F1走る魂
〈底 本〉文春文庫 平成三年六月十日刊
(C) Yasuhisa Ebisawa 2002
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F1走る魂
一九八六年の七月初旬のある日、中嶋悟は岡崎市の自宅で一通の電話を受けた。
彼はこの年、ホンダ・エンジンを搭載したラルト・ホンダでヨーロッパのF3000レースに出場するためにイギリスに渡り、日本へはF2レースがあるときにだけ帰るという生活を送っていた。このときもそうで、六月二十九日にイタリアのムジェッロでおこなわれたF3000レースに出たあと、すぐに日本にとってかえして七月六日に鈴鹿サーキットでおこなわれた全日本F2選手権の第五戦に出場したのだった。
ムジェッロでの結果は五位で、鈴鹿では二位だった。F1ドライバーを目ざす世界中の強豪が集まっているF3000レースでの五位はともかく、鈴鹿のF2での二位は彼には不満足だった。彼は日本のレーシング・ドライバーの中では自分が第一人者だと思っていたし、まわりからもそう見られていたからである。
しかしヨーロッパと日本のあいだを飛行機で行ったり来たりし、時差の調整をする時間もないままレースに出なければならないという強行スケジュールの不利はどうにもならなかった。鈴鹿でのレースのまえに、彼が目をしょぼつかせ、|朦朧《もうろう》とした様子でピットにたたずんでいると、ライバルの星野一義は同情した面持ちでこういった。
「おまえ、そんなふうでよくまともに走れるなあ」
優勝したのはその星野一義だった。
中嶋悟はくたくたに疲れていた。しかし日本のF2レースにだけ出ていれば誰にも文句をいわれずに第一人者としてふるまっていられるのに、それでは満足できずにどうしてもヨーロッパに出て行こうと決心したのは誰のすすめによるものでもなかった。ほかならぬ彼自身だったのである。いまさら泣きごとはいっていられなかった。
電話を受けたのはそういうときだった。
電話は本田技術研究所の桜井淑敏からだった。彼は本田技術研究所ではもっとも若い四十一歳の取締役で、ホンダのすべてのレース活動を統括している総監督だった。
「これからすぐに研究所へきてもらいたいんだが」
とその声はいった。
「話は何ですか」
と中嶋悟はいった。
「こっちへきたら話す」
話はそれだけだった。
中嶋悟は緊張した。受話器を置いたあとで彼がまず最初に頭に思い浮かべたのは、F3000がどうにかなってしまうのではないかということだった。彼も一九八六年になって円とドルのレートがとつぜん一ドル二百四十円から百六十円の超円高になり、そのために輸出産業の自動車会社の利益が激減しつつあることぐらいは承知していたからである。ホンダがF1だけに集中するためにレース活動を縮小し、F3000からは撤退する方針を決めたのかもしれないことは十分に考えられることだった。
「そんなことになったら困るな」
と中嶋悟は思った。
彼はこのときまでにヨーロッパでのF3000レースを四戦消化していたが、イタリアのバレルンガとムジェッロでともに五位になったのが最高で、自分で完全に満足できる成績はまだ一度もおさめていなかった。レースはこのあとにまだいくつか残っていたが、こんな成績のままでせっかく出て行ったヨーロッパからすごすごと引きあげることは、彼のプライドが許さなかった。それに彼は、もしそんなことになったら、日本のサーキットに集まる意地のわるい連中につぎのようにいわれるだろうと知っていた。
「日本でレースをやっているだけじゃもの足りないといって、ヨーロッパに出かけて行ったやつは何人もいるが、誰一人向うでは勝てなかった。みんな、ただ行っただけさ。やつもやっぱり同じだったな。これですこしは高い鼻が低くなるだろう」
くそ、と思った。彼はヨーロッパのサーキットに慣れ、ちゃんと走るコツをつかむまで、もう一年ぐらいはヨーロッパでレースをしたかった。
彼は支度を整え、ホンダ・レジェンドのハンドルを握ると、東名高速に乗って埼玉県和光市にある本田技術研究所に向った。彼はレーシング・カーばかりでなく、車そのものを運転するのが好きだったので、何時間かかるドライブもちっとも苦にならなかった。彼は人に趣味は何かときかれると、いつも大真面目に車を運転することだと答えていた。
数時間後、本田技術研究所に着くと、彼は桜井淑敏の秘書に応接室に通された。そこには家を出るまえに連絡しておいた彼のマネジャーの福田直道がさきにきて待っていた。
「何の話だろう」
と中嶋悟は福田直道にいった。
「さあ、ぼくもわかりませんね」
と福田直道はいった。
「F3000をやめるという話だろうか」
「どうでしょう。そんなことはないと思うけど」
二人が不安な面持ちで待っていると、やがて桜井淑敏がやってきた。彼もひどく疲れたような顔をしていた。彼は七月六日にフランスのポールリカールでおこなわれたF1のフランス・グランプリから帰ってきたばかりだった。
「また勝ったそうですね」
と中嶋悟は桜井淑敏にいった。
ウィリアムズのシャシーに積まれたホンダ・エンジンは、フランス・グランプリの勝利ではやくもシーズン四勝目をあげていた。全十六戦のうち八戦で四勝だった。
「中嶋さんがテストをしてくれているおかげですよ」
と桜井淑敏はいった。
中嶋悟は八五年から鈴鹿でウィリアムズ・ホンダの実走テストをおこなっており、八六年も日本に帰ってくると過密スケジュールのあいまをぬってそれをつづけていたのである。そのおかげだといわれると、自分もF1グランプリに参加しているような気がして、とてもいい気分だった。しかし来年はそのテストをするだけになってしまうのかもしれないと思うと、ちょっぴり気が滅入った。
「中嶋さんは、ここのところずっとスタートがまずいという話をきくけど、どうしてなんですか。何か原因があるんですか」
桜井淑敏がいった。
中嶋悟のここ数年のスタートのまずさは、いまや日本のサーキットでは有名だった。ポール・ポジションをとって先頭のグリッドに並んでも、ギヤをいれるタイミングがわるかったり、ホイール・スピンをさせたりして、スタートで遅れてしまうのである。ヨーロッパのF3000でもおなじ失敗をおかし、せっかく上位のグリッドに並んでも、スタートで最後方に落ちてしまうということが重なっていた。デビューしてからしばらく、サーキットに集まるレース・ファンの目をみはらせていたころの彼からは考えられないことだった。
「それはですね」
中嶋悟は胸をドキドキさせながらいった。
「日本のレースでは、余裕を持ちすぎちゃっているからじゃないかと自分では思っているんですけどね。あとで考えてみると、横に並んだドライバーの様子を見ちゃったり、余計なことをあれこれ考えちゃったりしてるんですよね。F3000のほうは、ラルトのシャシーのチェンジ・レバーの位置がぼくに合わないんです。だからいまいろいろ調節してるところなんですが、こっちはちゃんとぼくに合うようになれば心配ないと思いますよ」
「ふうん。じゃあ、精神集中さえうまくできれば何も問題はないんですね」
「ええ、そうです。ぜんぜん問題はないと思います」
中嶋悟はきっぱりといった。そんなことでF3000失格の烙印を押されたのではたまらないからだった。
「それならいいけど、もしF1でスタートに失敗したりしたら死んじゃうよ」
「F1? F1て何のことですか」
「まだ公表はしてないんだけど、来年はウィリアムズのほかにロータスにもエンジンを供給することにしたんですよ。それでロータスにセカンド・ドライバーとして中嶋さんを推薦したら、歓迎するといってるんだけど、どうしますか?」
「どうするって、桜井さん」
中嶋悟はニヤニヤ笑いながらいった。
「からかわないでくださいよ。ぼくがロータスのドライバーだなんて、ひどいな」
「からかってなんかいないよ。ほんとにロータスはオーケーしたんだよ」
「嘘でしょう」
「嘘じゃないよ。信じないのか」
「信じられませんよ」
「どうして」
「だって夢みたいな話じゃないですか」
「夢だって何だっていいよ。とにかくロータスは承知したんだから。どうするんだよ」
中嶋悟は茫然とした顔でしばらく桜井淑敏を見つめていたが、やがてちょっと待ってくださいというとトイレに走って行った。
彼はそこで自分の顔を鏡に映して見た。そこにはいつもと変わらぬ自分の顔が映っていたが、何だか見知らぬ他人の顔を見るような気がした。自分がF1ドライバーになるなんて、どうしても夢としか思えなかった。
彼は再び応接室に戻ると、マネジャーの福田直道にいった。
「ちょっと俺のほっぺたをつねってみてくんねえか」
「何を漫画みたいなこといってんですか」
と福田直道はいった。
「いいから、つねってみてくれよ」
福田直道は中嶋悟の頬をつねった。
「痛っ。こりゃ、夢じゃねえや」
と中嶋悟はいった。
「返事は?」
桜井淑敏は完全に気が動転しているらしい中嶋悟に再びいった。
「どうしますか」
中嶋悟は桜井淑敏の顔をもう一度たしかめるように見つめ、それからゴクリと唾をのみこむと、ちいさな声で精一杯の元気を出していった。
「断わるわけないでしょ」
「よし、じゃあ決まった」
と桜井淑敏はいった。「ロータスのほうでは、七月十三日のイギリス・グランプリが終ったらすぐに契約したいといってるから、急いでイギリスに戻ったほうがいいよ」
「契約書は?」
「彼らがつくってますよ。連中の気が変わらないうちに、さっさとサインしちゃうんですね」
「ぼく、まだF1のドライバーのスーパー・ライセンスを取ってないんですけど」
「ああ、それは心配ないですよ。こっちで調べたら、中嶋さんはちゃんと条件を満たしてるから」
国際自動車連盟のスポーツ委員会(FISA)は、F1ドライバーのスーパー・ライセンスを与える条件として、インターナショナル・フォーミュラ・レースに通算十回以上出場しているか、あるいは年間にそのレースで五位以上に五回入賞しているかという、かなりきびしい制約を課していた。中嶋悟はどちらの条件も満たしていた。鈴鹿サーキットでおこなわれるF2レースは全レースが国際規格のレースで、彼はすでにそれに何十レースも出場していたし、年間に五位以上に五回というのも数えきれぬほど記録していたからである。
「しかしそれだけだときっとクレームがついたと思うんですね。国際規格のレースといっても、日本国内だけのレースだからね。何といってもF3000レースに出ていたのがよかったんだよ」
とあとになって中嶋悟はいっている。
彼は一九八六年の記録でも、このときまでに鈴鹿の三つのF2レースで優勝一回、二位に二回なっており、加えてヨーロッパのF3000でもすでに二度五位になっていたので、完全にスーパー・ライセンスの条件を満たしていた。
中嶋悟は桜井淑敏と別れ、イギリスに戻る日程などを打ち合わせて福田直道とも別れると、再びレジェンドに乗って岡崎に帰った。しかし自分に訪れたとつぜんの幸運を、まだ本当に現実のものだとは信じられなかった。こういうときにともに喜びをわかち合うべき妻は、幼い子供と二人でいまはそちらが本拠となったロンドン郊外のアパートで彼の帰りを待っていた。
「おれがなあ、F1ドライバーとはなあ」
と彼は一人で思った。
F1ドライバーになることは、彼の長年の夢だった。とくに国内で第一人者となってからのここ数年はその夢が大きくふくらみ、そのためには十分な海外遠征資金がなければならないと思って中嶋企画という会社をつくったり、そのときになってまごまごしないように英語の勉強をしたり、体力をつけるために毎日5キロのランニングをしたりして準備を整えてきていた。
しかし現実は失望の連続だった。彼が日本のレーシング・ドライバーの第一人者だと知ると、毎日のようにいくつかのF1チームがうちの車に乗らないかと甘い誘いをかけてきた。だがそれらはいずれもアロウズとかトールマンといった万年下位低迷チームで、彼らはいつも慢性的な資金不足に悩んでいたので、最後に必ずつぎのようにつけ加えることを忘れなかった。
「きみが自分で三百万ドルばかり出すか、さもなければそれに見合った金を出す日本のスポンサーを連れてくれば、あすにでも契約できるよ」
彼には受けいれるのが不可能なまったく非現実的な誘いだった。彼はがっかりし、F1ドライバーになろうという夢は捨てなかったが、心の底ではその実現をほとんどあきらめていた。たぶんチャンスは永遠に訪れないで、そのうち年をとってしまうだろうと思っていたのである。しかしじっさいに実現してみると、それは信じられないくらいにあっけなかった。
資金も自分で出す必要はなかった。桜井淑敏によれば、ロータスは反対に契約金を払ってくれるというのだった。その額は彼がF2ドライバーとして日本国内で稼いでいる金額よりもずっとすくなかった。だがすくなくても契約金は契約金だったし、第一、金はあまり問題ではなかった。
彼の第一の目的は金ではなかった。彼はプロ野球やプロゴルフの選手を見ていると、彼らがアメリカという日本よりあきらかにレベルの高い世界があるのに、どうしてそこへ行って本格的に戦おうとしないのか不思議でならなかった。彼らは日本でプレーしていても五千万も六千万も稼ぐが、それだけで満足なのだろうかと思うのである。彼は満足できなかった。日本国内で第一人者としてレースをしていたほうがあらゆる点で好都合なのに、わざわざヨーロッパに出かけて行ってF3000に挑戦したり、実現するとは思えなかったF1ドライバーになることを目標にして努力してきたのは、すべてそのためだった。より上の世界で自分がどれだけのことができるか知りたかったのである。
夢が現実になったいま、彼はおれはいったいどれだけのことができるのだろうと思った。一九七三年に鈴鹿シルバーカップ・シリーズでレース・デビューをしてから十三年がたち、彼は三十三歳になっていた。アラン・プロストより二歳年長で、ネルソン・ピケより一歳若かった。しかしF1ドライバーとしてはまったくの新人だった。いまや喜びでふわふわした気持はすっかり消え去り、かわって頭の中に不安と心配が広がりはじめるのをどうにもできなかった。
その気持をすこしやわらげてくれたのが、生沢徹からの電話だった。それからしばらくして、どこから話をきいたのか、まっさきに祝いの電話をくれたのである。
「願いがかなってよかったな。おめでとう」
と彼はいった。
中嶋悟はびっくりした。生沢徹とは数年前に彼のチームのドライバーとして走っていたときにいろいろあって、それ以来あまり話もしていなかったのである。その彼が誰よりも早く祝いの電話をよこしてF1ドライバーになることをよろこんでくれたのだった。
「頑張れよ」
と生沢徹はいった。「おまえならきっとやれる」
中嶋悟はとてもうれしく、体がぞくぞくした。
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中嶋悟は、一九五三年の二月二十三日に愛知県の岡崎市で生れた。家業は農業で、姉二人兄一人のきょうだいの末っ子だった。
彼の父親は戦争中は海軍の戦闘機乗りで、戦争が終ってからも乗り物に|惹《ひ》かれ、中嶋悟が小学生になったころはベンリイ125とブルーバードに乗っていた。中嶋悟は小学校の高学年になり、自分がオートバイを動かせそうだと分るとすぐにそのベンリイ125に目をつけ、家の近くを乗りまわしはじめた。彼の腕はたちまち上達し、上達すると家の近くだけでは満足できなくなって遠くまで出かけるようになった。
つぎにはすばらしいスピードで走った。とうぜんそれは人目につき、警察があわてて追いかけてつかまえてみると、運転者が小学生だと知って驚くということが何度も起きた。
中学生になると、こんどはブルーバードに乗るようになった。彼がオートバイから四輪車に乗るようになって最初に感じたのは、四輪はらくちんでいいということだった。ゆったりとすわって運転できるし、オートバイのように簡単には転倒しなかったからである。
彼はこうして免許を取るまえに乗り物の魅力にすっかりとり|憑《つ》かれてしまった。彼は中学校では水泳部にはいって、ときには競技会に出たりもしたが、オートバイや自動車を運転しているときのよろこびにくらべると、ものの数ではなかった。
十六歳になり、名城大学付属高校にはいると、彼はさっそく自動二輪の免許を取る計画を立てた。ところがそのことをいうと、父親が猛反対をした。免許を取れば警察に隠れてこそこそ乗る必要はなくなるのに、どうして反対するのだろうと思った。わけをきくと父親はいった。
「おまえがオートバイに乗ると、おまえはまちがいなく死ぬ。それが分るからだよ。おまえのオートバイの乗り方は、そういう乗り方だ」
「じゃあ、おれはこれからさきずっと何にも乗れないの?」
「十八歳になったら四輪の免許はとってもいい。四輪なら安全だからな。だからそれまでオートバイは我慢しろ。死ぬと分っててそれを許すわけにはいかん」
「四輪の免許を取ったら、すぐに車を買ってくれるかい?」
「オートバイに乗るのを我慢すると約束すれば買ってやる」
「本当だね」
「本当だ」
「でも、原付の免許なら取ってもいいだろう? 岡崎の駅まで自転車で行くわけにはいかないよ」
「それもそうだな。原付ならたいしたスピードは出ないからいいだろう」
名城大付属高は名古屋にあり、彼は朝早く起きて岡崎からそこまで通わなければならなかったのである。彼は原付免許を取ると父親にスーパーカブを買ってもらい、それを三年間家から岡崎駅まで乗って行った。そして父親と約束したので十八歳になるまで大きなオートバイには乗らなかった。
しかし彼の心はそれだけではやはり満足することはできなかった。どうしても何かに乗りたくてうずうずしていた。モーター・スポーツ誌を見ていて、カート・レースというものがあると知ったのはそういうときだった。自動車の免許がなくても、十二歳以上なら講習を受けるだけで誰でもそれに乗れるというのが十六歳の彼の目を惹きつけた。
「これだ」
と彼は思った。
カートは四輪で、父親が心配している二輪ではなかった。
彼は父親にカートに乗りたいと頼んだ。父親は十八歳になればちゃんとした自動車に乗れるのだから急ぐことはあるまいと反対した。しかし彼がどうしても乗りたい、オートバイじゃないんだからいいだろうと強く主張すると、父親はしぶしぶ息子のいいぶんを認めた。
中嶋悟はそれから知り合いのガソリン・スタンドでアルバイトをはじめた。父親に金の面倒まではみないぞといわれたからである。いちばんちいさな100ccエンジンのカートでも、買うには十万円は必要だった。
彼はアルバイトの金をせっせと貯金したが、カートを手に入れてすぐに乗るためには、それまでに講習を受けてライセンスを取っておく必要があった。モーター・スポーツ誌でいろいろ調べてみると、カートの講習所は岡崎近辺にはなく、横浜の磯子まで行かなければならないと分った。彼はそれからますますアルバイトに精を出した。カートを買う資金のほかに、横浜へ通う電車賃も稼がなければならなかったからである。
すべての準備が整い、ついに待望のレーシング・カートを手に入れたのは高校二年の夏だった。ヤマハの100ccエンジンがついた中古のカートだったが、彼はうれしかった。一年近くアルバイトをしてようやく手に入れたのである。
彼はすぐにレースに出たくて、どこでレースが開催されるかモーター・スポーツ誌でいろいろ調べた。すると東京の八王子のサマーランドというところのカート・コースでまもなく開催されると分った。
しかし彼はたちまち困った問題に直面してしまった。カートをどうやってそこまで運ぶかという問題だった。彼は困りはて、大学一年の兄に相談した。兄は高校三年で十八歳になるとすぐに自動車の免許を取り、名古屋商科大学にはいると大学まで車で通っていた。
「おれが連れてってやるよ」
弟の相談に彼はすぐにそう答えた。
二人は中嶋悟が高校二年の夏のある日、車の屋根にカートを積んで八王子サマーランドに出かけた。
そこの一周が1キロほどのカート・コースに着くと、三十人ぐらいがその日のレースに出ようとして集まっていた。中嶋悟はみんなが強そうに見えたが、いよいよ走れると思うだけでうれしかったので、うまく走ろうとか勝とうなどとは思わなかった。そしてカートに乗りこむというときになると、彼はポケットから絹の白いマフラーをとりだして、それで鼻と口をおおった。彼のヘルメットはフルフェイスではなかったので、ゴーグルとそうした何かで顔をおおわなければならなかったのである。
絹の白いマフラーは、家を出がけにこれが必要だろうといって父親が渡してくれたものだった。
「何、これ」
ときくと、父親はいかめしい顔で答えた。
「昔の戦闘機乗りはみんなこれを首に巻いていたんだ。大事に使え」
昔の海軍パイロットのマフラーで顔をおおうと、よしやるぞという気になった。なんだかそれがあらゆることから守ってくれそうな気がしたのである。
中嶋悟は、レースがはじまると絹の白いマフラーをなびかせて懸命に走った。レースはクラスごとにわかれていたが、200ccエンジンのカートなども混走していたので、抜いたり抜かれたりで十周もしないうちにさっぱり順位が分らなくなってしまった。ピットで見ていた兄も同様だった。
レースは百周で終った。中嶋悟は最初のレースのできに大いに満足した。マシンのトラブルもなかったし、スピンもしなかった。彼は百周のあいだ完全にマシンをコントロールしたのである。いちばんうれしかったのは何よりもそのことだった。
「ちょっと表彰式を見て行こうか」
帰り支度をしていると兄がいった。
「人が表彰されるのを見たってしようがないよ」
と中嶋悟はいった。
「いいじゃないか。どんなことをするのか見て行こうよ」
中嶋悟は兄の意見にしぶしぶしたがい、そこに残った。
表彰はいちばん下の100ccクラスからはじまった。ぼんやりと表彰台のほうを見ていると、オフィシャルの一人が台の上から100ccクラスの優勝者の名前を読み上げた。
「優勝、中嶋悟」
「おい、おまえの名前を呼んでるぞ。優勝だってよ」
兄がいった。
「優勝、中嶋悟」
オフィシャルはきょろきょろあたりを見まわしながらもう一度いった。
「はい、ぼくです」
中嶋悟はやっと事態をのみこみ、あわてて台の上に駆け上がった。
これが彼の最初のレースだった。
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中嶋悟は高校を卒業するまでにカート・レースに八度出場して、三度優勝した。
ほかにもう一度優勝するチャンスがあるにはあった。そのとき彼のエンジンはいつになく好調で、スタートから二位以下を大きく引き離してトップを快走していた。ところが残りがあと数周というときになって、首に異変を感じた。
彼はレースに出るときは昔の海軍パイロットの父親にもらった白い絹のマフラーでマスクをし、余ったぶんは首にぐるぐる巻きつけていた。ところがその日は何かの都合で首に巻きつけていたぶんがほどけ、うしろになびいてエンジンのベルトか何かにからみついてしまったのである。彼は首を振ってふりほどこうとしたが外れず、反対にもがけばもがくほど首が締ってきた。それでも彼は何とかゴールにたどりつこうと懸命に走りつづけた。だが結局ゴールにはたどりつけなかった。危険を察したオフィシャルによってストップさせられてしまったのである。
「あのときあのまま走っていたら、本当に首が締って死んでいたかもしれない」
と彼は当時を思い出していっている。
しかし彼は危険な目にあったからといってレースをやめようとは思わなかった。ただ同じミスは二度とおかすまいと誓っただけだった。
そのころには、彼は車の魅力にすっかりとりつかれていた。彼はいっている。
「車をふっとばすと開放感を感じるなんていう人がよくいるけど、ぼくはそんな気分は感じたことがない。反対にすごく緊張する。なぜかというと、ぼくはただ単に車をふっとばすということには、あまり魅力を感じないんですよ。シートにすわりハンドルを握ると、まずこの車をどうコントロールしてやろうかと考え、走り出すと自分の思いのままにコントロールするために車と必死で格闘する。カーブでのスピードとブレーキ、どう曲るか。その緊張感がたまらなくいいんです。だからスピードは100キロであろうと200キロであろうと、あまり関係がない。そしてうまくコントロールできると車を征服したような気分になって、自分の意のままに動かしたという充実感を感じる」
したがって彼の場合は、レースで勝つということも一番大事な目標ではなかった。一番大事なことは車を完全にコントロールすることだったからである。しかし完全にコントロールしたときには、その結果として彼はたいてい勝っていた。
中嶋悟は二月生れだったので、十八歳になったのは高校を卒業する直前だった。彼は誕生日がくるとその日を待ちかねたように自動車教習所へ行き、四輪の免許をとった。
彼は免許をとると、父親にフェアレディZを買ってくれと頼んだ。フェアレディZは一九七一年にも今と同様高価なスポーツカーだったが、彼の父親は十六歳のときの約束を守ってずっとスーパーカブ以外のオートバイに乗らないで待っていた息子のために、畑を売って息子の願いをかなえてやった。中嶋悟は父親が畑を売ってフェアレディZを買ってくれたと知っていたが、それは約束の結果だと割りきってあまり気にしなかった。それに岡崎市も人口が増え、郊外がどんどん宅地化されて、いずれにしてもいつまでも農業をつづけていられるような状態ではなくなりつつあったのである。
中嶋悟は高校を卒業すると、大学に進んで勉強をするという気はまったくなかったので、高校生のときからアルバイトでつとめていたガソリン・スタンドに就職した。そしてしばらくするとそこから兄のガソリン・スタンドに移った。名古屋商科大学に行っていた兄がとつぜんそこを中退し、将来性のない農業に見切りをつけてガソリン・スタンドをはじめたのである。これは中嶋悟にとって、のちのち非常に好都合なことになった。
彼はフェアレディZを手にいれると、カートに乗ることはすぐにやめてしまった。彼はカート・レースに出ていたころから、内心ではすでにカートでは満足できないものを感じはじめていた。カートはサスペンションのないもっとも原始的なスタイルの車で、おまけに彼のカートはミッション付きのものではなかったので、どうコントロールするかを追求するにも彼の求める奥行きにまったく欠けていたのである。彼はカートではもう完全に行きつくところまで行きついてしまったと感じていた。
サスペンションがあり、ミッションがあるフェアレディZに乗ると、そのことがいっそうはっきりした。フェアレディZはカートにくらべるとものすごく複雑な動きをし、しばしば彼の予測に反してそのコントロール下からとび出そうとして彼を驚かせた。彼は意のままにならぬ手ごわい敵を発見して、たちまちそれに夢中になった。
ガソリン・スタンドでの仕事を終え、家に帰って両親と一緒に夕食をたべると、彼はたべたものが胃に落ちつくのも待たずにそそくさとフェアレディZに乗りこんだ。最初は郊外の舗装路や高速道路を走った。しかしそうした道にはすぐに飽きてしまった。彼はしだいによりむずかしいコースを求め、三河山系や木曾の山岳地帯にはいっていった。山道は複雑に曲りくねっているばかりでなく、未舗装ですべりやすかったので、どんな条件下でも車を完全にコントロールしたいという彼の欲求を満たすのにまことにぴったりのところだった。
「ときには夜中の十一時ごろに出かけて一時間ぐらいで帰ってくることもあったけど、たいていは九時ごろに出かけて三時間ぐらい走ってくる。雨の日も雪の日も毎日です。雪の日なんかは、どうしたらうまくコントロールできるかと、とくにわくわくしたね。とにかく、当時は一時間でも三十分でも一日に一度は走ってこないと気がすまなかった」
と彼はいっている。
当然のことながら彼のフェアレディZの走行距離計の数字はうなぎのぼりになり、一年後にはじつに6万キロに達した。
彼は夜の山道での走りにもすぐに上達したので、それを目撃した人たちに強い印象を残した。三河や木曾の山岳地帯は、ラリー・ドライバーたちにとっても格好の練習コースだったので、彼らにしばしば目撃されていたのである。彼らは車から降りると、仲間どうしで得体の知れぬ男のことをつぎのようにいって噂した。
「ちかごろ、おれたちのコースにノーマルのZでばかっ速いやつが出没するんだが、あれは誰だろう」
じっさい中嶋悟は山道でのコントロールの仕方を完全に身につけると、一緒に走ってもまったく彼らをよせつけなかった。
だがラリー・ドライバーたちは、まもなくそのフェアレディZを山道で見ることはなくなった。そうした噂が立つころには、中嶋悟は一人で山道を走ることにすっかり飽きてしまっていたのである。
「やることは全部やったからね。自分としては、普通の道ではもう限界にちかいところまできちゃったなという気がして、それでまあ、それ以上のことを求めるならレースかなということになってきた」
と彼はいっている。
レースは自分でカート・レースをはじめるまえから、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイに行って、何度も見ていた。そしてすぐにレーシング・ドライバーになろうとは思わなかったが、ドライバーとして究極の姿であるレーシング・ドライバーには、あこがれることはあこがれていたのである。
友だちの一人が、レース仕様に改造してあるファミリア・ロータリークーペの中古を売ってもいいといっている人がいる、という情報を持ってきたのはちょうどそのころだった。その人物は愛知県の碧南市で碧南マツダという自動車販売店を経営している田中梅夫という四十四歳の男で、みずからそのファミリア・ロータリークーペに乗ってツーリング・カーのレースに出場していたのだが、マツダが新しくサバンナRX3を出すと知ってファミリアを手離すことにしたのである。サバンナのほうがずっと性能がよかったからだ。
中嶋悟はその情報を得るとさっそく碧南市に行って、田中梅夫という人物に本当にレース仕様のファミリアを手離すつもりなのかときいた。田中梅夫は手離すつもりだったが、フェアレディZに乗って岡崎市からやってきた男を見ておどろいた。高校を卒業してまだ一年しかたっていないという十九歳の若者だったからだった。
田中梅夫は自分でレースをやっていたので、レースがいかに危険をともなうものであるかを知りぬいていた。ひとつまちがえば死ぬこともあるのである。それを知っていて、ただ無鉄砲なだけかもしれぬ十九歳の若者に簡単にレーシング・カーを売るわけにはいかなかった。
「きみがレースをやることを、おとうさんやおかあさんは承知しているのか」
と田中梅夫はきいた。
「まだ何も話してないけど、ぼくはやりたいんです」
と中嶋悟はいった。
「それじゃ駄目だ。親の承諾がなければ車は売れない」
しかし中嶋悟はどうしても車がほしいといい張って、いつまでも立ち去ろうとしなかった。田中梅夫は困り果て、結局彼自身が岡崎へ出向いて分らず屋の若者の両親の意見をきいてみることになった。
田中梅夫が中嶋悟の家を訪ねると、彼の両親はあまりいい顔をしなかった。当然のことであった。自動車レースというのは危険であるだけでなく、金がやたらにかかるばかりで実りは何もないのである。健全な農民の息子がやるようなものではなかった。しかし一方では彼の両親は自分たちの息子の興味が何に向っているかを十分に心得ており、それを取り上げてしまうことはできないと知っていた。彼らは最後にはあきらめ、田中梅夫に頭を下げた。そしてこういったのである。
「ここでやめろといっても、どうせ行きつくところまで行かないとやめはしないでしょうから、面倒を見てやってください」
話が決まると、中嶋悟はガソリン・スタンドの経営者になって金銭面に明るくなっていた兄に代理人を頼み、一年間で6万キロ走ったフェアレディZを売り払った。当時の自動車市場は非常な供給不足だったので、フェアレディZは新車で買ったときよりも一割ほど高く売れ、彼は百十万円の現金を手にした。田中梅夫のレース仕様のファミリアは七十万円だった。その買い取りも兄が代理人になっておこない、三回払いの契約を結んだ。手持ちの資金は多いほどよかったからである。レースをはじめるまえに十分な練習を積む必要があったし、そうなればサーキットの使用料やガソリン代、タイヤ代、オーバーホール代などがかさむにきまっていた。自動車レースにおいてもっとも重要なのは資金だった。彼は親の援助はあまり当てにできなかった。
しかし彼は資金不足のことはそれほど深刻に考えなかった。フェアレディZを売ってファミリアを買った差額の資金で何とかくいつなぎ、そのあいだにレースで速いところを見せれば、きっとどこかのワークス・チームが注目してくれるだろうと考えていたのである。とりわけ彼はファミリアでレースをするので、マツダのワークス・チームに期待した。当時のレーシング・ドライバーの最大の目標は、どこかの自動車会社のワークス・ドライバーになることだった。これから一年半後には石油ショックが世界中をパニックにおとしいれ、その影響で多くの自動車会社がレースから撤退してしまうことになろうとは、この時点ではまだ誰も想像できなかった。
こうして中嶋悟は最初のレーシング・カーを手に入れ、レースの世界の門の前に立った。彼が十九歳のときで、一九七二年の六月のことであった。
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中嶋悟はファミリア・ロータリークーペを自分のものにすると、すぐに鈴鹿サーキットのレース会員になってスポーツ走行の練習を開始した。鈴鹿サーキットでは自動車レースの普及のために、レース開催のない土曜と日曜に彼のような若者にコースを開放していたのである。彼はその日になると朝早く起き、トラックにファミリアを積んで岡崎から鈴鹿へ通った。兄は彼がガソリン・スタンドの仕事を休んでも何もいわなかった。
鈴鹿サーキットは、それまで山道ばかり走っていた彼には天国のように感じられた。何よりもすばらしかったのは、山道を走っているときのように対向車の心配をする必要がないことだった。彼はここでなら思いきり走れるぞと思った。
鈴鹿サーキットはヨーロッパ・タイプのすごくむずかしいコースだった。高速、中速、低速のさまざまなタイプのコーナーが各所にたくみに配されていて、ただアクセルを全開にしてさえいればタイムが出るというようなサーキットではなかったからである。スポーツ走行の練習は、フルコースではなくサーキットの西半分のコースだけでおこなわれたが、それでもむずかしさは変わらなかった。重要なのは直線でのスピードではなく、さまざまなタイプのコーナーをいかに速く抜けるかだった。
しかしこうした鈴鹿サーキットの特性は、反対に中嶋悟のチャレンジ魂を刺激した。コースが複雑ならそれだけ車のコントロールはむずかしくなり、そこで完全に車をコントロールしたと感じたときのよろこびは何ともいえぬものだった。
中嶋悟の鈴鹿での練習にはたいてい田中梅夫がつきあって面倒を見ていたが、彼は中嶋悟が初心者としてはあまりにも速いのでしばしば無茶をするなと注意しなければならなかった。そのうち死んでしまうぞ。
中嶋悟は無茶などぜんぜんしていなかった。彼はカート・レースやフェアレディZで山道を走っていた経験で、車には限界スピードというものがあり、それを超えてしまうとどんな車でもコントロール不能になるということを肌身にしみて知っていた。したがって彼は人にいいところを見せようとして、がむしゃらに必要以上のスピードでコーナーに突入していくような真似は絶対にしなかった。
彼はいっている。
「コーナーでは、まず第一に、このコーナーでこれ以上のスピードを出したら車をコントロールできなくなるというギリギリの限界スピードをつかむ。これをつかんだらもうこっちのもので、つぎにコーナーに突入するときのブレーキング・ポイントをさがす。最初は100メートル手前でブレーキをかけてみる。それでまだ余裕があると思ったら、つぎは90メートル手前でかけてみる。そうやって、すこしずつポイントを前にしていく」
彼のドライビングは非常に合理的で、当てにならない勘や運にたよるようなところはまったくなかった。
彼は複雑な鈴鹿のコーナーを克服するために懸命に車と格闘した。そしてその結果は、山道を一人で走っていたときとはちがい、すぐにラップ・タイムとなってあらわれた。彼はタイムが上がると、タイムが上がったよろこびよりも、自分がさらに高いレベルで車を征服したと感じて深い満足感を味わった。彼はのちにもっとも車を壊さないドライバーとして有名になるが、それは当然のことであった。スピンをしてクラッシュするということは、彼にとっては車を自分の制圧下におけなかったということで、もっとも恥ずべきことだったのである。
鈴鹿での練習は、一九七三年の一月にレーシング・ドライバーのライセンスを取るまで、約六カ月間つづいた。ライセンスを取るだけならそんなに練習をする必要はなかったのだが、どうせレースをやるなら最初のレースからトップを走るようにやれという田中梅夫のアドバイスに従ったのだった。しかしその長い準備期間もついに終ったのである。
そして二月十八日、中嶋悟は鈴鹿シルバーカップ・シリーズの第一戦でレースにデビューした。鈴鹿シルバーカップ・シリーズというのは新人ドライバーを対象としたツーリングカー・レースだったので、ドライバーは全員がレース未経験者だった。コースも新人戦にふさわしく、サーキットのフルコースではなく、練習コースと同じ西半分のコースでおこなわれた。そのために大観衆のはいるグランド・スタンド前は走ることができなかったが、レースはレースだった。
中嶋悟は練習ではかなり速く走れるという感触をつかんでいたが、他のドライバーと競走するのは初めてだったので、自分がどのくらいやれるのかとても興味があった。彼はカート・レースの経験で、自分一人で走るのと他の車と競走するのとではまったくちがうと知っていたからである。競走の中でちゃんと車をコントロールしてこそ、はじめて完全にコントロールしたといえるのである。
しかし彼は予選が終るとたちまちがっかりしてしまった。一位からなんと12秒も離されて六位にしかなれなかったのである。一位になったのは、ピカピカ光る真新しいサバンナRX3に乗ったドライバーだった。
「くそ」
と彼は思った。
それにくらべると彼の中古のファミリア・ロータリークーペはあきらかに見劣りがした。パワーの点でも50馬力は劣っていると思われた。これじゃとてもレースにならねえやと思った。
それでも彼はレースになると健闘した。予選で一位になったサバンナには追いつけなかったが、彼より上位からスタートした他のサバンナやフェアレディZを根気よく追いかけて、つぎつぎに彼らを攻め落としていったのである。結果は三位だった。
このあとの第二戦ではリタイヤしてしまったが、第三戦ではこんどは予選六位からスタートして二位になった。彼がようやく溜飲を下げたのは、五月二十七日の第四戦だった。彼のファミリアはサバンナにくらべてあきらかに性能が劣っていたにもかかわらず、予選でついにサバンナに乗ったドライバーと同タイムを出して第一列に並び、決勝でもそのサバンナがスピンしたのに乗じて勝ってしまったのである。快挙という以外になかった。しかし第五戦ではまたもとに戻ってしまい、予選では三位、決勝でも二位にしかなれなかった。
「おれに金があったらなあ」
と中嶋悟は思わずにはいられなかった。彼は他のドライバーよりいい車がほしいとは思わなかった。ただ同じ車がほしいと思った。しかし彼はフェアレディZを売ってファミリアを買った差額の金はすでに半年間の練習のあいだに使いきってしまっており、レース出場のためにかかるガソリン代やタイヤ代は兄に出してもらっているしまつで、余計な金は一円もなかった。
碧南マツダの社長の田中梅夫が、おれのサバンナを貸してやるからこれで走ってみろといいだしたのはそういうときだった。彼はサバンナに混じってファミリアで健闘している中嶋悟を見て、サバンナで走らせてみたらどんなことになるのだろうという気を起こしたのである。
「しかし、タダで貸すわけにはいかないがいいか?」
と田中梅夫はいった。
「いいです」
と中嶋悟はいった。
「じゃあレースごとに、かかったガソリン代やタイヤ代の請求書を送る。それでいいな。もちろん金を返すのは二年さきでも三年さきでも、金ができたときでいい。きっときみはレースの賞金で返せるようなドライバーになるよ」
中嶋悟はとつぜん降って湧いた幸運に胸をときめかせた。そしてこれまで負けると分っていても腐らずに一生懸命に走っていてよかったと思った。もし腐ってレースを捨ててしまっていたらこんな幸運は訪れなかっただろう。幸運はただ手をこまねいて黙って待っていたのでは降ってこないと最初に思い知らされたのはこのときだった。
彼は七月十五日の第六戦から田中梅夫のサバンナRX3でレースに出た。
なんていい車なんだろうと思った。ファミリアとはまったく比べものにならなかった。そして他のドライバーは最初からこんないい車でレースをしていたのかと思うと腹が立った。彼はいきなり予選一位になり、レースでも他を圧倒的に引き離して優勝してしまった。これにはみんなが驚いた。しかしこのあとで彼がやってのけたことにくらべれば、これはまだほんのウォーミングアップ程度のものにすぎなかった。
それは八月十二日のことで、その日鈴鹿サーキットは鈴鹿グレート20レースと銘うってF2レースを開催した。そのとき、前座レースとしてツーリングカー・レースも一緒におこなわれることになっていたので、中嶋悟は腕だめしのいいチャンスだと思ってサバンナでそのレースにエントリーした。新人戦のシルバーカップ・シリーズとちがって本格的なツーリングカー・レースだったので、コースはフルコースが使われ、ドライバーも経験をつんだ一流どころが名をつらねていた。
中嶋悟は雑誌の写真でしか見たことのない名の知られたドライバーたちを目のあたりにして、胸がざわついた。なかでも片山義美と従野孝司という二人のマツダ・ワークスのドライバーに目がいった。自分も彼らのようになりたいと望んでいたので、彼らがいっそうまぶしく見えた。
彼ら二人もサバンナRX3でエントリーしていた。しかし外見は同じでもおれのサバンナとはぜんぜんちがうんだろうなと中嶋悟は思った。彼もはやくワークス・ドライバーになって、彼らのようにメーカーのエンジニアたちが特別にチューンナップしたワークス・カーに乗りたかった。
だが予選がはじまるとそういう気持はなくなった。彼は完全なレーシング・ドライバーになり、車を自分の意のままにコントロールすることだけに集中した。それだけで十分だった。しかし自分の思いどおりのコントロールをしてのけたとき、彼は2分24秒2というすばらしいタイムを出していた。
このタイムは、2分22秒1でポール・ポジションをとった片山義美にはおよばなかった。しかし三位の従野孝司より速かった。まだレースをはじめて半年にしかならない二十歳の新人ドライバーが、はじめて経験する鈴鹿のフルコースでワークス・ドライバーより速いタイムを出したのである。決勝では結局抜かれて三位にしかなれなかったが、車の性能差を考えれば、レース界の常識をくつがえす驚異的なことといわねばならなかった。中嶋悟は頭角をあらわしたのである。
その後、彼はシルバーカップ・シリーズの残り四戦に出て二度優勝した。あとは二度とも二位だった。これで彼のシルバーカップ・シリーズ十戦の成績は、優勝四回、二位四回、三位一回、リタイヤ一回ということになった。完走率九割、入賞率九割というものすごいアベレージで、もちろん文句なしのシリーズ・チャンピオンであった。
彼は一年目のシーズンが終ると、どこかのワークス・チームから専属ドライバーとして契約したいという電話がかかってくるのを待った。とくにマツダ・ワークスからの連絡を期待した。八月十二日の鈴鹿グレート20レースのときの走りは自分で思いだしても見事なものだったし、マツダの関係者にも強い印象を与えたにちがいないと思っていたのである。
しかし連絡はどこからもなかった。かわりに絶望的なニュースばかりがつぎつぎに伝わってきた。すべての自動車メーカーが、どこもかしこも自動車レースから撤退するというニュースだった。
この年、一九七三年の秋、第四次中東戦争に端を発したオイル・ショックが世界中をパニックにおとしいれた。とりわけそれは自動車会社にとって危機的な問題で、彼らは省エネルギー・エンジンの開発に総力を上げなければならなくなり、自動車レースどころではなくなってしまったのである。
この瞬間、トヨタとニッサンがトヨタ7とニッサンR380で覇権争いをしたような時代は、とつぜん終りをつげたのである。
中嶋悟は途方にくれた。すべてのワークス・チームは消滅し、レースをつづけていくにはプライベートでやっていくほかなくなったのである。それには資金が必要だった。しかし彼はすでに十分借金をしていて、それを返済する方法もぜんぜん見つかっていなかった。彼は道を閉ざされた。
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一九七四年から七六年にかけての三年間は、中嶋悟にとって何ともパッとしない期間だった。
一九七三年の秋に勃発したオイル・ショックによって目標としていたワークス・ドライバーの道が断たれると、彼は碧南マツダ社長の田中梅夫からサバンナRX3を買った。いつもいつも借りて乗っているわけにはいかなかったからである。もっとも、買ったといっても金を持っていなかったので、代金は払えなかった。田中梅夫は払いは金ができたときでいいといってけっして催促はしなかったが、いずれは返済しなければならないものであることにかわりはなかった。
一九七四年のシーズンは、それで鈴鹿サーキットばかりでなく、富士スピードウェイでも走った。走れば走るほど借金が増えていった。ガソリン代、タイヤ代、メンテナンス代、いずれもバカにならなかった。
一九七五年になると、そういう彼にもちょっとした幸運が訪れた。ベルコウエストというレーシング会社が500ccエンジンのFL500というクラスのちいさなフォーミュラ・カーを製作し、それに乗ってみないかと誘われたのである。中嶋悟はその話にすぐに飛びついた。ドライバーとしての契約金はもらえなかったが、すくなくとも自分の金を使わずに車に乗れそうだったからである。
彼はそれでFL500のレースに十一度出場した。FL500は、500ccといえどもフォーミュラ・カーだった。フォーミュラ・カーに乗るのは初めてだったにもかかわらず、彼は最初のレースで勝ったのを皮切りに、十一度のうち四度優勝した。ここでも彼は非凡なものを見せたのである。
しかしその幸運も一九七六年のシーズン初めまでしかつづかなかった。ベルコウエストとの一年間の契約が終わると、彼は再びサバンナに乗るだけの生活に戻った。借金だけがふくらんでいった。ガソリン・スタンドを経営する兄がガソリン代やメンテナンス代を援助してくれてはいたが、それだけではとてもまにあわなかった。
一九七六年のシーズン中には、彼の借金は三百万円に達していた。もうそろそろ潮時かなと彼は思った。
「FL500の上のクラスというと、フォーミュラ・カーだとFJ1300であり、F2でしょ。スポーツ・カーだとGCカーになる。よっぽどの金持ちならべつだけど、もうアマチュアがやれるクラスじゃないんですよね。億の金がかかりますから」
と彼はいっている。
当時の彼には三百万円の借金でさえ重荷だったのだ。
そういうある日のことだった。
中嶋悟は五月の初めにサバンナでツーリング・カーのレースに出場するために富士スピードウェイに行った。そこで彼はレースの前に腹ごしらえをしておこうと思って、パドックの後方にあるドライバーズ・サロンにはいった。テーブルにすわり、一人でカレーライスを食べていると、隣りに人がすわった。中嶋悟は男が誰か知らなかったが、男のほうでは知っているようだった。しばらくあれこれ話をしていると、男がいった。
「おまえ、これからどういう計画でレースをやっていくつもりなんだ」
「どうといわれても、計画なんかありませんよ。もう金もないし、そろそろ終りですね」
と中嶋悟はいった。
「ふうん」
と男はいった。
そして最後に、男はおれは松浦賢だと名のった。中嶋悟はその名前をきいて、この人があの松浦賢かと思った。彼はF2やGCカーに積まれるBMWの2レーシング・エンジンのチューニングにかけては第一人者で、レース界では誰知らぬ者のない有名な人物だったのである。F2やGCカーの世界を覗いたことのない中嶋悟のような駆け出しのドライバーにとっては、彼は雲の上の存在だった。
その松浦賢から岡崎市の自宅にあらためて電話がかかってきたのは、それから一カ月後の六月のある日だった。彼は電話に出た中嶋悟にいった。
「七月に鈴鹿で2のスポーツ・カーのレースがあることは知ってるだろう」
「ええ、知ってます」
と中嶋悟はいった。
「それに藤田直広が出られなくなって車が一台空いているんだが、乗ってみる気はあるか。車はシェブロン、エンジンはBMWだ」
中嶋悟は松浦賢の話がすぐには呑みこめず、どう返事すべきか言葉に詰まった。シェブロン・BMWといえば、富士のグランチャンピオン・レースを走っているGCカーである。それに乗れるなんて夢のような話だった。
「どうするんだ。乗るのか、乗らないのか」
松浦賢はいった。
「乗ります。お願いします」
中嶋悟はあわてて答えた。しかしそう答えてからも、しばらくは自分にとつぜん訪れたすばらしい幸運をなかなか信じることができなかった。
中嶋悟が藤田直広のかわりにシェブロン・BMWのドライバーとしてピックアップされた裏には、ちょっとしたレース界の事情があった。
鈴鹿サーキットは、一九七三年からメインレースをそれまでのスポーツ・カー主体の路線からフォーミュラ・カー主体の路線に切りかえていたが、一九七六年になって三年ぶりにスポーツ・カーのレースを復活させた。それが七月のレースだった。ところが鈴鹿サーキットがそのレースの開催を発表すると、富士スピードウェイは鈴鹿のスポーツカー・レースに出場したドライバーは富士のグランチャンピオン・レースには二度と出場させないといいだしたのである、2のスポーツカー・レースはグランチャンピオン・レースとして富士が独自に育てたものだから、富士以外で走ることは許されないというのが富士スピードウェイのいいぶんであった。結局、鈴鹿サーキットはトラブルを避けるために2のスポーツカー・レースはこの年一年でやめてしまうのだが、各レーシング・チームは富士スピードウェイの決定に大あわてとなり、レギュラー・ドライバーのかわりを探さなければならなくなっていたのである。
中嶋悟はそうしたレース関係者の一人の松浦賢の目にとまったのだった。
中嶋悟が乗ることになったシェブロンB23はノバ・エンジニアリングという会社が所有している車で、エンジンの面倒を松浦賢が見ていた。ノバ・エンジニアリングは、富士のふもとで国産のいろいろなレーシング・カーをつくっている有名なレーシング会社だったが、気が向くとレースで車も走らせていたのである。松浦賢もノバ・エンジニアリングも、日本のレース界ではその中心部分を形成しているメジャー・リーガーだった。
中嶋悟は、日がたって気持が落ちつくと、自分もそのメジャー・リーガーの世界に足を一歩踏み入れつつあるらしいと知って、体がぞくぞくした。いつまでもマイナー・リーグで走っていることには、もうあきあきしていた。はじめての2のスポーツ・カーのレースは、自分には十分にメジャー・リーグで走る力があるということをメジャー・リーガーたちに示すまたとないチャンスだった。
しかしじっさいにシェブロン・BMWに乗ってみると、それを乗りこなすというのは容易でないことがすぐに分った。中嶋悟がはじめてそれに乗ったのは、レースのちょうど一週間前の六月二十七日の日曜日だった。富士スピードウェイで三十周の練習走行をしたのである。
彼はサバンナやFL500で十分にレース経験を積んでいたので、200キロを超すスピードにさえ慣れてしまえば2のレーシング・カーでも簡単に乗りこなせると最初はかるく考えていた。だが加速しようとしてアクセルを踏んだ瞬間、思い知らされた。背中がものすごい力でシートに押しつけられ、それと同時に頭がうしろに持っていかれて顎が上がり、顔をまっすぐにしようと思ってもどうしても前に戻らなくなってしまったのである。そしてコーナリングのときはコーナリングのときでやはりものすごい横Gがかかり、こんどは頭が外側に持っていかれた。
「くそ」
と彼は思った。
しかしどうにもしようがなかった。そこはサバンナやFL500とはまったくちがう世界だった。頭をまっすぐにしておこうと悪戦苦闘しているうちに、とうとう彼は首を痛めてしまった。何てことだと思った。
彼が毎日5キロのランニングをしたり、バーベルや鉄アレイを持ち上げて体を鍛える決意をしたのは、このときからだった。彼は身長が百六十五センチで、体重は五十三キロしかなかった。これでは車をコントロールするよりさきに、自分の体がどうにかなってしまうと思ったのである。
だが彼がもっとひどい苦痛を感じたのは、一週間後に鈴鹿へ行ったときだった。彼はそのときのことをつぎのようにいっている。
「それまでは何でも自分一人で勝手にやってたのが、はじめてプロのレーシング・チームにはいって走ることになったでしょ。まわりを見ると、監督やらベテランのメカニックやらタイヤ屋さんやら松浦さんやら、みんなえらそうに見える人たちばかりなわけですよ。だから人の顔を見れば、みなさんに乗せていただきます、乗せていただきますと頭ばっかり下げていてさ。もう精神的に疲れちゃって、耐えられないという感じだったね」
しかし、そんなことばかりしている自分に腹が立ってしようがなかったが、それもどうしようもなかった。彼はマイナー・リーガーで、まわりの人たちはみんなメジャー・リーガーだったのである。
それでも彼は、レースがはじまると予選で五位になり、決勝では四位にくいこんだ。2スポーツ・カーの初体験としては上々の成績といわなければならなかった。練習したのはたった一日だったのに、スピンもしなかった。彼はメジャー・リーグの車を何とかコントロールしてのけたのである。このレースの優勝者は星野一義だった。
中嶋悟は、一九七六年は結局このとき一度しか2エンジンのレーシング・カーには乗らなかった。彼は再びサバンナに乗り、またマイナー・リーグのドライバーに戻ってレースをつづけた。しかしサバンナではもうぜんぜんあきたりなかった。
そうこうしているうちにシーズンが終り、彼はレースをつづけるか、兄と一緒にガソリン・スタンドの仕事をするかという岐路に立たされた。いろいろ考える必要はまったくなかった。借金の額はすでに三百万円を超え、内心でひそかに願っていたメジャー・リーグからの誘いもまったくなかった。いよいよおれもこれで終りかと思うと、彼は何だかすごくがっかりした。結局、高い金と暇をかけて道楽をやってしまったのである。
しかしメジャー・リーグの住人たちは、ちゃんと彼のことを注目していた。才能のある若くて優秀なドライバーは、彼らとレース界のためにも必要だったのである。
中嶋悟をメジャー・リーグに引き上げようといろいろ動いていたのは松浦賢で、まず彼はノバ・エンジニアリングの社長の山梨信輔に、ノバで製作しているFJ1300に中嶋悟を乗せてみてはどうかと提案した。FJ1300というのは、市販車の1300ccエンジンで走るフォーミュラ・カーで、ノバ・エンジニアリングはノバ513というFJ1300のシャシーを製作していた。エンジンはおもにサニーとシビックのエンジンが使われていたが、松浦賢はシビックのエンジンを扱っていたので好都合だった。
つづいて松浦賢は、ヒーローズ・レーシングというレーシング・チームのオーナーに、中嶋悟をF2のドライバーとして使ってみるように交渉した。ヒーローズ・レーシングのオーナーは田中弘という男で、彼も自分が一九七三年にレーシング・カーに乗るのをやめてからは、若いヒーローを求めていた。しかし彼は一足早く星野一義というドライバーを見つけてしまっていた。星野一義はヒーローズ・レーシングのドライバーとしてすでにF2や他のレースで何度も勝っている売出し中のドライバーだった。だが松浦賢はあきらめず、BMWのレーシング・エンジンを格安で提供することや、車のメンテナンスをノバ・エンジニアリングに安く頼むことなどを約束して、粘り強く田中弘を説得した。そしてとうとう中嶋悟をヒーローズ・レーシングのナンバー2のドライバーとして走らせることを承知させてしまった。
「ぼくは中嶋のことを走るところもあまり見てないし、よく知らなかったんですよ。でも松浦さんはFL500で彼が速かったのを知っていて、何とかしてやろうといってきかない。それで、しようがないから、松浦さんとノバの山梨さんとぼくと三人で会って、どうするかいろいろ相談した。そこで、松浦さんがそんなにいうんならみんなで走らせてみようかということになったんです」
と田中弘はいっている。
田中弘としては、シャシーとエンジンで一千万円もするF2カーを二台そろえなければならなかったので痛い出費だったが、結局彼も才能のある若者がいると知って放っておけなかったのである。もちろん三人のうちでは彼が最大のリスクを負うことになった。
こうして中嶋悟はメジャー・リーグに昇格することになったが、自分の知らないところで進められていたその話をきかされると、あまりの幸運に茫然としてしまった。とてもにわかには信じられなかったのである。しかも、ヒーローズ・レーシングもノバ・エンジニアリングも、ただレースに参加して後方を走っているようなチームではなく、ちゃんと名の通った一流のチームなのである。いきなりそんなチームで走らせてもらっていいのだろうかと思わずにはいられなかった。
松浦賢は、いろいろこまかい話を伝えたあとで、最後にいった。
「ただし条件はよくないぞ。もし入賞して賞金がはいればそのうちの一部はおまえのものになるかもしれないが、それ以外の契約金や手当てなどはいっさいない。ただFJ1300とF2に乗れるというだけだ。それでもいいか」
中嶋悟はそれで十分だった。金がほしいとはぜんぜん思わなかった。彼の望みはレースをすることで、金ではなかった。しかもマイナー・リーグを卒業し、メジャー・リーグに昇格するのである。まったく、それだけで夢のような話だった。
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中嶋悟はメジャー・リーグに昇格したことはうれしかったが、メジャー・リーグに昇格したからといって、そこで|物怖《ものお》じしたりはしなかった。
メジャー・リーグではまだはいりたての新人だったので、サーキットに行くと初めてシェブロンB23に乗ったときのように、いろんな人に頭を下げて歩かなければならなかった。しかし彼は、松浦賢や田中弘以外にまで頭を下げて歩くのはいやだった。自分の仕事はレースで力を出すことで、それ以外のことで余計な神経は使いたくなかったからである。彼は自分を守るために、なるべくみんなから離れているようにした。
あるとき、彼はレースのまえに鈴鹿サーキットのドライバーズ・サロンで一人で食事をしていた。するとそこにチームのナンバー1・ドライバーの星野一義が通りかかった。星野一義は中嶋悟が皿の上の料理をおいしそうに食べているのを見て、びっくりしたようにいった。
「おまえ、レースのまえによくそんなに平気でものが食えるなあ」
「だって腹が減っちゃってどうしようもないんですよ。星野さんは食べないんですか」
「おれはレースのまえはどうも駄目なんだ」
「ああ、そうですか」
と中嶋悟はいった。
事実、星野一義はレースの日になると、朝からジュースや牛乳類以外はほとんど何も口に入れなかった。緊張のあまり、胃が固形物を受けつけなくなってしまうのである。ひどいときには体中に|蕁麻疹《じんましん》が出ることもあった。
中嶋悟はそういうことは一度も経験したことがなかった。星野一義は、レースのまえにおいしそうに食事をたいらげる中嶋悟を見て、こいつは心臓に毛がはえているんじゃないかと思ったとあとになっていっている。このとき星野一義は三十歳で、中嶋悟は二十四歳だった。
中嶋悟はレースでもまったく物怖じしなかった。
一九七七年のF2第一戦は三月六日に鈴鹿サーキットでおこなわれたが、彼はノバ522・BMWに乗って十五人のメジャー・リーグのドライバーたちに一歩もひけをとらず、予選で四位になった。そして決勝レースでも、高橋国光、黒沢元治、星野一義についで四位になったのである。初戦でいきなりの入賞であった。
この結果には誰もが驚いたが、なかでも驚いたのは田中弘であった。
「中嶋はチームのナンバー2ですから、彼のエンジンは星野に与えられるエンジンよりもかなり落ちるわけですよ。ところがそれで負けずに走る。こいつ、どうなってんだろうと思いましたね」
と彼はいっている。
星野一義の車にはヒーローズ・レーシングのメーン・スポンサーのペンタックスの文字が美しく描かれていたが、中嶋悟の車にはそれもなかった。
それでも彼はこの初戦での成績がたんなる偶然ではなかったことを、このシーズンのうちにまたすぐに証明してみせた。八月七日の富士フォーミュラ・チャンピオンレースで、こんどはチームメイトの星野一義につづいて二位になったのである。このレースでの彼の走りは、まるでトップを行く星野一義をうしろで援護しているかのようだった。
一年目のシーズンが終ったときには、彼がすでにF2の一流ドライバーであることを疑う者は誰もいなくなっていた。それはF2にかけられた全日本ドライバー選手権の総合ポイントにもちゃんと示されていた。星野一義の90点、高橋国光の85点についで52点を上げ、ランキングの第三位になっていたのである。
だが彼がこの年本当にレース・ファンを魅了したのはF2ではなく、FJ1300のレースにおいてであった。
彼はFJ1300もF2と同じ三月六日に鈴鹿でデビューした。そこで彼はノバ513・ホンダに乗ると、ポール・ポジションからスタートして、最初から最後まで一度もトップの座を譲らずにゴールした。これ以上はない完全な勝利であった。
この年、FJ1300のレースは全部で七戦おこなわれた。その七戦を、彼はすべて第一戦のときとまったく同じようにして勝ってしまったのである。全戦ポール・ポジション、全周回トップという圧倒的な勝ち方だった。こんなふうにしてFJ1300を勝ち上がったドライバーは、彼以外に誰もいなかった。
一九七八年になると、彼の走りはさらにすばらしくなった。
まず彼はF2開幕戦の鈴鹿ビッグ2&4レースで星野一義、長谷見昌弘についで三位になり、第二戦のJAF富士グランプリでは星野一義についで二位になった。
とくに第二戦でのヒーローズの二人のスピードは群を抜いており、直線で見ているとまるで二人だけがべつのエンジンで走っているかのようだった。二人のエンジンとも松浦チューンのBMWエンジンだったが、そのためにオフィシャルにあらぬ疑いをかけられ、レースのあとでエンジンをあけさせられたほどだった。ジャーナリストたちも二人があまりに速いので、二人のエンジンは規定の2000ccではなく、2200ccぐらいあるのではないかと騒ぎ立てていた。もちろん二人のエンジンともBMWの規定どおりのエンジンだった。
「二年目の中嶋は、星野にまったく負けていなかった。そのために、星野はナンバー1はおれじゃないのかと、しばしばむくれていた」
と田中弘はいっている。
そして第三戦の鈴鹿フォーミュラ・ジャパンレースで、中嶋悟はついにF2初勝利を上げた。五月の二十一日のことであった。
その日、中嶋悟はF2で初めてポール・ポジションをとった。二位は松本恵二、星野一義は三位であった。
レースではまず松本恵二がトップに立った。スタート直後の第一コーナーで中嶋悟をかわしたのである。しかし中嶋悟は西コースのスプーンカーブの立ち上がりで松本恵二のうしろにぴったりとつき、裏のストレートで抜きかえしてすぐにトップに立った。
二周目にはチームのナンバー1・ドライバーの星野一義が二位に上がってきた。第一コーナーの入口で松本恵二をとらえたのである。それからはヒーローズ・レーシングの二人のドライバーのレースになった。
ヒーローズ・レーシングの二台のノバ532・BMWの速さはこの日も群を抜いていた。四周目には三位の松本恵二との差を4秒に広げ、六周目には8秒、八周目には11秒と、一周につき約2秒ずつ広げていった。
ヒーローズ・レーシングは、前の年もこの年にはいってからも何度かこういうレースをしていたが、この日はいつもとすこしちがっていた。それはナンバー2の中嶋悟が先頭を走っていることだった。これまでは、こういう展開になるといつも星野一義がさきを走り、中嶋悟はうしろの護衛をしていたのである。
ところが七周目か八周目あたりから、中嶋悟の走りがおかしくなり、見るとリヤ・タイヤの内側のあたりが何かでにぶく光りはじめてきていた。オイル・クーラーのパイプに何かの拍子にヒビがはいり、ほんのすこしだったがオイルが霧状になって洩れはじめていたのである。そしてそれはリヤのディスク・ブレーキにも悪影響を与えていた。
中嶋悟は急にコントロールしにくくなった車と悪戦苦闘しながら、考えた。彼は星野一義と一対一の勝負をして必ず勝てるという自信はまだなかった。しかし自分が星野一義と同じスピードで走っているかぎりは抜かれないだろうと思った。星野一義が抜こうとすればどこかのカーブで無理をしなければならず、そうすれば彼の車は限界スピードを超えることになって、スピンをするはずであった。そのまえに抜かれないためにブロックすることもできる。
しかし彼は田中弘に、星野一義とは危険な接戦はするなと注意されていた。チームのナンバー1は星野一義で、彼はあくまでもナンバー2であった。しかも彼の車は彼には原因は分らなかったが、オイル洩れで調子がおかしいのである。中嶋悟は先頭を走ることをついにあきらめ、十周目のヘアピンカーブでコースの内側をあけて星野一義にトップを譲った。
星野一義はトップに立つと、車の調子のわるい中嶋悟との差をすこしずつ広げはじめ、二十周目には4秒差まで広げた。レースは三十周であった。ところが星野一義の車も途中でエンジンの音がおかしくなってきた。ガソリン・ポンプか何かが駄目になって、エンジンがバラつきだしたのである。そしてスピードががっくりと落ちた。
中嶋悟は二十三周目に再びトップに立った。ナンバー1の車が駄目になった以上、ナンバー2が勝たなければ仕方がなかった。中嶋悟の車もオイル洩れがつづき、いまやリヤのタイヤばかりでなく、車の横腹までオイルで黄色く染まっていたが、それでも星野一義の車よりはまだ速かったのである。
中嶋悟がゴールしたとき、二位に追い上げてきた高橋健二との差はわずか1秒6しかなかった。星野一義は三位であった。
その後、中嶋悟はF2レースに三度出場した。三度とも二位で、そのうち星野一義がリタイヤしなかった鈴鹿グレート20ドライバーズ・レースでは彼の援護役をつとめた。
惜しかったのは十一月五日のJAF鈴鹿グランプリであった。このレースにはF1ドライバーのブルーノ・ジャコメリが来日してコース・レコードでポール・ポジションをとったが、決勝レースになると中嶋悟はトップに出た星野一義とそのブルーノ・ジャコメリのあいだにはいって、星野一義の護衛をつとめた。中嶋悟とブルーノ・ジャコメリとの息づまるような攻防は二十周ちかくつづいたが、彼はジャコメリを抑えきってついに前に出さなかった。やがてジャコメリはエンジン・トラブルでリタイヤしたが、レース終盤になってトップの星野一義も同じトラブルでリタイヤしてしまった。中嶋悟にとっては二度目の優勝のチャンスであった。前には誰もいなかった。ところが残りがあと数周というところで高橋国光に抜かれてしまったのである。ブルーノ・ジャコメリとの長い攻防で、精神も肉体も完全に限界に達していたのだった。彼はそのとき、抜かれるまで高橋国光がすぐうしろにきていたことにさえ気がつかなかった。
しかしいまや中嶋悟の実力は誰の目にもあきらかだった。彼はまわりの評価が上がり、自分でも自信を持つようになると、チームのナンバー2・ドライバーのままでいることがだんだんいやになってきた。自分の力を存分に発揮して、思いきり自由にサーキットを走ってみたかった。自分が一番苦しかったときにマイナー・リーグから引き上げてくれた松浦賢や田中弘のことを考えると心が痛んだが、その欲求を抑えることはできなかった。
またこの一九七八年は、彼のその欲求にさらに火をつけるようなできごとがあった年でもあった。それは七月から八月にかけてのヨーロッパ遠征で、ノバ・エンジニアリングの山梨信輔のアイディアで、FJ1300用のノバ513にトヨタの2000ccエンジンを積んでイギリスのF3レースに出場したのである。
中嶋悟はヨーロッパで、自分の力を試せることによろこび、山梨信輔とともに勇んでイギリスに出かけたが、最初のレース場のブランズハッチに行ったとたんにその出場台数の多いことにまず驚いてしまった。なんと四十台ちかくのF3カーがピットにひしめいていたのである。しかもドライバーはイギリス人ばかりでなく世界中から集まってきていた。
中嶋悟はそこでの予選結果は二十七位であった。彼はいきなりプライドをへし折られた。F2で初勝利を上げたあとだったので、彼は内心ではF2よりクラスが下のF3なら簡単にいい成績が上げられるだろうと考えていたのである。しかし世界は広く、日本でのランキングなど世界ではぜんぜん通用しないということをいきなり教えられたのだった。彼はものすごいショックを受けた。このとき予選でポール・ポジションをとったのは、ブラジル人のネルソン・ピケというドライバーだった。
レースではもっとひどい目にあった。スタートして500メートルも走ったかと思ったときだった。彼は何が何だか分らぬうちに、とつぜん大渋滞に巻きこまれた。先頭争いをしていたネルソン・ピケとデレック・ワーウィックというドライバーが第一コーナーで接触して、うしろで逃げ場を失った車がつぎつぎに衝突したのである。中嶋悟は、気がついたときには前の車に前輪を乗り上げ、逆さになって宙を飛んでいた。
彼は逆さになったままコンクリートのコースに落ち、地面をものすごいスピードですべっていった。ヘルメットがコンクリートにこすれて、いやな音を立てた。彼は目をあけ、ヘルメットがけずられる音をききながら地面を見ていた。
「ヘルメットが全部こすれてしまったら、おれの頭はどうなるんだろうと思いながらじっと目をあけて地面を見ていた。なんだかすごく冷静でね。自分でも不思議な気持でしたね」
とそのときのことを彼はいっている。
しかし頭は無事で、体のほうも傷ひとつつかなかった。逆さになった車がコースの上でストップすると、オフィシャルが何人も走りよってきて彼を車の外に引っぱり出したが、彼はそれでますます闘争心をかきたてられた。
「いつか必ずこのヨーロッパで走ってやろうと思ったのはそのときですよ。どうしてかは分りませんけどね。おれはF1ドライバーになるということを意識したのもそのときです。そしてそのときから、ぼくの頭の中にその考えが住みついてしまったんです」
と中嶋悟はいっている。
リタイヤしてピットに戻るとたまたまそのレースを見にきていた生沢徹が姿を見せ、ニヤニヤしながらいった。
「なかなか上手に飛んだじゃないか。おまえ、見どころあるよ」
「それはどうも」
と中嶋悟はいった。そのときはそれで終りだった。
それから中嶋悟は三つのレースに出場した。二戦目には予選で五位になり、四戦目では決勝レースで十三位になった。それがそれぞれの最高の成績だった。
生沢徹から電話があり、レーシング・チームを新しくつくるから一緒にやらないかといってきたのは、日本に帰ってしばらくしてからだった。ひそかに会って話をきくと、生沢徹はいった。
「おまえ、イギリスで走ってみて分っただろう。日本でなんかいくら走っていたって駄目なんだ。どうしようもない井の中の蛙だよ。おれのさきの夢は、チームをヨーロッパに持っていって、向うでおまえを走らせることだ。レースはヨーロッパでやらなくちゃな。日本でなんかいつまでやっていたって意味がない」
生沢徹はレーシング・ドライバーとしての全盛時代、日本でレースをやっていることにあきたりなくなって一九六六年から一人でイギリスに渡り、一九七三年まで七年間もヨーロッパで走りつづけた男だった。その間にF3で何度も優勝し、F2でも一九七〇年にドイツのホッケンハイムで一位と0・3秒差の二位になっていた。彼ほどヨーロッパのレースを知りぬいている日本人はいなかった。
生沢徹の話にはヨーロッパの香りがあり、説得力があった。中嶋悟は心を動かされた。彼の心にもすでにいつかはヨーロッパでという夢が住みついてしまっていた。
生沢徹の話をきいてから、中嶋悟は何日も悩みつづけた。生沢徹のチームで走ることを考えると、すぐに松浦賢と田中弘の顔が浮んできた。彼ら二人はあらゆる意味で彼の恩人だった。
しかし中嶋悟は悩んだ末に生沢徹のチームで走る道を選んだ。何も余計なことを考えずに自分の思いどおりに走りたいという欲求と、いつかはヨーロッパのサーキットで走りたいという夢が最後に勝ったのである。二つとも誰にも止めることのできない彼の心からの願いだったので、どうしようもなかった。
彼は気持を決めると田中弘に会い、いきさつを説明して了解を求めた。
「チームにナンバー1・ドライバーは二人はいらないと思うんです。第一、それではレース界のためにもならない。また機会があったら一緒にやりましょう」
田中弘はせっかくおれが一人前にしてやったのにと思って腹が立ったが、彼を星野一義と一緒にチームに引きとめておく手だてはなかった。田中弘は星野一義を選び、中嶋悟を自由にした。
「もっとも、あのときおまえをナンバー1にするといっても、一緒にヨーロッパヘ行こうという徹ちゃんの言葉で中嶋の頭の中はバラ色になっていたから、どうしようもなかったと思いますけどね」
と田中弘はあとになっていっている。
中嶋悟は夢を抱いてしまったのである。
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一九七八年の暮れに、中嶋悟がヒーローズ・レーシングから生沢徹のつくった新チームに移籍する話がおもてざたになると、レース界はちょっとした騒ぎになった。
中嶋悟は、それまでエンジン・チューナーの松浦賢やヒーローズ・レーシングの田中弘、それにノバ・エンジニアリングの山梨信輔といった人たちの非常に手厚い援助と庇護のもとにレーシング・ドライバーとしての教育を受けてきた。ところが一人前になったとみるや、とたんにそこから飛び出して生沢徹のところに走ってしまったので、何と生意気で恩知らずなのだろうということになったのである。彼を横どりした生沢徹に対しても同様の非難が集中した。
中嶋悟は、これには思わぬショックを受けた。彼としてはヨーロッパのサーキットで走るという将来の夢を実現するのに一番よい道を選んだだけのことで、それ以外の意図は何もなかったからである。恩知らずなどと思われるのは、まったく心外だった。しかし、これまで彼にいろいろと援助してきた人たちがそう思っている以上、どうしようもなかった。結局彼と生沢徹は、レース界という友好的共済社会の秩序を破ったのである。
これで彼らが一番困ったのは、BMWエンジンのチューニングを第一人者の松浦賢に頼れなくなったことだった。そのために生沢徹は仕方なく伊藤義敦という男と手を組み、チーム名も自分と彼の名字の頭文字をとってI&Iレーシングとして、彼にエンジンの面倒を頼んだ。彼は生沢徹がヨーロッパのレースで走っていたときにメカニックをやっていて、そのあとではF1チームのロータスでエマーソン・フィッティパルディのメカニックなどをしていた男だった。しかし彼はエンジンのことも分ったが、本来はメカニックでエンジンのほうは専門ではなかった。彼らの出発は誰からも祝福されなかったばかりでなく、まことに前途多難なものになってしまったのである。
