さむらいの本懐
海音寺潮五郎
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目  次
勝 海 舟
源 頼 朝
献 上 の 虎
随  想
史実と小説
商 君 列 伝
愛情と嫉妬
文学の真実
独白心理描写
オブジェ生花
美 と 実 用
執 念 深 く
原作者の不安
「尾崎・太平記」に対する期待
作家と歴史観
疎開の児童
十二月のうた
ツバメの夫婦喧嘩
サギにあった話
ある特高の話
なまぐさい歳首の辞
近頃悲憤のこと
杞人の憂え
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勝 海 舟
進みすぎた人 海舟
は じ め に
「大人物は世に理解されにくい。百年、二百年、三百年経って、はじめて理解されることもめずらしくない」
という意味のことを、勝海舟は『氷川清話《ひかわせいわ》』で言っていますが、これは彼の痛切な体験から出たことばでしょうね。彼は大英雄をもって自任し、またそうであったに違いない人物ですが、彼くらい世に理解されなかった人も少ないでしょうね。幕末においても理解する人がほとんどなく、十五代将軍|慶喜《よしのぶ》は彼をきらっており、幕閣は彼を処罰したり、処罰同然の処遇をしたりしています。江戸城明け渡しは彼の一世一代の大仕事でしたが、幕臣のほとんど全部は彼を裏切者同様の者と見ました。彼に一切をまかせ切ったはずの肝心の慶喜さえ、結局彼のしたことを理解せず、苦情を言って、彼に罵倒《ばとう》されています。明治になって、彼が明治政府に仕官すると、福沢諭吉は『痩《や》せ我慢《がまん》の説』を書いて、彼の出所進退を非難しました。今日でも、真に彼を理解している人は、ごく少ないのではないかと思います。
海舟を真に知るには、海舟の生きていた時代を見るだけでは足りません。ずっと後世まで眺める必要があります。海舟のその時その時の行蔵《こうぞう》を見るだけではいけません。海舟の生涯を見て、最後がどういう結果を結んでいるかまで見とどける必要があります。ということは、彼が最も進んだ考えをもち、最も規模雄大であり、最も思慮周密であり、最も根気のよい人であったことを語っています。真に大英雄をもって称すべき人物であったのです。百年、二百年、三百年の長きを待って、はじめて世間に理解される人物をもって自任、あるいはあきらめていたはずです。
海舟の血統
勝家は三河以来の旗本の家ですが、海舟には濃厚に庶民の血が入っています。彼の曽祖父は越後|小千谷《おじや》の盲人で、少年の時江戸に出て来て、按摩《あんま》しながら財をたくわえ、やがて金貸しをし、大富豪となり、盲人の官として最高の検校《けんぎよう》を買い、長男|忠之丞《ただのじよう》のために御家人《ごけにん》男谷《おだに》家の株を買いました。下級旗本や御家人の家では、持参金つきの養子をとるという名目で、家督を売ることが普通に行なわれていたのです。
長男が男谷忠之丞となりましたので、実父の検校は男谷検校と名のることになり、その名で今も伝わっていますが、実の苗字《みようじ》は何といったかそれすらも明らかでありません。海舟があけすけにそう言っているんです。
男谷忠之丞は若くして死にました。あとは長子の精一郎が嗣《つ》ぐべきでしたが、まだ幼少だったので、検校の三男の平蔵がつぎ、平蔵の次はその子彦四郎がつぎ、彦四郎のあとを、ようやく成人した精一郎がつぎました。この精一郎が幕末の剣聖といわれた直真影《じきしんかげ》流の男谷|下総守《しもうさのかみ》信友です。
海舟の父小吉は、平蔵の三男です。平蔵が旗本勝家の株を買ってやりましたので、七つの時から、勝家の養子となりました。
この小吉という人は途方もない痛快男児で、その淋漓《りんり》たる生態は江戸時代|爛熟期《らんじゆくき》における下級旗本の生き方の一典型を示していますが、到底簡単には片鱗《へんりん》だに語ることは出来ません。この人には『夢酔独言《むすいどくげん》』という自叙伝があって、ごく平易で読みやすいし、面白いし、近頃単行本となって出版されてもいますから、お読みになることをおすすめします。必ずご満足をいただけると思います。
小吉は滅法|喧嘩《けんか》上手で、すぐれた剣客で、それで生活が立つほどに鋭敏な刀剣鑑識眼があり、高級旗本の家の家政を立直してやることの出来るほどの経営コンサルタント的の手腕もありましたが、やっと仮名文字が書ける程度の無学な人物でした。要するにその才能はすべて持って生まれた、あるいは剣術の修行によって養った勝負師的カンによるものと見てよいと思いますが、この勝負師的カンは海舟にも遺伝しているように、私には見受けられます。
少年期の鍛練
海舟は通称は麟太郎《りんたろう》、名は義邦《よしくに》、明治以後|安芳《やすよし》と改めました。旧幕時代の官名が安房守《あわのかみ》で、安房安房と呼ばれていたので、音の通ずる文字を選んで安芳としたのだそうです。
麟太郎は、小吉二十二の時、文政六年(一八二三年)に、本所亀沢町で生まれました。母は勝家の家つき娘です。恵まれない幼少年時代だったようです。小吉は経営コンサルタント的才能や、刀剣売買などで、相当金もうけの手腕もあったのですが、入った金は遊蕩《ゆうとう》費やつき合いの義理に費やしてしまうという、江戸道楽人の典型的生活態度で、家庭はいつも赤貧洗うがごとき有様だったからです。
このような麟太郎に、一度だけ陽があたりかけたことがあります。七つの時、勝家の親戚で、大奥に奉公している阿茶《おちや》の局《つぼね》という女性がありますが、この人の許《もと》に遊びに行き、局に手をひかれて庭に出て遊んでいますと、将軍世子|家慶《いえよし》(後に十二代将軍となる)の目にとまり、家慶の五男初之丞(当時五つ)の遊び相手に召し出されたのです。初之丞はやがて一橋家をつぎ、麟太郎もひきつづき一橋家に勤仕することになっていたのですが、肝心の初之丞が七つで死んでしまったので、さしていた陽光《ひかり》は二年でかげってしまいました。
小吉は自分が無学であるためお番入りも出来ず、生涯|小普請《こぶしん》で終わらなければならないのを、身にしみて後悔していますので、麟太郎にはなんとしてでも学問させたいと思って、旗本なかまの多羅尾《たらお》家の用人が学問が出来るというので、貧しいなかを工面して、その家に通わせました。麟太郎は熱心に通っていましたが、ある日師匠の家からの帰りに、犬に睾丸《こうがん》を咬《か》みつかれるという椿事《ちんじ》が突発しました。
この時、小吉の発揮した父性愛は壮絶をきわめています。苦痛とショックのために心気朦朧《もうろう》となっている麟太郎を、
「睾丸を食われたくれえで何てえざまだ、それでもおれが子か、さむれえか!」
と叱りつけるかと思うと、刀を引抜いて、
「しっかり縫え! 縫いそこなったら、うぬが素《そ》ッ首《くび》宙に飛ぶと覚悟しやがれ!」
と、医者を脅迫して傷口の縫合をおわらせ、夜は水垢離《みずごり》をとって、金比羅《こんぴら》様に裸参りし、家にいる間は麟太郎を抱きづめにして、余人には手も触れさせなかったといいます。
このひたむきな愛情の姿を見ますと、漢学師匠に通わせたのも、またこの後自分のいとこの男谷精一郎に剣術を習いに通わせますが、これらのいずれにも、無知で、わがままではあっても、出来のよい子を持って、自分の遂げられなかったことを、子によって遂げようとしている精一ぱいな気持ちが伺われますね。
天保九年(一八三八年)、麟太郎は十六になりました。その年の七月、小吉は麟太郎に家督をゆずって、自らは隠居して夢酔と号するようになりました。その頃、麟太郎は島田虎之助の門に入って剣を学ぶことになります。男谷精一郎の紹介によるのでした。
島田は豊前《ぶぜん》中津の藩士で、男谷精一郎門下の第一人者ですが、いろいろな点で麟太郎は島田の強い影響を受けたようです。麟太郎が入門しますと、島田は、
「今時の剣術は形だけのもので、真の剣術ではありません。せっかくやりなさるのだから、あんたは本当の剣術をやりなさい」
と言って、実にきびしく仕込みました。自分で仕込む以外に、夜、王子稲荷に行って心胆を練らせながら木剣の素ぶりをやらせたり、牛島の弘福《ぐふく》寺に参禅させたりしました。後年、彼は、この頃の修行がどれほど身を助けたかわからないと言っており、また、
「おれがまじめに修行したのは剣術だけだ」
とも言っていますが、これはよほど熱心に修行したことを語ると共に、島田から受けた影響の強烈さをも語っているのでしょう。
日本の革命時代
幕末・維新の時期は日本歴史の大転換の時代です。革命の時代といってもよいでしょう。この大転換の大本《おおもと》は何によるかと申しますと、西洋における機械文明の発達です。白人は元来積極進取の気性に富んだ人種ですが、ルネッサンスによって科学知識を開発し、機械文明を発達させ、優秀な帆船をつくって、世界の各地を侵略しました。その後やがて蒸気機関を発明して、産業革命をし、汽船をつくり、強力な銃砲を開発し、改めて東洋の各地におし出して来て、インドはこれによってほろぼされ、中国は領土を侵略されました。
こういう実例を知っていますから、やがて日本に欧米の船が来て開国通商を要求した時、先ず日本人の示した反応が拒絶であったのは、最も当然なことといえましょう。たとえその拒絶のことばが国粋的な言辞によって飾られた傲慢《ごうまん》なものであったにしても、実は恐怖感情によるものだったのです。
やがて、日本は拒絶しきれなくなって、開国し、国内は開国・攘夷《じようい》の論で大さわぎになりますが、開国というも、攘夷というも、根本に入って見れば、いずれも白人及び白人文明にたいする恐怖が横たわっているのです。
このことから、やがて、日本を強化しなければならないという国民的要請がおこりますが、それは当然挙国一致論になります。その挙国一致を幕府を中心にしてするか、皇室を中心にして行なうかによって、佐幕(やがてこれは公武合体論になります)、勤王の二つにわかれ、もみにもみ、武家政治時代はおわって、王政復古と称する新時代が来たのです。
こう考えて来ますと、開国・攘夷は申すまでもなく、勤王・佐幕も、その原点は白人及び白人文明にたいする日本人の恐怖感情にあることがわかります。
麟太郎は、十五、六の頃から蘭学をやる志を立てたというのですが、それは彼が家督をついだ天保九年か、その前年ですね。その頃から日本は外国関係が一層うるさくなり、幕府でも旧来の兵制を不安がって、高島|秋帆《しゆうはん》の和蘭《オランダ》式の砲術を採用したりするようになるのですからね。
彼に洋式兵学の必要を教えたのは、これまた島田虎之助だといいますよ。
「これからの武士は剣術だけではいかん。洋式兵学をやる必要がある」
と言ったというのです。一介の剣客である島田にこの見識があったのは、彼の藩である中津は洋学のさかんな藩で、だから福沢諭吉のような人も出たのだとご承知おき願います。中津藩に洋学が盛行するにはそれだけの深い事情があるのですが、紙幅を食いますのでね。
麟太郎が蘭学の師と仰いだのは、筑前藩の永井|青崖《せいがい》(助吉)でした。生活は依然として苦しく、とくにその頃母が病気をしたので一層苦しくなりましたが、麟太郎は屈せず苦学をつづけました。辞典ヅーフ・ハルマを二部筆写して、一部を売って生活費にあてたのは、その最も苦しかった時だったそうです。
何事にも峠はあるものですね、最も苦しかった時期が過ぎますと、彼の生活を助け、彼の学問を助けてくれる人があらわれたのです。渋田利右衛門という北海道箱館の商人です。この人は麟太郎がいつも行っては本を読ませてもらっている書店のひいき客でしたが、書店主から麟太郎のことを聞きますと、麟太郎に頼んで交際を結んでもらい、やがて全然無条件で資金援助を申し出、二百両という大金を提供したのです。
両人の交際は、書店主の仲立ちによるのですが、この書店を麟太郎はかねて金銭的にはほとんど利得させていません。出かけて行っては売物の本を読ませてもらい、時には茶のご馳走《ちそう》になったりなどもするのですから、むしろ損をかけている客です。だのに、主人がこんなことをしてくれたのは、麟太郎の熱心な勉学ぶりに感動したからです。よい時代のよい話といってしまえばそれだけのことですが、人間の善意を信ずるかぎり、今日でも絶無なことではありますまい。
渋田は二百両という大金を提供しただけでなく、摂津灘《せつつなだ》の嘉納《かのう》治右衛門(嘉納治五郎の実家)、伊勢の竹川竹斎などという富豪を紹介してくれまして、後年、麟太郎が神戸に海軍操練所を開いた時に大いに便宜を得ています。
咸臨丸渡米
長崎遊学(海軍伝習生)
嘉永三年(一八五〇年)、麟太郎は二十八になりまして、赤坂田町に居を移して、蘭学塾を開きました。その末の九月に、父小吉が死んでいます。麟太郎が小さいながらも蘭学塾の主となったのを見て、安心して死んだようです。『夢酔独言』は満足しきった人の書いたものです。
嘉永三年といえば、日本の周辺に、英・仏・米・露等の船がこもごもあらわれ、海防のことはもはや二、三の先覚者だけの憂えではなく、知識人全部の関心事になっている時期です。麟太郎の蘭学塾は順調にスタートしたようです。
それから三年目の嘉永六年に、ペリーが浦賀に来て、日本に開国をせまり、日本中てんやわんやのさわぎになりました。
従来、幕府は政治上のことは、内治も外交も、一切幕閣の独断で処理したのですが、よほどこまったのでしょうね、諸大名や幕臣に意見上申をもとめました。嚢中《のうちゆう》の錐《きり》をもって自任している麟太郎のような人間にとっては、願ってもない機会です。日頃から抱懐している江戸防衛策と開国論とを草して上書しました。
この上書にたいしては何の応答もありませんでしたが、翌年の安政元年になって、蕃書 調所頭取《ばんしよしらべしよとうどり》の大久保|忠寛《ただひろ》(一翁《いちおう》)が麟太郎の家を訪ねて来まして、暫く時事問題について意見を聞いた後、幕府への出仕をすすめました。こうして麟太郎が得たのは、下田取締手付蕃書翻訳勤務という地位ですが、むしろこの時大久保と相知ったことの方が、麟太郎にはうれしかったでしょう。それは終生の友情でした。麟太郎は才気が煥発《かんぱつ》しすぎるところがあり、人より十年も二十年も先が見えるためもあって、その言動がよく凡庸な上役らを驚かせ怒らせ、お役御免になったり、左遷されたりするのですが、大久保は常に変わらぬ理解者として、陰に陽に庇護《ひご》してくれたのです。
麟太郎はいろいろなお役をつとめましたが、最も重要だったのは、幕府の海軍伝習生となって長崎に遊学して、オランダ人教官らについてきびしい修行をしたことです。この伝習生には、幕臣のほかに諸藩からも来ていて、皆熱心に学びました。本来は二年で卒業なのですが、彼は足かけ六年いて、しまいには助教のような役目までして、ずいぶん技倆《ぎりよう》をみがきました。
生徒七、八名と水兵六名だけで、帆船で五島《ごとう》のへんまで出て、暴風に遭(あ)って難破しかけて、死を決したことがあったり、朝鮮の釜山《ふざん》近くまで行ったり、対馬《つしま》で海岸警備の対馬藩兵に西洋人と間違われて、火縄銃で狙撃《そげき》されようとしたり、いろいろなことを経験したと、後年語っています。
鹿児島へ行って、島津|斉彬《なりあきら》に会ってもいます。斉彬は江戸時代の三百諸侯中第一の賢君であったと、歴史家が口をそろえてほめる人ですが、西郷隆盛を微賤《びせん》から登用して天下の名士とした人でもあります。麟太郎はこの斉彬と肝胆相照らして、ずいぶん親しくなっています。この時西郷は斉彬の命を受けて江戸に出ていましたので、会っていませんが、斉彬の口から西郷の話は聞いたようです。
「こういうわけで江戸に出ていて不在である。いればぜひ見知っていてもらいたい男だがな。いずれ、会うこともあろうが、その時はよろしく引き立ててやってくれるよう」
というようなことを言われたんでしょう。
この時から六年後、麟太郎は西郷とはじめて逢うのですが、忽ち両方からほれ合い、尊敬し合うようになるのです。
咸臨丸渡米
安政六年になって間もなく、麟太郎は、幕府が近いうちに米国に使節を派遣することに決したと聞いて、江戸にかえる決心をし、上司に願い出て許しを得ました。「少し考える所があって」と彼は後年書いていますが、何を考えたのでしょう。
私は、こう考えたのだと思います。
「今の日本の開国・攘夷のさわぎは、すべて欧米人と欧米人の文化の力にたいする恐怖から来ている。日本人がこの恐怖から脱却するには、日本人の力量が欧米人におとらないことを実証するのが一番である。こんど遣米使節をつかわされるのであれば、送って行く船が必要であるはずであるから、おれが船長となり、日本人だけの乗組員を指揮して、運転して行こう。こうして太平洋を横断することが出来れば、日本人の力量の実証となって、日本人はいたずらなる欧米人恐怖から脱却出来るはずである」
彼はまた出世欲も大いにあった人ですから、うまく行ったら、おれの出世にもなるじゃねえか、とも思ったでしょう。
ともかくも、麟太郎は江戸にかえりました。江戸にかえると、役名は軍艦操練所教師方頭取となり、住まいは赤坂氷川町に移りました。
これから、話は有名な咸臨丸《かんりんまる》の太平洋横断のことになるのですが、実を申しますと、幕府の遣米使節には護送船などは不要だったのです。米国が使節の乗用にはポーハタン号という軍艦をさしまわしてくれましたから。しかし、そうなる以前に、麟太郎が熱心に運動して、すでに咸臨丸で行くことにきまっていたので、ではせっかくのことだから、その方らも行くがよいということになったのでしょう。
ともかくも、使節三人は安政七年(万延元年)正月十九日にポーハタン号で品川から出帆することになり、それに先立って十三日に麟太郎は咸臨丸で品川を出ました。軍艦奉行|並《なみ》木村摂津守|喜毅《よしたけ》が上席で、艦長麟太郎が次席でした。福沢諭吉はアメリカというところを見たい一心から、木村の従者ということにしてもらって乗りくんでいました。船員は総員で九十六人、すべて日本人でしたが、このほかに、この少し前、奄美大島付近で難破したアメリカ船があって、助けられた連中が横浜に連れて来られて、幕府の世話を受けていましたが、これが乗りくんでいました。船長のジョン・ブルック以下、士官一人、医者一人、水夫四、五人です。
麟太郎は、はじめ幕閣から、この連中をアメリカまでのせて行くように言われた時、
「アメリカの船乗りどもをのせて行きますと、私どもがその者どもを連れて行ったのではなく、その者どもが私どもを連れて行ったのであると思われそうであります。それでは日本人の名にかかわります」
といってことわったのですが、ぜひともにということでしたので、決して口出ししたり、手出ししたり、指図がましいことはしないという約束をさせて、便乗をゆるすことにしたのでした。
咸臨丸はオランダ製の船で、長さ三十間ばかりの機帆船ですが、蒸気機関は港の出入りの時だけ使い、あとは一切帆走するという船でした。
途中、連日の暴風雨に見舞われて、大へん難儀な航海になりました。福沢諭吉が後年『福翁自伝』でスッパぬいているところでは、
「勝という人は、至って船に弱い人で、航海中は病人同様で、自分の部屋から外に出ることはなかった」
というのです。
麟太郎自身は、日本人だけで乗り切ったといっており、福沢もこの点に関しては決して否定していません。ところが、現代になって、江藤淳氏がこの時便乗したジョン・ブルックの子孫の家を訪問し、ブルックのこの時の日記を見せてもらったところ、日本人の船員だけではどうにも処置出来ず、ブルックが指揮をとって乗り切ったことがはっきり書いてあったそうです。
日本人に自信を持たせようと計画したことが、見事失敗したわけですが、そこは黙っていれば効果としては同じことと考えて、福沢諭吉をふくむ全乗組員にも言いふくめ、ブルックにも頼んで、固く口をつぐんでいてもらうことにしたのだと、私は思いますが、いかがなものでしょうか。
ともあれ、決して麟太郎と仲はよくなかったはずの諭吉も、この問題では一語も真相をばらしてはいませんからね。ブルックもまた、日記には書いても、生前一語もそれに触れては発言してませんからね。麟太郎の真情を買ったのではありますまいか。
咸臨丸は三十七日かかって太平洋を横断し、ほぼ二月《ふたつき》アメリカに滞在して、五月六日に品川に帰って来ました。四月ぶりに故国の土を踏んだ麟太郎らを最も驚かしたのは、この三月三日に井伊大老が暗殺されたことでした。
帰朝後しばらく、麟太郎の栄達がつづきます。帰って来た翌月には天守番之|頭格《かしらかく》、蕃書調所頭取役、講武所砲術師範役、翌年には二の丸留守居役、軍艦頭取などを歴任して、文久二年には軍艦奉行|並《なみ》に上がりました。しかし、これらの役は、麟太郎の器量から考えますと、決して当を得ているとはいえません。蛟竜未《こうりよういま》だ雲を得なかったといえましょう。
神戸海軍操練所
安政の大獄
勝麟太郎が城臨丸でアメリカに行っている間に、井伊大老が暗殺されたことは、前章でお話ししましたね。
井伊|掃部《かもん》さんという人は、幕末史上大へん評判の悪い人ですが、決して阿呆《あほう》な人でありません。江戸時代の大名はあまり賢くて気性がすぐれていては、幕府からにらまれる恐れがありますから、あまり阿呆でもいけないけど、少々阿呆なくらいなところが丁度よかったのです。ですから、普通社会の人にすれば、大抵がコンマ以下の人でした。掃部さんは井伊家の末子に生まれて、若い時から苦労しており、学問に骨折っていますから、大名の中では出色だったのです。しかも、禅の修行もしていますから、人目に立たないように自分をくらますという高等技術も心得ていました。
井伊家は譜代大名第一の家柄で、徳川家に忠誠を抽《ぬき》んでなければならない家でしたが、この点掃部さんは最も熱烈なものを持っていました。皇室にたいする尊崇精神も、当時の知識人たるに恥じないほどのものは持っていました。
掃部さんは大老に就任するにあたって、ある一つの覚悟を抱いておりました。一口に言って、それは当時の幕府のとっていた方針を改めて、江戸初期の幕府の方針に返したいということでした。
掃部さんはこう考えたのです。
「幕府政治は委任政治である。朝廷から、内治・外交一切の政治権を委任されて取り行なっているのである。しかるに、この頃の幕府老中らは、開国通商のことは重大事であるからといって、諸大名に意見を聞き、また朝廷のご裁可を仰ごうとした。こうした自信のない態度が、世間を不安に陥れ、世間を何かと口うるさくさせるのだ。すべからく、東照大権現(徳川家康のこと)が将軍に宣下《せんげ》され、幕府をおひらきになった時に立ちかえって、政治上のことは、内治はいうまでもなく、外交上のことも、大自信をもって、断乎として、独断|擅行《せんこう》すべきである」と。
この考えが発展して、その地位にない者が、政治上のことや、徳川家の継嗣《けいし》問題について、かれこれうるさいことを言ったり、運動をしたりするのは、処士横議《しよしおうぎ》、治安|紊乱《びんらん》の行為であるという考えになって、安政の大獄をおこしたのです。宮様や公卿さん方も隠居処分や落飾《らくしよく》処分になり、大名も隠居|蟄居《ちつきよ》処分、藩士や浪人は斬《き》られたり、流されたり、江戸幕府はじまってどころか、日本はじまって以来の大獄となったのです。
掃部さんの言っているのは、理屈としては全くその通りです。幕府政治はたしかに委任政治です。ですから、三代将軍の家光の時に島原の乱を契機として、幕府が鎖国政策をとるにあたっては、別に朝廷にたいして何の伺いも立てていません。幕府だけの判断で鎖国にふみ切ったのです。この論法で行けば、安政年度に鎖国を変じて開国にするのも、独断でやって少しも差しつかえはないようなものです。しかし、それは理屈というものです。
寛永から安政にいたる二百余年の間に、国民の皇室に対する感情は大変化しています。江戸時代二世紀半という時代は太平打ちつづいた時代です。太平がつづきますと、人心は文化的になります。江戸時代もそうで学問が盛んになりました。この時代の学問といいますと、中国の儒学、それも宋代に南宋の朱憙《しゆき》によって整理された宋学(朱子学)が中心になります。その朱子の生きていた時代の中国は、北方に金という異民族の国家が興って中国を圧迫し、宋の皇帝が金に連れ去られて幽死するなどという大国難の時代でしたので、朱子の儒学は民族意識のとくに強烈なものになっています。中国民族の誇りを尊重し、中国人の王朝を尊崇するという意識がまことに強いのです。こんな学問が盛んになったので、二世紀半の間に日本でも皇室尊重は知識人の常識になってしまったのです。ですから寛永の頃には皇室は国民にとっては、単に何となく尊い大事なお方というだけのものでしたが、安政の頃になりますと、国民の精神のよりどころ、国民道徳の本源、国民の総本家、日本の本来の持主というような感じのものになっていましたので、これを無視することはどうにも相すまない気がするようになっていたのです。ですから、幕府の老中らとしても、開国問題がおこりますと、朝廷のご裁可をいただかずにはいられない気になったのです。
掃部さんはこの時代思潮、この国民感情を無視したのです。だから、皆が立腹し、興奮したのです。時代感覚を欠いていたといってよいでしょうが、私は時代感覚の欠如というより、もっと広く見て、バランス感覚を欠如していたと見たいのです。
ともあれ、安政の大獄は、幕末史における大エポックになりました。掃部さん自身もこのために白昼路上で殺されるという悲惨なことになるのですが、幕府の運命もこの時から急激に傾くのです。この時まで、幕府の存在を否定する、討幕などという嶮《けわ》しいことを言う者は一人もなく、大獄で処罰された人々も、幕府は現実において日本の政治の担当者なんだから、これを強化することによってこの国難を乗り切りたいと思い、そのつもりで皆努力していたのですが、大獄によって幕府そのものに愛想をつかして、
「幕府は、今や日本にとって無益であるばかりでなく、有害な存在である」
と考えて、討幕を考える人々が出て来たのです。はじめはごく少なかったのですが、年を経るうちにどんどん多くなり、八年の後にはついに幕府を倒してしまいましたね。
縷々《るる》述べましたように、掃部さんという人は、相当かしこくもあれば、徳川家にたいしては熱い忠誠心を持ち、尊王心だってあった人ですのに、ただ一点、バランス感覚の欠如のために、絶対に心に欲しないところだったのに、徳川幕府の弔鐘の第一声を撞《つ》き鳴らす人になってしまったのです。
遠い歴史上の人物のことだとばかり思ってはなりません。現在、我々の当面している問題だってそうでしょう。自由主義経済というだけの建前から行きますなら、日本列島改造案だろうが、高度経済成長だろうが、決してかまいません。しかし、戦後三十年近くも高度経済成長をつづけてきた日本は、いわば高血圧の体質になっているようなものです。それにたいして、さらに血圧を高めるような処置――大酒を飲ませたり、ブドー糖の注射をしたりしてはいけないことは、常識ある者なら誰でもわかっていたことです。常識ある者とは、バランス感覚のある者のことですよ。
それを総理大臣がわからなかった。与党の代議士全部がわからなかった。経済評論家も警告した人はいない。欲が目をくらましていたのでしょうね。常識ある庶民だけがひやひやしていました。今に大変なことにならねばよいがと。ともあれ、日本中がバランス感覚を失って、目を血走らせて、高度経済成長街道を驀進《ばくしん》していたので、トイレット・ペーパーがないというだけでパニックがおこり、石油危機にあって、一切合財ガタガタガタと崩れて来たのです。
ひょっとすると、田中さんは掃部さんみたいに、心ならずも自由主義経済没落の弔鐘の第一声を撞く人になるかもしれませんよ。
麟太郎と龍馬
ともあれ、世は騒然たることになりました。当時、政治の中心は京都に移りましたが、その京都で対立していた政治の潮流がありました。一つは公武合体派、朝廷と幕府との間を調和することによって挙国一致体制をつくり出すことを目的とするもので、藩としては薩摩と会津で、朝廷では上流公卿は皆この派でした。天皇も実はこの派がお気に召していました。もう一つは尊王・攘夷派、外国とは交際せず、無理に交際をもとめて来るなら打ち払え、日本は皇室を中心にして団結すればよいのだから、幕府なんぞ無用有害な存在であるというのがその主張で、藩としては長州藩がこの派、若手の公卿に支持者が多く、京都政界をリードする勢いでありました。
観念的で、急進的な議論というものは、はてかぎりなく観念的になり、激烈になって行くものであり、そうであればあるほど世間は喝采《かつさい》するものです。年配の方は、この大戦中に日本の朝野にさかんであったいろいろな議論をご記憶でしょうが、納得の行く常識的な議論は声をひそめて、威勢ばかり無闇によい極端論だけが横行していましたね。文久二年半ばから三年の八月頃までの京都がそうだったのです。極端であればあるほど純粋だとされ、激烈であればあるほど尊王愛国の熱情が証明されると考えられまして、天誅《てんちゆう》という血なまぐさいことがしきりに行なわれたのでした。尊王愛国の名において、人を暗殺することが美事善行だとされたのですからね。
このさわがしい時代に、勝麟太郎は何をしていたか。
勝という人が、常に物事の本質を見きわめ、それに対して力を注ぐ人であることは、なぜ咸臨丸で太平洋横断を企てたかの考察で申しましたね。彼のこの態度は、このさわがしい時代となっても変わりはありませんでした。攘夷も、開国も、公武合体も、勤王攘夷も、彼においては本質を離れた枝葉末節としか思われなかったのです。
「本当に大事なことは、日本の国を保全し、日本国民を安全に守りぬくことである。今さら攘夷だの開国だのとさわぐのは野暮の骨頂だ。開国以外には日本の途《みち》のないことは明らかだ。大事なのはその先だ。海軍術、操船術を練磨して、国土を保全し、国民の安全を守る。これ以外に当今の大事はない」
と考えていたのですね。
麟太郎は文久二年の暮れから大坂に滞在していました。大坂湾の要害を調査のためだったのですが、そのうち安治川口に海軍学の私塾をひらきました。この年彼を斬りに来て、説得されて門下生となった坂本|龍馬《りようま》に乞われて、開塾したのです。坂本が塾頭をつとめ、知っている土佐人や浪人志士らをさそいこんでなかなか繁昌しました。
この塾は、間もなく、勝が将軍|家茂《いえもち》に謁《えつ》する機会があって、願い出て、年額三千両ずつを支給されることになって、神戸に移って海軍操練所という名になりました。
神戸海軍操練所は幕府の費用で経営しているのですが、幕臣はほとんど入って来ず、諸藩士や浪人志士らが多数入って来ました。これは塾頭の坂本龍馬が好んでそういう連中を引っぱって来たからでもありましょうが、何よりも勝の観念には日本ということだけがあって、幕府だの諸藩だのという差別がなかったからでありましょう。
勝はもったいぶるということのなかった人です。気さくに談笑し、しかも話上手であり、話には高い内容があったのですから、生徒にはならないまでも、引きつけられて訪問して来る人はずいぶんあって、長州人井上|聞多《もんた》、桂小五郎、薩摩人吉井幸輔などの名前は、当時の勝の日記にしばしば出て来ます。
こうして天下の人に名が知れ、慕われるようになったことが、やがて勝のためになるのですが、さしあたっては幕府当局に勝を疑惑させる原因になります。つまり、勝の名声はこうして高くなったのですが、幕府部内での昇進が思わしくなくなったのもこのためなのです。
西郷隆盛との出会い
強まる攘夷の動き
姉小路公知《あねがこうじきんとも》という公卿《くげ》がいました。攘夷派の公卿として、三条|実美《さねとみ》とならび称せられた人です。尊王攘夷論を真向に信奉していたのは長州藩で、この二人が長州藩の朝廷内におけるスポークスマン的役目をつとめ、なかなかの羽ぶりだったのです。
前章で申しましたように、この派の言うことはあまりにも過激で、現実無視の面が多くて、実行不可能なことが多く、天皇も上級公卿も本心は、正直なところ不賛成になられたのですが、時代の空気というものはおかしなもので、天皇も上級公卿もはっきりそうとは申されかねて、この派の勢力は益々強く、しっかりと朝廷の指導権を握りました。ですから、この派が朝命として出して来ますと、政治・外交の実務にあたっている幕府も拒むことは出来ませんでした。
文久三年(一八六三年)四月頃がこの派の絶頂期で、幕府に攘夷の実行を迫り、とうとう将軍家茂は、
「それでは来たる五月十日から実行します」
と、奏聞《そうもん》してしまいました。自信なんぞある道理がありません。苦しまぎれの奏聞だったのですが、奏聞した以上は、一応の形はつけなければなりませんから、将軍は大坂湾の防備巡視のために京都を出ました。この案内役に立ったのが、勝です。神戸のあたりまで来た時、勝はいろいろ言上しました。その言上によって、家茂は、
「このへんに軍艦操練所と造船所とを建て、内海の警備をいたすように」
と、直命しました。勝が大坂の安治川口にひらいていた海軍塾を神戸に移して、神戸海軍操練所という名前にしたのはこの時からです。
勝と家茂将軍との直接の関係はこの時が一回きりのようですが、勝は終生家茂を慕っていたようです。勝という人は、自分が目から鼻にぬけるように気のきいた人ですから、才走った人は好きでなかったようです。彼の大いに気に入った人物は、西郷でも、坂本でも、大智者ではあっても、小才のきいた人物ではありませんね。彼が家茂が好きで、慶喜とはあれほど深い因縁があるくせに、互いに好意を持つことが出来なかったのは、家茂はおっとりした人がらで、慶喜は才気がギラギラして人まかせでない性質であったというところにありましょう。
この家茂の巡視があって間もなく、姉小路が朝命で来ました。幕府が心から攘夷をする気があるかどうか調べるためでした。勝は姉小路の旅館である大坂の本願寺に呼ばれて、意見をたずねられました。勝はくわしく意見をのべた上で、
「砲台建設には莫大な費用がいりますが、その金の都合のつくあてがありましょうか」
と論じつめました。
公卿の中でこそ出色の人物ですが、要するに時代の熱に浮かされて、攘夷攘夷と一つ覚えに思いこんでいるにすぎないのです。言われて、思案にくれる風でした。
「一応、私の汽船に乗って、摂海を巡視なさるがようございます。何もお知りなくしては、ご計画も立ちますまい」
と、すすめて、一昼夜の間、勝は姉小路を汽船にのせて、播州《ばんしゆう》の海から大坂湾一帯、紀州の方まで乗りまわしました。海がしけて、姉小路が弱り切ったという話もあります。何しろ、広い海です。いくつ砲台をこしらえても、十分ということはなさそうです。ここで、勝はまた言います。
「ごらんの通り、広い海域でございますから、砲台はいくつもいります。また小さい砲台では役に立ちませんから、その費用はいくらかかるかわかりません。同じことなら、その費用をもって海軍を充実した方が得であります。その海軍の出来るまで、攘夷など出来ることではございません」
勝はまた以前から、白人の東亜侵略に対抗するためには、日本・朝鮮・中国が同盟して共同防衛することが必要であるという考えを抱いて、幕府の要路に説いています。これは彼の終生の願望であったようで、明治になっても捨てていませんから、あるいはこの時姉小路にも説いたかも知れません。
勝は姉小路に、将軍の直命によって軍艦操練所と造船所とは神戸に建つことになったが、製鉄所もまた必要であると言いました。姉小路は京都にかえりますと、朝命で幕府に、神戸に製鉄所を設けるように命じました。幕府はお受けして、設置します。
奇妙な所に奇妙な影響が出るものです。
姉小路は、これまでのような闇くもな攘夷論を吐かなくなりましたので、攘夷党の連中から不思議がられていましたが、五月二十日の夜といいますから、勝に会ってから一月も経っていません。御所から退出する途中、暗殺されてしまいました。人斬り新兵衛とあだ名された薩摩の暗殺名人田中新兵衛が斬ったというのが通説ですが、それにはいろいろ疑問があって、維新史上の謎の一つになっています。
長州の衰退
攘夷実行期日と幕府の触れ出した五月十日から、長州藩は下関海峡を通過する外国船を片ッぱしから砲撃しました。
長州のは長州が主動の立場でやった砲撃ですが、この翌々月の七月はじめ鹿児島湾で行なわれた薩摩と英国との合戦は、英国からしかけられたのです。原因はいわゆる生麦《なまむぎ》事変です。この前年の八月、島津久光の行列が横浜近くの生麦村を通りかかりましたところ、英人三人が久光の行列を乱しました。久光の従者は斬って一人を即死させ、二人を負傷させました。英国側では、当然賠償交渉をしましたが、薩摩側では大名行列を乱すのを斬るのは日本の法であると主張して応じませんので、ついに英国は艦隊をひきいて鹿児島に押し寄せたのです。薩摩側では健闘して、相当な損害をあたえて撃退しましたが、砲火のために市街の半分を焼かれました。
この戦争は、薩摩側に非常な教訓をあたえました。薩摩は藩の方針としては攘夷であったことはありませんが、藩士には時代の気風にかぶれてずいぶん攘夷家がいました。しかし、この戦争の経験によって、攘夷は実行不可能なものであることを痛感したのです。ですから、この戦いのあと始末の交渉を通じて、かえって英国と大へん親しくなるのです。
長州も攘夷主義を揚棄するのですが、それはこの時ではなく、この翌年になります。
ともあれ、この時は長州は攘夷を実行したのですから、世間の評判も、公卿達の評判も大いに上がって、一層威勢がよくなりまして、ついに攘夷御祈願のために天皇が大和の橿原《かしはら》神宮に行幸され、しばらくご滞在あって攘夷親征の軍議を催して、諸藩の兵を召し給うようにと建議しました。
天皇はほんとはお気がおすすみではなかったのですけれども、八月十三日ご裁可がありました。
実は計画者らの本当に考えていたのは、攘夷親征だけではなく、討幕の含みがあり、公卿達全部をつれて大和に行き、再び京都には帰らないつもりでしたから、公卿達の未練を絶つために出発後、京都には火をかけて焼いてしまうというおそろしいことまで考えていたのです。
これをさぐり知ったのが、薩摩藩士と会津藩士です。相談して、中川宮(後の|久邇宮《くにのみや》朝彦親王)の許に行き、こんどの長州の建議には実はこれこれの陰謀があって、危険千万です。殿下のお力によって阻止していただきたいと説きました。中川宮も、長州攘夷党のやり方にはいつもはらはらする思いでおられましたので、こんな重大事を聞いて愕然《がくぜん》とされました。八月十五日の深夜、参内して、委細のことを天皇に申し上げられました。
天皇も、尊攘派の過激さにはかねてから不安、不満でおられたので、クーデターが計画されました。長州藩の宮門警衛の任を解いて、会津と薩摩とで諸門を固め、お召しのない者は堂上でも参朝を許さないと厳命して、長州藩と同調している三条実美以下十三人の堂上の参内、他行、他人との面会を禁止しました。
長州藩は驚き怒りましたが、どうすることも出来ません。三条実美以下の七卿を奉じて長州に落ちました。これが維新史で有名な八月十八日政変です。
朝廷では追打ちをかけました。七卿の官位を奪い、長州藩士の在京を禁じたのです。こうして、尊王攘夷時代は去って、これから長州藩の受難時代に入るのです。
長州人は何とかして以前の栄えをとりもどしたい。このあせりが、翌元治元年六月の池田屋騒動になります。長州人らは長州人に同情的である浪人志士らと共同謀議して祇園祭の夜の雑踏に乗じて、火を御所と中川宮の邸《やしき》に放ち、宮と守護職の会津|容保《かたもり》とが急ぎ参内するところを襲って暗殺し、一挙に勢力を回復しようと、祇園の宵宮《よみや》の夜(六月五日)、三条小橋の池田屋に集まっているところを、新選組に襲撃されて、全部斬られました。
さらに一月半後、長州藩が大兵を上洛させて、蛤御門《はまぐりごもん》の戦に突入したのは、やはりあせりによるのです。もちろん、惨敗して、朝敵の名まで負うことになってしまいました。長州人は京坂の地では、見当たり次第に新選組や見廻《みまわり》組が斬ってしまうことになったのです。
世の中のことは、不幸な時には不幸なことが重なることがよくあるものですが、この時の長州もそうでした。去年の五月、下関海峡を通過する際に砲撃された、英・米・仏・蘭四国が連合艦隊を組織して、下関海峡におし寄せて来たのです。泣きっ面に蜂とはこのことです。さんざんに負けてしまいました。もっとも、これが長州藩が攘夷の迷妄《めいもう》からめざめる機縁になったのですから、大局的には禍《わざわい》は転じて福になったのです。
西郷との出会い
九月になって、勝は老中阿部|正外《まさと》に用事があって、宿屋に泊まっていますと、十一日の朝、一封の手紙が届きました。薩摩藩士西郷吉之助からの手紙です。こんな文面です。
「折入ってご教示願いたいことがあって、今朝下坂しました。ご都合次第、どこへでも参上しますが、どこへ、いつお伺いしたらよろしいか、お示し下さい」
西郷にはまだ会ったことはありませんが、名は薩摩の先君斉彬から聞いています。近頃|頓《とみ》に有名になっていますので、よくその名を聞きもします。今日すぐお出でなさいと、勝は返事しました。
やがて、西郷は来ました。つれがありました。越前藩の堤五市郎と青山小三郎、薩摩の吉井幸輔の三人。この三人とは勝はすでに知合いです。四人が同道して来たのは、蛤御門の戦などして、禁裡《きんり》に向かって銃砲を打ちかけた長州藩をそのままにしておいては、大義名分が立たないのに、幕府はなかなか征伐などやりそうにない、征長総督すらきまらない有様だ、勝さんに一つ幕府内部で尽力してもらうように頼もうというのでありました。
この日の西郷は轡《くつわ》の紋のついた黒ちりめんの羽織など着て、なかなか立派な風采《ふうさい》だったと、勝が後年思い出話で言っています。
西郷はこう言いました。
「幕府の態度がきまりませんので、諸侯の心もなかなか定まりません。長州の罪科を寛仮《かんか》しましては、大義にもとることであり、日本の諸侯の道義観念を混乱させ、ついには救うべからざる混乱の世となりましょう。これを救って諸藩の心を一致させるには、将軍のご進発にまさるはありません。聞きますれば、貴殿は近々ご帰京になります由、ご尽力をもって、幕府の方針を将軍ご進発としていただきたいと念じて、こうして参った次第であります」
「拙者のようなものに望みをかけていただいて、誠に光栄です。しかしね、たとえ拙者が舌によりをかけて説き立てても、うまくは行きますまいよ。拙者は徳川家の譜代の家来なんだから、こんなことを言っちゃいけないんですがね、幕府は土台から腐り切っているんです。今の幕府役人らは、今度のことで攘夷連の本家の長州が惨敗したので、攘夷さん達は畏縮《いしゆく》しちまって、ひたすら身の安全を願う心になっているから、もう天下は無事太平になったと思っているんです。ですから、幕府部内はボンクラのくせに悪知恵に長《た》けている連中ばかりが羽ぶりを利《き》かすところになってしまいました。その上、近頃ではこの連中、大へん巧妙というか、狡猾《こうかつ》というか、むずかしい事務は一同持合いで、どこに責任があるかわからないような扱い方をしているんです。その中で、こんど老中格から老中になった諏訪因幡守《すわいなばのかみ》ッてのは、最もずるい男でしてね、色々正しい意見を申し立てて来る者がいますと、ごもっともごもっともと、その場では同意なようなことを言うんですが、手を廻してその者を退けるので、今では誰ももう口をつぐんで言わないんです。あたしがこんど将軍家ご進発のことを申し立てても、必定その手を食うに違いないのです。こまったことです」
江戸ことばの軽快な調子で、こだわりのないしゃべり方です。
「それでは諸藩から力を尽くしてみてはどうでしょう」
「だめでしょうな。諸藩から良策を申し出られても、受取る人がいないのですからね。仮にいるとしても、薩摩からかような議論がありますと、役人らへ持ち出しますと、役人らはすぐ薩摩に欺《だま》されていると言いなして、陥れてしまいますからね。だめですな」
西郷はまた兵庫の開港問題についての意見をたずねました。これは当時の大問題でした。どこの港を開港するのも、皆京都朝廷はきらいましたが、兵庫開港は、兵庫が京都から近いだけに最もきらいました。開国を方針としている諸藩も、ここの開港はきらいました。あんなに朝廷がきらっていなさるのだからという理由でです。ところが、外国の方ではここの開港を迫ってやまないのです。幕府が煮え切らないので、直接大坂湾に乗りこんで来る気色さえ見せるのです。ですから、西郷は、もし異人らが大坂湾に乗りこんで来たら、どうすべきでしょうと、勝にきいたわけです。
「やあ、それについては、拙者にいい策があります。今では異人らも幕府役人を軽蔑していますから、もう幕府役人ではどうにもならんのです。拙者が貴殿の位置にあるなら、雄藩の賢君四、五人を同盟させて、万一の場合には異人らと一戦の出来るほどの武力を用意しておいて、異人らと折衝しますね。その条件は、横浜・長崎における交易量をもっと大幅にふやすかわりに、兵庫は開かないと異人らに堂々と申し渡すのです。こちらが条理を踏んで交渉すれば、皇国の恥にならない、しっかりした条約が結べるはずです。異人らもその方をかえって喜びますよ。そうなれば、天下の国是も定まります。この賢諸侯の同盟が天下の大政をあずかることにもなります。日本はもう変わらなければならない時ですよ。幕府ではとてもこれからの荷物を背負い切れません。もし、貴殿らがこの運動をなさるなら、その同盟の出来るまで、拙者が引受けて異人らを食いとめてもよろしい」
