帰  郷
〈底 本〉文春文庫 平成九年一月十日刊
(C) Yasuhisa Ebisawa 2003
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目 次
帰  郷
静かな生活
夏の終りの風
鳥 は 飛 ぶ
イヴニング・ライズ
虚  栗
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帰  郷
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帰  郷

太田誠は栃木県のある工業高校を卒業して故郷の町の大きな自動車エンジン工場に就職し、そこでエンジンの組み立て係になった。彼は機械が好きだったので、エンジンもすぐ好きになった。とくにエンジンは、ただの鉄とアルミのかたまりにすぎないものが、ある一定の方式にしたがって組み合わされると生き物のように自力で動き出すという点で特別の感じがした。
工場では、エンジンは長い組み立てラインに乗って流れてきて、ラインの前に立った二十人の組み立て係が順々にそれぞれのパーツを取りつけて組み上げるので、一人一人はエンジンの一部にしか触れることができなかった。しかし太田誠はそのラインのさまざまな場所ではたらかされているうちに、ほぼ三年でエンジンのすべてのことを覚えてしまった。自動車エンジンはボルトの一本一本まで含めると約六百点の部品から成っていたが、それらのひとつひとつをどう組んだらいいかはもちろん、締めつけすぎてはいけない部分のボルトをどの程度まで締めるかといった微妙な加減まで、まったく何から何までだった。やがて彼は決められた一部分だけではなく、一台のエンジンを最初から最後まで全部自分一人の手で組み立てられたらどんなにすばらしいだろうと考えるようになった。
そういうある日のこと、彼は工場の労働組合報を見ていて、会社の中央技術研究所がF1エンジンのメカニックを全国の工場から募集するというニュースを知った。彼の勤めている自動車会社は何年か前から中央技術研究所がF1エンジンを開発し、イギリスの車体コンストラクターにそれを供給するという形でF1活動をしていて、彼もそのことは知っていたが、メカニックは全員中央技術研究所の試作課の組み立て係がつとめていたので、工場の人間が参加する余地はなかった。それを組合が会社と交渉して、工場の人間にもチャンスが与えられるようにしたのだということだった。組合報にはその第一回目として全国の工場から三人が選抜されると書いてあった。
太田誠はすぐにそれに応募することに決め、自分の組み立てラインの班長に申し出た。班長はおまえで十五人目だと笑ったが、手続きはとってやると約束した。太田誠は、全国の工場からの応募者は最終的に三百人にのぼり、それが各工場内での推薦段階で八十人にまで絞られたことをあとで知った。彼はその八十人の中に残ったが、そんなに競争が激しいのでは自分が最後の三人の中に残るのは不可能だろうと思った。
さらに最終選抜の方法がF1チームのチーフ・メカニックによる面接だと分ると、彼はなおさら自信をなくした。エンジンのことなら目隠しをされてもまちがいなく組み立てられるほど、どんなこまかいことでも知っていたが、そのひとつひとつを知っているのは彼の頭ではなく、手だったからだ。たとえば彼の手は、クランクの軸受けを取りつけるときにどの程度締めつけて取りつければオイル・クリアランスがわるくならないかという最適の加減を知っていたが、口でその微妙な加減を説明するのは不可能だった。第一、そんなことは手が知っているのだから、口で説明する必要などないことだった。彼は最後はきっと口のよく回るやつが選抜されるのだろうと思ってあきらめた。
ところが彼は最後の三人に選ばれたのである。あとでチーフ・メカニックになぜ自分が選ばれたのかたずねると、チーフ・メカニックはおまえは面接のときにあまりぺらぺらしゃべらなかったからだと答え、口と手が両方達者な人間などいないものだといった。期間は三年間だった。F1の仕事は三年で交替させるというのが会社の方針だった。
それから太田誠は栃木県の工場から埼玉県にある中央技術研究所に出向し、そこでチームにはいってF1エンジンを組み立てる訓練を受けた。サーキットでは一台の車を三人のメカニックでまかなうことになっていたので、エンジンを組むときも一組三人ですべての作業をさせられた。もちろん工場のラインで組み立てるときとはちがって、全部手作業だった。しかし訓練といっても、彼が組んだエンジンもテスト室でテストされ、イギリスのロンドン郊外にあるF1チーム専用の事務所に送られてレースで使われるので、まちがいは許されなかった。中央技術研究所のメカニックたちは、最初は彼の仕事ぶりを黙って観察していたが、彼がたしかな腕を持っていると分ると、すぐに仲間として扱うようになった。
会社の労働組合は、組合員の連続的な長期出張は人権的に問題があるという理由で四カ月以上の長期出張は認めていなかった。そのためにF1チームのメカニックも約四十人で構成され、それが二十人ずつ二チームに分けられて、中央技術研究所とイギリスの事務所のあいだを四カ月ごとに交互に行ったりきたりしていた。数カ月後にその交替の時期がきて一方のチームが戻ってくると、太田誠は自分のチームの十九人とともにイギリスに出発した。イギリスでは彼ら二十人のメカニックはさらに十人ずつに分けられ、一方はサーキットを転戦して現場ではたらき、一方は工場設備のあるロンドン郊外の事務所で使用済みのエンジンのリビルトやテストを担当することになっていたが、太田誠は現場部隊に入れられた。
そうして彼は仲間とともに世界中のサーキットを飛行機で飛び回った。サーキットでの仕事は、命を賭けていないだけで、あとは戦場にいるのと同じようだった。一分一秒を争い、しかもどんなちいさなミスも許されなかった。心はつねに緊張と不安に支配され、最後に爆発する喜びがやってくるか、ショッキングな失意がやってくるかはレースが終るまで誰も分らなかった。そのようにしてサーキットで経験したこと、見たことのすべてを彼は愛した。三年間はまたたくまにすぎていった。
中央技術研究所への三年間の出向期間が終り、栃木県の故郷の町にあるエンジン工場に帰ると、太田誠は盛大な歓迎を受けた。彼は中央技術研究所からF1のメカニックに選抜された工場でただ一人の人間だった。彼はその日、工場の全従業員が集合する朝礼のときに工場長から特別顕彰を受けるために、F1チームのメンバーになったときにあつらえてもらったネイビーブルーのブレザーを着て行った。それはチームのユニフォームで、左胸にチームのメンバーであることを示すエンブレムが縫いつけてあった。彼はそんなものはもう人の前では着たくなかったが、組み立て課の課長に命令されたのだった。彼は全従業員の前で朝礼の壇上に上がり、工場長から賞状をもらったとき、なぜか自分のなしとげたことが|汚《けが》されたような気がした。
太田誠は工場のエンジン組み立てラインの仕事に戻った。
与えられた場所は、シリンダー・ブロックにシリンダー・ヘッドを取りつける部署だった。ラインに乗って流れてきたシリンダー・ブロックの上に、まずガス洩れを防ぐパッキンの役目をする薄板のガスケットを置き、つぎにシリンダー・ヘッドを載せて十本のボルトでとめるのである。ボルトの締めつけはボタンを押せば機械が自動的におこなうようになっていた。じつに単調な仕事だった。しかし十本のボルトをボルト穴にはめこむ作業は彼が一本ずつ手でやらなければならなかったので、息を抜く暇はなかった。その工程のあいだラインが停止しているのは四十五秒間だったからだ。だがそうしたことはF1のメカニックになる前はいつもしていたことだった。不満はなかった。彼はその場所に立ち、四十五秒ごとに流れてくるシリンダー・ブロックにつぎつぎにシリンダー・ヘッドを取りつけていった。
しかし彼はその仕事の最中にサーキットで経験したり見たりしたことをよく思い出した。なかでも彼はメカニックになって二年目のモナコ・グランプリのときのできごとを一番あざやかに覚えていた。
その日は決勝レースの当日で、空が朝から青々と晴れわたり、五月の太陽の光がクルーザーとヨットの浮かぶモンテカルロ港の水面にまぶしく反射していた。そのなかで十一時にウォームアップ走行がはじまると、太田誠はピットの一隅に立って自分の車のエンジン音に耳を澄ませた。他の車もF1独特のエンジン音を響かせて一緒に走っていたが、彼は自分の車のエンジン音だけを拾うことができたばかりでなく、音の変化でドライバーがどのカーブを何速のギヤで抜けようとしているのかさえきき分けることができた。彼は何事も起きないようにと、ただそれだけを祈った。彼の車に乗っているドライバーは土曜日の予選で最速タイムを出してポール・ポジションを獲得しており、優勝にもっとも近いところにいたからだ。
ウォームアップ走行は十一時半に何事もなく終った。車から降りたドライバーは車の調子は申し分ないと上機嫌だった。こういうときはエンジニアもメカニックも何もやることがなかった。あとは午後三時からのレースを待つだけだった。だが太田誠は何もすることがなくて、何時間もレースがはじまるのだけを待っているという、こういうときが一番いやだった。いろいろ余計なことを考えてしまうからだ。それはたいてい不吉なことばかりで、いいことはあまり思い浮かばなかった。だから彼はレースの前は忙しいほうがよかった。
だがそれからまもなくすると、データレコーダーのモニター・グラフを分析していたエンジニアが、排気ガスの温度が正常値よりすこし高くなっているといい出した。点火系をコントロールしているコンピューターか、燃料系をコントロールしているコンピューターのミスが考えられたが、まったくべつの原因によるものかもしれなかった。結局、ニュー・エンジンと載せ換えることになった。
エンジンの載せ換えはメカニックの仕事だった。太田誠はレースの前は忙しいほうがいいと望んでいたが、そんな大仕事は望んでいなかった。彼はとんでもないことになったと青ざめた。エンジンの載せ換えにかかる時間は、普通一時間半だった。しかし二時半のコースインまでにはまだ二時間半以上あったが、エンジンを換えたあとで、点火系や燃料系、冷却、ギヤなどをコントロールしているコンピューターを再点検したり、車体のサスペンションなどを再調整しなければならないことを考えると、載せ換えに使える時間は長くても一時間と見なければならなかった。その騒ぎの中にはドライバーもいて、彼はあきらめてスペアカーで走ろうといった。しかしスペアカーはあくまでもスペアカーで、レースカーほど入念に調整されてはいなかった。
太田誠は自分を面接で選抜してくれたチーフ・メカニックや仲間とともに仕事にとりかかった。彼らは全員が何をすればいいか完全に心得ていたので、誰も無駄な口はきかなかった。彼らはその仕事を四十分でやってのけた。
太田誠はあとで考えても、このときどうして四十分で載せ換えができたのか分らなかった。普通では不可能なことだった。おそらく全員がどうしてもそれをやりとげなければならないと決意していたのだと思った。それが彼らメカニックの仕事だったからだ。太田誠もそう決意していた。そして全員がそれぞれの使命をはたしたのだった。使命をはたすというのは気持のいいものだった。
レースが終ってその車に乗ったドライバーが先頭でゴールにはいってきたとき、太田誠は誰かがピットの中に持ち込んでおいた大きな日の丸の旗を持ち出してピットの前で夢中で振っていた。それはほかの人間にとっても感動的な光景だったらしく、翌週のイギリスのある自動車雑誌などはグラビアページを日の丸をうち振る彼のその姿で飾った。そのグラビアは彼の宝物になった。彼はそれを切り取り、ロンドン近郊の事務所の近くのアパートの壁にずっと貼っていたが、いまはそのとき優勝したドライバーとともに撮った写真と一緒に自分の家の壁に貼ってあった。
太田誠の心は、こうしたことを思い出すと、どこにいてもこうしたことが起こった場所へ飛んで行って、いつまでも彼をその場所にいるような晴れやかですがすがしい気分にさせた。彼はサーキットで経験したり見たりしたこうしたすばらしいできごと、思い出すたびに気持がすがすがしくなるこうしたできごとを、心の底に百も二百も持っていた。
工場の人たちはそうしたことをみんな彼にききたがった。とくに組み立て課の人間は、休憩のときや食事のときに彼のところにやってきて、うちのF1エンジンが800馬力もパワーを出しているというのは本当かとか、13000回転も回しているというのは本当かというようなことを話しかけてきた。総務や経理の女の子たちは、ドライバーのアイルトン・セナやジャン・アレジのことをききたがった。
しかし太田誠は、簡単な質問には簡単に答えたが、彼らがもっと深く知りたいと思っているようなこと――彼自身がモナコ・グランプリでやりとげたようなことについては、けっして話さなかった。イギリスの自動車雑誌に載った写真や、ドライバーと二人で写した写真のことについても話さなかった。話すことによって、サーキットで経験したり見たりしたできごとが|色褪《いろあ》せてゆき、やがて心の中から失われてしまうのが怖かったのだ。彼は、しゃべるということは心の中のものを失ってゆくことだと思っていた。
やがて工場の人たちは何も貴重なことを話さない彼に失望し、誰も何もきかなくなった。女の子たちの中には彼がバカだと思って軽蔑の目つきをする者もいた。しかし彼は自分が何をしたかを自分でちゃんと知っていたので、何も気にならなかった。自分で分っていればいいことだった。
太田誠の心は、一日に何度もモナコやシルバーストーンやモンツァのコースに飛んでいった。そういうとき、彼は組み立てラインの上に新しいシリンダー・ブロックが流れてきていることに十秒間も気がつかないでいて、あわてることがよくあった。そういう彼を、彼のラインの班長や主任は、工場ではもう使いものにならないのではないかと見はじめていた。
太田誠は、F1チームにはいるまでは、朝は母親に起こしてもらっていた。しかしロンドン郊外のアパートで他のメカニックと三人一組で共同生活をするようになってからは、何でも一人でやるようになった。彼の母親は小学校の教員をしていたが、彼がF1チームから帰ってきて、朝一人で起きるようになったことを知ると、そのことをとてもよろこんだ。しかしそれからしばらくたったいまは、彼が以前にも増して無口になってしまったことに心を痛めていた。
その日の朝も彼は一人で起き、顔を冷たい水で洗うと、母親が彼と中学生の妹のためにつくった朝食を食べるために茶の間へ行った。彼らは三人家族だった。父親は彼が中学生のときに病気で死んでしまっていた。
太田誠は妹と並んですわって朝食を食べた。テレビがきのうのニュースを流していた。太田誠には興味がないことばかりだった。彼は母親がつくったゼンマイとニンジンと厚揚げの煮つけを食べた。とてもうまかった。彼はごはんのおかわりをした。
「ああ、そうだ」
彼の茶碗にごはんをよそいながら、母親がいった。「ゆうべ、女の人から電話がかかってきたよ」
「ふうん」
と彼はいった。きのうの夜はパチンコをしていて、家には夜遅く帰ってきたのだ。きっと木村優子だろうと思った。イギリスから帰ってきたのにぜんぜん会っていないから心配しているのだ。
「誰なの、その人」
妹がいった。
「誰でもないよ」
と彼はいった。彼女は中学時代の同級生で、いまは東京の板橋の病院で看護婦をしていた。
「恋人なの?」
妹がまたきいた。
「ちがうよ」
と彼はいった。
テレビがきのうの夜のプロ野球の試合の結果を流しはじめた。ジャイアンツはカープに3対1で勝っていた。太田誠はジャイアンツのファンだった。
「最近、この近くのアパートにイラン人が三人もはいってきたんだよ。知ってるかい?」
母親がお茶を飲みながらいった。
「知ってるよ」
と妹はいった。太田誠は知らなかった。
「気をつけなくちゃ駄目だよ」
母親は妹にいった。
「どうして?」
「何をされるか分らないからだよ」
「何をされるか分らないって、どういうこと?」
「どういうことって、おまえ。おまえは女の子なんだよ。気味がわるくないのかい。あんな人たちにまわりをうろうろされて。おかあさんだって暗くなってからは歩くのがいやだっていうのに」
「じゃあ、気をつけるわ」
と妹はいった。
太田誠は初めは母親の話を黙ってきいていたが、そのうち当惑し、腹立たしくなった。
「おかあさんは学校でも子供たちにそんなふうに教えているのかい?」
と彼はいった。
「教えてるよ」
と母親はいった。「いまの小学生はもう立派な女の子だからね」
「やめなよ、おかあさん、そんなふうに子供たちに教えるのは」
「どうしてだい。わたしには子供たちを守ってやる義務があるんだよ」
「イラン人たちが何をしたっていうんだい。ただ住んでいるだけじゃないか。何もしていないのにそんなふうにいうのはフェアじゃないよ」
「だって気味がわるいんだから仕方ないじゃないか」
「そう思うのはおかあさんがまちがってるよ。おれはイギリスでイギリス人の誰からもそういう目で見られたことはなかったよ。おれが外国に住んで、その国の人にそういう目で見られていると知ったら、おかあさんはどう思うんだい」
太田誠はF1チームが基地にしていた事務所の近くのサットンという町に住んでいたが、町の人たちはみんな親切でいい人たちだった。彼は最初はアパートの人たちばかりか、八百屋や肉屋の店員までもが顔を合わせるたびににこにこしながら挨拶の声をかけるのに戸惑ったが、慣れてくるとそういうことがとても気持よくなった。それだけで、埼玉県の中央技術研究所の近くのアパートにいたときよりも、ずっとその町に受け入れられているという気がしたものだった。
また、休日には車でウェールズやスコットランドの田舎の村に行ったことがあったが、そういう村でもパブなどにはいると日本人を見たのは初めてだとよろこばれてとても歓迎された。イギリスでのそういうできごとも、サーキットで経験したり見たりしたことと同じぐらい、彼には思い出すたびに気持がすがすがしくなることだった。もしいま母親がイラン人を見ているような目でサットンの町の人に見られていたとしたら、あの町のことを思い出しても絶対にすがすがしい気持になどはなれないだろう。
「おまえはイギリスへ行ってきてからすっかり変わってしまったね」
と母親は悲しそうな顔でいった。「イギリスへ行く前はとても気持のいい子だったのに、いまではおかあさんの手に負えない気むずかしい子になってしまった。イギリスなんかへ行かせなければよかった」
太田誠は母親と妹を残して茶の間から立ち上がり、自分の部屋へ行った。母親が自分のことを気むずかしい人間になってしまったと考えているなら仕方がないと思った。母親にイギリスで経験したできごとを話してきかせるつもりはなかった。部屋で工場に行く仕度をしていると、妹がはいってきた。
「ねえ、おにいちゃん」
と妹はいった。「そこの壁に貼ってあるセナとおにいちゃんが一緒に写っている写真、学校に持って行っていい?」
「いいよ」
と彼はいった。彼は妹の頼みはどんなことでも断ったことがなかった。
「ありがとう。これでおにいちゃんとセナが友だちだってことがみんなにも分るわ」
彼は写真を壁から外して妹に渡してやった。妹はうれしそうにそれを受けとった。彼はそれを見て妹によいことをしたと思い、気持がよくなった。
妹が部屋から出て行くと、茶の間で電話のベルの鳴る音がして、母親が彼を呼んだ。誰からかきくと、母親はゆうべの女の人だといった。彼はもう会社へ行ったといってくれといって出なかった。
彼が工場で失敗をしでかしたのは、その日の午後のことだった。
太田誠はF1エンジンが3500ccでV型10気筒であることは知っていたが、それがじっさいにどんなものであるかは中央技術研究所に行くまではっきりしたことは何も知らなかった。
彼がそれまで工場で組み立てていた市販車用のエンジンは2000ccのV型4気筒エンジンで、出力は140馬力だった。その出力をそのまま3500ccに換算すれば、1リッターあたり70馬力だからほぼ250馬力ということになるが、彼はF1エンジンというからにはその二倍の500馬力は出しているだろうと漠然と想像した。だから彼は、F1チームのエンジニアはマスコミに対してその出力は600馬力以上だと発表していたが、それには疑いを持っていた。
ところがじっさいは、彼の想像もチームの発表もどちらも正しくなかったのである。太田誠には信じられないことだったが、表面が黒く塗られたそのエンジンは700馬力を出すのだった。さらに中央技術研究所では、そのV型10気筒と並行して、V型12気筒エンジンの開発もしていた。それが完成すると何馬力になるのか訊ねると、チーフ・メカニックは800馬力を超えるだろうといった。太田誠はびっくりして、あいた口がふさがらなかった。
しかし太田誠がそれよりももっと驚いたのは、そのエンジンの重量だった。彼が工場で組み立てていたエンジンの重量は、2000ccのV型4気筒で約80キロだったが、3500ccで10気筒もあり、1リッターあたり三倍ものパワーを出すというのにわずか120キロしかなかったのである。こんなに軽いエンジンで壊れないのかと訊ねると、チーフ・メカニックは壊れるよと笑っていった。
「全開で回しつづけたら十時間ももたない。でもレースは二時間以上やることはないからな」
F1エンジンはその軽量化のために、普通はアルミ合金でつくられるシリンダー・ブロックがマグネシウムでつくられ、鉄でつくられるボルトやコンロッドはチタンでつくられていた。
「ベンチの中にはいって音をきいてみるか?」
チーフ・メカニックがいった。
「お願いします」
と太田誠はいった。ベンチというのは密封された部屋の中でエンジンを回し、外からその性能をモニターしていろいろとチェックするための装置だった。
「もし中でエンジンが壊れて吹き飛んだらケガをするかもしれないぞ」
「かまいません」
と太田誠はいった。
太田誠がベンチの中にはいると、テスト・エンジニアの一人がドアを閉めて鍵をかけた。耐衝撃ガラスの広い窓から、外でチーフ・メカニックがにやにや笑っているのが見えた。テスト・エンジニアがモニター装置の前にすわって手を上げて合図し、エンジンが回りはじめた。
市販車のエンジンのように防音装置のついていないF1エンジンは、低回転域でも胃の底にひびくようなすごい音を出した。さらに回転が上がっていくとジェット・エンジンのような金属音になっていき、鼓膜がはげしく振動して耳の中でこまかいゴミが踊った。フル・スロットルになり、回転数が13000回転に上がった。むき出しの十本の排気管が熱で真赤に染まった。心臓がドキドキして破裂しそうだった。
「すごいぞ」
と太田誠は思った。「こいつはすごいぞ」
彼はその日のうちにすっかりF1エンジンを愛してしまった。
そして彼はいまそこから離れ、工場で再び2000ccのV型4気筒エンジンを組み立てていた。十年でも十五年でも壊れないで回るが、140馬力しかない、ただそれだけのエンジンだった。
彼はアルミ合金のシリンダー・ブロックをいじっていると、ときどきあのF1エンジンのシリンダー・ブロックのマグネシウムの肌ざわりがあざやかに手によみがえってくるのを感じた。それから、ボルトやコンロッドのチタンの肌ざわりが。そうしたあらゆるものがなつかしかった。
太田誠の立っていた組み立てラインがとつぜんストップしたのはそのときだった。あと一時間ほどで終業になるときだった。彼は何事が起きたのかとあたりを見まわした。すると班長がいつになくきびしい顔つきをして自分のほうに歩いてくるのが見えた。班長は彼の前にやってくると、仕事はおれが替わるからおまえは主任のところへ行けといった。彼が班長と交替すると、ラインが再び動きだした。彼は自分が何かミスをおかしたことを知った。
彼はラインから離れ、主任室に歩いて行った。部屋にはいると主任がデスクにすわっていて、前にすわれといった。それから主任は、完検の抜き取り検査でガスケットのあいだからガス洩れのするエンジンが一台見つかったのだといった。
完検というのは、組み立てラインの最後で組み上がったエンジンが完全であるかどうかを検査する部署で、その場で機械でエンジンを回してチェックするのである。そこでガス洩れが発見され、原因を調べたところ、ボルトの一本がボルト穴に正しくはめこまれないまま締められていたので、シリンダー・ブロックとシリンダー・ヘッドの隙間を埋めるガスケットが完全に結合していなかったのだった。腕のいい組み立て係がおかすにしては、まったく恥ずかしいようなミスだった。
「すみません」
と太田誠はあやまった。どうしてそんな初歩的なミスをおかしてしまったのだろうと思った。組み立て係になって初めてのことだった。
「F1エンジンのことがまだ頭から離れないんだろう」
主任がいった。
「いえ、そんなことはありません」
と太田誠はいった。
「しかし、きみの仕事ぶりを見ていると、手は動いているが、なんとなくぼんやりと考えごとをしているようなときがあるぞ」
「ときどきF1のことは思い出しますけど、ぼんやりとしているなんてことはないと思います」
「いや。ぼくはきみを責めているわけじゃないんだ」
主任はいった。「じつをいうと、中央技術研究所のほうにもF1から離れた人間できみのような症状になっている者がいないかどうか問い合わせてみたんだ。きみのことが心配だったものだからね。向こうの答をきいて安心したよ。F1の仕事から急に通常の業務に戻った者は、多かれすくなかれ、みんな同じようになるらしい。早く通常の業務に戻るべきだとは本人たちにも分っているんだが、自分ではどうにもならないんだそうだ。きみもそうなんじゃないか」
太田誠は何と答えていいか分らなかったので黙っていた。
「無理もないことだよ。ぼくはF1の現場はテレビでしか見たことがないが、まるで戦場だ。のんびりした工場とはぜんぜんちがう。あそこから帰ってきたんだからな。きみはあのF1の仕事が好きだったんだろう?」
「はい」
と太田誠はいった。
「だったら、なおさらだ」
と主任はいった。
太田誠は主任の話をききながら、この人はいったいおれに何をいいたいんだろうと思っていた。ミスをおかしたのだからそれに対して注意するなり叱りつけるなりすればすむことなのに、そうしないばかりか、ミスをおかしたことを理解する素振りさえ見せていた。何ともおかしなことだった。彼が黙っていると、主任はいった。
「気持が落ちつくまで、べつの部署に移ってもらおうと思っているんだが、どうかな」
「べつの部署って、どこですか?」
「それは課長と相談しなければならないからまだ何ともいえないが、十分休養がとれるようなところに行ってもらうつもりだよ」
「分りました」
と太田誠はいった。
彼が主任室から出ると、ちょうど終業時間を知らせるチャイムが鳴った。彼は着替えのためにロッカー・ルームのほうに歩きながら、おれはたしかにときどきF1のことを思い出してはいたが、そのためにぼんやりしていたなんてことは一度もなかったと思った。しかし主任にはそう見えたというなら仕方がなかった。べつの部署に移って、しばらく休養するというのもいいだろうと思った。
太田誠は、翌日から潤滑管理係にまわされた。
エンジン工場には、組み立て課のほかに製作課があり、それぞれの工作機械によってエンジンやギヤなどの部品がつくられていた。そこでは毎日大量の切削油が使われた。硬い鉄やアルミ合金を切削するには、摩擦と熱を防ぐために工作面に潤滑用のオイルと水を流しつづけることが不可欠だったからだ。潤滑管理係というのは、20リットル入りのポリエチレンの容器にはいったその切削油をバッテリー・カーに積み、それぞれの工作機械に配って歩く仕事だった。注意すべきことは、工作機械によって切削油の種類がいくらかちがっていることぐらいで、あとは何もなかった。しかも、午前と午後に一回ずつ配って歩くだけでよかったので、じつにらくな仕事だった。
潤滑管理係の担当は、太田誠も含めて全部で四人だった。班長が四十代の男で、他の二人は三十代の男だったが、太田誠は最初の一日が終らないうちに、三人とも製作の仕事で腕や指先を傷めていて、手先を使う細かな仕事ができなくなっているらしいことを知った。彼らは一回の仕事は一時間か二時間で終ってしまうので、あとは煙草をすいながらおしゃべりばかりしていた。
彼らは新しく仲間にはいってきた太田誠が身体のどこも傷めていないことを知ると|怪訝《けげん》な顔をしたが、やがて中央技術研究所に出向してF1のメカニックをしていた男だと知ると、F1の話や外国での女の話をききたがった。いつも同じ顔ぶれで似たようなおしゃべりばかりしていた彼らには、太田誠は願ってもない刺激的な人物だった。
しかし太田誠は彼らの話には乗らなかった。彼は切削油を配る仕事が終って、あとは何もすることがなくなっても、彼らのおしゃべりには加わらないで黙ってじっと口をつぐんでいた。彼が話さないと分ると、三人は彼にあからさまな反感を示した。
だが、毎日何もしないで何時間もただじっとしているというのは不可能なことだった。太田誠は潤滑管理係のあり余る時間を憎んだ。その時間が彼の神経を腐らせていった。四十五秒ごとに新しいシリンダー・ブロックがつぎつぎと流れてくる組み立ての仕事にもいらいらしたことがあったが、あれはあれですばらしいことだったのだと思った。彼は一週間ほどすると、彼らに彼らがききたがっていることを話す必要を感じた。
彼は最初は本当のことだけを話した。F1エンジンのパワーのこと、カーボンでつくられたF1カーの構造のこと、それからサーキットでじっさいに経験したスリリングなできごとや、ドライバーたちについての噂話などだった。潤滑管理係の三人は、そのなかでもドライバーたちについての噂話――誰と誰が仲がわるいか、誰と誰がプライベート・ジェット機を持っているかといった話をくわしくききたがった。
太田誠は女のことも話してきかせた。リオデジャネイロで、仲間と一緒に金を払えば女を手にいれられるバーへ行ったときのことだった。
店の入口で入店料を払って中にはいると、同じ目的でやってきた男たちがたむろしてウィスキーを飲んでいた。その中には他のF1チームのイギリス人やイタリア人も大勢いて陽気に騒いでいた。太田誠も仲間と一緒にその中に加わった。店の前方には低くてちいさな舞台があり、タイトで短いドレスを着た女たちがその上で踊っていた。男たちは騒ぎながら彼女たちを見ていた。彼女たちも笑顔をふりまきながら男たちを見ていた。目が合うと彼女たちは舞台から降りてきて、目が合った男と二人で店から出て行った。
太田誠もそうして一人の女を自分のホテルへ連れて行った。小柄で海で日焼けしたような肌の色をした女だった。太田誠が彼女を連れて店から出ようとすると、それまで一緒に陽気に騒いでいた仲間たちが一斉に口笛を吹いてひやかした。太田誠は彼らに手を振って外に出た。とても楽しい気分だった。
「その女、よかったかい?」
潤滑管理係の一人がいった。
「よかったですよ」
と太田誠はいった。「肌がこっちの肌に吸いつくような感じで、朝まで眠らせてもらえませんでしたよ」
「そうだろうな。ブラジルの女って、みんなそんな感じだものな」
潤滑管理係はうらやましそうにいった。
しかし太田誠は、本当のところはそんなことは覚えていなかった。彼が覚えているのは、女と二人きりになるまでは気持が高揚してとても楽しい気分だったが、ホテルの部屋で寝たあとではその楽しい気分がなくなっていたということだけだった。
それから太田誠はすぐにその話を三人にしたことを後悔した。
彼はレースのためにサーキットへ行くと、優勝したドライバーが表彰台の上でシャンペン・ファイトをやるように、いつも仲間と一緒にバカげた騒ぎをしなければいられない気分になった。なぜか気持が張りつめ、ボルテージが一挙に上がってしまうのだ。だがそれはほかの仲間も同じらしかった。だから彼らはあの日も食事をしたあとで酒を飲んで騒いだが、もっとバカげたことがしたくなってあの店へみんなで繰り出したのだった。ただ、みんなと一緒にバカげたことをするのが楽しかったのだ。重要なのはそのことだった。ホテルの部屋で女としたこと自体はそんなに楽しくなかった。
だが彼はそのことを女を手にいれたただのありふれた話として三人に話してしまった。そのためにあの楽しかった気分までもが、すがすがしい性質を失い、ただの平凡なものになってしまったような気がしたのだ。こうして彼は人に話すことによって、話す前に怖れていたとおりに、貴重な経験の数々をすこしずつ失っていった。彼はそういう自分に嫌悪を感じた。
しかし太田誠が自分自身を心の底から嫌悪したのは、つくり話をして嘘をついたときだった。それは本当のことをすべて話してしまったあとのことだった。彼はそのあとでも何か話し忘れたことはないかと思い、こまかなできごとをいくつか思い出して三人に話した。しかし彼らはこまかなできごとにはもう興味を示さなくなっていた。それで彼はつくり話をしたのだった。
彼がしたつくり話は、セナの運転するメルセデスに乗せてもらったことがあるが、そのときセナはイギリスの高速道路を250キロのスピードで走ったとか、フランスのポールリカール・サーキットでエンジン・テストをしたときにF1カーに乗ったが、エンジンの回転とクラッチを合わせるのに苦労してどうしても三速ギヤまでしか使えなかったというような、まったくたわいのないつくり話だった。しかしそのことは、彼に昔のある男のことを思い出させた。その男は近所の家の二歳上の男だったが、高校にはいると自分が大人になったことを見せびらかすために、中学生の太田誠のところにやってきては、高校では女の子がいくらでも手にはいるとか、おれにはもう女の子なしの生活は考えられないといった話をしてきかせた。そのとき太田誠は男の話が嘘だと分っていたので、得意気な口ぶりで自慢する彼のことをはげしく軽蔑した。潤滑管理係の三人に対して太田誠がしたことは、その男がしたことと同じことだった。
こうして彼は、数週間前までは思い出すたびに気持がすがすがしくなった貴重な経験の数々を失っていったばかりでなく、嘘の話をすることによって自分自身のことをもおとしめていった。彼は何もかもがいやでたまらなかった。
そういうある日のことだった。太田誠が工場から車で帰ろうとすると、門のところに木村優子が立って待っていた。
彼は彼女を車に乗せた。彼女は彼が買ってやったダイヤのネックレスとサファイヤの指輪をしていた。
「どうして電話に出てくれないの?」
車をスタートさせると彼女がいった。
「忙しかったんだよ」
と彼は彼女の顔を見ないでいった。「とても忙しかったんだ」
彼女は膝の上でハンドバッグを両手で握りしめていた。そのハンドバッグも彼がイタリアから買ってきてやったものだった。ほかにも彼は彼女にさまざまなものを買ってやっていた。