中嶋悟は、この事件で、いったん自分が行動すると一方の人には喜ばれるが、一方の人には必ずしも喜ばれないということになってきたのを知った。これまでの彼は、ツーリング・カーからFL500、FL500からFJ1300、F2へとステップアップするごとにまわりのみんなから祝福されて、自分はその中でただ走っていればよかった。しかし、もうそういう幸福な時期は彼から去ってしまったのである。それは彼が自動車を運転するのが好きなだけのただの二十五歳の若者ではなくなってきたということにほかならなかったが、彼としてはちっともうれしいことではなかった。
しかしうれしいこともあった。碧南マツダの田中梅夫から借りていた三百万円の借金がすっかり片づいたのである。ヒーローズ・レーシングにいた二年間で稼いだレースの賞金をコツコツと返済に当ててきた結果だった。肩の荷がとれて、彼はようやくホッとした。
そうこうしているうちに年が明け、いよいよ一九七九年のシーズンがはじまった。
F2の第一戦は、三月十一日の鈴鹿ビッグ2&4レースであった。
多くのレーシング・チームは三月六日の火曜日の夕方に鈴鹿サーキットホテルにはいり、水曜日からマシン・セッティングや燃費テストのための練習走行を開始した。金曜日まで三日間それをおこない、そのうえで土曜日の公式予選、日曜日の決勝に臨むというのが彼らの長年のやり方だった。
しかし、I&Iレーシングはそうしなかった。I&Iレーシングのピットには、イギリスのマーチ社から購入した一九七九年型の最新のマーチ792が二台置かれていた。生沢徹は、中嶋悟のほかにベテラン・ドライバーの高原敬武とも契約して、2カー体制を組んでいたのである。だがその二台のマーチ792は、水曜日も木曜日も走らなかった。
I&Iレーシングがやっと練習走行をおこなったのは金曜日になってからで、しかも午前中にほんのすこし走っただけであった。中嶋悟も高原敬武もそれで車から降りてしまうと、あとは生沢徹とパドックのあちこちをブラブラしているだけで、まったくコースを走ろうとしなかった。これにはみんなが驚いた。生沢徹がレースのやり方を知らないとは誰も思えなかったから、金曜日の一日だけしか練習走行をしないなんてよっぽどの自信があるのだろうと思ったのである。
しかし実情はそうではなかった。I&Iレーシングには、一レースで使えるBMWエンジンが車一台につき一基しかなかったのである。
三日間の練習走行と、予選、決勝を、たった一基のエンジンで全部まかなうというのは、はじめからできない相談であった。一基のエンジンでは練習走行だけでくたびれてしまって、とても決勝まではもたないからである。まともにレースをやろうとするなら、すくなくとも二台はエンジンが必要であった。ペンタックスという強力なスポンサーを持ち、その資金だけで足りなければ、大きなハンドマイク・メーカーのユニペックスという父親の会社の金を自由に使える田中弘などは、練習用、予選用、決勝用にそれぞれ一基ずつ用意したほかに、予備としてさらにもう一基いつでも使える完全なBMWエンジンを常時手元に置いていた。もちろん彼のようにつねに完璧な準備を整えているチームはあまりなかったが、I&Iレーシングのように一レースで使えるエンジンが一基しかないというチームもなかった。
生沢徹もシーズン・オフのあいだにあちこち走りまわって、伊太利屋という婦人服メーカーをスポンサーとして獲得するには獲得していた。しかしそれだけの資金では、一年間にかかるレース費用を差し引いて、一台一千万円のマーチ792を二台買ってしまうと、一基五百万円のBMWエンジンを十分に必要なだけそろえるなどということはとてもできなかったのである。生沢徹のレース計画の失敗であった。このために彼は翌一九八〇年になるとドライバーを中嶋悟一人に絞ることになるのである。
当然のことながら、中嶋悟のレース結果は|惨憺《さんたん》たるものであった。マシン・セッティングが十分にできなかったうえに、彼は走るに際して生沢徹にこういわれていたのである。
「9000回転以上は絶対に回すんじゃないぞ。エンジンが壊れたら、かわりのエンジンはないんだからな」
中嶋悟は、田中弘のヒーローズ・レーシングにいたときは、BMWエンジンの限界ぎりぎりの10000回転から10500回転まで回してよいことになっていたので、愕然とした。しかし使えるエンジンが一基しかない以上、大事なのは何よりも壊さないことなので、どうしようもなかった。
「星野さんはガンガン回してくるんだろうな」
とちょっぴり星野一義をうらやましく思った。するとその気持を見すかしたように生沢徹がいった。
「10000回転も回せば誰だって勝てるよ。そこを9000回転で勝つのが本物のプロじゃないか」
しかし、やはりそうはいかなかった。予選では何とか五位になったが、決勝では十二位にしかなれなかったのである。原因は電気系統のトラブルによるエンジンのミス・ファイアであった。
つづく五月二十日の鈴鹿フォーミュラ・ジャパンレースでも同じトラブルに泣かされた。このときは予選で三位になり、決勝では残りがあと三周となった二十七周目まで二位を走っていた。ところがそこでまたミス・ファイアでエンジンがバラつきはじめ、あっというまに九台に抜かれて十一位に落ちてしまったのである。専門のエンジン・チューナーにエンジンの面倒を頼めなかったチームの悲しさであった。
九月二十三日の鈴鹿グレート20レーサーズ・レースではもっと惜しかった。予選で二位になった中嶋悟は、スタートで一気にトップに躍り出ると、9000回転までしかエンジンを回さなかったにもかかわらず、独走を開始した。そして十八周目には二位の長谷見昌弘に16秒もの大差をつけてしまった。ところが十九周目の最終コーナーで左のリヤ・ホイールが外れてしまったのである。タイヤのない車では走りつづけるわけにはいかず、そこでリタイヤした。
一九七九年の中嶋悟のF2レースはすべてこんな具合だった。十一月四日のJAF鈴鹿グランプリで二位になったのが最高で、あとはまったくどうにもならなかった。F2カーに乗るようになって三年目で最低の成績であった。
こうしたなかでのわずかばかりの慰めは、富士グランチャンピオン・シリーズでチャンピオンになったことだった。
中嶋悟はこの年、生沢徹が一九七八年まで自分で乗っていたGRD‐S74という五年も使った古いGCカーで、I&Iレーシングから初めて富士GCシリーズに出場した。エンジンはF2と同じくBMWの2000ccエンジンだったが、こちらも使えるのは一基であった。それにもかかわらず、彼は三月二十五日の第一戦で予選十一位からスタートして優勝すると、残りの三戦で三位、四位、二位になってシリーズ・チャンピオンになってしまったのである。初出場で初チャンピオンという快挙であった。まさにこちらでは、人より劣った条件下でも勝つのが本物のプロじゃないかという生沢徹の教えを現実のものにしてみせたのである。
また十月十四日には筑波サーキットでおこなわれたFPレースに初めて出場した。FPというのは、フォーミュラ・パシフィックという日本独自のカテゴリーのフォーミュラ・カーで、エンジンはおもにトヨタとニッサンの1600ccエンジンが積まれて、その両社のエンジン競争のようになっていたものだった。中嶋悟はその日、ニッサン・エンジンを積んだシェブロンB40に乗った。それに乗ることになっていた星野一義がオーストラリアへサザンクロス・ラリー見物に行ってしまったために、急にかわりに乗ることになったのである。
中嶋悟は、このときも初コースの筑波で初のFPカーに乗って、いきなり予選でポール・ポジションをとってしまった。二位は同じくニッサン・エンジンの長谷見昌弘であった。予選のあとで中嶋悟がピットでブラブラしていると、長谷見昌弘がやってきてニヤニヤしながらいった。
「おまえはべつにFPでは勝たなくたっていいんだろう。しかしおれはそうはいかないんだ。そこを考えて決勝ではよろしく頼むよ」
長谷見昌弘は各自動車会社がファクトリー・チームを持ってレース活動をしていたころのニッサンの契約ドライバーで、そのころの縁がニッサンとはずっとつづいていた。星野一義などもそうで、彼らはその意味ではニッサンのドライバーであった。したがって長谷見昌弘としては、ニッサンの一番手のドライバーとしてのメンツがあったのである。もちろん中嶋悟などは足元にも近よれない大先輩のドライバーであった。しかし中嶋悟は星野一義のかわりに頼まれて乗っただけで、ニッサン・チームのナンバー2のドライバーになったわけではないと思っていたので、カチンときた。彼は長谷見昌弘の頼みにはイエスともノーとも答えず、こういった。
「へえ、ニッサンというのはそういうレースをやってるんですか」
そして決勝レースになるとスタートから飛び出して、そのままあっさり優勝してしまった。中嶋悟にとっては、レースというのはそうしたものであった。これがキッカケとなって彼は翌一九八〇年にはトヨタ・エンジンのFPカーに乗ることになり、それまでニッサン・エンジンには絶対に勝てないといわれていたトヨタ・エンジンに初勝利と二勝目をもたらすことになるのである。
こうして中嶋悟はいくつかのレースでは溜飲を下げるようなすばらしい走りをしたが、そんなことぐらいではとても完全に気が晴れるというわけにはいかなかった。彼がもっとも重要と考えていたレースはインターナショナル・フォーミュラのF2で、そのF2のレースで惨敗してしまったからである。
I&Iレーシングと中嶋悟のF2での惨敗を見て、彼らをレース界という独特の友好的共済社会からはじき出した人々があれこれいっていることも耳にはいってきた。多くの人が、I&Iレーシングに対してはザマーミロといい、中嶋悟個人に対してはあんなチームに行くからこんなことになるんだと噂していた。しかし結果がそのとおりだったので、どうにも反論のしようがなかった。彼にできることは一人で奥歯を噛みしめることぐらいだった。
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翌一九八〇年のI&Iレーシングは、一九七九年の反省からドライバーを中嶋悟一人に絞ってすべてを彼に集中する体制にした。しかし事情はあまり変わらなかった。エンジンの面倒を見るのは相変わらず専門家ではない伊藤義敦だったし、七九年に高原敬武が使っていたエンジンを使えるようになったといっても、ヒーローズ・レーシングのような完璧な体制にはほど遠かった。
また生沢徹は、他の多くのチームはF2シャシーとして八○年型の最新のマーチ802を買ったのに、資金不足を理由にそれを買わなかった。そのために中嶋悟は旧型のマーチ792でまた走らなければならなかった。これはエンジンの問題よりも中嶋悟にとってはさらに深刻だった。マーチ792は、シャシーの下を抜ける空気の力でシャシーの接地性をよくするウィング・カーの構造になっていたが、それをさらに効果的にするためにシャシーの両サイドに空気を横に逃さないための可変式のスカートがついていた。ところがこの年からその可変式のスカートが禁止になってしまったのである。サイド・スカートをもがれたマーチ792は、レーシング・カーとしての戦闘力はほとんどないに等しかった。
しかし中嶋悟は、生沢徹が最終目標はヨーロッパでレースをやることだといった言葉を信じていたので、新しい車を買わないのもそのために資金を貯めているからだろうと思って我慢した。ヨーロッパで走るためには、日本のレースである程度の犠牲を払うのは仕方のないことだった。
三月九日、中嶋悟はそのマーチ792でF2第一戦の鈴鹿ビッグ2&4レースに出場した。
彼は、接地性がわるいために全神経をその挙動に注意していなければならない車と格闘しながら、一方ではエンジンを壊さないために絶対に9000回転以上は回さないように回転計にもつねに気を配っていなければならぬというほとんど不可能な運転を要求された。彼はそれをまず三月八日の予選で見事にやってのけた。しかし結果は四位だった。一位は、松浦チューンの完全なBMWエンジンと最新のマーチ802を駆ったヒーローズ・レーシングの星野一義で、二人の差は2秒以上もあった。
予想していたことだったが、中嶋悟はその差にがっかりした。ラップ・タイムが2秒以上もちがったら、もはやレースになどならないからであった。
ところが決勝当日の三月九日の朝になると、鈴鹿は大雨になった。中嶋悟は雨の中でレースをやるのは大嫌いだった。すべって危険だからである。しかし車とエンジンの両方で劣る彼にとって、雨のコンディションは願ってもないチャンスだった。つるつるすべるコンディションの中では誰もエンジンを全開にできないからである。そのために結果としてマシンの差がなくなるのだった。
彼と生沢徹は、スタートの前にポール・ポジションをとった星野一義や二位になった長谷見昌弘よりも溝をやや深く彫ったレイン・タイヤを選んで装着した。雨の日のタイヤ選択は、つねに賭けであった。それがコース・コンディションに合致すればいいタイムが出るし、合致しなければ反対の結果が出る。そしてそれはじっさいにスタートしてみなければ分らぬことで、誰にもどうしようもなかった。
中嶋悟はいざスタートという瞬間がくるとこう自分にいいきかせた。
「車の性能さえ同じなら、おれは誰にも負けないんだ。雨なんかどうってことはない」
そして彼はこのレースに優勝してしまったのである。それはスタートの瞬間に決まった。フロントローの星野一義と長谷見昌弘は、スタートでほんのすこしホイール・スピンをさせた。そのすきにセカンドローから一気に先頭に出てしまったのである。それからはうしろの車を一周につき2秒ずつ離していった。まったくの独走であった。
彼のこの勝利に対する人々の反応はじつにさまざまだったが、もっとも多かったのはタイヤ選択の成功がすべてだったとする意見だった。車でもエンジンでも劣る彼が勝ったことを納得するには、そうでも考える以外になかったのである。中嶋悟はそれをきいて、どうしておれが勝ったことをみんな素直に認めてくれないんだろうと腹が立ち、そんならみんなマーチ792で走ってみたらいいじゃないかと思った。
五月二十五日におこなわれた第二戦の鈴鹿フォーミュラ・ジャパンレースも雨になった。
予選はドライ・コンディションの中でおこなわれたので、中嶋悟は第一戦のときと同じように後方のポジションしかとれなかった。しかし雨になったのでまたチャンスがきたと思い、こんどは誰にもタイヤで勝ったなどといわせないレースをしてやろうと決心した。
午前中はそれほど降っていなかった雨が、スタートの時間が近づくにつれてだんだん雨足を増してきた。そのために、ピット前はコースに出て行くためにドライバーが車に乗りこんでからも大混乱がつづき、ヒーローズ・レーシングなどは星野一義を車に乗せたままブリヂストン・タイヤのサービスマンをせかして、レイン・タイヤの溝を深く切っていた。生沢徹はしばらくその様子を見ていたが、やがて中嶋悟のタイヤも同じようにしたほうがいいのではないかと思い、やはり車に乗りこんでいる中嶋悟の耳元にしゃがみこんでいった。
「おまえのタイヤの溝も深くしたほうがいいんじゃないか?」
中嶋悟もヒーローズ・レーシングのピットでの大騒ぎの様子がサイドミラーに映っていたので、彼らが何をしているのかよく承知していた。しかし彼は生沢徹にいった。
「いや、ぼくは絶対にこの普通のレイン・タイヤで行きます」
「危ねえぞ」
「危なくたって、これで行きます」
そして彼はまた勝ってしまった。
こんどは第一戦のときのようにフロントローに並んだ車がホイール・スピンをしてくれなかったので、時間をかけてつぎつぎと抜いていった。なかでも圧巻だったのは、最後の一人の長谷見昌弘を抜いたときだった。S字カーブで抜いたのである。S字カーブは数ある鈴鹿のカーブの中でもとくにむずかしいカーブで、雨の日はうまく通り抜けるだけでも神経を使うところだった。もちろんそこで抜こうなどと考えるドライバーは、晴れているときでさえあまりいなかった。そこでスパッと抜いてしまったのである。
また長谷見昌弘は、つねづね雨の日に速いドライバーが本当に速いドライバーなんだと自分が雨の日に強いことをみんなに公言していたドライバーだった。じっさい彼は雨の日に強く、雨が降ると車にトラブルさえ起きなければたいてい勝っていた。レースが終ると、その雨の中のしかもS字カーブで中嶋悟に抜かれた彼は、ジャーナリストに雨の日に速いドライバーが本当に速いドライバーだという考えはいまも変わらないかときかれて、こう答えなければならなかった。
「変わらないよ。しょうがないだろ。抜かれちゃったんだから」
中嶋悟自身は、レース中のある周回で、スプーンカーブでスピンしたことについてきかれた。彼がべつにどうってことはなかったよとかなんとかしゃべっていると、そこに生沢徹がやってきていった。
「スピンて何のことだ。こいつがいつスピンしたんだ」
彼はテレビ局のモニター・テレビを見ていなかったので、本当に何のことか知らなかったのである。無理もなかった。スピンをすると普通は一度車を止め、それから再びスタートするので、ラップ・タイムに必ず10秒前後のロスとなってあらわれるのに、彼のラップ・チャートにはそういう異変を示す周回の記録はぜんぜんなかったのである。中嶋悟はクルリと一回転すると、まるでそれが予定の行動ででもあったかのように、そのまま再び車を立て直して止まりもせずに走っていってしまったのだった。まったくダンスのような見事にコントロールされたスピンだった。
こんどは誰も彼の優勝をタイヤのせいだという者はいなかった。
田中弘はつぎのようにいっている。
「I&Iに移って一年目の七九年は、あいつには絶対に勝たせないぞと思ったけど、二年目にはもうそんな気持もなくなっちゃったね。だって中古の車と9000回転しか回さないエンジンで勝っちゃうんだから。同じレース屋として口惜しかっただけだよ」
中嶋悟のドライブがまちがいなく一級品だということが、これで誰の目にも完全にはっきりした。
しかしこの二勝は、何よりも中嶋悟自身にとって非常に貴重なものだった。彼はいっている。
「I&Iに移ったことに対して、いろんな人にいろんなことをいわれたからね。あのアホがとか、恩知らずとか、チューニングもろくにしないようなエンジンで走らされてるとか、ポンコツ車しか与えてもらえないかわいそうな中嶋とかね。おれとしては、そういう声に対して何らかの答を出さなくちゃならなかった。自分でもおれの選んだ道はまちがってなかったと思いたかったしね。だから八〇年の二勝というのは、そういういろんなことに対して、おれなりにひとつの答を出したということだよね」
彼はこの二勝で、I&Iレーシングに移って以来ずっと心の重荷になっていたもろもろの苦しみからやっと解放されたのである。
しかしこのあとの雨が降らなかった残りの三レースでの彼は、あまりいいところがなかった。三位、六位、六位という平凡な成績で、やはりドライ・コンディションになるとマーチ792では他の車に歯が立たなかったのである。それはもうどうしようもないことだった。
こうして一九八〇年のシーズンは終ったが、I&Iレーシングのさきゆきは依然として明るいとはいえなかった。第一戦と第二戦で貴重な二勝を上げるには上げたが、それは中嶋悟の個人的な力によるところが大きく、チームをとりまく状況は何ひとつ変化していなかったからである。もし生沢徹が一九八一年に向けて八一年型の最新のF2カーを買い入れたとしても、BMWエンジンのチューニングが完全におこなえない以上、レースでの苦戦は避けられないのであった。I&Iレーシングと中嶋悟がヨーロッパのサーキットで走るという夢は、ぜんぜん近づいてこないばかりか、むしろ遠のいている感じだった。
ところがこのとき、生沢徹はI&Iレーシングのおかれた苦しい状況を一変させる切り札を手に入れつつあった。それはこの年の六月にヨーロッパのF2選手権でデビューしたばかりのホンダのF2エンジンであった。
ホンダのF2エンジンは、ラルトというイギリスのシャシー・コンストラクターの車に搭載されてヨーロッパのあちこちのレースを走っていたが、八〇年は一勝もできなかった。F2エンジンとしてすでに完成の域に達していたBMWエンジンにくらべるとまだまだ熟成不足で、とてもその敵ではなかったのである。しかしホンダは一九六四年から六八年にかけて日本の自動車メーカーとして一人敢然とF1グランプリに挑戦し、そこで勝った実績を持っていたのでレース界では非常に信用があった。そのためにホンダのF2エンジンがヨーロッパでデビューすると日本のレース界にも大きなセンセーションを巻きおこし、みんながBMWエンジンのように市販されるのかどうかということに注目した。やがて市販はされないらしいということが分ると、こんどはどこのチームに供給されるかが注目の的になった。ホンダのF2エンジンの行方は、すべてのレース関係者にとってこの年のオフの最大の話題だった。
生沢徹がこのホンダ・エンジンの獲得レースを有利にすすめられたのは、彼が本田宗一郎の息子で無限というレーシング会社を経営している本田博俊と学生時代からの友だちだったことが大いに関係していた。その縁でエンジンを開発した本田技術研究所のエンジニアたちとも二十年ちかく親しくつきあっていたのである。なかでもホンダのレース・プロジェクトのボスで、この半年後には本田技術研究所の副社長になる川本信彦とは、かつて会社に内緒でホンダS600の改造をやってもらったような仲だった。生沢徹がその車で一九六五年の七月十八日に船橋サーキットのレースに出場し、いまは亡き浮谷東次郎のトヨタS800と雨中の激闘を演じた話は、長くレース界の語り草になっていた。
ホンダのF2エンジンが生沢徹に供給されることが決定すると、I&Iレーシングのおかれた状況は一挙に好転した。エンジンのチューニングは本田博俊の無限が引き受けることになって、これまでのエンジンに関する不安は完全に一掃されたのである。エンジンを壊さないように回転を9000回転に制限するなどというバカげたことも、しなくてすみそうだった。
当然のことながら、この話は中嶋悟にとって非常に大きなプレゼントとなった。みんなに同情されたり、陰でくすくす笑われたりしながらレースをやっているのはもううんざりだった。勝っても負けても、やるべきことはすべてやったといえる悔いのないレースを彼はしたかった。ホンダ・エンジンがくればそれができるのである。
「八〇年は、二勝したといっても、おれとしてはどん底という感じの年だったからね。でも、わるいことがあれば、いいこともあるってことだよね。これで、おれの選んだ道はやっぱりまちがってなかったと思うことができた」
と中嶋悟はいっている。
そして彼のまえには、しぼみかけていたヨーロッパのレースヘの夢が再び大きくふくらんだ。こんどのは、まえよりももっと具体的な感じがした。ホンダの道はまっすぐF1につづいていたからである。
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中嶋悟は一九八一年のシーズンからホンダ・パワーの車に乗ることになったが、ホンダのレーシング・エンジンが日本のサーキットに姿を見せるというのは、これがはじめてのことだった。
ホンダは一九六〇年代に日本の自動車メーカーとして初めてF1グランプリとF2のヨーロッパ選手権に挑戦し、F1で二勝したのをはじめ、F2では一九六六年に全十二戦中十一戦に優勝するという快挙をなしとげていたが、そのエンジンが日本のサーキットを走ったことは一度もなかった。そのうち、一九六〇年代の終りに大気汚染公害が世界的な大問題になると、ホンダも低公害エンジンを開発する必要に迫られ、一九六八年かぎりで自動車レースからの撤退を余儀なくされた。そしてそのまま一九八〇年にヨーロッパのF2選手権に再登場するまで、十一年間ずっと沈黙していたのだった。したがって、かつてヨーロッパのジャーナリストたちが“ホンダ・ミュージック”と名づけて賞賛したその独特のかん高い排気音も日本でじっさいにきいた者は一人もなく、ホンダのレーシング・エンジンは日本では長いあいだ伝説のエンジンになっていたのである。
中嶋悟が一九八〇年のシーズンオフにホンダのF2エンジンを得て、おれの選んだ道はまちがっていなかったと感激したのも当然のことであった。そのうえ、かつてヨーロッパのサーキットでそのエンジンを駆ったのは、ジャック・ブラバム、ジョン・サーティースといったドライバーたちで、日本人ドライバーはまだ一人もいなかった。中嶋悟はその伝説のエンジンに日本人ドライバーとして初めて乗ることになったのである。
一九八一年の三月八日、鈴鹿ビッグ2&4レースにホンダ・エンジンを積んだラルトRH6が姿を見せると、その周囲はモーター・ジャーナリストやカメラマンたちで黒山の人だかりとなった。ラルトRH6は、一九八〇年の後半にホンダ・エンジンを積んでヨーロッパのF2選手権を走った車であった。ホンダのF2エンジンは、BMWが直列4気筒だったのに対してV型6気筒であったが、それがラルトRH6の後部にきれいにしっくりとおさまっていた。ジャーナリストたちはそれを見て生沢徹と中嶋悟を質問攻めにし、カメラマンは何度も何度もシャッターを切った。日本のレース界からほとんどつまはじき同様になっていたI&Iレーシングは、これで一挙に話題の中心に躍り出た。
しかしレースになると、ホンダ・エンジンはみんなの期待を裏切った。
中嶋悟はまず三月七日の予選で一周6キロの鈴鹿のコースを懸命に走り、1分51秒06のタイムを出した。このタイムは一九八〇年に長谷見昌弘が記録した1分51秒12のコース・レコードより速かった。しかしトールマン・BMWの星野一義は1分50秒69でもっと早く、マーチ・BMWでポール・ポジションをとった松本恵二は1分50秒58でさらに速かった。そして決勝レースでも、中嶋悟は松本恵二、星野一義についで三位にしかなれなかったのである。優勝した松本恵二との差は11秒で、白熱した優勝争いはまったくできなかった。
五月三十一日の第二戦、鈴鹿フォーミュラ・ジャパンレースでも同様だった。このレースから、生沢徹はラルトRH6にかえて中嶋悟が乗り慣れたマーチの最新型のマーチ812を投入した。中嶋悟はそれで予選、決勝とも二位になったが、決勝レースでは優勝したマーチ・BMWの藤田直広から14秒遅れで、やはり優勝争いからはほど遠かったのである。
七月五日の第三戦、鈴鹿ゴールデントロフィー・レースではちょっとした見せ場をつくった。このレースの予選は雨の中でおこなわれたが、中嶋悟はまだ十分な予選タイムを出さないうちにタイヤ・トラブルでクラッシュしてしまった。そのためにそれ以後のタイム・アタックができなくなり、彼としてはF2に乗るようになって以来最悪の予選十三位からのスタートになってしまったのである。彼はスタートすると一周ごとにみるみる順位を上げていった。すべての車が完全に同一の条件で走るフォーミュラ・カーのレースでは、一台の車がつぎつぎに前を行く車を抜いていくなどという光景はめったに見られないことだったので、観客は大喜びになった。しかしレースは中嶋悟が三位に上がったところで終了してしまった。優勝した星野一義とは10秒差、二位の松本恵二とは4秒差であった。
結局、ホンダ・エンジンと中嶋悟は三戦して三戦ともBMWエンジンに勝てなかったのである。伝説のエンジンはヴェールをはがされ、多くの人々がホンダ・エンジンも思ったほどではないじゃないかと失望したり安心するようになった。ホンダ・エンジンを供給されなかった他のすべてのチームにとっては、ホンダ・エンジンは興味の的であると同時に、大きな脅威だったのである。
ヨーロッパのF2レースでも、日本とほぼ同じ結果が出ていた。
F2のヨーロッパ選手権は七月までに八戦を消化していたが、ラルト・ホンダは二勝しかしていなかった。しかもそのうちの一勝は、前を走っていた一、二位の車がコーナーで接触してレースから消えてしまったのに乗じて勝ったもので、実力で勝ったといえるのはまだ一勝しかなかった。そしてそれ以外の六戦で勝ったのは、マーチ・BMW、マウラー・BMWなど、すべてBMWエンジンを積んだ車であった。
もちろん本田技術研究所はこれらの結果にただ手をこまねいてはいなかった。彼らがこのままでは勝てないとはっきり認識したのは、五月にイタリアのヴァレルンガというところでおこなわれたレースのときであった。そのコースはいたるところに複雑なカーブのある超低速コースで、ラルト・ホンダはそこでまったく駄目だったのである。カーブでの立ち上がりがひどくわるく、カーブに行くとBMWエンジンに簡単においていかれてしまった。反対に実力で勝った唯一の勝利はイギリスのシルバーストーンであげたもので、シルバーストーンはカーブのすくない名うての超高速コースであった。ホンダ・エンジンは、エンジンを全開にして走れる高速コースではすばらしかったが、低回転域を多用しなければならないカーブの多いコースではぜんぜん頼りにならなかったのである。鈴鹿サーキットはちょうどその中間ぐらいの中高速コースであったが、それでもまだ完全に熟成されたBMWエンジンの敵ではなかったのだった。
本田技術研究所がそうしたレース結果からエンジン性能をいろいろ分析し、低回転域のパワーアップをはかった新エンジンを投入したのは、八月九日にベルギーのスパ・フランコルシャンでおこなわれたヨーロッパF2選手権の第九戦であった。新エンジンが投入されると、ラルト・ホンダはパワーの点でもカーブからの脱出加速力の点でも群を抜くようになり、このスパ・フランコルシャンとつづくイギリスのドニントンパークのレースであっさり二連勝して、それまでチャンピオン・ポイントで先行されていたマーチ・BMWとマウラー・BMWを逆転してしまった。そして最後までそのリードを保って、参戦二年目でヨーロッパF2のチャンピオンになってしまったのである。伝説は生きていたのだった。
日本では九月二十七日の第四戦、鈴鹿グレート20レーサーズ・レースで新エンジンが投入された。中嶋悟は新エンジンがヨーロッパではすでに走り、はなばなしい戦果をあげていたのを知っていたので、すごく緊張した。
これまでの彼はある意味では周囲の人に恵まれて非常に幸運だったが、ある意味では不運だった。ヒーローズ・レーシングのドライバーだったときにはずっと星野一義のナンバー2だったし、I&Iレーシングに移るとエンジンとシャシーに泣かされつづけた。それでもその間に何とか三度勝つには勝っていたが、すべてが完全な状態で走ったことは一度もなかったのである。
しかしこんどはそうではなかった。エンジンはヨーロッパのF2でチャンピオンになったエンジンが与えられ、シャシーもマーチの最新型が与えられていた。いよいよ彼自身の腕が問われることになったのである。中嶋悟にとっては、F2ドライバーになって五年目ではじめて訪れた真の意味での正念場であった。
中嶋悟はこのレースで最高の結果を出した。
まず彼は予選で松本恵二の1分53秒20につぐ1分53秒60を出して二位になった。この結果はすべての条件がそろったことを考えると、あまりほめられたものではなかった。しかし決勝レースになると彼はスタートの瞬間に全神経を集中し、二速の加速ですぐにトップに躍り出した。そしてそのまま誰にも一度も抜かれることなく三十周を走りきってまっさきにゴールに飛びこんだのである。二位の高橋健二との差は14秒、三位の星野一義との差は26秒で、完全な独走勝利であった。
中嶋悟は星野一義などとちがって、レースで勝っても負けてもそれをあまり表情に出さない珍しいドライバーだった。このときも、ウイニング・ランを終えて車から降りても、ほんのすこし顔をほころばせただけだった。しかしこの勝利が特別のものであることは彼自身が一番よく知っていた。絶対に勝たなければならないというときに確実に勝ち、同時にマシンさえちゃんとしていれば誰にも負けないということをまざまざと証明してみせたのである。心の中は何ともいえぬ気分でいっぱいだった。
十一月一日のF2最終戦、JAF鈴鹿グランプリでは彼はさらによい気分を味わった。
このレースには、ヨーロッパのF2選手権でチャンピオンになったラルト・ホンダのジェフ・リースを先頭に、マーチ・BMWのティエリ・ブーツェン、マウラー・BMWのエジェ・エルグと、一九八一年のヨーロッパF2のランキング上位の三人がそろって参加してきていた。こういうことはなかなか実現しないことだったので、日本のドライバーとヨーロッパの第一級のドライバーが一緒に走ったらどういうことになるかという格好の見せ場になった。
予選では外国勢に軍配が上がった。ポール・ポジションをとったのはエジェ・エルグで1分51秒57、そして二位にも1分51秒69でジェフ・リースがはいったのである。日本勢の最高タイムは中嶋悟の1分51秒75で、三位だった。
しかし決勝レースでは中嶋悟が第二列からすばらしいスタートをみせて飛び出し、第一コーナーに突入するまでに前の二人をかわしてトップに立った。そしてあとはもう何ごとも起きなかった。そのまま一周ごとに二位との差を広げ、最後はティエリ・ブーツェンに20秒の大差をつけてゴールしたのである。以下、三位がステファン・ヨハンソン、四位がジェフ・リースで、他の日本人ドライバーでは黒沢元治が五位になったのが最高だった。
結局、ヨーロッパの第一級のドライバーたちに一歩もひけをとらなかったのは中嶋悟だけだったのである。中嶋悟は鈴鹿のコースをよく知っており、外国勢は初めてだったということを差し引いても、中嶋悟がいまや日本を代表するドライバーとして押しも押されもせぬ存在になったことだけはまちがいがなかった。
中嶋悟はいよいよヨーロッパでのレースヘの夢をふくらませた。ヨーロッパのF2ドライバーたちと一緒に走ると、その気持はますます強くなった。彼にはホンダ・エンジンがあり、ヨーロッパの第一級のF2ドライバーたちと走っても一歩もひけをとらないまでになったのである。条件はすっかり整ったように思えた。しかし生沢徹はなかなかヨーロッパヘ行こうといいださなかった。中嶋悟はこの年はじめてF2チャンピオンになったが、そのことを考えるとあまり喜んでばかりもいられなかった。生沢徹は本当にヨーロッパヘ連れて行ってくれるんだろうかと思った。
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一九八二年のシーズンは、中嶋悟にとって最高のシーズンとなった。F2ドライバーになって六年目のシーズンで、年齢もいまや二十九歳になり、あらゆる面ですっかりたくましくなっていた。おまけに彼には、他のドライバーにはないホンダ・エンジンがあった。
まず彼は三月十四日におこなわれた鈴鹿ビッグ2&4レースで優勝すると、つぎのジョン・プレイヤー・スペシャル(JPS)トロフィーでも優勝、八一年後半から鈴鹿で四連勝を記録した。七月四日の第三戦、鈴鹿ゴールデントロフィー・レースでは星野一義に敗れて三位に終ったが、第四戦の鈴鹿グレート20レーサーズ・レースにまた優勝、最後のJAF鈴鹿グランプリでも優勝してしまった。鈴鹿のF2レースで一年に一人で四勝もしたのはこの年の中嶋悟がはじめてで、まさに敵なしという感じだった。
また彼は十二月にはイギリスに渡って、F1のロータスのテスト・ドライブもした。この年から鈴鹿の第二戦はJPSタバコ会社がスポンサーになってJPSトロフィー・レースとなったが、それを記念してレースの優勝者にはロータスのテスト・ドライブをさせるというプレゼントがついていたのである。JPSタバコ会社はロータスの最大のスポンサーだった。中嶋悟はF1ドライバーになりたいと願ってはいたが、それが簡単に現実のものになるとは思っていなかったので、プレゼントのテスト・ドライブをするというだけのことでも、この話はうれしかった。
イギリスに行くと彼はドニントンパークというところのサーキットに連れて行かれ、一九八二年のシーズンにロータスのナンバー1・ドライバーのエリオ・デ・アンジェリスが乗った車を与えられた。念の入ったことに、その車の横には SATORU NAKAJIMA と彼のネームが書かれていた。イギリス人のやることはしゃれていた。
やがて彼は、シート合わせをしたり、マシンの説明をいろいろ受けたりしたあと、マネジャーのピーター・ウォーという男の合図でピットロードからコースに出て行った。中嶋悟はあまりエンジンを吹かさずにスーッとスタートしたが、車を降りてからこのことをピーター・ウォーにほめられた。ピーター・ウォーはそのとき、F1カーにはじめて乗るドライバーはスタートするときにエンストするのが怖いものだから、たいてい必要以上にわんわん吹かすものなんだといった。
二十周ほどすると、エンジンの調子や車の挙動のクセがだんだんつかめてきた。そこで中嶋悟はすこしずつスピードを上げていき、三十周目に最速ラップを記録した。エンジンの様子が急におかしくなったのはその直後だった。あるシケインの手前でスピードを落とそうとしてアクセルをゆるめたが、なぜかぜんぜんスピードが落ちなかった。
「くそ」
と彼は思った。
何が何だか分らなかったが、ともかく全開になったままスロットルが戻らなくなってしまったのである。
中嶋悟は自分がそれからどんな操作をしたのかまったく覚えていなかった。ただはっきりしていたのは、最後まであきらめたり、運を天にまかせたりはしなかったということだった。気がつくと車はエスケープゾーンにはいって無傷で止まっており、エンジンのスイッチもちゃんと切ってあった。やがてピーター・ウォーがあわてて駆けつけてきたが、彼は無傷で止まっている車と中嶋悟を見て、信じられないといった顔つきでいった。
「いったいどうやって止まったんだ。普通ならガードレールにドーンといっているところなんだがな」
そういわれても中嶋悟は口で説明することはできなかった。おれにも分らないというと、ピーター・ウォーはそうだろうというように何度もうなずき、ともかく無事でよかったといった。中嶋悟は冷汗が出た。
このF1カーのテスト・ドライブも、一九八二年の中嶋悟のとても楽しい思い出のひとつになった。このときは五年後に自分がロータスのドライバーになるなどとは夢にも考えられなかったので、それだけで満足だったのである。
こうして一九八二年の中嶋悟は、国内のレーシング・ドライバーとしてはこの上ないすばらしいシーズンを送った。しかしこの後の自分のドライバー人生ということを考えると、ぜんぜん納得がいかなかった。そこで彼は、ある時期から頭の中に芽ばえはじめていた考えを実行することにした。それは、これまで四年をともにした生沢徹とI&Iレーシングから離れることだった。
中嶋悟と生沢徹は、この年の三月から六月にかけてヨーロッパのF2レースに遠征した。一九七八年の秋に約束した二人の夢がようやく実現したのである。しかしその過程で二人の気持は微妙に食いちがってしまった。
中嶋悟が描いていたヨーロッパのレースで走るという夢は、日本から暇なときにときどき出かけて行くというやり方ではなく、イギリスかどこかに住んでシーズンの全部のレースに出るということだった。ところが生沢徹の計画では、三月から六月までのあいだに五レースしか走れなかった。中嶋悟としてはそれでは不満だったのである。約束がちがうじゃないかと思った。
モーター・ジャーナリストの今宮純は、中嶋悟がヨーロッパのレースで走るところを見ようとして行ったベルギーで、つぎのような光景を目撃した。
彼が土曜日の予選を前にした金曜日に、マシン・セッティングのための練習走行を見物しようと思ってサーキットに行くと、そこには中嶋悟とメカニックがいるだけで、チーム監督の生沢徹はいなかった。監督はどうしたんだときくと、中嶋悟はあきれたようにこう吐き捨てた。
「金策をしてこなくちゃならないからメカニックと適当にやっとけといってどこかに行っちゃったんだよ。金曜日に監督がいないチームなんてある? これじゃどうしようもないよ」
二人の気持の食いちがいは大きくなるばかりだった。
それでも中嶋悟は三月にイギリスのシルバーストーンでおこなわれた初戦のレースで二位になった。日本人ドライバーがヨーロッパのF2レースで二位になったのは、一九七〇年に生沢徹がドイツのホッケンハイムで記録して以来二人目のことで、日本人としては最高の成績だった。しかし金曜日の練習走行に監督が姿を見せないというような状態になると、成績もガタ落ちになっていった。
こんなことじゃいつまでたってもヨーロッパのレースで本格的に走るという夢は実現しないと彼は思った。そのことがはっきりすると、彼の気持は急激に生沢徹とI&Iレーシングから離れていった。彼はヨーロッパで走るという夢をどうしても捨てられなかった。
「それまでのおれは、生沢さんと一緒にやっていればいつか必ず外国で走れると思って、生沢さんに頼っていた。しかし外国でレースをやるというのは、とんでもなく金がかかるということなんですよ。I&Iにしても、八二年に五レースやったのが精一杯でさ。それ以上のことをやろうとしたら、生沢さんが個人で借金を背負わなくちゃならない。そんなことでは、外国で走るなんてとても望めない。おれだって生沢さんの立場になったら、ドライバーのために借金を背負いこむなんてことはしないだろうしね。となると、あとは道はひとつしかない。本気で外国で走るつもりなら、人に頼っていては駄目だということだよね。やるなら全部自分でやらなくちゃしようがないということですよ」
結局中嶋悟は、I&Iレーシングにいた四年間で、自分の夢は自分の力で実現するしかないということを身にしみて学んだのである。彼は一九八二年のシーズンが終るとただちにその考えを実行に移し、I&Iレーシングから独立すると宣言した。
しかし独立して完全に一人になっても、すぐにヨーロッパのF2レースに出場するというわけにはいかなかった。彼は日本のF2チャンピオンだったが、日本でチャンピオンになったからといって、それだけではヨーロッパのチームはそれじゃ契約しようとはいってくれなかったからだった。いろいろ調べてみるとやはり金しだいで、たとえばマーチのワークス体制を受けて走るには約一億二千万円の金が必要だった。ところが彼のふところは空っぽ同然だったのである。
彼はヒーローズ・レーシングで二年間のF2修業生活を送ったあと、I&Iレーシングで生沢徹とともに四年間すごしてきたが、ドライバーとしての契約金は生活費程度の額しかもらっていなかった。彼がそのことに対して愚痴をこぼすと、生沢徹はいった。
「もっとほしかったらレースの賞金で稼ぐんだな」
二人はレースの賞金を山分けにすることにしていたのである。しかしF2の優勝賞金はのちには五百万円になったが最初のころは三百万円で、全レースに勝ったとしても大金持ちになるというわけにはいかなかった。それでも彼が我慢していたのは、ヨーロッパのレースで走るという夢があったからだった。そしてその夢が破れ、いざ独立してみると、手もとに残ったのは空っぽの財布だけということになったのである。
ヨーロッパに出て行くためには、まず金を貯める必要があった。中嶋悟はI&Iレーシングから独立すると、一番さきにそのための中嶋企画という会社をつくった。自分を高い値段で売り、必要な資金を貯めるには、これまでのようなやり方でやっていたのでは駄目だと思ったのである。
中嶋悟の独立が伝わると、レース界はちょっとした騒ぎになった。どのチームも優勝を狙えるドライバーを求めており、いまや中嶋悟ほどそれが確実なドライバーはいなかったからである。おまけに彼にはホンダ・エンジンがついていた。ホンダも彼の力を認め、I&Iから独立しても彼個人にエンジンが供給されることになっていたのである。それやこれやで、あっというまに四チームが彼の獲得に名のりをあげた。
しかし中嶋悟はどのチームと契約すべきかすぐには決定しなかった。契約金をつり上げるためではなかった。一九七八年のオフにヒーローズ・レーシングからI&Iレーシングに移ったときの苦い経験をまたくり返すのがいやだったからだった。彼がどこかのチームと契約すれば、いままでそのチームにいたドライバーが誰か一人はじき出されるのである。その結果、彼が行動することによってまた誰かが喜ばないという事態が生じるのだった。できれば彼はそういうことはしたくなかった。
結局彼は獲得に名のりをあげた四チームの中から、ハラダ・レーシングというチームを選んで契約することにした。ハラダ・レーシングというのは、フランスの自動車ランプの CIBIE の総代理店を経営している原田信雄という人物がオーナーのチームだったが、一九七八年にチームを結成して二年間活動したあと、ずっと休止状態になっていたチームだった。そのために強力なチーム体制がすぐにつくれるかどうかという心配はあったが、他のドライバーを誰もはじき出したくないという中嶋悟の希望には一番ぴったりのチームだったのである。契約金は高額だった。
「当時としては破格の契約金で契約した」
と中嶋悟はいっている。
こうして彼は自分の夢に向って、いよいよ自分の足で歩きはじめたのである。
だが翌一九八三年のシーズンが終ってみると、彼はわずか一年でこの選択がベストではなかったことを思い知らされることになった。
中嶋悟は、一九八三年は鈴鹿での五レースに富士での一レースを加え、合計六つのF2レースに出場した。そして鈴鹿の開幕戦のビッグ2&4レースと、第四戦のグレート20レーサーズ・レースで優勝した。普通のドライバーなら一年に二勝もすれば大喜びをするところだったが、彼は自分とホンダ・エンジンの組み合わせならもっと勝てると思っていたので、まずこのことにショックを受けた。
しかし彼がそれ以上に大きなショックを受けたのは、六戦のうち四戦しか完走できなかったということだった。これも普通のドライバーなら普通のことだったが、彼はそうではなかった。一九七七年にF2に乗りはじめてから、彼は一九七九年にたった一度しかリタイヤをしていなかったのである。そしてそのことを誇りにしていた。それが一年のうちに二度もリタイヤしてしまったのだった。
一度目は七月三日の鈴鹿ゴールデントロフィー・レースのときで、変速機のトラブルでわずか一周しか走ることができなかった。二度目は八月十四日の富士F2チャンピオン・レースのときだったが、このときは三十五周のうち三十二周を走ったところでスピンしてクラッシュしてしまった。タイヤ・トラブルのためにハンドルがいうことをきかなくなってしまったのである。リタイヤはしなかったが、十一月六日のJAF鈴鹿グランプリでもタイヤに泣かされた。レースの中盤まではトップを走っていたのに、タイヤ選択の誤りで途中でグリップを失い、二位になってしまったのである。一九八二年の鈴鹿での五戦中四勝という快挙が嘘のような惨状だった。
中嶋悟はどうして急にそんなことになってしまったのかをつぎのようにいっている。
「やっぱりレースというのも、ドライバーだけじゃなくて、いい監督のいいマネージメントがないと駄目なんですよ。タイヤの選択にしても、マシンのセッティングにしても、ドライバー一人じゃとてもできない。それまで一緒にやってきた田中さんとか生沢さんというのは、そういう点では完全にプロフェッショナルなんですよ。一緒にやっていたときは、ほかの人を知らなかったからべつに何とも思わなかったけどね。でもハラダ・レーシングと一年間やってみて、そのことがよく分った」
チームを選択するときに他のドライバーを傷つけたくないという不要な人情を起こしたことが、まったく裏目に出てしまったのである。
彼はシーズンの途中ではやくもハラダ・レーシングのレース・マネージメントに失望し、時間があると自分のピットにいないで田中弘のヒーローズ・レーシングのピットに出入りするようになった。そしてしばしば田中弘にレース体制が完全にならない悩みを打ち明けた。すると田中弘はニヤニヤしながらいった。
「やっぱりヒーローズがいいだろう。また戻ってきたらどうだ。おれとおまえが組めば無敵になるぞ」
二人とも過去のトラブルは過去のこととして忘れ去り、もうだいぶまえから互いに互いの力を認め合う仲になっていたのである。それにヒーローズ・レーシングも以前とはすっかり様子が変化していた。星野一義が独立して、一九八三年からは高橋徹という若いドライバーが走っていたのである。ちょうど中嶋悟が星野一義のナンバー2としてヒーローズに迎えられたときぐらいの若者だった。彼も才能があり、F2ドライバーになって一年目だったにもかかわらず、鈴鹿の第一戦でいきなり二位になったり、第二戦でポール・ポジションをとったりしていた。
「トオルがいるじゃないですか」
と中嶋悟はいった。
「おまえがくるなら、トオルはナンバー2にするよ」
と田中弘はいった。
中嶋悟は、ヒーローズに復帰すべきかなと思った。しかし中嶋悟と高橋徹の2カー体制は実現しなかった。十月二十三日の富士グランチャンピオン・レースの最終戦で高橋徹が事故死してしまったからである。
この年、中嶋悟は自動車雑誌の『ル・ボラン』の編集者だった福田直道をマネジャーとして中嶋企画に雇い入れ、東京事務所をつくった。会社が岡崎の自宅では仕事にならなかったからである。そしてシーズンが終ると中嶋悟はハラダ・レーシングから離れ、再びヒーローズ・レーシングと契約した。
一九七七年にヒーローズのドライバーになったときは契約金もなく、ただ車に乗せてもらうだけという契約だったが、こんどはちがった。レースにかかる費用はすべて中嶋企画がまかない、田中弘は車の管理とチーム監督としてレース運営だけをおこなうという契約をしたのである。当然のことながら、チーム名もヒーローズ・ウィズ・ナカジマと変わった。
もちろんその契約を実行するには資金を提供してくれるスポンサーが必要であったが、中嶋企画はセイコー・エプソンという大スポンサーを獲得していた。セイコー・エプソンはもともとハラダ・レーシングについていたスポンサーだったが、中嶋悟がハラダ・レーシングから離れてしまうと、セイコー・エプソンも中嶋悟についてハラダ・レーシングから離れてしまったのである。
いまや中嶋悟はただたんに走るのが速いというだけのF2ドライバーではなくなり、好むと好まざるとにかかわらず、彼が動くと同時にほかのものも全部動いてしまうという大物ドライバーになっていた。彼自身はそのことで一人でも喜ばない人間が出ることをもっとも嫌っていたが、どうしようもないことだった。いつのまにかそういうドライバーになってしまったのである。
彼はもうそういうことはあまり気にしないことにした。重要なのはそういうことを気にすることではなく、はやく必要な資金を貯めて外国に行くことだった。彼もすでに三十歳になり、年が明けるとすぐ三十一歳だった。もう若くはなかった。
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中嶋悟は、一九八四年からヒーローズ・レーシングの田中弘とコンビを組むと、再び圧倒的な強さを発揮した。田中弘は中嶋悟のために万全のレース体制を整え、中嶋悟は見事なドライビングでそれに応えたのである。このコンビは最高だった。
一九八四年のF2レースは、鈴鹿サーキットでの五戦に加えて、富士スピードウェイで二戦、山口県の西日本サーキットで一戦、計八戦がおこなわれたが、中嶋悟はこのうち六戦にポール・ポジションをとって、鈴鹿での四戦に優勝した。これ以外にも、アクシデントさえ起きなければまちがいなく勝っていたレースが二つばかりあった。
ひとつは雨の西日本サーキットでおこなわれた全日本F2オールスター・レースで、彼は四十周のうち二十四周目までトップを独走していた。だが二十五周目にコース上にあふれた厚い水の膜に乗ってスピンしてしまったのである。もうひとつは鈴鹿のJPSトロフィー・レースで、このときはもっと惜しかった。残り一周で優勝というところまでこぎつけていたのに、最終ラップにはいる直前で左後輪のホイールナットがとつぜんゆるみ、スローダウンを余儀なくされてしまったのである。しかし富士でおこなわれた残り二つのレースではそれぞれ二位と三位になっていたので、圧倒的なポイントでチャンピオンになった。
こうして一九八三年の不振は忘れ去られ、彼はまた日本一速いドライバーとしてサーキットによみがえった。
だがこの結果は、日本レース界に深刻な問題を引き起こした。中嶋悟は一九八一年からずっとホンダのF2エンジンに乗っていたが、彼とホンダ・エンジンの組み合わせがあまりにも速いので、ほかのみんなが頭をかかえてしまったのである。とくに深刻になったのはBMWエンジンのチューナーたちで、その代表格の松浦賢などは、シーズン途中でこういわなければならなかった。
「もうやる気がなくなっちゃったね。いくらやっても勝てんと分ってるのに、やるだけバカらしいよ。どうしようもないね」
ヨーロッパのF2レースでも同様のことが起こっていた。ヨーロッパでもホンダのF2エンジンの強さは圧倒的で、一九八一年と八三年につづいて八四年もラルトのシャシーに積まれてチャンピオン・エンジンになっていたが、なかでも八四年は十一戦で九勝し、その中には六連続勝利が含まれているというすさまじさだった。そのために、ヨーロッパでは八四年のシーズンが終るとBMWそのものが音を上げ、F2レースから撤退してしまった。
BMWがF2レースから撤退してしまうと、ヨーロッパではF2レースが開催できなくなった。ホンダ・エンジン以外はすべてBMWエンジンが使われていたので、F2に使えるエンジンがなくなってしまったのである。このためにヨーロッパでは一九八四年限りでF2は消滅し、かわりに八五年からF3000のレースがおこなわれることになった。もともとF1のエンジンだった3000ccのフォード・コスワース・エンジンが、ターボチャージャー・エンジンの出現によってF1エンジンとしての戦闘力を完全に失い、大量に倉庫に眠っていた。国際自動車連盟のスポーツ委員会(FISA)はそれを再利用することにしたのである。
しかし日本ではFISAのこの新レギュレーションを採用せず、八五年も2000ccエンジンのF2レースをおこなったので、中嶋悟は八四年をさらに上回る成績をあげた。八レースのうち六レースでポール・ポジションをとり、一人で五勝してしまったのである。しかも残りの三レースはすべて二位という圧倒的な成績であった。この年からヤマハがF2エンジンを開発してF2レースに参戦し、他のドライバーはこのヤマハ・エンジンと手持ちのBMWエンジンで中嶋悟を追いかけたが、まったくどうにもならなかった。
これで中嶋悟はライバルの星野一義よりF2でのスタートが三年遅かったにもかかわらず通算二十勝となり、星野一義の十七勝をはじめてリードした。また鈴鹿サーキットだけの勝利に限れば、星野一義の十勝に対して十八勝で圧倒的な差となった。
中嶋悟は、こうした結果からいよいよ日本ではくるところまできてしまったと感じた。そしてこのままでは、現状に満足してただ走るために走っているだけのことになると怖れた。じっさいその兆候は数年前から彼の気持の中に宿りはじめ、気のゆるみとなってレースにさまざまな悪影響をおよぼしていた。
そのもっとも顕著な例は、決勝レースでしばしばスタートに失敗するようになったことだった。F2に乗りはじめてから最初の数年間の彼は、新人ながらおそろしくスタートのうまいドライバーとして有名で、第一列に並んだドライバーがクラッチミートやアクセルワークにもたついている隙に、第二列第三列から一気にトップに飛び出すのを得意としていた。ところがこの数年はスタートの瞬間に全神経を集中することができず、まわりのドライバーの顔色をうかがったり、メーターの針をぼんやり見ていたりして、せっかくポール・ポジションをとっても出遅れてしまうのだった。これは観客としては中嶋悟が三番手四番手から追い上げるところを見られるので大歓迎だったが、彼にとってはよいこととはいえなかった。第一、危険だった。
ほかにも気のゆるみが原因と思われるアクシデントを彼はときどき起こした。一九八四年の雨の西日本サーキットでのスピンなどはその典型だった。雨のレースでの彼の車のコントロールのすばらしさにはすでに定評があり、トップを悠々と走っていながら、コースの上の水の膜にハンドルをとられるなどということは普通では考えられないことだった。結局彼は余裕を持ちすぎ、知らず知らずのうちに注意力が散漫になっていたのである。
そういうことをあれこれ考えると、日本でこのままF2レースをつづけていてもこれ以上得るものは何もなく、現状以上のものを求めるには一日も早くヨーロッパに行くしかないという結論に達した。八五年は中嶋企画という会社をつくってI&Iレーシングから独立して三年目で、資金もすこしはできていた。しかし現実にはなかなか決心がつかなかった。
「資金ができたといっても十分ではなかったし、住む家もないヨーロッパで半年以上も一人で各地を転戦して歩くことを考えるとね。やっぱりどうしようかと迷うよ」
と彼はいっている。
こうして彼は日本レース界の第一人者としてすばらしい成績をあげる一方で、内心ではモヤモヤした気分をどうにもできないでいたが、一九八四年の暮れにそうした気分をすこしは忘れさせてくれそうな刺激的な仕事にぶつかった。本田技術研究所副社長の川本信彦にホンダのF1エンジンの実走テストを頼まれたのである。
ホンダは一九八〇年に一九六六年以来十四年ぶりにF2に復帰したのにつづき、一九八三年からF1にも復帰して、イギリスのF1チームのウィリアムズにエンジンを供給していた。ウィリアムズのシャシーに積まれたホンダ・エンジンは、八四年のダラス・グランプリではやくも復帰後初の一勝をあげていたが、まだまだ成熟不足でいろんなテストをする必要があったのである。
「それまでは研究所でエンジンをつくってヨーロッパヘ送ってテストをしていたんですが、それだけじゃどうもよく分らんというんでね。日本でもベンチ・テストだけじゃなくて、じっさいに車を走らせてテストすることにしたんですよ。ウィリアムズから八四年に使った車を一台買ってね。それで中嶋くんに頼んで走ってもらうことにしたんです」
と川本信彦はいっている。
川本信彦は一九六〇年代にホンダがF1とF2に参戦したときのエンジン設計者の一人で、一九八〇年にF2に復帰してからは一九八五年に若い桜井淑敏と交代するまでずっとホンダ・レーシングチームの総監督だった男だった。
中嶋悟は一九八四年の暮れから八五年にかけて、レースのあいまに鈴鹿サーキットで一日何時間もF1カーを走らせた。F1カーに乗るのは一九八二年にイギリスでロータスのテストをして以来のことだったが、内心ではF1カーに乗る機会は二度とないかもしれないと思っていたので、テスト走行でもうれしかった。ウィリアムズの八四年型の車はフロントとリヤのサスペンションのバランスがわるく、ものすごくコントロールしにくかったが、何とか彼は乗りこなした。
さまざまなテストがおこなわれた。耐久テスト、燃費テスト、電子コントロール・システムのテスト、そして加速や減速時にドライバーが感じるフィーリングなどである。中嶋悟は速く走るだけではなく、車をいかにうまくコントロールするかに興味を持っていたので、あらゆるテストを楽しんだ。
川本信彦はいっている。
「中嶋くんというのはドライビングが非常に繊細で、車のことをじつによく知ってるんですね。外人のドライバーというのは何というか動物的でね、車がちょっとぐらいよかろうとわるかろうと関係なしに乗りこなしちゃう。車をおさえつけちゃうんですね。だからブツブツいうけど、どこがどうわるいのかよく分らない。しかし中嶋くんは、このときのフィーリングはどう、あそこではもっとこうしたほうがコントロールしやすくなるんじゃないかといろいろ指摘する。そしてそれが、いいことをいい当ててるんですよ。ずいぶんエンジンの改良に役立ちましたね」
そうした夏のある日のことだった。中嶋悟が本田技術研究所に行くと、川本信彦が思いがけないことを口にした。
「F3000をやってみるか?」
といったのである。
中嶋悟はどういうことなのかよく分らなかった。ヨーロッパではこの年一九八五年からF2にかわってF3000のレースがおこなわれていることは知っていたが、ホンダはF3000のエンジンをつくっていなかったからである。
「エンジンができたんですか?」
と中嶋悟はいった。
「できたよ」
と川本信彦はいった。「八六年からまたラルトと組んで走らせようと思ってるんだ。どう、やってみる?」
「やってみたいですけど、資金がね。十分じゃないんですよ」
「金の心配はしなくていいよ。足りなけりゃホンダで出してあげるよ」
「嘘でしょう」
と中嶋悟はいった。「ほんとじゃないんでしょう?」
嘘ではなかった。川本信彦は一九六〇年代のなかばから二十年も自動車レースに関係してきていたが、不満なことがひとつあった。ホンダがどんなにすばらしいレーシング・エンジンをつくっても、それを使うドライバーはつねに外国人ばかりだということだった。オートバイのライダーは高橋国光をはじめとしてすでに何人も出ていたが、四輪のドライバーはまだいなかった。そろそろ誰か日本人がホンダ・エンジンでヨーロッパのサーキットを走ってもいいころだと考えていたのである。中嶋悟はそれに最適だった。
「本当だよ。きみは何も心配することはない。ラルトに行って、ただ走ってくればいいんだ」
と川本信彦はいった。
中嶋悟は信じられなかった。一九七八年にノバ・エンジニアリングの社長だった山梨信輔とイギリスに行き、ブランズハッチのF3レースに出たときにおれは絶対にここでやるんだと決めて以来、七年の歳月がたっていた。それからヨーロッパでレースをするためにあれこれと努力してきたが、なかなか思うようにいかなかった。それが何とも|呆気《あつけ》なく実現してしまったのである。
やがて気持が落ちつくと中嶋悟は思った。
「時間がかかったな」
思ったのはそれだけだった。彼は三十二歳になっていた。
川本信彦はあとになっていった。
「三十二歳というのは、これからヨーロッパでやるというにはギリギリの年齢だったですね。でもまにあってよかったですよ」
こうして中嶋悟は一九八六年から念願のヨーロッパでレースをすることになった。しかしF1ドライバーになれるとは思っていなかった。
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一九八六年になると、世界のレース界の話題はすべてホンダ・エンジンがさらうことになった。
ホンダがF1グランプリに復帰したのは一九八三年の七月でまだ三年もたっていなかったが、彼らはそのあいだにいろいろと試行錯誤をくりかえし、一九八五年の途中からそれまでのエンジンを根本から見直した新エンジンを投入した。それがいよいよ爆発的なパワーを発揮するようになったのである。
そのはじまりは第一戦のブラジル・グランプリだった。ウィリアムズ・ホンダのドライバーは、ブラジル人のネルソン・ピケとイギリス人のナイジェル・マンセルだったが、まずネルソン・ピケが自分の母国でさいさきのよい一勝目をあげた。レースのあとでピケはいった。
「アクセルを思いきって踏むなんてことは一度もなかった。こんならくなレースはいままでに一度もしたことがなかったよ」
それでも他のドライバーは彼について行けなかったのである。ホンダ・エンジンは完全に他のエンジンをリードしたのだった。
川本信彦からホンダ・レーシングチームの総監督を受け継ぎ、この新エンジンの設計にあたっても総指揮をとった桜井淑敏は、つぎのようにいっている。
「ブラジル・グランプリでは、うちのエンジンは900馬力ぐらいで走ったんですが、ポルシェやルノーは、ラップ・タイムから推測すると800馬力程度で走るのがやっとという感じだった。それで彼らの場合は、それ以上パワーを出すと燃費がもたなくなってガス欠になってしまうらしいと分った。八六年はガソリン・タンクの容量が195リットルに規制されたので燃費が大問題だったんですが、結局彼らはそれを技術的に解決できなかったんですね」
八六年のシーズンが終ると、ウィリアムズ・ホンダは全十六戦のうち九戦に勝っていた。そして141点という圧倒的なポイントをあげ、そのシーズンに最高の成績をあげたチームに贈られるコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した。二位のマクラーレン・ポルシェは96点であった。
そのシーズンにもっともすぐれた成績をあげたドライバーに与えられるドライバーズ・チャンピオンシップでも、ウィリアムズ・ホンダの二人のドライバーはマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストと最後まで激しく争った。結果は72点を獲得したプロストのものになったが、マンセル70点、ピケ69点であった。もし、もっと早い段階で二人のうちのどちらかにチームの力を集中していたなら、こちらのチャンピオンもウィリアムズ・ホンダのものになっていたにちがいなかった。
こうしてホンダ・エンジンの圧倒的な強さがあきらかになると、シーズンの途中から各チームのあいだでホンダ・エンジンの争奪戦がはじまった。ホンダとウィリアムズが最初に交したエンジン供給契約は三年間で、八六年はそれがちょうど切れる年にあたっていたので、各チームにとってはウィリアムズの後釜にすわるいいチャンスだったのである。
しかしホンダの総責任者の桜井淑敏は、ウィリアムズとのコンビを解消するつもりはなかった。ずっと一緒にやってきてすっかり気心の知れた関係になっていたし、何といってもウィリアムズはチャンピオンになることが確実なチームだったからである。チャンピオン・チームには、世界中のすべてのサーキットで一番ピットにはいるという名誉が与えられており、八七年は順当にいけばそれがウィリアムズのものになるのだった。その名誉も一度味わってみたかった。
だが一方では、ホンダ・エンジンがあまりにも強くなりすぎたことに対して、ホンダはただ勝利を求めるばかりでF1界全体の発展ということについては何も考えていないのではないかという声がF1界に起こってきていた。自動車レースはヨーロッパ人たちが育て、発展させてきたもので、ホンダは彼らから見ればよそ者の|闖入者《ちんにゆうしや》にすぎなかった。彼らとしては自分たちの友好社会が荒らされるのが面白くなかったのである。
そこで桜井淑敏は、あれこれ考えた末に、ウィリアムズのほかにもう一チームにエンジンを供給することにした。そうすることで、ホンダの目的がただ闇雲に勝利を求めるだけではないことを示すことにしたのである。
桜井淑敏のもとには、すでに八五年の後半からアプローチしてきていたロータスをはじめとして、マクラーレン、ブラバム、ベネトンなどの強力チームがシーズンの途中からエンジンを求めてきていた。桜井淑敏はその中からロータスとマクラーレンに絞り、最後までどちらに供給するか悩んだが、結局ロータスのほうを選んだ。ロータスのドライバーのアイルトン・セナをホンダ・エンジンで走らせてみたいとかねがね考えていたからだった。ブラジル人の彼は二十六歳でまだ勝利数はそれほど多くなかったが、八五年も八六年もポール・ポジション獲得数で群を抜いており、速さでは最高だった。それを見て、桜井淑敏は彼にホンダ・エンジンを与えたらいったいどんなことになるのだろうと思っていたのである。
桜井淑敏は六月二十二日の第七戦、デトロイト・グランプリのときにロータスのマネジャーのピーター・ウォーと自分のホテルの部屋で接触した。そしてアイルトン・セナにつぐロータスのナンバー2のドライバーとして中嶋悟を推薦したのは、ピーター・ウォーと接触を開始して二日目のことだった。桜井淑敏も川本信彦と同じように、インターナショナルな日本人ドライバーの誕生を願っていたのである。それにはいまがいいチャンスで、このときを逃したらもう二度とチャンスはこないかもしれないという感じがした。
桜井淑敏はピーター・ウォーが何と返事するか心配したが、彼は考えるそぶりも見せずにすぐにオーケイと答えた。ただナカジマはF1ドライバーのスーパー・ライセンスを持っているかとたずねただけだった。八六年のロータスのナンバー2はジョニー・ダンフリーズという無名のイギリス人だったが、ピーター・ウォーにとっては彼よりもホンダ・エンジンのほうがずっと大事だったのである。
ホンダ・エンジンの二社供給と中嶋悟のロータス入りが公式発表されたのは、それから一カ月後の七月二十五日、第十戦のドイツ・グランプリのときだった。
一方、中嶋悟はそれまでにラルトのワークス・ドライバーとしてラルト・ホンダに乗り、五つのF3000レースに出場していた。イギリスのシルバーストーン、イタリアのバレルンガ、サンマリノのイモラ、イタリアのムジェッロ、シシリー島のペルグーサでのレースである。
しかし彼はシーズン全部を通してF3000だけに集中するということができなかった。日本のF2レースの全戦に出場したほかに、ホンダの要請でF1エンジンのテストのためにもしばしば帰国しなければならなかったからである。これは彼にとって大きな肉体的ハンデになった。そのことはこの年の彼のF2での成績が何よりもよく示していた。一九八五年は全八戦のうち一人で五勝もしたのに、この年はわずか一勝しかできなかったのである。
当然のことながら、ヨーロッパのF3000レースでも事情は同じだった。おまけにF3000レースは、日本とちがってレースごとにコースが変わるうえに、練習走行がほとんどできなかった。いきなりぶっつけ本番で予選がはじまるのである。しかも出場台数はつねに四十台以上で、多くのドライバーがF1にステップ・アップするためにいいところを見せようとして無茶をするので、事故の確率が非常に高かった。彼は五つのレースのうち、シルバーストーンとペルグーサでクラッシュしたが、二度ともカーブのところでうしろからブレーキをかけないで突っ込んできたドライバーに追突されたものだった。
それでも彼はバレルンガとムジェッロのレースで二度五位になった。なかでもバレルンガのレースは予選十三位から追い上げたもので、彼としては最高のレースだった。また雨ではじまったシルバーストーンの予選のときは、雨がやむと最後は十三位まで落ちてしまったが、雨が降っているあいだはずっとポール・ポジションをキープして、まわりを驚かせるということもあった。一年目の新人としては上々の成績といわなければならなかった。
彼はこの年のF3000レースの経験をふり返ってつぎのようにいっている。
「とにかくすべてが新鮮だったよ。いろんな国のいろんなやつがいて、誰が誰だかぜんぜん分らない。そいつらがみんなF1めざして一生懸命走ってる。なんか、そういう中にいるとおれも新人のころに戻ったような気がしてさ。じっさい、ヨーロッパでは立派な新人なんだけど。だからいつもすごく緊張してたよ。でもおれが求めてたのは、そういう気分になって緊張して走ることだったから、それができてとてもうれしかった。それと一年間ヨーロッパでやってみて分ったのは、日本でどんなに走ってどんなに勝っていたって、何のたしにもならないってことだね。日本で五回チャンピオンになったなんてことより、バレルンガで予選十三位から五位になったあの一レースの走りのほうがずっと通用する。こんなことだって、日本でだけ走っていたんじゃ分らないことだよね。そういうことも面白かった」
彼は十分にヨーロッパでのレースを楽しんだのである。
しかし、ペルグーサのレースでうしろの車に追突されてリタイヤしたあと、八月十六日にオーストリアのエステルライヒリンクでのレースに出場したときは、べつの意味で緊張した。ロータス入りが公表されたあとでの最初のレースだったことに加えて、F1のオーストリア・グランプリの前座レースになっていたのでサーキットにすべてのF1関係者が集まっていたからである。彼らに力もないのにホンダ・エンジンとセットでF1ドライバーになっただけの男なのかと思われるのはいやだった。そのためにはどうしても上位を走って、F3000のドライバーの中でトップ・クラスにあることを示してみせる必要があった。
彼はその緊張した状況の中で参加三十五台中、予選四番手のタイムを出した。これまでに獲得した最高のポジションは、イタリアのムジェロでの五番手であった。彼は緊張し、もっともいいところを見せなければならないときにもっともいいタイムを出したのである。
彼は決勝のスタートの時間が近づくと、セカンドローの四番手の位置に並んだ。そのとき銀髪の紳士がコース上に出てきて彼のほうにやってきた。モーター・スポーツのすべてを統括しているFISA(国際自動車連盟スポーツ委員会)会長のジャン・マリー・バレストルだった。彼は車のところに歩いてきて中嶋悟の手を握ると、にこやかに笑いながらいった。
「わたしは二年前に日本に行ったとき、日本のドライバーにもぜひF1で活躍するようになってもらいたいとステートメントを出したことがある。きみが来年からそれを実現すると知って、とても喜んでいる。われわれはきみを歓迎するよ」
中嶋悟はびっくりした。そして、すげえなあ、F1ドライバーになるとそれだけでFISAの会長がわざわざ挨拶にくるんだなあと思った。中嶋悟はサンキューといった。スタート前の緊張した時間だったので、それだけしかいえなかった。また中嶋悟は気がつかなかったが、ロータスでコンビを組むことになるアイルトン・セナも顔を見にやってきてポンと肩を叩いていった。
それから五分後にスタートした。決勝レースでも中嶋悟はいいところを見せた。スタートでは失敗して四番手から七番手に落ちたが、冷静に一台ずつ抜きかえしていき、最後は四位でゴールしたのである。彼はこの成績に満足した。優勝こそできなかったが、F1関係者の前で自分がF3000のドライバーの中でトップ・クラスにあることだけは証明してみせることができたのである。ロータスのピーター・ウォーも、それからメカニックたちもホッとしただろうと思った。
このあと彼はイギリスのバーミンガムでのレースに出場した。彼としては七戦目で、これがF3000最後のレースとなった。結果は予選十六位、決勝八位という平凡なものに終った。予選前の一時間のフリー走行のときのタイムは二番目だったのに、もっとグリップをよくしようとしてサスペンションをいじったのがすっかり裏目に出てしまったのだった。日本のように予選の前に二日間もフリー走行をするなどということはできない相談だったので、どうしようもなかった。
こうして彼は全部で十一戦おこなわれたF3000レースのうち、七戦に出場してシーズンを終えた。チャンピオンシップ・ポイントでは、四位と二度の五位で7点を稼ぎ十位であった。
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一九八六年のシーズンが終ると、中嶋悟は新聞や雑誌のインタビューの応対で大忙しになった。一年前のオフとは大ちがいだった。一年前は、一九六〇年代の終りに生沢徹がヨーロッパでF3選手権に挑戦して以来、二十年ぶりに日本人ドライバーがヨーロッパのレースに本格的に挑戦するというのに、誰にも注目されなかった。しかし日本人初のF1ドライバーになると、いままで自動車レースのことなど取り上げたことのない新聞や雑誌の記者までが大勢押しよせてきたのである。
さらに十一月になって、鈴鹿サーキットが一九八七年から五年間にわたってF1日本グランプリを開催すると発表すると、騒ぎはますます大きくなった。F1てのは何てすごいんだろうと中嶋悟はあらためてびっくりした。
しかし彼は、人がどんなに大騒ぎしても、心の中にどうしても拭い去ることができない気がかりがひとつあった。それはロータスがなぜ彼と契約したかということで、ロータスはただたんにホンダのエンジンがほしいために、セカンド・ドライバーについては目をつぶって、しかたなく彼をとったのではないかという疑問だった。もちろん現実としては、ホンダの総監督の桜井淑敏の後押しがなければ絶対にF1ドライバーになることはできなかっただろうと知ってはいたが、彼としてはそれだけでなったのだとは思いたくなかった。もしそれだけのことだとしたら、ロータスに行っても胸を張って車に乗ることはできないだろうと思った。彼はほかのF1ドライバーと同じように胸を張って乗りたかった。