とうてい、幕臣の口から出て来そうもない不敵な意見です。しかし、最もすぐれた意見でもあります。西郷は驚嘆しました。
勝の授けたこの雄藩連合の策を、西郷は慶応三年になってこころみるのです。薩・土・宇和島・越前の四藩連合です。西郷の当時のことばに従えば共和政体というのですが、もちろん、ヨーロッパ流のレパブリックではありません。これは中国古代の周の時代に、周王に故障があった際、複数の王の一族あるいは重臣らが合議して政治を行なった時期がありまして、これを共和といいました。そこから出たことばで、つまり合議政治のことをいうのです。
西郷の四藩連合はすぐ崩れて、西郷は幕府を打倒する以外には日本再建の途はないことを知って、王政復古に専念するのですが、復古後の政治形態は決して王朝時代の公卿政治の再現ではなく、「天皇の下に皇族の優秀分子、公卿の優秀分子、大名の優秀分子、大名の家臣の優秀分子の合議政体」となるのです。ですから、これのもともとの泉は勝なんですね。
一方また、この合議政体は土佐藩が大政奉還建白に附けた「別紙」の記述によるところもあるのですが、そもそも大政奉還そのことのアイデアが、勝から出ているのですからね。幕末維新の切所切所には、こうして勝が立っているのです。人知れず。驚くべきです。
以上の、勝と西郷との問答は、西郷がこの直後に国許の大久保に出した手紙によって書きましたが、この時の勝の日記と後年の彼の追憶談とを総合して、やや自由に空想を馳《は》せますと、長州征伐のことについても、勝は西郷にたいしてある程度の忠告を試みたのではないかという気がします。その忠告は、
「長州は征伐しなければなりませんが、そうひどく苦しめるのは、あたしは取りませんね。ひどく痛めつけると、どうしても長くかかります。今は日本人同士が長い戦《いくさ》をし合ってよい時ではありませんからね。欧米の列強が野心を抱いて日本のすきをうかがっていることを、我々日本人はいつも考えていなければならない時ですよ。長州が恭順謝罪の意を表するなら、適当にその実をあげさせるくらいで、ゆるしてやるべきですよ」
勝が終始一貫、日本対外国ということだけ考えて、勤王・佐幕の抗争には冷淡であったことを考えれば、この時こう言わなかったはずはないと、ぼくは思うのです。ともあれ、西郷はこれまで長州処分にたいしてはきびしいことを公言していたのですが、この時からそれを言わなくなり、やがて征長総督尾張|慶勝《よしかつ》を助けて、参謀長格の立場で局を結ぶにあたっては、一兵も加えずして、実に寛大な処置ですませるのですからね。
西郷の大久保への手紙にはこんな文句があります。
「勝氏へはじめて面会しましたが、実に驚き入った人物です。最初はやっつけるつもりで出かけたのですが、とんと頭を下げました。どれほど智略のあるやら知れない風に見受けられました。先ず英雄肌合の人物です。佐久間|象山《ぞうざん》(この二月前、京で暗殺さる)より事の出来るのは一まさりでしょう。学問と見識とにおいては、佐久間は抜群の人でしたが、実地の手腕は勝先生がまさっていると、ひどくほれました」
西郷がほれたばかりでなく、勝の方もほれて、この後西郷の人物をほめることが一方でないので、坂本龍馬が、
「それほど先生が感心しておられる人物なら、よほどのものでしょう。拙者も会ってみたいです。紹介状を書いて下さい。行って会って来ます」
と、京に行って西郷を訪問し、帰って来て、勝に言いました。
「西郷という男は大太鼓のような男ですな。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響きます。もし馬鹿ならば大馬鹿、利口ならば大利口ですな」
勝は感嘆して、
「評せられる人も評せられる人、評する人も評する人」
と書きのこしています。
この時から、勝は西郷と懇意になり、四年の後江戸が兵火を免れて百万の生霊が安泰であることが出来た因縁がここに生じたのです。
征長の役前後
長州藩の動向
元治二年(一八六五年、四月に慶応と改元)の正月を、勝は江戸氷川の自邸で迎えました。久しぶりの落ち着いた、しかし年始の客もまばらな淋しい正月でした。神戸の海軍操練所は前年十月閉鎖と決まり、追って勝本人も軍艦奉行の役儀御免を言い渡されて、今は寄合《よりあい》、つまり正式な職務のない身分になっていたのです。どうしてこういうことになったのかというと、勝自身は「この間実にこみ入った事情があったのだが」としか語っていませんが、操練所にたくさんの浪人志士を置いていたことや、前章で申しあげた勝の自由で無遠慮な言動が、幕府高官の疑惑を買ったためでしょうね。それまで幕府は、海軍操練所の運営についてはほとんど干渉を加えず、スパイを潜ませて内情を報告させていた程度でしたが、ちょうどその頃尊攘派の本拠である長州藩を武力討伐する計画(第一次征長の役)を実行に移したことでもあり、いつ幕府に弓を引くかもしれないような危険分子の集団を、とうとう黙過しきれなくなったというわけですね。
勝が大坂城代より早々帰府すべしとの通達を受け取ったのは、大坂城内に征長の軍議があった元治元年十月二十二日です。勝は陸路をとって十一月二日江戸に着き、八日後役儀御免、そのまま氷川の自邸に屏居《へいきよ》することになったのですが、間もなく大久保忠寛から近日封書のお尋ねがあるはずだと知らされて、さすがに愕然としました。封書のお尋ねというのは、役人に落度があると認められると、まず封書でその始末を尋ね、次は親類同道で評定所に出頭させて尋問し、三度目は当人だけ呼び出して重ねて尋問した上、切腹、終身預け、閉門などの処罰を定めるという、なかなか重い裁判なのです。さいわい封書のお尋ねは、長州再征などのゴタゴタにまぎれて沙汰やみとなりましたが、これによって幕府要路の嫌疑が尋常でないことを知らされた勝は、官途のふさがったことも覚悟したようです。
後年、彼はこの前後のことを回想して、
「及ばずながら国家の安危を一身に引受けて、三年の間、種々の危険を冒して奔走したのに、一朝説は用いられず、謀《はかりごと》は用いられず、職を免ぜられるとは、まことに情けないことだが、もうこうなっては仕方がない。悠々自適、身を栄辱のほかに置くばかりだ。しかし、このまま朽ちはてて、累代の君恩に報いることのできないのはいかにも残念だと思った」
と述懐しています。
もっとも、こうなればくよくよしたってはじまらない、というのが勝流の生き方です。勝家の門をたたく諸藩人も結構多く、その合間には我流ながら『源氏物語』や漢籍を読みふけるなど余裕|綽々《しやくしやく》の暮しぶりだったようで、時には先年暗殺された佐久間象山の書翰《しよかん》の束を古箱中に見出し、生前は大言壮語と気取りが鼻について好感が持てなかったが、さすがに論ずる趣旨は英物逸才の名に愧《は》じないなと、あらためて感心したりしていました。
しかし、弾みの|つ《ヽ》いた時勢は、勝がいくら屏居中だとはいえ、歩調を合わせてくれるわけではありません。中でも勝の屏居中に大きく変化したのは、幕府と長州藩との力関係でした。過ぐる年、幕府の征長軍を迎え、おそらくは勝の示唆《しさ》を実践したに違いない西郷吉之助の寛大な処分案を戦わずして受け入れた長州藩は、激烈な尊王攘夷を鼓吹する松下村塾系の正議派が後退し、椋梨藤太《むくなしとうた》を首班とする門閥守旧派のいわゆる俗論党が藩政の実権を握って、幕府に恭順的な態度を示していました。俗論党は、幕藩体制の中の長州藩という発想しか持ち合わせていなかったため、「謝罪恭順」と称して唯々《いい》諾々と幕府の権威の中に屈伏してしまったわけです。けれども、俗論党政権は一時の徒花《あだばな》にしかすぎず、その命脈はあまり長くはありませんでした。
俗論党政権打倒の功績は、高杉晋作に帰するといっていいでしょう。高杉は当時数えの二十七歳、行動力にとみ機略縦横を謳《うた》われた松陰門下の偉材で、もし勝が幕臣ではなく長州藩の藩士として生まれていたならば、案外そのあらわれ方は高杉と相似たものになったのではないかと思われますが、それはともかく、元治元年十二月十五日の夜、高杉は諸隊有志を率いて長府功山寺に挙兵したのでした。挙兵の場所を功山寺としたのは先に都落ちした三条実美ら五卿がそこに滞在していたからですが、折しもその夜の長府は一面雪におおわれていたといいます。
三条実美らに暇乞《いとまご》いした高杉一行――といっても総勢七十余人にすぎません――は、手はじめに藩の下関出先機関新地会所を襲撃しました。この頃、俗論党の面々は夏以来の正議派狩りが一段落し、すっかり油断していたものですから、高杉の奇襲攻撃は思いのほか楽々と成功をおさめました。その結果、高杉のもとに馳せ参じる者はたちまち千人を超え、二千を数え、勝が氷川の自邸に新年を迎えた頃には、藩内を二分する大勢力に成長していました。そして、一月十日から十四日にかけ、大田絵堂《おおたえどう》の近辺に俗論党軍と大激戦をまじえるのですが、俗論党軍は散れ去り、長州藩は再び「武備恭順」を主張する正議派の天下になりました。同年三月には、藩主毛利|敬親《よしちか》も正式に正議派の方針を認めます。毛利敬親は一部で大変な名君のように言われていますが、島津斉彬や山内容堂などとは違い、典型的な殿様気質といいますか、何事につけよきにはからえと家臣にまかせてしまう人物だったようですね。もっとも、それがかえってよかったのですが。
薩 長 同 盟
正議派のクーデターのあと、長州藩は俄《にわか》に強気になりました。同じ“恭順”といっても、正議派の場合は「武備恭順」なのですから、一朝事ある時は武力をもって抵抗するぞ、という気構えなのです。そのために、大村益次郎を上海《シヤンハイ》に派遣して、武器を買い入れたりしました。幕府の意を迎えるのに汲々としていた俗論党政権下の空気は一掃され、藩内のあちこちで公然と討幕の意見がたたかわされました。高杉が結成した奇兵隊に続く民兵組織も次々に生まれ、最も多い時で二百を数えたといいます。これは諸隊と総称され、のちに十隊に統合されるのですが、一向宗信徒の妻や未亡人で結成した隊まであらわれたというのですから、藩内の意気は推して知るべしですね。それにしても、諸隊の結成というのは、長年の武家支配のタブーを破り、農工商に公然と武器の携帯を許すということですから、これはまさに大英断、画期的な出来事だったわけです。
しかし、だいぶ衰えたとはいっても、まだまだ幕府の威令は諸藩に行き渡っています。いくら藩内を要塞化し、武備強化に邁進《まいしん》したところで、一藩の力で幕府の圧迫に対抗するにはやはり限界がありました。けれども、もしこの幕府に対する憎悪でこりかたまった長州藩を薩摩藩と結びつけたなら、果たしてその結果はどうか――と考え、実行にうつした人物がいました。勝の一番弟子ともいうべき坂本龍馬で、彼はまずこの話を薩摩の西郷に持ちかけるのですね。
しかし、よく考えてみれば、薩長両藩は幕末政局のリーダーシップをめぐって角逐した間柄であり、ことに長州藩の方では、八・一八の政変や蛤御門の変でたびたび薩摩藩に煮え湯を飲まされてきたわけですから、これは大変むずかしい問題といえましょう。当時長州藩では、むしろ幕府よりも薩摩藩に対する憎しみの方が強く、「馬関海峡は薩摩人にとって三途《さんず》の川だ。渡ってきてみろ、生かしては帰さん」と激語したり、下駄の裏に「薩賊会奸《さつぞくかいかん》」と墨書して毎日踏みつけるといった連中がうようよいたといいますよ。
坂本はそんな事情は百も承知していましたが、西郷の諒解をとりつけると、今度は長州藩に渡って桂小五郎らに説きつけ、その間だいぶ紆余《うよ》曲折はあったのですが、とうとう長州藩にもうんと言わせてしまいました。実際に薩長同盟が成立するのは翌年一月のことですが、両藩が内々の合意をみたのはその八カ月前の慶応元年|閏《うるう》五月のことで、これによって長州藩は武器調達などの便宜を薩摩藩から受けることが可能になりました。
一体に坂本は、ある構想を大きくふくらまして実現させることでは、稀有《けう》の才能の持ち主でした。おそらく薩長連合の構想は神戸操練所時代に勝から聞かされて、それを坂本一流の感覚で結実させてみたのではないかと思われます。確かな証拠があるわけではありませんが、西郷に雄藩連合を示唆したほどの勝のことですから、当然薩長連合の構想は抱いていたはずです。操練所閉鎖後、坂本らの身柄を西郷に託したのも、自分の腹案の実現を実行の天才坂本にそれとなく賭ける気があったからでしょうね。薩長連合成るの情報を得た勝は慶応二年二月一日の日記に、「聞く、薩・長と結びたりと言ふ事、実なるか。(略)坂龍(坂本龍馬)、今、長に行きて是等の扱ひを成すかと。さもこれあるべくと思はる」と記しています。
ところで、幕府の方は、薩長が接近しつつあるなどということはまったく知りませんでしたが、正議派が俗論党を駆逐した前後から長州藩の動きに不穏なものを感じ取ったようで、先の長州処分を手ぬるいと非難する強硬派の突き上げもあって、慶応元年四月長州再征に踏み切ります。ただ、前回あれほど簡単に長州藩が屈伏したので、今回も脅かすだけで効果は十分だろうと安易に考えていたのが大きな誤算になりました。わざわざ将軍親征と定め、家茂が威風堂々と大坂城に入城したまではいいのですが、長州藩は一向に動じる色もなく、さればと詰問の使者を長州に派遣してみると、来るなら来いといわんばかりにあしらわれる始末。その上、朝廷からは長州の処分は寛大にするようにとの申し入れがあり、薩摩藩は薩長同盟に従って幕府の出兵命令を峻拒《しゆんきよ》しました。
本当はこうなってはもう駄目なんですね。幕府としては器用に兵をおさめることを考えるべきだったのです。しかし、幕府には幕府の体面があるというので、太平洋戦争の時の日本軍部のように面目にこだわりすぎました。そして長州再征発令から一年二カ月後の慶応二年六月、とうとう長州藩境の四方面から軍事行動をおこし、泥沼のような戦争に落ち込んで行くのです。
再び軍艦奉行に
第二次征長の役の戦端は、六月七日|周防《すおう》大島という瀬戸内海の小島に開かれました。そのちょうど十日ほど前のことです。屏居中とはいえ情報は諸方から入っていたので、幕長間の成行きを憂えていた勝の氷川宅に、明日礼服で登城せよという老中水野|忠精《ただきよ》からの奉書が、何の前ぶれもなく届けられました。退職している者に直接老中から登城せよとの奉書が来るのは破格のことだったので、ともかくも翌日江戸城に赴くと、軍艦奉行に任じられてすぐ大坂への出張を命じられました。用向きを言わないので尋ねたところ、「このたびは上様からの直接のご用命だから、われわれにもわからない」というのです。
勝自身も見当がつかず、それでも急いで旅仕度を整え下坂したのですが、大坂では老中板倉|勝静《かつきよ》が待ち構えていて、「御用向きは二つある。一つは薩摩藩の出兵拒絶の上書を取り下げさせること。もう一つは薩摩と会津の間が近頃どうも険悪なので中をとりなしてほしいことだ」と説明しました。勝は、なるほどこれは融通のきかない役人どもには手に余る仕事だなとは思いましたが、征長反対はかねての持諭なので、「薩摩藩の言い分はもっともで、日本が開国に踏み切った今日、毛を吹いて疵《きず》をもとめるような長州再征の挙は決して日本のためにならないと存じます」と弁じました。
しかし、すでに長州藩境で戦闘が行なわれている以上、老中の命令を放置しておくわけにもいかないので、その翌日上京し、会津藩邸と薩摩藩邸をそれぞれ訪れ、至極あっさりとケリをつけてしまいました。薩摩との交渉は、年来|培《つちか》ってきた勝の志士間での信頼がモノをいったわけで、幕閣も勝のそういった経歴を買って江戸から呼び寄せたのですが、予想以上に簡単に懸案が片づいてしまうと、またぞろ勝は薩長のスパイではないかというような誹謗《ひぼう》が湧いて出たということですよ。
こうして勝が京坂を往復している間にも、長州戦線の戦況は日ましに幕府軍の不利に傾いていきました。ともかく、緒戦に周防大島を占領したのが目立った勝利という程度で、その大島も高杉晋作らの反撃にあって間もなく追い落とされ、芸州口、石州口、小倉口の三方面では長州藩領に一歩も踏み込むことができないのです。そればかりか、石州口なぞは、長州軍が圧倒的に優勢で、幕府側の浜田城が逆に攻め込まれて落城する有様でした。長州軍の主力は奇兵隊をはじめとする諸隊で、勝に言わせれば“紙屑拾いみたいな恰好で出てくる”のですが、洋式銃で装備して訓練は行き届き、しかも士気が高いときていますから、員数の差など問題ではなかったのですね。
打ち続く敗報に、再征否定論者の勝もさすがに歯痒《はがゆ》さを禁じ得なかったものとみえ、その頃の日記にこんなことを書いていますよ。
「もし自分に軍艦を三隻ほど貸してくれたなら、敵の要所を砲撃し、一方で歩兵二、三隊を突入させてともかくも勝ってみせよう。その上で天下の人情、諸侯の意見を徴し、寛猛至当の処置をもってはかれば、西国の紛擾《ふんじよう》も四、五十日を出ずして鎮撫《ちんぶ》がなるだろうに――」
しかし、勝は決して幕府の勝利をもって紛擾を終わらせたいと言っているのではありません。要は、諸外国が日本蚕食を狙っている今日、このような愚にもつかない内輪|揉《も》めに明け暮れていたのでは、みすみすツケ入る隙をつくってやるようなものだから、勝ち負けにこだわらず早く至当の解決に乗り出せということなのです。
実は江戸出立の直前、勝は勘定奉行小栗|忠順《ただまさ》から次のようなことを打ち明けられ、協力を求められていました。
「この度の戦《いくさ》を機会に、まず長州をたおし、次に薩摩もたおして、幕府を中心とする中央集権郡県の制を立てようと思い、フランスから銀六百万両と、軍艦数隻を年賦で借り受ける約束が出来ている。ついては慶喜公も賛成しておられるし、貴殿西上の御用件が長州問題のためなら、このことを含んで処置なさるよう」
勝は「三河武士の美風を伝承している正直なよい待」として小栗を認めており、また後年「小栗|上野介《こうずけのすけ》は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略にとみ、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。一口にいうと、あれは三河武士の長所と短所とを両方備えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のために惜しかった」と批評しています。もし勝が、どうしても幕府の勝利によって戦いを収束させたいと考えていたのなら、小栗の誘いに乗ったはずですね。
しかし、勝の視野は、前々から申しているように、そんなに狭いものではありません。小栗は今回も含めて都合四度フランスの援助を得て幕府を建て直そうとした人物なので、どうせ反論しても通じまいと、勝はその場は「ああそうですか」と調子よく相槌《あいづち》をうって済ませたのですが、大坂に来てその考えの非を板倉老中に諄々《じゆんじゆん》と説きました。
「まず一番いけないのは、外国の兵力を借りることでござる。必ずや代償を要求してくるでしょうし、悪くすると徳川家は売国の汚名を千載《せんざい》に残すことにもなりかねません。第二は、諸侯を廃し徳川家一人存するということで、これではどうして諸侯の納得が得られましょう。それよりはむしろ徳川家の政権を朝廷に返上され、天下に模範を示した上で、郡県の制度となるようになさってはいかがでございましょうか」
間然《かんぜん》するところのない立派な見解といっていいですね。
とはいえ、勝も幕臣である以上、敗報ばかりを耳にして、喜ばしい気持ちになれようはずはありません。自分の誠意もかえって誤解ばかりされ、まわりに小人共が跋扈《ばつこ》しています。その上、征長の役の最中の七月二十日、勝が敬愛していた将軍家茂が二十一歳の若さで大坂城中に病死しました。喪は秘されていましたが、あれやこれや勝の心中には面白くないことばかり山積して、折々は職を辞して江戸に帰りたいというなげやりな気持ちに襲われることもあったようです。
宮島の和平会談
和平の密使
将軍家茂は西征のために江戸を出発する直前、自分に万一のことがあったら、田安家の亀之助(のちの家達《いえさと》)を次の将軍に立てよと遺言したといいます。しかし、亀之助は当時たったの四歳、泰平の昔ならば将軍が飾り物であってもすみますが、幕末の難局を乗り切るにはどうしても将軍に強い指導力がなくてはかないません。そこで、老中板倉勝静、稲葉正邦らの幕閣首脳は一橋慶喜に将軍就任を願い出たのですが、慶喜はなかなか承諾しようとしませんでした。
かしこい彼には幕府制度の命脈の長からぬことがわかってもいたのでしょうし、火中に栗を拾う苦にあうこともわかっていたのでしょう。幕臣の間に人気がなかったということもありましょう。家茂と第十四代将軍の座を争って敗れたのもそのせいですし、また政治総裁として京都に赴いてからは特に江戸在住の幕臣に不信の念を抱かれていたようです。
しかし、その時点では慶喜以外に適任者のいないことはたしかです。勝は個人的には決して慶喜を好きではないのですが、この際慶喜が最適者であるということは認めて、慶喜が安心して承諾できるように「家臣の面々、一致、一片の誠心を以」って協力すべきであると要路に建言しています。
まもなく慶喜は徳川家を相続することだけを承知し、八月一日にそのことが公《おおやけ》にされました。それと同時に「大討込《おおうちこみ》」と称するたいへん強気な征長戦の方針が発表されます。慶喜みずから征長軍の先頭に立ち、武力をもって長州藩を屈伏させようというのです。どれほどの成算があったのか、ともかくも幕府の権威を回復し名実ともに備わった将軍の座を確立するには、長州藩をたたき伏せる以外に道はないと考えていたのでしょうね。
ところが八月十四日の深夜、その慶喜の使者が大坂の勝の宿舎を訪れ、至急上京すべき旨を伝えました。その頃の勝は、内心慶喜の無謀な意気込みに危惧をおぼえながら万事不如意の日々を送っていたので、よほど病気を口実に断わろうと思ったのですが、ある老中(板倉勝静か)に説得されて、その夜いやいやながら早駕籠《はやかご》で大坂を発ちました。
京都について、二条城に行ってみますと、慶喜は折あしく参内中でいず、一橋家の重臣原市之進が接待のために出てきました。原市之進というのは藤田東湖の甥《おい》にあたり、慶喜の知恵袋といわれた人物で、慶喜の信頼はまことにあつく、ちょうどこの一年後に攘夷かぶれの御家人壮士に暗殺されるのですが、その報せを受けた時慶喜はどっと涙をあふれさせたといいます。しかし、勝は私念盛んにして賢を妬《と》し能を憎む侫臣《ねいしん》として原を嫌っており、原もまた勝を快く思っていません。ところがこの日ばかりは、原は気味が悪いほど愛想がよく、
「やあ、ご苦労様です。今度の御用の趣は拙者どもにはわかりませんが、あなたでなければできない御用だとはうかがっています。なんにせよご名誉なことです」
と、こちらの機嫌をとるようなことばかり言うのです。「ははァ、こいつオレに油をかけてやがるな」と、勝は、適当に受け流しながら、慶喜の帰りを待ちました。
ほどなく帰城した慶喜も、勝に対して常に似ずうちとけた態度を示し、「その方を召したのは余の儀ではない、広島にまいって長州との和議をまとめてまいれ」と命じました。つまり、慶喜の個人的な密使として長州藩と和平の折衝せよということなんですね。あの強気一本槍だった慶喜がなぜ和平をいい出したかというと、長州藩四境のうちただ一カ所健闘していた小倉口の幕府軍が先日とうとう崩れ、また秘していた家茂の死が洩れて幕命をまたずに兵をひきあげてしまう藩も漸次ふえていたからです。越前の松平|春嶽《しゆんがく》がしばしば慶喜のもとを訪れ、早期解兵の要を説いていたので、その影響もかなりあったに違いありません。和平の密使に勝を推したのは、ほかならぬこの松平春嶽でした。
勝にはあらかじめ慶喜の用向きが大体わかっていたのではないかと思われます。しかし、はじめはかたく辞退しました。和議をまとめるくらい訳もないとの自信はあったのですが、引き受けるにしてももったいをつけなければうまくいかないと考えたのでしょう。そのへんの駆引きは勝にとってお手のものです。頃合いを見はからって、それではということで承伏し、「これこれの条件で始末をつけたいと存じますが、いかがでございましょうか」と、自分の考えている条件を言上しました。
慶喜の答えは「それでよろしい。頼むぞ」というものでしたが、勝はそれだけでは納得せず、その旨を記した慶喜直筆の書付けの下付を請いました。一体に慶喜は考えのグラつきやすい人物で、しかも勝とはそりが合わず、信頼関係がありません。こんどの一件にしたって、勝の人柄や手腕を買っての依頼ではなく、長州人らにたいする勝の顔を利用しようとしてのことだぐらい、勝にはよくわかっています。だから、特別の保証をとりつけたかったのですね。慶喜はいやな顔もせず書付けを出してくれるのですが、それほど勝が用心したにもかかわらず、やはり勝はのちに慶喜に裏切られることになります。
宮 島 渡 海
「一カ月のうちには必ずらちをあけて帰ってまいりますが、もしそれまでに帰りませなんだら、拙者の首は長州人共に斬られたと思《おぼ》し召されますように」
慶喜の前を辞去するにあたって、勝はこう言ったといいますよ。なんとなく芝居がかった言い草ではありますが、勝にしてみればこんどの任務によってはじめて歴史の枢軸と直接関わりあう機会を得たのですから、案外本音だったかもしれませんね。自分の働き一つで歴史の方向は大きく変わるのだ――そう思うと、勝ほどの人物でも武者震いを禁じえなかったのでしょう。
しかし、考えてみれば、まったく難儀な任務ではありますね。自分の方から戦《いくさ》をしかけ、連戦連敗のありさまなのに、なおかつ自陣に不利にならないよう和議をととのえなければならないのですから。でも、勝には日頃の思想からくる一種の使命感があり、また彼なりの成算もあったようです。中でも勝が最も頼りにしたのは、やはり志士間における彼自身の名声でした。使者が自分であれば、長州藩当局である正議派の連中も決して疎略な扱いはしないであろうというわけですね。彼は小倉の袴《はかま》に木綿羽織という軽装で一人の供も連れず飄然《ひようぜん》と広島へ旅立ちました。普通こんな場合、幕府の役人はおそろしくもったいぶって仰々しい出立《いでた》ちをしたものですが、勝はわざと反対に出たのです。相手の意表をつく勝負師的戦術だったと思いますが、いわゆる赤心《せきしん》を人の腹中に置くというつもりだったんでしょう。
さて、海路順風にめぐまれて広島に着いた勝は、ひとまず当地の御船用達中屋新助方に旅装を解きます。そして、征長軍の士気が予想以上に萎靡《いび》していることに嘆息しながら、広島藩の執政・|辻将曹《つじしようそう》に、しかじかの用事で来たので面談いたしたい旨、一書を遣わしました。翌日の夜、勝のもとを訪れた辻将曹は、委細仰せのとおりにはからい、岩国藩へ使者を派遣したのでもう少し待ってほしいと語りました。長州藩には宗家萩藩のもとに、徳山、長府、清末《きよすえ》、岩国の四支藩があり、岩国藩は宗家から一番冷遇されていたのですが、幕末にいたって宗家との折合いもよくなり、当時はもっぱら長州藩の名代として外交の任にあたっていたのです。とはいえ問題が問題なだけに岩国藩も一存では処理できず、本家の判断を仰がねばならないということで、なかなかはかばかしい返事をよこしませんでした。
そこで勝は、征長軍本営のある広島にいたのでは余計事が運ばないと考えて、とりあえず宮島に渡ることにしました。宮島は全島が厳島神社の神域で、江戸時代は広島藩に属しており、広島藩と長州藩の交易の基地でもありました。神の島というと、俗界の権力関係とは無縁な中立地帯というイメージが浮かびますが、幕末の乱世にあっては神威も通用せず、勝が上陸してみると、抜身の槍をひっさげたり鉄砲をかついだりしていかにも殺気だった長州兵がそこここに出没していたそうですよ。
そんな状態ですから島の住民も戦争騒ぎを恐れて大半はどこかに逃げてしまい、辻将曹が手配してくれた宿屋でも女中としては婆さんが一人残っているだけでした。勝はガランとした宿屋の広間に陣取り、この婆さんに頼んで白襦袢《しろじゆばん》をたくさん縫ってもらって毎日着がえ、また毎日髪を結いなおさせて、来たる日を待ちました。それを婆さんが不思議がって訳を尋ねるので、「おれの首はいつ斬られるかもしれないによって、死に恥をかかないためにこうしているのだ」と答えたところ、婆さんはこわがって慄《ふる》え出したといいますが、事実切迫した危機感は二六時中勝の身辺をとりまいていたようですね。
そうこうするうちに、機はだんだん熟してきました。すでに宮島へ上陸した当日、勝は広島藩士植田大次郎をして「たとえ長州兵が自分に対して盲動し発砲、あるいは暗殺のことがあっても厭《いと》わないし、それが長州藩論だともみなさない。戦闘使節の礼をもって扱われても構いはしない。ただ望むのは、藩論誠意をもって包みかくすことなく決答を聞かせてほしいことだ」と、岩国藩に真意を伝えさせてあり、折返し岩国藩からは当月|晦日《みそか》までに長州藩使節が周防今津に出張するという返事が届けられました。その翌日再び岩国藩から書状がきて、周防今津はちょっと支障があるから、会談場所は広島城下ないしは宮島にしてほしいとの申し出があって、結局会談場所は宮島ということになりました。
しかし、約束の八月晦日には、長州藩使節は宮島にあらわれず、翌九月一日も一向にやってくる様子はありません。勝は珍しく本気で立腹します。「我|豈《あに》、彼に諂《へつらひ》て、強ひて逢対せむ哉。先日以来、申し達す儀を以て、猶《なほ》、狐疑《こぎ》して、日を誤つ如きは何事ぞ。我今、一新、誠実の意を以て、接対するものは、独り防長二国の為のみならむ哉。一日も約を誤つ如き、我決して悠々たること能《あた》はず」。そうして詰問の使いを岩国藩へ向かわせるのですが、ちょうどそれと入れ違いに、長州藩使節の一行が宮島に上陸しました。
大願寺の談判
あくれば慶応二年九月二日、勝が厳島神社の供僧坊である大願寺というお寺の書院に坐って待っていますと、長州の使者広沢|真臣《まさおみ》以下八人が広島藩の家臣に連れられてやって来ましたが、広間の真中にちょこんとすわっているのは木綿の着物に小倉のはかまをはいた小男です。彼らのイメージに描いている美服をまとい、威儀をつくって傲然とかまえている姿とはまことに遠いのです。皆おどろきましたが、さすがに選ばれて来た連中だけあって礼儀はわきまえており、書院の縁側に正坐してうやうやしくおじぎをしました。勝はその中の高田春太郎と名のる男が、以前大坂で自分の宅にしきりに出入りしていた井上聞多であることに気づきました。
封建時代は階級時代です。階級の規制がきびしく立っていたから、社会の平安と秩序とが保たれたのです。ですから、同藩中でも、重臣と|平 士《ひらざむらい》とは同席できず、平士と徒士《かち》とでは同じ座敷に坐れないことになっていました。まして、幕府直参の旗本と陪臣《ばいしん》とは、たとえ藩重臣であっても同席できないのが建前になっていたのです。使者らは縁側にすわったまま応対するつもりでいるようです。勝は、
「こちらへお入り下さい。いやいや、ご辞退には及びません。かように離れていましては、話が出来ません。貴殿方がお入りになるのがおいやなら、拙者がそれへまいりましょう」
というなり、席を立ち、ひょこひょこ出ていって、使節一行の間に割り込んで坐りました。これには広沢らは毒気をぬかれました。ともあれ、勝が示した濶達《かつたつ》でざっくばらんな態度によってその場の雰囲気は大変なごみ、使者らも「それではご免こうむります」と広間に入って来て、談判がはじまりました。
そんなわけで、談判といっても訳はなく、咄嗟《とつさ》の間に済んだのだと、勝は後年言っています。
「拙者は長州再征などはじめから反対で、きっとえらいことになると憂慮していたが、果たせるかなこの有様です。今日のように日本の国がどうなるかわからない時節に、こんなことではどうにもなりません。下手をすると、インドや中国の二の舞にもなりかねませんよ。貴藩においても、今日の日本の立場はよくご承知のはずだ。兄弟喧嘩などしているべき時ではござらん。どうです、いい加減にやめましょうや」
と、こんな調子で説いたところ、交渉はめでたく妥結したというのですが、さて実際はどうでしょうか。勝は話の上手な人で、その語り口は実に面白いのですが、効果を考えるためなのか、時々ウソが混じります。日記では、広沢らは幕府の違約や暴圧を一々列挙して、長州藩のよって立つところを明らかにしたとあります。双方の立場を考えれば、おそらくこの方が真実をものがたっているのでしょうね。和議の条件は、長州藩主を十日前後の閉門謹慎に処するといった内容のものだったようですが、勝のことですからひょっとすると大政奉還の可能性も示唆したかもしれませんよ。勝をこのたびの使者に推した越前の松平春嶽が時局収拾策としてそれに近いことを慶喜に勧告していましたし、また先に板倉老中に説いたようにもともとそれは勝の持論でもあったのですからね。
いずれにしましても、欧米列強の日本侵略に絶好の機会を与える内輪揉めはこれ以上続けるべきではないとする点で、勝と広沢らの認識は一致し、普通なら何日かかっても不思議でない困難な交渉が、ほんの短時間でまとまりました。それを可能にしたのは、勝の見事な手腕もさることながら、長州藩使節がものごとの大筋と急所の見分けにすぐれた聡明な人物ぞろいだったからで、勝もこれに感心しています。その後、勝は、記念のために護良《もりなが》親王御用と伝える自慢の短刀を厳島神社に奉納し、慶喜と約束した日限も残り少ないこととて、ただちに広島を出発しました。
ところが、帰京してみると、事情はガラッと変わっていました。慶喜は勝に和平工作を命じる一方で、朝廷に奏上して休戦を命ずる勅書を出してもらい、すでに長州藩へ通達をすませてあったのです。内容は、将軍|薨去《こうきよ》につき暫く停戦の上、長州藩は侵略の地を引き払えというはなはだ一方的なもので、勝がまとめてきた和議とは相容れないものでした。幕府が長州藩に対してこうも強気になれたのは、フランス公使レオン・ロッシュがフランス皇帝ナポレオン三世は幕府を援助してくれると言明したので、小栗上野介らの強硬派が勢いを盛りかえしたからで、慶喜もそれに引きずられたのですね。援助の約束は嘘ではなかったのですが、ただで援助するはずはなく、それには相当危険な見返りが必要であり、また約束したからといってそうすぐに援助の資金や武器が届くものではありません。負けた形で和議を結ぶより勝って事態を収拾した方が望ましいことは当然としても、もうこの頃になると幕府のやり方は支離滅裂で、その程度の計算もできずいたずらに面目にこだわって、かえって滅亡の速度を早めてしまうのですね。これと同じような事例は、今の世界でも決して皆無とはいえませんよ。
結局、勝は何のために骨身を削ったのか、わけのわからないことになってしまいました。それどころか、結果的には長州人を裏切ったことになります。広島の辻将曹からは、勅書をみた長州藩の戸惑いを伝え、勝の存念をおうかがいしたいという書簡が届けられました。辻にしても、勝と長州藩の間を周旋したのは自分なのだから、幕府の変節はやりきれなかったのでしょう。その思いは、勝だって同様でした。
「こんなふうで、表面は長州の人を売った姿になったのだけれど、いくら恨まれても仕方がない。あとからかれこれいい訳などをするのは、おれの流儀でないからさ」
と、思い出話ではさりげなく述懐していますが、当時ははじめての大仕事を踏みにじられて憤懣《ふんまん》やる方なく、さりとて幕閣に具申してもらちがあかず、「我微力にして、内、狎邪《かふじや》の拒《きよ》を防ぐこと能はず。又、いまだ全く信ぜられざるを知る」と、ただ慨嘆ばかりしています。
鳥羽・伏見の戦い(その一)
大 政 奉 還
前将軍家茂の病死からちょうど四カ月半後の慶応二年(一八六六年)十二月五日、慶喜は正式に第十五代将軍の座につきました。この四カ月半という時間の経過は、慶喜の内心の不安と逡巡《しゆんじゆん》を如実に物語っています。かつては家茂と争ってまで手に入れたいと望んだ将軍の座でしたが、今ではそれがこんなにも厄介で危険なものに変わってしまっていたのですね。それでも慶喜は根が賢明な人物でしたから、将軍になった以上はということで、懸命に幕府の頽勢《たいせい》回復につとめます。そして、彼の行政・軍事両面における幕政改革は、仏公使レオン・ロッシュの肩入れもあって、かなりの成果をおさめることができました。これには岩倉|具視《ともみ》など討幕派の面々も慌て、あらためて慶喜の力量を見直したということです。桂小五郎――後の木戸|孝允《たかよし》などは家康の再来とまで恐怖警戒しています。
しかし、時代の大勢は、いかに慶喜といえども押しとどめることはできませんでした。幕権の強化は徒《いたずら》に幕府への風当たりを強めるばかりで、慶喜の強気な施策はかえって討幕派を刺戟し、彼らの間に武力討幕の機運が急速に盛りあがってくるのです。薩・長両藩は広島藩も誘って討幕の挙兵計画を進めていましたし、また朝廷においても討幕派の勢力が目立って伸張しつつありました。こうなれば、慶喜としては、討幕派の挙兵を受けて立つか、それとも幕府を投げ出すか、道は二つに一つしかありません。こうして岐路に立たされた慶喜は、大英断をもって土佐藩からの建白書を受け入れ、とうとう二百六十余年の間委任されてきた大政の奉還に踏み切るのですね。慶喜が大政奉還を表明したのが慶応三年十月十四日、その翌日奏請は朝廷に受理されました。
この前後、勝はどうしていたかといいますと、あの不本意な結果に終わった長州藩との和平工作から暫くして東帰を許され、そのままずっと江戸に腰を落着けていました。その間、長男|小鹿《おじか》の渡米留学が本決まりになったので、いよいよ横浜から出帆するまで世の父親と同様こまごまと気を遣《つか》ったり、また幕府海軍をオランダ式から英国式に切りかえることになりましたので、その役目を命ぜられたりしています。時局の中心とははるかに隔たったところにいたわけですが、幕府海軍は彼が手塩にかけて育ててきたのも同然でしたから、しごく熱心につとめたようです。この熱心さが彼と英国公使パークスや書記官アーネスト・サトウとの間に親交を結ばせ、それが後に江戸城明け渡しの際に大変役に立つことになります。人との交わりは大事にしなければならないという教訓になることですね。
大政奉還の報せが勝の耳に届いたのは、十月の二十日でした。大政奉還は前々から申しているように勝の年来の持論です。それに、大政奉還の建白書を差し出すにあたって立ち働いたのは土佐藩参政後藤象二郎でしたが、その後藤を説きつけ、土佐藩を動かしたのは、ほかならぬ坂本龍馬なのです。自分の持論がかつての愛弟子《まなでし》の働きによって実現をみた――それを知った時、勝の嬉しさは一通りではなかったでしょうね。この時ばかりは、慶喜に対しても、「さすがは公方《くぼう》様だ。よくぞ思い切られた」と、心底から賞讃したのではないかと思いますよ。もちろん、譜代の主家である徳川家が単なる一大名になってしまったことには、寂寥《せきりよう》と悲哀を禁じえなかったこととは思われますが、ともかくも彼が長年描いてきた日本を救う構想はようやくレールの上を走りはじめたのです。その翌月十五日、坂本龍馬は盟友中岡慎太郎とともに寓居《ぐうきよ》先の京の河原町|蛸薬師《たこやくし》下ルところにある醤油屋、近江屋の二階で、幕府方の者に暗殺されました。後年この刺客は見廻組佐々木|唯三郎《たださぶろう》とその輩下の者であることが判明しましたが、当時は新選組の所為と思われていたのです。それはさておき、主家の地盤低下といい、かつての愛弟子の遭難といい、そのような犠牲を悼《いた》む一方で、このような大きい犠牲があればこそ世の中は本当に動いていくのだという、先行きの明るさに対する勝の期待は一層つよまっていったのではないかというような気もします。
先行きの明るさということについてはしかし、京都の慶喜や幕閣首脳の方がより楽観的な考え方をしていたといっていいかもしれません。というのは、彼らが踏み切った大政奉還とは、幕府が日本全土の統治権を返上するかわりに、徳川家が王政の名のもとに組織される列侯会議の議長として従来の支配力を行使できる立場を確保するという考え方からなっていたからです。法的な統治権と影響力というあいまいな形での支配とでは、無論たいへんな違いがありますが、当時はさほど重くその違いは認識されてはいませんでした。事実、慶喜はその二つを混同して、大政奉還後も外交の事は当方で行なうという書付けを各国公使に交付しています。ともあれ、幕府の方では、大政奉還によって武力討幕の名目は立たなくなったから、これで一切のいざこざはなくなったものとみて、一安心していたことだけは間違いありません。
しかしながら、武力討幕派の考えは幕府側の甘い読みのずっと上を行っていました。この当時、武力討幕派のリーダーシップを握っていたのは、公卿の岩倉具視や薩摩藩の西郷、大久保一蔵(|利通《としみち》)らで、彼らは慶喜が大政奉還を申し出たちょうどその日、討幕の密勅を引き出すことに成功していました。この密勅は思いがけない大政奉還によって効力を失うのですが、密勅を受けた薩・長両藩はそんなことに頓着せず、続々と藩兵を京都に送り込んで、二条城の幕軍と対峙《たいじ》するほどの勢いを示すのです。
このような背景のもとに武力討幕派が断行したのが、いわゆる小御所《こごしよ》会議のクーデターでした。筋書きを仕組んだのは、岩倉具視と大久保一蔵でしょう。彼らは小御所において王政復古の大号令|渙発《かんぱつ》があった直後、徳川家が領地を奉還しないのは形式だけの大政奉還であるとして、慶喜に辞官納地を要求したのです。これには、幕府側はもとより、公武合体派の諸侯も驚愕《きようがく》し、なかでも山内容堂は色をなして怒り狂ったといいます。理論的に言えば当然な議論です。全国の諸藩に辞官納地を求めるのなら別ですが、徳川家にだけこれを要求するという、そんな道理はありません。しかし、そんな理屈は討幕派は百も承知の上で、横車を主張しているのです。ここに革命の論理があります。革命の論理を決定するものは道理ではありません。必要・不必要です。そしてその正否をきめるのはいわゆる「勝てば官軍、負くれば賊軍」の力の哲学です。
討幕派は、叡慮《えいりよ》(天皇の考え)をふりかざして、強圧によって、徳川家の辞官納地の議を可決してしまいました。
維新革命は勤王攘夷というスローガンによって進められ、次第に煮つまって来ますと、王政復古というスローガンになりました。このスローガンは、はじめ薩摩藩関係者と岩倉関係者が言い出したことなのですが、なかなか説得力がありまして、これまでアンチ幕府派だった人々はもとよりのこと、幕府側だった人々をも傾聴させたのです。というのは、名は王政復古でも、平安朝の王政を復古するのではない。公卿に現実の政治能力のないことは子供でもわかりますから、つまり、公卿中の優秀分子、大名中の優秀分子、諸藩士中の優秀分子が天皇の下に合議して政治を行なおうというのが、当時の王政復古の狙いでした。ですから、「復古」の名はあっても、復古は「天皇の下において」というだけのことだったのです。土佐藩が大政奉還の建白をした時に建白書にそえた書類にもそれを書いています。また薩摩藩や岩倉具視も現実の政体はそれよりほかはないと考えていました。土佐藩の公議政体論も、薩摩の唱える公議政体説も、その源泉は勝であることは、前に述べました。
どうやら、話は少々横道にそれた感じがします。本道にかえりましょう。
慶喜が土佐藩の大政奉還の建白を入れて奉還したのは、前述しましたように、合議制になれば身分から言っても、身代から言っても、人物の賢さから言っても、自分が議長になれると踏んだわけですが、薩摩と岩倉側からしますと、それでは王政復古の名だけあって、実は幕府政治と同じである、慶喜なんぞ議長にしてたまるか、それには徳川氏の身代を奪う必要があるというので、無理無体を承知で吹っかけたのでしょう。
もちろん、こんな無理無体な要求が平和裡に通るとは、薩摩側では考えていません。必ず戦《いくさ》になるだろうと覚悟していました。岩倉は公卿に似合わず剛胆な人ですが、さすがにはじめはふみ切れなかったようですが、薩摩側が岩倉を激励して、とうとうふみ切りました。大久保利通は一夜のうちに岩倉のうちに数回行って激励しています。
「平和革命」ということばがありますが、フィクションにすぎないようですね。革命には必ず血の犠牲が必要なようです。このことはこのしばらく後に現実に証明されます。王政復古となり、朝廷は天皇の下に公卿・大名から選ばれた議定《ぎじよう》、公卿、諸藩士から選ばれた参与の合議で政治がとられることになりましたが、表面はともかくとして新朝廷の実権はまるでありませんでした。
たとえば朝廷が薩摩藩の提議で、諸外国使臣にたいして、以後外交権は朝廷が持つことになったという布告書を出したいと言い出したところ、議定である松平春嶽、山内容堂は、それは従来外交権を掌握していた徳川家に義理が悪いといって反対し、ついに中止されたのです。すでに政治の大権が朝廷に返上された以上、外交権だけ、その埒外《らちがい》にあるべきものではないことは明らかでしょう。しかし、この明らかな事理すらも新朝廷は通すことが出来なかったのです。その間に、慶喜は外国使臣らを大坂城に呼んで、外交権は依然として自分の手にあると宣言しています。血の犠牲のない革命政府がいかに弱体なものであるかのいい証拠となる話でしょう。