彼は彼女に何かものを買ってやるのが好きだった。そうすると楽しい気持になれたからだ。そのために彼はロンドンやパリやミラノやマドリッドで、彼女のためのありとあらゆるものを買った。クリスマスの季節になってロンドン中のデパートのマネキン人形が下着姿になっているのを見たときには、それに|惹《ひ》かれてセクシーな下着さえ買ってやったことがあった。
彼が最初にそうしたのは、四カ月ごとの交替で二度目にイギリスから日本に帰るときだった。ヒースロー空港でチェックインをすませると、まっすぐ免税の宝石店に行ってサファイヤの指輪を買った。それを木村優子に渡すときのことを考えると、胸が苦しくなるほどドキドキした。
「すばらしいぞ。こんな気分は初めてだ」
と思った。
指輪を包んでもらっていると、メカニックの仲間の一人がやってきていった。
「誰に買ったんだい?」
太田誠はにやにや笑って答えなかった。その仲間は、そこでダイヤのイヤリングを買った。誰も彼もがそうして何かを買っていた。
太田誠は最初の四カ月をイギリスですごして日本に帰ったときにはこの楽しい気分を味わうことができなかった。木村優子がいなかったからだ。
彼はそのとき金を持てあましていた。会社の規定で海外出張をすると給料のほかに一日あたり一万三千円の手当てが出ることになっていたが、F1チームのメンバーには会社が借りたアパートが用意されていたので、四カ月分のその手当てがそっくりポケットに残っていたのだ。仲間たちはその金でそれぞれ誰かのために何か買っていた。とても楽しそうだった。彼は仕方がないので自分のためにロレックスの時計を買った。しかし自分のためでは仲間たちのようには楽しくなかった。何かを買ってやる相手のいる仲間たちが彼はとてもうらやましかった。
彼が木村優子に会ったのは、それから二カ月ほどたったときのことだった。中学校の同窓会が故郷の町で開かれ、そこで会ったのだ。彼女は東京の板橋の病院で看護婦をしているといった。板橋は彼が出向している埼玉県の中央技術研究所から電車で二十分ほどのところだった。彼は彼女に自分がいま何をしているかを話した。自分が何をしているか、彼はそのときほどはっきりと知っていたことはなかった。だから誇張や嘘をまじえて自分のやっていることを実際以上にふくらませて話す必要はなかった。彼は女に対してそんなふうに自信を持って話したのは初めてだった。
彼は二次会のカラオケ・バーへ行ったとき、彼女をダンスに誘って腰を抱きしめながら、こんどイギリスへ行ったら何かプレゼントを買ってくるよとささやいた。彼女はうれしそうに笑い、それから彼らは二次会が終るまで二人で踊りつづけた。抱きしめていると、彼女は女のいい匂いがした。彼は女をそんなふうに簡単に手に入れたのは初めてだった。それがとても不思議だった。
太田誠は飛行機が成田に着くと、旅行鞄を持ったまま、電車を乗り継いでまっすぐ彼女のアパートへ行った。帰る日と時間をイギリスから電話で知らせておいたので、彼女はアパートで待っていた。彼がサファイヤの指輪を渡すと、彼女は驚いて息をのんだ。彼女は彼がもっと何でもないものを買ってくるものと思っていたのだ。それから彼女は彼に抱きついてキスした。
その日、彼らは朝までほとんど眠らなかった。彼が四カ月のあいだ自分がイギリスと世界中のサーキットを往復しながら何をしていたかをずっとしゃべりつづけたからだ。レースで勝ったり負けたりしていたあいだに何があったか。地中海やイギリスの田舎やイタリアの古い町で食事をしたときにどんなことが起こったか。それから仕事中や飛行機でそれらの国を旅行していたときに仲間のメカニックとかわした面白い話のこと。それらはすべて彼自身がじっさいにしたり、見たり、きいたりしたことだった。彼自身の歴史だった。そしてサファイヤの指輪はその象徴だった。彼自身の歴史がなければ光り輝かないものだった。
それから彼は四カ月ごとにイギリスに行き、そこから帰るたびに木村優子に何か買っていった。彼はロンドン近郊のF1事務所の工場やサーキットでエンジンをいじっているときも楽しかったが、そうして彼女に何か買って帰るときが一番楽しかった。自分が何をしているか、自分がどんなふうに生きているかが、そのときにもっとも誇らしく認識できたからだ。
だが約束の三年はまたたくまにすぎていった。そしていよいよそのときがくると、太田誠はすべてを失ってしまったような気がした。木村優子に何か買ってやることを楽しいと感じる気持も失ってしまった。だから彼は、帰国したらこれでいよいよF1チームから離れるという最後のときには彼女に何も買って帰らなかった。何か買って帰れば彼女がよろこぶことは分っていたが、どうしようもないことだった。そのとき彼の頭を占めていたのは、おれはこれからどうすればいいのだろうということだった。
そのときも彼は木村優子のアパートへ行き、最後の四カ月のあいだに経験したさまざまのできごとを彼女に話した。しかしそれまでのようにはもう楽しくなかったし、話していて気持の高揚も感じなかった。そうしていると楽しいと感じた根本のものがなくなってしまったからだった。それらもすべて彼自身がじっさいにしたり、見たり、きいたりしたことだったが、いまやただの話にすぎなくなっていた。彼は話せば話すほどそこから真実味がなくなっていくような気がした。
一方、木村優子は彼が何も買って帰らなかったことに落胆しなかったばかりか、彼がF1チームから離れてもとの工場に戻ることになったことをよろこんだ。彼女にとって重要だったのは、何かを買ってもらうことではなく、すぐそばにいていつでも好きなときに二人が会えることだった。その夜、太田誠が彼女を抱いていると、彼女はそのことがうれしくてたまらないという口ぶりで、わたしも栃木の病院に移ろうと思っているのといった。
太田誠はそのときとてもへんな感じがした。男が落胆することを、女はよろこぶのだ。女の住んでいる世界は、男の住んでいる世界とはちがっているようだった。
それから彼は彼女に会っていなかった。会っても楽しい気持にならないと分っていたからだった。彼が彼女と会って楽しかったのは、F1とともにあった肌がひりひりするようなスリリングな生活のことを彼女に話し、自分が何をしているか、自分がどんなふうに生きているかをいつも彼女に示すことができていたためだった。その根本のものを失ってしまったのだ。工場での生活には彼女に話して楽しくなるようなものはなかった。
そして彼はいまは二重の意味で彼女に会いたくなかった。自分が何をしているかを示せる本当の値打ちのある生活をなくしてしまったばかりでなく、その過去の生活を潤滑管理係の三人に嘘までまじえて話したために、それが心の中からも失われてしまっていた。そのためにいまでは過去のどんなできごとを思い出しても、まえのようにすがすがしい気持にはなれなかった。木村優子はそうしたことがらと一体になって存在していたものだった。
彼は彼女を車に乗せてファミリー・レストランに連れて行った。二人は車の中でほとんど口をきかなかった。彼はそのあいだ、かつては朝までしゃべりつづけてもまだ時間が足りないという時期があったのにと考えていた。
「わたしを嫌いになったの?」
食事のあとでコーヒーを飲んでいると、彼女がいった。
「そんなことはないよ」
と彼はいった。「いっただろう。仕事がとても忙しかったんだよ」
「だったら、結婚して」
と彼女はいった。
彼はびっくりした。そんなことは一度も考えたことがなかったからだ。
「好きなら結婚できるはずよ」
彼女はいった。
彼は黙っていた。こんなことは初めての経験だったので何といっていいのか分らなかった。彼女は黙っている彼をテーブル越しにじっと見つめていた。それから両手で顔をおおって泣き出した。彼は泣くなよといった。レストランの客がみんな二人を見ているような気がした。しかし彼女は泣けるだけ泣いてしまうつもりのようだった。
彼は泣いている彼女を見つめていた。彼女には本当の気持を話すつもりはなかった。話しても分らせることはできないだろうと思った。そんなことをいうのはバカげていた。彼女を傷つけるだけのことだった。そんなことはしたくなかった。それから彼は、おれにはきっと女を傷つけずに好きになる能力というものがないのだと思った。
7
太田誠は、それからも故郷の町のエンジン工場で潤滑管理係の仕事をつづけた。F1チームから戻ってきたときには朝礼のときに全従業員が歓迎してくれたのに、いまでは誰も彼に注意しなくなっていた。潤滑管理係の三人は、太田誠がまた話をしなくなったので、まえのように三人だけでしゃべっていた。
太田誠は工場の仕事が終るとたいていパチンコ屋に寄り、家には夜遅く帰った。家では妹とだけ話し、母親とはあまり口をきかなかった。口をきくと母親を傷つけてしまうことが分っていたからだ。母親は彼が組み立て係から潤滑管理係になったことも知らなかった。
また彼はときどき一人で酒を飲みに行った。昔から行っているなじみの店に行くと、そこで中学や高校時代の友だちに会うことがあった。しかし彼らとは話が合わなかった。彼らにイギリスで経験した生活の話をしても仕方がなかった。
そこでは女の子と会うこともあった。彼は彼女たちのうちの誰か一人を手にいれたいと思っていた。女の子がいないとさびしかった。手にいれて楽しい気持になりたかった。しかし木村優子を傷つけてしまったばかりなので、また傷つけてしまうことが怖かった。いまの彼にはそこを突破する気持の高まりも勇気もなかった。
太田誠は故郷の町から再び出て行くことを考えはじめた。故郷の町は彼には気が休まるところではなかった。日本にも国内でレースをやっているレーシング・チームがたくさんあった。そのひとつにはいってレーシング・エンジンをいじるというのもわるくないと思った。
そういうある日のことだったが、いつも行くバーで酒を飲んでいると、彼は隣の椅子にすわった女から声をかけられた。知らない顔の女だったので黙っていると、わたしよとその女はいった。中学時代の同級生の小林牧子だった。
「あんまり変わっちゃったから分らなかったよ」
と彼はいった。彼女はとてもきれいになっていた。とくに化粧の仕方が|垢《あか》ぬけていた。そのことをほめると美容師をしているのだといった。
彼女は木村優子のことを話した。木村優子が彼をどんなに愛しているかといったことだった。彼女は木村優子とどこかで会ったらしかった。太田誠はそんな話はききたくないといった。
「あら、優子のことが好きじゃないの?」
「好きでも嫌いでも彼女の話はしたくないんだ」
と彼はいった。
「そうなの」
と彼女はいった。「じゃあ、わたしと仲良くしない?」
「いいよ」
と彼はいった。
「きょうは車できてるの?」
「外に停めてあるよ」
「じゃあ、ドライブしない?」
彼女は彼の|太腿《ふともも》をつかんでいった。
彼は小林牧子と二人で外に出て車に乗った。スタートさせる前に彼女のほうに体を傾けてキスすると、彼女もそれに応えた。思わぬなりゆきに彼は胸がドキドキした。彼は車をスタートさせた。どこに行けばいいかはもう分っていた。国道沿いに十五分も走ればモーテルが何軒も建っていた。
小林牧子は右手を伸ばして太田誠の太腿をつかんでいた。そしてときどき指先を動かした。太田誠はそれがとても気持よかった。
「ねえ、わたしにもサファイヤの指輪を買ってくれる?」
やがて小林牧子はいった。
太田誠は目が覚めた。彼はモーテルが何軒も建っている一帯を走り抜けた。
「どこへ行くの?」
と小林牧子はいった。
「どこへも行かないよ」
と太田誠はいった。「ドライブするのさ」
それから彼はできるだけ早くこの町から出て行こうと考えた。
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静かな生活

綾城町子は、伊豆半島の東海岸に沿って走る電車の窓から、ぼんやりと海を眺めていた。彼女は半島の南の稲取から北鎌倉の家に帰るところだった。
彼女は自分の心の中にはとてもはげしい感情があると知っていたが、これまでそれを表に出したことはなかった。そしてつい十日前までは、これからさきも自分はけっしてその感情を表に出すことはないだろうと考えていた。だから彼女はこの一週間の伊豆での経験が、自分の身に起こったことだとはとても信じられなかった。いったいどうしてあんなふうになってしまったんだろうと思っていた。
ときどきブラウスの襟元から香水のほのかなかおりがたちのぼり、鼻先をかすめていくような気がした。村木敏夫の服や手のひらから体に移されたあの気が遠くなるようなかおりだった。ホテルを出るときにシャワーで完全に洗い流したつもりだったが、まだ不十分だったのかもしれなかった。しかしそのかおりとともに思い出すできごと自体は甘美で、彼女は後悔する気持などみじんもなかった。
彼女は複雑な気持で窓の外を眺めつづけた。海の眺めは、線路沿いのタブやナラやマツの林、それにトンネルによってしばしば遮断された。しかしすばらしいスピードで変化するそうした風景も、いまの彼女の目にはほとんどはいらなかった。彼女は目を外にやっているだけで、何も眺めてはいなかった。
彼女には二十九歳のときに結婚し、それから十年間一緒に生活してきた夫がいた。
彼女の夫は洋画家だった。夫の父親も洋画家だった。
彼女がその父親に見初められ、息子の嫁にと頼まれたのは銀座の画廊ではたらいていたときだった。父親は高名な画家だった。彼女は息子の画家と三度ばかり会い、数カ月後に結婚した。綾城高雄はやさしくておだやかそうな男だった。彼女はこの男となら静かで落ちついた生活ができそうだと思った。
彼女は結婚すると北鎌倉の綾城家で生活をはじめたが、夫に画家としての才能があまりないことに気づくまでにそう時間はかからなかった。彼は写真のようにきれいで正確な絵を描くことができたが、その絵には彼独特の表現というものが何もなかった。彼女は長く画廊ではたらいていたので、ある画家を他の画家からきわ立たせる唯一のものは、その画家だけにしかできない独特の表現だということを知っていた。それがないということは画家として致命的なことだった。彼女はそれを知って軽い失望を味わった。
しかし彼女はそれで夫のことをいやになったりはしなかった。反対に、結婚前に想像していたとおりのやさしくておだやかな性格に愛情さえ感じるようになっていた。彼は結婚した夜、三十三歳の男とは思えぬぎこちない態度でキスしながら、きみのような人があらわれるのをずっと待っていたんだと彼女にいった。彼は彼女に対するその態度をいつまでも失わなかった。彼女にはそれがとてもいとしく感じられた。
また彼女は北鎌倉での生活も気に入った。休日になると観光客がやってきて騒がしくなったが、それ以外のときは静かで落ちついた生活ができた。夏と冬は、軽井沢と伊豆高原の父親の別荘ですごした。そこへは父親と三人で行くこともあったが、夫と二人だけで行くこともあった。冬に伊豆高原の別荘へ行くと、彼女はしばしば下田まで足をのばし、|爪木崎《つめきざき》の岬の台地に広がる野水仙の大群落の中を歩いた。それは心の落ちつくすばらしい眺めだった。
高名な画家の父親が死んだのは、彼女が最初の女の子を産んだ直後だった。父親は死の直前に彼女だけを枕元に呼び、弱々しい声でいった。
「あんたにも分っているだろうが、息子の絵は売れるようにはならん。しかし心配はいらん。あんたと息子が生活していくのに必要なぐらいのものは、わたしが残した。問題はそれらの管理だ。息子にそれができるとは思えんから、あんたに頼みたい。できるかね?」
「やってみます」
と彼女はいった。
「わたしの絵を売らなければならなくなったときは、できるだけ高く売るんだよ」
彼は画商に渡さなかった自分の絵を何十枚もアトリエに残していた。そのほかにも、パリに留学していたときに買ったという印象派の画家たちの絵を何枚か持っていた。
父親が死ぬと、彼女は軽井沢の別荘と絵の一部を売って相続税を払った。
夫の綾城高雄はそういうことにはまったく関心がないらしく、これからさき自分たちがどのようにして生活していくのかということすら彼女にきかなかった。彼はただ買い手のつく見込みのない写真のような絵を描きつづけた。彼女は一日のうちに何度も夫のアトリエに行き、そういう絵を描いている夫のそばにすわってぼんやりしていた。そうしていると、パトロンになったような気分がした。
五年後、彼女は伊豆高原の別荘を売った。父親の残していった絵はできるだけ長く手元に置いておきたかったからだった。彼女は父親が死んでからは、むしろ夫よりも父親の思い出に親しみを感じるようになっていた。そして彼女と夫は、いまはその伊豆高原の別荘を売って得た金で生活していた。夫は依然として幸せそうに絵を描きつづけ、彼女はそのそばにすわって彼の世話をしながら日をすごした。彼女の生活は静かで、何の波乱もなかった。彼女はそういう生活に満足していた。また、このあいだに彼女は二人目の女の子を産み、七歳と四歳の子の母親になっていた。
彼女がとつぜん一人でどこかに行ってみたいと思ったのは、そういう一月のある日のことだった。じっさいに旅行に出たあとで、どうしてとつぜんそんなふうに思ったのだろうと考えてみたが、自分でもよく分らなかった。一週間前のすばらしくよく晴れた朝のことだった。その青く澄んだ空に誘われたのかもしれなかった。
彼女はそのことを夫に話した。彼女がそんなことをいうのは結婚以来初めてのことだった。ところが彼は不思議そうな顔をしなかったばかりか、こういってよろこんだのだった。
「きみはもっと早くそういうことをどんどんすべきだったんだよ。ぼくには絵を描くという仕事があるが、きみにはぼくと子供たちの世話をするだけで息抜きの時間がないんだからね。それで、どこへ行くつもりなんだい」
「爪木崎の水仙がちょうど咲いているころだと思うの」
と彼女はいった。行き先までは考えていなかったが、とっさにそのことを思いついたのだった。すると彼はいった。
「ああ、あそこか。あそこはいいなあ」
そして、子供たちの面倒は見ているから、好きなだけ何日でも行ってくるといいといったのだった。
「すぐに帰ってくるわよ。一人で行ったって、どうせすぐに退屈してしまうにきまってるから」
と彼女はいった。じっさいに彼女はそう思っていた。まちがいなくホテルに着いた最初の夜に帰りたくなるにちがいないと。
そうして彼女は下田に出かけたのだった。
綾城町子はその日の夕方に下田に着き、予約したホテルにはいった。シャワーを浴びてホテルのレストランで夕食をすませると、たちまち何もすることがなくなってしまった。
彼女はテレビをつけ、チャンネルをあちこち押してみた。しかし一人ではテレビもすこしも面白くなかった。面白いと思っても、一人では笑いが湧いてこないのだった。そうして一人でじっとしていると、彼女は外界と完全に遮断された空間に一人だけ取り残されたような気持になり、深い孤独感におそわれた。
やはり考えていたとおりだったと思った。彼女は孤独に耐えられなくなり、夫に電話をかけて明日の午後には帰るといった。できればすぐにでも帰りたい気分だった。しかし夫は笑い、すくなくとも二泊はしてくるべきだといって取り合わなかった。それから彼女は二人の子供の声をきいた。子供たちは夫と楽しい夜をすごしているらしく、彼女が家にいなくてもぜんぜんさびしそうではなかった。
「あさってには必ず帰ろう」
と彼女は決めた。それ以上こんなところに一人でいるのはどうしてもいやだった。
あくる日、彼女はタクシーに乗って爪木崎に行った。そこは須崎御用邸からすこしさきの岬だったが、伊豆高原に別荘があったころにはしょっちゅうきていたので、彼女はよく知っていた。タクシーから降り、熱帯植物園やレストハウスのそばを通って歩いて行くと、広々とした岬の草原の台地いっぱいに黄色の野生の水仙の花が満開になっていた。
海からの冷たい風が吹きつけていたが、水仙の群落のまわりの細い遊歩道は、観光客でいっぱいだった。彼女は彼らに混じってしばらくそこを歩いた。風がなければ水仙の花のいいかおりがするはずだったが、風でそれは吹きとばされてしまっていた。
彼女は風が首筋に当たるのを防ぐためにコートの襟を立てて歩いた。
歩くのに疲れるまでにそうたいした時間はかからなかった。それに一人で歩いているのは退屈だった。彼女はレストハウスのほうへ引き返し、タクシー乗り場からタクシーに乗って下田の町へ戻った。タクシーの中で、一人で旅に出ようなどという気まぐれを起こしたことをまた後悔した。
下田の町に戻ると、喫茶店にはいってコーヒーを飲んだ。それを飲んでしまうと何もすることがなくなり、手持ちぶさたになったので、もう一杯たのんだ。時間はなかなかすぎていかなかった。家にいるときは、何もすることがなくても静かになめらかにすぎていくのに、ここではどうしてそんなふうにすぎていかないのだろうと思った。これから夜になり、夜が明けて家に帰る時間になるまでのことを思うと、気が遠くなる感じがした。
気がつくと、店の隅のテーブルにすわっている男の客がチラチラと視線を送ってきていた。声をかけたくてたまらないような感じだった。彼女はあわてて立ち上がって店を出た。逃げるような足どりで早く歩いていると、ある町角のところで香水を売っているちいさな店があるのに気がついた。彼女はその中にはいって行った。
その店の香水は、すべて彼女が知らない名前の香水ばかりだった。手に取って見ていると、店の奥から男がやってきてにこにこしながらいった。
「ここにある香水は、ぜんぶぼくが調合してつくったものなんです。おためしになってみますか?」
「ええ、ありがとう」
と彼女はいった。男は彼女より若そうだったが、話し方もものごしもとても感じがよかった。
「いまは何もつけていらっしゃらないようですが、普段は何をつけていらっしゃいますか?」
男がいった。
「わたし、香水はあまりつけたことがないんです」
と彼女はいった。
「それじゃ、これをどうぞ」
男はかたわらの|小壜《こびん》を手に取り、ふたをとって彼女の手首に中身をつけた。とてもいいかおりがした。彼女が目を閉じ、うっとりとそのかおりを味わっていると、男がいった。
「バラと水仙とオレンジの花とベルガモットとジャスミン、それに|竜涎香《りゆうぜんこう》をひとたらしして調合したものです。いかがですか?」
「すてきだわ」
と彼女はいった。「ほかのもためしてみたいわ」
「いや、それはやめておいたほうがいいです」
「どうして?」
「普通の人がかおりを嗅ぎわけられるのは最初の香水だけで、あとは区別できないでしょうから」
「じゃあ、どうやってどれがいいかを判断したらいいの?」
「それもそうですね。でも、ぼくのいうことも本当のことですよ」
「それじゃ、わたしたちは嗅ぎわけられもしないのに、何種類もためして、あれがいいこれがいいといってるわけ?」
「そういうことになりますね」
「あきれた。じゃあ、これをもらうわ」
と彼女はいった。
その香水はとてもちいさな壜だったが、高価だった。彼女は代金を払い、男が壜を箱に入れて包装するのを待った。
「自分でつくっているとおっしゃったけど、香水ってそんなに簡単につくれるの?」
彼女は男にきいた。
「ええ」
男は箱を包装しながらいった。「いい鼻といい調合感覚さえ持っていればね。材料は誰でも買えますから。もし興味がおありでしたら、仕事場をお見せしましょうか?」
「見たいわ」
と彼女はいった。
男が声をかけると、店の奥のドアが開いて女が出てきた。三十歳ぐらいのかわいらしい女で、赤ん坊を抱いていた。彼女は綾城町子を見るとにっこり笑っていらっしゃいと声をかけた。
「お客さんに仕事場をお見せするから、店のほうをちょっと頼むよ」
と男はその女にいった。
男の仕事場は店のすぐ裏にあった。
「あの人、奥さん?」
そこへ行くあいだに綾城町子は男にきいた。
「ええ」
と男はいった。「先月、子供が生まれたばかりなんですよ」
「かわいい奥さんね」
「いや、もう駄目ですよ」
と男は笑っていった。
仕事場の中は大きな香料の壜だらけだった。棚といわず、テーブルの上といわず、何十という壜がところせましと並んでいた。そのほかにテーブルの上にはそれらを調合するときに使う調合壜やガラスの漏斗などが置いてあった。
男は香料の壜のふたをあけ、彼女にこれがバラのエキスだとかカーネーションのエキスだとかスイートレモンのエキスだとかいって、そのかおりを嗅がせた。彼女はそのかおりに頭がくらくらし、とても全部のかおりを嗅ぐことはできなかった。
「これは全部天然の香料なんですよ」
と男はいった。
「天然じゃないバラのかおりのエキスなんてあるんですか?」
「たいていの香水に使われている香料は、化学的につくられた合成香料ですよ」
「知らなかったわ」
「みんな知りませんよ」
「それであなたの香水は高いのね」
「ええ、そうです。だから売れないんです。東京のいくつかのデパートに置いてもらおうと思って頼んでいるんですがね」
「置いてもらえないんですか」
「ええ、なかなかね」
「でもいつかきっと、世界中の女の人があなたの香水をつけて歩くようになるわよ」
「そうなったら、うれしいですね」
男はにっこり笑っていった。彼女もにっこり笑った。それから男は部屋の隅の戸棚のほうへ行き、中からちいさな壜を取り出してくると、彼女に渡していった。
「これはプレゼントです。さっきのとはべつの香水です。リラの花のかおりがするはずですから、あとでためしてください」
「いただくわけにはいかないわ。わたしはもうあなたの香水の値段を知っているんですもの」
「いいんですよ」
男は笑っていった。「どうせ八十パーセントはアルコールなんですから」
「でも、やっぱりわるいわ」
「じゃあ、こうしましょう。お客さんは下田へは旅行でいらっしゃったんでしょう」
「ええ」
「お一人ですか」
「ええ」
「だったら明日でもぼくに下田を案内させてください」
「それじゃ、あべこべよ」
彼女は笑った。
「駄目ですか」
「うれしいんだけど、明日はわたし、家に帰るんです」
「そうですか」
男はとても残念そうにいった。「でもその香水は受け取ってください。ぼくがあなたに差し上げたいんです」
彼女は受け取った。
男と彼の妻に見送られて香水店を出ると、彼女はまっすぐホテルに戻り、そのまま部屋のベッドに仰向けに横になった。顔が熱く|火照《ほて》り、胸がドキドキしていた。不思議な気持だった。目を閉じて、人に会ってあんなに笑いながら話をしたのはいつ以来のことだろうと考えた。思い出せないほど遠い昔のことのような気がした。
その夜、彼女は夫に電話をかけ、あと二、三日下田にいるつもりだと伝えた。それから男にもらったリラの花のかおりのする香水を胸のところにつけて眠った。
あくる日、綾城町子は午前中に香水店に電話をかけた。店の名前を覚えていたので、電話番号は簡単に調べることができた。
彼女は男に帰りの予定を変えたことを話し、もし都合がつくなら下田を案内してもらいたいといった。男が前日のことを忘れ、断ったなら、電話を切ってそのまま北鎌倉に帰ってしまえばいいと思っていた。しかし男はよろこんで彼女の頼みを承知し、一時にホテルへ迎えに行くといった。
彼女は大急ぎでホテルを出て下田の町へ行き、洋服店をさがした。三軒目の店でシックな紺のスーツが見つかった。下半身のラインがとてもきれいに出るスーツだった。古い服を脱ぎ、それを着て店を出るときに、店員がいった。
「脚がすごくきれいに見えますよ」
綾城町子はうれしくなり、伊豆急下田駅のタクシー乗り場までコートを着ないで歩いて行った。そうして新しい服で歩いていると、自分でも信じられぬほど気分がうきうきしてくるのが分った。すばらしい気分だった。
彼女はホテルに戻り、時間がくるのを待って、男にもらったリラの花のかおりのする香水を手首とうなじと胸のところにつけた。それから新しい服を着た姿を部屋の鏡にうつし、おかしなところがないかを点検した。うつむくと、体温にあたためられた香水が襟元からほんのりとたちのぼってきた。自分でもうっとりするようなかおりだった。彼女は最後にもう一度鏡に目をやり、スーツの上着の裾を両手できゅっと引いた。そうしてロビーに降りて行った。
ロビーには男が待っていて、綾城町子が歩みよるとにっこり笑いかけた。綾城町子はお辞儀をして、すみません、無理をいってといった。
「いいえ、いいんです」
と男はいった。それから彼は、ぼくたちまだ名前を知らないんですよねといい、村木敏夫と名のった。綾城町子も自分の名前をいった。
村木敏夫は自分の車できていた。綾城町子は車のところまで歩きながら彼に訊ねた。
「奥さんに叱られませんでした?」
「いいえ」
と彼はいった。「綾城さんのことは、東京のデパートの商品仕入部の人だといってきましたから」
「嘘をついたんですか」
「ええ」
と彼はいって、いたずらっぽく笑った。綾城町子も笑った。すると彼女も二人で一緒にいたずらをしたような気分になった。
「あの香水をつけてきてくれたんですね」
車に乗ると、村木敏夫がいった。
「ええ」
と彼女はいった。「村木さんは、きっとどっちの香水かすぐに分るんでしょうね」
「顔を近づけてもいいですか」
「どうぞ」
村木敏夫は運転席から助手席のほうに体をよせ、綾城町子の首筋のあたりに顔を近づけた。彼女は彼の唇が首筋のやわらかいところに触れるのではないかと思ってドキドキした。彼女が目を閉じてじっとしていると、やがて彼の顔が遠のき、声がきこえた。
「ぼくが差し上げたほうのやつですね」
彼女は村木敏夫に分らないようにホッと溜息をついた。
村木敏夫は車をスタートさせた。
二人はそれから午後いっぱいかけて、ロープウェイで寝姿山に登ったり、海中水族館でラッコを見たり、玉泉寺のハリス記念館へ行ったりした。玉泉寺は初代アメリカ公使のタウンゼント・ハリスが江戸末期に滞在していた寺で、船大工市兵衛の娘|きち《ヽヽ》が下田奉行の命によって看護人の名目でそのハリスに差し出されたところでもあった。下田には、ほかにも彼女唐人お吉にゆかりの場所がほうぼうにあった。彼女は下田ではもっとも有名な人物であった。
「彼女をどう思いますか」
玉泉寺からの帰りに村木敏夫がいった。
「分らないわ」
と綾城町子はいった。「だってくわしいことは何も知らないんだもの」
「彼女は最後に自殺したんですよ。お吉ヶ淵というんですが、彼女が身を投げた川のところへ行ってみますか」
「いやよ、そんなところへ行くのは」
と彼女は笑っていった。
彼らは下田港に沿って走る海岸の道を通って下田の町に戻った。町に戻ると、冬の日が落ちてすっかり夜になっていた。町にはいったところで、綾城町子はいった。
「お礼に食事をごちそうさせて」
「それはうれしいな」
と村木敏夫はいった。
「どこか、おいしいお店をごぞんじ?」
「何を食べますか」
「何でもいいわ」
「じゃあ、いい|鮨屋《すしや》がありますから、そこへ行きましょう。すぐに行きますか?」
「ええ。行きましょう」
二人は鮨屋に行き、日本酒を飲みながら鮨をつまんだ。
「マグロ以外はみんなおいしいですよ。なかでもアジがおいしいです」
と村木敏夫が耳元でそっとささやいた。
綾城町子は彼にいわれたとおりに食べた。だが十個ほどでおなかがいっぱいになってしまった。普段あまり飲んだことのない酒を飲んだせいだった。
「わたし、顔が赤いでしょう」
と彼女は村木敏夫にいった。
「ええ。すこし」
と村木敏夫はいった。
彼女は赤くなった自分が恥ずかしかった。村木敏夫は、鮨とともに酒も気持よいほどぐいぐい飲んだが、すこしも赤くならなかった。彼女はおなかがいっぱいになったあとは、彼が食べるところを横から眺めていた。村木敏夫はそうやって見られていると照れくさいといった。
「綾城さんももっと食べてください」
「わたしはいいの」
「だって、それじゃ退屈でしょう」
「ちっとも退屈じゃないわ」
彼女は楽しかった。彼女はずいぶん昔の恋人にも、そうやってじっと見つめられていると照れくさいからやめてくれといわれたことが何度もあった。きっと男にはそうしているときの女の幸せな気分が理解できないのだろうと思った。村木敏夫が満腹だといったときには、彼女はじつに幸せな気分になっていた。
二人は外に出た。冬の夜の冷たい空気が熱くなった頬に当たってとても気持がよかった。ホテルまで歩いて帰ろうと彼女は思った。
「それじゃ、ホテルまで送って行きます」
と村木敏夫がいった。
「ありがとう。でも一人で帰るわ」
と彼女はいった。
「どうしてですか」
「歩いて帰りたいから。酔いもさましたいし」
「それじゃ、ぼくも歩いて送って行きます」
二人は並んで歩き出した。ホテルまでは二十分ほどの道のりだった。
「寒くありませんか」
村木敏夫がいった。
「すこし寒いわ」
と彼女はいった。
村木敏夫が肩に手を回してきた。彼女はそうさせたまま歩きつづけた。
「とてもいいかおりだ」
村木敏夫が耳のあたりに顔をよせていった。彼女は鮨屋を出るまえに洗面所に立って香水をつけてきていた。耳のところに彼の息を感じた。
「ぼくはずっと綾城さんのような人に自分の香水をつけてもらいたいと思っていたんです」
と彼はいった。
「どうして」
「分りません。でも、きのうあなたが店にきたとき、ひと目でピンときたんです。自分はこういう人のために香水をつくってきたんだって」
村木敏夫は綾城町子の肩に回した手に力を入れ、ぎゅっと抱きよせてキスした。綾城町子はおどろき、気づいたときには手が動いて彼の頬を打っていた。そしてつぎの瞬間には彼の手から体を振りほどいて走り出していた。
綾城町子はホテルに帰るとすぐにシャワーを浴びた。
熱い湯を全身に浴びながら、彼はどうしてとつぜんあんなことをしたのだろうと思った。あんなふうにすればわたしがどうにかなると思ったのだろうか。きっとそうなのだろう。しかし彼がどんなつもりであんなことをしたにせよ、彼女は彼にあんなことをされることなど望んでいなかった。下田へはあんなことをされるためにやってきたのではないのだ。そのことだけははっきりしていた。
シャワーを浴びると気持がすこし落ちついた。彼女は髪を乾かし、パジャマを着てベッドにはいった。しばらくじっとしていると、午前中に村木敏夫のところに電話をかけたあとで、大急ぎで新しい洋服を買いに行ったときの気分を思い出した。あんなに気持がはずんだのは、もう何年もなかったことだった。きっと彼はいまごろ怒っているだろう。どうして彼を殴るなんてバカな真似をしてしまったのだろうと思った。なんだかとても大切なものをなくしてしまったような気がした。すると不意に涙が出てきた。そのままじっとしていると、海岸の|崖《がけ》に打ちよせる波の音がかすかにきこえてきた。その音をきいているうちに彼女は眠ってしまった。
あくる日、彼女は目を覚ますと、村木敏夫から電話がかかってくるのではないかとずっと待っていた。しかし昼まで待っても電話は鳴らなかった。やがて彼女は当てのない電話を待っていることに耐えられなくなり、とうとう自分のほうからかけた。村木敏夫が電話に出た。