彼はいろいろ悩んだ末に、ヨーロッパで親しくなったイギリス人のモーター・ジャーナリストの一人に、ロータスのマネジャーのピーター・ウォーが自分のことをどういっているか知ってるかときいてみた。するとそのジャーナリストはいった。
「知ってるとも。きみは一九八二年にロータスのF1カーをテスト・ドライブしたそうだね。そのとき、エンジン・トラブルが起きてとつぜん車がアンコントロール状態になったらしいが、それをきみがどうやったか知らないがクラッシュもしないでじつにうまくストップさせたといって感心していたよ。ピーターはそのときの写真まで見せてくれて、きみは車の扱いがとても丁寧で上手だといっていた。何か心配なことでもあるのかね」
「いや、ない。それならいいんだ」
と中嶋悟はいった。
彼はそれでようやくホッとした。おれのことをまったく何も知らないのにとったわけじゃないんだなと思った。人にいったら何をそんなことで悩んでいるんだと笑うだろうと思ったが、彼にとっては重要なことだった。胸を張って車に乗るのと、こそこそ乗るのとでは大ちがいだからである。そして彼は、イギリス人のジャーナリストの話をきいたあとで、つぎのように思ったといっている。
「おれは自分でも非常に運のいい男だと思うし、人も運のいい男だというけど、でもおれがF1ドライバーになれたのはそれだけじゃないと思うんだよ。だって、レーシング・ドライバーなら誰だって一度はF1ドライバーになる夢を見るだろうけど、ほかの人には絶対にその可能性がないんだからね。なぜかというと、ほかの人はそのためのアクションを何も起こしていない。なりたいなりたいというだけでさ。でもおれは、運はいいと思うけども、運を天にまかせてはこなかった。やっぱり、目標に向って努力してないと運はこないよ。だから、人間の生き方というのは、そのときそのときのできごとは無関係のように見えても、じつはずっとつながっているんだと思ったね。八二年にロータスのF1カーに乗ったことだって、あとになってみるとやっぱりあのとき一生懸命やったことは意味があったんだよ」
しかし彼は、そうしてプライドの面での心配が解決すると、こんどはもっと現実的な心配に悩まされるようになった。悩みはつぎからつぎに出てきた。それは自分の力がはたしてどれくらいあり、実際問題として他のF1ドライバーたちと一緒にちゃんと走れるのだろうかという心配だった。
彼は八五年と八六年の二年間にわたってウィリアムズ・ホンダのF1カーを鈴鹿サーキットでテストしてきていたが、それだけでは誰とも比較のしようがなかった。鈴鹿には他のF1ドライバーのラップ・タイムがなかったからである。
一九八五年の十二月に一度だけ比較するチャンスがあるにはあった。ネルソン・ピケがやってきて同じ車で鈴鹿を走ったのである。
ネルソン・ピケは、午前中は決勝レース用の硬いタイヤをはいて、コースに慣れるために1分50数秒のタイムで走っていたが、午後になって予選用の柔らかいタイヤをはくと、いきなり1分45秒台のタイムを出した。中嶋悟はまだ1分50秒を一度も切ったことがなかった。中嶋悟はピケの走りを目のあたりにしてショックを受け、その場でホンダのエンジニアにおれにも予選用のタイヤで走らせてくれるようにグッドイヤーに頼んでくれといった。ウィリアムズ・ホンダのタイヤはグッドイヤーが供給していたのである。しかしグッドイヤーのサービスマンはただのテスト・ドライバーに特別なF1用の予選タイヤを与えるつもりはなく、決勝用の硬いタイヤしか与えてくれなかった。
結局、中嶋悟は午後四時すぎになってその硬いタイヤで何周か走った。冬の夕暮れの日がかげってきた中で、硬いタイヤでピケと同じように走るのはどう考えても無理だった。それでも中嶋悟は大勢のモーター・ジャーナリストが見物にきていたので懸命に走った。しかし、やはり1分50秒を切ることはできなかった。
中嶋悟は考えれば考えるほど、自分がどれくらい走れるかという心配がふくらんで不安になっていった。彼は桜井淑敏にも川本信彦にも、一年目は練習のつもりでトップ・ドライバーたちから3秒遅れぐらいのラップ・タイムでレースをすればいいといわれていた。しかし彼は、ネルソン・ピケやアラン・プロスト、アイルトン・セナといった一級ドライバーたちとくらべると、おれは5秒も6秒も遅いのではないかとだんだん思うようになっていった。
ところが十二月の中旬になって思いがけないチャンスがやってきた。ピケが再び来日して一九八七年用エンジンの実走テストを鈴鹿でおこなうことになり、そのとき中嶋悟も乗せてもらうことになったのである。いまや彼はロータスのドライバーだったのでウィリアムズの車に乗るのは気がひけたが、自分の力を知るためには少々の紳士協定違反も仕方がなかった。
このときの車は中嶋悟がテストでずっと乗っていた八四年型のウィリアムズ車ではなく、八六年にコンストラクターズ・チャンピオンをとった最新のモデルだった。まずピケが決勝レースを想定したタイヤとターボ・チャージャーの過給圧で走った。つぎに中嶋悟が同じ条件で走った。
ネルソン・ピケは1分47秒6ぐらいの平均ラップで走った。中嶋悟は1分47秒8ぐらいだった。彼は車から降りてそれを知りびっくりした。二年間もテストで走ってどうしても破れなかった1分50秒の壁をついに突破したのである。そのうえ、ピケとほぼ同じ平均ラップというおまけつきだった。これは、中嶋悟のほうがピケよりもずっと鈴鹿サーキットをよく知っているということを差し引いても、すばらしいタイムといわなければならなかった。ベスト・ラップはピケより2秒ばかり遅かったが、1分45秒1だった。
「八六年モデルのウィリアムズ車というのはこのときはじめて乗ったんだけど、それまで乗っていた八四年モデルにくらべると、まるでべつの車のように乗りやすいんだよ。こんないい車があるのかと思うぐらいにさ。それで1分50秒が切れたんだと思うけど、何といってもピケと変わらないタイムで走ったんだからね。これで何とかF1レースができそうだという感じをつかんだのはこのときだったね」
中嶋悟にとってこの十二月のテストは、ホンダからの最高のクリスマス・プレゼントになったのである。これで彼のF1ドライバーとしての準備期間は、いよいよ完全に終えたといえた。
年が明けて一九八七年になると、ロータスからファックスが送られてきた。そこにはつぎのように書かれていた。
〈一月二十二日までにチームに合流せよ〉
F1ドライバーとしてのシーズンのはじまりの知らせだった。
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一九八七年の一月二十日、三十四歳の誕生日を二カ月後に控えた中嶋悟は、日本人初のF1ドライバーとして成田からロンドンに飛び立った。
一年前とは何もかも大違いだった。一年前にF3000のドライバーとして成田からロンドンに行ったときは、誰にも見送られずに、マネジャーの福田直道とたった二人だけで出発したのである。しかしこんどは、日本人初のF1ドライバーの旅立ちを取材しようと新聞記者やテレビ局のカメラマンがわんさと空港に押しかけてきた。彼はそういう騒ぎにまきこまれるのはあまり好きではなかったが、わるい気持はしなかった。いまや彼は、その行動がつねに注目の的になるスターであった。
彼は一月二十一日にロンドンに着くと、ロンドン北方のノーリッジにあるロータスの工場に顔を出した。彼は四月十二日におこなわれる第一戦のブラジル・グランプリまでにできるだけロータスのF1カーの感触に慣れておきたかったので、はやく車に乗りたかった。ホンダがエンジンを供給しているもう一チームのウィリアムズは、一月二十六日から南アフリカのキャラミでテストを開始するときいていたので、自分もそのころには乗れるのだろうと思っていた。
しかし、その望みはかなえられなかった。ロータスは八七年用の新車の製作が大幅に遅れていて、とてもそれどころではなかったのである。
その原因は、ロータスがこの年の車から取り入れようと試みていたアクティヴ・サスペンション・システムで、それがなかなか実用化できなかったのである。アクティヴ・サスペンション・システムというのは、加減速時やコーナリング時に起きる車の挙動変化をセンサーによって感じとり、コンピューターが瞬時に個々のサスペンションを制御して挙動変化をなくしてしまうというサスペンションの画期的な知能化システムであった。もしそれが完全に実用化されれば、車はつねに水平の状態が保たれ、理想の走りが約束されるのだった。しかしそれを現実のものにするのはおそろしく骨の折れる仕事で、おいそれとは設計どおりに動いてくれなかったのである。
待ったなしのF1レースにおいては、シャシー製作の遅れは致命的な問題になりかねなかった。そのために多くの人が、アクティヴ・サスペンションに完全な見通しがつくまではノーマル・サスペンション・カーで参戦したらどうかとすすめたが、ロータスのチーフ・エンジニアのジェラルド・ドゥカルージュはどうしても第一戦のブラジル・グランプリからアクティヴ・カーでいくといって主張を曲げなかった。これには中嶋悟ばかりではなく、ホンダの総監督の桜井淑敏もだいじょうぶだろうかと不安にならざるをえなかった。ホンダはホンダで頭の痛い問題をかかえていて、中嶋悟以上にはやく実走テストをおこなう必要に迫られていたのである。
ホンダ側の問題というのは、この年からFISA(国際自動車連盟スポーツ委員会)の新レギュレーションによって装着を義務づけられたポップ・オフ・バルブの問題だった。それはF1エンジンのターボ・チャージャーの過給圧を制限する装置で、それによって過給圧を無制限に上げて圧倒的なパワーで勝つということができなくなってしまったのである。ポップ・オフ・バルブは、約四〇〇パーセントの空気を圧縮し、過給圧が四バールに達すると自動的に開いてそれ以上の空気を外に逃がしてしまう仕組みになっていた。ホンダのF1エンジンは四バール以上に過給圧を上げることが可能だったので、ホンダにとってこれは非常に痛い規制だった。
しかし、もとはといえばこれはホンダ自身が招いた結果といえなくもなかったので、どうしようもなかった。表向きはエンジンの出力が1000馬力にも達したのでは危険すぎるという理由で規制されることになったのだが、一九八六年にホンダ・エンジンがあまりにも勝ちすぎたこともこうなった大きな原因のひとつに数えられていた。全十六戦のうちホンダに九勝もされ、それがずっとつづくようでは、他のエンジン・メーカーが嫌気をさしてしまうだろうとFISAが配慮したのである。一九八六年のホンダ・エンジンは、それほど圧倒的だった。
そこでホンダの技術研究所では、オフのあいだに桜井淑敏が中心になって、過給圧が四バールに統一されても他のエンジンに対して優位を保てる新エンジンの開発をおこなってきていた。一九八六年のエンジンよりもさらに回転を上げて、回転で馬力を稼ぐことにしたのである。すでに限界ちかくまで上がっている回転をさらに上げようというのは容易なことではなかったが、彼らは何とかそれを実現したエンジンをつくっていた。
ところがその新エンジンにFISAからテスト用に送られてきたポップ・オフ・バルブをつけてベンチでテストをしてみると、四バール以下でバルブが開いてしまうことが分ったのだった。ひどいものは三・六バールぐらいで開いてしまった。それではエンジン本体をどんなにモデファイしてもどうにもならなかった。
それやこれやで、ホンダとしてはFISAに毎日のようにファックスで文句を送りつける一方、できるだけはやく車にエンジンを乗せて実走テストをしたかったのである。ウィリアムズのほうとは一月二十六日から南アフリカのキャラミで最初のテストを開始することになっていたが、ロータスはロータスだった。シャシーがちがえば、エンジンのセッティングも同じというわけにはいかないのである。ロータスのシャシー完成の遅れは、あらゆる意味でマイナスだった。
中嶋悟は、ロータスのシャシーが完成するまで何もすることがなかったので、ロンドンの郊外に借りた自宅にこもってランニングと軽いウェイト・トレーニングをして毎日の時間をすごした。身長百六十五センチ、体重五十三キロの彼はすべてのF1ドライバーの中でもっとも小柄で、自分でも約二時間のF1カーのドライブにちゃんと耐えられるかどうか自信がなかった。そのために、すくなくとも毎日のランニングを日課にしていたのである。
彼は自宅のまわりを走りながら、日本を発つ前に桜井淑敏にいわれたことをときどき思いだした。
「たぶん中嶋さんのラップ・タイムは、ピケやセナから2、3秒遅れだと思うけど、シーズン後半になって1秒遅れぐらいになったら入賞の可能性が出てくると思うよ。まあ一年目の目標は、ポイントを10点取ることだね」
本当にそうなって、10点もポイントが取れるのだろうかと中嶋悟は思った。
F1のポイントは、優勝が9点、以下6位まで6点、4点、3点、2点、1点と与えられることになっていたが、つねに優勝争いをするトップ・クラスの数人のドライバーはともかくとして、10点以上のポイントを稼ぐというのはたいへんなことだった。たとえば一九八六年は三十二人のドライバーがF1レースに出場したが、10点以上を獲得したのはたったの十人で、十三人は1点も獲得できなかったのである。六位なら十回、五位なら五回入賞しなければ10点は取れなかった。
「とにかく1点だ」
と彼は思った。まずその1点が取れなければ、何もはじまらないのだ。
ロータスのアクティヴ・サスペンションの一号車が完成し、ようやくテストができることになったのは二月の十一日だった。テストはイギリスのドニントンパークで二日間おこなわれた。
しかし中嶋悟は、ここでは一度も車に乗ることができなかった。二日間ともニュー・カーのハンドルを握ったのはチームのファースト・ドライバーのアイルトン・セナで、彼はそれをかたわらでただ見ているしかなかったのである。もっとも、セナも車を独占したといっても、テストらしいテストはまったくできなかった。アクティヴ・サスペンションがぜんぜん作動せず、二周とまともに走れなかったからである。だが中嶋悟がピットの片隅に放っておかれたことは事実で、彼はそのことにちょっとがっかりした。セカンド・ドライバーが味わわなければならない最初の苦痛であった。
二度目のテストは、二月の十四日と十五日にフランスのポールリカールでおこなわれた。このときも似たようなものだった。一日目はチームの全員がまともに作動しないアクティヴ・カーに乗ったセナにかかりきりで、中嶋悟に車が与えられたのはようやく二日目になってからだった。彼はその車でF1ドライバーとして初めてコースを三十周ばかりしたが、与えられた車は旧式のノーマル・カーで、結局アクティヴ・カーには一度も乗れなかった。
だがこのポールリカールでのテストが終ると、彼はロータス内での評価を上げた。ホンダ側の現地チームの監督で、八七年からセナのエンジンを担当することになった後藤治はつぎのようにいっている。
「たいていのドライバーというのは、F1ドライバーになるといいところを見せようとして、いきなり吹っ飛んでいくのが普通なんですよ。しかし中嶋さんはそうじゃない。なかなか冷静で、よく考えて走る。たとえばステアリングのセッティングなんかにしても、最初はオーバーステア気味にしてスタートして、徐々にそれを修正していく。けっして格好をつけていいタイムを出そうとしないんですね。だからまずスピンをしない。とうぜん車も壊さないわけです。ロータスとしては、セナで何とかアクティヴ・カーをまともに走るようにしたいと必死になってるわけだから、セカンド・ドライバーに車を壊されたりしたら、困るわけですよ。セカンド・ドライバーの面倒を見ている暇なんかないんですから。それでまあ、中嶋というのはなかなかいいドライバーだということになったんですね。八六年のセカンド・ドライバーだったジョニー・ダンフリーズはよく車を壊しましたから。車を壊さないということは、ドライバーとして大事なことなんですよね」
中嶋悟はまず最初のテストに合格したのである。
三度目の走行テストは二月二十二日から五日間、ブラジルのリオデジャネイロでおこなわれた。このときはF1グランプリの第一戦がおこなわれるサーキットだったので、ロータスのほかに、ウィリアムズ、マクラーレン、ベネトンの有力三チームが集結した。
中嶋悟はここでも最初の三日間はまったく車に乗ることができなかった。セナのアクティヴ・カーは依然として不機嫌なままで、三周とつづけて走れなかったのである。しかし第一戦のブラジル・グランプリのために燃費計測などのエンジン・テストはどうしてもこなしておかなければならなかった。そこでセナが中嶋用のノーマル・カーに乗り換えてそれをおこなったのである。
エンジン・テストの結果は上々だった。テストは195リットルのフルタンクの状態でおこなわれたが、ベスト・ラップはウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケが1分28秒7、同じくウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルが1分29秒3、ロータス・ホンダのアイルトン・セナが1分30秒2で、ホンダ・エンジンが上位を独占した。チャンピオン争いでホンダ勢の強力なライバルになるにちがいないマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストのベスト・ラップは、1分30秒5であった。FISA支給のポップ・オフ・バルブは依然として四バール以下で開いてしまう問題が残っていたが、最高回転を上げたホンダの新エンジンはどうやら成功したのである。
中嶋悟はテスト四日目になってやっと車を与えられ、初めてレースと同じ周回の六十周、300キロを走った。彼のベスト・ラップは1分33秒3であった。まったく同じ条件で走ったチームメイトのセナより、ちょうど3秒遅かった。彼は自分のタイムと他のドライバーたちとのタイムをくらべて、何てやつらだと思った。とても彼らと一緒には走れなかった。
また彼は、テスト中のある周回で珍しくスピンした。ちょうどアラン・プロストが一緒に走っていて、彼がうしろから迫ってきたのでラインを譲ると、コースの端の埃に乗ってすべってしまったのである。さいわいクラッシュはしなかったが、抜かれるというのも新人ドライバーにとってはひと仕事であることを思い知らされたのだった。
リオでのテストが終わると、彼は後藤治にいった。
「後藤さん。おれは今年一年はレースはしないよ。あんなすごいやつらと抜いたり抜かれたりするなんて、とても考えられない。とにかく今年は、自分のドライビングをすることだけを考えるよ」
それはまったくいつわりのない本心からの言葉だった。彼らと競走なんかしたら、体がいくつあっても足りないと思ったのである。事実彼は初めてF1カーで300キロ走った翌日は疲れ果て、後藤治にきょうはスタートの練習をするだけで勘弁してくれといわなければならなかった。
しかしそうしたすべてのことが彼には初体験で、苦しくても新鮮な感じがした。
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中嶋悟が初めてアクティヴ・カーに乗ったのは、リオでのテストから二週間後の三月十二日、イギリスのドニントンパークでの二度目のテストのときだった。一号車の完成から一カ月がたって、ようやく二号車ができ上がってきたのである。そしてその二号車はチームのファースト・ドライバーのアイルトン・セナに与えられ、中嶋悟にはそれまでセナが乗っていた一号車が与えられたのだった。
一号車と二号車をくらべると、一号車は最初につくられた分だけ完成度が低く、二号車より五キロほど車重が重かった。車重は軽ければ軽いほどよいレーシング・カーにおいては、たった五キロでもちょっとしたハンデであった。しかし、何はともあれこれで自分用のレース・カーが持てたのである。この車で一年間レースをやるのだと思うと、中嶋悟は一挙に気が引きしまった。
アクティヴ・カーがやっとまともに走るようになったのも、このドニントンパークでのテストからだった。
しかしここでも中嶋悟は自分の思いどおりに自由に走ることはできなかった。アクティヴ・カーがまともに走るようになったといっても完全な状態にはまだまだほど遠く、ロータス・チームとしてはセナ一人に集中するので精一杯だったのである。中嶋悟の車の面倒までは誰も見る余裕がなかった。
結局、二台の車のセッティングの進め方として、つぎのようなスタイルが習慣化された。まずセナが走ってアクティヴ・サスペンションのコンピューター・ソフトのセッティングをおこない、それがよさそうだということになった時点でセナの車からコンピューターのチップを抜きとって中嶋悟の車のコンピューターにはめこむという方法だった。このやり方だと中嶋悟はいつまでも自分で自分の車のセッティングをできないことになったが、さいわいなことにセナと中嶋悟のドライビングはタイプがよく似ていた。そのことについて後藤治はつぎのようにいっている。
「レーシング・ドライバーには、力まかせに車をねじふせるような乗り方をするタイプと、微妙な感触を味わいながらステディに乗るタイプと二つあるんですが、セナも中嶋さんもどちらかというと後者のタイプなんですよ。とてもきれいな乗り方をする。その意味では、基本的に似ているんです。だからセナがいい車をつくれば、中嶋さんも結果的に速くなるということなんですよ」
もちろん中嶋悟としては自分の車は自分でつくりたかったが、チームの事情を考えるとどうしようもなかった。彼はセナがセッティングしたコンピューターのチップで走った。
中嶋悟もめったにスピンしないドライバーだったが、セナは彼よりもずっと速く走って、なおかつ彼以上にスピンしないドライバーだった。だがアクティヴ・カーに乗ったセナは、面白いようにスピンした。それを見ていて、中嶋悟はアクティヴ・カーというのはよほど乗りにくい車なんだろうと思っていたが、じっさいに乗ってみるとその乗りにくさは想像をはるかに超えていた。
彼はピットからコースに出たとたんにスピンの連続となった。カーブでブレーキを踏むとその瞬間にリヤが軽くなり、急にオーバーステアになってリヤから横すべりしはじめるのである。ブレーキングによってフロントが沈んだのをロードセンサーがキャッチすると、コンピューターが瞬時にフロントのサスペンションを硬くするので、相対的にリヤが軽くなってそうなるのだった。アクティヴ・サスペンションのロードセンサーは、たった一ミリでも車体が上下すると挙動変化を感じるようになっていたので、どうにもしようがなかった。
カーブのあちこちにすべり止めとして盛り上がっている縁石に乗り上げるのも禁物だった。左のタイヤを乗り上げると、コンピューターがバランスをとろうとして右のサスペンションも持ち上げてしまうのでホイール・スピンが発生し、着地したときにしばしばアンコントロール状態になるのである。
「とんでもない車に乗せられてしまった」
と中嶋悟は思った。
とてもテストどころではなく、車の挙動にばかり神経がいってしまって、車に慣れるためのロングラン・テストはとうとうできなかった。彼は鈴鹿でホンダ・エンジンのテストをしていたときのウィリアムズの一九八四年型の車をなつかしく思いだした。アンダーステアの強いひどく乗りにくい車だったが、ロータスのアクティヴ・カーにくらべるとまだずっとましだったような気がした。この車でレースをやるのかと思うと、気が重くなった。セナも不機嫌だった。
ロータスはそれから約二週間後の三月二十五日から、ブラジル・グランプリの前の最終テストをイタリアのイモラでおこなった。そこは第二戦のサンマリノ・グランプリが開催されるサーキットだった。
イモラでのテスト走行は三日間にわたっておこなわれたが、ロータスは最初の二日間を完全にセナに集中し、中嶋悟は三日目になるまでぜんぜんコースに出られなかった。そして三日目の午前中に二時間ばかり走ると、それで彼のテストは終りになった。セナのための最初の二日間でメカニックたちがすっかり集中力を使いはたしてしまったのである。三日目の彼らは抜け殼同然で、まったく使いものにならなくなっていたのだった。
中嶋悟は泣くに泣けなかった。結局彼がアクティヴ・カーをテストできたのは、二度目のドニントンパーク・テストとイモラ・テストのときを合わせても、四十周たらずだった。F1レースがおこなわれる平均的なコースはだいたい一周が約5キロで、そこを六十周するのが普通だったが、四十周ではその一レース分にも満たなかった。しかしそれ以上はもう望んでもどうにもならず、彼はたった四十周の走行テストをしただけで第一戦に臨むことになったのである。
このことは、できるだけたくさんの周回数をこなして何よりもF1カーに慣れておくことが必要だった彼には、ものすごく大きなハンデになった。
「四十周という周回数のすくなさはともかく、テストとテストのあいだが二週間おきというのが痛かった。あんまりあいだがあきすぎるんで、まえに乗ったときの感触を忘れちゃうんだよね。だから、いつもニュー・カーに乗っているような感じで、ぜんぜん自分の車に乗っているという気がしなかった」
と彼はいっている。
第一戦のブラジル・グランプリも最後のイモラ・テストから二週間後だったので、その感じは本番のレースまでつづくことになった。
ハンデはそればかりではなかった。ブラジル・グランプリの直前になって、彼はレースのときにテレビ局のために小型カメラを車の横につけて走らなければならないことを知らされたのである。
テレビ・カメラの車体への取りつけは、FOCA(F1製造者協会)のとりきめで各チームが一年ごとに持ちまわりで引き受けることになっていたが、一九八七年はロータスの番ではなかった。しかしテレビ・カメラを取りつけると契約金が手にはいるので、チーム・マネジャーのピーター・ウォーが勝手に引き受けてしまったのである。
中嶋悟はそんな役目を引き受けさせられるのはいやだった。テレビ・カメラそのものは小型だったのでたいして重くはなかったが、そのためのバッテリーや付随している機材を積むと、十キロちかく重くなってしまうのである。それでなくても彼の車はセナの車にくらべると五キロ重かった。十五キロというのはかなりのハンデであった。
彼はピーター・ウォーに抗議した。しかしピーター・ウォーは、もう契約してしまったから駄目だといってぜんぜん取り合おうとしなかった。中嶋悟は、おれが優勝争いをするようなドライバーだったら絶対にこんなことはさせないだろうと思って腹が立った。しかしそういう仕事はチーム・マネジャーの仕事で、ドライバーの彼には何の権限もなかったのでどうしようもなかった。
「いまに見てろ。そのうち絶対にこのことを後悔させてやるぞ」
と彼は思った。
そのためには何としても早く上位にはいって、自分に対するチームの目を覚まさせなければならなかった。それが簡単なことでないことぐらいは十分承知していたが、それができなければただ日本人で初めてF1ドライバーになったというだけの存在で永遠に終ってしまうと思った。そんなのはいやだった。彼は早くチームの目を覚まさせる決意をした。
四月になると、夫人と息子が彼と長いシーズンを一緒に過ごすためにイギリスにやってきた。彼は一月二十日に日本を発って以来、二カ月ぶりに家庭をとり戻した。しかしそれもつかのまだった。第一戦のブラジル・グランプリがすぐ目の前に迫っており、彼はリオデジャネイロに向けて出発しなければならなかったからである。
彼の胸は高鳴った。長いあいだ夢見ていた自分の出場するF1レースがいよいよはじまるのだった。
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16
一九八七年のF1グランプリ第一戦は、四月十日の金曜日からはじまった。
中嶋悟は四月六日の月曜日にロンドンからリオデジャネイロにはいったが、F2ドライバーになりたてのころにレース直前にたらふく食事をして星野一義を驚かせたように、F1ドライバーになっても緊張して食事が喉を通らなかったり、眠れなくなったりするようなことはなかった。彼はブラジルの黒パンと肉とフルーツをたっぷり食べ、昼寝と夜の睡眠を合わせると十二時間も眠った。そして九日の木曜日は休養日に当てたが、七日と八日はホテル近くの海岸で十分走りこんだ。ブラジルは夏の終りで、二月末に実走テストで訪れたときよりはすこしましになっていたが、それでも連日三十度以上の暑さがつづいていた。それでなくても小柄な彼には、そうして入念にコンディションを整えておく必要があったのである。
またこのブラジル・グランプリには、日本人初のF1ドライバーのデビュー戦を見ようと、日本から四十人ものジャーナリストがやってきていた。こんなことはホンダ・エンジンがコンストラクターズ・チャンピオンを獲得した八六年シーズンにもなかったことで、このためにホンダではサーキットの見晴らしのよい一角に彼らのために専用の観戦ブースを設けなければならないほどだった。そして中嶋悟とホンダ・チームの総監督の桜井淑敏は、そこで毎日一回みじかい記者会見をさせられることになった。
こうして四月十日の金曜日、予定より四十五分遅れて午前十時四十五分から第一日目のフリー走行がはじまった。決められた時間は一時間半で、そのあいだに公式予選や決勝レースに備えて、車体のセッティングや燃費のテストをおこなうのである。したがって、このフリー走行は、ある意味では公式予選よりも重要な意味を持っていた。
しかし中嶋悟はフリー走行のスタート時間がきても、なかなかスタートできなかった。彼にとっては三月二十七日にイタリアのイモラでテスト走行をして以来二週間ぶりのドライブだったので、彼としてはアクティヴ・サスペンション・カーの感触を完全に自分のものにするために早く走りたかった。ところが新機軸のアクティヴ・サスペンションはここにいたってもまだ未完成で、あれこれと調整するのにやたらと時間がかかったのである。
ロータス・ホンダのピットの前では、日本からやってきたジャーナリストたちが大勢集まり、中嶋悟がなかなかピットから出て行かないので不安そうに彼が乗りこんだ車を見つめていた。ロータスのメカニックたちがその車のまわりをあわただしく動きまわり、ようやくスタートの準備が整ってエンジンがかかったのは、スタート時間から十六分が過ぎたときだった。
中嶋悟はホンダ・エンジンをウォンと吹かすと、ピットレーンにはいってくる車があるかどうかを自分の目でたしかめて、ゆっくりとピットから出て行った。その瞬間、彼のスタートをじっと待っていた日本からのジャーナリストたちのあいだから、拍手が起こった。日本製のエンジンを日本人ドライバーが運転して初めてF1グランプリに出場する記念すべき瞬間に立ち会って、誰もが感動で興奮していた。
桜井淑敏もその一人だった。彼も中嶋悟が公式にサーキットに出て行く最初の一瞬を見ようとして、ずっとロータスのピットの前で待っていたのである。彼はそのときの気持をつぎのようにいっている。
「中嶋さんがじっさいにピットから出て行くまでは、どんなふうに出て行くんだろうと思って見ていただけで、べつに何も感じなかった。でもエンジンがかかり、車がすっと動き出していった瞬間、予想もしていなかった感情におそわれた。何ていうか、とつぜん胸がジーンとなって、体がぞくぞくしてきた。それまでぼくは、エンジン・サプライヤーの責任者として何十回もF1レースを見てきたけど、そんな気持になったのははじめてだった」
中嶋悟は、それまでホンダのエンジンが走っているだけで日本人には機械的にしか感じられなかったF1レースを、とつぜん感情にも訴えるものにしてしまったのである。そのために、彼は自分の意志とは無関係にこれまで以上にF1ドライバーとして注目され、大騒ぎされることになった。そしてコメントを求めてやってくるジャーナリストの中には、あなたは死ぬことが怖くないのかなどとぶしつけに質問する手合いも出てきた。しかしそれもどうしようもなかった。
中嶋悟は最初の一周をゆっくりと走り、すぐにピットに戻ってきた。そして車の各部分を入念にチェックして再調整すると、十五分後に再びピットから出て行った。彼がこの第一日目のフリー走行で自己のベストラップ、1分34秒896のタイムを記録したのは四ラップ目だった。平均時速にして190キロで、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケの1分30秒212より4秒以上遅かったが、参加二十三台中十位のタイムであった。
彼はこの周回につづいて、もうすこし速いタイムで走ってみようと五ラップ目にはいっていった。二月末のテストのときは、ここですでに1分33秒3のタイムを出していたので、もっといいタイムを出せる自信があった。だが快調にとばし、コースを半分ほど行った四速で回る左コーナーにさしかかったときアクシデントが起きた。アクティヴ・サスペンションをコントロールする油圧がとつぜんなくなり、車体の底が路面にドスンと落ちてしまったのである。彼は懸命にブレーキを踏んだが、車体の底が路面に着いてすべっているのでブレーキは何の役にも立たず、車はコントロール不能になったまま、時速200キロで路面をこすって火花をうしろにまき散らしながらすべっていった。
「これで終りかな」
と彼は一瞬考えた。
車は猛烈な勢いですべり、コースの縁石を越えてエスケープゾーンにはいり、鋼鉄のガードレールに向っていた。しかし彼は最後まであきらめずに最善をつくそうと思い、手をハンドルに、足をブレーキペダルに力いっぱい突っ張った。一九八〇年のシーズンオフに富士スピードウェイでGCカーのテストをしていたとき、高速コーナーでとつぜんサスペンションが折れて似たようなアクシデントに見舞われたときのことを咄嗟に思い出したのである。そのとき彼は、車がフロントからまっすぐガードレールに突っこんでいったので、フロントがつぶれて足をやられると思い、思わず足をちぢめてしまったのだった。そのために踏んばりがきかず、上半身をいやというほどハンドルに叩きつけられて肋骨を折ったのである。
彼はどっちにしても怪我は避けられないと思ったので、肋骨や内臓が傷むよりもまだ足が折れたほうがいいと判断したのだった。彼は数秒後にエスケープゾーンを突っ切り、鋼鉄のガードレールの前に積み上げてあった衝撃吸収のためのタイヤバリアに激突した。
彼は全身を突っ張っていたので、腕と背中の筋肉をすこし痛めた。しかしそれ以外は何ともなかった。広いエスケープゾーンと、カーボンファイバーでつくられたF1カーの強力なモノコックが無傷で彼を救ってくれたのである。結局、全身を突っ張るという彼の判断は正しかったのだった。
車の損傷もたいしたことはなかったので、彼は車体の底を路面にこすりながら、何とかピットまで運転して帰った。アクティヴ・カーというのはまったくやっかいな車だった。ノーマル・カーならこんなことは起こらないのにと思ったが、ロータスがチームとしてアクティヴ・カーで行くと決定している以上、彼はそれでレースをする以外どうしようもなかった。
このあと、中嶋悟はさらに四周走った。ロータスのメカニックたちが大急ぎで車を直し、三十分後にはまた走れるようにしてくれたのである。しかし車の様子を見ながら走るのが精一杯で、四周目に出したタイムより早く走ることはできなかった。
これが彼の一日目のフリー走行のすべてだった。フリー走行の本来の目的である公式予選や決勝レースに備えてのいろいろなテストをするどころではなかった。走っているよりもピットにストップしていた時間のほうがずっと長く、一時間半でたった八周しか走れなかったのである。
彼は車から降りてパドック裏のホンダのオフィスにやってくると、げっそりした顔で桜井淑敏や後藤治にいった。
「まいった」
それが彼のF1グランプリ初体験の感想だった。
それから一時間半後に一回目の公式予選がおこなわれた。公式予選の時間は一時間半だったが、彼はこんどはスタートまでに三十五分も待たされた。何もしないうちに半分以上の時間を失ってしまったのである。チームの全員がファースト・ドライバーのアイルトン・セナにかかりきりになり、中嶋悟はセナがさきに走ってセッティングしたコンピューターのチップで走るというのがロータスの方針だったのでどうしようもなかった。
桜井淑敏が、中嶋悟の車を見ていてロールバーの右側にへんなものがついているのに気づいたのはこのときだった。
「おい、あれはなんだ?」
と彼はロータス・チームのエンジンを担当している後藤治にきいた。
「小型のテレビ・カメラですよ」
と後藤治はいった。
「なんでそんなものが中嶋さんの車についてるんだ」
「ロータスがバーニーと契約したらしいんですよ」
バーニーというのは、ブラバムのオーナーで、FOCA(F1製造者協会)会長のバーニー・エクレストンのことだった。そして彼がFOCA会長として、F1グランプリの興行権やテレビ放映権のすべてを統括しているのだった。
「つねにあれを車にくっつけて走るのか?」
「そうらしいですよ」
「レースのときもか?」
「ええ」
「あんなもの、走るのに邪魔になるだけじゃないか」
「まったくそうなんですよ」
「くそ」
桜井淑敏は腹が立った。ロータスにエンジンを供給し、中嶋悟をドライバーとして推薦したのは、テレビサービスなんかをさせるためではなかった。そうでなくても中嶋悟はF1にまだ不慣れで、思いどおりのタイムが出せずに苦しんでいるのである。彼はロータスのマネジャーのピーター・ウォーに文句をいわなくちゃならないと思った。
中嶋悟はセナが一回目のタイム・アタックに出て行き、四周目に1分30秒266というタイムを出してピットに戻ってきたあとでようやく出て行った。しかしゆっくりとコースを一周すると、そのままピットにはいってきてしまった。彼がピットにストップすると、彼の車を担当するティム・デンシャムというロータスのエンジニアが駆けよってきた。中嶋悟はヘルメットのバイザーを上げて彼にいった。
「前後にすごく揺れるんだ。それにちょっとでも横向きになると、すぐにスピンしそうになる。何とかしてくれ」
メカニックたちが車のあちこちをいじり、彼は十分後に再びピットから出て行った。
一周目はタイヤをあたためるためにゆっくりと走り、二周目からスピードを上げて、彼は三周目に最初のタイム・アタックを試みた。結果は1分36秒679であった。セナより6秒以上も遅かった。
彼はピットに戻り、そこでメカニックたちに再びあちこちいじってもらって、八分後にまた飛び出して行った。行くぞと決めた一周に全神経を集中して走っているのに、フリー走行のときのベスト・ラップより2秒ちかくも遅いタイムしか出ないなんておかしなことだった。
彼はこんどは二周目でアタックした。1分36秒124で、すこしちぢまった。つづけて三周目もアタックした。1分34秒445が出た。しかしこの日はそれが精一杯だった。彼はそれからさらに三周走ったが、それ以上のタイムはどうしても出なかった。
「いったいどうなってるんだ」
と思った。
彼は二月末にテストでこのコースを走ったときに、ロータスのノーマル・カーで1分33秒3のタイムを出しているのである。彼はアクティヴ・カーを呪った。
一方、アイルトン・セナは三度目のアタックのときに1分29秒002を出していた。中嶋悟は車を降りてからそれを知り、F1のトップクラスのドライバーとの差をあらためてまざまざと思い知らされた。ロータスのアクティヴ・カーはまったく未完成で、おそろしく乗りにくかった。しかしそれはセナも同じはずであった。セナの車のほうが約十五キロ軽いことを差し引いても、ものすごいタイム差といわなければならなかった。
第一回目の予選結果は、一位がウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケで1分27秒822、二位も同じウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルで1分27秒901だった。この二人の速さは群を抜いていた。そしてそのあとに1分29秒002でアイルトン・セナ、1分29秒522でマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストがつづいていた。1分34秒445の中嶋悟は、二十三台中十五位であった。
桜井淑敏は中嶋悟のタイムにちょっとがっかりした。十五位といっても、二十三台のうち五台はノンターボ・エンジンの車だったので、ターボ・エンジンの車の中では下から四番目だったのである。アロウズやミナルディといった弱小チームのドライバーにも負けていた。彼としてはせめて十位ぐらいにつけてもらいたかった。
しかし終ったことをあれこれ考えても仕方がないので、ロータスのオフィスヘ行ってマネジャーのピーター・ウォーをつかまえた。車からテレビ・カメラを取り外せば、中嶋悟ももうすこし速く走れるはずであった。
「中嶋の車についているテレビ・カメラのことで話しにきたんだ」
と桜井淑敏はピーター・ウォーにいった。
「いいとも。どんな話だ?」
とピーター・ウォーはいった。
「あんなの走るさまたげになるだけだよ。すぐに取り外してくれないか。われわれはテレビサービスなんかをさせるために彼をドライバーに推薦したんじゃないんだ」
「いまごろそんなことをいわれても困るよ。去年の秋にこのことはちゃんと話したじゃないか」
「ちょっと待てよ。そんな話はきいてないぞ」
「いったよ」
「いや、きいてない」
桜井淑敏は本当に記憶になかった。第一、きいていたら反対したはずだった。
「ともかく、もう取り外せないよ。バーニーと契約してしまったからね」
ピーター・ウォーは両手を広げ、肩をすくめていった。「いいじゃないか。サトルの車にテレビ・カメラを取りつけるということは、サトルの様子がしょっちゅうテレビに映るということだ。きっと日本のファンもよろこぶよ」
ピーター・ウォーの話し方はおだやかだったが、どうやら取り外すつもりはぜんぜんないようだった。桜井淑敏としては、そうなるとそうしたことはロータスの問題でホンダには何の権限もなかったので、引き下がるしかなかった。まったく、イギリス人には口ではかなわないと思った。
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17
二日目の土曜日も同じことがおこなわれた。
中嶋悟は午前中のフリー走行がはじまると、こんどこそ何とか速く走れるスタイルをつかもうと開始と同時にピットから飛び出して行った。しかし四周走ってみた結果はあまり思わしくなく、1分35秒台からまったくタイムは伸びなかった。
彼は走りながら、もうちょっとアンダーステアにセッティングしてみたらどうだろうと考えた。彼は金曜日から引きつづいてセナがセッティングしたコンピューターのソフトで走っていたが、それでは自分にはすこしオーバーステアのような感じがしたのである。
彼はピットに戻り、ティム・デンシャムにちょっとアンダーステアにしてくれといった。
「どのくらいだ?」
とティム・デンシャムはいった。
「ほんのすこしだ。フロントを二、三ミリ上げてくれ」
ティム・デンシャムは車に積まれたコンピューターからチップを抜き出すと、大急ぎでピットの中のアクティヴ・サスペンションのコンピューター・エンジニアのところへ持って行った。コンピューター・エンジニアがプログラミングをいじり、再び走れる状態になったのは三十分後だった。
しかしピットから出て行くと、1キロも走らないうちにいじったのがまちがいだったことが分った。スピードがぜんぜん上がらなかったのである。バックミラーを見ると、うしろにものすごい火花をまき散らしていた。
「くそ」
と思った。
コンピューター・エンジニアがプログラミングをまちがえて、反対にフロントを下げてしまったのである。そのために車体の底が路面にこすれっぱなしになって派手に火花が散っているのだった。
それで午前中のフリー走行は終りになってしまった。一時間半のセッションが終了する寸前になってやっともとの状態に戻ったが、二周しかまともに走れなかったのである。二周では何も分らなかった。
それでも彼は午後になり、二度目の公式予選がはじまると1分32秒276のタイムを出して、金曜日よりも2秒以上ちぢめた。しかし他のドライバーもほとんど全員が金曜日よりいいタイムを出したので、順位は十五位から十二位までしか上がらなかった。
ポール・ポジションをとったのは、この日1分26秒128のタイムを出したナイジェル・マンセルで、ネルソン・ピケが1分26秒567で二位になった。二人のタイムだけが圧倒的に速かった。二人は金曜日に出したタイムでも他チームのドライバーにグリッドを脅かされる心配はなかったのに、互いにどちらがチームのナンバー1であるかを示そうとして意地の張り合いをしたのである。二人のあまりに強烈なライバル意識を目のあたりにして、ウィリアムズのチーフ・エンジニアのパトリック・ヘッドは予選のあとでつぎのようにいわなければならなかった。
「明日のレースに問題があるとすれば、二人のバトルをどう抑えるかだ」
そして三位には、1分28秒408でアイルトン・セナがつけた。ウィリアムズ・ホンダの二人とは2秒も差があったが、これでともかくホンダ・エンジン勢は上位三位までを独占したのである。
一方、ホンダ・エンジン勢にとって最大のライバルのアラン・プロストは、ベネトン・フォードのテオ・ファビにつづいて五位につけていた。タイムは1分29秒175で、マンセルにくらべると3秒も遅かった。しかし桜井淑敏は、パトリック・ヘッドのように楽観的にはなれなかった。マクラーレン・ポルシェとアラン・プロストの組み合わせがレースになるといかにしぶといかを、過去にいやというほど味わわされていたからだった。このタイムはあくまでも予選タイムで、レースではプロストのタイムほども速くは走らないのである。ぜんぜん安心はできなかった。
安心できない理由がもうひとつあった。桜井淑敏はシーズンオフのあいだからFISA支給のポップ・オフ・バルブが規定の四バール以下で開いてしまう欠陥を指摘し、FISAに何度も改善を求めてきていた。ところが金曜日の一回目のフリー走行のあとで計測器にかけてみると、欠陥がまったく改善されていないことが判明したのである。
ポップ・オフ・バルブは、公平を期するためにFISAが各グランプリごとに抽選で各チームに支給することになっており、ホンダは金曜日のフリー走行の前に二チーム分六個を支給された。その時点では何も分らなかった。ターボチャージャーに取りつけるとFISAの係員が封印をおこない、そのセッションのあいだは勝手に取り外しができないことになっていたからである。
したがって、パドック裏のFISAのオフィスとガレージが大混乱におちいったのは、フリー走行が終ったあとだった。四バール以下でバルブが開いてしまう原因は、バルブを閉じているコイル・スプリングの剛性不足だったので、全チームのエンジニアがそれを再調整してもらいにつめかけたのである。ホンダが引き当てたポップ・オフ・バルブは六個とも三・六から三・七バールぐらいで開いてしまった。だいたいどのチームのものも似たりよったりだったが、なかには三・二バールで開いてしまったり、最初から開きっぱなしというのもあった。
しかしどんなにFISAのエンジニアが再調整をかさねても、コイル・スプリングそのものが弱かったので、つぎのセッションが終るとまた簡単に駄目になってしまった。二日間のフリー走行と公式予選は、そうした大混乱の中でおこなわれたのである。
桜井淑敏は過給圧が三・二バール以上になるとどこで作動しはじめるか分らないポップ・オフ・バルブでは公平なレースが望めないと思い、ウィリアムズのパトリック・ヘッドとロータスのピーター・ウォーに、ポップ・オフ・バルブを使わないでレースをするように各チームにはたらきかけてはどうかと提案した。それが金曜日の午後だった。
しかしその計画は失敗した。土曜日に桜井淑敏が二人からの連絡を待っていると、ピーター・ウォーがやってきてこういったのである。
「駄目だよ、ミスター・サクライ。ロン・デニスが、うちのには問題なんか出ていないといって、どうしても承知しないんだ。もしポップ・オフ・バルブを使わないなんてことになったら、マクラーレンはレースをしないでイギリスに引き上げるといってる」
ロン・デニスというのはマクラーレンのマネジャーで、辣腕家だったので誰からも一目置かれていた。彼が同意しないのでは駄目だった。桜井淑敏が考えこんでいると、ピーター・ウォーがいった。
「仕方がないよ、ミスター・サクライ。三・六バールでバルブが開くと困るのはホンダ・エンジンだけなんだから。彼らのポルシェ・エンジンは、レースではそれ以上の過給圧は使えないんだ。燃費がもたないからね。ロン・デニスはそれをよく知っているんだ。だから、三・六バールでバルブが開いてしまうのは、彼らにはかえって好都合なのさ」
くそ、と桜井淑敏は思った。
彼とホンダの目標は、マクラーレン・ポルシェのアラン・プロストからドライバーズ・チャンピオンのタイトルを奪い取ることだった。一九八六年は、コンストラクターズ・チャンピオンは圧倒的なポイントをあげて獲得したが、ドライバーズ・チャンピオンのタイトルは、ナイジェル・マンセルが九分九厘まで手中にしながら最終戦のオーストラリア・グランプリでプロストに逆転されてしまった。しかし一九八七年は絶対に二つとも取るつもりだった。
ポップ・オフ・バルブによってすべてのチームのエンジンが同一レベルになっても、なおかつ馬力を稼げるようにギリギリまで高回転の新エンジンを開発したのもそのためにほかならなかった。また、たいていのことならそこでまにあうような設備を完備したF1エンジン用の工場もイギリスのラングレーにつくり、日本の本田技術研究所とコンピューターで直結した。しかしポップ・オフ・バルブが規定の四バール以下で開いてしまったのでは、そうしたシーズンオフの努力がすべて無になってしまうのである。
桜井淑敏はいろいろ考えた末、市田勝巳にいった。市田勝巳はF1エンジン開発の責任者で、彼も第一戦の様子を見るためにリオデジャネイロにきていたのである。
「市田くん。このままじゃどうしようもないからさ、ポップ・オフ・バルブのコイル・スプリングをホンダでつくろうよ。絶対に四バールまでへたらないやつをさ」
「そんなことできるんですか」
「できるかどうか分らないけどさ、FISAにいってみてくれないかな。うちでつくったうえでFISAに渡せばいいんだから」
市田勝巳はすぐにFISAのオフィスに交渉に行った。交渉はあっけなくまとまった。FISAとしても使ってみたのはいいが、各チームから文句が続出して困っていたのである。彼らとしてはどこからも文句の出ないものができるのは大歓迎だった。
こうしてポップ・オフ・バルブの問題は何とか解決できることになったが、それは一カ月か二カ月さきのことで、このブラジル・グランプリにどのレベルで開きはじめるか分らない不安定なポップ・オフ・バルブを使わなければならないことに変わりはなかった。どんなことになるのか桜井淑敏はすごく不安だった。
一方、中嶋悟はアクティヴ・カーが依然として不調だったにもかかわらず、金曜日より2秒もタイムをちぢめたので、まえの日よりもずっと上機嫌だった。
この土曜日には、日本から本田技術研究所社長の川本信彦がレースを見にサーキットにやってきていた。中嶋悟をF3000のラルト・ホンダのドライバーにして、最初に本格的に国際舞台に上げたのは彼だった。中嶋悟は公式予選のあとにホンダのオフィスで彼を見つけると、うれしそうにいった。
「あと1秒は絶対にちぢめられたんですけどねえ。32秒226を出したあと二度アタックしたんですけど、二度とも途中で四速のギヤが抜けちゃって、まいりました」
「いや、32秒226で十分だよ。初めてのF1で初めてのサーキットなんだから、立派なタイムだよ」
と川本信彦はいった。「あしただって、最後まで潰れないで走りきれば、六位ぐらいにはいっちゃうかもしれないよ。ここは燃費のきついサーキットだから、ほかの車がどんどん脱落していくからね」
ほんとかな、と中嶋悟は思った。しかし川本信彦の言葉は慰めでもうれしかった。
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18
ブラジル・グランプリのレースデーの四月十二日朝、中嶋悟はホテルの部屋で六時に目を覚ました。レース前に三十分間おこなわれるウォームアップ走行が九時に開始されることになっていたからで、彼はレースカーに乗るときはいつも必ずその三時間前に起きることにしていたのである。睡眠は八時間たっぷりとっていた。
彼はそれからホテルのレストランで朝食をとった。レストランのテーブルには、そこでいつも食べていた黒パンがなかった。彼はちょっとがっかりしたが、そのかわりに白いパンとフルーツをたっぷり食べた。ブラジルのフルーツはすばらしくうまかった。
自分でレンタカーを運転してイパネマ海岸沿いにあるホテルを出発したのは七時半だった。ハカレパグア・サーキットヘとつづく道路はすでに渋滞がはじまっており、空からはブラジルの夏の終りの熱い太陽の光が照りつけていた。レースがスタートする午後一時ごろには三十五度ぐらいになりそうだった。あまり暑いのは車によくなかった。タイヤの摩耗が早まったり、吸気温が高くなりすぎたりして、レースに微妙な影響を与えずにはおかないからである。例年、ブラジル・グランプリで発生するトラブルには、多かれ少なかれそれがからんでいた。
「何も起きなければいいが」
と中嶋悟は渋滞の中をのろのろ走りながら祈った。彼の目標はまず完走することだったから、メカニカルなトラブルでリタイヤするのはいやだった。
渋滞はサーキットまでつづいていた。ホテルからサーキットまでは普段なら車で三十分の距離だったが、この日は一時間かかった。彼はロータスのオフィスで大急ぎでレーシング・スーツに着がえた。すべての準備が整い、ピットに顔を出したのは、ウォームアップ走行開始二十分前の八時四十分だった。
午前九時ちょうどにウォームアップ走行がスタートした。
ウォームアップ走行は、レース前にただたんに車の調子をチェックするだけではなく、レースにおける過給圧や燃費配分の最終テストがおこなわれるので、非常に重要なセッションだった。たとえば、このブラジル・グランプリはフォーメーション・ラップ一周を含めて5・031キロのコースを六十二周、311・922キロを走らなければならなかったので、リッターあたり最低でも1・6キロの燃費が必要だった。レギュレーションで搭載燃料は195リッターと決められており、途中給油が認められていなかったからである。したがって、1・6キロ以下の燃費で走ったのでは、どんなに速く走ってもガス欠でストップしてしまうことになるのだった。
また、フルタンクの状態と、レース後半になってガソリン・タンクが軽くなってからの状態とでは、車体重量の関係からあらゆることが微妙にちがってくる。通常ラップ・タイムが2秒程度速くなるし、当然のことながら燃費にも変化が生じる。そうしたことをすべて計算して、レースにおける過給圧の燃費のベストバランス・ポイントを最終決定するのが、このウォームアップ走行の大きな目的なのだった。
中嶋悟もそのためにさまざまな条件で走った。フルタンクで五周走ると、こんどは120リッターで走るといった具合だった。ウォームアップ走行の時間はわずか三十分だったので、すべての人間が大忙しだった。とくにメカニックは、車がピットにはいってくるたびにガソリンを入れたり抜いたり、タイヤを交換したりしなければならないのでたいへんだった。
中嶋悟はあるとき、フルタンクの状態で自分がどれくらいのタイムで走れるか試してみることにした。ホンダ・エンジン搭載車には、この年からホンダのエンジニアたちが開始したコンピューターによるF1初のラップ・タイマーがついていたので、自分の目ですぐに知ることができた。三周ばかり全力で走ってみた結果は、もっとも速いタイムで1分37秒4だった。
「すげえや」
と思った。ほとんど燃料を積まないで走った予選タイムより5秒も遅かった。
しかしもっと驚いたのは、ウォームアップ走行が終ったあとで、アラン・プロストやネルソン・ピケといったトップ・ドライバーたちのフルタンク状態でのタイムを知ったときだった。彼らは1分33秒から1分34秒台のタイムで軽々と周回していたのである。彼の場合の1分37秒4は、全力で走ってやっと出したタイムだった。
一方、ホンダ・チームのオフィスでは、桜井淑敏を中心にウィリアムズとロータス担当のエンジニアたちが集まり、それぞれがウォームアップ走行のデータをもとに、レース展開がどのようになるかの予測をおこなっていた。
ウォームアップ走行のデータは、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケとナイジェル・マンセル、ロータス・ホンダのアイルトン・セナ、それにマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストの四人の争いになりそうなことを告げていた。一九八六年のシーズンとまったく同じだった。
桜井淑敏たちは、四人のタイムをいろいろな角度から比較検討した。プロストのタイムは、彼がどの周回をフルタンクで走り、どの周回を120リッターで走ったのかはっきりつかめなかったために推測で判断する以外になかったが、彼はだいたいセナのタイムと同程度で、ピケとマンセルにくらべると約0・5秒遅かった。同じホンダ・エンジンを積んでいるのに、セナがピケやマンセルより遅いのは、ロータスのアクティヴ・カーの熟成不足と重量オーバーのためで、セナにはどうしようもないことだった。
「ピケで行けそうだな」
と桜井淑敏はいった。
みんながそれにうなずいた。
ピケはプロストより0・5秒速かっただけではなく、先天的にスムーズなドライビングをするタイプだったので、マンセルと同タイムでも彼よりずっと燃費がよかったのである。それはプロストに対して0・5秒のマージンを持ったうえに、万が一のときはさらに高い過給圧を使って走れるということを意味していた。
彼らホンダ・チームは、敵はプロスト一人だと思っていたので、この結果には誰もが満足した。彼らの予測順位はつぎのようなものになった。
ピケ。マンセル。プロスト。セナ。
問題はポップ・オフ・バルブだったが、いまとなってはもうレースで三・二バールなんかで開かないでくれることを祈ることぐらいしかできることはなかった。
彼らはミーティングが終ると、オフィスでパンにハムとレタスをはさんだだけの簡単なサンドイッチをコーラで胃の中に流しこんだ。レーシング・チームの昼食はいつもこんなものだった。彼らにはサーキットの外のレストランに行っている時間などまったくなかった。レース前のエンジンのチェックで休む間もないメカニックたちは、同じものをピットで立ったまま食べた。F1レースは見物客にとっては華やかでスリルに満ちたショーだったが、やっている者にとってはそうではなかった。優雅なところなど何ひとつなく、ただひたすら忙しいだけの苛酷な世界だった。
桜井淑敏がそのサンドイッチを食べていると、ホンダのオフィスに中嶋悟がやってきた。彼は、初めてのF1レースを前にしてやや興奮しており、落ちつきがなかった。椅子にすわると彼は桜井淑敏に不安そうにいった。
「ねえ、桜井さん。上のほうの八台ぐらいはおれには関係ないからどうでもいいんだけど、その下の十台ぐらいの連中はどのくらいのタイムで走るんだろう。分りますかね」
上のほうの八台というのは、ピケ、マンセル、セナ、プロストのトップ・グループと、そのすぐあとにつづくだろうと思われるフェラーリやベネトンのセカンド・グループで、彼は自分はその下のブラバムやアロウズ、ザクスピードといったサード・グループの車と戦うことになるだろうと思っていたのである。ほかにティレルやマーチなどのように3500ccのノンターボ・エンジンの車が四台いたが、それはあきらかにパワーがちがったので問題にならなかった。
しかし桜井淑敏は中嶋悟の質問には答えることができなかった。彼が気にしていたのは、ピケかマンセルかセナかプロストより0・1秒でも速く走って優勝することだけで、セカンド・グループ以下のタイムなど真剣に考えてみたこともなかったからである。
「ちょっと分らないな」
と桜井淑敏はいった。「でも、トップ・グループは1分36秒台でスタートして、ガソリンが軽くなる終りのほうは1分33秒台ぐらいになるんじゃないかと思うんですよ。平均すると1分34秒から1分35秒ぐらい。だから中嶋さんは、1分37秒平均ぐらいで走ると、まあまあのところにいくんじゃないかと思うけど、走れますか」
中嶋悟は考えた。そしていった。
「むずかしいな。1分38秒台ならいけると思うけど」
「ウォームアップ走行のとき、フルタンクで一度1分37秒を出したでしょ。あのときの感じはどうだったんですか」
「精一杯ですよ。あの走りを六十一周つづけるなんて考えられない」
「そうですか。じゃあ仕方がないね」
「おれだけタイヤ交換一回だけで行けませんかね」
中嶋悟はそこに活路を見出すかのように、桜井淑敏に訴えた。タイヤ交換を一度すると、交換そのものにかかる時間は10秒程度だが、ピット・ロードでスピード・ダウンするほかに新タイヤがあたたまるまでは全力走行ができないので、全部で30秒ぐらいロスするのである。しかしそれもむずかしい注文だった。桜井淑敏はいった。
「この暑さだからね。すくなくても二回は必要になると思うよ」
オフィスはクーラーがはいっていたので涼しかったが、外の暑さはすでに三十五度を超えていた。
「やっぱりね」
と中嶋悟はいった。それから彼はひとりごとのようにつぶやいた。「おれ一人だけで走れればなあ。速い連中はみんなさきに行っちゃってさ。そうすりゃ自由に走れるから燃費の心配もなくなるし。へんな連中とゴチャゴチャ一緒になって走るのはいやだな」
「だいじょうぶですよ」
と桜井淑敏はいった。「心配ないよ」
しかし彼がはじめてのF1レースでちゃんと走れるかどうか、桜井淑敏にも本当のところはまったく分らなかった。それでもここまできた以上は、中嶋悟はどんなに不安でも自信がなくても、レースに出場して走らなければならないのだった。それがつらいところだった。
中嶋悟は、スタート一時間前の十二時にロータスのオフィスに戻った。彼が戻ると、そこでレース前の最後のチーム・ミーティングがおこなわれた。
レースの打ち合わせが終ると、F1初体験のドライバーを心配して、チーム・マネジャーのピーター・ウォーが中嶋悟にいった。
「サトル、いいところを見せる必要なんかないからな。まちがってもヒロイックなことをしようなんて思うなよ。ステディに行くんだ。いいな、絶対に無理はするなよ」
また、アイルトン・セナはつぎのような注意を与えた。彼は二十七歳で中嶋悟より七つも若かったが、F1ドライバーとしては先生だった。
「うちの車は速いから、遅い車はいくらでも直線で抜ける。だから絶対にカーブで抜こうなんて思っちゃ駄目だ。それから、スタートのときはよく前を見てろ。メーター・パネルなんか見てちゃいけない。前の車がスタートできないケースがよくあるんだ。しっかり前を見てないと、それに追突してレースが終ってしまう。その二つに注意すれば、あとはどうってことないよ」
そして新人ドライバーの緊張をほぐすようにニッコリと笑いかけた。中嶋悟は黙ってうなずいた。しかし緊張はぜんぜんほぐれなかった。
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中嶋悟は何もかもがはじめての経験だったので、あらゆることが不安だった。
なかでも心配だったのは、六十一周、約300キロの距離を走るあいだ自分の体力がもつかどうかということだった。とくにブラジルの暑さは並大抵ではなかったので、途中でバテてしまうのではないかと怖れた。
F1カーのコックピットには、そうしたドライバーの不安をやわらげ、体力の消耗を補うために、一リットル程度の栄養液を積みこむスペースがとられていた。そしてそれはチューブでドライバーのヘルメットにつながれ、ハンドルについたボタンを押すと好きなときに口の中にシュッと送りこまれる仕組みになっていた。中嶋悟は日本から特別のドリンクを持ってきていたので、それを積みこんだ。
また彼は、ブラジルの暑さに備えてヘルメットの下にヘッド・クーラーをかぶった。冷却器から冷水が送られてきて、いつも頭を冷やしておけるのでとても具合がよさそうだった。
彼はそうして、スタート前にできるだけの準備はしていた。しかしそれでも不安は完全には拭いきれなかったのである。体力を消耗して血のめぐりが悪くなったらどうしようとか、途中で握力がなくなってハンドルやギヤの操作がうまくできなくなったらどうしようとか、そんなことばかりが頭に思い浮んだ。じっさい彼は、だいぶ前にはじめて日本でFPカーに乗ったころ、体力が消耗して血のめぐりが悪くなり、レース中に頭がぼうっとしてきて目をあけていられなくなったことがあった。F1でそんなことになったらたいへんだった。
しかしそのあいだにも時間は刻々と過ぎ、いやおうなくスタートの時が迫ってきた。十二時半になると彼は車に乗りこみ、メカニックに六点式のシートベルトをしっかり締めてもらってピットから出て行った。そしてそのままサーキットを四周ばかりして、タイヤやエンジンをあたためた。ロータスのアクティヴ・カーの調子は依然としてもうひとつの状態だったが、心配していた予選一日目のようなビッグ・トラブルはあれ以来一度も出ていなかった。どうやらスタートはできそうだった。
彼はやがて六列目の予選十二位のグリッドに車を止め、エンジンを切った。コース上には各チームの関係者のほかにジャーナリストやカメラマンがあふれ、誰もが忙しそうにあちこち飛びまわっていたが、彼は車の中でじっとしていた。彼の背中のほうでは、ロータスのメカニックたちがウォームアップの四周で使った分のガソリンを急いで補充していた。
フォーメーション・ラップのスタート二分前になると、車外バッテリーを持ったメカニック以外の人々がコース上から離れはじめた。そして一分前のアナウンスと同時に残ったメカニックが車外バッテリーをエンジンにつないだ。中嶋悟はスターター・スイッチを押した。エンジンがものすごい音を立てて回りはじめ、その振動が車体を小刻みに震わせた。フォーメーション・ラップがスタートした。
二十二台のF1カーは予選順位に隊列を組み、三分後に再びグリッドに戻ってきた。そしてすべての車が完全に自分のグリッドに着いてから五秒ないし七秒後にレース・スタートになるというのが決まりだった。
中嶋悟は前の車から順々にグリッドに着いていくのにしたがって、十二番目の自分のグリッドに着いた。その瞬間だった。それまでは何ともなかったのに、とつぜん胸のあたりが熱くなって涙がにじんできたのである。
「困ったな」
と彼は思った。なにしろ、あと五秒か七秒でシグナルに赤ランプがつき、それが青に変わるとスタートなのである。しかしどうにもならなかった。
彼はレースが終ったあとで、このときの気分をつぎのように説明した。
「グリッドに着いたとたん、すげえなあと思ったんだよ。長いあいだ夢に見てきたF1だからね。その中に自分がいると思ったら、ひとりでに涙が出てきたんだ」
つぎの瞬間、シグナルに赤ランプがつき、すぐに青に変わった。いつまでも涙で目をにじませているわけにはいかなかった。中嶋悟はアクセルをいっぱいに踏みこみ、ギヤを一速に入れて急いでスタートした。しかしほんの一瞬だけ遅れた。彼はたちまちうしろの二台に抜かれ、100メートルも行かないうちに十四位に落ちた。
彼は十周目にようやく順位をひとつ上げて十三位になった。五位を走っていたベネトン・フォードのテオ・ファビがエンジン・トラブルでリタイヤしたために、自動的に繰り上がったのである。
ヘッド・クーラーが壊れたのもちょうどそのあたりだった。すこし頭を冷やそうと思ってスイッチを入れると、冷却液が全部流れ出してしまったのである。結局、ヘッド・クーラーは何の役にも立たず、頭と顔をびしょびしょに濡らしただけだった。どうなってるんだと思ったが、どうしようもなかった。
ほかにも思いどおりにならないことは山ほどあった。なかでも、もっとも負担になったのは車の操作だった。
「いいわけをするつもりはないけど、レース前にあまり乗りこんでいなかったから、最初はギヤ・チェンジもスムーズにできなかった。はじめてのコースだったせいもあるだろうけど、このコーナーは三速、つぎは二速というふうに頭で考えながらチェンジしなければならなかった。考えなくても、手が自然に動くようになったのは二十周をすぎてからだった」
と彼はいっている。
そしてだんだん自分の車に慣れてきた二十二周目には十一位に上がった。しかしこれも自分で前の車を抜いて順位を上げたのではなく、アロウズ・メガトロンのデレック・ワーウィックと、ブラバム・BMWのアンドレア・デ・チェザリスがリタイヤしたことによるものだった。
中嶋悟は本当に他のドライバーと競走するつもりはまったくなかった。慣れるまではとても競走などできないと思っていたし、最初からおかしなドライビングをして他のドライバーに憎まれるのもいやだったからである。彼は、へんなドライビングをしたためにあとで危険な意地悪をされた新人F1ドライバーの話をいやというほどきかされていた。彼らのように、あとで思いもかけないところでブレーキングされたりして危い目にあうのはごめんだった。
そのために彼はレースのあいだじゅう、いかに上手に抜かれるかということにばかり気を使っていた。すでに彼は二十一周目にトップのアラン・プロストにラップされて一周遅れになっていたが、バックミラーでプロストがうしろにきたと知ると、タイミングを見はからってさっと脇によけた。その後も彼は上位陣につぎつぎにラップされていったが、そのたびにそうした。
レースが終ると彼はいった。
「抜かれるということがあんなに気を使うものだとは知らなかった。日本のレースではほとんど抜かれるということを考える必要がなかったから、前だけを見ていればよかった。いつも抜かれることを考えてバックミラーばかり見ているのは本当に疲れる。抜くのもむずかしいけど、うまく抜かれるというのもむずかしいもんだ」
じっさい彼はそのたびにコースのどちら側によけるかに神経を使い、冷や汗を何度もかかなければならなかった。
一方、上位陣のほうは何度もトップが入れ替わる|熾烈《しれつ》な戦いとなった。
まずスタートから七周目までは予選二位のネルソン・ピケがトップに立った。二位はアイルトン・セナで、予選一位のナイジェル・マンセルはスタートでギヤを三速に入れてしまい、いきなり五位に落ちてしまった。アラン・プロストは六位だった。
そして八周目にはセナがトップに立った。ピケのラジエターに新聞紙がはりついてしまい、それをはがしてもらうためにピケがピットに飛びこんだのである。ピケは一緒にタイヤ交換もおこない、急いでピットから出て行ったが、それで十二位まで落ちてしまった。
十三周目には、スタート時の六位からじりじりと追い上げてきたプロストがセナを抜いてトップに立った。そしてセナが十四周目にタイヤ交換をおこない、つづいて十七周目にプロストがタイヤ交換をおこなうと、十二位から追い上げてきたピケが再びトップに立った。しかしそのピケも二十一周目には二度目のタイヤ交換のためにピットにはいらねばならなくなって、その間にまたプロストがトップに立った。
しかしめまぐるしくトップが入れ替わったのはそこまでだった。あとは何ごとも起きず、結局プロストが逃げきったのである。
ホンダ・エンジン勢の敗因は、じつにつまらないトラブルだった。
スタートから六周目までは、ピケもマンセルもセナも、桜井淑敏たちが予測したとおり1分36秒台の速いタイムでラップをかさね、トップに立ったピケはとくにすばらしいペースでレースをリードしていた。マンセルも速く、わずか二周でスタートのミスをとり返して五位から三位に上がり、一時はピケ、セナ、マンセルと並んでホンダ・エンジン勢が1・2・3体制をつくってしまったほどだった。
ところが七周目にピケが無線でつぎのようにいってきた。
「水温の様子がおかしい。百度を超えてる。このままのペースでいったらオーバーヒートしてしまう」
そのときはピケの車のラジエターに新聞紙がはりついていると分ったので、誰もが原因はそれだと思ってあまり心配しなかった。しかし、まもなく新聞紙も何もはりついていないはずのマンセルまでもが同じことを無線で叫んできたのである。セナは吸気温が高くなってきたと報告した。
原因はまったく不明だった。それが分ったのはレース終了後だった。車の様子を調べてみると、ウィリアムズの二台はラジエターに、セナの車はインタークーラーにタイヤのカスがべったりとはりついていたのである。ウィリアムズのラジエターも、ロータスのインタークーラーも、表面がそれで六割ぐらいおおわれてしまっていた。
ブラジルの熱が路面とタイヤを焼き、それではがれたタイヤのトレッドがラジエターの空気取り入れ口に吸いこまれたのだった。桜井淑敏はウィリアムズとロータスの車の様子を調べたあとでそっとマクラーレンのピットに行き、プロストの車がどうなっているか覗いてみた。プロストの車のラジエターにも同じようにタイヤのカスがはりついていたが、その表面をおおっている割合は三割か四割程度だった。マクラーレンのラジエターを保護しているメッシュの目をよく見ると、ウィリアムズとロータスのメッシュの目よりずいぶん細かかった。そのためにマクラーレンのラジエターには、あまりカスが吸いこまれなかったのである。
「くそ」
と彼は思った。
ラジエターを保護しているメッシュの目のあらさによってマクラーレンに対する彼らの0・5秒のマージンが失われ、彼らは勝つべきレースに負けてしまったのである。あとで計算してみると、プロストの平均ラップ・タイムは二回のタイヤ交換によるロス・タイムを差し引いても、1分37秒3だった。桜井淑敏がピケならそれが実現可能だと予測したタイムより2秒から3秒も遅かった。しかし、これがレースだった。何が起きるかまったく分らなかった。
順位はつぎのようなものになった。
一位 アラン・プロスト
二位 ネルソン・ピケ
三位 ステファン・ヨハンソン(マクラーレン・ポルシェ)
四位 ゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)
五位 ティエリ・ブーツェン(ベネトン・フォード)
六位 ナイジェル・マンセル
四十三周目まで二位を走っていたセナは、オイル・タンクのトラブルでリタイヤしていた。ホンダ・エンジン勢にとっては、まったく不運なレースといわなければならなかった。レースが終ってみれば、あんなに大騒ぎしたポップ・オフ・バルブなどまったく関係がなかったのである。
レースのあとで満足感を味わうことができたのは、結局中嶋悟だけだった。
彼は二十二周目に十一位になってからは、四十五周目までずっとそのままの位置にいた。抜きもしなければ抜かれもしなかった。ただプロストには再びラップされて二周遅れになった。それだけだった。ところが、それからの残り十六周で彼の順位はバタバタと上がっていった。
土曜日の予選が終ったあとで、本田技術研究所社長の川本信彦がいっていたとおりだった。それまで何ごともなく走っていた上位の車が、ガス欠やエンジン・トラブルでつぎつぎにレースから脱落しはじめたのである。
中嶋悟は、コースを一周してピットの前に戻ると、日の丸のマークのついた自分のサイン・ボードにつぎつぎと新しい順位が示されるのを知ってびっくりした。四十六周目に十位、四十九周目に九位、五十一周目に八位。そして彼にとっては最終ラップの五十九周目には、とうとう七位まで上がってしまったのである。
チェッカー・フラッグを受けた瞬間、彼はヘルメットに内蔵されたイヤホーンで、ロータスのマネジャーのピーター・ウォーがつぎのように叫ぶのをきいた。
"Well done, Satoru!"