この状態が変わったのは、鳥羽・伏見の戦争からです。この戦争が薩・長側の勝ちになったため、戦争の途中から、親藩といわず、譜代藩といわず、箱根以西の諸藩はなだれを打って新朝廷に味方することになったのです。当時の薩摩の指導者西郷・大久保らはこういう人心の機微を知っていたのでしょう。血でかちとらなければ新しい時代は到来しないと信じて、この挑発的行為に出たと思われます。
慶喜はその辺の事情をよく理解していたようです。だから、討幕派、なかでも薩摩藩の屯集所を今すぐにでも襲撃しようといきりたつ幕軍や会津、桑名藩兵の暴発を必死になっておさえたのは、最も口惜しいはずの慶喜でした。そして、自分が京都にいては到底事態は収まらないと悟ると、極月十二日の月影をふんで二条城の裏口から騎馬で大坂へ向かい、山内容堂や松平春嶽の朝廷工作に期待をかけて、ひとまず大坂城内に捲土重来《けんどちようらい》を期すことになります。
薩摩屋敷焼打ち
勝はこのような京坂の激変する動静を、榎本|釜次郎《かまじろう》(|武揚《たけあき》)の書信などを通して正確に把握していました。勝には自重する慶喜の気持ちが痛いほどよくわかります。それにしても、心配なのは、憤激して京都に攻め上れと叫ぶ江戸の幕臣らの暴発でした。そこで勝は、稲葉閣老に一書を呈し、「将軍自ら大政奉還をお選びになったのだから、今はその意を汲んで軽挙妄動すべき時ではありません。それに、今諸侯を見渡すに、慶喜公の右に出る者はいないのだから、列侯会議が実現すればこれを主裁する者はおのずから慶喜公ということになりましょう」と、幕臣の鎮撫方を献言しました。
ところが、稲葉閣老の反応はまことに素気《そつけ》なく、「そこもとの申したてたところは至極もっともだが、諸官はそこもとをはなはだ嫌忌しており、実は薩長二藩のために遊説しているのではないかという疑いもあるので採り上げるわけにはいかない」と、相変わらず勝を薩長のスパイ扱いにするばかりです。失望した彼は退職を乞い、あわせて烈々たる気魄《きはく》をこめて「従来、天下の大権は、門望と名分に帰せずして、必ず正に帰せん。私に帰せずして公に帰するや必せり」にはじまる「憤言一書」を差し出します。この「正」と「公」は、勝の政治行動を貫く論理であり、彼の大政奉還の構想も幕府の「私」に対する「公」の観点から生まれたものです。勝は「憤言一書」の中で「華聖《ワシントン》氏」の先例をひき、天下一新の要を説き、「今や君上(慶喜)、絶世の姿、雄大の卓識を以て、天下を匡正《きやうせい》せんとす。然るを察せず、区々として私心を|挟《はさ》み、その雄大を憚《はばか》る者のごとし」と幕臣の進退を論難します。そして、その末尾に「海舟狂夫」と自署するのですから、この時の勝の焦慮は本当に大変なものだったんですね。しかし彼の説はまたも用いられず、それどころか幕臣の憤激は、とうとう薩摩屋敷焼打ちという最悪の事態を招いてしまいました。
薩摩屋敷というのは三田《みた》の薩摩藩邸のことで、当時ここには大勢の浪人志士が屯《たむろ》していました。これらの浪人志士は、はじめ土佐藩の板垣退助が手もとに集めておいた連中ですが、板垣が藩論を討幕にまとめるべく江戸を離れた時、京で西郷に会って頼み、西郷が引き受けて藩邸に住まわせることにしたのです。西郷には、一朝西で討幕の挙をおこした場合、彼らをして関東のどこかで挙兵させ、幕府の兵力を割《さ》くという心積りがあったのです。国許から伊牟田尚平《いむたしようへい》と益満休之進《ますみつきゆうのしん》を呼び寄せて浪士を監督させました。伊牟田らは、天璋院《てんしよういん》(十三代家定夫人、島津家出身)護衛のためという名目で新たに浪士を募集しました。この浪士連中が、幕府を激発させようという狙いからでしょう、日夜江戸市中に出て、掠奪《りやくだつ》をほしいままにしはじめたのです。しかも、「文句があるなら、三田の薩摩屋敷にまいれ」とぬけぬけと言いはなつ傍若無人ぶりです。薩摩藩で保護している浪人とあっては、幕府でもうっかり手はつけられません。そうなると、本職の盗賊が薩摩屋敷の浪士であると名のって、盗賊行為をやるようになることは、最も自然なことです。あれや、これやで、江戸の治安はおそろしく乱れました。そんな折、江戸城二の丸が焼けました。幕府としては、薩摩屋敷の浪士共の仕業《しわざ》と睨《にら》むのは当然です。諸浪士の引渡しを要求しますと、応じるどころか逆に市中取締り諸藩の首班である庄内藩邸に向かって鉄砲を打ち込むようなことまでしました。ついに幕府も堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒を切ったという次第です。
薩摩屋敷焼打ちの首唱者は小栗|忠順《ただまさ》一派でしたが、勝はこの時も強硬に焼打ちに反対しました。しかし相手は、「そこもとなど、そういうことを言うべき身分ではなかろう」と歯牙《しが》にもかけません。江戸城中では、京坂の情勢がはっきりわからないので、勢いのいい主戦派ばかりが幅をきかしていたのですね。
幕府が薩摩の三田藩邸襲撃を決行したのは、十二月二十五日の払暁でした。フランスのお雇い士官ブリューネが戦術を立て、出動した幕府勢は庄内藩兵千人を主力にして総勢二千。庄内藩兵が大砲を撃ち込むと、薩摩藩邸はあえなく炎上し、中にいた浪士およそ百五十人は形ばかり応戦してすばやく一方の囲みをつき、品川沖に碇泊《ていはく》していた薩摩の軍艦|翔凰丸《しようおうまる》に乗り込んで海路西に逃れ去りました。この事件を目撃した人の追憶談によると、撤退にかかった浪士らは血刀をひっさげて悠々詩を吟じ、時々往来のまん中に立ちどまっては後ろを振り向いて、追ってくる庄内藩兵に腹を広げて見せ、「撃てるなら撃て、サァ撃ってみろ」とからかったりしたそうですよ。
浪士百五十人のうちには撃たれたり斬られたりして死んだ者もかなりあり、幕臣はこの武力行使で日頃の鬱憤《うつぷん》をだいぶはらすことができましたが、この焼打ちは結果的には幕府が討幕派の挑戦に乗せられたことになるのです。要するに幕府は、手詰まりの相手に討幕挙兵の絶好の口実をわざわざ与えてしまったというわけです。このことは、事後に幕府側もすぐ気がつきましたが、もうこうなってしまったら、引返すことはできないのです。小栗(上野介)らが薩摩屋敷襲撃を強行した真の狙いもそこにあったのでしょう。こうして勝が危惧したとおり、この事件が直接の導火線となって、幕府対討幕派の、国内を二分する戦いは、京都南郊の鳥羽・伏見にその火蓋《ひぶた》を切ることになりました。
鳥羽・伏見の戦い(その二)
復古大号令への不信
慶喜の討幕派に対する巻返しは、慶喜の大坂退去直後からはじまったといってもよいでしょう。彼は十二月十二日に京都を引きあげて、十三日に大坂城に入ったのですが、十六日には英・米・仏・蘭・伊・プロシャ六国の公使らを大坂城に呼んで、政権は朝廷に返上したが、外交権は依然自分が掌握していると宣言しているのですから。これは日本の主権者は依然として徳川氏であることを国際的に表明したことになるのですから、一旦政権は返上したもののまた取戻す気になり、その第一着手をなしたと見ることが出来ましょう。何せ、くるくる、くるくると、しょっちゅう心のかわる人ですからね。その意味で、一筋縄では律することの出来る人ではありません。
その上、政権返上のことを聞くや、江戸から馳せ上って来た連中がいまして、これが皆、返上大反対、奪還のために大いに戦うべしという考えなんです。会津・桑名の藩士らははじめからこの意見です。慶喜の説得によって、大政返上に賛成だった連中も、小御所会議における強引な朝議の決定にすっかり硬化しまして、
「朝廷をしてこの非違を敢《あえ》てさせているのは、薩摩と、薩摩に抱きこまれている二、三の公家《くげ》である。こんな非道な朝命があってたまるか。元凶たる薩摩をたたきつぶすべし」
と言い出すようになりました。
こんな次第ですから、慶喜は、「挙正退奸の書」を草し、大目付の戸川|安愛《やすよし》に持たせて、太政官代総裁|有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王にさし出すように命じて、上京させました。
この挙正退奸の奸というのは、薩藩を指すのです。薩藩を退けて、全部をやり直さなければ王政復古も何もあったものではないといったはげしい趣旨のもので、つまり、十二月九日に行なわれた復古大号令にたいする不信任状なんですね。
戸川は京に上ったら、まずこれを二条城にいるはずの若年寄永井|尚志《なおむね》に見せて、方法を講ずるつもりだったのですが、永井は戸川と入れちがいに大坂に下っていましたので、こまって山陵奉行の戸田|忠至《ただゆき》に見せました。戸田は岩倉に見せました。岩倉はその内容が容易ならないものなので、はっきりした反応を見せません。そこで、戸川は越前(松平)春嶽に見せ、朝廷への取次ぎを頼みましたが、春嶽も態度を明らかにしません。土佐の山内容堂のところへ持って行きましたが、容堂も途方にくれました。しかし、一応、後藤象二郎に命じて岩倉に相談させました。
この人々のこのような態度を見ても、慶喜のこの表文がいかに危険なものをはらんでいたかわかります。
この時、大坂を中心にして、徳川方の兵は二万近くもあって、大坂の周辺を固めていただけでなく、淀・|八幡《やわた》・山崎へ歩兵各半大隊をおき、大砲二門を備え、撒兵《さつぺい》(幕府方の洋式歩兵)半大隊が枚方《ひらかた》におり、また枚方・淀には各々騎兵をおいて注進の用にそなえ、伏見には伏見奉行所に衛兵千余人に、新選組を加えておき、「京坂の間、その要所、徳川氏の兵ならざるはなし」と会津藩方の記録にあるほどですから、この上表書は朝廷にたいする脅迫状と見て見られないこともないわけです。
二万対四千の対決
当時、在京の薩摩軍は徳川方を相手に戦って勝てる自信はなかったのです。薩軍と長州勢とを合わしても、多く見つもっても四千しかありませんでした。衆寡《しゆうか》敵しないと思ったことは当然です。はじめ薩摩が強気に出ていたのは、芸州と土佐とが加担するというほぼ確実な見込みがあったからなのですが、それがいずれもはずれましたので、出来るだけ平和的手段で行きたいと思うようになっていたのです。薩摩藩内部も、実は討幕に一致はしていませんでした。事実上の藩主である久光が討幕には反対で、腹心の家臣高崎左京(正風)を上京させて、しきりに宮家や公卿達に、討幕などといっているのは西郷・大久保の二人で、実は藩内は皆反対なのだなどと遊説させていたのですからね。この当時、西郷がこれに憤慨して国許の同志である家老桂右衛門に書いた手紙がのこっています。もちろん、藩内が不一致であるなどということは、西郷も大久保も気ぶりも出しません。高崎の個人としての動きであると世間には言っていました。こんなわけで、兵も送ってよこさないのですよ。
まあこんな風ですから、江戸藩邸の浪人係の益満(休之進)と伊牟田(尚平)にも、事情がかわったから、おとなしくしてなるべく徳川方を刺戟しないようにせよと、吉井幸輔から手紙を出させたのですが、間に合わなかったのですね。
事情はこうでも、慶喜のこんな表文を披露したら、薩摩がどんな反応を見せるか、負けるを覚悟で受けて戦おうと言い出すかも知れない、負けたら、折角ここまで漕《こ》ぎつけた王政復古は根底から瓦解《がかい》すると、岩倉は計算したのでしょう。自分のところかぎりで握りつぶすことにして、薩藩には全然知らせていません。当時の岩倉と大久保とは、何もかも打明け合っているのですがね。底の知れない深さですね。二人にくらべれば、口軽にやたら失言する今の政治家は幼稚園の子供みたいなものですね。
しかも、徳川方では、戸川に上表文を持って行かせると同時に、閣老の名で、徳川一門と譜代の諸藩へ、この上表文の写しをくばって、こう達しました。
「別紙ご奏聞書を、この度お差出しになったについては、思し召しのほどに共鳴し奉る面々は、兵を召しつれて早々に上坂するように致さるべし」
ですから、この方面から、薩摩側にはわかりまして、戦わねばならないという覚悟がきびしく定まりました。しかし、勝てる自信はありません。そこで、次のような件々について、長州勢と協議しています。
一、決戦するという策が立ったなら開戦前夜に玉印《たまじるし》(天皇の事)はひそかに遷幸された方がよいであろうか。
一、砲声が相発する時まで待って、堂々と鳳輦《ほうれん》を遷《うつ》された方がよいであろうか。
一、御遷幸先は山陰道がよいであろうか。
一、朝廷には太政官代総裁の有栖川宮がお留まりになっている方がよいであろうか。
一、戦いが大坂で行なわれるとなれば、天皇は京都から御動座ない方がよくはなかろうか。
一、御遷幸の場合、中山|忠能《ただやす》卿(天皇の外祖父)はぜひお供なさらねばならぬ訳だが、その他にはいく人お供された方がよかろうか。お供人数、|輿丁《よちよう》(輿《こし》をかつぐ人)人夫等の手当も調べておくこと。
一、御警備の人数を定めておくべきこと。
一、岩倉具視卿はなんとしても、あとに踏み留まって弾丸|矢石《しせき》を犯して十分に御戦闘あるべきのこと。
以上のようなことを相談したことをもってみても、薩・長軍には必勝の算はなかったことは明らかです。十中八九までは勝てないと見ていたので、まず天皇を遷幸なし奉るということを考えたと見るべきでしょう。
負けるを覚悟で、薩・長が敢て開戦を避けようとしなかったのは、この機会を逸して再び徳川氏の天下としてしまっては、王政復古の機会は永久になくなると判断したからでしょう。緒戦には負けるだろうが、天皇を擁して、山陰道から長州へ天皇をお連れするか、芸備へお連れするかして、戦いをつづけるなら、これまでだって幕府は長州一藩にすら負けつづけていたのだから、やがては我々の方が勝てるはずだ。それに、こちらには天皇がいらっしゃるんだから、いくらかでも形勢がこちらに有利になれば諸藩も動いて来るだろうし、民間の義軍も各地に蜂起《ほうき》して、徳川氏は始末におえなくなって降伏せざるを得なくなるだろうと計算したのでしょう。
ともあれ、大坂・京都がこんな形勢であるところに、江戸の薩摩屋敷焼打ちの知らせが大坂城にとどきました。この知らせを持って来たのは大目付の滝川|播磨《はりま》守で、兵をひきいて軍艦で来たのです。滝川は最も強硬な主戦論者です。これで、大坂の主戦論は一時にぱっと燃え上がりまして、ついに出兵上京ということになりました。慶喜は、隠忍自重をかさね、おさえにおさえていたのだが、下からの突き上げでやむを得ずこうなったと、後年言っていますが、そうとばかりは思われませんよ。かしこくて、策略好みで、気が変わりやすくて、かなりずるい人ですからね。責任逃れな言い方をしなかったとは、私には思われないのですよ。
不可解な徳川方の戦法
さて、慶喜は年が明けて慶応四年(明治元年)正月元日、滝川播磨守に命じて討薩の表《ひよう》をかかげて上京させるとともに、諸藩に檄《げき》を飛ばして直ちに兵をひきいて上坂すべく命じました。そして、会津・桑名などの藩兵を含めて総勢一万五千余の軍勢を鳥羽・伏見の二道から京都にむけて進軍させたのです。
一体、徳川方はどういうつもりだったのでしょうね。ほんとに戦って勝つつもりなら、薩・長軍は合わして四干あるやなしなのですから、京都の入口の至るところから、時を定めて一斉に攻め入るべきでしょう。そうすれば、四千くらいの兵では防ぎのつくものではありません。徳川方の勝利は確実だったでしょうに、わすかに二方面から入ろうとしたのです。しかも、鳥羽口は田圃《たんぼ》の中の一筋道、伏見は井然《せいぜん》たる市街です。いくら徳川方に大軍があったって、展開出来るものではありませんから、つまりは先鋒《せんぽう》隊だけの戦いになってしまったのです。そうなれば優秀な最新式ヨーロッパ製の銃器を持っていて、しかも勇猛日本一の名ある薩摩軍、同じような銃器で装備されて第二次長州征伐を経験して戦《いくさ》なれしている長州隊に分《ぶ》のあることは言うまでもありません。恐らく、徳川方は第二次長州征伐の際にもそうであったように、「やるぞ、やるぞ」とおどかせば相手は戦わずして屈するだろうという算段で、一万五千という大軍をもってすれば敵は恐れ入って降伏すると思ったのかも知れませんね。常識では考えられないへたな戦術です。
ともあれ、徳川方と薩・長軍とが最初に衝突したのは鳥羽口で、これが三日の夕方のこと、つづいて伏見でも、伏見奉行所を中心に戦闘がはじまりましたが、徳川方は連戦連敗、四日には朝廷が仁和寺宮嘉彰《にんなじのみやよしあきら》親王を征討大将軍に任じて、錦旗をおし立てて陣頭に出て来られましたので、徳川方ははっきりと朝敵ということになってしまいました。
薩・長軍の勝色《かちいろ》のはっきりするまで、朝廷内では公卿達の多くは、これは薩・長と徳川氏との私闘であると主張する者が多く、西郷(朝廷内の空気があやふやなので、軍事司令官たるべき西郷も朝廷を去ることが出来ず、とどまっていたのです)や大久保にたいする公卿達の目は蛇蝎《だかつ》やばけものに向けるようで、ものを言いかける人もなかったのに、薩・長軍が優勢であることがわかりますと、手の平を返すように皆愛想がよくなり、いろいろお世辞を言うのがうるさいほどだったそうです。諸藩の動向もまたそうです。当時京都には相当数の諸藩がそれぞれ兵をひきいて駐屯《ちゆうとん》していたのに、形勢を観望してどちらにも味方しないでいましたが、皆官軍に属することになったのです。淀藩は譜代藩で、しかも、当主稲葉正邦は現職の老中として江戸にいるのですが、淀城を留守していた家臣らは、江戸にいる主君を見捨てて官軍に所属してしまいました。伊勢の津藩藤堂家は外様藩ながら家康以来深く親愛されて、西国に事ある時は彦根の井伊家とならんで先鋒をつとめるという家格の家だったのに、やはり官軍に属して徳川方に砲撃を加えたのですからね。鳥羽・伏見の戦争という血の祭典があって、王政復古という革命ははじめて日本西部の大名に認められたということが出来ましょう。
とはいうものの、この時の戦《いくさ》では徳川方全部が敗れたのではありません。大坂城内にはなお一万におよぶ兵が手つかずで残っているばかりでなく、兵庫港には幕府自慢の開陽丸以下六隻の軍艦が碇泊しているのです。ですから、もし、この海軍をもって薩・長の国もととの連絡を絶ち、陸軍は大坂城に拠《よ》って関東から兵を呼びよせる作戦に出れば、勝てる可能性は十分以上にあったのです。
慶喜江戸へ退去
これは、官軍側でも大へん心配なことでした。西郷は督戦のために前線に出ていましたが、徳川方が枚方にもふみとどまらず南へ南へと潰走《かいそう》するのを見ながら、兵を八幡に引きあげさせて整頓させています。ところが、この少し前、両軍が八幡・橋本あたりでまだ戦っている頃、大坂では慶喜は江戸に引きあげる心になっていました。例によってまた心がゆらいで来たのです。もちろん、部下の兵らには相談なしです。兵士らは敵愾《てきがい》の意気に燃え切っていますから、そんなことを一言《ひとこと》でも口にしたら、どんなさわぎになるかわからないと、慶喜は判断したのですね。それで、老中らと会津(松平)|容保《かたもり》、桑名(松平)|定敬《さだあき》らだけを連れて、その夜(一月六日)ひそかに城を脱出して、その夜は米艦に投じ、翌日幕府軍艦開陽丸に乗り移りました。
一説によりますと、西郷が、慶喜に大坂城に籠《こも》られては難儀と思い、薩藩士松本|弘庵《こうあん》(後の外務卿寺島宗則)を兵庫に滞在していた英国公使パークスの許につかわして、慶喜にたいする牽制策を講じ、それが効を奏したというのですが、時間的に見てこの説は成り立たないようであると、今のわたしは考えています。
慶喜は尊王を家風とする水戸家の生まれですし、この度の戦《いくさ》も、いろいろな事情でついやってみる気になったのですから、薩・長軍の陣頭に錦の御旗がひるがえり、自分が朝敵と目《もく》されているということを聞くと、すっかり心を動揺させ、この窮地を脱したいという気になったのでしょう。
慶喜という人は大へんかしこい人ですが、素質は英雄ではないのです。要するに、太平の時代の貴公子にすぎません。狂瀾怒濤《きようらんどとう》の時代を乗り切って、撥乱反正《はつらんはんせい》の大業をなし得る人ではないのです。徳川一族の中で一番かしこいといわれている慶喜がこうだったのですから、徳川幕府の亡びる時が来ていたのですね。大へん運命論的なことを言うようですが。
慶喜の大坂退去はよほど隠密裡にはこばれましたので、当時外国係として大坂城内にいた福地源一郎(|桜痴《おうち》)は、夜中すぎ組頭から知らされるまで気づかなかったそうです。また、徳川家海軍副総裁として徳川艦隊を指揮していた榎本釜次郎(武揚)も、翌日朝、作戦打合わせのため大坂城に来て、はじめて慶喜の退去を知ったということです。
慶喜の乗った開陽丸は十一日に江戸品川に着きました。七日に大坂湾を出ているのですから、五日かかっています。いくら当時の汽船でもかかりすぎます。それは遠州灘でシケをくらって八丈島のへんまで押し流されたためです。当時の幕府海軍は軍艦の数こそ諸藩を圧倒して多数もっていましたが、操船術の点はさほどではなかったのです。このことはよくご記憶下さい。後のことに相当関係があります。
その翌《あく》る日の朝のことです。上様がお帰りになったという知らせがありました。慶喜は品川についた開陽丸から浜御殿に入って、そこから城に入ったのです。勝は急いで築地の海軍所に行き、それから登城しましたが、城中狼狽してごった返していて、何が何やらさっぱりわかりません。慶喜の供をして帰って来た連中をつかまえて聞こうとしても、これまた顔面|蒼白《そうはく》一言も口をききません。やっと老中板倉|勝静《かつきよ》からあらましのことを聞いて知ることが出来ました。
「以後、人々は空論と激論をくりかえすだけで、とりとめた議論をする者はなかった」
と、勝はその日の日記に書いています。
恭順への道
汚名返上を画索する慶喜
慶喜が、戦い半ばに、将士をだまして、――明らかにだましたのです。明日は予が出陣するから、皆々勇んでその用意をせよ、といって人々を勇ませ退出させておいて、ひそかに城中を脱出しているのですからね――大坂から逃げ帰ったのは、どういう料簡《りようけん》だったのか、わかりません。薩・長軍の陣頭に錦旗がひるがえり、征討大将軍仁和寺宮が出馬されたことは、正月五日の深夜には大坂城に報告されたでしょうから、水戸育ちの慶喜としては、これは大へん、ぐずぐずしていては賊臣たることが決定的になり、後世まで史書に北条高時や足利尊氏とともに逆賊として記載されてしまうと思って、急遽《きゆうきよ》現場からの逃亡という手に出たのだと思われます。当時の読書人にとって、最もいやなことは歴史にこう記載され、後世の人に指弾されることだったのですが、水戸学育ちと来ては一層そうでしょう。ここまでのことは容易に推察がつくのですが、では江戸に帰って以後はどうするつもりであったかという点になりますと、よほどに鋭い観察と推理をもってしなければわかりません。
「徳川慶喜公伝」など、慶喜を弁護することを目的とする書は、慶喜は大坂脱出の時から恭順謹慎の精神があったというのです。この書は史料も優秀でしかも豊富に集められているし、渋沢栄一著ということになっていますが、渋沢は注文主で実際の著者は萩野由之博士で、なかなかの名著ですから、うっかり読むと、そう信じさせられてしまいます。しかし、ごく冷静に観察しますと、そうではなかったのではないか、慶喜という人は大へん賢明だった半面、いつもふらふらと心の揺れている人であり、また身分柄にも似ず小細工の好きな人でもありましたから、朝敵の名をごまかした以上、何とかして薩・長をたたきつけて徳川氏の威を回復する方法はないものかと思ったらしいと、私は判断しています。京都で負けたとはいえ、それは先鋒隊だけの敗戦で、戦力は十分以上にあるのです。とりわけ、海軍力に至っては薩・長に数倍するものを持っています。うまく東日本を団結させれば、決して負けはしないはずです。まして、こうなればフランスが武力的にも経済的にも援助してくれるはずです。慶喜にこの観念があったところで決して不思議はないはずです。
彼は江戸城に帰着するとすぐ、大奥の女中錦小路をもって、静寛院宮《せいかんいんのみや》(前将軍家茂夫人)に、
「さる三日、上洛の先供《さきとも》が薩摩勢に無体にさえぎられて、やむなく戦争となりましたが、朝廷が徳川氏に反逆の色があらわれていると聞こし召されているやにうけたまわりましたので、賊名が確定してはならずと、ひとまず東帰しました。いずれご面会の上委細申し上げます」
と、申し上げています。宮は慶喜に対面をお許しにならず、三日後の十五日になって、天璋院のとりなしによって、やっとお会いになっています。
静寛院にこう報告しただけでなく、御用部屋から慶喜の意志として幕臣らに発表したものはこうです。
「松平修理大夫(薩摩藩)の家来共が、いわれなく自分の通行を拒み、前もって伏兵などの手配りを出しておき、突然発砲に及んで兵端を開き、粗暴のふるまいに及んだのである。全く修理大夫の家来共が勝手にしたことであり、あまつさえ叡慮を矯《た》めて我に朝敵の名を負わせ、他藩の者を煽動したため、人心疑惑を抱いて、戦い不利に陥った。こんな風では多数の人命を損ずるばかりでなく、宸襟《しんきん》(天子の心)を重《おも》んじ奉っている自分の誠意の貫徹も出来ず、混雑の際、賊名を負うことになっては不本意の至りと、深く心痛し、また将来にたいする深い考えもあって、兵隊を引揚げ、一先ず軍艦で東帰して来た次第である。追々申し聞かすこともあるであろうから、銘々心を一つにし、力を合わせて、徳川家のため忠節を重んずべし」
静寛院宮への報告といい、この布告の文句といい、慶喜は敵を官軍とは言っていません。薩摩勢だといっています。従って自分が朝敵になったとも言っていません。朝敵の名を負うようになってはならんと思ったから、戦《いくさ》をやめて帰って来たといっているのです。錦旗がひるがえり、征討将軍宮が出馬されていることは知らなかったことにしているのです。こういう彼に恭順謹慎という心の生ずるはずはないではありませんか。
彼は、自分は大坂城にいて出陣せず、出陣して衝突したのは先供の者だけだというところからこんなことを言い出したのかも知れませんが、だとすれば、賢明な彼にあるまじく身勝手で甘い論旨です。錦旗まで出て来たのに、主将たる者がそれは先供のしたことで、自分には関係のないことだといって通ることかどうか。蛤御門の戦においては、毛利侯は国許を出ていないのですが、慶喜を含む幕府方は長州侯を朝敵ときめつけ、再征までしているくせに、それでは理屈に合いません。ここに気づかないとすれば、慶喜もいいかげんな人間といわなければなりません。ともかくも、江戸へ帰った当初、慶喜には恭順謹慎などという観念はなかったと、私は推断します。
形式的な恭順謹慎
さて、慶喜の江戸城へ帰った日の当夜から翌日にかけて、城内で大会議がひらかれ、後年、生きのこりの幕臣らが上野史談会で言っています。その席上、陸軍奉行|並《なみ》兼勘定奉行の小栗上野介忠順が主戦論を展開したが、その要領はこうであったそうです。
「官軍が東下して来たら、箱根も碓氷《うすい》峠も防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉ざして袋の鼠としてしまう。一方、軍艦をもって長駆して馬関・鹿児島を衝《つ》く。薩・長ともに手も足も出ないはずだ。こうなれば、日和《ひより》見《み》をしている天下の諸藩は皆徳川家に味方し、形勢は逆転し、徳川氏の威また振うに至る」
この戦術は、幕府が砲・歩・騎の三兵伝習のためにフランスから招聘《しようへい》雇用しているフランス士官らの立てたものです。図上作戦としてはなかなか優秀なものですが、当時の幕府海軍は軍艦の数こそ諸藩を圧して多数持っていましたが、かんじんの操船術はまことにお粗末なもので、とうていこんな大作戦が出来たろうとは思われません。現に、前にも書きました通り、慶喜の乗った開陽艦は遠州灘で暴風に遭って八丈島近くまで吹き流され、大坂から江戸まで五日もかかってたどりついています。またこの年八月榎本武揚ら徳川家の海軍士官らは徳川家の軍艦八隻を奪って東京湾を脱出して北に向かいましたが、この時も一隻沈没、全艦損傷というお粗末さでした。彼らは北海道|五稜郭《ごりようかく》にこもって、北海道独立国を建設したのですが、彼らを追討するために官軍の海軍がやって来て、今の岩手県の宮古《みやこ》湾に碇泊しているという情報を得ると、奇襲作戦を企て、三隻一組になって出動したのですが、風浪のために途中ばらばらになり、たどりついたのは一隻だけで、散々な反撃をくって敗退しています。はぐれた船で坐礁したため自沈したのもあります。まあ、この程度の操船術しか持っていなかったのですから、下関を襲うの、鹿児島を襲うのといったところで、実際は出来っこないことでしょうね。
しかし、こんなことは素人にはわかりません。恐らく当の小栗だって、海軍には素人ですからわからなかったでしょうが、それだけに自信にあふれています。小栗は天性の雄弁家だったそうですが、それが自信に満ち、情熱に燃えて説き立てるのですから、人々の感奮は一通りでなく、気勢は大いに上がったそうです。そりゃそうでしょう、慶喜自身がやるつもりでいるのですからね。
ところが、この慶喜が、この小栗を十五日に免職しているのです。この頃の慶喜のすることは複雑微妙な含みが多くて、一筋縄では測られないのですが、抗戦の意志を捨てたのではないようです。この日慶喜は天璋院の取りなしではじめて静寛院に拝謁《はいえつ》しています。そして、三人でいろいろと善後策を相談していますが、ここで慶喜が恭順謹慎の意を表することになり、宮が侍女の土御門藤子《つちみかどふじこ》をお使者として上京させること、慶喜自身も自分に好意を抱いていてくれると思っている尾張慶勝・越前春嶽・浅野|長勲《ながこと》・細川護久・山内容堂の五人に朝敵の名を免ぜられるようお骨折り願いたいと書面を出すことにきまりましたが、この結果が小栗罷免となったのだと思われます。札つきの主戦論者である小栗を職にとどめておいては、恭順謹慎ということにならないと思ったのでしょうね。もっとも、ほんとの恭順謹慎ではありませんよ。その形をして見せただけです。その証拠には、慶喜はフランス公使レオン・ロッシュと十九日、二十六日、二十七日の三回も会っていますが、その会見の際、慶喜はこういったと、石井孝氏の「増訂明治維新の国際的環境」に出ています。
十九日には、
「日本人として天皇の意志にそむくことは出来ないが、徳川家の主としては、徳川家の領地を奪われることを拒み、全力をあげてこれを防がざるを得ない」
また、
「天皇は目下監禁状態におかれ、ご自分の意志で自由に行動しておられるのでない。従って自分の戦うのは官軍が相手ではなく、薩・長が相手である。何のはばかるところがあろう」
二十六日には、
「自分は隠居し、徳川家は紀州家が継ぐが、自分は引きつづき徳川家を代表し、家政の監督をする。自分が京都を相手に戦争をするのは、祖先伝来の領地を守るためであって、他意はない」
以上のことばのどこに恭順謹慎の意志がありましょう。薩・長にたいする憎悪と、徳川氏にたいする責任感と、権力にたいする未練とだけを語るものでしょう。
海舟海軍奉行並に栄進
小栗の罷免された翌々日、勝は海軍奉行|並《なみ》に任ぜられました。彼は早速、越前家へ書面を送っています。文書戦ですね。
「近々、官軍が問罪のために下向するとうけたまわります。臣子の分としては、唯一死もって主家に殉ぜんと、涼しく心を定めて、何の迷いもありません。このことの是非曲直については、百年にして世論の定まるを待ちたいと思うのみです。
この頃、外人の報告によりますと、官軍が兵庫の外人居留館を襲ったため、外人らは土塁を築き、兵士をもって堅くその地を守って軍艦を呼びよせたとのこと。(備前藩兵がフランス水兵や英公使パークスと事をおこし、重大な外交問題になって、新政府が大いに苦しんだ事件がある。神戸事件という。引続いて、堺でフランス海軍兵と土佐藩兵とがいわゆる堺事件をおこし、これも大問題になった)
私は愚昧《ぐまい》な者ではありますが、皇国のため痛哭《つうこく》悲嘆にたえません。遠くは印度が亡びて英領になったのは、印度の土侯同士の争いに乗ぜられたのであり、近くシナが西欧諸国に土地を削られたのは長髪賊と官兵とが是非曲直を争って同族|相伐《あいう》つ虚に乗ぜられたのです。然るに、今やわが皇国も同じ轍《てつ》を踏まんとしています。口に勤王を唱えながらも、その実は大私を挟《さしはさ》んで、皇国土崩し、万民塗炭に陥るの途をふんでいることを悟らないではありませんか。何たることでしょう。
朝廷に向かってこの深憂を訴え申したいのですが、有罪の小臣として、我が主とともに死罪を待つ身の上です。恐れ多くて、訴えようもありません。しかしながら、かほどの深憂を申し上げないわけにはまいりません。斬首《ざんしゆ》されるを覚悟で申し上げます。願わくは私のこの微志を、代わって朝廷の参与閣下達に訴えて下さい。恐惶謹言」
勝のは嘆願ではなく、勤王だの佐幕だのというようなことに血道を上げて兄弟喧嘩していると欧米人に国をうばわれてしまうぞ、と印度と中国を例にひいて、越前春嶽やその藩の要人らの口を通じて、朝廷の参与らに教示するのです。勤王や佐幕の争いなど末の末のもので、国を愛し、民を愛することが根本であるというのは、勝の終生変わらない信念でした。愛国と愛民とを考えない勤王など無意義なものだと、彼は明治三十年という時点ではっきり言い切っています。これは彼の死の前々年です。彼は終生この信念を持ちつづけていたのです。
勝はなかなかの文章家ですが、それでもこのような文書戦が現実にどれだけ効果があるか、考えれば心細かったにちがいありません。しかし、この時点ではこれよりほかに方法はないと思ったのでしょう。しばらく文書戦術をつづけています。たとえば、東海道、中仙道、北陸道――つまり官軍の通って来べき道筋の城主らへ、風聞によって雷同して、官軍について江戸に攻め下って来たりなぞしないようしてほしいと書き送っています。
勝はこの頃(十八日)の日記に、徳川家からも朝廷へ嘆願書を差出すことになり、その使者を誰にすべきかが詮議《せんぎ》された時、自分が最も適任と決定して、閣老から自分に即刻上京せよと下命があり、自分もお受けしたのだが、その夜取消された。「安房《あわ》ならば十分に嘆願の意を朝廷に申しのべることが出来ようが、そのまま抑留されて帰されないかも知れない。そうなってはこまる」という意見が出たためだと記しています。
この事件など、勝の力量手腕を万人が認めはじめた証拠ともいえましょうが、あるいは勝が薩・長方の人間になってはこまるという考えから出たのかも知れません。勝は終始一貫、徳川方の人々から疑われているのです。慶喜からさえもね。
二十三日には、海軍奉行並から移って、陸軍総裁、若年寄を仰せつけられました。勝は陸軍は自分の専門でない、また若年寄は恐れ多いと固辞しましたが、きかれません。陸軍の士官らの輿望《よぼう》でもあるというのです。ついに受けることにしましたが、若年寄の方は固辞に固辞を重ねて、とうとうご免こうむりました。嫉妬《しつと》されることを恐れたのだと日記に書いています。
和平主義に傾く幕論
それはさておき、勝を陸軍総裁にするのが陸軍の士官らの輿望であったというのは、後のことを考え合わせますと、海軍士官らと陸軍士官らとの共同陰謀だったのかも知れません。江戸城明け渡しのその前夜に、陸軍は江戸を脱走しましたし、海軍の連中は軍艦の引渡しを大へん渋って、官軍にも徳川家にもいろいろ手を焼かせた後、いくらかは引渡しますが、優秀艦八隻は渡さず、結局この八隻は脱走して北海道に行き(内一隻途中沈没)、脱走の陸軍と一緒になって五稜郭に立て籠もるのです。ですから、脱走して官軍に抵抗することは海陸軍しめし合わせて決定していたという疑いが持たれるわけです。しかし、海軍の脱走となると、勝は海軍の大先輩ですから、勝に海軍部門にいられてはこまるというので、陸軍としめし合わせて、陸軍士官らの輿望であると言い立てて、勝を陸軍総裁にして、海軍からはずしたのではないでしょうかね。もっとも、勝ほどの智者も、この当時はここまでは気がまわらなかったようです。輿望であるなどと言われると、人間はあまくなるものでしょうかね。
小栗上野介を免職にし、札つきの和平主義者である勝を重く登庸したところに、慶喜の意図がわかるわけであると、一応は考えられますが、そう簡単には結論出来ないところが、当時の慶喜にはあったようです。小栗を免職にしはしましたが、すっかり恭順したわけではありませんでした。忌憚《きたん》なく申せば、札つきの主戦主義者である小栗を免職し、札つきの和平主義者である勝を登庸し、自分は隠居すると宣言することによって、恭順の名を得ようとしたに過ぎなかったようです。
「賊名を着ることは真平御免だが、何とかして徳川氏の身代と威勢とはとりとめ、出来ることなら、薩・長にかわって天皇の下、新日本の中心となりたい」
という、つまり大政奉還当時のままの心があったように思われます。勝を登庸したのも、勝が札つきの和平主義者であり、以前から薩・長の連中と親しくしていて受けのよい人物だったので、薩・長人を誑《たら》すに都合がよいというにすぎなかったように私には見受けられます。元来、慶喜は度々申しましたように、勝が好きではないのです。何よりも、慶喜という人はなかなかの策略家で、その策は往々にしてあれほど高貴な生まれ育ちをした人にあるまじく小才子的権謀のある人でした。これは父烈公の遺伝かも知れません。烈公という人がそういう人でした。
さなきだに人の心が激情的になっているところに、慶喜の本心がこうであるとあっては、主戦論が少しもおとろえず、かえって盛んになるはずです。
勝の日記によりますと、人々は皆いろいろな策を立てて勝手な議論をし、慶喜に目通りを願い出、自策を建議したとあります。「早くて深夜十二時、普通払暁、往々にして夜を徹した。君上の御焦慮また思ふべし」とあります。勝にたいしても議論を吹っかけ、夜も大てい鶏鳴を聞いてやむと記しています。
江戸開城前夜(その一)
レオン・ロッシュの忠告
前章でも述べましたように一月二十六日(慶応四年・明治元年)に、フランス公使レオン・ロッシュが二度目の江戸登城をして慶喜に謁し、その際慶喜から、「自分は隠居し、徳川家は紀州家が継ぐが、自分は引きつづき徳川家を代表し、家政の監督をする。自分が京都を相手に戦争をするのは、祖先伝来の領地を守るためであって、他意はない」と言われたのですが、この時、公使は勝や大久保一翁やその他彼らと同時に徳川氏の重役に任命された人々に会いたいと所望し、許されて会っています。会って、ロッシュがどういうことを言ったかは伝わっていませんが、恐らくロッシュは慶喜の意志を伝え、徳川家の名誉と利益とを守ることに諸君は大いに努力すべきである、わがフランスは必ず力のかぎり援助するであろうくらいのことを言ったのではないでしょうか。
ロッシュのこのような忠告は、この時点では、慶喜にも、諸役人にも大いに好意をもって迎えられたはずです。しかし、勝と大久保一翁とだけは別です。この二人は当時の幕府部内を蔽《おお》っていた親仏的空気にはそのはじめから批判的というより、最も強い反対意見を抱いていたのですから。
この日はまた陸軍の雇教師フランス士官シャノワン少佐が同僚の士官らとともに勝を訪ねて来ました。勝は陸軍総裁ですから、彼らの長官にあたるわけでもあります。シャノワンらは言います。
「我々が訓練し上げた幕府の士官と兵隊とはすでに数百名ある。これは現下の日本では無敵の精兵である。貴君はこの精兵を持つ陸軍の総裁である。戦うならば必ず勝てるであろう。戦いに決心されよ。我々も貴君の指揮下に入って出来るだけのことをする。狐疑して時機を逸することが最もいけない」
と、抗戦をすすめ、箱根によって敵を迎撃する法や、城を守る手段や、戦闘計画を立てて図面をこしらえて来たから贈呈しようといい、
「ぜひ、ご決心を伺って帰りたい」
といいます。勝は返答にこまって、返事は明日すると答えて帰し、その夜レオン・ロッシュに会って、近日の形勢を述べ、自分の決意を語り、シャノワンらの好意を謝し、その雇用を解く相談をしました。旅費や給与などを十分に支払うこと、またその頃海軍教師は英国から招聘し雇用していましたが、これも同時に解雇すること、この二カ条を条件にして相談をまとめました。英国の海軍教師を解雇することを条件にしたのは、フランスの嫉妬を防ぐためでした。国際間のこととはいえ、なかなかむずかしいのですね。
翌日、シャノワンらを訪問して、戦うことの出来ないことを述べ、方針はすでに決定して不動であることを告げました。シャノワンは怪しみもし、残念がりもして、さらに口説きましたが、勝はただその好意を謝しながらも、心は動かしませんでした。しかし、これは勝一人の気持ちで、慶喜はまだふらふらと揺れていたようであり、幕臣のほとんど全部の気持ちは抗戦であったようです。
鳥羽・伏見敗軍の怒り
数日にして月が改まって二月になりますと、鳥羽・伏見の敗兵らが続々と帰って来ました。徳川家直属の伝習隊の兵もあれば、旗本もあり、会津・桑名の兵もあります。皆憤りに燃えています。慶喜にだまされておきざりにされ、戦えば勝ったであろう戦いを、戦うことが出来なかったという怒り、敗軍の怒り、薩・長への怒り、いろいろなものが一緒になった憤りですな。この連中の屯所《とんしよ》すらないのに、幕府役人らは別に新しく勝手に兵を募っていました。それが、陸軍関係の役人だけではなく、文官までそうだったと、勝は日記に書いています。徳川家中全部が興奮激揚、戦争熱にとりつかれていたのですな。
それはともあれ、屯所も不足、給与も不足なんですから、兵隊共はおこりますわな。脱走するというさわぎになります。つまり伝習隊の兵隊ですが、これは近郊の農民や江戸市中のナラズモノを集めて軍事教練だけして兵隊にしたのですから、精神的訓練はまるで出来ていません。住むに十分な宿舎なく給与もよくないと来ては、盗賊化するのは当然のなりゆきでしょう。
勝はこの脱走をおさえようとして、ずいぶん骨を折り、ある時は狙撃されまでしたほど危険な目に逢って努力を重ねたのですが、最後には、「勝手にしろ」と投げだしています。彼は陸軍総裁なんですから、あくまでも制止しなければならない責任があるのですが、彼には積極的に抗戦する意志はないのです。彼には三つの目的があります。一つは同胞相伐つようなことをして日本を危険に陥《おとしい》れてはならないということ。一つは慶喜の生命の安泰と徳川家の名誉を守ること。もう一つは出来るだけ多く徳川家の利益になるように局を結ぶこと。この三つの目的をとげるためには戦争をしてはならない。向こうがしかけようとしても、しかけられないようにしなければならない。それには絶対恭順にかぎる、少なくとも絶対恭順的である必要があるというのが、彼の策の基本でした。こんな彼ですから、逃げるなら勝手に逃げろと投げだしたのでしょう。彼らしい機略ですね。横着だともいえますが、英雄でなければやれないことでしょうね。
恭順の覚悟
二月十一日に、慶喜は勝ら新たに重役に任ぜられた人々を集めて会議をひらきました。慶喜がこの会議をひらいたのは、今度こそゼスチャーだけでない恭順の覚悟をきめたからです。慶喜にこの覚悟をきめさせたのは、越前春嶽からの来書でした。春嶽は慶喜の依頼状が、口に謹慎しているといいながら少しもその事実がなく、自分の非を飾る言訳がましい言辞ばかりを弄《ろう》していることを指摘し、鳥羽・伏見の事を完膚なきまでに非難して、だから、朝廷はもちろん、天下万人が見て信ずるような改過恭順の証拠をはっきり示しなさいと言ってよこしたのです。慶喜にしてみれば、最も頼りにしている春嶽からこう言われて、頭上から冷水を三斗《さんど》も浴びせかけられた思いだったでしょう。
慶喜はまず人々に思うところを言わせました。
人々はある者は箱根の嶮によって官軍を防ぎ、関東の諸藩を連合して関東を独立国となして、京都と対峙しようといい、ある者は使者を出して、官軍の関東に入ることをやめるように説得しようといい、ある者は上様が単騎上洛なさる英断にお出になるなら、人々奮起して軍威上がるであろうと説き、ある者は軍艦をもって大坂湾を扼《やく》し、薩・長の国許との連絡を絶とうと言い、ある者は軍艦をもって薩・長の本国を衝こうといい、喧々囂々《けんけんごうごう》、一昼夜に及びました。
必勝の軍略
慶喜はずっと黙って聞いていましたが、やがて口をひらきました。
「わしは多年京坂にあって禁裡に接近し、朝廷にたいして少しも疎意を挟《さしはさ》まなかった。鳥羽・伏見のことは思いもかけない行き違いで、はからずも朝敵の名をこうむることになった。そうなってはならぬと思って、はやばやと引き上げて来たのだが、そうなってしまったのだ。申し訳のしようもない。ひとえに天裁を仰いで、従来の落度を謝するより外はないと思っている。その方共の激憤の気持ちはよくわかるが、抗戦して長引けば皇国瓦解し、万民塗炭の苦に陥り、また罪を重ねることになる。それはいかんのだ」
勝は最初から一語も吐かず、ただ各人の言うところを聞いているだけでしたので、慶喜は、
「安房《あわ》、そちの意見を聞きたい」
と言いました。
「はっ」
と勝は平伏して、じゅんじゅんと説き出しました。彼は天性の勝負師で、勝敗の機をよく心得ています。ですから、恐らくこの問題について自分の意見を、同志である大久保一翁にだけは別として、他の人々の前で語ったことはなく、これがはじめてではなかったでしょうか。