「わたしです」
と彼女はいった。
「はい」
と村木敏夫はいった。
「きのうのこと、怒ってない?」
「いいえ」
「ごめんなさい」
「はい」
「お客さんがいるの?」
「はい」
「じゃあ、手短かにいうわ。お詫びに食事をごちそうさせて」
「ありがとうございます」
「今夜七時にホテルのロビーにきてくださる?」
「かしこまりました」
彼女は電話を切った。
再び気持がはずんできた。きょうはどの洋服を着ようかと考えた。家からは気に入ったものを選んで三着持ってきていたが、いまの彼女にはそれらはどれも地味すぎて野暮ったく感じられた。しかし二日つづけて同じ服を着るわけにはいかなかったので、その中から同色のスカーフのついた濃いグリーンのワンピースを選んで着ることにした。そして香水は、最初に自分で買ったほうのをつけるつもりだった。
彼女は七時までじりじりしながら待った。時間は止まってしまったように進むのが遅かったが、何もすることがなくて退屈しているときとちがって、胸が破裂しそうに大きな鼓動を打っていた。北鎌倉で生活していたときの彼女は、夫の父親が残した財産を家族のために管理して、夫をパトロンのように見守り、二人の子供もちゃんと育てているというしっかりした女の見本のような女だった。しかも彼女はそういう生活に不満を持ったことはなく、静かでおだやかな暮らしに幸福さえ感じていた。しかしいまの彼女も、同じ綾城町子だった。
彼女は時間がくるとさきにロビーに降りて村木敏夫を待った。そしてホテルの玄関に彼の車があらわれると、外に出て行って自分で車のドアをあけて中にすべりこんだ。なんとなく、そんなふうにしたほうがいいと感じたのだ。彼は彼女が乗るとすぐに車をスタートさせた。なんだか、人目を避けて会っているような感じがしてドキドキした。
「きのうは本当にごめんなさい。三十九にもなるのに十六の女の子のような真似をしちゃって」
と彼女はいった。
「いいえ、ぼくがわるいんです。ぼくだって三十三にもなるのに、あなたをおどろかせるようなことをして」
と彼はいった。
車は下田の町を通り抜け、海岸沿いの道を走った。
「どこへ行くの?」
と彼女はきいた。
「稲取まで行こうと思って」
と彼はいった。「稲取だったら知っている人間に会わなくてすみますから」
稲取までは三十分ほどだった。
稲取に着くと、村木敏夫は温泉ホテルの林立する町の中をすこし走って、町はずれの高台にある割烹料理屋に彼女を連れて行った。二人は座敷に上がり、魚料理をとって日本酒を飲んだ。
二人ともすごいピッチで飲んだ。綾城町子はいままでそんなふうに飲んだことがなかったので、飲もうと思えばいくらでも飲めるらしいことを知っておどろいた。二人はたがいに酌をしながら、目を合わせて笑った。二人ともあまりしゃべらなかった。
「そんなに飲んでだいじょうぶですか」
やがて村木敏夫がいった。
「だいじょうぶよ」
と綾城町子はいった。
「退屈じゃありませんか」
「どうして」
「ぼくがこんなふうだから」
「こんなふうって?」
「売れもしない香水をつくっているだけで、あなたのようなすてきな人と一緒にいても、気のきいた話ひとつできないんです。バカみたいでしょう」
「そんなことはないわ。わたしは楽しいわ」
「もうきのうの夜のようなことはしませんから」
村木敏夫はまだ彼女が怒ってその頬を打ったのだと思っているようだった。彼女はそれがおかしくて笑ってしまった。村木敏夫は彼女がなぜ笑ったのか理解できないようだった。彼女は彼に酒をついでやった。それからトイレに行くために立ち上がった。
つぎの瞬間、彼女は尻もちをつき、村木敏夫に助け起こされていた。彼女自身は自分に何が起きたのかさえ分らなかった。ただ彼に助けられ、彼の腕の中で再び立ち上がろうともがいていた。
「だいじょうぶですか」
と村木敏夫がいった。
「だいじょうぶ」
と彼女はいった。立ち上がり、座敷から降りて何とか靴をはいて歩いて行った。足もとがまったくおぼつかなかった。
トイレから出ると、村木敏夫が彼女のコートを手に持ち、心配そうな顔で立っていた。
「帰りましょう」
と彼はいった。
「わたしは平気よ」
と彼女はいった。
彼は彼女にコートを着せ、腰を抱くようにして車のところに連れて行った。
「お勘定を払ってこなくちゃ」
と彼女はいった。
「ぼくが払いました」
と彼はいった。それから彼女を車に乗せ、自分も乗った。
車がスタートすると、彼女は胸がムカムカして気分がわるくなってきた。
「気分がわるいの」
と彼女はいった。
「三十分ですから我慢してください」
「駄目よ。我慢できないわ。目がまわるのよ」
「じゃあ、窓をあけて冷たい空気を入れてください」
「お願いだから、どこかですこし休ませて」
「そんなにひどいんですか」
「本当に我慢できないの。どこでもかまわないから休めるところに連れて行って」
村木敏夫は道路沿いの温泉ホテルに車を乗り入れた。それから彼女を抱くようにして車から降ろすと、ふらつく足どりの彼女をささえてフロントに行き、彼女の名前で部屋を取った。
部屋にはいると、綾城町子はコートを着たまま畳の上にうつぶせに寝てしまった。すぐそのあとから仲居がやってきてお茶を出し、布団を敷いていった。仲居は風呂はどうしましょうといったが、村木敏夫は自分でやるからといって帰した。
村木敏夫は綾城町子をどのように扱ったらいいのか分らなかった。途方に暮れていると彼女が寝返りを打ち、つらそうな声で服を脱がせてといった。
「苦しいのよ」
村木敏夫はコートを脱がせた。そのさきをためらっていると、彼女がワンピースもといった。彼はワンピースを脱がせた。
「ブラジャーも」
と彼女はいった。
彼がブラジャーのフックをはずしてゆるめてやると、彼女は両方の腕を彼の首にまわして抱きよせた。彼は彼女に重なり、顔をよせてキスした。それから自分の服を脱いだ。
「ぼくは最初に会ったときからこうなりたかったんだ」
すっかり服を脱いで綾城町子をあらあらしく抱きしめると、彼はいった。
「わたしはなりたくなかったわ」
と綾城町子はいった。
村木敏夫の手は香料のかおりがした。彼は綾城町子の裸の胸の上にその手を置いて眠っていた。きっと彼の手がさわったところにはどこにもそのかおりがついているだろうと彼女は思った。
「起きなさい」
と彼女はいった。
「何時だろう」
と彼はいった。十一時だった。「帰らなくちゃ」
「そのまえにシャワーを浴びなくちゃ駄目よ」
と彼女はいった。
彼はあわてて風呂場にとびこんで行った。彼がシャワーを浴びているあいだに、彼女はホテルの浴衣を着た。村木敏夫は風呂場から出てくると、彼女のその姿を見てどうしたんですかといった。
「下田に帰らないんですか」
「面倒だから、このままここに泊ることにしたわ」
と彼女はいった。「それにここもよさそうなホテルだから、明日からもしばらくここに泊ろうと思うの。そのほうがあなたにも会いやすいでしょう」
「そうですね」
「迷惑?」
「迷惑だなんてとんでもない」
「よかったわ」
「じゃあ、ぼくは帰ります」
「明日、電話をちょうだい」
「分りました」
あくる日、彼女はホテルでタクシーを呼んでもらい、下田のホテルをチェック・アウトして荷物を運んできた。それから北鎌倉の家に電話をして、しばらく稲取で温泉につかっていくつもりだと夫にいった。夫はそのことをよろこび、いつまででも好きなだけ温泉につかってきていいといった。子供たちも元気なようだった。
村木敏夫から電話がかかってきたのは、夜の八時だった。
「いま、どこにいるの?」
と彼女はきいた。
「下田です」
「じゃあ、こっちへくるのは遅くなるのね」
「それが、きょうは行けそうもないんです」
「どうして」
「いろいろとありまして」
「奥さんに知られたの?」
「いえ、それはだいじょうぶです」
「よかった」
「ですから、また電話します」
「明日は会えるの?」
「明日も駄目だと思います」
「そうなの」
「そんな声、出さないでください。ぼくだって会いたいんですから。ぼくまで悲しくなります」
「ごめんなさい」
「そのうち必ず時間をつくります。また電話します」
電話が切れると、一日中彼に会うことを考えて息苦しくなるほどにふくれ上がっていた気持がさっとしぼみ、とてもみじめな気持になった。長いあいだ心の奥底に眠らせておいた感情を刺激した罰だと彼女は思った。感情を刺激すると必ずこんな結果になるから、彼女はそうすることがいやだったのだった。
彼女は村木敏夫をずっと待っていて食事をしていなかったので、とても空腹だった。しかしいまから一人で食事をする気分にはなれなかった。彼女は部屋で一人でじっとしていた。空腹で、みじめで、あらゆるものが何もかも抜け落ちてしまった感じだった。
あくる日になると、彼女はすこし元気になった。朝食の世話をしてくれた仲居が、バイオパークにでも行ってきたらどうかとすすめたので、午後からそこへ行った。キリンやサイやフラミンゴが放し飼いになっていて、場内を走るバスの中から見ることができるようになっていた。しかし頭の中では村木敏夫のことばかり考えていた。
つぎの日は彼女はきっと電話がかかってくるだろうと思って昼すぎまで待っていた。しかしそれ以上は待っていられなかった。彼女は下田の洋服店で買った紺のスーツを身に着けると、タクシーを呼んでもらって下田へ行った。
村木敏夫の香水店の前でタクシーから降りると、彼と赤ん坊を抱いた彼の妻が店の中で何か話しているのが見えた。彼女がドアをあけてそこにはいって行くと、彼はおどろいて声をのんだ。
「いらっしゃいませ」
彼の妻がにこにこしながらいった。
「こんにちは」
と綾城町子は二人にいった。「もう一度よく品物を見せてもらおうと思って」
「わざわざまた東京からいらしてくださったんですか」
彼の妻はいった。
「ええ、御主人の香水をうちで扱わせていただくかどうか検討しはじめたところなものですから。あと二つ、三つ、サンプルが必要なんです」
綾城町子はにこにこしながらいった。結婚前は画廊ではたらいていたので、商人のような口ぶりで話すのは何でもなかった。すると村木敏夫がいった。
「それじゃ、仕事場のほうへきてください」
綾城町子は彼の妻に笑いかけ、彼のあとについて店の裏の彼の仕事場へ行った。仕事場の中へはいり、ドアを閉めると、村木敏夫は彼女を抱きよせてキスした。
「ごめんなさい」
と彼女はいった。「あなたをおどろかすつもりはなかったの」
「いいえ、ぼくのほうこそ稲取に行けなくてすみません」
と彼はいった。
「奥さんのことが気になるんでしょう」
「いいえ、そんなことはありませんけど」
「恥ずかしがることないわ。当然のことだもの」
「すみません。ぼくはあんな時間にあんまりちょくちょく家をあけたことがないんです。だから、おとといから何とか家を出る理由をつくろうと考えているんですが、なかなかうまい理由が見つからないんです。でも、きょうか明日には必ず何か理由を見つけて、稲取に行きます」
「無理はしないで」
と彼女はいった。しかしそれは本当の気持ではなかった。
「もう一度キスして」
と彼女はいった。
それから彼女は村木敏夫の唇についた口紅を拭き取り、自分の唇には口紅を塗り直した。そして最後にそばにあった香水の小壜を三つばかり手にすると、二人で店のほうに戻った。
店では彼の妻がコーヒーをいれて待っていた。綾城町子はほかにまだ行かなくてはならないところがあるからといって断った。すると彼の妻がいった。
「きょうは下田にお泊りですか」
「いいえ、稲取です」
「食事なんか一人ではつまらないんじゃないですか」
「いつものことですから」
「あなた、おつき合いしてさしあげたら?」
彼の妻は夫のほうを見ていった。
「結構ですよ」
と綾城町子はいった。「若い女の子ならともかく、わたしなんかが相手じゃ御主人のほうが退屈してしまうでしょうから」
「ねえ、あなた、そうしてさしあげたら?」
「じゃあ、ぼくでよろしければ」
と、村木敏夫はいった。
綾城町子は精いっぱい遠慮しながら、ホテルの名前をいった。村木敏夫は、それじゃ七時にそのホテルへうかがいますといった。
綾城町子はその日は夜になるのが待ちきれなかった。稲取のホテルに戻り、部屋の中で五分ごとに時計を見てすごした。そして七時になる三十分も前にロビーに降りて行った。村木敏夫は七時ちょうどにやってきた。二人は彼の車で、まえに行った町はずれの高台にある割烹料理屋へ行った。
まえと同じように魚料理をとって日本酒をすこし飲むと、彼女はすぐにいい気持になった。
「ねえ、明日は二人でバイオパークへ行かない?」
彼女はにこにこ笑いながらいった。
「無理ですよ」
と彼は酒を飲みながらいった。
「キリンやサイがいるのよ。知ってる?」
「知ってます。でも駄目ですよ」
「どうしてよ」
「一週間に二度も店を留守にするわけにはいきませんよ」
「いいじゃない」
「よくありませんよ」
彼女は困っている村木敏夫の顔を見て笑いかけた。そしていった。
「冗談よ」
それからまた酒を飲んだ。
「あまり飲まないほうがいいんじゃないですか」
村木敏夫がいった。
「どうして、酔っぱらった女が嫌いなの?」
「そういうわけじゃありませんけど」
「お酒を飲んで酔わなかったら、何のために飲むのよ」
村木敏夫は彼女より六つも年下だったが、彼女は彼に甘えていた。うっとりして、とてもいい気分だった。
彼らはそこに一時間ほどいてホテルに戻った。部屋にはいるとすでに布団が敷いてあった。それはもう仲居はやってこないということだった。彼女は酔ってふらついていたが、冷蔵庫からビールを出して二つのグラスに注いだ。ほかにどうしていいか分らなかったからだ。村木敏夫はそれを一口で一気に飲みほした。それから彼女の手をつかみ、布団の上に倒した。
彼女はすぐに裸にされた。それは彼女があれからずっと待ち望んでいたことだったので、体の上にのってきた彼を強く抱きしめた。キスをして彼の手が体に触れると、彼女は甘い声を出した。彼女も裸になった彼の体にさわった。それはこのまえのときはしなかったことだった。あらゆることがこのまえよりも十分にできた。
「好きだよ」
と村木敏夫がいった。
「ああ、わたしもよ」
と彼女はいった。
彼女はとろけそうな気分ですこしうとうとした。ふと目を覚ますと、村木敏夫が体の上に重くのしかかって胸や腹を圧迫していた。
「ねえ、眠ってるの」
と彼女はいった。体を手で揺すったが、彼は動こうともしなかった。彼女は彼の体の下から横にすり抜けた。それから彼女は顔を横に向けてしばらく彼の寝顔を見つめていたが、再びいい気持になってそのまま眠ってしまった。
つぎに目を覚ますと、風呂場でシャワーの音がしていた。彼女はうとうとしながらその音をきいていた。
「もう帰るよ」
と村木敏夫の声がいった。
彼女が目をあけると、彼が服を着て布団のそばに立っていた。
「いやよ」
と彼女はいった。|呂律《ろれつ》がよくまわらなかった。彼女はまだ酔っていた。
「でも、ぼくは帰らなくちゃ」
「帰らないで」
「そういうわけにはいかないですよ」
「お願いだから一人にしないで」
「駄目ですよ」
「お願いよ」
彼女は布団から手を出して彼の足首をつかんだ。
「帰りますよ」
と彼はいった。
「駄目。帰っちゃ駄目」
と彼女はいった。
彼は彼女が酔っぱらっていっているのか、本気でいっているのか分らなかった。
「帰ります」
と彼はいった。そして意を決して歩き出し、靴をはいた。
「いやよー」
彼女は布団に横になったまま長い叫び声をあげた。
彼はドアを閉めて出て行った。
あくる朝、綾城町子は目を覚ますとすぐに、この旅行はきょうで切り上げようと決めた。きのうの夜のような自分は二度と見たくなかった。彼女はあのとき、酒の酔いと眠気で朦朧としていたが、自分が村木敏夫にどんなことをいって取り乱した様子を見せたかをすべて知っていた。あんな真似をするのは二度といやだった。そして彼女は朝食をとり、シャワーを浴びると、大急ぎでホテルを出て伊豆急に乗ったのだった。
彼女はいま、熱海で東海道線に乗り換えて北鎌倉に向かっていた。
彼女は稲取の駅で電車に乗ってから、どうしてあんなふうに取り乱してバカな真似をしてしまったのだろうとずっと考えていたが、はっきりしたことは分らなかった。やがて北鎌倉の駅が近づいてきたので、彼女はそのことを考えるのはやめた。どっちみち、やってしまったことは取り返しがつかないのだ。早く忘れようと思った。
北鎌倉の駅で降りて改札口を出ると、夫と二人の子供が待っていた。彼女は熱海の駅からこれから帰ると電話をしておいたのだった。彼女の姿を見つけると二人の子供が走ってきた。そのとき彼女は子供たちにも夫にも何も土産を買ってこなかったことに気づいた。でも、みんなきっと許してくれるだろうと思った。
彼女は夫に旅の荷物を持ってもらい、二人の子供の手を左右につないで家に帰って行った。
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夏の終りの風

葛原亮子が住んでいる町には、あるプロ野球の二軍のチームが試合と練習に使うスタンドのない球場があった。外野の芝生はあちこちがはげ、内野には土埃が舞い、鉄柵やバックネットには|錆《さび》が浮いていた。しかし、彼女には野球の球場といえばそこしかなかった。
彼女は夏のあいだ、そこで若い二軍の選手たちがリーグの五つのチームを迎えて試合をするのを見た。彼女はその町に二十年住みついていた。そのあいだ、選手たちの顔ぶれは年ごとに変化したが、彼らがやることは変わらなかった。汗と土埃で顔や手をまっ黒にしながら、白いボールを投げたり打ったりして夢中で点を取り合うのだ。彼女は草の生えた土堤にすわり、球場の向こうの川の上を渡ってくる風に吹かれながら、そういう若い選手たちを眺めているのが好きだった。
だが、いまは秋の風が吹いていた。外野の柵の後方に大きなケヤキの木が二本あったが、それがその風に揺れていた。葛原亮子は、夏がすぎて野球のシーズンが終っても、いつもすぐにはそのことを納得できなかった。夏のシーズンの印象があまりにもあざやかだったからだ。秋の風が吹いて、彼女は初めて野球のシーズンが終ったことを認めさせられるのだった。
その風が吹いていた。
球場では、いましも選手たちがコーチのノックを受けて内外野を走りまわっていた。葛原亮子は彼らが練習をしているところを眺めるのも好きだった。ハンサムでスタイルのいい若者がたくさんいた。二十年前の選手のように髪をスポーツ刈りにしている者はなく、みんな長く伸ばしていた。しかし彼女はハンサムでスタイルがいいだけでは好きになれなかった。それだけでは満足できなかった。
彼女はそれを口で説明することはできなかったが、自分が好きになる選手のことはすぐに分った。見ると体がぞくぞくするからだ。彼女はそういう選手があらわれるとどうしても手に入れずにはいられなくなった。彼女は野球選手以外は興味がなかった。そして彼女はこれと思った選手を見つけると、たいてい自分のものにしてきた。彼女の誘いをことわる選手はめったにいなかった。
彼女は彼らを手に入れると、彼らに親切につくした。何もかも惜しみなく与えた。しかしどういうわけか、いつも長くはつづかなかった。不思議なことに、彼女が手に入れた選手は、それから一年か、早ければ半年もしないうちに、きまって彼女の住んでいる町と野球場から離れて行ってしまった。それまではたいしたことがなかった選手でも、彼女が手に入れるとそのとたんにとつぜん試合で活躍しはじめ、それを耳にした一軍の監督がたちまち上にあげてしまうからだった。そしてそれで終りだった。彼らは一軍にあがる前の夜に彼女のアパートへやってきて、絶対に忘れないとか、必ずまた戻ってくるとかいったが、戻ってきた選手は一人もいなかった。
葛原亮子は川原の土堤の茶色に枯れかかった草の上から腰をあげた。彼女は若い選手たちが走りまわって練習するところを見ているのも好きだったが、夏のシーズンの試合ほどは好きではなかった。それにいまのチームには見ていて体がぞくぞくするような選手もいなかった。この季節にこの球場でノックを受けている選手は、一年かかっても一軍にあがれなかった選手ばかりだった。彼女はさびしいからといって、体がぞくぞくしない選手に手を出すつもりはなかった。そのときがくれば黙っていても手にはいるのだと思った。この町での二十年間の生活で彼女はそのことをよく知っていた。
彼女は一塁側のダッグアウトのほうへ歩いて行った。ダッグアウトには粗末なベンチが二列に並べて置いてあった。土埃で白くなっていた。彼女が歩いて行くと、そこでユニフォームを脱いでアンダーシャツを着替えていた選手が、柵越しに声をかけてきた。
「ママ、今夜行くよ」
「ありがとう。待ってるわ」
と彼女はいった。「調子はどう?」
「駄目だね」
と彼は笑った。彼は大学から入団して五年目になる外野手だった。
「頑張んなさいよ」
と彼女はいった。このチームには彼女が知らない選手はいなかったし、彼女を知らない選手もいなかった。彼女に声をかけた外野手は、アンダーシャツを着替えると彼女に手を振って外野のほうへ走って行った。
彼女はそこに立ち止まってまたしばらく選手たちの動きをぼんやり見ていた。するとコーチの一人が退屈そうにぶらぶらやってきて柵越しに声をかけた。
「店は繁盛してるかい?」
「おかげさまで」
と彼女はいった。
「若い連中にあまり飲ませないでくれよな」
「知らないわ、そんなこと。わたしは慈善事業をやっているんじゃないんだから」
「冗談だよ。冗談」
とコーチは笑っていった。虫の好かない男だった。このコーチは選手のあいだでも評判がわるかった。
「森田が九月と十月の二カ月でホームランを十本も打ったのを知ってるかい?」
彼女が黙っていると、彼がいった。
「知らないわ」
と彼女はいった。森田というのは彼女がこの四月に手に入れ、九月の初めに一軍に呼ばれてこの町から離れて行った内野手だった。彼女と彼のことはチームの人間なら誰でも知っていることだった。
「いまじゃ、スター気どりで六本木あたりで遊んでいるらしいぞ」
とコーチはいった。
「それがどうかしたの?」
と彼女はいった。
「どうもしないさ」
とコーチはいった。そしてにやにや笑いながらグラウンドのほうへ行ってしまった。
彼女はダッグアウトのところから離れ、自転車を置いたところまで歩いて行った。選手やコーチたちが練習をやめ、うしろ姿を見ているような気がした。彼女は背筋をまっすぐに伸ばして胸を張って歩いた。それは彼女がこの二十年間、手に入れた男を失うたびにとってきた姿勢だった。彼女は泣きごとはいわなかった。彼女は自転車に乗り、秋風に揺れている二本のケヤキの木の下を通ってアパートに帰った。
アパートに帰ると、彼女は一人で塩昆布のお茶漬けを食べ、着替えをして、六時に店に出た。店に出ると気持が明るくなった。彼女の店は、客が八人はいればいっぱいになってしまうちいさなカウンター・バーだったが、ここにいるとこここそ自分のいるべき場所だとはっきりと感じることができたからだ。彼女は二十歳でこの仕事の道にはいり、二十五歳でこの店を持ったが、店を持ってからは、この中では何があってもびくともしなくなった。彼女はここにいるときの自分が一番好きだった。
客がくると、彼女は客と一緒に酒を飲んだ。彼女は客とおしゃべりをして騒ぐことも、酒を飲むことも好きだった。ときには飲みすぎて酔っぱらってしまうこともあった。しかし客たちはそういう彼女を面白がり、好もしく思っていた。彼女は店の中では誰からも愛され、やさしくされていた。
昼間、球場で声をかけてきた外野手は九時ごろやってきた。彼はこの春に高校から入団したばかりのピッチャーと内野手を一緒に連れてきた。彼らのような給料の安い二軍選手にとっては、葛原亮子の店はなくてはならぬところだった。酒が安く飲めたからだ。そのうえ、給料を全部使いはたしてしまったようなときでも、球団をクビにならないかぎり、請求書をつきつけられるようなことはなかった。彼らは彼女の気にさわるようなことさえしなければ、ここではいつでも酒が飲めるのだ。
外野手の谷沢一男は気のいい男だった。大学を出てから五年間も二軍暮らしをしているというのに、そのことをちっとも気に病んでいなかった。気に病んでいることを知られまいと思っているのかもしれなかったが、ともかく彼はそのことで愚痴をこぼしたことはなく、いつも明るくふるまっていた。葛原亮子はそういう彼に好意を持っていた。しかし手に入れて自分のものにしたいとは思っていなかった。
しばらくするとさきにきていた二人の客が引きあげ、客は彼ら三人だけになった。
「おまえら、飲んでるか?」
と谷沢一男が二人の若い選手にいった。
「飲んでます」
と彼らはいった。三人ともウィスキーの水割りを飲んでいた。
葛原亮子は彼らの顔を知っていたが、彼らがここへきたのは初めてだった。彼らは二人とも彼女から見るとまだ何ともあどけない顔をしていた。体もまだ細くて、プロ野球選手の体になっていなかった。
「こいつは甲子園に行ったんだよ、ママ」
ピッチャーのほうを顎でしゃくって谷沢一男はいった。
「あら、そう」
と葛原亮子はいった。
「おまえも行ったのか?」
「いえ、自分は行かなかったです」
と内野手のほうはいった。
「おまえらもはやくこのママに目をかけられるようになれよ」
「どうしてですか」
内野手のほうがいった。
「知らないのか」
と谷沢一男はいった。「ママに目をかけられると、そいつはそのうち必ず一軍に引きあげられることになっているんだ。ママはおれたちにとっちゃ幸運の女神なのさ」
「ふうん」
と二人の若い選手はいって葛原亮子の顔を見た。
「バカなことをいうもんじゃないわよ。二人が本気にしたらどうするのよ」
と彼女はいった。
「いいじゃないか。ほんとのことなんだから」
と谷沢一男はいった。
「こんなおばさんに目をかけられたら、この人たちが迷惑するわよ、ねえ」
と彼女は二人の若い選手を見ていった。
「おれは迷惑なんかしないぜ」
谷沢一男はいった。
「ちゃんと目をかけているじゃないの」
彼女はいった。「目をかけてなかったら、請求書をためたままで飲ませてなんかいないわよ」
「それにしちゃ、おれは一軍に行けないなあ」
と谷沢一男はいった。
「あんた、行く気がないんじゃないの」
と彼女はいった。「もっと頑張んなさいよ」
「来年は行ってみせるよ」
「そうよ。いつまでもこの町にいちゃ駄目よ」
と彼女はいった。
「やつはあれからここへきたかい?」
と谷沢一男はいった。彼はこの夏一軍に引きあげられて行った森田正人の大学の先輩だった。
「きてないわよ。くるわけがないじゃないの」
と彼女はいった。
「おれならまたくるがな」
「いいのよ」
と彼女はいった。
それから彼女は彼らと一緒に店を閉める時間の十二時までウィスキーを飲んでいた。そうしているのが一番楽しかった。彼らは球団の合宿所に住んでいて、合宿所の門限は十時だったが、彼女は心配しなかった。彼らは寮長に見つからずに合宿所にもぐりこむ方法を知っていて、いつもうまくやっていたからだ。しかし彼女は彼らと同じペースで飲んだので酔っぱらってしまった。店のドアを閉めて外に出ると、すこし足がふらついた。
「送って行こうか」
と谷沢一男がいった。
「うん。お願い」
と彼女はいった。
若い二人の選手がどこかへ走って行き、タクシーをつかまえてきた。彼女は三人の野球選手に送られてアパートに帰った。彼らに大切にされていると思うと、とても気持がよかった。
彼女はアパートのまえでタクシーを降り、彼らと別れた。二階への階段をあがろうとすると、足がまだふらついていて、頭も痛くなっていた。
彼女は何とか階段をあがり、暗い部屋にはいって明りをつけた。それからふらつきながら服を脱いだ。何か食べなければならないと思ったが、もう何をする気力もなくなっていた。一人きりになって、三人の野球選手と一緒にいたときの楽しい気持もなくなってしまっていた。彼女は明りを消し、ベッドにはいって眠った。ほかには何もすることがなかった。
やがて目が覚めた。いくらも眠っていなかった。頭がひどく痛み、胸がむかついて吐き気がした。しばらくじっとして我慢していた。そうしていると額に脂汗が出てきた。明りをつけて起き上がり、壁に手をついて歩きながらトイレに行った。彼女はそこで胃の中のものを吐き出した。いくら吐き出しても、吐き気はおさまらなかった。最後には苦しくて涙が出た。
吐こうとしても何も出なくなってからベッドに戻った。体をまるめて横になり、苦しみをこらえた。孤独が身にしみた。とてもみじめな気分だった。
窓の外では秋の強い風の音がしていた。嵐のまえぶれのような吹き方だった。彼女は体をまるめたまま、じっとその音をきいていた。それから、どうして誰も彼もこの町から出て行っちゃうのよ、と思った。そう思うとまた涙が出たが、流れるままにして風の音をきいているうちに眠ってしまった。
山口滋がプロ野球の選手になったのは二十四歳のときだった。
彼は大学のときはこれといった成績を残せなかったが、ノンプロのあるチームにはいって頭角をあらわした。そのチームにはいいショートがいなかった。そこで監督が、大学のときはセカンドを守っていた彼をショートにコンバートしたのだ。彼はおそろしく肩がよかったからだ。そして彼はチームとともに都市対抗野球に出場して、プロのスカウトに目をつけられたのだった。
プロの選手になった一年目は二軍で暮らした。二十四歳にもなって高校を出たばかりの選手たちと一緒に練習をするのはバカバカしい気がしたが、ともかく自分のやるべきことをやろうと決めて練習にはげんだ。彼はバッティングでは監督に認められないだろうと分っていたので、徹底的に守備をみがいた。一軍のショートはバッティングはよかったが、守備はからきし駄目だった。そこで守備力をアピールすれば、守備固め要員として一軍に引きあげられるだろうと思ったのだ。重要なのは、まず一軍に行くことだった。
彼は肩が強かったので、へたなショートより三メートルは深く守ることができた。そのぶん多くのゴロを捕ることができた。秘密はそれだけだったのだが、一年でプロの選手の打球のスピードに慣れると、二軍のどのチームのショートよりも多くのゴロを捕れるようになった。
彼は二年目の八月にその守備力を見込まれて一軍に引きあげられた。炎天下での試合が終った直後に二軍監督からそのことを告げられたときには、これでやっとこの球場からおさらばできると思って気持がさばさばした。センターの後方の二本のケヤキの大木に葉が繁っているときは見ていて気持がよかったが、それ以外は埃っぽいだけで何もない球場だった。その球場で試合や練習をするたびに、はやく大きなスタンドがある球場で野球をやりたいと思っていたのだ。
その夜、山口滋はそれまでやさしくつき合ってくれた女のところへ行った。そしてこんどは東京で会おうといって別れたが、彼女のことはそれきり忘れてしまった。それ以来、合宿所にはほとんど帰らなくなったからだ。月のうちの半分は遠征だったし、ホームゲームのときも一軍の試合はナイターだったので、試合が終ると合宿所住まいの選手は球団が用意した一軍の球場の近くのホテルに泊ることになっていたのだ。そしてシーズンオフになると、彼は合宿所そのものから出てしまった。そのころには新しく知り合った女とつき合っていた。
それから彼は十年間、一軍で内野の守備要員としてすごした。リードした試合の終盤でいつでも使えるエラーをしない内野手を持っているというのは、どんな監督にとっても心強いことだった。そのために彼はレギュラーにこそなれなかったものの、どの監督からも非常に重宝されたのである。
三十五歳で引退すると、彼は一軍の内野守備コーチになった。彼は現役時代、内野の守備要員に甘んじ、それが自分のやるべきことだと思って、そのことに徹してきた。他の選手の中には、引退した有力なOBやフロントの重役に近づいて政治的な動きをする者もいたが、彼はそんなことはしなかった。それがよかったらしかった。そのときちょうど新しく一軍の監督になった男が、彼なら自分の地位をおびやかすまいと考えてコーチに抜擢したのである。
山口滋は一軍の内野守備コーチを三年間つとめた。その間のチームの成績はあまりかんばしくなかった。球団は監督のクビを切った。山口滋はきっと自分も一緒にクビになるだろうと覚悟をきめた。野球の世界は結果がすべてだから仕方のないことだった。ところが彼はクビにならなかった。そのかわりに二軍の監督になるように命じられたのである。山口滋にとっては思いがけないことだった。しかし、ともかく彼はそうして十三年ぶりに二軍の球場に戻ることになったのだった。
山口滋は年が明けて一月になると、二軍の球場のある町にアパートを借りた。現役時代に手にいれたアパートを東京に持っていたが、そこから通うには遠すぎたからだ。彼は一軍にあがって三年目に向こうから近づいてきたある女と結婚したが、いまは離婚していた。そのために彼はアパートに置くベッドやテーブルや日用品を全部一人で買いそろえなければならなかった。しかしそういうことをしてくれる女をほしいとは思わなかった。もう何年も女とつき合うのは面倒くさいと思っていた。
彼は一月の下旬に新しく借りたアパートに移った。そして二軍のコーチたちと二月一日からはじまるキャンプの打ち合わせをした。それが終ると一人で|鮨屋《すしや》に行った。二軍の選手だったころに知っていた店で、そのころずいぶんうまいと思って食べたところだった。行くとおやじが覚えていて、声をかけてくれた。彼は気持がなごみ、ビールをとって鮨をつまんだ。しかし鮨は十三年まえにうまいと思ったほどはうまくなかった。鮨屋は変わっていなかった。彼が変わったのだ。彼は、知っているはずの町なのに、まったく知らないところに一人できてしまったような気がした。
アパートに帰ると一人でテレビをつけ、またビールを飲んだ。ほかにすることがなかったからだ。この町にはまだ友だちがいなかった。彼は一人きりでいることには慣れていた。しかしそれがいやになることもあった。いまはいやだった。味気なくてやりきれない気がした。
「くそ」
と思った。
彼は自分がどこに行けばいいのかとっくに気づいていた。しかし確信が持てなかった。彼はさらにビールを飲んだ。すると頭の芯でますますやりきれなさがつのってきた。そんな気分になるために飲みはじめたのではなかったが、どうしようもなかった。
彼はとうとう気持を押さえきれなくなってアパートから出て行った。タクシーのひろえるところまで歩いて、町の繁華街に向かった。町の様子は十三年まえとずいぶんちがっていた。しかし目的の場所は迷わずに見つけることができた。彼はそのまえに行くと、一度立ちどまったあとで、葛原亮子の店にはいって行った。
葛原亮子の店は、ドアをあけて中にはいるとそこがカウンターだった。彼女はドアがあくと機械的にいらっしゃいといったが、山口滋の顔を見るとおどろいて目をまるくした。
「あら、何年ぶり?」
と彼女はいった。