車から降りると、すべての人に同じことをいわれた。
「よくやった」
彼は信じられなかった。タイヤ交換によるロス・タイムを差し引いた彼の平均ラップ・タイムは1分41秒9で、プロストとの差は4秒6もあった。それに最初から最後まで無理をしなかったために一台も抜かなかった。しかし、終ってみると、入賞まであと一歩の七位になっていたのである。
中嶋悟は、新人のデビュー戦としてはこれ以上はない成績をあげたのだった。
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中嶋悟は、ブラジル・グランプリが終ると四月十四日にロンドンに戻り、郊外のウォルトンの自宅で家族とともにしばらくすごした。まわりには木々の緑が繁り、外に出れば草の匂いがして、とても落ちついた感じのところだった。彼はそこでも時間があるかぎり、ジョギングを欠かさなかった。草の匂いを嗅ぎながら木々の緑の中を走るのは、とても気持がよかった。
しかしそうしてのんびりした時間をすごすことができたのも、わずか一週間あまりだった。第二戦のサンマリノ・グランプリがおこなわれるイタリアのイモラで、二十四日から走行テストをしなければならなかったからである。レース、テスト、レース、テストというのがF1グランプリ・チームの基本的なスケジュールで、その強行スケジュールに耐えられるかどうかということもF1ドライバーにとって非常に重要なことだった。彼はレースに慣れるのと同時に、そうしたことにも早く慣れなければならなかった。
中嶋悟は四月二十三日にロンドンから飛行機でボローニャに飛んだ。イモラはボローニャから車で三十分ほどのところの町だった。
サーキットに着くと、そこにはロータス・ホンダのほかに、ウィリアムズ・ホンダ、マクラーレン・ポルシェ、フェラーリ、ブラバム・BMW、ベネトン・フォードなどの有力チームの車が集合していて、それぞれのメカニックたちが翌日の準備をしていた。イモラはリオデジャネイロのコースよりさらに燃費のきついコースだったので、どのチームもいいテストをしようと必死のようだった。
中嶋悟は、このイモラのコースには自分なりの自信を持っていた。一年前の六月にF3000で一度レースを経験しており、F1グランプリのコースの中では知っている数すくないコースのうちのひとつだったからである。知っているコースを走るのと知らないコースを走るのとでは、心理的負担がぜんぜんちがった。
「一度でも行ったことのある街と初めての街じゃ、歩くにしても車で走るにしても感じがちがうでしょ。知っている街なら、目的地へだってはやく着ける。それと同じだよ。街のほうだってこっちによくしてくれるしさ」
と彼はいった。
ここでは三月末にも一度テストで走っていたが、そのときはアイルトン・セナがほとんど一人で走ったので中嶋悟はあまり車に乗れなかった。だがこんどは思う存分走れるだろうと彼は思った。そしてこんどこそはっきりした手応えをつかむつもりだった。
テストは翌日の四月二十四日から三日間おこなわれた。しかし中嶋悟はこんどもまた自分が期待していたほどは車に乗れなかった。まず一日目はこれまでと同じようにチームの全員がセナ一人にかかりきりになって、彼はその見学にまわされた。
彼が他のチームの車と一緒にセナだけが走っているのをピットで見ていると、あるとき車から降りたセナが近づいてきて彼にいった。
「面白くないのは分ってるよ。しかし、いまのうちの車の状態を考えたら、ナンバー1のおれだけに集中するのは仕方がないんだ。二人にはとても集中できない。そうじゃなきゃ勝てないんだ。いまは我慢のときだよ」
まったくそのとおりだったので、中嶋悟は分ってるよといった。しかしセナのやさしい心づかいはとてもうれしかった。
二日目もほとんど乗れなかった。午後になって中嶋悟にも車が与えられたが、そのときにはすでに三時を過ぎており、十周ぐらい走っただけで終ってしまったのである。
一日中乗れることになったのは、やっと三日目だった。中嶋悟はようやく思う存分走れるチャンスがきたと思って張り切った。しかし彼はツイていなかった。午前中に二十周ばかり走ったところでドライブ・シャフトが折れてしまったのである。万事休すだった。それで彼のイモラ・テストは終ってしまった。
しかし彼はその間に、予選仕様ではなくレース仕様のセッティングで1分31秒台のタイムを出していた。ネルソン・ピケやアラン・プロストといったところは1分27秒台のタイムで走っていたが、1分31秒は中嶋悟としては上々のタイムだった。どのみちレースでは、燃費の関係から1分32秒から33秒台のタイムでしか走れないことがはっきりしていたのである。平均時速にして約195キロというところだった。
中嶋悟が車から降りると、ロータスのチーフ・エンジニアのジェラルド・ドゥカルージュが彼のラップ・チャートを見ながらいった。
「どうしてこんないいタイムが出せたんだ。このコースを走ったことがあるのか」
中嶋悟は、笑ってそうだといった。彼は三日間でたった三十周しか走れなかったが、F1ドライバーになってはじめてたしかな手応えをつかんだのだった。
イモラでのテストが終ると、彼はセナやロータスのメンバーと一緒にパリヘ行った。そこでフランスのエルフ石油の創業二十周年パーティーが開かれることになっていたからである。エルフ石油はロータスのスポンサーのひとつで、ウィリアムズ用のホンダ・エンジンにはアメリカのモービル石油のオイルが使われていたが、ロータス用のエンジンにはエルフ石油のオイルが使われていた。
パーティーにはかつてのワールド・チャンピオンのジャッキー・スチュワートやアラン・プロストも招かれていた。中嶋悟は彼らと一緒にF1ドライバーとして紹介され、彼らと同じようなもてなしを受けた。彼はあらためて自分が本物のF1ドライバーになったことを認識させられ、何ともいえぬ感激を味わった。
彼は四月二十七日のパーティーが終ると、その夜の最終便で夜遅くイギリスの自宅に帰った。しかし家でのんびりできたのは二日間だけだった。サンマリノ・グランプリは五月三日で、四月三十日には再びイタリアのイモラヘと飛ばなければならなかったからである。
一方、ホンダ・レーシングチームの総監督の桜井淑敏は四月二十九日に日本を発ってイモラヘと向った。
彼としては第一戦のブラジルで手痛い敗北を喫していたので、サンマリノ・グランプリではどうしても勝ちたいと思っていた。ところが彼は、よりによって出発直前になってやっかいなエンジン・トラブルをひとつかかえてしまった。
彼らホンダ・チームは、サンマリノ・グランプリを前にして吸排気系の形状を全面的に見直した新エンジンをつくって、すでにイモラに送り出していた。ブラジルで使ったエンジンよりもずっと燃焼がよく、そのぶん燃費もアップした非常にすばらしいエンジンだった。ところがそのエンジンが四月二十七日の月曜日に本田技術研究所のベンチで耐久テストをしているときに壊れてしまったのである。すぐにエンジンをバラして調べてみると、プラグの溶接部分にクラックがはいっており、そのためにミス・ファイアが生じた結果だと分った。そんなトラブルは初めてだった。結局、燃焼があまりにもよくなりすぎたために燃焼温度が急上昇し、プラグの溶接部分がその熱に耐えられなくなってしまったのである。
彼らはプラグをつくっているNGKプラグのエンジニアを呼び、いろいろ協議してそれまでとはちがう工法で新しいプラグをつくってもらうことにした。NGKプラグはその日の夜から新プラグの製造にはいり、徹夜で仕事をして二十八日いっぱいでそれを完成させた。ものすごいスピードだった。そしてホンダ・レーシングチームのスタッフは、研究所で二十九日からすぐにその新プラグのテストを開始した。桜井淑敏はその時点で成田からイモラに出発したのである。
「どうなるんだろう」
と彼は思った。
その後のスケジュールでは、三十日まで二日間かけて研究所のベンチで耐久テストをおこない、そのあと五月一日に日本のF3000レースでホンダ・エンジンに乗っているイギリス人のジェフ・リースが鈴鹿でウィリアムズの車で実走テストをすることになっていた。そしてそれで問題が出なければスタッフの一人が五月一日の夜に日本を発ってイモラにその新プラグを運ぶのである。すべてが順調に進んだとしても、イモラに着くのはイタリア時間で五月二日の午後だった。
毎年シーズン当初はいろいろ新しいことを試みるので、トラブルが続出するのは珍しいことではなかった。しかしそれにしても、まにあうかまにあわないか綱渡りのようなものだった。それでもまにあえばよかったが、もしまたトラブルが出るようだとレースは失われるのだった。桜井淑敏としては、どちらにしても頭の痛い問題だった。
しかしホンダにとって明るい話題もあった。ブラジル・グランプリでFISAが支給したポップ・オフ・バルブは、表向きは過給圧が四バールになるまで閉じているということだったが、実際問題としては三・二バール以上になるとどこで開いてしまうか分らない欠陥品だった。それですべてのチームから抗議が殺到したために、サンマリノ・グランプリから四・二バールぐらいになるまで開かないというふれこみのものが支給されることになったのである。
ホンダ・チームはすでにテスト用に支給されたものを試して、それがかなり満足できるレベルになったことを確認していた。四・二バールまではもちろんもたなかったが、三・八から三・九バールぐらいまでならちゃんと閉じていることが分ったのである。彼らはリオデジャネイロでFISAと約束したとおり、ホンダでポップ・オフ・バルブのコイル・スプリングを開発する努力はつづけていたが、これで実質上の問題は一応解決したのだった。マクラーレンのポルシェ・エンジンが三・六以上の過給圧をレースで使えるとは考えられなかったので、これはホンダにとって非常に有利なことだった。
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サンマリノ・グランプリの一回目の予選は、五月一日金曜日の午後一時からおこなわれた。
この日もっとも調子がよかったのは、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケだった。
彼は午前中のフリー走行では1分26秒758で、チームメートのナイジェル・マンセルの1分26秒165についで二位のタイムしか出していなかったが、相変わらず非常に燃費のよい走り方をしていた。イモラは、ブラジルのハカレパグア・サーキットよりさらに高速コースで燃費がきついコースだったので、ここではそれがもっとも大事なことなのだった。その点マンセルは、エンジンの全開頻度が高く、急ブレーキングと急加速をくり返してタイムを稼ぐタイプだったので不利だった。そうした点から、レース・データはピケと同じ燃費でピケ以上に速く走れるドライバーはいないと告げていたのである。じっさいマクラーレン・ポルシェは、ホンダ・エンジンに対抗するために燃料を薄くしすぎて、アラン・プロストもステファン・ヨハンソンも予選中にそろってエンジンをブローさせてしまった。
予選でもピケは充実していた。予選がはじまって十五分後、ピットから出て行ってわずか五周目に1分25秒997というこの日の最速タイムを出してしまったのである。この時点での第二位のタイムはマンセルの1分26秒204、第三位はブラバム・BMWのリカルド・パトレーゼの1分28秒447だった。
ピケは六周目もそのままタイム・アタックをつづけ、1分26秒901という速いタイムを出した。そして七周目もスピードをゆるめなかった。この日最大のショックがサーキット全体を襲ったのはそのときだった。六速全開、時速300キロで抜けて行くゆるい右回りのカーブでピケがとつぜんコントロールを失い、はげしくスピンしながらコンクリートのフェンスに激突したのである。原因は左リヤタイヤのバーストだった。
中嶋悟はその事故のすぐあとに現場を走り抜けた。彼はそのときのピケの様子を、あとでつぎのように語った。
「車は何度かスピンして、左リヤからフェンスに激突していた。すぐに大きな事故だと分った。ドライバーというのは、クラッシュしたら普通すぐに車から飛び出すものなのに、ピケはコックピットの中でぐったりしたまま動かないでいた。一瞬、やばいなと思った」
事故を無線でまっさきにピットに知らせたのは、中嶋悟よりはやく現場を通ったベネトン・フォードのテオ・ファビだった。彼は叫んだ。
「ピケは動けない。誰か早く助けてやってくれ」
ピケは激突した瞬間に頭をコンクリートのフェンスに強打し、|脳震盪《のうしんとう》を起こしていたのである。彼はサーキットからヘリコプターですぐにボローニャの病院に運ばれたが、一時的な記憶喪失に陥っており、記憶は夜の十時ごろまで戻らなかった。
この事故で各チームのグッドイヤー・タイヤに対する不安が高まった。午前中のフリー走行のときにも、プロストのタイヤが原因不明のバーストを起こしていたからである。
グッドイヤー・タイヤはすばやい対応を迫られた。彼らはF1タイヤの研究開発には莫大な金がかかるので、この年からグッドイヤーが一社だけで全チームに独占供給をするという条件でタイヤの供給を引き受けていた。他のタイヤ会社との競争がなくなれば、あまり開発費を使わなくてすむからだった。しかし引き受けた以上は、バーストの直接の原因がタイヤそのものにはなかったとしても、安全なタイヤを供給する責任があった。
彼らは短時間に見事な対応を見せた。まず各チームにつぎのような通達を出した。
〈一度タイム・アタックをしたら、つづけて行かないでつぎの一周は必ずスローダウンすること。タイム・アタックは同じタイヤで三度以上はしないこと〉
そしてその日のうちにイギリス・グッドイヤー社と連絡をとり、翌土曜日の朝にはチャーター便でイギリスから各チームに必要なだけのより安全な固いコンパウンドのタイヤを取りよせたのだった。
またドライバーたちも果敢なレーシング・スピリットを披露してみせた。予選は事故から三十分後に再開されたが、全員が車がバラバラにちぎれたピケのクラッシュのあとを目撃していたにもかかわらず、コース・オープンと同時にいっせいにタイム・アタックに飛び出して行ったのである。そしてほとんどのドライバーが、ピケがクラッシュする前に出していた自分のタイムを上回った。
中嶋悟もその一人だった。彼のベスト・タイムは、ピケがクラッシュするまえは1分30秒539だったが、あとでは1分29秒579を出して十位にくいこんだのである。また彼は、このセッションでマンセルの時速335キロにつぐ333キロという直線での最高速をマークした。それにもかかわらずラップ・タイムが十位だったということは、レースではカーブでのブレーキングと脱出加速がいかに重要かということにほかならなかったが、すくなくとも彼はスピードではトップ・ドライバーに負けないことを示したのである。これは彼がF1レースに慣れ、カーブでのブレーキとアクセル・ワークをつかめば、まちがいなく速くなるということだった。
一日目の予選一位は、結局事故の二周前に1分25秒997を出したネルソン・ピケだった。このピケのタイムを破れる可能性があったのはマンセルだったが、彼はピケがクラッシュするまえに出した1分26秒204のまま二位に甘んじた。チーム・オーナーのフランク・ウィリアムズが、ピケのタイヤ・バーストの本当の原因がはっきりするまではタイム・アタックをすべきでないと判断して、再開後はレース・セッティング走行に終始したからだった。マンセルはそれに従ったのである。
こうして一日目の予選は終ったが、桜井淑敏は優勝の可能性がもっとも高かったピケが病院に運ばれてしまったので、がっかりしてしまった。マンセルも速いには速かったが、プロストに確実に勝つには燃費の点でちょっと心もとなかった。そんな気分で彼がパドック裏に止められたホンダのモーター・ホームにいると、ロータスのチーフ・エンジニアのジェラルド・ドゥカルージュがやってきた。
彼はピケの様子を訊ねたり、他のF1チームの噂話などをあれこれしたあとで、桜井淑敏にいった。
「じつはきょうの予選中に、偶然アクティヴ・サスのいいセッティング・ポイントが見つかったんだ。おそらく明日はセナが25秒台のタイムを出してポール・ポジションを取ると思うね」
「ほんとう?」
と桜井淑敏はいった。とてもこれまでの様子から判断してそうは思えなかったからである。
「嘘じゃないよ。それにサトルのタイムもよくなる。きょうのサトルの走りを見たろう。29秒5というのはなかなか立派なタイムだ。あれだけ走れれば、たぶん明日は28秒台のタイムを出して六位ぐらいになると思うよ」
「それがほんとうならうれしいけどね」
「信じないのか。よし、じゃあこうしよう。セナのポール・ポジションに三千ポンド賭けようじゃないか。いまメモをつくるから、二人でサインをしよう。おれが勝つことは分ってるんだ」
ドゥカルージュはおどけてその場で本当に三千ポンドの賭けを確認する簡単なメモをつくった。そして桜井淑敏にさあサインしろといって押しつけた。
桜井淑敏はドゥカルージュは本当に自信があるのかもしれないと思った。彼はいつも陽気なフランス人だったが、アクティヴ・カーを走らせるようになってからはずっと考えこんでばかりいて、こんな態度を見せるのは初めてだったのである。これが彼の本来の姿だった。桜井淑敏は賭けを断った。プロストを迎え撃つのにセナが加わるのは大歓迎だった。
夜の十時すぎになるとさらにうれしい情報がはいってきた。ボローニャの病院で記憶をとりもどしたピケがレースに出場するといっているという知らせだった。ピケは強力なカーボン・ファイバーのモノコック・ボディのおかげで、脳震盪のほかは左足を強打しただけであとは何ともなかったのである。頭を打っていたのでまだ何ともいえなかったが、プロのF1ドライバーが自分で走れるといっているのだから、きっと走れるのだろうと桜井淑敏は思った。ぜひ走ってもらいたかった。
しかし、結局ピケは走れなかった。
彼は翌土曜日の午前中に、病院から足をひきずりながらサーキットにやってきた。そして二回目の予選で、タイム・アタックはしないが三周か四周軽く慣らし運転をして、日曜日のレースには出場すると主張した。ところが彼のファイトはサーキットの医師に受けいれられず、ドクター・ストップがかけられてしまったのである。事故で頭を打ったドライバーは、様子を見るために七日間乗車禁止にするというのがF1レースの通例だったので、どうしようもなかった。
ピケはその決定が出ると、桜井淑敏のところにやってきていった。
「すまない。イージー・レースだったのに、こんなことになって残念だ」
桜井淑敏も残念だった。
二回目の予選は、優勝候補の筆頭だったピケ抜きでおこなわれた。
まずマンセルが開始後十分もたたないうちに1分25秒946を出して、前日のピケのタイムを上回った。これでマンセルのポール・ポジションはまちがいなしと思われた。
ところがそれから三十分ほどして、セナが二度目のタイム・アタックに出て行った。彼はすでに予選開始後すぐに飛び出して行った一度目のタイム・アタックで前日の自分のタイムを1秒以上も縮める1分26秒445を出していた。だが彼はこの二度目のアタックの二周目に1分26秒330を出して、さらにそれを上回った。三周目はグッドイヤー・タイヤの前日の通達を守ってスローダウンした。そして四周目、彼は再びアタックしてすばらしいスピードで5・04キロメートルのコースを走り抜けた。タイムは1分25秒826。前日、ジェラルド・ドゥカルージュが桜井淑敏に予言したとおり、彼はポール・ポジションを取ったのだった。
プロストは1分26秒135で、マンセルについで三位だった。しかし彼のマクラーレン・ポルシェは依然として燃費で苦労しているようで、前日につづきこの日の午前中のフリー走行でもエンジンを壊していた。ホンダ・チームにとっては、どんなトラブルでもプロストの車に生じたトラブルはいいニュースだった。
中嶋悟のこの日のベスト・タイムは1分30秒545で、前日の1分29秒579を上回れなかった。彼に関しては、1分28秒台のタイムを出して六位ぐらいになるだろうというドゥカルージュの予言は当たらなかったのである。反対に彼は前日より二つ順位を落として十二位になってしまった。
しかし彼自身の調子としては、けっして悪くはなかった。その証拠に彼は午前中のフリー走行では1分30秒512のタイムを出し、レースになったらいいところにいくかもしれないという期待を持たせていたのである。これはフリー走行では九位のタイムだった。
そうしたことから、彼は午後の予選では自分では1分28秒台のタイムを出せるだろうと思っていた。そして彼はそのつもりで神経を集中し、三度のタイム・アタックを試みた。ところが三度とも、アクセルを全開にするとどういうわけか最高回転のあたりでエンジンが死んでしまい、どのように扱ってもそこからさきへは車を引っぱっていってくれなかったのである。前日の予選も、この日の午前のフリー走行も同じエンジンで走ったのに、そのときは何も問題がなかった。まったく不可解なトラブルだった。当然のことながら彼の車はスピードが乗らず、この予選で記録した彼の最高速は314キロで、前日にくらべると20キロも遅かった。結局、それがそのままタイムに出てしまったのである。
しかし彼はこの結果はあまり気にしなかった。レースではこうした不可解なトラブルというのはしばしば起こることだったので、気にしてもしようがなかったからである。むしろ予選で発生してくれたことを喜ぶべきだった。すでにピットでは、ロータスとホンダのメカニックたちが二日間の予選を走ったエンジンを車からおろし、日曜日のレースに備えてレース用のニュー・エンジンに積みかえる仕事をはじめていた。あとは彼らが積みかえてくれるレース・エンジンに何もトラブルが生じないことを祈るだけだった。
桜井淑敏は予選が終るとすぐにホンダのトランスポーターに戻った。一九八六年のシーズンは、ホンダのチーム・ミーティングの場所は大型バンを改装したホンダ・モーターホームしかなかったが、この年からウィリアムズとロータスの二チームにエンジンを供給することにしたのにともない、エンジンや予備のパーツや工具の運送をウィリアムズに任せていたのをやめてホンダ専用の大型トラックを持ったのである。トラックの横腹には HONDA F1 WORLD GRAND PRIX TEAM という巨大な文字が書かれ、内部は改装されてミーティング・ルームとコンピューターやファックスを備えたワーキング・ルームになっていた。
桜井淑敏がそのミーティング・ルームにはいって行くと、日本からスタッフの一人が新プラグを持って到着していた。
「まにあったか」
と桜井淑敏はホッとした。
「大急ぎで五十本持ってきました」
と宮野英世はいった。彼はテスト・エンジニアで、これまでずっとホンダF1チームの国内開発担当チームの責任者だったエンジン設計の市田勝巳が異動でチームを去るのにともない、つぎのベルギー・グランプリからその後任となることになっていた。
「問題は解決されたか」
と桜井淑敏はきいた。
「ええ、日本でのテストでは、ベンチでも実車でもだいじょうぶでした。でも大急ぎのテストでしたからね」
そこヘチーフ・メカニックの小山英一が予選を走ったエンジンから外したプラグを持ってきた。
「やっぱり、だいぶクラックがはいってますね」
とそれをテーブルの上に置きながら小山英一はいった。中嶋悟のエンジンの不可解なトラブルの原因も、あるいはそのせいだったのかもしれなかった。
「テスト不足でも新プラグを使うしかないな」
と桜井淑敏はいった。
それで日曜日のレースには全エンジンに新プラグをつけることに決まった。
このプラグのトラブルにはじまり、予選では思いもかけぬネルソン・ピケのクラッシュがつづいて、ここまではホンダにとってはあまりいい経過とはいえなかった。サンマリノ・グランプリは波乱のレースになりそうだった。
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22
サンマリノ・グランプリの決勝は、五月三日の日曜日におこなわれた。
この日の中嶋悟は上機嫌だった。彼の車には、ホンダとロータスのメカニックたちが前夜の午前一時までかかって積み換えてくれたレース用のニュー・エンジンが積まれており、それがとても好調だったのである。
彼はそれで午前中のウォームアップ走行をおこない、全体で十番目の1分33秒567のタイムを出した。もっとも速く走ったナイジェル・マンセルの1分30秒605より約3秒遅いタイムだったが、十二位にしかなれなかった予選にくらべると、順位としてはずっとよかった。レース・セッティングで走るウォームアップ走行のデータは、レースとはぜんぜん無関係の走りをする予選とちがってそのままレースにむすびつくものだったので、これはこれでドライバーに予選とはべつの満足感を与えるものなのである。
中嶋悟はウォームアップ走行のあとでホンダのトランスポーターにやってくると、桜井淑敏にニコニコしながらいった。
「予定より1秒速く走れた。エンジンも車体もすごく調子がいい」
桜井淑敏はウォームアップ走行のデータを示しながら中嶋悟にいった。
「中嶋さんのタイムは、平均するとトップ・グループより2秒半遅い。だからこのペースで走ると、一ラップと50秒遅れるぐらいになるね」
サンマリノ・グランプリは、一周5・04キロのコースを六十周するのである。中嶋悟は桜井淑敏の示したデータを覗きこみ、それからいった。
「おれも何とか二ラップはされないように走りたいと思ってるけどね」
第一戦のブラジルでは二ラップされていたので、ここではそうされないで、他人にも自分にもすこしでも自分がF1ドライバーとして前進していることを示したかったのである。
「でもまあ、去年のここのレースは五位以下は全車二ラップ遅れだったけどね。終盤になるとガス欠になる車が続出するんですよ」
「じゃあ、ブラジル以上に最後まで走ることが大事なんだ」
「そういうことだね」
と桜井淑敏はいった。
中嶋悟は、最後まで走ることにならブラジルでの経験からある程度の自信をつかみかけていた。あの暑いブラジルで、二ラップ遅れながらともかく完走にこぎつけたのである。しかも途中からはヘッド・クーラーなしでだった。あの暑さ以上に体力を消耗するサーキットがほかにあるとは考えられなかった。
「でも完走するのはいいけどさ、プロストには簡単にラップされないでよ。ブラジルではプロストがうしろについたとたんに、さっとラインをあけてたでしょ。こんどはすこしブロックしてよ」
「そんなの無理ですよ」
と中嶋悟はいった。「いまのおれにはうまく抜かれるのだってむずかしいのに、プロストをブロックするなんてとんでもないですよ。まだそんな技術はないよ」
中嶋悟のいいぶんは、まったくもっともないいぶんだった。桜井淑敏はこのあとでアイルトン・セナにもプロストをブロックできないかときいてみた。セナは予選でポール・ポジションを取っていたが、彼の燃費を計算すると、マンセルとプロスト以上に速く走ることはできそうもなかったからである。セナに優勝するチャンスがあるのは、マンセルとプロストが二人ともリタイヤした場合だけだった。セナは桜井淑敏の質問にこう答えた。
「二周か三周ならできるだろうが、それ以上はとても無理だ。プロストのほうがこっちよりずっと速いんだ」
くそ、と桜井淑敏は思ったがどうしようもなかった。圧倒的な燃費のよさを誇っていたネルソン・ピケのクラッシュ欠場があらためて悔やまれた。
「おれの燃費はどうなんですか」
中嶋悟は桜井淑敏にきいた。
「中嶋さんは燃費の心配はないよ。五十九周走ればいいんだから。どんどん過給圧を上げて走ってもかまわないですよ」
と桜井淑敏はいった。
中嶋悟の場合は、そのタイムから見て計算上どうしても一ラップされてしまうので、最初からその一周分、約4リッター程度のマージンを持っているのと同じことになるのだった。中嶋悟はなるほどそのとおりだと思い、桜井淑敏と顔を見合わせて笑った。中嶋悟はとても上機嫌で、完全にリラックスしていた。
ところがレース・スタートの直前になって、とつぜんトラブルが起きた。レース・スタートは午後二時半だったが、スターティング・グリッドに着くためにピットから出ようとして車に乗りこむと、その瞬間に車体がガクンと落ちてもとに戻らなくなってしまったのである。アクティヴ・サスペンションの油圧が何らかの理由で抜けてしまったのだった。中嶋悟は青ざめた。よりによってスタートの直前になってそんなビッグ・トラブルが起こるなんて信じられなかった。
ロータスのピットは大騒ぎになり、アクティヴ・サスのコンピューター・エンジニアが車のところに飛んできた。中嶋悟は車に乗ったまま、どうかおれに走らせてくれと祈った。スタートしてから脱落するのならあきらめもつくが、ピットに釘づけになったままコースインもできないなんてどうしてもいやだった。
と、不意に車体がふわりと持ち上がった。コンピューター・エンジニアが、アクティヴ・サスの油圧ポンプを動かすバッテリーをいじっていたときだった。バッテリーが落ちて油圧ポンプが正常にはたらかなくなっていたのである。
中嶋悟はエンジンをかけ、あわててピットから飛び出して行った。彼が最後で、他の車はもう全車スターティング・グリッドに着いていた。彼は急いでコースを一周してグリッドに着こうとしたが、途中でバックミラーを見ると、うしろに派手に火花が上がっているのが見えた。再び油圧がなくなり、車体が落ちて地面をこすりっぱなしになっていたのである。結局、バッテリーの調子は完全に戻らなかったのだった。
「いったいどうなるんだ」
と中嶋悟は思った。これまではまったく何ともなかったのに、こんなことならブラジルのときのように予選の最中に故障してくれたほうがまだましだった。
彼は無線に向って叫んだ。
「アクティヴ・サスがまた駄目になった。このままグリッドに着くのか、ピットにはいるのか指示してくれ」
「そのままグリッドに着け」
すぐにチーム・マネジャーのピーター・ウォーの声が返ってきた。スタート前に必要以上にグリッドに着くのが遅れると、ピット・スタートになってしまうからだった。グリッドに着いてからスタートするまで十五分ほど時間があるので、そのあいだにグリッドで修理しようというのだった。
中嶋悟は車体の底を路面にこすりながら十二番目のグリッドに着いた。グリッドにはすでにアクティヴ・サス用の新しいバッテリーを用意したエンジニアが待っていて、彼がグリッドに着くが早いかすぐに交換作業をはじめた。しかし交換が終っても、車体はぜんぜん持ち上がらなかった。ピーター・ウォーはそばに立ってずっとその様子を見ていたが、やがてあきらめていった。
「アイルトンのスペア・カーに乗り換えよう。ピット・スタートになってしまうが仕方がない」
メカニックがグリッドから車を片づけ、中嶋悟はピットに走った。
セナのスペア・カーは、レース・カーが故障したときにすぐに自分が乗り換えられるように、セナの手でレース・カーと完全に同じ状態に仕上げられていたので何の心配もなかったが、だからといって中嶋悟がそれに乗ってすぐにスタートするというわけにはいかなかった。セナは白人としては普通の体格だったが、百六十五センチの彼よりは十センチほど大きく脚も長かったので、ペダルの位置がぜんぜんちがっていたのである。そのためにシートを動かして、シート・ポジションを適当な位置に直さなければならなかった。
メカニックたちは必死で作業をした。しかし時間は刻々と過ぎていった。与えられた時間そのものが十分程度しかなかったので、どうしようもなかった。
二時半が近づいた。とつぜんグリッド上の二十四台のF1カーのエンジン音が大きくなった。見るとスタート・シグナルに赤いランプがつき、数秒後にはそれが青ランプにかわった。二十四台のF1カーがいっせいにスタートした。フォーメーション・ラップのスタートだった。フォーメーション・ラップでも、F1カーのスピードなら三分もすれば再びグリッドに戻ってくる。そしてそれから十秒もすると、いよいよレースがスタートしてしまうのだ。スペア・カーのシート合わせは、それまでにはまだとてもまにあいそうになかった。
「もうレースはできない」
と中嶋悟は思った。何だかとてもやりきれない気持だった。
やがてフォーメーション・ラップを終えた二十四台のF1カーが予選順位に隊列を組んでグリッドに戻ってきた。全車がそれぞれのスタート位置に着いた瞬間、シグナルが赤から青に変わってスタートになる。もはや中嶋悟にできることは、ピットに立って自分が参加しないレースのスタートを見物することぐらいだった。
彼はそうしようと思ってグリッドに目をやった。そこで彼はおかしなことを見た。グリッドに並んだドライバーたちは、数秒後のスタートの瞬間にタイミングを合わせようとものすごい音を出してアクセルをあおっていたが、その中で三人だけがそうしないでコックピットから高々と片手を上げていたのである。予選九位のアロウズのエディ・チーバーと十一位のベネトンのティエリ・ブーツェン、それに十五位のザクスピードのマーティン・ブランドルで、手を上げるのはトラブルでスタートできないという合図だった。
原因は三台ともエンジン・ストップだった。F1エンジンはつねに高回転で走っていることを前提に設計されていて、停止状態のときのことはまったく考慮されていなかったので、市販車のエンジンのように1000回転以下でのアイドリングはできなかった。したがって、ドライバーが停止時にほんのすこしでもアクセル・ワークやクラッチ・ワークをミスして2000回転以下にでも回転を落とそうものなら、たちまちストップしてしまうのである。
そしてF1カーにはスターターがついていなかった。原則としてスタート時に一度しか使わないのに、レースの途中でエンジン・ストップすることを考えて車に積んでおくには、鉄と銅のコイルの固まりで五キロも六キロもあるスターターはあまりにも重すぎたのである。したがって一度ストップしたF1エンジンは、押しがけするか、車外スターターでミッション・シャフトを強制的に回して点火する以外にないのだった。
そうした構造上の理由から、F1カーがスタート直前にエンジンがストップしてグリッドで立往生するというケースは珍しいことではなかった。しかし一度に三台がそうなるというのは珍しかった。動かないF1カーというのはただの障害物と同じで、スタートの瞬間はもっとも危険な障害物になる。それがグリッドのあちこちに三台もあったのでは、衝突しないでスタートしろというのは無理な話だった。
中嶋悟がどうなるかと見ていると、オフィシャルがスタート・ラインの前でさっと赤旗を高く上げた。いまや遅しとスタートのシグナルを待っていたドライバーたちは、アクセルをあおるのをやめた。サーキットは急に静かになった。スタートは中止になったのである。
「ツイてるぞ、サトル」
と彼の車についているエンジニアのティム・デンシャムがいった。
「スタートできるか」
と中嶋悟はいった。
「だいじょうぶだ。あと二、三分でピット・ロードに持ち出せる」
そしてそのとおりになった。スタートは五分ばかり延期され、もう一度フォーメーション・ラップからやり直すことになったのである。そのために周回数は一周減らされて五十九周になった。
しかし中嶋悟のトラブルはまだ終らなかった。やっと車に乗れる状態になり、ピット・ロードの先端に着いたとたんにまた車体がガクンと落ちたのである。中嶋悟は泣きたくなった。なんておれはツイてないんだろうと思った。だがこんどは幸いなことにアクティヴ・サスペンションのトラブルではなかった。左のリヤ・タイヤがエア洩れを起こしていたのである。
メカニックたちは再び大忙しになった。彼らはピットに駆け戻り、新しいタイヤとクイック・ジャッキを持ってきて大急ぎでタイヤを交換した。二度目のフォーメーション・ラップがスタートしたのは、その作業が終るか終らないかというときだった。
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23
中嶋悟はピット・ロードの先端でスタートを待った。
ピット・スタートの車がコースにはいれるのは、正規のグリッドからスタートした車の最後尾がスタート・ラインを通過したあとだった。その瞬間にピット・ロードの先端にあるべつのシグナルが青になるのである。そのころには他の車は完全にトップ・スピードになっているので、ピット・スタートはグリッドの最後尾からスタートするよりずっと不利だった。
「あせるな。落ちつけ」
と彼は自分にいいきかせた。
しかしフォーメーション・ラップから戻った車がスタートし、やがてピット・ロードのシグナルが青になると、何もかも忘れてしまった。
彼は前の車に追いつこうと懸命にアクセルを踏んだ。彼の車はロータスとホンダという全F1の中でも最高の組み合わせだったので、うしろのほうの車はまったく問題にならなかった。一周目は最後尾の二十五位だったが、二周目からは一周に一台ずつ抜いていき、八周目には十八位まで上がった。ブラジル・グランプリで一台も抜かなかったことが嘘のような、ものすごい追い上げだった。
しかし、彼は早く上位に上がろうとあせるあまり、自分が冷えたままのタイヤでスタートしたことをすっかり忘れていた。タイヤをあたためるためのフォーメーション・ラップを彼はしていなかったのである。
「くそ」
と彼は自分の不注意をののしった。冷えたままのレーシング・タイヤですぐに全力走行すればどんなことになるか、彼はいやというほど知り抜いていた。しかしうっかりそれをやってしまったのである。
レース用のスリック・タイヤは、新品でいきなり走るとつるつる滑って危険だが、一度ウォームアップ走行をして表面をざらざらにしながらあたためてやると急にグリップがよくなり、それからあとは寿命がつきるまで一定の性能を維持するようにつくられていた。ところが早くその性能をアップさせようとしてウォームアップを急いだり、一度あたためたタイヤでも冷えたあとで急激に走行したりすると、局部的に火ぶくれが生じて、そのまま走りつづけるとたちまちバーストしてしまうのである。
中嶋悟のタイヤにもその兆候が出はじめていた。火ぶくれができ、そこが炭化して表面がささくれだち、いまやストレートを走っていてもまっすぐに走るのが困難なほどだった。
ここで彼はやっと冷静な頭をとり戻した。二十五位から十八位まで追い上げた努力を無にするのは何としても無念だったが、どうしようもなかった。彼は九周目に頭を切り換え、危険な車に乗っているより、早く安全なタイヤと交換して再アタックしたほうがよいと決意した。彼は十周目にピットに飛びこんだ。
タイヤ交換は十秒もかからずに終った。メカニックの一人がピット・レーンにはいってくる車がないかどうかをたしかめてゴーサインを出すと、中嶋悟はホイール・スピンをさせながら猛然とピットから出て行った。いまや彼はブラジルのときとは別人だった。現実問題として「おれは競走はしない」などとはいっていられなくなったのである。
桜井淑敏はウィリアムズのピット・レーンからその様子をちらと見て、中嶋悟もやっとすこしはF1ドライバーらしくなってきたと思った。彼は、中嶋悟がブラジルで七位になったことは初体験のレースとしては立派なものだと評価していたが、内心では最後まで一台の車も抜かなかったことに不満を感じていたのである。しかしホイール・スピンをさせながら猛然とピットから出て行ったいまの姿には、戦闘精神があふれていた。桜井淑敏が中嶋悟に早く見せてもらいたいと思っていたのは、そういう烈しい精神だった。
桜井淑敏は中嶋悟が第一コーナーに消えていくと、再びコースのほうに目をやった。そちらのほうがもっと気がかりだった。十周目になるころから、プロストがトップのマンセルをぐんぐん追いつめてきていたからである。
最初にトップに立ったのは、ポール・ポジションからスタートしたセナだった。それにマンセルとプロストがつづいたが、二周目にマンセルがセナを抜いてトップに立ち、五周目にはプロストが二位に上がった。セナはスタート前に桜井淑敏にいったとおり、自分でアクティヴ・カーの状態がまだ完全ではないと知っていたので、二人とまったく争わなかった。
プロストが二位に上がった時点で、トップのマンセルとプロストの差は4秒5あった。ところがプロストは二位に上がると前に邪魔なセナがいなくなったので好きなように走れることになり、それからは一周につき0・5秒ずつマンセルを追い上げはじめたのである。そして十周目にはあと2秒というところまで追いつめ、十一周目には2秒を切った。
桜井淑敏は気が気でなかった。ポルシェ・エンジンの燃費がとつぜんよくなったという話はどこからもきいていなかったので、こんなスピードでホンダ・エンジンを追いかけたら最後は必ずガス欠になるだろうと思ったが、もちろんそんな保証はどこにもなかった。
「予選の日にはあんなに何台もエンジンを壊したのに、マクラーレンは最後になって燃費調整に成功してしまったのだろうか」
と桜井淑敏は思った。
マンセルの燃費も彼の全開頻度の高いドライビングのせいで、プロストの燃費を圧倒的に上回るにはほど遠かった。マンセルがプロストが追い上げてきていると知っていても、ターボ・チャージャーの過給圧を上げて引き離してしまえないのはそのせいだった。
プロストは十三周目には1秒差と迫った。まったく機械のような正確さだった。いまやマンセルのリードはわずか二周分しかなかった。
桜井淑敏も、ウィリアムズ・チームについているホンダの他のエンジニアたちも、マンセルがプロストに抜かれるのは時間の問題だと観念した。プロストにうしろにぴったりとくいつかれた状態で、そのまま彼を抑えて走りきれるドライバーは、すべてが完調のときのピケとセナぐらいしか考えられなかったからである。あとのほとんどのドライバーは、かつてのニキ・ラウダがうしろについたときがそうだったように、さっと道を譲るか、プレッシャーでどうにもならなくなってしまうのがつねだった。
ところが十四周目にプロストのポルシェ・エンジンに異変が起きた。ほんのわずかだったがミス・ファイアしはじめたのである。エンジンの音ならどんなちいさな変調音でもききのがさないホンダのエンジニアたちは、ピット前のストレートから第一コーナーに消えて行くプロストのエンジン音に耳を傾けて、おかしいぞというふうに顔を見合わせた。
そしてその十四周目が終り、十五周目になろうとしたとき、彼らの顔は不安から完全によろこびの表情に変わった。プロストはマンセルから一挙に10秒も遅れて最終コーナーから姿をあらわすと、ピット前を通りすぎたところで音もなく止まってしまったのである。そしてプロストはそのまま車から降りてしまった。発電機の駆動ベルトが切れたために、バッテリーが上がってしまったのだった。
プロストがレースから脱落すると、マンセルの敵はいなくなった。マンセルは二十二周目に安心して予定のタイヤ交換をおこない、それから五周ばかりアルボレートとセナにトップを譲ったが、二人が相次いでタイヤ交換にピットにはいると二十七周目には再びトップに立った。
残る周回数は三十二周だった。桜井淑敏とホンダのエンジニアたちは、そのあいだにテスト不足のまま投入した新プラグが壊れないことを祈った。あとの問題はそれだけだった。
一方、中嶋悟は十周目のタイヤ交換のあと、九周でタイヤ交換をする前の順位の十八位に戻った。そして二十三周目にはミナルディのアレッサンドロ・ナンニーニがタイヤ交換でピットインしたので十七位になり、三十一周目にはローラのフィリップ・アリヨーを抜いて十六位に上がった。
四十周目には十四位になった。ブラバムのアンドレア・デ・チェザリスがリタイヤし、ティレルのフィリップ・ストレイフを抜いたのである。そして四十一周目には同じティレルのジョナサン・パーマーを抜いて十三位まで上がった。
それから中嶋悟は四十七周目まで十三位をキープした。彼はロータスのタイヤ交換の予定は二十五周をすぎてからだったのに十周目でそれをしてしまっていたので、最後までにもう一度交換しなければならなくなるのかとちょっと心配だった。彼はタイヤのグリップに変化がないか、全身の神経をそれに集中して走った。グリップはぜんぜんわるくなっていなかった。むしろよくなっている感じだった。
しかし体のあちこちが痛くなりはじめていた。スタート前に大急ぎでシート合わせをするにはしたが、セナの車であることにかわりはなかったので、完全に彼の体に合うというわけにはいかなかったのである。あらゆるところにすきまがあり、そういう部分にはスポンジをいくつも詰めて体にぴったり合うようにしたのだが、完全ではなかった。だがここまできてそんなことにへこたれているわけにはいかなかった。
彼は四十八周目にザクスピードのクリスチャン・ダナーに追いつき、追い抜いた。これで十二位になった。十位に上がったと知ったのは五十周目にピット前を通過したときだった。メカニックがピットウォールから示したサインボードにそう出ていたのである。四十九周目にベネトンのティエリ・ブーツェンとアロウズのエディ・チーバーがリタイヤしたのだった。
五十二周目にはオゼッラのアレッサンドロ・カフィを抜いた。それで九位に上がったことは分っていたが、五十三周目にピットの前を通るとサインボードには八位と示されていた。五十二周目にはベネトンのテオ・ファビがリタイヤしていたのである。
「すげえなあ」
と中嶋悟は思った。
二十五位からはるばる八位まで上がってきたのである。信じられなかった。
それからあとは彼は自分の順位を知らなかった。五十五周目にはガス欠になったブラバムのリカルド・パトレーゼを抜いて七位に上がったのだが、このころにはどの車が周回遅れでどの車がそうじゃないのかまったく分らなくなってしまっていたのである。中嶋悟自身もトップからすでに二周遅れになっていた。しかし彼は知らなかったが、このとき彼は六位になっていたのだった。それまで五位を走っていたアロウズのデレック・ワーウィックが五十五周目にリタイヤしていたのである。
五十六周目にピットの前を通ったときにはサインボードに七位の表示が出ていたが、中嶋悟はそれを見なかった。ひとつでも順位を上げようと、前を行くザクスピードのマーティン・ブランドルを必死で追いかけていたからである。そのために彼は五十七周目に自己のベスト・ラップの1分31秒891を記録した。このタイムはテオ・ファビが五十一周目に記録した1分29秒246にはおよばなかったが、ブラバムのパトレーゼやベネトンのブーツェン、アロウズのワーウィックらのベスト・ラップと同レベルのものだった。そしてその五十七周目が終ったとき、チェッカー・フラッグが振られた。優勝したナイジェル・マンセルから二周遅れだった。
中嶋悟が自分が六位でゴールしたのを知ったのは、車を降りてからだった。五位のブランドルとはわずか1秒差だった。ブランドルのベスト・ラップは1分34秒573だったので、ブランドルがそのタイムで走ったとしても、あと一周あれば抜けた計算だった。しかし、それはもっとあとで冷静になってから考えたことで、彼には六位で十分だった。
思えば、レース前はスタートできるかどうかという瀬戸際に立たされ、スタートしてからも自分のミスでタイヤを駄目にして、二度もレースそのものをあきらめかけたのである。ところが終ってみると、六位になって初の選手権ポイントを1点記録していたのだった。
中嶋悟は興奮し、人に握手を求められるたびにうわごとのようにいいつづけた。
「地獄から天国だよ。よくいうじゃないか。レースは何が起こるか分らないってさ。不運が倍返しになって返ってきたんだ」
桜井淑敏も興奮していた。中嶋悟が六位に入賞したこともうれしかったが、それよりうれしかったのはマンセルの優勝だった。ホンダ・エンジンが勝ったのは一九八六年九月のポルトガル・グランプリ以来で、シーズンオフを含めると七カ月半ぶりだったのである。それにマンセルにつづいてアイルトン・セナも二位になっていた。
桜井淑敏はレースの直後に日本のフジテレビのインタビューを受けたが、しどろもどろになって自分が何を言っているのかまったく分らなかった。彼は久しぶりに目に涙をにじませたのだった。
騒ぎがおさまると、彼らはホンダのトランスポーターの中で乾杯した。マンセルが表彰台でもらった大きなシャンペンの壜がまわってきたのである。日本から急遽改良した新プラグを大あわてで運んできた宮野英世も上機嫌だった。
そこにレーシング・スーツからシャツに着替えた中嶋悟がやってきた。彼は拍手で迎えられ、シャンペンをふるまわれた。みんなニコニコしてうれしそうだった。
「あ、そうだ」
しばらくすると中嶋悟がいった。「女房に電話しなくちゃ。こんなことは二度とないかもしれないからさ」
みんなドッと笑い、誰かがそこの電話を使いなよといった。しかし中嶋悟はホンダのトランスポーターの電話は使わずに、照れ笑いを浮かべるとロータスのモーターホームのほうへ駆け出して行った。
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中嶋悟は第二戦のサンマリノ・グランプリが終ると、翌日にはチームメートのアイルトン・セナとともにフランスのノガロヘ飛んだ。第四戦のモナコ・グランプリに備えて、シャシーとエンジンの先行テストをするためだった。ノガロ・サーキットは田舎町のサーキットで、コース幅がせまく、おまけに複雑に曲りくねっていておそろしく走りにくいところだったが、それがちょうどモナコの有名な市街地コースとそっくりだったのである。
そこでもっとも速いタイムをマークしたのは、一緒にテストをしたウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルだった。ウィリアムズのシャシーの仕上がりはすばらしく、それにサンマリノでは走れなかったネルソン・ピケが1秒落ちでつづいた。セナはそのピケとほとんど同タイムで走った。中嶋悟はマンセルからは4秒、セナからは3秒落ちだった。
中嶋悟がイギリスに戻り、やっとロンドン郊外の自宅に帰ったのは三日間のそのテストが終ってからだった。彼は自宅に帰ると、妻と二歳の息子と三人でさっそくサンマリノ・グランプリのビデオを見た。二歳の息子はすでにパパがレーシング・ドライバーであることを知っていて、テレビにレースの模様が映るとすぐに画面に釘づけになった。そしてスタート直前になり、マシンのエンジン音がいっせいに大きくなると、いつものように画面に首をつき出して叫んだ。
「Papa, be careful !」
中嶋悟は息子のその叫びをきくといつも胸が熱くなり、あらためて自分がいかに危険な仕事をしているかを思い知らされた。しかしスタートすると息子はたちまちレースに熱中し、パパの無事など忘れてしまってこぶしを振りながらあれこれ叫び出した。
「Go Go, Honda !」
「Go Go, Senna !」
息子が覚えたのはパパではなくセナで、キャメル・カラーの黄色いロータス・ホンダが映るとそう叫ぶのだった。中嶋悟はこれにはがっかりしたが、画面に映る頻度が高いのはセナなのでどうしようもなかった。
中嶋悟はその息子に妻とともにいろいろしゃべりかけながら、約一時間半のビデオを楽しんだ。彼はビデオの画面の中でもまちがいなく六位になっていた。
「ほんとに六位になったんだな」
と彼はあらためて思った。
だが同時につぎのように自分にいいきかせるのも忘れなかった。
「これでいい気になっちゃ駄目だぞ。これからさき、まだ何があるか分らないんだ」
彼はただ一度の好成績で有頂天になるほど若くはなかったし、F1がそれほど甘いものだとも思っていなかった。じっさい現実を冷静に振り返ると、彼の六位という好成績は、アラン・プロストやゲルハルト・ベルガーといった上位陣がつぎつぎにトラブルで脱落していった中で、強力なホンダ・エンジンに助けられて最後まで生き残った結果にすぎなかったのである。そんな幸運がそう何度もつづくわけはないと思った。
しかし彼の予測は外れた。つぎの第三戦のベルギー・グランプリでは、彼はさらによい成績を上げることになったのである。
ベルギー・グランプリでの彼のドライビングの内容は最低で、予選の第一日目から決勝レースでゴールするまで、彼はただの一周も自分のイメージどおりのドライブをすることができなかった。だがレースというのは本当に何が起きるか分らないものだった。それにもかかわらす、レースが終ってみるとこんどは五位になっていたのである。中嶋悟は自分のツキが怖ろしくなった。
そのベルギー・グランプリは、中嶋悟が息子とともにサンマリノのビデオを見てから一週間後の五月十五日からはじまった。
中嶋悟は、レースの舞台となるスパ・フランコルシャン・サーキットで一度レースをしたことがあるので、サンマリノのイモラ・サーキットのように、ここでもコースのほうでおれにやさしくしてくれればいいがと願った。古い話だったが、一九八二年に生沢徹とF2でヨーロッパ遠征をしたときにスパで走っていたのである。
スパはドライバーにとってちょっとやっかいなコースだった。平均時速が200キロを超える高速コースで、直線は300キロ以上のスピードで走らなければならないのに、山の中腹につくられたコースで、そのうえコースの三分の二が公道だったのでアップ・ダウンが非常にはげしかったのである。カーブも例外ではなかった。そのために、そこでおじけづいてアクセルをゆるめようものなら、それがたちまち大きくタイムにひびいてしまうのだった。だが中嶋悟はそのことを知っていた。知っているということは、それだけで有利なことだった。
しかし、こんどはそれも何の役にも立たなかった。
スパの天候は予選一日目も二日目も、雨が降るかと思えばとつぜん晴れ間が見えたり、ときには|雹《ひよう》が落ちてきたりといった具合で、おそろしく不安定だった。またコースそのものが一周6・94キロと長かったので、こちらでは晴れていても向うでは雨が降っていたりした。そのたびにドライバーがピットに飛びこみ、スリック・タイヤからレイン・タイヤに、レイン・タイヤからスリック・タイヤにとあわただしくタイヤをはきかえるので、ピットは大忙しになった。
中嶋悟はF1に乗るようになってからそんなあわただしい予選を経験するのは初めてだったので、路面がドライになる一瞬のタイミングをつかむのに苦労した。しかしそのこと自体はべつに何とも思わなかった。すべてのドライバーがそうで、彼一人が特別に悪条件を与えられたわけではなかったからだった。
彼の悩みの種は車だった。
彼に与えられたアクティヴ・サスペンションの一号車には、第一戦のブラジル・グランプリのときから奇妙な特性がつきまとっていた。どういうわけか左回りのカーブではアンダーステアになり、右回りのカーブではオーバーステアになるのである。
アンダーステアというのは、コーナリングのときに速度を上げていくとフロントが外側へ流れてコーナリング半径がどんどん大きくなっていく特性で、オーバーステアというのは反対にリヤが外へ流れてフロントが必要以上にコーナーの内側に向い、コーナリング半径がどんどんちいさくなっていく特性のことだった。そしてほとんどのドライバーは、ハンドルを切ってもいないのに勝手に内側に向っていってしまうオーバーステア特性を毛嫌いした。中嶋悟もそうだった。
「アンダーステアは乗っていていくらでも修正できるが、オーバーステアはそうはいかない。リヤがすぐに横を向いちゃうので、車がいつどこへすべっていくか分らないんですよ。だからすごく怖いんだ」
と彼はいっている。
それにもかかわらず彼がブラジルとサンマリノでこの特性にあまり悩まなかったのは、どちらのサーキットも時計と逆回りの左回りのサーキットだったからだった。ところがスパは時計回りのコースだったので、主要なカーブはほとんど右回りだったのである。
なかでも彼を悩ませたのは、時速300キロ以上のスピードで走らなければならない長い直線の入口にあたるオー・ルージュと呼ばれる高速の連続コーナーだった。はげしいアップ・ダウンを、下りながらまず左に曲り、下りきったところでこんどは登りながら右に曲っていくのである。その右コーナーでアクセルを全開にしなければそのあとの直線でタイムを稼げないのに、彼はそこでどうしてもアクセルをいっぱいに踏めなかった。ただでさえ坂を下りきって登りにはいる瞬間にフロントが浮き気味になってハンドルに手応えがなくなってしまうのに、全開にするとますますオーバーステアがひどくなるのである。まったくどうにもならなかった。
彼は自分の車を担当しているロータスのエンジニアのティム・デンシャムに、何とかしてくれと訴えた。ティム・デンシャムは、アクティヴ・サスペンションのコンピューター・データを解析して、考えられるかぎりの手を打った。しかしその特性はどうしても直らなかった。
彼の車は一号車だったので、シーズン前のテスト走行にはおもにこの車が使われた。ドライバーはアイルトン・セナだったが、あるテストのときにアクティヴ・サスの油圧が抜けてセナがひどいクラッシュをしたことがあった。ひょっとしたらそのときの後遺症が車のどこかに残っていて、妙な特性になってしまったのかもしれなかった。
中嶋悟は、結局つぎのように考えてあきらめるしかなかった。
「おれの車にはタチの悪いオーバーステアの虫が住みついているらしい」
当然のことながら彼の予選結果はデビュー以来最悪のものとなった。
雨の中でおこなわれた一日目の結果は、最速タイムを出したフェラーリのゲルハルト・ベルガーの2分6秒216から約5秒遅れの2分11秒441で十位だった。雨のせいで車全体がすべり気味になってタイヤに荷重がかからなかったので、オーバーステア特性があまり出なかったのである。
ところが二日目は、ほんのすこしのあいだだけ雨がやんで、瞬間的に路面がドライになった。すべてのドライバーがその瞬間を逃さずにタイム・アタックに飛び出して行き、彼も出て行った。まったく駄目だった。ドライでタイヤのグリップがよくなったぶんだけオーバーステアもひどくなったのである。
それでも彼は一日目のタイムより8秒短縮して、1分58秒649を出した。しかし他のドライバーはもっと短縮したので、十五位に落ちてしまった。
ポール・ポジションを取ったのはナイジェル・マンセルで、1分52秒026だった。それにネルソン・ピケとセナがつづいて、三戦連続でホンダ・エンジン勢が上位三位を独占した。アラン・プロストは1分54秒186で六位だった。
レース・デーの午前中のウォームアップ走行になると、中嶋悟の状態はさらに悪くなった。二十六台の車のうち十九位のタイムしか出せなかったのである。彼より遅い車はほとんどがノーマル・エンジンの車で、ノーマル・エンジンでもっとも速かったティレルのフィリップ・ストレイフとの差は2秒しかないというありさまだった。
ホンダ・チームの総監督の桜井淑敏は、すっかり沈みこんでしまった中嶋悟にかわって、日本人記者団につぎのようにいわなければならなかった。
「中嶋さんは、どうもこのコースをどう走っていいのか分らないみたいだ」
この時点で中嶋悟が五位になるなどと思った者は一人もいなかった。もちろん中嶋悟自身も思わなかった。
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レースは五月十七日の午後二時半にスタートした。スタート時の路面状態はドライだった。午前中まで降っていた雨が昼頃になって上がったのである。あるいはそれがスタート直後の大混乱を引き起こしたのかもしれなかった。予選の一日目も二日目も雨だったので、どのチームもドライ状態でのマシン・セッティングができなかった。いわば全車がぶっつけ本番でレースに臨んだようなものだったのである。
スタートで先頭に立ったのは、ポール・ポジションから飛び出したナイジェル・マンセルだった。それにアイルトン・セナがつづいた。一速の加速でネルソン・ピケの前に出たのである。二番手スタートのピケは、そのために三位に落ちた。そして彼ら三人はそのままの順位で一周目を終え、二周目にはいっていった。マンセルがやや二位のセナを引き離しかけていた。
ホンダにとっては理想的な展開だった。マンセルが先頭に立って飛ばし、プロストとのあいだにセナとピケの二人がはいったのである。いかにプロストといえども、二人を連続して抜いてマンセルに迫るのは骨の折れる仕事だろうと思われた。
コースのあちこちに黄旗が出たのはそのときだった。一本や二本ではなかった。あちこちでつづけて事故が起きたらしかった。
まず最初にクラッシュして車をバラバラにしたのは、ティレルのフィリップ・ストレイフだった。中嶋悟が抜けるのに苦労していたオー・ルージュのカーブでコントロールを失い、ガードレールに激突したのである。そこにチームメートのジョナサン・パーマーが突っこんだ。
べつのカーブではリジェのルネ・アルヌーがブラバムのアンドレア・デ・チェザリスの車に衝突した。さらに一周目の終了直前には、ピット前のシケインでベネトンのティエリ・ブーツェンとフェラーリのゲルハルト・ベルガーが接触。これで六合が走行不能になり、そのうえスターティング・グリッドには、エンジンがストップしてスタートできなかったリジェのピエルカルロ・ギンザーニとザクスピードのクリスチャン・ダナーの車が止まっていた。
レースは中断された。
ベルギー・グランプリのオーガナイザーは、各チームにすぐにつぎのような指示を出した。
「マシンの修理もガソリンの補給も自由。そして周回数は当初の規定どおり四十三周」
そして再スタートまでに約三十分の時間が与えられた。クラッシュして走行不能になったチームは、マシンを修理したりスペア・カーに乗り換えられるのでこの決定を喜んだが、クラッシュに関係しなかったチームは不服に思った。なかでも一、二、三位を独占して走っていたホンダ・エンジンの責任者の桜井淑敏は大いに不服だった。彼はいっている。
「スタート時のトラブルならともかく、先頭集団が二周目にはいってからの中断なんて絶対におかしい。しかもクラッシュしてリタイヤしたドライバーの再スタートまで認めるなんてどうかしてますよ」
しかしオーガナイザーがそう決定した以上、どうしようもなかった。桜井淑敏にとってさいわいだったのは、ホンダ・エンジン勢は四人とも全員無事だったことぐらいだった。
三時すぎになってコースのあちこちに散らばった車の残骸がようやく片づけられ、三時半ちかくに再びレースがスタートした。
こんどは三番手の位置から一挙にセナがトップに立った。最初のスタートのときは一速の加速でピケを抜くと、すぐに二速にチェンジしてしまった。そのためにマンセルまでとらえることはできなかったが、そのとき一速のままで行っていたらマンセルを抜けていたかもしれないという感触を得ていたのである。そこで彼は再スタートになったのをさいわい、そうしてみたのだった。セナはすばらしく頭のいいドライバーだった。
ところがこのことがその後のレース展開を非常に単調なものにしてしまった。
これでマンセルが熱くなった。セナとマンセルの不仲は、一九八五年にセナがトールマンからロータスに移り、そのあおりでマンセルがロータスからウィリアムズに移らざるを得なくなって以来有名で、二人は過去に何度もレース中にからんで接触事故を起こしていた。そのためにセナが先に行き、マンセルが追いかける形になると、サーキット中に緊張が走るのだった。いつも二人のトラブルが起きるのはその形からだったからである。
そしてこんどもそのとおりになった。マンセルはスタートしてから三分の一周もしないうちに、ピットの反対側の長い直線でセナを追いつめた。そして直線の終りのル・コームと呼ばれるむずかしいS字カーブにセナのアウトからぴったり並んで進入していった。そこは二台の車が横に並んだまま通り抜けるようなカーブではなかったので、ピットウォールのモニター・テレビでその様子を見ていた桜井淑敏はいやな予感がした。二人ともまったく相手に譲る気配はなかった。チームの全員が同じ気持らしく、誰もが緊張して息をつめていた。
「やった!」
と誰かが叫んだ。
カーブの中で二人のタイヤとタイヤが接触し、つぎの瞬間、二人は一緒にコースアウトしてしまった。
「くそ」
と桜井淑敏は思った。
セナはそのままリタイヤし、マンセルは最後尾に落ちてピットに戻ってきたが、縁石に乗り上げたために車体の底を守るアンダー・カバーが駄目になっていて結局十七周でリタイヤした。こうして優勝を争うべき二人のドライバーが一周もしないうちにコースから消えてしまったのである。
かわって三番手を走っていたピケがトップに立った。そして二位にはフェラーリのミケーレ・アルボレートが上がり、そのうしろにマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストがつけた。
プロストに対抗できるドライバーがピケ一人になってしまったことは大きな痛手だったが、ピケなら何とかやってくれるだろうと桜井淑敏は思った。ピケはこのスパでもホンダ・エンジン勢の中ではもっともよい燃費で走っていたからである。もしポルシェ・エンジンの燃費がそれよりもよかったとしたらお手上げだが、そうは思えなかった。
「ターボ・チャージャーの様子がおかしい。急にパワーがなくなった」
とピケが無線で伝えてきたのは、十周目にはいったときだった。
桜井淑敏は信じられなかった。エンジンには絶対の自信を持っていたのである。ピケの悲痛な訴えを無線できいて桜井淑敏に伝えたウィリアムズのチーフ・エンジニアのパトリック・ヘッドも信じられないようだった。
しかしそれは現実で、十周目の最終コーナーにはプロストが最初に姿をあらわした。ピケがそこにあらわれたのはそれから十二台もあとのことだった。それまで二位を走っていたアルボレートはあらわれなかった。ピケはピット前をいまにもストップしそうなスピードでのろのろと通過した。そしてつぎの周でついにストップしてしまった。結局、何もしないでただうしろで待っていたプロストが最後に笑うことになったのである。こうなってみると、まるでマンセルがそれを助けたような感じだった。
ピケのトラブルは、ターボ・チャージャーに連結されている排気管のネジのゆるみが原因で排気ガスがそこから噴出し、その熱でターボ・チャージャーをコントロールしている配線を傷めてしまったためと分った。それで急にパワーがなくなってしまったのである。
桜井淑敏はどうしてそんなところのネジがとつぜんゆるんだのかぜんぜん分らなかった。チーフ・メカニックの小山英一にきいてもはっきりしたことは分らなかった。可能性としては、レースが中断していたあいだに、一度熱で膨張したネジが冷えて収縮したせいではないかということが考えられた。しかしもしそうだったとしても、確認する手段はなかった。
ただはっきりしていたのは、レースが中断していなければこんなことにはなっていなかったろうということだった。ピケのトラブルは発生したかもしれないが、すくなくともセナとマンセルが互いに意地を張り合って同時にコースから消えてしまうといったバカな接触事故は起きていなかったはずだった。ホンダ・エンジン勢にとっては、結局レースの中断がすべてだったのである。
いまやホンダ・エンジン勢の中で無傷で残っているのは中嶋悟ただ一人だった。
彼はオー・ルージュ・コーナーでスピンしないように気をつけ、ひたすら安全に走っていた。それにもかかわらず、彼はピケがリタイヤした十一周目にはスタート時の十五位から九位に上がっていた。セナやピケやアルボレートをはじめとする上位陣がつぎつぎに脱落していったので、自然に順位がくり上がったのである。
桜井淑敏は十五周目にはいるころ、中嶋悟とトップのプロストのラップ・タイムを比較して中嶋悟がまちがいなく一周遅れになると分ったので、彼に過給圧を最高にして、燃費コントロール・スイッチもリッチ・ポジションにしろと指示した。一周遅れになれば約4・5リッターのガソリンが余分になるのである。その分をふんだんに使ってもっと速く走らせようという作戦だった。
中嶋悟は、プロストの1分58秒台のタイムに対して、それまで7秒遅れの2分5秒台のタイムで走っていた。桜井淑敏が指示した過給圧と燃費ポジションは予選を走るときとあまり変わらないものだったので、彼はそれでどのぐらい中嶋悟が速くなるかと期待した。しかし中嶋悟は指示を出した直後の十六周目に2分3秒756というタイムを一度出しただけで、あとはまたすぐに2分5秒台のタイムに戻ってしまった。桜井淑敏はちょっとがっかりした。
「どうしてもっと思いきって走らないんだろう」
と思った。
それでも中嶋悟は十七周目にベネトンのティエリ・ブーツェンがリタイヤし、十八周目にザクスピードのマーティン・ブランドルを抜いたので七位に上がった。そして二十一周目にタイヤ交換をすると、二十四周目にはリジェのピエルカルロ・ギンザーニを抜いて六位になった。ギンザーニはBMW・エンジンの燃費がきつくなりはじめ、このころには2分8秒ぐらいで走るのがやっとになっていたのである。一方中嶋悟は、タイヤを換え、ガソリンもだいぶ軽くなっていたので、2分3秒から4秒台で走っていた。
ピットのほうでべつの争いが持ち上がったのはちょうどこのころだった。アンダー・カバーのトラブルで十七周でリタイヤしたマンセルが、ロータスのピットに押しかけてセナに殴りかかったのである。セナも自分のところに向ってくるマンセルの様子がただごとではなかったので、あらかじめ腕を傷つけないようにと腕時計を外し、待ちかまえていて殴り返した。二、三発やりあったところでロータスのメカニックたちが二人を引き離したのでそれ以上にはならなかったが、マンセルの評判はこれで一挙に下落した。
それまでは二人の接触事故に関して、抜けもしないコーナーで強引にアウトから襲いかかったマンセルに非があるという人もいたが、マンセルの車の鼻先がすでに前に出ていたのにセナが譲らなかったのだからセナがわるいという人もいた。ところがレースでのトラブルをピットに持ちこんで殴りかかったのはマンセルで、しかも彼は大勢の人の前でそれをやってしまったのである。
マンセルについての伝記を書いたことがあるイギリス人のある作家は、この件についてイギリスの新聞にコメントを求められると、がっかりしてつぎのようにいった。
「わたしはマンセルをすばらしいドライバーであるばかりでなく、人格的にもたいへん立派な男だと思っていたが、失望した。彼にはチャンピオンになる資格なんかない」
ウィリアムズのオーナーのフランク・ウィリアムズも肩身のせまい思いをしなければならなかった。彼はレース後、イギリスに戻る飛行機の中で乗り合わせた桜井淑敏にすまなそうにあやまった。
「マンセルにはよくいっておくよ」
「分った。そっちもあまり気にするなよ」
と桜井淑敏は答えたが、心の中は一勝を逃した無念の気持でいっぱいだった。
レースのほうはピケとアルボレートの脱落で十周目に労せずしてトップに立ったプロストが安定したペースでリードしており、十七周目からはそれにステファン・ヨハンソンがつづいて、マクラーレン・ポルシェが1・2体制を形成していた。そのあとには、ブラバム・BMWのアンドレア・デ・チェザリス、ベネトン・フォードのテオ・ファビ、アロウズ・BMWのエディ・チーバー、そして中嶋悟とつづいていたが、セナもピケもマンセルもいないいま、プロストをおびやかすドライバーは一人もいなかった。
その中から三十四周目にテオ・ファビが脱落した。エンジン・トラブルだった。これで中嶋悟が五位に上がった。
あとは何も起こらなかった。
中嶋悟が五位でフィニッシュしてもっともよろこんだのは、ロータスで中嶋悟についているメカニックたちだった。彼らは中嶋悟がゴールする瞬間になると、全員がピットからピット・ウォールのところへやってきて、こぶしを突きだして彼らのドライバーを迎えた。それからホンダのメカニックたちに握手を求めると、口々にいった。
「よかったな。これでボーナスがはいる。おまえたちももらえるんだろう」
彼らはドライバーがポイントを上げると、1点につき一番下のメカニックで二十ポンド程度のボーナスがもらえることになっていたのである。中嶋悟はサンマリノでの1点とともに、これで合計3ポイントを彼らにプレゼントしたのだった。しかしホンダの人間はメカニックもエンジニアもそんなボーナスは出なかったので、おれたちはそんなものはもらわないといった。
「冗談いうな。そんなF1チームがあるものか」
とイギリス人のメカニックたちはいった。
最後にはレース監督の後藤治が出て行って説明したが、彼らはホンダではボーナスが出ないことをどうしても納得しようとしなかった。
一方、中嶋悟は車から降りると、信じられないという言葉を興奮気味に連発した。
「夢みたいだ」
まったく予選までのことを考えると夢みたいな結果だった。
「これでブラジルから、七、六、五位ときたから、つぎのモナコでは四位だね」
そういったのは日本のテレビ局のレポーターだった。しかし中嶋悟はそれにはそうだとはいえなかった。たしかに二戦つづけて入賞はしたが、まだ自分の力でもぎとった結果とはどうしても思えなかったからである。
「いや、そうはいかないよ。F1はそんなに甘くないよ」
と中嶋悟はテレビ・レポーターの突き出したマイクに向っていった。
はたしてつぎのモナコ・グランプリでは本当にそうなった。彼はそこでF1グランプリに完膚なきまでに叩きのめされることになったのである。
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26
ブラジル、サンマリノ、ベルギーと三つのグランプリを終えたところでのチャンピオンシップ・ポイントはつぎのようなものになった。
ドライバー部門
一位 アラン・プロスト 18点
二位 ステファン・ヨハンソン 13点
三位 ナイジェル・マンセル 10点
四位 ネルソン・ピケ 6点
四位 アイルトン・セナ 6点
コンストラクター部門
一位 マクラーレン・ポルシェ 31点
二位 ウィリアムズ・ホンダ 16点
三位 ロータス・ホンダ 9点
桜井淑敏はこの結果を目のあたりにして、さきゆきにちょっと不安を感じた。