「およそ興廃存亡は時の気運(勢い)によるもので、人力をもっては如何《いかん》ともすべからざるものであります。朝廷の威が振るい、幕府の威が衰えたというのも、幾十百年の気運の結果であると存じます。しかしながら、もし上様におかせられて、決戦せんとのご決断ならば、策がないわけではありません。拙者は艦隊をひきいて駿河湾に赴き、二、三百の兵を上陸させ、官軍を防ぎましょう。衆寡の勢い、わが軍は敗れるでありましょうが、これは餌兵《じへい》でございます。敵は必ず勢いに乗じて清見潟《きよみがた》や清水《しみず》港に迫るでありましょうから、わが艦隊は進んで迫り、海上からこれを砲撃しましょう。敵の敗れることは必定であります。そこで、われは多数の兵を上陸させて接戦し、同時に横から敵の中央を砲撃すれば戦《いくさ》はそれまでです。敵軍大敗、わが軍大勝を博します。そうなれば、関東の士気は必ず大いに奮い立ちますから、海道筋のわが軍をして火を放って敵の来往を防ぎ、同時に軍艦三隻をわかって大坂湾に入り、薩・長の国許との連絡を海陸共に絶ち、時宜によっては大坂を焼き払い、京都に一粒の食糧も入らぬようにして天下の変をうかがうのでございます。このようにして、東海道筋の本軍が敗るれば、甲州を経由して来る敵軍も、東山道から来る敵軍も、進退拠りどころを失って、どうすることも出来ないでありましょう。すでに京都があらゆる連絡路を絶たれて、兵員の増加はもちろん、糧食の補給もたえた以上、何をすることが出来ましょう。薩・長共に施すに術《すべ》ないことは明白であります」
滔々《とうとう》として説くところは必勝の軍略です。徳川氏は軍艦の数こそ諸藩を圧して多く持っていたものの、その操船術は決して優秀でなかったことは、前にのべました。この見事な作戦をやれるほどの海軍技術があるかどうか、まことに疑わしいわけです。勝は海軍の専門家ですから、それはよく知っています。知っていながら、なおかつこれを説いているのは、これを実行するためではなく、慶喜に恭順説を説き、それをその心に定着させるための手段だったからです。彼は慶喜の揺れやすい性格を知っています。長州との和平工作で煮え湯をのまされた経験もあるのですからね。一応説得することが出来ても、逆転する恐れがあると思ったのでしょう。だから、まず必勝の策を説き、次にこれを否定して恭順説を説き、しかもこれもまた危険はかりがたいと説き、最もきびしいところに慶喜をほうり出して、その恭順心を確乎不動のものとしようと思ったのだと推察されます。
日本滅亡の道
ですから、ここで、論を一転しました。
「しかしながら、ここで考えなければならないことは、日本の運命でございます。こうして戦《いくさ》は勝つことが出来ますが、日本は瓦解するのでございます。大々名らは各々外国と通商して自藩の利を図ろうとするでありましょうし、また商人共は外国商人共と結んで勝手に交易し、国の統制は四分五裂し、ついには外国人共に乗ぜられて、日本は滅亡するでありましょう」
ここで、議論は再転します。
「しかしながら、もし上様が日本の運命に深く思いを致され、天朝の怒りをかしこみ、天朝のお裁きをお受けになり、条理を踏まんとなされても、現在の情勢では、お難儀なことが重なり、どんなことになるか、あらかじめはかることは出来ないのであります。いずれに決したまいますか、それをお伺いいたしとうございます」
抗戦に決すれば一旦の勝利は得ても日本の滅亡となり、恭順に決しても運命はかりがたいというのである。慶喜は黙然として答えない。
やがて、勝のことばがまたつづきます。
「およそ関東人の気風として、激情的であります。一旦の怒りに生命をなげうつ者は多くございますが、従容《しようよう》として大道を踏む者は至って少のうございます。今、薩・長は大勝に乗じ、天皇を擁して天下に号令しています。尋常の策では敵することはできません。それに対しては、至柔を示し、ただ日本の安危、万民の苦楽だけを念として、彼の要求にたいしてはひたすらに誠意をもってし、居城をも明け渡そう、領土も返納しよう、職権も捨てよう、徳川家の興廃はただ天朝のご意志のままという具合に、絶対無抵抗の態度に出るよりほかはありません。こう出るものを、彼、いかに暴悪といえども、どうすることが出来ましょう。まことに至難にして、容易に行なえることではありませんが、これよりほかに、拙者は良策を存じません。今はもう議諭して空しく日を費やすべき時ではございません。速《すみ》やかにご決断を願い奉ります」
蟄 居 謹 慎
勝という人は少年の頃、剣術の師匠島田虎之助にすすめられて参禅しています。これは禅のいわゆる本来無一物の境地です。つまりそうするよりほかに手はないといっているわけですね。もちろん、慶喜という人はなまじ才人だけにそんなことはわからなかったでしょう。わからなかったといえば、慶喜は後年に至るまで勝の功績を認めず、この時の会議のことも、恭順に決したのは自分の決意によるのだ、勝などははじめは主戦論でしきりにその戦術を説きまでしたのだといっています。勝の苦心さんたんは終生慶喜にはわからなかったのです。典型的な利口馬鹿といってよいでしょう。
それはともかくとしても、慶喜は春嶽からの来書によって、口先やゼスチャーだけの恭順ではいけないから本ものの恭順をするつもりになってはいたのでしょうが、ここまで何もかも捨て切る心にはなっていなかったでしょう。勝に言われてみて、一切を捨て切っての、絶対恭順、絶対無抵抗以外には途のないことだけはわかって、勝にその任にあたるように命じました。勝は再三固辞した後、ついに受けました。
「ただ恐懼《きょうく》して、確答その道を失ふ。涕泣《ていきふ》して御前を退く」
と日記に書いています。
うかうかと読みますと、お受けする返事すら出ず、ただ泣いてご前を退《さが》ったという意味にとってしまいますが、勝の後に書いた「解難録」によりますと、勝は、お引き受けするとすれば、今日以後、大難事、または大変事になりましても、上言してご指令を仰ぐことはせず、すべて独断でいたしますが、それをお認め下さいましょうか、といい、それでよいという慶喜の言質《げんち》をもらって、引き受けています。ですから、「確答その道を失ふ」とは普通の君臣の礼によらない方法でお引き受けしたという意味であることがわかるのです。ここは記憶していて下さい。後のことに相当大きな関係があります。
勝が一身に責任を負うて大任にあたり、江戸開城の立役者となることはこの時にきまったのです。
この翌日の二月十二日、慶喜は城を出て、上野寛永寺の塔頭《たつちゆう》大慈院に入って、蟄居《ちつきよ》謹慎の生活に入ります。
江戸開城前夜(その二)
勝の文書戦
間もなく、勝は朝廷にたいして慶喜の名や徳川家家中の名で嘆願書を上《たてまつ》ります。前者は、伏見・鳥羽のことをわび、東叡山に蟄居謹慎して罪を待っていることをのべ、御処罰は一身をもって受けますが、官軍東下のことは罪なき良民を苦しめることになりますから、しばらくご猶予いただきたいという趣意のものです。後者は主人慶喜の謹慎の次第をのべて、慶喜の朝廷にたいする忠誠を語り、先祖の勲労をもお酌みとりあって、寛大なご沙汰を懇願し奉るという趣旨のものでした。
さらにまた、自分の名で、越前家を通じて、朝廷に働きかけています。
「日本近年のさわぎは、その根元を開国・鎖国の論に発しています。それがもつれて、先年は長州藩が朝敵の汚名をこうむって苦難に沈み、今日はわが徳川家がそうなりました。しかしながら、開国といい、鎖国というも、同じく国を憂うる至誠から出ているのです。伏見・鳥羽のことはまことに申訳ないことではありますが、天朝としては御哀憐を垂れ給い、同胞たがいに争うようなことをなさるべきではありますまい。とくに譜代大名を駆り立てて官軍に属せしめ、主家たる徳川氏を伐とうとなさるのは、人倫の大道を紊すもので、天朝のなさるべきことではありますまい」
という趣旨のものでした。
勝日記の二月二十五日の条にこうあります。慶喜に呼ばれて、大慈院へ行ったところ、官軍が江戸に向いつつあるから、その方京都へ使者となって行き、こちらの恭順のことをよく説明して、進撃を猶予させよと命ぜられた。陸軍総裁の要職にありながら江戸を去ることは出来ないと思ったので、
「参りますが、とすれば、陸軍総裁は免じていただきたくございます」
と言うと、
「聞きとどける」
と、慶喜は言った。そこで、帰宅していると、夜になって、使者のことは取消すから、やはり陸軍総裁でいるようにと言って来た。これも、役人らが勝が京都に抑留されたり、途中で足どめされたりしては、こまるから、やめられるがよいと言い立てたからである云々。
前にも、これと同様なことがあったことは書きましたね。この時点においては、勝が徳川方にとってかけがえのない人物であったことがよくわかります。しかし、意地の悪い見方をすれば、うかうかすると、勝は朝廷の用を為す人物となるかも知れないという不安が人々にあったからかも知れません。慶喜が勝を起用したのが、すでに勝を信頼してのことではなく、薩・長人らの勝にたいする親愛心を利用して薩・長人を蕩《たら》そうとの心からであったことを考えますと、根も葉もない推察とは言えますまい。
三月になりますと、征討大総督府参謀として西郷、先鋒総督府参謀として海江田武次が下って来ることがわかりました。西郷はもとより、海江田もよく知っている人物です。
「しめた!」
と思ったはずです。後年の追憶談では、「官軍の方からは予想通り西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ。相手が西郷だから、無茶なことをする気づかいはないと思っていた」と言っています。
三月二日には、去年の暮の薩摩屋敷焼打の時に、徳川家で捕えて諸家あずけにしておいた、薩藩士の益満休之連・南部弥太郎・肥後七左衛門の三人を自分の屋敷へ引取りました。三人は薩藩士ではありますが、浪人共の主領株となって江戸の治安を乱したのですから、死刑はまぬかれないのでしたが、勝はこの連中をもって何とかして西郷か海江田かに連絡をとろうと思ったのです。しかし、どんな方法で連絡をとるべきか、思案の日がつづきました。
モスクワ式抵抗策
三月五日、勝の家へ訪問者がありました。山岡鉄太郎です。山岡は慶喜の命を受けて、駿府の征討大総督府へ嘆願に行くために来たのです。
山岡と勝との間に、あの有名な問答があって、勝は西郷あてに手紙を書いて山岡に託し、益満休之進を案内役としてつけました。
山岡の立って行ったあと、江戸は大へんでした。三月九日頃には、官軍が三方から江戸に迫り、その先鋒は品川、新宿、板橋にあって、十五日には総攻撃を決行すると称し、兵士らは、
「徳川家はのこすが、慶喜は斬る」
と揚言していたのです。市民は右往左往してさわぎ立ち、幕臣らは憤激して、
「事ここに至ったのは勝のしわざである。斬って血祭に上げよう」
と言う者が多かったのです。
山岡は三月十日に帰って来まして、西郷から示された恭順降伏の条件を書いた書面を渡しました。全部で七カ条あります。
一、城を明けわたすこと。
一、城内居住の人数を向島に移すこと。
一、兵器一切を渡すこと。
一、軍艦をのこらず渡すこと。
一、慶喜を備前藩へあずけること。
一、伏見・鳥羽における慶喜の妄挙を助けた者共は厳重取調べて謝罪の道を立てること。
一、玉石共に焼くつもりはないから、そちらで鎮定の道を立てよ。もし暴挙する者があって手にあまるなら、官軍の手をもって鎮める。
右の条々が急速に実効が立てば、徳川氏の家名は立てられるであろう。
五条目の慶喜の処分については、山岡と西郷との間に、あの有名な問答があって、西郷が身にかえても善処することを約束しましたから、もちろん、山岡はそれを報告しました。勝をはじめ、徳川家政府の重役らはひとしく安心して、市中に高札を立てて布告しました。こんな意味の布告文です。
「大総督府の参謀西郷吉之助殿へ応接がすんで、恭順謹慎の実効が相立つ上は、寛典のご処分になることになったから、市中一同動揺せず、家業にいそしむべし」
市中もいくらかは安堵した模様でした。
勝は安心したとはいえ、安心しきったわけではありません。後年、勝が追憶談で、西郷とは肝胆相照らすなかであるから、西郷が受合った以上大安心であると、大船に乗った気持であったといわんばかりのことを言っているので、我々もそう思うのですが、この追憶談をそのままに信じては真相を逸しましょう。心の最も奥深いところでは、西郷を信じて安心していたことも事実でしょうが、世には勢いというものがあって、どんな人間でも勢いを無視することは出来ず、従って信ずるままには行なえないことのあることも、彼はよく知っていたはずです。いろいろと心を砕きます。
勝は、もし官軍がしゃにむに江戸城攻撃に出る場合の対策を講ぜざるを得ません。彼はモスクワを焦土としてナポレオンを苦しめたロシアの戦術を応用しようとしたと、後に「解難録」に書いています。火消の頭、博徒の長、運送者の長、非人頭などの、親方といわれている者三十五六人に各個に会って、自分が命令したら、それぞれの子分らをして火を各所に放たせることを受合わせ、また房総方面に使いの者数人を派して、江戸に大火がおこったら、大小の船を江戸にまわし、市民の避難救助にあたるように、漁師らに説かせて用意させました。これは山岡が江戸にかえって来た十日から、西郷との最初の会見が行われた十三日に至るまでの三日間において考え、十四日の談判の時までに手配りしたようです。
幸いにして、これらの用意は実際に役に立てないですんだのですが、勝は無駄であったとは言っていません。「解難録」に、
「幸いにして無事を保ち、この策終に徒労となる。この際の費用|夥多《かた》、予大いに困弊《こんぺい》す。人の竊《ひそ》かに知る者、予が愚なるを笑ふ。予もまた甚だ愚拙なるを知る。しかりといへども、もしかくの如くならざりせば、十四、十五(原文ノママ)の両日の談判において、予が精神をして活溌ならしめず、又貫徹せざるものあり。ただ自信して疑はず、終身愚拙に処せんのみ」
と書いています。これだけの用意をしていたから、満々たる勇気があって、堂々と応対することが出来たのだといっているのです。
官軍は江戸城総攻撃を三月十五日ときめて、十四日までに東海道軍は品川に、東山道軍は板橋に、その支隊である板垣退助にひきいられた軍は新宿に到着して、夜の明けるを待って一斉に市中に突入することに決定され、各隊に通牒してありました。勝が西郷との約束は約束として、万一の際の抵抗の用意をととのえたように、西郷もまた降伏恭順の条件を示して、これを実行したら寛典に処すると約束はしても、徳川方がそれに応じなかったら既定の方針で進むことにしていたのです。
西郷との談判
三月十二日、勝は西郷に会いたいという手紙を書きました。その日のうちに、西郷の返事があって、明日正午、高輪の薩摩屋敷で会おうと言って来ました。
翌日、二人は高輪で会っています。勝が「亡友帖」に記しているところによりますと、西郷は勝と会うと、笑いながら、
「えらいことになりましたが、先生ほどの人でも少しはおこまりでごわしょうな」
とからかうように言ったので、勝は、
「貴殿と拙者と立場をかえて見ましょう。そしたら、よくわかりましょう」
と答えますと、西郷はからからと大笑したというのです。大事、談笑の間に成るという次第ですな。
この日は談判めいたことは全然なく、勝だけが和宮様のことについて、こう言いました。
「定めてこのことは貴殿の方でもご承知のことでしょうが、私においてたしかにお引受けします。女性《によしよう》おひとりを人質に取り申して、かれこれ申すような卑劣な根性はありません。このことについては、拙者がここで確かに保証をいたしておきますから、ご安心下さい。その他の談判は、いずれ明日参って申し上げましょう。貴殿方においても、それまでに篤とご勘考しておいて下さい」
といって、明日、芝田町の薩摩屋敷で会うことにして別れました。
翌日、勝は大久保一翁をはじめ諸有司相談の上でまとめ上げた嘆願書をたずさえて、出かけました。勝の記憶では、羽織袴の軽装で、馬に乗り、馬丁一人を従えていたというのですが、談判の場に隣室で立合った一人、大村藩士渡辺清の追憶談では、継上下《つぎがみしも》姿だったというのです。まあ継上下でしょうな。羽織袴では、この時代では礼装ではありませんからね。
嘆願書の内容はこうです。
一、慶喜は隠居の上、水戸表で謹慎するようにしていただきたい。
二、城の開け渡しのことについては、手続きが済んだら、即日田安家へお預け下さるようにしていただきたい。
三、軍艦は、のこらず徳川家で取納めておいて、追って寛典の御所置を仰せつけられてから、相当な員数をのこして、その余をお引渡しするようにしたい。
四、兵器類も同断。
五、城内に居住している家臣らは城外へ引き移り、謹慎することにいたします。
六、鳥羽・伏見で慶喜の妄動を助けた者共にたいしては、格別のご憐憫をもって寛典に処し、一命にかかわるようなことのないようにしていただきたい。万石以上のもの(大名、つまり譜代大名)にたいしても格別な御寛典を本則として、朝裁をもって仰せつけていただきたい。
七、士民鎮定にはせいぜい努力します。万一暴挙する者があって、手にあまります節は、改めてお願いしますから、官軍のお力でご鎮圧下さい。
かなり虫のよい内容です。とりわけ、三、四の項目がそうです。しかし、徳川氏が大名として存立を許される以上、その身代にふさわしい軍備があるのは当然のことですし、渡してしまえば優秀なものは返されないおそれがあるのですから、このような嘆願になったのでしょう。
この時の会見のことを、勝は、
「談判はただ一言で決した。西郷はおれの言うところを一々信用してくれて、その間一点の疑念もさしはさまなかった。『色々むずかしい議論もありますが、私が一身にかけてお引受けします』と言った。この一言で、江戸百万の生霊も、その生命財産も保全し、徳川氏も滅亡を免かれた。もしこれが他の人であったら、やれ、貴殿の言うことは自家|撞着《どうちやく》だの、言行不一致だの、あの沢山の兇徒が所々に屯集している様子を見ろ、恭順の実がどこにある、なんのかんのと言って責めるに違いない。そうなると、直に談判破裂だ。西郷はそんな野暮は言わない。その大局をつかんでの決断の確かなことには、感心してしまったよ云々」
と、後年言っています。しかし、海舟日記の記述や、談判を隣室から見ていた渡辺清の想い出話によると、相当こまかな問答があったようです。しかし、西郷が意地悪いせんさく立てはせず、ごく素直に聞いたことは事実です。
結局、西郷は勝の持って来た要求にたいして、
「拙者が独断では、今日これらを決定することは出来ませんから、明日出立して、駿府の総督府にまいり、総督宮に言上して、ご指揮を仰いでまいりますが、明日は総進撃の予定になっていますから、とりあえず、中止させます」
といって、隣室の隊長らに命令を下しました。これ以後、両人は江戸開城以後もかなり長い間、会っていませんから、世に取沙汰される両人の談判というのは、この十四日の時のことです。
この談判のことについては、後世いろいろ言われています。英国公使パークスが、すでに恭順している慶喜に戦争をしかけるべきではない、また日本政府は我々外交官に何の通告もなく、居留地保護の軍隊も出さないで、この戦争をはじめている、そんな政府は政府と認めることは出来ないと、抗議を申しこんでいたので、西郷と勝との間に平和裡に談合が出来たのだ、両人の英雄的腹芸でもなんでもないという説もあれば、勝がパークスを動かして横槍を入れさせたのだから、勝はすごいが、西郷はデクノボーみたいなものだという人もあります。
パークスが抗議したのも事実であり、勝がパークスや通訳官アーネスト・サトーにいろいろ頼んだことも事実です。しかし、私が綿密に調べてみたところでは、勝がパークスやサトーに頼んだのは、両者の談判があって後のことです。パークスの抗議はその以前ですが、すでに西郷は駿府で山岡に約束して、恭順の実が挙れば慶喜も助命し、徳川家も存続させると約束しているのですからね。平和な解決は予定されたことだったのです。それどころか、私の調べたところでは、京都を出る時から、西郷のふところには慶喜の助命、徳川氏存続の解決案がおさめられています。ですから、西郷がずっと口にして来た強硬策は戦略だったのです。
この談判のことを、勝は後年、これは相手が西郷だったから出来た、他の人ならこちらの言葉の些少の矛盾や小事に拘泥して、こうは行かなかったろうと言っています。ですから、勝の当時の人にたいする人物評を見てみましょう。氷川清話に大久保利通のことを、
「大久保は、西郷の実に漠然たるに反して、実に截然《せつぜん》としていたよ。江戸開城の時、西郷は、『どうかよろしく頼み申します。後の処置は勝さんが何とかなさるだろう』といって江戸を去ってしまったが、大久保なら、これはかく、あれはかくと、それぞれ談判しておくだろうさ。しかし考えてみると、西郷と大久保との優劣はここにあるのだよ。西郷の天分がきわめて高い理由はここにあるのだよ」
といっており、木戸孝允のことを、
「木戸松菊は西郷などにくらべると、非常に小さい。しかし、綿密な男さ。使い所によっては、ずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがのう」
といっています。
つまり、この人物評によると、同じく維新の三傑といわれていても、この二人はこの際の談判相手としては共に落第ということになりますね。たとえ彼らがパークスが官軍の慶喜征伐や江戸進撃にたいして異議を持っているという情報を知っていてもです。もちろん、攻撃中止の命令は出したでしょう。出さざるを得ない場になっているのですから。しかし、当時の人にも、後世の人にも、仰いで嘆称せざるを得ないような、こんなに見事には行かなかったでしょう。西郷という千両役者、勝という千両役者によって演ぜられた、最も見事な歴史場面だったと言ってよいと思います。
前夜の慶喜との衝突
勝は以後は西郷にこそ会いませんでしたが、海江田武次と木梨精一郎(長州人)との両参謀にはしげしげと会って、開城その他のことを折衝しましたが、いよいよ開城は明日と決定した日、それは四月十日のことでした、慶喜にも報告して安心してもらおうと思って、もう日も暮れかけていましたが、池上《いけがみ》本門寺の官軍の先鋒総督府から、上野に向いました。
とっぷり暮れてから上野につきました。慶喜は勝の顔を見ますと、勝が何にも言い出さない前に、
「この頃のその方の骨折りには深く感じている。余が恭順の心を朝廷に徹底させて、徳川家を存続し、また官軍の軍門に単騎おもむいて降伏というような恥辱をまぬかれることが出来、外様藩たる備前に預けられることを免かれ、生家である水戸に預けられることになったのは、皆その方の働きによる。うれしく思うぞ。なおこの上ともに厚く尽力してくれるように」
といって、刀をくれました。
勝はかたじけなさに感泣して、明日の城の引渡しはなかなかの難事だが、決死の覚悟で、必ず見事になしとげようと覚悟しました。
勝が官軍側と打ち合せて決定した方法は、双方からかかりの者だけ数人出て、ごく簡単にやってしまおうというのでした。こんな問題を前もって一般に知らせた上で、重々しくやっては、海陸軍の士官や壮士団隊や諸隊の連中がさわぎ立つにきまっているから、迅雷耳を蔽うにいとまなき底《てい》の果断をもってしようというのだと日記に書いています。
勝はこのことを慶喜に報告しますと、慶喜は顔色を変じ、
「なんという危険なことをするのだ。もしそんなことをすれば、忽ち足もとから災害が勃発するであろう。どうして諸役人にも知らせ、市民にもふれ、兵隊を警《いま》しめ、人を選んで万一の用心をしないのか。そちの処置は甚だ粗暴で大胆である。その上、談判の順序も立っていない。取りかえしのつかないことをしてくれた。余の真心はついに貫徹せずして、たおれねばならぬことになるのか」
と、血涙雨のごとくであったと、勝は書いています。勝が苦心惨澹して、最上であるとの自信をもって決定した方法に満足しないどころか、はげしい非難をあびせかけたのです。
しばしば申して来ました通り、慶喜はかしこい人ではありますが、せんずるところ学校秀才のような人で、盤根錯節に処し得る英雄男児ではなかったのです。末梢的なことがやたら気になってならず、大局さえしっかりつかんでいれば、あとは機変によって適当にすればよいという、はなれわざが見ていられないほど不安になったのですね。
性分ですから、不安になったのはやむを得ないことですが、すでに勝にまかせ切っていることではあり、明日にせまったことなんですから、もうおろおろした様子など見せてはならないのです。人の上に立つものは、驚いた場合にも驚かぬごとく見せかける演技がなければならないのです。
勝はこの慶喜の様子に愕然とし、心も萎《な》えるばかりでしたが、忽ち居直って、昂然として答えました。
「おことばではございますが、恐れながらそれはおあやまりでございます。二月に絶対ご恭順をご決心ありました際、大事にお任じになる人がなく、拙者もまた微力にしてその任にあらずと申してご辞退申しましたところ、上様は無理に仰せつけになり、ついに今日に及んだのでございます。あの節、拙者は申し上げておきました。今日以後、大難事または大変事になりましても、言上してご指令を仰ぐことは決していたしませんから、それをお認め願い上げますと。上様は、もちろんのことであると仰せでありました。それ故に、今日まで、事情をご報告申して、ご指令を仰ぐようなことはいたしませんでした。唯今、明日のことを言上いたしましたのは、上様のご心中を恐察し奉りまして、黙っていることが出来なかったためであります。本来なら、申し上ぐべきではなかったのでございます。拙者はあれこれと決して迷いはしません。拙者のずっと思いつづけていることは、ただ一つであります。それは江戸百万の民を殺すか生かすかということ、ただそのことだけであります。即ち義のあるところをよりどころとして、殺すべくば共に死し、生かすべくば共に生きんと、考えつづけて来たのでございます。これによってことを決し、人事を尽して、成否は天にまかせているのでございます。拙者の心中には、この極所に立って、一点の疑懼がありません。もし少しなりとも疑念が心中に生じますなら冥々の中大いに感触を生じ、迷想百出し、ついに初心を貫徹出来ずしておわるでありましょう。しかし、自ら疑わずんば、貫徹しないことはないものです。歳月は過ぎ易く、人間の心は安逸になれ易く、危を忘れ、難を厭《いと》うのが自然です。しかし、拙者はお誓い申します。臣が胆識は今後十数年間は衰えないでありましょうから、いのちのあるかぎり、必ずわが趣旨を貫徹いたします」
と、どなるがごとく、ののしるがごとく言って、席を立って、大慈院を出ました。
「愁緒痛懐、誰かよくこれを諒せん」と断腸記に書いています。よほど腹が立ったのです。慶喜と勝とのなかは、最後までうまく行かなかったのですね。慶喜は、最後のどたん場であるこの時も、勝以外には事に処すべき者はないとの判断で、勝に任じたのですが、結局はこんな苦情を言ったのですからね。人間の気の合う合わないは、いたし方のないもののようですね。
この時、勝が慶喜に切ったタンカの最後の部分は「解難録」にあるのですが、これは勝の生涯を見通してはじめて意味がはっきりして来ます。
明治三十一年三月、慶喜ははじめて参内《さんだい》をゆるされ、明治天皇と皇后とに拝謁し、皇后のお酌で酒を賜い、くさぐさのものを賜わりましたが、そうなるように裏面で働いたのは勝だったのです。勝が死んだのは、その翌年の正月です。勝を利にさとい、忘恩の徒のように言う人が当時も多数あり、今日もまた相当ありますが、それは勝のことをほんの表面的にしか知らないからだと思います。その生涯を子細に吟味してみますと、この人ほど徳川家にたいして義理堅く、忠誠な人はそう多くはないでしょう。
徳川家処遇問題
軍 艦 献 納
旧幕の陸軍の方は、先章で書いたように、四月十日の夜中から十一日の早暁にかけて江戸を脱走したのですが、そんなら海軍はどうだったかと申しますと、十一日の朝、海軍副総督榎本武揚から、官軍の海軍先鋒総督大原俊実にたいして、
「本日は軍艦をお引き渡しする約束の日でありますが、数日来風波険悪で、士官らの上陸が困難でありますから、明朝まで延期していただきたい」
と、願書を提出しました。軍艦は乗組みの水夫らはつけたまま引き渡すのですが、士官らは船を引き払うことになっていましたので、行李《こうり》なども付属するわけで、風浪険悪ではそれが出来ないという次第です。大原総督はもっともなことと聴許しました。
ところがです。翌日になってみますと、品川沖に碇泊していた旧幕の軍艦七隻は影も形も見えなくなっていました。二通の手紙を、大原総督と官軍軍艦孟春丸の乗組み士官に渡すように手配してありました。二通とも同文です。つまり、この前、海陸両軍の士官から勝|安房《あわ》と大久保一翁とをもってお願いしたことがお取り上げにならないので、一同の気持ちが動揺してならず、万一、不心得なことが出来《しゆつたい》しては申し訳ない故、一同の気持ち鎮静のために江戸湾口あたりに立ち退いて、御沙汰を待ちますという意味のものでした。
当時の徳川家の海軍総督は矢田堀讃岐守(景蔵)で、陸上にあって、いろいろ官軍との交渉にあたっていたのですが、これをおいてきぼりにして逃走したのです。矢田堀と榎本とは意見が合わなかったのだと、勝は日記に書きのこしていますが、考えてみますと、それはおかしな話で、なれ合いの不和だったのでしょう。
ともあれ、官軍は馬鹿にされたわけで、大いに立腹しましたが、昨日まで交渉にあたっていた矢田堀がどこかへ雲がくれしてしまったので、当然、|鋒先《ほこさき》は田安|慶頼《よしより》に向かいます。慶頼はこまって、人をつかわして勝に軍艦を連れもどしてくれるように頼みましたが、勝はことわりました。
「ちゃんと総裁がいますのに、その総裁が取り扱わず、せっぱつまってから拙者に扱えとはどういう次第ですか。さような子供のいたずらめいたことはご免こうむります」
大原総督からは田安へ矢の催促です。ついに東海道先鋒総督は田安に、こんなことでは徳川家の家名相続にも関する、既往は問わないから早く呼びもどして、官軍に引き渡せ、大久保一翁、勝安房へ委任を命ずるから、尽力するよう申しつけよという意味の沙汰書を下しました。
田安は直書《じきしよ》で勝に頼みました。こうなれば、勝も動かないわけに行きません。十六日に船を仕立てて、館山《たてやま》沖に向かいました。ここに旧幕艦隊は碇泊していたのです。榎本らを説得して、七隻の軍艦のこらずを品川沖に連れもどしました。
勝は、官軍先鋒総督と榎本らとの間に立って話をまとめ、とりあえず、軍艦四隻だけを官軍に引き渡すことにし、その運びにしました。富士山《ふじやま》・|朝陽《ちようよう》・|翔鶴《しようかく》・観光です。大体において老朽艦や性能のよくないやつで、優秀艦は渡さないのです。でなければ榎本らが承諾しなかったのでしょうが、勝にしても性能のよい艦はなるべくのこしておいて、徳川家のものにしたかったでしょうからね。勝という人は勤王や佐幕などということより、日本ということを本位に考えた人ですが、それは大局のことで、すでに大局が立った以上、徳川家のためにも出来るだけよかれとまた考えたのです。練達な実際人ですからね。
この交渉にあたった官軍の参謀は海江田武次でした。勝は日記の中で、
「海江田氏、能くその情実を明察し、他のいつはりを容《い》れず、断然御処置に及べり。亦|因《よ》つて美を朝廷に為せりといふべし」
と、海江田をほめていますが、勝としてはほめないわけに行きますまい。しかし、当時の情勢からしますと、ここらが最も適当な妥協線だったでしょう。当時の官軍の持っているものは大義名分という最も観念的な道義だけで、武力も財力も一切不十分で、海軍力と財力とに至っては最も貧弱だったのですから、そう押し強く行けるものではなかったのですからね。
もっとも、やがて八月半ばになって、榎本らは旧幕海軍八隻をひきいて品川沖を脱出して松島湾に入り、さらに北海道に行って、北海道独立国を建てるのですが、榎本らとしてはこの頃から脱出のつもりがあったのでしょうね。
脱走陸軍の関東騒擾
後のことは後のこととして、海軍の方はこれで一応の始末がつきましたが、脱走した陸軍はずいぶん官軍をてこずらしました。
この連中が日光をめざして行くことを偵知した官軍側では、香川敬三を総督府派遣の軍監として、彦根藩兵を主力として他に二藩の譜代藩兵をつけて進発させ、宇都宮城を占拠して、小山《おやま》付近まで兵を出して遮《さえぎ》りとどめようとしましたが、忽《たちま》ちたたき破られてしまいました。翌日また戦いましたが、また敗れました。井伊家の赤備《あかぞな》えといえば、徳川氏が天下を取った頃までは日本の最精鋭といわれたのですが、二百数十年の太平はその武勇を骨抜きにしていたのです。もっとも、装備も悪いのです。昔ながらの火縄銃で、新鋭の洋式銃で装備されている旧幕の伝習兵(兵員は百姓やゴロツキですが)にあたったのですからね。また譜代藩兵として、徳川兵と戦うことに心のひるみもあったでしょうからね。
とうとう、官軍は宇都宮城を脱走兵らに乗っ取られて、古河《こが》へ退却しました。宇都宮の寺には筆頭老中であった板倉|勝静《かつきよ》父子がお預けになっていましたが、官軍はこれを打ち捨てて退却しましたので、父子は脱走兵に擁せられることになりました。
この形勢が変わったのは、急報によって東山道先鋒軍の土佐兵、因州兵、薩摩兵、長州兵らが馳せ向かったことによります。官軍は壬生《みぶ》城攻撃に襲来した脱走兵らを撃退した上、宇都宮城を猛攻しました。脱走兵らは宇都宮城を棄てて日光に逃げこみ、さらに会津方面に去りました。板倉父子も一緒でした。それは四月末日(二十九日)のことですから、脱走兵らは四月十一日に江戸を脱走して、その月中北部関東であばれたわけです。
関東全部がこんな風でしたので、江戸市中もまた不穏でした。でなくても、江戸が不穏であるのは無理からぬことだったでしょう。朝廷は徳川氏を存続することは約束しましたが、どこでいかほど与えるかも、居城が江戸城となるか他のところになるかについても、一切明言しなかったのですからね。市民としては落ちつかないはずです。落ちつかず、何か投げやりなヤケクソなものがそこにはありますから、当然、各種の犯罪が盛行するわけです。占領軍である官軍兵が戦勝者の傲慢から横暴であったことも考えられます。彰義隊などはこの空気の中に生まれるのです。
西郷はこの有様を見て心を痛めました。
「これを救う方法は、早く徳川家にたいする処分を決定するにある。これがある程度彼らの満足する線で決定するなら、旧幕臣らの心も落ちつき、江戸の人心も落ちつく。それをせんでおいて、武力だけで圧伏しようというのは道でない。効果もない」
と考えたのです。
西郷は四月二十六日、事情を朝廷に訴えるために大総督府参謀林|玖十郎《くじゆうろう》(宇和島藩人)を京都に急派しましたが、二十八日には自ら藩の汽船豊瑞丸に乗って、二十九日に出帆、大坂に向かいました。二十九日といえば、勝の骨折りで軍艦四隻が官軍に引き渡された翌日であり、また日光から脱走兵らが会津に去った日です。もっとも、この脱走兵に関する報告は、もちろんまだ西郷には届いていなかったでしょう。
この西郷のことはしばらくおきまして――。
西郷が江戸を去って三日後の閏四月二日、大総督府は勝に、
「自分の意見を忌憚なく率直に申しのべよ」
「江戸鎮撫万端の取り締まりを委任する」
という二通の委任状を下賜しました。
こんなことを大総督府がしたのは、江戸市民の不安、旧幕臣の不安、ずっと続いている旧幕兵の脱走騒ぎ、市中の秩序の乱れなどが少しもおさまらず、官軍が手を焼いたためです。官軍は不安と治安の乱れの原因をつくりっぱなしにして、その原因を少しも除去しないのですから、おさまる道理はないのです。しかし、勝なら何とかやるだろうと、白羽の矢を立てたのでしょう。海江田あたりの発意でしょう。
委任を受けて、勝は思い切った手を考えました。慶喜を江戸近郊に呼びもどし、そこらの寺で謹慎させるがよいと建議したのです。
もし勝のこの議がいれられて、慶喜の江戸還住が許されるなら、たとえ慶喜が蟄居謹慎していても、江戸の人気はおちつき、家臣らも大方はおちつくことは間違いないでしょう。勝は徳川氏譜代の臣ですから、主家のためにはかるのは当然なことで、この建議においてもそれは大いにあったに相違ないでしょうが、そのためばかりでは決してなく、いつまでも江戸を中心とする関東一帯を不安定な状態におくより、こうする方が日本のためでもあり、官軍のためでもあると、心から考えたのでしょう。
しかし、官軍側にあって、官軍本位にしか考えることをしない人々が、勝の心理を疑惑したのは、これまた当然のことです。何よりも、朝廷が御親征という名で官軍をくり出して折衝し、厳命したことを全部取り消しにすることであり、ここまで積み上げて来た官軍――革命軍の威厳を一挙にして無にしてしまうことだ、図々しい男め、足もとを見てやがると、思ったでしょう。それは大村益次郎、佐賀藩の江藤新平、土佐藩の小笠原|唯八《ただはち》などという人々でした。
この三人は、西郷が京都に上ると入れちがいくらいに京都から下って来たのです。大村は軍務局判事、江藤、小笠原は岩倉から軍監に任命されて来ました。大村は戦争にかけては天才ですが、人柄は今日のことばで言えば極端な合理主義者で、数学と三段論法でしかものを考えない人で、西郷のように精神の美や情義の温かさを人間世界の重大な要素とする人間は彼の理解を絶しました。江藤、小笠原はその出身が、維新革命戦争においては薩・長両藩にくらべて常に一、二段おくれているのが、残念でならず、何とかして薩・長と鼻面をならべる地位を得たいとあせりにあせっていたのです。ですから、三人とも、西郷を頂点とする薩藩出身の人々のやり方に否定的批判を抱いていたという次第です。
勝は最も鋭敏な頭脳の持ち主ですから、官軍部内にこんな考えのあることは百も承知です。屈せず運動をつづけ、閏四月五日には西の丸の大総督府へ出頭して、前日提出した建白書にたいする説明をくりかえして、決答をもとめました。
応対に出たのは海江田武次でした。海江田は勝を尊敬していますから、その建議には相当心を動かしていたとは思われますが、
「事は重大でござれば、京都へお伺いの上でなくては、御決答遊ばすわけに参りません」
と答えました。
当然の成り行きというべきでしょうが、勝はあきらめません。別方面から運動をつづけます。田安慶頼を通じ、また静寛院宮を通じて、懇願をくりかえしたのです。後で述べますが、西郷が江戸に帰って来ますと、西郷にも試みるのです。執拗《しつよう》驚くべきものです。
勝は当時の幕臣にも、後世の人にも、また現代の一部の人にも、利にさとい不潔な徒と見てきらわれていますが、そういう人々は江戸城明け渡しをごく表面的に知っているだけで、その後、勝がこんなにも熱心、執拗に慶喜のために尽くしたことを知らないのです。勝は慶喜とは終始合いませんでしたが、それでもこんなに尽くしているのです。
三様の処遇案
西郷が大坂についたのは、閏四月四日でした。当時大坂には天皇が、慶喜親征の名目で行幸されていて、先々月の三月二十三日から駐輦《ちゆうれん》しておられまして、小松|帯刀《たてわき》、吉井幸輔らの薩摩人らも供奉《ぐぶ》して滞在していました。
この時西郷が胸中に抱いていた案は、徳川氏の封地は百万石、家督は田安亀之助(慶頼の子、後の徳川|家達《いえさと》)につがせ、江戸城を居城としてあたえると、大体こうだったようです。
百万石は大封ですが、多数の家臣もいることだし、これくらいはなくてはどうにもならないだろうと思ったのでしょう。西郷はこの考えを小松と吉井とに語って、意見をもとめました。両人とも賛成したようです。
この時、木戸孝允も大坂に来ていました。木戸は藩内に重要な用件があって帰国の途中の滞坂でした。西郷はこれには江戸から同じ汽船で帰って来た長州人山県狂介と福田侠平とに頼んで相談させました。西郷は直接には会っていません。大坂には一泊しただけで、五日の朝の三十石船で上京の途についています。単に忙しかったからで、別段の理由はないようです。
西郷が京都につきますと、徳川氏処遇についての朝議がはじまりましたが、なかなか決定しません。そのうち天皇も京都に還幸されて、各藩出身の参与らも帰京して来ましたので、また評議しましたが、やはり決定に至りません。
朝議は三案をめぐって評議されたのです。
第一案は西郷提出のもので、百万石、居城は江戸、なるべく早く決定すること。
第二案は大久保一蔵案で、七、八十万石、ただし江戸は東京として、京都とともに日本の両都の一つとする。従って徳川氏の居城にはしない。当分のところは申し渡しだけにして、実際にどこを与えるかは、あとで田安亀之助がお礼参朝するまでに考えておく。
第三案は木戸説で、七十万石、やむを得ずんば別に田安家に二十万石あたえて独立の大名とする。徳川氏を分けることは将来制し易からしめるためである。今は革命進行中であるから、急いできめる必要はない。(木戸は上京して来ず、文書で言ってよこしたのです)
いろいろありましたが、最後に決定しましたのは、
「太政官代副総裁の一人である(もう一人は岩倉具視)三条実美が江戸に下って、実地を見た上で処置する。処置ぶりは三条に委任する」
というのでした。
閏四月十一日に、西郷は三条とともに大坂に下り、ここでまた豊瑞丸に乗って、十七日出港、二十三日に江戸につきました。
勝は、西郷が帰って来たと知りますと、二十五日にはすぐまた建言しました。これは徳川氏譜代の大名や旗本でありながら官軍に所属して東下して来た連中に褒辞《ほうじ》を賜わったのは道義上、大いに問題であると論難し、このように利にさとく道義のわきまえのない者が、どうして皇国のために忠誠を励む道理があろうかときめつけ、君臣の義理を重んじて主家と存亡を共にせんと決心した者共こそ、他日皇国のために忠節を抽《ぬき》んずべき者に相違ないから、格別な御恩情をもって彼らから没収されている知行地をお返しいただきたいという趣意のものでした。
さらに二十八日には、西郷だけにあてて、箇条書にした書面をさし出しました。
「第一、今は田植時なのに、民はその暇がない。かくては東三十余国は飢えるであろう。民が亡んでは国は成り立たない。民というものは常に目前の生活だけを考えているもので、遠い将来のことなどは顧みる暇のないものであることを考えられよ。
第二、慶喜を江戸近くへ呼び返し、譜代大名や旗本から没収された知行地を返還されよ。それは国家|安堵《あんど》の途である。
第三、朝廷新政の費用を徳川氏の領地の租入だけに求めるのは愚策である。それでは官人の俸給にも足りない。陸海の軍備など出来はしませんぞ。徳川氏の罪をゆるして、領地をそのまま下さるなら、徳川氏は当然いくばく万石かを朝廷に献上する。そうすれば、諸大名もまたこれにならって石高に応じて献納するであろうから、十分な費用が出来るはずだ。
第四、一家不和を生ずれば一家滅亡し、一国不和なればその国滅亡す。海内の人心を離反させてはどうにもなりませんぞ。
第五、列国の使臣らは徳川家にたいする朝廷の処置如何を凝視している。一旦不正の処置あらば、それは瞬息の間に世界中に知れわたりますぞ。御深慮あれ」
この書面に、西郷がどう反応したかはわかりませんが、無感動であったろうとは思われません。不在中に提出された勝の建白書も読み、色々考えるところがあったに違いありませんが、しかし、諸般の情勢上、それを表示することが出来にくかったと思われます。諸般の情勢とは、内にしては大総督府内に新たに加わった大村益次郎他二人であり、これと気脈を通じている諸道先鋒総督参謀らです。倒幕武力の中心であり、今や官軍武力の中核を為す薩摩勢力にたいする嫉妬と警戒とが、官軍部内にひろがりつつあったのです。また外にしては彰義隊の跋扈《ばつこ》が日に日にひどくなりつつあり、同時に奥羽地方、北越地方の情況がおかしくなりつつあったのです。
彰義隊と維新戦争
薩摩の占領方式にたいする反対
三条実美は、西郷とともに江戸へ着いて六日目の閏四月二十九日に、田安慶頼に朝命を達しました。
「慶喜伏罪の上は、徳川の家名相続のことは、祖宗以来の功労を思し召されて、格別の叡慮をもって、田安亀之助へ仰せつけられる。但し居城・領地・禄高等のことについては、追って仰せ出される」
というのです。これだけでも言い渡しておけば、士民の心がいくらかでも安堵するだろうというのだったのでしょうが、何の足しにもなることではありません。これについては、勝や大久保一翁も内心は不服だったでしょう、この日の勝の日記に、「旗本らは疑念して、或は憤激して、大事を誤らんとしている。朝廷では策謀をめぐらして、わざとわが徳川家中の動静如何を観察しておられるのであろうか」と書き、彰義隊の動静をひどく心配しています。西郷もまた不服で、いろいろ憂慮したに違いありませんが、前に述べたような事情で、それを表明することは、官軍側の結束を破る恐れがあったのでありましょう。
それでも、西郷は勝、大久保一翁、山岡鉄太郎などの人柄と手腕とを信じて、その人々によって平和裡に事をおさめる方針でいました。三人もまた西郷の信頼にこたえるべく、懸命に努力をつづけたのですが、彰義隊の暴悪は日にまし募って来まして、官軍内部においても薩摩方策にたいする否定的意見が次第に盛んになって来ました。
薩摩人らが武力に訴えるのを避けて、勝らの平和的説得に期待したのは、当時の在江戸の兵力が不足していたためもあります。上野の山にこもっている彰義隊と諸隊の兵は二千数百人もあるのに、官軍は越後や関東北部に出ていて、江戸には三千人くらいしかいませんでした。しかもその大部分は装備も旧式で、戦意も乏しい諸藩兵で、官軍中の精鋭ともいうべき薩・長兵は千二、三百人くらいしかいなかったのです。武力で討伐するには二万人は必要だろうという計算が立つのに、これでは何ともいたし方がない。せっかく無血で開城が出来、百数十万の市民を安全ならしめた江戸の町は、戦火によって灰燼《かいじん》に帰し、市民もまた惨死するもの数十万に至る危険があると思われたのです。
彰義隊とは?
