富永数馬と長瀬五郎右衛門という者とに取調べさせたが、真如院は毒害のことは飽くまでも否定する。しかし、金谷御殿をくわしく調査すると、大槻ととりかわした手紙が出て来たので、これによって問いつめて行ったところ、大槻と密通していることを白状したということになっている。
これをどこまで信用してよいのか。その大槻の手紙というのものこっていなければ、真如院が白状したというのも、大槻の敵である前田土佐守側の記録にしかないことである。ぼくはあやしいものだと思っている。
三田村翁は信じていない。近藤氏は全面的に否定はしないが、多分に疑いを持っている。そして、もし真如院の白状が事実なら、大槻との関係は吉徳の生前にさかのぼるべきであろうと言っている。戸水寛人氏は、白状が事実なら、八十五郎は大槻の子かも知れないという説であったという。直木三十五の「加賀騒動」は小説だが、吉徳が痴戯として万事承知の上で三人同衾したことにして書いている。小説の方が案外真相をつらぬいていることが往々にしてある。もし二人の間に関係があったのなら、このへんのことだったのかも知れない。吉徳にとっては、二人とも性愛の対象だったのだから。
しかし、前田土佐守は、このことを江戸の重熈に報告した。置毒は実際にあったことだ。そして、浅尾は真如院に頼まれてやったと白状している。真如院と浅尾とを対決さすべきが当然だと思われるのだが、最後までそれは行われないのである。
かくして、現実にあったこと歴然たる置毒事件の真相はついに究明されず、一通の書簡――それもあったかどうか、たとえあったにしてもどの程度の内容のものか、はなはだおぼろなものをよりどころにして白状させたと称する姦通だけをひたすらに言い立てる土佐守の態度は、まことに納得しかねるものがある。しかし、重熈はその報告書を読んで、すぐこの問題をどう処置すべきであろうかと、諮問してやった。
使は八月二日に江戸を出発、十三日に金沢についた。土佐守は一々はっきりと答えた。
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一、勢之佐は世子たるを廃し、すぐ金沢へ帰して監禁し、誰とも面会をゆるさぬこと。
一、重|靖《のぶ》(重熈の異母弟、母は白井氏)を将軍に目見えさせて、世子の届けかえすること。
一、八十五郎は村井家から離縁させて引取り、幽閉すること。
一、富山前田家へ縁づいている総姫は離縁を乞うて呼びかえすこと。
一、楊姫を秋田の佐竹家につかわす婚約は解消すること。
一、浅尾は真如院と対決させたいが、対決させたところで、水掛論になって、効はあるまいから、現在のままで、江戸で死罪にしたがよかろう。
一、真如院を死に処すること。
一、宗辰公の死因にも疑惑がある。すでに真如院が大槻との密通を自白した以上、二人が共謀して宗辰公を害した疑い最も濃厚である。八家の中で人をえらんで吟味の任にあたり、疑いの通りであるなら、大槻を生胴《いきどう》に処すること。
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生胴とは生きたまま土壇に縛りつけて、胴を切断する刑罰である。
この苛烈残酷な罪案を、重熈はよろこばず、ほとんど全部を無視した。
いぶかしいのは、この苛烈をきわめた罪案の中に、浅尾にたいする吟味だけがなまぬるいことだ。この口ぶりでは、真如院はすでに大槻との密通の罪によって死罪をまぬかれることが出来ないのだから、置毒事件にはもう触れる必要はないと言いたげである。しかし、裁判というものは、人を死刑にしさえすればそれでよいというものではない。犯罪の真相をつきとめるべきが本当である。まして、これは単なる裁判ではない。将来の禍根を絶たねばならないのだから、どこまでも真相を究明して、対策を講ずる必要のあることだ。
土佐守の罪案書が江戸に到着したのは九月のはじめ頃であったと思われるが、その九月十二日のこと、五箇村の村役人が、越中の小杉の郡代屋敷、これは礪波《となみ》・射水両郡の支配をするのだが、ここへ駆けつけて来て、
「大槻様は自害されたのではございますまいか。しまり小屋の中におびただしく血の色が見え、うつ伏されたきり、身動きなさいません」
と、とどけて来た。奉行の千秋三郎太夫は早速出かけてみると、まさしく自害であった。その日の払暁か昨夜のうちにやったものかわからないが、ともかくも、白帷子《しろかたびら》を着て、立派に自殺していた。行年四十六であった。