一九八六年はウィリアムズ・ホンダが141点を獲得し、マクラーレン・ポルシェの96点を断然引き離してコンストラクターズ・チャンピオンになったが、ドライバーズ・チャンピオンは最後の最後にプロストにさらわれてしまった。第十五戦のメキシコ・グランプリが終った時点で、マンセルが70点で64点のプロストをリードしていたのに、最終戦のオーストラリア・グランプリでマンセルがリタイヤし、プロストが優勝したので逆転されてしまったのである。
一九八七年は絶対にそんなことがないようにと万全の準備を整えて臨んだシーズンであった。エンジンの改良、イギリスにおけるエンジン基地の建設、アイルトン・セナヘのエンジン供給、そのほかにも二つのチャンピオンをホンダ・エンジンで同時に獲得するために必要と思ったことは何でもやってきた。ところが三戦を戦った結果は、まったくの思惑はずれであった。
マクラーレン・ポルシェとプロストのコンビは依然として強力で、おまけにセカンド・ドライバーのステファン・ヨハンソンも一九八六年のケケ・ロズベルグのようにリタイヤをしなかったので、着実にポイントを稼いでいた。その結果、ウィリアムズとロータスの四人のドライバーのポイントを全部合わせても彼ら二人のポイントを上回れないことになってしまったのである。
「こりゃあ、ドライバー部門だけじゃなく、うかうかしてるとコンストラクター部門までマクラーレンに持っていかれるかもしれないぞ」
と桜井淑敏は思わないわけにはいかなかった。そんなことになるのは絶対にごめんだった。
そうならないためには、第四戦のモナコで誰かが勝って、プロストの勢いを止める必要があった。桜井淑敏はその役目をセナに期待した。ピケはモナコのような複雑な市街地コースは得意じゃないといっていたし、マンセルは好きなコースだといっていたが、モナコで勝つにはそのドライビングに少々問題があった。マンセルのドライビングは、エンジン全開とフル・ブレーキングをくり返してタイムを稼ぐやり方だったので、タイヤに必要以上に負担がかかるばかりでなく、モナコのように複雑に曲りくねったコースではブレーキ・トラブルの心配もしなければならなかったのである。
その点セナは、モナコのようなコースをどう走ればいいかをよく知っていたし、ほかのドライバーにはないアクティヴ・サスペンションという武器を持っていた。ロータスのアクティヴ・カーは、まだ熟成不足で空力面に問題を残していたので、高速コースでは不安定で完全な走りができなかった。しかしモナコのような平均時速が130キロぐらいの低速コースでは空力面の問題は解消され、こまかいカーブを車体を傾けないで曲っていくというアクティヴ・カー本来の有利な面が出るはずであった。桜井淑敏はそこに期待したのである。それに現実問題として高速コースで勝てない以上、セナがモナコで勝てなかったら、ロータスがアクティヴ・カーを投入した意味はまったくなくなってしまうのだった。
しかしモナコは、セナ以上にプロストが非常に得意としているコースでもあった。プロストは過去三年連続してモナコで勝っていて、その間に多くのドライバーがプロストに挑んだが誰一人として彼を抜くことはできなかったのである。じっさい、プロストはモナコ・グランプリをまえにして多くのジャーナリストに抱負をきかれると、ニコニコしながらきまってこう答えた。
「ぼくはモナコでまた勝つつもりだし、ワールド・チャンピオンのタイトルも当分誰にも渡すつもりはないよ。ぼくはずっとチャンピオンでいたいんだ」
桜井淑敏の不安はますます大きくなり、もしセナがモナコで勝てなかったら本当に危機的な状況になるぞと思った。
一方、中嶋悟も桜井淑敏とはちがった意味でモナコに何ともいえぬ不安を感じた。彼の感じた不安は、ほとんど恐怖にちかいものだった。
彼はフランスのポールリカールでシャシーのテストをしたあと、五月二十六日の火曜日にモナコにはいった。そして翌日の水曜日にレース・コースとなる市街地の道を自転車で走ってみた。モナコはレースのときだけ公道が封鎖されて、街そのものが即席のサーキットになるのである。したがってレースで走る以外、テストも練習もまったくできなかった。
中嶋悟は、モナコがどんなにドライバー泣かせのコースかということを話ではきいて知っていた。しかし見るときくのとでは大違いだった。彼は自転車でひとまわりしただけで仰天してしまった。
「こんなところで走るなんてとんでもないと思ったのが第一印象で、それがすべてだった」
と彼はそのときの感想を語っている。
一周が3・328キロのコースは、コース幅が極端にせまく、複雑に曲りくねっていて、そのうえ海側と山側の道を使っているのでアップ・ダウンがはげしかった。ストレートといえるようなストレートはまったくなかった。それに似たようなところが三カ所あるにはあったが、距離が短く、微妙に曲っていたので、そこで抜いたり抜かれたりするのはほとんど不可能に思えた。
しかし彼が何といっても一番怖ろしいと思ったのは、コース中に張りめぐらされているガードレールだった。クローズド・サーキットとちがってセーフティ・ゾーンがまったくなかったので、ひとつまちがうとたちまちそこに激突することになるのである。しかもそれらのガードレールは、F1の低いシートからの視線にぴったりと重なり、あらゆるカーブでブラインドの役目をはたしていた。
「これじゃ、まるで目隠しをしてガードレールに突っこんでいくようなものじゃないか」
と彼は思った。
アクセルなんかとても踏めそうになかった。
また彼はコースを回りながら、どのカーブを何速で抜けるべきかをいろいろ考えた。すると、わずか3キロ余りの短いコースの中に、一速で抜けるカーブが三カ所もあった。彼はこれはたいへんなことになると思い、一周のあいだにいったい何回ギヤ・チェンジが必要かを計算した。一速から六速へ、六速から一速へとあれこれ想像してみると、その回数は約三十回から三十五回に達した。モナコのラップ・タイムは約1分30秒で、レースはコースを七十八周するのが決まりだった。
中嶋悟は考えただけでうんざりした。それでいくと、レースでのギヤ・チェンジの回数は、2・5秒から3秒のあいだに一度の割合いで、全部で二千五百回から二千七百回ぐらいおこなわなければならないことになるのである。しかも狭く複雑に曲りくねったコースでガードレールにぶつからないように気をつけ、そのうえ前後の車と競走しながらそれをおこなうのである。
彼はサンマリノ・グランプリのあとで、モナコによく似たコースだというのでフランスのノガロという町のサーキットでテスト走行をしていたが、ぜんぜんちがうじゃないかと思った。また彼は、かつてマカオとイギリスのバーミンガムで三度ばかり公道コースでのレースを経験していたが、そのどれともちがった。モナコのような怖ろしいコースは、まったくはじめてだった。
「最後までミスをしないでちゃんと走れるだろうか」
彼は下見を終えるころになると、すっかり考えこんでしまった。
おまけに彼の車の左コーナーではアンダーステアになり、右コーナーではオーバーステアになるという奇妙なステアリング特性は依然として直っていなかった。彼はベルギー・グランプリのあとで何度もそのことをロータスのエンジニアに訴えたのだが、ベルギーでの結果がたまたまよかったために誰も本気で考えてくれようとしなかったのである。そしてモナコのコースもベルギーのスパと同じく、右回りだったのだ。当然のことながら、オーバーステア特性が出やすい右コーナーが圧倒的に多かった。
こうして第四戦のモナコ・グランプリは、五月二十八日の木曜日からはじまった。モナコは他の国のグランプリとちがって、木曜日からはじまって、なぜか金曜日を一日休むことになっていたのである。
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27
木曜日の朝になると、モナコのヨットハーバーはヨーロッパ中から集まってきた大型のクルーザーでいっぱいになった。なかには船尾にヘリコプターが降りられるようになっているクルーザーもあり、ときどきそこからヘリコプターが行ったり来たりした。クルーザーの持主たちは、停泊したクルーザーのデッキに椅子とテーブルを持ち出し、そこから飲み物を飲みながら海岸通りを走るF1を見るのである。そして夜になると、カジノでルーレットやブラック・ジャックを楽しむのだった。
モナコ・グランプリは、すべてのグランプリの中でもっとも華やかなグランプリだった。しかしF1チームは、そういう華やかさとはまったく無縁だった。モナコ・グランプリに対するホンダ・チームのチーフ・メカニックの小山英一の感想はつぎのようなものである。
「クルーザーの上でニコニコ笑いながら見物している人間もいれば、ぼくらのように車をただ速く走らせるだけのために必死で汗を流している人間もいる。世の中って面白いもんですね」
そして午前十時になると一回目のフリー走行がはじまり、そのクルーザーの大群の前でいよいよモナコ・グランプリの戦いの火ぶたが切られた。
中嶋悟はスタートの前にロータスのチーム・マネジャーのピーター・ウォーにこういわれた。
「ここのコースは誰にとってもむずかしいコースだ。だから、とにかく一周でも多く走れ。そしてまずコースに慣れることだ」
「分った」
と中嶋悟はいった。彼としてもそのつもりだった。タイムを出す走りをすることなど、とても考えられなかった。
彼は一時間半のフリー走行のあいだ、ほとんど休みなしに走って五十周ばかり走った。フリー走行でトラブルもなしにそんなに多くの周回をこなしたのははじめてのことだった。しかし、それぐらいではモナコの複雑なコースに慣れることはとてもできなかった。反対に悩みと混乱が深まっただけだった。
コースは、F1カーで走ってみると、下見をしたときに頭の中で思い描いたよりもずっと狭く感じられ、ガードレールにぶつからないように走るだけでもおそろしく骨が折れた。コーナーを抜けてから外にふくらみすぎてフロントをぶつけないようにと気をつけると抜けるときにリヤが引っかかりそうになり、反対のことを気をつけるとこんどは反対の心配をしなければならなくなって、どのカーブでもぜんぜん気が抜けなかったのである。
彼はこのフリー走行の最中に、たまたまセナとプロストのすぐあとについたことがあった。彼は二人がどのようにこのモナコを走るのか勉強しようと思い、うしろからその走り方を観察した。
二人とも特徴的だったのは、コーナーのだいぶ手前でアクセルを離し、微妙なアクセル・ワークで車を落ちつかせてからブレーキを徐々に踏むことだった。そのために中嶋悟は何度か二人の車に追突しそうになって冷や汗をかいた。彼のコーナリングは、コーナーの手前ギリギリまでブレーキングをしないで突っこんでいくやり方だったからである。しかしコーナーにはいり、彼らがコーナーのクリッピング・ポイントに達すると、そこであっというまに離された。彼らはそこから加速し、中嶋悟はできなかったのである。中嶋悟が加速するのはコーナーを抜けてからだった。
すべてのコーナーでその調子だったので、コースを一周すると中嶋悟と二人のドライバーのタイム差は歴然としたものになった。中嶋悟の一日目のフリー走行でのベスト・タイムは1分31秒901だったが、セナとプロストは1分27秒台でそれより4秒も速かったのである。最速タイムを出したマンセルなどはもっと速く、1分25秒台で走った。わずか3キロ余りのコースで6秒の差であった。
中嶋悟は、セナとプロストの走り方を観察したあとで、自分も同じような走り方をしてみようと思って彼らの走り方を真似てみた。しかし何度こころみても真似ができなかった。急ブレーキを踏まずに、コーナーのずっと手前でアクセルを離し、アクセル・ワークで車を落ちつかせてから徐々にブレーキを踏むというだけのことなのに、ブレーキを踏むまでの微妙なアクセル・ワークがどうしてもできなかったのである。
結局、彼はコーナーの手前ギリギリまで突っこんでフル・ブレーキングをするというコーナリングのやり方でいくほかなくなり、結果としてコーナーを立ち上がってからの加速が遅れた。そして、すこしでも気を抜くとすぐにぶつかりそうになるガードレールの壁がそれにいっそう輪をかけた。
やがて彼は自分が誰よりものろのろ走っているような気がして、コーナーから立ち上がるたびに、うしろから速い車が殺到してこないかと忙しく首を振って左右のバックミラーを確かめるようになった。
彼としてはスタート前のドライバーズ・ミーティングでの注意事項を忠実に守っているつもりだった。モナコはコースが狭くて危険だったので、例年決勝には予選二十位までの車しか出走できなかった。しかしこの年はターボ車とノンターボ車が混走していたので、主催者がノンターボ車のために二十六台の出走を認めたのである。そのためにドライバーは、遅い車も速い車もたがいに十分気をつけるようにときつく注意されていたのだった。
しかしコーナーから立ち上がるたびに忙しくバックミラーを確認してばかりいる中嶋悟の姿は、そうは見えなかった。誰かに抜かれることばかり考えておどおどしている感じで、チーフ・メカニックの小山英一などは何とも痛ましげにつぎのようにいわなければならなかった。
「あんなにバックミラーを見なくてもいいのに。かわいそうで、とても見ちゃいられないよ」
しかしそれがモナコでの中嶋悟の姿だった。四戦目にしてついにF1グランプリの厚い壁にぶつかったのである。
当然のことながら、午後におこなわれた彼の一回目の予選の結果は最悪で、例年なら予選落ち寸前の十七位だった。タイムは1分30秒606で、ローラのフィリップ・アリヨーの1分24秒114、ティレルのジョナサン・パーマーの1分30秒307よりも遅かった。二人ともフォードのノンターボ・エンジンを積んだチームのドライバーだった。ホンダ・エンジンとは数百馬力もちがうノンターボ・エンジンの車にも負けてしまったのである。
その結果はすべての人たちをがっかりさせた。しかし誰よりもがっかりしたのは中嶋悟自身だった。
彼は一回目の予選が終って車から降りると、ホンダ・チームのレース監督の後藤治に訴えた。
「五周ぐらい全力で走ったら、二、三周流して休まないと、頭が混乱しちゃってどう走っていいのかすぐに分らなくなっちゃうんですよ。まったく、どうしようもない」
「しようがないよ。ここはそういうコースなんだ。誰だって三周全力で走ったら一周は休んでるよ」
と後藤治は慰めた。
しかし中嶋悟の顔はぜんぜん晴れなかった。
一方、上位陣は一回目の予選からはげしいポジション争いをくりひろげた。モナコでは、予選で何番目になるかということが勝つためのほとんど絶対的な条件だったからである。どんなドライバーでも、モナコで抜きつ抜かれつのレースをするのは不可能だった。桜井淑敏もそのことは過去の経験でよく知っていたので、ホンダ・エンジン勢がはたして何位になるかに注目した。プロストは過去三年連続してモナコで勝っていたが、そのうちの二度はポール・ポジションからのスタートだった。
結果はつぎのようなものになった。
一位 ナイジェル・マンセル 1分24秒514
二位 アイルトン・セナ 1分25秒255
三位 アラン・プロスト 1分25秒574
四位 ネルソン・ピケ 1分25秒917
まだ土曜日の二回目の予選が残っていたが、桜井淑敏はひとまずこの結果にほっとした。ピケはモナコを不得意としていたのでやや遅れたが、マンセルとセナの二人がプロストよりも前の位置を占めたからである。とくにマンセルの速さはずば抜けていて、プロストより1秒も速かった。ホンダにとって非常にいい兆候だった。
こうして予選一日目が終り、金曜日は休日になった。
しかしホンダのメカニックたちは休めなかった。こんどは日本での耐久テストでコンロッドの耐久不足が発見され、木曜日の午後に日本から新しいコンロッドが運ばれてきたのである。そのためにチーフ・メカニックの小山英一の指揮で、金曜日は午前中からレース用エンジン六台の組み直しに当てられることになったのだった。
彼らは、シーズンがはじまってからまだ一カ月半ほどしかたっていなかったが、すっかり疲れ果てていた。レースとテストの連続でほとんどイギリスの家に帰れず、旅先での睡眠時間は一日四時間か五時間だった。モナコのあとも、第五戦のデトロイトから投入する新エンジンのテストのために、モナコのホテルからまっすぐフランスのポールリカールに移動することになっていた。
この日もレース用の六台のエンジンをバラしてコンロッドの組み換えを終ったのは、夜中の十二時だった。彼らはくたくたに疲れ、夜中の一時にホテルに帰ると、シャワーを浴びただけですぐにベッドにもぐりこんでしまった。いまや彼らの楽しみはぐっすりと眠ることだけだった。
翌土曜日、二回目の予選でもっとも頑張ったのは、三人のホンダ・エンジン勢だった。全員がモナコではとくに有利なポール・ポジションを占めようとして、ものすごいタイム・アタックをかけたのである。結果は三人が競い合って三人とも一回目の予選タイムを1秒5ずつ上まわったので、三人の順位は変わらなかった。しかしプロストは三人のように大幅に一回目の予選タイムを上まわれなかったので、ピケに抜かれて四位に落ちてしまった。
これでホンダ・エンジン勢はプロストに対してますます有利になり、桜井淑敏はトラブルさえ出なければマンセルかセナのどちらかが勝つだろうと思った。プロストが無理に前に出ようとしても、ピケがブロックしてしまうはずだったからである。
中嶋悟は二日目になってもあまりパッとしなかった。
彼は土曜日のフリー走行がはじまるまえに、セナに右手のひらにテープをぐるぐる巻いてもらった。めまぐるしくおこなうギヤ・チェンジのために木曜日一日で手のひらがマメだらけになってしまったのである。それで彼は午前中のフリー走行を時間のかぎり走りこみ、午後の予選に臨んだ。
しかしまったく思ったようにいかなかった。一回目より約2秒縮めて1分28秒890のタイムを出したが、他のドライバーもみんな縮めたので、結局十七位のポジションは変わらなかったのである。1分23秒039でポール・ポジションをとったマンセルとの差は約6秒であった。中嶋悟の目標は、順位もさることながら、トップ・ドライバーとのタイム差をあらゆるサーキットで2秒までに縮めることだったので、この差には自分でもひどく失望した。
中嶋悟は予選のあとで後藤治のところへ行くと、沈みきった顔でこういった。
「後藤さん。こんな調子で、これからさき、おれやっていけるのかなあ」
後藤治は何といっていいか分らなかった。こんなに深刻になった中嶋悟を見るのははじめてだった。
「だいじょうぶだよ。みんなここでは最初は苦労しているんだから」
と後藤治はいった。それだけしかいえなかった。
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28
レース当日の午後、ホンダのトランスポーターの中では、四台の車にそれぞれ何リッターのガソリンを入れてスタートさせるかということが大きな焦点になった。
過去三戦のコースは、平均時速約200キロで300キロの距離を走らなければならなかったので燃費が最大の焦点だったが、こんどはちがった。平均時速が135キロ程度の超低速コースであるうえに、走行距離も258キロしかなかったからである。規定の195リッターも入れたら、余ってしまうのだった。
桜井淑敏は午前中のウォームアップ走行で最終的な燃費計測をおこなうと、四台の車を担当しているそれぞれのエンジニアを呼んで燃費を報告させた。四人の中ではセナの燃費がもっともよく、それにピケ、マンセルがつづいていた。結局その順でガソリンをすくなくすることに決め、中嶋悟だけ思いきってすくなくして160リッターにすることにした。彼のトップ・グループとのタイム差を考えると三周から四周の遅れが見こまれ、そのぶんのガソリンも必要なかったからである。ガソリンの重量はリッターあたり〇・八キロだったので、それで中嶋悟の車は二十八キロも軽くなることになった。
「結局、セナが勝つことになるんですかね」
すべてが終り、あとはレースのスタートを待つばかりというときになると、チーフ・メカニックの小山英一がいった。
「でも、こうやっておれたちがどんなに一生懸命に車をつくっても、レースになったらドライバーしだいだもんなあ。こんどは桜井さん、〈桜井マーク〉というのを何か特別につくってさ、ドライバーがへんなことをやりだしたら“そのまま、そのまま”というサインをピットから出してくださいよ」
そこにいた者は誰もが彼が何をいいたいのか知っていたので、大笑いになった。小山英一は、ベルギーでマンセルとセナが無謀な争いをして二人一緒にリタイヤしてしまったことが忘れられず、二人がまたやるのではないかと気が気じゃなかったのである。
「こんどはだいじょうぶだろう。マンセルだって二度もあんなことをやるほどバカじゃないよ」
と桜井淑敏はいった。本当にそう願いたかった。二度も同じことをやられたのではたまらなかった。
そしてレースは午後三時にスタートした。
まずレースをリードしたのは、ポール・ポジションからスタートしたマンセルだった。彼の速さは並大抵ではなく、最初の一周を終えてピット前に戻ってきたときには、二位のセナをはやくも2秒も引き離していた。彼だけが群を抜いていた。
この展開に、ホンダの桜井淑敏も、ウィリアムズのフランク・ウィリアムズも、ロータスのピーター・ウォーもひとまずほっとした。マンセルがトップで気持よく走っているかぎり、セナとからむ心配はなかったからである。
ピケは三位で、四位にはフェラーリのミケーレ・アルボレートがつけた。プロストは五位だった。プロストには珍しく、スタートで失敗してアルボレートにさきを越されてしまったのである。これでプロストのブロックはピケのかわりにアルボレートがしてくれることになり、ホンダ・エンジンの三人はまったくうしろを気にしなくてよいことになった。
この順位は二十九周目までそのまま変わらなかった。これがモナコ・グランプリだった。モナコではどんなドライバーでも簡単に前の車を抜くことはできないのである。このときまでにマンセルはセナに10秒、セナはピケに7秒、ピケはアルボレートに10秒の差をつけていた。あとはどこでタイヤ交換をするかということだけだったが、いずれにしてもマンセルの優位は動かないように見えた。
ところが三十周目にそのマンセルが最初に脱落したのである。エキゾースト・パイプの一部にクラックがはいり、排ガスが洩れてターボ・チャージャーのタービンが十分に回せなくなってしまったのだった。
かわってセナがトップに立った。つづいてピケ。三十四周目にアルボレートのタイヤ交換に乗じてようやくプロストが三位に上がった。しかしプロスト自身も三十五周目にタイヤ交換にはいり、またすぐに四位に落ちてしまった。うしろについていたアロウズのエディ・チーバーを十分に引き離しておけなかったために、彼にピケとのあいだにはいられてしまったのである。こんどはチーバーがセナとピケのためにプロストをブロックする格好になり、それが五十周目までつづいた。
ピケは三十九周目にタイヤ交換にはいったが、そのまま二位でレースに復帰した。セナがタイヤ交換をしたのは四十三周目だった。セナはどのレースでも他のライバルたちが全員タイヤ交換をしたあとでなければ自分のタイヤ交換はおこなわないことにしており、こんどもそうしたのである。そして彼もトップのままでレースに復帰した。
プロストは五十一周目にやっとチーバーがタイヤ交換にはいったので、それに乗じて再び三位に上がった。しかしそのとき二位のピケは30秒も先を行っており、セナはさらにそのはるか先にいた。残り周回は二十七周で、もはや逆転は絶望であった。
五十七周目にはプロストのチームメートのステファン・ヨハンソンがポルシェ・エンジンをブローさせてストップした。そのときのヨハンソンの順位は十一位だったが、それでヨハンソンがポイントを稼ぐチャンスは完全になくなった。ヨハンソンは過去三戦ですこしポイントを稼ぎすぎていたので、ホンダ・エンジン勢にとってはヨハンソンのリタイヤはとても好都合だった。
しかし桜井淑敏はそういう態勢になってもぜんぜん安心できなかった。セナのエキゾースト・パイプもピケのエキゾースト・パイプも、クラックがはいったマンセルのエキゾースト・パイプとまったく同じ材料でつくられていたからである。同じところに同じトラブルが発生する可能性は十分にあった。
ここまできて負けるのはいやだった。こうなったらどうしても勝ちたかった。プロストの勢いをストップできるからばかりでなく、モナコでの初優勝のチャンスだったからである。一九八六年にイタリアのモンツァで勝ったときもそうだったが、古い伝統のあるコースで勝つと同じ一勝でも気分がぜんぜんちがった。またその感激を味わいたかった。彼はセナとピケのエキゾースト・パイプが最後まで壊れないように天に祈った。いま彼にできるのはそれぐらいだった。
一方、中嶋悟には予選のときと同じようにレースも苦しみの連続となった。
中嶋悟がスタート前に目標にしたのは、車をガードレールにぶつけないようにして、とにかく完走するということだった。そのために、彼は予選十七位からのスタートだったので、スタート時の混乱に巻きこまれないようにとくに慎重にスタートした。しかし、彼より後方のノンターボ・エンジン勢は誰も彼のようには考えていなかった。モナコは超低速コースだったので、パワーの劣るノンターボ勢にも十分入賞のチャンスがあったからである。
彼らはスタートですこしでも前に出ようとして、スタートと同時にうしろからものすごい勢いで殺到した。そして中嶋悟はスタート直後の第一コーナーでその混乱に巻きこまれてしまったのである。こんな具合だった。
彼は第一コーナーに進入するに際して、安全策をとってまんなかのラインを選んだ。するとそこに左のアウトからローラのフィリップ・アリヨーが並びかけ、あっと思った瞬間、こんどは右のインをマーチのイワン・カペリにつかれた。油断も隙もないやつらだと思ったがどうしようもなかった。ノンターボ・エンジンの彼らはモナコこそターボ・エンジン勢を食うチャンスだと必死だったのである。中嶋悟は二台の車に両脇をはさまれてコーナーの中で接触し、行き場所を失ってそのままコースアウトしてしまった。それで彼は1分ちかくもタイムを失った。エンジンがストップしてしまったために、オフィシャルが押しがけしてくれるのを待っていなければならなかったからである。
彼のレースは、事実上それで終りだった。サンマリノではピット・スタートから最後は六位になったが、モナコではそんな幸運は望めなかった。コースが挟すぎて前の車を抜く場所がなかったし、それにどの車も燃費の心配がなかったので、サンマリノのときのようにガス欠になる車が続出することも期待できなかった。
それでも彼は六十周目には十位まで上昇した。自分で抜いたのは一台だけだったが、二台のスピンと十一台のリタイヤに助けられたのである。しかしそこまでだった。彼はトップから三周遅れで最後まで走り、目標どおり完走にこぎつけたが、それだけのことだった。スタート直後の第一コーナーで彼をコースアウトさせたイワン・カペリは六位に入賞した。
七十八周を走りきってモナコを制したのは、結局セナだった。彼は最初から最後までつねに安定したペースで走り、ゴールしたときには二位のピケに33秒もの大差をつけていた。コンピューター制御でつねに車の姿勢を一定に保つアクティヴ・カーは、トラブルも多かったが、その力を発揮すべきところでついに十分な力を発揮したのである。桜井淑敏がセナとアクティヴ・カーのコンビに期待したとおりの結果だった。
プロストはゴールすることができなかった。五十一周からずっと三位を走っていたが、残りがあと三周となった七十六周目にリタイヤしてしまったのである。リタイヤの原因は、チームメートのヨハンソンと同じくエンジン・ブローだった。桜井淑敏がずっと心配していたマンセルと同じトラブルはホンダ勢には発生せず、マクラーレン・ポルシェに発生したのである。
「これで風がホンダのほうに向いてくるかもしれないぞ」
と桜井淑敏は思った。
彼が待ちつづけていたのはその風向きだった。プロストにさえ勝たせなければ、ホンダ・エンジン勢三人のうちの誰かが勝つことになり、その中でもっとも勝ったドライバーがチャンピオンになることはまちがいなかったからである。
しかしセナの勝利もらくな勝利ではなかったことがあとで分った。セナはコースでの表彰式が終ると急いでホテルに帰った。そしてホテルの洗面所で胃の中のものを全部吐いてしまったのである。
「モナコのようなストレスの多いコースでは、走っている最中に心拍数が二百ぐらいまで上がって、頭がぼうっとしてくる。そして手の先にまで血がこない感じになるんだ」
とセナはいった。
中嶋悟はショックを隠しきれない顔でこういった。
「勉強のやり直しだ。それで一からまた出直すよ」
そしてスタート前に右手のひらに巻いたテープをはがした。彼がモナコでもらったものは、その手のひらでギヤ・チェンジのためにつぶれたおびただしいマメだけだった。
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29
中嶋悟はモナコ・グランプリの翌日、ホテル・ローズ・モンテカルロのレストランで桜井淑敏と会った。
中嶋悟の右手のひらは、ギヤ・チェンジでつぶれたマメのあとが痛々しかった。二人はそこで昼食をとりながら一時間ばかり話をした。
「どうだったですか。モナコをはじめて走った感じは?」
と桜井淑敏はきいた。
「どうしようもないですね」
と中嶋悟は苦笑しながらいった。
「ピーター・ウォーにもっときつくいって、車載カメラを取り外させようか。あれはやっぱり邪魔でしょう」
「うん。空気抵抗にもなるし、車載カメラのところで空気の乱流が生じて、リヤ・ウィングの空力にもいくらか影響があるんじゃないかな」
「あれで1秒ぐらい違う?」
「うーん、1秒は違わないかもしれないけど、取り外せば速くなることはまちがいないですね」
「じゃあ、外そうよ。ぼくがピーターにいうよ」
「でもね、桜井さん」
中嶋悟は考えながらいった。「カメラはたしかに邪魔だけど、いますぐに取り外したからといってそれで優勝争いができるわけじゃないんですよね。トップ・クラスとはまだ3秒も4秒もラップ・タイムがちがうんだから。それよりも、カメラをつけているとぼくの車からの画面が必ずテレビに映り、ぼくの名前が出る。そのことのほうがいまのぼくにはプラスじゃないかと思うんですよ。だから、カメラを外すのは、カメラを外せば確実にトップ・グループで走れるというようになってからでも遅くないんじゃないですか」
「中嶋さんがそういうならそれでいいけどさ。ただぼくとしては、すこしでもいいタイムで走ったほうがいいんじゃないかと思ってね」
と桜井淑敏はいった。
「ニュー・カーになる話はロータスからきいた?」
桜井淑敏はつづけてたずねた。ロータスではアイルトン・セナのための改良車を製作中で、それが完成するとセナがいままでレースでスペア・カーとして使っていた三号車が中嶋悟に回ってくることになっていたのである。サンマリノ・グランプリで六位になったときに乗った縁起のいい車だった。
「はやければつぎのデトロイト・グランプリからそうなるという話なんですけどね。でもぼくは、たとえそうなってもデトロイトではニュー・カーには乗らないつもりですけどね」
「どうして?」
「だって、デトロイトも市街地の公道サーキットでしょう。ぶつけでもして車を壊したらチームに迷惑をかけるじゃないですか」
「なるほど」
と桜井淑敏はいった。
そして目の前の小柄なF1ドライバーを見ながら、なんてこいつは冷静な男なんだろうと思った。しかしその冷静さが苛酷なF1レースを戦ううえで、はたしてどの程度役に立っているのかはよく分らなかった。たしかに中嶋悟はつねに冷静なドライビングをして車を壊さなかったので、ロータス・チームには好かれていた。だがそれはチームに余計な出費をかけないからというだけのことだった。桜井淑敏には、そんなことはF1ドライバーとしてあまり重要なこととは思えなかった。
「イギリスのシルバーストーンと、ドイツのホッケンハイムでは頑張りますよ。両方とも前に走ったことのあるサーキットだし、カーブのすくない高速コースですからね」
と中嶋悟はいった。
「頼むよ」
と桜井淑敏はいった。
そしてそのころまでには、中嶋悟の妙な冷静さがレースでどんな役に立っているかの答も出るだろうと思った。レース・シーズンが深まると、それまではトラブルでリタイヤばかりしていたチームの車にも熟成の度が加わってそう簡単にはレースから脱落しなくなるので、ただ完走を目標にしているだけでは上位進出はむずかしくなるからだった。桜井淑敏はそれまではあれこれいうのはよそうと思った。
モナコで市街地の公道サーキットにすっかり自信をなくしていた中嶋悟は、つぎのデトロイト・グランプリに対する希望的な抱負はまったく口に出さなかった。まるで最初からあきらめているかのようだった。
デトロイトのコースは、同じ公道サーキットでもモナコよりはずいぶん道幅が広かった。しかし、ある意味ではモナコよりもむずかしいコースといえた。東西南北に必ず直角に交わるアメリカの一般道を封鎖してつくられるコースなので、すべてのカーブが九十度のブラインド・カーブになるのである。そのうえ、コースとその外を区切る壁はガードレールではなく、もっと危険なコンクリートだった。
デトロイトを何度も走り、一九八六年には優勝を経験したアイルトン・セナでさえ、このコースのことになるとつぎのようにいって眉をしかめた。
「たしかにコースはモナコより広い。しかし、あるスピードでコンクリートの壁にぶつからないように走ろうと思ったら、ラインは一本しかない。そのラインから外れたら、たちまちコンクリートにドンだ。一九八五年にはぼくがやったし、一九八六年にはネルソンでさえ、そのミスをおかした。とにかく、すごくむずかしいコースだよ」
モナコ・グランプリから三週間後の六月十九日に予選が開始されると、中嶋悟は再び苦悩の底につき落とされた。彼自身、モナコでの経験からある程度の苦戦は覚悟していたが、それ以上だった。なんと全出場車二十六台中、二十四位という予選結果だったのである。タイムは1分48秒801で、1分39秒264でポール・ポジションをとったナイジェル・マンセルとはじつに10秒ちかくも差があった。中嶋悟は自分で自分の力に絶望した。
原因はいろいろあった。
何よりもコンクリートの壁に囲まれたコースそのもののむずかしさが第一の原因だったが、そのうえ路面がつるつるだったのである。それは公道サーキットではよくあることだった。専用サーキットのようにわざと目の荒いザラザラの舗装をして、レース用のスリック・タイヤがグリップしやすくなるようにはつくられていなかったからである。モナコの路面もそうだった。しかしデトロイトはモナコよりさらにすべりやすかったのである。
中嶋悟はその路面でどうしても車を落ちつかせることができなかった。落ちつかせるには、急にパワーをかけずに、微妙なアクセル・ワークで徐々にパワーを路面に伝える必要があったが、彼はそれができなかったのである。
「五速でもホイール・スピンしてしまって、どうしようもなかった」
と彼はデトロイトを振り返っていった。
それを見てきたホンダのレース監督の後藤治は、痛ましそうにこういわなければならなかった。
「中嶋さんは、ホイール・スピンがひどくて直線でもまっすぐに走れなかった。あれじゃ、タイムを出せといっても無理ですよ」
中嶋悟は土曜日の二回目の予選が終るころにはすっかり絶望し、つぎのような考えが自分の頭の中に浮んで大きくなるのを止めることができなくなった。
「おれは反射神経がにぶいんじゃないか」
彼は日本でF2カーに乗っていたころは、F2カーをもっとも巧みにコントロールして走るドライバーとして知られていた。彼の手にかかると、どんな車でもききわけのいい子猫のようにおとなしくなってしまった。そして彼は、ただ速く走るだけではなく、車を自分の思いどおりにコントロールすることに喜びを見出していたので、そうできることを楽しんでいた。
しかしF1カーはそうできなかった。F2エンジンのパワーは350馬力程度で、F1のターボ・チャージャー・エンジンは1000馬力だった。結局彼は、おれがコントロールできるのはせいぜい350馬力どまりで、1000馬力になるともう手に負えないのだろうかと思わざるを得なかったのである。
デトロイトでの彼の唯一の慰めは、レースデーの午前中に雨の中でおこなわれたウォームアップ走行で九番手のタイムを出したことぐらいだった。雨の中ではなぜかホイール・スピンが起きず、タイヤがしっかりと路面をグリップして信じられないほどスムーズに走ることができたのである。そのときのタイムは2分12秒402で、2分8秒593で最速タイムを出したマンセルとたった4秒しか差がなかった。
「雨だと速いね」
とみんながいった。
しかし桜井淑敏は中嶋悟の雨の中での速さをあまり評価できなかった。
彼はデトロイト・グランプリには行かなかった。日本と世界中のサーキットをほぼ一週間ごとに往復する忙しい生活のためにオーバーワークとなり、目を痛めてドクター・ストップをかけられてしまったのである。しかし後藤治が毎日デトロイトから電話をかけてきたので、何でも知ることができた。
彼は後藤治から話をきき、雨の中では九番手だったが、晴れた予選では二十四位にしかなれなかった中嶋悟のことをつぎのように思った。
「みんなが遅いタイムでしか走れないときは差がすくないが、晴れた路面でみんながとことんタイム・アタックをするときになると大きな差がつく。いったいどういうことなんだろう」
そして彼は、中嶋悟が二十四位だったという予選結果のほうを思ってがっかりした。
しかし他のホンダ勢三人の調子はすばらしかった。マンセル、セナ、ピケの順で並び、第一戦のブラジル・グランプリからつづいている上位三位独占の記録を五戦連続に伸ばしたのである。
なかでもセナは自信たっぷりで、土曜日の二回目の予選で二位のタイムを出すと、そこでタイム・アタックを中止してしまったほどだった。そして残った時間は日曜日の決勝にそなえてレース・セッティングについやした。なぜそうしたかをきかれたセナは、笑ってこう答えた。
「モナコやデトロイトのようなコースで重要なのは、フロントローに並ぶことでポール・ポジションをとることじゃない。フロントローからスタートできればそれでいいんだ」
この答をきくと、みんながセナの変わりように驚いた。一九八六年のセナはポール・ポジションを獲得することに全存在を賭けているような感じで、つねに予選の最後に一発勝負を挑んでいた。そして誰よりも多い八度もポール・ポジションを獲得したのである。
しかしセナは変わったわけではなかった。彼の使っていたルノー・エンジンはレースではあまり信頼性がなかったので、そうして予選で自分の存在をアピールする以外になかったのである。それだけのことだった。ようするに、エンジンがルノーからホンダに変わって、本番のレースで勝てる可能性が何倍にも高まったので、予選では無理をしなくなったのである。
それでも桜井淑敏が総指揮をとるホンダ陣営はまだ満足していなかった。第一戦のブラジル・グランプリのために一九八七年用の新エンジンを開発し、つづく第二戦のサンマリノ・グランプリには、はやくもその改良型の第二弾の新エンジンを投入した。それでサンマリノとモナコを制していたにもかかわらず、さらに勝利を完全なものにするために、このデトロイトで三弾目の新エンジンを投入したのである。
このエンジンは、第四戦のモナコまでに発生したプラグやコンロッドなどのこまかいトラブルを全部見直して改良したものだったので、井常に強力だった。デトロイトでの金曜日と土曜日のはたらきがそのことを何よりもよく証明していた。予選で上位三位までを独占して、トラブルはまったく発生しなかったのである。
彼らは、開幕五戦目にしていよいよ破竹の進撃を開始しようとしていた。
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30
六月二十一日の日曜日。中嶋悟は、午前中におこなわれた雨の中でのウォームアップ走行のタイムがよかったので、レースも雨になればいいがと願った。
しかしそうはならなかった。昼前には太陽の光が射し、レース・スタートの午後一時四十五分になるころには路面は完全にドライ・コンディションになってしまった。気温もあっというまに上昇して三十度に達した。
中嶋悟は、ドライ・コンディションでは自分がどうしても速く走れないと知っていたので、すごくがっかりした。しかもモナコと同じ市街地コースで追い抜きがむずかしかったので、二十四位スタートというのはほとんど絶望的なポジションだった。彼はいつものように、車を壊さずに完走することを目標にした。
レースはポール・ポジションからスタートしたマンセルのリードではじまり、それにセナとピケがつづいた。予選五番手の位置からスタートしたマクラーレン・ポルシェのプロストは、スタートに失敗して七位に落ちた。
ホンダ・エンジン勢の三人は強力だったし、セナの言葉どおり一定のスピードで走るには一本のラインしかないコースだったので、レースはしばらくこのままつづくかと思われた。ところが三人の中から三周目にまずピケが脱落した。左フロント・タイヤのパンクに見舞われたのである。ピケはピットにはいり、急いでタイヤ交換をして出て行ったが、それで十八位に落ちた。タイヤがあたたまるまでは全力走行に移れなかったので、四周目にはさらに二十一位まで落ちてしまった。
このとき中嶋悟はすでにコースから姿を消していた。
スタートしてから三つ目のカーブで、彼はまず前を行くイワン・カペリの左リヤ・タイヤにフロントを追突させた。このときはうまく車をコントロールしてスピンをまぬがれたが、態勢を立て直してつぎのカーブに加速中に、こんどはうしろから殺到してきたミナルディのエイドリアン・カンポスに追突された。これで彼はスピンし、コンクリートの壁にはぶつからなかったが、コース上でストップしてしまったのである。
モナコのときと同じようにすぐに何人かのオフィシャルが飛び出してきて車を押してくれたが、こんどはうまくエンジンがかからなかった。運のわるいことに、中嶋悟の車はコンクリートの壁に鼻先をつけるようにしてストップしてしまったのである。そのためにバックで押してもらう以外になく、リバース・ギヤではなかなかエンジンが再点火しなかったのだった。
中嶋悟はコックピットにすわったまま、なんとか車の向きを変えてもらい、それから押してもらおうと何度もオフィシャルたちにそう合図した。しかしコース上でいつまでもそんなことをしている時間はなかった。彼は車とともにレースの邪魔にならないようにコースの片隅に片づけられ、そこでコックピットから降ろされた。
デビュー戦から四戦つづけて完走していた彼の貴重な記録もそこでストップした。どうしようもなかった。
マンセルは三十三周目までレースをリードした。マンセルと二位のセナとの差は10秒あった。セナのあとには二十五周目に三位に上がったプロストがつづき、さらにフェラーリのゲルハルト・ベルガー、ピケとつづいていた。ピケはタイヤのパンクで四周目には二十一位まで落ちたが、交換したタイヤがあたたまったと見るや、さっそく全力走行を開始して二十七周目には五位の位置まで上昇してきていたのである。一周ごとに順位を上げていくピケのものすごい追い上げぶりに、デトロイトの観客は大喜びだった。
マンセルはピットからの指示にしたがい、予定のタイヤ交換のために三十四周目にピットにはいった。通常ならタイヤ交換は10秒程度で終るのが普通だった。ところがこのときは右後輪のナットがエア・ガンにうまく噛まずに19秒もかかってしまった。これでマンセルは10秒の差をつけていたセナに、反対に20秒の差をつけられてしまった。
しかしこの時点ではセナとの20秒の差は、マンセルにとってあまり深刻なものではなかった。タイヤ交換そのものに要する時間は10秒程度だったが、スロー走行でピットに出入りしたりして失う時間を含めると20秒から30秒かかるので、セナがタイヤ交換にはいればたちまち追いついてしまうのである。したがってまだタイヤ交換をしていないセナとの20秒差は、計算上は存在しないも同然なのだった。
ところがセナはそこから本領を発揮した。彼はどのレースでも、ライバルのマンセル、ピケ、プロストの三人がタイヤ交換を終えるまでは、自分からはけっしてそれをしなかった。そのあいだにライバルたちのタイヤの減り具合や、レースの状況を冷静に観察して、自分で一番いいと思ったときに最後にピットに飛びこむのである。当然のことながら、セナはこのときも三位のプロストがまだタイヤ交換をしていなかったので、自分もしなかった。そんなことは、誰よりもタイヤに負担をかけない走り方ができなければ不可能なことだったが、彼はそれができたのである。
セナはマンセルがタイヤ交換にピットにはいったと知るや、マンセルの新しいタイヤがあたたまらないうちにさらにリードを広げてしまおうと、一挙にスパートした。これはいつもセナが使う頭脳的な手だったが、このときばかりはそのあまりの速さに誰もが驚いた。
三十四周目までのセナは、1分43秒から44秒台のタイムで走っていた。ところが三十五周目と三十六周目に42秒台のタイムを出すと、三十七周目には41秒台に上げ、三十八周目からはさらに上げて四十周目まで三周つづけて40秒台のタイムで走ったのである。とくに四十周目に出した1分40秒464は、彼が予選二位となった1分40秒607のタイムより速かった。しかも彼はそのタイムを、ほかのドライバーがみんな摩耗したタイヤを交換しているあいだに、彼らと同じ周回数を走ったタイヤでマークしたのである。
マンセルもタイヤ交換をしてから、三十六周目に1分40秒台のタイムを出した。しかし彼が40秒台のタイムを出したのはその一周だけで、あとは42秒から45秒台のタイムしか出せなかったので、セナとの差は35秒に広がった。マンセルはその差に愕然とした。セナはタイヤ交換にピットにはいってもトップの座を明け渡さなくてもすむところまで逃げてしまったのである。マンセルがタイヤ交換をしてから、わずか七周のあいだのことだった。
プロストは三十九周目にタイヤ交換をしたが、三位のままコースに復帰した。しかし彼の調子はあまりよくなさそうで、四十三周目にはベルガーを抜いて四位に上がっていたピケにあっさりかわされてしまった。これでホンダ・エンジン勢の三人が、コース上に再び1・2・3体制を形成した。
あとの焦点は、セナがいつタイヤ交換をするかということだけだった。レースは六十三周で、そこまでにはまだずいぶん残りがあった。
ロータスのピットでは、セナがマンセルに対して十分なリードを保っていたので、いつでもタイヤ交換ができるというサインをセナに出しつづけていた。しかしセナはまったくピットにはいってくる気配を見せなかった。マネジャーのピーター・ウォーが心配して無線で呼びかけると、そのたびにセナはいった。
「だいじょうぶだ。ちゃんとグリップしてるよ」
ホンダのレース監督の後藤治も気が気ではなかった。エンジンのほうは、ホンダが独自に開発した近距離テレメーターによって、車に積まれたコンピューターから正常に動いているというデータが一周ごとに送られてきていたが、タイヤのトラブルなどで走れなくなるのはバカらしかった。しかし後藤治が確かめても、ピーター・ウォーはセナがだいじょうぶだといってると、答えるだけだった。
セナはしばしばピットからのサインを無視した。しかしそれはセナがいつも何かを自分なりに考えて走るドライバーだからで、しかもセナの独自の判断はたいていの場合まちがっていなかった。セナがだいじょうぶといったときはだいじょうぶなのだった。後藤治はセナを信頼することにした。ほかにどうしようもなかった。たぶんロータスのアクティヴ・サスペンションのセッティングがうまくいったのだろうと思った。
ロータスのエンジニアたちは、このレースでタイヤの摩耗を避けるための独特のシャシー・セッティングをこころみていた。ウィングの強力なダウンフォース効果だけで車体を路面に押しつけるのをやめ、そのかわりに通常なら車体が路面についてしまうぐらいまで極端にスプリングをやわらかくしたのである。そうすればあまりウィングのダウンフォース効果にたよらなくても接地性をよくでき、しかもウィングだけで車体を押しつけたときほどタイヤが摩耗しないからだった。
彼らはこのセッティングをモナコでもこころみていた。しかしモナコではそうすると車体の底が路面をすってしまって、あまりうまくいかなかった。そのために、セナは勝つには勝ったが、他のドライバーと同様にタイヤ交換のためにピットに飛びこまなければならなかった。だがデトロイトではアクティヴ・サスペンションの改良と進化で、スプリングを極端にやわらかくしても車体が路面をすらないところまできたのである。
セナはピットの心配をよそに、その後も快調に走りつづけた。反対に、終盤になってがっくりとスピードが落ちたのは二位を走っていたマンセルだった。彼は四十三周目にピケにかわされて三位に落ち、五十三周目にプロストにかわされて四位に落ち、さらに五十六周目にはベルガーにもかわされて五位に落ちてしまった。
あっというまのできごとで、誰もマンセルに何が起きたのか分らなかった。しかし、あとになって分った。彼は六十三周を走って結局五位でフィニッシュしたが、フィニッシュしたあとの車から自力で降りることができなかった。交互にくり返すデトロイトのきついアクセルとブレーキ・ワークのせいで右足にケイレンを起こしていたのである。彼はメカニックに助け出してもらい、そのままテント張りの救護室に運びこまれた。
優勝したのはセナだった。結局彼はタイヤ交換を一度もせずに最後まで走りきってしまったのである。
車から降りると彼はいった。
「タイヤを交換しないで走りつづけることにしたのは大きな賭けだった。裏目に出たら目もあてられない。でも結果は大成功だった」
ロータスのアクティヴ・カーとセナの頭脳の勝利だった。そしてセナはモナコにつづくこの勝利で獲得ポイントが24点となり、22点のプロストを抜いてドライバーズ・ランキングのトップに躍り出た。
一方、一周も走れずにリタイヤした中嶋悟は、レースが終ってからも口をつぐんだままであまりしゃべらなかった。
彼は、モナコにつづいてまたしてもむずかしいコースに翻弄され、自分のドライビングがぜんぜんできなかったこともショックだったが、リタイヤの原因が自分のミスだったことにも大きなショックを受けていた。彼の考えでは、うしろからぶつけられるのはバックミラーをよく注意して見ていれば必ず避けられるはずのもので、ぶつけられたということは自分でそれを怠っていたからにほかならなかった。彼はコースに出るとたちまち余裕を失い、ただうろうろしているだけのような気がして、自分で自分がもどかしく、腹が立った。しかしそれがいまの彼の姿だった。サンマリノとベルギーで連続して入賞したのが、まるで遠い昔の夢の中でのできごとのように思えた。
彼はコースから去るまえにジャーナリストに囲まれると、やっと重い口をひらいていった。
「七月になってヨーロッパの高速コースに戻ったら、そこでまた一からやり直すよ」
モナコのときとまったく同じコメントだった。
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31
七月になり、デトロイトからヨーロッパに戻って第六戦のフランス・グランプリを迎えると、ドライバーたちはみんな一様にほっとした。つるつるの路面や、危険なコンクリートの壁を気にせずに、きちんと整備されたサーキットでまた本当のモーター・レーシングができるからだった。
なかでもフランス・グランプリがおこなわれるポールリカール・サーキットは、マルセイユからすこし山を登ったところにある美しいサーキットで、彼らが磨き抜かれた腕でF1のスピードとテクニックを披露するのにぴったりのところだった。時速300キロで走る二本の直線を中心にして、六速で突入していかなければならない高速コーナーがあるかと思うと、スキーのスラロームのようなターンの連続の低速コーナーがあるといった具合で、ドライバーの総合力が問われるコースだったからである。
レースをまえにしてナイジェル・マンセルはいった。
「ポールリカールはシャシーのセッティングがむずかしい。高速コーナーを全開でまわるにはスプリングを十分に固くしなければならないし、低速コーナーを速くまわるには反対にやわらかくしなければならない。両方をバランスよく実現するのは、とても骨の折れる仕事だ」
しかしそういうことを楽しみながら、誰よりも速く走ることを生きがいにしているのが彼らレーシング・ドライバーだった。彼らにとってはそうしたむずかしさを克服することも喜びの一部だったのである。
もちろんこのフランス・グランプリでもっとも張りきっていたのは、フランス人のアラン・プロストだった。
彼はこの年もブラジルとベルギーですでに二勝をあげ、それでF1グランプリでの勝利がちょうど通算二十七勝になっていた。二十七勝は、一九七〇年代に三度ワールド・チャンピオンになったジャッキー・スチュワートの通算最多勝記録に並ぶもので、あと一勝すれば彼はF1グランプリでもっとも多くの勝利をあげたドライバーとして単独で長くF1の歴史に残るのであった。彼はその刻印を母国のフランスで記したかったのである。
プロストがブラジルとベルギーで二つ勝って、スチュワートの記録にあっさり並んだときはそれを破るのは時間の問題と見られていた。ところがそのあとのモナコとデトロイトでは、彼は勝つチャンスすらなかった。セナが二つとも完璧なレースをしたからである。しかしフランス・グランプリでは、プロストはセナにも誰にもそんなレースをさせるつもりはなかった。
だがフランス・グランプリにはマンセルも特別の決意をして臨んでいた。
彼はこれまでの五戦のうち、サンマリノでセナに後れをとった以外は全部ポール・ポジションを獲得して、いまや誰よりも速い男として認められていた。しかし彼が勝ったのはポール・ポジションをとれなかったそのサンマリノの一戦だけで、あとはデトロイトで五位になったのが最高というさんざんのできだった。おまけにベルギーでリタイヤしたあと、接触した相手のセナに殴りかかった一件ではF1ドライバーとしての品位を落とし、人間性まで疑われるという始末だった。それやこれやで、マンセルもフランス・グランプリで勝って、新たなスタートのきっかけにしようと思っていたのである。
疲労から痛めた目が治って、再びレースの現場に復帰した桜井淑敏もすぐにそのことを察知した。ポールリカールで会ったマンセルにはいつもとちがった落ちつきがあり、桜井淑敏が感じたところではとてもいい目をしていたからである。そのことをレース監督の後藤治にいうと、後藤治はモナコ・グランプリのあとでデトロイトから投入した新エンジンのテストをおこなったときのエピソードを報告した。
「いつもなら調子がわるいとすぐに機械のせいにしてぶつぶついうのに、ひとことも文句をいわないんですよ。こっちのいうことを黙ってきいて、黙ってテストをするんで、みんなどうしちゃったんだろうと驚いてね。ベルギーの一件で評判を落として、あれからずいぶんいろいろ考えたんでしょうね、きっと」
またマンセルは、デトロイトではレース中に右足に痙攣を起こすという不名誉な事態を招いて、ウィリアムズのチーフ・エンジニアのパトリック・ヘッドに太りすぎを指摘されていた。そのために彼はデトロイトからフランス・グランプリまでの十日ほどのあいだに、イギリスのマン島の自宅でみっちりトレーニングをつんで、精神と一緒に肉体も鍛え直してきていた。彼の決意は本物だった。
そしてこの二人に対抗すべく、フランス・グランプリでの優勝を|虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたもう一人は、ネルソン・ピケだった。
ピケは他の三人――マンセル、セナ、プロストとともに、一九八七年のシーズンの有力なワールド・チャンピオン候補の一人だったが、その四人の中で彼だけがまだ優勝をしていなかった。他の三人と同じように、彼も三度完走して二度リタイヤしていたが、完走した三度とも二位だったのである。その安定した成績のためにポイントでは18点を獲得して、セナの24点、プロストの22点につづいていた。しかし、いつもいつも二位に甘んじているのはもううんざりだった。そこで、そろそろ自分が優勝してもいいころだと考えていたのである。
セナは他の三人にくらべると、フランスでの優勝の確率はやや低いと見られていた。カーブの連続でスピードがあまり出ないモナコとデトロイトではロータスのアクティヴ・カーがレースを有利にしたが、高速コーナーのまわり方がレース結果を左右するような高速のサーキットでは、アクティヴ・カーにはまだ空力の面で改善の余地があったのである。
セナはその面での改善をはかるために、フランス・グランプリのまえにイギリスのシルバーストーンで何回もテスト走行をかさね、ロータスのチーフ・エンジニアのジェラルド・ドゥカルージュは、休む間も惜しんで風洞実験をくりかえしていた。しかし結局は完全なものにできず、セナはレースをまえにしてつぎのようにいわなければならなかった。
「いろいろテストしてみたが、高速コーナーでウィリアムズに太刀打ちするには、もっと劇的な改善が必要だ」
ウィリアムズはスプリングを他のどのチームよりも固くしてウィングでマキシマム・ダウンフォースをつけ、高速コーナーで最大のグリップを得られるようにしていたが、ロータスはアクティヴ・カーのためにそれができなかったのである。
当然のことながら、中嶋悟もセナと同じ悩みをかかえることになった。そのうえ、デトロイトから与えられる予定だったセナのスペア・カーはまだ彼のものにならず、彼の車は依然としてロータスが最初につくった一号車だったので、彼の悩みはさらに大きかった。
しかし彼としてはそんなことはいっていられなかった。彼は最初の三戦ではブラジルの七位にはじまって、サンマリノで六位、ベルギーではさらに五位になって、完走さえすればかなりいい成績が残せると気をよくしていたが、その後のモナコとデトロイトですっかり打ちのめされ、完全に自信を失っていた。その失われた自信をフランスで回復する必要があった。
ロータスのアクティヴ・カーには、まだ解決すべきいろいろな問題があるにはあったが、彼が最初の三戦で好成績をあげたときに乗った車はべつに変わった車ではなかった。いまと同じ車だったのである。フランスでも同じことができないはずはなかった。問題はあるにしても、ロータスのアクティヴ・カーは下位チームの車にくらべればずっといい車だったし、エンジンは目下のところ最強のホンダ・エンジンを積んでいるのである。
中嶋悟は、フランス・グランプリではなんとしても完走しなければならないと決意し、そのためにはどんなちいさなミスも絶対にしないことだと思った。モナコでもデトロイトでも彼は下位集団の混乱にまきこまれ、その中で他の車と接触するというミスをおかしていた。そうしたミスさえおかさなければ、ポールリカールはテストでずいぶん走っていたところだったので、そうぶざまなことにはならずに完走できるはずだった。彼はそう信じた。
こうして各ドライバーがさまざまな思いを胸に秘めたフランス・グランプリは、七月三日にはじまった。
二日間の予選が終ると、F1新記録の通算二十八勝目を母国での優勝で飾りたいというプロストの決意がなみなみならぬものであることが誰の目にもあきらかになった。彼は一周が3・813キロのポールリカール・サーキットを1分06秒877のタイムで走ってのけたのである。平均時速にして205・254キロというものすごいスピードで、このタイムは一九八六年の予選でセナが出した1分06秒526にわずか0・351秒遅いだけであった。すばらしいタイムといわなければならなかった。一年前のセナのタイムは過給圧が無制限のルノー・ターボエンジンで出したものだったが、プロストは過給圧が四バールに制限されたエンジンでそのタイムをマークしたのである。
それでもプロストはポール・ポジションを取るまでにはいたらなかった。マンセルが1分06秒454で走って、彼のタイムばかりか、セナのポールリカールでの最速ラップまで破ってしまったからである。いまやマンセルの速さは並大抵のものではなく、こういう相手とタイムを競わなければならないプロストは不運としかいいようがなかった。これでマンセルのポール・ポジション獲得は、六戦で五度目となった。
しかしプロストは、1分07秒024で三位につけたセナと、1分07秒140で四位につけたピケより速かったので、第一戦からつづいていたホンダ・エンジン勢三人の一・二・三位独占の記録は途絶えた。ついにプロストは三人のあいだに割りこんだのである。
桜井淑敏はモナコとデトロイトでセナが連勝したので、最初の三戦でプロストが示した勢いは何とか止められたとほっとしていた。しかしこれでまたすこし不安になった。
「ポルシェはエンジンの改良に成功したのだろうか?」
と思った。
もしそうだとしたら、これからの戦いは面倒なものになりそうだった。ホンダがそれまでに発生したトラブルをひとつずつ潰してデトロイトから最終的な新エンジンを投入したように、例年デトロイトまではその年のシャシーとエンジンを熟成する期間で、フランス・グランプリからが本当の戦いだと考えられていた。そのフランス・グランプリで、マクラーレン・ポルシェとプロストは差を詰めてきたのである。ポルシェがエンジンのパワー・アップをはかり、それに成功したのかもしれないということは十分に考えられることだった。
桜井淑敏は、デトロイトから投入した新エンジンで圧倒的にマクラーレン・ポルシェを引き離してしまおうと考えていたが、そうはならないかもしれなかった。彼の不安はつのった。
もう一人のホンダ・エンジン勢の中嶋悟はまったくツイていなかった。
金曜日の午前中のフリー走行でギヤ・トラブルが発生したのがそのはじまりだった。ギヤ・トラブルそのものはそう珍しいトラブルではなかった。しかしロータスのアクティヴ・カーのギヤ・ボックス周辺にはアクティヴ・サスペンション用のいろいろな配線が通っていたので、ギヤ・ボックスと一緒にそれを外したりつないだりするのにおそろしく時間がかかった。
通常ならギヤ・ボックスの交換は一時間もあれば簡単にすんでしまう作業だった。しかし、フリー走行が終って十一時半に開始した作業は、予選開始の午後一時になっても終らなかった。中嶋悟はイライラしながらメカニックたちの仕事を見ていたが、自分ではどうしようもなかった。結局、作業が終ったのは一時五十分で予選終了の十分前だった。中嶋悟は急いでピットから飛び出していったが、走ることができたのはわずか三周で、この日はぜんぜん予選走行にはならなかった。
土曜日のフリー走行では、こんどはアクティヴ・サスペンションを作動しているオイルが洩れて、開始二十分で走行不能になってしまった。
「なんでこうなるのかなあ。こうトラブルがつづくと、気持が不安になってどうしようもなくなっちゃうんだよね」
と彼は嘆いた。
それでも彼は午後の二回目の予選になると、懸命にタイム・アタックをこころみて1分10秒652のタイムを出した。マンセルに遅れること約4秒で、二十六台中十六位のタイムだった。しかしモナコでのマンセルのポール・タイムとの差は約6秒、デトロイトでは約10秒だったのがそれだけの差になったのである。
彼はトラブルのことを忘れて、すこし気をよくした。高速サーキットでなら、まだ何とかやっていけそうだった。しかし彼のマシン・トラブルは、これだけではまだすまなかったのである。
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32
日曜日午前中のウォームアップ走行では、いつものようにガソリンをフルタンクにしての最終的なレース・セッティングがおこなわれた。
桜井淑敏は、このセッションでプロストがどれくらいのタイムで走るかに注目した。予選でのタイムは、ガソリンを20リッターか30リッターしか積まないで走るタイムなので、レースの参考にはあまりならなかった。しかしウォームアップ走行のタイムはちがった。ライバル・チームを|攪乱《かくらん》するためにわざとすくないガソリンを積んで速いタイムを出してみせるチームもあったが、たいていはフルタンクで走るので、このセッションでのタイムはそのままそっくりレースに反映するのである。
プロストのこのセッションでのベスト・タイムは、1分11秒075だった。そのタイムは、セナの1分10秒797、ピケの1分10秒698より遅く、マンセルの1分10秒224からはさらに遅かった。結局プロストは、レースを想定したテストではホンダ勢三人の中に食いこむことはできず、四番手のタイムしか出せなかったのである。
これで桜井淑敏はいくらかほっとした。そして、プロストは母国のレースですこしでもいいところを見せようとして、予選では特別に頑張ったのだろうと思った。
中嶋悟は1分13秒354で走った。そのタイムはウォームアップ走行の順位としては十六位で予選の順位と変わらなかったが、最速タイムを出したマンセルとの差は予選での4秒から3秒に縮まった。
これは彼にとって非常にいい兆候だった。彼の上の1分12秒台のところには、ブラバムやリジェやアロウズといった中位グループ・チームのドライバーが並んでいたが、彼らのエンジンには彼らが最後までそんなペースで走れるような信頼性はなかったからである。反対に中嶋悟のホンダ・エンジンには、あり余るほどの信頼性があった。
中嶋悟はあらためて絶対に完走しようと決意した。サンマリノとベルギーのときのように、完走さえすればまた何かが起きるかもしれなかった。彼はそれを期待した。
レースの前にホンダのトランスポーターに行くと、そこでウォームアップ走行の結果からレース展開の予測をしていた桜井淑敏がいった。
「中嶋さん、どのくらいのタイムで走れそうですか。フルタンクで1分13秒台で走れるといいんですがねえ」
「レースでそのタイムで走るのはたいへんですよ。たぶん14秒台になるんじゃないですか。トップ・グループはどのくらいで走るんですか」
「マンセルは11秒台でスタートして、後半は9秒台で走るんじゃないかな」
「じゃあ、やっぱりおれは14秒台ですよ」
「そうですか」
桜井淑敏はちょっとがっかりした。
彼の中嶋悟に対する期待は、トップ・グループから早く2秒落ちぐらいのタイムで走れるようになってもらうことだった。そうすればトップ・グループにはついて行けないまでも、中団での先頭争いぐらいはできるようになり、いつまでも中団グループの尻にばかりついて走っているのを見せられることはなくなるのだった。後方集団でうろうろしている姿はあまり見たくなかった。そこで桜井淑敏は、ウォームアップ走行で13秒台のタイムを出したのだからレースでもその気になれば同じタイムを出せるのではないかと思って、そういったのである。しかし本人がその気にならない以上、どうしようもなかった。無理強いはできなかった。
レースがスタートすると、まずマンセルがポール・ポジションからいいダッシュをしてトップに立った。彼はまだタイヤがあたたまっていない一周目を1分15秒台のタイムでクリアすると、二周目からすぐに桜井淑敏の予測タイムの1分11秒台に突入した。これにピケ、プロスト、セナがつづいた。
中嶋悟の一周目のタイムは1分27秒台だった。そして二周目からは1分16秒から17秒台のタイムになった。中嶋悟が自分で予測したタイムよりずっと遅いタイムだった。
それでも彼は三周目にはスタート時の十六位から十三位に上がった。
「いい雰囲気だった」
と彼はいった。
タイムとしてはちょっと期待外れだったが、すくなくともモナコやデトロイトのときのように、どのように走ればいいのか分らないという悩みにわずらわされることはなかったからである。しかし、いい雰囲気でのドライブも六周目までだった。彼はレースでもツイていなかった。
六周をクリアして七周目にはいった直後、第一コーナーまであと100メートルというところのストレートで左のフロント・タイヤがパンクしてしまったのである。パンクで左フロントが沈むと、バランスを保つためにアクティヴ・サスペンションが自動的に作動して右フロントも沈めたので、彼の車は車体の底で路面をこすりながらものすごいスピードでそのまますべっていった。車体の底が路面についているので、ブレーキはまったくきかなかった。折しも彼のすぐ目の前では、リジェのピエルカルロ・ギンザーニとザクスピードのマーティン・ブランドルが、第一コーナーを前にしてブレーキングにはいったところだった。
中嶋悟はみるみる目の前に迫ってくる二台の車を凝視しながら、祈った。
「はやくカーブして行ってくれ。おれにはどうにもできないんだ」
二人がコーナリングにはいるのと、中嶋悟が衝突すると予測した地点を通過したのは同時だった。彼は第一コーナーをはるかに通り越し、エスケープ・ゾーンのずっと奥でようやくストップした。
エンジンを止めなかったので再スタートはできたが、パンクしたタイヤで彼がのろのろとコースを一周してピットに戻ったのは、それから三分もしてからだった。そしてタイヤを交換して再びコースに戻ったときには、彼はすべての車から三周遅れになっていた。
しかしトラブルはまだぜんぜん解決されていなかった。パンクと同時に車体の底が地面に落ちたときのショックでフロント・ウィングが変形したらしく、走行安定性がなくなってしまったのである。彼は八周目にまたピットに飛びこみ、フロント・ウィングをつけかえてもらった。これで五週遅れになった。
つぎに彼がピットにはいったのは二十三周目だった。ストレートを高速で走ると左のフロント・タイヤから白煙が上がるので、まだどこかがおかしいと気づいたのだった。そこで注意して観察してみると、ブレーキ冷却用のエア・ダクトのボルトがゆるんでいるらしく、それが風圧でグラグラしてタイヤに触れていたのである。最初のパンクの原因もこれだと分ったが、ピットに止まってしまうとちゃんと付いているように見えるので、メカニックが気づかなかったのだった。もちろん三度目のピットでボルトを締め直してもらっているあいだにも周回遅れになり、レースに復帰したときにはもうトップから何周遅れになったのかも分らないほどになっていた。
一方、上位陣は三十周目までマンセル、プロスト、ピケ、セナの順でレースをしていた。しかしセナはアクティヴ・カーの空力問題が未解決なためにやや遅れ気味で、優勝争いはセナを除く三人にしぼられつつあった。そしてその三人の中ではプロストがもっとも元気だった。
プロストはスタートではピケにさきを越されて三位に落ちたものの、十九周目にピケが第一コーナーの進入でハーフ・スピンしたのに乗じて二位に上がると、すごい勢いでマンセルを追いかけはじめた。そしてそれまでは10秒ちかくも離されていた差を一挙に0・7秒差まで詰めてしまったのである。
桜井淑敏は見ていて気が気ではなかった。ラジエターにタイヤのカスがつまって思うように走れなかったブラジルと、中嶋悟以外の三人が全員リタイヤしてしまったベルギーを除くと、ホンダ・エンジン勢がプロストにこんなに追い上げられるのははじめてだった。
「朝のウォームアップ走行で安心したのはまちがいだったのだろうか」
と桜井淑敏は思った。やはりポルシェはエンジンの改良に成功して強力な新エンジンを投入してきたのだろうか。もしそうだとしたらやっかいなことだったが、目の前ではプロストがそう思わざるを得ない断然たる走りを展開していた。レースはまったく予断を許さなかった。
レースの様相がとつぜんあわただしくなってきたのは三十一周目からだった。三位を走っていたピケが先頭を切ってタイヤ交換にはいったのである。接戦のレースではタイヤ交換のタイミングがその後の展開に大きな影響を与えるので、ウィリアムズとマクラーレンのピットに緊張が走った。ピケは五位でレースに復帰した。しかしたった一周でベネトンのティエリ・ブーツェンとセナを抜き去り、三十二周目には早くも三位の位置に復帰した。
つづいて三十五周目にプロストがピットにはいった。マクラーレンのピットでも大急ぎでタイヤ交換がおこなわれた。しかしタイヤ交換が終ってプロストがピットから出て行ったときには、ピケに先を越されて三位に落ちてしまった。
マンセルがタイヤ交換をしたのは三十六周目だった。これでこんどはマンセルが三位に落ち、ピケ、プロスト、マンセルの順になった。まったくあわただしい展開で、こんなレースも珍しかった。
そしてここまでは、タイミングを見計らって最初にタイヤ交換をしたピケの作戦が当たったかのように見えた。いまや彼は先頭に立ち、しかも力が伯仲した他の二人と危険なコーナーで戦うことなくその位置を手に入れたのである。
二位のプロストはそのピケをぜんぜん追いかけなかった。F1史上最多勝記録となる二十八勝目を奪うチャンスを前にしてどうしたのだろうとみんな不思議がったが、追いかけられないわけがあったのである。タイヤ交換をしたあたりから、彼のエンジンにはミス・ファイアが生じはじめていたのだった。彼に残された道は、できるだけ順位を落とさずに完走することぐらいで、ほかにはどうしようもなかったのである。
しかしマンセルはあきらめなかった。戦闘力を失ったプロストをわずか二周で抜き去ると、三十八周目からピケを猛烈に追いかけはじめた。
いまやマンセルは速く走ることにかけては第一人者だったので、その力をいかんなく発揮した。なかでも圧巻だったのは、四十周目から四十三周目にかけて連続四周にわたってマークした1分10秒台の走りで、その間ピケは1分11秒台で走ったのでみるみる差が詰まっていった。そして四十五周目にはマンセルがピケのうしろにぴったりと車をつけたので二人の逆転は時間の問題となった。