山口滋は恥ずかしさとうしろめたさで答えることができなかった。彼は黙ってカウンターのあいているところにすわった。先客が三人いた。三人とも二軍の選手ではなかった。
「こっちの監督になったんだってね。おめでとう」
と彼女はいった。
「ありがとう」
と彼はいった。
「ちょっと待ってね、シャンペンをあけるから」
彼女はそういうと、シャンペン・グラスとボトルを出して景気よく栓を抜いた。それから五つのグラスにそそぎ、先客の三人にもそれを渡して乾杯といった。山口滋はみんなとグラスを合わせ、それを飲んだ。甘ったるいシャンペンだったが、とてもよく冷えていた。
「ずっと用意して待ってたのに、何をしていたのよ」
乾杯が終ると葛原亮子はいった。
「きょう引っ越してきたばかりなんだよ」
と山口滋はいった。
「じゃあ、こっちに住むの?」
「うん。東京からじゃ遠いからね」
「うれしいわ」
と彼女はいった。「何を飲む、水割り?」
「うん」
と彼はいった。シャンペンは飲み終っていた。彼女はシャンペン・グラスをかたづけ、ウィスキーの水割りをつくった。
「おれたち、帰るよ」
先客たちの一人がいった。
「あら、帰っちゃうの」
と葛原亮子はいった。
「野球の人がいないときにまたくるよ」
三人は立ちあがった。
「すみません」
と山口滋はいった。
「気にするなよ。おれたちはママのことをよく知っててここにきてるんだから」
と一人が笑っていった。そして揃って外に出て行った。
「わたしもそっちに行っていい?」
二人きりになると彼女はいった。
「いいよ」
と山口滋はいった。彼女はカウンターの中から出て彼のとなりにすわった。
「ときどきこうやってすわらないと体がもたないのよ」
と彼女はいった。そして煙草に火をつけた。
「きみに歓迎されるかどうか確信が持てなかったんだよ」
と山口滋はいった。
「どうして?」
「最後に何といってきみと別れたか覚えているからだよ」
「わたしは忘れちゃったわ」
と彼女はいった。
「そうだろうな」
「いちいち覚えていたってしょうがないもの」
「じゃあ、怒ってないんだね」
と彼はいった。
「怒ってたらシャンペンなんか用意しておかないわよ」
と彼女はいった。
「うれしかったよ」
「よかったわ」
と彼女は笑った。それから空になった彼のグラスに水割りをつくった。
「わたしも飲んでいい?」
と彼女はいった。
「いいよ」
と彼はいった。彼女はカウンターの中のほうに体を伸ばしてグラスをとり、自分の水割りをつくった。山口滋は気持がほぐれ、楽しい気分になってきた。
「こっちへは奥さんも一緒にきたの?」
葛原亮子はいった。
「いや、一人だよ」
「単身赴任?」
「もともと一人なんだ。結婚はしたけど、別れたんだよ」
「そうなの」
と彼女はいった。
「きみは変わらないね」
と彼はいった。
「何いってるの。あれから何年たったと思ってるのよ」
「本当に変わってないよ」
と彼はいった。じっさい彼女は年齢よりもずっと若々しく見えた。彼より二つ三つ上のはずだが、とてもそんなふうには見えなかった。
「でも、もう駄目よ。このごろは男の子を振り向かせるのもたいへんになったわ。若い子は分ってるわ」
と彼女はいった。
「きみが元気な噂はきいてたよ」
「いやだわ」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「もっと飲みましょうよ」
と彼女はいった。
「うん」
と彼はいった。「きみはだいじょうぶかい?」
「だいじょうぶよ」
と彼女はいった。「とてもいい気分よ」
二人はグラスに残っていた水割りを同時に飲みほした。葛原亮子は二つのグラスに新しい氷とウィスキーを入れて水で割った。
新しい客は誰もやってこなかった。どこかからカラオケの音がきこえてきた。葛原亮子の店にはカラオケは置いてなかった。
「面白そうな新人ははいった?」
と彼女はいった。
「一人二人使えそうなのがはいったけど、そいつらは一軍が持っていっちまうだろうから、二軍のほうは何ともいえないな」
と彼はいった。
「面白そうな子がいたら教えてよ」
「無茶をいうなよ」
「どうしてよ」
「おれのほうが教えてもらいたいよ。見ただけで分ったら苦労しないよ」
「あなたは監督じゃないの」
「監督なんて何も分ってやしないのさ」
「そうなの。じゃ、どうやっていい選手かどうかを判断するのよ」
「簡単だよ。ヒットを一本しか打たなかったやつより、二本打ったやつのほうがいい選手なのさ。おれは連中に平等にチャンスを与える。それだけさ」
「いいわ。自分で見つけるから」
と彼女はいった。
「選手じゃないと駄目なのかい?」
彼はいった。
「どういうこと?」
「ここにだって男がいるということだよ」
彼女はそれをきくと笑い出した。
「忘れたころにとつぜんあらわれて何をいうのよ」
と彼女はいった。
「男ってどうしようもないな」
と彼はいった。
「男はみんなそうよ」
と彼女はいった。
それからしばらくすると彼女は店を閉め、彼は彼女をタクシーで送って行った。彼女は十三年まえと同じところに住んでいた。
彼らはタクシーの中で見知らぬ人間同士のようにすわっていた。彼はそれがいやだったので、肩を抱いて彼女の体を引きよせた。彼女は黙って体をよせてきたが、彼はそれ以上のことはしなかった。確信がなかったからだった。
抱きよせていると、彼女の体は甘いにおいがした。それが彼に彼女とすごした十三年まえの夏のことを思い出させた。そのことを考えていると、彼は気持がせつなくなった。
「何を考えているの?」
と彼女がいった。彼女は彼のほうに顔を向けていた。
「何でもないよ」
と彼はその顔を見ていった。
彼らはたがいの顔をじっと見つめ合った。彼女は大きな目をしていた。その目がきらきら光っていた。彼はたまらなくなって彼女の唇にキスした。彼女は軽いキスしか許さなかった。そして唇を離すと、いたずらをとがめるように笑った。
「きみの部屋でもう一杯飲もうか」
と彼はいった。
「駄目よ」
と彼女はいった。
「どうしてもかい?」
「駄目よ」
タクシーがとまると彼女は一人で降りて帰った。降りるときに彼女は彼の手を握っていった。彼はタクシーの中から彼女のうしろ姿を見送った。彼女は背筋をまっすぐに伸ばして歩いて行った。
「もういいよ。行ってくれ」
と彼は運転手にいった。
山口滋はふたたび一人になった。しかしこの町には友だちが一人いた。そのことが分っただけで十分だった。
高橋望は高校からあるノンプロのチームにはいり、そこで四年すごしたあとでやっとプロ野球の選手になった。都市対抗野球で優勝候補の強豪チームを完封してスカウトの目にとまったのだ。だが彼の実績はそれだけだったので、ドラフトでの評価は低くて五番目だった。彼の上には球団が彼より有望と評価した新人が四人もいた。しかし彼はそんなことは何とも思わなかった。自分には力があると分っていたので、キャンプがはじまってじっさいにボールを投げればこっちのものだと思っていたからだ。当然、一軍に行けるかどうかなどとは考えもしなかった。
だが高橋望には不運なことに、球団は彼と同じときに東京六大学の強打の三塁手をドラフト一位で獲得していた。その三塁手は五つの球団が一位で指名したほどのスター選手だった。キャンプがはじまるとマスコミの注目はその三塁手一人に集中し、一軍の監督やコーチもそれにならった。
キャンプがはじまってしばらくたったある日、彼は二軍のピッチング・コーチにブルペンで投げ込みをするように命じられた。それまでは体力づくりのトレーニングばかりさせられていたので腕がむずむずしていた。彼は一軍の監督やコーチに認めてもらうチャンスがようやくきたと思って、張りきってブルペンへ行った。ブルペンは本球場とはべつのところにあった。
彼はキャッチャーをすわらせて投げ込みを開始した。すばらしいスピードのストレートがうなりをあげてキャッチャーのミットにすいこまれた。自分でもほれぼれするようなボールだった。だが投球のあいまにまわりを見ると、一軍の監督はおろか、二軍のコーチすら彼を見ていなかった。
「くそ」
と彼は思った。
彼は誰も見ていないのに百球も二百球も全力で投げ込むほどお人好しではなかった。たちまちやる気をなくした。
気の抜けた投げ込みを終えて本球場に行くと、新人の三塁手がバッティング・マシンで打ち込みをしていた。そのうしろでは一軍の監督とコーチたちが食いいるように三塁手のバッティングに注目していた。
「何だよ、これは。おれのこともすこしは見てくれたっていいじゃないか」
と高橋望は腹が立った。彼はさらにやる気をなくした。
紅白戦がはじまると、まずはじめに二軍のピッチャーたちがテストのために登板させられた。そこでいいピッチングをすればさらにチャンスが与えられた。高橋望はこんどこそいいところを見せてやろうと思った。一軍の監督に力のあるところを見せる絶好の機会だった。彼は二軍の監督やコーチは相手にしていなかった。しかし彼は最後まで一度も登板させてもらえなかった。そのころになると、彼は真面目に練習をしない選手だという評判が立ち、コーチが相手にしなくなっていたのだ。
キャンプが終るとオープン戦に帯同するメンバーが発表されたが、高橋望はその中に入れてもらえなかった。彼はセンターの後方に二本のケヤキの大木がある二軍の球場行きを命じられた。これで彼の一軍入りは絶望となった。彼は希望を失った。
高橋望は自分には人よりも力があると思っていたので、二軍に残った二流の選手と一緒に練習するのはバカバカしくてたまらなかった。おどろいたことに、彼のチームの二軍にはカーブのまともな投げ方すら知らないピッチャーがいた。ストレートでストライクがとれないピッチャーなどざらだった。彼はそういう無能な連中と一緒にされてコーチにあれこれ注意されるのは我慢がならなかった。しかし監督もコーチも、無能でも真面目に練習してよくいうことをきく選手のほうが好きらしかった。四月になると二軍もイースタン・リーグのシーズンの幕があいたが、優先的に登板させられたのは無能な連中ばかりだった。
もっとも高橋望も無視されてばかりいたわけではなかった。忘れたころにときどき登板の機会を与えられた。しかし彼は二軍ではまったくやる気がなかったので、たいてい打ち込まれた。彼の生活経過は、力を証明するチャンスを見つけられないままクビになっていく選手のたどる典型的なパターンだった。
そういう五月のある日、彼はブルペンでおざなりのピッチング練習をしたあとで、ベンチにアンダーシャツを着替えに行った。よく晴れた日の午後で、すごく汗をかいたからだ。ベンチに戻る途中で彼はうしろを振り返り、外野の後方にある二本のケヤキの大木を見た。四月に芽をふいた新緑がいまはたっぷりと隙間なくその枝に繁っていた。彼がこの球場で好きなのはそのケヤキの木だけだった。それを見るといくらか気が晴れた。葉がゆるやかに風に揺れていた。
「調子はどう?」
ベンチに戻ってアンダーシャツを着替えていると、球場の柵の向こうから女が明るい声で話しかけてきた。高橋望は顔を向けて女を見た。誰かが噂をしていた女だった。試合のときも練習のときも毎日のように球場へきていたので、彼も彼女のことは知っていた。
「最高だよ」
と彼はいった。
「なかなか勝てないわね」
と女はいった。
「二軍でなんかいくら勝ったってしょうがないよ」
と彼はいった。
女はおかしそうに笑った。
「お酒は飲まないの?」
と女はいった。
「飲むよ」
と彼はいった。
「じゃ、飲みにいらっしゃいよ。わたしのことは知ってるでしょう?」
「知ってるよ。でもおれ、金がないんだ」
と彼はいった。
「お金なんかいいわよ」
と女はいった。
彼女は高橋望がアンダーシャツを着替えてまたグラウンドのほうに戻って行くまで、柵のところからずっと彼を見ていた。彼は彼女のことを近くで見たのは初めてだった。明るい緑色の絹のように薄い半袖のワンピースを着ていて、それが首まで伸ばした髪によく似合っていた。きっと三十歳ぐらいなのだろうと彼は思った。彼がつき合ったことのある若い女の子にはないしっとりとした雰囲気をただよわせていた。
彼はその夜、彼女の店に一人で行った。彼女は白いスーツに着替えていた。昼間のワンピースの姿もよかったが、スーツの姿もすばらしかった。きりっとした感じがすると思った。
彼はほかの客が全部帰ってしまうまでそこにいた。彼女がそうすることを望んでいるのが分ったからだ。合宿所の門限は十時だったが、誰かが必ず浴場の窓の鍵をあけておくことになっていたので心配はなかった。ほかの客がみんな帰ってしまうと、彼らは二人だけですこし飲んだ。彼女は飲みたりないらしかった。二人ともそれから何が起こるか知っていたが、そのことは口に出さなかった。やがて彼らは彼女のアパートへ行った。彼女は歩くときに足をすこしふらつかせた。
「がっかりしなかった?」
すべてが終ると彼女がベッドの中でいった。
「しなかったよ」
と彼はいった。
「本当のことをいってもいいのよ」
と彼女はいった。
「何を気にしているんだい? 気にすることなんか何もないじゃないか。堂々としていればいいんだよ。おれは好きだよ」
と彼はいった。
じっさい彼女は、彼がこれまでにつき合ったどの女よりもすばらしかった。彼の知っている若い女の子たちはたいていセックスをスポーツのように考えて、そのようにふるまうのを面白がっていたが、彼女はそんなふうには考えていなかった。彼女はどんな瞬間にも彼と一体になることを望み、彼にもそう感じさせた。彼女は信用のできる女だった。それがその行為の中で分った。彼女はいつでも彼の味方になってくれ、彼の望むことは何でもしてくれるだろう。女に対してそんなふうに思ったのは初めてだった。彼は彼女を本当に好きになっていた。
それからしばらくたったある日、高橋望が葛原亮子の店にいると、山口滋が一人でやってきた。高橋望はどぎまぎした。ほかの選手と顔を合わせたことはあるが、ここで監督と会うのは初めてだった。山口滋は、二人の客をはさんで高橋望から一番遠い椅子にすわった。
高橋望はそっと腕時計を見た。十時はもうとっくにすぎていた。監督にどう思われるかを考えれば、彼はすぐに帰るべきだった。そうでなくても彼は試合で使ってもらえないのだ。しかし彼は帰らないことに決めた。おれは最後までいてやると思った。
「ママ、おかわり」
彼が空になったグラスをあげて見せると、葛原亮子がやってきてウィスキーの水割りをつくった。彼女は無表情に手だけを動かし、それが終ると山口滋のほうへ行ってしまった。山口滋は最初に高橋望をちらと見たきり、あとは無視していた。
「おれは絶対に帰らないぞ」
高橋望はふたたび自分にいいきかせた。
しかし山口滋もほかの二人の客も帰らなかった。高橋望はいらいらした。やがて、あまりにもいらいらして体を固くしていたために、背中の筋肉が痛くなってしまった。
十二時になってやっとほかの二人の客が帰って行った。高橋望はカウンターの一番奥にじっと黙ってすわっていた。葛原亮子がカウンターの上をかたづけはじめた。それでも山口滋は腰をあげなかった。どういうつもりなのだろうと高橋望は腹が立った。そのとき山口滋が葛原亮子にいった。
「さて、どっちと一緒に帰る?」
高橋望はおどろいて葛原亮子の顔を見た。彼女は彼に笑いかけ、それから山口滋を見ていった。
「高橋さん」
「そうか。それじゃ、おれは帰る」
と山口滋はいった。そして一人で帰って行った。
「いいのかい?」
と高橋望は葛原亮子にいった。
「いいのよ」
と彼女は明るく笑った。
彼女の笑顔を見ると、高橋望は気分がすっとした。だがおれの野球生活はこれで終りだろうと思った。
七月初めのある日、山口滋は一軍の監督に東京に呼ばれた。わざわざ東京まで呼ぶというのは重要な話だと分った。試合まえの一軍の球場へ行き、ミーティング・ルームを訪ねると彼が一人で待っていた。
彼は新戦力のピッチャーが一人ほしいのだといった。一軍は珍しいことに春先をうまくとび出して二位を走っていた。一軍の監督は、いまの戦力で何とかオールスター戦まではやっていけるだろう、しかし夏場になったらもたなくなるといった。八月の暑さを何ごともなく乗りきれるピッチャーなどいないからだ。そこで、オールスター戦明けまでに、勝っている試合でストッパーにつなぐまでの二、三回をまかせられるピッチャーを一軍に上げてもらいたいのだと一軍の監督はいった。そして、もしその役目を果たせるピッチャーが見つかったら優勝できるだろうと保証した。
山口滋は優勝という言葉をきいてびっくりした。彼は二軍時代を含めると今年で十五年もこのチームにいるが、優勝することなど考えたこともなかった。そんなことはよそのチームの話だと考えていた。しかし新しく一軍の監督になった男ができるというなら、できるのだろうと思った。なにしろ七月になっても二位を走っているのだ。これだってこのチームにとってはたいへんな事件だった。そしていまやそれが実現するかどうかは、山口滋が新戦力のピッチャーを見つけられるかどうかにかかることになったのだ。猶予は一カ月しかなかった。
山口滋は東京から二軍の町まで車で戻ったが、運転しているあいだずっと頭が痛かった。彼は二軍の監督になったとき、二軍の仕事は勝つことではなく、若い選手を一人前にすることだと思っていたので、試合での勝負は度外視して全員に多くのチャンスを与え、すくなくとも一年に一人は確実に一軍に送り出してやろうと決めていた。しかしまだ一軍ではたらけそうな選手は見つかっていなかった。まして一軍の監督が要求しているようなピッチャーは一人も思いあたらなかった。有望なのが一人二人いるにはいたが、彼らではまだ敗戦処理ぐらいがせいぜいで、一軍で勝っている試合を先発ピッチャーから引き継いで、そのまま無事にストッパーまでつなぐなどという芸当をやってのけるのはとても不可能だった。マウンドに立ったとたんに心臓がとまってしまうだろう。
山口滋はしばらくまえ、ふと思いついて、葛原亮子が選手の誰に興味を示すかを注意してみたことがあった。若いときの彼自身がそうだったが、彼女が目をつけた選手はやがてたいてい一軍にあがっていったからだ。しかしその選手が高橋望らしいと知ってがっかりした。高橋望は二軍でもっとも評判のわるい選手だった。コーチはキャンプのときからすっかり|匙《さじ》を投げて、やつのピッチングなんか見る気もしないといっていたし、ほかの選手からも反感を買っていた。こんどばかりは彼女も見る目を誤ったのだ。したがってそれも参考にならなかった。
あくる日、彼は打開策を見つけられぬまま、重い気持で球場に行った。その日は練習のあと、あるチームと非公式の練習試合をすることになっていた。イースタン・リーグの試合だけでは九十試合しかできなかったので、ときどきそうして練習試合をするのだ。
練習がはじまってしばらくして川原の土堤を見ると、葛原亮子がきて腰をおろしていた。彼女は山口滋と目が合うと、笑って手を振った。手なんか振るんじゃないとあとでいってやらなければならないと思った。しかし彼は彼女が高橋望を手にいれたと分ったいまでも、彼女をとても好ましく思っていた。彼女のためならどんなことでもしてやりたかった。
外野で騒ぎが起こったのはそのときだった。二人の選手が殴り合っていた。山口滋はダッグアウトのまえから走って行って二人を引き離した。殴り合っていたのは、高橋望と彼より三年先輩のピッチャーだった。山口滋は二人のまわりに集まっていたコーチや選手たちにあっちへ行けといった。
「どうしたんだ」
と彼は二人にきいた。高橋望はどこも何ともないようだったが、先輩のピッチャーは歯でも折られたらしく口から血を流していた。二人とも黙って何もいわなかった。
「わけをいえ」
山口滋は血を流しているピッチャーにいった。
「あそこにいる女のことをおれがババアといったら、こいつがとつぜん殴りかかってきたんですよ」
と血を流しているピッチャーはいった。山口滋が彼が目を向けたほうを振り返ると、葛原亮子が球場の柵に両手をかけて彼らのほうを心配そうに見ていた。
「よし、おまえはあっちへ行け」
と山口滋は血を流しているピッチャーにいった。それから彼は高橋望にいった。
「おまえはきょうの試合で投げろ」
高橋望は信じられないといった顔をした。
「もう一度いってください」
と彼はいった。
「きょうの試合に先発するんだ。一軍が度胸のいいピッチャーを一人よこせといってきているんだ」
「きょうのことは許してもらえるんですか」
「このことはあとで考える」
「ぼくは、監督はもうぼくのことを使ってくれないだろうと思ってました」
「おまえしだいだ」
と山口滋はいった。「おまえはおまえのすべきことをしろ。おれはおれのすべきことをする。おれにいいところを見せるんだ」
「ありがとうございます」
と高橋望はいった。
山口滋はダッグアウトに戻るとき、葛原亮子の立っている柵のところを通って行った。そしてさりげなく彼女にいった。
「何でもないよ。ちょっとした行きちがいだ。高橋にはこのあとの試合で投げさせる」
「ありがとう。じゃ、わたし見てくわ」
彼女はいった。
そして高橋望はそのあとの試合ですばらしいピッチングをした。準備不足だったにもかかわらずストレートのスピードが抜群で、ときどき投げるフォーク・ボールは打者の足もとで五十センチも沈んだ。相手チームの打者は内野安打を二本しか打てなかった。
山口滋は度胆を抜かれた。彼が高橋望をとつぜん投げさせる気になったのは、先輩を先輩とも思わずに殴りかかった度胸を買っての思いつきだったが、そのピッチングを見たあとでは、コーチの報告を|鵜呑《うの》みにして一度も高橋望のピッチングを真剣に見ようとしなかったことを後悔した。
「どうでした?」
試合のあとで、高橋望が初めて見る明るい顔でいった。
「あと二試合ばかり様子を見てきょうのような調子だったら一軍へあげてやろう」
と山口滋はいった。「つぎの試合までのあいだの調整法は知ってるな?」
「知ってます」
高橋望はいった。
「こいつの肩と肘にちゃんとアイシングをしてやれよ」
と山口滋はトレーナーに声をかけた。
高橋望は彼を救ってくれる大事な男になったのだ。こいつなら太鼓判を押して一軍に送り出せると思った。葛原亮子の見る目はやはり誤ってはいなかったのだ。高橋望を一軍に送ったら彼女は悲しむだろうと思ったが、仕方がなかった。彼は葛原亮子を悲しませる共犯者になる決意をした。それが山口滋の仕事だった。彼は仕事をしなければならなかった。
川原の土堤のほうを見ると葛原亮子はいなくなっていた。山口滋は彼女がそこで高橋望のピッチングにうれしそうに拍手を送っていた姿を思い浮かべた。
八月になると、二軍のシーズンはもう終ったも同然だった。シーズンは三分の二を経過し、一軍でやれる選手とやれない選手の色分けがはっきりして、一軍ではやれない選手だけが残っていた。
高橋望はオールスター戦が終ると同時に一軍にあがって行った。一軍のペナント・レースもほぼ三分の二が経過し、残りは五十試合になっていたが、チームは一軍の監督の試合はこびがうまくいって、彼のいったとおり依然として優勝争いにしっかりくらいついていた。山口滋は高橋望がその一軍で救世主になってくれることを祈った。そうすれば彼自身も大仕事をしたことになるからだ。
そうしてこのシーズンも終りに近づいていたが、山口滋にはもうひとつ最後の仕事が残っていた。それは二軍に残った選手の中から、来シーズンも残しておく選手と、このシーズンが終ったらクビにする選手の目安をつけておくことだった。球団が保有できる選手の数の総数は七十人だったから、毎年きまった数の選手を整理しないと新人選手を入団させられないのだった。一軍の選手がクビになることはほとんどなかったから、その犠牲にはたいてい二軍の若い選手がなることになっていた。
球場では、山口滋がそんなことを考えているとも知らずに、若い選手たちが残されたシーズンの試合をしていた。山口滋はその最後の仕事のことを考えると気持が憂鬱になった。野球をすることしか知らない二十歳かそこらの若者に、もうおまえは見込みがないからクビだといわなければならないのだ。彼らはそれからどうするのだろうと思わないではいられなかった。
彼はダッグアウトの中から、日除けの傘をさして川原の土堤にすわっている葛原亮子を見た。彼女は高橋望が二軍にいなくなってからも、試合があるときには球場にきて野球を見ていた。そうしている彼女を見ると、彼は気分がすこしほっとした。彼女は見たところ、高橋望がいたころと何も変わっていなかった。
山口滋はその夜、二軍のコーチの一人と一緒に食事をしたあと、アパートでテレビを見た。一軍のチームの試合の中継があったからだ。チームは五回まで三対一とリードして六回にはいった。先発ピッチャーの調子はわるくなかったのでこのままいくだろうと思って見ていると、いきなり高橋望が出てきた。彼はストレートとフォーク・ボールでそのリードを八回まで保ち、ストッパーに試合をわたした。彼は見事に自分の役割を果たしていた。
それから山口滋は葛原亮子の店に行った。店には客が誰もいず、彼女がカウンターで一人で本を読んでいた。彼女は彼が行くと本を閉じ、カウンターの中にはいって飲みものの用意をした。
「珍しいね、客が誰もいないなんて」
と彼はいった。
「年に何度かあるのよ、こういう日が」
と彼女はいった。
「それでもじっと客がくるのを待っているのかい」
「そうよ。ほかにどうしようもないもの」
彼女は彼の水割りをつくり、それから彼にことわって自分の水割りをつくった。
「きょうは暑かっただろう」
と彼はいった。
「ほんと。たまらなかったわ」
と彼女はいった。
「日に焼けたんじゃないかい」
「そうでもないわ。傘をさしていたから」
「最低の試合を見せちゃったな」
彼の二軍のチームは投手陣がメッタ打ちにあって十六対二で負けていた。
「ああなったら、ほかにやりようがないわよ」
「どうしようもない連中しか残っていないんだ」
「いい選手をみんな一軍にあげてしまったのは誰なのよ」
「きみにはすまないことをしたと思ってるよ」
「いいのよ。それがあなたの仕事なんだもの。みんなそれぞれがすべきことをしたのよ」
彼女は彼の手からグラスを取り、新しい水割りをつくった。
「どっちみち、シーズンもまもなく終りだわ」
彼女は彼の手にグラスをわたしていった。
「ねえ、きみ。こんな生活はもうやめたらどうなんだい?」
彼はいった。
「こんな生活ってどんな生活よ」
「夏が終るたびに男を失うような生活だよ。いつまでつづけられると思っているんだい?」
「ほっといてよ」
「ほっとけないよ。おれがきみを好きなのは知ってるだろう?」
彼はカウンターの中にいる彼女の手を握った。すると彼女は自分の手を握った彼の手の上に顔を伏せて泣き出した。涙が彼の手の上に流れた。
「ごめんなさい」
やがて彼女は顔を上げ、涙をふいていった。
「そんなふうになるのは、わたしがわるいんじゃないわ」
と彼女はいった。
「分ってるよ」
と彼はいった。
「どうすればいいの?」
彼女はいった。
「しばらく二人で一緒に暮らしてみようか」
「それは無理よ。あなたとは暮らせないわ」
「そうだろうか」
「それが無理なことは、あなただって分ってるはずよ」
「じゃあきみはまた来年の夏がくるのを待つのかい?」
「そんなふうにいうのはやめて」
「わるかった」
「ねえ、もう帰らない?」
彼女がいった。「わたし、もう帰りたいわ」
「いいよ、帰ろう」
二人は外に出た。
「送って行くよ」
と彼はいった。
「お願い」
と彼女はいった。
外はまだ暑く、風も吹いていなかった。しかし、あと|一月《ひとつき》ほどで夏の終りの風が吹くはずだった。
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鳥 は 飛 ぶ

そのホテルはちいさな二階建てだったが、とても眺めのよいホテルだった。芦ノ湖に面したなだらかな山の斜面に建っており、どの部屋からも、下の道の杉並木のあいだを通して、なめらかな湖面が見わたせた。湖面は天気の変化によって水の色が変わったり、さざ波が立ったりした。部屋のすぐまえに広がる広大な庭も美しかった。庭全体にシャクナゲが群生していて、それがちょうど花の季節を迎えていたからだ。また右手はアセビの森になっていて、それも白い花をつけていた。そしてときおり、その森の中から澄んだキジの鳴き声がきこえてきた。
手塚修平はそのホテルに佐々木登と二人できていた。佐々木登に話をきき、彼のことをある雑誌に書くためだった。佐々木登は有名なサッカーの選手だったが、三カ月まえに現役を引退したのだ。彼らは年齢はちがっていたが、以前からの友だちだった。
佐々木登は大学を出てすぐにサッカーの選手になると、一年もしないうちにたちまちそのチームの中心選手になった。彼はフィールドの中盤でパスを受け、敵のゴールまえに走りこむ選手に最後のパスを出す攻撃の|要《かなめ》のミッド・フィルダーだったが、敵の守備陣の穴をすばやく見つけて、そこに測ったようなパスを出すことができたからだ。最初は味方の選手も彼の予想外の意図を理解できずに戸惑っていたが、やがてその意図を理解するようになると、彼らも敵の守備陣の穴を見つけ、そこに必ず彼からのパスがくると信じて走りこむようになった。また彼は敵の守備陣が自分たちの穴に気づき、そこのカバーに走って前方があくと、こんどは自分でそこを破ってシュートした。彼はいついかなるときでも状況の変化を瞬時に察知し、どうすればもっともよい結果が得られるかを本能的に判断して、そのとおりに実行できる数すくない選手の一人だった。
チームにはいって五年目になると、彼はゲーム・キャプテンになった。ほかの選手の信頼はそれでますます高まった。それまでも彼らは苦しい試合になると彼が何とかしてくれるだろうと思って彼にボールを集め、彼が試合を立て直すのに期待していたが、その度合がいっそう高くなったのだった。そして彼はその期待に応え、決定的なパスを敵が予想もしなかったところに出して敵をあわてさせ、しばしばチームに勝利をもたらした。そのころになると、チームは完全に彼の指示と目の色で動く彼のチームになっていた。
そして去年、彼は十二年目のシーズンを迎えた。彼は手塚修平が見たところ、とても元気そうだった。だがシーズンの途中で試合中に右足首を捻挫した。彼はすぐに治るだろうと思ってキャプテン・マークを他の選手に渡し、軽い気持でフィールドの外に出たが、全治三カ月の重傷だった。彼はシーズンの終盤にやっと復帰して、最後の数試合に出場した。しかし不思議なことに、復帰した彼はそれまでの彼とは別人になっていた。一人だけアマチュアの選手が混じっているような感じになっていたのだ。
手塚修平は心配になり、シーズンの最後の試合を見に行ったが、じっさい彼はボールにすらほとんどさわれず、試合の後半にはほかの選手と交替させられてしまった。見ていて気の毒だったが、休んでいるあいだに筋力が落ちてしまったのだろうと思った。そしてもう駄目かもしれないなと思った。若いときなら怪我が治れば筋力もすぐに回復するが、年をとるとなかなかもとに戻らないからだ。佐々木登は三十四歳になり、サッカー選手としては限界に近づきつつあった。そしてそのシーズンが終ると手塚修平の考えていたとおりになったのである。佐々木登は体力の限界を理由に引退を表明したのだ。
引退をしたら、彼に関する短い物語を書くというのは、引退まえからの約束だった。佐々木登はおれのことなんか書いたってつまらないよといっていたが、手塚修平はそんなことはないと思っていた。佐々木登は普通の人間とはちがう生活を十二年間つづけ、そしてその生活を終えたのだ。普通の人間には感じられない何かを感じていたはずなのだ。そしてそれは佐々木登には何でもないことだったかもしれないが、彼以外には絶対に感じることのできなかったものなのだ。手塚修平は、それを彼が何でもないことと感じていたなら、何でもなかったことのように再現しようと思っていた。修正も誇張もするつもりはなかった。それが何でもないことか、そうでないかは、最後にそれを読んだ人間が判断すればいいのだ。
そうして彼らは芦ノ湖に面したなだらかな山の斜面に建っているホテルにやってきたのだった。二人は手塚修平の部屋で話をしていた。
「きみは体力の限界を感じて引退したといったけど、そのことはいつごろから感じはじめたんだい?」
と手塚修平は佐々木登にきいた。すると佐々木登はいった。
「あのときはほかにいいようがなかったからああいったけど、じつをいうと体力はまだ何ともないんですよ。チームの連中はどう思ってるか知らないけど、ぼく自身はまだあと一、二年は十分にやれると思っていたんです」
「じゃあ、どうしてあんなことをいったんだい?」
「チームメートに信頼されなくなったからだなんて、恥ずかしくていえないですよ」
「しかし、新聞を読んだかぎりじゃ、誰もそんなことはいってなかったぜ。若い選手の中には、きみが引退するときいて泣いたやつもいたそうじゃないか」
「若い連中ばかりじゃなく、一緒にやってた連中はみんな泣いてましたよ」
「それは嘘だったというのかい?」
「いや、みんな本気で泣いてくれましたよ。でも、それとこれとはべつなんです。試合をしていると、ぼくらには分るんですよ」
と佐々木登はいった。それから立ち上がって、部屋の冷蔵庫からミネラル・ウォーターを持ってきて飲んだ。彼は手塚修平にも飲みますかといったが、手塚修平は断った。彼は話をつづけた。
「捻挫が治ってから出た最初の試合で、おかしいなと思ったんです。パスがぼくのところにぜんぜん回ってこないんですよ。ぼくが中盤で完全にフリーになっているようなときでも、ボールを持っている選手がぼくのほうを見ないんです。ぼくがボールをよこせと怒鳴っても、ほかの選手をさがしてそっちへパスを出してしまう」
「捻挫をするまえは、そんなことはなかったのかい?」
「なかったですよ。みんなぼくが何を意図しているかを考えて、それを中心にチームが動いていたんですから」
「どうしてそれが変わってしまったんだろう。きみのかわりに中盤にはいった選手がきみのようにはたらいたとは思えないけど」
「ようするに、ぼくが休んでいた三カ月のあいだに、みんながぼく抜きでやるサッカーのスタイルをつくりあげてしまったんですよ。十一人が全員でやるサッカーといったらいいのかな。それまではぼくの存在があまりにも大きかったから、ぼくがとつぜんいなくなって、余計そうしなければならなかったんでしょうけど。そしてぼくが戻ったときには、その新しいスタイルが完成して、ぼくがそこにはいる余地はなくなっていたんです」
「しかし、チームのスタイルがどんなに変わったにせよ、きみのような選手がそんなふうになるなんて信じられないな」
「サッカーというのは、単純に見えるけど、非常にデリケートなスポーツですからね。野球とちがって、試合をつくるのは監督のサインじゃなくて選手一人ひとりの判断だから、仲間からパスをもらえなかったら、どんな選手でも一人じゃ何もできないんですよ」
「そんな経験をしたのは初めてだろう?」
「そうですね。初めてでしたね」