ここで、彰義隊のことに触れるべきでしょうな。彰義隊は、そのはじめは元の一橋家の家中の有志の団体でした。慶喜が朝敵の汚名を蒙《こうむ》り、徳川の家名の存続すらおぼつかなくなった時、一橋家の有志らが尊王恭順有志会という名をつけて集まったのが最初です。二月十二日に第一回の会合があったといいますから、慶喜が心から恭順する決心をかためて、上野の大慈院に入った日ですね。
尊王恭順有志会という名称は、官軍をごまかすためでもあったでしょうが、全然のごまかしでなく、尊王恭順というのは慶喜のモットーですから、それに則《のつと》ったのでもあったでしょう。ほかに彰義隊という名称もつけて、この方が有名になりましたが、これは慶喜の尊王の義心を顕彰するという意味からのものです。会合を重ねているうちに、次第に人数がふえて、一橋家の家臣だけでなく、旧幕臣、諸藩の浪人、百姓出の浪人らも馳せ加わりました。
百姓出の浪人ということばはおかしいですが、幕末から維新時代にかけては、百姓や町人で武士の服装をし、武家浪人のようにふるまう者が大へん多かったのです。早い話が新選組の連中のほとんど全部がそうでしょう。長州の奇兵隊の連中もそうです。新徴組の連中も大部分はそうです。武士になって二本差したいというのが、その頃の日本の男のあこがれで、それが世の秩序の乱れに乗じてワッと実行されたといってよいでしょう。
彰義隊の頭取に選ばれたのは渋沢成一郎、副頭取は天野八郎です。渋沢は明治時代の先覚的実業家栄一といとこ同士で、元来は武州の富農の家に生まれましたが、両人ともはやりの尊王攘夷論にかぶれて、故郷を飛び出して浪人運動をしている間に一橋家の重臣平岡円四郎に知られ、両人とも一橋家の家臣となり、慶喜が将軍になったので幕臣になったのです。天野八郎も上州の農家の出身です。これも故郷を飛び出して浪人運動している間に、幕府の終焉《しゆうえん》に会い、この運動に飛びこんで来たのです。
彰義隊は結成されると、徳川家に運動して公認され、江戸市中の秩序維持の任務を受け持たされることになりました。これは官軍の江戸進駐以前のことですから、こんなものが必要と思われたのですね。しかし、もし勝が徳川家の政治を全面的に見ることになっていたら、恐ろしいほどの推理力と洞察力を持った人ですから、決して許しはしなかったでしょうが、凡庸な役人は常に当面のことの糊塗《こと》に精いっぱいで、将来それがどういうものになって行くかなどは決して考えないのです。ともあれ、徳川家によって公認されたということで、隊員はまた飛躍的に増大しました。
彼らは慶喜守護のためと称して、宿舎を上野山内に移しましたところ、上野の宮様(公現法親王・後の北白川宮能久親王)に供奉して駿府《すんぷ》の総督府に嘆願に行って帰って来た覚王院義観は官軍のあしらいがすげなかったというので、骨に徹するばかりの怨みを抱き、彰義隊士に反官軍論を説いて鼓舞激励し、山間の子院《しいん》全部を宿舎に提供しました。隊士の意気はますます上がり、参加するものは日々にふえました。彰義隊はもちろんですが、その他に譜代諸藩士の隊、浪士隊、ゴロツキ隊、われもわれもと集まり、勢いの趣くところ、官軍に反抗的に出、錦片《きんぎれ》切りと称して官軍の兵士らを殺傷するようになりました。
この頃、頭取の渋沢成一郎は隊を離れました。渋沢は慶喜の水戸退去を機に、上野は兵を用うるところではないから、日光に移動しようと言い出しましたが、当時隊内ではやがて隊士らは両御番格《りようごばんかく》に任命されるだろうという流言が行なわれていましたので、せっかくの出世の機会をなくするとて、江戸を離れることをいやがる隊士が多かったので、かねて渋沢を蹴落としたいと思っていた天野はこれを利用して、渋沢排斥を企て、渋沢はついに脱退しました。一橋家の家臣らはいや気がさして、相ついで脱退しましたので、隊は結成当時とはまるで別ものになってしまいました。
人間というものはあさましいものです。徳川家が亡滅の淵に臨んでいるというのに、大部分のものが両御番格になりたいという料簡でいたのですからね。彰義隊を純粋に忠義や節義による集団と、世間の多くの人は考えていますが、内実を洗うと、義に勇むのか、利に勇むのか、はなはだ不分明です。
それに、彰義隊のばかげた反抗や乱暴のために、徳川家は七十万石にされてしまったのです。こんなことがなければ、百万石もらえたはずなのです。彰義隊などのような、血気の勇による義にはやるだけで、知恵と見識のない者のすることは、いつの時代、どんな場合でも、こんなことになるのです。我々は銘記しておく必要がありますね。
勝と大村益次郎
彰義隊の反抗と乱暴が募って来ましたので、官軍側もしだいに険しい気持ちになったのですが、それでも可能なかぎりは平和的手段で解決する努力をつづけました。その中心は西郷です。西郷は、勝・大久保・山岡らの斡旋《あつせん》に期待しつづけました。三人とも努力のかぎりを尽くして、覚王院にも会い、隊長らにも会って説得につとめたのですが、全然効果がありません。一体、彰義隊といい、諸隊といい、この頃ではもう質がわりして、優秀分子はぬけてしまって、単に騒ぎ好きなくだらん連中だけがのこっていたのですから、本質は烏合《うごう》の衆にすぎません。従ってアミーバのようなもので、急所のない、まことに始末のしにくいものとなっていたのです。
効果のないことは以上のようでしたが、西郷が信頼してやっていることなので、大村も、江藤も、小笠原も、その他の批判者らも、はかばかしく反対は出来ないでいました。しかし、やがて彰義隊の乱暴が彼らの我慢の堰《せき》を切ってしまいました。
その乱暴の実例。
薩藩士三人が上野近くを遊歩中、彰義隊士十人ばかりに包囲され、山間に拉致《らち》されようとしました。薩摩人らはもちろん拒否します。ついに斬り合いになりました。薩摩人らは大いに健闘して彰義隊士らを斬り立てましたが、敵側に応援三十人ほどが馳せ加わりましたので、どうにも出来ず二人を斃《たお》し、六人に傷を負わせ、一人は乱刃の中に斬死にし、一人は切腹し、一人は鉄砲で胸を射貫かれて死んだのです。
同じ日でした。佐賀藩兵の一隊が江戸を出て宇都宮方面に向かいました。これに遅れた藩士二人があとを追って駕籠で上野附近を通過する際、三人の彰義隊士が飛び出して来て、一人を斬り、一人に重傷を負わせました。重傷者は辛うじて脱出し、本隊に追いついて訴えましたので、佐賀隊は引き返して討ち入ろうと犇《ひし》めきましたが、総督府はこれをさしとめ、予定の通り宇都宮に向かわせました。
以上の両事件はともに五月七日にあったことですが、これ以外にも同様なことは頻々《ひんぴん》とありました。いずれにも共通していることは、彰義隊側がいつも多数をたのんで殺傷したことで、当時の武士の感情からすれば、最も武士らしからぬ卑劣千万なことだったのですが、人気というものはおかしなもので、江戸の市民らは心ひそかに喝采《かつさい》し、吉原の遊女などは彰義隊士を情人に持つことを誇りにしたというのです。うかうかすると江戸中がまた戦禍にたたきこまれ、灰燼になるかも知れない危険なことですのにね。江戸人の浅慮で浮薄で、思慮らしいものの全然欠けている性質のいたすところでしょうな。江戸はそのはじめから武士――大名・旗本が地方の農民を搾《しぼ》り上げて持って来た金を消費することによって、おそろしく巨大にふくれ上がった、純粋消費都市で、生産ということをまるで知らない、享楽一本槍のところでしたから、住民らにも着実で健康な性質が育たなかったのですね。このなごりは今日の東京にも伝わっています。今日日本の文化が東京が中心になっていることは、この意味でよいとは思えません。
さて、こういうことで我慢出来なくなったのでしょう、大村は西郷に無断で、勝の家に兵をさし向けて家宅捜索をさせました。いやがらせです。勝の不在を狙ってやったのですから、ゼスチャーにすぎないのですが、もうお前とは縁切りだぞ、官軍はお前を信用していないぞという意思表示だったのですね。勝にとって、大村という人物は大の苦手だったようです。大村はこの翌年九月に京都で攘夷浪士らに暗殺されるのですが、勝は生涯大村のことをよくは言っていません。そのくせ、大村の手腕は大へん高く買っているのです。第二次長州征伐の時、「長州には村田蔵六(大村の前名)という傑物がいるから、幕軍は勝てはしないよ」と言っているのですからね。要するに、西郷と勝とはよく音響が調和して最も見事な諧音を奏《かな》でることが出来たが、大村とは不協和音しか出なかったということになりましょう。人と人とが合う合わないは、最も微妙なものがありますね。
上 野 戦 争
勝の家にガサを入れたのは五月一日のことですが、まもなく大総督府で軍議がひらかれました。武力討伐を主張する大村らの意見を検討しようというのです。海江田武次は、兵が不足しているから、武力討伐は不可能であり、強行すれば危険であると主張しましたところ、大村は、「今の人数で十分戦争出来ます。拙者が請け合います」と言ったばかりか、海江田を指さして、
「あの人は戦《いくさ》というものを知りません」
と申しました。大村という人は、こんな風に時々人の顔を逆撫《さかな》でするようなことを言う癖があるのです。最も剽悍《ひようかん》な薩摩|隼人《はやと》をもって自任している海江田はかんかんに立腹し、列席の公卿達は皆顔色をかえてふるえ上がりましたが、西郷が海江田をなだめました。
「大村先生がああ言われるのでごわす。御自信がありなさればこそのことでごわしょう。上野もあのままではおけんところまで来てしもうた。大村先生の御意見に従いもそよ」
これで、武力討伐が決定しまして、西郷からこれが勝や山岡に告げられたのは五月十四日のことでした。戦争は明十五日というさしせまった時です。勝はこの十四日に、彰義隊が守り本尊として擁している公現法親王に書を奉ってすでに官軍側では徳川家の相続者を任命したのですから、不日に城邑《じようゆう》・領国のことも仰せ出されるでありましょう故、虚妄の浮説に惑わされ給うことなく、官軍を信じておんみずから大総督府に参上なさり、大総督宮と御直話《ごじきわ》なされよ、それだけが彰義隊の者共と江戸市民らとを無辜《むこ》の死から救う唯一の途であると上申しましたが、もちろん一顧もされません。宮は当時やっと数え年二十二というお若さでありましたし、何よりも覚王院や彰義隊士が、実質的には軟禁していたのですから、御自分の御意志はないにひとしかったのです。
すでに武力討伐ということに決定しますと、西郷は官軍参謀の最高位にありながら、一切の指揮権を大村に譲って、その指揮下に戦うことにしました。海江田はじめ薩藩士らは大不服だったのですが、西郷はそんな世間的序列などには少しもこだわらないのです。人々をなだめつけました。
かくて、大村の作戦で、十五日早朝から、上野の山の包囲攻撃がはじまりました。山岡は十四日に西郷から上野討伐のことを知らされまして、その夜は眠れません。居ても立ってもおられず、深夜、大塚の自宅から上野に行って、山間の諸隊長らに会おうとしましたが、面倒と見て皆面会を避けます。それでも、奔走して、説きまわりましたが、後年彼の記したものの表現によりますと、右を説けば左が乱れ、左を鎮めれば右が乱れるという風で、手のつけようがなく、ついに嘆息して、払暁、山を出て、上野の仲町まで出ますと、すでに背後の山間では戦がはじまっていたというのです。
この日は朝からの大雨で、雨の中で激戦が行なわれました。山内の諸隊ははじめは勇敢に戦いましたが、不忍《しのばずの》池《いけ》ごしに本郷台から打ちこむ佐賀藩のアームストロング砲二門の威力がすさまじく、たった六発で山内の堂塔を破壊し炎上させますと、たちまち気力を失い、散々《さんざん》になって逃げ出しました。勇敢であったのははじめのうちだけで、敗勢になってからはまことにいくじのないものだったそうです。指揮者だけが最先に進み、ある地点まで行ってふり返ってみると、一兵もついて来ていなかったことが一度ならずあったというのです。頭取の天野八郎が後捕えられるまでに記録した「斃休録《へいきゆうろく》」に、「我、徳川氏の柔極まるを知る」と嘆息しています。三百年の太平が徳川の直参武士らを惰弱にしてしまったことは申すまでもありませんが、それだけではありますまい。由来、ことに先立って、肩ひじ張って喋々《ちようちよう》と勇ましげなことを言うやからは、かんじんな時には役に立たないものなのです。私は勝が慶喜に、「およそ関東人の気風として、激情的であります。一旦の怒りに生命をなげうつ者は多くございますが、従容として大道を踏む者は至って少のうございます」と、抗戦が決して長くは続けられないことを言ったと書きましたが、勝の曇りなく鋭い目には、万事がはっきりと見えていたのですね。
ともあれ、彰義隊戦争は一日で片づいてしまいました。心配されていた火災も、大村の見事な戦術によって、上野山内と下谷のごく一部分だけですみました。公現法親王は上野を落ちられ、しばらく市内を転々としながら忍んでおられましたが、最後には会津へ落ちて行かれました。
この戦いがすんで九日目、朝廷は徳川亀之助を駿府城主に任じ、石高は七十万石を給すると申し渡しました。彰義隊の暴勇狼籍が百万石から七十万石に減少させたことは前に述べた通りです。ばかなことをしたものです。
この後、越後や奥羽の平定作業がありましたが、それも会津の開城、引き続いての庄内藩の降伏によっておさまりがつきました。そのあと、会津から脱走した旧幕臣と、八月半ばに榎本武揚にひきいられて東京湾を脱走した徳川氏艦隊とが合流して箱館に行き、北海道独立国を建設しましたが、やがて官軍の追討を受けて、翌明治二年五月に降伏しましたので、維新戦争は全く終息したことになります。
維新後の勝
以後の勝は、彼の力量才幹からしますと、不遇であったとしか言えません。廃藩置県までは駿府に行って徳川家の大参事(昔の家老)として徳川家の政治を執っていましたが、家臣の数は多いし、封地は七十万石にすぎないし、ずいぶん難儀なことだったでしょう。そうでなくても、彼ほどの人物に七十万石程度の藩の政治をとらせるのは、鶏《けい》を割《さ》くに牛刀《ぎゆうとう》を用いるようなものです。男が手腕にふさわしい働き場を得ることが出来ないのは最も不幸といってよいでしょう。あるいは苦笑し、あるいは悲しんでいる様子が見えるようです。
明治四年の夏廃藩置県が行なわれて、旧大名らは皆江戸改め東京に移住することになり、徳川亀之助改め家達も東京住まいとなりましたので、勝も東京に帰って、昔邸のあった赤坂氷川町に住むことになりましたが、言わば浪人で、不運感があったと思われます。
明治六年秋に政府部内に征韓論の論争がおこりました。私はこれを今日一般に考えられているように外征派と内治派との争い、あるいは保守派と進歩派との争いとは見ていませんが、それについては今は述べません。ただ、この論争のおこる前に、一時西郷を遣韓大使として朝鮮に行かせる旨の勅許が出ているのですが、その頃にはもう勝は東京の住民になっているのですから、折々西郷を訪問したり訪問されたりしていたと思います。勝は幕末の頃から、欧米人の東亜侵略を防衛するには、日本一国の力では及ばない、日本・中国・朝鮮の三国が攻守同盟を結んで、共同防衛すべきであるという考えを抱き、幕府当局にも説いていたのですが、この考えは彼の執念となって死に至るまで抱きつづけています。
ですから、この時期に西郷にこれを説き、
「いい機会です。あんた一つやって見ませんか」
と説いた可能性は大いにあると思うのです。現在のところはこれはまだ証拠はありませんが、今後勝の研究が進んで、勝家にまだ大量にのこっている文書がすっかり解読されたら、きっとたしかな証拠が出て来るであろうと、私は信じています。
現に西郷の親友の一人であった黒田清綱(清輝画伯の養父)は、後年こう言っています。
「朝鮮を征伐するなどという考えは西郷には全然なかった。遣韓大使のことがきまった頃、西郷はわしに、朝鮮での用はすぐすむから、その足で北京に行き、さらにペテルブルグに行ってきますと言った」
三国の攻守同盟を結んだ上で、当時最も危険と思われているロシアに釘をさしに行くつもりだったことは明らかだと、私は思っています。もし西郷にその意図があったとすれば、その出所は勝であると見るのが最も妥当だろうじゃありませんか。
不幸にして、西郷は論争に破れて政府を去って薩摩に帰ってしまいました。その後の政府は見る影もなく痩せ細った軽量内閣になりましたので、重みをつけるために、勝を参議兼海軍卿に補したのですが、西郷が政府にいれば、勝を全面的に信頼して、思うがままに手腕をふるわせもしたでしょうし、場合によっては首相的地位につかせたかも知れません。西郷は紀州藩士津田譲の才幹を最も買ってこれを首相にし、自分らはその下に立つことにしようと発議したことがありますから、私はこう言うのです。しかし、大久保にしても、木戸にしても、それほど度量の広い人ではありません。閥外の、しかも旧幕臣出身であるというこだわりを捨て切れず、伴食《ばんしよく》大臣にとどまるあつかいだったと思われます。だからでしょう、明治八年の四月にはもうやめています。
以後、元老院議官に任ぜられたり、枢密院顧問官に任ぜられたりしていますが、彼の気持ちは浪人のつもりだったのでしょう、一種の評論家的生活態度になっています。客があれば政治を論じ、外交を論じ、人物論をし、歴史を論じてやまないのです。同時に飽くことなく西郷を賛美し、その思い出を語りつづけました。そこには飽かずして別れ去った恋人を思ってやまない人の趣さえ感じさせます。西郷こそ、彼に働く場をあたえ、思うがままの仕事をさせてくれた男だったからでありましょう。英雄児の恋ともいうべきものでしょうな。
終始相合わなかった慶喜のために尽くし、天皇・皇后両陛下に拝謁させ、その翌年には死んだことは、前に述べました。
勝の生涯を見渡して感ずることは、勝という人はいかなる場合にも、根本を忘れず、その根本の立場から見て判断を下し、その判断によって行動した人であるということです。勤王といい、佐幕(公武合体)といい、本来は日本の国を愛し、その存立を確保するための手段にすぎないのですが、世間はそれが手段であることを忘れて、目的そのもののように考えこみ、その立場から一切を判断しますので、同じ日本人でありながら仇敵のように憎み合い争闘し合いました。しかし、勝は決して根本を忘れなかったので、その目はいつも澄み通っていて、人の数倍も先が見えたのです。つまり、常に醒《さ》めた人だったのですね。
[#改ページ]
源 頼 朝
頼朝嫡子説にたいする疑問
頼朝は清和源氏の嫡統となるべき天命をはじめから持っていたということに、古来考えられています。その最も古いものは、平治物語です。
平治物語は、平治の乱の時、義朝もその子供らも、源氏に家宝として伝承されている八領の鎧《よろい》のうちの「楯無《たてなし》」「八龍《はちりよう》」「沢瀉《おもだか》」「源太が産衣《うぶぎ》」をそれぞれ着たが、頼朝の着た「源太が産衣」は八領中最も貴重せられて、嫡流でなければ伝承しないことになっているものだと記述しています。
「昔より嫡々に相伝せしかば、悪源太こそ伝へ給ふべきに、三男なれども頼朝授かり給ひけるは、終《つひ》には源氏の大将となり給ふべき験《しるし》なり」
というのが原文です。
この文章はまことにあいまいな書きぶりをしています。「源太が産衣」を頼朝にくれてしまったと読みとれるような書きぶりをしていますが、実際はくれたのではなく、単に着せただけです。戦さがすめば、脱がせて、また家の宝としてしまっておくのですからね。それをこんな書きぶりにしたのは、頼朝が天下を平らげ、天下の大将軍となり、清和源氏の長者(|氏《うじ》の上《かみ》)となるべき天命の人であったということを、読者に信じさせたいためと思われます。しかし、精密に読めば、ごまかしの文章であることがよくわかるはずです。
「源太が産衣」が清和源氏の嫡流の家に伝承され、家宝とされていたことは事実でしょう。保元物語にも、
「源太が産衣と膝丸《ひざまる》(刀の名、やはり平治の乱の時、頼朝が佩《は》かされた)とは嫡々に伝ふることなれば、雑色花沢《ざふしきはなさは》して下野守《しもつけのかみ》(義朝)の許につかはしけり」とあるのですから。
こんな次第ですから、平治の乱の際、頼朝は悪源太|義平《よしひら》という嫡子がいるのに、それをさしおいて、頼朝にこの鎧を着せたのは、やがては頼朝に家を伝える心があったからであると考えてもいいようですが、この鎧の由来を考えますと、いささか疑問があります。
元来、この鎧は八幡太郎義家の父頼義が、義家のために縅《おど》させたものです。頼義の時代に小一条院といわれている宮様がありました。本名は敦明《あつあきら》親王といって、三条天皇の皇子です。一たんは後一条天皇の皇太子に立てられましたが、御堂《みどう》関白道長が自分の娘の生んだ後朱雀《ごすざく》天皇を立てることをはかりましたので、敦明親王は自ら太子の地位を去られました。道長は親王のお心づかいに感謝し、気の毒にも思いまして、上皇に准ずる待遇をすることにはからって、小一条院という称号を奉ったのです。頼義はこの小一条院と主従のなかでありました。
当時の武士は、すぐれた武力と豊かな財力は持っていても、身分はまことにひくく、有力な公卿《くげ》や宮家《みやけ》と主従の関係を結んで、その爪牙《そうが》となっていました。荘園関係のことや家ノ子・郎党らの利益を保護してもらうために、朝廷へ顔のきく宮廷人が必要だったためです。主従とは、普通には主が従に財物を給付し、従が主に忠誠を尽くして勤仕することによって結ばれる人間関係のことですが、この時代の宮廷人と武士との主従関係は、財物はかえって武士の方から献上しています。財物はたんと持っているのですから、もらったって有難くないのです。ですから、つまり、武士は財物と武力をもってつかえ、宮廷人は武士のためにいろいろな場合に朝廷方面に顔をきかせて、官位をもらってやったり、利権の多い地方の国司に叙任させたり、武士の領地(荘園)の利益を保護したりすることによって、成立っている主従だったのです。
家人《けにん》としての武士はまことに忠実なものでした。主人の敵としている者にたいしては、命知らずに、猛犬のように攻撃的に出て行くのです。是非善悪にかまいなく、ひたすらに忠誠であるところは、後世の我々をして感心させるどころか、その没理性的なことにあきれ返らせ、不愉快にさえならせるほどです。
話が少々横道に入りました。本へ返します。
さて、頼義はこの小一条院の家人となり、どこへ小一条院がお出でになる時にも随従して、厚く信任されました。二人のことについて、白河法皇のいわれたことばが、古今著聞集《ここんちよもんじゆう》第九に出ています。
「小一条院は少し足りないお人がらであったが、源頼義という者を常に従えておられたので、人々は大へん恐れはばかった。身分高い人は、しかるべき武士を信頼して従えているべきものである。まろにはそちがいるからよい」
というのです。「そち」というのは、白河院の信頼しておいでであった武士平忠盛のことです。
八幡太郎義家は、この頼義の長男ですが、それが二つになった時、小一条院が、そちの子を見たい、と所望されましたので、頼義は新しく鎧をおどさせ、その鎧の袖に義家をのせて、見参《けんざん》に入れました。この由来で、この鎧は「源太が産衣」と名づけられたというのです。鎧は、胸に天照大神、八幡大菩薩という文字を鋳つけ、左右の袖には藤の花の咲きかかっている様《さま》をおどしたものであったそうです。
御承知の通り、八幡太郎義家は、源氏代々の人の中で、武勇も、功業も、人物も、位階も、人望も、最もすぐれ、天下の武士が仰いで、生きながら半神的英雄と尊崇していた人ですから、「源太が産衣」が、清和源氏の嫡流の家の宝として伝承されたことは、大いに納得出来ます。
(ずっと以前、私は義家が当時の人々から半神的英雄と思われていたと書いたことがあります。そしたら、その頃、評論家で、歴史に関する著述もある人が、私のこのことばに文句をつけました。今日でも疑問とする人があるかも知れませんから、念のために私の論拠をあげておきます。
一、義家は常に堀川左大臣の許にすごろくの相手にあがっていたが、ある日寝殿でいつもの通りすごろくの相手をしていると、突然一人の狂人が刀をぬいて館《やかた》に走りこんで来て、寝殿の南庭に侵入して来た。義家は、
「義家がいるぞ! まかりとどまれ! まかりとどまれ!」
と呼ばわったが、狂人はなお狂いまわってやまない。義家は従者を呼んで、わしがいることを申し聞かせてやれと命じた。そこで従者が、
「八幡殿の御座ぞ。まかりとどまれ」
と呼ばわりますと、狂人は忽ち静かになり、刀を投げすてて、おとなしく縛られた。――古事談第四)
一、白河法皇が毎夜ものの怪《け》に襲われ給うので、義家に持弓《もちゆみ》を所望された。義家は檀《まゆみ》でこしらえた黒塗の弓を献上した。院はそれを枕辺におかれたところ、ぴたりとその夜から襲われ給うことなく、御安眠であった。――古事談第四)
さて、「源太が産衣」はこのようなものではありますが、義朝が頼朝に着せたのは、単にそれが子供用のものであったからで、その他には特別な理由はないのではありますまいか。この鎧が、由来から考えて、少年用のものであったろうことは、容易に推察がつきますね。保元物語も、平治物語も、「嫡々の家に相伝することになっている」とは書いていますが、嫡子だけが着ることになっているとは書いていません。平治の乱の時、頼朝は生年十三、しかも成人の後も小男の部類だったといいますから、少年用のものでなければからだに合わなかったことは確かでしょう。
平治物語は、頼朝が|雲蒸 竜変《うんじようりようへん》して源氏の世になってから出来た書ですから、頼朝がそのような天運をもって生まれた人であることを読者に納得してもらいたいために、あんな書き方をしたのでしょう。昔の人は因縁話が好きですから、よくこんな手法をつかうのです。用心してかかる必要のあることは申すまでもありません。
次に現代の歴史家や文学者が、義朝に頼朝を嫡子とする意志のあった証拠として挙げるのは、頼朝の母の生まれ素姓《すじよう》のことです。頼朝の生母は熱田の大宮司|季範《すえのり》の女《むすめ》でした。義朝には多数の妻がありますが、すべて田舎豪族の女や遊女や公家《くげ》の雑仕女《ぞうしめ》で、頼朝の母の門地は、やはり田舎豪族とはいえ、ずばぬけています。最も門地の高い生まれの妻が嫡妻《むかいめ》とされて最も大事にされ、従ってその生んだ子も最も大事にされるのは、当時の一般的習慣であったから、義朝は頼朝を嫡子と考えていたはずだというのです。
当時そういう習慣のあったことはその通りですが、絶対的なものではありません。殊に義朝の場合は、悪源太義平という、武人として最もすぐれた素質を持ち、家ノ子・郎党も大いに慕っている長男がいるのですからね。義平に万一のことがあったら、もちろん、義朝は頼朝を嫡子にしたでしょうが、義平が健在であるかぎり、義平を庶子におとして、頼朝を嫡子にするようなことはなかったろうと、私は信じています。
義朝が頼朝を特に愛していたという話は、平治物語、源平盛衰記、吾妻鏡などによく出て来ますが、平治物語と源平盛衰記とはいずれも頼朝が天下取りになってから出来たものであり、吾妻鏡のそうした部分は前二書を材料にして書かれたものですから、やはり用心が必要です。
頼朝の家は嫡流か
頼朝の家は清和源氏で嫡流であったというのも、常識になっていますが、これも頼朝が天下取りになったからこうなったので、それ以前には必ずしもそうは考えられていなかったのではないかと、私は考えています。
頼朝が東国の武士等を麾下《きか》に擁して、坂東《ばんどう》地方を掌握していながら、西に向って踏み出さなかった期間が三年余ありますが、その期間に頼朝はしきりに同族を征伐しています。上州の新田義重、常陸《ひたち》の佐竹義政とその甥秀義、同国の志田義広(平家物語では義憲)、信濃の木曽義仲という人々です。皆同族です。しかもごく近い同族です。
新田義重は八幡太郎義家の子義国の長男です。義重のことは吾妻鏡の治承四年九月三十日の条に、「新田|大炊助《おおいのすけ》源義重入道は、頼朝公が挙兵なさる時、御教書《みきようしよ》をもってお味方に馳せ参ずべく仰せつかわされたのに、返事すらせず、軍兵を集めて上野《こうずけ》国寺尾城にこもっている。彼は故|陸奥守《むつのかみ》義家の嫡孫であることを誇り、自立の志を抱いているのである」
とあります。つまり、頼朝の召しに応じなかったのです。
平氏の弱勢がまだ目に見えない時でありますし、頼朝の関東統一も永続性があるかどうか疑わしかったからでもありましょうが、義重は頼朝を源氏の嫡流家(総本家)の当主とは考えていなかった、あるいは考えたくなかったのであろうと、私には思われます。頼朝にたいしては十分以上の好意を持っているはずの吾妻鏡が、「義重入道は故陸奥守義家の嫡孫であることを誇り云々《うんぬん》」と書いているのは、恐らく義重が人に語ったことばによって書いたのだと思われますが、義重は自分の家が八幡太郎の嫡流であり、自分こそ嫡孫であると信じていたのでしょう。彼の心理を推察するに、
「頼朝の家などが清和源氏の嫡流などであるものか、頼朝の曽祖父である対馬《つしま》守義親はなるほど八幡殿の子ではあるが、謀反人《むほんにん》として朝廷の追討を受けて殺された男じゃ、祖父の六条|判官《ほうがん》為義は保元の乱で崇徳上皇に味方して敗れ、人もあろうにわが子の義朝に殺された。これも朝敵じゃ。その義朝も平治の乱で朝敵となって殺された。歴代謀反人ばかりではないか。こんな家が、名誉ある清和源氏の嫡流であってたまるか。八幡殿のお子達の順序から言うても、先祖の名を汚さぬ点から言うても、おれが家こそ嫡流よ」
というのではなかったかと思うのです。
ついでながら、申しそえておきます。新田義重はこの年の十二月二十二日に、孫にあたる里見義成とともに鎌倉に来て、降伏しています。今申したことに多少の関係があるように思われますから、吾妻鏡のその時の記述を現代語訳してかかげておきます。
「二十二日庚子、新田大炊助入道|上西《じようさい》がお召しによって参上したが、無造作に鎌倉に入ってはならないとの頼朝公の仰せで、山内《やまのうち》へんに逗留《とうりゆう》させた。入道が武士等を召集して上野国寺尾館へ籠城《ろうじよう》していたとの風聞があって、安達《あだち》藤九郎盛長に命じて召させ給うたのである。入道は弁解して、『君の仰せに背《そむ》く料簡は私にはさらになかったのでございますが、あたかも当時国内に戦ささわぎがありまして、迂濶《うかつ》に城を出てはならないと、家人《けにん》等が申しますので、ためらっていましたところ、今またお召しにあずかり、まことに恐れ入って参上した次第でございます』と言った。盛長はこれを取りついで言上したので、頼朝公は御了解になった。入道の孫里見太郎義成は、京都から参上したのである。『この頃平家に属していたのですが、源家御復興御繁昌のことを伝え聞いて、参ったのでございます』と申し上げたところ、頼朝公は義成の志を嘉《よみ》され、『その志、祖父と異なって忠誠である。早くお身近く奉公せよ』とお許しになった。義成は人にこう語った。『石橋山合戦の後、平家はしきりに謀議して、日本中の源氏の一類はことごとく誅滅《ちゆうめつ》すべく、内々用意を進めているので、自分は偽《いつわ》って平家に、関東に帰って武衛(|兵衛佐《ひようえのすけ》・頼朝のこと)を襲撃しましょうと申し出たところ、平家は喜んで帰国を許した。かくて駿河の千本松原まで下って来ると、長井の斎藤別当|実盛《さねもり》・瀬下四郎広親等と会って、二人から、東国の武士等は皆頼朝公に従い奉ったので、公は数万騎をひきいて鎌倉にお入りになった、われら二人はかねての平家との約束があるので、上洛するのだと聞いて、いよいよ道を急いだわけである』
この記事から察しますと、義重入道は孫の里見義成に諫《いさ》められて、頼朝に帰服することになったのでしょう。
佐竹氏は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の子孫です。義光が常陸介として常陸に来ている間にのこした子|義業《よしなり》が久慈《くじ》郡の佐竹にいて、佐竹を名のるようになったのです。その子が昌義《まさよし》、その子が義政、義政の弟隆義が四代目をつぎ、その子が秀義です。この義政と秀義とが頼朝に帰服しないのでした。
治承四年十月二十日といえば、平|維盛《これもり》が大軍をひきいて東海道を富士川まで下って来て陣をしきながら、その夜半に水鳥の飛び立つ音に驚愕《きようがく》して戦意を失い、戦わずして逃げ帰った日ですが、その翌日の吾妻鏡の記事にこうあります。
「二十一日庚子。武衛(兵衛佐・頼朝のこと)は平維盛を追撃して上京すべしと士卒等にお命じになったが、干葉|常胤《つねたね》、三浦義澄、平広常等が、
『常陸国の佐竹太郎義政と冠者秀義等は数百騎の武士をひきいながら、公に帰服していません。とりわけ心すべきは、秀義の父隆義が今平家に従って京都にいることです。佐竹だけではありません。帰服しない強豪が坂東にはまだ多数います。西国へは、先ず坂東を平らげかためられた後に踏み出さるべきでありましょう』
と諫めた」
当時頼朝は黄瀬《きせ》川に本陣をかまえていて、同じこの二十一日に、陸奥から駆けつけて来た義経が頼朝に初見参《ういげんざん》するのですが、それは本稿とは関係ありません。
当時、佐竹家の当主隆義は京都に出て、平家に勤仕中だったのですから、佐竹氏が頼朝に帰服しなかったことについては、隆義が平家の人質の形であった点も大いにあったでしょうが、それだけであったとは思われません。恐らく、佐竹氏も、頼朝の系統は源氏の嫡流たるにふさわしくなく、当家こそ新羅三郎の正統で、清和源氏の嫡流にふさわしいと信じて、帰服をしぶるのみならず、反抗の色まで見せたのではないでしょうか。
頼朝は十月二十七日に佐竹征伐のために常陸の国に向かいまして、十一月四日に常陸国府(今の石岡)に到着しました。
吾妻鏡にこうあります。
「佐竹氏は、その権勢は常陸以外にも及び、家人や郎党が常陸国内に充満している。だから、粗忽にかからず、十分に計策を練ってから誅伐を加えらるべきであると、千葉常胤・平広常・三浦義澄・|土肥実平《といさねひら》等が群議を凝らして、先ず佐竹氏が何を意図しているのかを測知するために、あたかも平広常が佐竹氏の縁者になるので、遣わして、参上せよと仰せしめられたところ、義政は、
『早速参上つかまつります』
と答えた。
しかし、秀義の従兵等は秀義をおさえて行かせず、秀義もまた、『父君隆義殿が平家方に勤仕中なれば、迂濶に参上は出来ない』といって、当国の金砂城に引きこもった。
義政は平広常の誘引によって、頼朝公の御本陣のある大矢橋のあたりまで参った。頼朝公は義政の家人等を遠ざけ、義政一人を橋の中ほどまで来させ、広常に命じて討取らせ給うた。義政の従者等は一部は降伏し、一部は戦いつつ逃げた。
その後、秀義を攻撃するために、軍兵《ぐんぴよう》をつかわされた。下河辺庄司《しもこうべのしようじ》行平、同四郎政義、土肥次郎実平、和田小太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱、|熊谷《くまがい》次郎|直実《なおざね》、平山武者所|季重《すえしげ》等である。数干の強兵をひきいて、競争の姿となった。佐竹秀義はかねて金砂に城壁をきずいて要害を固めているので、少しも恐れず防戦した。この城郭は高い山上にかまえられているので、味方の軍兵は麓《ふもと》の谷に進んだ。城と味方の陣所とはあたかも天地のごとく、城から飛来する矢はよく味方の壮士にあたるのに、味方の放つ矢は山上にとどきにくい。また巌石をもって路を塞《ふさ》いでいるので、人馬共に行きなやんだ。軍士等はいたずらに心をなやまし、戦法に迷った。かといって、退去も出来ず、弓に矢つがえしてスキをうかがっているうちに、日が没して、月が出る始末であった。
五日。払暁、実平等は頼朝公の許に使を馳《は》せて、申し上げた。
『佐竹の構えている塞《とりで》は、人力をもっては破りがたく、その中に籠《こも》っている兵共もまた一人当千の勇士ぞろいであります。能《よ》く賢慮をめぐらさるべきでありましょう』
頼朝公はものなれた武士等の意見を徴されると、平広常が策を進めた。
『秀義に、佐竹|蔵人《くらんど》という叔父がいます。智謀すぐれた者ではありますが、欲心もまた普通ではありません。賞をあたえるという御約束を賜わりますなら、定めて秀義を討ち亡ぼすべき計略を申し上げるでありましょう』
頼朝公はその計を容《い》れて、広常を蔵人の許につかわされた。蔵人は広常の来たのを喜び迎え、あわてて会った。広常は言う。
『今日、東国の武士は親疎を問わず、佐殿に帰服しない者はござらぬのに、秀義殿は御敵《おんてき》となっていなさる。はなはだわけのわからぬことでござる。たとえ御肉親であっても、その不義にくみせらるべきではござらぬ。貴殿は早く佐殿へ帰服なされて、秀義を討取り、彼の身代を領掌されるがようござる』
蔵人は忽ち承諾し、降伏して、自ら案内者となって広常を導き、金砂城の背後に出て、鬨《とき》の声をあげさせた。事の意外に、秀義と郎党等は防禦を忘れてあわてふためき、うろうろするばかりであった。広常の勢《せい》は気を得て攻め立てた。やがて佐竹方は逃げ散り、秀義も共に逃げてあとをくらました。
六日。丑《うし》ノ刻(午前二時)、広常は秀義が逃げたあと、城に入って城壁を焼きはらった。その後、軍兵を方々の道筋に分遣して、秀義をさがしもとめたところ、深山に入って奥州花園城に逃げたとの風聞を得た。
七日。広常以下の士卒等は頼朝卿の御旅館に帰って、合戦の次第や秀義が逐電《ちくてん》したことや城を焼きはらったことなどを報告した。
熊谷次郎直実と平山武者所季重とはとくに勲功があって、所々において先登をなし、戦いにおいては少しも身命を顧みず、多くの敵の首を得た。よってその功は傍輩より抽《ぬき》んでて賞すると、直接に仰せ下された。
また、佐竹蔵人が参上して門下に候したいと願うと、即ちお許しあった。功があったからである。この日はまた、志田三郎|先生《せんじよう》義広と十郎蔵人行家(これも頼朝の叔父、以仁王《もちひとおう》の令旨《りようじ》を諸国の源氏に届けたのはこの人である。後、頼朝に殺さる)とが、国府(常陸国府、今の石岡)に参って、頼朝公に謁《えつ》した。
八日。秀義の領地である常陸の奥七郡とその他とを没収なさった。また、佐竹の家人十人ばかりが出て来たとの風聞があったので、平広常と和田義盛とに命じて捕え、皆庭中に召されて、あるいは害心を含む者がいるかも知れないと思召《おぼしめ》されて、その顔色をごらんになっていると、上下とも紺の直垂《ひたたれ》を着た男が顔を伏せてしきりに落涙しているのに気づき給うて、わけをおたずねになった。男は、
『故佐竹(義政のこと)のことを思い出しているのでございます、もはや命が助かりましても詮《せん》なきことと思うのであります』と申し上げました。
『それほどの所存ある者が、どうして彼が誅に伏した時、命を捨てなかったのか』
とお尋ねになると、
『あの時は、家人らに大矢橋の上へ参ることを許されませず、義政だけをお召しになって、梟首《きようしゆ》なさいましたので、後日のことを思って逐電して、唯今参上いたしました次第でございます。こんなことは武勇の士の本意ではありませんが、拝謁のついでをうかがって、あることを申し上げたいと固く決心しているからでございます』
『ほう、その申したいこととはいかなることだ』
『君は、平家をこそ追討なさるべきに、それをさしおいて御一族をうしない給うとは、甚だよろしからぬことでございます。国敵に対しては、天下の勇士が心を一つにして力を合わせ奉るでございましょうが、あやまりなき一門の方を誅し給いましては、今後、お身の上の讐敵《しゆうてき》を御退治なさるにあたって、誰に軍勢をひきいさせて行き向わせ給うおつもりでございますか。また誰が御子孫を御守護申すのでございますか。よくよく御思案をめぐらし給うべきことでございますぞ。唯今は諸人皆恐怖の心を抱いているのでかしこまり申しているのでありまして、真実に心から帰服しているのではございませんよ。必定、後代に誹《そし》りをのこされるでありましょうぞ』
頼朝公は無言で奥へ入り給うた。
広常が頼朝の前に出て、
『かの男は謀反の心を抱いていること疑いございません。早く誅せらるべきであります』
と言ったところ、
『そうしてはならない』
と、頼朝公は仰せられて、その男をゆるされたばかりか、御家人に加え給うた。岩瀬与一太郎がこれである」
佐竹秀義はどこへ逃げたかと申しますと、奥州の菊田庄が、新羅三郎以来の佐竹氏の荘園の一つだったので、そこへ逃げたのです。頼朝の勢力が奥羽地方に及んだのは、平家を西海の波に葬って後、平泉藤原氏をほろぼしてからのことですから、奥州は頼朝の敵となっている者にとっては、それまでは最も安全な地域だったのです。
平氏は、佐竹氏が頼朝に手強《てごわ》く抵抗して降らないのをよろこび、この翌年の養和元年、朝廷に奏請して、京都にいた佐竹隆義を常陸介(新羅三郎以来、はじめてであったという。常陸は大国とて、親王の任国される定めの国だから、常陸介が『かみ』と称せられて、常陸守の職を行なうのである)に任じて帰国させ、頼朝を討伐することを命じました。また平泉の藤原|秀衡《ひでひら》を陸奥守に任じて、隆義と諜《ちよう》じ合わせて頼朝を伐つように命じています。両氏ともに奥州から動きませんから、実質的には何ということはないのですが、頼朝には相当な脅威になったことは間違いないでしょう。
頼朝が、後白河院からのお召しがあっても、なかなか関東を動かなかったことの理由については、私は通説とは違った考えを持っていますが、平泉藤原氏と佐竹氏とが奥州にいて、虎視眈々《こしたんたん》としてスキをはかっているに違いないとの強迫観念も、理由の一つであったという通説にも、なにがしかの真実はありましょう。
佐竹氏が奥州から出て来て、頼朝に降ったのは、平氏が西海にほろんでからです。出て来れば亡ぼされるという恐怖があったためでしょうが、その恐怖の根元は佐竹氏がわが家こそ清和源氏の嫡流と信じていることを、頼朝が知っていると思っているところにあったと思うのです。頼朝はそのはじめ、降伏した佐竹義政をだまし討ちに誅殺しています。知っているから不安で殺さずにいられなかったと解釈すべきでしょう。
次は志田義広ですが、これは源為義の子で、兄の義朝の養子になっていたのですから、頼朝からすれば叔父であり、義兄になります。常陸の信太《しだ》郡にいたから、信太《しだ》または志田と号したのです。
吾妻鏡の養和元年閏二月二十日の条に、
「佐殿の伯父志田三郎|先生《せんじよう》義広は、骨肉のよしみを忘れて、数万騎の逆党をひきいて、鎌倉を攻めんとして、常陸国を出て下野国に行ったことがわかった。この頃、頼朝公は平家の軍勢が襲来するとの風聞があったので、多数の勇士を駿河国へつかわしておられたところ、にわかにこのことが出来《しゆつたい》したので、甚だ心配されたが、やがて下総《しもうさ》国には下河辺行平《しもこうべのゆきひら》がおり、下野国には小山《おやま》小四郎朝政がいる、この両人は必定自分の命令がなくとも防戦し、勲功を立てるであろうと、やや心を安んじ給い、朝政の弟五郎宗政、いとこの関《せき》ノ次郎政平等に力を合わせるように命じ給うた。二人は下野へ向って出発する日に頼朝公に謁して暇乞《いとまご》いしたが、関ノ次郎が席を立って行ったあと、頼朝公は見送られ、『政平には二心がある』といわれたが、果せるかな、政平は宗政と同道せず、脇道を経て志田の陣に馳せ加わった」
西に平家襲来の風聞があるのに、東に同族が敵意をもって襲来して来るというのですから、頼朝の心配は一通りではありません。翌二十一日から鶴が岡八幡宮に参籠の願を立てて、東西のことが早く鎮まるように、来明から参詣して、神楽《かぐら》を行なっています。
志田義広の方は、三万余騎の軍勢をひきいて、鎌倉さして進むのですが、下野の豪族で、当時天下に最も高名であった勇士、足利又太郎忠綱を語らって、共に進んで来ます。
足利忠綱の足利は、足利尊氏の家とは違います。尊氏の家は新田氏と同じく八幡太郎の子義国から出た家で、新田が長男、足利が次男の末です。清和源氏です。忠綱の家は田原藤太|秀郷《ひでさと》の子孫ですから、藤原氏です。忠綱のことは、吾妻鏡に、「末代無双の勇士なり。三事の人に越えたることあり。一はその力百人に対し、二はその声十里に響き、三はその歯の長さ一寸」とあります。ずいぶん人間ばなれしています。その声十里に響きの里は、坂東里ですから、六町ですね。十里で六十町、六キロ半くらいですね。この人の最も近く立てた勲功は、源三位頼政《げんざんみよりまさ》が高倉宮を擁して、宇治の平等院にこもっているのを、平家の軍勢が攻めた時、五月雨に増水している宇治川に、平家の軍勢が恐れをなして渡りかねている時、利根川の水勢にくらべてはものの数でもないぞ、渡せや、と三百余騎をひきいて、一騎も事なく渡したことです。
さて、志田・足利の連合軍と小山朝政の軍とは途中で遭遇して合戦をはじめ、互いに勝敗がありましたが、やがて小山方に援軍が駆けつけましたので、連合軍側は敗れ、義広も忠綱も戦場を落ちました。忠綱は遠く西国の平家に投じ、義広は木曽義仲の許に逃げました。以後ずっと義仲軍に属していましたが、義仲が義経に亡ぼされた後は、逃れて伊勢に行って、伊勢で頼朝の家人等の軍勢に攻め立てられて討死にしました。
以上のように、志田義広は頼朝の方から征伐しようとしたのではなく、義広の方から頼朝を伐とうとしたのですが、頼朝の家を清和源氏の嫡流をつぐべきものとは認めなかった点は同じです。頼朝の方から伐とうとしなかったのは、同じ家の者として心をゆるしていたのでしょう。
木曽義仲と頼朝とのいがみ合いは有名ですから、立ち入った説明は略しますが、義仲としては、頼朝の家は同族とはいいながら仇敵であるという事実(義仲の父|義賢《よしかた》は悪源太義平に殺されたのですが、義平がそうしたのは父義朝の命令によるのですからね)、義朝が朝敵として誅罰されたこと、頼朝が朝敵の片割れとして流罪人とされているという事実等は、その家は清和源氏の嫡流としては適当でないと思わずにはいられなかったでしょう。義仲は頼朝の家にうらみを持ち、頼朝をライヴァルと思っているのですから、頼朝の家を否定し、わが家を嫡家と認めたいのは自然の情でありましょう。
上記の人々は、頼朝の家を嫡家と認めず、それぞれ自分の家こそ嫡家であると信じていたと、私は考えているのですが、同時にそれは上記の人々だけでなく、当時は一般にもそう思っている人が相当多かったのではないかとも思います。
頼朝が主動的にこの人々を討滅しようとしたについては、彼の病的なほどに強烈な猜疑心《さいぎしん》によることは言うまでもありませんが、その猜疑心をさらに鼓舞して深刻化したのは、上記の人々の嫡家意識と、その意識にたいする世間の人々の同調であったと、私には思われるのです。
長々と申しのべてまいりましたが、私の申したいことは、つまり、頼朝の家を清和源氏の嫡流とする観念が確立したのは、頼朝が天下を取って、幕府の創始者第一世と仰がれるようになってからのことで、それ以前はそうでなく、上記の人々は各々わが家こそ嫡家であると信じ、世人にもそれぞれ同調する者が相当あったに違いないということです。恐らく、義朝の敗北後は、源三位頼政の家が、諸国の清和源氏の家筋の人々から嫡流と仰がれ、世間もそう思っていたのではないでしょうか。同族中で最も栄え、最も官位の高い者のいる家が総本家とされるのは、今も昔も同じですからね。
頼朝の性格についての考察
頼朝は深沈重厚で、思慮周密であったが、一面異常に猜疑心が強かったと、古来の歴史家が口をそろえて言っています。深沈重厚で思慮周密というのは、わかりやすく言えば、用心深くて、一言一行軽々しくしないということですが、こういう人が権力者になれば、当然猜疑心が深くなります。恐らくこれはその生まれながらの性質というより、十三という若い時に、父義朝が恃《たの》み切っていた譜代の家人《けにん》長田忠致《おさだただむね》にあざむかれてだまし討ちにされたことによって、定着した後天的の性質だろうと思います。十三の少年が、頼りになる肉親の全部を殺されて、仇敵ばかりが時めいている世の中にほうり出されたのですから、そのこたえたことは一通りや二通りのものではなかったはずです。人を信じないことこそ、この世に生きて行く上の第一の知恵という観念が心魂に烙《や》きついたのは当然です。
数え年十四になってすぐ平氏に捕えられてから、三十四の秋の挙兵に至るまでの二十一年間の彼の生活を見れば、世をはばかり、人を警戒し、最も用心深いものがあります。髪の毛一筋ほどでも平家に疑いを抱かれるようなことをすれば、直ちにそれは死につながるのですから、無理はないわけですが、これほど用心しても、恋愛において最も痛烈な目にあっています。
伊豆伊東の豪族、伊東|祐親《すけちか》の娘八重姫と恋愛して、千鶴《せんづる》丸という男の子まで出来たところ、祐親が大番役《おおばんやく》で行っていた京都から帰って来て、このことを知りますと、激怒して、家来に命じて三つになる千鶴丸を淵に投げこんで殺させたばかりか、八重姫は他に縁づけ、頼朝を殺そうとまでしました。その祐親はもともとは源氏の家人《けにん》だった男です。つまり、またしても旧家人に裏切られたのです。頼朝の猜疑心がもはや救いがたいものになったのは、最も当然なことと言ってよいでしょう。
頼朝が新しく、さらに用心深くなったことの証拠は、北条政子との恋愛にあらわれます。曽我物語の記述によりますと、北条時政には二人の娘があり、姉の政子は先妻腹、妹は当妻腹でした。政子の方が美しいので、頼朝もほんとはそちらの方が気に入っていましたが、八重姫が先妻腹だったので、悲惨な結果となったことを考えて、政子の妹にあてて文を書いたところ、文使《ふみつか》いをうけたまわった、安達《あだち》藤九郎が途中で、