マンセルは四十六周目のあるコーナーでピケを抜いた。ピケがわずかにアウトにふくらんだところを狙って内側に飛びこんだのである。二人はタイヤがいまにも接触せんばかりの状態でコーナーを並走していった。ピケが安全を無視してただ勝つことだけを考えるようなドライバーだったなら、二人は接触してともにコースアウトしていたかもしれなかった。ピケは自分の車を有利にするために内側に寄せることもできたからである。しかし彼はそうしなかった。ただつぎのように思っただけだった。
「おれとやつはチームメートだったはずだがな。それにファースト・ドライバーはおれだぞ」
しかしレースはまだ終らなかった。フランス・グランプリの周回数は八十周だった。ピケは四十六周目に抜かれたあとは、六十四周目までぴったりとマンセルのあとについて走っていたが、このままでは再逆転できないと見るや、六十五周目にとつぜんピットに飛びこんだ。タイヤを交換して新しいタイヤで再逆転をはかろうと決断したのである。
このピケの二度目のタイヤ交換には誰もが驚いた。もし二度のタイヤ交換をするなら、それはマンセルでピケではないと誰もが見ていたからである。それに残りがあと十五周では、タイヤを新しくしても追いこむ時間が足りないのではないかと思われた。しかしピケはできもしないようなことに勝負を賭ける頭の弱いドライバーではなかった。
彼は大急ぎでピットに飛びこみ、大急ぎでタイヤ交換をして、大急ぎでピットから飛び出せば、20秒差ぐらいでコースに復帰できると考えていた。そして新しいタイヤでなら、グリップが甘くなっているはずのマンセルを一周につき2秒ずつ追い詰める自信があった。十五周あれば再逆転は十分に可能なのだった。
ピケの判断はまちがっていなかった。ところが彼はすこし焦っていた。そのためにタイヤ交換が終ってピットから出て行くというそのときになって、あわてすぎてエンジンをストップさせてしまった。ピケ自身のミスだった。これで通常なら8秒か9秒ですむピット・ストップが18秒にもなってしまった。この余分な10秒のためにピケの計算は狂った。コースに復帰したときのマンセルとの差が30秒になってしまったのである。一周につき2秒ずつ縮めても最後の周で追いつくかどうかというギリギリの差であった。
ピケは六十六周目からさっそく追撃を開始し、七十周目まで連続して1分9秒から10秒台のハイペースで周回した。その間マンセルは1分12秒台のペースで走ったので、この五周だけで11秒も差が縮まった。残りの十周でも同じペースがつづけば、ピケは何とか追いつけそうだった。
しかしマンセルも考えていた。残り十周をこのままのペースで行ったら追いつかれるが、それはピケが一周につき2秒ずつ縮めているからだった。ピットから出されるサインボードがそのことを教えてくれていた。したがって、マンセルとしてはピケにそうさせなければいいのだった。しかも、残り十周全部ではなかった。三周か四周でいいのだ。マンセルはタイヤに不安はあったが、勝つためにはそうする以外にないと心を決め、七十一周目から1分11秒台にペースを上げた。
ピケは自分のサインボードでマンセルとの差が七十一周目からは1秒ずつしか縮まっていないことを知らされ、マンセルがペースを上げたことを知った。一周につき正確に2秒ずつ縮めて最後の周で何とか追いつくという計算だったので、一周でもそのペースを崩されると駄目だった。それでもピケは七十三周目まであきらめずに1分10秒台で走ったが、マンセルも11秒台で走りつづけたので、七十四周目にあきらめた。このときの二人の差は16秒で、残り七周では2秒ずつ縮まってもマンセルが2秒差でさきにゴールに飛びこむことになるのだった。
「どうしてもこのレースは勝たなくちゃならなかったんだ」
とレースのあとでマンセルはいった
ピケにとってもプロストにとっても、それは同じだった。しかし彼らは敗れ、ワールド・チャンピオンを目ざすドライバーがみんなどうしても勝たなくちゃならないと思っていたレースはマンセルのものになったのである。
桜井淑敏はホンダ・エンジンを積んだ二人のドライバーの戦いをどちらが勝ってもいいと思って見ていたが、レースが終るといった。
「きょうのマンセルはすごく冷静に走った。きょうのマンセルには勝つ資格があったと思う」
しかしそれよりも彼がうれしかったのは、シーズンのはじめからもっとも怖れていたマクラーレン・ポルシェとプロストのコンビに、ここではじめて圧倒的な差をつけて勝ったことだった。プロストは最後まで走って三位でゴールしたが、マンセルとピケに50秒も離されてしまったのである。
桜井淑敏はいった。
「これでやっと勝った気がした」
プロストも敗北を認めた。
「こんなに歯がゆい思いをしたのははじめてだ。ホンダとポルシェのパワーの差が完全にはっきりしてきた。まったく走っていて嫌気がさしてしまうよ」
四位になったセナはロータスの車体に対する不満を洩らした。
「ガソリンはいくらでもあったんだけどね。空力がわるくてタイヤがぜんぜんグリップしないんだ。これじゃどうしようもないよ」
中嶋悟は最後まで走って最後尾の十一位でゴールしたが、七十一周しかできず、全周回数の九割に達しなかったので完走とは見なされなかった。
これがフランス・グランプリの結果だった。そしてこの結果あきらかになったのは、シーズン中盤の正念場を迎えてウィリアムズ・ホンダが完全に他を一歩リードしたということだった。ウィリアムズ・ホンダはコンストラクターズ・チャンピオンシップでも45点となり、39点のマクラーレン・ポルシェを逆転した。
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ホンダ・エンジン勢は、モナコからアイルトン・セナとナイジェル・マンセルの二人が三連勝して、いまや完全に他を引き離しつつあった。なかでもフランス・グランプリは、マンセルが最大のライバルのアラン・プロストに圧倒的な差をつけて勝ったので、そのことがいよいよはっきりした一戦となった。
ホンダ・チームの総監督の桜井淑敏は、これでいくらか気がらくになると思った。他のエンジニアやメカニックの若者たちも同様だった。彼らはこうなるまでに世界各地のサーキットで二十回以上もテスト・ランをくり返してきたのである。彼らにとっては、そのテストにつぐテストのあいまにときどきレースがあるという感じで、その間はイギリスのアパートにもみんな帰れなかった。しかしこれからはエンジンがだんだん完全なものになってきたので、すこしはらくになるのだった。
だが桜井淑敏にはまだひとつ気がかりなことがあった。それは中嶋悟だった。
彼はフランス・グランプリで中嶋悟がどういう走り方をするだろうかと期待して見ていた。モナコとデトロイトでつづけて屈辱的なレースをしていたので、フランスではそれを拭い去るために目をみはるようなレースをしてくれるのではないかと思っていたのである。しかし、残念ながらそういうシーンは一度もなかった。
中嶋悟は、ブレーキ冷却用のエア・ダクトのトラブルをピットで修理したあと、三十三周目に1分14秒台のラップ・タイムを出した。そのタイムは、レース前に桜井淑敏がフルタンクで1分13秒台で走れるかときいたときに1分14秒台でなら走れるといったタイムで、本来ならもっと早いうちに出していなければならないタイムだった。しかし、ともかく三十三周目にそのタイムを出したので、桜井淑敏はガソリンの量がすくなくなって車体が軽くなる後半になればさらにタイムが上がるだろうと思って見ていた。ところが中嶋悟が1分14秒台で走ったのはそれからわずか五周で、そのあとは反対に15秒から16秒台へと落ちてしまったのである。
そのときの中嶋悟は何度ものピット・ストップですでに回復が不可能なほど遅れてしまっていたので、桜井淑敏は順位についてはまったく期待していなかった。しかし、ラップ・タイムが上がらなければならない後半になって、逆に落ちてしまったのにはがっかりした。
また彼は、うしろから速い車が殺到してくると、自分のコースを譲って彼らをどうぞと先に行かせた。五十六周目にマンセルとピケが二台でぴったりとくっついてやってきたときもそうだった。ピット前のストレートで大きく右にコースを変え、二人に道をあけたのである。第一戦のブラジルで、アラン・プロストに最初にコースを譲って以来、ちっとも変わっていなかった。
桜井淑敏は黙っていられなくなり、レースのあとで中嶋悟にいった。
「あんなによける必要ないよ」
すると中嶋悟はいった。
「だって、おれのせいでピケとマンセルの順位が変わったり、トラブルが起きたりするのはいやじゃないですか」
「だいじょうぶだよ」
と桜井淑敏はいった。「あいつらなら、そのまま走っていればちゃんと抜いていってくれるから心配はないよ」
まったくそのとおりだった。
中嶋悟は第九戦のハンガリー・グランプリでは、予選中にタイム・アタックをしていたピケの邪魔になるまいとして、やはりピット前のストレートで同じことをした。すると中嶋悟が右によけてコースを譲った瞬間、ピケも中嶋悟を避けようとして右にコースをとったので、二人は接触しそうになった。その予選のあとで、ピケはカメラマンの間瀬明につぎのようにいわなければならなかった。
「アキラ、ナカジマにコースを譲る必要なんかぜんぜんないといってくれないか。とくにハンガリーのような新しいコースは、走行ライン以外はほこりがたくさんたまっているから、よけるとスピンする危険がある。もしどう走っていいのか分らないなら、わたしが教えるからききにこいと伝えくれよ」
桜井淑敏は、中嶋悟がコースのまんなかを図々しく走って先輩のドライバーたちに憎まれるのはいやだと思っていることは知っていたが、そんなことをいっていつまで自分をデビューしたての新人ドライバーだと思いつづけたら気がすむんだろうと思った。そしてさらに、もし彼が本気でそう思いつづけ、一年目のシーズンはF1の操縦やコースに慣れるための練習期間で、二年目を自分の本格的シーズンにしようと考えているなら、それはまちがいだと思った。
たしかに桜井淑敏は、中嶋悟をF1ドライバーにしたとき、一年目は練習のつもりでやってくれといった。しかしそれはただそういっただけだった。
第一、中嶋悟は新人にはちがいなかったがもう三十四歳で、一年間を練習期間に当てるような時間はないはずだった。それにホンダとしても中嶋悟の身分を永遠に保証できるとはかぎらなかった。どんなにホンダとして中嶋悟を推薦しても、相手チームが契約したくないといえば、それで彼の身分は簡単に宙に浮いてしまうのである。
まだ桜井淑敏は中嶋悟には何もいっていなかったが、早ければそういう事態が一カ月か二カ月のうちに現実に起きる可能性もないわけではなかった。サーキットにはかなり前からアイルトン・セナがロータスを出てべつのチームに移るという噂が流れており、桜井淑敏もセナがロータスのチーム運営のやり方に不信を抱いていることをきいていたので、きっとセナはロータスを飛び出してしまうだろうと知っていた。そして桜井淑敏は、セナがいなくなった場合はロータスにエンジン供給をするのは考え直さなければならないと思っていた。そのときは中嶋悟の身分も確実に宙に浮くのである。
桜井淑敏は、そうなったとき、どこかのチームが中嶋悟の実力を認めて、うちのドライバーになってくれないかと誘ってくれたらどんなにいいだろうと思った。もしそうなったら、彼は中嶋悟をどのチームヘでもこころよく送り出してやるつもりだった。しかし中嶋悟は、F1チームのマネジャーたちにこいつは見どころがあると思わせるような走りをまだ一度も見せていなかった。
桜井淑敏は、ホンダ・エンジンとともに彼をべつのチームに送り込むことができず、彼の実力を認めて彼と契約したいというチームもあらわれなかったときのことを考えた。そして現在のように、他のドライバーに嫌われないようにただ完走するだけを目ざして走っていたのでは、彼はそのとききっと後悔するだろうと思った。必ずあとで現在のことを振り返り、どうしてもっとチャレンジしなかったのかと考えるにちがいなかったからである。
いずれにしても、中嶋悟はもっともっとチャレンジすべきだった。そしてみんなにいいところを見せるべきだった。どんなに安全に走って完走しても、十位では誰もよろこばないが、スピンしてリタイヤしても一周でも人より速く走ればみんなが注目するのである。
他の新人ドライバーはみんなそうしていた。なかでもノーマル・アスピレーションのフォード・エンジンで走っているマーチのイワン・カペリなどは、自分がどんなにすばらしいドライバーかをアピールしようとして、何度車を壊したかしれなかった。何の後ろ楯もない新人ドライバーがトップ・チームのマネジャーに認めてもらうには、車を壊しても自分が限界ぎりぎりのスピードで走れる勇敢なドライバーであることを示す以外になかったからである。
中嶋悟はそういう新人ドライバーにくらべれば、ずっとめぐまれていた。はじめからホンダ・エンジンとロータスの車体というトップ・クラスの車を与えられたのである。それをもっと利用すべきだった。そして新人ドライバーとしての遠慮などは早いところかなぐり捨てて、自分自身の評価を高めるべきだった。桜井淑敏は、デビューしてからもう六戦も走っているのだから、あらゆる意味でそろそろそういう時期にきているのだと思った。
第七戦はイギリス・グランプリだった。
桜井淑敏は、モナコ・グランプリのあとで、中嶋悟がイギリスのシルバーストーンとドイツのホッケンハイムでは頑張るといったことを思い出した。どのように頑張るのだろうと思った。
そのころ、中嶋悟はべつの悩みをかかえてがっくりしていた。
彼はフランス・グランプリのあとでいった。
「どうしてF1カーが壊れるんだろう。おれは自分のミスで走れなくなることはあっても、車が壊れて走れなくなるなんてことはないと思っていたのに」
じっさい、それまでの過去五戦はそのとおりだった。彼のマシンは、フリー走行や予選の段階ではいろんな部分が故障したが、レースまでには優秀なメカニックの手ですっかり改良されて、レース中には一度も壊れなかった。その結果、彼は第五戦のデトロイトでミナルディのエイドリアン・カンポスに追突されてリタイヤした以外はすべて完走し、サンマリノとベルギーでは六位と五位になるという快挙をなしとげたのだった。
しかしフランス・グランプリではマシンにトラブルが出てしまった。それも、レース中かあるいはレースの前からブレーキ冷却用のエア・ダクトのボルトがゆるみ、ダクトがタイヤに接触してタイヤをパンクさせてしまうという信じられないトラブルだった。だがそれは現実に発生し、彼は最後まで走るには走ったが、何度ものピット・ストップで時間を失ってレースからは早々と脱落してしまったのである。リタイヤしたのとほとんど変わらなかった。
F1マシンは壊れないと固く信じていた分だけ、彼のショックは大きく、深かった。
しかし冷静に考えれば、F1マシンが壊れないなどということはありえないことだった。むしろ、F1は世界最高の最先端技術の集合体で何億もの金をかけてつくられてはいたが、あらゆる部分がぎりぎりまでの限界性能を求めてつくられていたので、一般の機械よりすべてが敏感で壊れやすいものだった。
もちろん中嶋悟もそれぐらいのことは分っていた。しかし彼は、F1ドライバーになるまであまりにも長くF1に対して夢を見すぎてしまっていた。その中で彼のF1に対するイメージはつぎつぎに増幅され、しだいに完璧なものになっていった。
彼は現実にF1ドライバーになったいまでも、まだ半分その夢の中にいたのである。
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第七戦のイギリス・グランプリは、フランス・グランプリの翌週の七月十日からはじまった。
コースのシルバーストーン・サーキットは、ノーザンプトン近くの軍用飛行場跡につくられた完全にフラットなサーキットで、しかも三速で回るひとつのカーブを除いて、あとのカーブは全部四速以上でまわらなければタイムが出ないように設計されていたので、F1に極限のスピードを求めるファンにとってはこたえられないところだった。
一九八五年の公式予選では、ここでF1史上最速のスピードが記録された。当時ウィリアムズ・ホンダのドライバーだったケケ・ロズベルグが一周4・719キロのコースを1分05秒591で走って、平均時速259・005キロをマークしたのである。もっともこの一九八七年からは、スピードを抑えるために最終コーナー手前に唯一の三速カーブとなるシケインが新設されたので、そんなスピードで走るのは無理だった。しかしシルバーストーンが名だたる高速コースであることにかわりはなかった。
ここでポール・ポジションを争ってものすごいバトルを展開したのは、ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケとナイジェル・マンセルの二人だった。
二人はこのところ、どこのサーキットヘ行ってもどちらがチームのナンバー1・ドライバーであるかをめぐって、いがみあいをしていた。ウィリアムズとの契約上はピケがナンバー1だったが、一年前からめきめきと速くなってきたマンセルも同じ待遇をチームに求めたので、いつのまにか二人の立場があやふやになってしまったのである。ジャーナリストにどちらがナンバー1なのかと質問されると、オーナーのフランク・ウィリアムズは二人ともナンバー1だと答えた。そのためにますます混乱が深まった。しかしイギリス人のフランク・ウィリアムズとしては、同じイギリス人のマンセルが頭角をあらわしてきた以上、ブラジル人のピケ一人がナンバー1でなくてもいっこうにさしつかえないと思っていたのである。
シルバーストーンではこんな噂まで流れた。ウィリアムズでは予選一日目の金曜日にサスペンションのダンパー・ユニットを二種類テストしたが、そのときマンセルはピケにわざとわるいほうのダンパーを付けるようにすすめ、自分はこっそりいいほうに付け替えたというものだった。いずれにしてもいまや二人は口もきかない仲で、それだけに二人のポール・ポジション争いは熾烈をきわめた。
一日目に1分07秒596で最速タイムを出したのはピケだった。マンセルは1分07秒725で二位だった。二人の差は0・129秒しかなかった。
二日目には、マンセルが予選がはじまってすぐに1分07秒180を出して、一日目のピケのタイムを破った。マンセルは過去六戦で五度ポール・ポジションをとって、自分が全力で走ればそれより速く走れるドライバーはいないと知っていたので、そこでタイム・アタックを中断した。しかしもしピケがもっと早いタイムを出したときはすぐにピットから飛び出せるように、車に乗ったままで待った。
予選の残り時間があと十分となったとき、ピケが1分07秒110を出した。ピケはそのままさらに二周つづけてアタックした。コースにはほかの車も出ていたが、まるでピケ一人の予選のようなすばらしいスピードだった。
しかし桜井淑敏は見ていて肝を冷やした。咄嗟にサンマリノの予選のときを思い出したからだった。あのときもピケは最速タイムを出したあと、さらによいタイムを出そうと休まずにアタックをつづけ、タイヤ・バーストでものすごいクラッシュに見舞われたのである。桜井淑敏は、あわててピケのエンジンを担当しているテスト・エンジニアの西沢一俊にいった。
「おい、危ないぞ。やめさせたほうがいいぞ」
すると西沢一俊は涼しい顔でいった。
「だいじょうぶですよ。すぐガソリンがなくなりますから」
ピケが積んで出たのは25リッターで、約八周分のガソリンだった。ピケはタイム・アタックをするまえに何周か走ってタイヤをあたためていたので、もう六周ぐらい走っていた。まもなくピケは無事にピットに戻ってきた。
マンセルがメカニックにさっと右手を上げ、エンジン・スタートの合図をしてピットから猛然と飛び出していったのは、予選終了五分前だった。いったんはもう破られないだろうと思ったタイムを出したのに、それが破られてしまったので彼は怒っていた。それにイギリスは彼の母国だった。ポール・ポジションはどうしても彼のものでなければならなかった。
残り時間が五分では勝負は一度しかできなかった。彼は二周ばかり走ってタイヤをあたためたあと、三周目に勝負に出た。彼はものすごいスピードでシルバーストーンの高速コーナーを攻め、何度もコーナーから飛び出しそうになったが、そのたびに危機一髪のところで車をコースに戻した。ピケのタイムは破られそうだった。
しかしマンセルはあと一歩というところで失敗した。最終コーナーのところに新設されたシケインで、勢いあまってブレーキをロックさせてしまったのである。彼の車はコースから外れ、芝生のエスケープ・ゾーンになだれこんで砂煙を上げた。それで終りだった。彼は腹立ちまぎれにそこでショーまがいの派手なスピンターンをしてみせたが、タイヤをすり減らせただけだった。
これで予選での勝負はピケのものになった。ピケが最速ラップを出したときの平均スピードは256・315キロで、ストレートでの最高速は326・778キロに達した。ピケにとってポール・ポジションの獲得はこの年はじめてのことだったので、予選が終ると彼は久しぶりにジャーナリストの集団に囲まれた。マンセルはサーキットにきていたプロ・ゴルファーで友人のグレッグ・ノーマンとゴルフに行ってしまった。
この二人以外は、あとはもうみんなつけ足しのような感じだった。
三位になったのはセナだったが、そのセナでさえ1分08秒181がやっとで、上の二人とは1秒もの差があった。セナのアクティヴ・カーは依然として空力がぜんぜん駄目だったのだ。彼は予選が終るとがっかりした顔でいった。
「走っていると、車体とカウルのあいだから地面が見えるんだ。信じられるかい。カウルが浮き上がって、車体とのあいだにすきまができてしまうんだよ」
四位はプロストで1分08秒577だった。プロストの問題は、セナよりもっと深刻だった。エンジンだったからである。彼はいった。
「ストレートになると、エンジンが死んだアヒルみたいになってしまうんだ。とてもホンダとパワー・ファイトはできないよ」
原因はアクセルを全開にしたときに生じるミス・ファイアだった。ホンダ・エンジンに対抗するためにいろいろな対策をとった結果、ポルシェ・エンジンそのものがどうにもならないところにきてしまったようだった。プロストは、レースはまだ十戦も残っているというのに非常に苦しい立場に立たされることになった。
中嶋悟は、シルバーストーンではどうしてもモナコとデトロイトでの汚名をそそごうと固く決意をしていたので、懸命に走った。彼は走るまえにこう自分にいいきかせた。
「ここはおれがヨーロッパで一番よく知っているコースだ。何も心配はない」
シルバーストーンは、一九八二年の三月にF2でヨーロッパ遠征をしたとき、日本人最高の二位になったコースだった。一九八六年にはF3000でも走っていた。
さらにこのイギリス・グランプリから、彼の車は一号車から三号車に変わった。それまでセナが予選で使っていたスペア・カーがやっとまわってきたのである。これでたぶんマシン・トラブルからは解放されるだろうと彼はよろこんだ。
そうして終った予選の結果は、1分10秒619で十二位だった。
オイル・クーラーのジョイントからオイルが洩れて、土曜日の予選を三十分しか走れなかったことを考えればまあまあのタイムだと彼は思った。セナとタイム差は2秒半で、ピケのポール・タイムとくらべても3秒半の差しかなかった。いずれもこれまでの予選のうちで最小のタイム差であった。それに十二位というポジションも、ブラジル、サンマリノと並んで彼としては最高のポジションだった。
彼はほっとした。そして、この調子ならレースでもまあまあのところまで行けるかもしれないと思った。何よりもコースをよく知っているということが心強かった。
しかし桜井淑敏はあまり満足していなかった。彼は、シルバーストーンは中嶋悟がよく知っているコースだというので、もっとすばらしい走りをしてくれるものと期待していたのである。
桜井淑敏の想像するすばらしい走りとは、いまにもコーナーから飛び出しそうな勢いでコーナーの外側いっぱいまでふくらみ、スピンぎりぎりのところから態勢を立て直してストレートを一直線に走り去って行くような走り方だった。しかし中嶋悟が最終コーナーから立ち上がってくるところを見ていると、いつもコーナーの外側に余裕を持たせて、まんなかのラインから立ち上がってきた。
桜井淑敏はレーシング・ドライバーではなかったので、どんな走り方が正しい走り方なのかよくは知らなかった。ターボ・チャージャー・エンジンは、ノーマル・アスピレーション・エンジンのようにじわじわとした加速ではなく、ターボがきいた瞬間に急激に加速するのでコントロールがむずかしいらしかったが、それも彼はレーシング・ドライバーではなかったのでどんなにむずかしいのか知らなかった。しかしタイムを稼ぐ速いドライバーの走り方はみんな同じだった。コーナーからの立ち上がりでは例外なくコーナーの外側いっぱいまでふくらんでくるのである。
桜井淑敏は、中嶋悟をまえにして何度もつぎのようにいいそうになった。
「どうして限界ぎりぎりまでためしてみようとしないんだ。車なんか壊したっていいじゃないか。いつまでも安全に完走ねらいの走り方ばかりしていると、F1から降りたときにきっと後悔するぞ。自分のためだ。一度やってみろよ」
しかし、自動車レースには誰が何といおうとドライバーの命がかかっていた。中嶋悟の予選タイムは1分10秒619だったが、その平均スピードは243キロに達するのだ。そのスピードで、無理をしてコースから外れたらと思うと、なかなか口に出せなかった。
「でも、彼にやる気があるならシルバーストーンはチャンスなんだがなあ」
と思った。
シルバーストーンはすべてのF1サーキットの中でもっとも高速のコースだったが、同時にもっとも燃費のきついコースでもあった。よい成績を目指すには、どんなサーキットよりもガソリンをどんどん燃やしてエンジンのパワーを上げなければならないのに、使えるガソリンの量は195リッターしかなかったからである。したがって、ガス欠の心配をしないためにはエンジンのパワーを落として走る以外にないのだった。
おそらく他のチームのドライバーはみんなそうするだろうと桜井淑敏は思っていた。そうする以外に無事に完走する手だてはないのだから。そして彼は、そのとき中嶋悟が燃費のいいホンダ・エンジンの過給圧を最大にして突っ走ったらどうなるだろうと考えていたのである。
もしそうしたら、いかに燃費のいいホンダ・エンジンといえども、最後にはガス欠になってしまうかもしれなかった。中嶋悟のシルバーストーンでの燃費は、そのドライビングのせいでセナより二パーセント、ピケ、マンセルにくらべると五パーセントぐらい悪かったからである。その差は、かりにセナと同じタイムで走ったとすると一周半、ピケ、マンセルとだと三周以上残してガス欠になることを意味していた。
しかし、もし過給圧を最大にして突っ走ってそれでガス欠になったとしても、それはそれでいいじゃないかと桜井淑敏は思った。安全に走って完走するよりも、いまの中嶋悟に必要なのは、一周でも二周でも上位陣の中に混じって走り、その存在をアピールすることなのだから。そして中嶋悟自身さえやる気があるなら、シルバーストーンではそれができるのだ。
どうしようと桜井淑敏は迷った。中嶋悟が安全に走りたいと考えているなら、強制はできなかった。しかし自分の考えていることが実現して、日本人の中嶋悟が最初から上位陣の中を走るのを見たらどんなに気持がいいだろうと思った。
桜井淑敏は土曜日の予選が終ってから、ずっとそのことばかりを考えていた。そして夜になって、ホンダのモーター・ホームの中で決心した。
彼はモーター・ホームから離れたトランスポーターの中で仕事をしていた後藤治と、中嶋悟のエンジンを担当しているテスト・エンジニアの小池明彦を呼んだ。そしていった。
「あしたは中嶋さんに、ガス欠になってもいいから最初から突っ走れと指示しようと思うんだが、どうだろう」
「賛成です」
と後藤治は短くいった。桜井淑敏ほど中嶋悟には関心がなさそうだった。無理もなかった。後藤治はセナのエンジンを担当していて、ワールド・チャンピオンを争っているセナのエンジンのことで頭がいっぱいだったのである。
しかし小池明彦はちがった。彼はデトロイトから中嶋悟を担当するようになったエンジニアだったが、彼が担当になったとたんにそれまで全部完走していた中嶋悟がリタイヤしたので、自分のことのようにがっかりしていた。桜井淑敏が小池くんはどうだというと、彼は瞳を輝かせ、まるで当然の作戦だといわんばかりに答えた。
「ええ、ぼくもそう考えていました」
桜井淑敏は二人の答をきき、誰もいままで何もいわなかったが、みんなこういう作戦を立てるのを心の中では望んでいたのだなと思った。あとは中嶋悟本人にどういって伝えるかだった。
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七月十二日の日曜日の朝、桜井淑敏はシルバーストーン・サーキットに行くと、十時半からはじまるウォームアップ走行のまえにピットで自分の車を見ていた中嶋悟をつかまえた。
桜井淑敏は土曜日の夜にホテルに帰ると、中嶋悟に何といって自分の作戦を伝えようかといろいろ考えた。無茶ないい方をしていたずらにプレッシャーをかけるようなことはしたくなかったが、ちゃんと意志が伝わらないようなあいまいないい方もしたくなかった。結局、彼は実際的なことだけをいうことにした。中嶋悟は勘のいい男だったので、それだけですべてを理解するだろうと思ったのである。
彼は中嶋悟のそばへ行くと、つぎのようにいった。
「きょうのレースは、最初からフルブーストで突っ走ろうよ」
中嶋悟は目をまるくした。土曜日の午後の時点ではべつの指示が出ていたからである。
「いいんですか」
と中嶋悟はいった。「きのうのミーティングでは、一つ下の過給圧で走るという話だったけど」
「ゆうべ、いろいろ考えてね」
と桜井淑敏はいった。「ここのコースは燃費がきついから、ほかのドライバーはみんな過給圧をセーブして走ると思うんですよ。だから、フルブーストで走ったら最後はガス欠になるかもしれないけど、トップ陣に混じって走るには絶好のチャンスだと思うんだ。コースもよく知ってるところだしさ。どう? 思いきって突っ走ってみようよ」
「分りました」
中嶋悟はしばらく考えたあと、緊張した面持ちで答えた。
「べつにガス欠になったっていいじゃない。トップ陣に混じって走れば、それだけでいい勉強になるよ」
「はい」
「じゃあ、ピーター・ウォーにはぼくのほうからいっとくから」
「はい」
桜井淑敏は中嶋悟の緊張した顔を見て、どうやら理解してくれたらしいと思った。
もちろん中嶋悟は理解していた。自分がF1ドライバーとしてある種の岐路に立っていること、そしてもう一段上のレベルに行けるかどうかがこのレースにかかっていることを。
桜井淑敏は中嶋悟から離れると、こんどはロータスのマネジャーのピーター・ウォーをさがし、彼にも同じことをいった。ピーター・ウォーはあっさり承諾し、桜井淑敏にいった。
「オーケイ、サトルのことはミスター・サクライにまかせるよ」
こうしてレースデーの日曜日の幕があき、十時半からウォームアップ走行がはじまった。
中嶋悟は、コースに出ると同時にすばらしい調子で走った。
最初の五分がすぎたとき、もっとも速いタイムをマークしたのはチームメートのアイルトン・セナで、フルタンクの状態で1分13秒6で走った。セナの車には新しいリヤ・ウィングがついていた。アクティヴ・カーの欠点となっていた空力問題を解決するためにロータスの工場で大急ぎで開発され、土曜日の夜にやっとサーキットに届いたものだった。しかし中嶋悟のぶんまではまに合わず、彼の車にはその新しいウィングはついていなかった。それにもかかわらず、中嶋悟はセナが1分13秒6で走っているときに、1分14秒2のタイムをマークした。
彼はその後もコンスタントに1分14秒1、1分14秒2、1分14秒3といったタイムでコースを周回した。非常にいいペースだった。ただ単にいいだけではなく、十分に上位入賞が狙えるタイムだった。
最後のころになってガソリンの量が減ってくると、そのペースはさらに上がり、1分13秒852というタイムを出した。ウォームアップで八番目のタイムだった。セナの1分13秒450とくらべるとわずか0・4秒、ベスト・ラップを出したネルソン・ピケの1分12秒190とくらべても1・6秒の差しかなかった。トップクラスのドライバーにこんなに接近したタイムを出したのははじめてだった。
彼はとても気持がよかった。手応えも十分だった。彼はウォームアップ走行が終って車から降りると、桜井淑敏のところへ行っていった。
「おれ、レースでもこのまま突っ走りますよ。燃費のほうはどうですか」
「ちょっとわるいね」
と桜井淑敏はいった
ホンダでは、コンピューター・エンジニアが近距離テレメーターという装置を開発して車に搭載しており、それによって一周ごとにラップ・タイムや燃費、油温、水温といったデータがピットのコンピューターに送られてくるようになっていたので、他のチームならセッションが終ったあとで計算しなければならないようなことが、たちどころに分る仕組みになっていたのである。当然のことながら、スタートしてしまうとすべてをドライバーの判断に任せる以外にない他チームとちがって、ピットで車の状態が手にとるように分るので、この近距離テレメーターは大きな武器になっていた。
桜井淑敏はその近距離テレメーターを中嶋悟に示した。
「いまのウォームアップ走行の調子で最後まで走ると、たぶん三周以上残してガス欠になる」
「そんなにわるいの?」
中嶋悟は唖然とした。
「うん。フルタンクのときの平均タイムは、ピケが1分13秒、マンセルが13秒5で、セナが14秒5。三人はこのタイムで燃費OKなんだけど、中嶋さんは14秒5のとき、セナにくらべて五パーセントぐらいわるいんですよ。中嶋さんが燃費をもたせようと思ったら、16秒台のペースで走らなくちゃならない」
「まいったな」
「だからさ、こうしようよ。とにかく最初三十周ぐらいまで思いきって突っ走って、その時点でいい位置にいたら、こっちからサインを出すよ。そこで燃費調整をしよう。それでいこうよ」
「じゃあ、思いきって行っていいんですね」
「もちろん」
「オーバーテークも使ってみようかな」
オーバーテークというのは、競っている車をスムーズに追い抜くためにほんの一瞬だけ使う増速装置だったが、中嶋悟はまだ一度もレースで使ったことがなかった。オーバーテークを使うような抜きつ抜かれつのレースをしたことがなかったからである。
「いいよ」
と桜井淑敏はいった。ぜひオーバーテークを使うようなレースにしてもらいたいものだった。
それから三十分ほどして、桜井淑敏は日本人ジャーナリストが待っているホンダのモーターホームのほうへ行った。彼はそこで毎日、各セッションのあいまに彼らの取材を受けることにしていたのである。それも彼のしなくてはならぬ仕事のひとつだった。
彼はそこで、朝のウォームアップ走行の結果から各チームの状況を分析してみせたり、たぶん優勝はピケとマンセルの二人のあいだで争われるだろうといった見通しを話したりしたあとで、つぎのようにいった。
「きょうの中嶋さんは思いきって走りますよ」
「思いきって走るって、どういうことですか」
誰かがきいた。
「もうみなさんだって中嶋さんが完走するのを見るだけでは飽き足らないでしょう。だから、そういうことですよ」
「ガンガン行くんですか。ガス欠なんか気にしないで?」
「そういうことですね」
「そりゃ、すごい」
「待ってたんですよ、ぼくらも」
「遅かったぐらいだ」
みんな期待に目を輝かせ、口々にいった。桜井淑敏は彼らのその顔を見て、あらゆる人がこのときを待っていたのだと思い、自分の作戦を確信した。
一方、中嶋悟も朝のウォームアップ走行を非常にいいペースで走ることができたので、とくに親しいジャーナリストにはつぎのように胸のうちを明かしてはばからなかった。
「きょうは六位を狙うよ」
彼がレースの前にそんなふうに自信たっぷりにいうのは珍しいことだった。普段の彼は人前では滅多にそんなことをいわなかった。しかしこの時点では、あと数時間後にまさか彼が四位に食いこもうなどとは誰も想像していなかった。
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レースは午後二時半にスタートした。
すばらしいスタートをして二速の加速でトップに立ち、一番最初に第一コーナーに飛びこんでいったのは、予選四位のアラン・プロストだった。しかし一周を終えてピット前のストレートに戻ってくると、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、プロスト、アイルトン・セナの順になっていた。なかでもピケとマンセルのスピードは群を抜いており、たった一周しただけなのに、三位のプロストにはやくも1秒の差をつけていた。イギリス・グランプリがこの二人のあいだでだけ争われるのだということはもうあきらかだった。
中嶋悟は十二位からスタートして九位で戻ってきた。スタートでもたもたしたフェラーリのゲルハルト・ベルガーとブラバム・BMWのリカルド・パトレーゼを難なくかわし、さらに途中でマクラーレン・ポルシェのステファン・ヨハンソンを抜き去ってきたのである。スタート後の一周で九位に上昇するなんてはじめてのことだった。
三周目にヨハンソンに抜き返されて十位に落ちた。
「くそ」
と思った。
ヨハンソンは一九八四年のシーズンに日本のF2にフルエントリーして鈴鹿のJPSトロフィー・レースで優勝していたが、その年に四勝をあげてF2チャンピオンになったのは中嶋悟だった。そういう経緯があったので、ヨハンソンは彼にとってもっとも身近なライバルだったのである。しかしF1ではどうしてもヨハンソンに勝てなかった。ヨハンソンはつぎの周にはブラバム・BMWのアンドレア・デ・チェザリスも抜き去り、あっというまに見えなくなってしまった。
しかし中嶋悟は四周目にベネトン・フォードのテオ・ファビを抜いたので再び九位に上がった。彼はこのとき、はじめてオーバーテークのスイッチをひねった。彼のロータス・ホンダは、並ぶ間もなくベネトン・フォードを抜いていった。すばらしい気分だった。ましてテオ・ファビは彼がいつもそうされている相手だった。中嶋悟はレースのあとで車から降りると、このときの気分をつぎのようにいった。
「いつも抜かれてばかりいるやつを抜くのがあんなにいい気分だとは知らなかった」
中嶋悟はその後も過給圧のスイッチを最大にして、フルブーストで走りつづけた。彼の燃料計はこのころからはやくもマイナス2を示し、このままのペースでは完走できないことを告げていたが、彼はあまり気にしなかった。レースが面白くなってしまったのである。
九周目には、すぐ前を走っていたブラバム・BMWのチェザリスがエンジンから火を噴いてストップしてしまったので八位に上がった。そして十五周目にはベネトン・フォードのティエリ・ブーツェンを抜いた。またオーバーテークを使った。
中嶋悟はまちがいなくレースをしていた。サンマリノとベルギーでの入賞は、上位陣の脱落に助けられた幸運な成績であったが、こんどはちがった。彼はフルブーストで突っ走り、自分の力で前の車を追い落としていた。これがレースだった。
十六周目にはブラバム・BMWのパトレーゼに抜かれてまた八位に落ちたが、十九周目にヨハンソンがエンジン・トラブルでリタイヤしたので、再び七位に上がった。そして二十九周目、ついに六位になった。前を走っていたパトレーゼがエンジン・トラブルでリタイヤしたのである。
いまや彼の前を走るドライバーは、フェラーリのミケーレ・アルボレートと、プロスト、セナ、マンセル、ピケの五人だった。いずれも優勝経験の豊富な偉大なドライバーばかりだった。中嶋悟は何とかその彼らのうしろに食いついたのである。六位というのはそういうポジションだった。
四十六周目、その五人の中からアルボレートがサスペンション・トラブルで脱落した。中嶋悟は五位に上がった。その瞬間、マクラーレンのピットから、プロストに〈うしろはナカジマ、リードは55秒〉というサインがサインボードで示された。プロストのサインボードにナカジマという名前が示されるなんて誰がレース前に想像できただろう。
そのプロストがとつぜんレースから姿を消したのは、それから八周後のことだった。ポールリカールのときと同じように五十周をすぎたころから急にエンジンのパワーが低下し、五十四周目についにストップしてしまったのである。
中嶋悟は四位に上がった。いまや彼より前にいるのは、セナとマンセルとピケのホンダ・エンジン勢だけであった。ホンダ・エンジン勢が1・2・3・4体制を形成してしまったのである。
これにもっとも驚いたのは桜井淑敏だった。彼はシーズンがはじまる前、運がよければ一度ぐらいはホンダ・エンジン勢が一、二、三位を独占することもありえないことではないと考えていた。中嶋悟を除く三人はいずれも優勝争いの常連であり、そうなってもすこしもおかしくないドライバーたちだったからである。しかしまさか四位までを独占することになろうとは思いもしなかった。
彼は中嶋悟が四位に上がったと分った瞬間、あわてて近距離テレメーターのモニターに駆けよった。モニターは、中嶋悟のガソリンの残量は依然としてマイナス2であることを示していた。全周回数の六十五周を走りきるためには、最低でもリッターあたり1・62キロの燃費で走らなければならないのに、中嶋悟は最初からフルブーストで1・5キロ台のレベルで突っ走ってきたのである。いまさらどうしようもなかった。
救いは、三十一周目にトップのピケにラップされて、すでに一周遅れになっていたことだった。レースはトップがゴールした瞬間に終るので、一周すくない周回数ですむからである。しかしそれでもあと十周しなければならず、十周はとてももちそうになかった。
「まいったな」
と桜井淑敏は思った。
燃費を気にせずに最初から突っ走るという彼の作戦は予想以上に大当たりし、中嶋悟はいま堂々と四位を走っていた。しかしガソリンがなくなった瞬間、すべては無になってしまうのだ。
1・2・3・4独占は快挙だった。それをほとんど手中にしているというのに、手離すのはいやだった。桜井淑敏は中嶋悟のエンジンを担当している小池明彦に、過給圧を下げてスピードをすこしダウンするように指示しろと命じた。中嶋悟は、五十六周目から、それまでの1分14秒台のタイムから1分15秒台にペースダウンした。
そうしておいて、桜井淑敏は再び小池明彦にいった。
「中嶋さんのガソリンはあと何周分あるんだ?」
「いま計算します」
と小池明彦はいった。
彼は近距離テレメーターからデータをとり出し、ガソリンの残量と燃費からそれを割り出しはじめた。桜井淑敏はイライラしながら、へんな答が出ないようにと祈った。
中嶋悟もイライラしていた。彼はペースダウンをしたあとで、何度も無線でピットに呼びかけた。
「ガソリン、だいじょうぶ?」
しかし誰も何もこたえてくれなかった。どうしたのだろうと思った。無線が故障したのだろうか。こんな大事なときに誰も何もいってくれないなんて、それ以外に考えられなかった。しかしそうではなかった。小池明彦はガソリンの計算でそれどころではなく、ピーター・ウォーはピーター・ウォーで、このレースに関しては朝の桜井淑敏との話で中嶋悟をすっかりホンダにまかせたつもりになっていたのである。彼は三位を走っているセナにかかりきりだった。
中嶋悟のいらだちの原因はもうひとつあった。すぐうしろからアロウズ・メガトロンのデレック・ワーウィックが迫ってきていたのである。ペースダウンするまでは15秒の差をつけていたのに、彼がペースダウンしたと知るや、ワーウィックは逆にペースアップして、一周につき2秒ずつ差をつめはじめていた。このままのペースでは、かりに完走したとしても、せっかくの四位の座を失うのは確実だった。
「どうすりゃいいんだ」
と中嶋悟は思った。
ピットから何の指示もない以上、彼はどうすることもできなかった。彼は一周してピット前に戻ってくるたびに、メカニックが示すサインボードの残り周回数ばかりを見つめた。
「計算が出ました」
と小池明彦が桜井淑敏にいったのは、中嶋悟があと八周というサインボードのサインを見て、ペースダウンをしたまま五十七周目の周回にはいっていったときだった。
「ピケにあと一周ラップされれば、何とかもちそうです」
「されなかったら?」
「一周残してストップです」
こうして中嶋悟の四位と、ホンダ・エンジン勢の1・2・3・4独占は、トップを走るネルソン・ピケが中嶋悟を二周遅れにできるかどうかにかかることになった。
十万人以上もつめかけたイギリス人の観衆が総立ちになり、彼らの英雄のナイジェル・マンセルに大声援を送りはじめたのは、ちょうどそのころだった。
ピケとマンセルは、この日まったくちがった両極端の作戦でレースに臨んだ。
それはタイヤ交換に関する作戦で、ピケは最初からそれをしないで走り切るつもりだった。自分がマンセルよりタイヤに負担をかけないで走れることを知っていたので、マンセルがタイヤ交換をして自分がしなければ、そのぶんのマージンで自分が勝つだろうと判断したのである。
一方マンセルは、タイヤ交換をしないで走ろうなどとはぜんぜん考えなかった。彼は自分のドライビングがいかにタイヤに負担をかけるかを知っていたし、もしそうではなかったとしてもグリップを失ったタイヤで騙し騙し走るなんていやだった。タイヤが駄目になるまでエンジン全開で走り、駄目になったら新しいタイヤでまた全開で走るというのが彼のやり方だった。
二人はそれぞれの作戦を実行した。マンセルは三十六周目にタイヤ交換のためにピットにはいり、ピケはそのまま走りつづけた。レースは一周目からずっとピケがリードしていたが、それまで二人のあいだに差はまったくなかった。しかしマンセルのタイヤ交換で、三十六周目に27秒の差がついた。大きな差だった。
二人の本当の戦いがはじまったのはそれからだった。
マンセルのタイヤ交換後の残り周回数は二十九周だったので、マンセルが新しいタイヤで一周につき1秒ずつ差をちぢめていけば、二人の差はなくなるはずであった。まずマンセルは、コースに復帰すると、三十七周目と三十八周目だけで3秒ちぢめた。
しかしピケも黙ってはいなかった。三十九周目から四十四周目にかけてマンセルとほぼ同じタイムを出し、マンセルに追いかけても無駄だということを示した。その六周で、マンセルは2秒しか差をちぢめることができなかった。
ピケは、マンセルが追い上げるのをあきらめることを期待した。ピケ自身の経験では、うしろから懸命に追い上げているときに先を行く相手に同じタイムを出されるというのは、とてもいやなものだった。これ以上追いかけても追いつかないのではないかという疑問が頭の中にふくらんで、そう思ったら最後、あっというまに戦闘意欲がなくなってしまうのだった。
それに彼は四十二周目あたりから、すこしずつタイヤに異常を感じはじめていた。タイヤが本来のグリップを失いつつあることを示すバイブレーションが生じてきたのである。マンセルが追い上げるのをあきらめなければむずかしいことになるだろうと彼は思った。
マンセルはあきらめなかった。彼はピケが1分12秒630で走った四十五周目を1分11秒412で走り、1秒2ちぢめた。四十六周目には1秒5、四十七周目には2秒ちぢめた。一周につき一挙に2秒もちぢまるというのは、ピケの車に何らかの問題が生じている証拠にほかならなかったので、マンセルの追い上げの決意はさらに強くなった。
そして、中嶋悟のガソリン残量をめぐって桜井淑敏と小池明彦があたふたしていた五十六周目になるころには、ピケとマンセルの差はわずか6秒にちぢまっていたのである。スタンドを埋めた十万人のイギリス人観衆が総立ちになってマンセルの走りに熱狂するのは当然であった。マンセルはその五十六周目にも1秒、五十七周目にはさらに2秒ちぢめた。差は3秒になった。
五十八周目、二人はあいついで中嶋悟をラップした。これで中嶋悟は二周遅れになった。
ピケはこの五十八周目を1分10秒939で走った。これは三位を走っていたセナの五十八周目にくらべると3秒も速いタイムだった。バイブレーションの出ているタイヤでこんなタイムを出すなんて信じ難いことだった。しかしマンセルはさらに速く、1分09秒832で走った。これでまた1秒差がつまった。
マンセルがピケの車のうしろにとうとうぴったりと食いついたのは六十二周目だった。マンセルには追いついた者の勢いがあり、ピケにはそれがなかった。スタンドは興奮の頂点に達し、そこここから上がる大歓声で、見なくてもマンセルとピケが4・7キロのコースのどのあたりを走っているのかが分るほどだった。
桜井淑敏は中嶋悟がうまい具合に二周遅れになったので再びフルブーストで走れという指示を出し、そのあとはピケとマンセルのガソリンの残量を近距離テレメーターでモニターしていた。そばでウィリアムズのチーフ・エンジニアのパトリック・ヘッドの声がしたのは、マンセルがピケのうしろにぴったりとついたときだった。
「サクライさん、ナイジェルのガソリンはだいじょうぶか?」
「ちょっと待て」
と桜井淑敏はいった。
どう答えるべきか一瞬判断に迷ったのである。このとき、ピケのガソリンはぎりぎりで最後までもちそうだったが、マンセルのメーターはマイナス0・2を示していた。彼はマンセルのエンジンを担当しているテスト・エンジニアの池辺秀仁の顔を見た。池辺秀仁は首を横に振り、何ともいえないという顔をした。残り周回数はあと三周だったが、マイナス0・2でもマイナスはマイナスだった。もし彼らの近距離テレメーターが完全に正しい計測をしているとすれば、マンセルはゴール前300メートルでストップしてしまうのだった。
「どうしよう」
と桜井淑敏は思った。
レースはまれに見るすばらしさだった。ピケとマンセルは、二人とも最初から自分が最良と思う作戦をはっきりと決め、一方はタイヤ交換をし、一方はしないで知力と体力の限りをつくしていた。そしていま、二人は完全に並んだのである。その一方に、ここまできて競走を中止しろなんてかわいそうでとてもいえなかった。
「OKだ。心配ないよ」
と桜井淑敏はパトリック・ヘッドにいった。
ピケとマンセルの二人は六十三周目のピット前にかえってきた。まだピケが先だった。ピケはバイブレーションのひどいタイヤで懸命に逃げていた。
しかし六十三周を終えてつぎにピット前に戻ってきたときには、二人の順位は逆になっていた。マンセルが先頭で戻ってきたのである。マンセルはシルバーストーンでもっともスピードの出るハンガー・ストレートと呼ばれる直線でピケのうしろをおびやかし、つぎの右回りのコーナーの手前でアウト側に車を振った。そしてピケがそのラインをブロックしようとアウト側に車を寄せた瞬間、待ってましたとばかりにインに切れこんでそのまま抜き去ったのだった。
レースのあとでマンセルはいった。
「チャンスが一回しかないことはよく分っていた。その瞬間にやっつけてしまわなければ駄目だとね」
マンセルの車のガソリン・タンクがすっかり空っぽになってコース上に止まってしまったのは、それから二周を走ってチェッカー・フラッグを受けた直後のことだった。フィニッシュから三十秒もたたないうちに、ウイニング・ランの途中でストップしてしまったのである。危険な勝利であったが、ガソリンを完全に使いきった完璧な勝利でもあった。
こうして一周目から六十二周目までレースをリードしたピケは敗れ、最後の三周だけをリードしたマンセルが勝者になったのである。マンセルにとっては、サンマリノ、フランスにつづく三度目の勝利であり、ピケにとっては五度目の二位であった。
そして三位にはセナ、四位には中嶋悟がはいった。中嶋悟は燃費をかせぐためにペースダウンしていたあいだにアロウズのデレック・ワーウィックに9秒差までつめられたが、トップから二周遅れとなった五十九周目から再びフルブーストで走ってそのまま逃げきったのである。最終的なワーウィックとの差は14秒であった。
すべてが終ったあとで桜井淑敏はいった。
「何もかもうまくいきすぎて怖いぐらいだ。マンセルの燃費もぎりぎりでもったし、マンセルとピケが最後までデッドヒートをして二周遅れにしてくれたおかげで中嶋さんの燃費ももった。まったく、1・2・3・4とはね。信じられないよ」
中嶋悟はこういった。
「こんどの四位は本物の四位だぞ。ちゃんと戦ってものにしたんだ」
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37
イギリス・グランプリが終ると、中嶋悟はつぎのドイツ・グランプリまでの十日あまりを、イギリスでトレーニングやゴルフをして過ごした。
毎日がすばらしい気分だった。彼はトレーニングやゴルフのあいまに、ときどき桜井淑敏がいったことを思い出した。イギリス・グランプリが終った夜、ホンダのメンバー全員とロンドンで食事をしたとき、彼がみんなの前でいったのである。
「いままでの中嶋さんは、入賞はしていたけれども、F1の練習生の域を出ていなかった。しかし、もうちがう。きょうのレースで、すくなくともそこからは脱したと思う」
中嶋悟自身もそう思った。サンマリノとベルギーで六位と五位になったときとは感じがぜんぜんちがい、こんどは何かを成し遂げたというはっきりした達成感があった。それはただ完走しただけでは絶対に得られない、何ともいえぬ感じだった。
彼の精神は充実し、何をしていても気分が高揚した。いまや、モナコ以来ずっとつづいていたあの暗い不安な気持はすっかり消え去り、彼は自信に満ちていた。
これからはずっとイギリス・グランプリ方式で行こうと彼は決めた。何も考えないで、とにかく突っ走ることだ。
やがて十日あまりのすばらしい休暇は終り、彼はドイツに向けて出発した。
ドイツのホッケンハイム・サーキットも彼の好きなコースだった。イギリスのシルバーストーンに負けず劣らずの高速コースで、彼は一九八二年に生沢徹と一緒にF2で遠征したときに走って、予選十二位からスタートして八位になっていた。シルバーストーンのときと同じ作戦で走れば、きっと同じような結果が得られるだろうと思った。
中嶋悟の気持はますます高揚した。
彼は七月二十四日の予選第一日目はあまり満足に走れなかった。午前中のフリー走行では、車がバンプしたときに車体の底を守るためについているアンダーカバーが割れ、午後の予選ではギヤ・ボックスからオイルが洩れて、そのたびに走行を中断せざるをえなかったからである。彼の一日目の予選タイムはトップのナイジェル・マンセルから約4秒遅れの1分46秒760にとどまり、順位は十四位だった。
しかし彼はぜんぜんがっかりしなかった。予選タイムは満足すべきものではなかったが、車そのものはとてもよい感じだったからである。何よりもうれしかったのは、このレースからシルバーストーンでセナの車に装着された新しいリヤ・ウィングが彼にも与えられて、空力が非常によくなったことだった。
二日目の午前中のフリー走行で、彼はそれを見事に証明した。ガソリンを120リットル積んだレース・セッティング走行で、1分48秒275のタイムをマークしたのである。もっとも速かったセナの1分43秒872からは4秒4ばかり遅かったが、二十六台中八位のタイムであった。
中嶋悟はこれではっきりとした手応えをつかんだ。午後の二回目の予選では、一回目の予選タイムを1秒か1秒半ぐらい縮められそうな感じだった。
桜井淑敏も中嶋悟のその走りには満足し、午後の予選ではこの調子なら十位ぐらいに食いこむのではないかと思った。
しかし、それは結局実現しなかった。予選がはじまる一時ごろから雨が降り出し、タイム・アタックは不可能になってしまったのである。これで一回目の予選結果がそのままスタート順位となり、中嶋悟は十四位からスタートすることになった。
だが中嶋悟の顔に失望の色はまったくなく、むしろ自信に満ちていた。彼はタイム・アタックができなかった予選が終ると、親しいジャーナリストたちにいった。
「問題は予選じゃないよ。レースが終ったときに何位になるかだ」
日曜日朝のレース前のウォームアップ走行でも、彼の調子は変わらなかった。彼は195リットルのフルタンク走行で1分50秒702のタイムを出したが、それはこのセッションでの最速タイムとなったアラン・プロストの1分48秒207より2秒5遅いだけで、チームメートのセナとは1秒しか差がなかった。順位は十四位だったが、上々のタイムだった。というのも、ホンダ・エンジン勢は桜井淑敏の方針でウォームアップ走行は必ずフルタンクでテストをすることにしていたが、他チームの場合は必ずしもそうとは限らなかったからである。
しかしタイム以上にすばらしかったのは、土曜日の午前中のフリー走行のときもそうだったが、燃費が非常によかったことだった。シルバーストーンでは、セナとくらべると三パーセントもわるかったのに、ここではほとんど変わらなかった。こんなことは、中嶋悟がF1ドライバーになってはじめてのことだった。
「ホッケンハイムは細かいカーブがあまりなくて、ただアクセルを踏むだけのコースだから、もともとドライビングによる燃費の差は出にくいコースなんです。でも中嶋さんの燃費がよくなったことはたしかなんで、これならひょっとしたらシルバーストーン以上の成績が望めるんじゃないかと思ったね」
と桜井淑敏はあとになっていった。
彼の予想では、ホッケンハイムで最後まで生き残る車の数は二十六台のうち十台以下だろうと思われた。シルバーストーンは全グランプリ・コースの中でもっとも燃費の厳しいコースだったが、ホッケンハイムもまたシルバーストーンとはちがった意味で非常に苛酷なコースだったからである。
まずホッケンハイムには、グランプリ・コース最長の、ギヤを六速に入れてから十三秒も走らなければならない長い直線があった。シルバーストーンでもっとも長い直線でも八秒だったから、これは相当の長さだった。そしてコース全体では、エンジンの全開頻度が六〇パーセントに達した。これも全グランプリ・コースの中で最高の数字で、あとのコースはどんなに高くてもたいてい五〇パーセント以下だった。
したがって、ホッケンハイムは燃費競争というより、毎年エンジンの耐久競争になるのだった。そして多くのチームが燃費とスピードのバランスを解決できなくて、途中でエンジンを壊した。ホンダ・エンジンでさえ例外ではなく、朝のウォームアップ走行ではセナのエンジンの排ガス温度が異常に高くなって変調をきたし、新しいエンジンに交換していた。
そういうことを考慮すると、燃費のよくなった中嶋悟が十台の中に残り、六位以内にはいることは確実に思えたのである。桜井淑敏はレースの前に中嶋悟をホンダのトランスポーターの中に呼んでいった。
「きょうのレースはまず最初の10ラップを全力で突っ走って、それから様子を見て燃費調整をするという作戦で行こう」
「10ラップでいいんですか」
と中嶋悟はいった。
「こんどは最初から入賞狙いで行くから、シルバーストーンのときのような危ない橋は渡りたくないんですよ」
中嶋悟はうなずいた。
二人のあいだでレースの進め方についてこんな具体的な話が交されたのは、これがはじめてのことだった。これまでも話はしてきたが、完走はできるだろうかとか、三周遅れにはならないようにとかそんな話ばかりで、入賞することなどハナから考えてもいなかった。ここへきて、ようやくそこから脱皮し、はじめて入賞を前提にしてどう走るかという具体的な計画が立てられるようになったのである。
中嶋悟はあとになっていった。
「ホッケンハイムでは、うまくいけば三位ぐらいになれるんじゃないかと思っていたんだ。そうなれるすべての条件がそろっていた」
しかし彼はそうなれなかった。
最初は非常に順調だった。スタートではアロウズ・メガトロンのエディ・チーバーに抜かれて十五位に落ちたが、二周目にはブラバム・BMWのリカルド・パトレーゼを抜いて十四位に上がり、三周目にはさらに一台抜いて十三位に上がった。
五周目には、前を行くチーバーと、同じアロウズ・メガトロンのデレック・ワーウィックの二人を同時に追い抜くチャンスがあった。二人は互いに牽制し合うことに懸命でぜんぜんうしろを注意していなかったので、しばしばカーブでインががらあきになった。そこで中嶋悟はあるカーブに狙いを定め、二人が同時にアウトにふくらんだところへ飛び込んだのである。ところが、よしもらったと思った瞬間、シフトミスをしてしまった。四速から五速に入れたつもりだったが、五速にはいらなかったのである。再び彼ら二人のあとを走りながら中嶋悟は自分にいいきかせた。
「おれは焦ってる。調子がいいからと思っていい気になるんじゃないぞ。気をつけろ」
彼はそこで慎重になり、八周目まで十三位のまま走りつづけた。しかしトラブルは彼のドライブとはぜんぜん関係のないところからやってきた。それに気がついたのは九周目だった。第一コーナーをカーブした直後に、とつぜん右リヤのアクティヴ・サスペンションがストロークしなくなってしまったのである。
彼は三分もかかってやっとピットに戻ったが、レース中にそんなビッグ・トラブルに対する対策があるわけもなく、結局タイヤ交換しただけで再びスタートすることになった。しかし走ることができたのはピットレーンの出口までの数百メートルで、そこで完全に動けなくなってしまった。それで終りだった。
彼は車から降りるとロータスのモーターホームに行き、ドライビングスーツを脱いでさっぱりしたシャツに着替えた。そしてそこで冷たいものを飲んだり、サンドイッチをつまんだりして、気持が静まるのを待った。彼としてはビッグ・チャンスを失ったのである。気持の切り換えにずいぶん時間がかかった。終ったことだ、忘れよう、という気にようやくなれたのは三十分か四十分後だった。彼はモーターホームから出て、ロータスのピットに戻った。レースは三十周をすぎて三十五周目ぐらいにさしかかろうとしているところだったが、彼はピットから走っている車の数をかぞえて愕然とした。
なんと、全部で七台しか走っていなかったのである。しかもターボ・エンジン車は、プロスト、ピケ、ヨハンソン、セナの上位四人だけで、あとの三台はノーマル・エンジンの車だった。
「なんてことだ」
と彼は思った。ちゃんと順調に走ってさえいれば、どんなに遅くてもセナのうしろの五位ぐらいにつけていたにちがいなかった。モーターホームで一度は静まった気持がまた騒ぎ出した。
レースが完全な生き残りゲームの様相を呈してきたのは、ちょうど中嶋悟がリタイヤした九周目あたりからだった。
まず同じ九周目に五位を走っていたフェラーリのミケーレ・アルボレートが脱落。十二周目には七位だったブラバム・BMWのアンドレア・デ・チェザリス。十七周目、七位からベネトン・フォードのテオ・ファビ。十九周目、六位からフェラーリのゲルハルト・ベルガー。二十三周目、七位からアロウズ・メガトロンのデレック・ワーウィック。
そして二十五周目にはプロストについで二位を走っていたナイジェル・マンセルが脱落した。原因は、朝のウォームアップ走行でセナのエンジンに起きたのと同じトラブルだった。排ガス温度が異常に高くなって排気系を壊してしまったのである。さらに二十六周目には五位だったベネトン・フォードのティエリ・ブーツェン、三十二周目にはブーツェンの脱落で五位に上がったリジェ・メガトロンのピエルカルロ・ギンザーニがリタイヤした。
下位陣も同様だった。そして三十五周目のいまでは、たった七台しかコースに残っていないことになってしまったのである。リタイヤした十九台のうち、中嶋悟と他の二台を除く十六台はすべてエンジンかターボ・チャージャーのトラブルだった。ホッケンハイムは、レース前に桜井淑敏が予想したとおり、まさにエンジンの墓場であった。
そしてレースはいまや完全にプロストがリードしていた。
桜井淑敏はそれを信じられぬ思いで見つめていた。プロストの速さは本物だった。彼は予選三位からスタートしたが、二周目にセナをあっさり抜いて二位にあがると、九周目には前を行くマンセルに追いついて、並ぶまもなく抜き去ってしまった。まったく見事なスピードで、ホンダ・エンジン勢の車がプロストにそんなふうにやっつけられたのは、ここ二年間ではじめてのことだった。ここ二年間は、ホンダ・エンジン勢の車は、何らかのトラブルでもないかぎりは、プロストにも誰にも、抜かれたことはおろか、並ばれたことすらなかったのである。抜いていくのはつねにホンダ・エンジン勢の車だった。ところがプロストは、高速コースではまだ空力面に問題が残っているセナはともかく、まったく問題がなく走っていたマンセルまでもあっというまに抜き去って、それからずっとトップを走りつづけているのである。
一方、プロストに対抗すべきホンダ・エンジン勢の車は傷だらけであった。マンセルはすでにリタイヤし、セナはプロストの僚友のヨハンソンにつづいて四位を走っていたが、マンセルと同じように排ガス温度が高くなり、その熱でアクティヴ・サスペンションを動かすオイルが加熱されて、アクティヴ・サスペンションがうまく作動しないと報告してきていた。
いまや期待はピケ一人だったが、ピケはピケでスタートの時点からパネルの液晶メーターに表示が出ないというトラブルに悩まされていた。ウィリアムズの車のメーターは、回転計だけが機械表示で、あとは全部液晶メーターだったので、問題は大きかった。油温も水温も、そしてもっとも大事なガソリンの残量も彼には分らなかった。ウィリアムズのピットでは、ホンダの近距離テレメーターが一周ごとに送ってくるデータを頼りに、サインボードで必要な情報をピケに送り返していたが、ピケが自分で好きなときに好きな情報をとり出せないことに変わりはなかった。
プロストとピケの差は、三十五周が終った時点で30秒あった。レースは四十三周であった。
「このままプロストに走りきられたらまずいことになる」
と桜井淑敏は思った。
ドイツ・グランプリでのたんなる一勝ではなく、ポルシェ・エンジンが完全に復活したことを意味するからである。そうなるとホンダ・エンジンの優位性は失われ、彼らは再び優位性をとり戻すためにまた血まなこで新しいエンジンを開発しなければならなくなるのだ。
「どうしてピケはもっと追いかけないのだろう」
と桜井淑敏は思った。
ピケのガソリンは十分に残っており、そのことはずっとサインボードで示しつづけていた。しかしピケはほんのすこしずつしか差をつめようとしなかった。1秒ずつだった。それで二十九周目には36秒だった差が三十五周目にやっと30秒になったのである。そのペースでは残り八周で逆転するのはまったく不可能だった。
みんながいらいらしていると、ピケは三十六周目にとつぜんスパートした。その周のプロストのタイムは1分51秒038だったが、ピケは1分47秒994で走ったのである。それで一挙に3秒縮まった。つづいてピケは三十七周目に3・7秒、三十八周目に3秒、三十九周目には4秒縮めた。これで二人の差は16秒3になった。残り四周で4秒ずつ縮めれば逆転できる計算であった。ぎりぎりのところだったが可能性はあった。
だが勝負はもっと早く、つぎの四十周目で決着した。ピケは四十周目を終えてちゃんと帰ってきたが、プロストは帰ってこなかったのである。発電機のベルトがとつぜん切れてしまったのだった。
桜井淑敏はほっとした。マクラーレン・ポルシェの発電機のベルトが切れたのはこれで三度目で、発電機のベルトが切れるのはエンジンに必要以上の負担をかけたときにしばしば生じるトラブルだったからである。ポルシェ・エンジンが復活したわけではなかったのだ。
またピケにとってもこの勝利はうれしい勝利だった。過去七戦で彼は五度二位になっていたが、そろそろ二位にばかりなるのにはあきあきしていたからである。八戦目での初勝利であった。そして彼は、この勝利で獲得した9点でドライバーズ・ポイントが39点となり、35点のセナを抜いてこの面でもトップに躍り出た。
レースが終ったあとで、桜井淑敏がどうしてもっと早くスパートしなかったんだというと、ピケは涼しい顔で答えた。
「あれで十分届くと思ったからだよ。もしプロストがリタイヤしなくても、ちゃんと逆転していたよ」
しかし中嶋悟には口惜しさだけが残った。プロストが最後につぶれたので、結局完走した車は六台ということになり、そのうちターボ・エンジン車はピケ、ヨハンソン、セナの上位三台だけだったのである。しかもセナはアクティヴ・サスペンションが動かなくなって周回遅れにされていたので、まともに最後まで走っていればセナを抜いて本当に三位になっていたかもしれなかった。
「まったくなあ。シルバーストーンでは何もかもうまくいったのになあ」
と彼は思った。
泣きたい気持だった。
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38
第八戦のドイツ・グランプリが終ると、一九八七年のF1グランプリもちょうどシーズンの半分を消化したことになった。中嶋悟にとっては、そこで起きたことは何もかも未経験のことばかりだったので、あたふたしているうちにあっというまに月日が過ぎ去ったという感じだった。
それでも彼は、そのうちサンマリノで1点、ベルギーで2点、イギリスで3点の6ポイントを稼いで、ドライバーズ・ランキングの八位に名前をつらねていた。6ポイントというのは、一九八六年のロータスのセカンド・ドライバーだったジョニー・ダンフリーズが一年で稼いだポイントのちょうど二倍だった。
しかし、それぐらいではまだホッとしていられなかった。中嶋悟はシーズンが終るまでに、すくなくともあと4ポイント稼がなければならなかった。10ポイント獲得が彼の一年目の目標だったからである。桜井淑敏にF1ドライバーになったときにそういわれていた。
彼は頭では、前半の八戦で6ポイント稼いだのだから、後半の八戦で4ポイント稼ぐのはけっして不可能なことではないと分っていたが、心からそう思うことはなかなかできなかった。すでに6ポイントを稼いだいまでも、ひとつのレースで1ポイントを取ることがどんなに難事業かを考えると、あまり楽観的にはなれなかったのである。絶対にポイントを取れると思っていたドイツ・グランプリでリタイヤしたあとでは、なおさらそうだった。10ポイントヘの道は、まだまだ遠かった。
シーズン後半のはじまりの第九戦は、ハンガリー・グランプリであった。
そして、シルバーストーンとホッケンハイムで急速に培われつつあった中嶋悟の自信は、そこで再び試練を迎えることになった。
ブダペスト郊外のハンガロリング・サーキットは、ハンガリー・グランプリのためにつくられた立派なクローズド・サーキットだったにもかかわらず、ストレートらしいストレートはピット前に短いところが一カ所あるだけで、あとは全部カーブばかりのコースだったのである。数えてみると、一周4・014キロの中に大小二十ものカーブがあり、そのうちの五つは二速でコーナリングしなければならなかった。まるでデトロイトのような感じのコースだった。
「まいったな」
と中嶋悟はコースを見た瞬間に思った。
加速とブレーキングとギヤ・チェンジをまた数秒ごとにくり返さなければならないのかと想像すると、それだけで気分が滅入った。頭がゴチャゴチャになりそうだった。
予選での彼の成績はひどいものとなった。
ポール・ポジションをとったのは1分28秒047のタイムをマークしたナイジェル・マンセルだったが、中嶋悟は彼から6秒遅れの1分34秒297をマークするのがやっとで、ポジションは十七位だった。ノーマル・エンジンのドライバー三人にも遅れをとった。
ピット前のストレートでネルソン・ピケが車を右に持ち出して彼をかわしにかかったとき、ラインを譲ろうとして同時に右に車を持ち出してピケを一瞬ヒヤリとさせたのもこの予選のときだった。彼はまったくいいところがなかった。
もっとも彼は予選がはじまってから終るまでロータスのエンジニアにずっとつぎのように訴えつづけていた。
「リヤが軽すぎて、グリップがわるい。何とかしてくれ」
また桜井淑敏がもっとアクセルを踏めないのかというと、つぎのようにいった。
「いま以上踏んだら、車がどこへ飛んで行っちゃうか分らないですよ。右へ行くのか左へ行くのかも分らないんだから」
レース監督の後藤治は、中嶋悟がそうした悩みを訴えるのをきいて、彼はまだアクティヴ・カーの挙動を完全につかみきっていないのではないかと感じた。
「たとえば、普通の車というのは、アクセルを踏むと荷重がかかってリヤが沈む。しかしアクティヴ・サスというのは、そうした挙動変化をなくすためのものだから、アクセルを踏んでもリヤは沈まない。当然、リヤが軽い感じになる。ブレーキを踏んでも、普通の車とはちがう挙動が出る。どうも中嶋さんは、アクティヴ・カー本来の挙動と、いわゆる挙動変化のちがいをまだ完全には分ってないみたいだ。だからアクティヴ・カー本来の挙動でも異常と感じて、アクセルやブレーキを思いきって踏めないんだと思う」
と後藤治はいった。
しかし車の調子がよくなかったことも事実だった。八月八日の土曜日の夜、イギリスのロータスの工場から空力形状を改良した中嶋悟用のニュー・ボディが届いた。セナの車にはすでに同じものがつけられていたが、中嶋悟の分はまに合わなかったのだった。中嶋悟は翌日曜日朝のウォームアップ走行をそのニュー・ボディで走った。すると彼は予選順位よりずっといい十二位のタイムを出したのである。それでもやはり、シルバーストーンやホッケンハイムでつかんだ手応えにはほど遠かった。
このハンガリーで最初から最後までグランプリの話題を独占したのはネルソン・ピケだった。
まず八月七日の金曜日に、一九八八年のシーズンはウィリアムズではなくロータスで走ると発表して人々を驚かせた。どうしてそんな決定をしたのかとジャーナリストたちが質問を浴びせると、彼はつぎのようにいった。
「わたしはウィリアムズに対して、これまで何度もわたしをナンバー1・ドライバーとしてちゃんと待遇するように要求してきた。わたしがほしいのは金銭ではなく、確固としたナンバー1・ドライバーの地位なんだ。しかしウィリアムズではそれが得られなかった。ロータスではそれを完全に保証するという。だから移ったのさ。それだけのことだよ」