「いやなことをきくけど、自分にはもうパスがこないと分ったとき、どんな気持だった?」
「さびしかったですよ」
と佐々木登はいった。「試合に出るごとに、おまえはもう仲間じゃないといわれてるようなもんですからね」
「そうだろうな」
と手塚修平はいった。彼は最後の試合を見に行ったとき、佐々木登がボールにさわれないのは筋力の落ちたせいだと思ったが、内実はもっと深刻だったのだ。
「それで引退することにしたんですよ。そんなサッカーをしていたって楽しくないですから」
と佐々木登はいった。顔がとてもさびしそうだった。
「それじゃ、こんどは楽しかったときのことをきかせてくれよ」
手塚修平は話題を変えた。「サッカーで一番楽しいことって何なんだい?」
「すべてが思いどおりにいったときかな」
と佐々木登はいった。
「シュートが決まったときかい?」
「いや、シュートを打って、それが決まるかどうかというのは結果にすぎませんから、シュートそのものはべつにどうってことないんです」
「ぼくはシュートを決めたときが一番の快感なんじゃないかと思っていたけどな」
「そんなことをいったら、ディフェンスの連中はどうなるんですか。シュートを打つチャンスなんか、ほとんどないんですよ」
「それもそうだな」
と手塚修平はいった。
「つまり、こういうことですよ」
佐々木登はいった。「たとえば、ぼくは中盤の選手でしょう。攻撃陣の連中にパスを出すのが仕事なわけです。まず、誰かからパスをもらいますね。そのときぼくはパスを受けながら、敵の守備陣はどんなシフトを敷いていて、どこに穴があるか、そして味方の攻撃陣はどこを走っていて、誰がどこに走りこむか、それらをすべて一瞬のうちに判断して、つぎの瞬間に備えるわけです。敵の選手が当たってくれば、それもかわさなければならない。そして、いまこの瞬間しかないというときに、ここしかないという場所にパスを出すわけです。それが思ったとおりにできたときですよ」
「すべてをコントロールしたような気分になるのかい?」
「ええ。でも、それだけじゃありませんね。ぼくらの場合、頭の中でどんなにやろうとすることを考えても、それに体が正確に反応しなければ、何もできないわけでしょう。やろうとすることに体がついていかないことのほうが多いんですよ。体に裏切られるというかね。思ったとおりにできたときというのは、その頭と体が完全に一致したときなんですよ。その感じが何ともいえないんですよ」
「それは頭が体をコントロールしたということとはちがうのかい?」
「ちがいますね。絶対にちがいますよ。そういう瞬間というのは、頭も体もどっちかがどっちかをコントロールするなんてことはないんです。完全に一致して、頭が何かやろうと思ったときには、体が動いてもうそうしているんです。鳥と同じですよ。鳥は飛ぶときに、どんなふうに翼を動かそうなんて考えてないでしょう。そんな感じなんですよ。分るでしょう」
「ぼくは歩くときぐらいしか体を動かさないからな」
「楽しいんですよ。興奮しますしね。それにそういうときというのは、そこへ行くまでに非常に緊張してるから、やったあとにすごい開放感があるんです。ぼくのラスト・パスで誰かがシュートを決めたなんてときは、気が遠くなるような陶酔を何度も感じましたよ」
「なんだか、セックスのときの話みたいだな」
と手塚修平はいった。
「うん。似ているかもしれないですね、あの感じに」
と佐々木登はいった。
「きみはそういうすばらしいセックスをしたことがあるかい?」
「いちいち覚えてませんよ、そんなこと。手塚さんはあるんですか?」
「ぼくも覚えてないな」
と手塚修平はいった。
「きょうはもうこのへんで終りにしませんか」
佐々木登がいった。
「そうだな。食事のまえにバーへでも行って一杯飲もう」
と手塚修平はいった。彼はテープレコーダーのスイッチを切った。
窓の外は日が落ち、薄紫色に暮れかけていた。二人が立つと、窓辺から白い波を立てて芦ノ湖をすべって行く一艘のモーターボートが見えた。
佐々木登は、選手だったときはビールをすこし飲むだけで、それ以外の強い酒はいっさい飲まなかった。試合の前日はビールさえ飲まなかった。彼はことサッカーに関しては、フィールドの外でも完璧なプロフェッショナルだった。そういうところも手塚修平が彼を好きな理由だった。しかし選手をやめると強い酒を飲むようになり、ホテルのバーでは手塚修平の真似をしてドライ・マティーニを頼んで飲んだ。
「うまいですね、これ」
と佐々木登はいった。
「食事のまえの一杯だからね」
と手塚修平はいって、楊枝でさしたオリーブの実を食べた。マティーニのオリーブを食べるということは、バーテンダーにつぎのマティーニ・グラスの準備をしろと教えることだと銀座のバーのバーテンダーにきいたことがあったが、いまはどこでもそんなことはないようだった。目のまえの若いバーテンダーもまったく気にしなかった。
そのとき、カウンターの彼らからすこし離れたところの椅子に女がやってきてすわった。小柄な、黒い半袖のワンピースを着た女だった。ハイヒールをはいた足首のところがとても細くてすっきりとしていた。椅子にすわると、右手で長くのばした髪をかき上げた。手塚修平の見覚えのある女だった。視線を向けると、女が軽く頭をさげて挨拶した。小沢あい子という名前の女優だった。
「手塚さん、あの女を知ってるんですか」
と佐々木登がいった。
「うん。ぼくの小説がテレビ化されたときに何かの役をやってくれたんだ」
と手塚修平はいった。
「すごくいい女じゃないですか。紹介してくださいよ」
と佐々木登はいった。
手塚修平は女に声をかけ、こっちで一緒に飲まないかといった。彼女は立ち上がって手塚修平のとなりの椅子にやってきた。カンパリを手にしていた。
「こんなところで会うなんておどろいたね」
と手塚修平は彼女にいった。
「ほんとですね」
と彼女はいった。
「撮影かい?」
「いいえ。ちょっと気晴らしをしようと思って」
「一人で?」
「ええ」
「それはいいね」
と手塚修平はいった。それから彼女に佐々木登を紹介した。
「ときどきテレビで見てますよ」
と佐々木登はにこにこしながら彼女にいった。
「どうもありがとう」
「サッカーを見たことはありますか?」
「サッカーって、ボールを足で蹴る、あれ?」
「ええ」
「わたし、スポーツはぜんぜん分らないの」
と小沢あい子はいった。
「彼はサッカーの選手だったんだよ」
と手塚修平はいった。
「それで体ががっしりとしてるのね」
と小沢あい子はいった。
「食事はもうすんだのかい?」
「いいえ、これからですけど」
「じゃあ一緒にどう?」
「いいんですか?」
小沢あい子は佐々木登を見ていった。
「ぜひ一緒にお願いしたいです」
と佐々木登はいった。
彼らは三人でバーを出て、ダイニング・ルームに行った。ダイニング・ルームには十組ほどの客がいて、窓ぎわのテーブルは全部埋まっていた。彼らはボーイに案内されて中央のテーブルにすわった。窓の外は日が暮れてすっかり暗くなっていた。彼らは料理を頼み、それがくるまでビールを飲んだ。
「ここにはいつこられたんですか」
佐々木登が小沢あい子にいった。
「きのう」
と小沢あい子はいった。
「ぼくたちはきょうの午後です」
「二人で何をしにいらしたの?」
「手塚さんがぼくのことを書いてくれるというので、話をきいてもらってるんです」
「手塚さんはそういうのもお書きになるんですか」
と小沢あい子はいった。テレビ化されて彼女が出演した小説は恋愛小説だったのだ。
「うん」
と手塚修平はいった。「彼はすごく有名なサッカー選手だったんだよ。それでね」
「いまはちがうの?」
小沢あい子は佐々木登にいった。
「ええ、引退したんです」
と佐々木登はいった。
佐々木登はさっきまで手塚修平とサッカーの話をしていたときのようには舌がなめらかではなかった。サッカーのことを知らない女と話をするのはきっと初めてなのだろう。手塚修平は、これまでに彼がファンの女の子を何の苦もなく手に入れるところを何度も見てきたので、彼のとまどいぶりがおかしくてならなかった。
「このホテル、いいホテルですね」
小沢あい子が手塚修平のほうを見ていった。
「うん。庭のシャクナゲがきれいだろう」
と手塚修平はいった。
「庭の右手の森の木にも白い花が咲いてるでしょう。あれは何なんですか」
「スズランみたいなちいさな花がびっしり咲いているやつかい?」
「ええ」
「アセビだよ」
「あれアセビというんですか。わたしあの花のほうが好きだわ」
「きみにはシャクナゲのほうがぴったりだと思うけどね」
と手塚修平はいった。
「どうしてですか?」
と小沢あい子はいった。彼女は唇に濃い赤の口紅をつけていた。それが彼女にはとてもよく似合っていた。
「はなやかだからさ。アセビはきみには似合わないよ」
と手塚修平はいった。
「わたし、そんなふうに見えますか?」
「うん」
「手塚さんは、わたしを知らないんです」
と小沢あい子はいった。
料理がきた。手塚修平はニジマスのムニエル、佐々木登はサーロイン・ステーキ、小沢あい子はローストビーフを食べた。
「ぼくは選手のときはサーロインを食べたことがなかったんですよ」
と佐々木登がいった。
「分るわ。太るからでしょう?」
小沢あい子がいった。
「ちがうんです。脂肪をあまりとると、試合中に疲れが早く出るんですよ」
「隠れて食べたことはないの?」
「ありませんでしたね」
「真面目なのね」
「だから大学を出て十二年間も選手でいられたんですよ」
「立派だわ」
「そう思いますか?」
「思うわ。十二年間も第一線にいるというのはたいへんなことだもの。わたしたちの世界じゃ五年もいたらたいしたものよ」
「これからどうするんですか?」
と佐々木登はいった。
「これからって?」
「このあとですよ」
「どうもしないわ」
と小沢あい子はいった。
「だったらもう一度バーへ行って飲みなおしませんか」
と佐々木登はいった。
「そうね、それもいいわね」
と小沢あい子はいった。
彼らは立ち上がった。手塚修平は、出口で三人分の勘定のついた伝票にサインをした。小沢あい子が礼をいった。それから三人でバーのほうへ歩いて行ったが、手塚修平はそこで二人と別れた。
「一緒に行かないんですか?」
と小沢あい子がいった。
「ぼくは仕事があるんだ」
と手塚修平はいった。そして二人に手を振った。佐々木登がうれしそうに笑い返してきた。うまくやってくれと手塚修平は心の中でつぶやいた。
手塚修平は、部屋に戻ると、テレビをつけて一人でウィスキーの水割りをつくって飲んだ。山の斜面のホテルは静かで、テレビのちいさな音以外は何もきこえなかった。彼はベッドに横になってウィスキーの水割りを飲みながら、佐々木登が一目見ただけで小沢あい子に対してあんなふうになったのも無理はないと考えていた。彼女はたいへん美しかったばかりでなく、ひどく男の気をそそる女だったからだ。彼女を見ると、男はなぜか、とたんに胸がざわざわするのだ。
手塚修平もテレビ局のプロデューサーに紹介されて彼女に初めて会ったとき、すぐにおかしな気持になった。そのときも彼女は唇に濃い赤の口紅をつけていたが、なぜかその唇が早く抱いてキスしてとささやいているように感じたのだ。腕や脚はさわってと誘いかけているように感じた。彼がその気にならなかったのは、面倒なことになるのがいやだったからにすぎなかった。彼はどんな女とも面倒なことは起こしたくなかった。佐々木登はきっとそういう主義ではないのだろう。
それから手塚修平は、彼女の精神と肉体について考えた。ああいう肉体を持った女の頭の中というのはどういうふうになっているのだろう。あの肉体は彼女の精神を表現しているのだろうか。それとも精神は肉体に裏切られているのだろうか。セックスをしたら、いったい彼女はどんなふうになるのだろう。もしあの肉体が彼女の精神を表現しているのだとしたら、彼女は最高の相手になるにちがいなかった。佐々木登がサッカーで思いどおりのプレーをしたときのように、彼女はそのとき自分の精神と肉体の完全な一致を感じ、われを忘れるほど陶酔することになるにちがいないからだ。手塚修平は思わずそのときの彼女の表情を想像して、体を固くした。おれは酔っていると思った。こんなことを考えるなんて酔っているにきまっている。夕食のまえにバーでドライ・マティーニを飲んだのがきいたのかもしれなかった。彼は服を着たまま眠ってしまった。
やがて彼は目を覚ました。ベッドサイドの時計を見ると十一時だった。彼は服を脱いで浴衣に着替えると、テレビを消してまたベッドにはいった。起きていてもすることがなかったからだ。だが、こんどは目がさえて眠れなかった。
しばらくすると外の廊下に足音がして、隣の部屋に佐々木登が帰ってきた。手塚修平はベッドの中で耳をすました。話し声はきこえなかった。やがて佐々木登がシャワーを浴びる音がきこえてきた。それが終ると物音は何もきこえなくなった。
あくる日、手塚修平は電話の音で目を覚ました。佐々木登からだった。
「すみません。きょうはちょっと手塚さんにつき合えないんですが」
と彼はいった。
「どうしたんだい?」
と手塚修平はいった。
「彼女とそこらへんを一緒に見て歩く約束をしちゃったんですよ」
「うまくやったな」
「まだ分りませんけどね」
「行ってこいよ」
「すみません。車、使いますけどいいですか?」
「いいよ」
と手塚修平はいった。彼らは佐々木登の車でここにやってきたのだった。
時計を見ると、午前十時だった。手塚修平はルーム・サービスに電話をして紅茶とミルクを持ってきてもらい、新聞を読みながら甘いミルク・ティーをつくって飲んだ。昨夜はあれから二時ごろまでイギリスの探偵小説を読んでいたが、それからはぐっすり眠ったので頭はすっきりしていた。
一時間ほどそうしていてから、シャワーを浴びて外に出た。ホテルの玄関は庭の反対側にあって、車寄せの向こうは杉の森になっていた。手塚修平はその森に沿った道を歩いて芦ノ湖のほうにおりて行った。そこはホテル専用の道だった。やがて芦ノ湖の湖畔をめぐっている道に行きあたると、左に折れて箱根神社の鳥居のまえを通り、元箱根の町へ行った。湖の水面はホテルの窓から見るととてもなめらかに見えたが、近くで見ると|縮緬《ちりめん》のようなこまかい波が揺れて、それが日の光にキラキラ輝いていた。その上をときどき大きな遊覧船が通って行った。週日だったので、観光客はあまり乗っていなかった。
道路沿いのそば屋を見つけてはいり、ざるそばを食べた。そのあとでそば湯を飲むと、気持が落ちついた。それから彼は遊覧船の桟橋のあたりをしばらくぶらぶらしてホテルに帰った。
部屋に戻ると、ほかにすることがなかったので、テープレコーダーを取り出してきのうのテープを再生し、ノートにメモをとった。細いシャープ・ペンシルしか持ってきていなかったので、すぐに人差指のさきが痛くなった。しかしいずれはしなければならないことだったので、彼は我慢してつづけた。
そのうち、それを愛し、それをすることだけが自己の存在を証明することだったものから、三十四歳で引き離されてしまう人間のことを考えた。スポーツ選手というのはみんなそうだ。彼らは引退したあとは、どのようにして自分の存在を証明したり確認したりするのだろう。ボールを蹴れば彼が何者であるかはすぐに分るのに、それができないのだ。きのうの夜、佐々木登が小沢あい子とうまく話ができないのを見ておかしいと感じたが、彼らは引退したあとはあんなふうにぎこちなく生きて行くのだろうか。
だが反面、彼らは短いあいだだったとはいえ、そのプレーをとおして彼らが何者であるかを人々に強烈に印象づけてきたことも事実だった。それは彼ら以外にできないことだった。あるいはまた、思いどおりのプレーをしたときに佐々木登が感じたという、精神と肉体の完全な一致感と、そこから生まれる気が遠くなるような陶酔など、彼ら以外に誰が感じられるだろう。手塚修平はそんなすばらしい思いは一度も味わったことがなかった。どうすれば味わえるのかさえ知らなかった。だが彼らは人生のある時期に、まさに鳥が飛ぶ方法など考えもしないで空を飛ぶように、本能的にそれをやりとげていたのだ。
結局人生は平等なのだと思った。手塚修平は佐々木登がある時期に味わったようなすばらしい思いはしたことがなかったが、落差のない平穏な生活を送っていた。それで十分だった。彼らに同情することも、羨望することもないのだ。
手塚修平はテープの整理を夕方の五時までつづけた。メモが大学ノートの半分ほどになったが、佐々木登の話はまだ半分もきいていなかった。テーブルの上を片づけ、佐々木登の部屋に電話をしてみた。彼はまだ帰っていなかった。
手塚修平は夕食までの時間をつぶすためにホテルの庭に出た。ホテルの案内書によれば、庭に群生しているシャクナゲは三百株だということだったが、そのすべての株がふっくらとした濃いピンクや白の花を咲かせていた。彼はまえにもこのホテルにきたことがあったが、そのときは花は咲いていなかった。いまは庭全体がむせるようだった。その中に立っていると、湖から涼しい風が吹き上げてきて、とても気持がよかった。
庭の向こうは森になっていた。彼は庭をつっきって、その森にはいって行った。彼は森が好きだった。森にはいろんな木が生えているからだ。ホテルの庭側の森はアセビばかりではなく、ブナやコナラやクリといった落葉高木がたくさんあって、その若葉が夕方の日の光に照らされて明るく揺れていた。ヒメシャラの木もあったが、それにはまだ花が咲いていなかった。
さらに奥のほうに歩いて行くと、ウツギの木株のところで横たわっている人影に出くわした。若い男女だった。彼らは手塚修平の足音にも気づかずに、たがいの体をしっかりと抱きしめることに没頭していた。手塚修平はびっくりして、おれだったら、こんなところでは誰かきやしないかといつも頭のすみで考えているがなと思った。だが二人は何ごとも怖れていないようだった。男女が一体になるときはこうしなければならないのかもしれなかった。手塚修平は苦笑して、二人の邪魔をしないように静かにそこから離れた。
ホテルに戻り、夕食をとって部屋でテレビを見ていると、八時すぎにノックの音がした。ドアをあけると佐々木登がはいってきた。楽しいことをしてきたような顔をしていなかった。
「うまくいかなかったのかい?」
と手塚修平はきいた。
「ぜんぜん駄目でしたよ」
と佐々木登はいった。彼は冷蔵庫からビールをとり出してきた。
「きょう一日一緒にいたんだろう?」
「ええ、ずっとね」
佐々木登はビールをぐっと飲んでいった。
「何をしていたんだい?」
「ドライブですよ。箱根をぐるぐる走りまわって、十国峠から伊豆スカイラインを通って下田まで行って、同じ道を通って帰ってきたんです」
「それだけ?」
「ええ」
「ほかには何もしなかったのかい?」
「そりゃ、いろいろしようとしましたよ」
と佐々木登はいった。「でも、車の中で腿にさわっただけで、男ってどうしてそんなことばかりしたがるの、なんていうんですよ。まるでぼくが色きちがいか何かみたいに。頭にきましたよ、まったく」
「冗談でいったんじゃないのかい?」
と手塚修平はいった。
「冗談か本気かぐらい、ぼくだって分りますよ」
と佐々木登はいった。
「そんなことを真面目な顔でいう女には見えないけどな」
「そうでしょう。ぼくはきのうの夜バーに誘ったときから、彼女はてっきりその気だと思ってたんですから」
「きのうの夜はどうしたんだい?」
「部屋まで送って行ったら、まえの日にぜんぜん寝ていないから眠くてしょうがないというんで、きょうの約束をしたんですよ。あしたねっていったんですよ、そのとき」
きっと彼女は佐々木登がぞくぞくするような顔でそういったのだろう。そして彼女もその気になっていたのかもしれないが、きょうになって佐々木登がドライブの途中で何かヘマをしでかしたのだろうと手塚修平は思った。それで彼女に嫌われたのにちがいなかった。しかしかわいそうなので、佐々木登にはそのことはいわなかった。
「それで、あしたはどうするんだい?」
と手塚修平はいった。
「あしたは手塚さんと仕事をしますよ」
と佐々木登はいった。
「ずいぶんこっぴどくやられたんだな」
「いま思い出しても胸がムカムカしますよ」
「まあ、そういうこともあるさ」
と手塚修平はいった。佐々木登は、これまであまりにも安易に女を手に入れてきすぎたのだ。
「このままじゃ気持がおさまらないから、バーで一杯飲んできますよ。一緒に行きませんか」
と佐々木登はいった。
「いや、ここにいるよ」
と手塚修平はいった。
佐々木登は部屋から出て行った。テレビではスワローズとジャイアンツの試合をやっていた。ジャイアンツは桑田真澄が投げていて、スワローズ打線のつるべ打ちにあっていた。手塚修平はそれを見ながら、ここにも精神と肉体を一致させられないで悩んでいる人間がいると思った。おそらく頭ではこのボールをこのコースにこのぐらいのスピードで投げようと考えるのだが、体がそれを表現できないのだった。やがて彼はマウンドの上で、そのことに対するいらだちを隠そうともしなくなった。佐々木登は似たようないらだちを酒で解消しようとしていたが、桑田真澄はどうするのだろう。
そんなことを考えていると、電話の音が鳴った。佐々木登からだろうと思って出てみると、小沢あい子からだった。
「お仕事をしてらっしゃるんですか?」
と彼女はいった。
「いや、テレビを見てるだけだよ」
と彼はいった。
「一人で?」
「そうだよ」
「だったら、わたしの部屋でお酒でもお飲みになりませんか」
と彼女はいった。
「いいよ。ちょうど退屈していたところなんだ」
と彼はいった。
彼女は自分の部屋番号を教えた。
手塚修平は自分の部屋の冷蔵庫からありったけの缶ビールとウィスキーのミニ・ボトルをかかえて行った。小沢あい子の部屋の飲み物だけではどうせ足りないと思ったからだ。だが彼女の部屋に行くと、テーブルの上にルーム・サービスの大きなウィスキーのボトルとアイス・ペールが置いてあって、すっかり用意ができていた。彼が持ってきた飲み物をわたすと、彼女は笑ってそれを受けとった。彼はテーブルをはさんで向き合って彼女とすわった。
「わたし、断られたらどうしようと思って、ビクビクしながら電話したんですよ」
と彼女はいった。グラスに氷を入れ、ウィスキーのボトルをあけて水割りをつくっていた。
「どうしてだい?」
と彼はいった。
「だって、手塚さんはわたしをあまり好きじゃないみたいですから」
「そんなことはないよ。どうしてそんなふうに思うんだい?」
「何となく。わたし、分るんです。誰がわたしに興味を持ってるか、興味を持ってないか。だから、怖かったんです」
「ぼくが?」
「ええ」
彼女は水割りを二つつくって、ひとつを手塚修平にわたした。手塚修平はそれを彼女のグラスにカチンと合わせた。
「きみを見て好きにならない男なんかいないよ」
と手塚修平はいった。
「でもわたし、手塚さんのドラマを撮っていたとき、手塚さんにみられていると感じたことないですよ」
「ぼくはそういうことに慣れていないんだよ。そういう度胸もないしね」
と手塚修平はいった。
「よかった」
と彼女は笑った。「まだ胸がドキドキしてるわ」
「きみはすてきだよ」
と手塚修平はいった。
「だんだん気持が落ちついてきたわ」
と彼女はいった。「煙草いただいてもいいですか?」
「いいよ」
と彼はいった。彼女は彼の煙草を一本抜きとり、口紅と同じ色の赤いマニキュアをつけた細い指先でそれをはさんだ。彼はライターで火をつけてやった。
「ありがとう」
と彼女はいった。彼女は本当にほっと安心した様子で体の力を抜き、言葉つきにも親しみが見られるようになってきた。
「佐々木さんはどうしてるかしら」
「さっきぼくの部屋へやってきて、バーへ行くといってまた出て行ったよ。きみにふられたといって沈んでいたよ」
と手塚修平はいった。
「そんなことはないわ」
と彼女はいった。「みじめだったのはわたしのほうだったわ」
「何があったんだい?」
と手塚修平はいった。
「あの人、サッカーと車の話しかしないのよ」
「あいつはサッカー以外には車にしか興味がない人間なんだ。でも、じつにいい人間だよ」
「それはいいのよ」
と彼女はいった。「あの人、自分の体にすごく自信があるらしいの。それで、わたしに胸や腕や腿の筋肉をやたらにさわらせたがるのよ。途中で車を止めて、シャツをまくり上げて見せたこともあったわ。まるで、この体に抱かれたくないかといわんばかりに」
「きみの歓心を買いたかったんだよ。かわいいじゃないか」
「わたしは我慢できなかったわ」
「彼はきみがきみの体にさわらせてくれなかったといって、しょげていたぜ」
「体にさわられるぐらい何でもないけど、あの人はそのことしか考えていないんだもの」
「男は多かれすくなかれ、みんなそうだよ。とくにきみみたいな魅力的な女と一緒のときはね。行けるところまで行きつくことを望んでいるんだ」
「手塚さんまでそんなことをいうの?」
と彼女はいった。それから彼の顔を見て涙をこぼした。
「どうしたんだい?」
と手塚修平はおどろいていった。
「どうもしないわ」
と彼女はいった。
「ある人間がある人間を好きになるということはそういうことじゃないか。きみはそれがいやなのかい?」
「いやじゃないわ」
と彼女はいった。もう涙は流していなかった。
「だったらいいじゃないか」
と手塚修平はいった。
「手塚さんもわたしとそうしたいと思ってるの?」
「思ってるよ。きみのことをすてきだっていったじゃないか」
と手塚修平はいった。
「男の人の気持が分らないわ」
「心配するなよ。ぼくは何もしないから」
「どうして?」
「ぼくには奥さんがいるからね」
「奥さんがいたらどうしてしないの。する人はするわ」
「しても本当には楽しめないからだよ。奥さんのことがいつも頭のどこかにあるから、相手に集中できないんだ。それじゃつまらないじゃないか」
「それは分るわ。でもその相手が本当に好きなら、奥さんと別れればいいじゃない。どうして男の人は奥さんと別れないの?」
「穏やかな生活をつづけるためだよ」
と手塚修平はいった。
「穏やかな生活ってどういう生活なの?」
と彼女はいった。
「おたがいに何をどこまでやっていいか、どこまでなら我慢して受け入れられるか、相手がいやがることは何か、といったことをおたがいに理解し合って暮らすことだよ。長い時間をかけて築いたその生活を、新しい相手と最初からもう一回やりなおすことなんて考えられないのさ」
「きっとすてきな奥さんなのね」
と小沢あい子はいった。
「さあね」
と手塚修平はいった。
「手塚さんの奥さんがうらやましいわ」
「きみに何もしないと分って安心したかい?」
「安心したわ」
と小沢あい子はいった。
二人はウィスキーの水割りを早いペースで飲みつづけたので、とてもいい気持になっていた。小沢あい子は自分のグラスに何杯目かの水割りをつくると、椅子の背に深く体をもたせかけて手塚修平にいった。
「膝にわたしの脚をのせていい?」
「いいよ」
と手塚修平はいった。彼女は脚を伸ばし、手塚修平の膝の上にそれをそろえてのせた。
「ああ、いい気持」
と彼女は笑った。彼女は素足に清潔そうな白い綿のパンツをはいていた。足がとてもちいさくてかわいらしかった。
「きみは気晴らしにここへきたといったけど、よく一人でこんなところへくるのかい?」
と手塚修平はいった。
「めったにこないわ。特別のときだけよ」
と小沢あい子はいった。
「特別のことがあったのかい?」
「おきまりのこと。わたしがバカだったのよ」
「その男も奥さんと別れようとしなかったわけか」
「そんなところだわ」
「早く忘れるんだね」
「そうするわ」
と小沢あい子はいった。「こういうことには慣れてるの」
手塚修平は小沢あい子の脚を膝にのせたまま、自分のグラスに水割りをつくった。
「わたしの脚、重くない?」
と彼女はいった。
「重くないよ」
と彼はいった。そうして彼女の体に接触していたほうが気持が落ちついた。
「きみは庭の向こうの森の中は歩いたかい?」
「庭は歩いたけど森の中には行ってないわ」
「歩いてみなよ。アセビのほかにもいろんな木が生えていて気持がいいから」
「歩いたの?」
「うん。きょうの夕方ね。若葉がとてもきれいだったよ」
「森の中なんか、しばらく歩いたことがないわ」
「あした歩いてみなよ。きっと元気になるよ」
「ありがとう。じゃ、歩いてみるわ」
と彼女はいった。そしてグラスに残っていた水割りを飲みほした。
「だいじょうぶかい? ずいぶん飲んでるよ」
と手塚修平は彼女の顔を見ていった。
「だいじょうぶよ」
と彼女はいった。しかし新しい水割りはつくらなかった。
「わたし、シャワーを浴びたいわ」
と彼女はいった。
「じゃあ、ぼくは部屋に帰るよ」
と手塚修平はいった。
「待って。そういう意味じゃないの。ここにいてよ。すぐに浴びてくるから。お願い」
「分った。じゃあ、ここにいるよ」
と手塚修平はいった。彼女は彼の膝から脚をおろし、立って浴室に行った。すぐにシャワーの水音がきこえてきた。手塚修平は、彼女はきっとホテルの部屋で一人きりでシャワーを浴びるのが心ぼそいのだろうと思った。
しばらくすると、彼女は白いバスローブを着て浴室から出てきた。顔や首筋の肌が熱いシャワーを浴びてピンク色に染まっていた。その肌の色と白いバスローブのとり合わせに、手塚修平はひどく気持をそそられた。バスローブからは脚の|脛《すね》から下が出ていた。彼はバスローブで隠された部分を想像せずにはいられなかった。
「ごめんなさい」
と彼女はその彼に笑いかけた。
「いいさ」
と手塚修平はいった。
彼女はもとの椅子にすわり、グラスにまた水割りをつくって飲んだ。一息で半分ぐらい飲んでしまった。
「お酒ってどうしてこうおいしいのかしら」
と彼女はいった。それから脚を上げ、それを手塚修平の膝の上にのせた。
「いいわよね?」
と彼女はいった。
「いいよ」
と手塚修平はいった。彼はそれを待っていたのだった。なつかしいものがまた帰ってきたような気がした。バスローブの裾が開いたが、彼女はぜんぜん気にしなかった。
「男と女が恋愛をするのって、滑稽だと思わない?」
小沢あい子はいった。
「そうかい」
と手塚修平はいった。
「わたしはそう思うわ。何ひとつ思いどおりに行かないと分ってるのに、何度でも同じことばかりくり返しているんだもの」
「でも、いつだって最初は楽しいじゃないか」
と手塚修平はいった。
「最後はそうじゃないわ」
と小沢あい子はいった。
「いいじゃないか、どっかで楽しければ」
「そうかしら」
「そうさ。思いどおりに行くことなんてこの世にあると思ってるのかい。その意味では、われわれのしてることはすべて滑稽なんだよ」
「でも、手塚さんは恋愛はもうしないんでしょう?」
「ぼくだってどうにもたまらなくなるときはあるよ」
「教えて。どんなとき?」
「いまなんかとても危ない状態だね」
と手塚修平はいった。そして膝の上の小沢あい子の足を両手でつかんだ。手の中で彼女が足の指をすぼめるのが分ったが、彼女は何もいわなかった。彼は彼女の顔を見つめた。彼女も彼を見つめた。彼は彼女の足をつかんだまま、それを膝からおろした。
「ぼくは部屋に帰るよ」
彼はそういって立ち上がった。
「わたしを好き?」
小沢あい子がドアのところまできていった。
「好きだよ」
と彼はいった。
「じゃあキスして」
彼は彼女にキスした。彼女は手塚修平の背中に両手をまわして、なかなか離れなかった。
「さあ、帰るよ」
と唇を離して手塚修平はいった。「たまらなくなるまえにね」
あくる日、手塚修平はまた電話の音で起こされた。佐々木登からだった。
「すみません。きょうも手塚さんにつきあえなくなっちゃったんですけど」
と彼はいった。
「どうしたんだい?」
と手塚修平はいった。
「きのう、あれからバーへ行ったでしょう。そしたら女の子が二人いて、彼女たちとドライブすることになっちゃったんですよ」
「こんどはだいじょうぶなのかい?」
「だいじょうぶですよ。向こうから誘ったんですから。片方の子がぼくのファンなんですよ」
佐々木登は、このホテルへきて初めて自分が誰かを知っている人間に出会って、うれしくてならないようだった。手塚修平は彼のために彼がうまくいくことを祈った。
時計を見ると、まだ朝の八時半だった。もうひと眠りしようと思った。だが目を閉じてじっとしていると、きのうの夜のことを思い出して眠れなくなってしまった。きのうの夜の行動はじつに滑稽だった。小沢あい子を抱きたくてたまらなかったのに、あんなふうにして中途で帰ってきてしまったのは滑稽以外のなにものでもない。彼は考えることが多すぎ、そのために相手の女に没頭できないと知っていたので帰ってきたのだが、小沢あい子としてはそれでもよかったのかもしれないのだ。彼女はそんなことには慣れているといっていたではないか。またべつの考え方をすれば、彼女とならあらゆることを忘れて、行けるところまで行きつけたかもしれないのだ。重要なのはそのことだった。だがどうしてセックスについてこんなふうに深刻に考えなければならないのか。セックスというものがなくなれば、この世から滑稽なことの半分はなくなるだろう。セックスなんかくそくらえだ。
手塚修平は眠ることをあきらめ、起きてシャワーを浴びた。それでいくらか頭がすっきりした。それから服を着て、食事をするためにダイニング・ルームに行った。
ダイニング・ルームに行くと、窓ぎわのテーブルに小沢あい子がすわっていて、手塚修平を見て笑いかけた。彼はそのテーブルに歩いて行き、一緒にすわっていいかいときいた。
「もちろん」
と小沢あい子はいった。彼女はバーで最初に会ったときに着ていた黒い半袖のワンピースを着ていた。
「ゆうべはよく眠れたかい?」
と手塚修平はきいた。
「よく眠れたわ。手塚さんは?」
と彼女はいった。
「よく眠れたよ」
と手塚修平はいった。彼らはゆうべのことはそれきり何も話さなかった。
手塚修平は、ミルク・ティーに、ソーセージとマッシュルームを添えた目玉焼きとトーストを頼み、トーストは薄切りのやつをカリカリに焼いてくれとボーイにいった。
「それおいしそうだから、わたしにもお願い」
と小沢あい子はいった。
彼らは朝の日の光が射しているホテルの庭を見て、天気の話やシャクナゲの花の話をしながら食事をした。意味のない退屈な話だった。二人ともそれではものたりないことが分っていた。
「ぼくの部屋でコーヒーでも飲もうか」
食事がすんだあとで手塚修平はいった。
「危険はない?」
と小沢あい子は笑った。
「さあね」
と手塚修平はいった。
彼らは手塚修平の部屋に行き、ルーム・サービスに二人分のコーヒーを頼んだ。コーヒーがくるまで手塚修平はベッドにすわっていたが、小沢あい子は窓辺に立って外を見ていた。
「二階だとずいぶん景色がちがうのね」
と彼女はいった。彼女の部屋は一階だった。
「芦ノ湖が見えるわ」
と彼女はいった。
手塚修平も窓辺に行った。桟橋から大きな遊覧船がゆっくりとすべり出して行くところだった。とてもよい天気だったので、対岸の山もはっきりと見えた。しばらくその山を見ていてまた湖面に視線を戻すと、遊覧船は見えなくなっていた。