「妹君は器量がよくない。殿の愛情がもし中途でさめるようなことがあっては、北条殿となかが悪くなるであろう。それではかえって悪い結果になる。大姫に奉らばや」
と思案して、政子に届けたというのです。
多分この話は実話で、これを土台にして、あの有名な政子の夢買い話が作為されたのであろうと、私は考えています。恋愛にまで、こんなにまで警戒心を働かさなければならないとあっては、頼朝の用心深い性質もきわまれりと言わなければなりません。
前章で、頼朝が同族の者を敵とし、迫害した話を書きましたが、以上の人々のほかに叔父の新宮十郎行家、弟の義経・|範頼《のりより》がいます。有力な家人で、殺されたのは、平広常がいます。
新宮十郎に至るまでの一族の人々が殺されたのは、彼の家が清和源氏の嫡流であるという社会通念が確立していない不安から、その猜疑心が刺激されたためであると、私は言いましたが、弟等二人を殺したのは、子供等の代になって取って代られるのを不安がったのでしょう。平広常を殺したのは、広常があまりにも有力だったので、不安だったからでしょう。
頼朝は石橋山の挙兵で敗れて、主従わずかに七騎となって脱出したのですが、その途中、平家方の軍勢に三浦半島の根拠地|衣笠《きぬがさ》城を陥れられて落ちて来た三浦一族と出会って、ともに海を渡って房州に上陸し、必死になって兵を募集しながら江戸湾をめぐって隅田川のほとりまで来ました。房州に上陸してからここに来るまで十九日たっていますが、集まった兵はわずかに六百騎だったというのが、吾妻鏡の記述です。その時、二万騎という大軍をひきいて馳せ参じたのが、平広常です。
有名な話がありますね。頼朝は土肥実平をして、
「度々の催促に領掌を申しながら、遅参の条、不審千万である。しばらく後陣にひかえて指示を待て」
ときめつけたところ、広常はかえって、
「唯今、天下はことごとく平相国|禅閤《ぜんこう》の管領するところであるのに、佐殿は流人の身として挙兵されて、応ずる者もない有様なので、おれはこれを討取って平家に献じようものとの存念を抱いていないでもなかった。佐殿は勢《せい》も少ないことなれば、おれがこうして大軍をもって合力しようというて来たのじゃから、定めて感悦して、追従言《ついしようごと》の一つも仰せなさるじゃろうと思うていたところ、意外にも遅参をお叱りなされた。あっぱれ威光、あっぱれ広量、必ずや志を遂げ給うて、日本の大将軍となり給うであろう」
とて、二心《にしん》なくつかえる志をおこしたと、これも吾妻鏡にあります。源平盛衰記にもあります。
頼朝が広常を一旦後陣にしりぞけて、左右《さう》なく近づけなかったのは、その用心深い性質から警戒したために違いありません。
この広常の帰服が、関東の武人等の心をゆすぶったのでしょう、馳せ参ずる者が急激に増加しまして、隅田川を越えて滝野川のあたりに来た頃には、もう十万余騎にふくれ上っていたといいますし、平維盛にひきいられた平家軍を迎え撃つために富士川まで出た時には二十万六千騎あったというのが、盛衰記の記述です。軍記物語の軍勢の数は誇張が多くてあてにならないのが普通ですが、隅田川のほとりで平広常がひきいて馳せ参じた兵の数字は、盛衰記も吾妻鏡も大差ありません。吾妻鏡は二万騎、盛衰記は一万六干騎と、むしろ少なく記しているくらいですから、富士川に達した時の兵数も、そう誇張はされていないと思います。
この急激な兵数の増加の直接の原因は、広常の帰服です。ですから、後に頼朝も後白河法皇にたいして、広常のことを、
「この者はわたくしのためには大功のある者で、わたくしが東国を従えることが出来たのも、そのはじめはこの者が大軍をもって随従して、勢いが出たからであります云々」
といったと、愚管抄に出ています。だのに、これを誅殺したのは、身代が大きく、威勢の大きいところが、不安を感じさせたのでありましょう。
つまるところ、頼朝にとっては、両弟を含めて、同族の者は、源氏の棟梁《とうりよう》となり得る血の資格を持つが故に用心せねばならず、有力な家人は実力によって自分にかわって武門の棟梁となり得る可能性があるために用心せねばならないものであったために、その病的なまでに強い猜疑心は、これらを全部殺してしまわなければ安心出来なかったのです。
このような頼朝の性格は、少年時代の刻烈な体験によってつくられたものであることは言うまでもないでしょうが、それにしても、ひどすぎます。彼はやはり天性異常なところのある人でもあったのでしょう。
鎌倉幕府の本質
父兄のうらみを報ずるために平氏を伐って家を再興するという頼朝の志が遂げられたのが、坂東の武士等の助力によることは言うまでもありませんが、武士等のこの助力が、八幡殿以来結んでいた頼朝の家との主従関係による情義や忠誠心からであるという旧来の説には、私は少々疑問があります。当時の武士等がすでに大いにそれを謳《うた》い立てており、吾妻鏡や軍記類もそう記述してはいますがね。もちろん、情義や忠誠心がまるでなかったと申すつもりはありません。ずいぶんあったことは否定しません。ただそれが全部の原因であったと言ったり、主原因であると言い立てることは真相を逸するのではないかと思うのです。
東国の武士等と清和源氏との関係はずいぶん古くからのことです。普通には八幡殿以来と申しますが、義家の父頼義もかなりな関係があります。前九年の役に東国の武士等は頼義に従って奥羽で戦っています。頼義の父頼信の時からといってもよいかも知れません。頼信はまた関東に随分関係が深いのです。彼が甲斐《かい》守だった頃、上総《かずさ》の豪族平忠常が暴悪で朝命に服しないので、朝廷では検非違使《けびいし》平直方を追捕使《ついぶし》に任じ、官符を東海・東山・北陸の三道に下して直方に協力するように命じ、忠常を征伐させましたが、一年以上かかっても埒《らち》があきません。そこで頼信に命じました。頼信は甲州から関東に入り、関東諸国の兵をひきいて、一息に攻めつけて捕えたので、上野介、常陸介に歴任しています。この両国と上総とは大国といいまして、親王が守《かみ》となられる規定になっていました。親王は守になっても京にいて赴任はせず、俸給を受けられるだけですから、介が事実上の「守」で、世間では「かみ」といっていたのです。頼信は関東で大国の「かみ」を引き続き二期もつとめたのですから、関東の武士等と関係が浅かろうはずはありますまい。
八幡殿、八幡殿と、東国の武士等が口癖のように言ったのは、とりわけ、義家との親しみ乃至《ないし》恩義が深かったからでしょう。後三年役における武士等の勲功にたいして、公卿等はこの戦いは朝廷の指示を待たずして戦ったのだから、義家の私闘である、朝廷は賞する必要はないと決議して、恩賞を吝《お》しみましたところ、義家は私財をもって武士等に賞したので、武士等の感激は一方でなく、涙をこぼして、
「八幡殿の御恩は子々孫々に至るまで決して忘却すまいぞ」
と語り合ったというのは、最も有名な話ですが、もともと戦友愛というものは特別なものです。日支事変から大東亜戦争に至るまでの長い戦争に、少なからぬ人々が戦場に駆り出されたのですから、生死寝食を共にした戦友にたいする友情が特別なものであることは、よくおわかりでしょう。学校友達もなつかしいものであり、職場の友もなつかしくなくはありませんが、とうてい戦友愛には及びません。身分をはなれ、年をはなれて、最も深いものがあります。義家と東国の武士等との間は、この戦友愛がある上に、恩義があるのですから、深い愛情と信頼と義理感とがあったことは当然といってよいでしょう。
かくて、義家以後も、東国の武士等は源氏の家人・郎党として代々奉仕をつづけています。当時の主従の関係は、後世の封建大名と家臣等の関係では律しられません。主従というより、後世のヤクザの親分・子分の関係の方が似ています。家人・郎党がいのちを張って奉仕するのに対して、主は家人・郎党等の生命と財産と名誉を、善悪を問わず保護してやるのです。荘園問題などもからみますから、主人は朝廷に顔が利《き》かなければなりませんので、主人はまた主人で、そのような公卿や宮様を主人として奉仕するのです。前に書きました源頼義が小一条院と主従だったというのがそれです。
義家の子の義親と東国武士との関係はわかりませんが、その次の為義と東国武士との関係を語るには、保元の乱の時に恰好《かつこう》な話があります。
この乱において、崇徳上皇にお味方した為義は、
「京都にいては天皇方の軍勢が優勢で味方は不利でございますから、江州《ごうしゆう》まで退いて甲賀の山をうしろにあて、坂東の武士等の駆けつけて来るのを待ちましょう。武士等の来るのが延びるようなら、坂東まで行幸し給うて、足柄山を切りふさぎましょう。そうするなら、天皇方はどうにもお出来にならないでしょう。東国は頼義・義家の代から源氏の家人・郎党共ですから、為義に従わない者はありません」
と建策しましたが、容れられなかったと、愚管抄にあります。
次の義朝は下野守に任ぜられています。この時代になりますと、国司は遙任《ようにん》といって任地には赴かず、京にいたまま資格と俸給だけを受取るものが多くなり、たまに赴任する者があっても、京にいることが多く、任地にはごくたまにしか行かなくなっていますが、義朝は東国に荘園もずいぶんあったのでしょうし、また東国の武士共との結びつきが自分の勢力の根源でもありますので、せっせと京都と東国の間を往復したようです。それは彼の妻妾が東海道、東山道筋に合計四人もいることによって推察出来ます。東海道には頼朝の母が熱田の大宮司の女《むすめ》、範頼の母が遠州池田の宿の遊女、|希義《まれよし》の母が駿河|香貫《かぬき》の豪族藤原友忠の女、東山道では美濃|青墓《あおはか》の宿の遊女|延寿《えんじゆ》、合計四人になります。
その上、義朝は長男悪源太義平を鎌倉において、東国の武士等を統制させています。義平が木曽義仲の父義賢を攻め殺したのは、義賢が京都から東国に下って来て東国に定住し、武士等を誘引し、統制を乱したためです。義朝の心を用いること、まことにこまやかであったと言ってよいでしょう。
こんな風でしたから、東国の武士等が頼朝にたいしても、相当程度の愛情と尊敬と恩義感を待っていたことは疑うべきではないと思いますが、その家はもはや亡んでしまって、再興の見込みはないばかりでなく、あまり頼朝に近づくことは平氏ににらまれる危険があるのですから、少々の愛情や義理感などはケシ飛ばざるを得ないでしょう。伊東祐親の頼朝に対する態度がそれです。盛者必衰、世に常住なるものなしというのは、仏教の根本哲学ですから、仏教全盛のその頃の人々には常識だったはずですが、その常識は単に智識にすぎず、実感をもって悟得し、自らの知恵としていた人は、ごくごく少数の最もすぐれた智識人や坊さん達以外にはなかったのではないでしょうか。平家盛りの頃においては、この平家が衰亡することがあろうと思う人はほとんどいなかったに違いありません。平家が衰えないなら、源氏が再び栄える時が来ようと思うはずはないのです。
その上、武士等には、平氏を新しい主人と仰いで忠誠を励めよとの無言の強制があります。無言の強制とは、いつまでも源氏に好意を抱いている者は冷遇し、平氏にたいして名簿《みようぶ》を差出して忠誠を誓うものには好遇することです。大庭景親《おおばかげちか》や、斎藤実盛や、前にちょっと話の出た足利忠綱や、伊東祐親などは、そうであったことがはっきりと史書にのこっている人々ですが、東国武士の少なからぬ者がそうだったのではないでしょうか。石橋山合戦の時、頼朝方に集まったのは三百騎だったのに、平氏方の大庭景親の許には三千余騎が馳せ参じたのです。一と十の割合ですから東国武士の九割までは、源氏から心を離して平氏に心を寄せていたと言えましょう。熊谷直実なども大庭方に属して出ているのです。武士共にしてみれば、財産の安全も、身の安泰も、家族の安心も、平家のきげん一つにかかっているのですから、どうしてもそうならざるを得ません。
「佐殿にはすまないことだが、背に腹はかえられない」
という気持ちの者はしおらしい方で、中には鎌倉|山内《やまのうち》の住人|須藤経俊《すどうつねとし》のようなのもいます。この男は累代の家人であったばかりでなく、母が頼朝の乳母の一人だったのですから、乳兄弟でもあったのですが、頼朝が挙兵の決心をして、安達藤九郎を加担の見込み確実と思われる者共の許につかわして、決心を告げ参加をもとめさせたところ、この男は、
「貧すれば鈍するとはよく申したもの。佐殿の今の分際で平家の世を取ろうとは、富士山とたけくらべし、鼠が猫をとろうとするようなもの。さようなことに同意すること、まっぴら、まっぴら。南無阿弥陀仏」
と嘲笑したというのです。のみならず、石橋山の合戦では、頼朝めがけて狙いすまして矢を放ち、その矢が頼朝の鎧の袖に裏かいてつきささったというのです。ひどい男です。この男にとっては、昔の重々の義理や恩情などは邪魔でしかなかったに相違ありません。
このようであった武士等が、どうして頼朝に味方する気になったか。頼朝は石橋山でみじめな敗戦を喫し、いのちからがら房州にのがれた身です。頼朝に味方することは、歴然たる朝敵になることです。頼朝が以仁王の令旨を奉じて立ったのであっても、朝廷は平氏の掌中にあるのですから、朝敵にされます。頼朝が平氏の憎悪の的であるように、自分等も憎まれることです。その頃はまだ平氏の弱点は暴露していませんから、ずいぶん無鉄砲なことでもあります。その時までは冷淡だったのに、この急変は釣合のとれない話でもあります。戦い敗れて窮地に陥った頼朝を見て、眠っていた忠誠心が揺りさまされたのでしょうか。
そのような解釈も出来るとは思いますが、少々甘くて、私には落着けません。頼朝をかついで、自分等の利益になる国をおし立てようと思ったのだという解釈はどうでしょうか。
こと新しく申すまでもなく、平安朝時代は、天下の土地人民は公地公民であるという前提をもって形成された律令政治体制が、荘園のはてしない増大によって崩れ去った時代です。天下の土地人民の大部分以上が私領私民となってしまったのに、律令政治の形式だけは後生大事に墨守されていましたから、朝廷は現実には天下の政治の府ではなく、儀式を政治という名でまじめくさって行なうところになってしまっていました。そのくせ、官位争いや権力闘争は最も深刻陰湿に行なわれていたのですから、後世の我々は驚きあきれて、戸惑うばかりです。
当時の日本の実際の中心は、地方の武士でした。生産も、従って経済も、武力も、現実にたずさわり、これをしっかりとつかんでいるのは地方の武士でしたから、日本の実際の中心であると言ってよいはずです。武士は開墾、譲渡、買収、結婚、強奪、詐取などの、何等かの手段で、荘園と荘民を持つようになった在地地主です。しかし、彼等は政府にたいして何の力もありませんから、重税を課せられたり、労役を割り当てられたりしますので、彼等の多くは政府に顔のきく公卿や皇族や大社寺に、自分の荘園を寄進し、自らはその荘司(支配人)ということになりました。こうすれば、名目上の所有者に多少のものを納めるだけで、余は全部自分の収入になりますので、はるかに有利だったのです。本来は荘園も納税の義務があるのですが、皇族や公卿や大社寺は政府に顔をきかせて、無税の権利を取得するのです。この人々はこうして得た荘園と、人を使って開墾した荘園との両方を持っているのですが、その土地にはいませんから、つまり不在地主ですね。
荘園を公卿・皇族等に寄進し、自分はその支配人となるというのは、どちらにも有利だったから案出された方式であり、それ故にまた滔々《とうとう》として天下の風をなしたのですが、人間の業《ごう》の深さは円滑にばかりは行きません。両者の利害が衝突しはじめましたが、何といっても公卿は朝廷に顔がきくのです。摂政・関白などは意のままにすることが出来るのですからね、どうしても勝ちます。当時の武士は江戸期の武士のように有閑徒食者ではありません。地主とはいい条、農場経営者でもあります。そして、前述したように、経済的にも軍事的(国防・警察・治安)にも実力があって、日本を支えていた現実の力だったのです。これに反して公卿は政治と称して儀式だけをいとも重々しく優雅にやることに心をくだいている有閑徒食の人々だったのですから、武士等の不平不満は、最も当然なことでした。
この衝突は、早くも平|将門《まさかど》・藤原|純友《すみとも》の乱となってあらわれています。これは平安朝ほぼ四百年間を上・中・下の三期に分けるなら、中期になってすぐの頃ですね。将門・純友の乱は数年にして平らぎましたが、乱の根本原因である矛盾は解消されないのですから、武士等はずっと不満でいました。
将門の乱から約二百五十年たって、頼朝の幕府政治がはじまるのですが、私はこんなに長い間、平安朝の京都朝廷のようなばかげた政府を、おとなしく戴きつづけていた日本人にあきれずにはいられません。ヨーロッパの国々には決して見られないことだと思います。しかし、日本人は決して気の長い民族ではないのですからね。男性的民族ではなく、女性的民族なんでしょうね。
実際には日本を支えている主力層でありながら、劣位に立たされて、宮廷人の搾取と軽侮と頤使《いし》の対象であることをつづけて来た武士が、自分等の力を自覚したのは、保元・平治の乱の経験によってでした。保元の乱も、平治の乱も、宮廷人及び准宮廷人の権力闘争にすぎない、最も愚劣な闘争でしたが、武士等が自分等の力を自覚したところに、この二つの乱の大きな歴史的意義があります。
「おれ達が力を貸してあげなければ、天子様方じゃて、公卿さん方じゃて、何一つ出来はしなさらんのじゃわ」
と、少なからぬ武士等がさとったのです。
この自覚が、やがて武士の時代を到来させるのですが、その機運を最も巧みに利用したのが平清盛です。清盛はずばぬけて賢い男ですから、財力、社交術をフルに活用して、官位の昇進と経済的に有利な地位とを獲得し、ついに太政大臣になって、天下を掌《たなごころ》にめぐらすことになりました。
清盛の栄達は、彼は実は白河法皇の落胤《らくいん》であったからああめざましかったのだというのは、平家物語・源平盛衰記以来、今日に至るまで信ずる者の絶えない説ですが、白河法皇のなくなられた大治四年から、清盛の栄達のはじまった平治二年(永暦元年)まで、三十年たち、天皇は四代を経ています。そんなに古い白河さんに当時の宮廷人等が義理立てしたでしょうか。そんな解釈より、武士の時代がはじまりかけていたため、源氏がほろんで今や唯一の武士の棟梁となった清盛の機嫌をとらないわけには行かなかったから、栄達がはじまり、ついに極限にまで達したのだと解釈した方が、すらりと|のど《ヽヽ》を通りはしませんか。
清盛の栄達術の要領は、ちょいと田中角栄氏の方法を思わせます。清盛は財宝を上手に使う一方、武士の時代になっていることを鋭く見ぬいて、強大な武力を擁して睨《にら》みをきかすことによって太政大臣という極官を獲得して、益々利益を得る立場を得ましたし、田中さんは戦後の政界が金万能になりつつあることをよくキャッチして、土建屋という金もうけ業から政界に入り、金を散ずることによって政治家として重要な地位に上り、政府の土木計画を早く知ることによって益々金をもうけ、それを散ずることによって首相となり、本来の目的である金もうけに大成功したのですからね。念のために言い添えておきます。私は田中さんをほめているわけでもなければ、けなしているわけでもありません。利口な人間はいつの時代にも、巧みな生き方をするものだということを申したかっただけです。
ともあれ、清盛はこうして朝廷の第一人者となって、思うままに権勢のふるえる身となりましたが、武門の出身であるだけに、武士等の不平不満がよくわかっていますし、また武士は自分の力の根元でもありますので、武士等の優遇措置を講じたに相違ありません。不在地主と在地地主との間にもつれの起こった時の裁判において、在地地主の方に歩《ぶ》ありとしたり、国司や社寺と武士との間に争いが起こったりした時、武士の方を有利に裁いたりなど、いろいろとしたに違いありません。後白河法皇がだんだん清盛をきらいになり、ついには憎悪までして、追討の密謀までめぐらされるようになったのは、主としてこのためであったと、私には思われます。天皇や上皇方は、公卿や社寺側の総帥ですから、対立する武士側の利益を保護する清盛をにくまずにいられなかったのは、きわめて自然ですからね。
もちろん、清盛が主として保護したのは、譜代の家人・郎党ともいうべき西国の武士等だったでしょうが、東国の武士等も、平家にたいして従順で忠実である限りは、保護したに違いありません。源氏が興起して優勢になっても、平家にそむくに忍びずして、最後まで平家のために戦った東国武士も相当いますからね。斎藤実盛、伊東祐清、足利忠綱等がそれです。大庭景親もそうしようとして、関東から逃げ出すことが出来ず、殺されたのです。この人々は源義朝の生きていた頃より、平家に所属してからの方がずっと優遇されたのでしょう。
この人々以外の一般東国武士も、そう虐待されたとは思われません。清盛は利口者ですから、虐待して自分をうらませるより、慕いなつかせた方がずっと得であることくらいわかっていたはずです。西国武士にたいするほどではなくても、あるいは義朝の頃より優遇する措置を講じたかも知れません。もっとも、平氏譜代の武士等の心は別です。古参兵が新兵をいじめ立ていびり立てるように、機会あるたびに東国武士等をいびり立て、威張りかえり、東国武士等が無念に思うことはよくあったでしょう。それだけに、東国武士等は西国武士を羨ましく思い、
「平治の乱に頭《こう》の殿《との》(|左馬頭《さまのかみ》の殿の略。義朝)が勝っておられれば、おれ達こそああだったのに」
と考えて、やるせない溜息をつくこともあったはずです。
平家の武士等を羨ましく思い、義朝の運がめでたかったら、自分等がああであったはずと思うこの心が、敗残の頼朝に馳せ参じさせたと、私は考えるのです。即ち頼朝の命を受けて募兵に出かけた連中は、所在の武士共の家へ行って、
「佐殿をかついで働けば、最も運よく行けば天下が取れる。悪くころんでも東国だけは固めることが出来るぞ。それだけでも、大もうけよ。平家の侍共のことを思えよ。おれ達がああなれるのだぞよ。平家の侍どころか、もっともっとよい身分になれる。八幡殿以来の因縁も義理もあることだ。加担せいよ」
という風に、大いに口説き立てたに違いないと思うのです。
しかし、それに応ずるには、やはり危険が大きすぎます。房州の平北郡猟島に到着してから隅田川のほとりまで行きつくまでに、頼朝は十九日間かかっていますが、馳せ参ずる者わずかに六百騎しかなかったというのは、そのためでしょう。十九日目に、前に述べましたように平広常が二万騎をひきいて参加したので、躊躇《ちゆうちよ》していた連中も意を決して馳せ加わり、見る見る大軍になって行ったのでしょう。
このような解釈を取ることは、現代の作家にとっては普通なのですが、昔の作家はこんな屈折した心理はさわやかでないとして受けつけませんから、八幡殿以来の恩義に報いるために馳せ参じたと書くより外はなかったのでしょう。当事者等もまた、すでに馳せ参じた以上は、そう信ずるようになりもしたのでしょう。八幡殿以来の恩義云々とともに、頼朝をかついで平家と戦うことは、自分等に有利な制度をつくり出す途《みち》でもあることを忘れなかった者も、もっぱら、八幡殿以来の御恩云々といったでしょう。その方がさわやかですからね。
東国武士等の意図は遂げられました。はるばると都から下って来た平家の軍勢は、一戦もまじえず都へ逃げかえりました。東国――関八州と伊豆・甲州・駿河・|遠江《とおとうみ》は完全に頼朝の支配する地域となったのです。独立地区といってよろしい。この地域に荘園を持ったり、宮廷人や社寺の荘園の支配人となったりしている武士等は、かつて経験したことのない幸福で豊富な身になったのです。
富士川から平家の追討軍が逃げ去ったあと、頼朝は東国から西に向かいません。兵をつかわすこともしません。木曽義仲軍の乱暴|狼藉《ろうぜき》を制圧するため、後白河法皇はしきりに頼朝の上洛をうながされますが、腰を上げません。これについては、当時は大|饑饉《ききん》であったから兵を動かせなかったからとも、慎重な頼朝は先ず足許をかためることを考えたのだとも、ずっと前に述べましたように奥州に佐竹氏と平泉藤原氏がいて、背後を襲う危険があったからだとも、いろいろな解釈が行なわれています。私もこれらの解釈に反対はしませんが、もっと大きな理由があったと思うのです。
それは、東国の武士等が行きたがらなかったのだということです。東国武士等は、清水《きよみず》の舞台から飛び下りるほどの大決心をもって、頼朝に味方したのですが、それが案外たやすく行って、すでに東国は独立圏となり、彼等は父祖以来かつて経験したことのないほどの豊富で幸福な身の上になったのですから、満足しきっていたはずです。しかし、この上西に向かうことは、新しく危険を冒すことです。負ければ今の幸福は失われます。戦死するかも知れません。どの途、危険千万です。そんなことより、関東をかためて、敵を入れないようにする方がずっと利口だと思っていたと解釈します。
武士等がその気にならない以上、頼朝はどうにも出来はしません。彼はすでに東国における平家の荘園をおさえていますから、財力こそ相当に出来たはずですが、武力は厳密には一兵も持っていないのです。妻の実家である北条氏をはじめとして、山木《やまき》の館《やかた》攻めや、石橋山合戦の頃から随従していたのも、皆彼の兵ではなく、好意をもって味方してくれる人々というに過ぎないのですからね。
前にもちょっと触れましたが、頼朝は寿永二年の暮に、上総介平広常に謀反の企てがあるという名目で、梶原景時に命じて誅殺しています。景時は広常に双六《すごろく》をいどんで、対局中、いきなり双六盤の上をおどり越えて、広常を斬ったのです。だまし討ちですね。
この頃、京都では木曽義仲が勢いを逞しくして、頼朝追討の院宣《いんぜん》を強いてもらい受けたり、征夷大将軍に任命されることを強請したり(やがて実際に任命されます)していましたので、頼朝としては自ら行き向わずとも、信用出来る者を大将として兵を送って、義仲をたおさなければならない場合になっていました。恐らく広常は頼朝の上京にも、代理者に兵をひきいて上京させることにも、反対の急|先鋒《せんぽう》だったのでしょうが、何といっても関東の豪族中の第一の身代を持ち、従って第一の有力者ですから、頼朝はどうしようもなかったのでしょう。しかし、今度は何としても兵を出さなければならないと思ったので、景時に命じて討ちとらせておいて、謀反を企てているので誅伐したと発表したに違いありません。
見て来たようなことを言うと、お考えの読者もありましょうが、次にかかげる愚管抄の一節が証拠になるはずです。平家が亡び、義経も亡んでから、建久元年十一月に頼朝が上京して権大納言右近衛大将に任ぜられた時(すぐ辞職)、後白河法皇にこう申していることが愚管抄に出ているのです。
「私が朝廷のために、陛下のために尽くそうと、二心なく、わがことのようにつとめていることは、上総介平広常のことを以てもおわかり願えようかと存じます。この者は東国武士中の有力者でありまして、私が陛下のおん敵を伐とうとして挙兵しました当初において、この広常の心を捕えて味方にすることが出来たために成功したのでございますから、私にとっては功ある者ではございますが、私にむかってともすれば、どうして朝廷のことを、そんなに見苦しいまでに悩み考えるのか、こうしてどっしりとかまえて、坂東をかためていなさるかぎり、誰がどう出来ましょうぞなどと申しまして、陛下にたいして謀反心のある者でございましたから、こんな者を家来にしていては、私まで冥加《みようが》を失ってしまうと思いまして、討取ったのでございます」
というのです。広常を誅殺したことを、自分の皇室にたいする忠誠心の証拠であると弁ずる頼朝のことばは信ずるわけに行きません。うまく利用したというに過ぎないでありましょう。しかし、広常が、いつも頼朝の西に向おうとするのを、東国を固めさえすれば、それで佐殿もわれら東国武士も安泰です、朝廷のことなど気にかけなさるなと、常に掣肘《せいちゆう》していたことは事実でしょう。そして、広常と同じ考えでいる武士もずいぶん多かったはずです。もっとも、身代の細《ほそ》い、たとえば熊谷次郎直実だとか、平山武者所季重だとかいうような連中にとっては、戦争は手柄を立て身代をふやす機会ですから、大いに希望した可能性はありますが。
さて、このような武士群によって支持されて立っている頼朝ですから、その創《はじ》めた幕府という革新政府は、何よりもこのような武士等の心に適合するものである必要があったはずです。清盛は宮廷貴族のきげんを損じてまで、ある程度武士等の心に適《かな》う政治措置をしましたが、自分も一族も宮廷貴族となってしまったのですから、不徹底をまぬかれることは出来ませんでした。
頼朝は十三歳まで京都に育ったためでしょうが、京都の宮廷文化が好きで、東国人の粗野を大いにきらった人でした。吾妻鏡の至るところにそれは見えます。頼朝が剛強、素朴、勇敢、質実の関東の風俗が好きで、優美、柔弱な京都文化をきらったと説く歴史学者は、昔から今に至るまで絶えませんが、こんな人は吾妻鏡をどう読んでいるのかと、不思議です。
ですから、頼朝は出来ることなら、京都で幕府を開きたかったのかも知れませんが、それは彼の力の根元である坂東武士等が承知しなかったのでしょうし、最も有能な参謀である大江広元も大いに制《と》めたのでしょう。
広元の家は代々京都朝廷の下級官人で、彼自身も朝廷に勤仕して、朝廷の欠陥――実質は政治の府ではなく、政治の府のヌケガラにすぎないことを知りぬいていて、現実の世の中に適合し、役に立つ方式の新しい政府をつくりたいとの理想を抱いて、関東に下って来た人ですから、京都ではいろいろな支障があって、そのような斬新《ざんしん》な政府は成立しにくいことがよくわかっていたのだろうと思います。京都では、平氏の先例をもってもわかるように、武士等が京都化して柔弱になってしまうから云々というようなことは、後世の人の考えた理由にすぎないと思います。
ともあれ、鎌倉がよいということで、幕府は鎌倉にひらかれたわけですが、元来頼朝は一介の流人《るにん》で、一坪の土地も、一人の兵も持たない無力者だったのを、東国の武士等がよってたかって担《かつ》ぎ上げたのであり、幕府という新政府も、実質的には東国の武士等の共有する政治機関であったと言ってよいと思います。頼朝の家のもののように見えながら、実はそうでなかったことは確かです。その証拠は、頼朝の一代は頼朝のもののように見えますが、その子頼家・実朝の代になりますと、その家の当主とは言えないほど二人は微力であり、実朝が死にますと、ほんのわずかな血のつながりがあることを理由にして、京都から藤原氏を招き、さらに親王を招いて、名前だけの将軍として、それで大して動揺はなかったことです。
鎌倉幕府は東国の武士、ひいては全国の武士が、自分等の便宜のためにおくことにした政治機関であったと言ってよいと思います。武士はあらゆる面における当時の日本の柱なのですから、当時の日本に最も適合した政府であったと言ってよいでしょう。
頼朝の力量手腕
このように申しますと、あるいは読者の中には、
「それでは頼朝は単に武士等のロボットで、才能も手腕もない人だったと言うつもりか」
とおっしゃる人があるかも知れませんが、そう主張する気はありません。
才能・手腕の点では、ずいぶんすぐれた人です。当時の東国武士は、ずいぶんあつかいにくい連中です。剛強、素朴で、忠誠の念が厚く、日本武士の精髄であったと、昔から言っていますが、これは美点だけをあげて欠点をあげないために、そんな結論になるのです。強欲で、強情で、感情的で、意地ッぱりで、ごくものわかりが悪く、すぐ腕力に訴えたがる欠点もありまして、まことにつき合いにくい連中でもあったのです。こんな連中をうまく馭《ぎよ》して行ったのですから、中々の手腕といってよいでしょう。
朝廷から色々な権益をもぎ取って行った手際も卓抜です。当時の朝廷の利益代表者は後白河法皇です。頼朝が日本一の大天狗であるとまで言ったほどの権謀術数の大名人です。この方を相手にしての虚々実々のとりひきですから、なまなかの才能手腕では、かえってしてやられますが、頼朝はなかなかうまくやっています。
法皇は頼朝を制するために、義経を手なずけて手飼いの番犬にしようとして、しきりに義経を取立てられました。頼朝は法皇の手のうちをはっきりと読みとって、義経を勘当し、義経の勢力を奪うばかりか、殺しにかかりまでしました。義経は立腹して、叔父の行家とともに、頼朝追討の院宣を下されんことを請願しました。そこまでのことは、法皇もなさりたくはなかったのですが、二人が請うてやまないので、ついに下賜されました。当然、この事実は頼朝にたいする法皇の負《お》い目《め》になります。
義経と行家とは、院宣をいただきはしましたが、兵が集まりませんので、九州さして船で出発しましたところ、途中暴風にあって離れ離れになり、義経は吹きもどされて、吉野の山奥へ消えて、行くえがわからなくなりました。
法皇は院宣を出したことを後悔なされて、義経等が京を離れるとすぐ、義経・行家の行くえをさがし出せとの院宣を諸国に下したり、二人の官爵を削ったり、二人を捕えよという院宣を諸国に下したり、二人をさがし出せという勅を頼朝に下したり、何とかして頼朝のきげんをなだめようとなさいました。
大江広元には、法皇が頼朝に負い目を感じて、周章狼狽しなさるに違いないことが、予知出来たのでしょう、十一月十二日(文治元年)に、全国に公領・私領を問わず、幕府から任命した守護・地頭をおくという策を立て、頼朝に建言しています。頼朝はこれを容れ、別にまた公領・私領の別なく、全国から一反歩毎に五升ずつの兵糧米を徴することもきめて、北条時政を京都に上《のぼ》せています。
時政は二十五日に京につき、二十八日に法皇にその許可を願い出ましたところ、翌日はもう裁可されています。いかに法皇が恐怖してお出でだったかがわかります。
当時は、平家と平家に一味した宮廷人の荘園は没収され、大方は頼朝のものになったり、功ある将士に恩賞として与えられたりしていたのですが、そうでない宮廷人や社寺の荘園は昔ながらの姿であって、その少なからぬものが租税は徴収出来ず、官憲の力も入ることが出来ない権利を取得していたのですから、幕府という革新政府を創建しても、その力の及ぶのは頼朝の荘園と、幕府に臣属を誓っている、いわゆる御家人等の荘園とだけ、厳密な意味では幕府は日本全体の政府とはいえないものでした。しかし、これで日本全体の政府となったわけです。策は大江広元が立てたにしても、それを採用して実行したのですから、頼朝の手腕と見てよいのです。すべて主将の手腕とはこういうもので、自ら立ち働くのは士や部将や参謀のことですからね。
頼朝は相当女好きで、そのために政子夫人の嫉妬を挑発して、度々問題をおこしています。政子は天性嫉妬深い女性であったようでもありますが、その実家北条氏は頼朝のパトロンだったのですから、その点でも頼朝としては馭しにくかったのでしょう。英雄頼朝も女房に手こずったわけですが、妻にとっては夫は、たとえ英雄でも、聖人でも、単に亭主というにすぎませんからね。遠慮なぞするものですか。
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献 上 の 虎
「虎と象がまいったそうな」
「ほう、これはまためずらしいこと。大明《だいみん》国からの献上か」
「そうじゃ。殿下のおなぐさみにという口上で送ってよこしたのじゃという」
「はてさて、国が大きいだけあって、くれるものも大きいのう」
「見物にまいろうや。虎は高麗《こうらい》にいる時見たことがあるが、象はまだ見ぬものじゃ」
「面白かろう。まいるどころではない。ぜひ見たい」
豊臣秀吉の朝鮮出兵が、途中和議の相談がおこり、出兵していた諸大名の大部分が内地に引き上げているころのことであった。秀吉の大本営の所在地である肥前の名護屋の至るところで、こんな会話がかわされた。この会話に出てくる象と虎は、このころ来朝した明国の使者が持って来たのである。使者の口上は、会話の中にもあるように秀吉の心慰みに献上するというのであるが、ほんとうは明国はこのような猛獣や巨獣の棲息する大国であることを誇示して、秀吉のどぎもを抜こうというのであったかもしれない。
こんな工合に大評判になったので、いよいよ陸上げして秀吉の上覧にそなえる日のさわぎは一通りのものではなかった。人々は早朝から港から名護屋城までの道の左右をうずめて、その通過を待った。
にぎわいは城内にも及んだ。城門から上覧場にあてられている広庭に至るまでの間、左右に桟敷を組んで、諸大名や秀吉の家臣等の席とした。
この時のこととして、常山紀談にこうある。
先ず象が通過した。象はその大きなからだに似合わず細い綱でひかれて、至って物静かに通って行ったが、つづいて来た虎は太い鉄のくさりでつながれ、左右から七、八人の屈強な唐人共がすがっていた。虎はその壮漢等を引きずるように駆けて、まことにすさまじい勢いであった。
なぜであったか、加藤清正のいる前にさしかかると、ふと足をとめ、清正をにらんだ。清正は膝を立てなおし、こぶしをかため、ひじを張ってにらみかえした。しばらくにらみ合った後、虎はまた走り出した。
この時、加藤|嘉明《よしあき》もその席にあったが、壁によりかかって居ねむりをしていて、ややあって目をさまし、そばの者にきいた。
「さわがしいようでござったが、あれは虎が通ったのでござるか」
いともしずかな調子であった云々。
このようにして、象と虎とは秀吉に献上された。秀吉はそれぞれに係役人を任命して、飼育させた。
飼育法については、ついて来た明人がよく教えてくれたので、その通りにやった。その飼育法の中に、虎には時々生きた犬を食わさなければならないというのがあった。
「むごいことをせねばならぬのじゃな」
と、飼育係等は眉をしかめながらも、そのはからいをした。九州各地の公領の代官に命じて、その支配地の民家にわりあてて犬を差し出させたのである。
まことにそれは残酷な情景であった。虎の檻《おり》に入れられた犬共は、最初から正気を失っていた。入口にうずくまったまま、悲鳴一つ上げないのだ。虎は悠々と近づいて来て、前足を上げて一撃して首の骨をおり、血へどを吐いて死んだのを、奥の寝所にくわえて行って食ってしまうのだ。満足げに鼻を鳴らし、のどを鳴らし、骨一つのこしはしない。バリバリとかみくだいてはのみこみ、あとは舌なめずりし、あくびを二つ、三つして寝てしまうのだ。
もの好きな人はいつの時代にも多い。つてをもとめて見せてもらいに来る者がめずらしくなかったが、いずれも舌を巻き、身の毛をよだたせ、
「おそろしいものだのう」
「人間なら晩酌してひとねむりといった風じゃのう」
「獅子を百獣の王というが、虎の方が強いかも知れんのう」
などと、ため息まじりにいうのであった。
このころ、肥後の国のある村に、伝太という猟師がいた。伝太の犬のカヤは中々の名犬であった。赤毛の中型の犬であったが、強くもあれば、利口でもあり、猟もたくみであった。伝太はこの犬を女房よりも、十七になる娘よりも愛していた。
ある日、伝太が猟からかえって来ると、女房と娘が青い顔をして飛び出して来た。
「父さん、大事ですばい。どぎゃんしょう、どぎゃんしょう」
と、娘が泣きながらいう。
藪から棒のことばだ。伝太にわかろうはずがない。
「どぎゃんしたとかい。何がおこったとかい」
「カヤを差し出せちゅうて、庄屋様が来なさりました。カヤは虎の餌食《えじき》になるとです」
と、女房が説明したが、伝太にはそれでもわからない。名護屋の虎と象のことは、片田舎のこのへんにはまだ聞こえていないのである。
「おちついて話せ。なんのことじゃか、まるでわからんぞ。虎の餌食とはなんじゃ。虎がどうしたのじゃ」
女房と娘はかわるがわる庄屋から聞いたことを語った。
「なんじゃと? おどんが犬ば虎に食わせる? 阿呆なことばぬかせ! おどんが犬はしょうばい道具じゃ。役にも立たん虎なんどの餌食にしてなるか! よし庄屋どんが家に行ってくる!」
伝太はかんかんに腹を立てて、庄屋の家に乗りこんだが、間もなくしょげかえってかえって来た。
「わしも無理な仰せじゃとは思うばってん、代官様は太閤殿下の仰せつけじゃと申さるる。どうすることも出来んわい。殿下の仰せをそむいては、汝《われ》一人が罪人になるばかりではなか。村中がおとがめをこうむることが目に見えとる。つらかろうが、得心してくれや」
と、ことをわけて庄屋様にいわれて、どうすることも出来なかったのであった。
伝太はさし出すまでの五日間、存分にカヤを可愛がることにした。毎日カヤのよろこびそうなものを自ら調理して食わせた。彼には満腔の憤りがある。食わせながら、いつも人間にいうように言った。
「さあ、これば食って元気をつけろい。汝《われ》も日本の犬じゃ。しかも、この近在近郷では一番強うて、一番かしこうて、一番猟がきける犬じゃ。相手は異国の虎じゃ。おめおめと食われてはならんばい。しっかりと働いて、鼻面でも、のどでも、足の先でもよか、必ず一噛みは噛んで、それから死ねや。いいか、わかったか」
犬は食べるのに夢中だ。聞いているようには見えない。
「畜生じゃな。こぎゃんほど利口なやつでも、食べものとなると、ふり向きもしくさらん」
と、伝太は腹が立つやら情ないやらであったが、犬が食べてしまうと、同じいいぐさをくりかえさずにはおられない。
「汝《われ》も日本の犬じゃ。おめおめと食われてはならんばい……」
カヤの食われる日も、多数の見物人が集まっていた。
カヤは籠《かご》に入れられたまま、下人《げにん》共の手によって虎の檻の前まで連れられて来た。これまでの犬は、檻から十間ほどに近づくと、もう異様でおそろしい臭気を感ずるらしく、微かな悲鳴を上げて逃げようとあせるのだが、カヤは籠の底にうずくまったまま身動き一つしなかった。鋭く立った耳だけが、ピリ、ピリと、たえずふるえて、緊張しきっていることを示していた。
「ほう、今日の犬は少し様子がちごうな。強くてこうなのじゃろうか、弱くてこうなのじゃろうか」
と一人の下人がいった。
「強いとて知れてあるわ。相手は虎じゃ。大方もう腰をぬかしているのであろうて」
と、他の一人が答えた。
一方、檻の中はどうかといえば、美味の近づいて来たことを知って、虎は寝所を出て来た。悠々たる身のこなしだ。太くたくましく、しかもビロードのように柔軟な足どりで檻の中ほどまで進み出て、キッと入口の方を見たかと思うと、雷鳴のとどろくように吠えた。鮮血のしたたっているような真赤な口、さきの曲ってとがった真赤な舌、とぎすました刃物のように鋭い真白な歯、見なれているはずの係役人等さえ胸がふるえたのだから、見物人等に至っては顔色までかえた。忽ちシンと水を打ったように静かになった。
下人等は、役人のさしずによって、カヤを檻に入れた。一人が檻の戸口をひらくや、カヤを抱きかかえていた一人がすかさず投げこみ、投げこむや戸をしめるのだ。
投げこまれたカヤは宙でかえってスックと立ち、ゆっくりと腰をおろした。双の眼は爛《らん》と光って、虎をにらんではなさない。これもいつもとちがっている。これまでの犬は濡れた雑巾のように、投げられたままの姿で床にへばりついていたのだ。
虎はのそりと近づき、突如すさまじいうなりを発したかと思うと、おどりかかった。
人々はいつもの通り一たまりもなく背骨をたたきおられたと思ったが、カヤは一声吠えるや、敵の足をくぐってのどに噛みついていた。電光のような速さであった。
虎はおどろき、あわて、怒り、ふりはなそうとしてはげしく首を振ったが、カヤは決してはなれない。虎は一層あわて、はげしく吠えながら跳躍をくりかえして首を振った。カヤの小さいからだはマリのようにふりまわされた。しかしそれでもはなさない。
ついに虎はあと足で立ち上って、前足でもぎはなそうとした。刃物よりもまだ鋭い爪はカヤの胴体を引き裂いた。毛がぬけて飛び散り、血がほとばしり、肉がむき出しになり、はらわたが流れ出して来たが、それでもはなさない。
虎は気が狂ったようになった。おどり上りおどり上りのたうった。方四間という頑丈な鉄の檻がメキメキと鳴りながら震動し、カヤの血と肉片とが散らばって、惨烈な有様となった。
こんなことが三十分もつづいたろうか、虎の勢いは次第によわり、ついにたおれてしまった。
事は秀吉に報告された。秀吉はすぐやって来て、自ら検分し、涙をこぼしてカヤを激賞した。
「あっぱれなやつめ、あっぱれなやつめ! あっぱれ日本の犬じゃ。ほめてやるぞ! りっぱに成仏するがよい」
そして、五奉行の一人増田長盛を呼び出していった。
「この犬の死骸を持主の許へおくってとらせい、肉きれ一つのこすでないぞ。虎と立派に闘ってしとめた次第をくわしく書きおくってやれい。白銀十枚とらせい」
ぼくはこの話の出ている書名を逸した。少し骨折って調べれば検出できると思うが、今そのひまがない。ぼくのこしらえた話でないことだけは知っておいてもらいたい。
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随  想
史実と小説
小説と「うそ」
小説というものは、いまも申し上げる通りうそなんでありますから、うまい小説家というのは、みんなうそつきなんですね。最近小説家で文化勲章をもらった人が二人ありますが、ああいう人たちは、これは非常にうまい大うそつき、ということになるわけであります。(笑)三段論法ですからね、これは間違いありません。小説というものは、そんならみんなうそかと申しますと、そうでない小説もあることはあります。事実のまま書いて、ちゃんと小説になるということもないではありませんが、それは非常に珍しい、非常に少ないんであります。なぜ少ないかということは、これからお話し申し上げることによって、大体明らかになるだろうと思います。第一ですね、小説というものは、これは面白くなければいけない。面白くないような話は、みんなだれも難儀して読みたくはありません。読みたくない読者を引っ張って、いやが応でも読ませねばならんのですから、面白くするよりほかはない。小説の発生から考えて、面白い話、これがすなわち小説なんであります。それがどういうわけでありますか、二十世紀になりまして、日本では小説というものは、面白くてはいけない、という考えが出て来たのです。私どもの若いころには、そういう文学論が横行した。面白過ぎる、こういうのは、上等の小説じゃない。日常茶飯事を書いて、人生の真実を暴露するのに、小説の使命がある、という考え方がありました。それが小説文学界における主流をなしていた時代があります。そういう時代には、今日古典的な作家として、日本文学史上に炳乎《へいこ》として輝いているような森鴎外であるとか、夏目漱石であるとかいうような人たちは、日本文壇の傍系の地位に置かれていた。ご年輩の方はそれをご承知のはずであります。だが、そういうのはですね、もちろんこれは間違ったことです。人間というものは、うまいものばかり食べていますと、時にはね、簡単なおかずで茶づけかなんかでサラサラとかき込みたいものです。つまり、いま申し上げましたように、小説などは面白くてはいけない、というのは、栄養の食味にあいた人々が、茶づけが、これが本当のごちそうであると主張するのと同じであろうと思っております。間違いであること言うまでもありません。小説は面白くなければならないのが本当です。面白くなければならないということになりますとですね、ほんとのことには、あんまり面白いことはない。面白いこともありますよ、ありますけれどもね、うそほど面白くはない。よく世の中には、非常に話のうまい人がいる。話のうまい人は、聞いているうちにはハァハァ笑わせる、あるいは涙を流させる、あるいは歯がみをさせる、というような具合に、自由自在に掌《たなごころ》に乗せるように、面白がらせてくれる。そういう人の話は、大ていうそが入っていますね。(笑)聞いている時には夢中になって聞いておりますが、別れて家へ帰る時には、待てよ、あれはほんとかしら、うそだぞ、と思いますね。大てい面白くするにはだからうそというものが必要となって来る、こういうことがですな、小説というものが、うそであるということの、一つの原因になるわけであります。それから、第二番目には、読者に感動を与えなければならない。小説というものは、もともと理屈に訴えるものではなく、三段論法で、こうであるから、しかじかである、というような具合にですね、理性に訴えてゆくものではない。人間の感情に訴えてゆくのが、これが文学でありますし、小説であります。人間の感情の高まってゆく過程には、いろいろありますが、その中で一番多い方式がある。その一番多い方式によって物語を展開すれば、まことに便利である。そのうまい具合に読者の感情をリードして行く方式が、小説作法の、小説構成の方法となっているわけであります。
小説の構成
この構成の方法は、小説家がよく申します起承転結である。先ず書き出しである、それから、それを発展させて受ける、書き出しを受けて、それを発展させてゆく、それから変化を与え最後にしめくくる。これを起承転結と申します。もともとこれは漢詩の絶句の構成の方法であります。シナの詩の方法であります。頼山陽という人、これは有名な文章家であり、有名な詩人であり、有名なる歴史家でありますが、いま生きてれば、歴史家だとか、学者だとかになりゃしない。これはどうしたって吉川英治になる。この人に漢詩の作法をある人が聞いたらですね、そんなものはわけないもんだよ。起承転結なんだよ。起承転結とはどういうことなんでしょうといったら、歌で答えた。“大阪本町糸屋の娘”――これが起句だよ、それから“姉は十八、妹は十五”――これが承句だ、“諸国諸大名は弓矢で止める”――これが転句である、変化である。“糸屋娘は目で止める”――これが結句で結びである。「大阪本町糸屋の娘、姉は十八、妹は十五、諸国諸大名は弓矢で止める、糸屋娘は目で止める」これが漢詩の構成法である。そのあとのことは、漢詩の平仄《ひようそく》と韻がわかりさえすれば何でもなくつくれるとこう申したそうであります。その通りですね。有名な川中島の詩なんかでも、「鞭声粛粛夜過河」というのが起句だ。「暁見千兵擁大牙」というのは承句ですね。それから「遺恨十年磨一剣」でがらっと変わってですね、「流星光底逸長蛇」というとこで、ちゃんと結びになる。こういうような具合にですね、起承転結の形で、人間の感情というものを、うまく導いていって高揚させることができる。ですから、こういう起承転結という方式ができたのです。小説の方では起承転結という簡単なやり方ではいけない場合もありますが、大ていそれでいけます。本則はそれであります。まず書き出しがある、発展がある、変化がある、クライマックスがある、それから大団円がある、というような具合に西洋でも構成の方法はやっております。