アイルトン・セナは、この時点ではまだどのチームとも正式な契約を交していなかったが、ロータスからは出るとチームに通告していたので、ロータスとしてもピケの移籍は好都合だったのである。ピケをただ一人のナンバー1として遇するというチームはロータスのほかにもたくさんあったが、ピケがロータスを選んだのはロータスにはホンダ・エンジンがあったからだった。セナのかわりにピケがナンバー1・ドライバーになるときいて、ホンダは一九八八年もロータスヘのエンジン供給を保証したのである。
ピケはレースでも話題の中心になった。
彼はマンセルとフェラーリのゲルハルト・ベルガーにつづいて予選三位の位置からスタートしたが、一周目にフェラーリのミケーレ・アルボレートに抜かれて四位に落ちてしまった。しかし十三周目にベルガーがギヤ・ボックスのトラブルで脱落して三位になると、二十九周目にはアルボレートを抜き返して二位に上がった。
ピケはそれから、それまで1分34秒から35秒台で走っていたタイムを一挙に31秒から32秒台に上げて、トップを行くマンセルの追撃態勢にはいった。マンセルもそれに気がついてタイムを上げたので差はあまり縮まらなかったが、それでも二十九周目に14秒差だったのが、五十二周目には6・5秒差になった。
このとき三位にはセナが上がってきていたが、セナはもう前を行く二人から30秒以上も遅れていた。またしてもウィリアムズ・ホンダの二人の争いになったのである。第六戦のフランス・グランプリからのパターンであった。
二人はどちらも負けまいとして懸命に走った。その二人の争いに決着がついたように見えたのは、五十五周目をすぎたあたりだった。全周回数は七十六周だったが、そのあたりからピケのペースが落ちたのである。タイヤが駄目になってきたのだった。
二人ともタイヤ交換なしで行けると判断してタイヤ交換をしないで走っていたが、予想よりずっと早くタイヤが駄目になってしまったのである。
ピケは徐々に遅れはじめ、五十九周目には10秒の差がついた。しかしもう一度気をとり直すと、六十周目から再び追撃態勢にはいった。ピケはタイヤのバイブレーションに悩まされながら、六十五周目まで1分30秒から31秒台のペースで走った。タイヤが駄目になる前よりも速いペースだった。それでまた6秒差まで戻した。
しかしそこまでだった。バイブレーションに悩まされながらそれ以上そんな速いペースで走るのは無理だったのである。ピケは追撃をあきらめ、1分35秒台にペースを落とした。二人の差はそこからあっというまに広がり、残りが六周となった七十周目には16秒となった。
これでマンセルの優勝が確定的となり、ピケはシーズン六度目の二位になるのかと思われた。しかし優勝したのはピケだった。七十一周目に、マンセルの車の右後輪のホイール・ナットが外れて飛んでしまったのである。万にひとつも考えられないトラブルだったが、それが起きたのである。
ピケはレースのあとで、その瞬間のことをつぎのようにいった。
「ナイジェルの止まったマシンを目撃したときは、ほんと、気の毒なぐらいだったね」
もちろんニコニコ笑いながらの話だった。彼はマンセルに同情する気などまったくなかった。
しかしマンセルはショックで、レースが終ってもウィリアムズのトランスポーターの中に閉じこもったまま、いつまでも出てこなかった。頭をかかえて涙を流していたのである。その様子は|傍目《はため》にも気の毒で、トラブルの原因を彼に確かめに行ったホンダのエンジニアの西沢一俊は、彼が泣いているのを見て声をかけることができずに黙って帰ってきてしまったほどだった。しかしホンダのエンジニアたちは、マンセルのリタイヤの原因がエンジンではなかったことに一様にホッとした。ピケはエンジン・トラブルでリタイヤしても、自分のミスでリタイヤすることもあるんだからといってけっして彼らを非難しなかったが、マンセルはそうではなかったからだった。もしこのリタイヤの原因がエンジンだったらどんなことになっていただろうと彼らは思った。
二位にはセナがはいった。これでピケ、マンセル、セナのいずれかの組み合わせによるホンダ・エンジン勢の1・2勝利は、シーズン六度目であった。そしてモナコからつづいている連続優勝記録も六となった。
中嶋悟は、このレースにまったく参加できなかった。彼は朝のウォームアップ走行でニュー・ボディに助けられて十二位のタイムを出し、すこし気分をよくしていた。ところがスタート直後にギヤを二速から三速に入れた瞬間にドライブシャフトのCVジョイントが折れてしまったのである。そこで彼のレースは終りになった。ハンガロリング・サーキットはコースの感じもデトロイトにそっくりだったが、結果も一周目のリタイヤでデトロイトと同じになってしまったのである。
しかしこのハンガリーではうれしいこともあった。オプションになっていた一九八八年のドライバー契約をここで正式にロータスと交したのである。
「またこれで来年も走れる」
と彼は思った。
一年だけでは終りたくないと思っていたので、とてもうれしかった。
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八月十六日の第十戦、オーストリア・グランプリを前にして、中嶋悟は自分がもうずいぶん長いあいだ完走していないような気がした。じっさいは七月十二日のイギリス・グランプリで四位になってからまだ一カ月しかたっていなかったのだが、そのあとのドイツとハンガリーでの連続リタイヤがそう思わせていたのである。二レースつづけてのリタイヤは、彼にとってはじめてのことであった。
また彼は、F1は自動車レースの最高峰であり、そのレースを走るF1カーが自分のミス以外で壊れるなんて絶対にありえないことだとまだ信じていたので、それが二度もつづけて壊れたこともショックだった。すべてがうまくいったイギリス・グランプリの直後のことだったので、なおさらだった。
「すべてがうまくいくというのは本当にむずかしいものだ」
と彼は思った。
それやこれやで彼の体の中には前の二レースで発散できなかったものがいっぱいたまっており、彼はオーストリアではどうしてもそれを発散しようと決意していた。オーストリアのエステルライヒリンク・サーキットは、それには非常に好都合なところだった。平均時速が220キロから230キロにも達する高速コースで、中嶋悟にぴったりのコースだったからである。それにエステルライヒリンクは、一九八六年にF3000で走って四位になったコースで、鈴鹿をべつにすれば、彼が予備知識を持っている最後のコースだった。ここで何とかしなければ、あとは鈴鹿までチャンスはないだろうと思った。
八月十四日の金曜日に予選がはじまると、彼はその一回目でまず十三位になった。タイムは1分28秒786でまあまあのものだったが、彼としては不満足だった。彼は午前中のフリー走行で1分29秒457という十二位のタイムを出しており、そのときの手応えから、予選では自分の判断でギヤ・レシオを変えたのである。そうすればぐっといいタイムを出せるような気がしたのだった。ところがじっさいに走ってみると、ギヤの選択を誤っていたのである。
彼は不本意だった金曜日の予選が終ると、いった。
「へんな色気を出してギヤを変えたのがいけなかった。コーナリングの最中にエンジンが吹き上がってしまって、コーナリングをしながらシフトアップしなければならないようなところが多くなってしまったんだ。まいったよ。でも、あしたはまちがわないよ。あしたはもっといいタイムを出す」
しかしそうはならなかった。翌土曜日は朝から雨になり、ドライ・コンディションでのタイム・アタックができなかったのである。そのために金曜日のタイムがすべてのドライバーの予選結果となり、中嶋悟は十三位からスタートすることになった。
こうしたなかでポール・ポジションを獲得したのは、ネルソン・ピケであった。
金曜日の予選がはじまってすぐに1分23秒495というすばらしいタイムを出したのは、いつものようにナイジェル・マンセルだった。彼はそのタイムを出すと、それが破られることはないだろうと判断し、ガソリンをフルタンクにしてレース・セッティングに移った。ところがそうしているうちに、ピケが1分23秒357をマークして、マンセルのタイムを上まわったのである。そのときのピケの平均時速は256キロに達した。マンセルは自分が二位に落ちたことを知ると、レース・セッティングをただちに中止してガソリンを抜き、大急ぎで再びタイム・アタックに飛び出していったが、ピケのタイムは破れなかった。
こうしてここでもまたホンダ・エンジン勢の二人がフロントローに並ぶことになったのである。ホンダ・エンジン勢の速さは依然として圧倒的であった。
しかしエステルライヒリンクは、ホンダ・エンジン勢にとっては鬼門のコースで、そのことは過去の戦績が何よりもよく証明していた。ホンダ・エンジンは、ここで一九八三年から一九八六年まで四度レースをしていたが、優勝はおろか完走すら一度もしていなかったのである。ホンダ・エンジンが二度以上レースをして勝っていないコースは、いまやここだけであった。
桜井淑敏は、それがなぜかをつぎのようにいっている。
「エステルライヒリンクというのは、すべてのF1コースの中でも一、二を争う非常にバンピーなコースなんです。だから車のトータル・バランスをよくして、車があまりハネないようにしないとタイヤがすぐに摩耗してしまう。ところが、ウィリアムズの車というのは、トータル・バランスよりもウィングのダウンフォースで車の接地性を保つ設計になってるから、速いんだけれども、バンピーなところではすごくタイヤに負担がかかる。ハネちゃうんですよ。ハネると、接地するときに瞬間的にタイヤがスリップしたりしますから、摩耗が速くなる。それでも勝とうとすると、こんどはいろんなところで無理をしなければならなくなりますから、エンジンが壊れたり、サスペンションが壊れたりする。それで、オーストリアではどうしても勝てないということになっていたんです」
そこでホンダとウィリアムズは、過去の経験を生かして、いろいろな対策をほどこしていた。たとえばダウンフォースを五パーセント程度すくなくして、それに見合ったエンジン・パワーを設定することや、ガソリンの量の変化に合わせてドライバーが運転席からダンパーの強弱を自由に調節できる可変式のダンパーを取りつけたことなどだった。
しかしそれでも彼らはここで勝てるとはどうしても思えなかった。ネルソン・ピケでさえそうで、彼はレースの前からこういっていた。
「ここで大事なのは、何点でもいいからまずポイントを取ることだ。ここは無理をするサーキットじゃない」
アイルトン・セナにも大きな期待はかけられそうもなかった。彼のアクティブ・カーは、本来ならタイヤに負担のかかるこのエステルライヒリンクのようなコースで本領を発揮しなければならなかったのだが、空力性能が依然として完全ではなかったのである。七位という彼としては最悪の予選結果にもそれがはっきりとあらわれていた。
八月十六日の日曜日は雨が上がり、エステルライヒリンクは快晴になった。すべてのドライバーが危険な雨のレースを避けられたのでよろこんだ。ところがオーストリア・グランプリは、スタートするとすぐに雨のレースよりずっとひどい大混乱に見舞われることになった。
まず午後二時半に最初のスタートが切られた。ピケとマンセルが競り合い、ピケが先頭で第一コーナーに飛び込んで行ったが、何といっても最高のスタートを切ったのは中嶋悟だった。スタートの一周で四台をゴボウ抜きにして、九位で最終コーナーから立ち上がってきたのである。彼はこの日の朝のウォームアップ走行のとき、フルタンク・テストで十番目のタイムを出していたので、レースではかなりいいところまでいけるだろうと見られており、自分でもそう思っていた。しかし、一周目にいきなり四台も抜いてくるとは誰も思わなかったので、みんなびっくりした。
だがこのとき、背後では大混乱が発生していた。きっかけは、予選十七位からスタートしたザクスピードのマーチン・ブランドルが第一コーナー手前のストレートでとつぜんコースを左に斜行し、ガードレールに激突したことだった。そしてそれを避けようとした後続の車がつぎつぎにスピンし、互いに激突したりガードレールにぶつかったりして、コースをふさいでしまったのである。これでレースは中断となった。すばらしいスタートを切った中嶋悟にとっては、何ともいいようのない口惜しい中断だった。
四十分後の三時十分、二度目のスタートが切られた。二度目は一度目よりもっとひどいことになった。こんどの元凶はマンセルだった。彼はいった。
「シフト・ミスをした。クラッチがすべって、うまくつながらなかったんだ」
フロントローにいたマンセルの加速が伸びなかったために、ものすごい加速で飛び出した後続のマシンの行く手はいっぺんに狭くなってしまった。マンセルの車を避けるために互いにぶつかり合い、またある車は他の車に乗り上げたりして、ピット前のストレートはあっというまにF1カーの墓場と化した。じつに七台の車がそこで走行不能になったのである。怪我人は一人も出なかったが、それが不思議なくらいの大事故だった。
中嶋悟は何とかそこを無事に切り抜けた。彼はそのときのことをこういった。
「おれが無事だったのは、マンセルのグリッドが右車線で、おれは左車線だったからだ。もしこっちも右車線だったら、まちがいなくおれも他の車かガードレールに突っ込んでいたと思うよ。エステルライヒリンクのピット前のストレートは、幅が狭くて、何かあってもF1が三台も並んで通過できるようなところじゃないんだ」
三度目のスタートは、それからさらに一時間後の四時十分になった。
「たぶん一台もマシンがなくなるか、日が暮れるまで同じことをくり返すつもりなんだろう」
とみんながやけっぱちになってぼやいたが、三度目のスタートもとてもまともなスタートとはいえなかった。スペア・カーの用意に手間どったり、二度の無駄なスタートでエンジンの調子をおかしくしてしまった車が続出して、五人ものドライバーがピットからスタートすることになったのである。予選六位のフェラーリのミケーレ・アルボレート、九位のマクラーレン・ポルシェのアラン・プロストもその一人だった。
こうしてオーストリア・グランプリは、三度目でやっとスタートした。一周目の順位は、トップがピケで、つづいてベネトン・フォードのティエリ・ブーツェン、フェラーリのゲルハルト・ベルガー、マンセルの順だった。
中嶋悟は十位で戻ってきた。アルボレートとプロストのほかに、予選十二位のアロウズ・メガトロンのエディ・チーバーもピット・スタート組だったので、彼は実質的に十位のグリッドからスタートしたのと同じことになり、そのままの順位を保って戻ってきたのである。そして彼は二周目に九位に上がり、六周目にはさらに八位に上がった。
「いけるぞ」
と彼は思った。すばらしい調子だった。
しかし彼のその高揚した気分は、七周目にぺしゃんこにしぼんでしまうことになった。彼がその異常に気がついたのは、八位に上がった六周目の最終コーナーを立ち上がったときだった。直線に向って車をまっすぐに立て直そうとした瞬間、車が予測以上にズルッとすべりかけたのである。
彼はそこで何かがおかしいと気づき、ピットにはいるべきかどうか迷った。ピットレーンの入口はすぐ目の前にあった。しかしつぎの瞬間にはもうそのタイミングを失い、彼はピットレーンの入口を通りすぎてしまっていた。彼は不安な気持でピット前のストレートから第一コーナーにはいっていった。
「中嶋さんの最終コーナーの立ち上がり方がへんだったぞ」
とそのときピットでいったのは、ホンダ・チームのチーフ・メカニックの小山英一だった。彼らはピットで中嶋悟が無事に戻ってくるのを待った。時計を見た。正常なら1分35秒ぐらいで戻ってくるはずであった。中嶋悟は2分たっても戻ってこなかった。
そのころ中嶋悟は、長いコースを何とかピットまでたどりつこうと、三本のタイヤでのろのろと走っていた。第一コーナーを抜けたところで左後輪がバーストしてしまったのである。
「くそ」
と彼は思った。おそらく二度目のスタートのときの事故現場で片づけきれなかった何かの破片を踏み、六周目からエア洩れがはじまってすぐに寿命がきたのである。もっと早く異常を感じさせてくれていたら、簡単にピットに飛び込めたのにと彼は思った。さもなければ、もっとピットに近いところでバーストしてくれればよかったのだ。
彼は第一コーナーから三本のタイヤでほとんどコースを一周し、4分もかかってピットに戻ってきた。そしてロータスのメカニックに大急ぎで左後輪のタイヤをつけてもらって再スタートしたが、そのときにはもう二周遅れの最後尾になっていた。彼はドイツ・グランプリにつづいて、またしても入賞できたかもしれないレースを失ったのである。
優勝争いは、十五周目からピケとマンセルの二人にしぼられた。
マンセルはスタートこそ遅れて四位に落ちたが、四周目にはベルガーを抜いて三位に上がり、十五周目には二位のブーツェンも攻略した。そしてたちまちトップを行くピケのうしろにぴったりとくいついたのである。セナもプロストもずっと後方だった。プロストが残り五周というところまでトップを走ったドイツ・グランプリを除くと、こういう形になるのはフランス・グランプリからの五戦でこれが四度目であった。ウィリアムズ・ホンダの二人のスピードだけが群を抜いていた。
マンセルは烈しくピケを追い立てた。彼は、ピケ、セナ、プロストの三人とドライバーズ・チャンピオンを争っていたが、三人の優勝回数がそれぞれ二回ずつであるのに対して三回も優勝していたにもかかわらず、九戦のうち四度のリタイヤがひびいて、得点は30点しか獲得していなかった。それに対して、ポイント・トップのピケは48点も稼いでいた。したがって、エステルライヒリンクはウィリアムズ・ホンダの車にとって非常に危険なコースであったが、マンセルとしてはどんなに危険でもピケのポイントを逆転してチャンピオンになるには優勝する以外になかったのである。
マンセルは二十一周目にとうとうピケを抜いた。ピケは抜かれた直後の二十二周目にタイヤ交換をおこない、マンセルは二十五周目におこなった。二人の順位は変わらなかった。マンセルはタイヤ交換をおこなうといっそうスピードを上げてピケを引き離しにかかった。ピケはレース前にいっていたとおり、このエステルライヒリンクでは無理をするつもりはなかったので、二人の差はあっというまに広がった。
ピケはハンガリーでロータスヘの移籍を発表していたので、マンセルがチームのナンバー1・ドライバーである彼に対してこんなふうに不躾な挑戦をしてきても、もうそれまでのようには熱くならなくなっていた。彼はまったく落ちついていた。
そのころ中嶋悟は十八位を走っていた。走っている車は全部で二十台であった。三十周ちかくかけて何とかノーマル・エンジンの車を二台抜いたのである。
桜井淑敏はピケとマンセルのトップ争いが一段落したので、ロータスのマネジャーのピーター・ウォーにいって、中嶋悟にフルブーストで走る指示を出させた。いまとなっては入賞のチャンスはなかったが、一つでも順位を上げてもらいたかったからである。ガソリンは余るほど残っていた。
中嶋悟はそのとき三十五周目をすぎたあたりだったが、1分33秒台のタイムで走っていた。1分33秒台というのは、スタート直後にフルタンクの状態で走っていたときと同じタイムであった。後半にはいってガソリンの残量が減り、車重が軽くなったことを考えれば、もっと速いタイムが出ていなければならないはずだった。普通に走っていれば自然にそうなるのである。
しかし彼のタイムは、フルブーストにしても1分32秒台までしか上がらなかった。四十周目にやっと1分31秒685というそれらしいタイムを出したが、そのとき一度だけだった。あとは三周遅れで四十九周でフィニッシュするまで、また1分32秒から33秒を行ったりきたりするタイムに戻ってしまった。
桜井淑敏は、七周目に左後輪のタイヤを一本換えただけでそのあとは一度も交換しなかった彼のタイヤにバイブレーションが出ていたことをレースのあとで知ったが、それでもラップ・チャートに示された中嶋悟のタイムの上昇カーブは不満だった。F1ドライバーなら、もっとスムーズできれいな上昇カーブを描いていなければならなかった。
もちろんそのことは中嶋悟自身も気にしていた。彼はレースのあとでいった。
「後半になってもタイムが上がらない理由は、ひとつしか考えられない。体力だよ。後半になると疲れてしまう。まだまだなんだ」
F1は彼が自分で想像していた以上に苛酷だった。ほかの連中の体力というのは、いったいどうなっているんだろうと思った。マンセルやピケやセナは彼より体そのものが大きかったが、プロストなどはほとんど変わらなかった。プロストは、中嶋悟がF1ドライバーになるまでは、F1ドライバーの中でもっとも小柄なドライバーとして知られていたのである。しかしプロストはタフで、疲れなどまったく知らないかのようにふるまっていた。どうしたらあんなふうになれるんだろうと中嶋悟は思った。
その間、ずっとトップを走りつづけたのはマンセルだった。マンセルは二位のピケをどんなに引き離しても、ぜんぜんスピードをゆるめなかった。そのために最終的な二人の差は55秒にもなったが、ウィリアムズ・ホンダのピットはヒヤヒヤのしどおしだった。
一番心配だったのはタイヤだった。彼らは過去の経験で、エステルライヒリンクではエンジンのパワーにものをいわせるだけでは勝てないと分ったので、ダウンフォースをすくなくしたり、ダンパーを可変式のものにかえたりして、車のトータル・バランスをよくする対策をほどこすにはほどこしていたが、過去の戦績を思うとぜんぜん安心できなかったのである。彼らがやっと安心したのは、マンセルとピケが五十二周を走りきり、他のすべての車を周回遅れにしてシーズン三度目のウィリアムズ・ホンダの1・2勝利を達成したときだった。マンセルの車もピケの車も、最後まで何ともなかったのである。
桜井淑敏は、レースが終ると大喜びでいった。
「エステルライヒリンク用の対策がすべて当たった。どうしていままでこのやり方が完成できなかったのかと思うぐらい、うまくいった。勝ってみると、まったくあっけないもんだ」
じっさい、レースが終ってみると、どうしてここでいままで一度も勝てなかったのか不思議なくらいだった。この勝利は、彼らホンダ勢にとって、モナコの勝利についで印象的なものになった。
中嶋悟は十三位だった。フルブーストの指示が出されたときには十八位だったが、その後ノーマル・エンジンの車を抜いたり、他の車がリタイヤしたりして、何とかそこまで浮上したのである。しかし、ドイツとハンガリーにつづき、予備知識のある最後のコースだったここでもまたタイヤのトラブルに泣き、自分のレースをすることができなかった。まるで彼は、イギリス・グランプリで一年分のツキを全部使いはたしてしまったかのようだった。
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オーストリア・グランプリが終って日本に帰ると、桜井淑敏はレース以外のことでちょっと忙しくなった。つぎのイタリア・グランプリで、重大なプレス発表をしなければならなかったからである。
マクラーレンとの提携であった。ホンダとマクラーレンが手を組むらしいという噂は、アイルトン・セナがロータスを飛び出してマクラーレンに移籍するらしいという噂とともに、サーキットではずいぶん早くから取り沙汰されていたが、桜井淑敏もマクラーレンのマネジャーのロン・デニスも、そしてセナもいっさい口をつぐんできていた。それをいよいよ正式に発表するのである。
ロン・デニスが、ホンダ・エンジンがほしいといって桜井淑敏に熱心にアプローチしてきたのは、一九八六年の夏のことであった。彼は六月のデトロイト・グランプリが終ると、チームのナンバー1・ドライバーであるアラン・プロストと二人で日本にやってきて、ホンダがエンジンをくれるというまでわれわれは帰らないといって、東京のホテルに一週間も滞在した。しかしそのときは、ウィリアムズのほかに、ロータスに供給することを決めたあとだったので、どうにもならなかった。
それから桜井淑敏はマクラーレンとロン・デニスに興味を持ち、彼らのレースのやり方やマネージメントのやり方をずっと観察してきた。結果はすばらしく、なるほど彼らがホンダ・エンジン勢の最大のライバルとしてF1界に君臨しているのも無理はないと思わせるものだった。
なかでも桜井淑敏が感心したのは、一九八七年はジョン・バーナードというチーフ・エンジニアがフェラーリに移ってしまったのに、まったくチームの戦闘力が落ちなかったことだった。普通のチームでは考えられないことだった。ましてジョン・バーナードは、一九八四年にニキ・ラウダ、八五年と八六年はアラン・プロストをワールド・チャンピオンにした車を設計した男で、F1界ではマクラーレンが強いのはマネジャーのロン・デニスの手腕ではなく、ジョン・バーナードの車のせいだという声すら上がっていた男だったのである。しかしロン・デニスは彼がフェラーリに移ることがはっきりするとただちに手を打ち、ブラバムからゴードン・マーレイというチーフ・エンジニアを引っこぬいてすぐにその穴を埋めてしまったのだった。そしてマクラーレンはまるで何ごともなかったかのように一九八七年のF1活動を開始し、エンジンで完全にホンダ勢に差をつけられるまで第一級の戦闘力を示しつづけた。
マクラーレンの強さは、ロン・デニス以外の誰か一人の傑出した才能によるものではなく、誰がいなくなってもあわてないように、ロン・デニスによって完全に組織化された総合力だったのである。桜井淑敏はロン・デニスに対する興味をさらに深め、一九八七年になるとあちこちのサーキットでひんぱんに彼と会って話をした。
桜井淑敏はつぎのようにいっている。
「われわれはF1レースを一生懸命やっているけれども、本筋は自動車会社で、レース屋ではない。だから、勝つことは大事だし、つねに勝とうとは思うけれども、目的はそれだけではないんですね。とくにここ一、二年は、F1をもう五年もやってきて、F1のことはだいたい分ってきたから、あしたの一勝をしゃかりきに取りに行くというだけじゃなくて、もっと長い目で将来を見て、いろんなことをやってみたいと考えていたんです。たとえば、エンジンの開発ばかりでなく、ハードもソフトもすべて含んだレース全体のシステム化のようなことですね。しかしそうするには、われわれにはエンジンしかありませんから、すぐれたシャシー・コンストラクターと手を組まなければならない。そういう気持を持っていたときにロン・デニスとまた会ったんです。すると、彼がわれわれの夢と理想に非常に近い形でレースをやろうとしていることが分った。もっとも彼にいわせると、ホンダのF1に対する考え方と戦略は、マクラーレンの長期的展望と非常によく合致するということになるんですがね。そういうことでお互いに急速に近づいていったんです」
またロン・デニスは、レースに対してしっかりした考えを持っていたばかりでなく、具体的な契約交渉にはいっても紳士的で、自分の利益だけになる方向に話を持っていくようなことはけっしてしなかった。反対に、桜井淑敏がホンダにとっては必要だが、マクラーレンにとっては必ずしも必要ではないような条件を持ち出しても、それがどうしてもホンダに必要だと分ると、桜井淑敏の気持を察してこういった。
「分った。パートナーの悩みはわたしの悩みと同じだ。認めるよ」
そういう点でも彼は自分の利益になること以外は絶対に認めようとしない他の多くのF1チームのマネジャーとはちがっていた。
桜井淑敏は、彼の仕事に完全を求める考え方も気に入った。彼はそのためにいろいろな提案をしたが、マクラーレンの大型トランスポーターと何人かのイギリス人メカニックを日本に常駐させたいという提案もそのひとつだった。そうしなければ日本での完全な走行テストはできないというのが彼のいいぶんだった。桜井淑敏は当然の提案だと思ったが、そのときはちょっと驚いた。ウィリアムズとはもう四年もパートナーとして手を組んできたが、フランク・ウィリアムズは一度もそういう提案をしたことがなかったし、ロータスのピーター・ウォーも日本でのテストはホンダにまかせきりだった。桜井淑敏は大型トランスポーターの駐車スペースを本田技術研究所の中に確保すると約束した。
ロン・デニスとの契約交渉はすべてがうまくいった。話し合いはずっとリラックスした雰囲気の中でおこなわれ、契約交渉をしているのに、交渉をしているという気がぜんぜんしなかったとあとで桜井淑敏はいった。お互いがあまりにも似た考えを持っていたので、それを互いに確認し合えばよく、交渉の必要がなかったのである。
桜井淑敏は、契約交渉が終ると、ホンダとマクラーレンの組み合わせは、最強の組み合わせになるだろうと思った。どちらも金や人や時間のことをけっしていいわけの種にせず、つねに勝利に向って最善の努力をする体質を持っていたからである。ほかのところはなかなかそうはいかなかった。たいていのチームは、問題が生じても、金や人や時間を使うのを惜しんで、問題の解決を遅らせた。ホンダの体質はそうではなかったので、桜井淑敏は他のチームのそういうやり方を見ていて、しばしばイライラした。しかし、もうそんなことはなくなるのである。
しかもドライバーは、アラン・プロストとアイルトン・セナの二人だった。セナはロータスを出て、マクラーレンを選んだのである。この組み合わせも、目下のところ望み得る最高の組み合わせといわなければならなかった。
一方、桜井淑敏はマクラーレンと提携しようと決意した段階で、フランク・ウィリアムズにウィリアムズに対するエンジン供給を一九八七年いっぱいでストップすることを告げていた。ウィリアムズには中嶋悟はいなかったからである。三社供給体制を組むのは無理だった。フランク・ウィリアムズは、そのことを告げると最初は激怒してあれこれわめきちらしたが、最後には納得した。桜井淑敏としても、パートナーとして四年も一緒にやってきた彼と手を切るのはいい気持ではなかったが、どうしようもなかった。
桜井淑敏は、他のスタッフとともにプレス発表のためのいろいろな準備をしたあと、九月三日にイタリアのモンツァヘ行った。そして四日の金曜日の午後、一回目の予選が終ったあとですべてを発表した。
記者会見はモンツァ・サーキットでおこなわれたが、そこにはサーキットにやってきていた世界中のジャーナリストのすべてが集まった。ホンダとマクラーレンの提携は、モーター・ジャーナリストなら絶対に見のがせない大事件だったからである。そして、この両者の結びつきは誰もが予想して噂し合っていたことだったが、じっさいにそれが発表されると大騒ぎになった。
もっともショックが大きかったのは、もちろんイギリス人のジャーナリストたちだった。ウィリアムズにはナイジェル・マンセルがいて、彼はイギリス人の英雄だったからである。彼らは感情的になり、つぎつぎに質問を発した。なぜウィリアムズをやめてマクラーレンにしたのか。ホンダはナイジェルが嫌いなのか。そのたびに桜井淑敏はつぎのように答えなければならなかった。
「ウィリアムズが嫌いになったわけでも、ナイジェルが嫌いになったわけでもない。おそらく、ごく短期的に考えれば、すでに気ごころのよく知れたウィリアムズと一緒にやっていくのが勝利への一番の近道だとも思う。しかし、われわれとウィリアムズは四年間一緒にやってきて、やるべきことは全部やったし、チャンピオンにもなった。もう互いに刺激し合うものがなくなったんだ。だから互いに、これからは新しいべつの道を歩もうということにしたんだ。フランク・ウィリアムズは納得している」
しかしイギリス人のジャーナリストたちは納得せず、ホンダはひどいとか、ナイジェルがかわいそうだとか、イギリス人のドライバーがチャンピオンになるというイギリス人の夢をぶち壊したとか、いろいろ非難した。
「まったくたいへんな記者会見だった」
と桜井淑敏はそれが終ったあとでいった。
しかし記者会見は終り、その日のうちに、桜井淑敏とロン・デニス、それにアラン・プロスト、アイルトン・セナの四人が記者会見場で仲良くシャンペンで乾杯しているところを写した写真が世界中に流された。そしてホンダとウィリアムズの四年間にわたる関係には、ここで終止符が打たれることになったのである。
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桜井淑敏とロン・デニス、それにアラン・プロストとアイルトン・セナの四人は、一九八八年から互いにパートナーになることを祝してシャンペンで乾杯したが、それは記者会見場でだけのことだった。まだレースは六戦も残っており、そんなことがあったからといって、誰もレースで手加減をするつもりなどなかった。彼らはまだ、ひとたびレースになればまだべつのチームに別れて戦闘を再開しなければならない敵同士であった。
「レースでは誰も彼もが熾烈な戦いをしているのに、その裏では同じ人間が戦いなんか存在しないような顔をして、つぎに手を組む話をしている。それでべつに誰も何とも思わない。面白いですね、F1の世界ってのは」
と桜井淑敏はいっている。
じっさい彼自身、人間的にはロン・デニスとアラン・プロストを非常に好きになっていたが、レースで彼らに勝たれてもいいとはまったく思わなかった。依然としてマクラーレン・ポルシェはホンダがやっつけなければならない最大の敵であった。
こうして第十一戦のイタリア・グランプリも、いつものグランプリと同じに容赦のない戦いの幕が切って落とされた。そこには誰にとっても戦う意志以外のものがはいりこむ余地はいっさいなかった。
もしこのモンツァのレースで戦うことに完全に集中できなかったドライバーがいたとすれば、それはナイジェル・マンセルだった。彼はホンダがウィリアムズとの訣別を発表したことを自分が嫌われたのだと思いこみ、ホンダは自分にはもう勝てるエンジンを供給してくれないのではないかと疑っていたのである。イギリス人ジャーナリストの中にもそういうふうにいう者がいたので、彼はますます疑った。桜井淑敏は、マンセルがそういうふうに考えているらしいと人づてにきいて、どうしようもないやつだと腹が立ったが、マンセルがそう考えている以上どうしようもなかった。
反対に、ネルソン・ピケは戦闘意欲満々だった。
彼は、これまでの十戦でドライバーズ・チャンピオン・ポイントを54点獲得してランキングのトップを走っていたが、それに対して二位のセナは43点、三位のマンセルは39点しか獲得していなかった。したがって、彼はその点差から、残りの六戦で一度優勝し、二度二位になればまちがいなく自分がチャンピオンになれると考えていた。そうすれば最終的なポイントは75点となり、セナもマンセルもそれを上回るにはよほど超人的な仕事をしなければならなかったからである。
そしてピケは、目標のその一度の優勝を、全力をあげてこのイタリア・グランプリでものにしようと決意していたのだった。モンツァ・サーキットは過去に三度も優勝をしているところで、彼がもっとも得意としているコースだった。
ピケはその決意を示すように、ウィリアムズにアクティヴ・サスペンションカーをモンツァに持ち込ませていた。ウィリアムズでもチーフ・エンジニアのパトリック・ヘッドがアクティヴ・カーを開発し、シーズンのはじめからずっとテストをつづけてきていたのである。テストをおこなってきたのは一貫してピケだった。マンセルはものになるかどうか分らぬもののテストには、まったく興味を示さなかった。しかしここにきてウィリアムズのアクティヴ・カーはすばらしく速くなり、サンマリノ・グランプリがおこなわれたイモラ・サーキットでのテストでは、レースと同じ距離を走ってマンセルの優勝タイムを3分も縮めてしまった。そこでピケは、レースでもアクティヴ・カーに乗る決意をしたのである。安全策をとるなら、レースで実績のあるノーマル・カーのほうがまちがいはないと分っていたが、勝つためにはリスクもおかさなければならなかった。彼はあえてそちらを選んだのである。
ピケがアクティヴ・カーを選んだことについて、それを設計したパトリック・ヘッドはつぎのようにいった。
「ネルソンは、じつによくテストをこなしてくれた。ここへくる直前のイモラでのテストでは1500キロも走ったんだ。そろそろ彼のはたらきが報われてもいいころだよ」
一方、アクティヴ・カーについては先輩格のロータスのエンジニアたちは、ウィリアムズのアクティヴ・カーを見ると、つぎのようにいった。
「あんなものはアクティヴ・サスペンションでも何でもない。ただの油圧スプリングにすぎないね」
たしかにウィリアムズのアクティヴ・カーは、ロータスのものにくらべれば、前後の車高を一定に保つというだけの単純なものだった。しかしウィリアムズにとっては、それだけでもモンツァのような直線の多い高速コースでは大きな力になった。F1カーの最大の悩みの種は、ウィングをいっぱいに立てるとダウンフォースが増えてコーナリング性能はよくなるが、直線ではこんどはそれがブレーキの役目をしてしまうということだった。ところがウィリアムズのアクティヴ・カーは、それまでの車よりアクティヴ・サスペンションの効果で車そのもののダウンフォースが向上したので、ウィングをそれほど立てる必要がなくなり、その結果として直線でのスピードが上がることになったのである。
九月四日の金曜日におこなわれた一回目の予選では、ノーマル・カーに乗ったマンセルが1分24秒350の最速タイムを出した。ピケは1分24秒617で二位だった。しかし土曜日になるとピケが1分23秒460を出して逆転した。マンセルは1分23秒559だった。二人の差は直線でのスピードの差だった。ピケのほうが、時速にしてつねに10キロ以上速かったのである。土曜日のピケの最高速は、じつに352キロに達した。
彼らにつづく三位はフェラーリのゲルハルト・ベルガーで、彼は第九戦のハンガリーで二位になってから、これで三戦つづけて予選は三位以内のポジションだった。ベルガーのフェラーリのスピードはすばらしく、車もすごく安定していた。フェラーリは一九八五年のドイツ・グランプリでミケーレ・アルボレートが勝って以来、もう二年以上も勝利から見離されていたが、ついにまた本来の調子を取り戻したのである。多くの人がそれをマクラーレンから移籍したチーフ・エンジニアのジョン・バーナードの力だといった。ホンダ勢にとって、これまで敵はプロスト一人だったが、残る六戦ではベルガーも手ごわい相手になってきそうだった。
四位につけたのはセナだった。ロータスのアクティヴ・カーはシーズン当初にくらべるとずっと熟成されて、一番の問題だった空力性能もだんだんよくなってきていたが、まだセナを完全に満足させるまでにはなっていなかった。セナは予選が終るといった。
「全力疾走をはじめるとアンダーステアが出てくるし、どうもまだシャシーがエンジンのパワーを受けつけない感じなんだ。でも空力が改善されたせいで燃費がかなりよくなったというから、レースでは助かるよ」
プロストは五位だった。彼もピケと同じようにイタリア・グランプリの直前にイモラ・サーキットで走行テストをしてきた組だったが、モンツァではまったく精彩がなかった。予選五位にはなったが、フリー走行や予選のあいだにしばしばエンジンが不調になり、そのたびに顔をしかめなければならなかったのである。彼がそのエンジンでレースの300キロを問題なく走りきれるとは誰にも思えなかった。
中嶋悟は彼ら上位陣から遠く離れて十四位だった。
彼は高速コースのモンツァ・サーキットが気にいった。しかしまったくはじめてのコースだったので、コースの特徴を頭に入れ、慣れるのに時間がかかった。なかでもむずかしかったのはシケインの抜け方だった。モンツァは、ほとんど三本の直線をカーブでつないだだけの単純な高速コースだったので、ドライバーをスピードの誘惑から守るためにコースのあちこちに減速のためのシケインが三つも設けられていたのである。
「車の調子はいいんだけど、ストレートとシケインのつなぎの部分がどうもね。縁石にタイヤをのせて抜けて行くのがいいのか、のせないほうがいいのか。そのあたりがもうひとつよく分らないんだ」
と彼はいった。
土曜日午前のフリー走行では、そのうちのひとつのシケインに突っ込みすぎてスピンしてしまった。結局彼は三つのシケインをスムーズに抜けるリズムをつかみきれなかったのである。
それを見ていた桜井淑敏はいった。
「中速、低速すべてのコーナーが遅い。ブレーキングが早すぎるんですよ。じゃあ、もっとブレーキング・ポイントを遅らせればいいかというと、そうするとスピンしてしまう。あと1秒は速く走ってもらいたいけど、モンツァは中嶋さんにとってはちょっとたいへんなコースみたいだね」
中嶋悟の予選タイムは、トップのピケから4・7秒遅れの1分28秒160だった。
レースになっても彼はいいリズムをつかむことができなかった。
九月六日、日曜日のレースは、オーストリア・グランプリにつづいてまたしても再スタートになった。フォーメーション・ラップが終ってスタート・シグナルが点灯する寸前に、リカルド・パトレーゼのブラバム・BMWのエンジン部から出火したのである。これでスタートがやり直しになり、二度目はうまくいった。
中嶋悟は十四位からスタートし、十四位で一周目を戻ってきた。それから彼は前を行くザクスピードのクリスチャン・ダナーを追いかけはじめた。そして三周を終り、四周目にはいったとき、ピット前のストレートでそのうしろにぴったりとくいついた。ストレートの向うにはつぎのストレートヘとつづく右回りの第一コーナーがあり、その手前に第一コーナーヘの進入速度を遅くするためのシケインがあった。彼はそのシケインで抜いてしまおうと決めた。
中嶋悟はシケインでダナーのインに車を突っ込んだ。そして計算どおりに抜き去った。レースで誰かを抜くというのは、たとえそれが何位争いであってもすばらしく気分のいいものだった。彼は気持がよかった。
「あっ」
と思ったのはつぎの瞬間だった。しかしそう思ったときにはもう遅く、彼の車はスピンしてコースの外に出てしまっていた。ダナーを抜くことにばかり気をとられていて、オーバースピードでシケインに突っ込んでしまったのである。おまけにエンジンも止めてしまっていた。
うしろからの車がつぎつぎにストップした彼を抜いていった。すべての車が通りすぎると、やっとコース・オフィシャルがやってきて押しがけをしてくれた。オフィシャルは、最初車をバックさせてどこかに片づけようとしたので、彼はそのたびにブレーキを踏んでそれをやめさせ、何度も前に押せと合図しなければならなかった。彼は最後尾の二十六位でそこから再スタートした。これでドイツから四レースつづけてのトラブルだったが、こんどの責任は自分にあった。何ともいえない気分だった。
優勝争いをしたのは、ピケとセナだった。
ピケはすばらしいスタートをして一周目からトップに立ったが、セナはスタートでプロストとベネトン・フォードのティエリ・ブーツェンに抜かれ、六位に落ちた。セナが五位に上がったのは五周目だった。エンジンの調子がおかしくなったプロストを抜いたのである。しかしそのあとはまた息をひそめたように、まったく何もしなかった。それが二十周までつづいた。このころは、前の車を抜く気配も見せずにただ黙って五位を走っているだけのセナが、とつぜん優勝争いに躍り出すとは誰も考えなかった。
レースの様相がにわかに変化しはじめたのは、二十一周目からだった。まず二位を走っていたマンセルがタイヤ交換にはいった。これでセナは四位に上がった。二十三周目になると、ブーツェンとベルガーもタイヤ交換をした。セナは一挙に二位に浮上した。そして二十四周目、最後にトップのピケがタイヤ交換にはいった。ピケがタイヤ交換にはいるまえのピケとセナの差は12秒だった。ところがピケが大急ぎでタイヤを換えてコースに出て行ったときには、セナはすでに先に行き、二人のあいだには反対に10秒の差がついていたのである。
しかしこの時点では、ピケはセナが先に行っていてもまだ楽観していた。セナはデトロイトでタイヤ無交換で走りきって優勝したことがあったが、モンツァのような高速コースでは、タイヤをバーストさせずに最後まで走りきるなんてとても無理だと思っていたからである。セナがタイヤ交換にはいれば、そのとき二人の順位は再び逆転するのだった。
ところがセナはそう思っていなかった。セナは自分がワールド・チャンピオンになるためには、どうしてもここで勝っておかなければならないと考えていた。ピケとセナのポイントは54点と43点だったので、セナが優勝すれば、ピケが二位になっても60点と52点になってまだセナに逆転の可能性があった。しかし逆になると63点と49点になって、残り五戦ではピケが連続してリタイヤでもしないかぎり追いかけるのがほとんど不可能になってしまうのである。そこでセナは、ここでどうしても勝つためには、タイヤが最後までバーストしないほうに賭けて、タイヤ無交換でいくほかにないと最初から決めていたのだった。ピケのウィリアムズ・ホンダと同じ条件で戦うには、彼のロータス・ホンダはほんのすこしだが遅かったのである。セナは逃げつづけた。
ピケはセナがいつタイヤ交換にピットインするかとセナの様子をうかがっていたが、いつまでたってもその気配はなかった。いまやセナの意図はあきらかだった。ピケはセナを追いかけはじめた。二人の差は、三十三周目に二十五周目の10秒から6秒に縮まった。そして四十周目には4・5秒になった。
しかし、そこから縮まらなくなった。そのころから、ピケの交換したタイヤにどういうわけかバイブレーションが起きはじめたのである。レースは五十周だった。すり減ったタイヤで、残り十周で4・5秒を逆転するのは不可能だった。バイブレーションが起きていなかったときでも、10秒差を4・5秒にするのに十五周もかかったのである。ピケは、セナはタイヤのすり減らない魔法の車にでも乗っているんだろうかと思い、そして勝負をあきらめかけた。
しかしセナは、ピケのタイヤにバイブレーションが起きているなどということはまったく知らなかった。彼が知っていたのは、ピケが4・5秒差にまで迫ってきているということだけだった。そしてセナにとっては運命の四十三周目がやってきた。
セナはレースのあとでいった。
「前に周回遅れのギンザーニがいた。つぎのストレートまで待てばよかったのに、ネルソンがうしろに迫っていたので、彼を無理して抜きにかかったんだ。バカなことをした」
彼はピットの裏のストレートから最終コーナーヘとつづく四速の高速コーナーの入口で、リジェ・メガトロンのピエルカルロ・ギンザーニを抜きにかかった。ギンザーニはすでに一周遅れになっていたにもかかわらず、セナがすぐうしろに迫っても右にも左にもよけなかった。そのことがセナのブレーキング・ポイントを遅らせた。セナは強引にインをつき、ギンザーニをパスした。その瞬間、セナのロータス・ホンダはコースを外れ、すさまじい砂煙を上げてサンド・エリアに突っこんでいった。
それでもセナはスピンをしなかった。コースを外れたまま懸命に車をコントロールし、砂上走行をつづけた。しかし、そこからやっとコースに戻ったときにはピケが通り抜けたあとで、8秒もの差がついてしまっていた。そこからこんどはセナが猛然とピケを追いかけ、残り七周で1・8秒差までつめよったが、勝利はピケのものになった。セナは四十九周目に1分26秒796のベスト・ラップを出した。しかしピケも同じ周に1分26秒858というタイムを記録した。
桜井淑敏はレース後にいった。
「セナのレースだった。でもピケも頑張ったよ。セナのタイヤはフィニッシュしたあとで見たらまだ二十周ぐらいは走れる感じだったけど、ピケのタイヤは前後ともすり減ってブロー寸前だった。それで四十九周目にセナと変わらないタイムを出したんだから、きっとすごい覚悟だったんだろう」
中嶋悟は三周遅れの十一位だった。四周目に最後尾の二十六位に落ちてから、七台の車を抜き八台の車がリタイヤしたのである。彼のベスト・ラップは、三十七周目に記録した1分31秒849だった。
一方、ホンダ・エンジンは、これでモナコから八戦つづけて負けなしだった。
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中嶋悟はデビューから十一戦を戦い、すこしずつF1に慣れてきてはいたが、それでもまわりで眺めている人間から見ると、まだもの足りなかった。とりわけ、ときどき日本からF1レースを見にくる日本のレース関係者から見るともの足りなかった。彼らの目には中嶋悟が日本でF2で走っていたころの姿が焼きついており、F1でもそれと同じ走りを彼に期待したのである。彼らは自分たちの期待が満たされないと、中嶋悟をつかまえていった。
「どうしてF2で走っていたときみたいなドライビングをしないんだ。もっとアクセルを踏まなくちゃ駄目だよ」
中嶋悟はいつもの癖でそうした批判をニヤニヤ笑いながらきき流していたが、第十二戦のポルトガル・グランプリのためにエストリル・サーキットにやってくると、ホンダのモーターホームの中で親しいジャーナリストの一人に訴えた。
「いろんな人がいろんなことをいうけど、おれが一生懸命やっていないと思う? おれはどんなレースでだって手を抜いたことなんかないよ。おれはいつだって一生懸命だよ。必死で走ってるよ。でも、いつもおれの前に誰かがいるんだ」
しかし彼がF1の巨大なパワーを扱いかね、F2のようにはF1をコントロールできていないことは事実だったので、どうしようもなかった。もちろんそのことは彼自身が一番よく知っていた。みんなの期待どおりに走れないことが彼もいらだたしかったのである。
彼はポルトガル・グランプリでは何とかいいところを見せたかった。しかしエストリル・サーキットは、最長1キロの直線と中高速コーナーを中心とした十一のカーブからなるテクニカル・コースで、レイアウトはちがっていたが性格は鈴鹿と非常によく似たコースだった。彼は鈴鹿なら知っていたが、エストリルは知らなかった。鈴鹿と似ているなら、慣れるのにずいぶん時間がかかるだろうと思った。また苦労しそうだった。
そうした中嶋悟の悩みをよそに、エストリルには日本からいつになく大勢のジャーナリストがつめかけた。ウィリアムズ・ホンダのコンストラクターズ・チャンピオンがここで決定するかもしれない情勢になっていたからである。決定すれば大きなニュースだった。
これまでの十一戦での得点はつぎのようになっていた。
ウィリアムズ・ホンダ 106点
ロータス・ホンダ 55点
マクラーレン・ポルシェ 51点
二位のロータス・ホンダとの点差は51点、三位のマクラーレン・ポルシェとは55点であった。それをポルトガルで61点差にすれば決定するのである。追いかけるチームの二台の車が1・2勝利をしても得点は15点で、したがってポルトガル後の残り四戦ではどんなに得点を稼いでも60点以上にはならないからだった。そして過去十一戦でのウィリアムズ・ホンダの強さを考えればその可能性は十分にあり、またポルトガルでウィリアムズ・ホンダの二人のドライバーが勝てないと考える理由も見当らなかった。
しかし本当の興味の焦点はドライバーズ・チャンピオン争いで、誰もが注目していたのはそちらだった。
ネルソン・ピケ 63点
アイルトン・セナ 49点
ナイジェル・マンセル 43点
アラン・プロスト 31点
これがこれまでの十一戦での上位四人の得点だったが、これでピケが完全に安全圏に逃げこんだとはまだいえなかった。
ピケはイタリア・グランプリでセナに勝って、セナはほぼ圏外に追い落とした。セナの車はチャンピオンを争うには依然として完調というにはほど遠く、接戦に持ちこむ以外に逆転は考えられなかったからである。プロストは得点が少なすぎた。
しかし、マンセルにはまだ逆転する可能性が残っていた。彼は得点こそ20点も離されていたが、彼には爆発的な力があり、連続して優勝する可能性があったからである。じっさい、彼は完走した七レースのうち四レースで優勝しており、リタイヤした四レースの中にもちゃんと走っていれば優勝していたかもしれないレースが二つ以上はあった。したがって、リタイヤさえしなければ、彼は残る五レースですくなくとも三勝し、二度二位になるぐらいは十分可能だったのである。
もちろんマンセルはその意気ごみで、ポルトガルにはピケがイタリアで使って大成功したウィリアムズのアクティヴ・カーを持ちこんできていた。ポルトガルヘ乗りこむ寸前に、イギリスのブランズハッチ・サーキットで二日間のテスト走行をおこなってそちらを選んできたのである。ピケが一人でその開発テストをしていたあいだは見向きもしなかったのに、たいへんな変貌ぶりだった。
こうしてポルトガル・グランプリもウィリアムズ・ホンダの二人の戦いになるかと思われた。ピケはマンセルが嫌いで、マンセルもピケが嫌いだったので、二人の戦いはいつも予選のときから火花が散るようなはげしいものとなった。
ところがポルトガルではそうはならなかった。フェラーリのゲルハルト・ベルガーがポール・ポジションを獲得したのである。一日目の金曜日にはマンセル、ピケが一、二位を占めたが、二日目の土曜日に二人まとめて逆転されてしまったのだった。ベルガーのタイムは1分17秒620で、マンセルは1分17秒951、つづいてプロストが1分17秒994、ピケは1分18秒164で四位だった。
この結果には誰もが驚いた。ホンダ・エンジン勢がシーズン開幕から十二戦目ではじめてポール・ポジションを他に明け渡した瞬間でもあったからだった。これでフェラーリの復調は、いよいよ誰の目にもあきらかなものになった。
中嶋悟は1分22秒222で十五位だった。
彼は予選ではツイていなかった。金曜日の予選は走ることができたが、土曜日の二回目は一周もできなかったのである。午前中のフリー走行中にアクティヴ・サスペンションのオイルが洩れ、ターボ・チャージャーの熱で引火して車体後部を焼いてしまったのだった。
彼は予選のあいだセナのスペア・カーが借りられることを期待して、じっとピットで待った。
「セナがスペア・カーは必要ないといわないかぎり、借りられないんだ。セナの本番カーにだって、いつ何が起こるか分らないからね」
セナが中嶋悟にスペア・カーを与えてもいいとOKを出したのは、予選開始から二十分後のことだった。中嶋悟はよろこんだ。一日目のタイムの1分22秒222は絶対に破れる自信があった。メカニックが大急ぎでブレーキやアクセルのポジションを中嶋悟に合わせて変えはじめた。ところがその作業はすぐに中断された。それからほどなくしてセナが駆け足でピットに飛びこんできたのである。セナもOKを出した直後にアクティヴ・サスペンションのオイル洩れから出火し、車をコースにストップさせてしまったのだった。
中嶋悟は金曜日の午前と午後、それに土曜日の午前の三度のセッションでコースに慣れ、土曜午後の二回目の予選で全力を集中するつもりだったので、このアクシデントは非常な痛手だった。
中嶋悟のアクシデントは日曜日になってもつづいた。こんどはウォームアップ走行中に発電機のベルトがアクティヴ・サスペンションの配管をこすり、またしてもオイルが噴き出してしまったのである。そのために彼はウォームアップ走行を二周しかできなかった。
中嶋悟のエンジンを担当する小池明彦は、彼に同情していった。
「こういうふうになって、実力を出させてやれないというのが一番かわいそうですよね。ぼくらもつらいですよ。ぼくはイタリアのあとで一週間日本に帰ったんですけど、そのとき鶴岡八幡宮へお祓いに行ってこようと思っていたんです。でも結局時間がなくて行けなかったんですよね」
中嶋悟は、レースではタイヤ交換をしないで行くといった。彼はドイツ・グランプリから連続してつづいているトラブルを断ち切ろうと必死だった。
しかし小池明彦はそれに対しても悲観的な見方をせざるを得なかった。彼はいった。
「中嶋さんがそういっても、結局セナのタイヤの減り具合を判断するためにピットに入れられるんじゃないかな。イタリアのときも必要なかったのにピーター・ウォーに入れられたから」
レースがスタートしたのは、九月二十日の午後三時だった。
中嶋悟は、レースがはじまるとまもなく、自分の意志以外でタイヤ交換のためにピットインする必要はなくなった。かんじんのセナが、コンピューター・トラブルで早々と優勝争いから脱落してしまったからである。
セナは十周目まではベルガーとマンセルについで三位を走っていた。ところが十一周目からとつぜんエンジンの調子がおかしくなった。ミス・ファイアが起きはじめ、やがてエンジンがプスプスといって止まってしまうようになったのである。セナは、そんなトラブルがホンダ・エンジンに発生したのははじめてだったので、走りつづけていればそのうちもとに戻るだろうと思い、エンジンが止まるたびにイグニッションを切ったりつないだりして、その場をしのぎつづけた。
しかしエンジンの調子はもとに戻らず、十四周目には十三位まで落ちてしまった。セナはあきらめ、十五周目にピットインした。ホンダのエンジニアとメカニックが総出でエンジンを点検したが、これといった異常は認められなかった。しかしエンジンに異常があることは事実だったので、彼らは点火や燃料噴射をコントロールしているコンピューターのチップを交換してセナをコースに戻した。するとセナは再びすばらしいスピードで走りはじめ、こんどは最後までトラブルは起きなかった。しかしセナはそのピット・ストップで三分もの時間を失い、その間にトップから二周半も遅れてしまったので、もうどんなに速く走っても挽回は不可能だった。最終的な彼の順位は七位だった。
中嶋悟は十五位からスタートし、スタートでザクスピードのマーティン・ブランドルに抜かれて、十六位で一周目を戻ってきた。そして彼は十三周目までその位置で走りつづけた。彼のフルタンク状態でのラップ・タイムは1分27秒台で、予定より2秒も遅かった。トップ・グループのラップ・タイムは1分23秒台だった。
ロータスのピットでは、ホンダのエンジニアたちがどうして彼のタイムがそんなに遅いのか頭をひねった。中嶋悟はオイル配管のトラブルでレース前のウォームアップ走行ができず、フルタンクでのテストをしていなかったが、金曜日と土曜日のフリー走行の結果から見て、フルタンクでも1分25秒台のタイムが出ると思われていたのである。
そのわけがあきらかになったのはレースが終ってからだった。
このポルトガル・グランプリでもスタートが二回おこなわれた。最初のスタートのときに、第一コーナーでピケとフェラーリのミケーレ・アルボレートが絡み、それが原因で中団を走っていた車がつぎつぎにスピンして赤旗が出たのである。中嶋悟もその中におり、他の車と接触した。ダメージはまったくなかったが、ロータスのエンジニアのティム・デンシャムは大事をとって中嶋悟の車のタイヤを再スタート前に全部新品と交換した。ところがそれが裏目に出てしまったのだった。
中嶋悟はいった。
「レース用のタイヤというのは、きちんとウォームアップをすませて、そのあとで空気圧も調整するのに、換えたタイヤは十分ばかりタイヤウォーマーであたためただけのものだった。だから再スタートして何周かすると、急激にタイヤ温が上がり、中のエア圧が高まりすぎて、ちっともグリップしなくなってしまったんだ」
それでも彼は一度もタイヤ交換をせずに走り、五十五周目には他の車の脱落に助けられて七位まで上がった。最終的には、最後尾から追い上げてきたチームメートのセナに抜かれて八位に終ったが、彼にとってはイギリス・グランプリ以来の完走だった。彼は五レースぶりの完走に満足した。
彼ら以外のホンダ・エンジン勢も、このレースではさんざんだった。
マンセルは十三周目まで二位を走っていたが、十四周目にリタイヤしてしまった。燃料ポンプの逆流防止バルブが故障したのである。それでエンジンが死んでしまったのだった。マンセルは、これでますますホンダはピケにチャンピオンを取らせるために自分にはわざと悪いエンジンを与えているのではないかという妄想に駆り立てられることになった。
すでにイギリスの新聞や雑誌には、ホンダがイタリアでマクラーレンとの提携を発表して以来、マンセルのその種のコメントがわんさと出ていた。桜井淑敏はそれを知ってマンセルに腹を立てていた。そしてマンセルは自分がつぎに勝つまでその疑いを人にしゃべる気なのだろうと思った。まったくやっかいな話だった。
しかしマンセルが勝手にホンダが肩入れしすぎていると考えていたピケも、このレースでは精彩がなかった。彼はこのレースにピットからの指示を伝える無線のレシーバーがついていないヘルメットをかぶって出場した。どうして彼がそんな行動に出たのか誰も理解できなかったが、彼がウィリアムズからの指示をいっさいきかないつもりだということだけはたしかだった。彼は彼で、ウィリアムズはマンセルが勝つことだけを望んで、自分のことはないがしろにしていると思いこんでいたのである。彼は三位になるのがやっとだった。しかしレース後の彼は、マンセルがリタイヤして無得点に終ったので大喜びだった。
こうした中で優勝争いをしたのは、ベルガーとプロストの二人だった。そして誰もがベルガーが一九八六年のメキシコ以来の二勝目をあげるものと見ていた。ベルガーと彼のフェラーリの調子はじつにすばらしく、二周目にマンセルを抜いてトップに立つと、そのまま他を断然引き離してその位置をずっと守りつづけていたからである。
一方のプロストは一周目は五位で、途中六位に落ち、二位に上がったのが中盤すぎのやっと三十九周目というありさまだった。レースは七十周で、そのときベルガーとプロストの差は16秒あった。
しかしプロストは二位に上がり、前に自分を邪魔する車がいなくなるとじわじわとその差を詰めはじめた。五十周目に二人の差は12秒になり、六十周目には4秒になった。プロストにとってこんなレースをするのは、最後の最後でリタイヤしてピケに優勝をさらわれた第八戦のドイツ・グランプリ以来だった。しかも、このレースではこれまでいやというほど泣かされてきたホンダ・エンジン勢は、さんざんのできだった。いまや彼を悩ませる敵はいなかった。ベルガーのようにまだたった一回勝っただけで、トップを守りつづけるということがどういうことかをよく知らないドライバーは、プロストのようなドライバーにとっては敵ではなかった。
プロストはベルガーとは反対に、F1の最多勝ドライバーだった。このシーズンのブラジルとベルギーの二つの勝利で通算二十七勝となり、一九六〇年代から七〇年代にかけて三度ワールド・チャンピオンになったジャッキー・スチュワートの通算最多勝記録に並んでいたのである。彼はトップを走るというのがどんなに苦しいものかをよく知っていた。
六十五周目には、二人の差は2・5秒になった。プロストはあきらめずにベルガーにプレッシャーをかけつづけた。ベルガーがプロストのプレッシャーに耐えきれなくなってコーナーでスピンしたのは、残りがあとわずか二周となった六十八周目だった。
ベルガーは二位に終ったレースのあとでいった。
「プロストとの差は2秒ちょっとしかなかったが、ぼくが優勝するには十分なマージンだった。なにしろあと二周しかなかったんだから。でも、プロストがあまり気になるんで、バックミラーを見すぎていたんだ」
ベルガーはちゃんと走っていれば勝てると分っていたのに、プロストの影に怯えたのである。こうしてポルトガル・グランプリは、プロストがF1史上最高の二十八勝目を記録したグランプリとして人々に記憶されることになったが、フェラーリの復調ぶりも忘れられないものとなった。
ホンダ・エンジン勢はモナコからつづいていた連勝記録を八でストップされたが、桜井淑敏はそれでがっかりしたりはしなかった。むしろ彼はフェラーリの台頭に興奮した。彼はレースのあとでいった。
「負けて口惜しくないといったら嘘になりますけど、でもぼくはフェラーリが強くなってくれてすごくうれしいんですよ。じつをいうと、勝ちつづけていたときは、ずっとこれでいいのかなと思っていたんです。でも、これでまたもう一度やってやるぞというファイトが湧いてきた。F1のよさというのは、こういうところなんですよ。F1以外では絶対にこういう気分は感じられませんからね。それにフェラーリが強くなると、レースが華やかになる」
しかし彼は、五週間後に、そのフェラーリに、よりによってまさか鈴鹿で勝たれようとは思いもよらなかった。
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ポルトガル・グランプリの結果、ウィリアムズ・ホンダのコンストラクターズ・ポイントは、ネルソン・ピケが三位になって4点を稼ぎ、合計110点になったが、マクラーレン・ポルシェがアラン・プロストが優勝して9点、ステファン・ヨハンソンが五位になって2点を稼いで合計62点になったので、コンストラクターズ・チャンピオンは決定しなかった。
しかし桜井淑敏は、チャンピオンシップについては、コンストラクターのほうもドライバーのほうもまったく心配していなかった。残りが四戦となったいまでは、その点差から判断して、両方ともいずれはホンダ・エンジン勢の手中に落ちることが確実だったからである。彼が心配していたのは、レースがじり貧になってしまうことだった。
彼は一年前のシーズン終盤のことを思い出した。一九八六年のウィリアムズ・ホンダは、二戦を残した第十四戦のポルトガル・グランプリでコンストラクターズ・チャンピオンを決定し、ドライバーズ・チャンピオンシップでも、その時点でマンセルが70点、ピケが60点で、プロストの59点を抑えていた。ところが最終的には残りの二戦でプロストに逆転されて、ドライバーズ・チャンピオンは獲得できなかったのである。三人の最終的な得点は、プロスト72点、マンセル70点、ピケ69点であった。
もちろん一九八七年のシーズンは、すでにピケが67点を稼ぎ、対するプロストは40点にすぎなかったので、逆転される心配はなかった。一年前のプロストのマクラーレン・ポルシェに対する雪辱は、もうほとんど完全に果たしたのである。しかし桜井淑敏としては、二つのタイトルを最終的に手中にしたとしても、残り四つのレースでホンダ・エンジンがじり貪になってしまうのはいやだったのである。そして彼は、このままでは一年前と同じようにきっとそうなってしまうような気がしていた。
「ポルトガルでは、コンピューターのトラブルをはじめとして、エンジンにこまかいトラブルが六つばかり出たんですよ」
と彼はいった。
そのことはレースの結果が何よりもよく示していた。ピケ、マンセル、セナといういつでも優勝争いが可能なドライバーを三人も擁していながら、プロストはともかくとして、フェラーリのゲルハルト・ベルガーにまでおくれをとってしまったのである。ホンダ・エンジン勢の三人が優勝争いにからまなかったのは、三人が三人ともリタイヤしてしまった第三戦のベルギー以来であった。
桜井淑敏は、第十三戦のスペイン・グランプリを前にして、シーズン第四弾目の新エンジンを投入すべきときがきたのではないかと思った。第五戦のデトロイトで投入した第三弾目のエンジンは、ポルトガルで敗れるまで七連勝をつづけた強力なエンジンだった。しかし彼は、最後の最後でプロストに逆転された一九八六年の苦い経験があったので、日本の開発部隊にさらに圧縮比を上げて燃費をよくした新エンジンを用意させておいたのである。こういう時のためだった。
しかしそのエンジンは、八月末に完成して九月にイギリスの現地部隊に送ったばかりだったので、まだロングラン・テストをやっていなかった。したがって、レースでの苛酷な走りに最後まで耐えられるかどうか、ぜんぜん確信がなかった。だが、壊れてもじり貧になることを知っていてそのままレースをつづけるよりはずっといいと思った。
それに、日本グランプリがスペインのつぎのつぎに迫っていた。日本グランプリではどうしても負けるわけにはいかなかった。第四弾目の新エンジンを日本グランプリで最高の状態に持っていくには、スペインで使ってみるのは熟成のためのよいチャンスだった。
「よし、使おう」
と桜井淑敏は決断した。
彼は二つのものの選択に迷ったときは、リスクがあっても必ず新しいほうを選ぶ主義だった。これまでもそうしていろいろな新技術や新素材を積極的に選択し、古いものを捨ててホンダ・エンジンを強力にしてきたのである。彼は、現地部隊の責任者である後藤治とチーフ・メカニックの小山英一に、中嶋悟以外の三人の車には新エンジンを積むように命じた。
新エンジンに交換した結果は上々だった。まず予選で、ネルソン・ピケがポルトガルでベルガーに奪われたポール・ポジションを奪い返したのである。ナイジェル・マンセルも二位になった。二人のタイムは1分22秒461、1分23秒081で、三位のベルガーは1分23秒164だった。
アイルトン・セナは1分24秒832で、ミケーレ・アルボレートについで五位だった。彼にとって、スペインのヘレス・サーキットは一九八六年にポール・ポジションからスタートしてそのまま優勝したところだったのでゲンのいいコースのはずだったが、ロータスのアクティヴ・カーが思ったように走ってくれなかったのである。1分24秒832は、一九八六年の彼の予選タイムより3秒も遅いタイムだった。
セナは、予選が終ると黙って肩をすくめた。ロータスのアクティヴ・カーは、イタリアのモンツァでシーズン最高の状態になったが、どういうわけかまた走ってみなければ分らないという状態に逆戻りしてしまったのである。どうしようもなかった。
しかし、この予選で最大の話題になったのは、何といってもマンセルがひきおこしたあきれたトラブルだった。九月二十六日の土曜日、二回目の予選中のことで、彼のピケに対する必要以上の|敵愾心《てきがいしん》がひきおこしたものだった。
マンセルは金曜日の予選で1分23秒081の最速タイムを出していたので、それはもう誰にも破られないと判断し、土曜日の予選ではレースに備えてフルタンク・セッティングをしていた。それまでのピケのベスト・タイムは土曜日の最初のタイム・アタックで出した1分23秒416だった。ところが予選終了十分前というときになって、ピケが三度目のアタックで1分22秒461を出したと知ると、あわててフルタンク・セッティングをやめてピットに戻ってきた。
そのときだった。マンセルは急いでピットに戻り、ガソリンを抜いて早くタイム・アタックをしたかったのに、ピットロードの入口にある車検場でオフィシャルにストップさせられてしまったのである。オフィシャルとしては、予選中にすべての車が車輛規則に違反していないかどうかを検査する義務があったので、ちょうどやってきたマンセルの車に対してその義務を果たそうと考えただけのことだったが、マンセルはもう残り時間がすくなかったのでカッとした。そこで彼は車検場で怒って車から降りると、車をそこに放り出したままピットに走って帰ってしまったのである。
これにはみんなが眉をしかめた。グランプリ・ドライバーとしては、まったく大人げない行動だったからである。もちろん、もっとも眉をしかめたのはオフィシャルだった。予選が終ると、彼はオフィシャルの指示を無視した罰として三千ドルの罰金を科せられ、土曜日の予選タイムをすべて無効とされた。そのうえ彼は、その後スペア・カーに乗ってタイム・アタックを試みたが、結局ピケのタイムを上回れなかった。彼にとっては二重の屈辱であった。
中嶋悟は1分28秒367で十八位だった。デトロイトでの予選の二十四位につぐ低迷ぶりで、彼より上位にノーマル・エンジンのドライバーが三人もいた。ほかに彼が低迷ぶりを示したのは、ともに予選十七位だったモナコとハンガリーだった。すべてカーブばかりの複雑に曲りくねったコースだった。そしてスペインのヘレス・サーキットもそうだったのである。
彼は予選が終るといった。
「ここは4・2キロの短いコースなのに、カーブが十六もあるんだ。六速はおろか、五速を使えるところも二カ所か三カ所ぐらいしかないんだよ。ノーマル・エンジンの連中におくれをとるのは口惜しいけど、どうしようもないんだ」
彼の記録した最高速度は、それだけなら一位のセナの291・105キロに対して285・563キロで、二十六台中四位だった。結局、ヘレスでもコーナリング技術のつたなさがそのまま十八位の予選順位となってあらわれてしまったのである。
中嶋悟は、F1ドライバーになって最初にぶつかったコーナリング技術の壁が、シーズン終盤の十三戦目になってもちっとも克服できていないことにがっかりした。とくにヨーロッパでの最後のレースとなるヘレスには、イギリスから妻と一人息子を呼んでいたので、もうちょっといいところを見せてやりたいと考えていたのである。
「わるいところへ呼んじゃったなあ」
と彼は思った。
しかし、あけみ夫人のほうでは、夫がF1ドライバーとして走るところをサーキットで見るのは初めてだったので、ハラハラのしどおしで、彼が予選十八位にしかなれなかったことにがっかりするような気持の余裕はまったくなかった。
「テレビではいつも彼のレースを見てますけど、スタート前になると胸がドキドキしてきて、必ず息子をぎゅっと抱きしめてしまうんです。でもじっさいにサーキットにきてみると、それでもまだテレビで見ていたほうが気がらくだということがわかりました」
と彼女は土曜日の予選のあとでいった。
もちろん息子の一貴はまだ三歳で、父親の仕事がどんな危険をともなうものかを本当には理解していなかったので、ホンダやロータスのモーターホームでみんなにかわいがられてはしゃぎまわっていた。
九月二十七日の日曜日、スペイン・グランプリの決勝レースで優勝したのはマンセルだった。
レースがスタートするまでは、優勝のチャンスが一番大きいのはピケだろうと思われていた。ピケはポール・ポジションを奪い、ウィリアムズのアクティヴ・カーの調子も非常によかった。一方のマンセルは土曜日にオフィシャルの指示を無視して三千ドルの罰金を科せられてくさっており、車も彼のアクティヴ・カーは調子がいまひとつで、ノーマル・カーに乗り換えていた。ところがレースでは、一周目から七十二周目まで誰にも一度もトップの座を譲ることなくマンセルの独走優勝となったのである。