ドアをノックする音がして、ボーイがコーヒーを持ってきた。手塚修平はそれを受けとって伝票にサインをすると、外に出てドアのノブに起こさないでと書いたカードをぶらさげた。まだルーム・メーキングがされてなかったからだ。
部屋の中に戻ると、小沢あい子がテーブルの椅子にすわって、カップにコーヒーを注いでいた。彼はそのひとつを持ってベッドにすわった。
「ゆうべのきみは魅力的だったよ」
と手塚修平はいった。
「ありがとう。うれしいわ」
と小沢あい子はいった。
「きみもこっちへきてすわらないか?」
「どうして?」
「離れていると落ちつかないんだ」
小沢あい子はコーヒーのカップを持って椅子から立ち上がり、ベッドの手塚修平のとなりにきてすわった。
「落ちついた?」
手塚修平の顔をのぞきこんで、笑いながらいった。
「落ちついたよ」
と手塚修平はいった。それから彼女の背中に手をまわした。そしてしばらくそのまま背中をなでていると、彼女がいった。
「男の人ってどうしてそんなことばかりしたがるの?」
「いやなのかい?」
「いやじゃないけど」
手塚修平は彼女の胸にさわった。
「カーテンを閉めない?」
と彼女はいった。
手塚修平は立って行ってカーテンを閉めた。ベッドのところに戻ると、小沢あい子はそこに横になっていて、彼を見上げて笑いかけた。
「照れくさいわ」
「ぼくもだよ」
と彼はいった。
彼は彼女のワンピースと下着をとりさり、自分も服を脱いで裸になった。彼女の肌は、さわるとなめらかで、しっとりと湿っていた。彼はその肌に唇をつけた。そして胸や脇腹や背中や腿をさぐって、彼女がもっとも敏感に反応する部分をさがそうとした。重要なのは、まず彼女にわれを忘れさせることだった。そうすれば彼自身もそれにつられて行為に没頭し、恥じらいや、罪の意識といった問題はどうでもよくなって、純粋に彼女と一体になることだけに集中できるはずだからだ。彼はそうなりたかった。そんなことは、しようと思えば鳥が空を飛ぶより簡単なことなのだ。
しかし、そうはならなかった。おどろいたことに、小沢あい子はどこをどんなふうに刺激してもほとんど反応らしい反応を示さなかったのだ。自分で自分の気持を高めようとする努力もしなかった。やがて手塚修平は気持をそがれ、疲れ果てて彼女の体から唇を離した。
「どうしたんだい?」
と彼は彼女にいった。彼女は何もいわなかった。彼の顔も見ていなかった。彼はどうしていいか分らず、ベッドに上体を起こして彼女の髪を撫でた。
「もうずいぶん昔のことだけど、わたし最初の男の人に、おまえは全身セックスみたいな女だといわれたの。それからずっとこうなの」
と彼女はいった。泣いていた。
「それできみは自分がそうじゃないということを証明したいのかい?」
手塚修平はここ二日間彼女と話をしていて、彼女の言葉でつじつまが合わないと感じていたことを二つ三つ思い出した。それがいま分ったような気がした。彼は彼女の髪を撫でつづけた。
「分らないわ」
と彼女は泣きながらいった。「わたしは自分が何をしているのか分らないの」
「しばらくこうしていてあげるよ」
と手塚修平はいった。
それ以外に彼にはできることがなかった。
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イヴニング・ライズ

大岡守は、八ヶ岳の東側のふもとをぐるりと巻くようにして|韮崎《にらさき》から佐久に向かっている国道をしばらく北上すると、目当ての川のところで左へ曲って、車を山の斜面のほうへ向けた。
国道も暗かったが、その道にはいるとあたりはさらに暗くなった。その道は川に沿って山の斜面を登る林道だった。はじめのうちは闇の中に人家の明りらしい光がぽつぽつと見えたが、それもすぐに見えなくなってしまった。ダッシュボードの時計を見ると、午前二時をまわったところだった。彼は車のヘッドライトが照らしだす闇に目をこらし、ゆっくりとした速度で慎重に道を登って行った。道は舗装されていたが、ひどく曲りくねっていた。
昼間なら、道の両側と、川が流れている右側の深い谷の向う側の斜面に生い繁るブナやウルシやカエデのあざやかな緑が見えるはずだった。彼はそうした木立のあざやかでみずみずしい緑を見るのが好きだった。とくに明け方の青く透きとおったような日の光のなかでみるのが好きだった。夜明けまで、あと二時間か三時間だった。
とつぜん車が大きく揺れた。舗装が尽き、砂利道になったのだった。彼はさらに速度を落とした。ほとんど歩くような速度になった。道は砂利道になったあたりから急に狭くなっていた。
「一ノ瀬のところまでこのまま行ければいいが」
と大岡守は思った。
そこはまだしばらく上流の川岸で、谷に降りたところがわりあいに広い平地になっているのだった。ちょうど渓流が急に蛇行しているところで、川自身がその流れの勢いで谷を削り、そこにまた石や砂を運んで固い平地をつくったのだった。彼はその場所にテントを張るつもりでいた。
しかし心配していたとおり、車でそこまで行くことはできなかった。砂利道のあるカーブを曲ると、ヘッドライトがとつぜん道に横たわる倒木を照らし出したのだ。こうしたことは山奥の道では珍しいことではなかった。彼は車をカーブの手前までバックさせ、道の左側の山肌にぴったりとつけて停車した。ちょうど午前三時になるところだった。
彼はエンジンを切り、ドアをあけてルーム・ライトをつけた。冷んやりとした夜明け前の山の空気と渓流の音が車内に流れこんできた。六月の初めだったが、まるで秋の終りのような涼しさだった。彼は東京を出るときにコンビニエンス・ストアで買ってきたお握りの包みを後部座席から取って、腹ごしらえをした。
彼は山の中の暗闇の中に一人でいても、まったく孤独を感じなかった。彼はすでにイワナやヤマメと一体化していた。彼にはこうしてべつのところにいても、渓流の水面を低く飛ぶカゲロウやトビゲラを捕獲しようとして水面に全身をあらわすほどライズする彼らの美しい姿が見えた。彼はその彼らを鳥の羽根で精巧につくった擬似餌で釣り上げるのだ。やがてじっさいに彼らの美しい姿を目にし、釣り上げることを想像すると、彼の胸ははちきれんばかりに高鳴った。車に釣り道具やリュックサックを積みこみ、夜中の十一時にアパートを出発したときから、彼はもう一人ではなかったのだ。
四つのお握りをすべて食べてしまうと、彼は煙草を一本取り出して火をつけた。そのとき鎌田正行のことを思い出して、あいつはもうこんなことをしていないのだろうなと思った。
一年前までは、彼らは釣りをするときにはいつも一緒に行動していて、この川にも二度か三度きたことがあった。鎌田正行はすばらしい相棒だった。
大岡守は、人間を見るとき、いつのころからか妙な判断基準で見る癖がついていた。それは戦場の前線で危険な任務につく場合、その人間と安心してチームが組めるかどうかということだった。戦争など知らないのにどうしてそんなふうに考えるようになったのか自分でもよく分らなかったが、あるとき気がつくとそんなふうに人間を見るようになっていたのだ。そして誰かと一緒に何かをしているとき、そんなふうにして相手を見ると、おれはこいつのせいで敵陣の中で孤立させられると思うようなことがよくあった。鎌田正行にはまったくそうしたところがなかった。渓流の深い急な流れのところを渡らなければならないようなときにいつもそのことを感じた。そういうときは、互いに流れに流されないために、腋の下のところのリュックサックの背負いバンドを相互にしっかりと手で握り、流れに正対しながら二人で呼吸を合わせて横歩きして渡るのだが、鎌田正行とならどんな急流にでも安心してはいって行くことができた。鎌田正行なら、どんな事態になってもおれのリュックサックの背負いバンドを離さないだろうと分っていたからだ。
それに鎌田正行はイワナやヤマメのことを大岡守と同じくらいよく知っていた。イワナやヤマメは擬似餌のついた釣り|鉤《ばり》に食いついても、すぐにそれが本物の餌ではないと気がついて吐き出してしまうが、最初に釣った魚のぬめりを擬似餌と鉤にこすりつけておくと、本物の餌に似た味がするので魚がだまされやすくなるといったのは鎌田正行だった。二人は夜中に車で東京を出発すると、あとはもう余計な口はいっさいきかなかった。二人のあいだでは、そんなふうにしてあらゆることが了解されていたので、口をきく必要がなかったのだ。ただどちらかが疲れると黙って運転を交替し、そのあいだにかわるがわる仮眠をとった。それは無駄のない、じつにすばらしい旅だった。
その鎌田正行が結婚するといい出したのは一年前の夏のことだった。大岡守は反対した。直感的に自分と鎌田正行の関係が変わってしまうと感じたからだ。鎌田正行は結婚してもおれは変わらないといったが、大岡守にはそんなことはありえないと分っていた。結婚したら最後、もう好きなときに釣りに行くなんてことはできなくなるだろうし、もし行ったとしても、鎌田正行の頭の中にはその女が住みついてしまうだろうから、考えや行動からきっと自由が奪われてしまうにちがいなかった。大岡守はそれでは楽しくなかった。
そして鎌田正行が結婚すると、心配していたとおり、二人の関係はすぐにぎくしゃくした。
鎌田正行が結婚式を挙げてしばらくしたある日のことだった。大岡守は彼に招待されて彼の新居へ遊びに行った。かわいらしい夫人の手料理でおしゃべりをしながらビールを飲んでいると、スキヤキが出された。そのとき大岡守は卓上コンロの上にのせられた鍋を見て、この女は鎌田正行をぜんぜん理解していないと思った。鍋の中にすでにたっぷりとダシ汁がいれられていたからだ。夫人がそこに牛肉と野菜を入れて煮ようとしかけるのを見て、大岡守はいった。
「何だい、これは。鎌田はこんなスキヤキは食べないぜ」
「どうしてですか」
と夫人がいった。大岡守はそのいい方に腹が立った。
「鎌田が好きなのは、肉を鍋で焼いてから味つけをする関西風のスキヤキだからさ。おれは鎌田のことは誰よりもよく知っているんだ。これじゃ牛鍋じゃないか」
夫人が顔を真赤にして口をつぐむと、鎌田正行がいった。
「これだってうまいよ。食ってみろよ」
「うまいもんか」
と大岡守はいった。
それでその夜の雰囲気はメチャメチャになった。そしてそれ以後、大岡守は二度と鎌田正行の家に行くことはなくなったのだった。電話もかけにくくなった。そうして二人はだんだん会うこともすくなくなり、話すこともなくなったのだった。
大岡守は山の中の車の中で煙草をすいながら、誰が何を失ったんだろうと考えていた。彼は鎌田正行を失った。しかし鎌田正行が失った、夜中の十一時に釣りに出発するときに感じる純粋な高揚感や、魚との一体感は失っていなかった。そうした感覚は、不思議なことに何度同じことをくり返しても、いつも新鮮で|色褪《いろあ》せなかった。女なんかのためにそのすばらしい気分を味わうことを失ってしまうなんて、彼には考えられないことだった。
ルーム・ライトの明りで腕時計を見ると、三時半になろうとしていた。大岡守は車から降りてトランクをあけ、折りたたんだテントや食料を詰めたリュックサックを出して肩に背負った。手には釣り竿と懐中電灯を持った。目的地の一ノ瀬の川原まではまだ一キロはあるはずだった。空が明るくなる四時までにはそこに着かなければならなかった。彼は懐中電灯の明りを頼りに細い林道の左側に寄り、山肌に沿って歩いて行った。
大岡守がテントを張るつもりでいた一ノ瀬の川原の平地には、都合のいいことに他の釣り人は一人もいなかった。火曜日のせいかもしれないが、それよりも大きな理由は、今年はこの川が新聞や釣りの雑誌で一度も獲物の多い川として紹介されなかったからにちがいなかった。彼は東京の街角のような雑踏の中で釣りをするのはいやだったので、そうしたことをすっかり調べたうえで、わざとこの川を選んだのだ。このぶんなら三、四日は誰にも会わずに釣りができるかもしれないと思った。
彼は谷に降りると川原のその平地にリュックサックをおろし、釣り糸や何種類もの擬似餌を準備したあとで、音を立てないようにそっと川岸に近づき、水の中にイワナやヤマメが泳いでいるかどうか観察した。彼らは非常に臆病で警戒心が強いので、人間の影が水面に映っただけで、岩の下や水草の陰の隠れ家に逃げこんでしまうのだ。そして彼らは一度人間の気配を感じたら最後、よっぽど腹を空かしているときでもないかぎり、その人間が川べりからいなくなるまで絶対に再び姿をあらわさない。だからあまり影のささない明け方と夕方が彼らとの闘いの絶好の時間なのだった。
しかしイワナもヤマメも目で見えるところには一匹も泳いでいなかった。まだ彼らの就餌時間ではないのかもしれなかった。
大岡守は川岸から離れ、釣り糸の先にカゲロウの擬似餌をつけた鉤を結びつけた。とりあえずそれでやってみようと思ったのだ。一匹釣り上げることができれば、その腹をさいて彼らがどんな昆虫を好んで食べているかを調べられるのだが、それまではいろいろな擬似餌をためしてみる以外になかった。そして待つことだった。釣りで何よりも重要なことはそのことだ。彼らが姿を見せるのはほんの一瞬だが、彼らはそのときは餌になる昆虫を懸命にさがしているので、彼らの視界の中にうまく擬似餌の鉤をキャストしてやればよろこんで食いついてくる。しかし運よくその瞬間がやってきても、辛抱強く待ち、彼らの視界内に鉤を正確にキャストできる態勢をとっていなければ、彼らを手にすることはできないのだ。
大岡守はそれから六時までの二時間のあいだに、トビゲラの擬似餌につけかえてみたり、場所を上流や下流に移ってかえてみたりした。しかし結局一匹も釣り上げることができなかった。
この川の水はまだ冷たすぎて水生昆虫が羽化していないのだろうかと彼は思った。そうだとすると、イワナやヤマメは水の中の石や植物に産みつけられた水生昆虫の卵や幼虫、それにちいさなカニなどを食べているから、なかなか水面にはライズしてこない。水面にライズしてこなければ、擬似餌で彼らを釣り上げるのはほとんど不可能だった。カゲロウやトビゲラといった昆虫が水面にふわりと落下したと思わせて、彼らに食いつかせるのが擬似餌の釣りなのだ。しかしもう季節は六月だった。解禁早々の三月ならともかく、水生昆虫がまだ卵のままでいるとは考えられなかった。
それともこの川では何か重大な事故があったのだろうか。それも考えられないことではなかった。魚がその川に生息できるかどうかは、その川に魚の餌となる生物が十分に存在しているかどうかによる。したがって水生昆虫をおもな餌にしているイワナやヤマメは、何かの都合で水生昆虫がその川から失われてしまえば、死ぬよりほかにないのである。水生昆虫は、卵の状態のときに川に洪水が起きても、人間の不注意で毒性のものが川に流れこんでも、とにかくどんな原因ででも簡単に川から失われる。そうした何かがこの川には起きたのかもしれなかった。
しかし一日釣っていても一匹も釣れないことがあるというのも、大岡守が長いあいだの経験から学んだ厳然たる事実だった。そしてつぎの日にはまったく同じ状況下で二十匹も三十匹も釣れることがあるのだ。彼はことの真相を知るために流れの中にはいり、水の中から手ごろな石を二つ三つ拾いあげて、ひっくり返してみた。するとひとつの石の底にカゲロウの幼虫がへばりついて、のろのろとうごめいていた。餌が存在しているということは、魚がいるということだった。彼は石を水の中に戻し、流れから出て、魚が浮いてくるのを再び待つことにした。
やがて日が昇り、川岸のブナやカエデの深い木立の中から木洩れ日が水面に射してくるようになった。何分もしないうちに日はさらに高く昇り、やがて川の流れる谷全体を強い光で照らすようになるだろう。大岡守は魚を釣り上げることをあきらめ、移動した場所から一ノ瀬の川原の平地に戻って行った。これも釣りの一部分だった。彼はすこしも残念に思わなかった。
川原の平地に戻ると、リュックサックからちいさく折りたたんだテントを取り出し、金属の杭を川原に打ちこんで、たるみのないようにしっかりとそれを張った。二人用のサイズだったので作業はとても簡単だった。テントができると大岡守は中にもぐりこみ、渓流を歩くためのウェイディング・シューズを脱いで横になった。夜どおし車を運転してきていたので、体に力がなくなっていた。彼はそのまま昼すぎまで眠った。
目が覚めると彼は川の冷たい水で顔を洗った。それから携帯用のガスコンロで湯をわかし、ごはんとカレーのパックをあたためて昼食をとった。朝の釣りでイワナかヤマメが手にはいっていれば、焚火をたいて塩焼きにして食べるつもりでいたのだがどうしようもなかった。しかし腹ごしらえをすると、気分がさっぱりし、体にも力が戻ってきた。
彼は食事のあとかたづけをすると、ガスコンロやゴミをリュックサックにしまい、それを背負って再び釣りに出かける用意をした。テントはそのままにしておいた。ほかに人の姿は見えなかったし、このあとも誰もやってこないだろうと思ったのだ。
こんどは彼は岩伝いに渓流を下って行った。川には雪解け水が流れているはずだが、梅雨の雨はまだ降っていなかった。そのために水の量が十分ではなく、イワナやヤマメが上流まで上ってきていないのではないかと思ったのだ。魚が釣れない理由はいくらでも考えることができた。
大岡守はいろいろなところで立ち止まり、地形や流れの様子を見ては魚がいそうだと感じたところでキャストしてみた。しかしどこでも擬似餌は川面をむなしく流れていくだけで、当たりは一度もこなかった。もし魚がいるのなら、この川の魚はおそろしくかしこい連中のようだった。
彼は川面や岸辺の草の上をちいさな昆虫が飛んでいるかどうかも注意深く観察した。それらが飛びまわっていれば、彼らはやがて力つきて川に落ちるか、卵を産みつけるために川面におりるかするので、それを獲えるために魚が必ず水面にライズしてくるからである。しかしどこを見ても、カゲロウやトビゲラはおろか、ブヨさえ飛んでいなかった。
大岡守はさらに渓流を下って行った。そのころには、下るべきではなく、一ノ瀬から上流に上って行くべきだったという考えが浮かんで後悔しはじめていたが、もう一度一ノ瀬まで戻って上流を目ざすには遅すぎた。彼は下りつづけるよりほかになかった。
やがて川が左に蛇行したところを曲って行くと、急に川幅が広くなり、水が深くおだやかに流れているところに出た。そしてそこの川岸の岩の上には人が二人いて釣りをしていた。一人は男で、一人は女だった。
大岡守は二人のそばを静かに通りすぎようとした。釣り人の中には、人が釣っているポイントにあとからやってきて平気でキャストするような人間もいたが、大岡守はそういう人間を見るとひどく腹がたった。だから彼ら二人も、立ち去らなかったらきっと腹を立てるだろうと思ったのだ。いい感じの場所だったので残念だったが仕方がなかった。
ところが、彼が二人のそばを通りすぎようとすると、男のほうが声をかけてきた。
「やあ」
「こんにちは」
と大岡守もいった。
「お茶でも飲んでいきませんか」
「いえ、お邪魔になるといけませんから」
「ちょうど一服しようとしていたところなんですよ。遠慮はいりませんよ」
大岡守は立ち止まった。そういわれてみると喉が渇いているような気がした。それに彼がこんどこそ釣り上げてやろうと狙っている夕方の時間までには、まだすこし間があった。彼が、それじゃちょっと失礼しますといって岩の上にリュックサックをおろすと、二人も釣りをやめて腰をおろした。
大岡守は女からカップがわりのポットの|蓋《ふた》を渡された。中には冷たくひえた麦茶がはいっていた。彼は一息で飲みほした。すばらしくうまかった。
「よかったらサンドイッチもどうぞ」
と女がいった。
男は四十歳をすぎているように見えたが、女は大岡守と同じぐらいのようだった。きっとまだ三十歳にはなっていないだろうと大岡守は思った。いったいどんな関係だろうと考えていると、男が自分の名前をいい、女のことは妻だといった。男は村上茂雄というのだった。大岡守も自分の名前をいった。
「いかがですか。|釣果《ちようか》はありましたか」
村上茂雄がいった。
「いえ、さっぱりです」
「やっぱりそうですか。ぼくもじっとしているのはもったいないから昼すぎからここでやっているんですが、さっぱりです。夕方になるまで待たないとしょうがないのかな」
「でも、このぶんでは夕方になってもどうでしょう。魚がうまい具合にイヴニング・ライズをしてくれればいいんですが、昆虫も飛んでいる様子がありませんしねえ」
イワナやヤマメが夕方にイヴニング・ライズと呼ばれる行動をするのは、カゲロウやトビゲラにとって、その時間帯が涼しく静かで、産卵にもってこいの時間だからである。イワナやヤマメは産卵のために水面に舞いおりる彼らを狙って飛びつくのだ。したがって彼らがいなければ、イヴニング・ライズも起こらない。
「川をまちがえたかな」
村上茂雄はいった。
「しかしカゲロウなんかは、なんの前兆もなくとつぜん大発生して、川が真黒になるほど飛ぶこともあるそうですからね」
「大岡さんはそういうところを見たことがあるんですか」
「いいえ。見たことはありません」
「ぜひ見てみたいもんだね。もし夕方にそれが大発生したら、すばらしいイヴニング・ライズが見られるだろうね」
「そうですね」
と大岡守はいった。しかし心の中では、そういうところには死ぬまで釣りをつづけていてもぶつかれないだろうと思っていた。たぶんそのときは川の色が魚の色に変わり、何百匹というイワナやヤマメがバシャバシャと音を立てて水面を飛ぶのだろうと思った。
「このサンドイッチ、とてもおいしいですね」
大岡守はレタスとトマトのサンドイッチをひとつつまんで、夫人にいった。夫人はにっこり笑い、ポットを持った手を大岡守の前に伸ばしてポットの蓋にもう一杯冷たい麦茶を注いだ。
「生き返った気がします」
大岡守はまたそれを一息で飲みほしていった。「ぼくがお昼に何を食べたと思います? 真空パックのごはんとカレーですよ」
夫人はまた笑った。彼女は日焼け除けの帽子をかぶり、長袖のシャツにウールのズボン、ウェイディング・シューズという格好だったのであまり見ばえがしなかったが、髪を上げ、ドレスを着てハイヒールをはけば相当人の目を|惹《ひ》くだろうと思われた。とくに笑った顔がすばらしかった。どうしてこんなに年上の男と結婚しているのだろうと思った。
それから大岡守は腕時計を見た。四時をすぎていた。その様子を見て村上茂雄がいった。
「大岡さんもここでしばらく釣ってみたらいかがですか」
大岡守は夫人の顔を見た。
「どうぞ」
と彼女もいった。
「じゃあ、ここで釣らせてもらいます」
と大岡守はいった。これ以上川を下って行っても、どっちみち同じことだろうと思ったからだ。それにまたテントまで戻ることを考えると、これ以上離れるのは|億劫《おつくう》だった。
彼は釣り糸を投げてもからまない距離まで二人から十分に離れ、おだやかに流れる水面に向かってキャストした。カゲロウの擬似餌は本物のカゲロウが産卵に舞いおりるときのようにふわりと水面に落ち、それから沈んでいった。彼はつづいて手首を小刻みに動かし、沈んだ擬似餌を浮かしたり、また沈めたりする動作をくり返した。その擬似餌の動きが、魚には生きた昆虫のように見えるのだ。そしてもし川に魚がいて、彼らが腹を空かしていれば、上流から餌が流れてきたと思ってそれに食いつくはずなのだった。
村上茂雄のほうを見ると、彼がちょうど獲物を釣り上げたところだった。村上茂雄は手を上げてよろこびを知らせた。大岡守も手を上げてそれに応えた。この川にはやはり魚がいないのかもしれないと心配していたところだったが、いることはいるのだと大岡守は思った。
大岡守がやっと二十センチほどのイワナを釣り上げたのは、釣りはじめてから二時間ほどたったときだった。そしてそれが最後となった。彼は自分のテントまで戻らなければならなかった。暗くなってからでもいったん林道まで上がり、道伝いに行けば戻れないことはないが、明るいうちに戻るにこしたことはなかった。
「なにはともあれ、今夜のおかずはできたわけだ」
と彼は思った。
一時間後、大岡守は村上茂雄のテントのそばで枯木の枝を集め、イワナを焼くための焚火をおこしていた。
こうした事態になるとは大岡守は想像もしていなかったが、釣ることをやめたあとで村上茂雄と夫人に別れの挨拶をいいに行くと、彼がこういったのだった。
「どうです。よかったらぼくのテントで一緒に食事をしませんか。冷たいビールもありますよ」
「いいえ。ぼくはこの上流にテントを張ったままにしてありますので」
「放っておけばいいじゃありませんか。この川にはぼくたち三人のほかは誰もいませんよ」
「でも御迷惑をおかけすることになりますから」
「そんなことはありませんよ。ねえ、きみ」
村上茂雄は夫人のほうを見ていった。すると夫人もそれに応えて笑ってこういったのだった。
「ちっとも迷惑じゃないわ。それにきてくだされば、真空パックのカレーライスよりはましなものを差し上げられると思いますよ」
夫人は一匹も釣っていなかったが、村上茂雄はヤマメを二匹釣っていた。大岡守は焼く前に三匹ともナイフで腹をさき、内臓をとり出して彼らが何を食べているか調べた。彼らはクモやバッタも食べていたが、一番多く食べていたのはカゲロウの成虫だった。カゲロウが飛んでいるところは大岡守の目には見えなかったが、やはりどこかで羽化していたのだ。もっと上流のほうで羽化して、水面に落ちたあとで下まで流れてきたのにちがいなかった。あしたは上流のほうへ行ってみようと思った。
三人はビールを飲みながら金串に刺して焼いた魚を食べたあと、夫人がつくった豚汁を食べた。
「魚をたくさん食べるつもりだったからこれしかないんですけど、真空パックのごはんよりはいいでしょう」
と夫人はいった。
「もちろんです。とてもおいしいです」
「ごはんのときはマツタケの佃煮がありますから」
「マツタケの佃煮なんてあるんですか」
「あるんですよ」
大岡守はおどろいた。きっと高いものなのだろう。そんなものを夫婦二人だけのキャンプのときに食べるつもりでいたなんて、ずいぶんいい暮らしをしているんだろうなと思った。
村上茂雄は建築家だった。大岡守は知らなかったが、彼が設計したビルは日本ばかりでなく外国の都市にもいくつも建っていた。
「あなたはどんな仕事をしているんですか」
村上茂雄がいった。
「ぼくは小説を書いているんです」
「フリーで?」
「ええ。そうです」
「それはうらやましいな」
「どうしてですか。村上さんだってフリーなんでしょう」
「いや、ぼくは人を二十人ばかり使っていますからね。彼らに給料を払うためにはたらいているようなもので、とてもフリーだなんていえる立場じゃないんですよ。その点、大岡さんは何ものにもとらわれずに好きなことを書いて、それでお金がもらえるんでしょう。普通はできないことじゃありませんか。すばらしいですよ」
「見た目にはそうかもしれませんけど、でもそんなものでもないんですよ」
と大岡守はいった。
彼は、自分が何ものにもとらわれずに好きなことを書いて生きている存在だなどという考えは持ったことがなかった。いつもそういう自由な存在になりたいと望んではいたが、それにはあまりにも深く自分というものにとらわれすぎていた。そのためにどんなに自由になりたいと望んでも、自分というものから一歩も抜け出ることができないのだ。何か変わった面白いものを書こうとすると、必ずその自分が邪魔をした。何かの行動をしようとするときもそうだった。そして不都合なことに、彼の仕事は人のためや会社のためを考えてする仕事ではなかったので、そのことを理由に自分を一時的にごまかすということができなかった。彼は自分などというやっかいなものは何度なくしてしまえればいいと思ったか知れなかった。
「まあ、それぞれにそれぞれの問題というものはあるんでしょうけどね」
と村上茂雄はいった。「あなたの本のタイトルを教えていただけませんか。東京に帰ったら買って読ませていただきますから」
「名刺をいただければ、ぼくのほうから何冊かお送りしますよ」
と大岡守はいった。「面白いものじゃありませんけど」
村上茂雄は名刺を渡した。
「わたしも読ませてもらっていいかしら」
と夫人がいった。
「どうぞ」
「楽しみだわ」
と夫人はいった。
日焼け除けの帽子を脱いだ夫人は、帽子をかぶっているときよりもさらに若く見えた。彼女は釣りをしているときにはつけていなかった銀のイヤリングをしていた。
彼らは最後にマツタケの佃煮でごはんを食べた。お茶漬けにして食べるとおいしいですよと夫人がいったので、大岡守はそうした。佃煮はマツタケを丸のまま煮たもので、かじると繊維質のこころよい歯ざわりといい香りがしたが、彼は最初に食べた釣ったばかりのイワナの塩焼きのほうがうまかったと思った。あれが一人につき一匹ずつしかなかったのはとても残念だった。
「あしたもこのあたりにいらっしゃいますか」
と大岡守は村上茂雄にきいた。
「ええ。そのつもりです。なにしろ、ぼくには大荷物がひとつありますからね」
村上茂雄は夫人のほうを見ていった。
「それじゃ、あしたはぼくのテントでイワナ・パーティーをしませんか。あしたは絶対にみんなで食べても食べきれないほど釣ってみせますから。ぼくのテントは、ここからすこし上流の一ノ瀬の川原にあるんです」
村上茂雄は、大岡守が車を乗り捨てた倒木のところからすぐそばの、林道わきの平地にテントを張っていた。
「それはちょっと残念だな」
と村上茂雄はいった。「こんなところまで仕事を持ってくるなんてバカみたいな話なんですがね、ぼくはあしたは夕方からちょっと韮崎まで行ってこなくちゃならない用事があるんですよ」
「そうですか」
大岡守はがっかりしていった。きっと愉快なパーティーになるだろうと思っていたのだ。すると夫人が村上茂雄にいった。
「そんな話、きいてないわ」
「仕事の話はいつだってきみにはしないじゃないか」
「いつもとはちがうでしょう。いまは東京にいるわけじゃないのよ。ひどいわ」
「だからバカな話だっていったじゃないか。どうしても予定を変えられなかったんだよ」
「わたしはどうなるの」
「こうしたらどうだろう。もし大岡さんさえよかったらの話だけど、きみだけでも大岡さんのテントにうかがうというのは」
「御迷惑よ」
「どうでしょうか」
村上茂雄は大岡守にきいた。
「奥さんさえよろしければ、ぼくは構いませんけど」
と大岡守はいった。こんな山奥のテントの中で、女が夜に一人で何時間も夫の帰りを待っているなんてかわいそうだった。
「じゃあ、そうしなさい」
と村上茂雄は夫人にいい、大岡守にはよろしくお願いしますと頭を下げた。
大岡守はがっかりした気持がなくなり、力が湧いてくるのを感じた。あしたはどんな苦労をしても十匹以上は絶対に釣ってやると決意した。
「それじゃ、ぼくはそろそろ自分のテントに戻ります」
と大岡守はいった。あしたこそ万全の体調で釣りに臨まなければならなかった。あしたは明け方の三時か、遅くても三時半には起きなければならない。それには早く寝る必要があった。きょうはテントに戻ってポケット・フラスコに入れて持ってきたウィスキーを二口か三口飲んで寝れば、すぐに眠れるだろう。
ところが彼は、この夜は自分のテントではなく、村上茂雄のテントで寝ることになった。彼は細い道がついているから心配ないといったのだが、村上茂雄が夜に谷を川原までおりて行くのは危険だといってどうしても帰さなかったのだ。村上茂雄のテントは五人用の大きなものだった。
大岡守はテントの入口に一番近いところに寝た。その隣にすこし離れて村上茂雄、そして一番奥に夫人が寝た。
「一ノ瀬の川原は、雨が降ると危ないんじゃないですか」
ランプの明りを消したあと、暗闇の中で村上茂雄がいった。
「ええ。でも、ひどい雨の心配はなさそうですから」
と大岡守はいった。
彼は三、四年前に鎌田正行と二人でこの川にきて一ノ瀬の川原にテントを張ったとき、とても危険な目にあっていたのでそのことはよく知っていた。夕方の釣りを終えて食事の仕度をしていると、とつぜん雨が降ってきた。はじめのうちは夏の通り雨だろうと思ってそのまま食事の仕度をつづけていると、やがて焚火の火が一瞬のうちに消えてしまうほどのひどい降りになってきた。そのうちに川の流れがにごり、音を立てて水かさが増し、つぎの瞬間には水が足元を洗いはじめた。二人はあわててテントの杭を抜き、リュックサックや食器と一緒に谷の高いところに放り投げた。そうして最後に二人が谷の高いところに飛び移るまでに十分とかからなかったはずだが、そこから下を見おろすともう川原の平地は水の下に沈んで見えなくなっていた。おそろしい早さの増水だった。だが雨が降らないときの一ノ瀬の川原は、平坦で水辺に近いので、最高のキャンプ地だったのだ。
「気をつけたほうがいいですよ」
また暗闇の中に村上茂雄の声がした。大岡守は返事をしなかった。早く眠らなければならなかったからだ。彼は寝る前にウィスキーを二口ばかり飲んでいた。その効果が早くあらわれないかと思いながら、黙ってじっとしていた。渓流の音と、何かの虫の声しかきこえなくなった。
と不意に、隣で何かゴソゴソする音がきこえてきた。村上茂雄が寝返りをうったのだろうと思った。
「いやよ」
つづいて夫人のひどく押し殺した声がきこえてきた。
大岡守は体を固くした。どうしていいか分らなかった。ゴソゴソする音と、再び夫人の声がした。
「よしてよ」
夫人は怒っていた。それから夫人の立ち上がる気配がし、テントの外に出て行くのが分った。村上茂雄は起き上がらなかった。
大岡守は夫人のために村上茂雄を憎んだ。しかしどうすることもできなかった。体を動かすことすらできなかった。夫人はこのあとどうするのだろうと思った。しかしそれは分らずじまいだった。まもなく彼は眠ってしまったからだ。
あくる日、大岡守は三時に目を覚ました。
彼は静かに起き、自分のリュックサックを持ってそっとテントの外に出た。そのまま出かけてしまうつもりだった。村上茂雄とも夫人とも顔を合わせたくなかった。彼はテントの外でリュックサックに腰をかけ、煙草に火をつけてウェイディング・シューズをはいた。
うしろに人の気配がした。ふり向くと薄闇の中に夫人が立っていた。目が合うと彼女は片手で髪をかき上げながら弱々しく笑った。彼が昨夜のことを知っているだろうと承知した笑い方だった。彼はどんな顔をしていいのか分らなかったので、無表情にいった。
「夕方の六時にここへ迎えにきます」
「お待ちしてます」
と夫人はいった。
大岡守は、彼らと一緒に食事をしたり、彼らのところに泊ったりしたのは失敗だったと後悔した。釣りは彼にとって、釣りそのもの以外のことはまったくはいりこむ余地のない非常に純粋な行為だった。なかでも昨夜、眠る前に村上茂雄と夫人のあいだにあったようなことは、もっとも起こることを望んでいなかったものだった。あれから彼は自分の釣りが不純に|汚《けが》されてしまったように感じていた。