武器はその地の方言で「丸ぐり」とて、小鳥の臓腑をとり出すためにその腹を割く小刀で、柄は薄い板を三枚合せて、苧《お》で巻いてあった。これはあとでわかったが、祖山の東南方にあたって、ゆるやかな丘を一つ越えたところに岩淵という村がある、その村の百姓(一説に乞食、一説に番太《ばんた》)小助という者がしまり小屋のそばに来た時、呼びよせて、
「小屋の中に水が溜まるから、水を抜く穴をあけたい。よく切れる小刀を買って来てくれないか」
といって、金一分わたしたところ、小助は小刀は二百文か三百文のもの、七、八百文の釣銭は皆自分のものになるので、よろこんで城端《じようはな》の町に行って買って来て渡した、それであった。もちろん柄をつけて、使いやすいようにして渡したのであった。
大槻がここへ送られたのは四月十八日だ。まだ白帷子を着る季節ではなかった。それが白帷子を着て死んでいたばかりでなく、他に着がえの着物も数枚あったし、一分金が四個のこっていた。いずれも誰かが差入れたものと思うよりほかはない。
誰か連絡を取った者があるに相違ないと、千秋奉行は五箇、祖山の百姓八人に嫌疑をかけ、召取って金沢に連れて来て、公事場に引き渡した。
いろいろと取調べた結果、大槻は牢小屋の中にいながら、外部と密接な連絡を取って、通信も交換すれば、金銭、衣類、煙草、筆墨、硯に至るまで、何不自由なく親戚や旧家来の者共から取りよせていたことがわかった。もちろん、この通信網を利用して、再び世に出る運動をつづけていたのであろうと、三田村翁が驚嘆している。
彼がこのように自殺したのもまた、この通信網によって、一切の形勢が最早絶望のほかなくなったことを知ったからであろう。
この翌月の十月四日、浅尾はやっと江戸を出発、しまり駕籠で道中をつづけ、十八日に金沢についた(政隣記抄本)。しかし、これは真如院と対決のために連れて来られたのではなかった。大槻の屋敷のあった近くにつくられたしまり小屋に監禁されたまま放置された。
勢之|佐《すけ》は翌年四月二日に江戸を出発、十日金沢に着き、小立野の鶴間谷に用意されていた厳重な建物に入れられていたが、十年後に病死した。二十五であった。
八十五郎は、金谷御殿内に用意されたしまり寮に入れられていたが、十二年後に二十一歳で病死した。
真如院は、大槻の死んだ翌年の二月二十四日、金谷御殿のしまり所で、監視役の長瀬五郎右衛門に頼んで首をしめてもらって自殺した。四十三であった。
この年の十月二十一日に、浅尾が死刑になった。俗伝では蛇責めにされて死んだというが、それはフィクションである。首を斬られて死んだのである。
この事件が全部落着したのは、大槻が死んでから六年後の宝暦四年閏二月二日であった。この日、大槻の家族――母、せがれ、娘、兄弟、従弟、家来などすべて五十余名が罪せられた。重きは生胴、死刑、五箇山への流刑であった。小刀を買って来てやった小助も生胴に処せられた。
加賀騒動は、前田土佐守らの主張に従って、大槻と真如院とが通謀して、勢之佐を加賀の当主にしようとした陰謀であるとして解釈しようとすれば、まるで辻褄の合わない、スキだらけなものになる。当時すでに、重熈が本多安房守以下の国老を戒めた親書の手紙に、
「内蔵允と申す者の所為、各々とくと合点参らずと相見え候」
とあり、また、
「内蔵允一人の罪とも存ぜず候。各々その節見物いたし居り申され候事、不審に存じ候」
とあるところを見ると、重熈はこの事件がでっち上げ犯罪であることを見ぬいていたのではないかと思われるのだ。門閥重臣らが無能なため、しぜん大槻は重く用いられ、権勢ならびなき者となった。大槻自身が驕傲専恣になった点はもとよりあるが、それを門閥重臣が嫉み憎みはじめたのが、ついにこのさわぎとなったのだとわしは思っているぞ、というのが重熈の言いたいところではないかと、ぼくは思うのである。
はっきり言うなら、ぼくは前田土佐守直躬が一番あやしいと思っている。この事件の中で、たった一つはっきりしていることは、江戸屋敷の奥殿の台子の釜中に、二度も毒物らしいものが投入されたということである。重ね重ね言うように、それを究明すれば、色々なことがわかって来るはずと思われるのに、土佐守は浅尾と真如院とを対決させることをわざとのように避けている。あやしまないわけに行かないのである。