マンセルを助けたのは、マンセルとはけっして仲が良くないセナだった。
スペイン・グランプリでのセナの車の調子は最悪だった。それでも予選では何とか五位につけたが、レースデーの朝のウォームアップ走行ではフルタンクで1分31秒170のタイムを出すのがやっとで、1分30秒779の中嶋悟より遅かった。中嶋悟は十一番目で、セナはじつに十四番目であった。
ところが彼はスタートでシグナルが青にかわるとすばらしいダッシュを見せ、フェラーリのアルボレートとベルガーを一挙に抜き去って三位につけてしまった。そして、うしろにアルボレートとベルガー、ベネトン・フォードのティエリ・ブーツェンとテオ・ファビ、マクラーレン・ポルシェのプロストの五人をしたがえて、六十二周目までそのまま走りつづけたのである。五人ともあきらかにセナより速い車に乗りながら、誰一人として彼を抜けなかったのだった。
「アイルトンはじつに正確にドライブしていた。ブロックも激しかったけど、無茶なものではなかった。もし彼が前にいなければ、マンセルのペースについていけたと思う。マシンの状態は完璧だったんだ」
とレースのあとでアルボレートはいった。
相手より遅い車に乗って相手に抜かせないという点では、セナの技術は最高だった。このレースを報じたある雑誌などは、セナが五人のドライバーを長々としたがえて走る写真に“セナのレーシング・スクール”というキャプションをつけたほどだった。
このセナをレースが残り九周となった六十三周目にやっと抜いたのはピケだった。
このレースでピケはあらゆるミスをおかした。まず彼は四十五周目にタイヤ交換のためにピットにはいったとき、ジャッキで車を持ち上げられてからブレーキを踏むのを忘れた。そのためにホイールが回りつづけ、タイヤ交換が遅れて十九秒もかかってしまった。それで彼はコースに復帰したとき、マンセルにつぐ二位の座をキープできなくなった。セナとプロストに先を越されて四位に落ちてしまったのである。さらに彼は四十八周目のコーナーで前を行くプロストにしかけてスピンし、アルボレートとブーツェンにも抜かれて六位に後退した。
ピケが前を行く車を一台ずつ抜き返し、二位のセナのうしろにやっとくっついたのは六十周目だった。そして六十三周目に、それまではベルガーもアルボレートもプロストもついに抜けなかったセナを抜いて再び二位に上がったのである。セナはピケに抜かれた瞬間、それまで張りつめていた緊張の糸が切れ、一挙にブーツェンとプロストとアルボレートにも抜かれて、あっというまに六位に落ちてしまった。
ピケが二位に再浮上したとき、トップを行くマンセルとの差は32秒だった。マンセルのラップ・タイムはけっして速くはなかったが、セナがすべてのライバルをそれまで抑えていてくれたので、ただ普通に走っているだけでそれだけの差がついてしまったのである。
残りは九周だった。しかしピケはそこからマンセルを追いかけはじめた。32秒差を九周で逆転するのは誰にも不可能に思えたが、ピケは本気だった。それからは二人の差は一周につき4秒ずつ縮まっていった。ものすごい追い上げだった。
桜井淑敏はレースのあとでピケのこのときの断固たる決意に対して、つぎのようにいった。
「ぼくはスペインまでのピケの走りには、彼がどんなにポイントを獲得しても、もの足りなさを感じていた。いつも二位狙いの走り方で、マンセルと本当のバトルはあまりしてこなかった。でもこんどのあの追い上げを見て、納得した。彼にはチャンピオンになる資格があるよ」
しかしピケの追い上げは成功しなかった。六十八周目に、その前の周にエンジン・トラブルでリタイヤしたアルボレートがまきちらしたオイルに乗り、スピンして草地に突っこんでしまったのである。彼の車のラジエターにはそのとき|薙《な》ぎ払った草がつまり、オーバーヒートの危険があったので再びピットにはいらなければならなかった。彼はこれでプロストとヨハンソンに抜かれ、四位に終った。
ピケはレースのあとでいった。
「きょうはどうかしていた。一年間におかす全部のミスを、たった一日でやってしまった」
しかしセナも何とか五位にはいり、ホンダの新エンジンを積んだ三台の車は全部完走した。新エンジンはぶっつけ本番の投入だったにもかかわらず、一台も壊れなかったのである。
そしてウィリアムズ・ホンダのコンストラクターズ・チャンピオンも決定した。マンセルとピケが12点を稼いで合計122点となり、マクラーレン・ポルシェはプロストとヨハンソンが10点を稼いだが、72点にしかならなかった。これで差は50点となり、残りの三戦でウィリアムズ・ホンダが無得点に終り、マクラーレン・ポルシェが全部1・2勝利で15点ずつ得点しても逆転できないことになったのである。
ドライバーズ・チャンピオンシップでは、ピケの70点に対してマンセルが52点となって二位に浮上した。マンセルにはまだチャンスがあった。マンセルはシーズン五度目の優勝に大喜びだった。それを見て桜井淑敏は思った。
「これでエンジンに差をつけていないことがよく分ったろう」
中嶋悟は九位だった。
彼は十八位からスタートして、一周目に十五位で戻ってきた。彼はそれから最後まで、ローラ・フォードのフィリップ・アリヨー、ティレル・フォードのフィリップ・ストレイフといったノーマル・エンジンのドライバーと一緒に走った。そしてすこしずつ順位を上げていったが、彼らを抜くことはできなかった。中嶋悟はストレートでは彼らより速かったが、コーナーで遅かったので、ストレートで差をつめても、コーナーがくるとまた彼らに引き離された。ずっとそのくり返しだったのである。アリヨーは六位に入賞し、ストレイフは七位だった。
パワーのまさる車に乗りながら、ノーマル・エンジンの車をどうしても抜けない中嶋悟を見て、みんなイライラした。しかし中嶋悟は、どうしようもないように見えたこのレースで、ひとつの手応えをつかんだ。
彼はいっている。
「シーズン一年目の目標のひとつは、同じ車で走るセナとの差を、レース中のベスト・ラップで1秒程度にすることだった。順位は状況次第でどうにでも変わるけど、ラップ・タイムにはそのまま実力が出る。そのラップ・タイムの差がスペインでとうとう1秒になったんだよ」
二人のベスト・ラップは、セナが1分30秒008で、中嶋悟が1分31秒228だった。差は1秒220だった。コースの複雑さに完膚なきまでに叩きのめされた第四戦のモナコなどでは、セナとのその差は5秒もあったのである。それから考えれば長足の進歩といわなければならなかった。
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中嶋悟はスペイン・グランプリが終ると、一九八八年用のエンジンをテストするためにオーストリアのエステルライヒリンク・サーキットに行った。
一九八八年はターボ・チャージャー・エンジンに対する規制がさらにきびしくなり、過給圧が4バールから2・5バールに、ガソリンが195リッターから150リッターに制限されることになっていた。そのために3500ccのノーマル・エンジンとの差があまりなくなって、レースは非常に混戦になると見られていたが、ホンダはそれでもまだターボ・エンジンのほうが有利であると判断して、一九八八年もターボ・エンジンを投入することにしていた。その2・5バールのターボ・エンジンをテストしたのである。
中嶋悟はそこで意外なテスト結果に驚くことになった。
2・5バールのエンジンは650馬力程度だったので、4バールで1000馬力のF1エンジンよりも、450馬力程度のF3000のエンジンに近かった。そのために非常にコントロールしやすく、乗っていてとても気持がよかった。コーナーでももたつかなかった。
しかし彼が本当に驚いたのは、ロングラン・テストが終って車から降り、その平均ラップ・タイムをきかされたときだった。彼は八月十六日のオーストリア・グランプリを同じサーキットで走り、四十九周を1時間20分9秒で走っていたが、タイヤ・バーストで失ったタイムを差し引いたそのときの平均ラップ・タイムは1分35秒であった。信じ難いことだったが、テストは2・5バールのエンジンで走ったのに、それより1秒も速かったのである。
「どうなってるんだ」
と彼は思った。
結局、コーナリング・スピードの差だった。4バールではパワーが余りすぎてどうしてもコーナーでもたついてしまうが、2・5バールだともたつかなかった。その結果、ストレートでは遅くても全体では速くなったのである。
彼は4バールよりずっとパワーの劣る2・5バールで走ったほうが速かったことにショックを受けた。しかし反対に、来年はずっとこのエンジンで走るのだと思うと勇気が湧いた。エステルライヒリンクは、長いストレートがたくさんある高速コースだった。そこでラップ・タイムが1秒速かったのである。モナコやデトロイトやハンガリーといったカーブばかりのコースを走ったら、もっと速くなるだろうと思った。
それから彼は家族とともに一度日本に帰り、十月十二日にメキシコヘ行った。第十四戦のメキシコ・グランプリの予選は十六日の金曜日からだったが、ロドリゲス・サーキットは海抜2500メートルのメキシコシティにあったので、すこしでもはやく行ってその気候に慣れておこうと思ったのである。メキシコシティの気圧は、平地より二〇パーセントも低かった。
当然のことながら、この気圧差はエンジンにも大きな負担となった。
「メキシコシティの気圧だと、ポップ・オフ・バルブが4バールではなく、3・78バールで開いてしまう。それを埋めようとすると、エンジンの回転を上げたり、タービンの回転を上げたりしなければならないから、ピストンやターボ・チャージャーに必要以上の負担がかかる。結局、どうやってもエンジンが壊れやすい方向に向うわけです。われわれは解決しましたけどね」
と桜井淑敏はいった。
彼らのエンジンは一年前にもロドリゲス・サーキットで走ったが、そのときも何の心配もなかった。しかしレースでは勝てなかった。ロドリゲス・サーキットは気圧も低かったが、コースが非常にバンピーでタイヤにもひどい負担がかかるコースだったのである。ホンダ・エンジンのパワーは他のどのエンジンよりも強力だったので、タイヤの摩耗がなおさらひどかった。そのためにマンセルは二回、ピケは三回もタイヤ交換をしなければならなくなって、優勝はタイヤ交換を一度もしなかったゲルハルト・ベルガーにさらわれたのである。ベルガーはそのときベネトンのドライバーで、ベルガーにとってもベネトンにとってもそれが初優勝だった。
そのメキシコでポール・ポジションを取ったのは、マンセルだった。彼にとってはシーズン十四戦で八度目のポール・ポジションで、あとの六戦もすべて二位だった。これで一九八六年の最終戦のオーストラリアでポール・ポジションを取ったのを含めると、十五戦連続でフロントローからのスタートということになった。これはF1史上最長の連続記録だった。彼はスペインで優勝し、自分にはピケより劣ったエンジンしか与えられないと疑っていたのがそうではないと分ったので、ピケからチャンピオンのタイトルを奪いとろうと必死になっていた。
またウィリアムズは、メキシコには三台のノーマル・カーを持ってきただけで、ピケの好きなアクティヴ・カーは持ってきていなかった。メキシコからは、イギリスに戻らずに日本、オーストラリアを転戦するので大荷物になりすぎるというのがその理由だった。しかし、本当の理由はピケがアクティヴ・カーを使えないようにして、マンセルにチャンピオンを取らせるためだという者もいた。
そのピケは、マンセル、ベルガーについで三位だった。タイム差は、マンセルの1分18秒383に対して1分18秒463で、0・1秒もなかった。もっとも七位のセナまでが1分18秒台で、セナとマンセルの差もわずか0・6秒しかなかった。予選でたった0・6秒のあいだに七人もがひしめくというのは、はじめてのことだった。ターボ・チャージャーのポップ・オフ・バルブが3・78で開いてしまうので、エンジンのパワーの差が自動的になくなってしまったのである。
「問題は耐久性だ。レースでは、おそらく半分の車のエンジンが壊れるだろう」
と桜井淑敏はレースを控えていった。
中嶋悟は1分22秒214で十六位だった。彼はその順位にはちょっとがっかりした。ロドリゲス・サーキットは平均時速が190キロ前後で、どちらかといえばカーブのすくない速いコースだったからである。
しかし、セッションごとのタイムの伸び具合には満足した。金曜日の最初のフリー走行が1分26秒231で、一回目の予選が1分23秒750.そして土曜日のフリー走行が1分23秒660で、二回目の予選が1分22秒214.コースに慣れるにしたがって、タイムも順調に伸びていったのである。
シーズンの前半はなかなかこんなふうにはいかなかった。セッションごとにタイムがばらつき、土曜日の予選のほうが金曜日の予選より遅かったことすらあったのである。タイムがセッションごとに伸びるということは、コースの性格をすばやく読みとることに慣れてきたことを示す兆候にほかならなかった。シーズン終盤にきて、ようやく彼はF1ドライバーらしくなってきたのである。
また予選終了後になると、コンピューターの走行データを分析した結果、土曜日の予選ではエンジンが不調で走行中に完全に吹けきっていなかったことも分った。完全に吹けきっていたなら、あと0・5秒か1秒はタイムを縮められ、順位にして四つか五つは上に行っていたにちがいなかった。彼はそれを知って、ほっとした。
十月十八日のレース当日になると、桜井淑敏は日本のジャーナリストたちにいった。
「中嶋さんはいい調子だ。データの上では、四位になったイギリスのときよりもずっといい。入賞はまずまちがいないだろう」
彼がレース前にそんな宣言をしたのは、結果的にはリタイヤに終ったが、すばらしい仕上がりをみせたドイツ・グランプリ以来だった。
中嶋悟も予選順位はエンジンが不調だったためだと分り、レース当日にはそれが完全に直っていたので自信を持っていた。
「リズムをつかんだんだ」
と彼はいった。
じっさい彼はレースになるとすばらしいスタートで飛び出し、一周目に早くも十六位から十四位に上がった。そして二周目にはピット前の長いストレートでマクラーレン・ポルシェのステファン・ヨハンソンとザクスピードのマーティン・ブランドルを抜いて十二位に上がった。まさにゴボウ抜きだった。ところがつぎの瞬間、中嶋悟は自分があまりにも調子にのりすぎたことを後悔しなければならなくなった。目の前には十一位のアロウズ・メガトロンのデレック・ワーウィックがいて、彼が長いストレートの終りの第一コーナーの入口で、一瞬早くフルブレーキをかけたのである。中嶋悟はすぐうしろから猛スピードで突っこんで行ったので、ワーウィックを避けることができなかった。彼はワーウィックのアロウズの左後輪に右前輪を追突させ、タイヤがもぎとられた。ワーウィックは何とか再スタートしたが、中嶋悟はタイヤのない車では再スタートできなかった。この事故には、あとからきたヨハンソンと、ザクスピードのクリスチャン・ダナーもまきこまれ、彼らもリタイヤした。
こうして中嶋悟は、すばらしい調子だったメキシコ・グランプリをわずか一周余りで終えることになったのである。ちゃんと走っていれば入賞したかもしれないレースを失ったのは、ドイツ、オーストリアについでこれが三度目だった。
「どうしてあんなに焦って走ったのか自分でも分らない」
と中嶋悟はあとでいった。
おそらく、彼はあまりにも調子がよすぎたのである。
一方、上位陣でレースをリードしたのはベネトン・フォードのティエリ・ブーツェンだった。そして二番手にはフェラーリのゲルハルト・ベルガーがつけていた。この二人の調子はすばらしく、十周目には三番手のマンセルに15秒もの差をつけてしまった。
しかし十五周目にまずブーツェンが姿を消し、ベルガーも二十一周目に姿を消した。二台ともエンジンのトラブルだった。桜井淑敏が予想したとおり、彼らのエンジンは2500メートルの高地に耐えられなかったのである。
これでマンセルが何の苦労もなしにトップに立った。そしてセナが二位につけた。そのときピケはマンセルから50秒以上も遅れて、六位を走っていた。ピケはスタート直後の第一コーナーでプロストと接触し、スピンして最後尾の二十五位に落ちてしまったのである。それから二十周かけて六位まで上昇してきたのだった。プロストはそのときの衝撃でステアリングを曲げ、リタイヤに追いこまれていた。
ピケはそれから三周後の二十三周目には、マンセル、セナ、そしてブラバム・BMWのリカルド・パトレーゼについで四位に上がった。しかしマンセルとの差はまだ45秒以上もあった。周回数は全部で六十五周だった。ピケは必死でマンセルを追いかけた。彼がドライバーズ・チャンピオンを確実に自分のものにするためには、このメキシコを含めた残りの三レースですくなくとも一度は優勝しなければならなかったからである。
ドライバーズ・チャンピオンシップは、コンストラクターズ・チャンピオンシップとちがって、全十六戦のポイントではなく、十一戦のポイントで争われることになっていた。したがって、かりに全戦でポイントをあげたとしても、五戦分のポイントは低得点の順に切り捨てられ、それより高得点の十一戦の分だけで計算されるのである。
ピケは過去十三戦で二度しかリタイヤせず、他の十一戦ではすべてポイントをあげていたので、二位や三位になったのではもうあまり得点の上昇は見こめなかった。たとえ二位になったとしても、これからさきはその6点が加えられても、スペインでの四位の3点、つぎにはポルトガルでの三位の4点という具合に、それより低いポイントがつぎつぎに消えていってしまうからである。したがって、ピケの得点は70点だったが、これからさきは残り三戦で三度二位になっても、75点にしかならないのだった。
一方、マンセルはすでに五度リタイヤしていたので、これから獲得する得点はすべて有効ポイントであった。したがって52点のマンセルは、ピケがこのさき一度も優勝しなかった場合は、二度の優勝と一度の二位で24点を加えることになり、76点となってピケを逆転するのである。その可能性は大いにあった。このシーズンの車が完調のときのマンセルのスピードは尋常ではなかったからである。
ピケもそれを承知していたので、18点も引き離していても休んでなどいられなかったのである。こんどは一年前のときのようなタイヤの心配はなかった。グッドイヤー・タイヤが一年前の大混乱に懲りて固いコンパウンドのタイヤを大量に持ちこんでいたからである。ピケはそのなかでももっとも固いタイヤを選んでいた。
コントロール・タワーでとつぜん赤旗が振られてレースが中断したのは三十二周目だった。二周目に中嶋悟に追突されて最後尾を走っていたアロウズ・メガトロンのワーウィックが、こんどは自分でスピンしてクラッシュしたのである。しかしそれは二十六周目のことだった。ドライバーたち、なかでもトップを走っていたマンセルなどは、事故のあと六周もそのまま走らせておいて、しかも三十二周目にはほとんど事故処理は終っていたじゃないかと、ものすごい見幕でオフィシャルに抗議した。
しかし中断してしまったレースはもとに戻しようがなく、それまでの各車のタイム差はそのままで、再スタートをして残り三十三周が戦われることになった。ドライバーたちは渋々その案を認めた。そこでレースをやめてしまうわけにはいかず、ほかにどうしようもなかったからである。
再スタート後にトップに立ったのはピケだった。そしてマンセルが二位につけた。レースが中断したときの二人のタイム差は45秒だった。ピケはそのタイム差を残りの三十三周で何とか逆転しようと猛然とアクセルを踏んだ。
ピケは再スタートから三周後の三十三周目にパトレーゼのタイムを逆転して三位に上がり、三十八周目にはセナのタイムを抜いて二位に上がった。しかし観客には何が何だかまったく分らなかった。ピケがパトレーゼとセナを抜いたというのも分らなかったが、ピケが必死になって追いかけているのは、うしろを走っているマンセルなのである。そしてマンセルは、うしろにいながらピケから逃げているのだった。
再スタート後の三十三周が終ったとき、ピケは19秒しかマンセルをリードすることができなかった。そのために優勝は26秒差でマンセルのものになった。マンセルにとってはシーズン六度目の優勝で、ピケにとっては七度目の二位であった。
これでピケのポイントはこの6点が加えられたかわりにスペインでの四位の3点が消えて73点となり、マンセルは61点となった。こうしてドライバーズ・チャンピオンシップは、ますます分らないものになったのである。
桜井淑敏はレースのあとでいった。
「二人ともチャンピオンになる確率は五分五分だと思う。たぶん最終戦のオーストラリアまで決まらないだろう」
そして第十五戦はいよいよ日本グランプリであった。プロストやベルガーやブーツェンといったヨーロッパのドライバーたちが口をそろえてこう宣言したのは、彼らがまたしてもホンダ・エンジンに敗れ去ったロドリゲス・サーキットから去って行くときだった。
「日本では必ず勝つ。ホンダの国でホンダ・エンジンに勝てば、同じ一勝でも三勝分の価値がある。絶対に勝ってやる」
彼らはメキシコでの敗北で、十四戦のうち十一戦でホンダ・エンジンにおくれをとったのである。彼らのホンダ・エンジンに対するいらだちはなみなみならぬものであった。
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日本グランプリは一九七六年と七七年に富士スピードウェイでおこなわれたことがあったが、富士スピードウェイとJAF(日本自動車連盟)はその二年だけで開催権を返上してしまっていた。二度の開催の結果、巨額の赤字が出たり、コース管理の不手際から人身事故が発生したりして、続行が不可能になったのである。
しかしこんどの舞台は富士スピードウェイではなく、鈴鹿サーキットであった。鈴鹿サーキットは十年前に富士スピードウェイが失敗した例を見ていたので、自分たちは絶対にその|轍《てつ》を踏まないようにしようと決意していた。彼らは、F1グランプリを統括するFISA(世界自動車連盟スポーツ委員会)のコースに関する安全基準を満たすために、コースを改修したりピットを新しくしたりして、何十億もの金を使った。そのほか、F1チームや外国人ジャーナリストのためのホテルの確保や、駐車場設備、周辺の交通問題などに万全の気を配った。こうした鈴鹿サーキットの努力は、後にその年のもっともすぐれたサーキットに贈られるF1ベストオーガナイザー賞の受賞となって実ることになった。
それやこれやで鈴鹿サーキットの関係者たちはグランプリがはじまるころにはすでにくたくたになっており、何日もまったく寝ていないという者まで出てくるしまつだった。しかし、グランプリがはじまる十月の最終週になると、彼らの疲労をよそに、ピットにはさまざまなカラーで彩られた各F1チームのグランプリ・カーが勢ぞろいし、パドックには真っ白いナプキンとナイフとフォークの並んだテーブルが置かれたテントが林立して、サーキットは華やかになった。
中嶋悟はその鈴鹿サーキットに、十月二十八日の水曜日に岡崎市の自宅から自分で車を運転して行った。彼はここではパスポートもいらなければ、飛行場でレンタカーを借りる必要もなく、地図を片手にサーキットを探し歩く必要もなかった。事情を知っているということはすばらしいことだった。
そしてその夜はサーキットのプレスセンターで記者会見がおこなわれ、彼も他の十人のドライバーと一緒にそれに出席した。他のドライバーたちは初めて見た鈴鹿サーキットの印象をきかれ、アラン・プロストをはじめとするすべてのドライバーが、安全性によく気が配られていてすばらしいサーキットだといった。ナイジェル・マンセルなどはつぎのようにいって賞賛した。
「メキシコにくらべたら千倍もいいサーキットだ」
中嶋悟はべつのことをきかれた。
「日本へ帰ってきて、日本でF1を走る気分はどうか?」
中嶋悟はいいところを見せたかった。できれば三位以内にはいって表彰台にのぼり、おれはこんな連中と一緒にこんなふうにして世界中を転戦しているんだということを自分の国のファンに示したかった。しかし彼は、ジャーナリストをよろこばせるために大風呂敷を広げて見せるようなことは、あまり好きではなかった。彼は答えた。
「ぼくだって男の子ですからね。自分の国でやるグランプリでいいところを見せようと思わないわけはないじゃないですか」
控え目の彼としては最大級の決意表明であった。
そして二十九日の木曜日午後、まず練習走行がおこなわれた。通常はどこの国のグランプリでも金曜日から走行を開始するのがつねだったが、鈴鹿サーキットはグランプリ・ドライバーたちにとって初めてのコースだったので、安全のために練習走行日が一日もうけられたのである。規定の時間は九十分であった。
走行開始五分前になると、すべてのドライバーがレーシング・スーツに身をつつんで車に乗り込み、F1のエンジン音がサーキットの空気をふるわせた。桜井淑敏は、いままさに鈴鹿のピットから飛び出して行かんとするドライバーたちのその様子を、ウィリアムズ・ホンダのピットから眺めていた。彼は何というすばらしい光景だろうと思い、胸がドキドキした。各チームのグランプリ・カーとドライバーのヘルメットが、日の光にキラキラと輝いていた。
彼はそのときの気持をあとでつぎのようにいった。
「ああ、こうやってみんな本当に日本にきてくれたんだなあと思ったら、何だか急にうれしくなって、それまではよそのチームのことは敵としか思わなかったのに、おれたちはみんなF1をやっている仲間なんだという気がしてきた。すごくハッピーな気分でしたね」
まったく思いもよらぬ感情だった。しかし彼は自分がその感情にとらえられたとき、ヨーロッパのF1社会を深いところで結びつけているのはこの感情の絆だったのかと、はじめて具体的に理解した。ホンダには、これまで彼らに対してその感情があまりなかった。しかしこれからはきっといい仲間になれるだろうと思った。
やがて練習走行がはじまった。ドライバーたちは、最初のうちは一周が5・859キロのコースを2分程度のラップ・タイムでゆっくりと走った。しかし十周もすると全員が1分50秒台に突入し、最後の十分ぐらいになると、速いドライバーは1分43秒から45秒台のタイムで走った。平均時速にして約200キロであった。
これにはすべての人が驚いた。中嶋悟がホンダ・エンジンのテストをしていたときにウィリアムズ・ホンダの車で出したベスト・ラップは1分45秒1であった。彼は鈴鹿を十年以上も走っているドライバーだったが、トップクラスのドライバーたちは初めて鈴鹿にやってきて、たった九十分走っただけであっさりそのタイムを上回ってしまったのである。一瞬にしてコースの性格を読みとってしまう彼らの能力は、まったくものすごいものであった。
中嶋悟は、それを見て苦笑しながらこういわなければならなかった。
「おれは初めてのサーキットではコースの性格を覚えるのに苦労のしどおしだったけど、トップクラスの連中というのは、どうも何から何までぜんぜんちがうみたいだね」
中嶋悟の練習走行でのベスト・ラップは、1分46秒7で二十七人のドライバー中七位であった。
三十日の金曜日午後に一回目の予選がはじまると、彼らのタイムはさらに上昇した。まず開始八分後にナイジェル・マンセルが1分42秒616というすばらしいタイムを出した。彼はそのタイムを出すと、ピットに車を止めてモニター・テレビで他のドライバーのタイムを見ていたが、それから十分ほどするとネルソン・ピケが1分41秒423を出して彼のタイムを一挙に1秒以上も上回った。マンセルは、ほかのドライバーならともかく、いまやチームメイトでありながら最大の敵となったピケが自分より速いタイムを出したのが我慢できなかった。いつものパターンだった。
マンセルはすごい勢いでピットから飛び出して行き、再び猛烈なタイム・アタックをかけた。彼が超えてはならぬスピードの限界を超えてしまったのは、それから二周目のことであった。鈴鹿でもっとも困難なコーナーのひとつとして知られるS字コーナーで、オーバースピードでスピンしてしまったのである。彼の車は時速200キロでガードレールのスポンジバリアに激突し、垂直に舞い上がって地上に落ちた。
この瞬間、マンセルのチャンピオンヘの望みが消え、ピケの三度目のワールド・チャンピオンが決定した。マンセルはこのクラッシュで肋骨と背骨を強打し、翌土曜日には車椅子で母国のイギリスに帰らなければならなくなってしまったのである。まことに|呆気《あつけ》ないチャンピオン争いの幕切れといわなければならなかった。
誰もがマンセルはどうかしているといった。しかしそれがマンセルのやり方だった。マンセルはシーズンを通して同僚のピケに異常なライバル意識を燃やし、レースばかりでなく、どのセッションでもピケより速く走ろうとして、最後の最後に敗れたのである。
ピケはマンセルの欠場がはっきりし、自分のチャンピオンが決定するとつぎのようなコメントを発表した。
「チャンピオンになれたことはうれしい。しかし、鈴鹿はぼくとナイジェルの戦いになると思っていたのに、彼が宙に飛んだ瞬間にチャンピオンが決まるなんて、あまりいい気持ではない。チャンピオンはレースに勝って決めたかった」
しかしチャンピオンは決定したのである。ピケとマンセルの秘術をつくしての戦いを期待していたファンはがっかりしたが、どうしようもなかった。
金曜日の予選はこのあとは何も起こらなかった。結局、ほかのドライバーは誰もピケのタイムを上回れなかったのである。二位になったのはフェラーリのゲルハルト・ベルガーだったが、そのタイムは1分42秒160でまだ0・6秒もの差があった。ホンダ・エンジンは安泰であった。
中嶋悟は1分45秒898で、練習走行での七位から一挙に十三位に落ちてしまった。一年前にテスト走行で出したタイムよりも遅いタイムだった。彼は自分の国のファンの前でいいところを見せられなくてイライラしていた。
アイルトン・セナは、1分44秒026で九位にとどまった。予選がはじまって三十分もしないうちにヘアピンの立ち上がりでドライブ・シャフトを折り、そのまま予選を中断せざるを得ない破目に陥ってしまったのである。セナもイライラしていた。
桜井淑敏は予選のあとでセナにきいた。
「走ってみた感じはどうだ。勝てると思うか?」
セナは眉のあいだに皺をよせて首を横に振った。
「たぶんそのチャンスはないと思う」
「どうしてだ。鈴鹿はピットロードがすごく長いからタイヤ交換にすごく時間がかかる。タイヤ交換をしないで走ればチャンスが生れるんじゃないか?」
「いや、カー・バランスがすごく悪いんだ。とくにコーナーの脱出でフルパワーをかけたときのローリングがひどくて、回復に時間がかかるんだ。だからタイヤにとても負担がかかる。おまけに鈴鹿の路面はグリップがよすぎるから、タイヤ交換をしないで最後まで走りきることはできないと思うんだ。ノー・グッド・チャンスだね」
桜井淑敏は鈴鹿ではどうしても勝ちたいと思っていたので、セナの答にがっかりした。こうなるとマンセルの欠場が非常に痛かった。マンセルは荒っぽいドライビングでリタイヤも多かったが、完走したときの優勝の確率も高かった。
「鈴鹿で勝てないなんてことになったら、まいるな」
と彼は思った。
日曜日のレースデーには本田宗一郎もサーキットにくることになっていた。一九六二年に日本で初の本格的レーシング・コースとして鈴鹿サーキットを建設したのはほかならぬ本田宗一郎で、その鈴鹿サーキットでホンダのF1エンジンが勝つところを見るというのは、彼の残された夢のひとつだった。
だが彼らホンダ・エンジン勢には、まだピケが残っていた。ピケの調子は悪くなかった。すくなくとも一日目の予選では最速タイムを記録したのである。桜井淑敏はピケに期待した。きっとだいじょうぶだろうと思った。
しかし三十一日の土曜日、二回目の予選になると事態は一変した。メキシコ・グランプリのあとで、鈴鹿では絶対にホンダ・エンジンをやっつけてやると宣言していたドライバーたちが、そろってその言葉を実行に移したのだった。彼らの走りは、一回目の予選とは見ちがえるように速くなった。
ピケはこの日、前日のタイムを0・279秒縮めて、1分41秒144という好タイムを出した。しかし、まずそれをベネトン・フォードのティエリ・ブーツェンが1分40秒850を出して破った。つづいてフェラーリのミケーレ・アルボレートも1分40秒984を出した。そしてアラン・プロストが1分40秒652。ゲルハルト・ベルガーにいたっては、1分40秒042というすさまじさで、ピケのタイムを1秒以上も上回るタイムだった。このときのベルガーの最高速は時速323キロに達した。
ピケは五位であった。もう一人のホンダ・エンジン勢のセナは1分42秒723で七位、そして中嶋悟は1分43秒685で十一位だった。ホンダ・エンジンはやっつけられたのである。予選に関しては、これまでの十四戦で第十二戦のポルトガルでやはりベルガーにポール・ポジションを奪われた以外は必ずマンセルかピケかセナの誰かが第一位を占めてきたことを思えば、まったくの惨敗であった。
予選が終るとフェラーリのピットはまるで優勝でもしたような騒ぎになり、そのなかでベルガーは満面に笑みを浮かべていった。
「メキシコでいったとおりになっただろう。ホンダの国でホンダ・エンジンをやっつけてやったぞ」
ホンダ・エンジン勢の中で一人だけうれしそうな顔をしていたのは中嶋悟であった。
彼は一回目の予選であまりいいタイムが出なかったので、この日は何としてもテスト走行で出していた1分45秒1のタイムぐらいは破っていいところを見せなければと思っていた。そこで彼はどうしたら速く走れるかをいろいろ考えているうちに、あるときふとオーストリアのエステルライヒリンクで2・5バール・エンジンのテストをしたときのことを思い出した。信じられないことに、最大過給圧が4バールのエンジンで走ったオーストリア・グランプリのレース・タイムより、そのときのほうが一周につき1秒も速かったのである。彼は4バールのパワーで走ることは自分にとっては必ずしもベストではないのだと思い、さっそくためしてみることにした。
「フルブーストの4バールで走ると、アクセルを踏んでもブレーキをかけても、車のバランスが崩れる。とくにコーナーでのローリングがひどくなる。だからブーストを3・8に落として、ストレートでだけオーバーテークを使うようにしてみたんだ」
と彼はいった。
彼はそれでうまくいけば、1分44秒台のタイムは出るかもしれないと思っていた。しかし結果は予想以上で1分43秒台に突入し、一日目の予選タイムを一気に2秒以上も縮めてしまったのである。セナとの予選でのタイム差もそれで初めて1秒を切り、0・962秒になった。それに十一位という予選順位も、これまではブラジルとイギリスのときの十二位が最高だったので、何ともいえない気分だった。
「きょうはやったぞ」
と予選が終ると彼はいった。そして、これで日本のファンもすこしは満足してくれただろうと思った。
一方、予選で惨敗したホンダのエンジニアたちは、自分の国のグランプリでポール・ポジションを取れなかったことは口惜しかったが、予選は予選にすぎないと思い、レースでの勝利をあきらめたりはしなかった。桜井淑敏はつめかけたジャーナリストたちにいった。
「レースになったら、たぶんピケとプロストの争いになると思う。前半はベルガーとブーツェンあたりが突っ走るかもしれないが、フェラーリとベネトンのエンジンは燃費もよくないし、耐久信頼性もあまりない。これまでのレースでそのことはあきらかだ。セナは車のバランスがあまりよくないから勝つのは無理かもしれないけど、ピケには十分チャンスがある」
これはけっしてホンダ陣営としての強がりの発言ではなかった。ベルガーとブーツェンは、メキシコでもレースの序盤は一、二位を突っ走ったが、途中でエンジンが壊れて最後までは走れなかった。予選四位になったアルボレートもフェラーリだった。ホンダ陣営にとって怖かったのは、本当にプロストのマクラーレン・ポルシェだけだったのである。
ただひとつの問題は、ピケがレースの前にワールド・チャンピオンを決めてしまったことだった。彼は緊張を失い、集中力を欠いてしまっているかもしれなかった。ベルガーは早くもそれを見こし、予選のあとでこういっていた。
「ネルソンは、レースになってもきっといつものようには走らないだろう」
桜井淑敏もそれがちょっと心配だったのである。マンセルがいなくなったいまでは、彼らホンダ陣営の希望はピケ一人だった。桜井淑敏は予選のあとの騒がしさが一段落すると、ピケをパドックのホンダのオフィスに呼び、念を押した。
「あしたのレースがわれわれにとってどんなレースか分ってるな」
「分ってる」
とピケはいった。
「特別のレースなんだ。そのつもりで走ってくれ」
「分った」
ピケはうなずいた。
いまやピケを信じるしかなかった。
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十一月一日のレースデーになると、鈴鹿サーキットには十一万二千人の観客が集まった。メインゲート前に陣取った最初の数千人の観客が開門と同時にサーキットになだれこんだのは、まだ夜も明けきらぬ午前六時であった。彼らは第一コーナーやS字コーナーの丘の上で観戦しようと決めた本当にレースが好きなファンで、いい場所を確保しようと徹夜でゲートの前に並んでいたのである。鈴鹿サーキットの社員たちは、彼らの熱狂をしずめ、混乱を起こさないために、朝の五時からハンドマイクで彼らにつぎのように呼びかけなければならなかった。
「F1は自動車レースの最高峰です。みなさんもそれにふさわしいマナーを守ってください」
彼らの目当ては、当然のことながら、過去十四戦で十一勝もしてきたホンダ・エンジンの凱旋ぶりと、日本人の代表の中嶋悟がどんなレースを見せてくれるかということだった。そして、なかにはフェラーリの赤い旗を持ったフェラーリ・ファンもいたが、ほとんど全員が過去十四戦で何度もくり返されたのと同じシーンを自分たちの国で見ることを望んでいた。
ウォームアップ走行がはじまる午前十時ちかくになると、本田宗一郎もサーキットに姿を見せた。彼は、自分がサーキットに行くとホンダが勝てないからといって、最初はサーキットに足を踏み入れることを拒んでいた。彼はこれまで一九六五年のアメリカ・グランプリと一九八六年のオーストラリア・グランプリを見ただけだったが、二度とも負けていたのでそのことをひどく気にしていたのである。しかし結局は家でイライラしているよりはいいと思って、サーキットにやってくることにしたのだった。ほかにも、本田技研の二代目の社長をつとめた河島喜好や三代目の社長の久米是志、それに本田技術研究所社長の川本信彦などが姿を見せた。
そして午前十時、コースがオープンされて三十分間のウォームアップ走行がはじまった。このセッションは、あとのレース展開を予測する上で非常に大事なセッションだった。フルタンクでの最終的なレース・テストだったので、かけひきもごまかしもきかず、たいていの場合、ここでの好不調がそのままレースにあらわれるのである。
ここで1分46秒113の最速タイムを出したのはプロストだった。アルボレートが1分46秒201でそれにつづき、ピケはベルガーとまったく同タイムの1分46秒590で三位だった。それにヨハンソン、セナ、ブーツェンがつづき、中嶋悟が1分48秒607でそのあとの八位につけた。
「やっぱりプロストがきたか」
とその結果を見て桜井淑敏は思った。
プロストの車の仕上がり具合はピットから見ていても最高の状態で、ぜんぜんスキがなかった。桜井淑敏は、土曜日の夜にサーキット内の中華レストランでマクラーレンのマネジャーのロン・デニスと食事をしたときのことを思いだした。ロン・デニスはそのときから自信あり気だった。
「あしたはピケが勝つと思うんだが」
桜井淑敏がその顔色をうかがいながら話しかけると、ロン・デニスはいった。
「すまないね。あしたのレースは残念ながらプロストとベルガーの争いだよ。ピケはずっとうしろだ」
「でも、あしたは十万人もの観客がホンダ・エンジンが勝つところを楽しみに見にくるんだよ。分ってるだろう?」
するとロン・デニスは肩をすくめ、どうしようもないというふうにいった。
「すまないね」
そしてにっこりと笑ったのである。
ホンダにとっては非常につらいレースになりそうだった。
中嶋悟は意気揚々としていた。ウォームアップ走行での八位というのはイギリス・グランプリで四位に入賞したときと同じ順位で、彼としてはすごくいい感じだったからである。
ウォームアップ走行が終ってパドックにつくられたロータスのオフィスに戻ると、一年前までF2を一緒に走っていた星野一義や松本恵二がやってきてあれこれ話しかけた。二十代の若いころからレース監督をしてもらっていたヒーローズ・レーシングの田中弘もやってきた。みんななつかしい仲間だった。中嶋悟は、彼らの訪問で、おれはまちがいなく自分の国に帰ってきて自分の国でF1レースをやっているんだと思わせられ、とてもうれしかった。
彼はウォームアップ走行の順位から考えて、最後までリタイヤせずに走りきれば絶対に入賞できると思った。そしてなつかしい仲間たちと日本中のファンに、おれはF1ドライバーになっても元気にやっているというところを見せたかった。ここで見せられなければどこで見せられるだろうと思った。あとの願いは車が壊れないことだけだった。
やがて時間がくると彼はロータスのオフィスで一人になり、酸素パックの口をあけて酸素を吸った。酸素は血のめぐりをよくして頭をすっきりさせるときいていたからである。彼は酸素パックを持ち歩き、どこのサーキットでもスタート前にはそうしていた。
レースは午後二時にスタートした。周回数は五十一周、距離にして298・809キロであった。
トップをとったのはポール・ポジションからスタートしたベルガーで、プロスト、ブーツェン、セナ、ピケの順でそれにつづいた。予選四位のアルボレートはスタートの瞬間にエンジンをストップさせ、オフィシャルの押しがけでスタートしたが最後尾に落ちてしまっていた。ベルガーは最初の一周で二位のプロストに2秒もの差をつけて戻ってきた。
プロストが第一コーナーの手前でとつぜんスローダウンをしたのは、その直後だった。左後輪がバーストしたのである。コースのどこかで何かの破片を踏んづけたらしかった。プロストはそのままスロー走行でコースを一周し、ピットに戻ってタイヤを交換して再スタートしたが、それで一周遅れになってしまった。わずか一周走っただけで彼はあっさり優勝圏外に落ちてしまったのである。まったくレースでは何が起こるか分らなかった。
これでベルガーは二周目にして早くも独走態勢にはいった。プロストにかわって二位に上がったブーツェンに、二周で7秒もの大差をつけてしまったのである。すばらしいスピードだった。
しかし桜井淑敏以下のホンダ陣営は、まだベルガーのフェラーリが勝つとは思わなかった。ベルガーはポルトガルでは最後までプロストと優勝争いを演じたが、あとはハンガリーでもオーストリアでもメキシコでも、いい位置につけていながら途中で潰れていた。こんどもきっとエンジンにトラブルが起きるか燃費がもたなくなって、どこかで脱落すると見込んでいた。彼らのただ一人の敵はプロストで、そのプロストはすでに彼らをおびやかす存在ではなくなっていた。
しかし、心配なことがひとつあった。それは彼らの頼みの綱のピケがスタートでセナにかわされ、セナのうしろについてしまったことだった。二人はプロストが前にいなくなったいま、ベルガーとブーツェンについで三位と四位を走っていたが、セナのロータス・ホンダにはベルガーのフェラーリと戦う力はなかった。ピケのウィリアムズ・ホンダにはそれがあった。しかしピケがセナのうしろを走っていたのでは、ベルガーを追撃しようにもどうにもならなかった。
ピケのウィリアムズ・ホンダは、コーナリング・スピードを重視してウィングをいっぱいに立てていたので、コーナーではセナを追いつめた。ところがストレートになると、こんどはそのいっぱいに立てたウィングが風の抵抗でブレーキの役目を果たしてしまい、またセナに離されてしまった。ピケがセナの前に出るにはコーナーでかわす以外になかったが、コーナーでセナをかわすのはどんなドライバーにとっても至難の業だった。
十七周目に二人はそろって二位と三位に上がった。二位を走っていたブーツェンのベネトン・フォードにクラッチ・トラブルが生じてスピードがぐっと落ちてしまったのである。しかしピケは依然としてセナをかわすことができず、その前に出ることはできなかった。
ブーツェンが後方に下がり、セナが二位に上がってきたと知ると、ベルガーはやみくもに逃げるのをやめてセナのスピードに合わせて走りはじめた。セナのロータス・ホンダが相手なら何周走っても抜かれる心配がなかったからである。ベルガーとセナの差は10秒で、ベルガーはずっとその差を保ちつづけた。
「まずいぞ」
と桜井淑敏はようやくここでそう思った。
ベルガーにセナのスピードに合わせて走られたのでは、エンジンも壊れないし、ガス欠の心配も起きそうになかった。彼としては、何とかもっとハードなレースに持っていきたかった。しかしロータスのピットヘ行き、セナにウィリアムズのピケをさきに行かせるように指示しろともいえなかった。
「フェラーリに負けるのかな」
と彼は初めてちらと思った。受け入れ難い現実だった。
一方、中嶋悟は予選十一位からスタートし、六周目には早くも八位に上がった。彼はレースでも予選のときに発見した走り方で走っており、すばらしい調子だった。それに鈴鹿はどこをどのように走ればいいかをすみずみまで知っていたので、車の操作だけに神経を集中できてすごくらくだった。
彼は八位に上がってからは、ずっとブラバム・BMWのリカルド・パトレーゼを追いかけていた。パトレーゼは現役の中ではF1出場回数がもっとも多く、優勝も二度している非常に経験豊富なドライバーだった。中嶋悟は、追いついてもきっと簡単には抜かせてくれないだろうと思った。
じっさい十五周目に追いつくとそのとおりになった。中嶋悟はイライラした。抜けそうだと思って、右から攻めたり左から攻めたりしたが、どうやっても抜けなかった。
「あの手を使おう」
さんざん苦労したあとで中嶋悟がそう決めたのは、十八周目にはいったときだった。
それはF2で鈴鹿を走っていたときによく使った手で、第一コーナーでアウトから抜き去るという彼独特の抜き方だった。相手が第一コーナーでインをふさいだところを、ブレーキングをすこし遅らせてアウトに突っ込み、そのまま外側にふくらみながら強引に抜き去ってしまうのである。インを突くより危険はずっと大きかったが、十分計算したうえで実行すれば、相手のドライバーはまさかアウトから突っ込まれることはあるまいと考えているので、成功の確率は高かった。
中嶋悟は十八周目が終り、十九周目にはいったピット前のストレートでパトレーゼのうしろにぴったりとくいついた。パトレーゼは第一コーナーの入口でインをふさいだ。計算どおりだった。中嶋悟はブレーキングを遅らせ、アウトから突っ込んでいった。彼のロータス・ホンダは外側にふくらんだ。
「さあ行け」
中嶋悟はアクセルを踏んだ。パトレーゼのブラバム・BMWがうしろに遠ざかっていった。
そのとき中嶋悟の耳には自分の車のエンジンの音しかきこえなかった。しかし彼は、第一コーナーの丘の上に陣取ったファンの大歓声が手にとるように分った。第一コーナーの丘の上に陣取るようなファンは彼のこの抜き方が見たくてくるのであり、彼はそれを見せたのである。
しかし何といってもそれにびっくりしたのは、抜かれたパトレーゼだった。中嶋悟はこのあと最終戦のオーストラリア・グランプリに行ったとき、ミケーレ・アルボレートにこういわれた。
「日本ではすごくいいレースをしたね。とにかくパトレーゼが驚いていたよ。あんなふうにアウトから抜かれるとは思っていなかったってさ」
中嶋悟は自分の国のグランプリで自分の一番いいものを出して見せたのである。胸を張りたい気分だった。彼はこれで七位に上がった。
二十二周目、ピットからつぎの周にタイヤ交換をしろというサインが出された。レースは五十一周だったので、中嶋悟としてはタイヤ交換はあと四、五周走ってからにしたかった。あまり早く交換すると、こんどはあとのほうでタイヤが駄目になってしまう可能性があったからである。
しかしロータスのピットにはロータスのピットで事情があった。セナがいつタイヤ交換に飛びこんでもいいように、セナのためにつねにピットをあけておく必要があったのである。セナのタイヤ交換のタイミングはセナの判断にまかされており、セナがいつ飛びこんでくるかは誰にも分らなかったからだった。そのために中嶋悟のタイヤ交換は、いつも早すぎるか遅すぎるかのどちらかになってしまうのだった。しかしそれはセカンド・ドライバーの宿命でどうしようもなかった。
中嶋悟は二十三周目にピットにはいった。
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47
ベルガーのフェラーリは、うしろにセナとピケをしたがえて依然として悠々と走っていた。二周目のタイヤ・バーストでプロストが一周遅れになってしまったいま、彼をおびやかす存在になりそうなのはピケ以外には誰もいなかった。しかしそのピケをうしろでセナが抑えていてくれるのである。ベルガーにとってこんならくなことはなかった。
ベルガーは二十五周目にタイヤ交換にピットにはいった。これでベルガーは三位に落ち、セナとピケが一、二位に浮上した。しかしセナとピケもいずれはタイヤ交換をしなければならなかった。彼らは二十六周目に同時にピットにはいった。
ピケにとっては、あとから振り返ってみればこのときがセナの前に出る唯一のチャンスだった。タイヤ交換をセナより0・1秒でも早くおこなえばセナよりさきに再スタートでき、セナの前に出るにはそれで十分だったのである。しかし、そうはならなかった。ロータスのピットクルーが8秒63で作業をやってのけたのに対して、ウィリアムズのピットクルーは11秒もかかってしまったのである。これよりさき、ロータスのピットクルーは、中嶋悟のタイヤ交換を7秒27で終えており、ベルガーのフェラーリにいたっては6秒9という早業を見せていた。ウィリアムズのタイヤ交換は彼らにくらべるといかにも遅かった。
これでセナとピケは四位と五位に落ちてしまった。二人のタイヤ交換のあいだにベルガーが再びトップに立ち、さらにヨハンソンとアルボレートにもさきを越されてしまったのである。アルボレートはスタートでエンジンをストップさせて最後尾まで落ちてしまったが、二十六周でここまで浮上してきたのだった。二十七周目にそのアルボレートがタイヤ交換にピットにはいり、セナとピケはそれで三位と四位に浮上した。
いまやすべての車がタイヤ交換を終え、上位陣の順位はつぎのようなものになった。ベルガー、ヨハンソン、セナ、ピケ、アルボレート、ブーツェン、中嶋悟。
レースは後半にはいった。ピケは何とかセナの前に出ようとあらゆるコーナーでそのチャンスをうかがったが、セナの巧みなブロックにあって依然として前に出ることはできなかった。セナもピケを抑えるのが精一杯で、前を行くヨハンソンとベルガーをどうにもできなかった。
サーキットにやってきた観客たちは、しだいにわが目を疑いはじめた。彼らが知っているホンダ・エンジンは、過去十四戦で十一勝していたばかりでなく、サンマリノ、モナコ、デトロイトをはじめとする七戦で1・2勝利を達成し、イタリアでは1・2・3、イギリスでは1・2・3・4という完全勝利さえ実現していた。彼らが見たかったのはそういうレースだった。ところがよりによって日本に凱旋してきたいま、ホンダ・エンジン勢がやっているのは三、四位争いのこぜり合いだったのである。
ベルガーにはもう何の脅威もなかった。二十六周目から三十周目にかけて二位に浮上したヨハンソンが猛追し、それまで9秒あった差を2秒4まで縮めた。しかしそこまでだった。ヨハンソンは予選九位からそこまで追い上げてきたのである。彼のマクラーレン・ポルシェはすでにガソリンを使いすぎており、それ以上追いかけるとガス欠の心配をしなければならないことになったのだった。一方、ベルガーのフェラーリは、セナがピケを抑えてくれていたので前半からまったく無理な走り方をしていなかった。ベルガーとヨハンソンの差は、四十周目には再び9秒と広がった。
「日本では絶対にホンダ・エンジンをやっつける。ホンダの国でホンダ・エンジンに勝てば、同じ一勝でも三勝分の価値がある」
といっていたベルガーの言葉が現実になりつつあった。
中嶋悟は二十三周目というやや早いタイヤ交換のあとは、七位の位置で前を行くベネトン・フォードのブーツェンを追いかけていた。ブーツェンは、一時はベルガーを追いかけて二位を走っていたが、クラッチ・トラブルが生じて六位まで落ちてしまったのである。
中嶋悟は三十三周目にブーツェンをとらえた。そして、大観衆がグランド・スタンドで見守るピット前のストレートで一挙に抜き去った。スタンドは総立ちになり、大歓声が沸いて、あちこちで日の丸が振られた。彼は十九周目に第一コーナーでブラバム・BMWのパトレーゼをアウトから抜いたのと合わせて、自分の国のグランプリで二度いいところを見せたのである。彼はその瞬間、まさにレース前に宣言したとおりの男の子であった。
これで彼は六位に上がった。前を行くのはフェラーリのアルボレートだった。アルボレートの車は車体の一部から何かが外れ、それを引きずってずっと火花を散らしながら走っていた。五位に上がるチャンスだった。しかしアルボレートとのあいだには周回遅れの車がおり、まずそれを抜かなければならなかった。中嶋悟はまだ周回遅れになっていなかった。レースが三分の二を過ぎても周回遅れにならないなんて、はじめてのことだった。
三十六周目、中嶋悟は周回遅れのリジェ・メガトロンのルネ・アルヌーのうしろに迫った。この時点でコース上には十八台の車が走っていたが、アルヌーはすでに二周遅れで十七位だった。中嶋悟は、とうぜん彼がコースを譲ってくれるものと期待した。ところがアルヌーは、中嶋悟がうしろに迫ると、コースを譲らなかったばかりか、何を思ったか反対にフルブーストにして競走をはじめたのである。
中嶋悟はアルヌーがなぜそんなことをするのかまったくわけが分らなかった。しかし彼はコースを譲ってくれない以上、戦って抜くしかなかった。やっとアルヌーを抜いたのは、五周後の四十周目だった。アルヌーはこのために四十五周目にガス欠でストップしなければならなくなったが、あとでなぜフルブーストでなんか走ったのだときかれると、つぎのように答えた。
「ぼくはこのレースは絶対に負けるわけにいかなかったんだ」
もちろん誰も彼が何をいっているのか理解できなかった。
しかし中嶋悟はこのアルヌーとの無意味な戦いで思わぬ被害をこうむることになった。コースを譲ろうとしないアルヌーを抜くためにコースをあっちに行ったりこっちに行ったりしたおかげで、タイヤがおかしくなってしまったのである。彼はレースのあとでいった。
「たぶんエア・プレッシャーのバランスをおかしくしてしまったんだろうと思うけど、リヤがぜんぜんグリップしなくなっちゃったんだよ。それまではいい感じだったんだけど、それからはまるでべつの車のようになってしまった」
彼にとってはまったく予期せぬ事態だった。タイヤ交換がやや早かったので、最後の何周かはタイヤがダレてしまうかもしれないとは思っていたが、あんなつまらぬことで駄目になってしまうとは想像もしていなかったのである。彼はがっかりした。こうして彼は、五位のアルボレートを追いかけなければならないときに、反対にタイヤをいたわりながら走らなければならないことになったのだった。
アルボレートとの差はどんどん広がり、三十三周目に一度は抜いたうしろのブーツェンとの差が縮まってきた。そしてブーツェンに抜き返されたのは、残りがあと四周となった四十七周目だった。
「くそ、これで七位か」
と思った。
何ともやりきれない気持だった。
ところが四十八周目のピット前のストレートに戻ってきたとき、メカニックの一人が掲げたサインボードを見て、おやと思った。そこには依然として自分が六位であることが示されていたのである。前のほうで誰かが一人リタイヤしたらしいと思った。まだ彼にはツキが残っていたのである。
リタイヤしたのはネルソン・ピケだった。彼は四十五周目までは三位のセナのすぐあとについて何ごともなく走っていた。そして辛抱強くセナの前に出るチャンスをうかがっていた。ところが四十六周目になって、とつぜんエンジンから白い煙が噴き出した。彼のウィリアムズ・ホンダはスローダウンし、彼はそのままピットにはいって車から降りてしまった。原因はオーバーヒートであった。セナのすぐうしろをあまりにも長いあいだ走っていたので、セナのタイヤが路面から巻き上げるタイヤ|滓《かす》がラジエターとインタークーラーにべったりと貼りつき、それがその二つの冷却器の機能を失わせてしまったのである。
「これでホンダ・エンジン勢が勝つチャンスは完全になくなった」
と桜井淑敏は思った。いまや彼はその現実を受け入れざるを得なかった。
しかしピケがリタイヤしたおかげで、中嶋悟が五位になる可能性が生れた。それはそれでいいと思った。ピケが三位になるよりも、中嶋悟が五位になるほうがよさそうな気がしたからである。中嶋悟がブーツェンに抜き返されたのはその直後であった。
「せっかくピケがリタイヤしてくれたんだから、もっと頑張ってくれよ」
と桜井淑敏は思った。
しかし中嶋悟はまだ六位であった。入賞の可能性は残っていた。何としても入賞だけは果たしてもらいたかった。ところが四十八周が終ったとき、中嶋悟はエディ・チーバーのアロウズ・メガトロンに抜かれ、七位でピット前のストレートに戻ってきた。
「七位に落ちたか」
と桜井淑敏は思った。
四十六周が終ったときにはピケのリタイヤで五位になれる可能性があったのに、それからわずか二周のあいだに七位に落ちてしまったのである。目まぐるしい順位の変動に、桜井淑敏はすっかり疲れてしまった。最初から変化がないのはベルガーのフェラーリのトップだけであった。
「とうとう七位に落ちたか」
チーバーに抜かれたとき、中嶋悟もそう思っていた。ブーツェンに抜かれたときはピケがリタイヤしてくれて六位にとどまったが、そんなに何度も同じ幸運が訪れるとは思えなかった。
「この鈴鹿でだけは何としても入賞したかったな」
と中嶋悟は思った。
パトレーゼを第一コーナーでアウトから抜いたり、ブーツェンをグランド・スタンド前で一気に抜き去って拍手喝采を浴びたりしたことが、何だか遠い昔のことのように思えた。六位と七位では順位はたったひとつのちがいだが、七位で終ったのではそうしたことがすべて色褪せてしまうのである。とても残念だった。
中嶋悟はすっかり入賞をあきらめ、残りがあと二周となった五十周目の周回にはいっていった。六位のチーバーとの差はわずか2秒だったが、グリップを失ったタイヤが追いかけることを許してくれなかった。だがまたしても幸運が訪れた。チーバーのアロウズ・メガトロンがコースのなかほどでとつぜんスローダウンしたのである。ガス欠になったのだった。
中嶋悟はあっというまにチーバーに迫り、そのわきをすり抜けた。彼は再び六位に浮上したのである。うしろには二周目にタイヤがバーストして周回遅れになったプロストが追い上げてきていたが、まだ20秒の差があった。残りはあと一周であった。
五十一周が終ってベルガーがまっさきにチェッカー・フラッグを受けると、フェラーリのピットはエンジニアやメカニックが抱き合ったり飛び上がったりして奇声を発し、喜びを爆発させた。無理もなかった。フェラーリは通算九十一勝もしているF1最多勝チームだったが、ここのところは、一九八五年のドイツ・グランプリでアルボレートが優勝して以来、二年半も勝利から遠ざかっていたのである。
車から降りたベルガーはいった。
「やっとホンダをやっつけたよ。これでエンツォ・フェラーリもエンジニアもメカニックも、みんなが冬を安心して眠れる。とてもハッピーだ」
彼は名門チームを復活させてとても誇らしそうだった。
二位はセナだった。ガス欠気味になったヨハンソンを追いつめ、最後の五十一周目にとうとう抜き去ったのである。以下、ヨハンソン、アルボレート、ブーツェンの順でチェッカー・フラッグを受け、中嶋悟が六位でそれにつづいた。ここまでが五十一周すべてを走りきった組で、中嶋悟にとってはトップから一周も遅れずに完走したのはこれがはじめてだった。
「おれは頑張った」
と中嶋悟は思った。
彼はコースを半周し、車輌保管所に指定された最終コーナーを曲ったあたりで車から降りると、ヘルメットをとってゆっくりとピットまで歩いた。オフィシャルが車で迎えにきて、ピットまで乗せて行くといったのを断ったのである。そこからピットまでは200メートルか300メートルだった。彼が歩き出すと、スタンドや丘の上の大勢の観客が口々に彼の名を呼び、手を振った。走っているときはエンジンの音で何もきこえなかったが、こんどははっきりと彼らの声がきこえた。彼も彼らに手を振ってこたえた。自分の国だと思った。すばらしい気分だった。
それからまもなく、パドック裏のホンダの巨大なテントの中では、ワールド・チャンピオンとなったネルソン・ピケを祝う簡単なシャンペン・パーティーがおこなわれた。そこには本田宗一郎もやってきた。彼はまたしても自分の目の前でホンダ・エンジンが勝つところを見られなかったが、ピケのために笑ってシャンペン・グラスを上げた。桜井淑敏はピケにシャンペンのシャワーをかけられた。
その騒ぎの中で、本田技研工業社長の久米是志はいった。
「いいんだよ、これで。本田のおやじさんが長生きするよ。また来年、また来年と思って、勝つまで鈴鹿にくるだろうからさ」
彼らは鈴鹿では勝てなかったが、彼らのエンジンは一九八七年の文句なしのチャンピオン・エンジンだった。彼らは獲得すべきものは獲得したのである。
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シーズン最終戦のオーストラリア・グランプリは十一月十五日におこなわれた。
中嶋悟が桜井淑敏に本田技術研究所に呼ばれ、F1に乗れるとはじめてきかされた一九八六年の七月から十六カ月がたち、胸をときめかせ、夢のような気分で乗り込んだ第一戦のブラジル・グランプリからでも七カ月がすぎていた。
「あっというまだったな」
と中嶋悟は思った。
ほんとうに時間がたつのが早かった。
そして想像はしていたことだったが、何もかも思うようにいかなかった一年だった。彼はどんな車に乗ってもつねにそれを完全にコントロールしたいと願い、そうできたときに最高のよろこびを感じた。そのときの征服感は、まったく何ともいえぬものだった。F1ではそれができなかった。デトロイト・グランプリのときなどは、ストレートを五速で走ってもホイール・スピンを抑えることができなかった。その意味では非常に屈辱的な一年でもあった。
「来年は、今年と同じ場所であれば、すくなくともサーキットがどこにあるかとか、ホテルがどこにあるかとか、そこまでは気を使わなくてすむ。コースにしても、どのカーブがどっちにどのくらい曲っているか知っているから、そういう基本的なところに神経を使う必要はなくなる。今年はそういうことが何も分らなかったんだからね。とにかく、何をするのでも、気を使ったり、覚えたりすることがたくさんありすぎた。運転の面でも、ぼくの持ってる|伎倆《ぎりよう》の中で対応しなければならないことが多すぎた。まあ、そういう一年だったよ」
と彼はいった。
しかしそうした中から苦労して学んだことも多かった。たとえば、ストレート以外のところではターボ・チャージャーの過給圧を下げたりして、状況の変化に応じて走ることができるようになったことなどである。その効果は大きかった。それまでのようにパワーを持てあましてカーブでもたつくということがなくなり、鈴鹿ではその結果としてだいぶタイムをかせいだ。それは彼が自分を車に合わせるのではなく、経験を積んで車を自分に合わせられるようになったことにほかならなかった。とてもよい兆候といわなければならなかった。彼は着実に進歩もしていたのである。
だが最後のオーストラリア・グランプリでは、また苦労しそうだった。コースがレース専用のクローズド・サーキットではなく、アデレード市街の公道を封鎖してつくったストリート・コースだったからである。彼はすぐにシーズン前半に走ってとんでもない目にあった同じストリート・コースのモナコとデトロイトのいやな記憶を思いだした。しかし一年で自分がどれくらい進歩したかを知るにはいいチャンスだった。
南半球の十一月は夏だったので、オーストラリア・グランプリは三十五度という猛暑の中でおこなわれた。
そしてそのオーストラリア・グランプリを制したのは、日本グランプリにつづいて、フェラーリのゲルハルト・ベルガーだった。日本グランプリと同じように、ポール・ポジションから一気に飛び出して、そのまま他をまったくよせつけずに逃げきってしまったのである。まるでフェラーリとベルガーのためのようなグランプリだった。
それに対して、ホンダ・エンジン勢にはいつものような精彩があまりなかった。しかしそれも無理はなかった。彼らはすでにコンストラクターとドライバーの二大タイトルを手に入れており、オーストラリアではしなくてはならないことはもう何もなかったのである。彼らにとっては、オーストラリア・グランプリはつけたしのようなものだったのだ。
ウィリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルは、イギリスの病院に入院していて、イギリスを出ることすらできなかった。日本グランプリでの事故のあと、イギリスの病院で受けた精密検査で背骨にヒビがはいっていることが発見され、二カ月の入院生活を余儀なくされていたのである。車に乗るどころではなかった。
かわりにマンセルの車に乗ったのは、それまでブラバム・BMWに乗っていたリカルド・パトレーゼだった。彼はすでに一九八八年からネルソン・ピケの後釜としてウィリアムズに移籍することが決まっており、ブラバムのオーナーのバーニー・エクレストンと交渉して一足早くウィリアムズの車に乗ることにしたのである。彼は予選七位からスタートし、六十二周目には四位に浮上したが、七十六周でエンジンを壊してリタイヤしてしまった。レースの周回数は八十一周だった。
ネルソン・ピケは予選で三位になり、三十四周目まではベルガーについで二位を走った。しかしタイヤ交換で六位に落ち、その後四位まで上昇したが、ブレーキ・トラブルが発生して五十八周でリタイヤに追いこまれた。ある意味ではピケはツイていなかった。他の上位陣は誰もタイヤ交換をしないで走りきったのに、彼のタイヤにだけバイブレーションが発生して、交換なしでは走れなくなってしまったのである。それで落ちた順位を回復するために、ブレーキに必要以上の負担をかけなければならなくなったのだった。
ロータス・ホンダのアイルトン・セナは予選で四位になり、レースでは粘り強く走ってベルガーにつづいて二位でゴールした。彼のドライバーズ・チャンピオンシップの得点は57点で、二位のマンセルの得点は61点だったので、ここで二位の6点が加われば逆転できるところだった。ところが彼はレース後の車輛検査で失格になってしまった。ロータスは、加減速のはげしいストリート・コースはブレーキでレースが決まると見て、ブレーキがよく冷えるようにブレーキ・ダクトの形状をすこし大きくした。それが車輛規則を4センチばかりオーバーしていたのである。その結果、三十五度の猛暑の中を二時間も走りつづけたセナの努力は、すべて無になってしまったのだった。
ホンダ・エンジン勢にとってはつけたしのようなものとはいえ、まったくさんざんなレースだった。
中嶋悟の出来は、ストリート・コースを走ったにしては上々だった。
彼は最初はなかなかコースの感じをつかむことができず、一日目の金曜日だけでコースのあちこちで五度もスピンをやらかした。しかしそれは彼の運転が特別へただったからではなく、他のドライバーもみんな似たようなものだった。アラン・プロストですら一日で四度もスピンしなければならなかった。アデレードも他のストリート・コース同様ひどく路面がすべりやすく、誰にとってもうまく走るのは非常に骨の折れるコースだったのである。
それでも彼は二日目の土曜日に1分20秒891というタイムを出して予選十四位になった。ストリート・コースの予選では最高の順位だった。モナコでは十七位、デトロイトでは二十四位だったのである。
しかしそれ以上にすばらしかったのは、まえの二つのレースにくらべて、ポール・シッターとのタイム差が格段に縮まったことだった。モナコとデトロイトのポール・シッターはマンセルだったが、モナコでは彼との差が5・851秒あり、デトロイトではさらにひどくて9・537秒もあった。それがアデレードでは、ベルガーの1分17秒267に対して3・624秒差になったのである。中嶋悟は自分でもそれを確認して満足した。
急速な進歩といわなければならなかった。モナコやデトロイトでの彼は、コースに出るとうしろからいつ抜かれるかとそればかり考え、おどおどとバックミラーばかり覗きこんでいた。しかしアデレードではもうそんな姿のかけらもなかった。
彼は予選が終るとニコニコしながらいった。
「あと1秒縮めて19秒台を出したかった。そうすりゃベストテン入りだった。でも、まあ仕方がない。あしたのレースではきっちりと最後の締めくくりをするよ。そうすればシーズンオフをいい気持ですごせるからね」
しかし彼の願いはかなえられなかった。全周回数の四分の一の二十二周でリタイヤしてしまうことになったのである。
彼はスタートで遅れをとり、一周目に二台に抜かれて十六位に落ちた。三周目にはさらに一台に抜かれて十七位に落ちた。しかしレースが落ちつくと彼も落ちつき、そこから一台ずつ抜き返していって徐々に順位を上げはじめた。そして二十周目には十三位まで上昇した。二十一周目にまた一台に抜かれて十四位に落ちたが、彼はぜんぜん気にしなかった。びくびくしながらただ安全に走っていたモナコやデトロイトのときとはちがって、ここでは自分がちゃんとレースをしているのが分っていたからである。
手応えもあった。彼は予選のときから、鈴鹿で身につけた過給圧をこまかくコントロールしながら走る走り方をしており、車のパワーに振り回されるところからは完全に抜け出していた。彼は走りながら、このまま最後まで走りきればかなりのところまで行けるだろうとひそかに思った。事実、レースが終ってみると、上位陣がつぎつぎと脱落して、彼より五台もうしろを走っていたティレル・フォードのジョナサン・パーマーが四位になっていた。五位と六位になったのも彼よりずっと後方を走っていたドライバーだった。
だが彼の希望はそれからまもなく|潰《つい》えることになった。二十二周目にはいったとたんに、アクティヴ・サスペンションの異常を示すコックピットの警告ランプが点灯しはじめたのである。やがてフロント・サスペンションから洩れるオイルがシャワーのようにヘルメットに降りそそぎ、それからすぐにサスペンションがストロークしなくなった。彼は何とか車をピットまで持ち帰ったが再スタートは不可能だった。彼は車から降り、オイルでべとべとに汚れたヘルメットをとった。
シーズン最後のレースが終ったのだった。
彼はピットの中でレーシング・スーツを脱いで上半身裸になると、冷たい水を飲みながらさばさばした顔でいった。
「しようがないよ。これがレースだよ」
そこには、ドイツとハンガリーで連続してマシン・トラブルでリタイヤしたころの中嶋悟とは別の彼がいた。そのころの彼はマシン・トラブルにひどいショックを受け、その事実をどうしても現実として受け入れることができずにつぎのようにこぼしていたものだった。
「どうしてF1が壊れたりするんだろう。おれは、F1は自分のミス以外では絶対に壊れないと思っていたのに」
いまや彼は、そうしたことをすべて現実として受け入れ、自分の中であっさりと解決できるようになったのである。彼は一年間でじつにさまざまなことを学んだのだった。
また彼は、トップ・ドライバーのレベルにはまだ遠かったが、苦手にしていたストリート・コースでもたもたしないで走れたことにも気をよくしていた。予選でもレースでも、予測していた以上のレベルでちゃんと走ったのである。
「おれは前進している」
と思うことができた。
それで十分だった。
彼は一九八七年のF1グランプリ十六戦に日本人として初めて全戦出場し、十戦を完走した。そして、サンマリノ、ベルギー、イギリス、日本の各グランプリで入賞し、7ポイントを獲得してドライバーズ・ランキングで十一位になった。全戦出場したドライバーは全部で二十六人だったので、彼の上には十人、彼の下には十五人のドライバーがいるということだった。
それが彼の成績だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。彼は世界で十一番目のF1ドライバーとして最初のシーズンを終えたのである。
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単行本
昭和六十三年三月文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
F1走る魂
二〇〇二年九月二十日 第一版
著 者 海老沢泰久
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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