鎌田正行が結婚することが決まってから、大岡守は彼に彼の婚約者も連れて三人で釣りに行かないかといわれたことがあった。大岡守は断った。女は、日に焼けるのがいやだとか、疲れたとか、腹が減ったとか、魚がぬるぬるするだとか、つまらないことばかりいって釣りを台なしにしてしまうにちがいないと思ったからだ。そのことも鎌田正行と二人で釣りをしなくなった理由のひとつなのだが、やっぱりあのとき断っておいてよかったと思った。昨夜の村上茂雄が鎌田正行だったらと思うとぞっとした。鎌田正行のあんな姿は見たくなかった。
大岡守は林道を通って上流にのぼって行き、一ノ瀬の川原に通じる細い道まで行ったところで谷の下におりた。そこからは岩伝いに川をのぼって行くつもりだった。もう夜はすっかり明けて、明け方の涼しい風がブナやカエデの枝のあいだを渡っていた。もっとも気持のいい時間帯だった。この日は前日とちがい、ちゃんと睡眠をとっていたので、体調もすばらしかった。
彼は川原におりるとテントを点検し、きのう張ったときと何も変化していないことを確かめると、そのまま上流に向かった。一ノ瀬の川原のあたりは蛇行のせいでおだやかな流れになっていたが、そこから上は勾配が急になっていて、水は大きな岩にぶつかって白いしぶきを上げながら音を立てて流れていた。大岡守はすべらないように注意しながら、濡れた岩の上を伝ってのぼって行った。
やがて鹿の滝と呼ばれているところに出た。前方の十メートルほどの高さの斜面から水が激しく流れ落ちていた。大岡守はリュックサックをおろすと、魚に気づかれないように岩の上に腹ばいになり、滝壺を|覗《のぞ》きこんだ。滝壺はまわりに鬱蒼と茂った木のために水の中が見えにくかったが、彼には気配で魚がいるのが分った。まちがいなく何匹かが悠々と泳ぎまわって餌をあさっていた。
彼は釣りの仕度にとりかかった。滝壺はまわりの浅瀬まで含めると相当大きかったが、足場にしようと狙いをつけた岩のうしろには谷の崖が迫っていて、長い糸は振れそうになかった。彼は思いきって糸を短くして、カゲロウの擬似餌をつけた。擬似餌をカゲロウにしたのは、きのう釣った魚がみんなカゲロウを食べていたからだ。
しかし彼はあわてなかった。魚が悠々と泳いでいるということは、近くにすぐに逃げこめる隠れ家を持っているということだからだ。あわててキャストして、岩や木の根の下にもぐりこまれてしまったら、彼らはもう警戒して二度と姿をあらわさない。しかも短い糸でカゲロウが水面に舞いおりるようにふわりと擬似餌を落とすのは非常にむずかしいことだった。だが彼はすべてをうまくやってのけた。
一投目で当たりがきた。指先にそれを感じると、体全体が緊張してぞくぞくした。彼は竿をまっすぐに立て、ぴんと張った糸を引っぱった。たちまち魚の強い力で引き戻され、水の中で糸の角度が急に変わった。
「こいつはすごいぞ」
と思った。
鉤は魚の口にしっかりとかかっていた。竿が弓なりにしなった。やがて水の中から横腹に黒い斑点のあるヤマメが勢いよくはね上がった。三十センチはありそうな大きなやつだった。彼は竿を引きよせ、ヤマメをつかんで口から鉤をはずした。ヤマメは彼の手の中で|鰓《えら》を大きく動かしていそがしく呼吸していた。それから彼はヤマメを流れに浸した網の中に放した。ヤマメは網の中にうずくまり、静かになった。
彼は楽しかった。しばらくすると、彼は鎌田正行がいったことを思い出して、最初に釣ったヤマメの体表のぬめりを擬似餌や鉤や糸になすりつけた。また夜がすっかり明けると、よく澄んだ水の中に魚が泳いでいるのが岩の上からはっきりと見えるようになった。彼はそうした魚を見つけると、その一・五メートルほど上流に擬似餌を落とした。重要なのはその距離だった。そしてそれに成功すると、こんどはそれが魚に本物のカゲロウのように見えるように、手首を上下に動かして擬似餌を微妙に浮き沈みさせた。そうすると魚はつねに流れてくる餌を狙って上流を向いているから、それが視界にはいると食いつくのだ。魚はだまされて食いつくこともあったし、食いつかないこともあった。食いついてもすぐに吐き出してしまうこともあった。しかし大岡守はそうしたすべてのことが楽しかった。昨夜のことなどはすっかり忘れてしまっていた。
彼は鹿の滝で七時近くまで釣りつづけた。釣果はヤマメが四匹、イワナが三匹だった。彼はそれらを全部網の中から岩の上に出すと、ナイフで腹をさいて腐りやすい内臓を取り出した。それから一匹ずつ水できれいに洗い、氷を詰めたクーラー・ボックスに入れた。
彼は鹿の滝から川を下り、再び一ノ瀬の川原のテントに戻った。すでに日は谷の上に高く上がり、川原の石に光が白く反射していた。彼はリュックサックをテントの中に入れ、シャツを脱いで上半身裸になった。もう朝の涼しい風はやんでいたが、タオルを川の水に浸し体を拭くと気分がさっぱりした。それから彼はコンロで湯をわかし、即席ラーメンを食べた。魚を一匹か二匹焼いて食べたかったが、夜のことを考えて我慢した。夕方、もう一度鹿の滝で釣ってみるつもりだったが、また釣れるとはかぎらなかったからだ。
彼は腕時計を見た。九時になろうとしていた。六時まであと九時間かと思った。あの夫人と二人で魚を焼いて食べたり、ビールを飲んだりするのはきっと楽しいだろうと思った。彼はビールを持ってきていなかったが、村上茂雄のビールを持ってきて飲んでやるつもりだった。あんなやつに遠慮することはひとつもないと思っていた。
それから彼はしばらく眠ろうと思い、テントの中にはいりこんだ。しかしテントの中は暑くてなかなか眠れなかった。
しばらくすると外で男の声がした。テントの外に顔を出すと、茶色に濃く日焼けした顔の男が立っていた。
「入漁券はもう買ったかね」
と男はいった。男は川の管理者だった。
「いや。まだです」
と大岡守はいった。
「いつからきているね」
「きのうからです」
「じゃあ、二千円だね」
大岡守は五千円札を男に渡した。
「きのうは用事があって見回りに歩けなくてね。あしたも釣るつもりかね」
「ええ。そのつもりです」
「じゃあ、あしたの分も買っておいてもらったほうがいいな。いいかね」
「どうぞ」
男は三日分の入漁券と二千円を返してよこした。
「今年はここから下流では釣れないみたいだね。思いきって鹿の滝の上まで行ったほうがいいのかな」
大岡守は男にきいた。
「このへんの魚は早い時期に餌釣りの連中がだいぶ釣って行ったからね。上に行ったほうがいいかもしれないね」
と男はいった。
大岡守は再びテントの中にはいった。眠ろうとして目を閉じると、またあの夫人のことが思い浮かんだ。彼は彼女のことなどそれほど考えるつもりはなかったのだが、気持のほうが勝手に考えてしまうのだった。明け方テントの前で別れるときに見せた彼女の弱々しい笑い顔が思い浮かんだ。あんなに気の毒な女の笑い顔を彼は見たことがなかった。
大岡守は三時すぎに再び鹿の滝へ行った。
滝壺には魚は朝のように泳いでいなかった。しかし岩の下や木の根の下にひそんでいるのは分っていたので、魚がひそんでいそうなところに当たりをつけて擬似餌を落とした。早朝に釣ったのは七匹だったので、あと三匹は手に入れたかった。しかし魚はまったく隠れ家から出てこようとしなかった。
大岡守はすぐにもうこれ以上つづけても駄目だと思った。こういうときには魚と徹底的な根くらべをしなければならなかった。それにはただ魚が姿をあらわすのを待つだけでなく、魚に対して全神経を集中させる必要があった。しかしいまの彼にはその力がなかった。これから会うあの夫人のことで頭がいっぱいになっていたからだ。頭では考えまいとしても、気持のほうが勝手に考えてしまうのでどうにもならなかった。こうなると、彼はもう自分が何も手につかなくなることを知っていた。
「くそ」
と思った。
女のことを考えるといつもこんなふうになるのだった。彼は女のことを考えると楽しかったが、こんなふうにほかのことは何も手につかないような状態になるのはいやだった。そんなふうになるのはくだらないことだと思っていた。だから彼は普段から女のことはできるだけ考えないようにしていた。しかしどんなに気をつけていても、こんどのように思わぬときに女があらわれて、自分でも気づかぬうちに気持をとらえられてしまうのだった。
彼はこういうときに高ぶった気持を落ちつかせるよい方法を知らなかった。彼は岩の上でシャツとズボンと下着を脱ぐと、滝壺の浅瀬にはいった。そしてすこしずつ深いところに歩いて行き、腰をかがめて肩まで水につかった。冷たい山の水が気持よかった。それから彼は両手で頭から水をかぶった。そうするとすこし頭が冷えたような気がした。
彼は一ノ瀬の川原に戻ると、川原や谷の上の山で焚火のための枯木を拾った。その準備がすっかり終っても、まだ五時にならなかった。しかし彼はそれ以上はもう待ちきれなくなり、村上茂雄のテントへ夫人を迎えに行った。
夫人はテントの外の木の根に腰をおろして何かの本を読んでいた。大岡守には遠くからその姿が見えた。彼は本を読むために軽く傾けたその横顔や、長く伸ばして組んでいるすらりとした脚などを眺めながら歩いて行った。彼女はきのうとちがい、ゆったりした感じの七分袖の横縞のトレーナーを着て、脚にぴったりした黒のパンツをはいていた。とてもよく似合っていた。彼が近づくと、彼女は本を閉じて立ち上がり、にっこり笑った。
「もう村上さんはお出かけになりましたか」
と彼はいった。あの男がまだいたらいやだなと考えていたのだ。
「ええ。あの人は昼すぎには出かけてしまったんです。わたしはそれからずっと本を読んでいたの」
と彼女はいった。
「だったらもっと早く迎えにくればよかった」
と彼はいった。そしておれはなんとバカだったのだろうと、昼間寝て目を覚ましたときに様子を見にこなかったことを後悔した。
彼らは村上茂雄の缶ビールを半ダースと、彼女がごはんを炊いてつくっておいた二人分のお握りを持って一ノ瀬の川原へ行った。
「ほんとに御迷惑じゃありませんでした?」
歩きながら彼女はいった。
「ぜんぜん」
と彼はいった。「ぼくはとても楽しいですよ」
谷の細い道をおりるとき、彼女が声を上げ、二人は体がぶつかった。彼女が足をすべらせたのだ。それから彼は川原におりるまで彼女の手を握っていた。
テントに着くと、彼はコンロの火で細い枯枝をあぶり、焚火の火をおこした。彼女はそばにすわってその様子を見ていた。焚火をたくなんて、釣りにくればいつもやっていることで何でもないことだったが、彼女がそばにいて見ていると思うと、いつもとぜんぜん気分がちがった。火がおきると、彼はクーラー・ボックスから魚を出し、カエデの細い枝につきさして火のまわりに立てた。
「大岡さんはほんとに釣りが上手なのね」
七匹の魚を見て彼女はいった。
「そちらはどうでした」
と彼はきいた。
「あの人、大岡さんが出かけたあとでどこかへ行ったみたいですけど、一匹も釣れなかったみたい」
と彼女はいった。あんなやつに釣れるもんかと彼は思い、いい気分だった。
やがて魚が焼けるいい匂いがしてきた。彼は最初に釣った三十センチのヤマメを彼女にとってやった。あとの魚は、イワナもヤマメもみんな二十センチぐらいのだった。二人はビールを飲みながらそれを食べた。ほくほくした身の甘さと、焦げた皮の香ばしい味が口の中で混ざり合って、何ともいえない味がした。
「奥さんは釣りにはもう何度もいらっしゃってるんですか」
「いえ。こんどがはじめてなんです」
「楽しいでしょう」
「分らないわ。一匹でも魚が釣れれば楽しさが分るんでしょうけど、まだ一匹も釣れないんですもの。だから、いまのところはただ汗をかきにきただけという感じ」
「最初は誰でもそうですよ。でも汗をかくだけでも気分がいいでしょう」
「汗をかくのは気分がいいけど、体がべとついて」
「川で水浴びをすればいいんですよ。してないんですか?」
「してないわ」
「じゃあ、いまからしてきたらどうです。いい気持になりますよ」
と彼はいった。
「いまはいいわ」
と彼女は笑った。
川原は夜になってすっかり暗くなり、焚火の火の明りだけが二人の姿を照らし出していた。
「大岡さんはどんな小説を書いていらっしゃるんですか」
彼女がいった。
「いろんなものを書いてます」
と彼はいった。
「そうでしょうね」
「うらやましいっていいたいんでしょう。好きなことが自由に書けて」
「ええ」
「そんなことはありませんよ。自由な人間なんていないんですから」
「でも、考えていることを書いて表現できるというのはすばらしいことよ。わたしはそう思うわ」
「何か書きたいんですか」
「書きたくたってわたしには書けないけど、一人で家でじっとしているときなんか、叫び出したくなることがあるわ。何か話したいのに、相手がいないんですもの」
「村上さんがいるじゃないですか」
「わたしたちには何もないのよ」
彼女はきょうの明け方に見せたような弱々しい笑いを見せていった。
「あの人はわたしとは年が離れているから、わたしのことを子供だと思ってわたしの話なんかまともにきかないし、自分の友だちのことや仕事のことはわたしに話さないから、わたしたちには共有するものが何もないのよ。だからこんども、わたしが釣りをすれば何か二人で一緒に共有するものができると思って、わたしが連れて行ってって頼んだの」
大岡守は何といっていいのか分らなかったので黙っていた。だが内心では、そんな結婚生活ならやめてしまえばいいじゃないかと考えていた。簡単なことだ。彼が黙っていると、彼女が立ち上がっていった。
「わたし、水を浴びてくるわ」
彼はリュックサックから使っていないタオルを出して彼女に渡した。
「声を出したら、すぐきてね」
と彼女はいった。
彼女は水辺に歩いて行き、そこでしばらく服を脱ぐために体を動かしていたが、やがて水にはいった。空には月明りがあったが、遠くの彼女の姿をはっきりと照らし出すほどではなかった。彼は焚火のそばにすわったまま、彼女の声がいつきこえてもすぐに助けに行けるように、彼女がいるほうにじっと耳を向けていた。
一人でじっとしていると、神経がするどくなり、彼女が水の中で気持よさそうに体を洗っている姿がありありと思い浮かんだ。裸になってそばへ行き、一緒に水を浴びられたらとても楽しいだろうと思った。彼女は恥ずかしがるかもしれないが、すぐに同じ気持になれるだろうと思った。それからテントの中に二人で駆けこみ、彼女と一体になりたかった。しかし彼は結局焚火のそばから動かなかった。やがて彼女が、もとのようにゆったりした七分袖のトレーナーに脚にぴったりした黒のパンツをはいて戻ってきた。
「とてもいい気持だったわ」
と彼女はいった。焚火の明りに照らされて頬がつるつるに光っていた。
彼女は新しい缶をあけてビールを飲んだ。大岡守は魚を全部食べてしまったので、彼女がつくってきてくれたお握りを食べた。中にマツタケの佃煮がはいっていた。
「大岡さんは、釣りにはいつも一人でいらっしゃるの」
彼女がいった。
「去年まではいつも二人できていたんですけどね」
と大岡守はいった。
「奥さんと?」
「いいえ、ぼくは独身ですから。男友だちと二人できていたんです」
「その人、今年は都合がわるかったんですか」
「去年の秋に結婚したんです。だから今年は一緒にくるのをやめたんです。結婚した男と釣りをしても、気持がひとつになれませんからね」
「どうして」
「結婚すると男は変わってしまいますから。もとのぼくが知っていた人間じゃなくなってしまうんですよ」
「その人はどんなふうに変わったんですか」
大岡守は鎌田正行が結婚したあとで彼の新居に招待され、東京風の牛鍋を食べさせられたときの話をした。
「そんなことで友だちではなくなってしまうなんて、その人に対してひどいんじゃないかしら。大岡さんの考え方は子供っぽすぎると思うわ」
と彼女はいった。
「そうですかね」
と彼はいった。
「そうよ。そんなことは結婚したらあたりまえのことだもの。たとえきらいな食べ物が出てきたって、おいしいといって食べるのが奥さんへの思いやりだと思うわ」
「でもぼくは、友だちだった男が目の前でそんな姿を見せるのを見るのはいやですね」
「そんなことをいっていたら、誰とも友だちではいられなくなってしまうんじゃないの」
「仕方ないですね」
「駄目よ、そんな考え方は変えなくちゃ」
「どうしてですか」
「うまくいえないけど、大岡さんはそうやって友だちをみんな失っていって、最後は一人で死ぬつもりなの?」
「人間は死ぬときはみんな一人でしょう」
「そんなことはないわ。大岡さんの考え方はまちがってるわ」
と彼女はいった。
「こんな話はよしましょう」
と彼はいった。
「そうね。わたしもそろそろ帰らなくちゃ。あまり遅くまでお邪魔して御迷惑をかけちゃいけないから」
「ちっとも迷惑じゃないですよ」
と彼はいった。「でも村上さんがもうお帰りになってるかもしれませんね。お送りします」
「すみません」
と彼女はいった。
彼は彼女を送って行った。川原から谷の細い道をのぼるときも林道に上がってからも、彼は彼女の足元を懐中電灯で照らしながらその手を握って歩いた。彼はその手だけではなく、彼女の体全部に触れたかった。それがきょう彼が一番したかったことだった。しかしもうすべてが何もないままに終ってしまったのだ。彼は自分の気持が沈み、どうしようもなくなるのを感じた。
「何を考えてらっしゃるの」
と彼女がいった。
「ぼくは奥さんがぼくのテントにくるということになってから、きょうの六時になるのをものすごく楽しみにしていたんです。それがこれで終ってしまったと考えていたんです」
と彼はいった。
「どうしておしまいなの。わたしたちは二人とも東京に住んでるのよ。また会えるわ」
「じゃあ約束してください。来週、ぼくの新しい本が書店に出るんです。そのとき会っていただけませんか。ぼくは自分の新しい本が出たその日に書店に行くのが好きなんです」
「すてき。ぜひ一緒に行きたいわ」
と彼女はいった。
彼は彼女の手を握って歩きつづけた。再び気持が高揚し、胸が高鳴るのを感じた。
やがて村上茂雄のテントに着いた。テントの中は暗く、村上茂雄は帰っていなかった。大岡守は握っていた彼女の手を引きよせ、肩を抱いてキスしようとした。
「駄目よ。わたしを困らせないで」
と彼女はいった。彼女はつらそうに眉をしかめ、訴えるような目で見ていた。
彼は彼女の肩から手を離し、静かに帰った。自分のテントに戻ると、皮張りのポケット・フラスコをリュックサックから出し、ウィスキーを一口ぐっと飲んだ。彼は彼女と何もなかったことにホッとしていた。
あくる日、大岡守は昼すぎまで目を覚まさなかった。フラスコのウィスキーを全部飲んでから寝たせいかもしれなかった。テントの外に出ると、空を見て、きょうは昼間からでも釣りができるかもしれないと思った。水面に人間の影を映してしまう太陽が出ていなかったからだ。谷間から見える空はどんよりと曇っていた。
彼は川の水で顔を洗うと、昨夜の残りのお握りで腹ごしらえをした。そのお握りを食べているときだけ、いまごろあの人は何をしているだろうと彼女のことを思い出した。しかしお握りを食べてしまうとテントもゴミもすべて始末してリュックサックに詰めこみ、上流に向かって出発した。今夜は鹿の滝のずっと上流まで行ってテントを張るつもりだった。
彼はまず鹿の滝まで行き、そこでしばらくキャストしてみた。まだそこの滝壺で釣れるかもしれなかったからだ。しかし時間の無駄のようだった。彼は竿をたたみ、リュックサックにしっかりとくくりつけた。上流に行くには鹿の滝をよじのぼらなければならなかったからだ。鹿の滝は十メートルほどの高さがあったが、ゆるやかな斜面だったのであまり危険なところではなかった。しかし、しっかりした足場を選び、両手で岩をつかみながらでなければのぼれないところだった。
彼は前に鎌田正行と二人でよじのぼったときのように、滝の右側の斜面をのぼりはじめた。足場を確かめ、両手でしっかり岩の角をつかんでのぼって行った。だが四分の三ほどのぼったところで水に濡れた岩の角をつかみそこねた。その瞬間、彼は体のバランスを崩し、背中から滝の流れる斜面を転げ落ちた。
彼は一瞬気を失ったが、気がつくとリュックサックの浮力で滝壺の中に浮かんでいた。彼は飲んでいた水を吐き出し、滝壺の深さを知っていたので水の中に立とうとした。水底に足をつけた瞬間、左脚の太腿にひどい痛みが走り、悲鳴を上げた。そこがどこかにぶつかり、折れたようだった。彼は再び、水に浮き、リュックサックの浮力を利用して手で水をかいた。そうしてやっと岸にはい上がった。
彼はリュックサックをおろし、岩に背中をもたれかけてすわった。これはたいへんなことになったぞと思った。自分の力では一歩も歩けそうになかったからだ。誰かが発見してくれるのを待つ以外になかったが、誰がきてくれるだろうかと考えた。彼以外の釣り人は、このあたりにもう三日もいるのに村上茂雄とあの夫人のほかは一人も出会わなかった。そしてその村上茂雄は、夫人が一緒なのであまりあちこち歩きまわることはできないといっていた。もっとも可能性があるのは、きのう会った川の管理者が見回りにくることだったが、この時間ではきょうはもうこないかもしれなかった。時計は五時になろうとしていた。
もしこのまま誰にも発見されないうちにひどい雨が降ったら、鉄砲水が出て流されてしまうだろうと思った。前に鎌田正行ときたときに出会ったような雨が降ったら、ひとたまりもないにちがいなかった。彼はあのとき一ノ瀬の川原で経験した増水のことをまざまざと思い出した。
彼は頭がぼんやりしてきた。左脚の太腿の折れたところが痛くなってきて気を失いそうだった。彼はリュックサックから新しい煙草を取り出して火をつけた。そのときリュックサックの中のポケット・フラスコを見て、昨夜全部飲んでしまったのはまったくの失敗だったと思った。
それからあの夫人のことを考えた。彼女と昨夜なにもしなかったのはとてもよかったと思った。彼はこれまで何人もの女と寝てきたが、それで学んだことがひとつあった。寝てしまうと、寝る前に感じていた気持の高ぶりがあとかたもなく消えてしまうということだった。そしてあとはもう何も感じなくなる。彼は寝たあとでも女を失いたくなかったが、そのためにすべての女を失ってしまった。だから彼は、女のことを考えると楽しかったが、その結果のことを考えるといやだった。
彼はいまこの瞬間もあの夫人と東京で再び会うのを楽しみにしていた。その日が近づくと、またきのうのように気持が高ぶってくるにちがいなかった。それは昨夜何もしなかったからだった。もし昨夜何かしていたら、東京でまた会ってももうそれほど楽しくないにちがいなかった。東京で会うことを約束しておいてよかったと彼は思った。彼女のことを考えているのは楽しかった。
やがて彼は意識を失った。
イワナとヤマメの群れが滝壺の水面につぎつぎとライズし、バシャバシャと音を立てて飛びはねはじめたのはそのときだった。彼らは空中で口を大きくあけ、水面の上を飛んでいる無数のカゲロウをとらえていた。近くで、とつぜんカゲロウが大発生したのだった。そして彼らは死ぬ前に産卵しようとして水面に舞いおりているのだった。
大岡守は意識をとり戻した。そしてイワナとヤマメがはげしくライズする水音をきいた。それは彼がこれまで見たなかで最大のイヴニング・ライズだった。彼がずっと待っていたのはこの瞬間だった。しかし彼は何もすることができなかった。
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|虚《みなし》  |栗《ぐり》

その喫茶店は、駅の南口の路地の奥にあった。ちいさな古ぼけた店だったが、おいしいコーヒーを出すので、この町では有名だった。三浦秀樹は、人と会うときはいつもその店で会うことにしていた。路地にはいって行くと、手前の中華料理店の調理場の換気扇からムッとする熱風が出ていて、顔にあたった。夏の終りの暑い夜だった。
ドアをあけて中にはいると、牧野良江が奥のほうのうす暗い席にすわって待っていて、彼を見て笑いかけた。三浦秀樹は黙って彼女のまえに腰をおろし、コーヒーをたのんで、煙草に火をつけた。牧野良江はじっとそれを見ていた。彼は深くすった煙草の煙を吐き出した。
「きょうは暑かったわね」
と彼女がいった。
「うん。暑かった」
と彼はいった。
「いつになったら涼しくなるのかしら」
「秋になったら、いやでも涼しくなるさ」
と彼はいった。
コーヒーがきた。彼は黙ってミルクと砂糖を入れてそれを飲んだ。彼女は飲み終った自分のコーヒー・カップを指でいじっていた。それから彼の顔を見ていった。
「どうしたの?」
「べつに」
と彼はいった。
彼はコーヒーを飲み、それから新しい煙草に火をつけ、自分で吐き出した煙のゆくえを目で追った。
「この色、いいでしょう」
彼女は、あざやかな赤のマニキュアをした指をテーブルの上にそろえていった。
「いい色だね」
と彼はいった。
彼女は彼が最初に会ったときには透明なマニキュアをしていた。だが彼がマニキュアは赤が好きだというと、二度目からは赤のマニキュアをしてくるようになったのだった。彼はそういう彼女がとても好きだった。
「きょうデパートで買ってきたの。三千円もしたのよ」
と彼女はうれしそうにいった。
「すてきだよ」
と彼はいった。
彼女の指は細くて、指の腹がとてもやわらかかった。彼はその指で体をさわられるのが好きだった。彼女は指でさわるのがおそろしく上手だった。
「食事をしに行かない?」
彼女がいった。
「食べたくないな」
と彼はいった。
「もう食べたの?」
「食べてないよ。でも、食べたくないんだ」
「じゃあ、わたし、ここでトーストを食べるわ」
彼女はウェイトレスを呼び、トーストと二杯目のコーヒーをたのんだ。
「体でもわるいの?」
と彼女は心配そうにいった。
「いや、どこもわるくないよ」
と彼はいった。
「あなた、きょうは何だかへんだわ」
「そうかな」
「へんよ。ほんとに、どうしたの?」
「自分でも分らないんだよ」
「ねえ、いって」
三浦秀樹は牧野良江の顔を見つめた。彼女もじっと見つめていた。その目を見ると、彼は気おくれした。
「もう、面白くないんだ」
彼は思いきっていった。彼女は何ともいわなかった。彼はつづけていった。
「きみが嫌いになったわけじゃないんだ。本当だよ。ただ、もう面白くなくなってしまったんだ」
彼女は黙って彼の顔をじっと見つめていた。彼は彼女が泣き出すのではないかと思って、こわくなった。しかし彼女はそんなふうにはならなかった。
「こうしていても面白くないのね」
と彼女は静かにいった。
「自分でも、どうしてこんなふうになってしまったのか分らないんだ」
と彼はいった。彼女はバッグから財布をとり出し、コーヒー二杯分とトーストの代金をテーブルの上に置いた。
「トーストもコーヒーもあなたにあげるわ」
と彼女はいった。「食べられるでしょう?」
「待てよ」
と彼はいった。彼女は立ち上がった。
「駅まで送ってくよ」
「いいわよ」
と彼女はいった。そして出て行った。
彼女がいなくなってしまうと、彼女のたのんだトーストとコーヒーがきた。三浦秀樹は両方とも手をつける気がしなかった。彼はそれをまえにしたまま、両手で頭をかかえてしばらくそこにすわっていた。それから駅の北口にある自分のアパートに歩いて帰った。
アパートに一人でいると、さびしさがつのってきた。外で人の足音がすると、牧野良江が戻ってきたのではないかと思ったりした。彼女は横須賀に住んでいた。いまごろはきっと横須賀線に一人で乗っているだろう。
彼女はすばらしい女だった。明るくて、考え方もしっかりしていた。ベッドの中でも、よく気が合った。彼女と会うのはとても楽しかった。会うことを考えただけで胸がドキドキして、毎日でも会わずにいられなかった。しかし結果は、いままでの女たちとのつきあいと同じだった。時間の経過とともに、心の中からドキドキする気持が失われてしまったのだ。そして彼女と会うことが面白くなくなってしまった。
三浦秀樹は、一人の女に対して死ぬまでドキドキする気持を持ちつづける方法を知りたかった。それが分れば、こんなみじめな結果は味わわなくてすむはずだった。またそれが分れば、悩みの半分以上は解決するだろう。そうすれば、その時間をべつの意義あることにそそぐことができる。すべていいことばかりだ。しかし彼はその方法を知らないばかりに、牧野良江を傷つけてしまった。彼女はあんなふうに傷つけていい女ではなかった。
彼はベッドに仰向けになって、彼女と一緒にいることが楽しかったときのことを思い出そうとした。そうしていると涙が出てきてとまらなくなった。泣いてどうする、と思った。自分のやったことで泣くなんて滑稽だった。彼はベッドから起きて顔を洗った。それから外に出た。コレットに行くつもりだった。コレットは、フランス文学かぶれだという噂の男がやっているバーだった。
彼は牧野良江と別れて帰ってきた道をまた歩いて行った。駅までは十分ほどだったが、コレットはその途中のビルの二階にあった。彼は住宅街を抜け、それから駅に通じるゆるやかな坂道を下って、そこへ行った。
ドアをあけて店の中を見まわすと、石川敏雄がカウンターにすわっていた。作家志望で、週刊誌のライターをしている男だった。三浦秀樹は彼が好きではなかったが、誰かと一緒にいたい気分だったので、彼のとなりにすわった。
「きょうは彼女は一緒じゃないんですか?」
と三浦秀樹は石川敏雄にきいた。石川敏雄は、永井洋子という女とこの町で暮らしていて、この店にはたいてい二人で飲みにきていた。彼女は体はちいさかったが、目が大きくて、顔立ちがはっきりしたとても魅力的な女だった。
「うん。きみ、どこかで見なかったかい?」
と石川敏雄はいった。
「見ませんでしたね」
「あいつ、一人でどこへ行ってるんだろう」
三浦秀樹は余計なことをきいてしまったと思った。石川敏雄は彼女がいないのでいらいらしていた。顎に鬚をはやしたフランス文学かぶれの男がウィスキーの水割りをつくってよこした。
「こないだ、石川さんの書いた記事を読みましたよ」
と三浦秀樹はいった。
「どんなやつだい?」
と石川敏雄はいった。
「テレビ・タレントの女の子がトマト健康法で三キロ痩せたという記事ですよ」
三浦秀樹は、それをラーメン屋に置いてあった週刊誌で見たのだった。
「ああ、あれか。あんなもの、糞だよ」
と石川敏雄はいった。
「面白かったですけどね」
「きみは、ぼくがあんなものを書くために文章を書いていると思ってるのかい?」
「小説でしょう?」
と三浦秀樹はいった。
「そうさ。そのうち、すごいのを書いてやるつもりなんだ」
「そのときは、ぜひ読みたいな」
「きみも小説に興味があるのかい?」
「ええ」
「書く練習はしてるのかい?」
「いいえ、何も」
「練習をしなくちゃ駄目だよ。ぼくが週刊誌の記事を書いてるのは、練習のためなんだ」
「もう練習をするのはいい加減にやめたほうがいいんじゃないかい?」
フランス文学かぶれの男がカウンターの中からいった。
「うるさいな」
と石川敏雄はいった。
「彼女との生活を書けよ。それだけで、ちょっとしたものになるぜ」
「うるさいといってるだろ」
「愛と嫉妬というのは、小説の永遠のテーマじゃないか」
フランス文学かぶれの男は、煙草をすいながらにやにや笑っていた。
「怒るぞ」
と石川敏雄はいった。
「分ったよ」
とフランス文学かぶれの男はいった。「あんたの怒り方はじつに面白い」
そしてべつの客のほうへ行ってしまった。
三浦秀樹は、それから石川敏雄と一緒に三、四杯飲んだ。だんだん石川敏雄と一緒にいることが退屈になってきた。アパートに帰って一人で飲もうと考えていると、石川敏雄が彼のアパートへ行って飲まないかといった。三浦秀樹は石川敏雄のことは好きではなかったが、永井洋子のことは好きだった。彼のアパートへ行けば彼女が帰ってきているかもしれないと思って、一緒に行くことにした。
「ときどき、あの男はこっちの胸がむかつくようなことをいいやがるんだ」
外に出ると、石川敏雄はフランス文学かぶれの男のことをそういった。「愛と嫉妬が小説の永遠のテーマだなんていうところは、いかにもあの男らしいがな」
「そうですか」
と三浦秀樹はいった。
「フランス文学ってのはそういうもんだろ?」
「ぼくはフランス文学は読んだことがありませんから」
「読む必要はないよ」
と石川敏雄はいった。「あの男のようになる」
彼らは石川敏雄のアパートに歩いて行った。石川敏雄のアパートは、三浦秀樹のアパートのすぐそばだった。石川敏雄がドアをあけると、部屋の中は暗く、永井洋子は帰ってきていなかった。
「いまごろまで何をしているんだろう」
と石川敏雄は時計を見ていった。十一時をすぎていた。
彼らは、石川敏雄が出してきたウィスキーをストレートで飲んだ。水で割ったり、氷を入れたりするのが面倒だったからだ。三浦秀樹はコレットであまり飲まなかったので平気だったが、石川敏雄は二、三杯飲むと酔ってきた。体はしっかりしていたが、目つきがおかしくなってきたのでそのことが分った。
十二時半ごろ、部屋のドアをあける音がして、永井洋子が帰ってきた。彼女は三浦秀樹の顔を見ると、大きな目でにっこり笑って、あら、こんばんは、といった。どこかで飲んできたらしく、顔を赤くしていた。これでやっと楽しくなるぞと三浦秀樹は思った。彼女は台所からグラスをとってきて、二人と一緒にすわってウィスキーを入れた。しかし楽しくはならなかった。石川敏雄はひとことも口をきかず、彼女が帰ってきたときからずっと彼女のことをにらみつけていたが、彼女がウィスキーを飲もうとすると、それをとりあげていった。
「どこへ行っていたんだ」
「ちょっと飲んできたのよ」
と彼女はいった。
「どこでだよ」
「あなたの知らないところよ」
「嘘をつけ」
石川敏雄は、そういうと彼女を押し倒し、その上にかがみこんで、彼女の腕や首筋に鼻を押しつけた。
「石鹸のにおいがするじゃないか」
と彼はいった。
「しないわよ。お風呂なんか、はいってないもの」
と彼女は仰向けにされたままでいった。
「どうしておまえはいつもこうなんだよ」
石川敏雄は彼女を両脚で押さえつけて、顔を殴った。何度も何度も殴った。
三浦秀樹は、見ていて胸がわるくなった。しかし何もできなかった。脚がすくんで、帰ることもできなかった。男がそんなふうに女を殴りつけるところを見るのは初めてだった。石川敏雄は本気で永井洋子を殴りつけていた。永井洋子は体を押さえつけられていたので、手で自分の顔を守るのが精一杯だった。
永井洋子は、こらえきれなくなって泣き出した。すると石川敏雄は、はっとして殴るのをやめた。彼女は両手で顔をおおって泣いていた。石川敏雄は彼女の体に馬乗りになったまま、しばらくその様子を呆然と見ていたが、やがて立ち上がると、台所へ行ってタオルを水で冷やしてきた。そして両手で顔をおおっている彼女のそばにしゃがみこむと、そのタオルを自分が殴りつけた彼女の顔に当てた。
「わるかったな。本気じゃなかったんだ」