ところが、人生の事実というものは、必ずしも起承転結の形はとりゃしない。必ずしもとりゃしないものをですね、とらせようとするから、いきおいそこにうそが出来てくる。だからどうしても小説にはうそが必要であるということの第二の理由になるわけですね。それからですね、これが一番大事なことなんですけれど、小説に書かれている心理、小説に書かれている人間、これは実際の真理や人間とは、別もんなんであります。小説に書かれている心理や人間は、作者の心を通じてこしらえあげられたものです。実際のものはこしらえるよすがにはなっても、そのままじゃない。つまり、作者の主観をいろいろと加減して実在的なものに見せかけているのです。現実の人間の性質はまことに複雑多種多様で、一人の中にいろんな性質が混合しております。しかもなお、AはA、BはB、CはCと一見してわかる個性がある。まことに微妙なものであります。よく易者さんが手相をみて「はあ、あなたはね、非常に豪放ライラクで男性的にみえるけれど、大変神経質なところがありますね」と申しますね。それからまたですね、「あなたはね、大変やさしそうにみえるけど、性根は実にしっかりしたところがありますね」というようなことを申します。いわれた人はみんな、よく当たったと、こう思うでしょう。当たるはずなんですよ、そういうものなんですよ、人間は、いろんな性質をみな持っているのです。だから何をいったって当たるわけなんです。何といったって当たることになっているのです。しかし、そういうような具合に、いろんな性質をごちゃごちゃ書いて行ったんでは、人間の書き分けということはできない。多数の人物が出てくると、読者は混雑して、誰が誰やらさっぱりわからなくなってしまう。だから書く場合には、目立つところだけ書いて、他は全然消してしまう、そうせざるを得ない。だから小説に書かれているような人間は現実の世界にいやあしません。どんなにまっ正直で、おとなしい立派な人間でも、あるいは、どんな勇敢な人間でも、小説の中に書かれているような人間は、現実の社会に放り出してごらんなさい。直ちに滅亡ですよ。現実世界の中では、生きるに耐えないような、はんぱな性格しか書けない。だけど、小説の中ではそういう具合に書かないと、生き生きとして来ないのです。そこでもうそが書かれているのです。書かれざるを得ないのです。
いま申しましたように、これは人物の性格の描写だけじゃありません。作者が書こうと重く考えている真理ですね。それでも、そうなんです。強烈に、生き生きと読者に感銘させるためには、誇張もあり、省略もあり、つけ加えもある、いや、それが絶対必要であるというところから、厳密な意味ではウソにしかならない。
新平家と「うそ」
これから、いろいろと現実の文学作品をヤリ玉に上げてゆくわけなんでありますが、数年前に週刊朝日に連載されました吉川英治氏の新平家、あの新平家の中に、平清盛が重要なる人物として書かれております。吉川さんは、ですね、平清盛を、非常な貧乏の中からたたきあげて、えらくなっていった人物として描写されている。それはですね、平家物語や源平盛衰記の中には、それとおぼしいような書き方をしたところが数行あることはあります。数行ありますが、史実的に申しますと、清盛の家は貧乏な家ではございません。大変金持ちの家です。平家が富み栄えた、非常に富み栄えたのは、清盛のおじいさんの平正盛から始まっております。諸国の国司をつとめまして、国司というのはいまの官選知事ですね、それをつとめまして、当時の国司というのは、大変もうかる仕組みなんです。これを受領《ずりよう》といいますが、“受領は倒れるところに土をつかむ”という、つまりね、転んでもただ起きないという意味なんです。当時のことわざです。非常に欲張りの人間もいたわけなんでありますが、非常にもうかる仕組みになっております。そういう受領をつとめております。それから、つとめたところがいいんであります。大体この近畿地方を中心にしまして、西の方が彼らの任国である。そのころの日本はですね、東の方は、あんまりよくない。ここから西の方が豊かです。その豊かなところへつとめまして、もうかる仕組みになっている国司をつとめますから、それだけでももうかる。おまけに西の方は、特にこの瀬戸内海の沿岸地方は瀬戸内海交通を利用しての各国間の交易があり、九州の北部の方に行きますと、大陸から来る貨物なんかで、貿易の利益をつかむことができる。こういうところに国司づとめをしたのですから、大変富み栄えていたのです。清盛の父の忠盛が、鳥羽法皇に大変可愛がられたというのも、はじまりは、彼は富をもって得たのであります。鳥羽法皇が、三十三間堂の前身である得長寿院、これをおつくりになった時に、忠盛はこれをつくって差し上げた、つくって差し上げるといっても、工事を監督するだけじゃない。自分の金を使いましてね、全部費用を賄ってつくって、そうして差し上げますといって差し上げるのです。これを当時の言葉で“じょうこう”と申します。“じょうこう”というのは成功と書くのです。功を成すと書きます。そういうことから認められまして、大変可愛がられたのであります。それがまあ平家がだんだんのし上がってゆく因になるわけです。貧乏ではできっこのないことであります。
だから当時の書物を調べてみますとね、清盛は十三の時に、従五位下、丘衛佐《ひようえのすけ》に任官している。十三でそれに任官するっていうことは、最も順調な出世スタートをしているわけですね。貧乏でありっこはないのであります。それを吉川さんが、どうして貧困の中からたたき上げたようにお書きになったかといいますと、吉川さん自身が、そういう人間が好きなんであります。吉川さんが書かれた宮本武蔵にしても、平清盛にしても、それからいま毎日新聞に書かれている私本太平記に出て来る足利尊氏にしても、自然人ですね。生命力のあふれているような自然人が非常に好きなんです。そういう人間を書きたくってしようがなかったに違いない。吉川さんは非常に勉強する人でありますから、私がいま申し上げましたようなことは、全部知っとられる。知っとられるけれど、そういう清盛として書きたかったに違いない。だから作者の主観を通じて人物像をつくり上げる、と申しましたのは、ここのことです。だから、そういうものにお書きになったわけであります。そういうことをですね、歴史はわかっても文学がわからない人、あるいは文学がわかっても歴史のわからない人は、よくそういうところに文句をつけます。文句をつけますけれどね、両方わかっているような人間は決して文句をつけないのです。まあ、両方一番わかっていたのは、最近の作家の中では、私は幸田露伴先生が一番の人だと思うのでありますが、この人は決してそういうことをいわれない。シナの小説についての非常な研究を積んでおられるのです。またシナの歴史についても研究を積んでおられるのですけれどね、事実と小説というものをきちっと分けておられる。小説の立場なり、それから歴史の立場というものをちゃんと知っておられる。わからない人間が文句をいうんであります。
それからですね、小説の中には、民衆のあこがれを書くことを目的とする小説もあります。例えば水滸伝というシナの小説があります。この水滸伝は種のある話を小説化したものであります。宋の時代に宋江という男を首領にした盗賊団体がありまして、天下を横行して大分暴れ回った。そのお話はほぼ史実を書いたものがありまして、それを種にして水滸伝がだんだんできていったものです。あれは一人の人間が机の上でこしらえたものじゃないです。あれは講談ですから語りつぎについでゆくうちに、だんだん、だんだん付加されていって、今日の流布本のような形に完成したわけでありますが、出来上った水滸伝になりますとですね、この宋江に率いられた盗賊団体は義賊になっております。百八人という大集団で、豪傑連中が集まっている義賊団体ということになっております。これができあがったのは、シナの元朝から明朝にかけての時代であります。どうして単なる盗賊団体を義賊にしてしまったかと申しますと、これは元・明朝の政治がよくいってなかったんですね。それで水滸伝の義賊の連中がいじめるのは、やっつけるのは、みんな当時の悪役人どもばかりであります。だから当時の市内の民衆たちが、ああいう人間が出て来て、われわれを苦しめている貪官汚吏を征伐してくれればいいなっていう気持ちがあったに違いない。その気持ちに合致してですね、ああいう形に水滸伝がまとまったのですね。
水戸黄門と民政
早い話が一番わかり易い例を申しますと、水戸黄門の漫遊記であります。実際の水戸光圀という人は箱根からこっちに来ちゃおりません。ひょっとすると箱根の温泉か、熱海の温泉ぐらいには行っているかも知れないけど、山を越えて西の方に行ったことがないのは事実であります。碓氷《うすい》峠を越えて信州の方に入っていないことも事実です。白河の関を越えて、奥州地方に行ったことのないことも事実である。江戸の町あたりはずいぶん歩き回ったらしい。それから水戸の領内も歩き回っている。それもですね、隠居をしてから歩き回っているのです。大体水戸家というのは御三家の中でも特別な家であります。江戸時代における天下の諸大名は、ご承知の通り、参覲交代ということをやり、一年間は江戸にいて、一年間は国元にいる。大体、これが規則になっている。やらなきゃならんことになっている。どうもですね、経済の具合が悪いので、今年はかんにんして下さい、国元にいて倹約したいと思いますと、今日なら十分の理由になることだと思われるのですが、当時はそんなことでは決してゆるされない。必ず、苦しくっても、何とかかんとかゆとりをつけ、出て来なければならん。それから国に帰るのは大儀だから江戸にいたい、といっても、それも許されない。必ず国に帰らなければならない。そういう規則になっている。天下の諸大名みんなそうでありますが、水戸家だけはですね、これは江戸定府ということになっております。江戸に居っきりということが原則になっております。だから国元へ帰る時には、特に幕府の許しを得て帰ってゆかなければいけない。だから国元へも光圀はそうたびたび帰って行かなかったに違いない。隠居してからはずっと水戸の方におりますが。その光圀が助さんと格さんを連れ天下を歩き回って、人民の、民の苦しんでいるようなことを、一々正して歩いた、悪代官がおれば、悪代官をしかりつける、悪い殿様がおれば悪い殿様をしかりつける、ということになっております。
これなどもですね、江戸時代の民政がうまくいっていないからこれができたんです。武家階級の権力階級の圧迫に、民衆が非常に苦しんでいた。だからね、ああいう無上な権力者があって、われわれを苦しめている人間を、しかって正してくれればいいという気持ちが、ああいうものをこしらえあげたのですね。特にね、この講釈は大阪種であります。ご当地からできたのであります。だから助さんでも、格さんでも、黄門さんでも、あれ関西弁使っておりますよ。(笑)それはですね、ご当地は町人の町であります。また天下の経済の中心であります。江戸時代を通じて武家階級は貧乏で苦しんでいたので、苦しまぎれにご当地の町人連中をしぼった。将軍は献金を命じ、諸大名は金を借りて、ふみたおすというわけです。私は薩摩の生まれでありますが、薩摩の殿様などは、ご当地には大分義理の悪いことをしている。それで大坂の人たちは、武家の圧迫というものに対して、もっとも痛切なる苦痛を味わっていた。だから、水戸黄門の漫遊記などというものが、ご当地に発生したんですね、講談ではありますけれど、これもやっぱり非常に素朴な意味で文学ではありますから、小説の中に入れて考えるべきだと思います。
水戸黄門の漫遊記以前にはやっぱりそういう小説があります。これ鎌倉幕府の最明寺入道時頼の廻国記という、国をめぐる、なんていうのがあります。その中にある一番有名な話は謡曲にある“鉢の木”の話です。佐野源左衛門常世という侍が自分の一族に所領を奪われて貧乏しているところに、時頼がめぐり合わして、それをあとで取り返してやったという話が、“鉢の木”という謡曲になっておりますが、この時頼という人も廻国なんかしておりません。鎌倉時代の幕府のことを綿密に記録した吾妻鏡という書物がありますが、その書物をみても、彼が鎌倉を留守にしたことは一年としてありません。この話なども、幕府の後家人《ごけにん》が、幕府に忠誠を誓っている諸国の武士たちが、非常に貧乏をしまして、所領を失う武士が出て来たのです。これは鎌倉時代がだんだん進みまして、平和な時代がつづいて、生活がぜいたくになって、そのために貧乏が始まって、所領を質入れして、金を借りたりなんぞして、所領を失って行ったのでありますが、大幅に一ペんに貧乏の侍をふやしたのは蒙古襲来です。蒙古襲来は、あれは三十年間にわたって、日本は軍備体制を解くことができなかったのですから、当時の武士階級は大変なものいりであった。それで大分貧乏になり、所領をなくする武士がふえた。ですから、鎌倉時代の末期になりますと、そういう侍がワンサと出て来た。そういう人たちにとっては、最明寺入道時頼のような、無上な権力者が出て来て、自分たちの苦しみを救ってくれるということが、あってほしいと思うわけですね。そういうことから、こういうものができたんです。これも原型は太平記に出ております。こういうものはですね、これはこしらえられた話であります、こうありたいという気持ちをね、書いたものであります。だから、これがうそであることは、いうまでもないのであります。しかし、うそではあっても、そう考えてゆきますと、その時代としてはですね、民衆の慰めになっているという点で、目的を果たしているわけであります。
トルストイとナポレオン
あんまり日本の話ばかりしていますと、あいつ無学じゃないかといわれそうですから(笑)向こうの小説も例に引きますが、トルストイの小説に「戦争と平和」という、非常に長い大小説がありますが、あの中に出て来るナポレオンという人物、これはちっとも偉く書いてない。われわれが歴史の書物で読んだり、ナポレオン伝なぞで読んだりして知っているナポレオンとはまるで違うのです。偉く書いてない。これはトルストイが自分の哲学によってナポレオンを解釈したからです。トルストイは、あのナポレオン戦争というものを、ナポレオン一人の力で起こったものとはみていない。一人の力でヨーロッパの全国民からなる軍隊が、ずっと西の方から東の方に、モスクワにいたるまで大行進をしてゆく、動いてゆく、モスクワで雪に降られて、こんどまた、ざーっと東から西の方に逃げて行く。それをロシア軍が追撃してゆくという、そういう大事件が、一人の人間の力で起こるものではない、こういう考え方です。すべて運動というものは、運動を起こすに足る大きな力が働かなければならない。百貫目の石を動かすにはですね、百貫目の力がなければ動かないはずである。非常にこれは科学的ですね。物理学的であります。ナポレオン一人に、そういう力があったとは、想像できない。ナポレオン戦争を起こしたものは、ナポレオンじゃないのだ、あれは神様なんだ、神の力が働いてああいうことをしたのだ、というような具合に、トルストイはみているわけです。ですからトルストイのナポレオン観は、ナポレオンというのは、つまり自信過剰のピエロに過ぎないという見方です。神の力で動かされていることを知らないで、自分の力で動いているといって肩を張っていばっているピエロに過ぎないんだ、子供に過ぎないんだ、そういう見方をしております。これなどもですね、トルストイはそう信じていたかも知れないけれど、客観的にですね、これを本当のナポレオンであるとは、いえないだろうと思います。小説というものは、そういうような具合に、作者の解釈によって、一つの人物をみ、一つの人物を書いてゆく、形作ってゆくそういうものなんですね。
保元物語と為朝
それで一応西洋の方は切り上げまして(笑)また日本にもどりますが、「保元物語」という軍記物があります。古典があります。これは私は小説だと思っているんです。つまり保元の乱という事件を通じてですね、鎮西八郎為朝という、まあ作者が理想的なる武人であると思った人間の一代記を書いたものだ、とこう思っております。ですから、これに出て来るですね、鎮西八郎為朝は、大変に偉いものに書いてあります。先ず彼が弓の名人であったことを書いてあります。まあ弓の名人は本当だったのでしょう。弓の名人であったに違いない。だけどですね、保元物語の作者はいやが上にも彼を弓の天才であるとして、天才的な体格につくり上げております。弓というものはこうやって引きます。こっちの手が長ければ、ぐっと引きしぼれるわけです。矢ツカが長くなるわけです。そこで八郎為朝はこっちの手がこっちの手より四寸長かったと書いてある。(笑)非常に科学的です、それは。科学的ではありますがね、ちょっと子供じみておりますね。そういう人間、もちろん、いっこないでしょう。いたらヘンですね。そういう具合に書いております。それから、この保元の乱は、ご承知の通り、前に皇位にあられた崇徳上皇と、いま皇位にある後白河天皇との間に争いが起こる。それから、藤原氏が二つに分れ、源氏が二つに分れ、平氏が二つに分れ、まあ親子兄弟が敵味方に分れましてね、そうして争った戦争でありますが、為朝の属した崇徳上皇方は、これは白河殿というところ、鴨川の東の方にあるご殿にいました。それから天皇方のいるのは鴨川の西の方にある高松殿にこもっていて、両方で戦争をやった。その戦争の始まる晩に、為朝が一つの戦術を献策した。こっちから押しかけて行って戦いましょう。夜襲いたしましょう。三方から高松殿に火をかけて、片っ方の方に待ち構えていて、火に追われて逃げ出して来る敵を、私が片っ端から射取ってしまいます。そうしたら、夜の明けないうちに、天下の大事は決してしまいます、ということを献策したのを、崇徳上皇方の参謀総長格であった左大臣頼長が、そういうバカな戦術はない。お前のいうような戦術は、お前が田舎で、十騎か二十騎の兵員をもって小競り合いをやった時の話だ。こんどの戦争は、二人のみかどが国を争われる戦争だ。だから堂々の陣を布いて戦わなければいかん。あすになればお味方は、奈良からも吉野からも僧兵たちが来るからそれを待ってゆっくり戦えばよいのだと、こういってしりぞけたということになっている。そうしたら、天皇方の方には為朝の兄貴の義朝が従っておりますが、これの献策で、天皇方の方からかえって夜襲して来て、ついに負けるわけであります。ところがこの為朝の戦術の献策というやつも、保元物語には、為朝が献策したことになっているけれども、当時の歴史の書物である愚管抄という書物、これは史書としては保元物語などよりも、はるかに価値の高いものでありますが、その中には、親父の為義が献策したと書いてあります。為義はどう献策したかというと、お味方には非常に人数が少ない。だから、ここに待ち構えていて戦うのは得策ではない、だから宇治に引きあげまして、宇治橋を撤去して、そうして戦いの時をかせぎましょう。それがいけないならば、近江の国に退いて、甲賀の山を横に当てて、待ち構えて時をかせいで、東国のお味方が馳せ参ずるのを待ちましょう。それがいけないならば、関東に引きあげて、足柄の関を切りふさいで、関東割拠の勢いをなして時機を待ちましょう。三つともいけないならば、こっちの方から夜襲にいきましょう、ということを為義がいったとあります。ですから、保元物語では、為朝を偉い者にしなければならんから、親父の手柄まで、親父のいったことまで、為朝の方にくっつけているわけですね。それから戦闘が始まって大変奮闘したことになっております。相当なる奮闘があったには違いない。あったには違いないけれど、明らかにうそであるとわかる記述がある。相模の国の住人で大庭景能《おおばかげよし》という侍がある。これは為朝の兄貴の義朝に従っていた。これがですね、為朝のヤジリにかけられて、ひざをフッツと射切られたという、為朝の矢というのはすごいんですから。
後世ですね、太閤さんが徳川家康に「これは為朝のヤジリである、あなたは源氏の子孫であるから差し上げます」と、為朝のヤジリをくれたのです。まあ、ヤジリと称するものですな、そうしたら家康は、それを何にしたかというと、ヤリの穂先にしたんです。ヤリの穂先になるぐらい、ヤジリが大きかったのです。昔のヤジリには雁股《かりまた》といって、こういうような形をしているヤジリ、このヤジリなんぞはですね、小ナギナタを二つぶっ違えたような大きさだったと書いてあるから、まあ、これくらいあったでしょうな。それでですね右のひざをひざ頭のところがフッツと射切られた、こう書いてあるのです。ところが二十数年たってですね、為朝のオイである頼朝が伊豆で兵を起こしました時に、大庭景能が頼朝の旗下に馳せ参じておるんですが、保元物語によると、足を射切られて片足がないんだから、義足かなんかはめてですね、松葉杖かなんかついて、こうやって来たかと思うとね、そうじゃない、五体健全で、ピンピンしてやって来ているのです。(笑)これは吾妻鏡に出ているのです。この吾妻鏡は資料的な価値は、はるかに高いんですから、こちらの方を本当としなければならん。ここでも保元物語にはうそがある。少なくとも誇張がある。射切られたといって、片っ方の方、一寸ぐらい、ちょっとやられたのかも知れませんね。それから崇徳上皇方が負けましてですね、あとは降参したり、つかまえられたりしまして、そうして一番の中心である崇徳上皇は上皇でありながら、四国の讃岐に流された。それから、参謀総長の頼長は、これは逃げる時に、流れ矢に当たって死んでおります。為朝の親父の為義も首を切られて、清盛の叔父である平忠正も首を切られている。みんな、とにかく崇徳上皇方は処分、処罰されている。為朝はすぐにはつかまえられないで、近江の国に逃げまして、近江の国の和田というところだそうですが、いまどこだかよくわかりません。和田というところに隠れ、ひそんでいる間に平家に見つかってつかまっちゃった。つかまって都に引かれて連れて来られて、公卿《くげ》さんたちの会議がありまして、死罪ということになったんだけれども、為朝があまりにも勇士である、末代あるまじき勇士であるから、むざむざ殺すのは惜しい、というのでですね、ここのところ、右の肩の筋肉を抜いて、伊豆の大島に流された、と書いてあります。この話などでも大変あやしい。というのはですね、戦争裁判というものはですね、非常に感情的なものです。だから戦争がすんだあとすぐつかまって、裁判にあったら厳罰に処せられる。大てい死刑になります。
ところが、時間が経ってからその興奮が鎮まって、感情の高まりが鎮まってから、つかまえられると、大てい助かるんであります。これは東西古今、みんなおんなじであります。日本では関ヶ原の戦争の時にですね、戦争直後につかまった石田三成であるとか、安国寺|恵瓊《えけい》であるとか、小西行長であるとかいう人たちは、みんな死刑になっております。それから時間がずいぶん経ってからつかまった土佐の長曽我部盛親であるとか、あるいは宇喜田秀家であるとか、この宇喜田秀家などは西軍の主将的地位にありますから、直後につかまったら、必ず切られたに違いないのですが、命を助けられて八丈島に島流しになっていますね、そういうものなんであります。早い話が、辻政信ですよ。あれは直後につかまったら、彼は死刑になるに決まっていますよ。それを長い間逃げ隠れして姿を現わさないで、何年か経ってから出て来た。もう裁判なんかすんじゃってありゃしません。追及しやしません。代議士になりましたがな、あれは。(笑)戦争裁判というものはそういうものなんです。ですから、まあ日本は今後、戦争などしちゃならないし、させてはならないのでありますが、人生というものはとかくですね、どういう方向をとって、どう流れてゆくかしれん。思いもかけない方向に流れてゆくことがある。万々が一、戦争でも起こってですね、その責任者の地位にわれわれが立ったなら、負けたら逃げるんですよ。(笑)逃げてね、三年間姿を隠していたら、必ず助かります。必ず代議士になれますよ。(拍手)でね、私の申し上げましたことは、保元物語は、はじめから結論を申し上げておりますが、為朝という理想的な武人の姿を書くことを一つの目的としているのでありますから、父の手柄までも彼に取り込んで書いてあります。そうしてまあ、いろいろとうそを積み重ねて理想的なる、非常に強い豪傑を築きあげているわけですね。
清盛という人
平家物語あたりに出て来る清盛の性格でもそうです。清盛という人は、平家物語に出て来るような強情我慢な、カンシャク持ちのああいう人ではないんです。清盛の若い時代のことが、十訓抄《じつきんしよう》という書物に出てますけどね。非常にこれはおとなしい、立派な紳士です。家来どもがね、家来といえないほどの身分の低い家来でも、他人のいる前では丁寧に、非常に親しく言葉をかけてやって、本人の面目を保ってやった。それから家来どもがきげんをとろうと思ってですね、面白くもおかしくもないようなつまらん話をしても、笑ってやった。それから寒い夜、寝る時に自分の夜具のすその方に家来どもを寝せてやった。当時はふとんというもの、夜具というものは高いのですから。綿なんぞないんですからね。綿があるとすれば、真綿ですから、大変高いのです。普通の人間は、それは整えがたいのです。普通の人間はどうして冬寝てたかと申しますと、イロリに火をボンボン燃やして、そのわきに寝ていた、ということもありますが、ワラの中にですね、もぐって寝たんです。犬みたいなものです。しかし清盛のところへ来て宿直などしている家来は、まさかワラを持ち込んで寝るわけにはいきませんからね。清盛は自分のふとんのすそ方《かた》に寝せてやった。朝、目を覚ましますとね、家来どもが寝ているとね、家来どもが目を覚まさないように、そっと起きて、家来どもが気がつくまで庭のあたりを散歩していた、非常にいみじき人であると書いてあります。全くこれはいみじき人ですよ。感心しますね、紳士として満点を与えていいくらいの立派な紳士ですよねえ。
晩年になりますと少しカンシャクが出ている。しかし、これは私はね、動脈硬化から来たもんだとみているのでありますが。(笑)まあ、私の診断であります。しかし、いくら動脈硬化が出ても、本性がそういうやさしい人がですね、平家物語に書いてあるような、ああいう荒々しいカンシャク持ちになるはずがない。そこはですね、平家物語に彼がカンシャクをおこしたことがいろいろと書いてありますが、これを当時の歴史の書物――公卿さんの日記であるとか、さっきからあげました愚管抄であるとか、ああいうようなものと対照して調べてみますとね、全部違うんです。平家物語の中の、もっとも理想的なる紳士とされている重盛がやっている悪いことを、それをですね、親父の方におっかぶせているんです。平家物語に重盛|諫言《かんげん》の場というのがあります。鹿《しし》ヶ|谷《たに》において、アンチ平家の挙をなそうとした。それに後白河法皇がバックしてですね、後白河法皇の近臣の連中があそこで、共同謀議をめぐらした。それがわかったんで、みんなとっつかまえた。そうしたら清盛非常に怒ってですね、後白河法皇を捕えて幽閉しようとした、ということをね、平家物語にも、源平盛衰記にも書いてある。ところがこれをね、玉葉《ぎよくよう》によりますと、そうじゃないんです。玉葉と愚管抄によりますとね、玉葉というのは、当時の公卿さんの日記ですが、そうじゃないのです。鹿ヶ谷事件が暴露してから、公卿さんたちが平家をはばかって、いままでせっせと法皇のところに出入りをしていたのに、今では全然出入りをしないということを聞いて、清盛は、カンカンになって怒っている。軽薄きわまるといってカンカンになって怒ったんで、みんなが法皇のところへ出入りしはじめたということが書いてあります。そういうような具合にですね、人の軽薄を憤るほどの清盛がそういうことをするはずがない。法皇を幽閉しようとするはずがない。
だけど、重盛諫言の場は平家物語の中の圧巻でありましてね、文章もなかなかいいんです。原文もいいんですが、それを漢訳した山陽の日本外史の文章もまた、なかなかいいですよね。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここにきはまれり。生きてこの憂ひをみんよりは、死するにしかず。大人《たいじん》必ず今日の挙をなさんと欲すれば、まづ重盛が首をはねて、しかるのちに行なへ。かつ言ひ、かつ泣く。挙座感動す」なかなか殊勝な孝子ぶりですよ。これがまっかなうそ。(笑)平家物語で、なぜそういうことをやったかというと、これは文学の物語構成技法として、人間の性格を書く場合に、対照的に書いてゆく。親子兄弟が出て来たら、必ずといってもいいぐらいに反対の性格に書く。皆さんもお読みになった小説をいろいろと思い出してごらんなさい。もし、そう書いてない小説があったら、きっと面白くない小説に違いない。面白い小説は必ずそういう技法をとっております。
「天と地と」とうそ
まあ、いろいろありますが、いままであげました書物はこれは歴史事実をたくさんあげてありますから、文学書、小説ではありますけれどね、今日では歴史の参考書になるわけです。史書としてみる面もあるわけですけれども、これを史書としてみる場合にはそういう具合にして、考えて読んでみませんとひっかかります。文学書ですからね。それでも平家物語にしても、太平記にしてもですね、あるいは保元物語にしても、これは立派な古今の大文学であると思いますが、日本人の生んだ文学の中でも、もっとも優秀なものの中に入れなければならんもんだと思いますが、歴史事実に違っているから、といってその文学的価値が落ちるものじゃない、というのは文学というものと、歴史というものは、違った次元の上に立っている。つまり史書というものは、あくまでもこれは史実である、事実であるということを追求しなければならん。文学の方では事実じゃありません。これは感情でありますから、感激でありますから。
私はいま「天と地と」という小説を、週刊朝日に書いておりますが、これもずいぶんうそを書いております。うそばっかり、というわけじゃないですよ、大体うそつきの上手な人間というのはね、まっかなうそ、というのはつかない。(笑)急所、急所には本当のことを書いて、その間をつなぎ合わすというのにね、うそをつくわけですね。それがうそつきの名人であります。
私は、まあ、うそつきの名人ではありませんけれど、名人のまねをしたい、ですからそういうことをやっている。先々月ですか、越後の方に行きましたらね、史跡踏査に行ったのです。そうしたら、越後の郷土史家の人達に会いましてね、大分やられたのです。六日町というところ、塩沢御召という女の人の着る、男も着ますが、織物が出る。そこの近所に六日町というところがあります。その六日町で戦争があったことは事実です。
しかしどこでやったかということはそこの郷土の人も知らない。ましてや私が知るわけがない。けれど知るわけはない、といったって、これは戦争を書く以上は、どこと書かにゃいかんですよ。この辺であったらしい、という、そんなバカな小説ないですよ。(笑)人の名前でもそうですよ。女の名前などはね、第一ね、日本の歴史にはわかっている例もありますが、わかっているのが珍しい。わかっていないというのが普通であります。女なんていうのはね、生家の苗字《みようじ》をですね、何々氏と書いてあるだけですよ。名前など書いてないのが普通です。しかし何々氏なんていうのは、やっぱり書けませんよ。やっぱり具体的にしなければならんですよ。お花ならお花に、何とかしなければならんですよ。実を申すと、あそこに出て来る景虎のお母さんの名前をお袈裟としてあるでしょう。あれなんぞはですね、佐渡おけさから思いついたのです。(爆笑。あとでわかった。虎というのであった)それから、六日町の戦争の場合などでも、六日町に行きましたら、郷土史家の人達が集まりましてね、何の書物によるんでしょう。あなたの小説ではあそこで戦争が行なわれているように書いてあるが、読むといかにもそのようであったようにも思われる、また、いろんな情勢がね、あそこでなければならんような気がする。しかし何かよりどころがあるのだろう、といわれるのです。けれども、これが、まっかなうそでございまして、実はね、地図をひろげていろいろ研究してみたらね、ここでやらせた方が一番面白い戦争ができそうだったんで、ここにいたしました。どうもあいすみません、といって謝ったんです。そういう例、たくさんあります。
それから片貝村の山の手の禅坊主の草庵で、景虎が初めて宇佐美定行に会う場面を書きました。そこの土地の人が手紙をくれまして、あれは何にあるんでしょう、こういって来たんです。何にあるんじゃない、何にもありゃしないのです。宇佐美定行がいまの柏崎の近くの琵琶島《びわじま》に、それから、景虎は栃尾《とちお》にいる。栃尾と琵琶島との間を、こう見ましてね、大体まん中あたりで会わしてやろうと、いろいろ、こう見てみましたらね、片貝というところは、ちょっといいとこなんです。東の方に信濃川がずっとうねりましてね、その向こうに中部山脈がこう見えている。こっちの方に山があり、その山の中腹あたりだとね、うねっている川の流れも見えるし、東に向こうの中部山脈も見える。ちょっといけますわな。それでね、そこにしたんですけれどね、出典を問うて来たのです。それはね、いま観光ブームでしょう。地方は観光資源がないんですよ。それで、もしそれが根拠のあるものならば、観光資源にして、そこへ「上杉謙信、宇佐美定行 第一回 会見の場」、とかね、碑か何か建ててね、バスか何かとまらせて、バスガールか何かに説明させようと思ったんでしょうね。しかし残念ながらそういう根拠はありませんで、申しわけございません、こういったわけであります。
これについては面白い話があります。これは私の話じゃありませんがね、吉川さんがね、新平家をお書きになっている時に、熊野川のあの辺のところを史跡踏査に行って歩かれたそうです。朝日の人がそれについて行って歩かれた。そうしたら、村上元三君が書いた、佐々木小次郎がツバメ返しの秘伝を案出するところがあるそうですね。あそこがね、ちゃんともう観光資源になっているのですよ。それで村長さんが出て来て「あそこに見えるあの岩が、佐々木小次郎が、ツバメ返しの秘伝を案出したところです」といったら、吉川さんが「ああそう」といったそうですよ。(笑)
で、もう結論を、はじめに申し上げておきました。いまさら改めて申し上げることもないんでありますが、史実と小説という関係、これは事実と小説でもよろしいし、モデルと小説でもよろしいのですが、事実と小説は、まるで違うものだということですね。小説とは、うそが本則のものだ、ということが合点になれば、モデル小説とか銘打ったものをお読みになっても、あの人はああいう悪いことしたんだろうか、と考えることはないわけです。だから、ここのところが合点がいけばですね、よくモデル問題やなんかがあるわけですが、そういう問題は起こりっこないわけですね。
商 君 列 伝
史記列伝や十八史略を読んだことのある人なら、誰でも知っている。商鞅《しようおう》が新王に用いられ、刑名法家の術を用いて、秦を急速に強大にしたことを。
その商鞅が秦の孝王に用いられて新法を制定したが、従来の法と大へんな違いがあるので、民がこれを信じないことを恐れた。先ず民に当局は決していつわりを言わないものであることをさとらせる必要があるとして、一策を行なった。
都の市場の南門の前に三丈の長さの木を立て、
「この木を市場の北門に移す者には十金をあたえよう」
と告示した。
「あほらしい。そんげなことぐらいで、十金なんて下さるはずがねえ。からかっていなさるのだべ」
と、民は言い合ってうつす者がない。
商鞅は賞金を五十金に増額した。
すると、ためしに移した者があった。
商鞅は即座に五十金をあたえた。
これで当局は決していつわりを言わない、ふれ出した以上、必ず実行するのだ、ということを示しておいて、新法を発布した。
きびしい法律だ。民に十人組・五人組をつくらせ、納税・犯罪皆連座させる、人の犯罪を知りながら訴えない者は腰斬《ようざん》される、人の犯罪を訴える者は戦争で敵の首を上げたと同功とする、犯罪者を隠匿した者は敵に降伏した罪をもって罪せられる、一家に二人以上の男の子があるのに分家しない者は租税を倍にするというような法律だ。
今日の共産主義諸国もこのようなきびしい法律が行なわれており、かつてのナチ独逸もそうだった。人情に甚だ遠い法律だが、すべてを法をもって割り切り、政府の権力を無上のものとする行き方をとるかぎり、古今同一軌になるのは、自然の理である。
一体、中国人には「父は子のためにかくし、子は父のためにかくす、直きことその中にあり」と論語にある、あの観念がある。これを儒教特有の考え方といってはならない。今日儒教思想といわれているものは、本来は中国人の生活の知恵が生み出したもので、儒教はそれを整理したにすぎないと言った方があたっている。儒教が長い世代にわたって中国の人の心を支配したのは、今日の多くの学者らが言うように、それが為政者に都合のよい教えであったからというだけではない。そういう面も儒教にはないではないが、それよりも儒教の教えなりムードなりは、中国人が太古からの長い長い生活によって身につけた生活の知恵で、彼らにとっては骨髄的なものだからと見た方があたっている。為政者の必要だけで強《し》いたものが、そう長く民衆に受け入れられるものではない。
ともあれ、こんなかたぎの中国人だから、商鞅の新法は非難ごうごうたるものがあった。一年の間に都に来て、
「新法はよくない」
と上申する者が数千人あったという。
その頃、太子が法律に違反した事件があった。鞅は、
「法の行なわれないのは、上流の者が違反するからである。太子はこの度法を犯した。当然処罰すべきであるが、王の嗣《し》であるからそれは出来ない。おつきの者に責任があるのだから、それを罰する」
といって、太子|傅《ふ》の公子|虔《けん》を刑に処し、太子師の公孫|賈《か》に入墨した。
この厳正さに、民はおそれおののき、新法を遵奉し、一人の不平を言う者もなくなった。
さすがに商鞅である。信賞必罰が政治の要諦であることをよく知っていた。もっとも刑名法家の説では信賞必罰以外には政治の要諦はないと説くのだが。
十年立つと、秦は大いに治まり、道路に遺失物があっても猫ばばする者なく、山に盗賊なく、民の生活は豊かになり、人口増加し、民は戦争には勇敢になったが、私闘には臆病になった。
民の中で、都に来て、
「新法はなかなか結構でございます」
と、頌辞《しようじ》をたてまつる者まで出来た。
すると、鞅はこれを捕え、
「これは政《まつりごと》を批判するものであり、政治の乱れはこういう者からはじまる」
と言って、全部辺境守備に送ってしまったので、以後政治を批判する者は一人もなくなった。
何十年かの後、鞅を信任していた孝王が死に、太子が王位についた。すると、新王の太子時代の師傅であった公子虔・公孫賈などという連中は、かつてのうらみを晴らそうとして、「商鞅は反逆を企てております」
と訴えた。
新王もまた鞅にいい感情をもっていない。独裁君主の家はそういうものなのだ。前代に羽ぶりをきかせた家臣は次の君主の世子時代にいろいろな点で圧迫を加えていることが多いし、でなくても世子つきの家臣らに嫉妬感情があってかれこれ悪しざまに吹っこんでいるので、そういうことになるのである。日本でも諸大名の家のお家騒動はこのケースでおこることが多い。まして、商鞅の場合には、前に述べたようなことがあるから、なおさらのことだ。新王は公子虔らの訴えを即座にとり上げ、捕吏をつかわした。
商鞅はいち早くこれを知り、国外に亡命しようとして、函谷関《かんこくかん》に至り、宿屋に泊ろうとした。すると、宿屋の主人は、
「お泊め申したいのですが、商君の法では、旅手形のない人を泊めることを禁じ、犯せば同罪ということになっていますのでねえ」
と、ことわった。
鞅は天を仰いで、
「新法などつくった罰じゃわ」
と嘆じたという。
やがて、商鞅は捕えられて、車裂《しやれつ》されて死ぬのである。
商鞅のこのなげきのことばを、単に因果応報的なものと解釈するのは浅い。法なるものの本質にたいする嘆きがあるとぼくは見ている。
法には自制のはたらきはない。あくまでも励行せんとする作用しかない。これが法なるものの本質であるとぼくは見る。
徳川五代の将軍綱吉が生類憐み令と愛犬令を出し、二十数年の間民が塗炭の苦にあえいだことは皆知っている。古今東西に類のない悪法であり、悪政であるといわれているが、この法律の制定の意志が悪かったとはいえない。動物愛護が悪《あく》であろうはずはない。ただそれが法律となると、法なるものの持つ本性によって、あくまでも励行されることをもとめるから、ああいうことになるのである。役人共の功績主義が拍車をかけたことは言うまでもないが、それがなくても、法となった以上、あそこまで行くのは自然のことである。ぼくは法というものの恐ろしさに身ぶるいせずにはおられない。だから、新しい法律をつくることには大体において反対である。
法のこのおそろしさを最もすぐれた偉大な文学としたものは「レ・ミゼラブル」である。警視ジャヴェールは法律の象徴である。だから、ユーゴーはジャヴェールを卑小な人物には書いていない。おそるべく、またいむべきではあるが、偉大な人格として描出している。「レ・ミゼラブル」を通俗小説としか読み得ない日本の文化人は、文学者をもこめて、眼光最もにぶいというべきである。
愛情と嫉妬
関ヶ原役の時、豊臣家恩顧の大名で東軍に属した家々は、その夫人らが人質のような形で大坂にいたので、留守をあずかる老臣らはそれぞれに苦心して夫人らを脱出させた。黒田家、加藤家、池田家皆そうだ。ただ一つ、細川家だけはそれが出来ず、忠興《ただおき》夫人ガラシヤ玉子《たまこ》は壮烈な死をとげなければならなかった。
この事実を、黒田家側の記録古郷物語はこう伝えている。
「細川家は表と奥の区別が厳重で、家老や子供でも奥へ出入りすることが禁断されていたが、わが黒田家は如水様の思召《おぼしめ》しで、家老はもちろん、譜代の者や老人らは心安く奥へ出入りし、時には茶や酒などごちそうになって親しみ深くするよう習慣づけてあった。これが黒田家の両夫人が無事脱出され、細川夫人が悲惨な最期をとげられねばならなかった原因である」
卒読したところでは、細川家は礼儀を建てまえにして規則が厳重であり、黒田家は親しみを建てまえにして規則はルーズであったとしか読みとれないが、忠興のその夫人にたいする生涯の態度と考え合せると、そう簡単なものには考えられない。
忠興は玉子を熱愛しきっている。
玉子は明智光秀の女《むすめ》だ。もし忠興が当時の習慣に忠実なら、光秀|謀叛《むほん》の時当然離緑すべきであったのに、忠興にはそれが出来なかった。領内の丹後の三戸野《みとの》において三年別居しただけですませている。
周知の通り、玉子はキリシタンに帰依して、最も熱心な信者となった。キリシタンぎらいの忠興は大いに怒ったが、夫人にたいしてはどうすることも出来ず、夫人の侍女らの鼻を削《そ》ぐという残酷なことをして、やっとうっぷんを散じている。
当時は財力ある者は多数の妻妾を持つのが普通であり、大名などはほとんどせねばならないことにすらなっていたのに、忠興はガラシヤの生存中は一人の妾もおかず、厳重に一夫一婦を守りつづけている。ガラシヤの死後かなり経ってから、やっと一人小山という妾をおいているにすぎない。
これらのことはいかに忠興が夫人を熱愛していたかを語るものであろう。
玉子の死ぬ時、玉子は、
「わたくしはキリシタン故、自殺することはできぬ。そなた殺してたまわれ」
と家臣の小笠原少斎という老人に命じた。
「かしこまりました」
と答えて、少斎は薙刀《なぎなた》の柄をとりのべたが、この期《ご》におよんでも規則を守って敷居のうちに入らないので、薙刀がとどかない。
「恐れながら、今少しこちらにお寄り下さいまして」
と、夫人を敷居近くうつさせた上で、薙刀で胸をつきとおしたのである。
忠興の愛情と、その故の嫉妬深さとが夫人を殺したと言えるであろう。
文学の真実
必要があって、近ごろ人の小説をよく読むが、若い世代の人々の作品に大体において共通した技法がある。材料を豊富に用意しておいて、速射砲的にグングン撃ち出してくる方法である。好個の例は近ごろ世評の高い「花のれん」である。書き方はまことに荒らっぽい。材料の選択も十分とはいいがたい。一隅《いちぐう》を挙げて全体を暗示するというような手のこんだ手法はそこにはない。これまでの小説技法からいえばへただともいえるだろう。しかし、効果は十分に上っている。本来小説には定まった技法なるものはなく、効果さえ上ればそれがすぐれた技法なのであるから、これでいいわけである。
小説という文学形式がはじまって以来、今日まで小説の形は幾変遷してきている。今日はまたその大きな曲りかどにさしかかっているような気がぼくはしている。小説――小説に限らず、あらゆる芸術がそうだが、それを大きく変化させる最も大きな動力は、享受者の嗜好《しこう》の変化だとぼくは思うが、現在のぼくは従来の形式の小説には巧拙にかかわらず、うんざりした感じがある。つまり、読者の一人として、ぼくは古い形の小説に飽きがきているのである。
「花のれん」は、その変化に一歩足をふみかけていると思う。しかし、この小説の思想は新しいとはいえない。女の幸福は男との愛情の中にあるという昔ながらの思想が底になっている。たとえそれが永遠の真実であろうと、現実の女の幸福がどうあろうと、この逆なものでなければ、真に新しいとはいえないと思う。文学の真実は作者が作り出したものでよいのである。
独白心理描写
独白による心理描写は、最も無造作で、説明的で、文学においても演劇においても、十九世紀前半までのもので、その以後はめったに使われなかった。巧妙な描写方法が、作家や俳優のくふうによってできたのである。読者や観客もそれを喜び、十分にその巧みさ、面白さがわかるようになったのであるが、近ごろではこのような心理描写は通じなくなったようだ。演劇における腹芸などもそうだが、文学でもくふうをこらしたそれはわからなくなったようだ。ぼくはこれはラジオの影響だと思っている。ラジオ・ドラマでは心理描写は一切独白で行なわれる。ラジオというものの性質上いたし方はないのであるが、人々はこれにならされてしまった。難を避けて易きにつくのは人間の性情だ。ある程度の解釈力を必要とする芸から人々が遠ざかったのは自然の勢いであろう。
しかしながら、文学や演劇における心理描写の目的は、単に心理を知らせるということだけにはない。いかにして知らせるかが大事なのである。芸には必ず巧拙があり、巧みな芸でなければ意味はないのであるが、いかに描写されているかが問題にされない以上、巧拙のなりたちようがなく、したがって芸そのものがなくなるからである。芸がなければ、芸術の存在理由である「遊び」はなくなる。ラジオ・ドラマの隆盛は文学と演劇を殺すというのは過憂であろうか。
オブジエ生花
「世にはやるといふことどもを見聞くに、道々しきにも、芸能にも、よき事のみ行はるるにはあらず、おほかた為し易く学び易き事のまづはやるなり云々……」これは幸田露伴翁の若いころの「春の山」という随筆の書き出しの文章であるが、鋭いことばである。後の自然主義文学の盛行も、この大戦前の股旅《またたび》小説の盛行も、見事にいいあてている。最近では、オブジエ生花の盛行にもこのことばがあてはまろう。これまでの生花のように小面倒な約束や方式がなくおのれの感覚だけをもととして生ければよいのだから、これくらいはいりやすい道はない。その上、当初においてはたしかに新鮮な美があったのであるから、盛行を来たしたのも道理である。ところが、このごろ、このオブジエ生花にたいして陳腐の感があり、鼻をつく感がするのはぼくだけであろうか。生花大会に行って、オブジエばかりの中に古式の生花があるのを見ると、一陣の清風に吹かれるような清涼感とほっとするくつろぎの感とを味わう人は、相当あるにちがいない。新鮮の実体はない。あるのは新鮮感だけである。人間の感覚はくりかえされる刺激にたいしては鈍磨され、なおその刺激がつづくと嫌悪を感ずるようになる。オブジエ生花はさらに変わらなければならない時にさしかかっているといえよう。しかし、オブジエ生花の神髄は審美感覚の洗練以外にはない。これは最も鍛練と習練を必要とする。決して為し易く学び易い道ではないのである。
美 と 実 用
旧制の中学を卒業して、数年大工の徒弟となったのち大学程度の建築学校の夜間部を卒業した男がある。感心な男だと思ったので家の三分の一ほどを改築する時依頼した。鉄筋ブロックの二階建てだ。工事中よく意見が衝突した。その男の第一の関心事は見た目の美しさであった。ドアのとりつけようから、階段の形、スイッチやさしこみの位置、タナのつけ方まで、まず外観であった。「建築は芸術だ」というのが、その主張であった。「住む者の便利さを考えた上で美しく仕上げることを考えてくれ」と、ぼくの方は主張した。
比較の論を失しているが、ぼくは都庁の庁舎が見た目は美しいが使いにくいといわれていることや、名建築といわれている某ホテルが案外泊り心地がよくないことを思い出さされた。
一体、建築家は建築をどんな芸術と思っているのであろうか。芸術に二とおりあることを知っているのであろうか。遊びを本質としている芸術と、生活に切実に密着している芸術の二とおりのあることを。前者はもともと非実用的だ。したがって人間が生きてゆくのがやっとという時代には用事がない。文学も、美術も、音楽も、まるで必要としなかった時代を、我々は十数年前に持っている。しかし、建築は違う。人はどんな時代にも住むところなしにはいられない。こんな芸術は先ずその実用性を考えなければならないのである。このわかり切ったことをこと新しくいわねばならない事象があまりにも多い。