と彼は彼女にいった。それから彼女を自分の胸の中に抱き起こし、片方の手で彼女の頬をやさしくさすった。
「わるかったな。痛かったろう」
彼女は泣くのをやめ、ちいさくうなずいた。おどろいたことに、彼女は石川敏雄に黙って抱かれていたばかりか、自分の腕を彼の腰にまわしていた。
三浦秀樹はわけが分らなかった。なぜ彼女は怒らないのか。すくなくとも、殴られた男に頬を撫でさせるなんてことは拒否すべきではないか。
「おれの気持は分ってるだろう?」
石川敏雄がやさしい声で彼女にささやいていた。
三浦秀樹はそっと玄関に行き、靴をはいて部屋の外に出た。すっかり酔いがさめてしまっていた。
彼は暗い住宅街の中を歩いてアパートに帰った。部屋に明りがついていた。牧野良江が戻ってきたのかもしれないと思って、急いでドアをあけた。しかし、中には誰もいなかった。出るときに明りを消すのを忘れたらしかった。彼はウィスキーをとり出し、一人で飲みなおした。早く酔っぱらって寝てしまいたかった。しかし、なかなか酔っぱらわなかった。考えることが多すぎたのだ。
日下英明は、大学の三年まで、野球部のエース・ピッチャーだった。一時は、彼の投げる試合にはプロ野球のスカウトが何人もきていた。しかし三年の秋のリーグ戦のときに肩をいためてしまった。彼は野球部を退部し、しばらく何もしないでぶらぶらしていたが、あるとき短歌をつくろうという気になった。ぶらぶらしているあいだに、とつぜん自分の内面に目覚めたのだ。三浦秀樹が彼と友だちになったのは、彼が短歌をつくりはじめたころだった。
日下英明は、内面に目覚めると同時に、奇妙な観念にとりつかれた。彼は野球部のエース・ピッチャーだったときはおそろしく女の子にもてたが、野球をやめてからもそれは変わらなかった。彼はそのことが不思議でならなかった。いろいろ考えた末に、彼はその原因は自分があまりにもハンサムだからだという結論に達した。じっさい彼はすばらしくハンサムだった。それ以来、彼は女が彼を愛するのは彼の精神性に|惹《ひ》かれてのことではなく、ただたんに顔と肉体にまどわされてのことだと考えるようになり、そのことに劣等感を覚えるようになってしまったのである。三浦秀樹は彼からその悩みを告白されたとき、思わず笑ってしまったが、彼が本気でそのことに悩んでいると分ってからは、おかしくても笑わないようにしていた。
日下英明がそのことに本気で悩んでいると知ったのは、彼が一緒のときに、べつの友だちにその話を面白半分にしゃべっていたときだった。彼は話の途中で顔を真赤にして立ち上がると、三浦秀樹に対して、かかってこいというようにこぶしを握ってかまえたのだ。まったく世の中には信じられないようなことで悩む人間がいるものだった。
ある夜、三浦秀樹がアパートに一人でいると、日下英明がやってきた。日下英明は、最近、|釈《しやく》 |迢空《ちようくう》の『歌の圓寂する時』という短歌啓蒙論を読み、短歌についてさらに深く考えるようになっていた。釈迢空はその中で、近代人には近代人にふさわしい内容の短歌が必要で、そのためには歌人自身がそれぞれ自分の人間をしっかりしたものにしなければならないといっていたが、日下英明はそれを現代人におきかえて、自分が現代人にふさわしい内容の短歌をつくるには自分自身をどう変えればいいかということを考えていた。
「自分が歌いたいと思ったことを自由に歌えばいいんだよ。それで駄目だったら、自分が駄目だったのさ」
と三浦秀樹は以前にいったが、日下英明はその答では承知しなかった。それで、またそのうちに話をしようといっていたのだ。
三浦秀樹はまたそんな話の相手をするのは退屈だったので、日下英明がやってくると、コレットに行こうと誘った。日下英明は酒がとても好きだったが、彼のいいところは、どんなに飲んでも最後までにこにこしながら静かに飲んでいて、けっして酔っぱらわないことだった。だから、どんなところへでも一緒に行くことができた。
「彼女はきょうは一緒じゃないのかい?」
コレットに歩いて行きながら、日下英明がいった。
「彼女とは終ったんだ」
と三浦秀樹はいった。
「どうして」
「もう面白くなくなったんだ」
「彼女は承知したのかい?」
「承知するもしないも、片方が面白くなくなってしまったら、どうしようもないだろう」
「それはそうだな」
と日下英明はいった。
「終らせるほか、なかったんだ」
と三浦秀樹はいった。
やがてコレットに着いた。カウンターに永井洋子が一人ですわって何かのカクテルを飲んでいた。三浦秀樹は、あれ以来彼女に会うのは初めてだったので、どんな顔をして挨拶すればいいのか分らなかった。彼はカウンターにすわるのを避け、日下英明とテーブル席のひとつに腰をおろした。アルバイトの女の子が注文をききにきた。二人ともウィスキーの水割りをたのんだ。
「自分の人間をしっかりしたものにするというのはどういうことか、おれはあれから考えたんだ」
日下英明がいった。
「よせよ、そんな話は」
と三浦秀樹はいった。
「結局は倫理観の問題だと思うんだ」
「そうかな。道徳家がいい文学者になったなんて話はきいたことがないぜ」
「じゃあ、どういうことだと思うんだよ」
「知らないよ、おれは」
「おまえの問題でもあるんだぜ」
「おれは作家になんかならないから、いいさ」
永井洋子が水割りのはいったグラスを三つ持ってやってきた。
「こんばんは」
彼女はグラスをテーブルの上において、三浦秀樹に笑いかけた。「一緒にすわってもいい?」
「いいですよ」
と三浦秀樹はいった。
彼女は三浦秀樹のとなりに腰をおろした。そして彼の顔をあらためて見ると、大きな目でもう一度いたずらっぽく笑った。三浦秀樹が彼女の私生活の一部を知っているということを了解して、しかもそれを面白がっているような笑い方だった。彼もそのことを了解したしるしに彼女に笑いかけた。秘密を共有したような感じだった。彼は彼女に急にこれまでにない親しみを覚えた。
三浦秀樹は彼女に日下英明を紹介した。日下英明は、彼女がやってきたときからずっと彼女のことを熱心に見ていた。彼女は長袖のサマーセーターにロングスカートをはいていて、とても美しかったが、日下英明の彼女を見る目つきは、その美しさを賞賛する以上のものだった。彼らは三人で乾杯した。永井洋子は日下英明のほうを見て、彼にもにっこり笑いかけた。日下英明は顔を赤くした。
「短歌って、面白い?」
永井洋子は日下英明にいった。
「ええ」
と日下英明はいった。
「どんなところが?」
「そういわれても、まだはじめたばかりだから」
日下英明はハンサムな顔で苦笑した。
「あなたは何をしてるのよ」
永井洋子は三浦秀樹にいった。
「何もしてませんよ」
と三浦秀樹はいった。
「何に興味があるの?」
「分らないんですよ、まだ自分が何をしたらいいのか」
「こいつは小説を書いてるんですよ」
日下英明がいった。
「あら、そうなの。わたし、小説家って好きだわ」
と永井洋子はいった。
「この人は小説家と暮らしているんだ」
と三浦秀樹は日下英明にいった。
「何という人ですか?」
日下英明がいった。
「まだ何も書いてないのよ。書きたいといってるだけで」
永井洋子は三浦秀樹のほうを見て微笑した。
「きょうは石川さんはどうしているんですか?」
三浦秀樹は永井洋子にいった。
「きょうは〆切日だから、雑誌の編集部でうんうん唸りながら原稿を書いてるんじゃない」
「朝まで?」
「たぶんね」
三浦秀樹は、石川敏雄抜きで永井洋子と一緒にいられると思うと、うれしくなった。あんなやつは死ぬまでくだらない原稿を一人で書いていればいいんだと思った。
「わたしたちは飲みましょう」
と永井洋子はいった。
「今夜に乾杯」
と三浦秀樹はいった。彼らは再びグラスを合わせた。
となりのテーブルで女と二人で飲んでいた男が、とつぜん両手で顔をおおって泣き出した。女は憮然とした顔で男の泣く様子をながめていた。声もかけなかった。
「女にふられて泣くなんて、どうしようもない男だな」
日下英明がちいさな声でいった。
「ふられたのは女のほうかもしれないぜ」
と三浦秀樹はいった。
「そんなことはありえないよ」
「そうかな」
「そうさ」
「どっちにしても、この店では一晩に一人は誰かが誰かにふられてるのよ」
永井洋子がいった。
「ほんとですか?」
日下英明がいった。
「ほんとよ」
と永井洋子はいった。「でも、あしたになればべつの相手ができてるの」
「そんなに簡単なものですか?」
三浦秀樹はいった。
「簡単よ。たがいに求めあえばいいんだもの」
と永井洋子はいった。
彼らはコレットで十二時まで飲んでいた。三浦秀樹が日下英明とコレットにやってきたのは八時半ごろだった。そんなに長い時間、石川敏雄抜きで永井洋子と一緒に飲んだのは初めてだった。三浦秀樹は、胸がわくわくしてとても楽しかった。彼女も楽しそうだった。
コレットを出ると、三浦秀樹は永井洋子と一緒に日下英明を駅まで送って行った。日下英明は、改札口のところで永井洋子に恥ずかしそうに笑いかけた。
「さよなら、エースさん」
と永井洋子は日下英明にいった。日下英明は最終電車で帰って行った。
「べつの店へ行って飲みなおしましょうか?」
駅の階段をおりながら三浦秀樹はいった。まだ帰りたくない気分だった。すると永井洋子は階段の途中で立ちどまっていった。
「ねえ、そんなふうにいうの、やめてくれない? 普通にしゃべってよ」
「どうして?」
「しゃべってる気がしないのよ」
「じゃ、いいなおすよ。べつの店へ行って飲みなおそうか?」
「そうよ。それでいいのよ」
「で、どうする?」
「今夜は帰るわ」
「じゃ、送って行くよ」
彼らは再びコレットのまえを通って、永井洋子が石川敏雄と一緒に住んでいるアパートのほうへ歩いて行った。
「今夜は楽しかったな」
と三浦秀樹はいった。
「わたしも」
と永井洋子もいった。
三浦秀樹は立ちどまって彼女の顔を見た。彼女は体が彼よりちいさかったので、顔をあげて彼に笑いかけた。それがとてもかわいらしかった。三浦秀樹が歩き出そうとすると、彼女は左腕を彼の右腕に巻きつけた。彼らはそうして再び歩き出した。
「こないだの晩のこと、どう思った?」
歩きながら、永井洋子がいった。
「どうとも思わなかったよ」
と三浦秀樹はいった。
「そんなら、いいわ」
と彼女はいった。
三浦秀樹は住宅街のほうに通じる坂道をのぼらずに、べつの道のほうに曲った。
「どこへ行くの?」
と彼女はいった。
「こうしてすこし歩きたいんだ。いやかい?」
と彼はいった。
「いやじゃないわ」
と彼女はいった。
彼女は左腕を彼の右腕にしっかりと巻きつけ、彼によりかかるようにして歩いていたので、胸のふくらみが彼の腕にあたっていた。それで彼はさっきから胸がドキドキしていた。人には誰にも会わなかった。歩いているのは、彼ら二人だけだった。それがとてもうれしかった。もし石川敏雄が仕事を早く切りあげて帰ってきても、彼のアパートとは関係のない道を歩いているから彼には会わないだろうと思うと、それもうれしかった。
「神社の中を歩いてみようか」
と三浦秀樹はいった。道の右手に町の八幡神社の森が黒く見えた。
「いいわよ」
と彼女はいった。
彼らは石の鳥居をくぐって中にはいって行った。社殿のまえに明りのついた提燈がひとつぶらさがっていたが、それ以外に明りはついていなかった。三浦秀樹は、大きなクスノキの下に永井洋子を連れて行くと、その陰で彼女を抱きしめてキスした。彼女は顔をそむけなかった。彼女の唇はとてもやわらかく、あたたかかった。
「どうしたの?」
彼が唇を離すと、彼女は彼の顔を見て微笑しながらいった。
「どうもしないよ」
と彼はいった。
彼女は微笑したまま、再び彼の腕をとった。そして神社の外に出た。
「怒ってるかい?」
と三浦秀樹は彼女にいった。
「怒ってたら、こんなふうにして歩いてないわ」
彼女はそういうと、三浦秀樹の腕をぐっと自分のほうに引きよせた。
彼らは永井洋子のアパートのほうに歩いて行った。もう真夏の暑さはすぎ、空気が澄んで、秋の気配を感じさせる風が吹いていた。家々の庭の木の葉がその風に揺れていた。
「あなたのアパートはどこなの?」
永井洋子がいった。
「きみのアパートのすぐそばだよ」
と三浦秀樹はいって、場所を説明した。
「あそこなら知ってるわ」
と彼女はいった。「まえに友だちが住んでたの」
「寄って行くかい?」
と三浦秀樹はいった。
「何をいってるのよ」
と彼女は笑っていった。
彼らは彼女のアパートのまえで別れた。三浦秀樹は彼女が部屋の中にはいるまで、そこに立って見ていた。それから自分のアパートに帰った。
部屋で一人になってパジャマに着替え、水道の水を一杯飲むと、気持が落ちついた。しかしベッドにはいると、コレットで永井洋子と話したことや、帰り道でしたことが頭の中に浮かんできて、なかなか眠ることができなかった。彼は彼女の気持が分らなかった。そのことが彼をいらいらさせた。彼は彼女に恋をしていた。
三浦秀樹は、それから二週間ばかり永井洋子に会わなかった。会うことができなかったのだ。
彼はそのあいだ、毎日のようにコレットに通った。会わないでいると、彼女に対する気持がますますつのり、そうせずにはいられなかったのだ。四、五日もそうしていると、自分がバカになったような気がしてきたが、会いたいという気持はどうにもならなかった。そのあいだに石川敏雄には二、三度会ったが、彼とは口をききたくなかったので、近づかなかった。石川敏雄は彼女が一緒にいないので、そのいずれのときも見た目に分るぐらいいらいらしていた。
そういうある日、三浦秀樹はコレットのカウンターにすわって、彼女が最近きていないかどうか、フランス文学かぶれの主人にきいてみた。彼女のくる時間が変化して、入れちがいになっているのではないかと思ったのだ。するとフランス文学かぶれの主人は、うんざりしたように三浦秀樹にいった。
「また新しいのの登場か」
「どういう意味ですか?」
と、三浦秀樹はいった。
「あんたみたいなのが、ここには何人もいるということだよ」
と彼はいった。
「彼女はきてるんですか、きてないんですか?」
と三浦秀樹はいった。
「ここのところ、きてないね」
と彼はいった。
三浦秀樹は、答をきくと代金を払って外に出た。そして、あの男は本当にこっちの胸がむかつくことを平気でいうやつだと思った。しかし心の中では、あの男のいったことはきっと本当のことだろうとも思っていた。永井洋子には、男の気持を引きつけずにはおかない何かがあるのだ。精神性を重んじ、顔や肉体は嫌悪している日下英明でさえ、彼女に会った瞬間に気持を引きつけられてしまった。そしてそのことをもっともよく知っているのが石川敏雄なのだ。しかし三浦秀樹には、そんなことは問題ではなかった。重要なのは、自分が彼女を好きだということだった。それ以外のことは、どうでもかまわなかった。
九月の末にようやく永井洋子に会うことができた。昼間、駅の南口の喫茶店に行くと、思いがけないことにそこに彼女が一人でいたのだ。
「あれからどうしていたんだい?」
と三浦秀樹は彼女にいった。
「どうって?」
と彼女はいった。
「ずっとコレットにこなかったじゃないか」
「あそこは騒々しすぎて、もう行くのがいやになったのよ」
「ぼくはきみに会うために、あれからずっとあそこに行っていたんだぜ」
「どうしてわたしに会いたいの?」
彼女はいった。
「ぼくの気持は分ってるはずだよ」
と三浦秀樹はいった。
「わたしはでたらめな女よ」
「そんなはずはないさ」
「あなたは知らないのよ」
「きみは、やさしい、すばらしい人だよ」
「じゃあ、いうわ」
彼女は三浦秀樹の顔をまっすぐに見ていった。「わたしは、ここのところずっと日下さんと会ってたのよ」
三浦秀樹はおどろいた。何といっていいのか分らなかった。日下英明が彼女を見た瞬間から彼女にまいってしまったことは知っていたが、彼女もその気になっていたとは知らなかったのだ。そんなことにも気づかずに、夢中になって彼女のことを追いかけまわしていたとはお笑い草だった。
「分っていても、どうにもならないこともあるのよ」
と彼女はいった。
「どういう意味だい?」
「あなたを好きになるのが一番手っとりばやいのに、あの人にのぼせてしまったということよ」
「きみがあいつを好きなら、それでいいじゃないか」
「どうしてそんないい方をするの?」
「どういういい方をすればいいんだい?」
「あの人はわたしを好きじゃないのよ」
彼女はいった。
「そんなはずはないさ」
と三浦秀樹はいった。
「あの人は女を愛せない体質なの? 教えて。そうなら、わたしすっぱりとあきらめるから」
「ちがうよ」
と三浦秀樹はいった。
「じゃあやっぱり、あの人はわたしを本当には好きじゃないんだわ」
と彼女はいった。
「何があったんだい?」
三浦秀樹はいった。永井洋子は、つい先日、日下英明のアパートへ行ったときのことを話した。
彼女はそれまでに日下英明と何度も会い、コーヒーを飲んだり、食事をしたり、映画を見たり、公園を散歩したりしていた。しかし彼はそれ以上のことはけっしてしようとしなかった。ある日、喫茶店で話をしていると、彼が音楽の話をした。クラシック音楽を知るために、モーツァルトとベートーヴェンのCDを何枚も買って、毎日きいているのだといったのだ。彼女はその機会をのがさず、すかさずわたしにもきかせてといい、彼のアパートに連れて行かせたのだった。
彼はアパートに行くとコーヒーをいれ、CDプレイヤーでモーツァルトをかけた。彼らは床に並んですわって、静かにそれをきいた。彼女はハンサムな彼の顔を見つめた。彼は目を閉じて音楽をきいていた。彼女はその顔を見ていると、ようやく、彼とたった二人きりになったのだという強い感情がこみあげてきた。しかし彼はいつまでたっても目を閉じて音楽をきいているだけで、何もしようとしなかった。彼女はしだいに彼が自分と同じ感情を持っているのかどうか、不安に感じはじめた。
「ねえ、わたし疲れちゃったわ。寝ていい?」
と彼女は彼にいった。部屋には彼のベッドがおかれていた。
「いいよ」
と彼はいった。
彼女は服を着たままベッドに横になった。そして目を閉じた。彼女はいままでに何度もこんなふうにしたことがあった。分らない男にはサインを出してやらなければならないと思っていたからだ。目を閉じてじっとしていると、日下英明が立ち上がってベッドのほうにやってきた。彼女は胸がドキドキした。もうあの行為を怖いと思う気持はなくなっていたが、新しい男に最初に体に触れられるときはいつでも緊張した。やがて体の上に毛布がかけられた。そして日下英明はまた遠ざかって行ってしまった。彼女は自分がみじめで、やりきれなくなった。毛布をかぶってその気持に耐えていると、そのうちに本当に眠ってしまった。
目を覚ますと、音楽の音は消えていて、日下英明が床にすわって彼女を見ていた。彼女が起きあがると、彼はにっこり笑いかけていった。
「食事をしに行こう」
彼女は化粧をなおし、口紅を引きなおした。
「いいわ」
と彼女はいった。
外は暗くなっていた。道を並んで歩きながら、彼女は彼にいった。
「あなたは、わたしと何をしたいの?」
「いろんなことをしたいよ」
と彼はいった。
「たとえば、どんなこと?」
「きょうのようなことだよ。きみは眠っていたから知らないだろうけど、ぼくはきみが眠っているあいだ、ずっときみを見ていたんだ。とても穏やかな気持になって、まるで時間がとまったみたいな感じだった。そしてぼくは、精神の一番深いところできみを愛している自分というものを感じることができたんだ。いままでのぼくに欠けていたものはそれだったんだよ。相手と精神的に深く結びつこうと思ったら、まず自分からそうしなきゃならないんだ。きみがそれを分らせてくれたんだよ。ぼくはきみをもっともっと愛するよ」
「わたしにはそんな話は分らないわ」
と彼女はいった。彼女は、彼がひょっとしたらホモ・セクシュアルなのではないかと思っただけだった。
三浦秀樹は永井洋子の話をきいて、彼女は日下英明に彼の精神的な悩みをきかされていないのだろうと思った。教えてやろうかと考えたが、やめておくことにした。日下英明が一番いやがっていることだったし、もし彼女に知らせるなら、日下英明が自分で知らせるべきだと思ったからだ。
「きみがあいつを好きだということは、あいつも分っているんだろう?」
三浦秀樹は永井洋子にいった。
「いまじゃ、それも分らないわ」
と彼女はいった。「わたしは自信もプライドも、どっかへ行ってしまったんだもの」
「あいつに、きみがあいつを好きだということをぼくからいってやろうか」
「いいわよ。気持はありがたいけど」
「これからどうするんだい?」
「どうにかするわ」
と彼女はいった。
「ぼくは帰るよ」
と三浦秀樹はいった。
「話をきいてくれて、ありがとう」
「いいさ」
三浦秀樹は彼女に笑いかけた。彼女もほほえみ返した。いい別れ方だと三浦秀樹は思った。ほかにどうすればいいというのだろう。
三浦秀樹は、牧野良江を自分のせいで失い、そのあとで好きになった永井洋子も手に入れられないことがはっきりして、ようやく女のいない生活というものに慣れてきた。ある面ではつまらなかったが、いなければいないで、それもすっきりしていいものだった。第一、永井洋子を求めて二週間もコレットに通いつづけたようなバカなことをしないですむ。あれはまったく狂気の沙汰だった。彼はあれから、コレットにもまったく行っていなかった。
そんなわけで、彼はこのところ一人の生活を楽しんでいた。大学に行ったり、男友だちと会ったり、その中の誰かと飲みに行ったり、ビリヤードをしたり、本を読んだり、することはいくらでもあった。見ようと考えていた映画や芝居もまとめて見ることができた。
芝居は駅の南口にできた劇場で見た。三百人もはいればいっぱいになるちいさな劇場だったが、とてもいい劇場だった。ニール・サイモンの翻訳劇だった。日本人の俳優が演じる翻訳劇は、どこか間が抜けている感じがして滑稽だったが、セリフは面白かった。芝居が終って劇場の外に出ると、風がとても強くなっていた。天気予報で台風がくるといっていたから、それが近づいてきたのにちがいなかった。
アパートに帰ると、となりの家との境い目に立っている栗の木が真っ暗な中ですごい勢いで風に揺れていた。栗の木は実をつけていた。あしたになったら、落ちた実を拾って食ってやろうと思った。新鮮な栗は、生で食べてもみずみずしくて甘味があるものだった。あしたの朝それをすることを考えると、彼は胸がわくわくした。
眠るまで、彼は本を読んだ。女がいないと、本を読む時間ができるばかりでなく、本の内容もよく頭にはいった。女のことを考えて心があちこちはねまわることがないからだ。彼は非常に心が落ちついていた。
十時をすぎたころ、誰かが部屋のドアをノックした。立って行ってドアをあけると、永井洋子が通路の鉄の柱に一人でよりかかっていた。
「はいってもいい?」
と彼女はいった。
「いいよ」
と彼はいった。
彼女は部屋にはいり、長い髪を両手でかきあげた。
「すごい風ね」
と彼女はいった。
「台風がくるんだ」
と彼はいった。
「何か飲むものない?」
「ウィスキーでいいかい?」
「いいわ」
三浦秀樹は二つのグラスにウィスキーをそそいだ。彼女はそれをぐいと飲んだ。
「わたし、いま箱根から帰ってきたのよ」
と彼女はいった。
「箱根?」
「ええ」
「何をしに行ったんだい?」
「日下さんと行ったのよ」
「それで?」
「三時間ばかり温泉にはいってきたのよ」
「それはおめでとう」
三浦秀樹はいった。そしてウィスキーをぐいと飲んだ。
「どういう意味?」
永井洋子がいった。
「ほしかったものを手に入れたんだろう?」
「いやないい方をするのね」
「そうかい」
「そうよ」
「どんなふうにいったって、やったことは同じじゃないか。そんなことを、いちいちぼくに報告しにくることはないよ」
「怒ってるの?」
「そんなふうに見えるかい?」
「見えるわ」
三浦秀樹は空になったグラスにウィスキーをついだ。
「わたしのにも入れて」
永井洋子がグラスを差し出していった。彼はたっぷりとついでやった。
「あの人、何もしなかったわ」
と彼女はいった。三浦秀樹は何もいわなかった。
「温泉にははいったけど、そのあとは旅館のベランダの椅子に並んですわって、下を流れる川の音をきいていただけだったのよ。彼はいったわ。川の音が音楽のようだねって。女の子と二人きりでいて、こんなに精神的に満たされていると感じたことはないともいってたわ。わたしは気持がばらばらになりそうだったのに」
「ぼくに何といってもらいたいんだい?」
三浦秀樹はいった。
「何もいってほしくないわ。わたしはただあなたのところにお酒を飲ませてもらうためにきたのよ。コレットには行きたくなかったから」
「酒ならたっぷりとあるよ。向こうにもう一本あるんだ」
「見かけによらず、やさしいのね」
と彼女はいった。
彼らはウィスキーをすばやいスピードで飲んだ。二人とも酔ってきた。
「あなたは犬とか猫とかを飼ったことがある?」
永井洋子がいった。
「猫を飼っていたことがあるよ。子供のころにね」
と三浦秀樹はいった。
「その猫、好きだった?」
「好きだったよ。毎晩一緒に寝ていたんだ」
「どんなふうに好きだったの?」
「どんなふうにって?」
「精神的に好きだったの?」
「猫を精神的に好きになるなんて、考えたこともないな」
「じゃあ、どんなふうに好きだったの?」
「全部さ。何から何まで全部好きだったよ」
「わたしも子供のころにシェパードを飼っていたけど、その犬のことは全部好きだったわ」
「あいつのことをいいたいのかい?」
三浦秀樹はいった。彼女はうなずいた。そしていった。
「どうして人間て犬や猫のことは何から何まで好きになるのに、人間を相手にすると肉体的に好きだとか精神的に好きだとかいうの?」
「子供っぽいんだよ。あいつにもそんなところがある」
と三浦秀樹はいった。
「あの人には、わたしついていけないわ」
と彼女はいった。
台風の風がさらに強くなり、外の栗の木を揺するすごい音がしていた。雨も降り出し、それが部屋の窓を打つ音もはげしくなってきていた。
「気味がわるいわね」
と彼女は窓のほうに目をやっていった。
「こっちへくるかい?」
と三浦秀樹はいった。彼はベッドにもたれかかってすわっていた。彼女は笑い、それからウィスキーのグラスを持って彼のとなりにやってきた。
「これじゃ、帰れないわ」
と彼女はいった。
三浦秀樹は腕を彼女の背中にまわして体を自分のほうに向けさせ、キスした。彼女も彼の腰に腕をまわして抱きしめた。唇を離すと、彼女はいった。
「わたし、みじめだったわ」
三浦秀樹は彼女の服を脱がせ、自分も脱いだ。たがいに裸になって抱きあうと、彼はこれがおれのずっと待ち望んでいたことなんだと思った。とうとう彼女を手に入れたのだ。そう思うと、胸がドキドキしてはちきれそうになった。
「このまま時間がとまってくれないかな」
と彼はいった。
「どうして?」
彼女がいった。
「最高の気分だからさ」
彼女はうれしそうに笑って、下から彼の体を抱きしめた。彼はいまの瞬間がつぎの瞬間には終ってしまうと思うと悲しかった。
彼らは、それからしばらく毛布をかぶってベッドに横になっていた。腿と腿をこすりあわせると、永井洋子の肌はとてもすべすべしていて気持がよかった。こんなに気持のいいものはないと三浦秀樹は思った。女の体というのは、どうしてこんなに気持よくなるようにつくられているのだろう。
「わたし、帰らなくちゃ」
三浦秀樹が腿と腿をこすりあわせていると、彼女がとつぜんいった。
「泊っていくんじゃないのかい?」
と彼はいった。
「そんなことをしたらどうなるか、見たでしょう?」
と彼女はいった。
「どうやって帰るんだい? 台風だぜ」
「いま、風がやんだのよ。雨も降ってないわ」
彼はベッドから起きてカーテンをあけ、外の様子を見た。たしかに風は穏やかになり、雨も降っていなかった。窓をあけると虫の音がきこえ、月の光まで射していた。
彼女は服を着て洗面所ですばやく化粧をなおした。出てくると何事もなかったような顔になっていた。
「だいじょうぶかい?」
と三浦秀樹は石川敏雄のことを思い出しながらいった。
「平気よ」
と彼女は笑った。そして一人で帰って行った。
三浦秀樹は、その夜ぐっすりと眠った。そのあと再び風と雨が吹き荒れてひどい嵐になったことにも気づかなかった。
日下英明のことを考えたのは翌日だった。目が覚めると、彼に対してひどく不道徳なことをしたような気がした。永井洋子は日下英明の愛し方を認めなかったが、彼が彼女を真剣に愛していることはまちがいなかったからだ。三浦秀樹にはそれが分っていた。彼にどういうふうにいおうかと思った。そのことを考えると気が重かった。
それから外に出て栗を拾いに行った。外は青空が広がって、台風のあとのすばらしい天気になっていた。栗の木の下に行くと、実は枝から全部なくなっていたが、下にはひとつも落ちていなかった。
永井洋子が三浦秀樹のところに再びやってきたのは、四日後だった。三浦秀樹は彼女に会おうとしてあれから町のあちこちを毎日うろつきまわったが、会うことができなかった。わずか四日間だったが、とても不安だった。すべては石川敏雄のせいだった。どうして永井洋子があんな男といつまでも一緒にいるのか、彼は理解できなかった。しかし彼女が部屋にやってくると不安ではなくなった。
「日下に何かいおうと思うんだ」
彼は永井洋子にベッドの上でいった。
「どうして?」
彼女は彼がすっていた煙草をとりあげていった。
「黙っていると、落ちつかないんだ」
「気がとがめるの?」
「まあね」
「わたしはいう必要はないと思うわ」
「そうかな」
「どっちだってかまわないけど」
彼女は煙草の火を消して起きあがった。
「帰るのかい?」
「ええ」
「まだいいじゃないか」
「駄目なことはあなただって分ってるでしょう?」
彼女は服を身に着けはじめていた。彼はその様子をベッドに横になったまま見ていた。
「そんな顔で見ないでよ」
と彼女は笑った。そしてベッドに歩みよると、しゃがみこんで彼にキスした。
「来週の水曜日から三日間、何してる?」
彼女は彼の顔を両手ではさんだままいった。
「予定は何もないよ」
と彼はいった。
「二人でどっかへ行かない?」
「どこへ?」
「どこだってかまわないわ」
「でも、そんなことをしてだいじょうぶなのかい?」
「石川が取材で九州に行くのよ」
「本当かい?」
三浦秀樹はベッドから起きあがった。
「うん」
と彼女は笑っていった。
「それはすごい。じゃあ、ぼくらは北海道へでも行こうか」
「いいわね」
「ほんとだね?」
「嘘をついてどうするのよ」
「よし、じゃあ決まった」
「元気になった?」
彼女はいった。
「なったよ」
と彼はいった。
その日は金曜日だった。三浦秀樹は、月曜日になったら大学へ行って友だちに金を借りようと思った。旅費はともかくとして、ホテル代や食事代は自分が出さなければならないと思ったからだ。そしてその三日間をすばらしく印象深いものにしようと思った。彼はまだ永井洋子を完全に自分のものにしたという確信を持っていなかった。彼女に会わないでいると不安になるというのはそのせいだった。しかし三日あれば、いろんなことができる。きっと彼女を完全に自分のものにしてみせると思った。
彼はそうして水曜日を待った。彼女とはそれまで会わなかったが、不安はまったく感じなかった。二人で北海道へ行くことに興奮していたからだ。何かの約束をするというのはいいものだった。約束というのは保証であり、希望だった。日下英明にも会わなかった。月曜日と火曜日に金をつくるために大学に行ったが、彼はきていなかったのだ。どっちみち、彼女とのことを彼に話すにしても、それはいつでもできることだった。
水曜日がきた。起きてカーテンをあけると、すばらしい秋の日が射していた。永井洋子との約束は十二時だった。彼が彼女のアパートに迎えに行くことになっていた。旅行の準備は夜のうちにすべてやっておいたので、何もすることがなかった。まだ十時だった。こんなことなら準備などしておくのではなかったと思った。だがそうしていたら、夜の時間をつぶすのに悩まなければならなかっただろう。きょうからのことをいろいろ考えて、頭がおかしくなっていたかもしれない。
「くそ、どうかしてるぞ」
と彼は思った。心臓がものすごい勢いで動悸を打っていた。
十二時になるのを待ちかね、彼は荷物を詰めたボストン・バッグを持って永井洋子のアパートへ行った。ドアをノックすると彼女が出てきた。彼女はジーンズと白いトレーナーという、およそ旅行に行くとは思えない格好をしていた。
「どうしたんだい?」
と三浦秀樹はいった。
「はいって」
と彼女はいった。
彼は靴を脱いで部屋にはいった。部屋には彼女一人しかいなかった。
「何か飲む?」
と彼女はいった。
「何をいってるんだい?」
彼はいった。
彼女は床の上にすわりこむと、立てた膝を両手でかかえこみ、頭をうなだれた。そしてじっと動かなくなった。
「どうしたんだい?」
三浦秀樹はいった。彼は旅行がとりやめになるのだろうということを知っていた。
「日下さんと会ったのよ」
と彼女は膝の上に頭をうなだれたままいった。
「いつ?」
「月曜日」
「それで?」
「一日中一緒にいたわ」
「どこで?」
「あの人のところで。朝までいたのよ」
三浦秀樹はポケットから煙草をとり出して火をつけた。すこしもうまくなかった。
「わたしはでたらめな女なのよ」
「あいつが好きなのかい?」
「どうにもならないの」
「寝たのかい?」
「そんなことまでいわせるの?」
と彼女はいった。
「いやならいいさ」
と彼はいった。
「自分がでたらめな女だということは知っていたけど、こんなにでたらめだとは思わなかったわ」
「ビールがあったら飲ませてくれないかな」
「どうするの?」
「|素面《しらふ》で帰れというのかい?」
彼女は立って行ってビールを持ってきた。彼はグラスに自分でついで、一気に二杯飲んだ。そして自分のアパートに帰った。彼女は彼がドアを閉めて出て行くまで、膝を両腕で抱いてその上に頭をうなだれていた。彼はボストン・バッグを持ってアパートに帰りながら、日下英明に彼女とのことをすぐに話していたら結果は変わっていただろうかと考えた。きっと変わっていただろう。しかし彼女をいつまでも自分のものにしておけたかどうかは分らなかった。結局彼はその方法を知らなかったのだ。問題なのはそのことだった。
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単行本
平成六年三月 文藝春秋刊
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文春ウェブ文庫版
帰  郷
二〇〇三年二月二十日 第一版
著 者 海老沢泰久
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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