執 念 深 く
登山は快いことより苦痛が多いはずであるが、登山家があとを断たないのは、人間に不快、苦痛などの経験は忘れやすい性質があるからである。自然が人類にあたえた恩恵の一つであろう。人生には幸福は少なく不幸が多い。この性質がなかったなら、人類はとうの昔に生きる気力を失って滅んだにちがいない。
日本人にはわけてこの性質が強い。暴風雨、大地震などの天変地異のひんぱんな国土だ。順応して忘れっぽくなることは、このことしげき国土に生きなければならない日本民族の生きる知恵であった。
ところが、かつては日本民族の生きる知恵であったこの性質は、今日では害悪の根源になっている。天変地異の襲来は今日もなお避けることができないが、その災害の防止はしようと思えばすることができるようになっているのに、この健忘症のゆえに、日本人は効果ある防止策を講ずることをせず、いまなお野蛮人の生活態度をつづけている。
議会政治の美果を上げることができないのも、このためだ。一般国民が政治に関与できるのは、選挙の時だけなのに、日本人は人の悪を忘れることが早く、選挙を政治家に対するきびしい審判とすることができないのだ。
議会政治が最も巧妙にいっているのは英国だというが、世界に英国人ほど執念深い国民はない。いまだに大戦中の日本軍の捕虜虐待を主題にした映画をつくり、それが大受けに受けているという国民だ。我々にとっては快いことではないが、この執念深い国民性のゆえに、英国の議会政治はうまくいっているといえよう。
原作者の不安
自分の原作が芝居になったり、映画になったりする度に、ぼくはいつも不安だ。出来て来た台本を見ると、まるで似もつかぬものになっているようだからだ。とりわけ不安なのはセリフだ。
ぼくらが小説を書く時は、セリフには人物の性格とその場の心理とを裏打ちして、相当苦心しているつもりなのだが、台本ではそれがまるでないように思われる。聞かせ文句のようなのは取入れてあるが。時代感覚にもかまいがないようで、生硬な現代調が出ている。
「これで、どんなものが出来るのだろう」
と、びくびくして芝居や試写会に行くわけだが、おどろいたことに、大抵の場合見事に行っている。監督と役者の働きにちがいない。脚色者はそこをちゃんと計算に入れているのだ。えらいものだと感心させられる。
一昨年の秋、ぼくの「明治太平記」をもとにして、「渦」というテレビ・ドラマがNHKで放映されたが、この時も同じ不安があり、同じ感心があった。これは大へん受けて、四回でおわったとたん、聴視者から電話で、なぜこんな面白いものを四回くらいで終るのだと、文句が来たというから、大成功だったのだ。
役の性根と心理は、役者の苦心のしどころだし、腕の見せどころなのだから、そこをあまり細かく書かれては、役者諸君には張合がないのかも知れないと、近ごろでは思っている。
しかし、それでもやはり不安だ。最近、ぼくの作品が映画化されることになって、その台本を送って来たが、ぼくは不安になったり、いやこれで見事に行くのだと考えたりしている始末だ。
芝居になり、映画になり、テレビ・ドラマになったりしたものは、原作とは別だと割切ってはいるものの、評判が悪ければ原作にも責任があるとされるのだからたまらない。
「尾崎・太平記」に対する期待
ぼくは歴史文学をやっている関係上、今の日本人が歴史を知らないことが大へん気になる。大学を卒業して、インテリを以って自任している人でも、歴史知識の点になると、驚くべき無知を示す人が少なくない。大きな時代の順序さえあいまいな人が多いのである。
この人々は小学校から中学校に至るまで、一通りも二通りも歴史を教わって来たはずなのに、こうなのだ。
一体、その原因はどこにあるのだろうといつも考えている。そして、今日までにぼくの達している結論はこうだ。
「歴史が文学として教えられていない。あるいは文学として読まれる史書がない」
歴史が大衆に結縁するのは、学問としての歴史によるのではない。文学となってはじめて結縁するのだ。
ヨーロッパのインテリが豊富な歴史知識を持ち、少なくとも歴史に対する知識を持っていることがインテリの資格の一つとされているのは、こういう史書が多いからのことである。ヨーロッパでは、史書は文学者の書くもので、歴史学者の書くものではないのである。
日本だって、昔はそうであった。「保元物語」、「平治物語」、「太平記」、皆史学の書として書かれたものではない。文学書として書かれたものなのだ。それ故にこそ各時代を通じて多くの人に読まれて、その情操を養いもすれば、歴史知識を豊富にもし、謡曲、演劇、小説、講談の材料にもなり得たのだ。
江戸時代の人は、余程な学者でないかぎり特に歴史の勉強などしなかった。軍記物語を読んだり、それを材料にして作られた謡曲を聞いたり、芝居を見たり、小説を読んだりして、歴史知識を得たのだが、今の人にくらべると、案外によく知っていたのではないかと思われる点がある。
「太平記」はこの文学として書かれたる史書中の王者だ。その内容の点でも、その分量の点でも、その文章の点でも。
ぼくは中学二年の時、はじめて「太平記」を読んだ。国語の副読本にその抄本が使用されたからである。ぼくは|瑰麗 流暢《かいれいりゆうちよう》なその文章と、内容の面白さに引かれて、夢中に読みふけり、忽ち副読本を読んでしまって、完本を学校の図書室から借り出して全巻を読んでしまった。何度読んでも面白かった。それはその朗々として吟誦するにたえる名調子の文章による。いつの間にか暗誦してしまった章も多い。
これはぼく一人ではない。今日四十代五十代になっている人の中には、そういう人がいくらもいるはずである。
「太平記」の文章は、和漢|混淆《こんこう》体文の最も円熟したものと言われている。和文の優美さと、漢文の勇健さとを併せて、しかも吟誦するにたえる音楽的リズムがあるのだ。
書かれてある内容は、もちろん南北朝の争乱であるが、単に殺伐な戦争場面だけではない。数十年にわたる日本全国の歴史が精写されて展開されるのであるから、遊楽の場も出てくれば、恋愛の場も出て来る。英雄、豪傑、忠臣、姦臣、好色漢、美人、妖異、縦横に入り乱れて、ある場面は勇健に、ある場面は艶麗に、ある場面は優美に、ある場面は悲哀にみち、目もあやに展開するのだ。
明治以後の日本はこれほど面白い文学を持っていないと、はっきりとぼくは言い切れる。
こんど、尾崎士郎氏がこの大古典を現代語訳すると聞いて、ぼくは河出書房の編集部の感覚のよさに感心した。
前述した通り、「太平記」の面白さの半分は、その朗々たる文章にあるのだが、今日の人には何といっても難解だ。これをわかりやすくて、しかも吟誦にたえる名調子の文章で書き得るのは、今日の作家中、尾崎氏ひとりであるからだ。
吉川英治氏は、古典「平家物語」を土台にして「新・平家物語」を創作し、非常な成功をしたが、尾崎氏のこの試みもおとらない成功を見せるであろうと、ぼくは大いに期待している。
作家と歴史観
ついこの前「群像」誌上で大岡昇平氏と論争したぼくがこんなことを言ってはおかしいが、論争の時は多分に感情的になりやすいものだ。十分に気をつけて相手の言い分をのこりなく理解しようとつとめても、書いている間に興奮して来る。避けられないことだ。あまり愉快なあと味ではない。
南条範夫氏と村上元三氏の論争について、何か書くようにと言われて、気軽に引き受けはしたものの、「中央公論」六月号の南条氏の文章、「大衆文学研究」の本年度の三号の村上氏の文章、新聞に載った両氏の応酬文章、全部読んでみて、あほうなことを引き受けなければよかったと思った。ひょっとすると、この論争にぼくまで入って三ツ巴になるのではないかというおそれさえ感じたのだが、再読三読してみて、どうやらそうならないでも済むような気がするから、書くことにする。
歴史は全人格をもってする解釈だというのが、ぼくの歴史観だ。どんな解釈をしようと、勝手であり、世間はまたそれを自由に取捨する、それでよいのだとぼくは見ている。一つの見方だけに固定しているものなら、歴史なんぞ最も退屈な学問――学問ともいえない記録の集積にすぎないだろうと思う。そうだったら、少なくともぼくはやる気がしない。自分の全人格――知識、経験、性格、趣味、思想、品性等々を総動員しての解釈であるからこそやって面白いのだと思っている。したがって人格が浅薄であれば、解釈も浅薄になるし、共感者の少ないことももちろんであろう。
この点においては、両氏とも一致している。歴史をそれぞれの理由によって解釈しようとしているからだ。
また、その解釈において、南条氏は江戸時代の君臣関係を集約してサジストとマゾヒストの関係と見ており、村上氏は君臣の間に温かい人間的|情誼《じようぎ》の存在した事例が少なくないのだからそう極端な見方をすることはないといっている。いずれにもそういう史実が相当あるのだから、そういう解釈の出て来るのは当然なことである。
しかしながら、これとても、その論理の過程においては、全称肯定しているわけでもなければ、全称否定しているわけでもない。常識のある者なら人間の社会がそんな極端なことで成り立つ道理のないことは知っている。歴史事実など知らなくったってわかるのだ。両氏とも歴史には深い専門的知識を持っているのだから、そんな極端なことを考えるはずはない。南条氏も温かい人情の通っている君臣の例を相当知っているはずだし、村上氏もまたサジストとマゾヒスト的関係であった事例をずいぶん知っているはずだ。
したがって、結論は正反対の様相を呈しているが、それはどちらにより強く重心をかけるかによって生じたものに過ぎない。ぼくにはお互い相手の文章をその最初にさかのぼって、冷静に読めば、氷炭相容れないというほどの違いのないことに気がつくのではないかと思われる。
ぼくはどちら様の結論も買う。村上氏の言うような美しい君臣関係が相当数あったことも事実だし、南条氏の言うような非人間的な事例が相当あったことも事実だし、江戸時代に儒教道徳の助けを借りて武士階級の間に固定した絶対主義的な忠義観念が明治以後の皇室と国民との間を律するものに移しかえられたことも事実だと思うからだ。
村上氏はもし江戸時代の君臣関係がサジストとマゾヒストの関係にすぎないものであったら、なぜ三百年続くことが出来たのだと言っているが、それには江戸時代の法規が本則は本則として、その運用が習慣的に非常に巧妙であったことや、鎖国をもって外からの刺激を一切封じていたことも考えなければなるまい。江戸時代も中期以後になると、やたら一揆《いつき》がおこっている。この一揆には単に経済要求からだけでなく、人権主張的なものも相当ある。これは幕藩制度にたいする批判と見てよいものだが、それが絶対主義君臣道徳の束縛のない百姓階級からおこっていること、また武力的には皆無であったためその批判が革命的にまでならなかったことも考える必要があろう。
南条氏は「浪曲的忠君美談」といっているが、一体人の心を打つ美談は皆酬いを目的としない善事なのだ。道徳というものがそうなのだとぼくは思う。イエスは「右手でしたことを左の手に知らせるな」と言っているし、東洋の賢哲も「自ら労して功を人にゆずれ」といっている。人間は本来善事が好きであるのに、そういう事例が現実の世界には少ないし、自分にもいろいろ都合があって出来ないしするから、せめては読みものや浪曲ででも聞きたいと思うのであろう。ぼくもそんな話は好きだ。もっともうまく書かれ、うまく演ぜられなければいやだが。民衆の感激するのは、忠君美談であるからではなく、酬いをもとめない善事であるからだと、解釈を拡大することが必要であろう。こんな美談は、ぼくの知っている範囲でも、トルストイの小説やメリメの小説にも書かれていて、なかなかいい作品になっている。よく浪花節で演ぜられるようなテーマだから低俗とはいえまい。
疎開の児童
朝の食卓で、長男が昨夜聞いたラジオ・ドラマの話をした。戦争中の疎開学童の日記から材料を取ってのドラマであったという。
「とてもかわいそうなんだ。ひどかったんだね」
そのころ中学の一年生で、家族と一緒に国もとに疎開して、まず気楽な毎日を送っていた長男はいった。
いろいろと当時の話が出て、にぎやかな食事になったが、その時、ぼくの思い出したのは、まだ事情がそれほど切迫せず、輸送などもゆとりのあったころに、東条首相が疎開を罵倒《ばとう》したことであった。
「この危難に際して、一身の安全のために疎開などするのは、卑怯《ひきよう》未練、戦場離脱に類する行為だ」
と、あの持前の激越な調子でいったのだ。だから、いよいよ切迫して、どうしても疎開させなければならなくなった時には、輸送は窮屈になるし、資材は欠乏するし、悲惨をきわめることになったのだ。一体こういうことは、東条が真の武人の強さを持っていなかったからだ。
薩英戦争の時、薩摩は勇敢に戦って、一兵も敵を上げずに撃退したが、薩摩は敵の来襲前、市街を全部焼かれることを覚悟して、市民には運べるだけのものを運ばして安全な土地に疎開させ、神社、仏閣、その他の公共の建物などは精密な復原図をつくり、戸障子、畳から金具などに至るまで、取りはずしのできるものは全部疎開し、そのうえで戦ったのだ。
一体、戦争で敵にだけ損害を与えて、こちらは無傷でいようなど、そんな虫のよいことを考えてはいけないのである。剣の極意は相討にあり、真剣の勝負では「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ」の覚悟がなければならないと、無住心剣流の針ヶ谷夕雲がいっているが、国と国との戦争でもそうなのだ。その覚悟がなかったのだから、東条は、真の強さのない、強がりだけの人物だったのであろう。そんな人間がおっぱじめ、そんな人間が指導した戦争だ。負けたはずである。
十二月のうた
ぼくは薩摩の生まれだ。現在では、薩摩でもそんなことはないが、ぼくらが中学(旧制)を卒業する頃までの薩摩は、おそろしく木強《ぼつきよう》野蛮なところで、唄といえば、薩摩琵琶か、詩吟か、校歌か、軍歌か、そんなものしかなかった。「おはら節」だ、「はんや節」だ、というような土地の民謡はもちろんあったが、これは大人の酒席で歌われるもので、青少年は歌ってはならないものとされていた。
「俗歌を歌うべからず」
という儼乎《げんこ》たる中学の校則があったくらいである。
こんな土地に育ったせいで、ぼくはまるで唄を知らない。唄だけでなく、音楽もわからない。あらゆる音楽がぼくには雑音としか聞えない。つまり、音痴なのである。
ぼくはぼくの音痴を育った環境のせいにしたが、あるいはそうでないのかも知れない。同じような環境に育ったはずのぼくの|いとこ《ヽヽヽ》等は皆唄が上手で、音楽が好きで、新しい唄でも一ペん聞いただけですぐ覚えてしまうのだから。とすれば、生来的なものかも知れない。
ぼくの音痴ぶりは、戦争中にはやった軍歌を歌っても、大てい途中で調子が狂って来るほどだ。
こんな次第だから、ぼくには特に好きな歌はない。しかし、ぼくの家へ来る若い人達は、酔うとよく「白虎隊の歌」を合唱して聞かせてくれる。ぼくがこの歌を好きだときめているのだ。ぼくは別段好きだとは思わないが、この唄を聞くと、胸がひきしまって泣きたくなる。悲壮な感慨がせまって来るのだ。そのくせ自分では全然唄えない。
どうでもぼくは薩摩っぽうにちがいない。
ツバメの夫婦喧嘩
京都の郊外の向日《むこう》町《まち》という所に住んでいた頃のことだ。
家の裏手の、ちょいと雑室みたいになっている小座敷の天井の真中に、ツバメが巣をかけたことがある。
裏手の築垣《ついじ》の下は広い田圃になっていたが、そこからしきりにツバメが飛びこんで来ては、様子をしらべている模様であったが、適当な場所と鑑定したのだろう、やがてもう一羽つれて来て、何やらピイチクピイチクしゃべり出した。
それは御夫婦であるらしかった。どちらが旦那様で、どちらが奥様であるかわからない。しかし、ぼくははじめのが奥様で、あとから来たのが旦那様であると、鑑定した。
奥様は、おそろしく雄弁に、旦那様に説明した。
「コレコレ、コレコレ、だからここはいい場所ですよ。グジュグジュグジューッ。ねえそうでしょう、田圃が近いから、虫をとるに便利でしょう。グジュグジュグジューッ。生まれる坊やも丈夫に育ちますよ。グジュグジュグジューッ。蛇だの、いたちだの、鼠だのって、そんなものは、家主さんが追っぱらってくれます。あんな強そうな顔をしているのですもの、請願巡査おいたようなものですよ。グジュグジュグジューッ」
大体こんなことを説き立てている模様であった。
旦那様はそれに同意しない様子だ。
「いけないよ、お前。ここの家主を見てごらん、イヤな顔をしているよ。あんな人相のやつは油断がならないんだよ。ウンコでも座敷の真中におとしてごらん。カンカンにおこって、それこそ坊やごと巣をつかみつぶしてしまうよ」
というようなことを言って、懇々と教えさとしている様子であった。
しかし、奥様はきかない。なおしきりにしゃべり、ついにはヒステリックにわめき立てた。論ははてず、二羽は外へ飛んで行ったが、間もなく、もう一羽つれて来て鴨居にとまった。
どれがどれやらさっぱりわからないが、多分最初の二羽だろう、一羽の前をヒラヒラヒラヒラと飛びまわりながら、しきりにしゃべる。ぼくは、鴨居にとまったまま動かないやつを、ツバメ仲間の博士か、長老で、夫婦の意見が一致しないので、審判役につれられて来たのであろうと判断した。
「……ねえ、そうでしょう。だのにうちの人ったら、いけないいけないって言うのよ。ほんとにわからず屋ったらありゃしない。この人の言うことを聞いていて、今までよかったためしがないのよ。いいかげんに自分のもの知らずをさとって、おとなしく聞けばいいのにねえ!」
「あんなことを言いますがね。そこが女の浅知恵ですよ。目の前のことしかわからんのですからね。ここの亭主があんな人の好さそうなニコニコ顔をして、我々を見ているからというので、女房はもう安心しきっているのですが、人間というやつがどんなに我儘で気まぐれで残酷かってことを知らないのですからね云々……」
と言った調子で、夫婦はかわるがわる訴えた。
長老あるいは博士は、一オクターヴ低い、もっともらしい声で、何やら言った。どうやらそれは旦那様の説をよしとするものらしかった。
奥様の腹の立てようと言ったらない。しゃべること、しゃべること、甲高い声で、あとからあとからと、際限もなくまくし立てた。
こうなると、男性はいけない。長老も旦那様も黙りこんでしまった。長老などは、いち早く飛び去ってしまった。
で、こうして、座敷の真中の天井に、巣が営まれることになった。ぼくは板をとりつけてやった。夫婦は、嬉々として巣を営み、子供を育てはじめた。おかげでぼくの家はずいぶん不自由をこらえなければならなかった。朝は早くから戸をあけてやらなければならなかったし、雨が降っても、風が吹いても、明るい間は戸をしめるわけには行かなかった。それをぼくの家では忍んだ。
ところが、夏の最中、ぼくは留守だった。そのへやに家族が集まって談話していると、とつぜん、女房の坐っているうしろの畳に、ドサッと重いものの落ちた音がしたので、おどろいてふりかえってみると、大きな青大将がのたうっていた。女子供ばかりで、大さわぎしているうちに、青大将は悠々と外へ去ってしまった。
今年三十一になる長女は、そのころ六つか七つだったが、幼い時からものずきな子で、はじめから見ていたという。蛇は最初柱を這い上って、天井に達するとさかさまに這ってツバメの巣に行こうとしておっこったのであるという。
このことは、ツバメの家族にも大へんなショックであったと見えて、この日のうちに、家族そろってどこかへ行ってしまった。どういう具合にして立去ったか、家族の誰も見ていない。いつの間にか行ってしまったらしい。したがってぼくも知らない。
ツバメの夫婦も人間と同じだ。亭主は必ず女房にまける。頃合のところで妥協しないと家庭の平和が乱れることを、ツバメも雄ともなれば理性的で、ちゃんと知っているのであろう。
サギにあった話
六月初めのものすごく暑い日の午後であった。調べものをしていると、助手の瀬戸口君が来て、
「千葉県の館山の何とやらいう人が来て、島津国史をさし上げたいと思ってどうとやらこうとやらしたが、どうとやらこうとやらだ」という。
よくわからないが、この書物をほしいと思って、少し前週刊新潮の告知板に広告を出した覚えがある。
「買ってくれというのかい」
「いいえ、さし上げたいというのです。ところが、どうとやらこうとやら……」
よくわからない。
「上ってもらえよ」
「玄関先きで失礼したいというのです。先生に会って説明したいのだそうです」
そこで、玄関に出てみた。
ワイシャツにズボンといういでたちで、ややせいの高い、色の白いおとなしそうな人相の人物が立っていた。
「海音寺ですが」
「ああ、先生でございますか。実は、はなはだ申訳ないことをしました。わたくしは……」
と、名前をいって、それから語られたことはこうであった。
自分の兄は館山で高等学校の校長をしている何某というもので、千葉県の文化委員をしている。先生が週刊新潮の告知板でほしいといっておられた島津国史を所持しているのであるが、こんな書物は自分などが持っているより、さし上げて役に立てていただいた方がよいといって、さし上げることにして、写本にかかり、すでに半分ほどを写した。ところで、今日自分が横浜に商用があって出て来るというので、兄はすでに写本をすませた前半分を自分にたくして先生にお届けするように命じた。自分はそれをカバンに入れて持って出たのであるが、横浜で商用をすませると、ビールなど御馳走になって少し酔ったので、電車でついうとうとと居ねむってしまった。品川について下車しようとして、網棚からカバンをおろそうとすると、盗まれていた。頼まれた書物はカバンに入れてあったのである。まことに申訳ない結果になった。兄にもすまないが、先生にもすまないことになった。一応おわびに上った次第である。兄は来週の金曜日に、公用で東京に出て来ることになっているので、その際あと半分を持参して先生にお目にかかりたいといっているのであるが、まことに残念がることであろう――というのである。
その間、書物の体裁やなんぞ織りまぜて話をする。
写本をするくらいなら、自分でも全然必要のないこともあるまいのに、世には奇特な人もあるものだと、ぼくは少し感動した。
「ありがたいお志です。いただくわけにはまいりませんから、持って来ていただいたら、適当と思われる値段をお支払いするのでしたのに」
「いや、兄はさし上げたいといっていたのですが、わたくしの不注意のため、残念なことをしました」
時々暑そうにひたいの汗を拭く。瀬戸口君はなみはずれて人のよい性質だ。大いに感動をしたらしい。カルピスに氷を入れて来てすすめた。
「ありがとうございます」
相手はうまそうに飲んで、それから言った。
「実は、唯今申し上げたような次第で、カバンをぬすまれたのでございますが、ほんの少しばかりですが、カバンの中に財布も入れていましたので、帰りの電車賃もなくなってしまいました。はじめてうかがいましたのに、まことに申しかねるのでございますが、電車賃だけ、お貸し願えないでしょうか」
「ああ、そうですか。それはおこまりでしょう」
おりあしく家人は外出している。金のありそうなところをさがしたが、見つからない。
(はてこまった)
と、思いながらも、ふと袂をさぐると、先刻医者に行って注射してもらったつり銭が手にふれた。五百円札だ。持って出た。
「これで足りましょうか」
「十分でございます。これは兄が出てまいります時に、持たせてやっておかえしします」
相手は礼を言って帰って行った。
ぼくは書斎へ帰りかけたが、ふと、おかしいぞと思った。瀬戸口君に言った。
「少しおかしいね」
「金のことをいい出したので、あやしいと思いました」
「しかし、本当だったら、疑っては相すまんことになる。まあ、なりゆきを見ようよ」
書斎にかえったが、だんだん疑惑は強くなった。写本をするくらいの者が原本をただで人に贈るというのを、先刻は単に奇特な志とだけ思ったが、ありそうもないことだと思うようになった。
ぼくの胸には二つの思考があった。
(ほんとだったら、こんな疑いを持ったことを、おれは恥ずかしくなるだろうから、疑ってはならない)
というのが一つ。
(こんな詐欺に手もなく引っかかったのは、ただで書物がもらえるといういやしい根性がおれにあったからではなかろうか)
というのが一つ。
もちろん、これは詐欺であった。その後、なんの音沙汰もなかった。
どうやら、この男は図書館かなにかに行って、島津国史を見て来たらしいのだが、それだけの準備をしてわずかに五百円にしかならなかったのだ。詐欺もずいぶん骨なものだ。
その後、島津国史は、鹿児島市の高等学校の先生が、市内の書店で見つけたが、なお入用なら買って送るから、返事をくれといって来た。ぼくは電報で、タノム、と返事した。間もなく、書物はついた。ぼくは代金と送料をおくり、なおお礼のため最近の著書をおくった。その先生はあとで手紙をよこして、送った後不安になって新聞社に問い合わせを出したといって、わびて来た。
人の親切を素直に受けられず、あれこれと気をまわさなければならないとは、まことにいやなことだが、これは人間が生きて行く上の知恵というものであろう。年五十七になって、やっとそれがわかるとは、ぼくがよほどあまく出来ているのであろうか、それとも、作家という職業が人をあまくするのであろうか。
この文章を書いている今、はじめて気づいたことだが、兄が写本してすでに前半分は写しおえたというのは、なお書物が全然なくなったわけではない、前半分は写本で後半分は原本で手に入るのですぞという意味をふくませたつもりであったのであろう。網は周到に張りめぐらしてあったわけだが、当時はぼくはそれに気がつかなかったのだから、ぼくにはもっと疎漏な網で十分だったわけだ。
それにしても、七十日の後、やっとそれがわかったとは、ぼくの迂濶《うかつ》もまたきわまれりだ。
ある特高の話
他家に縁づいている長女が遊びに来た。高校二年と中学三年の娘のある長女だから、もう四十に近いだろうが、ぼくの目から見ると、一向おとなにならない娘としか思われない。野獣や野鳥の習性とか、世界の奇習とかに関する、浮世ばなれた話をよく仕入れている一面、官僚や政治家の腐敗をいきどおったり、若い世代の生態に驚きあきれたりすることも知っているので、相手になって話していると、まことに楽しいのである。
数日前来た時、話が戦争直後の食糧難時代のことになった。その頃、ぼくは郷里で疎開生活をつづけていたのだ。
「たしか、あの頃、あんたらが手車を引っぱって米とりに行っての帰り、くたびれて警察の前で休んだということがあったね」
ぼくが近在の農家と話をつけて米を買っておいたのを、この娘とその妹とが手車を引いて受取りに行っての帰り途のことだったと記憶しているが、なぜ特に警察の前で休んだのか、それがぼくには思い出せなかったのだ。
「ありました」
「どうしてまた警察の前なんぞで休んだのだね。くたびれ切って動けなくなったからだったかね。警察の前ならまさかというので、安全だと思ったからだったかね」
「くたびれ切って、もう一歩も進めなくなったのよ」
「そうか。それでも、とがめられはしなかったのだったね」
娘は笑った。
「お父さんには黙ってたけど、ほんとはとがめられたの」
「ほう!」
「休んでたらね、おまわりさんが出て来て、どこへ行ったのかね、その箱の中のものは何だといったの。そしたら、明ちゃんが」
これはその年女学校を出た数え年十八の妹の名前だ。
「明ちゃんがタンカ切ったの。――米にきまっているじゃないの、キチンキチンと配給があれば、高い金を出して、おまけにこんな難儀までして、買出しになんぞ行きはしません、欠配がいく月つづいていると思っているの。みんなが生きているのは、闇米を食っているから生きているのじゃないの。あんたらだってそうでしょう。といったら、おまわりさんは、何にも言えないで署内に引っこんだの。そしたら、こっちもこわくなって、大急ぎで逃げて帰って来たのです。しかし、お父さんに言うと叱られるかも知れないと思って、休んだけど、誰も出て来る者はなかった、まさか米の買い出しだったら、わざわざ警察の前で休むはずがないと思ったのでしょうねって、言ったのです。明ちゃんと相談してそうきめたの」
「ほう、そうだったの」
ぼくはおどろいたが、その夜、ふと当時のことで思い出したことがあった。
その頃、警察に特高の警察官が一人いた。これはいつも制服ではなく、私服を着ていた。時々ぼくの家に遊びに来た。単なる遊びであったか、戦前は作家は「要視察人」の一つだった由だから、職務としての見まわりであったのかも知れないが、いずれにしても、警察官にしては頭がよくて、ぼくも話しごたえがあった。前に在勤していた土地土地の話をよくしてくれた。たとえば霧島山麓の貧しい山村の人々や奄美大島の貧しい人々のことなどがその話に出たが、思い半ばに過ぎるものがあった。後年ぼくが「平将門」を書いた時、将門時代の関東の農民を書く時、大変参考になった。
終戦二三日後、家に来て昨日鹿児島市に出て、見て来たという前置で、こんな話をしたこともある。
米軍の空襲で全市|瓦礫《がれき》の山の焦土に化した市に、西郷の銅像だけがのこっていた。ぎらぎらと烈日の照りつけるその瓦礫の間の道をトボトボと来かかった、腰の曲った婆さんが、ふと立ちどまり、腰をのばして前方を見ると、西郷の銅像が建っている。婆さんは、銅像に話しかけたというのだ。
「コラ、西郷《さいご》サアございもすなア。オマンサアはご無事でございもしたか。戦《ゆつさ》にゃチ負けッ、家は焼かれッ、町《まち》やごげんなッて、仕舞《しめ》もしたどん、オマンサアがそげんして見ていて給《たも》れば、力が出もす。元気を出《で》て、働き申すで、見ていて給《たも》んせ」
そして、また腰をかがめ、杖にすがって、とぼとぼと遠|去《ざか》って行ったというのだ。
「ぼくはそれをこの目で見たのでごわす。涙がこぼれもした」
と、特高は言ったのだ。
この話を、ぼくは「西郷隆盛」の中に書いた。
この特高がある夜、べろんべろんに酔っぱらって、訊ねて来てしばらく話をしたと思ったら、
「先生、百姓しなさい。いくら先生がえらそうなことを言ったって、闇米を食って生きているのでは、先生を信用するわけに行きません。尊敬するわけに行きません」
と、言い出したのだ。
ぼくはおどろきながらも、居直った。
「孟子に“心を労する者は人に養われ、力を労する者は人を養う”という文句がある。人類が分業という制度を思いついたところに、飛躍的な文化の進歩がはじまったのだ。おれはものを考え、読み、書き、して、世の中に寄与するのが職業だ。百姓なんぞ出来るものか。ばかなこと言うな」
と叱りつけた。すると、相手は、
「先生が闇をやっているなら、縛らなければならん」
という。
ぼくはカンシャクをおこした。
「縛ってみろ! 恥じるところなくおれを縛れるか! おれはぜったいに百姓なんぞやらん。闇米を食って物を書く。そう思え!」
と、どなりつけると、なおぶつぶつ言っていたが、やがてぺこんと頭を下げて帰って行った。
このことを、時々思い出しては、あいつ、なんだって、とつぜんあんなことを言って来たのであろうと、不思議な気がしないでもなかったのだが、娘の話を聞いて、なるほどと合点が行った。
せまい町のことだから、娘らがぼくの娘であることは巡査にもわかったはずだ。署内で、ああおおッぴらにやられ、理屈をこねられてはこまるということになって、君から海音寺さんに話して、今後をつつしむように言ってくれないか、というような話があって、あの特高は来たのであろう。言いにくいことなので、焼酎をあおって酔いに乗じて来たのであろう。
やれやれ、と思った。十九年経って、はじめてわかったことであった。
特高がなくなったのは、いつだったろう。別れのあいさつに来て、在所に帰って百姓すると言って去ったのだったが、その後|杳《よう》として消息を聞かない。在所がどこであったかも忘れた。名前も忘れた。
その頃、ぼくは村の者は知らなかったが、実は貯えはなくなり、一銭の収入もなくなっていた。米を買っておいたと書いたが、くわしく書けば、階下が物置、階上が六畳二間の下人《げにん》部屋になっている建物を、米十五俵と交換する約束を農家であるいとことして、入用ずつ取りにやっていたのである。だから、特高が暇乞《いとまご》いに来ても、餞別をやることが出来ない。つらいことであった。何か古典を餞別がわりにやったような気がするが、これもおぼろである。
なまぐさい歳首の辞
ぼくは今年で数え年七十一になった。このごろは古稀《こき》の祝いを満でやることになっているようだが、ぼくは昔式に去年やった。祝宴などはひらかない。心ばかりの記念品をこしらえて、最も親しくしている人々に贈って、すませた。
それからあと、大分あせっている。そのころ、必要があって、徳富蘇峰翁の「近世日本国民史」を読んだところ、五十巻くらいまでは翁の筆に熱があり、史実の解釈などもなかなか犀利《さいり》であるが、次第に衰えが見えて来るのを感じた。年を調べてみると、六十五巻目で七十五歳である。
「翁のような超人的な人でも、七十五になると、こうなのだ。おれは七十五まであと五年しかないぞ」
と、考えたわけである。
ぼくが一昨々年秋、マスコミから足を洗ったのは「西郷隆盛伝」ほかいくつかの作品が半端《はんぱ》になっているので、それらの完成に専心するためだったのだが、つい気がゆるんで、一昨年は旅行ばかりで過ごし、昨年は病気と全集の校正で、ほんの少ししかやっていないのである。
「実《み》の入った仕事の出来るのは、ここ二三年のものだ。義理知らずといわば言え、薄情といわば言え、一切を打ち捨ててまっしぐらにかからなければ、間に合わんぞ」
と、大あせりにあせっている次第である。
老人のくせになまぐさすぎるが、これがぼくの今年の年頭のことばである。
近頃悲憤のこと
占領軍が占領期間中に実施して現在までのこっていることで、気に食わないことが随分あるが、その一つは税制である。
現行の税制ほど、国民の勤労意欲を減退させ、国民の気宇を狭小ならしめ、国民を陰鬱陰険ならしめ、国民をウソつきならしめ、国民を狡猾ならしめるものはない。
戦争前は日本人のほとんど全部が、少し収入がふえて景気がよくなると、店構えをなおしたり、住宅の修理をしたり、門がまえをなおしたりして、いかにもその生活態度は積極的で明るかったが、今日の日本人は、少なからん部分が、収入がふえても、景気がよくなっても、なるべく目立たないように、ことさらに貧乏くさく生活している。曽《かつ》てはこれは守銭奴といわれる人々にかぎる生活態度であった。こんなことで、どうして国が栄えることがあろう。今日のような税制では、日本はぜったいに栄えはしない。
最もいけないことは、国民の国家に対する気持ちから愛情をうばい去りつつあることだ。民にたいするあまりなる搾取によって、現在の国民は国家にたいして何の愛情も持ち得ないようである。そこにあるものは、呪詛《じゆそ》であり、離反である。
「君の民を視ること土芥《どかい》のごとなれば、民の君を視ること讎敵《しゆうてき》の如し」
という文句が孟子にある。この「君」ということばを「国家」ということばに置きかえて見るがよい。これが現在の日本国と日本人の関係だ。
何とやら言う政治家が、愛国心について、若い学徒と問答したということを、いつぞやの新聞で読んだが、実際政治にたずさわっている者が、抽象的に愛国心を議論したり、精神主義で割切ろうとしてはいけない。政治の面から処理して行くことを考えないでは、職務怠慢である。
一体、今の日本の政治には愛情がない。これは異民族によって統治方法が基礎づけられたからである。異民族の統治方法に愛情のないのは、東西古今の歴史に徴して明らかである。今日の税制はその最も端的なあらわれである。
その二は、学校の教育制度と教育の方法である。
敗戦前までの日本人の教育制度と教育の方法は、色々な欠点はあったにしても、明治初年以来八十年近い歴史をもっている。即ち、日本人の性格、経済状態、風土、その他の一切の現実の諸条件とはげしい摩擦なくマッチするように、自然に変化発達して来たものだ。
それを、占領期間中に、アメリカの三流か、四流か、五流くらいの教育家どもの団体が来て、わずかに一月か二月の視察をしたくらいの知識ですすめて行ったことを、鵜呑《うの》みにして呑みこんだのだ。何たることであろう。
第三者の意見が、ある場合にいい参考になることは、もちろんある。しかし、それはあくまでも参考程度にしておくべきで、全面的に切りかえるなど、不見識もはなはだしい。
相当優秀な、相当な人口数のある一民族が、八十年の長い歳月かかって達し得た制度や方法が、一つまみほどの外国人が数十日の観察によって得た結論に及ばないとは、どういう考えから出て来る結論であろうか。
あの時アメリカから来た視察団の教育家等は、日本をどこかの未開国と一般に見たかも知れないが、日本は未開国ではない。富が及ばないから生活文化こそ及ばないが、他の文化面ではアメリカにまさる数等なものだ。アメリカ兵に実に多い文字の読めない輩は、かつての日本兵には一人もなかったのだ。
ぼくは、教育の制度は、昔の六、五、三、三の制度に大急ぎでかえすべきであると、かたく信じている。
以上は、制度の問題であるが、教育の方法については一層腹を立てている。
今日、小学校の数学では、九九を教えるのに満一年かかってやっている。
ぼくの家庭であったことだ。数年前、ぼくの次男がまだ小学生であった頃、次男が一月もかかって九九の三の段をやっているのに気づいて、ぼくは次女に言いつけた。
「そんなものをグズグズと長くかかってやっていては、かえっておぼえられないものだ。理屈なんぞ、あとでわかって来るから、一気に暗記させてしまえ。子供は記憶力が旺盛なのだから、唄をうたうように調子をつけておぼえさせれば三日でおぼえてしまう。やって見なさい」
あんのじょうだった。三日でおぼえてしまった。
この話には後日譚《ごじつたん》がある。学年末になって、先生がクラス全体の考査をしてみたところ、九九を全部おぼえていたのは、ぼくの家の次男ともう一人しかなく、しかもその一人も家庭で一気に暗記させたものだったというのだ。
今の教育法は、ゆるい坂を苦労させずに上らせるようなやり方が基本になっているようだが、ぼくは教育というものは一面から言えば鍛練だと思っている。それを忘れた教育に、ぼくは信頼がおけない。
このことは、もう一つ重大な問題をふくむ。人間の成長過程には、大別して二段階がある。記憶力の非常に旺盛な時期と、理解力の旺盛になる時と。その時期に応じて適当な教育をするのが、最も効果的なのではないかと、ぼくは思うのだ。
精農家といわれる人々の作物にたいする施肥の方法を、教育家諸君も、文部省の人達も、よく観察して参考にするがよい。根のかたまる時期、茎の強くなる時期、葉の繁る時期、結実の時期等をよく弁別して、その時期に必要な施肥と手当をしているではないか。
社会科の教育には、最も文句がある。今日の小学生や中学生の年齢で、あんな抽象的な理論を教えこんで、果して何の効果があるのだろう。今日の日本の学校の貧弱な設備では、子供等が自分でデータを集めて、そこから結論を引っ張り出し、理論を構成することは出来ない。勢い先生のことばを鵜のみにするよりほかはない。
科学的の方法とは、多くのデータを集め、異同を比較して、抽象し演繹《えんえき》して理論を構成することではないか。理論は次に来るものだ。先ずデータを集めさせるべきだ。設備の関係上子供自らが集めることが出来ないなら、次善の方法として先生がそれを教えるべきだ。教科書に記載すべきだ。
今日の現実に行なわれている方法は最も非科学的である。こんな方法からは狂信的な観念主義者しか育ちはしない。
去年のことだが、ある大学で文科の学生に、新聞小説の一回分を読まして見たところ、正確に読めたのは、十人中二人しかなかったという。
これを、今日の教育制度や、学生の不勉強や、戦争中の教育放棄で片づけてはならない。戦争中から戦後の今日まで、新聞や雑誌や、子供の読物からルビが姿を消したからなのである。
われわれ文筆を業としている者は、何万字かの漢字を読みかつ書くことが出来る。しかし、これの大部分は学校でおぼえたものではない。少年の頃、ルビを頼りにして読んだ読物によって、自然のうちにおぼえたものである。
ルビの廃止はこういう目に見えない教育機関を国民から奪ってしまった。国民の読書力の低下もその主な原因はここにある。読書というものは妙なもので、その文中さして重要な文字でなくても、一字でも読めない字があると、ひどく読む意欲を減退させるものだ。
文部省や新聞社は、大へんルビをきらって、当用漢字八百字(?)を制定して、これを小学校で教え、それだけ覚えて、発音通りの仮名づかいをすれば、誰でも用が足りると思っているらしいが、学校で教えることを全部覚えるのは、少数の優等生だけで、大部分の子供等はそうでないという事実を忘れている。
この点でも、昔の行き方は、自然発生的であっただけに、実にうまく行っていた。即ち、子供の雑誌や読物や、大人でも文字の知識の弱い人の多く読む娯楽雑誌類総はルビにし、その過程を通って文字の知識の豊富になった人々の読む文学雑誌や、綜合雑誌や、純文学の小説などは、ルビなしにするという工合になっていた。これが本当なのである。自然の発達を軽蔑して観念論やちょいとした思いつきなどで変えてはいけないのである。
日本人の今日の読書力の低下は、ルビ廃止を強く要望した文部省とそれに全面的に協力した新聞社が最も多くの責任を負わねばならないと、ぼくは思っている。
新聞社や、出版業者は、自分等の商売の上からも、ルビの復活に努力すべきである。
杞人の憂え
四月末日、あたかも那須は桜が満開であった。その日、山小屋にこもってから、今日、十一月八日まで、こもっている。取っていないから新聞も読まず、電話を引いてないからかかって来ることもない。世の中のことは、テレビのニュース、時々遊びに来る友達、時々数日東京に帰った時に聞く以外は、耳にとどかない。閑寂をきわめているが、それでも田子の浦のヘドロ問題や、光化学スモッグのことや、カドミウム被害のことや、農薬による農産物の汚染のことや、生物界のバランスがくずれたことなどを知った。日本中の山々、たとえば四国の石鎚《いしづち》山の頂きの土まで農薬に汚染されていることも知った。日本だけでなく、世界の海が汚染され、地球をとり巻く空気も汚染され、北極の氷雪さえ鉛の層が出来ているということも知った。いろいろと思うことが重なった。その思うことの要領。
近世の人間の文化はアメリカにはじまった。議会制民主主義は、アメリカが英国から独立した時、アメリカがはじめたシステムで、これに刺戟されてフランス革命によってフランスが採用し、やがて世界各国にひろがり、ついに世界全体が政治の形態はこうでなければならないと考えるようになった。共産主義のような全然新しい政治組織の国でも、選挙による議会制を採用しているほどである。もちろん、本質は骨抜きになっているが、人類の常識になっているから、形式だけでも採用しないわけに行かないのである。
経済方面でも、世界はアメリカ的方式にならっている。すべてが積極進取の大量生産の方式をとっている。出来るだけ多量に生産して、コストを安くして、出来るだけ多量に売ることにして、あとからあとからと無限に生産して行く。そのため、消費者の方でも修理して長く使うことを捨てた。少し悪くなれば、捨てて新しく買うことになった。その方が安くつくのである。
使い捨てることが経済の機構をスムーズにすることにもなった。節約は機械に砂を投ずるに似て、経済の流れの滑りを阻害するとまで考えられ、節約は罪悪、消費は美徳という考えまで出て来た。
このように世界は、アメリカ人的考えに支配されて来たのであるが、このアメリカの考え方はどこから出て来たのであろうか。
アメリカ人には、大体において善意に満ちた人が多い。これはよく言われるように、ピューリタンのなごりであろう。ヨーロッパを亡命してこの新大陸に来た人々は、清潔で純粋な信仰の人々が多かった。理想家肌で、善意に満ちた人々である。今日でもアメリ力人にはこの名ごりを伝えた人がよくあるから、独立戦争当時は一層多かったであろう。
当然、この人々は人間の善性にたいして強い信頼感がある。だから、国民の一人一人が皆同じ権利を持つものとしての議会制民主主義を考えついたと思われる。人間には先天的にも、後天的の修練によっても、優劣があるのだから、同じ権利をもって政治に参与させることは無理だという、旧世界では支配的であった考え方は、その頃のアメリカ人には認容することは出来なかったのであろう。
しかし、議会制民主主義の実際が、各国どうなっているか、われわれが眼前に見る通りである。本場のアメリカでもいいかげんなものだが、出店の日本では言語道断なものになっている。
けれども、考えてみると、独立戦争当時のアメリカは知らず、社会はそう善良にして優れた人間だけで構成されているものではない。こうなるのは当然の結果といってよいかも知れない。
共産主義の政治や、ファシズムは、この政治方式の欠陥を知って、新しい方式の摸索であったかも知れないが、結果はわれわれの知る通りになった。しかし、今や世界が挙げて新しい政治方式を摸索しなければならない時が来ていると、ぼくには思われる。
人間にたいする信頼感がある以上、人間万歳の信念的思想が生ずるのは最も自然なことである。しかも、その頃のアメリカには無限と思われるほどの沃野《よくや》があり、無限と思われるほどの資源があった。当然のこととして、耕せ耕せ、働け働け、そうすることによってわれわれは無限の幸福を得ることが出来るのだという思想が生じ、自由主義経済を追究するようになったことは、最も自然である。
アメリカのこの行き方は、確かに世界を繁栄させた。その功績は認めなければならないが、この世のことは何事も諸行無常である。世界を挙げてアメリカ方式にならってやっているうちに、今日のようなことになった。地球は決して無限ではなく、公害によって地球全体が汚染され、北極の氷雪にさえ鉛の層が見られ、人類の滅亡の危険さえそう遠くないことがわかった。
世界は、アメリカ的方式にかわる方式を工夫しなければならない、最も重大な時が来たのである。
公害のことを最も痛切に考えているのは、いわゆる先進諸国である。どうにかしなければ、国民の生命と健康が危険になっているので、あわてているのである。
しかし、新興諸国は至って冷淡である。万国博のために来たアフリカの新興国の代表の一人に、公害のことを語って感想をもとめたところ、
「公害? それはうらやましい。われわれの国はこれから工業を興さなければならないのだ」
といったという話がある。
この話は最も象徴的である。
新興諸国が産業の工業化を考えていることは否定出来ない。新興諸国はすべて独立の確保と繁栄のために、自国の産業を工業化することを熱心に考えているに違いないが、である以上、先進諸国がいくら公害防止につとめても、この方面からの公害によって、地球の汚染は進行してやまないに違いない。
つまり、今までのように各国がそれぞれ独立して、国家エゴイズムを守りつづけていては、どうにもならない事態に立ち至っているのである。
万国が国家エゴイズムを揚棄して、世界国家をつくらなければならない時となったといえるであろうが、これは決して容易ではないのである。われわれのこれまで持ち伝えて来た常識の少なからぬもの――愛国心や、忠誠心などを根本から考え直してみなければならないからである。
思ってここに至ると、ぼくは大へんな時代に生まれ合わせたと、名状しがたい憂えと戦慄《せんりつ》を覚えずにいられない。
これはしばらくおくとしても、人類は生産工業については、もはや自由主義経済的な考えを訂正しなければならないことは明瞭である。世界はマルクスの言ったような経路を経て自由主義経済の否定には達しなかったが、公害という事実によって、転換あるいは否定を余儀なくされることになったのである。
公害のことは、生産法の科学的研究によって、救われる可能性がないではないが、その方法の開発には恐しく金がかかるであろう。また開発されたとしても、その装置をすることは、これまた巨額な費用を要するであろう。それをカバーするためには、製品の値段を高くしなければなるまいから、当然、民生の圧迫になる。到底、それは民間の企業にまかせることは出来るまい。どうしても、生産公営ということにならざるを得まい。われわれは統制経済の不快さをいやというほど経験して来ている。気が重くならざるを得ないのである。
もっとも、そうなっても流通経済には自由経済の方式が採られるだろうが。
人類が最も重大な曲り角に来ていることは事実である。その際、人類は旧ヨーロッパの方式、旧東洋の方式を顧みることは無駄ではあるまい。中庸を至高の徳とした儒教の教えなど、地球全体が小さい閉鎖社会になってしまった今日では、大いに参考になるはずである。無限の前進をよしとするアメリカ的方式は、儒教では淫――恣欲《しよく》過度として、中庸と反対の最大の悪徳とするのである。
この前、テレビを見ていたら、アメリカの何とか大学の教授が話していた。
「江戸時代二百数十年、日本は鎖国して、日本という閉鎖社会にこもっていた。その頃の日本人の方式は、これからの人類の方式に大いに示唆するものがあるかも知れない」
という意味のことであった。江戸幕府の取った方式の根本思想が儒教であることはいうまでもない。
いずれにせよ、大変な時代である。深く思えば、胸がふるえて来る。ぼくはもう古稀、余命いくばくもないが、若い人々は大へんだなあと、そぞろ気の毒な思いにたえないこの頃である。
[#地付き]〈了〉
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昭和五十年十一月新潮社刊(改編)
文春文庫 昭和六十三年四月十日刊
文春ウェブ文庫版
二〇〇〇年十月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版